ドラゴンキラー売ります
海原育人
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目次
プロローグ
一章
断章・一
二章
断章・二
三章
断章・三
四章
断章・四
五章
断章・五
六章
断章・六
七章
断章・七
八章
断章・八
エピローグ
あとがき
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プロローグ
第七マルクト帝国ヘイゼル領カルチェラ。
帝都から距離にして二百キロ。緑の多いこの土地は、昔ながらの木造建築が軒を連ね、昨今増殖を続けている鉄筋の建物の気配はどこにも見当たらない。ただひたすらに田舎、という言葉が|相応《ふさわ》しかった。
ハーヴェイ・グラントの別宅は、その中でも最も小ぶりな一軒だった。
四人も揃えば明らかに手狭に感じてしまう安い造りで、持ち主の資産状況とは明らかに釣り合いが取れていない。が、グラントにはこの建物を作り直す気も、作り足すつもりもなかった。
愛着がある。
三十年ほど前、|妾《めかけ》を住まわせていた家だった。
足繁く通ったのも随分と昔のことになる。年寄りが色に狂っている、という評判を避けるためにこんな|僻地《へきち》に家を買った。緑が多く住み良い土地だが、遊ぶには物足りない。若い女をそういった土地に住まわせていたことが若干心苦しくもあったが、彼女の口から恨み事を聞かされたことはなかった。
だから、というわけではないが、彼女との思い出は美しいものが多い。
庭先にテーブルと椅子を用意し、陽に当たりながら、昔のことを振り返っていた。少しばかり肌寒かったため、|紫紺《しこん》の膝掛けを用いている。
六十年生きれば長寿とされる世間において、異様なほどの長寿を誇る彼は、現在八十五。年を重ねたせいか、肌には|染《し》みが浮き、皺しわ》は深くなった。数年前に患った病のせいで、肉も|削《そ》げ落ちている。ただ目だけが、|爛々《らんらん》と光を放っていた。彼に良く無い感情を抱く者が見れば、欲|塗《まみ》れ、と評したかもしれない目だった。
「ご気分はいかがですか?」
考えに|耽《ふけ》っていたグラントの背後から声がかかった。しかしグラントは振り返ることもせず、ただ正面を見つめている。
やがて、左から茶の入ったカップが出された。茶を用意した人物はグラントの視界に入ることなく、そのまま背後に控えた。彼の秘書官である。使い始めて相当に長い。
グラントはカップを手に取ると、香りを十分に楽しんだ後、一口だけ飲んだ。特に感想を述べるようなことは無い。代わり、というわけではなかったが、
「ここに来ると昔を思い出す」
と切り出した。
「まだお前が来る前のことだ。道楽といえばここだった。金はあったし、周りには愉快なことも多かったが、結局はここに通っていた。不思議と通うのも苦ではなかったからな。そう、あの頃はまだ馬車の時代だった。我ながらよくやれたものだ」
「はい」
「子が出来た時は随分と嬉しかったな。なにせしがらみが一切無い。ただ健やかに育ってくれと力を尽くすだけで良かった」
「はい」
「それが、何の因果か親子揃って|夭折《ようせつ》だ。一方の私はここまで老いてなお、生きている。あるいは私が彼女らの命を吸ってしまったのかと、たまに空想もする」
「そういったお血筋ではなかったかと」
「アルマも、あるいはそうかもな」
「ミュージア様に良く似てらっしゃいますので、あるいは」
「少しくらい気を遣え。そこは否定するところだ」
「は、申し訳ありません」
頭を下げたらしい気配を感じて、グラントは小さな苦笑を漏らした。遊びの無い男だ、といつも思う。堅さ、真面目さがこの男の取り得だと思っているものの、幾らかのいい加減さを持ち合わせてくれればとも思っていた。
「アルマ、アルマか。今年で幾つになるのだったか」
「九歳になられます」
「そうか。もう九つになるか。顔を見たのは、確か三歳ばかりの頃に一度きりだったと思うが、そうか、もうそれほどになるか」
「はい」
グラントは小さく息を吐いた。孫娘のことを思い出したからか、今は亡き娘のことが思い起こされていた。
ミュージア。
結局は道具のように使ってしまった娘だった。外の腹だったから軽く使えた、という言い訳はあるが、悔いは残っている。が、それを恥じたことは一度も無い。
|薄幸《はっこう》、という言葉が似合う娘だった。一歩間違えば鬱々とした部分しか目につかなかっただろうが、それを感じさせなかった。守ってやろうと感じさせる雰囲気、あるいは才能があった。 だからこそ使えたのだろう。
だからこそ皇帝の種をその身に得た。だからこそアルマが生まれた。
「ご気分が優れませんか?」
「いや、娘のことを思い出していた。ろくな父親ではなかったとな」
「ミュージア様は、いつも感謝していらっしゃいました。恨み言の|類《たぐい》を聞かされたことは、一度としてありません」
「ああ、そういう娘だった。あれの母もそうだったから、やはり血なのだろうな。私の血が幾らかでも濃く出ていれば、もう少し|傲慢《ごうまん》に仕上がったはずだ。そうであったなら、もっと|容易《たやす》く使えただろうな。その代わり、今、こうして|偲《しの》ぶことも無かったかもしれん」「お美しい方でした」
グラントは再び苦笑した。
「いっそお前にくれてやれば良かったかな。惚れていたのだろう?」
「そのような|畏《おそ》れ多いこと。皇帝陛下の|寵愛《ちょうあい》を受けられた身です。私如きが手を差し伸べるなど、許されることではありません」
秘書官は言いつつも、いつもとはほんの少しだけ違った表情を見せていた。懐かしんでいるのか照れているのか、判断に困る微妙なものだった。グラントは苦笑しつつ、
「あの小僧はそうでもなかったようだがな。お陰でディアスの家は今や死に体か。哀れなものだ」
「申し訳ありません」
と背後で再び秘書官が頭を下げた。しまった、と思ったがもう遅い。アルマとミュージアの話題に終始すべきところを、話の枠を一つ広げてしまった。ロディ、リリィ、そういった名前に触れると、どうしてもアルマが連れ出されたことを連想させてしまう。
そしてそれはこの秘書官に、ただひたすらに頭を下げさせてしまう|鬱陶《うっとう》しい話題でもあった。
かつてリリィをアルマの護衛につけたのが、この男だ。
アルマを連れ出されてしまったことを未だに悔いているらしく、それを平謝りに謝ってくる。正直なところ、面倒でかなわなかった。
「だから何度も言っているだろう。ドラゴンキラーを護衛につけろと|我侭《わがまま》を言ったのは私だ。であれば、これは私の責任なのだ。お前が気に病むことではない」
「ですが、あの者を護衛にと選定したのは私です」
「命じたものが責任を負うのは当然の話ではないか」
ですが、と更に食い下がろうとする秘書官をなだめるのに、たっぷり十分はかかった。それが終わる頃にはすっかり肩が凝っていて、わざわざ遠出をして疲れに来たのか、と何やら馬鹿馬鹿しくなってくる。
考えていると苦笑が漏れ、やがてそれは一層大きなものにとって代わられた。
ははは、と声を出して笑う。と、やがて激しく咳き込んだ。
「た、大老」
と慌てて秘書官がその背中を|擦《さす》る。そのうち、グラントは手で制した。腹の内には未だに先程の笑いの余韻が残っており、気を抜けば噴出しそうである。
「いや、気分転換に来たが、目的は果たされたな。疲れはしたが」
「申し訳ありません」
「構わん。車の準備をさせろ。そろそろ引き上げるとしよう」
「はい」
「アルマにはそろそろ戻ってきてもらわねばな。|崩御《ほうぎょ》までもう間も無かろう」
「はい」
「算段を整えるとしよう。前回のような失敗はもう御免だ」
グラントはそう言って立ち上がった。
ハーヴェイ・グラント、八十五歳。元老院議員の中でも極めて大きな影響力を持つ人物であり、|皇女《おうじょ》派の中心人物である。
彼の休日は、こうして終わった。
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一章
外は雪の午後四時。
昼過ぎから降りだした雪がようやく勢いを弱め、ひらひらと幻想的な光景を作り出している。そんな中、部屋に閉じこもっている俺は、ソファに足を投げ出してだらだらと煙草を吸っていた。
珍しく仕事が無い。
であれば、仕事を持ってくる者を待たずにこちらから取りに行く、ぐらいの気概を持つべきなのだろうが、雪の中を出歩くのがどうにも|億劫《おっくう》で、結局は部屋に閉じこもって|呆《ほう》けていた。
だから部屋に入るなりリリィが口にした、
「煙い」
という言葉は、まあ当然といえば当然だった。
半袖シャツなのか半袖のワンピースなのかいまいち判断がつかない大きなオレンジのシャツの下から、黒い長袖が顔を出している。ショートパンツ、膝上まであるストッキングとブーツという格好で、色は全て黒。赤い髪は肩にかかる程度。着る物には気を使っても、髪と顔には|拘《こだわ》りがないのか、髪は無造作に伸ばされ、化粧気もほとんどない。
「なんだこの部屋は。真っ白ではないか。狭い部屋ならまだ分かるぞ。ああ分かるとも。だがな、曲がりなりにもこの部屋はそれなりの広さがあるのだ。それが煙草の煙で白むというのはお前、吸い過ぎだ。それに煙草の|脂《やに》は家具を汚すのだぞ。掃除する身にもなれ」
|喚《わめ》くように早口で言うと、リリィは窓を次々と開け放っていった。冷たい空気がじわじわと入り込んできて、俺は思わず肩を|竦《すく》めた。
冬である。寒い。
三週間ほど前から始まった冷え込みは、最近ではすっかり本格化し、冬の訪れを告げていた。これから三ヶ月ほどは雪の降る時期である。それが終われば幾らか暖かくなって、過ごしやすい季節が長く続く。
寒いのは苦手だ。
そもそも俺は南方の生まれで、年中通して暑いか暖かいかのどちらかしか味わったことが無かったわけで、軍人になって方々に出向くようになってから、ようやく寒いという状況にぶち当たった。
生まれて初めて雪を見たときはそれはそれは物珍しかったものだが、所詮凍った雨だと思うようになるまで大した時間はかからなかった。
俺は慌てて向かいのソファに置いてあった毛布を|手繰《たぐり》寄せると、素早く|包《くる》まった。それを見たリリィが勝ち誇った嘲笑を浴びせてくる。
「トカゲトカゲと日頃から偉そうに言う割りに、寒さに弱いのはお前のほうだな」
「雪なんかこの世から無くなればいいんだ。くそったれ、とっとと暖めろ」
「寒いからといって部屋を暖めては体が鈍る。少しは我慢しろ」
リリィはそう言ってキッチンへと向かった。後ろ姿に恨みがましい視線を投げつつ、俺は毛布から腕と顔だけ出して、新たな煙草をくわえた。
そもそも。
冬になればストーブを出そうと思っていたのだ。少なくともこれまでの三年はそうしてきたし、今年もそうするつもりでいた。
そのつもりが無惨に打ち砕かれたのは、恐ろしく|侘《わび》しく、そして抜き差しならない事情によるものだった。一言で言えてしまうのがさらに侘しいが、要するにうちの事務所が貧乏だからだ。
金が無い。それも絶望的に無い。
原因は一つだ。大飯食らいが二人もいるから。しかも並みではない。特別の大食いだ。
最強と名高い害獣、竜。種によって様々なものを餌とし、その餌の名をとってその竜の名とされる。例えば火竜、風竜など分かりやすいものから、果ては音竜、痛竜なんてのもいる。もはやなんでもありか、と思ってしまうほどに竜には種類がある。そして竜によって何かを食われることを竜害と呼び、それは最も性質の悪い災害の一つとして定められてもいる。
そして。
その竜の力を身に宿した人間のことをドラゴンキラーと呼ぶ。本来猛毒である竜の血肉を体内に取り込み、そして生き延びた人間の成れの果てだ。
結果、半人半竜とでも呼ぶべき存在に作り変えられてしまっている。正体は、人間サイズの竜だと
思っていれば間違いない。銃弾、さらには砲弾さえ通らない頑強な体を持ち、人間には視認出来な
いだけの速さで動き、分厚い鉄板を素手で貫くことの出来る化け物だ。
で。
その化け物が尋常ではない大飯食らいだった。
とにかく食う。最低でも十人前は食うし、上を
見ればきりが無い。が、それだけ食わねばすぐに痩せて細ってしまうわけで、相当に切実な問題で
ある。常人なら長いこと水だけでも生き延びられるらしいが、連中の場合は三日で餓えて死ぬ。
そんな大食らいを二人も、しかも個人の便利屋|風情《ふぜい》が養うという行為は、無茶を通り越して無謀でさえある。ドラゴンキラーを抱えているのは、普通は国家だ。それでなければよほどの金持ち。そういった金のある連中が絶対の暴力を所有する。
だが何の因果か、面倒の果てに俺の事務所には
ドラゴンキラーが二人転がっている。俺の|懐《ふところ》からは滝どころか大|瀑布《ばくふ》とさえ呼んでいい勢いで金が|零《こぼ》れ落ち、事務所の経営は常時火の車。その|煽《あお》りを食って、ストーブを下取りに出す羽目になった。
お陰で寒い。体も寒いが心も寒い。
一応打算はあった。リリィは火竜の肉を食ってドラゴンキラーになった。つまりは火竜の力を行使できるわけで、有り体に言えば火を扱える。手から火を出し自在に動かす、なんて芸をやれるわけだ。ライター要らずの便利な体である。
それを使って暖を取ろうと思ったのだが、寒いからといって部屋を暖めるのは良くないだのと理屈を|捏《こ》ねては、部屋を暖めようとはしなかった。
予想しなかった自分が呪わしくてならない。
リリィの体温は相当に高い。これはドラゴンキラーの特性らしく、お陰で寒いくらいが丁度良いとまで言う。なんでも基礎代謝が相当に高いとかいう話だったが、詳しくは聞いていない。考えるだけ無駄だからだ。
そもそも体温が高ければ脳味噌が馬鹿になってもいい。いや、なって|然《しか》るべきだ。だというのに、残念ながら小言を口にし、家事に精を出し、裁縫等の細かい作業に熱中出来る程度にはしゃっきりしている。これをドラゴンキラーだから、という理由だけで納得しなければならないのがどうしようもなく切ない。
ともあれ。
リリィの体温が高いということだけは事実で、部屋を暖めようとしないのは絶対にそのせいに違いなかった。
お陰で厚着と毛布で寒さを|凌《しの》ぐ日々だ。
酒でも入れたいところだが、|生憎《あいにく》金が無い。かろうじて煙草代だけは無理矢理に|捻出《ねんしゅつ》していたものの、ここ一週間ほどは安いラムとさえ縁が無い。
どうにかして小金持ちになれる方法が無いか、とぼんやり考えつつ煙を吐き出した。
最も簡単な方法は、略奪だ。ドラゴンキラーの絶対的な暴力を背景にすれば、簡単に金を手に入れることが出来るだろう。が、俺が二人のためにそんな真似をしなければならない、というのはいかにも気に食わない。
俺が俺のために、俺の力で以て他人から奪う。これはまだ許せる。だが、俺が二人のドラゴンキラーのために、二人の力で以て他人から奪う、というのは許しがたい。好みの問題に行き着く話だろうが、結局のところ、俺が個人主義者だということだろう。他人の力で金を得ても、あまり嬉しくない。
くわえて、あまりに好き勝手に振舞うと、|妬《ねた》む連中が余計なちょっかいを出してくるに決まっている。妬み|嫉《そね》みは人間の当たり前の感情だし、こんな小悪党ばっかりが住んでいる街で強盗やら脅迫やらをやったとすれば、銃弾による意思表示が待っているに決まっているのだ。そうなればいちいちけじめをつけねばならず、余計に手間ばかりがかかる。それは面倒だ。面白くない。
「なんだかなぁ」
と思わず呟き、新たな煙草を取り出した。最近は根元近くまで吸う癖がついていて、お陰で右手の人差し指と中指には軽い火傷の跡やら、水ぶくれやらが目立って仕方がない。
「どうかしたか?」
「侘しさに苦悩を募らせてたところだよ。生の苦しみって奴だ。知ってるか? こいつは高等生物の特権だ。つまり、お前には無縁の悩みってことだよ」
「馬鹿が悩むとろくなことが無いぞ。どうせろくでもない結論を導くに決まっているのだ。考える前に動け。お前にはそのほうが似合いだ」
「なにもそんなに自分のことを責めなくてもいいだろう」
「は? 何を言っている、私は」
と、そこでようやく俺の切り返しの意味を飲み込んだようで、リリィは首を振りつつため息をついた。テーブルに投げ出していた俺の足を軽々とどかしつつ、カップを二つ並べる。向かいに腰を下ろしながら、
「少しはしゃんとしろ。ほら茶だ」
「いっそ事務所解散したほうがいいのかねぇ」
煙草をカップに持ち替えながらぼそりと言うと、同じくカップを手にしていたリリィが答えた。
「解散して、どうするのだ?」
「そりゃお前、俺一人でやってくのさ。昔に戻るんだ」
「私たちはどうなる」
「んなところまで俺が面倒見なくちゃなんねえのか? 自分の才覚で裁量しろよ。もう半年くらいになるんだ、この街のやりようってのも肌に染みちまってるだろうし、いちいち俺を当てにしなくったってやっていけるだろ」
「私を雇い、アルマの世話をする、というのがお前と私の間に交わされた約束だぞ。お前が約束を破る男だったとは驚きだな」
「もしもの話になにむきになってんだよ。は、体温が馬鹿みたいに高いんだ。含んだ茶を口の中で蒸気にして鼻と耳から出してみろ。勢いがあるなら上等だ、そいつを動力にして|一儲《ひともう》けだ」「お前な」
「ま、正直な話、いい加減そろそろ潮時なんじゃねえかって思ってるさ。ああ思ってる。掛け値なしの本音だ。お前一人だったらまだなんとかなってたが、もう一人余計に増えりゃ、そりゃ二倍の速度で金も減る。貧乏続きはもう沢山のうんざりだよ」
「アイロンか」
ああ、と答えながら再び煙草を手に取る。
「奴は、まあお前にくっついていくだろう。あの女が|拘《こだわ》ってるのはアルマだからな。俺と一緒に居る道理はねえ。そしてドラゴンキラーが二人も宙ぶらりんなら、どこぞの組織が拾ってくれるだろうよ。商会辺りは真っ先に食いつくんじゃねえかな。そしたらお前らも今よりもっと良い物が食える。お、自分で言っておいてなんだが、誰も困らねえ」
アイロン。
それがうちの事務所に所属する二人目のドラゴンキラーだ。痛みを食う竜、痛竜のドラゴンキラーで、俺に対して全く愛想の無い女である。普段は診療所で痛み止めとして働くよう話をつけてある。少しでも食費を抑えようという苦肉の策だった。
アルマを|溺愛《できあい》するもう一人の保護者だ。
「マルクトの話にけりがついていないだろう。アルマを皇女に祭り上げ、女帝として即位させようとしている連中の策動、その話ごと他よそ所に行けと言うのか?」
「結構な話じゃねえか。俺一人を当てにするより、組織に|匿《かくま》ってもらったほうが随分ましだ」
「何を言っているのだお前は。お断りだ」
リリィの答え方を、子供染みた駄々、と感じてしまった俺の頭には、血が集まりつつあった。要するに、俺も子供だということの証明なのだが、火が入ってしまった以上、どうしようもない。
カップを叩きつけるようにテーブルに置くと、
「分かった、分かったよ。とっておきのアイデアを|搾《しぼ》り出してやるからとりあえず十数えろ。手前の頼りないトカゲ脳で数を数えられるか疑問だな。一の次を言ってみろ。五の次は何だ? 懇切丁寧に最初から教えて差し上げましょうか?」
「上等だ。海草にも劣ると評判の脳味噌で、どれだけ素晴らしい考えが出せるか|見物《みもの》だな」
答えるリリィも、勢いに任せてカップの中身を一気に飲み干し、同じくテーブルに叩きつけた。勢い余って、安物のカップは粉々に砕けたが、リリィは気にもしていない。が、俺は気にすべき立場だった。この馬鹿は金が無いと分かっていない。
|苛立《いらだ》ちが募った俺の頭は猛烈な勢いで回転し始めた。瞬時に要素が並べられ、今の手札と組み合わされていく。やがてそれは一つの像を結んだ。
口の|端《はし》が持ち上がる。
「簡単な方法でけりがつく。教えてやるからよく聞け。何なら金を取ったっていいくらいの素敵な話だ」
「いいから言ってみろ。下らんアイデアだったら貴様の骨の数を倍に増やしてくれる」
はん、と鼻で笑いながら、人差し指で空中をこつこつとやりつつ言う。
「いいかよく聞け。皇帝を殺すんだ。マルクトの皇帝をだ。そいつを殺してやれば、全部の話が一気に進む。政治的空白ってのは|拙《まず》いからな、皇女派連中はアルマ以外の誰かを次代の皇帝に担ぐだろう。わざわざこんな街まで来てアルマを連れ戻すか? 論外だな。遠くの薔薇より近くのタンポポって、男と女の|喩《たと》えがこんな所にも使えちまう。連中は近場で済ませるに決まってる。次の皇帝が即位しちまえばこっちのもんだ。アルマに皇女としての価値はなくなる」
リリィは一瞬青ざめた。が、やがて青から赤へと顔色を変えると、今度は腰を浮かせ、叫ぶように言った。
「な、何を言っているのだ貴様! 正気か!」
「正気に決まってる。お前こそ何をそんなに赤くなってんだ。猥談でも思い出したか? 仕方ねえ、俺の飛び切りの経験談を聞かせてやろう。軍人だった時分に五人で遊んだ時の話だ」
へらへらと笑いながら答えると、リリィはますます赤くなった。
「皇帝陛下がどういった御方か、分かっているのか? 立場のある方だという話だけではないのだぞ。あの方は、あの方はアルマのお父上だ。お前は私に、アルマの父親を殺せと言っているのだ」
「それがどうした。父親だろうがいとこだろうがはとこだろうが関係ねえよ。皇帝が生きてること自体がアルマにとっちゃ迷惑だ。とっととくたばればいいってのに、まだ生きてやがる。お陰で俺たちは安心できない。アルマは皇女ってことにされたままだ。じゃあどうするか。簡単だ。殺しちまえばいい」 リリィは言葉を探している様子だったが、やがて何かを振り切るように首を激しく振ると、
「二度と言うな、アルマの前では絶対にだ」
と凄んだ。|睨《にら》み返しながら、
「アイデアを出せっつったのは手前だろう」
「|煩《うるさ》い。この話は終わりだ。不愉快でならん。最悪だ」
リリィが言い切ったのと、事務所のドアがノックされたのは同時だった。
事務所に足を踏み入れた人物は、反射的に振り返ったリリィに睨まれ、俺に銃を突きつけられる不幸に見舞われた。
「お邪魔しますよ、ってああすいませんどうか落ち着いて下さいこの通り」
とよく分からない挨拶を口にした。
「よぉチックじゃねえか。元気そうで何よりだ。わざわざ足を運んでもらって悪いんだが、見ての通り取り込み中だ。それでも邪魔したいってんなら仕方無い。死んでくれ」
「馬鹿か貴様、客相手に何を言っている。とっとと銃を下ろせ。ああ済まなかった。今茶を」
「馬鹿はお前だ。こいつがこれまでどんな話を持ってきたか思い出してみろ。さあ言え。こいつはどこの誰だ」
「この街、いや、この国の要人だろう? 財務担当官だったか」
「正解だ。そしてもう一つ、この街に腐るほど居る、お前が欲しくて|堪《たま》らない物好きの一人だ」
リリィは露骨に嫌な顔をすると、
「もう少し丸い表現を使えと、私はあと何度言えばいい?」
俺は何も答えず、それを会話の切れ目だと見計らったらしいリリィは、散らかったテーブルを片付けキッチンへと消えた。
「座れよチック。こんな糞みたいな場所に毎度寄越されて、あんたも不幸だな」
「ええ、その、座っても|宜《よろ》しいのでしょうか」
「宜しいに決まってる。撃たれて死ぬ覚悟があればだが」
笑いながら言うと、キッチンからココ、と|諌《いさ》める声が飛んできた。俺はそこでようやく銃を仕舞うと、改めてチックを見た。
何の話かは分かりすぎて、相手をするだけ時間の無駄だ。茶を出してやる必要すらない。
小国揃いのバスラントにおいて、ドラゴンキラーの力というのは相当に魅力的だ。つまり、他所の土地を手に入れたいから、お宅のドラゴンキラーをちょっと貸してはくれないか、という話だった。もううんざりするほどその手の話はあるし、チックのように直接交渉に来る者も後を絶たなかった。
が。何がどうなろうと、戦争に加担する気は一切無い。
バスラントが統一されてしまえば、治安は回復
されてしまうに違いないからだ。そうなると、事務所の経営は恐らく|破綻《はたん》する。世間一般で悪事とされていることを飯の種にしている以上、それは当然の話だ。であれば勤め仕事の一つでもやって飯を食わねばならないことになるわけだが、ドラゴンキラー二人を食わせることは到底不可能だ。つまり、リリィたちを戦争に貸すということは、現在の生活を否定することと同義だ。
正直なところ、とっとと経営が破綻すればいい、と何度も思っているが、それでも一応やれるだけのことはやっておくべきだ、とも思っている。この両者は俺の中では矛盾していない。屈折しているだろうか。いや、これぐらいはきっと普通だ。
向かいに座ったチックはスーツ姿。年は三十らしいが、黒髪を撫でつけ、黒縁の眼鏡をかけた様子は、五つ六つ年上に見えてしまう。事務所に入るときにコートを脱ぎかけたものの、部屋が寒いとみるや、結局そのままだった。
「あんたも大変だな。|口説《くど》き落とせると本気で思ってるわけじゃないだろうに」
「ええまあ、そうなのですが。これも仕事ですので」
「上司からの命令なら断れないか。は、ご苦労なこった。あんたが使い|潰《つぶ》されるのが先かそれとも命令を出せる立場になるのが先か、だな。リリィ、どっちに賭ける?」
茶を運んできたリリィに訊ねると、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「賭けは不成立だな」
「私は何も言っていないぞ」
「まあどうだっていいさ。チック、そいつを飲んだらとっとと帰れ。国同士のいざこざに関わるつもりはねえ」
「ですが、ご存知の通り、この土地は無惨に過ぎます。子供までが銃を手にしている。それはこの国に限った話ではありません。|棲処《すみか》の無い子供が群れ、盗み、たかり、果てに殺してさえいる。我々大人の義務として、次の世代のための世作りは必要なことだと思っては頂けませんか。彼らが平和に暮らせる世の中を作るために、どうかお力をお貸しください」
チックは長々と語り出した。放っておけば延々喋りそうである。まあ、とにかく相手に話を聞かせる、というのは営業の基本かもしれない。ただ
し、話に|旨《うま》みが十二分にある、という条件が必須だ。そして残念ながら、生まれ変わりでもしなければチックの話を鵜う呑のみにしてやれそうもなかった。
だから、
「そいつは立派な話だ。そのためには相手を力ずくで叩き潰して、万単位の死体を|拵《こしら》えることもやむなし。さすがだ。ご立派。実にご立派だよチック。男は殺され女は犯され、金目のものは盗られる。親を亡くしたガキは、それこそ盗んでたかって殺さねえと生きられん環境に落とされる。お前の口にしてる戦争の建前が生み出す結果だ。必要悪だとでも断じるか? だとしたらその口は使わ
ないほうがいい。|詭弁《きべん》を垂れ流すよりは、黙ってたほうが多少は男前に見える」
と詭弁で返した。正直どうでもいい話題だ。
「ではこの状態のまま続けていけと? それこそ」
言い募ろうとしたチックを手で|遮《さえぎ》った。
「言葉を変えようチック。帰れ。今すぐにだ。お前に付き合うよりは、相棒をからかって過ごしたほうがまだ有意義だ。願わくはその講釈を続けてくれ。そしたら俺は何のためらいもなく銃を抜ける」
チックはかすかに眉を寄せた、失望とも戸惑いとも取れる表情で固まっていたが、やがてため息をついて体から力を抜いた。
「今日はこれで失礼させていただきます」
「ああ、出来れば二度と来ないでくれ」
「また伺います。首を縦に振っていただけるまで何度でも」
追い払うように手を動かすと、チックは一礼して出て行った。
煙草に火をつけていると、見送りから戻ってきたリリィが、今しがたチックが座っていたソファに腰を落ち着ける。
「彼もめげないな。大したものだ」
「つまんねえ奴だよ。根っこのところで勘違いしてんだ。ここを便利屋だと分かってねえ。見せ金の一つも用意するのが当たり前だってのに、人道だの道徳方面から口説きにかかってる。奴の脳味噌には花畑が広がってて|蛆《うじ》が湧いてるんだろうな。まったく羨ましい話だよ。どいつもこいつもあれくらい馬鹿なら即世界平和の実現だ」
「大金を積まれれば加担する、と言っているように聞こえるが」
「加担はしたかないが、金は欲しい」
リリィはやれやれ、と目で語り、俺は薄笑いを浮かべた。
それと同時に、玄関のドアがノックされる。が、今度は俺もリリィも激しい反応は示さなかった。音が違う。聞きなれた音、アルマのノックに違いなかった。
「開いてるぞ」
と声をかけると、リリィがアルマを出迎えに動く。ドアが開くと、現れたのは黒猫を抱いたアルマだった。
うちの事務所の所員にして、一階カフェのウェイトレスも兼ねている働き者だ。もうじき九歳になる。父親がマルクト皇帝という、とんでもない血筋の少女だ。現在、政治家の都合で皇女に仕立て上げられている。
幼いが、|聡《さと》い。
年齢に相応しい丸い顔には、青い目と小さな鼻。後頭部で団子にされた髪はブロンドで、普段から手入れを欠かさないため、宝石染みた輝きである。いつもならカフェで働いている時間だから、ウェイトレスの制服を身につけているのが正しいのだが、今はリリィが拵えた普段着だった。冬ということもあってか、中々に厚着だ。
青を基調としたツーピースの上に、フードの付いたピンクのコート。
腕の中の黒猫は正確に立場を示すと、事務所の飼い猫、ということになる。数ヶ月の付き合いになるというのに、少しも|懐《なつ》こうとしない。どころか、この黒猫は俺に|舐《な》めきった態度で接するのが常だ。自分のことをこいつの飼い主だと思ったことは無いが、きっと相手もそう思っているのだろう。実際、黒猫が最も懐いているのはアルマだ。一ヶ月ほど前、事務所とアルマの部屋それぞれの玄関扉に、猫用の出入り口が作られてからは、この馬鹿猫は専らアルマたちの部屋を自分の居場所、と定めている。
黒猫の名前はハニー。つい最近まで俺はピスという|渾名《あだな》で呼んでいたが、ついにその名を使うことを禁止された。ピスという言葉の意味が問題にされたわけではなく、呼び名が二つあると|躾《しつけ》に問題が出る、という実際的な理由からだった。
ハニーに名前を統一された黒猫は、主人の腕の中で寒そうに丸まっている。
「おおアルマ、仕事はどうしたのだ。いや、それよりも寒くはないか? 少し待っていてくれ。今暖める」
リリィは手早くそう言うと、事務所の中央に立ち、そして手の中に火の玉を作り出した。ごう、という音と共に瞬時に熱波が部屋中に行き渡る。先程まで寒かったのに、すでに暑さすら感じられた。
部屋が暖まったと見たリリィは、すぐにその場から消えうせ、かと思えば背後にある窓が次々と閉じられていった。能力の無駄遣いだ、と呆れるが、リリィはアルマしか目に入らないような女だから仕方がない。分かりきっていたことだが、こうまで扱いが違うと、少しばかりやるせなかった。
「これで良し。すぐに茶の用意をしよう。ココ、煙草は控えろよ」
「アルマがいて窓が閉まってんだ。吸えるかよ。あ、俺の茶は要らねえぞ」
リリィの様子を目で追いつつ、アルマは黒猫と共に俺の向かいに座った。
「仕事はどうしたんだ?」
「今日はお客さんが少ないから、ちょっと早いけど上がっていいって」
「雪降ってるしなぁ。出歩く奴が少ないっても仕方無い話か」
「でも楽しい。雪って綺麗だよ」
俺は苦笑とともに顔をしかめ、
「そりゃ最初だけだ。寒い寒いってすぐに嫌んなるぜ。俺がそうだった」
「そうなの?」
「そうそう。俺も最初は珍しかったんだがな、すぐに飽きた。所詮凍った雨だ。雪の中で遊ぶくらいなら、鶏の一羽でも絞めてたほうがまだましだ」
「そうなのかなぁ。綺麗だと思うんだけど」
「ま、飽きるまで遊べばいいさ」
「ココも一緒に遊ぼうよ。雪だるま作ろう」
「雪だるま?」
「そう。前に本で読んだの。雪玉を何個か重ねて、野菜とかで顔を作るんだって」
「あ、いや、雪だるまは知ってるよ。が、この年になって雪だるまか。ちょっとあれだな、抵抗があるな」
「駄目?」
アルマはそう言って首を傾げた。可愛らしかった。そして同時に己の敗北を自覚した。
こうやってねだられると弱いのは、俺もリリィも、アイロンだって同じだ。結局は、俺もアルマには甘いのだろう。
「仕方ねえな。作るか」
苦笑しながら答えると、アルマはにっこりと笑った。それに合わせたようにリリィが茶を運んでくる。アルマの前にカップを置きつつ、着ていたコートを脱がせようとした。
「ああそのままでいい。茶を飲んだら外に出る」
「アルマが必要な用事なのか?」
「雪だるま作るんだよ。雪遊びって奴だ」
「お前が、雪遊びだと?」
「アルマに口説かれちまったんでな。断るわけにゃいかねえだろ」
ほぅ、と何やら羨ましそうな響きのある返事を漏らしたリリィは、
「外に出るなら丁度いい。三人で買い出しに出よう。雪だるまは帰りのメインイベントだな」
と続けた。
「おい、勝手に」
「どうだ、アルマ」
「三人でお出かけ? うん、行く。あ、それならアイロンも呼んでみんなで行こうよ」
「残念だがアイロンは仕事だ。出来れば呼びたいところだが、そうもいかない」
「そっか。残念」
「ああ、残念だ」
「勝手に話進めるなよ」
「部屋でだらけているよりはいいだろう。とっとと用意を済ませるのだな」
頭をぼりぼりとやりながら、くそったれ、と残
して、俺は寝室へと向かった。自室と呼べる唯一の場所だ。家事を一手に引き受けているリリィの手も、ここには届いていない。お陰で汚いが、落ち着く場所でもある。
クローゼットを開け、ホルスターを身につけて銃を差した。ジャケットを着込み、さらにその上からコートを羽織る。色は黒。動きを阻害しないよう、裾は膝まで。ファーのついたフードが暖かくて良い。黒のレザーパンツの上にこれを羽織ると、すっかり黒尽くめだ。
これが微妙に嫌だった。
黒はリリィの色、というイメージが頭に刷り込まれているせいだろうか。かといってコートはこのデザインのものしか無い。もっと言えば、元々数十着あった。それを処分して、手元に三着残したのがこれだ。ちなみに、駆け出しの頃、特級品だという触れ込みで掴まされた代物である。人生の汚点とまではいかないが、苦い思い出ではある。
事務所に戻ると、アルマが懸命に熱い茶と格闘している様子が目に入った。
「アルマ、急がずとも良いのだ。飲み終えるまで待つ」
「急がないと夜になっちゃうよ」
と頬を染めつつ応じている。寝室のドアに背を預けてしばらく待っていると、ようやく飲み終えたらしいアルマが、ふぅ、と熱のこもった息を吐いた。
事務所のアイドルにして街で唯一の良心、そんなキャッチフレーズが頭に浮かんだが、もちろん口には出さなかった。
買出しといっても大したものを買うわけではない。俺は弾と煙草を買い足し、リリィは安い食材と糸と布を、金の許す限り買った。アルマはといえば、黒猫用の新しい首輪を物色しては、ああでもないこうでもないとセンスを発揮し、結局気に入ったものが無かったのか、最後は店に対して駄目を出した。「全部気持ちの悪い赤ばっかりなんだもん。もっと綺麗な赤があればいいのに」
「赤は赤だろ?」
「色々あるよ。ワインみたいな赤とか、オレンジみたいな赤とか、リリィの髪みたいな赤とか」
「やっぱり赤は赤だ」
「違うもん」
そうか、と苦笑しつつ、煙草をくわえ、
「仕事入れないと、次の煙草は買えねえなこりゃ」
とぼやいた。
「分かっているならば、営業の一つもかければいい。寒いから外を歩きたくないなど、子供の言い訳だな」
「煩えよ。デブでもねえのにこれみよがしに薄着で過ごしやがって。いっそ素っ裸で歩け。そうすりゃゲテモノ食いの物好きが寄って来る。良かったなリリィ。絶対にもてるぞ」
「馬鹿を言え。これでもそれなりにもてている」
「はぁ?」
「本当だ。なぁアルマ」
「うん。リリィが好きだって男の人は何人か居るよ。店によく来るもん」
呆れ顔から表情を消すのに十秒くらいかかった。それくらいショックが大きかった。
「いや、勇気と無謀を履き違えてる馬鹿ってのが世の中に居るってのは知ってた。ああ知ってたさ。けどまさかこんな身近に居るとは驚きだ。アルマ、そいつらの顔は覚えてるか? だったら評価を修正しとくといい。そいつらは変態、もしくは馬鹿だ」
と、口では言いつつも、頭の中では別なことを考えていた。
なるほど連中はリリィを口説いて自分の女にしたいわけだ。つまり自分のドラゴンキラーに。究極的には俺の立場に立とうとしている。ご苦労なことだ。
まあ口説かれたら口説かれた時だ。俺の身が軽くなる。
いや、待て。
むしろそう仕向けるべきではないだろうか。皇帝殺しとはまた違った、事務所解散に向けてのアプローチであり得る。数をぶつけられるという点も良い。何より、簡単に実行可能だ。
「どうかしたか?」
どうやらにやついていたらしく、俺は顔を揉も
で表情を消した。
「物好きってのは居るもんだって感心してるところだよ」
リリィに男をあてがう、という考えをもうちょっと具体的に詰めるべきか、と考えている時だった。「アルマ!」
と叫ぶ声が前方から上がった。
見ると、汚い格好をした少年が呆然と立っている。驚きすぎてどういう顔をしていいものか分からない、そう見えた。
「アルマだよな。すげえ、信じらんねえ。嘘みたいだ。本当に会えるなんて」
少年はゆっくりとこちらへ近づいてくる。よろ
よろと歩いていたが、近づくほどに薄汚れた格好なのだと知れた。年は十歳程度。上着は元の色が何なのか分からないほどに、土と|埃《ほこり》でくすんだシャツ。下はこちらも汚れた、薄手のパンツが一枚きり。足元に至っては素足だ。顔も髪も手も足も、全てが土と埃に塗れている。
眼前まで辿り着かれると、臭った。
「アルマ、知り合いか?」
訊ねつつ見下ろすと、アルマは首を傾げた。眉を寄せている。
「だそうだ。残念だったな坊主。女をひっかけるにしちゃ、いかにもありきたりな方法だ。次はもっとおめかしして、ついでに工夫もしろ。こんなんでひっかかるのはうちのドラゴンキラーくらいだ」
「私のことを馬鹿にするのは構わんが、もうちょっと優しさというものがあって然るべきだと思うぞ。幾らなんでも言い過ぎだ」
「馬鹿言え。これでも精一杯優しくしてるさ。俺を誰だと思ってるんだ? 飛び切りの平和主義者だ。掛け値無し、謙遜も虚飾も無しの本物だ」
口の端を釣り上げつつアルマを見ると、必死で思い出そうとしている様子だった。が、記憶に浮かんだという感触は得られていないらしい。少年もそれに気づき、誰にでも分かる落胆振りを示した。
「そんな、嘘だろ。俺だ、イグレットだ。本当に覚えてないのか?」
アルマは心底申し訳無さそうに、
「ごめんなさい」
と小さく頭を下げた。
「そんな。あんまりだ」
イグレット、と名乗った少年はがっくりと肩を落としていた。
「よぉ坊主。男でも女でも引き際って奴は肝心なんだぜ。そこを違えると痛い目を見る。分かったか? 分かったならとっととお|家《うち》に帰ってクソ垂れてマスかいて寝ちまえ。ま、帰る家があるなら、だが」
イグレットは小さく息を呑むと、目に力を込めた。上目遣いに俺をじっと睨んでいる。
嫌な目だ。力強い目。意地のために命を張れる人種の目。
「了解だイグレット」
俺はそう言って銃を抜いた。イグレットの|眉間《みけん》にぴたりと当てる。
「こいつが何か分かるな? 銃だ。撃てばたちまち死体を拵える素敵な道具だ。さてイグレット、死にたくなけりゃとっとと失せろ。とっととだ」
ココ、とリリィの諌める声が飛んできたが、無視する。その間もイグレットは俺から視線を外そうとせず、ただじっと睨んでいた。
鬱陶しいにもほどがあった。気に食わない。
俺とイグレットはそのまま|対峙《たいじ》
を続け、そして俺の中には不愉快さが急速に醸造されつつあった。やがて臨界に達したかと思えば、頭痛に襲われる。
|瞼《まぶた》の裏に虐殺の現場がありありと蘇った。
|殺戮《さつりく》を楽しむ男。次々と死体に変えられていく同僚たち。血と硝煙、そして絶叫。
痛い。くそったれ。血が見たい。
殺すか。殺そうか。殺すべきだ。
口の端が持ち上がり、そして指に力を入れようとした途端。
「ココ駄目っ!」
とアルマが叫んだ。
俺とイグレットは弾かれたようにアルマのほうを向き、そしてお互いの行動が同じだったことを自覚して、再び睨み合った。
「アルマ、血が見たくないってんならリリィの陰に隠れてろ。耳を|塞《ふさ》いで目を|瞑《つむ》れ。息も止めりゃ言うことなしだ。嫌なものはアルマには届かねえ」
イグレットの表情がますます険しくなる。俺の表情はますます|下卑《げび》たものへ変わっていく。
そして。
アルマの選択は、俺とイグレットの間に割って入る、というシンプルなものだった。
俺を真っ直ぐに見上げ、両手を広げてイグレットを|庇《かば》っている。
「アルマ」
と俺とイグレットは同時に発していた。
「お願いココ」
「分からねえ。分からねえよ。助ける義理は無いだろう?」
アルマは首を振りつつ、
「私が思い出せないだけかもしれないでしょ? もしそうだったら、私は友達を見捨てたことになっちゃう」
「こいつの話はただのでっち上げだ。真に受けてやる必要は無い。分かるか? 思い出せないんじゃねえんだ。本当に知らないんだよ」
「お願いココ。あ、えっと、そう。イグレットを助けてくれるなら、お酒|奢《おご》ってあげるから」
一瞬、アルマが何を言っているのか分からなかった。一拍遅れて理解すると、今度は苦笑が漏れた。笑ってしまったら俺の負けだ。
「こりゃ参ったな。取引か?」
「うん。何杯でもいいよ。スープもパンも、ナッツだってつけちゃう」
「分かった。分かったよ。俺の負けだお姫様。どうぞお気に召すままに」
アルマはにっこりと笑い、そして振り返ってイグレットを見た。
「大丈夫? 怖かったでしょ? でももう平気だよ」
「あ、え、ああ。ありがとう」
「どういたしまして」
アルマはそう言ってにっこりと笑った。
煙草を取り出してリリィを見ると、すかさず指を伸ばしてくる。指先に灯された小さな火を使い、煙を一口。
「アルマが止めてなかったら、お前が止めてたか?」
「そうだな。力ずくで解決するつもりだった。が、さすがアルマだな。大したものだ。お前もアルマの前には|形無《かたな》しだな」
リリィは上機嫌に答え、俺はため息混じりに煙を吐き出した。寒いお陰で、いつもより大量の白いものが吐き出される。息が白んでいるのが半分、煙が半分だ。
「まあいいさ。俺は帰る。念のために言っておくが、あのガキを連れて帰ろうなんて思うなよ。どう見たって金の匂いはしねえ。そしてうちには慈善事業をやれるほどの金は無い。後はガキでも分かる話だ」
言葉を残して俺は歩き出した。が、すぐに背後からリリィの声が飛んでくる。
「待てココ。大事なことを忘れている」
「何だよ」
「雪だるまを作るのだ」
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断章・一
彼女は最高だ、と彼は思っていた。
何を以て最高とするかは人それぞれであり、それについての疑いはない。そして彼にとっての最高とは不可知であること、これに尽きた。
彼は自分以外のあらゆる人間が恐ろしかった。他者の言動と思考の不一致が、彼をそのようにした。 綺麗事を吐きながら、頭の中では他人をどこまでも|蔑《さげす》み、|卑《いや》しさを育て上げている者ばかりだった。彼にはそのことが良く分かった。分かったから恐ろしくなった。
耐えられないことが多々あった。特に彼の周囲には手を汚しているものが多かったから、残虐な光景を嫌というほど目にすることになった。
千、あるいは万にも及ぶ死体。
笑いながら他者を|蹂躙《じゅうりん》する者。
女性が|操《みさお》を汚されていく際の絶叫は、もはや暴力に等しい。
命乞いをする子供を遊び半分で撃ち殺した者は誰だったか。
他者との関わりの中で、人は際限なく残酷になれる生き物だと、彼は知った。そして自分を守らねばならないと感じた。許しがたいこと。恐ろしいこと。非道、あるいは|外道《げどう》。そういったものから目を背けねば、自分を保てなくなると思った。
そして彼は閉じることでその防御を構築していった。
誰に対するにしても、まずもって恐怖が先に出た。|怯《おび》えきった態度で接する彼に対し、誰もが最低の評価を下した。まともではない、とさえ思うものも居た。
それら全ての評価を、彼は満足に受け入れることも出来ず、ただ恐怖として認識した。
だから彼は一層閉じていった。
自殺を何度も考えた。実行しかけたこともある。ドラゴンキラーの自殺という珍事が起こらなかったのは、|偏《ひとえ》に彼女の存在のお陰だった。
彼女は、不可知だった。
見ようと意識しても何も見えず、何を考えているか全く分からなかった。自分はそういうものなのだと、彼女は自慢するでもなく答えた。
その瞬間、彼女は彼の希望になった。
彼にとっての彼女とは、外に出力されているものが全て。内側は、見えなかった。
だが世界の全てを信じられなくなっていた彼は、彼女についての情報収集を怠らなかった。
能力の無駄遣いだ、と後に彼女に叱られることになったが、事実、彼は持てる力の全てを動員して、彼女に関するあらゆる情報を収集した。
身体の情報、経歴、趣味、特技、家族構成から、果ては下着の好みに至るまで、余す所なく調べ上げた。結果、彼女は厳しくはあるものの、裏表の無い人物である、という評価を彼は下した。
それは他人の頭の中にあった情報をつなぎ合わせて得た結論であり、つまるところ、他人が彼女をどう思っているか、という情報でしかなかったが、彼がそれに気づくことはなかった。
ともあれ、彼は彼女に依存することになった。彼にとってこの上なく幸福であったのは、彼女が彼を拒絶しなかったことだった。
「ハンク、『保険』はどれくらい持つと思う?」
「わ、分からない。ごめんなさい」
「謝ることではない。ただ、以前に試したことがないというのは驚きだったな。やろうと思えば、自分に都合の良い世界を作れる。そうは思わなかったか?」
彼、ハンクはそれを精一杯に否定した。
「ひ、ひ、人の、尊厳とは、侵してはならないものだと」
それを受けた彼女、ジルバは、小さく笑った。
「恐ろしいのにか?」
ハンクはがくがくと何度も頷いた。
「立派だ。尊敬に値する」
彼女の言葉に、ハンクはゆっくりと笑みを浮かべた。
彼女が口にしている言葉は真に心からのものである、と確信出来たからだった。
やはり彼女は最高だ、と彼は思った。
そして同時にほんの少しだけ罪悪感が湧いた。
ハンクが施した仕掛け、ジルバが保険と呼んでいるもの。
時限式である、と報告してあったが、本来ならそのようなことは絶対に無かった。力の特性上、一度仕掛けてしまえば絶対に元には戻らない。
ただ、それがハンクにとっては悲しかった。尊厳を、人であることを踏みにじることはどうしても出来なかった。だから、戻ってこれるように手を尽くした。
でなければ、哀れだ。
彼女に真実を告げればなんと言うだろう。
叱責を受けるだろうか。
否。
彼女は絶対に許してくれるに違いない。
なぜならば、彼女は最高なのだから。
ハンクは笑みをさらに大きなものへと変えた。
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二章
五日後。一仕事終えての午後八時。
カフェに顔を出すと、明らかに不機嫌そうな店の|主《あるじ》とウェイトレスが出迎えてくれた。店内はストーブが火を入れられ、十分に暖かい。お陰で、ラダーマンは長袖のシャツを羽織ったきりで、ポニーはいつもの制服に、二の腕まである薄手の手袋という格好だった。
「よく来やがったくそったれ。飲むのか飲まねえのか五秒で決めろ。出来ないなんて|戯言《たわごと》ぬかすようだったら、その口は使わねえほうがいい。いっそ縫合してやろうか」
腕組みに|咥《くわ》え煙草という格好のラダーマンが口早に言った。対する俺は苦笑を浮かべ、
「何かあったのか?」
「|煩《うるせ》え。とっとと決めろっつったろ」
「野菜|搾《しぼ》ってくれ」
答えつつカウンターに陣取ると、同じく不機嫌そうなウェイトレス・ポニーが眉間にたっぷりの皺を寄せて俺を見た。腕組みをしているせいか、元々巨大な胸がいつもよりさらに大きく見える。
寄せられた胸にはセックスアピールがあるらしいが、俺が至上と位置づけている尻の場合、寄せてもちっとも魅力を感じないのはどういう理屈だろう。いや、尻は上下左右、おまけに前後に動かしてこそだ。見ているだけでは足りない。あの硬さ、あの力強さこそが尻を至上の位置へと押し上げる、とどうでもいいことを考えながら、
「何かあったのか?」
と繰り返すと、
「すっ転んだ。尻餅ついちまったのなんてガキの時分以来だ。くそ、尻が|痛《いて》え」
「ああ、そりゃ災難だったな。せっかくの尻だ。大事にしないと世界の危機だ」
「あたしだけじゃねえよ。店長もだ」
「そりゃまた、雇い主共々冴えねえ話だな。ラダーマンはどこ打った?」
「膝。こう、正面からいっちまったんでな。こけて膝打って、それでも体を支えようとして手ぇついて、後は|掌《てのひら》をすりおろされてお終いだ」
「溶けた雪が凍っちまってんのかな。嫌だ嫌だ。これだから冬ってのは好きになれねえんだ」
「あたしとしては、何かの呪いだって思ってんだけどな。ほら、店の中よく見てみろよ」
言われるままに椅子を回転させ、店内を観察した。常連の顔が目に入ってくるが、よくよく見てみると、|擦《す》り傷を作っている奴、しきりに腕を|擦《さす》っている奴、酷い奴になると、腕を吊っている奴までいた。
「どうなってんだ?」
「だから呪いなんだって。どいつもこいつも店の近くですっ転んだって話なんだ。誰かの嫌がらせかと思って、そりゃ調べたさ。雪に氷に油。ワイヤーまで疑ったけど、収穫は無し。あたしの頭じゃ呪いって言い訳で済ませるしか無くなっちまったよ」
「ポニー、あんたはいい女だ。|面《つら》も尻も、なんでこんなしみったれたカフェでウェイトレスなんざやってんのか、不思議なぐらいに飛び切りだ。で、こっからが本題。いい女ってのは、頭の中も上手いこと出来上がってるもんだ。あんたの口から呪いなんて馬鹿げた言葉を聞くと人生に絶望したくなる。女ぶりってのに|頓着《とんちゃく》があるんなら、言わねえほうが身のためだ」
「つってもなぁ」
「ま、どうしようもなく痛いってんならアイロンのとこ行きゃいい。痛みを食って綺麗さっぱり消してくれる」
「ぼちぼち帰ってくる時間だろ? だったら金なんか出さずに頭の一つも下げりゃやってくれるんじゃねえの?」
「あんたらにゃただでもいい。が」
「他の連中からは金取れって?」
「取り分はうちが八。そっちが二だ。こんだけいりゃ、小遣い稼ぎにはなるだろ」
「乗った」
ちなみに、アイロンはリリィたちの部屋で寝起きしている。間取りはうちの事務所と同じで、広めのリビングダイニングキッチンに、部屋が一つ。寝室しか自室と呼べるもののない俺に比べ、随分と羨ましい。
そのうちに、
「安請け合いしてんじゃねえよ」
とラダーマンが野菜ジュースを出した。巨大なジョッキになみなみと注がれた深緑色の液体は、
含めば吐き気を催せるほどに|不味《まず》いが、野菜は体に良いらしいとどこかで聞いて以来、不健康を自覚している俺は薬だと思って飲んでいる。
「取り分釣り上げもしねえで何やってんだ」
「別に、大して金になるような話でもねえんだ。小銭に欲かいてもつまんねえよ」
「こいつが尻しか目に入らねえ馬鹿だってのは知ってんだろ? だったら話は簡単じゃねえか。お前がちょいと相手してやりゃ、こっちが八取れる」
「今日は気分じゃねえんだけどなあ」
ポニーは不満そうに答えた。その成り行きを見守りながらジョッキに口をつけていると、ラダーマンがつまらなそうに煙草を指先で押しつぶしている様子が目に入った。
「で、結局どうすんだ?」
「四割寄越せ。それなら乗ってやる」
苦々しい口調でラダーマンは言い、俺は苦笑しながら頷いた。
「災難だったなラダーマン。俺の見るところ、運が落ちてんだな。そういう日をより良く過ごすためにゃ、人に奢るのが最良だ。悪い日がちょっとだけ悪い日になる。さあ大将、俺の胃袋の受け入れ態勢は万端万全。分かったらとっとと酒寄越せ」
「手前の宗教に誰が付き合うってんだ。運なんてのは、人生がつまんねえ奴の言い訳だろうが。盛りのついたメス猫の鳴き声のほうが、よっぽど上等だってことに気づけボケナス」
「宗教じゃねえよ。信条だ」
「似たようなもんじゃねえかよ。そんで、似てるってことは同じってことだ。だから俺が言うことは一つだ。間に合ってます、だよココ」
「だったら不細工な面を抽象画みたくしてねえで、愛想笑いの一つも寄越せよ。客商売だろうが」
「余計なお世話だ。むかつく時にむかつく面しねえでいつするってんだ」
「そりゃ客のいねえところでに決まってる」
「は、なんだそりゃ。ここは俺の店だ。俺がルールなんだよ小僧。ついでに覚えとけ、感情を吐き出さなくなった人間は土くれと同じだ。生きてるだけ無駄の糞だ。そこらの犬っころだって、むかつけば|吼《ほ》えるんだぜ。人間様がやっちゃいけねえ道理がどこにある」
その言葉を鼻で笑いつつ、ジョッキの中身を飲み干した。空になったジョッキをラダーマンに渡し、新たにラムを注文する。程なく渡されたグラスを手に取りながら、
「ま、あんたの話は置いといてだ。イグレットはどうしてる?」
と訊いた。ラダーマンはしかめっ面のまま鼻から息を抜き、
「雑用やってるよ。なりは小さいが、よく働く。もうちょっとマシな面だったら客の相手もやらせてたろうが、|強《こわ》い顔だからな。裏方だ」
イグレットは現在、ラダーマンカフェの従業員という立場を与えられていた。俺の意向を全く無視して、リリィが連れ帰ったもので、ラダーマンとの交渉も全てリリィが担当した。
いい女しか雇わない、というポリシーを曲げてなお、ラダーマンがイグレットを雇うと決めたのは、やはりうちのドラゴンキラーの存在が大きいからだろう。恩を売っておいて損は無い、そういう判断だった。
「相変わらずアルマに首ったけか?」
「相変わらずな」
「ったく、どうせならもうちょっとマシな冗談並べりゃいいってのによ」
「ありゃどう見たって真性だ。本物だよ」
「どうだか。怪しいもんだ」
イグレットは自称記憶喪失だった。なんでも覚
えているのは自分の名前とアルマのことだけ、ということらしい。|胡散臭《うさんくさ》いことこの上ない話である。
そんな冗談を真に受けてやれるほど暇人ではなく、何かの思惑があって俺たちに接触した、と考える以外なかった。
であれば、手元に置いておくのは紛れも無くリスクだ。そして残念なことに、リスクを取ってもそれに対応する利益は無い。つまりこのリスクを取る価値が全く無い。とっとと殺しておきたいところだが、アルマが|拘《こだわ》っているからそれも叶わない。結局、ことあるごとにイグレットの様子を訊く羽目になっている。
「面倒くせえことになってきたもんだ」
呟くと、どさり、と音がした。見ると左に女がコートを脱ぎつつ腰を下ろしている。
女は細身だったため、俺は不合格、と心の中で呟いていた。尻の無い女には何もそそられない。
「店長さん、ウィスキーをロックで」
声は低かった。横目で確認すると、座高も足の長さも俺と大差ない。長身で細身の女。モデルみたいな体型だ。つまり、俺から見たこの大女の評価は下の下だ。
俺の視線に気がついたのか、女がこちらを向いた。
ブラウンの髪はベリーショートとでも呼ぶのか、俺と大差ない程度に短く、そしてその短い髪を撫で付けている。山なりの眉に、同じく山なりの目。どちらも色はブラウン。口元には微笑が浮かんでいる。化粧のせいか、二十代前半にも見えるが、もしかしたらもっと上かもしれない。三十、と言われても納得は出来る。服装は白い七分袖のシャツに、黒のパンツ。外は雪だというのに、黒のハイヒール。指、胸元と、アクセサリがやけに眩しい。
「一杯奢らせてもらっていいかしら?」
「そりゃ俺に言ってんのかい?」
「ええ、その代わり」
「訊きたいことがある、と」
女は|鷹揚《おうよう》に|頷《うなず》く。
「知ってることで、喋れることだったらな」
「決まりね」
「で、何が訊きたい?」
「この辺りに、ドラゴンキラーが居るって聞いたんだけど。間違いない?」
「ああ、間違いない」
「話したことある?」
「ああ、何度かな」
「どんな人?」
「どんな人っつったってな。馬鹿そうな女と、ストレス溜めてそうな女だ。どっちも友達にはなりたくない人種だな。馬鹿って人種は思い込みが激しいから強情ってのが相場だし、ストレス溜めてそうな女は爆発するのを待ってる爆弾だ。側に置いてる奴には同情するね、ああ全く心の底から」
ラダーマンが氷と酒で満たされたグラスを女の前に出した。ちらり、と俺を見るが、特に言葉は無い。
「ああそうか、雇ってる人が居るんですってね。確か、名前はココ。そっちはどんな具合?」
それに答えたのはラダーマンだった。
「腕は上の下で、それなりにいい線行ってると思うんだがな、悲しいかな頭が絶望的に悪い。ジャンキーって話は聞かねえが、なに、大差ねえよ。すっかりいかれちまってる。コオロギとゴキブリの区別もついてねえ具合だ。趣味は草刈り、特技は生卵の一気飲みだ」
「そうそう。そういう男だ」
と無表情にラダーマンを見ると、楽しそうに笑っている。一方の女は眉を寄せていた。
「それ、本当?」
「ああ。救えない野郎だよ。まあ真面目な話、趣味は荒事殺し合いでな、金よりも手前が暴れることを優先しちまう最悪の癖がある。早晩おっ死ちぬだろうってのは、そこいらの物乞い連中だって知ってる。ココってなぁそんな男だ。ああちなみに、特技は気絶だ」
ラダーマンが止まらない。好き勝手を言ってばかりだ。ふざけるんじゃなかった、と後悔したが、もう遅い。
「最悪ね」
「ま、この街に居る時点で|推《お》して知るべしってことだよ」
「そういう人と一緒に居るなんて、ドラゴンキラーのほうが可哀想に思えるんだけど」
「そこはまあ、男と女の間の契約だからな。仕方ねえ部分もやっぱりあるんだよ。あばたもえくぼって言うだろう? 頼り甲斐のねえ男ほど可愛く見えちまう女も居るってことさ。ああ、可哀想だよ哀れだよ。悪い男につかまっちまってぇ」
呆れた。呆れたからグラスを傾ける以外なかった。
女は、
「最悪」
とまた繰り返した。
結局、うちの事務所の話がそこから一時間近く続いた。ラダーマンは俺をこき下ろし、俺はリリィとアイロンをけなした。
そして。
「何やら勝手な言い草が聞こえるな」
と背後からリリィの声がした。仕事から戻ったらしい。俺は振り向くこともせずにグラスを掲げて返事をした。
「やれやれ。まあいい。それでこれが今回の」
と俺の隣に座ろうとしていたリリィがそこで固まった。
「どうした?」
顔を上げると、リリィは俺の隣の女をじっと見ていた。
表情が微妙に変化を続けている。歓喜、困惑、疑念。次々と色を変えていくその顔は、一つに固定されないままだ。
「おいリリィ」
もう一度言うと、
「ヴィー」
そう搾り出した。
「久しぶりね、リリィ」
女は楽しそうに答えた。
俺は即座にグラスを手にし、二つ右の席に移った。位置関係を、ヴィー、リリィ、俺の順に変更する。リリィの知り合いだということはつまり、マルクトのドラゴンキラーである可能性が極めて高い。近くで呑気に酒を楽しむような無茶はしたくなかった。
それを見て、
「私に戦闘の意思は無いわよ、ココ」
とヴィーが笑う。顔は知られていたらしい。ふざけた話だ。
「いやいや忘れっぽい性質でね、ちょくちょく忘れ物をするんだが、飲んでるうちに勇気をどこかにやっちまったらしい。お陰で今の俺は絶賛臆病者だ」
ヴィーは笑ったままだったが、間に挟まっているリリィはやや前傾姿勢を取り、そして拳を固めていた。
「リリィ落ち着け」
「しかし」
リリィが勢い良く振り返る。
「いいから」
睨み返すと、渋々ではあったが、リリィは一歩下がり、俺とヴィーの両方を視界に納められる位置に移動した。俺は視線をヴィーに移すと、
「さてと、場所を変えないか? ここは耳の数が多すぎる」
「私は別に構わないけれど」
「俺が構うんだよ。言ったろ。臆病者なんだ」
ヴィーは立ち上がりつつ中指の指輪を外すと、ラダーマンに向けて放った。
「酒代になるかしら? もちろんココの分の払いもそれで」
「釣りは出さないぜ」
「結構よ。さ、行きましょうか」
ヴィーは率先して店を後にし、俺はリリィに、
「金だ」
と言った。
「飲み代なら先程」
「違う。ラダーマンに頼みごとだ。俺の財布にゃ自分の酒代しかねえ。仕事の上がりを持ってるな? 金貨二枚でいい」
早口に言う俺を見たリリィは目を細め、黙って財布にしている手製の|巾着《きんちゃく》
を取り出すと、中から金貨二枚を放った。それを受け取りつつラダーマンの顔を見る。
「アイロンを呼びつけてくれ。それからアルマの護衛につくようにって伝言を頼む」
「考えすぎじゃねえか? あの女は一人だろ」
「念のためだよ。何も無けりゃそれが一番だ。財布から金貨二枚が出たってだけの損で済む」
「もうちょっと色つけるなら考えてやる。五枚でいい」
すかさずラダーマンがねじ込んでくる。それに応え、俺は即座にコートの内側に手を突っ込み、銃のグリップを握った。
「悪いなラダーマン。急ぎだ」
ラダーマンはつまらなそうに鼻から息を抜くと、右手を差し出した。俺はそれに向かって金貨を放り、リリィを伴ってヴィーの後を追った。
そのヴィーは、店の外で空を見上げていた。俺たちの様子に気がつくなり、笑い顔を俺たちに向ける。元々そういう顔なのか、それとも馬鹿にして笑っているのか。どちらにせよ気に障る顔だ。
「どうせならあなたたちの部屋に招待してくれるとありがたいんだけど。酔い醒ましにお茶も欲しいし」
「ドラゴンキラーが酔っ払うってのか? うちの馬鹿どもが酔っ払ったとこなんざ見たことねえよ。
そいつはつまり、手前らは底なしだってことだろう?」
「小さな拘りよ。昔の習慣はね、出来る限りそのままにしておきたいの」
へぇ、と答えながら煙草をくわえ、リリィに火を貰った。
「ま、戦闘の意思が無いって言葉を|鵜呑《うの》みにするわけにもいかないんでな。そうなってくると事務所でってのは論外だ。暴れられて、滅茶苦茶にされるのは御免だからな。てなわけで、そこらの路地裏でってのが妥当な線だ」
「雰囲気がないわね」
「言ってろよ。こっちだ」
そう言って俺は歩き出した。ヴィーが程なく俺の隣に並んだが、そのうちリリィを間に挟んで横一列になった。
誰も口を開かないまま歩くこと五分ほど。事務所から少し離れた路地を覗き込むと、おあつらえ向きに|人気《ひとけ》が無い。会談場所には丁度いい。
俺は壁に背を預け、リリィはヴィーと対峙する形で、路地の中央に真っ直ぐに立った。
新たに煙草を取り出しながら、
「で、用件は?」
俺の質問にヴィーは世間話をするような口調で、
「ええ、逃げて欲しくて」
と、やっぱり笑いながら言った。
「逃げる?」
ヴィーが口にした言葉をそのまま繰り返すと、
「ええ、逃げて。出来るなら今晩のうちに」
「理由は、まあ嫌な方向に想像力を働かせれば、なんとなく見えちゃ来るか」
「ドラゴンキラーが動員されたわ。私を含めて四人。目的は皇女の奪還と重罪人リリィの拘束」
知らず知らず、手が顔にいく。こめかみと目の間を揉んだり、顎を撫でたりしながら、俺は深い深いため息を吐いていた。
「ちっとばかり人数が多くないか? 四人ってのはいくらなんでもやり過ぎだ。戦争でもやってるつもりかよくそったれ。万人力の、ドラゴンキラーを、四人も、一応は連合国の領土に入れるってのは無理がありすぎる。連合国側の面子《めんつ》に泥塗りたくってるのと同じだ」
「領有権を主張してても、実際に支配しているわけじゃないじゃない。歴史的に見て我が方の土地であるって言ったところで、支配している、管理下に置いているという実績も無いんだから、誰も耳貸さないわよ」
「文句をつける名分は立つ」
「でしょうね。でも不思議なことに、連合国債の引き受け額が、今年は随分大きくなるみたいよ」
「その辺りの話はとっくについてるってことか。つまんねえ話だ」
「ま、遠い人たちの話をしていても意味が無いわ。
あなたたちは今晩のうちに荷物をまとめて逃げなさい。私たちは明日から動くことになるから、時間はそう多く残されてはいない」
「一つ質問だ。俺たちにそれを教えるあんたに得はあるのか?」
「リリィに死んで欲しくない。それだけよ」
「それが得? 冗談にもならねえよ。理由としちゃ下の下だ」
「お金も地位も名誉も大好きよ。ええ、とても好き。でもね、私の中ではそれに並ぶくらい、友人も家族も大事なの。そのためならある程度自分を犠牲にしたって構わないくらい」
「じゃあ丁度いい。あんたの力を貸してくれ。大事な大事なリリィのためだ。仲間を裏切るぐらい簡単だ。あんたが来てくれりゃ神様にだって勝てちまう」
「それは無理。私の稼ぎを当てにしている人たちが居るの。彼らを裏切れないわ。だから明日からの私はあなたたちの敵」
「要するに、あんたはどいつもこいつも助けたいし、自分が持ってるものも捨てたくないと、そういう我侭を理由にここに居るわけか」
「誰もが持っている我侭よ。捨てずに得ることを望むことが人間の欲でしょう?」
「化け物だろ。人間じゃあない」
ヴィーの目から初めて笑みが消えた。すぅ、と目を細めると、
「人間よ。知性を有し、文化的な生活が送れている限りは」
と言う。やや語気に力が込められていた。
俺はその場に座り込み、そして短くなっていた煙草を惜しみつつさらに一口吸った。じ、という煙草の音と共に、根元近くまで吸っているせいでえらく熱い煙が喉を焼いた。
煙を吐き出しつつ、煙草を捨てる。人差し指と中指の間が熱い。
「来てる奴の名前を教えてくれ」
「それを聞いてどうするの?」
「戦うにしても逃げるにしても、こっちには判断材料が乏しいんでね。情報は欲しい」
「逃げろって忠告をしているんだけど」
「そいつを容れるかどうかを話し合いで決めるんだよ。お飾り所長なんでな、他の連中の意見を無視すると、俺の扱いが一層ずさんになる」
ヴィーはつまらなそうに、
「ジルバ、ハンク、それからジン」
「リリィ、覚えたか?」
ヴィーと対峙していたリリィは小さく頷いた。他に訊くべきことは、と考えを巡らせると、一つ思い当たる。
「そいつらは今どこに居て何をしてる」
「親睦パーティーの最中よ。まさか攻めるつもり?」
小さく首を振って否定する。
「どこで?」
「オーランド商会、だったかしら」
オーランド商会。表向きは武器商にして、裏向きはこの街最大の非合法組織だ。通称は商会。一応、うちの事務所を最も|贔屓《ひいき》にしてくれている組織である。
「笑えるなリリィ。半年前とまるきり同じだ。マルクトのドラゴンキラーが商会をねぐらにして、アルマを狙う。この分だと、またアルマに懸賞金がかかるかもな。なんせドラゴンキラー四名様ご案内だ。俺たちなんざものの数に入らねえ」
軽い口調で喋りつつ、考えをさらに巡らせる。
訊くべきことはまだあるか。無いなら今この場でどうするべきか。どういう選択が最も得か。
考えた結果、
「ああそうだった。大事なことを訊いてなかった」
と言った。
「まだあるの?」
「あんたのことだよヴィー。あんたとリリィがどんだけ蜜月の関係にあったかってのを聞かせてくれ。あんたのリリィに対する情が果たして本物なのかどうか」
やれやれ、とヴィーの表情が言っていた。そし
て答えようと小さく息を吸ったところで、リリィが先に口を開いた。
「ヴィーは、私の恩人だ」
「恩人?」
「ああ。体の使い方、力の使い方を仕込んでくれた。そして。そして私が使えぬと陰口を叩かれているときも、庇ってくれたのは彼女だった。今でも、感謝している」
「なるほどね。聞く限り、随分強そうだな」
「ああ、強いな。私よりもずっと」
それを聞いた時点で、ここでこいつを消す、という選択肢が消えた。アイロンを連れてくれば良かったと後悔する。否、アルマの護衛は必要だった。が、そのせいで絶好の機会を逃す羽目になっている。 どうする。どうにかなるのか。
この女をこの場に釘付けにして、アイロンの力で横殴りにする段取りがどうにか。
結局、賭けに出る以外無いという結論に達した。問題はリリィに伝わるかどうか。
立ち上がりつつ、
「馴染みなら話もあるだろ。満足するまで話し込め。いいか、満足するまでだ。俺は先に帰る」
と続けて歩き出した。気を張りつつヴィーの脇を抜け、少し大きな通りへと出る。空気の流れ方でも違うのか、幾分すっきりとした空気が肺を満たした。
新たに煙草をくわえると、ざ、という音がする。隣を見ると、リリィが立っていた。
「馬鹿、なんで戻ってきてんだよ。チャンスは今しかねえんだぞ」
小声で囁くように言うと、
「話せば気持ちが緩む。敵として出会ったとき、戦えないでは話になるまい」
「そうじゃねえよ馬鹿トカゲ。話し込んで時間を稼ぐのがお前の今の仕事だろうが」
「は? 何を言っているのだ」
「これからアイロンを連れて戻ってここで奴を殺やるってのが理想。そういう話だ」
リリィは驚いた表情を見せたが、すぐさま頬を何度か叩き、小さく頷いて路地へと引き返した。
が。
「だめだ。もう姿もない」
とすぐに顔を出した。
俺は肩を落としため息をついて、
「帰るか」
とまた言った。
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断章・二
ジンは年上趣味である。
少なくとも自分より歳若い者に欲情することは
まず無い。そして異性に欲情することも同じくなかった。
自身がそういった性癖を獲得するに至ったのは、
かつての経歴に原因があった。
彼はとある金持ちの稚ち
児ご
として育った。その金
持ちは、美童の尻を弄
もてあそ
ぶことをこの世の至上の
楽しみとする性癖の持ち主だったが、お陰で満足な教育と、豊かな生活を与えられた。ただ一つ与
えられなかったのは自由だけである。
だがそれも彼が十三になるまでだった。
体が大きくなり、声が少しばかり野太くなった。ただそれだけのことだったが、その金持ちにとって、ジンはすでに少年ではなく、青年として認識された。
美しい少年のみが有することを許される|穢《けが》れ無き神性は、この世で最も尊きものである、と常々わけのわからない言葉を口にする男だったが、それは自身の少年愛に対する判断基準でもあった。当たり前に成長したジンは、彼の愛せる存在ではなくなっていた。
ジンの扱いの落差は大きすぎるほど大きかった。
これまでの生活から一変し、ただひたすらに酷使された。与えられるものは僅かばかりの質素な食事だけ。対価として身に余りある労働を要求された。逃げ出すことは出来なかった。多数の見張りがそれを許さなかった。
男はある日、酔った勢いでジンに余興の出し物になれと命じた。何をさせられるかと気が気ではなかったが、その実際は酷いものだった。
犬と戦え、そう命じられた。無茶な話だった。
逃げ惑うジンと、追い回す犬。それを見て、男はげらげらと笑った。そして余興の出し物として、ジンは再び男に気に入られることになった。
さらに過酷な生活が待っていた。
男の無茶な要求は日を追うごとに苛烈なものへと変わっていった。
犬に始まり、最後は肉食獣にまで至った。だがそれよりも辛かったのは、獣と交われと命じられたことだった。相手は雌の羊。
人間の尊厳が完全に否定された。ジンは人とし
て扱われなかった。
やがて男がジンに飽きる日がやってきた。同日申し渡されたのは、最後の余興。皆の前で竜の肉を食え、というものだった。万に一つ生き延びることが出来れば優遇してやる、と言われた。当然のように、食いたくないと申し出た。だが許されなかった。最後には、食って死ぬか、食わずに死ぬかだといわれた。
そして彼はドラゴンキラーとなった。
金持ちは拍手喝采で喜び、友人たちに大層に自慢した。
だが、ジンは彼らのものになる気は全く無かった。長年|培《つちか》われた恨みが、彼を|殺戮《さつりく》に走らせた。その建物に居たあらゆる生物はその日、稚児、元稚児たちを除いて全て死体に変わった。
軍に入ることを決めたのは、それから一ヶ月後のことである。
商会の一室、一人で使うには大きすぎるベッドに横になり、ジンは首を振った。
自身の土台となっているのがあのような生活だったことを、人生の汚点だとさえ感じ、忌み嫌っている。そしてそれでも、かつての稚児としての生活が残したものは深くジンの体に根付いていた。
特に性的|嗜好《しこう》はその一つだった。
自身が雄の側での性交渉は、まず受け入れられない。どうあっても雌の羊が思い起こされ、吐き気すら催した。その上、年下に自分の体を好き勝手にされるというのも馴染めず、結局年上の人間を相手に選んでいる。
たまらなく情けなかった。結局、残っていたのは稚児としての自分、ただそれだけだったからだ。
今も、こうして相手に尽くそうとここに居る。
使い捨てられようとしていることを知っていてなお受け入れている。
結局自分は誰かに使われねば上手く生きられないのだろう。
自嘲気味に笑った。
ココとリリィ、聞くところによるともう一人ドラゴンキラーが増えたとか。
上手く使ってやろう。
使われることでしか生きられない道化人形のような自分に使われる彼らは、一体何に|喩《たと》えれば良いだろう、とジンは下らないことを考え、また笑った。
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三章
事務所に戻ると、窓際に立っていたアイロンが、人差し指を立てて口元に当てた。見ると、アルマとイグレットが肩を寄せ合って仲良くうとうとと船を|漕《こ》いでいる。部屋が寒いためか、毛布がかけてあった。
時刻を確認すると午後十一時近く。
「どうしてこの小僧まで一緒に居るんだ?」
「店長の指示よ。断る理由も特に無かったから、ここに入れた。|拙《まず》かった?」
「いや、いい。それより起こしてくれ。話し合いだ」
「わざわざアルマを起こさずともよいだろう。私たちだけで話をすればいい」
「前にも言ったろ。俺はアルマを一人前に扱ってる。なら話し合いにも入ってもらわねえとな」
「だが」
「だがもくそもねえ。アイロン、とっとと起こしてくれ。リリィ、お前は他にやることがあるだろう? アルマを見ろ。実に寒そうだ」
リリィはしばらくごねていたが、そのうち気持ちの整理をつけたのか、部屋を暖めると、茶を用意する、と言ってキッチンへと消えた。
その間に、アイロンがアルマとイグレットの体を揺すった。先に目を開けたのはアルマだ。薄目を開け、アイロンを見た。
「朝?」
アイロンは微笑を返しながら小さく首を振って否定した。
「ごめんなさいアルマ。大事な話があるの。アルマにも聞いてもらわないといけなくて」
「私の話?」
「ええそう」
分かった、とアルマは目をしょぼしょぼとさせながら、かけられていた毛布を取り、ソファに座りなおした。隣で動きがあったことに気づいたか、そこでようやくイグレットも目を覚ました。
五分後、茶の用意が済み、俺たちはソファに腰を下ろして向かい合った。
「さて小僧。これからする話は身内だけの内緒話だ。そいつを飲んだらとっとと帰れ」
イグレットは気まずそうな素振りも、申し訳なさそうな雰囲気も見せず、
「別に、俺がどこ居たっていいだろ」
「良く無いから言ってるんだ。お前はラダーマンの身内だろ、そいつがここに。と、ああそういうことか。お前、ラダーマンに様子見て来いって言われたな?」
図星だった。真っ直ぐだったイグレットの目が急に泳ぎ出す。
「なるほどな。こいつはお前に与えられた仕事ってわけか。結構。実に結構だイグレット。だったら取引といこう。部屋の外で見張りをしててくれ。誰も通さないようにだ」
「は? なんでそうなるんだよ。俺は別に」
俺は手を出してイグレットを制しつつ、
「まあ話は最後まで聞け。この取引に乗ってくれるんだったら、アルマと二人きりの時間を三時間くれてやる。水入らずの三時間だ。部屋はここを使え」
な、とイグレットは小さく|呻《うめ》いて固まったが、それよりも苛烈な反応を見せた奴がいた。「ココ、どういうつもりだ。イグレットはこれでも男なのだぞ。しかも飛び切り健全な男子だ。それをアルマと二人きりにさせるなど、間違いがあったらどうする。けしからん。けしからんぞ」
「お前な、こいつは十かそこらのガキで、アルマはまだ八つだ。せいぜいキスするぐらいだろ。どう見たってガキのままごとだ。間違いなんて呼べやしねえ」
しかし、となおも抗議の声を上げるリリィを無視し、俺は再びイグレットに向き直った。
「さてイグレット。後はお前の決断だ。ラダーマンにこき使われている間は、どうしたってアルマと二人きりにゃなれねえ。まだまとまった時間も作れてないんだろう? さあどうする?」
「ば、馬鹿にすんじゃねえよ。俺は別に」
「こいつは大人からの忠告だが、年を食えば食うだけ色んな荷物を背負い込んじまって、自分の好きに生きられなくなる。分かるか? 状況が自由に生きることを許さないってことが起こるわけ
だ。好きに振舞えるのは、ガキの時分に許された特権だな。だから、お前は自分にだけは嘘をつくな。分かったか?」
俺の持っている中でも最も|真摯《しんし》な響きを持たせた声で、ゆっくりと言う。目にも真面目な色が強く出ているはずだ。相手を説得するときに必要なのは、目と声。俺の信条だ。
「そういうわけだイグレット。どうする?」
イグレットはそれでも即答はせず、
「どうせなら半日コース」
と俺から視線を外しながらぼそりと言った。照れている。
「だ、そうだがアルマ?」
「お休みの日にイグレットとデート?」
「デート? ああ、そうか。そうなるのか。ま、それでもいいならだが、どうする?」
「うん、いいよ」
即答だ。さすがにアルマ。きっと俺に気を遣ってくれたに違いない。アルマにはそういう気遣いが備わっている。
「取引成立だな。そういうわけだ、イグレット。茶のかわりぐらいは運んでやるから、外での見張り、宜しく頼む」
「任せろ。俺に見張れない奴はいねえ」
と、よく分からない返事をして、イグレットは元気よく事務所の外に出ていった。
イグレットが出て行ったのを確認して、ようやく本題に入った。
「さてと、出来れば俺たちと関係の無いところで話が進んで欲しかったんだが、そうそう都合よくはいかないらしい。敵が来た。アルマを取り戻しにだ」
それを皮切りにして、俺は先程ヴィーからもたらされた情報を、出来るだけ細かく話した。途中で名前の出てきたジンのことについても、半年前の騒動をかいつまんで説明する。一通り話し終えると、そのままリリィに確認の質問を飛ばした。
「ジルバ、ハンク、ヴィー。この三人の能力はどんなもんだ?」
「それぞれ、黒竜、知竜、そして火竜だ」
知竜の名前が出てきて、俺は嫌なものを思い出していた。記憶を食う竜だ。
以前にちょっとした仕事を請け負った際、そのドラゴンキラーに出くわしたことがある。他人の記憶を根こそぎ食って、多数の廃人を作り出していた。竜害は竜の数だけ存在するが、その中でも相当に|性質《たち》が悪い。
が、それよりも名前を聞かされてもぴんと来ない竜のほうが気になった。
「黒竜ってのは、何を食う」
「竜だよ。黒竜は、竜を食う竜だ」
「ああ? だったら竜竜って名前にしろよ。分かりにくいじゃねえか」
「そういう案もあったらしい。竜竜、反竜、黒竜などの名前の中から選ばれたと、以前に聞いた覚えがある。まあ、竜竜という名前は締まらんからな、見栄を張れる名前にした、ということだろう」
「具体的には何が出来る。竜を食えるってことは、竜を使えるってことか?」
リリィは首を横に振った。
「何も出来ん。黒竜には行使できる特異な力は一切無い。さらに、竜を食えば体の変化が進行してしまうから、それも叶わん。普通の食事をして体を支える以外ない」
「そいつはまた、仰々しい名前の割りには随分と頼りねえ」
「が、代わりにこちらの竜の力を一切受け付けん」
「あん?」
「私が火を飛ばそうが、アイロンが痛みを植えつけようが効かん、ということだ。殴る蹴るで、近接戦闘で直接仕留める以外ない」
「アイロンはともかく、お前にしてみりゃ大した違いはねえだろ。どの道、お前の火は目くらましぐらいにしか使えないんだ」
「まあ、それはそうなのだがな」
リリィの表情が険しかったため、
「なのだが?」
と返した。
「ジルバは強い。特に対竜、対ドラゴンキラーという状況では無類の強さを発揮する。何せ防御が万全だ。どれほど特異な能力を所持していようとも、彼女の前では意味を為さん。であれば、優位を確保するために必要なことといえば、体の使い方を極めることだけだ。その点、ぬかりは無い」
「ヴィーとどっちが上だ?」
「ジルバだ」
「そいじゃあレクスだったら?」
「即答は出来んが、良い勝負になるだろうことは確かだ」
あの化け物とどっこいの腕利き。リリィとジンの二人がかりでやってなお敵わなかった相手と良い勝負が出来る。嫌な話だ。
俺はため息をついてこの話題を打ち切った。
「ともかく、一応の話は分かった。黒竜のジルバ、知竜のハンク、火竜のヴィー、そんで音竜のジンか」
「ジンは味方になってくれる。そうなれば三対三だ。勝負にはなるのではないか?」
「あいつを信用したくないってのはあるがな。さて、情報は行き渡ったな。それじゃあ方針の決定といこう。俺が思いつく選択肢は四つ。戦う、降伏する、逃げる、自殺する」
「四つ目は論外ね」
「降伏も御免だ」
「残りは、戦うか逃げるかか。俺の好みは逃げるほう」
「根拠は何?」
「一番損が少ないからに決まってるだろ。命がけで連中と戦って勝ちました。それで何が得られる。簡単だ。一時的な安全だけだ。戦ってそんなものを手に入れるより、逃げて崩御を待って、皇女派が他の皇族を担ぎ出すまで潜伏したほうが得で、何より安全だ。違うか?」
「損得はどうでもいいけど、確かに安全だとは思うわ」
「お前たちの意見は?」
とリリィとアルマを向くと、アルマは分かった、と頷き、リリィも
「それしか無いか」
と答えた。
「決まりだな。じゃ、逃げ支度を始めよう」
膝を叩いて腰を浮かせると、リリィとアルマも立ち上がった。が、アイロンは足を組んだまま、
「イグレットとの約束はどうするつもり? 私たちがこの街から離れるのなら、あの子との約束は守れないことになる」
「そいつを実現出来るかどうかは奴の根性次第だろ。連れて行く気はないが、勝手について来るのは奴の勝手だ。それより、お前はいいのかよ」
「何が?」
「アルマ絡みの話は、お前には関係がねえってことだ。降りるなら今だぞ」
「私はここの事務所の従業員よ」
「ならいい」
逃げ支度を整えようと、頭に必要なものを浮かべていた。
散らかっているため、準備が億劫だ。旅程も定かではなく、旅費も幾らかかるか分かったものではない。しかも俺の財布は空に近いから、必然的に女衆の財布を当てにすることになる。
情けなさで胸が一杯だ。
そして。
俺が寝室へ続くドアノブに手をかけたのと、アルマが叫び声を上げたのは同時だった。
「イグレット!」
ただ事ではないアルマの声に、俺とアイロンは玄関先へと急いだ。到着するなり目に入ってきたのは、床に倒れて汗にまみれたイグレット。隣ではアルマが泣きそうになっていて、それを見たリリィがうろたえている。
「どうした、何があった」
「分かんないの。話してたら急に倒れて」
「病気か? くそ、この忙しいときに面倒かけやがって」
真っ先に思い浮かんだのは見捨てる、という想像だったが、即座に打ち消した。
「部屋に運んでソファに寝かせる。リリィ、水とタオルの用意だ。それが済んだら下の店に氷を貰いに行け。アイロンは痛み止めだ。急げ」
指示を飛ばすと、リリィは即座にその場から消えうせ、アイロンはイグレットの額に手を当てる。痛みを食っているらしいが、何が見えるわけでもない。
が、それでも効果はあったらしく、頭を抱え込み、激しく肩で息をしていたイグレットの呼吸が、幾分落ち着いた。それを確認してから、イグレットを肩に担ぎ、事務所へと戻る。テーブルの上にはすでに水の入った|手桶《ておけ》とタオルが用意されていた。
イグレットをソファに寝かせると、すかさず脇からアルマが毛布をかける。心配そうな顔で俺を見上げ、
「イグレットどうしちゃったの?」
「分からん。病気の知識はさっぱりだ」
「先生を呼びに行ったほうが?」
「暗いうちに街を出たいからな、時間が勿体無い。ま、ラダーマンに預けりゃ良いようにするだろ」
しばらく様子を見ていると、アルマが水で濡らしたタオルで、イグレットの額を拭い始めた。程なくリリィが氷の入ったボウルを抱えて戻ってくる。
「具合はどうだ?」
「痛み止めのお陰で苦しんでる様子は無い。が、具合の良し悪しまでは分かんねえよ」
「倒れるぐらいなのだ。相当に悪いと考えるべきではないか。早々に医者に」
「そいつはラダーマンに任せよう。俺たちは逃げ支度を優先だ」
「診療所まで急げば五分もかからん」
「同じことを何度も言わせるなよ。逃げ支度を優先だ。アルマ、もういい。部屋に戻って」
と、追い払おうとしたところで、イグレットが呻き声を上げた。
心の中で舌打ち。間の悪い話もあったものだ。
観察していると、イグレットがゆっくりと目を開けた。目を動かし、上下左右を確認している。
「よぉ、目が覚めたか? ったく、面倒かけやがって。具合はどうだ、まだ苦しいか?」
「ここは」
「あ? 寝ぼけてんのかよ。俺の事務所に決まってんだろ」
「事務所?」
俺はわざとらしくため息をついていた。
「ああ事務所だよ。うちの事務所だ。ついでに言えば、お前が今横になってんのは俺の指定席だ。歩けるようだったらとっとと自分の部屋に戻るか、医者に行け。今の時間だったらあのヤブもまだ起きてる」
「事務所」
抑揚の無い声でイグレットはそう呟き、そしてまたもや目を動かして周囲を確認している。
「大丈夫?」
アルマが顔を覗き込むと、イグレットの表情が凍りついた。アルマを見つめたまま微動だにしない。が、やがて思い出したように、
「皇女殿下!」
と叫んで体を急に起こし、かと思えば床に左膝と右拳をついて伏せる。
「え? イグレット?」
「あ、えっと、お、皇女殿下におかれましては、ご、ご機嫌|麗《うるわ》しくっ!」
俺は眉を寄せていた。
即座にアルマを引き寄せ、リリィに預ける。それを見たイグレットが、弾かれたように体を起こし、そして俺たちと距離を取った。腰を落とし、すぐに動ける体勢を取る。
「よぉイグレット。お前が何を言ってるのか教養の|無《ね》え俺には良く分かんねえよ。分かりやすく説明してくれるか?」
嫌な予感。
「そうか、ならお前がココで、そっちがリリィ。くそ、何でこんなことになってるんだ」
「説明だよイグレット。話を聞く耳と、考える頭と、喋る口ってのが見事に揃ってるんだ。とっとと話せ」
「説明だって? 俺が聞きたいぐらいだ。なんで俺はこんなところに居る。いや、今はどうだっていい。俺がやらなくちゃならないことは一つだ。皇女殿下を、渡してもらう」
嫌な予感はすでに確信へと変貌を遂げていた。
物言いと、リリィと対峙していてなお強気の姿勢。
皇女派のドラゴンキラーか。
「馬鹿かお前。欲しけりゃ金を用意するか、力を見せろ」
言いつつ一歩下がる。入れ替わるようにリリィが前に出た。どうやら俺と同じことを考えていたようで、体には緊張が|漲《みなぎ》っている。
「リリィ、分かってるな。こいつは敵だ。殺せ。いつもみたいにごねるなよ。今回はアルマがかかってる」
「わ、分かっている。一々言うな」
「アイロン、相手はガキだが、分かってるな?」
アイロンは眉間に皺を寄せながらも、それでも縦に首を振った。
確認したことを伝えるために俺も小さく頷いたが、息が大きくなっていることに気がついた。いつの間にか肩で息をしている。
その間にも頭はぐるぐると回り続けていた。
イグレットは五人目だ。ヴィーの話と食い違っている。それが意味するところはつまり、見事に嵌はめられたということだ。情報と時間を与えられ、いざ逃げようとしてみればこの|様《ざま》。
ヴィーを恨む一方で、自身に対する|呪詛《じゅそ》がぐんぐん大きくなった。馬鹿だ阿呆だとがなり続けている。見抜けなかった自分をひたすらに呪っていた。そしてそれに応えるように、頭痛が主張を開始する。
俺はそれを振り切るように首を回すと、どうするべきかを考えた。
リリィたちが全力で暴れられるようにアルマを連れて避難するか、あるいは危険を承知で同室するか。即座に後者が魅力的だと判断した。
イグレットはアルマには手を出さない。考えなしに暴れることは、まずない。つまり、アルマの体は|盾《たて》として機能する。いや、いっそ踏み込んで人質になってもらうべきか。そうすればイグレットの動きを幾らかでも制限できる。それで少しでも時間を稼げれば、こちらの勝ちだ。
決断すると、俺は背後に控えていたアルマを抱き寄せ、その右手首を掴んだ。
「小僧、動くな。動けばアルマが怪我するぞ」
同室していたドラゴンキラー全員が一斉に俺を見た。リリィとアイロンまでがこちらを向いている辺り、やりきれない。俺の意図を|酌《く》んでくれたのは、微動だにしないアルマだけだった。体からは震えなど一つも伝わってこない。
「あなた正気?」
「馬鹿かお前ら。とっとと」
言い募ろうとしていると、俺の右腕がだらりと下がった。
「へ?」
間抜けな声を上げたのと、リリィが吹き飛ばされたのは同時だった。派手な音を立てて、寝室のドアが粉砕される。そして今しがたリリィが居た場所には、イグレットが拳を握り締めて立っていた。
強烈な目つきで俺を、いや、腕の中にあるアルマを睨んでいる。
「殿下、今、お助けします」
一方の俺は右腕が上がらなかった。必死で力を込めているつもりだが、全く動こうともしない。最後には左腕を使って殴りつけてみたが、痛いだけだった。つまり|麻痺《まひ》しているわけではない。だったら何だ。簡単だ。こいつに何かされている。
「殿下」
と再び呟いたイグレットはそして、その場に膝を折った。一声、が、と呻く。隣を見ると、アイロンが右腕を差し出していた。どうやら痛みを与えているらしい。
アイロンの力は本当に便利だ。頑強な肉体を有するドラゴンキラーの防御を、完全に無視する。
「ごめんなさい。子供をいたぶる趣味は無いから、せめて一思いに殺してあげる」
アイロンはそう言って一歩踏み出そうとして。
転んだ。
どさ、とまともに顔から行く。さらには転んだアイロンは上手く立ち上がれないようで、生まれたての家畜みたいにぶるぶると震えている。逆に立ち上がったのは、イグレット。痛みに顔を歪めながら、それでも再び強い視線を向けてくる。
「殿下、皇女殿下。お助けします。絶対に、絶対に」
イグレットは体を沈め、次の瞬間には俺は真横に飛ばされていた。
棚にぶつかって肺から空気が押し出される。四つんばいになって|悶絶《もんぜつ》しながらも、腕と脇の間からイグレットの様子を確認。
俺と似たような格好で悶絶していた。
さらに遠くには、アイロンが頭で動かしてイグレットを睨みつけているらしいことが目に入ってくる。なるほどアイロンが力を使ったお陰で、イグレットには力が上手く入らなかったらしい。結果、命を拾えた。
|安堵《あんど》したのも束の間、今度はイグレットに睨まれたアイロンの首がぱたりと折れた。ぴくぴくと震えているのは分かるが、完全に動きを封じられている。
イグレットはがちがちと歯の根を鳴らしながら、それでも立ち上がり、アルマを見下ろした。
「お助けします、皇女殿下」
イグレットは右手を伸ばした。だがアルマはその手を取らず、小さく首を振った。
「行けないの。ごめんなさい」
「申し訳ないです殿下。俺は、殿下を連れて戻るのが任務なんです。それに偉い人には、居なくちゃいけない場所とか、やらなきゃならないことってのが、きっとあると思うから。だから、俺は殿下を連れていきます」
ぺこり、と頭を下げたイグレットは、アルマの抵抗をものともせず抱き上げると、堂々と玄関から出て行った。
子供二人がいなくなり、大人三人だけが残された。
「ああ全く気に食わないが、これで逃げるって選択肢が無くなったわけだ。最悪だ。金にはならない。命の危険はでかい。ついでに面倒。最悪なことこの上ない。不細工な|売女《ばいた》を相手にしてるほうがまだましだ」
ソファに浅く座り、テーブルに腕を投げ出し、指の間には煙草。
煙を天井に吐き出しながら、俺はぼそぼそと喋った。
「ああ逃げたいな。逃げたいが、そうもいかない。だったら前向きに健全に恨み辛みを吐き出そう。やられたからやり返す。アルマを助け出して、ついでにあの女に報復だ。何が逃げろだ。仕込みはとっくに済んでたんじゃねえか」
「愚痴はそれぐらいにしたら?」
足を組んだアイロンがすまし顔で言う。
「随分人間が、ああ間違えた、化け物具合が上等なことで。生まれたての小鹿みたいにぴくぴくぷるぷるしてたくせになぁ。格好つけても締まらねえってことに気づけ鉄仮面」
アイロンは表情も体も動かさず、ただ静かに俺を見た。途端に激痛が走る。
が。
俺は精一杯の強がりで、へらへらと笑いながら、
「は、上等だ。今のお前を見たら、あの世でアル中も踊り出す。なるほどあの馬鹿にぴったりの女だ」「態度が目に余れば殺す、と以前に言わなかったかしら。アルマを助け出したら、あなたの事故死を伝えるわ」
「そいつは最高だ。是非そうしてくれ。面倒に関わるより、とっとと死んどいたほうが飛び切り楽だ」「二人共いい加減にしろ。揉めている場合ではないだろう。具体的にアルマをどうやって取り戻すか、それを話し合うべきだ」
腕組みをしたリリィが言う。
「手前は真っ先に吹っ飛ばされて、俺のベッドでご就寝だったなぁリリィ」
「私はいい加減にしろと言ったぞ。苛立っているはお前だけではないのだ」
俺は肩を竦め、まだ長かった煙草を消した。ひどく不味く感じられたせいだった。
「じゃあまず解決できそうな疑問からいこう。俺たちはさっきイグレットに何をされたか。リリィ、答えの用意はあるか?」
「ああ、ある」
「結構。教えてくれ」
「あれは雷を食う竜、雷竜の力だ。その力で私たちの行動を阻害した」
「待て、分かるように言え。雷竜だからってのと、阻害するってのが繋がってないだろ」
「人間の体には電気信号が流れているらしいのだ。頭が体に命令を下す時に、電気が流れる。それを、食われた」
「悪いなリリィ。もうちょっと分かり安くだ。俺が馬鹿だってことを理解した上で」
「だから、例えば右手を動かそうとする。脳から筋肉へと命令を伝えるのは電気だ。それが手に到達すると手が動く。その電気を食われると、命令が手足に届かなくなり、動かせなくなる」
俺は眉間に皺を寄せたまま、手を開いたり握ったりしながら、
「この動きに、電気がねえ。で、対抗手段はあるのか?」
「黒竜のドラゴンキラーであれば無視出来る。同じく雷竜の力があれば、あるいはなんとかなるかもしれん。それ以外は、思いつかんな」
「なるほどな。大したことねえと思ってた黒竜だが、こういうことになってくると羨ましい。で、次の質問だ。あの小僧に見覚えは?」
「無い。だから私が脱走した後で入団した、ということになるな」
「|面《めん》が割れてなくて、いんちきくさい能力のドラゴンキラーか。なるほど素敵な人選だ」
言いつつテーブルから足を下ろし、膝に肘を乗せた。
さらに手を組み、その上に顎を乗せ、息を細く吐いた。
「具体的にどうするかだが」
「力攻めか?」
「まさか。戦力が足りねえよ。ジンは手を貸してくれるかもしれないが、あいつにべったりってのは|懲《こ》り|懲《ご》りだ。俺たちだけで事を運んだほうが安全だ」
「ではどうする」
「アルマは多分商館だろ。とりあえずどの部屋かってのに調べをつけたら、お前とアイロンで外壁を破壊して突入。アルマを確保次第撤収ってのは?」
「突入した先にドラゴンキラーが複数名待機していた場合、奪回は困難になるな」
「だったらリリィが囮になって逃げ回る。その間にアイロンが突入」
「見透かされるのが関の山でしょう」
俺はソファに座りなおし、最初と同じように腕を投げ出した。
「素敵な身分だな馬鹿共。は、手前らのトカゲ脳じゃ、文句をつけるだけが取り得だってんだろ。代案も出さずに口ばっかり動かしやがって。ロボトミーでも受けて来い。そうすりゃ今よりもっと魅力的になれること請け合いだ」
俺の軽口を聞き流し、リリィは顔を押さえて小さく頭を振った。その後、ゆっくりと立ち上がる。
「少し休もう。こう気分がささくれていては、どうにもならん。温かいものでも腹に入れて、短時間でもいいから睡眠を取るべきだ。気分をほぐさねば、まとまるものもまとまらないだろう」
「賛成だな。だがこのアパートで休むってのは|拙《まず》い。ねぐらを変える準備が必要だ」
答えつつ、頭を掻きながら立ち上がる。
「やれやれ。結局逃げ支度は必要だったわけか」
ぼやきながら下ろした手を見ると、髪の毛が三本指先に付着していて、あろうことかうち二本が白かった。もしかしたら光の加減でそう見えただけかもしれないが、それでも。
|堪《こら》えた。
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断章・三
「どういうこと」
とヴィーは詰め寄っていた。対するジルバはあらゆるものを|蔑《さげす》んで止まない、その冷たい目を向けるだけだった。
「どういうことって訊いてるの。答えて」
「何か問題が?」
「問題、問題ですって? 冗談じゃない。知らない少年が皇女を連れて戻ったのなら、事情の一つも説明するのが当然でしょう」
「彼の名はイグレット。皇女派のドラゴンキラーだ。私の命令で潜らせていた。機を見て皇女を連れ戻った。以上だ」
「ああそう。聞いたことの無い名前ね」
「当然だ。記憶を消させてもらった」
ヴィーはしばらく呆然としていたが、やがて再び詰め寄った。
「どうしてそんな真似をしたの。いえ、それよりもあなたは仲間を何だと思ってるの?」
「部下だろう」
「部下だろうが仲間、同僚でしょう?」
「競争相手に過ぎないよ。私は上に行く。そのためには結果が要る。今回の任務は都合が良い。|容易《たやす》い割りには、評価は大きいからな。今の内に、試せる手は試しておきたかった。その手法が必要になるかもしれない後のために」
「何? 何のことを言ってるの?」
ジルバは、く、と小さく表情を歪めた。彼女なりの笑顔だと、それなりの付き合いのあるヴィーには分かったが、初見の者が見れば、獲物を見つけて喜ぶ殺人鬼と見たかもしれない笑みだった。
「イグレットの記憶も|弄《いじ》った。記憶の|改竄《かいざん》だよ。潜入に必要な高度な技術は全く必要ない。本当に別人として、送り込まれるだけだからな。叩こうが薬を使おうが、敵には何も知られない」
ヴィーは顔を押さえていた。そんな真似を平気でやれる、というのは少しばかり度を越している、と感じていた。何より、これでリリィたちが逃げられなくなった、という死刑宣告にも似た絶望感が強かった。
じきに、リリィたちと戦うことになるのだろう。それは自分が裏切りでもしない限り、避けようがない事態だった。
リリィとの付き合いは、それなりに長かった。彼女が初めて来た日のことは、今でも鮮明に覚えている。いかにも頼りなさげで、実際どこまでも
頼りなかった。鍛えていけばものになる、というような、才能の|煌《きらめ》きすら感じられず、要するに、ちょっと力の強い小娘だと感じた。
リリィが軍に居た頃は、自分にべったりだった。
自分に庇護を求めているのだと感じていたが、
恐らくはそうだったのだろう。無能という|烙印《らくいん》を押されたリリィには陰口の類も多かったから、ヴィーは常に庇う立場にあった。
面倒だったが、不愉快だと思ったことは一度も無い。
手のかかる妹、あるいは娘のようなものだった。力と体の使い方を一から仕込んだのだ。それも当然と言えば当然のものだった。
育てた我が子を、自分で殺すことになるかもしれない。それを思うと、果てしなく気が重かった。
だが仲間を裏切ることは出来ない。何より自分の稼ぎを当てにしている家族が居る。仲間を裏切れば、彼らを裏切ることになる。それは出来そうにもなかった。
「どうしてそんな真似をしたのか、という問いが残っていたな」
苦痛を堪えるような表情をしていたヴィーに、ジルバが静かに告げた。
「簡単だよ。お前は反対する」
「当然だわ。受け入れられるわけがない」
「だろうな。だからこちらで勝手にやった」
ヴィーはジルバを見た。ジルバは再び笑った。
「私は上に行くよ、ヴァイオレット」
「申し訳ないけど、私を本名で呼んでいいのは家族と恋人だけなの」
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四章
翌日の早朝、午前五時。
僅かばかりの仮眠から目を覚ますと、いつもと違う天井に違和感があった。
そういえばホテルだった、と遅れて気がつく。くたびれたソファに毛布という|侘《わび》しい環境だった。一方の女二人は、シングルサイズのベッドを二人で使って眠っている。
馬鹿みたいに狭い部屋である。ベッドとソファがぎりぎりの間隔で配置され、足の踏み場はほんのわずか。というのも、この部屋はわけありの客を|匿《かくま》うためのもので、その分料金はそこいらの高級ホテル並みに取られる。
ぼりぼりと頭を掻きながらソファに座りなおすと、昨日の白髪のことが思い出され、途端に手が止まった。そうすることで何が変わる、というわけではないのだろうが、それでも右手をそっと、物凄く慎重に頭から外した。毛は付着していなかった。
白髪は抜けば増えると聞くから、憂鬱だ。意図して抜いたわけではないが、抜けた事実に変わりは無い。
増えるだろうか。増えるのだろう。嫌な話だ。
気分を切り替えようと、寝起きの煙草を取り出したところで、リリィが目を覚ました。
「起きていたか」
「ああ、さっきな」
そこで会話があっさりと途切れた。見ると、憂鬱そうに顔を押さえている。指の間から覗くネコのような目が、じっとこちらを見ていた。やがて、
「私にも一本貰えるか?」
と、疲れたように言う。
「お前、吸わないんだろ?」
「吸ってみたいのだ。気持ちが|鎮《しず》まるのだろう?」
「そいつは煙草に依存してる人間の台詞だ。吸わない奴が吸ったって、ただ不味いだけだ」
「構わん。一本くれ」
金属製の煙草入れを放ると、リリィはそこから一本を口にくわえた。
一口吸い、煙を吐く。が、その煙は肺にまで入れなかったらしく、濃く白い、そのままの煙がもわもわと口から出て行っただけだった。その上で、
「劇的なもの、というわけではないのだな。もっと世界が変わるかと思っていたが、不味いだけだ。それに匂いも|酷《ひど》い。口臭が大変なことになりそうだな」
と感想を漏らした。俺は苦笑していた。
「ふかしただけならそりゃ当然だ。煙草は肺に入れて楽しむもんだ。香りを愉しみたいなら葉巻にすりゃいい。歯の汚れ方は煙草の比じゃねえらしいが、匂いは良いって話だ」
「煙を? 肺にか? それはお前、不健康ではないか。空気の代わりに煙を体に取り込むことになる」
「そうだよ。それが煙草だ。健康を対価に心のゆとりを買う」
「正気の|沙汰《さた》ではないな。いや、私には吸えないということがよく分かった」
醜いものでも見るかのような視線で指の間の煙草を眺めていたリリィは、それを指先で押しつ
ぶして消した。俺はきっちり根元まで吸ってから、ようやく消す。
「さてと、一眠りしたところで」
と声を出すと、同時にドアがノックされた。
残りの言葉を飲み込み、即座に銃を手にした。ホテルの関係者はこの部屋には近づかない。それがサービスだ。だったら外に居るのは敵だ。だが、敵がノックなどという丁寧な真似をするか、という疑問が湧いてくる。実際に開けて確かめる以外ない。
が。
リリィに指示を出そうとするより先に、ドアの向こうから声がした。
「ココさん、リリィさん、居ますか? 僕です」
「ジン」
とリリィが小声で呟き、俺を見た。頷くと、ベッドから降りてドアを慎重に開ける。ゆっくりと開いていくドアの向こうから姿を現したのは、やっぱりジンだった。
「どうも、お久しぶりです」
女じみた顔に笑顔を貼り付け、ジンはずかずかと部屋の中に入ってくる。ハンチングにロングコートとマフラーという格好で、足元はブーツだった。左耳に光る三つのピアスがやけに懐かしい。
「いやぁ探すのに苦労しましたよ。事務所を訪ねたら空っぽ。聞き込みなんて目立つ真似は出来ないしで。うん、大変でした」
「よくここが分かったな」
「えぇ、よく分かりました。僕、ドラゴンキラーですので」
「説明になってねえよ。が、今はどうだっていい。大事なのは一つ。用件は?」
ジンは満足そうに頷いた。リリィはベッドの上で、アイロンにいたっては未だに寝ている。そしてソファを俺が占領してしまっているから、ジンは狭い部屋の隅っこで立ち話をする羽目になっていた。「まあ僕が姿を見せたことで察して頂けていると思いますが、ドラゴンキラーが派遣されました。目的は言わずもがなですが、ともかく人数が多い。前回は僕とレクスさんの二人でしたが、今回は僕を含め四名ですからね。お力を貸していただこうかと思いまして」
「結構。が、情報は正しく提示してくれ。半年前、ただでさえいいように使われてお前を信じきれなくなってるんだ。いっそここで殺したほうが得なんじゃないかって考えちまうよ」
「え? 僕、何か変なこと言いました?」
「五人だろ。お前を入れて五人だ」
「いえ、四名ですよ」
「ジルバ、ハンク、ヴィー、ジン、そんで、イグレットで五人だ」
と、指を折りつつ答えた。
「どうして彼らの名前を? いや、それよりも、イグレットとはどちら様で?」
「勘弁してくれジン。連中を|殱滅《せんめつ》しようってのがお前の仕事だろ。イグレットのことを伏せたって、お前に得なんて一つもねえ。それとも、やっぱり何か得があるのか?」
「ですから、意地悪しないで教えてくださいよ。イグレットとは誰なんです」
ため息を吐き、
「雷竜のドラゴンキラーだろ。口振りからすりゃ皇女派。要するにお前の標的の一人だ」
ジンは俺の言葉に険しい表情を見せ、やがて口元に手をやると、イグレット、イグレット、とぶつぶつと呟き始めた。
長くなりそうな気配があったため、俺はリリィから煙草入れを寄越すよう手で合図した。半ばまで吸ったところで、
「よく分かりました。どうやら僕、信用されてないみたいです」
と、にこやかに言い切った。
「笑って言うことかよ」
「イグレットなんて名前は正直聞いたことがありません。僕はそのイグレットさんのことを知らない。ですが皇女派のドラゴンキラーってことなら、知らないのは妙ですからね、記憶を食われたと推測されます。ええ、そのイグレットさんに関わる記憶を全て」
「食われただ?」
「ええ、ハンクさんは知竜のドラゴンキラーです。それぐらい簡単にやってのけます」
なるほど、と返事をしながら、ヴィーのことを考えていた。あの女もイグレットのことを知らなかっただけかもしれない。であれば、俺たちは実に間抜けだ。ハンクとかいうドラゴンキラーの手の上で踊り狂った道化者。
気に食わなかった。気に食わなかったから、|目が据《す》わった。
「どうして身内の記憶を食うような真似をしたんだろうな」
と呟く。答えは簡単に見つかった。
イグレットは保険だ。ジンとヴィーの記憶を消しておけば、俺たちに接触しようとも、イグレットのことは伝わらない。保険を保険のまま生かすために、ということだろうか。
馬鹿げた話だ。だが何より、イグレットが動いたタイミングが妙だ。俺が奴の立場なら、わざわざドラゴンキラー二人と事を構えずに、もっと別の状況で動く。アルマがカフェで働いている時が妥当だろうか。ともかく護衛が皆無の状況で人知れず動くべきで、あんな派手な真似をする道理は無い。
力を見せ付けるためか。違う。しっくり来ない。
いや、今はどうでもいい。アルマの身柄が俺たちの手から零れた事実は動かない。
「それはさっきも言ったように、僕に信用が無かったからだと思いますが」
「ん、ああ、悪い。ちょっとした自問だ。それはもういい。ついでに言えば、たとえ答えが用意できたからって現実は少しも変わらない。アルマはもっていかれた」
ジンの表情に特に変化は無かった。こいつにとってアルマはその程度、ということだろう。
「|他所《よそ》に匿ってもらっている、という話ではなく?」
「イグレットだよ。アルマの身柄はとっくにお前たちの手の中だ」
それは大変だ、とジンは微笑した。
「ですがまあ、それは僕にとってはありがたいです。何せ交渉の手間が省けますからね。あなた方にとっては、僕の力はあったほうが得で、僕にとってはあなた方の力は大変に頼りになります。利害は一致してますよ」
「どこがだよ。お前は連中を殺すのが仕事だろ。俺たちはアルマが取り戻せればそれでいいんだ」
「では僕に協力するつもりはないと?」
「さあ、どうしたもんかね」
ジンの目が細くなった。
「大体、お前約束はどうしたんだよ」
「約束?」
「民主派のドラゴンキラーの協力に決まってるだろ。敵を安全に撃退できるだけの戦力って話だったはずだ」
ジンはにっこりと笑うと、
「そんな戦力を連れて来ているなら、僕はこんな所に居ませんよ」
と言い切った。なるほど道理だ。が、約束を|違《たが》えられたことも事実。
「戦力を出す気が無かったのか出せなかったのか、どっちだ?」
「後者です」
「怪しいもんだ」
「本当ですよ。現在マルクトでは、銃犯罪の取締まり、という名目でドラゴンキラーを全国に派遣しているんです。これが実に大規模なものでしてね。まあ実際、銃犯罪は慢性的な社会問題となってますし、内政を顧みれば、取締りは決して悪いものじゃないです。何より、ドラゴンキラーを出せば国の本気具合が伝わりますからね。国民感情も少しは和らぐでしょうし、いいこと尽くめですね。我々を除いては」
「それにしたってやりようはあったはずだ。実際、お前たちはここに居る。だいたい、アルマに戻られりゃ、民主化なんざ泡と消えちまうだろ。瀬戸際だ。だってのに、協力の一つも寄越さねえってのは、お前たちのボスは大概だな。最低だ」
ジンは笑みを崩さなかった。
「政治が変わるのは、敗戦を含む広義の革命が為された場合だけです。それはもう|大事《おおごと》です。ちょっとやそっとのことじゃない。それを、たかだか皇帝が代替わりをするという小事に合わせて起こせとでも? 無理でしょう。無謀と言ったっていい。何より、民主化に必要なのは国民の強い後押し。まず手をつけるべきは、国民の政治意識の改革です。残念ながら、皇女派に対する妨害工作の優先順位は低いんですよ」
「気に食わねえな」
ジンの話を聞き終え、ぼそりと漏らした。
「気に食わねえ。高い場所に居るからだろうな。地べたを這いつくばってる俺たちのことなんざ、虫けら扱い、いや、見えてもいねえんだ。約束を破ろうが知ったことか、ってか。使うことは許せても、使われることは我慢ならねえってお高くとまってんだ。あれ、まだいたのかジン。話は終わりだ、とっとと帰れ。飼い主には宜しく伝えといてくれ。地獄に落ちろってな」
ジンは俺の軽口をあっさりと聞き流し、物憂げな、やけに芝居がかったため息をついた。
「分かりました。僕に協力することがあなた方に、いや、アルマ皇女殿下の安全にとって大変な得だということを説明しましょう」
「へぇ」
「この件を推し進めた元老院議員がいます。ハーヴェイ・グラントといいますが、彼がドラゴンキラー五名もの派遣をゴリ押しで決定しました。皇女派内部にぼちぼち大きくなってきていた、他の皇族を担ぐべき、という意見を無視してです」
頷いて先を促した。
「つまり彼には派閥内にも敵がいるわけです。今回の一件、成功して皇女殿下を女帝として立たせることが出来れば、発言力は一層大きなものになるでしょうが、失敗すれば責任問題に発展するでしょうし、発言力は大きく削がれることになります。つまり、今回我々が全滅すれば、彼の立場はなくなります。何せドラゴンキラー四、失礼、五名ですからね。失った責任は大きい。それは崩御を待たずして、皇女殿下の皇女としての価値を失わせることに繋がるわけです」
「だ、そうだリリィ」
「任せる。アルマを取り戻すのに最も確実、という道を選んでくれれば文句は無い」
アルマを助け出す時点までは協力し、助け出したら逃げるか。それが一番安全ではある。逃げて潜伏して、大人しく崩御を待つのが賢いやり方だろう。
だが、アルマの皇女としての価値が無くなる、という話はそれなりに魅力があった。
先のことを考えれば、アルマをこんな街に長く置いておくわけにはいかない、というのは当然だ。つまり、早晩彼女を街の外に出してやらねばならない。治安の良い土地で、真っ当な教育を受け、普通に育ったほうがずっと良い。それを整えてやるのが、身内としての俺の義務だと思う。
まあそれを考えるなら、それこそ皇女派に渡してやったほうが、世界で最も豊かな生活が送れるわけだが、リリィがそれに反対しているから、妥協点を探る羽目になっている。
いや、アルマの意思の問題もあるか。俺一人が勝手に決めて良いことでもない。
「ココさん?」
「いや、全部はアルマを助け出してからになるって話だ。つまりそれまでは味方だ。好きなだけ当てにするんだな」
「なんか|棘《とげ》ありません?」
「考えすぎだ。被害妄想だな。ただ、俺がさっきから頭の中で何度もお前を殺してるってのは紛れ
もない事実だ」
ジンは満面の笑みを浮かべ、
「僕はココさんのそういうところは好きですよ」
と言った。ちょっと寒気がした。ジンの性的嗜好を思い出したからだった。
「さてと。共闘体制が成立したところで、具体的な話に入りましょうか。敵をどのように倒すかを考えましょう」
「そうだな、アルマをどうやって助け出すかを話し合おう」
とベッドの上からリリィ。隣のアイロンはすでに目を覚ましているらしい気配があったが、眠った振りを続けている。
「リリィさんも相変わらずの物言いで」
「お前もココと一緒に過ごせばいいさ。|下衆《げす》の野人と生活をともにすれば、聖人だろうが飲んで脱いで騒ぎ出す」
ジンは苦笑したが、
「じゃあこの件が片付いたらお世話になりましょうか。どうせ国には帰れませんしね」
「そりゃ何の冗談だ?」
「そういう命令なんですよ。今回の仕事はドラゴンキラーの全滅を実現すること、なんです。面と向かって帰ってくるな、なんて言われてませんが、この命令はつまりはそういうことでしょう?」
ジンの口調は明るかった。
「死ねという命令を受け入れたのか。いや、命令を出した者も正気ではないな。呆れる話だ。少なくとも笑い話にはなりそうもない」
「同感だ。部下を使い捨てにする奴は生きてること自体が害悪だ。とっとと死ぬべきだな。そうすりゃ世界は平和へ向けて一歩前進だ」
「まあ、僕だって嫌ですが、二度ものこのこ帰れませんからね、仕方のない話だと思います。さすがに疑われますよ。いや、もうとっくに疑われているんでしょう。記憶を食われたのが良い証拠だ。最悪の場合、頭の中をすっかり覗き見られていて、今頃民主派は窮地に立たされている、ということだってあり得ます」
「ああ、そいつは素敵な話だ。最近の中じゃ一番の吉報だな」
そこで一旦言葉を切り、そしてにっこりと笑って、
「ざまぁ見ろ」
「一応、協力体制にあるんですよ。もうちょっと」
「民主派がどうなろうが知ったことかよ。俺たちに関係があるのか? 敵のドラゴンキラーを仕留めてやれば、皇女派は他の候補に目を向けるってんだろ? だったら派閥のいざこざと、俺たちが為すべきこととは一切関係が無い。そんでもう一つ。他人の不幸は蜜の味だ」
「正直で結構。そろそろ話を戻しても宜しいですか? 具体的にどうするか」
「アルマの正確な居場所をこっちに流してくれ。後は俺たちとお前の関係が疑われないよう、勝手にこっちで取り返す。なんなら取り返す騒ぎに乗じてドラゴンキラーを一人二人、仕留めてくれたっていい。人数が減ればぐっと楽になるからな。後は簡単。アルマを餌にして、こっちが主導権を握る」
「まあ、分かる話ですが、僕としては保険の意味で、皇女殿下をお助けするのは最後の最後にしたいんですよね。身柄がそちらに渡った時点で皆さんには、逃げる、という選択肢が追加されますし。そうなれば、ええ、大変に困ります」
しばらくジンと視線を交わらせていたが、ジンは無表情にこちらを眺めているだけで、口を開こうとはしなかった。やがて耐え切れなくなって、俺は口の端を持ち上げる。
「なあジン、俺たちは何だ?」
「何と言われましても。えぇと、反皇女派同盟、とでも?」
「お前を人数に入れて勝手に変な名前つけてんじゃねえよ。もっとシンプルな話だ。俺たちは便利屋だろ。だったら頼み方が間違ってる。金だよ。出来る限り大きな額の金、あるいは貴金属。額が大きければ大きいだけ、こっちのやる気は充実至極って寸法だ」
「皇女殿下の身柄だけで満足していただけませんか?」
「えー」
「えーって、子供じゃないんですから」
「|生憎《あいにく》だがこいつは子供だ。いや、母胎で羊水に揺られている胎児のほうがまだ分別がついている。いやいや、下手をすれば種と卵のほうがもっと上等かもしれん」
「煩いぞリリィ。黙ってろ。まあとにかくだ。金を間に挟んでくれないと、やる気が出ないってのはある。それこそ面倒に関わらずに逃げ出したいくらいに。ドラゴンキラーの相手をさせようってんだ。それなりの魅力ってのがどうしたって必要だろう?」
ジンは小さく肩を落とすと、
「金貨で二千枚相当。僕が自由に動かせるお金の全てです。食費の問題等もありますから、千七百枚程度であれば、そちらに提供することは可能と思われます」
「千九百」
「金額については交渉の余地はありませんよ。こっちは最初から最大の額を提示してます」
「なんだつまんねえの。まあいいや。ともあれ話は固まった。宜しく頼むぜ、ジン」
俺は右手を差し出し、そして握手を交わした。
手を離すと、ジンは、
「皇女殿下の正確な居場所が判明したら、お知らせします。後は、僕もそちらに合わせて動きますので」
と言って部屋を出て行った。
「ああ、宜しく」
と閉ったドアに向けて声を投げる。すると、
「逃げる、というのが方針ではなかった?」
とアイロンが言った。
「起きていたのか」
「何かあったらジンを潰す腹だったんだろ。が、次からはもっと上手くやるんだな。ばればれだ」
「そう。以後気をつけるわ。それで?」
「ああ、方針に変更は無い。アルマを確保したらとりあえず逃げる。そのためには、まずはパーマーのところだ。昼になったら動く。そう思ってろ」
「ジンに金の話をしておいて結局逃げるのか。いや、それよりも情報屋に何の用がある」
「決まってるだろ。アルマの居場所を調べてもらうのさ。ジンをべったり信用するのは御免だ。だからパーマーに依頼する。もしジンの寄越す情報と、パーマーが調べた情報に食い違いがあれば、パーマーの情報を採用だ」
「酷い話だな、全く」
「同感ね。疑心暗鬼になりそう」
「ああ、そんな役目を一手に引き受けてる俺にたっぷり同情しろ。金か酒か女でそれを表せばあら不思議。天に召される時に天使が過剰にサーヴィスしてくれる。天国でも一等良い席を確保してくれるとさ」
「貴様、無神論者だろう」
「知らないのか? 今、期間限定お試し入会キャンペーンが実施中だ」
二人は、つまらない、と口を揃えて言った。
俺は無表情に煙草を新たにくわえた。
日の出の時刻が迫っていた。
正午。パン屋兼情報屋のパーマーベイカリー。
明らかに線が細く、どう見ても力の要るパン屋向きではない店主パーマーと、露出の激しい制服を着ているくせに、体つきが十歳児並みに貧弱な売り子アズリルの二人で回されている店だ。
外から店の様子を伺うと、アズリルが焼きあがったばかりらしいパンを陳列している。二人を伴っ店内に入ったが、いらっしゃいませ、の一言も無く、ただ一瞥だけが飛んできた。
「パーマーに話がある。呼んでもらえるか?」
「少々お待ちください」
アズリルはそう言ったきり、パンの陳列作業を続けた。世間話が出来る相手でもないから、自然、目はパンに向く。小腹が空いていたから、どれか買おうか、という気になっていた。それくらいの小銭ならある。
が。
「アズリル、この店のパンを全て貰おう」
とリリィが言った。
「包みますか?」
「いや、ここで頂くとしよう」
「では代金を」
リリィは頷いて、金貨を二枚用意した。アズリルはそれを受け取り、そのまま店の奥へと消えていく。それを眺めている間にも、うちの珍獣二匹は食事を始めていた。
パンが端から消えていく。
常軌を逸した|咀嚼《そしゃく》、|嚥下《えんげ》の速度。手の動きも速い。口元からぱらぱらと雪のように|零《こぼ》れ落ちていくパンの|屑《くず》だけが遅かった。
ぎぃ、と軋《きし》む音を立てて奥のドアが開いたのと、店のパンがすっかり無くなったのは全くの同時だった。そこでようやく気づく。一つくらい確保しておくべきだった。
「見事な食べっぷりだ、と言うべきかな?」
パーマーが苦笑しながら言う。後ろにはアズリルが控えていた。
「暴力的な、って表現がぴったりだろうな。見ろ、こんだけ食って腹の一つも出てねえ。ドラゴンキラーの不思議だ。食ったものはどこ行ったんだ?」
「僕に訊いても仕方がないよ。彼女たちに訊かないと」
パーマーはそう言ってリリィたちに視線を向けたが、
「消化した。すでに血肉だ」
と短い答えがあっただけだった。
「ああそう。で、パーマー。仕事の依頼だ」
「聞こう」
俺は自分たちが置かれている状況を細かく話した。イグレットを拾った段階から話す羽目になったから、それなりの時間が必要で、俺は間に煙草を一本吸った。パンが並んでいないから、気楽に吸える。 話し終えると、
「なるほどね。まあ、そういう保険は大事だ」
と感想を漏らした。
「そういうわけだ。アルマの詳しい居場所を調べてくれ。まあ、さすがにころころと居場所を変えられてるってこたないだろ。どこぞの部屋に軟禁しとくのが、面倒が無くて正解だ」
「どうあれ調べるよ。それが仕事だ。金貨十枚でいい。経費はそちら持ちで」
「経費はそっちでなんとかならないか?」
「なら、他を当たるんだね。これ以上勉強するのは無理だ」
頭を掻きつつ、
「リリィ」
と振り返った。
「手付けに五枚だ。出してくれ」
「な、貴様、私の財布を当てにしていたのか。冗談ではないぞ」
「だったらアイロンでもいい。俺の財布に金が入ってると思ってんのか? お前たちの食費のせいで小銭しかねえよ。だがお前らは違う。仕事で入った金はろくに使っちゃいないんだ。それなりに持ってるはずだろ。違うか?」
仕事を果たした対価として受け取る金は、基本的には山分けだった。比率は俺が四、他の三人が二ずつ。その俺の取り分の中から、ドラゴンキラー二人の食費を|捻出《ねんしゅつ》し、生活費を捻出している。つまり出費がかさむのは俺の財布、つまりは事務所の財布だけで、他の三名の金庫にはそれなりの金が溜まっているはずだった。無駄遣いはしていないということが、一緒に生活しているとよく分かる。
「それは、確かにあるが。こういう金はお前が担当すべきなのではないのか?」
「話聞いてんのかよ。出したくても無いから代わりに出せって言ってんだろ。なぁリリィ、揉める時間が惜しくないのか? その分アルマが遠のくぞ」
リリィはそれでも渋々、といった様子で財布を取り出したが、アイロンが先んじて金貨を五枚カウンターに転がした。パーマーはそれを手にし、確かに、と満足げに微笑した。
「ま、二、三日中には特定することが出来ると思うよ」
「その頃にはまた顔を出す。気を使ってくれるなら、届けてくれてもいい。居場所は、なんとか探してくれ」
「のんびり待つよ」
そうかい、と短く答え、ベーカリーを後にしようと振り返った。リリィたちに続いてドアを開けようとすると、背後から、
「ああそうだった。君に懸賞金が掛かったんだった」
俺は盛大なため息を吐きながら、ゆっくりと振り返った。
「幾らだ?」
「大層な額だよ。金貨百五十枚。立派なものだね」
「掛けたのは?」
「商会だ」
予想通りの答えで、驚くことは無かった。これは商会の意思表示、もしくは宣戦布告だ。ドラゴンキラーが商会に居るのなら、あるいはそういう判断をするかもしれない、という予想は一応あった。
うちの事務所と商会の関係は、一応の友好関係にある。が、所詮は一応だ。たまたまうちの事務所にドラゴンキラーが居て、たまたま街で最強の組織だった、というだけの理由で、|下手《したて》に出ていたに過ぎない。
商会はうちの事務所のドラゴンキラーの威を借りて、勢力の拡大、あるいは維持に努めねばならなかったし、何より、うちの事務所と付き合うようになってから、そこら中で商会が落ち目だとか、商会ももうお終いだとかいう話がちょくちょく耳に入るようになってもいた。
それは面白い話ではないだろう。何より舐められるという事態は、暴力を基盤にしている組織にとっては最低最悪の評価だ。
面子のために俺たちを潰す。力を貸してくれるのは四人のドラゴンキラー。しかもそいつらはそのうち国に帰るから後腐れも無い。便利だ。
「君も不幸な男だね。同情するよ」
「まあ、なんてこたねえ。懸賞金かけられようが、俺はどっちかの珍獣と一緒に動いてるわけだし、普通の人間に襲われようが大した問題にゃならん。この懸賞金にゃ、宣戦布告以上の意味は無えよ」
「分からないよ。食料に毒を盛られることだってあるかもしれない。ねぐらは慎重に選ぶんだね」
「ご忠告どうも」
片手を挙げて挨拶を残し、店の外に出た。リリィが早速口を開く。
「何か話し込んでいたようだったが、トラブルか?」
「経費を持っちゃくれないかと粘ってみたが、あっさり振られた。そういう話だ」
「それが事実ならね」
「ちょっとしたことだよ。気にする価値もねえ。そういうつまんねえ話だ。童話のほうが学ぶものがある分まだ上等だ。それよりとっとと帰るぞ。寒い場所に長く居るのは御免だ」
アルマの居所が特定したのは、それから三日後のことだった。
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断章・四
イグレットは非常に困っていた。
商館の一室である。アルマを軟禁するための部屋であり、イグレットはジルバから監視役として同室を命じられていた。かれこれ三日になる。
そのアルマが、手に負えなかった。
明らかに自分を|篭絡《ろうらく》しようとしている。そのことが嫌というほど分かった。そしてさらに困ったことに、そのことが分かっていてなお、アルマに否と繰り返している自分のことが物凄く嫌だった。出来るならば言うことを聞いてやりたいとさえ思う。
幾らか理由はあった。ジルバのやりようが気に食わなかったためである。
同じ船で出航したはずだった。船内で簡単な打ち合わせやら、まだ教育期間が十分ではないイグレットに対し、細かい手ほどきを色々授けもした。記憶にあるのはそこまでだ。
気が付けば、あの男の事務所に居た。
幸いにしてアルマの身柄を確保できたが、意味が分からなかった。|兎《と》にも|角《かく》にもジルバとの接触を|図《はか》り、そうして合流するなり詰め寄った。どういうことなのかと。ジルバの第一声は、
「保険が真っ先に動くというのは問題だな。やはり精度が甘い。こちらの任意のタイミングで動かないのなら、とてもじゃないが信頼出来ん」
であり、しかもそれはイグレットではなく、彼女の腕を掴んで放そうとしないハンクに向けられていた。そして言葉を向けられたハンクは、左の親指の爪をがじがじと|齧《かじ》りながら|俯《うつむ》き加減に、ごめんなさい、と小声で繰り返していた。
この二人は常にワンセット、そういう印象がある。卑屈さをあらゆる方向へ向けて発散しているハンクのことは、どう頑張っても好きになれなかった。目の下にはうっすらと|隈《くま》が出来上がっていて、人の顔をほとんど見ようとせず、もし見たとしても必ず上目遣いだった。ジルバは小柄で、ハンクは長身であるため、長身の男が小柄な女を|寄辺《よるべ》としている様は、見苦しいことこの上なかった。
だからその苛立ちも手伝って、
「ジルバ!」
と声を荒らげた。
「何か問題があるのか? お前は皇女を連れて戻った。見事任務を果たせているじゃないか」
「俺に説明することがあるだろう。ハンクに何をやらせた」
「潜伏させるのに適しているかと、そう思って試した。ハンクの力は使いようがあるからな。が、駄目だった。記憶の|改竄《かいざん》はそう長くは持たん。まあ、それが分かっただけでも収穫はあったが」
「大事な任務なんだろ。なんでわざわざこのタイミングで試すんだよ」
「保険だったのだよ。身内に信用ならん者が居るからな。そういう者たちに対しての保険だ。本来なら状況が煮詰まった際にこそ切るべき手だがな。先程も言った通り、長持ちせずにこの様だ」
「だからって俺で試すなよ」
「向こうにはリリィが居るのだ。入団したばかりで顔が知られていないお前以上に適任の者など居ないだろう」
イグレットは更に言葉を重ねようとしたが、
「これ以上子供の駄々に付き合っている暇は無い。我々にはまだ仕事が残っている。お前は皇女の監視だ。リリィはこちらで捕らえよう」
「監視ならここの連中にやらせろよ」
「命令だイグレット。従え。それに、信用ならん者が居ると言ったろう。どういう動きをするか分からん。皇女は必ず守れ」
ジルバとはそれきり、顔を合わせても居ない。アルマの部屋に入り浸りだったという理由はあるが、細かな雑用の際にも意図的に避けた。
自分はドラゴンキラーだ。強力な体を手に入れてまだ間がないが、それでも一応、国軍の一員としての自覚はそれなりにある。ジルバは味方であり指揮官。そう思っているから、戦えと言われれば戦うし、逃げろと言われれば逃げる。
そう。彼女が望むのであれば、命令さえすれば済む問題だったのだ。そういう形式を無視されたことが、どうしようもなく気に食わなかった。信頼を裏切られた、という気分になっている。
だからジルバに対するあてつけの意味も込めて、何かやってやろうか、とは思っていたものの、かといって、ここから出せ、というアルマの頼みごとを容れるわけにもいかず、結局、
「あの、殿下。何かもっと、他の頼みごとをしていただけませんか」
と、何度も口にするばかりだった。
「ここから出ちゃ駄目?」
「出たら逃げるじゃないですか。駄目ですよ。それに危ないです」
「だって、このままここに居たらマルクトに連れていかれるもの」
「だって皇女殿下であらせられらす」
舌がもつれたことを隠すように、イグレットは一度咳払いをした。
「あらせられますので、国に帰るのは当然ですよ」
アルマがにっこりと笑っていた。
「普通に喋って。私のこともアルマでいいから」
「いや、駄目です。駄目ですよ。偉い人がそんなこと言っちゃいけません」
「偉くないよ。私は皇女様なんかじゃないもの」
「え? だって、陛下の娘さんなんですよね? だったら皇女殿下じゃないですか」
「継承権っていうのが無いんだって。お母さんの身分が低かったのと、お父さんとお母さんが結婚してなかったから、ちゃんとした子供じゃないの」
そういうことがあるのか、とイグレットはアルマを見つめていた。秘密を共有できたようで、何やら嬉しくなった。
と、慌てて首を振る。
「それでも駄目です。殿下にはここにいてもらわないと」
失敗、と見たのか、アルマはそこで引き下がった。それを見たイグレットは、態勢を整えるために一時撤退か、と物凄く下らないことを考えた。が、的が外れている考えではない。
実際、三十分ほど経つと、
「ねえイグレット」
とアルマが話しかけてきた。
「イグレットはマルクトのこと好き?」
「ええ、まあ。どちらかと言えば、好きだと思います。あんまりぴんと来ませんけど」
「うん。私もどちらかと言えば好き。でもね、好きだからこそ、ちゃんとした人が皇帝にならないといけないと思うの。皇女派って人たちは、継承権を無視して私を皇帝にしようって思ってるんだって。それはいけないことだよね?」
けーしょーけん、と聞こえる間延びした発音が可愛らしかった。意味が分かっていないのだろうな、と自分も分かっていないイグレットは思った。
「政治は大人のすることですよ。俺には分かりません」
「大人とかの話じゃないよ。イグレットがどう思うかってことだよ」
「そう言われてもですね、皇女殿下は」
「私はアルマだよ。皇女様じゃない」
「あ、アルマ様はですね」
「アルマ様でもないの」
「その、あ、アルマは」
「アルマは?」
イグレットはそれ以上の言葉を見つけられなかった。自分が言うべき言葉はあるはずだ。ここからは出せない。リリィが捕らえられるまで待ってもらうことになる。そういう言葉を口にすればいい。
だが、上手く出てこない。
いつの間にか|圧《お》される形になっていて、イグレットは少しずつじりじりと下がった。気が付けば壁が背にあって、アルマは正面で何かを期待するような目で見ている。
何やら逆らい難いものがあった。
「お、俺は、ドラゴンキラーで、マルクトの軍人です」
「軍人なら、国のために戦うのが仕事でしょう? だったら、皇女派の人たちがやってることを許していいの?」
「でも、それは大人が考えなくちゃいけないことで」
「イグレットはお給料を貰ってるんでしょう? だったら大人とか、子供とかは関係なくて、一人前なんだよ。一人前なら、ちゃんと自分で考えないと駄目」
「駄目、ですか」
「うん。だから考えて。そしてもし、イグレットが私に味方してくれるなら、私をここから出して。お願い。私が頼りに出来るのはイグレットだけなの」
アルマは懇願するように微笑むと、イグレットの頬に軽くキスをした。
全身に痺れたような衝撃があった。思わずさっと、そこへ手をやる。が、当のアルマはすでに離れ、話は終わりだと言わんばかりに用意されたベッドまで歩くと、縁にゆっくりと腰を下ろした。
イグレットは呆然とその様子を眺めていたが、やがて、果たして自分はどうすべきかを、改めて真剣に考えようと思った。
一方のアルマは、イグレットを口説き落とすために他に手は無いか、と必死で頭を働かせていた。顔には余裕たっぷりの微笑を貼り付け、背中には焦りが生み出している汗をかいたままで。
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五章
ジンとパーマーの寄越した情報に食い違いは無く、アルマは商館二階にある部屋に軟禁されている、ということが判明した。
早速動き、今は商館近くのアパートの屋上である。
現在午前二時。夜中であることも手伝って、寒い。屋上には雪が当たり前のように残っている。
「具体的にどうするの?」
「突入はリリィが担当。アイロンはそれを援護。リリィがアルマを取り戻すと同時に、お前の力で商館全てを痛みに沈めろ。そしたら敵の中でまともに動けるのは、力が効かねえとかいう、黒竜のドラゴンキラーだけだ。追ってこられても二対一。こいつをなんとか仕留められれば俺たちの勝ちだ。意見はあるか?」
二人を順に見たが、反対意見は出なかった。
そもそも、アイロンの力で敵の動きを封じてから突入したほうが確実だと思う。が、それではアルマも同じ被害に遭う、そんな真似は絶対にやろうとしないだろう。
現在の提案についても、出来れば痛みをばら撒まいた後で、念を押して放火したいところだが、リリィに人殺しを望むだけ無駄だ。余程の必要に迫られなければやらないし、やれない。
だから精一杯の妥協を盛り込んだ手順を考える以外なかった。やるせない話だ。
「意見が無いなら行動だ。とっとと助けて、さっさと街を捨てるとしよう」
「ジンとの約束を破ることになるな」
「だから? 何か問題があるのか?」
「恨みを買うのではないか?」
「あれがそういう男かよ」
そうだな、と答えてリリィたちは立ち上がった。が、思い出したように口を開く。
「お前はどうするのだ」
「ここで待つ。一緒に行ったところで、邪魔になるだけだろう」
「現場で指示を出す者が遠くで成果を待つだけか? せめて声の届く範囲に居るべきだろう」
「化け物同士がかち合うかもしれないってのに、近くに居ろってのか?」
「ああそうだ。安心しろ、ちゃんと守ってやる」
「は、随分とご立派な口の利き方するようになったじゃねえかよリリィ。馬鹿でおぼこでトカゲの分際で、なに上からもの言ってやがる。大概にしろ。お前に守られるくらいなら、雌の羊と遊んだほうがまだましだ」
「子供め」
「|煩《うるせ》え」
「ともかく、近くには居てもらわねば困る。この上なく頼りないが、お前は我々の頭脳なのだ。どれだけぽんこつでも、無ければ手足たる我々は動くに困る」
「無いほうがましな頭もあるけれど」
「好き勝手言ってんじゃねえよトカゲ女ども。お前らのびっくりマジックショーに誰が付き合うってんだ。断固お断りだ」
リリィは俺の言葉を鼻で笑ったかと思えば、次の瞬間、俺は寒くて寒くてたまらない空の上に居た。肩を掴まれ、リリィと共に宙を舞っている。
寒い。死にそうなほどに寒い。
リリィが力ずくで俺を連れて行こうとしていることは、すでにどうでも良くなっていた。地面に足がついていない状況と、寒くてたまらない状況が、それら以外の全てを|些事《さじ》であると判断させた。怖いし寒いし最悪だ。
着地するなり、俺は全力で体を|擦《さす》り、はぁはぁと息を手に吐き、ちょろちょろと動き回った。地面を踏みしめると、生きている感じがする。
「まったく、毎度のこととはいえ、もうちょっとどうにかならんのか?」
「人間は地べたを這いずり回るようにしか出来てねえんだよ」
改めて周囲を確認すると、商館近くの路地裏だった。
煙草を取り出しつつ、
「じゃ、行ってこい。急いで戻れ。手間はかけるなよ」
リリィはご丁寧に俺の煙草に火をつけてから頷き、そしてアイロンと連れ立って姿を消した。
待つこと三十秒。
商館で爆発が起こった。
手はずと違う事態に、嫌な予感が一瞬で膨れ上がり、そして俺は銃を抜いた。
周囲に目を光らせ、耳を澄ませる。野太い声を張り上げ、男たちが騒いでいるらしいことが知れたが、幸いなことにまだ姿は無い。
この場に居るのは|拙《まず》いか。
決断して動きかけたのと、二人が戻ってきたのは同時だった。リリィ、と呼びかける前に腰に手を回され、高く跳ね上がる。屋根から屋根へと跳躍を繰り返していたが、ほとんど飛んでいるようなものだった。背後にはアイロンが追従している。
「何があった!」
風の音が煩いため、声を張る。
「突入した途端に三人と鉢合わせした。突っ込んでみれば連中の部屋だ。ジルバとハンクとヴィーの三人だ。追われている!」
アルマが軟禁されている部屋だと言われてノックしてみれば連中の部屋だった、ということか。つまり、|嵌《は》められたということだ。
だがどういう理屈だ。
ジンとパーマーの間に|繋《つな》がりがあったか、それとも二人それぞれが俺たちを嵌めようとして偶然一致したか。
が、そこで我に返った。それは後から解決すべきことだ。今、何より考えるべきは、ジンの動向。奴は今どこで何をしている。
簡単だ。この場に居ないイグレットの殺害。そのままアルマを自分の手元に置いておくのもありだ。俺たちに対して絶対的な主導権を確保できる。
それは面白くない。そして現状を考えるに、敵性のドラゴンキラーのうち三人が商館内には居ない。ならば。
「商館に戻る。アルマの確保だ。急げ。アイロンは援護だ」
言うなり、後方から何かが飛んできた。それは俺たちを|掠《かす》めて通り過ぎ、遠く離れた所に落着したかと思えば。
爆発した。
建物の一つくらいは吹き飛んだかもしれない。
「なんだありゃ」
「ヴィーが来ていると言ったろう。ちゃんと聞いていたか?」
「お前のとは威力がえらい違うじゃねえか」
「当たり前だ。私の先輩だぞ。火竜歴は向こうがずっと長い。技術も力もヴィーのほうがずっとずっと上に決まっている!」
「何が火竜歴だ。こんなときに無能自慢しやがって屁垂れトカゲ。くそ、当たったらお前はともかく、俺は死ぬじゃねえか」
「ちゃんと守るとも言った。大人しく指示だけ出していろ!」
畜生、と小さく呟いたのと、後方に火の玉の群れが確認できたのは同時だった。
「いっぱい来るぞ、なんとかしろ!」
そして。
「アイロン!」
というリリィの叫びと共に、俺は宙に放り投げられた。
目の前が真っ白になった。死ぬ、というそれ以外の考えが浮かばない。強烈に死のイメージが焼きつく。
と、即座に何か強い力によって肩を掴まれ、俺の体は落下するのを止めた。それがアイロンだと頭では理解していたが、俺はその右腕を精一杯掴んだ。
「放して。気持ちが悪いから」
背後を気にしながらアイロンが言う。そういえば、火の玉は飛んできていない。リリィが処理したのか。
「放して」
繰り返したアイロンの言葉に従い、俺は渋々、そして恐る恐る手を離した。落ち着かない。そのうち、リリィが並走を始めたが、リリィの姿を確認するや、アイロンが俺を放り投げた。
どさり、と再びリリィの腕に納まったときには、思考が完全に停止していた。
だがそれだけでは終わらなかった。そこから更に数回に渡って、俺はリリィとアイロンによって交互に運搬され、しかも二人は途中から互いの呼吸を把握したらしく、事前に声をかけるようなことも無くなったため、突発的に宙に放り投げられては、悲鳴を上げることすら許されずに腕の中に納まった。
最後には死にたくなっていた。
「ココ、ココ! しっかりしろ貴様。|腑抜《ふぬ》けている場合か。じきに商会だ。指示を寄越せ!」
「降ろしてくれ」
「それは正しい判断か? 空が恐ろしいから言っているだけなのではないのか?」
「馬鹿かお前っ! どうしようもなく怖い場所で、まともな仕事を期待するって、どういう頭の造りだ。ああいやいや悪かった。半分竜なんだもんなぁ。そんな化け物に気を利かせろって言った俺が悪かったよ。悪かったとも。だから懇切丁寧に分かりやすく言ってやる。俺の足を、両方とも揃えて、地面につけろ。まずはそこからだ」
「煩い馬鹿。そんな余裕があるものか。アイロン、突入する。援護を頼む」
「分かった」
「降ろせっつってんだろ!」
「黙れ。これ以上口を開くようなら顎の骨を|微塵《みじん》に砕くぞ。その口は無いほうがまだましだ」
そして。
商館二階の外壁を粉砕し、俺たちは内部へと突入した。
床の上を転がると、物凄く生きている気がした。
踏み場がある、踏ん張れる、という事実が世の中の素晴らしさを教えてくれる。
活動を停止していた脳味噌が再び活発に動き出し、何を為すべきかを即座に決定した。
「アルマを確保する。手分けして片っ端から調べるぞ。ジンと遭遇しても手は出すな。一応は敵の敵だ。むかつく話だが、生かしておいたほうがこっちにとっちゃ得だ」
「さっきまで泣きそうだったくせに」
「茶化すのは後にしろ。時間が無い。すぐ三人がやって来る」
言いつつ、手近にあったドアを蹴り破った。都合の良いことに、中に居たのはそこそこの立場にある者だった。脱ぎ散らかされている高級そうな服が良い証拠だ。そして更に運の良いことに、男は素っ裸で、ベッドの中で少年の肩を抱いていた。
思わず笑みがこぼれる。ついている。相手は丸腰だ。
男は俺を認識した途端、
「お前、ココ!」
と叫んだ。俺はどかどかと部屋に押し入り、男に銃口を向ける。背後ではリリィたちが別の部屋に押し入ったのか、鈍い音が響いてきていた。
「アルマはどこだ。分かりやすく伝達しろ。断ってもいい。愛人共々死ぬ気があるなら」
「どうせ喋ったら撃つんだろ? 上等だ。撃てよ。もたついてる間にお前は死体だ。客人に殺され」
俺は無表情に少年の左腕を撃った。まだ声変わりもしていないらしく、甲高い叫びが耳に痛い。
「ケイン! ココ、手前っ」
「どうする。お前の|玩具《おもちゃ》が蜂の巣になるぞ。やっぱ体は綺麗なほうが、愛し合う時に気分の盛り上がり方が違うんじゃねえの? 銃創だらけの体を愛せるってんなら、言うこたないが」
言いつつ薄笑いを浮かべる。
「糞が」
どん。絶叫と共に少年の右肩から血が噴き出す。
「止せ! 分かった、言う。言うから撃つな」
銃を少年に向けたまま顎で示すと、
「お前んとこの嬢ちゃんなら、三階の客間だ」
聞き入れて、引き金を引こうとした。が、引けなかった。男は俺のことになど目もくれず、シーツを引きちぎって止血を施そうとしていて、その心配そうな表情が、どうしようもなく気に障った。一瞬、アルマを心配しているリリィの表情とだぶったからだった。
だから撃てなかった。
だから|躊躇《ため》らった。
そしてそれを時間の無駄だと判断した。
くそ、と捨て台詞を残し、俺は部屋を後にした。廊下に戻り、リリィ、アイロン、と名を呼ぶ。即座に壁をぶち破って、それぞれが廊下に姿を現した。が、奥へと伸びる廊下には、商会の下っ端どもが方々から集まってきていた。手には当然のように銃がある。俺が銃を向けると、アイロンがそれに応え、連中に向けて右手を差し出した。
ばたばたと端から倒れていく。倒されたものはもれなく悶絶していた。便利だ。
と、同時に、リリィの表情が凍り付いているらしいことが確認できた。
振り返ると、俺たちが突入するために空けた穴に、三人の男女が立っていた。中にはヴィーの姿がある。つまり俺たちを追っかけていた三人のドラゴンキラー。残りの二人がジルバとハンク。
「なるほど、お前がココか。よくもこのような無謀な選択が出来たものだ。感心する。愚劣極まる。少なくとも私には同じ真似は出来ん」
そう口にしたのは、ジルバと思われる女ドラゴンキラーだ。
年は二十代後半。何の飾り気もない黒のスーツに革靴。リボンタイだけが赤い。装飾品の|類《たぐい》は一切見当たらなかったし、化粧気もほとんど無い。
真っ直ぐな黒髪は後ろでまとめられ、団子にされている。前髪は定規で測ったように眉の辺りで切り揃えられていた。整った顔なのだと思うが、汚物を見るかのような黒い目の印象が最悪だ。十人中八人が嫌な目だと言いそうな具合。身長はリリィと大して変わらないぐらいで、つまり女としては普通だ。 で。
その隣にひょろりとした男が立っていた。こいつがハンク。
三十代前半だと思えたものの、|身形《みなり》が酷かった。ごく普通の、紺色のスーツだと思うが、あちこちに自分で|掻《か》き|毟《むし》ったと思える穴が空いている。ぼろぼろだ。ネクタイは締めておらず、胸元は大きく、だらしなく開かれている。
こちらも自分で掻き散らしたと思えるブラウン
の髪はぼさぼさで、同じくブラウンの目には何が気にかかるのか、不安の色が濃い。目の下には|隈《くま》も目立つ。鷲鼻に薄い唇。こけた頬が鬱陶しい。
そして何より、男は自分の爪をひたすらに噛んでおり、右手はジルバの腕を掴んで離そうとしなかった。情緒不安定、そういう言葉が即座に浮かぶ。
俺は三人を眺めつつ、慎重に言葉を選んだ。選んだ結果、
「よぉ、あんたがジルバか。そっちはハンクだったかな。黒竜に、知竜のドラゴンキラーだ。それで合ってるよなヴィー?」
と、笑いながら言った。ヴィーの表情が硬いものへと変わっていく。ジルバの顔がヴィーを向いた時点で、俺はじりじりと下がり始めた。二人との合流を目指す。
「なるほど、すでに接触していたか。釈明を聞こうか、ヴィー」
「悪いと思ったんだけどね。でもそれでも、リリィに死んでもらいたくは無かったから。ま、処分を受ける覚悟は出来てるわ。減俸か謹慎で済めば嬉しいけれど」
「それを決めるのは団長だ。私ではない」
「じゃあ取り成して。もうしないから」
「行動を以て示すのであれば一考しよう」
「分かってるわよ。仕事はこなすわ。お給料のためにもね」
俺が二人の居る位置まで下がったのと、ジルバとヴィーの会話が決着を見たのは同時だった。
「ココ、どうするのだ」
とリリィが小声で言う。
「連中相手に時間を稼げる自信、あるか?」
「無い。無理だ」
とリリィは言い切った。
「じゃあアイロンの力で痛い思いをしてもらったら、三階の客間を目指す」
「アルマはそこか」
「ああ。アルマを助けられても逃げ切れなきゃ同じだ。気をつけろ」
ヴィーが右足を一歩踏み出した。が、同時に表情が歪む。ジルバの隣に居たハンクも、自身を抱きしめるように、その場に膝を折った。さすがアイロン。それを確認して、リリィの腕が俺の腰に回された。
そして。
視界が一気に歪んだ。体に強烈な力がかかっている。遅れて理解すると、どうやら床すれすれのところを飛ぶように移動しているらしかった。そして理解したのも束の間、体にかかる力の向きが変わる。 階段を上がっていた。上がりきったところで、
「どれが客間だっ」
と、リリィが叫ぶ。直後、またしても体にかかる力の向きが変わった。が、今度は移動したわけではなく、蹴り飛ばされたようだった。
リリィと一緒に揉みくちゃになりながら床を転がる。完全に止まると、リリィが先に立ち上がった。遅れて立つと、いつの間に追いついたのか、アイロンの姿が目に入る。二人して、ジルバと対峙していた。
「ジルバ」
「お前を拘束せよとの命令だ。投降しろと言っても聞く耳は持たないだろうから、遠慮なく|抗《あらが》え。最大の力と、全ての知恵を用いて抗え。それがお前たちに残された最後の自由だ」
「構うな、アルマを探せ!」
「させるわけがなかろう」
そして三人の姿は消え失せ、代わりに多種多様な音と、空気を震わせる衝撃だけが伝わってくる。廊下に並んでいる調度品が粉砕され、壁には穴が空いていく。
部屋の中で竜巻が起こったような錯覚さえ覚える。
その竜巻の中、俺は行動を起こさねばならなかった。ドラゴンキラーと戦えない俺には、アルマを探す以外の選択肢は無い。
放っておけば体中に広がりそうになる恐怖を必死で抑え、扉の一つを開ける。
が、空。
次だ。そう思って体を返すと、どう、という鈍い音が響いた。
アイロンだった。壁に上半身をねじ込まれている。腰から下だけが露出しているが、ぴくりとも動かない。気を失っているだけだと願うばかりだ。
ともかく次だ。が、同時に、
「痛たたた。これ、きっついわね」
と、表情を歪めたヴィーが俺の前に立った。しきりに体を擦っている。
「効くだろう? 加減を知らない女だもんな」
言いつつ、自分の表情が歪んでいくのが分かる。絶望的だ。出し抜ける気がしない。
「緩めれば気絶しそうよ。ま、でもあなたが相手なら、どうとでもなるか。この状態でリリィと戦うことにならなくてよかったわ。加減が出来そうにないもの」
「もう一人はどうしたよ」
「ハンク? うずくまって震えてるんでしょう」
「あ?」
「そういう人なのよ。誰かと一緒じゃないと、何も出来ないの。さて、もういいかしら?」
「ああ、出来ればもうちょっと話したいね」
「残念。時間切れよ」
どん、と派手な音を響かせて、床の上にリリィが転がった。その脇にジルバがふわりと着地する。
「決着だ」
ジルバが蔑むような目を向けてくる。
俺は、笑った。精一杯の見栄を張る以外なかった。
「苦しまないよう、即死させてあげるわ」
「それは困ります」
脇から上がった声に、俺たちは一斉に反応した。
「困りますね」
声の主は間違いなくジンのもので、俺はわずかに腰を落としたが、すかさず、
「動くな」
とジルバの声が飛ぶ。
「ジン、どういうことだ」
「イグレットさんが居なくなりました。皇女殿下を連れて」
「事実か?」
「なぜそんな質問を?」
「質問に答えろ」
「事実です」
「この男に出し抜かれた、ということか?」
「それを調べるためにも、まだ殺してもらっては困る、という話です」
二人はしばらく睨み合っていたものの、やがてジルバが小さく息を吐いた。
「後ほどハンクに調べさせる。それまで監禁しておけ。それから、そちらの痛竜は不要だ。処分しておけ」
「了解しました」
怪物たちの会話に耳を大きくしつつ、俺はジンの言葉の意味を考えていた。まだ利用価値があると踏んでのことか。そもそもイグレットはまだ生きているのか。アルマは今どこに居るのか。
が、それらの思考は、ヴィーの見せた微笑によって中断された。
「暴れられても面倒だから、大人しくしてもらうわ」
ひゅ、と乾いた音。
直後。俺は気を失った。
目を覚ますと、下着一枚きりのあられもない姿だった。
寒い。そして動けない。おまけに体中が痛い。
腕は後ろ手、胴と足は椅子に|括《くく》りつけられている。動けないのはまあ当然としても、あちこち痛むのが問題だった。
とりあえず、左目が思うように開かない。|瞼《まぶた》が|腫《は》れているらしい。見える範囲には|青痣《あおあざ》が目立った。両手がずきずきと痛むのは、どうやら爪が剥がされてしまったからか。舌を回して口の中を確認してみたが、切れているだけで、歯は折れていない様子。
どうやら、気絶させられた後で散々にやられたらしい。不幸中の幸いは、体のパーツが落とされなかったことぐらいか。手足も指も顔も、一揃えある。
くしゃみが出た。
そこで部屋の様子を確認すると、何やら|厨房《ちゅうぼう》のようである。が、よくよく観察してみると、違った。無駄にでかいノコギリとか、やたらとよく切れそうな巨大な包丁がずらりと並んでいる。
即座に現実逃避の思考が始まった。怖いことを自覚してしまった瞬間に負けだ。後はずるずると恐怖に食われる。そうならないために、どうでもいいことを延々と考え始めていた。
さらにくしゃみが出た。
「結構な|様《ざま》だこと」
やけに分厚い入り口のドアを開けながら言ったのはヴィーだ。かすかに見えるドアの隙間からは、商会の下っ端の顔も確認できる。
「よぉ久しぶり。今何時?」
「もうすぐ夜明けよ」
「あ、そう」
ヴィーは全力で眉を寄せながら言葉を探している様子だったが、丁度いい言葉が見つからなかったのか、最後には椅子を引き寄せつつため息をついた。
「私は逃げろって言わなかった?」
「逃げようとしたさ。ただアルマを持っていかれたからな。逃げようがなかった」
「ええそうね。イグレットのことは驚いたわ。本当に」
「それだけか? 出来れば|精魂《せいこん》こめた謝罪の言葉が欲しいんだがな」
ヴィーは俺の軽口を無視した。すっかり自分の世界に浸ってしまっている。
「結局どういうこと? イグレットはあなたたちの味方なの? 大体、もしそうなら、わざわざこんな場所に突入なんてせずに済んだはずでしょう?」
「ああ、喋りたいが、頼みを一つ聞いてくれ」
「何? 逃がせないわよ。私もこれ以上立場を悪くしたくないし」
「煙草くれ。あとは右手だけでいいから、縄解いてくれ。そうすりゃ幸い。俺は自分で自分を慰めることだって出来る」
「普段からそういうどうしようもなくつまんないことを口にしてるの?」
「好き好きだろ。|反吐《へど》が出るって奴もいれば、鼻で笑って軽口を返す奴もいる」
「それ、結局好かれてないんじゃ」
「いいからお願いだ。俺に煙草を吸わせてくれ。腕の立つドラゴンキラーと同室してるんだ。玉は縮むし、怖くて頭が回らない。それよっか、及び腰でもいいから現実と対峙する臆病者のほうが、あんたもいいだろ? それには煙草が不可欠だ」
「臆病者の台詞とは思えないわね」
「パンツの中に手ぇ突っ込んでみれば分かる。汗だくだ」
「止めておくわ。不潔なものには出来るだけ触りたくないから」
ヴィーはそこで立ち上がると、外に出て行った。程なく戻ってくると、その手には煙草の箱が握られている。普段俺が吸っているものより幾らか上等な銘柄だった。
箱から一本抜き取り、俺の口の前に差し出される。右手を外してくれるつもりはないようで、首を動かして煙草をくわえる。ヴィーは流れるような動作で人差し指に小さな火をともした。
それを使って火をつけたが、銘柄の違いか、それとも火が違うのか、吸った感じがいつもと随分違っていた。
煙を吐き出しながら、訊かねばならないことに優先順位を付けていく。二口吸ったところで、
「で、アイロンはどうしてる? 死んだか?」
「生かされてるみたいよ。商会の人たちとジルバが話してたから、何か取引でもあったんでしょう。具体的な話は聞かされてないけどね」
「そうか、そいつは何よりだ」
「リリィのことは?」
「あ? あいつの何を訊けってんだ。生かして連れ戻されるんだろ? だったら生きてるに決まってる。心配するだけ時間の無駄だ」
「薄情な人ね。まあいいわ。それで、イグレットはどこ? 皇女様はどこ?」
「俺が聞きたいくらいだ。イグレットはお前たちの仲間だろ。何でこういうことになってる」
「あなたにとっても想定外のことだったと?」
一応、筋道は二つ、頭にあった。
一つはイグレットはすでにジンに殺されていて、アルマもジンの手元にある、という場合。もちろん商館内には居ないだろうから、アルマはどこぞに監禁されていることになる。
二つ目は、本当にイグレットが仲間を裏切った、という場合。
一応、ジンに急襲されたイグレットがアルマを連れて逃げた、というケースも考えられるが、この場合は仲間に保護を求めるのが当然だし、ジンは立場を失くしているはずだ。だからこれはあり得ない。「ああ。さっぱりだ。何が何やら分かんねえ。大体あんたも言ってたろ。あの小僧が味方なら、わ
ざわざこんなところに突入してねえよ」
「そうよね。待っていれば皇女様が手元に戻るっていうのに、そんなことをする意味が無いわよね」
実際はあったから突入した。ジンにアルマを渡すわけにはいかなかったからだ。が、一応は関係を伏せなければならないわけで、そんなことを口には出せない。いいように使われているというのに、不愉快な話だ。
不意に、本当に不意に。
そんなことを考えてどうする、という自問が自己主張を始めた。途端に恐ろしくなる。目を背けていたはずの、何を喋ろうとも殺される、という事実が重たくのしかかった。
畜生。死にたくない。絶対に死にたくない。死ぬのだけは嫌だ。
ではどうする。どうすればこの状況で命を拾える。
俺が知っていて連中が知らないこと、具体的にはジンのことについて喋ってみるか。引き換えに命を保証させる。いや、どうせ殺されるのがおちだ。対等ではない関係の間に結ばれた約束など|脆《もろ》いものと相場が決まっている。
どうする。
考えていると、ヴィーが再び口を開いた。
「あなた、リリィとはどう?」
「どうって何が?」
「ちゃんと愛してくれてるかってこと」
短くなっていた煙草が口から転がり落ちた。慌てて掴もうとするが、両腕ともがっちり固定されていて、椅子ががたがたと音を立てる以外なかった。
火傷する、と思ったのと、煙草が消えたのは同時だった。いつの間にか、ヴィーの手の中に納まっている。
「丁度いい、新しいのくれ。ああ悪いが、破壊力満点の質問だったんでな」
ヴィーに新たな煙草を貰って煙を吐くと、
「愛って言葉を聞いたのは久しぶりだ。しかも相手がリリィか。笑える話だ」
「愛してないの?」
「対価を求めない情をそう呼ぶのなら、リリィにそいつを感じたことはねえよ。ただ感謝はしてる。幾らか世話にはなったからな。俺に出来る範囲で、借りは返してきたつもりだ」
「女として見てないってこと?」
「残念ながら致命的に色気が足りねえ。俺は肉付きの良い女が好きだ。もっと言えば、尻が丸くないと駄目だ。尻は最高だ。考えただけで幸せになれる」
「いや、そういう話じゃなくて、もっとメンタルな、プラトニックな話をしているつもりなんだけど」「いやいや、自分にとっての最良を追求するのは当然だろう? 見てくれも体も頭の中身も全部大事だ。全部がそこそこならまだ妥協できるんだろうが、生憎リリィは体つきが致命的に貧弱だ。幼児体型って奴だな。だから無理だ。金を積まれても御免だ」
ヴィーは呆れたようだった。
ちらりと語ってしまった本音の照れ隠しだとばれているだろうか。
「リリィが心配か?」
「当然でしょう。大事な友人が、自分の教え子が、確実に死ぬってことが分かってるのに」
「他の何かと|天秤《てんびん》にかけて、リリィの反対側が重かったってだけだろ。今更罪の意識かよ」
ヴィーは睨むような挑戦的な目つきで俺を見ていたが、やがて、何かを振り切るような口調で、
「ええそうよ。私は私のためにリリィを捕まえたわ。結果あの子が死ぬことになっていると分かっていても、それでも捕らえた」
付け込めるかも、という感触が伝わってくる。勝負所だ、と判断した。
「頼みがあるんだがな」
「逃がせないってさっき言ったでしょ。無理よ」
「それは分かってるよ。立場があるもんな。けど、罪の意識って奴もちゃんとある」
「何が言いたいの?」
「あんたの立場を悪くしない範囲で、手伝ってくれると非常にありがたい。具体的にはそうだな、煙草をもう一本と、あとは右手を解いてくれりゃいい。後はあんたに迷惑がかからんようにこっちで勝手にやる」
「一人で何が出来るの」
「そりゃあ全部を放り出して逃げるのさ。当然だろう?」
微笑を浮かべてそう言い切った。ヴィーはそれに微笑で答えた。勝手に良いように解釈してくれたに違いない微笑だった。
「一つだけ教えて。あなた、リリィのこと好き?」
「その質問にゃ答えかねるが、残念なことに命を賭けようとしてることだけは事実だ」
ヴィーは微笑を苦笑へと変え、そして黙って俺の右手を解いた。煙草の箱を俺の膝の上に放る。
「あの子のこと、宜しくね」
それを受けて、果たして俺は本当にどうにかするつもりでいるのか、と自問した。
するつもりだ。
断固お断りだ。
同時に二つの声が上がったものの、困ったことに、するつもりだ、という声のほうがほんの少しだけ大きかった。
また一つ自分が嫌いになれそうだった。
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断章・五
アイロンが目を覚ました時、同室している男が二人いた。とりあえず眠ったふりを続けよう、と判断したが、果たして自分の寝たふりは芝居として成立しているのか、と不安になった。以前にココに指摘されたことを思い出したからだった。
意識を内側へ向けると、自身の体は、ロープで椅子に縛り付けられているらしいと分かった。どうとでもなる、とすぐに判断する。このロープには、アイロンを椅子に綺麗に座らせる以上の意味は無かった。
「ああもう、だから分かってますって。そんなに強く掴まないで下さいよぅ。|痣《あざ》んなるだけじゃなくて、折れちゃいますって」
「ご、ごめん」
「お宅さん、本当にドラゴンキラーなんです? ごめんごめんってさっきからそればっかりじゃないですか。もっとどっしり構えてください」
「わ、わ、分かってる。分かってるよ」
男がため息をついたらしい。話し振りから察するに、片方が普通の人間、片方がハンクのようだった。
「ヴィーさん、遅いですね」
「ごめん」
「だぁかぁらぁ。そこ謝るところじゃないでしょ。何で謝るんですか。ドラゴンキラーで、いい年してるんだから、もっとばーんと構えましょう。ばーんと」
「ば、ば、ばーんと」
「そうですそうです。とりあえず爪を噛む癖、どうにかしましょう。ね?」
「頑張って、みたいと、思う」
またため息が聞こえた。
「そうですか。とりあえず我慢してくれるとか、そういうことはしてくれないんですね」
「あ、ご、ごめん。噛まない。噛まないから」
「いや、いいです。何か、俺が|苛《いじ》めてるみたいになってるし。客人に失礼ですよね。よし、じゃあ噛んでいいですよ。噛みたいだけ噛んでください」
「ありがとう」
「どういたしまして」
これは好機ではないか、とアイロンは考えていた。
どうやらハンクだけの様子。もう一人の男は数のうちにも入らないから無視して構わない。
動くべきだ。ハンクを殺せば、状況は少しだけ改善される。
と、アイロンの耳に言葉が届いたのはそのときだった。目の前の男二人の声はいつの間にか聞こえなくなり、とても音のこもる部屋で、その人物と二人きりで話しているような聞こえ方だった。
「僕です。ジンです。現在部屋の外に居ます。ああ、返事は声を出してくださって結構ですよ。大丈夫、彼らには聞こえませんから」
ジンは確か音竜の力を持っていることを思い出した。そういうことが可能なのだろう、という実感はあったものの、踏み切る勇気が足りなかった。そんなことをするよりも、今、この場で動いてハンクを仕留めるほうが有効だと思った。
だが、動くよりも先に、ジンの提案があった。
「ハンクさんを仕留めます。手を貸してください。あなたの力で少しの間動きを封じてもらえれば、あとはこちらでやります」
なるほど、同じ事を考えていたらしい、とアイロンはほっとしていた。こちらの力を少しでも当てにしている以上、自分を嵌めるような真似はしないだろう、と考えた。だから、
「分かった」
と小さく答えた。
「結構です。そちらのタイミングでどうぞ」
「カウント五、四、三、二」
一、ゼロ、と心の中で呟きそして、アイロンは目を開けた。
即座に目の前の二人を睨む。二人は驚いてこちらを見たが、すでに痛みに冒されているためか、小さく悲鳴を上げた、ように見えた。その声はアイロンにも届いていなかったから、判断はつかなかった。 同時に、部屋の扉が開く。ジンが滑るように侵入し、そしてハンクの胸を貫いた。
肉が貫かれる音も、腕を引き抜かれて血が噴き出す音も、ハンクの悲鳴も何も聞こえない。無音の|殺戮《さつりく》だった。
ジンはハンクの死亡を確認するなり、脇に残っていた男の首を蹴り飛ばした。ありえない方向に首が曲がり、男は命を失った。
全てが済んだところで、ようやく音が聞こえるようになる。
「ご苦労さまでした。いや、急な話で申し訳ありません。ご協力、感謝します」
ジンは腕まくりをしていたようで、今はその腕からハンクの血がぽたぽたとこぼれている。タオルでそれを丁寧に拭き取ると、すいませんが処分をお願いします、とアイロンに向けて放った。アイロンはロープを引きちぎっていたところで、タオルは丁度膝の上に落ちた。
「それで、重ねてもう一つお願いが」
「何?」
「僕を殴ってください。気絶させる程度に強く、死なない程度に弱く。つまり、ハンクさんを殺した罪を被ってください」
「お断りするわ。ココの態度からして、あなたを信用するのは危険だ、と思っているから」
「僕らは同じ方向を向いてますよ。それに、時間があまりありません。どうかこの通り」
「アルマはどこ?」
「残念ながら逃げられまして。ええ、イグレットさん共々」
「嘘でしょう?」
「事実ですよ。彼を殺そうとしたことは事実ですが、逃げられたことも事実です」
この男のことは好きになれそうにもなかった。何やらぬるぬるとしていて、不愉快さばかりが募る。だが、ジンの提案を受け入れても良いか、という気にはなっていた。
殴れるのだ。目一杯。|溜飲《りゅういん》は下げられるだろう。
「いいでしょう。受けるわ」
ありがとうございます、とジンは微笑した。綺麗な顔だが、気に食わない顔だった。
アイロンは立ち上がって力を込めたが、
「ああそれから、リリィさんが敵になりましたので」
唐突な発言に虚を突かれたものの、今更拳を引くことも出来ず、詳しい事情を仕入れる前に、ジンは床の上を派手に転がり。
気絶した。
溜飲はあまり下がらなかった。
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六章
体の各所を縛っていた紐を全て緩めるか、あるいは焼き切った。
そして刃物には不自由しない部屋だったから、その中から小ぶりの刃物を見み|繕《つくろ》った。刃物は好みではないが、好き嫌いが言える状況でもない。それを椅子と背中の間に挟み、そして縛られているように見えるよう、紐を緩めに縛りなおした。何度か試して、簡単に手足が自由になることを確認すると、後はただ待った。
時計が無いために正確な時間は分からないが、体感で三十分ほどが経過した頃、ドアが開いた。三人連れの男たちがぞろぞろと入ってくる。
「いい|様《ざま》だなぁココ」
と言いながら、いきなり腹を蹴られた。空気が押し出され、咳き込んだ。ゆっくり顔を上げると、
「お、気づきやがった」
と笑い、顔を近づけてくる。内ポケットに銃が見えた。
「よく聞け。お前はそのうちばらされて晒される。残念ながら客人が用があるとかでな、そいつが済むまでは殺すなってお達しだ。けどな、そいつは味見しちゃいけないってことじゃあない。受け答えが出来りゃそれで十分だからな」
「ああ、そいつはごもっとも」
答えると、顔を殴られた。
「黙れよ。誰が喋っていいって言った」
肩を竦めると、また殴られた。
「なんとか言えよボケナス」
当たり前の理不尽に、何やら笑いたくなる。が、表情には出さなかった。ただ、心の中で見下し、同時に殺意を育て上げていった。
殺す。何があろうとこいつは絶対に殺す。
「まあいい。他の連中にも残しとくって約束になってるんだ。さて、俺たちはどうする? 俺としちゃ、耳か鼻を削ぎ落とすぐらいやってやりたいんだが」
男が他の二人を振り返り、そして俺はそれを好機と見た。即座に手足を縄から抜くと、背中に挟んであったナイフを取り出し、目の前の男の喉首を掻き切った。|肋骨《ろっこつ》の隙間から心臓を狙い、刺し、えぐる。そのまま拳銃を奪った。
そこまでやってようやく二人が動いたが、俺の動きのほうが速かった。
撃鉄を起こしつつ煽り打ちで四発。それぞれに二発ずつを撃ち込む。距離が近いお陰で外れもしない。勿論|止《とど》めは刺した。弾切れを起こした銃を投げ捨て、他の二人が握っている銃を奪う。どちらもシングルアクションで、少し気に食わなかったが、贅沢は言えない。即座にドアに向けて構えたが、外で動きがある様子は無い。防音がしっかりしているのだろうか。
ともあれ、時間があるのはありがたかった。
死体の着ている服を剥ぎ取り、順に身につけていく。サイズはぴったり合った。ベージュのスーツ上下に革靴。上は黄土色のトレンチコート。どこの役人かと思える格好が出来上がってしまったが、文句は無い。寒さには勝てない。
死体からホルスターとクイックローダーを一つ、それからライターを見繕って、最後に一本くわえた。
これからどうするべきか。
現在連中の腹の中。危地ではあるが、同時に好機でもあるだろう。リリィとアイロンとの合流を優先すべきか、あるいは単独でも逃げることを優先するか。
即座に、なるようにしかならない、と投げやりな結論に達した。どちらを優先しようとも、どちらも困難であることに変わりは無い。だったら運任せだ。
煙草を踏み潰し、やたらと分厚い扉を押し開けた。
「おぉ、随分遅かったなぁ」
と呑気な声が聞こえる。扉の脇に座っている下っ端のもので、視線は手元に向いている。白い粉とスプーン、ライターが目に入った。
銃を突きつけると、
「あ、お、お前っ」
「うちの女どもはどこに居る」
「あは。相手見てもの言えよぅ。俺が知ってるわけねえだろう?」
男は楽しそうに、あはは、と笑った。撃ち殺そうと思ったが、グリップで殴りつけ、先程の部屋まで引きずる。目立つことは出来ない、とそこでようやく気がついたからだった。
「もう一回訊くぞ。うちの女どもは、どこに居る?」
「知らねぇよぅ」
やっぱり男は楽しそうだった。そして楽しそうなまま死体になった。
ちょっとだけ楽しくなっていた。
取り戻したもののお陰だと思った。
体の自由と暴力。
そして同時に取り戻したものがもう一つ。
何かといえば。
痛くてたまらない頭痛だった。
リリィたちの居場所を特定するまでに時間はかからなかった。先程殺した男の口振りから、どうやら代わる代わる俺を痛めつける話になっているらしいと考え、次に来る集団を待ち、襲った。二人組みだったが、片方を始末し、片方に吐かせた。
それによると、リリィは三階、階段上がって最初に目に入る部屋。アイロンはその二つ右隣、ということらしい。体に訊いたから、それなりに信頼が置ける情報だろう。
現在一階物置。
冷静に考えると、リリィたちが居る部屋には誰かが同室しているはずだ。それが普通の人間ならまだなんとかなるが、ドラゴンキラーである可能性が高い。ドラゴンキラーには物理的な拘束はまず無意味だし、であるなら、同類がその動きを封じる必要がある。
ということは、助けに行くだけ無意味だ。のこのこ出て行っても捕まるのが関の山。
逃げよう、という気になった。
逃げて、一旦態勢を立て直すべきだと。
態勢を立て直して。
立て直して。
立て直すってどうやって。
かろうじて頼りに出来そうなのは、生死すら定かでは無い上に、敵か味方かさえはっきりしないイグレットぐらい。
さすがにそんな不安定なものを当てには出来ない。
そもそも何を以て立て直したと言うのか。
簡単だ。リリィとアイロンが揃って俺の手元にあることをそう呼ぶ。
考えていくと、何やら物凄くぐったりした。道は前にしか無かった。不自由だ、と思う。面倒を背負い込み、自由を打ち捨て、不自由を手に入れて、か。笑える話だ。
であれば、不自由を|謳歌《おうか》するしかない。自由を謳歌出来て、不自由を謳歌出来ない道理がどこにある。くそったれ。笑いたくなるほど出来の悪い屁理屈だ。
腹を括り、動こうと決めた。
ドアをほんの少し押し開け、前方を確認する。人影は無い。滑るように体を押し出し後方確認。こちらも大丈夫。右手にナイフ、左手に銃を構え、階段を目指して走り出した。程なく到着。左右に上方まで警戒しているから、肩が凝りそうだった。
音を立てないよう最大限注意しつつ、素早く階段を上っていく。願わくはこのまま誰とも会いませんように。
が、願い|虚《むな》しく、二階と三階の間の踊り場に辿り着いた時、階下から声が上がった。
「ココが逃げたぞ! 探せぇっ!」
同時にドアの開く音、廊下を打ち鳴らす足音が響いてくる。
ばれた。すぐに見つかるとは思っていたから覚悟の上ではあったものの、それでも嫌なものは嫌だ。急がねばならなくなった。
足に力を込め、音が立つのも構わずに階段を二段飛ばしで駆け上がった。上がり切るなり扉が目に入るが、同時に見張りらしき男が二人立っていた。
目が合った。俺は銃を使った。一発、二発。片方が倒れるが、残りは腕を掠めただけだ。使い慣れない銃に心の中で愚痴を垂れ流し、改めて二発撃った。そこでようやく残りも片付いた。
ドアに手をかけると、鍵は掛かっていない様子。
一瞬、|躊躇《ためら》った。もし中にドラゴンキラーが居たら、と想像した。敵はジン以外の三人。確率はそれなりに高い。
が、すでに引き返せない。下には敵がうじゃうじゃ居るし、こちらの武装は貧弱だ。背筋を這いずり回ろうと準備している恐怖が、嫌な汗をかかせた。改めて、危地の極致へと行進していると気づかされる。
「くそ。運任せだ」
ドアを開け、体を滑り込ませ、後ろ手に鍵をかける。
部屋の様子を確認すると、中央の高級そうなソファに寝かされているリリィ、ただ一人が目に入った。他に人の気配は無い。
喜色が顔に出たのが分かった。
運が良い。あれほど心配したのが馬鹿らしくな
ってくる。最高だ。案外どうにかなるじゃないか。
気を抜けば笑い出しそうになるのを抑え込み、俺はリリィへと駆け寄った。頬を叩くと、眉間がぴくぴくと|痙攣《けいれん》する。
「いつまで寝てんだよ馬鹿。とっとと起きろ」
リリィはゆっくりと目を開けた。暗い中、右目が煌々と光をたたえている。
「ったく、見張りはついてねえようなもんだろうが。だったらお前が俺たちを助けるのが当然だってのに、気持ちよくお休みとは恐れ入る」
どん、とドアが鳴った。鍵が無いのだろうか。力ずくで打ち破ろうとしている。
「お、馬鹿どもが頑張ってら。まあいい。アイロンを助けるぞ。この部屋の二つ隣だそうだから、
壁をぶち破って」
と、リリィを見たが、ゆっくりと体を起こしているところだった。
「おい何呑気に構えてんだよ。とっとと」
その時だった。
弾かれたようにリリィは動き、俺の胸倉を掴むと、そのまま壁に向かって放り投げた。
どん、と衝撃が体を突きぬけ、押し出された空気が喉を抜けた。激しく咳き込んだが、それを見下ろしながらリリィが言う。
「貴様がココか。なるほど愚劣だと聞かされていたが、まさにそのようだ。のこのこと敵の部屋にもぐりこみ、訳の分からぬ|妄言《もうげん》を垂れ流す。それとも、これがこの街の習いなのか?」
「お前、何言ってんだ」
「貴様こそ何を言っている。私の|主《あるじ》のような物言いをして、自身を貴族だとでも思っているのか? 愚劣だな。愚劣極まる。度し難い愚劣さだ」
「主? 冗談じゃねえ。雇い主だろうが」
リリィは呆れたように顔を振った。
「信じられんな。酷い、酷すぎる。ここまでふざけた態度だと、もはや呆れるほかない。いいかよく聞け、私はマルクト陸軍竜兵団所属のドラゴンキラーだ。皇女殿下救出の|命《めい》を与えられている。つまり貴様は敵だ。分かったか?」
俺の右目が大きく開いた。
寝返ったか。いや違う。もっと別の感じだ。そうだ、イグレット。あの小僧が目を覚ました時もこんな感じだった。まさしく人が変わってしまったような。
知竜、という言葉が頭に浮かんだが、確信には至らなかった。俺が知っている知竜は、記憶を食い、自身の持っている記憶を他人に植え付けることが出来る、とただそれだけだ。だが、誰かを別人に作り変えてしまう、といったことが出来そうなのは、敵の中では知竜の力を持つハンクだけのような気がする。
そして一つ、どうしようもなくはっきりしていることがあった。
リリィが、敵に回った。
「投降しろ。命の保証はする」
リリィは俺を見下ろしたまま言った。
俺はリリィを見上げた。目が違っていた。
いつもなら感情たっぷりのリリィの目には、今はただひたすらに冷たいものが宿っている。お前には興味が無い、と言われているような目だった。
そしてそれに気づいた俺の顔には、嘲笑が浮かんでいた。
「は、随分上等な言葉を吐くもんだ。人も殺せねえ頭も足りねえ、おまけに男も知らねえ半人前が、偉そうなことほざいてんじゃねえよ。丁度いい、この建物の中には山ほどチンピラが転がってる。そいつらにおんなにしてもらえよ。なんなら尻の穴をくれてやれ。そっちでしかいけない奴が大助かりだ」
リリィは驚いた様子だったが、すぐさま気を取り直した。
「|下衆《げす》が」
「お前のほうがよっぽどだろう。アルマが今のお前を見たら大泣きするに決まってる。大人の俺はアルマを慰めなくちゃならねえから、仕方なくこう言うんだ。リリィはもう死んだってな」
「皇女殿下を呼び捨てにするなど、不敬な。いや、貴様のような下衆に品を求めた私が間違っていたのだろう。もういい。口で言っても分からないのなら、体に教えるまでだ。どういうことを言っているか分かるか? 体に教えるということは、最も程度の低い躾だということだ。言葉を使わず、痛みを触媒にして物を教えるなど、高等生物にあるまじき愚行だ。つまり貴様は下等だということだ」
リリィは俺に見せ付けるかのように、ゆっくりと拳を握り、そしてまたゆっくりと弓を引くように振り上げた。
「お前に殺せんのかよ」
「勧告はした。お前はそれに従わなかった」
「だから頭が足りないってんだ。ここは商会だぞ。俺を殺したくて|堪《たま》らん連中が山と居る。捕まれば殺される。お前の保証なんざ、鼻紙にもならねえってことに気づけ」
「ならここで死ぬことを望むと?」
「さあどうだろうなぁ」
拳をかわし、窓を破って飛び降りようという算段をつけていた。が、身体能力の差がそれを許しはしないだろうという確信も同時にあった。だか
らと言ってされるがまま、というのは|癪《しゃく》だし、やれることはやらねば気が済まない。
「さらばだ」
瞬間。
俺が認識したのは、壁から突き出た女の手に、手首を捕まれているリリィだった。すぐに誰の手かは分かった。アイロンだ。
「なっ」
と、リリィは短く叫んだが、そのまま隣の部屋に引っ張り込まれた。派手な音を立て、壁が崩れる。同時に、限界を迎えていたのだろう、入り口の扉が破壊された。そして破壊されるなり、奥から弾が飛んできた。
慌ててソファの脇に隠れる。
「アイロン!」
銃を抜きつつ呼びつけると、壁に空いた穴から、ゆっくりとアイロンが姿を見せた。
「リリィはどうした」
「悶絶してるわ。それより、どうするか決めて」
「どうするって何をだ」
「リリィは敵になったんでしょう? だからどうするか決めて。殺していくか、連れて行くか、私たちだけで逃げるか」
「その話を誰が、いや、ジンだな?」
アイロンは小さく頷いた。
「くそ。舞台袖で好き勝手遊びやがって。表に出るのは俺たちだけだってか。は、状況を管制してるつもりか? 舐めやがって。どっかで出し抜いてやる」
「彼はハンクを殺したわ」
山ほどの弾が飛んできている状況だったが、それよりも強烈な報告で、俺は目を剥いてアイロンを睨み返した。なんとか、
「事実か?」
と、絞り出すのが精一杯だった。
「事実よ。ハンクは私の目の前で死体になったから」
アイロンの答えは途中から聞こえていなかった。今しがた考えていたばかりの、知竜の力によってリリィが変えられてしまっている、という可能性を考慮し、そしてそこから、元に戻せるのもハンクだなのではないか、と想像していたからだ。
リリィを取り戻す手段が失われたのではないか。
と。
ちりちりと自己主張する程度だった頭痛が、一層大きな波を呼び、反吐が出そうになるほどの暴風となって、頭の中を食い荒らし始めた。
痛い。
痛い痛い痛い。
すかさずアイロンが手を伸ばしかけたが、俺は笑ってそれを手で制した。普段はあまり感情を表に出さないアイロンが喉を鳴らした。|気圧《けお》されたことを隠すように、
「どうするの?」
と再び先程の問いを口にする。
「俺たちだけで逃げる。リリィは身内だ。殺すって選択肢は|弾《はじ》く。連れて行くのも、拘束するのに手間を取られるから無しだ。飯を抜くって手もあるが、腹減って動けなくなるまで時間がかかる。時が惜しいからそいつも弾く」
飯を抜く、という言葉にアイロンは少し反応を見せたが、左手で俺の肩を掴むと、右手で目の前のソファを持ち上げ、それを入り口に向けて軽々と放った。さらに近場にあった背の低いテーブルを手にし、巨大な窓に向けて投げつけた。
同時に、窓から飛び出していた。
新鮮で冷たすぎる空気が一気に肺に入り込んでくる。
「どこへ?」
事務所は危険だろうか。だが、装備も整えたい。イグレットとアルマは。俺の首にかけられた懸賞金はどうなった。ああ、後はジンとパーマーに嵌められたことも、それぞれにけじめをつけなければならない。それに何より、リリィを取り戻す必要がある。
やるべきことは多く、それらに順位をつける作業が面倒だった。簡単に処理できることから始めたい、と思ったが、今は何より、自分の服と銃が欲しかった。
だから、
「事務所だ」
と告げた。
事務所に滞在した時間はほんの僅かで、着替えと武器弾薬、他の細々とした雑貨の用意だけで全てが済んだ。そのまま飛び出し、最初に目指したのはパーマーベイカリー。
ベイカリー近くの路地裏に陣取ると、早速アイロンが口を開いた。
「これからどうするの?」
「イグレットとアルマについて、ジンは何か言ってたか?」
「自分は関知していない、とは言ってたけど。まさか信じるの?」
俺は首を横に振って否定した。
「ま、どの道やることは変わらない。アルマの行方を捜す。とにかくアルマ、何があろうとアルマだ。特にジンの手元にあるようだったら、絶対に取り返す。もしかしたら人質に取られたままかもってのは面白くない。それに、イグレットが本当に裏切ってるんだとしたら都合が良い。こっちに引き込めるかもな」
「リリィは?」
「当然後回しだ。大事は大事だが、優先順位としちゃアルマよりは下だと決めた。アルマを確保次第、リリィ奪還に向けて動くってのが、俺が考えた方針だ。意見はあるか?」
「任せるわ。仲良しの情報屋に来た理由も分かった。でも言っておくけど私、文無しよ?」
「嘘だろ」
「本当。財布と手鏡くらいしか持ってなかったけど、どちらも盗られてたわ。もちろん部屋にはあるけど、今から戻る?」
「なんで取って来ねえんだよ畜生。俺も無ねえよ。くそったれ、なら今から部屋に戻って、と、ちょっと待て。むしろそれはそれで丁度良いか」
「どうする気?」
「けじめをつけてくるに決まってるだろう? あいつにゃ無駄にでっかい貸しがある。そいつを返してもらう。そういうわけだ、ちょっと待っててくれ」
「護衛は必要無いの?」
「俺一人のほうが、それらしく見えるだろう?」
「言っている意味が分からない」
「パーマーに|嵌《は》められて、手持ちのドラゴンキラーを失くして散々な目に遭った。俺はその報復のため、単身ベイカリーへ乗り込んだ。そういう話にしときたいんだよ」
「何故?」
「決まってる。俺が銃を抜きたいからだ。お前が一緒だと|下手《したて》に出られちまうよ」
笑いながら答えると、アイロンは、下らない、と吐き捨てた。
「慎重に動かなければならない時に、そんなことをする意味が無いわ。私を連れて行きなさい。そうすればすぐに話がつく」
「お断りだ。やられたら自分の手でやり返すんだよ。おあつらえ向きに連中は化け物じゃねえ。二人共人間だ。撃てば死ぬ」
「目的が|摩《す》り替わってるわ。情報屋にアルマの居場所を調べてもらうことが目的のはずでしょう。殺すのは避けるべきだわ」
「そいつは成り行き次第」
「付き合いきれない。頭おかしいんじゃないの?」
「普通だろこれぐらい。俺がいかれてるってんなら、世の中の政治家宗教家芸術家、どこぞの家庭教師からベビーシッターに至るまで、人類|悉《ことごと》く皆狂人だ。普通だよ。やられたからむかついた。だからやり返した。うん、普通だ」
「普通の人間は暴力による報復を肯定しないわ」
「お前の言ってる普通は、真っ当に育った人間用の普通だ。俺もお前にも適用外だってことに気づけよ」
結局、アイロンはついて来ず、俺は一人でベイカリーに足を向けることになった。
外を通りがかると、朝の早い時間だというのに、アズリルが店内を掃除している。店主も店員も、いまいち生活感がないのは不思議だ。寝ているかどうかも怪しい。
ガラスを軽く叩くと、アズリルがこちらを向いた。
一瞬、間があった。
だがやがてアズリルは入り口まで歩くと、鍵を開けた。
店に足を踏み入れそして。
俺たちは同時に拳銃を抜いていた。
「さすがパーマー。話が早くて助かるよ」
「店長より、あなたが一人で訪れた場合は殺害するように、との命令を受けています」
「そいつは最高だ。可愛がってる忠犬が死ねば、奴も少しは反省するだろうよ」
同時にそれぞれ左方向へと転がりながら撃ち合い、三発を交換した。即座に立ち上がり、一気に距離を詰める。対するアズリルは、どうやら陳列棚の下に仕込んであったらしいナイフを手に取り、同じく距離を詰めてきた。
|斬撃《ざんげき》の応酬だった。銃身で受けて|凌《しの》いでいたが、ドラゴンキラーと大して変わらない痩せ細った体だというのに、一々重たく、そして馬鹿みたいに速い。が、凌げないほどでもなかった。この女よりも腕の立つナイフ使いと、以前やりあったことがあるお陰かもしれない。
だから、というわけでもないのだろうが、アズリルの動きはよく見えた。見えたから手首を掴むなんて芸がやれた。
左手に目一杯力を込めると、アズリルの手からナイフがこぼれた。同時に体を引き寄せ、眉間を狙って撃つ。
が、即座に首を振ってかわされる。かと思えばアズリルは右肩の関節を外したらしく、ありえない体勢になり体を沈め、そして俺の脚を払った。
尻餅をつくように倒れ、勢いを殺しきれず背中も打った。痛みに顔をしかめたのも一瞬、次の瞬間には天から降ってくるアズリルの膝を見ていた。
慌てて体を|捻《ひね》ってそれをかわすと、どん、と鈍い音が響いた。体を起こすついでに近場にあったナイフを狙い撃ち、弾く。伸ばされかけていたアズリルの手が瞬時に引っ込められ、お互いが立ち上がったところで再び対峙した。
残り一発。アズリルは素手だが、この女は得体が知れない。少なくとも自分で肩を外すような真似は、普通の人間はしない。狭い店内である以上、リロードの時間は期待出来ない。つまり最後の一発は使いどころを間違ってはならない、ということだ。
先に動いたのはアズリルだった。
無造作に突っ込んでくる。が、銃口を眼前に向けたところで、加速した。俺の視界から消え失せる。 左。
気づいたときには左腕を取られていたが、まだ捻られてはいない。だから俺は強引さを発揮し、力ずくでアズリルを引き寄せた。
アズリルがバランスを崩す。
好機。
が、俺が引き金を引くより早く、
「そこまでにしてくれないかな」
と声が上がった。パーマーのものだった。
「アズリル、そこまでだ」
「私はまだ」
一瞬、パーマーに気を取られたアズリルの手が緩む。その隙に、俺はアズリルの腕を捻り上げた。パーマーとの間にアズリルを挟むよう位置を変更する。そのまま後頭部に銃口をぴたりと押し付けた。当のパーマーは、いかにも不慣れといった構え方で、一応拳銃を構えていた。
アズリルの表情は見えないが、悔しがっていることが伝わってきた。
「申し訳ありません店長」
「いや、最後に邪魔をしたのは僕だ。君に非は無いよ。むしろ謝るべきは僕のほうだ。悪かった」
「店長」
何やら長くなりそうな気配があったため、
「盛り上がってるところ悪いが、俺の話を聞いてくれ。さてパーマー、俺に言うことがあるだろ」
と割って入った。パーマーは銃を恐る恐るレジカウンターに置きながら、
「悪かったよ」
「それだけか?」
「他にどう言えって? 君だって分かってるだろう? 形だけの謝罪なんて、少しも嬉しくないはずだ。こっちだって心の底から謝るつもりなんて毛頭ない。上手い具合に死んでくれていれば、面倒がなくて良かったのにって思ってるぐらいだ」
「正直で結構」
「さて、話が伝わったところで、彼女を放してくれないだろうか。もちろんただとは言わない。僕に出せるものなら出すし、出来ることならやろう」
「要求は二つ。なんであんな真似をしたのか教えてくれ。もう一つは、そいつを聞いてからだ」
「何故って、決まってるじゃないか。自分の利益のためだよ。街からドラゴンキラーが居なくなってくれたほうが、僕の商売には都合がいいからね。商会に間借りしてるドラゴンキラーは仕事を果たせばすぐにでも居なくなるんだ。だったら考えるべきは、君たちをいかにして殺すかだ」
「なるほどね」
と、答えながら、ジンとの繋がりは無いという感触を得ていた。つまり二人が二人共、俺たちを思うように使おうとした結果か。どいつもこいつもふざけた奴ばっかりだ。
「じゃあ次だ。この一件に片がつくまで、あんたにゃ俺の味方でいてもらおう。生憎貧乏でね、金は出せないし、儲けが出るような話でもない。が、代わりにあんたの大事なアズリルは助かるし、ついでに俺を嵌めたことのけじめもつけられる」
さてどう出るかと構えようとしたが、パーマーは、
「乗った」
と即答した。
「もっと考えなくていいのか?」
「彼女は万金に値するよ」
「愛情たっぷりだな。当てられて吐きそうだよありがとう」
「どういたしまして。さあ話は済んだ。彼女を解放してくれ」
アズリルから一歩離れると、アズリルは嫌味なほど滑らかな動作で立ち上がり、そしてするすると主の前に進んだ。小さく一礼する。
「申し訳ありませんでした」
「済んだ話だよ。君が無事でなによりだった。さてココ。僕は何をどうすればいい」
「アルマの居場所だ。どこに居るのか見当もつかない。そいつを調べ上げて知らせてくれ。ああついでに言っとくが、俺は約束には煩いぞ」
「裏切らないよ。もちろん僕と彼女の命が危険に晒された場合はその限りではないけれど」
「十分だ。宜しく頼む」
そう言ってベイカリーを後にしたが、帰り際に外から様子を窺うと、アズリルがパーマーに抱きついていた。
「せめて隠れてやってくれ」
俺の視線に気づいたらしいパーマーが、何故か物凄く勝ち誇った笑みを浮かべて応えた。
馬鹿馬鹿しくなった。
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断章・六
無駄になったか、とジルバは考えていた。
ハンクが死んだ。彼の力を使って試してきたあらゆることが、全て無駄になった。何より惜しかったのは、彼を竜として死なせることが出来なかった点にあった。
竜は資源だ。それも有限の。
世間一般では絶大な力を誇る害獣とされているものの、国家にとってはドラゴンキラーを生み
出す材料であり、資源に他ならない。だからこそ、マルクトのドラゴンキラーには最低限の装備として、竜の肉が支給される。致命傷を受けた場合は、竜となって死ね、そういう話だった。くわえて、竜となった時点で理性が失われることも、一応は考慮されている。致命傷を受けて、いたずらに命を長引かせるよりは、とっとと幕を引いたほうがいい。竜の肉を食えば、それが|適《かな》う。そういった判断だった。
現在のマルクトでは、知竜はハンクただ一人だった。何が問題なのか、知竜のドラゴンキラーが生まれにくいことに原因があった。そしてそれを生み出す知竜の肉も、もう僅かしか残っていないはずだ。 頭が痛かった。使える|手駒《てごま》を失ったのもまた痛い。
戦闘に関しては全く期待していなかったが、諜報には役に立つと思っていた。上にいこうと思えば、他人の弱み、|醜聞《しゅうぶん》は立派な武器だ。ハンクの能力はそれを仕入れる上で相当に役に立つ、そう思えばこそ飼っていた。飼いならすために慣れない世辞をどれほど口にしてきたか、見当もつかないほどだ。
だというのに。
権力の頂点を極めてみたい。ただぼんやりとそう思っているが、道は随分と険しい。今回のことで、一歩後退した感がある。が、|退《ひ》くつもりは毛頭無かった。
所詮人生など暇つぶしだ。同じ暇を潰すなら、存分に楽しむべきだ。退屈に過ごすより、随分とましな生き方だろう。
自身の決意を再確認していると、ドアがノックされた。入れ、と切れ良く答えると、ヴィーが入室してくる。
「ジンが目を覚ましたわ」
「結構。戦闘に支障は?」
「無いわ。打撲で済んでる」
「|重畳《ちょうじょう》だ」
「これからどうするの?」
「連中はリリィを取り戻しに来ると思うか?」
「思うわ」
「私も同感だ。確実に来る。あの男ならやるだろう。皇女共々逃げ出せば良いものを」
「仲間のため、よ。賞賛してしかるべき行動だわ」
「ありがたく聞いておく。同意するには時間が必要だが。さて、我々の行動は|邀撃《ようげき》だ。先を取りたくはあるが、リリィのこともある。ここを離れるのは気分が良くない」
「下手に動いて隙を作りたくないって? 随分しおらしい」
「気に食わないか?」
ヴィーはそれを否定した。
「リリィも参加させるの?」
「あれを戦力としては数えん。移送の面倒を減らすために頭の中を作り変えただけ、そう思っていろ。だから待機だ。いっそ殺してしまったほうが話が早いのだがな、上が煩い」
「上?」
「皇女の華々しい帰還には、分かりやすい悪役が必要だ。そういう判断だ」
ヴィーは少しばかり不機嫌になったようだった。彼女がリリィに拘っていることを知っているから、特に新鮮な驚きは無い。それに心配もなかった。これ以上の裏切りは、まずないと確信していた。
「ああそういう話。政治には興味ないわ」
「私はある。だからこそ生かして連れ帰る。リリィを死体で連れ帰れば、私の評価が下がるからな。
それは避けたい」
「結構な上昇志向ね。でも知ってる? 軍人が政治をやると、大抵は国を間違わせるってこと」
ジルバは笑った。相変わらずの、どうしようもなく控えめで、相手に深い恐怖を植え付けることしかしない笑顔だった。
「軍人が政治家になってはならない、という決まりでもあるのか? 武人が文民に転身してはならないとでも?」
「少なくとも最後の手段であるはずの戦争ってカードを、割と優先的に切りたがる。力を過信、いや、力しか知らないからよ」
「金のかかることは出来るだけ避けたいと思っているよ。もっとも、費用と利益が釣り合っていれば、やる価値は十分にあるが。とはいえ、このようなところで所信を表明したとて意味は無い。それは議員になれたときに口にすべきことだな」
「マルクト史上初のドラゴンキラーの政治家?」
「初物であればこそ、付加価値は大きいだろう。物珍しさに注目は否応なく集まる。そして旬のうちに分かりやすい実績を残せれば、発言力も手に入るだろう。そうなれば更なる上を目指すことも可能になる」
「呆れた。本気で政治家になるつもりなのね」
「だろう? 自分でも驚いているよ。こんなに真剣に遊んでいる自分が、少々気恥ずかしいくらいに」
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七章
「で、どうしてパーマーに頼んだばっかりのこのタイミングでこういうことになってんだろうな」
「手前が体中の勇気を動員してりゃ良かっただけの話だ。どうせあれだろ、手前の首に掛かってる懸賞金が怖くて、人の多い所にゃ顔出せなかったってことなんだろ? は、アイロン連れてるってのに、年寄りみたいな|日和《ひよ》り方だな。いやいや、そんな言い方しちゃ年寄りに悪い。ここは一つ言葉を変えようか。この玉無しめ」
「あんたの頭からは用心って言葉がすっかり抜け落ちてんだろ? 四十超えてるロートルだもんなぁ。ああそりゃ仕方がない。物忘れと|下《しも》の衰え、白髪は出る、歯茎は下がる、腹は出て、最後には自分が世界で一番正しいと思い込めるようになる。そいつを何て呼ぶか知ってるか? 老害って呼ぶんだよ」
「歳を取ることと、老いることは別物だ。人生に見切りをつけちまった奴から老けてくんだよ。そんなことも分からねえお前は、まだまだガキだな。目ぇひん|剥《む》いて俺を見てみな。まだまだお盛んだ」
「言ってろよ」
ため息をついて野菜ジュースが満たされたジョッキに口をつけた。午前八時のラダーマン・カフェ。 開店前というか、閉店直後であることもあって、客は俺たち以外にはいない。が、「俺たち」の構成が問題だった。
俺とアイロン。それにアルマとイグレットが加わっている。店側の人間は、ラダーマンとスプリングの二人。先程までポニーも居たが、今はベイカリーに使いに出されていた。
ここにやってきたのが三十分ほど前。閉店直後を狙って入った。
目的は、ラダーマンたちの立ち位置を確認しよう、という腹積もりだった。気の早い話かもしれないが、アルマを取り戻せた場合、匿ってもらう必要があると考えてのことだったのだが、顔を出すなり、巨大な寸胴鍋をジョッキみたいに傾けているイグレットと、温かいスープを飲んでいるアルマが揃って居た。
がっくりと肩を落としたが、それでも再会は喜ばしかった。
「ココ!」
とアルマの顔が明るくなる。
「元気だったか?」
「うん。イグレットに優しくしてもらったから。あれ、でも、リリィは?」
それなんだが、と切り出し、アルマに商会であったことを細かく話した。話が進むにつれて、アルマの表情がどんどん暗くなっていく。そのうち耐え切れなくなったのか、俺のコートの裾に手を伸ばした。表情は硬く、涙を|堪《こら》えているらしいことが分かる。
一通り話し終えると、
「そりゃハンクの仕事だよ」
と鍋を傾けながらイグレットが言った。
「俺もやられた。頭の中を|弄《いじ》られて、すっかり別人の完成だ」
「元に戻す方法は?」
「知らない。ただ、俺は時間切れで元に戻ったらしい。長持ちはしないって、ジルバが言ってたからな」
耳にした途端、口の端に、ほんの少しの笑みとも言えないほどの歪みが生まれた。慌てて口を拭うように振舞ったが、もしかしたら誰かに気づかれたかもしれない。
「てことは、待ってりゃリリィは元に戻るわけか」
「ハンクが側に居るんだ。戻ったところをまた弄られれば、そこまでなんじゃないか?」
「その心配はない。ハンクは死体だ」
「な、本当かよそれ」
「ああ、アイロンが見てる。さてと、小僧。お前の話をしようじゃないか。お前は、どういう立場なんだ?」
イグレットを見返したが、質問にはアルマが答えた。
「イグレットはね、私の味方になってくれたの」
そう言って、俺にしゃがむよう手で合図する。
言う通りにすると、アルマが耳打ちしてきた。そこで一通りの事情を頭に入れる。聞き終えると、
「さすがアルマだ。よくやった」
と頭を撫でた。撫でながらイグレットのほうを向き、
「色ボケ小僧」
と言って、にやにやと笑った。
「な、ち、違うぞ。絶対に違うからな」
「照れるなよ。ま、真面目な話、立場を捨ててまで選んだ道なんだ。精々気張れ」
「皇女派のやってることは、やっぱり悪いもんな。継承権を無視するって、決まりを守らなくちゃならない大人がそういうことしちゃいけないだろ」
「好きに思ってろよ。子供が政治を考えるってのも、それはそれで面白い」
「俺は真剣に」
手を出して発言を遮った。
「訊きたいことは一つだ。俺たちはマルクトのドラゴンキラーとやり合うことになるかもしれん。いや、十中八九そうなる。それでもお前は俺たちの側に立つか?」
「やるよ。あ、アルマを、守らないとな」
何やら照れているイグレットだったが、話をそこで打ち切り、アイロンを見た。
「腹が減ってるなら今のうちに食ってろ。つっても野菜ジュース飲んじまった俺に金は無いが」
「部屋から取ってくるわ」
「私が出すよ」
そう言ったのはアルマだった。アイロンを見上げ、
「沢山食べて。私が手伝えるのはこれぐらいだから」
と笑顔を見せる。アイロンは少し迷っていたが、やがて母親のような笑みを作った。
「ありがとう。助かるわ」
「どういたしまして」
「それで、どうすんだよココ」
話の切れ目を感じたのか、すかさずラダーマンが言った。
「リリィを取り返すさ」
「察しが|悪《わり》ぃぞ。細かく話せっつってんだよ」
「考えてることはあるんだがな、どうも俺の柄じゃなくて、なかなか踏ん切りがつかねえんだよな」
「聞かせろよ」
「木戸銭払うか一杯奢れよ。野菜搾ってくれりゃあいい」
ちっ、と分かりやすい舌打ちをして、ラダーマンは作業に取り掛かった。程なく野菜ジュースのお代わりが出される。煙草をくわえていると、
「で、どうすんだよ?」
とラダーマンが|急《せ》かした。
「結局、俺たちがやらなくちゃならねえのはリリィの身柄の確保だ。別に連中と正面きって事を構えてやる必要はねえ。だから、リリィを引っ張り出してとっ捕まえて、とっとと逃げるってのがベストだ」
「どうやって引っ張り出す」
「|煽《あお》ってみようと思う。商会と抗争したがってる組織に、うちのドラゴンキラーを無料で貸し出しだ。その代わり、人数を出してもらう。まず商会の下部組織、関連施設から手をつける。それでも出てこなかったら商館にも手を出す。そうすりゃどっかで商会に居座ってるドラゴンキラーが出てくるだろうよ」
「戦争やる気かよ」
「俺がやるんじゃない。やりたい奴がやるんだ。こっちはちょいと手を貸してやるだけだ。それに起こるのは戦争じゃなくて抗争だ」
「同じこったろ」
「違うと思うが、まあ似たようなもんか。あんたに言わせりゃ、似てるってことは同じってこと、だったか? 馬鹿げた理屈だ」
「煩えよ。けど、リリィが出てこなかったらどうする」
「どっちにしろ最後には商館に行き着くんだ。気は進まねえが、突入してとっ捕まえて逃げるさ。幸い、こっちの二人の能力は敵の行動を制限するのに向いてる。どっちかでも連れていけりゃ、それだけでリリィを捕まえられる」
「戦争のけりはどうつける」
「さぁ。そこは当事者同士の話なんじゃねえか?」
笑って答えると、ラダーマンも小さく苦笑した。
「最悪だな、お前。ああ認めてやる。立派な悪党だよココ。ただ悲しいかな、大悪党とは呼んでやれねえ」
「冗談も大概にしてくれ。そんなのこっちから願い下げだ」
ラダーマンが女と睦まじく過ごすために使っているとかいう話の部屋は、生活感の感じられないホテルみたいな部屋だった。長いこと使っている部屋だ、と聞かされていたものの、完璧に整理整頓が行き届いている。
さすがに事務所周辺に居るわけにもいかず、物は試しにとラダーマンにどこか潜めそうなところはないか、と訊ねて紹介された部屋である。
使い込まれたソファに体を沈めると、ようやく一息つけそうだ、という実感がしみじみと湧いた。
現在午後三時。ストーブに火を入れ、ようやく体を温めることが出来たからか、少し眠い。
「さてと、諸々の交渉事にはパーマーが駆け回ってくれてるわけだし、俺たちは奴からの報告が来るまでのんびり休憩だ。さすがに動き回りすぎた。ここいらで休まねえとな」
誰に言うともなく言った。俺以外の三人は他の部屋がどうなっているのかと、片っ端から吟味している。そのうち、寝室だろうと思える部屋からアルマが顔を出した。
「ココ、おっきなベッドがあるよ!」
「そいつは何よりだ。ゆっくり休んでくれ」
「これだったらみんなで一緒に寝られるよ」
「俺はソファでいいよ」
「えー」
「えー、じゃありません。いい子だから、アイロンと二人で寝なさい。小僧、お前はソファだ。ただし金払うってんならそっちの部屋の床の上を使わせてやる」
声を張ると、寝室からイグレットがのそりと姿を見せた。
「あんたの部屋じゃないだろう」
「そうだったっけか?」
「もういいよ」
と俺の正面に座り、背筋を伸ばした。同時に、寝室のドアがぱたりと閉じられる。
「先に言っとくが、全部が終わった後のことは自分でなんとかしろよ。誰かを当てにするな」
「は? いきなり何言ってるんだ」
と背筋を伸ばしたままで固まる。
「自分の力で生き抜いて欲しいっていう、俺から少年へのささやかな忠告だ」
イグレットは首を傾げたものの、まあいいや、と軽く答えた。
「大いに結構。忘れるなよ。ああそれからもう一つ、ちょっと訊きたいことがあるんだが」
「何だよ」
「人間がドラゴンキラーを殺そうと思ったら、どうすればいい」
「無理なんじゃないか?」
「俺が知ってる限り、人間がドラゴンキラーを殺そうと思ったら、竜の肉を食わせるしかねえ。が、戦闘中に狙ってそんな真似が出来るかっつったら、無理だ。自信も無いしな。俺が知りたいのはもっと別の方法だ。何か無いか?」
「自分がドラゴンキラーになるとか」
「素敵なアイデアだ。が、残念ながら竜の肉なんて用意がねえ。どうやったら手に入るのかを調べてる間に事は起こる。俺が求めてるのは、そういうもんに頼らずに」
「持ってるぞ」
「あ?」
「竜の肉だよ。少しだけど、ある。食べるか?」
俺は思わず固まっていた。
竜の肉が、ある。
「何で持ってんだよ」
「マルクトのドラゴンキラーなら皆持ってる。死ぬかもしれない大怪我したら食って自殺しろってさ。そのほうが長く苦しまずに済むからって」
「待て、そしたらお前、竜が出来上がるんじゃねえか?」
「そうだよ」
「軽く答えてんじゃねえよ。そりゃお前、無茶苦茶だろ。|瀕死《ひんし》のドラゴンキラーが竜になったらあれか、瀕死の竜が出来上がるのか? いやいや、どうだっていい。ともかく竜になられちゃ迷惑だろ」
「まあ、その分竜の肉を確保できるんだし」
「は?」
「竜の数に限りがあるなら、こちらで増やすしかないだろう。でないと、ドラゴンキラーを生み出す|触媒《しょくばい》の竜の肉が手に入らなくなる。と、見るか? こいつが竜の肉だ」
イグレットは腰にぶら下げていたポーチから薄く細長い金属製のケースを取り出すと、それを開いて見せた。赤茶けた干し肉が、割とぞんざいに納められている。人差し指と中指を併せた程度の大きさだった。
見入っていると、嫌な、どうしようもなく嫌な想像が広がっていく。
マルクトは竜を生産している。馬鹿げた話だ。問題は、竜に成り下がったとはいえ、かつて人間であったかもしれないものの肉を誰かに食わせている、という点だ。
正直、気味が悪い。国家主導の食人計画。
いかれている、とちょくちょく言われるが、マルクトの連中のほうがよっぽどだ。恐らくは正気でやっているだろう連中のほうが|性質《たち》が悪い。俺はただ殺し合っているだけだ。殺して殺されるのは人間の当たり前の所業だ。
反吐が出そうだった。
そして同時に、妙な話だったが、自分が狂人ではないと安堵していた。俺は普通だ。たまに殺し合うだけが関の山の、普通の屑だ。狂ってはいない。ただ人よりちょっと暴力が好きなだけで。
「どうする?」
とイグレットは試すような笑みを浮かべていた。殴りたくなったが、拳が負けそうだと即座に考え、大人しく拳を握るだけにした。
「食うわけねえだろう。誰が万分の一の賭けに出るってんだ。まったく、毎度毎度思うが、お前たち馬鹿だろう。一万分の一だぞ。まず死んじまうような真似、よくやってのけたな。頭が破滅的に悪いんだ。仕方ねえ、俺が掛け算を教えてやろう」
へらへらと笑うとイグレットは、
「三角関数までは習ったよ」
ときっぱりと答えた。ため息が出そうになるのを飲み込み、
「そこは冗談で返せ」
「よく分かんないけど、まあいいや。それで、食うのか?」
俺は目の前の竜の肉を眺めながら、
「ま、一応貰っといていいか? 食うつもりはないが、武器にはなるからな」
「ああ、好きにしてくれ。俺には必要ない」
「で、話を戻すが、こいつを使わずにドラゴンキラーとやり合えるような、そんないんちきがどっかに転がってないか?」
「思いつかないな。大体、俺の力で動きを止めたって、あんたにはドラゴンキラーを傷つける手段が一つも無いんじゃなぁ」
「そこをなんとか考えろよ」
「俺ばっかりかよ。大人なんだろ」
「多分お前より学はねえよ。なんだよ三角関数って。そいつを使って下着の形でも決めるのか?」
イグレットは嫌な顔をした。
「そもそも、あんたが言ってるのは、腕を動かして空を飛べないかとか、息継ぎ無しでずーっと海に潜ってられないかとかいう類の、人間一人の手にはどうしようもなく余るような無茶だ。俺たちに任せてもらう以外ない」
「ないか」
「ああ、ないな」
「そうか。どうにかなんねえかと思ったが、やっぱり無理か。くそったれ」
「どうしてそこまで拘ってるんだ?」
「戦力が足りないからだろ。ジンはきっとこっちに合わせて動くだろうが、敵の敵ってだけだ。味方だとは断言できないし、奴もそうは思ってないだろう。精々潰しあえ、ぐらいに思われてるはずだ。でだ。こっちの戦力は二。連中はリリィ含めて三だ。数が足りない。というか、正直なところ、戦力が勝ってる状態でしかやりたくない」
「まあ、世の中そんなもんだって」
何やら悟ったような口調に、俺は右の眉を吊り上げていた。
「なんだそりゃ。子供が口にすることじゃねえだろ。もっと可愛げを前面に押し出せよ。ああ、そういやぼちぼちアルマも寝てるかもしれねえ。寝込みを襲ってみるか?」
僅かに頬を染めたイグレットは顔を背けた。
「そうそう。それぐらいが丁度いい」
笑っていると、煙草が吸いたくなったため、膝を叩いて立ち上がった。竜の肉を手に取り、窓際まで歩く。窓を開け、煙草をくわえ、そして手の中にあるどうしても安い干し肉にしか見えない竜の肉をじっと眺め続けた。
そのうち、イグレットが寝入った。
俺はそれでも竜の肉を見つめ続けた。
さすがに食えなかった。
パーマーの寄越した報告は上々だった。
賛同すると言ってきた組織が四。一応参加したという名分を立てるため、多少は人を出すと言ってきた組織が十二。
人数の総計は八百強。悪くない数字だろう。人手があるのはありがたい。色々なことが出来る。
俺の方針はすでにパーマーを通じて方々に伝えてあった。細かく指示をしたところで、統制など取れるわけがなく、また素直に俺の言うことを聞いてくれるとも思わなかったから、欲望を煽り立てる他なかった。
だから連中に伝えた言葉はごく短い。
襲え、好きにしろ。お前たちの命はドラゴンキラーが保証する。
後は目標を指示してやるだけ。とりあえずは商会の下部組織を含めた関連施設全て。そこそこの数があるから、それなりにまとまった人数で動いているはずだ。でなければ、一方的な略奪など望めない。 アイロンとイグレットはすでに街に放してあった。ばらばらに動いてもらっては、もしジルバたちが出てきたときに対応できないため、当然一緒に動いてもらっている。味方、と呼んでいいか怪しいが、とにかくこちらの提案に乗った連中の被害を、少しでも食い止めろと言ってあった。
一方のパーマーは忙しく情報を垂れ流している。そこかしこにアイロンが、イグレットが出たという話を触れまわっている。食いついてくれるかは未知数だが、どちらかといえば敵の、ジルバたちの出方が知りたいがための企みである。
だから食いついてくれなくても特に困らない。ああそうなのかと思うだけだ。食いつかなくて困るのは、商会だろう。
関連施設がずたぼろになる。
俺の提案に乗った組織の構成員だけが暴れ散らすわけではないからだ。火事場泥棒が、害虫もびっくりの勢いで増えるのは間違いない。そうなれば、施設は完膚なきまでに破壊される。
もちろんそれだけでは終わらない。統制出来ない無慈悲な暴力が生み出すものは暴動だ。騒ぎは飛び火して、商会と関係ない施設も多数被害を|被《こうむ》るに決まっている。
まったく大騒動だ。
小売り、卸売りの店ならば、倉庫まで空にされる。女を商っている店では、地獄絵図が展開されているだろうか。現金を保有している金貸し連中は悲惨だ。共通していることは、とにかく大量の血が流れるということだけ。
「柄じゃねえなぁ」
と呟いた。思いのほか、つまらないという響きが濃かった。
そして同時に、どこかで砲声が鳴り響いた。二発、三発と立て続けに聞こえてくる。立ち上がって窓の外を眺めると、空が赤く染まっていた。
午後十一時。炎で空が赤い。
順調に進行していると言うべきか、すでに手がつけられなくなっていると言うべきか。
ドラゴンキラーの力、あるいは名前を用いれば、これだけのことが起こせる。なるほど妬まれるはずだ。
こちらとしてはその名前を使ってきっかけを提供したに過ぎない。が、それがもたらしたもの、
もたらそうとしているものは、ただひたすらに容赦の無い破壊だ。
だが他人を巻き込んでまで暴れ散らすというのがとにかく面白くない。俺の世界は狭くていい。俺が俺の|主《あるじ》であればそれだけで十分だったのだ。
これまでは。
以前、イグレットに喋った言葉を思い出した。背負い込むものが増えると、自由に生きられなくなる。なるほどまさにその通り。荷物は少ないに越したことはない。そのほうが自由に、俺が俺の主として生きられる。実際、リリィたちと出会うまではそうだったような気がする。
気がつけば、がんじがらめだ。
すっかり縛られて、思うように生きられていない気がする。
グラスを傾けたところで、ドアがノックされた。開いてる、と返事をすると、スプリングだった。
「よ、どうした」
「アズリルがココに渡してって」
そう言って何故か胸の谷間から紙切れを取り出した。人肌に温まっていて気持ちの悪い紙だった。妙に湿っている気もする。紙切れに目をやる前に、
「今度から尻に挟んで持って来てくれ。汗じゃなくてジュースで湿ってると思い込める分、幸せな気持ちになれる」
「それじゃ落ちちゃわない?」
「なんとかなるんじゃねえか?」
さぁ、と答えながら、スプリングが隣に座った。俺は気にせず報告に目を通した。
「パーマーはなんて言って来たの?」
「敵に動きが無いんだとさ。商館が攻められなきゃ動くつもりないんだろうな。それにしたって商会を守ってるんじゃねえ。ただ俺たちを待ってんだ」
つまり、現在街で巻き起こっている暴動は、ジルバが動きを見せないということを確認する意味しかなかった、ということになる。
何か笑えた。
リリィにそれほどの価値があるとはどうしても思えなかった。だがリリィを取り戻すためにこれだけのことを引き起こしたのも事実。
笑い出したら止まらなくなって、最後は腹を抱えて笑った。
「ココ、ちょっと大丈夫?」
「あー、何やってんだろうな、俺」
「ココ?」
「色気もなけりゃ頭も悪い。|小姑《こじゅうと》みたいに煩くって、その上化け物。そんな女のためにここまでやってる俺は一体何なんだ」
心配そうだったスプリングの表情は徐々に変化を見せ、やがて満面の笑みが浮かんだ。えらく含みのある視線を向けてくる。
「何だよ」
「ココさぁ、今からあたしと遊ぶ? 時間あるでしょ?」
思いも寄らない提案に、俺は固まっていた。が、それを確認して、スプリングは笑顔をさらに大きなものへと変えていく。
「前のココだったら即答してたと思うなぁ、あたし。だから、つまりそういうことなんだよ」
「ああ?」
スプリングは一人で勝手に納得し、うんうんと何度も頷いた。どういうことだ、と質問をしても、明らかに男好きのする笑顔が返ってくるばかりだった。
そして何かを勝手に納得したスプリングは、
「じゃあねぇ。あ、片付いたらあたしの相手もしてよね。約束よ?」
と言葉を残して帰っていった。
残された俺は、消化不良のままだった。
もやもやとした気分を落ち着かせようと銃を手にし、そして呼吸を整えた。やがて気分が切り替わっていく。細々とした疑問が消え去り、自分が今何を為すべきかだけに集中する。
立ち上がった時には、完全に気持ちの切り替えが完了していた。
リリィを奪還するという目的に変更はない。そして俺はすでに一歩目を踏み出している。ならば死ぬぎりぎりまで踏み込むまでだ。
深く息を吐き、俺は部屋の外へと踏み出した。
空が赤かった。
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断章・七
状況が時間を追うごとに悪化していた。転げ落ちるように、と言葉を飾れる程に、その勢いは凄まじいものがあった。
大半は暴徒。だが、中には明確な目的を持って暴れているものが居た。どうやら商会に敵対している組織の構成員らしいが、彼らだけを選んで始末することは、すでに意味がなくなっていた。
二十近くあった施設のうち、すでに半数が破壊されている。残りの半分も、程なく破壊されることは明らかだった。
どこそこの建物が潰された、という報告が止まらない。
その報告が乱れ飛ぶ中、商会幹部ケンは、ドラゴンキラーたちと同室していた。
背中にかいた嫌な汗が止まろうとしない。
思い当たる原因は幾つかあった。
一つは現在の商会が置かれている状況。
一つはその状況を打破するため、外の力に頼らねばならないという事実。
そして最後の一つは、その「外」を|口説《くど》ける確信が無かったこと。
だが、どうにか口説かねばならないのは確かだった。でなければ、待っているのは破滅だ。
「話はそれだけ。こちらからの要請、受けてはいただけないかしら」
ケンは、決して演技ではないにこやかな笑みを絶やすことなく言った。ジルバはケンを待たせることなく、
「断る」
と即答した。
「謝礼は当然用意させてもらうつもりよ?」
「我々には関係がない」
「あら、関係ならあると思うけど。私たちとあなたたちの間に交わされた契約は、寝食を提供する代わりに、敵のドラゴンキラーを殺すって話だったはず」
「待っていれば向こうから来る。こちらにとって不都合はない」
「それでは遅いのよ」
「それがどうした」
とジルバは言い切った。ケンはそれを、何があろうとお前の意見は容れない、という宣言として受け取った。なんとなく予想はしていたが、それが現実のものである、という事実はやはり重かった。
「そう。分かりました。こちらの話はそれだけよ」
「了解した」
部屋を辞したケンは、その足で会議室へと向かった。扉を開けると、中に居た男たちが一斉にこちらを向いた。
全員が幹部。だが、数人欠けている。
「幾らか席が空いているようね」
と分かりきった質問をした。商会に見切りをつけて逃げたとしか考えられなかった。
「姿も見せねえよ。素早いこって。それで、ドラゴンキラーはどうなった」
ケンは全員に分かるように、首を殊更にゆっくりと振った。
「何でだ。飛び切りの条件を出したんだろう? 畜生が、俺が話をつけてくる」
「彼らが動くのは、ココたちがここに攻め入った時だけだそうよ」
「なんだと。それじゃあ外はどうすんだよ。もう半分が潰されてるんだぞ」
「私たちだけでどうにかする以外無い、ということよ」
「どうやって」
「それを話し合うのがこの会議の目的なんじゃないの?」
誰も彼もが頭を抱えていた。それはケンも例外ではなかった。
正直なところ、ココがこれほどに踏み切った真似をしたというのが未だに信じられない。あの小心者の所業としては、いかにも不似合いだった。最強の力を手元に置いていながら、ひたすらに目立つことを嫌い、それまでと同じ生活を望んでいた腰抜け。
彼女はココをそう評価していたし、そしてその評価に誤りは無かった。
つまり、リリィを取り戻すためには手段を選ぶつもりはない、ということか。
と、そこでケンは我に返った。考えねばならないことを取り違えている、と気がついたからだった。 これからどうなるか。決まっている、ココたちとジルバたちがぶつかるのだ。そしてどちらが勝者となろうとも、すでに失われたもの、そしてこれから失うだろうものは取り返しがつかない。金も人も、大部分が商会という組織から|零《こぼ》れて落ちた。再起を図るには時間が掛かり過ぎるし、大幅な弱体化が待っているのならば、命を狙われる機会が増える。
潮時だ。
ケンは決断した。微笑して一礼すると、無言のまま会議室を後にした。
その姿を幹部たちは呆然と見送り、一拍遅れで何が起こったかに気づき、二拍遅れでケンが何を考えて行動したかを理解し、そして三拍目で一斉に立ち上がった。
それぞれが保身を考えて行動を始めていた。
長年、街の裏側で隆盛を誇ったオーランド商会は、この時点で事実上解散した。
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八章
午前一時の商館近辺は混乱の極みにあった。
商館近くの建物、その屋上から見下ろしていると、それが嫌というほどよく分かる。
好き勝手暴れまわる者、私刑にあっている者、銃を撃っては酒を喰らう者、果ては路上で女と一戦交えている者まで居る。
こいつらを統制しようと少しでも努力していれば、もしかしたらここまで酷くはならなかったかもしれない、とちらりと思ったが、即座に、まあ他人がやっていることだし、と割り切った。俺が連中に求めた役割はすでに完了しているから、とっくに他人事だ。これから先、連中が何をしようと、そしてどうなろうと知ったことではない。
商館からわらわらと逃げ出す者と、逆に中へ入っていこうとしている者が見られた。が、それも十分ほど前の話。窓を突き破って、大量の死体が落下してきて以来、中に入っていこうとする者は居なくなった。今は出てくるばかりだが、その数も随分減っている。
そして減っているお陰で、外に出るなり襲われる、という事態に陥っていた。暇つぶしに見るにしては退屈な出し物だった。
隣にはアイロンとイグレットが並んでいる。
「結局、無駄な破壊だったわね」
「ジルバが出てこなかったのは俺の責任じゃねえだろ」
「この有り様を見ても同じことが言える?」
明らかに不愉快そうなアイロンの視線を、鼻で笑った。
「それがどうしたよ。下らねえ。誰が暴れようがくたばろうが知ったことか。俺の器量がどれくらいか知ってるか? 自分のお守りをするので手一杯だってんだ。その上身内の世話まで要求されりゃ、頼りねえ俺の器はぎりぎりの一杯だ。他人の世話が出来る道理がどこにある」
「無能」
「それでけなしてるつもりか? 頭の悪い男に引っかかった女が偉そうにほざくなよ。何なら代わりを用意してやろう。理想の男は飛び切りのアル中でいいんだよなぁ?」
なおも続きそうだった程度の低い口論を止めたのはイグレットだった。
「とっとと行こう。ここまでは楽勝だったけど、ここからは命がけだ」
「同感だ。正直」
行きたくないがね、と続けようとしたが、俺たちは三人それぞれ顔を見合わせていた。
「こりゃ、ジンか?」
「間違いない」
「何のカウント?」
頭の奥を直接鳴らされているような声の聞こえ方だった。そして何より重要だったのは、ジンの声でカウントダウンが進行していることだった。
七、六、五。
「動く気だ。くそったれ。こんな時まで主導権取られるのかよ」
「どうするの?」
「併せて動く。逃すと面倒になる」
四、三、二。
「くそ、誰を狙う気だ」
アイロンの手が俺の腕を掴む。次の瞬間に宙を舞う。カウントは進行を続ける。
一。
ゼロ、と同時に商館三階の隅で爆発が起こった。爆炎の中から何かが煙の尾を引いて飛び出していく。
「見えたか」
「ジンとヴィーだ。どうする、援護か?」
「目的を間違えんじゃねえよトカゲっ子。俺たちはリリィを目指す」
イグレットは頷くと、
「こっちだ!」
と向きを変えた。
「何だ、どういうことだ」
「餌の匂いだよ。それぐらい分かる」
つまりリリィを一直線に目指している、ということらしい。
直後、俺たちはイグレットに導かれるまま、壁を粉砕し、商館五階に突入した。
いきなりリリィが居た。
そして最悪なことに、ジルバも一緒だった。イグレットの言葉が足りていない。ジルバも一緒ならちゃんと言え、と頭の中で不満を並べ立てると同時に、黒竜のドラゴンキラーだから分からなかったのか、と納得していた。
さらに最悪なことに、何故俺はこの場に居るんだろう、と今更に後悔した。どうせ何も出来ないわけだし、先程の場所で待っているべきだった。
勢いに乗せられて、この場に来てしまっている。くそったれ。ジンのせいだ。
「よく来た。待っていたぞ。が、少々待たせ過ぎだ。実に退屈な時間を過ごした」
とジルバが言う。
「こっちの招待状を無視するからだろ。暇を持て余してたんならパーティーに参加すりゃ良かったんだ」
「お断りだ。手持ちの情報、あるいは推測で確信できたのは、お前たちがここに来る、ということだけだった。であれば、待つほかないだろう」
「お堅いこって」
「不確実な情報に身を委ねる勇気は、残念ながら持ち合わせがない」
「ああ、そいつは同感だな。アイロン、小僧、もう一回言うぞ、目的を間違えるなよ」
「ジルバ、話す時間が惜しい。早々に片をつけよう。ヴィーを援護してやらねば。二人共に腕が立つとなれば、最悪ヴィーを失うことになる。これ以上仲間を失うのは御免だ」
リリィが控えめに、けれども切実な響きを含ませて言う。ジルバはそれに答えた。
「そうだな。そうしよう」
そして目の前で戦闘が開始された。
体を動かす信号を食われた上に、強烈な痛みを与えられたリリィはあっさりとその場に倒れ、無力化された。残りの三名は交戦状態にあるらしく、壁に穴が空き、部屋にあった家具が次々と粉砕されていく。
リリィの様子を見るなり、
「確保だ!」
と叫んだが、二人の返事はなかった。戦闘に手一杯という意思表示だと解釈する。つまり俺がやらねばならないということだ。だが、狭い部屋の中で繰り広げられる化け物同士の戦闘、その渦中に飛び込む勇気を搾り出す必要があって、俺は頬をばしばしと何度か叩いて気合を入れた。
歯を食いしばり、走る。
程なく部屋の中央、リリィが倒れている脇まで辿り着いた。すぐさまリリィを肩に担ぎ上げたが、
さすがに大人の女。重い。それでも動かねばならない。いつまでもこのような場所に居るのは無謀
だ。
部屋の入り口まで辿り着くなり振り返り、
「|退《ひ》くぞ!」
と叫んだ。が、
「行け!」「行きなさい」
と二人の返事が同時に耳に届いた。舌打ちをして、よろよろと走り出した。廊下に出て左右を確認したが、人の気配はない。もうすぐ階段、という場所に差し掛かったところで、
「は、放せ」
とリリィが呻いた。
「黙ってろ」
「放せと言っている」
苦しそうだった。手足の自由はそれなりに取り戻している様子だが、痛みが尾を引いているらしい。まともに動けていない。
「暴れんじゃねえ。落としちまうだろうが」
ううう、とリリィはさらに|呻《うめ》いていたがやがて。
俺のレザーパンツの左太股、尻より少し下の辺りを掴んだ。そして、
「うあああああっ!」
というリリィの叫びとともに、俺の体はその場で前転していた。太股を強引に引っ張られているらしかった。
視界が強烈な速度で歪み、そして一気に床が迫った。額を|擦《こす》ったのは一瞬。次の瞬間には背後が逆さまに映り、さらに次には天井が目に入っていた。
あろうことか、そこですっぽ抜けた。
天井が迫ってくるなど、普通に生活していればありえない光景を目にしたのも束の間、衝突した。が、即座に自然の摂理に従って落下を始める。直後に、ごん、と派手な音を立てて廊下に背中から落ちた。
息が出来なかった。その上体中が痛い。だが、そこで|悶絶《もんぜつ》できる余裕も無かった。
ほのかに漂ってきた熱気。何事かと目をやれば、廊下に倒れ、肩で息をしているリリィがこちらに手を伸ばしていた。そしてその手には、オレンジほどの大きさの火の玉があり、しかも徐々に大きさを増していた。
転がって避けたのと、背後を火の玉が通り過ぎたのは同時。そして遅れること三秒、やけに遠くのほうで爆発音が聞こえた。
ゆっくりと振り返ると、廊下がスプーンでこそぎ取られたように、融解し、熱を放っていた。発射元となったリリィは未だに廊下に倒れている。廊下の先に目をやれば、どうやら火の玉は突き当たりの壁を貫通してしまったらしく、爆発は外で起こったようだった。
肩で息をしながら立ち上がった。
「大人しくしやがれ馬鹿トカゲ!」
「するわけが、なかろう。貴様は、敵だ」
リリィの目には、かつて見たことが無いほどの敵意が見て取れた。気に食わない。
「敵じゃねえよ馬鹿。手前が身内だからわざわざこうして捕まえに来てんだろうが」
「まだそのようなことを」
「とりあえず四、五日大人しくしてろ。そうすりゃ何もかも思い出す」
「ふざけるな。私は、皇女殿下を」
リリィが言い終える前に、何かが壁を突き破った。部屋側ではなく、外側からの破壊だった。土煙が立つが、それが晴れていくと、地面にぐったりとなった血塗《ちまみ》れのヴィーがへたり込んでいた。意識はある様子だが、動く気配はない。
「ヴィー!」
リリィが叫び、立ち上がろうとしたが、すぐさま苦悶の表情を浮かべてばたりと倒れた。が、しばらくすると今度は這って進み出す。
「ヴィー、しっかりしろ、ヴィー」
リリィは必死だった。見慣れた必死さだと思った。何か言葉をかけようか、と思っていると、先程ヴィーが突入して出来た穴の|縁《ふち》に、ジンが立った。ヴィーと同様、あちこちに傷を負っている。特に赤く染まった左脇腹が重傷のようだった。
ジンは左右に視線を走らせ、状況を確認したようだったが、取るに足らないと思ったか、まっすぐにヴィーへと歩み寄った。足取りがふらついている。
「くそ、ジン止せ。私が、私が相手だっ!」
リリィが声を張ったが、ジンは躊躇うことなくヴィーの胸を貫いた。
「ヴィー!」
リリィが叫ぶ。そして同時に、胸を貫かれたヴィーが動いた。
ジンの腕を掴み、そして腹を貫いた。そう思った。が、ヴィーは満足そうに腕を下ろし、そしてそのまま動かなくなった。
力が残っていなかったのだろうと思えた。血を流しすぎていたのだと。
だが違った。ヴィーの反撃は意味があった。
腕を引き抜いたジンが、いきなり震え出した。
「ココさん、すいません、やられました」
ジンはかろうじてそれだけを搾り出した。必死で体を抑えつけているらしい。
「どうした。何が」
「お腹に、竜の肉を、直接、もらっちゃったみたいで」
経口ではなく、体内に直接竜の肉を打ち込まれた。では、これから始まるのは竜化か。
考えていることがもろに顔に出ていたのだろう。ジンは|歪《いびつ》な笑みを浮かべ、
「ああ、ご心配なく、人として死ねないなんて、真っ平ですので、ちゃんと、始末をつけ」
言葉の途中でジンは何かに弾かれたように背中を反らせ、かと思えば小さく丸まった。首筋から、|鱗《うろこ》が這うように侵食していく。
「ジン」
呼びかけると、ジンはじりじりと首を動かし、こちらを向いた。
微笑を浮かべると、
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
と、やけに静かな、そして綺麗な発音でジンは言い、そして、自身の胸を貫いた。右手が背中に抜ける。鱗の侵食が徐々に緩やかになっていき、やがて完全に止まった。
ジンは人の形を残したままで死んだ。
俺とリリィが残った。
リリィは床の上で小さくなって震えていた。仲間の死を消化しようとしているように見えたが、真実は知れない。
どうする。リリィは動けるのか。動けるのであれば|担《かつ》いで脱出なんて真似をやるのは無謀だ。だがこいつを捕らえるために色々やっているわけで、それが惜しかった。何かしらの結果が欲しい。
だから。
俺は恐る恐るリリィへと近づくと、その肩に手を触れた。途端、
「気安く触るなっ!」
と|弾《はじ》かれる。そしてそれをきっかけにして、リリィはゆっくりと顔を上げた。
目が嫌な感じだった。
顔の中にあってただ一つ、リリィが化け物だということを教えている右目。鱗に紛れて分かり辛いが、確かに涙の跡がある。表情は泣き疲れて気力を失った人間そのものだというのに、その奥に強烈な意思が見て取れる。
即ち殺意。
そしてリリィは俺の期待を裏切らない一言を口にした。
「殺してやる。絶対に殺してやる」
言いながら、体を起こしていく。アイロンが植えつけた痛みのせいか、足取りがふらついていたが、それでも完全に立ち上がった。
「ヴィーを殺ったのはジンだ。逆恨みもいいとこだぞそれ」
「煩い黙れ。ジンの裏切りと同時に貴様らが現れた。これが偶然で片付くものか。繋がりがあると見る以外なかろう」
リリィは感情を込めずに淡々と、そして小声で言う。
「確かに繋がりはあったさ。あったが、一方的に良いように使われてたんだよ。別に奴の仲間ってわけじゃねえ」
俺の言葉にリリィは、笑った。どこまでも似合わない皮肉な笑み。俺の笑い方そっくりで、ぎりぎりの状況だというのに、笑い方を変える訓練をしようか、と場違いなことを考えていた。慌てて首を振って妄想を追い払っていると、リリィは表情を歪めたまま、
「命乞いをしろ。私を癒せれば命だけは保証してやる」
舌打ちを一つ。ピンチだ。
どうする、何か言ってみるか。いや駄目だ。どうあれ見逃さないと目が言っている。それに命乞いをするという行為自体が不愉快だ。自分の立場が下だと認めることなど御免被る。見栄を張ることすら許されないなど絶対に嫌だ。
命乞い案を切り捨て、次策を模索する。即座に腹が決まった。うちのドラゴンキラー二人との合流を目指すべきだ。
リリィの動きに細心の注意を払いつつ、じりじりと下がりだした。
が、リリィは俺の緊張をあざ笑うかのように、ぴったり同じ距離だけ前に出る。
気に食わなかった。
笑い方といいねちっこく距離をつめる動きといい、何もかもが似合っていない。だがそれらの不愉快さをなんとか頭の隅へと追いやり、俺は後退を続けた。
あと少し。
あと少しだ。
もうちょっとのはず。
畜生、ドアは、ドアはまだか。
そして俺の望んでいた部屋のドアが視界の端にほんの少しだけ姿を見せた途端、俺は体を沈め、一気に室内に転がり込んだ。
|空《から》だった。
誰の姿も無い。
失望に表情を歪めたのも一瞬。背後から伸びた腕に首を掴まれた俺は、そのまま反対側へと投げ飛ばされ、部屋を飛び出したかと思えば、廊下の壁に背中から激突した。
が、と息と一緒に何やら|酸《す》いものも出た気がするが、それどころではなかった。痛い。そして息が出来ない。
ほとんどうつ伏せに近い四つんばいの姿勢で咳き込む。同時にいつの間にか傍に移動したらしい、リリィの声が降ってきた。
「不愉快だ。とてもとても不愉快だ。心に穴が空くとは言ったものだ。胸の辺りにまさしく穴が空いたようだ。そうなって初めて分かった。この穴は全てを飲み込む穴だ。体を内側から食われているような気さえする」
呼吸を整えつつリリィを睨むと、
「貴様を殺してもこの穴は|塞《ふさ》がらないのかもしれない。それこそ時間がこの穴を塞いでくれるのを待つのが正しいのだとも思う。だが。だが私はそうせずにはいられない」
畜生。ここまでか。
死にたくねえ。
どうしてこうなった。誰かのせいなのか。それとも俺のせいか。
決まってる。全部俺のせいだ。
リリィが動きを取り戻した段階で仕切りなおすべきだった。
畜生。死にたくねえ。
だったらどうする。
簡単だ。殺して生き延びる道を行く。
「立て」
再びリリィの声が降ってきたのを期に、俺はゆ
っくりと立ち上がった。立ち上がりながら、顔に薄笑いが浮かんでいくのを止められなかった。|滑稽《こっけい》だ。助けに来て殺そうとしている自分がどこまでも滑稽だ。
だから笑った。へらへらと笑った。
「何が可笑しい」
「自分の不幸がに決まってるだろう? 散々な目に遭ってきたが、こいつはもう笑うしかねえ。何やってんだ俺って感じするだろう? しねえか? まあどうでもいい。決めたことは一つだ。悪いがリリィ、死んでくれ」
「死ぬのはお前だ」
沈黙。ぴりぴりとした緊張感が肌を刺す。
そして。
銃を抜こうと右手を動かした瞬間、俺は盛大に横っ面を張られ、床の上を転がっていた。素早く立ち上がりつつ、どうやら折れたらしい奥歯を舌の真ん中まで持ってくると、そのまま吐き出した。
「どうした。その銃で私を殺すのだろう? ホルスターから抜きもせずに何をしている」
「は、随分それらしい口をきくようになったじゃねえか。頭の足りねえ雌豚が何を偉そうにくっちゃべってんだ。ああ悪い悪い、そんな言い方しちゃ雌豚様に失礼だ。手前は豚以下の糞だ。いや、糞にも劣る。良かったなリリィ、大腸菌と仲良しごっこが出来るぞ」
「|下衆《げす》の物言いだな。だがその方がいい。殺す時に|躊躇《ためら》う必要が無い」
似合わねえ言葉が耳障りだ。
歪んだ表情が気に食わない。
ああくそったれ。
頭が。頭が痛い。
俺はリリィを睨みながら銃を抜き、
「煩えよ黙れよ畜生。畜生畜生畜生! ああ決めた。俺は決めたぞ。殺してやる。絶対に殺してやる。他の誰にも渡さねえ。お前は俺が殺してやる」
と言い切った。リリィは笑い、そしてその場から消えうせ、かと思えば俺の眼前に移動していた。
同時に右腕が掴まれていることに気づく。
ごきり。
鈍い音が体の中を走りぬけ、|脂汗《あぶらあせ》が噴出していた。折れた。折られた。痛い。そして右手からは銃が|零《こぼ》れ落ちていた。がしゃ、と乾いた音がする。
「どうした人間。私を殺すのだろう? 頼みの銃を落としては勝負にならないぞ。しっかり握り締めていろ」
くそが。人間やめてるつもりか。
睨み付けつつ、口の中に溜まった血を、リリィの顔目掛けて吐き出した。あっさり避けられる。
が、同時に左腕を伸ばし、リリィの胸倉を掴んでいた。全力で引っ張ると、シャツが破れ、下着が露出する。
リリィの顔色が一瞬で変わり、慌てて距離を取った。床に落ちていた銃を素早く左手に取り、立て続けに五発。全て顔に命中したが、全て無視される。
クイックローダーを手にしようとしたところで、左手しか使えないことに気づき、舌打ちをした、ように見せた。やや不安な表情を浮かべ、銃を床に置きながらクイックローダーを抜き取る。
そこでちらりとリリィを見ると、少し落ち着きを取り戻したようだった。
「無様だな」
リリィには、自分の優位を疑わせてはいけない。俺の勝機はそこにしかない。
「実に無様だ」
「くそったれ」
強い視線をリリィに向けつつ、俺はクイックローダーをそのまま投げつけた。案の定無視され、
ローダーは額の辺りに命中した。
さあ勝負。
俺は内ポケットから今度は|小瓶《こびん》を取り出すと、同じくそのまま投げつけた。同時にシリンダーに残っていた最後の一発を使い、その瓶をリリィの目の前で撃ち抜く。中の粉末ががぱっと散らばり、俺はシャツを引っ張り上げ、口元を覆った。
「何のつもり」
言い募ろうとしたリリィの表情が固まった。やがて胸を掴み、その場に膝を折る。
俺はへらへらと笑いながら、
「竜の肉だよ。覚えのある感覚だろうリリィ?」
瓶の中身は、イグレットから貰い受けた竜の肉、それを粉末にしたものだった。レクスの時と同じように、弾に詰めることも考えたが、果たして食ってくれるか怪しく、だったら、粉末を撒き散らしたほうが良いと判断してのことだった。摂取量は極少量になってしまうが、それでも効果範囲はそこそこ広い。足止めに使えないか、と用意したものだった。
リリィを相手に使うとは思わなかったが、ともあれ用意して正解だった。が、吸い込んだとしても大した量ではないはずだ。このまま竜になってくれるかと言えば、多分無理だ。リリィが幾ら、他のドラゴンキラーに比べてほんの少しだけ竜に近いとはいえ、そうそう都合よくは行かないだろう。
だから止めが要る。つまりもっと大量の竜の肉が。
俺は悶絶しているリリィに背を向け、ジンの傍へと急いだ。こいつがマルクトのドラゴンキラーだというのなら、竜の肉を持っているはずだ。死体漁りをしていると、程なく、イグレットが持っていたものと同じ、薄い金属ケースが見つかった。中身を確認すると、ちゃんとある。
小さく息を吐いてからリリィを振り返ると、床の上に丸くなり、未だに体を震わせている。慎重に近づき、体を引っくり返す。思った以上に無抵抗で、リリィはあっさりと|仰《あお》|向《む》けになった。同時に、吐き気がした。
本来なら右目の下にほんの少しだけ浮いていた鱗が、その範囲を広げていた。右目を中心として顔の四分の一ほどはすっかり鱗に塗れている。眼帯を使ってもぎりぎり隠れるかどうか。
ちくり、と罪悪感が湧いたが、頭を振って追い出した。殺さねば殺される。そして今は好機だ。逃す手は無い。
俺はリリィの腹の上に馬乗りになり、ケースの中身を取り出しそして。
固まっていた。
これを口に突っ込めば全部が終わる。吐き出せないように口と|顎《あご》を押さえればなお良いだろう。リリィは竜に成り下がり、俺は可能な限り逃げる。運が良ければ命は拾えるだろう。というか、そうしなければ命は拾えない。
だからこいつは今、ここで、殺すべきなのだ。
俺のため。俺のために。
だというのに。
理屈を並べても腕は動かなかった。どころか、今ならばアイロンとイグレット、うちのドラゴンキラーとの合流が目指せる、と妥協案が湧いて出てくる始末。
しかもそれさえ選べず、俺は竜の肉を手にしたまま、じっとリリィを見ていた。
そして搾りだした言葉が、
「いい加減にしろ馬鹿」
だった。
「いっつもいっつも面倒ばっかり拵えやがって。尻を拭うのは俺の役目になっちまってる。なんだこの理不尽な不幸は。毎度毎度金にはならねえし面倒だし、その上命まで張らされてる。こいつが不幸でなくてなんだ」
何だ。
「それもこれも全部お前と関わったせいだ。お陰で今はこの様だよ。似合わねえ真似したせいで街は滅茶苦茶、俺は骨を折られて殺されかかってる。分かるか? 全部だ。全部お前のせいだ。非常識なお前と関わったせいだ。そうに決まってる。畜生、俺の常識を返せ」
俺は何を言っている。
「頭の中|弄《いじ》られたのがなんだってんだ。たったそれだけで人間まで辞めやがって。大概にしろボケナス。馬鹿でおぼこで火ぃ吹くのが関の山の手前が、ドラゴンキラーを気取ってんじゃねえ」
最後は胸倉を掴んでそう言った。
そして突き放すと、ゆっくりと立ち上がった。
「ま、待て」
と背後からリリィが言う。俺はゆっくりと振り返り、
「情け無え。それもこれもあれもどれも、全部お前のせいだ。俺がこんな様なのも、お前が敵なのも、絶対にお前のせいだ。そうに決まってる」
「何を」
「知るか。俺だって何言ってんのか分かんねえよ。くそったれ、じゃあな」
俺は歩き出した。振り返らなかった。
商館の玄関には四名の男たちがたむろしていて、それを見た途端、俺は満面の笑みを浮かべていた。やり場の無かった苛立ちをぶつけられる対象が転がっている。
左手だけしか使えず、リロードには手間を食っ
たが、それが完了するなり連中を襲った。弾を撒き散らし、肘やら足蹴りを見舞って|蹂躙《じゅうりん》する。一人だけは残したが、その一人も、今は鼻を折られて涙を浮かべている。
銃を突きつけ、死体から弾を集めるよう指示しつつ、
「ドラゴンキラー同士の|喧嘩《けんか》をやってるはずなんだが、見なかったか?」
「み、見た。あっちだ、廃屋街のほうだ。飛んでった。なあもう行っていいだろ?」
「残念ながら色んなものが溜まってるんだ。憂さを晴らさせてくれ」
四体の死体を尻目に走り出した。程なく通りに出ると、相変わらずの有り様が飛び込んで来る。この狂騒がいつ終わるのか見当もつかない。
そんな中、火事場泥棒に精を出している知った顔を見つける度、話を仕入れてはアイロンたちを目指した。話を総合するに、どうやら以前レクスとやりあった場所らしい。
何やら因縁めいているが、まあ考えなしに暴れるには丁度良い場所だ。
襲ったり襲われたりしながら何とか辿り着いた頃にはすっかり息が切れていた。
呼吸を整えながら様子を確認すると、未だにやりあっている。どうやらアイロンもイグレットも無事な様子で、二人には悪いが予想外の事態だった。頭にはアイロンとリリィが二人がかりでなおジルバにやられた日のことがあったからだ。
「アイロン、小僧!」
声を張ると、どん、と派手な音を響かせ、アイロンとイグレットが俺の前に着地した。真正面、やや離れた場所にジルバ。見たところ二人には怪我が目立つが、ジルバには傷らしい傷が見当たらない。
俺が二人に声をかけるより先に、ジルバが口を開いた。
「お前一人か。他の三人はどうした」
「は、教えてやる必要があるのかよ。ご自慢の脳味噌で推理でも推測でもしてみればいい。どうしても訊きたいってんなら教えてやってもいいが、素っ裸で犬の真似しながら、お願いしますご主人様とでも歌ってみせろよ。そしたら考えてやってもいい」
軽口で応じていると、アイロンが小声で言う。
「リリィは?」
「しくじって殺されかけた。仕切りなおしだ。今から商館に向けて動くぞ。リリィを拾ったらそのまま撤退だ」
「あの人がそれを許してくれそうもないけれど」
アイロンが応えた瞬間。
どん、という音が耳と体を震わせ、同時に三人が押し合いをやっている光景が飛び込んできた。突き出されたジルバの右の手刀、それを両手で押さえるアイロン、イグレットの拳はジルバの左手に阻まれている。そしてそんな状況にも関わらず、ジルバは余裕たっぷりの声で、
「貴様がここに居るということは、リリィは死んだのだな」
と言った。
「どうしてそうなるんだ?」
「生きていればここに来るからだ」
「最大の前提をすっぽかして何阿呆なこと口にしてんだ。言ってて恥ずかしくないのか? 教えてやるからよぉく聞け。人間にはドラゴンキラーを殺せねえんだよ馬鹿。は、人のことを愚劣だと|虚仮《こけ》にしてくれたが、お前のほうがよっぽどじゃねえか。自慢のトカゲ脳はこんな簡単なことも分からねえ。愚劣だな。実に愚劣だ。愚劣極まる」
歯を剥いて笑うと、ジルバの目が細くなった。
同時にイグレットが掴まれた右拳はそのままに体を捻り、自分の頭よりも更に高い位置にあるジルバの顔を蹴り上げた。ジルバはそれを額で受け、それを機に今度はアイロンが動く。掴んでいたジルバの右腕を自分のほうへと引き込み、バランスを崩そうと狙った。
俺に見えたのはそこまでだ。
どん、と激しい音がしたかと思えば、三人ともが見えなくなった。ただ、何かがぶつかり合う音と衝撃だけが響いてくる。高速戦闘を始められてしまえば、俺に出来ることは勝利を願うことだけだ。
左手で煙草を取り出し、火をつける。そういえば半年前もそうだったか。リリィとジンとレクスがやりあっている最中、一服つけた。他にやれることが無かったからだったし、それは今もそうだ。
煙を吐きながら、畜生、と漏らした。無力だ。
煙草を投げ捨て、踏み潰していると、三人がやや距離を取りつつ対峙していた。ジルバを頂点に、ちょうど二等辺三角形の形で、俺まで入れるとひし形になる。
ジリ貧だ。逃げたいが逃してくれそうも無い相手。時間ばかりが過ぎていく。
が、それはジルバも同じだったようで、小さく肩を落としたかと思えば、俺の眼前に移動していた。小さな笑み。そして俺にも見える動作で拳を引いた。
誘いだ。
「乗るな!」
叫んだが、遅かった。
派手に音を響かせて、どうやらジルバに突っ込んだらしいアイロンが弾き飛ばされ、土煙が立ち上った。そして同じくジルバのカウンターを食らったらしいイグレットは、こちらは吹き飛ばされるようなことはなかったものの、首筋に大きな傷を作っていた。血が、一定のリズムで小さな噴水を作っている。
ジルバは再び距離を取り、そして俺の前にはイグレットが立った。
拙い。くそ。俺のせいだ。来るんじゃなかった。
「正直に言うけどさ、この傷じゃ長く持たないぜ」
「ああ、分かってる」
「分かってもらって嬉しいよ。で、どうする。これも正直に言うけど、手負いの俺とジルバじゃ勝負にならないぜ」
「それも分かってる。分かりやすく言うと、絶望的だ」
「だな。だからさ」
「何だよ」
「相打ち狙ってみる。体がこれじゃ、それぐらいしか出来そうもないし」
「ば、おま、馬鹿か。子供がそういうふざけたこと言うんじゃねえよ」
「俺は、アルマのために命張ってるんだ。死んだって後悔なんかしねえ」
「その前提が大間違いなんだよトカゲっ子。そいつは格好つけてるだけだ。良く考えろ。命は一個だ。しかも精々六十年で使い切っちまう頼り無い代物だ。そいつを無駄に使う馬鹿は人生の楽しみ方を知らない糞だ。大事に大事に使わないでどうする」
「だったら代案出せよ。それしかやりようが無いから言ってんだ」
「今考えてんだよ」
「嘘くせえ」
「いいからちょっと待て」
俺たちが言い争いをしている間にジルバはゆっくりと距離を詰め、そして言葉が交わせる程度の場所で止まった。鼻で笑うような口調で、
「言葉は存分に交わしたか? 世に悔いは無いか?」
「悪いが悔いばっかりでな。あれこれと話は尽きない。そういうわけだ、ちょっと待っててくれ」
「待ってやりたいがそうもいかん。こちらにも事情はあるのでな」
「ああそう。だったら端から口にすんじゃねえよボケ。格好つけること優先って、どんだけめでたい頭の造りしてんだ。さすがトカゲ脳だな。変な方向に振り切れてて言うことなしだ」
「貴様の程度の低い妄言ともお別れだ。正直、ほっとしている」
どうする。どうするどうするどうする。
ジルバはほんの少し体を沈め、それに応じてイグレットも態勢を変えた。顔は見えないが、本気で相打ちを狙っているらしいことが、空気を通して伝わってくる。
ガキが格好つけて死ぬ。大概にしろ。なんだそりゃ。何の冗談だ。
畜生。
が、衝突は回避された。
「ジルバ」
と背後から女の声がしたからだった。
リリィだった。
リリィが現れたことで、これまで|培《つちか》っていた緊張感が一気に解れてしまったか、仕切り直すためにジルバは距離を取った。リリィはその隣に、妙に力無く立っている。
「ジルバ」
と声にも力は感じられなかった。少しばかり大きくなってしまった鱗を隠すためか、眼帯を身につけている。
「ヴィーとジンはどうした」
「死んだ。相打ちだった」
「そうか。いや、今はいい。連中を殱滅《せんめつ》する。援護しろ」
リリィは動かなかった。
「どうした」
「ジルバ、私は誰だ」
「質問の意図が見えないな」
「あの男は私を身内だと言った。私はそれを妄想だと決め付けた。この汚れた街に相ふさわ応しい住人の姿だと思いもした。だが、あの必死さはただごとではないのだ。本当に、本当に私を」
「お前は私の同僚にして部下だ」
リリィの表情が歪んだ。迷っている。付け目だ。俄然元気になった俺は、
「違うな」
と割って入っていた。
「間違えるなリリィ。お前は俺の身内だ。今はただ忘れてるだけだ。さっきも言ったが、もう四、
五日すりゃ思い出す」
「愚者の|戯言《ざれごと》だ。耳を傾けてやる必要は無い」
「思い出せリリィ! お前は母親だろう!」
「リリィ」
「リリィ!」
「私は」
「リリィ」
「リリィ!」
「私はっ!」
ど、と小さい音だった。
リリィの手がジルバの腹を貫いていた。
遅れて何が起こったか理解したジルバの表情が変わる。|驚愕《きょうがく》から|憤怒《ふんぬ》。
「下がれリリィ!」
が、当のリリィは自分がやってしまったことに驚いているらしく、全く動こうとしていない。拙い。相当に拙い。
「くそ、リリィ!」
瞬間。ジルバの拳が突き出されると同時に、リリィは俺の居る方向へまっすぐ頭から突っ込んできた。着地することすらせず、地面を滑るように移動した挙句、ぐったりと横になっている。
何が起こった。リリィは動けなかったはずだ。
答えを出したのはイグレットだった。
「ぎりぎりセーフ、かな」
「お前がやったのか」
「まだ加減が難しいけどな、ある程度だったら人の動きをコントロール出来る」
「そいつはまた、便利だな」
答えていると、イグレットの膝が折れ、その場に倒れる。
「悪い、ちょっと動けそうにない」
と、苦笑しながら言う。くそ、頑張りすぎだちびっ子。
「すぐけりをつける。そしたら医者に見せる。死ぬなよ」
「宜しく」
小さく頷いて、リリィに駆け寄った。ちらりとジルバを見ると、膝を折って腹部を押さえている。その確認が済んでからリリィを抱き起こしたが、相当に不安定になっているようで、血に塗れた手がぶるぶると震えている。やがて俺を死んだ魚みたいな目で見ると、
「私は何を、何をした」
「必要なことだ」
「違う。仲間を裏切った」
「逆だ。奴は敵だ。お前は敵に捕まって、すっかり別人にされちまってんだ」
「冗談を言うな。そんなふざけたことが出来てたまるか。くそ、もうお終いだ。貴様の、貴様のせいだ。貴様が私を乱した」
なんて面倒な女だ。こんなのを命賭けで助けようとした俺は、やっぱり間違ってたんじゃなかろうか、と真剣に思った。
「だからなんだ」
「だからだと? ふざけるな。私は」
「いいか良く聞けリリィ。お前は俺の女だ」
な、とリリィは漏らし、目をこれ以上無いほど大きく開いた。
「ま、今は思い出せないだろう。そういう風に仕向けられてるからな。だがな、事実だ。だから俺は必死だ。自分の女も救えない|甲斐性《かいしょう》無しにはなりたかねえからな。命だって張る。何度でも、何度でもだ」
イグレットはラダーマンカフェで働いていた頃の記憶がすっかり欠如している。即ち、元に戻れば今現在経験していることはすっかり忘れ去る、ということだ。だから好き勝手言える。最高だ。
「言いたいことは一つだ。戻って来い。お前のいねえ人生なんざ退屈にも程がある。そんで、戻ってきたら守ってくれ。見て分かるだろうが、奴はまだ死んでない」
リリィは大きく開いていた目を今度は細めると。微笑し、そして。
体を持ち上げ唇を重ねた。
俺が目を開く番だった。
畜生、やりすぎた。
永遠とも思えるキスの時間が終了すると、リリィはゆっくりと立ち上がり、ざくざくと音を立てながら数歩ばかり進み、
「なるほどどことなく懐かしいキスだったよ。お前とは以前にこうして唇を重ねたのだろうな。体が、いや、唇が覚えていた」
寒気すらする|台詞《せりふ》を口にしたリリィはゆっくりと振り返り微笑し、そして一直線にジルバへと突っ込んだ。
ジルバとぶつかる。そう思った矢先にリリィの姿は掻き消え、そうして次の瞬間、ジルバの背後から蹴りを見舞っていた。が、ジルバの反応も早い。いつのまに対応したのか、ろくに動けていないくせに、腕で蹴りを受け止めている。
ざ、と音がして二人は距離を取った。が、ジルバは着地するなりふらついていた。崩れかかっているが、相手が死なない限り気を抜くわけにはいかない。
何が出来る。今の俺に何が。簡単だ。一つしかない。口で煽って注意を引く。
俺は煙草を取り出しながら立ち上がると、
「随分重傷じゃねえの。腹に風穴拵えて、|腸《はらわた》飛び出しそうな具合か? 重傷だ。本当に重傷だ。普通なら降伏を勧めるね。けど、お前みたいな奴に降伏を勧めたって聞きゃしねえだろうから、だったらこいつはもう竜の肉の出番だ。おら、食えよ。食って竜に成り下がって死ね」
ジルバが弾かれたように俺を見た。
好機。
そしてリリィはその機を逃さず、同時に肉の貫かれる音がした。リリィの腕がジルバの胸を貫いていた。ジルバの体が震え、大量の血を口から吐き出す。
腕が引き抜かれると、ジルバの体は前のめりに倒れた。
リリィはそれを見下ろし、俺はこれまででも一等大きなため息を吐いた。
疲れた。
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断章・八
作戦が失敗に終わった、という報告がもたらされたとき、グラントは応接室に居た。同室していたのは、彼の秘書官と、皇女派議員が一人。報告を持ってきた事務官は下がらせていた。
グラントの内心は煮えたぎっていたものの、それが外へと出力されることはなく、少なくとも同室していた二人から見た彼は、どこまでも落ち着き払っていた。ゆったりとした動作でカップを口へ運び、テーブルへと戻す。顔には微笑さえ見て取れた。
会話が無いことに気を使ったのか、やがて、
「参りましたな」
と議員が言った。
「そうだな。参った」
「これからどうされますか?」
「そうだな。しばらくは大声は出せなくなる。|自侭《じまま》に振舞うことも同じく」
「しばらく?」
と議員は呆けたように繰り返した。先などあるわけがない、とその表情が雄弁に語っている。それを受けて、グラントはにんまりと笑った。
「引退しろとでも? 冗談ではない。隠居生活など何が楽しいものか。人生の終わりを呆けて待つなど御免|被《こうむ》る。生きている限り。そう、生きている限りは権力の庭に遊ばせてくれねば困るよ」
「ですが、引責は免れないでしょう」
「それも当然だ。再起を図るにしても時間はかかる。そこでだ、一つ頼みがある」
「聞けることであれば」
グラントは一つ頷くと、背後に控えていた秘書官を指した。
「こいつを使ってやってくれ。こういう事態も考えておいて|然《しか》るべきだというのに、方々にコネさえ用意していない。私に仕えていても潰れていくだけだ。頼めるか?」
「多少問題がありますが」
「当然だ。私の子飼いだからな。だから私と切れているということを前面に出して使っていい。君のためにもそのほうが具合が良かろう。落ち目のグラントから、使える手駒を引き抜いた。そういうことにしてくれ」
「承知しました。頂きましょう」
「宜しく頼む。お前もよく尽くせ。この男に恩を売っておいて損は無い」
「ですが、私は」
「言うな。従え」
「はい」
返事を受け取ったグラントは、疲れたように両手を組むと、天井を仰ぎ、そして小さく息を吐いた。「済まないが外してもらえるだろうか」
その言葉に応え、二人がそそくさと退出した。
一人になったことを確認したグラントは、やがてくすくすと笑い出した。
おかしくてたまらなかった。
ミュージア。我が子。我が娘。
彼女の望んだ結果が、今、目の前にある。
アルマを道具として使うことは出来なくなった。娘との勝負に敗れた、そう考えられないこともない。
国を、政治を、果てはドラゴンキラーまでをも巻き込んだ親子の|諍《いさか》いか。
なんとも愉快な話ではないか。
小さかった笑いが、徐々に大きさを増していった。やがて、声を上げて笑い出したが、そのうちに咳き込んだ。ひとしきり咳き込むと、脱力し、椅子に深く背を預ける。咳のせいか、笑ったせいか、目には涙が浮かんでいた。
それを指先で拭っていると、ふと、あることに思い至った。
娘は、ミュージアは、もしや計算ずくでこの事態を引き起こしたのではないか。
病床にあった彼女が打てた手は、足繁く通っていたロディと、身の回りの世話をしていたドラゴンキラーの|篭絡《ろうらく》。手駒としてはいささか不満があるものの、文句は言えない。二人を使い、アルマを外に出し、崩御までの時間を稼ぐ。
考えすぎだろうか、とグラントは顎を撫でたが、しかし否定することは出来なかった。どころか、それを肯定さえしていた。
何故ならば、彼女は自分の、ハーヴェイ・グラントの娘だから。
理屈にはなっていない。だが、彼にとっては強烈な説得力があった。そしてそれに思い至ると、再び大きく笑ってしまいそうになり、グラントは顔に浮かぶにやけたものをしきりに擦って消した。
自分の血は、確かに娘に受け継がれている。
娘を通じて、アルマにも受け継がれただろうか。
いや、そうに違いない。
孫の幸せを願ってやることしか出来なくなったな、と思っていたグラントは、その考えを即座に捨て去った。
自分の孫なのだ。この自分の。ならば逞しく育つに決まっている。
絶対に。絶対に。
妙な確信を得たグラントは、咳き込まないよう慎重に、けれども力強く。
笑った。
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エピローグ
ラダーマン・カフェに取り付けられた新たな看板を見れば、それなりの反応があるに違いない、という思惑があったものの、どういうわけかちっとも食いついてくれることはなく、俺の生活にゆとりが生まれることもなかった。
『ドラゴンキラー売ります 金貨五千枚より要交渉 アパート三階 便利屋ココまで』
何度見ても格安だ。ドラゴンキラーがこの程度の額で買えるのであれば、出そうと思う組織はいてもおかしくない。
が、来ない。さっぱり来ない。
何か問題があるのだろうか。あの騒動が原因かもしれないが、詳しいことは分からない。
街から商会が消えて二週間が経った。
勢力図が綺麗に塗り変わったものの、街の雰囲気自体に大した変化は無い。相変わらず銃声は聞こえてくるし、自分たちの組織を太らせようとそれぞれ動き回っている。そしてそれはパーマーが望んだ状況そのままで、最近はパンを焼く暇が無い、などと|呑気《のんき》に話していた。
一方、うちの事務所には何故かイグレットが居ついてしまっていた。
そもそもラダーマンの身内であるはずなのだが、どういうわけか当のラダーマンは引き取ることを拒み、結果居場所を無くしたイグレットがうちの事務所に、俺の断りを得ることなく転がり込んだ、という次第だった。理不尽なことこの上ない。
イグレットが普段やっていることといえば、カフェに入り浸り、アルマと話し、盛大に飯を食い、気が向けばうちの仕事を手伝う、とそれだけで、要するに勝手気ままに振舞っている。が、さすがにいつまでもそんな曖昧なままで居られても困るため、近々出て行かせるつもりではあった。そのための看板である。俺には金が入り、イグレットは追い払えると一石二鳥だ。
だというのに、どういうわけか買い手が未だに現れない。
|侘《わび》しさにグラスを傾けていると、隣にリリィが座った。以前のものより一回り大きなサイズの眼帯を身につけている。
「呆れてものも言えんとはこのことだろうな。大概にしておけ。悪ふざけが過ぎる。ああ店長、ラムをくれ」
「毎度」
「悪ふざけだ? 冗談じゃねえ、大真面目だぞ」
「違う、私が言っているのは値段設定についてだ。間違っているぞ。安すぎるのだ」
「ああ? なんだそりゃ。ドラゴンキラーにはもっと価値があるって言いたいのか? んなこた分かってんだよ。最強の兵器だ。しかも耳と口と頭までついてる。こんなに便利な兵器は無いだろうよ。だがな、とっとと売り払おうと思ったら安くする以外無いだろうが」
リリィは俺の熱弁を鼻で笑った。目の前に出されたラムをグラスに注ぎつつ、
「仕方無いな。いいかココ、良く聞け。ぱっと見たところ宝石に見えるが、妙に値段の安い指輪。買うか?」
「買わねえな」
「楽な割りに儲けが極端に大きい仕事の依頼、乗るか?」
「乗らねえな」
「さてココ。いかにお前が馬鹿で浅学でやる気のないくそったれでも、これだけ言えば分かるな?」
「裏があると思われてるわけか」
「まあ、そうだな」
「じゃあ値上げだ。五倍くらいにしてみりゃいいか」
「まあ、値上げしたら値上げしたで、今度は払える者が居ないという現実が待っているわけだが」
俺は飛び切り嫌な顔をし、畜生、と漏らした。それを見てリリィはけらけらと笑い、グラスの中身を一気に飲み干した。
「ま、お前はその程度の男だ。高望みはしないほうがいい。身に余るし、何より似合わん」
「馬鹿言うな。あの小僧を追い払うのは急務だ。とっととやらねえともう金が無え」
「私の取り分は今後お前が取れ。アイロンとも話したが、彼女も診療所の給料を回してくれればそれで十分だと言っている。それだけあれば、イグレットを加えることは可能だろう」
「なんだその呪いの言葉は」
ふてくされた俺を見て、リリィはまた笑った。新たなラムをグラスに注ぎながら、
「アルマはもう大丈夫だろうか」
とがらりと話題を変える。
「ああ、そうなってるはずだ。下手を打った同業者を引きずり下ろすのは政治家の義務だからな。アルマが欲しかったなんとか言う奴は落ち目になってるはずだ。つまり、アルマはもう安全、言うことなしだ」
「ハーヴェイ・グラント議員だ」
「そういう名前だったか。ま、頭は悪そうだが」
「それはまた、随分飛躍した意見だな」
「俺がそいつの立場だったら、遠くに行っちまったアルマにはとっとと見切りをつける。そのほうが安全だからな。それをドラゴンキラーまで使うなんて無茶をやった。こいつが馬鹿でなくてなんだ」
「そうか、そういえば言っていなかったな。グラント議員は、アルマの祖父だ」
「は?」
「祖父だ。母方のな。アルマの身柄を欲したのは、恐らくは血の繋がりがあったからだと思うが」
「初耳だぞ」
「だから今説明しているではないか」
「くそ。ジジイだと。なんだそりゃ。孫に皇帝の椅子をプレゼントしたかったのか? それとも院政か? くそ、どう解釈すりゃ良い」
「本人に訊かねば分かるまい。考えた所で無駄だ」
「言うじゃねえか。そいつが正解だ。ま、遠い連中の話だ。考えるより明日の飯の心配をしたほうが得か」
「そういうことだ」
俺は小さく息を吐くと、
「アルマの話が出たからついでに言っとくが、事務所、もうじき解散するからな」
と告げた。リリィは固まり、グラスに注いでいたラムが|溢《あふ》れ出した。慌てて瓶を立てたが、カウンターにラムが徐々に広がっていく。
「ちょ、ちょっと待て。何だ急に。落ち着け。いいか、落ち着くのだココ」
「お前が落ち着けよ」
「いいから。何だそれは。いきなりにも程があるぞ」
「いきなりじゃねえよ。前々から考えてたんだ。アルマが欲しかった奴は落ち目。安全は確保された。だったら、お前らがこんな街に居る理由は無いだろ。もっと別の、治安の良いとこで教育を受けて、普通に生活するのが妥当だし当然だ。女でもそこそこの仕事に|就《つ》けるとこが望ましいな。せっかく切れる頭を持って生まれてるんだ。そいつを|活《い》かさない手は無い」
「いや、それは、その、正論なのだがちょっと待て」
「もう決めた。何を言っても聞かねえぞ。ま、当座の金は用意してやる。|暫《しばら》くは食えるぐらいの金にするつもりだ」
「いいから待て」
「もう決めたっつったろ。しつこいぞ」
リリィは、むぅと唸った。それから眉を寄せたり、頬を膨らましたり、逆に引っ込めたり、椅子から立ち上がったと思えばまた座ったりと、要するに挙動不審な状況に陥った挙句、最終的にはラムの瓶を固く握り締め、そして力を込めすぎたか、そのまま砕き割った。
手から血が|零《こぼ》れるようなことはもちろん無い。
そして息を深く吸ったかと思えば、ばん、とカウンターを叩いて立ち上がり、
「行くぞ」
と俺の肩を掴んで店を飛び出していた。通りに出るなり、今度は高く跳ね上がる。着地したのは、アパートの屋上だった。
「何だよ急に」
「煩いちょっと待て。言いたいことは色々あるが、待つのだ。いいから」
馬鹿馬鹿しかった。
「話は済んだろ。事務所の解散は決定事項だ。動かす気は無え」
「しかしだな」
「アルマのことを考えてやれよ。いつまでもこんな街に置いとけないのは当然だろ。仮にこの街で育って、将来何になる。事務所の受付か、カフェのウェイトレスのままか、それとも体を張って|街娼《がいしょう》にでも立つか。銃に薬に頭のいかれた変態、そういうもんに触れる機会だって事欠かないってのにか」
「それは、そうだが」
「だから事務所は解散だ。お前たちは別の街で暮らせ。いつまで続けられるか分からんが、状況が許す限り金も送ってやる」
「そういうことではない。金の心配などどうでもいいことだ。私が言いたいのは、その、あれだ、そう、責任だ」
「はぁ?」
リリィは勢いに任せて着ていたシャツの左袖を肩の辺りで引きちぎると、左腕を|晒《さら》した。鱗が以前よりもずっと大きくなっていて、肩から手首の辺りまですっかり塗れている。それをこれみよがしに見せ付けながら、
「女の肌を|辱《はずかし》めた責任だ。取れんとは言わさんぞ。こうなったのは貴様のせいだ」
「それ、俺のせいか?」
リリィは腕を組み、
「そうだ」
と言い切った。馬鹿馬鹿しくなった。
「鱗の一枚や二枚どうだってんだ。話してるのはアルマのことだろ。お前のことじゃねえよ」
「我々は身内だ。それに、お前は言っていたではないか。私はお前の女なのだろう」
ぽかん、と俺の口が見事に開いた。
「よもや忘れたとは言わんだろうな。私のいない人生など退屈だ、とも言っていた」
「お前、なんで。別人になってた期間のことは覚えてないんだろ」
「そうだ。さっぱり覚えが無い」
ということはつまり。
「汚えぞ! お前、いつから元に戻ってた!」
「だから、お前は俺の女だ、の辺りからだ」
今度は俺が、な、と短く|漏《も》らしていた。背中から、腹の内から、頭の天辺から、後悔が猛烈な勢いで侵食していく。体全体がとっぷりと|浸《つ》かり切るまでに大した時間はかからなかった。 汚点だ。人生の汚点だ。
言ってしまっていた。リリィに対してお前は俺のものなのだと言ってしまっていた。
だから言葉が出なかった。そしてリリィは勝ち誇っていた。
「私がお前のものだというのであれば、その責任は果たせ。自分の女も救えない甲斐性無しにはなりたくない、だったな?」
「リリィ、ちょっと待て、落ち着け。いいから落ち着け」
「煩い黙れ」
ぐ、と小さく唸り、肩を落とした。頭の中でジルバとの戦闘が思い起こされていく。何やら妙な違和感があった。何だ。そうだ、キスの件だ。女だ、と言ってしまった辺りで元に戻っていたのであれば、キスをしたのは今のリリィの意思で、ということになる。
嵌められていた。そしてそれに気づくと、
「だったらお前、あのキスはどういう理屈だよ」
指摘されたリリィの目は泳いでいた。
「くそ、全部分かっててやってたんだな。返せ。俺の唇を返せ。畜生、なんだってんだ。罰ゲームって言葉じゃ足りねえぞ。精神的な強姦だ」
「な、貴様、言うに事欠いて強姦だと。ふざけるな」
「煩い黙れ」
俺たちは睨み合い、そして同時に脱力した。
「なんか馬鹿馬鹿しい。ここまでだ」
「同感だ。きりが無い」
俺は頭をぼりぼりと掻きながら、
「ま、すぐ解散ってわけでもないんだ。当座の金を用意するためにも暫くは仕事に精を出すことになる。まあ長くても半年くらいだろうが、少しずつ準備は進めていく」
「決定事項なのだな」
「アルマのためだからな」
アルマの名前を出されると、リリィは小さく、そうか、と呟き、
「お前も」
と続けたが、そこから先の言葉を飲み込んだ。俺がなんと答えるか分かっているらしかった。
連れ立ってカフェに戻ると、ラダーマンに代わってアルマがカウンターに入っていた。専用のお立ち台に立ち、てきぱきと仕事をこなしている。
「よう、精が出るなお姫様」
先程座っていた席に陣取りつつ言う。
「あ、いらっしゃい。何にする?」
「さっきまでここにラムがあったんだが、片しちまったか?」
「うん。あれ、もしかしてココの?」
「そうなんだが、片したんならそれでもいいか。野菜搾ってくれ」
「リリィは?」
いつものやり取りなのだが、解散の話を耳に入れてしまったからか、リリィは妙に畏まっていて、私は、と言ったきり、泣きそうな表情で固まってしまっていた。
「ラムにしてくれ」
と隣から言う。が、アルマは気にかかったのか、
「リリィどうかしたの?」
「ん、まあちょっとな。あれだ、アルマももう五、六年すりゃ分かるようになる。大人の女の苦しみって奴だよ」
ドラゴンキラーに月経は来ないらしいが、それでもそう濁した。
「そうなんだ。リリィ大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫だ。ありがとう」
アルマが作業に入ったことを確認してから、
「しゃんとしろ」
とぼそりと言った。
「分かっている。分かっているが、少し、|堪《こた》える」
程なくアルマが野菜ジュースとラムを用意し、それが終わると今度はグラスを|磨《みが》く仕事を始めた。手慣れている。ジョッキに口をつけながら、
「アルマ、ちょっといいか」
「なぁに?」
「さっきリリィと話したんだがな、事務所をもうじき解散しようと思う。マルクトの政治家はもうアルマを狙わない。だったらアルマがこの街に居る道理はねえよ。もっと住み易くて安全な土地に引越したほうがいい」
アルマはグラスを磨く手を止めることなく、
「じゃあ引越しの準備しなくちゃ」
と応じた。
「そうだな。まあ半年くらい先になるだろうから、ゆっくり進めててくれ。金の心配は要らない。それなりに持たせてやる」
「うん? ココは一緒じゃないの?」
「俺は、この街から離れられねえよ。今更勤め仕事ってのも抵抗があるからな」
「そんなの駄目だよ。一緒に行こうよ」
「アルマ、さすがにそいつは聞けない。俺は人殺しだ。そしてそれを止められない。自分が死ぬまで止められないんだ。それ以外の生き方を知らないからな。だから俺はこの街からは離れられない」
磨き終えたらしいグラスをゆっくりと置くと、アルマはそのまま俯き加減で黙り込んだ。少しばかり気まずくなって、
「そういうわけだ。準備は万端に」
と声をかけたが、アルマはゆっくりと顔を上げると、
「私、行かないよ」
と静かに答えた。
「私、ここに居る」
「アルマ!」
とリリィが物凄く楽しそうな声を張ったが、無視した。それどころではない。
「いや、ちょっと待て。こいつはもう決定事項でだな」
「皆一緒じゃなきゃ嫌だよ」
頭を抱えそうになった。
何を言っても無駄だと、アルマの目が言っている。
畜生。うちの女どもはどうしてこう強い。
だが、引くわけにもいかなかった。アルマをこの街に置いておくわけにはいかない。
「将来のことを考えろよ。でかくなって何になる。この店でずっと働くのか? 事務所で受付か? どっかの誰かと結婚するにしたって、この街でってことになるんだったらそりゃ最悪の野郎に決まってる。つまりだな、この街に居続けたってろくでもないことにしかならねえんだよ。だからアルマは外に出るんだ。こんな吹き溜まりに居ちゃ駄目だ」
俺の熱弁を真正面から受け止めたアルマは、何故か妙に誇らしげな微笑を浮かべると、
「分かってないなぁココは」
と言った。
「家族って、皆一緒じゃなきゃ駄目なんだよ」
俺は脱力しながら、
「家族か」
「そう、家族。ココはお父さん。リリィはお母さん。アイロンはお姉さんで、イグレットはお兄さん」「可哀想だからイグレットは近所のお兄さんにしといてやれ」
「店長は叔父さんで、スプリングとポニーはお姉さん」
「ラダーマンは爺さんだ」
「だからね、皆一緒じゃなきゃ駄目なの」
俺は精一杯のため息を吐きながら、
「参ったな」
と呟いた。
「いい加減諦めてはどうだ? 何せアルマが望んでいる。そして私の務めはアルマを守ることだ」
「煩え。畜生、どうしてこうなる。アルマ、まだ遅くない。まだ時間はあるんだ。そう結論を急がずにゆっくり考えて」
未だに諦め切れなかった俺に、例によって例の如く、アルマは切り札を切った。
「駄目? ねえココ駄目なの?」
と首を傾けて言った。
これには勝てない。そしてアルマもそのことを良く知っている。
様々な心配事が頭の中をぐるぐると巡り、けれどもそれらが勘案されることはすでになくなっていて、挙句俺の口からは諦めたような口調で、
「いいよ」
と漏れ出していた。
アルマの表情が明るくなる。隣に居たリリィが喜んでいる。俺はカウンターに伏せる。
なんでこうなった。
この生活が続くだと。
冗談じゃない。
そんなのは認められない。
だがアルマに勝てそうな気配が無い。
畜生。
「ココ?」
伏せていたところにアルマの声がかかって、俺は疲れきった表情で体を起こすと、
「酒をくれ。この店で一番強い酒がいい。味は二の次、払いはアルマだ。我侭を聞くんだ。それくらいやってくれてもいい。そうだろう?」
アルマは一瞬驚いたようだったが、やけにタフな微笑を浮かべると、
「駄ぁ目。人の財布を当てにしてお酒を飲んじゃいけません」
と言い切った。
リリィが思わず吹き出した。
アルマも釣られて笑った。
そして俺も、
「お前らには負けるよ」
と、同じく笑った。
(終)
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あとがき
どうもこんにちは。作者です。
シリーズも三冊目。そしてこれにて一旦終了となります。お付き合いくださった皆様、どうもありがとうございました。|拙《つたな》い作品群でしたが、もし楽しんでいただけたのであれば、望外の喜びです。このシリーズの今後に関しましては、またいつかお会いする日が来るかもしれませんが、現在のところは未定です。
そういった次第で、次は新シリーズです。まだプロット段階ですが、次は真面目な少年が主人公の予定。間違っても馬鹿丸出しの小悪党にはならない、はずです。こちらも全三冊の予定です。
さて、あとがきのネタも無いので、突然ですが作品解説(のような思い出話のようなもの)なんかをやってみたいと思います。書いた順で。
『ドラゴンキラーあります』
勢いだけでしたね。ほんと。応募締め切りまで時間が無くて、キャラ表もプロットも無しの出たとこ勝負でした。キャラの名前がいい加減なのはそのせいです。ウェイトレス二人が特に顕著ですね。とにかく書きやすいように(応募締め切りに間に合うように)という理由から、章の最初を頭痛の描写に統一したのが特徴といえば特徴。
『絶対不運装置―ドラゴンキラーありますその後』
短篇です。『C★N25』に掲載されてます。これはC★NOVELS創刊二十五周年を記念して作られた本で、大量の短篇とイラストがメインコンテンツ。ゴージャスです。
内容に関してはタイトル通り、『あります』の後日談です。事務所の飼い猫ハニーが初登場するのもこの話。長篇の書き方で短篇を書こうとしている、と指摘されたことは一生忘れないと思います。当初は他人の運を食べる竜、というのを出そうと思ってました。タイトルに名残りがありますね。でも面白くなかったので没。一から書き直しました。そしてタイトルを『猫のドラゴンキラーさん』に変更しようとしましたが、猫村さんと被るという理由で没。
『ドラゴンキラーいっぱいあります』
三冊でシリーズを考えたとき、三本目でマルクトをもう一回出すのが自然。そうするならば敵を大きくしなければならないし、それに対抗出来るように味方のドラゴンキラーを一人二人増やしておく必要がある。という理由でアイロンが生まれました。必要に迫られて機械的に作ったキャラで、いまいち存在感というか、奥行きというか、生きている感じがしないキャラになってしまったのは反省すべき点です。
『ドラゴンキラー売ります』
本作です。締め切りを破りました。無念です。本来ならば『あります』の発売直後に完成する予定が、『いっぱいあります』の発売前日までずれこみました。
締め切りを破るのは体に良く無いです。関係者の顔が走馬灯のように頭の中をぐるぐると巡り、しかも関係者の皆さんは真面目に仕事に取り組んでらっしゃる方々なので、そういう人たちに迷惑をかけていると想像すると、お腹を壊すに十分な破壊力を伴います。
もう嫌です。もう締め切りは破りません。体を壊します。本当に。
それでは最後に謝辞を。
ご迷惑ばかりをおかけしている担当編集、番長殿、軍曹殿。
鋭い突込みを毎度頂戴しております編集長殿。
美麗なイラストを提供してくださいましたカズアキ氏。
デザイナー様。
校閲、DTP部署の皆様。
営業局の皆様。
印刷所、製本所の皆様。
書店様(ご挨拶をさせて頂く機会に恵まれました書店様には特に)。
皆さんのお陰でココたちの物語が世に出ることが出来ました。
心よりお礼申し上げます。
そして本書を手に取って下さった皆さん。
よろしければまた次のシリーズでお会いしましょう。
竜の次は魔法使いです。
海原育人