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十四番目の月
海月ルイ
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プロローグ
京都シャングリラホテルのロビーには、着飾った人々が絶え間なく行き交っていた。どんなに大勢の客が往来しようとも、一流ホテルのロビーは喧騒とは無縁である。河原町通の騒音さえも届かず、そこには静謐《せいひつ》と秩序が保たれていた。磨きこまれた白い大理石の床は人々の影と中庭に射し込む日の光を映し、吹き抜けの大きな空間にさらに光を投げている。
一階のカフェテリア「エトワール」からは、ロビーの一部が見えていた。席に案内された桑島|樹奈《じゆな》は椅子に座ったものの、こわばった顔で出入口のあたりを凝視している。前を向いたまま、樹奈は膝の上に載せた紙袋をかかえ直した。紙袋にはヒマワリのイラストが描かれている。現金二千万円が入っていた。紙袋の重みと厚みは、娘の美有《みゆ》の生命そのものだ。
二歳の美有は今頃、母親の姿を求めて泣き叫んでいるに違いない。泣き声がうるさい、と犯人に乱暴されているかも知れない。何があっても医者に診てもらえるはずはなく、監禁場所で放置される。
想像するだけで、樹奈は気が狂いそうになる。
美有、どこにいるの。
待っていて。必ず、助けてあげるから。どうか、美有、無事でいて。
樹奈は心のなかで美有に話しかける。
大丈夫、美有。もうすぐだから。もう少し辛抱したら、全部終わるから。
樹奈は何度も同じ言葉を心のなかで繰り返す。
神様、美有をお守りください。仏様、美有を助けてください。
ああ、美有、生きていて。
息を吐き、樹奈は背筋を伸ばした。
この広いカフェテリアには刑事が何人かいるはずだ。客は、三十人くらいいるだろうか。平日の昼前なので、ほとんどが中年の女性客だ。男の客は十人いるかいないかだった。
コーヒーを飲んでいる四十代の男。今時めずらしい太い黒縁の眼鏡をかけて新聞を読んでいる五十前後の男。黒い鞄から書類を取り出し、熱心に何かを書きこんでいる三十半ばの男。少し離れた喫煙コーナーでは、ぼんやりと煙草を吸っている男が何人か見えている。
女客のほとんどは二人連れか数人のグループで、お茶とケーキを前にして、楽しそうにお喋りをしている。一人で座っている女は三人だけだった。うち二人は六十前後で、樹奈の母親くらいの年格好だ。二人とも身なりは悪くなく、それぞれ静かにコーヒー、紅茶を飲んでいる。あとの一人は三十前後で、女性週刊誌をめくっている。
このなかに、犯人がいるのだろうか。いるとしたら、どの人間なのか。身代金を受け取りに来るのは、男か女かわからない。また、何人でやってくるのかもわからない。
家をでる前、刑事達は、身代金授受現場は犯人特定と逮捕の最大の機会であるからどうのこうのと言っていたが、ともかく、美有を無事に返してもらうこと、それだけだ。美有の身の安全のために金を取られても、あるいは犯人に逃げられてもかまわない。
むしろ、犯人を怒らせたり、疑念を抱かせたりして、美有に万一のことがあってはならない。無事に帰ってきてくれさえすればそれでいい。惜しいものなど何もない。
樹奈が紙袋をかかえた手にもう一度力を込めた時、入口に人影が見えた。三十過ぎくらいの男だ。
あの男だろうか。
背広を着て、銀縁の眼鏡をかけている。男は店内を見回した後、ゆっくりと歩きだした。こっちへやってくる。
気が変になりそうなほどの緊張感に、目が霞みそうだった。呼吸が苦しくなり、心臓の音がこめかみのあたりに響く。
ぽとり、と音がした。ビニールコーティングした紙袋の表面に、水滴が落ちている。その時初めて、全身から汗が噴きだしていることに、樹奈は気づいた。
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1
昨日、いつものように樹奈はニューストアに買い物にいった。ニューストアは藤森《ふじのもり》にあるスーパーだが、一階に食料品と玩具《おもちや》、雑貨、二階に大きめの日用品と衣料品が置いてあるだけで、大型店というほどの規模ではない。歩いて十分程度という便利さもあって、樹奈はほとんど毎日のようにニューストアに来ている。
この日樹奈が訪れたのは、午前十時半を少しまわった頃だった。普段通り、客の大半は乳幼児を連れた母親か、中高年の主婦だった。
乳児ならベビーカーに乗せていればいいのだが、一歳半を過ぎるとそんなものにおとなしく座っているわけもなく、好き勝手に走りまわるようになる。来慣れた店だから、幼児といえどもフロアの配置は熟知しており、来店すると同時に母親の手を放して、玩具売り場やお菓子売り場のあたりに直行する子供がほとんどだ。母親もそのことをよく承知しており、すべての買い物が終わってから、子供を呼びにいく。
美有は来月の誕生日で三歳になり、来年の春には幼稚園の年少組に入園の予定だ。樹奈は、私立の幼稚園に入園させたいと思っているので、半年前から京都駅前のビルにある幼児教室に通わせている。
夫の賢一は建設会社でサラリーマンをしていたのだが、リサイクルショップを地元で開業すると言いだし、二ヶ月前に辞職した。中古の小さな建売り住宅に住んでいるのだが、その狭い庭に急拵《きゆうごしら》えの小屋を作り、中古のベビーカーや子供用自転車、三輪車等を倉庫代わりに置いている。
リサイクルショップの店舗は、自宅から少し南の大通り沿いにある。もちろん、ごく小さな店舗だ。以前はクリーニングの取次店だったらしい。少し歩けば大規模な団地やスーパーがあり、立地条件はかなりいい。賢一は一目見てこの物件が気に入った。賃貸ではなく売買物件だったので、実家に無理を言って金をだしてもらい、店舗を買い取ったのだった。
舅《しゆうと》は、長年勤めた食品関係の会社の退職金をあててくれた。賢一は一人っ子なので文句をつける兄弟もなく、開業資金は賢一の貯金と舅のそれで賄われた。
現在、店舗に手を加えている最中だが、準備中にもかかわらず開店の噂を聞きつけて品物の買い取りを頼みにくる人や、また、子供用の自転車が欲しいと「注文」を言ってくる人もいた。準備に奔走している賢一はうれしい悲鳴をあげていた。
店舗がオープンする前に、すでに事実上の商売が始まっているのである。店はきっとうまくいく。そういう手応えがあった。賢一は今から二号店、三号店をオープンさせることも考えているくらいだ。
美有の週三回の幼児教室通いには結構な金がかかる。サンフラワー教室は、一歳児の能力開発から幼稚園受験まで手がけている幼児教育専門の教室で、数年前に東京から京都に進出してきた。他の教室に比べて授業料が少し安いのと、東京での実績が口コミで伝わったこともあり、現在、飛躍的に生徒数を増やしている。
同い年の男の子を持つ近所の主婦に紹介してもらい、樹奈は美有を入会させた。北岡恭子というその主婦は、習い事の教室や先生をよく知っており、いろんな情報を教えてくれる。老舗《しにせ》の幼児教室は本当の上流の子女がいくので、一般人が混じると居心地がすこぶる悪いとか、どこそこの授業料はおそろしく高いが、そのわりに去年の合格率は芳しくなかったとか。恭子の息子がサンフラワー教室に通い始め、話を聞くうちに樹奈も美有を通わせたくなったのだった。
ニューストアに着くと、美有は樹奈の手を振り切り、奥の玩具《おもちや》のコーナーに走っていった。いつものことなので気にもせず、樹奈はカートを押し、食料品のコーナーを順にまわっていった。
夕食の献立を考えながら、樹奈は生鮮食料品のあたりを歩いた。久しぶりにカレーを食べたい。朝、賢一がそう言っていたので、精肉コーナーへ行った。
牛肉のパックを見ている時、賢一はカレーを食べたいと言ったのではないと思い出した。あれは、先週言ったのだ。いや、先々週だった。そしてその時、自分はカレーを作ったではないか。今朝は何と言われたのだっけ。しばらく考えてみたが、思い出せない。仕方なく、今夜は水炊きにしようと考えた。十月に入って、朝夕かなり冷えるようになったから、鍋物はちょうどいい。日中は暑さを感じることさえあるのだが、日が暮れる頃はコートが欲しいくらいだ。
鶏肉のパックをカゴに入れ、野菜のコーナーで、白菜や春菊、大根をみつくろい、順に商品棚を見ていく。マヨネーズと砂糖が安かったので、これもカゴに入れる。大型スーパーではないが、それでも食料品売り場は広く、順にまわっていると時間がかかる。その日必要でないものでも、通常価格より安ければ買っておく。どうせ使うものなら無駄にはならない。
ふと、奥のコーナーに目をやった。美有は、アニメのキャラクター人形を夢中になって見ていた。また、新しい着せ替えの服をねだられるかも知れない。
苦笑し、樹奈は美有にみつからないように引き返した。乾物、調味料のコーナーにいき、目玉商品がないか確認する。レトルト食品は、賢一の夜食に常備しておかなければならない。いつもより二十円安い中華粥を五個カゴに入れ、雑貨のコーナーで指定ゴミ袋を買った。これですべてまわったから、忘れ物はないだろう。
樹奈はレジに向かった。向こうからカートを押してくる中年の女がいる。
「桑島さんの奥さんでしょう、リサイクルショップの」
出っ歯の口に手をあて、女は笑っている。
「わたし、この間、子供用の自転車をお願いしにいった……」
はい、ととりあえず、樹奈は答えた。女の顔に見覚えはあるのだが、名前は思い出せない。
「ほんまに助かりましたわ、桑島さん。いえね、この間うちの子、自転車盗られたんですよ、公園で。まあ、子供のことやから、ちゃんと鍵かけてへんかったんですわ。小学生にしてはちょっとええ自転車でしてね、値が張りましたんや。それが盗られたもんやからうちの主人もえらい怒りまして。おまえが不注意やさかい、こんなことになったんや、二度と買わへんと子供に言うてたんですわ」
唾液を飛ばしながら、女は早口に喋っている。
「けど、やっぱり男の子同士で遊ぶとなると、自転車がないと何かと仲間はずれにされますやんか。わたしもそれがわかってたんで、どないしょうか思うてたんです。こんなことでいじめられるのは、親としても心配ですからね。そんな時、あのクリーニング店が廃業しやはって、桑島さんとこがリサイクルショップを始めはるて近所の人に聞いたもんやさかい、子供用の自転車がないか聞きにいったんですわ。そしたら、ちょうど頃合の大きさのがありましてねえ。しかも、安いし。まあ、なんとかこれやったらいうことで、うちの主人も承知してくれましたんやわ」
女のカートのポン酢に目をやり、きらしていたなと思いながら、樹奈は「それはよかったです」と言った。
「こういうお店ができるのん、待ってましたんよ。子供はどうせ躯《からだ》が大きいなりますさかいに、高い新品|買《こ》うても、あんまり意味がありませんのよねえ」
念を押すように、女は自分で自分の言葉に頷いた。
「リサイクルショップがあると、子供を持つ親は助かりますわ。いつも言うてるんでっせ。桑島さんとこ、はよ、お店オープンしてくれはったらええなあ、て」
女はそれからも、延々喋り続けた。自転車を盗られたのは二度目だったこと、他にもそういう被害に遭っている子供がクラスに何人もいること、今回、自分がこういう賢い買い物ができたので、皆が羨ましがっていることなど。
仕方なく、樹奈はカートに手をかけたまま、話に相槌を打った。
「はよう、オープンしてくださいね、楽しみにしてますさかい」
喋るだけ喋って気が済んだのか、女は会釈して立ち去った。ようやく解放され、樹奈はレジに向かった。が、その頃には、ポン酢のことなどすっかり忘れてしまっていた。午前中はすべてのレジが開いているわけではないので、それぞれ二、三人ずつの行列ができている。一番近いレジの最後尾に並び、順番を待った。
店内にはBGMが流れている。有線放送とかそんな気のきいたものではなく、ニューストアのテーマソングだ。「グッデイ、ニューストア、グッデイ、ナイスデイ、今日も楽しくお買い物」という単純な歌詞が繰り返されるだけの曲である。ニューストアにはこの曲が一日中流れており、曲の合間に「本日のお買い得品」の案内や、イベント情報などがアナウンスされるのだ。
ぼんやりと曲を聴いているうちに列が進み、樹奈はレジ台にカゴを置いた。店員は手早くバーコードに機械をあて、商品を別のカゴに移し替えていく。支払いをすませると、品物をレジ袋に詰めて玩具《おもちや》コーナーに向かった。
美有の姿はなかった。美有と同じくらいの年格好の男の子が三人、陳列してあるラジコンに見入っているだけだ。荷物を手にぶら下げたまま、樹奈は周囲を見回した。美有はいない。
たぶん、菓子のコーナーにいったのだろう。最近、美有はどんぐりチョコがえらく気に入っている。新発売の苺味を、いつもねだられていた。ミルミルキャラメルもよく買わされる。こちらはキャラメルより、おまけについてくるミニチュアのブーケやケーキ、コーヒーカップなどが目的だ。どちらか一個だけ買ってやることにするか。樹奈は菓子コーナーに歩いていった。が、ここにも美有の姿は見当たらなかった。
今日は人に話しかけられたりして、いつもより買い物に時間がかかった。退屈した美有は、母親を捜しているのかも知れない。そう思った樹奈は生鮮食料品のコーナーに引き返した。だが、そこには、他の子供の姿すらなかった。
「あの、うちの娘、見ませんでした?」
乾物の商品棚を整理していた中年の女の店員に訊いてみた。この店員は顔なじみで、名前は知らなくても、美有と樹奈が親子であることくらいは知っているはずだ。
「ええと、お嬢さん? さあ、見てへんわねえ」
手を止め、店員は首を傾《かし》げた。
「どないしゃはりましたん」
「さっきから捜しているんですけど、いないんです、うちの子」
「ほらあの、駐車場側のゲームコーナー。あそこはよう、子供が集まってるけどね」
駐車場に通じる出入口には、何台かゲーム機が置いてあった。美有が今まで勝手にそこへいったことはないが、今日にかぎっていってしまったのかも知れない。樹奈は店員に礼を言い、駐車場側の出入口へ向かった。が、やはり、美有の姿はなかった。店内に引き返すと、相変わらず「ニューストアの歌」が流れていた。
──グッデイ、ニューストア、グッデイ、ナイスデイ、今日も楽しくお買い物。
樹奈は売り場を小走りでまわった。玩具売り場、お菓子売り場、そして一般食料品のコーナーを、何度も何度も見てまわった。念のために駐車場にも捜しにいったけれど、美有はどこにもいない。額のあたりに汗が滲《にじ》んでくる。店内にもどり、樹奈はレジの店員に言った。
「あの、子供がいなくなってしまったんです」
「子供さんが?」
バーコードに機械をあてながら、店員は言った。
「いつからですか」
「えっと、さっきからです」
「何時頃、来店されたんですか」
「十時半過ぎです」
店員は振り返るようにして、掛時計を見た。十二時を過ぎている。気がつくと、店内は客でごった返していた。昼時は混雑するのだ。だから樹奈は、店には午前中に来ることが多いのだった。
「ちょっと待ってくださいね」
レジの横の電話機を耳にあて、店員は早口に何か言った。レジ前の客が迷惑そうに樹奈を見る。電話を切った後も、店員は作業を続けた。
「お客様」
振り返ると、紺色のジャンパーを着た中年の男が立っていた。胸ポケットには「ニューストア」と黄色のロゴが入っている。男は、自身が店長であることを告げた。
「どうされましたか」
「娘がいないんです。もう、一時間以上になります」
「子供さんがいきそうなところ、捜されましたか」
「捜しました」
「二階は行かれましたか」
「あ、まだです」
「では、二階にいってみましょう。わたしもいきます」
店長はエレベーターの前で立ち止まった。
「その前に、子供さんのお名前と年齢、服装などを教えてください」
「桑島美有、二歳です。ええと」
今日は、どんな服を着せていただろう。
「ごめんなさい、わたし、忘れっぽくて」
樹奈は鼻の下に手の甲を押しつけ、肩で息をした。
「あの、薄いピンク色のトレーナーを着ています。胸にパンジーの縫い取りがあって。それであの、スカートは赤色です。髪は長くないのですが、こう、頭の上で二つ、結んでまして。ピンク色の飾りのついたゴムで結んでます」
胸ポケットに入れていたボールペンで店長は手早くメモを取り、傍にいた若い女の従業員に渡した。
「これ、すぐに店内放送して」
店長は樹奈とともに、エレベーターに乗った。二階に着くとフロア主任を呼び、事情を説明した。すぐに何人かの店員が集められ、主任は手短に美有の特徴を話し、店員達は手分けされて散っていく。
その時、店内に流れていたニューストアの間抜けな曲が突然止まった。
「業務連絡、業務連絡。迷子さんのお知らせです。桑島美有ちゃん、二歳の女の子さんです。ピンク色のトレーナーに赤いスカートを穿《は》いていらっしゃいます」
アナウンスが流れた。が、すぐにまた曲が流れた。
──グッデイ、ニューストア、グッデイ、ナイスデイ、今日も楽しくお買い物。
「大丈夫ですよ、奥さん」
励ますように店長が声をかける。樹奈は二階のフロアを隅から隅まで見てまわった。店員達も、掛けられた服の下や、子供が潜りこみそうな棚と棚の隙間などを確認してくれた。だが、美有はみつからない。
「以前、あったことなんですけどね」
一通り点検を終えた後、店長が言った。
「やはり、三歳の子供さんが店内でいなくなって、大騒ぎになったんですよ。で、念のために、お母さんが家に帰ってみたら、家の前で子供さんが近所の友人達と一緒に遊んでいたというんですよ。それなんか、車でいらしているお客様でね。まあ、車で五分くらいだったらしいんですが、歩くと大変な距離じゃないですか。まして子供の足だとねえ。なのに、ひとりで帰っていたんです。理由を訊くと、お母さんを店内で見失ったので、きっと家に帰ってしまったのだと思い、あわてて後を追いかけたというんですよ。一度、ご自宅にもどられて確認されたらいかがでしょうか」
たしかに、そういうこともあるかも知れない。樹奈は大急ぎで家に帰った。
美有は鍵を持っていないのだから、もどっているとしたら家の前か、あるいは庭で待っているだろう。樹奈は自宅の見え始めたあたりから目を凝らしたが、美有の姿らしきものはなかった。玄関の前にも、庭にもいなかった。
物置小屋にいるのだろうか。そう思い、物置小屋の引き戸を開けてみたが、自転車とベビーカーと三輪車しかなかった。
「美有」
道路に向かって声をかけるが反応はない。その時、家の中で電話が鳴っているのが聞こえた。樹奈はあわてて玄関の鍵を開け、家に入った。靴を脱ぎ、荷物を投げ出し、リビングの電話まで駆け寄る。
「はい、桑島です」
あまりに急いだため、息が切れていた。そのせいか、相手の声が聞こえなかった。
「もしもし、桑島ですが」
念を押すように、樹奈は言った。
「桑島サン」
機械のような声がした。やたらキンキン響くような、金属的な声だ。
「美有チャンヲ、預カッテイマス」
「え?」
「二千万円用意シテクダサイ」
「今、なんて」
「二千万円用意シテクダサイ。今日中ニ用意スルコト」
金属的な声が、不自然な抑揚で同じ言葉を繰り返した。
「用意デキナケレバ、子供ノ生命ノ保証ハアリマセン。マタ、連絡シマス」
電話は切れた。
2
薄緑色の制服を着た男が同じ色の帽子を取り、京都府警捜査一課の者だと名乗った。
五十少し手前だろうか。日に焼けた顔に血走った目をしているので、威圧感がある。大きな体躯をしているが、声はおだやかだった。
その隣に立つ同じ格好をした四十過ぎの男も会釈した。背は同じくらいだが、色は白く少し痩せている。日に焼けた方の男が、賢一と樹奈に言った。
「このような事件に巻き込まれて、大変な思いをなさっていると思います。我々も全力を挙げてお嬢さんの救出にあたりますので、どうかご協力ください」
「よろしくお願いします」
蒼白な顔で、賢一が頭を下げた。仕事にでていた賢一は、樹奈から携帯電話に連絡を受け、急遽もどってきた。
身代金要求の電話を受けた樹奈は、どうしていいかわからず、まずは賢一に電話したのだった。「早く一一〇番しろ」と怒鳴られ、樹奈は警察に通報した。
賢一が帰宅してまもなく、宅配便業者の格好をした二人の捜査員が大きな段ボール箱を持ってやってきた。
彼らは、賢一と樹奈に簡単な挨拶をした後、段ボール箱の梱包を慣れた手つきで解き始めた。見たこともない機械が次々に取りだされる。それらはリビングのテーブルに並べられ、コードがつながれていった。
「大丈夫ですよ、奥さん。これらの機材は電話の自動録音機、逆探知機、無線などです。犯人とのやりとりを調べる上で必要なものなんです」
女の刑事が言った。三十前後で、ごく普通のOLのように見える。肩までの髪を後ろで束ね、化粧はほとんどしていない。尖《とが》った鼻をしているが、目はまるくて大きかった。彼女は斎藤|万友美《まゆみ》という。
万友美は紺色の地味なスーツ姿だ。警察に通報して一番最初に家にやってきたのは万友美で、「斎藤です」と知り合いのように入ってきた。黒のショルダーバッグを肩に下げているだけで、とくに荷物らしいものは持っていなかった。
「状況から考えて、犯人は間違いなく再度、電話をしてくると思います」
その時に、と万友美は賢一の方を見た。
「冷静に対応していただきたいのです。子供さんを誘拐されたご家族が緊張しているのは当然なのですが、犯人側もまた、緊張しています。身代金目的の誘拐という重罪を犯しているのですから、興奮しているのです。大金が手に入るか、あるいは自分が逮捕されるかという瀬戸際にいるのですから」
頷き、賢一は唇をかたく結んだ。
「もし、犯人から電話が入ったら、落ち着いて、ゆっくり話してください」
「わかりました」
「感情的になって犯人を怒鳴りつけたり、あるいは泣き喚《わめ》いたりすると、犯人側も刺激されて短絡的な行動にでないともかぎりません。人質の身の安全のために、沈着冷静に対応することが肝心です。そして、なるべく話を長引かせてください」
「逆探知のためですね?」
ええ、と万友美は頷いた。
「ただ、それだけではないのです。犯人からなるべく多くの情報を引き出していただきたいのです」
「なるほど。わかりました」
樹奈は賢一の隣に座っていた。賢一の躯がわずかに震えているのがわかる。樹奈は目を閉じ、両手を握り締めた。
「まず第一に確認していただきたいのは、人質の安否です。お嬢さんが無事かどうか訊いてください」
「わかりました」
「必ず子供の声を聞かせてくれと、言ってください」
人質が無事なら、声を聞かせることができる。だがもし、殺してしまっていたら、声は聞かせられない。万友美はそう言っているのだ。樹奈は全身から力が抜けた。
「樹奈」
賢一が樹奈の肩を揺さぶった。樹奈は意識が遠のくのを感じた。
「すみません。家内はかなり、動揺しているものですから」
「あ、大丈夫」
顔をあげようとしたが、目眩《めまい》がした。首を振ると、途端に涙が溢れてきた。樹奈は両手で顔を覆い、号泣した。
「心中お察しします。が、話を続けさせてください」
万友美は表情を変えずに言った。
「まずは、子供さんを電話口にだしてくれと、犯人に言ってください」
「はい。けれどもし、だめだと言われたら」
「お嬢さんが現在、どのような様子でいるか、訊いてみてください。ちゃんと食事はとっていますかとか、病気はしていませんかとか、けがをしていませんかとか、そういうことを問いかけてみてください」
「わかりました」
「なるべく、犯人に多く喋らせるようにしてください。犯人の言葉の断片から、監禁場所や仲間の人数や様子などがわかることがあるのです」
「そうなんですか」
「背景にある音や声にも重要な情報が含まれている場合があります」
大きく息を吸い、賢一は何度も頷いた。
「ところで、身代金は二千万円と、犯人は指定したのですね」
「家内がそう聞いています」
奥さん、と万友美が躯の向きを変えた。
「犯人は、今日中に身代金を用意しておけと言ったと、聞いておりますが」
「そうです。そう言われました」
「おそらく犯人側は、身代金の授受を今夜に計画していると思われます」
「今夜、なんですか」
半身を乗り出すようにして、樹奈は言った。今夜、身代金を届ければ、美有は明日帰ってくる。そういうことなのか。
「落ち着いてください、奥さん。絶対に今夜なのかどうかは、今後の犯人からの連絡がなければわかりません。どちらにしろ、身代金の用意をするのは、今しかないということです」
樹奈はリビングの掛時計を見た。一時半をまわったところだった。
金策が可能なのは銀行が開いている時間だけだ。たとえ金持ちの親戚や知り合いに泣きついたところで、現金二千万円をその場で揃えられることなどありえない。
「大変伺いにくいのですが、身代金の金策については」
「なんとかします」
甲高い声で樹奈は言った。
「今から、銀行にいこうと思っていたのです」
「二千万円、今日中に用意できるのですか」
「します」
驚いたように賢一が樹奈の方に向き直った。
「なんとかするって、おまえ」
賢一の父親が用意してくれた開業資金はすでに使っていた。残っているのはわずかな貯金と、改装費のローンだけである。
「事情を話して、貸してもらうしかないでしょう」
目を見開き、賢一は唾を飲み込んだ。
「美有の生命がかかってるのよ。何がなんでも、お金は用意するわ」
樹奈は立ち上がった。
3
深夜になっても、犯人からの連絡はなかった。
賢一は、疲れきった顔をしてソファに座っていた。目の下が窪み、頬がこけている。
捜査員は、機器の前で待機していた。時々、本部と連絡を取る以外、彼らは無駄口もたたかない。
「京都府警が全力で、美有ちゃんを救出します」
万友美は樹奈の傍を離れなかった。樹奈は不安のあまり、動悸が止まらなくなっている。何か話そうとすると涙が溢れ、大声で叫びそうになるのだ。
そんな樹奈に、万友美は「我々がついているのですから、大丈夫ですよ」と静かに励ました。今まで解決した誘拐事件の実例などをあげ、冷静に対処すれば必ず子供は無事に取り返せると話した。
樹奈はテーブルに置かれた電話を見つめる。
鳴ってくれ。早く鳴ってくれ。
念じながら、掌を合わせた。
身代金なら用意できている。昼間のうちに、なじみの銀行に万友美とともに訪れ、工面してきた。事情は万友美が説明し、また、所轄署の副署長にも立ち会ってもらい、二千万円を借りることができた。
用意された現金は、その場でデジタルカメラで撮影された。捜査員数名が手早く札を並べて撮影していったのである。一刻も早く家に帰りたい樹奈が「何をやってはるんですか」と万友美に訊くと、「採証活動ですよ」と彼女は囁いた。
「身代金授受後の捜査の手がかりを得るために、準備をしているんです」
「お札の写真を、撮っておくんですか」
「あれは、紙幣番号を撮影しているんです。昔はすべて手書きで控えていたんですが、今はああやって記録するんです」
撮影後、現金二千万円は、捜査員達によって透明のビニール袋に詰められたのだった。
すべて、準備は整っている。あとは、犯人にこれを渡せばいいだけだ。
待っていて、美有。もうすぐ、お母さんが助けてあげるから。
樹奈は電話を凝視し続けた。
だが、窓の外が白み始めても、電話は鳴らなかった。
「おい」
ソファに凭《もた》れていた賢一が躯を起こした。
「皆さんに、朝食の用意をした方が、いいんじゃないか」
ああ、と前髪をかきあげ、樹奈は言った。昨夜は、カップラーメンやレトルト食品を夜食に供した。とても料理をする気力などなかったのだ。
樹奈は立ち上がり、キッチンにいった。コーヒーを淹《い》れ、トースト用のパンを焼く。普段の朝食の光景だ。目玉焼きはいつものように半熟で、サラダのレタスはパリッと硬い。バターの溶ける匂いと、コーヒーの香りが漂い、窓の外では鳥が囀《さえず》っている。何もかも、いつもと同じだ。
けれど、ここには美有がいない。食事の準備をする時、美有はいつも樹奈のすることを見ている。そして、ままごと遊びで、樹奈と同じことをやってみせる。
コーヒーのおかわりは? パンもう一枚焼く?
朝食の時に、樹奈がいつも賢一に言う言葉だ。美有は傍に並べたぬいぐるみに向かって同じことを言い、玩具《おもちや》のフライパンを揺すったり、プラスチック製のコーヒーメーカーからカップに注ぐ真似をしたりして遊ぶ。
食器棚から、樹奈は美有の皿を取り出した。キティちゃんの模様が描かれたそれは美有のお気に入りで、カップも茶碗も箸も同じ柄のを揃えていた。先月、実家に帰った時、樹奈の母親に美有がねだって買ってもらったのだ。皿を手に持った途端、樹奈の目から、涙が流れた。
「樹奈」
賢一が立っていた。
「何してるんや」
涙を拭き、樹奈は美有の皿を食卓のテーブルに置いた。焼きあがったパンを置き、棚から取り出したキティちゃんのカップに牛乳を注ぐ。
「おまえ、何考えてるんや」
苛立った声で賢一は言った。
「あの人ら、徹夜してはるんや。早う、コーヒーだけでも持っていけよ」
樹奈は何も答えず、さらに食器棚からキティちゃんの小さな茶碗を取り出し、ヨーグルトを入れた。
「美有は、いやへんのやぞ」
眉を顰《ひそ》め、賢一が言った。瞬間、樹奈は金切り声で叫んだ。
「いるわよ、美有は。ここにいいひんでも、どこかで今、朝ごはんを食べてるのよっ」
言った途端、全身から力が抜け、樹奈は蹲《うずくま》った。
「わかった、樹奈。もうええから、そっちで横になっとけ」
樹奈の肩を抱えて、賢一は立ち上がった。リビングのソファに座らせ、賢一はキッチンにもどった。
樹奈は窓に目をやった。通り過ぎる車の音や、自転車の音が聞こえる。すでに日は昇り、朝の光が街や人を照らしていた。掛時計は、七時半を示している。
「つまらんもんですけど、朝食の用意ができましたんで」
賢一は捜査員達に声をかけ、リビングに盆を持って入ってきた。捜査員はトイレに立つ以外、無線機の前を絶対に離れない。賢一は彼らの傍らの床に、朝食の載った盆を置いた。
「恐れ入ります」
「ありがとうございます」
万友美がそう言った時、玄関のチャイムが鳴った。途端に、捜査員達の顔色が変わった。皆、無言で、樹奈を見つめる。早くインターフォンにでろと、目顔で言っていた。
インターフォン専用の受話器はキッチンの壁にかかっている。樹奈は立ち上がり、キッチンに急いだ。捜査員が張り付くようにしてついてくる。
「はい」
受話器を取り、耳にあてた。捜査員も受話器に耳を近づける。中高年の男特有の体臭が鼻につき、樹奈は嫌悪感のために後ずさりした。が、捜査員の顔は受話器から離れない。
「あ、奥さん?」
女の声だった。
「朝早うに堪忍。北岡ですう」
近所の主婦、北岡恭子の声だ。
「ちょっと、ええかしら、奥さん」
「あ、はい」
送話口を手で塞《ふさ》ぎ、「近所の奥さんです。よく知っている人です」と小声で言った。捜査員は無言で頷いた。
「お待ちください」
インターフォンを切り、玄関に向かった。ドアを開けようとする樹奈を、万友美が手で制した。万友美は上がり口にあった捜査員達の靴を素早く抱えた。
「わたしがリビングに引っ込んでから、ドアを開けてください」
早口に言うと身を翻した。万友美の後ろ姿を見送った後、樹奈は玄関のドアを開けた。
「おはようさん」
恭子が立っていた。他には誰もいない。
「こんな早うに、堪忍え」
いつものように甲高い声で、恭子は言った。灰色のハイネックのセーターに、モスグリーンのボックススカートを合わせている。朝早いにもかかわらず、恭子はしっかりと化粧をしていた。ファンデーションを塗り、眉を描き、口紅を塗っている。
樹奈は、昨日から顔も洗っていないことを思い出し、俯《うつむ》いた。昨日の朝の化粧のまま、夜を明かしたのだ。おそらく、ファンデーションがよれて、鼻や額に脂が滲み、みっともない顔になっているだろう。
「どうしたん、桑島さん」
樹奈はあわてて、顔をあげた。
「風邪でもひかはったん? なんか、顔色悪いみたい。この頃、夜は寒いもんねえ」
「あ、ええ」
「わたしもちょっと風邪気味なんよ。気《きい》つけんとねえ」
そうやね、と樹奈は笑ってみせた。
恭子は話好きだ。そのせいか、友人も多くて顔も広い。去年は自治会の役員をやっていたし、近所の子供や年寄の顔ぶれまで何でもよく知っている。
「ねえ、お宅の電話て、故障してるの?」
「え?」
「何度電話しても、通じひんねんて」
そんなはずはない。いや、もしかして、刑事達の作業のせいで、電話がうまく機能しなくなったのだろうか。
「北岡さん、うちに電話かけてくれはったんですか?」
「いいえ、わたしと違うねんよ。サンフラワー教室の事務局」
美有と、恭子の息子が通っている幼児教室だ。
「昨夜から何度もかけてるのに、桑島さんとこにつながらへんて、事務局の人が言うたはったわ。で、携帯に電話してもつながらへんして、困ったはった」
万一に備えて、携帯はずっと離さなかった。けれど、樹奈の携帯は一度も鳴っていない。
「仕方ないから、うちに電話かけてきやはったのよ。うちは桑島さんとこと、目と鼻の先やからね」
言いながら、恭子は笑った。
「あの、サンフラワー教室の、誰が電話をかけてくれたはったんですか」
「ええとね、事務局のヤマダさん」
サンフラワー教室事務局のヤマダ。そんな名前の職員はいただろうか。
「桑島さん、途中入会やったから、以前のテキスト頼んでたんでしょ?」
え、と樹奈は首を傾げた。
「そのテキストを渡したいから電話したのに、通じひんから連絡しようがないて言わはんのよ。それで、うちがすぐ近所やいうのを思いだして、伝言をお願いしてきやはったのよ」
伝言。樹奈の全身に震えが走った。
「ヤマダさんね、これから出張やねんて。一週間くらい東京やて。で、自分がテキストを持ってるもんやから、桑島さんに渡してからいくつもりやったのに、なんでか昨日、電話がつながらへんかったんやて。桑島さん、テキストの件、すごく急いでるねんて?」
「あ、はい」
樹奈は頷いた。
「ヤマダさんは今から東京やしね。桑島さんがもし、テキストを急いだはるんやったら、今すぐ京都駅まで取りにきてほしいて、言うたはったわよ」
「京都駅?」
ええとね、と言って恭子はボックススカートのポケットから小さな紙切れを取り出した。
「あ、これこれ。京都駅前の喫茶店『アリス』に八時半に来てくださいって。八条口正面のビルの一階で、看板でてるからすぐにわかるらしいわ。手続きのこともありますんで、必ずお母さんが自分で来てくださいねって。でね、例の手続きの書類は、必ずサンフラワー教室の紙袋に入れて持ってきてくださいって、何度も言うたはったわよ」
紙切れから顔をあげ、恭子は樹奈の顔を見た。
「ねえ、桑島さん。手続きの書類って、何のこと?」
樹奈は頬が引き攣《つ》るのを感じた。恭子は訝《いぶか》るように樹奈を見ている。
「教室の特別講習の申し込みって、あれ、抽選なんでしょう」
「え、特別講習?」
「ほら、年末に東京の有名な先生が来て、子供と保護者を対象にして授業をしてくれはるっていう、特別講習よ」
そういえば、そんな話を教室で聞いたような気がする。
「まさか、それの手続きのことと違うわよね、桑島さん」
「違います。そんな話全然、わたし関係ないもの」
「特別講習、申し込まへんの?」
「そんなの考えてませんよ」
そう、と恭子は言った。が、少し唇の端を歪めている。
「ヤマダさんは、もし桑島さんが間に合わなかったら、悪いけど新幹線に乗ってしまいますので、テキストはお渡しできませんて、言うたはったわ」
テキストを渡せないというのは、つまり、美有は返せないということだ。樹奈は首の後ろが冷たくなっていくのを感じた。
「あの、八時半て、言わはったんですか、ヤマダさん」
「そう、八時半。今から支度していったら、間に合うやん」
腕時計を見て、恭子は言った。
「ほな、お伝えしましたからね」
会釈し、恭子は帰っていった。
4
喫茶店「アリス」は恭子が言っていた通り、八条口の正面にあり、すぐにわかった。そんなに大きくない店で、サラリーマンらしき男達が十人ほど、モーニングセットを食べていた。皆、食べながらスポーツ新聞や週刊誌を読んでおり、互いの存在にも無関心のようだ。
「ご注文は」
若いウェイトレスが樹奈のテーブルにやってきた。
「コーヒーを」
「ホットですね」
おしぼりと水を置き、ウェイトレスはカウンターの方にもどっていった。
樹奈は膝に載せたサンフラワー教室の紙袋をかかえなおした。カウンターの客が立ち上がり、思わず目をやるが、彼はスポーツ新聞を棚から出して席に戻った。樹奈の口から小さな息が漏れる。
恭子の伝言は、犯人からのそれに間違いないと対策本部は判断した。樹奈は以前のテキストを事務局に頼んでおいたこともなければ、ヤマダという職員も知らない。サンフラワー教室の職員はアルバイトを含めると二十人以上はいるはずだ。講師の顔は憶えているけれど、事務員についてはあまり知らない。顔と名前が一致するのは受付の人間くらいで、「ヤマダ」などという職員が実際にいるのかどうかもわからない。
樹奈は収納棚にあったサンフラワー教室の紙袋を引っ張り出してきた。サンフラワー教室の紙袋は、何枚も持っている。テキスト購入の際や、授業内容、プログラム日程表を配付される時、この紙袋が使われているからだ。
厚いテキストを入れても破れないように、紙袋はビニールコーティングされ、丈夫にできている。青空を背景に大きなヒマワリが描かれた紙袋は持って歩くと目立つ。東京から数年前、京都に進出してきたサンフラワー教室としては、特徴ある紙袋を保護者や関係者に持って歩かせることによって、宣伝の一助にしていたのだろう。
捜査員達は、ヒマワリのイラストが描かれた紙袋の中に、ビニール袋に入った身代金を詰めた。紙袋には、小さな発信機も入れられた。これがあれば、この紙袋は現在どこにあるのかということが確認できるのだと、万友美は説明した。
準備が整った後、身代金の授受現場に樹奈本人が出向くかどうかで、樹奈と警察側でひと悶着あった。対策本部から、樹奈ではなく万友美を母親に仕立てて現場にいかせるべきだという意見がでたのだ。
「そんなもの、わたしがいくにきまっているでしょう」
無線で交信する捜査員の背中に向かって樹奈は怒鳴った。怒りと焦燥のために肩を震わせている樹奈に、万友美は言った。
「専門の捜査員が現場にいった方が、より適切で安全な対応が可能です。したがって、事件解決も早いということです。お嬢さんを安全にとりもどすために、最善の方法を選ばなくてはいけません。どうか、ご協力をお願いします」
けれど、と樹奈は首を振った。
「犯人は、『必ずお母さん本人に来てほしい』と言っているんです。替え玉だとばれたら、犯人は絶対に怒ります。わたしがいかないと、美有は無事に帰してもらえません」
樹奈は掛時計を見上げた。
ぐずぐずしていると、時間がきてしまう。京都駅まで、タクシーで二十分余りだ。
早く、現場にいきたい。早く現場にいって、犯人と会いたい。
だが捜査員達は、本部からの連絡があるまで動かないでくれと繰り返した。警察は犯人逮捕を確実にするために、捜査員をいかせたいのだ。
しかし、犯人が樹奈の顔を知っていたらどうする。替え玉だとわかった時点で、接触を断念して現場から立ち去ってしまうかも知れない。それだけならともかく、逆上して、美有を殺してしまうかも知れないではないか。
そうなったら、誰が責任をとってくれるのだ。警察は、美有の生命を保証してくれるのか。
「お願いします、美有のことを考えてください。こっちがそんな騙し討ちみたいなことをして犯人を怒らせたら、美有はどうなりますか。ひどい目に遭わされるのは美有なんですよ」
わかっています、と万友美は樹奈の背中に手をやった。
「犯人が、美有ちゃんの母親であるあなたの顔を知っているかどうかは、今のところ我々にはわかりません。けれど、犯人が『サンフラワー教室の紙袋に身代金を入れて来い』とわざわざ指定したのは、母親を識別するための目印にしたいからとも考えられるのです」
サンフラワー教室の紙袋は、たしかに遠くからでも目立つ。もし母親の顔を知らなくても、この紙袋を目印にすれば、雑踏のなかでもみつけることが可能だ。
「お母さんの顔を知っているのなら、紙袋の指定など必要ないことですから」
「けれど、うちの美有がサンフラワー教室に通っていることとか、近所に、同じ教室に通う北岡さんがいるとか、犯人はよく知っているわけでしょう。なら、わたしの顔かて当然見ているのではないですか」
最終的には本部も、犯人が樹奈の顔を知っている可能性を否定できないとして、樹奈本人が現場にいくことになった。
そうと決まったなら、一刻でも早くいきたい。樹奈は立ち上がった。が、捜査員達は樹奈を制した。
「今から、わたしが言うことをよく聞いてください」
万友美が言った。
「現場までは、我々が用意した偽装のタクシーでいっていただきます。運転手はもちろん捜査員ですので、現場に到着するまでは彼の指示に従ってください。着替えられますか」
「いえ、これでいいです。この上にブレザーを着ていきます」
着替えている時間も惜しい。薄いニットにフレアスカートという普段の格好だが、ブレザーをはおればとくにおかしくはないだろう。
樹奈は外出用の茶色のブレザーをニットの上にはおった。万友美は、樹奈のブレザーの襟元にブローチのようなものを装着した。
「マイクです。これにより、我々はあなたの置かれている状況を確認することができます」
一見したところ、ごく普通のブローチにしか見えなかった。鈍い銀色の小ぶりなもので、デザインは垢抜けているとは言い難いが、とくに不自然さはない。
「犯人の言う通りに行動してください。逆らったり、自分でどうこうしようとか、考えないでください。我々捜査員は必ず周囲に控えていますので、その点についてはご心配いりません」
身支度を手伝ってくれながら、万友美は他にも細々と指示した。装着後のマイクの調整を終え、紙袋を持って出ようとする樹奈を万友美は呼び止めた。
「奥さん、化粧ポーチ持たれましたか? 車の中でお化粧直しができますよ」
そうだった。口紅と白粉《おしろい》くらいは塗っておこう。樹奈はバッグにポーチを入れ、警察の用意した「タクシー」に乗り込んだ。
師団街道も八条口周辺も渋滞していなかったので、思ったより早く到着した。到着が遅れて犯人が帰ってしまうことを心配していた樹奈は、ともかくも間に合ったことに安堵したのだった。
話しかけてくる者も、あるいはこちらを見ている者もいない。これからやってくるのだろうか。樹奈はサンフラワー教室の紙袋をかかえたまま、カウンターの上の掛時計を見上げた。八時二十三分だ。
「お待たせしました」
ウェイトレスがコーヒーを持ってきた。カップが前に置かれても、樹奈はドアの方を見つめていた。カウンターに座っていた中年の男が立ち上がった。持っていた雑誌をカウンターの横の本棚にもどし、レジに向かう。
「ええと、チケットですよね」
ウェイトレスの言葉に男は頷いた。レジの後ろのボードには、コーヒーチケットの綴りがぺたぺたと貼ってある。
「じゃ、一枚いただいておきますんで」
軽く片手をあげ、男は出ていった。
「ありがとうございました」
言いながら、ウェイトレスがボードのコーヒーチケットをちぎった時、店の隅の電話が鳴った。樹奈は思わず顔をあげた。
電話コーナーは、上半身だけ隠れる程度に格子の木枠の仕切りがある。ウェイトレスは片手にちぎったコーヒーチケットを持ったまま、電話をとった。が、すぐ、こちらにもどってきた。
「お客様に、桑島様、いらっしゃいますか」
「はい」
弾かれたように樹奈は答えた。
「桑島ですが」
「お電話が入ってます」
「どうも、ありがとう」
膝が震えているのが自分でわかる。電話の置いてあるレジまでわずかな距離なのだが、緊張のために頭がくらくらした。
「もしもし」
受話器を持ち、大きく息を吸った。
「桑島です」
「美有チャンノオ母サンデスネ」
録音したテープを早回しにしているような不自然な高い声だ。
「そうです」
たった一言なのに、息遣いが荒くなる。
「桑島樹奈サン」
「はい」
「アナタガ言ウ通リニシナイト、美有チャンハ返セマセン」
「必ず、おっしゃる通りにします」
「ツケテイルマイクヲトッテ、携帯電話モソコニ置イテクダサイ」
ツケテイルマイク。さっき万友美に装着してもらった、垢抜けないブローチのことだ。そんなことまで知っているのか。
「ココカラ見エテイマス。早クシナイト、美有チャンノ生命ノ保証ハアリマセン」
「わかりました。すべておっしゃる通りにします」
受話器を置き、樹奈はブレザーの襟に付けていたブローチをとった。ポケットに入れていた携帯電話も、電話台の横に置く。
「紙ヤペンヲ手ニ持タナイヨウニ」
「紙やペン? そんなもの、持っていませんけど」
「モシ、アナタガ紙ヤペンヲ手ニ持ッタラ、取引ハ終ワリデス。美有チャンモ返シマセン」
「はい、絶対に紙もペンも持ちません」
「コレカラ、コチラノ言ウコトニ、ハイ、トダケ答エテクダサイ。コチラノ言ウコトガワカラナカッタ場合ハ、ワカリマセント言ウコト」
「えっと、どういうことですか」
「絶対ニ、コチラノ言ウコトヲ復唱シナイヨウニ」
「あ、はい、わかりました」
「守レマスカ」
「はい」
「アナタガ復唱シタラ、電話ヲ切リマス。美有チャンニモ二度ト会エナイ」
「絶対に守ります、約束します。あの、美有は、美有は今、どうしていますか」
「オ菓子ヲ食ベテイマス」
「お菓子?」
「ドングリチョコノ苺味」
樹奈は目を瞑《つむ》った。美有は元気にしている。生きているのだ。お気に入りのどんぐりチョコを食べているということは、機嫌よくしているのだ。
「あの、声を、美有の声を聞かせてください」
「アナタガ言ウ通リニシタラ、後デ、電話ニダシマス」
「今、今、聞かせてください。美有を電話にだしてください」
「ヨク聞イテクダサイ。ハイ以外、言ワナイコト」
犯人の声が途切れた。もしかして、犯人は怒ったのか。
「あの、もしもし、もしもし」
受話器を握る手に汗が滲み、ぬるりと滑る。
「山科《やましな》ノ、アップルショッピングセンターノ一階」
「え、山科?」
反射的に、樹奈は訊き返した。
「復唱シナイヨウニ、言ッタハズデス」
機械のような声だが、静かな怒りが感じられる。
「あ、すみません。もう、言いません。気をつけますから」
「アップルショッピングセンター一階のコーヒーショップニ今カラ来テクダサイ。イレブンコーヒートイウ店デス」
アップルショッピングセンター一階のイレブンコーヒー。
目をかたく閉じ、樹奈は心の中で反芻《はんすう》した。
「タクシーニ乗ラナイデクダサイ。JRデ来テクダサイ。山科ノ駅前ニ、アップルショッピングセンターガアリマス」
「はい」
「途中、アナタガ電話ヲカケタリ紙ヤペンヲ持ッタラ、取引ハ終ワリデス。守レマスカ」
「守ります」
「誰トモ話サナイコト。誰カト話シタラ、取引ハ終ワリデス。美有チャンハ返シマセン」
「絶対に、絶対に守りますから」
「デハ、山科ノアップルショッピングセンター一階、イレブンコーヒーデ」
電話は切れた。
山科駅前のアップルショッピングセンターに着いたのは、九時十分だった。ショッピングセンターは十時オープンなのだが、喫茶店だけは営業していた。通りに面した一階部分には喫茶店や軽食の店が何軒かあったが、「イレブンコーヒー」はカウンターしかないコーヒーショップで、十数人も入ったら満員という店だった。
カウンターには客が六人座っている。うち四人が男だ。コーヒーを飲みながら皆、新聞を広げている。三十過ぎが一人、四十代らしいのが二人、五十前後が一人。全員、背広姿で、見た感じは普通のサラリーマンだ。女客が二人いて、一人は三十前後でグレーのスーツを着ている。もう一人は五十前後で、朱色の派手なワンピースに同じ色の靴を履いていた。二人は離れて座っているから、連れではないようだ。
樹奈は、出入口に近い一番端のスツールに座った。急いで来たので、額に汗が滲んでいる。
「ご注文は」
カウンターの中の小柄な男が声をかけた。紺色のエプロンをして、赤いバンダナを額に巻いている。たぶん、店主だろう。他にはアルバイトらしき者もいなかった。
「アイスコーヒー」
店主は頷き、前に水を置いた。喉が渇いていたので、樹奈は一気にそれを飲み干した。
注文のアイスコーヒーがきても、店の様子に変化はなかった。新たに入ってくる客もいないし、出ていく客もない。このなかに、犯人がいるのだろうか。考えていると、また額から汗が噴き出してくる。顔をハンカチで押さえながら、樹奈は周囲を盗み見た。誰も、樹奈の方を見ている者はいない。
その時、レジの横の電話が鳴った。カウンターから手を伸ばし、店主は受話器をとった。
「はい、イレブンコーヒーです」
店主は半身をカウンターから乗り出すようにして、耳に受話器をあてている。
「ちょっと、お待ちください」
受話器を置き、彼は振り返った。
「お客様に、桑島さん、いやはりますか」
「はい、わたしです」
樹奈は立ち上がり、レジ台に進んだ。狭い店なので、客全員が樹奈の動きを見ている。
「桑島樹奈サン」
「はい」
「今カラ言ウコトヲヨク聞イテクダサイ」
「はい」
「松島屋へイッテクダサイ」
「え?」
「四条河原町ノ松島屋デス」
松島屋は京都でも老舗の大手デパートで、四条河原町にある。
「地下鉄ト京阪ヲ乗リ継イデ、四条ニイッテクダサイ」
「えっと、松島……」
「復唱シナイヨウニ言ッタハズデス」
「あ、はい、すみません」
「松島屋二階ノ『ウルーズ』トイウ喫茶店デス。今スグ来テクダサイ」
電話は切れた。
犯人の指示通り、樹奈は地下鉄と京阪を乗り継ぎ、四条駅で降りて松島屋デパートに向かった。
松島屋二階の「ウルーズ」は、四条通が見渡せるガラス張りの大きなカフェテリアだった。ここでも、樹奈が席に着くとまもなく店の電話が鳴り、ウェイトレスに呼び出された。
「今スグ、河原町|御池《おいけ》ノ、シャングリラホテルニイッテクダサイ。シャングリラホテル一階ノ、『エトワール』トイウ、カフェテリアニ来テクダサイ」
シャングリラホテル一階の「エトワール」。犯人を怒らせてはいけないので、声にはださず心のなかでつぶやく。
「わかりました」
「京阪電車デイッテクダサイ。タクシーニハ乗ラナイヨウニ」
5
京都府警刑事部捜査第一課、特殊犯捜査係の浦上哲也は、正面玄関から奥まった廊下のソファに新聞を持って座っていた。シャングリラホテルのロビーには、浦上のような三十前後の男はあまりいない。行き交う客のほとんどが、着飾った中高年の女だった。
浦上の位置から母親の姿はよく見えている。
桑島樹奈、三十歳、主婦。
昨日の朝、二歳の娘美有を誘拐された。近所のスーパーで買い物中、目を離した隙に連れ去られたという。身代金要求の電話が自宅にかかってきたことから、身代金目的の誘拐事件であるとして、所轄署より府警本部に緊急連絡が入った。
指揮本部は所轄の藤森署に設置された。同時に対策本部が京都府警本部に設けられ、桑島樹奈の自宅には特殊捜査員が出向いて被害者対策にあたっている。
被害者対策班は桑島家に自動録音機、逆探知機などの機器類を設置し、万全の状態で待機していた。かかってきた電話は自動的に指揮本部と対策本部に無線で飛ばされ、両本部がリアルタイムで聞けるようになっている。さらには桑島家と指揮本部はホットラインで結ばれ、報告や指示のやり取りが逐一されるのだ。
いうまでもなく、犯人逮捕の最大の好機は身代金授受現場である。犯人が授受現場を指定してきた時点で、捜査員は一刻も早く現場に駆けつけ、「現場を作る」作業に入らなければならない。
時間と場所、およびその周辺の地理や環境を考え、指揮本部は捜査員の配置を指示する。夜間なのか昼間なのか、あるいは市街地か山奥か、指定される時間帯や場所によって対応、対策は変わる。
身代金授受現場に配備される捕捉班は、特殊班、捜査一課殺人班、機動捜査隊など、あらゆる部署から刑事が動員されて構成されていた。さらには「トカゲ」と呼ばれるオートバイ追跡部隊の第二捕捉班が外周をかため、包囲網を張るのだ。
これだけの人員を集めるにしろ、機材を用意するにしろ、時間はどうしても必要だ。犯人の指定してきた時刻が迫っている場合には、被害者の家族に時間延長の交渉をさせる。「現場を作る」作業のための時間稼ぎをするのだ。だが、これが案外簡単にはいかない。
家族は一秒でも早い人質の解放を望んでいる。我が子が今頃どんな目に遭わされているのかと思うと、親は気が気ではない。今すぐにでも犯人に金を渡して子供を取り返したいと考える。なのに捜査員から「身代金受け渡しの時間はなるべく遅くするように」と「指導」されるのだから、当然、警察に反発や不信感を抱くことになる。
被害者対策班は、こうした交渉の必要性や意味合いを充分に説明し、家族の理解が得られるように信頼関係を築いておかなければならない。
今回の事件では、斎藤万友美がその任にあたっていた。万友美は浦上と同期の特殊捜査員である。
万友美からは、家族の様子や状態についての報告が対策本部にあがってきていた。幼い子供を誘拐された母親が冷静でいられるはずはなく、通常の判断能力を失うのは当然といえば当然である。だが、樹奈はどうも、同年代の母親達に比べても鈍いようだ。万友美は言葉を選んでいるが、要するに、頭が悪いということなのだろう。
捜査員を前にすれば、普通の母親なら「子供が無事に帰ってくるかどうかは、この人達にかかっている」ということを強烈に意識する。それは捜査員に対する態度や言葉遣いにあらわれる。だが、樹奈は泣き喚いたり、感情的になるばかりで、年齢の割に幼稚で短絡的なところがあるらしい。身代金授受現場に樹奈をいかせることについて、対策本部で反対意見がでたのはそうした要素を考慮してのことだった。
それぞれの現場では、樹奈の周辺を捕捉班が何重にも取り巻き、張っていたのだが、樹奈は移動を繰り返すばかりで、犯人らしき不審人物は見当たらなかった。
犯人からの連絡はすべて、指定場所の喫茶店の電話によってなされていた。捜査員があわてたのは、最初に指定された喫茶店「アリス」に、樹奈がマイクと携帯電話を置いて出ていった時である。犯人からの指示に違いなかった。
マイクがはずされてしまった以上、樹奈と犯人とのやり取りについてはまったくわからない。おまけに携帯電話も置いていったのだから、こちらから樹奈に指示をだすことも不可能になった。
樹奈は、山科、四条河原町、河原町御池へと電車で移動していった。これも、タクシーには乗ってはいけないと、犯人の指示があったのだろう。
今のところ、すべて犯人に裏をかかれている。二回目の脅迫電話は自宅にかかってきたのではなかった。犯人は、近所に住む顔見知りの主婦の家に連絡をしてきた。
京都駅前の喫茶店「アリス」に樹奈を呼び出してから、犯人は三度も場所変更の指示をだしている。犯人が、身代金授受現場の変更を指示するのはめずらしいことではない。身代金の運搬役を移動させることで警察を振り切ろうとしていたり、あるいは、運搬役の周囲を観察して、誰が捜査員なのか確認しようという意図や目的があるのだ。
対策本部は、美有が誘拐されたニューストアの出入口に設置された防犯カメラの映像の解析を急いだ。だが、どうしたわけか美有の姿はなかった。
ニューストアに来店したのは午前十時半過ぎだと樹奈は証言している。そして、美有の姿がなく、騒ぎになったのが十二時過ぎだった。開店の午前十時から閉店までの映像を確認したが、美有の姿はどのカメラにも映っていなかった。十時三十六分に、樹奈に手をひかれて正面玄関を入っていく美有の姿は映っているのだが、それ以外には見当たらないのだ。
店内には、樹奈親子と顔見知りの店員もいたのだし、美有の姿を見ればそれとわかるはずなのだが、「この時間、ここで美有を見た」と記憶している者はいなかった。
犯人の声を直接聞いたのは、一回目の脅迫電話を受けた樹奈と、近所に住む主婦だけである。樹奈が出発する直前、万友美は恭子に電話の様子を訊きにいった。誘拐事件の捜査は人質の安全のため、極秘に行われる。したがって、近辺の者にもそれと覚《さと》られないように、細心の注意を払って聞き込みをしなければならない。
万友美は恭子に「樹奈の親戚」と名乗り、樹奈が待ち合わせの場所を忘れてしまったので、本人から頼まれて確認にきたと説明した。「電話の調子がやっぱりなんだかおかしいので」と言うと、恭子はとくに訝りもしなかったようだ。
恭子の話では、電話の相手は「ちょっと変な声で、男だか女だかよくわからない」ということだった。「キンキンして、アニメの宇宙人みたいな声だったが、携帯の調子が悪いので聞こえにくくてすみませんと謝られ、電波状態がよほど悪いのだろうと思った」と話している。
おそらく、犯人は変声機でも使っていたのだろう。変声機を使うと画一的な声になり、性別や年齢がわからなくなる。もっとも声紋鑑定をすれば個人の特定も可能だが、録音していないのだからどうしようもない。
不自然な声に違和感を覚えたものの、相手は普段、息子が世話になっている幼児教室の事務局だったので、恭子はその電話に丁重に応対したようだ。
今回の事件の犯人は、声も筆跡も手がかりや証拠になるものは一切残さずにメッセージだけを送り届けてきている。
犯人はバカではない。ということは、事件解決は容易ではないということだ。口にはださないが、捜査員達は皆、感じている。
浦上は新聞を持ち直し、顔をあげた。「エトワール」には、五人の捕捉班が客を装ってなかに入っている。ロビーにも数十名の捜査員が張っていた。シャングリラホテルは正面玄関と北玄関しかない。あとは従業員専用出入口と地下駐車場の出入口だけだ。すべての出入口に捜査員が包囲網を張っており、まさに蟻の這い出る隙もない態勢である。
樹奈に接触し、身代金を受け取る人物がいたとしても、それが犯人とはかぎらない。事情を知らない第三者が、犯人に頼まれて北岡恭子のように連絡役をやらされる場合もあるからだ。連絡役が、事情はもちろん、犯人の素性さえも知らないというのであれば、捕まえたところで真犯人にたどりつくのは難しい。
連絡役と犯人との間に密接な人間関係があったとしても同様である。連絡役が警察に捕まったと知った時点で、犯人は逃走するにきまっているからだ。
取り調べで連絡役が簡単に口を割ってくれればまだいいが、そうでなければ共犯者の存在や人質の監禁場所など、解明は難しくなる。解明が長引けば、人質の身に危険が増すのはいうまでもない。
6
「エトワール」の入口に、三十過ぎくらいの男が立っている。浦上からは横顔しか見えないが、背広を着て銀縁の眼鏡をかけていた。中肉中背で、前髪を後ろに丁寧に撫でつけている。
ウェイトレスが彼の前に立ち、「お一人様でしょうか」と訊いた。男が頷き、ウェイトレスはメニューを持って奥へと案内する。
樹奈は青ざめた顔をして、膝の上の紙袋を両手でかかえていた。もしあの男が、犯人かあるいは犯人の教唆《きようさ》を受けた者であれば、樹奈のかかえたあの紙袋を、通り過ぎる時に確認しているはずだ。
男は奥の喫煙席に座った。注文を終え、煙草に火をつけている。彼は内ポケットから携帯を取り出した。親指でボタン操作をし、熱心に画面を見ている。
樹奈の顔から汗が滴っていた。肩が小刻みに揺れている。
浦上は新聞を持ち直した。視線が周囲からわからないように紙面の角度を注意深く調整する。
その時、ちりん、と鈴の音がした。見ると、ベルボーイがプラカードを持って、フロントからこちらに向かって歩いてくる。金モールのついた小豆色の制服を着たベルボーイは同じ色の帽子をかぶり、鈴のついたプラカードを持っていた。白いプラカードに書いてある文字はロビーにいる浦上の距離からは読めない。鈴を鳴らしながら、彼はカフェテリアへ入っていく。
樹奈がベルボーイに声をかけた。ベルボーイが身をかがめ、何か答えている。突然、樹奈は立ち上がり、レジで精算を終え、フロントに向かって小走りに駆けていった。
フロントの前で樹奈が声をかけると、係の男が受話器を差し出した。片手でヒマワリのイラストの紙袋をかかえ、樹奈はひったくるようにして受話器をとった。
犯人からまた、指示があったようだ。短いやり取りの後、樹奈は電話を係に返し、ロビーから廊下に向かって足早に歩いていった。
そっちはアーケード街につながる廊下だが、通る人が少なく、あたりは赤色の絨毯に音が吸い込まれているように静かだ。樹奈は紙袋を両手でかかえ、前を見据えて進んでいく。
廊下の行き止まりに電話コーナーが見えていた。それぞれ、擦りガラスで仕切られたボックスが五台ある。樹奈は一番奥のボックスに入った。他のボックスには誰もいない。電話コーナーの近くを歩く者もなく、賑やかなロビーとはまったく違う雰囲気だ。
犯人がわざわざひと気のない電話コーナーに樹奈を呼び出したのは、捜査員を近寄らせないための工夫だろう。人通りの多い街頭や雑踏の公衆電話なら捕捉班も近づきやすい。だが、このような閑散とした電話コーナーでは、人の姿がやたら目立つので距離を置かざるをえない。
浦上はロビーのはずれをゆっくり歩いた。女性捜査員が、樹奈の隣の電話ボックスに入っていく。彼女はベージュのスーツを着て、茶色の薄いバッグを肩に掛けていた。
仕切りの擦りガラスのため、ボックスで電話をかける人物の上半身は周囲からは見えない。足元だけが外から見えている状態だ。隣のボックスに入ったとはいうものの、防音の施されたコーナーで、樹奈の会話を聴き取ることは難しいだろう。しかし、樹奈の電話ボックスに近づく人物がいれば、彼女は間近にその人物を観察することができる。
樹奈はいったい、どこに電話をかけようとしているのだろう。あるいは、電話ボックスに身代金入りの紙袋を置いて来いとでも指示されたか。
いや、そんな安易なことを、頭のいい犯人が考えるはずはない。樹奈が紙袋をボックスに置いていったところで、この厳重な包囲網の中をどうやって取りにくるというのだ。ボックスに入って紙袋を手に持った瞬間、警察にマークされ徹底的に追尾される。そうなれば、犯人逮捕とアジトの解明は時間の問題だ。
ほどなく、樹奈は電話ボックスから出てきた。ヒマワリのイラストの紙袋をかかえ、急ぎ足でロビーに向かっていく。また、「エトワール」にもどるのだろうか。あるいはシャングリラホテルを出ていくのか。
捜査員達はその場で樹奈の動向を見守った。ひと気のない場所で、何人もの人間が一斉にぞろぞろと動くわけにはいかない。玄関やその他の出入口にも網は張ってあるのだ。無用に動く必要はない。
中央のエスカレーターに樹奈は乗った。シャングリラホテルは五階まで吹き抜けになっていて、エスカレーターはその空間をつなぐ梯子のように延びている。一階にいても、エスカレーターに乗っている客の様子はすべて見えるのだ。
男女の捜査員が二人、少し距離を置いてエスカレーターに乗った。樹奈は二階で降りて、カフェテリアに入っていく。「オルゴール」というその店は、吹き抜けを見下ろすようにして作ってあった。男女の捜査員は「オルゴール」の入口をゆっくりと通り過ぎる。少しして、別の男の捜査員が店に入っていった。
誘拐事件の尾行は、同じ捜査員が長時間継続して行うことはない。一度でも運び役の間近に接した捜査員は、原則として第一線から離れることになっている。「どこにいっても、あの人物が運び役の傍にいる」などということになると、「この人が捜査員です」と犯人に教えているようなものだからだ。
誘拐捜査の場合は、指揮本部の指令により各署から人員が集められる。現場の捜査員の数は、通常のそれとは比較にならないほど多い。だから、追尾の捜査員を短時間に何度も入れ替えていくことが可能なのだ。
浦上は遊撃班に所属している。対象者と距離を保ちながら、現場の状況に応じて動いていた。
「オルゴール」はガラス張りの店だった。二階に上がり、浦上は廊下を歩いた。吹き抜けを囲む形の各階の廊下はバルコニーのように、一階のロビーを見下ろすことができる。「オルゴール」の店内も、廊下から見ることができた。一階のカフェテリアと比べると規模が小さく、あまりフォーマルな雰囲気はない。どちらかというと、気楽に入れる感じの店だ。
樹奈が席についた。が、すぐに立ち上がる。店のレジに出向き、電話をとっている。また、犯人からの連絡が入ったらしい。受話器を耳にあてた樹奈が頷いているのが見える。短いやり取りの後、樹奈は店を出た。
中央のエスカレーターに、樹奈はまた乗った。上りだ。各所に散らばっている捜査員達からは、吹き抜けの空中に架けられたエスカレーターに乗る樹奈の姿がよく見えているはずだ。エスカレーターに乗っている人はまばらだった。上っていく者も下がっていく者も皆、人形のように静止している。駅のエスカレーターのように、せっかちに歩く者など一人もいない。
エスカレーターを五階で降りた樹奈は、フロアを歩き出した。間を置いて浦上も五階に到着し、吹き抜けをはさんだ位置から、樹奈の姿を目で追う。
五階は宴会場のフロアだ。女客達が大勢、廊下を行き交っている。普段着で化粧もほとんどしていない樹奈はフロアの中で目立った。樹奈は早足で正面の宴会場に入っていった。扉の横に、「松島屋・特別宝飾展示承り会」と看板がでている。急拵えのような受付があり、制服を着た若い女が二人座っていた。デパートの催事が開かれているらしい。
受付の周囲には、デパートの店員らしき男達がものものしく並んでいた。男達は背広の胸ポケットに名札をつけている。周辺では、あちらこちらで女達が群れになって話していた。時々、名札をした男が、女達の群れに入って話している姿もある。話し声と笑い声があたりに響いていた。むせかえるような香水の匂いがここまで漂ってくる。廊下だというのに、パーティー会場かと見間違うような賑やかさだ。
突然、扉が開いた。ピアノの音が流れてくる。生演奏だろうか。「ムーン・リバー」だ。
品のいいスーツ姿の老婦人が出てきた。後ろに付き従うように、名札をつけた男が二人歩いてくる。彼女達が行き過ぎるのを待ち、浦上は扉に進んだ。
「お客様」
受付にいた女が立ち上がった。
「招待状をお持ちでしょうか」
「招待状?」
問い返した浦上を、フロアで群れている女達が振り返った。名札をつけた男達も見ている。
「本日、招待状をお持ちでないお客様は、ご入場をご遠慮いただいておりますが」
見回すと、周囲にいる客や店員が全員、浦上に注目していた。行き過ぎたはずのさっきの老婦人までもが、何事かという顔を向けている。
浦上は、警察手帳をだすことを諦めた。ざっと見たところ、三十人以上の人間が浦上を注視している。このなかに犯人の仲間がいる可能性は充分ある。
その時、浦上の腕に人の手が絡んだ。
「すみません。会場に知り合いが来ているかどうか、見たいんですけど」
女の捜査員が浦上の腕をとっていた。
「待ち合わせをしていたんですけど、ロビーで会えなかったんです。先に会場に入っているのかなって思って」
彼女は困ったように首を傾げた。
「わかりました。失礼ですが、お待ち合わせのお客様のお名前は」
「タナカです。タナカケイコ」
「ええと、字はこれでよろしいですね」
受付の女はメモ用紙にボールペンで「田中」と書いた。
「ケイコさまはどのような字をお書きしますか」
「ええと、拝啓の啓です」
はい、と頷き、受付の女はボールペンを走らせ、後ろに控えていた黒服のスタッフにメモ用紙を手渡した。黒服は廊下の向こうのベルボーイを手招きしている。ベルボーイはプラカードを持ってやってきた。
「今、お連れ様をおさがしいたしますので」
言いながら、黒服は白いプラカードにマジックで「田中啓子様」と書いた。
その時、扉が外側に開かれた。樹奈が出てきたのだ。樹奈はまっすぐに前を見て、エスカレーターに向かっていく。彼女がヒマワリのイラストの紙袋を提げているのを、浦上は瞬時に確認した。
今、樹奈の後を追うのは、あまりにも目立つ。浦上は動かなかった。
いったい、樹奈はどうやって会場に入ったのだ。エスカレーターの近くを歩いていた捜査員が追尾するのを目の端に見て、浦上は受付に向き直った。
7
グランドピアノの譜面台には、手書きの一段楽譜を置いている。弾きながら、浅野奈津子は周囲を見回した。
開場直後から客の入りはいい。不景気とはいうものの、このような高級宝飾品の展示会は盛況だ。まだ午前中だというのに、客は途切れることなくやってくる。
松島屋の展示会はいつも派手で大規模だが、今回の宝飾展示会はとくに金がかかっていた。シャングリラホテルは京都でも有数の一流ホテルである。その一番広い宴会場を一日借り切っての大イベントなのだから、売り上げについても相当見込んでいることだろう。
売り場にはそれぞれ専門の販売員がつき、会場の内外では外商の社員達が総出で顧客に仕えている。自身の担当する上得意には最初から最後まで付き添い、客の出迎えから見送りまで、懇切丁寧に対応しているのだ。あそこまでされたら、客は指輪の一つも買わざるをえまい。
外商の社員達は、時候の挨拶に始まり、客の家族の結婚、出産、入学などの慶事について話を振りながら、展示場を順に案内してまわる。店側にとって何よりの慶事は「結婚」だ。婚約指輪から嫁入り道具の貴金属類まで、「おすすめの商品」は山のようにある。
客が興味を持って足を止めると、素早く売り場の店員にショーケースから品物を出させ、手に取らせる。店員とともに商品の価値や人気の高さなどを客に語り、その気にさせるのだ。
途中、客が疲れた表情を見せれば、隅の喫茶コーナーに連れていって休憩させる。その際も、今回の展示会の目玉商品や情報をさり気なく話すことを忘れない。つまり、喫茶コーナーは休憩所でもあり、また、商談会場でもあるのだ。
会場内では何にも邪魔されることなく商品に目がいくように配慮する。もちろん、買った品物を客本人に持たせることはしない。重い荷物を持ちながらの買い物では、客も購買意欲をそがれるし、「もっと違うものが見たい」という気力や好奇心も失せてしまう。そのために、会場内にはクロークまで設けてある。買い上げられた商品は、最後の見送りまでクロークで預かるか、あるいは日をあらためて発送することになっている。至れり尽くせりで客を持ち上げ、金を使わせるのが彼らの仕事なのだ。
この手の展示会やイベントは、客のほとんどが中高年の女性である。皆、ブランド物のドレスやスーツを着て、高価なアクセサリーを身につけている。外商の社員に傅《かしず》かれ、機嫌をとってもらいながら買い物をするのは、彼女達にとって日常の一部なのだろう。表情や仕草や話し方には、豊かな暮らしと気位の高さが滲みでている。
会場の中央あたりに、品のないピンク色の造花が見え隠れしていた。辺見タカヨだ。辺見タカヨの帽子には、いつも安物っぽい造花が飾られている。
また、来ているのか。
最後の小節を弾きながら、奈津子は苦笑した。タカヨはたぶん、七十は過ぎているに違いない。彼女は、ホテルで開かれるデパートの催事やイベントには、必ずといっていいほどやってくる。
いつも皺《しわ》にファンデーションを塗りこめるような厚化粧をして、ご大層な帽子から網のようなものを垂らしていた。滑稽なほど濃い頬紅と口紅はピンク色で、厚い唇はなんだか虫取り網にひっかかった毒虫のようだった。
着ているものも、化粧と同じくらいに派手な色遣いだ。タカヨは原色がお気に入りらしい。今日のワンピースは、黒地に赤やピンクの大きな花柄プリントで、裾は床に引き摺りそうなほど長く、袖はたらんと垂れている。
ハンドバッグも負けていない。一応、皮革のようなのだが、赤やピンクや黄色やブルーの絵の具をぶちまけたような色遣いは、素人の手作りにありがちな稚拙《ちせつ》で趣味の悪い代物だ。おそらく、自分で作ったか、友人の手作りをプレゼントされたかのどちらかだろう。普通の人間なら、あんなものは貰っても捨てるに違いない。
皺としみだらけの腕には、トルコ石のようなものをつなぎ合わせたブレスレットを嵌《は》め、右の薬指には大きな赤い石の指輪をしていた。背が低くて痩せているが、いつもひらひらした派手なドレス姿なので、どこにいても目立つ。
店員やスタッフもタカヨのことはよく知っており、彼女は業界ではちょっとした有名人である。着ているものや持っているものはどう見ても安物で、豊かさや品の良さとはおよそ無縁だが、態度は大きく、堂々とした振舞いだ。
こういう場所にやってきては、買いもしないのに、宝石や美術品についてさももっともらしく蘊蓄《うんちく》を垂れる。客が店員相手に品定めをしていると横から割って入り、自身の知識をひけらかしてみせるのだ。店員達もよく心得ており、うまくはぐらかしてコーヒーチケットを手渡したり、喫茶コーナーにつれていく。
タカヨの目的は、粗品とコーヒーチケットだ。タオルとかハンカチとかボールペンとか、くだらない粗品をもらって一流ホテルのコーヒーを無料で飲むのが彼女の楽しみなのだ。万引きや置き引きをするわけではないので、店員達も無下《むげ》に追い払ったりはしない。
このような高級宝飾展示会の招待状リストに入っている客ではないが、彼女は「松島屋友の会」の古くからの会員なので、顧客として店員達は接している。招待状がないまま会場にやってきては、友の会の会員カードを提示して、なかに入れろと臆面もなく言うのだ。本来は招待状を持っていない者は会場に入れないが、タカヨは「長年の実績」で顔パスらしい。
「リクエストが入りました」
喫茶コーナーのウェイターが、譜面台の脇に小さな紙切れを置いた。奈津子は演奏を続けながら、小さく頷いた。
夜のラウンジでもあるまいし、展示会の会場で、ピアノ演奏にリクエストをする客など普通はいない。紙切れには「ムーン・リバー」と書いてある。
顔をあげると、タカヨが笑ってこっちを見ていた。前歯の欠けた口元があらわになり、何ともいえず、間の抜けた表情だ。
「ムーン・リバー」なら、問題ないだろう。いくら客からのリクエストといっても、会場の雰囲気を壊す曲は演奏できない。このような展示会では、あくまでも優雅でやわらかな曲が好まれる。だから、クラシックならよく知られたロマン派の曲を、また、なじみのある映画音楽などを弾くことが多い。
エンディング部分をさり気なくつなぎ、奈津子は「ムーン・リバー」のイントロに入った。腕時計に目をやる。ぴったり十一時半だ。
曲ごとに、奈津子は必ず時間を確認する。日頃、結婚披露宴で弾いているのが癖になっているのだ。これは、所属している事務所の社長である篠塚梓から徹底的に教えこまれた。
たとえBGMでも、だらだらと同じ曲を演奏し続けてはいけない。かといって、その場の雰囲気や流れを変えてはいけない時もある。披露宴では、新婦のお色直しのための退場や入場など、必要な区切りが何度もある。開始時間からお開きまで時間は厳密に決められており、進行スケジュールは分刻みだ。プレイヤーはスケジュール表を傍らに置き、常に数分ごとの時間確認をしながら演奏をしている。
ラウンジなどでは、三十分演奏ごとに三十分休憩が原則だ。キャンドルサービスや花束贈呈があるわけではないので、特別なスケジュールをこなす必要はない。だが日頃の習慣で、「この曲で三分もたせる」「次の曲は二分で終わらせる」などと常に考えながら弾いている。
休憩まで、あと十五分。この曲のあとは、映画音楽ばかりでつなごうか。手書きの一段楽譜の曲目を思い出しながら、奈津子は考えた。
今日もまた、展示会の仕事が終了したらラウンジに弾きにいかなければならない。
日頃、奈津子はシャングリラホテルの宴会場とラウンジで弾いている。専属ではないが、夜のラウンジはレギュラーの仕事だ。披露宴の仕事は、ほとんどが土日祝日である。だから、息子の浩を公立の保育園に預けてもあまり意味がない。平日よりもむしろ休みの日の方が、あるいは昼間よりも夜間の方が、奈津子は忙しいからだ。
三歳の浩は現在、無認可の二十四時間営業のベビーホテルに預けている。夜は十時半まで最上階のラウンジで弾いているので、迎えにいくのは毎夜十一時前になる。
浩にとって決して望ましくないのはわかっているが、親子二人の食い扶持《ぶち》を稼ぐためには仕方がない。夜の仕事は昼間よりギャラがいいし、それに、レギュラーの仕事があれば、安定した収入が確保できる。
それでも、演奏の仕事は不安定なので、奈津子は一週間に二回、事務のアルバイトも昼間にしている。事務のアルバイトがある日は職場から直接、シャングリラホテルに駆けつける。
イベントやパーティーは、以前に比べると目に見えて数が減っていた。バブルの頃ならともかく、この不景気ではどこの企業も経費削減で、派手なパーティーや展示会などそうはやっていられない。
披露宴でも催事でも、生演奏のほとんどがピアノではなく、電子オルガンを望まれる。近頃の電子オルガンは、一般普及用タイプでもコンピューターが内蔵されており、音色もパーカッションも素人には判別がつかないほどリアルである。しかも、各パートを記憶再生させることも可能なので、一台で演奏しているのにもかかわらず、まるで生バンド演奏のような臨場感が得られる。だが、今回はめずらしくピアノ演奏を指定された。
曲目は、クラシックか、あるいは静かな映画音楽をということだった。豪華な展示会という印象をより強くするために、グランドピアノという「絵」がほしかったのだろう。会場に置くなら、コンパクトな電子オルガンより、グランドピアノの方が遥かに見映えがする。
店員達はにこやかに客の相手をし、外商の社員達は丁重に商談を進めている。喫茶コーナーのウェイターとウェイトレスはシャングリラホテルのスタッフだ。さすがに全員、身のこなしが優雅で美しい。会場内には静かにピアノ曲が流れ、客がゆっくりと歩き、展示された選りすぐりの高級品の傍らで店員が微笑む。
宝飾品や高級陶磁器に付けられた値札には、「0」が数珠《じゆず》繋ぎで並んでいる。いったい、誰が買うのだと言いたくなるような値段だが、買う客はいるのだ。買う客がいるから、松島屋の店員も、シャングリラホテルのスタッフも、こうして首がつながっているというものだ。もちろん、奈津子もそのうちの一人である。
通常のデパートの「お得意様招待展示会」といえば、もっと展示スペースを広く取り、ショーケースを多くしてある。そのために、喫茶コーナーにも大きなソファなど置かずに、簡易なテーブル席で間に合わせることがほとんどだ。
展示会の規模と質によっては、最初からコーヒーチケットを招待状とともに客に配付して、ホテルの喫茶店に任せてしまうこともある。休憩コーナーがなければその分、空いたスペースに少しでも多くの商品を展示できるからだ。そういう展示会では、生ピアノ演奏など主催者側は望まない。BGMなど、CDでも流しておけばいい。楽器搬入もピアニストも必要ないし、経費が安くあがる。
今日のように会場にグランドピアノを入れて、プレイヤーを雇って生演奏をさせるというのは、松島屋がよほどの予算を組んでいる証拠である。つまり、それだけ力を入れている催事だということだ。
奈津子は演奏しながら、周囲に目をやった。優雅な雰囲気の展示会に、人が多過ぎて客同士が押し合いへし合いの状態では困る。しかし、閑散としていかにも不景気で寂しい感じがするのも困る。今の会場の状態は、おそらく理想的ではないだろうか。
腕時計を見て、奈津子は一段楽譜をめくった。「ムーン・リバー」のエンディングをつなぎ、移調して「愛のプレリュード」のイントロを弾き始める。次あたりでショパンのワルツでも入れようと考えた。松島屋の宣伝部長は選曲にもうるさいからだ。
宣伝部長の機嫌を損ねないために、シャングリラホテルも神経を尖らせている。ホテル側は常に企業の顔色を見ている。長引く不況で、年間の宴会の数は減る一方だし、バブルの頃の収益とは比較にならない。これだけの大きなイベントで宴会場を使ってくれる企業もまた減る一方なのだから、当然といえば当然であった。
喫茶コーナーの入口近くに、黒服を着た若い男が立っている。宴会係の藤吉だ。顔が小さく、男にしては細身の躯をしているので若く見えるが、実は三十半ばを過ぎていて、妻子もいるという。二重瞼の目は大きく、細い顎をしていた。少しばかり目立つ容姿を本人も意識しているらしく、いつも気取った笑い方をする。何かと女の噂も絶えない男で、今はクローク係の女の子と噂になっていた。
「今日は、急な仕事を頼んでしまって、ごめんなさいね」
見ると、グランドピアノの傍らに、篠塚梓が立っていた。
「いえ、大丈夫です」
弾きながら、奈津子は笑った。
「あなたが引き受けてくれて助かったわ」
梓は唇に小さな笑みを浮かべた。
すらりと背の高い梓は、手足も細くて長い。長い睫毛《まつげ》と高い鼻梁《びりよう》のせいで目鼻立ちには濃い陰影が刻まれている。肩まで垂らした髪にはゆるいウエーブがかかり、艶《つや》を放っていた。白い肌はなめらかで、陶器のようだ。
黒い薄手のニットに同じ色の細身のパンツというごくシンプルな格好だが、梓は遠くからでも人目をひいた。こういう飾り気のない服装でありながら目立つのは、整った顔立ちだけではなく、垢抜けた雰囲気と体型によるものだろう。四十を過ぎていると聞いているが、独身だからか年齢はよくわからない。
「代役がいないと大変なことになってしまうもの。あなたのお陰で仕事に穴をあけずにすんだわ」
急な仕事でも何でも、仕事を貰えるのは有難いことだった。小さな子供をかかえた奈津子が経済的に厳しいのを、梓は知っている。今日のこの仕事も、本当は別のプレイヤーの仕事だったのだ。が、前日、彼女の母親が倒れたとかで、急遽代役を頼まれたのだった。
離婚をしたものの、子供をかかえて東京の実家にも帰れずにいた奈津子に、この仕事を紹介してくれたのは梓だった。奈津子の実家は二世帯住宅に建て直し、弟夫婦が両親と同居している。浩をつれた奈津子が帰る場所はなかったのだ。
独身の頃は楽器店の音楽講師をしていた。結婚後、夫の仕事の都合で大阪に移り住んだ。浩が生まれてからは仕事をしていなかったが、離婚して働かなければならなくなった。昔の友人の伝《つて》で梓を紹介してもらい、オーディションを受けたのが、一年ほど前のことだ。梓のプロダクションに入った奈津子は京都に居を移し、仕事を始めた。
梓は大学の先輩の友人だった。もともと電子オルガンプレイヤーだったが、現在はプレイヤーを何人もかかえるプロダクションを経営している。プロダクションといっても、梓ともう一人のスタッフで切り盛りする小さな事務所だが、今までの信用と実績で、シャングリラホテルをはじめとして、京都の一流ホテルのいくつかと契約を結んでいた。
時々、梓はプレイヤーの様子を見に現場にやってくる。それはいつも突然で、何の前触れもない。彼女が現場にやってくるのは、プレイヤーの仕事ぶりを見るためでもあるが、仕事の環境を確認するためでもある。
楽器の置かれた位置や、スピーカーやマイクの設置状況などを確認しているのだ。ホテルの宴会係はプレイヤーの意向など関係なく楽器を移動させるし、スピーカーの質や種類も無視して自分達の都合のいい場所に置く。音響効果などは度外視で、まずは見映えを優先させるのである。
しかし、現場でプレイヤーがホテルのスタッフに文句をつけると角が立つ。けれど黙っていると、次回も当然のように同じことをされる。こういう時にプロダクションの社長が一言言ってくれると、プレイヤーは後がやりやすくなる。特に梓はホテルの古いスタッフにも信用があり、一目置かれている。彼女の一言で、スタッフ達の態度も当然変わる。
「また、タカヨさんが来ているわね」
梓は苦笑した。
「さっき、リクエストされましたよ」
会場に目をやると、すぐ傍を歩くタカヨの姿があった。タカヨは大きな帽子に時々手をやりながら、気分よさそうに歩いている。梓は微笑し、奈津子の方を見た。
「それじゃ、頑張って」
梓はまた会場のなかに消えていった。
会場を歩きながら、音響効果を確認しているのだ。スピーカーはもちろん、楽器の位置やその角度にまでもこだわる梓は、あらゆる場所と角度から、実際の音色を自分の耳で確かめなければ気がすまない。
今日の会場の設営は悪くないが、しかし、部屋の正面位置からすれば、ピアノはほんの少し台座とともに歪んでいる。たぶん、宴会係はあとで梓から文句を言われるだろう。奈津子は小さく笑い、腕時計を見た。あと、六分で休憩だ。
8
シャングリラホテルを出た樹奈は、河原町通を南に向かって歩いていた。すでに正午が近い。通りを歩く人々と、行き交う車の騒音のなかを早足で進んでいく。
樹奈がマイクも携帯も持っていない以上、こちらから指示をだすことはもちろん、一切のやり取りもできない。現在、樹奈がどこに向かっているのか、捜査陣は見当もつかない状態だ。行く先が把握できていれば先行隊を派遣し、現場の情報収集をさせて、可能なかぎりの配備をするのだが、今は追尾を続けるほかないのだった。
三条通へ樹奈は曲がった。東に向かっている。通り沿いのファストフード店やゲームセンターの前には、若い男の子達が群れていた。座りこんで煙草を吸っている者や、地面にラジカセを置いて、わけのわからない曲を流している者もいる。皆、茶髪か金髪で、耳に開けた穴に針金や釘みたいなものをひっかけていた。
樹奈は彼らに目をやることもなく、進んでいく。雑踏をくぐり抜けるようにして、三条大橋にさしかかった。秋にしては温かい日だったが、川風はやはり冷たい。欄干に凭《もた》れて鴨川を見ている人々の髪は風になぶられて逆立っている。
三条大橋を渡ると、京阪電車の地下乗り場に続く階段を降りていった。自動券売機で切符を買い、早足で改札を通る。ホームにちょうど滑りこんできた電車に彼女は乗った。淀屋橋行きの急行だ。捕捉班達も各ドアに分散して乗り込む。
樹奈は車両前方のシートに座った。車内で立っている人間はまばらだ。浦上は彼女の乗った車両の次の車両に乗った。連結部の窓の向こうに、樹奈の姿が見えている。
膝にヒマワリのイラストの紙袋を載せ、不安気に瞬きを繰り返していた。彼女の両隣に座っているのはいずれも中年の男だ。一人は首を傾げて漫然と窓の外を眺めている。ワイシャツに薄いジャンパーのようなものをはおり、ガムを噛んでいた。背広を着た男は、腕組みをして眠っている。
やがて電車は四条駅のホームに着いた。電車が止まる時の金属音に、居眠りしていた男が目を開け、周囲を見まわす。が、またすぐに目を閉じた。
浦上は樹奈の紙袋を見つめた。あの紙袋を網棚に置いて、彼女だけ降りるのではないか。
犯人がそういう指示をだしていないともかぎらない。紙袋だけ置いて降りるようにと、シャングリラホテルでメッセージを託されたのではないか。
ドアが開いた。樹奈は動かない。何人かが降車していった。ホームで待っていた者達がのろのろと乗り込んでくる。乗降客は、ラッシュ時に比べれば知れたものだ。それでも人が移動すると、浦上の視界から彼女の姿は見え隠れした。なんとか樹奈の一部でも見える位置に移動し、浦上は第一線の捜査員の動きにも目をやった。彼らの動きで異変があった時はわかる。
「ドアが閉まります」
喉を絞ったような車掌のアナウンスの声が流れた。空気を吐き出すような音がしてドアが閉まり、電車は動きだす。
「次は五条、五条でございます。この電車、淀屋橋行きの急行、急行、淀屋橋行きでございます」
電車は地下を走っている。車窓には無機質な壁しか見えない。暗い窓には、車内が映っていた。
浦上は、樹奈の反対側の窓に目をやった。大きな紙袋を抱えた老婆。携帯電話でメールを打つのに夢中の女の子。漫画を読みふけっている若い男。眠っている老人。
どこにいる。犯人はどこから見ている。
電車は五条、七条と停車し、地下から地上へと出た。線路際に迫る住宅街の景色が、東福寺から鳥羽街道へと続く。今までは都心だったので、急行とはいうものの各駅停車も同然だったが、ここからは違う。
浦上は、樹奈の座席の上の網棚を見た。載っている荷物はない。車内の乗客達は、ほとんど動かなかった。彼女の方に目を向けている者もいない。
丹波橋に着いた。樹奈の隣に座って居眠りしていた男が降りた。ドア付近に立っていた三十半ばくらいの男が横に座る。この男は四条駅から乗ってきた男だ。
紺色のトレーナーを着て、着古したジーンズを穿いていた。汚れたスニーカーの紐がだらしなく垂れている。彼は持っていたスポーツ新聞をひろげて読み始めた。一重瞼の目をしばたたき、野球の記事に見入っている。
やがて、電車は中書島《ちゆうしよじま》に着いた。
車内の第一線の捜査員達は、ここでほとんど入れ替わった。捕捉班から連絡を受けた指揮本部は、電車が淀屋橋行きということで、沿線各署に配備を要請していた。四条駅や五条駅では間に合わないが、丹波橋、中書島あたりなら、当該の電車が到着するまでに捜査員を待機させることができる。
待機していた捜査員は、樹奈のいる車両に乗り込んできた。この時間帯だと背広姿ではかえって目立つので、彼らはゴルフウェアやセーターやトレーナーといった軽い格好をしている。捜査員は必ずしも浦上の知っている顔ばかりではないが、事前の無線連絡で、特徴だけは聞いていた。
中書島で乗降する客は多かった。しかし、樹奈は動かない。両隣の男も同じように座ったままだ。
樟葉《くずは》に到着した。ここからは、京都府警ではなく大阪府警の管轄となる。だが、今日のような広域に及ぶ可能性のある重要事件が発生した場合は、管轄を越えた協力態勢で捜査に臨む。
おそらく、犯人は大阪府警管内で身代金を受け取ろうとしている。日本の警察は縦割りが徹底しているので有名だ。管轄が違えば、迂闊《うかつ》に手をだすことは本来許されない。だが、現在は、広域犯罪に対処するための協力態勢のマニュアルができている。
京都駅から山科に移動する際、樹奈はJRを使った。山科から四条へは地下鉄と京阪電車を使っている。松島屋から河原町御池にあるシャングリラホテルへは京阪電車、シャングリラホテルから三条河原町へは徒歩だった。交通機関についても犯人側が指定しているのだろう。
何度も乗り物や場所を変えることによって、運搬人の周囲の人間を篩《ふるい》にかけているのだ。いつもそこに居合わせる人間の顔を、犯人はどこかから観察している。
それは、捜査陣にしても同じだ。朝の京都駅から始まって現在に至るまで、すべての場所や乗り物に、一度見かけた人物がいないか目で追い、写真も隠し撮りしている。
犯人は樹奈と同じ電車に乗っている可能性が高い。捜査員は皆そう思っている。刑事の顔を割り出し、あるいは振り切り、より安全な場所で身代金を受け取ろうと、犯人は考えているのだ。
電車内で接触をはかる可能性もある。また、ドアが閉まる寸前にあの紙袋を奪い、降車することを考えているかも知れない。だが、そんなことをしても無駄だ。すでに、京阪電車の沿線各駅には緊急配備がされている。
浦上は、樹奈のいる車両を見つめた。
9
急行が淀屋橋に着いた。終点だ。乗客は全員、ホームに吐き出される。
樹奈は顔を上げた。電車を降り、周囲を見回す。さすがに大阪は、平日の昼下がりだというのに混雑している。出町柳行きの乗り場には行列ができ、ホームも人でいっぱいだ。人の波に押されながら、中央改札口に向かって歩いた。
改札を出てすぐのところに、ファッションビルがあった。入口にはファンシーショップがあり、アクセサリー類や安いサングラスなどが並べられている。奥に入っていくと喫茶店が見えた。「花梨」という看板が、入口にでている。
ここに間違いない。淀屋橋駅の中央改札口からすぐのところにあるファッションビル。一階にある「カリン」という喫茶店。看板にはひらがなでルビが振ってあった。
小さな店だ。何人かの若い女が女性週刊誌を読みながら、煙草を吸っている。一組だけカップルがいて、熱心に話していた。有線から、聴き覚えのある曲が流れている。流行っているようだが、何という曲なのか樹奈は知らない。
「いらっしゃいませ」
奥の空いていた席に座るとすぐにウェイトレスがやってきた。
「コーヒーを」
「ホットですね」
水とおしぼりをテーブルに置き、彼女はカウンターの方にいった。有線の曲はやたら楽しげで、十代の女の子の甲高い歌声が耳につく。
コーヒーが運ばれてきた。テーブルにコーヒーカップを置いてウェイトレスがカウンターに踵《きびす》を返した時、喫茶店の電話が鳴った。
「はい、花梨です」
銀の盆を持ったまま、ウェイトレスが電話にでる。樹奈は躯をかたくして、やり取りを聞いていた。
「お客様に、桑島さんはいらっしゃいますか」
受話器に手をあて、ウェイトレスが店内を見回した。
「はい」
樹奈は立ち上がった。ウェイトレスは安堵したように微笑み、樹奈に受話器を差しだした。
「もしもし、桑島です」
受話器を握りしめ、樹奈は言った。
動悸がして息が苦しい。
美有を返して。早く返して。
叫びたいのをこらえ、樹奈は大きく息を吸った。
決して、犯人を刺激するようなことを言ってはいけないと、何度も女の刑事に言われている。怒った犯人が、人質に危害をくわえることはよくあることだと、彼女は話していた。
「桑島樹奈サン」
不自然で無機質な声が聞こえた。
「はい」
「コレカラ、喫茶店ヲ出テ、京阪電車乗リ場ニイッテクダサイ」
「え?」
有線の曲のせいで、電話の声が聞き取りにくい。
「出町柳行キノ普通ニ乗ッテクダサイ」
「あの、美有は」
樹奈は唾を飲み込んだ。喉が渇き、頭がくらくらする。
「美有は、元気ですか」
「元気デス。スナッキーパイヲ食ベテイマス」
スナッキーパイは、砂糖がまぶしてある細長いパイだ。美有はよく欲しがった。買ってやると、すぐに箱を開けて食べるのだが、あたりにパイの欠片《かけら》と砂糖が散らばって、後始末が大変だった。樹奈はよく、叱ったものだ。
「ちゃんと、元気にしているんですね、美有は」
「元気デス」
「声を、声を聞かせてください。お願いします」
傍に座っていたカップルが、不思議なものでも見るような顔で樹奈を見ている。
「会イタカッタラ、言ウ通リニシテクダサイ」
「します。言う通りにしますから、美有を電話にだしてください」
「出町柳行キノ普通デス。四条デ降リテクダサイ。ソシテ」
そして、阪急電車に乗れ。電話の声はそう言った。
どこまでいけばいい。どこまでいけば、美有に会える。
ああ、美有。
受話器を握りしめたまま、樹奈はしゃがみこんだ。
10
樹奈が帰宅したのは、深夜だった。
顔全体がむくみ、目の下が茶色く腫れ、唇は震えて止まらなかった。目は血走り、くすんだ肌には濃い疲労の色が滲んでいる。
「お帰りなさい。お疲れになったでしょう」
玄関先で倒れこんだ樹奈の肩を支えながら万友美は言った。無言で、賢一がそれを見ていた。賢一もまた、疲れきった顔をしている。下瞼は病人のように腫れ、頬はげっそりとして青白い翳《かげ》が浮きでていた。
他の捜査員は、音や声が漏れるのを用心して、リビングからは出てこない。犯人からの連絡に備えて、録音機と逆探知機の前で待機している。
いうまでもなく、今日一日の樹奈の行動について、万友美は指揮本部から逐一、連絡を受けていた。賢一にもその都度、話している。
結論からいえば、犯人は姿をあらわさなかった。樹奈も捜査員も一日中振り回されただけで、身代金の授受は行われなかったのである。当然ながら犯人の検挙も人質の保護もなく、何の進展もなかったのだった。
十四時三十五分に京阪電車の四条駅に着いた樹奈は、徒歩で阪急電車河原町駅に向かい、そこから十四時五十八分発の梅田行きの特急に乗った。十五時四十二分、終点の梅田駅到着後、阪急17番街方面に向かうが、その途中にある喫茶店「キティ」に入る。
喫茶店にはまた、犯人らしい人物より電話連絡が入った。電話でやり取りをした後、店を出て、十六時二十分の阪急神戸線特急に乗る。十六時四十七分、三宮で降車し、高架下のラーメン屋「熊八」に入った。そこにまた、犯人らしき人物から電話が入り、店を出ていく。店を出た樹奈はJR三ノ宮駅に向かった。三ノ宮駅からJR東海道本線に乗り、大阪駅で降車し、大阪駅構内のコーヒーショップ「ケイン」に入る。やはり、店内の電話に連絡が入り、彼女は大阪駅から阪急梅田駅まで歩いたという。
梅田駅から阪急電車神戸線に乗り、再度、三宮駅で降車する。三宮に着いた時には二十時をとうに過ぎていた。駅近くの蕎麦屋「光琳」に入るが、また電話が入る。樹奈は阪急電車を神戸線から京都線に乗り継いで、河原町駅にもどってきた。
阪急河原町駅から京阪電車四条駅まで歩き、彼女はそこから淀屋橋行きの普通に乗った。捜査員達は、また大阪にまでいくのかと思ったのだが、樹奈は藤森駅で降車した。そして、駅から徒歩で自宅に帰ってきたのだった。自宅到着は二十二時十一分である。
つまり、樹奈は、京都、大阪、神戸を、一日かけて身代金を持ってぐるぐると回らされただけだったのだ。電車に乗り、遠方に着くと飲食店に入る。入ると店に電話がかかる。電話で次の行き先を指示され、またどこかへ向かう。これの繰り返しだった。
徒労は樹奈だけではない。膨大な数の捜査員達が、広域にわたって振り回された。犯人はたぶん、捜査員の存在に気づき、樹奈との接触の機会を逸し、諦めたのだろう。
樹奈は疲れきった顔をして、手に持っていたヒマワリのイラストの紙袋を置いた。
「どうやった」
賢一が、力なく言った。
どうだったと訊いたところで、樹奈が紙袋を持って帰ってきたのだから、答えはわかりきったことだった。
美有は、とつぶやくように言った後、突然、賢一は怒鳴りつけた。
「美有はどうなったんや」
樹奈は目を瞑り、肩で息をしている。
「桑島さん」
万友美は立ち上がった。
「本日の経緯については、先ほどご報告した通りです」
床に手をついている樹奈の背中に手をあてた。
「奥さん、ともかくこちらへ」
万友美は樹奈の肩を抱き、リビングのソファに座らせた。
「今日はお疲れになったでしょう。熱いお茶でも淹れましょうか」
賢一は青白い頬をひきつらせたまま、樹奈の横に座った。
「桑島さんも、お茶、いかがです」
万友美は賢一の方を見た。賢一は両手を顔にあて、小さく首を振った。
樹奈も賢一も憔悴《しようすい》しきっている。しかし、勝負はこれからだ。犯人がそう易々と二千万円を諦めるわけがない。必ず、次の手を打ってくる。二人には心の準備をさせておかなければならない。
「犯人はまた、必ず連絡してきます。どういう手段で連絡してくるかはわかりませんが、いつでも応じられるようにしていなければなりません」
もしかしたら、今この瞬間にも、犯人からの連絡があるかも知れないのだ。その時に感情的になって怒鳴ったり、喚いたりして、犯人を刺激するようなことを口走ったりされたら元も子もない。
万友美は静かに言った。
「もう少し、頑張ってください」
疲れているのは、桑島夫婦だけではない。犯人もまた、身代金を受け取れなかったことに対して、疲労感や焦りを感じているに違いないのだ。
「本当にお疲れのところ、申し訳ありませんが、犯人からの連絡をここでお待ちいただきます」
樹奈は顔を上げた。血走った目で万友美を見つめている。
「いいえ」
言いながら、首を振った。
「もう、犯人は、連絡してきません」
「何をおっしゃるんですか。一日くらいで身代金を諦めるなんてことはありえませんよ。必ず、犯人は連絡してきます」
「いいえ」
樹奈は、ヒマワリのイラストの紙袋に目をやった。
「身代金はもう、犯人に渡しました」
首を傾げ、万友美は樹奈を見た。ぎょっとしたような顔をして、捜査員達がこちらを見ている。
「落ち着いてください、奥さん」
万友美は樹奈の肩に手を置いた。
「だから、もう、身代金は犯人に渡しましたって、言っているでしょう」
万友美の手を払いのけるようにして、樹奈は言った。捜査員が逆探知機の前から立ち上がり、こちらにやってくる。全員の視線がヒマワリのイラストの紙袋に集まっていた。樹奈は何も言わずに紙袋を差しだした。
手袋を嵌《は》め、捜査員は紙袋に手を入れた。賢一が顔をこわばらせて見ている。万友美も黙って捜査員の手元を凝視した。
彼は紙袋の中から、何かを取り出した。それは、松島屋デパートの包装紙に包まれていた。昨日、用意した札束は、透明のビニール袋に詰められていた。もちろん、こんな包みは紙袋に入れていない。
捜査員は包装紙を丁寧にはがした。ふわふわとした淡いピンク色の塊《かたまり》が落ちた。見ると、子供用の手袋だった。
「美有」
瞬間、樹奈がそれを掴んだ。
「この手袋は、美有のスカートのポケットに入れていたものです」
狂ったように、樹奈は泣き伏した。
11
シャングリラホテルの一階にあるカフェテリア「エトワール」で、席についた樹奈は入口のあたりを凝視していた。
今朝早く、近所に住む北岡恭子が犯人の伝言をもって自宅にやってきた。その伝言に従い、京都駅近くの喫茶店「アリス」にいった。だが、犯人はあらわれなかった。身代金受け渡しの場所は山科、四条河原町と次々に変更され、今は御池のシャングリラホテルにまで来ている。
今度こそ、犯人があらわれるのだろうか。
膝に置いたヒマワリのイラストの紙袋に両手を載せ、樹奈は眉根を寄せた。
ここからは、ロビーの一部も見えている。様々な人々が、玄関から入ってきては通り過ぎていく。
シルクのワンピースに気の早い毛皮の襟巻きをした若い女。熨斗目《のしめ》模様の着物に派手な金色の帯をしめた中年女。地味な色合ながらもいかにも質のいい生地のシャネルスーツを着た老婦人。たまに通る背広姿の男。
制服を着たホテルの従業員は皆、背が高く、背筋が伸びて姿がいい。彼らは訪れる客の荷物を持ったり、館内を案内したりしている。
一流ホテルのロビーや玄関口というのは往来と同じだ。ひっきりなしにいろんな人が行き過ぎる。違うのは、やたら金のかかった格好をした人間が多いのと、制服姿の従業員が丁重に彼らの世話をすることくらいだろうか。
人々は皆、前だけを見て足早に通り過ぎる。時々、待ち合わせをしていたらしい女達が、互いの姿を見つけて大袈裟な身振りで挨拶をしている。他の客達は、彼女達を少し遠巻きにして歩いていく。
あのなかに、美有を連れ去った人間がいるのだろうか。
樹奈は、目を凝《こ》らす。
さっき入ってきた三十過ぎの男は、奥の喫煙席に座った。時々振り返ってみるが、彼は携帯電話の画面を見つめるばかりで、樹奈の方には目もくれない。
犯人なら、わたしの方を見るのではないか。
そう思って何度も見てみたのだが、彼は携帯電話の画面から目を上げようとはしなかった。
やはり、違うのだろうか。
ふと、鈴の音が聞こえた。制服を着たボーイが、フロントの方から歩いてくる。彼は鈴のついた白いプラカードを持っていた。プラカードには「桑島樹奈様」と書かれている。
「あの」
声をかけると、彼は樹奈の方を向いた。
「桑島です。桑島樹奈ですが」
彼は頷き、プラカードをおろした。
「フロントに、お電話が入っております」
微笑し、彼はロビーの方に手を差し伸べた。樹奈は急いでフロントにいった。係の男に名前を言って、受話器を受け取る。
「もしもし、桑島です」
「桑島樹奈サン」
金属的な声がした。今までの電話と同じで、機械のような変な声だ。
「はい、わたしです」
「モシアナタガ、誰カト連絡ヲ取ッタリ、話ヲシタラ、取引ハ終ワリデス。コチラノ言ウコトヲ聞ケバ、子供ハ無事ニ返シマス」
「はい、聞きます」
樹奈は受話器を持ったまま、周囲を見回した。このロビーのどこかから、犯人は携帯でも使って話しているのだろうか。顔を上げると、吹き抜けが見えた。五階か六階あたりまでぶち抜きになっている。広くて大きいので、各階の廊下がまるでバルコニーのようだ。
「アナタガ言ウ通リニシナケレバ、子供ハ死ニマス」
「必ず、必ず、おっしゃる通りにしますので」
吹き抜けに面した各階の廊下を、樹奈は目で追った。どこにいるのだろう。
「桑島サン」
「はい」
「キョロキョロシナイヨウニ」
「あ、はい」
犯人は、樹奈の姿をどこかから見ている。
「前ダケヲ見テ。モウ一度言イマス。アナタガ誰カト連絡ヲ取ッタリ、話ヲシタラ、取引ハ終ワリデス。何ラカノ合図ヲシテモ、子供ノ生命ハアリマセン」
樹奈が周囲の警察官とコンタクトを取るような素振りを見せたら即座に取引は中止され、美有も殺される。犯人はそう言っているのだ。
「約束デキマスカ」
「約束します」
「デハ、今カラ、言ウ通リニシテクダサイ」
樹奈は受話器を握りしめた。緊張のために唇が震える。
「フロントカラ奥ヘ続ク廊下ヲイクト、電話コーナーガアリマス」
たしかに、高級ブティックのアーケード街に続く廊下の隅には電話コーナーがあった。
「一番奥ノ電話ボックスニ入ッテクダサイ」
「はい」
「ソコニアル電話帳ノ一ページ目ニ、番号札ガアリマス。表紙ノ裏側デス。番号札ヲ取ッテクダサイ。タダシ、シャガンダリ、カガンダリ、姿勢ヲ変エナイデ、普通ニ立ッタママ取ルコト。キョロキョロシナイデ。番号札ヲ持ッテ、二階ノカフェテリア『オルゴール』ニ急イデ来テクダサイ」
「わかりました」
「誰カト話シタリ、連絡ヲ取ッタラ、子供ハ死ニマス」
電話は切れた。
電話コーナーには誰もいなかった。
今時、公衆電話を利用する者は少ない。携帯電話を廊下の隅や化粧室などで使っているのがほとんどだ。
擦りガラスで仕切られた一番奥の電話ボックスに、樹奈は入った。電話台の下には棚があり、電話帳が置かれている。前を向いた姿勢を崩さず、棚に手を入れた。電話帳の表紙の下に指を滑りこませる。指の先が、プラスチックの札のようなものに触れた。
これだ。樹奈は札を掴んだ。札を握りしめ、またフロントにもどる。フロントの前から、エスカレーターに乗った。
──アナタガ言ウ通リニシナケレバ、子供ハ死ニマス。
犯人の言葉が、樹奈の頭の中で何度も響く。
二階のカフェテリア「オルゴール」に早くいかなければならない。犯人は、どこかから見ている。
吹き抜けに面したバルコニーのような廊下を歩く人々の姿が目の端に映るが、敢えてそちらの方は向かなかった。
──キョロキョロシナイヨウニ。
──何ラカノ合図ヲシテモ、子供ノ生命ハアリマセン。
犯人はそう言ったのだ。刑事と合図を送り合っているなどと勘ぐられたら、美有は殺される。
樹奈は目眩がしそうだった。
エスカレーターを降りると、すぐ前に「オルゴール」の看板があった。足早に店内に入り、空いている席に座った途端、レジの横の電話が鳴った。
やはり、犯人はどこかから見ている。すぐ傍にいるのだ。すぐ傍から樹奈の行動を監視し、電話をかけているのだ。
電話を取ったレジ係がウェイトレスに何か言っている。ほどなく、ウェイトレスがテーブルを順にまわり始めた。席は半分近く埋まっている。ほとんどが女性客だ。
「お客様に、桑島様はいらっしゃいますか」
ウェイトレスが隣のテーブルで言っているのが聞こえた。
「わたしです」
樹奈は立ち上がった。
レジ横の電話を取ると、やはり、犯人からだった。
「今カラ、エスカレーターデ五階ヘイッテクダサイ。五階ニ松島屋デパートノ展示会会場ガアリマス。番号札ヲ受付デ見セテ、会場内ノクロークデ忘レ物ヲシタト言ッテクダサイ」
思わず、「五階」とか「松島屋デパート展示会」とか復唱しそうになるが、樹奈は唇を結んだ。電話の内容を周囲に聞かせようとしていると誤解されては大変だ。
「会場ニ入ッタラ、クロークニ紙袋ヲ預ケテクダサイ」
「わかりました」
「紙袋ニ仕掛ケラレタ物ハ、ソノ時スベテ取リ除イテクダサイ」
紙袋に仕掛けられた物。発信機のことか。
「絶対ニ、取リ除クノヲ忘レナイヨウニ」
「はい、必ず」
「預ケタ後、電話ボックスノ番号札ヲ出シテ、荷物ヲ受ケ取ッテスグニ会場ヲ出テクダサイ」
「はい」
「仕掛ケラレタモノハ、ソノ荷物ノナカニ入レルコト」
身代金入りの紙袋を預ける。その際に発信機を出しておく。そして、この番号札で別の荷物を受け取る。そこに発信機を入れる。樹奈は心の中で繰り返した。
「会場ニ入ッテカラ出テクルマデ、一分以内デス。ソレヨリ時間ガカカッタラ、子供ハ死ニマス」
「やります。やりますから、美有は無事に返してください。お願いします」
「一分以内デス」
「はい、絶対に」
大丈夫だ。簡単なことなのだから。どんなことがあっても、一分以内にすませてみせる。
「アナタガ誰カト話シタリ、合図ヲシタラ取引ハ終ワリマス。ヒトツデモミスヲシタラ、子供ノ生命ハアリマセン」
「はい、よくわかっています」
電話は切れた。
樹奈は弾かれたように店を出た。
吹き抜けに設置されたエスカレーターを、五階まで乗り継いでいく。空中に架けられたエスカレーターからは、一階のロビーや、各階のバルコニーのような廊下がよく見渡せた。ということはつまり、樹奈の姿もまた、それらからよく見えているということだ。樹奈は身震いし、前だけを見た。
五階で降りると、廊下の先に大きな白い看板が出ていた。「松島屋・特別宝飾展示承り会」と書かれている。ここに間違いない。
入口の周囲には中高年の女が大勢いた。背広を着た男達が、平身低頭で彼女達に何か言っている。名札をしているから、きっと松島屋の社員なのだろう。
両開きの扉は閉まっていた。傍に受付があり、松島屋の制服を着た若い女が二人座っている。
「あの、クロークに忘れ物をしました」
番号札を見せ、樹奈は言った。
「どうぞ、お入りください」
受付の女はにこやかに言った。黒服を着た男が扉を開けてくれる。
会場には女性客が大勢いた。ピアノ曲が流れ、向こう側にはカフェテリアのようなものもある。
クロークはどこだ。黒服の男に訊こうとして、樹奈はやめた。自分から不必要に人に話しかけてはならない。刑事とやり取りをしていると思われる。扉の際に、また受付のようなものがあった。ここにはホテルの制服を着た若い女が立っている。
「クロークは、こちらですか」
「そうでございます」
急拵えの受付らしく、ホテルのクロークにしては窓口が小さい。
「これを、お願いします」
ヒマワリのイラストの紙袋を、樹奈は台の上に載せた。
「貴重品や、壊れるような物など、ございませんか」
言われて樹奈は思い出した。発信機を出しておけと指示されたではないか。
「あの、ちょっと待ってください」
紙袋に手を入れ、底にあった発信機を取り出した。
「お荷物は、一点でよろしかったでしょうか」
「はい」
「では、これをお持ちになってくださいませ」
女は番号札を差し出した。慣れた様子で、彼女は紙袋の持ち手に、札のついた紐を通している。樹奈は番号札をブレザーのポケットに入れた後、それまで握りしめていた番号札を台に置いた。
「これを、お願いします」
紐を通した紙袋を持ったまま、彼女は顔を上げた。
「少々お待ちくださいませ」
番号札と紙袋を持って、黒いカーテンの奥へ彼女は消えた。が、カーテンはすぐに開き、彼女はあらわれた。
「こちらでございますね」
あ、と樹奈は息を漏らした。受付の女が台に載せたのは、サンフラワー教室の紙袋、つまり、今しがたまで樹奈が持っていたヒマワリのイラストの紙袋と、まったく同じものだった。
樹奈は紙袋を手に持った。会場の出入口にもどろうとした時、背後で電話の鳴る音が聞こえた。樹奈は思わず振り返った。クロークの女が電話にでている。「少々お待ちくださいませ」と受話器に手をあて、彼女は樹奈を見た。
「桑島様でいらっしゃいますか」
「はい」
「お電話でございます」
女は受話器を差し出した。受話器を受け取り、樹奈は「もしもし、桑島です」と早口に言った。一分以上かかったと、文句を言われるのだろうか。
「今カラスグニ京阪電車ノ三条駅ヘイッテクダサイ。淀屋橋行キノ急行ニ乗ッテ淀屋橋駅デ降リ、中央改札ヲ出テクダサイ。出テスグノトコロニ、ファッションビルガアリマス」
三条駅から急行に乗る。淀屋橋で降りる。中央改札を出る。淀屋橋駅なら何度もいったことがあるし、だいたいわかる。
「ビルノ一階ニ、『花梨』トイウ喫茶店ガアリマス」
カリン。絶対にこの名前を忘れてはいけない。
「『花梨』デ待ッテイテクダサイ」
「わかりました」
樹奈はすぐにホテルを出て、三条駅に向かったのだった。
12
シャングリラホテルの最上階のラウンジは静かだった。奈津子はバラードを弾きながら、顔を上げた。
京都の夜景はたいしたことはないが、それでも大きなガラスの向こうには無数の小さな光が煌《きらめ》いている。夜の十時を過ぎ、客席はほぼ満席に近い。消費は落ちこみ、観光客は減ったというけれど、昼間の松島屋の展示会といい、このラウンジといい、金のかかる物や店に集まる人間は確実にいるのだ。
バラードのエンディング部分にさしかかり、楽譜を右手でめくった。左手の低音はフェルマータなので、三秒くらいの余裕がある。
入っていたリクエストは「星空のピアニスト」だ。演奏終了の十時半まで、あと六分ある。テーマ部分とサビの部分をそれぞれ反復し、間奏の後、アドリブを入れれば六分もたせられる。それとも、三分で切り、別の曲を三分演奏するか。
「星空のピアニスト」の前奏を弾きながら、素早く時間調整を考えた。空席は少ないし、ラウンジは客達の静かな話し声で充ちている。人のざわめきや気配が希薄な時はなるべく早めに曲を変えて、場の雰囲気が沈まないようにするが、今夜はそんな必要はない。テンポを落とし、この曲だけでラストまでもたせよう。
サビにさしかかり、奈津子はユニゾンを少し大きく響かせた。客席の囁きやグラスを合わせる音がこの時だけわずかに途切れる。アドリブの後、テーマ部分からエンディングに移行し、一つずつの音をゆっくりと押さえた。
腕時計を見ると十時半だ。ちょうどいい。ペダルで最後の音をたっぷりと延ばし、鍵盤から指を上げた。残響が、引き摺られる裳裾《もすそ》のように遠ざかる。完全に音が消え、奈津子はペダルから足を離した。
立ち上がって一礼すると、常連客の間から拍手が起こった。つられて他の客も手を叩く。もう一度一礼し、奈津子は微笑んだ。ほどなくBGMの有線が流され、客達はまた酒を飲み始める。
一段楽譜を手に持ち、ピアノの脇に下がった。グランドピアノの天板も鍵盤の蓋もそのままだ。それらは後でラウンジのスタッフが整えておくことになっている。
奈津子はピアノが置いてある台座の後ろのステップを降りた。ステップは客からは見えない。黒いビロードのカーテンに遮《さえぎ》られているからだ。暗い足元に気をつけながら下まで降りた。ここからは厨房に出られるようになっている。構造上、少し遠回りになるのだが、台座の後ろは「隠し廊下」となっているのだ。
さっきまでピアノを弾いていたピアニストが、疲れた顔をして客席の間を歩いて出ていくのは、いかにも興醒めで無粋な光景だ。ラウンジのピアニストは目立たないように舞台を去らなければならない。
薄暗い廊下を、奈津子はゆっくりと歩いた。ここはスタッフしか通らないから、床も壁も手入れが行き届いているわけではない。剥がれたクロスもそのままだし、汚れや傷もいろんなところにある。
廊下の向こうに二つの人影が見えた。クローク係の前川加奈と、宴会係の藤吉だ。加奈は制服を着ているが、藤吉は黒服である。
加奈はまだ二十歳《はたち》をいくつか過ぎたばかりだ。少し吹き出物が目立つものの、肌には艶と弾力がある。平凡な顔立ちだが睫毛が濃く、唇が少し厚い。
藤吉がこちらを見た。暗がりだが、奈津子だとわかっただろう。彼らは厨房の方へ歩いていった。あの二人のことを、同じクローク係の森尾早紀子が「できている」と言っていた。早紀子は加奈の同僚で、以前は仲がよかった。けれど最近、二人の会話はなんだかよそよそしいように思える。
だがまあ、そんなことはどうでもいい。奈津子は部外者だ。ここでの人間関係など所詮、自分とは無関係であり、かかわることはない。そして、彼らもまたそう思っている。加奈と藤吉にしても、「隠し廊下」で話しているところを奈津子に見られたからといって、さほど気にはしないだろう。
目が慣れてきたので、奈津子はペンキの飛沫《ひまつ》の痕《あと》が残る廊下を足早に歩いた。一流ホテルの宴会場やレストラン、ラウンジは皆美しく、華やかだけれど、一歩裏側にまわると、すべてこんなものだ。客に見せるわけではないのだから、傷も汚れも、手間や時間をかけて落とす必要はない。そんな余裕があるのなら、客が目にする場所や部屋を、少しでも快適に美しく整備するように努めるのが本来というものである。
ラウンジはよほど大きな模様替えか改装をしないかぎり、構造や配置はすべて同じだが、宴会場は違う。催事の内容や規模に合わせて、形や大きさが自在に変えられるのだ。それらは防音機能のある衝立《ついたて》や仕切りで調整され、配置や装置さえもすべて一夜にして変えられてしまう。
だからホテルの宴会場は、据付の舞台を設置していることはめったにない。舞台の場所や高さは、パーティーの内容に即してその都度、調整され、設営されるからだ。
有名芸能人のディナーショーだと、楽屋から即席の舞台への通り道を隠すために衝立で隠し廊下を作ったり、あるいは厨房を出演者用の出入口にしたりといろんな工夫がなされる。
肩に手をやり、奈津子は首をまわした。今日の仕事はラウンジだけではなかった。午前から夕方にかけて、松島屋の展示会でも弾いた。夕食の休憩後、すぐにラウンジに入ったので、かなり疲れている。
慣れているとはいえ、やはり人前で演奏するのは神経を消耗するものだ。ラウンジの客達は演奏に聴き入っているわけではないが、それでも目立つミスがあれば笑いもするし、顔を顰《しか》めたりもする。
プロのピアニストは、たとえミスをしてもそれとわからないように処理をする。つまり、ごまかす。瞬時に適切なフレーズでつなぎ、濁った音や間違った展開を、本来そうであったかのようにアレンジしてしまうのだ。
音は瞬間的に生まれてしまうものである。一度生まれてしまった音を、なかったことにすることはできない。音を消す消しゴムがない以上、生まれでた音の後に何かを加えて、本来の音として生かしてしまう以外、方法がないのである。
しかし、この作業は疲れる。あるいは、この作業をしなくてすむように、神経の糸を張りつめるのは疲れる。
首をまわしながら奈津子は歩き、厨房に出た。
「お疲れっす」
コックやスタッフが、作業をしながら声をかけてくる。
「ありがとうございました」
いつものように厨房からフロアに抜け、エレベーターに乗る。駐車場へは、一階で降りて専用エレベーターに乗り換えなければならない。
奈津子は北大路の賃貸マンションに住んでいる。築二十年の古くて狭いマンションだが、それでもあのあたりの家賃の相場はかなりのものだ。幸い、梓の世話で少しばかり安くしてもらえたので入居することができた。
浩は、寺町御池から少し西に入ったところの雑居ビルにある無認可のベビーホテルに預けている。ベビーホテルは二十四時間営業で、零歳児から就学年齢前の子供が対象だった。
中古とはいえ、車を持つことは贅沢なのだが、去年ラウンジの仕事を始めてまもなくの頃購入した。仕事が終わるのは十時半だ。それから浩をベビーホテルに迎えにいって帰宅するとなると、十一時を過ぎてしまう。夜は市バスの本数も少ないし、あてにはならない。
それに、奈津子が迎えにいく頃、浩は大抵熟睡している。去年の冬、寝入ってしまった浩を抱いてバスを待つということを毎晩続けていたら、浩は一週間後に高熱をだした。ただの風邪だったが、それでも三日間熱は下がらなかった。小さな子供には所詮、無理なのだと思った。
それからは、タクシーで帰るようになった。当然ながら、出費はかさんだ。それでなくても割高なベビーホテル代と交通費に、奈津子の収入の大半は費やされた。見かねた梓が、毎晩タクシーを使うくらいなら中古車を買った方が融通もきくし、安くつくからと格安で譲ってくれた。以来、シャングリラホテルへは車で来ている。
仕事が終わったら、一秒でも早く浩を迎えにいってやりたい。眠っていてくれたら気が楽だが、時々、浩は目を覚まして泣くことがあるらしい。家ではそんなことはないのだが、やはり、他人に囲まれるベビーホテルだと不安になるのだろう。
今朝、浩の体調はよくなかった。少し熱があったのだ。ぐずるわけではないが食欲がなく、顔色も悪かった。おそらく風邪のひき始めだろう。小さな子供にはよくあることだ。こんな時、浩はかかりつけの医師に処方された薬を飲んで寝ていれば、翌日はけろりとしている。
本当は、家でゆっくり休ませてやりたかったのだが、すでに仕事を受けていた。前日頼まれたのだ。その時は浩も元気だった。受けてしまった以上、絶対に穴をあけるわけにはいかない。とりあえず、いつもの処方薬を持参し、ベビーホテルの保育士に食後に必ず飲ませてやってくれと頼んでおいた。ともかく、早く迎えにいってやろう。
エレベーターが一階に着いた。ドアが開いた途端、何だかいつもと雰囲気が違っていることに奈津子は気づいた。
妙に人が多い。いや、多いというほどではないけれど、そこにいる人々が、どこか緊張し、あるいは困惑しているように見えたのだ。
しかも、それらはどう見ても客ではなかった。ホテルのスタッフもなぜか、こんな時間帯なのにフロントにもロビーにも数名ずつ出てきている。彼らが話している相手は、皆、背広を着ているが、表情が険しく、殺気立っていた。
いつもなら、夜の十時半を過ぎたホテルのロビーは静かなものだ。カフェテリアもフロントの前のソファも、くつろぐ人の姿はまばらで、歩いている人も少ない。客を迎えるフロント係やロビーで待機するベルボーイの数も知れている。
フロントの前あたりに、なぜか宴会係の広瀬が立っていた。広瀬は主任だ。四十半ばらしいが、少し肥っているせいでもう少し上に見える。大柄な躯に似合わず、いつも細部までよく気を配る男で、他のスタッフにも受けがいい。
「お疲れさん」
広瀬が奈津子に声をかけた。
「あの、何かあったんですか」
いや、と広瀬は困ったように二重瞼の目をしばたたいた。近頃とみに広くなった額に汗が少し滲んでいる。
「何やようわからへんのやけど、どうも、事件があったらしい」
広瀬はハンカチを黒服のポケットから取り出した。
「え、事件? 何の事件なんですか」
「それが、極秘の捜査とかでねえ、警察もはっきり教えてくれへんのや」
フロントやロビーにいる男達は全員、警察関係者なのだろうか。彼らはスタッフ達に、何やら熱心に話を訊いている。
「ま、早う迎えにいってあげてんか、浩君」
「じゃ、お疲れさまでした」
「はい、お疲れ。明朝の披露宴、よろしゅうに」
奈津子は駐車場専用エレベーターに向かって歩きだした。向こうから背の高い男がこちらに向かって歩いてくる。三十前後のその男は、奈津子の方を無遠慮に見ていた。
「失礼ですが」
前に立ちはだかり、男は言った。
「その紙袋、中身見せてください」
「はあ?」
奈津子は手に提げていたサンフラワー教室の紙袋に目をやった。週に二回、事務のアルバイトをしている幼児教室の紙袋である。分厚い教材やファイルを入れても破れないようにビニールコーティングされている。きちんと閉じられるように、紙袋の口にはプラスチックのボタンが三つもついており、雑にものを入れていても見える心配がない。丈夫で便利なので、楽譜を持ち歩く時によく使っていた。
「何なんですか、突然」
「警察です」
男は背広の胸ポケットから黒い何かを取り出した。
「捜査にご協力ください」
言いながら、奈津子の目の前に差しだした。「京都府警」と金色で文字が刻印されている。
「紙袋の中を、あらためさせていただけませんか」
「なんで、わたしがそんなことされなきゃいけないんですか」
奈津子は気色ばんだ。後ろで「浅野さん」と声がした。振り返ると、広瀬がハンカチで額を拭きながらやってくるところだった。
「ごめん、浅野さん、しょうがないねん。悪いけど、見せてあげて」
広瀬はすまなそうに、頭を下げた。奈津子は抗議の言葉を飲み込んだ。広瀬にそう言われては、これ以上強くでることはできない。
「わかりました。それじゃ、理由をおっしゃってください」
向き直り、奈津子は言った。
「申し訳ありません。事情があって申し上げることはできません」
刑事は無表情のまま言った。
ならば、頼みようというものがあるだろう。
奈津子は疲れが倍加したような気がした。一秒でも早く浩を迎えにいってやりたいところを邪魔されているのだ。しかも、何の理由もなく突然、紙袋の中身を見せろという。
「失礼じゃありませんか、いきなり」
「誠に申し訳ありません。けれど、大事なことなんです」
ね、と言って、広瀬が奈津子の傍に寄った。
「ようわからへんのやけど、どうも盗難事件かなんか、あったらしいんや」
「ホテルでですか」
「まあ、そういうことらしい」
広瀬はハンカチで鼻の頭を押さえた。
本当だろうか。強盗か殺人事件ならともかく、盗難くらいで、ホテル側がこんなに大袈裟にするだろうか。深夜とはいえ、まだ客の出入りする時間帯だ。最上階のラウンジも、地下のバーも営業している。そんな時に、ホテルの顔ともいうべきフロントやロビーで、警察に我が物顔で捜査させたりするだろうか。
通りがかっただけの奈津子に紙袋の中身を見せろと迫ったくらいだから、刑事達はすべての客に同じことを言っているのだろう。ホテル側がこのような無茶を望むはずはない。些細なことで警察に通報など絶対にしないはずだ。
もし、本当に盗難事件だとしたら、よほどのものが盗まれたか、あるいは盗難に遭った人物がVIP級の大物だったかのどちらかに違いない。
京都は、公式非公式を問わず、要人がよく訪れる街である。海外からの賓客《ひんきやく》も多く、芸能人や著名人の来訪もめずらしくない。市内の通りや施設で、異常に警察官の数が多かったり、突然の交通規制がある時は、まずこうしたことが原因だと思って間違いない。
広瀬は「ようわからへんのやけど」と、言葉を濁している。本当に「ようわからへん」のかどうか、奈津子にはわからない。けれど、要人がらみの事件なら、知っていても立場上絶対に口にしないだろう。
「わかりました。どうぞ」
奈津子は紙袋を差しだした。
「恐れ入ります」
受け取り、刑事は紙袋の口に手をやった。三つのボタンはすべてはめられている。それらを一つずつ丁寧にはずし、中をのぞきこんだ。しばらく目を凝らしていたが、紙袋に手を入れ、あらため始めた。出てくるのは、手書きの一段楽譜と、大判の映画音楽曲集である。大判の曲集はラウンジでは使わないが、パーティーやイベントには持参していた。
紙袋の底から、刑事は手袋と使い捨てカイロを取りだした。手袋はコンビニで売っている運転用の安いものである。カイロは貼る方式ではなく、袋状になっているタイプだ。常に五、六個は持って歩いている。
「手袋にカイロ、ですか」
それらを手に取りながら刑事は言った。
「何に使うんですか」
「はあ?」
「手袋とカイロ、何に使われるんです?」
大きく息を吐き、奈津子は刑事の顔を見た。一重瞼の目は切れ長で鼻梁が高く、額も秀でている。軽く撫でつけた前髪は垢抜けているとはいえないが、それでも清々しさを感じさせる清潔感があった。だが、この感じの悪さは何だ。一瞬でも肯定的な印象を持った自分に腹が立った。
「手袋は手にはめます。足には、はめません。カイロは指先を温めるのに使います。食べたりしません」
「ええとですね」
広瀬が刑事の方に向き直った。
「彼女はピアニストなんですよ」
「ピアニスト?」
刑事が奈津子の方を見た。
「ええ。ここのラウンジで弾いています」
奈津子は天井を指差した。
「そうなんです。彼女は最上階のラウンジでピアノを弾いているんです」
広瀬の言葉に刑事は初めて、ああ、と納得したように頷いた。
「演奏前は手指が冷えると困るので、手袋とカイロは必ず用意しているんです」
早口に、奈津子は言った。なるほど、と刑事はつぶやいた。
「あの、彼女は今日の展示会でも弾いてたんですよ」
「展示会」
刑事の表情が硬くなった。
「ええ、松島屋の」
奈津子が言うと、刑事はこわばった顔を近づけた。
「何時から弾いておられたのですか」
「朝十時からですよ。展示会終了の六時まで弾いていました」
「ずっとですか」
「いえ、休憩はありましたが」
刑事はやたらしつこく、休憩時間について訊き返した。
「展示会場でですね、何か変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと?」
「ですから、いつもと違うようなことが起きたとか」
「べつに、何もありませんでしたけど」
「どんな小さなことでもよいのですが」
「ですから、何もありませんと言ってるでしょ」
眉間に皺を寄せ、刑事はまた、紙袋に目をやった。
「もう、いいですか」
声をかけても、刑事はカイロと手袋に見入っている。
「いいですかって、訊いているんです」
「あ、はい、結構です」
刑事は顔を上げた。
「わたし、急いでいるんですけど」
「ご協力、ありがとうございました」
紙袋の中身をもどし、刑事は返してよこした。受け取ると、奈津子は雑に入れられた楽譜の位置と角度を直し、ボタンをはめた。
「浅野さん、ごめんね、ほんまに」
広瀬が声をかけた。奈津子は駐車場専用エレベーターに小走りに向かった。
急がなければならない。
13
やはり、エンジンがかからない。何度やっても、甲高い音が地下駐車場に響くばかりだ。数日前から、一回でかからないことが続いていたのだが、とうとうだめになったのか。
奈津子は大きく息を吐いた。少し間を置いてから、キーをまわす。瞬間、エンジン音が聞こえた。すぐにサイドブレーキを解除し、アクセルを踏む。車は難なく滑りだした。動きだしてしまえば、とくには何の問題もない。いつもそうだ。だから、修理にも出さずそのままにしていたのだった。
出口で守衛にスタッフ印の押してある駐車券を渡し、駐車場を出た。地下駐車場から一階の出入口にかけてはかなり急勾配なのだが、車は調子よく上っている。
小道をまわって二条通から河原町通に出ると、月が見えた。
三日月だ。弓のような形の月は、蒼みがかった透明な光を放っていた。日の光のように派手に照りつけるわけではなく、熱も持たない。月はひそやかに天空に浮かんでいるだけだ。
けれど透き通った光は、闇のなかでもまっすぐに放たれる。星も見えない夜空の彼方で、三日月は瞬きもせず、地上に生きる者達を見つめている。
浩。もう、熱は下がっただろうか。心細さのために、泣いてはいないだろうか。
今日は朝から、携帯電話を何度も確認した。ラウンジの仕事に入る前には、ベビーホテルに電話してみた。担当の保育士は、とくに問題はなく、浩は今眠っていると答えた。何かあったら、携帯電話に伝言かメールを入れてくれるように念を押し、マナーモードにしておいた。連絡がなかったことに安堵しているものの、それでも顔を見るまでは安心できない。
どちらにしろ、ベビーホテルとの契約は十一時までだ。遅れると超過料金をとられるし、保育士達もいい顔はしない。保育士の機嫌を損ねると、そこで毎日世話になっている浩が八つ当たりでもされはしないかと、奈津子は心配になる。
まさに子供は「人質」だ。深夜帯は若い保育士ばかりで、不安を感じている。けれど、曜日や時間帯に関係なく子供を預かってくれる施設はそうあるわけではない。職場との距離やかかる時間を考えると、選択の余地はなかった。
河原町通から御池通を曲がり、西に向かう。ここまで来たら、ベビーホテルはもうすぐだ。奈津子は麩屋町通を右折した。このあたりは京都の古い町家の甍《いらか》が連なっている。道も狭く、通る車もめったにない。
点滅式の信号のある四辻にさしかかった。奈津子は一旦停止の後、アクセルを踏んだ。その瞬間、右側から車が飛び出してくるのが目の端に見えた。急ブレーキを踏んだが間に合わなかった。奈津子の車と、相手のバンパーが接触していた。タクシーだ。
タクシーの運転席の方に目をやった。が、ライトが眩しくてよく見えない。点滅式の信号は、こちらが赤色だった。相手方は黄色だ。まずは、あちらに分がある。しかしタクシーは、奈津子の車の正面部分ではなく、右の側面に接触している。タクシーが鼻面を、奈津子の車に擦《こす》りつけたような格好だ。
奈津子の方が先に交差点に入っていた証左であり、タクシーが、走行している奈津子の車に突っ込んできたのは明らかだ。ならば、奈津子に落ち度があったとはいえない。
どうやらタクシーは客を乗せているようだ。後部座席に人影が見える。運転席のドアが開いた。制服を着た運転手が降りてくる。制帽をかぶっているので顔はよく見えないが、小柄な男だった。
こういう時、職業ドライバーは必ず高飛車にでてくる。自分に非があることを認めると、後に不利になることを知っているからだ。
こちらは女一人だ。運転手は、いつにも増して高飛車にでてくるだろう。この夜更けに歩いている人もない。つまり、証人はいないということだ。
ただ、救いなのは、タクシーに客がいることだった。第三者が見ているのだから、運転手もそう手荒な真似はしないだろう。
エンジンを止め、奈津子はドアを開けた。外に出ると、想像以上に風が冷たい。
ちょっと、と言いながら、運転手が一歩踏みだした。
「信号、赤やで、あんた」
奈津子は驚いた。運転手の声は女のそれだった。
「どこに目つけてるんや」
薄闇のなかで、女の目が奈津子を睨《にら》みつけていた。五十歳くらいだろうか。肩をいからせ、奈津子の方にやってくる。近くで見ると、目の下と口元には皺が刻まれているが、化粧気のない頬はまるみがあった。
「ええか、あんたの方の信号が赤やったんやで」
「でも、わたしの方が先に交差点に進入していました」
「信号が赤やねんから、一旦停止するのが当然やろ」
「わたしは一旦停止しています」
「どこにそんな証拠があるねん」
女の声は太くてよく通った。腹の底に力が入っている。たぶん、こんな場面に慣れているのだろう。奈津子は接触事故など初めてだ。
「ともかく、あんたの不注意が原因やいうことははっきりしてるからな」
「何を言うんですか。あなたが無理に突っ込んでこなかったら、こんなことにはならなかったでしょう」
「信号無視したくせに、ようそんなでかい口がたたけるこっちゃな、あんた」
「わたしは信号無視なんかしていません。あなたの不注意が原因です」
「不注意なんは、あんたや」
堂々巡りが続いた。双方とも譲らないので、いつまでたっても埒《らち》があかない。奈津子は焦った。もうすぐ十一時になる。
「急いでるんです、わたし」
腕時計に目をやり、奈津子は言った。
「ちょっと、あんた、逃げる気か」
「いいえ、後でちゃんとお話の続きをしますから」
「後でって、いつのことや」
「子供を迎えにいってきたら、お話に応じます」
帽子の鍔《つば》に手をやり、女は目をしばたたいた。
「子供って、あんたの?」
「ええ」
「こんな夜中に、子供をどこに迎えにいくんや」
「そこの、ベビーホテルです」
ベビーホテル、と女はつぶやくように言った。
「ちょっと、運転手さん」
客がタクシーの窓を開け、顔を出した。中年の男だった。
「近いさかい、もう、ここでええわ」
あ、いいえ、と女は振り返った。
「ちゃんとお送りいたします。あの、もう少し、待ってください」
「いや、もう、目と鼻の先や。かまへん、ここで降ろしてんか」
女はタクシーの運転席にあわててもどった。しばらくして後部座席のドアが開き、客が降りた。運転手の女も車から降りて、しきりに頭を下げている。客を見送ってから、また奈津子の方へやってきた。
「ほんなら、待ってるさかいに、子供を迎えにいってやり」
言ってから、女は腕を組んだ。
「その前に、免許証見せてもらおか」
「わかりました」
奈津子は車からバッグを取り、免許証を女に確認させた。
「念のために、後ろ、ついていくからな」
女はそう言って、タクシーにもどっていった。奈津子も車に乗り、エンジンキーをまわした。が、エンジンがかからない。何度やっても、エンジンは悲鳴のような音を繰り返すばかりだ。
その時、窓を叩く音がした。女の運転手だった。
「しゃあないな。うちが乗せていったるわ。すぐそこやろ」
14
ピアニストは肩をそびやかして、エレベーターホールに向かっていった。彼女がエレベーターに乗るのを見送り、浦上はフロントの前までもどった。
浅野奈津子というあのピアニストは、シャングリラホテルで一年ほど仕事をしているらしい。念のために捜査員に尾行を頼み、浦上は彼女を帰したのだった。
常識的に考えて、身代金受取に成功した誘拐犯が今頃、犯行現場にのこのこと姿をあらわすはずはなく、しかも身代金の入っていた紙袋をこれ見よがしに持って歩くはずもない。
浦上は頭を掻きながら、ロビーを歩いた。
今日は最低な日だった。捜査陣は犯人に一日振り回され、まんまと身代金を持っていかれてしまった。
神戸から京都にもどった樹奈は、驚いたことにそのまま自宅にもどった。帰宅直後、被害者対策班より対策本部に連絡が入り、その時点になって初めて、身代金が奪取されていたことに捜査陣は気づいた。
樹奈は、シャングリラホテルですでに身代金を犯人側に渡したというのである。つまり、ホテルを出た後の行動は、すべて警察を欺くための陽動だったのだ。
緊急の命を受けた捜査陣がホテルに着いたのは、夜十時半を過ぎていた。当然ながら松島屋の展示会は終了し、会場も閉鎖されていた。が、ホテル側に頼みこんで開場させた。
とはいうものの、人質が保護されていないので事情を明かすわけにはいかない。「ある極秘の犯罪捜査のために」と、協力を仰いだのである。一般客に迷惑がかかる時間帯ではなかったので、ホテル側も応じてくれた。
だが、当然のことながら後始末はすべて終わっており、手がかりになるようなものなど何も残っていなかった。会場内に設営されていたクロークも解体され、跡形もない。残った荷物や忘れ物などについても確認したが、皆無だった。
クローク内に限らず、会場内かその周辺に不審な荷物や紙袋など気づかなかったかと訊いたが、宴会場主任の広瀬は困惑したように、「とくに何もなかったですねえ」と答えた。
「持ち主のわからない荷物とかありましたら、必ず報告がありますから」
ただ、と広瀬は首を傾げるようにした。
「会場内クロークの番号札が、一つ紛失しています」
「番号札が返ってきていないということですか」
「そうです」
「その番号に相当する荷物は?」
「ありません」
「何番の札ですか」
「五十八番です」
浦上達は息を吐いた。
今日一日、樹奈が持ち歩いていた番号札が「五十八番」だったのだ。
「クロークを担当されていたのは、松島屋の社員の方達ですか、それとも、シャングリラホテルの方達でしょうか」
「わたしどもシャングリラホテルの者が担当させていただきました」
「松島屋の方は、クロークにまったく関係ないのですか」
「いえ、まったくということではありません。外商の方々は何度も様子を見にきておられました」
「様子を見に?」
「展示会では、高級陶磁器も扱っておられまして、大きなものは当然、後日のお届けになります。ですが、カップや皿類など小さなものはお客様がその日お持ち帰りになります。一旦、お客様がお買いになられた時に担当の方がお預かりし、クロークに持ってこられるのです。ええ、お買い物がすべてお済みになるまで預かります。もちろん、ホテルにもクロークはございますが、貴重品や割れ物、壊れ物はお預かりしないのが原則です。そうしたこともありまして、会場内に専用クロークを設営したのです」
陶磁器等に関しては、万一のことがあってはいけないので低い場所に棚を設《しつら》えたのだと広瀬は説明した。
「松島屋さんの方々は、陶磁器がうっかり、高い棚に入れられていないか心配だったんでしょうね」
「つまり、クローク係以外も、人が出入りしていたのですね」
「通常ですと、そんなことはまずありえないのですが」
額にハンカチをあてた手を替えて、広瀬は言った。
「あのような展示会の場合、外商のお客様が大勢いらっしゃいます。担当の方がそれぞれ接客なさいますので、細かいところまで気を遣われるんですよ」
展示会には、かなりの上客が出入りしていたらしい。それだけに、外商の社員やなじみの店員も粗相《そそう》のないように相当の気配りをしていたのだろう。そんな彼らを前にすれば、客も余分の買い物をしてしまうだろうし、松島屋もそのあたりを狙って、クロークや喫茶コーナーをすべて会場内に設営したのだ。
「何度も恐縮ですが、今日の展示会で何か変わったことというか、気がつかれたことなど、ありませんでしたかねえ」
浦上の問いに、さあ、と広瀬はまた首を傾げた。
「とくには、何もなかったように思いますが」
「たとえば、クローク内に不審者が入っていったとか」
「そんなことはありえませんよ。それでなくても、会場内のクロークですからね、部外者が入りこむなんて考えられません。お客様はすべて、招待状をお持ちの方ばかりですし」
しかし現実に、クロークに預けられた身代金は消えている。展示会のスタッフのなかに犯人がいたか、あるいは犯人を手引きした者がいた可能性が高い。
「ホテル内のゴミ箱のゴミ処理ですが、どうなっていますか」
「ゴミ?」
「トイレの中や、ロビーのゴミ箱とか」
「客室は原則朝一度だけですが、トイレやパブリックスペースのゴミ箱は一日何度か係の者が収集して、地下の集積場に集めます」
「今日のゴミはまだ、集積場にありますか」
「ええ、あると思います。業者が収集にくるのは深夜十二時過ぎですから」
「申し訳ありませんが、本日収集された全館のゴミ、見せていただけませんか」
「は、ゴミを、ですか?」
広瀬はハンカチを持った手をおろし、浦上を見上げた。
15
女の運転手は、中林早苗と名乗った。
「何時に迎えにいくことになってんの」
「十一時です」
早苗は時計に目をやった。十時五十七分だ。
「迎えが遅うなると、文句言われるんやろ」
助手席で奈津子は頷いた。
「心配せんでもええ。間に合うから」
言いながら、早苗はギアチェンジをした。
「うちはプロやで。任しとき」
路地裏だというのに、早苗はスピードを落とさなかった。だが、決して乱暴な運転ではない。民家の軒下に群れるように並べてある植木鉢に擦ることもなく、巧みにかわしていく。
ギアの先端に、オレンジ色のレースで編んだカバーがかぶせてあった。早苗は手袋をした手でそれを握り、素早くチェンジしてハンドルを捌《さば》いた。
「あの、あそこです」
雑居ビルの手前にさしかかり、奈津子は指差した。「キンダーランドきょうと」と書かれた緑色のネオンが見えている。
「よっしゃ、まだ五十八分や」
タクシーはビルの前に停車した。
礼を言い、奈津子は車を降りてビルの階段を駆け上った。ベビーホテルは二階にある。ドアの擦りガラスの部分には、キリンやライオンのシールが貼られており、中は見えない。
「ありがとうございました」
ドアを開けると、いきなりベビーベッドやサークルが並べてある二十畳ほどの部屋があらわれる。上がり口には扉のない靴箱の棚があり、子供用の靴が何足か入っていた。
「あ、ご苦労さまでえす」
小太りの女がやってきた。肥っているから中年に見えるが、ぽっちゃりとした頬には弾力があり、声の高さからいってもまだ二十代半ばだろう。
最近、このベビーホテルに入ったらしく、今まで二度ほど顔を見たことがある。エプロンの胸のところに、チューリップの形に切り抜いたピンク色の紙がついていた。マジックで「えざききょうこ」と書いてある。
「きょうこ先生、ありがとうございました」
他の母親達がそうするように、奈津子も下の名前に「先生」をつけて彼女を呼んだ。
本当のことを言うと、彼女が本物の保育士なのかどうか、奈津子にはわからない。チラシ広告には、有資格者のみで子供の保育にあたると書いてあったけれど、こちらには確かめようがないことだ。
「はい、お仕事お疲れさまでした」
エプロンの大きなポケットに黄色い箱をねじこみながら、きょうこ先生は言った。甘い菓子の香りがしている。ねじこまれても、箱にプリントされた派手な色遣いのロゴが見えていた。唇の端についた菓子の粉を指でなぞり、きょうこ先生は笑ってみせた。
サークルの中に一歳過ぎくらいの子供が二人入れられている。深夜だというのに、彼らは眠っていない。ここに預けられた子はそういう子が多い。本来なら、自宅で寝かしつけられている時間帯なのに、こんなところにいるわけだから、神経も昂《たか》ぶるし、また、子供なりに緊張もしているのだろう。小さなぬいぐるみと、ピンク色のトンカチの形をした玩具《おもちや》を持って、遊んでいた。
ベビーベッドでは一人の赤ん坊が眠っている。フロアでは、四、五歳の子供が三人遊んでいた。しかし、そのなかに浩はいない。
「あの、浩は」
「ええと。あ、病気の子供さんね」
手についた粉をぱん、とはらいながら、きょうこ先生は振り返った。
「寝てますよ」
「寝てる?」
ベビーベッドにもサークルにも、浩の姿はない。
「どこで寝てるんでしょうか」
「こっち、こっち」
きょうこ先生は手招きした。奈津子は靴を脱いでフロアに上がった。
「ほら」
ベビーベッドの向こう側に立ち、きょうこ先生は床を指差した。浩は床に寝かせられていた。ベビーベッドの下には紙おむつやタオル、ティッシュペーパーなどが置かれているので、床に直接横たわっている浩が見えなかったのだ。
奈津子は浩に駆け寄った。浩は毛布をかけられているだけだった。ふとんも敷いてもらわず、薄いカーペットの上に直接寝かされている。これでは背中も痛いし、第一、躯が冷えてしまう。
「浩」
跪《ひざまず》いて声をかけると、小さく首を振った。頬が赤く上気している。
「お母さんよ、浩」
浩は何かを言いかけたが、乾いた唇が少し動いただけだった。額に手をあてると、おそろしく熱い。
「浩?」
奈津子は浩の頬を撫でた。たしかに朝、浩は元気がなかった。しかし、これほどではなかった。
「ねえ、浩、どうしたの」
肩に手をかけて揺すっても、何も応えない。奈津子は毛布を払いのけて浩を抱き上げた。
「お薬は、飲ませていただいたのでしょうか」
「薬?」
エプロンのポケットに両手をつっこみ、きょうこ先生は首を傾げた。
「今朝、こちらに預けた際、食後に必ず飲ませていただくようにお願いしたのですが」
あら、ときょうこ先生は眉を上げた。
「聞いてませんけど」
「聞いてないって、あなた」
奈津子はきょうこ先生の方に向き直った。きょうこ先生はポケットに両手をつっこんだまま、こちらを見下ろしている。
「今朝、みちこ先生にお願いしました」
「みちこ先生? ああ、みちこ先生ね」
頷いて笑った。
「でも、あたしは直接聞いてないし」
頭の芯がかっと熱くなるのを奈津子は感じた。
「申し送り事項とか、普通、確認するものでしょ」
でもう、ときょうこ先生はポケットから手を出して、肩をすくめた。
「あたしは夜八時からやし、みちこ先生とは会ってないし」
「保育日誌に書いてくださっていると思いますが」
奈津子の腕のなかで、浩の首が動いた。見ると、だらりと力なく傾いたままで、向き直りもしない。
「読んでくださっていないんですか」
「忙しいですからね、こっちも」
両手をこすり合わせるようにして、きょうこ先生は唇を尖らせた。
奈津子は立ち上がろうとした。が、ぐったりと寝込んでしまった浩を抱いているので、片手を床についた。その時、サークルの傍に読みかけのレディースコミックが伏せてあるのが目に入った。その横には、ストローを刺した飲みかけの紙パックのジュースが置いてある。よく見ると、ベビーベッドの後ろのあたりには菓子の粉が飛び散り、甘い匂いが漂っていた。
奈津子の視線に気づいたのか、きょうこ先生は悪戯《いたずら》が見つかった子供のように、くすっと笑った。
「夜中、お腹減るんですよ」
浩を抱えて奈津子は立ち上がった。眠ってしまった子供はことのほか重い。奈津子の躯は浩の重みで大きく傾いた。それでも浩の目は閉じられたままだ。乾いた唇を半開きにして眠り続けている。
こんなになるまで、放っておくなんて。
悔しさで、奈津子は涙が出そうになる。
「うちの子は、朝から具合が悪かったんです。事情はちゃんとお話ししてあります」
「そやけど、そんなん、こっちは聞いてへんわけやから」
きょうこ先生はまた、両手をエプロンのポケットにつっこんだ。
「どうして、こんな大事なことを伝えてくださらないのですか」
「そんなこと、あたしに文句言われても困ります」
「子供が具合悪いって言ってるのに、どうしてそんないい加減な対応をされるんですか」
「そんなに具合悪いんやったら、ベビーホテルになんか預けんときゃええやないの」
ぷうっと頬を膨らませ、きょうこ先生はふて腐れたように言った。
どうしても、と言ってから、奈津子は大きく息を吸った。声が震えているのが自分でもわかる。
「どうしても、預かってもらわなくてはならない事情があるから、お願いしているのではありませんか」
「文句あるんなら、病気の子をつれてこんときゃええやないの。こっちかて、そんなん言われるのん迷惑やわ」
あのね、と言って、きょうこ先生はポケットに入れた手をもぞもぞと動かした。箱の中の菓子がからからと乾いた音をたてる。
「もともと、病気ってわかってて預けたのはそっちでしょ。どうして、こっちが文句言われなあかんのかしら」
「熱をだしている子供に、持たせた薬を飲ませるくらいのこと、何でもないことじゃないですか」
「せやからあ、そんなに大事な子供なら、こんなとこに預けんといたらええやないの」
その時、「あんた」と声がした。振り返ると、早苗が上がり口に立っていた。早苗は靴を脱ぎ、つかつかときょうこ先生の方に歩いていった。
「こんなとこに子供預けんとけて、あんた言うけれども、こんなとこに子供預けてでも働かんならん母親の気持ち、ちょっとは考える気にならんか」
さっき、路上で聞いた以上に腹の据わった声だった。
「それもわからんと、あんた、こんなとこで働いてるんか」
早苗の気迫に、きょうこ先生はあとずさった。
「あんたはアホや」
言い捨てて、早苗は「いこ」と奈津子の方を見た。
16
浩を抱いた奈津子は、タクシーの後部座席に座った。
「医者に診せた方がええ」
運転席でシートベルトを装着しながら、早苗が言った。
「救急病院ですか」
いや、と首を振った。
「知り合いの先生や。ちょっと待っとき」
早苗は制服のポケットから携帯電話を取り出した。もう、十一時をとうに過ぎている。こんな時間に診てくれる医者などいるはずがない。
「あ、先生?」
携帯を耳にあてた早苗が顔を上げた。
「いや、お母ちゃんのことと違うねん。ピンピンしてるわ」
笑いながら、携帯を持ち直した。
「そうやのうて、子供やねん。熱があって。うん、ぐったりしてる」
浩の症状を手短に話すと、「おおきに」と言って電話を切った。
「今から診てくれはるて」
携帯電話をポケットにしまい、早苗は言った。
「ありがとうございます」
「ぼん、もうちょっとの辛抱や」
浩に声をかけると、早苗はアクセルを踏んだ。路地を抜け、車は御池通に出る。御池通は車も少なく、歩いている人もほとんどいない。時々、灯りが見えるのはオフィスビルで、それらに囲まれるようにして建つ老舗の商家は門を閉ざしている。
車体の揺れを感じたのか、浩が薄く目を開けた。が、また閉じてしまい、寝息をたてた。
「あんた、夜の仕事、してはるんか」
「はい。ホテルのラウンジでピアノを弾いています」
「そう、ピアノ弾いてんの」
早苗は頷いた。
「ホステスさんともまた、違うなあと思うてたんや。ま、ホステスさんが十一時に帰れるわけないけどな」
言いながら、ハンドルをきった。車は堀川通を右折する。左手に、ライトアップされた二条城が見えてきた。
「ご主人さんは?」
「いません」
「え?」
「バツイチです」
「ああ、そう」
早苗は笑った。
「旦那がいたら、こんな時間に女一人で子供抱えて往生してへんわなあ」
離婚したのは二年近く前だ。夫の貴明は大阪の食品関係の会社員をしていた。結婚してまもなく、印刷関係の会社を定年退職したばかりの舅が亡くなった。その後、浩が生まれて、尼崎に住む姑《しゆうとめ》が同居したいと言いだした。今住んでいる家を売って、大阪郊外に家を建てようというのである。
貴明には五歳違いの兄がいた。銀行勤めで頻繁に転勤があり、現在は福岡に住んでいる。結婚して十年以上になるが、子供はいない。将来は夫婦二人でオーストラリアに永住すると公言しており、双方の親兄弟とは距離を置いているところがあった。
子供がいない夫婦は家族としての単位より、夫婦としての単位で生きていく。姑自身も、孫のいない家では同居の意味や価値がないから、普段から疎遠な長男夫婦より次男夫婦を選んだのだ。
だが、同居する前に、問題が持ち上がった。姑が、胡散《うさん》臭い訪問販売にひっかかったのである。買わされただけなら、まだよかったのだが、姑は売る側に積極的にまわったのだ。
台所用品や日用品を売るその組織は、要するに形を変えたネズミ講だった。貴明のかつての同級生の母親から勧誘されて会員になった姑は、嬉々として「活動」を始めたが、世間の主婦は、少なくとも姑より頭は悪くなかった。
姑は、品物を売り捌くことができなかったのだ。そうなると、本部から焚きつけられたりどやされたりするらしく、必死になって鍋や洗剤や食品保存容器を買ってくれと、知り合いや友人、親戚の家に押しかけていくようになった。
奈津子も、何十万円もする圧力鍋や食品保存容器を買わされた。この手の組織は、買った人間には「会員になれ」と勧める。ネズミ講なのだから、自分の下部組織を作らないと、儲けにはつながらないからだ。姑は当然のように、奈津子を会員名簿に組み入れた。もちろん、奈津子の承諾などなしにである。
後にそのことを知った奈津子は貴明に抗議したのだが、貴明は取り合わなかった。「たいしたことではない」と言って、自身がかかわることを避けたのである。
奈津子のもとには、姑とその仲間が連日押しかけてくるようになった。「いかにして、品物を売るか」「どうやったら会員を増やすことができるか」という「研修会」を開くのである。当時は社宅に住んでいたのだが、姑達は同棟の各戸に出向き「商品のおすすめ」をやるので、これにはさすがに奈津子もやめてくれと言った。だが、姑は引きはしなかった。自分達の活動の足を引っ張るあんたの態度こそ問題だと怒鳴り散らした。
それでも貴明は取り合わなかった。姑は当然のように翌日も社宅に仲間とともにやってきた。たまりかねて「こういうことは今後一切やめてほしい」と言ったら、姑はさらに烈火の如く怒った。姑の仲間も奈津子を取り囲んで詰《なじ》った。
狂信的で偏執的な集団は、常人の想像をはるかに超えたパワーと結束力を持っている。ものの道理も法律も超越したところで彼らは生きているのだ。生半可な覚悟で彼らに立ち向かうなど所詮、無理というものだった。
今、離婚の原因がすべて姑にあるとは思わない。夫がもう少し、自分の母親のやっていることについて真剣に考え、たとえ失敗しても説得や仲介のために奔走したなら、結果は違っていただろう。奈津子が本当に辟易《へきえき》したのは姑ではなく、徹底的に逃げの姿勢を貫いた貴明だった。
何か面倒なことがあると貴明はいつも逃げてしまう。残された奈津子は姑と正面から向き合うしかない。姑は本部の人間を連れてきて、奈津子を説得しようと必死だった。姑に悪意はない。それだけに、厄介だった。
やがて、姑にかなりの借金があることが判明した。仕入れのために金を借りていたらしい。しかし、ここにきても、貴明はまだ自身が問題にかかわろうとはしなかった。
夫婦関係は、その頃すでに壊れていた。同じ屋根の下に住んでいながら口をきくことも、食事をともにすることもなかった。食事の用意はしておくが、一緒に食卓を囲むことをしなくなってしまったのだった。すべてにおいて、奈津子は貴明を信じられなくなっていた。
結局、借金返済のために姑が家を売り、社宅に転がりこんで来た時、奈津子は浩を連れて家を出た。
奈津子は、腕のなかの浩に目をやった。浩はやはり、眠っている。首のあたりは熱をもっており、寝汗をかいていた。
ごめんね。
浩の頬を撫でながら、奈津子は小さくつぶやいた。額にかかった前髪が、汗のせいで湿っている。乾いた唇は、白くて色がない。
車は堀川通から丸太町通を左折した。西大路を過ぎたあたりで、小さな路地に入った。狭い道に、民家がひしめき合うようにして建っている。
道の向こうに灯りが見えた。看板がでているが、文字がよく見えない。車は看板の前で止まった。「滝沢医院」と書いてある。
「さ、着いたで」
後部座席のドアを開け、早苗は運転席を降りていった。チャイムを鳴らし、声をかけている。奈津子が浩を抱えて降りると、早苗は手招きした。
民家を改造したような古い小さな医院だった。引き戸は木製で、水色のペンキがところどころ剥げている。早苗に促され、奈津子は中に入った。上がり口はタイル張りで、ずいぶん時代がかっていた。
受付の小窓には、クリーム色のカーテンが下りている。後ろ手に戸を閉めると、嵌められたガラスがかたかたと音をたてた。
「こっち、こっち」
「診察室」と札のかかったドアを、早苗が開けた。
「先生、えらいすんませんなあ」
おう、と声がして、小柄な男が出てきた。真っ白な髪は寝癖がついて、ぼさぼさだ。七十前くらいだろうか。鼻の下に灰色の髭《ひげ》をはやし、鼈甲《べつこう》の眼鏡をかけている。窪んだ目をしばたたき、男ははああ、と気の抜けたような声をだした。
「こんな時間に電話してくるさかい、てっきり、あんたとこのお母ちゃん、倒れたんか思うたがな」
言いながら、男は白衣に腕を通した。
「せやから、違いますねんて」
「あんたとこのお母ちゃん、達者かいな」
「達者ですわいな。あと百年は生きそうですがな」
「百年は無理やが、五十年は持ちそうやな」
「あほなこと、言わんといとうくりゃす」
ええと、と男は白衣をはおり、奈津子の方を見た。
「正晴君の嫁さんかいな」
「そんなわけないでしょ、正晴はまだ、二十歳でっせ」
「そうか、正晴君の嫁さんにしてはトウがたってると思うたわ」
がはは、と男は笑った。咳払いをして、早苗が言った。
「こちら、滝沢先生」
浩を抱いたまま、奈津子はお辞儀をした。
「こんな夜分に、申し訳ありません」
「名前なんやったかいな」
早苗が囁いた。
「浅野です。浅野奈津子と申します」
「あ、浅野さん、ね」
頷き、早苗は滝沢に「浅野さんです」と言った。滝沢は奈津子の腕のなかの浩に目をやり、診察用のベッドに寝かせるように言った。眼鏡の奥の目が一転して険しくなっている。
「熱をだしまして」
「いつからですか」
眉根を寄せ、滝沢は浩の首に両手をあてた。
「朝、元気がなかったんですが、この程度のことはよくあるものですから。薬を飲ませておけばいいかと思いまして」
浩のトレーナーと下着を首までたくしあげて、奈津子は言った。
「熱が上がったのは何時頃ですか」
それが、と奈津子は手を止めた。
「わたし、仕事に出ておりまして。この子はベビーホテルにお願いしていたので、何時頃から熱が上がったのかわかりません。すみません」
滝沢は聴診器を浩の胸にあてた。その冷たさのせいか、浩は目を開けた。見知らぬ場所と医師の顔に、怯《おび》えたような表情をしている。
「どや、ぼん。ここ、痛いか」
鳩尾《みぞおち》から下腹部のあたりを触診しながら、滝沢は訊いた。
「浩、ここ、痛い?」
首を横に振り、浩は奈津子の方を見た。奈津子は手を握り、何度も頷いてみせた。滝沢は浩の下瞼に指をあてがい、裏側を診ている。一瞬泣きそうになったが、もうそんな力さえないのか、声もあげなかった。
「起きられるか、ぼん」
滝沢は、浩を抱いて椅子に座るように奈津子に言った。診察台から抱き上げると、浩は両手を奈津子の首に絡ませた。やはり、見たことのない人や光景に怯えているのだろう。
胸と背中に聴診器をあてた後、浩の口を開けさせ、喉の奥にペンライトを入れて診察した。
「よっしゃ、終わりや」
ペンライトを消し、滝沢は言った。
「心配せんでもよろし。ただの風邪や」
奈津子は胸を撫で下ろした。本来なら、と滝沢は回転椅子を机に向けた。
「こういう状態の子供を置いて母親が出ていくということは、やったらあかんことや」
はい、と浩の下着の裾をズボンに入れながら、奈津子は目を伏せた。
「小さな子供の場合、ただの風邪でもとんでもないことになることがようありますのや」
重篤な状態になってからでは間に合わないこともあると、滝沢は話した。
「仕事と子供と、どっちが大事なんや」
せんせ、と早苗が後ろから声をかけた。
「病気の子供置いて、仕事にでたいと思う母親が、どこにいますかいな」
腕組みし、早苗はこちらにやってきた。
「どうしようもない事情があるさかいに、出かけてますのや。子供にごはん食べさせよと思うたら、働くしかないやないですか。仕事をしてる以上は、職場で責任がある。子供が熱だしました言うて、休んで周囲に迷惑かけられへん」
早苗は組んでいた手を解いた。
「子供の病気のために仕事休んだら、やっぱり子持ちの女はあかんとか、責任感がないとか、言われますのや。そんなこと言われたら信用もなくなるし、次から仕事まわしてもらえへんようになる。そういうもんや」
机から顔も上げず、滝沢はカルテに何か書き込みながら「そんなことは、子供に関係のないこっちゃ」と言った。
「こっちへ寝かせてください」
立ち上がり、滝沢は診察台の向こう側にかかったカーテンを開けた。白いベッドがあった。剥きだしの診察台と違って、白いタオルケットのようなものが掛けてある。
「点滴をします、腕を出してください」
言われるまま、奈津子はぐったりした浩をベッドに寝かせ、袖をまくりあげた。
「軽い脱水症状を起こしています」
滝沢は点滴の用意をし、浩の腕に針を刺した。奈津子は腕を押さえながら、浩の顔を見た。いつもなら、間違いなく泣き喚くところだが、今日は声もあげない。
「子供はね、風邪のひき始め程度でも、脱水症状を起こすことがあります」
「あの、水分が足りてないってことですか」
医療用テープを針の上に貼り、滝沢は言った。
「水分ていうのはね、何も水やお茶だけやない。ごはん物やら、食べるものにもぎょうさん含まれてますのや。普通に食事をとっていれば、とくに意識せんでも水分は摂取できるものなんです。そやからこそ、食欲がない時は、せめて水だけでも飲んでんとあかんのですよ。とくに子供はね」
浩の細い腕に刺された針を見ながら、奈津子は頷いた。
ベビーホテルで、浩は水さえも飲ませてもらえなかったというのか。泣き喚くわけでもなく、静かに眠っているからと放っておかれたのだ。ベッドの傍に跪き、奈津子は浩の頬を撫でた。
「ええと、この子はアレルギーとか、今まで言われたことありますか」
滝沢の声に、奈津子は顔を上げた。
「いえ、ありませんが」
「これまで、薬飲んで何か問題のあったことは?」
「いえ、何も」
「そしたら、後で薬をだしておきます。点滴は時間かかりますからね、しばらく付いていてあげてください」
「はい」
「まあ、明日一日、ゆっくり家で寝たら、落ち着きますわ」
あの、と奈津子は立ち上がった。
「明日も仕事なんです」
眼鏡の奥で、滝沢の皺んだ目が困ったように奈津子を見つめた。
「せめて、明日だけでも休んで、子供さんの傍にいてあげなさい」
「どうしても、抜けられない仕事があるんです」
明日は朝から結婚式の披露宴の仕事が入っている。
「子供かて、病気の時はどうしても母親に傍にいてもらいたいもんや」
そんなことはわかっている。けれど、受けた仕事をキャンセルするわけにはいかない。
「また、ベビーホテルに預けはるんですか」
それは、と奈津子は言葉につまった。
きょうこ先生の、ぽっちゃりとした顔を奈津子は思い出していた。彼女に悪意があるわけではない。ただ、自分の仕事の意味や重さがわかっていないだけだ。自分がどんな責任を負わされているのか、想像したこともないのだろう。だから、熱をだして寝込む子供の横で雑誌を読み、平気でお菓子を頬張っていられるのだ。その間、浩は水さえも与えられなかった。
あんなところに浩を託すことはできない。二度といくものか。
「先生」
奈津子は顔を上げた。
「子供を入院させられる病院に、紹介状を書いていただけませんでしょうか」
滝沢は首を傾げた。
「明日一日だけで結構ですから、この子を預かってくださる小児科のある病院に入院させたいんです」
「入院てあんた、この子はそんな大層な病気と違いまっせ」
「けれど、病気のこの子を家に一人で置いておくわけにはいきませんから」
「そやから、一日くらい仕事を休まはったらどないです。何も一週間も二週間も休めと言うてんのと違うのやから」
「あんた」
背後から、早苗が声をかけた。
「あんた、家どこや」
「北大路です。堀川の」
「うちはこの近所なんや。新丸太町通から嵯峨にいったとこ」
点滴を受けている浩のベッドに歩み寄り、早苗は言った。
「もしよかったら明日一日、うちで預かったげよか」
え、と奈津子は驚いて早苗を見た。
「うっとこはうちの母親と二人だけや。気兼ねはいらん。お母ちゃんは七十五やけど、元気なもんや。どや、来るか」
ベッドの傍に立ち、奈津子を見つめ返した。
17
吹き抜けには朝の光が溢れている。ロビーの白い大理石の床と柱がそれを反射して眩しいくらいだ。
メインダイニングの両扉は開放され、入口にメニューを持った黒服が立っている。コーヒーの匂いが漂い、人々の話し声や笑い声が漏れてくる。衝立の向こうで、姿のよい給仕が白いナプキンを腕に掛けてコーヒーを客のカップに注いでいるのが見えた。朝食をとりながら、人々は今日の計画を話しているのだろう。
静かで穏やかな朝だ。たぶん、ここではこれが日常なのだろう。早朝の一流ホテルになど、浦上は来たことがない。出張といえばビジネスホテルばかりだし、縁がないのだ。
五階の宴会場フロアも、すでにホテルのスタッフ達が所定の位置についていた。中央には新しい生花が活けられ、床には塵一つ落ちていない。背筋を伸ばした黒服や、小豆色の制服を着たベルボーイ達が足早に、だが音をたてることもなく静かに歩いていく。
ここで昨日、身代金奪取事件があったなどと、誰が想像できるだろう。浦上は吹き抜けの天井を見上げた。
朝一番の披露宴の開始時間は十一時らしい。結婚式が十時からだから、列席者がやってくるのは九時過ぎくらいか。しかし、新郎新婦や近しい関係者はすでに支度にかかっており、美粧室と衣装室はスタッフの女達がひっきりなしに出入りしている。
黒留袖を着た中年の女がクロークに大きな紙袋を預けにやってきた。それきり、クロークには誰も来ない。浦上は、藤森署の鈴村とともに受付の前に立っていた。クローク係の若い女は、困惑したように瞬きを繰り返している。
前川加奈、二十五歳。シャングリラホテルに入社して七年になるという。といっても、最初の四年は梅田にある大阪シャングリラホテルに勤務していたから、京都のシャングリラホテルでは三年目だ。
「昨日の松島屋の展示会なんですが、クロークを担当していらしたのはあなたですね」
浦上が訊いた。
「はい、そうです」
「二十六番の札の荷物を預けにきた人って、憶えていませんかねえ」
「二十六番?」
美有の手袋が入っていた紙袋は、二十六番の札で会場内のクロークに預けられていた。樹奈が会場を訪れる以前に、犯人が預けていったのは間違いない。
「あの、番号を言われましても、見当つきませんが」
「番号で、何時頃に預かったとか、そういうことはわかりますか」
「それは、わかりません。お預かりしたお荷物は、空いた番号に入れていきますから。番号と時間は何の関係もありません」
十番台、二十番台、三十番台と、それぞれ棚が区切ってあり、空いたスペースに新たに荷物を入れていくという繰り返しだからと、加奈は説明した。
「昨日の展示会で、ヒマワリのイラストの紙袋を預けにきた人、憶えていませんか」
「ヒマワリのイラスト、ですか」
加奈は考えるような目をして、小さく息を吸った。
「いろんな紙袋を持ったお客様がいらっしゃいますし、一々紙袋の種類までは」
「二十六番の札で、ヒマワリのイラストの紙袋を預けていったと思うんですが」
「さあ、憶えていませんが」
ええとですね、と浦上はたたみかけるように言った。
「ヒマワリのイラストの紙袋を預け、同時に、同じ柄の紙袋を受け取って帰っていった人がいるのを、憶えていますか」
ああ、と加奈は頷いた。
「そういえば、そんな人がいたように思います」
「どんな人でしたか」
昨日、樹奈は茶色のブレザーを着ていた。化粧気がなく、地味な服装だったので、華やかな客達のなかでは目立ったはずだ。
「どんな人かまではちょっと、思い出せませんが」
「男性でしたか、女性でしたか」
「女のお客様だったと思います」
「どんな女の人でしたか」
そこまでは、と加奈は困ったように笑った。
「しかし、紙袋を預けて、そしてまた同じ柄のを受け取っていくのはとても変だし、印象に残りませんか」
「そうですか?」
「変でしょう、同じ柄の紙袋なんだから。そんな人がいたら目立つと思うんですが」
「そうでもないですよ」
浦上と鈴村は顔を見合わせた。
「昨日の展示会でも、こちらに松島屋さんの紙袋を預けて、同時に松島屋さんの紙袋を受け取っていく方が、大勢いらっしゃいました」
「とくに変だとか思わないものですか、クローク係の方は」
「思いません。めずらしいことではありませんので」
なぜそんなことが不思議なのかと言いたげに、加奈は浦上を見た。
「お客様は、重い荷物とか、かさばる物などを預けにいらっしゃいます。そしてそれらも、必要に応じて出し入れされます。披露宴やパーティーに遠方からご出席される場合、女性はホテルに到着してから着物やドレスに着替えられる方が多いんです。着替えたら、それまで着ていた服が邪魔になるでしょう。そういうのをまとめて入れるのに、大きめの紙袋をよく使われます。スーツケースだと重いですから」
「なるほどねえ」
「披露宴やパーティーにご出席の場合、ビデオとかカメラとか、プレゼントとかお花とか、色々持ってこられますでしょ。着替える間、そういうのを入れた紙袋を預けて、着替えた後受け取りにこられます。その時、着替えた服を入れた紙袋をまた預けていかれるんです。よくあることですよ。というか、そんなの当たり前のことですし。それらが同じ柄の紙袋だったってことも、そんなにめずらしいことではないです」
加奈が話していると、もう一人制服を着た若い女が奥から出てきた。名札に「森尾」とある。森尾早紀子も、昨日の展示会でクローク係をしていた。
彼女にも同じ質問を繰り返した。が、早紀子も、ヒマワリのイラストの紙袋については記憶が曖昧だった。二十六番の番号札についても同様である。
「クローク内でですね、何か変わったことはありませんでしたか」
浦上の言葉に、加奈と早紀子は目だけを動かして互いを見た。
「変わったことって、どういうことでしょうか」
早紀子が大きな二重瞼の目を見開くようにして言った。
「いつもと違うこととか、何かこう、変だなと思われたこととか」
二人は唇を結んで首を傾げたが、「何もなかったと思います」と早紀子が答えた。
「不審人物が入ってきたとか、ありませんでしたか」
「ありませんよ、そんな」
眉を顰《ひそ》め、早紀子は首を振った。
「そんなことがあったら、大騒ぎになります。クロークに関係者以外の人間が出入りするなんてこと、ありえません」
「しかし、松島屋さんの関係者はクロークに入れるのでしょう」
「それは、お預かりしたお荷物の点検とか、確認とかにこられますから」
加奈が言った。
「あなた方以外の人も、出入りできたということですよね」
頷く加奈の隣で、でも、と早紀子が言った。
「松島屋さんのスタッフは、部外者ではありません。関係者です」
「あなた方は、昨日来ていた松島屋さんのスタッフの顔と名前は全員ご存知なのですか」
「開場前の朝礼で、顔合わせと打ち合わせをしましたから、存じております」
「ということは、それ以外の人物が入ってくれば、おわかりになるわけですね」
ただですねえ、と加奈がゆっくりとした口調で言った。
「午後からスタッフとして加わる社員の方もおられます。そういう方の場合、わたし達も、必ずしも顔と名前が一致しないこともありまして」
「展示会で、顔を知らない松島屋さんの社員がクロークに入ってこられたということは、ありませんでしたか」
「ありませんでした」
早口に早紀子が答えた。
「すべて、存じ上げている社員の方ばかりでした」
浦上は加奈の方を見た。加奈も「そうでした」と頷いた。
「ではとくに、クローク内では何もなかったと」
「もちろんです」
早紀子は口角をあげてみせた。
「何もありませんでした」
その強い口調に、浦上は半ば苦笑しながら「わかりました」と答えた。
「申し訳ありませんが」
早紀子がフロアの方を見ながら言った。
「もう、よろしいでしょうか。そろそろ、お客様方がお見えになる時間ですので」
振り返ると、振袖を着た女がやってくるのが見えた。手には大きな紙袋を提げている。その後ろには、派手なローズピンクのドレスを着た女が歩いていた。彼女もやはり、大きな紙袋を持っている。
「結構です。ありがとうございました」
浦上達はクロークを後にした。
昨日の展示会会場の前には「北山様、安岡様、披露宴会場」と書かれた案内板が出ている。
扉を開けると、スタッフ達が準備の作業をしていた。二人の姿に目をとめた黒服が近づいてきた。広瀬だ。
「おはようございます」
広瀬は二人を招き入れた。
「昨夜は色々とご協力いただきまして、ありがとうございます」
身代金を奪取されたというものの、まだ人質が無事保護されていないので、捜査の理由については公表できない。
浦上は宴会場を見まわした。昨日の展示会より随分狭いように感じられる。
「昨日、こんなに狭かったですかね」
思わず、つぶやいてしまった。それは、と広瀬は笑った。
「衝立で仕切っているんですよ。広間は半分の大きさになっています」
隣の半分では、別のパーティーの準備をしているのだと、広瀬は説明した。
「パーティーやイベントの規模とか人数に合わせて、必要な広さは違ってきますから」
会場には丸テーブルが十卓、等間隔で配置されていた。白いクロスを掛けられ、食器が整然と並べられている。花の形に折りたたまれたナプキンが添えられ、ガラスの器に生花が活けられていた。
テーブルの上は、優雅な宴の準備がすでに整えられているのだが、前の方では、かん、かん、と釘を打つ音がしている。布でできた道具入れを腰に巻いた男達が、台座のようなものの周囲で金鎚を使っていた。
「即席のステージですよ」
広瀬が言った。
「披露宴ですと、新郎新婦の御友人方が歌やかくし芸を披露されたりしますので、そのためのものです」
浦上と鈴村が頷いた時、広瀬が扉の方を見て軽く片手をあげた。振り返ると、スーツを着た背の高い男が入ってくるところだった。
「おはようございます。松島屋の者です」
四十前後だろうか。鼻梁が高く、はっきりとした二重瞼の目をしている。唇が薄いので彫りの深さが際立っていた。
「阪井と申します」
宣伝部長の阪井俊だ。昨日の特別宝飾展を仕切っていたのはこの男だと聞いている。展示会の様子や事情を聞かせてほしいと、昨夜松島屋に連絡をしておいたのだ。
「お忙しいところお呼びたてして、申し訳ありません」
言いながら二人は、阪井の方に向き直った。
「さっそくですが」
浦上は宴会場の一角を指差した。
「昨日は、あのあたりにクロークが設営されていたんですね」
「そうです」
指し示した場所に向かって歩き、浦上は阪井の方を見た。
「大きさは、どのあたりまでになりますか」
「ここですね」
自ら歩き、阪井はそう言ったところで立ち止まった。
「かなり、大きいんですね」
壁に沿って十メートル以上はあるだろうか。
「ええ。当日のお客様の人数を考えますと、このくらいは必要かということで」
天井を見上げるようにして、阪井は言った。
「ホテルに常置されているクロークですと、スペースが足りなくなった場合でも、別の部屋や物置などがあるわけですが、こういう急拵えのものは広げようがありません。ですから、かなり余裕をみて設置いたします。わたしどもの展示会に来てくださったお客様に、ご不自由をおかけするわけにはいきませんから」
「それで、こんなに大きいクロークが必要なんですね」
「クロークの棚は、あまり奥行きがとれないんです」
阪井は壁際を歩いた。壁際といっても、たっぷりと襞《ひだ》をとられた金色のカーテンが垂れており、なんだか舞台のようだ。
「奥行きがあると、荷物の出し入れが大変ですから」
「はあ、そりゃそうですね」
「多くのお荷物をお預かりするために、横幅がほしいわけです」
まるで鰻の寝床でしょう、と阪井は笑った。宴会場の奥で金鎚を打っているスタッフ達の方に目をやり、浦上は言った。
「展示会やイベントの度に作り変えられるのですから、大変でしょうね」
「いや、そうでもないですよ」
広瀬が阪井に代わって答えた。
「クロークの場合、棚を並べるだけみたいなものですから」
「そうなんですか?」
「棚さえ並べたら、その前にカーテンをこう、上から吊って目隠しにしてしまう。それだけです。何もご大層なものを作る必要はないんですよ」
「そういうものですか。素人にはよくわかりませんが」
浦上は阪井の方を見た。
「ところで、昨日の展示会、入場できるのは、招待状を持った得意客だけだったということですが」
展示会にやってきた客のリストは、松島屋の幹部に掛け合って入手すると本部から聞いている。
「はい、招待状をお持ちでないお客様にはご遠慮いただいていました」
「しかし、十一時半頃、一人の女性が招待状も持たずに会場に入っているんですがね」
「そんなはずはありませんが?」
「クロークに忘れ物をしたと言って、入っていったらしいんです」
ああ、と阪井は頷いた。
「忘れ物を取りにこられたお客様なら、そりゃ入っていただきますよ。クロークに忘れ物をしたということはつまり、番号札を持っておられたということでしょう?」
「そうです」
「ならば、入っていただきます」
「招待状がなくてもですか」
だって、と阪井は苦笑した。
「その方は、会場内に忘れ物をされたんでしょう。なら、一度会場にお入りになっているのですから、招待状はその際、受付にお出しになってるってことですよね。持ってらっしゃるわけないじゃないですか」
言われてみればその通りだった。
「昨日、会場に松島屋社員の方達は、何人くらいおられたんでしょう」
「ええと、総勢約五十名ですか」
「その全員が、クロークに出入りされていたのですか」
「いや、基本的には、外商の者十数名だと思います」
スタッフとして会場にいた松島屋の社員は全員、名前と身元の確認を急いでいるところだ。
「今、基本的にはとおっしゃいましたが、外商以外の社員の方も出入りされていたということでしょうか」
「忙しい時ですと、売り場の者が外商の者に頼まれて、品物の確認にいく場合もありますから」
頷き、浦上はところで、と言った。
「会場内で、何か変わったことはありませんでしたかねえ」
「何かと言いますと?」
「ですから、困ったようなこととか、いつもとは違うようなこととか」
「何もありません」
胸を張るようにして阪井は言った。
「クローク内でも、何もなかったですか」
「はい」
「不審者が入り込んできたとかは」
「ありませんよ、そんな」
阪井は広瀬と顔を見合わせて小さく笑った。
「ここはシャングリラホテルですよ。しかも、松島屋の上得意様のための展示会です。先ほど申し上げましたように、お客様は招待状をお持ちの方ばかりですし、ホテル側のスタッフや弊社社員も大勢でております。不審人物が入れるような場所ではありませんし、ありえません」
その時、女が入ってくるのが見えた。ヒマワリのイラストの紙袋を提げている。昨夜のピアニストだ。浦上が紙袋の中身を見せてくれと言ったら、えらく不機嫌になった。たしか、浅野奈津子といった。
尾行した捜査員の報告によると、昨夜奈津子は軽い接触事故を起こしたらしい。その後、子供をベビーホテルに迎えにいき、西大路の医院につれていったという。現在、奈津子の身辺についても捜査中だが、どうやら彼女は北大路の古いマンションに、子供と二人で暮らしているようだ。
奈津子は舞台の脇に置かれたオルガンの前に座り、鍵盤の蓋を開けた。
「わかりました。どうもありがとうございました」
浦上は、阪井に丁寧にお辞儀をした。
「ありがとうございました」
鈴村も頭を下げる。阪井は宴会場を出ていった。その後ろ姿を、浦上は黙って見つめていた。
「わたしは、宴会場かその近辺におりますので、何かありましたら係の者にでも伝えるようにおっしゃってください」
広瀬が言った。
「ありがとうございます。また、何かありましたらお願いします」
二人は丁重に礼を言った。広瀬は会場の隅に控えていたウェイターを呼び、テーブルの一つを指差して何か言った。ウェイターは指摘されたテーブルにいき、生花の位置をほんの少しずらしている。広瀬は気に入らないらしく、また指差して何か言った。
「いきましょうか」
向き直り、鈴村が言った。
「今、入ってきた女、昨日この現場で演奏していたピアニストだよ」
目だけでオルガンの方を示し、浦上は言った。
「昨夜ロビーで、サンフラワー教室の紙袋を持って歩いていたので、呼び止めた」
ああ、あれが、と鈴村は軽く頷いた。
「今日もあの紙袋、持ってるやないですか」
浦上は、奈津子の方に顔を向けた。
18
二人はオルガンまで歩いた。
「昨夜はどうも」
浦上が声をかけると、奈津子は怪訝《けげん》そうに顔をあげた。が、浦上の顔を見た途端、「どうも」と無愛想に言って、また鍵盤に視線を落とした。
「あの、浦上といいます。昨夜は失礼しました」
「いえ」
紙袋から楽譜を取り出し、奈津子は譜面台に置いた。肩まで垂らした髪が揺れ、少し痩《こ》けた頬にかかる。彼女は髪を片手ではらい、楽譜をめくり始めた。
高い鼻梁と形のよい額は均整がとれていた。大きな瞳も人目を惹《ひ》くが、目の下のあたりが窪んでいる。うっすらと翳のようなものが浮きでているのだ。それにより、奈津子の顔はひどく疲れたように見えた。
「昨夜は本当にすみません。仕事なものですから」
「ええ、気にしていませんから」
鈴村が前にでた。
「昨日、展示会会場で、ピアノ演奏をしておられたそうですね」
「はい」
「何か、変わったことはなかったでしょうか」
目をしばたたき、奈津子は鈴村の方を見た。
「何かこう、いつもと違うことがあったとか、特別に憶えていらっしゃることはありませんか」
「わたしは、ピアノを弾いていたんです。広い会場で何かあったとしても、見えませんし、気づかないですよ」
ピアニストがピアノを弾いている時、やはり、鍵盤しか見ていないものなのだろうか。初心者なら楽譜と鍵盤に釘付けだろうが、プロのピアニストはどうなのだろう。
「会場の様子、まったくご覧になってなかったですか、弾いていらっしゃる時」
浦上が言った。
「ですから、わたしはピアノを演奏していたわけですから」
つかぬことをうかがいますが、と浦上は咳払いをした。
「ピアニストの方は、クロークに入られることはありますか」
唐突な問いに、奈津子は「はあ?」と眉を顰めた。
「会場内のクロークってことですか」
「そうです」
「ありませんよ。関係ないですから」
あ、でも、と奈津子は楽譜をめくりかけていた手を止めた。
「通らせてもらうことはあります」
「どういうことですか」
「お客様がたくさんいらっしゃる時など、わたし達ピアニストが堂々と会場内を歩くことはあまり好ましいことではないんです。ですから、設営されているスタッフルームやクロークの中を通って、扉近くまで出たり、厨房に抜けたりすることはよくあります」
「ということは、昨日もクロークを通られたと」
「はい」
「それは、いつですか」
「ですから、休憩の時ですよ」
樹奈が荷物を預けた時、奈津子がクロークにいなかったのは確かである。樹奈が会場から飛び出してきた際、開いた扉からピアノの生演奏が聴こえていたのを浦上は憶えている。しかし、その後についてはわからない。
「クロークを通られた時、何か変わったことはありませんでしたか」
「べつに、何もなかったと思いますが」
「たとえば、日頃見かけない人物がいたとか」
「クローク内にですか」
「ええ」
「ありえませんよ。クロークには、ホテルや松島屋のスタッフ以外、入ることはできません」
「入る時、身分証明証か何か、チェックされるのですか」
「そんなことはしませんが、お互い顔がわかっているのですから」
「ホテル側のスタッフはともかく、松島屋のスタッフとなると、あなたも全員の顔を知っているわけではないでしょう」
「そうですけど。でも、松島屋さんのスタッフは皆さん、名札をつけておられますから」
「じゃ、名札さえつけていれば、部外者でもクロークに入れた可能性はあるわけですね」
さあ、と奈津子は首を傾《かし》げた。
「どうでしょうか。だって、周囲には松島屋さんのスタッフが大勢いるんですから。偽者が名札つけて入っていったら、誰かが気づくと思いますよ」
しかし、たまたまホテル側のスタッフしか周囲にいない場合、その場で名札をつけて入ることは可能だったのではないか。スーツさえ着ていれば、それほど違和感はあるまい。出てきてから名札をはずせば、誰にも気づかれないだろう。浦上がそう言うと、奈津子は小さく笑った。
「無理だと思いますよ」
「どうしてですか」
「あの、たぶん、宝石か陶磁器の盗難を調べておられるんでしょ」
浦上は何も答えなかった。
「スタッフがクロークから荷物を持ち出すというのは、絶対禁止です。もし荷物を持ち出す人がいたら目立ちますし、必ず周囲のスタッフに咎《とが》められます」
タイミングよくクロークに潜り込めたとしても、誰にも見られないまま荷物を持って外に出ることはできないだろうと言った。
「では、たとえば、ポケットに入る程度の大きさのものならどうですか。これなら目立たないから、可能ですよね」
奈津子はまた小さく笑った。
「ポケットに入る程度の荷物なんか、クロークにはありませんよ。そんな小さなものをクロークに預ける人はいません」
「なるほど」
浦上は、クロークが設営されていたあたりに目をやった。
強奪されたのは現金二千万円である。一万円札が二千枚、百万円の束にして二十個。「荷物」を持ってクロークの外に出られないとしたら、それらは衣服に隠すしかない。札束も一個か二個なら、なんとかポケットにねじ込むこともできるだろうが、二十個ともなると無理がある。
ならば、複数の人間で手分けしたということか。しかし、どうやって。二千万円の現金を分配するなど、クロークの中でも外でもできることではない。クローク内だとスタッフに見られる。会場だと、客の目がある。
「スタッフの皆さんの内輪の話や噂でもいいんですが、何かこう、昨日クロークで揉《も》め事があったとか、トラブルがあったとか、ありませんでしたかねえ」
「ないですよ。わたしは聞いていません」
言いながら、奈津子はオルガンのボタンを押した。瞬間、鍵盤の周囲に配置されたいくつものランプが一斉に点滅した。
「うわ、すごいんですね」
浦上は目を瞠《みは》った。
「まるで、コンピューターみたいだ」
「コンピューターなんですよ」
奈津子は手早くレバーやスイッチをひねったり押したりした。またいろんなランプが光りだし、中央の画面に数字が表示された。
仕事の準備の邪魔をされることを、奈津子は明らかに迷惑がっている。しかし、展示会会場で定点にいたのは奈津子だけだ。手がかりになるようなものを見たり聞いたりしている可能性が絶対ないとは言い切れない。
あるいは、彼女自身が関与している可能性もないわけではないのだ。奈津子が犯人の一味でない証拠はないのだし、また、本人が知らないまま、何らかの役割を負わされている場合もある。浦上は、ひとまず奈津子に話を合わせることにした。
「オルガンにコンピューターですか。全然知りませんでした」
「今の電子オルガンには、コンピューターが内蔵されているんですよ」
突然、ドラムの音が響いた。奈津子が点滅するボタンを押さえると、ドラムのテンポは次第に落ちていく。中央の画面はテンポの失速と同時に表示の数字を変えていった。
「いつも、結婚式とかで、演奏しておられるんですか」
ドラムの音にかき消されないように、浦上は大きな声で言った。
「そうです」
早口に言うと、奈津子は別のボタンを押した。突然、ドラムの音が止み、静寂がもどる。大声を発しかけていた浦上は、あわてて言葉を飲み込んだ。奈津子は鍵盤に指を置いた。バイオリンのような音色が立ち上がり、のびやかに響く。やがてそれは旋律となり、流れ始めた。聴いたことのある曲だ。
ああ、と浦上は眉をあげた。「ムーン・リバー」だ。昨日の展示会ではピアノ演奏で聴いた。今は、弦楽器の音色で奏され、まるでクラシックのような趣きだ。アレンジがまったく変えられている。重厚な音色が響き、目を瞑るとオーケストラ演奏のように聴こえた。
奈津子の手と指はやわらかくしなり、時には俊敏に、時にはゆっくりと鍵盤の上を動いた。鈴村の表情も、わずかにやわらいでいる。と、その時突然、旋律が消えた。何の前触れもなく、曲は途中でぶつりと切られたのである。
少し驚き、浦上と鈴村は奈津子を見た。奈津子は怒ったような顔をしていた。司会者のマイクの横あたりを睨んでいる。そこにはスピーカーが置かれていた。大きく息を吐き、奈津子はボタンをいくつか押した。
あの、と浦上は言った。
「こういうお仕事って、大変なんでしょうね」
「ええ、大変ですよ」
画面の数字を見つめながら、奈津子は答えた。
「昨日はここも、大きな会場だったのに、まるで別の会場みたいですね」
「ホテルの宴会場は、簡単に模様替えしますから」
「一晩で変わってしまうんですね」
「一晩どころか、ほんの数十分でも変えてしまいますよ、ここのスタッフ達は」
「はああ、考えられませんね」
「間取りや大きさが変わると、スピーカーの位置や角度も変わってしまうんです。まあ、わたし達はそれに合わせるしかないんですけどね」
どうやら奈津子の怒りは、浦上に向けられているのではないようだ。
「しかし、こんな大掛かりなことを数十分でやってのけるなんて、信じられませんね」
「部屋の大きさを変えるのは、防音効果のある衝立で仕切るだけだから、たいした作業ではありません。ステージなど台座も、ある程度できあがっているものを調整して使うだけですから」
「でも、なんか昨日とがらりと雰囲気が違うんで、驚きました」
「カーテンやテーブルの配置、照明とかによって、別の部屋のようになりますからね」
浦上は宴会場を見まわした。
「電子オルガンは、いつもこの位置ですか」
「パーティーやイベントによって違いますけど、披露宴の場合は、まずこの位置です」
披露宴のオルガン奏者は、会場全体が見渡せなければならない。新郎新婦の入場から着席の瞬間まで、要する時間を的確に計算し、演奏をつないで、あるいは端折《はしよ》って調整する。その間、スタッフからの指示が入ることもあるし、その場で変更を余儀なくされることもあると、奈津子は説明した。
「会場が見渡せて、また、目立たないようにスタッフが近づける場所でないと困りますから、オルガンの位置は結局、ここになります」
「色々あるんですねえ」
傍らで鈴村が感心したように首を振った。
「立食パーティーやイベントなら、スタッフもそんなに気を遣わずに連絡事項を伝えにくることができるのですが、披露宴の場合、お客様全員が着座しておられますから」
紙袋から、奈津子は一枚の紙を取り出して楽譜台に置いた。披露宴の進行表だ。招待客の入りの時間から、新郎新婦入場、ケーキ入刀、お色直しの入退場、客の余興など、分刻みで表示してある。
「前から思ってたんですけどね」
少し躯を乗りだすようにして、浦上は言った。
「キャンドルサービスって、あるじゃないですか」
結婚披露宴でキャンドルサービスは定番だ。新郎新婦が腕を組み、杖のように長い棒を持って各テーブルをまわり、蝋燭に火を灯《とも》す。
「あれって、新郎新婦がいろんなテーブルをまわっていきますよね。で、その、友人の席だと、こう、いろんな悪さをしてふざける奴とかいて、時間通りにいかないってこともあると思うんですが、そういう時はどうするんですか」
「調整しますよ」
「演奏を?」
「そうです」
浦上は「すごいですねえ」と頷いた。
「ただ、曲を流すだけならCDやテープでいいのです。けれど、新郎新婦がケーキ入刀やキャンドルサービスの後、着席される時、CDやテープだと、そこでぶちっと曲を切るしかないわけですよ」
今しがた、奈津子の演奏する「ムーン・リバー」を聴いていた時のことを浦上は思い出した。突然、曲を切られる不快感と驚きは、たしかに何ともいえない嫌な感覚だった。
「そりゃ、会場で突然、曲が切れたら興醒《きようざ》めですよね」
「そういうことです」
進行表から顔をあげ、奈津子は頷いた。顔はもう、先ほどのようにこわばっていない。
「やっぱり、機械やとあかんのですなあ」
鈴村が言った。
「ええ。機械では、その場で曲をつないだり端折ってエンディングにもっていくなどは不可能です。せいぜい、最後の方をディミヌエンドさせて、体裁整えるくらいしかできませんからね」
「ディミヌエンド?」
浦上は首を傾《かし》げた。
「だんだん弱く、という意味です」
「はああ、だんだん弱く、ですか。なるほど」
笑いながら、浦上は大きく頷いた。
「業界用語ですか」
いいえ、と奈津子はまた怖い顔をした。
「音楽用語です」
言ってから、進行表に目をもどした。
19
ずれた老眼鏡を人差し指で上げなおし、ミヨ子は前掛けで手を拭いた。ミヨ子は早苗の母親だ。台所仕事をしている最中だったらしく、肉と野菜を炒める匂いが玄関に漂っていた。
ミヨ子の後ろから、浩が顔をだした。
「浩」
声をかけてもすぐに飛びつくわけでもなく、浩は笑って奈津子を見ている。
「ありがとうございました」
「いいえ、ええ子やったからねえ。ちょっとも手間がかからへんかった」
「ご迷惑をおかけいたしました。今日は本当に助かりました」
小さな建売り住宅の玄関先には、古い靴箱があった。靴箱の上には金魚鉢が置いてある。縁が紺色で、ガラスはくすんでいた。水は入っていないのだが、なぜか白い小石が敷き詰められている。
「さ、浩、支度なさい。ジャンパーを取ってきて」
「まあ、ええやないの、来てすぐに帰るやなんて」
ミヨ子は笑った。
化粧気はないが、肌の色は悪くない。七十を過ぎているわりには足腰もしっかりしていて姿勢もよい。まるい鼻や下がり気味の目は早苗とよく似ていた。灰色の髪は襟足のあたりでカットされ、きつくパーマがあてられている。太毛糸で編んだ茶色のセーターを着ているので少しふっくらとして見えるが、肩のあたりは骨ばっていた。
「ちょっと上がっていかはったら」
「いえ、そんな」
ミヨ子の後ろで薄いドアが、ぎいと音をたてて開いた。
「上がっていきよしな」
言いながら、早苗が出てきた。紺色のジャージーを着て、茶色のヘアバンドをしているから、一瞬誰かわからなかった。朝、奈津子がここへ浩を預けにきた時、早苗はすでに出勤していたので会っていなかったのだ。
「今日はお世話になりました。ありがとうございました」
「まあ、ええがな。それより、ちょっと上がっていったら」
早苗もまた化粧気がなく、素顔のままだ。
「いえもう、この子も早く連れて帰って寝させなければなりませんし」
「浩君やったら、すっかり元気やで」
なあ、と早苗は浩を見た。浩は早苗を見上げて笑っている。
「ついでやから、晩御飯食べていきいな」
「いえ、本当にこれ以上、ご迷惑ですから」
「うちのお母ちゃんもそのつもりで用意してたんや。食べていき」
早苗に押し切られ、奈津子は靴を脱いだ。狭い玄関を上がり、ドアを開けると、いきなり台所だ。いや、台所も居間も何もかもが一緒になっている。すべて合わせて八畳くらいだろうか。一応、「リビングダイニング」というべきなのだろうが、およそそんな洒落た名前の似つかわしくない部屋だった。
流しのすぐ前には炬燵《こたつ》が置かれ、その向こうにはテレビと石油ファンヒーターがある。台所仕事をしながら炬燵にも手が届くという距離で、もちろんテレビまで歩いてもほんの数歩だ。
炬燵に入り、早苗は「疲れたやろ」と言った。
「まあ、入りよし」
「ありがとうございます」
冷えた手足を炬燵に入れると、じんわりと暖かさが皮膚にしみこみ、奈津子はなんだか涙がでそうになった。
「仕事はどうやった、うまいこといったか」
「はい、おかげさまで」
「それは結構。うちも上々や」
丸太町通を西大路からさらに西に向かうと、新丸太町通になる。ここからは道幅も多少狭くなり、景色も変わる。丸太町通には、ビルもあれば古い町家も並んでいる。ビルといっても、京都市内のそれはいずれも規模が小さく、大きな道沿いでもせいぜいが四階建てくらいのものだ。それらが古い甍《いらか》の連なりのなかに点在する光景は、京都のどこへいっても変わらない。
烏丸《からすま》から西の丸太町通は少しばかり雑多な町並みで、さらに新丸太町通にまで進むと、ここは京都市内のありがちな町並みというより、新興住宅街のそれに近い。
花園駅を通り過ぎ、|双ヶ丘《ならびがおか》を越えれば嵯峨はすぐそこだ。早苗の住む嵯峨新宮町は、築後二十年から三十年の建売り住宅が並ぶ小さな町である。少し足を伸ばせば嵐電《らんでん》の駅があり、車折《くるまざき》神社も近い。
「もうちょっと待っててや」
言いながら、ミヨ子は鍋の蓋を取った。部屋にカレーの匂いがひろがった。浩は一度は奈津子の傍に座ったが、また台所に立つミヨ子の様子を見にいった。
ミヨ子は手際よくカレーを皿に盛り、炬燵の上に置いていった。盆など必要のない距離で、できたそばから食卓に置いていくといった格好だ。
「たいしたもんやあらへんけど、一緒に食べていきよし」
早苗は言った。
制服を着ていた時とは、顔の造作がまったく違って見えた。帽子のせいもあるのだろうが、やはり自分の家でくつろぐ時と、仕事の現場にいる時とでは緊張感が違うのだろう。
早苗の勤める京一タクシーの制服は灰色で、同じ色の帽子に小豆色の蝶ネクタイだ。制服に男女の別はなく、見た目は男の運転手と変わらない。仕事の時は早苗の表情も強ばっており、別人のようである。
ミヨ子が炬燵に入り、食事が始まった。炬燵の四辺にそれぞれが座り、食卓を囲んだ。ありふれた光景だが、長くこうした形の食事をしていないことに、奈津子は気づいた。
離婚をする前から、食卓はいつも浩と二人きりだった。仕事場では、一人で行きつけの店ですませている。それが日常であり、当然のことのように思っていたが、「食事をする」というのは、本来こういうことなのだと、奈津子はあらためて思った。
浩もずっとはしゃいでいる。顔色もいい。こんなに楽しそうにしている浩を見るのは久しぶりだ。何人かで食卓を囲むことが、そんなにうれしいのだろうか。
ベビーホテルでも決して一人きりではなかったはずだ。他の子供も常に何人かいるわけだから、食事もおやつも誰かと一緒だったに違いない。だがそれでも、こうして普通の家で普通の食卓を囲むことに、浩は興奮している。
「今日は甘口なんや。浩君がいるさかいにな」
ミヨ子が言った。
「それは、どうもすみません」
いやいや、とミヨ子が笑った。
「わたしもほんまは辛いのん、いややねん。まあ、この人が辛いのんが好きて言わはるさかいに」
言いながらミヨ子が早苗の方を見た。早苗は小さく笑っている。
ありふれた野菜の入ったごく普通のカレーだが、浩は喜んで食べていた。
「ええと、事故の件やけどな」
咳払いをし、早苗が言った。
「あれ、会社の方に報告しといた」
たいした事故ではないので、和解の方向で処理は進んでおり、面倒がないように取りはからってもらっていると早苗は話した。
「あんたの方の車の修理代、保険でなんとかなるさかい。心配せんといてんか」
スプーンを持つ手を止め、早苗は言った。
「ありがとうございます」
食事の後、浩は広告紙を折り始めた。横から、ミヨ子が節くれだった指を添えて、折り方を教えてやっている。さっきから、何度も帰ろうと声をかけているのだが、浩は言うことをきかない。炬燵に入ったまま、何枚もの広告紙を使って簡単な折り紙を作っている。長方形の広告紙の端を鋏《はさみ》で切り落とし、ミヨ子は正方形にして浩に持たせてやった。
浩はミヨ子に手伝ってもらいながら飛行機や紙風船を折り続けた。折れ線にミヨ子が手を添えると、浩は嬉々として次の作業を訊いている。
奈津子は目を伏せた。
母親以外の人間に簡単になついたり甘えたりする子供は不憫《ふびん》だ。普段、母親にかまってもらえないから、他人の関心や愛情をあてにする。
「浩、もう帰るよ」
顔をあげて、奈津子は言った。
「いや」
夢中になって、浩は広告紙を折り続けている。
「おばさんのおうちもご迷惑でしょ」
浩は何も答えずに、紙を折り続けた。
「いいかげんにしなさい」
奈津子は声を荒らげた。それでも、浩は広告紙から顔をあげない。
「浩」
かなりきつい口調で奈津子は言った。浩は驚いたように奈津子を見た。
「早く帰ってねんねしないと、また、病気になっちゃうでしょう」
怒鳴りつけられ、浩は涙ぐんだ。
「折り紙くらい、おうち帰ってやればいいんだから」
立ち上がり、奈津子は傍らにあった浩のジャンパーを手に取った。
「さ、浩、支度しなさい」
折っていた折り紙を大事そうに胸の前で持ち、浩は首を横に振った。
「浩」
自分の声が甲高くなっているのがわかった。
「早く立ちなさい」
奈津子が腕を掴んだ時、浩の手にあった折り紙がぐしゃ、と潰れた。瞬間、火がついたように泣き出した。
「もう帰るからって、お母さん、何度も言ったでしょう」
浩は声を張り上げて泣いた。が、かまわずに、奈津子は浩の腕を持ち、ジャンパーの袖を通させた。
「あんた」
ミヨ子が言った。
「この子、かわいそうなて、思うてるのやろ」
広告紙から顔をあげ、ミヨ子は奈津子を見た。
「べつにこの子、かわいそうでもなんでもないで」
ミヨ子は老眼鏡の奥の目をしばたたいた。
「母親がそないに思うと、この子、ほんまにかわいそうや」
また、広告紙を丁寧に折り、ミヨ子は言った。
「親は皆、子供育てるのに一生懸命や。当たり前のこっちゃ。そやさかい、それでええねん。不憫やとか、かわいそうやとか、思うことあらへん」
ミヨ子は折っていた紙を裏返した。
「子供育てるて、並大抵のことやあらへん。今からそんなんでは、親も子もまいってしまうわ」
言ってから、ミヨ子は早苗の方に目をやった。早苗は怒ったように顔をそむけ、テレビのスイッチをリモコンで入れた。途端に、場違いな音声が響いた。
「………無事保護されました」
男のアナウンサーが画面に映った。
「もう一度繰り返します。京都で誘拐されていた桑島美有ちゃん二歳が、今日の夕方、大阪の阪急梅田駅構内で無事保護されました」
ミヨ子と早苗が「京都?」と同時に言った。泣きじゃくっていた浩もテレビの方を向く。
「今日の夕方、梅田駅構内を美有ちゃんが一人で歩いているところを通行人が声をかけて、近くの交番に届けたとのことです。では、事件の経緯についてお願いします」
男のアナウンサーが言うと、傍らの女のキャスターが「はい、お伝えします」と一礼した。
「桑島美有ちゃんは二日前の朝、行方不明になりました。自宅近所のスーパーに、母親とともに午前十時半頃訪れたのですが、母親が目を離した隙に連れ去られたとのことです。その後身代金要求の電話があったことから、警察では身代金目的の誘拐事件として捜査していました」
はああ、と早苗が驚いたように言い、ミヨ子も息を吐いた。
「保護された桑島美有ちゃんは、とくにけがなどはしておらず、元気だということです」
桑島美有。聞いたことのある名前だ。が、どこで聞いたのか思い出せない。奈津子は画面に見入った。
「脅迫電話が入ったのはいつのことですか」
男のアナウンサーが言った。
「美有ちゃんが連れ去られてまもなくのことです。犯人は二千万円を要求してきました」
時系列の示されたプロジェクターを指しながら、女のキャスターは身代金授受現場が何度も変更されたことを順に説明した。
「結局、その後の調べで、身代金は、ある指定場所で消えていたことが判明しました」
「消えていた?」
男のアナウンサーがわざとらしく身を乗りだした。
「そうなんです。現場はこちらです」
画面に、見覚えのある光景が映った。シャングリラホテルの正面玄関だ。
「こちら、京都シャングリラホテルです」
昨夜、刑事に紙袋の中身を見せろと、執拗に言われた。あの時の「極秘捜査」というのは、誘拐事件のことだったのか。
「犯人は、身代金の入った紙袋を宴会場のクロークに預けるよう、指示してきました。同時に、公衆電話にあった番号札で同じ柄の紙袋を受け取るようにとも言っていました。母親の樹奈さんは指示通り、指定されたクロークで現金二千万円入りの紙袋を預けたのです」
シャングリラホテル五階の宴会場が画面に映った。
「この日、宴会場では、あるデパートの展示会が開かれていました。この展示会会場内のクロークが、犯人から指定されたのです」
え、と奈津子は眉をあげた。身代金授受現場は、自分がピアノを弾いていた松島屋の展示会会場ではないか。だから刑事は、今朝も訪ねてきたのか。
「午前十一時半頃とのことで、場内はかなり込み合っていた模様です」
「見たところ、ずいぶん大きな会場ですね。よほど多くの入場者がいたということなんですね」
「はい。当日、二千人以上の入場者が出入りしたとのことです」
キャスターが、プロジェクターの方に向き直った。
「犯人が指定した紙袋と同じものがこれです」
画面に紙袋が映った。あ、と奈津子は小さく声を漏らした。
あれは、サンフラワー教室の紙袋ではないか。
「ここで、身代金入りの紙袋と、犯人の用意した紙袋がすり替えられたものと考えられます」
「つまり、このクロークから現金二千万円入りの紙袋が消えてしまったということですね」
「そうです」
ふと、奈津子は首を傾げた。
サンフラワー教室。桑島美有。
思い出した。桑島美有はサンフラワー教室の生徒だ。奈津子は週二回、サンフラワー教室へ事務のアルバイトにいっている。美有はたしか、幼稚園受験クラスにいた。
傍らで、ふううん、とミヨ子が感心したように言った
「そんなことがあったんか」
画面を見ながらも、ミヨ子の手は折り紙を折っている。
「京都でこんな事件があったやなんて、全然知らんかったがな」
「ほんまや。シャングリラホテルやったら、うちらもしょっちゅう、仕事でいってるとこやで」
昨日の昼間もすぐ近くを通ったと、早苗は得意げに言った。
「緊急の事件とかなんとかやったらな、無線で連絡入るんやけど。さすがに誘拐事件やと警察も内緒にするから、全然知らんかったなあ」
「けど、無事に子供が帰ってきてよかったがな」
ミヨ子は、折り紙に目をもどした。
「そんなこと言うけど、二千万円は取られてしもうたんやで」
眉を顰め、早苗は首を振った。
「二千万でも三千万でも、ともかくも子供が無事に帰ってきたんやからよかったがな。殺されてたら、何億円だしても生きかえらへんで」
ミヨ子はできあがった折り紙を手のひらに載せた。
「はい、これ亀」
浩はうれしそうに受け取った。
20
医師の診断では、美有の健康状態についてはとくに問題はないとのことだった。乱暴された形跡もなく、栄養状態も悪くないし、粗略な扱いを受けていなかったことは確かなようだ。
今日午後六時過ぎ、大阪梅田駅構内で美有は保護された。夕方の梅田駅といえば、かなりの人込みだ。梅田駅は阪急電車の京都線、神戸線の始発駅であり、また、JRの駅も徒歩圏内にある。周辺にはいくつもの大手デパートやファッションビルが向かい合い、高層のオフィスビルが林立している。朝夕のラッシュ時ともなれば中央コンコースはもちろん、地下や地上の連絡通路は人で溢れ、周辺道路も大変な渋滞となる。美有は中央コンコースの阪急デパートの前あたりで泣いているところを通行人に保護され、交番に届けられたのだった。
「美有ちゃん、これ、おみやげよ」
万友美が玩具専門店の包装紙に包まれたプレゼントを手渡した。病室のベッドに寝かされているものの、美有は顔色もいいし、疲れた表情もしていない。
半身を起こした美有の脇には、樹奈と賢一が並んでいる。万友美はその横に立っているのだが、浦上と鈴村は衝立の脇から様子を見ていた。小さな子供が怯えないようにという配慮である。二人は笑顔をたやさないようにしていた。浦上のようにやたら身長の高い男が無表情のまま突っ立っていると、それだけで神経質な子供は泣きだすと、万友美に言われたからだ。
「開けてごらんなさい」
万友美が言った。気後れする様子もなく、美有は包みの赤いリボンをひっぱった。樹奈が手を添え、ほどいてやる。包装紙をはがすと、白い紙箱があらわれた。美有は期待に満ちた目で箱の蓋を開ける。樹奈がまた、横から箱の端を押さえてやった。
「あ」
美有がうれしそうな声をあげた。
「ウサギちゃん」
赤い花柄の洋服を着たウサギのぬいぐるみだった。美有は即座に取り出し、抱きしめる。その様子を見て、樹奈も賢一も微笑んだ。
「このウサギちゃん、美有ちゃんのお友達にしてあげてね」
「うん」
詳しい話を訊くのは、本来ならもう少し時間をおいてからにしてほしいと担当医師に言われた。だが、美有の記憶が鮮明なうちに事情を訊いておかなければならない。何といっても、相手は二歳の子供なのだ。少しでも時間をおくと大切なことを忘れたり、また、記憶が錯綜する危険性がある。
「可愛いでしょう、このウサギちゃん。お洋服を着替えさせることもできるのよ」
頭と耳を撫で、美有はウサギの顔をのぞきこんでいる。
「このウサギちゃんね、今日、おねえさんが買ってきたの」
「どこで?」
美有はあまり人見知りしない性格のようだ。初めて会う万友美にも、何の違和感もなく話している。
「玩具《おもちや》屋さんよ。ウサギちゃんにね、美有ちゃんのお友達になってあげてくれるって訊いたら、いいよって言ってくれたの。だから、おねえさん、このウサギちゃんを買ってきたの」
美有は万友美に笑いかけた。
「ウサギちゃん、美有ちゃんのこと、とっても好きなんだって」
きゃ、と言って、美有はまたウサギを抱きしめた。
「ねえ、美有ちゃんは昨日、誰と遊んでいたの?」
まばたきを二、三度繰り返し、美有は母親の樹奈の方を振り返るようにして見た。
「昨日ね、ウサギちゃんは玩具屋さんで遊んでいたわよ。美有ちゃんは、どこで遊んでいたのかな」
「お部屋」
「お部屋?」
万友美はたたみかけるように言った。
「そうか、お部屋で遊んでいたのね」
「うん」
「何して遊んでいたの? おままごと? それとも、ゲームかな?」
美有は首を傾げている。
「誰と遊んだの?」
「ウサギちゃん」
あら、と万友美はおかしそうに笑った。
「ウサギちゃんは、今日お友達になったばかりでしょ。昨日は美有ちゃんのとこにウサギちゃんはまだ来てないよ」
少し目をまるくして、美有はうん、と言った。
「誰と遊んでたのかな、美有ちゃんは」
「お母さん」
浦上は小さく息を吐いた。といっても、とりあえず、唇に笑みは浮かべている。鈴村もずっと笑顔だ。
「昨日の夜は誰とねんねしたのかな?」
「ウサギちゃん」
「昨日の夜は、ウサギちゃんはいないよ。お母さんはいた?」
頬をウサギにつけ、美有はしばらく考えていたが、「お母さん、いやはらへんかった」と言った。
「お母さん、いなかったの?」
「うん」
「じゃあ、誰がいたの」
「おばちゃん」
思わず、浦上は身を乗りだした。が、鈴村がそれを抑えるように腕で制した。
「おばちゃん? どんなおばちゃんかな」
「ごはん食べたの」
「ごはん? おばちゃんと一緒にごはん食べたの?」
「おばちゃんは、食べたはらへん」
「じゃ、美有ちゃん一人だけで食べたの?」
「どんぐりチョコ食べた」
「え、どんぐりチョコ? あれ、おいしいよね。おねえさんも大好き。美有ちゃんは?」
「美有も大好き。苺味が好き」
「あ、おねえさんと一緒。苺味を買ってもらったの?」
「うん。どんぐりチョコの苺味が好きって言うてん」
犯人は、美有が「ほしい」と言うから、どんぐりチョコを買いにいったというのか。もしそうなら、見張りと、外に出られる立場の人間と、少なくとも二人は部屋にいたことになる。
「どこで食べたの?」
「お部屋」
「どんなお部屋だった?」
「暗いとこ」
そう、と万友美は頷いた。
「お部屋に何があったかな。玩具《おもちや》とか、お人形とか、ベッドとか。何があったか、おねえさんに教えてくれないかな」
ウサギを抱いたまま、美有は、ううんとね、と考えるような目をした。
「わからへん」
「わからない?」
「うん」
「ようく思い出して、美有ちゃん。ほら、お部屋に時計とか、電話とか、なかったかなあ」
美有は首を傾げたまま、何も言わない。
「あの」
樹奈が言った。
「あまり、問い詰めるような言い方、やめていただけませんか」
立ち上がり、樹奈は万友美の腕を押さえるようにした。
「色々あって、美有は興奮しているんです。疲れているんです。これ以上、この子を追い詰めないでください」
「いえ、そんなつもりはありませんから」
「またいろんなこと思い出して、神経が昂ぶると困るんですよ」
浦上は内心、舌打ちした。
この母親はどうも、頭がよろしくないようだ。話には聞いていたが、いつもピントのずれた反応をするし、子供のようにその場の思いつきでものを言う。
実際、美有は無事に帰ってきて、こうして病室のベッドで機嫌よくぬいぐるみを抱いて話しているのである。あとは事件解決のための手がかりを得ることが最重要課題だ。犯人検挙のためにも、奪われた二千万円を取り返すためにも、警察が美有から話を聞くのは当然のことである。親なら、協力するのが当たり前ではないか。
それなのに、樹奈は捜査の邪魔ばかりする。せっかく美有が、断片的にでも昨日の光景を話し始めたというのに、横からしゃしゃり出て水をさすようなことを言う。悪意はないのだろうが、それだけに始末が悪い。
「担当の先生からも許可は得ています。どうか、ご協力お願いいたします」
「いえ、こんなこと、困るんですよ」
「樹奈」
賢一が遮った。
「たいしたことやあらへん。美有かて、べつに怯えたり、興奮してるわけでもないやないか」
でも、と樹奈は眉を顰めた。賢一は万友美の方を向いた。
「申し訳ありません。家内はずっと、神経が昂ぶっていたものですから。あの、続けてくださってかまいません」
万友美は頷き、また、美有の方に向き直った。
「あのね、美有ちゃん。美有ちゃんが見たおばちゃん、どんな顔してたかな」
「眼鏡かけてた」
「眼鏡? どんな眼鏡かな」
「青い眼鏡。大きいの」
「青いのは眼鏡のどの部分かな」
スケッチブックとクレヨンを取り出し、万友美は眼鏡の絵を描いた。
「ここが青かったの?」
レンズ部分を指差して問うた。
「うん」
「ここも青色だった?」
柄の部分を指差すと、美有はまたうんと頷き、「大きい眼鏡」と繰り返した。
犯人はサングラスをかけていたらしい。
「おばちゃんの顔、描いてみてくれる?」
クレヨンを手に取り、美有は画用紙に向かった。といっても、片手にはぬいぐるみを抱えたままだ。美有が描き始めると、皆がそれを注視した。が、浦上はすぐに顔をあげた。美有が描いたものは意味をなさない線の連なりで、ただの落書きにしか見えなかったからである。二歳児なら、こんなものなのだろう。
「あら、上手ね」
万友美が誉めると、美有はうれしそうに笑った。
「ほかには何か覚えてる? 口が大きかったとか、眉毛が太かったとか」
美有はまた、首を傾げた。これ以上絵を描かせても、たぶん無駄だ。この年齢では、何を描いてもわけのわからない線しか描けない。
「眼鏡のこと以外、憶えてないかな」
「うん」
「おばちゃんは怖い人だった? やさしい人だった?」
「やさしいよ、おばちゃん」
「そう、おばちゃんはやさしかったの?」
「どんぐりチョコくれた」
「まあ、よかったわねえ、美有ちゃん。おねえさんも一緒にいきたかったな」
美有は得意そうに笑った。
「おばちゃんね、風邪ひいたはった」
「あら、本当? お咳がでてたのかな」
「マスクしたはったんや」
そうなんだ、と万友美は大きく頷いた。
「おばちゃんは一人だった?」
「うん」
「他に誰もいなかった?」
「うん」
その後、万友美はかなり根気よく美有に話を訊いた。何しろ小さな子供のことなので、話が前後したり、あるいは重複したり、突然違う内容になったりする。
美有の話によると、監禁されていた場所にいたのは「おばちゃん」一人だったようだ。しかしこれは、あくまでも美有がそう思っているだけのことであって、実際に一人しかいなかったかどうかはわからない。ともかく、食事などの世話は「おばちゃん」がやってくれていたらしい。
また、「お部屋」はいつも暗かったようだ。だが、「怖いこと」は何もなかったと美有は言った。部屋ではいつも、テレビを見ていたという。見ていたテレビの内容から推察して、おそらく番組放送を見ていたのではなく、ビデオかDVDではないかと思われる。人気のアニメ番組やキャラクターの名前を美有は口にした。それらを「お部屋」で見たと言うのだが、美有が連れ去られた二日間にその番組は放映されていない。
誘拐された時の経緯については、「おばちゃんと帰った」と美有は話している。部屋にいたおばちゃんと同一人物かどうか、万友美が確認したところ、本人はそのように認識していた。しかし、あくまでも美有の感覚なので、年格好のよく似た別人だった可能性もないわけではない。
スーパーの玩具《おもちや》売り場で、おばちゃんが「お母さんが呼んでるよ」と言ったので、ついていったと美有は話した。
「これから遊園地にお母さんといくから着替えようね」とおばちゃんは言い、「トイレで服を着替えた」らしい。どんな服に着替えたのか、万友美はまた根気よく聞きだしたが、「帽子とズボンとジャンパー」しか、美有は憶えていなかった。それぞれの色も、美有はクレヨンの紺色を指して「こんなん」と言った。
写真のサンプルを見せて確認させたところ、帽子は野球帽だったことが判明した。といっても、ロゴやマークについては記憶しておらず、「紺色の野球帽」ということしかわからない。ジャンパーについても、色以外のことは何も憶えていなかった。
着替える前、おばちゃんはジュースをくれたのでそれを飲んだという。美有は「お部屋でも、おばちゃんがジュースをくれた」と話した。これについては何度も話すので、よほど頻繁にあったと推察される。もしかしたら、薬物が混入されていたのかも知れない。眠るか、あるいは朦朧《もうろう》とした状態にしてしまえば、子供の管理はずいぶん楽なはずだ。
医師は、美有の健康状態には何の問題もないと言った。だが、臀部に少し、赤くただれた痕があったと報告している。これは殴打の痕跡などではなく、皮膚の炎症だと医師は言い、たぶん、紙おむつをつけられていたのだろうとのことだ。
年齢からして、美有はおむつが必要な子供ではない。樹奈にも確認したが、日中も夜間も、おむつなどまったく使用していないと言っている。なのにおむつを着用させていたのは、薬物で美有の意識を朦朧とさせていたためではないだろうか。
しかし、注射痕は美有の躯のどこにも見当たらない。薬物は経口で服用させられていたのだろう。頻繁に飲まされていたらしいジュースに混入されていたと考えるのが自然だ。
連れ去られた時の様子についてだが、美有の言う通りだったなら、これはいくら防犯カメラを見てもわからなかったはずだ。野球帽とズボン、ジャンパー姿では、男の子にしか見えない。美有の髪は短いので野球帽をかぶせてしまったら、まず女の子だとは思われないだろう。
犯人が指定した飲食店の交信記録はすべて確認した。それらにかかってきた電話は全部、京都市内の公衆電話からだった。四条通から御池通にかけての河原町周辺にある公衆電話である。公衆電話は一回ごとに変えており、いずれも防犯カメラの設置してある店舗内ではなかった。
美有の事情聴取を終え、浦上達は指揮本部にもどった。
「まあ、複数犯やいうことは間違いないですね」
頭を掻きながら、鈴村は言った。
「仲間に女がいるのも間違いないようやし」
しかし、美有の話からは、年齢の特定は難しい。
「おばちゃんていうのは、いくつくらいの層を指して言ってるのかな、美有ちゃんは」
浦上は煙草の箱を手に持った。
「ああいう小さい子供の場合、『おばちゃん』の概念が、大人とは、ずれてるものね」
腕を組み、万友美が言った。
「幼稚園児かそれ以下の子供の場合、『おねえちゃん』というのは小学生から中学生を指すのよ。したがって、その上の『おばちゃん』は、高校生や女子大生も範疇《はんちゆう》に入るからね」
鈴村が息を吐いた。
「じゃあ、おばあちゃんていうのは、いくつくらいからを言うのですかね」
「たぶん、こう、白髪の、腰の曲がったような、ほら、童話の挿絵にでてくるようなおばあさん、ああいうのを思い浮かべるんじゃないかしら」
「てことは、八十過ぎくらいからを、おばあちゃんて呼ぶのですか」
「そうなんでしょう、小さな子供からすれば」
はああ、と鈴村は首を傾げた。
「あの子のほんまのおばあちゃんやったら、普通は五十代か六十代ですよね。それくらいの年代をおばあちゃんとは呼ばんのでしょうか」
「実際、今の五十代、六十代の女性は若いから。着ているものも身につけているものも、昔と違ってカラフルだし、子供から見てそんなに年寄臭く映ってないんじゃないかな。そういう意味で、おばあちゃんという感覚ではないと思うわ」
「ほんなら、おばちゃんと言うても、えらい範囲が広くなりますね」
美有が言う「おばちゃん」は、下は十五、六歳、上は八十歳くらいまでを指すということか。浦上がそう言うと、「たぶん、そうね」と万友美は苦笑した。
「犯人からの電話だけどな」
浦上は箱から煙草を一本取り出した。
「てっきり、桑島樹奈の近辺からかけていると思っていたんだよ。樹奈の様子を見ながらかけているのだと。が、実際は、大阪にも神戸にも、京都の公衆電話からかけていたんだ。つまり犯人は、運搬役の桑島樹奈の傍にはいなかったということなんだよな」
「それは、わからないんじゃないでしょうか」
鈴村は浦上を見た。
「樹奈を尾行している仲間はいたんかも知れませんよ。尾行している奴が、携帯電話で、京都にいる仲間に逐一連絡して、わざわざ京都の公衆電話からかけさせていた可能性もあります」
それぞれの店に着電した電話は、後になって交信記録を警察に調べられるのはわかっている。だから、携帯電話を使うことはできない。公衆電話を使うしかないのだが、樹奈の周辺で公衆電話をかけていれば、それだけで捜査員の目にとまってしまう。
ならば、別の場所にいる仲間と携帯で連絡をとればよい。仲間が、警察の目など届かない遠隔地の公衆電話から店にかければよいのである。そうすれば、まるで犯人がすぐ近くから、樹奈を見張りながら電話をしているかのように見せかけることができる。
「どっちにしろ、樹奈を見張っている人間はいたはずですよね。今、電車から降りたとか、喫茶店に入ったとか、見てへんとわからんのやから」
たしかに、いつも樹奈が喫茶店に入り、まもなくすると、必ず店の電話が鳴った。あんなにタイミングよくかけてくるというのは、やはり、樹奈の行動を見張っている者がいた証左であると、鈴村は言った。
でも、と浦上は煙草を指に挟んだ。
「見張ってなくても、樹奈の行動はわかったんじゃないか」
「なんでですか」
怪訝そうに、鈴村が首を傾げた。
「樹奈の移動はすべて、JRとか、京阪とか、阪急とか、電車を使わせていただろ。電車なら、到着時間がわかるわけだから、すぐ傍にある喫茶店に入る頃合くらい、予測できるんじゃないか」
「それもそうですね」
時刻表さえあれば、桑島樹奈の到着時間はわかる。
「どっちにしろ、対策本部はもう一回、スーパーの防犯ビデオの洗いだしにかかっている。子供をつれだした犯人の映像も、もうじきでるさ」
浦上は煙草に火をつけた。
21
受付のカウンターは、五時を過ぎると静かなものだ。サンフラワー教室は、一歳から就学前の子供が対象なので、夜間の授業はやっていない。生徒達が帰ってしまうと、教室はもちろん、受付の前の小さなロビーもなんだか広く感じられる。
奈津子はバインダーから顔をあげた。あと一クラスの日誌だけが返ってきていない。
「ごめんね、遅うなってしもうて」
教室に続く廊下から、講師が二人やってきた。彼女達はいつものように、教材セットをかかえている。ホワイトボードに貼る教材はすべて紙でできているが、一つずつが大きい。二人はカウンターの上にそれらを置いた。
「ええと、どこやったかいな」
言いながら、一人の講師が教材セットの下敷きになっている日誌を取り出した。
「はい、これ、と。欠席は三名です」
「お疲れさまでした」
奈津子は日誌を受け取った。二人はカウンターの上に散らばった教材セットをかき集めている。
一人の講師は三十半ばで、元小学校教師だったと聞いている。もう一人は短大をでて二年目で、アシスタントをしていた。二人とも独身で、いつも身綺麗にしている。もっとも、サンフラワー教室の講師は服装と化粧について詳細な規則があり、全員それを忠実に守っている。
講師の服装は華美になってはいけないが、かといって地味過ぎてもいけない。厚化粧が禁忌なのはいうまでもないが、しかし素顔で授業に臨むことも許されていないのだ。
眼鏡は禁止でコンタクトを使用、明るい頬紅と口紅、爪は短く、マニキュアは透明か薄いピンク色と定められている。季節を問わず、彼女達は淡いパステルカラーの服を身につけていた。パンツ類はもちろん、ミニスカート、ボックススカートの類《たぐい》は禁止である。膝丈より少し長目のフレアスカートと、踵《かかと》の低いパンプスが基本とされている。スカートは茶系など地味な色でもよいが、セーターやブラウスなどは暖色系か、寒色系でもくすんでいない色を選ぶこととなっている。
清潔感と安心感を子供達に与えるためということらしい。部外者が聞いたら「バカバカしい」と笑うかも知れないが、奈津子はそうは思わない。小さな子供を相手にする仕事であり、子供の知性や感性を伸ばすと謳《うた》っているのであれば、講師の身なりにもこれくらいの気を遣うのは当然だ。
彼女達の服装に対して、子供達が「清潔感と安心感」を感じているかどうかはわからない。運動靴を履き、パンツ姿で眼鏡をかけていても、「清潔感と安心感」を子供に与えられる人間はいる。だが、問題はそういうことではない。
付き添う母親が、そう感じているかどうかが問題なのだ。この教室は信用できる、この先生はやさしくて頼りになる。母親がそう思える雰囲気こそが大切なのである。
実際、この教室に通ったからといって、すべての子供の知能が飛躍的に伸びるわけではないのだし、子供の持って生まれた脳味噌の中身まで変えることはできない。けれど母親達は、教室に過剰な期待を寄せ、大きな希望を託す。
そうした母親達の気持ちを汲み取れるような雰囲気を、幼児教室は持っていなければならない。そのために、講師の言動はもちろん、服装にまで神経を遣うのである。エプロンに手を突っ込み、菓子の粉を唇の周囲につけているような保育士など、ここでは論外だ。
幼児教室に子供を通わせるだけの経済的な余裕のある母親は選択肢を持っている。数ある選択肢のなかから選ばれるには、まずは母親に気に入られなければならない。こんな規律や光景は滑稽かも知れないが、少なくとも、ここに来ている母親達はこの雰囲気を喜んでいる。
同じ年頃の子供を持っているとはいうものの、奈津子には縁のない世界だ。ここでの授業が現実にどの程度の功を奏し、役に立っているのかは知らないが、母親達は自身の意志で授業料を支払っている。高い授業料を喜んで支払う母親がいるかぎり、教室は安泰なのである。
「うちが一番、欠席多いのと違う?」
講師が、奈津子に訊いた。
「いえ、そんなことないですよ。どのクラスも今、風邪ひいてる子供さんが多くて」
秋口は、二、三歳児のクラスはとくに欠席者が多い。
「みんな、まだみたいやね」
彼女は周囲を見回した。
受付の後ろは講師控室を兼ねたオフィスになっている。オフィスには十数個の事務机が並んでいるが、一番奥に女の事務員がいるだけだった。さっきから彼女は、教材の納入の確認に余念がない。
「まだ皆さん、休憩から帰っておられませんから」
ソファの上の時計を見上げ、奈津子は言った。
他の講師達は、五時半からの会議に間に合うように帰ってくるだろう。今日は講師達の研修と会議があるのだ。
アシスタントが、教材をまとめてロッカーに片付け始めた。ロッカーは受付の斜め後ろ側にあり、粘土や折り紙やパズルなどが収納されている。
「今日はちょっと、遅うなってしもうたわね」
受付の脇のソファに座り、講師が言った。アシスタントは教材を棚に分けながら「このカリキュラム、案外時間かかりましたよねえ」と首を振った。
二人は、リトミックを取り入れた授業について、ひとしきり問題点を指摘し合った。といっても講師がほとんど一方的に喋り、アシスタントは相槌を打つだけだ。
片付けが終わると、アシスタントは講師に言われて、受付の前の自動販売機で二人分のコーヒーを買った。外にいくほどの時間はないし、ここで休憩して会議まで時間潰しをするのだろう。アシスタントは講師の隣に座った。
「ねえ、浅野さん」
紙コップのコーヒーを手に持ち、講師は奈津子を見た。
「桑島美有ちゃん、いつから教室に来やはるのか、連絡なかった?」
例の事件から三日が経っていた。
「いえ、とくには何も聞いていませんが」
「新聞とかでは、元気にしてるって書いてあったけど。でもやっぱり、お母さんから直接話を聞かないと心配でねえ」
「そうですよねえ」
アシスタントが頷いた。
「あのお母さんでは、気をきかして教室に電話入れるとか、そういうことはしゃはらへんからねえ」
言ってから、講師は口の端を少し歪めた。アシスタントも困ったように笑っている。
「ねえ、身代金取られたシャングリラホテルって、浅野さん、ピアノ弾きにいってるって、言うてはらへんかった?」
「はい、いってます」
「夜だけと違うて、昼間も弾きにいってるんでしょ」
ええ、まあ、と奈津子は曖昧に頷いた。
「なんか、こんな事件が身近に起こるって、すごいやんねえ」
興奮気味に講師は言った。
「新聞に書いてあったけど、シャングリラホテルのクロークには最初から、すり替え用の紙袋が用意されてたんやて。しかも、犯人はサンフラワー教室の紙袋を指定してたっていうんやから、ほんまにびっくりしたわ」
ねえ、と講師は奈津子の方に躯を乗りだすようにした。
「そんなん、関係者しか考えつかへんことやと思わへん?」
そりゃ、そうですよ、とアシスタントが横から口をだした。
「松島屋の展示会やってる会場ですり替えられたっていう話ですけど、そんなことできるのは関係者だけですよ」
奈津子はあの時、ピアノを弾いていたから何も知らない。刑事の言うように、周囲の様子はたしかに見てはいる。だが、それはあくまでも会場の雰囲気とか、流れとか、全体像を見ているのであって、個人の行動や表情などの「部分」を見ているのではない。つまり、通常、人が見ているものを見ているのではないのである。
「まあ、身代金取られたものの、子供が無事に帰ってきたんやから、ええけれどもね」
「ねえ、先生」
アシスタントが講師の方を見た。
「美有ちゃんのおうちって、そんなにお金持ちなんですか」
片手に紙コップを持ったまま、講師はもう片方の手を振ってみせた。
「全然」
「え、そうなんですか」
アシスタントは意外そうに眉をあげた。
「ほんまに、普通のご家庭よ」
「子供が誘拐されるっていうねんから、よっぽどの資産家とか、大会社経営とか、そんなおうちかと思うてたんですけど」
「お父さんは普通のサラリーマンよ。あ、でもなんか、脱サラして、独立しゃはるらしいけど」
「会社でも始めはるんですか」
「リサイクルショップを始めはるとか、聞いたわ」
「はああ、リサイクルショップですか」
拍子抜けしたような顔をして、アシスタントはソファに凭れた。
「身代金の要求額二千万円とか、新聞に書いてありましたよね。身代金て、あんなもんですかね」
「あんなもんですかて言われても、ねえ」
講師は奈津子の方を見て苦笑した。
「あんなもん、相場なんてあらへんでしょ」
いえね、と言って、アシスタントは座りなおした。
「たしかに二千万円は大金ですけど、ドラマとか映画やったら、もっと高いやないですか。一億とか二億とか、言いません?」
「そらあんた、テレビや映画の話やないの」
「そうなんですかねえ。どうせ、身代金要求するんなら、億の単位にしませんかねえ」
「実際、一億、二億て言うたところで、そんなもん、普通のサラリーマンにだせる額やあらへんやないの」
大企業のトップやその家族が誘拐されたというのならともかく、と講師は笑った。
「ま、普通のサラリーマンの家の子供相手なら、そんなもんなんとちゃうか」
アシスタントは、ふううんと上を向いた。
「なら、なんで、あんな普通の家庭の子供を誘拐したんでしょうね」
「知らへんかったんでしょう。あの子が普通のサラリーマン家庭の子供やと」
「知らんかったわりには、身代金の要求額が最初から小さいですね」
資産家と勘違いしていたのなら、要求額はそれこそ、一億、二億の単位になったのではないか。アシスタントがそう言うと、講師は紙コップを持っていない方の手を頬にあてた。
「普通、下調べとかしませんかね」
「そやから、調べもせんと、やったんやないの」
「そのわりには、犯人は周到な準備してましたよ」
アシスタントの言う通りだった。周到な準備をしていたからこそ、犯人は身代金奪取に成功したのだ。
「そこまで準備してた犯人が、美有ちゃんの家のこと、何も調べてないなんて、不自然やありませんか」
それもそやな、と講師は頬にあてた手をおろした。
「やっぱり、従業員のなかに、犯人いるんじゃないですかねえ」
「シャングリラホテルの?」
「そうでないと、できることやないと思いますよ」
「そうよねえ。ああいうのはやっぱり、内部でなんぞ手引きしたりする人間がいんと、無理やわなあ」
たぶん、警察もそう考えている。当日会場にいたスタッフは全員、徹底的に身辺を調べられているだろう。もちろん、そのなかに自分も含まれているに違いないと奈津子は思う。
「ねえ、陽介君のお母さんの話、聞いた?」
講師は紙コップを揺らすようにして言った。
「陽介君て、北岡陽介君ですか」
「そう。北岡陽介君の家に、犯人から電話かかってきたんやて」
「やっぱり、あれ、北岡さんやったんですか」
アシスタントは大きく目を見開いた。
身代金要求の脅迫電話は、桑島家ではなく近所の家にかかってきたのだと新聞には書かれていた。が、「近所の家」の名前は伏せてあった。
「陽介君のお母さんが言うたはったわ。あの日、家の様子がなんか変やったって」
「どんなふうに、変やったんですか」
アシスタントは身を乗りだした。
「ともかくね、美有ちゃんのお母さんが尋常やないねんて。真っ青な顔で、目は真っ赤。髪はぼさぼさやし、化粧ははげて、唇はがさがさ、肌もぼろぼろやねんて」
疲れきった顔をしているのに目だけは底光りしていて、何かにとり憑《つ》かれているかのような形相をしていたと、講師はまるで見てきたように話した。
「あ、これ、誰にも言うたらあかんわよ。わたしも口止めされてるねんから」
「はい」
言ってからアシスタントは、ぷっと笑った。
「陽介君のお母さん、お喋りですからねえ」
「ほんと、困ったものよ、あの人のお喋り好きには」
小さく首を振った後、講師はコーヒーを飲んだ。
「警察にも口止めされてるって、なんや自慢みたいに言うたはったわ」
「自慢なんでしょ、それは」
二人は声をあげて笑った。
「そやけどね」
講師は奈津子の方を向いた。
「陽介君のお母さん、ええとこもあるねんよ。この間のレクリエーションも、あの人が全部世話役引き受けてくれはったし」
「ああいう方が一人いてくださると、周囲は楽ですよねえ」
アシスタントも頷いた。
「レクリエーションとか、クリスマス会とか、行事のことをあの人に頼んでおくとね、何でもきちっとやってくれはるから、安心なのよ」
「陽介君のお母さんには、全部任せられますよね。でもま、いろんなお母さんがいますから」
笑いながら、アシスタントは薄い水色のフレアスカートの裾を片手ではらった。
「なんかようわからんけど、陽介君のお母さんと美有ちゃんのお母さんて、結構仲良いんですよね」
アシスタントの口の端は、ほんの少しだが歪んでいる。
「まあ、おうちもご近所やから」
「あの二人、対照的ですね」
「陽介君のお母さんみたいな人は、かえって美有ちゃんのお母さんみたいに適当に抜けてる人の方が、合うのかもよ」
二人はまた、声をあげて笑った。
「あ、これ、悪口と違うのよ」
言い訳するように、講師は奈津子に言った。
「のんびりしたはるというか、おっとりしたはるというか、そういう人やからねえ」
桑島美有の母親については、事務員達はもちろん、奈津子のようなアルバイト達さえもよく知っていた。ともかく、彼女の言うことやすることは「あてにならない」ので有名だった。講座や教材の申込などの提出期限は守らないし、あったことさえ忘れていることがしばしばだ。こちらはちゃんとプリントや申込用紙を渡しているし、説明もしているのに、それでも美有の母親は忘れてしまうのだ。
授業料は自動引き落としだが、教材費や特別講座受講料などはその都度徴収する。だが、彼女だけ忘れたり遅れたりするので、そのためいつも事務処理に支障をきたすのだった。
本人に確認すると、「聞いていない」と頑強に言い張る。どんなに経緯を丁寧に説明しても「知らない」と言うのである。
しかし、彼女に悪意があるわけではないのだった。本気で聞いていないと思っているのだ。つまり、完全に忘れているのである。
「でもねえ、先生。こう言っちゃ何ですけど、のんびりしてるのも程度ものですよ。申込書などの提出物なんかはご自分のことだから、遅れようが間違っていようがいいですけど、クラスのレクリエーションの準備とかで大事なことを忘れられると、本当に困るんですよ」
うんざりしたように、アシスタントは言った。
最近の私立幼稚園や小学校では、知能だけではなく、子供の協調性や社会性を見る試験項目があるらしい。他人と円滑な人間関係を築く能力が試されるのだ。
子供が数人単位で部屋に入れられ、その様子を隠し窓から試験官が観察しているのだという。場合によっては、母親とペアで部屋に入れられることもあるらしい。つまり、母親のコミュニケーション能力も、同時に試されているということだ。
サンフラワー教室では、こうした試験に対応するべく、レクリエーション活動を月に一、二回程度実施している。当番制で、役にあたった母親が自身の采配で運営するのだ。レクリエーションといってもたいしたことではなく、「生徒達が仲良くなれるお楽しみ会」という程度のものである。ちょっとしたゲームをしたり、CDを持ち込んで一緒に歌を歌ったり、手遊びをしたりして三十分過ごす。この間、泣きだしたり癇癪《かんしやく》を起こしたり、他者にちょっかいをかけることもなく全員がいい子でいられたら、その会は成功だ。
「レクリエーションの運営を任されることで、お母さん自身もいろんなことが学べるし、コミュニケーションの取り方とかも上手になっていくものなんやけどねえ」
言いながら、講師は眉根を寄せた。
「先生も困っておられましたよね」
「美有ちゃんのお母さんはね、こっちが言っておいたことなんて、しょっちゅう忘れはるし、忘れたことさえ忘れたはる。他人に言われても気がつかはらへん。本人に悪気がないだけに、周りの人も文句言いにくいし。難儀やわ、ほんまに」
ゲームの際、ちょっとしたプレゼントを子供達に配ることがある。プレゼントといっても、百円ショップで売っているような文房具やファンシー商品である。たいしたものではないが、相手が子供だけに、数が不足すると困ったことになる。もらえなかった子供は泣き喚くし、泣き喚いた子はあとの授業でもぐずり続けたりする。付き添う母親も機嫌が悪くなるので、教室の雰囲気が険悪になってかなわないと、アシスタントはこぼした。
「どのお母さんも、こういうことはすごく神経遣うてはるし、気をつけはるんやけど、なんであの人はああなんかしらねえ」
講師は息を吐いた。
「わたし、前日に電話して、プレゼントの数の確認したんですよ。心配やったから。そしたら、えらい怒らはりましてね。わたしはきちんと数の確認しましたって、怒鳴るようにして言わはるんですよ。まあ、そこまで言わはるのやったら大丈夫やろ思うてたのに、当日、やっぱりプレゼントの数が三個足りひんかったんです。もらえへんかった子供は泣きだすし、お母さん達も怒らはるし、あの時はさんざんでしたわ」
「あの人に何かもの頼むと、必ず最後、ろくなことにならへんわね」
コーヒーを飲み、講師は目をしばたたいた。
「けどもまあ、かえってこういう時は、ああいうお母さんの方がええのと違うかしらね」
「そうでしょうか」
「あったこと、片っ端から忘れていかはる人やから」
二人はまた、笑い声をあげた。
22
ホワイトボードの前に立ち、理事官が言った。
「当日、会場内のクロークに入れた者は、シャングリラホテルの従業員と松島屋の関係者だ。ホテル側のスタッフとして、クローク係二人。前川加奈、森尾早紀子。宴会場主任の広瀬剛、宴会場担当の藤吉優。松島屋関係者としては、宣伝部長阪井俊と外商係十一名。これらについては、それぞれの担当者より報告」
捜査本部は藤森署に設けられている。会議室の正面には署長、副署長、刑事部長、捜査一課長が座っていた。
会議室には煙草の煙が充満している。浦上は紫煙の先を見つめ、腕組みをした。
担当の捜査員は、当該者達について身代金が奪取された当日及び、桑島美有が誘拐された日のそれぞれのアリバイについて報告したが、特筆すべき内容はなかった。要するに、当該者達はいつもと変わらない一日を過ごしていたのだった。
少なくとも、彼らが誘拐に直接かかわった形跡は今のところない。しかし、身代金奪取にかかわっていないという証拠もなく、それぞれの捜査が続行されるのはいうまでもないことだった。
「従業員の間で、ここ最近噂になっているのですが」
藤吉についての報告をしていた捜査員が言った。
「クローク係の前川加奈と藤吉は、愛人関係にあるという話があります。加奈は独身ですが、藤吉には妻がおり、三歳と一歳の子供がいます」
会議室が少しざわめいた。
「以前から藤吉は競馬に入れ込んでおり、そのために消費者金融にかなりの借金があると言われています。これについては確認中です。借金の一部を、加奈がいくらか工面したという話も噂されています。以上です」
捜査員は着席した。「ご苦労」と声をかけた後、理事官は捜査員達の顔を見回した。
「犯人はどうやって身代金入りの紙袋を展示会会場から持ち出したのか。おそらくは、展示会関係者が何らかの関与をしていると思われる」
当日のスタッフでも客でも、すり替え用の紙袋をクロークに預けて、その番号札を公衆電話ボックスに置いてくるのは何でもないことだ。だが、樹奈が預けていった紙袋をクロークから持ち出すとは、いったいどういう方法を使ったのだろう。
「クロークから紙袋を持ち出すくらい、従業員であれば造作もないことである。とくに、クローク係なら、自分で出してしまえばよい」
しかし、と理事官は言葉を切った。
「クローク係がクロークから身代金入りの紙袋を出したとして、その後どうしたのか」
指名され、別の捜査員が立ち上がった。
「当日、会場にいたホテルの従業員は全員、制服を着ておりました。就業規則で、制服を着た従業員がホテル内で私物を持って歩くことは禁止されております。したがって、もし、制服を着た従業員が紙袋を持って歩いていたなら、これは従業員同士のなかでかなり目立つ行為ですし、印象に残るはずです。が、事件当日、私物を持って歩く従業員の姿は、会場周辺はもちろん、その他のフロアでも目撃されていません」
「ならば、私服を着た非番のスタッフという線は」
理事官が言った。
「今のところ、そうした目撃談はありません。従業員の話ですと、スタッフが私服でホテルにやってくると、かえって彼らのなかでは目立ってしまい、印象に残るというのです」
たとえば、と理事官は銀色の眼鏡の縁に手をやった。
「スタッフがクロークから出した後、客にまぎれた仲間に渡してしまえば、持ち出しは可能だろう」
「ホテルの正面玄関及び各出入口を防犯カメラで確認したところ、例のサンフラワー教室の紙袋を持って出て行った人物はいません。ただ、紙袋など、中身を入れ替えて捨ててしまうこともできます。が、ロビーやトイレはもちろん、当日のホテル内のゴミのなかにサンフラワー教室の紙袋はありませんでした。犯人は紙袋を持ってホテルを出て行ったものと思われます。紙袋なのですから、たたんで他のバッグか何かに入れてしまうこともできます」
ふむ、と理事官は眼鏡をはずした。
「どちらにしろ、ホテル従業員か、松島屋関係者に仲間がいれば、そう難しいことではないな」
「当日、スタッフとして会場にいたのは、ホテル従業員と松島屋関係者だけではありませんでした。先ほどの報告にもありましたが、ピアノ奏者の浅野奈津子と、浅野奈津子が所属している事務所の社長、篠塚梓もいました。実は、この二人はクロークを通路代わりに通っています。普段からそういう慣習になっているそうでして、当日もクロークを通らせてもらったと、二人とも話しています」
彼女達についても、当日及び、桑島美有が誘拐された日の行動は確認された。多数の証言を得ているので曖昧《あいまい》な点はない。が、彼女達が身代金授受現場にいたことは事実である。事件にかかわりがないのかどうかは、まだわからない。
「浅野奈津子と篠塚梓、この二人は、制服は着ていないのではないかね」
理事官が言った。
「はい、彼女達は私服です」
「ならば、この二人なら、紙袋を持って会場を出入りしても、とくに目立つことはないというわけだ」
「浅野奈津子のアリバイは明らかで、朝から深夜までシャングリラホテルを出ておりません」
浅野奈津子は展示会会場で夕方六時まで演奏し、七時から同ホテル最上階のラウンジでまたピアノを演奏していた。ラウンジの仕事が始まる前、地下のグリルで夕食をとっているが、このグリルは奈津子が日頃からよく仕事の合間に食事にいく店で、事件当日も奈津子が訪れていたのを店員全員が憶えていた。
ラウンジの仕事が終わるまで、彼女がホテルを出入りした形跡がないかについては詳細に調べられた。正面玄関その他すべての出入口の防犯カメラの映像に、奈津子の姿はなかった。従業員専用入口の守衛も、あの日、奈津子が出入りしたことはないと証言している。
シャングリラホテルでの仕事の際、奈津子はいつも、地下駐車場に車を停めているという。当日の駐車場の出入口はもちろん、駐車場内の全部の防犯カメラの映像が解析されたが、奈津子の姿が映っているのは午前九時過ぎの入庫時と、午後十一時前の出庫時だけで、それ以外の時間には認められなかった。
「朝九時過ぎから夜の十一時前まで、浅野奈津子はシャングリラホテルから出ていませんので、身代金の持ち出しは不可能です。偶然、当夜ホテルを出る直前の浅野奈津子を捜査員の一人が目撃しています。サンフラワー教室の紙袋を持っていたので呼び止め、中を確認しましたが、でてきたのは楽譜とカイロと手袋でした」
それから、と捜査員は会議室を見回した。
「篠塚梓についてですが、彼女は午後一時過ぎにシャングリラホテルを出ています。正面玄関の防犯カメラに映っていました」
篠塚梓なら身代金を持ち出せたかも知れない。しかし正面玄関を出る梓はそれらしい大きさの荷物は持っていなかった。小さなセカンドバッグ一つを持っていただけだったという。システム手帳くらいの大きさで、とても現金二千万円が入るようなものではないと、捜査員は説明した。
衣服に隠した可能性についても、彼は否定した。篠塚梓はかなり痩せている。当日、彼女は黒い薄手のセーターにズボンという格好だった。ポケットに現金を詰め込んでいたとしたら、これは非常に目立つはずだというのである。
百万円の束一つでも、ズボンのポケットにねじ込めば不自然な膨らみ方をするに違いない。まして女性用の細身のズボンのポケットには、入れること自体無理がある。二千万円の現金ともなれば、百万円の束が二十個だ。セーターの下になど隠したら、むしろ人目をひいてしまうだろう。女性捜査員も、梓の衣服に札束を隠すのは到底無理だと、映像を見て言ったらしい。
コートか上着を着ていたのなら、隠せたかもしれない。だが、梓は躯の線がはっきりと浮き出るような薄いセーターを着用していたのみだった。
犯人はサンフラワー教室の紙袋をホテル内で捨てていない。もし梓が身代金を持ち出しているのなら、サンフラワー教室の紙袋も持ち出しているはずである。が、紙袋はもちろん、それをたたんで隠せるようなバッグ類も持っていなかった。
サンフラワー教室の紙袋は、分厚い教材やファイルを入れても破れないようにビニールコーティングされている。ビニールコーティングされた紙袋は丈夫だが、たたんだ時大変かさばる。もとの大きさや厚さから考えて、ズボンのポケットや、薄手のセーターの下に隠せるようなものではない。
「篠塚梓と浅野奈津子が共犯という線は考えられないか。梓が身代金を持ち出し、奈津子の車に隠す、ということも可能だろう」
「梓の姿は、駐車場内の防犯カメラの映像には認められていません。彼女は奈津子の車には近寄っていないということです」
理事官は腕を組み、「サンフラワー教室についてなのだが」と言った。
「浅野奈津子がアルバイトにいっている教室の生徒が誘拐されたというのは、これはどう考えるべきか。もう一度、そこのところを確認したいのだが」
指名され、奈津子の周辺を洗っていた捜査員が立ち上がった。
「桑島美有は、浅野奈津子のバイト先の生徒ですから、当然、面識はありました。が、今のところ、それ以上のかかわりや関係はでてきていません」
「美有と、奈津子の息子は年頃が同じくらいだ。子供同士のつながりはないのか」
「まったくありません。奈津子の息子浩は、御池のベビーホテルに預けられています。サンフラワー教室にはもちろんですが、奈津子は息子を幼児教室の類には一切通わせていません。美有との接点はありませんし、美有の両親とも交流はありません」
「わかった。捜査を続けてくれ」
理事官は眼鏡をかけなおした。
「現在、現金二千万円が入るだけの大きさの鞄やバッグ、紙袋類を持った人物を、シャングリラホテルの防犯カメラの映像で確認中である。また、服装に隠すことのできる可能性のある人物も視野に入れて、確認を急いでいる」
あの日、ホテルに出入りした一般客は膨大な数になる。展示会に出入りした客だけでも二千人以上だ。展示会の客は、招待状を持った客ばかりだったから、身元の特定はそう難しくないはずである。しかし、犯人が正規の招待状を持った客とは限らない。招待状がなくても、スタッフに共犯者がいれば会場に入ることは可能だ。受付さえ通ってしまえば、後はチェックを受けることもない。あるいは、招待状に記載された人物になりすましたということも考えられる。あれだけ周到なことをやる犯人なのだから、自分の足跡を残すようなことは避けているに違いない。
「次、シャングリラホテルの電話コーナーについての報告を聞きたいと思う」
理事官に指名された捜査員が立ち上がった。
「電話コーナーに、犯人はクロークの番号札を置いていました。コーナーに設置された防犯カメラを解析したところ、当日と前日、当該の電話台を使用した人物は合計三十八名でした」
言葉を切り、捜査員は報告書から顔をあげた。
「いずれもとくに不審な点はなかったのですが、一人だけ、サングラス、帽子、コートの襟を立て、俯き加減で顔を隠した人物がいました。事件当日、午前十時過ぎにあらわれています」
会議室が一瞬、どよめいた。
「体型と服装からして女性と思われます。トレンチコートにズボン姿でした」
その服装なら、小柄な男という可能性もないわけではないなと、浦上は思った。
「この人物は、手袋をしていました」
番号札からは、樹奈とクローク係の前川加奈の指紋しか検出されていない。
「防犯カメラの映像では、この人物が電話帳に番号札を置いているかどうかは判別できませんでした。この人物があらわれてから午後三時まで、当該の電話機を使った者はいません」
番号札を置いていったのはおそらく、この人物と考えて間違いないだろう。
「映像から割り出した当該人物の身長ですが、百四十五センチから百五十五センチ前後ということです。ちなみに、前川加奈は百五十一、森尾早紀子は百五十三センチです。他のクローク係の身長も確認しましたが、いずれも百五十五センチ以上でした」
浅野奈津子は加奈や早紀子よりかなり身長があった。たぶん百六十センチ以上はあるだろう。篠塚梓は奈津子よりもさらに背が高かった。
「デパート関係者はどうだ」
「当日、会場にいた女子従業員のうち、三名が百五十センチ前後でした。が、彼女達は全員、クロークには入っていません。売り場の関係者の証言です」
「男の店員かホテル関係者で、該当する身長の者はいるか」
「確認しましたが、一人もいませんでした」
ふむ、と理事官は頷いた。
「それと、被害者が誘拐された現場、ニューストアの防犯カメラ映像の再度の解析結果を報告します」
捜査員は手元の書類に目をやった。
「被害者の証言通り、紺色の野球帽、同じ色のジャンパー、ズボンの、二、三歳と思われる子供を抱いた人物が確認されました。時間は午前十時五十八分」
全員が、ほう、と息を吐いた。
「子供は、この人物のコートの襟の中に頭をもたれさせるようにしており、顔の確認はできませんでした。が、おそらく背格好から、桑島美有に間違いないものと思われます。母親からも、本人に間違いないと証言を得ました」
そして、と捜査員は軽く咳払いをした。
「この人物ですが、子供を抱いているため、顔はほとんど映っていませんでした」
野球帽をかぶった子供の頭部が邪魔をして、顔の下半分が隠れてしまったのだと捜査員は説明した。
「大きめのサングラスに、黒っぽいニット帽をかぶっています。服装は、黒っぽいダウンコートのようなものを着ており、ズボンにスニーカーを履いています。身長は、百四十五センチから百五十五センチ前後ということです」
また、会議室がどよめいた。
シャングリラホテルの電話コーナーにあらわれた人物と、美有をニューストアから連れ去った人物は同一人物である可能性が高い。
唇を結び、浦上は天井を見上げた。
23
ですから、と気色ばんだ樹奈の声は裏返った。
「聞いていませんと、言ってるでしょ」
「先週、ファックスもお送りいたしましたし、また、お電話でも確認いたしましたが」
奈津子が言うのを遮るように、「いいえ」と樹奈は首を横に振った。受付の周囲で、他の母親と子供達が遠巻きに見ている。
奥にいた女の事務員が受付にやってきた。受講者にカードを返却するためだ。本来は奈津子の仕事だが、樹奈の様子を見ていつ終わるかわからないと思い、あわてて手伝いにきたのだろう。
「うちはしばらく休んでいたのですから、そういうことはちゃんと伝えてくださらないと困るんですよ」
樹奈は躯を乗りだした。
「申し込み期限がきてからこんなこと聞かされても、意味ないでしょ」
事件から三週間が経っていた。桑島美有は、今週の授業から参加している。美有は週三回の授業を受けていた。教室ではいつもの授業とは別に、来週一日だけ親子面接の特別授業が開催されることになった。希望者のみの授業だが、ほとんどの母親が申し込んでいた。
親子面接の特別授業は個別指導なので、一組につき三十分ずつの枠を取っている。事前に人数の把握が必要であり、申し込み制になっていた。
「プリントは、ファックスだけではなくて、ご自宅の方にも郵送させていただいたんですが」
奈津子が言った。
「だから、そんなものうちには届いてませんて言ってるでしょ」
受付の前に、美有のクラスの担当講師とアシスタントが歩いてきた。
「桑島さん」
講師に呼ばれて、樹奈は振り返った。
「ここのところ、桑島さんのおうちは色々大変でしたものね。ファックスも郵便も、他の連絡物にまぎれこんでしまったのかも知れませんね」
あ、はい、と樹奈は頷いた。
「親子面接の授業、希望されますか」
「はい」
講師は奈津子に、当日のスケジュール表を持ってくるように言った。奈津子が事務局にいくと、奥にいた事務員の女が気の毒そうに奈津子を見あげた。
「これ、スケジュール表です」
事務員の女は、クリアファイルに入れられた書類を机に置いた。
「ありがとうございます」
「相変わらずやね、あの人」
小声で事務員は言った。
「あんなことがあった後なら、もうちょっといろんなことに気配るようにならはるかと思うてたけど」
何も答えず、奈津子はクリアファイルを持って受付にもどった。
「はい、ありがと」
受け取ると講師は、クリアファイルから書類を取りだした。
「ええと、空きはないみたいですねえ」
書類に目を通し、講師は言った。
「一番最後でもいいですか」
「最後って、何時ですか」
「五時半になりますが」
五時半か、と樹奈は眉根を寄せた。
「ごめんなさいね、他の時間は全部詰まっているんです。申し込みの早かった人から順に希望の時間を取っていきましたんで」
「そこしか、空いてないんですか」
「ええ」
しばらく、唇を尖らせるようにしていたが、樹奈は言った。
「そしたら、その時間でいいです」
「わかりました。では、五時半ということで」
講師は書類を受付のカウンターに置き、美有の名前を書き加えた。
「来週の水曜日、五時半に決まりましたので、忘れないでくださいね」
「はい」
桑島さん、と事務員が言った。
「申し訳ありませんが、申し込み用紙に記入していただけますか」
「あ、はい」
事務員は申し込み用紙をカウンターに置いた。傍らで、奈津子はカードの返却を始めた。講師はもう、樹奈の方は見ずに、帰っていく生徒達に挨拶をしている。アシスタントもいつものように、満面の笑顔で生徒達に手を振っていた。
子供達は「先生、さようなら。ありがとうございました」と判で押したような言葉を返している。母親達は講師に礼を言って、順に奈津子から受講カードを受け取り、子供の手を引いて帰っていった。
手続きを終えた樹奈を最後に見送った後、講師は受付の方を振り向いた。
「大変やったわね」
「いえ、初めてじゃありませんから」
そうですよね、とアシスタントが笑った。
「なんか、よけいにひどくなったような気がしますね、美有ちゃんのお母さん」
「あの人の場合、ショック療法なんてのは、きかんのかしらね」
講師は苦笑いしながら、受付の前のソファに座った。アシスタントも隣に腰掛ける。
「参加申し込みのプリントは、全員に配付してるものねえ。欠席者には教室から郵送しているのやし」
「そうですよ。でもあの人はいつも、自分は聞いてないって、言い張りますからねえ」
アシスタントは肩をすくめた。
桑島美有の母親は、こうしたトラブルがしょっちゅうだった。たぶん、今回も郵送した申込書を「受け取っていない」と言うだろうと事務局のスタッフは考え、ファックス送信も念のためにしておいたのである。だが、それでもこの有り様だった。
「あそこまで、ぼんやりがひどいと、わざとかなあと思いますよねえ」
困ったように、アシスタントが言った。
「わざとと違うから、厄介なのよ」
講師は首を振った。
「わざとあんなこと言うたはんのやったら、こっちももっと、文句言いやすいわよ。どっちが間違うてんのんか、ちゃんと本人はわかったはるということやからね。こっちも理詰めで話ができるわ」
しかし、美有の母親には理詰めで話はできない。根本のところで認識を誤っているからだ。どんなに説明をしたところで話は噛み合わず、いつまでたっても埒があかない。
はああ、と気の抜けたような声を漏らし、アシスタントはソファに凭れた。
「けどね、あの人に悪意はないのよ。悪意がないから、本気で相手が悪いと思うたはる」
「あの人、ほんまにそう思うたはりますよねえ」
「悪意がないというのは、自覚がないということよ。自覚がない人は、反省も後悔もせえへん。反省も後悔もせえへん人は、何度でも同じことを繰り返さはる」
講師が言うと、アシスタントはまた、はああ、と気の抜けた声を漏らした。
24
押印し、奈津子は書類を差しだした。鼻の下に灰色の髭を生やした事務員は書類を受け取り、老眼鏡を額に上げた。
「ええと、そしたらこれで完了ということで」
サインと押印部分に目をやりながら、事務員が言った。
「車の修理ももう終わってはりますからな」
「はい」
奈津子が頷くと、隣に座っていた早苗が安堵したように小さく息を吐いた。
「中林さん」
事務員は早苗の方を向いた。
「これからは、安全運転で頼みまっせ」
「わかってます」
椅子に座ったままだが、制服姿の早苗は少しばかり背筋を伸ばした。
奈津子と早苗の接触事故はたいしたものではなかった。奈津子の車の一部が少しへこんだだけで、奈津子自身はけがもしていない。
「あんたにしては、えらい珍しいことですな。今まで小さい事故すら、一つもあらへんかったのに」
「これから、気をつけます」
手に持った帽子に目を落とし、早苗は言った。
早苗の勤めている京一タクシーの事務所は、西ノ京にある。西大路から小道を入ったところで、町工場や倉庫が並んでいる一角だ。洗車場や駐車場を備えた敷地はかなり広い。その中にぽつんと事務所のプレハブがあるだけで、他には何も建物がなかった。たぶん、町工場の跡地だったのだろう。
「まあ、あんたもこちらさんも、けががなかったんで何よりでしたけどね」
事務員は老眼鏡をかけなおした。
六十くらいだと思うが、ちょっとくたびれた灰色の背広を着ているので、実際より年齢《とし》をとって見えるのかも知れない。右腕につけている黒い腕カバーもくたびれているし、老眼鏡もずいぶん古いものなのか、レンズが黄色味がかっていた。
「運転手は安全運転が一番」
書類をまとめながら、事務員は言った。
「まずはお客さんの安全。そして自分自身の安全を心掛けてたら、自然と周りの人や車も安全になるんです。忘れんといとうくりゃっしゃ、中林さん」
「はい、わかっております」
早苗は大きく頷いた。
「そしたら、これがコピーです。お渡ししときますさかい」
事務員が奈津子に書類を手渡した。
「それとね、中林さん。昨日言うてた人、もうじき来やはると思うさかい、もうちょっと待ってて」
「はい」
事務所を見回すと、事務机が六個ほど並んでおり、いずれも五十代くらいの男が仕事をしていた。奥にはドアがあり、あれは無線室だと、さっき早苗が教えてくれた。プレハブはそんなに古いようには思えないが、置かれている机や椅子はかなり年季が入っている。三台あるパソコンのキーボードも黄ばんでいた。
「ほな、おおきに、ご苦労様でした」
事務員が言い、奈津子は礼を言って席を立った。早苗も立ち上がり、事務所の隅にある飲み物の自動販売機に誘った。
事故の夜以来、浩はミヨ子の世話になっている。仕事の前に浩を早苗の家に連れていくのが、奈津子の日課になっていた。浩はミヨ子にすっかりなついており、ミヨ子も親身になってくれるので、安心して仕事にいけるようになった。
「コーヒーでええか」
「あ、すみません」
早苗は硬貨を入れた。
「あんた、仕事は何時から?」
「今日は夕方からです」
「また、シャングリラホテルか?」
言いながら、ボタンを押した。音をたてて缶コーヒーが取り出し口に落ちてくる。缶コーヒーを手渡し、早苗は顔を近づけた。
「なあ、シャングリラホテルのあの事件て、誘拐されたんは、あんたがアルバイトにいってる幼児教室の子供やってんてなあ」
以前、ミヨ子に訊かれるまま、サンフラワー教室に事務のアルバイトにいっていることを話した。隠すほどのことでもないと思ったからだ。
「やっぱり、あんたも警察に色々訊かれたりしたんか」
好奇心に満ちた目で、早苗は奈津子を見ている。
「ええ」
「警察って、根掘葉掘訊くんやろ」
半ば羨ましそうに言った。
「あの日、身代金受け渡しの現場であんた、ピアノ弾いてたんやもんなあ。なんか、すごい偶然やなあ」
感心したように早苗は首を振っている。
「なかなか、そういう事件現場に遭遇するなんてこと、あらへんで」
「いい迷惑ですよ、本当に」
首を傾げ、早苗はまた自動販売機に硬貨を入れた。
「なんで」
だって、と奈津子は語気を強めた。
「警察にしつこく訊かれるんですよ。身の回りについても色々調べられるんです。こんなに迷惑なことはありませんよ」
早苗は自動販売機のボタンを押した。腰をかがめて缶コーヒーを取り、「そういうもんかなあ」と言った。
「中林さん」
「はい」
「羨ましいんですか」
いや、そんな、と早苗は缶コーヒーを持ったまま手を振った。
「なんだか中林さん、羨ましそうですけど」
「ベ、別に羨ましいってことは、あらへんがな」
きまり悪そうに早苗は頭の後ろを撫でた。
「その、何ていうかな、テレビとか、新聞とかに騒がれるような大事件て普段、別の世界の話みたいに思うてるやんか。けど、実際こうやって身近なとこで事件があると、あ、ほんまにこういうことてあるのやなあと、思うわけやな」
両手で缶コーヒーを持ち、早苗は真面目くさった顔をした。
「つまり、実感するってことかなあ」
「だから、何なんですか」
「いやま、別にそれだけのことやけど」
自動販売機の前にはベンチが設置されていた。早苗はそこに座り、奈津子にも座るように言った。
「で、犯人はまだ、わからへんの」
「わかってたら逮捕されてると思います」
事件についての記事は、新聞でもあまり見かけなくなった。新しい事件は次から次に起こる。何の進展も変化もないものは、あまり取り上げられなくなっていく。
「ほんまに、何もわかってへんのかなあ」
プルトップを開け、早苗は天井を見上げた。
「マスコミには内緒にしてるけど、警察はもう、誰かわかってるってことはないのかな」
「ないんでしょ」
「あんた、えらいあっさり言うなあ」
つまらなそうな顔をして、早苗は缶コーヒーを飲んだ。
「だって、わかってればもう、逮捕してるはずでしょ」
「そら、かぎらへんで。証拠を集めたり、確認取ったりしてる最中かもわからへんがな」
「そうですかねえ」
奈津子もプルトップを開けた。
「日本の警察は優秀なんやで。案外今頃は、犯人を追い詰めてるのかも知れへんな」
「だといいんですけどねえ」
奈津子は缶コーヒーに口をつけた。
紙袋の中身を見せろと言った刑事は、翌日も奈津子が仕事の準備をしている披露宴会場まで事情を訊きに来た。浦上というあの刑事は、奈津子の周辺についても色々と調べているのに違いない。
調べられて困るようなことなど何もないが、自分もまた、疑いの目で見られているという不快感は拭《ぬぐ》い難い。早く犯人が捕まってくれれば、こんな思いをしなくてもすむのに。
「案外、犯人逮捕の電撃ニュースとか、近いうちにあるかもわからへんで」
早苗が言った時、入口のドアが開いた。
「えらいすんまへん。昨日お電話いたしました者ですが」
六十過ぎの男が立っていた。仕立てのよい紺色の背広を着て、デパートの紙袋を提げている。一瞬、何かの売り込みにきた営業マンかと思ったが、それにしては品も身なりもよい。
「あ、どうもわざわざ」
先ほどの手続きをしてくれた事務員が出迎えた。
「こっちにお入りください」
促され、男は事務所の応接セットのソファに座った。
「中林さん、お客さんや」
呼ばれて早苗は、腰を上げた。奈津子は早苗の飲みかけの缶コーヒーを預かった。
「いやあ、どうもどうも。お世話になりました、おおきに」
男はこちらを見て満面の笑みを浮かべている。早苗がいくと、男はすぐさま立ち上がり、早苗の手を握った。
「この人や、この人や。わたしはほんまに、運がよかった。おおきに、おおきに」
握った手を揺らしながら、男は何度も礼を言った。
「いえ、当たり前のことをしただけのことですさかい」
早苗は困ったように笑っている。
「いや、そんなことあらしまへん。あんたみたいな人にあたらへんかったら、わからずじまいのままでしたわ。ほんまに助かりました。今日は直接、あんたにお礼が言いとうて参じましたんや」
「それは、ご丁寧に、ありがとうございます」
事務員に促され、男はソファに座った。
「いえね、電話でもお話ししました通り、あれは大事な書類やったんですよ。それをあんた、タクシーに忘れてきてしもうて」
男は大仰に目を見開いた。
「忘れたことに気《きい》ついたのは、知り合いのとこに着いてからでしたんや。その前にちょっと寄って、用を片付けてましたんで、もう、十五分ほど経ってましたなあ。どっちにしろ、乗ったタクシー会社を憶えてるわけでもあらへんし、ましてナンバーも何も憶えてしまへんがな。タクシーに乗ってる間、ずっと考え事してましてね、ほんまに何も憶えてないんですよ。でね、もう諦めるしかないと」
それから二日後、家の近所を歩いている時に、突然タクシーに呼び止められたという。それが早苗だった。
「この人がね、お客さん、二日前うちの車に紫明通から乗ってくれはりましたやろって、声かけてくりゃはったんです。で、忘れ物しゃはりませんでしたかと訊いてくりゃはった。わたしもう、ほんまに信じられませんでしたわ」
その時、別の客を乗せていた早苗は「忘れ物は会社で保管していますから」と会社名と電話番号を教えて走り去った。彼はすぐに会社に連絡して確認し、その日のうちに書類を受け取ったのだった。
「あの日、あんたに直接お礼を言いたかったんです。けど、ちょうど勤務中ということでして、いつお会いできるか、会社にお訊きしたんですよ」
そして今日、訪ねてきたのだと、男はうれしそうに話した。
「それにしてもあんた、よう、わたしの顔を憶えててくれはりましたな」
いえ、と早苗が照れる傍で「この人はね、天才ですねん」と事務員が言った。
「運転手は皆、ミラーでお客さんの顔を見ているんです。けどね、その後も、そのお客さんの顔を憶えてるかというと、大抵はそんなことなくてね、忘れてしまうもんです。そやけど、この人は違うんですよ。一度自分の車に乗せたお客さんの顔は、絶対に忘れはらへんのですわ。お客さんが道歩いたはるのを見ても、以前乗せた人やと、わからはるんです」
実は、以前にも似たようなことがあったのだと、事務員は説明した。
「そやからこの人は、顔を憶える天才と呼ばれてますのや」
「はああ、そうですか。職人芸ですなあ」
男は何度も頷くと、持ってきた紙袋から大きな包みを取りだした。
「つまらんもんですが、これ、会社の皆さんでまた召し上がってください」
「えらい気遣うていただいて、すんませんなあ」
言いながら、事務員は遠慮なく受け取った。
「それからね、これはほんの気持ちです」
小さな包みを男は早苗に差しだした。
「いえ、そんな。当たり前のことをしただけですさかい」
「どうか、そう言わんと受け取っていただけませんか。あんたのお陰で助かったんですさかい」
けど、と早苗は固辞した。
「中林さん」
事務員が言った。
「お受けしときなさい」
「あ、はい」
男は満足気に頷いた。
その夜、奈津子はラウンジの仕事を終え、早苗の家に浩を迎えにいった。
「はいはい、お疲れさん」
いつものように、ミヨ子が玄関で迎えてくれた。
「今日は浩君、寝てしもうたんや」
「まあ、どうもすみません」
「寝入ったばっかりやし、今起こすのはかわいそやなあ。ちょっと上がって待ってあげてくれへんか」
早苗が夜遅い日は、ミヨ子は何かと奈津子に上がっていけと言うことが多い。奈津子は頷き、靴を脱いだ。
浩は炬燵で眠っていた。折りたたんだ座布団を枕にしている。
「早苗さんは今日、遅いんでしたっけ」
「そうや」
ポットの湯を急須に入れながら、ミヨ子は頷いた。
奈津子が隣に座っても、浩は眠ったままだった。そっと浩の前髪を撫でてみるが、眉一つ動かさない。
「可愛い顔して寝てるな、浩君」
ミヨ子は湯飲みに茶を注いだ。
「まあ、こんな可愛いのは今だけやで」
ええ、と奈津子は笑った。
「あんた、笑うてるけど、ほんまに、あっと言う間やで」
湯飲みを奈津子の前に置き、ミヨ子は小さく息を吐いた。
「この子が、あんたより背が大きいなった時のことなんか、想像つかへんやろ」
奈津子は浩のふっくらとした頬を見つめた。奈津子より背が大きくなった浩。考えたこともない。
「今に、そういう日が来るんやで」
ミヨ子は湯飲みを両手に持った。
「信じられへんやろうけど、いずれ、この子はあんたより大きいなる日が来るのや」
それきり、沈黙が続いた。
古い掛時計が、かちかちと音をさせている。今時、こんなものがあったのかという振り子式の時計だ。時計盤は黄ばみ、ガラスもくすんでいた。けれど、居間の真中に掛けてあるのだから、あの音はきっと正しい時を刻んでいるのだろう。
「あの、早苗さんには息子さんがいらっしゃるんですよね」
ふと、滝沢医院にいった夜のことを思い出した。あの時、滝沢はたしか、「正晴君の嫁さんか」と奈津子を見て言った。早苗が「正晴はまだ二十歳です」と答えていたのを憶えている。
「うん、いるえ。息子がいる」
両手で湯飲みを揺らしながら、答えた。
「こちらにお住まいではないのですか」
「大阪にいるわ」
ミヨ子は水屋の戸棚を開けた。
「まあ、それはいいですね。大阪なら近いから、いつでも会えますものね」
「ま、近いことは近いけどな」
戸棚から、菓子の袋と器を取り出して机の上に置いた。
「大阪で、何をなさっているのですか」
「付き人」
がさがさと音をさせ、ミヨ子は菓子の袋を器の上で逆さまにした。
「え?」
「お笑い芸人の付き人。ちょっとも、帰ってきいひん」
派手な音をたてて、かりん糖が器に盛られた。ミヨ子の好物だ。普段、相伴する浩もすっかり気に入ったらしく、家でも「かりん糖が食べたい」と言ったりする。
「息子さん、お忙しいんですね」
「さあな、忙しいのか、なんか知らんけど」
言いながら、かりん糖の器を奈津子の前に置いた。
「あ、恐れ入ります」
「ちょっとこういうもん食べると、疲れがとれるわ」
促され、奈津子はかりん糖をひとつ手に取った。
「男の子って、そういうものだっていいますものね」
いや、とミヨ子もかりん糖をつまみあげた。
「あれは、特別やな」
音をさせてかりん糖を齧った。
「あれは、あかんたれなんや」
「あかんたれ?」
「気があかんさかい、何をやってもあかん。続かへん」
「やさしい性格の坊ちゃんなんですね」
ミヨ子はにっこりと笑った。
「あんた、ええように言うてくれはるねんな」
「いえ、そんな、ええようになんて」
「たしかに、正晴は気のやさしい子やった。けどな、気はやさしいても、しっかり生きていく子はしっかり生きていくがな」
はあ、と奈津子は相槌を打った。
「正晴も、片親でしたんや」
「そうでしたか」
早苗が独身であるのは知っていたが、その経緯については、何も聞いていない。
「今の時代、片親しかいいひん子供、何も珍しいことあらへん」
ミヨ子は奈津子を見た。
「母親にしたら、子供をかわいそうな目に遭わせてると思うやろ。それはその通りなんやから、それでええねん。実際、離婚ていう親の身勝手に子供を巻き込んでるのやからな」
早苗も夫と離婚しているのか。
「正晴が小学校の時やったな」
ミヨ子はまた、音をさせてかりん糖を齧った。年齢《とし》のわりに歯が丈夫らしい。
「離婚されて、ご実家にもどってこられたのですか」
「そんなもん、家になんか入れるかいな」
ミヨ子は眉間に皺を寄せた。
「娘がコブ付きのでもどりになんかなったら、近所で道歩かれへんがな」
当時は下京区の古い長屋に住んでいたので、娘の離婚のことは周囲に隠し通したと、ミヨ子は強い口調で言った。
「そこまで、隠さなければならないものですか」
たしかに、離婚歴は自慢にはならないだろうが、隠すほどのことではないだろう。
「あんた、隠さんでええことやと思うか」
「はい」
ミヨ子は茶を飲んだ。
「それは、本人だけが思うことや。親兄弟にしてみたら、こんな迷惑なことはあらへんのやで」
「でも、経済的に世話になっていなければ、迷惑だなんてことは」
「金の世話になってへんかったら、何やってもええと思うてるのか」
湯飲みを両手に持ち、ミヨ子は顎をあげた。
「身内が離婚したとなれば、世間は皆、おもしろがっていろんなこと言うがな。ええか、人の口に戸は立てられへんのやで。本人がいろんなこと言われるのは、そら御自由や。全部承知の上でやったことやからな。けどな、親兄弟は関係あらへん。たまたま、身内にそんな出来損ないがいたというだけのことや。そやのに、同じように好奇の目で見られたり、いろんなこと言われるのやから、迷惑千万や」
奈津子は目を伏せた。自分は、それほどに身内に迷惑をかけているのだろうか。
「一番、迷惑かけられるのは子供や。何も悪いことしてへんのに、巻き込まれてえらい目に遭わされるのやからな」
ミヨ子は炬燵で眠る浩を見た。
「それだけは忘れたらあかんで」
けどな、と小さく言った。
「あんた、自分で決めたことなんやろ」
「はい」
「間違うてたと思うか」
「いいえ」
「なら、わたしが今言うたこと忘れんと、顔をあげて生きていったらよろし」
奈津子はミヨ子を見た。叱責されているのか、励まされているのか、よくわからなかった。
「自分のしでかしたことは、身内にとって迷惑千万なことやったということは忘れたらあかん。けど、犯罪やいうわけやないのや。なら、子供には普通の母親と同じ気持ちで接してやったらええのや」
ミヨ子はまた、かりん糖に手を伸ばした。
「自分の都合で片親にしてしもうて、子供に悪いと思うのは、まっとうな親なら当たり前のことや。そやけどな、自分の子供をかわいそうなと思うてばっかりでは、おかしいなってしまうのやで、親も子も。あんたは子供を引き取って、親元にも頼らんと自分の手で育ててるやないか」
かりん糖を指先でつまみ、ミヨ子は言った。
「わたしはあんた、偉いと思う」
そやけどな、と奈津子を見た。
「あんたみたいなでもどり、身内にいたらわたしは嫌や」
かりん糖を口に放り込んで、ミヨ子は笑った。
25
ホテルには、各フロアの要所に防犯カメラが設置してある。それらの映像も詳細に分析されたが、当日のシャングリラホテル内で、サンフラワー教室の紙袋を持ち歩いていた人物は見つからなかった。
現金二千万円という札束の容量に足るような紙袋、鞄、風呂敷、箱等を持って出入りした人物がリストアップされた。膨大な数にのぼるが、一つ一つ虱《しらみ》潰しにあたって確認作業が進められている。
樹奈が展示会場のクロークにサンフラワー教室の紙袋を預けたのは午前十一時半である。この時間だと、大半の宿泊客はすでにチェックアウトをすませている。シャングリラホテルのチェックアウトは午前十時なので、それ以降に旅行鞄やスーツケースを持ってホテルを出た客は数名しかいなかった。
フロント係の証言に基づき、宿泊客名簿と照合した結果、それらの人物は速やかに特定され、身元も確認された。彼らについて内偵をしたが、今のところ不審な点は見つかっていない。
当日、百万円の札束二十個が入りそうな大きさの袋を持ってホテルから出ていったのは、やはり松島屋の展示会を訪れた客が圧倒的に多い。展示会会場で買い物をした客は、品物を松島屋の紙袋に入れてもらうのだから当然である。
捜査本部は、松島屋の外商係や店員に客の映像を見せて、名前と買った品物を確認させた。いずれも身元のしっかりした得意客ばかりで、不審者はいない。
防犯カメラの映像で、特異な客がいるのが捜査陣の目にとまった。どう見ても、松島屋の得意客には見えない風体の老女がいたのである。松島屋関係者によると、辺見タカヨというのだそうだ。タカヨは招待状を持たずに入場していた。
珍妙な帽子をかぶり、寝巻きのようなズルズルとした服を身につけた老女だった。モノクロ映像でも、かなりの厚化粧をしているらしいのがわかる。
「結構、京都市内のデパートや一流ホテルの関係者の間では、有名なばあさんらしいですよ」
鈴村が言った。
午後九時をまわり、捜査本部には、鈴村と浦上しかいない。鈴村は、担当の捜査員から聞いた情報を話した。
「まあ、何をするわけでもなく、単に会場に入りたいだけというか、そんなばあさんらしいんですよ。年寄のことでもありますし、敢えて関係者もつまみだすことはしていなかったようです」
「事件と何か、関連はありそうなのか」
浦上は煙草の箱を取りだした。
「今のところ、何も出てきてないそうですよ。四条から大和大路を下がったあたりの古いアパートに住んでいましてね、一人暮らしです。身寄りはないようでして、年金暮らしですよ」
当日、タカヨは朝一番に会場にやってきたという。
「朝十時のオープンからずっと展示会場にいたということでして、一応、話は聞いたそうなんですが」
鈴村はちょっと困ったように頭の後ろに手をやった。
「桑島樹奈が会場に入っていったのが、十一時半です。で、タカヨばあさんに、十一時半頃、会場のどのあたりにいたのかと訊いたらしいんですがねえ」
展示会場はかなり広かった。客も結構入っていたので、どこにいたとしても全体を見渡すことは不可能だっただろう。しかし、クロークか出入口の周辺にいたとしたら、タカヨも何か見ていた可能性がある。
「あのばあさんによるとですね、自分は腕時計が嫌いで、絶対にはめないんだと、こう言うらしいんですよ。おまけに、携帯電話も持ってませんし、時間なんかわからんと言うんです」
年金暮らしの年寄なら毎日暇を持て余しているわけだから、時間など気にする必要もないということか。
「ただ、桑島樹奈が血相を変えて会場内のクロークに飛びこんできたのは見ていたそうです」
華やかな客達のなかで、地味な格好の樹奈は目立っていたのだろう。
「防犯カメラの映像では、タカヨは九時四十三分にシャングリラホテルの正面玄関を入り、午後三時八分に出ています」
おい、と浦上は煙草を指にはさんで言った。
「朝の十時前から午後三時過ぎまで、このばあさん、何してたんだ」
「展示会場にいたんですよ」
「五時間もか」
「いつものことらしいですよ」
鈴村は手帳に目をやった。
「ごく最近もですね、三星デパートの展示会や、ホテルのイベントにいたようですよ。何かあると必ずと言っていいくらい、やってくるんだそうです」
「どうやって、展示会やイベントの開催を知るんだ」
「そりゃ、新聞広告とか見るんじゃないですか。デパートの展示会は、カード会員だと催事の案内なんかが送られてくるし。ホテル主催のイベントなら、新聞やホテルの発行するパンフレットに広告がでます。が、企業主催のお得意様招待会みたいなのにまで、このばあさんはやってくるんだそうですよ」
「そんなの、どうやって嗅ぎつけるんだ」
「つまりですね、イベントやパーティーがあるとかないとか関係なく、ホテルのパーティー会場を毎日見て歩いてるんですよ。実際、いつもどこかに出没してるみたいですし」
鈴村は、京都市内のいくつかの一流ホテルの名前をあげ、ここらあたりを毎日まわっているのだろうと言った。
「会場にいくとですね、タカヨは何をするということもないんです。ただ、ぶらぶらと歩きまわるだけなんです。ビュッフェ形式のパーティーなら飲み食いをして、デパートの展示会なら喫茶コーナーでコーヒーを楽しんで、とそれだけのことらしいんですよ」
招待状も持たないそんなたかりのようなばあさんを、関係者は追いだしたりしないのだろうか。浦上がそう言うと、「そうでもないらしいんですよねえ」と鈴村は目をしばたたいた。
「スリとか置き引きとかやるわけでもなく、ただ、飲み食いするだけのことだし、まあ、スタッフもとくに咎めだてはしてないようですね」
これといった邪魔をするわけでもないから、大目に見られてきたということか。
「それと、宴会係の藤吉と、クローク係の前川加奈のことですが」
藤吉は、男にしては顔や躯の線の細い奴だった。加奈は、とくに人目を惹く美人というわけではなかったが、濃い睫毛の目と、少し厚めの唇が印象に残っている。
「加奈は独身だが、藤吉は妻子持ちだったよな。あの二人、随分前からなのか」
「聞き込みの結果では、いつからというのははっきりわからないのですが、何ヶ月か前から一部のスタッフの間では噂になっていたようですね」
それでですね、と鈴村は顔を上げた。
「藤吉の妻は事件の少し前、子供を連れて家を出ています」
事件の少し前、とつぶやきながら、浦上はライターを手に持った。
「家を出たって、どこへ」
「実家に帰っています」
「前川加奈が原因なのか」
「それがどうも、違うようなんですよ」
「加奈の他に女でもいるのか」
「いえ、借金ですよ」
ああ、と浦上は頷いた。かなりのギャンブル好きで消費者金融から八百万円ほどの借金があると報告があがっていた。
「藤吉は競馬に入れ込んでますからねえ。一時期は同僚から借りていたこともあったようですよ。借りた金を返さないとかなんとかで、問題になったみたいです。一応、職場の人間に借りていたものについては藤吉の父親が工面したので、首はつながっていますがね。しかしながら、先日の報告にもあったように消費者金融の借金はまだかなり残っています」
八百万円ともなれば、三十代のホテルマンに簡単に返済できるような額ではない。
「妻が家を出てから、加奈が頻繁に藤吉のマンションに出入りしているのが目撃されているそうです」
「半同棲でもしているのか」
「まあ、それに近い感じですかねえ」
「加奈は、藤吉と結婚するつもりでいるのか」
「そうなんじゃないですか。金を貸していたという噂もありますし。以前、職場の上司がこれについて問いただした時、本人は否定も肯定もしなかったということです。庇《かば》っているんでしょう、藤吉を」
鈴村は苦笑し、手帳を閉じた。
「妻が出ていったのなら、加奈としては、願ったりかなったりでしょうな」
26
梓は進行表から顔をあげて言った。
「カラオケで歌うより、伴奏者が合わせてくれる方が気が楽なんでしょう。どうしても、電子オルガンの伴奏で歌いたいという希望らしいから」
「わかりました」
頷き、奈津子は進行表に「伴奏」と書き加えた。
来月のパーティーの打ち合わせを梓の事務所でしていた。
事務所といっても、1LDKのマンションに電話とファックスと事務机が二つ、そして小さな応接セットがあるだけだ。
「曲目については、ここに書いてあります」
「はい」
受け取り、用紙に目を通した。
企業主催のパーティーである。しかし、内輪の慰労会なので規模は小さい。最近、女性社員の多い職場では、シティホテルでパーティー形式にするところが増えてきた。温泉旅館の宴会より、都心の小綺麗なホテルでビュッフェ式でやった方が、女性社員には喜ばれる。
この手のパーティーに電子オルガン演奏を望まれることは少ないのだが、カラオケだと調子のはずれた自分の声がやけに浮いてしまうからいやだという社員が何人かいて、生伴奏を頼もうということになったらしい。プロの奏者なら、どんな下手な歌でも適当に音程や速度を合わせてくれるからというのが理由だ。
奈津子の隣には浩が座っていた。打ち合わせが終わったら、また早苗の家に預けにいかなければならない。浩はおとなしく、折り紙を折っている。
「それとね、ほらここ」
梓がボールペンで進行表を指した。
「かくし芸を部長さんと課長さんがやるらしいのよね。マジックのBGMと、フルート演奏の伴奏を希望されてるわ」
「マジックのBGMって、もしかして、ポール・モーリアの『オリーブの首飾り』ですか」
「まんまそれ、希望されてるのよ」
梓は笑った。
「じゃ、ここ、『オリーブの首飾り』ですね」
奈津子も笑いながら進行表に曲名を書き入れた。
「それとね、フルート演奏は『銀婚式』ですって。楽譜ありますか」
「ピアノ用のを持っています」
伴奏なのだから、フルートの旋律部分を抜いて、ペダルのベースと下鍵盤の和声に上鍵盤で適当にフィルインを入れたらいいだろう。
「あとはパーティーの間、適当なBGMでつないでくれればいいです。他に指定された曲はありません」
梓は立ち上がった。事務机にあったいくつかのクリアファイルを手に取って見ている。その一つを奈津子の前に置いた。
「これ、渡しておくわね」
半透明のクリアファイルには手書きの楽譜のコピーが挟まれていた。タイトルの「晴れた日に永遠が見える」の文字が見えている。
「ありがとうございます」
思わず声が大きくなった。専門店で捜してもなかなかみつからなかった楽譜だ。
「オルガン楽譜から起こしたものなのよ。でも、そんなに複雑にしていないから、心配しなくていいわ」
ジャズのピアノ楽譜をあまり持っていない奈津子に、梓は時々、自らがアレンジした楽譜のコピーをくれる。若い頃、クラシックしか勉強していなかった奈津子にとって、ジャズの演奏やアレンジは難しい。けれど、ラウンジではジャズのスタンダードナンバーをリクエストされることが多い。プロとしては「弾けません」では通らないので、奏法やアレンジについて勉強しているところだ。
奈津子はクリアファイルから楽譜を取りだした。
「この曲、一段楽譜は持っているんですけど、なかなかいいピアノ用の楽譜がなかったんです」
楽譜には、アドリブの部分も正確に書かれている。その動きと展開があまりに見事で、思わず息を漏らした。
「さすがですねえ」
言葉にすると陳腐になってしまう。けれど、そうとしか言いようがなかった。間違いなく第一線で弾いてきたプレイヤーの編曲だ。こんなに緻密《ちみつ》なアレンジ譜を作成するには手間も時間も相当かかっただろう。
一般的に、プロのプレイヤーは自分のアレンジ譜など他人には見せたくないものである。ましてや譲るなどということはまずないといっていい。だが、梓は自らが認めたプレイヤーには楽譜を譲ってくれる。自分はもう現役ではないからと梓は言うが、それにしても太っ腹だと、事務所に所属するプレイヤー達は感心している。楽譜のみならず、テクニックについても詳細に教えてくれるのだから、ここまで面倒をみてくれる事務所はめったにないだろう。
楽譜をめくった時、ドアが開いた。
「あら、奈津子さん、ご苦労さま」
事務所の松本淑子が入ってきた。
「お邪魔してます」
「今日はちょっと風が冷たいわねえ」
淑子は深い臙脂《えんじ》色のスカーフを外しながら言った。梓が事務所にいる時は、淑子がいることは少ない。何しろ二人だけで切り盛りしている事務所だから、休みも交代でしかとれないのだ。
四十半ばだが、淑子の肌には張りがあり、動作に緩慢なところもない。化粧はいつも丁寧で、着るものもそんなに目立つわけではないのだが、質の良いものを上手に着こなしている。ショートカットの髪は明るい栗色に染められ、きちんとブローされていた。黒目がちの瞳と小さな唇のせいで、梓もそうだが実際の年齢より若く見える。
「浩君、こんにちは」
淑子は浩に笑いかけた。
「ちょっと見いひん間に、また大きいなったわね」
浩ははにかみ、奈津子の傍に躯を寄せた。
「おばちゃんの顔、忘れてしもうた?」
首を傾げ、淑子は浩の顔をのぞきこんだ。浩は俯き、奈津子のジャケットの裾を掴んでいる。
「浩、ご挨拶は」
促されて、浩は小さな声で「こんにちは」と言った。
「偉いわね、ちゃんとご挨拶できて。じゃ、ご褒美あげましょう」
淑子は部屋の隅にある小さなキッチンの戸棚を開け、箱入りのスナック菓子を取りだした。
「はい、どうぞ」
差しだされた菓子に、浩の目は釘付けになる。が、浩は上目遣いに奈津子を見た。
「いいよ。いただきなさい」
奈津子が頷くと、浩は受け取った。
「浩、ありがとうは?」
「ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
やさしく笑い、淑子は浩の頭を撫でた。
「浩、お菓子はおうちに帰ってからね」
「まあ、ええやないの。食べたかったら、今おあがりなさいな」
淑子は浩の手から箱を取り、パッケージを開けて返した。浩は当然のような顔をして、菓子を食べ始める。
小さな子供を連れていると、とくに理由もなく菓子をくれる人がいるけれど、親としては内心迷惑だ。いくらこちらが注意していても、子供は必ずといっていいほど手や服を汚す。また、汚れた手で周囲にあるものを平気でさわったりするので、後が面倒なのだ。
「ちゃんとこぼさずに食べるのよ」
奈津子は浩の膝に大判のハンカチを広げた。
子供を育てている母親は、子供がしでかすあらゆることに鈍感になっていく。よくいえば許容範囲が広くなるということだが、しかし、その感覚で他人に接してはいけないと奈津子は思っている。
サンフラワー教室に来る母親達も千差万別で、きちんと躾《しつけ》をしている母親もいれば、自分の子供があたりを散らかしても知らん顔をしている母親もいる。そのような母親が陰で何を言われているのかは、講師達の会話を聞いていればよくわかる。
「この前見た時より顔立ちもえらい、しっかりしてきたね。今は大きいなるのが早い時やなあ」
淑子は浩の頬を両手に挟むようにした。「ご褒美」をもらったせいか、浩は黙ってされるがままになっている。といっても、食べることはやめもせず、せわしなく口を動かしていた。
「本当に、早く大きくなってほしいんですけど」
「何言うてるの。こんな可愛い時は今だけや」
浩の頬を挟んだ手を軽く揺らし、「この頬っぺた、おばちゃん、食べてしまおうかな」と淑子は顔を近づけた。食べながら、浩はくすっと笑い、肩をすくめた。その拍子に、傾いた箱から中身がソファにばらばらと落ちた。
「あ、すみません」
あわてて奈津子はかき集めた。
「ええわよ、そんなん」
淑子は首を振った。奈津子が睨《にら》んでも、浩は菓子を食べ続けている。他人の前ならそれほど叱られないとわかっているのだ。
「食べるのはいいけど、ちゃんと気をつけて食べなさい。ほら、ここにも落ちてるじゃないの」
拾った菓子をティッシュに包み、奈津子は言った。
「こういうのをそのままにしておくと、アリさんとか、ゴキブリとかがいっぱいやってくるのよ」
言いながら、奈津子はソファの下に手を伸ばした。
「こぼしてないもん」
「何言ってんの、いっぱいこぼしたくせに。ほら、ここにもあった」
それでも、浩は平気な顔をして口を動かしている。
ようやく食べ終えた浩から箱を取り上げ、奈津子はバッグに押し込んだ。
「すみません、本当に」
「いいわよ、そんなこと気にしなくて」
梓が苦笑した。そうは言っても、事務所を汚されるのは梓も不快だろう。
「どうせ掃除するんやから、同じことよ」
あきれたように淑子が言った。
オフィスを汚すことには抵抗がある。仕事場だからだ。早苗の家ならこれほど気にはならない。
浩を預けるにあたって、ミヨ子にはきちんと謝礼を支払っている。ミヨ子は拒否したが、食費だってバカにならないからと奈津子が強引に押し切った。
謝礼を支払っているから気にならないのではない。子供がいてもおかしくない日常の雰囲気がある場所だから気が楽なのだ。仕事場はその対極にある。子供を連れてくるだけでも奈津子は気詰まりだ。なのに、それ以上迷惑をかけるようなことは絶対に避けなければならない。
「そんなに神経質になっていたら、子供なんか育たへんわよ。これくらいの年齢の子は汚すのが仕事やねんし、母親があんまり癇性《かんしよう》やと萎縮してしまうわ」
ね、と淑子は浩の頭に手をやった。
「ところで、ここでお会いするなんてめずらしいわね、奈津子さん」
「わたしも、事務所で打ち合わせするの、久し振りです」
打ち合わせは、宴会係や主催者とホテルの喫茶店などですませることがほとんどだ。今回は、梓が直接宴会係と打ち合わせてきたので、それを奈津子に伝える形になった。仕事の都合で主催者側にプレイヤーが顔をだせない時は、梓が必ず出向いているのだった。
「なんか、急に寒くなったわねえ」
淑子はスカーフをたたんだ。薄い藤色のニットが、淑子の白い顔をよく引き立てている。
普段は淑子が一人で事務所を仕切っており、プレイヤーのスケジュール調整や確認をしていた。ホテルやイベント会社との折衝は、すべて社長である梓が一人でやっている。梓には今までの実績と人脈があるからだ。
「ちょうどよかったわ、ファックスで送ろうと思っていたところよ」
事務机の上で、淑子はファイルをめくり始めた。
「ええと、浅野奈津子さん、と。これやね」
一枚の用紙を抜き、淑子は奈津子に手渡した。来月のスケジュール表だ。
「たぶん問題ないと思うけど、何かあったら明後日までに連絡してね」
「ありがとうございます」
奈津子はスケジュール表に素早く目を通した。レギュラーでもらっている夜のラウンジの仕事はいつも通りだ。土日祝日はすべて埋まっていた。全部、結婚披露宴だ。平日にも数本、パーティーとイべントの仕事が入っている。
仕事の本数を確認し、奈津子は安堵した。一本いくらで仕事をしているプレイヤーは、本数をこなさなければまとまった収入は期待できない。
「それと急で悪いんだけれど、来週金曜のシャングリラホテルのパーティー、奈津子さん、お願いできますか。時間はね、ええと」
淑子は別のファイルを開いた。
「午後一時から夕方四時までです。これは、ピアノ演奏のみ」
「はい、いかせていただきます」
「じゃ、よろしくお願いします。酒造メーカー主催のパーティーで、新作ワインのお披露目らしいわ。詳しいことはここに書いてあります。ほとんどBGMだけで、打ち合わせは当日でええそうです。今これ、コピーしますから、ちょっと待っててね」
事務机の隣にあるコピー機の上に淑子は紙をセットした。
「松本さん、新作ワインの仕事って、あれは」
梓が、別のプレイヤーの名前を口にした。
「いえそれが、今さっき、都合が悪くなったって、携帯に連絡が入ったんですよ。で、急いでスケジュール確認したら、奈津子さんとあともう一人、空いている人がいたんですけど」
そのプレイヤーの名前を言ったあと、でもあの人は、と淑子は言葉を濁した。
「そうねえ」
梓も困ったように首を振った。
奈津子もそのプレイヤーを間接的に知っている。最近、何度か急に仕事をキャンセルしているので、梓が穴埋めに奔走していた。
「でまあ、これは奈津子さんにお願いしようと思いまして。奈津子さんのご都合が悪かったら、あの人にまわさなしょうがないなと思うてたんですわ」
言ってから、淑子は奈津子を振り返った。
「本当に、突然でごめんなさいね」
「いいえ、とんでもないです」
突然でも何でも、仕事が一本でも余分にもらえるのはありがたいことだった。
事務所に所属しているプレイヤー達は何人もいるが、誰にどういう仕事が割り当てられるかというのは、梓の采配による。こうした突然の穴埋めについては淑子も動くが、基本的には梓の指示ですべてが決まるといっていい。
技能的に優れているのはもちろんだが、何よりも、仕事に絶対遅れない、休まないという信用のある者でなければレギュラーの仕事は与えられない。一度でも、無断で仕事に穴をあけた人間は使ってもらえないし、業界にもいられないのだ。
「奈津子さんはこんな小さい子供さんかかえてはるのに、遅刻もドタキャンもあらへんから、ほんまに助かるわ」
コピー機から淑子は用紙を取りだした。
「じゃ、これ、頼みますね」
「はい」
「ちょっとお茶でも淹れましょうか。まだ時間あるんでしょ」
淑子は部屋の隅にある小さなキッチンにいった。キッチンといっても、小さな流しと電磁調理器があるだけで、湯を沸かすくらいしかほとんど用をなさない。
その時、チャイムが鳴った。戸棚を開けていた淑子が振り返り、応対にいった。
「こんにちは」
若い女が入ってきた。新しいプレイヤーだろうか。
「早かったわね」
「うん、道混んでなかったし」
女は手に持っていた大きなバッグを持ち直した。
「奈津子さん、初めてやね」
淑子が言った。
「うちの娘、沙織です」
「あら、こんな大きなお嬢さんがいらしたのですか」
奈津子が言うと、淑子は照れたように笑った。
「東京の大学にいってるのよ。今日からしばらく学校の単位の関係で休みやていうので、京都に帰ってきたの」
そうですか、と奈津子は沙織の方に向き直った。
「浅野と申します。お母様には何かとお世話になっております」
「あ、いえ、うちの母こそ、色々お世話になっております」
沙織は丁寧に頭を下げた。
育ちの良さそうな娘だった。白いシャツにベージュのセーターを合わせ、濃い茶色のパンツを穿いていた。薄化粧なので、膚の肌理《きめ》が細かいのがよくわかる。あらためて近くで見ると、淑子によく似た面差しをしていた。瞳は黒目がちで唇は小さく、色の白いところも同じだ。
「あの、息子さんですか」
沙織は浩の方を見た。肩にかかるまっすぐな髪が揺れる。
「ええ」
「ようおとなしい待ってはりますね。偉いわ」
目を見開くようにして、浩は沙織を見上げた。
「浩、おねえちゃんに、こんにちはって」
「こんにちは」
浩が言うと、沙織は「こんにちは」と笑いかけた。浩は小さく笑ったが、すぐに俯いた。
「先生、お久し振りです」
沙織は梓の方を向いた。
「久し振りっていっても、なんかこの間も京都に帰ってきていなかったっけ」
梓は首を傾げている。
「この間って、先生、あれ夏休みですよ」
「そうだっけ。つい最近だったような気がするけど。ちゃんとお勉強しているんですか」
「いややわ、子供みたいに。ちゃんと勉強してますって」
あやしいもんやわ、と淑子が苦笑した。
「沙織ちゃん、何の勉強してたっけ」
「文学部です」
「あなた、あまり音楽に興味なかったのよね」
「すみません」
頭に手をやり、沙織はいたずらっぽく笑った。見ている奈津子に沙織は言った。
「わたしね、小さい時、梓先生にピアノ習うてたんですよ」
「まあ、そうだったんですか」
「全然練習せえへんから、ちょっとも上達せえへんかったのよね」
横から淑子が言った。
「わたしは音楽の才能がないのよ」
屈託なく沙織は笑い、梓を振り返った。
「ちゃんと弾けるようになってたら、先生とこの事務所に入れてもろうて、今頃は売れっ子の美人プレイヤーになってたかも知れへんなあ」
「今からでも遅くないわよ。レッスン始めてみる?」
沙織は両手を胸のあたりで振った。
「あ、いいです、いいです」
後ずさり、「梓先生のレッスンは厳しいからなあ」とつぶやいて、奈津子に笑いかけた。
27
正午にはまだ少し早かった。清水坂《きよみずざか》は観光客や修学旅行生で溢れていた。しかし、清水小学校の前を下ったあたりから路地に入ると、歩く人もなく閑散としている。たまに通るのは近辺の住人だけだ。彼らは着飾ってもいなければカメラも持っていない。周囲をものめずらしそうに見回すこともなく、普段着で足早に通り過ぎていく。
京都の町なかには、周囲とは隔絶されたように静かな路地裏がそこかしこにある。そんな路地裏に、地元の人間しか知らない料理屋やバーなどの高級店が身をひそめるようにして佇《たたず》んでいる。
店は目立たない路地裏のさらに奥にあり、地図にもガイドブックにも載っていない。実質、会員制のようなもので、一見《いちげん》の客が足を踏み入れることはありえない。
この手の店は東京にもよくあるが、京都の場合、店のオーナーはかつての映画関係者や現役の芸能人であることが多い。人目を気にせずにすむ場所が彼らには必要だからだ。
浦上は路地の入口で立ち止まり、阪井が店に入っていくのを確認した。かつて関西の喜劇人として名を馳せた俳優の経営するステーキハウスである。といっても、外から見ているぶんには看板もなく、ただ古い提灯《ちようちん》があるだけで、昔ながらの京都の町家にしか見えない。
阪井が会う相手はわかっている。三星デパートの幹部だ。昼日中だから、食事に数時間かかるということはあるまい。せいぜい、一時間から長くても二時間までだろう。腕時計に目をやったあと、浦上は鈴村と頷きあった。
鈴村は何も言わずに五条坂へ抜ける道に向かっていく。そちら側に勝手口があるのだ。人の出入りがあればここからでもわかる角度だが、男二人が立っていたのではあまりに目立つ。浦上は清水道の方に顔を向けた。
シャングリラホテルの防犯カメラ映像の解析は進んでいる。だが、とくに不審人物や不審車両も見つからなかった。そのせいか、捜査本部は今一つ活気がない。
松島屋宣伝部長である阪井が三星デパートに引き抜かれるという情報は、事件発生後まもなくから掴んでいた。半年以上前から引き抜きの話はあったらしい。阪井くらいの地位にいる人間は人脈もかなりのもので、そこを買われたのだろう。
三星デパートは東京から関西に進出してきたデパートである。バブルの頃、大阪での成功を勢いにして京都にも支店をだした。だが、景気が低迷し始め、京都店は思ったほどの収益をあげることができなかった。京都の流通業界や客の嗜好《しこう》に精通した人間を入れることで、三星デパートは巻き返しを考えているらしい。
松島屋は京都の老舗デパートだったが、長引く不況下、旧来のやり方では収益は下がるばかりだった。しかし、阪井の企画したイベントや展示会だけはいつも盛況で、売り上げも良かった。数年前、打開策の一つとして、思い切った人事が敢行された。その異動で阪井は大抜擢されたのだ。年齢のわりに早い昇進で、常に大きな仕事を任されるようになった。
当然ながら、それをおもしろく思わない連中もいる。その連中に、阪井は何かと横槍を入れられることがあったという。数ヶ月前、宣伝部の使途不明金が多いと問題になったらしい。使途不明金と聞けば、誰しも横領かと考える。だが、決定的な確証もなく、問題はうやむやになってしまった。
本当に阪井の使い込みだったのか、敵対陣営のでっちあげだったのか。末端の社員のなかには阪井に同情的な意見を言う者もいる一方で、派手な企画や花火を打ち上げているうちに、思い上がって何か勘違いしたのだろうと言う者もいた。
良くも悪くも、阪井はそれだけ社内で目立つ存在であったのだ。松島屋での待遇がそんなに悪かったとは思えない。使い込みの問題が取り沙汰された時も、幹部達は阪井に公の場で問いただしたりはしなかったという。
しかし、阪井自身が松島屋に対して不満を持っていなかったかどうかはわからない。阪井の企画がいくつか潰されたり、腹心の部下が突然の配置転換を命ぜられたりということが続いていたと聞いている。内部抗争に嫌気がさしたとしても不思議はなく、好条件を提示してきた三星デパートに鞍替えするつもりなのだろう。
浦上は、路地の入口の前の植え込みに躯を寄せた。通る人もめったにないだけに、逆に目立ってかなわない。かといって、車の擦れ違いができるだけの道幅もないので、停めた車内で張ることも不可能だ。
植え込みの前を歩きながら、雑談の時に万友美が漏らした言葉を思い出した。
「松島屋のスタッフと、シャングリラホテルの関係者が協力したら、身代金の持ちだしは容易なんじゃないかしら」
クロークに預けられた身代金を、別の何かに移し替えて持ちだすだけのことだから、両者に協力者がいれば確かに簡単なことだ。
展示会会場にいたスタッフについては、誘拐が実行された日のアリバイを全部調べあげた。クローク係はもちろん、宴会係や喫茶コーナーのウェイター、ウェイトレス、松島屋の外商と店員、ピアニストやその所属事務所の社長に至るまで、全員の動向を徹底的に洗ったのである。
どの人物も、美有が誘拐された日のアリバイはすべて確認された。各人の経済状況も捜査されたが、借金を抱えているのは藤吉だけだった。他のスタッフ達については、住宅ローンをかかえている者はいるものの、経済的に困窮している人物はいなかった。皆、堅実な暮らし振りだ。
篠塚梓の事務所についても詳細に調べられた。経営は順調で、業績はここ数年、不況下でも確実に伸びていた。業界では、梓の長年の実績と信用が認められており、京阪神地区の一流ホテルの多くが彼女の事務所と契約をしていた。
ピアニストの浅野奈津子は、離婚して子供を一人で育てている。経済的に余裕があるとはいえない状態だが、借金はない。また、プレイヤーの得るギャラは決して悪くはない額だ。追い詰められて誘拐犯罪に手を染めるほどの窮状とは考えにくい。
身代金目的の誘拐は、犯人にとって「割の合わない」犯罪だ。まず、成功することはない。検挙率はほぼ百パーセントに近く、単独犯であれ、複数犯であれ、かかわった人間は全員逮捕されるといっていい。理由は簡単だ。誘拐するのは簡単だが、身代金の授受が至難だからである。実際、身代金の受け渡しの際に、ほとんどの容疑者が逮捕されている。
誘拐罪の刑は重い。人質を殺していれば極刑は免れ得ない。誘拐犯罪とは、犯人にとって得られるものは何もなく、重い刑事罰だけが科せられる「割の合わない」犯罪なのである。
今回の事件の場合、身代金は二千万円だった。これを三人、あるいはそれ以上で分配したなら、一人頭の取り分はわずかなものとなる。もちろん、何百万円でも大金には違いない。
しかし、誘拐という大罪を犯してまで得る報酬としては少な過ぎないか。一歩間違えば死刑の可能性もある犯罪に手を染めるというのなら、よほどの報酬が約束されていないと間尺に合わないのではないか。
「間尺に合わない」事件を起こす犯人は、金銭以外の動機や目的を持っているものだ。たとえば、政治的信条や本人なりの正義や大義。あるいは怨恨や復讐、または愉快犯。
信条や大義を目的にしているのなら、犯人は犯行声明をマスコミや警察に送りつけてくるのが定石だ。愉快犯もそうしたケースが多い。凝った犯罪を実行する愉快犯は、大変な自己顕示欲を持っており、自身の能力の高さを他者に知らしめたいという欲求がある。
この事件は犯人にとって「大成功」なのだから、世間に向かって自己をアピールできる最大の好機だったはずである。とくに事件直後は、新聞、テレビ、雑誌などが大騒ぎしており、愉快犯なら便乗しないはずはない。だが、声明文らしきものは、警察にもマスコミ関係にも送られてはこなかった。
では、犯人は政治的信条や大義をもって誘拐事件を実行したのかといえば、それも考えにくい。美有の父親は凡庸な一市民であり、大きな権力を握っているわけでもなければ莫大な財産を所有しているわけでもない。
愉快犯や政治的信条による動機の線は初期の段階で外され、金銭目的か、怨恨であると捜査本部は考えていた。
いうまでもなく、事件に復讐の意味合いがあるのなら、金額の多寡は二義的になる。金銭的なものより、精神的なダメージを目的にしているからだ。
もちろん、多額の金銭の捻出によるダメージを意図することも考えられなくもないが、実際問題、美有の家に何億も要求したところで所詮は不可能である。あれほど周到な計画を練る犯人なら、それくらいのことは調べて知っているはずだ。
父親の桑島賢一はリサイクルショップを始めるために、会社を辞めていた。会社で何か問題を起こしたということはなく、人間関係で揉めていた形跡もない。また、リサイクルショップの開店について、近隣とトラブルがあったわけでもなかった。近辺に競合する店はないし、開業はむしろ周辺住民から歓迎されていたくらいである。
母親の樹奈は専業主婦だ。何かの集団や組織に属していることはなく、人間関係はきわめて狭い範囲に限定されている。他人と競い合ったり、誰かを蹴落としてどうのこうのという性格ではなく、どちらかといえばおっとりとした女だ。鈍感というか、気のつかない人間で、むしろ周囲からその鈍さに同情されていたといってもいい。
あらゆる意味で、この夫婦に恨みや反感を持つ人間が周辺にいるとは考えにくかった。リサイクルショップは潤沢な資金で開業するのではなく、賢一とその父親の退職金や貯金などで賄われており、うまくいかなければ生活の基盤そのものが崩れるような状況だ。他人に嫉妬されるような恵まれた環境ではない。
樹奈の実家についても人間関係が洗われたが、やはり父親は実直な勤め人で、母親も含めて他人から恨みをかうような行状や要素などはみつからなかった。
現在、捜査本部は最近の阪井の動向について注目している。犯行動機が金銭目的ではないとしたら、阪井のような立場の人間が、松島屋のイメージダウンを狙って実行した可能性も考えられるからだ。
だが、と浦上は思う。
今回の事件で、松島屋が大きなダメージを受けたとは思えない。身代金奪取の場所にされたシャングリラホテルは、多少影響があったかも知れないが、それも微々たるものだろう。結婚披露宴やパーティーなど、事件のせいで発生したキャンセルは一件もない。どころか、マスコミに騒がれたために、地方からの宿泊予約が増えているくらいだ。テレビのニュースやワイドショーで映ったロビーとか内部を実際に見てみたいというミーハーな客の関心を惹いたのである。
もし、誘拐された子供が殺されていたならば、結果はずいぶん違っていただろう。シャングリラホテルも松島屋もこれから先、常に事件の陰惨なイメージがつきまとい、一般の人々から敬遠されるのは間違いない。そうなったら客商売は立ちいかなくなる。
しかし、現実に子供は無事にもどり、一人の死傷者もでなかった。むしろ、世間はこの事件に爽快感さえ覚えたのではないか。犠牲者をだすことなく大金を持ち去る犯罪者は、いつの世も英雄視される風潮がある。
いずれにしろ、松島屋のイメージダウンを狙っての犯行というのはあまりにも無理があるし、動機としては弱過ぎるのではないかと浦上は思う。
あるいは、まだ見えていない部分で、動機につながる何か大きなものが裏にあるのか。
浦上はポケットから煙草をだした。向こう側から鈴村がやってきた。
「人の出入りはありませんね」
言いながら、鈴村も自分のポケットに手をやった。
「五条坂からの方が車で来るには便利でしょうね、ここは」
「清水坂は一方通行だからな」
浦上はライターの火をつけた。鈴村に差しだしてやると、「恐れ入ります」と銜《くわ》えた煙草を近づけた。
自分の煙草にも火をつけ、浦上は煙を吐きだした。
この事件は複数犯だ。複数で二千万円を分配したら一人頭は知れたものだ。たしかに、金だけが目的だとしたら額が少な過ぎる。
金以外の目的があるとしたら。
浦上は路地の奥を見つめた。
28
チャイムを鳴らし、奈津子は玄関の戸を開けた。早苗の家は、いつも煮物の匂いがしている。狭い家のせいか、それとも換気が悪いせいか、常に醤油で何かを煮しめるような匂いがこもっているのだ。きっと、柱や壁に染みついているのだろう。
が、今夜は違っていた。汗臭いというか、体臭のようなものが鼻につくのだ。見ると、玄関先にスニーカーが乱雑に脱ぎ捨ててあった。大きさからして、男のものだ。元の色がわからないくらい汚れており、ところどころ擦り切れ、綻《ほころ》びていた。
「こんばんは」
奈津子は奥に向かって声をかけた。
いつもなら、呼ぶまでもなく、ミヨ子がやってくる。そして、なんだかんだと言って奈津子を居間に誘うのが常だった。しかし、ミヨ子はでてこなかった。
居間に続くドアの手前にある階段を奈津子は見上げた。
「中林さん」
返事は聞こえない。もう一度呼んでみようか。そう思った時、突然、どどどっと音が聞こえた。階段から、勢いよく若い男が駆け降りてくる。降りきったところで、男は驚いたような顔をして奈津子を見た。
カーキ色のトレーナーを着ていたが、生地は褪《あ》せて毛羽立っている。ジーンズの膝は擦り切れていた。茶色い髪はぼさぼさで、耳たぶから銀色のピアスがぶら下がっている。
一重瞼の目が不思議そうに奈津子を捉えた。まるで、小動物のような目だ。おびえているようにも見える。
その時、また階段の軋《きし》む音がした。
「正晴」
言いながら、早苗が降りてきた。
「あ」
玄関先に立ち尽くす奈津子の姿に、早苗は大きく目を見開いた。
「こんばんは」
奈津子が言った。
「あ、はいはい、こんばんは」
目を見開いたまま、早苗は言った。男は上がり口に座り、汚れたスニーカーに足を入れている。
「待ちなさい、正晴」
早苗が言った。男は何も答えずにスニーカーの紐を直している。
「まだ、話終わってへんで」
「そやから、東京なんや、東京」
厚い唇を尖らせ、男は吐き捨てるように言った。
「なんで、大阪やったらあかんのや」
「あかんさかい、あかんのや。ともかく、東京や」
「待ちなさい、正晴。大阪で何があったんや」
「大阪なんか、あかんのや。やっぱり、東京にいかなあかんて、みんな言うとうるんや」
立ち上がり、男は乱暴に戸を開けて出ていった。
残された早苗は肩で息をしながら、戸口を見つめている。居間から、そっとミヨ子が顔をだした。
「お邪魔しています」
奈津子の言葉に、ミヨ子は困ったような顔をして頷いた。
翌日、浩を迎えにいくと、ミヨ子は奈津子を居間に誘った。浩はさっきまで居眠りしていたらしいが、目を覚まし、奈津子の隣で折り紙を始めた。
「昨日のな」
炬燵に入り、ミヨ子が言った。
「あれ、早苗の息子や」
「そうだったんですか」
「出来損ないや、あれは」
魔法瓶の湯を急須に注ぎ、息を吐いた。
「もう、二十歳にもなってるのやけどな、未だに、親に小遣いせびりに来よるわ」
二十歳といえば、まだ学生の者もいる。親に小遣いをもらっていたとしても、そんなにおかしいことではない。奈津子がそう言うと、ミヨ子は、ははん、と鼻で笑った。
「あの子はな、高校も途中でやめてしもうた。芸人になるて言うて、家出同然で大阪にいったんや。ある日電話がかかってきて、漫才師の学校入るから授業料振り込んでくれて言うてきた。早苗はすぐに振り込んだがな。で、こっちはてっきり漫才師の学校いってんのかと思うてたんやけど、いつのまにかやめてたわ。ほんで、何たらていう芸人の弟子になったらしいんやけど、それも続かへんかった」
その後、別の芸能事務所に所属したり、京都の時代劇の俳優養成所に入ってみたりと、わけのわからないことを繰り返しているのだと言った。
「何やっても続かへん。小さい時から、あかんかった」
ミヨ子は戸棚に手を伸ばした。
「あの子は父親に似たんやて、早苗は言うけど、それだけでもないやろ」
透明のビニール袋に入った欠餅《かきもち》を取りだし、戸を閉めた。
「あれの父親もそら、アホやったけどな」
器に、ミヨ子は欠餅をうつした。欠餅は手製らしく、形がすべて不揃いで大きさもまちまちだった。だが、何とも香ばしい匂いがする。
「あの子が小学校四年生の時、この家で一緒に暮らすようになったんや」
ミヨ子の夫が亡くなり、遺してくれたわずかな貯金とローンでこの家を買ったのだと話した。
「建売りの中古やから、なんとか買えたんや。あの頃は、まだトイレも水洗と違うたしなあ」
「ここに住まわれるまで、早苗さんはどこにおられたのですか」
「大阪にいたんやけど、離婚してからは観月橋の近くにアパート借りてたわ」
近辺に知り合いがいて、スーパーの仕事を世話してくれたからだという。しかし、パート社員なので、たいした収入にならなかった。将来のことを考え、早苗は一念発起してタクシー運転手になったらしい。
「今でも女の運転手は少ないけど、あの頃はもっと珍しかった。ほんまに、男ばっかりの世界やったんや。けどな、女でも頑張りしだいで給料はあがるし、暮らし向きも楽になるからていうて、運転手になったんや」
早苗がタクシー会社に就職した年、ミヨ子は夫を亡くした。その翌年、一緒に住むことになったのだという。ミヨ子の夫、つまり早苗の父親は生前、離婚した娘を許さなかったらしい。
「うちの主人、友禅染の職人やってたんや。職人やさかい、まあ昔|気質《かたぎ》で頑固やったからなあ」
がさがさと音をたてて、ビニール袋をたたんだ。
「あの、早苗さんはなぜ、離婚を」
「借金や。早苗の旦那、毎日パチンコばっかりやってたんや」
小さな印刷会社に勤めていたのだが、パチンコにのめり込み、生活費もつぎ込むほどだったと言った。
「パチンコする金がなくなるとな、借金してまた、パチンコにいくのやがな」
いつかは損した分が取り返せるからというのが、口癖だったという。
「あれは、病気やな」
うんざりしたような顔をして、ミヨ子は茶を飲んだ。
「博打なんか、やればやるほど損するようにできてる。誰かて知ってるがな、そんなこと。けど、アホはわかっててもやめられへん。中毒やな。どうせ中毒なら、アル中の方がまだましや」
「そうですか?」
どっちもどっちじゃないか、と奈津子は内心思った。
「アル中はええがな。ほっといたら近いうちに死ぬねんから。飲ますだけ飲まして、待ってたらええねん。死んだらそれ以上、借金増えへん。おまけに保険でも降りたら、言うことなしや。厄介払いできて、お金まで入ってくる。悪い話やないで」
「なるほど」
奈津子は苦笑した。
「けどなあ、博打はなんぼやっても、肝臓も心臓もどこも悪うならへん。いつまで待ってても、入院もせえへんし、保険金も入らへん。増えるのは借金だけや」
ミヨ子は欠餅を手に持った。
「こういう奴は、カスやな」
乾いた音をさせて、ミヨ子は欠餅を食べた。浩は歯が立たないので、欠餅は食べない。年齢を考えると、ミヨ子はかなり丈夫な歯をしている。奈津子も欠餅を齧った。香ばしさが口のなかでひろがっていく。
「カスと一緒にいると、一緒にいる人間までカスになってしまうのやで」
茶を飲み、ミヨ子は奈津子を見た。
「類は友を呼ぶて、あんた、知ってるか」
「はい」
奈津子は頷いた。
「あれは、ほんまによう言うたもんやなあ。カスはカス同士でかたまるようにできてるわ」
まったくだ、と奈津子は心のなかでつぶやいた。かつて姑が喜んで群れていた集団は、やはり、姑と同じような世間知らずで身勝手な連中だった。世の中は、似たような人間が似たような場所に集まるようにできている。
「正晴の父親もしょうもない奴やったけど、周りにいる連中も屑ばっかりやったわ」
身を持ち崩すと、そんな人間にしか相手にしてもらえなくなる。するとますます、まっとうな人間からは避けられるようになる。借金まみれになった早苗の夫は、身内からも付き合いを断られていたという。かかわると、無心されるからだ。
「カスや屑に巻き込まれとうなかったら、離れるこっちゃな」
ミヨ子は湯飲みを置いた。
「なんぼ待っても、カスが金や銀になることはないねん」
世の中には、たぶん一定の割合で、どうしようもない人間が存在するようにできている。自分の傍にそれらが近寄ってきたなら、絶対にかかわってはいけないとミヨ子は言った。
「早苗はな、べつに間違うてへんのや。間違うてへんのやから、顔あげてたらええのや」
早苗が下を向いて生きているとは思えない。接触事故を起こした夜、彼女は男も気圧《けお》されるほどの迫力と凄みを持って奈津子の前にあらわれた。たぶん、常にあのやり方で生きてきたのだろう。そうでなければ、押し潰されたり、踏みつけられたりすることを、早苗は経験から学んできたのに違いない。
「早苗さんは、堂々と顔をあげて生きておられると思いますが」
「それは、世間でのことや」
ミヨ子は口の端を少し歪めた。
「息子の前でも、顔をあげてんといかんのや。息子が可愛いのなら、親は顔をあげて胸張っててやらんといかん」
意外だった。あの気丈夫な早苗が、自分の息子に対しては弱腰だったというのか。
「正晴はずっと、いじめられっ子やった。小学生の時に、転校を何度か繰り返してたんやけどな、どこにいってもあの子はいじめられてた。それをな、早苗は全部自分のせいやと思うてるのや」
片親だからいじめられる。母親が、女だてらに運転手をしているからいじめられる。早苗はそう思っていたらしい。
「けどな、転校繰り返す子でも、片親の子でも、まっとうに生きていく子は生きていくもんやで」
ミヨ子は小さく笑った。
「親が引け目に思うとな、子供はよけいに惨めになるもんや」
正晴はおびえた目をしていた。二十歳というが、まだどこかに幼さが残る顔だった。厚い唇を尖らせてものを言う表情は子供のようにも見えた。
「一人前になられへんかったんや、正晴は」
「そんな、今からじゃないですか。まだ、二十歳なんでしょう」
「まだ二十歳、と違うのや。もう、二十歳なんや」
ミヨ子は両手で湯飲みを持ち、また息を吐いた。
29
奈津子は一段楽譜をめくった。あと二分三十秒だ。ならば、フルコーラスではなく、サビからテーマにもどったところで終わればいいか。導入部を弾きながら会場を見回した。
シャングリラホテルの広い会場は混雑していた。新作ワインのお披露目パーティーである。女性をターゲットにした製品とかで、これから派手なキャンペーンを展開していく予定だと聞いている。
招待客達は皆、ワイングラスを持ち、談笑していた。生花の盛られたテーブルにはチーズやクラッカーなどの軽食が品良く並べられていた。
人垣の向こうに、ショッキングピンクの帽子が見えた。辺見タカヨだ。また来ているのか。
タカヨはワイングラスを持ち、気取った手つきでチーズを食べていた。相変わらずの厚化粧に、珍妙な出で立ちである。帽子と同じ色のワンピースはズルズルと裾が長く、襟元に派手なフリルがついている。これでもかとばかりに、帽子の鍔《つば》には大きなリボンが貼り付けてあった。
「こんにちは」
ピアノの傍に若い女が立っていた。見ると、沙織だった。
「あら、いらしてたんですか」
「友人に誘われたんです」
沙織の隣に、同じくらいの年格好の女がいた。女は軽く奈津子に会釈した。品のいい紺色のワンピースに同系色のスカーフを合わせている。
「お友達の青柳知佐子さんです」
弾きながら、奈津子は頷いた。
「沙織さん、わたしもう、休憩なのよ。よかったらお茶でも一緒に飲みにいきましょう」
正面の出入口付近で待っているようにと、奈津子は二人に言った。
窓際の席に座り、沙織は、ふう、と息を吐いた。目と頬が赤い。知佐子が不安気に沙織の方を見ている。
「ワインはどうでしたか」
「わたし、あんまり飲めないものだから」
口に手をあて、困ったように沙織は笑った。
「シャングリラホテルにこんなお店があるの、知らんかったわ」
「でしょう? 案外知っている人が少ないから、混んでる心配がないのよ」
言いながら、奈津子はメニューをめくった。
三階にある喫茶店「ラレンタンド」は、一階、二階のカフェテリアに比べて店は小さく目立たない。フレッシュジュース専門店で、果物や野菜、青汁なども扱っている。コーヒーや菓子類などは置いていないのだ。
「沙織さん、大丈夫?」
奈津子が言うと、沙織は照れたように頷いた。
「なんかすごく、飲みやすいワインやったんで、ジュースみたいな感じで飲んでしまって」
「そうそう。ワインていうより、ジュースみたいやったわね」
沙織の隣で知佐子が頷いた。
「本物のフレッシュジュース飲んだら、すっきりするわよ。ここのは全部、注文してから搾《しぼ》ってくれるのよ」
白いエプロンをしたウェイトレスが注文を取りにやってきた。二人は奈津子のすすめで、グレープフルーツジュースを選んだ。
ウェイトレスが去るのをみはからい、沙織が言った。
「ええと、あらためてご紹介します。こちら、わたしの幼稚園の時からの友人で、青柳知佐子さんです」
知佐子は「青柳です」とお辞儀をした。
「知佐ちゃんの家は、高野でお漬物屋さんやったはるんですよ。わたしも昔、あのあたりに住んでたんです」
「まあ、そうなの」
「ずっとね、幼稚園から高校まで一緒やったんですよ。でもね、わたしが東京の大学にいってしもうたものやから、初めて別の学校になったんです」
「じゃあ、二人は小さい頃からの仲良しなのね」
「幼稚園の頃、よく知佐ちゃんの家に遊びにいってました」
彼女達は私学の女子校で育ってきたという。どうりで、二人とも育ちのよさそうな顔をしている。
「本当は今日のパーティー、知佐ちゃんのお母さんが連れてきてくれはるはずやったんやけど、用事ができて遅うなるからって、わたし達だけで先に来たんです」
「じゃあ、これから知佐子さんのお母様と待ち合わせ?」
「そうなんです」
あ、と知佐子が口に手をあてた。
「お母さんに携帯でメール打っとくわ。ここのお店、何ていうの?」
「ええと、ここは、と」
訊かれて沙織は、隣の席に置かれていたメニューに目をやった。
「『ラレンタンド』っていうのよ」
奈津子が言った。
メニューにある店名は、イタリア語の綴りが凝ったデザインで印刷されているので読みにくい。
「え、ラ、レ?」
沙織が首を傾げた。
「ラレンタンドですね」
頷き、知佐子はハンドバッグから携帯電話を取りだした。沙織はまだ、隣の席のメニューを見つめている。知佐子は電話のボタンを親指で素早く押し始めた。
「今日のワインの試飲会、まさか、奈津子さんが弾いたはるって思わへんかったから、驚いたわ」
「わたしも、沙織さんがいらしているなんて驚いたわ」
沙織と短い会話をしているうちに知佐子はメールを打ち終え、携帯電話をハンドバッグにしまった。沙織は知佐子の方に向き直った。
「えっと、堪忍。まだちゃんと紹介してへんかったわね。こちら浅野奈津子さん。うちのおばちゃんの事務所でプレイヤーやってはるの」
「格好いいですねえ、プレイヤーなんて」
知佐子は小さく首を振った。
「プロの演奏家の方を見ると羨ましいです。わたしも小さい時、ピアノやってたんですけど、中学生になってやめてしまいました」
「どこまで勉強されたんですか」
「ベートーヴェンのソナタまでやりました」
「わたしは小学校で挫折したわ。おばちゃんに習うてたんやけど、バイエル修了までいかへんかった」
沙織は肩をすくめた。
「ねえ、沙織さん」
奈津子は首を傾げた。
「今、おばちゃんて、言わなかった?」
「はい」
当然のことのように、沙織は言った。
「梓先生はわたしのおばさんやもの」
「梓さんと松本さんて、御姉妹《ごきようだい》だったんですか」
二人の容貌はどう見ても似ているとは思えなかった。
「あ、そうやのうて」
沙織は胸の前で手を振った。
「わたしの叔父のお嫁さんやったんです、梓先生。離婚してしまわはったけど」
かつて梓は、淑子の弟の妻だったのだと、沙織は説明した。
「おばちゃんて呼ぶと叱られるから、気をつけてはいるんですけど、たまにうっかり出てしもうて」
「そうだったの」
梓とは仕事の話しかしたことがない。彼女が昔結婚していたことなど、奈津子は知らなかった。
「梓先生が叔父と別れたのは、わたしが小学校の時です。叔父はもう、何年も前から仕事でカナダですが」
どちらも未だに独身だと、沙織は言った。
「沙織さんのお母様と梓さん、仲がいいんですね」
「うちの父、一昨年亡くなったものですから」
言ってから、沙織は目を伏せた。
「何度か手術してましたし、覚悟はしていたんですけど。胃癌でした。父が亡くなってしばらくして、母は梓先生の事務所を手伝うようになったんです。わたしも東京にいってしまいましたし、何か仕事してる方がええのと違うって、すすめたんです。今は仕事にも慣れて、梓先生と一緒に働いてるのが楽しいみたいです」
淑子が少し前に夫を亡くしたことは、奈津子も聞いていた。
「お父様は何のお仕事をなさっていたのですか」
「医者でした。開業医やったんです」
「あら、京都で?」
「ええ、産婦人科病院やったんですよ、うち」
「沙織さんは、一人娘さんでしたよね」
「そうなんです」
ウェイトレスがグレープフルーツジュースを運んできた。ストローを手に持ち、沙織は小さく笑った。
「わたしは音楽の才能もなかったし、医者にもならへんかったから、親不孝娘なんです。病院は、父の遠縁にあたる人に譲りました」
一人娘の沙織が後を継がないのであれば、仕方があるまい。
「もし音楽の才能があったら、わたしも奈津子さんみたいに、ピアノとか電子オルガンのプレイヤーになりたかったなあ」
「どうして?」
「格好ええやないですか」
大きく目を見開くようにして、沙織は言った。
「小さい時から梓先生見て、そう思うてました。今もきれいやけど、昔もっときれいで格好よかったんですよ。コンサート、母と聴きにいったことあるんですけど、舞台で見る梓先生、ほんまに素敵やったわあ」
梓なら、さぞ舞台映えしただろう。奈津子は梓のステージは見たことがないけれど、目に浮かぶようだ。
「奈津子さん、さっき、『晴れた日に永遠が見える』、弾いたはったでしょ」
クラシックか映画音楽で無難にまとめようと思っていたのだが、主催者側からジャズのスタンダードナンバーを何曲か入れてほしいと要望があったのだ。
「あの曲、懐かしかったわ」
遠いところを見るようにして、沙織が言った。
「あんな古い曲を知っているの?」
十代、二十代の子がジャズの曲名を正確に知っていることはめずらしい。
「あの曲、いつも梓先生が弾いたはったもの。今日の奈津子さんの演奏を聴いて、梓先生が弾いたはるのかと一瞬思うたわ」
「沙織さん、あなた耳がいいわね。あれは梓さんのアレンジで弾いていたのよ」
「あ、やっぱりそうやったんや。あの曲、今でもすごく好きです。なんか今日、久し振りに聴いていたら、いろんなことが思い出されてきたわ」
言いながら、うれしそうに笑った。
「わたし、梓先生の花嫁姿、今でもよく憶えているんです」
フリルのついた立ち襟と、梓の髪に飾られた白いカトレア、透けたベールが長く引き摺られた様子などを、沙織は得意気に話した。
「幼稚園に入ったばかりの頃ですけど」
「入園したばっかりっていうのはつまり、年少組?」
「ええ」
小さな子供にとっては、それだけ印象に残る出来事だったのだろう。本物の花嫁を目の前にするだけでも、充分に刺激的な経験だ。そのうえ、新郎新婦の親戚やら、友人知人やら大勢の人々が集まり、華やかな披露宴が繰りひろげられるわけだから、印象に残らないはずがない。
「でもね、ほんまのこと言いますとね、その時の記憶なのか、後で見た写真の記憶なのか、混同してるとこがあるのかも知れません」
いたずらっぽく笑い、沙織はストローをグラスに入れた。
「そうね。子供の頃の記憶って、テレビとか映画とか夢とか、そういうのに影響受けたりするものね」
「わたしはずっと、私立の女子校で育ってきたものですから、周囲の顔ぶれが同じなんです。だから、幼稚園の頃のこともよく憶えてる方やと思うんですけどねえ」
そうそう、と知佐子が頷いた。
「わたしも、梓先生のことよう憶えてるわ」
「あら、知佐子さんもご存知なんですか」
「結婚式の時、見たのよね」
沙織が言った。
「カトリック系の幼稚園だったんで、教会があったんですよ。梓先生と叔父は、そこの教会で式を挙げたんです」
「どちらの幼稚園ですか」
「聖カトレア学園です」
「ああ、平安神宮のすぐ傍の」
グラスを手に持ち、知佐子は懐かしそうな目をした。
「本物の梓先生も見たけど、その後、沙織ちゃんのおうちで写真も見せてもろうたわ」
「わたし、梓先生の結婚式のアルバム、自慢して知佐ちゃんに何度も見せてたんよねえ」
沙織は奈津子の方を見た。
「ほら、子供って、お嫁さんの写真見るの好きでしょう。梓先生もきれいやったけど、うちの母も今と違うて若いし、痩せてましたものねえ」
「お母さんは、今でも痩せておられるじゃありませんか」
「それがね、一時期肥っていたんですよ」
「そうなんですか」
あまり想像がつかなかった。淑子は年齢のわりに体型はきれいな方だし、着こなしも垢抜けている。
「わたしは憶えているんですけどねえ、言うと怒るんですよ。そんなことないって」
沙織はおかしそうに笑った。
「なあ、沙織ちゃん」
知佐子がストローから口を離した。
「梓先生って、すぐに離婚しやはったん?」
「すぐってことはないと思うねんけど」
「子供さん、いやはったんよねえ、男の子」
え、と奈津子は顔を上げた。
「梓さん、お子さんがいらしたんですか」
「いえ、それが」
沙織はグラスを置いた。
「亡くなったんです。まだ、三歳でした」
「そうだったんですか」
全然知らなかった。梓は私生活について何も話さない。奈津子自身は、仕事のことはもちろん、生活のことについてもよく相談している。住むところや、浩の送り迎えのための中古車まで世話になった。
考えてみれば梓は、生活の匂いのしない女だった。若い頃はジャズオルガンプレイヤーとして活躍しており、かなりの人気があったと聞いている。美貌もあいまって、周囲の注目を集めていたのに違いない。
結婚後まもなく、現役のプレイヤーを事実上引退したらしいが、過去のことなど口にもしないし、また、こちらも尋ねたこともなかった。
「あの、お子さんは事故か何かで?」
「病気やったんですよ」
生まれつき、躯が弱かったのだと沙織は言った。
「沙織ちゃんはその頃のことも憶えてんの?」
知佐子が言った。
「うん、小学生やったし。病院へお見舞いに何度もいったから憶えてる」
「ずっと入院したはったん?」
「そんなことないねんよ。亡くなった頃はもう、幼稚園か保育園かいってたもの。入院してたのは赤ちゃんの時のことやったと思うわ」
言ってから、沙織はストローでグラスの氷をかきまわした。
「あ、お母さん」
知佐子が立ち上がった。
「こっち、こっち」
入口のあたりに五十半ばの女が立っていた。知佐子の姿を認めると安堵したように微笑み、こちらにやってくる。
「うちの母です」
知佐子が言った。
「こちら、沙織さんのお知り合いの浅野さん」
奈津子が会釈すると、知佐子の母は丁寧にお辞儀をした。クリーム色のシャネルスーツが似合う女性だった。
「それじゃ、わたしは失礼します。もうそろそろ、次の時間だから」
立ち上がり、奈津子は腕時計を指差した。
30
知佐子達と別れた奈津子は「ラレンタンド」を出た。エスカレーターで五階まであがり、フロアを歩いていると呼び止められた。
「浅野さん」
「あら、阪井さん。お仕事ですか」
松島屋の宣伝部長である阪井は、シャングリラホテルに打ち合わせでよくやってくる。
「仕事といえば仕事だけどね」
持っていた紙袋を少しあげて見せた。紙袋には、今日のお披露目のワインのロゴが印刷されている。
「パーティーにいらしていたんですか」
「さっき、顔だけだしたんだよ」
「そうでしたか。気づきませんで、失礼いたしました」
いや、と阪井は意味ありげな目つきをし、「ちょっといいかい」と言って、廊下の端に寄った。そこからは吹き抜けを見渡せるようになっている。
「例の事件のことだけどね、浅野さんは何か聞いてるかい」
「いえ、わたしは何も聞いていませんが」
そう、と阪井は吹き抜けに架かっているエスカレーターに目をやった。
「内部の人間が何かの形で事件にかかわっていると、普通は考えるよね。そうでないと、あんなことは無理だから」
答えようがなく、奈津子は阪井の横顔を見た。
「身代金入りの紙袋がいつクロークからなくなったのか、まだわからないらしいよ」
周辺にいたスタッフ全員に事情聴取したものの、判然としないのだと、阪井は話した。
「それは、本当のことなんですか」
「うちの幹部に、警察のOBがいるからね、その程度のことは耳に入ってくる」
しかし、本当に大切な情報は警察も流しはしないだろうが、と阪井は笑った。
「誘拐された子供の母親が、血相変えて展示会場にやってきたのが十一時半。これはうちの受付係や、周辺にいたスタッフからも確認したから間違いはない。母親はクロークに直行し、身代金入りの紙袋を預けている。その後、その紙袋、どうなったのかわからない」
「紙袋を預かったクローク係なりスタッフが、クロークには入れずに、客を装った仲間にすぐに渡してしまったということはないのでしょうか」
「ありえないねえ」
阪井は小さく首を振った。
「クロークの周辺には、常にお客様やスタッフがいる。もしそんなことをしたら、誰かが見ているはずだ。クロークで母親から紙袋を預かったスタッフ、誰か知っているかい?」
「いえ、わたしは何も知りませんけれど」
「前川加奈だよ。彼女が母親から紙袋を預かって、そして母親の持ってきた番号札の荷物をだしたんだ。その直後、クロークの電話が鳴った。周囲の客や居合わせたスタッフも、電話の音に振り向いている。つまり、注目を集めてしまったということだよ。皆が見ているなかで、紙袋を第三者に手渡したなら誰かが憶えているよ」
ならば、その後スタッフのなかの誰かが、客を装った仲間に紙袋を手渡したのではないか。奈津子がそう言うと、阪井はいや、と首を振った。
「あの紙袋を持って、シャングリラホテルを出た客はいないそうだ。フロアにも、あの紙袋を持って歩いていた人物はいない。防犯カメラで確認済みらしい。クローク内部で紙袋から中身を移し替えたのではないかとか警察も考えたようだが、そんなこと、とても無理だよ」
樹奈は身代金入りの紙袋をクロークに預けて、すぐに会場を出ていったという。六時に展示会が終了し、会場が閉鎖され、片付けが始まったのが六時半頃だ。片付けの時にはもう、身代金入りの紙袋は消えていた。もしこの時、棚に荷物があれば、スタッフ達は客の忘れ物として処理していたはずだ。
午前十一時半から午後六時半までの七時間の間に、何者かが紙袋をクロークから持ちだしたに違いないのだが、七時間といえばあまりに長い。いうまでもなく、この間に、何人ものスタッフが何度もクロークの棚の前を通っている。そして、誰一人、自分が通った時にその紙袋が棚にあったかどうかなど、記憶にとどめていないのだった。
「棚の前にはカーテンが吊られていましたよね、阪井さん」
「目隠しにね」
「なら、誰も紙袋が棚にあったかどうかなんて、見てないですよね」
スタッフの証言を総合しても、紙袋が消えたのが何時なのか割りだすのは、およそ不可能というものだろう。
「どちらにしろ、犯人の仲間はスタッフのなかにいたんだろうとしか思えない。犯人は、母親がやってくる十一時半以前にも一度クロークに近づいているはずだ。偽物の紙袋を棚に置いて、番号札も取ってきているわけだし」
展示会の開場は十時だった。スタッフは八時から準備のため会場に入っている。スタッフなら、朝八時からクロークに近寄ることは何の造作もないことである。
「まだ、表にはでていないんだけれどね。電話コーナーの防犯カメラに、あやしい人物が映っていたらしい。襟を立てて、サングラスをしていたから、顔についてはまったくわからないが、身長百四十五から百五十五センチの小柄な人物だそうだ」
「女性なんですね」
「警察は断定していないと聞いているよ。トレンチコートにズボンという格好だったそうだから、服装を見ているぶんにはどちらともいえない。けれど、この体格なら、やっぱり女なんだろうね」
奈津子は、ふと加奈のことを思い出した。彼女はずいぶん小柄だ。おそらく百五十前後ではなかっただろうか。そういえば、早紀子も同じような背格好だった。
ほんの五分か十分なら、展示会場を抜けることも可能だ。トイレの個室でコートをはおり、サングラスをかけて電話コーナーにいけばいい。番号札を置いてきたら、またトイレでコートを脱ぎ、サングラスをとればいいのだ。コートやサングラスは、自分のロッカーに隠しておけばいいのだから、やろうと思えば可能ではないか。
「浅野さん」
呼ばれて奈津子は顔をあげた。
「何考えてるんだい」
「いえ、べつに」
ふっと、阪井は笑った。
「僕も同じこと、考えてるよ」
奈津子は何も答えなかった。
「たぶん、そう考えるのが一番自然だ」
クローク係は二人いる。加奈か早紀子か、どっちだろう。いや、二人が組んでいることもありうる。
「藤吉と前川加奈のことは、浅野さんだって知っているだろう。ずいぶん前から噂になっているからね。警察もとっくに掴んでいる」
いつから二人の関係が続いているのか、奈津子は知らない。早紀子が少し怒ったように話していたのは、一、二ヶ月前くらいだろうか。
「つまらん男にひっかかったものだね」
阪井は手摺に腕を載せ、一階を見下ろした。
「藤吉には大きな借金があるそうだよ。これも、内部では有名な話だったけれどね」
シャングリラホテルでは部外者である奈津子は、そんなことも知らない。
「競馬に入れ揚げていたらしいから、ある種の依存症というか、病気なんだろう。奥さんも逃げたらしいよ」
「そうだったんですか」
「まあ、そんなことはどうでもいいんだ。事件さえ起こらなかったのならね」
阪井もまた、警察に色々と調べられているのに違いない。組織にいる者にとって、こうした事件に巻き込まれるのは奈津子が想像する以上にダメージが大きいものなのだろう。
「ともかく、犯人が早く捕まってくれないと、あの時現場に居合わせた者はいつまでも警察にああだこうだと探られる。いい迷惑だよ」
顔をあげ、阪井は苦笑した。
「浅野さんも警察に調べられたんだって?」
「ええ」
「警察も頭悪いよね。身代金奪取に成功した犯人が、その紙袋持って、のこのこ現場にもどってくるわけがないじゃないか」
あの夜、奈津子は浦上に呼びとめられ、紙袋の中身を確認された。しかしそれは、自分にとって幸運だったのかも知れないと今は思っている。刑事がその場で確認したお陰で、奈津子の紙袋に身代金が入っていなかったのは、歴然とした事実として周囲に認識された。
もし浦上が確認をしていなかったら、奈津子は後々まで関係者に疑われていたかも知れない。事件当日、浅野奈津子は身代金入りの紙袋と同じ紙袋を持ってホテル内を歩いていたと噂され、やがてそれが一人歩きして、とんでもない話に発展していく可能性もあったのだ。
「お宅の事務所の社長も疑われていたらしいよ。ほんの少し、会場に居合わせただけのことなのに、とんだとばっちりだね」
「篠塚がですか」
「無関係と判明したからよかったけどね」
阪井は眉をあげ、手摺に手を置いた。
「僕達松島屋のスタッフも、ホテルを出た時の映像を徹底的に調べられたんだよ。たまたま紙袋とか、大きめのバッグを持っていた者は全員疑われた」
「阪井さんは、何も持っていらっしゃらなかったんですか」
冗談めかして奈津子が訊くと、阪井は苦笑した。
「おかげさまで、その日は薄い書類入れしか持っていなかった」
「それはラッキーでしたね」
「まったくだよ」
日によっては、大きめの鞄や紙袋を持っていることもあるからと、阪井は言った。
「ともかくね、犯人が捕まってくれないかぎり、関係者全員がいつまでも容疑者扱いというか、疑いの目で見られるんだからね。早くなんとかしてほしいよ」
手摺から手をおろし、阪井は紙袋を持ちなおした。
31
ラウンジの仕事を終え、いつものように厨房を抜けてフロアに出た。見たことのある男が二人、向こうから歩いてくる。奈津子は目を凝らした。浦上だ。横には以前見た刑事を従えている。また、何か訊かれるのだろうか。
「お仕事、もう終わりですか」
浦上は丁寧にお辞儀した。
「ええ」
奈津子は簡単に挨拶を返した。
「今、あちらから出てこられたのですか」
廊下の後ろの方を見ながら浦上が言った。そっちは行き止まりで、スタッフルームのドアがあり、前に観葉樹が置いてある。
「厨房を通ってきたんです」
「厨房?」
「お客様方のいらっしゃるラウンジを通り道にするのは失礼なことですから。わたし達ピアニストはステージが終われば、舞台の後ろから厨房を通らせてもらって、フロアに抜けるんです」
「そういうきまりがあるのですか」
「きまりがあるってわけでもないですけど、常識です。正面の出入口はお客様のためのものですから」
あ、と浦上は眉をあげた。
「厨房にはたしか、専用エレベーターがありますよね。それには乗られないんですか」
「よほどのことがないかぎり、乗ることはありませんね。だって、あれこそ厨房のスタッフのものですから。食材の運搬とかゴミ出しの専用ですし。いつも大型の荷物の運搬に使われているので、厨房のスタッフ以外の者が乗ると迷惑がかかります」
それに、と奈津子は小さく笑った。
「厨房の専用エレベーターは臭いし、汚れているんです。普通の方はご存知ないでしょうけれど」
毎日、生鮮食料品や生ゴミの運搬に使われているのだから、臭《にお》いや汚れがしみついているのは当然だ。
「きれいなホテルでお客が快適に過ごせるように、裏方のスタッフの皆さんは、細部にまで気を遣っておられるのですね」
言いながら浦上は、大型の窓に目をやった。奈津子も窓の外を見つめた。夜景が見えている。夕方から降りだした雨のために、街の灯が滲んでいた。
「毎晩、夜遅くまでピアノを弾いていらっしゃるんですね。疲れませんか」
「仕事ですから」
少し笑い、浦上はつぶやくように言った。
「そうですね。我々もそうですよ」
浅野さん、と浦上は夜景を見つめたまま言った。
「あれから、何か思い出されたことはありますか」
「展示会のことですか」
「ええ」
「申し訳ありませんが、何もありません」
「変なんですよねえ」
首を傾げ、奈津子は浦上の横顔を見た。
「ご存知の通り、犯人は身代金奪取に成功しました。用意周到な計画を立て、ほとんど自分の痕跡を残すこともなく逃げ去りました」
警察の捜査が実際にどこまで進んでいるのか奈津子は知らない。阪井が話していた内容にしたところで、情報のほんの一部にしか過ぎないだろう。
「これだけの犯罪を完璧にやってのけるだけの頭脳を持っているんです。どんな奴だと思いますか、犯人」
「おっしゃる通り、頭のいい人間なんでしょうね」
「それから?」
「ここまで頭がいいんですから、この犯罪計画についても自信を持っていたのではないかしら」
そうです、と浦上は頷いた。
「成功率は高いと考えたはずです。いや、計画的犯行の場合、どんな犯人も百パーセントうまくいくと思って実行します。思うからこそやるわけですが。だが、大抵はうまくいかない。身代金目的の誘拐事件の場合、必ず捕まります」
誘拐という犯罪は、間尺に合わない犯罪だ、と浦上は言った。
「必ず逮捕されるし、罪は重い。成功などありえないし、待っているのは長い刑務所暮らしか極刑です。それだけのリスクを負って、犯人は犯行を実行するのですからね。身代金要求は、もっと吹っかけてくるものなんですが」
「吹っかける?」
「この事件の場合、犯人は計画に自信を持っていたと思います。それも、普通の人間にありがちな根拠のない自信などというものではなくて、明確なね。それなら、五千万でも一億でも吹っかけてきそうなものなんですがね」
「そういうものなんですか」
「同じ手間をかけるのなら、一円でも多い方がいい。そう思いませんか」
「それは、そうですけど」
「浅野さん」
浦上は廊下の窓に目をやったまま言った。
「いつも、結婚式の披露宴で弾いていらっしゃるんでしょう」
「ええ」
「結婚式って不思議ですよね」
「何がですか」
「どうして、結婚式とか披露宴なんて、どうでもいいものに莫大な金をかけるんですかねえ」
「浦上さんは、ご結婚されているのですか」
「いえ、自分は独身です」
そうですか、と奈津子は楽譜の入った紙袋を持ち直した。
「結婚式っていうのは、本人にとっても親にとっても、人生最大のイベントなんですよ。これ以上ないというくらい、晴れやかで華やかな日なんです。だから、皆さんお金を使って派手にやるんですよ」
そのあと、どうせろくなことはないのだから、と言いかけて、奈津子は苦笑した。
32
どこを捜しても美有はいない。
美有。
何度も名前を呼びながら、樹奈は一階のフロアを歩き回っていた。
ここはさっきも見にきた。お菓子売り場も玩具《おもちや》売り場も、何度も見ている。いや、もしかしたら今、美有がもどってきているかも知れない。
美有、どこにいるの。返事をしなさい、美有。
商品棚の間を、樹奈は鼠のように走り抜けていく。
──グッデイ、ニューストア、グッデイ、ナイスデイ、今日も楽しくお買い物。
曲が流れている。
背中を冷たい汗が流れた。額にも汗が滲んでいる。喉が渇いていた。叫ぼうとしても声がかすれる。だが、美有を呼びもどさなくてはいけない。
美有、どこにいるの。
額に滲んでいた汗が、つっと流れた。
駐車場にいるのかも知れない。
樹奈は出入口に向かって駆けだした。だが、どこまで走っても、出入口が見えない。商品棚の向こうはガラス張りで、駐車場は見えているのに。
車の陰から、小さな女の子が歩いてきた。
美有だ。
樹奈は叫び、手を振る。
こんなところにいたの。お母さん、心配したでしょう。美有、こっち、こっちよ。お母さんはここにいる。
だが、女の子は振り向かない。
違う。
樹奈は振っていた手をおろした。
あれは美有ではない。美有は、薄いピンク色のトレーナーを着ていた。それに、赤いスカートを穿いていたもの。あの女の子は、オレンジ色のジャンパースカートだ。
では、美有はどこにいったのだ。
踵を返し、樹奈はまた、商品棚の間を小走りに駆けていく。棚が途切れ、鮮魚売り場に出た。こんなところに、美有がいるはずがない。
いや、もしかしたら、美有はわたしを捜しにここにきているかも知れない。誰かに訊いてみよう。
すみません、と樹奈は声をかけた。カートを押していた中年の女がこちらを見る。
あの、子供を捜しているんです。ええと、ピンク色のトレーナーを着て、赤いスカートを穿いています。見かけませんでしたか。
女はゆっくりと首を横に振った。
横を通る別の女に訊いてみた。
どこかで見ませんでしたか、うちの子。
何も答えず、女はカートを押していってしまった。
だめだ。誰も他人の子供のことなんか、見ていないし、憶えていない。やはり、自分で捜さないとだめだ。
美有。
樹奈は叫ぶ。
振り返ると、さらに高い商品棚の列があった。あそこはまだ捜していない。急いでいってみる。
向こうの方に、子供を抱いている人が見えた。子供は紺色の野球帽をかぶり、同じ色のジャンパーとズボンを身につけている。
あっ、と樹奈は息を飲んだ。
あれは美有だ。
大声で呼んでも、美有はぐったりとして動かない。眠っているのか。
起きなさい、美有。
樹奈は叫ぶ。だが、美有は目を覚まさない。美有を抱いた人物は、ゆっくりと歩いていく。その人物の顔は、美有の頭に隠れて見えなかった。どうやら、サングラスをかけているらしいのはわかるが、顔の輪郭はニット帽とコートの襟に隠れてしまっている。
追いかけなければならない。樹奈はあわてて駆けだした。だが、商品棚が行く手に立ち塞がる。カートを押した見知らぬ人々が、向こうから大勢でやってきて通路を遮《さえぎ》る。
ちょっと、どいて、どいてください。
樹奈は必死で前に進もうとする。
──グッデイ、ニューストア、グッデイ、ナイスデイ、今日も楽しくお買い物。
すみません、娘を捜しているんです。ええ、すぐそこにいるんです。通してください、お願いします。
全身から汗が噴きだしていた。息が苦しい。
美有、お母さんはここにいる。
美有、もどってきなさい。
どんなに叫んでも、樹奈の声は届かない。
──グッデイ、ニューストア、グッデイ、ナイスデイ、今日も楽しくお買い物。
あの曲を止めて。あの曲が喧《やかま》しいから、わたしの声が届かない。
美有、美有。
叫んでいる樹奈の肩が揺れた。
なぜだ、どうして。
さらに強い力で揺さぶられる。
痛い、やめて。
はっと、樹奈は目を開けた。
ぼんやりとした明かりのなかに、賢一の顔が浮かびあがっている。
「またか」
賢一がうんざりしたように言った。ふとんから躯を起こし、樹奈の肩に手を置いていた。
「ごめんなさい」
樹奈は額に手をやった。汗が滲んでいる。背中がひんやりとしていた。汗びっしょりだ。
美有は隣で寝ていた。唇を半開きにして、寝息をたてている。樹奈は半身を起こし、時計に目をやった。三時前だ。
事件から三ヶ月が過ぎた。今でも時々、夢をみる。美有がいなくなる夢だ。
賢一は寝床に入り直して言った。
「警察で見せられた映像やけどな」
樹奈はまったく心当たりがなかった。該当するような人間が思い浮かばない。
たとえ顔が見えなくても、全体の雰囲気とか、ちょっとした所作とか歩き方とかで、知り合いならわかるものでしょう、と刑事は言った。
そうかも知れない。気を取り直してまた映像を見るのだが、けれどやはり、思いあたる人物はいなかった。
「奥さん、本当に知らない人ですか。よく見てください」
何度も言われた。だが、知らないものは知らない。樹奈の周囲にいる人物ではないのだ。
しかし、犯人は樹奈の身辺についてよく知っている。美有がサンフラワー教室にいっていること。教室には、近所に住む北岡恭子の息子も通っていること。
わたしは知らないけれど、向こうはわたしのことをよく知っている。直接ではなく、間接的な知り合いかも知れないと、刑事に言われた。
たとえば、と樹奈は考えた。北岡恭子の知り合いだろうか。それなら、話の辻褄は合う。恭子の家の電話番号を知っていて当然だし、彼女の息子と美有が同じ教室に通っていることも、恭子を通して知ることができる。
そう思った樹奈は、その翌日恭子に話してみたのだった。恭子は激怒した。
「ちょっと桑島さん。あんた、自分の言うてることがどういうことか、わかってんの」
恭子は樹奈を睨んだ。
「わたしはただ、警察でいろんなこと言われたから。間接的な知り合いという可能性もあるからって」
「警察が、わたしのことがあやしいって言ったわけ?」
怒鳴りつけるように言ったあと、恭子は大きく息を吸った。
「あんた、自分の足元よう見てみやはったら」
「自分の足元?」
「灯台|下《もと》暗しって言葉、知ったはる?」
恭子は唇の端を歪めた。
「いっぺん、お宅のご主人さんに、じっくり訊いてみやはったら?」
「主人に?」
くく、と喉の奥で恭子は笑った。
「ぼうっとしてたら、寝首掻かれまっせ」
「どういう意味ですか」
「わたしにこんなこと訊くよりも、ご主人さんに思いあたる人はないのか、よう確かめてみやはったらと言うてるんです」
「主人は知らないと言っています」
そやから、と恭子は眉をあげた。
「知ってても、知ってるて言えへん事情がおありなんかも知れへんやないの」
恭子とはこの日以来、絶交状態になってしまった。
樹奈はよく考えてみた。
自分に思いあたる人物がいないということは、あとは賢一しかないではないか。犯人につながる何かを知っているとすれば、それは賢一だ。
樹奈はその夜、賢一に尋ねた。
「ほんまに、あの防犯カメラに映ってた人、知らんの」
「知らん」
何を今さらという顔をして、賢一は答えた。
「あの映像の人って、女の人よね?」
「背格好からしたら、たぶんそうやろな」
「あの女の人、ほんまに、あんたは知らん人やの」
「おまえは何が言いたいんや」
「そやから、あんたには思いあたる人はないの?」
「ないて言うてるやろ」
「知ってても言えへん事情があるとか」
「何を考えてるんや、おまえは」
賢一は怒鳴りつけた。
「だいたい、おまえが美有から目を離すから、こんなことになったんやろ」
樹奈は自分の頬と唇のあたりが痙攣《けいれん》するのを感じた。
「もとはといえば全部、おまえのせいやろ」
「けど、美有は無事に帰ってきたもの」
「二千万円は取られたままや」
そんな、と樹奈は言った。
「美有が無事に帰ってきたのなら、お金のことなんかどうでもええやないの」
「それでなくても、うちは開業のために借金があるんや。その上、二千万やぞ、二千万」
賢一は頭をかかえた。
「どうやって返していくつもりなんや」
このやり取り以降、樹奈は賢一ともあまり口をきかなくなった。ローン返済の話になると、最後は必ず諍《いさか》いになる。そんな二人を見ているせいか、美有は時々夜泣きをするようになった。もう、夜泣きをするような年齢ではないのに。
賢一との諍いと美有の夜泣きにたまりかねて、樹奈は一時期実家に帰った。しかし、実家の近辺では、樹奈と美有は露骨に好奇の目で見られ、あることないことを言われた。
「娘さん、離婚して戻ってきやはったん」と実家の母にわざわざ訊きにきた近所の年寄もいた。賢一が借金取りに追いかけられて蒸発したとか、自殺したという噂も流れた。
実家には妹がいる。事件の少し前、見合い話が持ち込まれていた。来年三十歳になる妹はこの縁談に乗り気だった。が、事件後、理由を告げることもなく先方は断ってきたという。妹は激怒し、母は落胆し、父は口を閉ざした。
結局、実家に樹奈の居場所はなかった。樹奈はまたこの家に戻った。けれど今も悪夢は続き、賢一との諍いはひどくなる一方だ。
警察に事情を訊かれるのにも疲れた。事件以降、毎日のようにいろんな資料を見せられ、問い詰められた。どんな映像や写真を見せられたところで、知らないものは知らないし、わからないものはわからない。けれど警察は、簡単には信じてくれない。
現在も刑事達が家の周辺や立ち回り先を見張っていると、賢一は言っていた。もう、息が詰まりそうだ。
樹奈は美有の寝顔に目をやった。よく眠っている。首元にまで毛布をかけてやり、頬を撫でた。
「俺は、ほんまに知らんぞ、ビデオに映ってた女」
唐突に、賢一が言った。
「なんでそんなこと、急に言うの」
「おまえが以前、気にしてたからやないか」
天井を見つめたまま、賢一は言った。
「俺は被害者なんや。なんでこんなこと、おまえに言われなあかんのや」
「そやから、訊いてみただけやないの」
「何のために」
「何か、手がかりでもないかと思うて」
「その『手がかり』て、何なんや」
「犯人に繋がるどんな小さなことでも思い出したら教えてくださいって、刑事さんも言うたはったやないの」
「俺の何が、犯人に繋がってるていうのや」
「何もそんなこと言うてへんやないの」
「言うてるやないか」
賢一の声が大きくなっていく。
「これから、いったいどうなっていくと思うてるんや、おまえは」
「どうなっていくって?」
事件の余波を受け、リサイクルショップの開業は大幅に遅れていた。資金繰りや返済計画も、そして開業そのものもすべて考えなおさなければならないと、賢一は声を荒らげた。
「わかってるのか、そういうことが」
連日、賢一は早朝に出ていき、深夜に帰宅するということが続いていた。少し、痩せたように思う。暗がりのなかで、賢一の頬には濃い翳が刻まれていた。
「俺らが今どういう立場なんか、おまえ、考えてるのか。二千万円も余分に、借金背負うてるんやぞ」
「なんであんたは、お金のことばっかり言うのよ」
樹奈の声も甲高くなっていた。
「お金のことばっかり言うあんたこそ、おかしいわ」
「俺が、おかしい?」
「おかしいわよ。美有と二千万円、どっちが大事やの」
「そういう問題と違うやろ」
賢一が怒鳴った。瞬間、美有が泣きだした。賢一は頭をかきむしり、樹奈に背を向けた。
33
披露宴が終わった。
すべての客が帰り、宴の後の食卓が残される。酒が溜まったままのグラスや汚れたナプキン、食べこぼしのしみのついたテーブルクロスは、豪華な宴会場とはひどく場違いな光景だ。始まる前は整然と並べられていた食器類も、今はだらしなく形を崩して置き去りにされている。
奈津子は電子オルガンの蓋を閉めた。ウェイター達がワゴンを押してやってくる。食器類は見る間にワゴンに積み上げられ、厨房に運ばれていく。
「お疲れ」
広瀬が後ろに立っていた。
「今日はお宅の社長、姿見せはらへんかったねえ」
ウェイター達の動きに目をやりながら、広瀬は言った。
「さっきまで、あっちの宴会場で香水の新作キャンペーンがあってね、かなり大規模なパーティーやったんで、また社長さんが来やはるかと思うてたんやけど」
今日あたり、たしか梓は大阪のホテルに新規の契約にいっているのではなかったか。しかし、そんなことは広瀬に言う必要もないことなので、奈津子は曖昧《あいまい》に笑った。
「相変わらず怖いからなあ、お宅の社長」
大きいイベントやパーティーがあると必ずやってきて、音響効果や楽器の置かれている位置などを厳しくチェックする。不備があれば注意し、すぐに変更させる梓は、スタッフに煙たがられている。
「けど、専門の人やないと、うちらではわからんことが多いからねえ」
ホテルのスタッフはつい、見映えを優先してしまう。けれど、音響効果が劣ると演出効果も半減するので、やはり大事なことだと広瀬は言った。
「あの人くらいのキャリアのある人も、実際、京都には少ないからなあ」
広瀬は腰に手をやった。
「巧かったからねえ、あの人のジャズオルガン」
「広瀬さんは、うちの社長がプレイヤーだった頃をご存知なんですか」
知ってるも何も、と広瀬は奈津子の方を見た。
「ずっと、リアルタイムで見てたよ」
「そうだったんですか」
「もとは東京で弾いたはったんやけどね、結婚してこっちに来やはって、それから関西を拠点に活動したはったわ。東京に巧い女のプレイヤーがいるていうのは、こっちの業界でも噂になってたしねえ」
梓が関西に来た時、業界では鳴り物入りで迎えられたのだという。
「あの頃はお弟子さんもぎょうさん抱えたはったし、コンサートも賑やかやったねえ。シャングリラホテルも、サロンコンサートとかでよう使うてもろてましたよ」
今、梓が自身で演奏することはない。プロダクションを起《た》ち上げてマネージメントをするようになると、いろんな意味で自分がプレイヤーでいることは難しい。
たぶん梓は、プレイヤーとしての自分の可能性と、プロダクション経営者としての将来を天秤にかけたのだろう。業界には、演奏能力が落ちた後も現役を通す者もいれば、梓のようにさっさと見切りをつけて事務所を起ち上げる者もいる。
一度現役を退いたら、プレイヤーの仕事はできない。楽器は正直なもので、常に緊張感をもって演奏をしていないと、「音」は確実に落ちるものである。
毎日弾いていないと指の筋肉は衰え、骨格も軟弱になり、演奏に耐えられるだけの強靭さがなくなっていく。俊敏さも、柔軟さも失われ、曲の進行についていくだけの感覚や能力が損なわれていくのだ。
もともと能力を持たない者には、それがどういうことなのかわからない。だが、持っていた者にとっては、瞬発力や閃きがなくなった自分と対峙するのは辛いものである。演奏能力の落ちた自分を騙し騙し弾き続けるのは、常人が想像するより難しいことなのだ。
「もう、お宅の社長が自分で弾かはることはないんやろねえ」
汚れた皿の積まれたワゴンに、広瀬は目をやった。
「あの時のブランクが長かったからね。まあ、女の人はしょうがないけど。子供さんが生まれはったしね」
子供が生まれたとしても、披露宴やパーティーで弾いている分には支障はない。だが、梓はジャズオルガンプレイヤーだった。規模は小さいとはいえ、ホールでリサイタルを開き、ライブハウスで演奏をしていたのだから、きまりきった曲をBGMで弾いているのとはわけが違う。
「あの人の場合、子供さんが生まれる前から、もうずいぶん間が開いてたから」
「子供が生まれる前から?」
少し言いにくそうに、広瀬は目をしばたたいた。
「病院通いしたはったと聞いたけど」
「病気だったのですか」
「いや、病気ていうか、やっと授かった息子さんやったんや」
梓は不妊治療でも受けていたのだろうか。奈津子がそう言うと、広瀬は頷いた。
「皮肉なもんやねえ。そんな息子さんを亡くさはったんやからね。特別な才能のある人は、普通の人が普通に持つものは、持てへんようにできてるんかなあ」
テーブルにあった食器も花も、すべて片付けられた。ウェイター達は、手早くテーブルクロスをたたんでいく。
「浅野さん、今夜もあっちやね?」
広瀬は天井を指差した。最上階のラウンジのことだ。
「そうです」
「なんか今日、電話があったらしいんやけどね」
「電話って、わたしにですか」
「あ、そうやのうて。ここのラウンジで弾いてるのは、梓さんですかって」
梓の昔のファンだろうか。
「たしかに、篠塚さんとこのプロダクションに入ってもらってますけどって、店の者は答えたそうやけど。やっぱり、今もあの人の演奏を聴きたいって思うてる人がいるんやねえ」
たいしたもんや、と広瀬は頷いた。
34
教室の外にまで、母親達の声が聞こえてくる。奈津子は小走りに廊下を歩いた。
授業はとうに終わっているのに、母親達の大半が出てこない。講師もアシスタントももどってこないので、様子を見てくるようにと事務局から言われたのだ。
「やめません」
ドアを開けた途端、樹奈の叫ぶような声がした。
「やめませんから」
「誰もそんなこと、言ってないじゃありませんか」
人垣で見えないが、講師のなだめるような声がする。母親達が口々に何か言っていた。
「だって、そう言われましたもの」
「そんなこと、誰も言ってませんよ。たとえ、おやめになるにしても、お続けになるにしても、個人の自由ですし、気にされる必要のないことですよ」
ホワイトボードの前で、講師と樹奈が言い合っていた。講師の後ろには、アシスタントが困った顔をして立っている。
人垣から、子供の手を引いた母親がでてきた。北岡恭子だ。恭子は唇をかたく結び、何も言わずに奈津子の前を通り過ぎた。
「あの、皆さん」
奈津子が言った。
「受付カウンターで、カードを受け取ってください」
母親達が振り返る。
「次の授業の準備がありますので、お急ぎください。お願いします」
奈津子の言葉に促され、母親達はぞろぞろと教室を出ていった。全員が帰った後も、講師と樹奈のやり取りは続いた。
「だから、わたしはそんなこと、一言も言っていないんです」
「わかっています」
講師は樹奈を教室の子供用の椅子に座らせた。横に座った美有が、不安気に母親を見上げている。
「勝手にそんなことを言われると、困るんです」
「そうですよね。そんなことを本当に言う人がいたなら、これは問題です」
樹奈は大きく息を吸った。
「この子の試験にもかかわってきます」
「あら、それはないですよ」
「だって、親が別居してるとか、離婚してるとか、そういうことはいけないんでしょう、先生」
まあそれは、と講師は椅子に座った。アシスタントもそれに倣《なら》う。
子供用の椅子に大人が腰掛けるのはかなり無理がある。肉付きのいい講師の腰と尻が、フレアスカートの上からでも椅子からはみ出ているのがわかる。アシスタントは窮屈そうに、スカートの裾を持ち上げて座りなおした。
「そんなふうに思っている人もいるみたいですけれど、いくら私立とはいえ、親の事情を決定的な欠点だと決めつけたりはしませんよ。現に、お母様だけのご家庭でも合格している方はおられますし、ご両親が揃っていても不合格という場合もたくさんあるのですから」
「でも、こんな噂が立ったら絶対に不利やわ」
樹奈は傍らの美有を抱き寄せた。美有は不安気に人差し指を銜《くわ》えた。
「やめなさい」
甲高い声をだし、樹奈は美有の手をおろさせた。美有は泣きそうな顔をしている。
「指を銜えたらあかんって、言ったでしょう」
母親の苛立った声に美有は怯えている。目には涙がたまっていた。声をあげて泣くのは時間の問題だ。美有が泣き喚《わめ》いたら、樹奈はさらに興奮し、わけのわからないことを怒鳴りちらすだろう。と、その時、美有の表情が急にやわらいだ。樹奈が菓子を持たせたのだ。
講師は一瞬険しい目をしたが、何も言わなかった。
いうまでもなく、教室内での飲食は禁止されている。普段から、待ち時間に受付の前あたりで子供に菓子を食べさせる母親がいないわけではない。が、それはあくまでも講師の目を盗んでというか、目立たないようにしてなされる行為だった。
今、樹奈は堂々と講師の前で子供に菓子を食べさせようとしている。本来なら注意するべきところだろう。しかし、講師は敢えて美有の方には目を向けず、静かに言った。
「噂なんて立っていませんよ、桑島さん。何も心配することはありません」
「いいえ、みんな噂しています」
「どうして、噂が立っていると思っていらっしゃるのですか」
それは、と樹奈は口ごもった。講師はやさしく笑いかけた。
「何もないでしょう」
講師の言葉に頷くでもなく、樹奈は一点を見据えている。
「でも、そういう噂があるのは事実なんです」
「誰が言ったんですか」
「だから、クラスの皆さんです」
講師はアシスタントと顔を見合わせた。
「どんなことを、皆さんはおっしゃっていたのでしょう」
「うちがサンフラワー教室をやめるとか、離婚するとか、それから、うちがもう、別居しているとか」
「本当にそんなことを、皆さんがおっしゃっていたのですか」
「はい」
「それは、おかしいですねえ」
穏やかな表情で、講師は首を傾げた。
「授業中に、そんなことをお母様方が話しておられたのですか」
「はい」
「授業中は、私語は禁止ですよ。そういうお母様がいらしたら、私どもからご注意申し上げるようにしております。今日の授業ではべつに、そのような方はいらっしゃらなかったと思いますが」
講師はアシスタントの方に向き直った。
「誰かそのような方が、いらしたかしら」
アシスタントは首を横に振った。
「そのような方はいらっしゃいませんでした。いらっしゃったら、わたしの方からご注意申し上げていたと思います」
ねえ、桑島さん、と講師はまた、樹奈の方に躯を向けた。
「何か誤解なさっておられるのではありませんか」
「誤解?」
「ほんのちょっとした言葉のやり取りから、違うことに結びつけてしまったとか」
「別居していると、言われたんです」
「ですから、誰に?」
「北岡さんです。授業が始まる少し前、廊下で話しておられたんです」
唇を噛み、樹奈は顔をあげた。
「たしかにわたしは今、大阪の実家にいることが多いです。主人も仕事でよく出かけています。けど、別居ではありません」
「なら、そのように、北岡さんにおっしゃればいいじゃありませんか」
「だから、わたしは別居じゃないって、言っているんです」
「わかりました。わたしどもの方から、北岡さんにお電話で、そのことを申し上げておきます。それでよろしいですね?」
たたみかけるように講師が言うと、樹奈は子供のように頷き、立ち上がった。
「さようなら、美有ちゃん」
講師が声をかけ、アシスタントとともに美有の前に立った。
「先生、さようなら」
椅子から降り、美有は二人を見上げた。膝から菓子の欠片が落ちる。だが、敢えて二人は見ないようにして、いつものように手を振った。樹奈は何も言わずに美有の手を引いてでていった。
ドアが閉まるのを見届けた後、アシスタントが大きく息を吐いた。
「相変わらずですねえ、美有ちゃんのお母さん」
言いながら、傍の机に置いていかれた空の菓子箱を手に持ち、床に落ちた菓子の欠片を拾いあげた。
「あ、捨てておきます」
奈津子はアシスタントから空き箱を受け取った。
「頭痛いわ」
講師は両手でこめかみを押さえた。
「なんかこう、よけいにひどくなったような気がしますね」
「いや、あんなもんよ、あの人は」
アシスタントはホワイトボードに貼りつけてあったカードの磁石をはずし始めた。
「別居したはるって、ほんまなんですかねえ」
「まあ、ご近所に住んでる陽介君のお母さんがそう言うたはるんなら、たぶん、そういうことなんでしょ」
「ほなやっぱり、本当のことなんですね」
「あんなことがあったんやから、色々おうちのなかでもあるんでしょ」
「あれからもう、四ヶ月近くになるんですよねえ」
色とりどりの磁石を小分けにし、手早く箱に入れていった。
「ここのところ、陽介君のお母さんと美有ちゃんのお母さん、なんか、よそよそしいですよね」
二人は終始離れた場所に立って授業を見ており、口もきかなかったとアシスタントは言った。
「今、美有ちゃんのお母さんは、大阪のご実家に帰ってはるていうことなんですね」
「自分でそう言うたはったから、そうなんでしょう」
「てことは、大阪のご実家から、ここへ通うたはるんですね」
「大阪やったら、通えるからね」
「母親があれでは、美有ちゃんも情緒が不安定になりますよねえ」
アシスタントはカードを教卓の上でまとめた。
「入会しゃはったばかりの頃ですけどね。美有ちゃんのお母さん、自分もこの仕事してたて、自慢みたいに何度も言うたはったことがあるんですよ。何の仕事したはったんですか」
「保母さんやったはったらしいわよ、保育士」
「あの人が?」
あきれたように、アシスタントは目を見開いた。
「あんなんでよう、つとまってましたねえ」
「というか、よう資格が取れたなあと、わたしはそっちが不思議やわ」
レクリエーション活動で、簡単な歌の楽譜を配付することがあるが、美有の母親だけがほとんど楽譜を読めないと、講師は言った。
「保育士の資格取得には一応、ピアノ演奏能力も必要やのにねえ」
「バイエル修了程度いうことになってますけどね。でもまあ、ほとんど弾けないような人も、実際にはいますよ」
「現場ではどうしたはったんやろ。保育園やったら、先生はずっとピアノ弾いてるもんでしょう。ラジカセでも鳴らして、ごまかしたはったんやろか」
アシスタントはカードの束を輪ゴムに通した。
「さっき、教室やめるとかなんとか、そんなこと言うて怒ったはりましたよね」
「うちはやめませんからって、念を押したはったけど」
「はああ、やめはらへんのですか」
気の抜けたような声で、アシスタントが言った。
「ねえ、浅野さん」
講師は奈津子に顔を向けた。
「授業始まる前に訊いてたあれやけど。桑島さんは、来期の授業料ってどうしたはる?」
サンフラワー教室の授業料は三ヶ月ごとの引き落としになっている。
「引き落とし、先週だったんですけど、落ちてませんでした」
「理由は?」
「残高不足ということで」
講師とアシスタントは顔を見合わせた。
35
楽譜台の傍らに、ウェイターが紙切れを置いた。リクエストが入ったらしい。
「ON A CLEAR DAY YOU CAN SEE FOREVER」と書かれている。邦題は「晴れた日に永遠が見える」だ。
夜のラウンジでは、ジャズのスタンダードナンバーがよくリクエストされるから、コピー楽譜のファイルは必ず持っている。
最終章の最後の音を左手で延ばし、奈津子は右手で素早くファイルをめくった。ペダルを完全に切った後、「晴れた日に永遠が見える」のイントロを弾きだす。
テーマ部分の頭は弱起だが、そのすぐ後に和声で旋律が動くので、かき消されないように細心の注意を払う。続く音もすべてセブンスコードだ。豪奢な響きだが、濁るとすべてが台無しになる。
サビからテーマにもどり、アドリブに入った。
梓のアレンジ譜には、アドリブ部分も丁寧に書きこまれていた。それらを分析すればするほど、梓の閃きには感嘆させられる。才能のある者はスケールを自在に手繰り、フェイクも一瞬で決めてしまう。一番適切な場所で適切なフレーズを作り、大きく展開させるのだ。
奈津子は楽譜通りのアドリブを弾き、テーマ部分にもどった。腕時計に目をやると、あと一分弱だ。もう、凝ったフレーズは必要ない。エンディングを無難にまとめ、ステージを時間通りに終えた。
舞台の後ろに引っ込んだ奈津子を、藤吉が呼び止めた。
「どうしてもお話ししたいというお客様がいらしてるんですが」
「わたしに?」
一流ホテルのラウンジでは、通常ありえないことだった。酔客が女のピアニストを酒席に呼びつけるなど、ホテル側が許さないからだ。
「あの、浅野さんにというか、その」
藤吉は口ごもった。
「この間、電話をかけてきた人だと思うんですよ」
奈津子は舞台の脇の黒いカーテンの隙間から客席を見た。今夜は半分くらいしか客が入っていない。
「カウンターの反対側の方のテーブルです。お一人でいらっしゃる、あの」
藤吉は指さした。
「あの人?」
「そうです」
女の客だった。
「本当はお宅の社長さんに会いにこられたみたいなんですけど」
五十半ばくらいだろうか。見たことのない顔だ。黒いセーターに大判のワイン色のスカーフを巻いている。
「わかりました。いきます」
奈津子は一度裏から厨房に抜け、正面の出入口から客席に入り直した。
「お待たせいたしました」
テーブルの傍で声をかけると、女は振り向いた。
「あら、ごめんなさいね、お呼びたてしちゃって」
京都弁ではなかった。東京弁だ。だがほんの少し、抑揚が大きいように聞こえる。
「どうぞ、お座りになって」
「失礼いたします」
向かい合って座ると、女は奈津子の顔を見つめた。
「あなた、梓のお弟子さん?」
「弟子といいますか、篠塚梓のプロダクションに所属しているプレイヤーです」
唇をまるくすぼめ、女は「おお」と言った。
「梓は今、プロダクションの経営者なのね。そういうことだったのか」
女は笑い、首を大仰に振った。
「ああ、ごめんなさい。わたし、増渕雅子といいます」
「浅野と申します」
雅子の顔は日に焼けていた。この年代の女にしてはめずらしい。口紅も年齢のわりには派手なブロンズ色だ。眉の描き方も、眉山がえらく大きくカーブしており、アイシャドウのブルーも濃い。
「あなたのピアノを聴いて、きっと、梓のお弟子さんだろうと思ったわ」
奈津子は雅子の指を見た。口紅と同じ色のマニキュアが塗られている。だが、爪は指の先端より低い位置で短く切り揃えられていた。
「『ON A CLEAR DAY YOU CAN SEE FOREVER』をリクエストしたのはわたしです」
英語の発音は明瞭だった。
「梓が京都シャングリラホテルで仕事をしていると人づてに聞いたから、てっきり彼女が弾いていると思ってやってきたんだけれど、あなた、ええと」
人差し指を立て、雅子は首を傾げた。
「浅野です」
「そう、浅野さん。弾いているのは浅野さんだったから、あら違うんだ、と思ったの。で、試しに、昔、梓がよく弾いていた曲をリクエストしてみたのよ」
立てた人差し指を、雅子は左右に振ってみせた。
「左手のベースを時々ユニゾンでとるのは、あなたの癖なの?」
同業者だ、と直感した。雅子は間違いなく、プロの鍵盤奏者だ。こんな派手な出で立ちの女が爪を伸ばしていないなど、普通はありえない。
「さっきのアドリブ部分、あれ、コピーでしょ、梓の」
はっきりと指摘されて、奈津子は苦笑するしかなかった。どんなに練習してもコピーの域は超えられず、自分の演奏としてこなしきれていないのはわかっていた。とはいうものの、素人にそれと悟られることはない。聴きわけることができるのはプロだけだ。
「増渕さんは、うちの社長のお知り合いでいらっしゃいますか」
「知り合い? ええ、まあ、そうね。昔、昔のね」
グラスを持ち、雅子は笑った。
「あなたも何か注文なさったら」
「いえ、わたしは仕事中ですから」
「なら、ジュースでもとりなさいな」
ウェイターを呼び、雅子はオレンジジュースを注文した。
「ごめんなさいね、休憩時間につきあわせちゃって。でも、あなたのピアノを聴いたら、猛烈に懐かしくなってしまったわ」
間違ってはいないのだが、雅子の言葉遣いにはどこか違和感があった。「猛烈に」という言葉も、なんだか妙に古臭い。ずいぶん昔、そんな言い方が流行ったような気がする。
「梓の『ON A CLEAR DAY YOU CAN SEE FOREVER』は、絶品だったわね」
雅子はグラスを少しあげてみせた。
「あら、ごめんなさい。あなたの演奏がだめだって言っているのじゃないのよ。ただ、あなたあまり、フォービートは好きじゃないというか、最近でしょ、弾くようになったのは」
「そうです」
「巧いですよ、巧いです。でも、スウィングに乗りきれていないから、アドリブ部分が浮いてしまうのよ」
奈津子は「はい」と頷いた。
「日本人はお行儀が良過ぎてだめね。楽理や分析は得意だけれど、それだけではジャズは弾けない。でも、梓はそれができる人だった」
「あの、うちの社長の先生でいらしたのでしょうか」
「先生? あ、いえ、何か変ね、それ。梓には何も教えることなどなかったもの。昔ね、一緒によく仕事をしていたのよ。わたしがまだ、東京にいた頃にね」
「失礼ですが、現在は」
「シアトルよ。結婚してあっちで仕事をしているの。もう、二十年。すっかり浦島太郎よ」
雅子は笑った。
「二十年前、社長と東京で弾いていらっしゃったのですね」
「そう。ジャズオルガンをやっていたのよ。梓とはよく一緒にコンサートをしたわ。もともとね、彼女がわたしのところに入門したいって、やってきたのよ。うちは弟子をとる時、必ずオーディションをするんだけど、彼女の演奏を聴いて驚いたわね。まだ二十歳くらいだったのに、アドリブが本当に巧いんだもの」
それからしばらく、雅子は梓の演奏テクニックについて誉めちぎった。
「楽しかったわねえ、あの頃は」
首を振り、雅子は夜景に目をやった。
「久し振りに日本に帰ってきたの。東京もずいぶん変わったわね。昔の仲間も、ほとんど消息がわからなくて」
ウェイターがオレンジジュースを運んできた。
「そんななかでね、梓が京都にいるらしいって、教えてくれた人がいるのよ。シャングリラホテルで仕事してるって。で、ホテルに電話してみたら、たしかに梓がラウンジで仕事してるらしいっていうから、シアトルにもどる前に京都に寄ってみようって思ったの」
雅子は少し寂しそうに言った。
「梓はもう、弾いていないのね」
「はい」
プロダクション経営を始めた者は二度と自分が人前で奏することはしないものだと、雅子は肩をすくめた。
「彼女は元気にしているの?」
「ええ」
「それはよかった」
ワイン色のスカーフを両手で直し、雅子は安堵したように息を吐いた。
「一病息災ね」
「え?」
「もうすっかり、いいのかしら」
「何がですか」
ああ、と雅子は頷いた。
「もう、ずいぶん昔のことだものね」
「病気だったのですか」
「大変な手術だったのよ」
「手術?」
「若いのに、子宮筋腫をやったのよ。お母様が嘆いていらっしゃったわ。だって、全摘手術ですもの」
まさか。奈津子は訝りながら言った。
「それ、何かの思い違いではありませんか」
「思い違い?」
「ええ、うちの社長のことではないと思いますが」
「あなた」
雅子の目に怒りの色が滲んでいた。
「誰にものを言っているの」
わたしはね、と雅子は顎をあげた。
「ずっと梓と一緒に仕事をしていたのよ。彼女が入院していた時の穴埋めをしたのもわたしです。思い違いのわけがないじゃないの」
だが、いくらなんでも、雅子の話は変だ。梓は子供を産んでいる。子宮全摘出手術を受けた女に、子供が産めるわけがない。
「こういう仕事をしているのなら、あなたもわかっているでしょうけれど、プレイヤーは仕事に穴は絶対にあけられない。けれど、急に入院ってことになって、それで、お母様から事情を聞いたのよ」
当時はまだ結婚前だったので、病気のことについては他言してくれるなと、梓の母親に頼まれたのだと、雅子は話した。
「でももう、あれから二十年も経っているのだしね。それに、彼女は結婚したと、わたしが渡米してまもなく聞いたわ。その後、東京を離れたらしくて、音信不通になってしまったのだけれど」
グラスの酒を、雅子はゆっくりと手のなかでまわした。
「だからね、思い違いなんてことはありえないの」
酒を飲みほすと、雅子は奈津子を見た。その目があまりに高圧的なので、奈津子は言葉を飲みこんだ。
36
河原町通から御池に向かいながら、浦上はシャングリラホテルを見上げた。
ごく最近まで、自分はあのホテルに何度も足を運んでいた。だが今は、別の事件の捜査を担当している。
先週、府下の製パン会社の本社工場に、一億円を要求する脅迫の手紙が届いた。応じなければ、同社製品に毒物を混入すると書いてあった。
翌日、京都市内のあるスーパーに陳列してあった同社製チョコレートパンの下に、紙が置かれているのを店員が発見した。紙には「毒物注意」と印字してあった。警察が鑑定したところ、チョコレートパンから青酸化合物が確認された。その直後、「次回からは予告なしに混入する」という手紙が本社工場に届いた。
一連の手紙とメッセージはいずれもパソコンで作成してあった。同様の用紙、書式、字体であったことから、同一人物または同一グループによるものと当局は判断している。
京都府警は捜査本部を設け、犯人の次の接触を待っているところだ。御池にはこの製パン会社のオフィスがある。浦上は、オフィス周辺の捜査に駆りだされていた。
事件は次から次へと起こる。「シャングリラホテル身代金強奪事件」から、もうすぐ四ヶ月だ。だが、捜査に進展はなく、有力な情報も手がかりも得られないままである。
疑わしい人物は何人かいた。彼らについては、徹底的に周辺が洗われた。だが、結論からいうと、どの人物からも決定的な証拠は何もでてこなかった。
捜査本部は当初、ホテルのスタッフである藤吉と前川加奈に注目した。二人は愛人関係で、藤吉は妻と別居している。ギャンブル好きの藤吉には借金があり、以前から金に困っているという事情があった。
この二人が結託すれば、展示会会場から紙袋の持ち出しは容易であると誰もが考えた。しかし、どんなに彼らを洗っても、紙袋の持ち出しに直接かかわったような形跡や証拠はでてこなかった。
浅野奈津子と篠塚梓も同様だった。奈津子に関しては当日、現場で浦上自身が紙袋の中身を確認している。
阪井もまた、ホテル内部に隠したり持ち出した形跡は見られなかった。松島屋デパート内部の人事で、彼は会社を恨んでいたのではないかという説があった。ここ半年ほど、阪井に対する社内の風当たりが強かったのは事実である。しかし、三星デパート幹部と会っていることをのぞけば、とくにこれといった不審な点はみつからなかった。
展示会当日、身代金入り紙袋をクロークから持ち出せる可能性のあった人物は何人もいた。その全員が捜査の対象となったのはいうまでもないが、事件解決に結びつくような糸口は何も見出せなかったのである。
捜査本部も、事件発生から三ヶ月を過ぎると専従捜査員は削減され、半年もたてば事実上の解散状態となる。時効を迎えるまで「捜査続行」には違いないのだが、長期化すると解決が難しくなるのは必然である。証拠も手がかりも、犯人によって隠滅される可能性が高くなるし、人々の記憶も風化する。
捜査員の数は限られているのだ。いつまでも、手がかりの得られない事件に人員を投入するわけにはいかない。新しい事件は、常に起こり続ける。
浦上は前方を歩く人物に目をとめた。浅野奈津子だ。紙袋をかかえている。シャングリラホテルに向かっているのだろうか。
顔をあげ、浦上は歩を速めた。
37
シャングリラホテルの手前で、奈津子は声をかけられた。
「浅野さん」
浦上が立っていた。
「お仕事ですか」
奈津子は書類入れより少し大きめの紙袋をかかえていた。
「楽譜屋さんにいってきたんです」
休憩時間が長い時は、楽譜ショップに新譜を見にいくことが多い。
「僕も近くを仕事で通りかかったものですから」
そうですか、と答え、奈津子は歩きだそうとした。
「あれから、何か思い出されましたか」
浦上が言った。
「何度も申し上げたと思いますが、あの日とくに変わったことなんて、何もなかったんです」
大きな騒ぎがあったとか、客がトラブルを起こしたとか、そんなことは何一つなかったのだからと、奈津子は言った。
「何か思い出されたら、またいつでもお話を聞かせてください」
「承知しました。失礼します」
軽く頭を下げ、シャングリラホテルに向かって歩き始めた。
披露宴会場に入ると、生花が運びこまれるところだった。奈津子は邪魔にならないようにカーテンの傍に寄った。電子オルガンの傍に立っていた広瀬が、「おはようさん」と声をかけてきた。
「打ち合わせとちょっと違うとこあるねん」
進行表をひろげながら、広瀬は言った。
「あ、ちょっと待ってください」
紙袋を置き、奈津子は自分の進行表を取りだした。
「ええと、乾杯のあとのスピーチ、一人増えるらしいんや」
スピーチが増えるのなら、とくに問題はない。プレイヤーの待ち時間が長引くだけのことだ。
それとね、と広瀬は奈津子の持つ表を指で示した。
「ここでのBGM必要ないねんて。新郎のカラオケのテープを流したいらしい。本人が今日、テープを持参しゃはるていうことやから。このあと、新婦のご友人方が『赤いスイートピー』を皆で歌うことになったらしい。伴奏お願いします」
今日のように、まだ時間的に余裕のある時に変更事項を聞かされるのはいい。披露宴が始まってから伝えられる時は、事と次第によっては冷や汗もので調整しなければならない。
すべての変更事項を進行表に書き込み、奈津子は一段楽譜をオルガンの譜面台に置いた。傍らで広瀬は中央のテーブルに置かれた生花を腕組みして見ている。何も言わないので、とくに問題はないのだろう。
「ねえ、広瀬さん」
広瀬は顔をこちらに向けた。
「うちの社長って、十年以上前から関西で仕事してたんでしょう?」
「もう、十五年ほど前になるのかなあ」
「その時から京都に住んでたんですよね」
「いや、違うと思うよ」
ええと、と広瀬は首を傾げた。
「たしかね、大阪の樟葉《くずは》あたりにいやはったはずや。ご主人の会社の社宅かなんかに住んだはったからね」
「子供が生まれてからも、そちらに?」
「離婚しゃはるまで社宅にいやはったんと違うかなあ。あの頃、オルガンはヘッドフォンができるさかいええけど、生ピアノはそんなわけにいかへんから、貸しスタジオ借りて練習してるとか言うたはったわ」
「じゃ、子供が生まれてから、仕事を再開したんでしょうか」
「いや、プレイヤーとしての仕事はしてなかったんと違うかな。子供さんが生まれてからは週に何回か、近所の音楽教室に教えにいったはったくらいやと聞いてるよ」
「子供がいたんですよね」
「男の子がね」
「あの、自分の息子ですよね」
小さく笑い、広瀬は言った。
「それ、どういう意味?」
「いえ、だからその、養子を貰ったとか」
広瀬は上を向いて笑った。
「そんなわけないよ」
とはいうものの、梓が隠していれば広瀬のような他人が知るはずのないことである。
「病弱な息子さんでね、病院とは縁の切れん生活やったらしい。けどね、三歳過ぎたら保育園通えるくらいになったはったよ。そんなこともあって、プレイヤーの仕事は控えてはったんやと思うわ。貰うてきた子にそこまでするかなあ」
そんなことはわからないではないかという言葉を、奈津子は飲み込んだ。
「たしかに、子供さんができひんから医者通いをしたはるていう噂は聞いてたけど、貰い子なんて話は聞いてないよ」
「事務所を持ったのは、いつ頃からでしたっけ」
「なんや、お宅の社長の身上調査かいな」
「いえ、わたしも将来はうちの社長みたいに、自分で事務所持てるくらいにならなきゃいけないと思ってるんです。だけど、本人に直接訊くのもあからさまで照れくさいし。ああやって自分の会社持つ女の人って、いくつくらいでやり遂げられたのかなあと思って」
「離婚してしばらくしてからやったね。七、八年前かな。事務所始めてからは、自分では一切弾かへんようにならはった。昔教えてた生徒達でプロになれそうな子を集めて、事務所設立しやはったんや。あの人の教え子は皆優秀やったから、どこでも評判よかったよ」
すみません、と声がした。
黒服が傍らに立ち、広瀬を見ている。藤吉だ。広瀬は軽く片手をあげ、去っていった。
38
玄関先に、浩とミヨ子が出てきた。ミヨ子に促され、奈津子が上がり口で靴を脱いでいると、玄関の戸が開いた。早苗だ。
「ただいま」
「お邪魔してます」
「はい、お疲れさん」
靴を脱ぎ、早苗は肩に手をやって首をまわした。
「あ、ちょっとあんた、こんなんきてるえ」
ミヨ子が台所にひっこんだかと思うと、またすぐに顔をだした。手には現金書留の封筒を持っている。
「何、それ」
自分で自分の肩を揉みながら、早苗は言った。
「今日な、正晴から電話があったんや」
「正晴?」
早苗は肩から手をおろした。
「正晴が、なんて」
いや、そやから、とミヨ子は現金書留の封筒を差し出した。
「もう、お母ちゃんにはお金の心配はさせへんから、そう言うといてくれて」
早苗は封筒を受け取った。子供のような字で「中林早苗様」と書いてあるのが見える。
「はい、これ」
ミヨ子が鋏を手渡した。早苗は急いで封を切る。
「あ」
封筒の中をのぞきこみ、早苗は息を吐いた。よほどの大金でも入っていたのだろうか。
「電話で言うてたけどな、正晴、仕事についたらしい」
「仕事って、何の仕事」
「新聞配達やて。住み込みで働かせてもろうてるねんて。そこで真面目に働いたら給料だけやなしに、奨学金ももらえる制度があるねんやて」
「はあ? 奨学金?」
「もし、奨学金もらえたら、専門学校にいくて言うてたで」
「せ、専門学校?」
「東京のデザインなんとか学校とか言うてたわ。卒業したら京都に帰ってきて、友禅染の仕事したいんやて」
「ちょっと、お母ちゃん」
早苗は大きく息を吸った。
「芸人になるのは、やめたんかいな」
「そうみたいやな。才能ない奴がいつまでもこの世界にしがみついてたら、ろくなことないて、東京の師匠に言われたらしいわ」
ミヨ子は誰もが知っている有名お笑い芸人の名前を言った。
「その人がな、今やったら若いのやし、他の勉強始めるのにまだ間に合う。おまえのやりたいことは何やて、訊かはったんやそうな」
「それで?」
訝るような目で、早苗はミヨ子を見ている。
「友禅染やりたいて言うたんやて。そしたら師匠が、その新聞販売店を紹介してくれはったそうな」
友禅染、と早苗はつぶやいた。
「あの子、今までいっぺんもそんなん、言うたことないで」
「けど正晴、小さい時よう、うちの人の仕事場で色|挿《さ》しの作業見てたえ」
「え、そうやったんか?」
「あんた、知らんかったんかいな。あの子、絵描くの好きやったし。で、師匠がな、おまえが本気でやる気があるんなら、全部自分の力で一回やってみいて、言わはったらしいのや。おまえほんまに、自分の人生真面目にやっていく気があるのなら、資金も全部自分で用意せえて」
親にだしてもらった金で勉強をしても身につかない。どうせ簡単にもらった金だ。ドブに捨てたとしても、惜しいということさえわからない。しかし、自分が働いて得た金なら、無駄にはできないと真剣になる。師匠はそう言ったという。
「今まで親からふんだくってきた金、給料からちょっとずつでも返していけ、すべてはそれからやと、師匠が言わはったそうな」
「ほんならこれは」
早苗は封筒を握りしめた。
「新聞販売店でもろうた初めての給料やて。住み込みやし、生活費はほとんどかからへんから心配せんでええて、電話で言うてたわ」
ミヨ子は浩の手を引いて台所へいった。
その夜、早苗は終始機嫌がよかった。
「あんた、今日男の人と歩いてたやろ」
着替えを終えた早苗は炬燵に入り、意味あり気に笑った。
「誰? あれ」
「あの、どこを歩いてましたか、わたし」
「河原町通。シャングリラホテルの正面玄関の傍や。二時過ぎかな。背の高い男の人と一緒やったやん」
ああ、と奈津子は頷いた。
「刑事さんですよ」
「え、刑事?」
「はい」
「なんや、まだ刑事に尾けられてんの」
あきれたように早苗は眉をあげた。
浦上は偶然のようなことを言っていたが、警察は関係者の周辺をまだ調べ続けているのだろうか。
「何訊かれたん?」
「たいしたことじゃありません」
「たいしたことないって、どういうこと?」
早苗は目を見開いた。
「その後、何か思い出されたことはありませんかって、訊かれたんです」
ふううん、とつまらなそうに頷いた。
「どこから、見てらしたんですか」
「きまってるやん、車からや」
炬燵の上にはガスコンロが置いてあった。その横に水色のザルがあり、蜜柑が盛られている。早苗は蜜柑を手に取った。
「仕事中でもな、うちは知ってる人の顔、ちゃんと車の中から見えるねん」
得意気に言い、蜜柑を一つ取って奈津子の前に置いた。
「この年齢《とし》になっても目はええさかいにな。あんたは目、悪いの?」
「あまりよくありません」
「それやったら、刑事に何訊かれても答えようがないやんなあ。わたしが現場にいてたら、何でも見てたと思うねんけどなあ」
早苗は蜜柑の皮を剥いた。
「事件のあった日、結構シャングリラホテルの近所走ってたんやで。それも十一時半過ぎ。もうちょっとで、シャングリラに客待ちにいくとこやったのに、惜しいことしたなあ」
たとえ客待ちに来ていたとしても、何がどうなるわけでもないのに、早苗は何度も残念そうに言った。
「なんで、シャングリラホテルにいかなかったんですか」
「拾われてしもうてん。孫橋町で」
「孫橋町?」
「そう。シャングリラから御池大橋渡ったとこ」
孫橋町からシャングリラホテルへは、御池大橋を渡って木屋町から小道をまわっていくと早いのだと説明した。
京都の町なかの小道は一方通行が多い。熟練のタクシー運転手はこれらをすべて把握しており、渋滞の大通りを避けて小道から目的地に向かう方法をよく知っている。
木屋町から少し入ったシャングリラホテル裏側の小道は、観光客が通るような道ではない。ホテルの敷地と道路を遮蔽する高い塀が続き、その反対側も月極の広い貸しガレージのフェンスに囲まれた殺風景なところだ。これといった店もないので、人も車もあまり通らない。プロの運転手はこういう道を上手に選んで走る。
「で、シャングリラホテルに向かおうと思うて走ってたら、お客さんに拾われてしもうて」
ホテルまでもうちょっとやったんやけどなあ、と早苗は蜜柑を口に入れた。
「何がもうちょっとや」
炬燵のガスコンロの上に、ミヨ子が土鍋を置いた。
「そんなわけのわからん事件に巻き込まれて、けがでもしたらどないするんや」
「巻き込まれるやなんて、たいそうな」
「犯人が鉄砲持ってたり、刃物持ってたら、えらいことやで」
「そやから、そんなたいそうなことやあらへんがな」
「犯罪者が凶器持ってるのん、当たり前やないか」
「そんなこと言うけど、現に誰もけがしてへんし、殺されたりしてへんやん」
「たまたまやないか。もし、あんたみたいなアホがホテルの玄関で犯人に遭遇して、なんぞいらんことして怒らせたりしたら、殺されたかも知れへんで」
「もう、どうやって、わたしが犯人怒らせるていうねんな」
「今の世の中、何が起こるかわからへん」
ミヨ子は土鍋の蓋を取った。湯気があがり、鰹の出しの匂いが立ち上る。
「今夜は関東煮《かんとだき》や」
土鍋の中では、大根やちくわ、つみれなどが飴色に煮えていた。
「おでんですね。おいしそう」
奈津子が言うと、「そう、おでん」と頷き、早苗はまた蜜柑を口に入れた。
「ま、運が悪い日ていうのはあるもんやわな」
浩も炬燵に入り、早苗から剥いた蜜柑をもらっている。
「ごはんの前なんだから、それくらいにしときなさい、浩」
頷きはしたが、浩は早苗の蜜柑から目を離さない。
「ほんまにすぐ傍までいってたんやけどなあ」
早苗は苦笑した。
「運転手はこんなこと言うたらあかんねんけどな。その時のお客さん、えらい近いとこ言わはんねん。なんでこんなんくらいでタクシー乗らはるねんやろて、腹立つより不思議やったわ」
アホ、とミヨ子が叱りつけるように言った。
「お客さんはそれぞれ、いろんな事情をかかえたはるねんや。お金払うて乗ってくれはるお客さんに文句言うたら罰当たるで。なんぼ近うても、足が痛いとか、体の調子が悪いとか、荷物が重いとか、そんなんで歩かれへんこと、ようあるがな」
ああ、と早苗は頷いた。
「そういえばそのお客さん、大きな荷物持ったはったわ」
「ほれ、見てみい。荷物持ったはるさかい、近くでも歩かれへんかったんや」
「小柄な女の人やったからな。さ、ごはんにしよか」
早苗は蜜柑の皮を口から出した。
「早苗さん」
奈津子は早苗の方を向いた。
「それ、事件があった日のことに間違いないんですか」
「間違えるわけないやん」
蜜柑の皮を捨てながら早苗は笑った。
「あの日、あんたの車と接触事故起こしたんやで。忘れるかいな」
浩に箸を持たせ、早苗は鍋をつつき始めた。
「さ、関東煮やで。浩君、いっぱい食べや」
あの、と奈津子は手に持っていた箸を置いた。
「早苗さんに折り入って、お願いしたいことがあるんですけど」
つみれを鍋からあげながら、早苗は奈津子を見た。
39
披露宴が終わり、奈津子は楽譜を持ってフロアを出た。エレベーターホールに向かって歩いていると、加奈が向こうからやってきた。
「お疲れさまでした。今夜も、上ですよね」
指で天井を指している。
「そうです」
加奈はエレベーターホールまでついてきた。
「地下にいかれるんですか」
「ええ」
奈津子は曖昧に笑った。ラウンジの仕事の前に、奈津子がいつも地下のグリルで食事をすることをホテルの関係者は知っている。加奈は奈津子の横から手を伸ばし、エレベーターの下行きのボタンを押した。
「あら、どうもすみません」
いいえ、と加奈は頷いた。
「プレイヤーの方って本当に大変ですよね。大勢の人達の前でずっとピアノやオルガンを演奏なさっているんですから。緊張した状態が何時間も続くし、疲れるでしょう」
「仕事ですから」
奈津子はエレベーターの階表示を見上げながら言った。
「ねえ、浅野さん」
加奈は奈津子に顔を近づけた。
「まだ、警察の人に何か訊かれますか」
「この間も訊かれましたよ、刑事に」
やっぱり、と加奈は眉を寄せた。
「あの、どんなことを訊かれましたか」
「ですから、展示会の時、何か変わったことはありませんでしたかとか、そんなことですよ」
「それで、何と答えられたんですか」
「わたしはべつに何も見ていませんし、何も気づいていませんから、そのままお答えしました」
「あの、本当に何も?」
「わたしはピアノを弾いているんですから、何かあったとしてもわからないですよ」
「本当に?」
加奈は奈津子に詰め寄るようにして言った。
「他には何か訊かれてませんか」
「それだけです」
小さく息を吐き、加奈は下を向いた。
「わたしも未だに色々訊かれて、困っています」
濃い睫毛の奥で、加奈の瞳は潤んでいた。
「いろんなことをしつこく訊かれるし、こっちも神経がまいってしまって」
「でも、調べれば事件に関係ないということは、わかることだし」
あの、と加奈は口ごもった。
「もっとこう、内輪の話とか、訊かれませんでしたか」
「内輪の話?」
「ホテルのなかの人間関係とか、会場のこととか」
「さんざん訊かれましたよ、事件の翌日に」
「で、どうお答えになったんですか」
「一切知りませんとお答えしました。だって、本当にそんなこと、何も知らないですから。わたしは外部の人間なのですし、ホテルの内部についてなんか何も知りません」
肩透かしを食わされたような顔をして、加奈は唇をすぼめた。その時、エレベーターのドアが開いた。奈津子が乗り込むと加奈は会釈し、踵を返した。
一階に着き、正面玄関からホテルを出た。河原町通から南に向かう。三条通を通り過ぎたあたりで東の小道に入った。このあたりは小さな店屋がひしめき合っており、ほとんどが飲み屋だ。まだ夜を迎えるには早いので、今は少しばかり間延びした時間帯らしい。歩く人はまばらで、酒屋の軽トラックやバイクが道端に停まっている。
小道の脇に、目立たない中華料理店があった。間口が狭いので一見ラーメン屋のようだが、それにしては小綺麗な造りだ。かといって、「チャイニーズレストラン」というには気のひけるような店である。
古いガラスは黄色がかっているし、手動式のドアの取っ手の真鍮《しんちゆう》も真中だけ色が変わってしまっていた。けれどそれらはよく磨かれており、店の前もきれいに掃き清められている。
ドアを押し、奈津子は店に入った。
「どうぞ、お二階へ」
すぐ傍のレジスターの前に、五十過ぎくらいの女が立っていた。白いブラウスに黒いロングスカートを品良く着こなしている。にこやかに、彼女は階段の方に手を差し伸べていた。
階段は狭くてしかも急だった。滑り止めの金具が穿《うが》たれた階段は、歩くと、きゅうと音がする。
二階のテーブル席は六つあった。塞がっているのは一つだけだ。
「こっち、こっち」
席に着いていた早苗が手を振った。
「すぐわかったか?」
「はい」
奈津子は椅子に座った。
早苗と外で食事をするのは初めてだった。決して「高級」といえるような店ではないが、テーブルクロスにはしみ一つなく、傍のワゴンのナプキンもきれいにたたんで積み上げてある。
「いらっしゃいませ」
観葉樹の裏側から声がして、さっき一階で見た女がメニューを持ってやってきた。
「何にする?」
早苗が言った。
「ここな、五目焼きそばとシュウマイがめちゃおいしいねん」
「じゃ、それにします」
「ブタまんもおすすめ」
「じゃ、それも」
「ビールは?」
「まだ、仕事中なんです。中林さんはどうぞ飲んでください」
頷き、早苗は料理をオーダーした。女はメニューを確認し、奥へもどっていった。
「頼まれてたあれやけど」
傍らに置いたトートバッグから、早苗は手帳を取りだした。
「間違いない。全部ほんまのことやった」
ええとね、と言いながら、手帳を開く。
「篠塚梓さん、と。結婚したはった当時は黒沢梓さんやね。ご主人は黒沢徹さんで、生まれはった息子さんが黒沢雅之さん。親子三人で、大阪の樟葉の社宅に暮らしたはった。間違いないよ」
当時の社宅はまだ残っていたと、早苗は言った。
「古い建物やけどね、間取りとかはそんなに狭いわけやないし、周りに公園もあるし、小さい子供を育てるにはええとこやと思うたなあ」
しかし、公園で子供を遊ばせる梓の姿を見た者はいない。子供が病弱だったからだ。
「生まれてからずっと、病院通いが続いたはったらしい。入退院繰り返したはる」
「子供が入院していた病院は、わかりましたか」
「大阪こども愛育病院。社宅から車で十五分くらいのとこにあるねん」
「小児科の専門病院ですね」
「そう。たまたま、同じ社宅にいる小学生の子供さんが腎臓が悪いとかで、その病院に入院したはったんやて。その女の子のお父さんは、黒沢徹さんの直属の上司やったらしい。女の子の下には男の子がいて、その子が雅之君と同じ保育園にいってたんや。そやから、お母さん同士、つまり上司の奥さんと梓さん、仲が良かったらしいわ」
でな、と早苗は得意気に顔を傾けた。
「会えてん、その人と」
上司一家は現在、かつての社宅にほど近い新興住宅街に一戸建を買って住んでいるという。
「お嬢さんはもう大学卒業したはるねんて」
お待たせしました、と声がして、女がビールとグラス、つまみの搾菜《ザーサイ》をテーブルに置いた。奈津子は早苗のグラスにビールを注いだ。
「おおきに」
口をビールで湿らせ、早苗はふう、とグラスを置いた。
「その上司一家は、梓さん一家とかなり親しいしたはったらしい。まあ、病気の子供を持つ親同士ということで、仲良うしたはったんやろね。この奥さんは梓さんのこと、よう憶えたはった。梓さんとこが親子三人で暮らしたはったんは絶対に間違いない」
「正真正銘、梓さんのことでしょうね」
「間違いないって。音楽の先生やったはった黒沢さんの奥さん、ていうので、近所の人もよう知ったはったらしいもん」
子供が生まれてからの梓は、プレイヤーとしての仕事はせず、楽器店などの音楽教室の講師をしていたと聞いている。
「じゃ、息子さんがいたっていうのは本当なんですね」
梓に子供がいたのは事実のようだ。ならば、その子は養子だったのか。
「梓さん、一人息子をちょっと普通やないくらい、可愛がったはったんやて」
「普通じゃない?」
うん、と早苗はビールを飲んだ。
「入院中はしょっちゅう、いろんな検査するやんか。その時にな、梓さん、自分も血液検査してほしいって言わはったんや」
梓も当時、何か病気を患っていたというのか。奈津子がそう言うと、早苗は首を横に振った。
「親子鑑定してくれって、病院に頼まはったらしいねん」
「親子鑑定?」
奈津子は目を見開いた。
「そう。そんなこと言うお母さんは珍しいから、周りの人も驚いてたらしいわ」
通常、親子鑑定というものは父親がするものなのに、と早苗は笑った。
「そういうのって、たとえやるとしても普通は他人には言わへんていうか、世間に隠れてこそこそやるもんと違うかなあ。それやのに、周りの人にも隠さんと平気で話したはったらしい。びっくりしたて、奥さんが言うたはったわ」
「で、結果は」
「もちろん、間違いなく親子ていう鑑定結果がでたんや。そらそうやん、自分の子供やねんもん」
「あの、それ、本当ですか」
「どういう意味よ。わたしが嘘言うてるっていうの」
いえ、そうじゃなくて、と奈津子は顔を近づけた。
「本当に、梓さんと息子さんは親子っていう鑑定がでたんですか」
「絶対ほんま」
だって、と早苗はつまみに箸をつけた。
「その鑑定書、梓さんがうれしそうに周囲の人に見せたはったらしいよ。見た人いっぱいいるらしいもん」
「何のために、鑑定なんかしたのかしら」
それそれ、と早苗は頷いた。
「記念に残しておいて、息子が大きいなってからプレゼントしてやるんやて、言うたはったんやて」
「プレゼント?」
「病弱な息子さんやったから、梓さんもそんなふうに考えはったんと違うやろかって、奥さんは言うたはったけど」
「そんなもの、記念に残したりするものなのかしら」
「生まれつき躯の弱い子やから、母親としてはそんな心情になるんと違うかなあ」
早苗はまた手帳をめくった。
「点頭てんかん、ていう病気やったんやて、息子さん」
お待たせしました、と声がした。女が料理を運んできた。
「この焼きそば、ここしかない味やねん」
小皿に取り分け、早苗は奈津子の前に置いた。焼きそばを一口食べ、奈津子は大きく頷いた。硬いそばは香ばしく、海鮮風味のあんかけがとろりとして口のなかで溶け合う。
「おいしいです」
「でしょう?」
満足そうに笑い、早苗はシュウマイも取り分けてくれた。
「高い店やないねんけど、味は折り紙つきや」
奈津子はシュウマイにも箸をつけた。薄い皮に包まれ、あっさりとした味付けのシュウマイはいくつでも食べられそうだ。
「あとでブタまんもくるし、楽しみにしててや」
ふふ、と早苗は笑った。
「で、さっきの話の続きやけどな、ええと、点頭てんかん。そういう病気があるらしいねん」
「その病気が原因で亡くなったんですか」
「たぶん、そうやろて奥さんが言うたはった」
「たぶん、てどういうことですか」
「三歳になる頃には、普通に保育園いったはったらしいねんわ。で、その頃から、梓さんは週何回か、楽器店とかの音楽教室の先生をやったはったんやていうこっちゃで」
「つまり、保育園にいってから、また入院してたってことですね?」
違う、違う、と早苗は手を振った。
「入院なんかしてはらへんねん、その時は。亡くなる前の日まで普通に保育園いったはったらしいで」
「え、じゃ、事故か何かで?」
「いや、交通事故とかそんなんとは違うねん。夜中に発作を起こさはったらしいわ」
痙攣発作を起こした雅之は救急車で搬送されたが、翌日病院で亡くなったという。
「その日、よほど無理をしたのかしら」
「たまたま、保育園の担任の先生がお休みしたはったんやて。そやからその日の様子はようわからんみたいやけど。まあ、もともと弱い体質の子供さんのことやからねえ」
早苗は焼きそばを頬ばった。奈津子はふと、箸を止めた。
「ちょっと、あんた。何をぼうっとしてるねんな。早う食べんと、仕事遅れるで。これからラウンジに弾きにいくんやろ」
「あ、はい」
奈津子は箸を持ち直した。
「ねえ、早苗さん。明日、タクシーで迎えに来てほしいところがあるんですけど。今、地図を描きます」
箸を置き、奈津子は紙ナプキンを手に取った。
40
事務所での打ち合わせが終わり、奈津子は淑子の淹れてくれたコーヒーを飲んだ。浩はまた、淑子にもらった菓子を食べ散らかしている。
「今日はシャングリラホテルで、三星デパートの展示会だったわよね」
カップを置き、梓が言った。
「時間大丈夫? これから浩君預けにいくんでしょう。間に合うかしら」
「大丈夫です。わたしは直接シャングリラホテルにいきますから。この子は預かっていただくおうちにそのまま、いかせます」
まあ、と流しに立っていた淑子が奈津子を見た。
「そのままいかせるって、奈津子さんが浩君、送っていくんでしょう?」
その時、玄関のチャイムが鳴った。手を布巾で拭い、淑子はドアを開けにいった。
「こんにちは。京一タクシーです」
「え、タクシー?」
うちは頼んでいないが、と淑子の声が聞こえた。
「わたしが頼んだんです」
「奈津子さんが?」
淑子が振り返った。
「今日は時間がないし、タクシー頼んでおいたんですよ。わたしはホテルで降りますが、浩は預かっていただいてるおうちに送ってもらいます」
「ああ、そうだったの」
安堵したように淑子は頷いた。
「それじゃどうも、ありがとうございました」
奈津子は浩の手をティッシュで拭って立たせた。
「お疲れさま」
梓が立ち上がった。
「浩君、バイバイ」
淑子が浩に手を振った。浩も「バイバイ」と淑子を見上げている。
「気をつけてね」
浩の頭を撫でながら淑子が言った。会釈し、奈津子は浩の手をひいて、事務所を出た。
三星デパート特選品新着予約会は盛況だった。シャングリラホテルの宴会場にはプレタポルテのブランドが集められ、各店の主力商品が展示されている。
奈津子は一段楽譜をめくった。今日は電子オルガンを弾いている。軽い感じの曲をBGMにしてほしいとのことなので、クラシックではなくポップスをメドレーでつないでいた。
会場の隅に喫茶コーナーが設けられているが、ずっと満席のようだ。コーナーの入口付近には、コーヒーチケットを持って順番待ちをしている客が何人かいる。会場の規模のわりに席数が少ないのだ。
展示品は婦人服ばかりなので、女客がほとんどだった。たまに見かける背広姿の男は、すべて三星デパートの社員だ。が、奈津子はそのなかの一人の男に目がとまった。阪井だ。
なぜ、三星デパートの展示会に来ているのだろう。お忍びという風情には見えない。彼の周囲には三星デパートの社員が何人かいて、時々言葉を交わしている。堂々と顔をさらして会場に入っているのだから、ライバル会社の偵察というわけでもなさそうだ。もっとも偵察なら、こういう場所には女性を送りこむはずで、幹部社員が直々にやってくるなどありえない。
人垣の向こうに蛍光ピンクの帽子が見えた。辺見タカヨだ。また、おでましか。奈津子は苦笑し、終章を弾いた。休憩時間になり、楽譜台を片付けていると、タカヨがやってきた。
「今日は『ムーン・リバー』弾かはらへんの」
「『ムーン・リバー』ですか」
いつもなら、黒服かウェイターにリクエストを入れるが、今日は喫茶コーナーがいっぱいで、タカヨも頼みにくいらしい。
「じゃ、次のステージで弾かせていただきます」
「次のステージっていつ?」
「三十分後です」
「あら、そう」
タカヨは皺だらけの口元を歪めた。
「もう時間がきてしまいまして、申し訳ありません」
「ほな、次のステージで一番最初に弾いてくれはる?」
「承知しました」
「ちゃんと三番までね。前みたいに、途中飛ばしたりせんと全部きっちり弾いて」
はい、と答え、楽譜を手に持った。が、ふと思いついて、奈津子は顔をあげた。
「あの、お客様」
「何ですか」
レースの手袋をした手を、タカヨは顎にあてた。
「会場の喫茶コーナーは、満席でしたわね」
「さっきからずっと、いっぱいで入れしませんのやがな」
小指を立てて、帽子の鍔《つば》を少し下げるような仕草をしてみせる。
「もしよろしかったら、一緒にお茶でもいかがですか」
「え?」
鍔に手をやったまま、驚いたようにタカヨは口を半開きにした。
「シャングリラホテルには、素敵なカフェテリアがたくさんあるんですよ。よろしければ、ご案内させていただきますが」
「あんたが?」
「はい」
タカヨは鍔から手をおろし、にっこりと笑った。
テーブルに着き、タカヨは店内を見回した。
「こんな店があったなんて、知らんかったわ。シャングリラホテルにはしょっちゅう来てるねんけど」
「小さなお店ですから、知っている方が案外少ないんですよ。大抵、一階ロビーのカフェテリアか、二階の喫茶店にいかれますからね」
「ここ、何ていう店?」
「ラレンタンドです」
「ふううん」
タカヨはメニューに目をやった。が、すぐに閉じた。
「なんか、わけわからへん」
メニューはイタリア語とカタカナばかりだ。
「果物でも野菜でも、頼めばジュースにしてくれますよ」
「ほな、青汁とかもあるんかいな」
「こっちのベジタブルのページにあります」
奈津子がメニューをめくって見せると、タカヨは首を振った。
「見てもわけわからへん。適当に青汁頼んでんか」
「じゃ、この六種類の野菜が入っているのにしましょうか」
「うん、それでええわ」
ウェイトレスが注文を取りにきた。その途端、タカヨは背筋を伸ばし、帽子の鍔に手をあてる。小指はもちろん立てていた。
「いつも展示会におでましくださって、ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」
傍らのハンドバッグから、タカヨはレースのハンカチを取りだした。ハンドバッグには見覚えがある。いろんな絵の具がぶちまけられたような例の派手なバッグだ。
「少々前の催しになりますが、松島屋の宝飾展示会にもご来場いただいてましたよね」
「うん、全部いってる。デパートの展示会はね、必ず顔だしてるねん」
タカヨは京都の老舗デパートの名前をいくつか挙げた。
「松島屋の宝飾展示会って、誘拐事件のあったあれやろ」
「はい」
レースのハンカチを持った手をタカヨは軽くあげた。
「警察にもいろんなこと訊かれたわ」
「どんなこと訊かれたか、憶えていらっしゃいますか」
「いつもと変わったことはありませんでしたかとか、あやしい人を見ませんでしたかとか」
言ってから、鼻の下をハンカチで軽く拭った。
「そんなん、何もなかったわなあ。変わったことなんて、べつにあらへんかったし」
「そうですよね」
「あんたも訊かれた?」
「はい」
タカヨは大きく頷いた。
「ほんまに、難儀なこっちゃで。こっちは何も関係あらへんのに、警察に家まで押しかけてこられたんやから」
「まあ、家にまで?」
「迷惑なこっちゃ」
「お客様は、何も見ていらっしゃらなかったんでしょう?」
違うの、とタカヨは唇を結んだ。
「母親のことは見てるねん。ほら、誘拐された子の母親。身代金持って、会場に入ってきやはったんや、あの時」
「そうらしいですね」
「それはね、見てたんよ。ちょっと離れたところから」
得意気にタカヨは笑った。皺だらけの口元から入れ歯が剥きだしになる。
あの、と奈津子は首を傾げた。
「その人が、誘拐された子供の母親だって、なんでわかったんですか」
「異様やったもん、あの人」
「異様、ですか」
その言葉をタカヨが口にすること自体、おそろしく違和感があったが、奈津子は笑わないように唇を引き締めた。
「ものすご、場違いやったから、よう憶えてるねん」
ウェイトレスが野菜ジュースを運んできた。奈津子も同じものを頼んだので、緑色の液体が満たされたグラスが二つ、テーブルに並ぶ。
「どうぞ。お気に召すかどうかわかりませんが」
「おおきに。いただきます」
手袋をしたまま、タカヨは器用にストローの袋を破った。
「母親の様子が異様だったとおっしゃいましたが」
そら、あんた、とタカヨは片手で顔の前の空気をふわりと掴むような仕草をした。
「あの会場で、あんな格好で入ってきやはったら、誰かて、へえって、思いますがな」
「どんな格好だったんですか」
「要するに普段着。地味な冴えん格好やったなあ」
言いながら、ストローをグラスに入れた。
「天下の松島屋の宝飾展示会どっせ。皆それなりにええふうしてきたはりますがな。そこにあんた、普段着で、しかも髪振り乱した人が血相変えて入ってきやはったら、そら目立ちますわ」
「なるほど」
「その時の、お母さんの形相いうたら、もの凄かったわ。髪はばさばさで逆立ってて、化粧は剥げて、顔色は真っ青どしたで」
少し大袈裟な気がしたが、あの華やかな会場でかなり目立ったのは確かだろう。
「で、なんか変わった人が入ってきやはったなあという感じで見てたんどす。後で聞いたら、それがその、誘拐された子供さんのお母さんやったと」
タカヨはストローを吸った。
「あら、思うたより甘いわ、これ」
「飲みやすいように、リンゴが入れてあるんですよ」
「わたしは普通の青汁の方が好きやけどなあ」
文句を言いながらも、タカヨは野菜ジュースを飲んだ。
「あの日も、わたし、リクエストいただいたんですよね」
「そう。『ムーン・リバー』」
「ありがとうございました」
「大好きやねん、オードリー・ヘップバーン。『ムーン・リバー』聴くと、あの映画思い出すわ」
「『ムーン・リバー』が流れてる時、お客様はどのあたりにいらっしゃいましたか」
「そやから、入口近くに向かって喫茶コーナーの方から歩いてたんやわ」
あ、とタカヨは笑った。
「入口の向こう側に指輪のコーナーがあってね。ちょっとええのがあったから、もう一回見ておこうかなと思うて歩いてたんよ、『ムーン・リバー』聴きながら」
「まるで、『ティファニーで朝食を』みたいですね。そういえば、ちょっとヘップバーンに似ていらっしゃるかしら」
ひや、とタカヨは声をあげ、両手を口元にあてた。
「よう言われましたわ、昔」
気分よさそうに、タカヨは帽子の鍔に指をあてた。どうやら、そうするのが好きらしい。
反対側のテーブルに座っていた若い女の子達が、珍獣でも見るような目でこちらを見ている。その奥にいる中年の女達はあきれたような顔をしていた。露骨に嘲笑する女もいる。
ひらひらのピンクの服を着て珍妙な帽子をかぶった老女など、普通は見る機会もないだろう。奈津子は軽く咳払いした。
「いつも素敵なお帽子をかぶっていらっしゃいますね」
ふふ、と帽子の鍔から手を離さず、タカヨは頷いた。周囲の好奇の目や冷笑など、ものともしていない。それとも、それらを「賞賛」と勘違いしているのだろうか。
「わたしはね、ピアノを聴きながら、ゆったりとパーティー会場をまわるのが好きやの」
「とても優雅なお姿なので、どこにいらっしゃってもすぐにわかりますわ」
「おおきに」
言ってからタカヨは、じゅっと音をさせてストローを吸った。
「ここ、ケーキとかあらへんの?」
「フルーツとベジタブル専門のジュースバーなんですよ。でも、ジンジャー入りのクッキーとか、カボチャのプリンならあるはずです」
「ふううん。ほんなら、プリンでええわ」
奈津子はウェイトレスを呼んでプリンを追加した。
「いつも思っていたんですけど、お客様のその見事なお帽子が見えると、とても会場が華やかになりますね」
「そらあんた、シャングリラホテルのパーティーやから、これくらいの格好はしていかんとね。パーティーの招待状は色々くるから、ほんまに毎日大変やねん」
「あら、そんなにパーティーの招待状が?」
「そう。なるべく、顔をだしてあげるようにしてるのんよ。みんな、出席してくれて、頼んできやはるから」
「それは大変ですねえ」
奈津子が大袈裟に相槌をうつと、タカヨはレースのハンカチを顔の前で振り、「まあね」と言った。
「さっきの異様なお母さんの話なんですけど、その時、ピアノ曲は」
「『ムーン・リバー』」
遮るようにタカヨは言った。
「さっきから何べんも言うてますやろ。『ムーン・リバー』って」
「お母さんが入ってきた時ですね」
そう、と頷き、タカヨはメロディーを口ずさんだ。
「この部分ね、感じええわあ。大好き」
「で、その後、指輪の売り場へいかれた」
「そうよ」
「当日の会場、指輪の売り場はいくつかありましたよね」
「ほら、入口に近い側のお店。スターサファイヤ見てたんよ。わたしの持ってるスターサファイヤと、ちょっと色を比べてみようかしらと思うて」
入口に近い側で指輪を扱っていた店舗は、位置的にクロークと近かったはずだ。
「スターサファイヤはね、なかなか日本でええ石は手に入らへんのよ。でもね、この間の展示会は結構ええもん置いたはったわよ」
タカヨは「ムーン・リバー」の展開部を口ずさんだ。周囲に座っていた客がこちらを振り返るようにして見ている。が、タカヨはやめなかった。
「この部分もええわねえ。心がふわふわしてくるような気がするわ」
指先を伸ばし、タカヨは顔の前にかざした。レースの手袋の上に嵌めた指輪を見ている。赤い菱形の石が輝いているが、その大きさと大袈裟なデザインは、子供の玩具《おもちや》のようだった。
「スターサファイヤを見ていらっしゃる間、クロークは見えてましたか」
「真後ろやったから見てはないけど、ちょっと振り返ったわね」
「振り返った?」
「電話が鳴ったから」
「その時、クロークをご覧になったんですか」
「うん。その異様なお母さんが電話にでたはった」
「それで?」
奈津子は身を乗りだした。
「会場から出ていかはったわ」
「そのお母さんがですか」
「そう。すぐに電話切って、出ていかはった」
「その後、お客様はどちらの売り場にいかれましたか」
「もうちょっと奥の、陶磁器のとこ。わたしね、マイセンが好きやの。知ってる? 馬の陶磁器見事やねえ。手綱なんてこんなに細いのに、それが陶磁器できちんとできてるねんよ。あれは一見の価値ありや」
ドイツの陶磁器について、タカヨはひとしきり蘊蓄を傾けた。途中、プリンが運ばれてきても、まだ話していた。
「でね、また宝石を見に戻ったの。サファイヤよ。ええ色の石があってね。結構お買い得な値段やってんけど、まあそれもよう似たのを持ってるし」
タカヨはプリンをスプーンで掬《すく》った。
「真珠のコーナーがそのすぐ傍にあったんで、ちょっと見てたんやけど、思うたほどの物がなくてがっかりやったわ」
「それから、何をご覧になったんですか」
「ダイヤモンドとルビー。けどね、ここでも期待していたような代物はなかったわねえ」
それに、とタカヨは舌打ちした。
「『ムーン・リバー』が終わってしもうた」
タカヨはエンディング部分を口ずさんだ。奈津子のアレンジだが、あまりに正確に終章の旋律部分を歌われたので驚いた。
「それでね、仕方ないから、奥の方の時計見てたの。スイス製のコーナー」
「時計もお好きなんですか」
「わたしはピアジェが好きなんやけど。でも、嵌めて歩くことはせえへんの。時計を持って歩くのが嫌いやねん。なんか、時間に縛られてる気がしていやなんよ」
家にはピアジェの腕時計がたくさんあるけれど、とタカヨは笑った。
「結構ええ時計があったんやけどね。もちろん、ピアジェやから全部ダイヤ入り。けどあの時、見てても気分が乗らへんかったわ。曲が『愛のプレリュード』に替わってしもうたし」
「それは、申し訳ありません」
「『ムーン・リバー』、三番まで弾いてくれへんかったでしょ」
「あまり同じ曲を長く弾いていると、芸がないって叱られるんです」
「あら、なんで?」
「スリー・コーラスをフルで弾いてしまうと、かなりの長さになってしまうんですよ。だから、雰囲気がだれてしまうって言われるんです」
あ、とタカヨは顔をあげた。
「あのすらっとした女の人に叱られるんやろ」
「え?」
「パーティーの時、いつも見回りにきやはる女の人、いやはるやん。ホテルのボーイさんとかもよう叱られたはるがな。あの人、よっぽど偉い人なんか?」
「ええ、まあ」
奈津子が苦笑した時、傍らのバッグから唸るような音が聞こえた。マナーモードにしている携帯の震動音だ。「ちょっと失礼」と取り出したが、震動音は止んでいた。画面を開いて見ると、迷惑メールの着信だった。またか、とうんざりしながら削除する。
「電話?」
タカヨが言った。
「いえ、メールです」
「メール?」
「電話のようなものです。文字が送れるんですよ」
操作ボタンを押しながら答えた。
「知ってるわ、それくらい」
スプーンを口に運び、タカヨは、ふん、と鼻を鳴らした。
「この頃、若い人は皆、どこでも携帯の画面見たはるな」
学生も大人も、電車やバスの中で携帯電話をだして見入っていると、タカヨは呆れたように言った。
「パーティー会場でも、携帯だして見てる人、いやはるがな。何がおもしろいのや、あんなん」
さすがにパーティーや披露宴会場で携帯電話を耳にあてて話す人間はいないが、隠れて画面を確認するくらい誰でもやっている。
「仕方ないんですよ。仕事してるといろんな連絡が入りますし」
「携帯見るのも、仕事のうちなんか」
「すぐに確認しておかないと、後で相手に迷惑がかかることもありますから」
「けど、なんか感じ悪いわ」
「すみません」
奈津子は携帯をバッグにしまった。
「ほら、あんたとこのあの偉い人。あの人も会場で携帯だして仕事したはったえ。ああやって、あんたらに小言をメールで送ったりしゃはるんか」
ふふふ、とタカヨは口元に手をやった。
「あの人に叱られるさかい、三番まで弾いてくれへんの?」
奈津子は苦笑した。
「ああいう展示会では、会場の適度な緊張感が損なわれないようにしなければいけませんので」
そやけど、とタカヨは唇を尖らせた。
「お客からのリクエストなんやったら、いつもの倍くらい弾いてくれてもよさそうなもんやんか」
「次回からそのようにいたします」
「ぜひ、そないしてほしいもんやわ。次からは手抜かんと、全部弾いてや」
念押しするように言うと、タカヨはまた、スプーンを口に運んだ。
41
奈津子は診察台の浩を起こした。
「たいしたことはあらへん。この程度の下痢は今までもようありましたやろ」
滝沢は聴診器を白衣の胸ポケットにしまいながら言った。
「一応、薬だしときますけど、よほどひどうならんかったら、飲ませんでもよろし。無理に止めるほどのもんでもないから」
「ありがとうございました」
浩を診察台からおろし、シャツの端をズボンの中に入れてやった。セーターの裾も直してやり、奈津子は滝沢の前の患者用の椅子に座った。カルテを書いていた滝沢が顔をあげた。
「はい、もういいですよ」
「教えていただきたいことがあるんですが」
「そやから、たいしたことやありませんよ。消化のええもん食べて、普通にしてたらよろし」
「そうじゃなくて、あの、違う病気のことで教えていただきたいんです」
「違う病気?」
「点頭てんかんという病気のことなんですけど」
滝沢は怪訝そうに奈津子を見た。
「これって、どういう病気なんでしょうか」
「どないしたんですか、急に。誰かお知り合いでも?」
「昔、その病気で亡くなられた子供さんがいたと聞いたので。あまり聞いたことのない名前だし、どんな病気なのかなと気になりまして」
そうですか、と言って滝沢は椅子に凭《もた》れた。
「あの、どんな病気なんですか、点頭てんかん、て」
「てんかんというのはまあ、一言で言えば、慢性の脳疾患です。様々な症例、分類があって、点頭てんかんはそのなかの一特殊型です」
「脳の疾患なんですか」
「大脳神経細胞の過剰な放電からくる発作が繰り返し起こる病気です」
大脳神経細胞、と奈津子は小さくつぶやいた。なんだか、難しい病気らしい。
「助かる病気なんですか」
「てんかんという病気はね、原因も様々やが、症状も様々でね。発作のためというか、発作による事故で亡くなる場合もあります。点頭てんかんについては全般に、治療成績や予後があまりええとはいえん病気ですな」
「それはつまり、助かる見込みのない病気という意味ですか」
いや、と滝沢は首を振った。
「たしかに、点頭てんかんは難治性てんかんの代表と呼ばれるくらいなんですが、しかし、皆が皆というわけやないんですよ。数年の経過の後に発作が消失していく症例もありますから。一概にはいえません」
滝沢は万年筆に蓋をした。
「点頭てんかんは、三ヶ月から一歳の乳児期に発病するのがほとんどです」
「赤ちゃんの時にかかる病気なんですね」
「そうです。一歳以降に発病することもないわけやありませんが、きわめて稀です。予後については、五歳未満で亡くなる子が一割ともいわれています。けれどね、年齢とともによくなっていく子もいるにはいるんです。薬で発作をコントロールして、普通の生活が送れるようになる例もあるんですよ」
管理次第で良好な予後をたどる症例もあると、滝沢は説明した。
「早く赤ちゃんの異変に気づき、適切な治療を施せば、その後の発達にも違いがでてくる。早期診断、早期治療が重要なんです」
それについてはどんな病気でもそうだが、と滝沢は万年筆を顔の前で小さく振ってみせた。
「原因は何なんですか」
「さっきも言うたように、原因は様々なんですよ。脳の中にはね、微小な電気が流れています。これ、脳波のことですけどね。そやから、誰しもてんかん発作を起こす素質を持ち合わせているんです。そのなかで、素質の強い人が、発病する確率が高いということですな」
「じゃ、この子も可能性があるということですか」
奈津子は傍らの浩の肩を抱いた。
「てんかんという病気に関してはそうですよ。生まれつきの素因が関係するとされている場合は、てんかん発作を起こす原因となる病変自体が脳には認められへんのです。つまり、原因がわからんのです。で、これを突発性、原発性というのですが、この場合の方が予後がいいんです」
「はっきりとした原因がわかっている場合もあるのですか」
「脳に器質的な疾患がある時ですね」
「さきほど、予後のよい子は薬で発作をコントロールしていけばいいっておっしゃいましたが、それで普通の生活が送れるんですか」
「もちろん、専門医師の管理下でのことですよ」
「つまり、ずっと点滴とか注射を続けるってことですか」
治療のためとはいえ、小さな子供にとっては辛いことだろう。注射器を見ただけで泣きだす子供もいる。躯に針を刺されるなど、大人でも痛みや恐怖を覚えるものだ。浩の肩を抱いた手に、奈津子は思わず力が入ってしまう。
「個々の症例によって違いますからね。最初は筋肉注射もあれば、服薬もあります。いずれにせよ、発作は抑制できます」
わかりました、と奈津子は頷いた。
「あの、もう一つおうかがいしたいことがあるのですが」
万年筆を置き、滝沢は目をしばたたいた。
「DNA鑑定っていうんですか、あの、親子鑑定のことなんですけど。あれって、どの程度の確率であたるものなのですか」
「表現はともかく、完全な確率と思っていいですよ」
「絶対間違いなくあたるってことですか」
「そうです」
「あの、表現はともかくって、どういうことですか」
「百パーセントというのは完全を意味するでしょう。しかし、検査の数字上、九十パーセントで『本当の親子』と判定されます。DNA鑑定で九十パーセントの確率といえば、それは百パーセントと変わりないんです。つまり、間違いなく親子、という意味になります」
「自分から親子鑑定してほしいと言う母親って、いるものですか」
「母親がですか」
腕組みをし、滝沢は首をひねった。
「父親が鑑定を依頼するのはね、ま、よくある話ですけどね。母親というのは、よほど特殊な場合だけですな」
「たとえば?」
「中国残留孤児の調査、確認なんかで実施してますね」
「そんな特殊な場合じゃなくて、普通の親子ではどうなんでしょうか」
「昔ね、産院で赤ちゃん取り違え事件とか、あったんですよ。生まれたての赤ん坊なんか皆、顔も格好も同じですから区別がつかん。ま、今はどこの産院や病院も、赤ん坊が生まれたらすぐに足の裏に親の名前書いたり、足首にネームタグをつけたりして、ミスが起こらんように気をつけてますけどな」
「じゃ、ミスがあったと判明した病院で出産した母親は、不安に駆られて、親子鑑定をするとか」
「そら、ありますやろなあ。親としてはとりあえず、確認はしときたいと思うのが人情ですやろ」
「子供が病弱だったりした場合も、母親って、親子鑑定したいと考えるものでしょうか」
とんとんと、万年筆を手のひらにあて、滝沢は天井を仰いだ。
「あんた、そんな気持ちになると思いますか」
「わたしですか」
奈津子は傍らの浩を見た。
「べつに鑑定なんて、こだわる気にはならないですけど」
「なんで」
「だって、そんなことしなくても、この子がわたしの子供であることに変わりはありませんし」
「つまり、自分が腹痛めた子やからと、そういうことですか」
「はい」
「まあ、それが普通でしょうなあ」
万年筆を持ち直し、滝沢はカルテに向き直った。
42
高野から桜木町に入ったあたりに、青柳漬物店があった。漬物屋といっても、観光客相手のそれは、店舗も看板も明るく華やかな造りにしてある。まるでブティックか喫茶店のようだ。壁には絣《かすり》の布が襞《ひだ》をとって垂らされ、大窓のガラスからは手入れの行き届いた中庭が見えるようにしてある。昔からの京都の町家造りを踏襲してはいるが、庭に敷き詰められた砂は人工の白砂で、引き戸は自動ドアになっている。
若い女達が、ビニールパックされた漬物を買っていた。包装紙はピンクを基調にした小さな花柄で、言われなければ中身が漬物とは気がつかないくらいしゃれている。
店の入口に立ち、大きく深呼吸してから早苗は女の店員に声をかけた。店員は絣の作務衣《さむえ》のような制服を着て、樽の上に載せられたガラスの蓋を磨いていた。
「はい、何にいたしましょ」
「こちらの奥様にお尋ねしたいことがありまして」
「奥様に?」
布巾を手に持ったまま、店員は訝しげに早苗を見た。
「あやしい者ではございません。わたくし、京一タクシーの中林と申します。あるお方に頼まれまして、人捜しをしております」
早苗は京一タクシーの制服を着ていた。通りがかりの者ではないと、店員にもわかるはずだ。
「あの、すみません。奥様はお約束している方やないと、お会いにはならはらへんのですが」
「これは失礼をいたしました。お電話でも差し上げればよかったのですが、何しろ急なことでしたので」
「そしたら、またお電話でもいただけますか」
「いえ、ちょっとお尋ねしたらそれでええことですねん」
早苗は店の奥にまで聞こえるように、声を大きくした。でも、と店員は露骨に顔を顰《しか》めた。
「何ぞ、御用でしょうか」
暖簾の奥から、中年の女がでてきた。女は制服を着ていない。生成りのブラウスに茶色の薄手のカーディガンを羽織っている。
「青柳さんの奥様でいらっしゃいますか」
早苗の言葉に、女は「はい」と返事をした。声にも表情にも品があり、ただの店員でないことは一目瞭然だ。小柄ながら女主人としての貫禄もあり、どうやら青柳知佐子の母親に間違いないようだ。
「お忙しいところまことに申し訳ありません。実は人捜しをしておりまして」
「人捜し?」
「うちの大切なお客様に頼まれたものですから。大事なことなんです。あ、わたくし、京一タクシーの運転手をしております中林と申します」
早苗は深々と頭を下げた。女主人は店員の方を見て頷いた。店員はまた、樽の蓋を磨き始めた。
「お仕事中、恐れ入ります。ちょっと確認するだけのことですので」
ええとですね、と早苗は息を吸った。
「わたくしの昔からのお客様が、あるお方を捜しておられまして。事情がございまして、そのお方の名前は申しあげられへんのですが」
はあ、と女主人は怪訝そうな面持ちでショーウィンドーの上に手を置いた。
「十年ほど前の話なんですが」
「十年前?」
「そうなんです。このあたりもマンションとかどんどん建ってしもうて、昔のことを知っている方がほんま少のうなってしもうて。こちらの青柳さんなら、歴史のあるお店やから十年、二十年前のことでもようご存知やとご近所の方からお聞きしましたものですから」
「ええ、まあ、古いだけが取り柄どすさかいに」
女主人は小さく笑った。
「十年前、そのお方が下鴨本通を歩いておられました時に、急に胃がですね、ぎゅうっと締めつけられるように痛くなられて、その場に蹲《うずくま》ってしまわれたんでございます。女の方なので、やっぱりその、大きい声だして人に助けを求めるとかちょっと恥ずかしいから、蹲って我慢したはったのですよ」
早苗は顔を顰め、腹を押さえながら言った。
「まあ」
眉をあげ、女主人は気遣わしげに声をひそめた。
「その時にですね、偶然、通りかかったある奥様がお客様を助けてくださったのでございます」
安堵したように、女主人は頷いた。
「その奥様が、自分のとこは病院やさかい、ともかくいらっしゃいと言うて連れていってくださったらしいんです」
「そら、よろしおしたなあ」
「地獄に仏とはまさにこのこと」
女主人は「ほんまそうどすなあ」と頬に手をあてた。
「で、そこの病院が、なんか、その、産婦人科病院やったらしいということなんです。なにしろ、十年以上前のことやそうでして、今はこのあたりもすっかり景色が変わってしもうて、場所も建物もさだかではないと」
「その病院を捜してはるんどすか」
「はい」
「それは、医院とかと違うて、入院設備のあるような病院やと言うたはりましたか」
「はい、たぶん」
「下鴨本通やったら、そら、松本産婦人科病院どすな」
「松本産婦人科病院?」
「このあたりでは結構大きな病院でね、設備とか機械とか、いつも最先端のもん入れたはるような病院どしたわ」
「そんな立派な病院なんですか」
ええ、そらもう、と女主人は大きく頷いた。
「産婦人科病院どすけど、出産だけやなしに、不妊治療でも有名な病院どした。設備も最先端のを入れたはるだけあってね、なんとか治療とか、なんとか受精とか、難しいことやってくれはる病院どすのや」
「まあ、そんなたいそうな病院ですか」
「けどね、なくなりましたよ、松本産婦人科病院。今は違う名前の内科病院になってます」
「どうりで捜しても、産婦人科病院がこのあたりで見つからなかったはずですね」
「今は、内科病院に替わってますから」
「間違いありませんでしょうか」
「ええ。なんなら、ご本人が直接来て、病院に確認しやはったらよろしいやないですか。外観はちょっと変わってしまいましたけど、場所は同じやからきっと思い出さはるのと違いますか」
あの、それが、と早苗は口ごもった。
「お客様は今、入院中でして」
早苗は眉間に皺を寄せ、下を向いた。
「入院? どこか、お悪いんですか」
「それが、末期の癌でして」
まあ、と女主人は息を漏らした。ガラスの蓋を拭いていた店員も、手を止めてこちらを見ている。
「死ぬ前に、あの時のお礼がどうしても言いたいと、こう申されているのでございます」
「そうでしたか」
女主人は気の毒そうに目を伏せた。
「事情が事情だけに、ええ加減な報告はできません。わたしも、これはきちんと調べた上で、お話ししたいと思うております」
「そら、そうですわね」
「その方のお話ですと、産科の病院の奥様ご自身が助けてくださり、介抱してくださったらしいのです」
「松本産婦人科病院の奥様やったら、わたしはよく存じ上げていますよ」
ええっ、と早苗は大仰に声をあげた。
「ほんまですか」
「奇遇ですわねえ。うちの娘は、松本さんとこのお嬢さんと同じ幼稚園にいっていたんですよ。そのあとも小学校から高校まで一緒やったんです」
「まあ、何という偶然。これは、神様仏様が引き合わせてくださったとしか思えません」
「ほんまにすごい偶然ですね」
女主人は感心したように首を振った。店員も大きく頷いている。
「で、松本産婦人科病院で介抱されて、その方はその後、どうされましたの」
「京都には仕事でいらしていた東京の方やったのです。当時、お仕事の都合で、すぐにもどらんならんとあわてて帰ってしまい、電話番号も聞かなかったと。今頃になって、あの時、助けてもらったからこそ仕事にも間に合ったのに、と後悔したはるのです」
ねえ、と女主人は顔をあげた。
「そのお方、あなたの長年のお客様と言わはりませんどしたか。なんで今まで、捜さはらへんかったんどすか」
「あ、いえ、正確にはですね、わたしのお客様のお母様の話でございまして」
「お母様?」
「はい、お母様です」
念を押すように早苗は頷いた。
「お客様も今回、お母様から初めて聞かされたお話らしいんです。なんで今まで捜さはらへんかったんかまでは、わたしも事情を聞いてへんのですが」
早苗は軽く咳払いした。
「それで、お客様が言わはるにはですね、ともかく、今際《いまわ》の際《きわ》の母親が、昔の恩人にお礼を言うてから死にたいと、こう言うてるさかいにと」
「まあ、ご危篤なんですか」
「はい、そうです」
女主人は口元を両手で押さえた。
「それはご心配どすわなあ」
樽の前の店員も、神妙な顔をした。
「時間がないさかい、一刻も早う、そのお方を捜してくれんかと、わたしに頼んできやはったのでございます」
そういうことでしたか、と女主人は息を吐いた。
「そのお母様が言わはるにはですね、恩人であるあの奥様が、今もお幸せにしたはるのかどうか、それが気になって気になって死んでも死にきれんと、こう言うたはるのやそうでございます」
「なるほどねえ」
「お幸せに暮らしておられるのなら、あの時のお礼だけ伝えてもろうたらそれでええと。もし、何ぞお困りのことがおありなら、その方の力になるようにと、お母様は病床で言うたはるのやそうでございます」
涙ぐみ、女主人は瞼を押さえた。店員も、布巾を持ったまま俯《うつむ》いている。
「お母様が言わはるには、その、松本産婦人科の奥様らしきお方は、ちょうど妊娠中のご様子だったにもかかわらず、お母様を抱きかかえてくださったと」
「奥様が妊娠中?」
眉を顰め、女主人は訊き返した。
「何年前でしたっけ」
「正確には十二年前です」
「それは、そのお方の思い違いです」
「いえ、奥様はお腹が大きかったと、たしかにお母様は言うたはるのやそうですが」
「十二年前ですと、うちの娘が小学生の時ですから。そんなことはありませんでしたよ」
きっぱりと女主人は言った。
「そういえば、その頃少し肥っておられましたけれど、おめでたとかではないんですよ。急に肥られたんでわたしも憶えてますわ。いえね、わたしらもおめでたですかって訊いたんです。けど、ご本人が違うって言わはるんですから、違うでしょ」
「本当に? 嘘を言うたはるってことは、なかったですか」
あのねえ、と女主人は苦笑した。
「なんで、嘘をつく必要があるんですか、結婚してる女の人が」
「あ、でも、何か、隠す事情があったのかも知れへんし」
「松本さんのご主人は、産科の先生ですよ。隠したって、隠しようがあらへんでしょ」
「はあ、それもそうですね」
女主人は店員と顔を見合わせて笑った。
「けど、なんでそんなこと、訊かはるんですか」
「いえね、そのお母様が、あの時、お腹にいやはった赤ちゃんも、ちゃんと元気で幸せに暮らしてはるのやろうかと、それはそれは気にかけたはりまして」
「まあ、そんなことまで。そやけど、それは思い違いですわ」
松本さんのお嬢さんはうちと同じ一人娘だからと、女主人はまた笑った。
43
新聞を置き、はああ、と早苗がため息をついた。
「一億円かあ」
先日来、製パン会社の毒物混入脅迫事件についてマスコミは大騒ぎしている。犯人の予告通り、スーパーの陳列台に並べてあったパンから青酸化合物が発見されたものだから、小さい子供を持つ親はとくにこの事件に過敏になっていた。昨日また、製パン会社に何通目かの脅迫状が届いたと記事には書かれている。
「ほんまに一億円もとれるんかいなあ」
炬燵の上に置かれた蜜柑に、早苗は手を伸ばした。
「無理でしょう」
奈津子が言った。
「こういうのは、金銭の受け渡しの時に必ず捕まるんですから」
けど、と台所に立っていたミヨ子が振り返った。
「シャングリラホテルの事件もあったしなあ」
そやそや、と言いながら、早苗は蜜柑の皮を剥いた。
「あれかて、二千万やで、二千万」
剥いた蜜柑を早苗は浩の口に入れてやった。
「あの二千万円、犯人は何に使うたんやろなあ」
「何にも使ってませんよ、犯人は」
「使ってない? んなことはないやろ」
自分の口にも蜜柑を入れ、早苗は笑った。
「いえ、使ってないですよ」
「なんでわかるの」
「身代金のお札はね、必ず警察がナンバーを控えているんだそうですよ」
「一枚ずつ?」
「そうです」
ふううん、と早苗は頷いた。
「だから、もし犯人がどこかでそのお札を使っていたら、必ずばれます」
「そうかなあ」
早苗は蜜柑の皮を口から出した。
「なんぼ警察がナンバー控えてたって、一般人はそんなもん知らんやん。たまたま、どっかで受け取ったお札がそのお札やったとしても、どうせわからずじまいや。ばれるわけないわ」
そうじゃないですよ、と奈津子は蜜柑を手に取った。
「普通、世間でお金を使うってことは、お店とか自動販売機で使うってことでしょ」
「うん」
「お店や自動販売機に入ったお金は、さらに何らかの支払いに使われるか、どこかの金融機関に預けられるかのどちらかです。受け取った人が半永久的に箪笥貯金でもしないかぎり、お札はいずれどこかの金融機関に入るんです。全国の金融機関には、強奪された紙幣のナンバーが通達されてるんですよ。必ずチェックされます」
「へええ、そうなんか」
「ある銀行で該当の紙幣が見つかったとします。そしたら、その日の入金ルートは徹底的に洗われるそうです」
窓口であれ、ATM機であれ、その日一万円札を持ち込んだ客は、通帳その他の記録はもちろん、防犯カメラ映像なども全部調べられ確認される。個人も企業も商店も、可能な限り徹底追跡され、捜査されるのだ。
「あんたよう、知ってるなあ」
「週刊誌に書いてありました」
もし犯人が強奪した紙幣を一枚でも使えば、たちどころに足がつく。あれだけ緻密で周到な計画をたてた犯人が、そんなくだらないミスを犯すとは思えない。
「今のところ、どこからも見つかっていないということは、犯人が紙幣を使っていない証拠ですよ」
「せっかく、二千万円も持ってるのに?」
「たぶん、犯人は時効まで使わないと思います」
奈津子は手のなかの蜜柑を見つめた。
「いえ、もしかしたら、時効を過ぎても使わないかも知れません」
「なんで、あんたにそんなことまでわかるのや」
早苗は目を眇《すが》めた。
「お金がほしいから、あれだけの事件起こしたんやろ」
「犯人は、最初からお金目的ではなかったのかも知れない」
「何それ。ほんなら何のために、苦労して二千万円とったんやわからへんやん」
変なの、と早苗は蜜柑を口に入れた。
「早苗さん」
奈津子は蜜柑を置いた。
「あの件ですけど」
「あ、あれね」
早苗は布巾を手に持った。
「保育園にいってみたんやけど、あれ以上のことはわからへんかったわ」
「上司一家がおっしゃっていたことは、間違いないんですよね」
「うん、それは確かなんやけど」
布巾に指先を軽くあてた後、早苗はそれを丁寧にたたんだ。
「雅之君が亡くなる前日は、とくに何も変わったことはなかったて、皆言わはるしなあ。どうしても、それ以上のことはわからへん」
「園長先生には、話聞けたんですか」
「その話についてはもう関係者がいないのでわかりません、てこう言わはんねん」
早苗は布巾の上に手を置いた。
「何日か前から、副担任の先生が産休とったはったんや。担任の先生はその日たまたま、お休みやったらしいんやけどね」
「担任も副担任もいなかったんですか」
違う、違う、と早苗は胸の前で手を振った。
「産休の副担任の代わりの先生が、ちゃんとクラスにはいやはったんや。梓さんのところの上司の奥さんがそない言うたはったし、間違いないよ。あ、その奥さんに紹介してもろうて、もう一人別のお母さんにも話を聞いたんや」
「別のお母さん?」
「雅之君と同じクラスやった子のお母さん。当時よっぽど驚いたというか、大きな出来事で印象に残ったんやろね。よう憶えてはったわ。亡くならはる前日も、雅之君はいつものように普通に遊んだはったて言うたはった」
「亡くなる前日の雅之君を見たお母さん、いるんですか」
「その人が言わはるには、皆見たはったらしいよ。保育園て、親が子供を送っていくやん。その時に見かけたんやて。雅之君は砂場で遊んだはったん憶えてますって、元気そうに見えたのにって、言うたはった」
体の調子の悪い子供が、園庭にでて砂遊びをするとは思えない。不調や痛みを堪えていたのなら様子がおかしいだろうし、周囲の大人も異変に気づくはずだ。見ていた者が「いつもと変わりない」と言っているのなら、本人は機嫌よく遊んでいたということだ。それに、病弱な雅之を溺愛していた梓が、体調が悪いのに無理に登園させるはずもない。
「ちょっと」
早苗が膳を指でとんとん、とたたいた。
「何考えこんでるのん」
「え?」
「さっきから黙りこくって。どうしたん」
「いえ、何でもないです」
息を吐き、奈津子は傍らの浩に目をやった。浩はまた、早苗に剥いてもらった蜜柑を頬ばっている。
「顔色悪いで、あんた」
心配そうに、早苗が言った。
「大丈夫です」
奈津子は蜜柑の皮を剥いた。
44
イベントの終了した会場には誰もいなかった。離乳食やベビー用品の関連企業が協賛しているマタニティーフェアは二日続きで明日も開催される。展示されているマタニティー用品やベビー服は、そのまま残されていた。
会場の奥にはグランドピアノが設置されている。奈津子は今日、子守唄や、胎教によいとされているクラシックを弾いた。出産を間近に控えた妊婦達が、母親らとともにやってきて、パンフレットを見ながらグッズ類の注文をしていた。少子化とはいいながら、一人の赤ん坊にかける費用が桁違いだから、これらの業界も潤っているのだろう。
すでに外は日が落ちているに違いない。腕時計を見た。広瀬が扉を施錠しにやってくるまで、もう少し時間がある。
一段楽譜を見ながら、奈津子は「ムーン・リバー」を弾いた。テーマ部分を終え、腕時計の秒針を見る。展開部を弾き始めた時、扉が開いた。
「お疲れさま」
梓が入ってきた。
「お疲れさまです」
「今日のイベント、何か問題あったかしら」
言いながら、梓は会場を見回した。グランドピアノの近くには、新生児用のベビードレスが展示してあった。すべて白で、凝ったレースが袖口や裾に縫い付けてある。たぶん、宮参り用なのだろう。
「大丈夫よ。何かあるんなら、わたしの方から広瀬さんに言っておくから」
「月がでていますね」
梓の問いには答えず、奈津子はまた楽譜に目をもどした。
「でも、カーテンがかかっているから見えませんが」
「ムーン・リバー」の展開部を、奈津子は弾き始めた。梓は何も言わずに楽譜を見ている。
「ここまで、十一秒です」
曲を切り、奈津子は言った。
「テーマ部分のこの八小節で十七秒。かなり、ここの部分をラレンタンドで弾いた場合ですけど」
防音の施された会場は、外部の音は何も聞こえなかった。ただ、空調の低い音が唸るように響いているだけだ。
「あの日も、ラレンタンドで弾いていました」
楽譜の脇には、数字がいくつか書き込んである。何度も演奏し、確認した秒数だ。
「桑島樹奈さんが、展示会会場に飛び込んでこられたのが十一時半でした。ちょうどわたしが、『ムーン・リバー』を弾き始めた時です。樹奈さんがクロークに紙袋を預け、別の紙袋を受け取ったのは、飛び込んできてから約二十三秒後。その時会場の隅に、携帯電話でメールを打っていた人物がいました。指輪のコーナーの向こう側です」
クロークの設置されていたあたりに奈津子は目をやった。
「樹奈さんが紙袋を受け取った直後、クロークの電話が鳴っています。短いやり取りをして、樹奈さんは会場をでていった。その約二十八秒後、さきほどメールを送った人物がクロークに入っていきました。もちろんその人物は、クロークに入っても咎められない立場の人です」
奈津子は譜面台に目をもどし、「訊かないのですか」と言った。
「なぜ、ピアノを弾いていたわたしが、それらの秒数を詳細に確認できたかということを」
たぶん、と梓は言った。
「タカヨさんね」
「そうです」
タカヨは時計を持っていない。携帯電話も使わない。時間を計測する術《すべ》は何もないのだ。
「タカヨさんは、『ムーン・リバー』が大のお気に入りなんです。あの日もリクエストされました」
大好きな「ムーン・リバー」のイントロからテーマ部分、サビやエンディングの旋律を、タカヨは正確に記憶していた。
「樹奈さんが会場に飛び込んでこられた時、わたしはテーマ部分のこのあたりを演奏していたそうです」
楽譜を指でなぞった後、ピアノで弾いてみせた。
「この時には、こんな旋律が流れていたと、タカヨさんは克明に憶えているんです。わたしが『ムーン・リバー』を演奏している時、タカヨさんは、ある人物が携帯でメールを打っているのを見ていたんです」
演奏をやめ、奈津子は言った。
「携帯メールによって、ホテルの外にいる人物が、樹奈さんの行動やタイミングを知ることができたのです。いえ、メールではなかったかも知れません。ワン切りとかを合図にしていたのかも知れませんね」
広い会場を、奈津子は見回した。
贅を尽くしたベビー服や、有名デザイナーの名を冠された妊婦服が、大宴会場のシャンデリアの下に数えきれないほど展示されている。
「樹奈さんがでていって二十八秒後、わたしは『愛のプレリュード』を弾き始めたのです。この時、メールを打っていた人物がクロークに入っていくのをタカヨさんが見ていました。この人は、いつもスタッフとして会場に出入りしているので、タカヨさんもとくには気にとめていなかったようですね」
立ち上がり、奈津子はゆっくりと歩いた。壁には襞のたっぷりと取られた金色のカーテンが、シャンデリアの光を受けて輝いていた。
「あの日、こちら側の側面には、クロークが設置してありました」
天井から垂れるカーテンは豪奢に輝き、まるで舞台装置のようだ。奈津子はカーテンをめくった。
「ここを使ったんでしょう」
窓があらわれた。華やかな会場には不似合いな、ごく普通のサッシの窓だった。
「シャングリラホテルは、借景に使えるような立地に恵まれていませんから、催事の際は全部の窓に必ずカーテンが引かれています」
デザイン上は造りたくなかったのだろうが、シャングリラホテルでは、災害時に備えて窓が多めに設置されている。
「展示会当日、窓の前にはクロークの棚が設えられていました。ただし、塞がれていない窓も残されていました。避難口として指定された窓です。消防法で義務づけられていますからね」
奈津子は窓の前に立った。
「ここから、投げ落としたんでしょう」
こちら側の窓の下は路地で、いわば裏道のようなところだ。シャングリラホテルの塀と、月極駐車場のフェンスに囲まれたこの道を、通る人や車はめったにない。
「少し勢いをつけて投げれば、塀の向こう側に落とすのは造作もないことですね。サンフラワー教室の紙袋には口にボタンがついていたから、投げ落としても中身が散乱する心配もない」
窓を開け、奈津子は下を見た。昼間でも殺風景な路地だが、夜ともなればほとんど灯りがなく、何も見えない。
「その人物が紙袋を投げ落とした時、この路地には、さきほどのメールを受信した人物が待っていたのです」
紙袋を拾った人物は、すぐに別の袋なりバッグなりに紙袋を入れ、その場を立ち去った。
「紙袋を拾った人物は御池大橋を渡り、孫橋町まで歩いていきました。そこからタクシーで河原町通のバルビルまでいったのです」
一方、ホテルをでた樹奈は河原町通から京阪電車の三条駅まで歩いている。
「シャングリラホテルから京阪電車に乗るのなら、京都市役所前駅から地下鉄に乗って、三条京阪で乗り換えればよいのに、犯人はわざわざ京阪電車の三条駅まで歩くようにと樹奈さんに指示しています。紙袋を持った人物が捜査員と遭遇することのないようにしたのですね」
奈津子は窓を開けた。
「バルビルでタクシーを降りた犯人は、河原町通にある公衆電話を順にまわり、樹奈さんのいる飲食店に電話をかけた。犯人の指定した喫茶店はすべて、駅の近くか駅構内でした。樹奈さんは犯人の指示通り、電車で移動しています。ということは、目的地の到着時刻はすべてわかっている。樹奈さんが到着する頃合をみはからって、かけていたのでしょう」
窓から夜気が流れこんだ。展示されていたベビー服の裾がわずかに揺れ、暖房の効いた室内の空気が静かに這いでていく。
「犯人と樹奈さんのやり取りが、新聞に掲載されていました。指定された喫茶店の名前を見て、なんか変だなと思ったんです。あれ全部、アイウエオ順になっていたでしょう」
最初に指定されたのが京都駅前の「アリス」。次が山科駅の「イレブンコーヒー」、松島屋の「ウルーズ」、シャングリラホテルの「エトワール」、「オルゴール」。淀屋橋の「花梨」、梅田の「キティ」、三宮の「熊八」、大阪駅の「ケイン」、三宮の「光琳」──。
「わたし、その記事を読んで、犯人は樹奈さんのことをよく知っている人ではないかと思ったんです」
梓は何も言わずに奈津子を見つめていた。薄いベージュのセーターに、ペーズリー模様のストールを巻いている。ペーズリー模様は深いラベンダー色だが、顔色が沈むわけでもなく、むしろ薄化粧の梓の顔立ちを引き立てていた。
「すぐに気づいたわけではありません。シャングリラホテルの三階に、『ラレンタンド』という喫茶店があるでしょう。喫茶店というより、ジュースバーみたいな店ですけれど。犯人はなぜ、この店は指定しなかったのかと、気になったのです」
犯人は身代金授受の場所に選んだシャングリラホテルについても徹底的に調べたに違いない。「ラレンタンド」の存在を知らないはずはなく、候補の一つとして考えたはずだ。
「犯人が『ラレンタンド』を指定しなかった理由を、考えてみたんです。色々考えたんですけれど、店の造りとか客層とか、他の店に比べてとくに都合の悪いような要素など何も見つかりませんでした。もしあるとしたら、ただ単に、名前が憶えにくいからだったのではないかと」
「ラレンタンド」はイタリア語である。同時に「だんだん遅く」という音楽用語でもある。
「楽譜の読める人なら誰でも知っている言葉なので、聞けば一度で憶えます。でも、音楽の勉強をしていない人にはなじみがないから、聞いても正確に憶えられるかどうかわからない」
あの店へは何人か案内したことがある。大抵の者は名前を正確に憶えることができなかった。
「あの店の名前を一度で確実に憶えることができるのは、イタリア語に精通している人か、音楽の勉強をある程度やっていた人だけです」
青柳知佐子は、一度で店の名前を正確に憶えた。かつてベートーヴェンのソナタアルバムまで勉強していた知佐子は「ラレンタンド」という言葉も意味するところも知っていたからである。松本沙織は憶えることができなかった。バイエルすら修了していない沙織は、音楽用語を学ぶ段階まで進まなかったのだ。
「樹奈さんなら無理だろう。わたしはそう思います」
かつて保育士をしていた樹奈は、資格を取得しているはずだ。保育士の資格取得については、バイエル程度のピアノ演奏力が必要とされている。
「バイエルでは楽譜の基礎を学ぶに過ぎません」
必要最低限の音程や符割を習得する初級課程では、曲想や速度などについての充分な吟味が求められるわけではない。能力に応じたテンポで弾くだけのことである。
「どちらにしろ、あの人なら、『ラレンタンド』という店の名前を正確に憶えるのは難しいだろうなと思いました」
そこまで考えた時、犯人は、憶えやすい名前の店ばかりを指定したのではないかと気づいた。
「犯人は、樹奈さんのような人でも間違わずにすむような工夫をしたのではないかと思ったのです。それはつまり、犯人は樹奈さんがどういう人なのか、よく知っている人物なのだということを意味しています」
悪意はないのだが、あったことや聞いたことを樹奈はすぐに忘れる。何かあっても、論理的な思考能力がないからまともな会話は成り立たず、周囲はいつも手を焼いている。
「樹奈さんが間違わないように、犯人は店の名前をアイウエオ順にしたのです」
窓から少し躯を引き、奈津子はガラスに目をやった。梓が映っている。梓はとくに感情を顔にあらわすこともなく、窓を見ていた。
「打ち合わせのために事務所に伺った時のことです。浩が、お菓子をこぼしてしまいました」
あの時、箱からこぼれた菓子を奈津子は拾い集めた。
「ソファの下にも落としてしまったと思い、拾ったんです」
それらを奈津子はティッシュに集めてバッグに押し込んでおいた。
「家に帰って捨てようとした時、一つだけ、乾いたお菓子があったんです」
粒状の菓子は、上半分がチョコレートで、下半分がビスケットになっていた。
「ビスケットの部分が完全に干からびてしまっていて、ずいぶん時間のたったもののようでした」
開けたての菓子でないのは明らかだった。
「だからそのお菓子は、浩がこぼしたものではありません。ずいぶん前に、誰かがあの部屋で落としたものです」
ガラスに映った梓を奈津子は見つめた。
「お菓子は、どんぐりチョコの苺味でした。この間、樹奈さんがサンフラワー教室で、美有ちゃんにお菓子を食べさせるところを偶然見たのですが、それもどんぐりチョコの苺味でした。美有ちゃんのお気に入りなのだそうですね。新聞記事にも、監禁されていた時、お気に入りのどんぐりチョコの苺味を食べさせてもらったと、書いてありました」
奈津子は目を閉じた。
45
「結婚して住まわれたのは樟葉《くずは》の社宅でしたね。結婚三年目で、お子さんが生まれた」
生まれた息子は雅之と名づけられた。
「雅之君は、赤ちゃんの頃から入退院を繰り返しておられた」
奈津子は窓の外に目をやった。
「点頭てんかんは難治性で、予後も一般によくないとされている病気だそうですね。でも、なかには早期に治療を受けて、正常に発達、成長を遂げていく例もあると聞きました。雅之君は保育園に通っていたくらいだから、大変、予後がよかったのでしょう」
おそらく、早期発見、早期治療が功を奏して、雅之は順調な回復をみせていたのに違いない。
「当時、雅之君の通っていた保育園に、新任の保育士が入ってきました。名前は大林樹奈。後の桑島樹奈さんです」
雅之のクラスの副担任が産休に入り、樹奈はその間だけバイトの形で雇用されたと早苗が調べてきていた。
「普段、雅之君は担任の保育士に、指定された時間に抗てんかん薬を服用させてもらっていたのでしょう。ところがある日、担任が急病で休んだ。登園の時それを知った梓さんは、樹奈さんに雅之君の服薬を頼んだ。なのにその夜、雅之君は発作を起こした」
痙攣発作を起こした雅之は、救急車で病院に搬送された。だが、雅之の症状は重篤で、翌朝亡くなった。
「うちの浩のことなんですが」
奈津子は息を吸った。
「以前預けていたベビーホテルで、薬の服用をお願いしたのに、保育士に忘れられたことがあります。預ける時、わたしはお薬のこと、何度も念を押しておいたのに」
その日の朝、浩の様子は少し熱っぽい程度だった。だが、夜迎えにいくと高熱でぐったりしていた。
「わたしは、その保育士に詰め寄りました。なぜ、薬を飲ませてくれなかったのですか、と」
あの夜、浩はベビーホテルの部屋の隅に荷物のように置かれていた。すでに泣く力もない浩は、奈津子が抱きあげても目を開けることもしなかった。
「けれど、その保育士は、わたしは知らない、何も聞いていないと言うんです」
思い出すと、今でも怒りと悔しさで涙がでそうになる。
「わたしは、あの保育士のこと、忘れません。そして、許しません」
振り絞るように奈津子は言った。
梓は窓の外の闇に目をやっていた。ストールがわずかに揺れ、彼女はゆっくりとそれを肩に掛け直している。ラベンダー色のペーズリー模様が、梓の半身にゆるやかに巻きついた。
「その後まもなく、離婚されたのですね」
幼い子供を亡くした夫婦は、次第に関係が壊れていったのだろう。離婚後、梓は業界に復帰するが、自らがプレイヤーとして活動することはなかった。
「淑子さんと梓さんは、復讐したのでしょう?」
奈津子も闇に目をやった。
「雅之君を産んだのは、淑子さんですね」
しばらく、沈黙が続いた。
「先日、増渕雅子さんという方がシャングリラホテルのラウンジにお見えになりました。今までご報告せず、申し訳ありません」
背後で、わずかに梓が息を吐く音が聞こえた。
「雅子さんから、梓さんがかつて子宮筋腫のために全摘出手術を受けたと、聞きました」
唇を結んだ後、奈津子は言葉を続けた。
「子宮全摘出手術を受けた梓さんが、出産できるはずはありません。でも、雅之君の母親は間違いなく梓さんでした。雅之君の入院中、DNA鑑定を病院に依頼されたそうですね。病院が親子と判定したのですから、雅之君と梓さんは正真正銘の親子です」
目を閉じ、奈津子は「ここからはわたしの想像です」と言った。
「雅之君は、体外受精でできたお子さんですね」
梓は何も答えなかった。
「代理母を使えば、子宮のない人でも自分の子供を得ることができます。他人の子宮から生まれてきたとしても、自分の卵子を使えば遺伝的には間違いなく自分の子供です」
しかし、日本で代理母は認められていない。代理出産を希望するなら、アメリカなど海外で施術を受けるしかない。
「淑子さんのご主人は産婦人科病院の開業医でしたよね」
奈津子は両手を軽く握った。汗ばんでいるのが自分でわかる。
「沙織さんが小学校の頃、お母様が一時期肥っていたことがあると、話していました。たぶん、その時、お腹に雅之君がいたのでしょう」
松本産婦人科病院は、周辺でも規模の大きな病院だった。不妊治療についても有名で、最新の医療機器や技術を持っていたという評判だ。
「ご自分の病院なら、何でもできますものね」
梓から卵子を採取し、体外受精させ、それを淑子の子宮に着床させる。それらを秘密裏に施術することも可能だったはずだ。
「身代金の奪取に淑子さんがかかわっているらしいことはすぐにわかりました。事件当日、あるタクシー運転手が孫橋町から淑子さんを乗せているんです」
なぜ、乗せた客が淑子だとわかるのかとも、梓は訊かなかった。
「そのタクシー運転手、顔を憶える名人なんです。一度乗せたお客の顔は忘れない」
数日前、早苗に事務所へタクシーで迎えにきてもらった。その時、淑子は玄関で早苗と応対している。
「淑子さんを見た運転手は、事件当日孫橋町から乗せた客に間違いないと言いました」
警察も、当日のシャングリラホテル周辺のタクシー乗降客について調べたに違いない。
犯人は河原町通の公衆電話を順に移動しながら使用していた。ホテルからのルートを考えると、鴨川を隔てた対岸の孫橋町はまったくの反対方向になってしまう。距離や方向から考えて、孫橋町は捜査の盲点をついていたのだ。
「しかし、淑子さんがなぜ、そこまでするのかがわかりませんでした。事務所は順調だし、梓さんはもちろん、淑子さんもお金に不自由しておられるとも思えません。それで、調べたんです」
奈津子は振り返った。
「淑子さんにとって、雅之君はお腹を痛めた子供だった。だから、梓さんと一緒に復讐を考えたのですね」
「雅之はわたしの子供です」
梓は窓に歩み寄った。ストールが揺れ、ペーズリー模様が動く。
「淑子さん自身も、悩んでおられたのよ」
窓際に立ち、梓は顎をあげた。
「二人目ができなかったのよ、淑子さん。卵巣|嚢腫《のうしゆ》だったの」
運の悪いことに、淑子の卵巣は両方とも深刻な病状を呈していた。
沙織を出産した翌年、症状が判明した淑子は卵巣全摘出手術を受けたという。
「淑子さんとわたしの間で、代理母について話が進んだのはごく自然なことだったわ」
その後、梓の夫、淑子の夫をまじえて四人で話し合ったのだと、説明した。
「わたしの卵子と、夫の精子を使った受精卵を淑子さんの子宮に着床させる。無事、出産に至ったなら、次回はわたしが自分の卵子を、淑子さんに提供する約束だった」
四人全員の合意で約束は成立し、そしてそれは実行された。
「淑子さんは無事に雅之を産んでくださった。本当に、本当に、あの人には感謝しています。雅之の誕生後、わたしは卵子を提供した。淑子さんのご主人の精子で受精卵を作ったのだけれど、残念ながら着床には至らなかった」
何度か試みたがすべて失敗に終わったと、梓は話した。
「でも、淑子さんはまったく愚痴をこぼさなかった。卵巣嚢腫を患《わずら》う前に、沙織さんを授かっただけでも幸運だったと、あの人は言っていたわ」
二度目の出産など生涯ないと諦めていたのに、雅之は無事に自分から生まれてくれた、それがうれしいと淑子は喜んでいたという。
「雅之のことは、それはそれは可愛がってくださった」
自分が「腹を痛めた」のももちろんだが、雅之は淑子の実の甥でもあり、血の繋がりがある。
「雅之が点頭てんかんだとわかった時は、わたしも淑子さんも本当に驚きました」
難治性の病気だと、最初に主治医から聞かされた。
「痙攣発作を起こす度に、雅之はどうなってしまうのだろう、そう思ったわ。たとえ普通に眠っている時でも、この子は明日も無事でいてくれるのだろうか、明後日も大丈夫だろうかと、心配で心配で、胸が潰れそうだった」
寝顔をさわり、息をしているのを確認する。よかった、生きている。安堵しても、次の瞬間、痙攣発作を起こすかも知れない。そう思うと、恐怖のために気が狂いそうになる。毎日がその連続だったと、梓は言った。
「どんなに強く抱きしめていても、この子はわたしを置いて、逝ってしまうのかも知れない」
ストールの下で、梓は自身の肩を抱くようにした。
「やっと授かった子供なのに」
小さく息を吸った後、梓は夜空を見上げた。
「雅之の入院中、親子鑑定を病院に依頼したわ。雅之は、確かにわたしの子供なのだという証《あかし》を、手元に残しておきたかったのよ」
たとえ紙切れ一枚のことでも、自分にとっては大切な証だったのだと、梓は肩に掛けていた手をおろした。
「けれど幸いなことに、あの子は少しずつ症状がよくなっていった。抗てんかん薬を服用していれば、痙攣発作を起こす心配もなくなり、三歳の頃には保育園にも通えるくらいになったのよ。このまま、順調に育っていってくれることだけがわたしの願いであり、幸せだった」
何度も死を覚悟したのに、そこまでの回復を遂げたのだから、梓も梓の夫も大変喜んだことだろう。
「あの子が亡くなって、わたしは夫と離婚したわ。けれど、離婚してからも、淑子さんはわたしのことを何かと心配してくれた」
体外受精の施術で、二人は辛い経験を共有した。出産はもちろんだが、採卵も大変な苦痛を伴う施術である。雅之は、梓と淑子が協力してやっと誕生した子供だ。
その雅之を、新任の保育士の不注意が原因で奪われてしまった。
「薬の服用については、朝の登園時によくお願いしておいたのに」
病気のことを話し、服用する薬剤を見せて、時間と量を説明した。だが、樹奈はそれを忘れたのだ。
「運悪く雅之は痙攣発作を起こしてしまった。そして、翌日亡くなった。不幸が重なったのだと夫は言ったわ。でも、わたしは彼女のせいとしか思えなかった」
抗議しても、樹奈は「知らない」と繰り返すだけだった。保育園側も、梓が雅之の病気について保育士に説明していなかったからだと主張した。
梓は一時期訴訟も考えた。だが立証する方法はなく、また亡くなった子供がもどってくるわけでもない。時間と手間をかけて争ったところで、虚しさが増すだけだ。
「どうせ、雅之はこの世にいない。何をしたところで、あの子は生き返るわけではないのよ」
窓から流れこんだ風に、梓は目を細めた。
「だからわたしは、何もかも忘れて、新しい人生を始めるつもりだった。今日まで夢中で仕事をしてきたわ」
けれど、と眉根を寄せた。
「あなたと話している時、ふと、あの保育士のことを思い出してしまったの」
「わたしの、昼間のバイト先の話ですね」
サンフラワー教室の母親のなかに、おそろしく物忘れのひどい母親がいて、スタッフは手を焼いている。この間も、大切な連絡物をなくしてしまい、文句を言いにやってきた。一度や二度ではない。あの母親はいつもこうだ。しかし、彼女に悪意はない。悪意がないから、困るのだ──。
「何かの時に、あなたがその人の名前を言ったのよ。名字は違うけれど、下の名前はあの保育士と同じだった。最初は、偶然と思ったわ。でも、よくある名前ではないし、もしかしてと思ったのよ」
どうしても気になり、梓は調べてみた。
「あの人は結婚して、母親になっていた。亡くなった雅之と、同じくらいの年格好の女の子を育てていたわ」
夫と娘に囲まれ、樹奈は平凡な生活を送っていた。
「他人の子供の生命を奪っているというのに、何の後ろめたさを感じることもなく」
許せない。そう思った。
「あなたの言う通り、復讐したのよ、わたしは」
梓の頬は青白く、陶器のように見えた。
「淑子さんに話したら、激怒していたわ」
復讐をする。二人でそう決めた。
一番大きなダメージを与えるのは、美有の生命を奪うことである。
「でもね、何の罪もない小さな子供を殺すなんて、やっぱり、できることではないわ」
ならば、誘拐はどうか。樹奈の家の状況を徹底的に調べて、最大限のダメージを与えるのだ。できれば家庭が崩壊するくらいの。
「すべて、計画通りにいったわ。綻びがでてくるとしたら、たぶん、あなただろうとは思っていた。だって、あの人とわたしの両方を知っているのは、この世であなただけだもの」
梓はまた、夜空を見あげた。
「月がでているわね」
まるい月が中空にかかっていた。けれどそれは、よく見ると満月ではなかった。
「あれ、何ていうか知ってる?」
梓は月を見つめながら言った。
「十四番目の月よ」
十四番目の月、と奈津子はつぶやいた。
「満月は、望月。望月の前夜にでる十四番目の月は、小望月というのよ」
不思議ね、と梓は首を傾げた。
「満月にそっくりなのに、満月じゃない。ちゃんと輝いているのにね」
光も輝きも放っている。けれど、完全に満ちていない月は、やはり満月ではないのだった。
「同じお月様なのに、まんまるの月もあれば三日月もある。みんな綺麗だわ。でも、よく似ているのに満月じゃない十四番目の月は、なんだかかわいそうね」
ふっと、梓は笑った。
「わたしは、満月には縁がなかったわ」
「わたしもです」
奈津子も小さく笑った。
「でも、満月は次の夜から欠けてしまいますから」
十四番目の月は、明日の夜、満ちる。
「欠けるのを待っているだけなんて、つまらないと思います」
「おもしろいことを言うのね」
言ってから、「さあ、いきましょうか」と梓は奈津子の方を向いた。
「どこへ?」
「警察よ」
あの、と奈津子は顔をあげた。
「いかなければならない理由は、何もないと思います」
わたしは生涯、このことは誰にも話さない。
奈津子は心のなかでつぶやいた。
ならばなぜ、このことを訊いたの。
梓の目が言った。
同じ立場なら、たぶん、わたしも同じようなことを考えたと思うから。
奈津子は夜空に目をもどした。
十四番目の月は、ひそやかに二人を見ていた。
単行本 二〇〇五年三月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成二十年三月十日刊