[#表紙(表紙.jpg)]
子 盗《と》 り
海月ルイ
目 次
子盗り
第19回サントリーミステリー大賞の選考経過
[#改ページ]
子盗り
第一章
助手席のドアに手をかけ、美津子はもう一度、夫の陽介を振り返った。陽介はハンドルに手を置いたまま、暗い駐車場の向こうを見つめている。その先には瀬尾レディースクリニックの病棟があった。
京阪電車の丹波橋駅から東に向かうと、幼稚園、小学校、中学校が点在しているので、朝夕は通学する子供達の姿が溢《あふ》れている。だが、少し小さな通りに入れば歩く人はまばらで、とくに夜ともなれば喧騒とはおよそ無縁の閑静な住宅街となる。
瀬尾レディースクリニックはそんな一角に建っていた。駐車場には大きな看板が立っていて、上下に設置されたライトが、緑色で書かれた病院の名前を闇の中に浮かびあがらせている。ライトの黄色味を帯びた光の中に、塵《ちり》のようなものが舞い落ちてきた。雪だ。
積もるのだろうか。
陽介がワイパーのスイッチに手をかけた。
ラジオからは、高速道路でスキーバスが事故を起こしたとか、どこのデパートのクリスマスツリーが点灯されたとか、そんなニュースが流れている。
小さく息を吐いたあと、美津子はドアを開けて暗い通りに降り立った。途端に、十二月の冷えた夜気が這《は》い寄ってくる。思わず首をすくめ、マタニティードレスの腹部に手をあてた。
膨らんだ腹部には、バスタオルが詰めてある。踵《かかと》の低いキャンバス地の靴は幅広で、歩くとぺたり、ぺたり、と音がした。靴だけではなく、下着もタイツも、美津子が身につけているのは、すべて妊婦用のものばかりだ。
妊婦用のバルキータイツは、腹部にも臀部にもたっぷりとしたマチがとってあり、一般の製品と比べれば「巨大」といってもいいくらいのサイズだ。しかも、生地には伸縮性があり、たたんだバスタオルを腹部に押し込んでおいても落ちたりずれたりする心配はまったくない。
押し込まれたバスタオルは、美津子の腹部で褶曲《しゆうきよく》の線を保っている。それは厚地のマタニティードレスに覆われて、出産を間近にひかえた女の腹の、自然な膨らみにしか見えない。
薄いピンク色のビニールバッグを持ち、いつものように腹を突き出した姿勢で、美津子はゆっくりと歩きだした。瀬尾レディースクリニックの正面玄関はガラスの自動ドアになっている。ドアが開くと、暖房のきいた室内の空気が小さな風を巻き起こし、美津子の頬をふわりとなぶった。
待合室には、診察の順番を待つ女達の姿があった。二十人近くいるだろうか。彼女達はベージュ色の革張りのソファに座って、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。受付の掛時計はすでに八時を過ぎている。
瀬尾レディースクリニックは産婦人科専門病院で、不妊治療の実績でも有名だ。雑誌やテレビで評判を知った患者達が遠方からも通ってくるので、診察受付時間の七時を過ぎてもまだ順番待ちの患者が大勢いる。ここに通ってくる患者達は皆、長い待ち時間に慣れていて、それぞれ持参した本を読んだり、編物をしたりしている。
美津子は待合室を通り過ぎ、階段を上った。一階は外来用の診察室と処置室があるが、二階は分娩室と入院患者の病室がある。階段を上がりきった廊下の向こう側にはナースステーションがあり、その隣には新生児室があった。
三年ほど前、美津子は瀬尾レディースクリニックに一年近く通院していた。同じ京都市内とはいうものの、北区の雲ヶ畑から伏見区まで通うのは大変だった。が、この病院には滋賀県や大阪府からも大勢の患者がやってくる。市内から通院しているのなら恵まれている方だ。
雲ヶ畑は未だに私鉄も地下鉄もない山間の集落である。京都駅までたどりつくのでさえ車で小一時間ほどかかる。丹波橋には、さらに南に二、三十分ほど下がらねばならない。
美津子はゆっくりと階段を上っていった。二階まで上がり、廊下の窓に目をやると、隣接するマンションが思いもかけない近さに建っていた。
マンションの出窓に、赤とピンクと黄色の光の粒が見える。光は瞬き、緑色をした小さな山型の線に沿って動いていた。クリスマスツリーだ。その隣の部屋のベランダには、手摺りの支柱に電飾が施されていた。電飾はツリーを象《かたど》っており、これもまた、橙色《だいだいいろ》の光を点滅させている。十二月のありふれた光景に、美津子はふっと息を吐き、長い廊下に目をもどした。
病院内の見取り図はすべて正確に頭にたたきこんである。今回の計画のために一カ月前から下見と下調べを念入りにやった。来春には、病棟の大がかりな増改築工事が始まるらしい。工事の計画はかなり前からあったと聞いている。そのせいか、内部はこの数年、一度も改築されておらず、構造や部屋割りについては、以前とまったく変化はなかった。
瀬尾レディースクリニックでは、正面玄関は九時を過ぎると閉められるが、緊急外来用の出入り口は十時まで施錠されない。手違いが生じて予定より遅れたとしても、十時までなら緊急外来用の出入り口から逃げることができる。
診察受付は七時までとなっているが、薬の受け取りや支払いの順番待ちのため、外来患者の姿は九時前までロビーや廊下にある。この時間帯に病院内に入ってしまえば、そのうちの一人としか思われない。
通院していた頃、一階の外来患者用のトイレはいつも混んでいるので、美津子は何度か二階のトイレに来たことがある。外来の患者達はこうしたことを日常的にやっており、病院関係者もそのことはよく承知している。だから、診察時間内なら外来の患者が二階の廊下や階段を歩いていたとしても、誰も不審に思わない。
病院は、昼間と夜間でスタッフの数が大幅に異なるところである。瀬尾レディースクリニックの場合、昼間は処置室や検査室に常駐する医師や看護師が合わせて二十人ばかりいるが、勤務は原則として午後八時までで、夜間は医師一人、看護師は二階と三階にそれぞれ一人ずつとなる。この一カ月間、何度も陽介と話し合い、計画を練ったが、やはり実行の時間帯は、スタッフの数が減る夜間がいいだろうということになった。
さらに深夜なら、病院の内外ともに目撃される危険性は低くなる。しかし、正面玄関はもちろん、緊急外来用の出入り口もすべて施錠されるので侵入は不可能だ。夕方からトイレに潜んでいて深夜まで待つことも考えたが、たとえそれでうまくいったとしても、病院から脱出するのが難しい。
スタッフの数が少なく、警備も手薄になり、なおかつ出入りが可能な時間帯となると、夜八時過ぎから十時までの二時間になる。八時過ぎに病院に入り、タイムリミットの十時まで潜んで機会を待つ、というのが一番確実で安全な方法なのだ。
二時間もあれば、隙は必ず見つけられる。九時までなら、妊婦の格好をしていれば病院内を歩いていてもとくに咎《とが》められることはないし、自由に動ける。充分にあたりを観察し、様子をうかがえばいい。
九時を過ぎても心配はいらない。面会時間は夕方四時までという規則になっているが、瀬尾レディースクリニックは民間の病院なのでそれほど規制は厳しくない。入院患者の家族が朝まで付き添うこともあるし、病院もそれを許している。患者の家族を装っていれば、たとえ一晩中でも院内にとどまっていることは可能だ。
計画は絶対にうまくいく。
首尾よく事が運んだ後は、緊急外来用の出入り口から出るのだ。そこには、陽介の車が待機していることになっている。
不妊治療を始めたのは、もう十年も前のことだ。結婚して三年目で、美津子は二十六歳、陽介は二十八歳だった。
陽介とは、友人の結婚披露宴で知り合った。二次会の席で食事に誘われ、美津子は内心驚いた。新婦側の客として招かれていた女友達の中で、自分がもっとも地味で目立たないと思っていたからだ。披露宴会場という華やかな席でありながら、派手な格好や雰囲気がまったく似合わない自分に、なぜ陽介が声をかけてくれたのか、今でも美津子はわからない。
初めて二人で食事に行った時、突然、求婚された。
当時美津子は、短大を卒業して大津にある実家の近くの保育園で保育士をしており、仕事にもようやく慣れてきたという時だった。
「仕事を続けたいのやったら続けてかまへん。そやけど、榊原の家には入ってもらわんならん」
そう言われた。
高校生の時に父親を肺癌でなくして以来、一人息子の陽介は母親のクニ代と二人で暮らしてきた。
二回目の食事のあと、陽介の自宅に招かれた。雲ヶ畑は、京都市内とは思えないような山里だった。道路の際まで山が迫り、民家はそれぞれ古い石垣を土台にしてひしめき合うように建っている。賀茂川の源流となる谷川沿いには垣根を巡らせた屋敷が並び、その向こうには整然と植林を施された山のつらなりがどこまでも続いていた。
あたりで一番敷地が大きくて、高い塀を持った屋敷が陽介の家だった。サラリーマンの家に育った美津子はその時初めて、蔵のある屋敷というものを目にした。
榊原家は雲ヶ畑でも屈指の旧家で、代々、林業を営んできた。所有する不動産は金銭に換算すれば莫大な額になる。だが、それでも付近の若い女達は家業の煩わしさを嫌い、林業を営む旧家の跡取息子との縁談を敬遠する。市街地で生まれ育った女達ならなおさらで、農家や林業の家に嫁の来手《きて》が少ないのは、京都市内といえども雲ヶ畑も例外ではないのだった。
同じ郊外であっても、ニュータウンに住む若い夫婦には、家業などというものは存在しない。因習と無縁の生活は、自由で合理的で、思うままだ。けれど、ここではそうはいかない。家業がある以上、嫁がその労働力を乞われるのは当然のことであり、就労時間と日常生活に境界線などあるはずもなく、日々のほとんどは家に縛られる。
日常は税金対策をはじめとする財産管理に頭を悩ませ、身代を維持していくために腐心するのが、郊外の旧家の倣《なら》いである。ゆえに「莫大な財産」は、嫁が贅沢三昧の日々が送れる保証ではなく、人生の手枷、足枷となる元凶だと若い女は考えるのだ。
美津子もそう思わなかったわけではない。実家の両親も、陽介との結婚に反対した。美津子は両親の反対する理由がよくわかったし、自分自身、家や家業に縛られることに抵抗があった。
けれど美津子は、熱心に求婚を続ける陽介に惹《ひ》かれていった。この人と一緒に暮らしていけるのなら、それでいいではないか、と思ったのだ。
親戚達と持ち山で仕事をしている陽介は、いつも男達に囲まれて生活している。青年会の寄り合いもメンバーは男ばかりで、女といえば農協の職員くらいだと、笑って話していた。一人息子で育ったせいか、多少、子供っぽいところはあるものの、陽介は気質のやさしい男だった。
家業は手伝わなくていい。そう言ってくれた。
「今は昔と違うんや。みっちゃんのええと思う暮らし方でかまへん。みっちゃんのことは、俺が一生守るさけ」
結婚して十三年間、陽介はこの言葉を守ってくれたと思う。
「せやさけ、サラリーマンの奥さんと何も変わらへんと思うとき」
ただ、と陽介ははにかんだ。
「子供は早うほしいなあ。できたら三人。いや、四人。ぎょうさん産んでくれ。兄弟で野球チームができるくらい」
ええよ、とその時、自分は笑って応えたような気がする。
ええよ、五人でも十人でも。陽ちゃんの子供やったら、わたしもぎょうさんほしいわ。
美津子がそう言うと、陽介は白い歯を見せて笑った。
陽介が笑う時は、目尻からこめかみにくっきりと皺《しわ》が刻まれ、眉根があがる。弾力のある皮膚はその皺さえ簡単に撥《は》ね返し、眸《め》の輝きが増す。
愛想笑いとか、曖昧な笑顔とか、そうした表情を陽介は持たない。いつも、思ったまま、考えたままが素直に顔にでる。そのせいだろうか。あと数年で四十に手が届くというのに、長い睫毛《まつげ》と少しばかり横に開き気味の鼻は少年のような面差しを残し、実際の年齢よりずっと若く見える。
思いがけず父親が早世したために、地元の高校を卒業したあと、外の世界に出ることもないまま、陽介は家業を継いだ。何に対しても正直過ぎるのは、世間で揉《も》まれたことがないからだろう。取り巻く人間関係や顔ぶれは陽介が子供の頃から変わっておらず、彼はずっとその中で生きてきた。
美津子は、山関係の仕事や作業を未だに一度として手伝ったことがない。「嫁さんは、床の間にでも飾ってんのか」と仕事の現場で親戚達にからかわれても、陽介は平然と「そうや」と笑って答えている。そういう屈託のなさが許されるのは、職場の人間が、彼の生まれ育ちと立場をよく承知している者ばかりだからだ。
親戚達にとって、陽介は本家の当主である。美津子が考えている以上に彼らは強くそのことを意識しているのだと、結婚してまもなく知った。
盆、暮れ、正月、彼岸など、行事ごとに親戚達は本家に集まり、宴となる。それらの掛かりについては、すべて本家が賄う。行事や祭事の際には、陽介の叔父、伯母はもちろん、従兄弟《いとこ》やはとこといった者達までもが屋敷にやってくる。奥の座敷の襖を取り払い、宴席とするが、三十畳の広間は親戚達でいっぱいになる。
現在の法律では、財産分与については長男も次男も、また男女の別も関係ない。が、素封家では土地の分散、財産の目減りなどを一族が憂慮して、意図的に長男である跡取に不動産を継がせることがある。
その際も、権利を放棄した弟妹に然るべき配慮を、つまり現金などを充当するのが通常だが、本家筋としてはそれだけではすまさず、伝来の行事やしきたりを責任を持って主宰し、継続するという義務も同時に負う。行事の経費については、分家筋には一切、負担させないという不文律があることはいうまでもない。
京都の中心部から車で一時間程度のところなのだが、今の時代にあっても雲ヶ畑の旧家は、地縁、血縁を他者が考えている以上に大切にし、そうした土壌に根ざした日常を送っている。
山仕事を手伝いにやってくる親戚達は、亡くなった父の従兄弟やはとこにあたる者達である。皆、陽介より年上で、若いのは雄一だけだ。二歳年下の雄一は、陽介の父の弟の息子で、従弟にあたる。父の弟、つまり陽介の叔父である義之は、今も健在で何かと本家に口出しをしてくる。
陽介の父恭蔵は七人兄弟の三男だったが、二人の兄は幼少の頃、亡くなっている。二人の妹達もこの数年のうちに亡くなり、兄弟では分家の叔父義之と、鞍馬に住む伯母の照子だけが今も元気にしている。
雄一は、高校を卒業してまもなく同級生と結婚した。結婚した時にはすでに新婦が妊娠しており、臨月も間近だったのだという。十代で一児をもうけた雄一夫婦は、さらにその後、二人の子をなしている。
陽介と美津子の結婚披露宴に、雄一は幼稚園児の息子二人を連れて出席した。くわえて妻は妊娠中という状態で、美津子は、そのあまりにも若い父親と母親の姿にずいぶん驚いたものである。
結婚まもなくから美津子にまかされた仕事は、榊原家が西賀茂に所有している貸家とアパートの管理だった。同居する姑の手前、まったく家業にかかわらないというわけにもいかず、美津子の方から手伝うと申し出た。
結婚五年目に、管理を業者に委託することにしたのは、美津子の不妊治療を優先させるためだった。家賃収入の管理や確認だけならなんとかなったのだが、アパート経営は入居希望者への応対や手続きも重要な仕事の一つである。
入居希望者はいつもふいにやってくる。不動産屋から連絡を受ければすぐにアパートや貸家に出向き、鍵を開けて部屋を見せ、家賃や敷金、近くのスーパー、地区の小学校や保育園の場所などの説明をしなければならない。
最初のうち、美津子も不妊治療について軽く考えていたのだが、治療の段階が進むにつれ、とても家業の片手間に続けられるものではないと知った。
治療を始めた頃は、美津子自身がまだ若いということもあって、タイミング法でしばらく様子をみることになった。美津子の子宮や卵管、陽介の精液の検査結果などに何の問題もなかったからだ。
タイミング法とは、排卵日を予測して、性交の時期を医師が指導するというものである。超音波で卵胞径を計測し、血中、尿中の黄体化ホルモン値などの検査結果を見て医師が排卵日を診断するので、基礎体温のグラフのみで予測をたてるのとは確度に格段の差がある。妻の年齢や子宮、卵管に問題がなければ、タイミング法で半分以上の患者が妊娠すると聞いていたのだが、美津子は妊娠しなかった。排卵誘発剤も併用してさらに治療を続けたものの、だめだった。
その後、大阪の有名な産婦人科病院に行った。子宮頸管粘液の状態が悪いと言われ、治療を二年ほど続けた。だが、結果は同じだった。それからは京都市内はもちろん、大阪、神戸、東京などの評判の高い有名病院を転々とした。その都度、検査は一からやりなおしで、段階を追っての治療が繰り返された。
通院のために家を空けることが多くなり、姑のクニ代が文句を言うようになった。陽介もまじえて話し合った結果、貸家やアパートの管理は業者に委託することになり、今に至っている。
陽介は、すべてを犠牲にしても不妊治療を優先させると、クニ代に言った。一日も早い孫の誕生をクニ代も望んでいたので、貸家の管理を業者に委託することについては反対しなかった。
三十歳の時、美津子は神戸の有名な病院で体外受精の施術を受けた。受精卵の着床に成功し、妊娠したのだが、四カ月目の終わり頃、夜中に突然、出血して流産した。原因はわからなかった。
陽介の落胆ぶりは大変なものだった。それでも陽介は、体外受精の施術をまた受けようと言って励ましてくれた。施術はその後、何回か受けたが、すべて着床に失敗した。
自然妊娠のための漢方治療など、いいといわれる民間療法も色々試してみた。わらにも縋《すが》る思いで、鹿児島の有名病院に行ったこともある。その時は、通院のために近くのビジネスホテルに滞在した。
不妊治療にかかる時間や金銭について、クニ代がすべて快く容認していたわけではない。だが、陽介がその必要性を強く主張したのだった。
「子供さえ生まれたら、お母ちゃんも何も言わんようになるわ。孫さえ抱けたら、文句あらへんのや。今までのことは全部、笑い話になる」
陽介の言う通りだと、当時の美津子は思った。
クニ代だって、赤ん坊の顔さえ見れば、今までかかった時間や金銭など、どうでもよくなるにきまっている。
大丈夫。一度はちゃんと妊娠したのだ。どんなに検査しても、わたしも夫も、どこも悪いところはないと医者に言われるのだ。そう自分に言い聞かせていた。
けれど、美津子は子供を産むことができなかった。
体外受精のための採卵がうまくいったとか、受精卵が何個できたとか聞いて喜び、着床に失敗したと知って落胆する。そんなことが十年近くにもわたって何度も続いた。そのうち、美津子も陽介も精神的に消耗していった。
不妊治療も六年目、七年目を過ぎてくると、さすがに夫婦とも追いつめられてくる。それでも陽介は愚痴を言わずに、治療に協力してくれた。
長引く治療の期間と経費に夫がうんざりしてしまい、結局妻もあきらめてしまう、というのはよくある話だった。不妊治療に夫の協力は不可欠で、夫自身の治療に対する前向きな姿勢がなければ、タイミング法も、あるいは体外受精のための精液採取さえも不可能なのだ。それだけに、美津子は陽介に引け目を感じないわけにはいかなかった。
なぜ自分は普通の女のように、夫に抱かれるだけで妊娠できないのだろうか。
冷たい診察台の上で脚を開き、すべてをさらして検査や治療を受けるのも、陽介の子供を産みたい一心からだ。
この十余年で、人工授精、体外受精など、日本の高度医療はすべて受けたと言ってもいい。あとは代理母出産くらいのものだが、これについては国内で施術は受けられない。希望するなら、海外に出なければならない。
言葉の通じない国での不安や焦燥、治療を受けるための長期の渡航や莫大な費用、それらをもってしても、代理母出産の成功の確率は想像以上に低い。厳しい現実を前にして、美津子も陽介もさすがに躊躇した。
人は、夢や希望を高度医療に託す。けれど高度医療の現場は、人の心を疲弊させもするし、掻き乱しもする。
成功すれば、すべては「つらかった過去の経験」として笑って語られるのだろうが、いつまでたっても渦中におかれている当事者は、ここまでしてもまだ、自分は人並みなものが手に入らないのかという思いばかりがつのっていく。
本来は他人の目にさらされることなどない領域や部分を露呈し、観察され、分析され、そして踏み込まれる。採卵も精液採取も、当事者にとっては肉体的、精神的にかなりの負担を強いられるものなのだが、医療現場では取るに足らないこととして切り捨てられていく。
二年ほど前から美津子が病院通いをやめたのは、そうした現実に疲れきったからだ。治療をやめた途端に妊娠した、というのはよくある話で、「気持ちを楽に持つことで、夫婦二人ともすべての機能の代謝がよくなったから」と医者は解説する。
美津子は一時的に病院治療を中断し、アロマテラピーの自然治癒療法研究所に通ったり、骨盤や背中の歪《ゆが》みを矯正する整体にいったりした。
体温測定は続けていて、排卵日の確認だけはしている。美津子の場合、無排卵ではないし、黄体機能も問題ないので、体温グラフはわかりやすい二相性のラインを描いている。
排卵日とその前後には必ず性交渉を持つようにして、自然妊娠の可能性を期待しているのだ。最新医療をもってしても、妊娠、出産にはいたらなかったのだから、そうして様子を見てみようと、陽介とも話し合った。
仕事で鍛えられた陽介の躯《からだ》は日に焼けており、厚い胸板は服を着ていても筋肉が盛り上がっているのがわかる。眠る時、美津子の頭の下に添えられる腕は硬くて大きいが、それでいて筋肉を覆っている皮膚には弾力性があり、美津子の頬に心地よい温もりを伝えた。
陽介は、美津子を責めるようなことは何も言わない。美津子を抱いたあとは、美津子の頭を撫でながら眠る。美津子は陽介の腕に手をあてて目を瞑《つむ》るが、目の奥には濃い闇がひろがるばかりで、眠りに落ちることはできない。
来月の排卵日には、妊娠するだろうか。そう思いながら、陽介の腕を撫でるのだ。
屋敷の庭から裏山はつながっており、その半ばあたりにビニールハウスが三棟建っている。二月の午後の陽射しはもう黄色味を帯びていて、ビニールハウスの白くくすんだ色も、翳《かげ》り始めた日の照り返しを受けていた。
園芸用の苗の栽培は、陽介が小学生の頃、クニ代が始めたと聞いている。たいした収入にはならないが、昔からの付き合いのある業者に頼まれて今も続けているのだった。
まだ、口元に残る違和感に、美津子はそっと手をあてた。
結婚して十三年目を迎え、美津子は三十六歳になった。子供ができないことを除いては、美津子も陽介もたいした病気をしたことがない。だが、ここのところ、ひどい肩凝りや頭痛に悩まされている。おそらく、長年の不妊治療のストレスからくるものだと美津子は思っていた。
ところが二カ月ほど前、整体師に「あなたは歯が悪いはずだ」と言われ、診察を受けてみたら、進行した虫歯が奥に一本見つかった。一カ月以上、北大路の歯科医院に通院し、今日ようやく差し歯を入れてもらって治療が終わった。
差し歯を舌で押すと、わずかにざらついた感触がある。見た目は本物と変わらないが、異物が口中にあるという感覚は拭《ぬぐ》いきれず、そこだけ微妙な温度差があるのだ。
本物の歯は、舌があたっていてもいなくても、人の体温を常時保っているものらしい。人工歯は、歯肉に埋め込まれているにもかかわらず、自身の温度を芯から変えはしない。だから、そこだけ違和感があり、ほんの少し冷たい。
「気になるかも知れませんが、すぐに慣れます。しばらくは、硬いものや、ガムとかキャラメルのように粘着性のあるものを食べるのは避けてください」
初めて差し歯を入れた美津子に、医師はそう説明した。
頬にハンカチをあてながら、美津子は裏山に続く道を歩いた。
「おねえちゃん」
振り向くと、真理奈が自転車をひいて立っていた。学校から帰ってすぐにきたのだろうか。制服は着ているが、鞄は持っていない。
「うちのお母さんが、お寿司作ってん」
自転車の前カゴに、薄青色のビニール風呂敷に包まれた折りが見えている。
「おおきに。お使いにきてくれたんか」
言いながら美津子は、真理奈の自転車まで歩いた。
「ビニールハウスに、お義母さんを呼びに行くとこやったんよ。お茶が入ったとこやから、真理奈ちゃんも一緒においない」
「うん」
真理奈は雄一の娘で、中学一年生である。真理奈にとって美津子は「おばさん」と呼ぶような年格好なのだが、小さい頃から「おねえちゃん」と言い、今もそれが続いている。
背丈は美津子の肩あたりまで伸びているが、鼻の下に生えた薄い産毛は剃りもせず、日に焼けた頬のふくらみにはまだ稚《おさな》さが残っていた。女の子にしては太くて濃い眉毛をしていて、それは父親譲りだ。全体的に父方の面差しが色濃い顔立ちだが、少し垂れ気味の目と丸みのある鼻は最近、母親によく似てきた。
「これ、お台所に置いといた方がええやんな」
前カゴのビニール風呂敷の包みを指さして、真理奈が言った。
「自転車ごと、ここに置いときよし」
このあたりからの勾配はきつくなり、自転車をひいて登るのは難儀だろう。かといって引き返させるのもかわいそうなので、美津子はそう言った。真理奈はどうしようかな、という顔をして首を傾げている。
「どうもあらへんから、置いといてええよ」
山とはいえ、ここは榊原家の私有地である。他人が入ってくることはない。向こう側は急な斜面に雑木林がひろがっているばかりで、人が歩けるような道などない。北側の斜面は崖になっていて、五十メートルほど下を谷川が流れている。
「それとも、ここでちょっと待っててくれる?」
首を横に振り、真理奈は笑った。前カゴを揺らさないように注意深く自転車のスタンドを立て、美津子の方に駆け寄ってきた。
「今度、バドミントンの試合が、府立体育館であるねん」
「真理奈ちゃん、でるの」
まさか、と真理奈は声をあげて笑った。
「あたしは補欠やもん、関係あらへん。そやけど、うちの先輩らは強いねん。去年も準決勝までいかはったんや」
二人は並んで麓を歩きだした。
「今年は決勝までいかはるかもわからへん」
美津子より背が低いものの、真理奈の歩幅はかなり大きい。日頃、クラブ活動で鍛えられているのだろう。腕を振って歩く姿勢は背筋が伸びていて、顔はまっすぐに前を向いている。耳のあたりで揃えられたショートカットの髪が揺れ、細い首がむきだしになっているが、若い皮膚は山の冷気に臆することもない。真理奈の面立ちにはまだ稚さが残っていると思ったが、肩から腰の肉づきはしっかりしており、骨格はほとんど大人と変わらなくなってきていることに、美津子はあらためて気づいた。
「先生も、今年は優勝も夢やないて、えらい張り切ったはるさかい、練習もリキ入りっぱなしや」
お陰でこっちまで練習が厳しくなってきたと、真理奈は何度も嘆いてみせた。
「せやけど今日は、あたしらは練習ないねん。出場する人だけ、体育館で特訓や」
制服から、子供とも大人ともつかない年頃の女の子の体臭が、校舎や教室の汗じみた匂いとないまぜになって漂ってくる。
子供を持つということは、別の窓を持つということなのかも知れない。大人とは違い、子供のそれはまったく違う方向から風が入ってくる。風は、新鮮な匂いを運んでくる時もあれば、懐かしい匂いを運んでくる時もある。傍《そば》にいると、たしかに自分もかつてこんな匂いを知っていたと、思い出したり、気づかされたりする。
「なあ、おねえちゃんも見にきてくれへん? うちの学校、優勝するかもわからへんねん」
「ほんなら、見にいこかな」
やった、と真理奈ははしゃいだ声をあげた。
美津子が結婚してまもなく、真理奈は誕生した。本来なら、自分にも中学にいくような娘や息子がいてもおかしくない。
生まれた時から接しているせいか、真理奈は係累の子供達の中でも一番、美津子になついていた。末っ子だから、あるいは女の子だからということもあるのだろうが、本家への使いはいつも真理奈が寄越される。本人も喜んでそれを引き受けていた。
「ビニールハウスに誰か来たはるのん?」
「北大路の原田さんが来たはるねん。おねえちゃんも今さっき、歯医者さんから帰ってきたばっかりやの」
原田は北大路駅の近くで生花と種苗を扱う園芸店をやっている。七十近い今も商売には熱心で、榊原家との付き合いは古い。今日もポット苗の様子を見にきており、いつものようにクニ代が案内しているはずだった。
「あ、クニ代おばちゃんや」
真理奈がビニールハウスの入り口を見て言った。
榊原の家は、付き合う係累の数が多い。陽介の従兄弟、はとこはもちろん、先代の従兄弟、はとこまでもが日常的に顔を合わせる。子供達にとっては「おばちゃん」「おじちゃん」と言っても、あまりに数が多いので、その上に名前を付けて呼ぶのが習慣になっているのだ。
「原田のおっちゃん、いつまでも元気やな」
感心したように真理奈は言った。
スポーツ用品メーカーのロゴの入ったカーキ色のダウンジャケットにジーンズを合わせて、背筋を伸ばして立っている原田の後ろ姿は、たしかに年齢よりかなり若く見える。
ビニールハウスの前に置いてある木板の上にはいくつかのポット苗が並べてあり、クニ代と原田はこちらに背を向ける格好で、苗の一つ一つを手に取っていた。
茶の用意ができたことを告げにきたのだが、クニ代は原田に熱心に話しかけている。声をかけそびれ、美津子はハウスに続く坂の半ばあたりで立ちどまった。
「とくに、家のことを何ぞさせてるいうわけでもあらへんのに」
クニ代の声が聞こえた。美津子が来たことを知ったうえで、言葉を続けている。
「家業を手伝うのは嫌やとかなんとか、そんなことを嫁にきた時から言うもんやから、まあ陽介もそれでええと言うし、こっちは何もかも言う通りにしてきたんや」
高い頬骨が、姉さんかぶりにした手ぬぐいの端から見えている。頬骨のせいでクニ代の目の周囲は窪んで見えるが、決して痩せ過ぎというわけではない。若い頃から野良仕事もよくやっていたというだけあって、上背のある体躯は筋肉質なのだ。ただ、顔の皮膚が薄いために皺が目立ち、とくに眉間には深い皺が刻まれていて表情はいつも険しく、その分、歳をとって見える。
榊原家は旧家だが、日常、家業に携わる女達は着飾る習慣も機会もない。クニ代はいつも手ぬぐいを頭にかぶり、ウエストにゴムの入った焦茶色のズボンを履き、紺色の手編みのセーターに袖のあるエプロンを着けている。その日のクニ代の袖付きのエプロンは灰色で、かぶった手ぬぐいは信用金庫が夏のボーナスキャンペーンで置いていった粗品である。
苗の手入れはクニ代の仕事で、場合によっては人を頼む時もあるが、普段は、ポット苗をトラックの荷台に積みこむ作業までも自分でやっている。ポット苗は一つ一つに用土がつまっているので一箱の総重量はかなりのものになるはずだが、クニ代はたった一人でそれらの作業をこなす。若い頃は、男達とともに山の下草刈りまでもやっていたというから、かなりの体力の持ち主で、六十歳を目前に控えた今もそれは変わらない。
十九歳で陽介を産み、五年後一度流産したが、仕事を休んだのはその時だけで、あとはずっと働き続けてきたのだと、クニ代から何度も聞かされている。
クニ代の実家は西賀茂の農家だ。おそらく、子供の頃から農作業を手伝わされ、鍛えられてきたのだろう。クニ代からすれば、美津子の日々の生活は生ぬるくて見ていられないのに違いない。
力仕事は一切せず、夫に手厚く守られ、常に擁護されている。最初から家業を手伝う気はないと宣言し、治療のためということで遠い病院に通院し、家を空けることもしばしばだ。それについて陽介が文句一つ言うわけでもなく、自身も指定された日に病院に赴く。そこまでしても未だに子供が授かることはなく、いつ終わるとも知れない病院通いに湯水のように金を使っている。そんな嫁の行状に、クニ代は苛立っていた。
「クニ代さんも、気が揉めるこっちゃわなあ」
原田は話をきりあげようとして、異種のポット苗を手に取りながら色味について訊《き》こうとしたが、クニ代はかまわず言葉を続けた。
「ああ、もう十三年や、十三年。ええかげんに孫の顔見せてもらわんと、どうもならんわ。原田はんとこはええがな。しっかりした婿さんがきてくれはるし、商売もあんじょうやってはるし、孫も大きいなってはって、言うことあらへん。それに比べて陽介は、ほんまになんでこないに、すかくじ引いたことやろ」
木板に並べられた苗に目をやり、クニ代は大げさにため息をついた。
真理奈は眉をあげ、目を逸らした。それは一瞬の動作で、さっきからそうしていたようにしか見えないような自然な表情だった。
大家族の家に生まれ、両親や祖父母はもちろん、数多い係累達のやり取りを見て育った真理奈は、こういう時の気まずさをやり過ごす術《すべ》を知っている。美津子に対する同情の片鱗など決して見せずに、ただ、「早く終わればいいのに」と言いたげな顔をして、あらぬ方に視線を投げかけている。それが一番相手を傷つけないことを、この年齢で知っているのだ。
「崖のしだれ梅があかんて、言われたんやけどなあ」
クニ代の声がした。
「しだれ梅? あの、崖の鬼門除けの梅が?」
崖の縁には大きなしだれ梅がある。しだれ梅の植えられたあたりは赤土が剥き出しで草も生えず、初めて見る者なら、突然、そこから地面の続きがなくなっていると感じるくらい、切り立った崖になっている。
屋敷から北東の方向に崖はあり、不吉なものを感じた何代か前の当主が、鬼門除けと厄除けのために白梅を植えたのだと聞かされている。
「ちょっとまた、みてもろうて、言われたんやけど」
クニ代の占い好きは今に始まったことではない。八卦見や易、あるいは祈祷師や拝み屋の類など、誰かに聞いてきては家に連れてきて占わせたり、敷地にある祠《ほこら》や地蔵を拝ませたりしている。
「あの大きなしだれ梅が、人間の精気を吸うてるねんやて。吸われた人間は病気になったり、躯や気力が弱ったり、運気が下がったりするねんて」
「しだれ梅がなあ」
すでに、美津子と真理奈が背後にいることを知っている原田は、苦笑ともため息ともつかないような息を漏らした。
「せやけど、あれは昔からこの家で大事にしてきた梅やさけ、伐るわけにはいかへん」
言いながらクニ代は首を振った。
陽介の話によると、占い師や霊能者の類に凝っていたのはクニ代の姑、つまり陽介の祖母だったらしい。長女は残ったものの、たて続けに息子二人を亡くした陽介の祖母は、知人に紹介された易者だか霊能者だかにみてもらい、裏庭のお稲荷様が大変お怒りになっておられると、ご託宣を受けたのだという。
庭に稲荷社などないので不思議に思い、家人がその霊能者に問うてみたところ、辰巳の方向にお稲荷様がいらっしゃるという。庭といっても、榊原家の庭は裏山とつながっているのでかなり広い。一山全部が庭みたいなものである。そこで、家の者達が手分けして辰巳、つまり東南の方角をさがしたら、たしかに朽ちた祠の残骸が、倒木と枯草の下からでてきたのだという。
陽介の祖父はこれを修復し、御神体の青銅の鏡を丁重に磨き上げ、祠に納めなおした。同時に、もうひとまわり小さな神鏡を作らせて祠の正面に据え、祖父の名を刻んだ鳥居も建立した。すべて、霊能者のご託宣に従ってのことらしい。
毎朝の礼拝と供物を欠かさず続けたところ、二年後、恭蔵が誕生し、無事に成長した。以来、榊原家では庭のお稲荷様を大切にし、毎月一日と十五日の修祓《しゆうばつ》を欠かしたことがない。
祖母の信心は庭の稲荷社にとどまらず、氏神はもとより京都全域の寺社参りを熱心に続けた。それにくわえて、占い師、霊能者の評判や噂を聞くと、必ず本人を屋敷に招いて家相や家人の将来を占わせたのだという。
その影響を受けたのか、クニ代もまたそうした者達を屋敷に呼ぶのが好きだった。クニ代は、恭蔵が肺癌に倒れてから占いに凝るようになったらしい。占い師や霊能者にみてもらったところで恭蔵の病気が治癒することはなく、結局助からなかったのだが、クニ代は今もそうしたものに執心している。
「あれのせいで、陽介の精気が吸われてるのんかと思うと、なんや憎うも思えてくるねんけど、そやけど、昔からあの梅の木はこの家にあったんやさけ」
「そうやがな。あの梅の木が人の精気を吸うてるのんなら、この家はとっくに絶えてるわいな。関係あらへんがな、クニ代さん」
「いや、そうやない。陽介はあの通り丈夫な子やし、そんな邪気は撥ねつけるだけの人間や。邪気を呼び寄せる人間、ていうのがいるねんや」
クニ代は眉をひそめ、呻《うめ》くように言った。
「疫病神に憑《つ》かれてるかと思うと、陽介が不憫《ふびん》で」
原田は困ったように息を吐き、「考え過ぎやがな」と言った。
「考え過ぎやあらへん。陽介はあと二年で四十や。四十前にもなって未だに子なしやなんて、どういうこっちゃ」
真理奈は唇の端をほんの少し歪め、軽く息を吐いたが、それでもすばやい動作で元の表情を作ってみせた。
三月十五日の紋日に、叔父の義之がやってきた。
榊原家の稲荷社は、屋敷から辰巳の方角にあるので辰巳稲荷と一族に呼ばれ、紋日には遠縁の者からも供物が届けられる。届けられた御神酒《おみき》、野菜、活魚はクニ代が三方《さんぼう》に載せ、祠に供える。三方や榊、御幣などを山の麓にある祠まで運ぶのは陽介と美津子の役目で、屋敷から五、六分程度のなだらかな山道を、二人は何往復かする。
陽介の父が元気だった頃には、紋日ともなれば一族のそれぞれの代表が必ず玉串|奉奠《ほうてん》のために屋敷に赴いていたということだが、父が病に倒れてからは式典も簡素化され、今では氏神の禰宜《ねぎ》が祝詞《のりと》をあげるのを、クニ代と陽介と美津子の三人が見守っているだけというのが常の光景となった。
「崖のしだれ梅、見とこうと思うて」
もうこの歳になると、来年は見られるかどうかわからないから、という意味のことを、義之はくどくどと話した。クニ代は相槌を打ちながらも身構え、緊張していた。
雲ヶ畑の梅の開花は遅い。二月の末にようやく蕾がほころび始めるかというくらいだ。今年は特に冷え込みが続いたこともあり、三月半ばというのに、太い幹から天に向かって噴き出したような枝はおびただしい花をつけて満開である。遠くから見ると、白い絹を肩から流している女の立ち姿のようにも見え、樹影は崖の縁に淡い光を滲《にじ》ませていた。
しだれ梅の下に立ち、義之はしばらく花に見入った後、辰巳稲荷にやって来た。義之を迎えて禰宜の祝詞奏上が始まる。全員が玉串奉奠を済ませ、神事は滞りなく進行し、式典はわずか十分ほどで終了した。クニ代はいつものように禰宜を丁重に送りだし、陽介と美津子は供え物などの後始末にかかる。
義之は屋敷の仏間で、陽介達がもどるのを待っていた。一年ほど前に自宅の庭で転んでから、義之は右足を少し引きずり気味に歩いている。最近では常に杖をついており、座敷でも右足を投げだすようにして座っていた。そのせいか、まだ六十になったばかりだというのに、えらく年寄じみて見える。
クニ代の用意した燗酒を陽介が受け取り、義之の杯に酌をすると、義之は形ばかり口をつけて顔をあげた。
「もう、歳やな。あんまり、飲めんようになってしもた」
そんなことは、とクニ代が笑うと、「いや、もう色々、ガタがきてるわ」と義之は杯を置いた。
「来年、成人式を迎える孫がいるのやさけ。こっちもそら、歳とるわ」
「健ちゃん、もう成人式かいな」
クニ代の言葉に頷き、義之は笑った。
「下手したら、ひ孫がいてもおかしいない」
義之の息子、雄一が結婚し、健太という息子をもうけたのは十八歳の時だ。同じことが次の代で起これば、ひ孫が誕生していることになる。
「そうか、早いもんやわねえ」
感心したようにクニ代は頷いた。
健太は現在、京都の私立大学にいっており、夏休みなどには大学の友人を連れて山仕事のアルバイトに陽介のもとにやってくる。
「どや、陽介。躯の方は」
火鉢で手をあぶりながら、義之が言った。
「お陰さんで、元気にやらせてもろてます」
「美津子さんは」
盆を持って座敷に入ってきた美津子を、義之は見上げた。
「はい、おおきに、ありがとうございます」
「そうか。息災やったら何よりや」
美津子が膳に肴を置くと、義之は煙草をとりだした。
「皆が元気なうちに、大事な話はすませておきたいのやけどな」
煙草の箱をとん、と人差し指ではじき、義之は顔をあげた。向き合うようにして座っていたクニ代が背中をそらせ、唇をかたく結んだ。陽介が、またその話か、という顔をしたが、義之は黙って煙草に火をつけた。
二、三年前から義之は、本家の跡取についての話を頻繁に口にするようになった。今年に入ってからは、健太がいよいよ成人するとか、弟の翔太は高校生で、真理奈も中学生になったとか、やたらと孫の話をする。
「このままでは、いつまでも中途半端で、義姉さんも安心できひんやないか、なあ」
義之の言いたいことはわかっている。子供のできない陽介夫婦に、養子をもらって跡取を早急に決めよ、と言いたいのである。
「幸い、と言うては何やけど、雄一は三人の子持ちや。男の子二人に女の子一人。今の時代、必ずしも男が身代を継ぐとはかぎらん。娘にええ婿さん貰うて、家業をもりたててる家かてめずらしない。真理奈は美津子さんにようかわいがってもろうて、小さい時からなついてるさけ、それも悪うない。そやさけ、それは陽介と美津子さんの好きに考えたらええと、わしは思うてるのや」
有難い話なんやけどね、とクニ代は顔をあげた。
「まだ、陽介夫婦に子供ができひんときまったわけやないし」
いや、と義之は片手をあげてクニ代の言葉を遮った。
「陽介、おまえ、あともうちょっとで四十やろ」
正確には、陽介が四十になるまであと二年ある。クニ代がそう言うと、義之は徳利を持ちあげ、陽介に杯を持つように促した。
「美津子さんかて、三十半ばにならはったんや。嫁にきて十三年。もう義姉さんかて、待ちくたびれはったことやろ。ここは、陽介と二人で、お義母さんを安心させてあげるように将来のことを真剣に考えたらどないや」
いや、わたしは、と言いかけたクニ代に、言い含めるように義之は言葉を続けた。
「榊原の本家が消えてなくなってしまうようなことだけは、なんとしてでも避けてもらわんとな、義姉さん。そやないと、わしも亡くなった兄貴に申し訳がたたへんし、親戚にも顔向けがでけへんがな」
このまま、陽介夫婦に子供ができなかったら、榊原の本家は絶えてしまう。そうなる前に分家から、つまり義之の孫から養子を貰えと、義之は言っている。
「いつまでも、このまんまというわけにはいかへんがな。わしも今まで目|瞑《つむ》ってきたけど、嫁にきて十三年、美津子さんに子供ができひんかったというのは事実やし、どうしようもないことや」
陽介の杯に酒を注ぎ、義之は「嫁《か》して三年」とつぶやいた。美津子は顔をこわばらせ、俯《うつむ》いた。
嫁して三年、子無きは去れ。
義之はそう言いかけたのだ。だが、さすがにクニ代の前でその言葉を最後まで言うのは遠慮したのだろう。義之は一言つぶやいた後、黙った。
実際の年齢は義之の方が少し上だが、本家の義姉として、義之はクニ代を立てている。それはクニ代の威厳や器量に敬意を払っているというのではなく、あくまでも本家を立てることで分家の価値や尊厳を内外に示すという意図的なものである。
今日の義之はかなり高圧的だ。さっきの言葉もさり気なく口にすることで、分家は本家の不備について長い間、目を瞑ってきてやったのだ、とクニ代を牽制しているのだ。
「子ができんからというて、傍《はた》の者が離婚せえとは言われへん。陽介、おまえかて、美津子さんと別れて、どこぞの若い女と再婚して赤ん坊でも産ませよかとは、思うてへんのやろ」
声をあげて義之は笑った。
「まあ、今の時代、あんまり古臭いこと言うてもどうもならんし、通用せんわ。わしもそないに頭の堅い人間やないさけえ」
義之は煙草をはさんでいない方の手を火鉢の縁で裏返した。陽介は何も言わずに、膳のあたりを見ている。
火鉢の炭が、ぱち、と音をたてた。
「それならそれで、どっちみち、これから先のことは考えとかんならん。そのためには、決めとかんならんことを今決めとかな、後々のためにならん」
どうせ子供ができないのなら、親戚筋から養子を貰い、早いうちに跡取を決めよと言ってきているのは義之だけではなかった。鞍馬の伯母照子も、自身の孫を本家の跡取にと、去年から口にするようになった。
「色々、言うてくる者はいよるけど、鞍馬の言うことは、まともに聞いたらあきまへんで」
煙草の煙を吐き、義之は言った。
「鞍馬のタカラ屋のことは、義姉さんも聞いたはりますやろいな」
照子の長男は家業を継ぎ、専業農家を営んでいるが、次男の忠彦は京都の私立大学を卒業し、大阪の商事会社に就職した。六年ほど勤めたあと脱サラし、鞍馬寺の門前町でタカラ屋という土産物屋を開いた。美津子が嫁にきてまもなくの頃である。
忠彦は陽介より少し年上だと聞いているが、景気の良い頃には新京極や嵐山にも支店を持ち、一時は不動産業にも手をそめ、南禅寺の近くの高級分譲マンションに妻子とともに住んでいた。しかし、バブル崩壊とともに莫大な借金を負い、照子はその尻拭いのためにかなりの土地を処分したらしい。
「借金はまだ、ぎょうさん残ってるのやそうな。本家も鞍馬になんか、かかわったら、えらいことになりまっせ」
現在、忠彦は大阪でギフトショップの営業をやっていると聞いている。長男の信彦は、弟の借金返済のために母親が土地を勝手に処分したことを今も根に持っていて、家の中はかなり険悪らしい。そこで照子は、信彦の次男の芳樹を榊原家に養子縁組させると、家族の前で宣言したのだった。
芳樹はまだ中学生だ。彼が榊原家と養子縁組すれば、本家の財産は鞍馬が取り込んだも同然である。信彦にとっては、でき損ないの弟の作った借金のために目減りした財産を、一気にとりもどすことができるというものだ。養子縁組の話を進めることにより、榊原家との直接の窓口となる照子の立場が、家の中で優位になったのは想像に難くない。
「鞍馬は、言うて悪いけど横着な筋や。能もないのに商売に手だして大《おお》火傷《やけど》してからに。あないな者を榊原に出入りさせたら、どんなとばっちり受けるやわからへん」
義之は火鉢から手を離し、腕組みをした。
「本家が潰れるようなことになったら、わしはほんまにあの世で兄貴に顔を合わせられへんさけ」
亡くなった父恭蔵の姉弟達は、本家の乗っ取りをもくろんでいると、クニ代はいつもこぼしている。遠い親戚の中にも、養子縁組の話を持ちかけてくる者が少なからずいる。しかし、それらの者はいずれも、本家に繋がる血の濃さで、義之と照子にはかなわない。
恭蔵の妹の遺した子や孫も大勢いるが、かんじんの妹本人が亡くなっているので、本家に乗り込んでくるだけの威力はない。やはり、この家で生まれて育った者でないと、当主と渡り合うことはできないのだ。
義之と照子にしてみれば、本家はもともと自分の生まれた家である。財産のほとんどを長兄に譲ったのも、本家の存続と繁栄を信じてのことであり、それを一族が望んだからだ。だが、陽介の代になり、子供ができないという事態となった。跡取がいなければ家の存続はありえず、本家は消滅し、一族は拠り所を失う。
旧家は、血筋の絶えることを恥と考える。連綿とした血の繋がりを持たない家は、家としての体をなさず、格落ちの扱いを世間から受ける。どんなに莫大な財を築いた者でも、それが一代の功であれば、所詮は新興成金の域を出るものではなく、旧家と肩を並べることはできない。旧家が旧家の矜持を保っていられるのは、長い歴史と伝統があるからであり、その裏づけが血統というわけだ。
昔なら、妻に子ができずとも妾に産ませた子を家に入れればそれですむ話だった。巷にはその筋の玄人《くろうと》がいたし、跡取本人の生殖機能にさえ問題がなければ、血統は継承されたのだ。
だが、さすがに今の時代にそんな方法は通用しない。妾の子を家に入れ、自身の子として育てることで、家の安泰と己の保身をはかるという感覚は、現代の女にはない。また、産んだ子供を黙って差し出し、生涯、子供や子供の父親に一切のかかわりや見返りを求めないという玄人女も存在しない。
慰謝料や養育費の額をめぐって騒がれでもしたら、当主は世間の失笑や嘲笑をかい、それこそ家の格は地に堕《お》ちる。
ならば、身内から養子を貰い、跡取とすればよい。血統は保たれ、世間から格落ちの扱いを受ける心配もない。義之と照子はそう言いたいのである。
「陽介、もう腹くくらんならん時や。今ならおまえも美津子さんも元気やし、健太でも翔太でも真理奈でも貰うて、ちゃんと育ててやれるやないか。この家に住まわして、おまえら夫婦をお父ちゃん、お母ちゃんと呼ばせて育てたらええのや。正式に縁組したら、わしが責任持ってこの家に連れてきて、おまえらの言う通りにさせるがな。傍《はた》の者には一切何も言わせへん。いつまでも先延ばしにしてたら、おまえら夫婦も歳とってしまうのやで」
義之はもう、クニ代に遠慮する素振りも見せず、顔をあげたまま話した。クニ代の前であれだけのもの言いをするということは、いよいよ本気で本家に孫を送りこむつもりなのだろう。
ようやく義之が帰ったのは、日暮れ近くだった。分家とは歩いて二十分ほどの距離なので、足が不自由な義之のために、陽介は車で送っていった。クニ代と美津子は門の前の通りまで見送った。陽介の車が見えなくなった後、クニ代は黙って屋敷に入り、美津子はガレージの門扉を閉めた。
中庭続きのガレージの門扉はアコーディオン式になっている。門扉は大人の胸くらいの高さなので、閉めていても中庭の一部が通りから見える。陽介がすぐにもどってくるのはわかっていたが、短時間でも開けっ放しにしておくのはだらしがないと言ってクニ代が怒るので、美津子は常に閉め切るようにしているのだった。
屋敷にもどると、仏間の電気が消えていた。薄暗い座敷を、橙色の弱い光が照らしている。
淡い翳《かげ》がゆらりと揺れた。蝋燭《ろうそく》の火だ。仏壇の扉が開いている。香の匂いと、供えられた果物の甘酸っぱい匂いが部屋に立ちこめていた。
仏壇の前に、クニ代がうずくまるようにして座っている。まるい背中がわずかに動き、呻くような声が聞こえた。
「あんたのせいや」
仏壇に並べられたおびただしい数の位牌が、金箔の内壁に翳を落としている。位牌に刻まれた戒名は、黒い塊となって美津子を見下ろしていた。
「こないなこと、分家に言われるとは、思いもよらなんだ」
蝋燭の火が、クニ代の声に気圧《けお》されたかのように大きく揺れ、位牌の翳が蠢《うごめ》いた。
「陽介はあんたのせいで、いつも損ばっかりや。ほんまやったら分家が陽介の前であんな口たたくやなんてこと、絶対にできるはずのないことやのに」
クニ代は顔をあげ、振り返るようにして美津子を見据えた。
「あんた、陽介がかわいそうやと思わへんのか。陽介にこないな思いさせてまで、なんでこの家にいるのや」
薄闇の中で、クニ代の窪んだ目が鈍い光を放っている。位牌の翳がクニ代の背後で立ち上がり、文机《ふづくえ》に置かれた経文の文字が生きもののように浮かびあがっていた。
「あんたさえ、いなんだら陽介かて」
美津子さえいなければ、陽介は若い後妻を貰い、赤ん坊の一人や二人、作っていたかも知れない。
蝋燭の芯が燃え尽きる寸前のような音をたて、黒味がかった煙が薄く上がった。焦げ臭い匂いが座敷に漂う。美津子は目を伏せ、膝をついた。
「跡取がいいひんばっかりに」
クニ代はうずくまり、畳を叩きながら嗚咽《おえつ》を漏らした。
さっきまで見えていた月は三日月で、木々の間から辰巳稲荷の祠を淡く照らしだしていた。月が隠れても、祠の脇に祀《まつ》られた陶器の狐の目と尻尾は鈍く光っている。風が起こると、灯明がふわりと揺れ、尻尾の影がつられて動いた。
冷えた夜気は躯の芯までしみこんで、すでに美津子の手足の感覚を奪っていた。鳥居の傍の叢《くさむら》では、吐瀉物から薄く蒸気があがり、すえた匂いが漂っている。
かわらけに残った酒を飲みほして息を吐くと、また胃液の匂いがこみ上げてきた。御神酒徳利の一本はとうに空になり、三方の上に転がっている。
鳥居の足元から、美津子は立ち上がろうとした。が、灯明の光が揺れるので、すぐそこにあるはずの祠までの距離がよくわからない。ふらつきながらもなんとか前に踏みこむと、祠がぐらりと揺れた。いや、揺れたのは、美津子の躯だった。鳥居の脚につかまり、美津子は顔をあげた。
山の闇は濃く、目を凝らしても漆黒の色が深くなるばかりだ。耳を押さえても、樹を揺する風の音がいつまでもやまない。
紋日から十日が過ぎていた。
あの夜、陽介は遅くに屋敷にもどってきた。酒を飲んだので、歩いて帰ってきたと言っていた。風呂からあがるとふとんにもぐりこみ、眠ってしまった。
たとえ美津子を抱かないときでも、陽介は美津子の首の下に必ず腕を添えて眠る。けれどその夜は、美津子とろくに言葉もかわさないまま背を向けた。
なあ、と美津子は陽介の背中に声をかけた。
「叔父さん、送っていった時、何ぞ言うたはった?」
陽介は美津子の言葉に何の反応も示さなかった。
「あの話、どないしたいの、陽ちゃんは」
薄闇の中に目を凝らしてみたが、陽介が動く気配はない。
「わたしは、陽ちゃんのええようで、ええよ」
今年、誕生日がくれば、美津子は三十七歳だ。
自分はもう、子供を産むことなど生涯ないのかも知れない。義之やクニ代が言うように、陽介は若い女とやりなおせば、子供を持てる可能性がある。
陽介は、親戚達の思惑や母親との攻防に辟易《へきえき》している。けれど、どうやって対処していいのか、彼にはわからない。わからないから、美津子にも背を向けている。
あの夜、美津子は一睡もできなかった。翌日も、翌々日も陽介は美津子に背を向けたまま眠った。
眠れない。
三日目の晩、美津子は寝室を抜けだした。階段を降りて居間に行ったものの、水屋の前でしばらく立ちつくし、電気をつけようかどうしようか迷った。クニ代の部屋が近くにあるので、物音をたてないように気をつけなければならない。
勝手口に灯された防犯用の照明が、ぼんやりと土間に続く台所を照らしている。広い居間はしんと静まりかえり、食卓の脇の水屋から今は使われないおくどはんのあたりまで、薄い闇が覆っていた。おくどはんには白と緑のタイルが張ってあるが、あまりに古いために色はくすみ、本当の色などとうにわからなくなっている。
土間の半分は床が張られて板の間になっているが、この家の台所は広過ぎて、昼間でも薄暗い。明かり取りの窓はあるけれど、天井のガラスには吹きこめられた落ち葉がしょっ中貼りついている。
かつては、この十畳の居間が狭く思えるほどの大家族が一堂に会して三度の食事をしていたのだと、クニ代が話していた。クニ代が嫁にきた頃には、あの大きなおくどはんで日に三升もの飯を炊き、家族から使用人にいたるまでの食事を供していたのだという。
山仕事をする男達の食欲は尋常ではない。結婚したばかりの頃の陽介も、信じられないくらいの量の飯を食べ、美津子は驚かされたものだった。下草刈りも枝打ちも、四季を通しての大変な重労働である。伐採はチェーンソーを使用しているというものの、長時間にわたって全身の力を振り絞るようにして機械を支えなければならず、大の男でもかなりの体力を消耗するのだ。
昔は、山仕事をする男達と育ち盛りの子供達、そして隠居の年寄達がここに集まり、大きな膳を囲んでいたという。使用人達も土間に置かれた食卓に座り、何十人もの人間が一度にここで食事をしていたのだ。
今は、クニ代と陽介と美津子の三人だけだ。一日に炊く飯も五合程度で、しかもガス炊飯器を使うのだから、あんたは楽でいいと、クニ代は言う。
広い空間は、子や孫がいてこそ埋まり、また必要となる。大人三人が暮らすのなら、余分な空間は寒々しいだけだ。
美津子は柱にある電気のスイッチのあたりに手を伸ばした。スイッチを入れようとした時、クニ代の部屋の戸が開く音がした。咄嗟《とつさ》に、美津子は勝手口から外に飛び出した。
寝間着のまま、美津子は走り続けた。気がつくと、辰巳稲荷の前に立っていた。
夜に見る祠は、暗がりの中で金具の金箔だけが浮き上がり、朱塗りの褪《あ》せた柱は朽ちた大木のような色をしていた。鈴の緒の紅白の色も褪せていて、墨で書かれた陽介の名前だけが淡い月明かりの中でも読み取れるほどくっきりと浮かびあがっている。
鳥居の下にしゃがみこみ、美津子は自身の息が静まるのを待った。肩で息をしながら顔をあげると、山の闇がひろがっていた。
祠の台座の下は、神具や御神酒用の一升瓶を入れられるように棚が設《しつら》えてある。美津子は台座の下の扉を開けた。棚からマッチをとりだして、灯明の蝋燭に火をつける。灯された火は祠と鳥居を照らしだし、陶器の狐の尻尾に濃い影を作った。
三方に御神酒徳利が二本置かれている。三日前の朝、台座の下の一升瓶から徳利に酒を満たしたのは美津子だった。
かわらけを手に持ち、美津子は御神酒徳利の酒を注いだ。一口飲むと熱い塊が胃に落ちていき、喉の奥がかっと熱くなった。飲みほして息を吐き、美津子は祠の後ろの闇を見つめた。
ひゅう、と風が巻き起こり、山がざわざわと騒いだ。陶器の狐の目が光り、口に銜《くわ》えた巻物がわずかに動きだす。風に煽《あお》られた鈴の緒が舞い上がり、からん、と乾いた音をたてる。
美津子は御幣の下の神鏡を見据えた。くすんだ青銅の鏡は錆が浮いていて、何も映してはいなかった。手をあてると、ざらついた感触が指の先を冷やすだけだ。
罰当たり。
結婚して初めて迎えた紋日の前日に、美津子は祠の掃除をした。その時、祠に祀ってある神鏡に直接触れたら、クニ代にそう言われた。
それは、神さんの鏡や。さわったらいかん。
クニ代は眉間に皺を寄せ、美津子を睨《にら》みつけた。
神鏡は、神の目であり、魂でもあるのだから、この鏡ですべてが見通される。クニ代はそうも言った。美津子は何度も詫びた。
ええやないか、御神体でもあるまいし、と陽介がとりなしてくれたが、「あたりまえや、御神体なんぞ、見ただけで目潰れるわ、あほ」とクニ代はひどく興奮して怒ったものだった。
美津子は錆の浮いた鏡を手に取り、自身の顔に近づけた。鏡といっても、普通の鏡のように人や景色を映しだすわけではなく、ただの平べったい石のようなものだ。
何が映しだされるというのだ、こんなものに。人の顔さえ映すこともできないというのに。
神鏡を置き、また、かわらけに酒を注いだ。美津子は普段、飲まない。慣れていないせいか、それとも冷えた山の夜気のせいか、飲みくだした酒は胃の中でいつまでも熱を持ち、喉の奥が灼《や》けつくようだ。
喉元に手をあてた。自身の手の冷たさが心地よく伝わってくる。
陶器の狐が口を半開きにして、尖った歯を見せていた。尻尾に塗られた金色は褪せ、耳の内側の朱色もほとんど剥げている。
遠くで、きゅうんと音がした。狐が鳴いている。
御神酒徳利とかわらけを持ったまま、美津子はしゃがみこんだ。目を瞑《つむ》ると、ふわりと躯が浮いて、地面が揺れた。
次の晩も、その次の晩も、美津子は祠にやってきた。今夜で七日目になる。
御神酒徳利が空になると台座の下の一升瓶から補充しているが、口を切っていない一升瓶はまだ何本かある。
鳥居にもたれ、肩で息をしながら、美津子は自分の吐瀉物《としやぶつ》のあるあたりの叢を見ていた。昨夜も同じ場所で吐いたはずだが、さっき見たら、痕跡はなくなっていた。狐でも食べたのだろうか。
いつも、音をさせないようにして寝室を抜け出してくるので、美津子は寝間着の上にアルパカのカーディガンをはおっているだけだ。けれど、寒さなど感じたことはない。朦朧《もうろう》としながら、美津子の躯の奥は次第に熱を帯びてくる。
月はすっかり隠れてしまい、星も見えない。見つめれば見つめるほど闇の色は濃くなり、美津子は一人、夜の底に取り残されていく。
「何してるんや」
鳥居の向こう側に、陽介が立っていた。パジャマの上にダウンジャケットをはおっている。
「美津子」
白い息を吐きながら、陽介は訝《いぶか》るように首を傾げた。灯明に照らされて、陽介の顔は橙色に染まっているが、その実、頬が青ざめているのがわかった。
「何してるんやて、訊いてるんや」
鳥居の足元にしゃがみこんで、陽介は美津子の肩を揺すった。
「堪忍」
肩を掴《つか》んだ陽介の腕をはらいのけながら、美津子は言った。
「堪忍。帰るから」
「こんなとこで、何やってたんや」
顔をそむけ、美津子は言った。
「陽ちゃん。わたし、帰るわ、大津に」
美津子の実家は滋賀の大津にある。陽介の目に怒りの色が滲み始める。
「大津に? なんでや」
美津子は首を振って小さく笑った。
こうなることはわかっていたことだった。旧家に嫁にきて子供ができないということは、居場所がなくなるということだ。不妊治療を言い訳にして、それを少しずつ先延ばしにしてきただけのことだった。
陽介は美津子の手から、かわらけと御神酒徳利をとりあげた。とりあげたそれらを三方に置き、陽介はしゃがみこんで祠の台座の扉を開けた。
「毎晩、飲んでたんか」
うん、と美津子は頷いた。
「なんでや」
陽介は美津子の肩を掴んだ。
「堪忍」
「そやから、なんでなんやて訊いてるんや」
苛立った声をだしながら、陽介は美津子の肩を揺すった。が、どんなに乱暴に肩を揺すられても、美津子は顔をそむけたまま黙っていた。
「あほか、おまえは」
陽介は美津子の頬を打った。勢いで、美津子は鳥居の足元から叢に倒れた。
「悪かった、堪忍してくれ」
言いながら、陽介は倒れた美津子の前にしゃがみこんだ。美津子は地面に手をつき、首を起こした。吐瀉物の臭いがする。
腕がふるえていた。酒のために弛緩した筋肉は、自身の体重を支えることもできないらしい。陽介は美津子の脇に腕を添えたが、あっ、と小さな声をあげた。
「おまえ、こんなにまで飲んでたんか」
叢の吐瀉物を、陽介は見ていた。
「美津子」
青ざめた顔をこわばらせ、陽介は美津子を振り返った。瞬間、美津子は立ち上がり、逃げるように祠に駆け寄った。
「やっぱり、大津に帰る」
台座に手をつき、美津子は言った。
躯の奥に溜まった熱が、行き場をなくしてせり上がってきている。そのくせ手足は冷たいままで、喉から瞼《まぶた》のあたりが火照《ほて》っていた。
「もっと早うに、帰らんならんかった。わかってたんや」
美津子が駆け寄った時にわずかに起こった風が、灯明の火を揺らしていた。祠の狐が美津子を見下ろし、嘲笑《あざわら》うように巻物を銜えた口の端をわずかにあげる。
「そやけどもう、限界や。わたしも陽ちゃんも」
旧家の跡取として、身内だけに囲まれて育ってきた陽介は、とくに何かに立ち向かう必要も経験もなく、今まで生きてきた。それは、陽介のような立場に生まれた者の特権であり、人生である。他者によって捩《ね》じ曲げられたり、道程を変えられたりということは、本来あってはならないのだ。
放蕩により、身代を潰すというような不始末でも起こさないかぎり、平穏で豊かな生活が約束されている。他人と競争することもなく、世間に揉まれる必要もない。
課せられた義務と責任は、血統と財産の継承だけだ。それさえ果たせば、あとは何に煩わされることもなく、陽介の人生は静かに時間が過ぎていく。
「これ以上、一緒に暮らしても、もう同じことの繰り返しやないの」
「病院通いのことを言うてるのか」
陽介に背を向けたまま、そうやない、と美津子は首を横に振った。
「わたしら、一緒にはもう、やっていけへん、ていうことや」
そんなこと、と陽介が驚いたように言った。
「俺はおまえのこと、そんなふうに考えたことないで」
ならば、なぜ、わたしを抱こうとはしない。
そう言いかけて、美津子は口を噤《つぐ》んだ。
陶器の狐が、口の端をまた、わずかに吊り上げる。反《そ》らせた狐の胸には、金色の絵の具が塗られていた。かすれた筆の跡のように、鈍い光の筋が見えている。
「今さら何言うてるのや、美津子」
陽介がこちらに足を踏み出す音がした。灯明の蝋燭の火が揺れ、狐の口はさらに大きく吊り上がる。美津子は眉根を寄せ、目を眇《すが》めた。
「なんで、わたしの方を見ようとせえへんの」
「見てるやないか」
「いつ?」
いつて、と陽介は子供のように口ごもった。美津子は祠の神鏡を手に取った。
「何をするのや、美津子」
手に持った神鏡を、美津子は振り上げた。後ろで陽介が息を呑む気配がする。振り上げられた神鏡の端が祠の御幣をかすめ、かさ、と音をたてた。瞬間、陽介が美津子の腕を背後から掴んだ。羽交締《はがいじめ》にされた美津子は、神鏡を持ったまま身動きができなくなった。陽介は美津子の躯を抑えこみ、神鏡をとりあげようとした。
顎を突き出して、美津子は神鏡に噛みついた。前歯と鼻の奥に鈍い痛みが走り、首の後ろが痺《しび》れたように冷たくなる。それでも顎に渾身の力を込めていると、苦味が口中にゆっくりとひろがり、冷えきった唇の皮膚が裂け始めた。
「美津子」
陽介が声をあげた。
がり、と神鏡の上で音がした。同時に、美津子の口の中で、なまあたたかいものが流れだしていった。それは塩の味がして、鉄の匂いがした。
「おい、やめ、美津子」
神鏡の上に、血の塊がぽとりと落ちた。
「わかった、わかったから、やめてくれ、美津子」
陽介は羽交締にした腕に力を込め、泣きそうな声で言った。美津子の口の端から、顎を伝って血の雫《しずく》がしたたる。
「どうせ、あんたは、わたしに指一本触れへんやないの」
一瞬、陽介の腕から力が抜けた。美津子は陽介の腕を振り払い、向きなおった。
「このまま一緒に暮らしていけるて、本気で思うてるの」
美津子は陽介の目を見据えた。血は顎から首を伝い、カーディガンの胸元に染み込んでいく。
「答えて」
顎と首が冷たい。流れ出た血が夜気にさらされ、急速に熱を失っていく。けれどせり上がってくる熱は、さらに美津子のはらわたを沸騰させ、躯の奥底を昂揚させるのだ。
「帰らんでもええ。ここにいてくれ」
かすれた声で、陽介は言った。
そやけど、と美津子は、奥底の昂揚とは裏腹な、沈んだ声をだした。
「陽ちゃんは、わたしのことはもう、切り捨ててるやないの」
風が巻き起こり、木々の擦れ合う音が山の奥から響いた。それはいつまでもやまなくて、やがて、ごう、と山を揺さぶるような音になる。
「考え過ぎや」
「考え過ぎ?」
美津子は陽介の目をのぞきこむようにして言った。
「どこが、考え過ぎやの」
わたしを、抱こうともしないくせに。
まだ血が止まらない口元に笑みを浮かべ、美津子は首を傾げた。
「排卵日やったのに」
唇を半開きにして、陽介は大きく息を吐いた。困惑の色が目のあたりに漂っている。
陽介はいつもこうだ。予想しないことを突然目の前で言われ、真正面に切り込んでこられると、生来のやさしさがまず先にでて、問題の解決の糸口を自分で手繰《たぐ》ることができなくなる。
「どうせもう、あかんと思うてるさかい、陽ちゃんはわたしに指一本触れへんのや。そやろ」
そんなことは、と陽介は乾いた唇をきつく結んだ。眉の端に力を込めて目を見開き、美津子は顎をあげた。
「これから、どうやって一緒に暮らすの」
「今まで通りや」
「今まで通り?」
鈴の緒が風に煽られ、美津子の肩にあたった。
「そうや、何も変わらへん」
胸を張り、陽介は答えた。美津子の肩のあたりで、鈴の緒の裾がはたはたと音をたてている。
「ほんなら、今まで通りにやりよしな」
言い放たれた言葉の意味を問うように、陽介は首を傾げた。
「言うたやろ。排卵日なんや、今夜」
陽介は押し黙り、目を伏せた。
「今まで通りにやりよしな」
美津子は鈴の緒を肩から払いのけ、血の滲んだカーディガンを脱ぎ捨てた。陽介は青ざめた頬をひきつらせ、後ずさりした。
口の端についた血を手の甲で拭い、美津子は陽介を見た。
風が巻き上がる。山を揺らす音が地の底から聞こえる。
美津子は神鏡を陽介の手からとりあげた。陽介は身じろぎもしない。
祠に向きなおり、神鏡を台座に置いた。灯明の火のなかで、神鏡に付着した血の痕が浮かびあがる。
熱い。
血の塊を、舌の上に感じた。
昂ぶった熱が躯の奥底からわきあがってくる。滾《たぎ》る熱は美津子の全身に血をめぐらせ、もう、躯の中だけではおさまりきらない。
美津子は祠に背を向けた。陽介は困惑した顔をして、立ちつくしている。
ふと、鳥居の上を見あげた。
月はまだ、姿を隠したままだ。
微笑し、美津子は血の滲んだ寝間着を脱ぎ捨てた。灯明の火が美津子の裸身を照らし、乳房と腰の下に淡い陰翳を刻む。
手のひらを頭上にかざすようにして、美津子は自身の腕を眺めた。唇を拭った時に指についた血は、乾いて赤黒くなっている。指を曲げるとそれは剥がれていき、もう、冷たさも感じない。
血がめぐり、腕も指も体温をとりもどし始めている。灯明の火の色に染まった肌は艶を帯び、血の色が透けて見えるようだ。
美津子は陽介の肩を抱き寄せ、唇に唇を近づけた。陽介の唇に触れた時、血の塊を舌で押し出した。陽介の唇はふるえたが、それでも美津子は舌の先に力を込め、喉仏に手を添えた。
血の塊を完全に自身の口から押し出した時、陽介の喉仏が大きく動いた。飲み下されていくのがわかる。美津子は陽介の頭を撫でた。
「美津子」
美津子を抱いた陽介の手に力が込められる。美津子の躯は祠に押しつけられ、かたりと陶器のあたる音がした。傍らの灯明の火が揺れ、鳥居の色が美津子の目の端で滲み始める。
陽介は美津子の首筋に唇をあて、乳房を掴んだ。奥底から溢れ出た血流は熱を孕《はら》み、熱は軽い目眩《めまい》を引き起こし、それは同時に、陽介をも巻き込んでいった。
腕に力を込め、美津子は陽介の背中を抱いた。陽介は美津子の脚をかかえあげ、自身の躯をさらに強く押しつけた。陽介の躯は熱く、荒い息が肩と胸を突き上げ、美津子の全身を揺さぶる。
かたく目を閉じても、目の奥に鳥居の色が焼きついて離れない。
鈴の緒に美津子の肩があたり、甲高い音が鳴る。ごう、と風が巻き起こり、灯明の蝋燭の芯が、じゅ、と音をたてた。
美津子は鈴の緒を握り、両脚をさらに高く上げ、陽介を迎え入れた。
四月一日の紋日に、鞍馬から高倉照子がやってきた。
長男の信彦と、中学生の孫、芳樹まで伴っていたのには、さすがにクニ代も驚いたようだった。
照子は黒の紋付羽織を着ていた。濃い鼠色の友禅の裾を翻し、大きな躯を揺らしながら大股に歩く姿は、美津子が嫁に来た時分から何も変わらない。
七十を過ぎてもでっぷりと肥えた体型はそのままで、ごつい肩が黒い羽二重の下で盛り上がっている。頬骨が張り、首も太い照子は声も大きい。ごめんやす、と玄関先でかける声も、わざとなのかどうなのか、妙に腹に低く響く。幼い頃、二人の弟達が相次いで夭折したのに、照子だけは丈夫で病気一つしなかったと聞いているが、あの体躯を見ていればわかる気がする。
照子の後ろに小肥りの信彦が立っていた。紺色の背広を着て、日に焼けた顔に曖昧な笑みを浮かべている。張り出した頬骨と、大きな二重瞼の目が照子にそっくりだ。広い肩幅は頑健そうで、やはり榊原の血を思わせる風貌をしている。
傍らの芳樹は、親に似ず小柄な子供だった。学生服を着ているから中学生だとわかるが、私服なら小学生に間違えられるに違いない。色が白く、歯並びの悪い口元を半開きにして、挨拶もろくにしないで突っ立っている。父親と祖母ははっきりとした二重瞼をしているのに、芳樹は腫れぼったい目をしており、やたらと瞬《まばた》きを繰り返していた。
「今日は紋日どすさかい、芳樹にもお参りさせとこと思いましたんや」
顎の下の肉を揺らせて、照子が言った。
「それは、よう来ておくれやした」
袖付きのエプロン姿で、クニ代は三人を玄関に迎えた。
「芳樹ちゃん、大きいならはってからに」
クニ代に声をかけられても、芳樹は無表情のままだ。
すでに八脚案《はつそくあん》や供物を運び終え、準備は整っていた。屋敷に禰宜が到着し、一行は辰巳稲荷の前に集まり、修祓の儀が始まった。
祝詞奏上が終わり、いつものように陽介が禰宜から玉串を受け取った。玉串奉奠は当主からと決まっている。陽介の二拝二|拍手《はくしゆ》の後は、クニ代、美津子が続く。
滞りなく、榊原家の者の奉奠が済んだので、禰宜は当然のように、玉串を照子に渡そうとした。
若い禰宜は、雲ヶ畑に住んでいない榊原家の係累については面識がなく、照子達のことも知らない。だが、こういう場合は年長者から奉奠するのが通常であるから、禰宜はその原則に従ったまでのことだ。
「待っとうくりゃす」
照子の太い声がした。禰宜は驚いたように顔をあげた。
「この子を先に」
傍に立っている芳樹の肩を抱くようにして、照子が言った。
「先に、玉串を渡してやっておくりゃすか」
禰宜は頷き、もう一度、玉串の向きを変え、芳樹の前に差し出した。芳樹は口を半開きにしたまま、照子の方を見上げた。
「神さんの前に、あげてきたらええのや。さっきから、おじちゃんやおばちゃんがしゃはるのを見てたやろ」
小声のつもりだったようだが、よく響く声なので向かい側に立つ美津子達にまで聞こえてくる。芳樹は頷き、玉串を受け取った。片手で目をこすりながら、祠の前に進みでる。
「これ、両手で」
照子に言われ、芳樹は玉串に片手を添えた。祠の前の八脚案の上に玉串を置き、また不安気に照子の方を振り返ったが、促され、幼稚園児のようにぺこりと頭を下げて、柏手《かしわで》を打った。
仏間に入ると、照子は芳樹を最初に礼拝させた。芳樹は照子の言う通りに従っているが、口を半開きにした顔には表情がなく、いつまでたっても眠たげな目をして瞬きを繰り返している。
「なあ、美津子さん」
仏壇の礼拝を終えて膳に着き、照子は笑って言った。
「芳樹は頭のええ子でなあ、いつも成績一番や」
膳の上を整えながら、美津子は相槌を打った。
「頭もええし、性格もほんまにええ子なんや。ええ跡取がいたら、榊原の家も安泰や」
愛想笑いをして、美津子はビールの栓を抜いた。クニ代は唇の端を歪めているが、それでもつとめて平静な顔をして、酒の肴を並べている。
「信彦も、気持ちよう承知してくれましたさけえ、ほんまにこれは、ご先祖さんが喜んでくれてはるんやなあと、思うてます」
強引な照子の物言いに、さすがのクニ代も口を挟めない。美津子はビール瓶を持って、照子にどうぞ、と言った。
「へえ、おおきに」
濃い鼠色の友禅の膝に白いハンカチを置き、照子はコップを持った。
「美津子さんはやさしい人やさけ、安心やと信彦も言うてくれて。ほんまに、よう言うてくれた、こんな出来のええ息子を手放すて、よう決心してくれたなあと、感謝してますのや」
信彦は照れたように笑い、何度も頷いた。
「えらい色々、気遣うていただいて」
ようやく、クニ代はそれだけ言った。
信彦はいかにも田舎の百姓の風情で、とくに計算高いような表情はしていない。だが、百姓は土地に対する執着心が普通の人間とは格段に違う。照子もあの通り、強引な性格だから、へたなことを言って感情的になられると、あとがやりにくくなる。クニ代はそれを危惧して、下手《したで》にでている。
「幸い、うちには跡取もいますさけ、何も心配あらしまへんのや。なあ、信彦」
信彦は頷き、得意気に言った。
「うちは昔から丈夫な家系どすさかい、芳樹も病気したことあらしまへんわ。これの兄も、何の心配ものうやってますさかい、それは安心しとうくりゃす」
「学校の先生もな、芳樹君はほんまに頭がええ、観察力もあるし、鋭い子供さんやて、小学校の時から言わはんのや」
言ってから、照子は大きな声で笑った。
膳の角をはさんで、照子の隣に陽介が座っていた。陽介は黙って肴を箸でつついている。
「ここだけの話やけれど、母親は、この子を手放すのを嫌がりましたんや。あんまり、出来がええもんやさけ。そやけど、ここは堪《こら》えてくれと、わたしが説得しました。榊原の家がのうなってしもうたら、ご先祖さんに申し訳が立たん。うちにはちゃんと跡取がいるのに、我が子が可愛いさかいと言うて、この家のこと、見て見ん振りしてたんでは、これはいくらなんでも自分勝手やないか。そない言うたら、この子の母親も納得してくれましたんや」
どうぞ、と美津子はビール瓶を持って、信彦に言った。
「おおきに」
コップを持ちあげたが、信彦は照子の方を見ている。照子の話は止まらない。
「わたしはな、やっぱり、榊原の家を大事に思うてます。そんなわたしの気持ちを、信彦も信彦の嫁もようわかってくれて、有難いことどすわ。榊原の家が大事やと思うさけ、しっかりした跡取をと、考えましたんや」
なあ、美津子さん、と照子は躯の向きを変えて言った。
「子供を産むというのは、女にとって大仕事や。一生のうちで、一番しんどうて大きな仕事や。そやけどな、こないして、跡取を身内から貰うて一人前に育てあげたら、これはあんたも立派な大仕事しゃはったことになりますのやで。ここに嫁にきた者として、充分に責任果たしたということになりますがな」
信彦は目を伏せ、何度も頷く。照子の声はさらに大きくなる。
「そうなったら、何も恥じることはあらへん。いいや、自慢してええことどっせ」
陽介はビールを飲みほした。美津子が注ごうとすると、陽介は傍にあったビール瓶を手に取り、自分で栓を抜いた。
「芳樹」
照子が言った。
「ここにいやはるおじさんとおばさんのこと、お父さん、お母さんて呼んで、親孝行しなあかんえ」
口を開けたまま、芳樹は頷いた。
「まあ、そういうわけで、うちの者については、わたしが責任持って説得しました。そやから、何も心配してもらうようなことはあらしまへんのや」
首の脂肪を揺らせて、照子が得意気に顎をあげた時、小さな音が聞こえた。ピコピコと、小鳥が鳴くような高い音が人工的で規則的なリズムを刻んでいる。音は、照子の隣に座っている芳樹の方から聞こえていた。
芳樹は口を開けたまま、膳の下の、自身の膝のあたりを凝視している。見ると、彼の膝の上にはゲーム機があった。芳樹はゲーム機のボタンの上で、一心に指を動かしている。
陽介があきれた顔をして照子の方を見た。クニ代も眉をひそめている。しかし、照子も信彦も別段、気にするような素振りはない。
「わたしは、美津子さん、あんたを楽にさせてあげたい。そう思うてますのや。もちろん、クニ代さんにも、はよう安心してもらいたい。そやないと、榊原の家は立ち行かへん」
絶え間なく、ピコピコという音が聞こえている。子供のいる家では、ゲーム機の音くらい日常のことなのだろう。だが、美津子は耳障りでたまらない。陽介もクニ代も、露骨に顔をしかめている。
「お義姉さん、そういうお話は今ここで、どうこうとは」
「何を言うてるのや、クニ代さん。うちはもう、こんだけ出来のええ孫を、この家のために手放すと決心してますのや。本人も覚悟してますさけ、こういうおめでたい話はきちんと決めてしまうのが一番や。なあ、美津子さん」
はあ、と美津子は曖昧に頷いた。
「ちょっと、美津子さん、まだわからはらへんのか。あんたのためを思うて、わたしはここまでしてますのやで」
箸を置き、照子は美津子を見据えた。
「あんた、北大路の歯医者さんに通うてはったんやて」
「はい」
「子を産んだことない者でも、歯だけは悪うなるのやな」
声をあげて、照子は笑った。
「まあ、それでと」
咳払いをして、照子はクニ代の方を見た。信彦が居住まいを正すようにして、身を乗り出す。
「今日は紋日やし、日柄もええ。正式な話はともかく、きちんとした約束ができてたら、この家かて安心やないか、なあ」
あの、おばさん、と陽介が声をかけた。
「心配してもろうて有難いお話ですけど、まだ、その必要は」
「そんなのん気なこと言うてる場合か」
照子の声が高くなった。
「もう十年以上も待ったんや、充分やろ。それとも何か。これから先もこんなのん気なこと言い続けて、また十年、二十年、無駄に過ごしてしまうつもりなんか。そうなったら、この家はどうなってしまうのや。あと十年経ったら陽介、あんたかて五十やで。あんたらは、自分の置かれた立場、わかってるのか」
クニ代は俯き、陽介は押し黙った。
「わたしはあんたらのことを心配して、芳樹を連れてきましたんや」
「その必要はありません」
美津子が言った。
「あんた、また、わけのわからんことを」
あきれたように苦笑し、照子は美津子を見た。
「わたし、妊娠しました」
え、と照子が目を見開いた。陽介が、驚いたように顔をあげる。
「妊娠したんです、わたし」
口元に笑みを浮かべ、美津子は膳を囲む人々の顔を見まわした。
「ちゃんと正式に、ご報告しよと思うてたんです」
ちょっとあんた、と照子が言った。
「なんでもっと早うに言わへんのや」
「はっきりしてからの方がええて、思いましたんで」
そうですねん、と突然、クニ代が横から言った。
「こういうことは、はっきりしてからご報告せんといかんて、わたしが言いましてん」
陽介は何も言わずに、クニ代の方を見ている。
「すみません、おばさん、色々心配してもろうて」
美津子は畳に手をついて、頭を下げた。
「そんならそうと、早う言うてくれんと」
照子は憮然として言った。
「で、予定日は」
「たぶん、暮れかお正月くらいになるのと違いますやろか」
「そうか。体大事にして、栄養つけななあ」
ビールで口を湿し、照子はふう、と息を吐いた。
「まあ、高齢出産はえらいしんどいそうなさけ、気つけて」
信彦は落胆の表情を隠さなかった。明らかに、あてがはずれた、という顔をしている。
「クニ代さんも、楽しみやな」
照子の言葉に頷き、クニ代は満足気に笑った。
「おおきに、お義姉さん」
皆が黙ってしまい、ピコピコというゲーム機のせわしない音だけが、仏間に響いた。
[#改ページ]
第二章
石畳に反射する夏の陽射しは、思った以上に強くて眩しい。陽介は目を細め、わら天神の石の鳥居を見上げた。
日傘をさした美津子は、鼻の頭に汗を滲ませている。クニ代も同じように生成《きな》り色の日傘をさしているが足取りは軽く、石段をあがっていくのも速い。さすがに若い頃から女ながらに山仕事もこなしていただけのことはある。
「どうもないか」
傍らを歩く美津子に、陽介は言った。
「うん、大丈夫」
額に滲んだ汗をハンカチで押さえ、美津子は笑った。
京都では、妊婦は五カ月目の戌《いぬ》の日に、わら天神に腹帯を貰いにいくのが習いである。
平日の昼間だというのに、広い境内は詣でる人々で賑わっていた。なかには赤ん坊を抱いている若い女の姿もあり、おそらく御礼参りに訪れたのだろうと、陽介は思った。
結婚して三年目くらいの頃、陽介も美津子とともに、ここに「子授け」の願掛けにきた。あの頃の美津子は、今よりもう少しふっくらとした頬をして、いつも困ったような表情をして笑っていた。祭事や行事の段取りの不備についてクニ代に文句を言われる時は、泣きそうな顔をして陽介の方を見ていたものだ。
友人の披露宴会場で初めて見た時、他の女達は競い合うように派手な化粧や衣装で身を飾りたてているのに、美津子だけが、まるで目立つのを恐れるかのように俯いて座っていた。
菖蒲《しようぶ》だったか杜若《かきつばた》だったかの古典柄の振袖もそれほど高価なものとは思えなかったが、美津子のおとなしい顔立ちを引き立てていて、よく見れば、若い娘らしい華やぎも漂わせていた。
長い睫毛に縁取られた瞳は黒目がちで、口角の上がった唇は小さい。鼻は丸みを帯びていて、張りのある頬がやわらかな輪郭を描いていた。とくに人目を引く美人というわけではなかったが、きれいな女の子だと陽介は思った。だが、本人はそのことに気づいていないようだった。
声をかけると、驚いたような顔をして陽介の方を見た。まるで、野山で出会った小動物のような目をしていた。垢抜けてはいないが、透明感を持っている。そう思ったのを、陽介は今も覚えている。
「ここで、腹帯を貰うのや」
クニ代の声がした。クニ代はすでに社務所の前の階段を上りきっている。
「はい」
美津子が答えた。
「先に神さんに参ってからやからな」
前をいくクニ代に促され、美津子と陽介はさらに石段を上っていった。
社殿にたどりつくと、美津子は安堵したように日傘をたたんだ。格子の扉の前には、安産祈願だけではなく、子授けなどの願い事の書かれた絵馬が掛けられている。支柱が傾《かし》ぐのではないかと思うほどのおびただしい数だ。絵馬だけではない。赤ん坊の写真や小さな玩具なども添えられていた。おそらく子授けの御礼参りか、子供の息災を願って親が掛けたものなのだろう。
鈴の音がした。クニ代が柏手を打っている。陽介も鈴の緒を振った。たたんだ日傘を脇にはさみ、美津子は陽介の隣に立った。美津子は真剣な顔をして手を合わせ、しばらく社殿の奥を凝視していたが、急にぎゅっと目を瞑り、額のあたりに指の先をすりつけるようにして頭《こうべ》を垂れた。
参拝を終えた三人は、社務所まで石段を降りた。
「子授けのお礼参りにきました」
社務所の受付でクニ代が言うと、若い巫女が「それは、おめでとうございます」とにこやかに言った。
「それで、安産の腹帯もお願いいたします」
クニ代は灰色のビーズの手提げ袋から抹茶色のがま口を取りだした。手提げも財布も、陽介が子供の頃からクニ代が愛用しているものである。さすがに今日は袖付きのエプロンはしていないが、どこに出かける時もクニ代は古い普段使いのものを持っている。ハンドバッグは不便だから、と言うのだ。
「こちらに、御札と腹帯が入っております」
巫女が大きな紙袋を差し出した。美津子が受け取り、クニ代は授与料を新札で納めて、御礼参りの申込書に記名した。
手続きを終えた三人は駐車場までもどった。
「これで安心やな」
後部座席に座りながらクニ代が言った。
最近、クニ代は八卦見の類に凝らなくなった。家相見や占い師を家に招《よ》ぶこともしない。美津子の妊娠によって気持ちが満たされたのか、あるいは、何かよくないことを言われるのを恐れているのかも知れない。
「それ、開けとうみ」
助手席の美津子に、クニ代が声をかけた。見てみると、紙袋の中には御神札と腹帯、新生児のための産着が、それぞれ箱入りで収められていた。
「まだ、あるのや。よう見とうみ」
クニ代に言われて美津子は紙袋の底をのぞきこみ、小さな紙包みを取りだした。
「どっちやろな」
身を乗り出すようにして、クニ代がうれしそうに言った。
「この袋の中にはな、わらが入ってるねん」
「わら?」
陽介と美津子が同時に言った。
「そのわらに節があったら、お腹の赤ん坊は男。なかったら女なんや」
頷き、美津子は慎重に紙包みを開けた。
「陽介の時も、ちゃんと節があった」
包みから、爪楊枝を大きくしたようなわらが出てきた。美津子が手に取って見るのを、陽介も傍らからのぞきこんだ。節らしきものはない。
「ありません」
申し訳なさそうに、美津子が言った。
「男でも女でも、かまへんがな」
クニ代が言った。思わず、陽介はクニ代の方を振り返った。男子誕生の瑞兆《ずいちよう》でなければ、てっきり怒りだすかと思っていたのだ。陽介の危惧をよそに、クニ代はシートにゆったりともたれて、下賜の産着を手に取り、笑っている。
「子は宝や。神さんがくれはる宝物や。男か女かは、神さんが決めはるこっちゃ。どっちでもかまへん」
「そうやな、どっちでもええわ、無事に生まれてくれたら」
陽介はエンジンをかけながら言った。
「今は、超音波たらいうもんで、お腹の赤ちゃんは男か女か、わかるそうやないか」
クニ代の問いに、美津子が頷いた。
「そやけど、先生によっては教えへん、という人もいますねん。とくに一人目の赤ちゃんについては、教えはらへん先生が多いんです」
「そら、その方がええ。楽しみは後にとっといたらええのや」
「わたしもそう思うてるんで、先生には何も聞かんとこと思うてます」
助手席でシートベルトをつけながら、美津子が陽介の方を見た。
「雑誌で見たんやけど、ベビーディオールの服で、ほしいのがあるねん。ものすご可愛いベビー服やねん」
美津子の顔は少しばかり紅潮していた。いつになくはなやいだ表情を見せている。そんな美津子の顔を、陽介は久しぶりに見たような気がした。クニ代の機嫌がよいので、美津子の緊張も明らかに緩んでいる。
「ほんなら、帰りに四条にでも寄って、見ていこか」
後部座席からクニ代が言った。
めずらしいこともあるものだ、と陽介はミラー越しにクニ代を見た。クニ代は四条などの繁華街に出かけるのは好きではない。参詣が終われば、すぐにも屋敷にもどるものと思っていた。
「四条通りに行ったらええねんやな」
車を出しながら陽介が言うと、「そうしてんか」とクニ代が答えた。
「よっしゃ」
信号が赤色になった瞬間に、車は大きく右折した。西大路通りは混んでいたが、クニ代と美津子はベビー服の話に夢中だった。
紋日の日、照子が帰ったあと、陽介は美津子に問いただした。
「妊娠している」という美津子の言葉があまりにも唐突で、信じられなかったのだ。
「いつ言おかと、思うててん」
俯いて美津子は言った。
生理が遅れているから、市販の妊娠判定薬を買ってきて、自分で尿検査をしてみたのだという。
「陽性反応が出てん」
「陽性反応?」
「妊娠してる、ていう意味やんか」
小さく笑い、美津子は言った。
「間違いないのか、そんなんで」
「わたしもそう思うて何度もやってみたけど、やっぱり陽性反応なんやもん」
「ほんまか」
美津子は頷き、陽介の耳元で囁いた。
「辰巳稲荷の御利益や」
陽介は息を呑んだ。
辰巳稲荷の御利益。あの晩、美津子は陽介の子を宿したというのか。
「ほんまに、間違いないねんやな」
「来週、病院でちゃんと診てもらうから」
数日後、美津子は朝早くから出かけて行った。陽介が起きた時、美津子の姿はもうなかった。クニ代に尋ねると、大阪の病院に行ったのだという。
「何ていう病院に行きよったんや」
「そやから、大阪の病院やんか。あんたも昔、一緒に行ってたんやろ」
かつて通院したことのある病院は、大阪府内だけでも三つか四つあった。
「飯塚病院か」
「さあ、そうやったかいな。そこで診てもらわんならんさけ、て言うたはったけど」
なんでや、と訊こうとして、陽介はやめた。一緒に病院通いをしていた自分が、クニ代を相手に質問ばかりするのは、何か不自然なことのような気がしたのだ。
その日、美津子は夜遅くにタクシーで帰ってきた。クニ代はすでに寝ており、陽介だけが起きて待っていた。
「電話したら、四条まで迎えに行ったったのに」
「ええねんよ」
「雨、どうもなかったか」
「タクシーに乗ってから降ってきたし、大丈夫やった」
夜になって雨が降り出したので、タクシーが拾えるかどうか、陽介は心配していたのだった。
クニ代を起こさないように、二人は二階に上がった。
「で、どうやったんや。ほんまに間違いないんか」
「何言うてるの。間違いないにきまってるやないの」
いややわ、と美津子はスプリングコートを脱ぎながら笑った。
「わたしが嘘言うてるて、思うてるの」
美津子は陽介に背を向けて箪笥の扉を開けた。ハンガーを取りだし、扉を閉めようとした時、美津子の手の動きが急に止まった。扉の内側に取りつけられた鏡に、陽介の顔が映っていたからである。
陽介は、鏡に映った美津子を見ていた。美津子もまた、鏡の陽介を見つめた。
雨の音がしている。
強い風の音が雨戸を通して聞こえていた。湿った空気に煽られて、大きな雨粒が容赦なく叩きつけられているのがわかる。
ふと、美津子が顔をあげた。ハンガーを置き、何も言わずにブラウスのボタンをはずし始めた。下着も取り、上半身をあらわにした格好で、美津子は陽介の方に向きなおった。
「ほら、お乳が張ってるやろ」
顎をあげ、胸をそらすようにして、美津子は言った。肌寒い空気にさらされて、美津子の乳首は硬く尖っていた。乳輪もその周囲の皮膚も、粟粒を撒いたように肌理《きめ》があらくなっている。
「痛うてたまらへんねん、乳首が」
眉をひそめて小さく首を振り、美津子は自身の腕で乳房を覆った。
ざわざわと、雨粒が庭木にあたる音がしている。
美津子は陽介の手をとり、自身の腹にあてた。
「動くのは、もうちょっとしてからやねんけど」
陽介の手に、美津子の体温が伝わってくる。
「けど、なんか、動いてる気がするねん。そんなんまだ早いて、お医者さんは言わはんねんやけど」
本当なのか。本当にここに、俺の子がいるのか。
腹に手をあてたまま、陽介は美津子を凝視した。美津子は微笑している。
「このへんがな、きゅって、動くのや。ほら」
目を見開き、美津子は言った。美津子の目の中に狡猾《こうかつ》な色はなく、何かを隠している様子もない。いや、むしろ、瞳はいつにもまして輝き、身籠もった喜びを素直にあらわしているように思えた。
だが、紋日の日の、美津子の突然の宣言に、陽介は何か腑に落ちないものを感じる。それは単に、あまりにも唐突だったからだろうか。
「動いたやろ、今」
眉をあげ、美津子が笑った。温かな美津子の腹の下あたりが、小さな魚が跳ねたように、たしかに動いた。
「ほら、また」
辰巳稲荷の御利益か。
陽介は目を瞑《つむ》った。
あの夜、美津子の目は尋常ではなかった。灯明の火が美津子の瞳の奥に映り、炎となって陽介を凝視していた。美津子も陽介も、鳥居の下で橙色に染まり、本来の自身の色と形をなくしていた。
炎は、陽介に向かって燃えさかっていたのだ。その証拠に、見た瞬間、陽介は動けなくなってしまった。
そして、狐の鳴き声を聞いたような気がする。
あの時、美津子は妊娠したのだ。
「なあ、わかったやろ」
あてがっていた手に力を込め、美津子は言った。陽介の手に、湿った繁みが触れる。
「ここに、いる」
深く息を吐き、美津子が言った。陽介は熱い迸《ほとばし》りを手に感じた。
「さっきから、ずっと動いてるねん。わかる、陽ちゃん」
奥底から滾る波が、陽介の手に溢れだす。
ああ、と陽介が応えると、美津子は微笑し、その腕を陽介の首に巻きつけた。
わら天神で腹帯を貰ってきてから、二週間が経った。
陽介がいつもより少し遅く起きて台所にいくと、美津子は朝食の用意をしながらクニ代に何か話していた。
「今、予定日のこと、お義母さんに話してたとこやねん」
テーブルの前に立った陽介の方を振り向き、美津子は笑った。
悪阻《つわり》の期間、美津子は朝食をとらなかった。朝はとくに飯の炊ける匂いを嗅ぐと気持ちが悪くなるからと言って、台所に入るのを嫌がった。しかし、腹帯をした頃から食欲もでてきて、最近は少し肥ったようだ。
「最終月経から計算して、予定日は一月一日やて、お医者さんは言わはりますねん。けど、初めてのお産は遅れることが多いんやて」
「来年は、正月も何もあったもんやないな」
クニ代は困った顔をしてみせたが、その実、うれしくてたまらないというのが、声にも顔にも滲みでている。
「予定日ていうても、その日だけが絶対に生まれてくる日ということやないんですから。予定日の前二週間と後二週間、その期間内に生まれてきたら正常やて、言うたはりました」
「なんや、今の医学でもそんなええ加減なんかいな」
ガスに点火しながら、クニ代が言った。
「いえ、後期になったら、もっと詳しいことがわかるらしいんですけど、今の段階やったら、予定日ていうのはそのくらいやと思うといたらええのやと、先生が言うたはりました」
ふううん、と頷き、クニ代は鍋に蓋をした。
「やっぱり、あんた、大阪の病院に通うのんか」
「ええ。わたしは高齢出産ですし、今までのこともあって心配やし。ずっと診てもろうてた先生に、出産まで診てもらいたいんです」
「どうせやったら、北大路か北山通りくらいの病院にしてくれたら、何かと便利なんやけどな」
陽介は食卓につき、新聞を開いた。美津子は急須に湯を注いでいる。
「飯塚病院は、わたしみたいになかなか子供ができんと、三十半ばから四十前後で初めて出産するという妊婦さんがようけきたはりますねん。先生もそういうケースに慣れたはるし、設備もええし安心やて、雑誌に書いてありました。高齢出産の人は予定日が近づいたら大事をとって早目に入院させはるし、わたしは色々な病院知ってますけど、あの病院が一番評判がええし、産むのやったらここやと、ずっと思うてました」
「まあ、あんたがそこまで言うのやったら、それでええけど」
クニ代の物言いは、驚くくらいやわらかくなっていた。美津子も、今まではクニ代の顔色をうかがうようにしか話せなかったというのに、声の大きさや高さまでもが変わってしまっている。
陽介は、天井の明かり取りを見上げた。ガラスに貼りついていた木の葉がなくなったのか、日の光が明るく眩しい。
「はい、お茶」
美津子が陽介の前に茶を置いた。美津子の声には艶がある。陽介は湯呑みを手に取り、また新聞に目をもどした。
腹帯をつけるようになってから、美津子は陽介を避けるようになった。肥ったせいか、表情もやわらかくなり、躯もまるみを帯びてきた。だが、美津子は陽介が傍に寄るのを明らかに嫌がっている。そのくせ、クニ代の前では、そのような素振りはまったく見せない。
美津子があからさまに陽介を避けるのは二人だけの時だ。夜は、同じ部屋で眠らなくなった。「流産するのが怖いから」と言って、別の部屋に床をとるようになったのだ。
夫婦の寝室の隣の部屋で、美津子は毎晩一人で眠っている。いずれ子供部屋にしようと思っていた部屋なので、今、美津子が使っても何の問題もないのだが、階下にいる時以外は一人で籠もり、陽介が呼ぶまで出てこない。
部屋の小さな箪笥に自分の下着や服を持ち込んで、着替えもそこですませている。化粧をする時も寝室の鏡台は使わず、手鏡でも使っているようだ。
クニ代もこのことは知っているが、とくに何も言わない。美津子の年齢からすれば、今回の妊娠が最後の機会となるかも知れないのだし、それを思えば大事をとるに越したことはないと考えているのだろう。
「なあ、陽ちゃん」
美津子の声に、陽介は新聞から顔をあげた。
「お味噌汁に、卵入れる?」
冷蔵庫の扉を開けて首を傾げている美津子に、陽介は、ああ、と答えた。
「一個でええ?」
「ええよ」
卵を取りだし、目立ち始めた腹を突き出すようにして、美津子はガス台まで歩いた。
降りだした雨は次第に激しさを増し、今は雷鳴さえ聞こえている。下草刈りは途中だったが、陽介は山から引き返した。手伝いの者達も早めに帰らせた。本降りになるまでに帰れると思ったのだが、車にもどる頃にはとうにずぶ濡れになっていた。
ワイパーさえも役に立たないような土砂降りだった。ようやく家にたどり着き、ガレージに車を入れた後、陽介は泥だらけの長靴を勝手口で脱いだ。奥に声をかけたが、応答はない。クニ代はたしか、近所の家に祝い物を届けにいくと今朝、話していた。美津子も連れて行ったのだろうか。今日は先負だから午後から出かけたに違いないが、この雨のために帰るに帰れず、小降りになるのを待っているのかも知れない。
陽介はタオルを取りに洗面所に行った。洗面所は一枚の引き戸で、脱衣所と仕切られている。戸の擦りガラスに、人影が動いた。少しだけ、引き戸の隙間が開いている。
薄いピンク色の木綿のマタニティードレスの裾が見えた。裾は翻って少し上に上がったかと思うと、ばさり、という衣擦れの音ともに床に落ちた。引き戸の隙間で、白い脹脛《ふくらはぎ》があらわになる。膝のあたりに生成り色のペチコートが揺れていたが、すぐにそれも取り払われた。
腹帯の端が床に落ちた。白い木綿の生地に子犬の描かれたそれは、手で解かれながらゆっくりと落とされていく。素足の周囲には、やわらかな楕円ができていった。
着替えているのか、と陽介は美津子に声をかけようとした。が、次の瞬間、躯がこわばった。解かれた腹帯の上に突然、白い塊が落ちてきたのだ。
塊は、たたみこまれたバスタオルだった。バスタオルと腹帯を踏まないようにして美津子の素足は後ずさり、最後に下着を取り去った。
視線を上げると、美津子の裸の躯があった。美津子の腹は平たく、膨らみなどまったくない。陽介は息を呑んだ。
「どういうことや」
引き戸を開けた瞬間、美津子が振り返った。
「美津子、これ、どういうことなんや」
床に落とされたバスタオルを、陽介は目で示した。裸の美津子は動じる様子もなく、陽介を見ている。
「嘘やったんか」
「何が」
「妊娠したて、嘘やったんか」
怒りと驚きのために、陽介の声はかすれている。
「何を言うてるの」
美津子は目を見開いた。
「こんなことして、いつまでも周りの人間を騙し続けられると思うてるのか」
おかしいとは思っていた。考えてみれば、不自然なことが多過ぎた。だが、そうは思いたくないという気持ちと、美津子の妊娠が事実であってほしいという期待があった。そのために、こんな単純なことを今日まで確かめられずにきてしまった自分が、滑稽でもあり、腹立たしくもあった。
「わたしは妊娠してるもの」
自身の腹に、美津子は両手をあてた。
遠くで雷の音がしている。低く唸るような音はいつまでもやまず、仕切り戸の擦りガラスをびりびりとふるわせた。
「陽ちゃんも知ってるやないの」
「妊娠してるておまえ、腹帯の下はバスタオルやないか」
ああ、これ、とこともなげに美津子は言った。
「お腹の子供を守るために巻いてるだけ。腹帯だけやったら、心配やねんもん」
「美津子、おまえ」
陽介は言葉を失った。
美津子の顔には、やましさがない。見つかってしまったという後ろめたさや気まずさが微塵もないのだ。
「なんでそんなこと言うの。わたしのお腹には、陽ちゃんの赤ちゃんがいるやないの」
「そんなこと言うて、おまえ」
「誰かに何か言われたんか、陽ちゃん。そんなこと信じたらあかんえ。あんたを騙そうとしてる者がいるのや」
考えてみいな、と美津子はつぶやくように言った。
「わたしが妊娠してへんかったら、どうなるの」
陽介は唾を飲み込んだ。
美津子が妊娠していなかったら。
まずは、伯母の照子が乗り込んでくるだろう。それ見たことかと、照子は陽介とクニ代をなじるに違いない。本家は大恥をかくことになる。照子だけではない。義之や、その他の親戚達もこの家に乗り込んでくる。
事実関係が判明したら、本家は一族から完全に無視されるだろう。大嘘と失態を演じた本家の意志や意向など、一族の者達はすべて切り捨てる。陽介とクニ代には一言たりとも弁明の余地はなく、何を言われても頭を下げているしかない。
本家の威光は地に堕ち、陽介やクニ代の顔色を見る者はなく、二人は生涯、榊原の一族と縁を切られる。そうなったら、若い陽介はともかく、クニ代はどうなるだろう。想像するだけでも、目眩がしそうだ。陽介は大きく息を吐いた。
狼狽している陽介の前で、美津子は新しい下着を身につけ、平然とバスタオルを腹にあてて腹帯を巻いていった。
「こんなことして、あと、どないするのや」
ようやく、陽介はそれだけ言った。
「暮れになったら産まれるわ」
慣れた手つきで、美津子は腹帯の先端を止めた。
「あほなことを言うな」
Tシャツをかぶり、マタニティードレスを身につけ、美津子は、ほんなら、と言った。
「鞍馬の伯母さんや分家の叔父さんに、やっぱり美津子は妊娠してなかった、腹の中は空っぽやったて、言うのんか」
陽介は押し黙った。
「今さらそんなこと言えるのんか、陽ちゃん。お義母さんかて楽しみにしたはんのや」
「そしたら、どうするんや。このまま時間が経ったら、いずれ嘘はばれる」
「わたしに、出ていけて言うの」
「誰もそんなこと、言うてないやないか」
「陽ちゃんはわたしのこと、一生守るて言うたやないの」
そういうことと違うだろうと言おうとした途端、美津子は陽介の脇をすり抜け、脱衣所を出ていった。
「美津子、おい」
廊下に出ると、美津子が勝手口から外に飛び出していくのが見えた。はじかれたように陽介も後を追った。
外はさっきよりひどい土砂降りだった。美津子は傘も持たずに出ていったから、中庭のあたりで立ち止まるかと思ったのに、振り返りもせず、裏山に向かって走っていく。
追いかける陽介もまた、傘を持っていなかった。勝手口にあった男物のサンダルをつっかけてきただけの陽介の素足は、たちまち泥だらけになった。
「どこに行くのや」
走りながら怒鳴ったが、美津子には届かない。激しい雨音は、ぬかるみを走る陽介の足音さえも消し去っていた。
山に降る雨は、街中とはまったく違う音をたてる。樹木や草花の葉や幹に雨粒が落ちる時、その細胞の一つ一つが水をはじき返す。はじかれた水は飛び跳ねて、さらに落ちてくる雨とぶつかり合う。
さんざん跳ねた後、地面に落ちてようやく土にしみても、水は泥となって、降ってくる雨をまた踊らせ、跳ねさせる。木々はそれらを根から吸い込み、全身にいき渡らせて呼吸を始め、やがて山が蠢《うごめ》くように脈を打ちだすのだ。
終わりのない歌のように雨音は続き、雨音が続くかぎり山のざわめきは増し、信じられないほどの音響となる。だから山に降る雨は、聴く者の耳を痺《しび》れさせるのだ。
「もどってこい、美津子」
怒鳴るそばからかき消されるのはわかっていたが、それでも陽介は声をあげた。
美津子の髪は濡れそぼり、白いTシャツが水に浸され、肩の肌が透けていた。それは、陽介も同じだった。雨粒が顔を伝い、目も開けていられない。が、陽介は顔をあげた。美津子は辰巳稲荷とは反対の、しだれ梅の方に向かって走って行く。
本家のしだれ梅は、巨大な老木である。何代か前の当主が、屋敷の鬼門除けに白梅を植えたのだと聞いているが、木の向こう側は崖になっている。切り立った崖は下の谷川まで五十メートルもあり、ひどい雨のあとは土砂が流され、斜面が削られるのが常だった。
「美津子」
ずぶ濡れの美津子はしだれ梅の下まで走り、ようやく立ち止まった。
「危ないから、こっちに来い」
太い幹に身を隠すようにして、美津子は陽介を見た。
「陽ちゃんは、わたしが死んだらええと思うてる」
「あほなことを言うな」
「わたしが死ぬのを待ってる」
「もどって来い、美津子」
陽介が一歩踏み出すと、美津子は身構えるようにして後ずさった。
「ええわ、もう」
つぶやくように言うと美津子は陽介に背を向け、崖に向かって歩きだした。瞬間、陽介は走りだして美津子の肩を掴んだ。掴んだ腕を力まかせに引き寄せたので、美津子は倒れそうになり、陽介はそれを両腕で支えた。
後ろから陽介に抱きかかえられた格好になった美津子は、振り切ろうとして力のかぎりもがいた。
「ええて言うてるやんか。わたしのことはほっといて」
陽介の腕の中で、美津子は抗《あらが》い続けた。濡れそぼった肩と背中は冷え切っており、豪雨で急激に下がった気温のために、吐く息は白くなっている。
「もう、ええねん」
泣き喚きながら、美津子は身を捩《よじ》った。突然、陽介の腕に激痛が走った。美津子が噛みついていた。
「わかった、美津子、わかったから」
呻くように陽介は言った。
雨に濡れた皮膚は、たっぷりと水を吸った海綿のようにふやけており、簡単に歯が食い込んだらしい。見えないが、傷口から血が滲み始めたのがわかる。
「この手、離して」
顔をあげて美津子は言った。
「離したら、どうなる」
「ほっといて」
美津子はまたもがき始めた。それでも陽介の腕がほどけないと知ると、再度腕に噛みつこうとした。
「わかった。もう、わかった、美津子」
陽介の声は涙声になっていた。
「いやや、離して」
この手を離せば、美津子は間違いなく崖から飛び降りる。陽介にはわかっている。なぜなら、美津子はもう引き返せないからだ。
「わかった、美津子、わかった」
引き返せないのなら、突っ切るしかない。美津子はそう思ってここまでやってきたのだ。
「わからへん。陽ちゃんになんか、わからへん」
金切り声をあげ、美津子は全身をふるわせた。
「そんなことない。俺はおまえを」
抗う美津子の腕を抑えつけながら、陽介はかたく目を瞑った。
どんなに言葉をつくしたところで、今さら美津子は引き返せない。ここまで来てしまった以上、もどるべき場所などとうになくなっている。もどるべき場所を持たない者に、引き返せと言っても意味がないのだ。
「美津子」
陽介は美津子の肩に自身の額をすりつけた。
「俺は、いつまでもおまえと一緒や」
ずぶ濡れになりながら、陽介は美津子の冷え切った躯を抱きしめた。
[#改ページ]
第三章
二階のトイレの入り口に立ち、美津子はナースステーションに目をやった。美津子と同じくらいの年格好の看護師が机に向かい、何かを書きつけている。こちらの方に背中を斜めに向けているので、看護師は美津子には気づいていない。
美津子はトイレの個室に入り、鍵をかけた。しばらく耳を欹《そばだ》てていたが、人が入ってくる気配はまったくない。ビニールバッグからピンク色のガウンをとりだし、マタニティードレスの上からはおった。生地の薄いビニールバッグは、たたんでガウンのポケットに入れておく。
産婦用のガウンは、たっぷりとしたサイズになっている。顎をあげて襟元を合わせ、美津子はボタンを一つずつ丁寧にかけていった。長めの丈のものを選んだので、マタニティードレスの裾は完全に隠れ、外出用の服の上からガウンをはおっている不自然さはまったくない。
鍵を開け、個室を出た。誰もいない。
洗面台の上の鏡を見ると、血色の悪い自分の顔が映っていた。化粧をしていないので、目の下のあたりに浮き出たしみも、いつもより色濃く見える。かさついた唇が病人のようだ。ひっつめにしてゴムでまとめた髪も、ガウンの襟にあたって乱れている。美津子は手早く髪をなおし、トイレを出た。
もう一度、廊下からナースステーションの様子をうかがってみる。話し声は聞こえない。看護師は机から顔をあげないし、誰かと会話をしている様子もない。だが、美津子のいるところからは、ナースステーションの全部が見渡せるわけではない。
腕時計の秒針が一周するのを待ってみた。看護師は同じ姿勢を保ったままだ。たぶん、ナースステーションには、あの看護師一人きりだ。
美津子はナースステーションとは反対側に向かって歩き出した。一番奥の病室は大きくて、八人部屋になっている。病室の前の名札を確認すると、三人の患者名が記されていた。
静かにドアを開け、病室に入った。誰も美津子を見る者はいない。ベッドの周囲にはそれぞれカーテンが引かれ、患者達は繭《まゆ》のようにその中に引きこもっている。まるで小さなテントが並んでいるようだ。
ナースステーションをはさんでこちら側の病室は、産婦ではなく、婦人科疾患の患者達が入室している。だから、授乳のために出入りする者もいないし、赤ん坊の様子を見せるために看護師が訪れることもない。
この時間はすでに夕食も終わり、院内は消灯となっている。消灯時間になると、相部屋の患者達はベッド周りのカーテンを引き、それぞれ雑誌を読んだり、イヤホンをつけてテレビを見たりしているのが常である。
美津子は一番手前の空いているベッドに近づいた。枕元の柵にはナースコールボタンが掛けてある。音をさせないように身をかがめてボタンを押し、すばやく病室を出た。
廊下を歩いていくと、看護師がナースステーションから出てくるのが見えた。看護師は、ガウンを着て歩いている美津子に軽く会釈をして、通り過ぎていった。
すれ違った後、美津子は小走りに廊下を進んだ。ナースステーションの前まで来て立ち止まり、正面の受付から中をのぞきこんでみた。やはり、誰もいない。
大丈夫だ。
振り返り、廊下の様子を確認してからナースステーションに入った。奥まで進み、隣の新生児室に続くドアを開ける。
ガラス張りの新生児室は廊下から見えるようになっていて、その傍にはドアがあるが、常に施錠されている。自由に出入りできるのは、ナースステーションから続くドアだけだ。
新生児室には、ガラスケースのようなベッドに赤ん坊が何人か寝かされていた。皆、同じような顔をして目を瞑っている。
美津子はガウンのボタンをはずし、前をはだけた。マタニティードレスの裾をまくりあげて、タイツにつめこんでいたバスタオルをとりだす。薄いクリーム色をしたバスタオルは、腹に長く押しこまれていたために美津子の体温をためこんでいた。バスタオルを取り去るのと同時に、腹部にすうっと風が通るような肌寒さを感じ、美津子は一瞬身ぶるいする。
空のベッドにバスタオルを置き、ガウンのポケットからビニールバッグを取りだした。ビニールバッグは別の空きベッドの上に置き、ファスナーの口を全開にしておく。
あらためて、赤ん坊達を見まわした。すぐ前のベッドには、ピンク色の名札がつけられており、産婦の氏名と、赤ん坊の誕生した日付と時間が記されている。ブルーの名札もあった。この病院では、男の子ならブルー、女の子ならピンクの名札が使用されている。
美津子は、ブルーの名札をつけられたベッドで眠っている赤ん坊を抱きあげた。白い産着を着た赤ん坊の首が、後ろにがくりと垂れ、思わず声をあげそうになる。思っていたよりもずっとやわらかく頼りない躯をしている。
赤ん坊をベッドにもどし、美津子は大きく息を吐いた。気をとりなおし、育児雑誌で見たように、赤ん坊の後頭部に手のひらをあてた。身をかがめ、躯を折り、自身の胸のあたりにかき寄せるようにして抱いてみる。
ふわり、と腕が浮いたような気がした。赤ん坊が、美津子の腕の中にいる。あまりに軽くて、綿でも抱いているようだ。
折っていた躯をゆっくりと起こし、まっすぐに立ってみた。赤ん坊はかたく目を瞑ったままだ。唇を尖らせるような仕草をしたが、少し首を揺すったきり、もう動かない。
乳臭い匂いがした。
湿った木綿のような匂いもする。
頬に触れてみると、つややかで血色のよい肌が弾力をもって、指の腹を押し返してきた。
赤ん坊の頬に、頬を寄せてみる。小さな息遣いが聴こえた。
泣かないで。
背中を撫でながら、美津子は心の中でつぶやいた。
大丈夫だから。
ファスナーを開けておいたビニールバッグに、赤ん坊を入れてみる。思った通り、大きさに問題はない。全身を包むように、ちょうどうまい具合に入る。
赤ん坊の顔や衣服を挟まないように、美津子は慎重にファスナーを閉めた。ビニールバッグには、目打ちで適当に穴をいくつかあけておいたから、窒息の心配はない。
ベッドの前に立ち、マタニティードレスの裾をたくしあげた。たくしあげた裾を持ち、もう片方の手でビニールバッグを持ち上げようとしてみたのだが、やはり不安定だった。
美津子は両手でマタニティードレスのスカート部分を大きく持ち上げた。フレアーになっているスカート部分は、前半分の布地だけでもかなりの量がある。つま先立ち、スカート部分をベッドの上に掛けてみた。置かれていたビニールバッグは、風呂敷でも掛けられたように完全に覆われてしまう。
その上に、躯を折って身をかがめた。スカートの内側から手を入れ、ビニールバッグを慎重に腹にあてがってみる。マタニティードレスの中にビニールバッグを抱きかかえる格好で、美津子は静かに躯を起こした。バスタオルを取り去られた美津子の腹の上に、赤ん坊の入ったビニールバッグが難なくおさまっている。
赤ん坊の頭の位置に注意しながら、両腕を交互にスカートの内側から抜き出した。マタニティードレスの上からビニールバッグを抱きかかえると、スカートの裾は自然に下に落ちる。しっかりと赤ん坊の躯を支えられるように脚を開き気味にして立ち、両方の手のひらをなるべく大きく広げた。傍目《はため》には、妊婦が大きなお腹をかばって手をあてているようにしか見えないだろう。
泣かないで。
美津子は服の上から赤ん坊の背中を撫で、新生児室を飛び出した。
申し送り事項の確認で、特別なことは何もなかった。辻村潤子は看護日誌に目を通したあと、顔をあげた。夜の病棟は静まりかえっている。
二十代の頃は、夜勤もそれほど疲れるということはなかった。たとえ疲れても半日ぐっすり眠れば、若い肉体は気力も体力もその日のうちに回復したものだ。昔はそれを当たり前だと思っていた。だが、三十も半ばを過ぎると、さすがに夜勤は身にこたえる。
勤務中は緊張感があるのでさほど感じないのだが、交代を終えて家路につく頃には、腰のあたりが錘《おもり》をつけられたように重く、こめかみにきりきりとした痛みがあり、全身がだるくてたまらない。一人暮らしの潤子には気兼ねする相手もいないから、夜勤明けにマンションに帰ると、ほとんど一日近く泥のように眠る。
瀬尾レディースクリニックは大病院というわけではないし、一晩中、看護師が各病室を走りまわらなければならないということはない。ナースコールが鳴らないまま朝の交代時間を迎えることさえあるくらいだ。
二階の病室に重篤な患者はいないし、問題行動のある要注意人物もいない。若い頃に勤めていた病院に比べれば、かなり楽な方だ。それでも最近、とくに疲労を感じるのは、年齢のせいばかりではない。ふとそのことに気をとめたが、潤子は振りきるように看護日誌に目をもどした。
日誌をめくりながら眉間に中指をあて、軽く力を入れていると、ナースコールが鳴った。潤子は顔をあげ、病室を確かめた。二一五号室だ。ナースステーションからは、一番遠い病室である。ナースステーションから遠いということはつまり、病状がそれほど深刻ではない患者が集められている部屋で、この病室のナースコールが鳴ることはめずらしいことだった。
立ち上がり、二一五号室の患者の名前を確認した。ナースコールの鳴ったベッドは空きだったはずだ。他の患者が、空きベッドのナースコールを押したのだろうか。
マイクで病室に話しかけてみる。が、応答はない。二一五号室は本来、八人部屋であるが、今は三人の患者が入室している。潤子はマイクのスイッチを切った。
廊下に出ると、向こうから患者が歩いてくるのが見えた。ピンク色のガウンを着て、髪をひっつめにした患者の顔に、潤子は見覚えがない。昨日は公休日だった。今朝、入院した患者が二名いると日誌にあったから、たぶん、彼女が新しい患者なのだろう。
時々、看護師の到着が待ちきれなくて、自分からナースステーションにやってくる患者がいる。この患者もそうなのだろうか。潤子が見ると、患者は目を伏せ、軽く会釈して通り過ぎた。トイレに行くらしい。
二一五号室は廊下の一番向こうなので、ナースステーションからは結構距離がある。だが、看護師は原則として走ってはならない。昼夜を問わず、看護師が病棟を走るというのは、よほどの緊急の時以外してはならないことなのである。看護師がばたばたと走る姿を見れば患者達は動揺するし、また、退屈を持て余している患者にとっては格好の好奇心の的となり、そこからあらぬ憶測や噂を呼ぶこともある。潤子は静かに廊下を歩いていった。
「どうされましたか」
二一五号室のドアをノックした。応答はなく、ドアを開けて入る。三人の患者達はそれぞれベッド周りのカーテンを引いていた。
「どなたか、ナースコール押されました?」
潤子の問いかけに、答える者はいなかった。病室の中央に立つと、引かれたカーテンの隙間から、患者達がそれぞれイヤホンをしているのが見えた。
「ナースコール、押されました?」
少し声をあげて聞いてみる。イヤホンを使ってテレビやラジオを視聴している患者には、普通の声では届かない。
「なんです?」
奥のベッドの中年の女が、カーテンを少し開けて顔をだした。女は耳にイヤホンをしたまま、女性週刊誌を持っていた。イヤホンはサイドテーブルに置かれたラジカセにつながれている。
「あの、ナースコール押されました?」
「いいえ、わたしは知りませんけど」
怪訝《けげん》そうな顔をして、女は答えた。
「そうですか。失礼しました」
あと二人の患者は、潤子達の会話が聞こえていないのか、何の反応もない。潤子は順に声をかけた。
一人はポータブルテレビに、もう一人はMDプレイヤーにつながったイヤホンを耳に入れていた。確認をしたが、二人ともナースコールは押していないという。
何か、機械に故障でもあったのだろうか。
ドアに一番近い空きベッドに潤子は近寄った。このベッドのナースコールが鳴ったのだ。見ると、ナースコールボタンが枕の上にある。空きベッドの場合、コードが邪魔にならないように枕元の柵にかけてあるはずなのに、このベッドのナースコールボタンは枕の上に無造作に落ちている。
誰かが触ったのだ。
ナースコールボタンを柵にかけなおしながら、潤子は首を傾げた。
何のために。
長い入院生活を送る者の中には、退屈を持て余して、わざと看護師を振り回すような悪戯《いたずら》をする者がいる。単に医師や看護師の気をひきたいだけでやる者もいれば、周囲のあわてる様子を見て楽しむ愉快犯のような者もいる。そういう患者は要注意人物としてチェックされていて、医師や看護師の間では周知のこととなっている。
だが、この病室にそのような問題行動を起こす人物はいない。潤子も彼女達とは何度も検温や検査の補助などで言葉を交わしている。彼女達が虚言癖を持っているとも思えなかったし、他の看護師からもそのような報告は聞いていない。
「誰も押されませんでしたね、ナースコール」
潤子の言葉に、カーテンの隙間から顔をだして患者達は頷いた。
この病室の患者達は皆、イヤホンを使ってテレビやラジカセやMDに聴き入っていた。消灯時間ということで、ベッドの周囲にはそれぞれカーテンを引いている。
たとえば他の病室の患者が、二一五号室の空きベッドのナースコールを押して逃げていったとしても、彼女達が気づかなかったということは、充分ありえることだった。
「ねえ、看護師さん」
MDプレイヤーを持っていた女が言った。
「明日、シャンプーしたいんですけど」
この患者は子宮内膜ポリープの手術を三日前に受けている。子宮鏡を使っての簡単な手術だったので経過に問題はなく、本人に痛みなどの自覚はない。
「お風呂に入りたいってことですか」
「いえ、シャワーだけでいいんです」
よほどの苦痛がある時は患者もおとなしくしているものだが、そうでない場合は、少しずつ我ままを言うようになる。
「先生は、何ておっしゃってましたか」
「まだ、もうちょっと待ちて、言うたはったけど」
少しばつの悪そうな顔をして、女は言った。
「じゃあ、だめです」
明日の検査で問題なければ、あらためてシャワーのことは聞いてみましょう、と言い置いて、潤子は病室を出た。
廊下を歩いていると、トイレの前あたりを横切る患者の後ろ姿が見えた。薄いピンク色のガウンを着ているから、さっき見かけた患者だろう。
ナースステーションまでもどり、受付の脇から中に入ろうとした時、隣の新生児室が目に入った。新生児室はガラス張りになっていて、廊下からも赤ん坊の様子が見えるようになっている。つい、目がいったのは、遠目から見ても、何かがいつもと違っていたからだった。
潤子は目を凝らした。新生児用のベッドはいつものように整然と並び、泣いている赤ん坊もいない。順に一人ずつ見ていくと、端の空きベッドに、バスタオルのようなものが置かれているのに気づいた。
それは薄いクリーム色をしていて、生成り色に近い。新生児達は白い産着を着せられている。ベッドもふとんも白色だ。バスタオルのようなものはその中にあってあまり違和感はなく、一瞬見ただけでは見逃してしまいそうな色合いだった。
勤務交代の際、廊下側から新生児室を見ているが、その時にあのバスタオルのようなものはあっただろうか。
ナースステーションに入り、潤子は新生児室に通じるドアを開けた。ベビーベッドに無造作に置かれたクリーム色のそれは、やはりバスタオルだった。たたみこまれていたバスタオルを広げてみると、わずかになまあたたかいような感触がある。
病院の備品ではない。病院の備品なら、「瀬尾レディースクリニック」と黒いマジックで書いてあるはずだ。このバスタオルには記名がないから、おそらく患者の私物だろう。
誰の忘れ物だろうと、潤子はたたみながら考えた。もしかしたら、看護師の誰かのものだろうか。
たたんだバスタオルをかかえて顔をあげた時、目の前の空《から》のベビーベッドに名札があるのに気づいた。名札の色はブルーだから、男の子の新生児がそのベッドに寝かされていたということだ。
新生児達は、基本的にはまだ戸籍上の名前がない。だから、ベビーベッドの名札には、産婦の名前のみが記載されている。
空きのベビーベッドに名札はつけていない。名札があるのにもかかわらず、ベッドが空になっているというのは、新生児が産婦のところ、つまり母親の病室に連れていかれているということだ。それは概《おおむ》ね、授乳中ということを意味していた。
授乳のために母親の病室に新生児を連れて行く時間は、母親の食事の後と決まっている。だが、母乳の分泌状態がよくない時や、疲労が激しい場合、授乳時間をずらせることがある。また、本来の授乳時間に新生児が眠っていて哺乳ができないこともあり、そうした場合も変則的な時間に再度連れて行くことになる。
潤子は空のベッドのブルーの名札をもう一度見た。引継ぎの際、この名前の産婦が授乳中だということは聞いていない。
ナースステーションにもどり、日誌を確認すると、この産婦は夕食後に会陰切開部分の痛みを訴え、検査と消毒を受けている。その後、授乳を終えていることが記載されていた。母乳分泌は良好とある。時間を見ると、まだ二時間も経っていない。母乳分泌が良好なのに、一定時間を置かずに何度も授乳するというのはおかしい。
なんとなく不自然なものを感じた潤子は、その産婦の病室に行ってみることにした。
「失礼します」
ノックをして潤子が入っていった時、産婦はベッドに躯を起こし、テレビを見ていた。病室は個室だった。
「母乳、よく出ますか」
「はい、すごくよく出ます」
産婦は得意気に笑った。
「あんまり出過ぎて、片方だけのお乳で満足して眠ってしまいまして。飲んでくれへんかった方のお乳が張って痛いわ」
「母乳分泌は良好ですね」
言いながら、潤子は奥のベビーベッドに目をやった。産婦の病室にはすべて、新生児用のベッドが置かれている。
「ほんまに、お乳がよう出過ぎて、痛うてたまりません」
あ、と潤子は声をあげそうになった。
ベッドは空だった。赤ん坊はいない。
「おっぱいを吸いながら寝てしまうさかい、さっき、新生児室に連れていってもらう時も、看護師さんが笑うてはったわ」
うれしそうに産婦は笑った。
「抜糸部分、痛みますか」
「夕方、先生に診ていただいて、痛み止めのお薬貰いましたら、すっかり楽になりました」
「わかりました。では、また何かありましたらおっしゃってください」
「おおきに」
会釈して、潤子は病室を出た。
どういうことだ。
廊下を早足で歩きながら考えた。
何かの手違いで、あの産婦の赤ん坊が、他の病室に連れていかれているということも考えられる。なんでもないことなのに騒ぎたてては、後が面倒だ。もしかしたら、関係者の単なる思い違いがかさなっているだけなのかも知れないのだから。
潤子は顔をあげた。
あのバスタオルは、何か関係があるのだろうか。たしかに、引継ぎの時にはなかった。あれば、その時に目がいっていたはずだ。ということは、潤子がナースコールを聞いて二一五号室に行っている間にバスタオルは置かれた、ということか。
他に何か変わったことはなかっただろうか。
階段の前まできて、潤子は立ち止まった。
さっき廊下ですれ違った患者のことを思い出したのだ。
ナースコールを聞いて潤子がナースステーションを出た時、その患者は廊下を反対方向から歩いてきた。二一五号室の方からやってきたのである。
潤子が二一五号室からナースステーションにもどってきた時、その患者はトイレの前のあたりから階段の方に向かって横切っていった。つまり、この場所である。
よく考えたら、それは奇妙なことだった。あの患者は薄いピンク色のガウンをはおっていた。だから、外来患者ではなく、入院患者に違いない。なのになぜ、階段に向かう必要があるのだろう。
三階の病室に入院している患者なのだろうか。しかし、それなら、三階の患者がなぜ二階にいるのだ。トイレなら、わざわざ違う階に来る必要はない。
ではあの患者は、一階に行ったのだろうか。入院患者の診察を一階の診察室で行うことはある。だが、今はその時間帯ではない。
もしかしたら、と潤子は階段の方に目をやった。
あのすれ違った患者は入院患者ではなかったのではないか。ガウンをはおっているから入院患者だと思いこんでしまったが、本当はまったくの部外者だったのではないか。
何のために部外者が、入院患者を装うのだ。何の目的があってそのようなことを。
そこまで考えた瞬間、潤子ははじかれたように階段を駆け降りた。
襖をとりはらわれた奥の座敷には膳が並び、盛装した榊原の一族が集まっていた。
座敷はファンヒーターと人いきれで熱気さえ感じるくらいだが、年寄達は火鉢に抱きつくようにして手をあぶっている。
夕方から始まった宴なので、男達の中にはすでに酔いがまわった者もおり、座は崩れ、皆が思い思いの場所で話しこんでいた。大人達の笑い声と年寄達のしわぶきに、子供達の甲高い歓声がまじる。
年寄達の紋付や羽織にしみついた樟脳《しようのう》の匂いは、いつのまにか燗酒や煙草の匂いにかき消されてしまったが、それでも彼らの傍に酒を運んでいくと、薬品臭さが漂ってくる。
親戚達は、かわるがわるクニ代に抱かれた赤ん坊の顔をのぞきこみ、陽介の小さい頃に似ていると話していた。
「今年はほんまにええ正月やがな。なあ、クニ代さん」
遠縁の老婆に声をかけられ、クニ代はうれしそうに頷いた。
「美津子のお産がかさなったもんやさけ、今年は正月も何もあらへんかったんどすがな。まあ、皆さんにはすまんことやったんやけど、こないして日をずらさしてもろうて、哲也の顔見てもらおうと思いましてな」
「うちらもこないして跡取のぼんの顔が見られるのんやさけ、結構な正月やがな。なあ、哲也ちゃん」
老婆は笑い、皺だらけの手で哲也の頬を撫でた。
「わら天神さんのわら、あたってへんかったんやてなあ。神さんでも間違わはること、あるねんなあ」
そうどすねん、とクニ代は得意気に答えた。
「貰うてきたわらには、節はあらへんかったんやけど、生まれたらこの通り、男の子どした」
二人は声をあげて笑った。
新年会といっても、すでに一月の末である。例年なら、正月は三日に一族が本家に集い、宴席を設けるのを常としているが、哲也が年末に誕生したので、今年は新年会の日程をずらすことにしたのだ。無事に跡取が誕生したという本家の吉報を前にして、異存を口にする者はなく、新年会は哲也の宮参りをすませてから、ということになったのだった。
「ぼんの顔も見せてもろうたし、去《い》にますわ」
「まだ、早おすがな」
腰をあげた老婆にクニ代が言った。
「いや、嫁が迎えにきてくれますのや。ぼつぼつ時間やさけ、いつでも出られるように、支度だけはしときますわ」
クニ代は美津子を呼び、土産の折りを持ってこさせた。美津子が老婆の身支度と手荷物の準備を手伝い終えてしばらくした頃、迎えの者がやってきた。老婆は哲也の顔をもう一度撫でてから帰っていった。
「今年は遅い新年会やさけ、ぎょうさん飲んでいってもらわんと」
陽介の言葉に、義之は頷いた。
「ええ跡取ができて、これでおまえもひと安心やがな」
義之は親戚の者達の輪に入ることもなく、一人、火鉢にもたれて煙草を吸っていた。
「どうぞ、叔父さん、一本つけましたんで」
美津子が徳利を持って言った。
「あんたも手柄やったがな、美津子さん」
「おおきに」
義之の持ちあげた杯に、美津子は酒を注いだ。
「まあ、言うたら何やけど、まさかその歳で子ができるとは、わしらも思わなんださけ。結婚して十三年目で子ができるとはなあ」
杯を空け、義之は美津子に媚びるように笑った。
「今まで気悪うしたこともあったやろうけど、それもこの家と皆のためやったんや。堪忍してや」
いいえ、そんな、と美津子は首を振った。
「うちらの方こそ、色々心配していただいて有難いことやと思うてます」
明らかに、義之のもの言いは変わっていた。高圧的な態度は微塵も見せず、陽介にはもちろん、美津子にさえも、下手にでて顔色をうかがうような表情を見せている。
「跡取の顔見せてもろうて、これで皆も安心や」
空けた杯を、義之は陽介に差し出した。
赤ん坊一人生まれたというだけで、分家はもう本家に対して対等の口をきくことができなくなった。宴席だというのに、義之は身をかがめ、曖昧な笑みを浮かべてしか陽介や美津子と話せない。
「叔父さんに心配してもろうてたことは、感謝してますのや」
陽介が言った。目の縁から頬にかけて赤味を帯びており、さっきから上機嫌だ。義之は神妙な顔をして頷き、酔った陽介の話に相槌を打つ。
「おねえちゃん」
真理奈が美津子の後ろに立っていた。
「哲也ちゃん、おむつやて」
美津子ははじかれたように立ち上がり、クニ代のところに行った。
クニ代に抱かれた哲也は機嫌よくしていた。が、クニ代は美津子を見て、哲也を両手でかかえあげるような仕草をした。美津子は頷き、哲也を抱きとった。
台所続きの居間にいくと、さすがに暖房のない部屋は一月の冷気が溜まっていて寒かった。哲也を抱いた美津子の後ろを、真理奈がついて来る。
「おねえちゃん、ファンヒーターつけよか」
「おおきに、頼むわ」
哲也をベビークーハンに入れ、美津子は脱脂綿にポットの湯をしみこませた。ポットの湯は熱湯なので、水道の水もほんの少したらしておかなければならない。
ベビークーハンは赤ん坊用の籠で、凝ったレース飾りや折りたたみ式の日除けの幌までついている。おむつ替えやミルクの準備の時に入れておくのにちょうどよい。
真理奈はクーハンの中の哲也をのぞきこみ、時々、めずらしそうに手や足をさわったりしていた。哲也はぐずりもせず、じっと真理奈の顔を見あげている。
人見知りをしない気質なので、見知らぬ者に見られても抱かれても、哲也は泣いたりしない。むしろ、一人で置いておかれるよりも、あやしてくれる誰かが傍にいる方が機嫌がよい。
「おねえちゃん」
真理奈が、台所にいる美津子に声をかけた。
「哲也ちゃん、目見えたはるのんか」
さあ、と美津子は笑った。
「ぼんやりと、見えてるくらいやろね」
座布団の上にタオルを敷き、美津子は哲也を抱きあげた。
「わたしの顔とか、覚えててくれはるやろか」
「まだ無理やね。明日になったら、忘れたはるわ」
笑いながらタオルの上に哲也を寝かせ、ベビー服のボタンをはずしていった。傍らに置いてある新しい紙おむつを真理奈が手に取って広げ、美津子の方に差し出した。
「おおきに」
受け取り、美津子は哲也の尻の下に敷いた。紙おむつの腹部のテープをはがしながら、「臭いから、あっち行ってよし」と言っても、真理奈は「どうもあらへんもん」と笑った。脱脂綿で手早く哲也の尻を拭いた後、美津子は紙おむつを抜き取った。汚物の付いた脱脂綿を包むようにしてまるめ、テープで止めてビニール袋に入れる。美津子の手慣れた作業の様子を、真理奈は感心したように見ている。
下に敷いておいた新しい紙おむつをあててテープを止め、はだけていた下着とベビー服をかき合わせている美津子に、真理奈が「やってあげる」と言った。
「このボタン、はめたらええねんやろ」
「そうや。けど、わかる? 足のところは、別々になってんねんよ」
「大丈夫や、わかる」
「ほんなら頼むわ」
美津子は使用済みのおむつを入れたビニール袋を持って、外のゴミ箱に捨てに行った。洗面所で手を洗ってもどってきた時、哲也はきちんとベビー服を着せられていた。
「おおきに、真理奈ちゃん」
「なあ、おねえちゃん。哲也ちゃん、抱っこしてもええ?」
「ええよ」
哲也を抱きあげ、美津子は真理奈の腕に渡してやった。
「腕のところに、頭を載せるようにしてやってね。まだ、首がすわってへんから」
「うん」
眉根に皺を寄せ、真理奈は真剣な顔をして頷いた。手を添え、躯が安定するように直してやると、哲也はむずかりもせず、じっとしている。
「なんや、軽いんやなあ」
ぎこちなく肩を張り、真理奈は笑った。
「ちょっと抱いててくれる?」
「ええよ」
台所に立ち、美津子はミルクの用意を始めた。粉ミルクを計量している美津子の手元を、真理奈はものめずらしそうな顔をして見ている。
「それ、お乳?」
「そうやよ」
消毒液につけておいた哺乳瓶をとりだして水洗いした後、粉ミルクと湯を入れた。消毒液を貯めておく容器や計量スプーンはピンク色をしていて、苺やトマトのイラストがプリントされている。まるで、ままごと道具のようだ。
「おねえちゃんは、おっぱいあげへんの」
「出えへんねんよ、わたし」
ふううん、と不思議そうな顔をして真理奈は頷いた。
「母乳は、出る人と出えへん人がいるねん。わたしは、出えへん体質みたい」
「おっぱいは、赤ちゃん産んだら、誰でもみんな出るもんと違うのんか」
「人によるねんよ。母乳だけで育てられる人の方がめずらしいけどねえ」
哺乳瓶に乳首を装着しながらふと目をやった。真理奈は哲也を抱いて、自身の躯をゆっくりと前後に揺らせている。
「おっぱいと粉ミルクと、どっちがおいしんねんやろ」
「さあ、哲也に聞いとうみ」
笑いながら、美津子は真理奈の隣に座って哲也を抱きとった。顎の下にタオルハンカチをはさんでやるのを、真理奈はやはり食い入るように見ている。
口元に哺乳瓶の乳首をあてると、哲也は待ち構えていたように吸い付き、頬を規則的に動かし始めた。ミルクを飲むのに夢中になっている赤ん坊は静かだ。乳首に吸い付いていれば、突然泣きだす心配もない。母親が最も心穏やかでいられる時である。
居間には、こっくり、こっくりと、哲也がミルクを飲む音が響いている。時々、奥の座敷から、客達の笑いさざめく声が聞こえてきた。
なあ、おねえちゃん、と真理奈が顔をあげた。
「赤ちゃん産む時、痛かった?」
痛かったよ、と哺乳瓶を傾けて、美津子は笑った。
「どんなふうに痛いの」
「そうやねえ」
天井を見上げ、美津子はしばらく黙った。
「ものすごう、痛い」
「ものすごう?」
眉をひそめ、真理奈は首を傾げた。
「それでも、赤ちゃん産むんや」
「そうやよ」
「ものすごう痛いのに」
なんでやろ、と言って、真理奈は哲也の顔をのぞきこんだが、ふっと笑った。
「やっぱり、可愛いさけやな、哲也ちゃん」
真理奈は高い声で笑い、美津子もつられて笑った。
「ごめんやっしゃ」
居間の引き戸が開いた。紋付を着た照子が入って来る。
「ぼつぼつ、去にますさけ、ちょっとぼんのお顔見てからと思いましてな」
照子は美津子の隣に座り、哲也の顔をのぞきこんだ。
「皆は陽介の小さい時にそっくりやて言うけど、わたしは、哲也はまた気質《たち》の違う顔や思うけどなあ」
樟脳の薬品臭い匂いが部屋に漂った。哲也は哺乳瓶の乳首に吸い付きながら、照子の顔を見あげている。
「そうかというて、美津子さん、あんたに似てるとも思えへん。それで、この子、誰に似てるのやろと、考えたんやけど」
口元に手をあてて、照子は黙りこんだ。
「初めて見た時から、思うてたんやけどな」
美津子は何も言わずに哲也を見ていた。真理奈も何も言わない。ファンヒーターの送風口が乾いた音をたてた。照子はひとつしわぶき、顔をあげた。
「この子、恭蔵にそっくりなんや」
恭蔵とは、陽介の亡くなった父親のことである。照子は哲也を見つめ、感心したように首を振った。
「恭蔵がまた帰ってきたとしか、思えへん」
真理奈はあきれたように眉をあげ、照子の方を見ている。
「間違いなく、哲也は恭蔵の生まれ変わりやな」
首の振り方も唸るような声の出し方も芝居がかっていた。真理奈は笑いを堪《こら》えて下を向いた。背中が小刻みにふるえている。しかし、照子は気にするふうもなく、何度も同じことを繰り返して言った。
「この子はやっぱり、恭蔵の生まれ変わりや。顔つきが同じやもの」
大仰に頷いて、照子は顔をあげた。
「大事に育ててや、美津子さん。この子は先代の生まれ変わりどっせ」
照子は媚びた笑いを浮かべ、美津子の肩に手をやった。
最後の客を見送った時は、すでに十時を過ぎていた。
いつものようにクニ代が哲也を風呂に入れ、美津子は湯上りに飲ませる番茶をさましていた。
「今日はあんたもくたびれたやろし、はよう休み」
番茶を入れた哺乳瓶を美津子から受け取り、クニ代が言った。陽介はクニ代の傍らで、正体もなくこたつに入って眠っている。
「なんや、もういらんのかいな」
哺乳瓶の乳首を舌で押し返した哲也に、クニ代ががっかりしたように言った。哲也は、もう関心がないとでも言いたげに横を向き、二度と乳首を吸おうとはしない。
「しゃあないなあ」
クニ代は座布団の上に哲也をおろし、胸のあたりをやさしくたたいてやった。
「眠いみたいやな」
「ええ、ずっと起きてましたし」
瞬《まばた》きを繰り返しながら、哲也はクニ代の顔を見ている。
今日は夜まで、大勢の人に囲まれていた。赤ん坊にとっては、神経の昂ぶる一日だっただろう。だが、哲也はとくに泣きもしないし、興奮している様子もない。
「ちょっともぐずらんと、ええ子やな」
日に焼けた手で哲也の胸を規則的にたたきながら、クニ代は笑いかけた。哲也の瞬きの速度は少しずつ遅くなっている。
美津子は、カゴに入れておいたままになっている洗濯物をとりだした。昼間、取り込んでおいたものの、たたんでいる時間がなかったのである。
薄日しか射さない冬の日は、洗濯物が完全には乾かない。カゴから哲也のベビー服をとりだし、美津子はファンヒーターの前にひろげた。
「はよう寝んと、子盗りに連れていかれるえ」
言いながらクニ代はこたつに半身を入れ、その傍らに哲也を抱き寄せるようにして添い寝した。
「子盗りや。子盗りがきたえ」
哲也に顔を近づけ、囁くようにクニ代は言う。
子供の頃、祖母の家に泊まりにいくと、美津子も同じことを言われた。
添い寝をしてくれる祖母は、いつも日なた水のような匂いがした。手をつければ、なまあたたかい感触が纏《まと》わりつくような、ぬるんだ水の匂い。
それは、冬の薄日のように頼りなく、ぼんやりとした輪郭でしかなかったはずなのに、あの時の祖母の手の感触と匂いが、今も自分の中に鮮明に残っているのを、美津子は感じた。
祖母は子守唄を歌い、美津子の胸を小さくたたき続けた。そして、目を瞑っても眠れないと言うと、頭と顔をやさしく撫でてくれるのだ。
寒い冬の晩、「子盗り」という言葉を聞くと、わたしはどんなに恐ろしく思ったことだろう。
身をかたくして祖母の躯にしがみつくと体温が伝わってきて、ふと涙がでそうになる。
よかった。わたしはどこにも連れていかれない。
子盗りはな、大きい袋を持って歩いているのやで。
ほれ、聞こえるやろ。
袋をひきずって歩いてるさかい、子盗りが道歩いてたら、家の中にいてもわかるのや。
いつまででも晩に起きてる子がいるとな、その家に、そうろと、入ってきよる。ほんで、がっと、子供掴んで袋に入れて連れていきよるのや。はよう寝んと、美津子も子盗りに連れていかれるで。
美津子は怯えて祖母にしがみつき、かたく目を瞑る。
聞こえるやろ。子盗りが歩いてる。
頭を撫でられながら、次第に眠りにひきこまれていく。
そんなことが、何度あっただろう。
美津子はベビー服の湿った袖の部分にヒーターの風をあてながら、哲也に目をやった。哲也はまだ目を開けていたが、クニ代はとうに寝入っていた。
[#改ページ]
第四章
疲労が極に達すると、眠気は逃げる。若い頃は感じなかったが、今の潤子にはよくわかる。
どうせ、眠れはしない。
いつものことだ。だから、夜勤明けはすぐに眠ろうとはせず、ゆっくりと風呂に入ったあと燗酒でも飲み、漫然とテレビを見ている。そうすれば、やがて頭の芯もほぐれ、昂ぶっていた神経も鎮まってくる。
風呂からあがり、紙パックの酒をマグカップに注ぎ、電子レンジに入れた。導眠剤代わりなので、味や銘柄にこだわりはなく、スーパーで売られている安い箱パックの日本酒しか買ったことがない。冬は単に温かいものを飲んで眠りたいという、それだけのことだ。
電子音が鳴り、レンジからマグカップを取り出す。カップを片手に持って新聞を広げると、はさまれていたおびただしい広告紙がどさりと床に落ちた。クリスマスセールの広告だ。プレゼント用の小物類やツリーの飾り付け用品、パーティー用のレンタルドレス、予約票つきのケーキの写真。それらはすべてカラーで印刷されており、鮮やかで美しい。潤子は広告紙を拾い上げ、靴箱の脇の古新聞の束の上に載せた。
一人暮らしで、しかも看護師という不規則な仕事をしているのだから、家族とケーキを食べることもないし、特別な料理を作ることもなく、ツリーの飾り付けをすることもない。パーティーに一緒にいく恋人もいないから、着ていく服の心配をする必要もない。
リビングにもどってテレビをつけると、昨夜のスキーバスの事故現場の中継をやっていた。マグカップの酒を飲み、潤子はソファにもたれた。
世間では、知らない間にとんでもないことが起こっている。
それは偶然のつらなりで、誰かが仕掛けたことではない。信じられないような災難も、降ってわいたような幸運も、すべては本人の与《あずか》り知らぬうちに歯車が動いて、ある日突然、目の前にあらわれる。
だから、抵抗しても無駄なのだ。
潤子は息を吐き、目を瞑《つむ》った。
昨夜、病院の駐車場で見たのは、そんな偶然のつらなりに抵抗しようとしている愚かな夫婦だった。
抵抗すれば何とかなると思っているのは、それまで余程幸せに生きてきた者だけだ。彼らは本当の不幸も不運も知らずに生きている。だから、本当の不幸を知らないという己の幸運にも気づいていない。
張った肩に手をやり、潤子は酒を飲んだ。
潤子は階段を駆け降りた。
一階フロアにピンク色のガウンの女の姿はなかった。会計を待つ外来患者が数人、ソファに座って雑誌を読んでいるだけだ。念のためにトイレも確認したが、誰もいなかった。
駐車場だ。
正面玄関から駐車場に直行した。外は、雪が薄く積もり始めていた。今は粉雪がちらついている程度だが、この冷え込みではもっと降るのかも知れない。
「瀬尾レディースクリニック」の看板の反対側に、白い車が止まっているのが見えた。車の横でピンク色のガウンを着た女が、腹のあたりをまさぐるような格好で立っている。
車の中には人がいた。男だ。
彼らはまだ、潤子に気づいていなかった。少し離れた車の陰に身を潜め、潤子は目を凝らした。
ピンク色のガウンをはおった女がかがむような格好をして、何かを抱きかかえた。ガウンとよく似た色のものが見える。女は大事そうにそれをかかえなおし、車の中の男に何か言った。
腕にかかえられたそれは、持ち手らしきものがある。どうやらバッグのようだ。たぶん、生地の薄いビニール製のものだろう。バッグには、遠目にも明らかに不自然な起伏と重量感があった。
あんなに生地の薄いバッグに、重いものを入れるのはおかしい。ビニールバッグは、軽くてかさばるものを入れて持ち運ぶには便利だが、極端に重いものを入れると形が崩れて不安定になり、持ち手部分もちぎれそうになる。
女は持ち手を握ることはせず、ずっとかかえている。かなり、重いものが入っているのだ。潤子は植え込みの内側を、身をかがめて歩いていった。
男が助手席のドアを開けている。ビニールバッグをかかえ、女は車に乗り込もうとした。
「そのバッグの中、見せていただけませんか」
潤子の声に、女が振り向いた。植え込みの陰から立ち上がり、潤子はすばやく手を伸ばして、女が乗り込む前に助手席のドアを閉めた。
「なんで、そんなこと」
女はひきつった顔をして潤子を睨んだ。
「わたしのバッグを他人に見せる必要はありません」
「見せていただけないのなら、警察に通報しますが」
凍りついたように、女は動かなくなった。
「この車のナンバーも覚えました。逃げても無駄です」
潤子は女の腕からビニールバッグを奪い取った。ファスナーを少し開けると、新生児の頭部が見えた。あわててボンネットの上にバッグを置き、ファスナーを全開にする。中から新生児を取りだして抱き上げ、むきだしの顔に傷などついていないか、すばやく確かめた。
よかった。息をしている。
新生児は泣きもせず、目を閉じていた。顔や手にも傷はない。足首につけられたベルトを確認すると、空のベビーベッドの名札の産婦の名前が記されていた。
安堵し、潤子は腕の中で新生児をかかえなおした。
女は観念したように目を瞑った。駐車場の水銀灯の明かりに、女の横顔が浮かび上がっている。かたく閉じた女の瞼から、涙が滲みだした。運転席のドアが開き、男が降りてきた。男は何も言わずに潤子の方を見ている。
たぶん、彼らは夫婦だろう。夫婦でこの病院に、新生児を盗みにきたというわけか。
男は泣きそうな顔をして潤子の前に立った。潤子は一瞬身構えたが、突然、男は地面に膝を折り、手をついて頭を下げた。
「見逃していただけませんか。赤ちゃんは返しますから」
女は目を開け、男を見下ろした。が、次の瞬間、はじかれたように男の横に座り、同じように頭を下げた。
「申し訳ないことをしました。どうか、見なかったことにしてもらえないでしょうか」
夫婦は、新生児を抱いた潤子の足元で、地面に額をこすりつけるようにして許しを乞うた。
そんなにまでして、子供を望む者もいる。所詮、盗んだ赤ん坊など、他人の子供でしかないというのに。
いや、血のつながりなどいっそない方が楽かも知れない。血のつながりがあるがゆえの執着や葛藤は、子供を産んだことのない者にはわからない。血を分けた我が子を持つということは、生きている限り絶対に逃れられない痛みの楔《くさび》を、自身の奥底に打ち込むということだ。
由梨。
離婚したのは五年前だ。その時、由梨は三歳だった。潤子は、その頃の由梨の様子をほとんど知らない。
夫の和久井剛志は大阪の織物問屋の一人息子だった。十年近く前、東京に出張に来ていた際に交通事故に遭い、当時、潤子が勤めていた総合病院の救急外来に担ぎ込まれた。
看護学校を卒業後、助産師の資格をとった潤子は、産科に配属されていた。だから、彼の看護を担当したわけではもちろんない。左足の単純骨折という軽いけがですんだ剛志は、入院生活に辟易し、退屈をもてあましていた。廊下やロビーを松葉杖で徘徊し、喫茶室に入り浸り、暇潰しをしていたのだ。その際に、何回か勤務中の潤子とすれ違っていたらしく、退院の前日、声をかけてきたのだった。よく言えば、「見初められた」ということになるのだろう。
潤子の父は小さな玩具工場で働いていたが、若い頃から腎臓が悪く、定年まで勤めることができなかった。週に三度、半日もかけて透析に通う人間を置いておくほど工場は余裕のある経営状態ではなかった。当時の家計を支えたのは母で、新聞配達と弁当屋のパートを掛け持ちして働いていた。
そんな家から、大阪の名のある商家に嫁入りしたのだから、「玉の輿」には違いない。和久井家は業界でも屈指の老舗なのだ。
姑は潤子の出自が気に入らなかった。潤子が関東の片田舎で育った女だということも気にそまず、何かにつけ小馬鹿にしたようなことを言った。
「上方の言葉も味も、あんたみたいな者には、わからんやろけどな」
それが口癖だった。
父は、潤子の看護学校時代に亡くなった。母は、昔の苦労がたたったのか、四十を過ぎたあたりから心筋梗塞で入退院を繰り返していた。
剛志は潤子より五つも年上だというのに、一緒に暮らしてみるとまるで子供のような男だった。何でも自分の思い通りになると、三十を過ぎても本気で信じており、それを舅も姑も許していた。
女性関係にだらしがないのは、新婚の頃からだった。女の部屋に数日泊まり続けるというのはいつものことで、会社にもそこから平気で出勤していた。女の家には着替えも何もかも置いてあるから、不都合はなかったのだ。
舅と姑は、初孫である由梨を溺愛した。由梨を可愛がるほどに、潤子を敵視し疎外するという奇妙な関係と軋轢《あつれき》が、剛志の不在の家の中で生じていた。それは日を追うごとにひどくなり、姑は由梨を自分の寝室で寝起きさせるほどになっていた。
由梨が一歳の誕生日を迎えた時、実家の母が倒れた。知らせを受けた潤子が由梨を連れて帰ろうとするのを、姑は止めた。
「由梨は預かってるさかいに、あんただけでいき」
母の状態は切迫していた。だからどうしても、由梨は連れて帰りたかった。
出産のために実家に帰ろうとした時も、姑は許してくれなかった。和久井家の孫は大阪生まれでなければならないと言って、舅の懇意にしている市内の病院に入院させられた。由梨が生まれて二日目に、母は見舞いにきてくれたが、その後、和久井の家に遠慮して、一度も由梨に会いに来ていない。
「これから葬式やなんのとなれば、あんたはんとこのご親戚がどうせ、ぎょうさん来やはりますのやろ。そんなとこに由梨を連れていくのはかわいそうなて、言うてますのや」
結局、潤子は由梨を置いて実家に帰った。意識のある時に母は由梨の名を何度も口にし、元気にしているかと訊いた。二日後に、母は亡くなった。
弔電と香典は送ってきたものの、和久井家からは誰一人、通夜、葬式に列席しなかった。
母が亡くなってから荷物を整理していると、手編みのセーターとカーディガンが出てきた。いずれも子供用で、鮮やかな赤色やピンク色の毛糸で、凝った模様編みが施されていた。
「女の孫が生まれたからって、いつもうれしそうに編んでたよ。お天気のいい日はね、この縁側に腰かけてさ、老眼鏡かけて細かい模様を入れていくのよ。もう少し大きくなったら、こんなのも着るようになるだろうからって、そりゃ楽しそうに話してたわよ」
近所の主婦が教えてくれた。
大阪に帰ってくると、やはり剛志は家にいなかった。姑に訊いても知らないというので、また女のところにいっているのだろうということは見当がついた。
姑は、その後も由梨を溺愛し、絶対に自分の手元から離そうとしなかった。剛志とそのことについて話し合おうとしたこともある。だが、面倒なことや煩わしいことがあると、剛志は必ず逃げてしまうのだった。
「お母ちゃんがそれでええて言うてんのんやったら、それでええやないか。おまえかて、由梨の面倒見てもろてる間、好きなことしたらええのやから」
「そういうことじゃないでしょう」
「ほな、どういうことやねん。俺はもう眠いのや。ええかげんにしてくれや」
投げやりに言って、剛志は背を向けて寝てしまい、二度と取り合おうとしなかった。剛志は、いつもその場かぎりの都合のいいことを言い、決して問題の解決になるようなことをしない。
会社では舅の力が絶大で、舅に仕える番頭格の者達が屋台骨を支えている。息子の放蕩は、あくまで父親の目の届く範囲の中のことであり、父も息子も、あるいは母親も部下達も、それを承知している。親の翼下で適当に泳いでいれば波風は立たないということを剛志は知っており、その生き方を変えようとはしなかった。
一度だけ姑に、由梨を返してほしいと正面から言ったことがある。姑は激怒し、その夜、剛志に憤懣をぶつけた。姑の声は廊下を隔てた夫婦の寝室にまで聞こえてきた。
「同じ屋根の下に暮らしてて、返してくれも何もあらへんがな。誰ぞ誘拐したとでもいうのんか。由梨は和久井の家の大事な孫やさかい、わたしかてきばって育ててるのに、なんでそんな言われ方せなあかんねん」
「ええがな、お母ちゃん、そないに怒らんでも」
剛志のとりなす声に、それまで潤子に対する不満をまくし立てていた姑が「そやかて」と一瞬、言葉を切った。その間隙を逃さず、「あのなあ、お母ちゃん」と剛志が甘えたような声で言った。
「潤子は元看護師やねんさかい、相手が子供でも年寄でも、本能的に面倒見とうなりよるんや。これはなかなか、お母ちゃんにとっても安心なこっちゃで。お父ちゃんやお母ちゃんに何ぞあった時に、あいつがいたら便利やで。専用の看護師をキープしてると思うといたらええのや」
こういう時の剛志のもの言いは実に調子がよく、姑もなんとなく煙に巻かれてしまうのが常だった。案の定、姑は機嫌の良い声で答えた。
「そらそやな。あんな者、ほかにとるとこもあらへんのやさかい」
その後、二人の笑い声が聞こえてきた。
この頃から、剛志は潤子の留守中に、堂々と女を屋敷に連れてくるようになった。いくら広い屋敷といっても、同じ屋根の下に住む姑が知らないはずはなく、女は公然と出入りを許されていたのだった。
ある日の夕方のことだった。
その日は舅も姑も出かけていた。風邪気味だった由梨の受診を終えて帰宅した潤子は、玄関にピンヒールの靴を見つけた。リビングにいくと、見知らぬ女が剛志とソファに座って酒を飲んでいた。
女の長い髪は金髪に近い茶色で、当時流行っていたボディコンの赤いスーツを着ていた。濃い化粧のために年齢はよくわからなかったが、二十代の半ばくらいに見えた。
腐った苺のような色の口紅を塗った唇をとがらせ、女は潤子を見上げた。大きな金色のイヤリングが耳元で揺れている。吊りあがった細い眉が昆虫の触角のようだ。女は潤子に遠慮するわけでもなく、剛志に躯をもたれさせたまま、「あれが看護師あがりの奥さん?」と言った。
「和久井の家内です。日頃は主人が何かとお世話になっております」
「ああ、どうも」
驚いたような顔をして、女は持っていたグラスを顔のあたりに掲げて見せた。剛志は、早くあっちに行け、と言いたげに視線を泳がせている。
潤子は黙って、由梨を連れて寝室に入った。入った途端、ベッドのシーツとふとんの乱れが目に飛び込んできた。枕には、長い金髪が何本も落ちている。
もう、問いただす気にもならなかった。何を言ったところで、剛志はその場かぎりの嘘を適当に並べるか、あるいは完全に背を向けてしまうかのどちらかなのだ。
それから数日後のことだった。潤子は由梨に、母の編んでくれたカーディガンを着せてみた。やっと歩けるようになったばかりの由梨には少し大きめだったが、女の子らしい赤色がよく映えて可愛かった。凝った模様編みが前にも後ろにも施され、これを仕上げるのには相当な時間と手間をかけただろうと、あらためて感心させられた。
その日の午後、姑はいつものように由梨を自分の部屋に連れていったのだが、夕食の時には由梨の服は着替えさせられていた。きれいなフリルのついたピンク色のワンピースを着ていて、赤色のカーディガンははおらされていない。姑にカーディガンのことを訊いてみると、知らないと言った。夕食後、翌日のゴミだしの準備をしている時、潤子は庭のゴミ箱の中に赤いカーディガンを見つけた。
潤子が由梨を連れて和久井の家を出たのは、その翌日のことである。
行くところがなかったから、ビジネスホテルに泊まった。看護学校時代の先輩の伝手《つて》を頼り、枚方《ひらかた》の内科医院を紹介してもらって、就職を決めた。医院の近くにアパートを借り、由梨を保育園に預け、潤子は再度、看護師として働き始めた。和久井家には、押印した離婚届を置いてきた。
六畳一間のアパートに、家財道具らしいものは折りたたみ式のテーブルと、ふとん一組だけだった。食卓代わりのテーブルは決して大きなものではなかったが、脚を立てて置くと部屋のほとんどを占拠してしまい、歩き出した時期の由梨は遊んでいる時によくテーブルの角に足や頭をぶつけた。
食事の準備や家事をしている時にじっとしていられるようにと思って、一番安い小さなテレビを買ってやったが、結局これも大きなスペースを取り、転んだ由梨がテレビ台の角で頭を打つということもしばしばだった。
だが、潤子にとってはこの六畳一間の生活は悪いものではなかった。母子二人の生活は決して余裕のあるものではなかったが、和久井の家にいた頃に比べれば心穏やかに暮らすことができたからだ。
持ってきた父と母の位牌は紫の袱紗《ふくさ》に包んだままだが、いずれ小さな仏壇を買おうと思った。和久井家では、それすらもかなわなかったのだ。和久井の家の仏壇に入れるなどということは、姑は絶対に許さないだろうし、また、潤子にとっても、両親の位牌をそんな居心地の悪いところに置くのは嫌だった。かといって、両親のための仏壇を買うといったら、姑は激怒したに違いない。
由梨は保育園にも慣れ、登園の際に泣いていやがるということもなく、母子二人の生活は穏やかに過ぎていった。小さな医院での仕事は夜勤もないし、保育園の送迎時間に遅れる心配もなかった。
「ほなね、由梨ちゃん、バイバイ」
増沢先生と呼ばれている五十過ぎの保育士が由梨のクラスの担当だった。若い保育士ばかりの中で、化粧もせず、灰色の髪を三つ編みにした増沢先生は妙に目立っていた。増沢先生はいつも、保護者が迎えにいくと気持ちが悪いほど愛想がよい。
その日たまたま、お迎えの時間が一緒になった、由梨と同じクラスの子の母親と潤子は途中まで連れ立って歩いた。
「増沢先生に何か贈っとかはった?」
「いえ、とくには」
潤子が答えると、その母親はたたみかけるように言った。
「何でもええし、ちょっと贈っとかはった方がええよ」
「でも、入園した時にいただいたプリントに、保育士への贈り物はお断りしますって書いてありましたけど」
「本来はそうなんやけど」
彼女は困ったように笑った。
「増沢先生だけは別やの。付届けのあった子となかった子と、えらい扱いが違うて、皆、言うてはるし、うちもこの間、贈っておきましてん」
「何を贈られたんですか」
「サラダ油セット」
言ってから彼女は大きな声で笑った。
「若い先生と違うて、そういう所帯臭いもん、喜ばはるのよ」
「皆さん、贈ってらっしゃるんですか」
「そうみたい。増沢先生て、あのお年で独身やねんけど、園長先生の遠縁の人やいうことで、何やってても、園長先生も見て見ないふりしたはるみたい」
そんなことを容認しているから、本人もいつまでも保護者からの付届けを期待し、あてにするのだ。だが、子供を入園させてまだ三カ月くらいしか経っていない自分がそんなことを言うのも気がひけて、潤子は何も言わなかった。
スーパーの前でその母親とは別れ、夕食の買物をした。由梨は買物用カートに乗せるとすぐに眠ってしまった。保育園ではお昼寝の時間があるのだが、寝そびれたり、途中で目を覚ましてしまった日は、こうして買物の最中でも寝てしまう。
レジで精算を済ませた後、熟睡している由梨をカートからおろし、背中におぶった。アパートについても由梨は眠ったままだった。毛布をかけて寝かせておき、潤子は夕食の準備を始めた。家事の時は、眠っていてくれる方が楽だ。
支度を終え、折りたたみ式のテーブルの脚を立てて、出来上がった惣菜を並べていても、由梨はまだ眠っていた。起こそうかと思ったが、あまりにも気持ちよさそうに眠っているので、御飯と味噌汁をよそってからにすることにした。味噌汁をよそった時、醤油さしの醤油が切れているのに気づき、潤子は流しに立った。
パックの醤油の蓋を開けた時だった。ぎゃあ、と泣き叫ぶ由梨の声がした。振り返ると、テーブルの上の味噌汁がひっくり返っていた。目を覚ました由梨が起き上がり、手をひっかけたらしい。由梨の腕には味噌汁の具がはりついていた。
潤子はあわてて由梨を抱き上げ、袖をまくって皮膚の様子を見た。味噌汁は作りたてだったので、かなり熱い。火傷《やけど》は思ったより広範囲だった。かたく絞ったタオルで火傷の部位を冷やし、外科医院に走った。
医師に診てもらったところ、由梨の火傷はたいしたものではなかった。だが、軟膏の塗布のために包帯を巻かなければならず、由梨はその夜、痒《かゆ》くて痛いとむずかって泣いた。
その数日後のことだった。
仕事を終えていつものように迎えにいった保育園に、由梨はいなかった。
「園長からお話があります」
増沢先生が言った。園長室に通されると、初老の園長は気の毒そうに言った。
「今日、由梨ちゃんのお父さんとお祖母ちゃんがお迎えに来やはりました。弁護士さんも一緒でした」
「お父さんとお祖母ちゃん?」
潤子は絶句した。
家を出てから三カ月、夫には一切の連絡をしていない。和久井家には絶対に居場所を知られてはならないと思っていた。由梨を取り返しに来られることを、恐れていたからである。
「なんで、勝手に由梨を渡したんですか」
潤子は激怒した。
「お迎えの保護者の欄には、わたしの名前が書いてあるじゃないですか。それなのにどうして、勝手に他人に由梨を渡したんですか。説明してください」
入園時に、園児を送迎する者の名前と続柄を調査カードに記入させられている。誘拐などの対策のためである。原則として、そこに記入された者以外に子供を渡すことはないと、園からは説明されていた。
抗議する潤子に、園長は困惑した顔で「いや、そうなんですがね」と頷いた。
「もちろん、まったくの他人にお子さんをお渡しすることはありません。ですが、実の父親が迎えにきてはるのですから」
「それに、弁護士さんも一緒に来やはったんですよ。ちゃんと名刺も貰ってます。お祖母ちゃんまでついて来たはるし、皆さんご立派な方ばっかりで」
増沢先生がにこやかに言った。
この人達を相手に話していても、どうしようもない。すでに連れていかれたものはもう、ここで文句を言っていても始まらないのだ。
潤子は園長室を出て、和久井家に電話をした。電話に出た姑に、由梨を返してくれと言うと、姑は興奮した声で一気にまくしたてた。
「あんた、由梨は剛志の子供でっせ。和久井の家の孫ですのや。あんたこそ勝手に連れ出すやなんて、誘拐やないか。あんなとこに由梨を置いといてからに、よう自分は母親やとぬけぬけと言えるこっちゃ。父親が助けにいってやるのは当たり前のことやろ。訴えられへんかっただけ、結構やと思いなはれ」
その日から、潤子と和久井家との闘いが始まった。
まずは由梨の親権争いだと思ったのだが、それは潤子の誤算だった。
潤子の置いてきた離婚届を、剛志は提出していなかった。ということは、潤子と剛志は法的には夫婦であり、由梨には両親が揃っているということになる。潤子にも、そして剛志にも、親としての権利と監督義務があるということなのだ。
保護者として、剛志が由梨を保育園に迎えに行ったとしても、法的には何の問題もない。どころか和久井家は、「被害者」としての立場を強調し、潤子を徹底的に糾弾することさえできる。何の不自由も不都合もなく暮らしていた子供を勝手に連れ出したのは潤子であり、和久井家としては子供を誘拐されたも同然だと、主張すればいいのである。
実際、彼らはそれを実行した。剛志は、身勝手で我ままな母親の犠牲になったかわいそうな我が子を助けにきた父親、という役回りを見事に演じきり、舅、姑は、孫の安否を気遣う祖父母という立場で、潤子を攻撃した。
姑との電話のやり取りの後、和久井家の弁護士と名乗る人物から潤子に電話が入った。和久井家に直接、出向いていこうとしていた矢先だった。彼は、今、潤子が和久井家に行っても、由梨には会わせてもらえないと言った。
「あなたが身勝手で短絡的な行動に出ると、問題がさらに複雑になり、あなた自身、後で困ったことになりますよ。周囲の人々も傷つきます。何よりも、お嬢さんの立場や気持ちというものを考えてあげていただきたいのです」
そんな言葉を繰り返した後、弁護士は、明日直接お会いしてお話ししたいと言った。
「お話し合いに応じていただけなければ、今後あなたがお嬢さんに合法的に会えるという機会は、なくなるかも知れませんよ」
翌日、勤め先の近所のファミリーレストランで潤子は、和久井家の弁護士と会った。
五十前後の弁護士は、品よく撫でつけた白髪まじりの頭を下げ、お忙しいところすみません、と挨拶し、名刺を差し出した。名刺には「弁護士黒沢透」と印刷されていた。
「わたくしどもとしましては、関係する皆さんが傷つくことのないように、そして、皆さんの将来が良い方向に向くように、解決の方法を考えたいのです。そこのところを、どうかお汲み取りいただきますように」
「子供を手放すつもりはありません」
潤子が言うと、黒沢はテーブルに封筒を置いた。
「ご覧になってください」
封筒の中には、何枚かの写真が入っていた。由梨の写真だ。
突然、フラッシュを焚かれたせいか、由梨は口を開け、驚いたような顔をしてこちらを見ている。袖をまくられ、腕の下あたりを大人の手に抑えられていた。
「これ、証拠写真です」
「証拠?」
「あなたが今後、裁判で争うとおっしゃるなら、これも証拠資料として公にしなければなりません」
「何の証拠なんですか」
「虐待です」
「虐待?」
「腕のここ、赤くなっているのが写真でもわかります。これ、火傷の痕ですよね。医師に見せたところ、熱湯かそれに近いものをかけられた痕だと言われました。診断書もあります」
黒沢はもう一枚の写真を手に取った。その写真では由梨は半ズボンを履いており、裸足だ。黒沢は由梨のむきだしになった足を指さした。
「ここの膝のところ、ほら、皮膚の色が変わっていますね」
「それは、部屋で転んだ時に、低いテーブルの角でぶつけたんです」
「ほう、これが?」
眉をあげ、黒沢はさらに違う写真を出した。由梨の顔をアップで撮った写真である。由梨は姑に抱かれているらしく、上の端の方に、見覚えのある姑のブラウスの襟元と顎が写っていた。姑の手が、由梨の髪をかきあげるようにして頭の上を押さえている。
「このおでこのところ、見てください。かさぶたができています」
「ですから、これは、テレビ台の角にぶつけてできた傷です」
黒沢は潤子の顔を見据えた。
「これについてね、あなたが正直に自分のしたことをお認めにならないということになりますと、ご主人様は裁判ででも争うと、こうおっしゃっているんですよ」
世の中にはねえ、と低くつぶやき、黒沢は眉根を寄せた。
「母親になる資格のない人が、子供を産んでいる例はたくさんあります。そういう人は昔からいたんですよ。今までそういう問題が看過されてきたのは、人々の無関心により法的整備が遅れていたからです。ですが、今は違います。実の親による子供の虐待は、社会問題として認識されている時代なんですよ。あなたがお嬢さんになさったことは、犯罪です」
「犯罪?」
「けれども、あなたさえご自分のなさったことを認めて反省していらっしゃるのなら、大ごとにするのは避けたいと、和久井さんの方では言ってくださっているんです。母親が犯罪者ということになると、由梨ちゃんも傷つきますからね」
黒沢は苦渋に満ちた顔で、写真を見つめている。
「わたしは、由梨を手放すつもりはありません」
「何もわかっていらっしゃらないようですね」
大きく息を吐き、黒沢は言った。
「いいですか。由梨ちゃんの受けていた虐待について、和久井家ではすでに警察と児童相談所に相談にいっているんです。あなたが自分のしたことを認めずに、いたずらに問題を長引かせると、あなた自身、かなり面倒なことになりますよ。何度も言いますが、あなたが自分のしたことを認めて反省しているなら、和久井家では穏便にすませようと、こう言ってらっしゃるんです」
今後、潤子が勝手に由梨に近づいたら警察に通報すると、和久井家では言っている。黒沢は最後にそう言って席を立った。
翌日、潤子は電話帳で調べた弁護士事務所を訪ねた。
事情を話し、子供を取り返すにはどうすればよいかという相談をした。担当弁護士は安岡という四十過ぎの男で、今までの経緯を潤子から聞いた後、まずは調べられる範囲で事実関係を把握し、和久井家の主張なども聞いたうえで方法を検討しましょうと言った。
「決して単独で勝手なことはしないように。いいですね」
安岡は何度も念を押した。
数日後、安岡から連絡を受け、潤子は再度、事務所を訪れた。
潤子の立場はかなり不利だと、安岡は説明した。
「虐待」の「証拠写真」を撮られており、このことは裁判官の心証を悪くする。また、裕福で社会的信用度も高い和久井家の主張や言い分は説得力を持って裁判所や警察に受け入れられるであろうし、法廷で争うのは得策ではないということだった。
「あなたが今、たとえば無理にお嬢さんを取り返しに和久井家に行ったり、どこかで待ち伏せしたりということをしたら、和久井家ではあなたをストーカーとして訴えると、お祖母様がおっしゃっているそうです」
ちょっと待ってください、と潤子は声を荒らげた。
「わたしは由梨の母親なんですよ。わたしが由梨を連れて帰ってきたとして、なんでそれがストーカーなんですか」
まあ、それは、と安岡は手で制した。
「おっしゃる通り、実の親をストーカーとして訴えるなんて、おかしな話です。ただ、和久井家は、虐待の証拠写真を持って警察に相談に行っているという過去の経緯があります。和久井家では、あくまでも現段階では相談ということであって、訴えを起こしたということではないのです。しかし、今後何かあった場合は告訴すると公言していますし、実際、お嬢さんが連れていかれるようなことがあって、和久井家から通報があれば、警察も無視するわけにはいかないでしょう。まさか即時逮捕ということはないと思いますが、事情聴取くらいはあるでしょうね」
母親であるわたしが由梨を取り返しに行ったら、警察に捕まるなんて。そんな馬鹿なことがあるのか。
深く息を吐き、潤子は天井を見上げた。
「離婚なさっていないのですから、今ならあなたもご主人の元に帰れる可能性があるわけです。おうかがいしたところ、ご主人はあなたに暴力を振るったりするわけではないのだし、経済的にも社会的にも何の問題もない方です。どうしても子供さんと一緒に暮らしたいということなら、ご夫婦やご家庭の修復に努力されることを、お考えになってはいかがでしょうか」
「それだけは、できません」
潤子がかぶりを振ると、安岡は「もう一度、よく考えてみてください」と言った。
弁護士というのは、依頼人のために奔走するものと思っていたのに、安岡は「家にもどって、努力してはどうか」という言葉を繰り返した。
「ともかく、話し合いの準備を向こうの弁護士とも相談して進めていきましょう。時間はかかるでしょうが、今のところそれしか方法はありません。絶対に早まったことはしないでください。勝手にお嬢さんを連れ出したりしたら、今後の話し合いの余地もなくってしまいますから」
数日後、黒沢から連絡があった。潤子は再度、同じファミリーレストランで黒沢と対峙《たいじ》した。
「由梨ちゃんに、白蘭学園の幼稚園を受験させたいと、ご主人様がおっしゃってまして」
白蘭学園は大阪でも屈指の名門女子校である。大阪だけではなく、神戸、京都からも生徒が通ってくる有名私立校だ。白蘭学園の幼稚園に通う子女はエスカレーター式に大学にまで進学できるが、莫大な授業料がかかるのでも有名だった。
「幼稚園受験だなんて、由梨はまだ一歳ですよ」
「もう一歳になられたから、受験の準備が必要なんです。年少クラスの受験は二歳ですからね、一歳からナースリースクールに行くのは常識です」
何と答えてよいかわからない潤子に、例年の白蘭学園の幼稚園の倍率がどのくらいで、この学園に通うことが関西ではどんなに憧憬の目で見られるかということを、黒沢は長々と説明した。
「父親として、ご主人様は由梨ちゃんの将来を真剣に考えておられるんですよ。由梨ちゃんが、お父さんかお母さんか、どちらのもとで暮らすことになるかはともかくとして、無事に受験が終わるまで、なんとか温かく見守っていただけないでしょうか」
「どういう意味ですか。わたしはべつに由梨を私立幼稚園に入園させようなんて思っていませんし、望んでもおりません」
「よく考えてください。あなた、由梨ちゃんの実のお母さんでしょう。そして、ご主人様とも、まだれっきとしたご夫婦なんですよ。私立学校や幼稚園では、家庭環境についても重視されますし、ご主人様は大変、心配しておられるんです」
黒沢は「母親として、由梨ちゃんにしてあげられることをよく考えてあげてください」と言い置いて帰っていった。
翌日、安岡から電話があった。
「昨日、黒沢弁護士から直接お聞きになったと思いますが、こちらにも連絡がありましてね。由梨ちゃんの白蘭学園の幼稚園受験が終わるまで、離婚については待ってほしいと先方から言ってきている件ですが、どうされますか」
「わたしは、由梨を私立幼稚園になんか行かせる気はないし、受験なんてどうでもいいんです。そんなことより、一日も早く離婚をして、由梨を引き取りたいと考えています」
実は困ったことが起こりまして、と安岡は言いにくそうに口ごもった。
「例の、虐待についての件なんですが。由梨ちゃんの通っていた保育園の担任の先生がですね、由梨ちゃんはずっと生傷が絶えなかった、と証言しているらしいんです。火傷までさせられているし、これは明らかに母親の虐待ではないかと不安に思っていたと。児童相談所に連絡しようかどうしようかと迷っていた時に、お父さんが迎えに来られたので胸を撫でおろした、と言っているらしいんです」
増沢先生の顔を、潤子は思い出した。
たしかに由梨が狭いアパートの部屋で遊んでいて、折りたたみ式のテーブルやテレビ台の角で額や足をぶつけたことはあるが、「生傷が絶えない」というほどのものではない。火傷にしたって、単なる事故だ。
付届けをしなかった潤子に、増沢先生はあまりいい感情を持っていなかったのだろう。それこそ、金品をもって姑がうまく取り入れば、姑の望み通りの証言を増沢先生はしたに違いない。
「今、離婚調停を申し立てたりすれば、親権問題についても話し合うことになります。虐待についてはかなりの不利材料が揃っているわけですから、こちら側に親権が認められる可能性は低いと思ってください。今はあちらの言うように、ともかく幼稚園受験が終わるまで、動かない方が得策でしょうね」
公の場で「虐待をした母親」という烙印を押されてしまったら、潤子に母親としての権利や資格を、社会も司法も認めはしない。そう言われて、潤子も引き下がらざるをえなかった。
翌年、由梨は白蘭学園の幼稚園に合格した。安岡を通して知らせを聞いた潤子は、いよいよ由梨の引き取りについての話し合いを始めようと思った。が、その数日後、潤子と剛志の離婚が成立したと知らされた。潤子が和久井家に置いてきた離婚届を、剛志が提出したというのである。
離婚は望んでいたことだから、とくには何の感慨もなかった。が、親権者は剛志の名前に書き換えられていた。潤子は親権の変更について家裁に申し立てをしたが、結果は安岡の言った通りになった。
身勝手で我ままで無知な母親は、子供を連れて家を飛び出したものの、生活能力がなく、精神的に追いつめられて子供に虐待を繰り返した。父親の方は、社会的に信用度も高い地位にあり、経済的にも恵まれている。子供の教育、養育にも積極的に取り組む姿勢を持っており、子供の生活や将来を鑑《かんが》みた場合、父親のもとで養育されるのが適当であるとの結論に至ったのだった。
あきらめられるような話ではない。由梨は潤子の実の子供なのだ。
それから潤子は、由梨の生活の様子を徹底的に調べた。もう、弁護士には頼らない。自分で取り返そう。そう思った。
和久井家を出た日から、二年近くが経っていた。
由梨の幼稚園の送迎は、運転手付きの車で姑が付き添っていた。屋敷は完璧なセキュリティーシステムに守られているので、簡単には忍びこめない。幼稚園側には和久井家から事情を話してあるだろうから、潤子が由梨を迎えにいってもおそらく無駄だ。
入園後まもなくから、由梨はピアノを習い始めた。レッスンには運転手付きの車で姑が付き添い、やはり由梨に近づける機会はなかった。
潤子はピアノ教室の行事を調べてみた。半年後に、公民館ホールで発表会が予定されていた。ホールなら、一般客にまぎれて入り込むことは可能だ。
この日しか、由梨に近づける日はない。
公民館ホールのロビーは着飾った母娘で込み合っていた。幼稚園児から高校生くらいまでの女の子にまじって、時々、七五三の時に見かけるようなスーツを着せられた小学生の男の子の姿がある。小さな女の子達は皆、頭に大きなリボンやコサージュのついたカチューシャをつけて、裾の広がったドレスを着ていた。
シャネルスーツを着た母親達は、プログラムを片手に開場時間について声高に話している。デジカメやビデオカメラを持った父親達は、着飾った娘の姿を撮るのに余念がない。リハーサル中は客席には入れないため、ロビーは保護者や子供達で溢れている。
楽屋に続く狭い廊下を、由梨の手をひいた姑が歩いていく。潤子は中央の階段の下から、それを見ていた。
由梨はずいぶん、背が伸びていた。遠くから見ただけだが、顔立ちもはっきりしてきているのがわかる。ピンク色のジョーゼットのドレスを着せられ、同じ色のリボンを頭につけており、周囲のはなやいだ雰囲気に少し気後れしたような表情をしている。
リハーサルはもう始まっていた。小学校の高学年くらいの子供は一人で舞台の袖に行くが、小さな子供の場合は、保護者が楽屋口まで連れていく。送った後は、保護者が楽屋の中に留まることは許されないらしく、母親達は順にロビーにもどって来ている。
しばらく待っていると、廊下から姑が引き返して来るのが見えた。由梨はいない。
潤子は階段の下から廊下へと移動した。そのまま、楽屋口に入っていっても、誰にも咎められなかった。派手なワンピースやシャネルスーツを着た母親達の中にあって、灰色のスーツを着た潤子はホールの係員か舞台の関係者に見えたのだろう。
廊下の突き当たりのドアを開けると、そこは薄暗い空間だった。埃っぽい匂いが漂っていて、黒い大きなカーテンが何重にも高い天井から下がっている。舞台袖だ。
袖は薄暗いが舞台はライトアップされ、眩しいくらに明るい。舞台では、中学生くらいの女の子がグランドピアノを弾いていた。
グランドピアノの傍らに楽譜を持った女が立っている。女は潤子くらいの年格好だ。金ラメ入りの黒のドレスを着て、胸に赤いコサージュをつけている。女は時々、演奏を止めさせ、鍵盤やペダルを指さして何か言っていた。たぶん、あれが先生なのだろう。
潤子は袖に目をもどした。カーテンの後ろにはパイプ椅子が並べられ、子供達が十人ほど座っている。椅子に座りきれない何人かは、その後ろで立っていた。
目を凝らし、潤子は子供達の顔を一人ずつ見た。ピンク色のドレスを着た子が何人かいる。由梨はすぐにわかった。パイプ椅子の後ろに立ち、ものめずらしそうに舞台の方を見ている。潤子は由梨の背後に近づいた。その時、肩をたたかれた。
「あの、こちらは生徒さんだけで、保護者の皆さんは外でお待ちいただくようにお願いしておりますが」
紺色のスーツを着た若い女が立っていた。スーツの左胸には、ピンク色のリボンが安全ピンでとめられている。
「あ、すみません。ちょっと子供に用事があったものですから」
「じゃ、外ですませてください。ここで音をだされては困ります」
女は迷惑そうな顔をした。
「はい、すぐに出ます」
潤子は由梨の手をひき、「由梨ちゃん、こっち」と声をかけた。突然、名前を呼ばれた由梨は怪訝そうな顔をしたが、何も言わずに潤子についてきた。
ドアを開け、廊下に出たところで立ち止まり、潤子は由梨の顔をあらためて見た。
もう、一歳の赤ん坊ではない。すっかり子供だ。三歳になったのだもの。
手も足もすらりと伸びて、稚《おさな》いながらも目のあたりには少女らしい表情が漂っている。
「由梨」
潤子は由梨を抱きしめた。
なんて大きくなったのだろう。
今日まで、本当に長かった。
この日が来るのを、わたしはどんなに待ち焦がれていたことだろう。
やっと会えた、由梨。
「おばちゃん」
由梨が言った。躯を離し、潤子は、え、と由梨の顔を見た。
「おばちゃん、誰?」
目を見開き、由梨は首を傾げた。潤子は首のあたりが突然、冷たくなったような気がした。
考えてみたら、それは当然のことだった。一歳の時以来、会っていないのだから、由梨に潤子の記憶があるはずはない。
わたしは、と言おうとしたが、喉がひどく渇いていて、言葉がでなかった。潤子は由梨の肩を抱き寄せた。声を絞りだすようにして、由梨の耳元に囁いた。
「お母さんよ」
口にした途端、涙がでそうになり、唇がふるえた。
由梨のママはね、と言いながら、由梨が潤子を見上げた。
「死んだの」
ごく普通の話をしているように、由梨は言った。
「由梨のママはね、死んだの。そやからママは天国にいるの」
いいえ、わたしはここにいる。ここでおまえの肩を抱きしめている。
そう言おうとしても、喉の奥に何かが詰まったように声がでない。
「由梨は、ピアニストになるねん」
ピアニスト。そんな言葉を知っているのか。
「天国のママが喜ばはるさかい、ピアニストになるねん」
少し得意気に、由梨は笑った。
「由梨がピアノを練習するとな、天国のママに聴こえるんやて。ほんで、ママは喜ばはるんや」
「誰が、そんなこと言ったの」
「せんせ」
由梨はうれしそうに答えた。潤子は由梨を見つめながら、言葉をさがした。
「あ、せんせや」
背伸びをするようにして、由梨はぴょん、と飛び跳ねた。
「由梨ちゃん、勝手に出ていったらだめでしょう」
金ラメ入りの黒いドレスを着た女が廊下を歩いてきた。せんせ、と言いながら由梨が女に駆け寄った。
「ご親戚の方ですか」
女が言った。
「このコピー、必要ありませんから、お返ししときます。お祖母ちゃん、ロビーにおられると思うので渡しておいてください。こっちに楽譜ありますから」
持っていた紙を女は差し出した。受け取って見てみると、五線譜だった。かなり複雑な音符の羅列だ。
「今日、由梨ちゃんが弾かはる曲ですよ。ようこんな年齢でこんな難しい曲を弾かはるでしょ」
頷きながら、女は笑った。
「小さいのに、毎日きばって練習したはります」
首を傾げるようにして、女は由梨の方を見た。
「グランドピアノも買うてもろたし、きばって練習せなあかんもんね」
女に頭を撫でられ、由梨はうん、と頷いた。
グランドピアノ。こんな小さな子供に、そんなものを買い与えているのか。
「わたしがおすすめしたんですよ、グランドピアノ。由梨ちゃんは普通の子供さんとは違います。才能があるんです。こういう子供さんの場合は、縦型のピアノやなしに、ちゃんとグランドピアノでタッチの勉強をさせてあげてくださいとお願いしたんです。この子は耳もええから、きれいな音色で練習させてあげないと。幸い、おうちの方もご理解くださって」
和久井家なら、グランドピアノを買う金にも、あるいは置く場所にも不自由することはあるまい。
「絶対音感があるんですよ、由梨ちゃん」
「絶対音感?」
「楽器や楽譜がなくても、正確な音程がわかる能力のことです。レッスンして、すぐにわかりました。絶対音感のある子は上達が早いし、どんどん伸びていきます。この子は頭もええから、楽理楽典の理解も早い。将来は確実に音楽の道に進むでしょう。こういう子はめずらしいです」
自慢話でもするように、女は肩にかかった髪を後ろにはらい、胸をそらせた。
「わたしもこの仕事長くやってますけど、由梨ちゃんみたいな生徒さんはめったにいません。いくら才能があっても、音楽の勉強を続けるにはお金もかかるし、ご家族のご理解やご協力は不可欠なんです。でも、由梨ちゃんはその点、恵まれた環境にいやはるから、何の心配もないし、本当に将来が楽しみです。ご家族やご親戚の方は、もっと楽しみになさっているでしょうけど」
あの、と潤子は女の顔を見た。大きな瞳と高い鼻梁がいかにも気位の高さを物語っているようだ。けれども、この女が由梨を見る目はやさしく、由梨も甘えきった様子で、女の腕を離さない。
「由梨は、そんなにピアノを頑張っているんですか」
「ええ、それはもう。こんなに小さいのに、二時間でも三時間でも練習したはりますよ。お祖母ちゃんがそない言うたはりました」
「そんな、本当ですか。二時間も三時間もなんて」
「本当です。生徒さんが普段、練習してはる時間や質がどの程度のものかなんて、演奏を聴けばわかります」
くっきりとアイラインを入れられた女の目の端が、わずかに動いた。
「白蘭学園の幼稚園にはわたしの身内が勤めておりますが、普段から由梨ちゃんは集中力の持続時間が他の子供さんと全然違うて、聞いてますよ」
「あの、先生は、由梨の幼稚園でのこともご存知でいらっしゃいますか」
「ええ。そちらの関係から、由梨ちゃんを紹介されましたから」
「由梨は、幼稚園ではどういう様子ですか」
自分の声が上ずっているのを潤子は感じた。
「大丈夫ですよ。ご心配されるようなことは何もありません。白蘭学園は先生も生徒も選ばれた者ばっかりで、目も行き届いてますから、いじめられるようなことはありませんよ」
いじめられることはない、という言葉を聞いて、潤子は胸を衝《つ》かれたような気がした。由梨はもう、世間で揉まれるような年頃になっているのだ。母親がいないということで好奇の目で見られたり、勘ぐられたり、そしてそれにより、傷ついたり、苦しんだりという経験をするような年齢になりつつあるのだ。
「また、大きいなってきやはったら、いろんなことがあるかも知れませんが、この子には音楽という大きな支えがあるさかい、何があっても乗り越えるでしょう。そういう支えを持ってる人間は強いものです」
目をやると、由梨は女の腕に猫のようにじゃれついていた。
まだ、実の母親の存在を疑うような年齢ではない。周囲に言われたことを素直に信じて、受け入れている。たぶん、それゆえなのだろう。由梨の顔には、複雑な感情の揺れや、歪みなどまったくなかった。
ふと、手の力が抜けた。潤子の手から楽譜のコピーが落ちる。あわてて拾いあげた時、そこにはいろんな書き込みが入れられているのに気づいた。それぞれの段に、曲想についての指示や注意事項などが細かく書かれている。といっても楽譜の読めない潤子には、意味のわからない言葉や記号の羅列でしかなく、何のことだか見当もつかない。
由梨はこれを見て、わけがわかるのか。理解や解釈ができるのか。本当に、こんなに小さな子供がこんなものを見て、音楽を奏することができるというのか。
「ほな、すみません。それ、お祖母ちゃんにお返ししておいてくださいね。お願いします」
軽く会釈し、女は由梨の手をひいて廊下を歩いていった。
あれから三年が経った。
あの時、潤子は由梨を奪い去ってはこなかった。ピアノ教師を突き飛ばして、由梨を抱いて逃げることもできたはずだが、潤子はそれをしなかった。
あの日、由梨は舞台でピアノを弾いた。潤子は客席からそれを見ていた。
鍵盤を見つめる由梨の眼差しは真剣で、まだ三歳の子供だというのに、背中には怖いくらいの緊張感を漂わせていた。
年齢に不釣合いな難しい曲を演奏しているのだということは、誰の目にも明らかだった。だが、決して背伸びをしているのではなく、自在に楽を奏する術を心得たうえで弾きこなしているのだということが、音楽のことなど何も知らない潤子にもはっきりとわかった。
演奏中は、これ以上はもう無理だろうという限界まで神経の糸を張りつめており、驚いたことに、由梨はそれを最後まで緩めなかった。
ピアノ教師が言っていたことは本当だった。同じ年頃の子供とは、由梨は明らかに一線を画していた。いや、由梨よりもっと大きな子供達でさえ、あんなに複雑な曲を弾きこなしてはいなかった。
どの子供も皆、単に舞台で弾くことに気後れしているだけで、演奏に対する真摯な姿勢や、気迫とは無縁だった。たぶん、あれが普通の子供の演奏なのだろう。
今、由梨は小学生になっている。
きっとこの時期には、学校の友人を招いて、屋敷で盛大なクリスマスパーティーを開いてもらったりするのだろう。
広告ちらしのクリスマスケーキを見ながら、潤子は残った酒を飲みほした。
[#改ページ]
第五章
瀬尾レディースクリニックの担当になったのは去年からだ。タカハシ薬品のロゴの印刷された紙袋を提げた峰岸琢磨は、ロビーを通り抜け、院長室に続く廊下を歩いていった。
紙袋にはクロミフェンとシクロフェニルのサンプルだけではなく、院長の孫娘の大学合格祝いも入っている。院長の娘は神戸の産婦人科病院に嫁いでいるが、その孫娘を彼はたいそう可愛がっていた。
まだ八月だというのに、孫娘の受験した私立女子大学の推薦入学の合格者はすでに発表され、院長は今、すこぶる機嫌がよい。輸入物のオルゴールは特別注文の限定品だ。もちろん、目の玉が飛び出るほどの値段である。
院長の機嫌がよいのは、孫娘のことだけによるものではない。来春、いよいよ病棟の大がかりな増改築工事が始まるのだ。院長の息子が東京の大学病院から帰ってくることが去年決まった。息子が帰ってくるのを機に病院の規模を大きくするというのは、院長の長年の夢だった。駐車場の裏の土地の買収については揉めたこともあったらしいが、立ち退きの問題もなんとか片付き、ようやく春に着工という目途がついた。
この病院に出入りしている製薬販売会社のプロパーは、峰岸だけではない。後発の峰岸は何かにつけ不利だが、形勢逆転の自信はある。息子が帰ってくるというのは、代替わりの準備が始まるということだ。それにくわえて病院の規模を大きくするというのだから、またとない好機である。
「あら、峰岸さん」
通り過ぎる若い看護師が微笑んだ。峰岸が軽く会釈をすると、「院長先生はまだ、処置室ですよ」と立ち止まって言った。
「そう。じゃ、待ってますよ」
「今、いらしたことをお伝えしてきますから」
少し頬を紅潮させ、看護師は階段の方に向かって早足で歩きだした。
あの看護師は時々、院長の私生活や病院の人事などを峰岸に教えてくれる。副医院長の首がすげ替わることをいち早く教えてくれたのも彼女だった。
病院人事は複雑だ。同族経営なら先行きは見当がつきそうなものだが、たまたま院長の息子の出来が悪かったり、あるいは良過ぎたりすると、思わぬ改変があったりする。
出来の悪い息子に湯水のように金を注ぎこみ、医者に仕立てるところまで漕ぎ着けたとしても所詮、組織の上に立つだけの能や器のない者は何らかの形で蹴落とされるか、排斥されるかして、はじき出される。父親の力が及んでいるうちはともかく、そうでない時期にさしかかってくると、息子は丸腰の状態で組織を相手に闘わなければならない。結果は目に見えている。逆に出来が良過ぎると、大学や研究機関で研究者としての道を選んでしまい、実家の病院には帰ってこないということになったりする。
病院の跡取は、鳶《とんび》が生まれても鷹が生まれても、複雑な様相を呈するものなのだ。人事の予想は難しい。
プロパーの中には情報を得たいために、得意先の病院の看護師に手を出す者もいるが、峰岸はそれはしない。そういう手を使うと、後になって必ず面倒が起こる。
関係を持った女というものは、いつまでも男に纏《まと》わりつくものだ。振り切るにはかなりの時間や手間が必要となる。得た情報がそれに見合ったものだったのかというと、決してそんなことはなく、結局は高くつくということを思い知ることになるのだ。
女を使うなら、関係を持たずに期待を抱かせることの方がずっと効果的だ。どうせ、女には不自由していない。こんなところで、面倒を承知で看護師に手を出す必要もないのだ。
廊下を歩いていくと、さっきとは別の看護師が歩いてくるのが見えた。辻村潤子だ。
「辻村さん」
前に立ち塞がるようにして、峰岸は声をかけた。潤子は何も答えなかった。いつものように、薄い唇を引き結び、切れ長の目には昏《くら》い翳《かげ》をこもらせている。
「お願いしていた件ですが」
一言も発さずに、潤子は峰岸の脇を通り抜けようとした。すかさず、峰岸は脚を一歩踏み出す。長身の峰岸が踏み出した歩幅は大きく、前を塞がれた潤子は立ち止まらざるをえない。潤子と峰岸の距離は縮まり、思いもかけない間近な位置に潤子の顔がある。
相変わらず、この女の顔には感情の揺れというものがない。だが、感情がないわけではないのだ。
俺にはわかる。
昏い目の奥の奥には、何かが蠢き、息をひそめている。どころか、どうしようもない大きな波がうねり、渦巻いている。だから、この女の目には濃い翳が宿り、表情のすべてを覆いつくしているのだ。
「人の命にかかわる、大事なお話なんですよ」
一瞬、潤子の目に困惑の色が滲んだ。が、すぐにその色は消え去り、いつもの翳に覆われてしまった。
「辻村さんにとって、本当に大切なことなんです」
無駄と知りつつも、もう一度困惑の表情が見たくて、峰岸は言葉の追い討ちをかけてみる。だが、潤子の表情が変わることは二度となく、眉ひとつ動かなかった。峰岸はそのことに焦燥を覚え、同時に安堵もした。
それでいい。
簡単に翻弄されるな。
簡単に籠絡されてはならない。
「時間を作ってください。お願いします」
耳元で囁いた。峰岸の息が、潤子の細い首にかかる。だが、潤子の目には、何の昂ぶりも動揺も見えはしない。
「失礼します」
無機質な声を残し、潤子は立ち去っていった。あまりに素早い動作に峰岸は不意をつかれ、脚を踏み出すこともできなかった。峰岸の胸に小さな風が巻き起こる。
あの女は、どんな挑発にも乗らない。
本来、女というものは貪欲で、意地汚い生き物だ。快楽を追求することに長《た》けていて、世の中のすべては自身の欲求の成就のためにあると思っている。知恵を絞り、あらゆる手を尽くして罠を仕掛け、相手の陥落と崩壊を常に期待しているのだ。
そして、思い通りにならない時は泣き喚き、縋《すが》りつき、自ら余計な荷物を背負い込む。しかも、そのゴミのような荷物をゴミとは気づかず、いつまでたっても捨てようとしない。
それが女というものだ。
だが、あの女にはそれがない。どんな餌を撒かれようとも、興味も関心も示さず、自身の作り出す翳の中に閉じ籠もり、すべてを拒む。
なぜだ。
峰岸はこみ上げてくる笑いを止めることができない。
あの女が激昂する時とは、どういう時なのだろうか。感情の爆発を抑えきれない時には、どういう顔をするのだろうか。
見てみたい。
崩れるところを見てみたい。泣き喚く顔を見てみたい。怒りにふるえて感情を昂ぶらせ、男を罵倒するところを見てみたい。
ひきずりこんでやる。
あの女が、男の手に落ちることはあるまい。たとえ力ずくで捩じ伏せたとしても、あの女は翳を宿らせた目を向けたまま、眉ひとつ動かさないに違いない。
ならば、ひねり潰してやる。そう思った。
「パピヨン」のカウンターには峰岸と平井だけだった。
「それにしても、お盆も過ぎたのにこう暑いとたまらんわねえ」
祇園もこの暑さと不景気で活気がないとママがぼやき、亜里沙は、ほんとにね、と笑いながら水割りを作り始めた。
見回すと、ボックス席は半分も埋まっていない。時々聞こえる酔客のだみ声とホステスの嬌声も、景気のいい頃に比べれば知れたもので、まあこれも静かでいいか、と平井は笑った。
「どうせ、八月は毎年、京都は不景気やけどな」
「祇園も静かなもんやわ」
ママが平井の煙草に火をつけて言った。
八月は京都を訪れる観光客がもっとも少ない時期で、花見小路では閑古鳥が鳴いていると笑われているくらいだ。
「まあ、ええやないの、不景気な話は」
グラスの酒をかき混ぜながら、亜里沙が言った。
亜里沙は豹柄のノースリーブのブラウスを着ていた。大きく開いた胸は日に焼けていて、じゃらじゃらと音がしそうなほど金色の鎖を何重にも首に巻きつけている。カラーコンタクトを入れた瞳は緑色で、茶色に染めた髪が背中で波打ち、まるで長毛種の洋猫のようだ。峰岸の前にグラスを置き、亜里沙は耳元に顔を寄せた。
「今晩、送っていってくれはるよね」
目だけで頷き、峰岸は煙草を銜えた。
この店で、亜里沙が一番若い。おそらく二十歳をいくつか過ぎたばかりだろう。大きな二重瞼に塗られたゴールドのシャドウと、厚めの唇にひかれた白く光る口紅の下には、意外に稚い素顔があるのを峰岸は知っている。服を着ている時にはわからなかった腰の張りや肉付きには弾力があり、乳房は手に余るほどの量感がある。
峰岸がグラスを持ち上げると、平井がふう、と煙を吐きだした。
背が低くて顔が小さいくせに、平井はやたらフレームの大きい眼鏡をしている。本当は四十半ばらしいが、まるい背中がくたびれていて、それより一回りほど上に見えた。
平井は、大阪市内のブルセラショップやアダルトショップを相手にバイヤーをやっている。温泉や女子トイレに仕掛けた隠し撮りビデオ、使用済み下着、あるいは名門女子校の制服や体操服、小学校の運動会や中学校の水泳大会の写真などを扱っており、彼に頼めば、およそこの種のもので手に入らないものはない。
「これ」
ママと亜里沙が客を送りに出ていったのを見はからって、平井がデパートの紙袋をカウンターに置いた。
「峰岸さん、こういう趣味がありましたんかいな」
「あほか」
煙草を灰皿に置き、峰岸は紙袋を手に取った。中身は出さずに袋の中をのぞきこみ、確認する。
「白蘭学園は、人気あるからなあ」
顎を撫でながら、平井は煙草の煙を吐き出した。
「苦労しましたんやで」
紙袋の中には、小学生用の体操服とブルマーが入っていた。
「ちゃんと一年三組三十三番、和久井由梨て、名簿番号と名前が入ってますやろ。正真正銘の本物でっせ」
ブルマーにも体操服にも、白蘭学園の校章が刻印されている。紙袋の底には、赤白帽まで入っていた。帽子に縫いつけられたたわんだゴム紐は、滲んだ汗のせいか真中のあたりが少し黄ばんでいる。
たしかに、現物を実際に手に取って見てみると、持ち主本人の体臭が匂ってくるような気がするものだ。マニアにとってはこの感覚が醍醐味ということなのだろう。峰岸には、こんな小便臭い子供に興味や関心を持つ奴の気が知れないが。
「現物入手は大変ですのや。今回みたいに個人名まで指定されると、ほんまにえらいこっちゃ」
「そやから、倍料金払うて言うてるやろ」
峰岸は茶封筒をカウンターに置いた。
「おおきに」
すかさず平井は茶封筒を受け取った。
「白蘭学園の体操服は校内販売だけで、外の店では売ってへんさかいに、これはなかなか貴重でっせ」
札を数えながら平井が言った。
「運動会の写真とかビデオ撮影くらいやったら、まあ、なんとかなりますのやが、こういうのは下手したら手が後ろにまわりますさかいにな」
懐に茶封筒をしまい、平井は眼鏡のフレームを人差し指であげた。
「白蘭学園は新学期が始まったらすぐ、運動会があるらしいでっせ。どうです、写真撮っときましょか」
「撮っとけ。和久井由梨だけでええから」
「承知しました」
「必ず、顔がわかるように写せよ」
「まかしといてください。うちは腕のええ奴、押さえてますさかい」
平井が媚びるように笑った。峰岸は新しい煙草に火をつけた。ライターを煙草の箱の上に置こうとした時、携帯が鳴った。番号の表示を見ると非通知になっている。
「もしもし」
話す峰岸の口から煙が漏れる。
「あ、峰岸さん?」
関口ひとみだ。電話に出たことを後悔したが、もう遅い。
「ねえ、どこにいるの」
まるで自分にはそれを知る権利があるのだとでも言うように、ひとみは唸るような声をだした。
「仕事や」
「嘘。女の人の声が聞こえる」
峰岸はひとみの体躯を思い出した。寝たのは一度きりだ。二十五歳と言っていたが、あそこまで極端に肥った女の年齢はよくわからない。が、張り出た腹の肉はたしかに下がってはおらず、乳房も尻も若い弾力があったのは確かだ。
ひとみは木屋町のスナックのホステスだった。初めてその店に行った時、酔った勢いで関係を持ってしまった。もう半年近く前のことだ。女に不自由しているわけではなかったが、あの時はつい、ひとみにいいように手繰られた。そのことを、峰岸は今も忌々しく思う。
伝言ダイヤルのデブ専で相手をみつけては小遣い稼ぎをしているのだと、後になって店のママから聞いた。一度関係を持って以来、ひとみは峰岸に執着するようになった。昼夜を問わずつきまとい、峰岸の仕事先や立ち回り先に出没するのである。病院関係者を装って会社に問い合わせ、ひとみは峰岸の携帯の番号も調べあげた。その後、二、三ヶ月の間、四六時中電話をかけてきた。ある日、出勤しようとしてマンションを出たら、ひとみが通りの向こうに立っていたので驚いたことがある。何をするというわけでもなく、ひとみはただ、峰岸を見ているのだった。
目も口も鼻も肉に埋もれそうな顔をしているので、遠目では表情がわからない。だから、よけいに気味が悪かった。無視して歩きだすと、ひとみは臼のような体躯を揺らしてついてくる。はちきれそうな脹脛《ふくらはぎ》は人間とも獣とも違う異様な肉感を持ち、背中は甲羅でも背負っているかのように盛り上がっていた。
そのくせ、華奢《きやしや》なミュールを履いているのが珍妙だった。大きな体躯を支える細いヒールが今にも折れそうで、滑稽を通り越して、まさに靴が気の毒なくらいだった。
「ねえ、これから会ってよ」
電話から、ひとみの粘りつくような声が聞こえた。
「無理や」
「大事な話があるんやから」
「ええ加減にせえよ」
最近はつきまとうこともなくなり、電話もめったにかかってこなかった。だが、ひとみは峰岸のことを忘れてはいなかったらしい。
「何よっ」
突然、ひとみの声は金切り声に変わった。
「あんた、そんなこと言うて、ただですむと思うてるのっ」
携帯を耳にあてている峰岸の目の端に、亜里沙が見えた。ドアを開けたママの後ろをついて歩いてくる。亜里沙は峰岸の方を見て微笑んだ。峰岸は軽く手をあげてそれに応え、店の外に出た。ひとみなど話したくもない相手だが、下手に切って、後でさらにしつこくつきまとわれてはかなわない。
いつも携帯で話す時は、外の廊下に出る。「パピヨン」の中はなぜか電波の状態が悪い。それに、客達の声やカラオケもうるさい。
「ねえ、ちょっと、聞いてるの」
「今、仕事なんやから、ほんまに」
「パピヨン」は雑居ビルの五階にあった。廊下は吹きさらしになっており、ペンキの剥げた鉄柵の手摺りがあるだけだ。手摺りに肘を置いてもたれ、峰岸は大きく息を吐いた。下を見ると狭い通りがよく見渡せたが、歩く人はまばらで派手なネオンばかりが目立っている。
「どうせ、祇園のあのお店でしょ、『パピヨン』」
「いや、違う」
なじみの店は何軒かあるが、亜里沙と関係ができてから、峰岸は必ず土曜日の夜は「パピヨン」に来ていた。
「今日は土曜やもん。あんた、いつも土曜の夜は倒れるほど飲むやんか、その店で」
翌日が休みという気楽さから、土曜日はいつもより酒の量が増える。大抵はそのまま亜里沙の部屋に泊まるのが常だった。もしかしてひとみは、それらのことを知っているというのか。
「あたしは、わかってんねんからね」
八月の湿った熱気が躯に纏わりついた。峰岸は携帯を持っていない方の手でネクタイを緩めた。
「わかってんの、ねえっ、聞いてるのっ」
怒りにまかせたひとみの声が響いてくる。
「ええのよ、べつに」
甲高い笑い声が聞こえた。
「ねえ、もう一回会うてよ」
笑い声がやみ、ひとみはまた懇願するように言った。
息苦しいほどの暑さなのに、背中のあたりが薄ら寒くなっていく。峰岸は額に手をあて、小さく首を振った。
ホテルの最上階のバーは冷房がきいていた。
「変な陽気ですよね」
グラスを持ち、峰岸が言った。
九月も末というのに異常に蒸し暑い夜だった。朝から気温が高く、日中は八月と変わらないくらいまで上がった。夕方になって少しはましになったものの湿気は高く、初秋の気候とはほど遠い。
「それで、どういうことなんでしょうか」
潤子が言った。
「ゆっくり話せばいいじゃないですか。時間あるんでしょう」
煙草を取りだしながら、峰岸は笑った。
自信あり気に「時間あるんでしょう」と言ったのは、潤子の勤務スケジュールを知っているからだろう。一カ月に一度発表される勤務表はナースステーションに貼りだしてある。それぞれの日勤、夜勤の割り振りが日付とともにまとめられた一覧表は、医師や看護師などの関係者なら誰でも見ることができる。
プロパーとして瀬尾レディースクリニックに出入りしている峰岸は、病院の人事や人間関係、諸事にやたらと詳しい。目立つ容姿をしている峰岸に熱をあげている若い看護師は少なくないから、大方その中の誰かからいろんな情報を聞きだしているのに違いない。
「明日はせっかくの休みなんでしょう。もう一軒、北山の方にいい店があるんです」
「どうぞ、お気遣いなく。お話をおうかがいしたら、失礼いたしますから」
煙草を銜《くわ》え、峰岸は苦笑した。
「どういうご用件なんでしょうか」
潤子は峰岸を見据えた。
「そうでした。大事な話があったんですよ」
背広の隠しから封筒を取り出し、峰岸はテーブルに置いた。
「ご覧になってください」
封を開けると、写真が出てきた。十枚ほどある。運動場らしきところで小学生の女の子が何人か写っており、全員、体操服を着て、赤白帽をかぶっている。
薄暗い照明の下で潤子は写真を手に取り、近くで見てみた。瞬間、手がふるえた。
女の子達の着ている体操服には白蘭学園の校章がはっきりと写っている。運動場で行進でもしているのだろうか。子供達は整然と並び、前を向いて歩いていた。
生真面目な表情をして大きく手を振っている前列の少女に、潤子の目は釘付けになった。
由梨だ。
潤子の口から小さく息が漏れた。
かなり背が高くなっている。手足がすらりと伸びて、首や頤《おとがい》が細くなった。そのせいだろうか。心持ち、頬の肉が落ちて面長になったように見える。けれど目の形や全体の輪郭は変わっていない。
二枚目の写真も、やはり真中に由梨が写っていた。縄跳びの縄を持って、隣にいる女の子と何か話している。
潤子は順に写真を見ていった。どの写真も、カメラの前に並んで撮ったスナップではなく、行進しているところとか、ジャングルジムに登りついているところや、鉄棒にぶら下がっているというような写真ばかりだった。カメラに向かって笑っていたり、ポーズをとっているというものは一枚もない。表情からして、本人は写されているということに、まったく気づいていないようだ。
「大きいならはったでしょう、由梨ちゃん」
煙草の煙を吐き、峰岸が言った。
「辻村さんに、白蘭学園にいってらっしゃるお嬢さんがおられることは、以前から知っていました」
灰皿に煙草を押し付け、峰岸は潤子の方に向きなおった。
「すみません。どうしてもあなたのことが知りたくて、調べました。あやまります」
峰岸は膝に手をつき、頭を下げた。
「本当に独身でいらっしゃるのかどうか、知りたかったんです」
過去を調べた結果、潤子に離婚歴があることや、由梨という娘を置いて婚家を出てきたことを知ったと、峰岸は悪びれずに話した。
「お一人で暮らしたはるというても、本当はご主人がいらして、別居したはるだけなのかも知れないし、そのあたり、ちゃんと確かめたかったんです。どうか、お気を悪うせんといてください」
言ってから、峰岸は新しい煙草を取りだした。
「他にもあるんですよ。見やはりますか」
思わず、頷いた。峰岸は満足そうに笑い、さらに違う封筒を背広の隠しから取りだした。受け取り、潤子は封を開けるのももどかしい思いで写真を取りだした。
やはり、体操服姿の由梨が写っていた。が、さっきとはなんとなく、写真の雰囲気が違う。同じように、運動場を走ったり、遊具で遊んでいる写真に違いないのだが、どうもさっきとは趣きが異なるのだ。
目を凝らし、見比べているうちに、潤子は胸にどんよりとした錘《おもり》をつけられたような気がした。
これらの写真はすべて、由梨の下半身を中心に撮られていた。臀部や太腿、下腹部のあたりに集中的に焦点が合わされている。
「僕も偶然、これを見つけたんですよ」
「偶然?」
写真を手に持ったまま、潤子は顔をあげた。
「こういうのを集めるマニアがいるんです。とくに、有名私立の女子校なんてのが人気があるらしい。生徒達のブルマー姿や水着姿の写真を集めている連中がいるんです」
水割りを飲み、峰岸は苦笑した。
「ロリコンてのは、世間で思われてる以上に数も多いし、マニアックな世界なんですよ。連中は幼稚園児も大好きですからねえ」
写真に写っているのは全員小学生だ。しかも、低学年である。中学生か高校生というのならともかく、こんな子供の写真を集める連中というのは、いったいどういう人間なのだろう。
「一種の病気ですね。大人の女を相手にしているより、小学生や幼稚園児に性欲を感じるというんですから」
「性欲」という言葉を聞いた瞬間、潤子の胸の奥の錘がさらに重くなった。
「こんな趣味については、大っぴらには言えませんからね。彼らは自分達のネットワークを作って、写真やビデオの交換や売買をやる。こういう連中がたくさんいるということは、また、こういう連中相手の商売も成り立つということでしてね。この手の写真を撮って商売にしているのもいるんです。実はこの写真も、業界のある人物が撮影したものなんです。見てください。これ全部、由梨ちゃんを狙ったものでしょう」
テーブルの上に写真を置き、峰岸は指さした。
「実は、由梨ちゃんに執着しているマニアがいましてね」
首の後ろがひんやりと冷たくなるのを感じた。
「言いにくいんですが」
眉をひそめ、峰岸はテーブルに肘をついた。小さく手招きされ、潤子は耳を近づける。
「狙っています、由梨ちゃんを」
潤子は目を見開いた。
「業界のあるプロに、白蘭学園小学部一年生の和久井由梨の体操服姿の写真を撮ってくれという依頼があったんです」
「どうして、そんなことを峰岸さんがご存知なのですか」
まあ、それは、と峰岸は曖昧に笑った。
「友人がね、業界にいるんですよ。そいつも違法行為すれすれのことをやってますから詳しくは言えませんが、この世界で長年、商売してる奴です。一緒に酒を飲んでいる時に、そいつがちょっと白蘭学園について口を滑らしましてね、話を詳しく聞いているうちに事情がわかったんです」
手に持ったグラスを、峰岸は揺らした。からから、と氷のあたる音がする。
「不特定多数の女の子の写真を撮ったり買ったりして満足しているうちはいいんですが、怖いのは個人の特定をしてくる奴でね。こういうのは将来、その子に近づいて何か仕掛けたり、ということが考えられる。ほら、小学生の女の子を誘拐して、自室に何年間も閉じ込めていた男がいたでしょう。ああいうことをやってみたいという奴が実際にいるんですよ」
首から後頭部にかけて、痺れたような冷たさが走った。
「病気ですからね、あいつらは。常人には想像もつかないようなことを考えつき、実行します」
「たとえば、どういうことを」
「連中が最後にやることは決まっていますよ。飼い殺しか、あるいは本当に殺してしまうか」
峰岸は潤子の目を見据えて言った。
「そのどちらかです」
焼けつくような痛みが喉の奥に走った。潤子は水割りのグラスを持ち、流し込むようにして飲んだ。
「すでに、予兆があります」
小さな紙袋を、峰岸はテーブルに置いた。
「ご覧になってください」
グラスを置き、潤子は紙袋を手に取った。
「中身は出さないで」
峰岸に手で制され、潤子は紙袋の中をのぞきこんだ。白い服のようなものが見える。
「これは」
「ええ、由梨ちゃんのですよ」
体操服が入っていた。手を入れてみると、厚い木綿の生地が指の先に触れる。ざわ、と紙袋が音をたてた。汗と埃の入り混じったような匂いが立ちのぼる。
本当に、由梨のものなのか。
紙袋の中に、潤子は目を凝らした。プリントされた白蘭学園の校章の下の記名欄に「一年三組三十三番和久井由梨」という文字が見えた。ブルマーにも、赤白帽にも、同じように記名してある。
潤子は深く息を吐いた。黒いマジックで書かれたそれは、見覚えのある姑の筆跡だった。
「あるマニアが、白蘭学園の校舎にしのびこんで盗んできたものらしいです」
「まさか。そんなことが、できるんですか」
白蘭学園は私立だ。校舎や設備に関しては、かなり金をかけている。セキュリティーに関しても、一般の公立小学校のそれとは比較にならない。潤子がそう言うと、峰岸は首を横に振り、苦笑した。
「セキュリティーシステムにしろ、ガードマンにしろ、所詮は人のやることですよ。どうにでも抜け道や方法はある。たとえば、ガードマンを買収したらどうなりますか。また、ちょっとした知識のある者がセキュリティーシステムの稼動時間帯を細工したらどうなるでしょう。もっといえば、セキュリティーシステムの設計者やガードマン自身が、こうした趣味の持ち主だったら、どうなると思いますか」
体操服に手をあてたまま、潤子は目を閉じた。
「部外者が由梨ちゃんの体操服を手に入れたんです。これは事実です。入手方法や僕のところにまわってきた経路について詳しいことは言えません。友人にも累が及ぶ可能性のあることですから。今日、ここに現物を持ってきたのは、辻村さんに事実を知っていただくためです。こういう話は、聞いただけでは本気にされないでしょうから」
グラスを置き、峰岸は潤子の顔をのぞきこむようにして言った。
「ご心配でしょうね。何しろ相手は心の病を持った人間ですから、いつ何をしでかすかわからない」
「由梨を狙っている人物というのは、峰岸さんはご存知なのですね」
「いえ、詳しいことは知りません」
「教えていただけませんか、その人物の素性について」
峰岸は何も答えなかった。
「お願いします」
咳ばらいし、峰岸はテーブルに両手を置いた。
「非常に微妙なところでしてね。下手をすると、僕の友人が捕まってしまうというようなことにもなりかねないんです。偶然、和久井由梨ちゃんという名前に覚えがあったものだから、ついこの件に僕は興味を持ってしまった。それについて友人が情報を教えてくれて、こうしたことを知りえたのです。そして、由梨ちゃんの体操服を取り返すこともできたんです。その友人を裏切るようなことはできないんですよ」
「お金ならお支払いいたしますから、どうか、お教えいただけませんか」
「いや、そういうことじゃないんです。仮にその人物について調べるにしても、もちろん、僕がすべて責任を持ってやりますよ。ただ、これ以上、この件に深くかかわることで、友人に迷惑がかかるのが僕としては困るんです。友人もこういう裏稼業に手を染めているということは、家族や周囲に内緒にしているものですから、彼の名誉は守ってやらないと」
「お友達にご迷惑をおかけするようなことは決していたしません。ですから、どうかご存知のことを教えてください」
「僕はただ、体操服の件や、写真撮影の依頼についての事実を、辻村さんにお知らせしておこうと思ったまでです。危険な状態にお嬢さんが置かれているのだということを、認識していただくためです。これ以上のことは、僕にもわからないとしか言いようがないんです」
「せめて、どういう経緯でこのことをご存知になったかだけでも、もう少し具体的にお教えいただけませんでしょうか」
峰岸は腕を組み、遠くを見据えるような目をして黙った。
「辻村さん。一つ、お願いしたいことがあるんですが」
「何でしょうか」
身を乗り出すようにして、潤子は言った。
「いや、いいです」
グラスを持ち上げ、峰岸は首を横に振った。
「おっしゃってください」
潤子のグラスに自分のグラスをあて、「よしましょう」と峰岸は小さく笑った。
「辻村さんにご迷惑になるようなことはお願いできませんから、本当にもう、いいです。僕はただ、辻村さんのお役に立ちたかったんです。由梨ちゃんを狙っている人物についてはいずれまた、折りをみて友人に訊いてみますから」
峰岸が話を変えようとしているのを見てとり、潤子は食い下がった。
「何なんでしょう。わたしにできることなら、何でもしますから」
にじり寄るようにして、潤子は言った。峰岸は眉間に皺を寄せ、新しい煙草を箱から抜きとった。
「実は、助けていただきたいことがあるんです」
「どういうことでしょうか」
「僕の親戚の女の子のことなんです。まだ高校生なんですが、妊娠してしまいましてね」
煙草に火をつけ、峰岸は煙を吐き出した。
「中絶手術を、してもらえませんかね」
え、と潤子は目をしばたたいた。
「困ってるんです。お願いできませんか」
「峰岸さん、何か誤解なさってませんか。わたしは看護師ですよ。医師じゃないんです」
「でも、助産師さんの資格を持っておられる。出産だけではなく、中絶手術についても立ち会ったり、手伝ったりしておられるでしょう。知識、経験についてはおありになるわけだ」
「医師免許のない者がそんなことをしたらどういうことになるか、あなたならご存知のはずでしょう」
「辻村さんにお願いしたいんですよ」
峰岸の目は潤子を見据えていた。高い鼻梁と濃い睫毛が深い翳を作り、目の奥の色をわかりにくくしている。そしてそれは、表情さえもわかりにくくしているのに、潤子は今さらのように気づいた。峰岸の目は澱んでいる。端整な顔立ちとは裏腹に、彼の目は深い沼を映しているのだ。
「第一、どこでやるんです。院内で秘密裏に手術するなんて、不可能ですよ」
もちろん、と頷きながら、峰岸は言った。
「あなたの部屋ですよ、辻村さん」
そんな、と潤子は息を呑んだ。
「部屋には器具も設備もありません。常識的に考えてください。手術なんかできるわけがないじゃありませんか」
「僕がどうにでも調達しますよ」
こともなげに峰岸は言った。息を吐き、潤子は首を傾げた。
本気で言っているのだろうか。
中絶手術くらい、どこの産婦人科医院でもやってくれる。法律の建前として堕胎は禁じられているが、医療現場では母体保護法は拡大解釈され、誰でも医院や病院で中絶手術を受けられる。もちろん、成年、未成年にも関係がない。健康保険はきかないものの、費用もたいした額ではない。堕胎が法律でかたく禁じられていた時代ならともかく、今の日本でヤミの中絶手術をしたところで、する方もされる方も何のメリットもないのだ。
潤子がそう言うと、「そうじゃないんです」と、峰岸は首を横に振った。
「病院にいきたくないっていう子もいるんです。僕の親戚の子なんですよ。医療機関にいくと親にばれるんじゃないか、いろんなことを訊かれるんじゃないかとか、恐怖心を持っているんです」
「親戚の子」というのは嘘だろう。「病院にいきたくないから」というのも、見え透いている。
もしかしたら峰岸は、無知な女の子に法外な値段をふっかけて、一儲けでもたくらんでいるのだろうか。だとしたら、とんだ見当違いだ。こんな危険を冒しても、たいした金をとれるわけではないのだから。
本来、ヤミというのは、正規の値段より格安であるとか、正規のものより格段に品質が良いという理由や根拠があって成り立つものだ。現在の日本の医療事情からいって、「ヤミの中絶手術」はそのどちらの要素も満たすものではない。
正規の医療機関で中絶手術を受ければ、設備にしろスタッフにしろ、最低限の質は保証されている。ヤミで同等のものを提供するというのなら、かなりの金額を客から取らないと採算が合わないだろう。
そして何より、やる側にとってのリスクが大き過ぎる。満足な設備やスタッフのないところで手術をするというのであれば、かなりの危険を伴う。万一のことがあった場合は、医療過誤とか業務上過失致死などではなく、殺人罪を適用されかねない。どちらにしろ、リスクばかり大きくて、商売として成立するようなものではない。
「辻村さんこそ、何か誤解なさっているのではありませんか。僕はその女の子から一切、お金など取りませんよ。嘘だと思うのなら、本人から聞けばいい」
潤子は峰岸を見た。唇に小さな笑みを浮かべてはいるが、目には鬱蒼《うつそう》とした翳を滲ませ、潤子を見つめている。
「由梨ちゃんを狙っている人物については、僕が責任を持って調べて監視します」
瞳の奥に濃い翳を刻んだまま、峰岸は言った。
手術着は青緑色だった。
こめかみの血管が薄青く浮き上がっている。手術用マスクとキャップの間にある目は潤み、伏せた睫毛がしばたたかれる度、底光りがする。
椅子から立ち上がった峰岸は、満足のために声もでない。
思った通りだ。
この女はこういう時こそ、最高に美しい顔をする。化粧気のない顔はいつにも増して白く、青みがかり、まるで刃物のようではないか。そのくせ、目の縁は濡れ、瞼の下のあたりには赤みがさしていた。
極度の緊張感と屈辱感にさらされた時、この女の目は潤んだ光を放つ。
昂ぶりが、押し寄せる潮のように鼓動を高めているのだ。だが、この女自身はそのことに気づいていない。
華奢《きやしや》な肩をいからせ、押し寄せてくる波を必死になってやり過ごそうとしている。
もう、無理なんだよ。
おまえが楽になる方法なんて、もうないんだよ。
細い頤と首を掴み、耳元で囁けば、きっとこの女は渾身の力をこめて抵抗するに違いない。そしてその時、もっと昏い光を目の奥から滲ませるだろう。
「峰岸さん」
潤子が呼んだ。我にかえった峰岸はあわてて返事をする。
「はい」
「点滴のルートを確保します」
ぴくりとも目を動かさずに潤子は言った。
ダイニングテーブルには滅菌布が敷いてある。その上に女が寝かされていた。女は、潤子の姿を目で追っている。
伝言ダイヤルで知り合った女だった。寝たのは一回だけで、その時すでに妊娠していた。名前も覚えていない。中絶の費用がいると言っていたから、峰岸が工面してやると約束した。
まだ十代の半ばだろうと思うが、女は、知り合いに手術をしてもらってやるからと言うと、喜んで承知した。
「駆血帯を縛って」
言われて峰岸は、女の腕をとった。
「もう少し強く」
潤子の声が、キッチンに響く。
中絶手術の依頼をした時、潤子はかなり戸惑い、抵抗した。だが、今はもう、逡巡の表情など微塵もない。
キッチンの床に新聞紙を敷きつめる時も、潤子は何も言わずに黙々と作業に徹していた。
「痛い」
腕をとられていた女が言った。峰岸は思わず潤子の方を見る。
「大丈夫よ。それくらい強くしないと静脈が浮いてこないから」
目で頷き、女は天井を向いた。
化粧を施していない女の素肌は、毛穴が開き、吹き出物だらけだった。ここに来た時には厚化粧だったのだが、潤子が落とさせた。術中に顔色や皮膚の状態を観察するためだと言って、マニキュアもとらせてしまった。
下半身を滅菌布で覆われた女は、緊張した面持ちで天井を見つめている。
点滴の針を持ち、潤子は言った。
「親指を握るようにして、力を入れて」
針が女の皮膚を刺す。女の眉間に皺が寄り、深く息を吐く音が続く。
「楽にしてて」
峰岸に持たせていた管を接続し、潤子は側管からラボナールを注入した。
「数を数えてください」
女は目を見開き、上を向いて、一つ、二つ、と子供のように声をあげた。が、十にまで達しないうちに声は途切れ、見ると女の首は弛緩して横を向いていた。
ドアを開けると、恐ろしく肥った女が立っていた。
十一月も末に近づき、今年一番の冷え込みだというのに、女はストールもコートもはおっていなかった。黒いレースを巻きつけたようなデザインのワンピースを着ていて、襟ぐりが大きく首の下まで露出している。といっても贅肉のせいで、どこまでが首でどこからが顎なのかよくわからなかったが。
「どちらさまでしょうか」
潤子の問いかけに、女は何も答えなかった。女の顔には見覚えがない。訝っている潤子を尻目に、女は「どうも」と軽く頭を下げ、当然のように中に入ろうとした。瞬間、スナック菓子の匂いがした。
「あの、どちらさまですか」
咎める潤子の手を振り切り、女は不敵に笑った。
「外で話すと、あんたが困るんやないの」
ドアノブを持って立ち尽くす潤子を押しのけるようにして玄関に入り、女は躯に似合わない華奢なミュールを乱暴に脱ぎ捨てた。薄汚れたピンク色のミュールは傷だらけで、踵《かかと》の部分のビニールがところどころ剥がれている。
ざわざわと音がした。見ると、女は手にコンビニの袋をぶら下げていた。袋の端から、スナック菓子とコーラのペットボトルが見えている。玄関にあがった女はリビングに続くドアを勝手に開け、入っていった。
「知ってるんやから。ここであんたがやったことは」
部屋を見回し、女は薄く笑った。
潤子が自室で中絶手術を行ってから、まだ一カ月くらいしか経っていない。この女は、誰からそのことを聞いたのか。話の出どころは峰岸か、手術を受けた当人しかあるまい。
「ここでやってもらうと、ただなんやろ」
躯を揺らして女は笑った。笑うと、それでなくとも肉厚な頬がさらに厚みを増し、鼻が肉に埋まったような顔になった。
「そんな怖い顔せんといて。大丈夫、誰にも言わへんから」
ソファに座り、女はコンビニの袋からコーラのペットボトルを取りだした。膝にペットボトルをはさんで蓋をまわし、鼻の頭の汗を手の甲でこすったあと、ごくごくと音をたてて飲み始めた。
「暑うてかなわん」
口を離し、女は息を吐きだした。
「あなた、どなたですか」
リビングのドアの前に立ったまま、潤子は言った。
「あたし? あたしは関口ひとみ」
そんなことを聞いてどうするのだと言いたげに口を歪めてみせ、ひとみはポテトチップスの袋を取りだして破いた。
「今日、お願いできるかな」
「何をですか」
ふふん、とひとみは笑い、ポテトチップスを食べた。ポテトチップスをつまむ指は、血を吸ったヒルの胴体のように膨れている。とても若い女の指とは思えない。肥った手足は幼児のそれを連想させる。ひとみの手を見ていると、小学生の肥満児のようだ。
そのくせ、小指は立てており、赤い石の嵌め込まれたピンキーリングまでしている。爪にはピンク色のマニキュアも施されており、一応、人の目を気にして身をかまうという行為には関心を持っているらしい。
化粧も、ファンデーションをたっぷりと厚塗りにしている。濃い頬紅は少しでも顔を小さく見せようとしてか、頬骨の下あたりに直線的に入れられていた。結果からいえば、それは逆効果としか思えなかったが、口紅やアイシャドウ、そして付け睫毛までも、ひとみはすべての部位に丁寧に化粧を施しているのだった。
「今さら、とぼけんでええから。全部聞いてるもん」
「どういうことでしょうか」
ひとみは哄笑し、「ええから、ええから」とポテトチップスを持った手を、顔の前で振ってみせた。
たぶん、言い逃れはできまいと、その時潤子は思った。突然の傍若無人な訪問者に、帰れとも言わずに向き合っている潤子の立場や状況が、すべてを認めている証拠なのだと、ひとみは承知している。
「あんたのやってることは、知ってるんやから」
テーブルとその周囲はポテトチップスの塩や欠片《かけら》が飛び散っていたが、ひとみは気にするふうもなく食べ続け、さらに袋からシュークリームの箱を取りだした。シュークリームは五個入りだったが、それらはすべて簡単にひとみの口の中に消えていった。
「ともかく、頼むわ」
空になった箱をぐしゃ、と潰してひとみは立ち上がった。潰れた箱がテーブルの下に落ちる。
「妊娠してるねん。なんとかして」
塩と油のついた手を胸の前ではたき、ひとみは着ていた黒のワンピースを脱ぎ捨てた。スリップも取り去ると、大きく膨れた腹部があらわれた。心窩部から下腹部にかけて盛り上がっており、すでに臨月が近いことを物語っていた。
極端に肥っているから、服を着ているぶんにはただの肥満と区別がつかない。しかし、下腹部の突きでるような出っ張りと、手をあてただけでわかる胎動が、腹の中身は単なる脂肪ではないことを示していた。
「無理ね」
腹部に手をあて、潤子は言った。
「なんで」
ひとみは口をとがらせて潤子を見下ろした。
「もう完全に後期よ。最終月経はいつ」
それが、と口ごもり、ひとみは首を傾げた。
「よう、わからへんねん」
「わからないって、どういうこと」
「ずっと不規則やったから」
「本当に最後の生理日、覚えてないの」
床に膝をつき、ひとみは頷いた。
「あなた、いくつなの」
「二十五」
「本当のことを言いなさいよ」
「そやから、ほんまに二十五」
潤子は大きく息を吐いた。
おそらく、本当のことだろう。ここで、潤子に年齢を詐称したところで仕方がないのだ。あまりにも肥っているから、四十代か五十代の中年女性の体型に見えるが、肌の色艶は中年のそれではない。
二十歳を過ぎた大人の女が、自分の最終月経の日付を覚えていないというのはめずらしいことではない。不妊外来の患者なら月経周期を詳細に記憶しているが、子供を欲しいと思っていない女は、自身の躯の状態や周期に無頓着なものだ。そして皮肉なことに、そういう無知で無頓着な女にかぎって簡単に妊娠したりする。
「いつ頃妊娠したか、自分で見当つかないの」
「たぶん、夏くらいかな」
「春よ。三月くらいが最終月経だったんじゃないの」
「あ、そうかも」
ひとみは他人事のように頷いた。
「今日お願いしたいねん。終わったら、今日中に帰れるねんやろ」
「無理ね。言ったでしょう」
「ねえ、一晩泊まらんとあかんの」
「そうじゃなくて」
「何が」
「妊娠中絶が」
「うっそう」
小さな目を見開き、ひとみは声をあげた。
「困る、そんなん」
「仕方ないじゃないの。中絶できない時期に入っているんだから」
「そんなん言うたかて、あたし、子供なんか今、産めへんもん」
「なら、もっと早くに処置するべきだったわね」
なんとかならないかと、ひとみはしつこく食い下がった。だが、すでに産み月も間近に迫っているような状態だ。どんな医療機関にいったところで、堕胎は無理だと断られるだろう。
「どうしてもっと早くに、なんとかしなかったの」
「そやかて、ほんまにわからへんかったんやもん」
「妊娠判定薬くらい、高校生でも持っているわよ。あんなもの、薬局で何百円で買えるのに」
「そうやけど、まさか妊娠してるて思わへんかったから」
過度の肥満者の場合、日頃から生理は不順で、周期が乱れている。規則的な生理周期というものが元来ないのだ。だから何カ月間か生理がなかったとしても、いつものこととして見過ごしたということはありえる。
妊娠中期を過ぎれば腹部は明らかに膨れてくるものだが、これだけの巨体だと、そんなものは今さら目立たないし、わからない。胎児の成長による起伏など、贅肉の中に埋もれてしまうからだ。肥満女性が、本人も周囲も臨月まで妊娠の事実に気づかなかったという笑えない話は、現実によくあることなのだった。
「ここまで来たら、どうしようもないわね」
ひとみは鼻から息をだした。
「本当は、もうちょっと前に気がついててん」
「いつ」
「先月」
「なんで、病院にいかなかったの」
「いった。そしたら、やっぱり、もう中絶できひんて言われた」
「当たり前よ」
なあ、とひとみは顔をあげた。
「なんとかならへんかなあ。ここやったらなんとかしてもらえるて、峰岸さんに聞いてきたんやけど」
やはり、峰岸がこの女に話したのか。
潤子は胃が重くなるのを感じた。これから先、峰岸が連れてくる「患者」の面倒を、自分はずっと見続けなければならないのだろうか。
「無理ね。ここまできたら産むしかないわね」
「そんな。産んだって、育てられへん」
潤子は何も言わずに立ち上がった。
「コインロッカーにでも捨てるしかないかなあ。それって犯罪なんか」
「犯罪よ」
うんざりしたようにひとみは息を吐き、肩を落とした。
[#改ページ]
第六章
四条通りからパチンコ屋の角を曲がり、木屋町を南に下がれば、人や車はまばらになって喧騒もわずかに遠のく。
高瀬川の柳が薄闇の中に揺れていた。灯り始めたネオンの明かりが浅い川面に映っている。
師走の京都は観光客も少なく、不景気も手伝ってか、夕暮れを過ぎても夜の街には活気がない。
肩で息をしながら、ひとみは木屋町を団栗《どんぐり》橋に向かって歩いていた。標準をとっくに超えた体重を二本の脚で支えて歩くのは、常人が想像しているほど楽なことではない。
全身にたっぷりとついた贅肉は、座っていようが横たわっていようが、常に背骨や足腰を圧迫している。余分の肉が躯についているということは、余分の荷物を背負っているということだ。それは寝ても覚めてもということで、たとえ熟睡している時でも贅肉という荷物をおろすことはできない。
人の数倍の「荷物」を持つひとみにとって、歩くことは重労働だ。数分も歩けば、冬でも全身から汗がじわりと滲み、呼吸が苦しくなって動悸がする。まして今は、妊娠しているのだ。贅肉に加えて、胎児という荷物までもがひとみの躯にしがみついている。
ローズピンクの華奢なミュールの踵はとっくに磨り減って、形が歪《いびつ》になっていた。どうせ修理したところで何日も持たない。靴はほとんど使い捨てだ。だから高いものは買わない。サイズが合い、安くて可愛いデザインのものを見つけたら買っておく。
冬だからといって、ブーツを履くということもない。ひとみの脹脛《ふくらはぎ》が入るサイズなどないからだ。最近は、靴のサイズが豊富になってきたというものの、それでも、甲や指にまで脂肪がついたひとみの足に合うものはめったにない。
その点、つま先にひっかけて歩くミュールなら、きちんと足を入れる必要がないので、厳密なサイズを気にする必要がない。夏でも冬でもひとみがミュールしか履かないのはそのせいだ。
団栗橋の手前までくると、西石垣《さいせき》通りのファッションマッサージの呼び込みの男達が立っているのが見えた。いつの頃からか、団栗橋と四条通りの間をつなぐ短い小道は、この手の店ばかりになってしまった。ほんの少し前までは、名のある料亭や旅館の並びだったのにと、店にくる客が嘆いていたことがある。
たぶん、バブルの後遺症なのだろう。気が狂ったとしか思えないような土地の高騰で、相続税の払えない老舗旅館や料亭は廃業を余儀なくされた。かわって参入してきたのがこの業界の奴らだったというわけだ。
こういうのを見たり聞いたりすると、ひとみはちょっと胸がすく思いがする。どんなに有名で格のある老舗でも、結局はあんな奴らにとってかわられて文句も言えやしないのだ。いい時にはさんざん威張っていたのだろうが、一度堕ちたら誰からも相手にされない。
ざまあ見さらせ。
蛍光のピンク色のネオンに向かって、ひとみは内心、毒づいてみせる。
ひとみの勤めているスナック「ロンド」は、団栗橋から高瀬川を渡り、路地をいくつか曲がったところにあった。ロンドは、ファッションマッサージから流れてくる、あるいは流れていく客が寄るような店で、このあたりの街並みの変貌を嘆く客にしたところで、その実、西石垣通りの風俗店のお得意様なのだった。
ロンドの並びは皆、戸口いっぱいの幅の店で、大抵はカウンターだけだ。よくてテーブル席が一つあるかないかというところで、店内では客同士がすれ違うこともできない。おかげでひとみは、一度カウンターに入ると、客がいる間は身動きもできないという有り様だ。
界隈の酒場のママ達は、ひとみの母親より遥かに年上の女ばかりだった。いや、下手をしたら、ひとみの祖母くらいの年頃の女だっている。もっとも、彼女達が年齢に関して本当のことを言うはずもなく、店内が薄暗いのをいいことに、皺の間に白粉と頬紅をてんこもりに塗りこんで客の相手をしている。あしらわれる客も客で、自分の母親ほどの年頃の女の酌に、さして文句も言わずに結構機嫌よく飲んでいたりする。
高瀬川沿いには、あやしげなホテルがたくさん建っている。ロンドの並びはいずれも「お持ち帰り」ができる店で、ホテルはそれらの需要に応えているというわけだ。さすがに今の時代には、このあたりもそんな店ばかりではないし、また、そういうことは何も知らずにふらりと入ってくる客もいる。
峰岸がそうだった。平井という常連客に連れられてきたのだが、ロンドの客の中で、一際目立っていた。
「お持ち帰り」が可能な店では、いうまでもなく「持ち帰る」客に選ぶ権利がある。当然ながら、少しでも若くてきれいな子から客がつく。
しかし、この界隈に「若くて」「きれいな」女はいない。それらの条件を満たす女なら、こんな場末ではなく祇園か先斗町あたりの高級クラブで働くことができる。そうすれば、もっといい客に恵まれて甘い汁が吸える。
あるいは、それこそ西石垣通りのファッションマッサージにでも勤めていることだろう。重労働でも手っ取り早く稼げる職場には、若くてきれいな女が集まるようにできている。
若さがあっても、美しさとはほど遠いひとみには、マニア向けの伝言ダイヤルか場末のスナックくらいしか行くところがなかった。伝言ダイヤルで客をつかまえるのは難しいことではないが、何しろその場かぎりの見ず知らずの男が相手なので、いつも危険と隣り合わせだ。
そんなわけのわからん男相手にしてたら、今に変態に半殺しにされるで。
ロンドのママに言われた。
そうかも知れない。けれど、ロンドに出ていたところで、客が簡単につくわけではない。
うちの店は、客筋がええので有名なんや。
ママはそう言うけれど、ひとみが見たかぎり、そうとも思えなかった。ベニヤに毛が生えたような薄いドアと、ひびの入った内壁は、いかにも安普請の造りで小汚い。たいした男が来るような店ではないことくらい、子供でもわかる。
客は、中高年の男かそれ以上の年寄がほとんどで、若い男などめったに来ない。自称五十歳のママは、どう見ても六十の半ばは過ぎている。昔、五条楽園に出ていたということを客の一人から聞いたことがあるが、その頃からのなじみの客というのが何人かいて、いずれも七十を過ぎた年寄ばかりだった。
体型に問題があっても若さだけはあるひとみを、ママは最初の頃、なんとかうまく利用しようとしていた。界隈で、二十代の女を置いている店などまずなかったからだ。
たしかに、ひとみを歓迎する客もいた。が、それはほんの二、三人で、ママがあてこんだような状態とはほど遠い。大抵の男はカウンターにいるひとみを見ると、なんだ、デブか、という顔をして黙って視線を逸らす。あるいは、そのままの言葉を口にだして言う。
ひとみが肥り始めたのは小学校の中学年くらいの頃からだった。父は小さな印刷会社に勤めるサラリーマンで、母は、ひとみが小学校にあがった時からパートに出ていた。母の勤め先は、ある時はスーパーだったり、和菓子屋だったり、新聞販売店だったりした。
姉が二人いて、いずれも少し肥り気味だったが、ひとみほど極端ではなかった。父も普通の体型で、母はむしろ痩せていた。
朝早くから夜遅くまで、両親はよく働いた。働くのが好きだったのだ。そうとしか思えない。
一家はアパートに住んでいたが、ひとみが小学校にあがった年に中古の建売りを買って引っ越した。路地のような狭い道に面した小さな家で、雨が降ると下水の臭いがしたのを覚えている。
小学校高学年の頃、学校帰りに偶然、母がガソリンスタンドで働いているのを見たことがあった。母は、若い女の店員達と同じように、赤いつなぎの制服を着せられていた。
帽子の後ろから、パーマで縮んだ髪が中途半端にのぞいているのがいかにも年寄臭く、普段はめったに化粧なんかしないのに、濃く塗られた頬紅や白粉が、よけいに周囲の若い女達との差異を際立たせていた。
同じクラスの女の子達が、通りの向こうで笑っていた。五、六人で顔を寄せ合い、ひとみと母を見て、ひそひそと話している。
ガソリンスタンドに入ってきた車に駆けより、母はフロントガラスを拭き始めた。スプレーをガラスにかけ、力をこめて拭いている顔は、唇を引き結んでいるせいか、とても角張って見えた。いつもは気がつかなかったけれど、眉間と口の横に深い皺があり、痩せているのに顎のあたりの皮膚がたるんでいた。
ひとみは黙って目を逸らした。
母がガソリンスタンドに勤めを変えるということは聞いていなかった。ずっと吹きさらしの屋外に出ている仕事なので、暖房のきいたスーパーでレジを打っているより、時給が五十円か百円、高いのかも知れない。
気がつくと、ひとみは走りだしていた。女の子達の笑い声が、耳の奥でいつまでも消えない。
家には誰もいなかった。ランドセルを置いた後、紙袋を持って近所のスーパーに行き、ポテトチップスやチョコレート、アイスクリーム、菓子パンを万引した。万引はそれまでも時々やっている。だが、こんなに大量に菓子を盗ってきたのはその日が初めてだった。
ひとみはテレビを見ながら一人でそれらの菓子を食べた。
その頃のひとみの一番の楽しみは、テレビを見ることだった。小さな箱の中に映る世界は本当にきらきらと輝いていて、いつも夢中になって見ていた。
いつか、自分もこの箱の中に入ってやる。必ず芸能人になって、この箱の中で歌を歌ったり、踊りを踊ったり、あるいはドラマに出演して、泣いたり笑ったりしてみせるのだ、と思った。
当時、好きな女性アイドル歌手がいた。長い睫毛と、ほっそりとした手足を持ったその歌手は、まだ十五歳だということだった。そんなに自分と年齢が違うわけではない。だから、自分だってもうすぐこの世界に入れる。
中学生になったらパーマをあてて、その歌手のような髪型にしようと思った。そしてオーディションを受けて、芸能界にデビューするのだ。
盗ってきたアイスクリームを袋から出し、ひとみはチャンネルを変えた。再放送の学園物のドラマはひとみのお気に入りだった。このドラマには、好きな男性タレントが何人か出演している。
チャンネルを合わせた後、ひとみは貪るようにアイスクリームを食べた。強烈な甘味が口の中にひろがる。同時に、乳製品の持つ濃い脂肪の食感が舌に残る。ひとみは満足し、安心した。飲み下す前に二口目を舌に乗せると、甘味と食感はさらに強くなり、濃くなる。だから、貪るように食べ物を口に入れ続ける。
テレビでは、ひとみの好きな男性タレントが学生服姿で、セーラー服の女性タレントに何か言っていた。女性タレントは目に涙をためて、男性タレントの方を見ている。同級生の男の子に好きだと言われて、女の子が泣いているというシーンだった。
アイスクリームを食べながら、ひとみは画面に見入った。夢中で見ているうちに、カップは空になる。今度はポテトチップスの袋を破いた。数枚を手に掴んで頬ばると、甘ったるさの残る舌にポテトチップスの塩味がなんともいえず心地よい。コーラで流しこむようにして、ポテトチップスも全部食べた。
だが、まだ満腹ではない。
チョコレートの箱を袋から取り出し、ひとみはパッケージを開けた。
こんなちっぽけな家に住んでいるのも、自分が少し肥っているのも、それは本来の姿ではない。本来の自分は、あの小さな箱の中で歌って踊る、長い睫毛とほっそりとした手足を持ったアイドル歌手なのだ。そう思った。
けれどその後、芸能界デビューの目標にしていた十五歳になっても、ひとみの手足がほっそりとすることはなく、また、美しくなるということもなかった。
中学生、高校生と、成長するにつれ、ひとみの肥満はひどくなっていった。万引は中学生の時に捕まってやめたが、過食はひどくなる一方だった。菓子を万引して補導されたひとみに、買い食いのための小遣いだけは両親が不足なく与えたので、ひとみの間食の量はさらに増えていった。
高校生くらいの頃から、ひとみはいつも何かを食べているというのが当たり前になった。食べていないと、気がすまないのだ。
学校でも四六時中、物を食べ続けるひとみに、担任が「関口さんて、食べてたら幸せなんやね」と言った。大学出たての女教師だった。とくに美しいわけでもないくせに、自分ではきれいだと思いこんでいるのが、傍で見ていてよくわかる女だった。
こいつにこんなことを言われる筋合いはないと思った。そう思うと、この女教師の顔を見る度、ひどく腹が立った。
ある日、クラスで盗難事件が起こった。財布の現金を抜き取られた生徒がいたのだ。現金といっても、たかだか千円か二千円のことだったのだが、女教師は俄然張り切って犯人捜しに乗り出した。
事件の翌日、ひとみは女教師に呼び出された。
「関口さん、本当のことを言ってよ。あなたが本当のことを言ってくれれば、わたしはそれでええのよ。このことは誰にも言わへんから。ただ、あなたがわたしに嘘をついているというのが、わたしは悲しいのよ」
なぜ、自分のことを犯人だと思っているのか。そう訊こうとして、ひとみはやめた。中学生の時、万引で補導されているからだ。
「知りません」
「先生にだけは本当のことを言って。わたしはあなたの本当のいいところを知っているし、そういうあなたを信じているの。だから、嘘を言わないでほしいのよ」
結局、ひとみはその二カ月後、高校をやめた。
父の知り合いの紹介で手芸用品の卸問屋に就職したものの、元来根気がなく、飽きっぽいひとみは半年と続かなかった。やめる時のきっかけは、お仕着せの上っぱりのサイズが合わなかったから、とかそんなことだったように思うが、理由は何でもよかったのだ。その頃、ひとみは家を出たいと思っていたからだ。
家を出てからは、大阪のミナミでスナックのホステスを始めた。店は何軒か変わった。どの店も何カ月かでやめては次に移った。
その頃からひとみは、伝言ダイヤルで「援交」の相手をさがすことを覚えた。一週間に二、三回もやれば、なんとか食いつなぐことはできる。仲の悪い同僚との鞘当てや、口うるさいママの小言を我慢する必要もない。
そのうち、次第に安易な「援交」に生活の糧を求めるようになっていった。「援交」が売春だという感覚はなく、相手も自分も納得したうえでの「仕事」だと思っていた。誰に迷惑をかけているわけでもないのだし、誰から文句を言われる筋合いもない。
だが、ひとみを相手にするような男は少なかった。電話で約束を取り付けても、実際に会った途端、逃げられることはしょっ中だった。
ある時、街を歩いていて配られていたテレクラのティッシュに、「デブ専」の文字を見つけた。人妻とか、SMとか、いろんなジャンル分けがあり、その中にデブの女を求める男のための専用回線があるという。
さっそく、電話をかけてみた。相手はひとみの年齢と体重と身長を聞いてすぐに会おうと言った。会ってみると、男は四十過ぎくらいの中肉中背のごく普通の勤め人のような感じだった。だから、そんなに危険とは思わなかったのだが、ホテルの部屋に入って服を脱いだ途端、ひとみの躯を縛りあげ、写真を撮り始めた。
その後はさんざんだった。本当に殺されるかと思った。このままでは訴えられると思ったのか、男は結構な金を置いて帰っていった。後で考えれば、かなり運がよかったと思うが、以来、ひとみはスナックの勤めにはなるべく出るようにした。
そのうち大阪にいるのもなんだか飽きてしまい、京都に出ていくことにした。三年ほど前のことだ。
しかし、京都に鞍替えしてからも「援交」をやめたわけではなく、今もまだ、伝言ダイヤルにはメッセージを入れている。めったにいないが、ひとみにやさしくしてくれる男もなかにはいたからだ。たとえ嘘でも、ひとみのことを「可愛い」と言ってくれる男にあたったりすると、うれしくなってしまう。そうなると、やめられない。
峰岸は、ひとみが今まで寝た男の中で、最高に見栄えのいい男だった。一度、あんな芸能人みたいに背が高くてきれいな顔立ちをした男と寝てみたいと思っていた。
だから、店にやってきた峰岸の酒に薬を仕込んだ。一時的に眠くなるだけの薬だから、心配はないとママは言っていた。介抱する振りをして、高瀬川の傍のホテルに連れこんだのはひとみだ。
けれど峰岸は、あれから二度とひとみに会おうとはしなかった。ひとみは、峰岸の生活のすべてを知りたくなった。惚れてしまったのだ。
住んでいるマンション、仕事先などに行って、待ち伏せをした。もう一度会ってほしい、と思った。だが、峰岸はひとみを徹底的に避けた。
そんなことを半年ほど続けていたのだが、夏の頃、ひとみは下腹部の奥の方で何かが動くのを感じた。最初のうちは気のせいだと思っていたのだが、動きは段々ひどくなり、また頻繁になっていった。
その段階でも、ひとみは自分が妊娠しているなどと、想像もしなかった。もともと生理は不順だし、周期などあってないようなものだった。年に何回か出血らしいものがある程度で、たいして気にとめたこともない。全身が贅肉に覆われているから、体型が変化するということもなかった。しかし、下腹部に感じる動きは確実に大きくなっていき、夏の終わり頃には、まるで躯の奥で魚が跳ねているような感覚があった。
秋になり、まさかと思って産婦人科病院に行ったのだが、すでに後期に入っているという理由で中絶は断られた。
誰の子なのか、わからない。峰岸を追いかけている間も、なじみの客と何度かの関係は持っている。だが、ひとみは峰岸の子だと思っている。「中出し」させてやったのは峰岸くらいだし、時期的にもたぶん、間違いない。峰岸の携帯に電話し、事情を話したのだが、彼は頑として自分がひとみと関係を持ったことを認めようとはしなかった。
しかし、実際に赤ん坊が生まれて認知でも迫られたら面倒だと思ったのか、中絶してくれるところを紹介してくれた。そこは病院でも医院でもなく、普通のマンションの一室だった。
女が一人で暮らしていて、その部屋でやってくれるのだという。いってみると、女の部屋番号の郵便受けには辻村潤子という名前が表示されていた。
病院では断られたが、こういうところなら無理をきいてもらえるのだろうと思った。それなのに、潤子は絶対に無理だと言った。
「もう、後期に入っているからできないわ」
関東弁で、潤子は病院の医師と同じことを言った。
冷たい目をした女だった。何かを拒絶しているような目だ。化粧気がなく、こけた頬が青白くて陶器のようだった。
ひとみは何度も懇願したが、潤子は無機質な声で「無理ね」と言った。それが、二週間ほど前のことだった。
なのに、昨夜突然、ひとみの携帯に潤子が電話してきたのだ。
「すべて引き受けてあげます」
相変わらず、抑揚のない声で潤子は言った。
「赤ちゃんはここでとりあげてあげます。その後の赤ちゃんのことも、こちらでなんとかします」
「え、どういうことなの」
突然の潤子の電話の意味がわからず、ひとみは問い返した。
「だから、産めばいいと言っているのです」
どちらにしろ、ひとみには出産という選択肢しか残されていないのだ。だから、潤子の言に従うしかない。
「あの、本当になんとかしてもらえるの」
「来週、うちへ来なさい」
潤子はそれだけ言って電話を切ったのだった。
腹圧怒責を潤子が禁じても、ひとみは唸りながら渾身の力をこめた。
脂汗の噴き出した顔面の毛穴が、黒い点のようにひろがっている。いきみ過ぎて、毛細血管が切れて内出血しているのだ。短息呼吸を行わせようとしたが、ひとみは動物のような声をあげ、大きく目を見開いて首を振った。
出産の時にあげる産婦の声というのは、およそ人間のそれではない。低い唸り声のあと突然、叫び声をあげ、喉が裂けるのではないかと思うほどの咆哮を放つ。
「力を抜きなさい。もう、いきんじゃだめ」
これ以上いきませると、会陰裂傷を起こす危険がある。胸の前で手を組ませ、息を短く吐くように言い、潤子は児頭の位置の確認をした。
軟産道の伸縮性は予想していたほど問題はなかった。ひとみのような極端な肥満体の場合、産道にも脂肪がついているので、大抵は難産となる。だが、ひとみの膣腔は広く、伸展性も充分にあった。
「力を抜くのよ」
痛みと恐怖のために、ひとみの目は見開かれたまま動かない。
初産婦は、経験したことのない強烈な痛みのために異常に興奮することもあれば、苦痛に対する恐怖心のために、最低限の思考力や認識力さえなくしてしまうこともある。興奮状態があまりにひどい場合は薬物を投与することもあるが、よほどのことがないかぎりそれはしない。いきみのコントロールができなくなるからだ。
陣痛の痛みが極に達した時、ひとみはかなり興奮した。子宮口が開大してからは放心したように虚ろな目をして、息をはずませている。
ひとみの脚が痙攣《けいれん》した。股関節、膝関節とも強く曲げさせていたのだが、潤子は脚を伸ばすように言った。だが、聞こえているのかいないのか、ひとみは声をあげて首を振るばかりだ。脂汗が顔からしたたり、首を振る度、汗が飛び散る。
吼《ほ》えるように、ひとみが悲鳴をあげた。
児頭が膣腔を下降し始めている。潤子はひとみの口にタオルを銜えさせた。
「噛んでおきなさい」
ひとみの顔が痙攣したようにふるえ、全身がこわばった。さらに強い波がきたらしい。児頭の一部が陰裂間にあらわれている。子宮は全開大で排臨はすでに認められていた。児頭は後退しない状態になっており、予想以上に早い発露の段階を迎えた。
「ゆっくり、息を吸いなさい」
児頭部分が旋回し始める。娩出だ。肩甲を確認し、潤子は胎向に沿って両手で補助した。
雪はまだ降っていた。
窓の外をのぞくと、周辺のマンションの出窓やベランダに、ツリーや電飾の灯りが見える。今夜はイブだった。カーテンを閉め、潤子はダイニングの椅子に座り、煙草に火をつけた。
ひとみはリビングの床で眠っている。ソファにあげてやろうかとも思ったが、あの大きな躯を潤子一人で抱き上げるのは到底無理だった。毛布とふとんを掛けてあるので、風邪をひくこともないだろう。
今夜はここに泊めて、様子をみるしかない。出血や子宮収縮の状態に問題がなければ、明日の朝帰宅させるつもりだ。
煙草の灰を灰皿に落とした時、物音がした。ひとみが起き上がろうとしている。
「寝てなさいよ」
ばさばさに乱れた髪に手をあてながら、ひとみは顔をあげた。
「それ、ちょうだい」
テーブルの上のグラスを見てひとみは言った。グラスには、氷と安いウイスキーが入っている。
「だめよ、アルコールは」
煙草の煙を吐きだし、潤子は言った。ひとみは頭を振り、脹《は》れた瞼をこすった。毛細血管が切れた皮膚は、毛穴のところが黒いかさぶたになっている。
「喉、渇いた」
ひとみは焦点の合わない目をして、潤子に言った。潤子はミネラルウォーターを冷蔵庫から出し、コップに注いだ。半身を起こしているひとみにコップを持たせ、立ち上がろうとすると、スウェットの裾を掴まれた。
「ねえ」
コップを持ったまま、ひとみが言った。
「どっちやった」
「何が」
「男やった? 女やった?」
ひとみは潤子を見上げている。
出産を終えたばかりの女というのは、どんな女でも疲労と安堵と脱力感がないまぜになった顔をしている。悶絶するほどの痛みや苦しみに耐え、全身から脂汗を何時間も滲ませるような難行の後にやってくる虚脱感は大きく、興奮状態がひどかった者ほど、その落差は激しい。今のひとみの目は落ち着きを取り戻しており、かすれてはいるが声にも人間らしい抑揚や張りが感じられる。
「今日って、クリスマスイブやんか。アーメンの神さんが生まれはった日やな」
脹れぼったい瞼の奥で、ひとみの目は昏く底光りしていた。
潤子は窓に目をやった。カーテンを閉めてしまったので、向かいのマンションのイルミネーションも、降る雪も見えない。
「なあ、どっちやったん、男? 女?」
「死んでいたわ」
「嘘」
怒気を含んだ声でひとみは言った。
「嘘や、そんなん。泣き声聞いたもん」
潤子は黙ってひとみを見下ろした。ひとみの目は赤く充血し、下瞼も膨れていた。
「死んだのよ」
「嘘や」
ひとみはコップを床に投げつけた。ガラスの破片が飛び散り、水が床に流れる。
「生きてるわ。知ってるんやから、あたしは」
しゃがみこんで、潤子はひとみの肩を押さえた。ひとみは潤子の手を振りきろうとしてもがいた。
「泣き声が聞こえたんやから、死んでるはずないやないの。生きてるにきまってるわ」
潤子はひとみの目を見据え、静かに言った。
「生きていたとして、それがあなたと何か関係があるの」
唇を半開きにして、ひとみは大きく息を吐いた。潤子は立ち上がり、灰皿に置いていた煙草をもみ消した。
「絶対に産めない、育てられない、だから中絶してくれって泣きついてきたのはあなたじゃないの」
新しい煙草を銜え、潤子は火をつけた。ひとみは肩で息をしながら潤子を見ている。茶色っぽい皮膚がどんよりとくすみ、薄い眉が歪んでいて、まるで老婆のようだ。肩をふるわせ、ひとみは「そやかて」と言いかけたが、潤子はそれをさえぎった。
「死んだのよ」
潤子は煙草の煙を吐きだした。
二日酔いでもないのに、昼間からアパートで一人で寝ているのは変な感じだった。
もう、下腹部を抉《えぐ》られるような痛みはない。だが、それでも子宮の奥に小さな鈍い痛みの塊《かたまり》があるのを感じる。立ち上がると腰のあたりに痛みがひろがり、動くのがなんだか怖い。だが、空腹感だけはあった。
「お腹減った」
ひとみは声にだして言ってみた。
天井を見つめ、食べたいものを考えてみる。そういえば、昨夜からまともなものを食べていない。
昨日の午後、部屋でテレビを見ながらプリンとショートケーキとポテトチップスを食べていたら、なんだか腰のあたりが急にだるくなってきて、それが次第に痛みに変わってきたのだった。おかしいなと思い、立ち上がった瞬間、湯のようになまあたたかいものが躯の奥から溢れてきた。
陣痛の始まる兆候やその症状については、数日前に潤子の部屋に行った時に聞かされていた。破水がおさまった後、ひとみはすぐに潤子に連絡した。そうした兆候があれば救急車など呼ばずに、まずは潤子に連絡するようにと言われていたのである。
その日、潤子は日勤だった。だから、携帯に電話してもつながらなかった。病院内では携帯電話は使用禁止なので、勤務中は電源を切っているのだ。携帯につながらない時は病院に電話するように言われていたひとみは、瀬尾レディースクリニックのナースステーションに潤子を呼び出してもらった。
電話で事情を話すと、すぐにマンションに来るように指示され、タクシーで丹波橋に向かった。ひとみのアパートは山科なので、三十分ほどで潤子のマンションに到着したのだが、それから後については、痛みのこと以外、よく覚えていない。
予想していたよりずっと強烈な痛みだった。身悶えしながら痛みに耐えているひとみの横で、潤子はいつものように表情のない顔をして、「力を入れろ」とか「力を抜け」とか、偉そうに言っていた。普段から、何を考えているのかわからない顔をした女だが、声にだけは底力があった。
だが、痛いものは痛い。痛いと躯がこわばるし、躯がこわばると全身に力が入ってしまう。すると潤子は、力を抜けと言って怒鳴る。息を短く吐けとか、吸えとか、命令するのだ。
ひとみは息も絶え絶えになりながら、何度も潤子に苦痛を訴えた。しかし、潤子は何もしてくれなかった。看護師なのだから痛み止めの注射くらい打ってくれるのかと期待したのに、潤子は冷たい目をして、のたうちまわるひとみを見下ろしているだけだった。
あの女は、本当に嫌な目つきをしている。
思い出すと、ひとみは無性に腹が立ってくる。腹が立ってくると、空腹感が増してくる。
食べたい。何でもいいから、食べたい。
といっても、ひとみの部屋には何も食材がない。料理などしないから、冷蔵庫にはコーラとアイスクリームしか入っていない。
ベッドから半身を起こし、ひとみはゆっくりと脚をおろした。腰のあたりが重いが、立ち上がれないことはない。歩いても、それほどの痛みは感じなかった。
冷蔵庫からアイスクリームとコーラをとりだし、一気にそれらを食べて飲んだ。アイスクリームはカップが三個あったのだが全部食べた。コーラは炭酸がほとんど抜けていて、単に甘いだけだったが、それでも全部飲んだ。ポテトチップスが残っていたのを思い出し、棚からだしてきて齧《かじ》ってみたけれど湿気《しけ》っていた。
いつもなら、もっといろんな菓子類を買いだめしておくのだが、昨日、産気づいてしまい、買物に行っていないのだ。
ひとみはコートをはおり、財布と鍵を持って外に出た。
天気のいい日だった。風は強いけれど、日の光は春のようにきらきらと輝いている。アパートの前の小道から表通りに出ると、風が埃を巻き上げていて、思わず目を閉じ、顔をしかめた。車がクラクションを鳴らして、ひとみのすぐ傍をものすごいスピードで走っていく。
往来というのはこんなに喧《やかま》しいところだったのだろうか。ひとみは立ち止まり、周囲を見回した。
信号が青になる。歩きだす人の流れに身をまかせるようにして、ひとみも横断歩道を渡った。道路に陽光が反射していた。その眩しさに目を細めていると一瞬、視界が揺れた。躯の奥から、熱いものが流れ出るのを感じる。驚いて全身がこわばったが、ひとみは横断歩道を渡りきった。
道路傍の喫茶店の自動ドアに、自分の姿が映っているのが見えた。太い躯はいつもと変わりないが、顔は別人のようだった。
顔の色は茶色だ。皮膚がくすんでいて、まるで病人だ。目の周囲が脹れ、盛り上がった下瞼のためにくっきりと隈が浮きあがっている。全体にむくんだ顔は疲れきった表情をしていて、毛穴には黒い点のようなかさぶたができている。
これが自分か。
ひとみは自動ドアの前に立ちつくした。
鏡を見るのは嫌いではない。鏡の中の自分の顔に化粧を施したり、手入れをしたりするのは大好きだ。
睫毛にマスカラを塗れば小さな目もはっきりとするし、厚めの唇にはパール入りの口紅がよく映えた。色や艶をたせば自分の顔が輝き、はなやいでいくのがわかるし、それを見るのは気分がいい。
たしかに自分は肥っているが、顔立ちはそんなに悪いわけではない。目が可愛いと言ってくれた男もいるし、鼻が高くないところがいいと誉めてくれた客もいる。
けれど今、自動ドアのガラスに映っている自分の顔といったら、どうだろう。
生気のない目が、こちらを見つめていた。自身のあまりの醜さに、あきれたような顔をしている。
突然、空腹感がこみあげてきた。
ひとみは再び歩き出し、いつものコンビニに着いた。カゴを持ち、生菓子のコーナーに直行する。
コンビニは大好きだ。好きな物を好きなだけカゴに入れて、レジに持っていけばいい。店員は何も言わずにバーコードを打ち、ビニール袋に品物を詰めてくれる。
同じ洋菓子を買うのでも、専門店だともどかしくてかなわない。ショーケースの前で一つ一つの菓子を指定し、店員に伝えなければならないからだ。
注文の後は、菓子が包装されるのを店先で待たされる。それはひとみにとって、おそろしく長くて無意味な時間だ。どうせ、箱も包みも、持って帰って食べればすぐに捨ててしまうというのに。
さらに不愉快なことに、洋菓子屋の店員は大抵が若い女だ。彼女達はひとみの躯を無遠慮に見つめる。菓子を吟味したり、あるいは包装や精算を待っているひとみを、含み笑いをしながら見ているのだ。
肥っているくせにまだ食べるのか、とその目は言っている。あるいは、そんなに食べるから肥るのだ、と嘲笑っている。
大きなお世話だ。
いずれ、あたしは痩せるのだ。時期がくれば、あたしは必ず痩せてきれいになる。その時がきたら、あんた達には何も言わせない。
ひとみは商品棚のタルトを手に取った。瞬間、甘い匂いが漂う。目を閉じて、咀嚼《そしやく》する時を思い浮かべずにはいられない。ふんわりとした、乳脂肪と砂糖がまじり合った芳醇な匂いは、ささくれだった気持ちもとろりと溶かしてくれる。
目を開け、ひとみはタルトをカゴに入れた。さらにケーキやプリンも数種類選び、スナック菓子のコーナーに向かう。お気に入りの銘柄はきまっているが、目新しいものがないか、全部の棚を確かめなければ気がすまない。その後、カップラーメン、菓子パン、清涼飲料水と、手当たり次第に品物を入れていく。すでにカゴの中は満杯だ。コーラのペットボトルは手に持つしかない。
普段通りの買物を終え、ひとみはアパートに帰った。テーブルに菓子を並べて、いつものようにベッドにもたれてテレビを見る。
テレビでは、ずいぶん古いドラマの再放送をやっていた。あまりおもしろそうではないと思いつつ、それでもつけっ放しにして、菓子を食べた。食べていると、ひとみは次第に自分の躯や心が回復していくのを感じる。
ペットボトルの蓋を開け、直接口にあてて飲んだ。炭酸の泡が口の中ではじけ、小さな空気の粒が音をたてる。甘味と発泡の感覚が喉の粘膜に心地よく、ひとみは飲みだすとやめられなくなる。ようやく、息が苦しくなって口を離す時には、唇が軽く痺れていた。
ふう、と息を吐き、ボトルを置いた。その時、また、躯から熱いものが溢れてくるのを感じた。
ひとみはトイレに行って、出血の手当てをした。
血の塊が出ていた。
昨夜の痛みと苦しみの記憶が蘇る。
自分は、赤ん坊を産んだのだった。
なまなましい痕跡に、ひとみは目眩がしそうになる。
だが、これは残骸だ。
赤ん坊がたしかに、ひとみの子宮で生きていたという証拠であり、また、すべてが終わったというしるしでもあった。
洗面所で手を洗い、鏡を見てみた。まだ、顔の色は茶色だ。皮膚はくすみ、隈もくっきりと浮かびあがっている。ひとみは顔を洗った。頬の小さなかさぶたに、水の冷たさがしみる。
顔をあげ、力をこめてタオルで顔をこすった。その時、下腹部からなまあたたかいものがぬるりと降りていくのを感じた。あわててトイレにもどり、あてていたナプキンを見てみると、さっきよりずっと大きな血の塊が出ていた。
急に寒気がする。背中から腰のあたりが冷たいような気がした。それなのに、顔は火照っている。とりあえず手当てをすませてトイレから出たものの、ひとみは不安になってきた。
しばらくは悪露《おろ》は続くと潤子から聞いているが、こんな大きな血の塊が出ていて、大丈夫なのだろうか。しかも、血の塊は赤というよりは、ほとんど黒に近いような色だった。
気を取り直し、残っていた生菓子を食べた。甘い香りはいつもの通りだけれど、なんだか乾いた味がする。乳脂肪の味と香りも、舌に残るほどの濃さがない。それでも、ひとみはすべての生菓子を食べた。
全部食べ終わった後、コートをひっかけてアパートを出た。ひどい寒気が続いていたが、なんとか表通りまで歩き、タクシーを拾った。
「丹波橋まで」
乗り込んで行き先を告げた途端、吐き気がしてきた。吐き気をこらえていると、冷や汗が滲んでくる。タクシーが墨染《すみぞめ》のあたりにさしかかった時には全身に汗をかいており、ひとみはぐったりとして目を閉じていた。
「お客さん、ここからどない行ったらよろしいねん」
運転手のぶっきらぼうな声に、ひとみは目を開けた。
「この道、まっすぐでいいです」
もうすぐだ。
ひとみは自身を奮いたたせ、顔をあげた。吐き気は少しおさまってきたが、寒気はまだ続いている。
「ここを左に曲がってください」
国道から小道に入り、潤子のマンションの駐車場が見えた。ひとみは目を凝らした。
潤子はマンションにいるだろうか。
アパートを出る前に、携帯に電話しようかとも考えたのだが、どうせ冷たくあしらわれるだろうと思い、やめた。あの女はそういう女だ。
マンションに直接出向いて行けば、潤子もなんとかせざるをえないだろう。ドアの前で騒がれたり、倒れられたりしたら、困るのは潤子だ。もし、潤子が勤務中なら、瀬尾レディースクリニックに駆け込めばいい。
「ここでいいです」
マンションの駐車場の前で、タクシーは止まった。
とりあえず、ここから携帯で電話してみようか。乗車料金を払いながら、ひとみは考えた。
釣り銭を待っている時だった。マンションの玄関から、中年の男と女が出てくるのが見えた。女は大きな荷物をかかえている。
いや、荷物ではない。あれは、赤ん坊だ。
二人の後ろを、見たことのある女が歩いてきた。潤子だ。
ひとみは息を呑んだ。
「お客さん、お釣り」
運転手が小銭を後部座席に向かって差し出した。が、ひとみの目は駐車場を歩く男と女に釘付けになっている。
彼らは、駐車場に止めてあった白い車に向かって歩いていった。男が後部座席のドアを開け、女が乗り込む。男が会釈し、運転席に乗り込んだ。潤子は玄関からそれを見ている。ほどなくエンジンの音が響いて、白い車は駐車場を出ていった。
「ちょっと、お客さん、お釣りでっせ」
白い車はタクシーの前を通り過ぎていった。
「運転手さん、あの白い車を追いかけてください」
ひとみは前を見据えて言った。
赤ん坊は、哲也という名前をつけられていた。
途方もなく大きな屋敷で、近辺のそれとは比べ物にならない敷地と門構えを持った家だった。
潤子のマンションの駐車場で、夫婦の車を見た日から一カ月が過ぎようとしていた。
ひとみは中古の軽自動車を買った。痛い出費だったが、有り金をはたいた。この二週間、ほとんど毎日、ひとみは赤い軽自動車に乗って、榊原の屋敷の様子を見に来ている。
通りをはさんだ屋敷の向い側には、古い材木を積んだ空き地があり、そこに車を止めていれば玄関先がよく見えた。空き地は道路より少しばかり高くなっており、屋敷を見下ろす形になっている。正門の向こう側にあるガレージの門扉はアルミ製のアコーディオン式のものだったので、そちらからは中庭の一部が見えた。
天気のいい日には、哲也を抱いて女が中庭にでてくる。六十前後の女が抱いていることもあった。時々、男がそれを傍らで見ていることもある。
男はこの家の当主で、榊原陽介という。女は陽介の妻美津子、六十前後の女は陽介の母親で、クニ代というらしい。
美津子に抱かれた哲也は、いつも眠っていた。こんなに離れたところから、おくるみの中に埋もれた哲也の顔を見るのは難しいことだったが、それでもひとみは食い入るように見つめた。
哲也は目を閉じたままで、睫毛は動きもしない。日の光が眩しいのか、わずかに首を振るような動作をすることもあった。美津子はおくるみの端をかき合わせて頬ずりをし、何ごとか言っては微笑んでいた。そんな美津子の様子を、陽介が写真に撮っていることもあった。
榊原家は、雲ヶ畑でも屈指の旧家で資産家だった。あたりの土地や山を所有し、林業を生業としているらしい。所有する不動産は、金銭に換算すればおそらく莫大な額となるだろう。
哲也はその大金持ちの旧家の跡取なのだ。近辺では、美津子が哲也を出産したと信じられており、哲也は陽介夫妻の長男として扱われている。
ひとみはあたりの公園や雑貨店などで、それとなくさぐりを入れた。榊原の家のことを知らない者はなく、長い間子供ができずにいた陽介夫婦のことは、以前から跡取の問題なども含めて注目の的になっていたようだった。
「結婚して十年以上も子供さんができはらへんかったのに、やっと生まれはったんや。それも男の子で」
長年、不妊に悩んでいた夫婦に突然、子供が生まれたのだと、人々は感心して話していた。どこそこの神社の子授けのご利益があったのだと言う者もいたし、大阪の有名な不妊治療専門病院に長年通った成果だと言う者もいた。
「皆びっくりしたがな。お嫁さんの歳が歳やし、親戚から養子さん貰わはるとか聞いてたさけ。まあ、年末に無事に男の子が生まれはったんで、榊原の家もひと安心や」
どうやら美津子は妊娠を装って暮らしていたらしい。近辺の人々は美津子が大きなお腹をかかえていた時の様子を見ているし、美津子自身も、年末か正月が予定日だと周囲に話していたという。
ひとみは助手席に置いていたコンビニのビニール袋からポテトチップスをとりだし、食べ始めた。
それにしてもこのあたりはどうしようもない田舎だ。とても京都とは思えない。道を行き交う人などまずいなくて、いても年寄がほとんどだ。
彼らが話す言葉は、ひとみが知る京都弁とは違っている。険しい山に閉ざされた雲ヶ畑の景色は、京都市内の街並みとはまったく別のそれで、言葉も何もかもが違う。だが、ここで生まれて育った者は、おそらく街なかの猥雑な雑踏や埃っぽさなどは知らず、かわりに、秩序正しく植林された山肌や手入れの行き届いた段々畑などを見て暮らしている。ここには排泄物の臭いの立ちこめる駅の階段や、人が吐いた痰やガムのこびりついた舗道もない。あるのは山だけだ。
それも悪くはないかも知れない。だが、ひとみはごめんだ、と思う。こんなところは退屈でたまらない。
息を止めてペットボトルのコーラを一気に飲んだ後、ひとみは屋敷に目をやった。
今日は屋敷の門扉は開け放たれていた。門の向こうには広い前庭があり、玄関に続く敷石が見えている。敷石の周囲には苔がむし、山茶花《さざんか》の垣根に仕切られた中庭に続く小道の脇には大きな手水鉢《ちようずばち》がある。
さっきから、紋付を着た年寄や着飾った男女や子供達が、門を入っていくのを何度も見た。もう少し前には、仕出屋の配達のバンが勝手口の前に止まり、木枠の箱をいくつも運びだしていた。どうやら、祝い事があるらしい。
結婚式でもあるのだろうかと思ったが、それにしてはくだけた服装の子供もいるし、新婦の到着もない。婚礼に、黒留袖を着た女が一人もいないというのもおかしい。ということは、披露宴ではあるまい。
もしかして、哲也のお披露目でもやるのだろうか。そうだ、そうに違いない。
これだけの旧家なら、跡取の誕生を祝って係累が集まるということをやるのだろう。たぶん、あの広大な屋敷の中には宴席が設けられ、哲也は親戚から祝福されているのだ。
そう思うと、ひとみはなんだか誇らしいような気持ちになった。自分の産んだ赤ん坊が、莫大な財産を持った旧家の跡取として認められ、皆の祝福を受けているのだ。赤ん坊はやがてこの家の当主となり、財産を管理し、一族を束ねていく。このあたりの集落の尊敬と注目を一身に集め、地域を統括していく人間になるのだ。
自分が死ぬほどの思いをして産み落とした赤ん坊が、すべてを支配し、采配する。
ひとみにとって、それは痛快で胸のすくような話だった。誰も知らないが、これは間違いのない事実なのだ。
二日後、ひとみはまた雲ヶ畑までやってきた。その日は真冬とは思えないほど暖かな日だった。
いつものように空き地から屋敷の様子を見ていると、ガレージを歩いてくる美津子の姿があった。美津子はベビーカーを押していた。ベビーカーには毛布が掛けられ、哲也の頭には手編みの毛糸の帽子がかぶせられているのが見える。
アコーディオン式のガレージの門扉を開け、美津子がベビーカーを押しながら出てきた。息をつめるようにして、ひとみは車の中からそれを見ていた。
美津子は緩い下り坂の道をゆっくりとベビーカーを押していく。ひとみは車を降りた。距離を保ちながら、美津子の後ろをついていった。対面式になったベビーカーの哲也をのぞきこむようにして美津子は歩いており、後ろを歩くひとみに気づく様子もない。
やがて道路の左手に石の鳥居が見えてきた。美津子は鳥居をくぐっていく。境内には、古いブランコと滑り台があり、ちょっとした児童公園のようになっていた。子供達が遊んでおり、ベビーカーを押す母親達の姿もある。
本殿に続く石畳を歩きながら、ひとみは美津子の姿を目で追った。美津子はブランコの脇のベンチに座り、ベビーカーの毛布に手をやっている。
立ち止まり、ひとみはベビーカーの中に目を凝らした。初めて間近に見る哲也の顔だった。
哲也は目を閉じ、手のひらを耳の横でぎゅっと握りしめていた。閉じられた瞼の皮膚は薄く、細い血管が透けて見えている。なめらかそうな頬は桃の表皮のような色をしており、透明な産毛が日の光に反射していた。
美津子がベビーカーを片手で動かしてやると、木漏れ日が顔にあたり、哲也は時々眩しそうに顔をしかめ、首を動かした。
ひきこまれるように、ひとみはベビーカーをのぞきこんだ。
なんと、やわらかそうな頬をしていることだろう。
血色のよい皮膚が、健康な赤ん坊であることを物語っていた。満ち足りた寝顔は、さらなる成長と幸福な将来を予感させ、ひとみの胸の奥にも安堵の思いが芽生える。
どんなに高価な陶磁器も、赤ん坊の頬の輝きにはかなうまい。
あの赤黒い血の塊の中から、こんなにつややかな皮膚をした赤ん坊が生まれてくるとは。
ひとみは胸を衝かれ、息を呑む。
「哲也、眩しい?」
ベビーカーの庇《ひさし》の角度を調節しながら、美津子が言った。
「眩しいなあ、今日はええお天気やから」
庇の陰が顔のあたりに来るようにして、美津子は哲也に笑いかける。
「ほら、これでもう眩しいないな」
まだ、人の言葉など解するはずもない、しかも眠っている赤ん坊を相手に、美津子は問いかけ、微笑し、そして答える。
「暖かいなあ。お日さんがよう照って、今日はええ日やなあ」
美津子の顔は自信に満ちている。
「たんと、お日さんにあたっときや、哲也」
ふと顔をあげ、美津子はひとみに視線を投げた。目が合い、美津子は小さく笑い、軽く会釈した。そしてまた、哲也に何かを話しかけ、抱き上げた。まだ首のすわらない哲也の頭の下に手を入れ、すばやく胴体をかかえて膝に載せる仕草は手慣れていていた。
「ほら、おばちゃんに、バイバイって」
哲也の手首を持ち、美津子は軽く揺すってみせた。
ひとみの胸に小さな棘が刺さる。
この女がこんなにも自信に満ちた顔で哲也を抱き、笑っているのは、それは本来あるべき姿ではない。
哲也を抱いて笑っているのは、本当はあたしでなければならないのだ。なぜならあたしは、子宮から恐いほどの血を流し、死にそうなほどの苦痛をこらえて哲也を産んだ本人だからだ。
美津子は、血を流してもいないし、苦しんでもいない。そんな奴がなぜ、ここでこうして哲也を抱いて笑っていられるのだ。いったい、誰がそんなことを許したというのだ。
胸に刺さった小さな棘は、思いもかけない強さでひとみの心を抉った。
奥底に、暗い渦が巻き起こる。
あの日、突き上げるような痛みを作りだし、大量の血を流させたのは、この渦だった。ひとみは覚えている。海のうねりがやがて高波になり、しぶきをあげて逆巻いた時、どうしようもない風が吹き荒れた。満潮の海は渦を作り、渦は抗い難い力と強さでひとみの躯の中を突き抜けていったのだ。
一度生まれた渦は、消えはしない。奥底で、また風が吹くのを待っている。風を得て、潮が満ちれば海はまた暴れだす。その証拠に、渦は今にもひとみを駆り立ててすべてを巻き込み、奪い去ろうとしている。
この女を突き飛ばし、哲也を奪い返すくらい、簡単なことだ。美津子は小柄だし、ひとみに体当たりされたらひとたまりもないだろう。
だが、軽自動車を置いているあの空き地まで、逃げきることができるだろうか。肥ったひとみは歩くだけでも大変なのに、赤ん坊を抱いて走るなどということができるだろうか。しかも、あの空き地に行くには、榊原の屋敷の前を通らなければならない。美津子が屋敷に助けを求めれば、誰か人が出てきて、哲也を奪い返すに違いない。
哲也を見つめながら、ひとみは自身の奥底の渦に問いかけてみる。
もっと、うまい方法があるのではないか。
ひとみは目を閉じ、息を吐いた。
その時、背後で男の声がした。
「美津子」
陽介が参道を歩いてきた。
「鞍馬の伯母さんが来たはるんや」
立ち上がり、美津子はベビーカーに哲也を乗せた。
「すぐにもどるわ」
美津子は哲也に毛布を掛け、ベビーカーを押して歩き始めた。陽介が寄り添うように傍らを歩き、二人は鳥居をくぐっていった。
ひとみは石畳の参道に立ち、二人の後ろ姿を見送った。
突然、空腹を感じた。
[#改ページ]
第七章
哺乳瓶の乳首と消毒液をカゴに入れ、美津子は離乳食のコーナーに行った。ベビーカーの哲也は眠っていないが、機嫌よくしている。
北大路の大型スーパーには専門店も入っているし、大抵のものはここで手に入る。月に何度かはこのスーパーで買物をするのが習慣だった。
乳幼児用のグッズや食品類を見るのは楽しい。スーパーに来たついでに、いろんな道具や新製品を物色していると、時間がいくらあっても足りない。
生後二カ月に満たない哲也に離乳食はまだ早いけれど、美津子はそれらの商品が気になって仕方がないのだった。棚には、瓶詰めのものやパック詰めのものが並び、メニューは野菜でも果物でも魚肉でも、どんなものでも揃っていた。
瓶に貼られたラベルやパッケージには、子供用の可愛い食器に盛り付けられた離乳食の写真が印刷されている。あるいは、赤ん坊が自分でスプーンを持って笑っている写真やイラストなどが添えられていた。
「赤ちゃんの喜ぶ薄味です」「栄養バランス百点満点」「野菜が好きになるメニュー」などとラベルに書かれたそれぞれの商品を見ていると、そのすべてを試してみたくなる。
出産祝いに、離乳食用の食器や調理器具のセットなどは貰っていた。美津子は早くそれらを使ってみたくてたまらない。哲也のために、いろんな離乳食を作ってやりたいのだ。美津子の作った食事を哲也が食べるところを想像するのは楽しい。すでにいろんな育児雑誌を買ってきて、レシピも切り抜いてある。
今の哲也は哺乳瓶でミルクを飲んでいるだけだ。もちろん、一心にミルクを吸い続ける哲也の表情は可愛いし、見ていて少しも飽きることはない。けれど、哺乳瓶以外のものを口にする哲也も早く見てみたいのだ。
美津子は時々、哲也にスプーンで離乳食を食べさせる時のことを想像する。エプロンをつけさせて、ベビーチェアに座らせたら、きっと哲也は期待に満ちた目で美津子の手元を見るに違いない。
おいしいものをいっぱい、食べさせてあげる。お父さんやお母さんがいつも食べているものの味を教えてあげる。
だから哲也、早く大きくおなり。早く、お父さんやお母さんと同じものが食べられるように、大きくおなり。
陽介は、すでに哲也のための三輪車まで買ってしまった。クニ代も哲也の服や玩具をよく買ってくるが、サイズが幼稚園児用のものだったり、リモコン式のミニカーとか、どう考えても何年も先でなければ使えないようなものまで買いこんでくる。
一月の末頃から天気の良い日には時々、近所の神社や公園などに哲也を連れて散歩に出かけている。日光浴や外気に慣らさせるだけなら、屋敷の庭や裏山でもよいのだが、神社の隅にある児童公園に行くと、小さな子供達や母親達がいる。
哲也には子供達の声が刺激になるらしく、いつもより活発に手足を動かしたり、周囲を確かめようとして首をまわしてみたりする。そういう時は表情も格段に豊かになり、目も輝く。美津子はそんな哲也の様子を見るのがうれしくてたまらない。
公園で、集まった母親達からそれぞれの赤ん坊の生活の様子を聞くのも楽しいことだった。便利なグッズ類を教えてもらうと、美津子も必ず真似して買ってくる。赤ん坊を持つ母親達とは自然に交流ができ、情報交換が始まる。雑誌や通販のカタログで目新しいものを発見すると、お互いに見せ合って教え合うのだ。
商品棚にあった「ほうれん草とビーフのすりつぶし」という離乳食の瓶を手に取り、美津子は微笑んだ。公園で会う母親の一人が、とてもいいと言っていた商品だ。他のものはあまり食がすすまないのに、これだけは喜んで食べてくれると話していた。哲也には少し早いけれど、どうせ、もうすぐいるものなのだから買っておけばいい。賞味期限さえ確認しておけば無駄にはならないのだから。
隣の棚には箱入りのものが並んでいた。湯か水を入れるだけで番茶や野菜スープができると、説明欄に書いてある。これは便利かも知れない。美津子は箱の一つを手に取ってみた。
「可愛い赤ちゃん」
女の声がした。
振り向くと、見知らぬ女がしゃがみこみ、ベビーカーの哲也をのぞきこんでいた。
「ほんとに可愛いわ」
美津子を見上げ、女は笑った。
「この赤ちゃん、何カ月なんですか」
「一カ月半です」
「そうですか。すごくしっかりしてはるわ」
哲也の頬を撫で、女は立ち上がった。とても肥った女だった。
「あたし、もうすぐ予定日なんです」
あまりに肥っているのでわからなかったが、女はマタニティードレスを着ていた。
「だからもう、赤ちゃんのことが気になってしまって」
臙脂色《えんじいろ》のマタニティードレスの裾を軽く手ではらい、女はうれしそうに話した。つられて美津子も笑った。
「予定日はいつなんですか」
「来月なんです」
「それは、楽しみですね」
「ええ、主人もとても楽しみにしてくれてますの」
でも、と女はベビーカーの哲也に目をやった。
「こんなに元気な可愛い赤ちゃんが生まれるかどうか、すごく心配で。初めてなものですから」
「大丈夫ですよ」
「ああ、羨ましい。こんな可愛い赤ちゃんがいやはって」
目を細め、女は哲也に笑いかける。
「今日は子供のものを揃えておこうと思うて、買物にきたんです。本当はもっと早くに用意しとかなあかんのやけど、でも、用意した途端、何かあったらいややしなあと思うて、わざと今まで何も買わなかったんです」
「まあ、そうなんですか」
「この赤ちゃん見たら、なんかすごくうれしくなってきたわ」
「あと一カ月ですものね」
「あの、教えていただけませんか。赤ちゃんに必要なもの。用意しておかなければならないものとか、よくわからないことも多くて」
女は美津子の顔色をうかがうように、首を傾げた。
「いいですよ」
「わあ、うれしい。ありがとうございます。こういうこと教えてくれる人、いいひんもんやから」
両手を顔の前で合わせ、女は子供のように笑った。その時、哲也がむずかり、泣きだした。
「ごめんなさい、ぼつぼつミルクの時間なんです。おむつも見てやらなあかんし」
「あ、ベビー休憩室、こっちにありましたよね。手伝います」
ベビーカーの前に立ち、女は案内するように歩きだした。ベビー休憩室は、ドラッグストアとベビー服売り場の間にある。美津子はカゴを置き、売り場を出た。
休憩室に入ると、すでに何組かの親子がいて、授乳やおむつの交換などをしていた。部屋の真中には大きな台があり、台は木枠で仕切られている。それぞれの枠の中にベビー用のふとんと枕が置いてあり、赤ん坊を寝かせられるようになっていた。
美津子は泣いている哲也を抱き上げ、台の上に寝かせた。トートバッグから紙おむつを取りだし、服のボタンをはずしていく。哲也はむずかり、手足を動かした。
「ええ子やね、もうちょっと、じっとしてよし」
言いながら、女は哲也の頭を撫でた。美津子は哲也のおむつを手早く交換し、服を着せたが、その間、女はずっと哲也の頭を撫でていた。
取り替えた紙おむつを捨て、部屋の隅の洗面台で手を洗っていると、鏡に女の姿が映っていた。女は、泣いている哲也の頭といわず顔といわず、全身を撫でている。
少し気持ちが悪いなと、美津子は思った。あまりにも馴れ馴れし過ぎる。臨月を迎えた女というものは、ああいうものなのだろうか。
タオルハンカチで手を拭き、美津子はトートバッグから哺乳瓶と魔法瓶を取りだした。計量の必要のないスティック式の粉ミルクを哺乳瓶に入れ、魔法瓶の湯を注ぐ。
ふと顔をあげると、女は美津子の手元を食い入るように見ていた。哲也はまだ泣いている。
「大変なんですね」
感心したように女が言った。
「慣れてますから」
小さく笑い、美津子は哺乳瓶を振った。
粉ミルクの溶け具合と温度を確かめ、哲也を抱き上げた。ベッドの脇に置いてある椅子に座り、哲也の頭を左腕に載せ、顎の下にタオルを敷く。口元に哺乳瓶の乳首を近づけると哲也の泣き声は止み、代わりに小さな吐息が聞こえた。赤ん坊が乳首に吸い付く時の音である。
涙はまだ目に溜まっていたが、哲也は美津子を見つめたまま視点を動かすこともなく、全身の力を振り絞るようにして乳首を吸った。哺乳瓶の角度を調整し、美津子は椅子の背にもたれた。
「ミルク、おいしい?」
隣の椅子に座って女が言った。女は美津子に躯をすり寄せるようにして、授乳の様子を見ている。
「あたしにも、こんな大変なこと、できるかなあ」
突然、女が身を乗り出した。頬ずりでもするように、哲也の顔に自分の顔を近づけたのである。驚いた哲也は乳首から唇を離した。瞬間、ミルクの飛沫が乳首から飛びだす。たまたまそれが目に入り、哲也は火がついたように泣きだした。美津子がタオルで顔を拭ってやっても、哲也は全身をふるわせて泣き続けた。
「目にしみて痛いんやわ」
言いながら女は立ち上がり、「ちょっと待っていてください」と休憩室を出ていった。
美津子は泣き続ける哲也の気をそらそうとして、口元に乳首を近づけてみた。だが、哲也はますます首をのけぞらせて怒るばかりで、ミルクを飲もうとしない。赤ん坊というものは、一度こういう状態になると簡単には泣きやんでくれないものだ。途方にくれていると、女が息をきらせてもどってきた。臨月間近のお腹をかかえているので、少し歩いてもこたえるのだろう。
「これ、赤ちゃんの目の周りに使うても大丈夫て、言うたはりました」
女は薬局名の印刷されたビニール袋から、紙の箱を取り出した。箱の口を破って開け、透明なシートに入った濡れナプキンのようなものを出し、美津子に手渡した。
「これは」
「薬局の人に訊いたら、とくに赤ちゃん用というわけやないけど、目や口の粘膜にふれても無害やし、滅菌消毒してあるから安全やて言うたはりました」
礼を言い、美津子はその濡れナプキンで哲也の目を拭った。大泣きしたせいか、涙とともに、溜まっていた目やにがとれる。すべて拭き取ると哲也は泣きやみ、またミルクを飲み始めた。
「ありがとうございました。これ、おいくらでしたか」
「そんな、いいです」
「いえ、そんなわけには」
急いで財布を取りだそうとしたが、哲也を抱いて哺乳瓶でミルクを飲ませているので両手はふさがっている。かといって、機嫌よくミルクを飲み始めた哲也から哺乳瓶をとりあげて傍らに置くわけにもいかず、美津子はあわてた。
「本当に、そんなんいいですから。あたしがびっくりさせてしもうたから、いかんかったんです。すみません」
「でも、買っていただいた分はお返しいたしますから」
「いいんです。そのかわり、と言うてはなんですけど、あとでお買物に付き合うてもらえませんか。ベビー用品て、どんなん揃えておかんならんのか、ようわからへんし」
「わかりました。この子がミルク飲み終わったら、一緒に見にいきましょ」
買物の時に、この濡れナプキンの代金は返せばいい。美津子は笑って頷いた。
哲也がミルクを飲み終えた後、二人は連れ立って再度、ベビー用品のコーナーを歩いた。
「わあ、可愛い」
乳児用の小さなスプーンを見て、女は立ち止まった。
「なんて可愛いのかしら」
女が指さしているスプーンは、柄のところに苺のマークがついていた。みかんやトマトのマークがついているものもあり、女は順に手に取って見ている。
「こんなに小さいスプーンがあるんですね」
「離乳食用やからね。でも、まだそんなん用意しなくても、当分は大丈夫ですよ」
「そやけど、どうせいるものやから」
手に持っていたカゴに、女は苺のマークのついたスプーンを入れた。
「それより、哺乳瓶を用意しとかはった方がいいですよ。やっぱり、消毒のこととか、お出かけの時のこととかを考えると、二、三本は用意しとかはった方がいいですよ」
棚にあった哺乳瓶を取り、美津子は言った。
「これ、ちょっと小さめなんやけど、新生児の間はこんなんの方が使いやすいし、一つはこれにしとかはったら」
美津子は哺乳瓶を女に手渡そうとした。途端に、女は怒ったような顔をした。
「いりません」
「え?」
それまでにこやかに話していた女の目が、怒気を含んで美津子を見据えている。
「必要ないです」
眉間に皺を寄せ、女は言った。
「あたしは母乳で育てますから」
「でも、ちゃんと出るかどうかわからへんし。それに、お茶とかジュースとか飲ませる時に、どうせ必要ですよ」
「いいんです。必要ないんです」
踵《きびす》を返し、女はまた隣の離乳食の棚の前に行った。
「そういうのは、もっと後からでええと思いますよ」
「いいえ」
棚を見つめ、女はきっぱりと言った。
「いるんです。もう、用意しておくんです」
瓶詰めの離乳食を、女は次々にカゴに入れていった。パック詰めのものも、箱入りのものも片っ端から入れていく。女のカゴは、瓶とパックと箱でいっぱいになった。これ以上入らないというくらいに商品を入れると、女は満足そうな顔をしてレジに並んだ。
変わった女だ。何を買ったらいいかわからないから教えてくれと言っておきながら、手当たり次第に欲しいものをカゴに入れ、美津子の言うことなど聞きもしない。
小さく息を吐き、美津子は女に軽く会釈してベビー用品のコーナーにもどった。売り場を歩いているうちに、哲也は眠ってしまった。
買物を終え、商品を袋に詰めている時だった。
「これ、赤ちゃんにあげてください」
さっき、レジのところで別れた女が立っていた。
「すごく可愛い赤ちゃんを見せていただいて、あたし、とっても楽しかったんです」
女は先ほど買ったばかりの商品を詰め込んだビニール袋を美津子に差し出した。
「とっても楽しかったんです。だから、お礼です」
美津子は驚いて女の顔を見上げた。同時に、消毒用の濡れナプキンの代金を返していないことを思い出した。
「あの、さっきも薬局まで濡れナプキン買いにいってもろうて、その代金もお返ししておりませんのに、こんなん貰うわけにいきません」
「いいんですよ、ほんとに」
女は離乳食の入ったビニール袋を美津子に押しつけるようにしていたが、「あ、でもこれは」と言って袋の中に手を入れた。
「これは、持って帰ります」
苺のマークのついたスプーンを手に持ち、女は笑った。
「そしたら、また」
ビニール袋を美津子に押しつけると、女は歩いていった。
朝、その女は突然やってきた。
呼び鈴が鳴ったので、美津子がガレージの側から中庭に出てみると、女が立っていた。昨日、北大路のスーパーで会った女だった。スーパーで見た時と同じ臙脂色のマタニティードレスを着ており、手には洋菓子の箱を持っていた。
女は、関口ひとみと名乗った。
「赤ちゃん、どないしたはるかと思うて」
まるで昔からの友達のように、ひとみは笑った。
「気になって、顔見に来てしまいましてん」
なぜ、この家がわかったのだろう。買物の後、車でも尾けていたというのか。
「あの、どうしてここが」
「あら、いややわあ」
ひとみは片手をあげ、ふわり、と目の前の空気をたたくような仕草をした。
「あたしの遠い親戚が雲ヶ畑にいましてん。それで時々、この辺に遊びにきたことがあって、美津子さんのお顔も知ってましたんよ」
名前まで知っている。美津子は驚き、ひとみの顔を見た。
「榊原さんのおうちのことは、この辺の者なら皆、知ってますやんか。あたしの親戚の家はもっと上《かみ》に入ったとこですんで、美津子さんは知らはらへんやろけど」
哲也の泣き声が聞こえた。屋敷の中には哲也一人だけだ。クニ代は西賀茂の親戚の家に届け物があり、陽介とともに出かけている。
「これ、おみやげ」
洋菓子の箱を顔の前に掲げ、ひとみは笑った。仕方なく、美津子はひとみを居間に招じ入れた。手みやげまで持ってきている客を追い返すわけにもいかない。
「また、美津子さんに色々、教えてもらおうと思うて」
膳の前で、ひとみは膝を崩して座った。臨月が近いと正座をするのも苦しいのだろうが、それにしても脚の開き方が見苦しい。立っている時はマタニティードレスに隠れていたが、座ると乱れた裾から、丸太のような脚があらわれた。
驚いたことに、ひとみは妊婦のくせにバルキータイツも穿かず、薄いストッキングだけだ。妊娠中は躯を冷やさないようにと、とかく周囲からも言われるし、妊婦自身も普段より冷えを感じるはずなのに、寒くないのだろうか。そういえば、ひとみはコートもはおっていなかった。近くまで車で来たということか。
美津子は、ベビークーハンの中で泣いていた哲也を抱きあげた。美津子の腕に抱かれた途端、哲也は泣きやんだ。しばらくあやしてから小さな玩具を手に握らせ、またクーハンに寝かせた。
「今、コーヒーでも淹《い》れますから」
「どうぞ、おかまいなく。これ、※[#「几の中に百」]月堂のケーキです」
「まあ、どうもすみません」
美津子は箱を受け取り、立ちあがった。
「哲也ちゃん、今日はご機嫌さんやねえ」
コーヒーを淹れている間、ひとみはずっと哲也の頭を撫で、話しかけていた。
「いただきもので、何ですけど」
膳にケーキとコーヒーを置き、美津子は言った。ひとみは添えられたフォークを持ち、ショートケーキの苺に突き刺した。
「ねえ、美津子さん」
苺を突き刺したフォークを顔の前で揺らし、ひとみは首を傾げた。
この女はいったい、いくつくらいなのだろう。昨日、スーパーで見た時は、三十前くらいかと思っていた。だが、苺を突き刺したフォークを子供のように弄《もてあそ》んでいるひとみを前にして、本当は、美津子が考えている以上に若いのかも知れないという気がした。表情や仕草が、若いというより、稚《おさな》いのだ。
「赤ちゃん産むのって、大変やったでしょ」
ひとみはフォークの苺を齧《かじ》った。
「ええ、まあ」
半分だけ齧られた苺は白い果肉がむき出しになり、赤い表皮の縁がただれたようにちぎれている。
「陣痛って、すごく痛いんでしょ」
「ええ」
「どんなふうに痛いの」
「どんなふうにって言われても」
コーヒーカップのソーサーを引き寄せ、美津子はシュガースティックの口を切った。
「何て言うたらええか、わからへんほどの痛みやったわ」
そう、と言って、ひとみは口の端で笑った。
「あたしは、わかるわ」
ひとみは美津子を正面から見据えた。
「海が割れるみたいな感じよ」
「海が割れる?」
「あんなもん、割れるはずないと思うてるでしょ。でも、割れるねんよ。子供を産み出す時って、海が割れるの」
突然、ひとみが声をあげて笑った。哲也が、びくっと躯をふるわせる。美津子は傍らのクーハンに手をやり、哲也の胸を撫でてやった。
「冗談です。昔、そんなこと、ドラマか映画で聞いたような気がして」
ひとみはおかしそうに笑い続けた。
「陣痛は、何時間ありましたか」
笑うのをやめ、ひとみはまた美津子を見据えた。さあ、と美津子は首を傾げた。
「覚えてない?」
身を乗り出すようにして、ひとみは言った。
「子供産んだことある人って、そういうこと、絶対忘れないのにね」
美津子は目を伏せ、コーヒーにミルクを入れた。
「何時頃生まれたの?」
「夜よ。九時五分」
「そしたら、陣痛は夕方から?」
「ええ、そうでした」
食べかけの苺をフォークからはずし、ひとみはショートケーキを半分に切った。ケーキは倒れ、生クリームが皿にべっとりと付き、ぼろぼろになったスポンジの切り口が見えている。
「哲也ちゃん、何グラムあったんですか」
「三千四百三十二グラムです」
「大きかったんですね。大変だったでしょう、お産」
「ええ、まあ」
ひとみはケーキにフォークを突き刺した。やわらかなスポンジがぐにゃりと崩れる。
「母子手帳、見せていただけません?」
言ってから、ひとみは形の歪んだケーキを口に入れた。
「母子手帳?」
瞬きもせず、ひとみは美津子を見つめている。けれど、口だけは動いていた。ケーキを咀嚼する音が居間に響く。
「ねえ、あるんでしょう、母子手帳」
美津子は何も言わずにコーヒーカップを持ち上げた。
「見たいなあ」
皿のケーキに、ひとみはまたフォークを無造作に突き立てた。
「見せてよ、母子手帳」
「どうして?」
「だって、どんなふうに記入されるのかとか、見てみたいんやもの」
コーヒーカップを置き、美津子はクーハンの傍のトートバッグから母子手帳を取り出した。
「どうぞ」
膳の上に置いた。
「うわあ、ありがとうございます」
ひとみはケーキを口に突っ込むようにして頬張り、手帳を手に取った。食べながらページをめくっていたが、ふと手を止め、鼻から息を吸った。
「十二月二十四日、午後九時五分。三千四百三十二グラム、身長四十九センチ」
小学生が教科書を朗読するように、ひとみは記帳された内容を読みあげていった。
「出産の場所、名称。京都市伏見区、瀬尾レディースクリニック」
手帳を置き、ひとみは顔をあげた。
「瀬尾レディースクリニックで産まはったんですか」
「ええ」
「なんで」
「評判のええ病院やから」
「北区にかて、ええ病院いっぱいあるのに」
美津子はコーヒーを飲んだ。ひとみは皿に残っていた苺を食べたが、ねえ、と甘えるように言った。
「ケーキもう一個。チョコレートのがええな」
「あら、気がつきませんで」
生クリームで汚れているケーキ皿を盆に載せ、美津子は立ち上がった。台所のダイニングテーブルでチョコレートケーキを別の皿に用意し、フォークも新しいものを添えた。美津子がそれを膳に置くと、ひとみはまた、潰すようにしてケーキを半分に割った。
「母乳は、よう出てはるの?」
「人工乳よ」
ふうん、と言いながらフォークをケーキに突き刺し、ひとみは口に運んだ。かなり大きな塊だったが、数回の咀嚼で簡単に飲みこんでしまった。飲みこむと、またすぐに次の塊を口に入れる。
「お乳は全然、張ってきいひんの?」
頬張りながらひとみは言った。食べ物の滓《かす》が口から飛び散る。
「わたしは、母乳は出えへん体質みたい」
「お乳は妊娠中から張ってくるけどねえ」
「人によるんでしょう」
ひとみは突然、立ち上がった。チョコレートで汚れた口のまわりを子供のように手の甲で拭いながら、クーハンの前まで行って座った。
「抱っこしてあげる」
哲也を抱きあげ、驚いている美津子に小さく笑いかけると、ひとみはマタニティードレスの胸のボタンをはずし始めた。
「哲也ちゃん、おっぱい吸わせてあげる」
マタニティードレスの下に着ていたクリーム色のセーターをたくしあげ、ひとみは下着をずらせた。大きな乳房と乳首があらわになる。ひとみはそれを哲也の口にあてがおうとして、乳房に手をやった。
「ちょっと、何するんですか」
美津子は立ち上がり、ひとみの肩を掴んだ。
自身の乳輪に指をあて、ひとみは哲也を見ていた。美津子はひとみの懐に飛び込むようにして哲也を奪い返そうとしたが、ひとみは両腕で哲也を抱きこみ、絶対に離そうとしなかった。
「ねえ、やめてください」
渾身の力をこめて、美津子は、ひとみの腕と哲也の躯の間に自分の腕をさし入れた。だが、ひとみの太い腕はびくりとも動かない。美津子は自分の肩を盾にして、哲也を引き離そうと試みた。しかし、美津子の躯はひとみの腕に簡単に振り払われ、畳の上に投げだされた。
見上げると、ひとみの大きな乳房が、哲也の顔の前に垂れ下がっていた。乳首は太く、艶を放っており、乳輪の毛穴の一つ一つが芽吹く寸前の種のように膨れている。
腕の中の哲也に笑いかけ、ひとみは片方の乳房を突き出すように肩を動かした。乳房が揺れ、開ききった花のような乳輪が哲也の頬に押しつけられる。乳輪はやわらかく、哲也の頬にあたるとふわりとへこんだ。そのくせ、乳首だけはかたい芯を持ち、何度哲也の顔にこすりつけられても、屹立の形を崩さない。
「やめて」
叫びながら、美津子は哲也を抱きとろうとした。ひとみは片手で美津子の髪を掴み、引き離した。後ろから首を引っ張られるような形でひきずられ、美津子は倒れた。瞬間、後頭部に鈍い痛みを感じる。膳にぶつけていた。
哲也の泣き声がした。異様な雰囲気を察知して、哲也の泣き声は怯えている。
「痛い」
乳房を押さえ、ひとみが呻くように言った。哲也の泣き声はさらに大きくなり、甲高くなる。
「痛い」
首を振り、ひとみは目を瞑った。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
突然、ひとみの乳首から、何本もの白い糸が放たれた。美津子は目を見張り、息を呑んだ。
白い糸は、液体だった。
ひとみの乳首から、白い液体が迸《ほとばし》っている。勢いよく噴き出た液体は膳にまでも届き、雨のように降りそそいで白い水溜まりを作った。
生臭い匂いが立ちこめる。
母乳だ。
首を起こし、美津子はひとみの乳首を見つめた。ひとみはまだ、目を瞑っている。
乳首と乳輪は黒々と光り、乳房と乳房の間には小さな汗の粒が浮いていた。乳房は白く、首から乳輪に向かう青い血管が透けて見えている。
どんなに押しても底に届かないような厚みのある脂肪が、信じられないような弾力と肉感を持って、乳房という山を作っていた。
美津子は躯から、急速に力が萎《な》えていくのを感じた。腰と背中の筋肉が緩み、立ち上がることができない。
ひとみの乳首から噴き上げていた白い液体はやがて勢いを失い、塊になって、ぽとり、ぽとり、と落ち始めた。
「痛い」
上を向き、ひとみは乳房を押さえた。だが、湧き上がってくる乳汁は止まらない。乳汁は哲也の顔を濡らし、ひとみの服を伝い、そして畳を汚した。
畳に手をつき、美津子は哲也の名前を呼ぼうとした。だが、喉が渇いて声がでない。
その時、車のエンジン音が聞こえた。中庭をはさんだガレージの方からだ。ガレージの門扉を閉める音がする。玄関に人の気配がした。
「おい、美津子」
廊下から、陽介の呼ぶ声が近づいてくる。陽介の声は苛立っていた。美津子がガレージの門扉を閉めに出ていかなかったからだ。
居間の引き戸を開ける音がした。
「美津子」
見上げると、陽介の顔があった。陽介は驚いたように、口を開けたまま戸口に立っている。
「どないしたんや」
しばらくの沈黙の後、陽介はようやくそれだけ言った。美津子は今度こそ力を振り絞って立ち上がろうとした。が、一瞬、躯が凍りついたように動かなくなった。陽介の背後に、顔をひきつらせたクニ代が立っていた。
ベビーベッドで、哲也は小さな寝息をたてている。
ふとんに入ったものの、美津子は天井を見つめたまま、目を閉じようとしない。
「あの女、哲也に関係あるのやろか」
美津子が言った。
「まさか」
陽介もまた、天井を見つめたまま答えた。
今日のあの女には驚かされた。帰ってきて居間に入ると、知らない女が乳房をむきだしにして座っていたのだ。美津子の友人かと思ったのだが、そうではなかった。昨日、たまたまスーパーで出会っただけのことだという。
「何なんやろ、あの人」
「臨月が近いから、赤ん坊が気になってしょうがないんやろ。おまえかて、そない言うてたやないか」
「けど」
尋常な光景ではなかった。まったく見知らぬ女が突然、家にやってきて、哲也に自身の乳を吸わせようとしたのである。
「うちの住所も名前も、何も言うてないのに、突然来たんよ」
「車の後でも、尾けてきとうったんやな」
「なんでそんなこと、したんやと思う?」
「哲也がよっぽど可愛いと思うたんやろ。それだけや」
言いながら、陽介は寝返りをうった。
ひどく肥った女だった。来月、出産予定だというから腹が大きいのは当然だろうが、それにしてもかなりの肥満体だ。脂肪の塊のような体躯をしており、饅頭のような輪郭の中に目鼻が埋まっていた。およそ顔立ちがどうのこうのという対象にもならないような不細工な女だった。それでも、愛想がいいとか、物言いに可愛気があるとか、そうした面があればまた印象は違うのだろうが、あの女にはそんな要素は欠片《かけら》もなかった。
居間の引き戸を開けた途端、異様な光景に驚いたが、美津子が畳に手をついて顔をひきつらせているのに気づき、陽介は駆け寄ったのだった。
「何でもないのよ」と言いながら美津子は乱れた襟元と裾をなおし、はじかれたように女の腕から哲也を抱きとった。そして、女のたくしあげられたセーターを下げ、むきだしになっていた乳房を隠したのだった。その時、陽介には、なぜ、女が乳房をだしていたのかはわからなかった。
「あの女、関口ひとみって名乗ったわ。嘘かほんまかわからへんけど」
「関口ひとみ、か。知らんなあ」
本当に、そんな名前には覚えがない。
ひとみが憑かれたような目をしていたのは、赤ん坊を可愛いと思うあまりだったのだろうか。それは、臨月間近の女に特有の、ありがちな症状なのだろうか。しかしそれなら、どの赤ん坊を見てもそうなるはずだ。
「あの人、哲也の名前知ってた。わたし、あの人に哲也の名前なんか教えてないし、あの人の前で哲也の名前を呼んだりしてない。それやのにあの人、哲也に向かって、哲也ちゃん、おっぱい吸わせてあげるって、はっきり言うたのよ」
「考え過ぎやろ。あの女の前で、哲也の名前呼んでたことを忘れてるだけやて」
なるべく軽い声で言いながら、陽介は闇に目を凝らした。
ひとみは明らかに、哲也に執着している。「赤ん坊」に執着しているのではなくて、哲也に執着しているのだ。
あの時、美津子はひとみの腕から奪い返した哲也をクニ代に渡し、居間から遠ざけた。クニ代を無理に押し出し、ぴしゃりと引き戸を閉めたのだ。日頃の美津子からは考えられないような強引さだった。美津子の目は血走っており、さすがのクニ代も何も言わずに出ていった。
「主人が帰ってきたから、また今度にして、ね」
ひとみは目を瞑っていた。が、美津子はひとみの肩を揺すり、何度も同じことを言った。ようやくひとみは目を開け、立ち上がったが、表情はなく、空洞のような目で陽介の方を見た。
「また、来ます」
それだけ言って帰っていった。
ひとみが帰った後、美津子はふきんで膳をこすり始めた。膳の上にはミルクをこぼした痕があった。コーヒーに入れる時にでも粗相をしたのだろうと、陽介は思った。それがミルクではないと知ったのは、美津子がふきんをゴミ箱に捨てた時だった。なぜ捨てるのだと訊くと、美津子は、気持ちが悪いからだ、と答えた。
「これ、あの人のお乳よ」
「え?」
「母乳。乳汁よ。突然、胸をだして、哲也に飲ませようとしゃはったの。哲也が泣きだしたら、急にお乳が飛び出してきて」
「飛び出す?」
「そうよ。シャワーみたいにお乳が出てきたの」
想像がつかなかった。美津子はその光景を見たと言うのだが、陽介には、人間の乳首から乳汁がシャワーのように湧き出すというのが信じられない。
それに何より、他人の家に突然やってきて、女が自ら胸をはだけるというのが正気の沙汰ではない。すべてが異常で、狂気じみている。
関口ひとみという女は、要するに頭のおかしな女なのだ。
「ねえ」
ふとんのずれる音がした。美津子が陽介の方に寝返った。
「もしかして、あの女、哲也の産みの母親なんやろか」
「あほなこと言うな」
「そんな気がするねん、わたし」
「哲也は俺達の子供や。しょうもないこと言うな」
首を振り、「考え過ぎや」と陽介は言った。
哲也は、辻村潤子を介して貰ってきた。潤子は瀬尾レディースクリニックの看護師である。
去年の十二月、瀬尾レディースクリニックの新生児室から赤ん坊を盗もうとして潤子に見つかり、止められた。
「見逃していただけませんか。赤ちゃんは返しますから」
そう言って地面に手をついて頭を下げた時のことを、陽介は今も忘れない。
「申し訳ないことをしました。どうか、見なかったことにしてもらえないでしょうか」
美津子も陽介の隣に座り、頭を下げた。
「赤ちゃん、欲しいんですか」
看護師の声に、二人は顔をあげた。
責めるような口調ではなかった。まるで店屋の店員が、客の入り用のものを確認しているかのようなもの言いだった。
「欲しいです」
美津子が言った。
「もしかしたら、ご期待に沿うことができるかも知れません」
二週間後、事情は互いに一切聞かないという約束で、哲也を貰った。陽介達さえ他言しなければ、あとの心配はまったくないと、潤子は言った。人の赤ん坊を盗るわけではないのだという潤子の言葉を、陽介は信じた。
少なくとも陽介は、潤子の身元を知っている。勤務先も住んでいるマンションも把握しているのだ。そして陽介も、後に赤ん坊を貰い受ける日時の連絡を受けるため、その場で携帯と自宅の電話番号、住所を潤子に教えた。
「もしあなたが、偽りの電話番号や住所を言っていることが判明したなら、この話はなかったことにします」
あの時、潤子にそう言われた。
何か揉め事や警察沙汰が起これば、潤子だってただではすまない。だから、潤子が他言するはずはない。
潤子は、赤ん坊を譲るにあたって、金銭はまったくいらないと言った。しかし、陽介は後々のことを考え、哲也を貰い受けた一週間後、口止め料という意味合いも含めて一千万円の現金を渡した。潤子は受け取らなかったが、押しつけるようにして無理に置いてきた。出生届も母子手帳も、潤子が完璧に偽造してくれたのだから、それについても然るべき謝礼は当然必要だと考えたのである。
「やっぱり、あの女が、哲也を産んだんやろか」
額に手をあて、美津子は言った。
「あの女は妊婦なんやぞ。来月、出産なんやから、そんなわけないやろ」
「ほんまに妊婦かどうかなんて、わからへん」
言われて陽介は黙った。その通りだった。
「哲也を産んだんや、あの女」
「そんなわけないがな。何を根拠にそんなことを言うのや」
「陽ちゃんはわからへんのや、男やから」
息を吐き、陽介は美津子の肩に手をあてた。
「もう、やめよ。こんなこといつまでも言うてたって、しょうがないやないか」
あの時、ひとみは一言も、哲也は自分の産んだ赤ん坊だとは言っていない。居座って、赤ん坊を返してくれと、主張したわけでもないのだ。そのつもりがあるのなら、美津子や陽介の前で、そうした言葉を吐いたのではないだろうか。
あるいは金銭目的なら、さらに話は早いはずで、その場で交渉を始めたに違いない。だが実際には、ひとみはそんな話は一切していない。やはり、少しばかり頭のおかしな女が赤ん坊に興味を持って、つい家まで尾いてきてしまっただけのことなのだ。
「考え過ぎや、美津子」
陽介は美津子を抱き寄せた。
「哲也は、俺とおまえの子供や」
不安気な目をしている美津子の肩を撫で、陽介は言った。
翌朝、いつものように門の前を掃き始めようとした時だった。美津子は門から塀にかけて、白いものが点在しているのに気づいた。箒《ほうき》を持ったまま近寄っていくと、どうやら紙らしいとわかった。いたずらだろうか。見渡しただけで、十枚ほどもある。乱雑に手で引きちぎったらしいガムテープが紙の上下に貼られていた。
ガムテープをはがそうとして手を伸ばした瞬間、美津子は呼吸が止まりそうになった。紙に書かれたボールペンの文字が目に飛び込んできたのだ。
「榊原哲也ちゃんは、陽介さん、美津子さんの子供ではありません」
子供の撲《なぐ》り書きのような文字だった。稚拙で乱雑な書き方だ。
箒を投げ出し、美津子は紙をはがした。その隣の紙にも、同じことが同じような文字で書いてある。あわてて塀に貼ってあった紙を全部はがし、周囲を見回した。早朝なので、誰もいない。美津子はすぐに屋敷にとって返した。
「どないしたんや」
クニ代が台所から出てきた。
「いえ、何も」
まるめていた紙を後ろ手に隠し、階段の下で美津子は躯を斜めにした。
「あのなあ」
訝しげに目を眇《すが》め、クニ代は咎めるように言った。
「あんた、哲也にこの頃、果汁とか飲ませてるけど、ちょっと量が多いんと違うか」
「はい」
「最近あの子、ミルク飲む量が減ってるんと違うか。どうでもええもん飲ませ過ぎやで。ちゃんと栄養のあるミルクをぎょうさん飲ませんと」
「はい、そうします」
頷き、美津子は階段を上がった。
「あ、ちょっと」
クニ代の苛立った声がした。
「はい」
階段の中ほどで立ち止まり、美津子は振り返った。
「哲也、無理に起こさんときや」
「わかりました」
それだけ言うと一気に駆け上がり、美津子は寝室に入って引き戸を閉めた。
「ちょっと、陽ちゃん、起きて」
美津子に躯を揺さぶられ、陽介は首を動かした。目はまだ開けられず、眩しそうな顔をして、眉根に皺を寄せている。
「これ、見て」
まるめた紙を突き出した。陽介は目をこすりながら、ゆっくりと半身を起こした。
「何なんや、朝っぱらから」
軽く首を振り、陽介は紙を手に取った。
「門と塀に貼ってあったんや」
伸びをした後、面倒そうに陽介はまるめられた紙を開いた。が、開いた紙に目をやった瞬間、陽介の顔はこわばった。
「どうしたんや、これ」
「そやから、門と塀に貼ってあったって、言うてるやないの」
陽介はまるめてあった紙を全部、開いた。すべて稚拙な文字で、同じことが書かれている。
「何なんや、これ」
「わからへん」
美津子は肩を落とし、息を吐いた。
「これ、誰かに見られたか」
「たぶん、大丈夫やったと思う」
門の前を掃くのは、いつも六時過ぎである。今朝、外に出た時にはすでにこれらの紙は貼られていた。
一枚だけなら、貼ってすぐに立ち去るということもできるだろう。だが、貼られていたのは十余枚だ。十枚以上の紙を一枚ずつガムテープで貼り付けていく作業は、時間も手間もかかるに違いない。遅くとも五時半過ぎには作業を始めていたのではないだろうか。それとも、貼ったのは今朝ではなく、昨夜だったのだろうか。
「晩に貼られてたとしても、人がこの字を読むのは無理やろ」
ボールペンで書かれた文字を見ながら陽介が言った。
「けど、夜が明けてからやったら、読めるやんか」
「いや、字が読める程度に明るくなるのは、せめて六時頃や。おまえがこれをはがしたのは、今のことなんやろ」
枕元の時計に、陽介は目をやった。
六時過ぎにはこの紙ははがしている。早朝、屋敷の前を通るのは車くらいで、人が歩いていることはめったにない。文字が読める程度に明るい時間帯にこの紙が貼られていたのは、わずか十分程度ということになる。とすれば、これを読んだ者はまずいないと考えてよいのではないか。そう言って、陽介は顔をあげた。
「気にすることはあらへん」
しかし、そんなものは気休めだ。今日はたまたま、人に見られないですんだけれど、また違う時間帯にやられたらどうするのだ。
「これ、やっぱり、関口ひとみやわ。あの女がやったんやわ」
上ずった声で美津子が言うと、陽介は紙をまるめた。
「ただのいたずらかもわからへんやないか」
そんなわけがない、と美津子は思ったが、口にはださなかった。口にだして言ってしまうと、声がさらに上ずって、泣いてしまいそうな気がしたからだ。陽介は、美津子をなだめるように言った。
「この字見てみ。子供の字みたいやないか。近所の子供がおもしろ半分にやったんと違うか」
「なんで、近所の子供がこんないたずらをするのよ」
なるべく気を静めながら、美津子は言った。
「いたずらて、そういうもんやないか。単に人が驚くのをおもしろがるだけのことなんやから」
陽介は紙をふとんの横に置き、小さく笑った。
「子供のいたずらや。大人がこんな、子供みたいな字書くか」
「書くわ、あの女なら」
この字を書いたのは、ひとみだ。間違いない。美津子にはわかる。美津子は、ひとみがケーキを食べている時の様子を思い出した。
子供のように、大きな塊を口に入れて頬張っていた。口の周りをクリームやチョコレートだらけにして、手の甲で無造作に拭う様子は動物じみていた。汚く食い散らかし、皿とその周辺は食べ物の屑だらけになった。食べる姿に品がなく、口から食べ滓が飛んでも平気で、およそ大人の女の食事作法とは思えなかった。
「あの女や」
美津子は自分の声が高くなっているのを感じた。胸の奥で動悸がして、こめかみにまで響いている。
「そうやわ、あの女がやってるんやわ」
「やめろ」
陽介が怒鳴った。
「まだ、わからへんやないか」
両手で顔を覆い、美津子は「絶対にそうや」と呻くように言った。
「ともかく、今騒いだってしょうがないやないか。単なるいたずらやのに、こっちが勘違いしてるだけなんかも知れへんのやから」
陽介は立ち上がり、パジャマのボタンをはずし始めた。
「それより、おふくろの前で、何か気取られるようなことを言うなよ」
滲んだ涙をティッシュで拭い、美津子は陽介のフリースとスウェットパンツを箪笥から出した。
ベビーベッドをのぞきこむと、哲也は目を開けていた。
「起きてたんか」
哲也は美津子を見つめている。いつもなら、一人で目覚めた時は泣くのに、今朝は美津子が迎えに来るのをおとなしく待っていた。
「賢うなったんやな」
抱き上げ、頬ずりをすると、乳臭い匂いが漂った。
「哲也」
こんな可愛い子が、あんな醜い、品のない女の子供であるはずがない。
「ああ、賢《かしこ》」
美津子は哲也を抱きしめた。
耳の横で握られた小さな手のひらが、ふわりと開く。朝の光の中で、血の色が透け、皮膚が輝きだす。産毛は金色で、頬は陶磁器のようになめらかだ。
「下に行こう」
陽介が美津子の肩を抱いた。
居間から台所に入っていくと、ダイニングテーブルでクニ代が不機嫌そうな顔をして茶を飲んでいた。老眼鏡を小鼻のあたりにずらし、すくいあげるようにして美津子を見る。だが、哲也を抱き取ると表情は一変し、「おはようさん」と言いながらあやし始めた。
陽介は居間にも入らず、玄関を出ていった。クニ代は居間の座布団に座りなおしている。美津子は哺乳瓶にミルクを作ってクニ代に渡したあと、急いで朝食の準備にかかった。
あらかた食卓が整った頃、陽介が台所に入ってきた。
「今見てきたけど、何もなかった」
ガス台に向かっている美津子の耳元で、そっと囁いた。
「近所も見てきたけど、別に変わったことなんか何もあらへんかった。やっぱり、ただのいたずらや」
そう言って、食卓についた。ミルクを飲み終えた哲也をクーハンに入れ、クニ代も椅子に座った。いつものように朝食が始まる。
「哲也のミルクの量、もうちょっと増やした方がええのと違うか。なんや、もの足りんみたいな顔するえ、あの子」
箸を持ち、クニ代が言った。
「そうですね、今度から増やします」
「今度てあんた、今足りてなかったらどないするねんな。大きいなる最中なんえ、哲也は」
お母ちゃん、と陽介が割って入った。
「足りてへんかったら、哲也かて泣くがな」
「泣くまでほっとけて言うんかいな」
「かまへんがな、子供は泣くのが仕事やさけ」
「あんたは、それでも親か。あんたらがそんなんやさけ、わたしは心配して言うてるのや」
その時、電話が鳴った。美津子は立ち上がり、居間の隅に置いてある小引出しの上の電話を取った。
「もしもし、榊原です」
返答がなかった。
「もしもし、もしもし」
何も聞こえない。耳を澄ませていると突然、電話は切れた。
「どないしたんえ」
食卓から、クニ代が尋ねた。
「いえ、なんか、間違い電話やったみたいです」
美津子は受話器を置いた。陽介は何も言わずに食事を続けている。食卓にもどり、椅子に座った瞬間、また電話が鳴った。美津子は立ち上がって居間まで行き、受話器を取った。
「もしもし、榊原です」
返答はない。
「もしもし、もしもし」
話していると、また切れてしまった。何も言わずに、美津子は受話器を置いた。
「なんやねんな」
クニ代が不審そうに、美津子を見ている。
「いたずらやろ」
陽介が言った。
「こういういたずらを喜んでやりよる奴がいるんや。ほっといたらええ」
食卓にもどってきた美津子に、陽介は空になった飯茶碗を差し出した。
「なんで、うちにそんないたずらをしてくるんや」
眉をひそめ、クニ代は首を傾げた。
「誰が相手でもええのや、そういうことやる奴は」
美津子は茶碗に飯をよそい、陽介に手渡した。
「相手にせんといたらええのや」
茶碗を受け取りながら陽介が言った時、また電話が鳴った。美津子は背中がびくりとふるえるのを感じた。陽介も、さすがに唇のあたりが引きつっている。
「出えへんのか」
顔をあげ、クニ代が言った。
「出ます」
美津子が言うと、「俺が出る」と、陽介が立ち上がった。
「もしもし」
受話器を取り、陽介が言った。陽介はしばらく黙っていたが、やがて受話器を置いた。
「切れた」
食卓にもどり、陽介は椅子に座った。
その後、電話は何度か鳴り、誰かが出ると切れるということが繰り返され、午後にもまた同じことがあった。クニ代は気味悪がって、電話に出ようとはしなかった。
夜、美津子と陽介は、寝室で話し合った。
「やっぱり、関口ひとみや。あの女が、仕掛けてきてるんや」
窓際に置いてある籐の椅子に座り、美津子は言った。
夫婦の寝室の窓は裏山に面している。昼間なら、崖のしだれ梅までも見渡すことができる。だが、夜の帷《とばり》が降りると、窓の外はただ闇がひろがるばかりで何も見えない。どんなに目を凝らしても、見えるのはガラスに映った自分の疲れきった顔だけだ。
今日は本当に疲れた。電話の音がしただけでも、躯がびくりと反応した。そんな様子を、クニ代が不審そうな目でじっと見ていた。クニ代の手前、平静を装わなければならず、美津子は腋《わき》の下に汗が滲むのを感じた。
無言電話の主が誰なのかはわかっている。
本当は、受話器に向かって怒鳴りつけてやりたいくらいだった。
あんたなんでしょ。わかっているのよ。いったい、何が目的なの。
「ほんまに、まいったわ」
額に手をあて、美津子は息を吐いた。
今は、電話のモジュラーを抜いてあるので、着信音が鳴る心配はない。だが、これから毎日、朝から晩までモジュラーを抜いておくわけにはいかない。
「ともかく、電話は番号通知にするようにしよう。手続きをして、非通知の電話はかかってこんようにするんや」
向かい側の椅子に座っていた陽介が身を乗り出し、なだめるように美津子の膝に手を置いた。
「そんなことしても、どうせ無駄やわ」
首を振り、美津子は言った。
「公衆電話からかけてこられたら、同じことなんやから」
いずれ、ひとみは直接乗り込んでくる。無言電話は単なる前哨戦だ。
「どうしたらええねんやろ」
美津子は俯き、両手で頭をかかえた。これから先、クニ代の刺すような視線にさらされながら、ひとみの無言電話や嫌がらせに四六時中耐え続けなければならないのだろうか。
「なあ、陽ちゃん。お金でも渡して、なんとか解決できひんやろか」
「あほ言うな。相手の要求を聞くようなことを言うたら、おまえが」
言いかけて、陽介は声を落とした。
「おまえが哲也を産んでへんということを、認めたことになるやないか」
もし、ひとみが哲也を産んだ本人なのなら、今さら美津子が認めようが認めまいが、そんなことは最初からどうでもいいことのはずだ。ひとみにしてみれば、自分が産んだのだという事実に勝るものはないのだし、そのつもりで乗り込んでくるだろう。
「ともかく、一切知らん、ということで通せ。何を言うてこられても相手にするんやない。こっちは戸籍も母子手帳も完璧なんや。相手に揚げ足とられるようなことは言うんやないで」
自分に言い聞かせるように、陽介は大きく頷いた。
「こっちが知らんと言えば、向こうは何もできひんのやから」
そんなことで、本当にひとみは引き下がるだろうか。
美津子は目を閉じ、肩を落とした。
無言電話はその後も数日続いた。
どうやら公衆電話からかけているらしい。出かけていく陽介はともかく、家にいる美津子は朝から晩まで電話の音に怯え、苛立った。
クニ代はいたずら電話を気味悪がっていた。電話が鳴ると、美津子が取るようにと目顔で指図する。
昨日など、居間で美津子が哲也のおむつを換えている最中に電話が鳴ったのだが、傍で新聞を読んでいたクニ代は不機嫌な顔をしたまま、顔をあげようともしなかった。電話の音はまもなく切れた。
美津子は勝手口の外のごみ箱に紙おむつを捨てに行ったのだが、手を洗ってもどって来た時、電話が再度鳴った。クニ代は唇の端を曲げたまま、美津子の方を見ているだけだ。美津子は電話を取った。
「もしもし、榊原です」
「北大路の原田です」
聞き慣れた原田の声だった。
「お忙しいとこ、すんまへんなあ。クニ代さん、いやはりますかいなあ」
「あ、はい、ちょっと待っておくれやす」
原田からだと美津子が告げると、クニ代は安堵した顔をして受話器を取った。
「いや、すんまへんな、さっきは出よと思うたら切れましたんや」
直前の電話に出なかったことを原田に聞かれたのか、クニ代は言い訳めいたことを口にしていた。
先週くらいから、新種の苗について、原田は時々、クニ代に電話してくる。原田はほとんど毎年といっていいくらい、新種の花の苗を扱っており、栽培の難しいものについてはクニ代に相談するのが常だった。儲かる仕事ではないが、クニ代は苗の栽培については自信と愛着があり、原田と熱心に話しこむことが多い。
「いっぺん、本物見せてもろうてからということでよろしおすか」
こういう時のクニ代の声には張りがある。すこぶる機嫌のよい様子で、クニ代は苗についてしばらく話していた。美津子は哲也のミルクを作り始めたが、哲也がそのミルクを飲み終えてもまだ、クニ代は話に熱中していた。
「ほなおおきに、よろしゅうに」
言いながら丁寧にお辞儀をして、クニ代はようやく受話器を置いたのだった。
クニ代が電話で原田と話す時は必ず最後に「ほなおおきに、よろしゅうに」と言ってお辞儀をする。榊原の親戚や、あるいは知人を相手に話す時にも、クニ代は受話器に向かってお辞儀をするが、原田が相手の時は、また違った丁寧さと意味合いがあった。種苗のことで業者にものを訊かれたり、頼りにされたりするのは、クニ代にとって大きな誇りであり、生き甲斐でもあるのだ。
昨日の午前中はクニ代の長電話のせいか、無言電話はかかってこなかった。もっとも、午後には何度もやられ、美津子はかなり消耗した。
今日は朝からかかってくるのだろうか。
朝食の後片付けをしながらもつい、電話に目がいってしまう。だが、電話は鳴らなかった。美津子は洗濯物を干してしまうことにした。クニ代は新聞を読んでいる。
屋敷の裏の物干し場に出ると、二月にしてはめずらしく天気のいい日で、澄んだ色の空がひろがっていた。手早く洗濯物を干し終えて居間にもどって来た時、クニ代が受話器を耳にあてている姿が目に飛び込んできた。美津子はこめかみのあたりがふるえるのを感じた。やはり、かかってきたのか。全身がこわばり、冷たい汗が噴き出してくる。
「ほなおおきに、よろしゅうに」
言いながら、クニ代が丁寧にお辞儀をした。その瞬間、美津子は安堵の息を吐いた。
「なんや、どないしたんや」
受話器を置き、クニ代が振り返った。
「あ、いえ、また、けったいな電話でもかかってきたんかなと思うて」
洗濯カゴを持ったまま、美津子は答えた。額のあたりに冷や汗が滲んでいるのが自分でわかる。
「何を言うてんのや」
立ち上がり、クニ代は肩に手をやって首をまわした。
「原田はんがな、新しい苗の見本のことで、また色々頼んできゃはったんや」
「そうですか」
なあ、と言って、クニ代は首をまわすのをやめた。
「昨日は郵便来たけど、一昨日もその前も来てへんなあ」
そういえば、昨日はなぜか郵便物が大量に届いた。ダイレクトメールや電話料金の請求書などばかりで、とくに気にもとめていなかったが、よく考えてみれば、その前の二日間、一通の郵便物もなかったというのは奇妙なことだった。
「原田はんがな、新しい花のカタログ送ってくれはったんやけど、四日も前に投函してるて言わはんのや。それやのに、届いたんは昨日やった。普通は次の日に着くのやけどなあ」
もしかして、と美津子は唇をかたく結んだ。
ひとみが、郵便物を盗っていったのではないか。
中身を確認して封印し、昨日、屋敷の郵便受けに返しておいたのだ。そうに違いない。美津子は目を瞑り、額に手をあてた。
ちょっと、とクニ代が眉をひそめた。
「あんた、この頃、顔色悪いえ。どこぞ具合でも悪いのと違うか」
「いえ、そんなことないです」
「陽介かて、なんかおかしな感じや」
目を眇め、クニ代は顎をあげた。
「あんたら二人ともけったいやで、この頃」
そんなことは、と美津子は口ごもった。クニ代の前ではなんとか取り繕っているつもりだが、やはりどこかおかしいところがあるのだろうか。
「今、原田はんとも話してたんやけどな」
クニ代は食卓の椅子に座った。
「あんた、哲也の手が離れたら、ハウスの方をやる気はないか」
「苗栽培ですか」
「原田はんとこから色々頼まれても、わたしもぼつぼつ歳やさけ、しんどいのや」
急須にポットの湯を注ぎ、クニ代は湯呑み茶碗を用意した。
「あんたも飲むか」
「いえ、結構です」
そうか、と言ってクニ代は自分の湯呑みに茶を淹れた。
「これ、見てみ」
テーブルの上に、クニ代は花の品種のカタログを広げた。
「きれいやろ。今はな、このペチュニアの濃いピンク色が人気あるんやて、原田はんが言うたはったわ。ほれ、八重咲きもある。やっぱり、こっちの方がだいぶん、きれいやなあ」
そうですね、と美津子は俯いたまま答えた。
「あてにしてくりゃはると、こっちもきばってやらなあかんとは思うのやけど、いつまででもできるもんでもないしなあ」
両手で湯呑みを持ち、クニ代は考えこむようにして黙った。
「べつに、あんな古いハウスなんか、どっちでもええようなもんなんやけど」
ふっと、クニ代は小さく笑った。
「哲也の手が離れたら、手伝わせてもらいます」
「え、ほんまに、あんた、やってくれるのか」
「はい」
クニ代はうれしそうに頷き、茶を飲んだ。
「今日は苗の見本が入ってきたんやて。ちょっと、原田はんとこに見てくるわ」
思わず、安堵のために声をあげそうになる。朝から晩までクニ代の刺すような視線にさらされているのはたまらない。たとえわずかの間でも、息が抜けるのは有難い。
「なあ、あんた」
立ち上がり、クニ代は湯呑みを流しに置いた。
「はい」
「一人でどうもないか」
「はい、わたしは大丈夫です」
「いや、あんたやなしに、哲也やがな」
湯呑みを濯《すす》ぎながら、クニ代は美津子を振り返った。
「そないにしんどかったら横にでもなってたらええけど、哲也のことだけはあんじょう見てやるのを忘れんといてや」
タオルで手を拭き、クニ代は居間のクーハンの前に座って哲也をのぞきこんだ。
「よう寝てるわ」
眠っている哲也の頬を撫で、クニ代は微笑んだ。
「昼はいらんさけ」
袖付きのエプロンをはずして食卓の椅子にかけ、クニ代は台所の隅に置いてある灰色のビーズの手提げ袋を持った。
「ほな、行ってくるわ」
抹茶色のがま口の中身を確かめ、クニ代は出かけて行った。
[#改ページ]
第八章
峰岸がソファに座ると、ひとみは冷蔵庫から缶ビールを取りだした。隣に座り、ひとみはグラスにビールを注ぎ始める。仕方なく、峰岸はグラスを手に持った。
「ねえ、お風呂の用意しとく?」
缶を置き、ひとみが言った。
「話が終わったら帰るから」
峰岸はひとみの方を見ないようにして言った。
「ゆっくりしていったらええやないの」
膝に手を置き、ひとみはにじり寄ってきた。ソファのクッションが大きく動き、峰岸の躯も揺れる。
「聞かせてくれよ。大事な話て何なんや」
ひとみの手を払いのけるようにして、峰岸は煙草を取りだした。
「まあ、ゆっくり話そうな」
座りなおし、ひとみは自分のグラスにビールを注いだ。
内心、舌打ちをしながら、峰岸は煙草に火をつけた。
二度とこの女にはかかわるまいと思っていた。だが、潤子のことで話があるからと言われ、会うことになったのだ。大金が絡んでおり、峰岸にとっても悪くない話だと、ひとみは電話で言っていた。
一度は断った。だが、ひとみは、潤子が大変なことを隠しているのだと、しつこく食い下がった。その言い方には、憎悪と憤怒の感情がこめられていた。ひとみと潤子は単に、中絶手術の時に顔を合わせただけのことで、密な人間関係があるわけではないはずだ。なのに、ひとみの潤子に対する反感は並々ならぬものがある。電話ではあったが、ひとみのもの言いには峰岸の関心をひくための嘘とも思えない迫力があった。
二人の間に何があったのだろう。潤子が何をしたというのだ。今、ひとみは明らかに、潤子に何かを仕掛けようとしている。それが何なのかということも確かめておかねばならない。
絶対に人に聞かれては困るからと、ひとみは祇園のはずれの安ホテルに峰岸を誘った。ひとみと二人きりになるのは不本意だったが、峰岸は応じた。
「で、何なんや、潤子が隠してることて」
「あの女、大儲けしてる」
ひとみはグラスを持ちあげた。
「ええカモ捕まえよったんや」
「いったい、何の話や」
潤子に愛人かパトロンでもできたというのか。
峰岸は、切れ長の潤子の目を思い出した。美しい目をしているのに感情の表出がなく、何を考えているのかわからない。けれども昏い瞳の奥は時々、底光りして、諦観を装った顔に怨嗟《えんさ》と嘆惜《たんせき》が見え隠れする。それはほんの一瞬で、峰岸が奥までのぞこうとするとたちまち消え去り、怨懣《えんまん》の色は濃い翳に覆い隠されてしまう。
あの女が、男を受け入れることなどあるのだろうか。そしてあの女の目の底にあるものを見届ける男などいるのだろうか。
「ちょうだい」
ひとみは峰岸の煙草の箱から一本取りだした。
「峰岸さんに言われて、あたし、辻村潤子のマンションに行ったやんか」
ああ、と言いながら、峰岸はひとみの煙草に火をつけてやった。
「結局、やってくれへんかってん、あの人」
「やってくれへんかった?」
どういうことだ。潤子からそんな話は聞いていない。
「ほな、どないしたんや」
「産んだ」
こともなげにひとみは言い、煙草を吸った。
「産んだ?」
峰岸は顔をあげた。
「ほんまか」
「うん」
煙を吐きだし、ひとみは笑った。
「おまえ、始末したて、電話で言うてたやないか」
「そう言うとけって、潤子に言われたんやもん」
「潤子に?」
灰皿を引き寄せ、峰岸は脚を組みなおした。
「それ、いつの話や」
「十二月二十四日」
一カ月以上も前のことだ。その間、潤子はずっと峰岸を欺いていたというのか。
「あたしの産んだ赤ん坊で、あの人、大儲けしたんや。知ってた?」
血を吸ったヒルのように膨れた指で、ひとみは煙草の灰を灰皿に落とした。
「どういうことや」
「あの人、あたしの産んだ赤ん坊、売らはったんや」
峰岸は苦笑し、首を振った。
この女の言うことは信用できない。
世間では、美人は概して性格が悪いものとされている。そして、その逆もまた、なぜか信じられている。醜女なら、周囲にちやほやされていない分、性格はいいだろうという解釈だろうが、実際はそうとはかぎらない。ひとみのように、醜い容姿のために、中身まで歪んでしまう女だっている。
この女は簡単に嘘を言うし、奸計《かんけい》にも長けている。たった一回関係を持ってしまってから、ひとみには何度も職場に嘘の電話を入れられているし、つきまとわれたこともある。
だいたい、関係を持ってしまった時のことにしても、後で考えるとどうにも腑に落ちない。目が覚めた時の頭痛が尋常ではなく、単に飲み過ぎたとか、そんな程度のものではなかった。
酒に薬物を入れられたのだ。峰岸はそう思っている。だから、「関係を持った」といっても実際あの時、二人の間で何があったのか、峰岸には記憶がない。
「あの人、あたしの産んだ赤ん坊売って、大儲けしたはるんや」
ひとみは煙草を灰皿に押しつけ、バッグから茶封筒を取り出した。
「嘘やと思うてるんやろ」
これ見て、と言って、ひとみはテーブルに茶封筒を置いた。峰岸は茶封筒を手に取った。何枚かの写真が入っている。
「これ、あたしの産んだ子のいる家」
写真には、田舎の素封家らしい門構えが写っていた。
「榊原っていうねん。雲ヶ畑の旧家や」
言いながら、ひとみが躯をすり寄せてきた。また、大きくソファが揺れる。峰岸は傾いた体勢をたてなおし、座りなおした。
「これ、誰が撮ったんや」
「あたし」
得意そうに言い、ひとみは笑った。笑うと、よけいに顔の贅肉が盛り上がり、不器量さが増す。峰岸は次の写真に目をやった。先ほどの写真と同じ家の前を、中年の男女が連れ立って歩いていた。遠くから望遠レンズで狙ったものらしく、多少ぶれている。女は赤ん坊を抱いていた。
「これ、あたしの産んだ子。男の子やねん。そやから、この家の跡取や」
ひとみは峰岸の腕に自分のそれを巻きつけた。
「まだ、嘘やと思うてるのんか」
峰岸は答えなかった。
「調べてみいな、自分で」
「何をどう調べろて言うのや。確かめようがないやろ」
ひとみは立ち上がり、冷蔵庫の上に置いてあったポテトチップスを取って袋を破いた。
「簡単なことや。近所でな、あそこの奥さん、どこの病院で子供さん産まはりましたんや、て聞いてみ。皆、大阪の病院やて答えはるわ。そこの奥さん、榊原美津子ていうねんけど、美津子が周囲の人間に、大阪の飯塚病院で産んだ、と言うてるさかいや」
ポテトチップスの袋の中に手を突っ込み、ひとみは勝ち誇ったように笑った。
「そやけどな、母子手帳の出生証明書には、瀬尾レディースクリニックの判子が押してあるんやで」
「瀬尾レディースクリニック?」
「母子手帳の記録では、瀬尾レディースクリニックで去年の十二月二十四日に出産した、ということになってる」
ばりばり、という音を響かせて、ひとみはポテトチップスを食べた。
「本当に、十二月二十四日に榊原美津子という女が瀬尾レディースクリニックで出産したかどうか、確かめてみたら?」
峰岸は煙草を灰皿に押しつけた。
「調べたら、あたしの言うてることが嘘かほんまか、すぐにわかるわ」
なじみの看護師に頼めば、看護日誌の確認くらい容易なことだ。ひとみの言う通り、この話の真偽はすぐにわかる。ということは、ひとみの言っていることは、まんざら嘘でもないということか。
「おまえ、何考えてるんや」
ふふん、と鼻で笑い、ひとみは峰岸を見つめた。
「榊原ていう家、ものすごい資産家やで」
峰岸は新しい煙草を取りだし、銜えた。
「あの辺の土地や山、みんな、あの家のもんなんや」
塩と油にまみれた指を舐め、ひとみは峰岸の隣に座った。
「あの家では、一千万、二千万なんて、お金のうちに入らへん。ちょっと持ち山でも処分したら、億のお金が転がりこんでくるんや」
使い捨てライターを手に取り、峰岸は顔をあげた。
「何考えてるんや」
「手貸してえな」
ひとみはまた、峰岸の腕に抱きついた。
「損な話と違うで」
「おまえは、いったい何が目的なんや」
油にまみれた唇を、ひとみは舌で舐めた。
「全部」
遠くを見るような目をして、ひとみは言った。
「全部。全部や」
言ってから、ひとみは笑い、またポテトチップスを食べ始めた。
二月の京都は、もっとも厳しい冷え込みの季節を迎える。それなのに、ひとみの額にはうっすらと汗が滲んでいた。滲んだ汗のせいで化粧はよれ、ところどころ斑《まだら》になっている。
オレンジ色の太毛糸のニットのワンピースはひとみの全身をさらに大きく見せていた。ワンピースは膝丈で、脹脛《ふくらはぎ》の肉がはちきれそうな量感を持っているのがむきだしに見えている。
玄関を入ってきた時からスナック菓子の匂いが漂っていた。この女が歩くと、いつも食べ物の匂いがする。それも、安いジャンクフードのものだ。
「あんたの家って、何もあらへんもんな」
ソファにもたれ、コンビニのビニール袋に手をつっこみながら、ひとみは部屋を見回した。
潤子は菓子を買い置く習慣がない。甘いものを食べることもないので、ひとみの言うように、キッチンには惣菜の材料以外、何もないのだった。
テーブルに、潤子は茶を置いた。
「毒入ってんの、これ」
口の端で笑い、ひとみはビニール袋からコーラのペットボトルとポテトチップスを出した。
「冗談や。あたしはこれが好きなんやから、気にせんといて」
ペットボトルの蓋をまわして取り、ひとみはコーラを飲み始めた。黒い液体がひとみの口に吸い込まれ、大きな泡がボトルの中を生き物のようにどくどくと上がっていく。
どん、と音をたてて、ひとみはボトルを置いた。
「来月は三月かあ。もうすぐやなあ」
ひとみはテーブルに出してあったポテトチップスの袋を手に取り、破った。
「三月になったら、春やんなあ。お雛様やもんな」
勢いよく開けられた袋から、ポテトチップスの破片と塩がテーブルの上に散らばる。ひとみのニットにもそれらは飛び散ったが、気にするふうもない。鷲掴みにしたポテトチップスを口に運び、ばりばりと音をさせて食べ始めた。
「春になったら、あんた、なんかええことある?」
油と塩にまみれた指を、ひとみは音をたてて舐めた。潤子は自分の茶を置いて、ひとみの前に座った。
「あたしは、ええことあるかもな」
下からすくいあげるようにして、ひとみは潤子を見た。
「峰岸、もうあたしの味方やで。これからでかい勝負に打ってでるんや。あたしと峰岸は手組んでるんやからな、邪魔しても無駄やで」
声をあげて、ひとみは笑った。だが、何も応えない潤子の顔を見た途端、急に険しい表情を見せ、怒鳴りつけた。
「なあ、あんた。どうやって峰岸をたらしこんだんや」
ひとみはまた、口にポテトチップスを入れ始めた。咀嚼する音が異常に大きい。ポテトチップスはすぐになくなり、ひとみはコンビニの袋からカップに入ったケーキのようなものを取りだした。
「どこがええねんやろな」
添えてあるスプーンを取りだす手を止め、品定めでもするようにひとみは潤子を無遠慮に見つめた。
「あんた、おっぱいついてんの」
目を眇め、ひとみは薄笑いを浮かべる。
「本当は、峰岸とあんたて、どういう関係やの」
「何もないわ、関係なんて」
「あんたって、いつもそうやな、おばさん」
ケーキの上の生クリームをスプーンですくい、ひとみはかっと目を見開いた。
「何も関係ないなんて、そんなわけないやないの。わかってんねんよ、あたしは」
首の脂肪が揺れている。ひとみの顔にはさっきよりさらに汗が滲んでいた。部屋の石油ファンヒーターは、そんなに強くしていない。室温はむしろ、低いくらいだ。
「どこがええねんやろ」
ふん、とひとみは丸くて大きな鼻を鳴らした。
「最低」
スプーンを置き、ひとみはコーラをがぶ飲みした。ボトルの半分くらいを飲んだあと、手の甲で口を拭い、ふう、と大きく息を吐いた。
「けどな、今はもうあいつ、あたしの味方やで。あんたが何やっても無駄。あいつはもう、あたしから離れられへんから」
勝ち誇ったように言い、また、ケーキを食べ始めた。
「ところであんた、ほんとに看護師さん? コスプレの女王やったりして」
きゃはは、とひとみは声をあげて笑った。食べ滓が口から飛び散る。ひとしきり笑ったあと、またペットボトルのコーラを飲み、潤子を見据えた。
「ここで、お世話になったんは、あたしだけと違うねんやろ」
スプーンを持ちなおし、ひとみはカップの底に残ったクリームをさらい始めた。
「内職も忙しなったら、本業になったりして」
潤子の顔を下からうかがうようにして、ひとみは口の端で笑った。
突然、ふとんから半身を起こし、美津子は「哲也がいいひん」とつぶやいた。寝返りをうち、陽介は、またか、と思った。
美津子はふとんを蹴散らすようにして立ち上がり、ベビーベッドをのぞきこんだ。
「哲也、哲也」
薄闇の中で、美津子は囁き続ける。
「哲也、哲也」
陽介は起き上がって、美津子の肩を抱いた。
「いるやないか、哲也はここで寝てる」
「ああ、哲也。哲也、いた」
ベビーベッドの柵に手をかけて、美津子はしゃがみこんだ。しばらくすすり泣いた後、立ち上がり、哲也を抱きあげた。
「よかった、哲也」
傍らで、陽介は注意深くそれを見ている。
抱いて頬ずりをしているうちはいいのだが、そのうちに、狂ったように哲也をかき抱く。まるで、自身の躯の中に閉じこめようとでもするように、強く抱きしめるのだ。美津子の渾身の力で躯を締めつけられる哲也は、痛みと恐怖で火がついたように泣きだす。そういう時の美津子は、どんなに言ってきかせても哲也を離そうとしないし、哲也の泣き声もやまない。尋常ではない哲也の泣き声に気づいてクニ代が起きてきたらと思うと、陽介は気が気ではない。
「さあ、もう、ええやろ。哲也はここにいるんや」
なだめるように、陽介は言った。
「ほら、ここにいるがな。哲也はここにいる」
「哲也」
「ベッドに入れとこ。ここに入れておくのが、赤ん坊は一番安全なんや」
昂ぶった美津子の神経を刺激しないように、陽介は静かに言った。
このままにしておくと、美津子はまた狂ったように哲也を抱きしめる。そうなる前に、哲也をベッドにもどさせなければならない。
「いや」
「美津子」
「いや、あかん」
美津子の声が上ずり始めた。陽介は美津子の肩を抱き、「大丈夫やから」と囁いた。美津子は哲也を抱いたまま、陽介の腕の中でもがき始める。
「大丈夫や、美津子」
「哲也が」
「どうもない」
「哲也」
「ここにいる」
呪文のように、陽介は囁き続ける。
哲也はここにいる、大丈夫。
美津子は熱にうかされたように哲也の名前を呼び続けていたが、やがてしゃがみこみ、嗚咽を漏らし始めた。
初めて無言電話がかかってきた日から、数日後のことだった。
陽介が夕方帰ってくると、美津子の様子がおかしいのに気づいた。
「顔色悪いで。風邪でもひいたんか」
夕食の前に軽く言ってみたのだが、美津子はこわばった笑顔を見せるだけで何も言わなかった。
夜、寝室に入ってから、美津子は陽介にその日あったことを話し始めた。
「今日、男の人から電話かかってきた」
「誰や、男て」
「わからへん」
憔悴《しようすい》した顔で、美津子は首を振った。
「その人、哲也のこと知ってるて、言うてた」
「どういう意味や」
「何もかも知ってるって」
「何もかも?」
美津子は頷き、絞りだすような声で言った。
「黙っておいてあげますって。そやから、一億円用意してくださいって」
どうしよう、と美津子は陽介を見上げた。
あの女だ。
陽介は、漆黒の色しか見えない窓に目をやった。
哲也のことを知っているのは、潤子だけだ。漏れるとしたら、あの女以外ありえない。今考えてみれば、ひとみが唐突にこの家にやってきたのも、潤子の差し金だったのではないか。そう考えれば、すべての辻褄が合う。
美津子の言うように、ひとみが本当に哲也の産みの母親なのかどうかはわからない。だが、あのような形で押しかけてくれば美津子が怯えるのは当然で、潤子としては後の交渉がやりやすくなる。
潤子は信用できる人物だと陽介は思っていた。表情はかたくて冷たく、何を考えているのかよくわからない女だった。けれど、あの夜、駐車場で土下座をした陽介と美津子を見下ろす潤子の目には、明らかに憐憫《れんびん》の情が滲んでいた。どんなに望んでも子供のできない夫婦に、この女は心から同情してくれていると、陽介はその時感じた。それゆえに潤子は、赤ん坊を自分達夫婦に託してくれたのだと思った。
しかし、それは陽介の思い過ごしだったらしい。やはり、見ず知らずの他人を簡単に信用するのではなかった。簡単に信用したから、こんなことになってしまった。
今さら言ってみても仕方のないことだが、赤ん坊がいないことには、美津子の偽装妊娠が周囲にばれるのは時間の問題だった。陽介と美津子の画策が露見すれば、榊原の家は本家としての威信や体面、信用など、何もかもなくしてしまう。だから、あの時はそうするしかなかったのだ。
窓の闇を見つめながら、陽介は美津子に尋ねた。
「それで、何て答えたんや」
「切れてしもうた」
電話の声は男だったという。どうやら、潤子一人でやっているのではないらしい。愛人か黒幕か、あるいは手下か知らないが、仲間がいる。口止め料をかねて渡した一千万円は、逆効果だったのか。脅せばもっと引き出せると踏んで、仕掛けてきたということか。
こちらから潤子に連絡をしてみようかと陽介は考えたが、やめた。たぶん潤子は、しらを切る。わざわざ人を使って手のこんだことを仕掛けてきているくらいなのだから、自分とは関係のない第三者が脅迫しているのだという体《てい》を崩さないに違いない。おそらく、交渉がこじれて警察沙汰にでもなった時のことを考えてのことだろう。潤子は自分の逃げ道を確保したうえで、巧妙に攻めてきているのだ。
完全にやられている。
陽介は舌打ちをした。
翌日も、男からの電話がかかってきた。美津子が出ると、男は同じ内容のことを言ったのだという。
クニ代の前では何事もないように振る舞わねばならず、美津子はかなり神経を消耗したのだろう。夜になると、疲れきった顔をして寝室の椅子に倒れこんだ。
「明日も、かかってくるんやろか」
美津子が言った時だった。陽介の脱いだズボンに入れっぱなしにしていた携帯電話が鳴った。思わず顔を見合わせたが、陽介は椅子から立ち上がり、携帯電話を取り出した。
「もしもし」
「榊原陽介さん」
男の声だった。声に聞き覚えはない。
「哲也ちゃんの、本当のお母さんが泣いています」
「もしもし、あんた、誰ですか」
「泣いてるんですよ、哲也ちゃんを産んだ本当のお母さんが」
「ちょっとあんた、何なんや、こんな夜中に」
「返してあげてくださいよ、哲也ちゃん」
「おい、どういうつもりや」
「警察にいきますか」
陽介は黙った。
「いいんですよ、こっちは。何もかもはっきりさせた方がいいとおっしゃるなら、そうしますが」
ふっと笑った後、男はまた静かに話し始めた。
「哲也ちゃんの本当のお母さんはね、警察にいくと言っているんですよ。どうしますか」
「どうしますかって、あんた、どういうつもりでそんな」
「わたしはね、警察沙汰になんかするのは、哲也ちゃんの本当のお母さん自身のためにも、榊原さんのためにもならないと思っています」
「何が言いたいんや」
「一億でいいです」
「な、なんやて」
「また、お電話します」
電話は切れた。
翌日から、男の電話はさらに頻繁になった。夜といわず、昼といわず、陽介の携帯にも家の電話にもかかってきた。
お話し合いに応じていただけないなら、哲也ちゃんを取り返しにいきます。
男は、美津子に何度も電話でそう言ったのだそうだ。
潤子はバカではないなと、陽介は思った。いくら榊原の家が素封家といっても、現金一億円など、簡単に用意できるものではない。土地を売るにしろ、山を処分するにしろ、時間がかかる。それを見越したうえで、真綿で首を締めるようにじわじわと、美津子を追いつめているのだ。その様子を逐一、クニ代に見張られている美津子としては、気の休まる暇がない。
何を言ってこられたとしても、あるいは何を仕掛けてこられたとしても、警察に届けることはできない。事の詳細が公になれば、榊原の家は終わりだ。
手の打ちようがないままに、この二週間近く、美津子は男の電話に翻弄された。
哲也ちゃんを取り返しにいきます。
美津子は男の言葉に慄《おのの》いた。
哲也ちゃんのお母さんが、哲也ちゃんを返してほしいと言ってるんですよ。
男の電話は執拗だった。
陽介は、決して相手の言うことに頷いたり、認めたりするようなことを言ってはいけないと、美津子に言っておいた。
だから、男の言葉に頷きはしない。けれど、頑として否定することも美津子にはできなかった。
哲也を産んだのは自分ではない。そのことは、美津子が一番よくわかっている。けれど、誰にも知られていないのなら、そのことは「ない」も同然のことだった。美津子は哲也を産んだ母親として世間にも係累にも認められ、美津子自身もそれを当然のこととして、この二カ月近くを暮らしてきた。
だが、事実を承知した人物に、哲也を産んだ母親が別にいると眼前で言われれば、美津子には為《な》す術《すべ》がない。せめて哲也がもう少し大きくなっていたなら、美津子の心情も違っていただろう。哲也が美津子を母親として認識し、「お母さん」と呼べるような年齢に達していたなら、たとえ実の母親が何を言ってきたとしても、哲也と築いた関係を盾にとることもできたはずだ。
しかし、今の哲也は乳呑み児であり、誰を母親と認めるかという意志など、あってないようなものだ。産んだ当事者の「わたしが産んだ」という主張より強いものはなく、その主張の前には所詮、美津子は無力なのだった。そのことは、陽介が想像する以上に美津子の重い足枷となっており、心の奥底に濃い翳を落としていた。
男から初めて電話がかかってきて一週間後くらいから、美津子の言動は少しずつおかしくなり始めた。昼間、クニ代とともにいる時はまだいいようなのだが、夜になると、箍《たが》がはずれたようにわけのわからないことを口走る。
クニ代の前では必死で自分を保っているのだろうが、夜、陽介と二人だけになると緊張の糸が切れ、美津子は狂ったように哲也を抱きしめてみたり、どこにいるのだと言って泣きだしたりするのだ。
「哲也、哲也」
泣いていた美津子が、またベビーベッドをのぞきこんだ。
「哲也は寝てる。そっとしとこ」
言いながら美津子の肩をさすった時、携帯電話が鳴った。美津子の背中が、痙攣《けいれん》したように大きく動く。陽介は枕元のスタンドをつけ、脱いだズボンに入れっぱなしにしていた携帯電話をまさぐりだした。
「もしもし」
「榊原陽介さん」
男の声だった。
「はい」
スタンドの灯りで時計を見ると、一時を少し過ぎていた。
「用意できましたか」
「何をですか」
「一億円」
喉の奥をふるわせるような笑い声が聞こえた。美津子が怯えた目をして、こちらを見上げている。
「支払う」
陽介はきっぱりと言った。
「どうやって、渡したらいい」
一瞬、男は黙った。あまりにも簡単に陽介が応じたので驚いているらしい。
「そのかわり、約束してくれ。今後、うちには二度と近づかへんと。電話も困る」
「もちろん、約束します」
「それなら、こっちもそっちの要求をのむから」
「わかりました」
「必ず、約束は守ってくれ」
「ご安心ください。こちらの言う通りにしてくださるのなら、二度とお宅様には近づきません」
「ただし、時間をくれ。それだけの額、すぐには用意できんから」
「承知しました」
今、大金を支払ったところで、彼らはまた無心にやってくる。強請《ゆす》りとはそういうものだ。潤子やその仲間が生きているかぎり、同じことが繰り返される。陽介と美津子は、生涯彼らの存在に怯え、金を支払い続けなければならないのだ。
手を打つしかない。
携帯電話を握りしめ、陽介は目を瞑った。
[#改ページ]
第九章
キッチンの床に敷いた新聞紙には、点々と血液がこびりついていた。潤子はその一枚一枚を拾いあげ、たたんでいった。おびただしい数の新聞紙をまるめていたら大変な嵩《かさ》になる。時間はかかるが、一枚ずつたたむしかないのだ。
ダイニングテーブルの上に横たわった女の顔は青白く、時々、煩悶の表情を浮かべていた。躯には毛布をかけてあるが、唇に血の気はなく、こめかみのあたりの薄い皮膚には青白い血管が透けて見えている。
器具の洗浄と消毒はすでに終えていた。潤子は手術用のゴム手袋をはずし、術衣を脱いで洗面所に行った。二月の末のことなので、暖房のない洗面所の空気は冷えきっていたが、今はそれが心地良い。
ヒビスクラブを泡立てると、甘やかな匂いが漂った。指の一本ずつから付け根まで泡でこすり、湯で流してはまた、同じ作業を繰り返した。
ふと、顔をあげた。鏡に映った顔には、汗が滲んでいる。髪は後ろで束ねてあるが、ほつれ毛が頬に張り付いていた。蛇口の湯を水に切り替え、潤子は顔を洗った。水をすくった手を顔にあてると、ヒビスクラブの匂いの中に、わずかに残った生臭さを感じた。
洗面台に置いてあった液体ソープを泡立て、指の先端から手のひら全体をこすった。蛇口をひねり、勢いよく水をだす。手を覆っていた泡はたちまち溶けて排水口に消え去っていった。
棚からタオルを取り、水道の水に濡らした。ほとんど絞らないまま顔にあてる。だらだらと水滴が落ち、火照った頬が冷えてくる。水滴は、潤子の頬から首を伝い、紺色の古いスウェットの襟を濡らしていった。
どうせ、捨てようと思っていた服だ。手と顔を勢いよく洗ったので、袖も襟も前身頃もほとんどびしょ濡れになっている。脱ごうかと思ったが、今着替えてもあまり意味がないことに気づき、潤子は乾いたタオルを取りだして、襟口や袖を拭いた。
タオルで顔と髪を拭きながら、リビングにもどった。ソファに座り、煙草に火をつけると、薬品類の匂いは少し緩和されたような気がした。だが、部屋全体に漂う生臭さは消えはしない。
緊張感のためか、肩から首が異常に張っている。潤子は目を瞑り、首をゆっくりとまわした。鼻梁を親指と人差し指ではさみ、小さく息を吐く。
その時、唸るような声が聞こえた。ダイニングテーブルに横たわっていた女が首を振り、肩を動かしている。潤子は煙草を灰皿に押しつけ、立ち上がった。
女は断続的に低い声をあげていた。ずれた毛布の肩口に手をかけて、潤子は顔をのぞきこんだ。女はゆっくりと瞬《まばた》きを繰り返している。だが、眼球は不規則に動き、視点は定まっていない。女の目は潤子の顔を捉えることができず、意味のない動きを力なく繰り返していた。
目を覚ましたといってもまだ朦朧とした状態で、意識は混濁している。寝返りでも打てば、ダイニングテーブルから転げ落ちるだろう。
潤子は毛布の下から女の腕を取り、手首を掴んだ。女の爪には、除光液で取り損ねたマニキュアの色がこびり付いている。マニキュアと除光液の塗布を繰り返してきたらしい女の爪は黄色く、先端の表皮が剥がれていた。
手首の脈はしっかりしている。呼吸も乱れていない。
自動血圧計は術中、五分おきに血圧と脈拍を測定している。現在の血圧は百十八と七十二、脈拍は六十の数字を示していた。これも問題ない。
女は潤子に腕をとられながら、天井のあたりに視線をさ迷わせている。
「亜里沙さん」
先ほど聞いたばかりの名前を呼んでみる。
「わかる? 亜里沙さん」
これが本当の名前なのかどうか、潤子は知らない。が、ともかく呼んでみる。
「亜里沙さん」
何度かの呼びかけの後、女はようやく瞬きを一定間隔でするようになった。
「なんや」
かすれた声がした。
「終わったんか」
女はがさがさに乾いた唇を動かした。
「終わったわ」
そう、と言って、女は天井の蛍光灯を見つめた。視点を一定に保っている。もう、大丈夫だ。
「案外、簡単にすむんやな」
「あなたはね」
女は首を起こし、周囲を見回した。
化粧はしていないが、大きな二重瞼をしていて派手な顔立ちだ。
「ねえ、雪降ってる?」
「さあ、たぶん降ってないと思うけど」
「よかった」
「どうして」
「雪降って電車止まったら、困るやん」
リビングに置いておいた煙草の箱を潤子は手に取った。火をつけて煙を吐き出す潤子を、女は横たわったまま見ている。
「一本ちょうだい、おばさん」
潤子は何も答えなかった。
「煙草、おばさん」
灰皿を手に持ち、潤子は女の寝ているダイニングテーブルまで歩いた。
「起きてからにしなさいよ」
ふん、と女は笑い、「バッグとって」と言った。リビングに置いてあったバッグを潤子が渡してやると、女は躯を起こした。
「ありがと」
ふらつきながらも自分でテーブルから降り、女は犬のように首を振った。茶色に染められた長い髪が、生き物のように蠢く。
「なんか、頭痛いなあ」
額にかかった髪を無造作にはらい、バッグから煙草の箱を取りだして床に座った。
「これ、見た?」
女はバッグの底から新聞を掴みだした。二日前の新聞だ。黄色い爪に指された記事は小さいけれど、見覚えのある名前が目に飛び込んでくる。
「雑居ビルから男性転落死。二月二十三日午後九時頃、京都市東山区花見小路西の路上に男性が倒れているのを通行人が見つけ、警察に連絡した。男性は頭を強く打っており、病院に運ばれたがまもなく死亡した。調べによると、死亡したのは会社員峰岸琢磨さん(38)。峰岸さんは路上近くの雑居ビルの飲食店を訪れていた」
潤子はキッチンの片隅に置いておいた椅子に腰かけた。
「この雑居ビルの飲食店ていうの、うちの店やねん。あの晩は、救急車やらパトカーやらいっぱい出てきて、えらい騒ぎやったわ」
自慢話でもするように、女は肩をすくめた。
「峰岸さん、うちの店で飲んだはったんやけど、携帯が鳴ったから外に出ていかはったんや。店の中はうるさいし、電波の状態も悪いから、たいがいのお客さんは携帯がかかってくると外の廊下で喋らはる。廊下やったら吹きさらしやさかい、誰にも気がねいらんしな。峰岸さんもあの晩、外の廊下で喋ったはったみたいやねんけど、その時に鉄柵から落ちはったらしい」
新聞を置き、女は煙草を一本抜き取った。
「かなり飲んだはったわ、土曜日の晩やったし」
ライターをバッグから取り出して、女は潤子の方を見た。
「どう思う?」
「何が?」
そやから、と女は苛立った声をだした。
「誰が突き落としたんやと思う?」
「自分で落ちたんじゃないの」
「そんなはずないやないの」
言ってから声をあげて笑ったが、突然、新聞を手に持ちなおして床に叩きつけた。
「なあ、あたし、いつからやってもいいの」
女は煙草に火をつけた。
「いつからでもいいわよ」
「ほんとのこと言ってよ、おばさん」
「言えばきくの」
潤子は女の前に灰皿を置いた。
「来月、生理が終わってからね」
「え、ほな、一カ月あかんてことか」
眉をひそめ、女は唇をとがらせた。
だから、と言いながら、潤子は立ち上がった。
「いいって言ってるじゃないの。今夜からでもどうぞ」
女の目に一瞬、不安の色が滲んだ。
「わかったわ。とりあえず来月まで待つわ」
自身の躯をどう扱おうと、この女の勝手だ。そんなことは潤子に関係ない。
椅子にもたれ、潤子は煙草を吸った。
どうしようもなく、頭が重い。
峰岸は、また勝手に潤子のことをこの女に紹介していた。ひとみの時もそうだった。峰岸に言われ、この女もその気になって潤子を訪ねてきたのだ。以前に潤子がこの部屋で中絶手術をしたことを、この女は知っている。それを引き合いにだされると、とぼけることも断ることもできなかった。こんなことがいつまで続くのだろうか。
もう、峰岸は死んでしまったというのに。
楽器は、ただ置かれている時にはものを言わない。けれど、ふさわしい弾き手の腕にかかれば、豊かな音を紡ぎだす。
潤子は店頭に置かれたグランドピアノに見入っていた。商店街の楽器屋にしては大きな店構えだが、それでもグランドピアノを展示するのは一台が精一杯で、奥の売り場には縦型ピアノやキーボードしか並んでいない。
大手筋まで買物に来ることなどめったにないのだが、久しぶりに歩いた商店街でふと立ち止まり、楽器屋の店先に目を止めたのだった。つい店の中に入ってしまったのは、グランドピアノのライティングがあまりにきれいだったからだ。
光の中で、漆黒の楽器は濃い闇をその身内にためこんでいた。気品に満ちた黒色は光を撥ねかえし、撥ねかえされた光は星座の瞬きのようにきらめいている。
大きな楽器を支えているのは三本の細い脚で、それはこの上なく優雅で美しい均衡を保ち、漆黒の闇を浮きあがらせていた。
グランドピアノの蓋は開けられている。天板に楽器の内部が映っていた。誰かが演奏すれば、あの内部の部品達は動きだし、美しい旋律が溢れだす。
潤子は目を瞑った。
着飾った少女が、小首を傾げて鍵盤に指を載せているのが見える。少女の目は輝き、指が音を紡ぎ始める。潤子は耳を澄ます。
由梨。
おまえは今も、あの漆黒の楽器で音を紡いでいるのだろうか。
おまえが紡ぎだした音を、わたしはいつかどこかで聴くだろう。
その日まで、わたしは待っている。
潤子はグランドピアノに反射したライトの光に目を細めた。
「パンフレット、さしあげときましょか」
紺色のスーツを着た若い男が、カタログのようなものを持って潤子を見ていた。
「やっぱり、グランドは音が違いますからねえ。試弾してくださって結構ですよ」
「いえ、わたしは」
胸の前で小さく手を振り、潤子は後ずさった。ピアノなど、触ったこともない。
「お子様にですか。おいくつでいらっしゃいますか」
「いえ、いいんです」
「よくお弾きになるお子様は、やはりいつまでもアップライトピアノではかわいそうですからね。勉強が進んできたら、お母様としてはご心配でしょう。買い替えは早目に考えてあげないと」
慣れた口調で、男はにこやかに話した。
「どうぞ、お買い替えの際は、いつでもご相談ください。今はグランドと言いましても、コンパクトなサイズのものもございますので」
男はパンフレットを差し出した。
「ありがとう」
潤子は受け取り、店を出た。途端に、二月の冷えきった風が頬をなぶった。
その夜、潤子はもらってきたパンフレットを部屋で見た。
すべてグランドピアノのカラー写真だった。漆黒の楽器が華やいで見えるように、傍に赤いバラの花束や燭台などが添えられている。それぞれサイズや値段が提示してあるが、潤子には全部同じに見えた。
楽器の値段もさることながら、これを置けるだけのスペースを持つ家など、めったにないだろう。普通の部屋にこんなものを置いたら、それこそ足の踏み場もなくなってしまう。
パンフレットを閉じて、潤子は立ち上がった。リモコンでテレビをオンにすると、ニュースをやっていた。もうこんな時間なのか、と時計を見上げる。明日は早番だ。
潤子はマグカップにパックの日本酒を注ぎ、電子レンジに入れた。手早くタイマーをセットし、ボタンを押す。
「なお、死亡時に女性は、ポテトチップスとコーラを飲食していた形跡があり、警察でこれらを調べたところ、ペットボトルのコーラから毒物が検出されました」
ふと、テレビの画面に目をやった。
「現在のところ、毒物は農薬と見られています。死亡した関口ひとみさんはこの自宅アパートに一人暮らしで、近所の人との付き合いはあまりなかったとのことです」
画面に二階建てのアパートの全容が映ったが、すぐに肥った女の顔写真にきりかわった。顔写真の下に「関口ひとみさん、二十五歳」とある。
潤子は息を呑んだ。
ひとみだ。
ニュースでは、自殺とも他殺とも言っていなかった。あの女が自殺するとは思えない。
春になったらいいことがある。ひとみはそう言っていたのだ。
電子音が鳴った。潤子はレンジからマグカップを取りだし、リビングのソファに座った。
数日前、峰岸が殺された。祇園の雑居ビルから転落死したというのを知った時、関係のもつれから、ひとみがやったのだろうと思った。お腹の子供の父親は峰岸だと、ひとみが言っていたからだ。それが本当なのかどうかはわからない。口ぶりから、峰岸に対してかなりの執着心を持っていることは確かだった。
だが、ひとみも殺された。
今、潤子は犯人が誰なのかわかる。
榊原夫婦は、今度は潤子を狙ってくる。
ひとみには赤ん坊の顔も見せていないし、もちろん、行く先も教えていない。妙な執着心や愛情を持たせないために、赤ん坊は死んだと伝えた。
処置を終えた後、赤ん坊はクーハンに入れてバスルームに隠し、翌日には榊原夫婦に引き渡した。だが、ひとみは何らかの方法で、赤ん坊が貰われていった先を調べたのだ。
一時的に執着したところで、ひとみがいずれ、日々の生活や人生に大きな制約を強いる存在を持て余すのは目に見えていた。
意地汚く菓子を食い散らかしていたひとみの姿を、潤子は今も覚えている。他人の前で何の躊躇や恥じらいもなくスナック菓子を貪《むさぼ》る様子から、おそらくこれがこの女の日常なのだろうということは察せられた。
それは、単に年齢的に稚いからなのか、それとも、本当はいい歳をしているのに社会常識が欠落しているからなのかはよくわからなかった。どちらであったとしても、望まない妊娠の結果や行く末を、生涯をかけて受け入れるにはあまりにも未熟で稚拙であることだけは間違いない。
同時に、稚拙なだけに、ひとみが執着心を持った際にはかなり始末が悪いだろうことも想像がついた。稚拙な人間は考えることが単純で、やることが短絡的だからだ。
おそらく、潤子の危惧が現実のものになってしまったのだろう。ひとみは榊原夫婦に接触し、そして、その単純さと稚拙さに怯えた榊原夫婦に殺されてしまったのだ。
ひとみは、峰岸にも協力を求めた。それは、赤ん坊を取り返すためでもあっただろうし、また、峰岸の気をひくためでもあったのだろう。ひとみが突然、潤子の部屋にやってきたのは、峰岸はもう自分が取り込んだのだということを誇示するためだった。あの時、ひとみは具体的なことは何も口にしなかったけれど、邪魔をしても無駄だということだけははっきりと言った。
潤子は、榊原陽介の職業などについては何も知らない。だが、謝礼と称して現金一千万円を置いていったところからすると、暮し向きはかなり裕福なのだろう。峰岸もひとみも、そこに目をつけたのに違いない。
彼らに強請《ゆす》られ、榊原夫婦はどうすることもできなかったのだ。どんなにひどい恐喝や脅しを受けても警察に届けることができない人間がやることは、決まっている。
今、そのことに気づいているのは、潤子だけだ。
榊原夫婦は、潤子を殺しにやってくる。潤子さえ死ねば、あの夫婦が二人の人間を殺したことや、夫婦の子供の出生の秘密について知る者は、この世からいなくなる。
だから、必ず潤子を殺しにやってくる。
マグカップの酒を飲み、潤子は目を瞑った。
[#改ページ]
第十章
山には深い闇がひろがっているばかりだった。冷えきった夜気は風を巻き起こして木々を揺さぶり、地の底が音をたてている。それは誰かが泣いているようでもあり、あるいは悲鳴のようにも聞こえた。
寒風にさらされて乾ききった下草は、もう生きたものの弾力などなく、踏みしだくと霜柱の割れる音がした。まるで櫛の歯が折れるように、凍った草は倒れていく。
美津子は闇の中を走っていた。腕に抱かれた哲也は、山道を走る美津子の躯の振動をまともに受けて、まだ首も満足にすわっていない頭がおくるみの中で揺れ続けている。
雲間から、月があらわれた。
月の光は透明で、溢れた光が漏れたのか、綿のような雲の端々に鉄錆色を滲ませている。切れ間にのぞく夜空は濃い闇だが、あらわれた月の光を吸いこんで、鏡のように艶めいていた。冴えた光は、さらに夜気を凍らせ、大地を底冷えさせる。
辰巳稲荷の鳥居が見えた。
鳥居の朱色が、濡れた光を放っている。
美津子は立ち止まった。
胸の鼓動はおさまらず、額には汗が滲んでいた。哲也を抱いた胸のあたりは、火鉢をかかえたように熱い。美津子と哲也の体温が、太毛糸のセーターや綿入れのおくるみをもってしても相互に伝わり、熱を孕んでいるのだった。そのくせ、額や膝は冷たく、指の先は痺れていた。
腕の中の哲也を、美津子はゆっくりとかかえなおした。
哲也。
なぜ、わたしから生まれてこなかった。なぜ、わたしの中に宿らなかった。
哲也。
おまえはなぜ、生まれ方を間違った。
鳥居をくぐると、陶器の狐が美津子に視線を投げた。艶を帯びた鳥居の朱色がゆるやかに揺れ、陽炎《かげろう》のように空気が歪む。
哲也は眠っていた。
狐が美津子を見据え、風がひゅう、と鳴る。
祠《ほこら》の脇にかけられた絵馬がからからと音をたて、狐の尻尾に塗られた金色が、美津子を嘲笑うかのように反射した。
おまえはなぜ、間違った。
お母さんはここにいたのに。
なぜ、わたしをさがしだしてくれなかった。
わたしは、おまえをさがすのに必死だったのに。
ああ、違う、そうではない。
おまえはちゃんと、わたしをさがしあててくれたのだもの。
だから。
だから、哲也。
ああ、これでよかったのだ。
哲也、狐が笑っているよ。
おかしいね、狐のくせに笑っているなんて。
さあ、お母さんは、行くよ。もちろん、おまえを一人にしたりしない。
哲也。
それが赤ん坊の泣き声だと気づくのに、ずいぶん時間がかかった。
吹きつける風は夜の山を揺らし、地の底から涌く轟音はすべての音を消し去っている。
狐が鳴いているのか。
最初、そう思った。
真理奈は立ち止まり、耳を澄ませた。泣き声はやはり、山の上の方から聞こえている。
母親の遣い物を本家に持ってきたのだが、屋敷には誰もいなかった。しばらくテレビを見ながら待っていたものの、美津子もクニ代も陽介も帰ってこない。あまり長居すると母親に叱られると思い、遣い物を置いて帰ることにした。勝手口から出て、前に止めておいた自転車に乗ろうとした時、動物の鳴き声のようなものが裏山の方から聞こえてきた。
よく聞くと、それは赤ん坊の泣いている声だった。まさか哲也が一人で山に行くはずはないのだから、美津子も一緒にいるのに違いない。そう思って、ここまで来た。小さな頃から遊び慣れている真理奈には、山道とはいえ、月明かりさえあれば充分だ。
辰巳稲荷の一番下の鳥居まで来た時、声は崖の方から聞こえていることに気づいた。
風が吹くと山は揺れ、木々は擦れて葉音をたてる。山の音は麓をめぐり、潮騒のようなざわめきとなって、すべてをかき消してしまう。ともすれば途切れがちになる泣き声に耳を欹《そばだ》てながら、真理奈は歩き続けた。
顔をあげると、しだれ梅が見えた。白い花をつけ始めた枝が、月明かりの下で絹のような淡い光を滲ませている。
樹の下に人影があった。
「おねえちゃん」
真理奈の声に、美津子が振り向いた。
「何してるの」
美津子はしゃがんでいた。哲也は傍らに置かれて泣いている。
「真理奈ちゃん」
笑って答えたが、美津子の額には汗が滲んでいた。真理奈は、美津子の前に小さな穴があるのに気づいた。美津子の手は泥だらけだ。
「その穴、どうしたん」
手をはらいながら美津子は立ち上がり、何か言った。だが、哲也の泣き声と風の音にかき消されて、何と言ったのかはわからなかった。
小さく笑い、美津子はしだれ梅を見上げた。いや、月を見上げたのだろうか。白い横顔に淡い光が射し、頬のあたりに薄い翳を作っている。よく見ると、美津子は目を閉じていた。
しばらくそうしていたが、また、しゃがみこみ、穴に土をかけ始めた。穴は、大人の腕でひとかかえほどもない大きさだ。哲也が泣き続けているというのに、美津子は見向きもしない。
真理奈は奇妙な感情にとらわれた。そんなはずはないと思うのだが、その穴が、まるで墓穴のように見えてならないのだ。
「おねえちゃん、なんで、穴なんか掘ったの」
わたしが掘ったものではない、そんなわけないでしょう、と美津子に言ってほしくて、真理奈は声をかけた。だが、美津子は何も答えなかった。何も答えないまま真理奈に背を向けて、土を手ですくっている。
穴を埋め終わった美津子は哲也を抱きあげ、真理奈の前に立った。哲也はまだ、泣いている。美津子は微笑し、真理奈に哲也を差し出した。
頷き、真理奈が哲也を抱きとると、美津子は小さく首を振って、唇を動かした。
わたしはやっぱり、あかんから。
唇は、そう言ったように見えた。
なんで、そんなこと言うの。そう言おうとしたら、突然、美津子が走りだした。
「おねえちゃん」
真理奈が叫んだ時には、美津子の姿は崖の縁から消えていた。
切れ長の目には、やはり感情の表出はなく、薄い唇は閉じられたままだった。そのくせ、潤子は陽介を追い返そうともせず、拍子抜けするほど簡単に部屋に通した。身構えながらリビングに入ったが、誰かが隠れている気配もなく、陽介は促されてソファに座った。
「全部、あんたが仕組んだことやったんやろう」
陽介の問いに、潤子は何も答えなかった。いつ見ても潤子の顔は、透明な紗《しや》に覆われているかのように薄い翳がさしている。翳のせいで、その奥にあるものは何ひとつ読み取ることができない。
「あんたには、ちゃんと謝礼も支払うたやないか。あれには口止め料も含まれていることくらい、あんたかてわかってたはずや」
言ってから、陽介は息を吐いた。
哲也をこの部屋で貰い受けたのは、ほんの二カ月前のことだ。
あの時、美津子はどんなにうれしそうな顔をして、哲也を抱いたことだろう。美津子は今までに見せたことのない穏やかな表情で微笑んでいた。無心に眠る哲也はただその身を美津子に委ねており、これから始まる時間も将来も何もかもすべて、自分達夫婦に預けていたのだった。三人は、たどり着くべき場所にたどり着き、寄り添ったのだ。生涯かけて、自分はそれを守っていかなければならない。陽介はその時、そう思ったのだった。
「なんでなんや」
握りしめた拳を、陽介は自身の膝に叩きつけた。
「なんでなんや」
悔しさに、手がふるえる。
やはり、他人の子を貰うなら貰うで、世間に隠し立てなどせず、正規の手続きを経て、養子縁組をするべきだったのか。
本当はわかっていた。当然ではないか。
けれど。
陽介は小さく首を振った。
潤子が陽介を凝視している。
初めて会った時から、冷たい目をした女だと思っていた。だが時々、その目の奥に憐憫の色を滲ませることがあった。
自分は、それに騙された。
透明な紗の奥にあるものが何なのか、考えもしなかった。愚かだった。
「俺は、あいつらを守っていかんとあかんのや」
絞りだすように、陽介は言った。
そやから、と言葉を続けようとしても、喉の奥が詰まった。
「そう」
潤子が言った。声にもまるで感情がない。陽介は唾を飲み込み、顔をあげた。
「そやから、俺はあんたを」
生かしておくわけにはいかない。
陽介は立ち上がった。潤子は座ったまま、陽介を見据えている。陽介はテーブルを回り込み、潤子の前に立ちはだかった。潤子の顔には怯えも恐れもなく、ただ、目の前の光景を見ているだけだ。すべての感情を覆い隠し、眉根を寄せることすらなく、瞬きもしない。
生かしておくわけにいかない。
その細い頤《おとがい》に、陽介は手を伸ばした。潤子は抵抗しなかった。かといって、目を閉じるわけでもなく、潤子は陽介の目を見ている。
「なんでや」
手を伸ばしたままうなだれ、陽介は言った。
「なんで、なんや」
感情が昂ぶり、声がかすれた。
なぜ、抵抗しない。なぜ、泣き叫ばない。
「なんで、逃げへんのや」
手を離し、陽介は跪《ひざまず》いた。両手で顔を覆うと、涙が滲み始める。
突然、リビングのドアが開く音がした。
「お母ちゃん」
クニ代が立っていた。
陽介の方には目もくれず、クニ代はまっすぐ顔をあげて部屋に入ってきた。いつものように紺色の手編みのセーターに焦茶色のズボンを穿き、灰色のビーズの手提げ袋をぶら下げている。どう見ても、近郊の農婦がちょっとした使いに出てきたようにしか見えない。陽介にとっては、日常のありふれた光景だ。だが、平凡な姿とは裏腹に、クニ代の目は鈍い光を奥底に溜めていた。
潤子の座っているソファの傍らに立ち、クニ代は灰色のビーズの手提げ袋に手を入れた。その仕草には何の躊躇も迷いもなかった。まるでいつもの、抹茶色のがま口を取りだす時のように、クニ代は手提げ袋から手を出した。瞬間、陽介は、首の後ろのあたりがどうしようもなく冷えていくのを感じた。
クニ代の手には、抜き身の包丁が握られていた。
「そこ、どきや」
「お母ちゃん」
もしかして、と陽介はかすれた声で言った。
「どくのや、陽介」
「もしかして、お母ちゃんは」
「そうや。そやから、どくのや、陽介」
「やっぱり、そやったんか」
陽介は、大きく息を吐いた。
いつも、自分がやろうと思った時には、相手は死んでいた。それを、なぜなのだと考えないわけではなかった。いや、考えないようにしていたのだ。きっと、自分の考えていることは的をはずしていないだろうと、心のどこかで知っていたからだ。
「これで、哲也のことを知る者は一人もいんようになる」
潤子を睨みつけ、クニ代は言った。
「お母ちゃん」
一時は美津子を疑ったこともあった。しかし、峰岸が死んだ夜も、あるいはひとみが中毒死した日も、美津子は陽介と一緒にいた。それなら、答えは瞭然としていたのに、敢えて自分は考えないようにしていた。
だが、いつまでも逃げているわけにはいかない。最後は自分の手で決着をつけなければならないのだ。これ以上、母の手を汚させるわけにはいかないではないか。
「哲也の親は陽介、あんただけや」
「知ってたんか、お母ちゃん」
哲也の出生の秘密は、クニ代にはとうに知られていたというのか。全身から力が抜け、陽介は床に手をついた。
「なんで、知った」
「もともと、美津子が妊娠してないことはわかってた」
「なんやて」
陽介は顔をあげた。
「わたしは女やで。子を孕んだこともあれば、産んだこともあるんや。同じ屋根の下に暮らしてて、腹の中身が赤ん坊かバスタオルか、わからいでか」
「ほんなら、お母ちゃん、なんで怒らへんかったんや」
「怒ったかて、しゃあないやないか」
クニ代の目の底の光が、一瞬揺れた。
「分家はあんな調子やったし、親戚筋は皆、跡取のことで責めてきた。わたしはな、嘘とわかってても、まあしばらく、このままにしとこと思うたんや。どうせ、そこそこの時期になったら、流産したとか、死産したとか、適当な理由をつけて、あんたらが自分から赤ん坊はあかんかったと言うやろうから、それまでは放っといたらええと考えたんや。美津子が妊娠してるということにしといたら、その時だけでも分家も黙ってるやろうし。その間に、ひょっとしたら、ほんまに子ができるということも、ないともかぎらへん。どうせ、あかんかったら、跡取の養子縁組のことは考えんならんのはわかってたことやったし、それでええと思うたんや」
それが、思いもかけず、本当に赤ん坊が誕生した。
「ほんまのこと言うとな、哲也を連れてあんたらが帰ってきたとき、そらびっくりしたわ。てっきり、どこぞの赤ん坊盗ってきたんやと思うた。そやけど、テレビも新聞も、そんなニュースは全然言わへんし、おかしいなと思うてたんや。それに、美津子は母子手帳も持ってるし、出生証明書も届けてあるし。いったいどういうことやろうと思うて、こっそり母子手帳見たんや。そしたら産んだ病院が、聞いてた大阪の病院とは違う。これはきっと、お医者さんか誰か、専門家にうまいこと細工してもろうたんやなと、思うた」
それならそれでいい。このままにしておいて、何の不都合があるだろうか。晴れて跡取ができたのだから、分家は黙り、一族は喜び、家の将来は安泰だ。だから敢えて、クニ代は陽介夫婦のやったことには触れずにおこうと考えたのだった。
「定期預金、勝手に解約してたやろ。一千万円たらいう大金や。聞かんでも、哲也のことに使うたんやろうということは見当つくがな」
床に手をついたまま、陽介は目を瞑った。
「いたずら電話がようかかってきたけど、そのたんびに、美津子は顔色が変わって、躯がふるえてたわ。わたしはな、いっぺん電話を取ったことがあるんや。美津子がちょうど洗濯物干しに出た時やった。関口ひとみていう女からの電話やった」
「ひとみと電話で話したんか、お母ちゃん」
「最初、相手は何も喋らへんかったんやけど、なんぞ事情があるのやったらちゃんと聞かせてくれませんか、とわたしが頼んだんや。ただでとは言いませんから、と」
クニ代がそう言うと、ひとみは哲也ちゃんのことでお話ししたいことがある、と答えたのだった。
「四条の喫茶店で会う約束をとりつけたんや。会うてみたら、以前家にきて、お乳だしてた女やった」
その瞬間、たぶん、この女が哲也の実の母親なのだろうと、クニ代は思ったのだという。
「お金の工面はわたしがするさかい、全部ほんまのことを教えてくれて頼んだんや」
すべて嘘偽りなく事情を話してくれたなら、必ず責任を持って金は払うとクニ代は言った。クニ代の言葉に気をよくしたひとみは、哲也を出産した経緯も、哲也の父親のこともすべて話した。
「ひとみに言うたんや。わたしは孫の哲也が可愛い。哲也のことで波風は立てとうない。けど、このままでは息子は絶対に金は払わんて言い続けるやろうし、いつまでも解決がつかへん。そやからここは、わたしが内緒であなたにお金を直接届けます、と」
クニ代の申し出を、ひとみが歓迎したのはいうまでもない。
「その代わり、こちらも大金を払うのやから、あなたの住所を教えてください、そこに届けます、とわたしは言うた」
ひとみは喜んでその条件をのんだ。
「哲也の父親はどんな人です、と訊いたら、峰岸ていうて、薬品販売会社の社員で、えらい男前やと自慢してたわ。哲也が榊原の家に貰われていったことを、その人は知ってはるんか、と訊いたら、そら知ってるにきまってる、わたしらは今、夫婦同然やからと、また自慢そうに言うてた」
それを聞いた時、クニ代はその男も一緒になって息子夫婦を脅していることに気づいた。
金の支払いの約束を得たひとみは、上機嫌で峰岸のことを話した。その際、彼が毎週土曜の夜に祇園のいきつけの店「パピヨン」で、はめをはずして飲むことなども、クニ代は聞き出したのだった。
「後で気づいたんやけど、ひとみはわたしと会うたことを、峰岸には内緒にしてたみたいやな。たぶん、金を独り占めする魂胆やったんやろ」
こんなに簡単に、相手が金を払うと自分から言ってくるとは予想もしていなかったのだろう。かなりの時間や手間がかかると考えて峰岸を引きずりこんだものの、自分一人ですべて事がうまく運んだので、分け前をくれてやるのが惜しくなったのだ。
「わたしが金を払うとひとみに約束した後も、けったいな電話はかかってきてたし、美津子の様子もおかしいなっていく一方やった。たぶん、峰岸か潤子からの電話やないかと、わたしは思うた。潤子ならともかく、峰岸からこんな電話がかかってくるというのは、ひとみがわたしとの交渉を、峰岸に内緒にしてるからや。金の約束ができてるのを知ってたら、そんなことする必要のないことやからな」
いずれにしろ、哲也の出生の秘密を知る者は始末するしかない。生かしておけば必ず、榊原家の財産を目当てに恐喝してくる。
次の土曜の夜、「パピヨン」の前のフロアでクニ代は機会をうかがった。階段に隠れ、峰岸が帰るところを待っていたのだが、彼は思いのほか早くに出てきた。携帯電話で話すために外の廊下にやってきたのだ。峰岸はかなり飲んでいる様子で、足元がふらついていた。
手摺りに肘を置いてだらしなくもたれ、電話の相手と話しこんでいる峰岸の脚を、クニ代は後ろからすくい上げるようにして突き落とした。酔っているうえに携帯電話に気をとられていた峰岸は手摺りを掴むこともできず、五階から路面に叩きつけられた。
三日後、クニ代はひとみのアパートに出向いていったのだという。
「もっと用心されるかと思うたんやけど、お金を持ってきたて言うたら、簡単に部屋に入れてくれたわ。ひとみはわたしを疑うてはいいひんかった。峰岸のことについては、辻村潤子のことを疑うてたんや」
だから、小瓶に用意していった苗栽培用の農薬を、隙を見てペットボトルに入れるのはそんなに難しいことではなかったと、クニ代は淡々と話した。話し終えるとクニ代は顔をあげ、顎をひいた。
「陽介、部屋から出ていき」
包丁を両手で構え、クニ代は言った。
「お母ちゃん」
「これで、何もかも終わるんや」
「やめてくれ、お母ちゃん」
陽介がクニ代に近づこうとした瞬間、クニ代の腕は潤子に伸びていた。
早朝のおだやかな日の光が、廊下の窓から射し込んでいた。入院患者の病室はこのフロアにはない。あるのは、手術室と集中治療室だけだ。
「もっぺん、最初から聞くけど」
長椅子に座った真理奈の顔を、中年過ぎの刑事がのぞきこむようにして言った。
「堪忍してや、仕事やさかい。おじさんらは、同じこと何べんも聞くのが仕事なんや」
頭の後ろに手をやり、刑事は苦笑した。
「で、榊原美津子さんはあの崖から突然、飛び降りた、と」
長椅子の傍らに立ち、赤ん坊を抱いている女が眉をひそめた。女は真理奈の母親で、さっきから不安そうに娘と刑事のやり取りを見ている。その横に立つ男は父親で、榊原家の当主の従兄弟にあたり、分家の長男だという。真理奈の母親が抱いている赤ん坊は、美津子の長男だ。
「昨夜、お屋敷には誰もいてはらへんかった。そういうことやね」
刑事の言葉に真理奈は頷いた。
美津子が崖から落ちたのは昨夜八時頃のことである。目撃した真理奈は屋敷に知らせるべくとって返したが、屋敷に家人の気配はなく、急いで自宅に向かったという。赤ん坊を抱いていたので自転車に乗ることができず、真理奈は夜道を十分ほどかけて走って帰ってきたらしい。
警察に連絡をしたのは、真理奈の母親だった。本家の赤ん坊を抱いて泣きながら帰ってきた娘に事情を聞き、家族は仰天したという。
美津子は、裏山の崖より少し下流の岩場で発見された。ここのところ雨がなかったので水位が低く、浅瀬にうち上げられるような形で倒れていたのだった。溺死は免れたものの意識不明の重体で、現在も集中治療室に収容されており、面会謝絶である。
「おおきに。ご苦労さんやったね。もう、ええよ」
刑事は真理奈の肩に手をやった。真理奈は俯いたまま、はい、と言った。
「また、何かあったら事情をお聞きするかも知れませんが、その時はひとつ、よろしゅうに」
真理奈の両親に会釈し、刑事は階段に向かって歩き始めた。
奇妙なことに、榊原家の当主である陽介とその母親は、昨夜から未だに行方がわからない。本家に話のわかる者がいないのだから、分家に何かと協力を仰がねば仕方がないだろう。
階段まで行くと、若い刑事が駆け上がって来た。
「今、連絡が入ったんですがね」
息を切らし、彼は立ち止まった。
「伏見区のマンションで昨夜、飛び降り自殺した女がいますのや」
「なんや、伏見区か」
面倒そうに、刑事は答えた。いや、それがですね、と若い刑事は声をひそめた。
「持っていた免許証から、榊原クニ代と判明しまして」
「榊原?」
若い刑事は頷いた。
「姑さんですよ。榊原美津子の」
二人は顔を見合わせた。
「ほんまに、自殺なんか」
「向かい側のマンションの住民で、目撃者がいるんだそうです。自分でベランダに出てきて、柵を越えて飛び降りるところを見たと、証言しているそうです」
どういうこっちゃ、と刑事は眉根を寄せ、首を傾げた。
「クニ代が飛び降りた現場には、息子の榊原陽介がいたそうです」
「なんやて」
その時、エレベーターの方から警官に付き添われた男がやってくるのが見えた。男は憔悴しきった顔をしており、下瞼が脹れて目が充血していた。
「京都府警の梶原と申します」
中年過ぎの刑事が会釈した。
「お聞きになっておられると思いますが、奥さんは意識不明の重体でして、現在、集中治療室におられます」
陽介は黙って頷いた。
「お母様も、大変なことやったそうで」
昨夜、ベランダから飛び降りたクニ代は、救急車で病院に搬送されたが、すでにこと切れていた。病院に付き添った陽介は警察に事情を聴かれ、クニ代が自らベランダから飛び降りたことを話した。警察では、遺体はこれから司法解剖すると説明された。
そして今朝、警官から、美津子が入院していると知らされた。この病院に向かう車の中で、昨夜、裏山の崖から落ちたと聞かされたのだった。
「陽ちゃん」
雄一がやってきた。
「どこ行ってたんや。携帯も全然つながらへんかったやないか。電源切ってたんやろ」
言ってから、憔悴した陽介の顔を見て一瞬黙った。
「さっき、担当の先生に話聞いたんやけど」
声を落とし、雄一は目を伏せた。
「かなり、あかんらしい」
息を吐き、陽介は手のひらを額にあてた。
「腰から背中を強打してるらしい。脊椎がやられてて、えらいことになってるて、先生が」
唇をかたく結んだあと、雄一は言った。
「もし万一、命が助かることがあったとしても、下半身に麻痺が残るか、下手したら植物状態いうことも、覚悟しといてくれて」
わかった、と陽介は頷いた。
「こんな時に、まことに申し訳ないんですが」
二人の間に割って入るようにして、梶原が言った。
「少し、事情をお聞かせいただけませんか」
梶原は、陽介の反応を試すように言葉を切った。
「昨夜のうちに、あなたのお母様と奥様が、大変なことになっておられますから」
若い刑事が雄一に、あちらで待っていてくれ、と言った。
陽介は目を瞑った。
昨夜、潤子のマンションにやって来た時、クニ代は本気だった。本気で、潤子を殺そうとした。けれど、できなかった。陽介がクニ代の躯にしがみついたからだ。潤子は腕に傷を負っただけですんだ。
最後まで、潤子は一切の抵抗をしなかった。ただ、憐憫の色を目に滲ませ、陽介とクニ代を見ていただけだった。
クニ代に包丁を突きつけられてもなお、逃げようとしない潤子を見た時、この女が自分達を脅迫していたというのは、違うのではないか、と陽介は思った。
姑息な魂胆を持っているのなら、今ここで弁明なり言い逃れなりして、陽介達を煙に巻こうとするのが当然ではないか。なのに、潤子は何も言わない。殺されかけているというのに、黙って陽介達を見ている。
なんで、止めるのや。
クニ代が呻くように言った。
この女が生きてたら、今までお母ちゃんがやったことが全部、無駄になってしまうやないか。
やっぱり、間違うてたんや、俺らは。
今さら何を言うのや。
間違うてたんや。
陽介はクニ代の腕から包丁を取り上げようとした。
さわったらあかん。
クニ代が叫んだ。
これにさわったらあかん。ええな。
からん、と音がして、血のついた包丁が投げ出された。
どっちみち、わたしはもう、ただではすまへんのや。
クニ代は言い、リビングのサッシを開けてベランダに出た。
一瞬の出来事だった。
あの時、クニ代が包丁にさわるなと言ったのは、陽介の指紋が柄に残ることをおそれたからなのだろう。
陽介は目を開けた。
廊下の向こうを見ると、長椅子に座った真理奈が哲也を抱いていた。哲也は眠っている。陽介の視線に気づいた真理奈が立ち上がった。自身の頬をすりつけるようにしてかかえなおし、陽介に哲也の顔を見せようとしてくれている。陽介は黙って頷いた。
§ § §
春先の薄い陽射しは頼りないが、ビニールハウスの中は暖かい。
ペチュニアの濃いピンク色は鮮やかだった。とくに八重咲きは、まるで身内に日の光を集めているかのように輝きを増している。
花茎の伸びを確認しながら、美津子はゆっくりと車椅子で木板の間を進んだ。ハウス内の地面には渡し板が敷いてあるので、車輪は滑るように進む。
段差をつけた木板の上には、おびただしい数のペチュニアのポット苗が色別に並んでいた。朝顔によく似たこの花は、可憐な姿にも似合わず丈夫で、生育も早い。
白いペチュニアの置かれた木板のところまで来た時、水やりのホースがすでにローラーに巻きとられているのに気づいた。噴霧器も、いつもの場所に置かれている。
ゴム手袋をはずし、美津子はビニールハウスを出た。
「哲也」
スコップで遊んでいた哲也が立ち上がった。
「おおきに。ホース、片付けといてくれたんやな」
頷き、哲也がポケットに片手を突っ込んだ。
「お母ちゃん、これ」
美津子の膝の上の毛布に、哲也はタンポポを置いた。
「ひや、こんなん、どこに咲いてたんや」
哲也は得意そうに笑い、叢を指さした。雑草の類は時々、季節をわざと間違えたかのように早咲きの花を見せることがある。
「あ、お父ちゃんや」
おう、と陽介が手をあげた。
「もう、ええか」
「全部終わった。哲也が手伝うてくれたさけ、早う片付いたわ」
そうか、と言って、陽介は美津子の車椅子の後ろに立った。
たいした距離ではないが、美津子一人で車椅子を手繰って屋敷とビニールハウスを往復するのは難儀なことだった。だから、いつも陽介が送り迎えをしてくれる。
「哲也ももうじき幼稚園やさけ、お母ちゃんの手伝いもできるようになったんやな」
陽介の言葉に、哲也は満足そうに頷いた。
「これ、おまえにや」
小さな包みを陽介は哲也に差し出した。包みには赤いリボンがかけられている。哲也はスコップを置き、飛びつくようにしてそれを受け取った。包装紙をとくと、弁当箱と箸のセットがでてきた。
「幼稚園の入園祝いや」
美津子は陽介を見上げた。
「あの人からや」
頷き、美津子は哲也に「よかったね」と言った。
名前を聞かなくても、贈ってくれたのは誰かわかる。
三年前、警察に何を聞かれても、潤子は絶対に哲也の出生について喋らなかった。峰岸が突き落とされた現場の手摺りと、ひとみの部屋にあったペットボトルからクニ代の指紋が検出され、また、クニ代自身の遺書も発見されたため、警察はクニ代の犯行と断定した。
貸した金を返してくれなかったから、口論となって二人を殺したと綴られていたその遺書を、灰色のビーズの手提げ袋から見つけたのは潤子だった。
潤子は、自身もクニ代に借金があり、事件当夜は取り立てのために押しかけてこられたのだと警察で話した。返済に応じない潤子に業を煮やしたクニ代は刃物を振り回したが、心配して後を尾けてきた陽介が止めに入ったのだ、と供述したのである。親子で揉み合いになって、激昂したクニ代はベランダから発作的に飛び降りたと潤子は証言し、それ以外のことには一切触れなかった。
すでに亡くなってしまっているとはいえ、クニ代は二人の人間をあやめた。そのことを周囲の者は知っている。事件以来、分家や係累、近隣の者達とも疎遠になってしまったが、陽介はそのことについて何も言わない。
「お母ちゃん、お花は?」
弁当箱を胸にかかえたまま、哲也が美津子の顔を見上げた。
「あ、忘れてた」
「よっしゃ、哲也、お父さんと取りにいこ」
ちょっと待っとけ、と美津子に言って、陽介は哲也とともにビニールハウスに入っていった。美津子は弁当箱を膝に置いて二人を見送ったが、ほどなく哲也がポット苗を持って駆け寄ってきた。苗は、濃いピンク色をした八重咲きのペチュニアだ。
「おおきに」
ポット苗を受け取り、美津子は弁当箱とタンポポを哲也に持たせてやった。
「これ、鉢に植えかえて、御仏壇に供えるさけ、哲也も手伝うてや」
「おばあちゃんにあげるの?」
「そうや。おばあちゃん、このお花好きやったんや」
去年の今頃も、この花を仏壇に供えた。今朝、そろそろペチュニアを植えかえてもいい頃だと陽介と話していたのを、哲也は覚えていたのだ。
「きばって、幼稚園いかなあかんなあ、哲也」
言いながら、美津子は哲也の頭を撫でた。
「うん」
ビニールハウスから陽介がもどってきた。
「ほな、いこか」
ペチュニアの苗を両手で持ち、美津子は頷いた。
陽介がゆっくりと車椅子を押し始める。いつものように、哲也が車椅子の肘掛を握って一緒に歩いた。
崖のしだれ梅が見えている。知らない間に、蕾はほころび、枝は花をつけ始めていた。
風になぶられ、ふわりと枝が揺れる。まるで、白い絹を肩から流している女の立ち姿のようだ。花朶《かだ》は崖の縁に淡い光を滲ませ、翳を映した水は渓《たに》を流れていく。風に放たれた芳馨が川を渡り、凜気が灑《そそ》がれた。
美津子は哲也を抱き寄せ、それを見つめた。
[#改ページ]
●第19回サントリーミステリー大賞の選考経過
今回も、国内海外を含め、三二八篇の作品が寄せられました。厳正なる選考の結果、一次選考で十九篇、二次選考で六篇、更に最終選考において、左記の三作品に絞られ、公開選考会に臨むことになりました。
公開選考会は二〇〇二年二月二十六日、赤坂のサントリーホール・小ホールで行なわれ、浅田次郎、逢坂剛、北村薫、篠田節子、藤原伊織の五人の選考委員の白熱の論議の末に、「子盗り」が大賞に選出されました。また、公募と作文審査による委員と、各大学の推理小説研究会の代表からなる五十名の読者選考委員の投票においても、同作品が最高点を集め、大賞、読者賞のダブル受賞に決定いたしました。他の二作品は優秀作品賞を受けました。
サントリーミステリー大賞運営委員会
最終候補作
「静かなる叫び」 義則喬
「孤独の陰翳」 藤村いずみ
「子盗り」 海月ルイ
単行本 二〇〇二年五月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十七年五月十日刊