チーム・バチスタの栄光(上)   海堂 尊   宝島社
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チ ー ム ・ バ チ ス タ の 栄 光 (上)    日  次
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第 一 部………………………ネ  ガ………………………ゆ り か ご…9
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1章 遠景…10
2章 監査を望む鷹…21
3章 愚痴外来…40
4章 チーム・バチスタの奇跡…61
5章 顔合わせ…75
6章 聞き取り調査1日目…87
7章 聞き取り調査2日目…119
8章 外科医の血脈…142
9章 アフリカの不発弾…162
10章 聞き取り調査3日目…177
11章 バチスタ・ケース32…197
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第 二 部………………………ポ  ジ………………………白  い  棺…215
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12章 廊下とんび…216
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チ  ー  ム ・ バ  チ  ス  タ  の  栄  光  (上)
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第 一 部         ネ   ガ        ゆ  り  か  ご
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1章
遠景
2月4日月曜日 午前8時30分 4F・病院長室
月曜、朝八時三十分。
俺は、病院長室の窓からの景色に見とれていた。
こうした所に呼び出されると、自分が大学病院に向いていないということをつくづく思い知らされる。だから気持ちは窓の外に逃避する。といっても、俺のような下っ端が病院長からじきじきに呼び出される機会は滅多にない。それはつまり自分が組織には合わないという事実をつきつけられる機会も少ないということで、その点から見ると、俺は案外幸運かも知れない、と思う。
それでも、本当についているのかと自問すれば、月曜朝一番に病院長室に呼び出しを喰らうのが、今週一番の幸運な星座の運命だとはどうしても思えない。
眼下に広がるのは桜宮市街だ。低層の建物の中に時折、調子はずれの中高層のピルが混じる。そうした病院長室の窓からの景色には、密かな愛着と憧憶がある。滅多に足を踏み入れることがないため、その風景にはかえって強く惹きつけられる。
こう言うと、そんなのはスカイ・レストラン『満天』からの景色と同じさ、とちゃちゃを入れるヤツが必ず出てくる。だが、そんなセリフを吐くのは「もののあはれ」を解さない無粋なヤツに決まっている。重厚な調度品に囲まれた静謐《せいひつ》な窓からの風景と、白衣をだらしなく着込んだ医師が一杯三百円のうどんをすする猥雑な空間からの景色が同じだと強弁する輩《やから》に、俺のささやかなあこがれを理解できるはずもない。
額縁が替わると絵の価値が変わってしまうこともある。病院長室の窓からの景色には、神秘的な何かがある。誰が何と言おうと、俺はそう思う。
あれは権力の残り香かも知れない。
下層階級の俺は、いつも権力からの距離の取り方に苦労している。つかず離れず。権力はわずらわしいお客様だ。それでもこの景色を好きなだけ堪能できるなら、たまには病院長室に招待されるのもそんなに悪くはないと、場違いな夢想をして時をやり過ごす。
小柄なロマンスグレー、高階《たかしな》病院長は読経のような独り言を中断し、出し抜けに質問してきた。
「田口先生、ここまでの話は、理解していただけましたか」
「え、は、まあ、その……あまり自信はないのですが」
俺の生返事に、高階病院長はにやにやと笑う。そのひねこびた笑顔を眺めていると、ふと卒業試験の口頭試問の場面を思い出す。あれからもう十五年経つのか。この人はあの頃とほとんど変わらない。
「ま、あなたのような方に、まわりくどい言い方をしても無駄ですね。単刀直入に申し上げます。臓器統御外科の桐生《きリゅう》君をご存じですか?」
「本学で彼の名を知らなければモグリでしょう。鳴り物入りで招聘《しょうへい》された米国帰り、周囲の期待と予想をはるかに越えた成果を収めたスーパー・スターですから」
俺の要約に高階病院長は、うっすらと笑う。俺はふとウワサを思い出す。桐生を第一外科の助教授に推薦したのが、第二外科教授の高階病院長だったというウワサ。その時に すったもんだ″ があったというウワサ。
かたや東城大学医学部臓器統御外科のエース助教授、かたや神経内科の窓際万年講師。身分違いの俺を名指しで呼び出し、いきなり雲の上のスターの話を切り出す高階病院長の真意を測りかね、次の言葉を待つ。革張りの黒い椅子に沈み込んでいた高階病院長はおもむろに身体を起こし、机に両肘をついて俺を見上げた。
「田口先生、実は君に桐生君の手術チームの調査をお願いしたいのです」
何だ、何なんだ? 予期せぬ流れに一瞬バランスを崩しかける。すかさず、横着者が持つ自己保身のセンサーエフンプが点滅する。
「内部監査はリスクマネジメント担当の先生の仕事のはずですが」
医療事故が頻発する昨今、リスクマネジメント委員会を常設することは、病院の常識だ。
高階病院長は、小さく首を振る。
「私の言い方が悪かったかも知れません。内部監査が必要かどうかという、予備調査をしていただきたいのです」
「おっしゃる意味が全くわかりません。何か問題でもあったのですか?」
高階病院長は、背後の本棚から赤いファイルを取り出すと、俺の手許に滑らせた。
開かれたページに視線を落とすと、『チーム・バチスタの奇跡』という見出しが目に飛び込んできた。
「これなら読みました。桐生先生をベタ誉めした記事ですよね」
日付を碓認する。半年前、夏の盛りの頃の記事だ。高階病院長がうなずいた。
「桐生君が臓器統御外科の助教授に着任してから一年、彼の名を慕い全国から症例が集まってきました。半年で十五例のバチスタ手術が行われて、そのすべてに成功する、という華々しい船出でした。その後も症例は着実に増え、一年たった今では三十例に達しています」
バチスタ手術は、学術的な正式名称を「左心室縮小形成術」という。一般的には正式名称よりも、創始者R・バチスタ博士の名を冠した俗称の方が通りがよい。拡張型心筋症に対する手術術式の一つである。
肥大した心臓を切り取り小さく作り直すという、単純な発想による大胆な手術。余分なものなら取っちまえというラテンのノリ。こんな手術を思いつくだけですでに常軌を逸している。その上実行までしてしまうサンバの国、ブラジル。
手技は難しくリスクは高い。成功率平均六割。バチスタ手術に手を出さない医療施設も多い。門外漁の俺にもこの程度の基礎知識はある。一般的ではないが、有名な手術である。
高階病院長は説明を続けた。
「このバチスタ手術が最近、三例立て続けに失敗しているのです」
心臓手術失敗とは患者の死亡を意味する。確かに好ましい状況ではない。だが、もともとバチスタ手術のリスクは高い。30分の3という数字に、神経質になる必要はあるのだろうか。俺は率直に尋ねた。
「三例の失敗は問題ですか? トータルでは、十分好成績だと思いますが」
「そうですね。ただ三例とも術中死だった点が問題なんです」
「手術ミスだとお考えですか?」
「桐生君本人は否定しています。客観的な確認は取れていません」
「これは間違いなく、リスクマネジメント委員の仕事ですね」
俺は断言した。高階病院長は苦笑する。
「おっしゃる通りです。ですがそうすると、困った問題があるんです。この件を私から申し上げますと、臓器統御外科の黒崎教授に誤解されかねません。その上、正式な報告義務も生じますので、医療事故でなかった場合、病院が無意味に蒙《こうも》るダメージは小さくありません」
高階病院長は、俺から視線を切らずに言う。
「そこで田口先生に、この件がリスクマネジメント委員会における検討事案に該当するかどうか、予備調査で見極めていただきたいのです」
あまりに唐突な申し出に、俺は思わず顔を伏せる。確か、臓器統御外科のリスクマネジャーは黒崎教授御自身のはずだ。この役職をヘビー級の人材が担当することは珍しく、記憶の片隅に残っている。すると高階病院長の話もうなずける。確かに重量級の配備を突破するのは気が重いだろう。それでも剛腕で鳴る、あの高階病院長がその程度のことで逡巡《しゅんじゅん》するとは少々意外だ。
「高階先生はそういうしがらみは、あまり気になきらない方だと思っていました」
うっかり口をすべらせた俺に、高階病院長は穏やかに反応する。
「君は、学生の頃と変わりませんね。病院長に対してそういう発言をなさる度胸には、つくづく感心します」
減点1。慌ててリカバリーを試みる。
「度胸なんてないです。鈍感なだけです。言葉が過ぎました」
「あやまることはないですよ。これでも一応、誉めているんですから」
高階病院長は鷹揚に応える。これで減点カウンターをゼロに戻すヤツがいたら、相当なおっちょこちょいだ。高階病院長は真顔に戻った。
「私は、病院の体面を守るために、こうしたことをお願いしようというのではありません。これが、リスクマネジメントでは対応できないような、途轍《とてつ》もない事態であるかも知れないということを怖れているのです」
黙りこんだ俺に、高階病院長は続ける。
「それに加えてひとつ、想像してみて下さい。もしもこの件を、リスクマネジメント委員会の曳地《ひきち》委員長に依頼したら、一体どういう反応をなさるでしょうか」
反射的に、曳地助教授の顔と独特な言い回しが浮かぶ。
(……この案件は果たして当委員会で対応することが要求されるべき案件であるかどうか、そこのところについて、どのようにお考えになるのか、さまざまな意見を総合的に勘案して、可及的速やかに対応をはかるべきかどうかを、直ちに早急に検討に入るべきかどうか、こうした点を含めてできるだけ多数の才たちの厳正中立的な意見をふまえた前提で……)
自分勝手に想像した挙句、そのセリフにげんなりしてしまう。二重否定どころか、三重否定あげくは四重否定すらをも辞さない怒涛の修辞で、物事すべてを霧中に埋もれさせることを得意技とする曳地委員長の、曇りがちな眼鏡をかけた顔がぼんやり浮かぶ。
げんなりしている俺を見て、高階病院長はきっぱりと言う。
「この間題に対応するためには、リスクマネジメント委員会では時間がかかりすぎるのです」
確かにおっしゃる通りなのだろう。
俺は、高階病院長がこの件をリスクマネジメント委員会に諮《はか》ることをためらう気持ちは理解した。それもそんじょそこらの理解ではない。痛いほど正確な理解、というヤツだ。
それでも相変わらず、その真意は理解できない。何をそんなに心配しているのか、さっぱりわからない。途轍もない事が起こっているのかも知れないと言われても、どうにもぴんと来ない。すべてが暖昧すぎるのだ。こんな時には、単刀直入に尋ねてみるのが一番手っ取り早い。
「高階先生が私に何をさせたいのか、よくわかりません」
高階病院長は俺を見つめた。それから、ためらいを振りはらうように言う。
「お願いしたいことはたったの二つです。過去の術死一二件の調査、それから次回の手術の観察です」
「次回の手術の観察ですって?」
いきなり何てことを言い出すのだろう。一瞬呆然としてしまった俺は我に返り、補足質問をした。
「予定はいつですか?」
「三日後です」
しゃあしゃあと、もとい、淡々と告げる高階病院長を俺は呆れ顔で眺める。
「無理ですよ。予備知識を仕込む時間もないじゃないですか。外科オンチの私が、手術を監視するのは難しいと思います。私の外科学の知識の頂点は卒業試験の時なんですから」
それがどういうことを意味するのか、この人なら充分に理解できるはずだ。
「ご心配には及びません。お願いしたいのは、監視ではなく観察ですから。中立的で先入観のない冷静な視点から、手術をご覧になっていただきたいのです。
田口先生が手に負えないと思ったり、まさしくリスクマネジメント案件だと判断したなら、いつでもおっしゃって下さい。その時はすぐにこちらで差配しますから」
高階病院長は、視線を窓の外に向けた。そうして、俺に対してではなく、まるで遠い世界の誰かに語りかけるように言う。
「これらの術死には三つの可能性が考えられます。たまたま連続した不運。医療事故。
それから、悪意によって事態が引き起こされている可能性、です」。
一瞬、口調に厳しさが混じる。それからもとの穏やかな表情に立ち返り、続ける。
「田口先生には、そこを見極めていただきたいのです」
悪意により引き起こされた事態……最後の言葉を咀嚼《そしゃく》していると、別の表現が浮かんだ。ぼやけた像が焦点を結ぶ。俺はぎょっとした。
高階病院長は、一連の術死が故意に引き起こされたという可能性まで念頭においている。それなら、リスクマネジメントの範疇《はんちゅう》を逸脱することは確実だ。
だって、それは殺人なのだから。
でもそれこそ、本当に疑問に思う。
それって、俺がやるべきことなのだろうか?
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2章
監査を望む鷹
2月4日月曜日 午前8時50分 4F・病院長室
高階病院長の意図に対する理解は少し進んだ。斥候として現場にもぐり込み、問題を抽出して判断しろという趣旨なのだろう。それでもまだ疑問が二つ残った。
疑問その一。高階病院長がここまで心配する理由がよくわからない。三〇分の三、術死率一〇%という数字は平均術死率四〇%よりもはるかに良好な成績だ。普通なら失敗がたまたま続いたと考える方が自然だ。しかしそれなら調査は不要だ。何かがそこにあるのだろう。けれどもここまでの説明では、それが一体何なのかは靄《もや》の中だ。
疑問その二。俺が調査役に選ばれた理由がわからない。これまで病院長とご稼がなかった俺を突然指名してきたのはなぜだろう。
そもそも、病院長直命とあらば、こうした雑役でも勇んで引き受けるヤツは多いはずだし、俺の他の誰を選んでも、俺よりは絶対にマシだと思う。例えば、ウチの兵藤君なんかは最適任候補者の一人だろう。上昇志向が欠落している俺は、この任務には向かない。なにしろ俺はかつて、出世の階段を降りようとしたこともあるくらいなのだから。病院長の覚えが麗しくなるというご褒美は、実は俺にとっては全然魅力がない。
俺は、高階病院長の思い違いをやんわりと指摘した。
「病院にとっても、私がやるメリットがあるとは思えません」
私にとっても≠ニいうフレーズは省略した。俺にもその程度のたしなみはある。ただし省略した文節は、「病院にとっても」の「も」の部分にしっかりと隠喩としてすべり込ませてある。大学病院で長くやっていくためには、この程度の修辞法は必修課目だ。こうしたことをなおざりにしていると、いつの間にか自分のテリトリーが喰い破られてしまう。
俺のセリフを聞き流し、高階病院長は質問を変えた。まるで散歩ついでに立ち寄ったというような気軽さだった。
「ところで、電子カルテ導入委員会の進捗加減の方はいかがですか?」
「それは、病院長の方がよくご存じではないですか? 曳地委員長の石頭には、ほとほと難渋してます」
減点2。牽制球というのはいつでも出し抜けだし、また、そうでなければ意味がない。他に気をとられてベースを離れていた俺は、つい口をすべらせた。呼吸器内科の曳地助教授は、電子カルテ導入委員会委員長を務めているが、同時にリスクマネジメント委員会委員長も兼任している。大学病院では、目的が不明確な批判は命取り。牽制タッチアウト。
高階病院長は俺の言葉をやりすごした。ミスに気がつかなかったはずはない。
大学病院では、毎日あちこちで、たんばぼのようなお茶会が開かれている。それが委員会と呼ばれる会議で、そこにはいつも似たようなメンバーが集う。電子カルテ導入委員会もそのうちの一つで、俺はメンバーの一人だ。
立ち上げ直後、電子カルテを導入するという基本方針が合意に至った。しかし具体的な検討に入ると、鏡の表面のように波風ひとつ立てない予定調和を目指す曳地委員長の決断力のなさが遺憾なく発揮され、物事は一向に進まない。
医療行為をすべてコンピューター入力するという労力に対する反発は大きい。しかし、電子カルテ導入の進捗が滞っている本当の理由は、「カルテは患者のものでなく医者のもの」という旧世代医師の時代錯誤的感覚の死守にある。
それくらいのことには、みんなうすうす気づいている。誰もあえて口にしようとはしないけれど。
ぼんやりした俺に向かって高階病院長は言う。
「そろそろ委員会の改選時期なのですが、田口先生に電子カルテ導入委員会の議長をお引き受けいただけないものか、と考えているんです」
俺が議長だったら、導入は確実に早くなるだろう。そのくらいの自負はある。
「それは交換条件ですか?」
「そう質問されたら、そんなことありません、とお答えしなければなりませんね。但し、そのお答えをした時には、この要請はなくなっているとは思いますが……」
これがご褒美か。しかも減点2はお目こぼしになるだろう。どうしようか。
一カ所逃げ道を作っておいて、そこに向かって追いつめる。孫子の兵法の応用だ。わかっていてもどうしようもない。俺は肚をくくる。
「私に調べさせる以上、徹底的にやってしまうかもしれませんが……」
「結構です」
「内緒で調べることはできません。当事者にはわかってしまいます」
「それも結構です。引き受けて下さいますね」
「桐生先生には、病院長ご自身から事情を直接説明していただかないとこの先には進めません」
「そうおっしゃるだろうと思って、桐生君には研究室で待機してもらっています。すぐにお呼びしましょう」
旧第二外科、現在消化器腫瘍外科教室の高階教授のメス捌《さば》きは、東城大学医学部の伝説領域にある。活躍の場が院内政治に移行してもその切れ味は変わらないようだ。
まるで一本道の詰め将棋だ。俺にはもう逃げ道は残されていない。こうなってしまったらせめて電子カルテ導入委員会の議長というエサにつられたという体裁でもとらないと、格好がつかない。
高階病院長が受話器を取り上げ、一言二言話す。
「今、上がってくるそうです」
部屋にさしこむ冬の陽射しは暖かい。わずかばかり季節を先取りして、春のようだ。高階病院長と俺は、ほんの短い間、穏やかな部屋の空気をゆったりと共有した。
力強いノックの音がした。
ドアが開き、長身の中年男性が、部屋の中に静かにすべり込んできた。
「桐生恭一です」
よく通るバリトン。自己紹介の一言で、部屋の空気が真夏に塗り変えられる。
一重瞼の細い眼、通った鼻筋、大きな口。眼の前に立たれるだけで感じる風圧。隠しきれず溢れ出る自信。全身を覆う、うんざりするほど強烈な生命力。
派手なヤツ。ミーハー体質の女なら、一口日でいちころだろう。ただし俺にとっては、一緒に飲みにいきたくなるようなタイプではない。
猛禽類を思い浮かべた。鷲? 鷹? それともハゲタカだろうか。
「田口公平です」
名は体を表す、とはよく言ったものだ。彼はどこからどう見ても「桐生恭二だし、俺の方は「田口公平」以外の何ものでもない。なぜ、世の中はかくも不公平なのだろう。自己紹介をするたびに俺は、公平と名付けた親をこっそりなじる。
桐生は俺の眼をまっすぐに見て、右手を差し出す。伏し目がちの俺は、とまどいながらその手を握り返す。力強く分厚い手の平と、繊細でしなやかな細い指を併せ持つ右手。
「田口先生のお話は、高階先生から伺っています」
「どうせ、ろくでもない話でしょう」
「いえ、素晴らしい評価です。院内の出世競争から完全に手を引きながら、大学に居残り続けているタフな方だと」
それって、誉め言葉なのか? 高階病院長は、眼の前に組んだ指を開いたり閉じたりして、素知らぬ顔をしている。
俺はその指の動きを視野の片隅に入れながら、言う。
「的外れな評価です。やりたいことはやる、やりたくないことはサボる。わがままなナマケモノなだけです」
桐生は笑う。開けっぴろげの印象。案外、ウラはないヤツかも知れない。
俺は第一印象を微調整した。それでもそこには、そつなく人を引きずり込んでしまう油断ならない何かがある。人はそれを魅力と呼ぶのかも知れないが。
端正な物言いから、とりあえず桐生の印象を「鷹」に確定する。
「院長にあなたの手術チームの調査をするように言われました。よろしいですか」
病院長を前に、改めて一言確認を入れる。
関係者に同時に言葉を伝えるやり方は、組織の中心から外れて生きる俺が、自然に身につけた護身術だ。大学では、言った言わないの問題が常について回る。高階病院長は、口にしたことを別の場で翻《ひるがえ》すようなことはしないだろう。桐生もそういうタイプには見えない。それでも事実と異なるウワサが流れ、流れの中で事実の方が変形し、ウワサ通りになってしまうこともある。それがここ、大学病院という組織だ。
桐生は間髪いれず、答えた。
「結構です。私が病院長にお願いしたことですから」
俺は驚いて訊き返した。
「ご自分から進んで、この調査を依頼されたのですか?」
「ええ」
「なぜですか。手術ミスではない、と確信しているとお聞きしましたが」
桐生はうなずく。それならなぜ、という問いかけを出鼻で押さえ桐生は続けた。
「手術ミスでないと確信しているからこそお願いしたのです。
心臓手術では、患者を一度殺します。心臓を止めるわけですから。執刀医の手技が未熟だと手術後に患者を死の世界から連れ戻すことができず、おきざりにしてしまう。
そのようにして、私のメスが奪った命は過去に少なからずあります」
桐生の言葉に背筋が寒くなる。
たった今、自分は人殺しだ、という衝撃の告白を間かされたのだ。そのスキャンダルを他人事のようにあっさり話す桐生からは、かすかに蛮族の匂いが漂う。
「それがイヤで私はひたすら技術を磨きました。その結果、失敗した場合でも、少なくとも自分が犯したミスのありかを自覚できる程度にはなりました」
高階病院長が小さくうなずく。かつて同じ道を通ったという共感のかけらが、その表情に浮かぶ。
「高階病院長のお力添えで、思った通りのチーム編成ができました。おかげで着任以来、私の感覚は一段と鋭敏になりました。今では失敗しそうな箇所にさしかかると、気配を察知し事前に回避できるようになりました。その積み重ねが、二十六連勝という結果なのです」
「すごいですね」
俺は二重の意味で感心した。ひとつは桐生が話す内容そのもの、つまり彼が達成した、高度で神がかった技術について。もうひとつは初対面の人間に対し、こうしたことを臆面なく語れる桐生の精神構造に対して。俺の賛辞に対し、桐生は困ったような表情で続けた。
「ところが立て続けに三例、術死が起こってしまった。この三例には自分が錯誤した手応えがないんです。だからどうしても納得できない」
桐生の眼の中に小さな妖しい光が灯る。光は次第に強くなる。
「誤解しないでいただきたいのは、私が手術を失敗する可能性は今でも決して低くない、ということは自覚していることです。ただ、失敗なら原因を覚知できる自信はある。その点から考えると、この三例の連続術死には強い違和感があるのです」
高階病院長が口を挟む。
「間に一例、成功例が挟まっているので、三例連続術死という表現は正確ではありませんがね。桐生先生から手術の外部監査を依頼されたのは十日前、術死第三例日が起こった直後です。田口先生にご相談するのがぎりぎりになってしまったのは、次の手術予定症例に問題があり、その対応に追われていたからです。患者は、アフリカの小国の内戦で被弾した少年ゲリラ兵士です。怪我を治療していた国境なき医師団が重篤な拡張型心筋症を発見しました。一刻も早い治療が必要ですが、反米主義ゲリラの受け入れを米国が拒否した。そのため桐生君の恩師が、彼の腕を見込んで日本での受け入れを打診してきたのです。受け入れにあたっては、厚生労働省や文部科学省ばかりではなく、外務省、挙げ句の果てには防衛庁や内閣府まで絡んでくる始末で、それはもう並大抵のごたごたではありませんでした」
高階病院長は、一瞬、遠いRUをしてため息をつく。高階病院長が並大抵でなかったと言うくらいだから、本当に並大抵のことではなさそうだ。
「それだけでしたらまだ何とかなると思ったのですが、どこで嗅ぎつけたのか、この坊やは美談に群がるマスコミまで引っ張ってきてしまいました。負傷した少年兵士を救う栄光のチーム・バチスタ。まあ、メディアが飛びつくのも当然ですが」
一週間前、少年の搬送が自衛隊の特別仕立てのヘリで行われ、マスコミを巻き込んだ大騒動になったことを思い出した。すかさず桐生が補足する。
「そんな中、また原因不明の術死が起こったら、コトは一医療施設の問題にとどまらず、国際間題に発展してしまうかも知れません。そこで、次回の手術の差配も含め、今回の一連の術中死の監査を高階先生にご相談したのです」
高階病院長が、桐生と俺を交互に見ながら続ける。
「このような経緯から、桐生先生は自ら内部監査を希望されたのです。けれども現時点で、リスクマネジメント委員会を動かすことはかえってリスクを高めることになってしまうかも知れません。だからといってこのまま手をこまねいていては機を失してしまい、憂慮すべき事態が繰り返されてしまうかも知れない。つまり現時点では、田口先生に予備調査をお願いするのが最善手だと思われるのです」
高階病院長は改めて俺を見て、続けた。
「明後日の手術の際、新しい視線によるチェックが加われば、危険な徴候を検知できる可能性が高まります。少なくとも、手術当日のリスクは確実に減少するでしょう。その前提として、直ちに桐生チームの内部調査にとりかかる必要があります。田口先生、どうかお引き受けいただけないでしょうか」
ようやく俺は、任務の全体像を理解した。そして同時に高階病院長が、出世街道から大きく外れているこの俺に任務を付託するというイレギュラーなオプションを選択した理由もよくわかった。
桐生自身が監査を望んだなら、リスクマネジメント委員会諮問は事実上不可能だ。通常コースでは、まず所属する部署のリスクマネジャーに案件をあげるのが手順だ。しかし臓器統御外科のリスクマネジャーは黒崎教授ご本人。たとえ桐生本人が望んだとしても黒崎教授は自分の教室の不祥事ととられかねないその動きを封じ込めるに決まっている。万一、仮にそこがクリアされても、その先には曳地委員長が展開する無間地獄が口を開けて待っている。これでは時間がかかりすぎ、明後日の手術にはとてもじゃないが間に合わない。
同時に俺は、このミッションが持つ付加価値も、あますところなく把握した。
調査で問題が見つからなかった場合、俺の業務査定はゼロ。しかも、その分野における第一人者である桐生が徹底的に調べた後なのだから、そうなる可能性は極めて高い。問題を発見すればしたで、その時には超法規的対応まで視野に入れた迅速な決断が要求される。判断を誤れば責任を負わされる。事態が表沙汰になれば東城大の重鎮、黒崎教授の不興を買うことは確実だし、ドジったらマスコミのさらしものになる危険まで、もれなくついてくる。
なるほど、これなら外科の優秀な人材に任務を振ることができない理由もうなずける。あえて外科オンチの俺が選ばれた必然性がはっきりした。
だが、事情を把握したからといって、事態が好転したわけではない。ハイリスク・ロウリターンのてんこもり。こんな依頼、無理難題などという生やさしい表現ではとてもじゃないが追いつかない。
こういうのを、貧乏くじ、と言うのだ。
少々むかついた俺は桐生にブラッシュボールを投げつけてみた。
「この時期に外部の人間を入れることは、かえってマイナスに思えますが」
「術死の原因はチーム内のシステム・エラーかも知れません。すると、同じ過ちが繰り返されてしまいます。外部の人間が入り込むことにより生じるノイズのリスクと、その人が行ってくれるチェック機構によるセイフティ・エリアの増大とを天秤にかけて、メリットの方が大きいと判断しました」
おみごと。のけぞるどころか踏み込まれ、ジャストミートされてしまった。俺は桐生の圧倒的な正当性に、白旗を揚げた。
「お話はわかりました。私の仕事は次の手術を観察し、何か問題を発見したらその課題に対応して動けばいい、ということですね」
同じフレーズをもう一度、自分に言い聞かせてみる。こうして言葉にしてみると、意外に簡単そうなミッションだ。ま、仕方がない。俺は、抵抗を諦めた。
「私でよろしければ、お引き受けします。その代わり条件があります。まず、手術症例全例の入院カルテを貸していただきたい。カルテのチェックを終えたら次に、スタッフ全員の聞き取り調査をさせて下さい」
桐生はうなずいた。
「早速手配します。カルテは外来にお届けします。スタッフ紹介と調査日程調整は、明朝七時半、スタッフミーティングで行います。それから三日後のオペには、立ち会っていただけるよう手続きをしておきます」
判断が早く、無駄な言葉がない。流麗な言葉遣いを聞いているだけで優秀さがわかる。こういう人間と組めば、無用なトラブルを抱え込むことはない。その代わり、別種の荷物を背負わされることになるのだが。
俺はさりげなく、一番重要な条件を最後にすべり込ませる。
「もう一つ。調査のやり方に関しては一任していただきます。その代わり先生方の業務を最優先に配慮することはお約束します」
桐生はうなずいた。隣で高階病院長がほっとした表情を浮かべた。
自分の思惑と正反対に進む事態を眺めながら、別の理由から俺はうんざりしていた。
俺の憂鬱のタネは手術見学だ。白状すると、俺は血を見るのが苦手で内科系を選択した。学生時代の手術見学で、飛び交う血しぶきに生理的な嫌悪感を感じたのが原因だ。俺は本来、ガテン系の外科体質だが、適性に対する自覚よりも血を見る手術を避けたいという意欲が勝った。そのため医局は、手術室から最も縁遠い科を探し当てた。それが今、俺が属している神経内科学教室だった。
卒業する時、手術室と完全に緑が切れることが一番嬉しかった。あれから十五年、俺の心の中から手術という概念は完全に抹消されていた。そんな俺なのに何の因果か、再び手術室に引き立てられていく。これは天災だ。いや、人災か。
キレのあるやり取りを交わしている高階病院長と桐生を、俺は恨みがましく見つめた。バックに流れるドナドナの旋律の空耳。
ついでに言えば、俺は強要される退屈さも苦手だ。手術は、受ける人や街着にとっては大事だが、はたで見ていてあれほど退屈なものもない。苦手で嫌いなものがてんこ盛りの手術室に居続けを強要されることは、拷問に近い。さっさと問題を解決して、とっととトンズラしよう。でないと大変なことになりそうだ。
高階病院長と桐生の、いかにも外科医同士らしい手短な打ち合わせが終わった。一瞬の間。俺はふと思いついて、手許のファイルを取り上げる。
「これ、貸していただけませんか。改めて調べ直すのが面倒なので」
高階病院長は苦笑した。
「構わないですよ。しかし君は変わりませんね。少し言葉の遣い方を勉強された方がいいですよ」
減点3? いや、さっきまでの分はチヤラになっているはずだから、減点1だ。
免停を喰らう前に退出しようと、俺は急いで病院長室を辞去した。
「お忙しいところお手数をおかけしますが、よろしくお願いします」
追いついてきた桐生が、隣に並んで頭を下げた。俺の耳に桐生の靴音がカツカッと響く。薄手のカーペットが敷かれているので、そんなはずはないのだが。
「本当に私なんかで、よろしかったんですか」
「院長から田口先生という人選を聞かされた時には、正直言ってびっくりしました。でもすぐ、なるほど、と思い直しました。高階先生は本当に懐が深い」
俺に対する評価はともかく、高階病院長に対する信頼は厚いようだ。
桐生と俺はエレベーターホールの前で立ち止まる。
「私は桐生先生のことは存じ上げていましたが、先生は私のことなんかご存じなかったでしょう? そんな得体の知れない人間に調査を丸投げして、不安ではありませんか?」
桐生はうっすらと笑って、答える。
「実は高階先生以外からも、田口先生に関するお話を伺ったことはあるんです」
「はあ?」
予想外の答えに、俺は思わず訊き返す。桐生は答える。
「久倉さんという、虫垂炎の患者のことを覚えていらっしゃいますか? その患者さんの件では当時主治医だった酒井君が、田口先生にずいぶんお世話になったそうですね。酒井君は今、うちのチームのスタッフなんです」
俺の脳裏に、岩のような沈黙に埋もれた、ごま塩頭の頑《かたく》なな表情が浮かぶ。
そうだったのか。
満員ランプがついたエレベーターが立て続けに素通りする。
「失礼。階段で行きます」
きびすを返す桐生の背中越しに、俺は声をかけた。
「すいません、あと一つだけ。初対面の方に、私の趣味で訊いていることがあるのですが」
振り返った桐生の眼が、「何でしょうか?」と問いかける。
「先生のお名前は確か恭一、でしたよね。どういう由来があるのですか」
「私の名前の由来、ですか……?」
桐生は一瞬、遠い眼をした。
「一番になっても恭しさを忘れるな。……外科医だった父がそう言っていました」
次の瞬間、白衣の裾を翻した桐生は風のように姿を消していた。
一番になっても恭しさを忘れるな、か。凄いものだ。一番になることが当然のことのように折り込み済みなのだから。
俺は日溜まりの中で、ひとりぼんやり、エレベーターの表示灯の往復を眺めていた。
頭の中で、その上下する光のリズムに合わせるように「はーちみつ・きんかん・のどーあめ」というのどかなコマーシャル・ソングのリフレインが鳴り響いていた。
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3章
愚痴外来
2月4日月曜日 午前9時30分 1F・不定《ふてい》愁訴《しゅうそ》外来《がいらい》
東城大学医学部付属病院・病院棟は、小高いという形容詞がぴったりのささやかな丘、桜宮丘陵の上に建つ。三年前の病院棟改築の際、最上階にスカイ・レストラン『満天』が配置された。球つき的な絃入れ替えが行われ、最上階にあった病院長室は四階に降りた。
旧世代は白亜の塔の頂上から、病院長室が市街地を脾睨《へいげい》していた時代を懐かしむ。だが病院棟は市内で一番標高が高く、四階からの眺望は最上階からの風景と大して変
わらない。権威の象徴として眼下の遠望が必需品であると考えるのなら、実は四階からの風景でも支障はない。理屈ではそう割り切れても、言うは易しいが行うは難しい。病院長室を下界に降ろすということの是非は別にしても、その決断を実行したことは高く評価されるべきだろう。
この英断は、四年前に着任した高階病院長の性格によるところが大きい。この点は、衆目の一致するところである。
病院長室がレストランに場所を譲る。これも時流だ。平然と「患者様」と呼べる神経を持つ人たちが世の中の流れを作っているのだから。彼らは最上階に食堂を配置すれば患者に敬意を示したことになると考える。的外れなサービスは、なおざりで過刺さが目にあまる。マニュアル的な敬意の表し方の裏側には隠しきれない軽視が見え隠れする。こうしたからくりに、一般の人々も気づき始めている。
「慇懃《いんぎん》無礼」……。昔の人の表現には、こうした得体の知れない気持ち悪さを一言で切り取る、いさざよい美しさがある。
患者や医療関係者でごった返す二階外来ホール。見慣れたいつもの風景。
月曜朝九時過ぎ、ここは戦場だ。飛び交う喧騒をすりぬけ突き当たり、非常階段の表示があるドアをあける。
外付けの非常階段を降りる。部屋は一階資材倉庫部屋の裏にある。設計ミスで、一階内部からは、直接たどりつけない構造になってしまっている。
一階東側、袋小路のつきあたり、日当たりのよいセクション。パーテーションで、三つに仕切られたその部屋が、俺の根城だ。
手前はほとんど使われることのない待合室に丸椅子が三つ。
奥はお茶や珈琲《コ−ヒー》が飲める休憩室で、机一つに黒革の三人掛けのソファが二つ。
真ん中が診療ブースで、机を挟んで背もたれ椅子が二組。部屋の対角隅には、丸椅子がさらに二つ。
部屋のたたずまいは古風で物静かだ。
病院棟は俺が医学部最上級生になる少し前、バブル経済絶頂期に完成した。考えてみるともう十七年も前になる。いけいけどんどんの時代。細部をきちんと詰めることよりも、ジュリアナのお立ち台の勢いとスピードが優先された時代。最終確認を怠ったため、構造上の欠点に誰も気づかないまま、建物は完成した。設計途中で出された隣の資材倉庫拡張という要望に、うっかりこの部屋に続く廊下を割り当ててしまった、
というあたりがコトの真相だろうと俺は睨んでいる。
完成直後、部屋の処遇に困った事務方は、隣の資材倉庫の延長の空間として使うことにした。まあ妥当な判断だ。きっとそれくらいしかこの部屋の用途はなかっただろう。
実は俺は、学生時代からこの部屋の存在を知っていた。
サボリ魔だった俺には、隙間の空間を見つけ出す才能があった。サボるためには、他人に見咎められることのない空間を見つけることが最優先する。そのようにして探し当てた秘密基地。それがこの部屋だった。
こうしたことに上手くなるにはちょっとしたコツがある。それは、他人とは毛色の違う好奇心を持つことだ。
どんづまりの部屋の、はめ殺しのくもり硝子《ガラス》から、光が陽射しの形状を徐々に喪失しながら、部屋に染み込んでくる。その光は柔らかく、昔も今も少しも変わらない。こうしていると、学生の頃を思い出す。
学生時代、ここは俺の一番のお気に入りだった。床に寝そべり古本を読みながら、意味もなく天井のシミを数えたりした。いつの日かここでぼんやりと時を過ごせるようになればいいなあ、と夢見ていたあの頃。
夢はかなう。ただし、半分だけ。
ここで時を過ごすという夢はかなったが、ぼんやりと暮らしたい、という残り半分はかなっていない。
奥の休憩室で、藤原看護師がお茶をすすっていた。
年は六十ちょい過ぎ、しかし年齢よりかなり若く見える。顎がはった四角い顔、いかり肩。小柄だが、かっちりとした安心感が全身に漂う。三年前、不定愁訴外来開設にあたり、一月後に定年退職予定だった藤原さんに再任用制度が適用されて、専任になった。それ以来のつきあいだ。
藤原さんは手練れの看護師だ。のんびりした口調。ひとつひとつの動作は緩慢に見えるが、ふと気がつくと、いつの間にか要件が済んでしまっている。外科病棟の看護師長、と表現してみるとぴったりはまる。実際、第一外科の看護師長だった時期もあった。それもとびきり優秀だった、らしい。よい評判と同じくらい、芳しくない評判もある。ウワサ好きで、時にはデマすら平気で流す、らしい。
隠然たる政治力があり、その気になれば教授のクビも飛ばすことができる、という危険な評判もあった。任期途中で退任したある教授がその犠牲者らしい。総看護師長候補になったが、政治力がかえって仇《あだ》になり阻まれてしまったというウワサもある。
藤原さんの当時のあだ名は地雷原。物騒な部屋に俺は棲んでいる。
藤原さんが不定愁訴外来の専任看護師になることが決まった時、こうしたウワサの数々を微に入り細にうがちコーチしてくれたヤツがいた。
俺に医局内抗争を仕掛けてきた張本人であると同時に、不定愁訴外来の設立のきっかけを作ってくれた功労者、神経内科学教室助手の兵藤《ひょうどう》勉だ。ウワサをあちこちに流通させることで、大学内部での自分の存在意義を声高に主張する、兵藤みたいなヤツはあちこちの医局に散在している。彼らは院内のウワサ‥ネットワークのハブ・サーバーだ。
「教授のクビなら飛ばす甲斐もあるだろうけど、俺のクビを飛ばしたところで今さら何の意味もないよ。もうすでに、半分落ちかかっているんだから」
笑ってやり過ごされたのが不満だったのか、兵藤は不機嫌そうに言った。
「せっかく田口先輩のためにわざわざ忠告してあげたのに。そうやって人の話を聞き流しておいて、あとでえらい目にあったと泣きついてきても、僕はもう知りませんからね」
俺が兵藤に泣きつくだって? どこをどうひねればそんなアイディアが浮かぶのだろう。浮かんだ疑問を口には出さず、俺はヤツの捨てゼリフを聞き流した。
あれから三年。ご親切な忠告が現実になりそうな気配は、今のところまだない。
俺を見て、時計の針をちらりと確認し、藤原さんはやんわりと言った。
「田口先生、遅いですよ」
「今日はね、遅刻じゃないんだ。実は病院長からの緊急呼び出し。ミッション・インポシブルを命じられたんだよ」
「まあまあ、大変ですこと」
藤原さんは、俺の言葉を軽く受け流す。
「どうします、珈琲ですか、それともカルテ?」
不定愁訴外来は、一日五人を上限に予定を組む。今日もかっきり上限五人。俺は、ホワイト・ボードの受診者リストを見て、小さくため息をつく。
「仕方ない、今日はカルテからお願いします」
藤原さんが受話器を取り上げ、外来に連絡。よそいきの声。
「田口外来、藤原です。マキタ・ツトムさんをお連れして下さい」
俺の主要業務は、月・水・金、週三回午前中の不定愁訴外来だ。
不定愁訴とは、軽微だが根強く患者に居座り続け、検査しても器質的な原因が見つからない些細な症状全般を指す。不定愁訴という言葉から医師が連想するイメージは、「相手にし始めたらきりがない」であり、その一般的な処方箋は、「聞き流す」もしくは「放っておく」である。
不定愁訴外来は、陰では愚痴外来≠ニ呼ばれている、らしい。俗称の方が通りがよい点は、桐生のバチスタ手術と似ている。食堂のひそひそ話でその単語を耳にした時には、思わず「座布団一枚」と呟いてしまった。詠み人知らずの作者に対して俺は、密かに敬意を表している。俺の名前をもじっただけではあきたらず、一言で中身まで表現しっくしている。万一俺が聞き咎めても、田口外来≠ニ言ったのだ、と申し開きだってできる。全く大したものだ。
ついでに言えば、俺はグッチーと呼ばれている、らしい。こちらも、面と向かって言われたことがないので確かではない。高級ブランドが似合う二枚目だからということではなく、俺がファッションセンス・ゼロであることに対する揶揄がこめられているようだ。巷《ちまた》では、俺がかつてグッチとシャネルの区別がつかず間違えたというエピソードがその由来だと囁かれている。しかしこのウワサはまるきりのデマだ。
俺だってシャネルくらいはわかる。間違えたのは、グッチとエルメスだ。
愚痴外来は場所がわかりにくいため、紹介元の外来看護師がカルテと一緒に患者を連れてくるシステムになっている。手間暇がかかる仕組みなので、提案した時には、絶対に看護課が却下するに違いない、と思っていた。ところが意外にも、藤原さんの提案はすんなりと通ってしまった。
その理由はすぐに判明した。患者を引率してきた外来看護師は、診察が終わるまで奥の小部屋でくつろいでいく。どうやら藤原さんは聞き上手らしく、看護師はたいてい、お茶を飲みながら話し込んでいく。厳密に言えばこうしたことはサポリだと思うのだが、看護師全員に平等に与えられる権利なら、あまり問題にはならないらしい。
「だから私は言ってさしあげたんです。少しは周りの人の気持ちを考えなさいって。そしたらヤエさんったら、こう言うんですよ。あなたの話はしつこいって。ひどいと思いませんか。私は彼女のことを思って言ってあげているだけなのに」
和服を上品に着こなしたカネダ・キクさんは、ため息をついた。黙って座っていれば、生け花の師匠と言っても十分通用する。五人目、不定愁訴外来の最終ランナーは馴染みの客だった。肺癌術後二年だが、完治した傷跡の痛みを外来で延々と訴え続ける。話が長く全身状態良好だということで、不定愁訴外来送りになった。今日で五回日、どうやらここがお気に召したらしい。
キクさんは軽度の認知症ではないかと、俺は睨んでいる。このエピソードを耳にするのは三回目。忠告相手の名前は入れ代わるが、中身は同じ。一回日はカネさん、二回目はマツさん、そして今日はヤエさんだ。
寸分適わぬ話を最後まで終えないと機嫌が悪くなる。それだけではなく、相手を攻撃し始める。認知症と人格障害の境界を見極めるのは、専門医でも難しい。
人格障害という診断は、相手がいて初めて成立する診断だ、と思う。絶対的診断ではなく相対的診断だというのが俺の持論だ。たとえ人格障害であったとしても、相手が仏さまのような広い心ですべてを受け入れてしまえば、その事象は消滅してしまうだろう。そんなことを夢想するにはこの空間は最適だし、キクさんの話も、こうしたことをゆっくり考えるための環境音楽だと思えば、むしろ心地よい。
こうした話を聞き遂げるシステムは、普通、大学病院には存在しない。ひとりの患者のよもやま話にとことんつきあうなどということは、大学病院のシステム下では許されることではない。精密機器製造工場と見まがうばかりの、最先端技術を誇る大学病院に、そこまで求めるのは酷というものだ。
大学病院には、神さまや仏さまが滞在できるゆとりは、とうに失われている。
神さまや仏さまがいなくなった医療に対し、社会の視線は厳しさを増している。
その是正のため、大学病院の仕組みを根幹で支えてきた医局制度を改革しようという機運が高まった。大学の独立行政法人化や、新臨床研修医制度の改訂といった、大学病院改革の一連の動きはその一環だ。こうした動きは、患者主体の医療を成立させるという大義名分があり、広く支持されているように見せかけられている。
だが実は、その底流には、いかがわしい意図が見え隠れしている。誰かが密かに、大学医学部が持っている権力を削ぎたがっているのだ。独立行政法人化でカネを減じ、研修医制度を変えることで兵隊の供給を絶つ。秘かに展開されている戦略は着々と進行している。
大学医学部に対し兵糧攻めを敢行しているのは誰か。少なくとも中央省庁の官僚が主力軍として加担し、陰に陽に蠢動《しゅんどう》していることだけはほぼ間違いない。
彼らは長年の医療行政の失敗の罪をすべて、前近代的で鈍臭い大学医局制度になすりつけようとしている。医療改革を訴えながら、自分たち自身の組織改革には全く手をつけようとしない霞ヶ関の現状が何よりの証明だ。但し、これらは状況証拠に過ぎないのだが。
他者への奉仕を義務づけられた大学病院という公家組織と、自分たちの組織の維持と拡大を日々の生業《なリわい》に組み込むことができる官僚精鋭軍が闘えば、力量差は歴然としている。陰謀をからめた情報戦に持ち込まれた時点で、すでに戦闘は終結したに等しい。
俺は、しがらみでがんじがらめの大学病院制度が変わっていくことに対しては、特に感慨はない。それでも昨今の拙速な大学改革の議論に身を任せていると、江戸時代の狂歌がふと浮かぶ。
……白川の清き流れに魚棲まず 泥の田沼の昔なつかし……
大学病院の内部に眼を転じると、過去の医局政治のルールに従っててっぺんに登りつめた人たちが病院の舵を執っている。しかし、彼らが権力の階段を登ることに全力を傾注している間に、世の中のルールは大きく変わってしまった。ハシゴを外され時代に取り残されてしまった彼らは、世の中からのしっぺ返しにうろたえている。
それは不祥事公表時の謝罪会見の際に、ずらりと並んだ病院のお偉いさんたちが見せるおどおどした表情に象徴されている。彼らの表情からは、異口同音の訴えかけが読みとれる。
――なぜ、私が頭を下げなければならないのだ? 一体どこで間違えた?
そんな彼らから見れば、愚痴外来の患者などはみんなクレーマーに見えるに違いない。しかしクレーマーと適切な批判は紙一重で、立場とタイミングが変われば、善悪はオセロの駒のように目まぐるしく入れ替わる。大学病院としても、これまで冷たくあしらっていた、患者の小さな不平不満の声を無視できなくなりつつある。
ここに、俺の存在意義がある。
口さがない連中が愚痴外来のことを、ボランティア外来とか、窓際患者のふきだまり、と呼んで冷笑していることは知っている。皮肉なもので、そういう連中に限って、トラブルを引き寄せ、俺の外来に患者を送る羽目になるものなのだ。
すると彼らは日頃の侮蔑を棚に上げ、自己弁護に傾注する。業務が多忙で対応できなかったと、必死に弁解する。しかしそれはまやかしだ。どれほど忙しくても、そういうトラブルは決して起こさないタイプの医師もいるからだ。
要は、その医師が持つパーソナリティとコミュニケーション能力、つまり医師としての総合力が問題なわけだ。
断言してもいいが、例えば桐生が俺の外来に患者を送ることは絶対にないだろう。
「そんなわけで、ようやくその場を収めることができたんですの」
話を始めて五十分、キクさんの話はヤマ場を越えた。安堵とも満足ともつかない表情が浮かぶ。その瞬間を捉えて俺は、今日初めてキクさんに問いかける。
「よかったですねえ。本当によかった。……ところで傷のお加減はいかがですか?」
キクさんがここに来た理由は、肺癌術後の傷が化膿して痛む、と繰り返し訴えたからだ。外見上は完全治癒、痛みはあっても化膿はしていないことは、外科オンチの俺から見ても明らかだ。そのため呼吸器外科適応外とされ、愚痴外来送りになった。言うなれば体《てい》のいい厄介払いだ。
「気候がよくなってきたせいか、ここのところ、ほとんど痛みませんの」
「それは結構ですね」
俺は笑った。心底よかったと思える。こうしたことを偽善的だと陰口を叩くヤツはいるが、本音なのだから仕方ない。
「もうじき春ですからね。今年もきっと、さくらがきれいでしょう」
「ええ、ここは見事な桜並木ですもの。とっても楽しみ」
「今回は、痛み止めのお薬はどうしますか?」
キクさんは、小指を頬にあてて、首を傾げた。
「そうねえ、試しに無しでやってみようかしら」
「そうしてみますか……。もしも急に痛くなるようなことがあったら、いつでもいらして下さい。すぐにお薬を出しますから」
キクさんはお辞儀をした。部屋を出ると、もう一度丁寧にお辞儀をした。
ぱたん、と扉を開けて、奥の部屋から看護師が飛び出してきた。小さく会釈を残して俺の横を小走りにすりぬける。すぐにキクさんの後ろ姿に追いついた。
お大事にね、と藤原さんが、その背中に向かって間延びした声を投げた。
時計は午後一時を回っていた。
「今日は早かったですね」
「そうですね。珈琲をいただけますか?」
はあい、というのんびりした返事。アルコールランプに点火したのだろう。珈琲のかすかな香りが漂ってきた。
俺は珈琲にはうるさい。いまだにサイフォン式の掩れ方にこだわっている。
藤原さんに不定愁訴外来専任看護師になってもらった時、珈琲に関してだけはわがままでぜいたくなお願いをした。インスタントで我慢して下さいな、と文句を言われたが、結局、俺のささやかな望みはかなえられた。
最近藤原さんが、沸騰した湯がフラスコグラスをゆっくりのぼっていく光景を、ぼんやりと、見方によってはうっとりと、見つめていることがあるということに、俺は密かに気がついていた。
十分後。とろけた午後の陽射しが部屋にさし込んでいる。外来を終え珈琲を飲む、このひとときが、俺はけっこう気に入っている。そういえば小学生の頃、おそるおそるのぞいた職員室がこんな雰囲気だったことをふと思い出す。
三年前。不定愁訴外来が開設された当初は、開店休業状態が続いた。ところがしばらくすると、口コミで入院患者の間で話題になり、受診希望が殺到するようになった。一人の患者に三十分、油断すると一時間以上かかってしまうようなこともざらに起こるようになった。
やがて神経内科外来の看護師からクレームが押し寄せた。コトが担当看護師が昼食を取れない、という基本的人権に関わる問題だったので、その抗議は熾烈《しれつ》だった。
大学病院では看護師の序列は高い。その地位は下っ端の医師よりはるかに上だ。看護師の勢いに恐れをなした有働《うどう》教授は、不定愁訴外来を閉鎖しょうとした。事勿《ことなか》れ主義の謗《そし》りはあるが、まあ妥当な判断だ。俺は教授の決定に素直に従った。
すると意外なことにと言うか、困ったことにと言えばいいのか、今度は他科の病棟や外来から文句が出た。不定愁訴外来はいつの間にか、病院全体から必要とされ支持される存在になっていたのだ。
「何とかならんか」
有働教授は頭を抱えて、俺に相談してきた。今さら何とか、と言われてもなあ。
深く考えなかったが、ひらめきとは、どうもそんな時にやってくるものらしい。教授の肩越しの景色をぼんやり眺めているうちに、ジグソーパズルの最後の一片が突然、かちりという音と共に形をなした。
「不定愁訴外来だけ切り離して、どこか別の場所に移したらどうでしょうか? そこで看護師さんのヘルプなしで、ひとりでのんびりやりますよ」
「アイディアは悪くないが、そんなスペースなんて、どこにもないぞ」
そこで俺は、学生時代の隠し部屋の存在を打ち明けた。俺がそこでサボっていたという事実は、抽斗《ひきだし》の奥にそっと隠して。
「本当にそんなへんてこな場所があるのか?」
半信半疑で、教授は事務のダイヤルを回した。驚いたことに担当係も部屋の存在を把握していなかった。数代の入替のうちに、口伝継承が失われてしまったようだった。すぐに事務長と図面を抱えた用度係がやってきた。額を寄せて検討した結果、俺の話は本当らしい、という結論に達した。早速、全員で部屋に足を運んだ。
埃っぽい部屋は、人が訪れることが滅多にない田舎の古い建物の匂いがした。俺がこっそり小説を読みふけっていた頃と寸分違わず、荷物が散乱していた。一瞬、うっかり時を遡航してしまったか、と錯覚した。
部屋は辛抱強く、主《あるじ》の帰還を待っていた。
有働教授は部屋を見渡しながら、用度係の事務員に言った。
「この部屋を使うことに関しては、問題はなさそうだな」
「かんじんの看護師の方はどうします7 人貝の余裕はありませんよ。今でさえ、外来からは看護師の増員要求が出続けているくらいですからとてもではありませんが、新たな対応はできません」
「私の方は話を聞くだけですから、一人で対応してもいいですよ」
「でも、病院のシステムの一部なんですから、そういう訳にもいかないでしょう」
事務長は眼をつむって腕を組み、俺と用度係のやり取りを黙って聞いていた。やがて、ふと眼を開けると言った。
「田口先生、正規の看護師でなければいけませんか?」
「どういうことでしょうか」
それは、定年を迎え再任用希望が出ている藤原看護師長を、不定愁訴外来の専任看護師に当てるというアイディアだった。その提案に同意した瞬間、この空間は俺の城になった。
運よく、当時行われる寸前だった病院棟の改築構想に組み込まれ、俺の城にはささやかなリフォームがほどこされることになった。
これが、俺が今、この部屋にいる由縁の物語だ。
珈琲の香りに誘われて、過去の記憶の海原に漂っていたら、部屋の外に響く力強い足音でこちらの世界に呼び戻された。ノックの音に続いて、男が扉をあけた。藤原さんが若々しい声を上げて男を迎え入れる。
「加藤君じゃないの。ずいぶんお久しぶりね。どうしたの、そんなに息を切らして」
「ここって、エレベーターが使えないんですね。参りました」
両手に持った金属籠にはカルテが詰まっていた。普段、外来カルテは看護師が持参するので、事務のカルテ係が部屋を訪れる機会はない。小太りの若いカルテ係は、息を整えてから、改めて俺に報告する。
「桐生先生からのご指示で、とりあえず二十七人分の入院カルテをお届けします。もし、残りの三人分や、外来カルテが必要でしたらご連絡下さい」
俺は、不足分が初期の症例分であることを碓認した。
「たぶん、これで十分だと思います。ありがとうございました」
「加藤君、ごくろうさま。珈琲一杯飲んでいけば?」
「ありがとう、フジさん。月曜日は忙しくてさ。また今度ご馳走してよ」
「火曜・木曜は田口先生もお暇で、ゆっくりお相手できるから、また来てね。美味しい珈琲をご馳走するからね。絶滅危倶種の、サイフォン式本格焙煎珈琲よ」
「そいつはすごいですね」
加藤は嬉しそうに笑う。
「あの、珈琲豆は私の自腹なんですけど……」
しみったれた俺のセリフは、藤原さんの天真欄漫な笑い声に吹き飛ばされる。
多忙な月曜の朝にこんな依頼をしたなら、三十冊という数を見ただけで瞬時に週末回しだろう。間がよければ明朝一番に半分届く、かも知れない。それが半日足らずでほとんど全部届いた。それは、カルテ係が桐生の依頼に最優先で対応したということだ。病院内での桐生のヒエラルキーの高さが本物であることが、よく理解できた。
自分と真逆のスタイル、時間感覚も正反対。何かが俺をせきたてる。こういうヤツと組むと長生きできないぞ、と本能が囁く。
明朝のミーティングも、さぞ密度の濃いものになるのだろう。こいつはうかうかしていられない。俺は心の中のスケジュールを、大幅に前倒しに変更した。
こんなヤツとつきあうのはストレスのもと。誰が見ても、これは怒涛の人災だ。
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4章
チーム・バチスタの奇跡
2月4日月曜日 午後2時 1F・不定愁訴外来
俺は机の上に山と積まれたカルテを見て、ため息をつく。結構な分量だ。だが俺には余裕があった。それは、普段俺の前に積まれるカルテは分厚く、件数としては三倍あるが、分量としては通常の二日分の情報処理程度だったからだ。
俺はわずかに残った珈琲を飲み干すと仕事に取りかかり始めた。
スケジュールは前倒しするが、順序は替えない。手始めに、高階病院長から貸りた記事を読み直す。昨年八月十五日、十六日の二日に渡る特集記事だ。
藤原さんに珈琲のおかわりを頼むと、ソファに沈み込み記事を読み始める。
去年の夏は暑かったのか、涼しかったのか? 記憶を探ってみて、去年の夏がかけらも残っていないことに気づいて、少し驚いた。
時風新報 桜宮版 現代医療最前線シリーズ 8月15日(月曜日)付
チーム・バチスタの奇跡(上)ミッション・少女の笑顔を取り戻せ
(取材 別宮葉子記者、協力 東城大学医学部臓器統御外科ユニット)
◆娘の笑顔と母の涙
「今日、合唱コンクールのメンバーに選ばれたよ」帰宅するなり、真菜さん(仮名)は母親の孝子さんに報告した。
「すごいじゃない」喜ぶ孝子さん。ほほえましい光景だが、普通の家庭とどこか違う。孝子さんの眼には涙が浮かび、真菜さんの胸には手術の傷跡が残っている。
真東さんが拡張型心筋症と診断されたのは小学二年生の時。もともと身体は丈夫な方ではなかったが、道を歩くだけで息切れが続き、近所の病院を受診した。それから苦悩の日々が始まった。
‥心蔵は全身に血液を送り出すポンプだ。拡張型心筋症は心筋が伸びきったゴムのようになる、原因不明の難病だ。根本的な治療法は心職移植だが、日本では小児の職器移植は行われていない。そこで注目されるのがバチスタ手術だ。心筋の一部を切り取り縮小縫合し、心蔵の収縮機能を回復させる。心臓移植の代替手術だが、状態が劇的に改善される例も多い。だが日本でこの手術を行う施設は少ない。何しろ成功率六割、難易度が極めて高い手術なのだ。
真菜さんは幸運だった。桜宮市には東城大学医学部付属病院があった。
◆心優しき天才外科医
東城大学医学部臓器統御外科にはチーム・バチスタと呼ばれる心臓外科手術チームがある。チームを率いる桐生恭一助教授(42)はバチスタ手術の世界的権威だ。真菜さん親子は、すがるような気持ちで病院の門をくぐった。すぐに検査、入院、手術。他の病院では考えられない対応の早さだった。
「不安を感じる暇がなかった、というのが本音です」孝子さんは笑う。記者の質問に真菜さんも笑顔で答える。
「全然怖くなかった。桐生先生ってすごく優しいんだよ」
医療界には、こうした高リスクの手術を行うことに対する批判も多い。そうした声に対し、桐生助教授はこう答える。
「私たちのチームは、心戯移植にも対応できます。けれども臓器移植法の規定に従えば、日本では小児心臓移植は行えません。このまま座して状況が変わるのを待つか、現状で可能なことを行っていくか。患者の希望に応えるために、私はひとつの答えを選択したのです」
十年の永さにわたり勤務していたフロリダ・サザンクロス心臓疾患専門病院から帰国してわずか半年。桐生助教授を招聘した臓器統御外科学ユニット・黒崎誠一郎教授は語る。
「桐生君の招聘にあたっては院内でも議論がありました。東城大学の方向性を決める選択でもあったからです。私の専門は大動脈瘤バイパス手術ですが、それを高めていく方向か、心臓外科をキーワードに広く展開をめざすべきか、という二択になりました。後者を選択をした私の判断は正しかったと確信しています。こうして日本の医療の向上に貢献することができたのですから」
写真に、桐生と黒崎教授が並ぶ。満面の笑みを浮かべる黒崎教授。隣では、桐生が、かろうじて微笑んでいることがわかる程度の、すれすれの笑顔を浮かべていた。
桐生の招聘に一番反対したのが黒崎教授だったという史実は、東城大学医学部の歴史における基礎知識だ。
当時、教授会では将来の方向性という本質論が議論されていた。実のある議論が行われることが稀《まれ》な教授会では、珍しいことだった。だが、大学の独立行政法人化が決定され、公務員という怠惰なすみかから無理矢理押し出されることになった大学教授たちの抱いた危機感は、半端ではなかった。
愚痴外来、もとい、不定愁訴外来が成立したのも、こうした状況が背景にあった。
画期的な提案をしたのは高階病院長だった。グローバルな視点から、東城大学に新しい看板を掲げよう、という単純明快な主張を行った。米国で売り出し中だった桐生を助教授に招聘し、日本の心臓移植のメッカにするというグランドデザインを呈示した。これに対し黒崎教授は頑なに反対意見を主張し続けた。対案を出すこともなく、針の飛んだレコードのようにリフレインし続けたという。
「第二外科の教授が、第一外科人事に介入することは掟破りだ」
黒崎教授の宗旨替えをした時期に興味がわいた。だがそれを調べあげても、きっとむなしくなるだけだろう。教授になるには、厚かましさという資質が必要不可欠なことだけは、はっきりしているようだ。
次の切り抜きに目を移す。こちらの記事には見覚えがある。病院中庭の噴水前、チーム・バチスタのメンバーの集合写真。中心で桐生が誇らしげに胸を張る。
スタッフ全員の視線は高く、空に注がれていた。
――――――――――――
時風新報 桜宮版 現代医療最前線シリーズ 8月16日(火曜日)付
チーム・バチスタの奇跡(下) チーム・パチスタの結成
(取材別宮葉子記者、協力 東城大学医学部臓器統御外科ユニット)
◆ミスター・パーフェクトの決意
東城大学医学部臓器統御外科ユニットで、チーム・バチスタと呼ばれる心職外科チームを率いる桐生恭一助教授にミスター・パーフェクトと称される手技について、質問してみた。
「私は、自分の手術をパーフェクトと考えたことはありません。世界を見渡せば、上がいます。手術は論理の積み重ねです。切断できるところは切断する。切断できないところは、結紮《けっさつ》し切断する。組織をメスで切離《せつり》し、適切な強さで縫合する。単純な作業の反復です」
桐生助教授、ミスター・パーフェクトは、記者の目の前で鮮やかな手さばきを見せてくれた。そして更に言う。
「それだけのことですが、私はこれまで、心から満足する手術ができたことはまだ一度もありません。凡事徹底が、いかに難しいか。けれども手が届かない場所ではありません。患者の命がかかっているのだから、そこを目指すのは当然です。私はパーフェクトではありませんが、パーフェクトを目指しています」
高リスクのバチスタ手術を百%成功させ続けていることは、奇跡だと思いますが?
「連勝記録はいつか途切れるでしょう。今、私にできることは、運任せになる部分をできるだけ少なくする努力をすることです。このチームに奇跡と呼べるものがあるとしたら、それはチーム全員がこの気持ちを共有し、各自が最大限の努力をしている点です。幸運だったのは、チームの人選を一任していただけたことです。赴任後二ケ月は執刀せず、手術を見学し続けました。各自の仕事ぶりをこの目で確認し、私自身がメンバーを決めました。最良の人選です。優秀な人材は他にもいますが、チームとしての組み合わせはこれがベストです」
◆ミスター・。パーフェクトを支えるメンバー
チーム・バチスタのメンバーを紹介する。
第一助手 垣谷雄次講師(49)胸部大動脈瘤バイパス手術の専門家。症例経験は県内トップクラス。桐生チームの右腕。医局長でもある。
第二助手 酒井利樹助手(30)自らチーム・パチスタに志願した熱血漢。患者と直接接する病棟での信頼も厚い。
麻酔医 氷室貢一郎講師(37)特殊麻酔時における正確無比な判断は折り紙つき。麻酔医は縁の下の力持ち。冷静にチームを支える。
臨床工学士 羽場貴之室長(53)チーム最年長。人工心肺のスペシャリスト。手術室のリスクマネジャーも兼任。人工心肺は手術時の心臓。彼の技術が手術時の患者の命に寄り添う。
看護師 星野響子(24)チーム・バチスタの紅一点。特殊な手術器械を、適切なタイミングで術者に手渡す。動体視力と反射神経の良さが高い評価を得ている。新卒で手術室に配属、二年目の大抜擢。
◆米国の最先端技術も導入
チームには病理医も参加している。基礎病理学教室助教授・鳴海淳(37)。桐生助教授の義弟で、桐生医師と同時に招聘された。病理医は、内視鏡検査や手術で摘出された検体を染色処理し、顕微鏡で観察し診断する。その診断が医療行為の基礎となる。病理医というと物静かな学者というイメーシが強いが、鳴海助教授の場合は色合いが異なる。手術に立ち会い、切除範囲に関し踏み込んだ助言もする。時に街者の桐生氏と切除範囲をめくって激論になることもある、という。桐生助教授は言う。
「義弟は、フロリダでは外科医として助手を務めてくれたのですが、その後本人の強い希望で病理医に転じました。バチスタ手術で重要な術中診断を引き受けてもらっています」
鳴海助教授が確立したダブル・ステイン法とは従来の染色法を応用し、心筋変性部の特異抗原に対する抗体を樹立、迅速免疫染色法と特殊線維染色を併用する診断技術である。専門外の記者には理解困難だったが、専門家てもその理論を理解することは難しいのだと鳴海助教授は言う。この技術により切除範囲を迅速に決定でき、手術成績向上につながっているのだそうだ。
◆輝けるスーパースター
米国で大成功を収めた桐生助教授が、日本に帰国したのは何故だろう。
「かつて日本で心臓外科医として勤務していた頃、技量及ばず私の眼前で失われた少年の命がありました。その時、技量を極限まで磨き上げ、いつの日かこういう子供の命を助けてみせると誓ったんです。私は日本の子供たちの命を一つでも多く救いたくて、日本に戻ったのです」
綺羅《きら》、星の如きメンバーが参集した心臓外科手術チーム。彼らは 「チーム・バチスタの奇跡」、あるいは「グロリアス・セブン(栄光の七人)」と呼ばれる。
このチームが、日本医療の輝ける星であることに、疑いを持つ者はいない。
記事を読み終えた俺は、ソファに沈み込む。
気障を絵に描いたようなヤツ(気に障ると書いてキザと読む)。またそれが違和感なくなじむものだから始末に負えない。
桐生は、周りに劣等感と嫉妬心を呼び起こす。こういうヤツは、遠くから眺めているのが一番いい。身近にいると、あら探しをしたくなる。そんなものが見つからないことを思い知らされ、自分の卑しさばかりが浮かび上がり、自己嫌悪に落ち込む。こんな暑苦しいヤツを調査する羽目になるとは、本当についていない。
そういえば今年は前厄だった。
俺は気を取り直して、カルテの読解に取りかかる。肩慣らしに手術リストをながめ
る。
一例目は28歳女性。当初は月二例だった手術が、すぐ月三例ペースになる。
ケース4、4月27日、佐々木洋子、女、11歳
時期と年齢から推測すると、この子が「真莱ちゃん」だろう。単調な氏名の羅列に
視線をすべらせていくと、ようやくリスト末尾にたどりつく。
ケース27、12月21日、高田久絵、女、54歳・D
ケース28、1月9日、榊原雄馬、男、9歳
ケース29、1月17日、田中良一、男、41歳・D
ケース30、1月25日、鈴木弘幸、男、59歳・D
末尾のDは、Dead(死亡)だろう。無言のDの文字のたたずまいから、桐生の無念さが伝わってくる。
男性十七例、女性十三例。下は九歳、上は六十九歳。半数弱が小児症例。桐生はフロリダでは小児の心臓移植が専門だったと聞いたことがある。初期のカルテが三例抜け落ちていた。貸出先は酒井。おそらく学会発表にでも使うつもりだろう。
俺はカルテを丹念に読むことには慣れている。乱雑なカルテから事実を読み取る能力には長《た》けている方だと思う。愚痴外来では、カルテにも記載されていないことを相手にすることも多い。中にはとんでもないカルテもたくさんある。
バチスタ・カルテを一目見て、その緻密さに驚いた。一番下っ端の酒井が標準レベルをはるかに超えた丹念な記載をしている。普通なら花丸間違いなしだ。驚いたことに、その記載の上にさらに詳細な記載が付与されている。そして桐生のサイン。こうしたことをきちんと行う指導医は少ない。実際、従来型の指導医の典型と思われる垣谷の記載はほとんど見あたらない。
次に手術記載、麻酔記録と看護記録を丹念に読む。
手術記載は英語で記載されている。無駄がない文章は英語でもわかりやすい。桐生の英語力は本物だ。考えてみれば当然で、日本で医療を行っていた経歴よりも米国での医師歴の方がはるかに長いのだから、桐生はもはや米国人だと言っても差し支えないだろう。
麻酔記録と看護記録がいい加減なことは、普通はまずない。冠動脈疾患ケアユニット(CCU)記録もきちんとしている。だが今回の件ではCCU記録は検討するつもりはない。なぜならCCUは心臓手術の術直後の不安定な時期に入室する心臓手術版のICUに相当する部署なので、術死症例とは無縁なのだ。
慢性疾患患者の分厚いカルテを見慣れた俺には、バチスタ・カルテはとても薄く感じた。Dカルテ(術死カルテ)はさらに薄い。バチスタ・カルテの半分。CCU記録や術後看護記載がないからだ。その代わりDカルテの最後には黒枠で囲まれたセロファン紙が一枚挟まれている。
死亡診断書だ。
カルテの薄さと黒枠の裏表紙。中断された物語。術死とは、つまりそういうことなのだ。
手術時間は平均三時間、死亡症例では四時間。Dカルテでは再鼓動後、一時間手術時間が延長されている。再鼓動せずという文字と手術終了を乱暴に結ぶ波線矢印。ばたついた手術室の光景が垣間見える
Dカルテにサンドイッチされた成功症例ケース28が燦然《さんぜん》と光る。九歳の男子、榊原雄馬君は、手術時間三時間、他の成功症例と寸分も変わらない。
三冊のDカルテを、様々な角度から検討した。住所、生年月日、家族構成、果ては血液型や趣味まで。一時間後、当院患者ということ以外の接点はないという結論に達した。ミステリー小説の主人公ならば、ここからあっと驚く共通項を抽出するのだろうが。
再度リストを見直して、ふと思う。桐生は成人の手術が苦手なのだろうか。
一通りカルテを読み終えた時には、夜九時を回っていた。窓の外は分厚い闇に包まれている。藤原さんが帰り際に掩れてくれた珈琲が、夜の底に冷たくこびりついている。
押し寄せる疲労の中、俺は心の中のメモ帳に、確信″と書き留める。
「桐生や高階病院長の不安は過剰反応ではない」
意外な発見″、と追記。
「俺は桐生の手術を見学することを楽しみにし始めている」
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5章
顔合わせ
2月5日火曜日 午前7時30分 2F・手術部カンファレンスルーム
朝七時。手術室に吸い込まれていく人たちの平均年齢は若い。研修医、麻酔医、器械出しの看護師など、手術を舞台裏で支える人たちだ。
生あくびを噛み殺し、俺は手術室の前に佇んでいた。ここでは、俺は場違いな存在だ。白衣の着こなしのだらしなさだけは似ていても、俺に決定的に欠けているものがある。扉を軽やかにすり抜けていく連中は例外なく、修羅場の匂いを漂わせている。
人を切り刻むのだから、当たり前か。
俺は、手術室に入れずにうろうろしていた。縄跳びのお入りなさい≠フタイミングがつかめないトロい女の子と、自分の姿がふとダブる。
「田口先生、こんなところでどうされたんですか?」
元気な声に振り返ると、酒井が立っていた。カルテとレントゲンフィルムの袋を両腕で抱きかかえている。明るい声と裏腹に、その眼には警戒色が表れている。
「久しぶりだね。実は君のボスに、術前カンファレンスに出席するように呼び出されたんだ。けれど、手術室の敷居が高くつて困っていたんだ」
「桐生先生が、田口先生をお呼びしたんですか? そりゃあ、鬼の霍乱《かくらん》かな」
「俺にもよくわからないんだ。詳しくはボスから直接聞いてくれよ」
説明するのが面倒で、俺は小さなウソをついた。
酒井に案内されたのは、殺風景な小部屋だった。
男性二人、女性一人がソファに座っていた。
無愛想に置かれたソファと事務机。シャーカステンの乱雑なタコ足配線。光量の落ちた蛍光灯。煙草の香り。カラのビール缶。吸い殻がへばりついている。それらすべてに薄い影。
女性が煙草をふかしている。大学病院が全面禁煙になって久しいが、どうやらここは治外法権らしい。
「相変わらず、お早いですね。まだ十五分前なのに」
明るい酒井の声には無反応。見慣れぬ闖入者である俺に視線が集まる。
「こちら、東城大学医学部神経内科学教室の屋台骨を支える田口先生。オペ室の皆さんにはあまりご緑はない方でしょうけど、僕はずいぶんお世話になりました」
含みのある言葉。確かにずいぶんお世話をしたことがある。
「愚痴外来の先生でしょ」
煙を吐きながら、女性が呟く。小さな声が意外なほど響く。酒井は、田口外来の田にアクセントを置いて言い直し、取り繕《つくろ》う。
「なんだ、大友さん、田口外来をご存じだったんですね」
「フジさんの行き場を作って下さった田《、》口先生のことは、ここの看護師なら誰でも知ってるわ」
低い声。俺は看護師を見た。鋭角的な顔の輪郭。長い捷毛《まつげ》。記事では新人の星野響子だったが、酒井は大友と呼んだ。結婚でもしたのだろうか。三十代前半に見える。少なくとも二十代前半ではなさそうだ。ひょっとしたら別人かも知れない。
「桐生先生がお呼びしたんだそうです。一体何の用なんだか」
酒井が発した桐生という単語に反応したように、彼女は煙草を灰皿に押しっけた。手術帽の端からはみ出たほつれ髪がかすかに揺れた。
俺はあいまいに頭を下げ、ソファに腰を下ろした。部屋は俺が入る前と同じように、澱んだ静けさに戻った。部屋を見回す。
大柄の男は五十代。かちゃかちゃと金属音。ちんまりした知恵の輪と太い指がアンバランスだ。
やせた男は英語論文のコピーを読んでいる。時折、小さく咳込む。年齢不詳の風貌。
酒井だけが元気よく動き回っていた。カルテを開いてテーブルに置く。レントゲンフィルムを選別する。フィルムをシャーカステンにひっかけ、ライトをつける。見ていると、動きがそつなく速いという点では、桐生に相通じるところもないわけではない。しかし格が違うことは一目瞭然で、どこかしら雑で端正さを欠く雰囲気が、動作の端々からこぼれ落ちる。
準備を終えた酒井は、一人分空けて、俺の隣に腰を下ろした。七時二十五分。
「そろそろ垣谷先生が駆け込んできますよ」
酒井の言葉が終わるのを見計らったように、荒々しくドアが開いた。
「セーフ。あぶなかった。駐車場で接触事故があってさ、ちょっとした渋滞だったんだよ」
野太い声で誰ともなしに説明した後で、垣谷は俺に気づいて怪訝な顔をした。
「田口先生、何でこんなところに?」
質問に答えようとした時、開け放しのドアから、桐生が部屋にすべり込んできた。
ゆるんだ空気が一変した。全員、一斉に立ち上がる。俺も慌てて皆にならう。
桐生は俺に黙礼し、続いて骨に挨拶をした。桐生の挨拶に全員が唱和する。
挨拶斉唱が終わり、おのおの思い思いにソファに沈み込む。座るタイミングを逸した俺は取り残され、慌てて座ろうと中腰になったところへ桐生が歩み寄ってきた。曲げた腰を伸ばし、気ヲ付ケの姿勢をとる。桐生は隣に立ち、スタッフを見渡す。
「こちらは不定愁訴外来の田口先生です。今回、術死症例の調査と、うちのチームの内部調査をお願いしました」
桐生はスタッフの顔を見回す。酒井が驚いたように俺を見る。
桐生は続けた。
「私は一連の術死に納得していない。いくら考えてみても、どうしても理由が思い当たらない。システム・エラーが紛れ込んでいる可能性もあるし、私自身の技術が未熟なせいかも知れない。そこで外部の方に調査をお願いした。ただしこれは、犯人探しではない。仮に調査によって原因が見つかったとしても、全責任はこれまで問題点に気づかなかった私にある」
「桐生先生の技術が未熟だなんてこと、絶対にあり得ません」
酒井の声が響く。微かに漂うおもねりの匂いに、軽い吐き気を覚えた。
「世の中には絶対ということはない。内部からは見えないこともある。まあ、そういうことだ」
桐生は続ける。
「高階病院長に内部監査をお願いしたのだが、リスクマネジメントを動かすのは時期尚早ではないか、というお返事だった。その代わりに予備調査を提案され、われわれの全面協力を条件に、田口先生に調査を引き受けていただいた」
スタッフの視線が、桐生から俺に集中する。俺はどぎまぎした。由来を説明するガイドに指さされて初めて注目された、博物館の地味な展示物の気持ちがした。
塩谷が発言した。
「明後日はアガピ君の手術予定です。現場は相当ばたつくでしょう。聞き取り調査は明後日以降にしていただいた方がいいのではないでしょうか」
桐生は俺に、直接自分で答えるようにと眼で促す。俺はやむをえず口を開く。
「実は私も、突然の依頼でとまどっています。みなさんもよくご存じのように、私は手術に関しては全くの門外漢です。そんな私に白羽の矢が立ったのは、先入観のない素人の視線が必要とされているからだと思います。お引き受けした以上、できるだけ徹底した調査をしようと思っています。これは、チーム・バチスタのため、そして東城大学医学部付属病院のためですが、何よりも患者の安全のためです。どうか、ご理解下さい」
俺の言葉に周りは静かになる。俺はスタッフを見回した。
「昨日から、急いで皆さんの記事を読み、カルテも拝見しました。けれどもそれでは、とても間に合いません。私に手術に関する予備知識がないことを考え併せると、できるだけ早く皆さん全員からお話を伺うことが必要です。皆さんご事情はおありでしょうが、今日と明日の二日間でお話を伺わせて下さい。一人当たり三十分もあれば済むと思います」
「事情聴取、というわけですね」
酒井がまぜかえす。俺は笑顔でやり過ごす。筋肉質の男が挙手。ためらいのない口調に、一部門の責任者の自信と風格がにじみ出る。
「臨床工学士の羽場です。私や看護師など、コ・メディカルも聞き取り調査の対象になるのですか。術死の原因と直接関係ないと思うのですが。それにオペ室の勤務形態は他の部署とは違うので、ご協力できない可能性もあります」
「スタッフ全員のお話を伺うことは、どうしても必要ですのでご協力をお願いします。一見無関係に思える些細な気づきが、問題解決のきっかけになることもあると思います。勤務形態の話はわかりました。この件は、私も最優先事項として対応します。お時間は、夜遅くでも、朝早くでも構いません。その他、ご要望があれば対応させていただきます。遠慮なくおっしゃって下さい」
沈黙が流れた。羽場は抵抗を諦めたようだ。他に質問がないことを確認した桐生は、最後に念を押した。
「田口先生の調査に協力することは最優先事項です。ミーティング終了後、各自、田口先生と日程調整をすること」
その後で、桐生は、スタッフをひとりひとり簡単に紹介した。臨床工学士の羽場、やせぎすの小柄な男は麻酔医の氷室。看護師は大友直美。やはり記事の星野看護師とは別人だった。勤務異動があったのだろう。
残る二人、臓器統御外科の垣谷と酒井とは、顔見知りだ。
「酒井君、それじゃあ始めようか」
桐生の一言に酒井が立ち上がる。桐生は、チャンネルを切り替え、酒井の説明に集中する。
「ケース31、アガピ・アルノイド君、七歳男性、国籍は南アフリカ・ノルガ共和国。
国境なき医師団のフォン・ビンセント医師から、国際赤十字、厚生労働省を通じて当院に受け入れ要請がありました。心機能はNYHA四度。左心室拡張末期径は五十ミリ、と同世代平均の百四十%に達しています。手術条件に合致し、第一選択は心臓移植、第二選択バチスタです。|クランケ《患 者》は七歳のため、臓器提供者は日本にはおりませんので、バチスタが第一選択となります」
「七歳でNYHA四度。それでゲリラ活動やれたんかい。信じられない」
垣谷の呆れ声に、酒井が事情を説明する。
「国際支援ボランティアのスタッフによれば、物資調達後方支援の出納係をさせられていたようです。学業成績が抜群だったことが選ばれた理由みたいです。加えてインテリ一家で、全員英語に堪能だったことも大きいと聞きました」
酒井のこういう情報通のところは、うちの兵藤君に相通じるところがある。
「こんな子供にまで重要な役割を振るくらいだから、ゲリラ陣営の人材難は推して知るべし、だな。いかにも旗色が悪そうだ」
なおもアフリカの小国の権力事情に言及しようとする垣谷を糾し、桐生が話を医療分野に引き戻す。
「僧帽弁閉鎖不全の合併は?」
「ドプラー・エコーでは確認できませんでした」
専門用語が飛び交う。錆ついた俺の医学知識では、とてもついていけない。
「クランケが七歳であること、外傷による肺葉部分切除術後であることを考慮し、術前CAG(心臓カテーテル血管造影検査)は施行しませんでした。胸部レントゲン、CTなどの画像から推測しますと、心血管系の先天異常を併存している可能性も低いと思います」
「推測だけでは不十分だ。きちんと読影しなさい」
慌てて酒井が答える。
「説明が不適切でした。五日前に施行したCTを、放射線科、小児外科にコンサルトしています。その読影では、大奇形を疑わせる所見は読み取れないとのことでした」
桐生はうなずく。酒井がほっとした表情を浮かべた。
「その他に、問題点は?」
「左胸部に弾丸摘出プラス左肺下葉切除の術創があります。呼吸機能に影響すると思われます。ベースに低栄養状態があり、これに関しては入院後、輸液及び食事により、アルブミン等のデータはかなり改善されています」
「術創が、今回の術野と関係する可能性は?」
「傷は術野にかかりますが、手術には直接の影響はありません。それよりも肺損傷の既往による呼吸機能低下の方がリスキーだと思われます」
桐生は氷室に顔を向ける。
「麻酔のリスクは?」
「この程度なら、ほとんど問題にはならないでしょう」
氷室が答える。一瞬、部屋がしんとする。垣谷が騒がしい声でその静寂をかき乱す。
「それにしても周囲は騒々しいですね。黒崎教授がマスコミ対応を引き受けて下さっているので、助かっていますが」
「マスコミは、桐生先生のコメントを欲しがっているようですけど」
酒井の媚びるような言葉がかぶる。
「メディアは黒崎教授に対応をおまかせするのが一番いい。私からは、術後に状況を説明すれば十分だろう。みんなは気を散らすことなく、クランケのオペに集中してもらいたい」
七歳か。垣谷が呟く。当院症例最年少ですね、と酒井が追随する。
桐生は一瞬遠い眼をする。
「ああ。アガピ君は絶対に助けてみせる」
桐生の眼が強い光を一瞬放つ。その言葉にスタッフの気持ちが一つになったような気がした。ほんの短い時間、カンファレンスに参加しただけなのに、ひねくれ者の俺の中にさえ、桐生に対する尊敬の念が芽生え始めていた。事務員の崇拝を勝ち取れる理由がよくわかった。
心筋の切除予定範囲を決定し、カンファレンスは計ったように三十分で終了した.終了後、スタッフの聞き取り調査のスケジュールを調整した。そして最後に、桐生に確認した。
「桐生先生は明日の夜、つまり手術前夜になりますが、よろしいでしょうか」
「三十分程度の聞き取り調査でしたら支障ありません。明日夜九時で結構です。田口先生こそ、そんなに遅くなってしまって大丈夫ですか」
「お気遣いありがとうございます。普段はスーパーフレックスで自主休息をとっていますし、家で待っている家族がいるわけでもありませんので、私の方はご心配なく」
やり取りを開いていた酒井が、ちゃちゃを入れる。
「桐生先生も、田口外来では平静でいられなくなるかも知れませんよ」
俺は酒井の言葉を黙ってやりすごした。桐生はそんな俺をじっと見つめていた。
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6章
聞き取り調査1日目
2月5日火曜日 午前10時 1F・不定愁訴外来
□田口ファイル@ 第一助手 垣谷雄次講師(49) 午前10時
垣谷が、聞き取り調査のトップバッターに志願してきたのは意外だった。なんやかんや理屈をつけて、来ないで済むように抵抗するのではないかと踏んでいたのだ。ところがフタをあけてみると、医局運営会議をサボる口実になるからと大喜びで、午前中ど真中というゴールデンタイムを指定してきた。
聞き取り調査に一番神経を便うだろうと予想していた垣谷がトップバッターになったことは、果たして吉か凶か。
声が大きい。眉が太い。相手に圧迫感を与える風貌。しかし俺は密かに、垣谷は小心者ではないか、と睨んでいた。
垣谷は、物珍しげに部屋を見回した。
「へえ、愚痴外来はこんな風になってたんだ。意外に居心地よさそうだな」
同窓の先輩という気安さからか、いくぶん横柄な口をきく。かつて俺が学生時代、外科のポリクリ(病院実習)を受けた時のオーベン(指導教官)でもあった。もっともあちらはそんなことは、きれいさっぱり忘れてしまっているだろうが。
医局長だけあって上下関係にはいくぶんうるさいタイプのようだ。
見回した視線の先に、招き猫のように座っている藤原さんを見つけて、垣谷はぎょっとした表情になった。それから照れ笑いを浮かべて挨拶をした。
「フジさん、お久しぶりです。そういえばこちらにいらしたんでしたっけね」
擬態のように背景に溶け込んでいた藤原さんが頭を下げる。
「垣谷先生も、すっかりご立派になられて。今や、第一外科、じゃなくて今は臓器統御外科ユニットって言うんでしたかしらね、そこの屋台骨をしょってらっしやるんですものね」
垣谷は青汁を無理矢理飲まされたような表情になった。
「あんまり苛めないで下さいよ」
藤原さんはうっすらと笑った。珈琲を垣谷の手許に置くと、頭を下げて奥の部屋へ姿を消した。垣谷は、閉じられた扉をぼんやりと見やった。その表情は、どことなくカバに似ていた。
俺と垣谷は向かい合った。どうしてこんな羽目になったのだろう。机を挟んだ両側で向かい合った二人は、奇しくも同じ感慨に囚われていた。
垣谷が口火を切る。
「桐生さんも、相当参っているのかな。そもそも一体、どういうことなんだ? よりによって、田口先生なんかに調査を依頼するなんてさ」
「実は、私もそう思ってるんですよ」
「だったら、断ればよかったのに」
「私がやらないと曳地先生がやることになるでしょうね。そうするとかえって大事になると思いませんか? もしも問題がなかったりした時には、収拾がつかなくなってしまうでしょうし」
垣谷はちょっと考え、同意した。
「確かに、曳地さんのナマクラ刀で嬲《なぶ》られるよりは、田口先生のおっとり刀の方がまだマシかな」
垣谷はぶつぶつと呟く。
「まあ、桐生さんは潔癖すぎるところがあるから、気になることは、はっきりさせないと気持ち悪いんだろう。外部調査でどうしてもやりたいのなら、田口先生は案外、適任かもなあ」
ずいぶんと煮え切らないお誉めの言葉だ。光栄に思わなければいけないのだろうが、誉められてもちつとも嬉しくない。
「さっそく、術死三例の手術時のことについて、お聞かせ願いたいのですが」
「田口先生が、どれくらい心臓外科手術の手技について知っているか、についてはあまり深くは追求しないこととして……」
一息つくと、垣谷はにやりと笑う。
「どういうことを聞きたいのか、もう少し具体的に言ってくれないと答えようがないな」
「お聞きしたいのは、二十七例の成功症例と術死三例で、どこか違うところがありましたか、ということです」
「俺にわかるくらいなら、とっくに桐生さんが見つけているさ」
こっちだってそれくらいわかる。むっとした俺の顔を見て、自分の不親切さに気づいたのか、垣谷は慌てて補足した。
「バチスタ症例は、もともと心臓の状態が良くない患者が多い。合併症もある。だからこそ手術成績も芳しくない。一例一例新しい問題に直面し、その都度解決してきたようなものさ。綱渡りそのもので、連勝していたことの方が異常だし、むしろ奇跡なんだ、と俺は思っているがね。失敗した三例の共通点については、俺もいろいろと考えてみたが、残念ながらよくわからなかった」
予想通りの答えだった。もともとこの聞き取り調査で真相を明らかにできるなどと考えてはいない。いくら俺でも、そこまで楽観主義者ではない。それでも数少ないとっかかりの一つなので、少しばかり粘ってみる。
「お話はわかります。それでも何か違いがなかったか、もう一度考えてみていただけませんか。どんな些細なことでも構いませんので」
垣谷は思案していた。何かを探し求めているというより、すでにその眼に見えていることを伝えるべきかどうか逡巡しているように見える。
「あんたは辛抱強そうだし、短絡的でもなさそうだ。気は進まないが、俺が言うしかなさそうだしなあ。但し、これは田口先生がどうしても、と訊いたからあえて言うんだからな」
念押しをしてから、腕を組む。
「ケース26から器械出しの看護師が大友クンに替わった。その時からチームの呼吸がズレ始めた。ケース27が術死になった時、ああ、やっぱりと感じたのは俺だけではないと思う」
「大友さんの手際が悪い、ということですか?」
「そうは言っていない。技術的にはむしろ星野クンより上だと思う。けれども、手術というものは、人と人が何かを持ちあって作り上げるもので、単純な足し算は成立しない。相性という因子が大きくなる。俺の印象では大友タンとチームの相性は悪い気がする」
「そんな非科学的な……」
「この感覚は、外科医じゃないと理解しにくいかもな。手術現場には、理屈では割り切れないことがたくさんある。それは実際に経験してみないとわかってもらえないことさ」
怪訝そうな俺を見て、垣谷は天井を見上げて、続けた。
「手術の場は、掛け算に似ている。他の人たちがどれほど大きい数字でも、ゼロが一人いれば、全部ゼロだ。マイナスが一人いれば、数値が大きいほど悪い。かと思うと、マイナスが二人いると、今度は大きなプラスに変わる、こともある」
「つまり、大友さんがマイナス因子だと?」
「うーん、そういう単純な話じゃないんだ。チームの場と符号が逆向きだ、という感じだな。それがつまり、相性が悪い、ということになるんだがね」
そう言うと垣谷は思わせぶりにうなずく。
「ひょっとしたら、チーム・バチスタの場の符号の方がマイナスなのかもな」
垣谷は一体何を言いたいのだろう。俺は首をひねり、正直な感想を述べる。
「面白いお話ですが、相性が悪いなんて言われても納得し難いですね。そんな些細なことが連続術死につながっていると、本気で考えていらっしゃるんですか?」
垣谷はむつとする。
「田口先生が、どんなことでもいいから教えて欲しいと言うから、感じたことを言っただけだ。断っておくが俺は大友クンの技術が低いと責めてはいないぞ」
その通りだ。俺はすぐさま謝罪した。俺の真意を推し量ってから、垣谷は追加する。
「それからな、些細なことをナメていると、いつか手ひどいしっぺ返しを喰らう。もっともこれはオペに限ったことではないけどな」
小さなリズムの狂いも、長く続けば誤差がひろがる、ということか。含蓄のある言葉を、教訓として心の片隅に刻み込んでから、俺は話を変えた。
「どうして看護師は交代したんですか?」
確執でもあったのだろうか。俺の邪推に対する垣谷の返事は、あっけらかんとしたものだった。
「結婚して寿退職さ。星野クンは別嬪だったからなあ。お相手が羨ましいよ。チーム・バチスタは、あの時から幸運の女神に見放されてしまったのさ」
半分、本音のようだ。
「垣谷先生は、三件の術死を医療事故だと思っていますか?」
垣谷は真顔に戻った。
「経験と信念から言わせてもらえば、たまたま不運が重なっただけだと思っている。器械出しの看護師が替わった時に、リズムや呼吸のズレがあったことは確かだが、そのために桐生さんの手技がブレた、という印象はない。だが……」
「だが、何です?」
垣谷は何か言いかけ、思い直したように口を閉ざした。
言いかけた言葉を訊き出したいと思ったが、つっこんでも答えてもらえない予感がした。垣谷からこれ以上訊き出せることはなさそうだ。俺は話を変えた。
「垣谷先生の研究テーマは何ですか」
「胸部解離性大動脈瘤グラフト手術における器質化を促進する因子について。但し、最近は周りからはバチスタがメインだと思われているがね」
垣谷は、自嘲気味に答える。
「どんな内容ですか」
「グラフト置換した血管壁の内腔の平滑度を画像診断から判断する。それと、いくつかの生化学的な因子を計測し、相関を見つける」
「研究の進捗状況はいかがですか?」
「ちっとも進んでいない。バチスタが忙しいんだ。おかげで黒崎教授はおかんむりさ」
黒崎教授の専門分野が大動脈瘤バイパス手術だったことを思い出す。
「最後にもうひとつ。よろしかったら、先生のお名前の由来を教えて下さい」
「名前の由来? 名前って、俺の名前のことか?」
垣谷は素頓狂《すっとんきよう》な声を上げた。
「何でまたそんなこと……この調査にどうしても必要なのか?」
「いいえ、個人的な趣味でお訊きしていることです」
「申し訳ないが、君の趣味につきあっている暇はない」
垣谷はぴしゃりと言った。垣谷の面接は終了した。
□田口ファイルA 第二助手 酒井利樹 助手(30) 午後1時10分
「遅れてすみませんでした。食堂が混んでいまして」
十分遅れたことを謝罪しているが、悪びれた様子はない。わかりやすいタイプなので、許容範囲だ。キヤンキヤン吼えるスピッツだと思っていれば実害はない。
「愚痴外来も久しぶりだなあ。ここは本当に変わりませんね。それはそうと、その節は大変お世話になりました」
「あれから、二年くらいになるのかな」
「二年半です。久倉さんのご機嫌が麗しくなったのは田口先生のお力のおかげです。ありがとうございました」
言葉と表情が見事なくらい乖離している。さわやかな好青年風のルックスと異なり、中身はなかなか執念深いようだ。
虫垂炎をこじらせた久倉留蔵さんが、救急搬送されてきたのは、酒井の記憶によれば二年半前で、愚痴外来の初期の頃だったという俺の記憶と矛盾しない。来院時、虫垂破裂、腹膜炎併発で緊急手術になった。その時の執刀医が酒井だった。外科医局間交流研修の一環で、酒井が救命救急部に出向していた時の出来事だった。
外科医三年目は、血気盛んな頃合いだ。一度大空に舞い上がったことがある、というささやかな経験だけで自分を過大評価するお年頃。伸びきっていない羽で大海原を横断できると過信するひな鳥。ミスやトラブルという猛禽類は、往々にしてそういう時に、背後からひそやかにしのび寄る。
酒井の手術手技に問題はなかった。腹膜炎を併発していれば創傷感染は避けられない。傷口が化膿して開いたのも当然の帰結だ。ベテラン医が執刀したとしても同じ結果に終わっただろう。但しそれは医療サイドの理屈にすぎない。患者から見れば、手術後に創が化膿して開いてしまえば、手術ミスを疑って当然だ。
酒井と留蔵さんはトラブルになった。酒井のムンテラ(病状説明)が、一本気な留蔵さんには無責任と映った。酒井にとっては、とにかく相手が悪かった。腕一本、自分の技術と論理だけを頼りにして世の荒波を渡ってきた一流の漆職人。納得できなければ、教授にだって噛みつくことも厭わない一刻者。
酒井はどうすればよかったのだろう。思わしい結果ではなかったが、手術は失敗ではない。必要だったのは、患者に対して徹底的に説明することだった。そして患者と
きちんと向き合うことだった。しかし、酒井は必要な対応を怠った。留蔵さんは開放創のまま退院し、外来通院で継続して創傷消毒処置を行うことになった。留蔵さんの抗議は日増しに強くなり、対応に苦慮した救命救急センターの速水部長から、ある日、不定愁訴外来に依頼があった。
不定愁訴外来受診初日、留蔵さんは俺に口をきこうとしなかった。
簡単な自己紹介を兼ねた挨拶に対して、返事はなかった。そのまま三十分間待ち続け、俺は初回の外来診療を終えた。初回の面接の時に、二人の間に存在した言葉は、俺の始めの一言だけだった。
二回目。事態は進展しない。問いかけに対して答えようともせず、留蔵さんは頑なな雰囲気をマントのように身にまとい続けていた。四十五分待って、外来を終了した。
俺は焦らなかった。黙って向き合って座っている、という事実が積み重ねられていくことに意味がある。
三回目、変化が起こった。
藤原さんが留蔵さんにお茶を出した。普通患者にお茶は出さないが、黙って座っているだけというのもさぞ大変だろうという、藤原さんのささやかな心づくしだった。
留蔵さんは頭を下げた。
「どうも」
短い御礼。堤防に小さな穴があいた。
話すというのは一つの習慣だ。小さなきっかけではずみがつくと、こらえきれなくなる。唐突に留蔵さんは、俺が口をきかない理由を尋ねてきた。一緒になって黙り続ける俺に対し、好奇心を持ち始めていることが、無表情を装う仮面の下に透けて見えた。
俺は、相手が何か言ってくれなければ、自分には何もできない、と答えた。
その言葉に、我慢と憤感《ふんまん》を水際で押しとどめていた留蔵さんの心の防波堤が決壊した。押さえきれない言葉が鉄砲水のように溢れ出した。
決壊は怒りから始まった。非難の噴出が一段落すると、彼の本性である怜悧《れいり》な論理性が顔を出し、感情と事実を整然と分けて、冷静に説明し始めた。留蔵さんは一時間以上もとどまることなく語り続けた。こうしてため込んでいた不平不満の在庫を一掃すると、再び黙り込んだ。
すべてが終わった時、苛立ちの表情は消え去り、穏やかで柔らかな空気に包まれていた。それから、冷えきったお茶を美味《う ま》そうにすすった。
留蔵さんは、傷が開いたまま退院させられたことにではなく、説明が不十分なまま放り出されてしまったことに対して怒っていた。俺は問題を正確に把握した。
酒井は留蔵さんの言葉に耳を傾けず、気持ちを汲み取ろうとしなかった。それが不満の根源であり、すべてだった。もつれた糸が解きほぐされてみると、問題の核はほんの些細なことだった。
四回目、俺は酒井を外来に呼んだ。
俺は何も言わなかった。酒井の説明に誠意が感じられず、説明内容に納得していないということを、留蔵さんは毅然とした態度で伝えた。酒井は謝罪し、もう一度病状を説明し直した。留蔵さんのわだかまりは淡雪のように融けていった。
こうして問題は解決した。そして酒井には、俺に対する恨みが根雪のように残った。
事件後、酒井が俺の悪口を言いふらしている、というウワサを聞いた。俺は気にしなかった。ありふれたよくある話で、些細なこと、しかも終わったことだ。けれどもトメゾーに足ドメをくったと酒井がぼやいているという話を聞いた時は、こいつはダメだと思った。
俺は留蔵さんの言葉を聞き遂げただけだ。沈黙も含めてすべて。人の話に本気で耳を傾ければ問題は解決する。そして本気で聞くためには黙ることが必要だ。
大切なことはそれだけだ。但しそれは、人が思っているよりもずっと難しい技術ではあるのだが。
今ここでは、過去の経緯は全く関係ない。俺には酒井から聞き取らなければならないことがらが山ほどあった。そこで単刀直入に訊いてみた。
「なぜ、術死が三例も立て続けに起こってしまったんだと思う?」
酒井の顔から、ひねこびた強がりが消えた。一撃で入ったひびの裂け目から、羽化したてのセミのような真白で柔らかい感情が、震えながら顔をのぞかせる。
「それは僕にはわかりません。僕にはこんな状態がずっと続くなんて耐えられません。何とかして一刻も早く原因を見つけて下さい」
「わざわざ君に来てもらったのもそのためだ。協力して欲しい。どんな些細なことでもいい。何か思い当たることはないのかい?」
酒井の視線がかすかなためらいを俺に伝える。意を決し、顔を上げる。
「垣谷先生は、器械出しの看護師のメンバー交代が原因だと言ったでしょう?」
「言い方は少々違うが、看護師のメンバー変更で雰囲気が変わったということは教えてくれた」
「やっぱりね。でもそれは違うんです。手術室で桐生先生の足を引っ張っているのは、本当は垣谷先生の方なんですから」
「どういうこと?」
「桐生先生はとても疲れていらっしゃいます。垣谷先生が適切にサポートしないからです。垣谷先生は第一助手なのにサボるんです。僕には、桐生先生が垣谷先生を使い続ける理由がわからない」
「術死は垣谷先生の技術の未熟さが招いたと思っているの?」
「そこまでは言えませんよ。だって一一十七例は成功しているんですから」
「それなら、なぜそんなことを言うんだい?」
「事実だからです。垣谷先生は、桐生先生のお荷物になっています。今、術死の原因を探せば、まず、交代したばかりの大友さんが注目されるでしょう。そうした錯覚をもとに、本当の要因が見落とされては困るんです」
外科のキャリアが浅い酒井にそこまで言わせるほど、垣谷の技術は低いのだろうか。そんな技量で大学病院で生き残っていけるのだろうか。
その時、些細な過去のウワサが浮かんだ。もしも桐生が招聘されなかったら、垣谷が助教授になっていただろうというウワサ。
垣谷は消極的な反抗をしているのだろうか。俺の思考を後押しするように、酒井の言葉が続く。
「桐生先生は、手術室では垣谷先生を全然あてにしていません。バチスタは、桐生先生お一人で執刀しているようなものです」
酒井は、独り言のようにつけ足した。
「垣谷先生と比べれば、僕の方がまだましだ」
「そんなにひどいのかい?」
俺は尋ね返した。同時に、俺のセリフが酒井を垣谷と同等に低く貶《おとし》めていることに気がつく。反感の殻に引っ込むか、噛みついてくるか。
意外にも酒井は弱々しく笑った。
「明後日は手術見学されるのでしょう? 僕の言っていることがウソかホントかはその時に田口先生ご自身の眼で確かめて下さい」
「それもそうだね」
酒井は言った。
「術死はキツいです。あんなに辛《つら》いコトが世の中にあるなんて、思ってもいなかった。それなのに立て続けに三例。もうこりごりです」
その言葉に、ウソの響きはなかった。酒井にとって、今の状況は精神的に耐えうるぎりぎりなのだろう。
俺は話題を変えた。
「酒井先生はどんな研究をやっているの?」
「二種類あって、両方ともバチスタがらみです。メインは犬にバチスタ手技を行って、術後二十四時間の経過を細かく観察しています。氷室先生との共同研究です。氷室先生が麻酔をかけ、僕が手術する。手術の練習になります。氷室先生は麻酔の深度と脳幹反射の関係を調べています」
「ふぅん。博士号は取れそうかい?」
酒井は肩をすくめる。
「大型動物の実験は|n《エヌ》(症例数)をなかなか増やせませんから。仕方ないのでサブ研究では、バチスタ手術時のストレス環境も研究しています。手術中の血中微量ホルモンやカテコラミンの債の変動を調べています。手術時に三十分毎に採血しています。もっともこっちは、術中の血液モニタリングに便乗しているだけですけど」
「血液検体は保存してあるの?」
「全部保存してあります。カテコラミン系を中心に解析していますが、検討項目を増やす方向へ展開する可能性もありますから」
過去の血液サンプルは調査可能。酒井の情報を心にメモした。
「忙しいところ、わざわざありがとう。最後に、酒井先生の名前の由来について教えて欲しいんだ。個人的な趣味の質問だから、無理に答えなくてもいいけど」
「名前ですか」
酒井は唐突な質問に面喰らったようだった。無視するか、質問の理由を勘ぐつて逆に根はり菓ほり訊いてくるのではないか、という予想に反し、素直に答えた。
「大した由来はないです。父親が利夫で、その一字をもらいました。誕生日が五月で、若葉が綺麗だったので樹という文字を入れたそうです」
自分の名前の由来を説明してもらう、という手法が相手の理解に有効だということは、愚痴外来での経験を通じて気がついた。
自分の名は、その人が一番耳にする言葉だ。その特別な言葉に対し、その人がどのように向かい合っているかを知ることは、生きる姿勢を知ることにつながる。
回答は拒否されても構わない。なぜなら拒否も、その人の姿勢を表しているのだから。
大切なことは軽々しく口にすべきではないと考えている人は、結構多いものだ。
調査終了を告げると、酒井は胸の奥で温めていたらしい質問を尋ねてきた。
「病院長は、医療事故だとお考えなのでしょうか」
「それは私にもわからない。ただ、高階先生の性格からすると、医療事故だと思ったらリスクマネジメント委員会の発動をためらわないんじゃないかな」
俺は半分、本音を伝えた。酒井はほっとしたようだ。
「桐生先生のメス捌きは衰えていません。それなのに三例続けて術死するなんて、僕には理解できません。どこか変です。田口先生、問題点を一刻も早く見つけ出して下さい。お願いします」
酒井は深々と頭を下げた。桐生に対する尊敬の念が、俺に対する反感を遥かに凌駕していることだけは確かなようだ。
□田口ファイルB 手術室看護師 大友直美 主任(33) 午後5時30分
夕刻。帰り支度をしている藤原さんに声をかけた。
「申し訳ありませんが、今日は残業していただけませんか。一時間くらいで済むと思いますが」
藤原さんは上目遣いで俺を見た。不定愁訴外来に勤務して三年近く、彼女に残業の依頼をしたのは初めてだった。
「構いませんけど。私がいるとかえってお邪魔かと思って」
どうやら、何が行われるのかは、うすうす感づいていらっしゃるようだ。俺は簡単に事情を説明する。
「実は藤原さんの同席が、大友さんのご希望なんです」
藤原さんは何か言いたそうだったが、黙って手にしたバッグをロッカーに戻した。
「あの娘《こ》も、しょうがないわねえ」
小さな咳きが聞こえた、ような気がした。
きっかり五時半、大友看護師は私服で訪れた。地味なカーディガンと履き古したジーンズ。硬い表情。鋭角的な輪郭が、彼女を神経質に見せていた。手術着という戦闘服を脱ぐと、弱々しい感じがした。装いが変わると印象も百八十度変わる。手術室で感じた気の強さは、精一杯の虚勢だったのかも知れない。
あまりの変化に俺は少しとまどっていた。
向かい合って改めてよく見ると、顔立ちは端正で美人といってよい。しかし華が感じられない。自信のなさが、彼女の輝きを内部に閉じ込めてしまっている。
大友看護師は、俺の背後に藤原さんを確認して、緊張を解いた。
「わがまま言って申し訳ありません」
「別に構わないわ。でもあなたもベテランなんだから、もうそろそろ一人立ちしないとね」
大友看護師は軽く頭を下げた。彼女に椅子を勧め、俺は珈琲を三人分オーダーする。
カップを配り終えると、藤原さんは俺たちの側面に座る。
「田口先生のことはよく知らないだろうけど、何を言っても大丈夫よ。いい加減な先生だけど、口だけは堅いから」
大友看護師は、唇を噛んでうつむいた。繊細さと頑強さが不自然に入り混じる。外界の喧噪から身を守るため、自分の世界に引き籠もる巻き貝のようだ。
彼女は黙り続ける。俺は話のきっかけを探し、改めて彼女に視線を投げた。大友さんは何かに耐えるように、さくら色のハンカチを握りしめている。その手許を見つめていると、小刻みに震えているのがわかった。
ぼたん、と水滴が手の甲に落ちた。
顔を上げると彼女は大粒の涙をこぼしていた。
泣きじゃくり始めた彼女に、藤原さんが寄り添い、背中を撫でる。
「全部吐き出してしまいなさい。ここはそのための場所なんだから」
面を上げ、かすかにうなずく。再び激しく泣きじゃくる。俺は手許のボールペンの先を見つめる。
その時、俺は悟った。彼女は藤原さんの胸で泣くために、ここに来たのだ。
顔に押しつけていたハンカチを外し、大友さんは顔を上げた。はげ落ちた薄化粧。
「すみません、取り乱して。フジさんの顔を見たらホッとしてしまって、つい」
藤原さんは、かすかに笑った。大友さんは泣きじゃくりの尻尾を押さえ込み、身をよじって一言絞り出す。
「私、星野さんがうらやましくて」
呪縛から解放され、息をつく。両手でコップを包み、手のひらの中の小さな暖炉のぬくもりにすがる。珈琲と涙と鼻水を一緒にして一口すする。焦点の合わない視線を夕闇に包まれた窓の外にぼんやりと投げかける。
やがて、ゆっくりと話し始める。
「二年前、星野さんが新人で手術室に配属された時、彼女が才能豊かなことにすぐ気づきました。あっという間に、手術場のみんなに一目置かれる存在になりました。可愛くて機転がきいて、手術室のアイドルでした。『おキョウ』と呼ばれ、可愛がられていました」
その眼が一瞬、明るく華やいだ。だがすぐに涙の薄い膜に覆われて光を失う。大友さんは続けた。
「私はオペ室に配属されて七年目、周りからはベテランと思われていました。星野さんが配属された頃、器械出しの技量は私が断然トップでした。しばらくすると、星野さんが才能を開花させ始めました。それはとても華々しいものでしたけど、それでも二人の差はしばらくは縮まらないだろうと誰もが思っていました。同時に、いつか私を抜くとしたらそれは星野さんだろう、ということも。だから私は星野さんに目をかけ可愛がりました。将来の後継者だと思っていましたから」
大友さんは眼を伏せた。一口珈琲をすする。
「それなのにまさか、あんなに鮮やかに追い抜かれてしまうなんて……」
吐息のような言葉に続いて、大友さんの言葉がこぼれ落ちる。
「桐生先生がバチスタのメンバー選考のため手術室にいらした時、オペ室の誰もが、選ばれるのはきっと私だ、と思っていました。でも桐生先生はさすがでした。星野さんの素質を一目で見抜き、躊躇《ちゅうちょ》なく彼女を抜擢したんです。悔しかった。星野さんが羨ましかった。でも正直言えば、桐生先生の選択には納得していたんです。私が我慢できなかったのは……」
大友さんは沈黙に沈む。まるで深い海の底にいるように。
藤原さんの視線が柔らかく彼女を包む。その温かさに背中を押されるように、大友さんは再び話し始める。
「私が我慢できなかったのは、私が星野さんをねたんで中傷しているとか、陰険な意地悪をしている、というウワサを流されたことでした。そんなこと、絶対にしていないのに……。私の中に、ほんのちょっぴりだけど、そういう気持ちがあったので、余計そのウワサが辛くて、それだけはどうしてもどうしても、我慢できなくて……」
そう言うと、大友さんは洟《はな》をすすった。
「星野さんは可愛い娘でした。それ以上に強い人でした。ひどい嫌がらせにあってもどこ吹く風でした。やがて病院中の誰もがようやく彼女の実力を認め、渦巻く嫉妬が消え去ったまさに絶頂に、彼女はあっさりキャリアを投げ出したんです」
小さな沈黙を捉えて、俺は口を挟む。
「そしてあなたに、その代役が回ってきたのですね」
彼女はうなずいた。
「でも、その時にはもう遅かったんです。私の中には、星野さんには及ばないという事実が刻み込まれてしまっていた。星野さんが病院を去っていった後に、私の中に残っていたのは、チーム・バチスタへの憧れの抜け殻でした」
大友さんは涙を一粒こぼす。
「器械出しの技術はスポーツと同じで、反射神経が命です。初めてバチスタに入った時、痛感しました。手術中、星野さんの残像がちらつくんです。星野さんの技術は私より一呼吸早い。役柄を引き継いだ私は、力量差を思い知らされました。ウィンブルドンに出場するプレーヤーと、女子大同好会のメンバーの試合みたい。全然かなわないの。私が差し出す器械の一つ一つが、精密機械のような桐生先生の手技を微妙に狂わせていく。感触でわかるんです。みんなのリズムが少しずつバラバラになっていき、立て直そうともがけばもがくほど、泥沼に足をとられる。最後にはチームの呼吸がめちゃくちゃになってしまった。その果てにとうとう、術死が……」
大友さんは、最後の一言を絞り出す。
「チームを壊し、術死につながったのは、私の技術が未熟だったせいなんです」
すべてを吐き出した彼女は、肩で大きく息をした。そして初めて、声を上げて号泣した。
大友さんが泣きやむのを待つ。待つことに慣れている俺にとっても、それはとても長い時間だった。藤原さんが温かい珈琲を運んできてくれた。
俺はぼつりと一言う。
「そのことについて、桐生先生は何かおっしゃっていましたか」
彼女は激しく首を振った。
「桐生先生は、何もおっしゃりません。それが余計辛くて……」
「大友さんのお話が本当だとしても、それは術死と直接関係ないですね」
「そんなことない、そんなことない」
大友さんは首を振り続け、ひたすら泣き続ける。そうすればすべてが消えてしまうと信じているかのように。その手許に温かい珈琲がそっと置かれる。
俺は意を決し、聞き遂げる、という自分のテリトリーから一歩踏み出す。
「確かに、あなたが術死の原因かも知れない、と言ったスタッフはいました」
大友さんはぴたりと泣きやむ。涙を目の縁のぎりぎりまで溜めた眼を見開く。
ハンカチが手の中できつく振りしめられている。
しわがれた呟きが短い沈黙を破る。
「やっぱり…。そうなんだ……」
俺の眼を見ない。小さく、消え入りそうな声。
「……多分そうじゃないかなと思ってた」
「あなたとチームの相性が悪い、術死の原因はそれくらいしか見つからない、とおっしゃった方がいました。けれどもその方は、こうも言っていました。技術的にあなたが星野さんに及ばないとは思わない、むしろあなたの方が上に思えることもある、と」
大友さんが眼を瞠《みは》る。俺は続けた。
「術死の原因は医師の技術が未熟なせいだ、と言う人もいました。だから内部には、術死の原因があなたの技術のせいだと考えている人は、これまでのところ、一人もいないんです。これは客観的な事実です」
俺の言葉をひとかけらも聞き漏らすまい、という真剣なまなざし。
「あなたの立場は理解できるし、同情もします。けれどもそれが、周りの認識とは違っている部分もある、ということは理解して欲しいのです。そうした事実を踏まえた上で協力して下さい。私は、非科学的な当てずっぽうや、感情に委せた思い込みではなく、明確な原因を探り当てなければならないのです」
大友さんの表情が変わった。俺は続ける。
「改めてお尋ねします。看護師の視点から見てバチスタ手術の時に、変だと感じたことはありませんでしたか? 些細なことでも構いません。冷静に思い出して欲しいんです」
大友さんは、視線を落としてじっと考え込む。激情は収束し、彼女の本質と思われる、思慮深く理知的な表情が浮かび上がる。
「私、自分の役割を果たすことで精一杯で、周りのことまで考えるゆとりがありませんでした。そういうことを考えたことはありません。お役に立てなくてごめんなさい。
ただ、そう言われて改めて思い出してみると、バチスタ手術って、他の手術とは全然違う場にいる気持ちになるんです。原因が何なのかはわからないんですけど。何か、すごくちぐはぐな感じ」
大友さんはじっと考え込んだ。その姿を見やりながら、もう潮時だな、と感じた。
一瞬迷ったが、最後に彼女にルーティンの質問をぶつけることにした。
「大友さんの研究課題って、どんなことですか」
「私、研究が好きじやなくて、逃げ回っていたんです。昔はフジさんにもよく叱られました。最近ようやく、手術技術教育というテーマにしたんです」
「研究は順調ですか?」
「研究といっても、看護学校で教えるだけです。最近講義に行くと、バチスタのことでは質問責めなんです。桐生先生ってカッコいいから、看護学生にも人気なんです。おかげで、私まで尊敬の眼で見られちゃって」
彼女は、微笑んだ。初めて見た大友さんの笑顔だった。
「そうなんですか。桐生先生が羨ましいな」
俺が本音を漏らすと、隣で藤原さんがちろりと笑う。タイミングがよすぎて実にイヤな感じだ。少々気分を害した俺は、面談を終了することにした。
「最後に、大友さんのお名前の由来を教えていただけませんか。全員に訊いているんですが、個人的な趣味の質問ですので、イヤでしたら、無理に答えていただかなくても結構です」
「素直で可愛い娘になって欲しい、という願いを込めて直美とつけたそうです。平凡ですけど。親の希望はかなえてあげられませんでした」
「そんなことないですよ。ちゃんとご希望はかなえられていますよ。長時間、ご協力ありがとうございました。最後に何か、言っておきたいことはありませんか」
「あの……、私が取り乱したこと、桐生先生にはお伝えしないで欲しいんです」
ためらいがちな彼女の言葉に俺はうなずく。大友さんは立ち上がると、俺に軽く会釈をし、藤原さんに深めに顔を下げた。藤原さんが言う。
「あんたがしっかりしなかったら、オペ室はどうなっちゃうの」
大友さんは、泣き笑いのような顔で、もう一回お辞儀をした。そして、ちょっとだけすっきりしたような表情で部屋を出ていった。
大友さんの悲しみが漂う部屋に、俺と藤原さんが残された。
「いろいろありがとね、センセ」
藤原さんが言った。礼を言われる筋合いはない、と思いながらも、その言葉は妙にしっくりと俺の胸に落ち着いた。
「ウワサって怖いですね」
俺の言葉に、藤原さんは考え込んだ。しばらくして口を開く。
「田口先生が何を調査されているのかわからないし、お仕事には関係ないことかも知れないけど、私が知っていることを一応お伝えする。
彼女が星野さんを中傷しなかったということは、たぶん本当のこと。彼女は星野さんのことが大好きだったらしいの」
藤原さんは、俺の眼をのぞき込む。
「大好き、というのは、普通の好き≠カゃないわ。彼女はね、女性しか愛せない人なの。ウワサですけどね」
俺は虚を衝かれた。けれどもその瞬間、諸々のことがぴたりと納得できた気がした。
俺は、立ち上がるきっかけを失い、闇に包まれてしばらく動けなかった。
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7章
聞き取り調査2日目
2月6日水曜日 正午 1F・不定愁訴外来
翌日。今日も愚痴外来はいつものように上限五人。だが外来終了時刻は午前十一時三十分。
愚痴外来は、その気になれば仕事量を主体的にコントロールできる。わかりやすくいえば、手抜きができるということだ。うしろめたいので、普段はしないが、今日の俺には大義名分がある。羽場が昼休みしか都合がつかないため、十二時前に愚痴外来を終了する必要があったのだ。
看護師や技師というコ・メディカルの人たちが属する組織は、勤務時間遵守に厳格だ。医師とは異質の社会だ。医師の世界で時間厳守は、高速道路を制限速度で走るのと同じくらい、なじみにくい。医師が時間にルーズであることを許されている背景には、業務がプライベートに浸食しがちだというウラ事情がある。
病院は二つの異文化が混在するキメラ組織なのだ。前者に属する藤原さんは、俺と羽場に珈琲を淹れると、ためらうことなくランチタイム∴ンヤーニーへ旅立っていった。
□田口ファイルC 臨床工学士 羽場真之室長(53) 正午
「すみません。昼休みしか手術室を離れることができないものですから」
羽場が頭を下げた。
「私は時間が不規則ですから構いません。羽場さんこそ、昼食時間がなくなってしまうのではないですか?」
「昼飯抜きには慣れているので、ご心配なく」
手術室の屋台骨を背負いながら、気負いのない自然体。象のような安定感がある。小手調べに、その厚い胸板に軽く質問をぶつけてみる。
「桐生先生って、どういう方ですか?」
「素晴らしい方です。あんな医師は、これまで見たことがありません」
壁にぶつけたテニスボールのように、即答が返る。
「建前では、手術はスタッフの協力の賜物だ、と言う先生はいますが、そうした言葉を実行しているのは、桐生先生だけです。例えば術前カンファレンスをあんな早い時間に、手術室で行うのもひとつです。私や大友さんが必ず参加できるように、場所と時間が決められました。手術室スタッフは、勤務時間中に手術室の外へいくことは難しいですし、あの場所であの時間に終われば、通常業務には支障ありません。ここまでコ・メディカルに、気を配る医師は他にはいません」
「確かにひと味違う方のようですね。そんな立派な先生の手術が、続けて三例も術死を起こしてしまったのはなぜでしょうか?」
俺は一気に核心を衝く。何しろ、時間がないのだ。羽場の表情が曇る。
「私にはよくわかりません。手術中、人工心肺で患者の命を維持するのが私の仕事です。術野はあまり見ていないんです」
「羽場さんの領域で、バチスタ手術で特別なご苦労はありませんか?」
「人工心肺を動かすという観点からは、バチスタは通常の心臓手術とほとんど変わりありません」
羽場にとってバチスタは特別な手術ではない。この点、他のスタッフとスタンスが違う。俺はそのゆとりに望みをかけた。
「成功した時と失敗した時に、何か違う点にお気づきになりましたか?」
「そのことは、スタッフ間でも当然、繰り返し話し合っています。どうしても見つからなかったから、田口先生に依頼することになったんでしょう」
羽場の言葉を聞き、この依頼の無謀さを改めて実感した。現場を熟知している優秀な当事者が徹底的に調べ尽くしてもわからないことを、素人のような部外者がちょっと調べて何とかしなければならない。まさしくミッション・インポシブルだ。
「人工心肺関係では、トラブルはなかったんですね?」
「人工心肺を回す時には、トラブルはあってはならない!」
強い口調にぎょっとして、羽場を見る。羽場はにっこり笑う。
「と、言われていますがね、小さなトラブルなんてしょっちゅうです。メインテナンスを含め普段から細部に至るまできちんとしておけば、トラブルが小さいうちに気づき、早めに回避できるというだけです。早期発見、早期解決。その意味では、成功症例も術死症例も違いはありませんでした。人工心肺的には、術死例の方がスムースだったことさえあります」
「おかしな気配は全くなかったんですか? 違和感もなし?」
「ええ。人工心肺はトラプると、すぐわかります。患者と人工心肺をつなぐチューブに注意していればいいのです」
うなずいて、羽場は続けた。
「人工心肺のトラブルは大きく分けると二種類あります。ひとつは、心機能にあたるポンプ機能のトラブルです。この時には、チューブ内の血流が悪くなります。もうひとつは、肺の基本性能である酸素交換を行うフィルター・トラブルで、チューブ内の血液の色がどす黒くなります。ポンプにしてもフィルターにしても、問題が起こればすぐに人目につきます。だから、目を離さずにいれば、トラブルはたいていわかる。問題点がわかれば、復旧も簡単で、大事に至りにくいんです」
俺は羽場の言葉を理解し、同時に羽場の実力も把握した。トラブル回避を簡単なことのように語っているが、その言葉はそのまま鵜呑みにできない。仕事を単純化して語れるのは、羽場が優秀だからだ。もっとも桐生の人選だから、この程度は想定済みだったが。
どうやら人工心肺絡みの医療事故の可能性は低そうだ。もし事故があったとしたら、羽場一人では隠しきれるものではないだろう。
「人工心肺は麻酔医と緊密な連携をしているようですね」
「ええ。互助関係です。バチスタの麻酔は氷室先生が専任ですから、ラクです」
「氷室先生は優秀なんですね」
訊くまでもないことだった。しかし会話というものは、得てしてこうした意味のないやり取りで、骨格が形成されるものだ。
「麻酔スタッフの中では、ピカイチですね。どんな時も冷静で、取り乱した姿を見たことがない。器の大きさを感じます。特に、素早く広い視野からのチェックがありがたい。腕のよい麻酔医と組むと、工学士は本当にラクです」
特殊技能に長けた技術者は、資格的に格上の医師を独自の視点から評価しても容認されるのだろう。自分の言葉が言外に、有象無象の未熟な医師を一刀両断に切り捨てていることに、羽場自身は気づいていないようだ。
俺は話を変えた。
「羽場さんは、手術室のリスクマネジャーをされていますね」
「年をとったせいか、事務仕事ばかりが増えてイヤになります」
「これまで手術室で、リスクマネジメントに該当する案件はありましたか?」
ジャブに見せかけた左ストレート。羽場は一瞬考え込む。答えようかどうしようか、逡巡している。
「厳密に適用すれば、リスクマネジメントへの報告事象は日常茶飯事です。その半分以上は、私のところに上がってきます。私が委員会に正式報告する件数はその一割、月に一、二件です」
羽場が言った数字を逆算してみた。リスクマネジメントの対象になり得る事案は月に二十。手術室は平日稼働なので、単純計算で一日一件という発生率になる。予想していたよりずっと多い。
「委員会に上げる案件の選別も、リスクマネジャーの仕事なんですか?」
「曳地委員長からは、マネジャーレベルでは分別せず、すべて上げるように指示されています。けれども実際にはそうしていません」
「それで問題はないのですか?」
「曳地委員長の指示に忠実に従っていたら、オペ室業務が滞ってしまいます」
俺は、リスクマネジメント委員会報告書の書式一式の分量を思い浮かべた。文書作成が専門の事務員でも、一日一件処理できるかどうか。ただでさえ膨大な業務を負わされて窒息寸前の医療現場スタッフに、そうした書類をきちんと書かせることは、理論上は可能でも現実には不可能だろう。
曳地委員長の顔が浮かぶ。曇った眼鏡が鼻の頭にかろうじてしがみついている。自己保身を判断基準の重要因子と考えている彼は、会議参加と書類作成こそが問題解決のための車の両輪だと信じて疑わない。
しかしものごとは、会議と書類の山の中では絶対に解決しない。たいていは、現実と直面する最前線の、薄い皮相の中での一瞬で決するものなのだ。
「リスクマネジャーとして、今回の術死案件は報告すべきだと考えますか?」
「私自身が当事者の一員だという点を考慮して、可能な限り厳しく検討してみても、私にはこの件がリスクマネジメントへの報告対象にあたるとは思えません。医療ミスが存在していないことは明白だと思います」
聞き取りは一段落した。十二時五十分。いい頃合いだ。
「羽場さんは何をご研究されているのですか?」
俺の質問に、羽場はとまどった。どこから説明するべきか悩んでいるようだ。
「臨床工学士になる前、私は臨床検査技師だったんです」
「血液検査や生化学検査部門ですね」
「他にも、心電図、呼吸機能も検査します。病理検査も対象です。私は病理出身で、ジュニア、……じゃなくて、」
羽場はしまった、という顔をした。すぐさま小さな居直りを決意した顔になる。
「鳴海先生の研究のお手伝いをしてます。共同研究者にしていただいています」
病理医の鳴海は、確か桐生の義弟のはずだ。弟なのにジュニアと呼ばれるのはどういう気持ちだろう。俺は、彼の心情に興味を抱いた。
「そういえば鳴海先生は、ミーティングには出席されていませんでしたね」
「診断と治療を分離しないと、診断が治療医の意向に飲み込まれてしまい、患者の不利益になる、というのがジュニアの主張なんです」
羽場は、もうばれてしまったのだから今さら隠す必要はなくなったと言わんばかりの調子で、公然と鳴海のことをジュニアと呼び始めた。多分、手術室では公式用語なのだろう。
「治療方針を決めるカンファレンスには出席する必要はない、ということですね。そのことについて桐生先生は何とおっしゃっているんですか?」
「スタンスは理解するが、考え方は違う、とおっしゃっています。桐生先生は、治療があって初めて診断が意味を持つ、というご意見です。スタッフの中では、ジュニアだけが桐生先生に対して正面切って反対意見を言えるんです」
「お二人は仲が悪いんですか?」
羽場は慌てて付け加える。
「そういうわけではないんですよ。義理の兄弟のはずなのに、本物の兄弟以上に似ていると思うこともあります。今の話だって、表面的にはお互いの主張は正反対ですが、話し方や姿勢は瓜二つです。精神的な一卵性双生児ですね。
但し正確に言えば、お二人はもう兄弟ではありません。桐生先生は日本に戻ってこられる時に奥さんと離婚したそうです。着任の時スタッフに直接説明しました」
「あの記事は間違いだったんですね」
「ええ。こうしたことに関しては、お二人ともさっぱりしたものです。きちんと説明すると肝心の記事の内容がややこしくなるから訂正は諦めた、と笑っていました」
「桐生先生の離婚理由はこ存じですか?」
「奥さんが日本に帰るのを嫌がったと聞いています。これは、ウワサですが」
そんなことで離婚する夫婦がいるのだろうか。疑問がよぎったが、羽場に訊いても答えは得られないだろう。
羽場からは、予想以上に多くの情報を得ることができた。俺は、聞き取り調査リストの末尾に、「ジュニア」こと、鳴海涼の名前を追加した。
十二時五十五分。羽場はそわそわし始めた。
「最後に一つ、皆さんにお名前の由来やエピソードについて質問させていただいています。これは私の個人的な趣味ですので、答えていただかなくても結構ですが」
「貴之というのは、人から尊ばれる偉い人になれ、という気持ちを込めてつけたのだそうです。之の方は、適当につけたようです」
浮かした腰をもう一度落ち着けて、羽場は続けた。
「立派な名前をもらうと息苦しいので、自分の子供は思い入れの少ない名前にしようと思っていました。例えば一郎、とかね。でも、親ってどうしようもない生き物ですね。自分が同じことをやって初めて、自分の親を許せるようになりました。代わりに今度は、私が中学生になる息子に恨まれる羽目になりました。因果は巡る糸車、自業自得ですわ」
「ちなみに息子さんには、どんなお名前をつけたのですか?」
「雪之丞」
即答に、俺はコケた。冗談かと思って羽場を見たら、真顔だった。
羽場雪之丞クンには、これからどんな人生が待ち受けているのだろう。俺は密かに、未だ見ぬ彼に同情した。
十二時五十八分。調査終わり。羽場は部屋の出口で躊躇した。振り返り、俺を見た。
「こんなこと、私が言うのはお門違いかも知れませんが、大友クンの気持ちを軽くして下さってありがとうごさいました。今朝久しぶりに、彼女の晴れ晴れした顔を見ました。うちのチームに配属されて以来、毎日、今にも潰れてしまいそうな雰囲気で心配していたんです。聞き取り調査も心配していました。今回のトラブルで一番プレッシャーを感じているのは彼女ですし、その上、根ほり棄ほり尋問され、こづき回されたら、本当に潰されてしまうのではないか、と」
羽場が顔合わせの際に、コ・メディカルの聞き取り調査が本当に必要なのかと噛みついてきたことを思い出した。保守的な防衛心からの反発だと思っていたが、あれは大友さんを守るためだったのか。
「田口先生がどんな魔法を使ったのかは存じませんが、大友タンは、ちょっぴり救われたようです。手術室は運命共同体の家族みたいなところです。大友クンも、辞めた星野クンも、私にとっては娘も同然です。親代わりとして一言御礼を言わせてもらいます」
それは本当は藤原さんの功績だ。言いかけてやめた。わずかばかりではあるが、羽場の言う通りの部分があることも事実だし、手術室の大黒柱の信頼を得ることは今後の調査にプラスになるはずだ。俺にだって、それくらいの打算はある。
羽場が部屋を出ていくと、入れ違いに藤原さんが帰還した。一時ジャスト。
コ・メディカル・スタッフの時間厳守感覚には、本当に顔が下がる。
□田口ファイルD 麻酔科 氷室貢一郎講師(37) 午後5時30分
夕闇が部屋を覆い尽くす。
帰り支度を終えた藤原さんがドアを開けると、音もなく氷室が仔んでいた。気配すら感じさせなかったので、藤原さんはきょつとして、バッグを床に落としてしまった。
夜のとばりと共に、氷室はこうして俺の部屋を訪れた。
椅子を勧め、俺は氷室の向かいに座る。
薄い眉、細い限、小さな口、紅を引いたように赤くて細い唇。小柄でやせこけている。顔色は蝋《ろう》人形のように白い。
氷室は静かな男だ。部屋に入る時も椅子に座る時も、物音一つ立てない。
桐生も静かな男だが、ヤツは周囲を白熱させる。氷室の静けさとは対極だ。真夏の昼下がりの静けさと真冬の真夜中の静寂。
氷室と向かい合って座っていることに、居心地の悪さを感じた。いつもと微妙に違うソファの堅さに、見知らぬ侵入者の気配を感じて落ち着かなくなるような、確固たる違和感。自分のホームグラウンドだという自信が揺らいでしまうような、漠とした不安感。
要するに、ケツがむずむずするのだ。
「氷室先生はどんな麻酔がご専門ですか?」
氷室は面倒臭そうに、首を傾げる。
「専門はありません。何でもやらされます。麻酔医は慢性的な人手不足ですから」
「麻酔スタッフは何人いるんですか?」
「正規スタッフは五人です。その下に、研修医や他の医局からの麻酔研修に来ている人間が五人前後、入れ替わり立ち替わり出入りします。僕は正規スタッフの三番目で、昨年、講師にしてもらいました」
東城大学医学部の手術麻酔を一手に引き受けているにしては、麻酔科教室は小所帯だ。
「心臓手術の麻酔も経験は多いのですね」
「ええ」
「他の手術麻酔と比べると、心臓手術の麻酔は大変ですか?」
「むしろラクです。術中の呼吸管理や心拍管理の負担が少ないですから」
「人工心肺に管理を任せるんですか?」
「一部そうなります。その代わり麻酔をかける時とさます時は、大変ですが」
口数が少ないわけではないが、話の接ぎ穂がぼつりぼつりと途切れる。変温動物が冷蔵庫に閉じ込められ、冬眠しないようにかろうじて意識を集中しているみたいだ。薄ぼんやりしているようでいて、どこか油断がならない。
「バチスタ手術の印象はどうですか?」
「ラクですね。バチスタの時は、掛け持ち麻酔を免除されますから」
「掛け持ち麻酔って何ですか?」
「麻酔医は手術室の奴隷です。手術は多い、麻酔医は少ない。この間題を解消するためには、一人の麻酔医が同時にいくつも麻酔を掛け持ちするしかないんです」
「手術は週に何例くらいあるんですか?」
「平均週五十くらいです」
一日十件。正規の麻酔医スタッフは五人。
「すると一人で一日二一件は麻酔するんですね」
「平均ですけどね。一日二件なら、開始時間をずらして、午前・午後にすれば問題ないんですが、どの科も朝一番で手術をしたがるので、朝の麻酔医はくるくるといろんな部屋を行き来することになってしまうのです」
「そうですか。掛け持ち率はどれくらいですか?」
「毎日、二つどころか、三つなんて、ざらです。最高では、一度に五例掛け持ちしたことがあります」
「大変ですね」
「こんなことは、大したことじゃないです。夜中の緊急手術にだって呼び出されます。緊急手術例ですから、状態も普通じゃありません。神経を張りつめないと、大怪我します。精神的にも肉体的にもオンコール当番の前後はぼろぼろです。そうやって一晩中麻酔をかけていても、翌日は朝八時に掛け持ちがきっちり三つ、待っている」
氷室は投げやりに言葉を続ける。
「身を削って働いていても、バッキングひとつ起こすと、外科医からは怒鳴りつけられる。患者だって、執刀医には感謝しますけど、麻酔医なんて知らん顔です。直接お話しする機会が少ないから仕方はないんですけどね。こんな生活、長続きはしませんね」
「でも、外科医は感謝しているんじゃあないですか?」
「彼らの感謝なんて、手術をしているその場だけですよ。誰も本気で感謝なんてしません」
「そうでしょうか?」
「まあ、感謝してもらったところで意味ないですけど。こちらは大道芸の皿回しみたいに、三ヶ所や四ヶ所の手術室をくるくる回りながら、皿が落ちないように見て回ることで手一杯ですから」
「こんな状況、危なくないんですか?」
「……危ないに決まっているじゃないですか」
氷室は、うっすらと笑みを浮かべた。首筋がひやりとする。慌てて話題を変える。
「研修医のお手伝いはいるんですよね?」
「たくさんいますけど、みんな三ケ月から半年のショートステイです。素人に一から手取り足取り教え込んでやっと一人立ちしてくれそうだという頃に、自分の巣に戻ってしまいます。代わりにまた、右も左もわからないズプの素人がやってくる。この繰り返しですよ。助けになるどころか、むしろ邪魔です」
「状況改善を訴えないのですか。正規スタッフを増員してもらったりとか」
「無駄ですね。みんな、他の科の深刻な問題に対しては無関心です。教授は何回も増員を病院長に直訴していますが、音沙汰なしです。他人が抱える悩みになんか、誰も注意を払いません。そうした歪みはもの言わぬ弱い所につけ回されるんです。
そんなことばかりしていると、いつか手痛いしっぺ返しをくらいますよ」
どうやら俺のセリフのどこかが、氷室のポイントにヒットしたようだ。氷室は自分が喋りすぎたと思ったのか、最後にぽつんとつけ加える。
「このままの状態が続けば、医者も壊れていくでしょうね」
最後のセリフの冷やかさに居心地悪くなり、俺は唐突に質問を変えてしまう。
「桐生先生の印象はいかがですか」
「東城大学医学部のエース、だと思います」
答えた後、氷室はうっすらと笑う。
「ああいうわかりやすいカッコよさには、憧れます」
「術死が三例続いたことについては、どうお考えですか」
「たまたま、でしょう」
「それまでの成功例と、最近の術死症例との間に、何か違いを感じますか」
「いいえ、何も」
「麻酔領域では違いがない、ということですか」
「ええ。バチスタは専従ですから精神的にラクです。工学士の羽場さんは優秀ですし」
羽場と同じセリフ。二人の信頼関係は厚いようだ。
「手術を見ていて、何かお気づきになったことは?」
「さあ、特に何も。手術中は、術野を見ないようにしてるんです」
寡黙に戻った氷室の言葉は、まるで尋問に対する容疑者の答えだ。黙秘権を行使されないだけ、かろうじて救われている。質問に対して単語で答える。無愛想さを取り繕うため、慌てて尻尾に飾りをつけて、何とか文章の体裁を保っている。
自分が主体になりそうな領域に関して話す時には、極度の抑制がかかる。自分に関しては、言葉を惜しみ、無駄を削り込もうという、研ぎ澄まされた意志が感じられる。対照的に、一般論やシステムに対する不満なと、自分の外側の話題に対しては、饒舌さに密やかな憎悪が混じって、歯止めがかからなくなる。
紋白蝶がそっと肩にとまり、音もなく翅《はね》を開閉しているかのようだ。翅を開くといきなり姿が現れる。寡黙さの中から饅舌さが突然、不自然に出現する。その異質な感覚に俺は消耗する。遭難した雪山で、徐々に体力を削き落とされていくような感覚。負の摩擦係数。
愚痴外来に来る人の中には、留蔵さんのように黙り込む人もいる。そういう人でも耳を澄ますと、無言の訴えがわき上がって来る。声なき声まで耳を傾けると、愚痴外来の患者は、誰もみな餞舌で感情豊かだ。氷室は正反対だ。感情のかけらが感じ取れない。
ぴったりあてはまる言葉が、ふと浮かぶ。
氷室は、死体のような男だった。
短い沈黙が二人を包む。
静寂を破ったのは、氷室だった。
小さな咳が次第に大きくなる。続いてヒユービューという風切り音が聞こえ始める。
「喘息《ぜんそく》ですか?」
口を手で塞ぎながら、氷室はうなずいた。その眼には、諦観に似た光が見えた。
あえぎながら俺に言う。
「みず……」
俺は控え室で、水を汲んだ。
氷室は、白いケースから錠剤を一錠取り出し、奥歯で噛み砕く。渡した水で流し込む。
喘鳴《ぜんめい》は次第に収束した。死人のように青白かった氷室の頬に赤みがさした。氷室の喉仏が異様に隆起していることに気づく。
呼吸が落ち着いたのを見計らって、俺は尋ねた。
「喘息は、長いんですか?」
氷室はこほこはと小さく咳き込みながら、うなずく。
「三歳の頃からです」
「仕事の邪魔にはなりませんか?」
「手術中に発作が出たことはないです」
氷室の研究についての質問に切り替えた。
「氷室先生は酒井先生との共同研究をされているとか」
「ええ、イヌの手術に関連した研究をしています。僕は、麻酔深度と脳幹反射の相関という、生理学的分野の研究をしています。術中血液検査から微量カテコラミン量の計測をするという、酒井君のサブの研究のお手伝いもしています。協力といってもこっちの方は、麻酔モニタリングのついでに術中採血をしているだけですが」
「犬の脳波を調べるのですか?」
「脳幹に電極を刺して、手術の侵襲時の脳波を直接計測しています」
「手技は難しくありませんか」
「慣れれば簡単です。どうせ二十四時間後には殺されてしまうイヌなので、失敗してもあまり問題ないですし」
「外科医として、酒井先生の素質はどうでしょうか」
「あと三年も研鑽を積めば、そこそこ上手にはなるでしょう」
「垣谷先生の手技は?」
「手際悪いですね。あの程度の技術《うで》の外科医は、掃いて捨てるくらいいます」
酒井が俺に伝えたことは事実のようだ。しかし氷室から、他人に対する評価をここまであからさまに開くことができるとは思ってもいなかった。
氷室の寡黙さは、防御本能からではなく、他人との距離感覚に何か本質的な欠落があるためのようだ、という印象を受けた。
「最後になりますが、差し支えなかったら、先生のお名前の由来をお聞かせ下さい」
「貢は、世の中に貢献するように、ということです。長男なので、一郎」
面接を終えようとした時、ふと思いついて、質問をひとつ追加した。
「手術の時は発作は出ない、とおっしゃっていましたね」
「ええ」
「それは犬の手術も同じですか」
「ええ。イヌの手術の時も発作は出ません」
そういうと氷室は俺の眼をじっと見つめた。
見てはいけないものを見てしまった気がして、急いで俺は「尋問」を終了した。
気がつくと氷室は、音もなく姿を消していた。茫漠《ほうばく》とした闇が俺の周りに残されていた。
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8章
外科医の血脈
2月6日水曜日 午後9時 1F・不定愁訴外来
氷室が立ち去った後、俺は部屋でひとり、冷えきったコンビニ弁当を食べた。心の芯から凍えそうなほど、寒かった。俺は掛け時計を見上げ、九時五分前であることを確認する。食べかけの弁当の蓋を閉めた時、ノックの音がした。
□田口ファイルG チーム・リーダー 桐生恭一 助教授(42) 午後9時
入ってくるなり、桐生はぐるりと部屋を見渡した。
「ウワサには聞いていましたが、ずいぶん変わった部屋ですねえ」
今夜の桐生からは、熱感は伝わってこない。一日の仕事を終えた安心感に包まれているのだろうか。手術を前にした一瞬の静けさに身を委ねているのだろうか。
その落ち着いた雰囲気に、俺は明日の手術の成功を予感した。
「マスコミは相当しつこいみたいですね」
少年ゲリラ、アガピ君の手術が始まるまで十二時間を切った。
「ええ。黒崎教授は、メディア対応が上手なので助かります。新聞取材の時も、黒崎教授がすべて一手に差配して下さったんです」
単に目立ちたがりではないのか、と言いかけてやめた。調査とは無関係だ。
「明日は大切な手術当日ですから、できるだけ手早く済ませますね」
「ありがとうごさいます。でも、あまりお気になさらないで下さい。やるべきことは全部終わっていますから」
無駄とわかっているが、手続き上どうしても必要な質問をする。
「早速ですが、時間がありませんので調査にはいらせていただきます。桐生先生が術死症例に関して、他の症例と違う印象を持った部分はありますか」
「そのことはイヤになるほど考えました。違いは全く見つからなかった、という結論でしたが」
俺は皮肉をこめて訊き返す。
「その世界の第一人者である桐生先生が見つけられない原因を、素人の私がスタッフの話を聞きかじっただけで発見できるはずありませんよね」
「おっしゃる通りです。田口先生から見れば、本当にとんでもない依頼ですよね。よく引き受けて下さったものだと感謝しています」
「私の仕事のメインは、明日の手術の観察ですね?」
桐生の眼が妖しく光る。高みを旋回している鷹が、眼下に飛び出したウサギを見つけた時のような、強い方向性のある視線。
「その通りです。過去の症例を調べ直してみても、何かが見つかる可能性はおそらく低いでしょう。でも田口先生が手術に同席して下されば、スタッフが見落としたり感じ取れないことを、検知して下さるかも知れない」
「素人が専門家より役立つとしたら、先入観のない視点からの再確認ができる点だけです。ですから手術以外の部分を、できるだけ事前に把握しておきたかったんです。強行スケジュールでしたが。明日は手術の観察に集中します」
「田口先生を選んだ高階病院長の御判断は適切でしたね。ところで、スタッフと面談してみた感想はいかがですか」
「桐生先生が人を見抜く眼力は本物だと、感服しました」
「そういう誉め言葉は嬉しいですね。このチームは私の自慢です」
「本当に皆さん素晴らしいスタッフですね。ところでお辞めになった星野さんはどういう看護師だったんですか?」
「一言で言えば天才です」
桐生は懐かしむような視線を遠くにさまよわせる。
「反射神経の塊のような娘でした。あれほどの才能は見たことがない」
「凄い誉め言葉ですね。大友さんはいかがですか」
「大友君も優秀ですが、星野君とはタイプが違います。星野君はひらめきの風に乗って一気に遠くまで達するタイプ、大友君は論理を組み立てて一歩一歩積み上げていくタイプ。飲み込むのに多少時間がかかり、少し真面目すぎる。まあそれは、短所であり長所でもあるのですが。星野君のきらびやかなパフォーマンスを意識しすぎて肩に力が入りすぎています。
大友君の登用と術死の出現時期が重なったので、相当なストレスはあるでしょう。でも実力的には問題ないのですから慣れれば大丈夫、時が解決するでしょう」
「今回の術死の直接の原因ではない、とお考えなんですね」
「当然です。器械出しの看護師は、患者には直接触れません。関係するはずがない」
桐生は論理だけで、看護師交代が原因かもしれない、という垣谷説をばっさり切り捨てた。俺は、桐生の言葉をそのまま大友さんに伝えてあげたい、と思った。
「麻酔―人工心肺工学士ペアについては、どうですか」
「田口先生は、いいセンスをお持ちですね。麻酔医と臨床工学士をペアで扱うのは、サザンクロス病院で私が考え出したやり方です。あの部分は、二人一組で決まったんです。二人は、お互い補い合っています。かねてから深い信頼関係があったようです」
道理で相性抜群なわけだ。
「お二人とも、お互いに同じことを言っていました。もっとも氷室先生の方とは話が続かなくて、あまり詳しく開けませんでしたが」
「彼と長く話すことができる人は、スタッフの中にもほとんどいません。氷室君と一番相性がいいのは酒井君のようです」
少々、意外な組み合わせのような気がした。
「基礎で共同研究をやっているからですかね」
「ええ、気が合うようです。犬にバチスタ手術をして、術中術後の微量ホルモンの変動や、脳波の変化などを調べています。酒井君は、細かいことをきちんと積み上げていくことが好きで、その辺りが共鳴するのかな」
桐生の完璧な受け答えを聞いているうちに、俺は少しばかり意地悪な気持ちになった。その鉄壁のディフェンスに、少し切り込んでみることにした。
「こうしてみると、外科スタッフがチーム・バチスタの一番の不安要素だということは皮肉ですね」
桐生は質問を予見していたようだ。予見されてしまえば不意打ちにならない。平静に処理されてしまう。
「確かに二人は、反目しています。正碓に言えば、酒井君が一方的に垣谷先生の技術に不満を持っています。まあ、若い外科医ならその程度の気概は持たないといけません」
「酒井先生は、垣谷先生が桐生先生の足をひっぼっている、と言っていましたが」
「たとえそう見えたとしても、それは間違いです」
桐生はきっぱりと言い放つ。
「瞬発的な反射神経だけを比較すれば、酒井君の方が少し上かも知れません。けれども酒井君にはないものを、垣谷先生は持っているんです」
「どういうことですか?」
「それは胆力です。トラブルや非常事態になった時に露《あらわ》になるものです。経験によって培われた度胸と言ってもいい。手術現場で何もしないでいるということには、度量が必要なのです」
桐生の発言は酒井の言葉を裏づけている。垣谷が手術時、ほとんど手を出していないことは是認されているようだ。けれどもその価値基準は正反対だ。俺は混乱した。
桐生は白衣のポケットを探り、煙草を取り出す。火をつけようとして、眼が合った。煙草をくわえたまま、慌てて言う。
「吸ってもいいですか?」
俺はうなずく。非難の視線を向けたつもりはなかったのだが。
「業務時間内でしたら、珈琲をお出しできるのですが」
「私は煙草さえあれば、あとはどうでもいいんです。止められているんですがね」
桐生はくわえ煙草の周りに漂う紫煙に、細い眼をさらに細める。
「ええと、何のお話でしたっけ。そうそう、度胸の話でしたね。碓かに、手技は素早くこなせた方がいいのですが、格段に早くなくても最後に収支が合いさえすればいいのです」
桐生は眼を閉じて、静かに続ける。
「手術には、表には出ない部分を引き受けてもらうことで、術者が精神的に安定する部分があるのです。酒井君はそのことをまだ理解していない。手術を指先の反射神経勝負だと思っているうちは、一人前の外科医とは呼べません。こういうことはいずれ骨身で知る日が来るでしょう」
意外にも垣谷に対する評価は高く、反比例するかのように酒井の評価は低い。
経験が浅い故に垣谷の価値が理解できない、という評価は、含みのある表現だ。
桐生は二つのことを同時に言っている。一つは酒井の技量に対する評価は低いわけではないこと。そしてもう一つは、垣谷の技術が低いと繰り返すことで酒井は、自分が外科医として未熟だということをさらけ出してしまっているということ。
言葉にできないものを感知する能力。それが器というものだ。桐生の評価はその意味で厳しい。外科医としての酒井の器は小さい、と言っているのだ。
話題を変えた。
「明日の手術は注目されていますね。今日もテレビニュースで見ました。よく、ゲリラ少年兵の手術をお引き受けになりましたね」
桐生は苦笑した。
「断りきれなかったというのが事実ですね。表向きは国境なき医師団の依頼ということになっていますが、実はフロリダでお世話になったミビヤエル教授から打診されたのです。ノルガ共和国は内戦状態で、米国は政府軍を支持している。かといってゲリラと完全な敵対関係にあるわけでもない。ああいう小国では、ゲリラと正規軍の立場なんて、一晩でひっくりかえることもあるのです。だから米国は外交的にはあいまいな状態でありたいと考えているようで、この依頼をスルーして日本に押しっけてきたんです。ミヒャエル教授は、ペンタゴンから圧力をかけられた、と言っていました。
どこまで本当かは、知る由もありませんがね。但しミヒャエル教授の本音は日本でのオペではなく、内科的保存療法を期待していたようですが」
「手術が難しいということですか?」
「そうです。リスクはかなり高いでしょう」
「自信のほどはいかがですか7」
桐生は、眼を細めて俺を見つめる。
「いつだって、手術前には絶対の自信なんてありませんよ。逃げ出すわけにはいかない、と思って踏みとどまっているだけです」
「米国で心臓移植を受けた方が、根本的な治療になるのでしょう?」
「米国にも心臓移植の臓器提供を待つ患者は大勢いる。反米ゲリラのアフリカ人に、貴重な医療資源を提供することに対する反感もあるんです」
「日本では小児の心臓移植はしないのですか?」
俺は、日本人の子供が心臓移植を受けるために渡航する、というニュースを時折見たことを思い出しながら尋ねる。桐生は答える。
「しないのではなく、できないのです。子供は脳死臓器移植の対象外なので、日本では小児心臓移植は、現実に行えないシステムになってしまっているのです」
桐生は、吐き出した煙を追って、視線をさまよわせる。
「新聞の記事をお読みになったとおっしゃっていましたよね。どう思われましたか?」
「奇跡のようなチームだと思いました」
お世辞抜きに俺は言った。桐生は俺から視線をそらし、窓の闇に眼を凝らした。ぽつんと尋ねる。
「あの記事が掲載される少し前に、心筋症の子供が心臓移植のために渡米するという記事が掲載されたのはご存じでしたか?」
俺は首を横に振る。
「日本の医療には矛盾がある。メディアは問題から眼をそらし続けているんです」
「どういうことですか?」
矛盾のない組織は存在しない。心の中で俺は呟く。桐生は穏やかに言葉を続ける。
「小児臓器移植は、日本では対象外です。だから一握りの恵まれた子供が米国で移植手術を目指す。メディアはそうした患者をまるでスターのように扱います。善意の人たちから寄付を集め、美談に仕立て上げる。確かにそれは美談だし、悪いことではない。その一方で、文化人や倫理学者に発言させ、子供の臓器移植を倫理的、あるいは感情的に問題視させる。日本で子供の臓器移植を推進しようとすると足を引っ張る。米国で行われる手術は美談として支援し、日本では問題視する。同じ小児心臓移植なのに、おかしいと思いませんか」
俺の目をまっすぐに見て、きっぱりと言う。
「今メディアが本当にしなければならないことは、なぜ日本では小児心臓移植ができないのか、ということを問題として取り上げることだと思います」
桐生は再び言葉を区切ってから、窓の外に日をやる。
「昨年七月、心臓移植で渡米する子供の記事が掲載され、八月、我々の記事が載り、そして九月、子供の臓器移植に反対する倫理学者のキャンペーンがはられました。これが新開の一連の流れです。そこに隠された意図を感じてしまうのは、神経過敏でしょうか?」
切り取られた点景からだけでは、世の中は読み切れない。桐生のバトル・フィールドは、病院の中だけではなかった。俺は、桐生が発散している迫力の源泉を理解した。
「私は取材時に、今お話ししたようなことを、そのままお伝えしました。むしろ、日本の小児心臓移植の現状について伝えたくて取材を受けたと言ってもいい。ところが記事では、ばっさりカットされた。おかげで私にも記事の企画意図が理解できました。もっとも後日、私を取材した記者は、本社で勝手に記事に手を加えられてしまった、と申し訳なさそうに謝りながらも憤慨していましたがね」
桐生の眼が赤黒く光る。吐き捨てるように呟く。
「移植で助けられる命を、なぜむざむざ見殺しにするんでしょうか、この国は」
それは、誰もが悪人になりたくないからだ。心の中で呟きながら、俺は桐生の迫力に気圧される。間合いを外すように釣り球を投げてみる。バチスタ・リストを眺めていた時の違和感の追求が裏の意図だ。続けて起こった術死の最中でも、不連続な断層のように小児症例は成功裏に終わっている。その結果、子供の症例に関しては連勝が途切れずに続いている。
「明日の手術は先生にとって、マスコミのストレスが強いですか、それとも小児心臓手術というご専門だから気楽ですか?」
桐生は笑う。
「いつもと同じ、ベストを尽くすだけです。子供でも大人でも、私の手技には関係しません。普段と違って大変なのは、高階病院長と黒崎教授の方ですよ」
桐生の選球眼なら、こんな悪球は当然見送るだろう。試すまでもなくわかっていることでも、試してみたくなる時はあるものだ。
桐生の眼から、ぎらぎらした光が消え失せ、透明な表情になる。
「明日の手術は成功させます。子供の無限の可能性を潰したくはないですから」
俺は、桐生の煙草を持つ指が、かすかに震えているのに気がついた。
「話は変わりますが、鳴海先生は義弟さんだとか」
「リョウのことですね。実は帰国の際、妻と離婚したので、兄弟関係は解消しています。未だに義兄さんと呼ばれていますがね」
「彼の技術は、どれくらい手術に関わってくるのですか?」
「影響ははかり知れません。バチスタ手術はリョウとの二人三脚で作り上げたものです。手術成横が良いのは、切除前の心筋変性部位の的確な把握と完全切除を確信できるようになったからです。リョウが術中に心臓を肉眼観察し、私と共に切除範囲を決定する。変性部の完全切除を術中迅速組織診で確認する。このため、私の精神的負担はとても軽く、その後の手技に好影響を及ぼします」
「病理医でありながら、そこまで外科医のセンスを持っている方も珍しいですね」
「リョウは、フロリダでは外科医として私とチームを組んでいましたからね。本人は基礎医学をやりたがっていたのですが、私が強引に外科に引きずり込んでしまったんです。最終的には、自分の希望通りの世界に落ち着いたわけです」
「鳴海先生は、診断と治療を分離すべきだと主張されているとか」
「ええ。私の主義とは異なりますが、理解はできるスタンスではあります」
「別れた奥さんの弟と仕事を続けることには、抵抗ありませんか?」
桐生は首をひねる。
「能力を認め合った者同士で仕事をする時には、そんな私事は些事です。それに、妻とは離婚しましたが、もともと彼女に対して悪感情はありません。離れてみるとむしろ懐かしい。ですからリョウに対する気持ちにも影響ありません」
桐生の言葉は明解だが、いまひとつ説得力には欠ける。離婚理由は腑に落ちないし、別れた妻が桐生と同じ風景を見ているとは限らない。それは鳴海にも同じことが言える。鳴海から桐生と同じ答えがもらえるという保証はない。こればかりは本人に確認してみるしかないだろう。
話が途絶えた一瞬を捉えて攻守交代。桐生が質問を仕掛けてきた。
「田口先生は、高階病院長とは昔からのお知り合いなんですか」
「ええ。私は高階先生のおかげで落第せずに医者になれたようなものです」
「お二人の信頼関係はとても深そうですね」
「私は信頼申し上げていますが、高階先生が私を信頼しているかは疑問ですね。これまであまりお話ししたことがなかったものですから」
「そうなんですか? こうした依頼は強い信頼関係がないとなかなか頼みにくいことだと思っていました」
「私も同感です。けれども本当なんです。こんなこと、隠す意味ありませんよね。落第寸前だった学生時代、私の方が一方的にお世話になったことはあります。でもそれは十五年前の話で、医師になってからは、先日、先生とご一緒した時が一番長くお話をした機会でした」
「だとすると私には、高階先生が田口先生を指名した理由がわからなくなってしまうのですが」
桐生は俺を見つめる。ごもっともだが、これ以上説明のしょうがない。桐生の疑問は俺の違和感と同じなので始末に負えない。桐生の鋭く光を増した視線をかわして、俺は心の中で繰り返す。桐生の疑問はもっともだ。俺だってそう思う。
なぜ、俺がこんなことをやる羽目になったのだろう?
俺は、卒業間近のある日の記憶を呼び起こす。ちょうと今頃の季節のこと。
当時の高階教授と、今の桐生のイメージには、どこか重なり合う部分がある。
俺は卒業試験の追試をいくつか抱えていた。本音では卒業は諦めかけていた。怠惰に過ごした六年の決算は、いつかどこかで必要になるだろうと予想していたので、悔いはなかった。それでもせめて最後の悪あがきでもしてみようと思い、実際に悪あがきをして、その粘りが奇跡を呼ぶ一歩手前まで来ていた。
残された最後の難関が、外科学の口頭試問だった。
五つのヤマはすべて外れた。広範な外科学のヤマをたった五つに絞り、それが当たると信じきっていたあの頃。とうしてあんなにポジティブだったのだろう。暴走車が、自分だけは事放らないという根拠のない自信を胸に驀進《ばくしん》するような、あの感覚を失ってから、もう久しい。
きっぱりと落第を覚悟したその時だった。高階教授が意表をつく質問を切り出した。
「イレウスはご存じですか?」
イレウス、腸閉塞。例えば、癌《がん》を知っているかと訊かれたら、医学生なら怒るべきだろう。それと同じくらいの基礎知識。これをヤマと考えるようなヤツは医者にはなれない。それくらい基本的だったので、その時俺は「イレウス」にヤマをかけていなかった。
「腸閉塞、です」
時間稼ぎ。単語を言い換えただけ。後が続かない。三重苦の俺にのしかかる重苦しい沈黙。その時、なんとも問の抜けたタイミングで、高階教授の長閑《のどか》な声がした。
「……その通り」
切れ者と誉れが高かった若き日の高階教授は、にやにやと笑った。評判とはうらはらのいたずらっこの表情。視線を手許に落とすと、手早く何かを書き込んだ。
「Aは無理ですが、Cを差し上げましょう」
「えっ、何故ですか?」
口に出してから後悔した。黙って頭を下げて、とっとと退出するべきだった。
高階教授は、ほう? と眼を見開いた。柔和な表情に戻る。
「Cではこ不満ですか?」
俺は唇を噛む。後悔したってしょうがない。とりあえず、いけるところまでいくし
かない。もう止まれない。
「僕の合格は不当だと思います」
あーあ、言っちまった。本当に馬鹿だ。間髪いれず高階教授は答えた。
「私もそう思います。今、この瞬間だけで評価するなら、ですけれどもね。私が君を合格にしたのには、他に理由があります」
目の前に垂れ下がってきた蜘味の糸をぼんやり見つめる。高階教授は続ける。
「医師の仕事は、口頭試問で適性が測れるほど底の浅いものではありません。知識なんて些細な枝葉、臨床の海に飛び込めばイヤでもついてくるものです。それ以前にもっと大切な資質があるんです」
「それは何ですか」
高階教授は俺をじっと見つめた。それから静かに言った。
「それを卒業試験の追試課題としましょう。よく孝えてみて下さい」
ちょっぴり不親切だと思ったのか、高階教授は思い出したようにつけ加えた。
「ひとつだけ、ヒントを差し上げましょう。ルールは破られるためにあるのです。そしてルールを破ることが許されるのは、未来に対して、よりよい状態をお返しできるという確信を、個人の責任で引き受ける時なのです」
それから、俺の眼の奥をのぞき込んで、にっこり笑う。
「ま、少なくとも今の君の答えを聞いて、私が未来の債務を免除していただけそうなことだけは確信しましたがね」
高階教授の言葉は、その日暮らしの俺にとっては、難解すぎた。その後の呼び出しがなかったことをいいことに、俺は追試をバックれた。
おかげで卒業証書は手にできたが、代わりに追試課題はずっと心にひっかかり続け、今日に至っている。高階病院長の前に立つと、落第生の落ちこぼれ気分になるのはそのためだ。
ぼんやりした俺を、桐生は興味深そうに見つめていた。ふと我に返ると、時計の針は、十時近くを指していた。
「すっかり遅くなってしまいました。今日はこれで終わりです。ご協力ありがとうございました」
桐生が立ち上がった。
「今回のことでは大変お手数をおかけしています。明日はよろしくお願いします」
手を差し出してくる。つくづくコイツは米国人だと思いながら、その手を掘り返す。
また、かすかな震えを感じた。
「手術、がんばって下さい。明日は、きっちり見学させていただきます」
桐生は笑顔を見せた。少年兵士の手術まで、あと十一時間。
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9章
あふりかの不発弾
2月7日木曜日 午前8時45分 2F・手術部・第一手術室
目覚ましの最初の一鳴りで目がさめた。七時ジャスト。学生実習以来の手術見学なので、少し緊張しているのだろうか。
昨晩、聞き取り調査の内容をまとめていたら、日付が変わってしまった。家に帰るのも面倒臭くなり、愚痴外来控え室のソファで一夜を過ごした。
こういう時は、独り身の気楽さがありがたい。
丸まって毛布にくるまっていたが、思考の糸は寒さに萎縮し、もつれてこんがらがった。小部屋に冷気がしのび込む。
……でも、何かある。
眠りに落ちる直前、俺の中で囁く声がした。
七時すぎ。院内ロビーに人影はない。朝日が正面エントランスのカラス窓から病院の奥までのぞき込む。ロビーの端まで俺の長く赤い影を引く。
朝食を買いに二階売店に行く途中、普段と違う光景に出くわした。
外科外来の前に、人のかたまりができていた。マイクを持った、華やかな色彩の服の女性にカメラが向けられている。厚化粧、香水のむせかえる香り。乱雑なさわめき。耳をすますと、遠くでヘリコプターの音がする。
「それでは、外科外来前からお伝えします。アガピ君を乗せ、横須賀の駐屯地を飛び立った自衛隊の特別ヘリが、ここ、東城大学医学部付属病院屋上ヘリポートに舞い降りたのは、十日前でした。待機していた黒崎教授が、桐生助教授と共にアガピ君を診察、バチスタ手術適用が即時決定されたのがこの場所でした」
アナウンサーが指さしたのは、第二外科外来、今は消化器腫瘍外科外来だ。そこは黒崎教授の天敵、第二外科教授の高階病院長のなわぼりだ。第一外科、もとい、臓器統御外科の黒崎教授が見たら、さぞかし激怒するに違いない。
そもそもコイツらはどこから侵入し、誰の許可を得て、こうしたご乱行に及んでいるのだろう。病院の警備が甘いにもほどがある。
しかし、俺の疑問と憤激は次の瞬間、あっさりと融けた。小さな憤りを抱えて佇んでいる俺の背後から、聞きなれた声が響いてきたのだ。
「やあやあ皆さん、朝早くからごくろうさま」
テレビクルーが一斉に、俺の背後の人間を見た。俺の脇をすり抜けて、すたすたとクルーの方に歩み寄っていく人物。
第一外科、もとい、臓器統御外科、黒崎誠一郎教授だった。
黒崎教授は満面の笑みを浮かべていた。プロデューサーとおぼしきヤツがすりよる。
「黒崎教授、本当にありがとうごさいました。まさか手術当日に、外科外来前からオンエアさせていただけるなんて、我々にとってはまさに快挙です」
「本当は手術室の前からできれば一番良かったんだけどね。事務長の了承は取りつけたんだが、何しろ総看護師長が石頭でねえ」
黒崎教授の上機嫌なインタビューの声を背中で聞きながら、俺は売店へ急ぐ。テレビに映りさえすれば、仇敵の第二外科外来の前でも気にはならないらしい。まったく大したお方だ。呆れるのを通り越し、つくづく感嘆してしまう。
外科外来の前を通らないようにして部屋に戻る。朝食のカツサンドのメニューは、カツ≠ニ勝つ≠かけるというゲンかつぎで決めた。成功を祈る意志がここにもあるということを天に表明するためのささやかな行為。これくらいしないと、あまりにも桐生が気の毒だ。
手術室に、ためらわずにすっと入る。経験を積んだ成果。ひとりでできるもん、気分。でも着替えは初めてだった。まごつく俺を見かねた研修医が手術着の着替え方やロッカーの使い方を教えてくれた。胸元が開きすぎて薄ら寒い手術着を着、手術帽をかぶり、使い捨ての紙マスクを装着する。バチスタが第一手術室で行われることを、ホワイトボードで確認する。
十七年ぶりの手術室。俺は深呼吸した。
ドアが開く。
無機質な部屋の中央に、少年が横たわっていた。
黒い肌が視界に飛び込んでくる。左腋から肋骨弓にかけてあるガーゼの白さが眼に痛い。その下には赤い傷跡が口を開けているのだろう。
心電図モニタの電子音が単調なリスムを刻む。氷室が酸素マスクを少年の口許に固定している。時々、耳許で何か囁きかける。少年はかすかにうなずく。
左手には業務用冷蔵庫のような不愛想な箱が、無造作に置かれている。透明なチューブが金属の本体を喰い破り、のたうち回ったあと、動きを停止したかのようだ。乱雑に散らばったそいつらを一匹一匹なでながら、羽場が人工心肺の機嫌を確かめている。本体には、透明な丸い窓があって、中ではローターが回転と休息を繰り返している。
右手には、青い滅菌布でカバーをした台を三つ並べ、その上にぴかぴか光る刃物をきれいに揃え、並べている大友看護師。俺に気がつくと、かすかに視線を揺らして小さな挨拶を送ってきた。
視線を、少年に戻した。大きな眼。肌の黒さが白眼を際立たせる。感情がすべて抜け落ちているかのような眼。その眼は一体、どれほどの地獄を見てきたのだろう。そしてそれは今も続いている。言葉が通じない遠い異国の、手術室という亜空間に置きさりにされ、弾丸すら射抜くことができなかった鋼《はがね》の心臓が、これからメスで切り裂かれるのだ。
この世界には、銃弾を身体に受ける子供はどのくらいいるのだろう。その上さらに心臓にメスを入れられる人間は? 天文学的な確率を乗り越えて、彼はここにいる。
横たわる少年の左腕に氷室がうずくまる。外回りの看護師が寄り添う。
「動脈ライン、確保」
差し出されたチューブを氷室が接続する。面を上げると俺と眼が合った。一瞬、少年のまなざしと似ている、と思った。
氷室から視線を外し、手術室を見渡す。酒井がシャーカステンにフィルムを展開している。いつもと違って、動きがどこかぎこちない。隣で、だぶだぶの手術着に埋没した小男が、こじんまりとフィルムを見つめている。
「酒井君、フィルムの並べ方を入れ替えた方がいいとは思わんかね?」
黒崎教授だった。まったく、呆れるくらいフットワークの軽い爺さんだ。しかし、何と意味のない動きばかりをする人なのだろう。
黒崎教授は俺を見つけて、怪訝そうな顔をした。
「神経内科の仙人が、なぜこんなところにおるんだ?」
俺はぺこりと顔を下げる。
「まあ、その、ちょっとイレギュラーな頼まれごとがありまして」
幸い、黒崎教授は儀礼的に質問しただけで、すぐに俺に対する興味を失ったようだ。ほっとする俺の隣で酒井が、白けた表情で写真展示を続けていた。
時計の針が九時を指す。氷室が少年に声をかける。
「Agapy.you will be sleepy.understand. OK?(アガピ君、君はだんだん眠くなる、いいかい?)」
少年は小さくこっくりする。氷室は膨らんだ手術着のポケットから注射器を取り出すと、看護師から手渡されたアンプルをカットし、液体を吸い上げる。コネクターに接続し、透明な液体を注入する。酸素マスクを少年の下顎に押し当てる。
一瞬の間。そして氷室の声。
「アガピ、………アガピ?」
返事はない。ギアが入り、氷室のスピートが切り替わる。
「マッキントッシュ、……挿管チューブ」
挿管完了。人工呼吸器装着。少年の胸部が、自動呼吸器の動きと共に規則正しく上下し始める。
ドアが開く。垣谷が極彩色のバンダナを顔に巻き、鼻歌を口ずさみながら入ってきた。色彩の派手派手しきはまるで太った孔雀だ。
映画『ロッキー』のテーマ曲がとざれた。
「く、黒崎教授、今日はどうされたんですか?」
垣谷が動転している。黒崎教授はぎょろりと垣谷を見る。
「垣谷君は、バチスタの屋台骨をしっかり支えてくれているようだね」
誉め言葉に聞こえるその言葉の裏側に、ひやりとする冷たさがあった。黒崎教授はそれを隠そうともしない。垣谷が言う。
「そんなこと、ありませんよ」
垣谷と黒崎のやり取りが始まったのをこれ幸いと、酒井が気詰まりな場から逃走を謀る。手洗いしなくつちゃ、と呟きながら、そそくさと部屋を出ていく。
「いやいや、垣谷君はいまやチーム・バチスタにはなくてはならない人材だと、もっぱらの評判だよ。おかげで私も鼻が高くてね」
「いえいえ、私なんて、ほんの頭数合わせでして……」
垣谷がさらに言い訳をしようと日を開いた。
ドアが開く。手の甲をこちらにむけ、両手を胸の高さに掲げた桐生が立っていた。
第一手術室は、一瞬で沸騰した。
桐生は黒崎教授をじろりと見て、かすかに目礼した。黒崎教授は、慌てて胸を反らし鷹揚にうなずく。桐生は俺の姿を認めると、改めて軽く頭を下げた。
ゆっくりとした足取りで定位置に向かう。眼は少年に注いだまま、大友看護師に手を差し出し、イソジン綿球をオーダーする。
ガーゼが外される。黒い上半身が褐色に塗り替えられていく。
「滅菌布……。フィルム」
矢継ぎ早な指示に、寸分違わず周りが動く。
ドアが開く。手洗いを終えた酒井の再入室。術野の基礎工事に参入する。やがて準備の動きが止まる。メンバーが定位置につく。
ぐるりと見渡し確認してから、桐生はおもむろに玉座に就いた。一礼。
「執刀開始する。メス」
桐生の指示に大友看護師の指先が反応する。
「クーパー」
クーパー一閃。この瞬間、桐生の脳裏からは、術死が連続していることも、部外者の俺がいることも、消え去っているようだ。
「ストライカー」
チエンソーの回転音。肉と骨が焦げるかすかな臭い。開窓器が装着される。激しく鼓動している心臓が、薄い被膜ごしに暴れているのがチラリと見えた。
スタッフが築いた石垣の内側には、小さな鼓動。外から注ぐ部外者の視線の矢。
それにしても黒崎教授はなぜ、わざわざ手術室内部で見学しているのだろう。教授なら、モニター付きの観覧席から手術を見下ろすのが普通だ。術野は見やすいし、着替える手間もいらない特等席だ。手術室から見れば雑菌が一つ減る。お互い、いいことづくめなのだが。
黒崎教授の眼は、落ち着きなく術野と壁の時計を交互に見比べていた。
桐生のメスが少年の身体の奥深くへと分け入っていく。心臓が露出された。
「イメージより一回り大きいか。だが、状態は良さそうだな」
桐生は呟き、そして眼を閉じた。術野が停止する。
ふわり、と空気が揺れた。
「心尖部は残せそうだね」
語尾にビブラートがかかる、やや高い声。顔を上げて正面を見る。
コイツがジュニアか。
桐生の対角の高みに陣取った鳴海の視線は、微動だにしない。その照準は、少年の身体の内部で拍動している小動物にぴたりと合わされている。
「前下行枝領域にかかるか?」
「Yes, but a little.(少しかかるね)。でもノー・プロブレム、リミッターの範囲内だよ」
「切除可能なんだな」
黒崎教授が口を挟む。鳴海は答える。
「Probably.(多分問題ないでしょう)」
眼を開き、桐生が高らかに宣言する。
「よし、いくぞ」
術野が揺らぐ。羽場と氷室が、冬眠から目覚めて活動を再開する。
活性化し始めた術野に背をむけて黒崎教授がいそいそと部屋を出ていくのを、俺は視界の片隅で捉えた。
「低体温に移行します。心停止液注入のタイミングを指示して下さい」
氷室が桐生にオーダーを出す。桐生は、手早く人工心肺を装着していく。羽場の視線が、人工心肺のあちこちを飛び回る。
「オーケー、ゴー」
桐生の合図とともに、垣谷が黄色いシリンジをゆっくりと押していく。激しい暴れ馬のようだった拍動が、寒さに凍えるウサギのように、ぶるぶると統一感のない震えに変わっていく。やがて凍えたように動きを止めた。少年は地獄の門のたもとで立ちすくんでいる。
メス、電気メス、ハイクリル、モスキート、と器械の名称を指示する声がランダムに響く。桐生の声、時おり、垣谷と酒井の声が交じる。
俺は、桐生の手技に見とれていた。徹底して論理的に組み立てられると、手術は鍛え抜かれたアスリートの技のように美しかった。ふと、桐生の手術がほとんど出血しないことに気がついた。
ことり、と、モスキートがついたままの肉片が置かれた。
「モスキート側が心尖部だ」
受け取った鳴海がうなずく。トアが開く。心臓片を手に部屋を出ていく。
鳴海が退場した後も、手術は淡々と続く。金属の触れ合う音、器械の名を呼ぶ声。
三十分経過。ドアが開く。鳴海が戻ってきた。
「切離断端問題なし。変性部は取り切れています」
鳴海には眼をやらず、桐生はうなずく。
「縫合終了。心血流を再開する」
「復温開始します」
羽場の声。
桐生は手を止めた。心臓を見つめる。長い時間が経った、ような気がした。
「再鼓動、しません」
酒井が囁く。
垣谷も動かない。極彩色のバンダナだけが騒々しい。
「復温は?」
「三十五度です」
羽場の声。
桐生は動かない。ちらりと俺を見上げたが、すぐに眼下の心臓に視線を戻す。
「桐生先生、再鼓動が来ません」
酒井の泣き出しそうな声。桐生は動かない。
垣谷の野太い声。
「酒井君、もうちょっと我慢しな」
凍りつく時間。それは、時間という概念をはみ出してしまった何ものかのようだ。
大友看護師の切れ長な眼が、おびえたように少年の心臓を見つめる。その眼は瞬きを忘れてしまっている。
「三十六度です」
俺はきつく眼をつむった。
桐生がぽつんと呟いた。
「……来た」
のぞき込むと、小さな心臓がおそるおそる、小さな鼓動を始めていた。
緊張が一度に解けた。手術室は暖かい空気に包まれた。
俺は自分の両足ががくがくと震えていたのを感じた。
何事も実際に体験してみなければ、本当のことはわからない。俺は今日、「再鼓動せず」という言葉を疑似体験した。術死は、カルテの薄さなどという洒落《しゃれ》た表現に収まりきるものではなかった。それは、暗黒の絶望感だった。
俺に反感を抱く酒井でさえ、調査に素直に協力した理由が納得できた。この恐怖を取り除いてくれるのなら、俺でもきっと親の仇にだってすがりつくだろう。これと比ベたら、俺と酒井のいざこざなんて、取るに足らない笑い話だ。
現実に横面を張られ、俺は自分の使命を再認識した。術死は二度と起こしてはならない。そのためには立て続けに起こった術死の原因を明らかにすることが、何よりも最優先だ。
垣谷が言うように、偶然が重なっただけなら、それに越したことはない。俺の労力が無駄になるくらいで済むのなら、そのくらいの不利益は喜んで引き受けよう。
けれども、手術に立ち会って、俺の中に確信が生じていた。あれだけ冷静な桐生がおかしいと言っている。それだけで、もうすでに十分おかしいことなのだ。
その夜、ニュースでは、アガピ君の手術の話題が大きく取り上げられていた。テレビを見ていて、ひとつ謎が解けた。どの局でも、黒崎教授のインタビューが大きく扱われていた。紙マスクを乱雑に外し、手術室から大急ぎで駆けつけてきたかのような術衣姿が印象的だった。
この演出のために、黒崎教授は術衣に着替える必要があったのだ。
一体何を訴えたいのだろう? 誰にアピールしたいのだろう?
画面の中の満面の笑みに、黒崎教授の欲望がむき出しにされていた。
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10章
聞き取り調査3日目
2月8日金曜日 午後3時 1F・不定愁訴外来
手術翌日、午後二時。不定愁訴外来。
約束の時間に姿を見せない鳴海を待ちながら、俺は昨日の手術が終わった後のことを思い返していた。
アガピ少年がCCUに運ばれるのを見送った。CCUでは、桐生、垣谷、酒井の三人がはりつくはずだ。きっと今夜は、酒井が泊まり込むのだろう。
手術室に戻り、鳴海とアポイントをとりつけた。事前に言い含められていたようで、日程はすんなり決まった。
羽場が人工心肺の後片づけをするのを見学しながら、手術室豆知識を伝授してもらった。羽場は機嫌よく質問に答えてくれた。
「手術はいつも、こんな調子で進んでいくんですけどね」
嬉しげに教えてくれた後、羽場の表情が一瞬曇る。
「ただ、術死した三例も、再鼓動寸前までは今日と同じような感じでした。今日もまたかと思ってびびりました」
一言そっとつけ加える。「無事に終わって、本当によかった」
羽場は心から安堵したという気持ちを素直に表現した。
あの再鼓動の遅れは、やはり普通ではなかったらしい。でも結局は無事だったのだから問題ないだろう。俺は自分の中の不安を強引にもみ消した。
桐生の手術は冷徹なまでに論理的だ。無駄が削ぎ落とされているので簡明に見える。もし手術中に異状が生じれば、素人の俺にもわかってしまうに違いない。
これでは術死の原因を探し当てるのはおそらく困難だ。数例見学して術死が起こらなければ、高階病院長に原因不明の死亡だったと報告するしかないだろう。
昨日の手術が無事に成功したことで、俺は任務の半分を終えた。残り半分についてもゴールが見えた気がした。肩の荷が少しばかり軽くなった感じがした。
もっとも、これが大きな思い違いだったことは、すくに思い知らされることになるのだが。
□田口ファイルF 病理医 鳴海涼 助教授(37) 午後3時
「申し訳ありません。急な解剖依頼が入ってしまったので」
鳴海は一時間の遅刻を謝罪した。解剖は予測不能なのだからやむを得ない。
鳴海からは、かすかなホルマリンの刺激臭と石鹸の香りが混じって漂ってくる。多分、シャワーを浴びて来たのだろう。
手術室で鳴海を見た時、異質な感じを受けた。戦場をうろついている画家か詩人、と喩えるとしっくりする。自分を特別な存在だと主張はしないが、彼を見た人間は瞬間的に、彼はこんな場所にいるべき人間ではないと感じてしまう。
顔立ちは、冷たく整いすぎている。しかしそれよりも、異質な声が際立つ。ビブラートのように細く震える。弱々しいのに不思議によく通る。
しなやかなムチのような細身。気まくれなシャム猫。うかつに手を出すと、気高く無視されてしまいそうだ。
俺は、おそるおそる尋ねた。
「解剖は多いんですか」
「少ないです。三百床のこの施設で、昨年は剖検数が十体を切りました。剖検率五%です。もっともこれは、日本全体の剖検率とほぼ同じですが」
「ということは日本では死者二十人に一人しか解剖されていないのですか?」
「そうです。年間百万人死亡し、行われる解剖は三万体前後。これがどれほど由々しき事態なのかということに関して、医療関係者は自覚がなさすぎる。
剖検は、現在唯一の死亡時医学検索です。剖検率五%ということは、九十五%は死亡時に医学検索されずに弔われてしまっているということです。医学検証しなければ、死亡時に起こったことはわかりません。後に犯罪が疑われても、その時には客観的な医学情報は何ひとつ、証拠として残されないんです」
鳴海は激しい口調で吐き捨てる。遅刻の理由説明から、話が本筋のど真中につっこんできた。俺は鳴海の流れに従う。
「私は、連続術死の調査を依頼されました。そのため鳴海先生にもこ足労いただいたのです。そこでお訊きしたいのですが、鳴海先生の目から見て、この連続術死が医療事故である可能性はあるとお考えですか?」
「私の考えでは、そうは考えられないと思います」
「では、術死が連続したのはなぜでしょうか」
「偶然でしょう。ドクター桐生はフロリダの専門病院で、十年で二千例を越える心臓手術を手がけたエキスパートです。ずっとドクター桐生の手術を見続けていますが、手技は全く衰えていません。米国時代の彼の術死率は〇・五%、十人を手術で亡くしています。バチスタ手術の術死は五例、そのうち三例は連続しています。かつて立て続けに術死に見舞われた時でも、彼は術死の原因を自分で冷静に把握していました。彼が、術死の原因究明を外部に委託しようと考えたこと、そのこと自体がすでに私から見ると異様なことなのです」
桐生とほとんど同じ内容表現。まるで口裏合わせをしているかのようだ。
但し、口裏を合わせなくても話の内容が一致することはある。二人が真実を語っている場合だ。つまり、彼らの話を疑うのか信じるのかは、俺の考え次第ということか。
「病理医の立場から、この調査に対するアドバイスはありませんか」
「Nothing.(ないですね)。田口先生は本当にお気の毒です。術死三例には、解剖が行われていません。つまり客観的な死亡時医学情報はゼロです。それで後日、死亡原因を調べ直せなんて無理難題もいいところです」
羽場が言った通り、この義兄弟の精神構造は一卵性双生児だ。物事が論理で割り切れると信じきっていて微塵も疑いを持っていないところなど、本当に瓜二つだ。
俺は純朴な青年を装って質問してみた。
「そんなに解剖が大切なら、なぜこれらの症例に対して解剖を行わなかったんですか?」
鳴海は苛立った表情になり、早口にまくしたてる。
「私はドクター桐生に解剖するように提案しました。でも、できなかったのです」
「なぜです?」
「そんな承諾、遺族からとれますか? 心臓を止めて手術をして再鼓動しなかった。誰でも患者の体力がもたなかったか、手術ミスのどちらかだと思うでしょう。
心臓手術の術死の場合、死因があまりに自明に見えるので、解剖できないのです。手術ミスの場合は、遺族から解剖依頼されることもあります。背景には、医療施設に対する不信感があります。その点、ドクター桐生には絶対的な信頼があるし、手術の危険性は十分理解してもらっているので、その方面からの解剖要請もありません。どちらにしてもドクター桐生は剖検ができない状況にあるのです」
「なるほど。それなら仮に、病院内部で犯罪が行われた場合、それが医療過誤か犯罪かほどうやって見分けるのですか?」
鳴海は複雑な笑顔を浮かべる。
「医師が積極的に犯罪に手を染めていた場合、立件は難しいでしょう。証拠隠滅が容易で、独立した医療監査システムも存在していませんからね。そうした問題は、現在ではたいてい内部告発の形で表に出ます。もしスタッフが告発しなければ、おそらく犯罪は隠蔽されます。その時は、犯罪立証される可能性はほぼゼロでしょう。
医療過誤の調査に関する社会システムにも問題があります。異状死は警察への届け出義務があります。すると始めに来るのは警察官です。彼らの手に負えないと本部から警察医が呼ばれる。警察医はたいてい地元開業医などの兼任です。警察の言葉を鵜呑みにしてしまう警察医もいる。そんな人たちに巧妙に隠された犯罪を見抜く能力があると思いますか?」
鳴海が必要以上に挑発的になっているのを感じる。不快感を感じる以上に、呈示された現状の問題点の大きさと深さに愕然とした。
医療過誤問題に対して社会が有している調査システムはとてもお粗末なもののようだ。これでは、天網恢々疎《てんもうかいかいそ》にしてダダ漏れ≠ナはないか。
「こうした問題を解決するため、厚生労働省が関連四学会からの申し出に答える形式で作ろうとしているのが、医療過誤関連の中立的第三者機関です。その実態は、現状の不十分な死亡時医学検索の土台の上に、新しい看板を上塗りしただけの、いかにもお役所的なアリバイ仕事です。このままでは、帯に短いだけではなくて、タスキにも短いものができてしまうことは確実ですね」
その記事は俺も読んだことがあった。俺は尋ねる。
「それじゃあ、どうすればいいのですか? 何かいいアイディアはありますか?」
鳴海はにやりと笑って答える。
「解決策はなきにLもあらず、ですがね。硬直した日本の医療行政では、対応は難しいでしょうね」
謎めいたあいまいな言葉を一度区切って、鳴海は続ける。
「横道にそれてしまいました。話をもとに戻しましょう。今回の田口先生の調査を見ていて興味深いのは、その手法と根底にある仮説です」
「不定愁訴外来と同じやり方で、聞き取り調査をしているだけなんですが」
「そうではなくて、全員の聞き取り調査をしてから、手術を見学するという手順の方の話です」
「ごく普通のやり方だと思いますが」
「いいえ、そんなことありません。このやり方には、田口先生の仮説が見え隠れしています。田口先生のお話を伺っていて、私はますます自分の推測に確信が持てました」
「と、言いますと?」
「先生はこの案件を、殺人、しかも犯人はスタッフと考えているということです」
俺はぎょっとして、コーヒーカップを落としそうになった。
「はあ? な、なぜいきなり、そんなことを。そんなことあるはずないじゃないですか」
裏返った俺の声に、鳴海は笑って答える。
「なるほど、田口先生ってそういうタイプだったんですね。自分の奥底にある声に気づかなくても、反射的に動くことができるんだな」
鳴海の言葉が俺の中で過剰に反響する。一体何を言いたいのだろう、コイツは。
「どうやら田口先生にはご自分の姿がよく見えていらっしゃらないようですね。それなら私が解説しましょう。まず田口先生はスタッフ全員の聞き取り調査をしました。一人一人に対しかなり詳細に聞いているようですね。それなのに、その前に行っている過去のカルテの検討は、ひどくラフです。昨日の手術にはぴったりはりつき、手術を見学し続ける。手術終了後はCCUへはいかず、手術室をうろつきまわる。
田口先生は、術死をスタッフが起こした殺人だと考えている。こう考えると、こうした行動のつじっまが合うんです。カルテを詳細に調べないのはなぜか。意図された殺人ならば、証拠が記載されているはずがないからです。手術終了後も手術場に残り続けたのはなぜか。問題が手術の中に隠されている、と考えているからです。
これが、田口先生の行動と今のお話から割り出した、一つの結論です」
そうだったのか。俺はシャッポをぬいだ。鳴海は、本人でさえ気がつかなかった深層心理を解き明かし、挙げ句の果てに無自覚だった本人を納得させてしまったのだから。
「恐れ入りました。私ってば、そんなことを考えていたんですね。気づかなかったなあ。するとこの聞き取り調査は、被疑者に対する取り調べですね」
俺は皮肉を込めて鳴海に問いかける。俺の嫌がらせを、鳴海はあっさりすり抜ける。
「私は患者にはノータッチですから、当然容疑者リストから除外されます。私の場合は周辺への聞き込みに相当しますね。それにしても、田口先生の考え方は参考になります。私の手法で検討してみると、いくつかのポイントで整合性を欠いてしまうので、困っていました。それが田口先生の仮説のように、殺人と見立ててみると、腑に落ちなかった点が矛盾なく収まりがついてしまうので、正直、少し驚いているんです」
俺は殺人を前提にして、物事を組み立て、行動してきたのではない。本当はそのはずなのに、鳴海と話していると、どういうわけか言われた通りであるような気がしてくるのだから、言葉というものは恐ろしい。本当に恐ろしいのは鳴海の暗示力かも知れないが。
俺は緩みかけたガードを固め直す。
「鳴海先生の仮説からすると、昨日、問題が起こらなかったことも説明がつきますね。きっと私が見ていたから犯人は自重したのですね」
「そうですね。ドクター桐生の……」
言いかけて鳴海はふっと肩の力を抜き、俺に笑いかける。
「いや、義兄の本当の狙いはそれだったかも知れません。ただし、別の見方もできます。これまでの術死は偶然起こったことで、昨日はいつも通り成功しただけだ、ということです。こう考えれば、何も起こらなくて当然です」
鳴海は俺をあちこちに引きずり回す。一体どこへ連れていこうというのだろう?
「スタッフによる殺人、という田口仮説≠ヘ支持できませんね。術死が起こって以降、スタッフ間のチェックは相当厳しくなっています。その中でもしも不自然な動きをするようなヤツがいたら、すぐにわかってしまいます」
「私はそんな仮定はしていません。手術室をうろついたのは、術死調査だから手術場だけ調べればいい、という単純で横着な発想からです。鳴海先生のような、深い考えはありません」
すかさず鳴海が言う。
「そんな御謙遜を。田口仮説は素晴しいです。それに従えばCCUについていかなか
ったのも、自然なことになりますね」
俺は言い返す。
「鳴海先生の仮説に従った行動ではありませんよ。CCUでは患者は亡くなっていな
いのですから」
鳴海は俺を買い被った挙句、深読みし過ぎているようだ。
鳴海と会話を交わす度に、スタッフ犯人説は 田口仮説″と 鳴海仮説″との間でころころ名称を変えている。ピンを抜いてしまった手相弾のたらい回しみたいだ。こういうのを確か、ココナッツ・ゲームっていうんじゃなかったっけ。
見方を変えると、まことに麗しい光景だ。プライオリティの尊重。俺は鳴海仮説=A鳴海は田口仮説≠ニ、互いに相手を立てようとしている。どんな状況下にあっても我々は研究者の顔も持っているのだ、と実感する。
この仮説の本体は、鳴海の視点からは俺がそう考えているように見える、ということなので、誰がどう見ても、その主体は鳴海にある。そう考えれば、この命名権争奪戦の軍配は鳴海仮説≠ノ上がりそうだし、また、そうなってもらわなくては俺としても困る。俺は鳴海に言った。
「自分でも気づかなかったアイディアを取り上げていただいた後で、叩き潰されたとしても、恨みませんよ。提唱者の鳴海先生には申し訳ありませんが、鳴海仮説≠ェ間違いであった方が、私も気がラクですし」
鳴海は笑った。
「そうですね。田口仮説=@の最大の弱点は、動機が設定しにくい点ですからね。現実的には妄想に近い、と言うことができるでしょう」
仮説のプライオリティをめぐり互いに相手を立て合うという意地のはり合いは、鳴海の自爆劇で幕を引いた。鳴海は、勝手に人の名を語った仮説を打ち立てて、勝手にとどめまで刺してくれた。まさしく、ゆりかこから墓場まで=B結局、ピンを抜いた手相弾は鳴海の手の中で爆発した。
鳴海という男はヤサ男風の見かけと違って、なかなかどうしてかなりの猛者のようだ。もうもうと立ち上る煙の中、顔は黒こげ、髪はちりちりになりながら、無邪気にニコニコ笑っているのだから。それにしても、論理一辺倒のヤツと話をすると、どうしてこんなにむかつくのだろう。
俺は話を変える。
「桐生先生のご専門は、小児心臓移植でしたね」
鳴海はうなずく。
「米国でも小児臓器移植は少なく、義兄は成人手術も手がけていました。そういう意味では、特殊症例に対応できるスペシャリスト、という形での専門家です。
フロリダでは移植とバチスタを併用していました。日本からのオファーは心臓移植だったらしいのですが、実際にはバチスタが集中してしまい、義兄もとまどったようです」
「米国で成功したら、日本に帰る気がなくなるのではないですか。よく当院に来ていただいた、と感謝しているんです」
「普通はそうなんでしょうね。でも、義兄は変わり者なのです。どんなに地位が上がっても、初心を忘れない。渡米当初から、米国の最先端の医療技術を持ち帰り日本の子供を助けたい、というのが口癖でしたから」
「それじゃあ記事に書かれているまんまじゃないですか」
俺の言葉に鳴海は不思議そうな顔をする。
「ええ、あの記事は義兄の本音ですよ」
桐生の品性の高さにうんさりした俺は、ひねくれた気分になって意地悪な質問を鳴海に投げる。
「凄いですね。ご自分の家庭まで犠牲にして、他人の命を救うために日本に帰国されるなんて」
鳴海は首をひねる。「一体、何の話ですか?」
「だって今回の帰国が原因でお姉さんと離婚されたわけでしょう?」
俺の言葉に鳴海は、ああ、そうか、という顔をした。
「二人は仲は良かったのですが、どちらも頑固者でしてね。日本に帰りたくない姉と日本に貢献するチャンスを掴みたい義兄がお互い一歩も譲らなかったので、一気に離婚までいってしまったのです。今頃、姉は後悔していると思いますよ」
「鳴海先生はなぜ、日本にいらしたんですか」
「私は日本で医師免許を取得してから渡米しました。サザンクロス病院で米国式の医学研修を受け、米国の医師資格も取得し医者になりました。ドクター桐生のチームで外科研修をしたのですが興味が病理に移りました。でも、たとえ所属が変わったとしても私の研究や医療はドクター桐生をサポートするためにあります。
私はドクター桐生の影です。彼が日本で医療をするなら、影がついていくのは当たり前です」
これなら、裏でジュニアと呼ばれていても、鳴海には何の不満もないだろう。
俺はひそかに、桐生の吸引力の強さを恐れた。チーム・バチスタのスタッフは全員、桐生に心酔し、忠誠を誓っている。
みんな、桐生という恒星の重力場に捉えられた惑星だ。
俺は話題を変えた。ネット検索で論文を調べた話を振ってみる。
「鳴海先生は論文が多いですね。本学でもトップクラスです」
「論文の数で医師を評価するのは、日本の悪弊です。私はフロリダ時代、術中迅速免疫組織診断検査法の基礎論文を相当数書きました。けれども本当に優れているのは義兄の論文の方です」
桐生の論文についても調べたが、ヒットした件数は鳴海の半分以下だった。俺がかすかに首を傾げたのを、鳴海は見過ごさなかった。
「論文は数ではない、質です。確かに義兄の論文数は少ない。しかしそれは、手術術式の創意工夫の結果であり、手術の長期成績、つまり患者の命がかかり失敗が許されない真剣勝負の場から産み落とされたものです。私の論文のように、机上で理論を弄《もてあそ》んだものとは次元が違う」
病理医らしからぬ発言だ。ふと、鳴海が外科医からの転身組だったことを思い出す。
「本当に大切なことは、論文ではリバイス(書き直し再提出)の対象になります。感情的な表現は避けろ、事実だけを記せ。そうやって学問の瑞々しさを奪っておいて、それこそ学問だと強弁する。学会を仕切るお歴々は、新鮮な刺身を食せず、干物ばかりを所望する」
端正な顔立ちに似合わぬ過激なセリフ。手負いの獅子が吼える。何が鳴海をこれほどまでに傷つけているというのだろう。
「鳴海先生の研究は、桐生先生のバチスタをサポートするためにあるんですね」
「Exactly.(まさしくその通り)」
一片の曇りもない表情。
「手術の土台なので、術中迅速免疫組織診断について原理を教えて下さい」
「拡張型心筋症では変性部位の収縮力低下が問題になります。変性部を切除し、心臓のサイズを小さくするとなぜ心機能が回復するのか、には諸説があり確定されていません。私の中心仮説は、拡張部の心筋細胞は変性している、というものです。拡張部=変性部という等式です。これを逆展開し、変性部同定によって拡張部を決定するという発想です。幸い免疫染色と特殊線維染色の相性がよく、二種の染色法の同時施行という、いくぶんトリッキーな手法を用いることで、変性部位を迅速に検出できるようになったのです」
「でも鳴海先生は、診断と治療を切り離すべきだとお考えで、術前カンファレンスにも参加していらっしゃらない、とか。そうした姿勢は、手術室に足を運ぶことと矛盾しませんか?」
「いいえ。それは学会の重鎮たちと同じような発想ですね。彼らは一番大切なことを理解しようとしない。この診断法は、顕微鏡診断で完結しては意味がありません。術中迅速免疫組織診による変性部確定は大切ですが、重要なことはそれ以前に終わっているのです」
次第に鳴海の話に引き込まれていく。同時に理解から遠さかる水平線。学生時代に舞い戻る。ここ数日、俺に劣等生時代を思い出させる人物と接触する機会が増えている。これも天の嫌がらせだろうか。
「それでは、お仕事の中で一番大切なのは何ですか?」
「切除前の心臓の動きを目に焼き付ける。続いて切離後の心臓組織の標本を作る。切離前の心臓の動きと顕微鏡で観察した変性心筋細胞の分布図を重ねる。それこそが重要なのです。その対応を積み重ねれば、心臓の動きを見ただけで変性部位がわかるようになる。それこそ私の仕事の本質、すなわち生体直接診断です。生体診断により切除範囲を適切に決定する。これは通常の病理診断の枠組みからは逸脱するかも知れません。しかし診断学の原則から見れば基本的な話です」
「今のお話では、術前カンファレンスに出席されないという姿勢とは矛盾しませんか?」
鳴海は一瞬、ほう、というように眼を見開く。それから首を振り、答える。
「術前カンファレンスに参加すると先入観を持つことになり、診断にバイアスが混入します。ですから参加しない。手術室に足を運ぶのは、純粋な生体診断を行うため。心臓を眼で見てマクロで変性範囲を決定する。その本質は通常診断と変わりません。見かけが違うだけなのです」
桐生が手術中、鳴海に切除範囲を確認していた光景を思い出した。鳴海が心筋切除範囲を決定している間、桐生は眼を閉じていた。つまり、鳴海は桐生の眼なのだ。確かにこうしたことはアカデミックな世界では理解されにくいことだろう。
二人の問に沈黙が流れた。俺は最後の質問に移った。
「全員に質問していることがあるんですが、個人的な趣味ですので、答えたくなければお答えにならなくても結構です」
前置きをしてから、涼という、彼の名前の由来を尋ねてみた。鳴海は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間シニカルな微笑を浮かべて言った。
「田口先生の発想は実にユニークです。日本には珍しいタイプですね。義兄が田口先生のことを気に入った理由がよくわかりました」
俺の質問には答えようとせず、鳴海は、はぐらかすように俺を評価し返した。
鳴海は断じて、桐生の影などではない。鏡だ。相手を映し出すが、自分の裏側は決して見せない。鳴海の心の裏側を見るためには、鏡は砕かれなければならないだろう。但しその時には、鳴海の存在自体が砕かれてしまうかも知れない。
俺は鳴海に、桐生の印象を尋ねようとして、やめた。それは二枚の鏡を合わせるようなものだ。言い伝えでは、合わせ鏡から飛び出してくるのは悪魔だったはず。
俺は、オカルト系の話は苦手だった。
俺は鳴海の聞き取りを打ち切ることにした。
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11章
バチスタ・ケース32
2月21日木曜日 午前8時 2F・手術部・第一手術室
少年兵士、アガピ君がCCUから一般病棟に移ったというニュースが、気の抜けた時間帯にブラウン管に流れた。アナウンサーが事実だけを淡々と短く伝えると、画面は余韻もなく天気予報に切り替わった。
病院全体が弛緩した空気に包まれていた。桐生チームもその例外ではなかった。スポットライトの当たる中で、最高のパフォーマンスを行った自信、それに対する賞賛の喝釆が、スタッフを温かく包んでいた。何より連続術死がとぎれたことが、チーム全体に心地よい安堵感をもたらしていた。
そんな中で俺だけは、そうした弛緩した空気に染まらなかった。俺だけはまだ、何の実績も残していなかったからだ。Dカルテ(術死カルテ)を繰り返し読み込んだ。
看護記録の一字一句まで記憶してしまったほどだ。
三冊のDカルテを前に頭を抱えて呻吟している俺を見かねて、藤原さんはいつもよりちょっぴり優しかった。ふとカルテから日を上げると、淹れたての珈琲がさりげなく置かれている、というささやかな心遣いが幾度かあった。
俺は、自分としては、かなりの努力をしていた。だが結局、何ひとつ手がかりを見出せないまま、二週間が経とうとしていた。
二月十九日火曜日、朝七時三十分。術前カンファレンス。
二症例に対する検討が行われた。ケース32、仁科裕美さん(67)は、繰り上がり症例だ。糖尿病以外にさしたる問題はなく、検討はあっさりと終了し、二十一日に手術が行われることになった。
ケース33、小倉勇吉さん(78)は、二度日の検討だった。一週間前の二月十四日に手術予定だったが、手術前夜に狭心症発作を起こしたため、翌日予定されていた手術は延期された。胃痛を訴えた小倉さんに処方された胃腸薬による薬剤アレルギーが原因だと推測された。投薬は中止され、再度発作が起こったら緊急手術適用という方針が確認された上で、来週二月二十八日に手術予定が組まれた。
検討会はゆったりした空気の中で淡々と進んだ。厳しい表現をすれば、たるんだ雰囲気と言えたかも知れない。仕方のないことだ。極度の緊張の後には弛緩も必要だ。小倉さんの手術が延期になり一週間ぽっかりと予定があいたのも、見方を変えればチーム・バチスタに対する天与の休息だったのかも知れない。
前回のカンファレンス終了後に、あと二例「観察」を継続して欲しい、と桐生から頼まれた。俺はその追加依頼を受けた。建前としては、まだ結果を出せていないからという理由で。本音は、もう少し桐生の手術を見てみたいという純粋な好奇心から。
以前も言ったが、俺は血を見ることと、退屈を強要されることが苦手だった。だから手術見学が嫌いだった。手術を自分とは一生縁のない世界に葬り去っていた。それが今、俺は積極的に桐生の手術を見たいと思い始めている。
俺は、自分の変心を怪訝に思った。だが少し考えてみて、すくにその理由がわかった。
俺は桐生の手術の美しさに魅せられていたのだ。桐生の手術はほとんど出血しないし、手術手技は論理の積み重ねで、一つ一つが正確で華麗だった。
学生時代、手術見学が退屈だったのは、レベルが低かったからだということにようやく気がついた。質の低い技術をむりやり見せられることが我慢できなかっただけだ。桐生の手術に魅せられた後で、俺は自分の過去を正確に理解した。
本物には有無を言わせぬ説得力と強制力があるということを、つくづく実感させられた。
二月二十一日木曜日、バチスタ・ケース32、仁科裕美さん、手術当日。
着替えの手際もよくなり、俺は手術開始予定時間よりもずっと早く入室できた。目を瞳る進歩に対し、自分で自分を誉めてやる。俺は意気揚々と第一手術室のドアを開ける。
いきなり裸の背中が見えた。物音と気配に振り返った氷室は俺を視認して、再び物憂げに患者の背中と向かい合う。患者は膝を抱え横向きに寝ていた。丸めた背中をむき出しにしている。氷室の手には蝶のような羽を広げた金属針が持たれていた。氷室が指に力を入れた。太い金属針が、背中の正中線、その肌の奥に滑らかに侵入していく。側にいる羽場を捕まえて、小声で尋ねる。
「何しているんですか?」
「ご存じないんですか? エビドラ(硬膜外麻酔)ですよ」
羽場が呆れたように答える。もともと俺は外科オンチなのだから、些細な軽蔑は気に留めない。知りたいことはわかるまで訊く。
「えと、名前は聞いたことありますが。何のためにやるんですか?」
「脊髄硬膜腔にチューブを留置し、局所麻酔薬を注入するんです。患者の状態に応じて術中に併用して、吸入麻酔の量を抑えます。術後の疼痛《とうつう》コントロールにも使えるんです」
「いいことずくめですね。それにしても手術の時って、身体中が管だらけだ」
患者に聞こえないように小声で話しかける。羽場もひそひそ声で応じる。
「そうですね。さっと見渡しても、装着されるチューブ類は十本以上でしょうね。動脈ライン(Aライン)、静脈ライン二本、鼠径《そけい》部からIVH(中心静脈栄養)、胃管、エビトラ、肛門の体温ブローベ。心電図端子が四本。指先にパルスオキシメーター。手術が始まれば、心臓カニュレーション四本。あ、そうそう、一番大事なのを忘れてました。麻酔用の挿管チューブ。それに、経食道的心エコー・プローブ」
「何ですか、最後のは?」
「あそこにエコーのモニタがあるでしょ。食道の内腔から超音波端子を当てて、心臓の動きをモニタするんです」
「管とモニタでがんじがらめですね。全部で何本になるんですかね?」
「全部教えてあげたんですから、そっちで数えて下さいよ」
むくつけき中年男二人が顔を寄せ合ってひそひそ話をしながら、指折り何かを数えている光景は、ほほえましいという表現からはほど遠く、まったくさまになっていない。
氷室の手技は手際がよい。針の中空に細いチューブを通して、するすると脊髄の近傍、硬膜外腔に送り込んでいく。桐生の手技と相通じる雰囲気がある。
「テープ」
サージカルテープで背骨に沿って管を固定。患者に仰向けに戻るよう指示する。
ドアが開き、両手いっぱいフィルムを抱えた酒井が入室した。氷室が尋ねる。
「酒井君、桐生先生は?」
「ついさっき、更衣室に入っていかれました」
「じゃあ、麻酔を始めましょうか」
氷室に言われるまま数を数えていた患者の声が聞こえなくなる。氷室の動きが慌しくなる。気管チューブが挿管され、人工呼吸器に接続を終えた途端、桐生が入室した。
イソジン球でボディ・ペインティングを施し終えると、家臣と姫を従えて、桐生は定位置に就く。自分の中に君臨している何ものかに向かって、一礼する。
「メス」
スティヒ・メスが前胸部正中線を切り開く。続いてクーパー、ストライカー、開胸器装着、流れるような手際に見とれていると、空気が揺れた。
顔を上げると、鳴海と一瞬眼が合った。鳴海は俺に向かって限だけで微笑んでみせた。続いてすぐに、むき出しで激しく拍動する心臓に鋭い視線を投げかける。
心膜を切開し、桐生の手が止まる。鳴海の視線が強くなり、桐生は眼を閉じる。
「前壁、心尖部近傍、変性が強いね。かなり広範だし」
「やはり、そうか」
桐生はメスを大友看護師に戻す。腕組みをした。その眼にためらいの光が揺れる。
「撤退するか」
「撤退? まさか。いけるよ。但し、相当ストリクトなエッジだけど」
鳴海が断言する。桐生はちらりと鳴海を見た。再び心臓に視線を落とす。網膜に焼きつけるように見つめ続ける。顔を上げた時、その眼からはためらいの色は消えていた。
「オーケー、ゴーだ」
羽場が、低体温環流を告げる。人工心肺カニュレーション装着。心停止液注入、心室細動状態から心停止へ。手術台に横たわる患者は、いったん生命を停止した。
二度目の見学なので、今回は俺にも多少、周囲を見回す余裕がある。
桐生の迅《はや》いメスにかろうじてついていっているのは、どうやら酒井だけのようだ。垣谷は始めから流れに乗ろうとすらしていない。予備知識がなかったら、きっと酒井の方が第一助手に見えるだろう。
フィールドは桐生の華麓な指の独壇場。ピアニストの指が繊細な旋律を奏でている。
「検体が出ます」
心臓のかけらが手術野から吐き出される。受け取った鳴海は、風を残し部屋から消えた。
術野では僧帽弁縫縮術が終了し心筋縫合に入った。素人目に見ていても、垣谷の手つきが一番おぼつかない。意に介さず垣谷は淡々と、自分のできることだけを行う。桐生は、垣谷の領域を避けるようにして、酒井とペアを組んで別領域を進めていく。
ひょっとしたらこのチームは、危ういバランスの上で、かろうじて成立しているのではないか? 少なくとも長く続く安定感は感じない。まるで、つま先立ちのバレリーナのようだ。
俺は桐生の言葉を思い出し、違和感を覚えた。はたで見ている限り、酒井の言葉の方が妥当に思えた。雑念に囚われていると、背後から涼しげなビブラートが聞こえた。
「変性部は、マージン(境界)にかかっていません。It's perfect.(完璧だよ)」
「縫合も順調だ。氷室君、羽場君、再鼓動に入る」
「上行大動脈クランプ解除」
酒井が術野全体に声をかける。心臓への血液供給が再開する。間もなく拍動が再開されるはずだ。俺は再鼓動を待つ。
途方もなく長い時間が流れた。ふと視線を向けると、桐生の周りに白い闇が見えた。一瞬、桐生が抱えている虚無に触れた気がした。
俺の視線に気づいたかのように、我にかえった桐生が尋ねる。
「体温は?」
「三十六度に復帰。一二分経過」
緊張が手術台を覆う。視線が錯綜する。ゆっくりと、やがて慌しく。視線のかすみ網の中心でひとり、桐生は眼を閉じている。気高い鷹《ファルコ》。
時が流れた。ふと思い出したというように、ぽつんと指示が出る。
「氷室君、強心剤をワンショット」
氷室は胸ポケットいっぱいのディスポーザブル・シリンジの中から一本を取り出すと、看護師から差し出されたアンプルをカットし、透明な液体を吸い上げる。
「注入、しました」
長い長い時間。人工心肺のモーターが単調な音を繰り返す。
彫像のように動きを止めていた桐生が眼を見開く。眼下の心臓、意のままにならない小動物を凝視する。
絞り出された声が響く。
「カウンターショックの準備!」
第一手術室は騒然となった。
それから一時間の間に起こったことを、俺は正確にスケッチできない。それまでと次元の異なる速度で物事が眼の前を走り去っていく。指の間からこぼれ落ちる命砂をすくい上げようと、桐生の細く長い指が心臓の周りを踊る。カウンターショックで患者の身体が身悶える。失われた生命が、電気という媒体を通じて一瞬身体に戻ってきたかのような錯覚。桐生の怒声に周囲は右往左往し、その指をサポートすることで精一杯だった。
砂時計は終末へ向かって急激に加速していく。こぼれ落ちる速度に歯止めがかからない。苦悶の表情を浮かべながら、桐生は命のかけらを寄せ集めようと格闘し続ける。しかし桐生のしなやかな指の中には、もはやひとかけらの砂も残されてはいなかった。
激しく動いていた桐生の指が動きを止めた。桐生は目を閉じた。極彩色の時間が止まる。
沈没する戦艦の艦長のように静かに、しかし決然と桐生は宣言した。
「オーケー。人工心肺を止めて。塩谷君、酒井君と二人で術創を閉じてくれ。私は患者の家族に説明にいく」
ケース32、仁科裕美さんの術死が確定された瞬間だった。
俺は家族控え室の外で、桐生の説明が終わるのを待っていた。長い時間が経過したように感じられたが、真赤な眼をした中年女性が抱きかかえられて部屋から出てきた時、彼らが入室してから、わずか五分しか経っていなかった。
桐生は部屋から出てこなかった。秒針がかっきり一周するのを待ってから、ノックした。
桐生はひとり肘をつき、組んだ指に額を押しつけていた。物音に気づき顔を上げる。眼が合った。俺は小さく会釈した。桐生は黙ってまたうつむいた。
俺は、桐生の傍らに立ちつくしていた。
ふわり、と空気が揺れた。鳴海が入ってきた。
鳴海は、桐生の傍らに俺がいることに一瞬驚いたようだったが、俺に目もくれず、桐生に話しかける。
「義兄さん、解剖をお願いしよう」
桐生は、またか、というように、うんざりとした眼で鳴海を見た。鳴海は意に介さず続ける。
「解剖しなければ、死因がわからない」
桐生は短く、鋭く、吐き捨てた。
「無理だ。家族にどう説明すればいいんだ?」
「事実を言えばいい。死因をきちんと調べたい、と」
「手術で心臓を止めておいて、戻らなかったから調べさせてくれ、と言うのか? 他の理由があるかも知れないから解剖させてくれと頼むのか? 手術以外に原因があるわけない、と言われるに決まっているだろう。こんなこと、手術で死亡した直後に家族にお願いできることではない」
「急性の脳出血を併発したかも知れないじゃないか」
「四例続けて、か?」
桐生は首を振る。
「仮に解剖させてもらったとしても、心臓の他に何も所見が見つからなかったら、その時はどう説明すればいいんだ?」
桐生の問いかけに鳴海は黙り込む。
遠慮がちなノックの音。手術室の高橋看護師長の顔がのぞく。
「ご家族が一刻も早く退院されたいと希望されています」
桐生は、気力を振り絞るようにして、答える。「今、行きます」
鳴海を振り返る。
「そういうわけだ。こんな状況では、解剖はお願いできない」
鳴海は黙り込んだ。論理で納得できない決定を、感情で呑み込んでいる。
桐生は俺と向き合う。すがりつくような視線、言葉が急に弱々しくなる。
「何か問題を見つけていただけましたか?」
俺は首を横に振る。
「残念ながら、ご期待には添えませんでした」
あからさまな失望。システム・エラーという言葉が脳裏に浮かぶ。
何かが狂っている。羅針盤か、速度計か、アクセルか、何かわからないが、何かが根本から狂っている。俺たちは狂った磁場の中にいるから、それが見えないだけなのだ。
「田口先生、殺人捜査の手がかりは掴めましたか?」
鳴海の乾いた声。冷たい響きに桐生がびくり、とした。「殺人だって?」
「田口先生の聞き取り調査の進め方は、殺人を前提にしているフシがあるんだ」
「本気ですか?」
桐生は、しんから驚いたような眼で俺を見た。俺はすくさま否定した。
「鳴海先生が私の行動を解析したら、私が深層心理でそう疑っているという仮説を立てたんです」
「田口先生が意識しようがしまいが関係ない。田口仮説≠ヘもうすでに実存しているんだから。改めて質問するけど、殺人が行われているという可能性は見つかりましたか?」
俺は首を横に振る。鳴海の言葉から漂う硝煙の香りが鼻腔を刺激する。引き金を引いた直後の銃口をつきつけられたみたいだ。
「ボンクラだな。話を聞くだけで問題解決できるのは年寄りの神経症くらいだよ」
おっしゃる通り。俺の仕事は鳴海が指摘した通り、まさにそのものだ。俺は二人に言った。
「お役に立てず申し訳ありません。けれども、この術死は異様です。これは単なる手術ミスではありません。それだけは感じます。ここで起こっていることは、私の理解の範囲を越えています。直ちに高階病院長と善後策を講じたいと思います。よろしいでしょうか?」
桐生は弱々しくうなずいた。
「お願いします。この泥沼から脱出するためなら、何でも協力します」
俺に向けた反感を隠そうとしない鳴海から眼をそらし、俺は桐生に告げる。
「全力を挙げて、次の手を考えます」
急ぎ足で病院長室へ向かう。何かがおかしい。それが何か、わからない。だが何かが狂っている。俺が、いや、俺たちが大前提としている何か。焦燥感が俺の歩みをせき立てる。二階分の階段を一息に駆け登る。ノックの返事も待たず、病院長室のドアを開けた。腕組みをした高階病院長が驚いたように俺を見た。
「高階先生、また術死です。私は始めからずっと見ていましたが、おかしな点には気づきませんでした。どう見ても単なる医療ミスではなさそうです。何かが起こっている。それが何かわかりません。何が何だかさっぱりわからないんです」
俺は高階病院長を見つめた。
「残念ながらこの件は、私の調査能力を越えています。至急、リスクマネジメント委員会を招集して下さい」
高階病院長は、胸ポケットから煙草を取り出す。火をつけると眼を閉じて、大きく煙を吸い込む。煙草の先がオレンジ色に光る。数回の明滅。それから眼を開くと、俺を見た。
煙草を灰皿にきつく押しつけながら、低く答えた。
「わかりました。来週月曜午後、リスクマネジメント委員会を臨時招集します。それまでに田口先生は、これまでの経緯をまとめておいて下さい。委員会の場で報告していただきます」
俺は、うなずきながら、病院長室の窓の外へ視線を投げる。
しかし、俺の眼にはもう、お気に入りの窓の風景は映っていなかった。
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第 二 部…………………………ポ  ジ…………………………白  い  棺
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12章
廊下とんび
2月22日金曜日 午前11時 1F・不定愁訴外来
バチスタ・ケース32、仁科さんが術死した翌日。俺は上の空でノルマを終えた。愚痴外来五人目カネダ・キクさんが終了した時、時計の針は十一時を回ったばかりだった。
「だから、せっかくイネさんのためを思って言ってあげたのに、しつこいと言われてしまったんでしょう?」
俺が話の腰を祈ったので、キクさんは驚いたようにまじまじと俺を見た。しばらくじっと動かなかったが、途中からはっと我にかえった表情になった。そしてぽつんと言った。
「そうよねえ、同じ話を聞かされてばかりじゃあ、田口先生だって大変よねえ」
キクさんは二、三度、軽くうなずくと、優しく繰り返す。
「そうよねえ、田口先生だって大変よねえ」
俺はキクさんの認知症を疑った、過去の診断を微修正した。
いつもと違う外来内容には触れず、藤原さんは黙って珈琲を淹れてくれた。時が、さらさらと小さな音を立てて崩れ落ちていく。
静寂を破ったのは、乱暴なノックの音だった。
「田口先生、一体何をしでかしたんですか?」
返事を待たずに部屋に飛び込んできたのは、わが神経内科学教室のホープ・兵藤勉助手だった。何でコイツがこのタイミングでここに来るのか、俺には理解できなかった。けれども兵藤の次の一言で、昨日の件が今や病院中の関心の的であることを否応なく理解させられた。
「昨日のバチスタ術死に対して、田口先生がリスクマネジメント委員会の臨時召集を要請したというウワサで、痛院中は大騒ぎですよ」
今回はまた、盛大な尾ひれがついたものだ。俺はげんなりした。俺みたいな下っ端にリスクマネジメント委員会の臨時召集を要請できる権限なんてあるはずないじゃないか。ふと、高階病院長のにやにや顔が浮かんだ。
俺の表情なんかにはおかまいなしに、兵藤は速射砲のように質問を連射する。まるで女優との密会現場に踏み込まれてしまった歌舞伎役者みたいな気分になる。
「誰がミスっていたんですか? 何が原因でした? なぜ、田口先生がバチスタ手術を見学していたんですか? 黒崎教授が何も知らないのはどうしてですか? 桐生先生のコメントは? 看護師の大友さんがチームの足を引っ張っているってウワサ、本当だったんですか? それとも、やっぱり垣谷先生が下手っぴなんですか?」
俺は感心しながら、兵藤を見つめた。それにしてもよく動くお口だこと。
「何でお前は、そんなにいろいろなことをよく知ってるの?」
兵藤は得意気に鼻をひくつかせた。
「だって、チーム・バチスタの連続術死は、年が明けてから病院の最大の話題ですから。アガピ少年の取材攻勢もあったことですし」
兵藤をなだめすかすように、藤原さんがのんびり声をかける。
「まあま、兵藤先生、珈琲でもいかが」
「ありがとうございます。いただきます」
兵藤はちゃっかり俺の向かいに腰を据えると、報告を再開した。
「曳地委員長はかんかんだし、黒崎教授は有働教授の部屋に怒鳴り込んでくるし。あのお二人をすっ飛ばしてリスクマネジメント委員会なんて招集できるんですか? それともやっぱりウワサ通り、高階病院長の特命捜査だったんですか?」
「へえ、そんなことになってるんだ」
重厚なお二人が素早い反応をしたことを、俺は意外に思った。曳地委員長や黒崎教授までが表だってがたがた騒ぐとは……。まあ、当然か。
「黒崎教授は何て言っていたんだい?」
「おたくの窓際講師がわが第一外科学教室のアラを探してくちばしを突っ込んでくるとはどういう了見だ、ってすごい剣幕で怒鳴り散らしていましたよ……というウワサですよ。よくは知らないんですけと」
下手なウソ。ウソをつく時に目をパチパチさせるのはコイツのクセだ。知らないことを知っていると言い張り、知っていることは知らないとトボける。いつもそうしているから、ひっくり返せばすぐに本音がばれる。
黒崎教授の罵声を、教授室のドアに張りついて聞き取ろうとしている兵藤の姿が日に浮かぶ。これはウワサでない。珍しく兵藤が手に入れたマブネタだ。兵藤は、溢れる好奇心と荒い息遣いを抑えきれず、期待にきらきら縁取られた瞳で、俺を見つめる。こんな一途な視線で見つめられ続けると、その気がなくてもおかしな気分になる。
「どういうことなんです? なぜ田口先生が桐生先生の手術を調べていたんです
か?」
兵藤が部屋に入ってきてからずっと、重低音のラップがバックで鳴り響き続けている。
……オシエテ・オシエテ・オシエテ・オシエテ・オシエテ・オシエテ……
俺はどこまで話そうかと思案した。少しは話してやらないと、こいつは発狂してしまうだろう。あるいは、あることないことをあちこちでまき散らすかのどちらかだ。それなら、コントロールした情報を流す方がマシだ。
「お前にだから話すんだけど、これから話すことは絶対秘密にしておいて欲しいんだ。誰にも言わないと約束してくれ」
役所の手続き窓口みたいな形式的なセリフを、時代劇風に重々しく話す。兵藤は、赤ペコを高速度撮影したように、激しく首を上下させる。その勢いで頭がどこかに飛んでいってしまうのではないかと心配になる。
「大体はお前の情報通りなんだ。病院長に桐生チームの内偵を頼まれた。桐生先生には極秘にね。これは病院長からの特命任務なんだ」
桐生本人の依頼という点は隠しておいた方がいい気がして、とっさにウソをついた。俺は、兵藤の院内での信頼度を考慮してウソとホントを混ぜて伝えることにした。
良心の呵責はなかった。どうせ兵藤の口から語られれば、真実でさえウワサになってしまうのだ。
「なぜ、高階病院長は田口先生に特命を下したんですか?」
「知らないよ、そんなこと」
これは、ホント。
「リスクマネジメント委員会を動かせばいいじゃないですか。そっちの方が本筋だし」
「いいこと言うねえ。実は俺もそう思って同じことを言った。そしたら病院長は、医療ミスかどうかわからないから曳地先生には頼めない、って言うんだ」
これもホント。ちょっと端折ったけど。兵藤は少し考えて、納得してうなずいた。
「だからお目付役としてお前がバチスタを見学しろ、という命令だった。外部調査は必要だけと表沙汰にはしたくない、という病院長のわがままなんだ。本当ならアガピ君の手術が無事に終わった時点で、今回の特命は終了するはずだったんだけど、念のため、あと二例追加調査することになった。それが運の尽きだった。なんと俺の眼の前で実際に術死が起こってしまったというわけさ。しかも俺はすぐ側で見ていたにも拘わらず、なぜ術死が起こったのか、原因は皆目わからなかった。これが、昨日の手術の話」
これは正確ではない、あるいは部分的にホント。
「つまり、田口先輩は病院長直々の特命でドジを踏んだ、ということですね?」
大当たり。むっとする俺を兵藤は嬉しそうに見つめる。ぱたぱたと尻尾を振る音が聞こえてきそうだ。
「まあ、簡単に言えばその通りなんだけどね。俺の手には負えなくなったから、本来の担当のリスクマネジメント委員会にお仕事をお返しした、というわけ。それだけさ」
「それじゃあ、黒崎教授や曳地委員長がお怒りになるのもごもっともですね。自分たちの頭越しによその医局の下っ端が、病院長と一緒になって勝手にごにょごにょやった挙げ句、そのケツを拭かされる羽目になったんですからね」
兵藤クン、今日の君はなかなか冴えているぞ。曳地委員長が、その怒りをじっとりと自分の奥底に沈め、こめかみだけはぴくぴくさせながら無表情を取り繕う姿が想像できた。明確などジョンがくっきりと浮かび、うんさりする。
俺はしょんぼり呟く。
「でも俺だって被害者なんだぜ。俺はただ、病院長からの任務を忠実に遂行しようとしただけなんだから。お前からも何とかそのところを、黒崎教授や曳地先生に取りなしてくれよ」
「うーん、僕にもできることとできないことがありますからねえ。高階病院長とあのお二人はもともとソリが合わないしなあ。僕のヨミでは、高階病院長はお二人からの風当たりを田口先生にぶち当ててしのぐんじゃないかな。特命に失敗したんだから自分のケツは自分で拭けってことですよ。結局、田口先生がイモを引くんでしょうね」
他人の口から改めて聞かされると、つくづく間尺に合わない業務だと再認識させられる。仕方なく俺は、トラブルの原因と途中経過と結果のかなりの部分を暴露することにした。これは、トラブルや失敗の原因を他人になすりつけようという卑怯な行為では、断じてない。もろもろを本来の持ち主に返還するだけだ。
「俺だって、曳地先生が適任ではないでしょうかって言ったんだ。そうしたら高階病院長に、私のお願いを開いていただけないんですか?≠ニやんわり言われてしまった。病院長にそこまで言われて逆らえる医局員なんて、この世の中にはいないだろ。俺には他に道が残されていなかったんだ」
「その通りなんでしょうけれど、何か妙だなあ。高階病院長がそんな言い方するかなあ」
兵藤クン、本当に今日の君は冴えている。同じセリフでも、途中のステップをほんの少し端折るだけで、中身は正反対になってしまったりするものだ。
「それにしても、どうして高階先生は田口先生なんか指名したんだろう? 適任者ならもっと他にいそうだけど。こういうことは、例えば僕の方がよっぽどハナが利くのに」
ぶつぶつ呟く兵藤。その言葉に、俺は深く共感した。田口先生なんか、とは、ずいぶんなご挨拶だと思ったが。
よく動く兵藤の唇に見とれていると、唐突に、愚痴外来設立縁起である兵藤との因縁の物語が、記憶の表層に浮かび上がってくる。
話は愚痴外来が設立された三年前に遡《さかのぼ》る。しかし物語を理解するためには、俺が東城大学医学部神経内科学教室に入局した十五年前から始めなければならないだろう。
十五年前、俺は神経内科に入局した。すくに臨床指導と研究指導を兼ねた指導医が決められた。俺の指導医は、ある種の脂質をマウスに投与して神経の発達との関連を調べるという研究をしていた。手始めに俺は、実験の手伝いをさせられた。ケージの中、飯だけはたらふく与えられるマウスの食事介助や下の世話が、医師になったばかりの俺に与えられた最初の業務だった。
半年後、指導医は学位を取得した。博士号はとったが、論文は完成しなかった。
「あとはまとめるだけだし、お前はマウスの世話をよくしてくれたからさ、データは全部やるよ」
こうして気前よく、論文を仕上げる義務と論文筆者になる栄誉が俺に託された。地方中堅病院のそこそこのポジションに就職が決まった指導医にとって、学位さえ手に入れられれば、書きかけの論文には何の未練もなかったのだろう。
実験データを調べ直した俺は、論文が文字通り放り出されたことを理解した。俺が世話をしたマウスたちは、意味なく殺戮《さつりく》されていた。俺はイントロダクションだけが華々しく書き上げられている論文を、抽斗《ひきだし》の奥深くしまい込んだ。
一年経った。論文の帰趨《きすう》が医局で話題に上ることはなかった。俺は医師免許取得一周年記念の夜、その書きかけの論文を焼却炉で燃やしマウス供養の送り火にした。
それ以来俺は、動物を用いた実験からは距離をとった。
大学病院という組織は、貪欲に忠誠心を要求する。標準的な忠誠心の表現法は、実験の論文を有力学会誌に掲載することだ。神経内科医局も、その重心を実験医学に移していた。大きな流れに背を向けた俺は、たちまち主流から外れた。
だがしかし、大学病院は多面体構造で雑食性だ。研究に背を向けた人間の生き血をも必要とする。それが臨床や雑用に関する領域だ。病院を名乗るのだから臨床が主流になるべきだ、という意見は正論だ。しかし世の中は正論通りに動かないということもまた、真理だ。巧みな手術手技で患者の命を数多く救う外科医より、ネズミの死体を学術雑誌の数ページに変換できる人間の方が、大学病院での評価は高い。
俺は実験からは手を引いたが、代わりに臨床の雑用を一手に請け負った。当直の肩代わりも引き受けたので、先輩たちから重宝された。連続一ケ月、病院に泊まり込んだこともある。
こう言うと、さも俺が身を粉にして激務に励んでいたかのように聞こえるが、現実は違う。神経内科の患者は、大半が長期慢性疾患だ。病棟の仕事は、老人ホームのヘルパーに近かった。しかもヘルパー業務の実務の大半は看護師がこなしてくれる。だから病院を住処《すみか》にしてしまえば、大した仕事ではなかった。
下界では、研修医が緊急出血の患者対応で、点滴、採血、クロスマッチ(輸血用交差試験)と地べたをはいずり駆け回っていたちょうどその頃、天国に最も近い十二階病棟では、お茶菓子をいただきながら、お婆ちゃんの孫自慢を延々と聞かされ続けている俺がいた。
そんな俺のことを、先輩医師たちは、天窓のお地蔵さま≠ニ呼んだ。
六年前、前任教授が退任し、有働助教授が教授に昇格した。スタッフはひとつずつ階級を上げた。当時、役付きの最下層だった助手は中堅関連病院の神経内科部長というポストを選択した。その結果、ヒラで最上級だった俺にぽっかりあいた講師の口が回ってきた。
俺は実力不足を理由に、昇進の打診をお断りした。それが周囲には、近来まれに見る謙譲の美徳と誤解されてしまった。気がつくといつの間にか、俺の講師昇進は俺の意志の及ぶ範囲外の決定事項になってしまった。
冷静に振り返れば、当時の医局のバランスから考えて、俺が講師になったのは妥当な人事だった。有働教授も金村助教授も臨床には興味がない。しかし建前としては、大学病院に臨床を行う人材は必要だ。当時の教室で臨床の仕事を主体にしていたのは、実質的に俺だけだった。いつの間にか俺は、東城大学医学部付属病院・神経内科学教室・臨床部門のトップに立っていたのだ。
講師と同時に医局長の役割も押しっけられた俺は、一層精力的に診療と雑用に傾注した。臨床業務の中心は外来診療だ。診断が完了すれば、薬を決める。手続きさえ済めば、入院しても劇的な要素はほとんどない。退屈と言えば退屈、ラクと言えばラクな仕事だ。
三年前、凄いヤツがわが神経内科学教室に中途入局してきた。本家筋の帝華大学での権力闘争に敗れ、はるばる桜宮市に漂着した海外留学帰りの野心家、兵藤勉だ。
実力があるヤツはイヤなヤツと相場は決まっているが、イヤなヤツに実力があるとは限らない。幸いなことに、兵藤は前者だった。兵藤は、実験と臨床の両方の実力と業境を兼ね備えていた。
入局後、兵藤は我が医局の勢力図や人間関係を素早く把握した。まあ、理解をするために格段の努力を必要とするほど複雑怪奇な代物でないことも確かだが。旧帝大での出世闘争に敗れた教訓を活かして検討し、教室の弱点を見極めた。兵藤が俺に照準を定めたのは自然の成り行きだ。手始めに兵藤は、俺を講師から引きずり降ろし、とって代わろうと画策した。
兵藤は周到な布陣を敷いた。その戦略は巧みで手際がよかった。権力闘争に敗れた前歴が不思議に思えるくらいだった。外来では病棟での俺の不始末をでっちあげ、病棟では俺が外来で兵藤に嫌がらせをするというウソを垂れ流した。次第に、疑心暗鬼に満ちた視線が俺に注がれるようになり始めた。
兵藤の戦略は見事だったが、二つほど大きな誤算があった。一つは、俺のことをそうした陰謀に気づかないボンクラだと誤認したこと。もう一つは俺の反応に対する読み違いだ。
兵藤は、万が一俺がヤツの狙いに気づいたら死に物狂いで阻止するように動くはずだ、と思い込んでいた。その前提で予防線が張られ、さまざまな布石も打たれていた。まあ、そう考えるのは当然だ。この点で兵藤を間抜けと非難するのは不当だろう。ヤツは不運だっただけだ。異次元の価値観を持つ昼|行灯《あんどん》相手に正攻法で対峙したことが、兵藤の失敗だった。兵藤の狙いと俺の望みは、実は同じだった。
俺はもともと、講師になるなんてまっぴらだったのだ。
もしも兵藤が自分の気持ちを、正直に俺に打ち明けてくれていたなら、俺はあらゆる権謀術数を駆使し兵藤の願いを叶えるために尽力しただろう。もっともそうした打ち明け話を聞くという機会は、非現実的で、ないものねだりのことだったとは思われるが。
前提条件を間違えて入力した兵藤の作戦は、始めから俺には丸見えだった。そのまま黙って見ていられればよかったのだが、あちらこちらに根も葉もないウワサをバラまかれて、俺は少しばかり困っていた。
ウワサは気にかけない性格《たち》ではあったが、やってもいないことで悪く思われたくもない。横着者の俺は仕方なく、最小限の労力で最大限の効力をあげるディフェンスを採用した。そしてそれは、俺の最強のディフェンスであると同時に、兵藤と俺の共通の願望を達成するための最速の一手になるはずだった、のだが……。
ある日、俺は教授との面談に兵藤を同行した。
「今日は、お二人揃って、一体どういったご用件ですか?」
実験屋で医局政治に疎い有働教授も、さすがに医局内部のがたつきに気づいていた。そこへ医局長であると同時に、話題の中心人物でもある俺が、他方の当事者である兵藤と連れだってやってきたので、小心者の有働教授は極度に緊張していた。
兵藤は、それ以上に緊張していた。きっと生きた心地がしなかったことだろう。教授の面前ではかろうじて平然を装っていたが、内心では陰謀を暴かれ、この場で吊し上げられるのではないかと恐れ、この期に及んでもまだきょろきょろと抜け道を探していた。
おどおどした二人を前に、俺は口火を切った。
「今、医局内部が少々もめています。私より兵藤先生の方が講師にふさわしい、という声が、あちこちから聞こえ始めています。この点に関しては、実は私もまったくその通りだと思っています。一方、私が兵藤先生のことを中傷したり妨害したりしている、というウワサもあるようですが、こちらの方は、はっきり否定させていただきます」
兵藤は動揺し始めた。自分が築き上げてきた戦略の土台が狂い始めているのを嗅ぎ取ったのだろう。それでもきっとヤツには、俺が何を言おうとしていたのか、最後まで想像できなかったに違いない。俺はとまどう二人の顔を交互に見つめながら、とどめの一撃を放つ。
「医局長としての立場から冷静に判断すると、実力、能力、そして過去の学術的業績から見て、兵藤先生の方が講師にふさわしいと思います。そこで、有働教授に提案があります。医局全体のことを考えて、どうか私を降格し、兵藤先生を講師に昇格していただけないでしょうか」
俺の言葉に兵藤は、うつろな顔になった。ヤツの後ろに描かれていた目指せ、講師≠ニいう原色の立看板の突っかえ棒が外れて、ふわりと倒れていくのが見えた。
兵藤の陰謀が自爆した瞬間だった。
有働教授の安堵した表情と、兵藤の虚脱した表情が対象的だった。表面上は慰留しつつも、教授は俺の意志を何度も確認した。その間、兵藤は浮かべるべき表情がわからず、呆然としていた。
「田口君に落ち度があるわけではないから、降格人事は事務方が承知しないだろう」
「降格が無理なら、特命ポストを作って横滑りさせてもらえれば、講師ポストを空けることができます」
「それが可能なら賛成してもいいが。ただ、そのためには事務方を説得しなければならない。やはり難しいだろうな」
そこで俺はかねてから温めていたアイディアを披露した。
「『不定愁訴外来』の開設、なんて提案をしてみたらどうでしょうか。神経内科外来受診者の二割くらいはこうした訴えですから、潜在的な需要はあると思います。事務方も独立行政法人化を目前にして目新しい企画を探しているようですから、結構いけると思います」
「ふうむ。だが、そんな提案をすれば、心療内科と重複しそうな内容だから、精神科が黙っていないんじゃないか?」
「厳密に考えればおっしゃる通りでしょうけど。でも精神科にとって興味があるのは器質的疾病ですから、愚痴や繰り言の聞き役をお引き受けします、と低姿勢に出れば、あちらもウェルカムだと思います。こうした業務は論文になりにくいものですし」
最後のフレーズに苦笑しながらも、有働教授は感心したように、しきりにうなずいた。
「なるほど、『不定愁訴外来』ねえ」
兵藤は一言も発せず、二人の会話を聞いていた。彼の耳の穴や鼻の穴、口から、爆発寸前の怪獣ロボットのように、細い煙がちょろちょろと漏れ出ているような幻視が見えた。
それからしばらくの間、病院内部ではこの入れ替え人事のウワサで持ちきりだったようだ。兵藤の陰謀にハメられて落ち込むボンクラ田口、という喜劇を仕立てようとして、誰もが四苦八苦していた。
俺が教授とアポを取る交信を外来看護師が傍受していたこと、会合のあと俺が上機嫌で外来診療していたという目撃情報、その後兵藤からの俺に関するウワサの供給がストップしたという事実などの情報が相まって、この説は機能不全に陥ってしまったようだ。
次に俺を、謙虚で・無欲な・人格者≠ニして祭り上げようとした。この案も、並んだ三つの単語のうち真中の無欲≠セけ、つまり三分の一しか実状とは適合しない上、残りの二つが普段の俺の勤務態度とあまりにも著しく整合性を欠いたため、自然消滅していった。
このウワサが長く尾を曳いたことは後日、病棟で聞かされた。ある晩、ヒマを持て余した夜勤看護師が、それまでに流通したウワサの顛末について、こと細かに解説してくれた。そして最後に一言つけ加えた。
「兵藤先生の評判は、あれからガタ落ちしたわね」
俺は兵藤を貶めようとしたのではない。自分の身を守ろうとしただけだ。その結果、兵藤の評判が地に墜ちたのなら、それはひとえに兵藤自身の不徳のいたすところであって、俺に咎はない。
大学病院には、こうしたウワサの濁流が滔々と流れている。漢字の「噂」とは違うし、平仮名の「うわさ」でもない。カタカナで「ウワサ」と表記するとしっくりくる。
ウワサは、たちの悪いツタ科の雑草だ。気にし始めると気にしすぎるようになり、気がつくと手足ががんじがらめにからめとられてしまっている。兵藤との問題に決着がついてからしばらくしたある日、俺はウワサに対して過剰な関心を持つことをやめた。
決めてしまえば、それは意外に簡単なことだった。
事務方の融通のなさが如何なく発揮され、俺の降格人事はいつの間にか立ち消えになった。しかし棚からぼた餅で、不定愁訴外来開設≠ニいう果実は俺の手許に残った。大学が独自戦略を目指して展開している最中、目新しい企画を鵜の目鷹の目で探し求めていた事務方の琴線に触れたのだろう。
兵藤は騒動後、妙におとなしくなった。俺に上昇志向が全くないことを、ようやく心底理解したのだろう。次の機会に俺を飛び越えればいい、と気持ちを切り替えたようだ。
そんな兵藤の動向を見極めてから、俺は自分が抱えていた神経内科の臨床業務のほとんど、つまり外来業務と入院病棟管理業務の決定権を兵藤に押しっけた。もとい、全権を円滑に委任した。ついでに有名無実になっていた医局長のポストも譲った。
兵藤は目をきらきらさせて、この委任劇を呑んだ。それを期に、俺と兵藤は良好な関係を築くことになる。
こうして俺の手許には、講師の肩書きと不定愁訴外来業務だけが残された。そして不定愁訴外来はやがて愚痴外来と呼ばれるようになり、いつしか教授といえども迂閥に手を出すことができない聖域になっていく。
その兵藤が眼の前で、月曜日のリスクマネジメント委員会の式次第を事細かにシミュレーションしてくれていた。見事なまでにリアルな寸劇だ。シナリオだけを比較するなら、本物よりもはるかに秀逸だろう。
しかし残念ながら物語は、絶対に兵藤が予想したようには展開しない。なぜならヤツのストーリーには配役ミスがあるからだ。始めに委員会でこれまでの経緯を説明するのは、高階病院長ではなく、俺なのだ。
俺が始めに説明するというスケジュールは、兵藤に教えたとしても、全く支障のないレベルの情報なのだが、すると兵藤がここまで延々と築き上げてきた過去の努力が一切合財無駄になってしまう。それではあまりに兵藤が気の毒なので、俺は涙を呑んで真の予定を伝える選択肢を諦めることにした。
それでも、兵藤プロデュースによる寸劇を鑑賞できて、俺の気は少し晴れた。せめてそれくらいの娯楽がなければ、とてもじゃないが割に合わない。
兵藤の熱演の幕間に、俺は藤原さんに、月曜の不定愁訴外来の休診を告げた。
この後、俺に未曾有の災厄と福音が同時に襲来するのだが、俺はまだ、そのことを知る由もなかった。
(下巻に続く)
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この作品は、二〇〇六年二月に小社より単行本として刊行されたものです。
この物語はフィクションです。実在する人物、団体等とは一切関係ありません。
[#改ページ]
チーム・バチスタの栄光(上)(ちーむ・ばちすたのえいこう・じょう)
2007年11月26日 第1刷発行
2007年12月10日 第2刷発行
著 者 海堂尊
発行人 蓮見清一
発行所 株式会社宝島社
〒102−8388東京都千代田区一番町お番地
電話:営業03(3234)4621/編集03(3239)0069
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