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プルミン
海月ルイ
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プルミン
雨上がりの公園は、静かだった。
ペパーミントグリーンの制服を着た女が、ゆっくりと歩いている。女は上着と同じ色の帽子をかぶり、肩に白い保冷バッグを掛けていた。
どんよりと曇った空は暗く、晴れ間は見えない。雨はまた降りだすに違いなく、公園を散歩する人の姿もなかった。
通りの方から、声が聞こえる。自転車を牽《ひ》いた男の子達が、ぬかるんだ土に轍《わだち》をつけながら公園にやってきた。
女を見て、一人の子供が言った。
「あ、プルミンおばちゃんだ」
乳酸飲料のプルミンの配達をするプルミンレディーの制服を知らない者はない。ペパーミントグリーンの上着とチューリップハットは、遠くからでもすぐにわかる。
プルミンレディーは男の子達の方を振り返った。といっても、サングラスをかけてマスクまでしている彼女がどこを見ているのか、誰にもわからない。
男の子達に向かって、彼女は手招きをした。子供達は小走りで傍《そば》に寄ってくる。肩に掛けていた保冷バッグの蓋《ふた》を、プルミンレディーは手袋をした手で開け始めた。子供達は期待に満ちた目でそれを見つめる。バッグからプルミンを一本取り出し、彼女は子供達の前に差し出した。
一番体躯の大きい子供が当然のように手を出して掴《つか》んだ。彼はアルミ蓋を取り去り、容器に口をつけて飲み始める。周囲の子供達は、それを羨《うらや》ましそうに見ていた。
もう一本、プルミンレディーは保冷バッグから取り出した。先を争って子供達は手を出し、掴みとろうとする。また、体躯の大きな子供がひったくるようにして掴むと、プルミンレディーはさらに保冷バッグから新しい一本を取り出した。夢中になって、子供達は手を伸ばす。
首尾よく掴みとった者はその場でアルミ蓋をはがし、一気に飲み干す。飲んでいる傍で、次の一本をまた誰かが掴みとる。何度も同じことが繰り返され、子供達は何本ものプルミンを飲んだ。
プルミンレディーはサングラスの奥から、それを見ていた。
彼女は目を瞑《つむ》る。
やがて子供は血を吐き、倒れるだろう。血しぶきが周囲に飛び散り、悶《もだ》え苦しむ。
そして、二度と目を覚ますことはない。どんなに母親がその名を呼んでも。
1
靴箱の脇には潰した段ボールやサッカーボール、泥だらけの運動靴が並んでいた。普段履きのサンダルや婦人靴なども三和土《たたき》に置かれており、まさに足の踏み場もない状態だ。
狭い玄関先に立ち、楠田亮子は唇をかたく結んだ。宇梶佐智子は眉根を寄せ、亮子を見下ろしている。
佐智子の角張った顔は顎《あご》が出ていて、下唇が歪《ゆが》んでいた。奥二重の目は垂れているが、決してやさし気には見えない。小鼻がふくらんでいるので、突き出た顎とあいまって鼻が異常に大きく見える。
「ですから、うちの雅彦はそんなことしていませんと申し上げてますでしょ。母親のわたしが言っているのですから、これほど確かなことはないじゃありませんか」
四角い顎を突き出すようにして佐智子は言った。
「雅彦の持ち物は日頃から見ていますけど、うちで買ってやったものばかりです」
もう、三十分もこうしている。佐智子は頑として亮子の言い分を聞き入れず、自分の息子は無関係だと主張した。
簡単に引き下がるわけにはいかない。これで三度目だ。息子の信宏が小学校にあがってまだ二ヶ月にもなっていない。なのにこの間、続けざまにゲーム機をなくした。問いただしたら、落としたとか、なくしたとか言うのだが、どう考えてもおかしい。よくよく事情を聞いてみると、同級生の宇梶雅彦に取り上げられたと白状した。
信宏は普段から、雅彦に文房具をしょっ中、巻き上げられている。鉛筆や消しゴムくらいなら「子供のすること」と思って黙っていたが、ゲーム機となれば話は別だ。
下校後、公園で子供達はそれぞれのゲーム機を持ち寄って遊んでいる。雅彦はいつも、他の子供が持っている玩具を力ずくで取り上げてしまうのだ。「被害者」は信宏だけではなかった。近辺に住む同級生全員が、毎日のように雅彦に玩具や雑誌や文房具を取り上げられていた。抵抗したり抗議すると、酷《ひど》い目に遭《あ》わされる。わかっているから、誰も雅彦に逆らわない。
体躯が大きく、腕力も強い雅彦は、同級生達をいいように押さえつけ、やりたい放題やっていた。雅彦には六年生の兄がいる。日頃、兄に鍛えられているからだろうが、やることも考えることも年齢のわりに悪辣《あくらつ》で、大人の想像をはるかに上回ることをやってのける。
「ともかく、ゲーム機をお返しいただけませんか」
「お言葉ですけど、ないものをどうやってお返しすればよろしいのかしら」
不愉快そうに息を吐き、佐智子は腕組みをした。
初めてゲーム機を雅彦に取られた時、「取られたのなら、返してもらってきなさい」と亮子は信宏に言ったのだった。が、信宏は目に涙を溜《た》めて「そんなことできない」と首を横に振った。亮子は、自分できちんと話をして返してもらうようにと言い聞かせた。だが、信宏は「どうしてもいやだ」と泣きだした。
二人のやり取りを見ていた夫が結局、新品を買い与えたのだが、それもまた、いつのまにかなくなっていた。気づいた亮子が信宏に問いただすと、「落とした」と言う。やはり、雅彦に巻き上げられていたのだが、真相がばれると「返してもらってきなさい」と母親に言われるから嘘をついていたのだ。信宏は数日後、遊びにやってきた姑にねだり、新品を買ってもらった。だが、またそれさえも雅彦に持っていかれてしまったのである。
雅彦にしたところで、ソフトならともかく、ゲーム機を何台も持っていても仕方がないだろうと思うのだが、他人の持っているものを取り上げることが楽しいのか、あるいは取り上げることで自身の力を誇示しているつもりなのか、目新しいものを見ると当然のようにして巻き上げていく。
ここは、雅彦の母親にきちんと抗議しなければならないと、亮子は思った。そうでなければ、これから先も同じことが繰り返される。それに、取られたら新品を買ってもらえばいいと安易に考えるようになっては、信宏のためにもならない。
自分で取り返してこいと言ったところで所詮、無理なことだ。取り返せるくらいの気力や体力があるのなら、最初からやすやすと巻き上げられたりはしないだろう。
「ともかく、うちの雅彦はそんなことしてませんので。お引き取りいただけませんか」
佐智子は亮子を見据えた。
亮子がこの街に引っ越してきたのは、去年のことである。信宏が幼稚園の年長組の時だった。途中入園させたので、亮子は未だに信宏の同級生やその母親達の顔と名前が一致しない。
だが、佐智子だけは別だった。幼稚園児の母親達のなかで、佐智子はいつも中心にいた。「派閥」を作り、子供の送迎の際には園庭や駐車場で群れ、長時間にわたって話し込むのが常だった。教諭達に促されて園を出ても、さらに喫茶店やファミリーレストランで話し続ける。
「派閥」に属している者もそうでない者も、明らかに佐智子のことを恐れていた。佐智子は順にターゲットを絞り、露骨に排斥したり、無視したり、あるいはあることないことを言い触らしたりということを繰り返していた。子供じみたことをやっているのだが、誰も佐智子に抗議する者はなく、息子同様、この母親も周囲を常に押さえつけていたのである。
引っ越してきた当初から、亮子はとくに誰と親しくなることもないまま今に至っている。自宅でピアノ教室をやっているので、近所付き合いはもちろん、クラスの母親達と深くかかわる時間的な余裕がなかったのだ。
たぶん、佐智子に堂々と文句を言いにくるのは亮子くらいのものだろう。
「ねえ、楠田さん」
目を眇《すが》め、佐智子が言った。
「何か、証拠でもあるんですか」
「証拠?」
「こんな根も葉もないことで言いがかりをつけられたんじゃ、こっちもたまりませんからねえ」
顎を突き出し、佐智子は小さく首を振った。
「お宅の信宏ちゃん、何やるのも遅くて、先生もいつも困ってらっしゃるって話ですよ。幼稚園の時から、そうでしたわよねえ」
信宏は三月生まれだった。今でも同じ学年の子供に比べると体躯が小さく、運動面では何かと遅れをとることが多い。
「クラスのなかで、やっぱり信宏ちゃんはお荷物だから」
甲高い声で笑い、佐智子は歪んだ口に手をあてた。
「そのことで信宏ちゃんが僻《ひが》むのは、これは仕方のないことだと思うんですよ。だって、子供ですものね。だけど母親がねえ、そんなことで他人に言いがかりつけに来るなんて、ちょっとおとな気ないんじゃないかしら」
わたしは何も、と言いかけた亮子を遮り、佐智子は話を続けた。
「そりゃ、子供が可愛いのはわかりますよ。誰だってそうなんだから。だけど、いい大人が子供の言うことを一々真に受けて、他人様の家に怒鳴り込むっていうのもねえ、常識的に考えてどうかと思いますけど」
「うちの子は、雅彦ちゃんにゲーム機を取られたって言っているんです」
「雅彦はそんなこと、していませんて言っているでしょ」
「なら、雅彦ちゃんと直接、お話しさせていただけませんか」
当の雅彦に覚えがないはずはなく、直接話せば、何らかのことを言うに違いない。
数日前、信宏は頬と腕に痣《あざ》を作って帰ってきた。亮子が問いただして、これも雅彦に殴られた痕《あと》なのだとようやく白状した。そのことも併せてここで話せば、雅彦も言い逃れはできまい。たとえしらばくれても、話す様子や内容に注意していれば、所詮、子供なのだから表情に出る。また、相手の母親がこうして直接出向いてきて、自分も問い詰められるという状況を経験すれば、これからの「歯止め」になるに違いない。
「雅彦ちゃんを、ここに呼んでください」
残念ですけど、と佐智子は首を傾《かし》げた。
「今、雅彦は家におりませんのよ」
「家にいない?」
すでに八時を過ぎている。習い事などに出かけている高学年児童というならともかく、小学校一年生の子供がまだ家に帰っていないというのか。
「親戚の家にいっておりますの」
明らかに嘘だった。子供用の運動靴が上がり口にある。大きさからして六年生の兄のものではなく、雅彦のものだ。
雅彦は家にいる。亮子にはわかっていた。
玄関脇の部屋から、さっきから物音が聞こえているのだ。物音は断続的にしており、人の気配が感じられた。ごと、と床や壁を叩く音は、大人のそれとは思えなかった。大人ならもう少し重量感のある音になるだろう。何よりも、大人がわざわざ床や壁を叩くはずもない。
「そんな、根拠のない思い込みで、子供を巻き込まれるのはうちも迷惑なんですけどねえ」
口元に笑みを浮かべ、佐智子は頷《うなず》いた。
ごと、と、また音がした。たぶん雅彦が、こちらの話に聞き耳をたてているのだろう。
「わたしどもの思い込みかどうかは、ご本人に聞いていただいたらわかることです。ともかく、ここに雅彦ちゃんを呼んでください」
あのねえ、と佐智子はうなじのあたりに手をやり、撫《な》でるようにした。
「だいたい、あなた、非常識じゃございませんこと? こんな時間に」
「非常識?」
「迷惑なんですよ。こんな時間にやってこられると」
夕食後をみはからってやってきたのだ。食事やその準備に追われている時間帯ではない。「非常識」と言われるのは心外だ。
「雅彦をだせっておっしゃるけれど、それならなぜ、信宏ちゃんを連れていらっしゃらないの」
それは、と亮子は気色《けしき》ばんだ。
気の弱い信宏は、雅彦を前にすればその気迫に押され、本当のことが言えなくなってしまう。取られたものも取られていないと言うのはわかっていた。
「今回が初めてじゃないんです。お願いしますから、雅彦ちゃんを呼んでいただけませんか」
「しつこいわね、あなたも」
佐智子が声を荒らげた。
「知らないものは知らないって言ってるんだから、いいかげんにしなさいよ」
唾《つば》を飛ばして佐智子が怒鳴りつけた時、鈍い音がした。やはり、玄関の脇の部屋からだ。さっきよりもかなり大きい音だった。さすがに佐智子も言葉を切って、首を傾げた。
どさり、と音がした。重いものが落ちたような音だ。佐智子は部屋の方を振り返った。
「ちょっと、失礼」
言いながらあとずさり、佐智子は脇の部屋のドアのノブに手をかけた。亮子の立っている上がり口から部屋の中は見えない。だから、ドアを開けても大丈夫だと思ったのだろう。佐智子は素早くドアを開け、部屋に入っていった。
亮子は小さく息を吐き、天井を見上げた。その時、悲鳴があがった。玄関脇の部屋からだ。
「宇梶さん、どうされたんですか」
上がり口に身を乗り出し、亮子は声をかけた。
「雅彦」
佐智子の泣き叫ぶ声がしている。
「ねえ、宇梶さん、どうされたんですか」
「雅彦、雅彦」
悲鳴のような声で、佐智子は雅彦の名を呼び続けていた。
「宇梶さん、ねえ、宇梶さん」
亮子が怒鳴っても、佐智子は泣き叫ぶばかりだ。
「あがりますよ」
靴を脱ぎ、亮子は玄関を上がった。ドアを開けた途端、息を呑《の》んだ。
狭い部屋の真中で、佐智子が雅彦を抱きかかえていた。雅彦は黄色いTシャツを着ていたが、色がわかるのは袖や腋《わき》のあたりだけだった。首から下は赤黒く汚れており、まるで赤味がかった泥をぶちまけたようだ。周囲のカーペットも同じ色に染まっており、溜まった血が蛍光灯の光を鈍く反射していた。
「宇梶さん」
ドアの前で立ち尽くした亮子が声をかけた時、抱きかかえられていた雅彦が全身を反らせた。首筋がこわばり、手足が硬直し始める。喉《のど》から絞りだすような唸り声をあげ、雅彦は赤黒い血を吐いた。
「雅彦」
泣き叫びながらも、吐瀉《としや》物が雅彦の顔にかからないように、佐智子は彼の顔を横に向けさせている。
雅彦の顔は血と汚物にまみれていた。目を閉じているが、苦痛に歪んだ顔はまるで老人のようだった。こめかみの薄青い血管が、皮膚の下に芋虫でも這《は》っているかのように、くっきりと浮かびあがっている。
食い縛った歯の間から血が滲《にじ》んでいた。だが、歯茎や歯の表面は血をはじき、赤く染まることはなかった。こぼれた血は雅彦の頬と顎を濡らし、佐智子のベージュのシャツブラウスの色を変えていった。佐智子の手は血だらけで、顔には飛び散った飛沫の痕がある。
突然、雅彦が奇声をあげた。犬の悲鳴のような声をだし、口を大きく開けている。閉じていた目が開かれたが、白目を剥《む》いており、顎が小刻みに震えていた。全身はこわばったままで、手足が痙攣《けいれん》している。咄嗟《とつさ》に駆け寄り、亮子は手に持っていたハンカチを雅彦の口に入れた。
「救急車を呼びましょう」
声をかけても、佐智子は雅彦を抱きかかえたまま肩を震わせ、動かなかった。
見回すと、六畳ほどの部屋には学習机が二つ並んでいた。周囲には学習雑誌の付録やグッズが雑然と置かれ、床にはゲーム機やソフトなどが散乱していた。それでなくても狭い部屋で、雅彦を抱いた佐智子が座っていると身動きもできないくらいだった。
「宇梶さん、一一九番します。電話、どこですか」
言いながら、亮子は立ち上がった。その時、雅彦の足のあたりに、白い容器が落ちているのに気づいた。白地に赤で「プルミン」と印刷されたそれは、普段から見慣れた乳酸飲料の容器だった。
2
廊下の長椅子に座っているのは、佐智子だけだ。まだ、九時を過ぎたばかりだが病院内は消灯となっており、廊下の向こう側は薄暗い。
連絡はついたものの、夫が都内から到着するにはもう少しかかるだろう。
家に救急車が到着した時、雅彦はもう動かなかった。救急隊員は雅彦の脈をとり、状態を確かめていた。
救急車で搬送された雅彦は、処置室に担ぎこまれた。佐智子は中に入ることを許されず、廊下で待たされている。救急車に乗り込む時、楠田亮子が一緒についていこうかと言ったが、佐智子は断った。
亮子は佐智子や雅彦に対して悪意を持っている。雅彦が苦しんでいる様子や、自分が動揺しているところをそれ以上、見られたくなかったのだ。
さっき、処置室からでてきた看護師に「子供さんは何か、変わったものを食べたりなさいませんでしたか」と訊《き》かれた。
夕食はハンバーグと味噌汁とサラダだった。夫は遅くなると聞いていたから、雅彦と忠彦と三人で六時半頃に食べた。六年生の忠彦は塾があるので、七時半からの授業に間に合うように、少し早目に仕度をしたのだ。
同じものを佐智子も食べている。今、佐智子の体調は何ともない。夕食後、塾にでかけていった忠彦もとくに何もなかった。もし、何かあったのなら、塾から連絡が入っているはずだ。
佐智子がそう言うと、五十過ぎの看護師は深く眉根を寄せた。
「お兄ちゃんもお母さんも別段、何も症状はないのですね」
「はい」
日頃から忠彦には鍵を持たせてある。忠彦は今頃、家で待っているはずだ。救急車に乗る前に、隣家に事情を説明して出てきたので、そちらからだいたいのことは聞くだろう。
「それで、雅彦の様子はどうなんでしょうか」
「まだ、確認されたわけではありませんが、何らかの中毒症状かも知れないと先生がおっしゃっていて。それで、患者さんが食べたものを確認してほしいということでして」
「食中毒ということですか」
「それは、まだわかりません」
「夕食では、あの子と同じものをわたしも食べているんですよ」
「何か、誤飲されたということはないでしょうか」
「誤飲?」
看護師は頷いた。
「子供さんの場合、洗剤とか殺虫剤とか、家庭内での誤飲事故はよくあることなんですよ」
雅彦は小学校一年生だ。洗剤や殺虫剤を無意識に口に入れるような年齢ではない。首を振り、佐智子は俯《うつむ》いたが、ふと、部屋に救急隊員がやってきた時のことを思い出した。
救急隊員二人は、血溜まりを踏まないようにして大股に歩いていた。その足元に、プルミンの空容器が転がっていたのを佐智子は見た。
今日、佐智子はプルミンを買っていない。だから、佐智子が雅彦に与えたものではない。昨日も一昨日《おととい》もそうだ。しかし、あんなものは子供の小遣いで買えるものなのだから、雅彦が自分で買ってきたのかも知れない。
数ヶ月前、五本パックで安売りしているプルミンを、スーパーでまとめて買った。だが子供というものは極端で、甘い乳酸飲料をやたら喜んで飲んでいたかと思うと、すぐに飽きてしまっていつのまにか飲まなくなる。そしてまた、忘れた頃に飲みたがるというのが常で、そういえば、最近はプルミンを買ってくることがなかった。
「あの、雅彦は、何か変なものを、食べるか飲むかしたんでしょうか」
「患者さんが吐かれたものを検査してみないと、詳しいことはわかりません」
そうですか、と佐智子は肩を落とした。
「もう少し、お待ちください」
看護師はまた、処置室にもどっていった。それきり、佐智子は廊下で待たされたままだ。
廊下の空気はひんやりとしていて、人の気配はない。物音もなく、磨かれた床が濡れたように光っている。
雅彦は今、あのドアの向こう側で、どんな治療を施されているのだろうか。痛いとか苦しいとか、泣き喚《わめ》く声も聞こえない。そのことが、よけいに佐智子を不安にさせる。
佐智子が子供部屋に入った時、雅彦は吐血と痙攣を繰り返すばかりだった。救急車に乗せられてからはほとんど意識はなく、言葉を発することもできない状態だった。
「宇梶さん」
処置室のドアが開き、若い看護師が出てきた。
「お入りください」
佐智子は「はい」と返事した。立ち上がったものの、足が床に着いている感覚がなかった。腰から下が宙に浮いているような気がする。こめかみのあたりに冷や汗が滲んでおり、そのせいで首がひどく冷たく感じられた。佐智子は唾を飲み込み、処置室に入った。
「雅彦」
ベッドで雅彦は眠っていた。顔をあげ、佐智子は傍《かたわ》らに立つ医師を見た。
「先生」
三十半ばの医師は、はずした聴診器の先を胸ポケットに入れている。医師の横に看護師が二人立っていた。一人は今、佐智子を呼びにきた若い看護師だ。もう一人はさっき、雅彦の食べたものを確認にきた看護師だった。親子ほど年齢の違う二人の看護師は、申し合わせたように躯《からだ》の前で両手を握り、雅彦を見ている。佐智子は看護師の顔を順に見た。誰も何も言わない。
「あの、雅彦は」
若い看護師が目を伏せた。顔をあげ、医師が言った。
「ご臨終です」
え、と佐智子は首を傾げた。
「今、なんて」
「ご臨終です」
ゆっくりとベッドまで歩き、佐智子は膝をついた。
雅彦は目を瞑っている。顔をさわると、前髪がふわりと揺れた。顔と頭を両手で撫でてみた。頬が、佐智子の手のひらにやわらかな感触をかえしてくる。
なんだ、と佐智子は小さく笑った。雅彦の睫毛《まつげ》は、盛り上がった頬の肉のせいでいつものように目尻だけが上がっている。少し厚目の唇も、眠る時の癖で開き気味だ。普段と何も変わらない。
顎を引いて、佐智子は立ち上がった。
「違います」
静まりかえった処置室に、佐智子の声が響いた。
「この子、生きてます」
若い看護師が目を見開いた。
「生きてるんですよ、雅彦は」
言いながら、佐智子は医師に向かって歩いていった。
「だから早く、診《み》てやってください」
医師はあとずさった。
「お願いします、先生」
佐智子は医師の白衣の前を両手で掴んだ。医師は佐智子から顔を背《そむ》けている。
「早く治療してください、お願いします」
年配の看護師が駆け寄り、佐智子の腕に手をやった。若い看護師も駆け寄ってくる。
「先生、治してやってください」
「お気の毒ですが」
佐智子の腕を捕まえて、年配の看護師が言った。
「もう、先生は治療を終えられたんですよ」
「この子、治してやってください、先生」
二人の看護師に抱きかかえられながら、佐智子は金切り声をあげた。
「お願いします」
佐智子の腕を振り切り、医師は黙ってドアの方へ歩いていく。
「先生、この子、眠っているだけなんです」
絶叫する佐智子の声が聞こえていないかのように、医師はドアのノブを握っている。
「落ち着いてください」
看護師達は、医師を追いかけようとする佐智子を押さえつけた。
「生きてるんですよ、本当に」
ドアを開けた医師の背中に向かって、佐智子は声をあげた。
「だから、お願いします。治療をしてください」
「ちょっと、ここに座りましょうか」
ね、と言って、年配の看護師が佐智子の背中を撫でた。佐智子は看護師の腕に縋《すが》るようにして言った。
「先生に、戻ってきてくださるようにお願いしてください」
傍にあった椅子に佐智子を座らせ、年配の看護師は前に立った。
「先生は、やれるだけの治療はしてくださったんですよ」
唇を半開きにして、佐智子は看護師の目を見た。
「手を尽くしてくださったんです」
看護師は静かに言った。
「九時二十一分でした」
瞬間、佐智子の号泣する声が処置室に響いた。
3
宇梶雅彦が死んだ。
新聞には「小学生死亡、乳酸飲料に農薬混入か」と大きな見出しの文字が躍っている。
内藤奈津江は、食卓に置かれた新聞をもう一度見つめた。
入学してまもない頃だった。
公園から帰ってきた息子の孝は、歩き方がおかしかった。
「どうしたの」
奈津江が訊いても孝は顔をあげようとしない。一歩踏み出す度に、足腰のどこかを庇《かば》うようなぎこちなさがある。背中を曲げている姿は、痛みを堪《こら》えているようにも見えた。
「怪我でもしたの」
「なんでもない」
小学校にあがってからというもの、孝は顔や手足に痣を作って帰ってくることが頻繁になった。原因はわかっている。雅彦だ。
「ちょっと、見せてごらんなさい」
「なんでもないったら」
キッチンから声をかける奈津江を無視して、孝は足早にリビングを通り過ぎようとした。
「待ちなさい」
駆け寄り、奈津江は孝の腕を掴んだ。
「なんでもないったら」
奈津江の腕を振りほどこうとして、孝は抵抗した。
いつも孝は、雅彦にどんなに酷いことをされても、そのことを話そうとはしなかった。告げ口をしたらもっと酷い報復が待っているからだ。
幼稚園の頃から、孝は何度も雅彦に殴られて怪我をさせられている。持っている玩具を取り上げられたりということもしょっ中で、集めていたシールやカードなど、どれだけ雅彦に巻き上げられたことかわからない。
「被害」に遭っているのは孝だけではなかった。おそらく、近所に住む子供達のほとんどが、雅彦に玩具や文房具を取り上げられたり、殴られたりしているはずだ。
幼稚園の年少組の時から一緒だが、体躯が大きく、悪知恵も働く雅彦は、いつも周囲の子供達を腕力で押さえつけていた。小学生になってからは、ゲーム機やソフトなど金目のものを同級生達から取り上げるようになり、取り上げ方もさらに強引で乱暴になっていった。
雅彦に目をつけられたら、どんな高価な玩具でも素直に差し出すしかない。そうしないと、無茶苦茶に殴りつけられる。子供達は皆、雅彦の腕力や悪賢《わるがしこ》さに恐れをなしていて、誰も文句を言わない。
その構図は母親達の世界でもまったく同じだった。雅彦の母佐智子は、強引で陰険な女だった。他の母親達を自身の配下のようにして扱い、ターゲットをさだめては排斥したり、あるいは、あることないこと噂をたてて追い込んでいく。
だが、表立って抗議する者はいない。どんな仕返しをされるかわからないからだ。佐智子のやり方が陰湿で、しかも執拗なことを皆知っている。下手にかかわってターゲットにされるのはたまらない。そう思っているから、誰も何も言わない。
「まっすぐ立ってごらんなさい、孝」
「やだ」
孝は奈津江の腕を振りほどこうとして抵抗を続けている。
「足を見るだけよ、じっとしなさい」
嫌がる孝を無理矢理押さえつけ、奈津江は足に目をやった。孝は黒のハーフパンツを穿《は》いていた。ハーフパンツの丈は膝下あたりまである。
見たところ、傷はなかった。しかし、奈津江は孝の躯を放さなかった。孝の目は怯《おび》えている。こんな目をして奈津江を見る時、孝は必ず何か隠しごとをしている。しかもそれは、ここのところ、必ずといっていいくらい雅彦が絡んでいた。
雅彦は普通の子供ではない。彼の行動を、普通の子供のやることを基準に考えるのは大間違いだと、奈津江は知っている。
だが、どんなに雅彦が悪辣なことをやっても、母親の佐智子は絶対に認めない。これは有名な話だった。それどころか、「言いがかりをつけられた」とか「証拠をだせ」と言って、猛然と反撃してくるという。
年長組の頃、雅彦に石を投げられた子供がいた。石は口にあたり、歯が折れたという。その子の母親は、歯科医院の帰りに佐智子のところに抗議にいったらしい。だが、佐智子は「うちの子がそんなことをするはずがない」と言って、頑として譲らなかった。
「うちの子がやったという確かな証拠があるのでしょうか」
顔色一つ変えずに佐智子は言い、「なんでしたら、警察に訴えでて調べていただいたらいかがですか」とその母親に詰め寄ったという。
「やった、やらない、とここで言っていても始まりませんからね。ただし、うちの子がやったという証拠がでてこなかった場合、うちもここまで言いがかりをつけられて恥をかかされたんですから、告訴くらい考えませんとね」
子供が石を投げられたのは、近所の公園だった。見ていた大人はいない。周囲にいたという子供に事情を訊いたところで、雅彦の前に連れていかれたら怯えて本当のことは言わないにきまっている。佐智子はそれらをわかったうえで、「証拠を見せろ」と言ったのである。
佐智子の強引な物言いと気迫に押された母親は、何も言えずに帰ってきたということだ。
「孝、膝の後ろを見せてごらん」
「いやだよう」
孝は手足をばたつかせた。奈津江は暴れる孝を抱きかかえようとして、躯を押さえつけた。その時、濡れたような感触を手に感じた。
ハーフパンツは綿の生地なので、汗をよく吸収する。四月は、冬に逆戻りしたかと思うほど冷え込む日もあれば、夏日のような陽気の日もある。暑い日は、子供達は全身に汗をかきながら帰ってくるので、着ているものも絞れるほどの汗を吸っている。
だが今、手に触れた感触は、汗を吸った時のそれとは違っていた。ある一箇所だけが濡れていたのである。汗なら広範囲に染み込んでいるはずだ。
奈津江は自身の手を見てみた。薄く、茶色に染まっている。
「孝」
腰を押さえつけ、奈津江は孝のハーフパンツを下げた。途端に、血だらけの下着が目に入った。奈津江はあわてて、下着の血の場所を確認した。臀部だけが、血に染まっている。
「どうしたの、これ」
言いながら、奈津江は孝の顔を見た。その途端、孝が号泣した。
その後、孝はしばらく泣き続けた。奈津江が孝の話を聞きだすことができたのは、一時間ほど後のことである。
泣きじゃくりながら、途切れ途切れに話すので、順序が前後したりしたが、要約すると孝の話は次のようなものだった。
昨日、雅彦に新しいゲームソフトを持ってくるように言われた。だが、孝が今日、持っていかなかったため、雅彦はたいそう怒った。
公園で、怯える孝を殴りつけ、ハーフパンツと下着を脱がせた。そしてあろうことか雅彦は、孝の肛門に石を詰めこんだのだという。
「誰か、見ていた人はいなかったの」
孝は首を横に振った。
植え込みの後ろでやられたのだと、孝は力のない声で言った。今日は一緒に遊んでいた子供もいなかったという。
仰天した奈津江は、雅彦の家に電話をした。
「いつもお宅の雅彦ちゃんには、よく乱暴されてるんです。今日だけじゃないんです」
「雅彦はそんなことしませんよ。おかしなことを言わないでください」
「今日はとくに酷かったんです」
だから電話をしたのだと、奈津江はできるだけ冷静に話した。だが、母親の佐智子は「うちの子はそんなことしていない」と頑強に言い張った。
「血が出てるんですよ」
「どこから」
一瞬、言葉に詰まったが、奈津江は受話器を持ち直して言った。
「お尻からです。肛門から出血しているんですよ」
まあ、と佐智子は息を漏らした。が、それが奈津江には、笑い声のように聞こえた。
「なんでしたら、警察にでも訴えられたらいかがですか。うちの子がやったという証拠があるのでしたら、どうぞ、警察でも裁判所でも訴えてくださいよ」
訴えてやろうと思った。
その日、遅くに帰宅した夫の昭に奈津江は事情を話した。昭は黙って聞いていたが、警察沙汰はやめろと言った。
「訴えたところで無駄だろう」
「どうして。これだけのことをやられているのよ」
「相手の母親が言うように、その宇梶雅彦という子供がやったという証拠はあるのか」
それは、と奈津江は口ごもった。
孝の話では、見ていた同級生などもいないらしいし、現場を通りかかった大人もいなかった。物的証拠でもあるのかといえば、何もない。
「小学校一年生の子供が相手なんだぞ。よほどの証拠でもないかぎり、警察は動かない。年端《としは》もいかない子供相手に『冤罪《えんざい》事件』でも起こしたら、大変なことになるからな」
警察も、証拠のない話を真剣に取り合ってくれるものか、と昭は言った。
「わたしは訴えるわ。取り合ってもらえるかどうか、やってみなければわからないもの」
やめろ、と昭はため息を漏らした。
「訴えれば、世間の注目を集めることになるんだぞ。それがどういうことか、おまえはわかって言っているのか」
奈津江は昭の方を見た。昭は眉間に指を置き、小さく首を振っている。
「おまえも俺も、近所や職場で好奇の目で見られる」
そんなことくらい、と言いかけた奈津江を昭は手で制した。
「一番かわいそうなのは、孝だ」
考えてみろ、と昭は顔をあげた。
「この手のことはな、おもしろおかしく人は言うもんだ、大人でも子供でも。今は小学校一年生だが、いずれ孝も高学年になり、中学生になる」
「だから何なの」
「話が公《おおやけ》になってみろ、皆が知るところとなる。孝はこれから思春期を迎えるんだよ。荷が重過ぎるとは思わないか」
「でも、こんな酷いことをされて、それで黙っているなんて」
「おまえが騒いだら、よけいに酷いことになる」
「じゃ、せめて担任の先生に相談するわ」
「相談してどうなる」
腕組みをして、昭は眉間に皺《しわ》を寄せた。
「あっちの母親は、うちの子はやってないと言い張ってるんだろう。担任教師が間に入ったところで、たぶん、事態は変わらないさ」
奈津江は、クラスの担任教師の顔を思い浮かべた。
二年前に大学を出たばかりだという女教師は、小柄で、まだ学生のように見えた。いつも短いスカートを穿いていて、校舎の外ではミュールをひっかけ、グラウンドに細い踵《かかと》の穴を開けながら歩いていた。茶色く染めた髪をきらきら光るピンでアップにしており、毛先は花火のように放射状にひろがっていて、遠くから見ると鳥のようだった。入学式でも就学説明会でも、元気に明るく「おはようございます」と笑顔を振りまく様子が、なんだかファーストフード店の店員のようだったのを覚えている。
「このことは、誰にも言うな」
でも、と奈津江は言ったが、昭は話を続けた。
「話が外部に漏れたり、長引くことの方が、孝にとっては苦痛が大きいんだよ」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
昭は息を吐いた。
「何も言うんじゃない」
この話は本人の前では二度とするなと、昭は念を押した。
奈津江が警察にも学校にも訴えなかったのは、孝がこれ以上、傷つくことを恐れたからである。
だが、その数日後、奈津江は信じられないことを近所の主婦から聞かされた。
主婦はブロックの組長で、会社員の夫は「町内防犯部連絡係」という肩書きを町内会で持たされていた。最近、とみに増えてきた空き巣狙いや車上荒らしなどの対策のために設けられた係である。防犯部連絡係といっても、この手の事件が起こると関係者に事情を訊きにいき、被害状況や手口についてまとめて、回覧板で各組にまわすというだけの仕事だ。要するに、住民の防犯意識を高めるのが仕事なのだが、五十半ばの組長夫婦はこの役割をいつも誠実にこなしていた。
「お宅の孝君、この間、公園で変質者に襲われたんですって?」
何のことかわからずに首を傾げている奈津江に、組長は言った。
「お尻から血が出て、えらいことになっているって話じゃないの」
奈津江は驚きのために言葉もでない。
「警察には届けなかったんですか」
「いえ、あの」
「よけいなお世話と思われるかも知れないけど、孝君、相手の顔を見てるんなら、なるべく警察でちゃんとした記録をとっといてもらった方がいいと思うんですよ。これからのこともありますしね」
「あの、そんなことないんですよ」
「え?」
「何かの間違いじゃないでしょうか。孝が襲われたなんて、いったい誰からお聞きになったんですか」
組長は怪訝《けげん》そうな顔をして、黙った。
「そんなでたらめ、誰が言っていたんでしょうか」
「誰がって、あなた、このあたりの人はみんな、言ってますよ」
「みんな?」
「だから、わたしがこうしてここへ来てるわけですから」
佐智子だ。それ以外ありえない。
こめかみのあたりに、痺《しび》れたような痛みが走った。
「皆さんが、そのようなことをおっしゃっているということでしょうか」
つとめて冷静に、奈津江は話した。
「まあ、皆さんていうとあれですけどねえ、この町内の方はほとんどご存知なんじゃないですかねえ。とくに、小中学生の子供さんのいらっしゃるおうちはご心配されますでしょ。他人事じゃないですから」
町内のほとんどの家には就学年齢の子供がいる。つまりは、ほとんどの家で、この話が語られているということだ。
「そんなことでね、一度、防犯部の方から事情をお伺いしておかなければということでして、お宅にあがったんですよ」
意図的に、佐智子はこの話を流したのだ。奈津江は頭の奥が急速に冷えていくのを感じた。
「まあ、それはご苦労様でございます」
にこやかに奈津江は言った。
「どこからそういう話になったのかよくわかりませんが、それは、うちの孝のことではありません。何かの間違いじゃないでしょうか。そんなことがあったなら、すぐに警察に届けてますわ」
口に手をあてて、奈津江は笑った。主婦もつられて一緒に笑った。
「そうよねえ。こんなこと、町内会の防犯部に何言ったって始まる話じゃあるまいしねえ。ごめんなさいね、奥さん」
組長はそう言って帰っていった。
奈津江は食卓でひろげた新聞を、もう一度読み直した。
「現在のところ、雅彦君は自宅で乳酸飲料を飲んで倒れたと見られている。乳酸飲料の容器の残留物から農薬が検出されており、容器のアルミ蓋には、注射針様のものが刺された痕跡があった。針の穴は接着剤でかためてあり、一見したところわからないように細工されていた」
記事に掲載されているのはそこまでである。雅彦が、あるいは家人が、どこでこの乳酸飲料を買ったのか、何も書かれていない。雅彦の亡くなったのは二日前だが、記事は今日の夕刊に掲載されていた。たぶん、雅彦の吐いた内容物を検査していたのだろう。
奈津江は時計を見上げた。いつもなら、とっくに夕食の準備を始めていなければならない時間だ。孝は宿題もやらずに、居間でテレビを見ている。
「お母さん、お腹減った」
見ていたアニメがコマーシャルになった途端、孝はキッチンにやってきた。奈津江は立ち上がり、冷蔵庫からプレーンヨーグルトを取り出した。
「いちごのジャム、かけていい?」
「いいわよ」
孝は奈津江の脇から潜り込むようにして、冷蔵庫に手を伸ばした。
「ジャムにはこっちのスプーンを使ってね。ヨーグルトのついたスプーンを使っちゃだめよ」
「うん」
ジャムの瓶を持ち、孝は奈津江が食卓に置いたスプーンに手をやった。が、ほんの少し、手の位置がずれる。
一週間ほど前、孝は雅彦に殴られ、目の縁を切った。幸い、眼球は無事だったが、まだ眼帯をしている。膝の下あたりに、枯れかけの花のような茶色い痣があるが、これもその時、雅彦に蹴られた痕だ。
眼帯がまだとれない孝は片目でものを見ている。だから時々、目の前の対象物の位置や距離がわからず、微妙に動作がずれるのだ。
たたんだ新聞を置き、奈津江は孝を見た。
「目の横、まだ痛い?」
首を横に振り、孝はスプーンを口に運ぶ。そう、と奈津江は小さく頷いた。
「お母さん」
孝が顔をあげた。
「バナナ食べていい?」
「いいわよ」
椅子から降り、孝はキッチンに置いてあったバナナを一房ごと持ってきた。
奈津江が住んでいるのは、私鉄が開発した新興住宅街である。「希望が丘」と名づけられたこの町は、十五年ほど前から山を切り開き、建売住宅を中心に分譲されてきた。都内へは最寄の駅から急行で一時間余という距離で、都心に通うサラリーマンのベッドタウンである。
駅前やその周辺は昔からの商店街や家並みがあり、少しはずれると田園風景もたくさん残っているという土地柄である。駅前は、昔はそれなりに賑やかだったようだが、現在は線路をはさんで反対側、つまり、新興住宅街の方が「駅前」として開発されており、数年前からロータリーが整備されて、スーパーやコンビニが建ち始めている。
一方、反対側の「駅前」の商店街はさびれる一方で、八百屋と魚屋は去年、店をたたんだ。残っているのはスナックや居酒屋の類で、これらは今でも需要があるらしい。もちろん、店に立ち寄るのは、古くからの町の人間と、都内から電車で帰り着いたサラリーマンで、つまり、新興住宅街の住民の男達である。
希望が丘に住む女達が駅の向こう側にいくことは稀《まれ》で、車ならわずか四、五分という距離であるのにもかかわらず、町の様子についてはほとんど知らない者も多い。スーパーも銀行も郵便局も、すべては希望が丘の中にあり、わざわざ外に出る必要もないからだ。希望が丘に住む女達は、都内に通勤でもしている者を除いては、めったに団地の外に出ることもないまま、日々を送っている。
団地の中は、どこまで歩いても似たような家並みが続き、目印になる建物も通りもない。同じ大きさの区画に、同じような間取りで、似たような色や形をした屋根や窓の家が並んでいるので、一度迷ったらわけがわからなくなる。
団地内では、家の大きさや間取りもさることながら、世帯の家族構成もほとんど同じだ。初期の頃に開発された地域には定年を迎える前後の夫婦も多いが、六年前に分譲されたこのあたりの区域には、まず間違いなく小中学生の子供がいる。しかも、一世帯の子供の数は、申し合わせたように一人か二人ときまっており、めったにそれ以上はいない。
団地内の子供達は団地内の幼稚園に通い、やはり団地内の小学校にあがる。中学校も団地内にあり、引っ越しをしたり、私立に入学するという一部の例外を除いては、高校進学まで十年以上、顔ぶれは変わらない。
子供達の人間関係は三歳から十五歳まで固定され、それはそのまま母親達の関係にも反映される。
人と人との関係というものは、適当に距離や入れ替わりがないと息が詰まる。もともとよい関係であったものでもそうなのだ。当事者の意思や思惑とは関係なく無作為に集まった他人の集団ならなおさらである。だが、ここに住んでいる以上、当地の人間関係を無視するわけにはいかない。家の外はもちろん、家の中にいても、周囲の目を無視するわけにはいかないのだ。
今日、孝が帰宅した時、奈津江は学校の様子を問いただした。
「クラスで欠席した人、いた?」
ランドセルを背負ったまま、孝は頷いた。
「宇梶君と先生」
「先生? 担任の黒川先生?」
うん、と言って孝は鼻の頭の汗を手の甲で拭《ぬぐ》った。
「黒川先生は病院にいったんだって。宇梶君が死んだから」
拍子抜けするくらい簡単に、孝は話した。
「宇梶君は昨日も来なかったよ。一昨日《おととい》死んだんだって」
「誰がそんなことを言ったの」
「隣のクラスの先生が言ってた」
孝は黄色い通学帽を脱いだ。
「でもまだ、お葬式できないんだって」
え、と言って、奈津江は冷蔵庫の横のカレンダーを見た。翌日は大安だ。
「なんで、お葬式できないの」
「宇梶君は、病院でケンサがあるんだって」
「検査?」
「先生がそう言ってた」
「宇梶君は亡くなったんでしょう。どうして検査するの」
「わかんないけど、やっぱりお医者さんが宇梶君をケンサするんだって」
検査というのは解剖のことなのだろう。
二日前、雅彦が救急車で病院に搬送されたということは、団地内ですでに知れ渡っていた。亡くなったことは、その翌日の夕方、団地内のスーパーに行った時、近所の主婦から聞いた。
「それでね、学校からみんなでお葬式に行くんだって。宇梶君が天国に行くのをみんなでお見送りするんですよって、先生が言ってた」
運動会か遠足の予定でも話すように、孝は話した。
4
雅彦が血を吐いて悶えていた光景を、亮子は忘れることができない。
赤黒い血にまみれ、老人が咳き込んだ時のような声をだし、雅彦は全身を震わせていた。佐智子は泣き叫び、雅彦は血を吐き続け、亮子は躯が凍りついたように動けなくなった。
救急車を呼んだのは亮子だった。病院に搬送されたが、雅彦はまもなく息を引き取ったという。亮子は、雅彦の兄忠彦からそのことを聞いた。
佐智子達が救急車に乗った時、忠彦は塾に行っていて留守だった。佐智子は隣家の主婦にそのことを言付《ことづ》けて病院に向かったが、心配になった亮子は出直して、忠彦が家にいることを確認しにいった。
忠彦は六年生なので家の鍵は持たされており、自宅に帰っていた。夜遅く、突然訪ねてきた亮子に、忠彦は不思議そうな顔をしたが、別段、訝《いぶか》りもしなかった。
「雅彦ちゃんがね、急に病気になって、さっき、救急車で病院に行ったのよ」
忠彦は頷き、亮子の目を見た。やはり、雅彦とよく似た面差《おもざ》しがある。まるい鼻や奥二重の目、角張った顎などそっくりだ。それは、佐智子の面差しでもあった。
「お母さんは、雅彦ちゃんに付き添って、救急車に乗っていったのよ。だから、しばらく病院から帰れないと思うわ」
「はい、わかりました」
明瞭な言葉で、忠彦は答えた。さすがに六年生ともなれば、受け答えはしっかりしている。身長も亮子と肩を並べるくらいあり、表情には、稚《おさな》さと同時に、動揺を気取られまいとする緊張感が漂っていた。
「心配しないでいいからね。お母さんから電話あった?」
「ありません」
「お父さんからは?」
「ありません」
たぶん、父親には佐智子から連絡がいっているだろう。
「うちのお母さんは、どこの病院に行っているんですか」
それは、と亮子は口ごもった。
「たぶん、市民病院じゃないかしら」
ここから近くて、設備も整っている病院といえば、市民病院だろう。
「お母さんは何時にもどってこられるかわからないけれど、何かあったらうちに電話してきてね。何時でもかまわないから」
亮子は電話番号を書いた紙を渡し、また自宅にもどったのだった。
その夜、佐智子からは連絡がなかった。が、忠彦からは電話がかかってきた。十時頃だった。
「弟が死んだって、今、お母さんから電話がかかってきました」
忠彦は言った。声変わりしていない忠彦の声は女の子が喋っているようにも聞こえた。けれど、ひどく乾いたような声だった。
「今、なんて、なんて言ったの、忠彦君」
「弟が、死にました」
そんな、と亮子は受話器を持ったまま、息を吐いた。
たしかに、部屋で見た時、雅彦は尋常な状態ではなかった。だが、こんなに簡単に死んでしまうとは予想もしていなかった。
「それで、お母さんはなんて」
「もうすぐ帰るから、家で待っていなさいって」
忠彦の声は、語尾が震えていた。何が起こったのか、よくわからなかったところに突然、弟が死んだという結論だけを突きつけられて、どう反応していいのか、自分でもわからないのだろう。
亮子は、忠彦が一人で待つ家に駆けつけてやるべきかどうか迷った。だが、忠彦の話では、佐智子がまもなく帰ってくるということだし、自分が行くのも「余計なお世話」かも知れない。救急車に乗る時でさえ、佐智子は「結構です。来ないで」と亮子を睨《にら》みつけて言ったのだ。
「わかったわ、忠彦君。何かお手伝いすることがあったら行きますからって、お母さんに伝えておいてね」
そう言って、亮子は受話器を置いた。
翌朝、宇梶家を訪ねてみたが、留守だった。
隣家の主婦の話では、昨夜遅く、佐智子は夫とともにもどってきたのだが、寝台仕様の車は到着していないという。その後、数人の男がやってきたらしい。皆、背広を着ていたが、たいそう人相の悪い連中だったと、主婦は眉をひそめた。
朝方、佐智子夫婦は忠彦を伴って出て行ったという。行く先は聞いていないと、隣家の主婦は言った。
雅彦が亡くなった話は、朝のうちに近辺に知れ渡った。だが、死因について知る者はいなかった。
その翌日、つまり今日のテレビのニュースで、「宇梶雅彦が農薬の混入したらしい乳酸飲料を飲んで死んだ」と報道された。佐智子の帰宅時に「寝台仕様の車を伴っていなかった」という隣家の主婦の話も合点がいく。
子供が農薬入りの飲み物を飲んで死んだのだ。病院は変死として警察に届けるだろう。連絡を受けた警察も、事件、事故の両面で捜査をするに違いない。おそらく、解剖や検屍などのために、雅彦の遺体は病院に置かれていたのだ。自宅に帰されるはずがない。
雅彦が飲んだのは乳酸飲料だと、ニュースでは言っていた。乳酸飲料の空容器から残留した農薬が発見されたのだということも報道されていた。しかも、アルミ蓋には注射針の痕があり、接着剤でかためられていたという。
床に転がっていたプルミンの空容器のことを、亮子は思い出した。状況から考えて、おそらく、あのプルミンを飲んで、雅彦は倒れたのだろう。
亮子は軽く首を振り、キッチンに立った。ピアノ教室の生徒は夕方四時になると順にやってくる。七時か、場合によっては八時頃までレッスンがあるので、今しか仕度できる余裕はないのだ。
冷蔵庫から野菜を取り出した時、チャイムが鳴った。ドアスコープで見ると、ランドセルを背負った信宏が立っていた。エプロンで手を拭いて、亮子はドアの鍵を開けた。
「ただいま」
「お帰り」
ドアを閉めながら、亮子は信宏に言った。
「今日、宇梶雅彦君のこと、先生何か言ってた?」
「あのね、一昨日、病院で宇梶君は亡くなりましたって」
靴を脱ぎながら信宏は言った。
「みんなで、宇梶君を天国に見送ってあげましょうって」
このくらいの年齢では、人の生死について聞かされたところで、その本当の意味や重さは理解できないのだろう。六歳の子供に同級生の死をどのように話せばよいのかと、教師は言葉を選ぶのに苦労したに違いない。
交通事故や病気なら、まだ言い方もあっただろう。あるいは誘拐や通り魔的な殺傷事件なら、「知らない人についていってはいけません」とか「一人で遊びにいってはいけません」とか、教訓をまじえて話すこともできる。
が、今回の場合、少しばかり事情が違う。雅彦は、通り魔に刺されたわけでも、また、飲酒運転の車に轢《ひ》かれたわけでもない。雅彦は自宅で毒物を飲んで死んだのだ。
小学校一年生という年齢からして、自殺ということは考えにくい。もちろん、年端もいかない子供の自殺が「絶対にありえない話」とはかぎらない。
だが、乳酸飲料のアルミ蓋に施してあった細工からして、他者の関与があったのは明らかだ。本人の意思による服毒なら、蓋に注射針を刺して毒物を注入するなどと手間のかかる細工は必要ない。針の痕は、接着剤でかためてあったと警察は発表している。毒物注入の痕跡を消すための作業までしているのだから、そこに第三者の明確な意志があったのは間違いないだろう。
「自殺」でないのなら、「他殺」でしかない。
雅彦は、誰にでも好かれていた子供というわけではなかった。母親は、さらに一癖も二癖もある女だった。彼らを知る者は皆、とうとう起こったかと思ったに違いない。
「お母さん」
キッチンのドアに手をかけ、信宏は言った。
「公園に遊びにいっていい?」
いつもなら、学校から帰るとすぐにおやつをせがむのに、信宏は通学帽を脱ぎもせず、亮子を見上げている。
「ねえ、公園に行ってきていい?」
「ランドセルをおろして、手を洗ってきなさい」
息を吐き、亮子はキッチンに戻った。しぶしぶ、信宏は洗面所に向かう。
「ね、今から南公園に行ってきていい?」
キッチンに入ってきて、信宏は亮子に言った。
「昨日も一昨日も南公園に行ったんじゃないの」
南公園は駅の向こう側である。この団地内にももちろん公園はある。だが小学校に入ると、子供達は遠い公園に遊びにいきたがるようになるのだ。自転車に乗っていけばたいした距離ではないし、学区内だから、学校の友人にも会える。
「ね、いいでしょう」
亮子は信宏の手に目をやった。一応、彼の手は濡れているが、どうも石鹸《せつけん》で洗った気配がない。匂いもしないし、第一、ちゃんと手を洗うには時間が短過ぎる。
「誰かと約束しているの?」
「みんな来るんだよ。学校でそう言ってた」
「みんな」というのは、この近辺の同じ学年の男の子達のことだろう。小学生になると、子供達は男女別々に遊ぶようになる。男子と女子が一緒に遊ぶということはまずなくなり、また、学年の違う者が入り混じることもめったにない。下校時間が学年により異なるからだ。だから信宏は、いつも近辺の同級生数人で遊んでいる。
「どうして、みんなが来るの」
人参にピューラーをあてながら、亮子は言った。
「だって、プルミンおばちゃんが、また来るかも知れないんだもん」
「プルミンおばちゃん?」
「そうだよ」
「プルミンおばちゃん」とは、プルミンを配達する女性従業員のことである。メーカーでは「プルミンレディー」と名付けているが、子供達は「プルミンおばちゃん」と親しみをこめて呼んでいる。
「公園に、プルミンおばちゃんが来ていたの?」
「うん」
子供にとって、乳酸飲料を各戸に届けてくれるプルミンおばちゃんは、「おいしい飲み物を持ってきてくれるやさしいおばちゃん」だから、姿を見かけただけで喜ぶ。
プルミンレディーは制服を着ているので、遠くからでもすぐにわかる。ペパーミントグリーンの上着にベージュのキュロットスカートというスタイルは昔から変わらない。年代を考慮しているからだろうが、キュロットスカートは長めで裾《すそ》が広がっており、上着も大きさをあまり気にする必要のないゆったりしたデザインで、丈は腰のあたりまである。
チューリップをひっくり返したようなデザインの、鍔《つば》の広い帽子もペパーミントグリーンで、手袋と肩掛けバッグは白だ。肩掛けバッグは保冷になっていて、子供達の好きなプルミンがぎっしりと詰まっている。
このあたりで乳酸飲料といえばプルミンだ。本社工場が県内にあるので、市販も宅配も他社製品を抑えてプルミンが圧倒的に強い。だから、県下で育った者にはプルミンレディーの制服はおなじみで、大人達もやはり、「プルミンおばちゃん」と親しみをこめて呼んでいる。都内で生まれ育った亮子にはわからない感覚だ。
「そのプルミンおばちゃん、知っているおばちゃんだったの?」
「知らないよ。でも、プルミンをくれたんだよ」
「なんですって」
人参を剥《む》く手を止め、亮子は顔をあげた。
「それ、いつのこと?」
「一昨日。昨日はこなかった」
亮子は息を呑んだ。
「信宏、本当のことなの、それ」
振り返った亮子の顔を見て、信宏は一瞬、あとずさった。亮子は内心、しまったと思った。気の弱い信宏は、相手が興奮していたり、神経を苛立《いらだ》たせているとわかると、何も言えなくなってしまう。
「あのね、怒ってるんじゃないのよ、お母さんは」
気をとりなおし、亮子はこわばった顔に笑みを浮かべた。
「一昨日、プルミンおばちゃんが、プルミンをくれたのね?」
信宏は頷いた。
「みんなももらったんだよ」
「みんなって誰?」
「内藤孝君と、桐生秀樹君と、宇梶雅彦君」
亮子の手から人参とピューラーが落ちた。
「宇梶君も、プルミンをもらったの?」
「そうだよ。プルミンおばちゃんがくれたんだよ」
はじかれたように亮子は信宏の前に駆け寄った。
「信宏、そのプルミン飲んだの?」
「うん」
「気持ち悪くなったりしなかった? お腹痛くなったりしなかった?」
「しないよ」
不思議そうな顔をして、信宏は亮子を見つめた。亮子は信宏を抱きしめた。
「下痢とかしてない?」
「してない」
躯を離し、亮子は信宏の顔を見た。顔色も悪くないし、表情もいつもと変わりない。
考えてみれば当然だった。もし一昨日、毒物の混入したプルミンを飲んでいるのなら、一昨日のうちに何らかの症状がでたはずで、今日こうして元気に学校に行ったりできるはずがない。
「今日、内藤君や桐生君、欠席していなかった?」
「来てたよ」
「昨日も?」
「うん」
「元気だった?」
「うん」
息を吐き、亮子はまた信宏に尋ねた。
「そのプルミンおばちゃんは、宇梶君だけじゃなくて、みんなにプルミンをくれたのね?」
「そうだよ」
「お金は払わなかったの?」
「うん」
プルミンレディーは宅配業務だけではなく、宅配契約の戸別セールスもやっている。
半年ほど前、亮子の家にもやってきたことがあった。ドアを開けた途端、五十過ぎのプルミンレディーが、「こんにちは、プルミンです」とにこやかに挨拶し、パンフレットを差し出した。「明日の健康のために」と書かれたそれには、プルミンが胃腸にどれだけよいかとか、骨粗鬆症《こつそしようしよう》予防に効果があるとか、肌荒れに効くとか、イラスト入りで説明されていた。
「今日は、おいしい健康飲料、プルミンのご紹介にまいりました」
よく通る声でプルミンレディーは言った。笑顔を絶やさずに話す表情や、素早くパンフレットを手渡す仕草はいかにも手慣れており、こちらが何か言う隙などなかった。
奥から信宏が出てきたのを見ると、「あらあ、元気そうなボクねえ。はい、これおみやげ」と言って白い肩掛けバッグからプルミンを取り出し、手袋をした手で器用にアルミ蓋を開けた。
うれしそうに信宏はそれを受け取った。容器に口をつけ、瞬《またた》く間に飲み干す。すかさず、プルミンレディーは新しいプルミンを取り出し、また蓋を開けて信宏に差し出した。信宏は何の躊躇《ちゆうちよ》もなく、二本目に口をつける。子供は甘い乳酸飲料が好きだ。飲みだすと止まらない。
鮮やかといえば鮮やかだった。プルミンレディーは栄養価について講釈しながら、次々にプルミンを信宏に飲ませていった。
「プルミン一本で、一日に必要なビタミンとカルシウムの半分が摂取できるんですよ。プロティンも強化されましたからねえ、育ち盛りのお子様には理想的な健康飲料なんですよ」
信宏はプルミンを飲み続けていた。こういう状況では「いらないから帰ってくれ」と言いにくくなる。仕方なく、亮子は宅配契約を結んだ。三ヶ月の契約が切れた時に更新は断ったが、以来、プルミンレディーがチャイムを鳴らしても、インターフォンで断り、ドアは開けないようにしている。
「公園にプルミンおばちゃんがやってきた時、誰かのお母さんはいた?」
「いないよ」
「小さい子を遊ばせているお母さんとか、犬を散歩させている人とか、いなかった?」
「いないよ。僕達だけだったもの」
一昨日の午前中は雨が降っていた。たいした雨ではなかったが、公園の地面はぬかるんでいたはずだ。こういう時に、公園で乳幼児を遊ばせたり、あるいはベビーカーを押してくる母親はあまりいないだろう。犬の散歩は大抵、朝か夜で、やはり雨上がりに来る飼主は少ないに違いない。それにあの日は夕方にもまた降った。気持ちのいい晴れた日ならともかく、朝から夕方まで降ったりやんだりという日だったから、歩いている人も少なかっただろう。
「信宏のお友達の他に、公園で遊んでいる子は誰がいたの?」
「いなかった」
中学年の子供は下校時間がもう少し遅いので、公園にやってくる時間も一時間くらいずれる。高学年の子供はさらに下校時間が遅いし、それにこの年齢になるとほとんどの子供が学習塾などにいっているので、公園で遊ぶ姿はあまり見かけなくなる。
「女の子とか、いなかった?」
「いないよ」
「大人の人もいなかったのね」
「うん」
プルミンレディーは、子供しかいないところで無料のサンプルを配っていたというのか。
もし、周囲に大人がいたというのなら頷ける。無料でプルミンを配れば、子供達は簡単に集まってくるだろう。子供達が集まれば大人の目を惹《ひ》くし、デモンストレーションとしての効果が期待できる。子供の群れる様子を見て、大人が一人でも寄ってきてくれれば、そこで契約を取ることも可能だ。
だが、子供しかいないところでサンプルを配ったとして、いったい誰が契約してくれるというのだろう。
プルミンは、このあたりでは皆が知っている乳酸飲料である。県下で圧倒的なシェアを占めており、宅配契約をしている家庭も多い。スーパーでの小売もやっているが、店頭ではプルミン以外のメーカーの製品などめったに見ることはないくらいだ。今さら知名度をあげる必要があるわけではない。
「それは、普通のプルミンだったの?」
「普通って?」
「だから、見たことのあるプルミンだったのよね? 容器とか」
「そうだよ」
「味もいつもと一緒だった?」
「一緒だよ」
ということは、新製品のお試しキャンペーンというわけではない。新製品なら、味はもちろん、容器のデザインや名前も違うはずで、子供達もそういうことには敏感だ。
しかし、新製品でないとしたら、なぜ今さら子供を集めて無料試飲などさせるのだろう。すでに充分知れ渡った商品を無料でばら撒くような宣伝をするだろうか。
「プルミンおばちゃんが、みんなにプルミンをくれたのね」
「うん」
「信宏ももらったのね」
「うん」
亮子は内心、ため息をついた。日頃、あれほど知らない人からものをもらってはいけないと、言い聞かせているのに。
だが、子供達にとってプルミンおばちゃんは「知らない人」ではないのかも知れない。ペパーミントグリーンの制服を着たプルミンレディーは「プルミンを届けてくれるやさしいおばちゃん」であり、警戒する対象ではないのだ。
たとえば、契約を結んでいる家庭では、宅配に訪れたプルミンレディーを家人は快く迎える。また、配達途中のプルミンレディーは近辺の人間とすれ違う時、必ず挨拶をかわすし、子供達にも愛想がいい。
契約をしていない家でも、プルミンレディーは子供のいる家庭に、テレビで提供しているアニメ番組のキャラクターのパズルやぬり絵を配ってくれたりする。子供達にとっては、プルミンおばちゃんは、よく知っている近所のやさしいおばちゃんというくらいの親近感があるのだ。
「みんな、一本ずつ飲んだの?」
信宏は首を横に振った。
「いっぱい飲んだよ」
「いっぱい? そんなにたくさん飲んだの?」
「うん」
「みんなも?」
「うん」
契約を取る時と同じ手法である。つまり、セールスとしては「よくあること」なのだが、その周囲に大人がいなかったということに、亮子はひっかかりを感じた。
「だって、プルミンおばちゃんが、いっぱいくれたんだもん」
「信宏、よく思い出して。プルミンおばちゃんは、一本ずつ、みんなに手渡ししてくれたの?」
「うん」
「一度にたくさん取り出して、さあどうぞって、自由に取らせてくれたわけじゃないのね?」
「一人ずつに、おばちゃんが手渡してくれたんだよ」
プルミンレディーは、雅彦だけに農薬入りのプルミンを手渡した。他の子供達の飲んだプルミンに、農薬は仕掛けられていなかったのだから。明らかに、雅彦はターゲットにされていた。
大きく息を吐き、亮子は首を振った。その時ふと、テーブルの下のゴミ箱に、プルミンの空容器があるのが見えた。ここ最近、亮子はプルミンを買ったことはない。
「このプルミン、公園でもらってきたものなの?」
ゴミ箱を指差して訊くと、信宏は頷いた。
「どうして、知らない人からものをもらうの。お菓子でも玩具でも、知らない人からものをもらっちゃいけないって、いつも言っているでしょう」
思わず、語気が荒くなる。信宏は俯いた。
「お母さん、前からいつも言ってたじゃないの」
信宏は目に涙を溜めている。
成り行きで一昨日のことを話してしまったが、本当はプルミンをもらったことを隠しておくつもりだったのだろう。見つかると叱られると思って、持って帰ってきたプルミンを内緒で飲んでいたのだ。
おそらく、雅彦も同じ状況だったのではないだろうか。たまたま来客があり、母親が応対しているのを見はからって、雅彦は自室でプルミンを飲んだのだ。玄関先で亮子と佐智子が話していた時、雅彦は声もでないほど悶え苦しんでいたのに違いない。あの時、三十分以上も押し問答を玄関先で続けた。
もう少し早くに気づいていれば、雅彦は助かったかも知れない。
亮子はゴミ箱から容器を拾いあげた。警察に事情を話しにいくべきだろう。この容器も持っていった方がいい。何かの参考になるかも知れない。
「信宏」
母親の厳しい声に、信宏はびくりと躯を震わせた。
「これから絶対に、知らない人からものをもらっちゃだめよ」
怯えた顔をして、信宏は頷いた。
「宇梶君は、知らない人からもらったプルミンを飲んで、死んじゃったのよ」
「ごめんなさい」
言いながら、信宏は泣きだした。
5
刑事はソファに座ったまま、黙っている。安岡といって、五十半ばくらいだ。時々、細い目をしばたたいて首を傾げるようにしている。躯はそうでもないのだが、首がやたらに太く、顔と同じようによく日に焼けていた。
安岡の隣に座っている黒沢は、三十前後の若い刑事だった。彼らにはさまれるようにして、二十代半ばの婦人警官が座っている。酒井真理子というらしいが、彼女は制服は着ておらず、グレーのスーツ姿である。
奈津江が淹《い》れた紅茶に手もつけず、彼らは孝を見つめていた。
雅彦が亡くなって四日経った。彼らが家にやってくるのは昨日に続いて二度目だ。
「南公園にいたのは、孝君を入れて四人だけだった。そういうことね?」
「うん」
真理子はやさしく頷いた。
「じゃあ、もう一度、一緒にいたお友達の名前、教えてくれる?」
「宇梶雅彦君と桐生秀樹君と、楠田信宏君」
昨日と同じことを訊かれているが、孝は素直に答えている。真理子がやさしく話しかけてくれるので、気後れしながらも質問の意味を一生懸命汲み取ろうとしているのがわかる。
「ねえ、孝君。これをよく見て」
色鉛筆で描《か》かれた公園の簡単な見取り図を、真理子はテーブルに置いた。眼帯をした孝は、言われるまま顔をあげた。
「こっちに花壇があって、で、こっちにブランコとベンチがあるでしょ。ここが表通りね」
蓋をしたボールペンで絵を指しながら、真理子は説明した。
「プルミンおばちゃんが立っていたのは、どのあたりかな」
「ここ」
花壇の前を、孝は指で示した。
「プルミンおばちゃんは自転車に乗ってたかな、それともミニバイクとかに乗ってた?」
「歩いてた」
「どの入口から公園に入ってきたかわかる?」
「わかんない」
「どうして?」
「見てないから」
下を向き、孝は小さな声で言った。
「僕達が公園にいったら、プルミンおばちゃんはそこにいた」
「まあ。孝君て、よく覚えてるわねえ。すごいなあ」
大袈裟に真理子は驚いてみせた。孝はほんの少し、顎をあげる。
「桐生君も、公園にいたよ」
「一緒に自転車に乗ってきたの?」
首を横に振り、孝は言った。
「桐生君の家は南公園に近いから、歩いてくるんだよ。いつもそうなんだ」
「何でもよく知っているのねえ、孝君は」
照れたように、孝は笑った。
「じゃあ、もう一つ教えてね。プルミンおばちゃんは、この花壇の前にいたのかしら」
膝の間に両手をはさむようにして、孝は頷いた。
「その時、プルミンおばちゃんは何を持ってたの?」
「白い鞄」
「他には何も持ってなかった?」
少し考えるような顔をしたあと、うん、と孝は言った。
「その時、孝君はどこにいたのかな」
「ここを歩いてた」
花壇に近いあたりを孝は指差した。
「自転車はどうしたの」
「牽《ひ》いてった」
「どうして」
「地面が濡れてたもの」
「ああそうか、そうだよね。濡れた土だと、タイヤが沈んでしまうものねえ」
アスファルトならいいけどね、と真理子は孝の顔をのぞきこむようにして言った。
「で、その時、宇梶雅彦君はどこにいたのかしら」
「一緒にいた」
「他のお友達も?」
「うん」
じゃあねえ、と真理子は語尾を伸ばし、孝にボールペンを持たせた。
「孝君達やプルミンおばちゃんが、どんなふうに立っていたか教えてくれる?」
頷き、孝はボールペンを握り直した。
「ここにプルミンおばちゃん。僕はこっち。楠田君と桐生君で、ここに宇梶君」
花壇の前で、プルミンレディーを囲むようにして子供達が半円になって並んでいたことを、孝は説明した。
「プルミンおばちゃんは孝君達に、プルミンあげるからいらっしゃいって、呼んでくれたの?」
孝は首を横に振った。
「じゃ、どうして、孝君はプルミンおばちゃんの傍に行ったのかしら」
「プルミンおばちゃんが、おいでおいでって、やった」
「え、どんなふうに?」
顔の前に手をかざし、孝は指を揃えてやってみせた。
「そうか。プルミンおばちゃんが、おいでおいでって、やったから、自転車を置いて、おばちゃんのところへ行ったわけね」
「うん」
「孝君達が行ったら、プルミンおばちゃんはどうしたんだっけ」
「白い鞄からプルミンを出した」
「何本?」
「わかんない」
「プルミンおばちゃんは鞄から、一度にたくさんのプルミンを出したのかな。それとも一本ずつかな」
「一本ずつ」
「それで、孝君達はプルミンをもらったのね」
「うん」
「孝君は何本飲んだ?」
上を向いて、ええと、と孝は首を傾げた。
「わかんない」
「そんなにたくさん飲んだの?」
「うん」
「プルミンおばちゃんは、みんなにプルミンをくれる時、何か言ってなかった?」
「何かって?」
「こんにちはとか、今日はプルミンをプレゼントしますよ、とか」
「言ってなかった」
「じゃ、プルミンおばちゃんは何も喋らなかったってことかな」
「そう」
「ねえ、孝君。そのプルミンおばちゃんの顔、覚えてる?」
首を横に振り、孝は言った。
「覚えてない」
「たとえばね、テレビにでてる人に似てたとか、そういうのも覚えてない?」
「うん」
「いくつくらいの人かなあ。たとえば、孝君のお母さんくらいの人とか、それともおばあちゃんくらいの人とか」
「わかんない」
安岡も黒沢も、決して会話に口をはさまない。だが、孝の言葉を一字一句聞き漏らさないように、神経を集中させているのがわかる。
「プルミンおばちゃんの顔、どうして覚えてないのかな」
真理子は小さく笑いかけた。
「眼鏡かけてた」
「眼鏡? どんな眼鏡かな」
「サングラスみたいなの。それに、マスクもしてた」
「マスクって、普通の白いマスク?」
「そう。うちのお母さんも花粉症がひどい時とかやってる。お父さんも時々やってる」
真理子の表情に気を許したのか、孝は少し早口に言った。
「そうかあ。プルミンおばちゃんも花粉症だったのかもね。そうそう、どんな眼鏡してたんだっけ?」
昨日もさんざん訊いたくせに、真理子は初めて聞くような顔をして、ノートを取り出した。
「ここに描いてみてくれるかな」
色鉛筆のケースを取り出し、真理子は孝の前に置いた。
「この色鉛筆、きれいでしょ。おねえさんのお気に入りなの。孝君はお絵描きが上手なんだってね。プルミンおばちゃんの眼鏡の絵、おねえさんに見せてくれる?」
「いいよ」
藤色の色鉛筆を選び、孝は眼鏡の絵を描き始めた。
「大きな眼鏡なのねえ」
フレームを見て、真理子が言った。
「そうだよ」
言いながら、孝はフレームに色を塗り始めた。
「こんな色だったのね」
頷き、孝は灰色の色鉛筆を取り出した。
「それは何の色?」
「眼鏡の中の色」
孝はレンズ部分を灰色で塗りつぶしていった。が、レンズの下部分は塗り残している。
「ここの部分は灰色じゃなかったの?」
「ここは、普通だった」
色鉛筆をケースにもどし、孝は真理子を見上げた。
「上手ねえ」
ノートを手に持って、真理子は笑った。孝ははにかんで、少し頬が上気している。
「プルミンおばちゃんは、こんな眼鏡をかけてたんだねえ。ふううん」
安岡と黒沢も「うまいねえ」と感心してみせる。
「マスクと眼鏡の他に、覚えてることはないかな」
目をしばたたいている真理子に、あのね、と孝は鼻の穴をふくらませて答えた。
「ちりちりの髪の毛をしてた」
「プルミンおばちゃんが?」
「そう」
「でも、昨日聞いた時は、そんなこと話してくれなかったけど?」
首を傾げて、真理子は孝の方を見た。
「思い出した、今」
「プルミンおばちゃんて、帽子かぶってるでしょ。なのにちりちりの髪の毛してるって、どうしてわかったの」
「だって、おでこのとことか、頬っぺたのとことか、ちりちりの髪の毛が見えてた」
「そうか、ちゃんと覚えてたんだ、孝君は。すごいねえ」
安岡と黒沢も何度も頷く。
「髪の毛の色は何色だったかな?」
「普通」
「黒い髪の毛だったってこと?」
「そう」
「他に思い出したことはない?」
ふううん、と言って、孝は上を向いた。
「そう、じゃあいいよ。孝君、ありがとう」
真理子が言った途端、奈津江は孝の方に向き直った。
「孝、あっちにいってなさい」
立ち上がり、孝は言った。
「ゲームしていい?」
「二階のお部屋でしていらっしゃい」
孝は二階に上がっていった。
「しっかりしたお子さんですなあ」
感心したように首を振り、安岡が言った。
「ところで、孝君は眼帯をしておられますが、ものもらいでも?」
いえ、と奈津江は目を伏せた。
昨日は眼帯のことについて何も訊かなかったのに、安岡は唐突に問いかけた。
「怪我をしたものですから」
ほう、と安岡は眉根を寄せた。
「そりゃ、いけませんなあ。また、どうして目に怪我を?」
おそらく、安岡はもう、孝が雅彦に目を殴られたことくらい、知っているのに違いない。たとえ今知らなくても、学校の関係者に訊けばすぐにわかることだ。
それでなくても眼帯をしていれば目立つのだから、周囲の者も今までに孝に「どうしたの」と訊いているだろう。孝がどのような答え方をしていたかは知らないが、雅彦にやられたことくらい、日頃の様子からして級友達は察しがついているはずだ。
警察は、孝のところに事情を訊きにやってきている。他の子供のところにも同じように行っているのはいうまでもない。ならば、学校で起こったことなど、とうに耳に入っているだろう。
だが、孝が雅彦にやられた一番酷い仕打ちについては、誰も知らない。現場を見ていた者もいないし、奈津江も夫以外には誰にも話していない。孝自身もこのことを人に知られるのをひどく恐れていたので口外するはずもなく、担任教師にも話していないのだ。
唯一、知っているのが佐智子だ。だが佐智子は、雅彦がやったのではないと主張した。そして、あろうことか、「孝が変質者に襲われた」という話をでっち上げ、周囲に流布した。
奈津江は、その話は単なる噂だと町内会のブロック組長の前で一蹴《いつしゆう》した。しかし今、息子を殺された佐智子は、奈津江がかつてこんなことを言ってきたと、警察に話しているかも知れない。
もしそうであったなら、「知らない」ということで通せばよい。そんな話はしたこともないと言えばいいのだ。
現場を見ていた者もなく、その事実を知る者は雅彦と孝だけだ。雅彦が死んだ以上、どんなに調べても何もでてこない。佐智子が何か言ったところで、あくまでも佐智子の捏造《ねつぞう》だということにしておけばよい。
雅彦が手当たり次第にいろんな子供に乱暴していたのは周知のことであり、数々のトラブルを起こしていたのも事実である。直接、佐智子に抗議をした母親も、少ないけれど何人かはいる。だから、孝が雅彦に目を殴られたことも、よくあることの一つにしか過ぎない。そのことだけを、ここでは認めておけばよいのだ。
「殴られたんですよ、雅彦君に」
顔をあげ、奈津江は言った。
「殴られた? 目をですか」
「はい」
「目を殴るとは、いくら子供のすることとはいえ、これは看過できませんなあ。あちらの親御さんにはご連絡を?」
「いえ」
「何も言ってらっしゃらないのですか」
「ええ」
「それはまた、どうして」
「子供同士のことですから。それに、たいしたことではありませんでしたし」
「しかし、目ですよ。もし、万一のことがあったら失明ということにもなりかねない。大変なことです」
「でも、たいしたことじゃなかったですから」
俯き、奈津江は両手を膝の上で揃えた。
「ちょっとお伺いしますが、孝君が以前、暴漢に襲われたというか、何かそのような事件に巻き込まれたことはありますか」
「ございません」
奈津江は唇を引き結んだ。
「あ、いや、お気を悪くなさらんでください。わたしらはね、一つ一つ、どんなことでも確認していくのが仕事なものでしてね」
笑いながら、安岡は頭の後ろに手をあてた。
「そういう事実はなかったと、こういうことですね」
「そんなことがありましたら、その場で警察に届けています」
「そりゃ、そうだ」
声をあげて安岡は笑った。
「刑事さん」
躯の向きを安岡の方に向け、奈津江は言った。
「実は以前、そのような噂が立ったことがありました。聞いて驚きました。町内会の組長さんが心配して、うちに訪ねてきてくださったことがあったんです。そこで初めて、そんな噂があるんだと知ったんですよ。でも、根も葉もないことでして、間違いだということをお話ししましたら、組長さんも安心してくださいました。どこからそんな噂がでたのか、わたしどもも未だに見当がつかないんです」
「ま、噂なんて、どこからどういうふうに、尾鰭《おひれ》がつくやらわかりませんからね」
奈津江は微笑み、頷いた。
「どうぞ、お紅茶を。冷めてしまいましたかしら」
「これはどうも、恐れ入ります」
安岡は軽く頭を下げ、カップを手に持った。真理子もシュガースティックを手に取り、黒沢もソーサーを引き寄せる。
「関係者にお話を聞いておりますと、雅彦君はかなり元気が良かったというか、クラスのお子さんに色々やっていたようですな」
苦笑しながら安岡は言った。
「でも、子供のやることですから」
ふむ、と安岡は頷き、カップをソーサーに置いた。
「ところで、南公園にいたプルミンレディーについてですが。どう思われますか」
「どうって?」
「何か、心あたりというか、気づかれたこととか、ありませんかねえ」
「うちはプルミンをとったことはありませんから、プルミンレディーに知り合いはおりませんが」
「プルミンレディーのあの制服、あれはよく目立ちますなあ。色がこう、目立つ緑色っていうか、遠くからでもわかりやすいんですなあ。もちろん、プルミンレディーの制服はよくご存知ですよね」
「ええ」
「あの制服、十年以上デザインが変わってないそうですよ。ここ十年ばかり、乳酸飲料の県下のシェア、プルミンはダントツで一位です。希望が丘団地でも四分の一近くの家が宅配契約をしているそうです。大人から子供まで、プルミンレディーの制服にはなじみがあるってことですわなあ」
目を伏せたまま、奈津江は黙っていた。
「帽子は、日除けとか交通安全とかを考慮して、ああいうデザインなんだそうです」
目立つものなあ、と安岡は顎のあたりを撫でて笑った。
「鍔《つば》が大きいですから、深くかぶると顔のほとんどが隠れます。フレームの大きなサングラスをかけて、髪の毛でさらに輪郭を隠すようにしていれば、ますます顔の特徴はわからなくなる」
再びカップを手にして紅茶を飲み、安岡は目をしばたたいた。
「子供達はプルミンをもらうのに夢中だった。プルミンレディーの顔になど、誰も注目していなかったでしょう。それに、プルミンレディーは帽子やサングラス、マスクまでして顔のほとんどを隠している。しかも、声もださなかったというんだから、たとえ子供達が知っている人物であったとしても、気づかなかったんじゃないかなあ。そういう状況だと思いませんか」
さあ、と奈津江は首を傾げた。
「公園にいたプルミンレディーがちりちりの髪の毛をしていたってことは、他のお子さん達も言っているんですよ。たぶん、カツラだったんじゃないんですかねえ。顔の輪郭隠すためにかぶっていたんだろうなあ」
「でも、プルミンレディーの制服はすごく目立つと思いますけど。公園から立ち去った後も、誰かに見られているのではないでしょうか」
ああ、あれね、と言って安岡はカップを置いた。
「あれ、リバーなんとかっていう奴らしいです。ええと」
傍らで真理子が「リバーシブルです」と小さく言った。
「え、何だっけ」
「リバーシブル」
「それそれ」
笑いながら頷き、安岡は身を乗り出した。
「つまりその、リバーなんとかって奴だから、裏側も着られるというわけですな。裏側はベージュになっているんだそうですよ」
なんでかっていうとね、と安岡はまた紅茶を飲んだ。
「プルミンレディーは主婦のパート社員が多いんですよ。配達は新聞と違って、早朝とはかぎらないんです。契約しているお宅の希望や都合に合わせるものらしいですね。たいがいは午後から夕方の間が多いらしいです。プルミンレディーは配達業務と同時に、お客さんの要望に応じてその場で販売もやります。そういう時間帯の方が、いろんな人に買ってもらえる機会が多いんですよ」
ご存知でしたか、と安岡は顎を引いた。
「ああいう仕事って、時給制じゃないんですよ。一本いくらの歩合制だそうです。だから、一本でも多く売れば、本人の収入に直結するんです」
そうですか、と奈津江は答えた。
「ですから、大抵のプルミンレディーは、販売しやすい午後から夕方まで仕事してるわけですよ。で、仕事が終わると早く家に帰りたいですわな。子供さんとか、家族が待っているんだから。プルミンレディーは貸与されている制服を、営業所に置いておかなくていいんだそうです。着替えてると時間がかかるでしょ。でもいくらなんでも、あんな目立つ緑色の服を着て電車やバスに乗るのも何だからっていうんで、裏はベージュ色の、リバーなんとかっていうのに仕立ててあるんだそうです。ベージュなら、ごく普通の上着にしか見えませんからなあ」
仕事の時は本来のペパーミントグリーンを表にして着て、仕事が終われば裏返してベージュの方を表にして帰っていく。プルミンレディーは皆、そうしているのだと、安岡は説明した。
「公園にいたプルミンレディーも、帽子をとり、上着を裏返してしまったら、誰もその人がプルミンレディーとは気づかない。そうでしょう?」
「ちょっと、お伺いしたいんですが」
テーブルに立てかけていた盆を引き寄せ、奈津江は言った。
「雅彦君の飲んだプルミンは間違いなく、南公園にいたそのプルミンレディーからもらったものなのでしょうか」
「と言いますと?」
「ですから、必ずしも、公園にいたプルミンレディーからもらったものだとはかぎらないのではないでしょうか。家の冷蔵庫にあったものなのかもわかりませんし」
「そりゃ、そうです」
大きく頷き、安岡は眉をあげた。
「なのに、どうして、こんなにプルミンレディーのことを詳しく調べられるんですか」
「おっしゃる通りですよ、奥さん。ただね、宇梶さんのお宅では、ここしばらくプルミンは買っていないし、買い置きもしていなかったということなんですよ。だから、雅彦君の飲んだプルミンは、自宅の冷蔵庫にあったものじゃないということだけは確かですなあ」
「でも、プルミンはたいした値段ではないですよ。子供が自分のお小遣いで買えるような金額です。母親が知らない間に、自分で買って飲んだということもあり得るんじゃないでしょうか」
なるほど、と安岡は小さく首を振った。
「けれどね、雅彦君がプルミンを買っていたという形跡はないんですよ」
「どうしてそんなことがわかるんですか」
「プルミンには製造年月日が刻印されています。雅彦君の部屋に転がっていたプルミンの容器には、事件当日の日付が入っていました。つまり、その日に売られていた製品ということです。雅彦君が自分で買ったとすれば、事件当日に買っていたということになります」
「じゃあ、雅彦君は、事件当日に自分で買っていたんでしょう」
奈津江が言うと、ここだけの話なんですがね、と安岡が声を落とした。
「この団地内のスーパー、調べたんですよ」
「何をですか」
「当日、雅彦君がスーパーに来たかどうかですよ」
「そんなこと、わかるんですか」
「わかるんです」
ゆっくりと、安岡はソファにもたれた。
「孝君達の証言でね、子供さん達が南公園で遊んでいたのは四時頃とわかっています。お母さんによると、雅彦君が学校から帰ってきたのは二時頃。同じクラスの子供さん達の証言からも間違いはないと思われます。で、雅彦君が南公園から帰ってきたのは五時頃。隣家の主婦が、自転車を車庫の脇に入れている雅彦君の姿をこの時間に見ています。雅彦君のお母さんの証言とも一致していますし、時間に間違いはないでしょう。帰宅後、雅彦君は家から一歩も出ていません」
ということは、もし雅彦が自分でプルミンを買いにいったとすれば、二時から五時頃の間ということになる。安岡はそう説明して、紅茶を飲み干した。
「それでね、二時から五時過ぎの間、雅彦君が来店していないか、確認したんですよ」
団地内のスーパーを利用するのは、当然ながら団地の住民である。それ以外の人間が来店することはめったにない。だから店舗の規模はそんなに大きくはなく、生鮮食料品と日用品のみを扱っている。従業員のほとんどがパート社員で、全員が近辺に住む主婦だった。つまり、ほとんどの客と従業員は、団地の住民なのである。
「従業員もお客さんも大抵、顔見知りってことが多いんですね、団地内のスーパーは。子供のことも、これは誰々さんのところの坊ちゃんだとか、お嬢ちゃんだとか、知ってる人は多いんですよ。まあ、名前は知らなくても、お互いに顔くらい覚えてるようですな」
言ってから安岡は笑った。少し苛立ちながら、奈津江は訊いた。
「で、お店の人は何ておっしゃっていたんですか」
「来てないそうですよ、雅彦君」
でも、と奈津江は言葉を継いだ。
「店員さんが気づかないだけで、実は店に来ていたということも、あり得るのではないでしょうか」
それそれ、と安岡は顔の前で手を振った。
「そうなんですよ、奥さん。人間の目とか記憶力とか、あれほどあてにならないものはないですよ。わたしら、そんなんでいつも振りまわされてますからねえ」
なあ、と彼は黒沢の方を向いた。黒沢は苦笑し、頷いている。
「ですからね、ちゃんと裏も取ったんですよ」
「裏?」
「防犯カメラです。ビデオが残ってるんですよ。念のために開店時からの映像を確認したんですけど、雅彦君の姿はなかったんです。ついでながら、雅彦君のお母さんの姿も映ってませんでしたねえ」
それにね、と安岡は腕組みをした。
「駅前のスーパーやコンビニも確認しました。周辺でプルミンを扱っている店舗も全部、調べたんです。子供が自転車でいけそうな範囲はすべて確認しましたが、雅彦君が来店した形跡はないんです」
あ、すみません、と安岡は奈津江に笑いかけた。
「お水を一杯いただけませんかねえ。なんだか喉が渇いてしまって」
「お待ちください」
盆を持って立ち上がり、奈津江はキッチンに入った。
安岡は何が言いたいのだろう。捜査の内容について、こんなに詳しく一般人に話すものなのだろうか。あるいは、どうせマスコミに解禁になる情報だから気楽に話しているのだろうか。
水を満たしたコップを盆に載せてリビングにもどると、安岡は、すみませんねえと笑って受け取った。
「あの南公園にいたプルミンレディーですがね、おそらく、この地域で当日、プルミンを買っています」
「なぜ、わかるんですか」
「プルミンの容器には製造年月日とともに、バーコードが入っているんですよ。これを読み取るとね、どの工場で製造されたかというのがわかるのだそうです。工場が特定できれば、出荷先も判明します。工場によって出荷地域はきまっていますから。宅配用なのか、あるいはスーパーなどの店舗販売用なのかもわかるんです。雅彦君の飲んだプルミンは店舗販売用で、この地域を受け持つ工場で製造されたものです」
安岡はコップの水を飲んだ。
「一つねえ、ひっかかるというか、気になるんですがね」
眉根を寄せ、安岡は奈津江を見据えた。
「南公園にいたプルミンレディーは、なんであんなにたくさんのプルミンを子供達に飲ませていたんですかねえ」
奈津江は曖昧《あいまい》に笑い、首を傾げた。
「子供達の話によると、プルミンレディーはプルミンを一本ずつ手渡していたそうです。犯人の狙いは雅彦君ですから、最初から雅彦君だけにその一本を渡せばいいことでしょう。それをなぜ、あんなにたくさんのプルミンを飲ませたのかなあ」
何か理由でもあったんですかねえ、と言って、安岡は残りのコップの水を飲んだ。
6
雅彦の葬儀は団地内の集会所で行われた。事件から一週間が経っていた。
公園の脇にある集会所は、普段は子供会や町内会の会合などに使用されている。団地内住民の葬儀告別式にも使用は認められているが、住民の世代や家族構成からいって、頻繁にあることではなかった。
参列者は近隣の者や、雅彦の学校関係者で、同じ学年の児童達が担任の女教師に引率されて前の方に座らされている。
集会所の外には各局のテレビカメラが並んでいた。道路にはその関係車両が何台も停められ、機材を持ったクルー達が出入りしている。
マイクを持ったレポーター達が玄関の前に立ち、テレビカメラに向かって話していた。さすがに会場の中にまでは入って来ないが、それでも参列の人にマイクを向けたり、同級生達の並んで入場する様子などを撮影していた。
小学校一年生の子供が農薬入りの乳酸飲料を飲んで死亡したというので、新聞や雑誌、ワイドショーは連日、この事件について取り上げている。
数珠《じゆず》を握り直し、奈津江は遺影を見上げた。
スナップ写真を無理に引き伸ばしたらしい写真は、雅彦の頭部や肩の線と背景の境界線が不自然で、なんだか切り取ってきた絵のようだった。たぶん、周囲に家族か友人でも写っているので、その画像を消したのだろう。
遺影の雅彦は笑っていた。上の前歯が一本欠けている。永久歯に生え変わる時期に撮った写真らしい。まさかこの時に撮られた写真が遺影に使われるなどと、本人はもちろん、家族の者も想像だにしなかったに違いない。
遺族席に座っている佐智子はハンカチを目にあてたまま、顔をあげることができないでいる。着慣れない喪服はすでに着崩れており、襟の形は潰れ、パーマのとれかかった髪もひどく乱れていた。
あんな佐智子を見るのは初めてだ。
いつも人を小馬鹿にしたような目をして、四角い顎《あご》を突き出していた表情しか、奈津江は知らない。ものを言う時は、「へ」の字に曲げた唇をさらに歪《ゆが》め、睨《にら》みつけて相手を威嚇《いかく》する。三白眼の目で睨まれると、大抵の人間は何も言えなくなるのだ。
悪意に満ちた中傷や噂話を作るのが得意で、その方法や内容を作り出す技は、ほとんど天才的といってもいい。
しかし、こんな姿を衆目に晒《さら》す日がくるとは、息子の遺影と同様、佐智子は想像したこともあるまい。
奈津江の座っている席は会場の中ほどで、小学生達が並んでいる斜め後ろだった。躯を乗り出して孝のいるあたりを見てみると、パイプ椅子が軋《きし》んだ。
雅彦の葬儀には一年生全員が列席するとのことで、当日、服装は黒色か紺色、茶色、チャコールグレー等で登校するようにと、学校から各家庭に連絡があった。
白のカッターシャツに紺色の上着を着た孝は、ものめずらしそうに祭壇を見ていた。他の子供達も、落ち着きなく周囲を見回している。
「では、雅彦君の同級生を代表して、桐生秀樹君がお別れの言葉を述べます」
マイクの前で喪服を着た男が言った。いかにも慣れた口調なので、葬儀屋の社員だろう。
「桐生秀樹君。どうぞ、こちらへ」
白い封筒を持った男の子が、担任の女教師に付き添われ、祭壇に向かって歩いていく。桐生秀樹だ。
驚いたことに、秀樹は黒いスーツを着ていた。子供用の喪服など、奈津江は見たことがない。子供を葬儀に連れて行く時は、大抵の家庭では紺色か、あるいは黒を基調にした服を着せ、わざわざ喪服を誂《あつら》えたりしない。
参列している小学生達を見ても、男の子全員が紺色かチャコールグレーの上着を着ており、黒い服など皆無だ。女の子なら黒のワンピースを着ている者もいるが、それにしたところで襟は白色のフリルがついていたり、袖口や裾に光り物の装飾が施されていたりと、喪服ではないことが見てとれる。
秀樹は子供用のスーツを着ているが、半ズボンではなく長ズボンだった。たぶん、オーダーなのだろう。子供のくせに皺一つないズボンや上着やカッターは、スーパーで売られているそれとは質が違う。光沢があり、また、襟の形から後ろの身頃にかけてのラインなどすべてが垢抜《あかぬ》けていた。
額の下あたりで切り揃えられた前髪を揺らし、秀樹はまっすぐ前を見て歩いている。後頭部は刈上げではなく、短いおかっぱのようにうなじに伸びていた。色白の頬と艶々《つやつや》とした髪の毛が、まるで女の子のようだ。
秀樹は希望が丘団地の子供ではない。駅の向こう側の住人である。といっても、雑然とした飲み屋のあるあたりではない。もう少し向こうにある古い町並みの残る区域に彼の屋敷はある。
桐生家はこの一帯で一番の旧家である。希望が丘団地のある山も、もとは桐生家の所有であったという。私鉄会社が買い取り、新興住宅街として開発したのだ。
本業は和菓子屋で、桐生の屋敷の傍には菓子工場が三棟建っている。これは本社工場だが、昔からある建物なのでそんなに大きくはなく、どちらかといえば家内工業的な規模の工場である。どう考えても生産高などはたいしたものではなく、老舗《しにせ》としての「桐生屋」の象徴のような扱われ方をしているらしい。
「桐生屋」は首都圏周辺に大規模な工場をいくつも持っており、十年ほど前から洋菓子も手掛けている。饅頭や干菓子、ケーキやクッキーは都内各所のデパートで扱われており、贈答品としても人気のある有名ブランドである。
経営しているのは菓子製造会社だけではなかった。もともとが土地持ちなので、不動産業はもちろん、駅前のスーパーや、市中心部のファッションビルなども所有し、運営している。
「宇梶雅彦君へ」
祭壇の前に置かれたマイクの前で秀樹が言った。その瞬間、マイクがきいいん、と金属音をたてた。途端に、子供達が笑いさざめく。だが、それをたしなめる者はいなかった。
子供達を引率してきた女教師は、さっきからずっと泣いている。ハンカチを鼻にあて、肩を震わせて嗚咽《おえつ》しているのだ。が、そのハンカチはピンク色で、キティちゃんの模様入りだった。
前に座っていた校長が振り返り、眉をひそめて首を横に振ってみせた。けれど、子供達のざわめきは消えない。
「僕達は、一年生になったばかりです」
弔辞を顔の前に掲げ、秀樹は大きな声で読み始めた。
「宇梶君は、みんなの人気者でした。僕達は、いつも宇梶君と一緒でした」
今日の日のために、秀樹は何度も練習させられたのに違いない。一生懸命大きな声を出そうとして、小さな肩を揺らせて息継ぎをしている。
「これから、もっともっと、いっぱい楽しいことが学校生活であったはずなのに、宇梶君が一緒でないことが、僕達は残念でなりません」
参列者席に、桐生|千珠《ちず》が座っていた。秀樹の母親である。ここより少し前あたりの席で、横顔しか見えないが、千珠は不安気に瞬きを繰り返していた。息子が代表で弔辞を読むのはうれしいに違いないが、失敗しないか心配なのだろう。
喪服の胸元のボウの上にゆったりとかけられた真珠のネックレスが、上品な光を放っている。それは、色白で小造りな千珠の顔立ちをよく引き立てていた。長い睫毛《まつげ》と口角の上がった小さな唇は、三十半ばにしては少しばかり稚《おさな》い表情に見える。だが、高い鼻梁《びりよう》と細い顎は年齢相応の陰影を刻んでいた。
千珠は桐生家の一人娘である。夫は婿養子だ。昔、国会議員の秘書をやっていたという。千珠の父親に乞われて婿養子となったのだが、会社の実権は会長である千珠の父親にあり、彼の意のままにはならないらしい。それが不満なのか、千珠の夫は今度の市長選に出馬するという噂だ。
桐生家で、千珠は自身の両親とともに暮らしている。「両親と同居」といっても、希望が丘団地の建売住宅とはわけが違う。桐生家が住んでいるのは広大な屋敷である。一般庶民が無理をして狭い敷地に建てる「二世帯住宅」などとはまったく違う世界の話である。
あの敷地になら、このあたりの建売住宅が百軒近く建つのではないか。豪壮な屋敷に暮らしているのだから、たとえ大家族で住んでいようと窮屈や不自由とは無縁だろう。
不自由がないのは、屋敷の大きさだけではない。千珠は、結婚し、子供も産んでいるというのに、未だにピアノなどのお稽古事を続けているということだ。しかも、レッスンは出稽古というのだから、嫁入り前の箱入り娘と変わらない。普通なら、子供が小学生ともなれば、子供の習い事のために親は汲々《きゆうきゆう》と授業料を工面するものだ。
奈津江は、千珠と話したことはあまりない。幼稚園の行事ではよく顔を合わせたが、挨拶をかわすくらいだった。いつ見ても化粧も丁寧で身綺麗にしており、やはり希望が丘団地に住む母親達とはどこか違っていた。だが、このあたりの一番の旧家のお嬢様というわりには威張っている様子はなく、それについては拍子抜けしたくらいだ。
幼稚園、小学校の母親達のなかで、千珠は「浮いた存在」には違いなかった。だが、だからといって周囲からの反発もかっていなかったのは、ほとんど誰ともかかわりを持たなかったからだろう。
千珠が幼稚園や小学校の母親の誰かと親しく話しているところを、奈津江は見たことがない。唯一の例外が楠田信宏の母亮子だった。ピアノの出稽古は亮子に頼んでいるという。亮子もまた、普段仕事が忙しいせいか、他の母親達との付き合いはほとんどなかった。
今年の小学校PTA役員に奈津江は就任したのだが、そこで初めて、まともに亮子と言葉をかわしたくらいだ。その時、亮子は、思いがけず役員になってしまった、早く就任期間が終わってほしいと、苦笑していた。今まで他の母親達とのかかわりやつながりがほとんどなかったから、親しくしている人もいないと話していた。
仕事や家業のある女は、たとえ子供がいても、近所や学校などとの人間関係は希薄なものだ。希薄な人間関係からは、良くも悪くも何も生まれない。
関係が濃密になると、人と人との境界線は曖昧になる。境界線が曖昧になれば関係はさらに濃密になり、相手に自身を投影させたり、あるいは自身のなかに相手の存在を感じたりするようになる。
そうなると、しだいに相手から目が離せなくなってくる。時を経るごとに相手の動向や存在が目障りになり、互いにその呪縛から逃れられなくなるのだ。摩擦や軋轢《あつれき》が生じるのは当然で、当事者は日々起こる事象に、逐一感情をかき乱される。
けれど、濃密な人間関係のなかでは、摩擦や軋轢を「ある」と主張することは許されない。「ない」という前提を皆が守らなければならないのだ。
そこにいる誰もが閉塞感を持ちつつ、目を背けている。誰も何も言わない。言えばまた、目障りなことが増えるだけだと知っているからだ。
「宇梶君の笑顔がもう見られないなんて、信じられません。僕達は、宇梶君の分まで頑張ります」
胸を張り、秀樹は大きく息を吸った。その音がマイクに伝わり、スピーカーから、ひゅうと、風が抜けるような音がした。それがおかしいのか、子供達はまた、くすくすと笑い始めた。女教師は、それでも顔にキティちゃんのハンカチをあてて、肩を震わせている。校長はうんざりしたように顔をしかめ、子供達に向かって首を横に振ってみせた。
「どうか宇梶君、天国から僕達を見ていてください。宮脇小学校、桐生秀樹」
弔辞をたたみ、秀樹は祭壇の前に置いた。女教師は、顔をあげて立ち上がった。
泣き腫らした目は真っ赤で、ファンデーションに幾筋もの涙の跡が白く残っている。格好も構わず泣いているように見えるが、茶色く染めた髪はいつにもまして華々しくアップに結われ、黒いリボンが丁寧に巻かれていた。
どう見ても、美容院でセットしてもらった髪型だ。早朝料金を払い、出勤前に髪を整えてきたのだろう。
若い女は、自分が目立つとわかっている場所には、金も時間もかけてとびきり身綺麗にしてくる。今日は彼女にとって、格好の晴れ舞台だったのだ。何しろ、新聞、雑誌の記者はもちろん、テレビカメラまで来ているのだから。
嗚咽しながら、女教師は祭壇から降りてきた秀樹の手を取り、席に着かせた。
葬儀屋がマイクの前で短い挨拶をして、読経が始まった。
しばらくは子供達もおとなしくしていたが、すでに会場の雰囲気に慣れてしまっており、この状況に飽きるのにそれほど時間はかからなかった。しかも、傍にいるのはあの女教師だ。緊張感はとっくに損なわれている。
一度ざわめきだすと止めようもなく、がやがやとした子供達の声がとびかう。救いなのは、読経の声がマイクを通していることだった。スピーカーから流れる僧侶の声や木魚《もくぎよ》の音にかき消され、子供達の声はそれほど目立たずにすんでいる。
見ると、孝は隣の子供と何か話していた。孝にかぎらず、子供達は近くにいる者と話したり、あるいは小競《こぜ》り合《あ》いをしたりしている。女教師はハンカチで口を押さえながら、祭壇の方を見ていた。子供達が何をやっていようが関心もないらしく、泣き続けている。
焼香の案内を葬儀屋が始めた。女教師が立ち上がり、児童達は前の方に座っている者から順に、祭壇に進みでていく。少しばかり目の前の光景が変わったので、彼らもお喋りをやめて周囲を見回していた。女教師はやはり、目にハンカチをあてて、子供達を並ばせている。校長は苦りきった顔をして、児童の列を見ていた。
学校関係者の焼香が終わったところで、一般の弔問客が列に並んだ。席についた子供達は再度、ざわめきだす。
焼香の列に並ぶ者のなかには、佐智子に向かって声をかける者もいるが、佐智子は頷《うなず》くだけで、顔をあげられないでいる。
佐智子の隣に座っているのは彼女の夫だろう。奈津江は顔をはっきりと覚えていたわけではないが、見たことはある。
背丈はあるのだが、間延びしたように胴の長い男だった。開いた両膝に手を載せ、しきりに目をしばたたいている。時々、黒縁の眼鏡の脇から指を入れ、目尻を拭いていた。浅黒い顔には疲労の色が滲《にじ》んでおり、身を縮めるように大きな背中をまるめて首を突き出している。まるで、亀みたいだ。
忠彦は佐智子の反対側の隣に座っていた。紺色の上着は借り物なのか、肩幅が合っていない。あるいは来年を見越して買った大きめのサイズなのかも知れない。
表情のない顔をして、忠彦は宙を見つめていた。泣きっぱなしの母親と、途方にくれた父親と、そして目の前にあるすべてのものに、うんざりしている顔だった。
奈津江は、焼香の列に目をもどした。一番後ろがどのあたりなのか確かめようとした時だった。
「いい気味だと思っているんでしょっ」
突然、泣き叫ぶような女の声がした。瞬間、会場は静まりかえった。ただ、スピーカーから読経の声だけが響いていた。
「はっきり言いなさいよ、え」
佐智子が叫んだ。佐智子の前に、驚いたように目を見開いた女が立っている。楠田亮子だ。
「あなたでしょ、あなたがやったんでしょ」
立ち上がり、佐智子は亮子の肩を突いた。
「やったんでしょ、あんた。あの日、いちゃもんつけに来たんだものね、うちに」
「馬鹿なことを言わないでください」
顔を引き攣《つ》らせて亮子が言った。
「わたしが何をしたと言うんですか」
「おかしいと思っていたのよ。それまで雅彦は元気だったんだから。あんたが来てから、雅彦は血を吐いたのよ」
佐智子は亮子に掴みかかった。
「あんたでしょ、はっきり言いなさいよ」
喪服を着た男が何人か出てきて佐智子の腕を押さえた。
「奥さん、落ち着いてください」
口々に言いながら、男達は佐智子と亮子の間に割って入った。佐智子は半身を捩《よじ》り、抵抗している。喪服の襟は開き、裾は乱れ、髪は逆立っていた。
「わかってんのよ、わたしは。え、あんた、あの時、何かやったんでしょうっ」
男達に抱きかかえられながらも、佐智子は亮子を睨みつけた。下瞼が腫《は》れ上がり、目が血走っている。
「あんた、あの時、雅彦の口に何か突っ込んだじゃないの。わたし、見てたんだから」
会場が騒然となった。
「わかってんのよ、わたしは」
首を振り、佐智子は怒鳴りつけた。だが、さらに何人かの男が出てきて佐智子を取り囲んだ。彼らは会場の視線を遮るようにしながら祭壇の脇の非常口に佐智子を連れていった。残された佐智子の夫は茫然としている。
葬儀屋が、焼香の列の後ろを示してどうぞ、と人々を促した。会場はほどなく静まり、読経の声だけが流れる。
亮子が顔をあげた。喪服の襟を直し、スカートの裾を軽くはらっている。会場にいる者全員が亮子を見ていた。亮子は祭壇に進みでた。まっすぐに祭壇を見つめ、唇を引き結んでいる。緊張しているが、怯えてはいなかった。
歩を進め、亮子は親族達の席に向かって一礼した。親族達は皆、困惑した顔をしている。亮子が顔をあげても、彼らは居心地の悪そうな面持ちで目を伏せたままだ。
その時、親族席にいた一人の年寄が返礼した。年寄がじっと頭を垂れていると、横に座っていた中年の女も頭を下げた。ややあって、周囲の者達もそれに倣《なら》い、不揃いながら、皆が頭を下げた。
顔をあげた亮子は何もなかったように祭壇に向き直り、数珠を手にかけ直した。ゆっくりと焼香し、合掌する亮子の後姿は何にも動じている様子はなく、最後まで目を伏せることはなかった。
7
亮子は人々の視線を浴びていた。集会所を出てからでさえ、報道のカメラマン達が亮子にカメラを向けている。足早に集会所の前の通りを歩くが、まだ、胸の動悸がおさまらない。
満座の席で佐智子に罵声《ばせい》を浴びせられ、掴みかかられても、亮子は冷静だった。会場の視線にひるむことなく、焼香を終えた。
取り乱すところを見せては、あるいは困惑するところを見せては、信宏が傷つく。そう思ったから、亮子は絶対に下を向かなかった。
お母さんは何も悪いことをしていない。だから、誰に何を言われても堂々としていたのだ。
信宏に、後でそう言い聞かせてやらなければならない。だから会場では、絶対に感情を顔にださなかった。
けれど、会場を出てきてから、急に動悸がしてきた。ひどく息が苦しい。亮子は軽く目を閉じ、首を振った。角を曲がり、人通りのないところまで来て、歩を緩めた。
宇梶家の人々は事件以来、連日警察に事情を訊かれているということだ。警察は、彼らの身辺を徹底的に調べているとも聞いている。
愉快犯による無差別殺人か、あるいは怨恨《えんこん》による報復か、警察はまだ何も正式に発表していない。噂では、警察は近辺のプルミンの営業所に勤めるプルミンレディーも調べているということだ。
子供達の証言から、事件当日、雅彦を含む四人の子供がプルミンレディーからプルミンをもらっていたということが判明した。雅彦が飲んだプルミンは、プルミンレディーからもらったものに違いないと警察は考えているらしい。今朝の新聞にそう掲載されていた。
信宏のところにもすでに二回、警察が来ている。刑事二人と、若い婦人警官がやってきたが、信宏に話を訊くのはもっぱら婦人警官だった。
彼らは、公園にいたプルミンレディーの容貌をなんとか聞きだそうとしていた。だが、信宏の話によると、大きなフレームのサングラスやマスクで顔はよく見えず、帽子のためにその輪郭さえもわからなかったということだ。
もし仮に、このプルミンレディーが子供達の知っている人物であったとしても、子供達はそれと気づかなかったのではないか。刑事はそう言っていた。
葬儀会場で、佐智子は亮子に「あんたがやったんでしょ」とはっきりと言った。葬儀には学校関係者はもちろん、警察関係者も来ている。彼らの前で、亮子は「あなたが犯人だ」と名指しされたのである。
今日の佐智子の言葉で、警察は亮子に疑惑の目を向けるかも知れない。しかし、自分は潔白である。後ろめたいことは何一つないのだ。
佐智子は、亮子が雅彦の口に何かを突っ込んだと叫んだ。たしかにあの夜、亮子は雅彦の口にハンカチを入れた。だが、それは痙攣《けいれん》している雅彦が舌を噛《か》まないようにするためにとった緊急の処置である。
その時、雅彦は吐血し、嘔吐していたのだから、すでに毒物を飲んでいたのは間違いない。これらのことは、警察が調べればすぐにわかることであり、亮子が疑われるようなことは何もないのだ。
亮子が気がかりなのは、信宏のことだった。今日の光景を、信宏自身はもちろん、級友達も見ている。
そのことで、信宏が傷ついたり、あるいは心ない人の噂や中傷にさらされ、学校でいじめられるようなことになったら、どうしたらよいのだろう。
亮子は息を吐き、こめかみに指をやった。
「楠田さん」
振り返ると、内藤奈津江が立っていた。
「大変でしたわね」
信宏が幼稚園の頃から、亮子は周囲の母親達とあまり付き合いがない。だが今年、新一年生の学年から亮子はPTA役員に選出された。くじで当たってしまったのだ。入学式直前の三月、役員会が開かれ、出席した。そこでの顔合わせに奈津江がいたのは覚えている。四月の役員会でも会っている。だが、二回とも挨拶程度の言葉を交わしただけで、親しく付き合っているわけではない。
それなのに突然、話しかけられたので驚いた。事件のことで、また何か皮肉でも言われるのかと身構えたのだが、そうではないようだ。奈津江の表情には悪意や、あるいは品のない好奇心など滲んでいない。
少し安堵して、亮子は軽く会釈した。奈津江も頷くようにして、亮子を見ている。
耳の下が隠れるくらいのところで切り揃えられた髪は、まっすぐで艶があった。少し垂れ気味の目は大きな二重瞼で、頬はやわらかな稜線を描いている。
「たまたま、楠田さんはあの場にいらっしゃっただけだと伺っております。そのことは皆さんもご存知です」
同情した物言いだったが、それでも亮子はどんな返事をしてよいのかわからなかった。
「親の見ている前で、子供の口に毒物なんか突っ込む人はいませんよ。そんなこと、普通に考えればわかります」
黙っている亮子に、奈津江はたたみかけるように言った。
「救急車に雅彦君が運ばれる時、痙攣していたと、見ていた人から聞いています。楠田さんは、雅彦君が舌を噛まないようにハンカチを口に入れてあげたんでしょう?」
言いながら、奈津江はゆっくりと歩きだした。
「誰でもわかりますよ、そんなこと」
あの夜、救急車のサイレンを聞きつけてやってきた近辺の者達が、道路端で鈴なりになっていた。大勢の人間が、雅彦の口にハンカチが入れられているのを見ている。奈津江も、その野次馬の一人から話を聞いているのだろう。
「だから、宇梶さんのおっしゃることなど、まったく気にする必要はありませんよ」
驚くほどきっぱりと、奈津江は言った。
「楠田さんが、そんなことする人じゃないってこと、わたしはわかっていますから」
奈津江は亮子の目を見つめた。
「ありがとうございます」
頭を下げ、亮子は礼を言った。
「あれは、天罰です」
前を見据えて、奈津江は言った。
「え?」
「天罰ですよ、あれは」
驚いている亮子に頷いてみせ、奈津江は空を見上げた。
「人を人とも思わないような人には、天罰が下ります。当然のことでしょう」
天罰。
おそらく、その言葉を胸に思い浮かべた者はあの葬儀会場にたくさんいたはずだ。雅彦のやってきたことや、佐智子の日頃の言動を、周囲の者は皆知っている。だが、それを口にする者はいない。当然だ。
なのに、奈津江はごく普通のことのようにして話している。立ち止まり、亮子は奈津江を見た。
「当たり前のことが、起こっただけです」
空を見上げたまま、奈津江は言った。
春の色を映した空は澄んでいた。花の終わった葉桜が、脇の家の庭から枝葉をのぞかせている。建売住宅の庭は塀もなく、低い垣根越しにすべてが見えていた。それぞれの庭には春の花が植えられていて、とりどりの色が溢《あふ》れている。花の匂いは道にまで漂い、蝶や蜜蜂が飛び交っていた。
今日は、葬式があったのだ。
送られたのは子供で、喪主は父親だった。たった六年間しかこの世に生きることのできなかった子供の、最後の催事が営まれたのだ。
葬儀の間、母親は悲嘆にくれ、泣き叫んでいた。それだけではない。母親は、列席者の一人に「あんたが殺した」と言って掴みかかった。
痛みも悲しみも、当分続くだろう。いや、子に先立たれた親の悲しみが消えるはずもなく、親は死ぬまで胸に錘《おもり》をつけて生きていくに違いない。
けれど、春の景色は華やいでいた。空は目にしみるほど青く、花々は咲き乱れ、枝葉は色を増し、幹は高く伸びていく。放たれた芳香は小さな生き物を誘い、人ですらその甘やかな匂いに引き込まれる。
逝く者や、遺される者の思いなど何の頓着もなく、春の景色がそこにある。自分もまた、喪服を着ているというのに、その景色のなかに何のためらいもなく立っている。
半ば目を閉じるようにして、奈津江は息を吸い込んでいた。
「だから、何も気にする必要はありません」
振り返るようにして、奈津江は亮子を見た。
「だって、あなたは何も悪いことはしていらっしゃらないのですから」
そうでしょう、と言って、奈津江は微笑んだ。
8
PTA役員会は、体育館の裏の会議室で毎月行われる。各学年から選出された理事は全部で六十名いるが、もちろん全員が毎回出席できるわけではない。三月、四月の例会でも、十名近くが欠席していた。
奈津江が役員に選出されたのは、くじ運が悪かったからだ。ここにいるほとんどの者がそうだ。
役員職はいつも保護者の間でなすり合いになり、結局、くじで決定される。たまに役員職をやりたがる者もいるが、そんな例はごく稀《まれ》で、たいがいはなすり合いか、あるいは未経験者の数合わせで調整される。
以前は「推薦」という手順を踏んでいたこともあったらしいが、この制度は長続きしなかった。後で恨まれるのが嫌で、誰も他人を推薦しなくなったからである。
くじ引きを免除してもらえるのは、前年度の役員経験者のみだ。それ以外の者は、当日の欠席者も含めて全員がくじ引きをさせられる。仕事をしているからとか、乳幼児をかかえているからとか、あるいは家に病人がいる、年寄がいる、受験生がいるなど、家庭の事情は一切考慮されない。そんなことを一つでも認めれば、何らかの理由をつけて全員が免除を要求するからだ。
役員会は毎月、第三週目か四週目の土曜日の午後と決められている。三月、四月は単なる顔合わせで終わったが、五月からは各部会の本格的な活動が始まり、行事などの具体的な議題が提示される。
「では最後に、安全部より報告です」
安全部の部長をつとめる勝沼文代が立ち上がった。
顔も躯も少しふくよかで、まるみのある鼻のせいで年嵩《としかさ》に見えるが、まだ四十過ぎくらいだろう。
文代の娘真希は、孝と同じ一年生だ。真希には六年生と三年生の姉がおり、文代は役員になるのは三度目らしい。三度とも、自身で立候補しているという。
「先般の事件がありましたので、子供達には、知らない人についていかない、食べ物等もらってはいけないということを先生方からもご指導いただきました。高学年、中学年では、自分で自分を守る方法を子供達で話し合うなどして、防犯意識を高めるようにしているとのことです。また、低学年児童については、警察署の方に、人形劇などでわかりやすく指導していただきました」
何度も役員を経験してきたというだけあって、文代は人前で話すのに慣れているようだ。だが、ともすると早口になり、言葉が時々つっかえて、聞き取りにくいところがある。しかし、文代自身はこういう雰囲気が好きなのか、表情はどこか得意気でうれしそうだ。
「こちらのプリントですが、先般、学校より配布をお願いいたしました。皆様方の各ご家庭にも、お子様を通じて届いていると思います。また、各町内会の児童部さんにお願いして、回覧板でも各戸に回していただいております」
プリントを胸の前で持ち、文代は後ろの方に座っている役員達にわかるように掲げて見せた。
「知らない人からものをもらわない、また、知らない人からもらったものや、拾ったものなどは絶対に食べたり飲んだりしてはいけない、ということがイラスト入りで書いてあります。低学年児童にもわかりやすく解説されていると思います」
数日前、孝もこのプリントを学校からもらってきた。プリントには、スーツを着たキツネが、半ズボンやスカートを穿《は》いた子犬や子猫にチョコレートを渡そうとしているイラストが印刷されていた。
「警察の方のお話では、こうした事件、事故があると、模倣犯などが横行しやすいので、とくに今の時期、注意してほしいとのことでした」
あの、と奈津江の前に座っていた女が手をあげた。
「最近、このあたりで散歩中の犬が何匹か死んでるんです。飼主の話では、道に落ちていたパンを食べたとか、お菓子を食べたっていうことらしいんですけど。これについては、警察ではどのように考えていらっしゃるのでしょうか。新聞にも載っていなかったんで、どうなっているのかと、不安に思っているんです」
文代は「ええと、それは」と口ごもった。前の席の教頭が立ち上がった。
「それについては先日、警察署より当校に指導に来ていただいた折、お聞きいたしました。今のところ、事件との因果関係は不明とのことです」
ざわざわと、役員達が口々に何かを言った。
「静かにしてください」
強い口調の教頭の声に、全員が前を向いた。
「こういう時期ですから、保護者の皆さんが冷静になってくださいと、警察の方がおっしゃっていました。周囲の人間があわてたり、騒いだりするのを楽しんで見ている人間がいるんですよ」
教頭は役員達を見回した。
「そういうのを愉快犯というんだそうです。とくに何の目的があるわけじゃなくて、単に世間を混乱させたいだけというか、そんな程度の動機でとんでもないことをやらかす人がいるのです。皆さんが不必要に騒ぐと、愉快犯とか模倣犯がまた喜ぶわけですから、どうか冷静に対処してください、とのことでした」
言ってから、教頭は文代の方を見て頷いた。教頭が座るのを見はからい、文代は話を続けた。
「あやしい人を見つけたら、必ず警察に連絡してください。子供さん達にも注意するように、各ご家庭で、この問題についてお話し合いをしていただきたいと思います」
安全部の仕事は、交通安全に関連したことがほとんどだ。普段から、通学路の一旦停止の標識や横断歩道、ボタン式信号などに不都合が生じていないかを定期的に確認している。あるいは交通安全を呼びかけるポスターを貼り替えたり、大きな道路の立哨《りつしよう》当番表を作成したりしている。それが突然、雅彦の事件があったものだから、交通安全よりも防犯についての仕事が主になってしまった。事実上、仕事が増えたわけだが、文代はむしろそのことを歓迎しているように見える。
「南公園では、以前から変質者の出没等の問題があり、通りからも人の目が届くように、公園の樹木の枝は伐採しています。これを機に、希望が丘団地内の中央公園も、樹木の枝の伐採を検討していただくように、自治会にお願いしています」
南公園は古い公園で、周囲に植えられた樹木が鬱蒼《うつそう》としていた。数年前、露出癖のある変質者が頻繁に目撃され、また、幼稚園児が連れ去られそうになる事件も起こった。心配した住民から声があがり、治安上好ましくないということで樹木の伐採が行われた。季節に関係なく、南公園の樹木にほとんど葉が繁っていないのはそのせいである。
「以上、安全部より、活動のご報告を終わります」
文代は着席した。
「ご苦労さまでございました」
校長が立ち上がった。
「そういうわけですので、先般の事件の犯人が逮捕されますまでは保護者の方々もご心配と思いますが、一つ、冷静な対処をお願いしたいというわけでありまして」
今、文代が話したのとまた同じことを話している。これだから、なかなか時間通りに終わらないのだ。文代は、隣の席の安全部副部長高木和美と、何か話していた。
和美は化粧気がほとんどなく、度の強そうな縁なし眼鏡をかけている。色が白く、ふくよかな顔と躯をしており、ショートカットの髪には白髪がまじっている。高校生の娘がいると聞いているが、その弟が小学校六年生にいる。そのため、和美は他の母親達より少し年齢が上である。
「文化部さん」
振り返り、小声で文代が言った。奈津江は文化委員である。文化部の仕事は保護者向けの「学校だより」の発行だ。
「この間、お願いしていた記事ですが、今日、資料をお持ちしましたので、会議の後、残っていただけますでしょうか」
奈津江は頷いた。文代は斜め後ろに座っている亮子にも声をかけている。亮子が小声で「はい」と答えると、文代は頷いた。
文化部は全部で十二名いるが、三班に分かれている。一つの班にメンバーは四人で、毎月、違う班が「学校だより」を作成しているのだ。次回の発行は奈津江の班の担当である。同じ班には亮子もおり、そろそろ、打ち合わせをしなければならないと話していたところだった。だが、今日の役員会議後に残ったのは、奈津江と亮子だけだ。
「これは、警察で以前から作られている子供用の防犯マニュアルです。さっきのとは少し違うんです。どちらかというと高学年用ですが、内容は同じです」
資料のプリントを机の上に置き、文代が早口に言った。和美はルーズリーフから別のプリントを取り出し、それに添えた。
「こっちは保護者用。このまま両方掲載してくださいね」
「わかりました」
受け取り、亮子が言った。亮子は誰が相手でも物怖じせず、顔をあげてものを言う。奈津江は黙って、亮子の手元のプリントに目をやった。
「これを、ワープロ打ちするんですね」
奈津江に見えるようにプリントをこちらに向けてくれながら、亮子が言った。
「去年からワープロ打ちしなくてよくなったんですよ。全部、印刷屋さんに任せることになったから。印刷屋さんに持っていく時、原稿はこのまま、台紙に貼り付けていけばいいんです。レイアウトだけこちらできちんと決めて、書き込んでおくの」
話している和美の隣で文代が得意気に笑った。
「上の子の時にね、わたし、文化部長やってたんですよ。ええと、もう、四年ほど前かしら。あの時は学校で印刷していたものだから大変だったわ。あの頃に比べたら今は簡単よ。レイアウトもね、まずはどうしても載せなきゃいけない記事をあてるでしょ。で、残ったスペースに短いコラムを書くか、それほどの余裕がないならイラストを入れるかすればいいのよ」
聞いてもいないのに、文代は詳しく説明を始めた。和美は、いつものことだというような顔をして、眼鏡の縁を軽く持ち上げた。
「今回なら、防犯についての記事がメインだから、それに関連したようなことを書けばいいんじゃないかしら。子供が遊びにいく時は必ず行き先を確認しましょうとか、防犯について家庭で話し合いましょうとか、そういうありきたりなことでいいのよね」
早口で、時々つまりながら、文代は話を続けた。
「今回の場合は、このプリント内容だけで見開き使ってしまうでしょ。だから、こっちのこの部分に短いコラムを入れたらどうですか。学校側のコメントを載せるっていうのもいいわよね。それとも警察関係の方から一言っていうのにすればいいんじゃないかしら」
文代はプリントの余白部分を指でさし示した。そうですね、と亮子は頷いた。奈津江もとりあえず、頷いてみせる。
プリントを奈津江の前に置き、亮子は言った。
「色々、ありがとうございます。今回も、勝沼さんに文化委員をやっていただくべきでしたね。そうしたら、普段からいろんなことを教えていただいたり、コラムをお願いしたりできたのに」
和美は下を向いて、わずかに笑っている。明らかに、亮子の言葉には揶揄《やゆ》や皮肉が込められていた。だが、文代はそんなことにはまったく気づいていない。
「大丈夫よ、楠田さん。原稿用紙一枚にも満たない程度だし、こんなコラム、すぐに書けるわよ」
「そうだといいんですが」
亮子はプリントに目をやったまま応えた。
「こういうのは『慣れ』ですよ。うちの子なんかね、書くってことを自然にやるようになりましてね。なんですか、よく先生にコンクールに応募してみないか、なんて言われましてね。六年生の長女も、三年生の次女も、作文コンクールでいくつも賞をもらってるんですよ」
文代は頬に手をあてて笑った。
「入賞なんて、すごいじゃないですか。お嬢さん達、文才があるんですねえ」
奈津江が言うと、文代はいいえ、と顔の前で大袈裟に手を振った。
「文才なんて、そんなものじゃないですよ。まあ、自然に書いてるって感じかしら。この間、長女の優希が優秀賞もらったのは、ペットについての作文です。飼っているハムスターのことを書いたんですよ」
その日常や世話の様子を、家族との触れ合いなどとからめて書いた作文なのだと、文代は長々と説明した。
「うちは情操教育で、ハムスター飼ってるんですよ。すごく増えてしまいましてね、ケージも四つあるんです。簡単に子供を産むんですよね。今、二十匹います」
話しているうちに文代の声は高くなり、ますます早口になる。和美は何も言わない。今までにさんざん、文代の自慢話に付き合わされているのだろう。
「それは、お世話が大変ですね」
あまり熱心に聞いているように見えなかったが、亮子は文代の話に相槌《あいづち》を打ってやっている。
「ちゃんと子供が面倒みるんですよ。そういう約束で飼い始めましたから。うちはそういうの、きっちりやらせるんです」
「偉いですね、お嬢さん達。子供って、最初はそんなこと言ってても、すぐに飽きちゃって結局、母親任せになりますものね」
奈津江が言うと、文代は大きく頷き、身を乗り出した。
「愛情とか、弱いものに対する思いやりの気持ちとか、そういうのを教えるのには、動物を飼うのが一番いいんですよ。べつに、こっちは何も言ってないんだけど、優希は勝手に日記書いてたんです、ハムスターについて。それをまとめて作文にしたんですけど、なんですか、審査員の先生方が、すごく生き生きと描けているなんて褒めてくださいましてね、優秀賞いただいたんです」
「お姉ちゃんがそんなに作文うまいんだから、真希ちゃんもこれからが楽しみですね」
プリントから顔をあげ、亮子が言った。
「だめですよ、あの子は」
急に、文代の声色が変わった。
「本を読みませんからね、あの子は。本を読まない子は、だめです。思考力が育ちません」
息を吐き、文代は唇をきつく結んだ。
文代が話している間、和美はずっと黙っていた。露骨に嫌な顔をするわけでもなく、しかし、相槌を打つこともしなかった。
あの、と言って奈津江は立ち上がった。
「お茶、淹れてきますね」
会議室の隅には給湯室があり、磨《す》りガラスの衝立《ついたて》で仕切られていた。ポットにはまだたっぷり湯が残っていたはずだ。
「そこの戸棚にね、コーヒーがあるんですよ」
和美が給湯室まで来て、奈津江に声をかけた。
「インスタントですけどね」
会議の時は緑茶がだされるが、各委員が残って仕事や打ち合わせをする時は、このインスタントコーヒーを淹れるのだと和美は説明した。
「ここに、コーヒーカップがあるでしょ。これ、前のバザーの残り物なのよ」
隣の戸棚には何組かのセットのカップがあった。本来は五客組のはずだが、それぞれ一個か二個ずつ欠けている。だが、内輪で使う分には充分だと言って、和美は会議室にもどっていった。
入れ違いに亮子がやってきた。
「助かりますね、ああいう方がきてくださると」
ええ、ほんとに、と奈津江が答え、亮子は苦笑した。奈津江はカップに湯を注ぎながら言った。
「さっき、どなたかがおっしゃっていましたけど、犬が死んだ事件とか、ああいうのは学校だよりの記事に書いた方がいいのかしら」
「具体的には書かない方がいいんじゃないですか。変に不安を煽《あお》ってもいけないし。それに、騒がれることを望んでいるっていうじゃないですか、愉快犯て。地元小学校の学校だよりに取り上げられたら、よけいにおもしろがって、やることがエスカレートするかも知れないですよ」
ソーサーを並べ、亮子は湯の満たされたカップを奈津江から受け取った。
「でも、聞いた以上、学校だよりの記事にしないと、あとで何か言われるかなあと思って」
「じゃ、書き方を少し、変えましょうか」
「書き方を変える?」
ええ、と言って、亮子はスプーンを戸棚から取った。
「模倣犯、愉快犯の二次的な事件が頻発していますので、くれぐれも各ご家庭で注意してください、というくらいにしておけばどうかしら。場所とか、犬が何匹死んだとか、そういう具体的な情報は伏せておいた方がいいと思うんです。犯人を刺激することにもなるでしょう」
そうですね、と奈津江は頷いた。
「それなら、ちゃんと記事に書いたことになるし、だけど刺激的じゃないし、いいですよね」
カップの湯を捨て、奈津江はインスタントコーヒーを入れた。戸棚には粉末のクリームの瓶やシュガースティックの束がある。
「これ、持っていっときますね」
粉末クリームの瓶を持ち、亮子が言った。
「お願いします」
シュガースティックをソーサーに添え、奈津江は盆を持った。会議室にもどると、机に向かっていた文代と和美が顔をあげた。亮子はその机に椅子を引き寄せている。
「何でも聞いてね、役員経験は三度目だから」
胸のあたりを軽く叩き、文代は笑った。
奈津江がコーヒーカップを置き、四人は広い会議室の隅の長机で向かい合って座った。
「それにしても、先生達もやりにくいでしょうね、こんな事件があると」
粉末クリームの瓶を手に取り、和美が言った。
「一年生の担任の先生はまだお若いし、その分、他の先生方が大変でしょうね」
亮子と奈津江は無言のまま頷いた。
とくに何も事件が起こらなければ、あの女教師が担任でも、大きな問題はなく一年が過ぎたはずだ。
「あの先生も悪気はないんでしょうけれど、それだけにね」
和美は苦笑した。
あの女教師には、時と場所を考えるだけの力がない。悪意がないだけに始末が悪く、無分別な能天気さが保護者達の顰蹙《ひんしゆく》をかっている。だが、本人は周囲の困惑になど気づいていない。
「雅彦君のお兄ちゃんはまだ、学校を休んでいるらしいし、六年生の子供達も落ち着かない雰囲気なのよ」
言いながら、和美は粉末のクリームをコーヒーに入れた。
和美の長男は忠彦と同じ学年なので、何かと噂が耳に入ってくるのだろう。高学年なら一年生の子供と違って、いろんなことを聞きつけてくるはずだ。
「文化部の人って、今日は何人欠席してらしたかしら」
粉末クリーム用のスプーンを、開けられた蓋の上に置き、和美が訊いた。
「今日の欠席は、一人だけです」
亮子が答えた。
同じ班にはあと二人メンバーがいる。一人は会議後、子供を習い事に送っていかなければならないということで帰っていった。もう一人は欠席だった。
「何ていう方?」
各委員ごとの名簿のプリントをクリアファイルから取り出し、亮子は確認した。
「江口まゆみさんです」
「その方、ご存知?」
「いえ、まだお会いしたことはありませんが」
正確には、会ったことがあるのかないのかわからない、と亮子はつけたした。
「わたしも、お会いしたことはありません。例会では」
奈津江も頷いた。
入学式などには来ていたのかも知れない。だが、江口まゆみは例会には一度も出席したことがないので、顔と名前が一致しないのだ。まゆみは、入学前の役員選出の会議にも来ていなかった。
役員の選出はくじで行われる。その際、欠席している者の分については、代理の者が引くのが通例である。公平を期すためだ。前役員が江口まゆみの代理となってくじを引いたのだが、それが当たりくじだった。
「江口まゆみさんて、一年生の江口君のお母さんでしょ」
和美が言った。
「そうです」
名簿を見ながら亮子が答えた。
「江口君の名前はすごく変わっているのよ、知ってた?」
二人が首を横に振ると、和美はコーヒーカップを向こうにやり、ボールペンを持った。机に置いていたプリントの裏に何か書いている。
「これで、ひろし、と読むんですって」
のぞきこみ、へええ、と感心したように亮子が言った。プリントの裏には「宇宙」と書かれている。
「『宇宙』と書いて、ひろしですか。きっと、大柄なお子さんなんでしょうね」
「楠田さん、宇宙君のこと、知らないの?」
ボールペンに蓋をして、和美が首を傾げた。
「とても小柄なお子さんですよ。うちの子と通学班が同じなんです。勝沼さんのお嬢さん達も一緒なんですけどね。内藤さんはご存知ですか、宇宙君」
「ええ、顔だけは」
たしかに、江口宇宙は小柄な子供だった。四、五歳児くらいの身長しかなかったのではないだろうか。
「ああいう小柄な子供さんは何かにつけ、かわいそうなことが多いんですよ。とくにあのクラスでは」
コーヒーカップを引き寄せ、和美は小さく首を振った。
「よくいじめられていたようですよ。今は、そうでもないだろうけど」
あの、と亮子が言った。
「いじめられていたんですか、宇宙君」
少し気まずそうな顔をして、和美はええ、と言った。
「誰にいじめられていたんですか」
それは、と和美はコーヒーをスプーンでかき回した。
「あのクラスでいじめられていたといったら、決まっているでしょう」
何も言わずに、亮子は頷いた。
「宇宙君は、駅の向こう側に住んでいるんですよ」
駅の向こう側は旧市街だ。
「あのあたりに、お店屋さんが何軒かあるでしょう。そこのお子さんなんですよ」
「お店屋さん」といっても、あのあたりにあるのは居酒屋やスナックの類だけだ。
「お母さんがスナックをやっているんです。一階がお店で、二階に住んでいらっしゃるそうですよ」
和美はスプーンをソーサーに置いた。
「あんまりひどくいじめられるんで、宇宙君、入学以来、学校も休みがちだったようです」
亮子は眉をあげた。
「それは、知りませんでした」
「うちの学校は希望が丘団地の子がほとんどだから、団地の外のことは、よくも悪くも皆さんご存知ないことが多いですものね」
本来、駅の向こう側は学区が違ったのだが、旧市街は子供の数が極端に減り、十年ほど前に区域の小学校が統廃合の対象になったのだと和美は説明した。
「たまたま、うちは団地のなかで一番、駅に近いでしょう。朝の集団登校の班、宇宙君も一緒なんですよ」
「高木さんの息子さん、六年生だから班長なんですよね」
言いながら、奈津江は粉末クリームの瓶とスプーンを亮子の前に置いた。
「そうなの。うちの班、六年生はうちの子と勝沼さんのところのお嬢さんしかいないんですよ」
班長は、時間になっても来ない子供がいると自宅に迎えにいかなければならない。そう言って、和美は眉根を寄せた。
「迎えにいってもね、宇宙君のお母さん、起きてこないんだそうですよ」
え、と亮子が目をしばたたいた。
「そうよ、有名な話ですよ」
文代が言った。
「じゃ、いつも子供だけが勝手に起きて、学校に行っているんですか」
「たぶん、そうなんじゃないかしら。お父さんはいらっしゃらないそうだし」
眼鏡を人差し指であげ、和美は言った。
「班長と副班長が呼びにいくでしょ。すると、宇宙君のお母さんは寝巻き姿でようやく起きてくるんだそうです。お母さんは、宇宙君はいじめられて学校に行きたくないって言っているから、今日は欠席させるっておっしゃるらしいんですよ。で、自分ももう一眠りするところなんで帰ってくれ、とこうらしいんです」
「そんなことを子供におっしゃるんですか」
あきれたように亮子が言った。奈津江は亮子に粉末クリームを使うようにすすめた。
「まあ、母親がそんなんですからね、忘れ物も多いし、着ているものも毎日同じとか、そういうことらしいんですよ」
班長は、班の子供達の名札や通学帽などの忘れ物がないか、毎朝チェックすることになっている。宇宙はそれらのものを忘れることがしょっ中だったという。
「そういう状況の子供さんて、いじめられっ子になりやすいでしょ。通学班はまだ、あまりひどいことにはならないけど、クラスの中だと子供達は容赦がないですからね」
「クラスでそんなにいじめられていたんですか」
「いえ、特定の子供さんにですよ。決まってるでしょ」
和美は首を小さく振った。
「だけど、かなりひどいいじめられ方をしていたようなんですよ。うちの、高校生の娘が塾にいく時、中央公園の前を通りかかったんですけどね、その現場を見たって言ってましたから」
「ゲーム機とか、玩具を取り上げられていたんですか」
亮子の言葉に、いいえ、と言って和美は唇をかたく結んだ。
「そんな可愛いものじゃありませんよ」
奈津江はコーヒーをスプーンでかき回した。が、手が震えてスプーンがカップにあたった。カップが音をたてる。あわててスプーンを引き上げようとしたらひっかかり、瞬間、カップが倒れた。
「あ、ごめんなさい」
ふきんを取り、奈津江はこぼれたコーヒーを拭いた。
「どうなさったの」
皆が奈津江を見ている。
「あ、いえ、何でもないんです」
「新しいの、淹れてきましょうね」
亮子が立ち上がった。
「いいです。自分でやりますから」
「先ほど内藤さんに淹れていただきましたから。座っていてください」
言いながら、亮子は奈津江のカップを盆に載せ、衝立の向こうにいった。
「疲れてらっしゃるんじゃありませんか、内藤さん」
新しいコーヒーをテーブルに置き、亮子が言った。
「顔色が悪いですよ」
「そういえばそうね」
文代も和美も心配そうに奈津江の顔を見ている。
「いえ、大丈夫です。手がすべっただけですから」
奈津江は胸の前で小さく手を振った。
「すみません、楠田さん。いただきます」
砂糖も粉末クリームも入れずに、奈津江はコーヒーカップを両手で持った。手の中に、カップの熱さが痺《しび》れるように伝わってくる。
「あれは、子供のやることとして見過ごせるようなことじゃありませんね」
唐突に、和美が言った。
「公園の隅で、宇宙君、服を脱がされていたそうですよ。下着まで脱がされていて」
「下着を?」
椅子に座り、亮子が言った。
「下半身が血にまみれていたそうです」
亮子の息を呑む音がした。誰も何も言わない。
「うちの娘が通りかかったら、あわてて二人とも植え込みに隠れたらしいです。他にも見ていた子がいたんですが、後で聞いた話だと、宇宙君は肛門に石を詰めこまれていたというんですよ」
奈津江は首のあたりが冷えていくのを感じた。背中と腋の下に、冷たい汗が滲んでいるのがわかる。
「そんなんでね、宇宙君はずっと学校を休みがちだったんですよ。いつも、あまり家から出ないってことも聞いています。今回の事件があった日も、宇宙君はあの公園にいなかったでしょ、同じ学年なのに。ほとんど家にこもっているらしいですよ」
言ってから、和美はコーヒーを飲んだ。
9
最後の生徒を送りだし、亮子はキッチンに行った。続きになっているリビングで夫の淳一が新聞を読んでいる。
「信宏は?」
「二階だよ。また、ゲームやってるんだろう」
ゲーム機に夢中になっているところを亮子に見られると叱られる。だから最近、信宏は自分の部屋でゲームをやっている。
「新しいゲーム機買ってやったのか」
「仕方ないでしょ」
事件から約一ヶ月が経った。雅彦が亡くなり、ゲーム機は返してもらえないままだ。仕方なく、新しいのを買ってやったのだが、その直後、また違う機種が発売されたとかで、信宏は玩具屋の折込広告を集めたり、切り抜いて品定めをしたりしていた。
ゲーム機も、次から次へと新製品がでる。なかでもスパイラル社のそれはデザインが斬新で、子供達に人気がある。ノート型パソコンを計算機サイズにしたようなデザインで、メタリックな塗装がしてあり、従来のものとはかなり意匠が違う。
スパイラル社のソフトを何本か集めると、スパイラルシールというのがもらえるらしいのだが、これを本体に貼っているのが、男の子達の間では憧憬の的になっている。高学年の男の子の間では、シールに自分のイニシャルを書き込むのが流行しており、今では幼稚園児もそれを羨ましがって欲しがるという有り様だ。
シルバーの輪を何重にも組み合わせたデザインのシールは、大人が見ても何ということはない。だが、子供の世界では「格好いい」ということになるらしい。信宏にもさんざん、ねだられているが、亮子はしばらく買ってやる気はない。
「今日は早かったのね」
ああ、と淳一が新聞に目をやったまま答えた。普段、夫の帰りは遅く、夕食は信宏と二人でとることが多い。
「ちょっと待っててね。今、温めるから」
ガスの火をつけ、亮子は言った。
夕方にレッスンをしている亮子は、食事の準備はいつも昼間のうちにすませている。すべて用意しておいて、温めたらいいだけという状態にしてあるのだ。
「例の事件、まだ犯人の目星がつかないのか」
新聞を手に持ち、淳一がダイニングテーブルの椅子に座った。
信宏のいる時には、亮子も淳一も事件の話はしない。事件直後は亮子自身、その話に触れるのもいやだった。
亮子は雅彦が悶《もだ》え苦しむところを見ている。そして、事件の発端となる現場に信宏がいたということにも、大変な衝撃を受けた。
「まだ、警察はうちに来るのか」
「来るけど、挨拶だけして帰っていくわ」
事件直後は刑事が頻繁にやってきて、信宏から事情を熱心に訊いていた。刑事二人と婦人警官が、何度も同じ質問を繰り返し、絵まで描かせていた。が、三週間目を過ぎてからは、ものものしく三人でやってくることはなくなった。
最近は二、三日に一回、刑事が二人でやってくる。亮子に簡単な挨拶をし、信宏とありきたりな会話を交わして帰っていくだけだ。婦人警官を伴っていないところを見ると、信宏からじっくり話を聞くつもりはないのだろう。
公園にいたプルミンおばちゃんについて、いくら根掘葉掘訊いても、子供達は彼女の顔を見ていないし、声も聴いていないのだ。
体型を訊《たず》ねても、信宏は「普通」としか答えない。たぶん、極端な肥満体の女でないことは確かだが、つまりはその程度のことしかわからないのだ。
プルミンレディーの制服は、ワンサイズで対応できるようなデザインになっている。あのペパーミントグリーンの制服の下の体躯がかなりふくよかであったとしても、あるいは骨と皮だけのような細い躯であったとしても、傍目《はため》にはその差異はわかりにくい。
警察は、身長についても信宏に詳しく訊いていた。だが、小学校一年生の子供からすれば大人は皆、見上げる位置に顔があるわけで、どのくらいかと問われても答えようがないのだ。
よほど極端に高いか低いかの特徴がないかぎり、子供達の印象には残らない。六歳の子供に、身長が何センチくらいと数字で見当をつけられるはずもなく、答えはすべて曖昧《あいまい》で、捜査の参考になるような材料とは言いにくい。
「公園で見たプルミンおばちゃんは、お母さんより背が高かったかな、低かったかな」という質問を、婦人警官は繰り返していたが、信宏は首を傾げるばかりだった。何度も訊かれると、「同じくらいだったよ」と答えるのだが、では、担任の女教師と比べてどうかと問われると、やはり、「同じくらいだったよ」と答えた。
女教師は亮子より小柄だ。大人の目から見れば、歴然とした身長差がある。当該のプルミンレディーが、担任の女教師とも、亮子とも、「同じくらい」ということはありえない。
信宏の記憶の中では、公園にいたプルミンおばちゃんは、「たくさんいるプルミンおばちゃんのうちの一人」でしかなく、それだけをとくに別枠で記憶にとどめているということができていないのだ。それはどの子供も同じだったようで、秀樹も孝も、公園にいたプルミンレディーの容姿については、これといった特徴を覚えていなかったと、それぞれの母親から聞いている。
警察は、子供達を相手にこれ以上事情聴取を続けたところでたいした情報は得られないと判断したのだろう。その後、捜査の過程で、雅彦や佐智子の過去の行状を知り、周辺の人間関係に着目するようになったのだ。子供達の家を回っているのは、それとなく様子をさぐり、母親達の反応を観察するために違いない。
「プルミンの営業所も、とんだとばっちりだな」
新聞をめくり、淳一は言った。
噂では、プルミン宮脇営業所には警察の捜査が入ったということだ。営業所のプルミンレディー全員の当日のアリバイが徹底的に調べられたという。日頃の勤務態度から売上実績、当日のタイムスケジュールや帰宅時間を詳細に調べられたらしい。アリバイについては、少しでも曖昧な部分や矛盾があると逐一追及され、「ひどい目に遭った」とパートの従業員が愚痴をこぼしていたという。先日のPTA役員会の雑談でも、そんなことを話している者がいた。
「営業所は、パート勤務の人も正社員も全員、徹底的に警察に調べられたそうよ」
「そりゃ、そうだろう。そのなかに犯人がいるかも知れないんだからな」
「そうかしら」
冷蔵庫からサラダの入ったボウルを取り出し、亮子は言った。
「本物のプルミンおばちゃんが、あの格好で、そんなことするかしら」
「あの格好だから、誰にも警戒されずに子供に近づけるんじゃないか」
「だから、あの格好でそんなことしたら、わかりやす過ぎるじゃないの。警察は必ず、プルミンの営業所に調べにくるにきまってるんだし」
ふううん、と淳一は顎を撫でた。
「で、アリバイのないプルミンおばちゃんはいたのか」
「聞いてないけど。でも、疑わしい人がいるのなら、とっくに重要参考人とかなんとかで、新聞記事になってるんじゃないの」
「それもそうだな」
「だからきっと、営業所にいる本物のプルミンおばちゃんに容疑者はいなかったのよ」
ボウルにかけてあったラップを取り、亮子はテーブルに置いた。
「てことは、一般人がプルミンおばちゃんに変装してたってことだな」
亮子は黙って、小皿を並べた。
おそらく、警察はそう考えている。
当日のアリバイについては、亮子も警察に何度も確認された。その日は小学校高学年の子供と中学生のレッスンがあった。レッスン開始時間は五時半だった。五時頃、信宏が帰宅したが、それまでの時間、亮子は一人で家にいた。だから、亮子のアリバイは証明されているわけではない。
あの日の夜、亮子は雅彦の自宅へ出向いている。信宏がゲーム機を雅彦に取り上げられたことを抗議しにいったのだ。
もし仮に亮子が犯人だとしたら、わざわざ、毒物を仕掛けたその日に、当人の家へ抗議にいったということになる。おかしな話だ。だが、考えようによっては、「結果」が気になって確認にいったという解釈もできる。警察なら、あらゆる可能性を考えているに違いない。
雅彦親子に反感を持っていた者は多い。先日の和美の話だと、亮子が考えている以上に雅彦のやっていることは悪辣《あくらつ》だった。あんなに酷《ひど》いことをやっているとは、想像もしなかった。やられた方にしてみれば、雅彦に対して「反感」などというなまぬるいものではなく、「恨み」の気持ちを抱くのではないだろうか。
やられていた子供は、必ずしも宇宙一人だけとはかぎらない。同じことをされていた子供が他にいてもおかしくはない。
見つかったのはその一度だけらしいが、雅彦は、実際にはもっとやっていたのではないか。子供というのはそういうものだ。たまたま「最初の一回」が見つかったわけではないだろう。しょっ中やっていたから、人の目にとまったのだ。
「偽物のプルミンレディー、か」
テーブルに置かれたサラダのレタスをつまみ、淳一が言った。
「農薬の仕掛けてあったプルミンは、一般小売用の容器だったんだよな」
ぱり、と音をさせて、淳一はレタスを齧《かじ》った。
「そうよ。営業所にまわされるのとは違う容器だったらしいわ」
プルミンの容器にはバーコードが打ってある。宅配用か小売店出荷用か、そして、製造工場も、それにより読み取ることができるという。製造工場が判明すれば、出荷地域も限定されると聞いた。
亮子が任意提出したプルミンの容器は、スーパーなどで売られる一般の店舗販売用だったということだ。製造年月日は当日のもので、製造工場は雅彦が持っていたそれと同じだった。
その他の子供が持ち帰ったプルミンについては不明だと聞いている。秀樹はプルミンを持って帰っておらず、孝は持って帰ってきたものの飲んだ後、容器を捨ててしまったという。その時はまだ事件の背景について何も知らなかった奈津江は、ゴミ回収日に出してしまったらしい。
「うちから警察に提出したプルミンの容器、結局、指紋はでなかったのか」
「そうみたい。プルミンレディーは手袋をしていたらしいし」
信宏が持っていた容器からは、信宏と亮子の指紋以外は検出されなかった。
「農薬の入ってたプルミンの容器もか」
「そうらしいわよ」
あの夜、病院から帰宅した佐智子は、雅彦の部屋に落ちていたプルミンの容器を拾い、警察に提出したらしい。その容器からは、雅彦と佐智子の指紋しか検出されなかったと聞いている。つまり、犯人は何の手がかりも残していないということだ。
「だけどさ、本当にその、犯人は南公園にいたプルミンおばちゃんに間違いないのかな」
「どういう意味?」
「だって、他にも可能性は考えられるじゃないか。公園にいたのは販売拡張のための本物のプルミンレディーってこともあり得るだろ」
「まさか」
今さらそんなことは考えられない。亮子はかぶりを振った。
「本物のプルミンレディーの宣伝なら、営業所用のプルミンをサンプルとして配るはずよ。なんで、本物のプルミンレディーが、わざわざどこかのお店でプルミンを買ってきて、子供に配るのよ」
「それもそうだなあ」
淳一はまた、レタスをつまんだ。
「でも、警察は詳細は発表してないだろ。たまたま、いろんな偶然がその日重なっただけという可能性が、ないわけじゃない」
「どんな偶然よ」
半ばうんざりしながら、亮子は言った。
「受け取った後のプルミンに、誰かが農薬を注入したということも考えられるだろ」
仮に、プルミンレディーから受け取ったプルミンに毒物が入っていなかったとする。では、そのプルミンに、どうやったら農薬を注入できるだろうか。
たとえば、第三者が雅彦に近づき、プルミンを取り上げることもできないわけではない。あるいは、盗み取ることも可能だろう。だが、プルミンを取り上げた後、農薬を注入し、それをまた雅彦に返さなくてはならないのだ。
そんな面倒なことをするだろうか。亮子がそう言うと淳一は、ふうん、と言って、レタスを食べながら椅子にもたれた。
「やろうと思えば、できないこともないんじゃないのかなあ」
「なんでそんなに手間のかかることをするのよ。殺したいなら、最初から農薬を仕掛けたプルミンを渡せばすむ話でしょ」
「殺すつもりはなかったかも知れない」
「単なるいたずらだっていうの?」
「その可能性もある」
「だったら、よけいに変だわ」
「変?」
だって、そうじゃないの、と亮子は箸を並べながら言った。
「単なるいたずらなのに、なんでそんなに手間をかけるのよ。いたずらならそれこそ、最初から農薬を仕掛けておくでしょ。その方がずっと簡単だわ。雅彦君からプルミンを取り上げたり、また、取り上げたプルミンに農薬を仕掛けて、それから返したりなんてことをしていたら、その場で本人や周囲にあやしまれるわよ」
たかがいたずらで、そこまで面倒なことをやるはずがない。それほどの面倒を厭《いと》わずにやるということは、逆に、犯人の執着心が根底にあるということを物語っている。単なるいたずらなら、もっと楽で安全な方法を選ぶだろう。
「それにね、そんな手間のかかることをしてると、姿を見られたり、顔を覚えられたりする危険が増すのよ」
「でも、なんだか、ひっかかるなあ」
「何が」
「なんか、わかんないけど」
口ごもり、淳一は腕組みをした。
「そう簡単に、公園にいたプルミンおばちゃんが犯人だって決めつけていいのかなあ」
あのねえ、と言って、亮子は淳一の方を見た。
「警察もバカじゃないんですからね、信宏に色々訊いてたわよ。あの日、公園からの帰り道に、雅彦君は誰かと話さなかったかとか、知らない人に呼び止められたりしなかったかとか」
「で、どうだったって?」
淳一は身を乗り出すようにして言った。
「雅彦君は、公園に一緒にいったお友達としか話してないって。それ以外の人には話しかけられもしていないし、呼び止められもしていないって」
「そうか」
たたんだ新聞に目をやり、淳一は気の抜けたような声で言った。
「警察は、公園の周辺や、雅彦君の帰り道の近辺の家なんかにも聞き込みをしてたらしいわよ。でも、雅彦君が、一緒にいた友達以外の誰かと話しているところを見た人はいないんだって」
ガス台に向き直り、亮子は鍋の蓋《ふた》を取った。
「だいたいねえ、プルミンの蓋に注射針を刺して農薬を注入して、その注射針の痕《あと》をまた接着剤でかためるなんて、道端でできるようなことじゃないでしょ。どう考えても、そんなの最初から自分の家でやっていくと思わない?」
「できないかな、道端で」
「できないわよ」
「なら、車の中ならどうだ」
「それも警察は訊いてたわよ、信宏に。公園とか、帰り道で、車が近寄ってこなかったかとか、変な車が停まっていなかったかとか」
「で?」
「あるわけないじゃない。あったら、そっちの捜査してるわよ」
ガスの火を止め、亮子は味噌汁をよそった。
「信宏」
階段の下にいくと、ゲーム機の音が聞こえた。
「ごはんよ、信宏」
また、夢中になってゲームをやっているのだろう。
「いい加減にしなさい、信宏」
亮子の怒鳴り声に、ようやく信宏は返事をした。
10
桐生の屋敷は、いつも甘い匂いが漂っていた。同じ敷地内にあるとはいえ、工場は裏側の庭を隔てた向こう側に建っている。それでも菓子の香りがするのは、何代も前から匂いが屋敷にしみついているからなのかも知れない。
リビングのサッシからは広い庭が見えていた。座敷のある母屋の前は昔ながらの日本庭園になっているが、新しい棟の前はイングリッシュガーデン風の庭がひろがっている。千珠の趣味だということだ。
「すみません、練習不足で」
鍵盤に指を置いたまま、千珠は言った。
「お忙しかったんですか」
亮子の言葉に、千珠は目を伏せて頷いた。
「先週から、出かけることが多かったものですから」
グランドピアノは部屋の隅ではなく、中央に置かれている。日本の住宅ではきわめて珍しいことだ。
よほどのスペースがないと、部屋の中央にグランドピアノを置くことはできない。一般家庭の広めのリビングでも、左側の直線を壁に沿って配置するのが普通である。この部屋は二十畳もある。これだけの広さがあれば、ピアノを壁際に置く必要がないのだ。
亮子は千珠の左側に座り、レッスンをしていた。
「このモルデントは、左手の三拍目が始まるまでのところで収めてしまわなければなりません」
ボールペンの先で楽譜を示しながら、亮子は言った。
「やはり、三連符で入れるのでしょうか」
「そうです」
軽く唇を結び、千珠はもう一度、フレーズの頭から弾きだした。曲の流れがどうしてもここで止まってしまう。
「じゃ、付点をつけてやってみましょうか」
何度やっても、千珠の指は正確に三連符を弾くことができなかった。今日はこの程度が限界のようだ。亮子は楽譜に変奏練習のバリエーションを書き込んだ。
「この練習をやっておかれたら、かなりよくなると思います」
「わかりました」
千珠は頷いた。
「今日は、秀樹君のレッスンはどうしましょうか」
いつも、千珠のレッスンがある時は、秀樹のレッスンはそのあとになる。が、一週間ほど前から、秀樹は体調を崩しているとかで、学校を欠席していると聞いていた。
「秀樹はまだ、かかりつけの病院からもどりません。いえ、たいしたことはないんです。お薬をいただくだけなんですが、一応、診察が必要だと先生がおっしゃるものですから。もう少し、お待ちいただけますでしょうか」
時々、秀樹は胃腸の調子を崩す。もともと消化器系が弱いらしいのだが、理由はそれだけではない。
秀樹は卓抜した絶対音感を持っている。絶対音感とは、聴いた音が十二平均率のどの音にあたるのか、楽器で確認しなくても判断できる能力のことをいう。十二平均率は一般にいう「ドレミ」のことである。つまり、絶対音感のある者は、聴いた音が「ドレミ」のどの音程にあたるのか瞬時に判断できるのだ。
一言に絶対音感と言っても、人により差がある。ピアノの音しか音程がわからない者、楽器の音ならどれでもわかる者、人の声でも判断できる者など、様々である。
なかでも優れた絶対音感の持ち主は、音楽とはほど遠い類の雑音でさえ判別が可能である。時計や電話の音、自動車や電車の音、そんな音でさえ、「ドレミ」で聴き取ることができるのだ。
秀樹がそうだった。しかも、彼は聴覚が非常によい。わずかな音でも敏感に感じ取り、周囲にどんな雑音があっても、一つずつの音を正確に聴きわけることが可能である。
しかし、鋭敏過ぎる音感と聴覚は、時として本人に苦痛をもたらす。何しろ、雑音や騒音の類でさえ音名で聴こえるので、本人にとっては常に濁った不協和音を聴かされているようなものなのだ。
高い音楽性を内に持っている者ほどその苦痛は大きい。秀樹には、年齢に不釣合いな音楽性がある。それだけに、日常生活の不快感は周囲の想像以上のものがあるに違いない。
彼が胃腸の調子を崩すのはそのせいだ。何の音もない状態で過ごさせるのが一番の薬なのだが、聴覚も人並みはずれた秀樹には、所詮、無理なことなのだった。
亮子にも絶対音感はあるが、時計や電話などの音の判別が限界で、騒音までも音名で聴こえるということはない。千珠には絶対音感はなく、おそらく秀樹の苦痛を理解することはできない。
「先生、ちょっとひと息入れてください」
隅にあった電話の内線ボタンを押し、千珠は手伝いの者に茶の用意を指示した。
「どうぞ、こちらへお掛けください」
楽譜を棚にしまい、ピアノの蓋を閉めた後、千珠はソファの方に手を差し伸べるようにして言った。促され、亮子もソファに腰掛ける。楽譜台を倒し、千珠も座った。
足が沈みそうなペルシャ絨毯《じゆうたん》の上に、イタリアから取り寄せたという猫足のソファとテーブルが置かれている。百合の花を象《かたど》ったシャンデリアはスペインからの輸入物で、グランドピアノの天板に華やかな光を投げていた。
桐生家の一人娘である千珠は桐生屋の役員でもある。夫は婿養子で、社長をつとめている。桐生屋は今も千珠の父親が実権を握っているというが、夫は製菓業以外の事業に意欲的で、ショッピングビルの経営など手をひろげている。
それだけではなく、今度の市長選に出馬するらしいと噂されている。すでにその準備を始めているらしく、「明日の市政を考える会」とか、「子供達の明日のために」などという講演会を頻繁に催しており、ポスターも最近、よく目にする。
四葉のクローバーのバッジはどうやら後援会のそれらしく、ポスターの桐生はバッジをつけて微笑んでいる。ここまで周到にやっているのだから、たぶん、出馬の噂は本当なのだろう。
千珠のレッスンは、月一回か二回である。変則的なのは、千珠の仕事の都合によるものだ。桐生屋の役員でもあり、また、当主の娘でもある千珠は、付き合いも広いし、顔をださなければならない会合も多い。
御大家のお嬢様だが、千珠は家業の製菓業が好きらしく、工場などにも自ら出かけていって、新商品の企画にも積極的に取り組んでいる。
「今日も、工場でお仕事だったんですね」
「わかりますか」
照れたように千珠は笑った。
「そうなんです。朝からずっと工場にこもっていました」
千珠が工場に出入りした日は必ずわかる。なんともいえない甘い匂いが、千珠の躯《からだ》から漂うからだ。
「甘い、いい香りがしていますよ」
「自分では、あまりわからないんですが」
菓子工場の匂いというものは、単に甘いだけのそれではない。小麦粉が、砂糖や卵と混じり合って、ふんわりとしたやわらかな香りを作り出すのだ。桐生屋は洋菓子も扱っているから、乳製品のそれも加味されて、まろやかな香りがする。
「また、新しいお菓子の研究ですか」
「研究だなんて、そんな」
千珠は小さく首を振った。
「お菓子のことを色々考えたり、現場の者と試作したり、工夫したりするのが楽しいんです。なかなかうまくはいきませんが」
「じゃ、おうちでも作られるんですか」
「いいえ、家庭の台所で作るようなお菓子と、工場で製造するものとは、根本的に違うんですよ」
工場の製造現場では、使う材料も道具もすべて家庭用のそれとは違うから、個人の手作り感覚では通用しないのだと、千珠は説明した。一般家庭の台所で一個だけケーキを焼いたり、鍋一つ分だけの餡《あん》で饅頭を作るのとは、まったく別の話だということらしい。
「形も味も、すべて均一のものを大量に作るには、どうしても機械が必要ですから。でも、一個ずつ大切に作る姿勢がないと、それが味にでてしまいます。お客様はそのあたりに敏感ですもの」
ドアをノックする音がした。盆を持った白髪の女が入ってくる。彼女は一番古くからいる桐生家の家政婦だ。「清子さん」と呼ばれており、千珠が子供の頃から住み込みで働いているらしい。清子は六十を過ぎているとのことだが、上品に生成《きな》り色のボウブラウスを着こなし、背筋もきれいに伸びていて年寄臭さがない。
清子の持っている盆から菓子皿を取り、千珠は亮子の前に置いた。
「これ、試作品ですのよ。わたしが考えて、工場の者が色々工夫をしてくれました」
ガラスの皿に、五角形の菓子が載っていた。上半分は透明なゼリーのような層があり、下半分は白と濃い茶色のムースのようなものが見えている。上には金色の粉が散らしてあり、上品な色合いに仕上がっていた。
「これ、和菓子なんです」
和菓子か洋菓子か、はかりかねる形状だった。金粉の散らし方は和菓子の雰囲気を持っているが、色や形は洋菓子のそれだ。清子の持っている盆に抹茶茶碗が載っていなかったら、たぶん洋菓子だと思っただろう。
「きれいな彩りですね。あんまりきれいだと、食べるのがもったいなくなります」
「ありがとうございます。でも、お味の感想もぜひ、お聞かせください」
「では、いただきます」
切り取り、口に含むとチョコレートの香りがした。が、噛《か》むと小豆《あずき》の味がする。次の瞬間、練乳のようなまろやかな味覚があり、ふんわりとした食感が舌に残る。
「味は、洋菓子の感じがします」
「餡が嫌いっていう人、結構いるでしょう。そういう人は洋菓子ばかりで、和菓子は召し上がってくださらないんです。そういう人にも、餡のおいしさを知ってもらえるようなものを作りましょうということで、今色々と試作品を作っているところなんですよ」
「これ、見た目もきれいだけど、味ももちろんおいしいです。餡が入っているのはわかるけど、それがなんだか、チョコレートの風味がわずかにして、甘さも全然しつこくなくて、いくつでも食べられそうです」
「うれしいです。そんなふうに言っていただけると」
頬を紅潮させ、千珠は少女のような顔ではにかんだ。
もともとは、秀樹の出張レッスンを頼まれて桐生家に出入りするようになった。秀樹が幼稚園の年長の時のことだ。母親同士の付き合いにあまり顔をださない亮子は当時、千珠と直接話したこともなかった。楽器店を通して出張教授を頼んでこられたのが縁だった。
千珠は、息子とともに自身もレッスンを受けたいと言った。幼稚園からピアノは習っていたが、高校でテニスに夢中になり、やめてしまったのだという。秀樹がピアノを習う年齢になり、自分もまた、勉強してみたくなったのだと千珠は話した。
「古典派もロマン派も、きちんと弾けるようになりたいんです。学生時代、中途半端で終わってしまったものだから」と千珠は昔の楽譜を取り出してきて言ったものだった。
「これ、桐生屋さんの新製品になるんですか」
皿の菓子を見ながら、亮子は言った。
「わかりません。見た目がきれいとか、味がおいしいとか、それだけでは決まらないんです」
「あら、それ以外に何が必要なんですか」
それは、と千珠は唇を結び、眉根を寄せた。生真面目な表情で、亮子を見ている。
「その時の流行とか、時代の志向というのでしょうか。そうしたものに沿っているかというのは、新製品には大切な要素なんです」
新製品を売り出すのにはお金がかかる。つまり、資本をつぎ込んで開発と発売をするのだから、役員会の審査は厳しいのだと千珠は説明した。
「新しいお菓子については職人達と一緒に考えるんですが、それが実際、店頭に並ぶかどうかは、役員達の意向にかかっているんですよ」
菓子屋といっても、桐生屋のように大きな会社組織になると、いくら会長の令嬢で役員とはいえ、一人の思惑で組織は動かないということなのだろう。
「いいものを作っても採算がとれなければ、企業としては失敗作ということになるんです」
「見た目も素敵で、しかもいい素材で作ったおいしいお菓子だったら、高くても売れるでしょう」
「今までの桐生屋のお菓子の値段との兼ね合いとかがあるんですよ。うちには昔からのお得意様がついてくださっていますし、突然、無茶な値段をつけることはできないんです」
老舗というのは、そういうものなのだろう。景気がよいからといって、法外な値段をこれ見よがしに設定したりはしない。あるいは、どんなに不景気であったとしても味や品質を下げない。そうした姿勢があるから、老舗は老舗の矜持《きようじ》と信用を保っていられるのだ。
「お菓子のことだけ考えていればよいのなら、楽しいのですけれどね」
千珠は小さく笑い、皿を手に持った。その時、ドアがノックされた。
「お坊ちゃまがお帰りになられました」
手伝いの若い女がドアを開けて言った。この女は満知子といって、まだ二十歳を少し過ぎたくらいである。化粧気がなく、肩までの髪を後ろで束ね、いつも長めのフレアースカートを穿いている。千珠の遠縁にあたる娘だが、短大をでたあと、お菓子の勉強がしたくて桐生家にいるという。普段は千珠の菓子製作やレシピ作りの手伝いをしたり、何もない時は秀樹の相手をしたりしている。
「ただ今」
ドアから秀樹が顔をだした。顔色は悪くない。表情もいつもと変わりないようだった。
「秀樹、さっきから先生がお待ちくださっているのよ」
部屋に入り、秀樹は「こんにちは」と亮子に挨拶をした。
「早く手を洗ってもどっていらっしゃい」
「はい」
素早い身のこなしで秀樹は出て行った。一礼し、満知子がドアを閉める。
「お元気そうで、安心しました」
「ええ、たいしたことはないんです。ただ、朝のうちなど、少し具合が悪くなるようでして。胃腸が弱っているからだとか、先生はおっしゃるのですけどね」
学校を休んだ日は、一日中本を読んでいるか、ピアノを弾いているという。秀樹なら、たぶんそうだろうと亮子は思った。
頭がよいので、教えるのが楽な子供だった。誰かがお守りをしなくても、あの子なら本を読むなり、ピアノを弾いたりして、一日を退屈せずに過ごせるに違いない。
亮子が抹茶を飲んでいると、廊下をばたばたと走る音が聞こえた。
「ごめんなさい、先生」
ドアが開き、秀樹が入ってきた。
「早く、仕度なさい」
千珠に促され、秀樹はピアノの向こう側にある楽譜棚の扉を開けた。楽譜の背表紙をたしかめながら、秀樹は教則本を取り出している。亮子は立ち上がり、ピアノの蓋を開けて楽譜台を立てた。
「先生」
振り返るようにして秀樹が言った。
「五線ノートいる?」
「いります」
「三段?」
「三段と六段、両方」
頷き、秀樹はノートを二冊手に持った。
進度の早い秀樹には、和声聴音と旋律聴音のレッスンをしている。このくらいの年齢なら、一ページを三段に区切った五線ノートを使うのが普通だが、先月から秀樹には六段のノートを使わせていた。秀樹は複雑な旋律も聴き分け、書き取ることができるからである。複雑な旋律を書き取る場合、線と線の間隔の大き過ぎる三段の五線では、音符が書きにくいのだ。
「お願いします」
秀樹が差し出した楽譜を受け取り、亮子は楽譜台に載せた。千珠はソファに座ったまま、レッスンの様子を見ている。
スケール練習の楽譜を開き、亮子は秀樹に演奏を促した。秀樹は難なく弾きこなしていく。
「付点をつけて弾いてごらんなさい」
思った通り、秀樹は躓《つまず》くことなく弾いてみせた。
男の子にピアノを熱心に習わせる母親は少ない。大抵は大手の楽器メーカーの主催するグループレッスンに、幼稚園の頃だけ通わせるくらいで、まともに楽譜が読めるところまでには至らない。どうせ男の子だからというので、母親がそれほど熱心にならないのと、年齢があがってくると本人が「数少ない男の子」ということを意識して、やめたがるからだ。それでも勉強を続けるというのは、本人がよほどピアノが好きか、母親が熱心かのどちらかである。
千珠は多忙だが、秀樹の練習は必ず毎日みている。亮子のだしておいた課題はいつも正確に、不足なくこなされていた。演奏を聴けば、どの程度の練習をしていたのか見当はつく。秀樹の場合、幼稚園の頃からかなり熱心に練習を積んでいた。
幼稚園児や低学年児童の場合、日々の課題の消化は母親の意識と姿勢にかかっている。いい加減な母親だと、結果はそのまま子供の進度に反映される。
音楽について、千珠は自身の経験とそれに基づく知識がある。それゆえ、千珠は息子の天分に気づいているのだ。
秀樹には、年齢に比して優れた理解力と観察力がある。また、音感が抜群によい。音楽的な要素はいうに及ばず、ともかく音に対する感覚が鋭い。
亮子は信宏にもレッスンをしているが、専門家の目から見て凡人の域を出るものではなく、音楽についての卓抜した才や能があるとは思えなかった。秀樹なら、専門的な道に進む可能性が充分にある。千珠もそのことに期待しており、秀樹自身もピアノの勉強が楽しいらしく、レッスンはやりやすい。
一度、秀樹が手に怪我をして、しばらくレッスンができなかったことがある。幼稚園の時のことだが、裏の工場の隅にあった廃材などで遊んでいて、指の先を切ったのである。
いつもは温厚な千珠が、この時ばかりは激怒した。千珠は秀樹に、外に遊びに出る時には必ず手袋をするようにと命じた。プロのピアニストが季節を問わず手袋をはめているというのはよくある話だが、小さな子供にそこまでしなくてもと亮子は思ったものだ。だが、秀樹は母の言いつけを守った。秀樹自身も、ピアノのレッスンが受けられなかったことを悔しく思ったからだ。
一般に、子供にピアノを習わせる際、親は身近な講師を避けるものである。体を使う習い事と違い、ピアノは端的に頭の良し悪しがでてしまう。つまり、子供の出来不出来が露骨にわかってしまうから、よく知った人物に子供を託すことを親は避けるのだ。
だから、桐生家から出張教授を頼まれた時は驚いた。楽器店を介しての話だったが、担当する講師が、息子と同じ幼稚園に通っている子供の母親とわかった時点で、向こうが断ると思っていた。が、千珠は「かまわない」と言った。
こういう母親はめずらしい。よほど子供の出来に自信があるか、あるいは、そうしたことに関心がないかのどちらかである。
千珠は、根拠もなく自分の子供を特別だと盲信している愚かな母親の類ではない。もちろん、我が子に無関心、無頓着というわけでもない。
母親にとって、子供は自分以上に自分をあらわしている鏡である。出来がよければ何よりの喜びだが、逆なら身を切られる思いをしなければならない。
以前から、秀樹の高い音楽的能力に気づいていた千珠には、子供の不出来を心配する必要がなかったのは確かだろう。しかし、身近な人間に我が子を「値踏み」される状況は本来耐えがたいものがあるはずだ。
「息子の友達のお母さんなら、きっと親身になって教えていただけると思ったのです」と、後に千珠は話した。こういうところに、亮子は千珠の育ちの良さを感じる。
「エチュードは練習できていますか」
「はい」
頷き、秀樹は自分で楽譜をめくった。秀樹がテーマ部分を弾き始めた時、ドアがノックされた。
「失礼」
ドアが開き、背の高い男が入ってきた。
「あなた」
驚いたように、千珠がソファから立ち上がった。
「すまない、レッスン中に」
「いつ、お戻りになったの」
今だよ、と、男は千珠の方に歩いていった。
「おい、時計を捜しているんだ」
「時計なら、していらっしゃるじゃないの」
「いや、これじゃなくて」
腕時計に手をやり、男は亮子の方を見た。
「楠田先生ですね。いつも、家内と秀樹がお世話になっております。秀樹の父です」
「こちらこそ、お世話になっております」
立ち上がり、亮子は挨拶した。
初めて見る桐生家の婿養子、桐生直也だった。ポスターの写真より、少し痩せているようだ。彫りの深い顔立ちは写真の通りで、太い眉は上がり、顎が細くて鼻梁が高い。顔全体が小さくて唇が薄いから、それでなくても細い頬の線がよけいに鋭角的に見えた。くっきりとした二重の目は少し充血しており、下瞼のあたりがくすんだ色をしている。
「すみません、レッスンの邪魔をしてしまいまして」
桐生は会釈し、千珠の方に向きなおった。
「この部屋に置き忘れていないか」
「見てませんけど」
「お父さん」
楽譜台から少し首を傾け、秀樹が言った。
「ライティングデスクの引き出しの中だよ」
「え?」
「時計」
ああ、と桐生は苦笑し、リビングの奥のライティングデスクへ歩いていった。千珠が振り返って見ている。
「あったよ」
引き出しを開け、桐生は秀樹に言った。
「時計の針の音でわかったのか」
「うん」
腕時計を持ち、桐生はこちらへ向かって歩いてきた。紳士用にしては少しばかり小振りの腕時計だ。文字盤は、動くと薄い虹のように色合いが変わった。素材に貝殻を使っているのだろう。
「おまえの耳は、超高感度センサーがついているんだな」
桐生は笑って秀樹の頭に手を乗せた。秀樹も小さく笑い、頷いている。
「お邪魔して申し訳ありませんでした。先生、今後ともよろしくお願いいたします」
会釈し、桐生は足早に部屋を出ていった。
11
軍手をはめた手の甲で額の汗を拭い、奈津江は顔をあげた。傍らで作業をしている亮子の顔にも汗が滲んでいる。
大きな苗床から一本ずつポットに植え替える作業は、例年、PTA役員が分担して行っているらしい。ポット苗に植えられた草花は、秋のバザーで頒布され、収益金は地域の緑化運動に寄付されるのだ。
体育館の脇で、役員達は作業を続けていた。すぐ傍に鶏小屋とウサギ小屋があるので、動物の糞尿の臭いが漂っている。グラウンドの方からは時々、子供達の声や体育教師の吹くホイッスルの音が聞こえていた。
初夏の陽射しは強く、役員達は皆、サンバイザーや麦わら帽子をかぶり、首にはタオルをあてている。とくにさだめられたわけではないが、各委員ごとに集まって役員達は苗を植え替えていた。力仕事ではないものの、指の先で糸のように細い苗を一本ずつ引き離してポットに埋め込む作業は、目も肩も疲れる。
それぞれ、あてがわれたレンガに腰掛けているのだが、同じ姿勢を続けていると足腰も痛む。奈津江は脚を伸ばし、腰のあたりを拳で叩いた。
「ご苦労さまでございます」
名簿を手にした副会長がやってきた。
髪を後ろで束ね、薄いピンク色のサンバイザーをかぶっている。日焼け予防のためだろうがファンデーションをかなり厚く塗っており、茶色のサングラスをかけていた。副会長は六年生の児童の母親で、役員経験は二度目だと聞いている。
「本日のご欠席、文化委員さんは何名ですか」
その日、文化部長と副部長は次回のPTA研修会の下見にでていた。これらについては「公務」なので、欠席扱いにはならない。
亮子は立ち上がり、「一人です」と答えた。
「ご欠席の方のお名前は」
「江口さんです」
そうですか、と副会長は、名簿に目をやった。
「本日のこと、ちゃんと連絡は皆さんにいっているんですよね」
「前回ご欠席の方にも、行事や会議の開催については、プリントをご自宅まで届けております」
名簿にあった名前をさがしあて、副会長は鉛筆で印をつけた。
「ええと、江口まゆみさん。一年生のお母さんですね」
作業の手を止め、奈津江も立ち上がった。副会長は亮子と奈津江を交互に見ながら言った。
「この江口さんて方、一度も例会の会議にご出席いただいていませんね」
「はい」
二人は頷いた。
「プリントを届けていらっしゃるとのことですが、どのようにして届けておられますか」
「近所の子供さんにお願いして、ご自宅に届けていただいています」
タオルで首筋の汗を拭い、亮子は答えた。
通常、役員会の開催や行事予定などの連絡は、学校から子供を通じてプリントが配布される。だが、江口まゆみの息子|宇宙《ひろし》は欠席が続いていた。とくに最近は、まったく出席していない状態だという。仕方がないので、学校からの連絡物は担任教師が様子を見るのも兼ねて自宅に届けたり、あるいは、近辺に住む子供に届けさせたりしているのだった。
「出欠のご返事も、いただいたことがないんですよね」
眉根を寄せ、副会長が言った。
「そりゃ、いろんな方が集まってますからね、いつも全員出席なんてことは不可能ですし、無理な話です。でもね、せめて出欠の返事くらい、いただけませんかねえ」
亮子は目を伏せ、頷いた。
「こんな人は他の委員さんにはいないですよ、どうしてなんでしょうかねえ」
副会長はサンバイザーの角度を少し上に向けた。濃く塗られたファンデーションが汗のためによれている。
「皆さん、お忙しくても時間をやりくりして、頑張ってでてきてくださっているんですよ。なのにねえ、絶対にでてこない人がいるっていうのも、やはりおかしな話でね、しめしがつきませんでしょう。一度、文化委員さんの方から、この方にきちんと事情を説明していただけませんかしら」
奈津江は副会長の方に向き直った。鼻やその周囲はファンデーションがほとんど剥《は》げている。肌理《きめ》の粗い肌の毛穴が見えていた。
「近所の子供さんにプリントを渡していただいているってことですけど、そういう人は連絡物に目を通してくださらないことも多いんですよ。たとえば、役員が直接ご自宅におうかがいして、何月何日に例会がありますよとか、行事があるんですよってことを、お伝えした方がいいと思うんです。電話とかじゃなくて」
傍で、ポットに土を入れる作業をしていた和美が立ち上がり、声をかけた。
「まあ、こういうのは、直接お願いにあがった方が話は早いんですよ。うちの子供も時々、学校からの連絡物を届けにいきますけど、江口さんとこはいついってもお留守というか、声をかけても出てこないんだそうですよ。で、郵便受けにプリントとか連絡物を入れて帰るらしいんですけどね」
まあ、と副会長があきれたように眉をあげた。額と唇の横に深い皺《しわ》が刻まれる。
「たしか、この江口さんて、駅の向こうでお店をやってらっしゃる方でしょう」
副会長は「お店」というところに妙に力を入れて言った。
「そうですよ」
和美は頷いた。
「お店の営業は毎日、ちゃんとやっていらっしゃるんでしょ」
「そうだと思いますよ」
ぱん、と軍手の泥をはらいながら和美は言った。
「夕方くらいに前を通ると、お店の灯はついてるって聞いてますから」
「ということは、夕方にでもいけば、お会いできるってことですわよね」
「そうでしょうね」
「年度の最初から一度も出席してないっていう人がいると、やっぱり、こちらとしても、ほっとけないですからね。文化委員さんから、ご本人にお話をしなければ仕方ないでしょう」
「じゃ、委員長にお話ししてみます」
副会長と和美のやり取りを見ていた奈津江が答えた。
あのねえ、と副会長は鼻の頭を、肩にかけていたタオルで拭った。
「あなた方、お子さんが同じ一年生でしょ。あちらにしても、同じ学年のお母さんの方が親近感もたれるというか、クラスの様子とかも聞かせてもらえるし、きっと好意的に話を聞いてくださるんじゃないかしら」
「そうね。その方が話がよく通じるかも知れないわ」
頷き、和美が言った。
「直接、同じ学年のお母さんがきてくれたとなれば、あちらも何かと聞きたいことがあるでしょう、学校の様子とか。担任の先生に聞きにくいことだってあるはずだし、ちょうどいいと思ってくれるんじゃないかしら」
「それはいい考えだわ」
満足気に副会長が笑った。
「むしろあちらは、こういう機会を待っていらしたかも知れないわね」
言いながら、副会長は首にタオルをかけ直した。
奈津江は亮子の方を見た。亮子は困ったように息を吐き、小さく笑ってみせた。
12
窓も明り取りもない店は、夕暮れ前だというのに照明がつけられ、ぼんやりと赤茶けた色に沈んでいるように見えた。十人くらいが座れるカウンターとボックス席が一つきりの店だ。
奥の棚には酒瓶が並び、それぞれのラベルには客の名前が下手な字で書いてあった。カウンターの端には小さなプラスチック製のカゴがいくつか置かれている。百円ショップで見かけるようなカゴだ。赤色のそれには、「スナックまゆみ」と印刷されたマッチが盛られていた。青いカゴには、広告紙をメモの大きさに切った束があり、その横に使い捨てライターと金色のマイクが二本置かれていた。
亮子はカウンターの前に立っていた。
「で、なんなのよ」
流しでキュウリを洗いながら、江口まゆみが顔をあげた。
化粧は濃いが、大きな目の下のあたりに隈《くま》が浮きでている。マスカラを塗られた睫毛が濃い影を作っているので、目の周囲が黒ずんでいるように見えた。丸みのある頬には、くっきりと境界線がわかるくらいに頬紅が入れられている。高くない鼻梁の脇にはノーズシャドーが施されていた。本人は意図していないのだろうが、まるで小動物が驚いたような顔になっている。
「ですから、次回のPTAの例会にご出席いただけるかどうか、おうかがいにきたのです。江口さんは文化委員なんです。近々、文化委員の集まりもありますし、ぜひ、ご出席いただきたいと思って、お願いにあがりました」
亮子が言うと、まゆみはあきれたように上を向いて笑った。ぽってりとした厚い唇には濃いピンク色の口紅が塗られている。笑うと隙間だらけの出っ歯と歯茎が丸見えになった。
「PTAねえ」
薄手の豹柄のワンピースを着ているので、肉付きのよい腰や腹が張り出ているのがよくわかる。
水道の水を出しっぱなしにして、まゆみはキュウリを洗い続けた。大きなザルに十本ばかり、洗われたキュウリがあげられている。水道を止め、まゆみは何本かのキュウリを掴んで水を切った。何度も腕を振り、大きな乳房が揺れる。
「わかってんの」
顔の大きさや鼻のまるさとは、ひどく不釣合いな細い眉をひそめてまゆみは言った。
「おたくらね、やたら、学校に出てこいって言いにくるけど、こっちは被害者なのよ」
全部のキュウリをザルにあげた後、まゆみはL字型のカウンターの向こう側に行き、しゃがんでガス台の下の扉を開けた。扉の中には鍋類が積まれており、その上に大振りの出刃包丁が載せられているのが見える。包丁の柄《え》の部分には豹柄の布が巻かれていた。ハンカチかバンダナだろうか。何度も水をくぐったせいか、色が褪《あ》せている。
包丁を持って立ち上がり、まゆみは流しにもどってきてキュウリをまな板に載せた。
「さんざん、いじめられて、それで学校いきたくないって、うちの子は言ってるわけ。それを無理にいかせるわけにはいかないでしょ、親としても」
まゆみは塩ずりを始めた。
「そういう弱い者の立場を、あんたら考えたことあんの」
塩ずりをしたキュウリを、まゆみは手際よく薄切りにしていった。規則的な包丁の音が店内に響く。
「でも、あの」
「でも、何?」
包丁の手を止め、まゆみは顔をあげた。
「もう、いじめてたお子さんは、いないわけですし」
「雅彦って子?」
亮子は黙ったまま、俯《うつむ》いた。
「あの子はもう、死んじゃっていないから、安心してうちの子に学校に出てこいってかい」
上を向き、まゆみは笑った。大きくせりだした前歯から、唾液が飛び散る。が、突然、まゆみは笑うのをやめ、亮子を見つめた。
「何言ってんの」
あきれたように、まゆみは言った。
「うちの子はね、ずっと、ひどいことされてたのよ。そりゃ、後遺症も残るわよ。怯えてるの、今も。学校って聞いただけで震えだすんだから、親としても無理強いできないでしょ」
「それは、わたしも子供を持つ母親ですから、よくわかります」
「うちの子は学校へいくことが恐いのよ。いくと絶対に恐い目に遭《あ》わされる。そう思うと躯がこわばって、家から出られないの。わかる?」
「わかります。だからこそ、そうしたことを皆さんに知っていただいて、力になってもらったらどうでしょうか。PTA役員会にご出席されて、そうしたご事情など相談されたら、きっと皆さん、ご理解くださると思いますし、いろんな協力もしてくださると思いますよ」
PTA役員は、いうまでもなく子供を持つ親の集まりである。いじめられて登校拒否をしている子供の話は他人事ではない。解決のために、PTAが学校側に働きかけてくれることも充分、期待できる。亮子は噛み砕いてそのことを説明した。
「ちょっと、あんた」
睨《にら》みつけ、まゆみは言った。
「そんなこと言ったら、あたしがのこのこ学校に出てくって思ってるわけ?」
ふふん、とまゆみは鼻で笑った。
「なんで、子供が世話になってるわけでもない学校に、あたしがわざわざ出てかなきゃいけないわけ。あんた達は自分の子供が世話になってんだから、役員でも何でもやって当然でしょうけど、あたしんとこは事情が違うわけよ」
薄切りにしたキュウリをザルにあけて、まゆみは手を洗った。
「都合のいいことばっかり言われても困るのよね。こっちは被害者だっていうのに、学校は何もしてくれなかったじゃないの」
「でも、江口さんご自身がPTAの皆さんに働きかけをなさったら、学校側も対応の仕方を変えるかも知れませんよ」
ふうん、とボウルにザルを入れ、まゆみは小さく笑った。
「あんたさ、誰に言われてここに来たの」
それは、と亮子は小さく息を吸った。
「役員の皆さんが、江口さんのことを心配なさっていますから、それをお伝えにきたんです」
「警察もさ、さんざんいろんなことを聞きにきたわよ。あの事件の後」
まゆみはザルのキュウリに塩を振りかけた。
「みんな、あたしのこと、疑ってるってわけ?」
「疑ってる?」
亮子は首を傾げた。
「じゃ、どうしてみんな、あたしのことをそんなに気にかけるわけ?」
「それは、事件のこととは関係ありません。単に、PTA役員として、例会や行事にご出席いただけないかと言っているだけのことで、疑うとかそんな話をしているのではありません」
ぎゅっと力を込めて、まゆみはキュウリを揉《も》んだ。
「あんたさ、犯人のこと聞いた?」
「犯人のこと?」
「プルミンおばちゃんだったんでしょ、犯人」
まゆみの指の間から、緑色の汁が沁《し》みだした。
「制服着てたっていうじゃないの、プルミンの。帽子かぶって、サングラスかけてたらしいから、そりゃ、顔はわかんないわよね」
キュウリの塊はまゆみの手のなかでしだいに小さくなり、沁みだした汁がボウルの底に溜まっていく。
「そのプルミンおばちゃんの顔を見た人は、いないんでしょ」
「そうみたいですね」
「おまけにあの制服じゃ、躯つきもよくわかんないわよね。よほどのデブかチビかノッポでもないかぎりさ」
ボウルに溜まった汁を、まゆみは流しに捨てた。
「つまりそれってさ、どんな女だったのかよくわかんないってことでしょ」
薄汚れた古いステンレスの流しに、緑色の汁がたらたらと流れていく。汁を流しきった後、まゆみは亮子の方に顔を向けた。
「公園にいたプルミンおばちゃん、あたしだったかも知れないし、あんただったかも知れないわけだ」
歯茎を剥《む》き出しにして、まゆみは笑った。
「ねえ、あんた。あの殺された子、どう思う?」
「どうって?」
「あの子のこと、正直なとこ、どう思ってるわけ?」
まゆみは唇を閉じ、亮子を見た。閉じていても前歯は唇の隙間からはみだし、顎の骨格は不自然に歪んでいる。
雅彦のことは、とくには何も思っていないと言おうとして、亮子はやめた。たぶん、まゆみは怒る。怒って突っかかってこられると、また話が面倒な方向にいく。
「クラス中の子をさんざん、いじめてたっていうじゃないの、あの雅彦って子。ま、とくにうちのは酷《ひど》いやられ方をしていたんだけどさ」
まゆみはまた、キュウリを揉んだ。
「あんたんちの子も、いじめられてたんでしょ、あの雅彦って子に」
黙っている亮子の顔を、まゆみは見つめた。
「ざまあ見ろって、内心思ってんじゃないの、あんたも」
キュウリはもう充分に汁がでて、薄く柔らかくなっていた。
「雅彦って子の母親もたいした奴だったからね。知ってるんでしょ」
亮子は何も答えなかった。
「あたしも一度、会ったことあるわ」
目のあたりに険悪な色を滲ませ、まゆみは吐き捨てるように言った。
「入学してまもない頃よ。学校から帰ってきたら、うちの子のランドセルに、砂と小石がぎっしり詰め込まれてたの。あたし、驚いたわよ、教科書とか、筆箱とか、何も入ってなくて」
また唇を無理に閉じるようにして、まゆみはしばらく黙った。
「捨てられたんだって、学校の前のドブ川に。もちろん、やったのはあの子よ」
ザルのなかのキュウリが、きゅっと音をたてた。
「で、その日、あの子の家にいったわけ、文句言いに。だって、教科書まで捨てられてんのよ。黙ってるわけにいかないじゃないの。そしたらさ、あの子の母親は、うちの子はそんなことしてません、宇宙君の勘違いです、思い違いですって、堂々と言うのよ。こっちの言うことなんかまったく聞きやしない。とりつく島もないの。だけどさ、現実にこんな酷いことやられてるんだから、こっちも引き下がれないじゃない。で、さんざん押し問答したんだけど、絶対に自分の子供のしたことを認めなかったわね、あの女」
「そのこと、担任の先生にはご相談なさったのですか」
「担任て、あのおねえちゃんのこと?」
キュウリの塊を掴んで、まゆみは、はん、と笑った。
「あのおねえちゃんじゃあねえ、どうしようもないじゃない、ねえ」
小さく首を振り、まゆみは息を吐いた。
「ああいうのは、何やってもだめだろうね。客商売も無理さ、気がきかないから」
ザルに塊を返し、まゆみは手に貼りついたキュウリをはがし始めた。
「あんた、あの現場にいたんだって?」
「あの現場」と言われても、一瞬何のことかわからなかった。だが、まゆみの暗い目を見て、雅彦の亡くなった現場という意味なのだとわかった。
「あたしは学校になんか顔出さないけどさ、それくらいの噂は耳に入ってくるのよ。ここにはいろんな客がくるから」
まゆみはキュウリの一枚をつまんだ。
「死ぬとこ、見たんでしょ」
亮子は小さく息を吸った。
「服毒死って、凄《すさ》まじいらしいわね。フグでもキノコでも、毒にあたるとえらい苦しみ方だっていうものねえ」
つまんだキュウリを、まゆみは口に入れた。歯ごたえのある咀嚼《そしやく》の音が響く。
「あたしも、見たかったわ」
厚みのある唇が艶を放ち、芋虫のように蠢《うごめ》いていた。
「それであんた、葬式の最中に、あの女に掴みかかられたんだって?」
甲高い声で笑い、まゆみは上を向いた。
「そりゃ、疑われるわけだ」
流しに落ちていたキュウリのヘタをゴミ箱に捨て、まゆみは顔をあげた。
「動機も状況も、申し分ないじゃないの」
亮子は黙っていた。
「で、あんた、今日は誰の差し金で、ここへ来たわけ?」
「ですから、PTAの役員の皆さんが江口さんのご出席を望んでおられるわけで、個人の意向とかは関係ありません」
「個人の意向ねえ」
タオルで手を拭きながら、まゆみは言った。
「あんた、勝沼って女に頼まれてきたんじゃないの」
「勝沼さんて、勝沼文代さんですか」
そう、とまゆみは冷蔵庫からプラスチック容器を取り出した。
「PTA役員やってんでしょ、あの人」
「はい」
「あそこの娘も、気質《たち》悪いのよね」
文代には娘が三人いる。末娘の真希が、信宏や宇宙達と同じ一年生である。
「死んだあの子と、いい勝負なんじゃないのかしらね」
「何かの思い違いではありませんか。真希ちゃんはいつも、お姉さんと一緒に、学校の連絡物などをこちらに届けていらっしゃるお子さんですよ」
「通学班が一緒なのよ」
プラスチック容器の蓋を取り、まゆみは言った。半透明のプラスチック容器には、もどされたワカメが入っている。
「あそこの娘には、ランドセルに猫の死骸入れられたことあるわ、うちの子」
目を見開き、亮子は息を吐いた。
「すごい臭いだったわよ」
どこまで本当のことかわからない。子供の言うことを断片的に並べても、実情とかけ離れていることはよくある。部分的な事実が入っているだけに、よけいに話が錯綜し、周囲も混乱する。
しかし、話している子供自身に必ずしも悪意があるわけではなく、本人の感覚と理解力で捉えた本人なりの「真実」を語っているに過ぎない。
意識的に、あるいは無意識的に、人は自身にとって都合の悪いことは言わない。大人ですらそうなのだから、まして子供の言うことなら話は半分かそれ以下で聞くべきで、子供の話すことすべてを「事実」と捉えてはならない。
「一回じゃないのよ。ぺっちゃんこに潰れたハムスターの死骸が入れられてたことも何度かあったわ」
眉根を寄せ、まゆみはくやしそうに唇を噛んだ。
「ぺっちゃんこに潰れたハムスター?」
「道路に置いといて、自動車に轢《ひ》かれるのを待ってたんだって。その轢き殺されたハムスターを、ランドセルに入れられたのよ」
あの、と亮子は言った。
「ハムスターを道路に置いて、轢き殺されるのを待っていたっていうことですけど、その現場を宇宙君が見たとおっしゃっているのですか」
「学校の帰り道よ。帰りは一年生の子だけでしょ。みんなで、ハムスターが目の前で車に轢かれるのを見てたんだって」
その話は矛盾している。ハムスターのような小動物が道路に置かれて、自動車に轢かれるまで動かずにじっとしているわけがない。亮子がそう言うと、まゆみは唇の端を歪ませた。
「ハムスターは、ゴキブリ捕獲器にくっつけられてたのよ。ほら、シートに接着剤のついた、紙でできたやつ」
足や腹を、捕獲器のシートに粘着させられたハムスターは、身動きなどできなかったのだと、まゆみは言った。
「よく、そんなことを考えつくわね、子供のくせに」
ぺっちゃんこで血だらけのハムスターの死骸をランドセルに入れられ、宇宙は泣きながら帰ってきたのだという。
亮子は目をしばたたき、口に手をあてた。軽い吐き気を覚えたのだ。
ところでさ、と言って、まゆみは含み笑いをした。
「最近、プルミンの売上がガタ落ちなんだってねえ」
事件以来、プルミンの消費量は格段に落ちているらしい。乳酸飲料しか扱っていないプルミン本社は大打撃を受けていると、新聞記事にもなっていた。
「そりゃ、イメージ悪いわよね、子供が死んでるんだし。それに、毒入りのプルミンを手渡したのが、プルミンおばちゃんだっていうんだから、みんな、恐がっちゃうわよねえ」
まゆみはワカメをつまみあげた。
「おかげで、ワンビタビーは大儲けしてるそうよ」
ワンビタビーというのは、乳酸飲料メーカーである。しかし、この地域ではプルミンがほとんどのシェアを占めていて、その名を知らない者さえいるくらいだ。だが今なら、形勢は逆転しているに違いない。
「あの勝沼って人、ご主人がワンビタビーにお勤めなんだそうよ。知ってた?」
舌をだし、まゆみはワカメを口に入れた。
「えらい、出来すぎた話よねえ」
ワカメを咀嚼しながら、まゆみは小さく笑った。
その時、ドアが開いた。狭い店なので、扉の開閉の音がひどく響く。もう、客がやってくる時間なのだろうか。そう思って振り向くと、若い女が立っていた。
ノースリーブの黒いシャツの襟を立て、茶色に染めた髪を束ねて大きなバレッタで留めている。細く整えられた眉の下にはハイライトが入れられ、アイラインも上下に丁寧に描かれていた。上がり気味の大きな目の縁で、周到にマスカラを塗られた長い睫毛《まつげ》が、ぴん、と立っている。厚化粧には違いないが、まゆみのような野暮ったさは微塵《みじん》もない。
「おはようございます」
女が言った。ベージュの口紅にグロスをかさねた唇が、濡れたように光っている。白いサブリナパンツを穿いているが、手足が細くて長く、透き通るように白くてきれいな肌をしていた。
「どうも、いらっしゃいませ」
亮子にも軽く会釈し、女は持っていた大きな紙袋をカウンターの椅子に置いた。
明らかに水商売とわかる風貌だが、化粧も着ているものも垢抜《あかぬ》けていた。こんな場末のスナックには、ひどく不釣合いに見える。
「おはよ、アリサちゃん」
女に言ってから、まゆみは亮子を見た。
「うちの従業員よ」
アリサは亮子に軽く笑ってみせた。
「あんたが考えてるより、うちの店、客層いいのよ。ホステスもこういう子を置いてるの」
まゆみは得意気に言った。だが、そんなことには関心がない様子で、アリサはしきりと腕時計を気にしている。その時、携帯の着信メロディーが鳴った。最近の流行の曲だが、亮子は題名も知らない。アリサがサブリナパンツの後ろポケットから携帯を取り出した。
「はい、アリサです」
アリサはこちらに背中を向けて携帯を耳にあてた。話しながら、ドアに向かって歩いていく。が、ドアの手前で立ち止まった。それほど長話する相手ではなかったらしい。
「うん、今夜はお店にいるから。ええ、待ってます」
じゃあね、と言って、長い爪の指でボタンを押し、アリサは携帯をサブリナパンツのポケットに入れた。
「ねえ、ママ、ちょっと奥使わせてもらっていいかしら。着替えてる時間がなかったものだから」
「いいわよ」
「サンキュー」
紙袋をかかえ直し、アリサはカウンターに入った。カウンターの奥には臙脂《えんじ》色のカーテンが見えている。どうやらその向こうに部屋があるらしい。アリサは慣れた手つきでカーテンを開けた。
あ、そうだ、とまゆみは振り返るようにして言った。
「アリサちゃん、使った後はちゃんと電気消しといてよね」
「オッケー」
言いながら、アリサは部屋に入り、カーテンを閉めた。
まゆみはカウンターに向き直って煙草を銜《くわ》えた。
「PTA役員て、お母さんばかりじゃなくて、お父さんもいるんでしょ」
「ええ」
使い捨てライターをカウンターのカゴからとりだし、まゆみは煙草に火をつけた。
「じゃ、お父さん達に言っておいてよ。会議の後の二次会にはどうぞ、うちの店にいらしてねって」
煙を吐きだし、まゆみは媚《こ》びるように笑った。
13
六月の半ばだというのに、雨らしい雨が降っていない。まるで真夏のようだ。午後の陽射しは強烈で、日傘をさしているものの、汗が額のあたりに滲《にじ》んでいる。
希望が丘団地のバス通りを奈津江は歩いていた。このあたりはいつもバスか車で通り過ぎるので、考えてみたら近くで景色を見るのは初めてだった。
文代の家は、もうすぐだ。紙袋には次号の学校だよりの原稿が入っている。
さっき突然、文代から電話があった。学校だよりの原稿はできたか、と訊いてきたのだ。できあがっているから、少し早いが明日あたり印刷屋に持っていくつもりだと答えると、「入稿する前に原稿の出来を見てあげる」と文代は言った。
丁重に断ったのだが、文代は「見てあげる」と言ってきかなかった。「後になってミスに気づいたら後悔するから」と繰り返し、いつもの調子で押し切ってきたのだ。それ以上電話で押し問答を続けるのも悪いような気がして、つい、「ではお願いします」と答えてしまった。
今、炎天下を歩きながら、簡単に返事してしまったことを奈津江は後悔している。亮子なら、一度で突っぱねたに違いない。文代も、それを見越したうえで自分に声をかけてきたのだろう。
それにしても、今日の暑さは尋常ではない。アスファルトから、熱気が立ち上《のぼ》ってくる。道路には、逃げ水が見えていた。逃げ水の向こうからバスがやってくるが、その形は熱に煽《あお》られて歪《ゆが》んでいる。
歩道の傍にはフェンスがあり、その下には貯水池が見えていた。池の周囲には丈の高い雑草が一面に生えており、「ここで遊んではいけません」と書かれた看板さえも覆われそうなほどの勢いだ。
ふと、奈津江は立ち止まった。フェンスの向こうに、子供の姿が見えた。貯水池のすぐ傍である。もちろん、立ち入り禁止区域だ。
子供は白いTシャツを着て、オレンジ色のスカートを穿いていた。女の子らしい。小学校低学年くらいだろうか。後姿しか見えないが、頭頂部のあたりの髪がゴムで括《くく》られている。ゴムにはピンク色の飾りがついていて、きらきらと光っていた。
池の縁まで歩き、女の子はしゃがんだ。何かを池に浮かべている。それは、紙製のシートのようだった。縁の色が鮮やかなので、マンガ雑誌の付録か何かだろうと奈津江は思った。
貯水池の深さはどのくらいあるのか、奈津江は知らない。たぶん、小学校低学年の子供の背丈よりは深いに違いない。危ないからもどってきなさい、と声をかけようとして、奈津江はフェンスに近づいた。が、声が詰まった。紙製のシートの上で、何かが動いたからだ。
目を凝らすと、シートの上にずぶ濡れのネズミが見えた。いや、ネズミより小さい。濡れているのでよくわからないが、体毛は白っぽい灰色のようだ。
異様な光景だった。ネズミらしき生き物の手足は、固定されたように動かない。だが、その胴体は蠢《うごめ》き、明らかにもがいている。
胴体部分が動いているのだから、死んでいるわけではない。けれど、手足は微動だにしなかった。紐やロープなどは見えないから、縛られているわけでもなさそうだ。背中や側面だけが蠢く生き物の様子は、ひどく不自然で、歪《いびつ》な感じがした。
その時、奈津江は気づいた。あの紙製のシートは、ゴキブリ捕獲器ではないか。たぶん、ゴキブリ捕獲器の、屋根にあたる部分を取り去ったものだ。
女の子はシートに手を添え、時々、その生き物の顔の部分を水に沈めていた。だが、全部を沈めることはしない。上半身だけ水に浸け、少しすると水面に取り出す。
生き物の手足と尻尾《しつぽ》は動かなかった。シートに貼りついているからだ。けれど、背中は膨らんだり、へこんだりしていた。たぶん、荒い呼吸を繰り返しているのだろう。
しばらく、女の子は同じことを繰り返していたが、やがて池のなかで、手を放した。貼りつけられた生き物自身の重みで、シートはゆっくりと水に沈んでいく。
池の水は濁っており、水底は見えない。小さな泡を残して、生き物は水の中に消えていった。
玄関の前に立った時から、文代の家は臭かった。
「いらっしゃい。暑かったでしょ」
にこやかに言い、文代は奈津江を招じ入れた。
靴箱の上には市販の消臭剤の置物があるが、悪臭は鼻をついている。だが、文代自身はそのことに気がつかない様子なのが、奇妙だった。
「今、冷たいものでも入れますから、どうぞ」
「ここで結構です。見ていただいたら帰りますから」
「こんなところじゃ、ゆっくり読めませんから。あがってください、内藤さん」
促され、奈津江はサンダルを脱いだ。
リビングはキッチンと続きになっていた。ソファに座っていても、冷蔵庫から麦茶クーラーをだしている文代の様子が見えている。
見回すと、梁《はり》のところに賞状がいくつも掛けられていた。それぞれ額に入れられ、額のガラスも縁もきれいに磨かれている。
賞状には「勝沼優希殿」「勝沼美希殿」の名前があり、「読書感想文コンクール金賞」とか、「わたしとペット作文コンクール優秀賞」などと書かれていた。
これが見せたかったのか。奈津江はうんざりした。が、見た以上、何か言ってやらなければ仕方あるまい。
「すごい賞状の数ですね」
「いいえ、たいしたことないんですよ」
文代の声ははずんでいた。
「読書感想文コンクールの贈呈式には、市長さんも来ていらしたんですよ」
「まあ、市長さんがですか」
仕方なく、奈津江は話に相槌を打った。
「その年、優希が金賞で、美希が銀賞だったんです。二人とも、市長さんに直々に褒めていただきましてね」
麦茶のグラスを盆に載せ、文代がテーブルの前にやってきた。
「うちの子はねえ、いつも勝手に作文とか書くんですよ。わたしは全然知らないんです」
テーブルに麦茶を置き、文代は賞状の一枚ずつについて説明を始めた。文代の話は止まらない。各コンクールの由来から贈呈式の会場や審査員の顔ぶれについてまで、切れ目なく話を続ける。
「よく聞かれるんですけど、わたしも小さい頃から作文書くのは好きでしたねえ」
気分よさそうに文代は笑った。
「そういうところは、遺伝ですかしらね。もう、わたしは書いたりしないんですけどね。もっぱら、こっちを見るのが専門」
自慢気に、文代はリビングの隅にある小さな台を指さした。台は金属製のラックで、デスクトップ型のパソコンが置いてあった。
「インターネットに凝っているんですよ。内藤さんはおやりになってらっしゃらないの?」
「いえ、わたしはそういうの、よくわかりませんから」
「おもしろいですよ、これ。去年から習い始めたんですけど、先生がね、上達が早いから自分のホームページでも開いてみたらどうですか、なんておっしゃいましてね」
尋ねもしないのに、文代はインターネットやホームページの説明を始めた。自分がいかにそれらについて精通しているかを話しだした時、あの、と奈津江は原稿を差し出した。
「これなんですけど、原稿」
ああ、これ、と文代は目をやった。話の腰を折られ、少し不愉快そうな顔をしている。奈津江は早く切り上げて帰りたかったので、文代の方を見ないようにした。
仕方なく原稿を受け取り、文代は読み始めた。たいした長さではない。
「いいんじゃないかしら」
原稿から目をあげ、文代は言った。
「ちゃんと書けていますよ。誤字脱字もないし」
「ありがとうございます」
奈津江は麦茶のグラスを手に取った。
「ねえ、内藤さん」
文代は自身の手を擦りあわすようにしている。
「わたしのことで、何か学校で聞いてますか」
「勝沼さんのことで?」
ええ、と言って、文代は唇を引き結んだ。
「とくに、何も聞いていませんが」
奈津江が答えると、文代は、そうですか、と力のない声をだした。
「どうかなさったんですか」
「いえ、たいしたことじゃないんですけどね」
文代は上を向き、娘達の賞状を一つずつ見ていた。
「何か、学校であったんですか」
文代は麦茶を飲んだ。
「うちの主人ね、ワンビタビーに勤めているんです」
言ったきり、文代は黙りこんだ。
「それが何か」
困ったように笑い、文代は首を傾げるようにして奈津江を見た。
「いろんなことを言う人がいるんですよ」
「いろんなこと?」
「あの事件以来、プルミンが売れなくなっちゃったでしょう?」
事件以来、プルミンは売上が落ち、一時期は店頭から姿を消したこともあったほどだ。今はスーパーの商品棚に製品が復帰しつつあるが、それでもかつてのようにコーナーのほとんどがプルミンで占められるという状態とはほど遠い。
「今まで、この地域ではワンビタビーはあまり売れていなかったから」
目を伏せ、文代は言った。
売れなくなったプルミンにとって代わったのが、ワンビタビーだった。消費者というのは気まぐれなもので、昨日まで好きだったメーカーの製品がなくなっても、似たような製品があればそれに飛びついて、なじんでしまう。
「プルミンは店頭売りだけじゃなくて、宅配契約も激減したんだそうです」
言いながら、文代は目をしばたたいた。
「今までなら考えられないことなんですよ。それでね、いろんなことを言う人がいて」
「いろんなことって?」
「おもしろがって、とんでもないことを言う人がいるんです」
わたしがね、と言って、文代は息を吸った。
「公園にいたプルミンおばちゃんに似ている、なんて、言われているらしいんです」
「プルミンおばちゃんに似ている?」
ええ、と文代は頷いた。
「でも、勝沼さんに似ているっていっても、子供達は誰もプルミンおばちゃんの顔は見ていないんですよ」
そのことは新聞記事にも書いてあった。周囲の者なら皆、知っているはずだ。それがどうして、唐突にそんな話になるのだろうか。
「だから、誰かがわざとそういう話をしているんです」
文代は眉をひそめた。
「うちの主人がワンビタビーに勤めていたから、そんなふうに話がおもしろおかしく作られたんだと思います」
たまたま、毒殺に使われた製品のライバルメーカーに、自分の夫が勤めていた。そして、毒殺された子供と同じ学校に、自分の子供が通っていた。すべては偶然なのだが、それについて、いかにも何かありそうに噂話をする人がいるのだと、文代は言った。
「ワンビタビーの社員のボーナスは、今年は倍になるとか、特別手当がでるとかなんとか、根も葉もないことを言われているんです」
その話は、奈津江も聞いたことがある。そういうこともあるのかと、聞き流していた。が、ワンビタビーの社員の家族が事件に関与しているというのは初めて聞いた。噂というものは、放っておくとそんなにまで膨らんでいくものらしい。
「そんな理由で、プルミンを使って子供を殺したりすると思いますか」
大きく息を吐き、文代は肩を落とした。
その時、庭の方で小さな物音がした。文代は反射的に顔をあげた。
「真希」
言った途端、文代の目に険悪な色が滲んだ。頬が紅潮している。文代はリビングのサッシの方を睨みつけていた。
「どこに行ってたの、真希」
立ち上がり、文代はサッシを開けた。庭に女の子がしゃがんでいる。
「どうして、黙って出ていくのよ。お母さん、心配したじゃないの」
真希は何も言わずに立ち上がった。その途端、奈津江は目を瞠《みは》った。真希は白いTシャツを着て、オレンジ色のスカートを穿いていた。頭の真上あたりでまとめられた髪には、ピンク色のきらきら光る飾りがついている。
「あんた、また、ハムスターのケージ、開け放しにしてたでしょ。また、一匹いないじゃないの」
さっきまで話していた声とはうって変わり、文代は喉の奥から吼《ほ》えるようにして怒鳴りつけた。
「開け放しにしておくと逃げるから、ちゃんと閉めなさいっていつも言ってるでしょう。まったく、どうしてあんたは人の話をちゃんと聞かないのよ」
真希は表情のない顔で庭に立っていたが、踵《きびす》を返して表に行こうとした。
「待ちなさい」
文代は裸足のまま、庭に飛び降りた。
「待ちなさいって言ってるでしょう」
言いながら、文代は真希の髪の毛を掴み、頬を叩いた。
「どうして、あんたはいつもこうなのよ」
真希の髪の毛を引っ張り、文代は力まかせに振り回した。真希の首は不自然な角度で引っ張られている。躯の均衡をとるために、真希は伸ばした腕を必死で動かしていた。
「なんで、いつもお母さんが言っていることが守れないの」
頬を打ち、文代は怒鳴りつけた。
「あんたのせいで、また一匹逃げちゃったじゃないの」
髪の毛を掴んだ腕に力を込め、文代は真希を引き摺《ず》りまわした。真希は悲鳴もあげず、されるがままになっている。
「あんたって子は本当に」
唇を歪め、文代は真希の顔と頭を何度も殴打した。
「お姉ちゃんの気持ちも考えなさいよ。人の気持ちがわかんないの、あんたは」
気がすむまで娘を殴りつけたあと、文代は肩で息をした。
「早く、玄関からまわって家に入りなさい」
掴まれていた髪の毛を放された真希は躯をまっすぐに立て直した。髪の毛が逆立ち、頬が腫れているが、泣きもせず、真希は小走りに庭を出ていった。文代はサッシのところに置いてあった雑巾で足の裏を拭い、家にあがった。
「まったく、全然言うこときかないもんだから」
顔をしかめ、文代はソファに座った。
「いくら言っても、あの子はきかなくてねえ。うち、ハムスター飼ってるでしょ。今日みたいにお天気のいい日は、庭にケージをだしておくんです」
この家に漂う臭いは、ハムスターのそれだったのだ。
「ケージの出入り口を開け放しにしておくとね、逃げてっちゃうのもいるんですよ。この辺、猫が多いんです。放し飼いにしてるお宅があるものですから。ハムスターみたいに小さいのが外に出るとね、猫にやられちゃうんですよ」
今まで逃げたハムスターは一匹も帰って来なかったと、文代は腹立たしそうに言った。
14
プルミン宮脇営業所は、旧道沿いの八階建てマンションの一階にあった。マンションの壁には白いタイルが貼られ、小綺麗な喫茶店やブティックが入っており、近所の主婦なども気軽に入りやすい雰囲気だ。
縁なし眼鏡を人差し指であげ、和美は小さく息を吐いた。文代は眉間に皺を寄せ、営業所の玄関を睨みつけている。
「本当に行くの?」
和美は訊いた。
「ここまで来たんだもの。当然でしょ」
怒りのために、文代のまるい背中は大きく波打った。
これ以上、何を言っても無駄のようだ。
文代は悪い人間ではないと、和美は思っている。同じ団地に住み、互いの子供が同じ学年であったために、学校や町内の行事等で一緒になることがよくあった。文代は世話好きで、人がいい。
ただ、子供のことを誰彼かまわず自慢し、ひけらかすので、周囲に嫌われている。また、PTA役員などにも自ら立候補して役職に就きたがり、「でたがりのやりたがり」と嘲笑する者もいる。だが、実際には役員職は「なすり合い」で、文代のような人間がいた方が周囲は助かるのだ。子供っぽい性格が災いして、文代は損をしている。
娘の作文コンクール入賞をやたらひけらかすのは、自身の学歴へのこだわりがあるからだろう。家の事情で高校を中退したらしいのだが、理由については話したがらないので和美は知らない。何でも一生懸命になる性格で、少しばかりピントがずれていても突っ走ってしまう。
今回のこともそうだった。ふと、文代の前で、昔からの知り合いがプルミンで仕事をしているという話をしたら、会わせてほしいと言いだしたのだ。
雅彦の事件以来、プルミンの売上が激減し、代わってワンビタビーが台頭し、飛躍的に売上を伸ばしているという。
たしかに、どこのスーパーでも乳酸飲料のコーナーにプルミンはわずかしかなく、そのほとんどのスペースをワンビタビーが占めている。プルミンはまさに「押しやられた」格好だ。一時期はまったく消えていたこともあったくらいで、事件以降、消費者の人気はワンビタビーに完全に移行してしまった。
事件報道の都度、プルミンの容器の写真が、新聞やテレビなどに取り上げられた。毒物が仕掛けられていたのは、雅彦の持っていたそれのみであって、製品全般にはまったく関係がない。だが、それでも、「毒物が仕掛けられていたプルミン」という映像やイメージは人々の心に浸透し、定着した。
現在、ワンビタビーは創業以来の好成績をあげているということだ。たまたま、夫がワンビタビーに勤務していたので、文代は今、あらぬ噂をたてられている。事件現場の公園にいたプルミンおばちゃんは、文代ではないかというのだ。
南公園にいたプルミンおばちゃんの顔を見た者はいない。だから、噂そのものが根も葉もないデマなのだ。取り合う必要はないと和美は思う。
だが、文代は、そのデマは「プルミンレディーによって意図的に流された」と考えている。事件で打撃を受けたプルミン側の「報復」だというのだ。
宅配にまわるプルミンレディーは、各家庭と親しい。配達の際、「これはワンビタビーの策略だ」と言っていたと、文代は近所の者から聞きつけてきた。
たとえそんなことを言っているプルミンレディーが実際にいたのだとしても、文代を名指ししたわけではあるまい。冗談めかして、「事件のお陰でワンビタビーは今、大儲けしている」というくらいの会話があったことは想像に難くない。それくらいの軽口は客の方もたたくだろう。たぶん、そんな話がまわりまわって、文代の夫がワンビタビーに勤めているという「事実」も加わり、尾鰭《おひれ》がついていったのに違いない。噂など所詮、そんなものだ。
だが、単純な文代は、どうしても腹の虫がおさまらない。当事者が騒げば、周囲はよけいにおもしろがるだけなのに、「黙っていると何かあると思われる」と文代は言うのだ。
子供が小さい頃、和美の家ではプルミンの宅配を頼んでいた。七年ほど前のことで、あの頃は小売などなく、宅配しかなかったように記憶している。
当時、高校時代の友人がプルミンレディーの仕事を始め、頼まれて契約したのだ。こういう仕事に向いていたのか、やがて友人は新規契約を毎月トップで取り付けるようになり、一、二年前、所長に抜擢《ばつてき》された。彼女と契約していた者は近辺にも大勢おり、ちょっとした話題になったものだ。
先日のPTAの会議の前、プルミンがスーパーの棚から消えたということが役員達の間で話題になった。その折、「あのパート勤務から所長さんになった人も、今は営業成績があがらなくて四苦八苦だろうね」と誰かが言った。「ワンビタビーの嫌がらせじゃないかって、プルミンでは言っているそうよ」とさらに誰かが続けた。
雰囲気や流れからして、どう考えても根拠のある話ではないのは明らかだった。だが、文代はそうは考えなかった。さすがにその場では黙っていたものの、かなりの憤りを感じたようだ。
以前から無責任な噂を立てられて頭にきていた文代は、「確かめにいく」と突然言いだしたのだった。
「そんな、やめなさいよ。みんな、ただの冗談でおもしろおかしく言っているだけなんだから」
和美が止めても、文代は聞かなかった。
「噂でもでたらめでも、本気にする人がいるのよ。ねえ、プルミンの宮脇営業所の所長って、あなたの友達なんでしょ。紹介してよ。ちゃんとした話がしたいのよ」
「たかが噂なんだから、ほっとけばいいじゃないの」
いいえ、と文代は首を振った。
「ほっとくわけにはいかないわ。だって、噂ってほっといたらどんどん大きくなっていくんだもの」
「逆よ。当事者が騒いだら、噂はよけいに大きくなるわ」
「わたし、聞いたのよ」
「何を」
「希望が丘団地を宅配でまわっているプルミンレディーが、この事件はワンビタビーの関係者が一枚噛んでいるんですよって、話してるらしいのよ」
「そんなの嘘にきまっているでしょ。話がおもしろくなるから、みんながどんどん尾鰭をつけていくのよ」
「プルミンが噂を流してるんだわ」
「たとえそうであったとしても、あなたのことを言っているわけじゃないでしょ」
何言ってるの、と文代は高い声で言った。
「わたしのことにきまってるじゃないの」
結局、文代に押し切られ、プルミン営業所に連れていくことになった。
本当は、勝手に一人で行けと言いたかったのだが、単純な文代のことだ。興奮して、何を言いだすかわからない。友人の前で、変に和美の名前をだされては迷惑だ。また、激昂した文代がとんでもないことを言いださないともかぎらない。
それなら最初からついていって、和美から友人に事情を説明し、友人から「そんな事実はない」という言葉を引き出せばよいのだ。営業所長である友人が直々に否定することで、文代も溜飲《りゆういん》を下げるに違いなく、文代が納得すれば話は終わるのだから、興奮させないように冷静に話を運べばよいのである。
単純な人間は簡単に興奮するが、目の前で否定材料を示されれば、また簡単に納得するものだ。少々手間はかかるが、子供と同じと思えば、扱いはそう難しくない。
「じゃ、入りましょう」
和美が言うと、文代は頷いた。
自動ドアが開いた。事務机が四つ見えたが、人がいるのは奥から二番目の一つだけだった。
「はい」
女が立ち上がった。プルミンレディーの制服を着ているので、和美の友人ではない。営業所長は私服である。
「あの、所長さんはいらっしゃいますか」
入口から声をかけた。
「ええと、所長は今、本社なんです。もうすぐ帰ってくると思いますが」
五十前後の小柄な女だった。制服を着ているとはいうものの、さすがに部屋の中なので、チューリップハットはかぶっていない。パーマのかかったショートカットの髪の毛も、シミの浮き出た顔も見えている。化粧はしているものの、どちらかというとおざなりで、あまり頓着のない様子だ。
「何か、お約束がおありだったでしょうか」
「あ、いえ、とくに約束なんてしていないんです。ちょっと、顔見に来ただけですから」
友人は不在だった。そのことに和美は半ば安堵し、半ば困惑した。
勢いこんでいた文代は、少し肩の力が抜けたに違いない。だが、今ここで引き揚げたら、後になって「もう一度出直す」と必ず言うだろう。
ならば、このプルミンレディーと話をして、「あなたが思いこんでいるのは事実無根で、わたし達プルミンレディーはそんな話はしていない」と目の前で言わせた方がいいだろうか。
しかし、よほど慎重に話を進めないと、このプルミンレディーも怒りだして、収拾がつかないことになるかも知れない。
友人なら、和美の置かれた状況や立場を瞬時に把握し、文代を上手になだめるだけの知恵や器量がある。そう思ったからここまで来たのだが、本人がいないとなると、下手に話は切り出さない方がいいかも知れない。
「あの、高木さんじゃありませんか」
プルミンレディーが言った。
「はい、そうですが」
「覚えてらっしゃいません? 六年ほど前ですか、宮脇小学校で、お宅のお嬢さんとうちの息子が一緒でした」
「え、うちの娘と?」
そういえば、どこかで見たことがあるような気はしていた。が、名前が思い出せない。
「吉沢です。吉沢久枝」
助け舟をだすようにプルミンレディーが言った。ああ、と和美は手を打ち、頷いた。
「はい、覚えています。たしか、うちの娘が五年生か六年生の時、クラスが一緒でしたよね」
ええ、そうです、と久枝はうれしそうに言った。
「五年生の時ですよ。それがもう、高校生なんだから、ずいぶん前ですよねえ」
久枝は小柄だが肩幅があり、昔から痩せていた。体型も顔の印象もそれほど変わっておらず、身のこなしも軽いようだ。下がり気味の目尻の皺が深くなっているが、顔の色艶はよく、表情も昔とほとんど変わっていない。
「下の子供が保育園に上がった年からこの仕事やってるんですけどね。途中、実家の親が倒れたりして中断したこともあったけど、なんとか続けてきたんですよ」
長女が小学生の頃は、同級生の母親達の中にもプルミンレディーが何人かいたのを、和美はあらためて思い出した。
「あの頃と比べたら、このあたりもすっかり変わりましたねえ。希望が丘団地もずいぶん山の奥まで開発が進みましたもの。高木さん、希望が丘でしょ」
「ええ」
「希望が丘は人口が増えたけど、逆に駅前あたりじゃ、子供が少なくなっちゃったわ」
「駅周辺の景色も変わりましたよね」
「あ、ちょっと、お茶でも淹れますから。どうぞ、座ってくださいな」
入口近くに小さな布張りのソファとテーブルが置かれていた。久枝は二人に手を差し伸べるようにしている。
「どうもすみません」
言ってから、和美は文代を振り返った。文代は黙って二人のやり取りを見ている。
「あの、こちら、わたしの友人の、勝沼文代さんです」
和美が言うと、文代は軽く会釈した。久枝はよろしく、と笑って応えた。
「今、勝沼さんとは、宮脇小学校のPTAで一緒に役員やっているんですよ」
「そうですか。小学校なんて、なんだか懐かしいわねえ。うちはもう、すっかり大きくなっちゃったから。躯だけは大きくなったんだけど、そのわりに手はかかるんですけどねえ」
久枝は和美の方を見た。
「どうぞ、こちらへ。そのうち、所長ももどると思いますから」
促され、二人はソファに座った。
文代はじっと久枝の方を見ている。自分から話を切りだしたものかどうか、迷っているようだ。
文代に言葉をはさませないように、和美はなるべく当り障りのない世間話を久枝と続けた。幸い、久枝は話好きで、自分からいろんなことを喋り続ける。どうやら退屈を持て余していたようで、格好の話相手が来てくれたと思っている様子だ。
「うちの所長はね、出世頭でしょ。やっぱり、やり手ですよ。所長に憧れてプルミンレディーに応募してくる人も多いんです」
すかさず、和美は相槌を打つ。
「そうでしょうね。だって、パートから所長になるなんて、すごいですよね」
「この辺じゃ、ちょっとした有名人ですからね」
事務机の際《きわ》にある小さな冷蔵庫から麦茶クーラーをだし、久枝はグラスを用意した。
「有名人ていうと、やっぱり、このあたりじゃ桐生屋の桐生さんだけど、あそこの婿養子の旦那、選挙に出るんですってね。今度の市長選」
「その話、本当なのかしら」
「出るわよ、あの旦那なら」
グラスに麦茶を注ぎながら、久枝は小さく笑った。
「だってあなた、桐生屋じゃ、あの婿養子の旦那、何の権限もないって話ですよ。そりゃあ、ご本人、おもしろくないでしょう」
久枝は「婿養子の旦那」という言葉のところに、妙に力を入れた。
「でも、そんな理由だけで、選挙になんか出るもんですかねえ」
「出ますって、絶対」
自信あり気に言い、久枝は盆に麦茶のグラスを載せた。
「最近、市民なんとかフォーラムってのに、よく顔をだしてるでしょ。いろんなボランティア団体なんかにも寄付したり、行事に出席したりしてるし。『明日の市政を考える会』ってのも作ったしね。それって要するに、あの人の後援会みたいなものでしょ」
「そういえば、そんな団体のチラシだか広告だか、最近よく見ますね」
「でしょ? 四葉のクローバーのバッジだかなんだか作っちゃってさ。あれが、後援会のマークなんだそうよ。結構いい男だから、目立つのよねえ。ああやって、顔と名前売ってるわけよ、今から」
「そうなの、知らなかった」
「この辺じゃ、知らない人はいないですよ。まあ、希望が丘は線路の向こう側だからねえ」
「そうねえ、市長選なんてずいぶん先の話でしょ。興味ある人は別でしょうけど」
「あの婿養子の旦那、昔、国会議員の秘書やってたんですよ。そりゃ、選挙に色気あるはずですよ。資金については問題ないんだし」
こういう噂話は、聞いていても話していても気が楽だ。所詮、桐生家のことなど雲の上の話で、一般の人間には関係がない。
好都合なことに、文代も興味あり気に聞いている。うまくいけば、文代の怒りの度合いももう少し下げることができるかも知れない。和美は久枝の方を見て、大仰に首を傾げてみせた。
「資金て、桐生屋さんが出すんですか。だって、ご本人には何の権限もないんでしょ」
それそれ、と言って、久枝は盆を持ってテーブルの方に向き直った。
「勝つ見込みがあるんなら出してやるって、大旦那が言ったって話よ」
「勝つ見込み?」
「まだ水面下だけど、出馬しそうなのが革新系一人と、保守系で五人いるんだって。五人のうち二人はまあ、どうせ、たいして票が取れる人達じゃないんだけど、あとの三人は結構、実力|伯仲《はくちゆう》ってのかしら、いい線いきそうなのよ。でも、三人同時に出るとね、保守系の票が割れちゃって、革新系が有利になっちゃうでしょ。何しろ、革新系はちょっと有名な人だし」
革新系の候補者のことは和美も知っている。昔、新聞社の論説委員をやっていて、フリージャーナリストに転向した五十代の男である。現在はテレビのニュース番組の解説などもつとめており、かなりの知名度がある。女性の好感度も高いということで、次期市長候補にと、当地の革新系議員と党の幹部が直々に頼みにいったということだ。週刊誌などでも騒がれたので、和美も読んだ記憶がある。
現職は革新系だが齢《よわい》七十五であり、しかも去年病を得たので、次回の出馬はないと公言した。それゆえ、水面下の動きは活発化しているのだろう。
「そりゃ、三人も保守系が立ったんじゃ、お互いに不利でしょう。共倒れになっちゃ、元も子もないんだし、なんとか一本化しようということで、関係者も躍起になって調整しているらしいのよ。で、その調整がうまくいけば、桐生屋としても婿養子の旦那に資金を出してやろうと、大旦那はこう言っているわけよ」
まるで見てきたように、久枝は詳しく説明した。話がおもしろいので、和美も文代もつい引き込まれて聞いている。
「今、その調整とやらが大変みたいなのよ。水面下の駆け引きってやつでね」
含み笑いをしながら、久枝はテーブルに麦茶を置いた。
「で、どうなりそうなんですか」
和美が言うと、ふううん、と首を傾げて、久枝はソファに腰掛けた。
「今のとこ、五分五分ってとこかしら。みんな譲らないらしいのよねえ」
「じゃ、桐生屋さんは、出馬しないこともあるわけですか」
「いえね、頭一つ、桐生屋の婿養子の旦那が有利っていう話も聞くけれどねえ」
それよりも、と久枝は少し声を低くした。
「婿養子の旦那、問題があるのよ」
「問題?」
「女よ、女」
口の端で笑い、久枝は顔を近づけた。和美も文代も、無意識に半身を乗り出してしまう。
「ちょっと前の話だけど、女が桐生家の屋敷に乗り込んできたっていうのよ」
「女って?」
和美は目をしばたたいた。
「議員秘書をやってた時代から続いているとかでね、銀座のホステスだって」
「銀座のホステス?」
驚き、和美は眉をあげた。文代も隣で息を吐いている。
「なんか、ドラマか映画みたいな話ねえ」
「よくあることなんじゃないの、ああいう御大家は」
桐生千珠を学校行事などで見かけたことはあるが、直接話したことはない。いつ見ても身綺麗にしており、ああいうところのお嬢様というのは、結婚しても子供を産んでも、生涯お嬢様として生きていくものなのだろうと和美は漠然と思っていた。雲の上の住人と自分達の人生や生活は根本的に違うのだし、当然のことだ。
だが、夫の愛人に家に乗り込んでこられるとは、尋常ではない。「雲の上」の出来事とはいうものの、ずいぶんなまぐさい話ではないか。
「女が乗り込んできたってことは、奥さんの知るところとなったわけね」
「そりゃ、当然そうでしょう」
久枝は声をあげて笑った。
「それ、いつのことなの」
「最近よ、最近。今年の春くらいの話」
「で、その後どうなったの」
それがね、と久枝は声を落とし、つまらなそうに言った。
「どうもなってないの。離婚もしないし、別居もしない。なんでなのかしらね」
普通はあんなことがあったら、妻は黙っているはずもなく、怒りを爆発させるはずだと、久枝は手振りをくわえて話した。文代も大きく頷いている。
「それにしても、いろんなことをご存知なのねえ」
和美が感心すると、そりゃね、と久枝は得意そうに笑った。
「プルミンレディーはいろんなところに出入りしているわけだから」
「でも、配達なんて、ぱっと行って、ぱっと帰ってくるだけでしょ」
「普通はそうですよ。こっちも時間ないんだから。だけどね、一人暮らしのお年寄とか、暇持て余してる人なんかはね、わたし達が集金にいくと、お茶とかだしてくれて引き止めたりするのよ。こっちもあんまり、冷たくもできないし。そういうのも仕事のうちだから」
「今時、集金なんてするんですか。自動引き落としじゃなくて?」
「お年寄なんかは、そういうの嫌がる人が多くてねえ。でも、そういう人は結構長く契約してくださるんですよ」
一戸ずつまわるプルミンレディーの場合、顧客との密着度は想像以上なのかも知れない。たとえば、長年の馴染みの年寄に茶菓子をだされたら、いらないと無下に断るわけにもいかないだろう。暇を持て余している年寄にとっては、プルミンレディーは格好の話相手なのだ。
「このあたりは桐生屋さんと関係ある人多いでしょ。正社員だけじゃなくて、工場のパートの人も入れたら、すごい数の人がかかわってるんじゃないのかなあ」
工場や会社の関係者だけではなく、家政婦や運転手、庭師、家庭教師に至るまで、いろんな人間が屋敷に出入りしているのだ。だから、桐生家の中のことはいろんなところから漏れてくると久枝は言い、和美も頷いた。
「そういえば、宮脇小学校のお母さん達も、桐生屋の工場のパートにいっているって人は結構いるものね」
「昔はもっと多かったわよ。うちの息子が小さい頃は、桐生屋さんにパートにいっている人って、クラスにいっぱいいたもの」
「プルミンレディーやってる人も、昔はたくさんいたわよね。今はそうでもないんだけど」
「昔は宅配しかなかったからねえ。ほら、宮脇小学校の同じ学年のお母さんで、わたしの他にも十人くらいプルミンに来てたのよ。覚えてる?」
「ええ、覚えてるわ」
和美が何人かの名前をあげると、久枝は懐かしそうに、そうそう、と頷いた。
「少し前まで続けてた人もいるのよ」
「へえ、そうだったんだ」
「結構頑張ってたんだけど、去年、ご主人の転勤で引っ越しちゃってねえ」
また、二人の会話がはずみ、文代は口をはさむ機会が得られないままだ。けれど、久枝の話す噂話はおもしろかったので、退屈はしていない様子だ。文代の気を逸《そ》らせたまま、今日は帰った方がいいだろうか。
「でもまあ、今は少なくなったわね、プルミンレディーの数も。なんといっても、プルミンはスーパーとかコンビニで市販されるようになったから」
少し寂しそうに久枝が言った。
「そうねえ。欲しい人は、お店で直接買えるようになってしまったものね」
「でも、今もいないわけじゃないのよ、プルミンレディーやってるお母さん。この校区だって結構、小学生を持つ人が勤めてたわ。だけどね、長続きしないのよ。昔のパートさんは、悪くても二、三年は必ず続いたものだけれどねえ」
今は半年も続かない者が大勢いる、と久枝は嘆いた。
「じゃ、プルミンレディーをやめた人って、やめた後、何をするの?」
「違う仕事さがす人が多いみたい。お店始めたって人もいるけど」
「えっ、お店?」
すごいわねえ、と和美は首を振った。
「お店って、何のお店なの?」
「ほら、駅の近くにあるスナックよ」
「スナック?」
「ええと、居酒屋の隣に『スナックまゆみ』、とかいうお店、あるでしょ。焼き鳥屋の向かい側」
え、と突然、文代が顔をあげて言った。
「その人、もしかして、江口まゆみさんという人じゃありませんか」
「ええ、そうよ。江口さんのこと、ご存知ですか」
途端に、文代の顔がこわばった。
15
土曜日の小学校は静かなものだ。完全週休二日制で、土曜日の授業はない。授業はなくても、中学校ならクラブ活動のために生徒は登校しているが、小学校では学童保育の児童以外、姿は見かけない。
体育館の裏の会議室で、亮子は奈津江と次の学校だよりの記事について打ち合わせをしていた。学校行事の都合によって、学校だよりは増刊されることがある。来月のオリエンテーリングの様子を保護者に紹介するために、ごく簡単なものでよいから記事を作成してほしいという学校からの要望があったのだ。そんな時は手隙の班が担当するのが原則で、今回は亮子の班が受け持つことになった。
ふいに教頭があらわれたのは、ちょっと一息いれようかと二人で話していた時だった。
「ご苦労様です。お休みの日まで色々やっていただいて」
五十半ばの教頭は日に焼けた顔をほころばせ、目をしばたたいた。黒縁の眼鏡をかけており、いつ見ても後頭部の髪の毛が不自然に偏《かたよ》っている。教頭は、言葉を選ぶように少し首を傾げてみせた。
「お忙しいところ、恐縮なんですがね」
立っている亮子と奈津江を促し、教頭も椅子に座った。
「文化委員さんの江口さんですが、やはり、会議にご出席はいただけないようですかね」
ええ、と亮子は頷いた。
「副会長さんからうかがったんですが、楠田さん、江口さんのご自宅までいってくださったんですって?」
「はい、先週うかがいました」
「それは、ご苦労様でございました。で、様子はどうでしたでしょうか」
「江口さんですか?」
「ええ」
宇宙《ひろし》のことを訊かれているのかと思い、亮子は聞き返したのだが、どうやら母親のことを教頭は尋ねているようだ。
「PTAにはあまり関心がおありではないようでして、出席のご返事はいただけませんでした」
ふむ、と唇を結ぶようにして、教頭は腕組みをした。
「子供さんについては、何か言ってらっしゃいましたか」
「何かと言いますと?」
「いえね、ご存知と思いますが、江口さんのお子さんは長期の欠席が続いているものですからね、学校としても定期的にご自宅にうかがっているんです。が、どうもその、ちゃんとしたお話ができないと言いますか、お母様としてのお考えなどがよくわからないと言いますか。何しろ、我々には何も話してくださらないものでねえ」
「宇宙君は怯《おび》えていて、学校にいけないとおっしゃっていましたが」
「怯えている?」
「いじめられていた経験のために、学校にいこうとすると、躯が震えるのだそうです」
「それは、お母さんがおっしゃっていたのですか」
「そうです」
教頭は眉根を寄せ、息を吐いた。
「で、PTAの例会については何と?」
「子供が世話になっているわけでもないのだから、PTAになど出席する気はないと言われました」
はああ、と、教頭は小さく首を振った。
「何しろねえ、担任の先生がお若くてですね、ご経験もないものだから、対応に苦慮しておられましてね。一度、PTA役員会にでもいいから学校の方に来てくださると、こちらもまた、お話がしやすくなるかと思っていたのですがねえ」
「あのご様子では、PTA役員会にはとても来ていただけないと思いますが」
「しかし、あなたにはそうやって、理由なり事情なりをおっしゃったんですね、江口さんは」
腕組みをしたまま、教頭はしばらく上を向いていたが、あのね、とふいに亮子の方を見た。
「やはり、教師よりも保護者の方が、話しやすいというのがあるんでしょうねえ」
まゆみが亮子のことを「話しやすい」と感じていたとはとても思えない。亮子がそう言うと、教頭はいや、と遮った。
「担任だけじゃなくてですね、学年主任の先生も時々、ご自宅の方にうかがっているんですよ。わたしも同行しました。しかし、どうもその、学校関係者というとですね、なかなか会ってくださらないというか、避けておられるというかですねえ」
言いにくそうに、教頭は頭の後ろに手をやった。
「まあ、とりつく島もないという状態なんですよ。でねえ、楠田さん。できたらまた、江口さんのところへいってみていただけませんかねえ」
「わたしがですか」
「ええ」
「わたしが何を言っても、江口さんはPTA会議には出席してくださらないと思いますが」
「いや、いいんです、いいんですよ。今すぐご出席くださらなくても。ともかくその、学校とのつながりと言いますか、関係と言いますか、そうしたものがですね、完全になくなってしまうと、これはもう、どうしようもないですから」
教頭は懇願するように言った。
「同じ一年生の子供を持つ母親ということで、江口さんも楠田さんには親しみを持っておられるのですよ。何かきっかけがあれば、江口さんも学校に来やすいだろうし。ご自身が学校とつながりができれば、子供さんも登校させようという気持ちになってくださるかも知れません」
「でも」
「何も毎日、江口さんのところへいってくださいと言っているわけじゃないんですよ。文化委員の連絡物とかがあるでしょう? そういうのを楠田さんがご自身で持っていってくださるとか、そこで学校やクラスの様子を話してくださるとか、そんなことでいいんですよ」
「連絡物くらいなら持っていきますけれど」
「いや、ぜひ、お願いいたします」
そう言って、教頭は会議室を出ていった。
亮子と奈津江は顔を見合わせ、苦笑した。
事件以来、マスコミが今も学校周辺を取材している。彼らは同級生や保護者、近所の人々に話を聞いてまわり、雅彦の日頃の行状を詳細に調べていた。雅彦が同じクラスの子供達にかなり酷いことをしていたのは、彼らの知るところとなっている。雅彦が殺害された背景には、雅彦やその母親佐智子の普段からの行状が何らかの影を落としていることを、マスコミはとっくに掴んでいるのだ。
だが、あの事件にかぎっては、雅彦は被害者である。しかも未成年者だ。マスコミは雅彦の悪行については書かないし、伏せている。
しかし、一部の週刊誌が「あの学校では日常的にいじめがあった」という書き方をした。それを放置した学校の責任が問われるという論調で書いた新聞もあり、学校側もそのことを気にしている。
今、長期の登校拒否をしている児童の母親に、「学校は何もしてくれなかった」と騒がれるのは学校側としては避けたいだろう。しかも、その児童は雅彦にいじめられていたという歴然とした事実がある。マスコミが嗅ぎつけ、まゆみを焚きつけていろんなことを喋らせたら、学校側は窮地に立たされる。
だが、まゆみを懐柔しようにも、学校関係者とは会ってもくれない。そこで、同じクラスの母親を使って、学校に連れてこさせようとしているのだ。
亮子は息を吐き、机に置いていたプリントを整理した。今日もまた、もう一人のメンバーは欠席だ。原稿だけは子供を通じて届けてくれていたからまだいいが、作業を手伝ってくれることはあまりない。
奈津江はいつも、課せられた仕事を真面目にこなしている。口数が少なく、積極的に他者とかかわろうとしない奈津江は、親しくしている保護者や役員もいない。亮子は、そんな奈津江が嫌いではなかった。
常に他者と適当な距離を保っている人間は、他人や他人の意向に安易に迎合しない人間である。器用な人間は、距離を他者に感じさせないように巧く立ち回るが、不器用な人間にはそれができない。奈津江は不器用なだけだ。
頼んだ仕事は必ず引き受けてくれるし、煩雑な用事が増えても愚痴一つ言わない。表情が豊かではないから陰気に見られがちだが、意地が悪いわけではなく、また、心遣いができないのでもない。むしろその逆で、奈津江は亮子に気遣いをしてくれるし、目立たないところで助けてくれることも多い。
どうせ役に立たないメンバーを待っているより、奈津江と作業を進めていく方が早い。そう思っているから、亮子は奈津江と連絡を取り合い、二人だけで作業を進めているのだった。
今度の号は、子供達のオリエンテーリングの様子をデジタルカメラで撮影し、それを掲載してほしいと学校側から要望されている。写真の大きさと配置、また、字数などの確認をしておかなければならなかった。
「当日の写真撮影は、わたし達がやるのかしら」
奈津江が言った。
「いえ、学年主任の先生が撮影してくださると聞いているけど」
たぶん、できあがった写真を選べばいいだけだと説明すると、奈津江は安堵したように笑った。
「デジタルカメラなんて、使ったことないもの」
「去年の運動会の特集号だと、先生も一人、寄稿されてるわね。今回もやっぱり、お願いした方がいいわよね」
「誰に頼めばいいのかしら」
「また、教頭先生にでもご相談してみましょうかねえ」
二人が笑った時、ドアをノックする音がした。教頭がもどってきたのだろうか。緊張して、二人はドアの方を見た。
「こんにちは」
文代がドアを開けて入ってきた。手には紙袋を提《さ》げている。
「陣中見舞いよ」
笑いながら、文代は紙袋を胸のあたりにあげてみせた。奈津江と亮子は顔を見合わせる。
近々、会議室の使える土曜日で作業をすると、聞かれるままに話していたことを、亮子は思い出した。
頼んでもいないのに、何かと文代は文化委員の仕事に口出しをしてくる。悪意がないのがわかっているだけに、文句は言いにくい。以前など、「原稿を見てあげるから」と言って奈津江を自宅にまで呼びつけたこともあったと聞いている。
「お菓子買ってきたのよ。ねえ、ちょっとひと息いれたら?」
屈託なく、文代は笑った。仕方なく立ち上がり、奈津江は給湯室へいく。亮子も腰をあげると、「いいから座ってて」と奈津江は声をかけた。
「桐生屋のケーキよ。ちょっと足を延ばして、買ってきたの」
市内の中心地にあるデパートの名を、文代は得意気に言った。
「ありがとうございます」
紙袋を受け取り、亮子は会釈した。
「さすが、桐生屋さんねえ。和菓子屋の方も洋菓子店の方も、人がいっぱいだったわ」
そうでしょうね、と言いながら、亮子は紙袋から白い箱をとりだした。
「お菓子の新作が出たとかでね。そのお菓子、すごい人気があって、もう売り切れましたって、まだ人がたくさん並んでいるのに札が出たのよ」
感心したように、文代は首を振った。
「お菓子に新作とかあるのねえ。知らなかったわ。でも、お客さんはね、よく知っているの。わたしなんか今日、初めてポスター見て知ったくらいだけど」
文代は饒舌《じようぜつ》だった。いったい、何をしにきたのだろう。
適当に相槌を打ちながら箱を開けると、ショートケーキとムースが三個ずつ入っていた。気をきかせた奈津江が皿を持ってきた。亮子は受け取り、ショートケーキを載せる。
「桐生屋さんのご主人、いよいよ今度の市長選に出るらしいわね」
「そうなんですか」
「ご主人といっても、婿養子の旦那よ」
亮子はケーキの箱を閉じた。
「ねえ、あなた、桐生さんのところにピアノを教えにいってらっしゃるんでしょ」
「ええ」
「何か聞いてらっしゃる?」
「何かって?」
それは、と文代は含み笑いをした。
「なんか、大変そうだから、おうちの中」
あれだけの会社を経営し、そして選挙の準備までするというのだから、大変でないわけがないだろう。お嬢様育ちとはいえ、千珠も何かと煩《わずら》わされているのに違いない。
「婿養子の旦那の愛人がね、乗り込んできたそうよ、屋敷に」
「愛人?」
まさか、と亮子は笑った。
「本当の話よ、楠田さん。あなた、知らなかったの」
勝ち誇ったように言い、文代はふっと笑った。
「銀座のホステスさんですってよ。ご苦労されるわね、桐生さんも」
給湯室から、奈津江が盆を持って出てきた。亮子は盆から粉末クリームの瓶を取り、テーブルに置いた。
「選挙を前にスキャンダルはご法度《はつと》でしょう。困ったもんねえ、婿養子のくせに」
文代は声をあげて笑った。
亮子は屋敷で会った千珠の夫直也のことを思い出していた。たしかに、派手な容姿をしており、目立つ男ではあった。だが、千珠と仲が悪いようにも見えなかったし、千珠が直也を嫌悪しているようにも見えなかった。
奈津江がテーブルにコーヒーを置いている間も、文代は桐生家の噂話をしていた。
「まあ、それはいいんだけれどね」
皆が椅子に座るのを待っていたように、文代は顔をあげた。
「ちょっと、あなた方にも聞いておいてほしいことがあるのよ」
コーヒーを引き寄せ、文代は亮子と奈津江を交互に見た。
「たぶん、ご存知ないでしょうけれど、一年生の保護者のなかに、かつてプルミンレディーをやっていた人がいるのよ」
文代は顎をあげ、小さく息を吸った。
「江口まゆみさんよ。三年ほど前、プルミンレディーをやってたらしいわ」
「江口さんが?」
亮子が顔をあげた。
「そうよ。宮脇営業所に、半年くらいパートにいっていたんだって」
でね、と言いながら、文代はシュガースティックの口を切った。
「当時、離婚したばかりだったらしいわ」
得意気に頷き、文代は鼻の穴を膨らませた。
「プルミンには制服があるでしょう。あのペパーミントグリーンの。あれって、営業所から従業員に貸与されるものなんだけれど、やめる時に返すのを忘れる人も結構いるんだって。毎日の配達で着用するものだから消耗が激しいってことで、本社も定期的に新しいのを営業所に配布してくれるらしいのよ。だから、一着や二着古いのがなくなっても、たまたまその時期にあたっていたら、問題ないらしいのよね」
粉末クリームをスプーンにすくい、文代は小さく笑った。
「あそこの制服って、この十年来変わっていないのよ、デザインが。つまり十年間、色も形も同じってことね」
プルミンレディーは三十代から五十代後半と、年齢層の幅が広い。制服の上着はゆったりしたラグランの袖で、キュロットのウエスト部分にはゴムが入っている。よほど極端な例を除いて誰でも着られるようなデザインなので、この十年間、変更されなかったのだと文代は説明した。
「江口まゆみさんは、プルミンレディーの制服を返却していないそうよ。彼女は今も制服を持ってるってことね」
「それ、本当の話なんですか」
亮子が言った。
「ちょっとあなた、それどういう意味よ」
「いえ、あまりに唐突なお話なので」
「ちゃんと営業所の人に聞いてきたんですから、間違いありません。これは事実です。それとも何、わたしがでっちあげでも言っていると言うの」
いえ、そんな、と言って、亮子は粉末クリームをコーヒーに入れた。クリーム用のスプーンを奈津江に渡すと、奈津江もまた、目を伏せたまま受け取った。
「例の事件、プルミンレディーの制服持ってる人でなきゃ、やれないでしょ。犯人はプルミンおばちゃんの格好してたんだから」
文代は得々と話している。
嘘を言っているとは思わない。たぶん、文代は本気で言っている。けれど、こんな簡単なことを警察が知らないはずはない。
「まあ、これで、いろんなことが判明してくるんじゃないかしら」
コーヒーカップを持ち、文代は自信あり気に笑った。
16
西日に照らされた襖《ふすま》は、そこだけ炎に包まれているようだ。けれどその色も、やがて薄墨色《うすずみいろ》に覆われ、すべては闇となる。
夜の気配が、佐智子の背後に迫っていた。グラスを膳に置き、目を瞑《つむ》ると、炎の残像が瞼の裏に立ち上がり、こめかみがきりきりと痛んだ。
息を吐き、目を開ける。
ああ、もう、宵闇がすぐそこまで迫っている。暗がりが、音もたてずに佐智子の傍にしのび寄っていた。
炎は佐智子を燃やし尽くしはしなかった。ひっそりと、長い影をひきずり、どこかへ姿を消してしまった。それはいつものことで、嘆くほどのことではない。
酒をグラスに注ぎ、佐智子は小さく笑う。
心配しなくても、闇が訪れたなら、すべては遮蔽される。
この家に引っ越してきてもう、一ヶ月だ。
忠彦は、県内にある夫の遠縁の家に預けられている。夫は、その家で泊まることが多い。今夜もたぶん、そうなのだろう。
佐智子は畳に寝転がって目を瞑った。
古い家だ。家賃の安い借家は、一軒家とはいえ、隣の物音もすべてまる聞こえで、建具の開け閉めの時ですら響いて床が揺れる。へこんだ畳は黴臭《かびくさ》く、壁土はところどころ剥げていた。
どうせ仮住まいだからいいだろう、と、仲介をした夫の親戚が言い、佐智子もその場で承知した。
そうだ。ここは仮住まいだ。本当は県外へ引っ越したかったけれど、夫の係累の関係で、この町を選んだ。夫は昔、この近くに住んでいたことがあるのだという。といっても、小学校入学前後のほんの短い期間だったらしいが。
最近、夫はこの家にはもどってこない。ならば、自分だけ県外に出てしまえばよかったと、佐智子は今さらながら思った。
忠彦は、ちゃんと学校に行っているだろうか。学校で、周囲から何か言われていないだろうか。
遠くで、音が鳴っている。
佐智子は目を開けた。電話の音だ。
どうせまた、嫌がらせの電話だろう。
事件以来、嫌がらせの手紙や電話が毎日のようにあった。最近では少なくなったが、それでも週に一回や二回はある。
雅彦がクラスの子供達をいじめていたから、こんなことになったのだと、便箋五枚に細かい字でびっしり書かれた手紙がきたこともあった。「天罰」と書きなぐられた葉書もきた。「今までの報いだ」と言って切れた電話もある。
ある週刊誌が、雅彦のクラスでは以前から「いじめ問題」があり、学校側はそれを知りながら放置していた、という記事を掲載した。
雅彦は被害者である。だから、「雅彦がいじめていた当事者である」とは書いていなかった。けれど、大人が読めば、いじめていたのは雅彦だと解釈できるような内容だった。
別の週刊誌には、「同じクラスの母親の話」というのが載った。雅彦が非常に粗暴な子供であったとか、他の子供の持ち物を取り上げていたとか、そんなことが書かれていた。
子供同士で揉め事があるのは当然のことだ。雅彦は損をしていたのだと、佐智子は思っている。体躯が大きいから、周囲の子供達は威圧されているように感じるのだ。それに、雅彦は頭も良かったから、他の子供は口喧嘩をしても到底かなわない。腕力で抵抗しようとしても、体躯の大きい雅彦に簡単に押さえられてしまう。
だから雅彦は、周囲の嫉妬と反感をかっていたのだ。精神的、肉体的に弱い子供を持つ母親は、ヒステリックに雅彦のことを責める。
彼女達は些細なことを、大袈裟に並べたてて雅彦を悪く言った。佐智子はそんな話をまともに聞いたことなど一度としてない。
目を瞑り、佐智子は息を吐いた。電話はまだ鳴っている。しばらく放っておけばいい。そのうちあきらめて、切るだろう。
だが、電話は鳴り続けた。膳の前に座り直し、グラスのウイスキーを全部飲んでも、まだ鳴りやまない。佐智子は立ち上がった。
相手にある程度喋らせ、まったく違う名字をこちらが名乗って「番号違いですよ」と言ってやればいい。そうすると大抵の人間は鼻白み、自分の方から電話を切る。
佐智子は受話器を取った。
「もしもし」
「宇梶さんですか」
女の声だ。
「宇梶さんですね」
佐智子は応えなかった。
「宇梶さん、お話があります」
聞いたことのある声だと思った。だが、誰だったのか、思い出せない。電話は番号通知にしてあるけれど、それでも嫌がらせの電話はかかってくる。公衆電話からかけてくるのだ。この電話も公衆電話かららしい。
「犯人がわかりました」
「え?」
少し早口で、つっかえるような話し方をする女だった。
「わかったんですよ、雅彦君を殺した犯人」
「雅彦を殺した犯人?」
今までいろんな嫌がらせの電話があったけれど、「犯人がわかった」などというのは初めてだ。
「そうです、犯人がわかったんですよ」
佐智子は黙っていた。
これは、何かの罠ではないだろうか。ここで佐智子に何かを言わせて、その言葉尻を捉えて罠を仕掛けようとしているのではないか。佐智子の言葉を録音し、「この人は復讐を企んでいる」とか「誰それのことを犯人だと言っていた」などと、週刊誌で暴露されたりするのかも知れない。
受話器を耳にあてなおし、佐智子は身構えた。
「宇梶さん。犯人は昔、プルミンレディーをやっていた人です」
「昔、プルミンレディーをやっていた人?」
突然、何を言いだすのだ。
けれど、女の言葉は自信あり気で、佐智子はもう少し続きを聞いてみたい衝動にかられた。
「昔、プルミン宮脇営業所にいたんですよ、その人」
誰だろう。かつて、忠彦の同級生の母親のなかに、プルミンレディーをやっている者が何人かいた。雅彦の同級生の母親達のなかには、いただろうか。佐智子はそんな話を聞いたことがない。
「江口まゆみって知っていますか」
江口。その名前は知っている。雅彦の同級生にいたはずだ。
そうだ、江口という母親が家に怒鳴りこんできたことがあった。隙間だらけの出っ歯で、喋ると歯茎まで剥きだしになる下品な女だった。興奮してくると唾液が飛び散り、気持ちが悪かったのを覚えている。
「わたしの言っていること、嘘ではありません。証拠もあるんですから」
「証拠?」
「一度、江口さんのお宅に行かれたらいかがですか」
早口だが、女の言葉はどこか含み笑いをしているように感じられる。
「江口さんは、プルミンレディーの制服を隠してます。家にあるんですよ」
あの、と佐智子は、早口の女の言葉に割って入るように言った。
「なぜ、そんなことをご存知なのですか」
「だから、行って確かめてみればいいじゃありませんか、ご自分で」
まゆみの顔を、佐智子は思い出していた。
顔色の悪い女だった。怒鳴りこんできたまゆみは、化粧をしておらず、荒れた肌に脂が浮いていた。途中で切れた眉は薄く、目の下あたりが腫れており、唇の色もくすんでいた。
雅彦君が、うちの子供の教科書をドブ川だかゴミ箱だかに捨てたとか、返してくれと抗議をしたら顔を殴られたとか、まゆみは玄関先でまくしたてた。
しかし、雅彦がやったという証拠はない。証拠のない話をすべて真に受けて、こちらが悪者にされるのはたまらない。佐智子がそう言うと、「あんたは、自分の子供が何をやっているのかわかっているのか」と、まゆみは怒鳴った。
感情を抑えることのできない女はどこにでもいる。まゆみはとくに興奮しやすい性質のようで、怒鳴りだしたら止まらなくなった。血走った目は尋常ではなく、ぬらぬらとした歯茎が赤黒く、化け物じみていた。
それでも佐智子は、冷静に対処した。証拠がなければ、所詮は水掛け論だ。話は前に進まず、結論もでるはずがない。
興奮したまゆみは、最後に佐智子を睨みつけて言った。
あんた、いつか、思い知ることになるわよ。
あの言葉を、まゆみは実行したというのか。
「プルミンレディーをやめてからも、江口まゆみさんは、制服を返していなかったんです。これは事実です。嘘だとお思いになるのなら、直接本人に聞いてごらんなさい。すべてが明らかになるはずですから」
電話は切れた。
17
祖父の言うことは絶対で、異を唱える者はない。
「秀樹、こっちのパンも、ね」
コーンの粉で焼いたもの、全粒粉で焼いたものなど、母は秀樹の皿にとってくれる。けれど全部、石のように硬い。テーブルの籠に盛られた何種類かのパンを、秀樹が自由にとることは許されない。子供は硬いものを食べさせなければならないと、祖父が言うからだ。
朝食用のパンは、昔から祖父と付き合いのあるベーカリーより毎朝届けられる。秀樹は、違うパンを食べてみたいとは言わない。一度、母にねだってやわらかいパンを皿に入れてもらったことがある。だが、祖父はそれを見てひどく怒った。母は黙って、そのパンを自身の皿に入れた。
毎朝、祖父はバレンシアオレンジを搾らせて飲む。コーヒーを淹れさせるのはそのあとだ。朝食の席の祖父はワイシャツ姿だ。だが父は、夏でも背広を着て食卓につく。
金縁の老眼鏡をかけた祖父が顔をあげる時、父がいつも緊張しているのを秀樹は知っている。そんな父を見る時、母は少し悲しそうな顔をする。祖母もそのことには気づいているはずだが、知らん顔をしていた。秀樹もそうだ。
白いテーブルクロスが敷かれた食卓の花は、毎朝、家政婦の清子が生ける。リビングや玄関の大きな花瓶の花は、母や祖母が生けるが、食卓の小さなそれについては、清子の仕事だ。
清子は母が結婚する前から屋敷にいたのだそうだ。髪の毛はほとんど白いけれど、年寄というわけではない。広い座敷の拭き掃除さえ、清子は一人でやってのける。屋敷には満知子もいるし、曜日によっては通いの家政婦もやってくるが、清子は大事なことは彼女達にはやらせない。すべて自分の手で仕事を片付けていく。
「まだ、勝ち目はあると見ているのか」
祖父が言った。
「そう考えております」
父が応えた時、母はやはり、顔をそむけた。
「秀樹、ヨーグルトが残っているでしょ」
頷き、秀樹はガラスの器を手に取る。こういう時、父の方を見てはいけない。見ると、母がよけいに悲しそうな顔をする。
母の指の先には、傷バンドが巻かれていた。昨日は巻かれていなかった。昨夜遅く、いや、もう明け方近くだったが、母は指を切ったのだ。
父と母が言い争う声で、昨夜秀樹は目を覚ました。父が怒鳴り、母も金切り声で、何か言っていた。二人の言い争いは、おそろしく長く続いた。そして突然、陶器が割れる音がした。出窓に飾ってある皿が割れたのだと、秀樹は直感した。
両親の寝室のドアが開く音がして、母が廊下を歩く音がした。その後、満知子の部屋のドアも開く音がして、二人の足音が洗面所に向かっていくのを秀樹は聴いた。
水道の水を流す音と、満知子が何か言う声がしていた。少しして、寝室から父が洗面所に向かっていったのがわかった。
母は、皿の破片で手を切ったのだろう。だから今朝、傷バンドを指の先に巻いているのだ。
「候補者の調整はどうなっている」
祖父が言った。
「県議の東浦先生は、よい方向に向かっているとおっしゃってくださっています」
「県議の東浦か」
口の端で笑い、祖父はバレンシアオレンジのジュースを飲み干した。
「あれに任せておいて、調整が可能なのか」
父は視線を落とし、「大丈夫です」と言った。
「白井先生はなぜ、動いてはくれんのだ」
「いえ、白井先生も手を尽くしてくださっています」
白井という名前を、秀樹は以前から何度も耳にしている。昔、父は「白井先生」のもとで働いていたと聞いたこともある。
「白井先生が動いてくださらなければ、どうにもならんだろう」
そう言うなり、何か言いかけた父を無視して、祖父は清子の方に顔を向けた。
「コーヒー」
清子は祖父のスクランブルエッグの皿を下げているところだった。皿を持ち、「かしこまりました」と頷いて傍らのワゴンに載せた。
「身から出た錆《さび》だ」
向き直り、祖父は言った。
「大方、白井先生のお耳にも入ったのに違いない」
父は下を向いたままだったが、母は顔をあげ、唇をかたく結んだ。
「町の中でも噂になっている。気づいていないのか。選挙に出ようという人間が、女に自宅にまで乗り込んでこられるとは、どういうことだ」
不機嫌な顔をして、祖父は蓬《よもぎ》入りのパンをちぎった。
祖父が何のことを言っているのか、秀樹はわかっている。
四月の初め頃、知らない女が突然、家にやってきた。植木屋が庭の手入れに来ていた時なので、たまたま通用門が開放されていたのだ。女はたぶん、そこから入ってきたのだろう。
清子が止めるのもきかず、女は台所にあがりこんだ。満知子や若い家政婦もでてきて、ちょっとした騒動になった。
騒ぎを聞き、母は台所へ行った。秀樹も後に続いた。台所で、女は何かを叫んでいた。父に会わせろという意味のことを言っているのは、秀樹にもわかった。
何人かの若い植木屋の職人が通用門のあたりで立ち止まり、こちらを見ているのが窓越しに見えた。清子はブラインドを若い家政婦に下ろさせた。だが、女の喚《わめ》き声は隠しようもない。
叫んでいた女が、秀樹を見た。その途端、女は静かになった。
「まあ、可愛いお坊ちゃんね」
女はそう言って微笑んだ。
「羨ましいわ、奥様が」
母は秀樹を隠すようにして前に立った。だが、女は秀樹の方を見ている。
「秀樹君ていうのよね。知っているわ」
唇は笑っているのだが、目は笑っていなかった。大人は時々、そんな顔をする。けれどその女の顔は、どこか狂気じみていて、異様だった。
「お母さんによく似ているのね。顔立ちがそっくり」
でも、と女の唇から笑みが消え、視線を母に移した。
「お父さんにも、よく似ているわ」
秀樹の肩にかけられた母の手が震えていた。
「羨ましいわ、奥様」
女の目は母を見据えている。母の手は冷たかった。見えないけれど、母の唇もまた、震えているのに違いないと、秀樹は思った。
秀樹に目をもどし、女は言った。
「あの人に、そっくりね」
そう言って、女は勝手口から出ていった。その途端、母は崩れるように座りこんだ。
清子は祖母にそのことを報告し、その日のうちに祖父の知るところとなった。
「こういう話はな、すぐに伝わるものだ」
祖父は蓬入りのパンを口に入れた。緑色の粉が皿に散っている。
「しかも、尾鰭までつく」
蓬入りのパンはやわらかそうだった。祖父は軽く手を払い、手巾《ナプキン》で口の端を拭く。
「白井先生も、ご存知なのだ」
いえ、と父が言った。ヨーグルトをスプーンにすくいながら、秀樹はわずかに目をあげる。
「すでに、終わった話です」
「終わった話?」
「何もかも、決着はついております」
「どういう決着だ」
「相手も納得しておりますし、始末もつけてあります」
「その始末のつけ方が悪かったから、ああいう仕儀になったのだろうが」
「今後、あのようなことは二度とありませんので」
「一度で充分だ」
秀樹は視線を落とし、ヨーグルトを口に運んだ。たぶん、母は涙ぐんでいる。それを見るのが嫌なので、秀樹は下を向き、ヨーグルトをかきこむ。
「秀樹」
ジャムの瓶を取り、母が言った。
「ヨーグルトに、ブルーベリージャムを入れる?」
頷いた途端、祖父の怒声が飛んだ。
「甘やかすな」
祖父は不機嫌そうに眉根に皺を寄せていた。
「子供は甘やかすんじゃない」
手巾を置き、吐き捨てるように言った。
「甘やかすと、ろくなことはない。屑《くず》のような人間が育ったらどうする」
清子が祖父の前にコーヒーを置いた。
「屑はもう、たくさんだ」
灰色の眉をひそめ、祖父はコーヒーカップに手をやった。
すでに南公園の前には、児童達が集まっていた。集団登校の班長は六年生の女の子だ。班長は退屈そうに、足元の小石を蹴っている。班員は、秀樹を入れて七人だから、あと三人を待たなければならない。
満知子は秀樹の後ろに立っていた。雅彦の事件以来、秀樹の登下校には満知子が付き添うようになった。祖父がそうするように言ったのである。
秀樹は公園の入口の前に立ち、道路の向こうに目をやった。犬を連れた女が歩いてくる。毎朝、秀樹達の集合時間に、この女はこのあたりを通りかかる。
年齢は、屋敷の清子より少し若いくらいだろうか。いつもずるずるとした長いスカートを穿いているが、そのくせ、足元はひも付きの運動靴で、頭には白いサンバイザーをかぶっているのが珍妙だった。連れている犬は柴犬で、女はたいそう可愛がっている様子だ。
南公園は、犬の散歩は禁止されている。入口には、秀樹の背より少し低い車止めが三本|設《しつら》えられているが、その横には看板が立てられていた。看板には野球のバット、サッカーボール、ゴルフのクラブ、犬の絵が、大きなバツ印に重ねて描かれている。公園内は、これらの練習や侵入が禁止されているのだ。
この女も、公園の前を通るだけで、車止めの間を入っていったことはない。だが、今日にかぎって、女は公園の入口に向かっていく。秀樹も、集まっていた子供達も、その女の方を見た。
「あのおばちゃん、公園にいくのかしら」
「公園は、犬の散歩禁止なのにね」
四年生の女の子二人が眉をひそめて話している。
なんとなく、いつもと違う感じがした。女が連れているのは柴犬で、大型犬ではない。だからいつも、女の少し前を歩く犬の綱は緩く垂れており、女も余裕をもって距離を保っている。
だが、今朝は違う。犬は肩と首を下げ、全身に力を込めて突き進むようにして歩いていく。綱を引っ張られる女は、懸命に足を踏ん張っているのだが、犬の勢いにはかなわない。半ば、引きずられるようにして歩いている。
犬は口を開け、喉を鳴らしていた。後ろから引かれる首輪が苦しいのか、舌をだし、ぜいぜいと息を吐いている。が、それでも必死になって公園の方に向かっていく。
「太郎」
女が叫ぶように言った。
「だめでしょ、こっちよ、こっち」
犬は女の言うことなど聞きはしない。普段はおとなしい犬だと思っていたが、飼主の意向を無視する日もあるらしい。
「こっちって、言ってるでしょっ」
子供達が見ているものだから、女は必死で綱を振り、犬の躯にあてて方向転換させようとしている。けれど、綱がたわむと首が楽になった犬は前に進み、その分、女は引きずられる。
「ちょっと、いいかげんにしなさいよ、太郎」
あきらめたように、女は足を踏ん張るのをやめた。踏ん張るだけの力が、もう手足に残っていなかったのだろう。
車止めの間をすり抜け、犬は公園の中に入っていく。綱がひっかからないように気をつけながら、女は後ろをついていった。犬はブランコの後ろの方に向かっていく。
そのあたりは叢《くさむら》で、雑草が一面に生えていた。犬の腹や背は、草の実だらけだ。が、それがうれしいのか、犬はますます興奮し、奥へと突き進んでいく。女の長いスカートにも草がからみつき、すっかり汚れてしまっていた。犬はさらに奥へと進んでいった。が、そのあたりはもう、植え込みのために、犬の姿は見えない。途方に暮れた女の背中が見えるだけだ。
秀樹は通学班の子供達に目をもどした。まだ、残りの三人は到着していない。班長の女の子もやはり、足元の小石に目をもどしている。その小石を蹴ろうとして、班長が爪先をあげた時だった。
突然、悲鳴が聞こえた。公園からだ。
子供達は全員、公園の方を向いた。公園にはあの女しかいないはずだ。
「誰かっ、誰か来てっ」
叫び声が聞こえている。班長が公園の入口の方に歩いた。子供達もその後ろに続く。車止めの手前まで、彼らは近寄った。秀樹も皆についていこうとしたが、肩を押さえられた。
「だめよ、秀樹君」
満知子が言った。
「みんなもだめ、ここにいて」
叱りつけるような満知子の声が響いた時、雑草の間から、這《は》うようにして女が出てきた。
「あの、人、人が」
叢のあたりを指差して言った。が、続きは言葉にならない。子供達は車止めをすり抜け、叢の前のベンチのあたりまで走った。
「人が倒れてる」
班長が叫んだ。
満知子に手をつながれたまま、秀樹も叢の手前まで行った。
叢の中に、豹柄の服を着た女が倒れていた。パーマをあてられた髪はばさばさに乱れ、前髪が目鼻のあたりを覆っている。女は口を開けていた。隙間だらけの出っ歯で、歯茎まで剥きだしになっている。腹のあたりが血にまみれ、短いワンピースの下半身部分は黒くべったりと濡れていた。太い脚は、投げ出されたように開いており、片方は裸足だ。傍に、黒いパンプスが転がっている。犬は女の腹のあたりに鼻先をつけていた。
「警察っ、警察を呼んで」
叢を這っていた女が叫んだ。
18
ソファに座り、安岡は額の汗を拭った。黒沢は何も言わずに亮子の方を見ている。
「いやあ、何度もすみませんねえ、奥さん」
安岡は、雅彦の事件の時に何度も事情を聴きにやってきたことを詫びた後、それでですね、と身を乗り出した。
「昨日の事件のことはもう、ご存知と思いますが」
江口まゆみの死体が昨日の朝、南公園で発見された。発見したのは近所に住む主婦で、集団登校のために集まっていた児童達もその場に居合わせたのだという。
「今回の事件の被害者の息子が、前の事件の被害者と同級生であったということでしてねえ」
いやあ、なんともねえ、と安岡は首の後ろを掻《か》き、目をしばたたいた。
「ちょっとお聞きしたいのですが。奥さんは、江口さんのお店にいかれたことがあるとうかがったんですが」
「学校のPTAの例会にご出席くださるように、お願いにあがったんです」
「それは、いつ頃ですかね」
「十日ほど前です」
「で、その時の江口さんですが、様子はどんなでしたかね」
「様子?」
「その、変わったご様子とか、何かおかしいなと思うようなところ、見受けられませんでしたかねえ」
変わった様子と言われても、普段の様子を知らないので、あの時のまゆみが「変わっている」のかどうか、亮子にはわからない。困惑した表情を浮かべる亮子に、安岡は言った。
「どんなことをおっしゃっていましたかねえ、江口さん」
「ですから、PTAの例会へのご出席をお願いしたところ、出席するつもりはないと、そうおっしゃいました」
「出席するつもりはない、と。ずいぶん、はっきりと言われるもんですな」
苦笑し、安岡は眉をあげた。
「で、出席しない理由については、何とおっしゃっていましたか」
「学校で子供が世話になっているわけでもないのに、なんで自分がPTAに出席しなければならないのかと、言われました」
「子供が世話になっているわけでもない?」
「ずっと学校に来ていませんでしたから、宇宙君」
「宇宙君というのは、まゆみさんの息子さんのことですね」
「そうです」
「学校に来てないというのは、それはまた、どうして」
「江口さんのお話ですと、学校でいじめられるから、宇宙君は恐くて登校できなくなってしまったということです」
「息子さんは学校でいじめられているのだと、江口さんはご自身でそうおっしゃったわけですね」
「はい」
安岡の目が、少しばかり険しくなっている。
「誰にいじめられていると、おっしゃっていましたか」
「それは」
亮子は息を吐いた。
「亡くなった宇梶雅彦君です」
ふむ、と頷き、安岡は首を傾げた。
「どう思われますか」
「は?」
「どう思われますかね、今回の事件と前回の事件」
「それは、わたしには何とも」
亮子は目を伏せた。
「同じクラスの生徒と、その同級生の親が殺されているってことなんですよ。このことについて、同じ学校に子供を通わせているお母さんの一人として、どうお感じになるかと、ふと、思いましてね」
「それは、痛ましいことだと思います」
まったくですな、と安岡は感情のこもっていない声で言った。
「江口さんが昔、プルミンレディーをやっていたという噂を耳にしたことはありますか」
「ええ、聞いたことはあります」
「宮脇小学校では、もっぱらの噂だったようですね」
「それって、本当のことだったんですか」
安岡は両方の手を擦り合わせた。
「本当のことです」
亮子は小さく息を吐いた。
「こういう時代ですから、個人の情報もねえ、皆さんに簡単に行き渡ってしまいます」
困ったことだ、と安岡は唇の端を歪めた。
「前回の事件の、亡くなった雅彦君のご家族についてですけれどもね。学校で何か聞かれたことがありますか、現在のご様子とか」
「引っ越しをされたと聞いています。忠彦君はご親戚に預けられているとか」
はあ、なるほどねえ、と安岡は苦笑した。
「で、どちらに引っ越しされたと、聞かれましたか」
「県内らしいと聞いたことがありますが」
「奥さんはインターネットとか、されませんか」
「そういうのは全然わけがわかりません」
安岡は苦笑した。
「わたしもね、そっち関係はからきし、だめなものだから、まあ、若い奴に色々教えてもらったりしてますよ。こいつなんかはね、結構詳しいんですよ」
隣に座っている黒沢の方を、彼は目で示した。黒沢は少し頷いただけで、何も言わない。彼にはかまわず、安岡は話を続けた。
「何か目立つ犯罪とか、凶悪事件が起こりますとね、ネット上で事件に関係するいろんな情報が飛び交うんですよ」
「いろんな情報って?」
「関係者のプライバシーに関することです。これは、加害者、被害者、両方とも対象になります」
「被害者も、対象になるんですか」
そうです、と安岡は眉根を寄せた。
「ネットは匿名の世界ですからね。いろんな人間がいろんなことを考えます。こういう奴らは、とくに目的があるわけじゃないんです。敢《あ》えて目的があるとしたら、他人の不幸をおもしろがりたい、とでもいうのでしょうかねえ。ともかく、こんなことして何がおもしろいんだ、というようなことを執拗にやるんですよ」
麦茶を飲み、安岡は咳払いした。
「宇梶さんの現在のご住所などもねえ、ネット上で流されているんですわ。もちろん、全部が本当の情報かというとそうではなくてね、でたらめもたくさんあるんです。というか、場合によってはそっちの方が多い時もありますな。でもね、どこでどう調べるのか、本当の情報も流れるんですよ」
「そんなの、どうやって調べるんですか」
それはねえ、と安岡は苦笑した。
「当事者の身近な人間とか、関係者が関与しているんでしょう。いくら行き先を誰にも知らせないといっても、親兄弟などごく一部の親戚とかには連絡先を言っておくはずですから。一人身ならともかく、子供がいる場合ならとくにね。その身内から漏れる可能性も、まったくないわけじゃない」
身内がそんなことを他人に漏らすのだろうか。亮子がそう言うと、安岡は、ううん、と言って首を傾げた。
「場合にもよりますけれどねえ。それから、引越しの時にかかわった業者とかもいるわけですから、業者やその関係者から漏れるってことも可能性としてはあります。いずれにしろ、いろんなところから情報は漏れるものなんですよ。一度流出した情報は、どんどん広がっていきます。ネットを使えば、地域も時間もすべて飛び越えていきますからね」
「それじゃ、宇梶さんの現在のご住所とかも、一般の人に知られているってことですか」
「住所も電話番号も、ネットで流されているんですよ。こういうのが流されるとねえ、実際にこの電話番号にかけてみようって輩《やから》もいましてねえ」
困ったことです、と安岡は首を振った。
「ところで奥さん。一昨日の夜、どこにいらっしゃいましたかね」
「一昨日の夜?」
「江口さんが殺された夜のことですよ」
安岡は亮子の目を見ている。
「形式上の確認ですから、どうか、お気を悪くなさらないでください」
「一昨日の夜は、夕方から仕事がありましたので、家から一歩もでておりません」
「それを証明する人はいますか」
「午後四時から七時半までレッスンしておりました。生徒に聞いていただけばわかります。七時半過ぎに主人が帰ってきまして、息子と三人で食事をしました」
「レッスンの間、子供さんは」
「二階で一人で遊んでいました」
「七時半以降、ご家族以外の方とはお会いになっていらっしゃいませんか」
「はい」
家族の証言は、アリバイの証明では認められない。
「江口さんが、夜十二時半までお店にいらしたことは、当日の客の証言でわかっています。十二時頃、店に電話がかかってきて、なんだか落ち着かない様子になられたんだそうですよ。で、客達は十二時半頃には帰ったと言っています」
ということは、まゆみが殺されたのは夜中十二時半以降ということになる。
「事件当日の夜一時から三時までの間、奥さんは何をしておられましたか」
「寝ていました」
言いながら、こればかりは証明のしようがないなと亮子は思った。
「この時間帯なら、普通はそうでしょうねえ」
安岡は苦笑した。
雅彦の事件の時にも、さんざん、当日の行動について訊かれた。プルミンレディーが南公園にいた夕方四時頃の行動について訊かれたのだ。その日のレッスンは五時半からだったので、亮子は誰とも会っておらず、家にいたという証明はなされていない。
一昨日の事件は真夜中で、家族以外、その時間に亮子が在宅していたという証言をしてくれる者はいない。今回もまた、アリバイの証明はかなわないことになる。
「この夜、ご家族は皆さん家にいらしたのですか」
「もちろんです」
「ご主人と息子さん、三人ですね」
「はい」
そうですか、と言って、安岡はまた首の後ろに手をあてた。
19
カウンターの上をお絞りで拭き、アリサは目をしばたたいた。
「そんなわけで、お父さんは宇宙《ひろし》君を引き取れないっていうんでね、ママの遠い親戚のおうちにいくことになったんですよ」
ボックス席に、ランドセルを背負った宇宙が座っている。宇宙の横には、古びたスポーツバッグが置かれていた。手にはゲーム機を持っているが、電池が切れてしまったとかで、使いものにならない。
今日、宇宙は母方の遠い親戚の家に引き取られる。もうすぐ迎えの車が来るのだ。
「宇宙君」
亮子は宇宙の前に座った。が、何と言葉をかけてよいのかわからない。奈津江も困惑したように、目を伏せている。
一週間前に母親を亡くしたばかりの子供に、どんな慰め方があるというのだろう。しかも、母親の亡くなり方は尋常ではなかった。夜の公園で、腹を刺されて死んでいたのだ。
宇宙は下を向いたまま、何も言わなかった。前歯は永久歯に生えかわっているらしく、小さな顎や頬とえらく不釣合いだ。母親に似て、前歯が大きく前にせりだしており、半開きの唇から歯茎が見えていた。
「お父さんは再婚なさっていてね、お子さんも二人いるんだそうですよ」
お絞りを手に持ち、アリサは言った。整った目鼻が歪み、一瞬、泣き笑いのような表情になった。
実の父親は、今さら宇宙を引き取れないと言っているらしい。すでに再婚して何年も経ち、新しい妻との間には子供までいるので、宇宙のことは厄介者扱いなのだ。
息を吐き、亮子は宇宙に目をやった。小さな背中に背負われた黒いランドセルが、やけに大きく、また、ひどく重そうに見える。
「宇宙君、宮脇小学校に時々は遊びにいらっしゃいね」
小さな宇宙の肩に手をやり、奈津江が言った。
「そうよ、宇宙君。みんな、待っているからね」
亮子が声をかけても、宇宙は何も言わなかった。唇を半開きにしたまま、俯《うつむ》いているだけだ。
本当は、誰が待っているわけでもない。また、誰が庇《かば》ってくれるわけでもない。宇宙はそのことを知っている。
守ってくれるのは母親だけだった。母親だけが頼りだったのだ。その母親がいなくなってしまい、自分はこれから、寄る辺ない舟のように、波や風にさらされる。抗《あらが》いようのない現実に、宇宙は一人で立ち向かっていかなければならない。
手に持ったゲーム機を見つめ、宇宙は口から息の漏れる音をさせた。
「そのゲーム機、お母さんに買ってもらったの」
亮子は顔を寄せて言った。ゲーム機を見つめたまま、宇宙は首を横に振った。
「もらったんだよ」
少しだけ、宇宙の目に光が射したような気がした。よほどお気に入りのゲーム機なのだろう。銀メタリックの少し大きめの機種だ。たしか、信宏が欲しがっていた最新型の少し値の張る機種ではなかったか。シルバーの輪を何重にも組み合わせたデザインのシールが裏側に見えた。
「あら、これ、スパイラルシールじゃない。すごいねえ」
小さく笑い、宇宙はゲーム機を抱きしめるようにした。
「誰にもらったの」
「桐生君」
秀樹は宇宙と仲がよかったのか。そんなことは聞いたことがなかったと、亮子は少し不思議に思った。
「本当?」
「桐生君のお母さんからもらったって、うちのお母さんが言ってた」
「お母さんが?」
宇宙は頷いた。
「どうしたの、宇宙君、気持ち悪いの?」
アリサがボックス席までやって来た。
「また、熱がでたのかな」
宇宙の額に手をあて、アリサは首を傾げた。
「まだ、時間があるから、奥で横になっている?」
下を向いたまま、宇宙は頷いた。
「じゃ、寝てればいいよ。おねえちゃんが呼びにいくまで」
ランドセルを肩からはずしてやりながら、アリサは亮子達の方を振り返った。
「宇宙君、ここのところ、ずっと熱っぽいんですよ。今から車に乗るでしょう。休ませておかないと車酔いが心配で」
「そうね、長く乗るんだものね。休んでいた方がいいわ」
亮子が言うと、奈津江も頷いた。宇宙はアリサに手を引かれ、奥へと入って行った。
ボックス席で、亮子は奈津江と向かい合ったが、二人とも何も話さなかった。五分ほどして、アリサはカウンターにもどってきた。
「今、冷たいものでもおだししますから」
「そんな、いいですよ。今日は宇宙君を見送りに来ただけなんですから」
亮子が言っても、アリサは氷入りのウーロン茶のグラスを運んできた。
「宇宙君を見送りに来てくださったお客さんだもの。大事にしなきゃ、わたしがママに叱られます」
「ごめんなさいね、お忙しいのに」
奈津江はアリサを見上げた。
「いえ、もう、何もありませんから」
カウンターにもどり、アリサは盆を傍らに置いた。
「もうすぐ、お店を明け渡すって、本当なんですか」
グラスを手に持ち、亮子は振り返るようにしてアリサを見た。
「ええ。といっても、わたしは関係ないけど。このお店、貸し店舗なんです。だから、オーナーは空家で遊ばせておきたくないんですよ。もう、次の借り手がきまったらしくて」
「そういうものなんですか」
アリサは寂しそうに笑った。
「仕方ないんですよ。ママがいなくなったんだから、出ていくしかないんです、わたしも宇宙君も」
まゆみがあのようなことになって以来、アリサは宇宙の面倒をみていたらしい。宇宙もなついているらしく、アリサの言うことには素直に従っている。
「このお店って、いつも何時まで開けていらしたんですか」
亮子が訊いた。
「お客さん次第ですね。まあ一応、十二時までってことになってますけど、大勢のお客さんで盛り上がっている時なんか、二時までやってたこともありましたから」
「あの、ちょっと立ち入ったことをお聞きしますけど」
「ええ、どうぞ」
アリサは笑って首を傾げた。
「事件のあった夜は、何時まで営業なさってたんですか」
それが、と細い眉をひそめ、アリサは小さく首を振った。
「わたし、その夜出勤してないんです。ちょっと夏風邪をこじらせちゃったものだから、アパートで寝てたんですよ」
「ということは、江口さん一人でお店をやってらしたんですか」
亮子の言葉に、アリサは目を伏せた。
「もし、わたしが出勤してたら、ママもこんな目に遭わなかったかも知れないんです」
つぶやき、アリサはかたく唇を結んだ。
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったのではありません」
「わかってます。でも、たぶん、そうだったんじゃないかなっていう気がするんです。きっと犯人は、ママが一人だったから、あの夜を選んだんですよ」
「警察は、江口さんは十二時半頃、お店を閉めたって言ってましたけど」
「わたしもたまたまその後、道でばったり会ったお客さんに聞きました。十二時頃、電話がかかってきたらしいんです」
「そんな時間に、お店に電話がかかってくるって、よくあることなんですか」
「ええ、しょっ中ですね。そういう時間だから、今もまだ開けてるかいって感じでかけてくるんですよ。これから行くからとか、何人分の席は空いてるかとか、電話してくるお客さんは結構います」
ということは、事件当夜十二時頃にかかってきた電話が、必ずしも事件と関係のあるものだとは限らない。
その時、店の前で自動車が止まる音がした。立ち上がり、アリサは腕時計を見た。
「時間だわ」
はじかれたようにアリサはカウンターの中に入っていき、宇宙の名を呼んだ。
20
第一楽章のテーマ部分を、秀樹は何のミスもなく弾き終えた。展開部に入ると、曲想に膨らみを持たせて伸びやかな音をだす。この年齢でここまでの演奏と解釈ができるというのは、本当に稀有な才能を持った子供だ。
ソナチネアルバムの主要な曲は、亮子がとくに何も教えなくても、自分で楽譜を読んで弾きこなす。秀樹はモーツァルトが好きだ。展開していく旋律を、息もつかせぬ勢いで紡ぎだし、しかも、その一つ一つの音に隙がない。表現力には未熟な部分があるものの、年齢から考えれば卓抜している。
演奏が、最終章の最後の拍を数え終えた。秀樹が鍵盤から手をあげる。最後の音まで、神経を張りつめているのがわかる。
「いいでしょう」
立ち上がり、亮子は楽譜に印を書き入れた。
「では来週、暗譜しておきなさい」
「ありがとうございました」
秀樹は椅子から降りて、テーブルの前に座った。ソファには座らず、絨毯の上に直接腰をおろし、五線ノートを開ける。向かい側のソファに、千珠が座っていた。千珠は心配そうに、秀樹を見ている。
「筆記用具を準備しながらでいいから、口頭で答えなさい」
「はい」
五線ノートをめくりながら、秀樹は答えた。ピアノの前に座り直し、亮子は聴音のテキストを楽譜台に置いた。長三和音を主音から順に一つずつ弾いていく。
「ド、ミ、ソ」
筆箱を手に取り、秀樹は言った。何も言わずに、亮子は主音を長二度あげて、短三和音の音を一つずつ弾く。
「レ、ファ、ラ」
何度か主音をかえて、基本形の長三和音と短三和音を弾いていったが、秀樹は全部正確に答えた。
「すべて正解です。よくできました」
五線ノートと筆記用具の準備が整ったのを見はからい、亮子は旋律聴音を始めると秀樹に言った。
「まだ、書いてはいけません」
八小節の曲を、亮子はゆっくりと弾いた。秀樹は神経を集中させて、音を聴いている。一度弾き終え、少し間を置いてから、亮子は言った。
「書いてごらんなさい」
秀樹は音符を五線に書き始めた。鉛筆を持った右手で音符を書き入れ、時々、左手でテーブルを叩いて拍を取って確認している。この程度の曲なら秀樹は一度で記憶し、完璧に五線に書きあらわすことができる。
「できました」
鉛筆を置き、秀樹が言った。亮子はノートを手に取った。聴き取りに間違いがないのはわかっている。もし、間違いがあるとすれば、楽譜の表記の仕方くらいのものであった。
「よろしい。よくできています」
思った通りだ。楽譜を確認し、亮子は赤鉛筆で五線ノートに大きな円を描いた。
和声聴音についても、秀樹は完璧に聴き取り、音符を五線に書き込んだ。
「よくできました」
最後の課題を終え、亮子が言うと、秀樹は立ち上がった。
「ありがとうございました」
いつものように、背筋を伸ばして一礼する。
「先生、どうぞ、こちらに」
千珠が立ち上がり、ソファの方に手を差し伸べている。亮子が座ると、千珠は電話の内線で、清子に茶菓の用意を言いつけた。
「発表会は秋でしたわよね」
「ええ、そうです」
「では、選曲はいつ頃になりますでしょう」
「夏休みか、その終わり頃にでもと考えています。桐生さんもよかったら、発表会にご参加くださいませんか」
え、と千珠は眉をあげた。
「せっかく、勉強を熱心に続けておられるのですし、いい機会ですから舞台で弾いていただきたいと思っています。最近は大人になってからピアノを始める人も多いんですよ。桐生さんのように上手な大人の方が演奏を聴かせてくださったら、そういう初心者の方達の励みにもなります」
「そんな、わたしなんて」
千珠は胸の前で手を振った。
「ショパンのノクターンでも弾いてくださったら、発表会も華やかになりますし、他の保護者の方々も喜んでくださいます」
「でも、あまり、練習もできないだろうし」
苦笑し、千珠は自身の指の先を撫でるようにして言った。
「今日は本当にすみません。たいした怪我じゃないんですけど、やはり、きちんと指が立てられなくて」
その日、千珠は右手の人さし指の先を切ったとかで、傷バンドを巻いていた。レッスンをしてみたものの、多少の痛みがあるようで、結局は左手のみの反復練習を中心にレッスンした。
「指の先って、小さな切り傷でも痛いですものね。でも、ちゃんと関節も問題なく動いているし、傷口さえ治ればいつものようにお弾きになれます。選曲についても考えてみてくださいね」
「先生がそうおっしゃってくださるのなら、せっかくですから出させていただこうかしら。でも、舞台で弾くなんて二十年振りかのことですから、考えただけで緊張しますわ」
照れたように千珠が笑った時、ドアをノックする音が聞こえた。
「失礼いたします」
盆を持った清子が入ってきた。
「また、新作ができましたのよ。ぜひ、先生に召し上がっていただきたいと思いまして」
紺色の陶器の皿に、白い菓子が載っていた。全体を覆っている薄い鱗《うろこ》のような飾りは、ホワイトチョコレートを削ったものだろうか。小振りの正方形の菓子にはブルーベリーがあしらわれ、色合いが鮮やかだ。
「可愛らしいお菓子ですね」
「ありがとうございます」
菓子を亮子の前に置き、千珠は「どうぞ、正直なご感想をお聞かせくださいね」と言った。
秀樹も千珠の横に座り、菓子を見ている。が、あまり菓子には興味がなさそうだった。毎日、見たり食べたりしているからだろう。秀樹の前には、紅茶だけが置かれた。いつもは、清子につれられて自室にもどることがほとんどだが、今日は母親の隣に座っている。
「秀樹君、紅茶が飲めるの?」
亮子が訊くと、秀樹は頷いた。同じ年齢だが、信宏はコーヒー、紅茶などとても飲めない。たまに亮子のカップに口をつけて飲むことがあっても、「苦い」「渋い」と言うだけだ。
「いつも、紅茶飲んでるの?」
「いつもじゃないけど」
「ココアとか、飲まないの?」
「そういうのは、おじいちゃんに怒られるんだよ」
首を傾げている亮子に、千珠は言い訳するように言った。
「わたしの父が、子供は甘やかして育ててはいけないと言うものですから」
清子が盆を持ち、部屋を出ていった。いつものように千珠が心配気な目をして、亮子の様子を見ている。亮子はフォークでケーキに切れ目を入れ、一口含んだ。芳《こうば》しいナッツの香りがする。
「あら、アーモンドが入っているんですか」
「生地にアーモンドパウダーを使っているんですよ」
「おいしい。ホワイトチョコレートとアーモンドの味が、とてもよく合っています。ブラックチョコレートとアーモンドの組み合わせはよくあるけれど、ホワイトチョコレートは初めてです」
「そうなんです。本当は、ブラックチョコレートの方がアーモンドには合うんですよ」
だから、材料の配分の調整に苦労したと、千珠は説明した。秀樹は立ち上がり、部屋の奥のライティングデスクの方に行った。置いてあった、銀色のオペラグラスのようなものを持ち、また、ソファに座る。見ると、メタリック仕様の大きめのゲーム機だった。
「ねえ、秀樹君」
フォークを置き、亮子は言った。
「秀樹君は、江口宇宙君と仲良しだったの?」
目をしばたたき、秀樹は亮子を見ている。
「あんまり知らない。だって、宇宙君は学校にも来てなかったし」
「そう」
向き直り、亮子は言った。
「桐生さんは、宇宙君のお母さんとお会いになったことはありますか」
「わたしも、まったく存じ上げません」
「一度もお会いになったことはありませんか」
「はい」
そうですよね、と亮子は言った。
「だって、宇宙君のお母さんて、入学式以来、一度も学校にいらしていませんものね」
「ええ、そうでしたわね」
千珠も頷いた。
子供のいるところで、例の事件のことはあまり話題にしたくない。子を持つ母親なら皆、そう思っている。だから敢えて、亮子と千珠は事件について話していない。雅彦のことはもちろんだが、江口まゆみの事件についても、子供に聞かせられるような内容ではないのだ。
亮子は秀樹に目をやった。秀樹は紅茶のカップを両手で持っている。砂糖もミルクも入れずに、秀樹は紅茶を飲んだ。
21
最後の生徒が帰ったのは七時だった。本当はあと一人、中学生がレッスンに来るはずだったが、実力試験が明日あるとかで、欠席の連絡があった。
「お母さん、お腹減った」
リビングでテレビを見ていた信宏が、練習室のドアを開けて顔だけをのぞかせた。
「ちょっと待っててね」
ピアノの蓋を閉めて、部屋を見回した。レッスンの音が漏れないように、すでに雨戸は閉めてある。亮子は電灯を消して、ドアを閉めた。
キッチンに入ると、かなり蒸し暑かった。ここのところ、真夏のような日が続いている。
クーラーをオンにして、亮子は冷蔵庫を開けた。昼間のうちに用意しておいた惣菜を取り出し、皿に盛り付ける。信宏を呼ぼうとした時、電話が鳴った。
「楠田さんのお宅でしょうか」
若い女の声だった。
「あの、突然お電話してごめんなさい。アリサです」
え、と亮子は眉をあげた。
「先日はありがとうございました。宇宙君の見送りにきていただいて」
「ああ、アリサさんですね。先日はどうも」
「本当にすみません、急にお電話をして」
困ったように、アリサは言った。
「いえ、いいんですよ」
「どうしても、聞いていただきたいお話があったものだから」
そう言ったきり、アリサは黙ってしまった。
「あの、何かしら、話って」
「宇宙君のことです。それと、ママの事件」
「事件?」
「そうです」
「どういうお話ですか」
「だから、その、電話では話しづらくて」
アリサは口ごもった。
「どうしても、聞いておいていただきたいんです」
何のことかわからず、亮子が首を傾げていると、アリサは思い切ったように言った。
「聞いていただけませんか」
なぜ、アリサは亮子にこんなことを言ってくるのだろう。
「とても大切なことなんです。ママを殺した犯人が、たぶんわかると思います」
アリサの声には緊迫感があった。
「わかりました」
「よかった」
安堵のため息が、電話から聞こえた。
「申し訳ないんですけど、今夜十時、お店に来ていただけないでしょうか」
「十時?」
「ごめんなさい、お願いします。人に聞かれたら大変なことになりますから」
そう言って、電話は切れた。
車を駅前の駐車場に停め、亮子は踏切を渡った。すでに十時を少し過ぎている。夫が帰宅したのが九時半過ぎで、それからまた、軽い食事の用意をしたりしていたものだから、家を出るのが遅れてしまった。
踏切を渡り、旧道に沿って歩いていくと、二階建ての古いビルが見える。
さびれた街だ。この雑居ビルと向かい側の棟割《むねわり》長屋を改築したような店舗住宅をのぞけば、店らしい店はない。人通りもなく、時々通る自動車のライトに、廃業した魚屋の歪んだシャッターが浮かびあがる。
雑居ビルの焼き鳥屋の赤提灯の灯が見えた。隣の店舗は喫茶店だが、すでに閉店している。向かい側には居酒屋とスナックが並んでいた。
亮子は旧道を歩いた。もうすぐ店を明け渡すと聞いているが、スナックの前にはまだネオンが置かれている。灯のともっていない「スナックまゆみ」と書かれたネオンの字体はひび割れていた。
木製の古いドアの前に立ち、亮子はノブに手をかけた。力をこめて押して中に入る。
店の中は暗かった。照明がついていない。
亮子はカウンターの奥に目を凝らした。煙草と黴《かび》臭さが入り混じったような匂いがしている。が、ほんの少し、鼻を刺激するような匂いがした。生の玉葱《たまねぎ》の匂いだ。
靴の先に、こつんと何かがあたったような気がした。ごく小さな何かが光っている。拾いあげると、それは薄闇の中でも、きら、と輝いてみせた。鋭利なガラスの破片だ。手を切るといけないので、亮子はそれをカウンターの上に置いた。
その時、カウンターの端に、人影のようなものが見えた。目を凝らすと、髪を束ねた女が突っ伏したような格好で座っている。アリサだ。
傍には酒瓶と氷入れがあった。その横にオードブルの皿がある。皿にはチーズやレタス、トマト、さらした玉葱が盛られていた。
酒を飲んでいたのか。
「アリサさん、起きてください。楠田です」
亮子は声をかけた。何かがアリサの背中で鈍く光っている。
「アリサさん?」
歩きだした亮子の足の裏で、ぬるりと滑る感触があった。あわててカウンターの椅子に掴《つか》まる。椅子は力なく回転し、亮子の躯は均衡を失い倒れそうになった。壁に手をつき、足元に目をやった。床が、黒く光っている。それは、ほんの少し前に見たことのある光景とかさなった。
雅彦の部屋で見た光景。
血だ。
亮子は短く息を吸った。ゆっくりと、アリサに目をもどす。
アリサの背中で鈍く光っているのは、刃物だ。
亮子はあとずさった。
突っ伏した格好なので、顔は見えない。アリサの左手は、何かを掴もうとして果たせなかったかのように、カウンターに伸びている。手首のあたりに、薄青い影のようなものが見えた。
包丁の柄には、布が巻かれている。目を凝らすと、豹柄であることがわかった。息を呑み、亮子はまたあとずさりする。その時、カウンターの向こうで何かが動く気配がした。
誰かがいる。
そう思った途端、頭の芯が熱くなった。
逃げなければならない。
幸い、ドアはすぐ傍だ。犯人は、カウンターの向こう側にしゃがんでいる。
そうだ。今なら、犯人は亮子に追いつくことはできない。
瞬間、亮子はドアに向かって飛び出した。椅子が腕にあたったが、痛いと感じる余裕もなかった。
店から出た亮子は、全速力で向かいの雑居ビルまで走った。
「一一〇番してください」
焼き鳥屋の格子戸を開けて叫んだ。カウンターに客が四、五人座っていたが、いずれも酔っているのか、呆れたような顔をして亮子を見ている。
「警察を、警察を呼んでください」
カウンターの中にいた店主らしき男が顔をあげた。
「どうしたんだい、いったい」
「向かいの店で、人が刺されて死んでいます」
「なんだって」
カウンターで飲んでいた男達が一斉に言った。
一番近い椅子に座っていた五十がらみの男が立ち上がった。背広は着ておらず、着古した紺色のTシャツを着ている。勤め帰りのサラリーマンには見えないから、この近辺の商店の関係者だろう。
「向かいの店って、どの店だい」
男が尋ねた。
「スナックです、『スナックまゆみ』」
肩で息をしながら、亮子は格子戸の向こうを指差した。
「『スナックまゆみ』って、あの、ついこの間、ママが公園で刺されて殺されたっていう、あの店かい?」
亮子は頷いた。
「あのスナックで、また、人が刺されて死んでるって?」
男は酔っているのか、多少|呂律《ろれつ》がまわらない。
「そうです」
「あんたそれ、たしかなのかい」
奥に座っていた初老の男が言った。
「今、見てきたんですから」
「よし、俺がたしかめてこよう」
酒臭い息を吐き、初老の男の連れらしい四十過ぎの男が立ち上がった。
「だめです」
亮子は叫ぶように言った。
「なんでだよ。人が刺されてるんなら、一大事じゃないか」
「犯人がまだ、店の中にいるんです」
「犯人がまだいる?」
客達がざわついた。店主がカウンターから出てきた。
「おい、人が出てきたぜ」
紺色のTシャツを着た男が言った。店の客全員が立ち上がり、戸に張り付くようにして表を見た。亮子も客達の後ろから目を凝らす。店の戸は格子のガラス戸になっていて、外の様子がよく見えた。
「あの、向かいの店だろ」
客の一人が言った。
スナックの前を人が歩いていた。だが、店の前は暗く、犯人の顔や姿はよくわからなかった。
「おい、ありゃ、女だぜ」
紺色のTシャツの男が言った。影しか見えないが、全体の姿からして女だろうと亮子も思った。
「おやじ、戸に鍵をかけろ。万一こっちに来られたら、何されるかわかんないぜ」
店主はあわてて戸口に駆け寄り、棒状の鍵を差し込んだ。
「おい、一一〇番だ」
カウンターの方を振り返り、店主が若い従業員に言った時、店の前を自動車が横切った。ヘッドライトの光が、同時に道路を移動する。路傍を歩く女の顔を、光は照らしだした。
「あっ」
思わず、声が出た。
ヘッドライトの光の中に、疲れきった奈津江の顔が浮かび上がっていた。
22
カーテンを引いた寝室に、遠慮のない光や人の声が侵入してくる。たぶん、午後は過ぎたのだろうが、とても起き上がる気にはならなかった。亮子はまた目を閉じ、寝返りをうつ。
アリサの変わり果てた姿を見てから、二日が経っていた。朝、夫と子供を送りだしたものの、頭が重く、躯がだるくてたまらない。
あの夜、ライトの中に浮かび上がった奈津江は、ひどく疲れた顔をしていた。頬は蒼ざめており、目も焦点が合っていないように虚《うつ》ろだった。けれど、自動車が通り過ぎる一瞬のうちに、奈津江の姿は黒い影にもどった。
焼き鳥屋の通報で駆けつけたパトカーは、駅の近くを歩いていた奈津江をすぐに発見した。亮子と客達の証言により、奈津江は警察に身柄を拘束され、連行された。
事件当夜、亮子と焼き鳥屋の客達も署で事情を聴かれた。亮子は見たままを話した。
かたく目を閉じ、亮子はまた寝返りをうった。その時、電話が鳴った。仕方なく起き上がり、枕元の受話器を取る。
「もしもし、楠田さん?」
聞いたことのある女の声だ。
「勝沼です」
文代だった。
「大変だったわねえ、楠田さん」
いかにも同情しているような言い方をしているが、声は子供のようにはずんでいる。
「新聞にもでかでかと載っていたわよねえ」
はあ、と答えたきり、亮子は何も言わなかった。
「内藤さんが包丁持って逃げるのを、あなたが追いかけて捕まえたんだって?」
大きく息を吐き、亮子は上を向いた。
「楠田さんのお手柄だって、みんなこの話で持ちきりよ」
そういう話になっているのか。
新聞には、奈津江の身柄が拘束された詳しい経緯は書かれていない。いや、奈津江の氏名すらも掲載されていない。ただ、事件現場から立ち去る女性がいたので、署で事情を聴いていると書かれているだけだ。
「包丁を持っている内藤さんを相手に、楠田さん、よく立ち向かったわねえ」
感心したように、文代は言った。
奈津江が参考人として警察に連れていかれたということは、すぐにひろまってしまったようだ。無理もない。あの時、パトカーの音を聞きつけて、近辺の人々が大勢集まってきたのだ。狭い町のことなので、こうした噂はたちまち伝わる。
「あんな事件を起こす人がこんな身近にいるなんて、本当に恐い話よねえ」
恐い、恐い、と言葉を繰り返しているが、文代の声はうれしそうだ。
「わたしはあの人、以前からおかしいと思っていたのよ。何ていうのかしら、生命の尊さがわかっていないっていうか、軽んじているっていうか。要するに、残酷な人ってことなのよね、今思うと」
「残酷?」
「そうよ。残酷なのよ、あの人。うちは生命の大切さを子供に教えるために、ハムスターを飼っているんです。あの人、うちに来た時、ハムスター見てなんとも言えない顔してたわ。すごく、嫌なもの見たような顔してるの。普通なら、可愛いって感情が顔にでるものでしょ。なのにあの人は、生命の大切さとか愛情が理解できないっていうか、変な顔してるのよね。そういう違和感みたいなものをすごく感じたわ」
夢中になって、文代は話している。得意気な顔が目に浮かぶようだ。
「あの人、今までの事件についても、白状するんでしょうね。警察に捕まったんだもの、観念しているわよね」
勝ち誇ったように、文代は笑った。
「ところで、楠田さん」
笑うのをやめ、文代はあらたまった様子で言った。
「警察で、どんなことを訊かれたの」
今、受話器を置いて電話を切ったら、文代はまた、あることないことを近所で言いふらすのだろう。
「ねえ、どんなこと訊くの、警察って」
それは、と亮子が言うと、文代は急に静かになった。
「事件に関することは何も喋っちゃいけないって、警察で言われているんです」
「あら、どうして」
「いろんな噂が流れたり、憶測をよんだりしてはいけないからって、言われました」
「そうなのよねえ。無責任に、いろんなことを言う人がいるものねえ、世の中には」
うん、うん、と文代は自分の言葉に相槌を打つように言った。
「ですから、そういう話は」
「ええ、わかるわ。で、内藤さんはこれからどうなるって、警察は言ってるの」
受話器を叩きつけてやろうかと思った。が、後の面倒を考え、亮子は思いとどまった。
文代に悪意があるわけではないのだ。ただ、頭が悪いだけだ。
「仲良かったのにねえ、内藤さんとあなた。でもなんか、友達を警察に突き出すなんて、あなたも後味悪いわよねえ」
「勝沼さん」
「はい」
名前を呼ばれた犬のように、文代が喜んでいるのがわかる。
「忙しいんです。失礼します」
亮子は電話を切った。
23
安岡は曖昧に笑い、首を傾げて言った。
「ですからねえ、面会はできないんですよ」
「どうしても、本人に訊いてたしかめたいことがあるんです」
亮子は食い下がった。
「では、わたしが承りましょう」
捜査一課にやって来たものの、誰にどう頼めば奈津江に会わせてもらえるのかわからない。とりあえず、面識のある安岡を呼んでもらった。
「まあ、どうぞ。お掛けください」
促され、亮子は古い革張りのソファに座った。
事務机の並んだ部屋は、普通のオフィスと変わらない。けれど、ほとんどの机は主がおらず、二人の刑事が電話の応対をしているだけだった。
「聞いていただきたいことがあるんです」
亮子が言うと、安岡は大きく頷いた。
「わたしは、『スナックまゆみ』で、アリサさんというホステスが死んでいるところを見ました」
「ええ、あの夜、そのようにお聞きしておりますから、そのことは承知しています」
けれど、と亮子は言葉を切った。
「殺された現場を見たわけではありません」
「いや、ご覧になったということなんでしょ、奥さんが」
「ですから、わたしが見たのは、アリサさんの死体だけです。いえ、正確にいえば、その時点では、死体かどうかもわからなかったわ。だって、わたしは彼女が死んでいるのかどうかも確かめていないのですから。流れていた血などを見て動転して、死んでいると思っただけです」
「なるほど。その時点で、被害者に息があったかどうかというのは、脈でもとらないかぎり、わかりませんね」
「アリサさんが血を流して倒れているところは見ましたけれど、刺された瞬間は見ていないんです」
安岡は腕組みをして、亮子の話を聞いている。
「だから、アリサさんが、果たして殺されたのかどうなのかも、わたしにはわからないんです」
それは、と安岡は苦笑した。
「あの状況で、殺されたのでないとしたら、どういうことでしょうな。自殺するにしても、自分で自分の背中に包丁を突き立てることはできないでしょうからね」
「誰かに殺されたのは間違いないでしょうが、誰に殺されたのかはまだわかっていないんですよね」
安岡は何も答えなかった。
奈津江が警察官に職務質問されるのを、亮子は大勢の野次馬達とともに見ていた。パトカーの前で奈津江は、自分はまったく何も知らないと答えていた。
わたしが店に行った時には、アリサさんは殺されていたんです。
奈津江ははっきりとそう言ったのだ。
ではなぜ、店に隠れていたのかと問われ、奈津江は、犯人は、自分を突き飛ばして逃げていった、その後、アリサが死んでいることに気づいたと説明した。
店に入ると真っ暗で、いきなり何者かに突き飛ばされたのだという。突き飛ばされた奈津江は床に倒れた。その際、犯人は何かを落としたらしく、それを拾おうとしたようだった。しばらく床の上やカウンターを捜していたようだったが、起きあがろうとした奈津江に気づき、犯人は奈津江の頭を椅子に打ちつけた後、逃走したらしい。
打ちつけられた衝撃のために、奈津江はしばらく立ち上がることができなかった。ようやく腕で支えて椅子に掴まり、立ち上がったのだが、その時初めて、カウンターにアリサが突っ伏していることに気づいた。でも、声をかけても反応がない。近寄って見たら、背中に包丁が刺さっていた。驚き、息を呑んでいると、外で人の気配がした。犯人が戻ってきたのだと思い、咄嗟《とつさ》にカウンターの中に隠れたのだと奈津江は話した。
なぜ、犯人が戻ってきたと思ったのかと、刑事は訊いた。
奈津江を突き飛ばした後、犯人は突っ伏しているアリサから何かをとろうとしていたように思えたのだと、奈津江は言った。その時は暗闇に目が慣れていなくて、カウンターに人間が突っ伏していることさえわからなかったのだが、後で考えると、そういう構図になると思ったという。
犯人がアリサから何かをとろうとしている時、硬いものが床に落ちる音がした。犯人は床を這うような格好をしたという。
もしかしたら犯人は、奪おうとしたものを捜していたのではないか。暗闇の中で犯人は、捜し物がみつからないまま逃げていったのかも知れない。しかし、捜し物の重要性を考え、引き返してきたのではないかと、奈津江は思ったという。
てっきり犯人が引き返してきたと思った奈津江はカウンターに隠れたのだが、アリサの名前を呼ぶ声がして、入ってきたのが亮子だと気づいた。
安堵し、奈津江は亮子に声をかけようとした。だが、この状況で今、自分が暗闇の中で立ち上がったら、自分は犯人と間違われるのではないかと、不安に駆られた。どうするべきか迷っていると、亮子が店を飛び出していったのだと、奈津江は話した。
一通り、奈津江から事情を聴いた後、詳しい事情は署の方でお伺いしたいのでご同行いただけますか、と刑事が言った。奈津江は従った。刑事の言葉遣いは丁寧だったが、パトカーに乗り込んだ奈津江の両脇には警察官が座っていた。
パトカーを見送った後、亮子や焼き鳥屋の客達も、警察の車で署まで連れていかれ、事情を聴かれたのだった。
「内藤さんは、事件について、どのようにおっしゃっていますか」
「あのねえ、そういうことには、お答えできないんですよ」
若い刑事が茶を運んできた。黒沢だった。
「どうもすみません」
「いえ」
会釈し、黒沢は、安岡の隣に座った。
「わたし、思い出したことがあるんです。すごく大事なことなんです」
ほう、と安岡が顔をあげた。
「でも、勘違いだったら、警察の方に申し訳ないですし」
「いや、そんなことはありませんよ。何でもおっしゃってください」
「その前に、確認しておきたいんです」
「何をですか」
「内藤さんは、事件について、自分がやったとおっしゃっているんですか」
それは、と安岡はわざとらしく咳払いをした。
「今も内藤さんは、パトカーに乗り込む直前に言ってらしたのと、同じことを言ってらっしゃるのでしょうか」
「まあ、今のところ、一貫してますな」
少しきまりが悪そうに、安岡は言った。
「つまり、自分は何もやっていないと」
「そういうことになりますね」
「どうして、あのスナックに行ったのだと、内藤さんは言っていましたか」
「ですからねえ、そういうことにはですね、お答えできないんですよ」
「もしかして、あの夜、アリサさんに呼び出された、と言っていませんでしたか」
「なぜ、そう思われるんですか」
「事件当日にもお話ししましたが、わたしがそうだったからです」
目を伏せ、安岡は茶をすすった。
「そうなんですね、刑事さん」
安岡は何も言わなかった。
「警察は、内藤さんの言っていることをどう考えていますか」
「どうって?」
「だから、彼女の言っていることを本当だと思っているのか、あるいは嘘だと解釈しているのか、どちらなんでしょうか」
「それは、これからの調べで明らかになるでしょう」
「わたしは、彼女の言っていることは、矛盾していないと思います」
「ほう。それはまた、どうして」
「わたしもあの夜、店に入った時、暗くて中の状況がよくわからなかったんです。自分の家ならともかく、よその家や店にひとりぼっちで真っ暗のまま置かれたら、大人でも恐いものですよ。そんな時、突然誰かに突き飛ばされたら、恐怖どころじゃないです」
「まあ、そうでしょうな」
「そして、そこで刺殺体を見るわけですから、当事者は大変な衝撃を受けます。実際、わたしもそうでしたから。その状況で、外で物音が聞こえたら、咄嗟に身を隠すのではないでしょうか」
顎をあげ、安岡はふむ、と言った。
「同じ状況に置かれていたなら、犯人がもどってきたのだと、わたしも感じたと思います」
亮子は安岡を見据えた。
「わたしは、内藤さんの言っている内容は、少しもおかしくないと思います」
「貴重なご意見です。ありがとうございます」
「内藤さんがやったという証拠はあるのでしょうか」
「それも、お答えできません」
「アリサさんの背中に刺さっていた包丁に、内藤さんの指紋はついていたのでしょうか」
「まあ、今時、凶器の指紋を拭き取るくらいの知識は、誰にでもありますからな」
苦笑し、安岡は頷いた。
「包丁は、あの店のものですよね」
「お答えできません」
あの包丁には見覚えがある。豹柄の布を柄に巻きつけたあの包丁で、まゆみがキュウリを刻んでいたのを亮子は見ている。
「あの時、アリサさんの手首には何か、傷のようなものがあったように見えました。違いますか」
「それも、お答えできません」
「そうですか」
亮子は頷いた。
「奥さん、何かを思い出したとおっしゃっていましたが、何を思い出されたんですか」
「いえ、勘違いでした。すみません」
会釈し、亮子は立ち上がった。
24
プルミン営業所の前を通ったことはあるが、中に入るのは初めてだった。
「あらあ、久しぶりねえ、お元気?」
制服を着た吉沢久枝は、人なつこい笑顔で亮子に言った。
半年ほど前、亮子は久枝の勧誘でプルミンの宅配を契約していた。
「近所を通りかかったものだから、プルミン買って帰ろうかなと思って」
「まあ、それはありがとうございます」
プルミンレディーの給与は歩合制だ。一本売るごとに歩合が得られるシステムなので、客が営業所で買えば、接客したプルミンレディーの収入となる。
「ええと、何が御入用ですか。プルミンの他に、フルーツ入りのヨーグルト飲料もあるんですよ。オリゴ糖と食物繊維入り健康飲料や、牡蠣《かき》エキス入りの栄養ドリンクもあります」
「じゃ、フルーツ入りのヨーグルト飲料を」
「フルーツの種類は、バナナ、オレンジ、イチゴ、メロン、プルーンがありますけど」
「全部一本ずつください。どれもおいしそうだから」
「ええ、全部おいしいですよ。ぜひ、お試しくださいね」
社名入りのビニール袋を手に持ち、「ちょっと待っててください」と言って久枝は奥へと向かった。
見回すと、事務所には久枝以外、誰もいない。久枝は部屋の奥にあるドアの大きなレバーを回した。ドアが開き、冷気が白い霧のように這いでてくる。防音室のように分厚く大きなドアの向こうは、倉庫のような冷蔵室になっていた。
フルーツ入りのヨーグルト飲料をビニール袋に詰めて、久枝は冷蔵室から出てきた。
「お宅の坊ちゃん、もう小学生でしょ」
「ええ」
「大きくなられたんでしょうね」
久枝はビニール袋を亮子に渡した。
「おいくらになりますか」
「ええと、消費税込みでですね」
事務机の電卓を取り、久枝は手早く計算した。亮子が金を払うと、久枝はキャラクター入りのメモ帳や画用紙を別の袋に入れて、「坊ちゃんにあげてね」と手渡した。
「ありがとう、喜びます」
二つのビニール袋を受け取り、亮子は言った。
「あのね、吉沢さんに教えてもらいたいことがあるんだけど」
「何かしら」
受け取った金を、机の上の小さな金庫にしまいながら、久枝は振り返った。
「昔、ここでプルミンレディーやってた人のことなんだけど」
「何年くらい前にいた人?」
「たぶん、二、三年前。江口まゆみさんて人」
ああ、と久枝は頷いた。
「江口さんのことなら、警察がさんざん訊いてったわよ。公園で殺されていたんでしょ、江口さん」
「そうです」
「かわいそうにねえ」
深く息を吐き、久枝は眉をひそめた。
「あの人がいたのは三年ほど前よ。離婚したばっかりとかで、小さい子供さん抱えていてね。大変だったみたい」
「プルミンレディーをやめた理由というのは、何だったんですか」
「思ったほど収入にならなかったって、そう言っていたわ。でもね、こういうのは、一朝一夕にできるものじゃないし、自分で信用をつくっていって、だんだんお客さんを増やしていくものなのよ」
「どれくらい、ここに勤めていらしたんですか」
「半年くらいだったかしらねえ。で、制服のことでしょ?」
「制服?」
「あの人、ここをやめる時、制服返さないままだったのよ」
プルミンレディーは退職する際には、貸与されていた制服を営業所に返すのが本来なのだと、久枝は説明した。どうやら、文代の言っていたことは、まんざらでたらめでもないらしい。
「制服を返していないということは、つまり、その制服はどこに」
「そりゃ、本人が持ってるんでしょ」
「そういうのは、会社から文句言われないんですか」
「本来はね、返却してもらわなきゃだめなんだけど、ちょうど、制服が入れ替わる時期だったのね」
「入れ替わるって、プルミンレディーの制服は、ずっとデザインが同じなんでしょう」
「そう、デザインはね。でも、制服は何年かに一度、本社から新しいのが支給されるの。みんなこれ着て、毎日歩きまわってるわけだから結構、生地がくたびれたりするのよ。雨の中を何時間も配達にまわったりするから、消耗が激しいのね。江口さんがやめてまもなくの頃、たまたま新しいのが支給される時期にかさなっていたのよ。だから、所長もわざわざ本人に追及したりとかしなかったんじゃないかしら。どうせ、古いのは捨てるんだし」
「じゃあ、そのままになっているんですか」
「そうなの。ねえ、ちょっと冷たいものでも飲んでいったら」
久枝は笑って言った。
「誰もいないし、どうぞ」
「どうもすみません」
ビニール袋をかかえ、亮子はソファに座った。久枝は小さな冷蔵庫から麦茶をだしている。
「わたしね、最近も江口さんとまったく会ってなかったわけじゃないのよ」
「お会いになってらしたんですか」
「いえ、そうじゃなくて」
持っていたグラスを置き、久枝は胸の前で手を振った。
「仕事の帰りに駅前のスーパーとかに寄っていくとね、時々、江口さんも来てたわ。まあ、ちょっと挨拶するか、当り障りのない話をするくらいだったけど」
「最近会われたのはいつですか」
「それがね」
麦茶を満たしたグラスを盆に置き、久枝は眉をひそめた。
「あの人が公園で刺される三日前なのよ。あれ、虫の知らせっていうのかしら。なんか、あの時の江口さんの笑顔が忘れられなくて」
「笑顔?」
「江口さん、あの時、すごくうれしそうだったわ」
「何がそんなにうれしかったのかしら」
「引っ越すんだって言ってたわよ」
「引っ越す?」
「ほら、市役所の前に大きなマンションが建ってるでしょ。あそこを買うんだとか言ってたわよ」
「買う? 本当に買うって言ったんですか」
「そう。だから驚いたのよ」
市役所の前のマンションというのは、最近建った高級マンションである。質の高いセキュリティシステムと利便性を謳《うた》っており、値段は県内でも指折りといわれている。そんな高級マンションを買う資金が、まゆみにあったというのか。
「なんでも、自分は保険を掛けとくのを忘れないからとか、自慢してたわよ」
「保険?」
「別れた亭主に保険でも掛けてたんじゃないの。亭主が死んで、保険金が転がりこんだんでしょう」
久枝はテーブルにグラスを置いた。
「宇宙君も転校させるんだって、そりゃうれしそうだったわ。こう言っちゃ何だけど、宮脇小学校って今、先生も親も良くないんだってね。江口さんが言ってたわ」
「どんなふうに良くないと、おっしゃってましたか」
「子供がこんなにいじめられてるんだから、先生とかいじめてる子供の親とか、もっと真剣に取り組むべきなのに、あの学校はみんなが無関心だって、すごく怒ってたわねえ」
「それで、転校させると?」
「違う学校にいけば、宇宙君もまた、登校できるようになるだろうからって」
「引っ越した後、お店はどうされるおつもりだったんでしょう」
市役所からこのあたりまで車で二十分くらいだ。通えないことはない。だが、今までのように店と住居が一緒というわけではないから、ずいぶん不自由になるはずだ。
「やめるって、言ってたわよ」
「スナックをですか」
「あそこって、一階が店舗で二階が住居になってるでしょ。引っ越したら、店舗も貸してもらえなくなるとか、そういうのが契約にあるみたいよ」
「また、別のところでお店を始められるつもりだったんでしょうか」
「いえ、もう、お店はやらないって言ってた。宇宙君のためにも、ああいう仕事からは足を洗うって」
「次は何の仕事をするって?」
「また、プルミンレディーでも始めようかしら、なんて言ってたわよ」
驚く亮子に、「もちろん、冗談よ」と、肩をすくめて久枝は笑った。
「あの人にはこの仕事向いてないし、そんなこと、本人が一番よくわかっていると思うわよ」
「じゃあ、何をするつもりだったのかしら」
「知らないけど、なんだかすごく上機嫌だったわね。それなのに、そのすぐ後、あんなことになっちゃってねえ」
かわいそうに、と久枝は目をしばたたいた。
「それに、あの美人のホステスも殺されたっていうでしょう。しかも、犯人は宇宙君の同級生のお母さんだっていうじゃないの」
「いえ、まだ、犯人とは」
「だって、犯人なんでしょう、その人」
新聞には、奈津江の実名はでていない。被害者の勤め先の息子と容疑者の息子が同級生だったということさえ、報じられてはいないのだ。だが、地元ではこれらのことはたちまち伝播し、皆が知るところとなっている。
「あの殺されたホステスさん、このあたりの人じゃないですよね」
「そうね、何も聞いてないから」
「いつからあのお店にお勤めだったんでしょう」
「最近よ、あの子が入ったのは。半年ほど前かしらねえ。今まで、あそこのホステスっていえば、江口さんと同じくらいの年格好の人ばかりでね、そんなに美人てわけでもなかったしねえ。それが、あんな若いきれいな子が入ったから、もうびっくりよ。お客さんも増えたらしいわよ。江口さん、自慢してたもの」
「じゃあ、お店はかなり繁盛してたんですね」
「そうみたいよ」
それにしても、と久枝は小さく首を振った。
「宇宙君の同級生のお母さんが、なんで江口さんの店のホステスを殺すんだか、理由がわかんないわ。どうせ、江口さんの事件だって、あの人が犯人なんでしょ」
「なぜ、そう思われるんですか」
「だって、たて続けにこんな事件が起きるなんておかしいじゃないの。こんなの偶然のわけないでしょ。やっぱり、同一人物が犯人にきまってるじゃないの」
ふう、と息を吐き、久枝は麦茶を飲んだ。
25
病院の待合室は、診察の順番を待つ人々で混雑していた。まだ、四時半をまわったばかりだが、午前のうちに診察カードをだして順番取りをしている者も大勢いるので、待合室には終日人が溢れている。
「秀樹君」
亮子が声をかけると、廊下を歩いていた秀樹が顔をあげた。手をつないでいた満知子が、「あら、楠田先生」と言った。
雅彦の事件以来、秀樹の登下校には満知子が付き添うようになった。以前から、病院の送迎は満知子が任されている。
「診察は終わった?」
秀樹は頷いた。
「あと、処方箋を待てばいいだけです」
満知子が言った。
「秋の発表会の楽譜をお渡しにきたんですよ。病院に来るついでがあったもので、秀樹君に少しでも早くお渡ししようと思って」
「まあ、それはありがとうございます」
「処方箋の窓口はあちらでしたわね」
「ええ、そうです」
「じゃ、行ってらして。名前を呼ばれても気づかなかったら、いけないから。秀樹君に、ちょっと楽譜のことで教えておきたいことがあるんです。ここにおりますから、精算など全部終わったら来てください」
「承知いたしました」
安堵したように満知子は言い、窓口の方へ歩いていった。亮子は秀樹を手招きし、廊下の隅のソファに座った。
「これ、モーツァルトのソナタアルバム」
「ソナタ? ソナチネじゃなくて?」
「そうよ、今度の発表会ではソナタを弾くのよ、秀樹君」
秀樹は楽譜を受け取り、ページをめくった。テーマ部分の最初の小節だけを集めた一覧のページを、亮子は手を伸ばして開けてやった。
「これ、知ってる?」
曲番を指差し、亮子が言った。秀樹はくいいるように、楽譜を見ている。
「はい」
「この曲を弾いてもらおうと思っているのよ」
秀樹はうれしそうに頷いた。亮子はページをめくってやる。
「そんなに難しくはないわ。トリルのところも今から練習していけば大丈夫だから」
夢中になって、秀樹は楽譜を読んでいる。亮子はまた手を伸ばし、楽譜を閉じた。驚いたように、秀樹が顔をあげる。
「秀樹君、この時計の音は何?」
亮子は、腕時計をした手首を秀樹の耳の横に近づけた。
「いえ、こんなに近づける必要ないわね。あなたの耳は普通の人とは違うんですもの」
腕をおろし、亮子は秀樹に言った。
「秒針の音は何?」
「ミ」
頷き、亮子は腕時計に目をやった。
「そう、ミ。正解です」
学生時代から使っている手巻きの腕時計だ。古いけれど、ネジを巻けばちゃんと動いてくれる。秒針は、十二平均率の「ミ」の音を刻みながら、文字盤を回り続けていた。
「この腕時計をつけたのは久し振りだわ。昔の時計は電池式とかじゃなくって、ネジ巻き式なの。ネジ巻き式ならネジを巻くだけでまた、動いてくれるのよ」
最近は、携帯電話に時間表示機能がついていることもあり、必ずしも腕時計をしないことが多い。亮子は久しく使っていない腕時計をあらためて見つめた。
「もう一つ、音がしているでしょう」
秀樹は頷いた。
「音は、何と聴こえましたか」
「ソ、シ、ソ、シ、っていってる。そこに時々、ミの音が入るよ」
「よくできました」
トートバッグから、亮子は別の腕時計を取り出した。大振りのファッションウォッチである。
「この時計、少し大きいでしょう。これはね、自動巻きなの。自動巻きっていうのは、ネジを巻かなくていいのよ。電池もいらないわ。こうやって振るとね、勝手にネジが巻かれていくのよ」
手に持った時計を、亮子は小刻みに振ってみせた。自動巻きのネジが、針と針を擦り合わせるような音をたてている。
「音は?」
「レ」
「正解です」
言ってから、亮子は時計をバッグにしまった。
「秀樹君は、雅彦君に意地悪されたことある?」
「ないよ」
「雅彦君に叩かれたり、蹴られたりしたこと、ある?」
「あるけど、少しだけ」
「ほとんどない?」
「うん」
「じゃ、ゲーム機とか、持ち物を雅彦君に取られたことある?」
「ないよ」
「本当?」
うん、と秀樹は頷いた。
「だけど、雅彦君が秀樹君のゲーム機を持ってたって、クラスのお友達が言っていたわよ」
「あれはね、あげたんだよ」
「どうして、雅彦君にあげたの?」
「雅彦君がちょうだいって言ったから、あげたの」
「それは、いつどこであげたの」
「公園であげたこともあるし、学校であげたこともあるよ」
「学校にゲーム機は持ってっちゃいけないんでしょ」
「雅彦君が欲しいって言ったから、持っていってあげたの」
「いくつくらい、あげたの」
「覚えてないけど、五個か六個くらいかな」
こともなげに、秀樹は言った。
「そんなにあげてたの」
「うん」
他の子供達に比べて、秀樹がたいして雅彦から乱暴を受けていないのはたぶん、「貢物」を多量に、しかも素直に差し出していたからだろう。
「宇宙君にも、ゲーム機をあげたの?」
「知らない」
「宇宙君には、ゲーム機をあげたことはない?」
「ないよ」
そう、と言って、亮子は頷いた。
「どうもすみません、先生」
満知子が前に立っていた。
「窓口の方、混んでたものですから」
「いいえ、いいんですよ」
亮子は立ち上がった。
「ちょっと待っていらしてね」
廊下の隅の自動販売機で、亮子はホットコーヒーとココアを買った。
「こういうところで長く待たされるのって、疲れるでしょ」
言いながら、亮子は紙コップのコーヒーを差し出した。秀樹にはココアを差し出す。
「まあ、先生、すみません」
「どうぞ、お座りになって」
満知子をソファに座らせ、亮子も腰掛けた。
「秀樹君にね、どうしても今日、次回のレッスンまでにCDを一度聴いておいてもらおうと思って」
トートバッグから携帯用のCDプレイヤーを取り出し、亮子はイヤホンを秀樹の耳にあてがった。
「ココアは今、先生が持っていてあげるから。楽譜を見ながら聴きなさい」
ソナタアルバムを開けて秀樹に持たせ、紙コップを亮子は持ってやった。
「では、第三楽章まで」
プレイボタンを押して、亮子は言った。秀樹は頷き、楽譜に目をやる。
「先生、本当にすみません」
紙コップを少し持ち上げて、満知子は会釈した。
「ソナタの第三楽章まで聴いていただくとなると、少し時間がかかりますのでね。あなたにも待っていただかなくてはならないものだから、ごめんなさいね」
「いいえ、とんでもありません」
満知子は片手を胸の前で振った。
「あなたのように、しっかりした方がついているから、奥様も安心ね」
「そんな、わたしはいつも、教えていただいてばかりですから」
「奥様は会社や家庭でいろんなことがおありだけれど、どうか、力になってあげてくださいね」
眉をあげ、満知子は亮子の顔を見た。少し、怪訝《けげん》そうな顔をしている。亮子は言葉を続けた。
「ご主人のことでは、心を痛めていらっしゃるようだけれど、そんなことは一時的なことだと思います」
「あの、そんなことは」
「いえ、ご本人にも、わたしはそう言っているんです。奥様もよくおわかりだと思います」
安堵したように、満知子は頷いた。
「ただね、やはり、日頃は周囲の人達が支えてあげてほしいのよ。清子さんはいい方だけれど、お父様お母様の代から仕えていらっしゃるでしょう。奥様もかえって色々気を遣われるのよ。あなたのような、若くてもしっかりした人にこそ、力になってあげてほしいとわたしは思っているの」
「そんな、力になるなんて」
両手で紙コップを持ち、満知子は目をしばたたいた。
「夫とただならない関係の女の人がお屋敷に乗り込んでくるなんて、どんな気丈な人でも耐えがたいことです。いえ、ここだけの話ですよ。わたしがこんなことを話していたなんて、奥様には言わないでね」
満知子は頷いた。
「よほど、お辛かったのでしょうね」
たたみかけるように、亮子は言った。
「わたしはその時の奥様のお気持ちがよくわかるわ。きっと、あなたも同じ気持ちだったと思うの」
「はい」
「そうやって、辛い気持ちを理解してくれる人が、奥様には必要なのよ」
唇をかたく結び、満知子は、ええ、と言った。
「奥様はね、やっぱり、お辛いからおっしゃらないんだけど」
亮子は声を低くした。
「その女の人は、何が言いたくてお屋敷に来たのかしら」
「だから、産みたかったんだと思いますよ」
「え?」
「子供を産みたかったって、喚いてました」
言ってから、満知子は紙コップのコーヒーを飲んだ。
「今度で二度目なのにって、それはすごい剣幕で」
「つまり、ご主人の意向で中絶させられたと?」
「そうです。だから、怒鳴りこんできたんですよ。お金目的でしょうけどね」
亮子は満知子に顔を近づけた。
「その時、秀樹君はどこにいたの」
「おられましたよ、その場に」
「その場に?」
思わず、亮子は秀樹の方に目をやった。秀樹の目は一心に、楽譜を追っている。
「奥様の傍《そば》で、怯《おび》えた顔をしておられました。とても驚かれたと思います」
そう、と言って、亮子は視線を満知子にもどした。
「でも、奥様とご主人は、本当に仲の良いご夫婦だから、大丈夫だと思うわ」
「ええ、そうなんですけど」
紙コップを撫でるようにして、満知子は指先を見つめた。ねえ、満知子さん、と亮子は片手でトートバッグをかかえなおした。
「先週のレッスンで、奥様が指に怪我をしておられたでしょう。その前の週、奥様はお仕事だったので、レッスンは秀樹君だけだったのよ。だから、奥様がいつお怪我をなさったのか知らないんだけど」
「あれは、奥様のピアノのレッスン日の一週間前ですよ」
廊下に貼ってあるカレンダーを指差し、満知子は言った。
「寝室に置いておられる陶器の置物、お皿ですけど、それが割れてしまいまして。破片を拾っている時に、手を切られたんです」
「見てたの」
いえ、と満知子は困ったように俯いた。
「ここのところ、奥様と旦那様は色々、話し合われていることが多くて」
「お食事の時とかに?」
「お食事の時は絶対に無理ですよ。大旦那様や大奥様がご一緒なんですから」
「じゃあ、夜、寝室に入られてからということね」
「ええ、まあ」
「話し合ってらっしゃる声が聞こえるの?」
「いえ、あの夜は特別でした。旦那様もすごく怒ってらしたし。奥様もいつになく、大きな声をだされて」
「大旦那様達にも聞こえたんじゃないかしら」
「別棟ですから、そんなことはないと思いますけど。あ、でも、気づいてらしたかも知れません。だって、朝まで怒鳴り声がしてましたもの。わたしも十二時頃、目が覚めたんですけど、その後一晩中ですよ、眠れませんでした」
夫婦の寝室と満知子の部屋は廊下を隔てていたものの、感情的になった二人の声がずっと聞こえていたと、満知子は眉をひそめた。
「で、陶器が割れる音がしたんです。そしたら、奥様がお部屋から飛び出してこられて」
心配になった満知子も廊下に出た。千珠は洗面所に向かっていったのだという。
「指の先を切っておられたんです。その血を流しておられたんですよ」
その後、満知子が、千珠の指に傷バンドを巻いてやった。
「出血なさっているから、見た瞬間は驚きましたけど、でも、本当に切り傷だけでした。その時、旦那様も部屋から出て来られて、奥様の様子を見にいらっしゃいました」
「それ、真夜中なんでしょう」
「いいえ、もう明け方でしたよ。窓の外は明るかったもの」
そう、と亮子は頷いた。ふと目をやると、秀樹は熱心に楽譜に見入っていた。秀樹が見ているのは、第三楽章の終章にさしかかる手前だ。視点の速度は一定している。
秀樹の視点が最後の小節で止まった。亮子はフェルマータの拍数を待って、秀樹の耳からイヤホンをはずした。
「じゃ、秀樹君、この曲の第一楽章、見られるところまででいいから、見ておいてね」
亮子が言うと、秀樹はソファから降りて頷いた。
26
都内のデパートに来るのは久し振りだ。県内のデパートはすべてまわったが、みつからなかった。
亮子はフロアを歩きながら、ガラスケースに並べられた腕時計に目を凝らす。時計貴金属売場はすいていて、視線を遮る人影もない。だがそれは、暇を持て余している店員の視線にさらされるということであり、亮子は居心地の悪さを感じていた。
高級腕時計のブランドは、想像していた以上に種類が多い。いくつかのブランドのコーナーを通り過ぎ、亮子は小さく息を吐く。
腕時計の一つ一つを食い入るように見つめている亮子は、「買物を楽しんでいる」という雰囲気ではない。店員からすれば、少しばかり不審に見えているのかも知れない。彼らは一定の距離を保ちながらも、亮子の方をさり気なく見ている。
あるガラスケースの前で、亮子は立ち止まった。並べられた腕時計にはすべて、「PATOU」の文字が刻印されている。スイスの腕時計の有名ブランド、「パトゥ」のコーナーだった。亮子がケースの時計に見入っていると、すかさず、店員がやってきた。
「何か、おさがしでしょうか」
若い男の店員が言った。びっちりと髪を撫でつけ、グレーのスーツを品よく着こなしている。濃い紺色のネクタイを締め、同じ色の小さなフレームの眼鏡をかけていた。
「この時計、見せていただきたいのですが」
ガラスケースを指さして、亮子は言った。
「承知いたしました」
しゃがんだかと思うと、店員は濃い紫色のビロードを張った台を持って立ち上がり、ガラスケースの上に置いた。
まるで、宝石箱の中身のような台だ。生地には「PATOU」の文字が金色の糸で刺繍《ししゆう》されている。それ自体が売り物かと見間違うような仰々しさだ。
彼の背後に四十代の男の店員が立っていた。たぶん、上司なのだろう。亮子の方を向いて、わずかに頭を下げてみせる。
若い店員はまたしゃがみ、ガラスケースの戸に鍵をさしこんだ。鍵をつけたまま戸を開け、手を入れている。
「こちらでございますか」
展示してある腕時計に手を添え、尋ねた。
「はい、それです」
頷き、彼は腕時計を取り出して、ビロードの台の上に置いた。上司らしき男が近づいてくる。時計は亮子の前に置かれたものの、手にとって見られる雰囲気ではない。
眼前で盗っていかれることも用心しているのだろうが、高級時計ゆえに万一手元から落としたりするようなことがあってはいけないので、神経を尖らせているらしい。
「精密な時計ですもの、壊れたら大変ですよね」
亮子が苦笑すると、店員は真面目な顔で応えた。
「多少の衝撃には耐えられるようにできております。この文字盤のガラスも、特殊なクリスタルガラスを使用しておりますので、通常の製品より強度が高いのです」
「割れることはないんですか」
それは、と彼は目をしばたたいた。
「たとえばですね、歩いている際に腕時計がどなたかの腕や鞄にあたったとか、日常のその程度の衝撃ならまったく問題ございません。傷にもならないと思います。ただですね、勢いをつけた状態で衝撃を与えたりいたしますと、破損することもございます」
「勢いをつけた状態?」
ですから、と店員は眼鏡の縁に指をやった。
「ある程度の高さから硬い材質の床に落とすとか、投げつけるとか、そういうことです」
「つまり、通常は考えられないような、乱暴な扱いをした時、ということですね」
「さようでございます」
店員が言うと、背後にいる上司も頷いた。
「この時計の文字盤、すごくきれいな色ですね。何色っていうんですか」
時計を見つめ、亮子は言った。
「ありがとうございます。こちらはシェルダイヤルでございまして、角度によって色が変わります」
「シェルダイヤル?」
「文字盤が、黒蝶貝でできているのです。最高級品でございます」
それに、と店員は胸を反らすようにして言った。
「黒蝶貝の色と輝きを増すため、当社ではこのモデルにだけは特殊な色素を使ったクリスタルガラスを使用しております」
「それで、虹色に輝くんですね」
「そういうことでございます」
黒蝶貝自身の放つ光と、クリスタルガラスの特殊な色素によって、文字盤の色と輝きに相乗効果が得られるのだと、店員は丁寧に説明した。
「あの、おいくらくらいするものなんですか」
「こちらでございます」
裏返っていた値札を示し、店員は恭《うやうや》しく頭を下げた。亮子は目を凝らし、数字のゼロの数をかぞえる。息を吐いて、亮子は首を振った。車でも買えそうな値段だった。
「これは婦人用ですけれど、同じデザインで紳士用もあるんですよね」
「はい、ございます」
店員は、ガラスケースに手を差し伸べ、「こちらです」と言った。
「それも見せていただきたいのですが」
「承知いたしました」
ビロードの台を、若い店員は内側にある事務用台のようなところに置いた。もちろん、亮子からは手が届かない。彼のすることを、上司は何も言わずに見ている。
隣のガラスケースから、若い店員は紳士用の時計をとりだした。ビロードの台に二個の時計を並べ、彼は盆を掲げるようにして、亮子の前に置いた。
「これは、ペアウォッチなんでしょうか」
いえ、これは、と店員は苦笑した。「ペアウォッチ」という安っぽい言葉の雰囲気に困惑したのだろう。
「とくにペアウォッチということでお作りしたものではございません。ただ、ご夫婦などでお持ちいただく際のことなど考えまして、ものによってはデザインに統一性を持たせております」
「つまり、お揃いでカップルが持つってことなんでしょう」
「ご希望される方は、そうなります」
「カップルで持つ人って多いのかしら」
さあ、と店員は笑った。
「人それぞれでございますから」
「この時計、動いているところが見たいのですが」
店員は首を傾げた。
「秒針が動いているところが見たいんです」
「それでしたら、ええと、こちらの時計。これは今、動いております」
ガラスケースから、よく似たデザインの婦人用の時計を取り出し、彼はビロードの台の上に載せた。
「ちょっと失礼」
亮子は身をかがめ、耳を時計に近づけた。
「あの」
「秒針の音を聴いているんです」
眉をあげ、店員は不思議そうに亮子を見た。上司も怪訝な顔をして亮子を見ている。
「時計の秒針の音が気になるんです」
「さようでございますか。ならば、お手にとって、お聴きください」
「いいですか」
亮子は時計を手にとり、耳に近づけた。規則正しい針の音が亮子の耳の奥に響く。
「お願いがあるんですが」
ビロードの台に時計を両手で置き、亮子は顔をあげた。
「シェルダイヤルの音を聴かせてください」
「はあ?」
「黒蝶貝の文字盤の時計の秒針です。どんな音がするのか、婦人用と紳士用と、両方聴いてみたいんです」
店員は明らかに変な顔をしている。上司も露骨な視線を亮子に向けていた。
「お願いします。大切なことなんです」
亮子は店員の目を見据えた。
「人ひとりの一生がかかっているんです。お願いします」
ガラスケースの上に手をつき、亮子は身を乗り出すようにして言った。
27
市民会館の正面玄関には、「明日の市政を考える会」と大きな看板が出ていた。開演までまだ三十分以上もあるが、すでに客席の半分以上が埋まっている。
入口の前では、関係者が入場客にパンフレットを配っていた。開演を待つ客達は、席についてパンフレットをひろげている。
「明日の市政は、市民の皆様とともに」と大きく印刷された文字の下に、桐生直也の写真があった。写真の桐生は紺色の背広を着て笑っている。胸元には、薄いブルーの四葉のクローバーを象《かたど》ったバッジが付けられていた。
表紙をめくると、芝生の中に立つ桐生の写真があった。水色のトレーナーに白いパンツを穿いているが、やはり、四葉のクローバーのバッジを胸に付けている。笑顔の桐生はこちらに向かって両手を差し出しており、写真を見ている者と今にも握手をかわす、というような格好だ。
亮子はロビーを歩いた。パンフレットを手にした人々が、行き交っている。飲み物の自動販売機の前では、紙コップを持った人々が、何ごとか熱心に話していた。正面玄関からは続々と人が入ってくる。それらのほとんどの者が、四葉のクローバーのバッジを付けていた。
楽屋に続く廊下を曲がり、亮子は奥のドアを開けた。
「すみません。関係者以外の方は、こちらの方はご遠慮いただいております」
身分証明タグを首からぶら下げた若い男が、亮子の肩をたたいた。
「わたくし、桐生様のお宅のお坊ちゃんと奥様のピアノレッスンを担当しております楠田と申します。本日の会に参加させていただきますので一言、桐生様にご挨拶申し上げたいと思いまして、こちらへ参りました」
「奥様とお坊ちゃまのピアノの先生でいらっしゃいますか。わかりました。少し、ここでお待ちいただけますか」
男は厚いドアを開け、奥に入っていったが、まもなく廊下にもどってきた。
「どうぞ、楠田先生、お入りください。奥様がお待ちです。開演が迫っておりますので、お時間の方はあまり取れませんが」
「ありがとうございます。では、ご挨拶だけ」
男はドアを開け、亮子を招き入れた。
案内された部屋は大きな楽屋で、応接セットが併設されていた。化粧台の反対側にはモニターが二台置かれ、舞台と客席全体の様子が見られるようになっている。
「まあ、先生、来てくださったんですか」
千珠がソファから立ち上がった。傍らに、秀樹が座っている。
「お忙しいところ、すみません」
「主人は今、別室で後援会の方と打ち合わせをしております。あとでご挨拶に参りますので」
「大変ですね」
いえ、と千珠は微笑した。
白いシャネルスーツに同じ色のコサージュをつけている。何気ないようだが、生地は真珠色に光り、織糸には微妙に異なる淡色がいくつも組み合わされていた。
「どうぞ、お座りください」
若い女が茶を運んでくる。この女も、胸にクローバーのバッジを付けていた。
「ごゆっくり」
茶を置き、女は丁寧に頭を下げて部屋を出ていった。
「お時間がないとのことなので、さっそくですが、用件をお話しいたします」
はい、と千珠は頷いた。
「あの事件のことですが」
「あの事件?」
「雅彦君の事件です」
ああ、というように、千珠は眉をあげた。
「南公園にあらわれたプルミンレディーについてですが」
言ってから、亮子は小さく息を吸った。
「あのプルミンレディーが誰だったのか、桐生さんはご存知だったのですね」
陶器のような千珠の頬が、一瞬、波打つように動いた。
「最初からすべて、あなたは知っていらっしゃった」
目を見開き、千珠は顔をこわばらせた。
「ご主人、今日はどんな時計をなさっておられますか」
バッグから、亮子は腕時計のカタログを取り出した。スイスの高級腕時計のブランド、「パトゥ」の製品カタログである。
「昨日、都内のデパートに行ってきました。こんな高級腕時計、縁がないので本当に疲れました」
苦笑し、亮子はカタログをテーブルに置いた。
「ご主人は、この時計はもう、処分なさったでしょうか」
カタログを開き、亮子は一つの時計を指さした。
「このページのは、すべてペアウォッチです。といっても、ペアウォッチとは言わないらしいんですけどね、こういう高級ブランドのメーカーは。でもまあ、ここに掲載されているのは、紳士用と婦人用が基本的に同じデザインになっています。男女がお揃いで持つ場合は、これらのなかから選ぶということらしいです」
千珠の目は見開かれたままで、睫毛の先がわずかに震えている。
「これ、虹色に光っているでしょう。文字盤に黒蝶貝を使っているんです」
顔をこわばらせ、千珠はカタログを見ていた。
「文字盤に黒蝶貝が使ってあると、秒針の音程が変わるんですよ。ご存知でしたか」
シェルダイヤルを指し、亮子は言った。
「わかる人は、めったにいませんけどね」
「先生」
突然、秀樹が立ち上がった。
「楠田先生」
言いながら、秀樹は亮子の方に歩み寄ってきた。
「何ですか」
亮子は秀樹の方に顔を向けた。秀樹は亮子を凝視したまま、何も言わない。亮子は促すように首を傾げてみせた。
「モーツァルトのソナタ、第一楽章の楽譜読み、全部終わりました」
「そうですか」
微笑し、亮子は秀樹の頭を撫でた。
「秀樹君、お部屋の外で待っていてくれますか」
「いやです」
「あなたのお母様が、そうおっしゃっているのですよ」
秀樹は振り返るようにして千珠を見た。千珠は黙って、秀樹に頷いてみせた。
「すぐに終わります」
亮子が言うと、千珠はドアを開けて、先ほどの若い女を呼んだ。秀樹を隣の楽屋に連れて行くように言いつけている千珠の傍から、できれば、と亮子は声をかけた。
「隣ではない部屋で待たせてください。そして、待たせる部屋では、このCDをかけておいていただけませんか」
バッグからCDとプレイヤーをだし、亮子は女に手渡した。
「今度の発表会の曲なんですよ。イヤホンで聴かせてください」
「承知いたしました」
女は秀樹の手を引き、部屋を出ていった。
28
風の音を聴くのは好きだ。風が駆け抜ける音は、心地よい。
人が「風の音」と認識しているのは、本当は「風の音」ではない。あれは、木々の擦れ合う音であったり、葉が揺れる音であり、風の音ではないのだ。
けれど、人は気づかない。木々の擦れ合う音を、あるいは葉が揺れる音を、風の音だと思っている。
秀樹は、木立の中にいるのは好きではない。猥雑で脈絡のない音が、何の規則性もないまま、鳴り続けるからだ。発せられた音はすべて不協和音となり、和声も拍も秩序のない状態で秀樹の耳に飛び込んでくる。
非旋律的な雑音が、楽理に基づく音名となって、秀樹の頭の中で鳴り続ける。当然ながら、そこには音楽性がない。終わりのない呪文を、音名付きで聴かされているようなものだ。
枝葉が擦れ合う音ですら、秀樹の耳には十二平均率で捉えられる。世の中のすべての音がドレミの音名で聴こえる苦痛は、常人にはわからない。
完璧な絶対音感の持ち主は、車のクラクションからブレーキの音、皿の割れる音ですらも、ドレミで聴こえる。どんな時でも場所でも、あらゆる雑音と騒音が、音名で聴こえるのだ。
屋敷の庭のように木々が立ち並ぶところにいると、木々の揺れる音や葉の擦れ合う音が、音名を伴って洪水のように押し寄せてくる。それらの一つ一つが、秀樹の耳から脳に侵入し、音の羅列を刻んでいく。
雑音が交じり合う中に長時間さらされていると、秀樹は目眩《めまい》がしそうになる。その後はきまって、胃腸の調子がおかしくなり、医者に連れていかれる。車酔いにも似た症状が起きるのだ。
だから、屋敷の庭にいるのはたまらない。時々、耐えきれなくなって、こっそり裏木戸から抜けてくる。ここのところ、毎日だ。けれど、母の言いつけだけは守っている。外にいく時には手袋を忘れない。どんなに暑い日でも。
南公園は屋敷のすぐ傍だ。南公園には、葉を繁らせた樹木がない。だから、本当の風の音を聴くことができる。余分な雑音を聴かなくてすむということは、余分な不快感をかかえこまなくていいということだ。
風の音は一つである。音程が交錯することはなく、安定した状態が持続する。
秀樹は目を瞑り、風に身をまかせた。
ふと、砂を踏みしめる音に気づいた。午前中に降っていた雨のせいで、湿気を含んだ砂はいつもより重い音をたてている。
砂の音は「シ」のフラットだった。
音の方を見ると、公園の入口を歩いている人の姿が見えた。プルミンレディーだ。ペパーミントグリーンの制服を着ているから、遠目でもすぐわかる。
プルミンレディーはゆっくりと歩いてきた。保冷バッグを肩に掛け、白い手袋をはめている。ペパーミントグリーンの帽子を深くかぶっているが、顎のあたりに白い塊が見えていた。近づいてくるにつれ、それはマスクだとわかった。
彼女は秀樹の前で立ち止まった。傍で見ると、プルミンレディーはサングラスをかけていた。珍しいことではない。自転車やバイクで配達にまわるプルミンレディーは、よくサングラスをかけている。
遠くで音がしていた。自転車の音だ。子供用の自転車が数台、連なって近づいてくる。
チェーンの回る音は「ソ」。子供用自転車のチェーンの回転する音は、大人用のそれより短二度高い。自転車の音に混じって、子供の声も聴こえる。それらが、学校の同級生達のものであることに、秀樹は気づいた。
一人一人の声が、秀樹の耳に正確に伝わってくる。雅彦、信宏、孝の声だ。彼らはゲームの話をしながら自転車を漕いでいる。
彼らの声や音が公園の前の通りにまで来た時、ようやく、プルミンレディーはそちらの方を振り返った。
「あ、プルミンおばちゃんだ」
公園の入口で自転車をとめ、孝が言った。
「ほんとだ、プルミンおばちゃんだ」
他の子供達も自転車から降りて、口々に言った。彼らは自転車を牽《ひ》き、公園の中に入ってきた。
顔をあげて、プルミンレディーは彼らの方を見ていたが、ゆっくりと手招きをした。彼らはプルミンレディーを囲むようにして集まってくる。
何も言わずに、プルミンレディーは保冷バッグに手をかけ、プルミンを取り出した。子供達はじっと、それを見ている。プルミンレディーは子供達の前にプルミンを差し出した。
雅彦が手をだし、受け取った。受け取った途端、彼はアルミ蓋をはがし、一気にプルミンを飲んだ。他の子供達は、羨ましそうに見ている。
白い保冷バッグの蓋を、またプルミンレディーが開けた。皆の視線がプルミンレディーの手元に注がれる。彼女はプルミンを一本、手に取って差し出した。信宏も孝も手をだしたが、やはり、雅彦がひったくるようにして取り上げてしまった。雅彦は素早くアルミ蓋をはがし、飲み始める。
黙って、プルミンレディーは雅彦を見ていた。横暴であつかましい雅彦をたしなめるかと思ったが、彼女は何も言わない。
新しいプルミンを、彼女はまた取り出した。当然のように雅彦が手をだす。が、プルミンレディーは、もう片方の手でそれを制した。白い手袋をした手を胸の前で振り、「だめ」という仕草をしている。雅彦は鼻白み、手をおろした。すかさず、横から孝が手をだす。孝はすぐにアルミ蓋をはがして飲み始めた。
プルミンレディーは信宏にもプルミンを差し出した。信宏はうれしそうに受け取った。皆が、ものも言わずに夢中になって飲んでいる。
見ていた秀樹に、プルミンレディーは一本差し出した。差し出しながら、彼女は首を傾げている。サングラスの奥の目が、じっと秀樹を見つめていた。秀樹はプルミンを受け取った。
けれど秀樹は、すでにあの音を聴いてしまっていた。
秒針の音は、「ファ」。
普通の腕時計より長二度高い。こんな秒針の音はめったにない。今まで秀樹が知っているなかでは、父の持っている時計とあともう一つだけだ。
入学してまもない頃、屋敷の台所にあがりこんで、怒鳴り散らしていた女。その女のはめていた時計が、同じ秒針の音をしていた。
父は普段、「ファ」の音のする時計をはめない。その時計は文字盤が虹色に光る。きっと、好きではないのだ。けれど時々、その時計をはめて外出することがある。
屋敷の台所で怒鳴り散らしていた女も、同じ文字盤の時計をしていた。虹色に光り、長二度高い音の秒針を持つ時計。
そして今、同じ秒針の音を、秀樹は耳の奥で捉えている。
秀樹はプルミンレディーの手首に目を凝らした。ペパーミントグリーンの制服の袖口から時々、虹色の文字盤がのぞく。
帽子を深くかぶり、サングラスとマスクをしたプルミンレディーの顔は見えない。けれど、このプルミンレディーが、屋敷の台所に乗り込んできた女だということに、秀樹はとっくに気づいている。
この女は、何のためにプルミンレディーの格好をして、こんなところにあらわれたのか。何のために、プルミンを子供達に飲ませているのか。
羨ましいわ、奥様が。
あの時、女は秀樹の母に向かってそう言った。
飲んではいけない。このプルミンを飲んではいけない。秀樹はそう思った。
何も言わずに、プルミンレディーはプルミンを次々に子供達に手渡し続けている。雅彦も孝も信宏も、何度もそれを受け取り、夢中になって飲んでいた。時々、プルミンレディーは秀樹の方を見る。
皆が飲んでいるのに、なぜ、あなたは飲まないの。
そう言いたげに、首を傾げてみせた。
やがて、保冷バッグの中のプルミンはすべてなくなった。プルミンレディーは、子供達が地面に捨てた容器を拾い、バッグに入れる。そして、何も言わずに公園を去っていった。
孝と信宏は、飲みきれなかったプルミンを半ズボンのポケットに素早くねじこんだ。雅彦にみつからないように。雅彦は、すべて飲んでしまっていたからだ。
「それ、よこせ」
雅彦は、秀樹の持っていたプルミンを取り上げた。
「捨てたほうがいいよ」
「うるせえ」
言い捨てて、雅彦は自転車にまたがり、公園を出ていった。
29
頬をこわばらせ、千珠はソファに座りなおした。モニター画面には演壇を用意された舞台が映っており、席を埋め尽くした人々の様子も別のモニターに映しだされていた。
「大変、失礼なことを申し上げますが」
ドアの外に誰も立っていないのをもう一度確かめてから、亮子は言った。
「ご主人と親しい女の方が、お屋敷にいらしたことがあったとか」
「いいえ、そのようなことは」
「入学式から、まもない頃だったそうですね」
「誰がそんなことを」
「その時、秀樹君はその女性に会っていますね」
押し黙り、千珠は唇を引き結んだ。
「あの子は頭もいいけれど、耳も大変良いのです」
ソファに座り、亮子は千珠を見た。
「聴覚も音感も人並みはずれて発達している秀樹君には、その女性のはめていた腕時計の秒針の音を聴き分けるのは何でもないことだったと思います」
秀樹には卓抜した絶対音感がある。秒針の音ですら、秀樹の耳には音名で聴こえるのだ。
「お屋敷に突然やってきた女性がはめていた腕時計の秒針の音を、秀樹君は正確に記憶していました。そして、それと同じ音を再度、聴いたのです、南公園で」
南公園にあらわれたプルミンレディーは、屋敷にやってきた女と同じ音のする時計をはめていた。
「きわめて珍しい音程の秒針だったのです」
千珠に絶対音感はない。秒針の音の判別は不可能だ。
「長二度も高い音の秒針なんて、めったにありません。ただの偶然ではないと、秀樹君にはわかったはずです」
だから、秀樹はそのプルミンレディーの差し出したプルミンを飲まなかった。
「雅彦君が持っていたプルミンの容器からは、雅彦君とお母さん以外の指紋は検出されていないんです。プルミンレディーの指紋さえもです。手袋をしていましたからね、プルミンレディーは」
プルミンレディーは通常の配達業務の際、白い手袋をはめている。だから、子供達もとくに気にとめていなかった。
「もう一人、手袋をはめていた人物がいました」
わずかに、千珠の唇が震えた。
「秀樹君は、外に遊びにいく時はいつも手袋をしていましたよね」
ハンカチを握りしめ、千珠は大きく息を吸った。
「おそらく、秀樹君の受け取ったプルミンを、雅彦君がいつものように取り上げたのでしょう。だから、雅彦君の持っていたプルミンの容器から、雅彦君とお母さん以外の指紋が検出されなかったのです」
千珠は目を瞑った。
「子供達の話によると、プルミンレディーの持っていた保冷バッグにはたくさんのプルミンが詰まっていたそうです」
亮子は小さく首を振った。
「たくさんのプルミンを準備していったのは、公園に子供達が複数集まってくることを予想していたからです。一人が寄ってくれば、他の子供達も必ずやってきます。何人もの子供がいるのに、特定の一人にだけプルミンを手渡すとあやしまれますからね。あのように、他の子供達にも無作為に配って飲ませれば、秀樹君も安心して飲むだろうと考えたのです」
亮子は千珠の方を見た。
「皆に安心させるため、犯人はプルミンレディーの格好をしていった。子供達はもちろん、大人だって、プルミンレディーがプルミンを子供にあげていても、とくには奇異に思いませんものね。普通の格好をした人が、乳酸飲料やジュースを子供達にばら撒いていたら、誰でも変に思いますが、プルミンレディーなら別です」
どこで誰に目撃されたとしても、プルミンレディーの格好をしていれば、周囲は気にもとめない。
「保冷バッグには一本だけ、農薬を注入したプルミンが用意されていました。食傷する子供達の様子をみはからって、犯人は標的である秀樹君にそれを手渡したのです」
しかし、それを雅彦が取り上げたため、秀樹は難を逃れた。
「もし、秀樹君がその場で農薬入りのプルミンを飲んだら、犯人はすみやかに公園を去るつもりだったのでしょう」
仮にその場で秀樹が血を吐いて倒れ、周囲の子供達が騒いだとしても、救急車を呼んでくるからここでみんなで待っていてね、とでも言えば、子供達はプルミンレディーの言に従ったに違いない。子供達はあくまでも、彼女を本物のプルミンレディーと信じているのだから、何とでも取り繕ってその場を離れることができる。
公園から離れたところで帽子をとり、制服を裏返しにしてしまえば、誰も彼女をプルミンレディーとは思わない。
「屋敷にやってきた女性が、プルミンレディーに化けて秀樹君を殺しにきたことを、あなたは秀樹君から事情を聞いて知っていたんですね。雅彦君が誰に殺されたのか、すべてご存知だったのですね」
いえ、と千珠は目を開けた。
「翌日、雅彦君が亡くなったと聞いて、初めて意味がわかったのです。まさか、あの人がそこまでのことを考えているとは想像もしていませんでした。本当です」
「なぜ、その時、警察に事情を話さなかったのですか」
千珠はハンカチを口にあてた。
「ご主人が、市長選挙の出馬を考えておられた時だったからですね」
選挙を控えた桐生直也は、スキャンダルはどうしても避けたかったに違いない。愛人が、本妻の子供を殺しにやってきたというだけでも大変なことなのに、何の関係もない他人の子供が間違って殺されたとなれば、騒ぎはさらに大きくなる。
「醜聞を恐れて、あなた方は警察に事情を話さなかった」
「時期が、悪過ぎました」
振り絞るような声で、千珠は言った。
「次回選挙の候補者擁立について、保守系が割れている時だったのです。そんな時期に、このようなことが明るみになったら、主人は潰されてしまいます」
「秀樹君に、このことは誰にも言ってはいけないと、口止めをしたのですね」
眉根を寄せ、千珠は目を伏せた。
賢い秀樹は、両親の立場や窮状を理解し、プルミンレディーの正体について、何も喋らなかったのだ。
「あなた方があの時、警察に届けていれば、その後の事件は起こらなかったのに」
顔をあげた千珠の目に涙が滲んだ。亮子はテーブルに置かれたカタログに目をやった。
「ご主人の腕時計を、わたしも一度、お屋敷で見たことがあります」
怪訝そうに、千珠が亮子を見た。
「秀樹君のレッスンの時でした。ご主人が腕時計をさがしにリビングに入ってこられたのです」
カタログを手に取り、亮子は指さした。
「この黒蝶貝の文字盤の腕時計でした。わたしは、ある女性がこれとまったく同じデザインの腕時計をはめているのを、別の場所で見たことがあります」
千珠が顔をこわばらせた。
「『スナックまゆみ』のホステス、アリサさんです」
テーブルにカタログをもどし、亮子は顔をあげた。
「アリサさんは今年の初め頃、この街に引っ越してきたそうですね」
あのスナックには、いかにも不釣合いな垢抜けた女だった。どう贔屓目《ひいきめ》に見ても、あんな場末の酒場にいるような女には見えなかったのを、亮子は覚えている。
「以前から、ご主人には、東京に愛人がいるともっぱらの噂でした。今思えば、アリサさんのことだったのですね。アリサさんは、東京からご主人を追ってきたのです」
アリサは桐生の意向で二度中絶させられていたという。そのことで屋敷に乗り込んできたこともあるのだ。
「アリサさんは、復讐しようとしたのですね」
満知子は、アリサは金目当てで屋敷に乗り込んできたのだろうと言っていたが、それだけではなかったはずだ。秀樹の生命までも狙うということは、子供を産めなかった自身の境遇について、桐生や千珠に思い知らせてやりたいという動機があったからに違いない。
「アリサさんは、あなた方ご夫婦が、雅彦君の事件の真相を知っていることがわかっていた。だから、自首するとほのめかし、逆にあなた方を脅して、強請《ゆす》っていたのでしょう」
奇妙な構図だった。殺人犯人自身が、「被害者」を強請るというのは、本来ならありえない。しかし、醜聞が漏れるのを恐れる桐生は、アリサに弱味を握られたも同然なのだった。
「アリサさんがプルミンレディーに化けて秀樹君を殺そうとしたのを知った人物が、もう一人いました。江口まゆみさんです」
ハンカチで目を押さえ、千珠は下を向いた。亮子は言葉を切ったが、しかし、続けた。
「江口さんは昔、プルミンレディーをやっていたんです。長続きしなくて、すぐにやめてしまわれたそうですが。当時、貸与された制服を返却しないまま退職したのだそうです。彼女はプルミンレディーの制服を持っていたんですよ。江口さんはスナックの二階に住んでましたから、アリサさんも普段から、その生活ぶりや様子をつぶさに知っていたはずです。江口さんがプルミンレディーの制服を持っているということも、その時、知ったのでしょうね」
アリサはプルミンレディーの制服を、こっそり持ち出して犯行に及んだのだ。
「後日、犯行の手口を新聞報道などで知り、江口さんはアリサさんが犯人だと気づいたのです。でも、動機がわからないから、アリサさんの身辺を調べたのでしょう」
アリサが桐生の愛人であることを知ったまゆみは、アリサだけではなく、桐生をも強請った。
「相手が桐生家となれば、金のなる木を手に入れたも同然だと、江口さんは考えたのでしょうね」
桐生を強請り始めたまゆみは、アリサにとって邪魔な存在となった。また、まゆみから、事件の真相が外部に漏れないともかぎらない。
「江口まゆみさんを南公園に呼び出して殺害したのは、アリサさんです」
亮子がそう言うと、千珠はハンカチに顔を埋めるようにして嗚咽を漏らした。
「江口さんの事件について、あなた方ご夫婦のことを疑わなかったわけではありません。が、事件当夜、あなた方ご夫婦は、十二時頃から明け方までずっと言い争いをなさっていたと、満知子さんから聞きました」
うるさくて眠れなかったからよく覚えていると、満知子は愚痴をこぼしていた。
「お屋敷に、江口さんがいらしたことがあるでしょう」
「いえ、そんなことは」
「宇宙君が、ゲーム機を持っているのを見ました。スパイラル社のゲーム機です。お母さんが秀樹君のお母さんからもらってきたって、宇宙君が言うんです。たしかに、そのゲーム機は秀樹君のものでした。スパイラルシールが貼ってありましたから」
「そんなもの持っている子供は、秀樹の他にもいっぱいいます」
「シールには、秀樹君のイニシャルが書いてありましたよ。何でしたら、筆跡鑑定でもしてもらいますか」
唇の端を引き攣《つ》らせながら、千珠はハンカチを持った手を膝に置いた。
「以前、桐生さんに、江口さんにお会いになったことがあるかとお尋ねしたことがあります。その時、あなたは知らないとおっしゃいました。そのことが、ずっとひっかかっていたんです」
薄いピンク色のマニキュアの塗られた千珠の爪は、小刻みに震えていた。
「江口さんはお屋敷にやってきたことがありますね」
震える指を隠すように、千珠はハンカチを両手で握りしめた。
「秀樹君の同級生の母親だというので、そして、事件のことについて話があるからといわれ、あなたは江口さんをリビングに通したんでしょう。江口さんは、事件の真相については黙っているからと、あなたを脅したんですね」
亮子は顎をひいた。
「わたしは保険を掛けておくのを忘れない。江口さんがある人に言っていた言葉です」
これはわたしの想像ですが、と亮子は千珠を見た。
「たまたま、目につくところにあったゲーム機を、江口さんは持っていかれたのではありませんか」
眉間に皺が寄り、千珠は泣きそうな顔になった。やはり、と亮子は内心つぶやいた。
「あれが、江口さんの保険だったのです」
「保険?」
「自分の身にもしも何かあった時は、桐生家を調べてくれという意味合いがあったのです」
ろくに登校もしていない宇宙と、桐生家のお坊ちゃまである秀樹に接点などあるはずもなく、宇宙が秀樹からゲーム機をもらうということなどありえないし、不自然だ。宇宙が秀樹のゲーム機を持っていることを学校の関係者が知れば、誰もが不審に思うに違いない。
関係者が問えば、まゆみが直接、桐生家からもらってきたのだということは、宇宙の口からいずれ語られる。その理由や経緯を調べれば、背景は自ずと明らかになるのだ。
「江口さんを殺したアリサさんは、さらに強くご主人に迫ったのですね」
市長選の候補者擁立の問題が片付くまで、いや、選挙が無事に終わるまで、桐生は事が表面化するのをどんなことがあっても阻止したかったのだ。
「たぶん、ご主人と話し合うことになったのだと思いますが、その時、アリサさんも『保険』を掛けておくのを忘れなかった」
目を見開き、千珠はかたく唇を結んだ。
「あの夜、話があるから店に来てくれと、アリサさんからわたしに電話があったんです。内藤さんのところにも同じ電話がありました。その前後に、犯人と会う約束をしていたのですよ、アリサさんは」
鉢合わせになって、奈津江や亮子に犯人が顔を見られる可能性、あるいは犯人がアリサに危害を及ぼそうとした場合の抑止効果などを、アリサは期待し、計算したのだろう。
「たまたま、内藤さんの方が店に早く着いてしまったのです。だから、あんなことになってしまった」
アリサを殺害した犯人が逃走する時に、奈津江は遭遇してしまったのだ。
「もし、わたしがもう少し早く店に着いていたなら、わたしが内藤さんの立場に立たされていたことでしょう」
ほんの数分の差が明暗を分けた。
「でも、桐生さん、あなたは、ご主人の黒蝶貝の時計がペアウォッチだとは知らなかったんでしょう?」
「どうしてそう思われるのかしら」
亮子を見据え、千珠は口角をあげてみせた。無理に笑ってみせようとしたのか、それとも唇がこわばっただけなのか、よくわからない表情だった。
「わたしが何も知らなかったと、なぜ、先生は思われるのかしら」
「愛人とのペアウォッチだと妻に知られている時計を、夫が無雑作にリビングに置いたりするはずはありません。知られていないから、おおっぴらに置いていたのですよ」
婿養子の桐生は、千珠だけではなく、千珠の両親の目をも常に意識していたに違いない。
「あれがペアウォッチだと気づいていたのは、秀樹君だけです」
その時、開演を知らせるベルが響いた。亮子も千珠も何も言わずに、ベルが鳴りやむのを待った。
モニターに目をやると、司会進行役らしき男が舞台の端でマイクを持って立っている。
紹介を受けて、桐生直也が登壇した。客席から大きな拍手が湧き起こる。桐生は笑ってそれに応え、マイクに顔を近づけた。
「本日は、明日の市政を考える会にお越しくださいまして、ありがとうございます」
桐生の目は、遠くを見据えていた。
「明日の市政を担うのは、皆さん方です」
客席は静まりかえっている。
「従来通りでよいのか。本当に、このままでよいのか。明日の市政は皆さんの意識にかかっています。皆さんの存在が、政治を変える、時代を変える。そのことをわたしは今日、強くうったえたいと思います」
整った顔立ちに、自信の色が滲みでている。亮子は千珠の方に目をやった。
「桐生さん」
亮子の声に、千珠がびくりと肩を震わせた。
「『スナックまゆみ』で、アリサさんを刺したのは、ご主人ですね」
千珠は大きく目を見開いた。
「楠田先生」
「なんでしょうか」
さっきまで怯えていた千珠の目の底に、暗い光が芽生えているのに亮子は気づいた。
「今、おっしゃったことはすべて、先生のご想像なんじゃないでしょうか」
「どういうことですか」
「先生は、主人があの方を殺したとおっしゃいましたが、確かな証拠でもあるのでしょうか」
「あります」
「見せてください」
「ごめんなさい、ここにはありません」
千珠が小さく笑った。瞳の奥底に芽生えていた光が、わずかに大きくなる。
「やっぱり、ないんでしょう」
「警察が持っています」
え、と千珠は眉根を寄せた。
「事件当夜、わたし、スナックでガラスの破片を拾ったんです」
「ガラス?」
「ただのガラスの破片だと思っていたんですが、違いました」
不審の色を目に浮かべながら、千珠は亮子の言葉に神経を集中させている。
「爪先にあたり、破片が落ちているのに気づいたんです。ガラスだから、手を切っちゃいけないって思って、無意識にカウンターに置いてしまったんです。そのことを後になって思い出しました」
アリサの死体を見た瞬間、あまりの驚きのために、ガラスの破片を拾ったことも、それをカウンターに置いたことも亮子は忘れてしまっていたのだった。
「そのことを先日、警察に話しました」
眉根を寄せたまま、千珠は用心深い猫のように亮子を凝視している。
「あれはただのガラスの破片じゃなかったんです。シェルダイヤルだけに使われる特殊なクリスタルガラスだったんです」
千珠のこめかみが震えたように動いた。
「黒蝶貝の腕時計に使うクリスタルガラスは、特殊な色素が入っているのだそうです。警察が鑑定したところ、スイスの高級ブランド、パトゥ社の、シェルダイヤルのクリスタルガラスだと、判明しました」
「だからといってその時計が、主人とのペアウォッチだとは断定できないわ」
「パトゥの時計を扱っているのは、都内でも一つのデパートだけです。黒蝶貝の時計は、車が買えるほどの値段なんですよ。バブルの頃ならともかく、この不景気な時代にめったに売れるものではありません。まして、男女がお揃いで買っていくなんてことはきわめて珍しいことです。それに、これだけの高級品ともなれば、買ったお客は上得意様ということで、顧客カードに登録されます」
真珠色のコサージュが、千珠の胸元でわずかに揺れた。目と鼻の周囲に丁寧に塗られていたファンデーションが、滲んだ汗と涙のためによれている。薄いローズ色の口紅も乾いたように艶を失っていた。それでも千珠は、亮子から目を逸らさなかった。
「もちろん、一般人に顧客カードなんか見せてくれません。でも、警察が調べればすぐにわかることです。二年前、黒蝶貝の時計を婦人用と紳士用、取り寄せを頼みにきた人物がいます。名前は桐生直也」
大きく肩を揺らし、千珠は気色ばんだ。
「たとえそうであったとしても、内藤さんが犯人ではないという証拠にはならないわ」
「なります」
「どうして」
「犯人は、殺害したアリサさんから、腕時計を奪っています。犯人にとって、アリサさんから腕時計を持ち去るのは重要なことだったんですよ。必死ではずそうとしたんでしょうね。アリサさんの手首には傷がついていました。あんまりあわてて、はずしたものだから、犯人は時計を床に落としてしまったんでしょう」
「先生はさっき、黒蝶貝の時計は車が買えるほどの高級時計だとおっしゃいましたわ。それなら、時計目当ての人が、強盗目的で殺したということじゃないでしょうか。内藤さんにその可能性がないとどうして断定できますか」
「もし、内藤さんが強盗目的でそんなことをしていたなら、カウンターにクリスタルガラスの破片を置いたままにしていくでしょうか。彼女は、わたしがカウンターに破片を置くところを見ていたんですよ。そのまま破片を置いていけば、自分が黒蝶貝の時計をアリサさんから奪ったという手がかりを残すことになってしまう」
「じゃあ、それとは別の、常連のお客さんかもしれない」
「お店の営業はしていなかったんです」
「無理に押し入ったのかもしれないじゃないですか」
「あの夜、アリサさんは、手料理というか、ちょっとしたオードブルを作っていたんです。簡単なサラダ程度のものですよ」
チーズを切ったものと、レタスとトマトに、さらした玉葱を添えた簡単なオードブルが、カウンターには残されていた。
「玉葱を水にさらすのって時間がかかるものですよ。急に作れるものじゃない。少なくとも一、二時間くらい前から水にさらしておかなければいけないわ。アリサさんは、あらかじめ、お客が来ることを承知していたということです。無理に押し入ってきた人にそんなものをだすでしょうか」
唇を結び、亮子は目をしばたたいた。
「オードブルを作る時に、包丁を使ったんでしょうね」
その包丁で、アリサは刺された。
「店の中には、生の玉葱の匂いがしていました。彼女はご主人のために、オードブルを作って待っていたんでしょう」
モニター画面に、演説を続ける桐生が映っている。聴衆は桐生の演説に聞き入り、見入っていた。
あの、と千珠が身を乗り出すようにして言った。
「先生、忘れていただけませんか」
え、と亮子は眉をあげた。
「このこと、先生の胸にだけ、しまっておいていただけないでしょうか」
「どういうことですか」
亮子は首を傾げた。
「謝礼も含めて、いろんなことを考えさせていただきます」
「あなたがそんなことをおっしゃるとは思いもしませんでした」
言いながら、亮子は立ち上がった。それでも、千珠は縋《すが》るような目で見ている。
「ごめんなさい。無理です」
「そこをなんとか、考えていただけないでしょうか」
「ここをご覧になってください」
顔をあげ、亮子は客席を映しているモニターの端を指差した。
「非常口の脇のところに座っている人。この人、警察官です」
千珠が小さく息を呑んだ。
「現在、会場のすべての出入り口に警察官が立っています」
「それは、どういうことでしょうか」
「たぶん、今日にも逮捕状がでると思っていました。次の休憩時間にご主人に伝えてください。出頭するなら今です、と」
振り返るようにして、千珠は舞台を映すモニターを見上げた。
単行本 二〇〇三年五月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年五月十日刊