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チーム・バチスタの栄光(下) 海堂 尊 宝島社
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チ ー ム ・ バ チ ス タ の 栄 光 (下) 日 次
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第 二 部………………………ポ ジ……………………白 い 棺(承前)…9
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13章 火喰い鳥…10
14章 つじっま合わせ…54
15章 オフ工ンシヴ・ヒヤリング…66
16章 ロジカル・モンスタ…105
17章 二垂らせん…127
18章 発作…159
19章 オートプシー・イメーンング(Ai)…177
20章 ロシアン・ルーレット…186
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第 三 部……………ホ ロ グ ラ フ…………幻 想 の 城 郡…207
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21章 敗戦処理…208
22章 後日談…228
終章 さくら…256
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チ ー ム ・ バ チ ス タ の 栄 光 (下)
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第 二 部………………………ポ ジ………………………白 い 棺(承前)
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13章
火喰い鳥
2月25日月曜日 午前10時 1F・不定愁訴外来
月曜朝十時。俺は定時より一時間半遅れで病院へ到着した。愚痴外来は休診にしてあったし、リスクマネジメント委員会への提出書類作成で日曜日が丸々潰れてしまったので、自主的な振り替え遅延にした。こう言えば聞こえはよいが、要は単なる寝坊による遅刻の言い訳だ。
こうした柔軟性が許容されていたのが、かつての大学病院の美徳の一つだった。しかしその良俗も、中途半端な医療改革によって崩壊寸前だ。大学病院は、変革によりゆとりと弾力を喪失し、瀕死状態だ。その余波が医療現場にどんな形で現れてくるかということは、誰にもわからない。
建物はピカピカだが、内部の人間は死に絶えてロボットが巡回する未来都市。ひねくれ者の俺には、今の社会が驀進する果てに、そういう光景が目に浮かぶ。
そんなことをぼんやり考えながら愚痴外来の扉の前に立った時、ふわりと珈琲の香りが漂ってきた。俺以外にここで珈琲を飲むヤツはいない。一体、誰だ?
俺は急いでトアを開ける。
俺の椅子に見知らぬ男が腰を掛け、一心に何かを読んでいた。
机の上には、バチスタ・スタッフの聞き取りファイル、Dカルテ、切り抜き記事などが散乱している。男が没頭しているのは、鳴海の聞き取りファイルのようだ。小太りの男の背後では、藤原さんが困ったような表情で立ちつくしていた。
「誰だ、お前?」
混乱した俺はそう言うのがやっとだった。
「何してるんだ? 勝手に人のファイルをいじるな」
開いたドアの死角から、聞き慣れた声がした。
「申し訳ありません。私が閲覧を許可しました。何しろ時間がないものですから」
慌てて内開きのドアを閉じると、その陰から丸椅子に腰掛けた高階病院長が姿を現した。
「高階先生・こんなところで何しているんです? コイツは一体、何なんですか?」
口を開きかけた高階病院長を手で制し、男が口を開いた。
「初めまして。わたくし、こういうものです」
差し出された名刺には、厚生労働省大臣官房秘書課付技官 白鳥圭輔≠ニあった。
改めて俺は男を見た。
見るからに高級仕立ての紺の背広。アルマーニに違いない。正確には、グッチとエルメスの区別に難渋してしまう俺(でも、シャネルならわかる俺)が、アルマーニと判断してしまうような高級そうな服、ということだ。
黄色いカラーシャツ。深紅のネクタイ。一見、お酒落。上質な品で身を固めているのに、全然しっくりこない。精一杯好意的に表現すれば、素敵な服の下品な着こなし。それは、某プロ野球球団がトレードで他の全球団の四番バッターを集めて組んだ打線と同じくらいの下品さだ。
彼の頭のてっぺんからは、細くて長い触覚が出ていて、ゆらりゆらり、揺れているような幻覚。思わず目をこする。
擬音語ならぎとぎと=A擬態語ならつるん=Bつややかに黒光りするゴキブリが脳裏に像を結ぶ。
事態が呑みこめず、呆然とする俺に、白鳥と名乗った男はズカスカ踏み込んできた。
「田口センセって、僕が想像してたよりもずっと色男ですね。意外だったなあ。もっとみすぼらしいっぽい方だと想像してたんですけど、予想が外れて何よりでした」
差し出された握手を拒絶して振り返る。高階病院長は苦虫を噛みつぶしたような顔で、補足説明をする。
「田口先生の調査の状況がかなり厳しそうだったので、大学時代の友人で厚生労働省の局長に、非公式に相談したんです。万が一の時のための保険でした。以後、あちらでも同時進行の別ルートで調べてくれていたんです。そして先週、田口先生からリスクマネジメント召集依頼を受けた際に改めて相談したところ、この白鳥君を派遣してくれた、という経緯です」
俺は始めから期待されていなかった、ということか。本来なら怒るべきところなのかも知れないが、もともと自分でも筋違いの依頼だと思っていたので、憤りはなかった。むしろ高階病院長の温かい心づくしの差配に感謝したいくらいだ。
それしても、役所らしからぬ迅速な対応が妙に目を惹く。加えて、本当なら喜ばしい対応のはずなのに、高階病院長の苦り切った表情はどうしたことだろう。そこに勝ち誇ったような白鳥の声が響く。
「つまり、田口センセがギブアップしなければ、僕はここにはいなかったってことです。だから、あまりツレなくしないで下さいね」
白鳥の語尾に覆い被さるように、高階病院長が俺に語りかける。
「田口先生に忠告しておきます。この方は、純粋に論理だけを追究できる資質をお持ちです。不愉快なことを言われても、お気になさらないように。気に障ることがあったら、思ったことをどんどん言っちゃって構いません。この方は外部に対して純粋に論理対応しているので、こちらが何を言っても全然へこたれないはずです。遠慮は御無用、遠慮なんてしていたら、こっちがめちゃくちゃにされてしまいます。何しろ相手はロジカル・モンスター(論理怪獣)ですから、まず第一に、自分の気持ちを守るように心がけて下さい」
「ロジカル・モンスターつて、何だかカッコいいですね。でも、他はボロボロじゃないですか。ひどいですよ。まるで僕が、クサレかヘタレかひとでなし、みたいじゃないですか。高階先輩、同じ高校の先輩後輩なのにあんまりですよ」
「君とは、在学中に知り合いだった事実はありません」
「そんな冷たい言い方しないで下さいよ。坂田局長からも、高階病院長をしっかりお助けするんだぞ、と念を押されてきたんですから」
「坂田君は、くれぐれも失礼のないように、とは言いませんでしたか?」
「ご想像にお任せします」
「坂田君も坂田君です。よりによって、いきなり火喰い鳥を派遣してくるとは想定外でした。一体何を考えているんでしょうか」
「それだけ事態が切迫していると認識してるんでしょ」
「この調査には姫宮君の方が適任だと思ったんですが」
「高階先生は、氷姫みたいな不愛想なぼんやり娘が好みなんですか。意外ですねえ。ま、あんまりわがままばかり言って、僕を困らせないで下さいね」
白鳥はひとさし指を立てて、左右に振りながら言う。高階病院長は答える。
「だからって、こんなあまりにも唐突な御訪問をうけるとは……」
「緊急対応を要請してきたのは、高階先生の方なんですよ。僕は、米国出張から直接東城大へ出向くように言われてびっくりですよ。海外出張したのに本省に復命する必要なし、なんて初めての経験ですから。どんなおおごとになっているのか、わくわく、じゃなくて、どきどきしちゃったじゃないですか。これだけでも坂田局長の心配の度合いがわかるでしょ」
それからちらりと俺を見る。
「氷姫は、田口先生とキャラがカブるから、今回は不要なんです。実は始めにお話が来た時には、氷姫の派遣も考えたんですが、よくよくお話を伺ってみると、今回は田口センセがその役を果たしてくれそうだということで、様子を見ていたんです。決して、高階先生に対して嫌がらせをしているわけじゃないので、あんまりダダをこねないで下さいね」
「何ですか、火喰い烏や氷姫って」
二人の掛け合い漫才に、ようやく俺が割って入る。白鳥はにまっと笑う。
「火喰い鳥は僕のコードネーム。氷姫は、姫宮という私の部下のあだ名です」
「火喰い鳥だってあだ名じゃないですか。どこが違うんですか」
高階病院長のつっこみに、白鳥は慌てず騒がず、子供を諭すように話す。
「あだ名とコードネームは、本質的に全然違います」
「なんで、火喰い鳥って呼ばれているんですか?」
小学生がむりやりひねり出したみたいな俺の質問に対し、招かれざるゲストは誠実に答える。
「周りのみんなは、僕が通った後はペンペン草も生えない荒れ地になるからだ、と言うんです。僕は、真実を追究しているだけなのに。ずいぶん失礼な言い草だと思いませんか?」
白鳥が高階病院長をのぞき込む。高階病院長は目をそらした。俺に向き合う。
「せっかくの機会なので田口センセに、自己帝介しましょう」
「だいたい、この大臣官房付というふざけた役職は、何なんです?」
待ちきれずに俺は白鳥につっこんだ。普段、遵守しているはずの自己抑制のタガがひとつ外れた。白鳥はへらへらと笑った。
「みんなたいてい、まずそこをお訊きになりますねえ。ご存じありませんか、大臣官房付という部署のこと?」
うっすらと知っている。不祥事官僚などがいったん転地させられる、省庁内部の一時拘置所みたいな部署。俺は、自分の中に形成されているその単語に対するイメージを、遠慮会釈なくお伝えしてみた。高階病院長の親切な御忠告に早速従ったわけだ。
「一般の理解としてはそれでいいんですけど。自分から希望して異動すると、けっこう居心地がいいんですよ、あそこは」
なるほど、メゲない。大臣官房付なんて役職を希望するヤツがいると思えないし、そもそもそんな配置転換の希望が許されるのだろうか。疑心暗鬼の塊と化した俺の視線をさらりと受け流し、白鳥は続ける。
「下っ端は書類を作らされてばかり、お偉いさんはその書類にハンコを押すだけ。本当にあそこはどうしようもない組織です。入省直後から、そんなことを包み隠さず口にしていたせいで、あちこちで嫌われて、いつの間にかすっかり問題児扱いされていたんですね」
俺はこっそりうなずいた。上役の人の気持が、痛いほどよくわかる。
「この物語は、お約束の国会番のサービス残業を断ったところから始まります。残業を命令された時、仕事が終わっても帰ってはダメ、他の人の仕事が終わるまで残っていなさいだなんて幼稚園の仲良しグループみたいですね、と一言言っただけなんです。そしたら翌朝、部屋から僕の机がなくなってました。それまで言ってきたことと比べたら、全然大した発言ではなかったんですけれどもねえ。ひょっとしたら予算編成の時期で課長がいらいらしていたせいだったのかも知れません。それでも幸い、私物はまとめて段ボールに入れられ入口に置いてありましたけど」
誰が見たって、クビ寸前という最終警告なのは明らかだ。つっこみたくてうずうずするのを、かろうじて自制した。
「納得できないんですよね。厚生労働省は、サービス残業を根絶しようとして、水曜日はノー残業デー、なんて旗振りしている。毎日をノー残業デーにしたんだから、僕は大臣表彰されてもおかしくないと思いませんか」
組織には本音と建前があるということは、社会人の教科書の第一ページに書かれていたはずだ。白鳥はうっかりそこを読み飛ばしてしまったらしい。
「仕方なく、段ボール箱を持って、いろんなところをうろうろしました。始めはお約束の資料室に行ったんですけど、辛気くさくて三日でイヤになりました。次は喫煙コーナーに三日。でも僕、煙草の匂いが大嫌いなんです。よく三日も我慢したなと自分に感心しました。けなげだと思いませんか? でも放浪の甲斐あって、とうとうぴったりの場所を見つけたんです。どこだと思います?」
コイツなら大臣室に居座るくらいやりそうだ。だって、大臣官房付なんだから。俺はどきどきしながら正解を待つ。
「合同庁舎の最上階に、スターリー・ナイト(星・空・夜)っていう、とってもお酒落なレストランがあるんです。隠れたデートスポットとしても有名です。霞ヶ関の夜景が綺麗でお勧め。今度使ってみて下さい」
そんなスポット、一体誰が使うのだろう。霞ヶ関に夜景を見に行こうと誘って、ついてくる女なんているのだろうか。
「いろいろ試したんですが、五番テーブルが最高でした。一番奥にあってとても静かだし、見晴らしも抜群。それでそこを僕の机にすることにしました」
そんなこと許されるのか? 思わず外されそうになる自制のタガを締め直して、我慢を続けていると、胸が苦しくなってくる。
「そうやってそこで毎日過ごすようになったある日、上司が辞令を持ってきて、それが大臣官房付という役職だったんです」
俺は名刺を改めて見つめた。どう見ても準不祥事だ。どういう神経をしているのだろう。そういうヤツに達いないという確信は、一目見た瞬間からあったのだが。
「上役は誰ですかと尋ねたら大臣なんだそうですね。で、大臣の所へ顔出ししたら仕事は自分で探しなさい、と言われました。それで三ケ月くらい、何もしないでぼんやり過ごしていました」
「その間、仕事はなかったんですか?」
白鳥の話に引きずり込まれて、締め直したはずの自制のタガが外れ、つい尋ねてしまう。
「ええ」
「全くなかったんですか?」
「ええ。全くありませんでしたねえ。よく、仕事に疲れた人が、大金持ちになったら何もしないで毎日ぐうたら過ごしたいなんて言いますけど、あれってきっとそんなに楽しくはないと思いますよ。確かに二ケ月くらいまでは楽しいですけどね。積《つ》ん読《どく》だった本は全部読めたし、棚の奥にしまい込んであった田宮の戦車シリーズを全部作ることができたし、それなりに有意義でした。でも、三ケ月を過ぎると飽きてしまってげんなりします。霞ヶ関にいても仕事はもらえなさそうだし、何もしないでただぼんやりしている生活にも飽きたし、ということで、ある日ふと思いついて、大学時代の友人が務めている母校の法医学教室に出入りすることにしました。ツテをたどって、監察医務院にも潜り込んだりして、検死検案や解剖をかじりました。
気が向くと霞ヶ関、次の日は法医学教室なんて気ままな生活のおかげで、検視や解剖に詳しくなりました。死体検索に関わる資格も取りました。解剖医、認定病理医、死体検案認定医、法医認定医なんてところですね。全部で五年くらいかかりました」
医者なのか、コイツ? 心の中の疑問符が思わずそのまま口をついて出てしまった。
「まさか白鳥さんは、医学部卒なんですか?」
まさか≠ヘ、どこからどう見ても明らかに余計だ。自己抑制のタガがいっそう外れつつある、という自覚症状あり、だ。白鳥は俺が込めたささやかな悪意のニュアンスなんて、一向に気に掛けず、歩みを止めない。
「ええ。医師免許だってちゃんと持っていますよ。役所をクビになったら医者をやればいいというのが、実は心の拠り所なんです。ま、生きている人の血が怖くて役人になったので、あり得ないとは思いますが。でも、死人の血は平気なんです。不思議ですね」
血を見るのが苦手で進路を決めた……俺と白鳥に共通項があることを知り、一瞬、眩皐《めまい》がした。そういえば、あちこちをうろうろする行動や、組織から半分はじかれている境遇なんかも、似ていると言われればそんな気がしないわけでもない。
自分の中に浮かんだ不穏で不愉快な連想を、俺は大急ぎで吹き消した。
「ところがそうやって毎日楽しく過ごしていたら、急に世の中の流れが変わってしまいまして。毎回説明するのが面倒臭くて新開記事を持ち歩いているんですけど、この記事はご存じですか?」
白鳥はポケットをさぐつて、ラミネート加工した縮小コピーを取り出した。内科学会、外科学会、病理学会、法医学会という四学会共同で、医療過誤死に関する中立的第三者機関を設立する予定という内容を報じた記事だった。
「ええ、知ってます」
鳴海から開いた話を思い出す。医療過誤事件が増加し、法律に忠実に処理すべきという社会的機運が高まった。現実には、医療現場に不慣れな警察が介入し現場の混乱に拍車をかけてしまった。こじれた問題を解消するために厚生労働省が打ち出した秘策のはずだ。白鳥は言う。
「厚労省はこの動きをコントロールしたがっているんです。内幕をバラすと、うちのお偉いさんが、大学の偉い人たちにこういうのを作れと指示したんです。お偉いさんというものは、どこの世界でも同じで、現場のことはろくに知らないのに、マスコミを前にすると舞い上がっちゃうんです。お役所のお偉いさんと、学会のお偉いさんが一緒になって景気のいい話を散々打ち上げてみたものの、実際には何をすればいいのかわからないので、結局最後には、法医学教室に出入りをしていた僕のところにおハチが回ってきたんです。いきなりずかずかやってきて、今度こういうものを作ることにしたから何とかしろって言われてもね。ハタ迷惑な話です。言い出したなら、最後まで自分たちで責任をとっていただきたいものです」
始めは全く無関係に思えた白鳥の身の上話が、徐々にこちらの方へにじり寄ってくる気配を感じた。白鳥は身振り手振りを交えて続ける。
「どうやら、大臣官房付というフリーな役職に就いているのを逆手にとって、僕に全部やらせることにしたらしいんです。ま、プチ陰謀ですね。さすがに少し後ろめたかったのか、新しく課を作ってそこの室長にしてくれました。せっかくの機会だからついでにいろいろ要望を出したら、火喰い鳥、というあだ名を頂戴しました。焼け太り、という意味合いを込めた皮肉だったみたいです。あ、いけない、あだ名≠カゃなくてコードネーム≠ナしたっけ」
やっぱりコードネーム≠カゃなくてあだ名≠カゃないか。呟きながら同時に、よく出世街道に復帰できたものだと感心した。俺の疑念を読みとったかのように、白鳥は続ける。
「厚労省の内部には、僕だけは絶対出世させたくないという人たちがうじゃうじゃいます。僕はそういう人たちの顔を潰したくないので、新しい肩書きはどうしても使わないと困る時にだけ使うことにしています。ま、どうでもいいことです。役所の肩書きなんて、しょせんは借り物ですから。それに、大臣官房付という肩書きの方はわりに気に入っているんです。ホント、僕にぴったりだと思います。
新しい課ができた時に部下が一人ついたから、苦節十五年にして僕もようやく管理職。その部下が姫宮、つまり氷姫です」
俺は、姫宮という白鳥の部下のことを考えた。氷姫と呼ばれるその女性は、薄幸の美女に違いない。こんなヤツの下に配属される不運を呼び寄せてしまうのだから、その美しきが並外れていなければ、きっとバランスがとれないだろう。
白鳥が、俺の心を見透かしたように、にまっと笑う。
「今、氷姫の想像をしてましたね。ダメですよ、彼女は。全然使いものになりません。仕事がトロくて、それを指摘しただけで、すくビービー泣くんです」
高階病院長がすかさず助け船を出す。
「姫宮君は、あの年の首席入省者ですよ。あなたの仕事の重要性を考慮して、坂田君が泣く泣く、一番優秀な彼女をつけてくれたんじゃないですか。そういう彼女を使いこなせない上司の方に問題があるんじゃないですか?」
「高階先輩は本当に氷姫がお気に入りなんですね。でもいくら言っても今回、彼女の出番はありませんから悪しからず。今の時点で必要なのは氷姫より僕です。首席がお気に入りなら、それこそ僕で十分じゃないですか」
白鳥は、胸ポケットの銀時計の鎖をちゃらちゃら鳴らす。その昔を聞き、高階病院長は不機嫌な顔をして黙り込む。
「ま、今回は僕と田口センセのペアで、ばっちりですよ」
俺の眼をのぞき込むと、白鳥はウインクをした。顔半分を歪めて細い眼をちょっとだけ細くしただけ。全然さまにならない。
「それにしても、田口センセはラッキーですね。高階先生はお偉いさんですが、現場のことをよくわかっているお偉いさんです。その上、現場に任せっきりにするようなクソ度胸のあるお偉いさんです。こういうお偉いさんは滅多にいませんよ」
「お偉いさん、お偉いさんって連呼しないで下さい」
高階病院長が怒気を含んだ声を上げる。本当に白鳥が苦手らしい。
俺は、白鳥の最後の発言には、全面的に同意した。案外コイツ、鋭いかも。
白鳥のポケットから電子音がした。黄色い丸いものを取り出す。
「病院内では携帯電話は禁止ですけど」
苛ついた声で藤原さんが注意した。白鳥はソファにもたれて斜め後ろを振り返る。
「違います、ウンチです」
「ウンチ?」
藤原さんがびっくりして訊き返す。
「そう、ウンチ。ご存じないですか? たまごっち。今、小学生の間で大人気」
そういえば、十年前に流行《はや》った電脳玩具が再ヒットしているというニュースを、最近どこかで見た覚えがあった。藤原さんは口をぽかんと開けて、白鳥を見つめた。
「イヤになっちゃいますよ。上の娘がどうしても欲しいって言うものだから、あちこち探し回ってやっとのことで手に入れたのに、一週間で飽きちゃって。小学校は忙しいの、パパが買ってきたんだから、後はパパがちゃんと面倒みてね、ヨロシク! ですもんね。あーあ、ウンチが三つもたまってる。ごめんごめん。さて、ウンチな・が・し、終了」
白鳥はボタンを操作して、電子生物の排泄物処理を終える。俺は別のところで衝撃を受けていた。コイツに娘がいるのか? しかも二人も?
唖然とする藤原さんに、白鳥はとどめを刺す。
「それにね、僕は携帯電話を持ってないんです。赤の他人から、いきなりピンピロリンっていう音で呼び出されると、何か犬みたいな気持ちになるんでイヤなんです」
手練れの藤原さんを一刀両断。コイツは、ただものではない。
俺は仕切り直して、失地回復を試みた。
「いくら厚生労働省の大臣官房付の技官さんでも、個人のプライバシーに関する書類を無断で見ることは越権でしょう。病院長の許可があったって、やりすぎですよ」
「その点に関しては、私が許可を出したので、ご容赦していただければと……」
高階病院長の言葉を制し、白鳥が内ポケットから封筒を取り出す。
「確かに、高階先生に許可はいただきましたけどね、本当はそんな必要もないんです」
俺に放り投げる。高階病院長が慌てて制止しようとする。その手をすり抜け、封筒は俺の手に収まった。
「白鳥君、それは使わないという約束では……」
「田口センセだけになら、構わないでしょ?」
白鳥の言葉に高階病院長は黙り込む。白鳥は急に仰々しい言葉遣いになる。
「私には、病院内部の個人情報を自由に閲覧できる権利が与えられている。万一、拒否権が発動されたとしても本権限は病院長権限を凌駕し機能する、なーんてね」
ラミネートコートされたカードが出てきた。『不特定多数個人情報閲覧許可証』とある。その下に白鳥の署名、そして仰々しい四角い押印。厚生労働大臣|印璽《いんじ》?……まさか。
大見得を切った後、白鳥はへにゃつと笑う。
「ま、そういうことなんで。ここはひとつ、ご協力よろしくお願いしますね」
白鳥に素早くカードを取り上げられた俺は、逆襲を諦めた。
「いつからここにいらしているんですか?」
「先週金曜日からです。三泊五日の米国出張からとんぼ返りしたその足で直接ここに来ました。それからずっと院内に滞在継続中」
術死後に俺が高階病院長に泣きついた翌日。素早い、というより異様な早さ=Bまるで、俺が泣きつくのを待ち構えていたみたいにも見える。
「どこに寝泊まりしているんですか?」
当直室はいつもたいてい、ふさがっている。俺も急に泊まり込む必要ができると、愚痴外来のソファを使う。
「地下に視聴覚ルームってあるでしょ、ビデオが見られる部屋。あそこに毛布を用意してもらって、ソファで寝てます。スーツケースには着替えも入っていますし、他にもあっちで手に入れた洋モノのビデオとか、ま、いろいろと便利ですね」
どこでも生きていけそうな、たくましさ。だが、たくましいという陽性の形容詞が、どうしても似合わない。だからといって、陰性というわけでもなくて、要は通常の物差しから大きく外れた未知数の異次元感覚の真只中にいきなり放り込まれてしまった、という感じ。だがその感じがどこから来るのか、実はよくわからない。
「この週末にいろいろな人たちから、話を聞かせてもらいました。始めに直接高階先生から何人か紹介してもらって、それからその人たちの友達の輪をたどっていって、次々に紹介してもらいました。あ、そうそう、それからビデオもたくさん見てました」
ついでに洗剤でも売りつけていたら、立派な無限連鎖講防止法違反だろう。これは決して取り越し苦労なんかじゃない。コイツなら本当にやりかねない。もっとも、売りつけられるのは洗剤じゃなくてパンツのゴムヒモかも知れないけど。
「時差ボケはひどかったんですが、病院っていい所ですね。夜中でも相手をしてくれる方が大勢いますもの。深夜勤務の方のほうがじっくり話を開けますし、おやつは出してくれるし、いいことずくめでした。CCUからは叩き出されてしまいましたが、他のところでは結構温かい歓迎を受けましたね。おかげでおもしろい話をいっぱい開くことができました」
「桐生先生とはお会いになりましたか?」
「桐生チームの人たちとはまだ誰とも接触していません。これから田口センセと一緒に回ろうと思いましてね」
俺と一緒に、何だって? 何だ、それは? 全然聞いてない話だ。高階病院長を振り返ると、目を伏せて視線を合わせようとしない。
「詳しい打ち合わせは、後でしましょう。さっきの話の続きですけど、いろいろ回った中で、一番ぺらぺら喋ってくれたのは誰だと思いますか?」
心当たりはあったが、さあ、と答えて知らないフリをした。
「田口センセの部下の兵藤先生です。くだらない情報の宝庫みたいな方ですね」
「兵藤先生は私の部下じゃないですよ。思い違いをされては困ります」
兵藤の話がインプットされているのか。俺の中で警戒警報が鳴り響く。白鳥は俺の顔色の変化を素早く読みとったらしい。
「兵藤先生の方では、田口センセのことを上司だと思ってるみたいでしたよ。でも、心配しないで下さいね。彼の話はもともと四割引くらいで開いていますから。あ、それとも、もうちょっと割引率を上げた方がいいんですか?」
初対面で兵藤がそういうヤツだと見抜いたのか。それは相当難易度が高いことだ。兵藤をよく知る俺でさえ、言葉だけ開いていると、騙《だま》されかかる。疑いというフィルターで濾過《ろか》して内容を吟味している今の俺だから、真贋比率もわかる。周辺情報抜きで見抜いたのなら、よほどシャープな知性を持っているか、あるいは動物的な嗅覚が強いかのどちらかだろう。
考えている最中、もうひとつの可能性にたどりつく。すべての前提を徹底的に疑っているという、猜疑心旺盛なタイプである可能性。
「ま、田口センセが僕に疑問を持つのは当然ですけと。僕たちには時間がありません。詳しい説明は省かせてもらって、早速本題に入りたいんですけど、いいですか?」
仕方なく俺はうなずく。心の中を読みとられ、先回りされているような薄気味悪さを感じた。
白鳥は、患者の椅子を俺に勧めた。
「ま、ま、そこにお掛け下さい」
主客転倒もいいところ。それは俺のセリフだ。背後で高階病院長が顔をしかめた。
「聞き取り調査ファイルを拝見しました。よく観察されてます。完成度が商いです。実に感心しました。|Bravo《ブラヴォー》!≠ナす」
「お誉めにあずかり、光栄です」
過剰な賞賛の言辞に対する儀礼的な返礼。おざなりな俺の返答を意に介さず、白鳥のハイ・テンションは続く。
「聞き取りの順番も最高です。これは田口センセがご自分でアレンジしたんですか?」
「いえ、皆さんのご希望に合わせただけです」
白鳥はがっくりと肩を落とす。
「なんだ、偶然かあ。……ま、ツキも実力のうち、ですからね。この垣谷−酒井のラインの反目と、大友−羽場ラインの相互依存性の引き出し方なんて、最高です。もしも順番が逆だったら情報量は半分以下になってしまったでしょうね。そうした点にほんの少しばかりの註釈を加えれば、そのままケースレポートになりますよ」
一体、どこの学会のレポートだと言うのだろう。かすかな好奇心が蠢動《しんどう》する。
「特に感心したのが、自分の名前の由来を話してもらうやり方のところです。オリジナリティが高くていいですね。|セルフポートレート《自 画 像》・トークを促進しそうで、とってもナイスです。是非、氷姫にも勉強させましょう。彼女、話し始めが下手くそでしてね。いつも星座と血液型の話ばかりで、あれじゃあ、まるで合コン」
そう言うと白鳥は大仰に首を左右に振る。
「それにしても…………惜しい、実に惜しい。……でも、ま、いいか」
白鳥の表情が翳りを見せる。独り言を俺へのセリフに切り替える。
「田口センセのファイルは、とても良くできています。|パッシヴ《受動的》・フェーズ調査としては、多分これ以上のものは望めませんね」
パッシヴ・フェーズ? 何だそれ?
「でもこの案件は、おそらくこれから穴倉に潜んでいる何かを引きずり出さなければならないでしょう。そうしないと問題は解決しません。そのためには|アクティヴ《能 動 的》・フェーズの調査力が必要なんですけど……」
白鳥は言葉を切って、俺を見つめた。よく見るとその視線は、俺をすり抜けて窓の外だ。気がつくと、細かな貧乏揺すりが始まっている。
「惜しい、実に惜しい。田口センセには、アクティヴ・フェーズ能力が、決定的に欠除しているみたいだ。優しすぎるのかな? でもこの記載を見ている限り、そこまで欠落していないはず。攻撃性の過度な抑制? トラウマに対する代償作用? どっちにしてもその歪みのおかげでこれだけのパッシヴ・フェーズができるとしたら、氷姫よりは格上かな?
ま、いいや。そのために僕が呼ばれたんだし。苦手な領域をカバーしてもらった上に、時間短縮までできた、と思えばいいのか」
耳障りな単語の羅列。断片的で文脈を形成していないが、どちらにしても聞き捨てならない。勝手に自分を評価される不愉快さを我慢できず、俺は白鳥に尋ねる。
「あの、今の言葉は、私に言っているんですよね? それとも独り言ですか?」
白鳥は、我に返ったように俺を見て頭をかいた。
「あ、申し訳ない。田口センセに話しているつもりが、途中から独り言になってました」
「それはいいですけどね、私に関して何かぶつぶつおっしゃっていたでしょう。よろしかったらその中身について、少し説明してもらえませんか」
「もちろん、もちろん」
白鳥はにこやかに承諾する。表面上とても礼儀正しいのだが、改めて面と向かうと不愉快さが倍増する。白鳥には相手が踏み込んで欲しくないと思う領域を回避するエチケットに欠けるようだ。最低限の礼儀は守っているが、どこか、こちらの領域まではみ出してくる感じ。二人掛けの座席で一・五人分を占拠している感じ、と言えばよいだろうか。
こんなヤツが四角四面の官僚組織の中に棲息しているという事実に、俺は改めて驚いた。
白鳥はコーヒーカップを逆さまにして最後の一滴を飲み干した。振り返りもせず、藤原さんに元気よくカップを突き出し、お代わり≠ニ言う。藤原さんもむっとしたようだった。
「それではまず、アクティヴ・フェーズとパッシヴ・フェーズ調査の違いあたりから説明しましょうか?」
「それよりもっと以前の背景から教えてもらえませんか」
「あ、またやってしまいました。すみません。僕の悪い癖でして、すぐに枝葉の説明に夢中になってしまうんです。だって、根幹とか本質ってウソ臭くて、あまり好きじゃないんですよね。枝葉やディテールの方が断然リアルで魅力的だと思いませんか?」
「その通りかも知れませんが、私のような素人にはまず、全体像を教えていただかないと」
「なるほど、そうですね。これは学問と言えるのかどうかよくわからないんですが、一番近いのは応用心理学という術語でしょうか。日常生活に心理学を応用するために新しい枠組みをつくったものなんですよ。そもそも、心理学を必要とする日常場面って、どんなものだと思いますか?」
白鳥の問いかけに俺は首を傾げる。
「ずばり、説得≠ニ心理読影≠ナす。前者に対応する技術がアクティヴ・フェーズ≠ナ、後者がパッシヴ・フェーズ≠ニ呼ばれます」
「そんな理論があったんですか。全然知りませんでした。一体、いつどこで成立した学問なんですか?」
白鳥は意味ありげに笑って、俺の問いかけには直接答えなかった。
「言葉で説明するより実際に体験してもらった方が、理解が早いかも知れませんね。するとここから僕の大好きなディテールになります。例えば、田口センセのお仕事は実に純粋なパッシヴ・フェーズの相を示しています。ですから田口センセならパッシヴ・フェーズの方はすぐに理解できます。ここまで純度の高いパッシヴ・フェーズ調査ができる人も珍しい。途方もなく自我が希薄か、途轍もなく自尊心が高いかのどちらかでしょうけど」
「どちらも違うと思いますね」
素っ気なく言うと、白鳥は手を打った。
「うん、自尊心が高いタイプに決定」
俺は白鳥を睨みつけた。白鳥はどこ吹く風で平然と続ける。
「という今のが、アクティヴ・フェーズのテクニック、ホンキー・トンク≠ナす」
救いを求め、背後の高階病院長を振り向く。高階病院長は、どうしようもないとばかりに肩をすくめ、首を横に振る。
「そんなんじゃあ、さっぱりわかりません」
「そりゃあそうでしょう、田口センセみたいに、女性にもてないタイプには、アクティヴ・フェーズは理解しにくいと思います」
俺はかちんと来た。たとえ明白な事実であっても、いや、明白な事実だからこそ、初対面の他人から面と向かって言われたら、誰だってむかつくだろう。
「私がもてる、もてないは、あなたや、この調査には無関係でしょう」
「そう思うでしょう、ところが違うんです、大いに関係があります」
「一体、どこが、関係するんですか」
「とまあ、これがアクティヴ・フェーズの別バージョン。名付けてたたみかけ=v
俺は、怒りに震えそうになった。その怒りを代弁してくれるつもりなのか、藤原さんがコーヒーカップを白鳥の面前に叩きつけるようにして置きざりにする。
白鳥は周囲に溢れ返る自分への敵意に、慌てて取りなすように付け加える。
「怒っちゃ、だめ、だめ。これは練習なんですから。あ、それから、アクティヴ・フェーズは相手を本気で怒らせてしまったら、基本的には失敗です。怒るか怒らないか、ぎりぎりのところでもちこたえる、これがアクティヴ・フェーズの極意、その1」
そうだとしたら、すでにこのお手本からして失敗例ではないだろうか。白鳥は俺の疑わしそうな視線を知らん顔でやりすごす。
「アクティヴ・フェーズは田口センセには理解しにくいかも知れませんが、それでは、パッシヴ・フェーズも中途半端になってしまうんです。せっかくですから、アクティヴのセンスくらいは持たれた方がいいと思いますよ」
「何言っているかさっぱりわからないけど、あなたがそうおっしゃるのなら、きっとそうなんでしょう」
「ええ、そうなんです。パッシヴ・フェーズを完成させるには、ほんのわずかでもその外側にはみ出す糊代《のりしろ》みたいな、アクティヴ・フェーズが必要になるんです。普通の人なら、両方の要素が適度に混在しているから、わざわざこんなこと言わなくてもいいんです。どちらかのフェーズのピュア・タイプというものは一種の奇形で病的状態なのですから」
それってひょっとして俺のことを指しているのだろうか? だとしたら本人を目の前にして、相手を異常呼ばわりしているわけだから、いい度胸だ。
「そこまでおっしゃるのなら、おたくはアクティヴ・フェーズとパッシヴ・フェーズとやらの両方を、さぞかし上手に使いこなしていらっしゃるんでしょうねえ」
嫌味をたっぷりふりかけた丁寧言葉のオードブルを、白鳥はあっさりひっくり返す。
「いえ、それは僕にも無理なんですね。僕は、悪いヤツが息を潜めてじっとしているような時には、忍耐強く相手できるんですけどね、相手が単なるバカだとこらえ性がなくなっちゃうんです。だから時々パッシヴ・フェーズでミスをする。それが僕の弱点。ま、言うならば、田口センセはパッシヴのピュア・タイプ、そして僕はといえばアクティヴの純血種、というあたりですか。
僕はそんな自分の欠点をカバーするため、泣く泣くトロい氷姫を部下にしているんです。僕らはたいてい、ダブル・チームで時間の位相をずらして仕事をします。だけど今回は田口センセが氷姫の分を済ませてくれたので、とても助かりました。しかも仕事の中身は高品質。これって、結構すごいことなんですよ」
誉められて、俺は少しだけ気分を直して質問する。
「両方のフェーズをこなせる素質がある人は、いるんですか?」
「ファイルを読む限り、鳴海先生にはその素質がありそうですね。彼なら、理想的なアクティヴとパッシヴのキメラになれそうです。何しろ相当底意地が悪いナルシストですからね。彼の位相から考えたら、自分を守るためには仕方がないことなんでしょうけれども、この依存体質を変えないと将来が大変でしょうね。もっともその前に、鳴海先生には、自分の中の矛盾と大いなる偶像に対して闘いを挑まなければならないという大仕事があるのですけれど。そんなことをしたら、彼の世界は破綻しちゃいそうで、想像するだけでも、ちょっと恐ろしいですね」
途中から自分の世界に入り込んでいく白鳥。こちらの世界にヤツを引き戻す。
「鳴海先生が才能豊かだということまでは、よくわかりましたけどね、最後の方は何を言っているのか、全然わかりません」
首をひねる俺を見て、白鳥が貧乏揺すりを始める。いきなり言葉遣いが変わる。
「なんで、こんなに鈍臭いかなあ。これじゃ、氷姫といい勝負だな。どうも買い被りすぎたみたいだな。いい、よく聞いてね。あんたは対象を自分の繭《まゆ》の中に取り込んでそこでゲロさせる。これがパッシヴ・フェーズ。僕は相手の心臓を鷲掴みして、膿んでいる病巣にメスを突き立てる。これがアクティヴ・フェーズ。わかった?」
これが白鳥が自分でも自覚している欠点、「相手が単なるバカだとこらえ性がなくなっちゃう」というやつなのだろうか? それでも言っていることは全然わからない。
ひとつだけうっすら理解したことは、この短いやり取りの間に、俺は白鳥から「あんた」と呼ばれるくらい、仲良しの一人にカウントされてしまったということだ。
友情や恋愛は、いつだって片思いから始まるのだから、俺がとやかく言うべきことではないのだが。
白鳥は、突然暴走を始める。貧乏揺すりが暴走の始まるメルクマールのようだ。ヤツのギア・チェンジについていけない。それでは、その話がめちゃくちゃかと言うと、論理的に整合している気配を感じる。少なくとも白鳥はバカではないのだろう。他人に自分の概念を伝える術が少々不足しているのか。俺がとんでもないボンクラなのか。
そのどちらかだ。あるいはその両方かも知れない。
そんな俺にもひとつだけはっきりわかったことがある。それは白鳥の教育方針だ。ヤツは、スキーのボーゲンもできない初心者を、木島平の氷壁のてっぺんまで連れていって、平気で突き落とすタイプの指導者だ。雪団子になって転げ落ちる俺を見ながら、獅子はわが子を千尋の谷底に突き落とす、とかうそぶくタイプ。
「一つだけ、私にもわかるように教えて下さい。一体これから何をするんですか?」
「アクティヴ・フェーズの調査ファイル作りです。期日は今日と明日中。そのためには、田口センセの全面的な協力が必要になります」
「協力することはやぶさかではありません。何をすればいいんですか?」
「僕がいろいろな人にインタビューしますから、それを後ろで聞いていて下さると、大変ありがたいです」
「ただ、聞いているだけでいいんですか?」
「そう、それだけ。それだけでとっても助かります」
「はあ、わかりました」
俺は拍子抜けした。それじゃあ案山子《かかし》と同じじゃないか、と言いかけてやめた。どんな反撃がくるか、予想がつかなかったからだ。白鳥は続ける。
「この件における最終|防衛線《ディフエンスライン》は、とりあえず今度の木曜日に予定されている手術に設定してあります。目標としては、ここまでで何とかケリをつけたいと思っています。すべては相手あってのことですから、もちろん無理かも知れませんがね」
白鳥が身を乗り出して、囁くように話しかけてくる。
「僕たちはいいチームになれますよ。だって僕たちはとってもよく似てますから」
「僕たち」って何だ。「たち」って言うな。触れて欲しくない急所につっこまれ、思わず苛つく。吹き消したばかりの想念が、苦く立ちのぼる。忘れ去りたいからこそかえって染みついてくる連想。そんな俺の顔色を素早く読みとってしまう白鳥。
「あれ? お気に召しませんでしたか? ま、いいや。時間もないことだし。
それでは早速アクティヴ・フェーズケース1に対する調査を始めましょうか」
「まず始めに、どなたをお呼びすればいいですか」
白鳥は、軽蔑したように俺を見た。
「まだわからないんですか? ケース1は田口センセ、あなたですよ。
アクティヴ・フェーズの基本は、相手のホームグラウンドに足を運ぶこと。僕たちは、今日から明日にかけて、あちこち動き回ることになります」
■白鳥ファイル@ 神経内科学教室 講師――田口公平(41)
白鳥から手渡されたリストには、乱雑な字で十五人の名前が載せられていた。黒崎教授や麻酔科の田中教授の名前もあった。俺はリストの二番目に載っていた。
「高階先生が一番目になっていますけど」
高階病院長がびくり、とした。おびえた眼をして、俺が手にしているリストを見つめる。白鳥はあっさりと言う。
「あ、そこは省略。高階先生のことはよく存じていますから。リストは論理上のコンテンツを完成させるために全例を列記してみただけです」
背後では高階病院長が、ほっとして微笑みながら同時に苦り切った表情を浮かべるというアクロバットみたいな百面相をしていた。それにしても、最初からこれでは、ずいぶんいい加減な調査だ。
「田口センセの調査は惜しいところまでいっています。でも、このままでは最後の一線が越えられない。一線を越えなければ問題は解決しない。僕は田口センセに飛び方を教えてあげますよ。問題は最後の相転換なんですけれども、ま、ここが一番の難所でしてね」
白鳥は俺の方にぐっと身を乗り出した。
「田口センセの仮説は、基本線は正しいんです。自分の直感に自信を持って下さい。これは医療事故なんかじゃない。れっきとした殺人ですよ」
いきなり、鳴海仮説≠ェ息を吹き返した。高階病院長が唾を飲み込む。ここまではっきりと断言されると、膝が震え出す。部屋がぐにゃりと揺らく。
「殺人、しかもスタッフの誰かが犯人だとおっしゃるのですか。………信じられない」
「そういう思い込みが事実を覆い隠し、真実を見失わせてしまうんです。僕はそうしたバイアスを排除するために呼ばれたんです」
白鳥はちらりと高階病院長を見る。桐生の依頼に対する拡大バージョンの対応というわけか。
「大切なのは事実かどうかを証明することではなくて、事実と仮定して物事を動かしていった時に、最後まで矛盾なく成立するかどうか確かめるというやり方をすること。すべての可能性を検討して同時にすべてを疑うこと。
こういう問題は、要素をひとつひとつ検討していかなければならない。その時に重要なのは、すべての要素と関係者について漏れなく落ちなく重なりなく、検討しつくすこと。その考えを展開すると、例えばこうなります。リストのうち田口先生は、術死現場にいたのがケース32だけなので犯人候補から除外。同様に高階病院長も除外。黒崎教授も除外。術死が起こる以前にしか手術に関与していなかった星野看護師も当然除外されます。
こうやってひとりひとりに客観的な可能性をチェックしていく。そうして最後まで残ったのが、真犯人、というわけです」
俺は横着者センサーの自己防衛モードを最大にして、白鳥理論の弱点を懸命に探す。
「そうだとしたら、私に対する調査は無駄じゃないですか」
「無駄ではありません。絶対に必要です。本案件における田口センセの位相は、事象を閉じた空間内部に閉じ込める反射鏡なんです。フラクタルな全体構造を亜空間に封じ込めてから検討を開始しないと、真実がパラダイムの外側に逃げ出してしまうんです」
「何をおっしゃっているんだか、さっぱりわからないです」
「それじゃ、諦めて」
白鳥は冷たく突き放す。弱点だと思って攻撃したら、見当はずれだったようだ。
虚空に向けて放ってしまった波動砲のように、手応えのない空しさだけが俺の手許に残る。
「誰が犯人かについては、僕の中ではだいぶ絞り込みが進んでいます。ただ、どうやって殺したのか、そのやり方がわかりません。そこで田口センセの出番なんです」
「犯人はわかったけれども、殺し方がわからないですって? 普通、逆でしょう」
俺は声を上げて笑った。その笑い声で、自分の中の意地悪な感情を増幅する。白鳥は、俺のささやかな悪意は意に介さない。
「僕は犯人がわかったとは言っていません。絞り込めた、と言ったんです。人が言ったことは正確に理解するように心がけて下さいね。
この殺人は、新しいタイプの密室殺人ですね。衆人環視の中で、堂々と行われているのですから。おそらく、すべての謎が解けた時には、これが医療システムと人の心が作り上げた密室だった、ということがはっきりするはずです」
「私は最後の症例を、最初から最後までずっと見ていました。あれが殺人だとはどうしても考えられません。その可能性は全くないと思います」
俺は、医療過誤として原因を究明した方が気分がラクだと、暗がりから白鳥を誘惑する。しかし、白鳥はプレない。
「田口先生のファイルを読み込むと、殺人でしかあり得ないと思いますけど。医療過誤の可能性を考えて足場がプレると、ものの見方がヌルくなります。
医療過誤調査と殺人捜査は根本的に異質です。医療過誤ならば発生した瞬間は周囲の視線に対し無防備ですから、過去を丹念に検索すれば必ず手がかりが露出しています。一方殺人だと、犯人は始めから事実を隠蔽しようとしますから、同じように過去を振り返っても何も見つけることはできないでしょう。つまり調べ方も変える必要があるんです。中途半端などっちつかずの気持ちが真実究明の最大の敵です。その甘さが真実にたどりつく手がかりを取りこぼすんです。ですから以後、殺人を前提に調べた方がいい。そうすれば医療過誤は見落としません。逆だと真実を見落としてしまう可能性があります」
そう言って俺をじっと見つめ、にまっと笑う。
「もっとも、それも犯人の狙いなんでしょうけれども」
見事な論理と説得力。ロジカル・モンスターの名は伊達《だて》ではない。
俺はふと気がついて質問した。
「ところでこれって、私に対するアクティヴ・フェーズ調査なんですか?」
白鳥はこヤリと笑う。
「その通り、と言いたいところですけど、違います。きちんと予備調査してくれた田口センセに対するアフター・サービスです。田口センセのアクティヴ・フェーズ調査はとっくに終了しています。さっき言ったことはフライングを誤魔化《ごまか》すための目眩まし、です。
ついでにもう一つ大サービス。アクティヴ・フェーズ調査のコツ。それは、ガツンとやって、ピューっと逃げる。そして物陰から様子を見る。つまり、ガツン・ピュー・ソロリの原則≠ナす。そうそう、一番大事なことを忘れてました。ガツンとやる前に、隠れる物陰を確保しておくこと。これ、極意その2ね。
僕は時々これを忘れちゃって、ひどい目に遭うことも多いんです」
論理的かと思えば、いとも軽々と論理の流れからはみ出ていってしまう。俺にはもう、何が何だかわけがわからない。
「ところで田口センセの調査ファイルを読んでいて、気になったことがあるんです。裏表紙にカバとかスピッツなんて、動物の名前が走り書きされていましたけど、あれって何ですか?」
俺はぎょっとした。ファイルは他人が見るはずのないものだったので、相手に抱いた印象を動物に喩えて書き記しておいたものだった。白鳥に白状しようかどうしようか一瞬迷う。だが、考えてみれば、コトは術中異状死の真相究明という大問題。俺の些細ないたずら書きが真相解明の手がかりになるならいくらでも役立ててもらおう。
こうなったら半《なか》ばやけくそ、毒喰らわば皿まで。
「聞き取りをしながら感じた印象を動物に喩えてみたんです」
白鳥は俺を見つめた。次の瞬間大笑いになだれ込む。内臓をむき出しにして笑いに埋もれる。俺はちょっぴり羨ましくなった。そして大いに後悔した。やっぱり、言うんじゃなかった。しばらくしてようやく白鳥の大笑いが収束する。
「なるほど、やはり『見立て』の変法でしたか。田口センセってホント、面白いです。それってクセですか?」
「『見立て』って、何ですか?」
ようやく白鳥の後ろ姿に追いついた俺は尋ねた。
「簡単に言えば、相手にぬいぐるみをかぶせるというテクニックです。例えば僕が高階先生をタヌキと見立てたら、タヌキのぬいぐるみをかぶせておいて観察するわけです。ある日、そのタヌキが空を飛んだとする。そうしたら、僕は慌ててかぶせものをアホウドリに替えるわけです。これが田口センセが習得しなければならないこの理論のポイント、相転換です。でもよかった。田口センセは理解のため準備はできているみたいです。あと一歩ですね」
背後から高階病院長のむっとした感情がダイレクトに伝わってくる。言うに事欠いて、高階病院長をタヌキやらアホウドリに喩えるとは。そんなぴったりの喩えを本人を前にして言えてしまうなんて度外れたヤツ。四角四面の官僚組織でコイツが生き延び続けているという事実は、奇蹟に近い。呆然としてしまった俺の心の隙を衝くように、白鳥がさらりと俺に質問を投げかける。
「それじゃあついでに質問。僕の印象はどんな動物でしたか?」
俺は絶句した。さすがに俺は本人を眼の前にして、ゴキブリとは言えない。
「ま、いいです。およそ見当がつきますし」
白鳥はあっさり撤退した。俺は胸をなで下ろす。
白鳥のチャンネルが切り替わった。俺に矢継ぎ早に指示を出す。
「これから今週いっぱい、田口センセは外勤扱いで、不定愁訴外来は休診。場合によっては延長してもらいます。この件に関しては先ほど高階病院長の了解をいただきました。これから一週間、田口センセのお仕事は僕の調査のサポート役です」
高階病院長が俺に向かってうなずいた。
「今後の予定。午後一時からリスクマネジメント委員会。僕もオブザーバーとして出席します。その後、黒崎教授、羽場室長、氷室講師、大友主任のアクティヴ・フェーズ調査。明日は残りの人たち、順番は酒井助手、垣谷講師、鳴海助教授。そして桐生助教授」
そんな短時間でこんなにたくさんの人の調査ができるのだろうか。しかし俺が口にしたのは、心に浮かんだ疑問と違う質問だった。
「順番がリストとは違うみたいですが」
「ほんと、バカじゃないの」
反射的に出るセリフでは、時々敬語や丁寧語が吹っ飛ぶ。たぶんこれがコイツの地なのだろう。それは瞬間ですぐに修正されるけれども。
「リストなんて備忘録。順番なんてどうでもいい。全員に対して行うかどうかもわからない。ひらめきに従ってひらひら変える。フレキシビリティこそアクティヴ・フェーズの生命線。だから、今言ったことも臨機応変で変わります。そこんとこよろしく、です」
そう言って、白鳥は頬をひくつかせ、ウインクをしようと努力する。そして言う。
「わからないことがあったら、遠慮なくどしどし訊いて下さいね」
それって単なるいきあたりばったりとどこが違うんだ、と心の中で毒づきながら、俺は様子を見るために無難な質問をしてみる。
「それでは遠慮なく。明後日以降のご予定は?」
白鳥はにっと笑う。
「明後日以降は、出たとこ勝負」
電子音がした。うんざりした口調で藤原さんが言う。
「また、ウンチですか?」
電脳玩具をのぞき込んだ白鳥は、撮り返りもせずに言う。
「ううん、今度は、なでなでして欲しいって、泣いてる」
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14章
つじっま合わせ
2月25日月曜日 午後1時 3F・大会議室
病院棟三階会議室。この部屋が人の熱気で溢れかえるのは、たいてい何かよからぬ問題が起こった時だ。
とりわけ、今日の部屋の空気は一段と重かった。
正面上座に曳地リスクマネジメント委員会委員長が鎮座している。両脇を上座から、臓器統御外科ユニット黒崎教授、看護課松井総看護師長、といった重鎮どころが順に座を占める。真ん中に、うちの金村助教授の顔。末席に羽場がいる。事務局から書記が二名、総勢十二名。普段の会議の出席率は低く、開催条件の過半数を集めるのに四苦八苦することも多いと聞く。今日は全員出席、きっと後々の語り草だ。
曳地委員長の正面向かい、長い机の両端に高階病院長と俺が並んで座る。白鳥は長机の枠の外、俺たちの斜め後ろにちょこんと座っていた。相変わらず長い触覚がゆらりゆらりと揺れている。
「ええと、ですね、予定時間の午後一時を少々、つまり三分と十五秒ほど過ぎてしまいましたので、今から、高階病院長から要請がありました、臨時リスクマネジメント委員会を召集し、しかして開催することにいたしたいと思いますが、よろしいでありましょうか?」
曳地委員長がもごもごと宣言する。曳地均・呼吸器内科学教室助教授。任期はあと一年と少々。教授に昇格することなく、このまま助教授のキャリアで終わることは、ほぼ百%確実だ。猫背、白髪、小柄。度の強い眼鏡。影が薄い。
「まず、高階先生、本日、当委員会招集の要請が行われるまでに至るまでの経緯について、またなにゆえに臨時召集に至ったか、という点に重点をおいて、ごく簡単かつ手短に、わかりやすいご説明を簡明にしていただきたいと思うのですが、いかがでありましょうか」
「それに関してはまず、ここにいる神経内科不定愁訴外来主任・田口講師の方から詳しい経過を説明していただきます」
「ちょっと待ってくれ」
野太い声が響く。黒崎教授だった。
「なぜここに、我が教室とも無関係でリスクマネジャーでもない部外者が参加しているのか、しかもなぜ、そうした人間に事情説明をさせるのか。まずその点について、病院長の方から直接ご説明いただきたい」
全く妥当な質問だ。俺も聞きたいぞ、その答え。まさか俺にそこまで説明させるつもりではないだろうな。俺は緊張して隣の高階病院長を横目で見る。末席にいる羽場が心配そうに俺を見ている。
俺の心配を気にもとめずに、高階病院長はゆっくり口を開く。
「本件は、病院長権限で、私自身が予備調査を田口講師に直接依頼したものです」
「リスクマネジメント委員会の委員長である私や、桐生助教授の直接の上司であらせられると同時にですね、臓器統御外科の最高責任者であり、かつリスクマネジャーも兼任なされている、たった今ご発言になった黒崎教授には何ら一言の相談を諮ることもなく、高階病院長の御一存による独断で、そうした決定がなされたということだという内容のご主旨のご発言であると理解をするようにして欲しい、ということでよろしいのでありましょうか?」
曳地委員長が憮然とした表情を隠さずに問いかける。
「その通りです。本件は現段階では、ニアミスでも医療過誤でも医療事故のいずれでもありませんから」
にこやかに説明する高階病院長に、黒崎教授は噛みつく。
「それなら、リスクマネジメント委員会にかけるということ自体がおかしくないかね。そもそもうちのユニットで起こったことなのに、臓器統御外科のリスクマネジャーである私が知らないということは、システム上、由々しき問題だと思うのだが」
「黒崎教授のご意見に賛同いたします」
松井総看護師長が柔らかに追随する。
「看護課でも、不定愁訴外来で事情を訊かれた者がいる、ということですが、総師長である私のところには、いまだに正式な報告が上がってきません。こうしたことは医局ではよくあることとは仄聞《そくぷん》いたしますが、看護課では滅多にごさいません。いかなる権限で看護師を聴取したのか、私にも理解できるようにわかりやすくお教えいただけないでしょうか?」
「併せてご説明します」
高階病院長の言葉を遮るようにして、松井総看護師長はさらに追撃する。相当腹に据えかねているようだ。
「もう一つ、もしこの非合法的な尋問を受けたことで、当事者である看護師がストレスや心理的外傷を抱えてしまったら、どうなさるおつもりだったのか、そうした点に対し事前にどのような配慮をされていたのか、についてもお聞かせ下さいませ」
その時は愚痴外来を受診させればいいじゃないか、と誰かが雑《ま》ぜ返した。一同失笑した。松井総看護師長が声の主の方向を睨みつけると、笑い声はこそこそと消えた。高階病院長はその余韻を捉えて説明を始める。
「今し方の不規則発言にもありましたが、事情聴取される方々の心理的圧迫感等について配慮した結果、田口先生という人選となりましたことをまずご理解下さい。特に看護師の聴取に関しては田口先生も全面的な配慮をされており、本人の希望に沿って藤原看護師の同席のもとで行われたと聞いています」
藤原さんの名前が出ると、松井総看護師長の顔に、安堵と反感が入り交じった複雑な表情が浮かんだ。そしてうつむいて黙り込んだ。ほっとする俺の中で一瞬、違和感がよぎった。けれども今の俺にその影を追いかけるゆとりはない。
どうやら一方的な吊し上げはされずに済みそうだ。かといって無事に切り抜けられるという保証も、まだない。俺は高階病院長のセリフに全神経を集中させた。
「本件はシステムに沿っていないという疑義があるようですが、そんなことはありません。この点に関しましてお手許にお配りした東城大学医学部付属病院リスクマネジメント委員会設置細則をご覧下さい」
一斉に手許の紙に眼をやる。高階病院長は条項を読み上げる。
「第六項―――病院長、あるいはリスクマネジャー二名以上の請求があった場合、十日以内にリスクマネジメント委員会を開催しなければならない。
第七項―――緊急を要する事項、または病院長が必要と考えた場合、特例として、特命リスクマネジャーを指名できる。その際は後日、その件をリスクマネジメント委員会に報告、承認を得る必要がある」
さらに続ける。
「本件は、リスクマネジメント設置細則第七項を適用し、病院長権限で田口先生を指名し、特命リスクマネジャーとして任命しました。今回、臨時リスクマネジメント委員会を召集したのは、同六項および七項により、本件を追認していただくためです」
黒崎教授も、曳地委員長も、条項の書かれた紙を穴があくほど見つめていた。
高階病院長は、この案件が桐生からの直接の依頼だということに関しては、徹底的にトボけるつもりらしい。よく考えればそれは当然の対応だ。桐生が上司の黒崎教授をすっ飛ばして高階病院長に直接相談を持ちかけたという事実が明るみになった時には、どんな事態が招来されるか想像もつかない。
兵藤に話をした時、俺は直感的に桐生の関与を伝えることを回避した。俺は自分のとっさの判断の正しさに胸をなで下ろした。直感というやつはけっこう侮れない。
もっともこの点に関しては、兵藤の口から語られればどのみちウワサになってしまうのだから、もともと危険性は乏しかったのだが。それでもできるだけ口の端に上らない方が望ましい。大学病院では、ウワサの虚実は時の運。最強のスタンスは「虚」でも「実」でもない。それは「無」だ。沈黙は金。
黒崎教授は高階病院長に尋ねた。
「田口先生の、リスクマネジメント委員会におけるポジションはどうなるのかね?」
「病院長裁量の特命リスクマネジャーであって、現時点においてはリスクマネジメント委員会とは一切無関係です」
黒崎教授は、いまいましげに舌打ちをして、俺のことを睨みつけた。
曳地委員長がもごもごと尋ねる。
「それでは、あの、その、今後、リスクマネジメント委員会では、つまり特命リスクマネジャーである田口先生に対して、いかように対応すればいいのか、あるいは対応しないのか、ということを、現在進行中の本会議中に、決をとる必要がですね、あるのかないのか、ということに関しましてですね……」
曳地委員長の言葉を慣れた手つきで途中で引き取り、高階病院長が言う。
「リスクマネジメント委員会は、現時点におきましては、田口調査とは無関係というスタンスでよろしいと思います。本案件は、予備調査を経た現在でも、医療過誤と確定されておりません。医療過誤と判定された時には、直ちにリスクマネジメント委員会にかけるつもりでおります。従って田口先生の案件は、現段階では当委員会で討議する必要はないと判断しています」
「それならなぜ、委員会の臨時召集をかけたのかね?」
黒崎教授は、あくまで原則論にこだわっていた。
「現段階ではまだ討議すべき問題ではないにしても、近い将来、検討せさるを得ない案件に格上げされるかも知れません。そのため、これまでの調査結果を、現時点で皆さんと共有しておくことが、今後のために有効だと考えたためです」
「死亡した四名の遺族からクレームはない。これは桐生君が事前説明を十分行い、なおかつ患者との信頼関係を築き、問題が生じた後も誠実な対応をした結果だ。その上、病院長は医療過誤の可能性が低いと認識している。その言葉通り解釈すれば、リスクマネジメント委員会を動かすのは論理的におかしい。そこのところはどうお考えか」
黒崎教授は、とうとうと正論を述べる。どう見ても勝ち目はなさそうだが。俺は身を低くして、高階病院長の言葉を待った。
「黒崎教授のおっしゃる通りです。ご遺族が不幸な事態にも拘わらず納得されているのは、桐生先生の誠実な患者対応によるものであり、それは同時に、黒崎教授のご薫陶の賜物であることは明らかです」
高階病院長の最上級の誉め言葉に、黒崎教授は苦々しく顔をしかめる。
「しかし、術死が四例続いたこともまた事実です。これがもし関係者も気づかない問題によって惹起された医療過誤だとしたら、いや、その場合は医療事故になるのでしょうか、とにかくどちらにしても、大変な事由なのは相違ありません。黒崎教授がご指摘になった問題も含め総合的に勘案し、現時点では特命リスクマネジャーを指名し独自に活動させる、という選択肢が最良と判断しました。黒崎教授に対しご報告が遅れましたことはお詫び申し上げます。但し黒崎教授にご報告するということは同時に、臓器統御外科のリスクマネジャーに報告するということになります。そうしますと当然リスクマネジメント委員会を発動しなければならず、特命指名と齟齬《そご》をきたします。そうした判断が背景にあったという点をご理解いただければ幸いです」
高階病院長の言葉の圧力で、黒崎教授の全身がみしみしと押し潰されていくようなイメージ。高階病院長は一瞬躊躇したが、後ろを振り返り、さらに続けた。
「ご存じの通り、こうした問題に対する社会の反応は日増しに厳しくなっています。医療現場には、高度な透明性が求められています。その一環として、医療過誤に関連する異状死を中立的第三者機関で監査しようとする動きが、厚生労働省を中心に進行中です。そこで、今回特別に、厚生労働省で機関設立推進にご尽力されてきた中心人物である白鳥調査官が同時調査に入って下さることになりました。本日の臨時召集は、本件に対する特命リスクマネジャー田口講師からの途中経過報告及び白鳥調査官のご紹介を兼ねたものとお考えいただければ、ありがたく思います」
厚生労働省からの調査官というフレーズに会場がざわつく。一斉に無遠慮な視線が白鳥に集中する。たまごっちを操作していたのだろう、うつむいてもぞもぞしていた白鳥は、突然自分の名前が呼ばれて慌てて顔を上げる。どういうつもりか、愛想笑いをしてみせる。その一瞬のタイミングのズレをつき、白鳥を横目でじろりと睨みながら、黒崎教授が声を上げる。
「本省の役人が、首都圏の旧国立大学であるとはいえ、地方の弱小病院の一つにすぎないここの些細な問題に、そこまで強い関心を持つのはなぜかね」
高階病院長は、慌てず騒がず、静かに答える。
「その点に開しましては調査官ご本人にお答えいただくことにいたします。言い忘れていましたが、私の方から皆さんにお願いがあります。白鳥調査官は一両日中に、当院内部で調査活動を行います。関係者には聞き取り調査に伺うことになるかも知れませんので、その節はご協力お願いします。それでは、白鳥調査官、ご挨拶を」
白鳥は元気よく立ち上がった。ゴホン、と小さな咳払い。
「初めまして、私は厚生労働省に先日新たに設置された、医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室の白鳥と申します。本案件が医療過誤に相当するかの判断は別問題といたしまして、組織を運営していく上での問題点を考えますと、ここで今まさに行われている一連の活動は当該企画事案のモデルケースと認定できる可能性を有していると認識しております。当局といたしましても本案件の推移に開しまして、強い関心を持っております。こうした背景から私の派遣が決定された次第です。ご多忙と存じますが、調査に伺いました際にはお時間をいただけますよう、ご配慮お願い申し上げます」
よくもまあ、ぬけぬけと喋るものだ。俺はヤツの実像と、今、目の前で展開されたヤツの幻影との、その落差に眩暈を感じた。半分呆れ、半分感心して白鳥の横顔を見つめた。同時に、ヤツの表向きの肩書きを耳にして驚いた。巷《ちまた》で話題の中心組織の、事実上の事務方トップではないか。大臣官房秘書課付と中立的第三者機関設置推進準備室室長が並立しているなんて通常あり得ないことだ。地下の座敷牢と城主の天守閣に同時に存在しているようなものなのだから。
挨拶を終えた白鳥は心ここにあらず、という様子で再び手許の電脳生物の世話に夢中になっている。
こうして、高階病院長のメス捌きにより、俺がこっそり行っていた特命予備調査は、非公式にではあるがリスクマネジメント委員会の関知するところとなった。俺は、特命リスクマネジャーとして宙ぶらりんのまま、仮認定されたことになる。その上、リスクマネジメント委員会から自由裁量権を保証され、挙げ句の果てには白鳥に傍若無人な調査をする権限まで承認させてしまった。一瞬の離れ業の結果、いつの間にかすべての問題が雲散霧消していた。
高階病院長の鮮やかな政治手腕をまさまさと見せつけられ、俺はしばし呆然とした。
無言の指示に促されて立ち上がると、俺はかいつまんで経過を説明し始めた。報告の間中、黒崎教授の視線が俺の手許の書類に突き刺さっていた。
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15章
オフェンシヴ・ヒヤリング
2月25日月曜日 午後3時 3F・ユニット科長室
「それにしても高階先生は、普段上品なこと言ってるわりに、やることは腹黒いよね」
口一杯にうどんを頼ぼりながら、白鳥は言う。その食事する姿、それから発言内容のダブルに対して、俺は顔をしかめる。
午後二時すぎ。病院最上階。レストラン『満天』での遅い昼食。
他人のことをとやかく言う前に、もう少し上品な食べ方ができないのか、と言い返したくなる。そのクレームはじっと我慢し、俺はもうひとつのクレームを口にする。
「腹黒いという表現はひどすぎませんか」
「だってさあ、筋の通っている黒崎教授の意見をあそこまで完封しちゃったら、黒崎教授だって、腹の虫が収まらないでしょ?」
指摘されてみれば、全くその通りだ。ルール違反すれすれなのは高階病院長の方であって、黒崎教授の方が正論だ。それをああも完璧に押さえ込まれてしまったら、確かに立つ瀬がない。
「おかげで、しよつばなの黒崎教授のアクティヴ・フェーズが、やりにくくなっちゃったな。高階先生は、僕たちが黒崎教授をオフエンシヴ・ヒヤリングのトップにするって話に聞き耳を立てていたからね。あれは僕たちに対する嫌がらせだよ、絶対」
絶対、そんなことはない。聞き耳なんか立てなくたって聞こえてしまったわけだし、黒崎教授の調査を始めにもってきたのも「僕たち」ではない。それは、「君」だ。
俺は白鳥に、新出単語について質問した。
「ところで、オフェンシヴ・ヒヤリングって何なんですか?」
「攻撃的聞き取り調査」
直訳単語を、不親切にぽんと投げ捨てる。そんなこともわからないの? という顔だ。すっかり白鳥の表情が読み取れるようになってしまった自分にうんさりした。
思っていることがこんなに表情に出てしまって、果たしてこれからデリケートな聞き取り調査ができるものなのだろうか?
「私だって、それくらいの英語はわかります」
俺の反論にかちんときたのか、白鳥の貧乏揺すりが始まった。
「そんなこと言うくらいなら、訊かなければいいのに。だいたいさあ、どうして田口センセはこんなに鈍いわけ? アクティヴ・フェーズの聞き取り調査でやることが何かと言えば、それはオフェンシヴ・ヒヤリングじゃない」
「それならパッシヴ・フェーズの聞き取り調査はディフェンシヴ・ヒヤリングなんですか?」
あきれてモノが言えない、と言わんばかりに白鳥は首を振る。
「どうしてそうなるわけ? 少しは自分の頭で考えなよ。一体どうすれば守備的に聞き取りできるの? それじゃあ聞き取り調査じゃなくて、単なる鑑賞だよ。ヘッドフォンさえよければ、サルにだってできることさ。いいかい、よく考えてね。オフェンシヴ・ヒヤリングのペアは、ディフェンシヴ・トーク。守備的おしゃべり。調査官がオフェンスなら、ディフェンスは調査対象に決まってるじゃないか」
決まってるじゃないか≠チて言われたって、知るかそんなこと。よほど話を打ち切ってしまおうかと思ったけれど、タガが外れた自分の好奇心を抑えられない。
「じゃあ、パッシヴ・フェーズの聞き取り調査は何に相当するんですか?」
「|セルフポートレート《自 画 像》・ヒヤリング。その時に相手が積極果敢ならオフェンシヴ・トークになる」
「相手が消極的なら?」
「二通りに分かれる。守備的になる理由が秘密を守るための場合はスネイル・トーク、苦悩が原因ならシーアネモネ・トークだよ」
スネイル(かたつむり)に、シーアネモネ(いそぎんちゃく)。白鳥の話は知性の地平線を越えて大空に旅立ってしまった。俺はひとり置き去りにされた。
「これじゃあ、基礎的なところから鍛え直さないと、使いものにならないな」
ため息混じりの白鳥の、独り言のような呟きに、妙に納得させられてしまう。
紅茶の湯気に気をとられながら、一番気にかかっている質問をぶつけてみた。返事がなかったので顔を上げると、どんぶりの底が目に飛び込んできた。白鳥は汁を飲み干している最中だった。空になったどんぶりをテーブルに叩きつける。
「ぷはっ。なかなかイケる。病院食堂では三本の指に入るな。……で、何ですって?」
「だから、なぜ調査のしょっぱなが黒崎教授なんですかって訊いたんです」
白鳥は胸ポケットからくしゃくしゃになったコバルト・ブルーのハンカチを取り出すと、口をぬぐう。うどんの美味しさのおかげでせっかく収まりかけていた貧乏揺すりが、俺の質問のせいで再開してしまう。
「なぜ、なぜって、まるでうちのチビみたいだな。あのさ、田口センセって、イチゴのショートケーキ食べる時、イチゴから食べる派? それともケーキから食べる派?」
「はあ?」
「僕はね、イチゴから食べる派なんだよね」
「はああ??」
「だから、調査の前に美味しいうどんをたらふく食って、気合いを入れておかないと」
「私が訊きたいのは……」
「だからあ、好き嫌い順か面目そう順にやるかってことだよ。本当に鈍いなあ」
白鳥の話はジャンプして回ってひっくり返って元に戻る。黒崎教授のアクティヴ・フェーズが一番面白いってこと? 白鳥のセリフにちょっぴりわくわくしてしまった自分を見つけて、慌てて自戒した。うつむいて指を折って十数え、自分に言い開かせる。コイツのペースに巻き込まれてはいけない。でもコイツがこの調子で、黒崎教授をぶんぶん振り回すところは一度でいいから見てみたい。
「それじゃ、行きましょうか」
白鳥は俺の返事も待たず、立ち上がるとすたすたと歩き出す。俺は慌てて後を追う。
■白鳥ファイルA 臓器統御外科ユニット 教授――黒崎誠一郎(57)
教授室は三階に集合している。権威の象徴として、かつては各医局毎に一番いい部屋が教授室にあてがわれていたが、病院棟改築の際に医局再編及び各診療科の統廃合が目論まれた。患者主体に医局を合理化することが主旨だったが、実態は看板の掛け替えに終わる。第一外科教室は臓器統御外科ユニットに、第二外科は消化器腫瘍外科ユニットとなったが、中身は変わらなかった。概して野心家だったり、大所帯の教室を主宰している教授は、看板の掛け替えを行う傾向が強かった。わが神経内科の有働教授は弱小教室の上、学内政治に関しては朴念仁《ぼくねんじん》で野心も持たず、任期満了まで残り少なかったので、看板変更の可能性の検討すらしようとしなかった。
教授がユニット長を兼任し、名称の重心がずらされたのに呼応して、合理化の名の下に教授室が三階旧食堂跡に寄せ集められた。そこはユニット科長室と呼ばれ、陰では教授のウィークリーワンルームマンションと椰撤する輩も現れた。その頃から不機嫌な教授の数が増えたという。その代表格が黒崎教授だ。
黒崎教授をユニット科長室に訪問することは、医局員にとって禁忌《タプー》とされている。
そんなウワサを知ってか知らずか、スキッブのリズムで、白鳥は黒崎教授の部屋の扉をノックした。本当に楽しそうだ。まるで早春のイチゴ狩りに来ているみたいに。
「失礼します」
白鳥は教授室へ入っていく。俺がこそっと後に続く。本音を言わせてもらえば、黒崎教授の部屋だけはパスしたかった。高階病院長の腹黒い説明で不当にやり込められてしまった後のタイミングならばなおさらだ。こんな時、俺みたいな下っ端がのこのこ出張っていけば、どうぞ八つ当たりして下さいと首を差し出すようなものだ。
まさしく怒涛の貧乏クジ。
それにしても黒崎教授を一番最初に聴取するのはなぜだろう。面前に迫ったストレスから逃避するために、俺はその疑問ばかり繰り返し考える。
黒崎教授は、革張りの肘付き黒椅子に腰掛けていた。俺たちを迎え入れたが、不機嫌さを隠そうとしない。病院で彼より上にいるのは高階病院長くらいだが、年齢は黒崎教授の方が少し上なので、このヒエラルキーの上下判断は微妙だ。病院長との接触は可能な限り避けているし、高階病院長の方でも不用意に黒崎教授のテリトリーに足を踏み入れることを控えている、というウワサだった。つまり黒崎教授は、この病院では数少ない、周りに気を遣う必要のない天上人なのだ。そこに舞い降りた一匹のエイリアン。
俺は『大恐竜VS異星人』という本編映画が上映されるのを待つ。もうやけくそだ。
開口一番、黒崎教授が直球を投げ込む。
「ワシは忙しい。手短にお願いするよ」
白鳥はへらっと笑って、棒球をバックスクリーンに打ち返す。
「ご安心下さい。こちらも黒崎先生に時間を使っているヒマはあまりごさいませんので」
黒崎教授がむつとしたのが部屋中に伝播した。その怒り、ごもっとも。始球式の球は空振りするのがお約束だ。だが相手は常識外れの異星人。俺はちょっぴり黒崎教授に同情した。委細構わず白鳥はたたみかける。
「ご要望なので、手っ取り早く本題から入ります。黒崎教授は、どうして桐生先生の招聘に反対だったんですか?」
いきなり地雷を力一杯踏みつける白鳥。黒崎教授は真赤になって爆発する。
「ワシは反対しておらん。新開記事を読んでおらんのか。桐生はワシが引っ張ってきたんだ」
「ダメダメ、怒ったフリをしても。みんな知ってることなんですから。本当に時間が惜しいんだったら、正直に答えて下さいね。それがお互いの幸せのためってもんです。何しろこれは、黒崎先生の調査ではないんですから」
黒崎教授のトーンが少し下がった。
「みんな知っているって言ったな。みんなって、一体誰だ?」
「みんなって言ったら、みんなです。看護師から食堂のおばちゃんまで、みんな。ここにいる田口センセだって、さっきそう言ってたし」
いきなり流れ弾の被弾。俺はショックのあまり眼を白黒させた。
「田口君、それは本当かね」
せっかく収まりかけた怒気のボリュームが元の水準に復帰している。撃たれた腹を両手で押さえながら、しかたなく俺は肚を決めた。
「はあ、まあ」
黒崎教授は、俺と白鳥を交互に睨みつけた。白鳥はどこ吹く風でその視線を受け流す。
黒崎教授の怒気が緩んだ。
「ふん。そこまで知っているなら、今さら言い繕っても仕方なかろう。それで、何が聞きたいんだ?」
「だから、桐生先生の招聘に反対された理由ですよ」
「反対するのは当然だろう。そもそも、第一外科学教室の人事に、第二外科の教授が口を出してくること自体が非常識だとは思わないかね」
「ま、旧石器時代の思考法ならね」
黒崎教授は、むつとして黙り込む。しかしその気配は次第に弱々しくなっていった。驚くべきことに、白鳥は黒崎教授を制圧しっつあった。
「記事の中では、桐生先生のことをすごく誉めてますね」
「当然だ。トップたるもの、結果を出した人間をけなすわけにはいかん」
「ということは、桐生先生の力量は認めているということ?」
「当たり前だ」
沈静化しっつあった黒崎教授の怒気が再沸騰した。
「あんなもん、誰が見たってわかる。そこの外科オンチ、田口君ですら、ヤツの手技には、うっとり見とれていたくらいだからな。外科を志す者なら誰だって魅せられる」
俺は黒崎教授の言葉に同意した。同時に黒崎教授がこれほどまでに桐生の技量を認めていること、そしてそのことを素直に表現したことに驚かされた。
それは二人の間に圧倒的な力量差がある、ということだ。
「じゃあ以前、桐生先生の招聘に反対したことは、やっぱり間違いだったんですね」
「君もしつこいヤツだな。それとこれとは話が違うと言っておる。あの時反対したことは、間違いではない。あの時は、実績からも年齢からも、垣谷が助教授に昇格するのが妥当だった。ワシは高階に、講師としてなら喜んで桐生を受け容れると言ったんだ。それなのに高階は、桐生の格を考えると助教授でないと失礼だとほざきおった。あれは第一外科の講師のポジションに対する侮辱だ。明らかに内政干渉だ」
「でも、桐生先生が臓器統御外科の助教授に見合った実力があるのは認めるんでしょ」
「当たり前だ」
黒崎教授は不機嫌そうに呟く。
「この間題は垣谷が納得してしまえば、それで終わりだ。垣谷も、桐生の人事が決定した直後は、周囲に泣き言を言っておったようだ。けれども、バチスタが動き始めると、不満は一切聞こえてこなくなった。アレはアレなりに納得したんだろう」
「じゃあ、やっぱり、高階病院長の判断は正しかったんですね」
黒崎教授の怒りが瞬間的に沸点に達する。
「何回言えばわかるんだ。あの時の高階の判断は、誰が何と言おうと間違いだ。ただ、結果オーライだったというだけのことだ」
「でもそれって、判断が正しかったっていうこととは、どこが違うんですか?」
「くどい。全く違う」
黒崎教授が話を断ち切るように強い口調で言い放つ。
白鳥と黒崎教授は互いに睨み合った。長い時間が経過したような気がした。実際には、ほんの一瞬だった。白鳥がへにゃっと笑った。
「いや、どうもどうも、貴重なお時間、ありがとうございました」
「なんだ、これで終わりか?」
拍子抜けしたような黒崎教授の顔に、一瞬、淋しげな表情が浮かんだ。
お辞儀を一つして部屋を退去しようとした白鳥は、忘れ物を思い出したように、ひょいと振り返ると黒崎教授に言う。
「一つ、お願いがあるんですけど」
ここまでやって、さらにお願いするなんて……。
俺は、白鳥の神経の太さにしみじみと感心した。
「何だ。言ってみろ」
「桐生助教授に、これから僕がチームメンバーの聞き取り調査を開始します、ということを伝えておいていただけませんか? 高階先生が、僕を桐生先生に紹介し忘れてしまったんで、困ってるんです」
黒崎教授はぎょろりと白鳥を見て、答えた。
「わかった。伝えておく」
意外にも、黒崎教授は白鳥のお願いをあっさりと聞きとげたのだった。
ほっとした俺が退室間際に振り返ると、俺を睨みつけている黒崎教授の視線とぶつかった。俺はその視線に気づかなかったフリをして、大慌てでドアを閉めた。
「ひどいじゃないですか」
怒りと感嘆でごちゃ交ぜになりながら俺は、白鳥を横目で睨みつけた。比率は、怒りの方が感嘆を凌駕している。感嘆部分は四捨五入どころか、切り捨て御免だ。
「何が、ですか?」
「私は、黒崎教授が桐生先生の招聘に反対したなんて、一言も言ってません」
「あ、そういえばそうでしたね。でも知ってたでしょ?」
「ええ、まあ」
「それなら同じことですよ」
「全然違いますよ。私に対する黒崎教授の風当たりがひどくなるじゃないですか」
「そのことでしたら、全然、心配ないです。田口センセは、これ以上黒崎教授に悪い感情を持たれようがありませんから。だってセンセは、黒崎教授が大嫌いな高階先生の命令に従って、臓器統御外科のトップでリスクマネジャーでもある黒崎教授をすっ飛ばして、部下のエース、桐生先生の内部調査をこっそりやった張本人ですからね。これ以上、黒崎教授の顔を潰すことなんて不可能ですよ。センセがやってしまったコトと比べれば、僕が言ったコトなんて、ささやかすぎて、屁、みたいなもんです」
俺はぐうの音も出ずに、黙り込む。白鳥はにこにことしながら続ける。
「せっかくですから、田口センセの心の荷物をもう少し軽くしておいてあげましょう。この話は、一億円の借金のある相手に、本当の借金は一億と百円です、と告白したようなものです。百円なんて、絶対チヤラにしてくれますよ。ね、少しは気がラクになったでしょ?」
俺を慰めてくれようとしているその気持ちだけは十分伝わってきたが、これで気が軽くなるようなヤツがいたら、お目にかかってみたいものだ。いきなり一億円の負債を負わされて意気阻喪している俺の気持ちなんて考えようともせず、白鳥はさらに顔まで踏みつけてくる。
「それに、本当のコトを言うわけにはいかなかったんです。僕だって怖いですよ。いくら真実でも、さっきの話を教えてくれたのが実は高階先生だったことを、黒崎教授ご本人に直接言うなんて、気の弱い僕にはとてもできませんでした」
わかったよ、降参だ。俺は肩をすくめた。
俺は話を変えて、頭の片隅に浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「高階病院長はお忙しかったんですか? あなたを桐生先生に紹介するという、とても大切なことを忘れてしまうなんて、高階病院長らしからぬ手落ちですね」
白鳥はニッと笑う。
「久しぶりに僕と会って、動揺しちゃったんじゃないですか」
高階病院長に限ってそんなはずはない。そう思いながらも、それがあり得ない話ではなさそうだと思わせてしまうところがコイツの凄いところかも知れない、と屈折した賞賛が浮かぶ。白鳥にはそれくらいの雰囲気が確かにある。白鳥はそんな俺を見て、へらへら笑う。
「……なんてね。信じちゃったんですか、そんな戯言。高階先生に限ってそんなミスするはず、ないでしょ。実は僕が断ったんです。だって、田口センセと一緒に調査した方が楽しそうだと思ったものですから」
楽しそう……。あっけらかんと言い放つ白鳥に、俺はもう、何をどう言えばいいのか、わからなくなってしまった。気を取り直して第二の疑問に質問を切り替える。
「ずいぶん短かかったですね。あれで十分なんですか、アクティヴ・フェーズって?」
「うん、十分。本気でアクティヴ・フェーズを仕掛けたわけでもないし、仕掛ける意味もないし。その上ラッキーなことに、一番必要で一番大変だと思っていた、拡声器の装着も労せずして終わりましたし」
「え? 黒崎教授の部屋に、盗聴器でも仕掛けてきたんですか?」
白鳥が呆れたように俺を見る。
「田口センセ、人の話はよく開いて下さいね。僕は盗聴器なんて一言も言ってません。拡声器です。黒崎教授の部屋に盗聴器なんか仕掛けて、一体何を盗み聞きしようと言うつもりなんですか?」
次第に大きくなっていく白鳥の声に、周囲を見回した。慌てて小声で囁く。
「冗談に決まっているじゃないですか。ところで、拡声器って何ですか?」
「気がつかなかったんですか? 食事をしていた時からずっと、お宅の兵藤君が遠くから僕たちの方をちらちら見ていましたよ。そして僕たちが黒崎教授の部屋に入ろうとした時に、階段ホールに彼の白衣がちらっと見えました」
またしても兵藤か。本当にヒマなヤツ。
「この調査で大切だったのは、黒崎教授が今現在、桐生先生に対してどう思っているかを確かめること。これはもうおしまい。黒崎教授が嫉妬や何かで桐生先生の足をひっぼる可能性はほぼ完全消滅しました。外科医としてはともかく、黒崎教授は、教授としては悪くはないですね。腕はからきし、目立ちたがりで怒りんぼ、その上ひどい威張りんぼだけど、そこそこ度量はある。何より、現実をきちんと認識する器量があることはよくわかりました。
もう一つが、僕と田口センセが、そろって黒崎教授の部屋に調査に行ったという事実があちこちに伝わること。そっちの宣伝は兵藤先生が引き受けて下さりそうです。
目的を二つとも達成したので、とっとと切り上げたんです」
例によって、顔をくしゃくしゃにしたウインク一つ。
「アクティヴ・フェーズ、極意その3.用件が終了したら長居は禁物」
■白鳥ファイルB 臓器統御外科ユニット 助手――酒井利樹(30)
C 看護課 手術室 看護主任―――大友直美(33)
「次のヒヤリングは、羽場さんでしたね」
メモを見ながら尋ねる。白鳥はあっさり否定する。
「いえ、気が変わりました。次は大友さんにしましょう。ついでに一緒に酒井先生も呼んじゃって下さい。場所はそうだなあ、手術室の看護師控え室がいいですね」
「二人一緒で、いいんですか?」
思わず訊き返す。酒井と大友さんの組み合わせ?
「ええ、いいんです。あ、そうか、田口センセはアクティヴ・フェーズのことは、あまりご存じないんでしたね」
白鳥はこくこくうなずき、それから一人、にへらにへら笑う。
「アクティヴ・フェーズ、極意その4.複数同時聴取で反射情報をからめ取れ」
白鳥はわがままだ。俺は、看護師長に頭を下げ、手術室の看護師控え室を一時間借りた。無理だろうと思っていたら、あっさり承諾をもらえたので、狐につままれた気持ちになった。
「普通、こんなことは認めないんですからね」
手術室の高橋看護師長が恩着せがましく言う。思い出したようにつけ足す。
「フジさんに、よろしく」
また藤原さんか。彼女の得体の知れない影響力には、いつも驚かされる。
大友さんは、小手術の外回りを終えて寛《くつろ》いでいた。俺が調査を看護師控え室で行うことを伝えると驚いたようだった。酒井も呼ばれると開いて、さらに困惑していた。
「二人一緒で、いいんですか?」
彼女は、俺と寸分違わぬ質問をした。白鳥は胸を張って寸分違わぬ答えをする。
「ええ、いいんです」
大友さんはちらりと俺を見たが、うつむいて吸いかけの煙草をもみ消した。大友さんの向かいのソファに、白鳥と俺が並んで腰を下ろす。
看護師控え室に入れるのは看護師と、遠慮を知らない一部の若手の研修医くらいだ。最近では男性看護師も増えたので、男子禁制という言葉は幻になりつつある。それでも、そこは今でも、一人前の男性医師には何となく敷居が高い場所の一つである。
俺も若かりし頃、一ケ月間連続泊まり込みの時には、看護師控え室に常備されていたクッキーを命綱にしていたこともあった。ところがある日、この部屋には入れなくなる。それは男の子が女風呂に入れなくなる様と似ている。幼生だからこそ行き来できる二つの世界の境界線は、ある日突然その扉を閉さしてしまう。
白鳥は物珍しげに周りを見回す。そして俺にそっと囁きかける。
「一度見てみたかったんです、看護師控え室」
コイツの動機は不純すぎる。
ノックの音。酒井はあっさりと部屋に入ってきた。彼に対しては、まだバリアは作動していないんだなと、ふと思った。
不審そうな酒井がぶっきらぼうに、大友さんに尋ねる。
「この人はどなたですか? これから一体何が始まるんですか?」
「いやいやいや、どうもどうも」
白鳥は素頓狂な声を上げる。
「こうして並んでいただくと二人は実にお似合いですね。下の娘にせがまれて、出張前におひなさまを出してきましたけれど、あれにそっくりです」
大友さんはびくつと身を縮める。酒井がむっとして、今度は俺に質問する。
「いきなり何ですか。誰なんです? この人は?」
さて、何て答えたものか。思案する隙もなく、白鳥がさらりと答える。
「私、厚生労働省の技官で、白鳥といいます。田口センセが術死調査をギブアップしたので、今度私が調べることになりました。ご協力よろしく」
酒井と大友さんは、しぶしぶ、という感じで小さく頭を下げる。
白鳥はいきなり大友さんに質問をぶつけた。それはあまりに不躾で出し抜けだった。
「星野さんからあなたにメンバーチェンジしてから、術死が始まったようですね」
大友さんは驚いたように顔を上げた。すがるように俺を見つめる。度外れたブラッシュボールに、俺よりも早く酒井が口を開く。
「何なんですか、いきなり失礼でしょう」
「事実ですから。それに今、僕は、大友さんに話をしています。あなたにではありません。自分の順番が来るまで行儀良く待っていて下さいね」
「その件だったら、僕が田口先生にお話ししてあります。大友さんが原因じゃないですよ。それより先に垣谷先生をお調べになったらいかがですか」
白鳥の貧乏揺すりが始まる。
「だから、僕はあんたには訊いていないんだってば。大友さんに訊いているんだけど」
「何をお答えすればよろしいのでしょうか」
大友さんは、顔を上げ白鳥をまっすぐに見た。愚痴外来の時とは様相が違う。
「人の話はちゃんと聞こうね。器械出しの看護師のメンバーがあなたに替わってから術死が連続しましたよねって、お尋ねしたんです」
「ええ、その通りですけど」
それが何か? と、挑戦的な視線を投げる。俺の調査の時に大泣きをしていた大友さんにこんな勝気な一面があることには、あの時は全然気がつかなかった。
「反省してないんですか?」
酒井が会話に割り込んでくる。
「なぜ大友さんが反省する必要があるんだ? 術死の直接の原因じゃないだろう」
「ほんとにうるさいね、この人は。自分の順番までおとなしく待っててよ」
白鳥が酒井を制する。視線を大友さんに戻す。大友さんはしぶしぶ答える。
「反省はしてませんけど、気にはかかります」
「なんで反省しないんですか?」
「なぜ、反省しなくちゃならないんです?」
「自分が原因だとは、全然思っていらっしゃらないんですね?」
「私が原因じゃないわ、みんなもそう言ってくれてる」
「みんなって、誰?」
「みんなよ。チーム・バチスタのスタッフみんな」
そう言うと、大友さんは酒井と俺の顔を、交互に見た。俺は小さく、酒井は大きくうなずく。そんなやり取りにはお構いなしに、白鳥はどかどかと質問を続ける。
「自分がチームのツキを下げたと思ったことはないわけ? そう言っていたスタッフもいるみたいだけど」
「ひどいわ」
大友さんは、ぎゅっと握りしめていたハンカチを目頭に当て、わっと泣き出す。
「泣いたってダメダメ。メンバーがあなたに替わった途端、術死が連続し始めたんです。あなたが原因だと疑われたとしても不思議はない」
「根拠も証拠もなく、人を傷つけるようなことを言うな」
酒井が白鳥を睨みつける。騒々しい酒井だが、この怒鳴り声には正当な権利が感じられた。白鳥は、酒井の怒気には気も留めず、平然と吐き捨てる。
「こういうデリケートな手術では、器械出しのタイミングが一つずれただけでも、致命的なエラーにつながる可能性がある。そういう小さなエラーを吸収してくれる優秀な外科スタッフがチームの助手にいないから、なおさらです」
いきなり矛先が自分に向けられて、酒井はストンとソファに腰を下ろした。大友さんを守ろうとして振り上げた拳だったので、自分に対する攻撃には無防備だった。白鳥の言葉はみぞおちに打ち込まれ、酒井の呼吸を奪った。口を開くが言葉にならない。
「あんたが大友さんをかばうのも、下手っぴ同士が傷をなめ合うようなものでしょ。
自分では垣谷先生より技量が上だとうぬぼれているみたいだけど、所詮どんぐりの背比べです。そんなことを考えようとしない分、垣谷先生の方が外科医として格上です」
酒井は怒りに唇をわなわな震わせて、怒鳴る。
「実際に手術を見たわけでもないのに、わかったような口を利くな」
「僕は見ましたよ、君たちの手術」
えっ、と二人は白鳥を見つめた。俺を含めた三人の視線が白鳥に集まった。
「バチスタ手術は全例ビデオ撮影してますよね。ここに来たとき時差ボケがひどかったから、地下の視聴覚室に籠もって手術ビデオを見てました。三十二例全部ね」
酒井は放心したように、白鳥を見た。
「言いたくないけど、桐生先生はよく我慢してますよね。彼だけは大リーグ選手なのに、周りはみんな町内会の仲良し草野球チームなんですから」
大友さんは、強気な表情から一転して、弱々しく崩れ落ちそうになる。
「垣谷先生はのろまな亀、酒井先生は尺取り虫、大友さんは太った駝鳥。かろうじて桐生先生に釣り合っていたのは、星野さんっていうの? 前の器械出しの娘だけだね。彼女の手技は軽やかでツバメみたいだったなあ」
大友さんがびくりとする。
「それにしても、大友さんが初めて手術に入ったケース26でしたっけ、あれはひどかったですね。新人さんかと思いました。ツッペルとコッヘルは間違える、電気メスを取り落とす。あれで術死にならなかったのは奇跡ですよ。だから実は僕は、次のケース27で術死が起こったのは大友さんのせいじゃないかと思っているんです」
大友さんが凍りついた。固い殻に閉じ籠もろうと、その身をいっそう小さく縮める。
白鳥は追い打ちをかける。
「だからさ、お調子者にちょっと慰められたからって、あまりはわほわしない方がいいですよ。だいたい、星野さんはどうして辞めちゃったんですか? あんなに才能あったのに。ひょっとして大友さんが意地悪していびり出しちゃったとか?」
次の瞬間、酒井が白鳥に殴りかかった。止めに入る間もなく、白鳥の顎に腰の入った右ストレートが炸裂した。白鳥はソファごと後ろにひっくり返る。派手な物音の上に覆いかぶさるように、大友さんの泣き声が響きわたる。
*
白鳥はソファに横になり、濡れタオルを顎にあてていた。眼をつむり、ぐったりしている。隣で俺は高橋看護師長に絞られていた。エンドレス・テープのリフレイン。俺はひたすら頭を下げ続けた。
「この方は、二度と看護師控え室に足を踏み入れないようにして下さい」
捨てゼリフを吐き、高橋看護師長がようやく部屋を出ていった。
ドアが閉まった途端、白鳥がむくりと上半身を起こす。
「寝たフリしてたんですか?」
コクリ、とうなずく白鳥。何だか怒る気も失せた。
「大丈夫ですか?」
「殴られたり蹴られたりするのには、わりと慣れてるんです」
普段はどんな仕事をしているのだろう。本当にコイツは中央省庁の官僚なのだろうか。まるで零細ヤクザの鉄砲玉みたいなメンタリティだ。
白鳥はおもむろに例のウインクをしようとして、痛みに顔をしかめた。
「イタタ……。口を切ったかな。ま、いいや。アクティヴ・フェーズ、極意その5」
「いいですよ。無理しないで下さい」
「これだけは言わせて。これを教えられる機会は滅多にないんですから。氷姫にもまだ教えていないんです。いきますよ、極意その5。身体を張って情報ゲット」
力んだわりには、ちゃちなフレーズ。まあ、極意なんてそんなものかも知れない。これじゃあ極意というより、ショボい極道の心得だ。
「それにしても、あれはひどすぎます。かわいそうですよ」
「かわいそう? どっちが?」
「大友さんに決まっているじゃないですか」
白鳥はへらへら笑う。
「あ、それなら大丈夫。彼女はそれほど傷ついていませんよ」
「でも、泣いてましたよ」
「あれはフェイク。彼女、自分が悪いなんて思っていません。ただ甘えて、田口センセか酒井先生に守ってもらいたくて、泣いて見せただけです。かわいそうなのは酒井先生ですよ」
酒井がなぜ、という俺の疑問を表情から読みとったかのように、白鳥は続ける。
「だって、僕はさっき、酒井先生に外科医としての引導を渡してしまったんですもの。どんなに頑張っても、あなたは桐生先生どころか垣谷先生のレベルにすらたどり着けませんと、はっきり言っちゃったんです。本人も、うすうす感じていることをね」
白鳥はくるりと表情を入れ替える。
「ところで田口センセのパッシヴ・フェーズでの『見立て』では、酒井君がスピッツ、大友さんは巻き貝でしたね。アクティヴ・フェーズで印象が変わりましたか?」
言われて、フィルムを逆回しするように、二人のイメージを再確認する。
酒井はスピッツから柴犬に格上げ。コリーやドーベルマンまではいかない。一応、同じ犬のまま、白鳥を殴った分だけ、ちょっぴり力強く凶暴で大型になっていた。
では、大友さんは?
俺は自分の中のイメージをまさぐってみて、ぎょっとした。色鮮やかな毒クラゲ。深海で妖しく七色の光を放ちながら漂うやつだ。
「ねえねえ、どんなイメージになりました?」
「ええ、まあ、そのう」
俺は言葉を濁した。白鳥は俺の心を見透かしているかのように、ふふんと鼻で笑う。
「基礎研究では、未熟で独善的な性格の人間は、パッシヴ・アクティヴ間で、イメージの変化が起こりやすいと言われています。アクティヴ・フェーズでは、隠された本質が出やすい。つまり、二つの相で印象が異なったとしたなら、アクティヴの方が素顔に近いんです。これが相転換です。どうやらそのあたりの原理と感覚は理解していただけたようですね」
俺の顔をのぞき込む。
「あの娘は、やめておいた方がいいですよ」
黙り込んだ俺に、白鳥は朗らかに言い放つ。
「こうなったら、今日中にいけるところまでやってしまった方がよさそうです。明日になると、もっとこじれてしまいそうですし。今からここで、氷室先生と羽場さんを一緒にやってしまいましょう。垣谷先生はそうだなあ、やっぱり明日でいいや。
田口センセ、お手数をおかけして申し訳ありませんが、お二人を呼んできて下さい」
こじれたのは一体誰のせいだ、とののしることはやめにして、俺は黙って指示通り動いた。
一刻も早くこの部屋から逃げ出したい気分だったからだ。
■白鳥ファイルD 麻酔学教室 講師―――――氷室井一郎(37)
E 手術室臨床工学士 室長――羽場貴之(53)
氷室に声をかけ、羽場を呼びにいった。カンファレンスルームに戻ると、氷室はすでに白鳥の向かいに座っていた。俺は二人に直交する位置のパイプ椅子に座る。
乱暴にドアが開く。羽場がぎろりと部屋の中を睨む。
「白鳥っていうのは、あんたか?」
濡れタオルを顎に当て、痛みに耐える表情をしながら、白鳥は弱々しくうなずく。
「なぜ、大友くんにあんなひどいことを言ったんだ?」
「……だって事実だから」
「事実なら、何を言ってもいいと思っているのか、少しは人の気持ちを考えろ」
「もちろん、考えていますよ。僕は言っても大丈夫だと思ったから言ったんです。酒井先生が殴りかかってきたことは予想外でしたが」
「何が大丈夫だ、大友君は、控え室で大泣きしているぞ」
「それはみなさんが慰めるからです。泣き止ませたかったら、放っておけばいいんです。そうすれば五分で泣き止みます。何なら賭けたっていいですよ。うちのチビだって、転ぶと大泣きしますけど、誰からも相手にされないとわかると、すぐに一人ですたすた歩き出しますもの」
羽場は呆れたように首を振る。あまりの物言いに、怒りが吹き飛ばされてしまったようだ。仕方なく、俺の正面のパイプ椅子に腰を下ろす。
こんなやり方、ありなのか。火事を消すために爆弾を爆発させて風圧で吹き消すみたいなやり方。ふと見ると氷室が楽しげな笑顔を浮かべていた。俺の視線に気がつくと、氷室はその微笑を慌てて吹き消した。白鳥は二人の顔を見て、言う。
「時間がないので、きっそく本題に入ります。お二人にお訊きしたいことがあるんですけど、よろしいですか7 人工心肺で循環血流を管理している最中に、血液中に毒物を注射して、人を殺すことは可能ですか?」
氷室と羽場が同時に唾を飲むのが聞こえた。
最初に息を吹き返したのは、羽場だった。
「な、な、何てコトを言うんだ。我々が、患者に毒を盛ったと思っているのか?」
白鳥はクールだ。こうした反応は予想していたようだ。
「疑ってるんじゃなくて、可能性を追求するという純粋な好奇心です。そういうことできるのかな、と思いまして」
そんな言い訳は当然通用しない。羽場は汚らわしいと言わんばかりに吐き捨てる。
「バカバカしい。そんなこと考えたこともないし、答える気もない」
「氷室先生はどう思います?」
氷室は、白鳥を見つめた。やがて、にいっと笑った。
「実に面白い方ですね」
それからおもむろに、言葉を続ける。
「可能性を考えれば、いくらでも可能でしょうね」
氷室は白鳥の挑発を受けて立った。隣で羽場が目を丸くする。
「麻酔医は術中の生命維持のために、さまさまな薬剤を投与します。殺すだけなら、毒物を混入させればいいだけですから、簡単です。用いる分量を変えるだけでも十分です。もともと身体に役立つ毒物をクスリと呼んでいるわけですし、そういう点から見てみると、麻酔医の周りにあるのは毒物ばかりですから。その気になれば、患者の毒殺は容易《たやす》いです」
「それなら、お二人のどちらかなら、術死させるために患者に毒を盛れるんですね」
我慢しきれず羽場が声をはりあげる。
「バカなこと言うな。患者に毒を盛ったら死んでしまう。すぐにばれてしまう」
「この手術では心臓停止も人工心肺が回っているから、死んでもすぐにわからないでしょ。だとすれば殺した瞬間をごまかせるから、手術ミスに見せかけられるじゃないですか」
乱入してみたものの、羽場はあっという間にリング・アウト。理屈では白鳥の足許にも及ばない。何しろ相手はロジカル・モンスター。力量差を肌で感じたのか、羽場は、もう挑発には乗らないぞ、と感情を押さえ込む。すべてを氷室に託すつもりだ。
羽場の全面委任を受け、氷室は淡々とリングに立つ。
「確かに人工心肺稼働中の殺人は論理的に可能です。羽場さんは投薬に関与しませんから、可能性があるのは僕だけですが。けれども僕に嫌疑をかけても、無実は簡単に証明できますけどね」
「どうやって?」
「酒井先生の研究はご存じですか?」
「開きたいとは思っていたんですけど、その前にぶん殴られてしまいました」
氷室は声を上げて笑う。隣では羽場が握り拳を震わせる。
「酒井先生の研究は、三十分ごとに術中患者採血をして解析しています。血液検体は全部保管されているはずです。それを分析すれば、毒物混入の有無は確認できます」
「でも、もしも犯人がずる賢くて…⊥
言いながら、白鳥は氷室を見つめる。
「あ、といっても、これは氷室先生のことじゃないですよ、もちろん。誤解しないで下さいね。そのずる賢い犯人が、その可能性に気がついたら、あとで研究用に保存されている血液を全部、正常な検体と入れ替えることもできますよね」
「そうした可能性はありません。それも、行われなかった証明は簡単です。検体は術中モニタリングされてますから、カルテに残されたデータと再検データを比較すれば終わりです。カテコラミンの他に電解質や生化学因子を測定しています。それら複数の因子の数値が完全に一致する検体とすり替えることは事実上不可能です」
「それなら事前に準備した毒なし血液とすり替える。これなら検出されませんよ」
白鳥が喰い下がる。氷室は、楽しそうに笑う。
「楽しい方ですね。何とか僕を犯人に仕立て上げたいようですが、それなら事前に準備した血液はどこに隠しておくんですか? 術中採血は、動脈血ラインから行いますが、シリンジは外回りの看護師からの手渡し、採血時は看護師がつきっきりだから、監視下にあるようなものです。マジシャンでもすり替えは不可能です。採血が終われば看護師が臨床検査室に持っていき、臨床検査技師が計測する。僕は測定にはタッチしません。僕はデータを、患者の状態コントロールに利用するだけです」
氷室の話を聞きながら、白鳥は徐々にうなだれていく。
「薬物アンプルは、外回りの看護師と投与前に二人で確認します。これは事故防止マニュアルに記載されています。例外は局所麻酔液やエタノールみたいな大きな瓶に入った薬剤で、これには看護師は関与しませんが、そもそもそうしたものは血中投与しません。薬剤すり替えには看護師の協力が不可欠ですが、外回りの看護師は毎回替わるので連続して犯行を実行するのは難しいですね」
白鳥はノック・アウト寸前だ。クリンチで氷室の腰にしがみつくように尋ねる。
「じゃあさ、術中に酸素供給をわざと不十分にして、呼吸不全状態を……」
「その時は人工心肺のフィルター・トラブルと同じだから、俺の眼が見逃さない」
威圧感を持った羽場の援護射撃。高らかな勝利宣言だ。白鳥は黙り込む。
白鳥仮説・毒殺編≠ヘ完膚なきまでに叩きのめされ、完敗した。俺は氷室の論理的な攻撃に圧倒されていた。撃退されたロジカル・モンスターの隣で、羽場が晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
『満天』から見る夕焼け空は見事だった。光がオレンジ色からワイン色、コーヒー色に沈み込む。ひとつ、ふたつ、街の灯火がともり始める。こういう景色の変化をしみじみと見続けるという、ゆったりした時間の流れを、しばらく忘れていた。俺たちが見ていようと見ていまいと、こうした営みは世の中でひっそりと行われ続けている。
一瞬ロマンチックな気分になりかけたが、顔を上げるとそこには、大人のオタフク風邪のように左頬を膨れ上がらせた白鳥の顔があり、いきなり素面に戻ってしまう。
殴られた傷がしみるらしく、イタタと呟きながら、白鳥は力うどんの汁をすする。
「今日のアクティヴ・フェーズは失敗しましたね」
白鳥は、うどんを岨噂しながら首をひねる。
「失敗? 何で?」
「相手を怒らせちゃいけないのに酒井君にはぶん殴られる、大友さんは泣かせてしまって何も聞き出せない、氷室先生には仮説をこてんぱんにのされてしまう、羽場さんだけは言い負かしていたみたいだったけど、他はすべて完敗じゃないですか」
「あれが完敗に見えるわけ? 酒井君は自分の技量レベルを認識していることがわかったし、大友さんの気が強いこともわかった。氷室先生にぶつけた仮説だって、氷室先生を本当に犯人だと考えていたら、あんな無造作にぶつけると思いますか? そんなことして、何かいいことありますか? 少しは頭を使って考えてみてね」
「じゃあ、あのアクティヴ・フェーズの聞き取り調査は成功だったんですか?」
「だーかーらー」
口と箸の間でモチを伸ばして噛み切ろうとしていた白鳥は、モチを口から離し、説明を続ける。
「成功、失敗ってのは、問題が解決した時にはっきりすること。ここではまだ確定していません。いいですか、アクティヴ・フェーズとパッシヴ・フェーズの違いは時制にあるんです」
「時制って、一体……?」
「過去を看取るパッシヴ・フェーズ。未来を創るアクティヴ・フェーズ」
まるでお役所の公共広告のコピーみたいだ。そう考えてふと、白鳥はまさしくお役人だと改めて思う。それにしても、言葉で未来が創れるものなのだろうか。
「誤解しては困ることが一つあります。それは今日、氷室先生にやったのは、パッシヴ・フェーズです。正確にはパッシヴ・アクティヴ比率八対二のハイブリッドです」
「パッシヴは、私が終えたんじゃなかったんですか?」
「僕は、だいたい終わったと言ったんです。完全に終わっているとは言ってません。実は、田口センセは氷室先生のパッシヴ聞き取りには失敗しています。だから今日はその補足」
「そうだったんですか」
「ええ。でも、これは田口センセが悪いんじゃないんです。田口センセのパッシヴに氷室先生がスネイル・トークで対応した結果です。彼はなかなか手強い相手です。パッシヴに対しスネイルで応じるなんて、用心深すぎます。そこまでして一体何を隠したいんですかね。ま、仕方ないので、天の岩戸作戦を使いました」
「天の岩戸?」
いきなり神話? なぜに古事記? 楽しげに白鳥が説明する。
「または、風桶」
「かぜおけ??」
「アクティヴのディフェンシヴ・変法によりパッシヴを達成するという高度な応用技です。風が吹けば桶屋が儲かる。僕が大友さんをいじめた。大友さんが泣いた。酒井君に殴られた。羽場さんに敵視された。僕がきりきり舞いして、氷室先生が巣穴から顔を出した」
「酒井君に殴られたのも計算ずく、と言うんですか?」
「当たり前じゃないですか」
俺は呆れて白鳥を見つめた。始めからあそこまで計算ずくだったなんてホラ話、一体誰が信じると言うのだろう。つじっまを合わせただけだとすぐばれてしまうのに。
夕陽が地平線から姿を消して、闇が世界を包み込む。
「パッシヴとアクティヴ・フェーズで印象が変わるのは、今回も感じたでしょ?」
「ええ。羽場さんはゾウからクマに、氷室先生は紋白蝶からカブトムシになりました」
白鳥は不満げだった。
「その程度かあ。いくら初学者だからといって、相転換の振れ幅を見落としたらセンス疑っちゃいますね。田口センセはご自分の先入観に囚われすぎです。惜しいなあ。あと少しでブレイクする気配はあるんですが。飛ぶために必要で、今の田口センセに欠けているもの、それはほんの僅かな勇気、だけなんですけどねえ」
そう言うと、白鳥はお椀を高々と掲げて汁を飲み干す。空になったお椀をテーブルに叩きつけると、満足そうに息を吐く。
「でも、田口センセのご協力のおかげで今日ははかどりました。明朝、術前カンファに出席した後、残りの三人、垣谷先生、鳴海先生、桐生先生に対するアクティヴ・フェーズ調査に入ります」
今日のごたごた騒動の後で明日のカンファに出席するなんて。俺は白鳥の神経の太さにほとほと感心した。カンファに出席するつもりだったら、俺なら今日の聞き取り調査であそこまではつっこまない。いや、つっこめない。
ふと、これが俺の限界なのかな、と思った。
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16章
ロジカル・モンスター
2月26日火曜日 午前7時45分 2F・手術部カンファレンスルーム
翌朝、約束の時間に現れない白鳥を探して、地下の視聴覚室を訪れた。ノックをすると寝ぼけた返事があった。ドアが開き、ジャージ姿の白鳥が、眼をこすりながら顔を出す。その後ろには、散乱した部屋がちらりと見える。まるで学生寮だ。
「十五分遅れ。カンファレンスはとっくに始まってますよ」
「いけね。朝は弱いんです。すぐ着替えますから、待ってて下さい」
「急いで下さい。症例検討が終わってしまいますよ」
「今朝はちょっとくらい遅れてもいいんです。カンファレンスは顔を出すことに意義があるんで。桐生先生に挨拶をして、垣谷先生をつかまえれば朝の任務は終わり」
着替えを終えた白鳥と二人で、足早に手術室に向かった。
カンファレンスルームの扉は重かった。ドアを開けると、一斉に冷たい視線が突き刺さる。
「や、どうもどうも」
白鳥はへらへらしながら部屋に入る。酒井と大友さんはそっぽを向く。羽場は睨みつける。氷室はにっと笑う。
桐生は一瞬、俺たち二人を見つめたがコメントはせず、何もなかったかのようにプレゼンテーションを再開した。黒崎教授から伝言されていないのだろうか。
「術前のCAGで、左冠状動脈主幹部の閉塞が七十五%か。かなり高いな」
「これが発作の原因なのは間違いないですね」
「今度発作が起きたら、待ったなしだな。緊急手術でねじ込むしかないだろう」
「バイパス手術の並行適用に関してはどうしましょうか」
「開けてみて、状態を確認してから考えよう。そのために術前の術野設定は大伏在静脈からのグラフト採取を前提にする。そうなると脱血ルートが影響を受けるな」
その言葉を引き取って、酒井が立ち上がる。
「昨晩ムンテラ(病状説明)の後、バイパス手術の併用も含め手術承諾書をいただきました。小倉さんの身内は息子さんだけで、万が一の時の緊急手術の件についても了承済みです」
「それではケース33・小倉さんの手術は明後日二月一一十八日に決定する。以上、解散」
各自ばらばらに部屋を出ていく。そのうちの何人かは、白鳥を脱みつけ部屋を出ていった。
白鳥は桐生に挨拶しながら、部屋を出ていこうとした垣谷を呼び止める。二人が部屋に残った。
「私、厚生労働省から派遣されてきた、技官の白鳥と言います。高階病院長からの依頼で、昨日からチーム・バチスタの調査に入らせていただいています」
「黒崎教授からリスクマネジメント委員会でのお話の詳細を伺っています。昨日はうちのスタッフがご迷惑をおかけしたようで。大変失礼いたしました」
「はあ、何のことでしょうか?」
白鳥は顎を撫でながら、すっとぼける。
「それにしても、高階病院長の人脈は底知れませんね。いきなり厚労省本局にご相談なさるとは、想像もしませんでした」
「高階先生は超大物ですよ」
白鳥が相づちを打つ。確かに高階病院長は、厚生労働省に強力な人脈のコネと深々度の情報をお持ちのようだ。しかも白鳥のこともご存じで、その上白鳥が大の苦手らしい。俺はそうした情報を桐生に伝えたくてうずうずした。しかし残念なことに、口を差し挟む暇《いとま》もなく白鳥は続ける。
「調査には、是非ご協力お願いいたします。なに、私は窓際官僚ですので、ご心配には及びません。垣谷先生には、今からお話を伺います。桐生先生は本夕、鳴海先生と一緒にお話を伺います。時間と場所は後ほどお知らせします」
桐生はうなずいた。白衣を翻して部屋を出ていく。
白鳥は、本夕、桐生−鳴海ペアのダブル・チームに対しオフェンシヴ・ヒヤリングをやるつもりなのだろうか。俺は、憂鬱になった。これまでペアのオフェンシヴ・ヒアリングが穏やかに終わった試しがないからだ。
■白鳥ファイルF 臓器統御外科ユニット 講師――恒谷雄次(49)
カンファレンスルームには垣谷と俺たちが残った。垣谷はにやにやしながら言う。
「あんたが有名な白鳥さんか」
「有名? そうなんですか? こっちに来て、まだたった五日なんですけど」
「スターになるには一晩あれば十分さ。黒崎教授の部屋に怒鳴り込みをかけたその足で女をめぐる殴り合いの大立ち回り。場所は神聖なる手術室看護師控え室。こんな派手なヤツ、滅多にいませんよ。桐生さん以来かな。いやいや、衝撃度だけなら間違いなく桐生さんを越えてるな。もっとも、評判は桐生さんと正反対だがね」
垣谷は手放しで誉めているように見せかけながら、同時にこっそり、そしてしっかりと、桐生と正反対の評判≠ニいう批判的なフレーズを忍び込ませて、白鳥に対する客観的評価をきちんと周囲に伝える。相手を持ち上げつつ、言いたいことは言う。医局政治の|サバイパー《生き残り》は、しなやかでタフだ。
「いやあ、そうですか、嬉しいなあ。スターなんて言われたの、生まれて初めてです」
「え? 初めて? 意外だなあ。きっとこれまでも、あんたはどこにいても、陰ではウワサでもちきりになるようなスーパー・スターだったと思うぜ」
「えー? そうですかね? 知らなかったなあ。今度周りの人に訊いてみようかな」
白鳥は無邪気ににこにこした。垣谷のヨイショ攻撃に舞い上がっているのだろうか? 誉めめ殺しというアクティヴ・フェーズ返しに、ずっぼりはまってしまっている。
「ダメダメ、そんなコトしちゃ。スターは周りの風評なんて気にかけないで、どっしりしてなきや。今のあんたみたいにさ。それでこそスターの風格ってもんでしょ」
顔じゅう、笑顔でとろけそうな白鳥が、垣谷の眼をのぞき込む。
「それだけ人を見る目のある垣谷先生なら、とっくに気がついているんでしょ?」
「何を?」
「またまた、とぼけて。こういうシチュエーションで、僕が垣谷先生に、気づいているでしょ、つていったら、そんなにたくさんの可能性はないでしょ」
「俺みたいに後ろ暗い過去がある人間は、そういう奥歯にモノが挟まったような言い方をされると、思い当たるフシがすぐに片手くらい浮かぶんだよ。あんまり脅かさないで欲しいなあ」
「僕のことを理解してくれてる垣谷先生に対して、僕が訊きたいことって言えば、ひとつに決まってるじゃないですか」
そう言うと白鳥は垣谷の顔の奥深くをのぞきこんで、ぼそりと言う。
「桐生先生のコンディションの変化について、ですよ」
「何を言っているのか、さっぱりわからんなあ」
野太い声で垣谷はのんびりと言う。白鳥は垣谷をじっと見つめる。
「実は僕、バチスタの手術ビデオ全部見せてもらったんです。星野さんが辞める直前の二十五例あたりからと言えば、僕の言いたいことは伝わるかな」
垣谷の表情がちらりと揺れた。
「それじゃあ何が言いたいのかは、全然わからないなあ。それよりオペのビデオを見たの? やだなあ。そういうことは、挨拶した後すぐに言うもんだぜ。恥ずかしいよ。酒井君の方が第一助手みたいだったろ」
白鳥は、垣谷をじっと見つめた。
「垣谷先生は立派な第一助手ですよ」
「嫌味なヤツ」
「そんなこと、ないです。事象が術者の器の中に収まっている間は出しゃばらない、という見極めは、そんじょそこらの青二才には、とてもできることではございません」
白鳥は、垣谷の眼から視線を切ろうとしなかった。垣谷は一瞬、真顔になったが、すぐにへらりへらりとした笑顔に舞い戻る。俺は白鳥が、垣谷に対して次にどんな攻撃をしようとしているのか、どきどきしながら待った。
ところが驚いたことに、続けて白鳥はこう言った。
「ありがとうございました。調査は以上です」
唐突な終わり方に、垣谷も肩透かしを食ったような顔になる。だが何も言わずに肩をすくめて部屋を出ていった。
俺は、エレベーターホールの前で、ご機嫌な白鳥に質問された。
「垣谷先生は、パッシヴ・フェーズでの『見立て』は、確かカバでしたよね。アクティヴでは、どうでした?」
俺はぎくりとした。答えていいかどうか迷う、境界線上にあったからだ。
「答えにくそうですね。僕が当てて見せましょうか?」
白鳥は、にやにやしながら、一言言った。
「………カエル」
ご名答。恐れ入った。
十時、開店したてのスカイ・レストラン『満天』で、白鳥の旺盛な食欲を見せつけられて、俺はげんなりしていた。
「また、うどんですか」
「またってなんですか。失礼な。昨日のお昼はたぬきうどん、夜は力うどん。朝飯は天ぷらうどん。みんな違ううどんです」
「食生活、バランス悪すぎませんか。だからそんな体型になっちゃうんですよ」
「ちょっぴり太めなだけです。人間ゆとりがあると小太り状態になるのが自然の摂理なんです。そうやっていざという時のための備蓄をしているんですよ。田口センセはお医者さんのくせにご存じないんですか?」
お医者さんのくせにってセリフ、コイツにだけは言われたくない。
「でも、どう見ても備蓄過剰ですよね」
俺の批判を無視して、白鳥は口の中で反芻咀嚼。そして呟く独り言。
「めざせ、満天うどんの全品制覇」
俺はメニューを見た。『満天』はバラエティ豊かで、うどんだけでも二十種以上ある。コイツはここに一週間居続けるつもりなのか。俺の憂鬱を察知しようともせず、白鳥は軽い調子で付け加えるる。
「うどんもいいけど、蕎麦《そば》も美味そうですね」
一言で、白鳥様の滞在予定期間が二倍に延長されてしまった。俺はげんなりした。
気を取り直して話題を変える。
「垣谷先生のオフエンシヴ・ヒヤリングは、やけにあっさりでしたね」
「だって、垣谷先生は犯人ではありませんから」
思わず、えっ? と訊き返す。
「そんなこと、簡単に断定できるんですか」
「ええ、手術ビデオを見ましたから」
拍子抜けした。垣谷は桐生に助教授のポストを奪われたのだから、陰で術死を演出して桐生の足をひっぼろうとしても不自然ではない。垣谷には、ささやかだが動機がある。その程度のことで殺人まで犯すだろうか、という常識論には、個人的には同意したいけれど、そもそも殺人というものは大概、常識論を大きく逸脱したところで起こる。議論は所詮、机上の空論。ささやかすぎるが故にこうした動機を除外するのは、他人の気持ちを無視した思い上がりだろう。
俺は質問を続けた。
「ビデオを見ただけで、そんなことまでわかるんですか?」
「わかることもある。わからないことも、もちろんたくさんある。ビデオを見てわかったことは、垣谷先生と酒井先生がへボ外科医ってこと。それでもって自分がヘボだと自覚している分、垣谷先生の方が格上、というあたりかな」
俺は、自分の調査が大穴だらけだったことを思い知らされていた。手術ビデオの存在に思い至らなかったことは、致命的な手落ちだ。手術室と緑の薄い内科医の俺は、手術がビデオ撮影されている事実を知らなかった。医師になってからは、とにかく手術と緑を切ることばかりに気を遣っていた。だから手術に関する俺の知識は十五年前の学生時代で時を止めていた。あの頃、ビデオ撮影システムなんてなかった。だから、手術ビデオの存在は一般人でも知っているとなじられても、知らなかったのだから仕方ない。あまりに基本的な知識であったため、高階病院長も桐生も、俺がそんなことさえ知らないという事実に気づかなかった。おまけに俺に期待されていたのは過去の手術調査の方ではなく、これから行われる手術観察だった。だから緻密な二人の企画にも拘わらず、詰めが甘かったわけだ。これは思わぬ盲点だ。
確かに鈍臭い話だ。だがこれは依頼人である高階病院長の人選ミスだ。俺は自分から調査を買って出たわけではないし、再三再四依頼を固辞したのだし、その上刑事でも探偵でもないのだから。
この事件は、こうした小さな思い過ごしの中から手がかりが見つかるかも知れない、とふと思った。だとしたら、これから俺たちがやらなければならないことは、心に浮かんだ小さな疑念をひとつひとつ丹念に解決していくことなのかも知れない。
「垣谷先生がへボなことと、犯人でないという判断は、どこでつながるんですか?」
「田口センセって、ほんとに頭使わないですね。たまには自分の頭を使わないと脳が萎縮しちゃいますよ」
むっとする俺におかまいなしに、白鳥はズケズケと続ける。
「これは簡単なパズルです。術死だから手術中に何かが起こっていることは間違いないので、手術中に直接患者に触れることができる、というのが犯人の絶対条件です。すると可能性は二系統に絞られる。まず、桐生−鳴海ラインの直接侵襲系統です。説明するまでもなく、心臓に直接物理的作用を及ぼすやり方。それから氷室−羽場ラインの全身管理系統。これは間接侵襲系で、手段は毒殺か、人工呼吸器または人工心肺に対する何らかの細工によります」
「桐生先生のペア相手は鳴海先生なんですか? 垣谷先生や酒井先生ではなくて?」
「ええ、鳴海先生が桐生先生のお相手です。垣谷、酒井は問題外ですね」
「なぜですか?」
「術野は桐生先生の制空権内です。もし、垣谷先生や酒井先生が何かこっそりやろうとしても、桐生先生に一発で見抜かれてしまいます。ですから、この二人が何かやれるとしたら、桐生先生の指示に従った場合だけ。でも、それはあり得ません」
「なぜ、断定できるんですか? 酒井君は桐生先生に心酔しきっていて、命じられれば何でもやってしまいそうですけど」
「そうかも知れませんね。でも、やはりそれはあり得ないんです。お二人はどちらも気が小さいですから、そんなことを命じられたらそれだけでいっぱいいっぱいになってしまいます。だから酒井君が別件で、つまり僕が大友さんを侮辱したという些細なことで僕に殴りかかってきた時点で、酒井君は疑惑の対象から外れます。もしも酒井君がこの件に関わっていたら、僕に呼び出された時点で犯行がばれないように気を遣うことで精一杯になってしまい、そんな精神的なゆとりを持てるはずないんです」
なるほど、と俺はひそかに納得する。
「それでは垣谷先生単独が可能かと言うと、今度は桐生先生に忠誠を誓い、垣谷先生に不満を持っている酒井君の厳しいチェックが入りますので、それもあり得ません。
つまり酒井君が僕に殴りかかった時点で、お二人が桐生先生と共謀して関与している可能性は完全消滅です」
白鳥が得意気に、土砂崩れウインクをする。
「これがアクティヴ・フェーズ、極意その7.反射消去法」
それでは極意ではなく名称ではないか。白鳥の教育のいい加減さには、ほとほと愛想が尽きる。けれども悔しいが、その論理展開には反論する余地がない。
これがロジカル・モンスター、か。
俺の思いにほおかまいなしに、白鳥ブルドーザーは、推論の整地を続ける。
「そうなると、術野で、何かやれる可能性があるのは皇帝・桐生先生だけ。彼だけは、術野でも他の人間にわからないように、何か悪いことができます」
「そうかも知れませんが、やっぱり可能性は低いんじゃないかなあ。何しろ術野はガラス張りですから」
「ガラス張りかあ、田口センセは時々、うまいことを言いますね。変なところに妙なセンスがありますよ」
白鳥は感心してみせた。垣谷の調査のやり方といい、俺への甘い評価といい、今日の白鳥はご機嫌がとても麗しいようだ。よほどうどんが美味《うま》かったのか。それとも昨日、酒井に殴られて頭のネジが二、三本ぶっとんでしまったか。白鳥は続ける。
「確かにその通りですね。鈍臭いといえども外科医の眼が二組。術野外からは複数で、しかも一定しない視線にさらされます。その上、ビデオで電子監視されています。これだけの監視の網をくぐり抜けて非合法行為を行うことは、通常なら不可能でしょう。でも、針の穴を通すような可能性があるんです。それは、桐生先生の技術が高度であればあるほど、可能性が高くなります」
話を区切ると、白鳥はどんぶりを高く掲げて、汁を飲み干す。どんぶりの底から白鳥の顔が現れると、途切れた言葉が再開した。
「但しこのガラスの檻をくぐり抜けようとすると、一つだけ、どうしてもかわしきれない視線があります。桐生先生と同等か、それ以上の技量を持つ外科医の眼です」
俺は、ちらりと一人の外科医の顔を思い浮かべた。まさか? 思わず口に出す。
「それが黒崎教授なんですか? だからしょつぱなに調べたんですか?」
白鳥はきょとんと俺を見つめる。次の瞬間、大爆笑の奔流が俺の自尊心を押し流していった。
「田口センセって、ほんと最高。あの黒崎教授が桐生先生の技量と同等? 桐生先生の技術の穴を見抜く眼を持っている? 僕がそんな評価をしましたか? 一体いつ?何時何分何十秒?」
白鳥は息をはあはあはずませて、小学生ツッコミをする。俺は心底、思いつきをろくに考えずに口にしてしまったことを後悔した。
「いや、私だってそんな風には思ってませんでしたけど……」
消え入りそうな声で呟く。白鳥はしばらく、腹をよじって大爆笑を続けていた。笑い袋のような発作が収まると、さすがに笑いすぎたと感じたのか、謝罪した。
「すいません、いくら何でも笑いすぎですね。でも仕方ないですよ。だって、よりによって言うにこと欠き、あの黒崎教授が…… 桐生先生と……くっ……」
また、発作がぶり返す。俺はふてくされてそっぽをむく。『満天』の窓は光に溢れて眩しい。その光と同じくらい眩しい白鳥の笑い声がテーブル周囲にまき散らされる。隅にたむろしていた白衣の連中が、怪訝そうにこちらの方を盗み見る。
ようやく白鳥の発作は完治した。涙をぬぐいながら、白鳥は改めて話し出す。
「僕が言ったのは鳴海先生のことです。さすがの桐生先生も、鳴海先生の眼をくぐり抜けて何かやろうとすることは、あまりにリスクが高すぎるんです」
「でも、鳴海先生は病理医ですよ」
「いいえ、彼の心は外科医です。何しろフロリダでは……」
白鳥は黙り込んだ。あれ? と思って白鳥を見ると、通り過ぎる夜勤明けのナースのグループに見とれていた。
「あの背の高い娘はいかしてるなあ……」
白鳥ははつと我に返る。
「え、と、何だっけ。そうそう、鳴海先生が外科医かってことでしたっけ。鳴海先生は、心臓の動きから変性部を判断できますよね。桐生先生はその判断に従って切除範囲を決めています。つまり、桐生先生と同等か、あるいはそれ以上の視線を持っている、ということになりませんか?」
言われてみれば確かにその通りだ。
「桐生先生が、鳴海先生にも見抜けない高度な特殊技術を使っているんですか?」
「違います。そっち方向ではありません。鳴海先生の眼を無力化するには、ペアを組んでしまえばいいんです。桐生先生が犯人なら、この共謀関係の成立は必須です。そして二人の因縁を考えれば、それはそんなに難しいことではありません」
俺には白鳥の話がにわかには信じられなかった。桐生には動機がない。それ以上に桐生の人格と接し、その可能性を考えること自体がハカバカしいと思えた。この調査だって桐生の申し出だ。犯人がわさわざ真実が露呈するリスクを高めるような行動をとるはずはないだろう。しかしそれを口に出してまた怒涛の大笑いに襲われるのはまっぴらだ。俺は反論を諦めて話題を変えた。
「氷室−羽場ラインの可能性はどうですか?」
「可能性があるとすれば氷室先生の単独犯行でしょう。これはほぼ確実、だって本人も認めていますしね。それに先入観に基づいた考え方はほとんどしない僕でさえ、さすがに羽場さんはあれだけまっすぐな方だから犯人候補から外したくなります。そうなると氷室先生は結構怪しいんですけど、だとしたら凶器は毒でしかありません。けど、毒殺仮説はこてんぱんでしたからねえ。その上、単独犯行だとすると、今度は正義の騎士《ナイト》・羽場さんの厳しいチェックが入るのでかなり難しいですね。もっとも、たった一回の面談では断定はできませんが」
「こっちのラインもガラス張り、ですね」
「そうなんです。血液に毒を混ぜると血液の色が変わります。酸素濃度を下げても同じで、人工心肺チューブから丸見えです。たとえ目視でわからなくても術中採血サンプルの存在が足枷《あしかせ》になります。これだけの監視網をかいくぐり、果たして殺人ができるのかどうか」
そう言うと、白鳥は独り言の世界に没入していく。
「それとも、僕たちが血液解析まではしないとタカをくくつているのかなあ? いや、それはないな。もしそうなら調べれば一発でケリがつく。だとすればあそこまで落ち着き払っていられないだろうし……でも、調べちゃうぞ、とカマかけてみる価値はあるのかな……?」
語尾が陽射しの中に溶けていく。白鳥の話を聞いていると、血の通った医療現場の話というより、チェスの指し手の解説を聞かされている気分になる。俺は、自分の原初感情に立ち返る。
「犯人候補がいなくなっちゃったじゃないですか。これは本当に殺人なんですか?
私は、いまだに医療事故の可能性の方が高いと思っているんですけど」
「田口センセも、煮え切らない方ですね。ま、最終結論は桐生−鳴海ラインのオフェンシヴ・ヒヤリングの結果待ちですね。それが終わればある程度、見えてきますよ」
「お話からすると、大友さんは完全なシロのようですね」
「ほぼ百%近くシロですね。垣谷−酒井ラインと同じくらい。あ、そうか、それでも垣谷−酒井−大友というラインがつながれば、可能性は少し増えますね。花札みたいに、カス札を集めれば役がつくこともありますからね。なるほどねえ」
白鳥はしきりに自分の言葉に感心している。
「まあそれでも、カス札連合の可能性は限りなくゼロに近いでしょう。彼ら三人が誰もポロを出さない強力な動機を共有できるとは思えませんから。酒井君みたいにカッとしてすぐ手が出るタイプが共犯としてメンバーに入ってくると、それだけで命取りですし」
カス、カスという言葉が耳障りだ。俺はわずかばかりの非難を込めて白鳥に尋ねる。
「それならなぜ昨日、大友さんをあんなにいじめたんですか?」
「いじめたわけじゃありません。ほんとのことを言っただけ。少しオフェンシヴにしたのは、氷室先生のパッシヴ調査で情報を引き出すための布石です。一応、狙い通りです」
昨日ははっきり、いじめた、と言っていたくせに。それにしても殴られたり、白い目で見られることが成功なのか。これではきっと俺にはアクティヴ・フェーズの習得は不可能だ。大友さんをいじめることが氷室の引っぱり出しにつながる理屈が、俺にはどうしても理解できない。心情的耐性にも欠けるが、それ以前に理論の基礎が理解できない。
俺の逡巡におかまいなしに、白鳥はすたすた先をいく。
「このガラス張りのパズルで注意することは、共謀関係の成立という要素が強い影響力を持つ点です。そこの見極めを間違えると、推測が全部ひつくりかえってしまいます」
「どういうことですか?」
「オセロと同じです。犯人は黒。共謀関係が成立すれば相手と結ぶラインも黒です。共謀関係がなければ白。手術室という限定された空間で白であることは、黒に対する監視の増加に直結します。医療ミス、もしくは殺人という黒の行為に対し、白は阻止のための強力なチェック機能として作用します。ここは、そういうストリクトな場なんです。だからこそ、共謀関係の見極めは重要です。そのために最も効力があるのが、ダブルチーム・ヒヤリングです。この手法を適用すれば、反射消去法が極めて厳格に成立するフィールドになるんです」
俺はダフルチーム・ヒヤリングのリストを思い出してみた。酒井−大友、氷室−羽場、そして桐生−鳴海。言われてみれば共謀関係が成立しそうな組み合わせばかりだ。酒井−大友はチームの落ちこぼれ、残りの二組はこれまでに同じ業務を続けてきて、強い信頼で結ばれている。
「共謀関係をあぶり出すには、まず一人ずつ話を聞き、次に二人一緒に聞くという手法が有効です。過去に口にした言葉が互いに干渉しあい、モアレ曲線のようなひずみが見えてくる。今回ありがたかったのは、一人ずつ丹念に話を聞き取らなければならないパッシヴを、田口センセがきちんとすませて下さったことです。実は僕はここが大の苦手でして。いつもは氷姫に丸投げしているんですけど、今回はそれよりずっと出来がいい。おかげでいきなりアクティヴのダブルから入ることができたんです」
正面切って誉められると悪い気はしない。白鳥は続けた。
「田口センセ、お使いだてして申し訳ないけど、午後六時に桐生ブラザーズを病院地下の視聴覚セクションにご招待する、と伝言しておいて下さい」
白鳥は、鞄の中から黒い箱を取り出す。
「そこでは、このビデオが彼らの仮面を引きはがすことになるでしょう」
机の上に置かれたのはタイトルバックのないビデオテープだった。
「このラインは鳴海先生から崩します。弱いところから崩す、これは鉄則です。これは今日の調査のヤマ。そしてこの事件のヤマになるかも知れません」
例によって津波災害のようなウインク。
「今回は最大のヤマ場、ここをミスすれば真相は闇に姿を隠してしまうかも知れない。神経を最大限に使うから、終わった後はコーチできないと思います。ですから今ここでお伝えしておきます。アクティヴ・フェーズ極意その8.弱点を徹底的に攻めろ」
白鳥は胸を張った。
「それじゃあ、ルビコン河を渡りましょうか」
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17章
二重らせん
2月26日午後6時 地下・視聴覚セクション
午後六時。
桐生と鳴海は二人揃って、時間通りに病院地下の視聴覚セクションにやってきた。
俺は二人を迎え入れた。白鳥は三十分ほど前、ちょっと待っててね、と一言言い残して部屋を出ていったきり、戻ってこなかった。ローマ帝国軍相手にたった一人で立ち向かえ、とでも言うのだろうか。
部屋のあちこちに、生活の痕跡が残る。片隅に口が開いた赤いスーツケース、そこから溢れ出した衣類。ソファの上の毛布は、犬のプリント柄のジャージと一緒に丸めてある。机の上に積み重ねられたカップラーメンの残骸が数個。たった五日で、部屋に染みついてしまった白鳥の生活感は凄まじい。
「人を呼びつけておいて、自分は遅刻か。役人の典型だな」
綺麗な顔をして汚い言葉。鳴海のアンバランスさは俺を強く惹きつける。但し、コメント内容はとんちんかんだ。白鳥が役人の典型という評価は全くの的外れだ。そう思ってから俺は、鳴海が、まだ白鳥と接触していない事実に思い至る。
「まあ、そう言うな」
桐生がなだめる。そこへ、ドアをノックする音。足でドアを蹴っている。
扉を開けると、両手に紙袋をぶら下げた白鳥が、ドアの外に立っていた。
■白鳥ファイルG 基礎病理学教室 助教授―――――鳴海涼(37)
H 臓器統御外科ユニット 助教授――桐生恭一(42)
「や、どうもどうも、お呼び立てしたのに遅れちゃってすみませんでした。手術ビデオの再借り出しに思いのほか、時間がかかってしまいまして。どういうわけか手術室で僕の評判がめちゃくちゃ悪くなってて、なかなかビデオを貸し出してもらえなかったんです。結局、高階病院長に出張ってもらって、ようやく貸してもらえたんです」
どういうわけかって、自分がやったことを振り返れば当然の報いと考える、自己反省の思考回路は皆無なのか? 手術室に入れてもらえたこと自体が奇蹟なのに。
桐生は質問する。
「手術ビデオ? バチスタ手術のですか?」
「ええ、そうです。これが、バチスタ・ケース1から32まで。それからこっちが、バチスタ・カルテ。あ、こっちの方はちゃんと藤原さんに断わってきました」
両の手に持った紙袋を机の上にどん、どんと並べていく。
それから、脇に挟んでいた黒いビデオテープを一本、その上に放り投げた。
「そして……プラス・ワン」
桐生と鳴海は最後に投げ出された、無記名の黒い箱をいぶかしげに見つめた。
「バチスタ手術のビデオを並べて、何を始めようと言うんですか? 今さらそんなもの引っぼり出して何がわかるんです?」
桐生は感情の抑制に努めながら、冷静に質問する。
「ま、そう慌てないで。今、順番に説明しますから」
白鳥はナンバー1のビデオをデッキに挿入した。早回しで目的地点を探し出す。心臓が露出され、心筋切除寸前の場面が現れた。直後に桐生のメスがエイトビートで踊り出す。
「今のが記念すべき栄光のチーム・バチスタ第一症例。見事なメス捌きです」
「お誉めにあずかり、光栄です」
皮肉の香り漂う桐生の言葉。その語尾が消えかかる寸前、白鳥はビデオを止める。
その間、僅か三十秒。
「これは、ここまで。次はケース25。星野看護師が器械出しをした最後の症例です」
「そう、だったかな」
桐生の眉がぴくり、と動く。白鳥はビデオを入れ替える。直後に別の手術の場面が流れ始める。心筋切除寸前の場面。メスがしばらく立ち止まる。そこからおもむろに、ワルツのリズムで優雅にステップを踏み始める。
「ね、ここで休んでいます。その後さっきより丁寧になっている」
それまでの手術が急流ならば、ケース25はゆるやかな大河だ。白鳥はビデオを入れ替える。
「ケース26。大友看護師に替わって、第一例目」
明らかに、手術の流れに混乱が見て取れた。桐生のメスはあちこち寄り道し、戸惑って立ち止まる。あやういバランスのブレイクダンス。
「ひどい手際ですね。そういえば、大友君がまだ不慣れな頃でした」
「見て欲しいのはそっちじゃありませんよ。そんなコメントは、外科オンチの田口センセにでも任せておけばいい。僕が言いたいのは、桐生先生のリズムの方ですよ」
白鳥はビデオを入れ替える。
「ケース27。最初の術死症例。相変わらず手際は悪く、リズムの狂いは修正されていません」
白鳥は画面を早送りする。画面にカウンターショックの端子が映し出されるのを見て、桐生は眼を伏せる。
「義兄さん、こんな茶番につきあうことないよ」
我慢しきれずに、鳴海が言う。白鳥は一言で鳴海を切り捨てる。
「私は桐生先生にお話ししているんです」
桐生は術死第一例目のビデオを見つめていた。その視線は吟味しているわけではなく、ただ画面に向けられているだけのようだった。投げやりな横顔。
「こういう順序で出してくるということは、気がついているんですね?」
「ええ、まあ。でも多分、気がついているのは僕だけじゃありませんよ。おそらく垣谷先生も気づいているはずです」
白鳥は桐生をのぞきこみ、踏みこむ。
「問題はずばり、眼≠ナすね?」
桐生は、ふう、とため息をついて、ソファに沈み込んだ。腕を組んで、眼をつむる。そして、かすれた声で呟くように言う。
「いつ、気がついたんですか?」
「初めてバチスタ手術のビデオを見た時、です」
桐生は、眼を指で押さえた。
「ビデオ画面からだけでよくわかりましたね。お察しの通り、私の持病は狭隅角緑内障です。手術時に緊張すると頭痛に襲われる。問題は視力低下ですが、飛蚊症も出現しています。発作が強くなると、視野狭窄も併発します」
「症状は深刻そうですね。それで鳴海先生に、自分の眼の役割を振ったんですね」
「そうです。切除範囲の決定時が一番、眼に負担がかかるんです。そこから先は、眼をつむっていてもやれる自信があります。だからそこをリョウに助けてもらえば、何とか手術をやり遂げることができるんです。
ここのところ、急に症状が出てきて困っているんです。特に昨年の暮れからひどくなりました。ちょうど星野君が大友君とメンバー・チェンジした頃です」
「せっかくここまで正直に言いかけたんですから、今さらそんな小さなウソをついてはいけません。日本に来た時には、すでに緑内障の診断はついていたんでしょう?」
すかさず白鳥は、突き放すように言う。
「僕はビデオを見て、桐生先生の病状を見抜いたんじゃないんです。ビデオでは単に確認しただけです」
桐生は白鳥を見つめた。
「何を知っているんです?」
「ぜーんぶ」
鳴海の言葉が、白鳥のセリフを打ち消すようにかぶきってくる。
「義兄さん、こんなヤツに引っかけられちゃだめだ。コイツは、当てずっぽうに適当なことを言っているだけだ」
「ほんとに、そう思いますか?」
白鳥の眼が光る。鳴海は黙り込む。もう一度、桐生が尋ねる。
「どこまで知っているんです?」
「だから、全部ですってば」
ゆっくりと鳴海に視線を移す。
「チーム・パーフェクト。ミラクル・ペア・オブ・ザ・サザンクロス。キョウイチ&リョウ。そういうことも含めて、ぜーんぶ」
桐生と鳴海は顔を見合わせた。二人の視線が慌しく絡み合う。
白鳥は、ぽつんと宣告する。
「先週、僕はフロリダ・サザンクロス心臓疾患専門病院に行ってきたんです。三泊五日の強行軍でね」
部屋の中に、沈黙の分厚い緞帳が降りてくる。
しばらくして、桐生がうめくように言う。
「ミヒャエル博士に、お会いしたんですか?」
「ええ。お二人のことをとても心配していましたよ。キョウイチはまだ手術を続けているのかと、たいそう驚いていらっしゃいました」
桐生は、ふう、と大きく息をついた。
「こいつは、参った」
首を横に振る。自分を納得させるように、何度か小さくうなずく。それから諦めたように白鳥と俺を交互に見ながら、ゆっくりと話し始めた。
「フロリダにいた頃から、ずっと眼には小さな違和感がありました。タカをくくつていましたが、緑内障の診断がついた時には、もう取り返しがつかないことになってしまっていました。失明しないよう眼圧をコントロールするのが精一杯で、ミヒャエル先生から手術を止めるよう忠告されました」
俺は驚いて桐生に尋ねた。
「そんなはずないでしょう。ミヒャエル教授からアガピ君の治療依頼があったんだから」
白鳥は俺に向かって首を振る。
「ミヒャエル教授が桐生先生に依頼したのは、内科的保存療法の差配です。反米ゲリラのアガピ君は、たとえ内科療法のためでも米国で治療するわけにはいかなかった。そこで日本にいる一番弟子の桐生先生に依頼したんです。手術はミヒャエル教授の意向ではなかった。米国で対応できないことを日本で行うことは御法度です」
「その通りです。依頼を引き受けた当初は私もそのつもりでした。でもアガピ君を見ていたら、抑えていたものが吹き出してしまった。アガピ君には何の罪もない。それなのに、治療するな≠ニいうのは大国のエゴです。幸い反米ゲリラを国外退去させてしまえば、米国のメディアの関心は完全に消える。その際をついてここで手術して完治させようと考えたのです」
「それって、恩師に対する二重の裏切りですよね」
白鳥は舌鋒鋭く攻撃する。桐生は昂然と顔を上げる。
「だから何だと言うんですか。自分のメスが眼の前の少年に大いなる自由を与えることができるかも知れない、と確信している時に、医師は躊躇すべきではない。ミヒャエル教授は、きっと理解して下さるはずです」
「でも、術死は続いていた。そんな最中におけるトライは蛮勇でしょ」
「確かに私のコンディションは最悪でしたし、連続術死の最中でもありました。ただ、子供の症例では成功記録は続いていた」
「なるほど。小児例では不敗神話は継続中だったわけか……」
白鳥の呟きに、桐生はうなずいて続ける。
「そこで自分の運に賭ける気になったんです。もちろん状況は芳しくありません。そこで、高階病院長に内部監査をお願いすることで自分を崖っぷちに追いつめたのです」
マスコミ対策や国際間題だと御託を並べていた桐生。しかしその動機は極めてシンプルで、それゆえその言葉は眩しかった。
「白鳥調査官は深部の情報もお持ちらしい。私はこれからすべてご説明します」
桐生の眼は白鳥にじっと注がれた。白鳥はその視線を身体全体で受け止めていた。
「緑内障がひどくなり、ミヒャエル教授からメスを置くように勧告され、絶望して日々を過ごしていた時、東城大学から招聘がありました。私は何の根拠もなく日本に戻れば何とかなるのではないかという淡い希望を抱きました。症状は軽く、ほんの瞬間の停電のような視野の消失が時々あるくらいで、一呼吸しのげばすぐ復旧していました。実際ここまで無事だった。ところがケース25、星野君の最後の手術の最中、心筋の切除範囲を決定する場面で突然私は視力を完全に失ってしまいました」
「高度の緊張を強いられる場面で、様々な因子も作用して強い発作が誘起されてしまったんでしょうね」
桐生は眼をつむり、苦しげな表情を浮かべながら続ける。
「ええ。あの日、私の視界は突然、白く輝く闇に捕らわれてしまいました。それは真白な絶望でした。その中で私は歯車を見ました。黒々と大きな歯車が、音もなくゆっくり回っていた。外科医としての私の寿命を刻む時計の歯車が空回りしているようにも思えました。もうメスを置く、二度と握らない、だからこの症例だけは助けて欲しい。私は天に祈りました」
「その時、鳴海先生が助けてくれた……」
白鳥の言葉に桐生はうなずく。
「奇跡でした。リョウの声が心筋の切除範囲を指し示した。その途端、風に吹き消されたかのように白い闇は消え、明るい視界が戻りました。そして、天からの声が聞こえた。まだやれる、もっといける、と」
「それ以来、心筋切除範囲決定に鳴海先生の眼≠ェ必要不可欠になったんですね」
「それ以前も、手術範囲を決定する時にはディスカッションしていました。けれどもリョウの言葉なしでは手術が立ちいかなくなってしまったのはケース25以降です」
桐生と鳴海は一瞬、視線を交錯させる。
「リョウと新しい状況に対応した術式を模索しました。ところが不安定な地盤の上に、大友君の加入という不確定要素が加わり、手術は完全に私のコントロールから外れてしまった。それでも大友君が参加した第一例目、ケース26はよろめきながらも何とかゴールにたどりついた。それから必死に微調整を続けましたが二例目は駄目でした。
手術は始めからダッチロール状態でとうとう術死が起こった。それが術死第一例目、ケース27です」
桐生は俺を見た。
「田口先生には始めに申し上げましたね。手術ミスをすれば自覚できるレベルにまでたどり着いた、と。そして三例の術死にはミスの自覚が持てない、と。
あの時、私はウソをつきました。術死第一例目。あれは原因ははっきりしませんが、何らかの手術ミスによる死亡だと感じています」
「自覚していたんなら、その時にメスを置けばよかったのに」
白鳥が冷たく突き放す。桐生は白鳥を睨みつける。
「私の外来には手術の順番を待ち続けている患者が大勢いる。彼らは何ヶ月も、いや何年も待ち続けた。いろいろな施設で門前払いを喰わされて絶望の中、ようやく私の元にたどりついた。そんな人たちを前に、体調が悪くなったのでもう手術できませんと、あっさり一言えると思っているんですか。そんなことはできない」
桐生は鋭い視線を白鳥に投げかけ、言い放つ。
「患者を一人術死させたらメスを置かなければならないとしたら、この世の中からは外科医なんていなくなってしまいます」
白鳥は気圧されたように、うつむいて黙り込む。桐生は続ける。
「私も、躊躇しました。こんな悪いコンディションでメスを握ることは冒涜《ぼうとく》ではないだろうか。赦《ゆる》されることなのだろうか。私の迷いを吹き飛ばしてくれたのは、バチスタ・ケース28、榊原雄馬君のご両親でした。彼らは、どれほど私の手術を待ち望んでいたか、切々と語ってくれました。リスクを考えると夜も眠れないくらい不安になるのに、私を全面的に信頼して下さっていることが伝わってきました。それとなく転院をお勧めした時、たとえご子息が死んだとしても運命として諦めるから、どうか私にメスを執って欲しい、とまで言ってくれました。そこまで言われては、引き下がるわけにはいきません。私は手術の継続を決意しました。その後リョウと徹底的に話し合い、大友君の技術的不確定要素まで予測範囲に組み込んだ新しいバチスタ変法を編み出しました。そして私たちは勝利を収めたのです」
白鳥はビデオを入れ替える。バチスタケース28、九歳の雄鳥君。Dカルテにサンドイッチされた、チーム・バナスタの双子星。
画面に映し出されたのは、流麗さを取り戻した桐生のメスの軌跡だった。スピードこそ落ちているが、混乱の形跡は完全に消失している。
「そうなんだよね。ケース28以降の手術ビデオでは、手技は完成の領域に到達している。完成度の点だけ見れば、以前よりよっぽど高くなっている」
桐生はうなずく。
「ですから、術死二例目、ケース29が再鼓動しなかった時には本当に驚きました。そして私の中では、この術死はどこかおかしいという感覚が芽生えたんです。
けれども確かめる術も時間もないままに惰性でケース30に突入し、同様の感触の中、術死が再現されてしまった。これはどう考えてもおかしい」
白鳥の眼が冷たく桐生を射抜く。
「もっともらしいお話ですけどね。僕の耳には四人の手術に失敗したけど、誤魔化すために仕方なく一例目だけ認めてみました、みたいに聞こえちゃいますね」
「そう思われても仕方ありませんが、ビデオをご覧になったら、私の話はそれほど無茶ではないと思いませんか。その流れの中で、アガピ君の手術も成功したわけですし」
白鳥はしぶしぶ同意する。桐生は淡々と続ける。
「術式転換は、周囲に気づかれることもなくスムースにできました。みんな、大友君の不慣れな手技に目を奪われていたからです。その上、見た目には以前とスタイルが大きく変わったわけではありませんし、他の人にはわからないだろうと思っていました。ただ、垣谷先生がうすうす私の体調の異変に気づいていることは感じていました」
鳴海の役割はある時点から変質していた。垣谷はそれを桐生の体調の変化と結びつけて理解していたのだ。垣谷が俺の聞き取り調査の時に言いかけて止めたその言葉の先にあったもの、そして白鳥が垣谷に対して放った言葉の背景を、俺はようやく理解した。
「桐生先生、それでも僕は忠告します。先生は直ちにメスを置くべきだ」
白鳥が珍しく真顔で言う。
「一連の術死は、ここまでの調査では桐生先生のミスが原因だとは思えない。けれどもすべては、桐生先生の眼の状態が悪化し始めてから、起こってきたことは確かです。
先生は直ちにメスを置くべきだ。本当なら先生自身おっしゃっている通り、最初の危機を天佑で乗り越えた時にメスを置くべきだったんだ。今度の小倉さんは絶対に執刀してはいけませんよ。もし手術をしたら小倉さんはこちら側に戻ってこられない。また必ず悲劇が起こるでしょう」
桐生は白鳥を睨みつけた。視線で白鳥を焼き殺そうとしているかのようだ。桐生は満身創痍ではあったが、それでも鷹だった。一言、吐き捨てる。
「本当にそれが天意でしょうか。それで患者は救われるのですか?」
その言葉をきっかけに、桐生の背後に立っていた近衛兵、鳴海が一歩前に出る。噛みつかんばかりに白鳥を睨みつけ、満を持しての入場だ。鳴海は高慢なペルシャ猫などではなかった。もう一羽の鷹だった。桐生と対飼いの鷹。
「たとえあんたが現実を正確に理解して、それが問題だと思っていても、義兄さんと僕のチームが日本で、いや、世界中見回したってトップであることは変わらない」
白鳥はへらっと笑う。
「おめでたいなあ。そんないびつなチームが長続きすると思っているんですか?」
「どこがいびつだと言うんだ?」
「歪んだ世界の住人には、自分の歪みが見えないんです」
「俺たちは歪んでなんていない」
「眼を失いつつある外科医の指と、指を失ってしまった外科医の眼を組み合わせてやっと一人前。これが歪みでなくて、何だと言うんですか。鳴海先生、そろそろ桐生先生を解放してあげないと気の毒です」
鳴海は息を呑む。
「何が言いたい? 俺が義兄さんを縛りつけている、と言うのか?」
セリフの強さと裏腹に、鳴海の声はかすかにビブラートに震える。
「外科医としては桐生先生以上に天分があった鳴海先生が、メスを置かなければならなくなったのは本当にお気の毒だと思います。桐生先生、だからといって、先生がそこまでおつきあいする義理はないんですよ」
桐生は押し黙る。その沈黙を叩き壊すように、鳴海がわめき散らす。
「義兄さん、こんなヤツの戯言に耳を貸しちゃいけない」
白鳥は、そんな鳴海をじっと見つめる。
「鳴海先生、チームが歪んだのは、あんたのせいかも知れませんよ」
「どういうことだ? 俺が術死と関係しているとでも言うのか」
「単独では無理。でも二人が組めば不可能ではない」
桐生は、呆れ果てた、と言わんばかりの表情で白鳥を見た。鳴海は唇を蒼白にして固めた拳を震わせている。隣で俺は呆然としていた。まさか 白鳥仮説≠本人たちに伝えてしまうなんて、想像すらしていなかった。
「馬鹿げたことを」
「そうかなあ。田口仮説≠チて、そんなにめちゃくちゃかなあ」
桐生は、白鳥に注いでいた視線をくるりと反転させ、俺に向ける。
「これは、田口先生のお考えなんですか?」
俺はこれ以上振れないという限界まで強く、首を振る。それは鳴海仮説≠ナ、それを桐生兄弟に限定適用したのは、白鳥仮説≠セ。人の名を冠するなら用語は正確に使え、と怒鳴りつけたくなった。そんな俺を横目で見ながら、白鳥は続ける。
「考えてもみて下さい。何度ビデオを見直しても手技は立派な完成品、術野は見事な芸術作品です。術死症例の後半では、むしろ手技の完成度が高くなっている。あれでミスがあったとは思えない。つまりビデオの死角で何かが起こっているんです。死角で何かしようとすれば、術野外からの協力が必要になります」
白鳥の言葉に鳴海が鼻先で笑う。
「それなら容疑者は他にもいる。麻酔の氷室先生や人工心肺の羽場さんが循環血液に劇薬を混入するとか。もっともこんなことを考えること自体、馬鹿げているけどね」
「だけど、スタッフによる殺人の可能性を事前に指摘しているのは、鳴海先生だけです。その推論の飛躍の仕方は、想像豊かというよりも、まるで何かを隠すために先手を打ったみたいにも見えました。それに、氷室−羽場ラインの犯人説は、酒井先生の臨床研究によって打ち消されてしまいます」
「酒井先生の研究だって? 犬の手術がどうして関係するんだ?」
「あれえ、鳴海先生は、酒井先生のもう一つの臨床研究はご存じなかったんですか?」
白鳥が素頓狂な声を上げる。動揺した鳴海は桐生にすがりつくような視線を送る。桐生は肩をすくめる。白鳥が手短に解説する。
「酒井先生はサブで、術中の血液検査研究もやっています。術中三十分ごとに採取された血液検体は、今も酒井先生のラボに保存されています。それを調べれば氷室−羽場ラインの潔白は証明できるでしょう」
まるで自分が解き明かしたかのような得意気な表情。コイツはこれまでもこうやって、他人の知識を喰い散らかして生きてきたのではないだろうか。
蒼白になった鳴海は、弱々しく呟く。
「だとしても、それは俺や義兄さんがやったという証明にはならない」
「当たり前です」
白鳥は朗らかに言い放つ。
「だけど、疑う理由は他にもあります。手術ミスではないと言うなら、なぜ解剖をしなかったんですか?」
「心情的に頼めなかった」
桐生が小さく答える。白鳥の質問は的外れに聞こえる。ケース32、仁科さんが術死した時に、鳴海が桐生に解剖を強く勧めているのを、俺は目撃している。
「それは理解できます。心臓手術のフィールドは、医療心理が作りあげた人工的な密室ですからね。でもそれも、二人の共謀を前提にすると、別の顔が見えてくるんです。
解剖をしたら本当の死因が判明してしまうかも知れない。それは困るので二人は力を合わせ真実を隠す。解剖ができないように芝居を打つ。病理医の弟が解剖を勧める。臨床医の兄が拒否する。その理由を弟が許容してみせる。それを見た周囲の観客が納得し、共感する。こうすれば、心理的な密室の鍵を降ろすことができます」
桐生も鳴海も、言葉を失って虚ろな眼で、白鳥の唇を凝視していた。白鳥の照準は鳴海にロックされたままだ。追撃の手をゆるめない。情け容赦なく追い詰めていく。
「鳴海先生もさ、いつまでもお兄ちゃんの背中に隠れてないで表に出ておいで。男の子でしょ。さあ、自分のアンヨで歩こう。そうしないからこんなバカバカしい仮説をぶつけられちゃうんだよ」
「俺がいつ、義兄さんの後ろに隠れたって言うんだ?」
「最初からずっとそうだったでしょ。サザンクロス病院研修医の頃からずっと。しかもそれは今もちっとも変わらない」
鳴海の怒気が、すっと引いた。強がりの鎧《よろい》が引き剥がされ、おどおどした少年の顔がむきだしにされる。白鳥は続ける。
「気持ちはわかるけど、鳴海先生だってもう立派な一人前の大人なんだし、もう事件のことはすっぱり忘れて、一歩前に踏み出さなくちゃね」
「な、何を言っているんだ」
なじろうとしても、力がどこかに空いた小さな穴から漏れ出していってしまうかのようだ。鳴海はがくりと膝を祈り、桐生の隣に沈み込んだ。
「依存しあうマイナスのスパイラルは、どこかで断ち切らなければ未来はありません。お二人には、今こそ外科手術が必要なんです」
おもむろに白鳥は、タイトルバックのないビデオテープをデッキに差し込む。デッキが静かなうなり声をあげ始める。
粒子の粗い画面。光と闇の土砂降り。しばらくしてモノクロの画面が現れる。かなり古い画面のようだ。投げやりな視線を投げかけていた桐生が、突然、眼を見開く。その気配につられ、うなだれていた鳴海が顔を上げた。鳴海が、糸の切れた操り人形の画面を逆回ししたように、音もなく立ち上がる。
「まさか……」
交代するように、白鳥がソファに腰を下ろす。指を組み、口の前に当てる。
画面からは、とぎれとぎれの声が聞こえる。英語だ。ノイズが強い。キョウ、そしてリョウという聞き慣れた音のかけらが、海鳴りのように耳に残る。
真黒な画面。よく見ると、モノクロの血の海だ。背景の叫び声が次第に大きくなる。
〈……|クランプ《止 血》・オーケー、|ストップ・イット《止 血 完 了》〉
黒い画面の闇夜に時おり、メスやピンセットが稲妻のように白く光る。
どうやら胸部外傷、心臓破裂の緊急手術のようだ。隣で、桐生兄弟が画面を喰い破らんばかりに凝視している。呪縛されているかのように、二人とも微動だにしない。
画面が大きく乱れ、怒声が溢れ出す。
〈ヘイ、ストップ、キョウイチ、ストップ、ノオ!〉
絶叫。一瞬の静寂。別の声が響く。どこかで聞いた声。
〈ノオ、リョウ、ノオ!〉
「ノオ!……もうやめてくれ!」
ビデオの声は時空を越えて、現在の桐生の叫び声とシンクロした……声紋一致。
画面を所せましと踊っていた複数の指と、光の軌跡を引いたメスやペアンは、いつの間にか退場していた。一本だけ取り残されたメスが、画面の隅で白く光り続ける。画面はしばらく黒い拍動を映し続け、闇にフェイドアウトした。
視線を移すとそこには、頭を抱えて動かなくなってしまった桐生と、声もなく涙を流す鳴海が残されていた。
白鳥がスイッチを切った。画面の黒い光は白く小さな輝点に収束し、吹き消された。
放心した視線を白鳥に向け、桐生が呟く。
「よくもまあ、堅物のミヒャエル教授が、こんなビデオの貸し出しを許可したものだ」
「キョウイチとリョウの精神的問題を解決するためだ、と言ったらすぐ理解してもらえました。ミヒャエル先生は本当にお二人のことを心配しておられました」
「あれは不幸な事故だった。誰が悪いわけでもない。交通事故の多発外傷手術に兄弟揃って呼び出された瞬間から、不幸の連鎖が始まったのかも知れない」
「胸腹部の同時緊急手術という狭い術野で、二つの外科チームが同時に稼働していたから、ずいぶん混乱していたらしいですね」
「出血の海の中で、まさか私が私自身のメスでリョウの右手の腱を切ってしまうなんて、想像もしなかった」
「サザンクロスのミラクル・ツートップ、チーム・パーフェクトでしたからね」
桐生はうなずく。
「リョウを心臓外科にひっぼったのは私です。私の眼力は確かでした。リョウの天分は私を遥かに凌駕していた。一目瞭然でした。私は、自分の技術をリョウに叩き込み、二人で外科のてっぺんを目指そうとわくわくしていた。術者のリョウを私が前立ちしてサポートする最強の外科チーム。私はまだ見ぬ未来を確信していました」
「きっと凄いチームができたでしょうね」
桐生は淋しげに笑う。
「腱をメスで切ったくらいなら、普通は完治します。サザンクロス病院には優秀なマイクロ・サージェリー(微細手術外科医)もいました。だから私は、怪我直後は全然心配していなかった。当然手術は成功し、リョウの指は日常生活に全く支障がなく回復しました。けれどもその指は、以前のようには動かなくなっていた。繊細な動きを要請される場面になると、凍りついたように動きを止めてしまう」
桐生は天を仰いで、続ける。
「リョウの指が元に戻らない原因に対し、サザンクロス病院の総力をあげた調査が行われました。心因性。神経の問題。整形外科的な観点。あらゆる検査が行われましたが、結論は出なかった。でも、そんなことはもうどうでもよかった。私たちにはわかっていた。たとえ原因が判明しても、リョウの指は二度と元には戻らないことが」
鳴海はソファに座り込んだ。桐生は静かな表情で鳴海を見守る。
「妻は私を責めました。当然です。リョウにむりやり外科を選択させ夢を見させた挙句、それをとりあげたわけですから。これほど残酷な行為はない。その諍《いさか》いは、ふとしたはずみに一線を越え、二人の関係に致命的な打撃を加えました。
しばらくしてリョウは、病理学に興味を移した。人並み以上の業績もあげた。けれどもリョウの心は手術室に残されたままで、それは今も変わらないのです」
桐生は鳴海を見つめた。
「輝かしい天分というものはきっと、壊れやすい硝子細工のようなものなのでしょう。その才能は傷つく前のリョウの肉体の中でだけ、かろうじてバランスをとって存在できたのかも知れません。あの時私はそれを滅茶苦茶に壊してしまった。どうしようもない凡人の私が、天賦の才を地に叩き堕としてしまったんです」
桐生は一息つくと、眼をつむる。
「私は自分が、外科医としてのピークを終えつつあることを感じていました。私ひとりの身ならばとっくにメスを置いていた。けれどもそれはできませんでした。私の身体はもう、私ひとりのものではなくなっていた。リョウの身代わりとして、リョウの視線にいつもせき立てられていた。リョウは私の手術を身体で反芻している。私にはわかる。リョウはとっくに私を凌駕した。もっといける。僕ならもっといく。℃рフ中でリョウの声が響きます。その声に従い死に物狂いで突き進んでいたら、いつの問にか周りには誰もいなくなっていた。私は自分一人では到達できなかった山頂にあと少しでたどりつけるところにまで来ていました。眼の前にはもうリョウの背中しか見えない。私はやっとリョウに追いついたんです」
「義兄さん……」
鳴海が桐生を見つめる。桐生は優しい眼を再び開き、その視線に応える。
「けれども私たちには、肝心のところでいつも邪魔が入るんです。今度は私の番でした。私の眼が緑の悪魔に襲われ、宣告を受けた私は、今度こそメスを置くしかないと覚悟しました。そんな時、高階先生からの招聘があったのです。まるで、天が私を惑わしているかのようでした。私の中でくすぶっていた未練に灯がともりました。ミヒャエル教授に対しては、日本では後進の育成に力を注ぐので、決して手術はしない、というウソをつき、推薦状を書いてもらいました。
日本に戻るとすぐに私は、スタッフを選択しました。弱点を補強するチームを作るつもりでした。そしてそれは実にうまくいった。チーム・バチスタとは、私の欠点を埋めることを第一に考えて作られた、特殊チームです。
特に星野君を得たことは望外の幸運でした。彼女は素晴らしかった。手術室では新人同然、素質だけが輝き、医療常識には欠けていた。私が必要とした白紙の素材そのものでした。私は、自分の視野が時々失われることを前提にして組み立てた術式と対応する器械出し技術を、あたかも外科の標準手技であるかのように、一から彼女に教え込みました。こうしてチーム・バチスタは、栄光の船出を果たしたのです」
桐生は遠い眼をして、まだ見ぬ水平線に眼を凝らす。
「ところがまたしても天は、私たちから大切なものを奪います。
星野君の結婚退職が決まって、すべてが崩れ始めました。星野君の代役の大友君は優秀です。優秀すぎるくらいです。知識が豊富なので、私の独特の注文が、理屈に合わない妙なものであることにきっと気づいてしまう。そしてそれが標準的でないことにも。やり方を分析し、私が爆弾を抱えていることを見抜くかも知れない。だから大友君には、私の手術に対する特殊条件を十分伝えられなかった。その結果、外部から見ると彼女がベテランらしからぬ初歩的なミスをしているように見えたのです」
大友さんの技術は低くない、という言葉の真意はそういう意味だったのか。それでも、チーム・バチスタ崩壊の直接の引き金を引いたのは、やはり大友さんだった。彼女は直感的に、問題の本質を言い当てていたのだ。但しそれは彼女の罪ではなかったのだが。
「そんな中、怖れていた術死が起こってしまいました。術死一例目は先ほども申し上げた通り、私の体調悪化とメンバーチェンジによる不協和音により、チームの総合技術力の低下がもたらした術死だと直感しました。メスを置こう、と思いました。ですがリョウは自分がより高次元で関与すればまだいける、と言うのです。そして実際、その通りでした。私たちは再び新しい水平線を手に入れたように感じた。ところがそれにも拘わらず、術死に歯止めがかからなかった。
実は、術死二例目以降の症例には、自分がミスをしたという感覚が本当にないのです。この考えを前提に思考展開するとどこかで破綻する。どこに問題があるかはわからない。でも論理は完成しない。明らかに、私の技術以外の要素が混入している。この仮説は正しいと思います。アガピ君の手術は成功したのですから」
一気に語り終え、桐生は大きくため息をついた。
「なるほど、お話のつじつまは合いますね」
白鳥が呟く。
「かといって、それだけでは、お二人が故意に術死を起こしたという疑惑は、完全には否定できませんよ」
「さっきから何を言っているんだ。俺たちがそんなことをするはず、ないじゃないか」
鳴海が息を吹き返す。今にも白鳥に殴りかからんばかりだ。白鳥は鳴海を見つめる。
「言い繕うだけなら、どんなことだってできます。何しろあなた方には、人殺しの経験があるんですから。こうしたことに対して、精神的な耐性があるんです」
桐生の眼に妖しい光が灯る。白鳥に向かって吐き捨てる。
「私たちが人殺しだって? 何を言う。馬鹿な」
「だってフロリダでも、術死は経験したんでしょ7 日分のメスが患者の命を奪ったことがある、と田口センセに言ってたじゃないですか。それって結局、人殺しをしたという告白でしょ?」
白鳥は一言で桐生を切って落とす。桐生が怒りに燃えた眼で白鳥を焼き尽くそうとする。白鳥は委細構わず、平然と続ける。
「それにさ、桐生先生の言葉を分析すると、子供を救いたいというモチベーションは高そうだけど、普通の大人に対してはどうなのかな。気が乗らないついでにもう一歩進めて、自分が限界だというメッセージを成人の手術を失敗することで鳴海先生に伝えたかったんじゃないんですか?」
「何てことを……」
桐生の言葉の語尾が掠《かす》れる。情け容赦なきロジカル・モンスターの降臨。
俺は白鳥を睨みつける。腹の底からわきあがる怒り。それがそのまま口を衝く。
「人は論理だけで生きているわけじゃない。いくら何でも言いすぎだ」
白鳥は俺をちらりと見てから、桐生に視線を集中する。
「桐生先生なら大丈夫。この世には限界領域を越えた時に初めて見えてくる風景がある。その世界を知っている人なら、僕の言葉はきちんと届く。ね、桐生先生。先生はわかってますよね」
白鳥は強い視線と断定的な言葉でとどめを刺す。押し黙る桐生。返す視線を鳴海に移す。
「鳴海先生は田口センセに言ってましたね、スタッフ犯人説の弱点は動機がない点だ、と」
鳴海は虚を衝かれ、動きを止める。震える声で答える。
「ああ、言ったさ」
「ここに立派な動機があるじゃないですか。メスを持つ資格を失くしてしまったことを自覚しながら、メスを置く決断ができない優柔不断な外科医。手術に直面すると手が震えてしまう臆病者のくせに、手術に対する未練を断ち切ることができない研究者。自分たちの幕を引けない中途半端な兄弟が、過去の栄光にしがみつき続けようとして、故意か偶然か、医療ミスもしくは殺人を繰り返す」
鳴海が反射的に言い返す。
「そんな動機、あり得ないだろ」
「兄ちゃんは弟のお守りに疲れちゃって、一緒に登っていくのをやめたくなっているのかもよ」
「バカなことを言うな。お前さえいなければ、僕と義兄さんはまだまだ登っていけるんだ。お前さえ、いなければ」
鳴海の瞳に、抑えきれない憎悪の炎が再点火する。停止していた腕がはじけるように動作を再開する。拳の動きは鈍く、俺の動体視力でもはっきり捉えられた。
スローモーションのようなその拳を、白鳥は右頬で受け止めた。
鈍い音。
唇を小さく切る。流血。
「桐生さん、あなたは今すぐチーム・バチスタを解散させるべきだ」
白鳥が、流れ出た血と一緒に吐き捨てた一言で、二枚の鏡が合わせられた。華やかな音と共に、合わせ鏡が砕け散る。
風切羽を叩き折られた対飼いの鷹は地に墜ちた。
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18章
発作
2月27日水曜日 午前11時 桜宮海岸通り公園
翌朝。疲れが抜けない重い身体をひきずり、俺は病院に向かう。
昨晩のオフェンシヴ・ヒヤリングの後、白鳥は、明日は休みますから、と言い残して姿を消した。国会図書館で調べものをしたいらしい。つまり白鳥のアシスタントという役割は今日はお休み。今週は愚痴外来も休診なので、病院にいても俺にやることはなかった。今日の俺は任務がなく、全くのフリーだ。
十時。患者のいない外来に座り続けるのも退屈だ。俺は藤原さんに留守番を頼んで外出することにした。少し遠出して、海岸近くの公園まで散歩しよう。ゆっくり歩いて小一時間。久しぶりに海沿いのシーフード・レストランでランチでも食べようか。
こんな日は、心と身体を休めることが最優先だ。
公園のベンチに腰を下ろし三文小説を読む。強い海風が早く頁《ページ》をめくれ、とせかす。
と、携帯が鳴った。白鳥だった。
「伝言を頼もうとしたら、直接携帯にかけなさいと言われたもので」
街の雑踏か、背後の雑音が強い。受話器の向こう側でも風が強そうだ。
「愚痴外来を休診にされてしまったので、やることがなくて海辺を散歩してるんです」
つっこまれる前に、カミング・アウトした。
「優雅なご身分ですねえ」
白鳥が羨ましそうに言う。コイツにだけは死んでも言われたくないセリフ。こうなったのも半分以上はコイツのせいだというのに、よくもまあ、しゃあしゃあと。コイツには、自分が他人に迷惑をかけ、振り回しているという自覚はないのだろうか?
白鳥は俺の不快さを感じ取ることなく続ける。
「ちょっと確認。小倉さんの手術予定は明日でしたよね?」
「そうですが、それが何か?」
「ああ、よかった。それなら何とかなりそうだ。ここんとこ時差ボケと泊まり込みの連続で、曜日感覚がめちゃくちゃなんです。いい加減に少しは役所に顔出ししないと、いくら僕でもさすがに少々ヤバいですし。念のため言いますけど、今日は絶対手術しちゃ駄目ですよ」
「予定は明日だし、今日は今日で手術室は予定で満杯ですよ」
「それならいいですけど。何となくイヤな予感がしたもので」
それから白鳥は、急に声をひそめる。
「実は、犯人の尻尾を掴みました」
俺は、思わず裏返った声を出す。
「犯人、わかったんですか?」
「たぶん……」
俺は驚いた。確かに白鳥は、桐生兄弟のオフエンシヴ後に見当がつく、と言ってはいたが。夕べの調査で、何かを確信したのだろうか。まさか、国会図書館に証拠があったわけでもあるまいし……。
どうやら白鳥の頭の中では、俺には見当もつかないロジックが展開されていることだけは確かなようだ。おそるおそる、尋ねる。
「誰なんですか、犯人は?」
受話器の向こう側に、白鳥のためらいが感じられた。聞こえてきた言葉は、いつもの白鳥らしからぬ、歯切れの悪いものだった。
「今、ここでは言えません。明日、手術の時にはっきりできると思います。けれども、ひとつタイミングを間違えると、とんでもないことになる。そいつの首根っこを押さえるのは、とても難儀なんです」
「ということは、明日の手術で犯人はまたやる、とでも言うのですか? 疑惑の眼で見られている真只中に?」
「ええ。相手は自信家のエゴイストですから。それにハナがいい。だから田口センセに疑惑を伝えただけで、気配を感じ取ってしまうかも知れません。だから、まだ秘密」
白鳥にしては珍しく、自信なさそうな声音が続いた。
「白状すると、言えない理由はそれだけじゃないんです。僕は今、三重苦でしてね。一つ目は、本当にそいつが犯人なのか、まだ完全に断定できない。二つ目は、殺し方の予測はついたが、外れているかも知れない。三つ目は、犯人も殺し方も当たっているかも知れないけれども、それでもそいつを押さえられるかどうか、自信がない」
受話器の向こうでブザー音。
「十円玉がなくなったから、切ります。夕方には戻ります。詳しい話はその時また。じゃ、そういうことで、ひとつよろしく」
今の時代、公衆電話から電話するヤツがまだいたのか。白鳥と話をした余波か、続きを読む気が失せる。本を閉じ、ベンチに放り出す。強い風が頁をめくりあげる。
ひょっとしたら春一番かも知れない、とふと思う。
心地よい陽射し、風は強いが冷たくはない。手許にはたっぷりとした時間。俺はここ数日で見聞きした情報を整理し、一から組み立て直してみる。
もしも白鳥が言う通り、内部で殺人が行われているとしたなら、それはまるで硝子のショーケースに飾られた宝冠を、衆人環視の中で盗み出すようなものだ。まず視線の監視網。術者レベルがトリプル、看護師の視線がダブルかそれ以上、体外循環プラス麻酔関連がダブル、術野の外部から降り注ぐ不特定多数の視線。そのうちの一つはかつての天才外科医の眼。さらにビデオ監視。麻酔記録と看護記録の檻。挙げ句の果てに体内血液情報まで経時的にモニターされている。
どうすれば、こんな多重監視網をくぐり抜けられるのだろう。患者の命だけ奪い取り、痕跡も残さずに消え去ってしまう。そんなこと、マジシャンだってできはしない。
そこまで考えて、俺はこの包囲網が外部者である自分が犯行を行う視点で考えていることに気づいて苦笑する。犯人は硝子の檻の内部にいるわけだから、この多重監視網は、実際は犯人本人の監視力をマイナスして考えなければならない。そうすると、監視網として強力なパワーを持つ人物が最も怪しいと考えるのが合理的だ。この場で最も疑わしいのは、言わずと知れた桐生、あるいは桐生ブラザーズだ。
白鳥の複数共謀説は、監視網の一部が無力化できるので確率が高くなる。だが動機を共有しなければならないので、別のリスクが増える。他の人たちを含めて、白鳥のアクティヴ・フェーズで揺さぶられても破綻の兆しがないのなら、それは複数共謀説が存在しないことの間接的で強力な証明ではないだろうか。但しこの点に関しても、桐生ブラザーズの絆なら易々と突破できるだろう。複数共謀説におけるメリットとデメリットの加減乗除で最大数を得るのは、やはり桐生ブラザーズだ。
そこまで考えて、俺はふと重要なことに思い至る。桐生は必ずしも鳴海とペアになる必要はない。鳴海の視線が途切れるピリオドがあるからだ。それは検体が出た後の三十分程度、鳴海が検体の病理検索を行っている時間帯。
俺は雷に打たれたような衝撃を覚えた。その時間帯は心臓の再建手技の真最中で、ひとつ間違えば心臓が再鼓動しなくなる要素が満ち溢れている。その一番重要な場面で、桐生は最も怖れなければならない視線の監視から解放されている。
何てことだ。桐生にとってガラスの檻は、檻として機能していなかったのだ。もう一つ、重要なことに気がつく。
ひょっとして、ビデオだけでしか手術を見ていない白鳥にとって、このことは盲点なのではないか。
昨晩の聞き取りを終えた後で、犯人のメドがついたと白鳥が言うならば、それは桐生だと言っているのに等しいように思えた。しかも今、俺が気がついた可能性は、その仮説を強力に支持する。自信家でエゴイスト、ハナがいいと言う白鳥の肖像画は、桐生にぴったりあてはまる。
しかし、と俺はためらう。桐生のことを知る俺にとって、それはどうにも信じ難い仮説だ。小さな疑念が俺のためらいを後押しする。もし桐生が犯人なら、昨晩あそこまで追いつめられれば二度と白鳥の目前で凶行を行わないだろう。でもそれは桐生に限ったことではなく、犯人候補全員に言えることだ。そして白鳥の聞き取りを傍聴していれば、ヤツがほとんど全員に犯人疑惑を持っているかのように振る舞っている。
一体、白鳥は誰を犯人と見抜いたのか?
こうして俺は堂々巡りの原点に立ち戻る。幾度、この地を訪れたことだろう。
本当に、これは殺人なのだろうか?
うとうとと俺はまどろんでいた。陽射しが暖かい。海風に春の匂いが混じる。
携帯の呼び出し音。うっとうしいヤツ。今度は何事だ。
白鳥と決めてかかって電話に出ると、藤原さんの慌てた声が聞こえてきた。
「酒井先生から連絡です。小倉さん、緊急手術だそうです」
いっぺんに目が覚めた。明日手術予定のバチスタ・ケース33、小倉さん。発作だ。
「すぐ戻ります」
白鳥の悪い予感が的中した。大通りに向かって駆け出しながら、携帯で手術室の酒井を呼び出す。遠くからばたばたとスリッパの音が近づいてきて、酒井の声がとび込んできた。
「あ、田口先生でしたか。小倉さんが例の発作を起こしたんです。今から緊急手術になります。さっき入室したばかりで、氷室先生がエピドラ(硬膜外麻酔)を入れている最中です」
「白鳥が、今日は絶対手術しないようにと、念を押していたんだ」
「そんなの無理です。発作ですから。たかが小役人に手術を止める権限はありません」
白鳥にあからさまな敵意を抱く酒井が、聞く耳を持つはずもない。どうやら桐生はまだ手術室に到着していないようだ。
「とにかく執刀は待ってくれ。十分以内にそっちに戻るから」
受話器に言い残し、俺はタクシーに向かって手を振った。
タクシーの車中で国会図書館と合同庁舎の電話番号を調べる。
国会図書館は個人呼び出しには対応しませんと断られる。運を天に任せ、厚生労働省の合同庁舎のダイヤルを押す。たまごっち持つくらいなら、携帯電話持てよ。
たらい回しされ、胡散《うさん》臭そうな身分照会のハードルをいくつか突破、ようやくスターリー・ナイトという食堂の厨房にたどりつく。電話をとったのはシェフのようだ。田口さんって人からゴキちゃんに電話、と遠くに呼びかける声。なんだ、そこでもゴキブリだと思われていたのか。気を遣って損した。何だよもう、こんなとこまで。遠くでぶつぶつ声がした。ばたばたと足音。やがて、のんびりした白鳥の声が受話器から聞こえてきた。
「どしたの一体?」
「小倉さんが緊急手術になった」
白鳥が息を呑む。声が裏返り、暴発する。受話器の向こうの貧乏揺すり。
「ダメだよ。絶対止めろ。さっき念押ししたばかりじゃないか。一体何してたんだよ」
「こっちだってたった今、連絡を受けたばかりなんだ」
白鳥は絶句した。だがそれは一瞬だった。次の瞬間、思い直したように、矢のような指示を飛ばす。
「田口先生、手術を止めて。どんな手を使っても構わないから。責任は僕がとる。手術を止めたら、その後は手術室から誰も一歩も外に出すな。それから万が一の時のために、高階先生を控え室に待機させておいて」
無茶な注文のオンパレード。業務量の多さに気が遠くなりそうだ。
「あんたはどうする?」
「タクシーで直行する。タクシー券なら腐るほど持ってるから。一時間でそっちにいく。とにかく心臓を止めさせるな。もう一つ、注意しなければならないのは……」
白鳥の言葉を最後まで聞き取ることができなかった。タクシーが病院のエントランスに滑り込むと、電波状態が不安定になり尻切れトンボで通話が切れてしまったのだ。
タクシー停止。自動ドアが開く。運転手に札を投げ出し、手術室に駆け出した。
手術室のドアが開ききるのを待ちきれず、細い隙間に身体をねじ込む。
部屋に飛び込むと、無影灯に照らし出された桐生が、今まさにメスを真一文字に振り下ろそうとしていた。
「桐生先生、待って下さい」
息せき切って言う。桐生のメスが止まった。俺を見る。俺はもう一度繰り返す。
「執刀は待って下さい」
「なぜ?」
乱れた息を整え、一言告げる。
「白鳥調査官からの指示です」
白鳥の名前に、第一手術室がさわめく。桐生は眼をつむり、探々と息を吐く。ゆっくり眼を開き、視線を俺に振り向ける。低く豊かなバリトンが手術室に響く。心に染み入る声。
「たとえ昨日の話が真実だとしても、私には小倉さんの心臓を切る力は残されている。白鳥調査官にも田口先生にも、私の手術を中止させる権限はない。この位置についた以上、術者の私がすべてを決定する。今すぐ手術しないと、小倉さんの命は危ない」
桐生の眼が優しく緩む。
「田口先生、信じて下さい。私は患者を救うためだけにメスを握ってきた。これまでも、そしてこれからもずっと。それだけは、誰が何と言おうと変わらない」
地獄を司る魔王のように、桐生はおごそかに言い放つと、メスを一気に振り下ろす。
俺は眼をつむった。
結局、俺には何もできなかった。
心停止液注入、上行大動脈クランプ。心臓停止。心臓が心細げに小さな震えの中で縮こまる。患者の魂は地獄の門のたもとにしゃがみ込む。
手術室の空気が揺れた。顔を上げると、鳴海が覚束《おぼつか》ない足取りで入室してきた。よろけながら必死に術野の高みにたどりつこうとする。昨晩のダメージから立ち直っていないことが一目で見て取れた。
桐生は、鳴海が定位置につくのを待つ。確認し、眼を閉じる。鳴海は俺を見た。それからおずおず心臓に視線を移す。長い沈黙。他のスタッフがいぶかしげに鳴海を見上げる。
鳴海は桐生を見る。桐生は固く眼を閉じ、動きを止めている。
桐生は、天声が降りてくるのを、待っている。ただひたすら待ち続けている。その沈黙が、鳴海の中に少しずつ生気を吹きこむ。
鳴海は蘇生した。徐々に視線の光が増す。息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。
「左心室側壁四十%、前下行枝領域十%の合併切除」
桐生は眼を見開いた。一瞬、鳴海と桐生の視線が交錯した。
「オーケー、いくぞ」
桐生のメスは光の尾を引いて、眼下の心臓に切り込んでいった。
桐生の手技は、いつにも増して華麗だった。障害を抱えている気配を微塵も感じさせない。メスは一切の無駄を廃し、流麗に動いた。圧倒的な技量に、俺は魅入られ縛りつけられていた。余計なことは一切考えられなかった。光の軌跡の残像に見とれ、酔いしれた。
俺は確信した。桐生は、メスを置くことを決意している。
「検体が出るぞ」
桐生が眼を上げ、鳴海を見つめた。
鳴海がうなずく。彼が部屋を出て行くのを見送った後で、俺は誰も部屋から出すな≠ニいう白鳥の指令を思い出す。
すべては、もう遅い。
入れ違いに白鳥が入室してきた。冷やかな眼で俺を見て、肩をすくめてみせる。俺の隣にすり寄って、ひそひそ声で確認する。
「鳴海先生が出ていったみたいですね。ということは、心筋切除は終わっちゃったんですね」
白鳥の声に、術野がざわめく。俺はうなずく。
「部屋を出入りしたのは、鳴海先生だけでしょうね」
もう一度俺はうなずく。
「今さら何を言っても仕方がないです。ただし今からは、この部屋から誰も出ないようにしてもらいましょう」
「もうすぐ手術は終わる。そうしたら、好きなだけ命令すればいい」
桐生は縫合の手を休めることもなく答えた。白鳥が投げやりに呟く。
「それじゃあ遅いんだ。もうすぐ、すべてがはっきりするさ」
人工心肺のモーター音が静かに響いていた。
鳴海が戻ってきた。白鳥の姿を見つけて、ぎょっとして足を止めた。白鳥を見ないようにして術野に近づき、桐生に言った。
「マージン(境界)はオーケー、パーフェクトだったよ、義兄さん」
桐生が眼で笑った。
手術は淡々と進行していく。俺も白鳥も、桐生の最後の舞台を眼に焼きつけるかのように、凝視し続けた。正確に言うと、贅肉の削ぎ落とされた動作の、つきつめられた美しさに魅せられて、視線を外すことができなかったのだ。
やがて桐生は、動きを止めた。術野に眼を落とし続けていた顔を上げると、白鳥と俺を見た。そして自分が支配していた空間に向けて、おごそかに宣言する。
「縫合終了」
「|Bravo!《ブラヴォー》」
小さく呟く白鳥。その言葉を耳にして、桐生の眼がわずかに緩む。
「氷室君、羽場君、再環流に入る」
二人がうなずく。
クランプが解除され、心臓への血液の供給が再開する。数分で拍動が再開されるはずだ。そう、そのはずだった。
どこかで見た光景。デジャ・ヴュ。
「体温は」
「三十六度に復旧しています。三分経過」
拍動のない血流が、単調に体内を循環している。
苛立ちと同時に、すべて予期し諦めきっているかのように、桐生が言う。
「氷室君、強心剤を」
「強心剤、ワンショット注入しました」
繰り返される光景。デジャ・ヴュ。
人工心肺の単調なモーター音。時計の秒針が数周するのを待って、桐生が言う。
「カウンターショックの準備」
デジャ・ヴュ。
「その必要はない」
白鳥の声が響く。どこかで見た風景の繰り返しが、グラスのように砕け散った。
デジャ・ヴュの印象画が、砕けた。
桐生が顔を上げる。白鳥は言う。
「小倉さんは、もうこっちには戻れません。心臓を止めた瞬間にすべては終わったんです」
「今日の手術はパーフェクトだった」
崩れ落ちそうになる身体をかろうじて支え、桐生が声を絞り出す。
「生まれて初めて、パーフェクトと言うことができるオペだった……」
「素晴らしい手術でした」
「だったら、なぜ?」
「仕方ないんです。すべては終わってしまったんですよ、桐生先生」
単調なモーター音。心臓はぴくりともしない。
「カウンターショック、しないと」
氷室が術野に向かって声をかける。桐生がうつろな眼で氷室を見る。桐生の中に巣喰う、深く白い闇が手術室を浸食していく。白鳥が未練を断ち切る。
「無駄ですってば」
「どうしろって言うんだ。どうすればいいんだ」
鳴海がうめく。
「解剖をお願いして下さい」
白鳥が言った。即座に鳴海が答える。
「それは無理だ。その意見には賛成したいけど、やっぱり不可能だ」
「確かに解剖は難しいです。でもエー・アイ(Ai)ではっきりします」
「エー・アイ(Ai)?」
怪訝そうな視線が、一斉に白鳥に集中した。
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19章
オートプシー・イメージング(Ai)
2月27日水曜日 午後3時 2F・MRI画像診断室
「そう、オートプシー・イメージングの頭文字をとって、エー・アイ(Ai)。オートプシーは剖検。イメージングは画像診断。直訳すると剖検画像」
「死亡時画像病理診断……」
鳴海が呟く。白鳥が語尾を引き取る。
「ご存じでしたか」
「一体何なんだ、オートプシー・イメージングって」
桐生が尋ねる。白鳥が答える。
「オートプシー・イメージングは死体に対する画像診断です。ですから遺体を傷つけません。解剖よりも承諾をもらうのは簡単です。もしオートプシー・イメージングで所見が見つかれば、その時には改めて解剖をお願いもできます。解剖と並ぶ、死亡時医学検索の一つ。一般化していませんが、死体を画像診断すれば、身体の表面から観察する検視よりもいろいろわかるなんて、素人だってわかるでしょ」
「そんな検査、聞いたことがない。施行して大丈夫なのか?」
桐生の問いに、鳴海が答える。
「法律上は問題ないと言われているはず」
「病理学会でも認められています。わが厚生労働省のお墨付きもある。心配ないです」
白鳥が付け加える。羽場が苛立ったように白鳥に噛みつく。
「死体を、普通の人が診断される機械で撮影するなんて不見識だ」
「解剖するかしないかの重要な判断材料です。死んだとたん、患者をモノ扱いするんですか?」
白鳥が羽場の言葉を反射的に打ち返す。羽場は虚を衝かれたように日を見開く。桐生が尋ねる。
「放射線技師長が何と言うか」
「それは高階病院長にお願いしてあります」
白鳥は、外回りの看護師を呼びつける。
「高階病院長がカンファレンスルームにいらっしゃるから、お呼びしてきて」
張りつめた空気からはじき出されるように、看護師はドアの外に飛び出した。
蒼白な顔をして、高階病院長が入ってきた。
「桐生君、一体何が起こったんですか?」
「申し訳ありません。私にも何が何だか、さっぱりわからないんです」
白鳥が口を挟む。
「高階先生、桐生先生を問いつめても、何も出てきませんよ。今、何よりも大切なことは、死亡時医学検索を行うことです。技師長は説得してくれましたか?」
「先ほど頼まれた通り、放射線科の新垣教授と井川技師長には死体画像撮影を行う特別オーダーをしました。画像診断セクションのフロアの人払いもお願いしてあります」
「今回はMRI(磁気共鳴画像)だけで十分でしょう」
「待ってくれ。まだ術死と決まったわけではない」
桐生が叫ぶ。
「桐生先生、おわかりのはずです。これ以上、頑張っても無駄なんです」
引導を渡すように、白鳥がぴしゃりと言った。
やり取りを聞いていた高階病院長が決断する。
「桐生君、諦めよう。ここは、白鳥君の言葉を信じてみよう」
桐生は、つっかえ棒が外れたように、膝から崩れ落ちる。
魂が抜けたようになってしまった桐生に代わり、垣谷の指示により人工心肺が止められた。垣谷と酒井の手で術創が縫合されていく。
第一手術室には白鳥の指示する声だけが響いている。
「MRIを撮影しますから、縫合には金具を使わないで下さい。高階先生は小倉さんのご家族からオートプシー・イメージングの承諾をもらって下さい。氷室先生と羽場さんは遺体搬送。汚染防止のため滅菌布で遺体をくるんで。他の人は、遺体と一緒に画像診断セクションへ移動して下さい」
氷室は、何か言いたげに白鳥を見た。だが何も言わずにそのまま視線を落とし抜管、それから点滴ライン抜去を始めた。いつもと異なる空気の中で、手術室は活動を再開した。その中で、桐生と鳴海だけが彫像のように動かない。
「あの、私も一緒にいかなければいけませんか?」
おずおずと、大友看護師が質問する。瞬間、白鳥は自分の身体を激しく揺する。
「ちゃんと人の話を開いててね。全員って言ったでしょ? いいかい、この中に人殺しがいるかも知れないんだ。画像診断室にいく間にフケたりしたら、その時は容疑者として拘束するからね」
白鳥の脅し文句に、大友さんは眼を見開いた。周りでスタッフが凍りつく。
白鳥と大友さんは、とことん相性が悪いらしい。
滅菌布にくるまれた遺体が、人垣に包まれて葬列のように進む。遺体を囲む人たちは、さっきの白鳥の「人殺し」という言葉に呪縛され、感情を喪失している。
からからと乾いた車輪音を響かせて、ストレッチャーは進む。
白鳥が俺にすり寄ってきて、皆に聞こえるように大声で話しかける。
「田口センセ、誰かがこの集団を離れようとしたら、一緒についていって下さい。絶対、一人きりにはしないようにね」
俺は小さくうなずく。酒井がおびえたように俺を見る。
普段なら患者やスタッフで混み合う画像診断セクションだが、今は人影がない。廃墟に生き残った井川技師長と数人の技師が、物言わぬストレッチャーを出迎える。
高階病院長が、駆け足で葬列に追いついてくる。
「エー・アイの承諾はいただきました。御家族は控え室に待機しています」
小倉さんの遺体をMRIの台に乗せるため、みんなで力を合わせた。機械音とともに、巨大な筒に呑み込まれていく。勢揃いしたバチスタ・スタッフは、思い思いの姿勢で、潜水艦の操舵室のようなモニタ群と、遺体を呑み込んだ敵艦をかわるがわる眺めていた。
「フィールドはどのように設定しますか?」
井川技師長の質問に、白鳥が即答する。
「体幹部は無関係だから、頭部から頸部、肺尖部の高さまで含むワイドビューで設定。冠状断撮像でお願いします」
「Tl、T2の他には?」
「それで十分です。多分、T2強調でケリがつきます」
井川技師長が条件設定を入力していく。
「それでは、T2強調画像から開始します」
ボタンを押すと、カンカンカンと甲板をバットで叩いているような規則的な検査音が、鳴り響き始めた。
高階病院長が苛立ったように言う。
「何も出てこないじゃないか」
「画像描出の計算に時間がかかるんです」
井川放射線技師長がなだめる。高階病院長は黙り込む。病院長の世代にとっては、MRIは異形の検査だ。とんちんかんなことを言っても、平然としている。
緑色の輝線がモニタ画面をなめる。輝線が通過すると、突然モニタ上にモノクロのデスマスクが浮かび上がった。一瞬息を呑んだ。
「頭部冠状断像、浅層ではこういう像が出るんです」
みんなのおびえた気配を察知して、白鳥が説明する。その言葉の余韻の中、小倉さんの顔は、無表情にじっと俺たちを見つめ続ける。緑の輝線が再び画面をなめると、その姿はかき消された。俺は小さくため息をついた。
身体の中心部へ、磁気パルスが潜行していく。
「あれ?」
始めに声を出したのは、酒井だった。
「大脳が浮腫っぼくないですか?」
よく見ると、確かに大脳の腫脹が強いような感じがした。桐生が答える。
「かなり腫れているように見えるね」
「脳出血ですか?」
高階病院長の質問に桐生は呟く。
「いえ、出血はなさそうです。でも、随分浮腫が強いな。大脳ヘルニアかも…‥。原因は何だ?」
モニタ上をさらに数回、緑の輝線が往復した。カンナをかけるように磁気のメスが次第に身体を深部へ削り込んでいく。
唐突に垣谷が大声を上げた。
「何だ、こりゃあ?」
全員の眼がモニタに集中する。そこには、見たこともない画像が展開していた。
頸部脊椎から脳幹部下部にかけて、脊椎の内腔が真白に塗りつぶされていた。
「出血か? いや、外傷? こんな像、見たことがない」
技師長が呟く。白鳥がその言葉を引き取る。
「やっぱりね」
独り言のように呟く白鳥。その視線は空間を、何かを求めているようにさまよう。
「脊髄腔への劇薬注入による出血変性……」
「どういうことかね?」
高階病院長がもどかしげに白鳥に尋ねる。その声が、彼岸をさまよっていた白鳥の魂を現世に引き戻す。我に返ったように白鳥の視点の焦点が合う。ゆっくりと、ひとりひとりの表情を確かめるように、視線を絡めていく。俺の眼を捉え、かすかにうなずいた。それから視線は俺から離れ、隣に立ちすくむ人間の上でぴたりと動きを停止する。ロック・オン。
白鳥が、おごそかに宣告する。
「この中に、脳幹部近傍に劇薬を注入して患者を殺したヤツがいる。脳幹部近傍へのルートは、|エピドラ《硬膜外麻酔》チューブを深く挿入すれば確保できる。衆人環視の中、そんなルートを確保し、劇薬を注入できるヤツはただ一人。そいつは毒薬を手に持っても怪しまれない。術中にチューブをいじっていても見各められない。そんなヤツは一人だけ」
視線の照準を合わせたまま、白鳥の指がトリガーを引く。
「それは……お前だ」
白鳥の指先の延長線上には、白く青ざめた顔があった。
麻酔医、氷室貢一郎だった。
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20章
ロシアン・ルーレット
2月27日水曜日 午後3時45分 2F・手術室
画像検査室は音もなく静まり返った。
「まさか……氷室君、まさか、君が……」
呟く桐生。氷室はうつむく。時計が止まる。
次の瞬間、白鳥の声が時を解凍した。
「高階病院長、指示をお願いします」
我に返った高階病院長の指示は迅速だった。
「病院長権限で緊急事態宣言を発動します。全員、通常業務を離脱、私の指揮下に入って下さい。以下の指示は最優先事項です。手術室麻酔科科長室を臨時本部に設定します。桐生君と白鳥調査官は私と一緒に来て下さい。垣谷君は手術室対応の責任者。羽場君と二人で、手術室スタッフの動揺を抑えること。多少の情報は出して構いません。鳴海君に警察対応を含む司法解剖関連を一任します。法医の笹井教授と相談、対応して下さい。酒井君は黒崎教授を、大友君は松井総看護師長を、羽場君は麻酔科の田中教授を本部に呼んで来て下さい。以上、大至急です」
指示を受けたスタッフは、一斉にドアを飛び出していった。残された氷室と俺に向かい、高階病院長は最後の指示を出す。
「田口君は氷室君に付き添って、手術室カンファレンスルームで待機。田口君、氷室君から絶対に眼を離さないように。いいですか、一瞬たりとも眼を離さないこと」
氷室を連れていこうとする俺の腕を引っ張って、白鳥が小さく耳打ちをした。
「こんなヤツ、殺しちゃえよ」
氷室の腕をとり、引きずるようにして手術室に戻る。検査室から手術室までの道のりは、永遠にゴールにたどりつけないのではないかと感じられるほど遠かった。俺に抱えこまれた氷室の身体は、セミの抜け殻のように軽かった。
手術室の外では、喧騒が渦巻いていた。普段なら、人影もまばらな手術室の受付に、看護師や麻酔医、他科の医師が大勢集まっていた。みんな一斉に言葉を発している。秩序と静寂が基本の手術室には、存在してはならない光景だった。
騒ぎの中心では、垣谷と羽場が懸命に喧騒を鎮めようとしていた。垣谷は派手なバンダナで拳を包んで振り回す。その都度、集団は不定形に形状を変え、彼らを体外に排出しようとする。
氷室と俺がたどりつく。一瞬にして沈静する喧騒。大きく見開かれた眼、眼、眼。無言の防御線が、崩れ落ちそうな砦を必死に守る。その中から、羽場が一歩足を踏み出して近づいてくる。
自動扉が開く。俺は氷室をカンファレンスルームに投げ込む。土足だったが、誰も制止しようとはしなかった。ドアが閉まる。部屋の外では喧騒が再び噴出し始めた。けれども、俺と氷室にとって、それは異国の市場のざわめきのようなものだった。
その喧騒も、氷室と向き合うと徐々に消えていく。二人は静寂に包まれ、対時する。
「とうとう、ばれちゃったな」
氷室はうっすらと笑う。
「なぜ、こんなことを……」
メルトダウン寸前の俺は、言葉を絞り出す。感情が渦巻く中、言葉は輪郭を失い、俺はバランスを崩す。対照的に、氷室は冷え冷えと、そして冴え冴えとしていく。
「なぜ、こんなことをしたのか、ですね?」
俺はうなずく。氷室は言葉をつむぐ。
「なぜ、こんなことをしてはいけないのですか?」
「なぜ? 当たり前だろう」
脱出口を指し示され、渦巻いていた感情が一気に溢れ、俺は激する。
「当たり前? 何が当たり前?」
激する俺と反比例するかのように、氷室の体温は徐々に低下していく。
「僕は、実験が終わると殺されてしまうイヌたちの面倒を見ています。バチスタだって同じ。手術という実験が終わったから、命を奪っただけです」
「手術を実験だと言うのか?」
「似たようなものでしょう」
「人と犬は違う」
「どこが違うんですか。僕たちは医学の進歩のために、イヌの命を奪う。ヒトの命だって同じことだ。命を奪うことは自然です。命は奪われるために存在するのだから。誰でも、他の命を喰い殺して生きている。僕が面倒を見ているイヌは、尻尾をばたばた振りながらすり寄ってくる。だけど僕はそのイヌを殺す。医学の進歩という大義名分の名の下に。僕にとってヒトは、隣を通り過ぎる見知らぬ物体と同じ。可愛いイヌさえ殺せるのだから、ヒトを殺す時には別に何も感じない」
かつて俺の手が奪ったマウスの命、その断末魔の震えが一瞬甦る。氷室の瞳の奥に広がる闇。それをのぞき込むと、自分の瞳をのぞき込んでいるのではないか、という錯覚に囚われる。胸が潰れ、息が辛い。恐怖を打ち消すように、声を張り上げる。
「俺たちは、命を救うために仕事してきたんじゃないのか」
掠れた俺の声に、氷室はからりと笑った。
「先生は、本気でご自分が命を救っているとでも言うんですか? 田口先生だって僕と同じ。病院といういびつな生命体の排泄行為を代行しているだけですよ。ヒトのためでなく、自分や組織を維持するために働いているだけです」
俺は、急所を衝かれて黙り込む。心の一部が、氷室に共振し始める。
懸命に自分を立て直そうとする俺に、氷室は追い打ちをかける。
「まさか田口先生の口から、ヒトの命を救うための仕事、なんてまっすぐなセリフが出てくるとは思いもしませんでした。何だかがっかりだなあ」
氷室と俺の間には深淵が口をあけている。理解するために歩み寄ろうとすれば、どちらかが呑み込まれる。仕方なく俺は、二人が仰ぎ見る星について語る。
「君は、桐生さんを尊敬していたんじゃないのか」
「桐生さんね。確かにあの人は素晴らしい。一人で世界に対峙し闘いを挑んでいる。かっこいいですよ。でも、」
氷室は淋しそうな表情を浮かべた。
「桐生さんには、きっとわからない。相容れない考え方も世の中にはあるんだ」
氷室は小さく咳き込んだ。
「死は、特別なものじゃない。あちこちの街角にごろごろしている。
ヒトは死ぬ。そこに意味はない。ただ、死ぬ。遅いか、早いかの違いがあるだけ。
病に倒れるということは、無に還れという天からの指令です。それをヒトの力でねじまげようとする方が傲慢だ」
氷室の論理を幼稚だと非難するのは簡単だ。しかし、自己完結してしまった精神に、俺の言葉は届かない。それでも俺は氷室に、自分の言葉を投げかけ続けなければならない。何故だかわからないが、そう思った俺は氷室にしがみつく。
「そんなヤツには、医師の資格はない」
「それを言うなら、本当に医者の資格を持っているヤツがいるか、と問う方が先でしょう。確かに桐生さんには資格がある。けれど大部分のヤツは、食っていくために医者をやっている。ヒトのためだと思っている医者なんているんですかね」
「それとこれとは話が違う。君がやったことは殺人だ」
「そうですね。まあ、おっしゃる通りです」
「人間を殺しても平気なのか? どうしてそんな風になってしまったんだ?」
「僕は、昔からちっとも変わってはいません」
「ずっと人殺しだったと言うのか?」
「そうかも知れませんね。でもね、ヒト殺しの資質を持つヒトなんて、田口先生が考えるほど珍しくはないんです。普通のヒトがヒト殺しをしないのは、チャンスと勇気がないだけ。眼の前に機会があれば、誰でも普通にヒトを殺してしまう。その証拠に、殺人事件はあちこちで毎日起こっているじゃないですか。彼らは時として、他愛もない理由でヒトを殺す。必要なのは、合理的で強力な動機じゃない。ほんの少し背中を押してくれる、ささやかなきっかけです。それさえあれば、ヒトはたやすくヒトを殺してしまう。
当たり前なんです。ヒトは何かを殺さなければ生きていけない生き物なんですから。僕から見れば、命を守るために死に物狂いで努力できる、桐生さんの方がよっぽど異常人格に見える」
二人の間に、冷たい風が吹き抜けた。俺は改めて問い直す。
「だからといって、患者を殺すことは許されない」
「田口先生からすれば、そう言うしかないですよね。それなら、言い方を変えましょうか。僕は退屈してたんです。なのに義務だけは膨大だ。僕にも娯楽は必要です」
「娯楽のために患者を殺した?」
氷室がうなずくのを見て、俺の全身の力が抜けていく。
「田口先生は誤解している。僕がこの娯楽を始めたのは、ケース30からです。30、32、そして今日のケース33、この三件です。もっとも、これで打ち止めですけど……」
「それならケース27の高田さんは? 29の田中さんは? 二人はなぜ死んだんだ?」
「その二例は、僕の行ったヒト殺しではなくて、そのきっかけです。
記念すべき術死第一例目、ケース27はおそらく桐生先生の手術ミス、あるいは偶然の不運だと思います。どこにミスがあったのかはわかりませんが。代わったばかりの大友さんと呼吸が合わなかったのが原因でしょう。大友さんは技術は高いけれど、トラブルになるとパニックを起こして、抑えがきかなくなるんです。それに引きずられて桐生先生がドジったんだと直感しました。桐生先生はあの頃体調が悪そうでしたから。偶然の不運だったか、桐生先生の手術ミスか。とにかくあの件は僕は無関係です。
ケース27はまるでお祭りでした。幸か不幸か、それまで僕は術死に立ち会ったことがなかった。だから術死があんなにわくわくするものだなんて全然知らなかった。突然巻き起こった大騒ぎ。見慣れた人たちが普段と全く違う表情を見せる。右往左往。怒声。御神輿《おみこし》を担いでいる真只中。予定調和の鏡の世界を叩き割る、ル・カルナバル……その中で僕は……楽しかった。
直後に成功したケース28では改めて、通常業務の単調さと退屈さを思い知らされました。一度開放感を味わった僕は、もう昔には戻れなかった。一度気づいてしまったらもう、あの退屈な牢獄にはもう耐えられない」
氷室の言葉に耳を傾けながら、俺は思う。コイツの唇はこんなに赤かっただろうか。氷室を紋白蝶やカブトムシに見立てたこともあったが、今は違う。
小さな白い毒蛇。その言葉は赤く閃く細い舌。
こほこほという咳き込み。聞こえ始めるかすかな虎落笛《もがリぶえ》。
「術死第二例目、ケース29は僕の医療ミスです。僕の中では術死の興奮の余韻と、次に成功した手術の退屈さが、光と影のように綾を成していた。本当は成功例が光のはずなのに、僕の中ではネガフィルムのように光と影が反転していた。僕は手技に集中できず、ひどく散漫な気持ちで麻酔をかけていました。
あの日は始めから変でした。気がついたら硬膜外チューブをいつもより深く挿入していました。テープを固定した後に気づきましたが、エピドラを使わなければ支障ないので放置しました。手術の途中でチューブを抜く方が危険です。計算すると、挿入チューブの先端は大脳の近傍、脳幹下端に届いていることがわかりました。
悪いことは重なるものです。術野では、看護師交代の不協和音の余波が増幅されていました。チームの雰囲気も荒れていた。そのせいにするわけではありませんが、全く影響がなかったとも思えません。そんな中、僕は重大なミスを犯した。うっかり、エピドラからマーカインの代わりに純エタノールを注入してしまったのです」
氷室は苦しげに息をつぐ。
「なぜそんなことをしてしまったのか、覚えていません。でも、ミスが起こる時なんて、そんなものなのでしょう。ミスに気づいた後、僕は必死に平静を装いました。さりげなく振る舞いながらも、頭の中はそのことでいっぱいでした。大変なことになる。あるいは何も起こらないか。僕の気持ちは切りもみ飛行をしていた。手術が終了し心臓が再鼓動しなかった時、眼の前は真暗になりました。僕は終わった。そう思いました」
氷室は、微かに笑った。俺の背筋がぞくりとする。
「ところが驚いたことに、僕は無事でした。疑われさえしませんでした。おまけに僕の眼の前では再び、あの極彩色のフェスタが再現されました。あの時のジェットコースター気分は、今でも忘れられません」
「それをまた味わいたくて、同じことを繰り返したのか」
氷室は俺の問いに答える代わりに、激しく咳込んだ。それから息を整え、続けた。
「硬膜外チューブに投与する薬剤には看護師のチェックは入りません。大きい瓶ですからミスは起こりにくいし、血中投与でないのでリスクが低いからです。うちでは危険防止マニュアルの対象からも外れていますし、状況に応じて不規則に使うので麻酔医が自分で対応します。だからこそ起こったミスですし、だからこそ発見されなかったミスなのです。薬剤投与しても、血液から検出されないということにも気づきました。つまり血液データのチェックの網の目もかいくぐれるのです。その時、僕の中で何かがはじけ散りました。
決定権は自分の手の中。しかも自分は疑われることのない安全地帯にいる。イヌを殺すより手間がかからない。僕にはもう、歯止めがかかりませんでした。
術死第三例目以降の三例が、僕が犯したヒト殺しです。どうせならきちんと殺そう。そう考えて水酸化ナトリウムを使うことにしました。無色透明で無臭、実験室で簡単に手に入るからです。
マーカインの空瓶に調合した毒液をつめ、ポケットに忍ばせる。水酸化ナトリウムは水に溶かすとほんのり発熱する。なま暖かいビンをポケットの中で弄びながら、僕は堂々と毒薬を手術室に持ち込む。あの時の気絶しそうな興奮は忘れられない」
氷室のポケットは、今もディスポーザブルの注射シリンジで膨れ上がっている。この中に紛れ込ませれば、薬品を手術室に持ち込むことはたやすいだろう。それに、麻酔医は手術が始まるずっと前から手術室を出入りするので、機会には恵まれている。見咎められたとしても、普段から薬剤を持ち歩いているので言い抜けも簡単だ。
「エピドラ・ラインから脳幹部近傍に劇薬を注入すれば、患者が確実に死亡することが偶然わかった。しかもその行為は露見することがない。これは完全犯罪ですよね」
「そんなこと、解剖すれば一発でわかる」
氷室はうっすら笑った。
「そりゃそうです。でも、現実には解剖はできないんです。心臓を止めて手術し、再鼓動しなければ、誰でも手術の失敗だと思う。そんな中、他に原因があるかも知れないからと、遺族に解剖をお願いできますか。そんなことをしたら自分の手術ミスが明らかになり、ヤブヘビになる可能性もある。だから外科医は、解剖を強くお願いしない。実際、論理的でクールなあの桐生先生でさえ、鳴海先生がどれほど強く勧めても、解剖しょうなんて考えようともしなかった」
白鳥の挑発に対し、鳴海と桐生が同じ論理で喰ってかかっていたことを思い出す。
「医療システムと医療人の心理が作り上げた密室」という白鳥の言葉が蘇《よみがえ》る。
ヤツの直感は、正しかった。
俺はふと気づいた。
術死をフェスタと言うのなら、少年兵士アガピ君の手術を成功させたのはなぜだろう。あれほど華やかな舞台設定は二度とないはずだ。俺の視線を怖れて自重したとも思えない。頭の中でバチスタ・リストを並べる。二人の小児症例がDカルテから虫食いのように抜け落ちていたことを思い出す。その双子星の光芒にひとかけらの救いを求め、俺は疑問を氷室にぶつけた。
「子供には術死がなかったな。未来がある子供だから殺さなかったのか」
「子供にはエピドラを入れませんから。殺せなかっただけですよ」
氷室はあっさり俺を振り払う。俺の中で何かが潰《つい》えた。全身の力が抜けていく。
氷室は淡々と言葉を紡ぐ。その中に丹念に毒を織り込みながら。いや、違う。氷室には毒を盛る、という気持ちなど、さらさらないのだ。なぜなら、ヤツの存在そのものが毒≠ネのだから。
残された手立てはもう、氷室の告白を聞き遂げるだけだ。それは俺の義務であり、責任である気がした。俺の仕事は聞き遂げること、ただそれだけ。医学という学問と医療という人間の営みの狭間に産み落とされた、氷室という怪物の告白を聞き遂げなければ、医療の未来は失われてしまうのではないか、という予感がした。
氷室が呟く。
「それにしても、白鳥さんの出現は誤算でした。オートプシー・イメージングなんて検査、見たことも開いたこともなかった」
「知っていたら、止めていたのか?」
「多分ね。でも実際にどうしたかは、その場になってみなければわからないけど」
俺は無力感に滑り落ちそうになる。最後の力を振り絞り、氷室という滑らかな斜面にハーケンを突き立てる。
「白鳥がいる間だけでも自重しようとは思わなかったのか? ヤツはずっとここに張り付いているわけにもいかない。少し我慢すればヤツは必ずいなくなる。ほとぼりがさめた頃再開すればよかったんだ。なぜリスクを冒してまで、白鳥の眼の前で強行したんだ?」
「それは……」
氷室は一段と激しく咳き込んだ。喘鳴が強い。風切り音が俺の耳まで届いてくる。
「……ちょっと失礼」
氷室は赤いケースから錠剤を取り出し、口の中に放り込む。滑らかで自然な動作。ケースの赤さが目にひっかかる。
「白鳥さんの、いかにも何でもわかり切っている、という顔が歪むのを、もう一度見てみたかったからかな……」
そう言ってから、遠い眼をして呟くように言う。
「……いや、やっぱり違うな。きっと、誰かに止めてもらいたかったのかも」
氷室は、俺を見てかすかに笑った。素直な笑顔だった。
難問を突破したかのような安堵感が、氷室を包んでいた。
「願い通り、止まったじゃないか。もう十分だろう」
「ええ、止められてしまいました。僕は、自分の手でこのゲームに終止符を打とうと思っていました。ゲームを始めた時から思っていた。この終わりに、きっと僕は死ぬんだろうな、とね」
嫌な予感が首筋を走る。同時に俺は、過去の映像をカット・バックする。そういえば普段、氷室が喘息薬を入れていたケースの色は白かった。
錠剤を口にしたのに、氷室の喘鳴は収まらない。
「このゲームを止めるのは、田口先生だろうとずっと思っていた。この病院で先生だけは、他の人があっさり切り捨ててしまうものに気持ちを向ける人だったから。それなら僕も心おきなくゲームを終えることができた。
それなのに、あんな下品でめちゃくちゃな役人が突然やってきて、訳がわからないうちに全部見透かされてしまうなんて、僕にはとても我慢ができない」
氷室は再び赤いケースを取り出した。ケースを振る。からからと乾いた錠剤の音。
「この中には、中身をくりぬいて青酸カリを入れた錠剤が入れてありました」
微量でも粘膜に触れれば、瞬時に命を奪う劇薬。俺の視線は赤いケースに釘付けになった。
「このゲームを始めてから、肌身離さず持ち歩いていました。ただ、毒入りの錠剤だけにすると、ケースを持ち歩いているだけで気分が悪くなってしまうんです。だから普通の錠剤も一錠入れておいて、発散される毒気を薄めていました。たとえどちらが青酸カリ入りかわからなくなったとしても、両方飲めば済むことですから。
ついにその時が来ました。そして僕は錠剤を口にした。でも、発作の時のクセでうっかり、一錠しか口に入れなかった。瞬間、しまった、と思いました。でもすぐに、これは間違いではない、とわかりました」
氷室は写真撮影の時の笑顔のように、いーつと口を広げてみせる。白い錠剤が糸切り歯に挟まれている。氷室は唇を閉じる。
吐き出させなければ。念じるが、足が動かない。
「つまり、こいつが毒入りである確率は二分の一」
「それがどうした」
「白鳥さんがぐちゃぐちゃにしたのでなければ、僕は赤いケースの錠剤を二つとも口に入れ、ためらわずに噛み砕いたでしょう。でも今、口の中には一錠だけ。これは何を意味するのでしょう?」
知るか、そんなこと。俺は首を横に振る。氷室は言う。
「これは天意です。僕は天に訊いてみたい。僕が間違えていたのかどうか。
これがカリなら僕は死ぬ。そうでなければ、僕は生きる」
言い終わると、氷室はにっと笑って、錠剤を一気に噛み砕く。
「やめろ」
自分の叫び声で、俺は氷室の呪縛から解き放たれた。低い体勢からタックルする。氷室の身体は真後ろにひっくりかえる。外で聞き耳をたてていた羽場がドアを蹴り開けた。大勢の身体と怒声が、濁流のように室内をもみくちゃにした。濁流に溺れそうになりながら、俺は氷室の手から赤いピル・ケースをむしり取る。
フルコンタクトのスクラムが均衡に到達し、乱雑だった場が徐々に秩序を取り戻し始める。俺と氷室の上に重なり合った重石が、ひとつずつ人間に復帰する。最後に俺が、氷室から身体を引き離して立ち上がる。
俺は氷室を見下ろした。
氷室は右肘の内側で眼を覆い、仰向けに倒れていた。噛み砕かれた錠剤のかけらが唾液と共に口の端から流れ落ちる。
間に合わなかった、のか。
小さな笑い声がした。笑い声は次第に大きくなっていく。
氷室は腕をだらんと垂らした。ぽっかり見開かれた眼が、見下ろす俺の視線を捉えた。視線を切らずに、そのままゆっくり上半身を起こす。
「バカバカしい。これが、天意か?」
呟くと、口の端をぬぐう。俺の手にある、赤いケースを見つめる。
これでよかったのか?
「バカバカしいが、これが天意か……」
氷室はもう一度呟いた。周囲をゆっくり見回す。小柄な身体にまとわりつく大勢の視線の束をぶった切り、氷室は俺をまっすぐ見上げる。
「僕は生きることになった。田口先生、後悔するよ」
「せいぜい、牢屋でほざいてろ」
俺は吐き捨てた。俺たちは睨み合ったまま、微動もしなかった。
俺と氷室を囲んでいた人垣が割れた。高階病院長と白鳥が駆け込んできた。白鳥は俺を見つめ、それから氷室を見て、ぼそりと吐き捨てる。
「バカだなあ。殺しちゃえばよかったんです、こんなヤツ」
氷室は白鳥に切り返す。
「あんたの言う通りだよ。だけど残念だね、ゲームは終わらなかった」
白鳥は氷室を冷やかに見つめる。
「僕は田口センセほど甘くない。きっちりお前を潰してやるよ」
氷室は晴れやかに笑った。
「やれるものならやってみな」
白鳥の背後から警官が二人現れた。氷室の両腕を掴んで、立ち上がらせる。
氷室はのろのろと立ち上がると、身体についたほこりを払った。
俺の眼をじっと見つめて、もう一度氷室は言った。
「本当に馬鹿だよね。後悔するよ」
語尾を封印するように、冷たい金属音が響く。氷室の手首に銀の腕輪が飾られた。
遠くから微かなサイレンが聞こえてきた。ファンファーレのようだ。サイレンは次第に大きくなると、やがてぴたりとやんだ。一瞬、深い静寂が世界を包み込んだ。
*
後日、科学捜査研究所から、高階病院長の手許に一通の鑑定結果が届けられた。
赤いケースに残された錠剤から、シアン化カリウムが検出されたということだ。
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第 三 部…………………ホ ロ グ ラ フ………………幻 想 の 城
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21章
敗戦処理
2月28日木曜日 午前9時 2F・大講堂
それから数日間、世間の耳目は東城大学医学部付属病院に集中した。連日、執拗な報道攻勢が続いた。マスコミは、どんな些細な情報でも貪欲に電波に載せた。氷室だけではなく、多くのスタッフがさらし者にされた。俺もその一人だった。
氷室が連行された後、スタッフ全員は警察の事情聴取を受けた。鳴海は例外で、司法解剖を手伝いながら、痛院で事情聴取された。オートプシー・イメージング(Ai)で得られた情報を、司法解剖担当の笹井教授に伝えるためだ。
警官に引っ張られていく俺の耳許で、高階病院長が囁いた。
「申し訳ありませんが、田口先生には生け贄の子羊になってもらいます。まあ、悪いようにはしませんから」
高階病院長の言葉が何を意味しているのか、混乱の中で、その時にはよく理解できなかった。深夜まで続けられた事情聴取の中で、俺はその言葉をすっかり忘れていた。
事情聴取は苛烈だった。俺が患者を殺したのではないかと錯覚するほどだった。厳しい取り調べに、うわの空で応対しながら俺は自問し続けた。
小倉さんを殺したのは、俺ではなかったか。
俺は、同じ建物の中にいる氷室のことをちらりと考えた。ヤツは今、固く閉ざした貝殻の奥で、俺の声にじっと耳をすましている。俺は、そう確信していた。
事情聴取から解放され下宿に帰ると、万年床の布団に倒れ込んだ。時計は午前零時を回っている。テレビのニュースは終了していた。お笑い芸人と引退したての野球選手がサッカーをしていた。シュールな心もちになった俺は、スイッチを切った。
見計らったかのように携帯電話が鳴る。高階病院長だった。
「かなり絞られたようですね」
受話器の向こうに、高階病院長のトボけた顔が浮かぶ。
「ええ、まあ」
「ご苦労さまでした。明朝八時、病院の車を回します。迎えが部屋までいきますから、それまでは絶対外に出ないで下さい。あと、朝の情報番組は見ておいて下さい」
「何が起こるんですか?」
「明日になればわかります。何か質問されたら、一言『残念です』とでも答えておいて下さい」
訳がわからないまま、了解した。今の俺には長すぎるセリフ。復唱の暇もなく布団に潜り込むと、俺は泥亀のように眠った。
翌朝、激しいノックで眠りを破られた。
「サクラテレビです。田口先生、いらっしゃるんでしょう? 一言お願いします」
耳をすますと、かすかにアナウンサー実況の声が聞こえた。重い身体をなじんだ万年床からひきはがすと、ぼんやりした頭のまま反射的にテレビのスイッチを入れる。
「田口講師のお部屋からほお返事がないようです」
「なるほど、わかりました。引き続き取材を続けて下さい」
瞬間、ドアの外の雑音と、画面のバックサウンドがシンクロした。冷や水を浴びせられたように、いきなり目が覚める。チャンネルを回す。
高階病院長の斜め上の角度からのアップ。
「つまり、こうした問題をいち早く認識したのは田口講師だったのですね?」
いきなり公共電波から自分の名前が呼ばれて仰天した。何だ? 何があったんだ?
「そうです。田口講師はリスクマネジメント委員会招集を提案したのですが、私が見送りました。そのため彼は独断で、桐生チームの監査を開始してしまったのです。私に報告せずに行われた一連の調査は越権行為であり、大変遺憾です」
たたみかけるような質問が、一斉に高階病院長に襲いかかる。
「遺憾という言葉の使い方を間違っている」「対応すべきことをしなかった上の者が、自分のことを棚に上げて、有志の部下を責めるのはおかしい」「責任を感じているのか」「内部の危供を汲み取るという点に関して、配慮が足りなかったのでは」
聞き取れるだけでも、ものすごい数だ。聞き取れないうなりのような分を含めたら、どれほどになるのだろう。チャンネルを回す。
「氷室講師が、面倒をみていた犬たちです」
アップ。カメラに向かって吼える犬。しつぼを振る犬。罪のないまなざし。
チャンネルを回す。キャスターが身振りを交えて語る。
「それでは昨晩行われた、東城大学付属病院首脳陣の記者会見を振り返ってみます」
栄光のチーム・バチスタ崩壊≠ニいうあおり文句が流れる。続いて、フラッシュが焚かれる中、高階病院長を含めた病院の幹部クラスが頭を下げている場面。
チャンネルを回す。過去のインタビュー。喜色満面の黒崎教授のアップが画面一杯に広がる。少年兵の手術当日の朝。一瞬でフェイドアウト。
チャンネルを回す。うつむいて、黙り込んでしまった高階病院長。疲れ切った表情の下を、鏡舌なテロップが滑らかに流れる。
「ご指摘は真摯に受け止めます。今は、ご遺族に申し訳なく思うばかりです」
高階病院長が、明日(つまり、今日のことだ)、俺を含めてもう一度記者会見を開くことを約束した場面が流れた。警察OBのコメンテーターの話がかぶせられる。
「担当者が現場の声を汲み取っても、上層部の意識改革が同時に行われなければ、危機管理なんてできっこないですよ」
紋切り型の組織論が展開され始めた。……スイッチを切る。
疑問が数多く浮かび上がる。いつの間に俺はリスクマネジャーになったのか。なぜ高階病院長は、俺に越権行為をしたと責めるのか。責任回避する発言ばかり繰り返したら、袋叩きになるに決まっているじゃないか……。
その時、高階病院長のシナリオがちらりと見えた。俺は呟く。
――まったく、喰えない爺さんだ。
仕方なく俺は、本番の舞台に備えて、与えられたセリフの練習をした。
遠くでかすかに、ヘリコプターの羽音が聞こえる。
八時。ノックの音に、俺はドアを細目に開けた。黒い背広の二人組が隙なく仔んでいる。俺は家を出る。階段を降りる俺にフラッシュが焚かれる。二人の黒服が俺を保護するように包みこむ。その隙間にマイクが突き立てられる。
「田口先生、氷室は何と言っていたんです」「越権行為だと言われたことについてどう思われますか」「桐生チームの異変を感じたきっかけは、何ですか」
一遍に訊かれてもなあ……。仕方なく俺は、与えられたセリフを棒読みした。この場で、これほどぴったりくるセリフは他にない。悔しいが見事なものだ。少しだけ節回しを変えたのは、反抗期の坊やのささやかな抵抗だ。
「ただただ、残念なだけです」
俺は車の後部座席に運び込まれた。クラクションを鳴らし、まとわりつくカメラを蹴散らし、車は発進した。誰も追いかけてこなかった。行く先はわかっているし、そこにはすでに彼らの別働隊が待機している。追跡の必要はないのだ。
報道陣の車が病院玄関前を占拠していた。警備員が彼らをコントロールしようとしていたが、思うようにいかないようだ。その光景を横目に素通りし、病院裏手の掘り下げ地下、霊安室入口に車が止まる。さすがにここには誰も詰めていない。
昨晩の指示に従い直接、病院長室へ向かう。
扉を開けると、高階病院長と桐生がソファに腰を下ろしテレビを見ていた。珍しく真面目な顔をしている白鳥は、壁にもたれ腕を組んでいる。赤いスーツケースがその傍らにあった。俺の顔を見ると肩をすくめて一瞬、にまっと笑う。
「田口センセ、テレビ映りは悪くないですね」
写真写りが悪いという表現は、写真よりも実物の方がよいという誉め言葉だということを、白鳥はきっとご存じないのだろう。そう思いたい。そうでないなら、もうコイツには何も言うまい。
桐生は硬い表情のままだ。高階病院長が口火を切る。
「朝のニュースはご覧になりましたね? 朝九時からプレス対応の再会見を行います。今回は田口先生がメインです。思い違いをされているといけないので、二点、確認しておきます。ひとつは、この事件は、桐生先生がリスクマネジメント委員である田口先生に直接監査を依頼したということ。もうひとつは、私の反対を押し切って田口先生が独断で監査を行ってしまったということです。この独断行動に対し、私は不愉快に思っています。田口先生は昨日からのごたごたで混乱していると思うので、これらの点を整理しておいて下さい」
「わからず屋の病院長に、公衆の面前で噛みつける機会をいただけるわけですね」
「田口センセの大逆襲! ってとこですか」
白鳥の適切なチャチャに高階病院長はにやにやと笑う。
それにしてもこの人の笑顔には、にやにや、とか、にやり、とかいう、ひねこびた形容詞がつくづく似合う。そしてそれが、こうした修羅場では妙に安心感を漂わせる。
「田口先生、本当に申し訳ありません」
桐生が生真面目に謝罪する。芸がないヤツめ。こんな状況、笑ってやり過ごすほかには手がないことはわかり切っているというのに。
桐生は胸ポケットから封筒を取り出す。
「遅くなってしまいましたが、どうかお受け取り下さい」
高階病院長はあっさりと桐生の辞表を受け取った。
「扱いは私に一任して下さい。田口先生には、私の方からプレゼントがあります」
高階病院長は立ち上がり、机の抽斗から封筒を取り出す。病院長自身の辞表だった。
「迷いましたが、田口先生に預かっていただくのが、一番よさそうに思えまして」
「あんた、バカですか」
あまりの予想外の出来事に、つい思っていることと口に出た言葉が一致してしまった。上辺だけの礼儀正しさが破綻した。よりによって病院長に面と向かって「あんた」だなんて。これじゃあ白鳥以下だ。ヤツだってせいぜい「バカじゃないんですか」程度で抑えるだろう。俺は組織人失格だ。
「まあまあ、そうおっしゃらずにお受け取り下さい。持っていても邪魔にはなりませんから。使う使わないは田口先生のご自由ですし。もし、田口先生がお芝居に失敗して収拾がつかなくなったら、その時には遠慮なく使って下さい」
俺は病院長の辞表を見つめた。経験の浅い芸人の初舞台にとって、確かにこれ以上に心強いお守りはない。万が一ドジったら、高階病院長にすべておっかぶせてクビを飛ばせばいい、ということなのだ。
「困ったものです。昨晩から今朝にかけて、黒崎教授や麻酔科の田中教授が私のところに辞表をお持ちになりました。これでは、まるで辞表の三役揃い踏みです」
高階病院長はぽつんと呟く。どうにもこの人には、緊迫感というものが似合わない。それを受けて、緊迫感が似合わない点では一、二を争う白鳥がへにゃっと笑う。
「まるで、辞表のババ抜きですね。ところで田口センセのヤツはないんですか?」
なぜ、俺が辞表を? 俺は呆れて白鳥を見つめる。おかまいなしに白鳥は、ゆっくり大きく、ぱんぱんぱん、と拍手した。
「ま、これで完壁でしょ。田口センセなら大丈夫、きっとうまくやれますよ」
白鳥にしては、妙に素直な激励が心にしみる。
「言うまでもありませんが、僕のことは表に出さないで下さいね。僕は、今の社会では、半分イリーガルで、ファイ(空集合)みたいな存在なんですから」
俺は、わかっていると言う代わりに、黙ってうなずき返す。
白鳥はそんな俺を頼もしそうに見つめる。
「それじゃ、僕からもお守りをひとつ。
アクティヴ・フェーズ極意その9.最後に信じられるのは自分だけ」
白鳥の言葉が、妙にその場にすとんとなじむ。その言葉の波紋が収まるのを待ってから、高階病院長はみんなに言う。
「それではそろそろまいりましょうか。九時、合同記者会見の時間です」
我々は立ち上がった。白鳥は手を振って俺たちを見送る。
「田口センセの男っぷりは、画面で拝見してるからね」
俺は振り返らず、拳を握った右手を挙げて、白鳥の激励に背中で応えた。
壇上には今回の事件の関係者がずらりと勢揃いしていた。中央に高階病院長、左手には、憮然とした面持ちの黒崎教授と桐生、そして麻酔科の田中教授が神妙な顔をして並ぶ。右手にはおどおどと左右を見回している曳地委員長、腕を組んで目をつむった斉藤事務長、そして一番右端が俺だ。フラッシュが間断なく焚かれ、テレビカメラのレンズが我々をのぞき込む。その前列には、昆虫の複眼のようなマイクが乱立し、その後ろには、ぎらぎらと眼を光らせた報道陣。
アドリブでつぎはぎだらけの台本に従って、記者会見は進行した。始めは、報道陣からの激しい攻撃にさらされた。その合間を縫って正義の使者である俺が、石頭で融通のきかない病院長に遠慮なく噛みついていく。権威主義者の病院長は権限を盾に、自らの保身のために俺を恫喝した。隙を見つけては、桐生が平身低頭して謝罪の言葉を繰り返し差し挟む。
メディアの追及は厳しかった。俺はメディアの質問の流れに一緒に乗って吠えた。いつしか俺は、メディアの代弁者という立ち位置から、病院長を弾劾し始めていた。
「結局のところ、病院長の優柔不断さが今日の事態を引き起こしたんです。責任は重い」
「それは言い過ぎだと思います。我々は最善を尽くしました」
「それなら遺族にも同じようにおっしゃることができますか」
「先般より、御遺族には心よりの謝罪を申し上げています」
「お座なりな言葉は聞き飽きました。具体的な改善策があるのですか。その提示こそが真の謝罪なのではありませんか」
俺と高階病院長は、壇上の長テーブルの上、視線も合わさず正面を見据えたまま、やり合っていた。マスコミのクルーは我々のやり取りを口唾をのんで見守っていた。彼らは今、病院内部のリアルな権力闘争を目撃している。滅多にない状況に夢中になり、感情移入し、俺が場の主導権を握っていることに気づきもしなかった。
それは仕方がないことだ。俺以上に事情に通じ、厳しい質問ができるレポーターは他にいないのだから。
台本は終幕に近づいていく。
「なぜ、リスクマネジメント委員会招集の要求に反対したのですか」
「おおごとになってしまうことを心配しました。委員会を招集してしまえば、報告義務も生じるし、何もなかった時に、病院が受けるダメージの大きさも心配でした」
過去の台詞の正確な再現。ただし時空間の座標軸の原点がずらされたため、事実とかけ離れた言葉になってしまっている。
「つまり、病院の既存のシステム保全を最優先した、ということですね」
「結果的にそうなってしまいました。今思うと東城大には、健全な医療システムが作動していた。その流れを止めたのは、私の判断ミスだと深く反省しています」
報道陣がどよめいた。権威の象徴である病院長が、一介の講師の追及に、今まさに倒されようとしている。息を凝らし、成り行きを見守る。静かなフィールドの中、高階病院長は崩れたバランスを立て直す。舞台は整った。
「ひとつだけ、言わせて下さい。そしてこれは是非、正確に伝えて欲しいのです」
ゆっくりと報道陣を見回した。咳《しわぶき》一つ、しなかった。
芝居衣装を脱ぎ捨て、高階病院長は瞬時に、単騎で威風堂々と周囲を制圧した。
「東城大学医学部付属病院には殺人鬼が紛れ込んでいた。これは事実です。それでは我々は、一体どうすればよかったのでしょうか。悪魔が関所をすり抜けてしまえば、我々の組織に、抵抗する仕組みはなかった。皮肉なことに、誠実で優秀な外科医に対する、患者家族からの全幅の信頼があったため、結果的に殺人鬼の悪行を覆い隠し悪事の露見を遅らせてしまうという、きわめて皮肉な結果になったのです。
施設の長として、亡くなった患者、ご遺族の方々には謝罪の言葉しかなく、慙愧《ざんき》の思いに耐えません。我々上層部の責任は大きい。責任は全て病院長である私とチーム・リーダーの桐生医師にある。そのことは明確に認め、謝罪いたします。しかし、一人の殺人鬼がいたために他の医師まで同様に扱われることは不当です。本件は個人的な殺人事件です。この件において他の医師には責任はなく、連帯責任に問われる必要はないと考えます。そこだけは、どうか切り離してご理解いただきたいと思います」
報道陣は、高階病院長の言葉に最後まで耳を傾けた。それは、彼が外部に向けて発信したかったメッセージが、無事送信されたことを意味していた。言いたいことを言い尽くし、安堵感に包まれている高階病院長に向かい、間髪入れず俺がたたみかける。
「そこまでおっしゃるのであれば、本当に責任をとる覚悟はおありでしょうね」
報道陣も、見守る壇上の当院の関係者も息を呑んだ。万年講師が、院長に辞任を迫ろうとしている。誰もがそう考えた。病院長の返事を聞き取ろうと、周りはすべて耳になった。そんな中、高階病院長だけはいぶかしげに俺を見た。
(私に尋ねる必要はないでしょう。セリフを間違えましたね)
無声の叱責に、俺はかぶりを振る。こんな場面でドジを跨むほど、ヤワでもウブでもない。高階病院長を横目で見、ポケットから封筒を取り出し報道陣にかざす。
「リスクマネジメント委員会の曳地委員長に提出された高階病院長の辞表を、ここにお預りしています。本件の取り扱いにつきまして、今朝リスクマネジメント委員会が臨時召集され、その場で討議した結果、委員会としての勧告案を決議しました」
曳地委員長は、あんぐりと口を開けた。フラッシュが沸き上がる騒音を吹き飛ばす。俺は音と光の洪水に押し流されないように、声を張り上げた。
「確かに……」一言言うと、俺は周りをゆっくり見回す。ばらばらに上がっていた怒声が徐々に静まっていく。場が収まるのを待ってから、俺はゆっくり語り出す。
「確かに、この辞表を行使すれば、責任の所在は明確になるかも知れません。しかし今、病院長がお辞めになることは、単なる責任からの逃避です。お辞めになるのは、新しいシステムを構築しその稼働を見極めてからでも遅くはありません」
「しかしそれでは、ご遺族の方々に申し訳が立たない……」
高階病院長の表情が揺れた。仮面が外れ素顔がのぞく。
「現場に踏みとどまる選択こそが、真の罪滅ぼしです。御自分の判断ミスは、御自分の手でケリをつけて下さい。我々リスクマネジメント委員会はこの間題を徹底的に追及します。その追及から、逃げないで下さい」
俺は、報道陣に向かい合った。
「本学リスクマネジメント委員会は病院執行部から独立し、新たな体制の下で本件を含めた周辺事情を独自に監査いたします。その結果は公開し、定期的にご報告します。この試みは新しい医療監査の可能性を提案することになるでしょう。今回の不祥事の責任者として高階病院長にはこの提案を実現させるために最大限の協力を行う義務がある。それは、今この場で辞めるよりも厳しく辛い道ですが、病院長、それこそあなたが採るべき道です。今回の問題は、医療事故ではなく異常者による殺人がその本質です。施設管理者である病院長としての責任は回避できませんが、医療システムの問題ではない以上、負うべき責任の質は異なってきます。そうしたことを勘案した結果、我々は以下の結論に達しました」
俺は会場全体をぐるり、と見回した。眩しい光の渦の中、俺は言葉を継いだ。
「我々リスクマネジメント委員会は、高階病院長の辞意撤回を要求いたします」
会見会場は静寂に包まれた。
会場の外郭で遠巻きに成り行きを見守っていた病院スタッフから、まばらで小さな拍手が起こった。それは明け方の穏やかな波打ち際に打ち寄せるさざ波のように、会場を静かに静かに満たしていった。
壇上の全員は一斉に起立し、津々とお辞儀をした。舞台の幕は下りた。
幕が下りた後、曳地委員長はうつろな表情で、うわごとのように呟き続けていた。
「私は知らない。何も聞いていないぞ」
曳地委員長が生まれて初めて発したと思われる、簡明でわかりやすい発言だったが、残念なことに誰ひとりその言葉に耳を傾ける者はいなかった。
*
病院長室に戻ると、机の上に一通の走り書きが残されていた。
――――――――――――――
Bravo!
とりあえずこれで一安心、小生はこれにて失礼します。
詳細は、後日また改めて。
白鳥圭輔 拝
P.S.田口先生、
視聴覚セクションの後かたづけの手配、よろしくお願いします
――――――――――――――
イリーガルで、ファイなヤツは、こうして俺の前から姿を消した。
今、俺の隣には、ぽっかりと空間が広がっている。
この会見を境に、東城大に対するマスコミの態度は、徐々に好意的になっていった。
高階病院長が悪役《ヒール》に徹しきったことと、ガラス張りで説明しようとする姿勢が、きちんと伝わったためだろう。メディア・リンチは思いの外早く収束した。情報を隠そうとするからつつかれる。ルールに従って呈示すれば、メディアだって常識的対応をするのだろう。
病院に対する反感が急速に収束したもうひとつの理由は、世の中の非難が氷室に集中し始めたためだった。拘束後一週間、一切口を開こうとしない氷室に、マスコミのバッシングは日増しに激しくなっていった。
そんなある日、氷室が取り調べで、ついに口を開いたというニュースが流れた。
ヤツはたった一言、こう眩いたという。
「これじゃあ、医者も壊れるぜ」
その後、氷室は二度と口を開こうとはしなかった。
メディアは連日、氷室のセリフを繰り返し垂れ流した。その言葉の真意を、医療関係者や精神科医、ひいては文化人や政治家までもが深読みし、おのおの内部にある不満因子で膨らませて、独自に発信し始めた。
大学執行部の旧体質。麻酔医の激務。外科医の傲慢。研修医の憂鬱。拝金主義の経営陣。権利ばかり振り回す患者たち。
氷室の言葉は、そうした現在の医療の現状の、ある一面を見事に切り取っていた。
社会は方向舵を失った機体のように、ダッチロールを始めた。拘置されているのに、世の中には氷室の言葉が溢れかえっている。
もともと壊れていたヤツが、今さら何を言ってやがる。
俺は吐き捨てた。誰が見ても負け惜しみだ。俺には大衆が、世の中が、氷室の術中にはまっていくのを為す術もなく見守るしかなかった。氷室は時代の寵児になり、東城大学医学部は背後の点景と化してしまった。
白鳥の言葉が、俺に突き刺さる。
――殺しちゃえばよかったんです、こんなヤツ。
氷室の言葉が、予言のように俺の心をからめ取る。
――後悔するよ。
氷室は正しかった。そして白鳥も。
俺は今、心の底から後悔している。そして率直に認めざるを得ない。緒戦は完敗だ。
その後しばらくして、東城大学のリスクマネジメント委員会が積極的かつ画期的な改革案を発表したが、移り気なメディアは、もはや見向きもしなかった。
言葉は輪郭を削る。人は自分の言葉で自分を削る。自分を自分の言葉という棺に閉じ込めて、ゆるやかに窒息させていく。氷室はそれを嫌って、言葉自体を削り取っていった。最小限の言葉で事実を鮮やかに描き出し、ヒトの心を縛る。
医者だって壊れる。
お見事。氷室はたった一言で、世の中を自分の色に染め上げてしまった。
氷室。彼にとって手術室は、白い棺だった。それが拘置所の冷たい檻に変わっただけのことだ。ヤツは今、冷たい檻の中で、ひとり勝利の美酒を味わっているかも知れない。だが、決して忘れさせはしない。その美酒を飲ませてやったのは俺だ。どれほど時間がかかろうとも、俺はそのグラスを砕く。いつか必ず。
それにしても、いくら考えても、どうしてもわからないことがひとつだけ、ある。
天は、なぜあの時、氷室を殺さなかったのだろうか。
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22章
後日談
3月下旬 4F・病院長室
数日後、俺は病院長の呼び出しを受けた。
病院長室の窓から遠景をぼんやりと見つめながら、俺は、初めてこの件でここに呼び出された日のことを思い出していた。チーム・バチスタの内部調査の依頼を受けてから、まだ二月も経っていない。それなのに窓から見える遠景は、俺の中ですっかり姿を変えてしまった。
俺は、赤いファイルを差し出した。
「資料をお返しします」
高階病院長は記事のページを開いた。色裸せたチーム・バチスタの集合写真。机に両肘をつき、指を組んで、俺を見つめた。
「土壇場の台本変更にはほとほと参りました。シナリオでは、今頃私は、のんびり釣り三昧のはずだったんですが。大切なところで油断しました。田口先生に辞表を預けたのは大失敗でしたね」
俺はにやにや笑う。まるでいつもの高階病院長のように。
「そもそもあの程度のシナリオで、この間題から逃げ切ろうなんて、甘すぎます」
言い終えてから、自分の中に白鳥の分身が巣喰ってしまったことを確認して、うんざりした。このパラサイトの駆除は、おそらく不可能だ。
「こうなってしまっては、仕方ありませんね。ただ、田口先生の命令に従わなければならない、というのはどう考えても癪《しゃく》ですが」
高階病院長は煙草に火をつけた。俺は気にかかっていたことを切り出した。
「チーム・バチスタは解体されるのですか」
「ええ。桐生君の辞意は固いです。黒崎教授と二人がかりで慰留したのですが翻意していただけませんでした。どのみち桐生君がメスを置くという決意は変わらないでしょう。まあ、桐生君あってのチーム・バチスタですからやむを得ません。幸い、緑内障の方は、治療に専念すれば失明するおそれはなさそうです」
「桐生先生は、どうされるのですか」
「サザンクロス病院に戻って、臓器移植ネットの環境整備を勉強しつつ、後進の指導にあたられるそうです。奥さんとも、やり直したいとおっしゃっていました」
「鳴海先生もご一緒ですか?」
「彼は日本に残ります。ちょうど病理医を探していた循環器病センターから招聘されました。ここに残っていただきたかったのですが、チーム・バチスタが解散した今、彼を引き留める理由はありません。鳴海先生にとってもその方が高度な診断技術を活かせますからね」
合わせ鏡が砕け散り、お互い自由を得たということか。これも、白鳥の外科手術のおかげだと思うと、俺はちょっぴりむしゃくしゃした。
「残念なニュースはまだあります。氷室君の取り調べが難航しているようです」
「なぜです? 氷室は全部私に白状しました。内容は、警察にも話してあります」
「そこがくせものでしてね。氷室君の殺人が物証つきで確定できるのは、ケース33、最後の小倉さんだけなんです。その上、彼は取り調べには完全黙秘していますからね。
地検は公判維持が困難だと判断して、ケース33以外は立件を見送る方針だそうです」
「そんなバカな。ガセネタじゃないんですか?」
「いいえ、検察庁の友人から聞いた極秘ネタです」
「なぜ、そんなことが……」
「何しろ、物証が乏しいですからね。最後の症例以外は、解剖も行われていないですし、死亡時医学検索情報はゼロに近い。自白も証拠もなければ、公判維持は無理でしょう」
俺は絶句した。一人分の殺人、しかも初犯だと、量刑はさほど重くない。医師免許剥脱は確実だろうが、数年後、氷室は間違いなく娑婆《しゃば》に出てくる。
「皮肉なことに、裁判や賠償問題がありますので、こうした流れを東城大学の上層部も容認せざるを得ないんです。病院と検察、そして氷室君の利害がはからずも一致してしまったんです」
高階病院長の表情に苦渋の色が浮かぶ。
「これじゃあ、医療現場の犯罪者は素通しじゃないですか」
「こうした問題を防ぐためには、オートプシー・イメージングなどを積極的に導入して、新しい死亡時医学検索の枠組みを構築していかなければならないでしょう。今回のケースでも、エー・アイ(Ai)なしでは、解剖承諾すら得られなかったかも知れません。
今回、氷室君の犯行を白日の下に明らかにすることができたのは奇跡のようなものです。白鳥君の協力があって、かつあのピンポイントでなければ、氷室君を押さえることは不可能だったでしょう。皮肉なことですが、これは東城大学医学部にとって最良の結果でした」
確かにその通りだろう。ただ、俺は全く別のことを考えていた。氷室という病巣の摘出が可能だったのは、桐生と高階病院長のおかげではないだろうか。自分の不利益になるかも知れない危険を顧みず、直感に従って監査を要請した桐生。それを受け、最良の手段を選択し続けた高階病院長。二人の意志によって氷室は、その身を潜めていた暗闇からあぶり出されてしまったのだ。
振り返ると、高階病院長の差配は、実に見事なものだった。俺という愚直なブルドーザーに整地させた土台に、白鳥というスティンガーを据え付ける。氷室という悪意に満ちたステルス戦闘機を撃ち落とすにはこれしかない、という絶妙の配備だった。
俺は一番始めに高階病院長が指摘した、三つの可能性を思い出した。
「不運。医療ミス。悪意によって引き起こされた事態」
術死初期の三例の真実を、すべて言い当てている。何という慧眼《けいがん》だろう。
俺の内心の賞賛に気づくことなく、高階病院長は、諦めきった口調でぽつんと続ける。
「この騒動で、氷室君は我々よりもはるかに望ましい結果を手にしました」
「三件のうち、一件の立件で済んでしまうからですか」
「田口先生は、すでに氷室君のトリックにひっかかっています。どうして氷室君の殺人が三件だと決めつけるのですか? 五例の術中死のうち最初の二例は医療過誤だ、と言ったのは氷室君自身です。果たして殺人犯の言葉をそのまま鵜呑みにしてもよいのでしょうか。一例目が氷室君の医療過誤で、あとの四例が殺人だった可能性も考えられます。ひょっとしたら、初めの一例目から殺人だったかも知れませんよ」
俺は、高階病院長の言葉に反論しようとした。術死第一例目に関しては、桐生自身も手術ミスの可能性を感じていた。きっかけがあれば誰でもヒト殺しになるという氷室の告白からも、ヒト殺しに手を染めるためにはきっかけが必要だったという告白からも、氷室にとって何かを偽り、自分を守ろうとする意図は乏しかったように思える。氷室の告白は信用できるのではないか。だが、高階病院長の言うことも否定できない。氷室の告白が真実かどうかは、もはや誰にもわからない。
真実を知っているのは、この世にただ一人、氷室だけなのだ。
もしも氷室が嘘をついたとしたなら、その狙いは何だろう。そう考えた時、俺の中に非条理な、だが妙に説得力のある考えが浮かんだ。
「氷室は、桐生先生を道連れにしようとしているのでしょうか?」
許されることではない。また論理的でもない。だが情念は時として、論理なんて軽々と超えてしまうものだ。それは仕方がないことかも知れない。この事件は、尽きてしまった自分の外科医としての命脈にしがみつき続けた桐生の妄執が引き起こした結果でもあるのだから。そう考えると、桐生兄弟の情念を氷室が抱いて、苦海の底深く沈んでいく光景は、おどろおどろしくも妙に切ない。
高階病院長は、ふと思い出したというように、俺の質問に答える。
「真実がどちらであるにしろ、本当のことは誰にもわからないのです。客観的には一切何も調べていないのですから。このケリのつけ方で、氷室君に対する、過去に遡った追及や断罪は難しくなりました。私たちが真実を知る機会は、永遠に失われてしまったのです」
きっとそれこそ、氷室が心から望んだことなのだろう。
俺は話題を変えた。
「それにしても白鳥調査官が留守の間に発作が起こってしまうなんて、本当にツイてなかったですね」
「あの発作は、偶然ではありません。氷室君が引き起こしたんです」
「発作を誘導するなんて、そんなことできるはずは……」
言いかけて、俺は気づいた。そういえば一回目の発作は胃薬のアレルギーが原因かも知れない、とカンファレンスでは認識されていた。
「どうやら思い出していただいたようですね。小倉さんが発作を起こす直前、氷室君が術前ラウンドに訪れていたことが看護記録に残っていました。氷室君は薬を直接小倉さんに手渡したのでしょう。一瞬の隙をついて、氷室君が我々に挑戦状をつきつけてきたんですよ」
「そうだったんですか。だとしたら、こんな騒動の最中に、白鳥調査官が優雅に国会図書館なんかにいったのがいけなかったんですね」
「本当に残念でした。そのことに関しては、白鳥君から手紙が来ています。彼が国会図書館で手に入れた資料と田口先生宛の私信が同封されていました。私に説明させて、できるだけ自分の手間を省こうという魂胆がよくわかる、いかにも白鳥君らしい手紙です。これを読むと、あの日彼がなぜ、国会図書館にいったかという理由もよくわかりますよ」
高階病院長は俺に封筒を手渡した。俺はパラパラと中を見て愕然とした。
「これは……」
「この情報を手に入れたので、手術が予定通りの日程で行われていれば、小倉さんを死なせることもなく、ピンポイントで氷室君を押さえることもできたのにと、とても残念がっていました」
俺は手にした資料と高階病院長の顔を交互に見た。
今、俺は素直な気持ちになって、白鳥の後ろ姿に拍手を贈る。とっくに気がついていた。白鳥はいつでも最善を尽くそうとしていた、ということに。
高階病院長はため息をついた。
「白鳥君もここまでわかっていたのなら、前もって一言伝えて下さっていれば、小倉さんの死は水際で防げたかも知れませんね。それだけは残念です」
「緊急通話が途切れたことは、本当に残念でした。でも、氷室はハナがいいヤツでしたから、中途半端に伝言を受けた私があの場にいたら、穴蔵にもぐり込んでしまったかも知れません。あそこでヤツの首根っこを押さえられなかったなら、私たちは永遠に氷室という殺人鬼を胎内に飼い続けることになった可能性もあったと思います」
「確かに、そうなってしまったかも知れませんね。まさに毒薬を注入する瞬間を押さえなければ犯罪が立証できない。それはとても難しいことだったでしょうね」
高階病院長の相づちに、俺はもう一度資料に視線を落とす。
「白鳥調査官でなければ、この病院から氷室を排除することはできなかったと思います」
*
博士号を取得した医師は、卒業論文を製本し国会図書館に献本するというしきたりがある。白鳥からの手紙に同封されていた資料は、氷室の博士論文のコピーだった。
その表紙には、黒々とタイトルが印字されていた。
「高位脊髄及び脳幹下部に対する硬膜外脛からの麻酔アプローチに関する一研究」
氷室はかつて、愛するイヌたちを黄泉の国へと送る小径を、実験の中で繰り返し往き来していたのだ。
*
俺は、俺宛の私信を手に取った。そこに白鳥がいた。
手紙の中の白鳥は、律儀で礼儀正しい、端正な男だった。
―――――――――――――――
前略
先日の記者会見はお見事でした。本来ならお暇乞のご挨拶をすべきところ、急用にて中座しましたことをお詫び申し上げます。貴君があそこまで明確に発言できる方とはつゆ知らず、存ぜぬこととはいえこれまでのご無礼の数々を思い、汗顔の至りです。
なお、今回の件で東城大学医学部付属病院は医療死関連問題の中立的第三者機関構築におけるモデル施設として認定されたことも併せてご報沓いたします。
病院組織から独立した監査制度という貴君の提案には全身に鳥肌が立ちました。こうした仕組みを中央集権的に構築していくことが、小生の業務ではありますが、建前だけの組織ができあがるだけではないかと、ひそかに危倶しておりました。役人にとってはこうしたことはしょせん他人事、完成してもまた使い勝手の悪い仕組みが一つできるだけだと、諦念に囚われてもおりました。しかし先日の貴君の言葉に希望の光を見た思いがします。貴君の言葉は、我々が進むべき方向を指し示しておりました。
命を守ろうとする心、悪を見逃さない眼。それは、現場の医師一人一人が、心の中に持つべきものです。か細い糸を張り巡らせて大切な命を守る。それこそが、唯一の正解なのでしょう。
本件では、目前の殺人を阻止できませんでした。慙愧に耐えません。小生はこの咎を背負い続けて生きていくのだと思います。しかし貴君の全面的な協力により、被害を最小限に留めることができたことは、不幸中にありながらも慶事の至りです。
医療の質の向上をめさし、今後も貴君のこ協力を頂戴できれば幸いです。
なお、貴君受講中の講座に関し、最終極意をお伝えし終講とさせていたたきます。
最終極意……すへての事象をありのままに見つめること。
貴君ならびに貴院のますますの御発展を祈念いたします。
草々
田口公平殿
弥生吉日
厚生労働省大臣官房秘書課付 枝官
(医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室室長)
白鳥圭輔 拝
―――――――――――――――
この程度の極意ならとっくに理解している。白鳥が身体を張って教えてくれたことではないか。それにしてもアクティヴ・フェーズの最終極意が、パッシヴ・フェーズの基本原理で閉じる、というのは、白鳥の最後の謎掛けなのだろうか。手紙の向こうで、白鳥が振り返って悪戯《いたずら》っぼくウィンクをする。最後までキマらない、ウィンク。
どうやら俺は、アクティヴ・フェーズの免許皆伝を無事、拝受したようだ。
白鳥が、目前の犯罪を防げなかったと自分を責めるのなら、俺だって同罪だ。しかし白鳥は俺を責めなかった。氷室が拘束され、小倉さんが亡くなってしまった今、俺たちには、追跡すべき標的も、守るべき対象も、残されていない。
俺たちのミッションは、終了したのだ。
手紙を読み終えた俺に、高階病院長が声をかける。
「白鳥君とは、これからもおつきあいが続きそうです。困ったものですねえ」
「ええ、確かに。でも、あんなヤツでも利用価値はありますよ。特にあの『不特定多数個人情報閲覧許可証』とかをふりかざせば、あちこちの不正をばっさばつさと暴いていけるでしょ」
高階病院長は目を丸くして俺を見た。
「田口先生、まさかあれが本物だと信じていらっしゃったんですか?」
「それじゃあ、……にせもの? でも、大臣のハンコが……」
「あれは、ハンコ作り機でこしらえた自作です。あんなものを使わなくても全面的に協力するからやめなさい、と言ったのですが、万が一のことがあるといけないから、と持ち歩いていたんです。作ってしまった以上、彼としても誰かに使ってみたかったんでしょう。私も田口先生相手だけなら、と黙認してしまったのですが。それにしても、あんなものを本物と信じ込んでしまうとは……」
高階病院長は、ほとほと呆れ果てた、と言わんばかりに小さく首を数回振った。
結局俺は、最後まで白鳥に振り回され続けたわけだ。俺は諦めて、小さく呟く。
|Bravo!《ブラヴォー》
高階病院長が話題を変える。
「今日ご足労願ったのは、他にもいくつか、お渡ししたいものがありまして」
俺に渡したいもの? 一体何だろう?
高階病院長は抽斗をあけると、封筒を二通、取り出した。
「まずは、これをどうぞ。お約束の品です」
『電子カルテ導入委員会委員長ヲ命ズ』
辞令だった。そうだ、これがご褒美だった。議長から委員長に格上げされているのは、特別報償《ボーナス》のつもりだろう。
「それから、もうひとつ」
手渡された紙を見て、俺は腰をぬかしそうになった。
『リスクマネジメント委員会委員長ヲ命ズ』
「ち、ちょっと待って下さい。いくらなんでも、こいつはちょっと……」
黒崎教授をはじめとした、タフでうっとうしいメンバーの面々が脳裏に浮かぶ。
「まあ、そうおっしゃらずに。この間の記者会見のでたらめのせいで、曳地委員長がすっかり不貞腐れてしまい、委員会を全部辞任すると言い出されましてね。もっとも曳地先生は今年定年だから、というのが表向きの理由にはなっていますが。そこで見回してみると、後釜は田口先生くらいしか見あたらないんですよ」
「私のような若造では、コンセンサスが得られると思えません」
「その点なら大丈夫。あれだけ盛大な花火を打ち上げた張本人なんですから、責任をとるのは当然でしょう。実を言うと、誰もこんなババを引きたがる人が他にいないんです。この役の引き受け手は、言い出しっぺの田口先生しかいないんです。田口先生は、今や病院長人事にまで介入できる、史上最強の万年講師にして、東城大学医学部の看板スターなんですから。今後も、問題に果敢に立ち向かい続けて下さい」
それだけ言うと例によって、ひねこびた笑顔でとどめを刺す。
「受けて下さいますね」
またしても詰将棋みたいに鮮やかに詰まされてしまった。
俺は自分の甘さにうんざりした。これは高階病院長の仕返しだ。釣り三昧の日々を奪った恨みは深い。彼の恨みを成仏させるには引き受けるより他はなさそうだった。
俺は抵抗を諦めた。
その気配を感じとって、高階病院長の周りの空気が緩む。
「よかった、これでひと安心です」
どさくさに紛れて、俺は過去の負債を精算することにした。
「これでようやく、学生時代の借金をお返しできます」
「何のことですか?」
卒業試験の口頭試問での出来事を話す。高階病院長は視線を窓の外にさまよわせていたが、記憶の小部屋にたどりついたのだろう、しばらくしてから、にっと笑う。
「まだそんな昔のことを気に病んでいらしたのですか。あの時私が、先生を合格させたことを恩に着る必要なんか、全然ないのですよ」
「でも温情だったのでしょう?」
「とんでもない。あの時私は、たかが外科の知識が少々足りないくらいで、こういう素直でアホな男を医者にするのを一年遅らせるのはもったいない、と思っただけです。考えてみて下さい。試験に合格した結果、先生に何かいいことありましたか? 一年余計に大学病院の雑務に埋もれることになっただけです。なのに、私は君に長く感謝される、大学も助かった。田口先生はそこそこの医者になって世の中の幸せを少し増やしている。私の裁量ひとつで誰も損はしていないし、みんなハッピーじゃないですか」
ハンマーでガツンとやられた気がした。俺は一体何を見て、何を考えてきたのだろう。白鳥のセリフがよぎる。
――もっと自分の頭で考えなよ。先入観を取り除いてさ……。
今ようやく俺は、卒業試験を終えたのだ。でもたぶん、俺は一生この人には頭が上がらない。
高階病院長が話題を変える。
「藤原さんとはうまくやっているようですね」
「おかげさまで。ずいぶん助かっています」
答えながら、病院長と藤原さんは知り合いなのだろうか、とちらりと考えた。その時、二人をつなぐ細い線が見えた。外科学教室の若き切れ者教授と、各科を渡り歩いた歴戦の看護師長。
こんな簡単なことに、なぜ今まで気がつかなかったのか。
チーム・バチスタの内部調査役として、俺に白羽の矢が立った本当の理由が、初めて理解できた気がした。
俺は、リスクマネジメント委員会で感じた違和感を思い出した。高階病院長は、松井総看護師長の質問に答え、俺が大友看護師の聞き取り調査に藤原さんを同席させた配慮を説明した。あの時の違和感の正体を今はっきり認識した。俺は、藤原さんに同席してもらったことを高階病院長に報告していない。報告するまでもない、枝葉の話だったからだ。
いったい誰が、そのことを高階病院長に伝えたのか?
俺の聞き取り調査がデッド・ロックに乗り上げる気配は、開始直後から感じられた。だが俺は、そうした途中経過は一切高階病院長には報告していない。それなのに俺がギブアップして病院長室に駆け込んだ翌日には、白鳥がフロリダで予備調査を終えて帰国し、その足で東城大学に派遣されている。エピソードから逆算すると高階病院長が厚生労働省に依頼したのは、どんなに遅く見積もったとしてもアガピ君の手術終了直後くらいでないとつじっまが合わない。
いったい誰が、俺の調査がデッド・ロックに乗り上げるという予見を、高階病院長に伝えることができたのか。そして、迅速な行動を採るように提案できたのか?
高階病院長は、考え込んだ俺を見つめていた。一言、呟く。
「マコリン」
「はあ?」
「藤原さんと揉め事になったら、言ってごらんなさい。きっとおとなしくなりますよ」
藤原其琴。それが不定愁訴外来・藤原専任看護師の名前だった。
病院長室を退去しようとしてトアノブに手をかけた時、思いついて俺は振り返る。
「そういえば、私は周りの人に、いつも趣味で訊いていることがあるんです。先生にも同じ質問をお尋ねしたいんですけどいいですか?」
高階病院長が視線で、どうぞ、と促す。
「高階先生のお名前の由来とかエビソートをお聞かせいただけますか?」
高階病院長の左眉がピクリと上がる。
「その質問を私にするのですか?」
「ええ」
「ウワサはご存じありませんか?」
「ええ、多分、聞いたことはあると思います」
「それでもあえてお聞きになりたい、と言うのですね?」
答える代わりに、俺はニッと笑う。高階病院長は、すうっと息を吸い込んだ。
「自分の名前の由来なんて知りません。知りたいと思ったこともありません。エピソードは腐るほどありますが、そいつをお聞きになりたいですか?」
俺はくすくす笑う。
「ええ、是非。でも言いたくなければ言わなくても結構です。これは個人的な趣味ですので」
「では、話したくありません」
むすっと黙り込んだ高階病院長に、そっと呪文を試してみる。
「……ゴンちゃん」
一瞬、静寂が流れた。怒ったような声が部屋一杯に響きわたる。
「これまでの功績を考慮し、今回は大目に見ます。田口先生とはこれで貸し借りなしです」
高階病院長と眼が合った。早く部屋を出ていけ、というように俺を眼で促す。
その眼はかすかに笑っていた。
お辞儀をひとつ残し、俺は病院長室を退去した。
高階権太。病院長は自分の名前をひどく嫌っていて、彼に面と向かって名前に関する話題を持ち出した人間を、次々に粛清していったという太古のウワサ。
彼に対して「ゴンちゃん」と呼べるのは、もう藤原さんくらいしかいないのだろう。
「マコリン」「ゴンちゃん」という対飼いの呪文は、封印された東城大学医学部付属病院のトップ・シークレットなのだ。
俺はふと、思った。この呪文を駆使して、天守閣へ続く扉を開け、権力の階段を駆け上ってみるのも悪くない。
手にした二枚の辞令が不意に、イカロスの翼に見えた。
*
翌日の愚痴外来は、千客万来だった。
一人目は兵藤だった。ふらりと珈琲を飲みに立ち寄り、いつものように貴重でジャンクな病院情報を語り聞かせていった。この後、数ヶ所のポイントのマーキングをしにいくのだろう。
二人目はアポイントなしのカネダ・キクさんだった。テニスジャージ姿でやってきた。ほんのりと化粧をしている。
「田口先生、その節はいろいろお世話になりました。私すっかり元気になったみたい」
服装が変わり、言葉遣いまで変化していた。
「もう、傷は痛みませんか?」
「ええ、おかげさまで」
「お元気そうで何よりです」
「ユウコさんが、テニススクールに誘って下さって、通い始めたんですの。コーチから、初めてとは思えないくらいお上手だ、なんて誉められてしまって」
「それは素晴らしい。私は、運動オンチですから。羨ましいですね」
「そうかしら。田口先生だって、おやりになってみればきっとお上手だと思うわ」
楽しげに笑う。こちらまで楽しい気持ちに染まる。ふと、キクさんの顔が曇る。
「あの、実はテニススクールの日程とこちらの外来に伺う予定が、重なってしまいますの。どうしたらいいのかしら」
「こちらは、痛みがなくなればお休みして構いませんよ。何かあったら、その時またいらして下さい」
キクさんの表情がばあっと明るくなる。
「それなら安心。じゃあ、しばらくお休みさせていただこうかしら」
「どうぞどうぞ。ここはそういう所ですから」
キクさんは、お辞儀をすると、いそいそと部屋を出ていった。キクさんの座っていた足許に、さくらの花びらがひとひら、置き忘れられていた。
*
患者に対して、俺がしてあげられることはほとんどない。話を聞くだけ。うなずき返すだけ。吐き出した思いのたけを上手に丸めて心にくるみ込むのは、話す本人自身だ。
そうした繰り返しをしていると、かさぶたがはがれるように、彼らから愚痴外来の存在がぽっかり抜け落ちる日が、突然訪れる。そうして彼らは愚痴外来を卒業する。
その時がくるまで、俺は黙って時のゆりかごをゆっくりゆする。
俺がしていることといえば、ただそれだけのことなのだ。
*
三人目は、大友さんだった。華やいだ化粧。内側から光が溢れ出していた。
「田口先生、藤原さん、その節は大変お世話になりました」
大友さんがぺこりと頭を下げる。
「大してお役にも立てなくて。今日はどういったご用ですか」
「実は、私、今月いっぱいで退職することになりましたので、ご挨拶に伺いました」
「おめでとう。ご結婚なさるんですってね」
藤原さんの言葉に頬を染めて、大友さんは小さくうなずく。俺が質問する。
「それはおめでとうございます。お相手はどういう方なんですか?」
「実は、酒井先生なんです」
俺は、椅子から転げ落ちそうになった。大友さんは笑顔に埋もれて言葉を綴る。
「チーム・バチスタに配属されてから、酒井先生にはいろいろと励ましてもらってました。でも始めのうちは、お互いそんな気持ちはなかったんです。それが、あの時酒井先生が白鳥さんに精一杯抗議してくれているのを見ていて、私の中で何かが変わったんです。あの後もずっと私をかばってくれたりして、気がついたらプロポーズされてました。そして気がついたら私、うなずいていたんです」
ここでもまた白鳥。うんざりしながらも、酒井と大友さんの組み合わせを心の中で並べてみる。姉さん女房。意外にしっくりする気もする。藤原さんが祝辞を述べる。
「おめでとう、本当によかったわね」
「ありがとうございます。フジさんにも田口先生にも、本当にお世話になりました」
「酒井君も大学を辞めるらしいね」
兵藤から、たった今仕入れた人事情報を確認する。
「実家の医院を継ぐことにしたんです。垣谷先生は慰留して下さったんですけど、あの人、桐生先生のいない大学には未練がない、とあっさり決めてしまったんです」
桐生の退職に伴い、垣谷が助教授に昇進することになった。これも兵藤情報だ。
「彼のお父さん、何科を開業されているかご存じですか?」
大友さんの質問に俺は、さあ、と首を傾げる。大友さんはいたずらっぼく笑う。
「実は神経内科なんです。あの人、実家に戻ったら愚痴外来でも始めようかな、なんて言って張り切っていますよ」
俺はむつとしてみせた。
「はなむけに先輩からの忠告をしますから、きちんと酒井君に伝えて下さい。愚痴外来は、生半可な気持ちでは務まらない。やるからには死に物狂いでやること。以上」
大友さんが笑う。
「しっかり伝えます。大丈夫です、私にはよくわかってますから」
「これからは、あんたがしっかり酒井先生の手綱を握らないとね」
綺麓な笑顔を残して大友さんは立ち上り、カーテンコールのようなお辞儀をした。そして祝福の言葉の花束を両手一杯に抱えて、春の陽射しの中へ歩き出す。
藤原さんと俺は、客が帰った後の、そこはかとない寂しさを感じながら、お茶をすすっていた。今日は藤原さんにあわせてお茶を飲みたい気分だった。
「みんな、いなくなってしまうわね」
「ええ、でも大友さんは幸せそうでしたね」
「本当にね」
にこにこしながらお茶を口にする藤原さんを見ているうちに、俺の中に小さな疑問が浮かんだ。
「……あれ?」
何? と藤原さんは俺を見る。
「確か、大友さんは女性しか愛せない人だったんじゃあ……?」
藤原さんはいたずらが見つかってしまった少女のように、ぺろっと舌を出す。
「ごめんなさい。実はあれ、ウソ」
俺は呆然とした。
「いや、あの……別にどうでもいいんですけど、どうしてそんなウソを?」
「聞き取り調査の時、あの娘、大泣きしたでしょう。あの状況下で、あの娘と田口先生が接触し続けたら、二人は惹かれ合っちゃうなとわかった。でも、あの娘と田口先生はダメ。絶対にうまくいかない。私にはわかるの。何しろ、医者と看護師の組み合わせをたくさん見てきたんだから。だからとっさにウソついちゃった」
そして、にまっと笑う。
「先生には、アタシくらいのすれからしがちょうどいいのよ」
藤原さんの笑顔が妙にあでやかだった。黄色と黒の警戒色のだんだら模様の女郎蜘蛛が、巣の真中で風にゆらゆら揺れているビジョンが一瞬、見えた。
俺は絶句した。大きく一つ深呼吸。それから心の中で怒鳴りつける。
この、ク・ソ・バ・バ・ア!
俺は、藤原さんの糸にからめ取られながら、いつか必ずここから脱出してやる、と決意していた。高階病院長から教えてもらった呪文を使うのは、まだ先にしておいた方がよさそうだ。
悔しいけれどしばらくの間は、心の中で「マコリン」とからかうだけで我慢しておこう。
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終章
さくら
この二ケ月は、長いような、短いような、不思議な時間だった。
桜吹雪の中を、俺と桐生は肩を並べ、病院正門へ向かって歩いていた。
春の陽射しに包まれて、こんな風にのんびりと、桐生と肩を並べて歩く日がくるなど、夢にも思わなかった。隣の桐生も同感らしい。
弥生三月、さくらの季節。明日、桐生は米国に帰還する。
「私は、間違っていたのでしょうか」
桐生の問いかけに俺は立ち止まる。二、三歩進んでから、桐生はゆっくり振り返る。俺の眼を真っ直ぐに見つめる。俺は首を横に振る。
「わかりません。桐生先生は正しかったし、間違ってもいたのでしょう」
桐生は桜吹雪に眼を細め、俺の言葉の続きを待っている。高く青い空に、俺と桐生の視線が吸い込まれていく。やがて、俺の言葉が空の彼方からゆっくり降りそそく。
「光には必ず闇が寄り添います。光をどれほど強めても、闇は消えません。光が強ければ強いほど、闇は濃く、深くなるのでしょう」
桐生は俺の言葉に耳を傾ける。やがて、ぽつりと言った。
「氷室君という闇は、ぞっとするくらい深かった……」
それから、さくらの花びらの吹き溜まりに視線を落とす。
「私にはふと、あの闇の深さが懐かしく思えることがあるんです」
「……33分の1」
俺が呟く。桐生は、えっ? という表情を俺に向ける。
「桐生先生のバナスタ術死率です。大した外科医です」
桐生は首を横に振る。
「いいえ。33分の5、です。オペの結果は私一人の力ではありません。失敗も成功もひっくるめてチーム・バチスタ、グロリアス・セブンの成績です。成功率八割は、まさしく私たちチームの実力です。結局私はそこそこ凡庸なバチスタ術者だったということです」
「そんなことありません。明確な悪意は除外すべきです。素晴らしい数字ですよ」
「そう言っていただけて嬉しいです。けれどもそんな数字は、もうどうでもいいんです。数字で人は救えません。失われた命を前にしたら、数字なんて何の意味も持たないのです」
俺は、桐生がそう答えるだろうということを知っていた。そして今、桐生に伝えなければならない言葉が俺の目の前にある。
「おっしゃる通りです。でも数字にも意味はあります。それは一人の外科医の航跡。未来の外科医が目指す、輝ける銀嶺への道標なんです」
桐生は照れ臭そうに笑う。
「その言葉、外科医冥利に尽きます」
桐生と並んで、ぽくぽく歩く。
不意に立ち止まり、桐生は青空に向かって大きくひとつ、のびをした。指先を溢れかえる桜の梢に届かせようとせんばかりに。春の陽射しを掴みとろうとせんばかりに。
桐生は、日輪に向けてつま先立ちになり、一瞬、真剣なまなざしをした。
その姿を振り返りながら、俺はぼんやり考える。
コイツは、これから先もずっとこうやって生きていくのだろう。
桐生は息をつき、つま先立ちの姿勢を戻す。それから蕩《とろ》けるような笑顔を俺に振り向ける。
「あとは頼みます」
桐生は、ボンと軽く肩を叩くように、何かを俺に託した。それが何か確認せずに、俺はうなずいた。確認しなくてもわかっている気がした。確認してはいけないような気がした。
桐生は安心したように、両腕をぐるぐると大きく回した。
「私も一度、愚痴外来、いや、不定愁訴外来を受診させてもらおうかな」
桐生は、言い間違いを慌てて訂正して、頭をかいた。万事そつのなかった桐生が、初めて俺に見せた小さなほころびだった。
「お断りします。桐生先生のような方は、私の外来の対象ではありません。ですが……」
俺は息をつき、空を見上げた。春には珍しい、澄みきった青空だった。
「どうしてもご希望でしたらアルコールを処方しましょう。今度サシで徹底的にやりませんか」
桐生は笑う。
「いいですね。カオスの泥沼の中、無制限一本勝負ですか」
悪くない。たまにはそういうのも悪くない。俺は桐生に笑い返す。
「場外乱陶で、ダブル・ノックダウンしそうだなあ…」
「場外乱闘と言えば……」
桐生が、ふと思いついた、というように言う。
「白鳥さんにも声をかけてみましょうか」
息せき切って駆けてくる白鳥の小太りの姿が、脳裏に鮮明に浮かび上がる。
俺はきっぱりと答える。
「絶対に、イヤです」
俺と桐生は、顔を見合わせてくすくす笑った。
ごう、と風がなった。周りの空気がさくら色に染まる。
眩しい光の中、散り惑う桜の花びらの洪水に、俺は一瞬、桐生の横顔を見失う。
春が、来ていた。
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この作品は、二〇〇六年二月に小社より単行本として刊行されたものです。
この物語はフィクションです。実在する人物、団体等とは一切関係ありません。
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〈解説〉
脳髄を抉《えぐ》る強烈なキャラ 茶木則雄(書評家)
第4回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した海堂尊『チーム・バチスタの栄光』がこの度、映画公開に先駆け、宝島社文庫に収録される運びとなった。新人賞受賞作としては近年、異例のベストセラーとなった本書は、文庫化および映画化を機にさらに多くの読者を獲得することだろう。世に送り出した選考委貝の一人として、まことに慶賀《りょうが》に堪えない。
『チーム・バチスタの栄光』が選ばれた二〇〇五年の最終選考会は、今でも鮮明に覚えている。四人の選考委員全員がA評価(±の強弱はあったが)を付けた結果、大賞がものの数十秒で決定するという史上最短、即決の受賞となった。全員が揃ってA評価を付けたのも初めてなら、議論を待たず採点結果だけで大賞が決まったのも初めての出来事である。まさに満場一致、全選考委員納得の受賞作だ。選評からその推奨ぶりを抜粋してみよう。
「リーダビリティと娯楽性は『このミス』大賞史上最高。それどころか、過去五年間のあらゆる新人賞受賞作の中でも、エンターテインメントとしての面白さでは、これが一番だと思う」(大森望)
「キャラは立っているし、展開もスリリング、面白さは確かに候補作中、随一」(香山二三郎)
「キャラクターの面白さ、語り口の巧さ、設定の斬新さは、読み手の脳髄を深く抉るものだった。一度読んだら忘れられない、ずば抜けた印象がこの作品にはある」(茶木則雄)
「(主役コンビは)強烈なキャラクターなのである。加えて彼ら以外の人物もいい。バイプレーヤーの魅力を発揮している。役者揃い。なんと凄い新人が現れたものか」(吉野仁)
何人かは控え目に言っても、褒めちぎった、としか言いようのない選評である(自分も含めて)。既存作家の作品でも、この四人が揃ってここまで褒めることは滅多にない。それだけ、作者が紛れもない才能を持つ俊英だ、ということの証左だろう。
『このミス』大賞史上最高と評された『バチスタ』のその後の栄光≠フ軌跡を、ここでさっと紹介しておく。
二〇〇六年二月に刊行された『チーム・バチスタの栄光』は二〇〇七年十月現在、二十八万部を突破し、〇六年十月に発表されたシリーズ第二作『ナイチンゲールの沈黙』はすでに十五万部を売り上げている。〇七年四月に上梓された第三作『ジェネラル・ルージュの凱旋』は発売半年で九万部に達しようかという勢いだ。シリーズ累計五十二万部は、新人作家の単行本としては破格の売れ行きと言っていい。
売れ行きもさることながら、驚くべきはその旺盛な執筆意欲である。作者は、〇六年十一月には角川書店からシリーズ番外編とも言うべき『螺鈿《らでん》迷宮』を上梓し、〇七年九月には講談社からシリーズの原初作品と言える『ブラックペアン1988』を発表した。デビューから一年半ちょっとで五作ということは、ほぼ四カ月に一作という驚異的なペースである。現役の医師として多忙を極める病院勤務の傍らの執筆活動だから、ただただ驚嘆する他ない。
驚くのは売れ行きや執筆ペースばかりではない。書評の掲載実績が、これまた凄いのだ。『チーム・バチスタの栄光』を取り上げた掲載紙誌は、発売後二カ月足らずで主だったものだけでもその数、六十余。読売、朝日、毎日の三大紙は言うに及ばず、地方紙、夕刊紙、スポーツ紙にまで紹介文が掲載され、週刊誌、月刊誌、女性誌、専門誌と、カラスが鳴かぬ日はあっても『バチスタ』の書評が出ない日はない、という席捲ぶりだった。その大半が極めて好意的なもので、新人賞受賞作がこれはと持て囃《はや》されたのは、初の日本ホラー大賞受賞作となった瀬名秀明『パラサイト・イヴ』以来だろう。少なくとも今世紀では、最高の書評掲載実績だと思う。
そしてこの年の暮れ、『バチスタ』はまたしても、『このミス』大賞史上初の快挙を成し遂げる。年末恒例の「週刊文春ミステリーベスト10」で、国内部門三位に選ばれたのだ。ちなみに一位は宮部みゆき『名もなき毒』、二位は大沢在昌『狼花 新宿鮫\』であった。東野圭吾、福井晴敏、京極夏彦といったお馴染みのベストセラー作家を抑えての上位入賞だから、その価値は高い。
いったいどうして、これほど『バチスタ』は評価されたのか。第一の要因は、何と言っても、主役コンビの強烈なキャラクターだろう。コナン・ドイルが生み出した名探偵シャーロック・ホームズと言えば、忘れてならないのが友人で補佐役のワトソン博士だ。ワトソンが事件の概要を語り、捜査の下調べを担う。それを基にホームズが快刀乱麻を断つ名推理を下す。その伝で言えば、本書もミステリー界にあまたあるホームズ=ワトソン・コンビの一種だ。ワトソン役は東城大学医学部神経内科教室の講師を務める田口公平。ホームズ役は厚生労働省の役人である白鳥圭輔。が、この田口=白鳥コンビ、並のホームズ=ワトソン・コンビじゃないのである。
田口は本来ガテン系の外科体質だが、血を見るのが苦手で、手術室から最も縁遠い神経内科に入局する。しかし上昇志向が全くなく、学部内の権力闘争に露ほども関心を示さない変わり者だ。出世意欲はないけど保身の術には長けていて、医局内の出世闘争を巧みに遣り過ごし、年功序列で納まった医局長の地位と引き換えにささやかな自分の城を手に入れる。その名も不定愁訴外来――通称、グチ外来だ。田口のグチと愚痴を掛けたこの外来は、病院内部でそれなりの存在価値を発揮し、いつしか教授といえども迂闊に手を出せない聖域となっていった。が、大学の浮浪雲《はぐれぐも》≠ニも言うべき窓際族の田口に、ある日、病院長の高階から思いがけない密命が下る。東城大学医学部付属病院のエース、桐生恭一率いるバチスタ手術チームを調査しろというのだ。
バチスタ手術とは拡張型心筋症に対する手術術式のひとつで、肥大した心臓を切り取って小さく成形し、心臓の収縮機能を回復させるというものだ。正式学術名称は左心室縮小形成術だが、創始者であるR・バチスタ博士の名前を冠した俗称の方が広く知られている。アメリカの心臓専門病院で技量を磨いた桐生はこの分野の国内第一人者で、臓器統御外科助教授として東城大に招聘されて以来、チーム・バチスタと呼ばれる専門チームを結成し、リスクの高いこの手術で次々と成功を収めていた。その勇名は「チーム・バチスタの奇跡」という見出しで新聞にも取り上げられたほどだ。ところが、ここ三例立て続けに術中死が起こり、折しも、次の患者は海外の少年ゲリラ兵士ということでマスコミの注目を集めていた。そこで、このところの術中死がたまたま不運の連続したものなのか、それとも医療過誤か、故意――すなわち殺人なのか、内部調査しろというのだった。
なぜ窓際族の万年講師に、大事な調査を任せるのか。まずはここが最初の読ませところだろう。作者は、大学病院における権力闘争や、疲弊硬直した内部組織の実態を暴きつつ、田口と高階の過去の経緯をはじめとする院内の人間模様を巧みに織り込み、読者を納得させていく。と同時に、田口の変わり者だが変人ではなく、横着者だが真摯に患者に向かい、冷めているようで内部に熱を封じ込めている特異なキャラクターを、読者の前で徐々につまびらかにしていくのだ。このあたりはまったくもって、新人離れした上手さと言っていい。初対面の人間に名前の由来を訊く趣味も事件と有機的に絡み、面談者の性格を写しとるうえで有効な役割を担っている。田口は歴代ワトソン役の中でも、かなり上位に入る出色の個性だと思うが、どうだろう。
しかしそれ以上に凄いのが、火喰い鳥≠フ異名をとるロジカル・モンスター、白鳥である。厚生労働省大臣官房秘書課付技官で、医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室室長という、いかにもお役所的な長い肩書きを持つこの男のキャラクターは、いわく言い難いものがある。白鳥が駆使するアクティヴ・フェーズ調査とパッシヴ・フェーズ調査の違いを理解する以上に、この奇妙奇天烈なキャラを一口で説明するのは困難だ。奥田英朗『イン・ザ・プール』の一連のシリーズに登場する変人キャラ、精神科医の伊良部一郎をさらに強烈にしたキャラクターと言えば、未読の読者にも少し分かってもらえるかもしれない。あるいは、ドラマ「トリック」で阿部寛が演じる自称・天才物理学者の上田次郎を、より苛烈にしたキャラと言ってもいい。いずれにしろ、白鳥キャラは本書最大の読ませどころだ。読者は実際にその眼で、各自じっくり検証していただきたい。強烈な個性に、脳髄を抉られること請け合いである。
「バチスタ」が高い評価を集めた第二の要因は、現役の医師ならではの、専門知識を駆使した細部の迫真性にある。海外ドラマの「ER」顔負けの臨場感と緊迫感は、近年の医療小説では出色と言っていい。と同時に、崩壊寸前の大学病院の現状や医療現場の危機的状況など、現代医療が抱える今日的問題を隠しテーマとして内包している点も、見逃すべきではない。作者はその後の作品でも、このテーマを一貫して追求している。医療現場を舞台にするかぎり、おそらくこの姿勢は変わらないだろう。むしろ、こうしたことを書きたくて作家になったのでは、と私自身は考えている次第だ。
プロットもよく練られており、手術室という衆人環視の密室≠ナ起きた事件を手際よく処理していく作者のメス捌き≠ヘ鮮やかの一語に尽きる。犯行の動機もミステリー的に十分納得がいくもので、この点も多くの支持を集めた理由のひとつだろう。
しかしそれにしても、これがデビュー作というのだから恐れ入る。いやはやまったく、凄い新人が現れたものだ。
まさしく、「このミステリーがすごいー」と、自信を持って送り出せる傑作である。どうか存分に堪能していただきたい。
二〇〇七年十月
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チーム・バチスタの栄光(下)(ちーむばちすたのえいこう・げ)
2007年11月26日 第1刷発行
2007年12月10日 第2刷発行
著 者 海堂 尊
発行人 蓮見清一
発行所 株式会社 宝島社
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Copyright◎2007 by Takeru Kaidou
First published 2006 by Takarajimasha,lnc.
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Printed and bound in Japan
lSBN978-4-7966-9196-8
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『このミステリーがすごい!』大賞シリーズ 好評既刊
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