ドラゴンキラーいっぱいあります
海原育人
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目次
プロローグ
一章
二章
三章
四章
五章
男と女
六章
男と女
七章
男と女
八章
男と女
九章
エピローグ
あとがき
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プロローグ
何かの気の迷いだったと思うが、ふと煙草を自分で巻いてみようと思い立って、俺は煙草の葉と、巻紙用に辞書を買い求めた。
事務所に戻るなり、辞書のページを切り取って、煙草の葉を乗せ、くるくると巻いていく。手先はそれなりに器用だが、慣れない作業であるせいか、出来上がった手巻きの煙草はどこまでも不恰好なものだった。
まあ、吸えないこともないだろう。そう思って火をつけた。が、不味《まず》かった。見た目の出来の悪さではなく、どうやら葉の選択を間違ってしまったらしい。
二口吸ったところで諦めた。煙草の葉と辞書がすっかり無駄になって、俺は苦笑してしまった。慣れないことをするものじゃない、と分かってはいたが、どうにも懐かしくなったせいだった。
俺が憧れていた人が、手巻きの煙草を好んで吸う人だった。その人は俺が所属していた第二小隊の先任軍曹で、俺の上官で、何より冗談みたいなタフさを備えた軍人だった。
だが、もういない。死んで骨だ。
「出来あいの煙草なんざクソだ。吸ってる奴は生きてる価値すらねえクソ虫どもだ。男なら、断然手巻きだ。さあ手前《てめぇ》ら、クソ虫呼ばわりされたくなけりゃとっととその出来損ないの煙草を捨てやがれ」
そう言っては自分の趣味を周囲に押し付けていた。困った人だった。
そもそも手巻きの煙草を吸っている人間なんて少数派だったのだ。俺も、俺の周りの同僚たちも、兵たちにしても、皆店で売っている煙草を吸っていた。手巻きで吸っているのは軍曹ぐらいのもので、そのくせ、クソだなんだと騒ぎ立てていた。
軍曹はどこまでも我侭《わがまま》な男だった。我侭で強引で、けれどもどこまでも軍人だったし、何より腕が立ったから皆、彼を信頼し、慕い、そして尊敬していた。
三十代も後半に入ろうかという年で軍曹という、要するに素行に問題があったために出世が滞《とどこお》っている口で、そのせいかは知らないが、子供っぽいところが多分にあった。が、いざ作戦行動ともなれば、まさに軍人としか呼べないような、冷たい光をその目に宿した。
軍人。それも歴戦の下士官。この上なく頼れる男。
俺は彼から色々なことを学んだ。
軍人として、とりわけ下士官としてのあり方。将校の躾《しつ》け方。兵のまとめ方。それらは下士官候補学校で教えられたことよりも、より濃く、俺の血肉へと変わった。
ただ女の趣味までは付き合いきれなかった。軍曹は、おんなになったばかりの若い娘を好んだ。出来れば初物が良い、と何度も聞いた。が、俺は育ちきって程よく肉の付いた女のほうが断然好きだったし、尻の丸い女でなければ興奮すらしない口だったから、それに関する議論が俺たちの間で交わされた場合は、当然のように紛糾《ふんきゅう》した。
互いに、というか。誰だってそうだろうが、それは拘《こだわ》りという名の美学であり、譲れない一線であり、究極的には俺を俺たらしめている要素だ。譲れば、俺は自分を否定することになる。だから譲れなかった。譲るわけにはいかなかった。
「やはり女は尻ですな。それ以外は論じる必要すらありません」
「馬っ鹿じゃねえのかお前。娘がおんなに変わったばっかの、あの妙な色気が良いんじゃねえか。処女の初々しさってなぁ、たまらんぞ、おい」
「面倒なだけでは?」
「それがまた良いんじゃねえか。なんつーのかね、風情?」
「違う気がしますが」
「なんだっていいんだよ。分かりやすく覚えとけ。俺ぁ変態だってよ」
そんなやり取りがしょっちゅうあった。
押しつぶした手巻き煙草を眺める俺の口には、苦笑とも、微笑とも取れない、曖昧《あいまい》な笑みが浮かんだ。それは俺の心情をそのまま映したもので、自分でも何と呼べばいいのか分からない。
懐かしい。楽しい。申し訳ない。主に支配的だったのはこの三つだ。特に最後が強かった。
軍曹に止《とど》めを刺したのは俺だった。重傷を負った軍曹に、俺が止めを刺した。もちろん互いに納得した上での行為だったし、誰が悪いとか、誰に責任があるとかいう話ではない。が、俺の中にはかすかな後悔と罪悪感はあった。それが今も尾を引いている。
この世で唯一尊敬していた人を殺した。俺が、この手で。ためらうこともせずに。
知らず知らず、俺は歯を食いしばっていた。
詮無《せんな》い考え方だと決め付けているくせに、もし軍曹が生きていれば、俺の人生はまた違ったものになったのではないか、と想像を広げ始めていた。直後に参加した戦役で遭遇《そうぐう》したあの惨劇も、もしかしたら上手く乗り切ることが出来たのではないか。
馬鹿馬鹿しい。無意味な仮定だ。下らない空想だ。
自身の思考を批判しつつも、つい考えてしまうのは俺が軍人であることを気に入っていたせいだろう。少なくともそう望んだ人生だった。
ふと。
軍曹に止めを刺したとき、小隊指揮官の中尉に猛反対されたことを思い出した。
「止《や》めろ。これは命令だ!」
「無駄です、中尉殿。軍曹はもう助かりません。捨てて行くか、ここで殺すかです。どちらにせよ死ぬのならば、我々の手で始末をつけるべきです」
そういうやり取りがあった。
「止めろ。止めるんだ」
「伍《ご》、長《ちょう》」
軍曹が口の端に血の泡を作りながら、何とかそう言った。
目が合った。言葉は無い。その必要も無かった。ただ目を合わせただけだったが、山ほどの言葉を交わしたかのような満足感があったからだ。
俺は小さく頷き、そして引き金を引いた。
中尉がその場に崩れた。部下の死体など見慣れているだろうに。軍曹が死ねばこういうものだろうか。いや、この人もまた、軍曹に信頼と尊敬を寄せていたのだ。だからこうして嘆いている。指揮官としては、兵に見せてはならない姿。が、人として共感出来る部分はもちろんあった。
俺だって状況が許すならば涙の一つくらいは流したかったのだ。
だが、俺はその時伍長で、軍曹の穴を埋める義
務があった。泣いている暇があるならば、兵を叱咤《しった》し、そしていかに殺すかを考えねばならない。
「第二小隊、集合!」
中尉をちらりと見てからそう発した。
次の作戦のため。次の次。次の次の次。命令を出すものがいる限り、政治家が戦争を望む限り、俺は下士官であらねばならなかった。
「中尉殿、ご命令を」
返り血を浴びて汚れた顔のままそう結んだ。
昔の事を思い出すと頭が痛くなるのが常だが、軍曹とかつて俺が所属した小隊のことに限ってはそうでもない。
この世で唯一尊敬した男。
そして俺が命を奪った男。
彼の名はココ。
今は俺がその名を名乗っている。
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一章
「アルマ、お願いだ。言うことを聞いてくれ」
「平気だもん。手洗いだってうがいだって毎日やってるよ」
「そうは言うがな、仕事場からして不衛生の極みのような環境ではないか。煙草を吸う者、酒を飲む者、果ては麻薬まで使われている。そうだ、そもそも働くことからして私は反対なのだ。良い機会だから、ここらで店長から暇を貰おう。そうだ、そうするべきだ」
「私一人が楽をするのは良くないよ」
何やら揉《も》めているらしいリリィとアルマを眺めている昼。開け放たれた窓から眺める空はどんよりと曇り、今にも雨が落ちてきそうな気配だった。一雨来るかな、と感想を抱きつつ、窓に向かって煙草の煙を吐き出すと、それを受けてか、飼い猫がにゃあ、と鳴いた。
忌々《いまいま》しい黒猫である。
俺がこの世で嫌いな生き物といえば、竜とドラゴンキラーと黒猫だ。そのうちの二つが俺の事務所に居るのは、えげつない運命の巡り合わせである。そのことを考える度、侘《わび》しい気持ちで一杯になるため、あまり深く考えないようにしているが、それでも黒猫が鳴く度に撃ち殺してやろうかという気になった。
だがそんなことをすれば俺の命が危ない。アルマが可愛がっているためだ。こっそり捨てようかと何度か企み、うち一度は実行にも移したものの、リリィによって阻止された。次は無い、と真顔で言われた。
黒猫の名前はピスと言う。一月ほど前にアルマが拾ってきた。本名はハニーだが、俺は渾名《あだな》でしか呼ばない。そのせいかどうかは知らないが、ピスは決して俺に懐《なつ》こうとしなかった。ピスと呼んでも返事すらしない。望むところである。黒猫に好かれても少しも嬉しくない。そのくせこの事務所で飼っているから、夜中に餌をやるのは俺の仕事だったりする。
理不尽な話だ。
もう一服つけようかと煙草を引き寄せつつピスの姿を追っていると、主が恋しくなったのか、アルマの元へと駆け寄り、その腕の中に納まった。
視線を上げると、アルマと目が合った。合うなり、
「ねぇココ。いいでしょ?」
とほんの少しだけ甘えた声で言った。すでにウェイトレスの制服を着込んでいる。昼食を取ってから店に出るようにしているから、今は食後の休憩時間だった。もうじき仕事に出向くことになる。
ちなみに勤務時間は午後一時から八時まで。残業あり。
実務に目をやれば、カフェの客足が伸びるのは陽が落ちてからだから、それまでは先輩ウェイトレスたちと喋ってジュースを飲み、合間に給仕の仕事をちょこちょこする、という格好らしい。ほとんど遊びに行っているようなものだ。
まだ八歳である。労働力として当てには出来ないし、カフェの主、ラダーマンもそんなことを期待してはいないだろう。アルマは象徴だ。人質と言ってもいいかもしれない。アルマを従業員として雇うことで、ドラゴンキラーであるリリィに対して幾らかものを言える立場に立とう、という腹だった。
そしてドラゴンキラーとは、一言で言えば超人だ。
砲弾さえ跳ね返す肉体を誇り、あらゆるものを喰らう最強の害獣、竜。一種につき一種類のものしか餌としないから、その名をとって竜の名前とするのが一般的で、例えば火竜、風竜、音竜、という風になる。
その竜を殺せる化け物。それがドラゴンキラーだ。
その正体は、竜の力を体に宿した、半人半竜とでも言うべき存在であり、つまりは人間の形をした竜だと思っておけば間違いない。鉄板を拳《こぶし》で貫き、銃弾の一切通らない体を持ち、人間には視認出来ないほどの速度で動く。軍においては、個人で一個師団相当に勘定される、化け物の中の化け物。
が、そんな化け物にも欠点はある。体を維持するために大量のエネルギーを必要とするのだ。つまりは度を越した大食いだ。一日食わねば痩せ、二日食わねば動けなくなり、三日目には餓えて死ぬとまで言われている。
で、何をどう間違ったものか、うちの事務所に籍を置くリリィがそのドラゴンキラーだった。火竜のドラゴンキラー、という奴で、火を食い、そして火を操ることが出来る。もちろん普通の人間と同じ食事も可能で、日頃はこちらがメインだ。が、おやつだとか、小腹が空いたとか言っては、ちょくちょくガスの火を口にしていた。
「あぁ、いいんじゃねえかな」
俺は即座にいい加減な返事をした。話を聞いていなかったからだ。
アルマとリリィが揉めるのはいつものことである。アルマを心配するあまり、リリィが色々と行動を制限しようとするのが発端だ。一方で日常の些事《さじ》についてはとにかく甘い。好きなようにやらせている。つまるところ溺愛《できあい》しているわけで、極端に過保護だった。
が、アルマはアルマで献身的なところがあって、俺たちの助けになろうと自分なりに頑張ってくれている。アパート一階にあるカフェでウェイトレスをやると決めたのも、そういう思いやりが根っこにある。
毎度のように繰り広げられるリリィとアルマの争いは、互いが互いのことを思っての揉め事だから、双方引かない。が、最後はリリィが折れるのも常だった。
「ちゃんと聞いてなかったでしょう」
八歳という年齢の割りには相当に賢いアルマが、拗《す》ねた表情を作ってみせた。
俺は苦笑しつつ、
「ああ聞いてなかった。先の見えた勝負ってのは面白くないからな」
「うん?」
と首を傾《かし》げた。手入れを欠かさないブロンドは、今は束ねて丸められ、後頭部で団子にされているが、普段ならば髪が肩にかかり、なかなか絵になる仕草のはずだった。
「いっつもアルマの勝ちだってことだよ。大したもんだ。リリィに勝てるのはアルマぐらいだな」
俺の言葉にアルマはにっこりと笑った。
「で、何の話なんだ?」
「病気が流行《はや》っているのだ。聞いていないか?」
表情を固くしてリリィが言った。
黒のノースリーブセーターに、さりげなくレースの刺繍《ししゅう》が施された灰色のパンツ。鱗《うろこ》が露出して当然の左腕には、包帯かバンデージか、それともマフラーなのか、とにかく白いひも状のものを巻いている。足元はブーツ。ちなみにブーツ以外は全部自分で作ったものだ。リリィの趣味は裁縫である。
真紅の髪は、出会った頃に比べると随分伸びた。肩にかかる程度で、特に手は入れられていない。右目を隠すため、外出するときは眼帯をつけるが、事務所にいるときは外しているから、今は本来の姿を晒《さら》していた。トカゲか猫のような、縦長の瞳孔《どうこう》とほとんど黄色に近い黒目。目の下には僅かながら鱗も浮かんでいる。
ドラゴンキラーの中にも個体差があるらしく、より竜に近ければ近いだけ、その影響が体に現れる。リリィの場合は髪と左腕と右目だったそうだ。ドラゴンキラーになったときに、髪は赤く、左腕には鱗が浮き、右目が猫のようになったらしい。おかげで目立って仕方がない。
美人といえば美人。あまり険のない表情で、超人の割りには性格は穏やかな部類に入るだろう。最近知ったところによると、年は俺より一つ上。身長は俺より頭一つ低い。女としては平均的な高さだろう。
「聞いてねえな。興味もあんまり無いが、そんなに流行ってるのか?」
「症状は神経痛だそうだ。熱は出ないらしいが、相当な痛みが出るらしい。だからアルマを人の多い場所に置いていては、いつ病気を貰うとも知れん。そういう話だ」
「空気感染なのか?」
「流行るというくらいだから、そうなのだろう」
「分かんねえぜ。下《しも》の病気かもだ。尻の穴ってのは病気の取引がされる場所だってのは常識だろう?」
下品な喩《たと》えを持ち出すと、リリィが詰め寄り、
「アルマの前だぞ」
と囁《ささや》いた。声色には厳しいものが含まれていたため、俺はへらへらと笑って過ごした。
「で、アルマはどうしたい?」
「私は平気だって言ってるの。ちゃんと手洗いしてるし、うがいもしてるって」
「ああ、そりゃ偉い。立派だ。俺がガキの時分は手洗いが嫌で嫌でたまらなかったもんだが、それからすりゃ大したもんだ」
「ココ」
「好きにさせりゃいいじゃねえか」
「保護者として主張すべきところはさせてもらう。いや、お前だって保護者の一人なのだ。そのお前が火に油を注ぐような真似をしてどうする」
「保護者ねえ。けど、俺はアルマに給料出してるぞ。当然ラダーマンも出してる。金を稼いでるなら一人前だし、俺はそういう風に扱ってるつもりだ。アルマがそうしたいってんなら止める理由はねえ。いや、止めるのは筋違いだ」
しかし、と何か反論をしようとしたリリィの視線を外し、俺はアルマに向き直った。
「その代わりアルマ。何かあっても責任は自分で取らなくちゃだ。それが一人前ってことの意味だ。分かるか? 手前《てめぇ》の尻は手前で拭けって話さ」
アルマは大きな目をぱちぱちと瞬かせると、
「分かった。頑張る」
と頷いた。
「良い子だ。もちろん、困ったことがあったら何でも言ってくれ。なんせ身内だ。アルマの面倒事は俺とリリィの面倒事でもある」
「うん!」
と元気な返事を受け取った。
「さて、ぼちぼち仕事の時間だろ。遅刻しちまうぜお姫様」
「うん、行って来るね」
アルマは立ち上がると、抱いていたピスを床にそっと放し、そのまま小走りに事務所から出て行った。ピスはアルマの後を追いかけて行こうとしたが、ドアの所で何やらアルマに含められたらしく、やたらと残念そうに事務所の棚の上で丸くなった。
それを見ていい気味だと小さく笑っていると、
「甘すぎるのではないか?」
とリリィの小言が飛んできた。
「どっちがだよ。甘いのはお前だろ。俺は突き放したんだぜ。好きにしろ。責任は自分で取れってな」「私は甘やかしてなど」
「べろんべろんに甘いじゃねえかよ。大体、保護者を気取ってるんなら、アルマが一人で生きてけるように仕込むのが当然だ。甘やかして出来上がるのは、何でも思い通りになるって心の底から信じてる幸せな馬鹿だけだよ。ま、アルマは切れるからな、放っておいても勝手に育ちそうなもんだが」
リリィは険しい表情のまま、むぅ、と唸《うな》った。
「眉間《みけん》の皺《しわ》は取れないって言うぜ」
「茶化すな。大事なことを考えるのに、考えすぎということはなかろう」
「じゃあ俺は金のことを考えるさ。そいつを考えれば今俺たちがやるべきことは明白だ。仕事だよ。依頼も入ってる。アルマのことは道々考えろ。今は金。明日も明後日も金、金、金だ。くそったれ」
「貧乏暇無しとはよく言ったものだな」
「九分九厘お前のせいだってことを自覚してて言うことか?」
「雇うと決めた時にこうなることは覚悟の上だったろう?」
「煩《うるせ》えよ馬鹿トカゲ。くそめ。消防団に突っ込むぞ。放火は俺がしてやるから、火事場でたらふく火を食えばいい。感謝もされて言うことなしだ」
「ああ大層美味しくいただけるだろうよ。だがな、火を食おうとすれば、対象物の燃焼を強引に促進させることに繋《つなが》がる。つまり残るのは炭と灰だ。それは消火とは呼ばんだろう」
リリィは真面目腐った返事で、俺は喉元をぼりぼりと掻《か》きつつ、
「まあいい。今日はお互い別の仕事だ。無茶はするな。もっと言うと、ものを壊すな。壊す場合は目撃者ごと消せ。弁償してる余裕はうちにはねえ」
そう言って俺は立ち上がり、寝室へと向かった。
掃除が行き届いている事務所に比べて、ここだけは圧倒的に汚い。家事全般をこなすリリィの手は、ここには届いていなかった。かろうじて守り通された俺の聖域だ。
クローゼットを開けて手早く着替えを済ませる。
ぴっちりとした半袖の黒いアンダーシャツ。ホルスターを身に付け、銃とクイックローダーを確かめる。上から色あせた紺色のジャケットを羽織った。下は黒のレザーパンツにブーツ。ベルトには鎖が二筋、先端には懐中時計と財布がそれぞれ取り付けられている。薄い金属製の煙草入れとオイルライター、事務所の鍵が上着のポケットに納まっていることを確認して、ようやく準備を終えた。
寝室を出ると、すでにリリィの姿は無かった。
俺は煙草をくわえ、一口吸ってから事務所を後にした。
誰のための仕事か。決まっている。リリィを食わせるための仕事だ。
ああ全く、最高だ。
今日の仕事は銃の運搬と護衛だ。
他所《よそ》の土地の軍隊からの横流し品らしい銃火器を、港から商会まで届けるという話で、楽な部類に入る。その分、実入りも少ない。
最近この手の依頼が増えた。
俺の事務所にいるドラゴンキラーの力を当てにしているらしい。まあ予想されたことではあったし、何より仕事には違いないから、請けても損は無い。それに、常人の十倍からの食料を必要とするドラゴンキラーを養うには、金は幾らあっても困らなかった。
連中が買っているのは、安心だ。保険と同じものである。ついでに言うと、これまで護衛について襲われたことは一度もない。
これが何を意味するかといえば、ココが居る、その背後にはドラゴンキラーが居る、と強盗を生業《なりわい》としている連中に睨《にら》みを効かせるわけだ。俺は虎の威を駆る狐の役回りである。要するに狐の俺は強烈に情けない思いをしながら、それでも金のために護衛という名目のリリィの宣伝をこなしているわけである。
そもそも。
事務所の従業員であるリリィの食費まで面倒を見る義務は、俺にはなかったはずなのだ。そのあたりは自分で片付けるべきことで、雇い主である俺が責任を負うべき問題ではない。
そのはずだったのだが、
「ドラゴンキラーにとっての食料とは、内燃機関を搭載した車両の燃料、あるいは馬の糧秣《りょうまつ》と同義であり、顧客から求められるであろうドラゴンキラーの能力を十分に発揮するためには、体を動かすに足るだけの食料の支給が必要不可欠で、つまるところ雇い主であるお前にはその責任がある」
といった意味のことを、物凄くあやふやな言葉でもって、度々つっかえながら力説された、という経緯がある。まあ分からない話ではない。が、リリィの言葉だとは思えなかった。
リリィがどんな女かといえば、怪力で馬鹿でおぼこで、アルマを溺愛している。アルマ以外は目に入っていないと言ってもいい。そんな女が改まって食糧問題を持ち出してきたわけで、この上な
く胡散《うさん》臭かった。何かあると思うのが当然だ。それで調べてみれば、ラダーマンの入れ知恵だった。
「店長が、こういったことは曖昧にしてはいけないと言うのでな」
「あのハゲ、余計な面倒|拵《こしら》えやがって」
「まあ、無理にとは言わん。一応言ってみたまでのことだ」
「へえ、謙虚なもんだ。情にほだされて俺が金を出すと思ったら間違いだぞ。遠慮なく甘える。手前は火で食いつなげ」
「もっとも、ココは飯を食わせてくれないと触れ回るつもりだがな。店長の協力は取り付けてある」
リリィはそう言ってにやにやと笑った。
「お前」
「見栄と面子《めんつ》は大事、だったかな」
「脅す気か」
「これがこの街でのやりようなのだろう? 従業員に飯を出さないほど意地汚く強欲、そういう男だと評判が立てば考えも改めるだろう」
「手前っ」
「さあどうする。決めるのはお前だ。提案はすでに済ませた。受けるか蹴るか、どっちだ?」
最悪だった。つまりはそういう話で、理不尽な要求を突きつけられた挙句、それでも俺は面子を取ったのである。リリィの言葉通り、見栄と面子は大事なものだったからだ。もっとも損をして得を取ったのかといえばそういう話でもない。得など一つも無い。大損して取ったのはリリィの機嫌だけだ。
もはや今の俺はリリィを食わせるために働いているようなものである。それなりの額だった貯蓄はこの三ヶ月ほどで綺麗に溶けて消え去っていたから、今は尻に火が付きっぱなしだ。つまり、俺には金が要る。出来れば大金が。楽して手に入れられればそれに越したことはないが、最近は小さな仕事しかないから、数をこなしてリリィを食い繋がせる日々だった。我ながら全く甲斐甲斐《かいがい》しい。ドラゴンキラー・ブリーダーと呼んで欲しいくらいだ。
そんなことをつらつらと考えつつ、俺は通りを歩いていた。
裏通り。そう呼ばれる通りである。悪人共の棲家《すみか》だ。対になる通りに堅気の連中が住む表通りがあるが、堅気と悪人の人口の比率が間違ってしまっているこの街では、こちらのほうが圧倒的に元気がいい。売られている品の質も量も、出所を考えなければ、相当に満足行くものばかりだ。が、だからといって堅気の人間が裏通りに足を踏み入れることは滅多になかった。襲われるのが分かりきっているのに、無茶をする馬鹿はいない、ということである。たまに度胸試しだとかで入り込んでくる者がいるらしいが、右も左も分からない余所者が迷い込むことはあっても、表通りの人間に出会ったことはなかった。
裏通りから表通りに抜け、そのまま港まで歩いた。目的地は港湾事務局。運輸、漁業を取り締まる役所である。
どこもそうだが、バスラントの役所は不良役人の巣窟だ。そもそも役人といえば、犯罪者の代名詞として認識されている。叩けば山と埃の出る連中がたむろする、賄賂《わいろ》を受け取る機関である。
ともかく賄賂。何があっても賄賂。それだけで色々なことに話がつく。
そしてその無法を取り締まるべき警察機構は存在しない。軍の内部にそれを担当する部署がある。本来ならばそこから独立させて組織したほうが効率が良いだろうが、生憎《あいにく》若い男の人手が足りていないから、そういう話になる。
そして軍人にももちろん賄賂は通じるから、悪党どもは野放しだ。
だから、と結んでよいものか。ともかく優秀な人間が育ちにくい土壌であることは確かだ。真面目に働くより、悪人と付き合ったほうが楽で儲《もう》けも大きいのだから、仕方のないことかもしれない。
だが人が育たないということは国も育たないということでもある。国という名の街を支えているのは、いつ居なくなるとも知れない悪人どもだ。
もっと落ちるところまで落ちれば、憂国の英雄、みたいな突き抜けた物好きが出てくるかもしれないが、そうなるにはこの街は落ちきっていない。半端な所で留まったままだ。
お陰で居心地は悪くない。
事務局の受付で依頼人であるドギーの名前を出すと、程なく四十過ぎの小男が顔を出した。
平均的な身長の俺より頭一つ低い。女たちと比べても低いだろう。黒目黒髪。目尻の下がったいかにも良い親爺といった風体で、髪とスーツには収入なりの気が使われているのだが、どうにもぱっとしないのは、恐らくはこいつが発している卑屈な雰囲気のせいだろう。
「や、やあココ。元気そうだね。うん、元気そうだ。はは」
ドギーは顔を合わせるなり、薄笑いを浮かべた。それを受けて、俺の頭にはこの男を殺す空想が浮
かんだ。卑屈な人間は好きになれない。
「まあ、どうでもいいさ。それより準備は出来てるんだろ? 話す時間が勿体《もったい》ねえ。とっとと仕事といこうじゃねえの」
「あ、ああ。そうだね。そうなんだけどね」
と歯切れの悪い返事で、俺は眉をひそめつつ、
「トラブルか?」
「いや、まさか。ああ、うん。トラブル、かな」
「何だ?」
「その、依頼をキャンセルしたいんだ。実は、別口で、格安で引き受けてくれるって人がいたもんだからさ。うん、悪いとは思うんだよ。でもね、でもね。私だって財布に余裕があるわけじゃないんだ。分かって欲しいんだけど、駄目かな。駄目?」
俺は表情を変えてドギーを見た。誰が見ても分かる、怒っている男の顔を作ったつもりだった。上手くいったようで、ドギーの口からは、ひっ、と短い悲鳴が漏《も》れ、周囲の注目を集めた。俺は舌打ちをしつつ、ドギーの胸倉を掴み、そのまま物陰へと引きずり込んだ。
「別口ってなぁ、誰だ」
顔を近づけて囁くように言うと、ドギーの顔から血の気が引いていく。だがそれでも、それは、その、と口ごもるばかりで、結局は名前を口にしなかった。
「大体、キャンセルならキャンセルで、使いを出すなり顔を出すなり出来たはずだろう。わざわざ呼びつけといてキャンセルを伝えるってなぁ、ちょっと悪ふざけが過ぎるぜドギー。冷たくなりたいって話だと思っちまう」
「悪いとは思ってるんだよ。本当だ。誓って本当。こっちだって急な話だったし、使いを出す余裕がなかったんだよ。信じてくれよ。なあ頼むから」
「キャンセル料出せ。依頼料の八割でいい」
「そんな。無理だよ」
「じゃあ死ぬか?」
「殺されたって出せない。無いんだ」
「品を運べば金が入るだろう」
「次の仕入れだってある」
「利益は出る」
「借金もあるんだ。なあ知ってるだろう? エリザは金使いが荒いんだ」
「ああなるほどなるほど、手前の命より下半身のほうが大事って話か。笑うぜドギー。じゃあサオ切り落としてみるか。そうすりゃ金を出す気になるかもだ」
一転して笑顔で言う俺に、ドギーは震え出した。忙しい男だ。だがそれでも首を横に振り続けた。
気に入らない。不愉快だ。銃を抜きたくなる。
が、殺してしまっては金が入らないから、どれほど殺したくともそれは出来ない。優先すべきは金。憎悪嫌悪は二の次三の次だ。生かしておいて、時間をかけて絞る以外ない。そう判断した。
だから俺は、
「出せないってんなら仕方ない。怯えて暮らせ。女を抱いてる時には特に気をつけろ。腹上死って
なぁ、情けなくって最高だろ?」
と口にするのが精一杯だった。我ながら冴えない捨て台詞である。
が、それでも効果はあったらしく、ドギーはその場に崩れ落ち、歯の根を俺に聞こえるほどにがちがちと鳴らした。いい気味だったが、虚しかった。懐は寂しいままである。
今晩のメニューは缶詰だろうか。
ラダーマンはつけで飯を出してはくれない。
しょんぼりしながらの帰り道、ついに雨が降り出した。
髪が湿る程度の小雨ではあったが、ちょっとやるせないところに雨が落ちたものだから、天気にまで小馬鹿にされているような気になった。
だが抗《あらが》う気力さえない。虚しさをたっぷり含んだため息が漏れた。
さてどうしたものだろう。空いた時間でどこぞに飛び込みでもかけるか。そもそも前金を取らないやり方を変えるべきだろうか。くそ、どうすりゃ金持ちになれる。畜生。いっそ誰彼構わず襲うか。いや駄目だ。ドラゴンキラーなどという、でたらめに大きな力を持っているからこそ、つつましく生きる必要がある。目立ち過ぎれば厄介《やっかい》ごとに巻き込まれる可能性もぐんと大きくなるのは目に見えている。
色々と考えていると、頭に痛みが走った。
来た、と覚悟したのと、更に一際大きな痛みが走ったのが同時だった。ずきり、どころではない。ぐしゃり、でも足りない。頭の内側を直《じか》にかき回されているような、どこまでも鋭い痛み。心臓の鼓動と同じリズムでやって来るそれは、痛み自体が体を緊張させ血の勢いを強める。結果として、痛みの来る間隔は加速度的に狭まり続けていった。
慌てて周囲を確認する。まだ表通り。気を失っても命まで取られる心配は、恐らくはない。楽観的すぎるだろうか。痛い。悲観しろ。痛い。何も考えられなくなる。
右手の壁に背中を預けた俺は、そのままずるずると崩れた。
汗がにじむ。吐き気が酷《ひど》い。だが気を失うわけにはいかない。通りを見ているはずなのに、瞼《まぶた》の裏に映っているのは過去の情景だった。死体だらけの戦場。次々と死んでいく同僚。そして笑いながら殺戮《》さつりく》を繰り返す男。
とっくにくたばった男の顔を、未だに思い出し続ける。
こんな時、どうしたらいいのか俺は知らない。痛みが治まるまで、ただ耐えるだけだ。だから俺はうずくまってじっとしていた。通りを行く人間の幾らかは俺の顔を覗き込んで心配そうに声をかけてきたが、一々相手をするのが面倒になったため、途中からは銃を抜いて握っていた。途端に誰も近寄ってこなくなった。正直で結構な話だ。
結局、三十分近くそうしていた。
未だに呼吸は荒かったが、痛みは僅かながらに引いてもいた。が、痛いことに変わりはなかったから、とことん機嫌が悪くなった。最悪だ。仕事はキャンセル、金は入らない、天気は悪いし頭も痛い。最悪最悪最悪だ。最悪すぎて吐きそうだ。
他人が見ても攻撃的とは分からない、醒めた視線をあちこちにばら撒《ま》きつつ、俺は歩き出した。近くに荒事でも転がっていないだろうか。考えなしに暴れれば、少しくらいすっきりするかもしれない。
そして。
積極的に探したつもりはなく、本当にただの偶然だったのだが、表通りと裏通りを結ぶ細い脇道で、俺は望んでいた荒事に遭遇することになった。
男が私刑にあっていた。殴られ、蹴られ、ぼろぼろにされている。殴っている連中は四人。見た目はチンピラそのもので、年は十代後半といった程度。
知らず知らず笑みが浮かんで来る。頭痛によって育て上げられた不愉快さが、目の前の男を救うという大義を与えられたことによって殺意を呼び、そしてそれは同じく不愉快さによって爆発的に増殖していく。
殺意が他の全ての価値観に優越した瞬間、俺は銃を抜きながら走り出していた。
愛用しているのはダブルアクションのリボルバー。引き金が重いのが欠点だが、地道な反復練習の成果で、それなりに早く撃てる。
走りながら立て続けに四発撃った。銃声に反応すると同時に、連中のうち二人が倒れる。状況が未だに飲み込めていないらしい残りの二人まで駆け寄って、勢いそのままに片方の腹を蹴り飛ばした。
がふ、と男の口から空気が無理矢理に押し出され、そのままごろごろと転がった。
さらに体に残っていた勢いを使って、上半身を回転。右の肘《ひじ》を残った男の顔に叩き込んだ。男は顔を押さえながら地面をのたうちまわった。悲鳴が反響し、ささくれ立っていた俺の気分を、ほの少しだけ癒《いや》してくれる。
だがそこで終わりではない。どれほど一方的な理由で始めたにせよ、それが命を賭けた争いであ
るならば、先々の安全のため、禍根《かこん》を残さないようにするのが当然の処置だ。だから俺は連中に止めを刺した。一人の例外も出さなかった。狭い路地に血の香りが溢れかえる。
少しすっきりした。言葉で意思を表す世界より、銃弾で殺意を示す世界のほうが性にあっているからだろうか。
全員の死亡を確認したところで、俺は銃を納め、襲われていた男に歩み寄った。
壁に背を預け、うずくまっていた。乱れたダークブラウンの髪は、普段から手入れを怠っているらしく、ぼさぼさに伸びており、しかも相当に汚れている。伸び放題の無精ひげ。顔色は明らかに悪い。恐らく自分の血で汚れているだろうシャツは、元は白だったろうに、汚れをたっぷりと吸って、さらにはあちこちに染みを作っている。下はこちらもぼろぼろになった軍用のズボンに、履き古した革靴という格好だった。
が、何よりきつかったのは男の放つ匂いだった。酒臭い。立っている俺の顔まで酒の香りが立ち上ってくる。
「おいあんた、大丈夫か?」
「あん? あー、大丈夫。水くれ」
「ねえよ」
「じゃあほっといてくれ。殴ったのは気にしないから」
「殴ったのは俺じゃねえ」
「あれ、そうだったっけ。まあいいや。はは、酒のお陰で痛くもねえ」
「酒が抜けりゃ痛み出すだろうよ。それじゃあな」
ああ、と返事をしながら男が顔を上げた。俺はすでに進行方向に目をやっていたのだが、
「お前、オルグレン。ガストン・オルグレンか」
男がそう言った。俺はゆっくりと振り向き、そして顔を上げた男の顔を改めて見た。
知った顔。懐かしい顔だった。
何か言おうとしたが、上手く出てこない。言葉を選んでいるのだと遅れて気付く。
深く息を吐いてから、ようやく言葉を絞りだした。
「お久しぶりです。中尉殿」
「全くだ、伍長《ごちょう》」
男、ロブ・アレンビー中尉は、そう言って殴られて痣《あざ》の浮かんだ顔に笑顔を浮かべた。
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私は何なのだろう。
女か、おんなか、それとも娘か。どれでもない。どれでもないならば私は何だ。
月のものが来ない。かといって孕《はら》んだかといえば、そんな話でもない。ただ来なくなった。 鈍い腹の痛みと頭痛、だるさから来る眠気。なくなってしまえと何度思ったろう。男に生まれたかったと何度願ったろう。だがもう来ない。来なくなってしまった。
私はおんなではなくなった。そして女でもなくなってしまった。
では人か。いや、違う。人とは男と女のことをそう呼ぶのだ。女でもおんなでもなくなった私は、もはや人ですらない。文字通りの人でなし。
もはや笑う以外ない。人でなし。私は人でなしになってしまったのだ。
笑って笑って、笑い続けた。そして最後には。
泣いた。
未だに麻痺《まひ》している鈍い頭には、それでも現実を認めたくない意思がこびりついていた。だから腹を押さえた。どうなるわけでもないのに、押さえ、撫《な》でた。
子を欲した過去があった。何に問題があったか、結局生《な》せなかった。やがて男は戦場へと赴き、そしてそのまま帰ってこなかった。
もはやその願いさえ霞《かす》んで見える。孕むことさえ許されない。産むことなど出来もしない。 失ったものはあまりに大きく、代償として得たものはどこまでも手に余る。
これからどうすればいい。己を定められない私はどちらを向けばいい。
分からない。分からない。分からない。
分からないから、怖い。
これからどうなる。
これからどうする。
ああ、誰か。
助けて。
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二章
そのまま捨てていくことなど出来るはずもなく、俺は中尉を事務所に連れて帰ることにした。
酒のせいか、それとも先ほど受けた暴行のせいか、足取りがおぼつかない中尉に肩を貸して歩く。ゆっくりと歩いているつもりだったが、それでも中尉は度々遅れた。
相手が中尉でなければ恐らくは引きずるようにして前に進んだはずだ。が、そうする選択肢は俺
にはなかった。肩を並べて歩いていることも、何となく違和感がある。将校と並んで歩くことは、俺の常識には含まれていないからだ。
身形《みなり》から察するに、中尉もとっくに退役しているのだろう。かつての上官だった人は、哀れみすら抱かせる落ちぶれ具合でもって俺の前に現れた。そして俺は下士官でなくなって久しい。互いに軍人ではない。
だが。
それでも俺を支えている土台は軍人であった過去だ。そしてその過去が、俺に控えめな態度を選ばせていた。
中尉は途中何も喋らなかった。首をだらりと下げ、酔った者に特有の濁った視線を地面に向けている。中尉が喋らなかったから、俺も話しかけるような真似はしなかった。結局、無言のまま事務所に辿《たど》り着くことになった。
玄関のドアを開けると、リリィが掃除をしていた。手にはモップが握られ、床には大きめのバケツも見える。
「戻ったか。と、その人は?」
「紹介は後だ。包帯と消毒液、湿布もあったな。湯を沸かして、体を拭くタオルも用意しろ。ああそれと、着替えはあるか?」
矢継ぎ早に注文をつけると、リリィは目を丸くしつつ、
「着替えるなら洗濯したものがあるが」
「新品は?」
「あるわけがなかろう」
ちっ、と舌打ちを一つ。
「じゃあそれでいい。サイズは、まあ合うか」
「ああ、その人が着替えるわけか」
「急げよ」
言いつつ俺は中尉をソファに寝かせた。
「悪《わり》ぃな、オルグレン。世話ぁかける」
どことなく粘ついた口調で中尉が言った。
「ありがたくあります、中尉殿」
「軍人言葉は止《よ》せよ。お互い昔の話になっちまってんだ」
「ですが。いえ、自分は将校殿のお相手をさせて頂く術《すべ》をこれ以外に知りませんので」
中尉は小さく笑い、
「仕方ねえ奴だな」
と言った。
「全く同感であります」
程なくリリィが、俺が注文したもの全てを同時に持ってきた。右手には薬箱と着替えを、左手には大きめのたらいを持っている。立ち上る湯気から、湯で満たされているらしいことが知れた。急せかしたお陰か、ガスではなく自分の力で沸かしたらしかった。
俺はてきぱきと中尉の服を脱がせ、体を綺麗に拭いていった。俺が拭いた箇所で、痣になっていたり、擦《す》り傷が出来ている部分を、リリィが手際よく消毒し、ガーゼをテープで固定したり、別の箇所には湿布を張りつけたりしていく。
作業中、リリィがちらちらと俺を見た。なんだ、と無言で見返すと、慌てて視線をそらす。どうやら驚いているらしい。そんなに似合わない真似をしているだろうか。
俺たちは無言で手当てに勤《いそ》しんでいたが、やがて中尉が、
「姐《ねえ》さん、あんたのその右目は作りもんか?」
と漏らした。
「ああ、これは。申し訳ない。不快なものを見せてしまったな」
リリィは慌ててポケットから眼帯を取り出して身につけた。
「自前、なのか。えらい目だな」
「私はドラゴンキラーなのだ」
その言葉を耳にした途端、半眼だった中尉の目が大きく開けられ、そしてその視線はやがて俺に向けられた。
「事実であります、中尉殿」
その言葉に今度はリリィが驚いて俺を見た。
「何だよ」
「お前、熱でもあるのか?」
「いいから手を休めるな」
それから中尉はぽつぽつと口を開き、俺はそれに答えていたが、堅い言葉を使う俺を、リリィは珍獣を見るような目つきで見続けた。
手当てがひと段落したところで、失礼します、と髪をすすぎ、櫛《くし》を入れた。上手く剃《そ》れる自信がなかった髭は、中尉にそのように伝えると、放っておいていいと返事を貰った。最後に幾らか着古した白いボタンシャツを着せ、黒いスラックスを穿《は》かせる。
ようやく人心地ついたのは、中尉を連れ戻ってから三十分が経過したころだった。
「リリィ、茶を出してくれ」
「まだ自己紹介も済んでいないのにか」
「茶だ」
リリィは呆れたように、
「分かった」
と答え、そそくさとキッチンへと向かった。俺は金属製の薄い煙草入れを取り出し、先に中尉に勧め、火をつけた。その後で俺も一本くわえる。
「何か、偉くなった気がするな。は、さっきまでが嘘みたいだ。それとも俺ぁ酔って幻でも見てんのか?」
煙を吐き出しつつ、中尉が言った。
「差し出た真似をしました。申し訳ありません」
中尉の向かいに腰を下ろすという選択肢はなかったから、俺は立ったままで応じた。
「いや、お陰で随分人間らしくなった。ありがとよ、オルグレン」
「恐縮であります」
そこで会話が途切れた。互いに訊きたいことはあるはずなのだが、上手く言葉が出てこず、たまに出てきても繋がらない。
俺の中では中尉を名前で呼び捨てることに抵抗があったし、砕けた態度で接することもしっくりと来なかった。まさに下士官のような心持ちでいる。が、中尉は恐らくはそうではないのだろう。将校と下士官という関係を取り払われて、どう接したものか決めかねている。そういう感触があった。
沈黙を粉砕したのはリリィだった。
「全く。私は家政婦ではないのだぞ」
そうぼやきつつ、茶をトレイに乗せて持ってきた。ありがとよ、と中尉が茶を受け取り、口に含むと、
「美味いな。酒以外の水分を入れたのは久しぶりだ」
「あまり過ごされるのは宜《よろ》しくありません」
「そう言うな、予備役《よびえき》に回ってからこっち、面白いことなんて一つもありゃしねえ。酒でも入れなきゃ、人生は退屈過ぎる」
「予備役に回られたので」
「ああ。お前を取られたすぐ後にな。色々と仕事を始めちゃみたんだが、どれもこれも欠伸《あくび》が出るほどつまらんと来てる。そのうち女のところに転がり込んで、気がついた頃には悪党の使い走りだ」
中尉の顔に自嘲気味の笑顔が浮かぶ。リリィは険しい顔をし、そして俺は全く表情を変えなかった。
「そう、ですか」
「でな、いつまでも使い走りやってるのも面白くないんで、組織の金盗って逃げたんだ。出し抜いてやったのさ。は、連中のたまげた顔が目に浮かぶってもんだ」
「では先ほどの連中は」
「ああ、ありゃ違う。ただ絡まれただけだ。幾らなんでもこんなとこまで追っかけて来やしねえよ」
「金の方はどうされたので?」
「飲んだ」
中尉はそう言ってへらへらと笑った。
こういう笑い方をする人だっただろうか。もっと明るい、からりとした笑顔の持ち主だったはずだ。
中尉は指揮官としてはそれなりに優秀で、兵にも好かれていたが、弱いところを平気で見せてしまうところがあった。指揮官の情けない姿は兵の士気に関わるし、実際、何度もたしなめられていたが結局直らなかった。だが、それは人としての美質でもあったのだろう。だから兵に慕われていたのだ。
好かれよう、と媚を売っていたわけではない。ただ、当たり前に優しかった。軍という組織にあっては、それはまあ異物だ。兵を大事にしすぎるあまり、上官に噛み付きさえしたらしい。お陰で中尉という階級にあったというのに、小隊なんてものを押し付けられていた。
好青年。それが中尉に抱いていた印象だった。
それが今は、それこそこの街に住むに相応しい人間の見せる笑顔を貼り付けている。
陰のある笑顔、裏に悪意を潜めている笑顔。
「それにしても驚かされた。お前はまだ軍人をやってるもんだと思ってたからな。こんな街で会うなんざ、偶然ってのは怖いな。いつ軍を抜けたんだ?」
「自分も、あれからすぐに。本国では戦死扱いとなっているようですが」
「あー、ちょっといいだろうか」
とリリィが割って入った。
「すぐに二人の世界に入って、大変に仲が良さそうなことは野暮《やぼ》な私にもよっく分かる。ああ全く分かりすぎる。もしや出来ているのかと疑ってしまうほどにだ。だがな、いい加減に自己紹介を交わすくらいのことは、しても罰《ばち》は当たらんと思うぞ」
中尉はリリィに向かって苦笑しつつ、
「ああ、そりゃ済まなかった。リリィって呼ばれてたっけか。俺はロブ。ロブ・アレンビーだ。元マルクト陸軍中尉。今は」
と肩を竦《すく》めつつ、
「ただの飲んだくれだな」
と結んだ。
「リリィだ。マルクト陸軍竜兵団にいた。今は便利屋だ」
「あんた、マルクトのドラゴンキラーか」
中尉は驚きを隠せない様子で、しばらく呆然としていたが、やがて立ち上がると、
「失礼致しました、リリィ殿」
と茶化すような笑みを浮かべて敬礼した。が、すぐにバランスを崩し、倒れ込むようにしてソファに座った。まだ酔いが醒めていないらしい。
「よしてくれ。今はただの便利屋だ」
「階級はどれくらいだったんだ?」
「中佐相当官」
「ああ、そりゃまた雲の上だ。どういう経緯でオルグレンと一緒に居るのか、訊いてもいいか?」
「オル、グレン?」
怪訝《けげん》な顔をするリリィに、釣られて中尉も似たような表情を作った。
結局、二人して俺を見た。
「俺の本名だ」
「お前、そういう名前だったのか」
「上の名前はガストン。ガストン・オルグレンだ。陸軍所属、階級は伍長。昔の話だがな」
「何だ、名乗りを変えたのか」
「はい。今は」
言葉がそこで途切れた。少し、俯《うつむ》く。
「どうした?」
再び顔を上げそして、
「今はココと名乗っています」
と言い切った。
中尉は、リリィがドラゴンキラーだと知ったときよりも、さらに大きく目を開いた。
「ココ」
そう呟く中尉の顔は、どこか寂しそうな気配を漂わせていた。
「二人とも、どうかしたのか?」
にらみ合うような格好だった俺と中尉に、リリィがタイミングよく割って入った。俺たちは弾かれたように視線を外し、そして中尉はその場を取り繕《つくろ》うように、
「いや、なんでもない。ココ。ココか。良い名だな」
「ありがとうございます、中尉殿」
と表情を全く変えることなく返事をした。
やはり名前を出したのは間違いだったか。いや、そもそも連れ帰ったこと自体がそうだ。共に居れば俺がココを名乗っていると、すぐにでも露見するのは明らかだった。だが捨て置くわけにもいかなかった。つまりあの段階で、名前を隠しとおせる算段をつけねばならなかったのだ。そんなこと
が出来たかというのはまた別の問題だ。くそ、俺はどうしてこう頭が悪い。
頭の中でめまぐるしく繰り返される自問自答。それは後悔に対する言い訳を探す、どこまでも後ろ向きな行為だった。だがそれを自覚していてなお、止められない。
「二人は、上官と部下の関係だったわけか」
「ああ、そうだな。こいつを使えたのは二年くらいか。出会ったのは、こいつが下士官候補学校を出たばっかりの頃でな、これがまた使えない奴だった。ま、すぐに軍人染みた生き物になっちまっ
たが。覚えてるか? 軍曹にクソ虫呼ばわりされてたの。口癖だったよな、クソだクソ虫だってよ。汚い言葉を好んで使ってた」
「訓練教官上がりでしたので、その癖が抜け切れなかったのでしょう」
「頼れる男だった」
「全く同感であります」
「俺も随分鍛えられた。お前もだろう?」
「現場で役に立つように一から仕込まれました」
「そう。普段は何かといい加減な男だったが、仕事にだけは厳しかった」
しんみりした雰囲気が再び出来上がりつつあって、それが気に入らなかったらしいリリィが再び声を上げた。
「またか。お前たち、私を置いてけぼりにするんじゃない。それになんだこのじめじめした雰囲気は。私の錯覚か? 気のせいか? 被害妄想か? ええい、何なのだ全く」
「ああ、悪い悪い。つい懐かしくってなあ。じゃ、俺からも一つ訊いていいかい?」
「ああ、もちろんだ」
「俺が知ってる限り、マルクトのドラゴンキラーには永久服役義務が課せられてるはずだ。ってことはだな、姐さん。あんたは」
「中尉殿」
俺は思わず口を開いていた。
何故だろう。「ココ」絡みで少しばかりしこりが出来たにせよ、この人は味方だ。それでいいはずだ。だったらリリィのことも、アルマのことも別段秘密にするようなことではない。だというのに何故だ。くそったれ。
だが俺が答えを探している間に、中尉は言外の意味を汲《く》んだようで、
「ああ、悪かった。そうだな、そうだよな」
と言った。何か答えねば、そう思って俺の口から出た言葉は、
「申し訳ありません」
だった。
「悪いのは俺だ。気にするな。こんな街に流れてきてるんだ。色々あったんだろうよ。それだけで十分だったな。そうかそうか、余計な話しちまったんだな、俺。つまらん話をした。忘れてくれ」
「いえ、こちらこそ、申し訳ありません」
はぁ、とわざとらしいため息が聞こえたのはそのときで、またもやリリィの合いの手だった。拗ねているらしい。
「その幼稚な意思表示はどうにかなんねえのか?」
「私以外に二人いて、その二人共に放っておかれたら不愉快ではないか。気を使うという言葉を知っているか? いやいや知ってはいても意味を理解していないのだな。そうに決まっている。辞書を持って来てやるからしっかり頭に刻むがいい」
「あぁ分かった、分かったよ。あー、えー、そうそう、今日の仕事はどうだった?」
「ああ、それについての報告を忘れていた。今回の仕事はキャンセルだ。トラブルがあって運ぶべき荷が届いていない、という話でな。まあ荷が届き次第連絡をくれとは言ってあるが、どうかしたか?」
リリィの報告を聞くにつれ、俺の眉間には皺が寄っていった。
「偶然だな。俺のほうもキャンセルだ」
「悪い日もあったものだ。ま、こういう日もあるのだろうな。巡り合わせだ」
ああ、と肯定とも否定とも取れない声色の返事をしつつ、俺の頭は回転していた。
偶然にしては出来すぎている。人為的なものである可能性が高い。ならばどういう意図だ。簡単な話だ。こちらの収入源を断とうとしている。
事務所の経営状態を知っているのはラダーマンとパーマーくらいだが、それはつまり、知ろうと思えば誰でも簡単に知れるということでもある。パーマーならば小銀貨一枚くらいで売ってくれそうだ。
単なる嫌がらせか、それとも何かの布石、つまりは俺たちを引きずり出そうとしている餌か。判断が付かない。情報が足りない。
「どうした、伍長」
ごちょう、という響きで俺は現実に引き戻された。
「中尉殿、伍長は」
「嫌か? お前だって俺のことを中尉って呼んでるじゃねえか。嫌ならオルグレンか? 何なら親しみを込めてガストンって呼んでもいいぜ」
こっちにも難問があった。どうやら中尉は俺をココと呼びたくないらしい。
「ココ、と呼んでいただくわけにはいかないでしょうか」
「つまんねえ冗談だな。あ、煙草貰うぞ。ついでに酒をくれるか?」
心の中で小さくため息をつきつつ、それでも表情には出さずに、
「分かりました、ではオルグレンで。酒のほうは、過ごされるのは宜しくないと先ほど申し上げました」
中尉は苦笑しながら、
「分かった分かった。全く、いつまで下士官だよお前は。で、何の話だ?」
と言った。
俺は頷きつつ、事務所が置かれている状況、そして俺とリリィがそれぞれ仕事をキャンセルされたことを説明した。最後に、これが誰かの意図によるものである、と俺が考えていることも付け足した。
全て聞き終えた中尉は、
「同感だな。まあドラゴンキラーを抱えてるんだ。恨みや妬みの十や二十、嫌でも買うだろうよ」
「否定は出来ません」
「そもそも抗争に関知しねえって前提が間違ってるだろ。力を見せ付けねえとな。どんだけでかい力持ってたって、手ぇ出さねえんじゃ舐《な》められるのは目に見えてる」
「全くです」
「こいつは殱滅《せんめつ》するしかねえだろ」
「で、ありましょうか」
「そりゃあそうさ。殱滅あるのみだ。断固として。かつ可及的速やかに、だ。手を出すことがどれだけ高い買い物になるか、教えてやる必要がある。そうすりゃそれが良い宣伝になるだろう。馬鹿の末路が無惨なものになることを分からせれば、後は安泰さ」
殱滅。確かに悪い選択ではない。俺がつつましく生きようとしたからこういう状況になったのだ。ドラゴンキラーが暴力の化身だと、そして俺たちがその力を振るうことにためらわないと、宣伝する絶好の機会が訪れているわけだ。
が、妙な抵抗があった。
言葉にすれば、気に入らない、とそれだけの話になる。どうやら俺の中では反対とする向きが優勢のようで、けれども何かしらの手段を講じなければならないのは確かであり、その場合は暴力で解決するのが最良だとも思えた。後々のことまで考えれば、それが最も損が少なくて済む。
迷った。煙草二本を灰にした。
そして迷った末に、
「了解しました。殱滅します」
と静かに答えた。
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揺れるな。うろたえるな。落ち着け。
心に命令を繰り返す。お前は俺なのだから、言うことを聞けと。
だが駄目だと分かっている。無駄だと知っている。
ココ。
他人の口から漏れるその響きは、体の中で容赦なく反響を続け、そして何かにぶつかる度にその大きさを増していく。心臓を鷲《わし》づかみにされているとさえ信じられるほどの息苦しさ。
それを気取《けど》られぬようにと浮かべた薄笑い。
口を動かし気を紛らわせ、気持ちを静めていく。だが、最後に腹の内に黒いものが消化しきれずに残った。
妬みだった。
そこでようやく気が付いた。
俺はあいつが嫌いなのだと。
否、元から嫌いではあったのだ。憎んでさえいたのだ。
だが、ココの名と共にそれを心の奥に仕舞って生きてきた。
再会しても、忘れたままだった。だというのに。
ココ。ココか。
それはあいつの名前だ。俺が最も信頼した男の名前だ。
奴は俺からココを奪い、挙句ドラゴンキラーまで手にしている。
対する俺はどうだ。
無い。
何も無い。
俺にはもう何も無い。
ココを騙《かた》るあいつは持つ者。そして俺は持たざる者。
何故だ。何故俺だけがこうだ。
畜生。誰でもいい。
誰か世界の全部を壊してくれ。
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三章
翌日。
軽度の頭痛を感じながら、俺はリリィと連れ立って通りを歩いていた。
昨日、ぱらついた雨を降らせた雨雲は、幾らか風に流されたのか、今は比較的薄い雲が空を覆っている。午後一時。
俺は黙って歩いていたが、隣を歩くリリィは事務所を出てから何度目とも知れないため息を漏らした。
「いい加減|鬱陶《うっとう》しいぞ。諦めろ」
「しかしだな、もっと他に選択肢はあるはずだろう。何も力ずくでやらずともよい。違うか?」
「今回は特別だって何度も説明したろ」
事務所を出てからこの話題ばかりだった。
リリィは人を殺すことをどこまでも嫌う。それについてとやかく言うつもりもなければ、特別な思いもなかった。人には人のやり方があるだろうし、それを侵す必要性を、俺は全くと言っていいほど感じない。
だから殺人の依頼をこなすのはいつも俺で、リリィに押し付けたことはなかったし、二人して荒事に巻き込まれるときも、止めを刺すのは俺の役目だった。
偽善だ、と断じることは出来る。だが、そうすることに意味を見出せないから、俺はこれから先も、批判めいたことをするつもりも、殺しを押し付けるつもりもなかった。
が、今回ばかりは事情が違う。
事務所の存在感を宣伝するに当たって必要なことは、リリィがその力を振るった、という事実だ。どれだけ嫌がっていても、こればかりはやってもらう必要がある。殺しを強要するつもりはない。ただ現場に居てもらうことが必要だった。
そしてそのことを何度も説明したのだが、やはりリリィはどこまでも気が乗らない様子で、はぁ、と何度目とも知れないため息を漏らした。
「大体だな、お前は口先で世の中を渡るほうが経費がかからなくていいと言っていたではないか。荒事が似合うのは認めよう。お前がそれを嫌っていないのも知っている。だが、優先すべきはいかに経費をかけないように解決するかではないのか?」
気味の悪いほど整然とした正論をぶつけられ、どう答えたものか悩ましかった。
「放っておけば、この先似たような真似する馬鹿が五万と出てくる。そういう連中はカビかゴキブリ並みにわらわらと湧《わ》くからな、大事なことは予防だよ。これ以上増えないようにする必要がある」
「それは理解している。問題にしているのは手法のほうだ」
「その手法が肝心なんだろ。口先でまとめちまったら、舐められっぱなしって状況に変化がねえ。必要なのは力を見せることだ。ココの事務所にちょっかい出した馬鹿が、皆殺しにされた、どうやらドラゴンキラーを使ったらしい。そういう分かりやすい宣伝が要るんだ」
「付き合いきれんぞ」
「何もお前に手を汚せって言ってるわけじゃねえよ。それは俺の役目だ。お前は俺が好きなだけ楽しめるように援護してくれりゃいい」
「援護、援護か。間接的な人殺しだな」
リリィは自虐的な笑みを浮かべた。嫌がっているらしい。
「何をどう思おうが自由だが、絶対にやってもらう。どうしても嫌だってんなら」
「どうする?」
「俺たちの関係はこれっきりってことだ」
真顔で言う俺に、リリィは驚いた様子だったが、やがて目を細め、
「本気で言っているのだな?」
と静かに言った。
「本気だ」
リリィは、そうか、と短く答え、憂鬱そうな表情を浮かべた。
何を言われたわけでもないのに、俺は途端に不愉快になった。気に入らない。
軽くはあったものの頭痛もあって、俺は眉間に深い深い皺を寄せ、そのまま黙った。すると、この話題はここまでと見て取ったらしいリリィが別の話を持ち出した。
「ココとはどういう意味だ? 何か因縁のある名なのか?」
今度は俺が驚く番だった。
「気付いていないとでも思っていたのか。呆れたな。私だって人並みに察することは出来るのだぞ。恐れ入れ」
「ああ、全く」
「で、どういうことなのだ」
「金取るぞ」
「事務所の家事全般は私がやっているのだがな。ああ、なるほど。給料に上乗せしたいと、そういう話か」
顔に嫌な表情が浮かんだのがすぐに分かった。が、これ以上話を続けてもこの主張を繰り返すだけだろうし、そうなれば時間の無駄だ。俺は大人しく諦め、
「小隊付きの先任軍曹だった。分かるか?」
「ああ、小隊長を補佐する下士官だろう」
「そうだ。その人の名前がココだ。いや、だった」
「死んだのか」
「戦場でな。腹に何発か貰って。止めは俺が刺した」
「そうか」
「お前にゃぴんと来ないだろうが、下士官も軍曹になりゃ立派なもんでな。それが実戦経験豊富ってんなら、もう言うこたねえ。兵は絶対的な信頼を寄せる。士官学校を出たばっかりの少尉なんざ話にならねえ」
「ああ、なんとなくそうらしい、というのは分かる」
「本当かよ。リリィ中佐相当官殿?」
「今度から伍長と呼ぶぞ」
リリィは右の眉を吊り上げつつ答え、俺は苦笑しつつ、
「ま、そういうわけでだ。どいつもこいつも軍曹のことを信頼して、尊敬してた。俺も含めてな」
「お前が、尊敬とはな。さっきも言ったが、熱でもあるのか?」
「調べてもいいぜ。そのクソ熱い手で俺の体温が測れるってんならな」
む、とリリィは自分の手を見た。
火竜のドラゴンキラーの特性か、それともドラゴンキラー自体がそうなのか、リリィの体温は相当に高い。であれば、むしろ寒がりになりそうなものだが、そんなことは全くなく、どこまでも暑がりだった。寒いくらいが丁度良い、とまで言う。
「この街に流れてくるときに、名前を貰うことにした。そういう話だ。たいして面白くもねえ、どこにでも転がってる話さ」
「ロブの態度はどう理解すればいい」
「実際どうかってのは本人に訊かなきゃ分かんねえけど、ま、俺がココを名乗ってるのが気に食わねえんだろうよ。あの人も軍曹を尊敬してたからな」
「立派な方だったのだな」
「軍曹がか? まさか。ただの変態だ。おんなになったばっかの小娘が好きで、手巻きの煙草ばっかり吸って、休暇の日にゃ酔って暴れる。どうしようもねえ人だった。仕事は出来たが、仕事しか出来なかった。そういう人だ。間違っても聖人君子の類《たぐい》じゃねえ。そう、この街に住んでたらよく似合ってただろうな」
聞き終えたリリィがにやにやと笑った。
「過去を口にするとき、誰もが遠い目をすると言うが、まさにそうだな。しかもなんだ、初々しい小娘のように艶《つや》めいて見える。はは、よく似合っているぞココ」
頬が熱くなった。顔に出ていないことを願うばかりだが、そう意識するほどに、余計に熱を帯びていく気がする。苦し紛れに、
「撃ち殺すぞ」
と口にするのが精一杯だった。
「やれるものならやってみろ。金に煩《うるさ》い貴様が、弾の無駄遣いを好むとも思えんがな。それに、そんなに恥ずかしいことでもあるまい?」
俺はそそくさと歩調を速め、少しばかり差をつけたところで振り返って、
「とっとと買出しに行け。無駄遣いはするなよ」
と告げ、さらに歩調を速めた。目指すはパーマーベイカリー。
何をするにも、まずは情報が必要だ。
パン屋独特の、熱を帯びた甘い香りが鼻腔《びくう》をくすぐり、気がつけば棚に並べられたパンを物色していた。昼過ぎだが、夜行性の人間が多いこの街では、棚に並べられたパンはほとんど減っていない。客足が伸びるのはこれからだろう。
俺はといえば、起きてあまり時間が経っておらず、水と煙草を呑んだきりで小腹が空きつつあったから、ついパンに目を奪われる。が、すっかり節約の徒と化してしまっているため、踏みとどまらざるを得なかった。
大体、これからパーマーに仕事を依頼しようというのだ。無駄遣いは避けたい。
カウンターに立っているのは例によって無表情な売り子アズリル。パーマーの忠犬だ。露出の激
しい制服を着ているが、体つきは華奢《きゃしゃ》なため、男の下半身に訴えるという効果はあまり期待出来ない。
「パーマーに話がある。仕事だ」
「少々お待ち下さい」
アズリルはカウンターの後ろにあるドアの向こうに消え、程なくそこからパーマーが現れた。丸眼鏡に白い作業服。どこから見ても机仕事が似合っている風体だが、力の要るパン屋を営む変わり者だ。そのくせ、体つきは恐ろしく細い。
実はあのドアの向こうには、屈強な別の人間が何人かいて、そいつらがパンを捏こねているのではないか、というのがもっぱらの噂だった。確かめた人間が居ないから、真実の程は知れない。
そもそも。パーマーの本業は情報屋で、恐らくそちらの実入りのほうが圧倒的に大きいはずだが、どういうわけかパンを捏ねては売っている。やはり、変わり者だ。儲けが少ないというのに兼業をする意味が、俺には理解出来ない。
「売りたい情報でも入ったかい?」
眼鏡を外し、どこからともなく取り出した眼鏡拭きで丁寧に拭きながらパーマーが言った。
「依頼だよ。ちょっとトラブルでな。調べて欲しいことがある」
「続けて」
と顔を上げることなく言う。話し甲斐がないのはいつものことだ、と諦めて、俺は昨日あったことを手短に説明した。全て聞き終えて、
「その誰かを調べて欲しい、と。そういう理解で間違っていない?」
「全く」
「金貨五枚でいいよ。経費は別途計算で、そちら持ち」
「三枚でなんとかならねえか?」
「これでも格安だと思うよ。出せないなら他を当たってみればいい。恐らく僕より安い値をつける者は居ないはずだから」
「だろうな。でもあれだ、値切ったり吹っかけたりってのは礼儀だろ?」
「あわよくば、という期待と共に?」
「違いない」
と笑いながら答え、俺は財布から金貨を五枚取り出した。出しながらも、本格的に節約をせねばならないと思えてきて、小さくため息をついた。
煙草を止めねばならないかもしれない。酒も飲めない日々が待っているのではないか。
「どうしたの?」
「貧乏だ。死にたくなるほど貧乏だ。世知辛《せちがら》いってなぁ、こういうことなんだろうな。くそめ。ああ、空から金降ってきやしねえかな」
「強盗、脅迫、誘拐。あるいは、どこぞの組織を傘下《さんか》に置くのもいい。金になりそうなことをすればいいだけの話じゃないか。腕はそれなりに立つし、何よりドラゴンキラーが居るんだ。負ける要素は無いだろう」
「目立つのは趣味じゃねえんだよ。大体、今回のトラブルだって普通にやってて起きたんだ。ドラゴンキラーを抱えてるってだけでな。この上派手に遊んでみろ、恨む馬鹿は害虫もびっくりの繁殖具合で増え続けるに決まってる。そうすりゃ余計に損をこさえるだけだ」
「考えすぎだと思うけどね。少なくとも僕は君に逆らおうとは思わない」
すまし顔で言うパーマーに、俺は顔をしかめて見せた。
「嘘くせえ」
「本当だよ。だからこうして安い値段で仕事を請けてるんだ。もう一度言うよ。破格だ。普通だったらこの三倍は取る」
「何かあったら力を貸せ、それも格安で。そういう話か?」
「どう取るかは自由だ。けど、君は恩と義理と貸し借りにはまめだからね。期待はしている」
「どいつもこいつも」
苦笑で答え、よろしく頼む、と言い残してベーカリーを出た。
リリィが待っていた。
「お前、事務所に戻ったんじゃないのか?」
「荷物持ちをさせてやろうと思ってな」
さらりと言うリリィは、両手に山ほどの荷物を軽々と持ち上げていた。重そうな様子など微塵《みじん》もない。
「脳味噌腐ってんのか? 機関砲を片手で持ち上げる変態に、荷物持ちが要る道理がどこにあるってんだ。三歳児からやり直せ。やり直す準備が出来たら覚えてくるのは一個でいい。そいつが何か分かるか? 決まってる。常識だよ、常識」
こめかみをつつきながら言うと、
「気にすると禿はげるぞ。相棒がつるつるなど、私は嫌だ。だからお前は荷物持ちをするのだ、ココ。つるつるにならないためにだ」 駄目だ。話が噛み合わない。いや、噛む噛まない以前に、話に筋が通っていない。屁理屈にさえなっていない。馬鹿だ。馬鹿すぎて泣きそうだ。何よりこんな馬鹿の相棒である俺がかわいそうだ。
結局、諦めた。こうやって色々なものに妥協していくのか、と何かしら悟れそうな気になる。
「クソめ。付き合えばいいんだろ」
そう呟くしかなかった。
リリィの買い物は長かった。
安い布切れを見つけては長いこと物色し、店員にもっと量があるかだの、他の色を見せろだのとしつこく質問し、値切り、挙句買わない。
食材にしたってそうで、生鮮食品に限れば、値段と質の折り合いをつけるだけでも吟味《ぎんみ》に吟味を重ねるやり方だった。腐っていなければそれで十分だろう、と口を挟むと、
「料理の味を決めるのは、究極的には材料だ。技術を突き詰めれば突き詰めるだけ、そういう結論になる。技術は材料の味を引き出すものだからな。つまりだ、材料選びこそが正念場なのだな。ここで手を抜くのは論外だ」
「これ以上何買うってんだ。こんだけ抱えてんだぞ」
無理矢理持たされた荷物を示しつつ抗議の声を上げると、そうだな、と曖昧な返事しかない。険しい顔をしつつ、
「いい加減帰るぞ」
「まあもうちょっと付き合え」
「どういうつもりだよ」
「機嫌が悪そうだから、こうして連れ回している。迷惑だったか?」
その言葉を噛み砕くまでに五秒。噛み砕いたものを理解し、自問し、答えを出すまでにさらに五秒。否定して返事を用意するまでに五秒。計十五秒もの間、俺はじっとリリィを見つめ続けて、ようやく口にした言葉が、
「俺が? 冗談だろ」
だった。
「私にはそう見える」
「気のせいだ。確かに頭は痛《いて》えし、誰かは知らんが舐めたことする馬鹿もいる。けどそれで機嫌が悪いなんてことにはならねえ。むしろ血が見られるかもってわくわくしてるとこだよ。ああ全く。考えただけでいきそうだ」
吐き捨てると、
「ならばいい。いや、実は少しばかり自惚《うぬぼ》れてもいたのだ」
「は?」
「私に殺しを強制していることを、お前が気に病んでいるのではないか、とそう思ってな」
「強制だと? 選択肢は出したじゃねえか。選ぶのはお前だ。殺すことを選んで一緒にいるか、殺さずに出て行くか。ただそれだけだ。俺が気に病む必要がどこにある」
再び吐き捨てると、リリィは苦笑した。
「私の考えすぎだったか」
「ああ、完璧にな」
「分かった。私の用件はこれで済んだ」
「やれやれだ。回りくどいんだよ、全く」
帰るぞ、と続けようとしたのと、銃声が響いたのは同じタイミングで、俺は思わずそちらに気を取られた。
近い。周囲を観察すると、気にしている者はあまり多くはなく、またそれらのものもすぐに興味を失った様子。茶飯事《さはんじ》だからこそ、こういう反応だ。
だが俺は口の端が歪んでしまっていた。
「見物してこうぜ」
「物好きだな。いや、首を突っ込もうとしている。そうだろう?」
俺はそれには答えず、銃声のした方に急いだ。荷物が重かったから、途中でリリィに押し付け、さらに加速する。断続的にではあるが、ぱん、ぱん、と続けて起こる破裂音が良い目印だった。
どうやらここらしい、と思える場所は脇道だった。無数に存在する、裏通りと大通りを繋ぐ細い脇道の一つ。昨日、中尉と出会ったのとはまた別の脇道だ。
覗き込むと、男が壁に手をついて体を支え、荒く息を吐き出している様子が目に入った。中背で細身。ぼさぼさのブロンドと、高い鼻。目の色は青い。
足元には死体が二つ転がっている。
「なんだ、もう終わっちまってんのか」
ぼそりと呟くと、思ったより大きな声だったのか、男が俺を睨んだ。
目が合う。
と、男は銃をこちらに向け、一切の言葉もなく発砲した。
慌てて首を引っ込めつつ、俺も銃を抜く。
「やばくなったら助けてくれ」
「逃げたほうが金が掛からなくていいのではないか?」
「認めるよリリィ。よく分かってねえが、どうやら俺は機嫌が悪い。ああ最低だとも。だからうさを晴らす。血を見りゃ、少しは治まる」
返事を待たずに弾が途切れたのを見計らって突入した。走りながら引き金を引く。
勝った。そう思った。
が、男は足元に転がっていたらしい銃を拾うと、横に転がりつつ撃ち返して来た。慌てて手近にあったゴミ箱に姿を隠す。強度は心許ないが、無いよりましだ。
予想外。いや、観察不足か。だが、このままならないもどかしさこそが勝負というものだ。口の
端が歪むのを止められない。くそったれめ。俺の頭の中に何人か住んでいるような気さえしてくる。殺し合いなんて本当は楽しくもなんともないと思っているはずなのに、今は楽しくて楽しくて堪《たま》らない。機嫌が悪いといつもこうだ。
がちり。
男の弾切れを知らせる音色が響き、俺はそれを好機と見て飛び出した。
構え、そして引き金を引く。三発立て続けに撃ったが、男は素早くそれをかわし、いつ取り出したものか、ナイフを手にしてこちらに突っ込んできた。
速かった。一気に間合いを詰めてきた。銃弾で牽制《けんせい》しようにも間に合わず、斬撃《ざんげき》を銃身で受けてしのぐばかりだった。かきん、かきん、と小気味良い音が響く。
男の動作が一瞬大振りになったのを見て取り、ここだと踏んだ俺は引き金を引いた。が、誘いだった。男は弾をかわし、そしてナイフで銃を絡《から》め取り、弾いた。
銃の行方を追いかける間もなく、ナイフが俺を襲う。
横に薙《な》いだかと思えば、突き、払い、かと思えば蹴りが飛んでくる。
どん、と腹を蹴られたのが勝負の分かれ目だった。
一瞬の怯《ひる》み。俺の顔面目掛けてナイフが向かってきた。
死んだと思った。
が、即座に横から手が割って入った。リリィだった。突き出されたナイフの刃を握り締めている。それを見て取った男は即座に自分の手を離し、距離を取った。
俺もそのままというわけではない。地面に転がった銃を探した。すぐに見つかる。駆け寄って手に取りつつ、男の行方を追った。
背後。
振り向いて銃を構えた俺の目に飛び込んで来たのは、やはり銃を手にして俺に向ける男の姿だった。
「そこまでだ」
とリリィが横から口を出した。
「悪かったな。一方的に命のやり取りを強要した。ここいらで勘弁してもらえないだろうか。でなければ、私が相手をすることになる。分かってもらえていると思うが、私はドラゴンキラーだ」
「口を挟むな馬鹿」
「お前の負けだろう。私が割り込まねば死んでいた。そのお前がどうこう言える立場か? 決定権は命を救った私にこそあるだろう。そういうわけだ。この勝負、私の預かりとするわけにはいかないだろうか?」
男は俺とリリィを交互に見つつ、銃は構えたまま、徐々に距離を取り、やがて大通りの向こうへと消えていった。
残ったのは俺たちと、先ほどの男が作ったらしい死体だけだった。
「くそったれ。たまにああいう奴と出くわすから面白《おもしれ》え」
座り込み、壁にもたれかかって俺は言った。煙草を取り出すと、リリィが指を伸ばし、火をともした。
煙を吐き出すと、気分が落ち着いていく。悪くなかった。
「殺されかけておいて、よく言う。私がどういう顔をしているか、きっと見えていないのだな。馬鹿もここまでくると、見せ物に出来るレベルだ」
「殺すばっかじゃつまらねえ。殺されかけてこそさ」
「正気で言っているのか?」
「俺に正気があると思っているのか?」
「訊いた私が馬鹿だったよ」
再び煙を吐きつつ、
「良い腕してたなあ」
「見事なものだった。あれだけの腕があれば、顔も名前も売れていそうなものだがな」
「知らねえ奴だ」
そう言いながら煙草を地面に落とし、立ち上がりつつ踏み潰《つぶ》した。
尻の埃を払い、リリィが置いていたらしい荷物を拾おうと腰を折ると、
「ひどい」
と背後から声が掛かった。
振り返ると、えらく髪の長い女が立っていた。
女は生気に欠けていた。覇気《はき》が無い、とでも言うのか。気力が見て取れない。目の前に立っているというのに、どこまでも存在感に乏しかった。華奢な体つきが原因だろうか。
かすかに緑が掛かってはいるものの、ほとんど白に近い、ノースリーブのワンピース。レースやらフリルやらで細かく飾りが施されているが、着ているものはそれだけだった。足元は素足に編み上げのサンダル。装飾品の類《たぐい》は見当たらない。
細い造りの顔には、綺麗に整えられた眉と、切れ長の、やや赤味を帯びたブラウンの目。細く高い鼻。オレンジの色味が強いブラウンの髪は真ん中で分けられ、それがへその辺りまで無造作に垂らされている。
「ひどい」
女はもう一度そう言った。視線は俺たちの足元に転がっている死体に向いている。
「哀れに思うんなら、あんたが片して弔《とむら》いでも祈りでもくれてやれ」
「お金が欲しかったの?」
「ああ?」
「それとも命?」
「おい、何か勘違いしてねえか? こいつらを殺やったのは俺じゃねえ」
「私に嘘をつく必要は無いと思うけど」
「信じる気はないってか。殺すところも見てねえくせに、よくもまあそこまで思い込めるもんだ。お前、馬鹿って言われたことあるだろ? そんな馬鹿に優しい俺から素敵な解決方法をプレゼントだ。百回深呼吸しろ。そいつが終わったらもう百回だ。そうすりゃちったぁものが見えるようになるだろうよ」
「もういい。あなたがひどい人だっていうのは分かったから」
「ああ分かってくれて最高に嬉しいね」
言い終わらない内に、ひゅ、と音がした。
そして次に俺が自覚したのは、女が俺の至近に立つ様子だった。
「なぁっ」
と思わず間抜けな声が溢れ、そして女は俺の頬を張ろうと腕を振り上げ始めていた。
尋常ではない速さだった。即座に思考が猛烈な勢いで開始される。
こいつ、ドラゴンキラー。マルクトの関係者か。いや待て、その前にこれ、張られたら首もげるんじゃ。防御、防御だ。防御が、間に合わねえ。
瞬間。ひゅん、と乾いた音がした。俺は地面を後方に向けて転がっていた。
ごろごろと転がり、通りに出たところで止まる。どうやらリリィによって、背後に放り投げられたらしい。
「ココ、無事か!」
リリィの叫び声に顔を上げると、女と押し合っていた。
女はリリィに手首を掴まれてなお平然としていた。どころか、力ずくで押し切ろうとさえしている。さすがドラゴンキラー。
「くそめ。ドラゴンキラーたぁな」
近づきつつ言うと、
「まさしくそうだ」
「あなたも、そうなのね」
女は静かにそう言った。リリィの顔の様子からして、かなりの力を込めているように見える。それに対抗する女も、同様に力を必要としているはずだが、声の調子に変化は見られない。
「ああ、私もだ」
「どうしてこんな人と一緒に居るの?」
「私がそう望んだからだ。付け加えるなら、そこの彼らを殺したのはこの男ではない。私が保証しよう。我々が到着した時には、すでに死体になっていた。犯人と思《おぼ》しき男の顔も知っている」
女の顔に迷いが浮かんだ。リリィの話は聞く気になるらしい。さすがに俺だ。人望が無い。
「リリィ、そいつは知った顔か?」
俺の頭の中に浮かんでいたのはマルクトの政争だった。
世界一の大国マルクト、その政治を司《つかさど》っている元老院がアルマの身柄を欲している。リリィを雇い、アルマを保護することになったのも、元はといえばそれが原因だ。連中は実働部隊としてドラゴンキラーを抱え込んでいるから、目の前の女が元老院が送り込んだものではないか、という疑問が即座に浮かんだわけである。
が、言動からどうにも違うという感触は得られていた。俺たちの顔と名前を知らないなんてことがあるはずがない。
「いや、知らない」
「だろうな。てことは、どっかの組織が手に入れたってことか。全く、騒がしくなりそうで何よりだ」
「放して」
「事情を聞いてからな。リリィ、分かってると思うが、放すなよ。野郎のサオ握り締めるつもりで、しっかり優しく握っとけ。何なら上下に擦《さす》ってもいい」
つまらなそうにそう吐き捨てた。リリィは呆れ、女は露骨に嫌な顔をした。
「ココ。少し黙っていてくれ。話なら私がする」
「へいへい」
「すまないな。相棒は口が悪いのだ」
「信じられない。こんな人と一緒に居るなんて。ドラゴンキラーなのに」
「ああ、自分でもそう思う。が、あれでなかなか良いところが、良いところが、良いところが、あるのか?」
と振り返って訊いた。
「知るかよ。馬鹿言ってないでちゃんと集中してろ。さて、質問だ。あんたはどこの誰だ」
女は生気の無い目つきで俺を睨み、かと思えば掴まれている腕を振りほどこうともがいた。表情が欠けているくせに、動きだけは激しい。
アズリルに似ているな、と一瞬思ったが、すぐに違うな、と思いなおした。アズリルは表情を消しているだけだ。意図的にそのように振舞っている。が、この女は表情そのものが無い。
「放して」
そう言って一際大きく体を振った途端、女の腕はリリィの束縛を逃れ、そして自由を取り戻したとみるや、高く跳び上がった。壁を蹴ってさらに高く跳んだことが、ぱらぱらと降ってきたレンガの破片で知れる。顔を覆いつつ、
「馬鹿、何やってんだ。追えよ!」
「いや、痛かったのだ」
リリィは自分の手をまじまじと見ながら、そう呟いた。意味が分からない。
「は?」
「痛かったのだ。驚いた」
「もっと分かるように言え」
「最後の瞬間、手に痛みが走った。それで思わず驚いて手を離してしまったのだ」
「別に大したことじゃねえだろ、それ」
リリィは違う違う、と首を横に振り、
「ドラゴンキラーは痛みに対して極端に鈍い。外皮と筋肉が衝撃の大半を吸収してしまうという理由もあるが、それだけではないのだ。痛みそのものを感じにくい体になる。麻痺《まひ》、鈍化《どんか》、言い方は何でもいいが、とにかく鈍いのだ。そのことから竜も同様に鈍いか、あるいは痛覚が存在しないのではないか、とする説もあるが、それはまあ余談か。ともかく、痛い思いをしたのは久しぶりだったのだ。それで驚いてしまった」
「そんなに怪力だったのか、あの女」
「よく分からん」
と、リリィは自分の手をつねりながら答えた。俺は女が跳び上がって消えた空を眺め、
「マルクトの関係者って線は弾《はじ》くぞ」
「そうだな。野良のドラゴンキラーというのも考えにくいから、お前が言った通り、どこぞの組織が手に入れた者だと考えるのが妥当だろう」
「お前は野良だったじゃねえか」
「今は鎖で繋がれている」
「繋がれてんのは俺のほうだ」
そう言って空を見上げ、
「帰るか」
と続けた。殺し合いの余韻を、生き延びたという確信を楽しみたかったからだ。
[#改ページ]
彼女が羨《うらや》ましかった。
他人を羨むことはこれまで幾度となくあった。私より先に子を得た幼馴染《おさななじみ》、高い化粧品を買ったのだと自慢した年増、戦争で腕一本失ったかわりに、大層な額の年金を受け取ることになった老人。
私には何も無かった。だから羨んだ。羨み、妬んで、それでも前向きに手に入れる努力をした。ただそのどれもが実を結ばなかった。
何も無い私がこんな街に来ることになったのは、あるいは運命だったのではないかと思う。神様がいるのなら、きっと私のことなど目に入っていないはずだ。
だからこそ、こんな所まで連れて来られた。
嫌な街。最低の街。歩けば悪人としかすれ違わない。
無くなってしまえばいいと念じながら、目を合わせぬようにと俯いて歩いた。だがそれでも、汚物にたかる羽虫のような素早さで近づいてくるものは後を絶たない。
私を使おうとした者。大声を出せば思い通りになると思い込んでいた者。それが叶《かな》わないと知るや、すぐさま下手に出てくる。
絶望したくなるほどの嫌らしさ。
少し撫でただけで、あるいはゆっくりとした動作で頬を張ってやるだけで、そういった頭の悪い連中は悉《ことごと》く動けなくなった。いい気味だ、と感じる代わりに、自分が汚れてしまったような気もした。
私はこの連中と同類なのではないか、そういう風に思った。
その矢先に彼女と出会ったのだ。
彼女は、健全だった。
同類だというのに、私と同じものだというのに、怪物だというのに。彼女はどこまでも健全で、私にとってはそれがたまらなく眩しく、そして羨ましかった。
連れもいた。
見るからに悪人然とした、救えない男だった。だがそんな男と共にあってなお、彼女は少しも弱ってなどいない。
羨ましい。妬ましい。恨めしい。
あの男が居るからだろうか。だから彼女はあんなにも眩しく映るのだろうか。
両脇を見ても誰もいない。
もたれ掛かる男でもいれば、私も強くなれるだろうか。
[#改ページ]
四章
ここ数日、仕事の依頼はわずか一件という有様だった。誰のせいかは未だに判明しないものの、その誰かのお陰で事務所の経営状態は更に悪化し、具体的にはリリィがガスの火で食い繋ぐという状況に陥っていた。その一件の仕事にしたところで、細い細い伝手《つて》を辿《たど》って取ったもので、失《う》せ物探しという実入りの少ない仕事だった。しかも、約束の日はしばらく先で、つまりは俺の手元に仕事は全く無い。
パーマーの報告は未だに届いていない。だからというわけではないが、俺は中尉の相手に時間を取られた。酒を飲んでいたわけである。
大事に大事に飲んでいた、少しばかり値の張る酒を、中尉は水のように飲んだ。危機的状況だ、と思ったのは最初だけで、途中から俺も自棄《やけ》になった。中尉に全て飲まれるくらいなら、自分が飲んだほうがまだ救いがあると判断を改めたからだった。
情け無いことには変わりないが。
ともかく中尉の酒量は尋常ではなかった。ウィスキーをつまみにラムを飲んだ。そして派手に酔い、迷惑極まりない絡み方をした。 愚痴が多かった。上手く行かないのは、自分を認めない世間のほうに問題がある云々。その手の愚痴を言葉を変え、表現を変えて延々と喋っていた。その話が終われば、次は街の話題。組織の強弱から、街娼の品評に至るまで。
昔の話題は、お互いがなんとなく避けていた。
俺が蓄えていた酒のストックは、無茶な飲み方をしたお陰で、三日で全部無くなり、四日目には懐《ふところ》が寂しいことも手伝ってか、二人して安いビールで酔った。
なるほどこんな飲み方をしていれば、組織から持ち出したとかいう金も全て酒に変わるはずだ。
リリィは、あまりに不健全だという理由で、黒猫を引き取りに来て以来、一度も顔を出していない。酔っ払いの相手をアルマにさせたくないからだ、と想像した。実際、中尉とアルマは未だに面識が無い。会わせてもいなければ、紹介すらしていなかった。なんとなくタイミングを逸してしまっている。が、特に問題があるわけではなかったから、結局そのままだ。
動こうと思ったのは五日目だった。
「中尉殿、生憎《あいにく》もう酒がありません」
「あん? 無けりゃ買って来りゃいいだろ」
「そうすべきなのでしょうが、金がありません」
この一言を絞り出すために、飲み続けたようなものだった。実際、もう金はほとんど無い。腹を探られようが家捜しをされようが、無い。その事実を作り出すために飲み続けた。そうでもしなければ言えなかった、ということだ。
頭が上がらないとはこういうことだ。最高に情けない。
「盗って来ようぜ。ドラゴンキラーの動員だ。壊して殺して犯して盗る。軍人なら当たり前にやることだ。大丈夫大丈夫。酔っちゃ居るが、上手くやるからよ」
「それでは、却《かえ》って注目を集めかねません。買わずとよい恨みも買うでしょう」
「説教か?」
とろんとした半眼で中尉が笑って言った。
「そういうわけでは」
「あぁ、分かった分かった。で、どうしろって?」
「自分はこれから仕事に出向きます。中尉殿はこちらにいらして頂ければ、と」
「あいよ。居る居る。どうせ行くとこなんてありゃしねんだ。いっそずっと置いてくれよ」
「中尉殿」
「駄目か? そりゃあ駄目だよな。飲んだくれの世話までやってられねえか。はは」
そう言って自虐的な笑みを浮かべた。
ここ数日、何度となくこういう笑い方をする中尉を見てきたが、たまらなく嫌だ、と思うと同時に、なんとかしたいとも強く思った。下士官の情、だろうか。
「僭越《せんえつ》ながら。近いうちに、自分の伝手《つて》を使って組織に紹介したい、と思っておりますが」
「使い走りは嫌だぜ。下っ端を使えて、黙っててもそれなりに金の入るポジションにしてくれ」
「ご希望に沿えるよう努力いたします」
「任せる。俺は寝る」
そう言って投げ出していた足を引き寄せると、そのままソファに横になった。
それを確認してから立ち上がる。心の中で何度かため息を吐《つ》いた。すっかり世話のかかる人になってしまった。
荒れた原因は何だろう、と想像し、そして想像した瞬間に軍曹に止めを刺したときの光景が蘇った。
思わず苦笑する。
軍曹。やはりあんたは迷惑な人だ。死んでからも生きてる人間をこうして縛ってくれる。最低だ。迷惑極まりない。願わくは生き返れ。そうすりゃ中尉のお守りを押し付けられる。
天気は良好。雲が少しばかり厚いが、それでも白く、雨雲という気配ではない午後三時。
依頼人の元に出向くと、そこは雑貨屋で、とりどりの日用品に混じって、やけにトレーニング機具が目立った。奥にはレジスターの乗ったカウンターがあって、そこに大柄の男が小さくなって本を開いていた。客は俺だけの様子。
俺が店内に入った事を知ると、ちらりと時計を確認し、
「ええっと、ココ?」
どうやらこいつが依頼人らしい。二十代後半と見える男だった。角ばった顔と、無駄に増量された筋肉の持ち主で、いかにも動きにくそうだ。近づいてみて分かったが、手にした本は運動科学の本らしかった。
「ああそうだ。デニムの、ハンドジョブ・デニムの紹介で来た。話は通ってるはずだが」
「はは、その渾名《あだな》は可哀相だ。いや、事実じゃあるがね。奴の最高記録を知ってるかい?」
「さあ、聞いたこともねえ」
「十九回だとよ。笑える回数だ。いや、女とだったら馬鹿げた回数だ。付き合うほうもただじゃ済まないからな。だからって一人でやれる回数でもない。さすがに死ぬって言ってるんだが、さっぱりさ」
別にデニムの話に興味など無かったから、俺はとっとと仕事の話を切り出した。
「それで、失せ物ってのは?」
俺の言葉に男は本を閉じ、気まずそうに首筋を掻いた。嫌な予感。
「あ、ああ。そうだな。出向いてもらっておいて悪いんだが、見つかっちまってな。いや、正確には届けられた。すられたんだけどな、どこをどう巡ったもんか、戻ってきたんだ。しかもついさっきだ」
俺は肩を落とし、額を掻きつつため息を吐いた。
予想はしていた。覚悟も出来ていたはずなのに、いざ現実と向き合うと、やっぱりやるせない。
「無駄足を踏ませちまったなぁ。いや、悪かった。詫《わ》びと言っちゃなんだが、大銀貨一枚以内で、そこいらから選んでくれ。やるよ」
「要らねえよ。金以外のものは一通り揃ってる」
「そう言うなよ。鍋から便器まで、好きに選んでくれ。あ、ちなみにお勧めはダンベルな。特殊な鋳鉄《ちゅうてつ》を使ってるとかでよ、こんなに小せえのに五キロ近くあるんだ。良いぜ。相当良い」
「だから要らねえって。その代わり一つ聞かせてくれ。失せ物は何で、届けたのは誰だ?」
「え?」
「知った顔なら文句の一つも言いたいだろ? 仕事を取り上げてくれたんだ」
「ああ、そういう話か。悪いが、俺も知らない奴でさ。なんでも俺に届けるようにって頼まれたらしい。ちょっと要領を得ない話で、気味の悪いところはあったがね。けど俺としちゃものが戻ってきたわけだし、それだけで十分だったんでな」
「妥当なとこだな」
「だろう?」
「いや、まあ、そうだな」
と曖昧な返事をした。頭にあったのは相手のことである。用心深い話だが、こんな小さい仕事にまで横槍を入れる徹底振りは、正直気味が悪かった。馬鹿だとも思う。
「邪魔したな。ああ、食い物があるなら何かくれないか。雑貨よりもそっちのほうがありがたい」
「そうか。ちょっと待っててくれ。何かあったか探して来る」
男はそう言って店の奥へと引っ込み、一分ほどして戻ってきた。
俺はその間に煙草をくわえていたから、戻ってくるなり、
「悪いが、店内は禁煙なんだ」
とちくりとやられた。黙って煙草を握りつぶすと、
「煙草は良くないんだぜ。血の巡りが悪くなるんだ。筋肉にも悪そうだ」
「あんたの肉は無駄に豪華だな」
「俺の広背筋は芸術だよ、正味な話。見る? 見たい?」
「いいから、その手に持ってるものくれよ」
「ああ、悪い悪い」
筋肉|達磨《だるま》はそう言ってカウンターに馬鹿に大きな紙包みを置いた。どん、と音がする。
「ヨーグルトとチーズだ。トレーニング終了後三十分以内に食うと効果的だ。鶏肉なんかも脂肪が少なくて最高だ」
「食えれば何でもいいさ。ま、貰ってく。次も贔屓《ひいき》にしてくれ」
「無駄足踏ませちゃったからな。何かあったら頼むよ」
俺は片手を挙げて挨拶し、チーズとヨーグルトが大量に入った袋を抱え、雑貨屋を後にした。
これからどうするか、と考えを巡らせると、特に思いつくことも無かったため、パーマーの仕事の進捗《しんちょく》状況を確認しようと、足をベイカリーへと向けた。
「丁度良いところに来るものだ。見張られているんじゃないかと疑いたくなるくらい見事なタイミングだね」
店に入るなり、珍しくカウンターに立ったパーマーが言った。その向かいには、書類|鞄《かばん》を手にしたアズリルが立っている。
「てことは、分かったのか?」
「もちろん。情報屋だよ、僕は」
「さすがだ」
「アズリル」
はい、と返事をしたアズリルが、手にしていた鞄の中から大きな封筒を取り出し、俺に差し出した。俺は手にしていたチーズとヨーグルトを床の上に置き、早速中身を確認する。報告書。そう記された文書だったが、
「読むより聞いたほうが早そうだ」
と顔を上げた。
「彼女がタイプしたものだ。読んで欲しいけれど」
「後でリリィにでも読ませる。さあ教えてくれ。舐めた真似した馬鹿は、どこの誰だ」
パーマーはそれでもアズリルに義理立てしたかったのか、彼女をちらりと見た。
「私のことなら大丈夫です、店長」
「君がそう言うのなら話すとしようか」
「で、誰だ?」
「商会だよ」
パーマーはいつもの口調を変えることなく、世間話でもするような口調だった。が、俺はそうはいかない。右の眉を吊り上げていた。
オーランド商会。それが正式名称だ。表向きは武器商、裏はマフィア。そういう連中だ。バスラントにおける紛争の長期化を望み、武器を流し込み続ける死の商人。裏に目をやれば、この街で最も巨大な力を誇る組織である。通称は商会。
が、問題は俺たちの事務所と商会の関係のほうだ。
贔屓にされているのだ。三ヶ月ほど前、リリィが俺の所に来ることになった騒動があった。その時に敵対し、最終的には対等な条件で手打ちを行ったのだ。互いに禍根はあるものの、一応の友好関係にあると言っていい。
「商会がなんでこんな真似をする」
「商会といっても一枚岩じゃないからだよ。首謀者は幹部じゃない。若頭《わかがしら》だ。知ってるかな。レビン。嘘つきレビン。蝙蝠《こうもり》レビン」
「誰?」
「だから商会の若頭だよ。最近売り出し中の。幹部候補って奴だ」
「商会全体の意思じゃないってことか?」
「そう取るべきだね。幹部連中はこのことを知らないんだ。レビンが子飼いの連中にやらせてる」
「意図が見えねえ。殺したいって話か?」
「泣きつかせたい、だね」
「は?」
「レビンの狙いはこうだ。まず君の事務所を干上がらせる。徹底的にね。そうすればいつかは商会に泣きついてくる。君は下手に出るしかない。下手に出なくても、借りを作ったとは思うだろう。そして君との交渉に当たるのはレビン。後は、君たちを取り込むつもりだ。自分の手札に加えるため、行く行くは商会で発言力を持つためにね」
「もしかして、そんだけ?」
「うん。調べた限りにおいては。ちなみに十分裏は取ったからね。これ以上は出てこないだろう」
どっと疲れた。
ドラゴンキラーを抱えるというのはこういうことなのだろうか。何だかやるせない。
確かに戦力として見た場合、ドラゴンキラーは無敵に近い。一個師団として勘定されていようが、敵が全て人間であるならば絶対に負けない。人間に奴等を殺す術《すべ》が無いからだ。一万人いようが十万人いようが、ただ殺されるだけだ。
ドラゴンキラーを殺せるのは竜とドラゴンキラーだけだ。だからどこの国もドラゴンキラーを求める。最強の矛《ほこ》として、最強の盾《たて》として。
「ああ、そうか。お前が格安で請けてくれたのと同じことなんだな。ただやり方が異様に回りくどいだけで」
「そうだね。皆、君に近づきたいんだ」
「リリィに、だ」
「けど事務所の所長は君だ」
「どいつもこいつも。馬鹿ばっかりだな。もっと分かりやすい連中はいねえのか? むかつくから死ね、ぐらいが丁度いいんだよ。いちいち回りくどい真似しやがって。気持ち悪いったらねえ」
「さて、どうするか聞いていいかな?」
「やるよ。皆殺しだ」
「似合わない真似は止めたら?」
その言葉を聞いた瞬間、ちりちりとした頭痛を感じた。ずっと抱え続けているもやもやを刺激さ
れたからだ、と直感する。どうも俺は相手を殱滅《せんめつ》するという選択肢が気に入らないらしい。だからといって良い策があるかといえば、俺には思いつかなかった。
ああ全く頭が痛い。色々な意味で痛い。最悪だ。
「ケンに話を通せば問題ねえ。俺が幹部の立場だったら、レビンを見捨てるね。まず間違いなく。若頭一人と外部の有力組織との友好関係。天秤《てんびん》に載せれば重いのはどっちか、ガキでも分かる」
多少語気が荒くなりつつ、そう答えると、
「話し合いだけでけりは付くだろう。ケンに伝えてやればいいんだ。迷惑してるってさ」
「やけに絡むじゃねえかよ。舐められっぱなしで放っておけってか? 先々似たような馬鹿を寄せ付けないための宣伝なんだよ、こいつは。舐められたら食うに困るだろうが。いや、実際もう困ってんだ。それともお前が養ってくれるのか?」
「深入りするつもりはないよ。僕は情報屋であって、人生相談を受け付けてるわけじゃない。君がどう動くか知りたかっただけさ」
「正解だ。手前のことだけ考えるのがこの街の習いだからな」
じゃあ、とそこで話を終わらせて、帰ろうと思ったところで、パーマーが右手を出した。
「経費の請求がまだだ」
「こいつで勘弁してくれ。筋肉を増量することしか考えてない物好きがくれた。チーズとヨーグルトだとよ」
「動物性たんぱく質が豊富で何よりだ。が、相手が商会だって確定してから経費が結構かかってね。勉強しても金貨三枚。これ以上は無理だよ」
持ち合わせは無かった。当然だ。そんな金があるなら食費に回す。
が、払わねばならないのも確かだ。経費はこちら持ち。そういう契約になっているし、パーマー相手に約束を違《たが》えるような真似は出来ない。
どうする。
と、金をどうするかについて考えをめぐらせていた俺の頭に、あの女ドラゴンキラーのことが浮かび上がった。
「街にドラゴンキラーが入ったって話、聞いてるか?」
パーマーの表情がほんの少しだけ動いた。
「与太話じゃないって証拠は?」
「無ねえな。が、リリィも見てる。それとも身内は証人としちゃ弱いか?」
「普通はそうだろうね。が、彼女の場合は嘘を吐くのが不得意、そういう印象がある。いいだろう。信じよう」
俺はにんまりと笑い、以前に出会った女ドラゴンキラーの話を細かく説明した。話を聞いている最中、パーマーは相変わらず何を考えているか分からない表情を浮かべ、頬杖をついていた。
話し終えると、
「どこの組織が手に入れたか、だね。そういえば君の所の彼女がこの街に入った時にも同じ事を言ったかな? ああ、無責任な想像っていうのは楽しくてたまらない」
「何が言いたいんだよ」
「また君のところに転がり込む結末になるのかなってさ。そうなれば君はバスラントを手にすることだって出来る。大体、今だってこの街を取ることぐらいは出来そうなものだけどね」
「焚《た》き付けてるのか馬鹿にしてんのか、どっちだよ」
「褒めてるのさ。欲が無いって」
「お前にあの馬鹿を使う苦労を教えてやりたいね。何ならベッドの中ででも」
軽口で答えると、
「僕は君の女の趣味も知っているよ。あいにく見ての通りの細い体だし、何より男だ。それに僕にはアズリルが居るからね、それで十二分に足りている」
パーマーが言うと、あろうことかアズリルがほんの少し赤面した。
呆然とそれに見入っていると、すぐさま頬の朱が引いていく。大したものだ。
「まあいい。それで、経費と相殺《そうさい》って話でいいのか?」
「金貨一枚、大銀貨五枚ってところかな」
「残りはつけといてくれ。馬鹿の問題に蹴り付けたら払う。絶対にだ」
「もしくは貸し一つってことでもいいよ」
「阿呆抜かせ。お前に借りなんて作ってたまるか。ラダーマンのほうが万倍ましだ」
俺はそのままベイカリーを後にした。店を出たところで、そういえばチーズとヨーグルトの入った紙袋を置いてきてしまった、と気付いたが、今更戻るのも妙な抵抗があって、結局そのまま捨て置いた。
勿体無い真似をした。
そう思ってしまった。思ってしまったから恥ずかしくなった。貧乏万歳、万々歳だ。
くそったれ。
事務所に戻るなり俺の目に飛び込んで来たのは、黒猫ピスを相手にしている中尉の姿だった。言葉にすればそれだけだが、実際は赤子をあやすような相手の仕方ではなく、どこから持ってきたのか、棒と紐、そして布の塊《かたまり》を組み合わせた、釣竿《つりざお》に似た道具を使ってピスを右に左にと誘っていた。
中尉の手にしている道具が、とにかく大きかった。つまりピスは相当の距離を走り回ることになったのだろう。それは部屋の惨状を見ればすぐに分かった。
散らかっている。散らかりすぎている。
割れた酒瓶、空き缶、煙草の吸殻などがあちらこちらに散乱し、しかも窓を閉め切っているらしく、嫌な臭いがこもっていた。
あまりの有り様に呆れていると、
「お、帰ってきたか」
と中尉がにやにやと笑った。右手には半分ほど残ったラムの瓶。顔色から察するに、すでに出来上がっている。
「いきなりでなんだが、お前のとこの黒猫、なんて名前だ?」
「ぴ」
「ぴ?」
「いえ、ハニー。ハニーと呼んでいます。自分がつけた名ではありませんが」
「女の好みそうな名前だな。そうかハニーか」
「金をお持ちだったのですか?」
空き瓶を拾いながら訊ねる。
「貰ってきたのさ。お前の名前を出したらご丁寧に山ほどくれた」
反射的に漏れそうだったため息を飲み込み、
「支払いは後ほど済ませておきます」
と答えた。
「お前も飲め。そんで何か面白《おもしれ》え話の一つも打《ぶ》て」
「申し訳ありません中尉殿、これから問題を片付けねばなりませんので」
「あん?」
と中尉は首を傾けた。
俺は横槍を入れている者が判明したことを、商会との関係も交えて説明した。酔っ払い相手に伝わっているのか怪しかったが、理解してくれていることを願うばかりだった。
聞き終えた中尉が見せた反応は、笑顔だった。
「面白え。そいつは面白えよオルグレン。はは、相手が決まったか。後はドラゴンキラーで殱滅だ。皆殺しだ。さあ捨てる用意だ。捨てるものは分かってるか? 分からねえなら教えてやろう。暴力以外全部、全部だ。それ以外は何も要らねえ」
そう言ってはしゃいで見せた。
「まずは段取りを整える必要があります。自分らは筋を通さねばなりません」
「あん? んなもん、しち面倒|臭《くせ》えだけだ。無視しろ」
「勝ち方を考えるのは政治家と高級将校の仕事。そう教わったものですが、まさに一国一城の主である自分には、その必要があるのです。勝つのは容易《たやす》いでしょう。ですがその後、周囲がどういう反応を示すか、それを十分に考慮する必要があります」
ちっ、と俺に聞こえるほど大きな舌打ちをした中尉は、右手にあった煙草が短くなっていることに気付き、そのまま灰皿に放り、そしてラムをあおった。
「考えるだけ無駄だろ。力を見せちまえばそれでお終《しま》いさ。大体なんだよ、ドラゴンキラー持ってるってのに、あっちこっちに気ぃばっかり回しやがる。小姑《こじゅう》とも真っ青だな。は。俺たちはとっくに軍人じゃねえんだぜ? 悪党だ。悪党なんだ。だったら何を躊躇《ためら》う必要がある。ただ暴力だけが俺たちの土台だ。一切合切全部ぶち壊せ」
俺はただ黙って中尉の言葉を聞いた。無表情に、前方だけをじっと見つめていた。
「気に食わねえか? 腑抜《ふぬ》けめ」
「そういうわけでは」
「あのドラゴンキラー、俺に預けろよ。お前より上手く使ってやる」
「中尉殿」
たしなめるような響きがあったためか、中尉は表情を歪《ゆが》め、そして手に持っていた瓶を思い切り投げた。ぶん、と風を切って瓶が飛んでくる。が、瓶は俺の顔の真横を通って壁に衝突し、割れた。
「過ごされているようです。茶を用意いたします」
「要らねえよ」
「中尉殿」
と今度は懇願する響きが混じった。中尉は再び舌打ちすると、
「分かった。分かったよ。飲めばいいんだろ」
俺はキッチンへと向かい、茶の用意を始めた。が、すでにリリィの生活空間と化しているため、俺が使っていた頃に比べて随分と勝手が違っていて、かなり手間取った。そして出来上がった茶は、リリィが淹《い》れたものに比べて相当に苦いものに仕上がった。
「不味いな。酔いも醒めるってもんだ」
感想を漏らす中尉の顔は、苦手なものを見るような表情だった。
「申し訳ありません」
「それで、もう出るのか?」
「はい中尉殿。すぐにでも」
ふぅん、と相槌《あいづち》を漏らしつつ、もう一口。俯き加減で、視線はカップに注がれていたが、やがて目だけが俺に向けられ、
「俺も行く」
と言った。
「中尉殿、それは」
「邪魔はしねえよ。ただの野次馬だ。ドラゴンキラーが全部を引っくり返すところを見たいじゃねえか」
迷った。現場であれこれと指図される光景がありありと想像できてしまったからだ。
それは、正直困る。これは俺の問題で、俺が片付けるべきことで、俺が決めるべきことだ。が、放っておけば俺の名前を、正確に言えばリリィの力を笠に、好き勝手やられそうな気もする。
どうする。どちらが損が少ない。
考えた末に俺は、分かりました、と静かに答えた。
「ですが中尉殿」
「ああ、分かってるよ。邪魔はしねえって」
「ありがたくあります」
「じゃ、銃貸してくれ。ライフルと拳銃を一丁ずつ。弾も山ほど。ナイフも忘れるな」
「自分は刃物を使いませんので。ですが、それ以外は用意させて頂きます」
「ああ、そういやそうだったか。銃剣も使いたがらなかった。聞きそびれてたが、何か理由があんのか?」
「性に合いません。刺して切って、確かに相手の命を奪うに足りますが、手間です。銃なら撃てば簡単に死にますので」
「刃物は刃物で便利だと思うがな。まあいい。ちょっと吐いて来る。それまでに用意しといてくれや」
中尉はそう言って立ち上がり、ふらふらとした足取りでトイレへと消えた。やがて甲高いえずきが聞こえてくる。中尉なりの戦闘準備なのだろう。が、吐くくらいなら飲まねばいいのに、と恨みがましかった。
中尉がどこぞの店からたかって来た酒の代金も払わねばならない。
いや、今は商会がらみの面倒を片付けるほうが先だ。
畜生。晩飯は絶対にいいものを食ってやる。
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気に食わない。色々なものが気に食わない。
何より俺自身が気に食わない。
騙《かた》り風情に厄介になっている自分、それを唾棄《だき》すべき行為だと断じる自分を自覚しているくせに、それを楽だから構わないと笑って許容している自分の声が喧《やかま》しくてどうしようもない。
俺は、何だ。
簡単だ。ただの飲んだくれだ。過去の経歴がどれほど華々しいものだろうと、今はただの飲んだくれ。つまり。
俺は何者でもない。掃いて捨てるほど居る世間のその他大勢、死んだほうがまだましの、一言で言えば屑だ。
畜生。何で俺はこうだ。
酒が欲しい。金が欲しい。女が欲しい。
望めばあるいは手に入るかもしれない。が、それもこれもあの騙りが用意することになるだろう。そして俺はそれをへらへらと笑って受け取るだろう。
ココを殺したあの男の用意したものを。
許しがたい。だがそれを許容するだろう自分のほうがさらに許しがたい。
くそめ。クソめ。糞め。
畜生、色んなことが面倒くせえ。
早く。
早く俺に血を見せろ。
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五章
午後九時の墓地は人気《ひとけ》も無く、虫と獣の声が響いてくるばかりで、それなりに雰囲気があった。周囲は林に囲まれている上、ガス灯も無く、光源は月に頼るほかない。暗い場所に居ると自分が世界で一人になったような気がして、たまらなく嬉しかった。 そう感じてしまうのも、次から次に飽きることなく飛び込んで来る厄介ごとのせいだ。
いっそ全部放り出してしまうべきだろうか。色々なものを抱え込んだせいで、最近はストレスが溜まってばかりだ。
「ココ? どうかしたか?」
最大のストレス源がさらりと言ってのけた。肩には機関砲を軽々と担ぎ上げている。ラダーマンから借りてきたものだった。
「黙って歩け。じき奴のセーフハウスだ」
「分かっている」
と、やや険のある声が返ってきた。
相槌《あいづち》を打つこともせず、俺は煙草を取り出してくわえた。無視されたことにもめげず、リリィが自分の仕事だと言わんばかりに指先に火をともした。
煙を吐きつつ振り返ると、中尉がボルトアクションライフルをずるずると引きずって歩いていた。腰には大振りのポーチが二つ。左脇に拳銃を差している。
向かっているのは、レビンのセーフハウスである。前段階として、商会幹部であるケンに話を通してみたところ、実にあっさりと教えてくれた。
「もうちょっと早く来るかと思ったのだけれど、思ったより遅かったわね」
と、事情を知っていたらしいケンはあっさりと言った。口調は軽い。見た目は白髪を蓄えた中年のおばさん。身につけているものはかなり上等だが、それを感じさせない柔らかい雰囲気をまとっている。
が、この雰囲気こそがくせものだ。妙な威圧感
が多分に含まれている。くぐった修羅場《しゅらば》の数が違うらしい、と直感させてくれる、冗談みたいな重苦しさだった。商会幹部というのも頷ける話だ。
「知ってたんなら止めろよ」
「あら、どうして? あの子の思惑が成就すれば、それは組織にとって間違いなくプラスになるじゃないの。止める理由が無いわ」
食えないおばさんである。が、言っていることは至極当然の話だったから、納得するしかない。
「じゃああいつを切り捨てることについては?」
「損得を考えればそうなるでしょうね。あの子よりもあなたたち。私はね、状況に応じて最も得だと思える選択を重ねてるだけよ」
「正直で結構だな。じゃ殺《や》るから」
「一つ条件をつけたいのだけれど」
「何だよ」
「あの子は幹部に断りも無く動いていた。けれどそれが露見して、幹部会はあなたたちにその始末を依頼した。そういう筋書きにしてもらいたいの」
「うちの事務所と商会の関係をアピールしたいって話か」
「使えるものは何でも使わないとね。その代わり、謝礼の名目で幾らかお金を包んでもいいわよ」
「回りくどい言い方にして曖昧にするのは止そうや。恩とか貸し借りって形にしとくと、ろくなことにならねえ。ちゃんとした依頼って形にしてくれ。間に金を挟めば全部がシンプルで後腐れも無くなる」
ケンは微笑した。
「じゃあ金貨十枚でどうかしら」
「幹部候補の値段にしちゃ安い。三十枚」
「二十枚。経費込みで」
「経費を持ってくれるなら」
「決まりね」
「死体は要るか?」
「要らないわ。そっちで処分しちゃって頂戴」
そういうやり取りがあったわけである。
俺としては、当初の目的である、事務所に敵対した勢力をリリィの力を使った上で殱滅した、という体裁が整えられれば何でも良かったから、大人しく受け入れることにした。そしてケンから得た情報により、墓地にあるというレビンのセーフハウスに向かっているわけである。
月明かりに照らされる墓地はそれなりに風情があった。
立ち並ぶ墓石の下には堅気の人間が埋められているはずだ。悪党どもの死体を片すのは、掃除屋と相場が決まっているし、行き着く先は肥料か家畜の餌か、あるいは生ゴミ。
俺も行く先は家畜の餌だろうか。となれば、俺を食った家畜を食った奴は、間接的に俺を食っていることになる。誰の口に入るのだろう。どうせなら悪党の口に入りたいものだ。腹を壊すこと請け合いだ。いや、そもそも家畜からして腹を。
と、自分が恐ろしく下らないことを考えていることに気付いて、慌てて気を引き締めた。
「ココ?」
「何でもねえ。それより、やれるな?」
「嫌だと言ったら解放してもらえるのか?」
「嫌味のつもりか?」
む、とリリィは短く感想を漏らし、その後ため息をついた。
「ああそうだとも。嫌味だ。分かってもらえて何よりだよ、ココ」
「嫌になったらいつでも出て行って構わないぜ。こんな酷い街にいるよか、どっか治安の良い街で暮らしたほうがアルマのためになる」
「それならお前も。いや、止す。お前はお前、私は私、だな」
「分かってもらえて何より」
しばらく歩くと、
「止まれ」
とリリィが言った。
「灯りが見える。恐らくは目的地だ」
リリィの右目は夜目が利く。くわえて、ドラゴンキラーというものの視力も格別に良い。お陰で夜間の偵察にはこの上ない人材だった。俺は頷きつつ、
「中尉殿」
と背後をゆっくりと歩いてくる中尉に向かって言った。
「着いたのか? ああ面倒くさかった。帰りはあれだ、ドラゴンキラーの姐さんに運んでもらおうぜ」
「段取りの確認を」
「要らねえだろ。突っ込んで鏖殺《おうさつ》だ。俺は好きに遊ばせろよ」
「さすがにそれは。一応何名かは逃すつもりでおりますし」
「何でよ?」
「目撃者を作る必要が。もちろんこちらでもこの騒ぎを広めるつもりではありますが、実際に見た者を放したほうが信憑性《しんぴょうせい》が高まりますので」
「下世話ってのかね。下らねえな」
「言葉もありません。ともかく、機関砲による掃射後、リリィが突撃。自分もそれに続きます。中尉殿も出来れば自分と一緒に」
「オルグレン、二度も言わせんなよ。俺は好きに遊ぶんだ」
俺は拳をきつく握りつつ、それでも言葉を選んでいた。が、俺よりもリリィが先に口を開いた。
「悪いが、指示に従ってくれ。元々あなたには関係のないことだからな。世話をかけるのも、かけられるのも筋が違う。もし指示から外れた場合は、あなたを保護対象から外させてもらう」
「リリィ」
「そういう事を言いたいのではないのか?」
「黙ってろ。話なら俺がする」
「揉めている暇があるなら、行動に移したほうが幾らか建設的ではないか」
「俺は黙れと言ったぞリリィ。申し訳ありません中尉殿」
中尉はつまらなそうに煙草をくわえ、リリィが目ざとく火を用意した。
「分かった。分かったよ。お前と一緒に突入だ。それでいいんだろ?」
「ありがたくあります」
「は。よっく躾《しつけ》が行き届いてるじゃねえか」
打ち合わせが終了し、俺たちは足音を殺してセーフハウスに近づいた。リリィが油断なく視線を走らせて警戒していたが、そのうち、見張りらしき者がいたため、音も無く近づいて昏倒《こんとう》させた。
安っぽいレンガ造りの二階建てで、小屋と呼ぶには大きすぎ、館と呼ぶには小さかった。半端な大きさだ。が、造りが安っぽいお陰で、リリィが抱えている機関砲が役に立つ。
俺は機関砲を指で示し、固定、装填《そうてん》と準備を始める。作業が終了した所で、
「中尉殿、よろしくありますか」
「いつでもどうぞ、指揮官殿?」
「中尉殿」
「その言葉止めねえか? 冗談が言いにくくって仕方ねえ」
俺は一拍置いて、
「善処します」
と答えた。
「リリィ?」
「いつでもどうぞ、指揮官殿?」
「黙れ馬鹿トカゲ。鱗《うろこ》引っぺがして豚の皮を貼り付けるぞ」
「やれるものならやってみろ屁垂れめ」
ふん、と鼻から息を抜き、そして機関砲のグリップを握った。
そして殺戮《さつりく》は開始された。
広い射界と連射速度が売りの機関砲は、たいして頑丈でもない建物に次々と穴を開けていった。内部から響いてくる悲鳴、建物自体の上げる悲鳴も合わさって、昔を思い出させる響きをもたらしてくれた。
やがて目標としていた灯りが消えた。自力で消したか、それとも俺が破壊してしまったのかは不明だ。
頃合を見て、
「リリィ!」
叫ぶなりリリィはその姿を消し、直後に建物玄関の扉が粉々に砕け散った。
「中尉殿!」
「待ちくたびれた。さあ見物に行こうじゃねえか」
俺たちは互いに頷くと、それぞれに得物《えもの》を手にしてリリィが破壊した玄関まで駆け寄った。耳を澄ませる。幾つもの喚き声をすぐに拾った。
俺は中尉に頷き、内部に駆け入った。
入るなり死体が三つ、目に入った。どうやら先ほどの機関砲にやられたものらしい。他に一人気絶している者がいて、俺は止めを刺しつつ視線を走らせた。
右のドアは二つとも粉砕されており、左は片方が無事だった。正面左手に二階に上がる階段があり、二階にも二部屋。
左からだ、と動こうとしたとき、中尉が俺の脇を抜け、右手手前の部屋に無造作に突入した。
頬が痙攣《けいれん》したものの、一瞬で判断を改めて俺も後に続いた。愚痴をこぼすのは全部終わった後でも遅くない。
部屋に入ると、昏倒しているらしい男が五人と、女が二人いて、中尉はまず男たちに止めを刺した。その後、女の顔を引き起こして物色を始めた。やがて振り向くと、
「楽しみが出来たな。縛って置いとこうぜ」
と笑う。
話をする間も勿体なかった。次に行こうと言って聞いてくれるのか。くそったれ。打ち合わせをした意味がない。
俺は揉めるのを覚悟で、女たちの額を撃ち抜いた。
「おい、何の真似だこりゃあ」
「申し訳ありません。ですが、急ぎます」
「白けたぞ。くそったれ、どうしてくれる」
「申し訳ありません」
と繰り返した。
「畜生が。皆殺しだ」
ライフルを手に立ち上がった中尉は、ポーチから淀みない動作で弾を取り出し、装填した。
そこからは早かった。
部屋に突入しては、気を失った男たちに止めを刺していく。何かの訓練と言われても不思議ではないほど単調な作業の連続だったが、中尉は猛烈な速度でその仕事をこなしていった。率先して部屋に入っては、苛立ちに任せて引き金を引いた。
幾らか生き残りを出す、という俺の目論見はこの時点で破れた。
最後に残った二階の奥の部屋に入った時も、入るなりリリィに銃口を向けた。が、相手の顔を認識するなり、肩に入っていた力がすっと抜ける。
「仕事が早いな。大した手際だ。俺たちに残されてたのは、ガキの使いだけだったってわけだ」
中尉の後に続いて部屋に入ると、
「ココ、来たか。この男がレビンだ」
リリィはそう言って足元を顎で示した。男が床に押し付けられていた。器用なもので、リリィは足を使ってレビンの腕を絡めて極《き》めている。
俺はゆっくりとレビンの元まで歩き、
「よ、元気?」
「こ、ココか」
「お前のお陰でえっらい苦労したよ。まったく侘しい食生活だった。物乞いのほうがまだ良いもの食ってたんじゃねえかな」
「待て。何か勘違いしてんだ。絶対にそうだ。誰に何を吹き込まれたか知らねえが、こんなことされる謂《いわ》れは無ねえ」
「パーマーが断言した。それだけで十分だ」
「ちょ、待てよ。待てったら。なあとりあえず顔を上げさせてくれって」
「悪あがきだな。そういうのは嫌いじゃねえよ。リリィ」
「いいのか?」
「構いやしねえよ。どうせ何も出来ねんだ」
リリィは足を抜き、レビンの体を軽々と持ち上げて座らせた。
改めて顔を合わせると、鳥顔だった。高級そうな細身のスーツ。内側にはベストも見える。カフスボタンは真紅のルビー。黒髪を後ろで束ねている。
そしてレビンは揉み手でもしかねない勢いで、
「ああ、済まねえな。全く人が悪いぜココ。俺をやれって吹き込んだなぁ誰だい? それとも幾らかで請け負ったのか。どうだろ。その倍出すぜ。悪ぃ話じゃねえだろ?」
「払えるのか? 三千枚」
え、レビンの表情が一瞬凍りついたものの、すぐにひきつった笑顔を取り戻した。
「は、払うさ。もちろん」
「冗談だ。よく聞け馬鹿。お前の値段は金貨二十枚だ。よかったな。街に溢れてるゴミどもの命よっか、随分高い。俺に値段がついても、五、六枚ってとこだろうから、立派なもんだ。うん」
「は、はは」
「それからもう一つ。そいつを払うのはケンだ」
その一言が止めだった。くどくどと説明する必要もなく、レビンは全てを理解したようで、ひきつった笑顔を徐々に溶かしていき、やがてその顔から表情が完全に失われた。
俺は銃を額に当て、レビンの目を見た。しばらくそのままでいた。
沈黙。
やがてレビンの口がかすかに動き、何を言うものか構えた瞬間、銃声が響いた。額を撃ち抜かれたレビンは、そのまま何度か上体を揺らしたかと思えば、前のめりに倒れた。
撃ったのは中尉だった。
「話すだけ時間の無駄だ。とっとと家捜《やさが》ししようぜ。あ、そいつが身につけてるものも忘れずにな。身形《みなり》と女の具合からすりゃ、結構持ってるはずだ。今夜は豪遊だな」
笑顔を見せた中尉はライフルを俺に放り投げ、そのまま部屋からすたすたと出て行った。破壊されたドアを眺めつつ、
「終わったか」
とリリィがため息混じりに言う。答えずに視線だけを投げると、自分の手を開き、じっと見ていた。
「自分が嫌になるな。私がやったことは殺人の手助けだ。私が殺したのと変わらない」
「嫌なら」
「出てはいかないさ。ただ、この先もこういうことがあれば、いずれ私も染まっていくのかと、そういう風に思ってな。喜々として力を振るうようになるのだろうか」
「ああ、無理。そりゃならねえよ」
「どうしてだ」
「出来上がった人間がそう簡単に変わるわけねえだろ。馬鹿じゃねえのか。お前は一生お前のままに決まってる」
リリィは驚いたらしく、少しだけ目を大きく開けた。
「何だよ」
「いや、励ましてくれているのかと思ってな」
「俺の人間観を喋っただけだ。信じる信じねえはお前の自由。悩むのが好みなら死ぬまでそうしてろ怪力馬鹿根性無しおぼこトカゲ」「長い上に地味だ。もっと洒落たものはないのか?」
と、苦笑を浮かべた。
「馬鹿のリリィ、怪力のリリィ、屁垂れのリリィ、おぼこのリリィ」
「ばらしただけではないか」
ふむ、と顎を撫でつつ、
「おぼこおぼこと呼んじゃいるが、お前本当に処女なのか?」
「な」
「いや、生娘《きむすめ》のリリィってのも思いついたんだよ。おぼこって呼ぶよっか随分と馬鹿馬鹿しい響きだろ。で、どうなんだ?」
「最悪だな、お前。くそったれという奴だ。ああいいとも教えてやるさ。処女だ。処女だとも。悪いか」
「結構。じゃあ生娘のリリィで」
「お前など頭痛のココだ。それで十分だ」
「センスねえな、お前」
「お前が言うな」
「さて、もういいだろ。中尉殿を追っかけて止めなくちゃだ。この馬鹿は殺したが、奴の金は商会のもんだからな。勝手は出来ねえ」「そういうことは先に教えてやるべきだろう」
「あの人が聞くと思うか?」
「聞かないだろうな」
「だから、まあちょっとくらいは持ち出すとしてもだ。後はなだめなくちゃならねえ。てなわけで、頼む。上手く言ってくれ。俺が言っても押し切られる」
リリィは腕を組み、俺を値踏みするような目で見た後、口の端を持ち上げて、
「貸し一つだな」
と笑った。
「体で返せって? 処女のくせに下品だなリリィ」
翌日の俺は忙しかった。
金を持ち出せなかったことを根に持った中尉の相手を日が昇るまで。そこから瞬きのような眠りをむさぼったかと思えば、荒事の疲れも引きずったまま、昼には起きた。
返す刀で、商会に報告と金の受け取り、パーマーに事の顛末《てんまつ》を出来るだけ尾ひれがつくように広めてくれるよう依頼し、さらには懸案だった中尉の就職先探しにと、方々を駆け回った。
が、レビンの残した傷痕とでも言うのか、なかなか首を縦に振ってくれるところは無かった。
もちろん、中尉が口にした、そこそこの立場で、という条件など出せるはずもなかった。ただ雇ってくれないかと話すだけだ。後は相手組織の判断に賭けるのみである。俺の事務所が後見に立つと話を通せば、まあ悪いようには扱われないだろう、という見通しが立つわけで、さすがに組織をまとめるような人物なら、その辺りの呼吸は知っていて当然だろう。
目ぼしい組織をあらかた回った末、話が出回るまで二、三日待つ必要があるか、という感触があった。妥当な判断だと思う。が、一日を無駄にしたと思いたくない半端な拘《こだわ》りがそれを許さず、何かしらの成果を求めて街を彷徨《さまよ》い続けた。
延々と空振りが続いた。
それとなくレビンの話を振り、それに片がついたのだと説明しても、皆信じてくれない。
泣きたくなった。泣かなかったが。
そうして疲労と相談した結果、最後にしようと行き着いたのが、カフス・ブライダルだった。
ブライダルと名前がついているくせに、やっていることは売春窟の運営である。なかなかに金のある組織で、建物の造りも内装にも金が掛けられ、女の質も上等だった。俺の知り合いにも常連は多い。
かく言う俺は、使ったことはなかった。自分でも不思議だ。
体を売り物にする女に抵抗があるとかいう話ではない。それが生きるために必要なら、何をしようとも自由だ。そして自由の対価として責任を取ることを全うしている人間を、尊敬こそすれ軽蔑する理由は、俺の中には無い。
そう。結局は金が無いからだ。問題の全てはそこに集約される。
女に入れ込む前に、うちの珍獣を食わせなければならない。それが契約だから。
考えたらまた侘しくなって、俺は頭を振って気持ちを入れ替え、ブライダルのドアのチャイムを鳴らした。
程なく、剃り上げた頭に刺青《いれずみ》を入れた男が顔を出した。模様の入った芋に似ていた。
「それなりの立場にある奴と話がしたい。俺はココ。事務所にドラゴンキラーを抱えてるココだ。心配なら俺の顔を知ってる奴に確認させてくれ」
早口で喋ると男は驚いたらしく、
「あ、ああ。ちょっと待ってくれ。すぐ戻る。すぐだ。動かないでくれよ」
「落ち着けよ。待つさ、もちろん」
男が引っ込んだのを確認してから煙草を取り出した。煙を吐き出すと、体が疲れているのがよく分かる。いや、半分以上心労だろう。それに引きずられて体も疲れているだけだ。
くそ。中尉と再会してからこっち、気苦労ばかりだ。その内禿げそうな気さえする。
玄関前に座り込んで煙を輪にして吐き出して暇を潰していると、ドアが全て開けられ、
「待たせたな。代表が会うそうだ」
と芋顔が告げた。男の後に続くと、応接室らしきところに通され、部屋にはどうやら代表らしい男がソファに大きく座り、背後にはスーツ姿の付き人を二人立たせていた。
「カフスだ。まあ、座ってくれ」
カフス・ブライダル代表カフスは、三十過ぎの大男だった。
でかい。身近にラダーマンという高く厚みのある男がいるが、それと比べても遜色《そんしょく》ない。大柄の体を窮屈そうに黒いジャケットに納めている。大きく開いた胸元からは、豊かすぎる胸毛がのぞき、角ばった顔には高い鼻。彫りが深いのか、青い目が随分奥まって見える。ダークブラウンの髪は後ろに撫で付けられ、うなじの辺りからは方々に遊ばせてあった。
「用件を聞こうか」
向かいのソファに腰を落ち着けたところで、カフスから切り出した。
「代表自らとはね。高く買われてるってことか?」
「そりゃあそうだ。どういう難癖つけられるか構えねえとよ。金になる話なら乗るが、寄越せって話なら乗れねえ」
「俺の評判は聞いてるだろう。ドラゴンキラー抱えてるからって、好き勝手やろうとは思ってねえ。いや、だからこそつつましくってわけさ。全く侘《わび》しい話だ」
「欲の無ねえ話だ。が、そんな愚痴を垂れにわざわざ来たってわけじゃあないよな」
「ああ、人を一人雇ってもらえないかって思ってな。俺の馴染みなんだが、この街に流れてきたばっかで往生してる」
そう言うと、ほんの短い間だったが沈黙があった。
「お前の所で使ってやればいいじゃねえか。依頼なんて山ほどあるだろ」
「そりゃ道理なんだがな。その人は昔の上官でな、なんつーのか、頭上がんねえんだ。今だって好き勝手やられちまって、いや、好き勝手やらせちまってんだな」
「ふぅん」
「ただ、あの人が我侭《わがまま》を言えるのは俺にだけだ。だからそこを切り離しちまえば」
「面倒が無くなると。その代わりうちに面倒が来るじゃねえか。冗談じゃねえな」
「使える人だよ。俺が保証する。後見にゃうちの事務所が立つ」
「それだけじゃ弱《よえ》えな」
「俺に貸しを作れるチャンスだ、と思っちゃくれないか?」
「ああ、そいつはいい」
「ま、後はそっちで判断してくれ。あちこちにこの話持ってったが、全部空振りでな、正直、あんまり期待もしてねえ」
明らかに疲れた風の俺を見て、カフスは、苦労してんだな、と苦笑した。
「ああ。まさかこのフレーズを使う機会が来るとは思ってもみなかったんだけどな、一言で言うとだ、お先真っ暗だ」
「返事はこの場で要るか?」
「遅くとも今晩までには欲しい。駄目なら明日また駆け回る必要があるんでな」
「分かった。損得考えて決めさせてもらう」
「期待せずに待ってるよ」
そう言って立ち上がると、
「丁度いい、店のほうで遊んでいけよ。良い女を見繕《みつくろ》ってやる。安心しろ、金を取ろうなんて思ってねえ。こいつは自慢だが、うちのサービスはこの街でも一等だ」
「そいつは最高の提案だ。が、女の肌より自分のベッドのほうが今はありがたい」
しみじみと言うと、カフスがまた苦笑した。
雇う、と返事があったのは、その日の晩のことだった。
中尉を送り出してから二週間経った日の午後。俺は実に久しぶりにラダーマン・カフェに顔を出していた。
レビンの一件で少しばかり暖かくなった懐には、程なく寒風が吹き込んできたものだが、その一件を商会幹部の要請でリリィが片付けたという噂は瞬く間に広がり、お陰で仕事の依頼件数は以前と同じくらいまで回復しつつあったから、酒と煙草を愉しむ余裕くらいはあった。
「あぁ、ココ。久しぶりぃ」
「何だ、元気そうじゃねえか」
店に入るなり、ウェイトレスのスプリングが笑顔を見せ、カフェの主であるラダーマンが、悪人面と評判の笑顔を見せた。もう一人のウェイトレス、ポニーの姿は無い。この店のシフトがどうなっているかは分からないが、店に居る店員は大抵二人だ。昔も今も、実質三人で回していて、アルマは人数に数えられてはいない。
「元気なんてあるわけ無ねえだろ。いつだって無えよ。全く貧乏様様だな。ああ、野菜絞ってくれ。塩も振ってな。何か食い物も一緒に」
言いつつカウンターに陣取り、早速煙草をくわえた。
「アルマの具合は?」
「さっぱりみたいだよ。もう三日目になるけど、ずっと痛がってるもんね」
煙と一緒に困惑を吐き出して、むぅ、と唸った。
アルマが流行っていると噂の病気を患って三日目だ。噂通り、熱は無いようだったが、とにかく痛みに悶絶《もんぜつ》している。二日前に医者を呼びつけたが、痛み止めを処方しただけで、後は回復を待つしかない、という話だった。
「待ってりゃ治るのか?」
「ああ治るとも」
そう答えたのは、四十過ぎの痩身の男で、顎鬚《あごひげ》と短く刈り込んだ白髪がトレードマークの医者だった。腕は悪くない。俺も何度か銃弾を抜いてもらったことがある。
「随分軽く言うじゃねえか」
「同じ症状の奴を何人診みたと思っとるんだ」
どこか腹を立てている風な響きが混じる返事で、意図を知ろうと片眉を上げて応じると、
「放っておけば治る。そうだな、五日かそこら見ていればいい。ただし、私がやれるのは痛み止めを出してやることだけだ。それ以外何も出来ん。ああ全く、腹立たしいことこの上ない。病気に馬鹿にされている気分だ」
「不治の病ってやつだってあるだろう」
「それはまた別の話だ。現在の技術では死病だと断じられているものも、いずれは治るようになる。百年先か二百年先かは知らんが、それを目標に研究をする者が居る限り、いつかはそうなる。だがこいつは違うじゃないか。治っとる者が何人も居る。かと思えば、ひょっこりと再発しよる」
「再発?」
「人間の体にゃ免疫って奴がある。風邪が治るのはその免疫が体の中で出来たからだ。つまり、厳密な意味で同じ風邪に罹《かか》る者はこの世には居《お》らん。別の風邪に罹っとるわけだな」
「よく分かんねえ」
「分からんでええ。こりゃ愚痴だ。ともかくだ、免疫が出来上がっているはずの体で、全く同じ病気が発症するってのは、こりゃお前、異常だ。しかも再発しても、やっぱりけろりと治りよる。馬鹿にされた、とはそういうことだ。ああ全く腹立たしくてならん」
「とにかく治るんだな?」
「ああ治るとも。五日だ。五日待て。それまで苦しいだろうが、我慢してもらうしかないわな」
「言質《げんち》を取ったぞ。治らなかったら探し出して殺すからな」
「じゃあ七日だ」
ふん、と鼻を鳴らして医者は帰っていった。
そして今が三日目、というわけである。医者の話が真実ならば、今日が折り返しだ。
アルマが具合を悪くしているせいか、リリィの機嫌はとにかく悪かった。マイナス方向に振り切れている感がある。ご機嫌取りに黒猫ピスを送り込んではみたが、効果の程は知れている。
「やっぱリリィに賛成しとくべきだったか」
と煙を吐きつつ言うと、スプリングが右隣に座った。
「やっぱり揉めたんだ。あ、店長、あたしラム飲みたい」
「またかよ。天引きしてんだぞ。給料全部飲んじまう気か?」
ラダーマンは難色を示した。
「だってぇ。せっかくココが来たんだよ」
「こないだは天気が良いからっつってたろ。何でもいいんじゃねえかよ」
やり合っていた二人はやがて揃って俺を見た。瞬時に意図を悟ってしまう自分が呪わしい。
「奢《おご》れって言ってんだな?」
「なぁココ。うちのウェイトレスは良い女だ、そうだろう? 立派ないちもつぶら下げてる男なら、そいつを見捨てるって考えは、思うだけで世の中に対する冒涜《ぼうとく》だ。出すもん出さねえってんなら、悪いこた言わねえ、とっとと去勢して切り落とせ」
「俺の財布の重さを教えてやりてえよ。何で重いか分かるか? 銅貨ばっかり入ってるからに決まってる。貧乏万歳って奴だ」
「ココぉ」
とスプリングが甘えた声を出し、上体を摺り寄せてきた。
「スプリング。前にも言ったはずだ。女は尻だってよ。胸なんかただの重りだ。んなもん捨てちまえ」
「そういやそうだっけ。じゃ、揉む?」
む、と固まった。そして固まった一瞬を見透かされ、スプリングが今度はもたれ掛かるような姿勢に変わった。
見透かされた時点で俺の負けだ。
「ラダーマン」
力なく言うと、毎度、と楽しそうな返事があって、ラムの瓶がスプリングの前に出される。
無論尻は揉んだ。柔らかかった。十二分に合格点だ。敏感な部分に触れてしまったか、スプリングが甘い声を出したが、俺は堂々と揉んだ。照れ隠しだ。尻を揉むより、見透かされたと感じることのほうが余程恥ずかしい。
しばらくスプリングの尻を愉しんでいると、野菜ジュースが出された。ジョッキに並々と注がれた深緑色の液体だ。味は最低。だが野菜は体に良いらしい。聞いた話だから詳しくは知らないが、ともかく体に良いならば摂るべきだ、という判断の下、薬だと思って飲んでいた。
尻からジョッキへと手を移し、スプリングと乾杯した。
一気に飲んだ。
「あぁ、不味いな。最低だ。小便飲んだほうがまだましだ」
「小便飲むと健康になれるって話があるぜ。試せよ。なんなら俺のを飲むか? ちったぁ真人間になれること請け合いだ」
「そいつは最高だ。じゃあまずあんたが飲まねえとな。ついでだ、俺のも一緒に飲めばさらに効果が出るだろうよ」
「抜かせ」
俺と言葉を交わしつつも手は止めていなかったラダーマンは、出来たぞ、とサンドイッチを出した。食わずとも分かる。絶対に不味い。ここまで来るとわざとそうしているとしか思えないが、ラダーマンは料理が特別に下手だ。たかが材料を挟むだけのサンドイッチでさえ不味く作る。一種の才能だろう。
野菜ジュースを追加で注文し、サンドイッチを詰め込む作業を始めたのと、リリィが店の奥から現れたのは同時だった。
「店長、何か食べるものを」
「アルマは放っておいていいのかい?」
「ポニーに頼んできた。店に出るまでの間は見てくれるそうだ」
へぇ、と応じつつ、
「スプリング。ポニーが降りてきたら交代で面倒見てやれ」
「はぁい」
リリィは俺の左隣に座ると、早速ため息を漏らした。
「具合はどうだ?」
「相変わらずだ。性質《たち》の悪い病だ。出来ることが何もない」
「そりゃ病気全部に言えるだろ」
「それはそうだが、看病の甲斐がない。何と言うのか、手ごたえが無いからだろうな。だから自分の無力が余計に嫌になる」
「今日入れて、後三日だ。我慢してもらうしかねえな」
眉間に皺を寄せ、リリィが再びため息を漏らした。肘をつき、手を顔の前で組むと、親指で眉間を撫でる。
「一つ、考えていたことがあるのだが」
「あん?」
「あの女ドラゴンキラーと会った時のことだ。痛みの話をしたろう」
それだけでリリィが何を言いたいか、十分に分かった。
その可能性を考慮しなかった自分を殺してやりたくなる。
「竜害か、こいつは」
「厳密には違う。何かを食われて痛がっているわけではない。痛みを与えられているわけだから、方向性が逆だ」
「面倒だ。竜害ってことにしちまえ。痛竜とでも言うのか? くそったれ。聞いたことがねえ。竜の種類はそれなりに頭に入ってると思ってたが」
「私も実物を目にするのは初めてだ。痛みを食う竜が居るらしいと話には聞いていたが、マルクトには居なかったからな、お陰で気づくのが遅れた」
「七十人ぐらい居るんだろ? 一人も居ないってのは無理がねえか?」
「同種の力を持っている者も多いからな、種類だけで言えば、四十程度になるか。その中に痛竜のドラゴンキラーというのは、まあ居なかったわけだ。かつては居たらしいが、それも五十年ほど前の話だからな。何より痛竜の発見例は、私の知る限りここ二十年は無い。だからこれは、彼女が痛竜のドラゴンキラーだと仮定した場合の話なのだ。筋は、恐らく通っていると思うのだが」
「説明にゃなってる。けど、こいつがドラゴンキラーの仕業だとしてだ。大元を絶てばすぐ回復って話になるのか?」
「難しいだろうな。すでに手を離れた力と見るべきだ。医者の見立て通り、あと三日過ぎねばアルマは回復するまい」
ふぅん、と相槌を打ち、不味いサンドイッチをさらに詰め込んだ。もぐもぐと口を動かしながら、
「お前、自分で出した火、自分で食えるよな?」
リリィははっとしたらしく、
「探す」
と言って立ち上がった。予想通りの反応だった。
俺はサンドイッチを野菜ジュースで流し込むと、煙草を咥《くわ》えて自分で火をつけた。
「仕事はどうするんだよ。俺に一件、お前に二件。約束は今日だ」
「上手く言っておいてくれ。私はあの女を探す」
「待て」
「何だ」
「仕事のほうが先だ。勝手したいって気持ちは分かるが、仕事を片付けた後で探せ」
「貴様、アルマが心配ではないのか」
「馬鹿かお前。アルマは身内だぞ。心配してねえとでも思ってんのか? それとこれとは別問題だっつってんだよ。身内に病人が居るから仕事をキャンセルしたいって、そんな理屈が通ると思ってんのか? それに確証も無ねえ。優先順位で言ったらまだ低いほうに分類しなくちゃだ」
「断る」
「黙れ。こいつは所長命令だ。確証が取れたらもちろんけじめはつけるさ。だから今は俺の言うことを聞け」
「しかし」
「いつまで粘る気だ? 言うことが聞けないってんなら、出て行けよ。そんでもう事務所にゃ顔出さなくていい。前にも言ったろ。俺は俺、お前はお前だ。意見が合わねえってのに一緒に居る必要がどこにある。分かりやすく言ってやるよリリィ。アルマと今の自分の立場、どっちが可愛いかって話さ。お前の中で重いほうを選べばいい」
リリィは表情を歪めたが、ややあって思い出したように、
「断る」
とまた繰り返した。
「私は今の立場も、アルマも捨てる気はさらさらない。面倒をどう処理するかを考えるのはお前の役目だ。分かるか? お前は私の我侭に付き合うのが仕事だ」
そう言ってにやりと笑った。
「お前な」
「それにロブにものを言うのに散々私に頼ったのはどこの誰だったかな? ん? 貸しの数は両手では数え切れないぞ」
リリィがにやにやと笑っている。何より重かったのは、リリィに借りがあるという事実だった。自分の立場の弱さを、これでもかと突きつけられる。
「くそったれ」
と絞り出すと、ふん、と勝ち誇ったリリィの嘲笑。
「私の勝ちだな。そういうわけだ、私は行く。先方には宜しく伝えておいてくれ。店長、アルマを頼む」
「アルマはうちにとっても身内だ」
「そうだったな」
リリィは何やらスプリングにアルマを扱う上での注意点を説明しはじめ、俺はそれを横目で見ながら、カウンターに伏せた。
「あっさり言い負かされたなぁ」
「煩《うるせ》えよ。とっととくたばれジジィ」
畜生。やるせない。
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男と女
自分が嫌になる。
街に出て、力を行使することが度々あったからだ。
正義がどういうものか、私はその言葉しか知らない。そして私がやっていることが正義だとは到底思えない。正義とはもっと善良な何かであると、強く思う。愛とか、良識とかいう言葉に還元されるべきものであると。
私が行使したのはただの暴力だ。
だがそれでも、他人を踏みにじって笑えるような連中を見ると虫唾《むしず》が走った。そしてその度に力を振るい、自分を殺したくなるほど憎んだ。
だが止められなかった。
暴力に取り付かれているのかもしれない。
自身が鬱屈しているのはよく分かる。逃れ得ない現実から、それでも逃げようとして、心にゆっくりと澱《おり》が溜まり続けている。何かしらのはけ口を求め、そしてそれを暴力で満たそうとしている。そのように感じる。
駄目だ。最低だ。だが止められない。
連中が苦しんでいる様を目にして、確かに喜悦を感じてしまっている。
誰か私を止めてくれ。
誰か私を救ってくれ。
誰か。誰か。誰か。
「んだよ、女居るじゃんよ、女」
誰かがそう言った。顔を上げると、男が立っていた。
「なんだぁ、ベッドも無ねえのかよ」
男はそう言った。右手には酒瓶、顔には無精髭。卑しさ以外の何物も発見できなかった。
「要らないから」
「ま、床でってのも悪かない」
「お酒臭い」
「そりゃ飲んでるからな。酔った男とじゃ嫌か?」
この男も他の連中と同類だと思った。だが、同時に思っていたのは彼女のことだった。隣に居たあの男のことだった。そして私が一人だということも自覚した。
だから。
「じゃあ、試してみる?」
と言って笑った。
男は楽しそうに歯を剥いた。
いつか見た狼のようだった。
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六章
翌日の昼過ぎ、俺は買出しに出ていた。天気は良好、気温、湿度とも申し分なし。
結局、あの女ドラゴンキラーは見つからず仕舞いだったようで、リリィは今日も街を駆けずり回っている。
昨日の仕事は、どちらも倒壊した建物の後片付けで、幸か不幸か、延期が利いた。が、相手もしたたかなもので、依頼料の割引を要求され、立場の弱さもあってかしっかり飲む羽目になった。
これまでリリィが担当してきた仕事は、大抵が時間と人数を必要とするような土木工事が多かった。たまに竜を狩ってくれという仕事も入るが、最近はバスラントに竜が出たという話はあまりないらしく、これまでに僅《わず》か二件。
正直、物足りなくはある。
竜は最強の害獣であり、だからこそその首につけられる値は相当なものになるからだ。しかも、その竜の肉はドラゴンキラーを生み出す触媒にして、即効性のある猛毒。つまりは、それを欲している一部の人間に高値で売れるわけで、だからこそ竜を狩れという仕事には馬鹿みたいな報酬が期待出来る。
のだが。
最近はご無沙汰《ぶさた》だ。いっそ竜の大量発生、みたいな事態にならないだろうか。そうすれば即座に金持ちになれる。
そんなことを考えつつ、弾薬、日用品の買い入れやら、馴染みのガンスミスを訪ねたりして雑
用をこなした。夜から仕事が一件入っていたから、カフェで軽く一杯引っ掛けることが出来そうだ、と思っていた帰り道。
俺は中尉と再会した。しかも、余計なおまけがくっ付いていた。
「よぉオルグレン。久しぶり。つっても、二週間くらいか?」
「十五日になります、中尉殿」
俺は中尉の隣に立つ人物を眺めながら、そう返した。
女だった。が、ただの女ではない。以前に出くわしたドラゴンキラー。リリィが探し回っている、痛竜のドラゴンキラーと思われる女だった。
「気になるか?」
「知った顔なもので」
「へぇ、そうなのか?」
と女に向かって言う。
「前に会ったから。ドラゴンキラーを連れてる人でしょう?」
「そうそう。知り合いだったか。まあ狭い街だしなあ」
中尉の言葉を聞き流しつつ、俺は右手に抱えた紙袋を手放したくてたまらなくなった。
理由は分からない。ただ、自分がひどく緊張していることだけは分かった。
銃を。銃のグリップを握りたい。
が、一方で思考がめまぐるしく回転を始めてもいた。
中尉を紹介したのはカフス・ブライダルだ。目の前の二人の接点は、そこにしかない。街で偶然出会って意気投合、というのも考えられないこともないが、それよりは、ブライダルで知り合った、と考えるほうが妥当。
であれば。この女ドラゴンキラーを手にしているのはカフス・ブライダル。
「おっと、悪《わり》ぃ。今日はお前を誘いに来たんだった」
「誘い、でありますか」
「変な喋り方」
「ああ、こいつは昔俺の部下でな。二人とも軍人だったんだ」
「兵隊さん」
「厳密にゃ下士官さんだ。俺は将校さん。分かるか? 分かんねえか。ま、そんなもんだろうな」
「中尉殿」
「っと、悪ぃ悪ぃ。オルグレン。俺はこの街を手に入れるぞ」
「は?」
「こいつが居れば、まあやれるだろう。それでだ。お前を誘いに来た。どうだ、一緒にやらねえか?」
「リリィが狙いで」
「まさか。いや、そりゃちっとは期待してるさ。が、俺はお前を誘ってる。お前の仕事振りなら俺を満足させてくれるだろ? そういうことさ。元は下士官で、何が出来て何が出来ないのかよっく知ってる。街に居るのは置き物のほうがまだマシな連中ばっかだがな、お前は別だ、オルグレン」
俺は何も言わず、中尉の言葉をじっと待った。
「ま、本音を言えばだ。お前を教育してやろうと思ってな。ドラゴンキラーの正しい使い方って奴を、俺の傍で見せてやる」
「無謀です、中尉殿」
「無謀? 何が無謀だってんだ。俺にはこいつが、アイロンが居る。アイロンはドラゴンキラーだ。誰に負けるってんだ、ああ? それとも手前は俺と敵対しようって腹なのか? 違うよなぁ、オルグレン」
「そういうわけでは」
「なら一緒に来るか? ま、無理|強《じ》いはしねえさ。無理矢理働かせても良い仕事ってのは出来やしねえからな」
「一つ、質問を宜しいでしょうか」
うん、と中尉は眉をひそめ、やがて薄ら笑いを浮かべると、
「許可する」
「そちらは痛竜のドラゴンキラーで? 街に流行っている病気の原因は、彼女ではないか、と自分は思っておりますが」
「正解だ。やるなオルグレン。でも、内緒だぜ? こいつの力が肝だからな。ま、いずればれるだろうが、しばらくは黙っとけ」
「その力というのは、特定の個人を狙うことが可能なのでしょうか」
あん、と中尉は漏らしたため、さらに言葉を重ねる。
「自分の身内が、彼女の力の被害に遭いました。もしこれが意図的に植えつけられたものであるなら、中尉殿、自分は便利屋としての筋を通さねばなりません」
剣呑なものを感じ取ったか、中尉は目を細め、
「アイロン?」
「ごめんなさい。最近は無作為にばら撒いたものだから、もしかしたらその人は巻添えになったのかもしれない。ここ二週間の間、その人は外出したのかしら」
「した、と思う」
アルマの仕事には簡単なお使いも含まれていた。ちょくちょく外に出されているらしい。こんな街に子供一人で歩かせるということは、襲って下さいと宣伝しているようなものだが、アルマに限っては例外だった。
まずリリィが黙っていない。次いでラダーマンもそうだ。そして俺の事務所と友好関係にある商会もそうだ。アルマの安全を保証するという条件で、うちの事務所は商会からの依頼を割引で請け負うことになっている。つまり、アルマに手を出せる人間はこの街には皆無だと言っていい。出せば漏れなく死が、それも飛び切り無惨な死が待っている。
そのため、ラダーマンにお使いを命じられている。大抵はウェイトレスのどちらかと一緒らしいが、最近では一人で出歩くという話も聞いていた。その度にリリィに危険だと説教を貰っている。
「だったら、私にはその可能性しか思いつかない。建物丸ごと、みたいに、大きな範囲でしかやってないから」
「であれば、治療していただけないでしょうか」
「ただで、か?」
紙袋を握る手に力がこもった。
何かしらの激しい感情が頭の中を駈けずり回り、やがてそれは強烈な頭痛を呼んだ。
気絶しそうになった。瞼の裏に、虐殺の現場がありありと蘇る。
と、次の瞬間、アイロンが俺の目の前に移動していた。
「痛そうね」
「え?」
すぅ、と手を伸ばす。指先が俺の額に触れる。かと思えば。
痛みが嘘みたいに消えていった。安堵と共に確信する。間違いない。痛竜のドラゴンキラー。俺の痛みを、こいつに食われたのだ。「ついでにうちの身内も助けてくれるか?」
アイロンはゆっくりと振り返り、中尉に判断を委ねた。
「一緒に来るってんなら考えてやるよ」
表情を殺したつもりだったが、どこまで実現できたか怪しい。食われたばかりの痛みがまたぶり返し、ぐるぐると渦を巻いた。
即答が。
即答が出来ない。
アルマのことは無論大事だ。たいして長いこと一緒に居るわけではないが、それでも情らしきものは芽生えている。だが自分より大事かと言えば、そんなことはなかった。この世で一番強力な愛情は自己愛だと思っている口だ。俺は俺のことがたまらなく好きで好きで仕方ない。
いや待て。問題はそんなところにあるのか。中尉は敵ではない。やろうとしていることにはいまいち賛成出来ないものの、それでも同行するのは不思議なことではないはずだ。首を縦に振りさえすれば、アルマも助かる。
なのに何だ。この嫌な感じは。
体が拒否するとはこういうことかもしれない。どうしても、一歩が踏み出せなかった。
俺の様子を見て、迷っているらしいと判断したのか、
「ま、決めたら会いに来い。どこに居るかは自分で探せ。アイロン」
女ドラゴンキラーの名前が辺りに響いた瞬間、二人の姿は掻き消えていた。
俺はふらふらと道端まで歩き、手近にあったガス灯に背を預けて座り込んだ。
頭が痛い。
畜生。どうしたらいい。判断がつかない。
中尉。アイロン。リリィ。アルマ。
俺に近しい連中の顔が次々と浮かんでは消えていく。
深呼吸を繰り返し、混乱し、絡まりきった思考をほぐしていく。
順々に行こう。
中尉の戦力はドラゴンキラー。その力を以てすれば、街を手に入れることは、恐らくは可能だろう。リリィが陣営に加われば、さらに磐石《ばんじゃく》。負けはない。戦わずして勝つことも現実味を帯びる。
だが、それが面白い話かと言えば、そうでもない。それが、それこそが気に食わない。
誰かの意思に支配された街など、住みにくくて仕方ない。無法の街は無法の街のまま、恐らくは変わらない。ただ、無法を統《す》べる者が居るという状況を無法と呼べるのか。
かといって中尉と敵対するかといえば、それもまた難しい。恐らくは情と呼んでよい感情が、それをさせない。
くそったれ。くそったれ。くそったれ。
どうしたらいい。
頭痛でどうしようもない頭を無理矢理持ち上げ、踏み出すごとに腰が砕けそうになりながらも、俺は歩き始めた。
どうすべきか分からなかったから、とりあえず歩いた。それしか出来なかった。
事務所に戻ると、いつもは俺の定位置であるソファに、リリィが浅く座り、手を顔の前で組んでいた。
「戻ったか」
ああ、と生返事を返しつつ、買い求めた荷物の中から弾薬だけを取り出し、そのまま寝室に放り込んだ。
リリィの向かいに腰を下ろすと、
「見つからない」
と呟いた。そうか、と相槌を打ちながら煙草を取り出す。リリィが手を伸ばしかけたが、手を挙げて遠慮した。火をつけて煙を吐き出す。くわえ煙草のまま天井を向いた。
「アルマはどうしてる?」
「相変わらずだ。が、自分のことはいいから、仕事を優先しろと言われた」
「健気《けなげ》なもんだ。で、どうすんだ? 仕事するのか、それともまだ探すのか。どっちだ?」
「当然探す。アルマが苦しんでいるというのに、何もしないとあっては、私は私を許せない」
「気持ちは分かる。手前《てめぇ》を許せるのは手前《てめぇ》だけだからな。が、いい加減にしてくれるとありがたいんだがな」
答えつつ、上体を起こすと、ひゅ、と音がした。
何かと思えばリリィが上体を乗り出していた。テーブルに左手を突いて体を支えている。右手は、俺の顎の下にあった。
「何だ?」
「灰が落ちた」
そう言って手を開いた。確かに、煙草の灰が手の中にあった。リリィはそれを灰皿に捨てながら、
「何かあったか?」
と言った。
「何って。何だよ」
「お前、どこまで私を見くびっているのだ。前にも言ったろう。人並みに察するくらい、私にも出来るのだ。さあ言え。何があった」「何でもねえよ」
自分が思っていたよりずっと低い響きが漏れた。軽口を継いで誤魔化すか、と思っていると、リリィは黙って俺を見ていた。
「どうしたよ。何も言わねえのか?」
「気を使っているのだ。自分というのも大切だからな」
と、物凄く不満そうな口ぶりで言い切った。
思わず苦笑が漏れた。
「笑うな。全く。何なのだお前は」
「お前は分かりやすいな」
「お前だって分かりやすい」
「そうか?」
「そうだとも。口が悪くて馬鹿で臆病。そのくせ病気が出ると自棄《やけ》になる。銃の腕は上の中、平気で人を殺す。まあ、一言で言えばだ、小悪党なのだろうな。物語などでは大抵死ぬ役割を振られる小物の中の小物だ。高望みして火傷するタイプだな」
思わず固まった。特別なことを言われているわけではない。俺のありのままを、くどくどと説明されているだけだ。
だというのに、妙に心地良かった。
ざわざわとしたものが背中から広がり、やがて首、頭、手足と順に拡散し、肌を粟立《あわだ》たせていく。
歓喜。
歓喜だ。間違いない。
くつくつと笑った。肩が震えた。やがてそれだけでは足りなくなって。
最後には腹を抱えて笑った。
「はは、ははははは、ははははははははっ!」
「お、おい、大丈夫か?」
「正解だ。全く正解だ。気味悪いくらいに間違ってねえ。そうだな、そうだよ。俺は小悪党だ。他人のことなんざ知ったことか。俺は俺のために生きてんだ。くそったれの酒浸り中尉め。俺を惑わせやがって。とっととくたばれってんだ」
そう言ってまた笑った。
「ココ?」
「あの中尉がな、街を手に入れるそうだ。組織にケンカでも売るんだろう。ドラゴンキラーも一緒だ」
「お前、会ったのか?」
「ああ会った。けど俺には関係ねえ。関係ねえってことを思い出した。俺は便利屋で、名前はココだ。違うか?」
「違わない。違わないが、お前、本当に大丈夫か?」
「お前のことをちょっとだけ良い女だって思ったよリリィ。助かった」
笑いながら言うと、リリィは顔を真っ赤にして。
照れた。
「探さないだと? どういうことだ」
「どうもこうもあるか。関係ねえから放っておくだけだ。暴れたい奴は好きにさせりゃいい」
「アルマはどうするのだ」
「あと二日か。治るんだろ。放っておけ」
リリィは盛大にため息をつき、顔を押さえた。
「何がお前を吹っ切れさせたのか自分でもよく分かっていないのだがな、ああ全く、とても後悔しているよ。何だお前は。逆方向に吹っ切れてどうする」
「逆? 逆だと? 違うぜリリィ。盛大に間違ってる。俺は元に戻ったんだ。自分で言った言葉をすっかり忘れてたよ。出来上がった人間がそう簡単に変わるもんじゃねえってな。俺は小悪党だ。そう望んだ。お前がそう言った。俺もそうだと思う。最高だ。何の問題もねえ」
「ありありだ。アルマが苦しんでいる」
「そりゃあ心苦しいさ。ああ、とても苦しいね」
薄笑いを浮かべて言うと、リリィは露骨に嫌な顔をした。
「中尉に頭を下げて見せて、アルマの治療をさせた後で袂《たもと》を分かてばよいのではないか?」
「へぇ、考えるじゃねえか」
「慣れた」
「けど駄目だ。却下」
「何故だ」
「何故? 決まってる。金のためさ。街にドラゴンキラーが入った。そいつに首輪をつけて猛獣使いを気取ってるのは、欲ボケしたアル中だ。こいつを使わない手はねえ。とりあえず放っておく。そうすりゃ嫌でも騒ぎになる。とすれば、どうなる?」
「彼らを快く思わないものがここに来る、か」
「正解だ。ドラゴンキラーを殺《や》れるのはドラゴンキラーだけだ。つまりだ。今するべきはアホ面ぶら下げて事態をじっと眺めるこったよ。連中は馬鹿みたいに跳ね回る。そうすりゃ事態は悪化する。そうだな、いっそ落ちるところまで落ちたほうがいい。そうすりゃ救いを求める哀れな羊たちは、竜の力を宿したリリィ様に大量のお布施《ふせ》を嫌でもしてくれるって寸法だ」
「酷い話だ」
「お前が身を寄せてるのはそういう男だってことさ。嫌なら出てけよ。もちろん、この騒動が終わった後でな。取り分は俺が四、お前とアルマで六だ」
リリィはわざとらしくため息をつき、
「お前らしい、のだろうな。全く。失敗した」
と嘆いた。
「そういうわけでだ。今、俺たちとアル中の接触が話題に上るのは拙《まず》い。裏で繋がってるんじゃねえかって思われてみろ。依頼するより逃げ出すほうを選ぶ奴が続出するに決まってる」
「連中を太らせるだけ太らせて、颯爽《さっそう》と解決するわけか」
「まさにそういうことだ」
「そう上手く行くのか?」
「俺が知るかよ。けど、やれるとこまではやる。ぎりぎりまでやって、駄目だったら尻《けつ》まくって逃げりゃいい」
「なんと言うかかんと言うか。お前、最悪だな。救いようがないにも程がある」
思わず口をついて出そうになった言葉を、俺は獣染みた笑顔で誤魔化した。リリィの言葉を褒め言葉と受け取っている、そう見えるような笑顔を作ったつもりだった。
お前のお陰で救われたんだろう?
そう言おうとしていた。口にしたら死んだほうがましだと思えるほど恥ずかしくなるに違いない。危ないところだった。
ああ楽しくなってきた。アル中がどこまで跳ね回ってくれるかと、心が躍っている。
小金持ちになれるチャンスがやって来た。中尉様様だ。
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男と女
自身の弱さに苛立ちは募ってばかりだった。
ドラゴンキラーはとてつもない力を持った怪物なのだと、子供の頃から教えられて育った。そして力を持つことに付きまとうのは責任なのだと続いた。
つまりは正しくあれ、優しくあれという普遍的で道徳的な教えを、ドラゴンキラーという怪物を喩《たと》えに持ち出しただけのこと。神話やら歴史上の偉人を例に引くのと何ら変わらない。
ドラゴンキラーという響きはそれほどに縁遠かった。
幼かった頃、ドラゴンキラーというのはきっと超越した精神の持ち主なのだと、そんな風に思った。巨大な力に見合うだけの、神に等しい超然とした心。
今の自身を見れば、所詮は子供の空想だったかと笑いがこみ上げてくる。
女の形をした人でなしの私は、それでも女という檻《おり》からは逃れられず、寄る辺を求めて男にもたれている。
子など望めないというのに。
寂しさを紛らわせようとしているだけの愚図、と自分に対して悪罵《あくば》を投げようと、気が付けばロブを探している。
呪わしいほどの弱さ。子供の頃に空想した超越者の精神とは程遠い。
「どうかしたか?」
「私は何だと思う?」
「ドラゴンキラーだ」
苦笑がこぼれた。
「ああ、そういう答えが欲しいんじゃねえんだな。そうだな、分かんねえな」
苦笑は続いた。
「ただ覚えとけ。俺はお前を裏切らない。たとえお前がどこの誰で何者だろうと」
「私がドラゴンキラーだから?」
ロブはどことなく自慢げな笑みを浮かべそして。
「お前がアイロンだからだ」
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七章
カフェに足を運ぶと、ラダーマンがいきなりカウンターに乗り出さんばかりの勢いで、
「聞いたかよココ。えらいことになってるぜ」
「ドラゴンキラーだろ?」
「んだよ、知ってやがったのか。ああそうさ。何とか言う奴が、ドラゴンキラーを引き連れて跳ね回ってやがる。小せえ組織は生き残りに必死って奴さ」
「ロブ。ロブ・アレンビーだ。ドラゴンキラーのほうはアイロン」
「耳が良いな。掃除でもしたか?」
「顔見知りなんだよ。ドラゴンキラーって奴とよくよく縁があるらしい。ふざけた話だ」
「お前んとこにゃ話は持ち込まれてねえのか?」
「じきに来るだろ。好きに遊んでる馬鹿を始末しろって、大金抱えてやって来る」
「だろうな。でだ、ココ。ものは相談なんだがよ、リリィを俺に貸す気はねえか? 何、この騒動の間だけでいい」
大金の匂いを敏感に察したらしいラダーマンは、挑戦的な笑顔を浮かべていた。
「代わりに何出すってんだ?」
「ポニーとスプリングを一晩貸してやる」
「馬鹿言え。女|口説《くど》くのに雇い主に筋通す必要がどこにある」
「へぇ、じゃあ俺がリリィを口説けたら、それでいいってわけだ」
む、と短く呟いたが、
「男の舌は一枚のほうが締まって見えるってなもんだ。今更取り消しは利かねえぞ」
「好きにしろよ」
やられた。
どうやらリリィに対する直接交渉権を取り付ける気だったらしい。
野菜ジュースを注文し、煙草をくわえたところで、当のリリィがのそりと姿を現した。
「よぉよく来たな。調子はどうだい?」
「良く見えるのか? だとすれば店長、その目は取替え時のようだ。幸い最近は死体には事欠かない。そいつらと自分の目を取り替えてはどうだ? もしかしたら今よりよく見えるようになるかもしれない。客商売をしているのだ、そのほうがよか
ろう。何なら私が抉《えぐ》ってやろうか?」
と、リリィの切り返しはえげつなかった。
実際、機嫌が悪い。
ドラゴンキラー・アイロンを探すことを、俺に禁じられているせいらしい。ストレスが溜まっている。
「おいココ」
「俺が知るかよ」
ラダーマンは苦々しい表情だったが、それでもめげずに、
「実はな、この騒動の間、あんたの力を借りたいと思ってんだよ。取り分は半々でどうだい?」
リリィはカウンターに座りつつ、
「交渉ごとは万事ココの仕事だ。私を口説いても無意味だぞ。ああ、何か食べる物を大量に。払いはココが持つ」
「おい」
「自棄《やけ》食いだ。見逃せ。まさか駄目だと言うつもりはないだろうな?」
「言うに決まってんだろ。馬鹿かお前。手前の財布から出せ。無いなら火を食え。そっちのほうが安上がりだ」
「金の入る当てがあるのだ。ちょっとくらいの散財は」
「阿呆抜かせ。ああ全く、将来金持ちになれるかもって期待するのはタダだ。だから誰だって期待の一つや二つは抱えてる。けどな、幸せなことだけ考えてたら出来上がるのは能無しの馬鹿だけだ。ぴょんぴょん飛び回ってばっかりのお前に、素敵な言葉をくれてやる。地に足をつけてみろ。そうすりゃ今の財布の中身と相談するのは当然だって嫌でも分かるだろうよ」
リリィはそれを受けて不機嫌な顔のまま苦笑した。
「何だよ」
「すっかり元通りだと思ってな。余計なことをしたものだと自分を呪っている」
「好きなだけ呪え。ラダーマン、飯は一人前で十分だ」
「俺の話はもう終わりか?」
「女々しいぜ。振られたじゃねえか。すっぱり諦《あきら》めろ」
ちっ、と舌打ちが聞こえた。内心ほっとしていたが、程なくその安堵は別のものに取って代わられた。
「ココさん?」
と男の声で呼ばれた。
振り返ると、黒いスーツを着込み、かぶっていたらしい丸帽を胸に当てつつ、男が商売用と思える笑みを浮かべていた。
知らない顔だ。いかにも商売人といった風体だが、この辺りよりも表通りで株の心配をしているほうが似合っている。黒縁の大きな眼鏡に、口元には髭をたくわえた男だった。体型は、横に長い。
「どちらさんで?」
「ジョージと申します。仕事は、ええ、代書屋付きの運び屋を」
「書類を持ってきたってわけかい?」
「はい。正確にはお手紙のようですが。中身は存じません。送り主の名前も。職業上の倫理とでも申しましょうか。悪しからず」
「読めば分かるってんだろ?」
「お答えできかねます。何せ存じませんので」
「徹底してるな」
「お届けして受け取りのサインを貰う。それだけが取り得ですので」
どうにもぬるぬるとした男だったが、眼鏡の奥に見える目を見たときに、むしろ安心してしまった。冷たい目だったからだ。自分のルールに拘る男なのだと、そう思えた。
「受け取るよ。サインをすりゃいいんだな?」
俺が答えると、ジョージは手紙と一緒に受領書と書かれたものを取り出し、一部空欄になっている箇所を指しつつ、内ポケットからペンと朱肉を取り出した。
「見栄張っても仕方ないんだが、字は書ける。でも、面倒だからこっちで」
と俺は朱肉に親指を押し付け、受け取りのサインとした。
「結構です。では、私はこれで」
「ご苦労さん」
ジョージは丸帽を被ると、一礼して出て行った。椅子に座ったまま見送った後、俺は早速手紙の封を切った。
文面に目を通すなり、笑いがこみ上げてくる。
「は、はは。食いついたぞリリィ。中尉様様って奴だな。大仕事になる」
リリィはため息をつき、ラダーマンは面白くなさそうにスープとパンをリリィの前に置いた。
手紙はカフス・ブライダルからのものだった。
ブライダルの事務所をリリィと連れ立って訪ねると、以前と同じ芋顔が案内を務めた。芋顔は頭に包帯を巻いていて、女とケンカでもしたかい、と尋ねると、
「あんたが連れてきた酔っ払いにやられたんだよ」
と実に恨みがましい視線で返された。鼻で笑ってやった。
「そいつはご愁傷様。が、俺に言うのは筋違い」
「後見人だろ。だったら筋は通ってる」
「忘れたな、そんなこと」
芋顔は目を丸くし、リリィはため息をついた。結局それ以上の会話は無く、俺たちは応接室へと足を踏み入れた。
応接室では、明らかにやつれた様子のカフスが、それでもソファに大きく座り、正面を真っ直ぐに見据えていた。
「よぉ大将。お疲れの様子だな。今日は女の横でとっとと寝ちまうのが吉だ」
「下らねえ話で時間を潰すのは勿体ねえ。座ってくれるか?」
苦笑しつつ向かいに座った。リリィはいつものように、俺の後ろに控えている。と、芋顔がカフスに何やら耳打ちし、それを聞きながら、横目で俺を見て、表情を険しいものへと変えた。
何を考えているのか手に取るように分かる。
要するに、中尉の一件を俺に始末させようとしているわけだ。それも、後見人に立っているから、という理由で。しかも、ここが大事だが、ただで。
普通ならば受ける。受けねば義理を欠く。
が、大金を手にするチャンスをふいにするような真似は論外だ。義理を欠こうとも、大金を取るべきだった。だからこそ、芋顔に対してさっきみたいな態度を取って見せた。
「何の話かは分かってるんだろうな?」
「おおよそは」
「お前が連れてきたアル中。随分好きに遊んでるみたいじゃねえか。しかもなんだ、どっから手に入れたのか、ドラゴンキラーまで連れてよ」
「おやおやぁ? ちょっとばかし違った話が聞こえるなぁ? アイロンはあんたんとこにいたはずだぜ。あの酔っ払いとアイロンの接点はここにしか無いからな」
「知らねえな。何の話だ?」
つまり、中尉とアイロンの二人共ブライダルとは一切無関係だ、という話にしたいらしい。
「ま、そういう話ならそれでも構わねえけどな。手っ取り早く行こう。幾ら出す?」
来たか、とカフスの顔が言っていた。ここが勝負所だ。
「おいおいココ。あのアル中は手前が連れて来たんだろ? お前の事務所が後見に立つって話だった。確かにそういう話になってた。だったらよ、お前の責任であのアル中を捻《ひね》るのが当然ってわけだ」
「ああ、あの時眠かったから。疲れてたし」
カフスは目を細め、俺は下卑《げび》た笑顔を浮かべた。
「義理を違《たが》えると、生き難《にく》くなるんじゃねえかなぁココ?」
「悪いが死に損ないだ。金にしか執着しねえ半端者だよ。義理? 情? 分かりやすく行こうぜカフス。そんなもん糞喰らえだ。仕事させたきゃ金出しな。そうすりゃ金の分はきっちり働いてやる」
「損して得取れって奴さ。金より名前だ。そうすりゃ金なんて後から幾らでも入る」
「目と頭が悪くてね。先のことまで見通せねえよ」
気まずい雰囲気が確実に醸造されつつあった。お陰で、沈黙が降りてくる。
カフスは胸の辺りに組んだ手に力を入れては抜く作業をせわしなく繰り返し、俺はゆっくりと煙草を取り出し、リリィに火を貰った。部屋に居た何人かが、リリィの指先にともされた炎に目を丸くする。煙を細く吐きながら、
「一銭も出せないってんなら仕方ない。他のドラゴンキラーにでも頼めよ。そんなものがどこに居るのか知らねえが、何、あんたは組織のトップだ。俺が知らないことでもあんたなら知ってる。そうだろう?」
それでもカフスは悩んでいた。
長い長い沈黙。気まずい沈黙。
が、ブライダルが最も多く金を吐き出すだろうという、ほぼ確信に近いものがあったから、逃すつもりはなかった。
ブライダルが最も恐れる事態は、中尉とアイロンがブライダルの関係者だと知れることだ。そうなってしまえば、二人の被害にあった連中はブライダルへと怒りの矛先《ほこさき》を向けかねない。しかもそれだけでは終わらない。ドラゴンキラーを手に入れていたという事実は、他の組織にとって重くのしかかるはずだ。ブライダルに企みがあった。それだけで難癖の理由としては十分過ぎるだろう。今現在、街の実質的な支配者である商会は、恐らくは過敏に反応してくれるはずだ。
だからカフスはそうなることを恐れている。最強の矛として機能してくれるはずだったドラゴンキラーが、どこで間違ったものか酔っ払いにくっ付いて行ってしまって、手元に無い。
哀れだとは思う。が、飼い犬に首輪を付けられなかった馬鹿、とも言える。
俺の場合はと言えば、常々言っている通り、嫌になれば出て行ってもらって構わないと思っていたから、身軽なものだ。心底そう思う。俺は俺、リリィはリリィだ。俺自身が好きに生きている以上、誰かを無理矢理に巻き込んで生きるのは御免だった。だから好きにしろ、と選ばせる。
長い沈黙の末、カフスは、
「三百枚。もちろん金貨で」
と口にした。俺は心の中で苦笑しつつも、考えている振りをし、
「二千枚。もちろん金貨で」
と返した。カフスが目を丸くする。
「出せないんなら構わないぜ。他の組織からも幾らか声はかかってるんでな。一番出してくれるところと契約するよ」
「せ、千枚」
「千八百」
カフスの顔がどんどん険しくなる。なかなかの見物だったが、表情には出さないよう努めた。
「くそったれ。ああ大損だよくそめ。あのアル中がっ!」
と頭を力任せにがりがりと掻き、
「千五百だ! これ以上は出さねえぞ!」
と喚くように言い切った。俺は薄く笑い、
「決まりだ。が、色々用意もしたいんでな、前金で半分出せるならって条件を付けさせてもらう。大仕事なんでね、あんたが逃げないように」
「そりゃこっちの台詞だろうが」
打ち合わせの末、結局カフスは前金を用意した。
金は革張りのケースに用意され、中身を確認すると、二つの革袋にそれぞれ金貨がみっしりと詰まっていた。
「結構だ。じゃ、精々成功を祈っててくれ」
ケースをリリィに渡しながら立ち上がると、
「ああ、一個条件を付けたいんだがな?」
「何だ?」
「あの酔っ払いとドラゴンキラーな。出来るなら生きて連れ戻せ。それくらいの金は払ってるつもりだ」
「ドラゴンキラーのほうは分かる話だが、アル中のほうもか?」
「決まってる。俺の手で殺すためだ」
「それもそうか。ま、期待に沿えるよう最大限やらせてもらうよ。後は俺たちの能力と運次第。どっちも足りてりゃ上手く行く。足りなかったら、死体になるってね」
「逃げたら探し出して殺してやる」
「ああ、それは俺もよく口にする」
そう言葉を残し、俺たちはブライダルを後にした。
方針を練ろうと一旦カフェに身を寄せてみると、リリィはアルマの様子を見に行くと言ったっきりなかなか戻って来ず、スプリングとポニーの二人のウェイトレスの姿も無い。
どうにもつまらない話だったが、俺はラダーマンとの会話で間をもたせるしかなく、しかもその話題が最低だった。先ほどから分け前を寄越せと難癖ばかりつけてくる。
「分け前寄越せよココ。日頃から色々と世話してやってるだろう? いやいや、世話どころじゃねえ。こりゃ恩があるって言うべきだ」
「年寄りが金、金言ってると惨めに見えるぜ。あんたも気をつけろ」
「俺のどこが年寄りだってんだ」
「四十超えてんだろ? 年寄りじゃねえか」
「馬鹿言え。俺ぁ生涯成長期だ。いつ何時だろうがそりゃもう天を衝く勢いで伸び盛りってなもんだ。ま、実際下のほうにも衰えはねえ。こりゃもうお前、一生現役だろ」
「そのうち立たなくなるだろ。年食うってなそういうこった」
「百まで女抱くのが俺の夢さ」
その言葉に、中年太りした男が若い女の体にむしゃぶりつく様子を想像し、
「悪いこた言わねえから、女を楽しむのは五十までにしとけ。後は誰にも迷惑掛けねえように、全部頭の中だけで済ませろよ。そのほうが世界平和のためだ」
「馬鹿だなココ。馬鹿だ馬鹿だとは思ってたがそこまで馬鹿だとは思わなかった。男にとって世の中ってのは金と女と酒だ。どれが欠けても人生つまんねえよ。逆に言やあ、それさえあればこともなしって奴さ」
「そこに銃と血と煙草を足しといてくれ」
ラダーマンは呆れた様子だった。
「荒事ってのはただの手段なんだぜ。お前はたまにそいつが目的になっちまうところがあるからな、長生きしたけりゃ気をつけろ」
「別に長生きに興味はねえよ」
「そいつは大損だな。人生は長いんだぜ。楽しめるだけ楽しまなくてどうする。あれか、年食って体が動かなくなるのが惨めだから旬のうちに死にてえって理屈か。俺に言わせりゃクソ舐めた理屈だ。百まで体動かすんだよ。そうすりゃ何もかんも長いこと楽しめるじゃねえか」
「世の中の大半はそうじゃねえだろ。ま、実際、そんな先のことは想像出来ないってのと、銃を握ってる以上は、どっかで撃たれて死ぬって思ってるからだよ。長生きする前にどっかでしくじって殺されるのさ。全く似つかわしい死に方だ」
「はっ、そいつは格好つけてるだけだ。負け犬の戯言《たわごと》だ」
「言ってろよ」
「言うさ。こいつは俺が人生で得た教訓って奴だからな。さていいこと聞いたろ? 金貨の百や二百、渡してもばちは当たらねえよ」
下らない馬鹿話で時間を使いながらも、さてどうしたものだろうと頭を捻っていた。
まずは情報からだ。パーマーに依頼すれば確度の高い情報が手に入るだろう。
問題は、敵と定めた二人の動きだ。俺がブライダルから依頼を請けたことを知っているのはラダーマンとブライダルの関係者だけだ。まさかそこから漏れるとは思えないが、どこに耳があるか知れたものではない。
漏れているという最悪の状況を想定した場合、二人はどう出るだろう。
俺だったら、攻める。先手必勝だ。最大戦力であるドラゴンキラーを真っ先に投入し、リリィの首を取る。その時点で勝敗は決定する。が、中尉から誘いを受けた時のことを考えれば、相互不干渉、という立場はまだ生きているはずだ。
であれば、中尉に付くと見せての不意打ちは相当に有効。リリィと連れ立ってのこのこと訪問し、その足でアイロンを仕留める。
それが一番有効かな、と野菜ジュースを飲みながら考えを絞っていると、店の奥からリリィとポニーの二人が姿を見せた。
「よぉココ。久しぶりじゃねえか」
ポニーはそう言って艶《つや》のある笑顔を見せた。黒髪を無造作に伸ばしたセックスアピールの塊だ。メリハリの利いた体と、化粧によって素材をさらに際立たせた美顔。欲情しない男は居ないとさえ思える凶悪な存在だった。男言葉なのが玉にきずだが、そんなものをものともしないだけの色気を発散している。
「アルマはスプリングが見てるのか?」
「ああ。医者の話が本当なら、明後日にゃ痛みは引くんだろうけどよ。かわいそうなもんだよ、全く」
「アルマは芯《しん》が強いからな。自分のことはいいから仕事しろとか言いそうだ」
「そうそう。またそれがじんと来るんだよ。小せえってのに、大したもんだ。うん。あれだな、近寄ってくる変態はあたしが三センチ角の細切れにして豚に食わせよう」
頼もしいな、と笑顔で返すと、ポニーはカウンターに入り、一方のリリィは俺の右隣に座った。
「で、どうするか決めたのか?」
「不意打ちだな。奇襲っつってもいいか。とにかく、一旦あのアル中に擦《す》り寄って、機会を見てから女ドラゴンキラーを仕留める」
「卑怯だな」
「当然の判断だろ。勝ちゃいいんだよ。勝ちゃ。方法や見栄は三の次四の次だ。可能な限りいかに損害を出さずに相手を殺すかってのが大事だ。そのためなら奇襲ってのは相当に有効だ」
「正々堂々と正面からというのは無しか?」
「どうしてもやりたけりゃ騎士様にでもなればいい。奴等が何か知ってるか? 知らなきゃ教えてやるよ。名誉とか誇りとかっていう冗談に命を賭けられる変態どもさ。分かりやすく一言で言うと、馬鹿だ」
「ものは言いようだな。復讐という行為も、その実誇りを守るためのものではないか?」
「終わった話だ。昔の話すると老けるぞ」
「おや、私はただ例を引いただけで、お前のとは言っていない」
一瞬間を置いてから、
「手前の晩飯はガスで決まりだ」
「前金も入った。今日くらいは美味いものを。いや駄目だな。アルマが治ってから皆で行くとしよう」
「とりあえず出るぞ。パーマーのとこだ。アル中がどこに本拠を置いてるか調べなくちゃだ」
「一人で」
リリィが答えかけたのと、轟音《ごうおん》が響いたのは同時だった。
即座に振り返るリリィ。そして次の瞬間、カフェの壁を何かが突き破った。
ぱん、と高い音が響いたかと思えば、埃がもうもうと舞う中、リリィが右手に恐らくは砲弾だと思えるものを握り締めていた。
声も無い。が、体は動いた。
銃を抜きつつ伏せた。同時に次弾が壁を粉砕する。二発、三発と立て続けに撃ち込まれ、鉄板が仕込まれている壁は大穴を開けられた。
「ココ! 指示を出せ!」
砲弾を素手で受け止めつつリリィが叫ぶ。次弾が打ち込まれる前に外に出ればここまで酷いことにならなかったと思うが、とやかく言っても仕方がない。
「外に出て連中を黙らせろ! 砲を潰せ!」
が、リリィが飛び出すと同時に、今度は機銃の掃射が始まった。
リリィの判断が一瞬遅れた。何をやっている、と腹立たしかったのは一瞬。次にリリィが取った行動は、外に出て敵を黙らせるよりも、味方を守ることだった。
リリィは伏せている俺の前に立つと、容赦なく飛んでくる銃弾の雨を遮る盾《たて》になった。
「馬鹿かお前。んなことしてる暇あったら攻めろ。俺のことはいい。カウンターの中に入る!」
「しかし」
「いいから。とりあえず外のでかぶつを黙らせれば、好きにやれる。その自由を確保するためだ。行け、全部ぶち壊せ」
「だが」
となおも食い下がろうとしたリリィに対し、
「放っておくと建物自体がやばい。事務所も、何より二階で寝てるアルマもだ」
アルマの名前には効果があった。リリィは即座に顔色を変えると、その場から消えさり、かと思えば何かが壊れる音が派手に響いた。
銃弾の雨が止んだ。
それを確認しつつ、俺はカウンター内部へと転がり込んだ。ラダーマンが物凄く不愉快そうな顔をしていた。手にはライフル。奥にはポニーが銃を抜いている。
「なんだってんだ畜生。店に砲弾撃ち込みやがった。戦争でもやってるつもりか糞ったれ」
「災難だな」
「連中の狙いは手前だろ。どう落とし前つけんだボケナス。うちは巻添え食った形じゃねえか」
「俺が悪いって? 冗談じゃねえ。こうなることを見越して俺をたたき出さなかったあんたのミスだろ。大体」
と言葉を重ねようとすると、カウンターに並べられていた酒瓶が割れた。
銃弾。敵が自由に動けている証拠。
顔をしかめつつ、舌打ちを一つ。リリィは何をやっている。
が、瞬時に嫌な、そしてどこまでも現実的な想像が湧いた。ドラゴンキラーの動員。
アイロンが近くに居る。そしてその相手に手間を取られている。
なるほど理に適っている。リリィさえ居なければ、こちらの戦力は圧倒的に小さい。
呑気に方針を練っている場合ではなかった、ということらしい。後手に回った。
「ラダーマン。百まで女抱くんだろ? こんな所で死ねないよなぁ?」
「今は置いとけ。うちの店をぶち壊しやがった阿呆共に、ありったけの鉛弾をくれてやらにゃ、たぎったサオも収まっちゃくれねえ
「ともあれ、こんな所に縮こまってたんじゃジリ貧だ。出る。援護よろしく」
「ポニー。狙いはいい加減でいい。当てようなんて思うなよ」
「あいよ。負けたらクソ共の相手をさせられそうだもんな。そいつは願い下げだ。地獄の化け物どものほうがまだ上手いに決まってんだ」
苦笑しつつ、カウンターの中にあった銃をベルトに突っ込み、
「ダブルアクションは使わない口だったっけ? 面倒くさいんだよなあ」
「我侭抜かすな。あるだけマシだと思え」
頷いてカウンターの脇から身を低くして飛び出した。
人数を確認。十人は下らない。
同時にラダーマンとポニーが体を起こして引き金を引いた。横合いからまともに食らった何人かが倒れ、そして俺のほうも仕事を始めた。
一、二、三、と順調に頭を撃ち抜いていく。四、五、六。
六発打ち終えるなり素早く移動を開始。銃をベルトに突っ込もうとしたのだが、誤ってさらに内側に突っ込んだ。俺の大事な分身の近くが焼けていくが、お陰で何やら自分が遊んでいるような気がしてきて、殺し合いの真っ最中だというのに、妙に笑えた。
ラダーマンの銃を新たに手にし、左手を撃鉄に叩きつけるように、猫背の姿勢で引き金を引いた。いわゆるあおり撃ちだ。
が、感覚がいつもと違うせいか、ろくに当たらない。撃ちつくしたところで銃自体を投げつけ、その隙に再びカウンターまで戻った。
「あと何人だ?」
とラダーマン。
「新しく突っ込んで来てたからな。たいして減ってない」
「くそったれ。リリィは何やってんだ」
「多分だが、相手方のドラゴンキラーが来てるんだろ。そいつの相手に手間ぁ食ってそれどころじゃねえのさ」
「ここじゃ場所が悪ぃ。二階に引く。階段でやりあったほうが楽だ」
「砲の心配があるぜ。外から撃ち込まれりゃ終わりだ。今は馬鹿どもが居るお陰で考えないで済んでるけどな」
「せめてそいつは潰してくれてると思おうや。賭けだけどな。乗る乗らねえは手前で決めろ。俺たちゃ引く」
「付き合うに決まってんだろ」
喋りつつリロードを行っていたため、俺はとっとと体を起こして引き金を引いた。すぐに反撃を貰うが、その時にはカウンターに伏せて移動を始めていた。
這うように進み、するりとドアの奥に転がり込む。
「いたぞ! そっちだ!」
と声が聞こえた。
「走れ!」
俺たちは伏せていた体を引き上げ、階段をどたどたと駆け上がった。上りきったところで早速振り返って三発。即座にリロード。が、俺のほうもこれで後六発。
「ポニー! 銃と弾だ。それからアルマとスプリングの様子だ」
「このインポ野郎! うちの手下に勝手に命令してんじゃねえっ!」
ラダーマンが叫び返しつつ、階下に向けて引き金を引く。ちらりと様子を確認すると、ポニーが素早く部屋のドアを開けているところだった。俺が六発打ち終わらない間に、弾薬の詰まった箱を、廊下を滑らせて寄越した。
「リロードに手間食うんでよろしく」
短く言ってリロードを開始。排莢《はいきょう》まではすぐだが、一発ずつ押し込む作業が面倒でならなかった。俺が銃を構えたかと思えば、入れ違いにラダーマンもライフルに弾を詰め込んでいく。
階段の下に死体が量産されていった。
程なく二人のウェイトレスがアルマを連れて現れた。ポニーの左手には首根っこを掴まれたピスがぶら下げられていた。アルマは苦しそうに顔を歪めていたが、微かに目を開き、そして微笑した。
「こっちは気にしなくていいぜアルマ。寝てろよ」
頭を撫でて、アルマの腕に黒猫を抱かせると、再び銃を構えた。今度は三人だ。スプリングはアルマを抱きつつ、リロードを行っている。お陰でこちらが撃てる弾の数が跳ね上がった。
「いけそうだな。押し切れそうだ」
ラダーマンがつまらなそうに呟き、俺は無言で仕事を続けた。
轟音がして俺たちの背後が吹き飛んだのはそのときで、直後に煙の中から人影が一つ突進してきた。
銃を向け、引き金を引く。
が、そいつは即座に体を沈め、かと思えば手に持っていた銃の引き金に指をかけていた。弾が下から来た。慌てて身を反らすと、そいつは流れるような動作で今度はスプリングを狙った。
ラダーマン、と叫ぼうとしたところで、どこかで意思の疎通でも出来ていたのか、ライフルでそいつの顔面を狙っていた。
轟音。
が、そいつはそれもかわし、そして少し距離を取った。
そこでようやく顔がはっきり見えた。
そいつは、以前細い路地でやりあった挙句、俺を殺しかけた腕利きだった。
「ラダーマン、ポニー。下の相手を頼む。こいつは俺が殺す」
「阿呆め。下らん拘りなんざ捨てろ」
「ちゃんと殺すから」
「俺が殺されたら手前のせいだからな。生き返らせてもう一回殺してやる」
苦笑でそれに応じ、俺は男に向き直った。
「そういや名前も知らねえな」
男は醒めた目でこちらを見返すばかりで、何も言わなかった。
「まさか喋れねえってこたないよな? 俺の名前は知ってんだろう? 俺だけ知らねえってのは不公平だ。なんせこれから殺す相手なんだからな。知っといたほうが、後で吹く時に相手に伝わりやすい」
「ブロック。リッパーと呼ぶ者もいる」
「一つ、訊いていいか?」
「俺を殺した後で訊け」
口の端を歪め、弾を二発。ブロックはそれを難なくかいくぐり接近し、銃弾をかわす用意をと構えていた俺に、その銃自体を軽く放った。目の前で銃が弧を描く。
一瞬、見とれた。
即座に現実に引き戻されるも、まさにブロックがナイフを俺に突き出そうとしているところで、かわしきれないと踏んだ。だから避けなかった。
足を踏ん張り、左腕を刺させた。気絶するかと思うほどの痛み。
しかも、そうやって時間を稼いで反撃、という俺の目論見はあっさりと敗れた。ブロックは俺の思惑を看取《みと》ってか、ナイフを刺すなり手を離していた。そこに銃弾を二発見舞ったが、かすりもしない。ブロックは離れたと思いきやまた距離を詰め、新たに取り出したナイフで俺の顔面を狙った。
よけた。ぎりぎりで。お陰で頬が切れたが、そんなことに構っている余裕は無い。突き出され、伸びきった右腕を、下から撃った。 ぶしゅ、と粘ついた音が響き、ブロックの右の二の腕に穴が開いた。動かなかったブロックの表情がそこで初めて動いた。驚いているらしい。
やや距離を取ったブロックは左手にナイフを持ち替え、俺をじっと観察する。
ナイフが刺さったままの左腕が痛くてたまらなかった。血も流れている。嫌な汗が噴出しかけていたが、殺し合いの興奮と、後に待っているだろう生還の安堵に対する期待が、それをかろうじて抑えていた。
弾は残り一発。それから左腕にナイフ。刃物は性に合わないが、使わないわけにもいかないだろう。
睨み合いになった。
先に動いたのはブロックのほうからだった。
一気に距離を詰め、ナイフの斬撃、突撃を見舞う。銃身でそれらをいなしていたが、前と同じパターンだと気づいた。
足が来る。
そう警戒していたところ、飛んできたのは足ではなくナイフのほうだった。ブロックは手にしたナイフを俺の顔目掛けて投げた。かわせる、と思った。
実際余裕があるほどだったが、ブロックはその一瞬で距離を一気に詰め、そして無理矢理右腕を伸ばした。先にあるのは、俺の左腕。
狙いはナイフ。
銃を使うか。駄目だ、残りは一発しかない。だがこのナイフを取られるのは拙い。
一度に色々考えすぎたせいで、判断が遅れた。
ぶしゅ、と今度は俺の腕から音がし、そしてナ
イフを抜かれた俺の左腕からは血が噴出した。叫びたくなるほどの痛み。そして痛みで更に判断が遅れた。
首か顔か。ともかくも突き出されるナイフがやけに遅く見えたが、それでも体が反応仕切れなかった。
死んだ。間に合わねえ。
ぱん、と銃声がしたのはその時。ブロックの右手からナイフが弾かれ、俺はブロックの腹を撃った。
勝負はそこで終わった。
一拍遅れでやって来た安心感は、腕の痛みとない交ぜになった挙句に、物凄く嫌な汗をかかせた。肩で息をしつつ右の方を見ると、スプリングが銃を構え、そしてにやりと笑った。
「邪魔しねえって話じゃなかったか?」
「店長とポニーはそうだけど、あたしは何も言われてないし」
「屁理屈だな。が、助かった」
「あ、怒らないんだ。勝負を汚《けが》した、とか」
「そりゃあ思ってるさ。けど、命の恩人に食って掛かれるほど道理から外れてるわけじゃねえよ。今度何か奢る」
「やった」
俺は左腕を押さえながら、廊下に仰向けに倒れているブロックに近づいた。腹から血を流し、咳き込んだかと思えば、口の端に泡を作った。
「あんたの勝ちだった」
「死ぬのは俺だ。だったらお前の勝ちだ」
「ロブはどこに居る」
「自分で探せ」
「ま、そう来るわな。大体何だっていきなり攻められなきゃならねんだ。俺はあのアル中に誘われてたはずなんだがな」
ブロックは血の気の引いていく顔に、そこで初めて笑みを浮かべ、
「そう言ってあるから油断してる、だとよ。あいつはあれで人を信じてるところがあるからってな」
「くそったれ」
「俺は死ぬが、勝負はあの人の勝ちだ」
「あ?」
「俺たちの仕事はお前たちを分断し、ここに貼り付けにすることだよ。あの人の狙いはドラゴンキラーのほうだ」
「リリィが負けるって断言出来るのか?」
「出来るさ。生き物が相手なら、痛竜のドラゴンキラーは無敵だ。生き物ってのは、痛がりだか」
言い切らないうちにブロックは激しく咳き込み、さらに血の泡を吐き出した。
ここまでか。
「スプリング」
と呼びかけて銃を借りようとすると、ブロックは左手で自分の心臓を指差し、
「ナイフで、頼む。リッパーの、最期が、銃弾じゃ、締まらねえ」
俺は廊下に落ちていたナイフを手に取り、そのまま心臓へと突きたてた。びくり、とブロックの体が痙攣《けいれん》し、そして動かなくなった。手に残った感触が気持ち悪い。これだから刃物は嫌だ。殺し合いを生々しいものへと変貌させる。乾いていない。湿りすぎている。
やはり銃だ。そちらのほうが簡単だし、何より俺に何も残さない。
深く息を吸い、細く長く吐いてから気持ちを切り替えた。
敵の狙いがリリィだとしても、ドラゴンキラー同士の戦闘に割って入る意味が無い。出来るのは勝利を祈ることだけだ。
「ラダーマン」
「呑気にくっちゃべりやがって。とっとと手伝えってんだ」
「分かってるよ」
とは言ったものの、階下の連中は攻めあぐねている様子で、なかなか顔を出そうとせず、たまに何発か撃つだけで足りた。ほとんどにらみ合いのような格好だった。折りを見て、左腕を布で巻いた。
程なく、どん、と砲がどこかで鳴った。続けてもう二発。
「おい、退《ひ》くぞ。お仕事は終わりだとよ!」
下から声が響き、俺はラダーマンと視線を交わした。
「もう五分待ってから降りようや。もちろん完全武装で」
「とっとと止血と縫合がしたいんだがな」
「唾つけてやるよ。有料で」
煙草を取り出しながらラダーマンが笑った。
「誰が好んで病気貰うってんだ」
「アルコールもびっくりの消毒薬だぜ。病気持ちの女なんざそれで治ったって話だ」
「言ってろ変態が」
店に下りると、なかなかに酷い様子だった。
巻添えを食って死んだ客。俺たちが殺した連中。粉砕された壁、家具、酒瓶。そして薬莢と血。
敵の姿は完全に無くなっていたためか、外には野次馬がたむろし、そして店内ではラダーマンが頭を抱えていた。
「ああくそったれ。舐めやがって。営業再開するまでどんだけ時間かかるってんだ。ああ?」
「俺に言うことか?」
「当たり前だ。手前の巻添えを食ったんだぞ」
「その話は終わってるぜ。こうなることを見越せなかったあんたが悪い。そもそもこうならないようにアルマをここに置いたんだろ? リリィの力を当てにしてよ」
からかうように言うと、睨み返されたため、それ以上の言葉は継がなかった。
「死体は掃除屋に頼んで今日のうちに引き取ってもらうとして、片付けは明日以降だな。畜生、畜生、畜生。とんだ出費だよ馬鹿野郎」
ラダーマンの恨み事を聞き流しつつ、
「俺は部屋に戻る。リリィが戻ったら、顔を出すよう伝えてくれ」
「手前は一生部屋から出るな。外から鎖と釘で封してやるからよ。そうすりゃ俺の店が安泰で何よりだ」
その晩。明け方近くまで待ったが、結局リリィは姿を見せなかった。
つまり、勝敗は決した。俺の負けという形で。
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男と女
ロブは力を振るうことに躊躇《ためら》いを見せない。そして私にも同様のことを求めた。
嫌だと言ったことも無ければ、そのつもりも無かった。
そしてロブと共に居る自分を自覚したとき、なるほど私は寂しかったのだと、強く思うようになった。
力を手にして以来、ずっと付きまとっていた孤独。
嘆き、恨み、そして受け入れたつもりでいたが、やはりそこから逃げたかったのだろう。
もはや私は孤独ではない。ただそれだけで救われた気になる。
知らず知らず蝕《むしば》まれていたのだと、今になってようやく気づく。
「どうして子供が欲しいか分かった気がする」
「そりゃよかった」
「一人で死んでいくのが怖いからだと思う」
ロブは挑むような笑顔だった。
「俺がくたばるときはお前が看取ってくれるんだろう?」
「残されるのは嫌だから私が先に死ぬ」
私の答えにロブはひどく満足したようで、
「お互い様だな」
と笑った。
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八章
昼過ぎに目を覚ますと頭痛だった。
ここ最近の中でも一番の大物で、脳味噌が粉砕されるんじゃないかと思えるほどの痛みがあった。汗と吐き気が相当に酷い。
ベッドから降りようとするだけで駄目になりそうだった。一歩踏み出すごとに、頭の中をかき回されてどうしようもなくなる。
機嫌が悪くなれる程度の可愛い痛みではなかった。まともに動けない。
恐らく最も楽な姿勢である中腰のがに股でなんとか寝室を後にし、キッチンでタンクから直接水を飲んだ。喉を鳴らすと、肩で息をしたままでその場に崩れる。
痛い。洒落にならない。こんなに酷いのも久しぶりだ。
酒と煙草で一日潰すか。どうせ今日は使えない日だ。そういえば仕事は。
と考えたところで、昨日のことが思い出された。そうか、リリィが居なくなったのだ。死んだかどうかは確認していないが、もしさらわれたのだとして、生き延びている可能性はあるだろうか。性格からして篭絡《ろうらく》するのは困難なような気がする。であれば、始末するだろう。
絶望的か。
煙草を取り出して、一服。煙を吐くと、少しだけ落ち着いた気がする。
逃げるべきだ。負けたのだから、いつまでもこの土地に居るわけにはいかない。リリィを仕留めたのならば、俺なんかに構う必要は感じられないものの、かといって見つかれば殺されそうな気もする。
他所《よそ》の土地で便利屋稼業か。人脈を築くのが一苦労だが、それはこの街に流れてきた時も同じだった。まあ、なるようになるだろう。重たい荷物も無くなった。一人で身軽なものだ。
煙草を灰皿に捨て、ずきずきと喚き散らしている頭痛に顔をしかめつつ用意を始めた。
銃と弾。服はかさばるから置いていく。煙草を幾らか。そしてブライダルから頂戴した前金を全部。それらを革張りのケースに詰め込んだ。ライフルを持っていこうかと思ったが、それならば銃をもう一丁ぶら下げたほうがいいかと思いなおし、腰にガンベルトを巻いて、そこにスペアの銃を差した。バランスが悪くなった。体が左に引っ張られるような気がする。が、歩けないことはないだろう。 部屋を出て、一応鍵をかける。出る前にラダーマンに断りを入れようと、俺は昨日までカフェであった場所に顔を出した。
ラダーマンと二人のウェイトレスが物凄く不機嫌そうに片づけを行っていた。
「よぉラダーマン。災難だったな」
あん、と険のある声が返ってきたが、その後、俺の格好を見て察したらしく、
「さすがに早《はえ》えな。ま、妥当っちゃ妥当なとこだ」
と漏らした。
「えぇ、ココ行っちゃうの?」
「そりゃ逃げねえとな。殺されちまうよ」
「三年とちょっとか。ま、あんたのことは嫌いじゃなかったよ」
「俺もだよポニー。一度くらいは遊べるかと思ったんだがな」
笑顔を見せつつ、ラダーマンに事務所の鍵を放った。
「アルマはどうすんだ?」
「置いてく。邪魔だからな」
「情の無ねえ奴もいたもんだ」
「あんたんとこの身内でもあるだろ。ま、リリィが居なくなっちまったからな。置いとく価値はもう無えかもしれねえけど」
「顔ぐらい見せていけ」
「そりゃそうするさ。リリィのことはもう伝えたか?」
「まだだ。そいつはお前の役目だろ」
俺は手を挙げて答え、店の奥から二階へと上がった。ドアをノックすると、
「はぁい」
と弱々しい返事。
「俺だ。入るぞ」
「あ、ココ」
アルマはベッドに横になっていた。足の辺りに黒猫が丸くなっていたが、俺が部屋に入るなり顔を上げた。それからアルマが起きていることに気が付いたようで、遊んで欲しいとの意思表示か、胸の辺りまでするすると移動する。
「具合はどうだ? まだ苦しいか?」
「うん、もう大丈夫。ほんとよ。本当に本当」
「今日一日ゆっくりしとかなくちゃだ。医者の見立てじゃ、五日っつってたからな」
「うん。ココ、どこか行くの? お仕事?」
「まあそんなところだ。逃げるんだよ。遠くへな」
「遠く?」
「そう。どっか遠い所だ。バスラントからも出る必要があるかもしれねえな」
「じゃあ準備しなきゃ」
とアルマは体を起こしかけたが、俺は手で制した。
「アルマはここに居るんだ」
「え? じゃあリリィは?」
「リリィは死んだ」
アルマの目が大きく開かれた。
「嘘」
「多分もう死んでる」
「多分なんでしょう? じゃあまだ生きてるよ」
「確かめたわけじゃない。けど、生きてるなら戻ってくるはずだ。捕まってるって線も生きちゃいるが、確かめるにはリスクがでかすぎる」
「じゃあ捕まってるんだよ」
「かもな。けど、敵にはドラゴンキラーが居る。出し抜ける気がしねえよ。だから死んだものと考えて俺は動く。そういうわけでアルマ。お別れだ」
俺はそう言ってケースを開け、中から金貨の入った袋を取り出した。
「リリィとアルマの取り分だ。金貨が四百五十枚入ってる。どう使うかはアルマの自由だが、悪いこた言わねえ、国に、マルクトに帰れ。そして皇女派の連中に助けてもらえ。それが一番長生き出来るはずだ。ジンとの約束を破っちまうことになるが、何、構わねえだろ」
アルマは泣きそうな顔で、首を横に振った。
「死んでないもん」
「アルマ」
「死んでないもん」
「引き際って奴だよ。そいつを間違えると大抵死ぬ」
「死んでないんだもん」
アルマは目に涙を溜めながら上体を起こし、立てた膝に顔を埋めた。時々肩が震える。主の異常を感じ取ったか、黒猫が頬を舐めた。
絵になっていた。
普通の人間なら、何か言葉をかけてやりたくなるに違いない反則的な所作で、俺もあっさり屈することになった。
「泣いても何も解決しねえ。リリィが生きてるってことを確認したけりゃ、精一杯頭を使え。自分に何が出来るか。出来ることのどれを組み合わせれば成功に届くか。駄目なら自分を練り上げて手
札を増やせ。そいつが成功の秘訣《ひけつ》って奴だ。さあアルマ、まずは泣き止んで顔を上げるとこからだ」
自分の頭にこんな言葉が棲んでいたとは驚きだった。が、言ってみると確かにそうだ、と妙に納得する。しばらく待つと、アルマは顔を上げ、鼻をすすって涙を拭いた。多少ぐずってはいたが、泣いているようには見えない。
「分かった」
「良い子だ。もう一つ。女の涙ってのは最後にして最強の武器だ。だからって使い過ぎてると安く見られるから気をつけろ。使いどころを考え抜いて使うんだ」
「そんなに簡単に泣けないよ」
「何、時間はあるんだ。ゆっくり練習すりゃいい」
アルマは小さく頷き、それを確認してから、
「じゃあな。元気でやれ」
と腰を上げた。が、上げるなり、
「待って」
と呼び止められた。
「アルマ、もう話は終わりだ」
「そうじゃないよ。出来ることをやるの。だから、これあげる」
と先ほど渡したばかりの金貨を差し出した。そして腕の中にいた黒猫を放すと、上半身をぴんと伸ばし、
「お願いします。リリィを探して下さい。そして生きてたら助けてください。お金はこれだけじゃ足りないかもしれないけど、でもとても大事な人なんです」
「おいアルマ」
「お願いします」
アルマは深く頭を下げた。
「アルマ、無理だ。普通に考えて無理だ、どう考えたって無理だ」
「お願いします。私の精一杯はこれだけなんです」
弱った。
頭を掻いていると、さらに畳み込むように、お願いします、と繰り返す。
うちで最強なのはやはりアルマだ。手に負えないとはこのことだろう。
と、何かしら頭に考えが浮かんだ。それははっきりとしたものではなく、単なるイメージで、捕まえるまでにかなりの時間がかかったが、気づいてみると俺は苦笑していた。
助けに行く理由が見つかったことを安堵している自分を見つけたからだ。
苦笑が漏れた。
自分のことを馬鹿だと思った。それも救いようのない馬鹿だ。だがそれでも気分は悪くない。つまり俺は真性の馬鹿だということらしい。
俺は苦笑を微笑へと変え、アルマの頭を撫でると、
「仕方ねえお姫様だな。分かったよ、請けよう」
と言った。アルマの表情が一気に明るくなる。
「ココ!」
とアルマが抱きつこうとして、シーツに絡まってベッドの上で転んだ。抱き起こすと、恥ずかしそうに笑っていた。頭痛を忘れてしまいそうなほどの笑顔だった。
「ラダーマン、野菜絞ってくれ。それと食い物はあるか?」
だらだらと片づけを続けているラダーマンに、店の奥から声をかけると、元はテーブルだったらしい木片を肩に担ぎ上げ、
「なるほど。今のお前にゃここがカフェに見えるんだな。この間リリィに言われた台詞をそっくり返してやるよ。お前の目な、そりゃ取替え時だ。今なら掃除屋も連中をばらしてねえかもしれねえから、行って頭を下げてきな。こん中で一番性能の良い目ととっかえてくれってよ」
「それから人数を集めてくれ。あ、飯と野菜ジュースのほうが先で頼む」
「ああ?」
「逃げるのは止めた。やられっぱなしは趣味じゃない。やられたら自分の手でやり返すんだよ。顔に泥を塗りたくられて黙ってられるか。あのアル中は俺が殺してやる」
三人は顔を見合わせ、そしてラダーマンとポニーは馬鹿じゃないのか、と言わんばかりの表情を浮かべた。唯一喜んでくれたのはスプリングだけだった。
「そりゃあ分かったが、俺が人数を集めなくちゃならねえ道理はどこにある」
俺は黙って金貨四百五十枚が入った袋を取り出した。
「こいつをくれてやる。中身は金貨で四百五十枚。あんたの取り分は好きにしろ。そいつの残りで、なるたけ腕が立って、相手方にドラゴンキラーが居ても構わないって思ってる馬鹿を集めてくれ。はした金で命をかけられるもの好きがいい」
「いつの間に俺が混じってんだよ」
「年寄りの台詞だな。じゃあいいさ。舐められっぱなしのままで、延々店の掃除してろよロートル。人集めにはパーマーを当たる」
「勝つ算段はついてるのか? たわごと抜かすようだったらこの話は無しだ」
「相手はドラゴンキラー持ってんだぜ? 勝てると思うほうがどうかしてる」
鼻で笑うと、呆れられた上、真剣に心配された。
「自殺は馬鹿のすることだ。勝算が無いんだったらそれ持ってとっとと逃げろ」
「リリィが生きてる可能性が、唯一の勝算だ」
「死んでるだろ」
「死体は見てねえ。まあ、探してもいねえんだが、恐らくは無いはずだ。そんなもんがあるんなら、話の一つも聞こえてきそうだからな。後で裏を取るつもりだが、リリィは連れて行かれたんだろうよ。何のためにか。そりゃあもちろん、仲間に引き入れるためだ」
ラダーマンは黙って先を促した。
「リリィが首を縦に振るかは知らん。そこは賭けだ。最悪の場合、俺たちが銃構えてのこのこ出てったら、向こうからドラゴンキラーが二人、なんて阿呆なことにだってなりうる。で、ここでもう一個賭けだ。リリィが首を縦に振ってないと仮定した上で、連中がリリィを生かして捕らえたままにしといてくれりゃ、まだ可能性って奴は残ってくれてる。後は簡単。助け出して一発逆転ってなもんさ」
「今にも消えそうな可能性だ。可能性、可能性か。良い言葉だな。そんな言葉でたぎっちまうのは正義の味方だけだ。もの好きが手前の理屈を押し付ける時に使う言葉だ。口にする奴は手前が馬鹿だって証明してるってことに気づくべきだな」
「そこに登場するのが金さ。難しい話じゃねえよ。やばい仕事に付き合うか付き合わねえか。ただそれだけだ」
「一人頭十枚出すとして、二十五人までだな。うちはせめて二百は欲しい」
「じゃあもう十人追加だ。出したくなかったが仕方ねえ。俺が追加で百枚出す」
「あん? そりゃお前の金だろ?」
「こいつはリリィとアルマの分だ。俺の取り分は三百」
「ああ。そうなのか。しっかし、十枚のはした金で腕利きねえ。まあいいだろ。そっちはなんとかする」
「乗ってくれると思ってたよ。あんたなら生涯現役ってのも達成出来るかもだ」
「俺の店に糞垂れた連中にゃ、死ぬよりつらい仕置きが必要だ。が、やばくなったら逃げるぞ。いいな?」
「そりゃもちろん。誘う連中にもそう言ってくれていい」
ラダーマンはふん、と鼻を鳴らし、そして俺に鍵を投げた。
「荷物を置いて来い。それまでに食い物の用意をしといてやる」
俺は攻撃的な笑顔で応じ、そして店を後にした。
階段を上る足に、心無しか力がこもった。
頭はやっぱり痛かったが、殺し合いを楽しめる程度にまでは落ち着いていた。
心が弾んでいく。
恐らく、いや絶対に頭痛のお陰に違いないと決め付けて、俺は事務所の鍵を開けた。
その日の夕方、パーマーベイカリーに顔を出すと、当の本人が薄笑いで出迎えてくれた。
「災難だったようだね」
「真っ最中だよ」
「この間のチーズとヨーグルト、美味しく頂いたよ」
「そりゃ結構。それで仕事を頼みたいんだがな」
「用意は出来ている」
「は?」
「ロブ・アレンビーが代表を務める組織の構成員名簿。欲しいのはそれだろう?」
「まあそいつも欲しいっちゃ欲しいが、そんなもん用意してたのかよ」
「あれ、違ったの? 人を集めているって耳にしたものだから、てっきり何かやるものと思っていたんだけれど」
「耳が良いな。で、幾らで売るつもりだったんだ?」
パーマーはにっこり笑って、
「今の君にはドラゴンキラーが居ないからね、吹っかけようかな」
「二十枚までなら払う」
「百」
俺は煙草を取り出そうとしたが、棚に並んだパンを見て大人しく手を引っ込めた。
「リリィの居場所は分かるか? それとセットでなら百枚出す」
一切の前置きなしにそう言った。こいつなら事情を知っていても不思議ではない、と期待してのことだったが、パーマーは期待通り、
「カンパニーの本拠はサードの事務所だ。彼女がまだ生きていると仮定すれば、恐らくはそこに居るんじゃないかな。ドラゴンキラーを拘束するのは、やはりドラゴンキラーにしか出来ないと思うし」
「知らん名前が一個出たぞ。サードってのは知ってる。サード工務店だったか? まあチンピラの集まりだ。そいつはいい。カンパニーってのは?」
「ロブアンドアイロンカンパニー」
わざとらしくため息をついた。
「ああ、全く嫌味なぐらい分かりやすい上に最悪の名前だ。もうちょっと捻ってくれると、俺としても張りが出るんだが」
「ただカンパニーと呼んだほうがまだ許容出来るのは確かだ。さて話を戻そう。彼女が拘束されているとしたら、恐らくはサードの事務所だろうとは思う。けど、これはあくまでも可能性だ。ドラゴンキラーを拘束する手段はもう一つ」
「飯を抜く、か?」
「そう。一般的に二日で動けなくなって、三日で餓えて死ぬとされているけどね、確かめたわけじゃないから、どの程度真実なのかは知らない。が、常識とさえされていることだ。疑うのもどうかと思うから、これは信用してみよう。それで、彼女が食事を与えられていないと仮定した場合、拘束しておくのはどこでもよくなってしまうわけだね」
「あんまり想像したかないがね。とっ捕まったのが昨日か。今日で二日目。最悪の場合を想定するなら期限は明日か。笑えるな」
俺の愚痴をものともせず、パーマーは脇に控えていたアズリルに向かって頷いた。それを受けて、アズリルが大きめの封筒を寄越す。名簿だよ、とパーマーが口にしたため、俺は早速中身を確認した。
知った名前が幾つもあった。どうやら中、小の組織を纒《まと》め上げているらしい。大した手早さだが、問題は人数だった。こっちで集められそうなのは三十人前後。対する連中は百二十人強。彼我兵力差は歴然だ。
俺はしかめっ面のままで、手にぶら下げていた鞄から、金貨を取り出し、百枚数えて渡した。パーマーはその金貨を確認しつつ、
「手はあるの?」
「小勢だからなあ。こいつを渡して、方々に散らして、奇襲を重ねてくしかないだろうな。ど正面からやりあったら火力の差で揉み潰される。それも、ドラゴンキラーが出てこなかった場合の話だぜ。出てくりゃ一分で皆殺しだ」
「それだと時間が掛かりすぎる」
「敵の戦力を削そぐ必要はあるだろ」
「もたもたしていたら彼女が死ぬ」
俺は眉をひそめ、
「熱でもあるのか? まるで俺に金の助言を与えようとしてるみたいだ」
「長く稼ぐつもりなら、街はこのままのほうが望
ましいんだよ。混沌《こんとん》としてるほうがいい。そのためには強力過ぎる組織、誰も逆らえない組織はあってもらっちゃ困るんだ。ドラゴンキラーを失った商会は、特別な大組織から、普通の大組織に成り下がった。それでもなんとかやってはいるけど、状況は以前と比べて不透明になってる。そこに生まれるのは競争意識だ。そして競争には、情報が必要だろう?」
「自分の利益のために俺に勝たせたいってわけか。分かりやすいな。じゃあ勉強しろよ。百枚ってのはぼったくりもいいとこだ」
「それとこれとは別問題だよ。今は商機だ。逃さず儲けないとね。さて話を戻そう。君に勝機があるとすれば、彼女を首尾よく取り戻せた場合だけだと思う」
「そう思ったからここに来た」
「だから半日くれ。明日の朝までに彼女がどこにいるか調べをつける。僕のこれまでの実績に誓って、確度の高い情報を」
「幾らで?」
「百」
「面倒事が飯の種ってのは、俺もお前も一緒だな。全く、いい性格してやがる」
「もちろん買うよね?」
「百五十出すから、何かアイデア出しといてくれ」
パーマーはにっこり笑って、
「毎度どうも」
と言い切った。手元の金貨は五十枚になった。
カフェに顔を出した頃にはすっかり日が落ちていて、本来なら客足が伸びる時間帯だったものの、客は一人も居なかった。代わりに居たのは、ラダーマンの話に乗ったもの好きな便利屋どもだ。
数えたら二十人いた。その中で知った顔は半数ほど。もの好きを集めろとは言ってみるものだ。見事に荒事専門の連中が顔を揃えている。連中は瓦礫《がれき》の上に腰を下ろして酒を酌《く》み交わしていた。律儀なのか商魂逞《たくま》しいのか、ポニーとスプリングが酒やら簡単なつまみやらを配っている。
カウンターに肘を置くと、ラダーマンが近づいてきた。
「野菜ジュース」
「無理だよ馬鹿。今は倉庫のほうに突っ込んでたちっとばかし高級な酒しか無ねえ。値が張るが、それでも飲むか?」
「グラス売りはやってんだろうな?」
「一杯金貨一枚からだ」
「高《たけ》えよ」
「八割寄付金だと思え」
「くたばれジジィ。後で部屋帰って飲む。で、人数はこれで全部か?」
「だな。街は見て回ったか?」
「パーマーんとこ行ったきりだ」
「酷《ひで》えことになってる。ほれ、痛みが出るってあの病気、ドラゴンキラーの仕業らしいじゃねえかよ。そいつを使ってでかい組織を狙い撃ちにしてやがる。助けて欲しけりゃ傘下に入れ、だとよ。舐めた話だが、相手はドラゴンキラー抱えてるからなぁ、そのうち嫌でも首を縦に振るだろ。そうすりゃ連中はもっと太って手がつけられなくなる。やるなら出来るだけ早いほうがいいだろうな」「俺たちが無事なのは、相手にされてないからか。ちっぽけだったのが幸いだったな」
「集まったのが二十人。俺たち合わせて二十四人だ」
「予定より少ねえな」
「世の中そうそう上手くはいかねえよ。方々に声かけちゃみたが、これで精一杯だ」
「小隊にも満たねえ戦力で、か。ここまで絶望的だと笑えるな」
「で、どうすんだ?」
「リリィの生死を確認する。生きてたら助ける。具体的なことは、パーマーが連絡を寄越してからだ」
「なんだ、じゃあこいつら帰しちまっていいのか」
「朝までには届けるとよ。連絡を貰い次第動きたいから、このままでいい。仕切りはあんたに任せる」
「お前の仕切りじゃねえのかよ」
「あんたのほうが人望がある。ああ全く、認めたかないんだがな、そいつが事実だ。だったらそのほうが物事が簡単に回る。むかつく話だ」
「キャリアの差だな。手前もあと十年綱渡りを続けられりゃ、俺みたいになれるだろうよ」
「明日死にそうだけどな」
「死ぬところまで踏み込むのは馬鹿のするこった。要は見極めが大事ってことだな。端《はな》から勝負になってねえんだ。ちっとばかし溜飲《りゅういん》下げたらとっとと逃げるとしようや。この集まりの名前を教えてやろうか? むかつく連中に嫌がらせしようの会だ。会費は無料。ただし命がけってよ」
「切れがないぜ。酔ってんのか? それとも不安か? まあいい。後は任せる。パーマーから使いが来たら呼びに来てくれ」
「どうすんだよ」
「寝る」
「図太い野郎だ」
「心配ならスプリングかポニー貸してくれ。何なら二人ともでもいい。良く眠れること間違いなしだ」
「殺し合いの前には女を断つのが俺の習いだ。お前も合わせろ」
俺は再び苦笑し、片手を挙げてカフェを後にした。
事務所の寝室に戻るなり、ベッドに倒れこむ。うつ伏せになったまま、スペアの銃を差していたガンベルトを抜き、枕元に置いた。左脇の銃も同じく外す。ホルスターに手をかけたところで息苦しくなって仰向けになった。
天井。
一日が終わろうとしている。
アル中が好き勝手やっている。
俺はリリィの生存を確信している。
負けだ無謀だと吹いていても、負ける気が少しもしないのは何故だ。
自棄になっているのか。
否。断じて違う。ぴんと来ないにも程がある。じゃあ何だ。
しばらく真っ黒い天井を見上げ続けて、ようやく答えを出した。
元中尉風情を恐れる道理は無い。
俺は真剣にそう思っているらしく、自分の馬鹿さ加減に愛想が尽きそうだった。
まあいい。全部は目が醒めてからだ。
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男と女
「これからどうするの?」
もはやこの一件にはけりがついた、というのは私とロブの共通の見解だった。
だからその先のことを訊ねた。
「どうしたい?」
「ずるい。訊いているのは私でしょう」
「お前のやりたいようにやればいいさ。こんな街に流れてくるような人間はな、空っぽなんだよ。やりたいことなんざ何一つ無いんだ。だから手近にあって分かりやすい金とか、力とかに拘るんだ」
悲しい言葉だった。だが、それは私も同じだと思った。
「本当に好きにしていい?」
「ああいいさ」
「一緒に来てくれる?」
「もちろん」
「どこかの街で、養子を取って、当たり前に暮らしたい」
「ああ、それも良いな」
それきりロブは黙った。
自分で口にした言葉がやけに耳に痛かった。その言葉はやがて頭の中で反響を繰り返し、不意に現実に引き戻された。
当たり前の暮らしなど、もはや望むべくもない。私の体は当たり前を許容しない。
だから。
「ごめんなさい」
そう呟いた。
「どうした?」
「忘れて」
「何考えてるかすぐ分かるな。安心しろ。お前がそう望むなら、俺がそれを実現してやる。この街で金をかき集めたら、二人でどっかの田舎に行けばいいさ」
「ありがとう」
そう答えた。
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九章
リリィの居場所が届けられたのは午前三時のことだった。
持ってきたのはパーマー自身だった。思えば、ベーカリー以外でこいつの姿を見たのは初めてかもしれない。背後には相変わらずアズリルを控えさせていた。
「彼女の居場所は港の倉庫街。港湾事務局の管理下にある十六番倉庫。現在そこに居る。生きているか死んでいるかは不明だけど、五十人からの人間が詰めてるところを見ると、生きているかもしれない。あるいは君を釣る餌か、だ。解釈は自由」
六十度近い蒸留酒を平気な顔をして口にしながら、パーマーはすらすらと語った。
「どの道生きてるって前提で動くしかねえんだ。やるよ。五十人なら勝負にはなるかもだ。知恵を出せよパーマー。何か無えのか?」「陽動作戦でどうかな。もちろんサードの事務所のほうに。ドラゴンキラーの足止めが目的だ」
「小勢をさらに割くような真似はしたかないぜ。ドラゴンキラーの足止めっつったって、実際に出てくりゃ一分で皆殺しだ」
「やりようはあるだろう」
「港のほうだって二十四と五十だぞ。そっから足止めに足るだけの分を出したら、十四、五人か。無理無理。さすがに死ぬ」
しかめっ面で煙草をくわえ、火をつけた。天井に向かって煙を吐く。
「じゃあ次策だ。というか、これが本命なんだけれど、生憎《あいにく》君に相当の覚悟を要求するものでね」
とパーマーは小さく苦笑した。
「聞こう」
「燃やすんだよ。火をつけて回るのさ。彼女は火竜のドラゴンキラーだろう? 生きていると仮定した場合、行動が制限されているのは空腹だからだ。だったら話は簡単だ。全部燃やせばいい。彼女の食料を提供できる上、陽動作戦としての意味も兼ねる。燃やすのは港の倉庫だけじゃないからね。街の、カンパニーの関連施設ももちろん燃やす」
「そいつは」
と俺は口ごもった。頭にあったのは、火事の後のことだ。
燃やす、という判断は悪くない。が、弁償をするのは俺だ。他の連中は俺に雇われているだけの身で、つまり全ての責任は俺にある。以前、港の船を全て破壊したことがあるが、そのときも弁償の問題はそれなりに気がかりだった。
「もし君がこれから先もこの街で便利屋をやるつもりなら、弁償の問題は軽くはないよね。ま、僕個人としては、ドラゴンキラーにはそれ以上の価値があると思っているけれど」
「んなこた知ってるよ。くそったれ、ああ良い手だな。最高だよパーマー」
「お褒めに与《あずか》り光栄だ」
悩ましかった。が、目の前に提示された火を起こすという手法はどこまでも魅力的だ。
顎を撫でていると、ラダーマンとパーマーが薄笑いを浮かべていた。嫌らしさを大量に含んだ、下品で下衆で悪意しか見て取れない笑顔だった。悪魔の誘惑、そんな言葉がぴたりと嵌る。
くそったれ。こいつら楽しんでやがる。
「どうすんだよココ」
「仕方ねえ。全く気に食わねえが、採用だ。そもそも二十対百二十なんだ。どっかで無茶をしなきゃ状況はひっくり返らねえからな」 物凄く嫌々だったが、言い切った。悪党どもは笑顔をさらに嫌らしいものへと変貌させた。
一通りの打ち合わせを済ませるのに十分ほど。それからパーマーはグラスに半分ほど残っていた中身を一気に飲み干すと、
「ご馳走様ラダーマン。外で飲むのも悪くない。気が向けばまた来るよ。もちろん、店が続いていれば」
と挨拶を残し、店を後にした。後ろ姿を眺めながら、俺も腰を上げた。
「後は任せる」
「何だ、別行動か?」
「倉庫に侵入する。放火はそっちでやってくれ。それともあんたが代わりにやるか?」
「お断りだ」
「ああそうだった、俺が死んだらアルマは国に帰してやってくれ。代金は俺の事務所に転がってるガラクタ洗いざらい売り飛ばして作ってくれていい。そのほうが、多分あんたのためだ」
「事情は知ってるからな。俺に害が及ばんようにするさ」
「大いに結構。じゃ、行って来る」
「上手くやるこったな」
一歩踏み出したところで立ち止まり、振り返りつつ、
「時にラダーマン、今から死地に出向かんとする勇者に、はなむけの品の一つも出さねえつもりか?」
「なるほど、鉛弾が欲しいわけだな?」
「女とは言わねえよ。野菜の一つも絞れ」
「魔法使いじゃあるまいし、こんな状況でどうやったら野菜が見繕えるってんだ? 丁度いい、小便がしてえとこだったんだ。グラスに入れてレモン絞ってやるから、腹一杯飲んでいけ」
「売り物の薬に手ぇ出せよロートル。じゃあな」
「ああ。しっかりやれ」
軽口で景気をつけ、俺はカフェを後にした。
久しぶりの港湾事務局だったが、人の気配は無かった。
俺は窓ガラスを割って内部に侵入し、倉庫の案内図を求めてあちこち引っくり返した。特に物音に頓着せずに事を進めていたのだが、
「だ、だだ、誰だっ!」
と背後から声がかかった。小さく舌打ち。まだ残っているとは、仕事熱心な奴もいたものだ。
俺は振り向き様に銃を抜き、相手につきつけた。相手は、ひぃっ、と漏らし、その場に尻餅をつき、そして手に持っていたランプを落とした。ランプは床に落ちたが、もちろんその程度で消えることもなく、相手の姿を鮮明に照らし出した。こいつもまた久しぶりの、ドギーだった。
「こ、ココじゃないか。脅かさないでくれよ」
「久しぶりじゃねえか。女とは宜しくやってるか屑野郎」
「まだ怒ってるのかい?」
「はは、そいつはとんだ勘違いだ。怒るってのは改善の見込みのある奴にすることだろう? お前にその見込みがあるのか? 無えよ。どこ探したって無え。だったら怒る必要も無え。ただ、いつか殺してやろうと思ってるだけで」
苦笑しつつ答えると、ドギーが一気に青ざめた。
「お、落ち着いてくれよ」
「金、と言いたいところだが、今は欲しいものがある。倉庫の見取り図だ。出せるよな?」
「もちろんあるけど、そんなもの何に使うんだい?」
「お前が質問をする立場だったとは驚きだ」
「分かった、分かったよ。分かったから銃を下ろしてくれ」
「良い子だ」
ドギーはふらふらと立ち上がると、俺が探していた棚とは全く別の場所から、皮のカバーがつけられた冊子を持ってきた。冊子といってもサイズは画板くらいで、それが二つ折りにされている。
ドギーは、これだよ、と言いながら、俺が散らかした机の上にその冊子を広げた。
俺はそれに目を落としつつ、
「十六番はどれだ?」
「その番号は」
と、ドギーは何事かを察したようだったが、
「ドギー、質問は無しだ。手前にゃ無駄にでかい貸しがある。金は出さなくていいから、今そいつを返せ。裏切ったらソーセージでもミンチでも好きなようにしてやるから、そのつもりでな」
「そんな無茶な」
「全部手前の身から出た錆《さび》だろう? 裏っ側に片足突っ込んでんだ。いつ死んだっておかしかねえ。それを考えりゃ楽なもんだ。何、危ないことやらせようってんじゃねえよ。さあ選べドギー。今死ぬか、それとも生きる可能性って奴に賭けるか」
「選ぶ余地無しじゃないか」
「何言ってんだお前。死ぬ事だって選択肢の一つさ。ただ、生きてる人間はいつだって死ねるが、死んだ人間はどうやったって生きられないってだけだ」
「無茶苦茶だぁ。ああもう、なんで徹夜しようなんて思っちゃったんだろう」
「縁があるな。さあ出番だ。俺に十六番倉庫を教えてくれ。そしてこいつをそのままラダーマンに届けろ。お前がやるのはそれだけだ。後は手前の女の所にでも転がり込んで、しばらく腰振ったらぐっすり寝てろ」
ドギーは、うう、と情け無いうめき声を恥ずかしげも無く漏らし、やがて肩を落とした。諦めたらしい。
「ラダーマンに届ければいいんだね?」
「命に代えても」
「そんな無茶な」
と馬鹿みたいに繰り返す。
「お前、自分の立場分かってるのか? レビンの阿呆に手ぇ貸したお前は、俺の敵だ。殺して捨てるところを、生かしといてやるって言ってんだぜ」
「レビン? レビンって、商会のレビンかい?」
と、ドギーは素っ頓狂な声を出した。
「ああ、聞いてねえのか。お前に脅しかけてたのはレビンだ。もっとも、とっくに骨だ」
「え? え? だってあれはカフスの」
「あ?」
これ以上青くなりようがない、というところまでドギーの顔は青くなった。慌てて口を押さえていたが、その後、何も言ってないとでも主張するかのように、首を激しく横に振った。が、ぐき、と俺の所まで届く鈍い音がして、青かったドギーの顔に脂汗《あぶらあせ》が浮いた。
普段なら大笑いしたところだろうが、笑う余裕が無かった。俺は下ろしていた銃を再びドギーに向けると、
「お前、カフスに脅されてたのか?」
「いや、知らない。知らないよ」
「幾ら貰った?」
「金は貰ってない。誓って。本当だよ。信じて!」
「間違いなくカフスなんだな?」
再びのうめき声。そして脂汗。青ざめ、首を押さえるドギーは、どこまでも滑稽だった。やがて、諦めたように小さく頷いたが、それだけでも痛かったのか、慌てて首を竦《すく》めた。
俺は銃を下ろしつつ、いきなり名前の出てきたカフスについて考えを巡らせていた。
ブライダルがドラゴンキラーを手に入れる算段を整える。目的は、まあ街の実権を握ることだったのだろう。目障りな商会。そして目障りなリリィ。仕事に横槍を入れたのは、やはり俺たちを釣り上げようとする餌だったのかもしれない。そうしてアイロンにリリィを殺させる。
が、何故か俺はレビンのほうに食いついた。
カフスの筋書きを変えたのは誰だ。ケンか、それともパーマーか。どちらも胡散臭《うさんくさ》さでは一等が取れる。あるいはレビンとカフスの間に繋がりがあったとも。
めまぐるしく可能性を羅列しながら、ああでもないこうでもないとこね回した挙句、俺は考えるのを止めた。今考えるべきはそんなことではないと気づいたからだ。当の本人に訊かねば事実など分からないし、そして俺の目の前には、嫌味なほど重たい現実が転がっている。
「まだ居たのか」
「え? だって首が」
「ドギー?」
「分かった、行くよ。行けばいいんだろう」
「素直が一番だ。任せる。それからな、ラダーマンには日が昇る前って伝えてくれ」
分かった、と恨みがましい顔をしながら、ドギーは首を押さえて事務局を後にした。それから人気の無くなった港湾事務局を散々に物色した結果、誰かの私物らしいウィスキーが見つかり、俺は煙草と一緒に楽しむことにした。
状況は逼迫《ひっぱく》しているくせに、優雅だった。酔わないように量を抑え、ちびちびとやる。三杯を干したところで、適量と判断した。
頃合か、と立ち上がった。息を鼻から大きく吸い、その倍の時間を使って吐く。三度繰り返したところで頬をぱちぱちと叩いて時計を取り出した。
午前五時半。人探しにはいかにも似つかわしくない早朝だ。
俺のガンベルトにはクイックローダーを突っ込むポケットが六つ開いていて、今はその全てを装填《そうてん》済みのローダーで満たしていた。右脇にも二つある。左の腰にはマガジンポーチもぶら下げてきた。中身は八個のローダー。計十六個。二丁の銃はそれぞれ装填が完了しているから、弾の総数は百八発。持ち込み過ぎたかも知れない。少し重たい。
十五番倉庫の屋根の上である。
港の倉庫群は全て同じ形で、倉庫と呼ぶには少しばかり造りが安い。鉄骨を組んだ土台にトタンを貼り付けただけの単なる風除けだ。別の倉庫には足を踏み入れた経験があるが、中は二階構造になっていて、その二階は主に生活スペースとして利用されていた。階段は倉庫内の一階の端に一つずつ。
ここまでは雨樋《あまどい》を伝って登った。さすがに高い。が、文句を言っている場合でもない。足音を殺し、するすると進んでいくと、程なく目的地、十六番倉庫が目に入った。
ガラス窓が二階にのみ嵌《はま》っている。中からは灯りが漏れているものの、カーテンがかかって中身までは確認できなかった。倉庫と倉庫の間は三メートルほど。頑張れば跳べない距離ではないが、落ちたら骨折で済むかどうか。高さ十三、四メートルはある。 が、跳ぶつもりでいる。火が起こったらあの窓ガラスから突入予定だ。
勢いをつければ届く。そのはずだ。屋根はちゃんと傾いている。下り坂だ。ジャンプすれば届くに決まっている。
今更ながらに銃弾の重さを気にしだしたのはそういうわけだった。実は不安で仕方ない。
屋根の上に伏せてしばらく様子を観察していると、どうやら見張りではない連中が、狭い通路を
かさこそと走り回っているのが目に入った。味方だ、間違いない。
否応なく盛り上がってくる不安。
いっそ弾を置いていくか。銃は二丁も要らないだろう。いやいや、中に結構な数の人数が詰めているのだ。火を放っても、どの程度混乱してくれるものか怪しい。そもそも、二階の窓から突入する必要はあるのか。無い、気がする。いや、さすがに正面からというわけにはいかなかったから、俺はこんな所にいるのだ。
考えているうちに、煙の匂いが鼻をくすぐった。油を使っているらしいことが匂いで知れる。
喧騒と熱が徐々に大きくなっていく。行こうと決断したのは、銃声が響いて来てからだ。断続的にではあるが、相当な数の人間が銃弾を交換しているらしい。
俺は立ち上がり、屋根の頂上辺りまで下がると、そこから一気に駆け出した。
もっと速くだ。縁が迫る。もう地面は無い。最後の一歩。
だん。
と音を響かせて俺は跳んだ。即座に顔を覆い、腕と腕の間から窓ガラスを確認。方向も角度も申し分ない。
そして。
派手な音を立てて俺は窓ガラスを粉砕、倉庫内の床をごろごろと転がった。体を起こすなり、銃を抜く。
即座に視界に入ってくるのは敵、敵、敵。視界に入っているだけでも十人前後。まだ呆気に取られている。先手必勝。撃ったもの勝ちだ。
俺は躊躇うことなく引き金を引いた。即座に六発。スペアの銃を抜きさらに三発。
殺害戦果六。残数三。
そこで一旦距離を取り、棚の陰へと転がった。クイックローダーを突っ込み、装填。銃弾を浴びているらしく、棚がびりびりと揺れたが、どうやら貫通する心配は無い様子。思ったより頑丈な棚だ。もし燃え残るようなことがあれば、貰っていくのもありか。
どうでもいいことを考えつつ、銃撃の切れ目を見計らって突撃した。
駆け寄りながら射撃。左右それぞれに銃を構えた二丁拳銃だが、縫ったばかりの左腕にはいまいち力が入らず、利き腕が右でもあるせいか、指がつりそうだった。
ともあれ、そのまま二人の頭を撃ち抜き、残りの一人は両足を撃った。
足を撃った男の膝が折れる前に、どん、と腹を蹴って馬乗りになる。眼前に銃を突きつけ、
「リリィはどこだ?」
「う、撃つな。降参する」
「質問に答えろ」
「一階、下、下だ」
「ありがとよ」
答えつつ引き金を引いた。返り血が爆《は》ぜて、顔が汚れたが、構うことなくリロード。
二階に視線を走らせると、どうやら生存者は居ない様子。残りは外に出ていると思いたい。いっそここで後五分ほど我慢すれば、倉庫は完全に空になるのではないか。いや、その前に俺が煙に巻かれて死ぬか。
リロードが完了するなり、スペアの銃は仕舞った。階段を三段ほど降りた所、まだ天井に近い位置で一階の様子を確認する。
どこをどう間違ったか、保管されていた資材まで燃え始めていた。時間はあまり無いらしい。リリィは、と注意深く探すと、倉庫奥の隅に転がされていた。ただし、裸にむかれていたが。まあ当然だ。捕まった女が綺麗な体で居ると思うほうがどうかしている。問題は、あれが死体か、それとも動けないだけか、という点だった。とにかく近づいてみなければ分からない。
シャツ越しに息を深く吸い、限界に近いところで止めようとすると、
「おいお前、こっち手伝え。人手が足りねえんだよ!」
と階下から呼びかけられ、思わず咳き込んだ。
「おい、聞こえてんだろ。返事ぐらいって、お前っ!」
言葉の代わりに銃弾を返した。今度こそ、と再びシャツ越しに息を吸い、止め、そして階段を駆け下りた。下った勢いのまま、一気にリリィの元へと走り抜けた。
リリィの体は細っていた。腕も足も、すっかり肉が削げ落ちている。あばらが浮き、腹が膨れていた。外傷らしい外傷は見当たらない。ただの痩せた裸だ。
さらわれて三日目に入ったが、たったそれだけの期間でこうなるのか、と頭が痛くなりそうだった。難儀で半端。最強と呼んで差し支えない体は、生き物としてはどこまでも不完全だ。
しゃがみ込み、頬を何度か叩き、
「おいリリィ。リリィ。生きてるか? リリィ?」
と呼びかける。返事は無い。瞼を持ち上げ、目を見る。瞳孔が開ききっていた。
つ、と背中を汗が一筋落ちる。まさしく火事としか言いようがない状況のくせに、汗は妙に冷たかった。
恐る恐る胸に手を当てたが、心臓の鼓動は感じられなかった。何より、体がよく知った冷たさを放っていた。
遅かったか。
思わず下唇を噛み、その後、歯を食いしばった。徒労、無駄、そういった言葉が頭の中をぐるぐると巡り、そして逃げるという選択肢に辿り着かせた。
逃げる。どこへだ。そもそも何故逃げる。
鼓動が一段速くなる。
逃げるべきだ。勝機は失われた。勝つ術は無い。
さらに一段。さらに。さらに。さらに。
動いているわけでもないのに鼓動は速くなる一方で、最終的に頭痛を呼んだ。
「つっ」
と思わず声が漏れた。頭を押さえ、膝を折った。
そして俺は、口の端が持ち上がっていくのを止められなかった。かつて俺を苦しめた男の顔が浮かび、そしてそれはやがて、ロブの顔へと変わった。
殺してやる。あの馬鹿は絶対に俺が殺してやる。
俺の背後の壁が爆発したのはその時だった。
壁に空いた大穴から姿を見せたのは、酔っ払いだった。
「うぉ熱《あ》っちぃ。はは、よく燃えてら。燃えろ燃えろ。全部燃えろぉ。よぉオルグレン。久しぶりだな。元気だったか?」
姿を見せるなり、ロブがそう言った。左手には高級そうなウィスキーの酒瓶。中身は半分ほど。右手には銃を持ち、ぶらぶらと遊ばせている。
ロブの後からゆっくりとドラゴンキラー・アイロンが姿を現す。伏し目がちというか、明らかに覇気の欠如した目は以前と変わらない。
「危ないところだった。ああ本当に危ない。危うくパーティーに間に合わなくなるところだ。水臭いぜオルグレン。狙うならこっちじゃなくて俺にしろよ。せっかく待ってたってぇのによ」
言葉を練ろうとする自分を見つけた。だが何も言わなかった。それよりも体の内側で練り上げられていく歓喜が、全てを飲み込んだ。
敵が向こうからやって来た。
「どうした? さあ訊いてくれよ。俺を責めてくれよ。どうして自分を騙したのです、中尉殿。どうして裏切ったのです、中尉殿。どうして。中尉殿。どうして。中尉殿。中尉殿、中尉殿、中尉殿。煩えってんだよ。馬鹿みたいに繰り返しやがって!」
瞬時に右腕を振り上げ、引き金を引いた。が、割って入ったアイロンの右手に阻まれていた。遅れて、アル中が何があったかを理解したらしく、顔に満面の笑みを浮かべた。
「嬉しいぜオルグレン。やる気か。やる気なんだな?」
「黙れ酔っ払い。いかにも頭の悪そうなドラゴンキラーに魚の糞みてえにくっついて何様だ手前。工場の近くってのは空気と水が悪いって相場が決まってるが、手前みたいなのが生きてると世の中全部の空気が濁る。とっととくたばれ。そのほうが世のためだ」
ロブは眉をひくつかせたが、すぐに笑みを取り戻した。
「ちぃと会わねえ間に、随分な口の利き方するようになったじゃねえか、ええ? 中尉殿、か。呼ばれてる間はずーっと気に食わなかったんだがな、手前の口で酔っ払い呼ばわりされるのも、それはそれでむかつくな。は、はは、ははははは。そうだよ。結局俺は手前の全部が許せねえ。生きたいか? 生き延びたいか? 這いつくばって命乞いしろよ。そうすりゃ見逃してやってもいい。冗談だけどな。はははははははっ」
笑いながら、体をくねらせ、ウィスキーをあおる。
頭、腹、足、と狙いを変えて三発撃ったが、その全てがアイロンに阻止された。そして俺が銃を撃っている間も、ロブはウィスキーを飲み続け、結局そのまま飲み干してしまった。
空き瓶を背後に放りつつ、右手を挙げ、銃口をこちらに向ける。
「俺の番だ」
とにやつきながら銃撃。俺は左に走りつつ撃ち返したものの、こちらからの射撃は全てアイロンが叩き落とした。そのうちに、燃えている資材まで突き当たり、最後の一歩で逆に踏み切り、今度は元の場所目掛けて走った。走りながらも頭を必死で回転させる。
どうする。どうすれば出し抜ける。ドラゴンキラーが邪魔だ。奴をどうにかしねえと、勝ち負けにもならねえ。
ドラゴンキラーの背後で、ロブが悠々とリロードを始めていた。それを横目で追いつつ、俺のほうもリロードの心配をしなければならなかったが、適当な場所が無い。逃げようにも追いつかれるに決まっている。どこか、どこかないのか。
あった。
俺はリリィの背後へと回り込むと、その体を引き起こして盾にした。ドラゴンキラーからは逃げられないものの、銃弾からの盾にはなる。
「手前の女の死体を盾にするか。酷《ひで》え男もいたもんだな」
「酒好きのクソ虫が人間様の言葉を喋ってら。こりゃあ珍種もいたもんだ。見せ物にはぴったりだな。そこらの芸人にでも身売りしろ。そうすりゃ小銭が稼げる」
「その強がりは嫌いじゃねえ。けどな、どうやってもお前はもう負けだ。手前の女はくたばった。俺の女はぴんぴんしてる」
「残念。こいつはまだ生きてる。知らねえのか? ドラゴンキラーってのは体を保つために仮死状態に入れるんだ。起きるのにちょいと時間が掛かっちまうが、もうじき朝飯の時間だからな、嫌でも目を覚ます。周りを見てみろよ。朝飯が嫌味なぐらい燃えてるだろう?」
リロードを行いつつ、はったりを並べた。時間を稼いでどうなるものでもないが、とりあえず場に言葉が無いと、すぐにでもアイロンを動かしそうな感触があったからだ。
「つまんねえ冗談だ。まあ、お前に打てる手はもうそんなもんしか残ってねえか。哀れだなあオルグレン。どうだ? 俺に哀れみを受ける気分ってのは。後見人を気取ってたっけか。下に見てた俺から哀れまれる気分ってのは最悪だろう?」
睨み返すと、それが逆に興をそそったのか、ロブは腹を抱えて笑った。
「良い、良いな。最高だ。強がれば強がるだけ堪らなくなる。さあアイロン。俺をもっとよがらせてくれ」
ぽん、と肩を叩かれたアイロンは、即座に俺の前に移動した。
リリィの体をアイロンの側に蹴り飛ばし、その隙に逃げようとしたものの、意味が無かった。俺は後ろを取られ、そのまま床に押し付けられた。
もがいてもびくともしない。背中を軽く押さえられているだけだというのにだ。四肢は動かせた。首も同じく。だが、自由は奪われている。
「最高に無様だな。それでこそ敗北だ。気分はどうだ、ええ?」
限界まで上目に見ても、膝までしか見えなかった。
ここまでか。
だが死にたくない。少なくともこいつに殺されるのだけは御免だ。絶対に嫌だ。自分で自分を殺したほうがまだましだ。
何か、何か手は。手は。手は。
無い。くそったれ。
歯を食いしばり、手をきつく握る。息を深く吸い、
「リリィ!」
と叫んだ。
「いつまで寝てやがる馬鹿トカゲ。とっと起きてこいつらをぶち殺せ! リリィ! 聞いてんのかおい、リリィ!」
叫ぶしかなかった俺を、ロブはえらく気に入ったようで、甲高い声を上げて笑った。
「あははははは。馬鹿だ。見ろよアイロン。こいつが馬鹿って生き物だ。最高だな。死体を起こそうとしてやがる。良いぜオルグレン。もっと、もっとだ。もっと気持ちを込めて叫べ。そうすりゃ死人が墓穴から這い出してくるかもだ。ははははは」
狂おしいほど分かりやすい殺意が腹と頭の中でのたうち回り、けれども俺はそれを無視してそれでも叫んだ。
「くそったれ。とっとと起きろ馬鹿。手前がどじったせいで、こっちはえらい迷惑してんだ。アルマも待ってる。さあ起きろ。起きろって言ってんだよ馬鹿!」
叫んだが、リリィはぴくりとも動かなかった。当然だ。すでに死んでいる。俺が確認した。だが叫ぶことしか出来なかったからそうしている。
が、叫んでいるうちに段々と腹が立ってきた。
「大概にしろこのトカゲ馬鹿。いいからとっとと生き返れって言ってんだ。そうなりゃ幸いだ。俺がもう一回殺してやれる」
叫び続ける俺の頭を、ロブが踏みつけた。鼻が押しつぶされ、血の香が抜ける。
「そろそろ飽きたぞ。他に面白え見せ物は無えのか?」
「リリィ」
ぐ、と俺の後頭部にかけられる力が大きくなる。
チャンスだ、と俺の頭の中で声がした。左腰のスペア。抜いて、真上に撃つ。そこには酔っ払いの顔がある。決断は一瞬。動作も一瞬だった。俺は左腕を動かし、真上に向かって撃った。
つもりだった。
丸見えだったのだろう。俺の左手は恐らくはアイロンによって踏みつけにされていた。
「良い手だったな。なるほど叫んでたのは布石かよ。射撃可能な位置まで誘引しようって腹か」
勝手に解釈しているロブは無視した。そんな思惑があったわけではない。ただやれることと言えばそれぐらいしか無かったからだ。 中指が引き金に触れている。銃口は左に向いている。手に取ろうにも動かせない。
くそったれ。まあいい。とりあえず試せ。何かしらの反応があるかもだ。
俺は中指を右にスライドさせ、引き金を引いた。
炸裂音。ぱん、というやけに甲高い音が響いた。
「は、お前は良くやったよ。表彰したい気分だ。努力賞? 敢闘賞? それとも参加賞か? 副賞はもれなく銃弾だ」
そう言ってさらに笑った。が、その笑い声は不意に途切れそして。
「おい、冗談だろう?」
やけに真剣な色の声が聞こえた。
「くそが。何だってんだ。うおっ、熱っちぃ! やっべぇ。こいつはやべぇ。アイロン!」
そう叫ぶなり、俺の背中に加えられていた力が無くなった。
体を跳ね上げると、すでに二人の姿は無く、代わりに、炎の竜巻が視界を埋めていた。
リリィだった。
火事の真っ只中。その炎が、まるで何かに導かれるように、幾筋もの炎の螺旋《らせん》を描き、そしてリリィの体へと収束していく。そのリリィはといえば、当初は地べたに這いつくばっていたくせに、やがて上体を起こし、顔を天井へと向けた。よく見ると、眉間につぶれた銃弾がへばりついていた。
生きている。
「嘘だろう?」
と思わず俺も呟いていた。目にしているというのに、これが現実だと許容したくないらしい。が、現実だ。紛れもなく。
そして問題は、途方もなく熱いことにあった。炎があちこちから噴出しては、リリィの口元へと集まっているのだ。無作為に火を食い続けている。このままでは、いつ俺もあの炎に巻かれるか分かったものではない。
「おいリリィ! 切りの良いところで止めろ!」
と叫んだが、返事は無かった。そうこうしている間に、リリィの体が徐々に太り始めていた。いや、先ほどまで骨と皮だけだったのだから、元に戻っていると言うべきだろうか。何にせよ普通の光景とは言えなかった。人間が太る過程をとんでもない短時間で見せられている。
リリィ、と何度呼びかけても、止まる様子など全くなかった。が、かといって外に出ようにも、あの二人がまだ近くに居る可能性がある。のこのこ出て行っても殺されるのがおちだ。なら、道はこちらにしか無い。
俺は低い体勢からリリィにタックルを見舞った。そのまま体を引き倒し、そして両手で口を押さえた。一瞬、竜巻が消えかかったものの、またすぐさま勢いを取り戻したため、慌てて距離を取った。
失敗。良い考えだと思ったが、甘くなかった。
が、他に手を思いつかなかったため、再びタックルをかけた。今度は先ほどよりも力を込め、可能な限り隙間を塞いだ。即座に周囲を観察すると、竜巻が揺らぎ、強制力を失ったただの炎の塊へと変わった。が、またすぐに形を成した。このままだとジリ貧だ。
「くそったれ。俺の人生こんなのばっかりか。ああもう、どうにでもなりやがれ!」
叫んだ俺はそして、リリィの口を塞いだ。
俺の口を使って。
直後、リリィによって頬を張られた俺は派手に地面を転がった。
キスが燃えるように熱いというのはなかなか出来る経験ではないだろう。しかも事前に熱い茶を飲んでいたとか、出来立てのスープを口にしていたとか、そういう温《ぬる》い話ではない。まさに炎。よく考えると、燃えるように、どころの話ではない。実際に燃えた。
リリィの口の中に残っていた炎の一部は、俺の口内へと逆流、鼻へと抜けた。キスして鼻から火を噴くという経験を生まれて初めてした。被害が一番酷かったのはやはり口内で、火傷した。しばらく何を含んでも痛むだろう、というのが俺の見解。
「な、ななな、何をしているのだ貴様っ!」
それがリリィの第一声だった。ただし俺は壁際まで転がっていたため、その姿は逆さだった。
「目ぇ醒めたか? 醒めたんなら何よりだ。起きて早々に悪いが仕事だ。すぐ出る」
体を起こしながら言うと、リリィはそこでようやく自分が素っ裸であると気づいたようで、きゃぁ、と小娘じみた悲鳴を上げ、胸と股間を覆った。赤面している。
「今頃気づいたか馬鹿トカゲ。まあいい。素っ裸でも寒くないんだろ? とっとと」
「馬鹿か貴様。嫌がらせかそれは。そうか喧嘩か。喧嘩を売っているのだな。上等だ。今ここで始末してやるっ!」
「お前、事情分かってねえだろ」
「知るか。大体ここはどこだ」
「お前はアイロンに負けて捕まった。そしてここに連れてこられた。カフェが襲撃されてもう三日目だ。その間、お前がどういう扱いをされてたかまでは知らねえよ」
手短に説明をすると、リリィの目が大きく開かれ、かと思えば腰が砕けたらしく、その場にへたり込んだ。
「おいリリィ」
「あ、ああ。大丈夫、大丈夫だとも。平気だ、立てる」
が、リリィは完全に腰が抜けてしまったらしく、結局立ち上がれなかった。仕方なく歩み寄り、背中を向けると、恐る恐るといった調子で腕が俺の首に回される。
「済まん」
「まずは服を調達か」
背負いつつ倉庫内を改めて見渡したが、リリィが食い散らかしたお陰か、火の勢いは随分と弱まっている。二階にある死体はまだちゃんと服を着ているだろうか。一旦事務所まで戻るという選択肢も一応はあるが、時を置いて何かしら手を打たれることも十分に考えられる。勝機は今と見るべきか。
決断すると、俺は二階への階段を上った。
「い、いいか。このことは誰にも」
「言うさ。言うに決まってる。とっ捕まったリリィは素っ裸でした。もしかしたら生娘からおんなになれたかもしれませんってな。いいじゃねえかよ。減るもんじゃなし」
「それが大変な目にあった相棒にかける言葉か」
「優しい言葉が欲しけりゃ金払えトカゲ女」
「このまま首を絞めてもいいのだぞ」
「上等だ。やれるもんならやってみろ」
「く、く、唇まで奪っておいて言うことがそれか!」
「昔っから決まってるだろ。お姫様を起こすのは王子様のキスだ。まさか鼻から火ぃ噴くとは思わなかったが」
「もういい。貴様に慈悲を期待した私が愚かだった」
「慈悲だと? 冗談じゃねえ。こっちは鼻毛の被害が甚大だ。口の中も火傷した。喉も痛え。こんだけ痛い思いさせられた上に慈悲を寄越せだと? 大概にしろ馬鹿」
「行く末は地獄だな」
「そんなもんが実際にあるんならな」
二階の死体、正確にはそれらが身につけている服はまだ燃え残っていた。リリィを下ろし、死体から服を剥《は》ぎ取って放る。リリィは死体が身につけていた服、というところに抵抗を感じていたようだったが、やがて諦めたようで、腰が抜けたま
まだったものの、何とかボタンシャツとコットンパンツを身につけた。とはいえ、どちらもサイズが合わず、袖と裾を幾らか折らねばならなかった。
「で、腰抜けてる原因は拷問か?」
着替えがひと段落したところで尋ねると、リリィは顔を伏せた。しばらく待つとやがて、
「痛めつけられた」
とぼそりと呟く。ふぅん、と応じると、それを機に口を開いた。
「あの女の力だ。痛竜の力だ。触れられただけで、体中に激痛が走る。立っていられないほどの痛みだった。想像出来るか?」
「出来る」
と言い切ると、リリィは驚いた様子だった。こめかみを突いて見せると、
「ああ、そうか。そうだったな。その痛みが、断続的に与えられた。仲間になることを承諾するまで続けると言われたよ。それでも拒絶を続けたが、今度は食事を断たれた。連中の煙草の火などを食っていたが、そのうち、周囲から火気の類《たぐい》を遠ざけられてな。空腹で死にそうだった」
「裸にむかれた話が出てないぞ」
「衣服を取られ、晒し者にされただけだ。さすがにあの女以外に私に近づこうとする者は居なかったからな。そうこうするうち、自分でも自覚出来るほどに痩《や》せこけて、汚物を見るような目で見られだした」
「そりゃ被害妄想だ。ま、良かったじゃねえの。犯されずに済んで。女ってのは貞操が大事なんだろ?」
「もっと丸い言い方をしろ」
「断る。さて、立てるか? 仕事の時間だ。あの馬鹿どもを始末する」
俺の言葉に、リリィは明らかに険しい表情を浮かべた。分かりやすい恐怖だった。
「あの女には勝てん。無理だ。この体は、あの女の力の前には全くの無力だ」
「知るか。立て」
「退《ひ》こう。退くべきだ。他所《よそ》の土地へ逃げれば」
俺はリリィの言葉を遮って、大げさにため息をついた。
「仕方ねえ。魔法の言葉をくれてやる。びっくりするぞ。死体が生き返るくらいだ。一度しか言わねえからよく聞け。準備はいいか?」
リリィが小さく頷いたのを確認して、俺は笑って言った。
「我慢しろ」
「は? それだけか?」
「それ以外にどういう手がある。お前、痛い思いしたくないから逃げようって言ってんだぞ。大概にしろ。そんなもん誰だって嫌に決まってる。じゃあ手前が今まで殺してきた連中はどんだけ痛い思いしたんだ? 簡単さ。死ぬほど痛かった」
「貴様」
「俺なんかしょっちゅうだ。それに比べりゃなんてことねえ」
「屁理屈だ」
「屁理屈も理屈の内だ。諦めて我慢しろ。何でか分かるか? お前が俺の相棒だからだ。分かったな? 分かったら立て。状況を一切合切引っくり返す」
リリィは大きく目を見開いたが、やがて思い出したように苦笑し、その後なんとか立ち上がった。まだ膝が笑っていたものの、幾らか歩き、跳ねを繰り返し、ようやくのことで落ち着きを取り戻したようだった。
「今になってようやく分かった。私の選択は間違いだったよ。お前の相棒で居るということは、恐らくこの世で三本の指に入る不幸だ」
俺は下卑た笑顔でそれに答え、
「上手くいったらキスしてやるよ」
「馬鹿か貴様。犬としたほうがまだましだ」
リリィに運搬されて宙を舞ったのは久しぶりで、相変わらず寒いと思いつつも、気味が悪くなりそうなほどの短時間でサードの事務所に到着した。
そこからさらに五分ほどで事務所を制圧し、アル中とアイロンの居場所を仕入れた。
かつてのレビンのセーフハウスだと言う。
「いっそこんな建物吹き飛ばしてしまえばよいのだ。粉砕だ、粉砕」
事務所を出掛けにリリィが喚いた。
「わ、私の裸を見た連中が何人かいた。全くもって不愉快だ。許しがたい」
「いいじゃねえか裸くらい。減るもんじゃなし」
「プライドが減る」
「んなもん持ってるだけ無駄だ。とっとと捨てちまえ。無いほうが生きるのに便利だぞ」
「貴様のような野人には、私がどれほど傷ついているか分からんだろうよ」
「分かった、分かったよ。ただし粉砕ってのはなしだ。そういう話なら、後で難癖つけて絞れるだけ絞るとしよう。交渉の席には同席しろ。ドラゴンキラーがご立腹となりゃ、結構出してくれるだろ」
「あ、いや、さすがにそこまでは」
と、生々しい話を持ち出されるなり、いきなりしぼんだ。俺としては本気だったため、思わず肩が落ちた。その後、気を取り直して再び宙を舞った。屋根から屋根へ。建物から建物へと、ぴょんぴょん飛び移る。
セーフハウス手前の墓地に到着するまで、やはり五分ほどしかかからなかったものの、着地するなり、体を必死で動かして暖を取った。火傷したり凍えたりと、忙しい一日だ。それもこれもどれもあれも、全部あの酔っ払いのせいだ。
絶対に殺してやる、と決意を新たに、そこからは徒歩で進んだ。警戒が厳重になっているはずだと想定し、慎重に進むためだったが、期待はずれにも程があった。
誰とも出会わなかった。
「お待ちかねって奴か? それともあの女ドラゴンキラーの力に絶対の信頼を置いてるのかね」
それでもどこかに潜んでいるかもしれないと不安だったため、幾らか速度を落として歩いていた。
「後者だろうな、恐らく。あの力は脅威だ。対ドラゴンキラーという点においては特に」
「お前ももうちょっと使い勝手の良い竜の肉に当たってればな」
「火を食えているからかろうじて経営が成立している、とも言える」
「それもそうか。あ、ちょっと訊くが、お前の火ってのは竜やらドラゴンキラーには有効なのか? つまり、実効ある攻撃手段として機能するのか?」
「限界まで火力を上げればあるいは、というところだろうな。だが戦闘の最中にそれだけの時間を作り出すには、別のドラゴンキラーの援護が必要だ。だから、私一人だけであれば、せいぜいが毛と衣服を焼ける程度だろうな」
使えねえな、と鼻で笑うと、
「それで良かったと思っているよ。ただでさえ特別な体を持っている上に、力までが類を見ないほど特別だったら、それはそれで重たいだろう?」
「そんなもんか?」
「そういうものだ。マルクトには私の同類が四人いる。それを知っているだけでも、自分は特別ではないと心が安らぐ」
「ドラゴンキラーってだけで気持ち悪いほど特別だろうに」
「だからこそだろう。ちゃんと話を聞け。なんだその馬鹿丸出しの答えは」
「ん? ああ、悪い悪い。興味無いって最初に言っとくべきだったな」
リリィは大げさにため息をつくと、
「他に何か手は無いのか?」
と言った。それだけでは言葉が足りないと思ったのか、
「ああ、その。アイロンに対抗する手段は、我慢する以外に無いのか?」
と言葉を改めた。
「あるわけねえ。根性見せろよ屁垂れトカゲ」
「根性無しは貴様のほうだろう」
「よく知ってるな、そいつで正解だ。さて、阿呆の城が見えてきたぞ」
俺の言葉にリリィは立ち止まり、次いで俺も足を止めた。
「どうするのだ?」
「ドラゴンキラー同士の喧嘩は、室内じゃちょっと無理だ。いや、お前たちは平気だろうが、俺が巻添えを食う」
「私一人で突入、という選択肢もあるが」
「そいつは最高だが、却下」
「もう同じ轍《てつ》を踏むつもりはないぞ」
「そうじゃねえよ。お前が一人で突っ込むってのは理に適ってる。俺も出来るならそうしたいとこだが、あの酔っ払いは俺が相手したいんでな」
リリィは質問をたっぷり含んだ視線を投げてきたが、俺が何も言わなかったため、大人しく引き下がることにしたようだった。
「それで、具体的には?」
「こんがり焼いてたっぷり食え。阿呆の城が砂上の楼閣《ろうかく》だってことを思い知らせてやる」
「放火して燃焼を促進させろ、というわけか」
「ま、さすがにそれであの二人がくたばるとは思えないからな。出てきたところで喧嘩と洒落《しゃれ》よう。お前はドラゴンキラーの相手をしろ。俺はアル中を殺《や》る」
リリィは深く息を吸うと、
「ココ、私は勝てるだろうか?」
「運が良けりゃ生き残る。力が無けりゃ死ぬ。お前も知ってるだろう? 勝負ってのは水物だ」
「勝て、とは言わないのだな」
「さあここで問題、お前の想像の中の俺は何て答えた?」
リリィは微笑すると、どうやら俺の声を真似て、
「言うわけねえだろ。馬鹿かお前。それに前にも言ったじゃねえか。優しい言葉が欲しけりゃ金払えよ屁垂れトカゲ」
と言った。
「よく分かってるじゃねえか。正解だ。何も間違ってねえ。さてどうするよドラゴンキラー。金払うってんなら、飛び切りの言葉をくれてやる」
「つけておいてくれ。生き残れたら払う」
「論外だ。どうしても言葉が欲しいってんなら、便所の落書きでも読んで来りゃいい」
リリィは苦笑し、そして頷いた。顎で屋敷を示すと、その場から消え去る。
炎が巻き起こったのは、その後だった。
ぽつり、と言うしかないような小さな光源は、一瞬で火災と呼べる規模にまで成長した。しかしそれも僅かな時間で収束していく。それを見ていると、魔法使いじゃあるまいし、とラダーマンが口にした言葉が思い起こされた。
端から炭化していく。強烈な速度で色が黒く塗り替えられていく。
爆発音がしたのは、建物が半ばほどまで炭化した頃で、壁の一部を突き破って何かが外に飛び出した。宙を舞ったそれは、やがて落下し、その姿を現した。
間違いなく、ロブ・アレンビー元中尉と、ドラゴンキラー・アイロンの二人だった。
焼かれ、炭化していく建物を背に、二人が俺の前に立った。
「酷いことするじゃねえかオルグレン。俺が焼け死んだらどうするつもりだったんだ?」
粘ついた笑みを浮かべるロブは相変わらず片手に酒瓶を持っていた。が、どうやら向こうもけりをつけるつもりのようで、ベルトに四丁の銃を差し込み、さらに左手にも一丁携えていた。
「火葬で死ねると思ったか? 手前の死に方はもっと惨めなものに決まってるだろ。豚に食われてクソになれよ」
「は、女が生きてたからってやけに強気じゃねえか」
「好きなだけ吹いてろよ酔っ払い。リリィ!」
ひゅん、と音を立てて、リリィが俺の右に立った。同時に、二人の背後にあった建物が、がらがらと音を立てて倒壊を始める。最後には轟音を響かせ、完全に崩れ落ちた。
その間も、俺たちはにらみ合いを続けていた。
「手前の女と俺の女。どっちが強いかなぁ?」
「勝ったほうが強いに決まってるだろ。結果はこれから出る」
「オルグレン、オルグレン、オルグレン。ガストン・オルグレン。お前はここで死んじまえ」
「酒で脳味噌馬鹿になってんだろ? 俺の知り合いにゃそんな名前の奴は一人しか居ねえよ。ついでに教えといてやる。そいつは三年前に死人だ。お前、誰と勘違いしてんだ? まあ酔っ払いに名乗るのもおこがましいが、一応名乗っといてやる。俺の名前はココだ。名字なんざ無い。ただのココ。脳味噌|緩々《ゆるゆる》なんだから、とりあえず万回言え。それでも覚えられるか怪しいもんだ。ああ全く。救いようがねえってのは、お前のためにある言葉だよアル中。酒浸りで血が燃えるんだろう?」
「死人の名前を騙るお前は何だ? 死人以下のクソ虫のくせして、偉そうに生きてんじゃねえよ。日陰者が何様のつもりだ」
「その日陰者の王様を気取る手前は、哀れな哀れな阿呆の王様だ。王様、王様か。随分メルヘンな響きだな。は、メルヘンアル中か。最高じゃねえか」
程度の低い言葉を交わす俺たちとは裏腹に、リリィとアイロンは静かなにらみ合いを続けていた。互いに相手の隙をうかがっているらしいことが知れる。
そうするうち、リリィは右へ右へと、ゆっくりと歩き出した。それに合わせて俺はじりじりと左へ。対する二人も、俺たちの動きに合わせて移動した。
互いのドラゴンキラーから離れた形になった。
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男と女。人とドラゴンキラー。
戦闘の火蓋《ひぶた》を切ったのはロブだった。酒瓶を投げ捨てると、銃を右手に持ち替え、そして引き金を引く。
ぱん、という炸裂音がやけに響き、そしてそれを合図にでもしたかのように、二人のドラゴンキラーは衝突した。リリィが炎を生み出し、その熱が感じられたものの、そちらを見る余裕など無かった。
俺はロブの銃撃を左右にかいくぐりつつ距離を詰めていた。
大量の酒を入れているくせに、ロブの狙いはえらく正確で、一発が右肩を掠めた。血がほとばしるものの、かすり傷。
撃ち時、と判断したところでグリップを強く握ると、同じく向こうも攻め時と見たのか、同様に距離を詰めてきた。銃口の真正面に、それぞれの顔。
炸裂音。
そして二人共が体を捻って互いの銃弾をかわしていた。銃を構えたままで距離を取る。
「楽しいなぁオルグレン。楽しくて楽しくて堪らねえ」
数発を交換したところで弾切れを起こし、距離を保ったままでリロード。一方のロブも同じく弾切れを起こしたようだったが、手に持った銃を放り投げ、ベルトから新たに一丁抜いた。ロブのほうが少しだけ早い。
「どういうわけかな。ちっとも楽しくねえんだ。こりゃあれだ、負ける気がしねえからだ。だから焦りようも無いし、命を賭けてる感じもしねえ。つまんねえ。最低だ」
反撃に二発。
このまま持久戦に持ち込んで、ロブの攻撃手段を奪うか、と考えていた。弾数は恐らくはこちらのほうが上だ。
が、即座に否定した。アイロンを呼ぶに決まっているし、そうなればこちらもリリィを呼ばねばならず、つまりは勝敗を互いのドラゴンキラーに預ける羽目になる。
俺は再び距離を詰め始めた。
「芸が無えんだよっ」
ロブの叫びに答えるかのように、俺はジャケットを剥ぎ取って放った。
互いの視界が一瞬だけ遮られる。そしてそのジャケット越しに俺たちは銃弾を交換した。
はらり、と穴だらけになったジャケットが落ちる。
俺の、縫ったばかりの左腕に穴が開き、そして。
ロブの体には幾つもの穴が開いていた。膝が折れ、その場に崩れ落ちる。
「勝負ありだな」
「冗談だろう? まだまだやれるさ。やるに決まってる。はっ、弾ぁ喰らったのなんていつ振りだ?」
ゆっくりと喋りながらも、ロブは右手を挙げようと懸命になった。
手が震えており、やがて持っていられなくなったのか、銃は手から零《こぼ》れ落ちていった。が、それを確認すると、不意に形相を歪め、喚く。
「くそが、痛え。痛えんだよ。アイロン! アイロン! さっさと来い! 俺の痛みを食い尽くせ! 俺を今すぐ動けるようにしろ!」
どん、と音が響いたのはその時で、音のしたほうを見ると、リリィがアイロンを地面に押さえつけていた。遠目にも汗まみれであることが知れる。ああしているだけでも痛いのだろう、と想像がついたが、言いつけをきちんと守って我慢しているらしい。
「放して、放してったら。ロブが死んじゃう!」
押さえつけられたアイロンがもがき、喚いた。
「向こうも勝負がついたらしいな。手前の負けだ」
「は、はは、ははは。負ける? 俺が? ふざけるな。俺は負けねえ。手前なんぞに負ける気はねえ」
「選べ。自殺するか、俺に殺されるか。どの道、その傷じゃもう長くない」
ロブは俺を睨みつけながらも、地面に落ちた銃を手に取り、ゆっくりとこめかみへと持っていった。
「ロブ駄目っ!」
アイロンが叫ぶ。ロブがそちらを向く。そして、口の端を持ち上げると。
弾かれたようにその銃を俺へと向けた。
「オォルグレン!」
炸裂音。
ロブの額に穴が開き、そしてそのまま、ゆっくりと仰向けに崩れた。
アイロンの叫び声が辺りに響いた。
俺は空を見上げ、そしてロブだったものを見下ろした。
「ココだって何回言わせんだよ、馬鹿野郎」
口から飛び出す言葉はやけに拗《す》ねた口調で、俺はよろよろとロブが投げ捨てた酒瓶の所まで歩き、それをロブの手に持たせ、瞼を閉じてやった。
「何やってんだ俺は」
死体にはなむけを持たせるなど、意味が無いことだと知っているはずだというのに。苦笑しつつ、
「じゃあな」
と言葉を残し、俺はリリィの所へと歩いた。リリィは脂汗を浮かべ、アイロンは泣いていた。
「殺せないか?」
「自由は奪った。それだけで」
「不十分だ。こいつにとって泣くほど大事な相手を殺したんだ。生かしといたら禍根《かこん》になる。そいつはトラブルの種だ。たんと恨みを買ってる相手を生かしとけば、こっちが危ない」
「嫌だな。とても」
「殺されかけといてよく言うよ、全く」
「恨みを買ったのは私とお前だ。恨まれて、敵意を向けられたとしても、その時は私たちで責任を取ればいい。駄目か」
俺は煙草を取り出してくわえると、
「とりあえず起こせ。痛えだろうが、もうちょっと押さえてろ。それから火ぃくれ」
引き起こされたアイロンは目を真っ赤に腫らしていた。他人の充血した目を見ると、釣られてこちらの目も痛くなるのはどういう理屈だろう。
煙を吐きながら、
「俺としちゃお前を殺しときたい。けど相棒は生かしたいとさ。さてお前はどうしたい? 死にたいか、生きたいか、どっちだ?」
「ロブを返して」
「死ねば骨だ。出来るわけないだろ。ガキでも知ってる理屈だ」
アイロンは眉間に皺を寄せた。
「さて無理なことを分かってもらえたところで、もう一回訊くぞ。死にたいか、生きたいか、どっちだ?」
「好きにしたらいいでしょう」
「お前にだって選択肢はあるさ。自殺出来る。ドラゴンキラーが舌を噛み切ったくらいで死ぬのか知らんが」
「おいココ」
「ま、俺にどうこう出来る問題でもない。どんだけくたばって欲しいと思ってても、俺にはお前を殺せない。やれるのはリリィだけだ。そのリリィが生かすっつってるわけでな。良かったな。死なずに済んで」
「どうするつもり」
「ブライダルに連れてく。俺としてもあんまりいい気はしないんだが、一応そういう約束なもんでな」
「あんな所に戻るくらいなら、死んだほうがましだわ」
「ああ、そりゃ最高だ。その言葉を待ってた。リリィ、死にたいそうだ」
「それは売り言葉に買い言葉というものだ。真に受けるものでは決してないぞ」
「いいじゃねえか。死ぬっつってんだ」
リリィはため息をつくと、
「行くあてはあるのか?」
と訊いた。アイロンはきつく唇を結んだまま、小さく首を振って否定した。
「だったらどうだろう。私たちの所に来ないか?」
「お前、何言ってんだ」
「ブライダルに戻すという選択肢もあるだろうがな、それでは今回と同じことの繰り返しになる。ブライダルがドラゴンキラーの力を振りかざし、そして私たちが大金でもって請け負って止める、という構図だ。それはもう満腹だ。うんざりだよ。だから、防止するためには、彼女を事務所に入れてしまうのが一番だ」
「待て。言ってる意味が分からねえ」
リリィは俺の言葉を完璧に無視した。
嫌な雰囲気だった。話に関われていないこの感じは、放っておくと大損が確定する。が、これは感じてしまった時点で詰んでいる。俺がどれだけ理屈を並べて反論しようとも、力ずくでものを言う気に違いなかった。
絶望的だ。
「どうだろうか? 無理にとは言わない。それに。それにココはあなたの大切な人を殺してしまった仇《かたき》でもある。そういう男に世話になるのは、やはり苦痛ではあるだろうから」
「一つ、訊いていい?」
「答えられることならば」
「あなたがまともでいられるのは、この人がいるから?」
「断固として違うぞ。そこは否定しとく。違う。絶対に違うからな」
と俺は割って入ろうと試みたが、二人共に無視された。侘しさで胸が張り裂けそうになる。舌打ちをしながら新たな煙草を取り出し、短くなった煙草を使って火をつけた。
「半分はそうだろうな。もう半分は、アルマという少女のお陰だ。血は繋がっていないが、母親代わりだと思っている。いや、そうなりたいという希望だな」
「子供?」
「そうだ。子供だ。まだ八歳なのだが、これがよく出来た子なのだ。賢い上に優しい。それにな」
リリィはアルマ自慢を続けていたが、それを耳にするアイロンの表情は徐々に険しくなり、やがて完全に凍りついた。そして首を動かして俺を見ると、
「あなたが前に言ってた身内って、子供?」
「そうだ」
それが止《《とど》めだったようで、アイロンの感情は一気に昂《たか》ぶった。
「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃなくて。ごめんなさい、ごめんなさい」
とぶつぶつと呟き始める。
「おいどうした」
とリリィが声を上げたが、アイロンは耳に入っていない様子だった。
「ごめんなさい。私、子供を。なんてことを。ごめんなさい、許して、ごめんなさい」
声は徐々に大きくなり、やがて限界を迎えたのか、
「嫌ああああっ!」
と叫び、頭を抱えた。
「あの痛みを植えつけたことを後悔しているのか?」
「ごめんなさい。謝っても許してもらえないかもしれないけど。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
俺は醒めた目で狂乱するアイロンを眺めていたが、そのうちに苛立ちが募り、最期には耐えられなくなった。眉間に皺を寄せると、「手前の男しか目に入って無かったってか? は、お笑いだ。酷え街だが、ガキなんざそこら中に転がってんだよ。考え無しに力使って、アルマを巻添えにしたのは手前じゃねえか。なるほど最初に会った時に馬鹿だって言ってみたが、どうやら本当らしい。力を使えば巻添えになる奴が出ることぐらい、細胞の一つ分でも頭を働かせてやればすぐに思いつく。そのくせ今更許してだと? 大概にしろ。けじめって言葉を知ってるんなら、とっととくたばれよ馬鹿女」
アイロンは顔を跳ね上げるようにして睨みつけてきたが、俺はそれを鼻で笑い飛ばした。
が。次の瞬間。
いつの間にか正面に立ったリリィによって、俺は胸倉を掴まれて放り投げられていた。ごろごろと地面を転がり、二人から少し離れた所でようやく止まる。
くそったれの馬鹿トカゲめ。
「お前な、もう少し優しくしてやれんのか?」
俺は地面にうつ伏せになったまま、中指を立てて答えた。リリィは小さくため息をつくと、
「大丈夫だアイロン。アルマは強い子だ。心からの謝罪は、ちゃんと受け入れてくれる」
そう言って抱きしめると、アイロンはリリィの胸に顔を埋めて泣き始めた。そしてアイロンが泣き止むまでリリィは背中をさすり続け、俺は緩々と体を起こした。
やがて泣き止んだアイロンは、
「私、あなたたちの仲間になります。それで許してもらえるとは思わないけど、でも、罪滅ぼしはしなくちゃいけないと思うから」
と俺にとって絶望的な一言を口にした。
「だ、そうだ。ココ、後は宜しく頼む」
俺はがっくりと肩を落とし、顔を押さえ、その後明るくなりつつあった空を見上げたりしながらも、三本目の煙草を取り出そうとして失敗。もじもじしたり、赤面したり、うろうろしたりした挙句。
「ふざけんじゃねえ!」
と叫んだ。
「却下する。お前の仕事は私の我侭に振り回されることだ。諦めろ。ああ、アイロン。これがココの正しい使い方だ。覚えておくといい」
「手前らいっぺん死ね。いやいや、一度じゃ足りねえ。十? 百? 千? 延々死に続けろボケナスども」
「どうして私も含まれてるの? 仲間になるんだから、もうちょっと柔らかい言葉を使ってよ」
「おうおう、手前の男からは優しい言葉をかけられてたってか? 冗談じゃねえ。甘ったるい言葉は夢の中だけにしとくんだなトカゲ女ども」
「下品ね」
とアイロンはリリィに向けて言った。
「まあ、これが普通だ。なに、すぐ慣れる。害虫のようなものだ」
「そう。あなたが言うなら、そうなんでしょうね」
「ああ、保証する」
畜生。どうしてこうなる。
虚《むな》しさしか含まれないため息を吐こうとすると、なんだか侘しくなって泣きそうになった。泣いてもいいんじゃないかと真剣に考えたが、さすがにそこまで踏み切れず、やっぱり俺はため息を吐いた。
これからどうなるんだろう、と他人事のように考えていると、
「ほら、あれが金の心配をしているココの顔だ」
と、リリィがろくでもないことを口にした。
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エピローグ
ラダーマン・カフェの修繕が完了したのは、ロブアンドアイロンカンパニーという恐ろしく短命だった組織が解散して、三週間後のことだった。
俺の事務所の看板もカウンター内に新たに取り付けられる運びとなった。金を取るという話だったため、じゃあ遠慮するかと思っていたところ、リリィとアイロンの強い意向により、結局払うことになった。金貨三枚の大損だ。
『ドラゴンキラーいっぱいあります。アパート三階、便利屋ココまで』
「なあココ、あれは一体なんだろうな?」
「うちの看板だ」
「そうではなくて、どうしてまだ文言《もんごん》が『あります』のままなのだ」
「何となく」
「しかもいっぱいは居ない。私とアイロンの二人だけだ」
「馬鹿かお前。一人でももたれ気味だってのに、二人もいたらそりゃいっぱいって言うしかねえだろうが。お陰で貧乏貧乏大貧乏だ。畜生め。俺に煙草と酒をやるなって言ってんだな?」
「どちらも体に良いものではないのだ。この際酒も煙草も止めてしまえ」
「嫌だね。ストレス真っ盛りのところに禁酒禁煙だ? そりゃ死亡宣告だ。冗談じゃ無え。くそったれ。よりにもよって何で俺の所にドラゴンキラーが二人も。神様は俺がそんなに嫌いか?」
「無神論者のくせして、都合の悪い時だけ神様を悪く言うのだな。恐れ入るよ、全く」
「煩えよ。なんだこの理不尽な感じは。気づいてるか? 俺の事務所は俺以外全員女だ。あの忌々しい黒猫までメスだ。しかもふざけたことに、俺の相手が出来るおんなは一人も居ねえ。理不尽だ。生殺しだ」
「諦めろ。お前はそういう星の元に生まれたのだ。無神論者だが、運命論者ではあるだろう?」
「正解だよ馬鹿野郎」
どさり、とカウンターに伏せると、新たな人物が俺の左隣に座った。
アイロンだった。
「アルマは?」
と腰を落ち着けるなり言う。この女が俺の事務所に入った経緯は、アルマを、正確には子供を苦しめたという罪の意識かららしい。どうやら子供に何かしら強い拘りがあるようだが、深く訊こうとは思わなかった。が、事象だけ見れば、アルマを溺愛する過保護な保護者が一人増えた、ということになる。
「奥で料理の練習中だ。心配なら手伝って来りゃいい」
「食事が終わったらそうする」
「ああそうかい」
アイロンは細身の体を強調する純白の制服姿だった。スカートが極端に短く、真正面に座れば下着が見えるだろうが、細すぎるために、もっと言えば尻が貧弱すぎて俺としては何もそそられない。
どこのものかといえば、診療所である。痛竜の技能を生かし、痛み止めとして働くよう話をつけてあった。月に金貨五枚という、役人の給料の倍ほどを診療所から受け取る約束になっていたが、俺にとってははした金に過ぎない。それよりも痛みを食わせることでアイロンの食費を抑えよう、という思惑だった。
が、それでも事務所からは金がどぼどぼと滝のように流れ落ちていく。
「白衣姿が板についてきたな。最初は服に着られている感があったが、最近は十分着こなしている。似合っているぞ」
リリィが俺をまたいで声をかけると、アイロンは、ありがとう、と微笑した。こいつが笑顔を見せるのは、俺以外の人間に対してだけだ。俺には相変わらず素っ気無い。それも当然と言えば当然だから、特に気にはしなかった。
「ブライダルとけりがついて、三週間か。彼女も随分馴染んだ。そう思わないか?」
「思うか阿呆」
ブライダルの思惑は、実際のところ、俺が想像した通りだった。連中は街の実権を握ろうと、ドラゴンキラーを手に入れ、そして、俺を釣り上げるために仕事に横槍を入れたわけである。レビンとの繋がりも確認された。ブライダルの計画が達成された時点で、レビンをブライダルの幹部として迎え入れる約束だったらしい。
「おいおいココ。こりゃ何の冗談かな?」
とカフスが汗を拭きながら笑っていたことが思い出された。
「アイロンはうちの事務所で引き取ることにしたって話だ」
「俺はそんな冗談が聞きたいわけじゃない」
「俺だって冗談だと思いたい。が、リリィもアイロンもそれを強く希望してる。俺にはどうすることも出来ないさ。お飾り所長ここに極まれり、だ」
「ふざけるなよ」
「手前こそふざけんな。俺がお前を恨んでないとでも思ってんのか? レビンと二人して仕事に茶々入れやがって。それをちゃらにしてやろうって言ってんだろ。お互い引け目はあるんだ、全部を水に流せば、それで誰も死なずに済む。分かってると思うが、こりゃ善意の提案だ。面倒事続きで疲れてるんでな、さっさと楽になりたいんだよ、俺は」
「手前っ」
どん、とリリィが床を強く鳴らした。顔が強張《こわば》っているのは俺の指示による演技だが、安っぽいにも程があった。が、連中には随分と効果的だったようで、俺はそこでリリィの指先から火を貰った。ドラゴンキラーの力の発露を目にし、部屋にいた連中の表情が凍った。
そこからは早かった。今回の騒動に関してブライダルの名前を出さないことを条件に、アイロンはブライダルから俺の事務所へと移籍した。ちなみに、後金はふんだくった。どこまでも義理を欠いた話だったが、燃やしてしまった建物の弁償代を工面する必要に迫られていたせいだった。金のやり取りを終えて俺の手元に残ったのは、わずかに金貨五十枚。それもドラゴンキラー二人の食費の前に、わずか一週間で見事に消えた。
貧乏だ。貧乏にも程がある。真剣に禁煙と禁酒を考えねばならないほどに逼迫《ひっぱく》している。
アイロンを雇うことを決めた際、俺の頭痛を食ってくれることを期待していたのだが、
「あなたの頭痛は美味しくない」
と言われ、アルマかリリィが間に入らねば決して食おうとはしなかった。
「ここまで不幸だと、呪われてんのかって真剣に考えたくなるな。呪ってんのは誰だろ。恨み買ってるしなぁ」
カウンターに顔を伏せたままぼやくと、
「まず私、それからカフス。ロブもそうだったんじゃないかしら」
とアイロン。
「死人は勘定にゃ入れん」
「死者の呪いを馬鹿にすると、死ぬわよ」
「言ってろ。死人は死体だ。死体は物だ。物は何もしねえ」
「寝首をかかれないように気をつけなさい」
「お前がかくって? 何の冗談だ。これでもアルマにゃ懐かれてるんだ。俺を殺せばアルマは悲しんでくれるさ。それでもやるか?」
「あなたの態度が目に余れば」
ぐるり、と首を回した。言葉の端端から敵意が伝わってくるのがやりきれない。これでも身内かと思いたくなる。はっきり言えば、いつ爆発してもおかしくない爆弾だ。だというのにリリィの我侭に振り回された挙句、雇い入れる羽目になっている。
「賑やかになってきたな。この調子で三人四人と増えればもっと楽しいかもしれん」
「日々逃げ出すことを考えてるんだがな」
「ついていくよ、相棒」
そう言い切るリリィの顔はどことなく誇らしげなものだった。
「ああ、やっと分かった。俺を呪ってるのはお前だリリィ」
「何事も捉え方一つさ。お前にとっては呪いでも、私にとってはこの状況は好ましい」
「ほら、やっぱりそうだ」
「諦めろ。何故か分かるか?」
「知るか」
リリィは微笑み、そして。
「お前が私の相棒だからだよ」
(終)
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あとがき
どうもこんにちは。海原です。
何の因果か偶然か、はたまた誰かの陰謀なのか、編集さんも後悔していると専らの噂、地獄の連続刊行です。お陰で大変です。誰か助けて。
読了された方、楽しんで頂けましたでしょうか。もしそうなら、大変に嬉しく思います。
あとがきを立ち読みされている方、よろしければそのままレジへと持っていってください。沢山売れると編集番長、じゃなかった、担当編集番長殿が多少は優しくなるに違いないので。飴と鞭鞭鞭が飴と鞭鞭、くらいになるかもしれません。どうか人助けだと思って。いや本当に。なにとぞ。
さて。
前作のあとがきを書いてからというもの、色んなことがありました。中でも飛び切りに大きかったのは、清書済みで彩色済みのイラストを修正してくれ、とお願いしたことです。普通はそんなことやっちゃいけません。プロのイラストレータさんの清書(しかもカラー)に注文つけるなんて真似は外道の誹りを受けても仕方ないぐらいです。
でもやりました。
どのイラストかといえば、口絵です。原因は海原の見落としでした。
イラストはまず、ラフが上がってきます。その段階で注文をつけるわけですね。ここが違うとか、ここをこうしてくれとか。主に設定や描写と合っているかチェックします。それを元に清書を描いていただくわけです。で、このラフの段階でのチェックを疎かにしていたために、清書を修正して、とお願いする羽目になったのでした。
清書って重たいです。手間と時間がかかってます。修正という注文は大変に無茶な要求です。なので、最悪の場合は本文をごっそり変更しよう、と覚悟を決めました。嫌な汗が止まりませんでしたが。
幸い(カズアキ氏にとっては最悪なことだと思われますが)、なんとか修正して頂けることになりました。カズアキ氏には感謝と謝罪を幾ら並べても足りません。
本当に申し訳ありませんでした。そしてありがとうございました。
さてさて。
世の中にはお盆とお正月という、印刷所がストップしてしまう時期があります。書籍の制作に関わる人間のスケジュールを、無理矢理に前倒しにしてしまうという、残酷にして無慈悲な働きをするものです。いわゆるお盆進行。お腹が痛くなる響きです。
で、今回。
縁遠い世界の話だと思っていたのに、そのあおりをまともに食らいました。
ねじ込まれるスケジュール。高笑いする編集番長。半泣き海原。
でもちょっと見方を変えると、使ってもらえるというのは期待とか愛情の発露であるとも思われますので、ありがたいと思わないといけません。好きの反対は無関心だと、昔から当たり前のように言われています。
なので、本とかDVDとかゲームソフトとか、果ては部屋の掃除にまで手が出せない状況でも、ありがたいと、ありがたいと、ありがたいと。
多分ありがたいはずです。誰か洗脳してください。
五分で出来る自己暗示とか、一分で苦手を克服する方法とか、五秒でマゾになれる方法とか。楽で効果が絶大なのがいいです。どこかに無いでしょうか。
最後に謝辞を。
大量のご迷惑をおかけしている担当編集、番長殿、軍曹殿。鋭い突っ込みを頂きました編集長殿。そしてこちらもご迷惑をおかけしておりますカズアキ氏。校閲、DTP部署の皆様。デザイナー様。印刷所、製本所の皆様。
またもや皆さんのお陰で、ココたちの物語が本になりました。心よりお礼申し上げます。
そして本書を手に取って下さった皆さん。
よろしければまた次でお会いしましょう。
海原育人