われらロンドン・シャーロッキアン
河村幹夫
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目次
最初のあいさつ――「ホームズに乾杯」
第一話 ロンドン・ウォーク
第二話 「タイムズ」悩みごと欄から「ストランド誌(マガジン)」へ
第三話 ホームズとコナン・ドイル
第四話 スコットランド・ヤードと黒い博物館
第五話 新天地を求めて――ホームズとアメリカ
第六話 バスカヴィル家の魔犬を訪ねて――ダートムア紀行
第七話 ホームズと日本武道
第八話 シャーロック・ホームズ紀行
第九話 ホームズ対レストレード警部――英国人のねばり強さ
第十話 ホームズの隠れ家
第十一話 ホームズの履歴書
第十二話 事件現場検証旅行
第十三話 ウインブルドン・ビジネス
第十四話 シャーロック・ホームズ・パブの仲間たち
最後のあいさつ
文庫版あとがき
われらロンドン・シャーロッキアン
最初のあいさつ
「ホームズに乾杯」
シャーロック・ホームズは生きている!
彼は一八五四年(安政元年)一月六日、イングランド北部ヨークシャー地方の農場に生まれた。エミリー・ブロンテの「嵐ヶ丘」でも有名なこの地方は、今でも荒涼として淋しい場所が多く、人びとは小さな町や村にお互いに寄りそうようにして住んでいる。そうでなければヒースの生い茂る丘陵の片隅に、冷たい北風を避けるようにして石造りの頑丈な家を建て、荒地を開墾して畑をつくり、地面を掘りおこした時に出てきた瓦礫や石を丹念に積み重ねて石垣を張りめぐらし、その中で羊、牛、馬を飼って暮している。大声を出しても届かないほど、これらの農家は互いに離れているので、自給自足・独立独歩のヨークシャー魂は、子どもの頃から人びとの心の中でおのずから育まれる。これが幾世紀も続いたヨークシャーの田舎の生活であった。
ホームズ自身の語るところによると、自分は田舎の地主の息子で、一家はそういった地主としての生活を代々続けてきたという。その人見知りする性格、自説をまげない頑固さ、他人を頼りにしない行動力といったものは、いわばそうしたヨークシャーの風土が彼に植えつけたものかもしれない。
ホームズは、その前半生については多くを語っていないから推測する以外にはないが、カレッジ在学中、すでにその優れた推理力は学友たちの認めるところであったらしい。
ある年の夏休み、ある学友の招待で、ロンドン北東部に広がる沼沢地帯にある彼の父親の屋敷に滞在した時に、偶然の機会から鋭い観察力に基づく犀利な推理で、その父親の隠された前半生の秘密にせまり、気味悪くなったその父親はついに卒倒してしまったという。
ホームズは、当時の英国の二大大学であったオックスフォード/ケンブリッジのいずれかを卒業したようだが、他の学生のように、政治・経済、社会、文化分野での超エリートとしての道を歩むわけでもなく、先程の友人の父親がホームズの将来を予見したごとく、「世界で最初にして唯一人のコンサルティング・ディテクティヴ私立諮問探偵」たらんと秘かに心に期してロンドンに出た。大英博物館の近くに下宿を借りて開業したが、最初は大して客もつかない。余った時間を犯罪に関する研究に充てていたのだという。
そんなある日、偶然の機会からワトソン医師と知りあい、二人はロンドン市ベーカー街二二一Bのハドソン夫人の下宿に同居するようになる。ここを根城に、ワトソンの助力を得ながら十九世紀の終り頃から二十世紀のはじめにかけて、実に二十三年間にわたり大活躍をした。もう百三十歳をこえているはずだが、時おりリューマチの発作におそわれることを除けば、今も元気でイングランド南部のサセックスの田舎で悠々自適の生活を送っている――。
この「厳粛な事実」を信じないと、シャーロッキアン(シャーロック・ホームズの熱烈ファンないしは研究家)としては、いささか醒めた、つまらないことになってしまうのである。ホームズは今もなお健在、ロンドンのシャーロッキアンが彼の長寿に祝意を表するのは、けだし当然のことなのである。
毎年、彼の誕生日の一月六日前後の吉日に、かつてホームズが時の英国政府の特命を受けて新型潜水艦の設計図をスパイの手から奪いかえして英国の国難を未然に防いだ、有名な「ブルース・パーティントン設計図事件」犯人逮捕の現場となったチャリングクロス・ホテルで、私たちロンドン・シャーロック・ホームズ協会の熱烈会員百数十名が正装して、このホームズ誕生日パーティを盛大に催すことになっている(もっとも最近は某熱烈国会議員が会場の手狭さを理由に、場所を国会議事堂内の宴会場に移してしまったが)。
霧深い一月のロンドン、当夜六時頃より総勢百数十人の紳士淑女が次々と「辻馬車」(今でも当時のままにキャブと呼ばれている黒塗りのタクシー)から降り立つ。控えの間での雑談がしばらく続いたのち、定刻七時、会場のドアがあく。厳粛な雰囲気の中で、まず協会の理事長が「女王陛下に乾杯」の音頭を取り、全員着席。続いて会長が開会の辞と「シャーロック・ホームズに乾杯」の音頭で締めくくる。一同食事に入ると一転して、賑やかなざわめきが会場を支配するが、この食事のメニューがこっていて、これが欲しくて出席する人もあるくらいである。
この誕生日パーティは、毎年テーマが決められている。例えば一九八五年度は「スコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の証言」であったが、そのメニューの一つ一つの献立の下に、ホームズ物語に出てくる短い言葉がドレッシングのように添えられている。「スコットランド・ヤードの証言――興奮で胸がドキドキして」「女王陛下に乾杯――うまくいった」「メニュー――素晴しい御馳走」「パテ――味がこまやか」「ひな鶏――私はナイフを取り出した」「ジャガイモ――塩と一緒に」「ケーキ――そして甘い」「コーヒー――少しばかり自分で」といった具合である。この念のいった口上のために協会幹事諸氏は相当な時間を費やしたに違いない。このメニューは誕生日パーティのお土産でもあった。
食事の終った頃、来賓のあいさつが始まる。最も印象に残っているのは、八五年一月八日のパーティでのスコットランド・ヤード警視総監ケニス・ニューマン卿の「不滅の記憶――正義の番人」と題した演説であった。卿はホームズの、時にはライバル、時には良きパートナーであったレストレード警部の活動を例にあげて、スコットランド・ヤードの生い立ちから現在に至るまでの発展の歴史と、その間の苦労の数々を分りやすく、洗練されたユーモアをときどきまぜて講演され、ホームズの探偵としての活躍ぶりに敬意を表された。
その席上、私たち夫婦は、ホームズ生みの親コナン・ドイルの末娘ホームズ協会名誉会員ジーン・コナン・ドイル令夫人と、元外交官ゴア・ブース卿未亡人の二人の上品な御婦人方に紹介された。およそ東洋人らしい(というか、白人でない)のは私たちだけであったのと、家内の着物姿が珍しく映ったためだろうか。
その場は社交的な会話に終始したが、一年程経ったある日、突然ゴア・ブース卿夫人より手紙を頂いた。亡くなられたご主人の厖大(ぼうだい)な蔵書(卿は外交官で学者、そして熱烈なシャーロッキアンであった)を整理していたら、ホームズに関係した日本語の本が数冊出てきたので、記念に私たちに贈りたい、とのお申し出を受けた。
早速お伺いしてみると、こちらが予期した通りそれらは長沼弘毅氏が出版されたホームズ研究書のシリーズで、同氏が署名入りで卿に献呈したものであった。長沼氏は日本の大蔵次官など要職を歴任されたが、専門とされた経済学・社会学の研究以外にも孤高を保つホームズ研究家として知られており、私の最も敬愛する先達であった。またそこでゴア・ブース卿夫人が神戸の生れで、卿が若き外交官として日本に滞在した頃に知りあって日本で結婚したことも教えて頂いた。私はそういった幾つかの偶然に驚き喜び、その時頂いた他の貴重なホームズ研究書と、長沼氏の著書を大切に日本に持ち帰って今までに集めたホームズ関係の蔵書とは別にして、「ゴア・ブース・ライブラリー」と名づけて私の書棚に、きちんと整理しておくことをお約束したのである。
さて、かくのごとく「ホームズ研究」にのめりこんでしまったのも、やはり私がホームズの事件の「現場」にいたからであろう。私は一九八一年秋から五年ほどロンドンに駐在した。海外勤務というものは、たとえそれが初めての経験ではなくても、やはり異文化との接触の中での緊張の連続である。そんなある日、気分転換につけたテレビに映ったのが何と、ホームズがひそかに愛したただ一人の女性アイリーン・アドラーの登場する「ボヘミアの醜聞」の名場面であった。
久方ぶりに思わず感じたホームズへの興奮。そうだ、なんと自分はホームズのおひざ元のロンドンにいるのだ、と気がついた私は矢も盾もたまらず、探しあてた住所を頼りにロンドン・シャーロック・ホームズ協会に熱烈な入会申込みの手紙を送った。
程なくして、協会名誉書記ミッチェル氏から「熱烈歓迎」の手紙と共に、会則が送られてきた時は本当に嬉しかった。実は英国人の友人が心配そうに教えてくれたのだが、この協会は規則の上では非常に開放的にはなっているようだが、実は英国流の陰険さで、好ましくない(と、彼らの目に映る)人物が入会を申し込んでも、やんわりと上手に断わってしまう。その結果、現実には英国人と、彼らと同じ肌の色をした連中だけで楽しんでいる、いわゆる英国のクラブ的存在である。従って、そこに無理矢理入りこんでも、ただ会費を払って会報を受取るだけのサイレント会員である限りは問題ないとしても、実際に会員と知りあい、彼らと同じスノービッシュな会話を交し、行動を共にすることは難しいだろうし、また外国人(特に異文化の東洋人)にはあまり愉快でないことも多いだろうというものだったからである。
受取った会則には協会の目的として、
一、シャーロック・ホームズに関する著作の読者として、また研究家として共通の興味と関心を持つ人たちが集い、
二、シャーロック・ホームズとワトソン医師の公的・私的の生活に関する知識の追求を奨励し、
三、シャーロック・ホームズの聖典(ホームズ物語)に関する当協会の活動と交流を公表し、
四、この種の題目について議論するための会合とか、講演を催し、
五、当協会の目的と活動に共通点を持つ、国内外の他の組織との連帯を深める。
と、書かれてあった。なにはともあれ、勇気を出してとびこんでみる以外ないと悟った私は、折返し申込書に所要事項を記入し、会費をそえて送り返した。
こうして仲間入りを果してはみたものの、実際に初めての会合に出てみると、そこはまさしく英国人らしい人見知りをする雰囲気であった。数十人の集まる定期研究会ではあったが、まず一杯飲んでからという訳で、バーで勝手に一杯飲みながら仲間内でおしゃべりしている。新顔とわかっていても、特にやさしく、親しくしてくれる訳でもない。目があえばかすかに微笑んではくれるが、だからといってとくに会話の輪の中に入ってこいとも勧めない。
これが以前に住んだことのあるアメリカやカナダだったら、皆が私のまわりに集まって来て気軽に声をかけてくれて、私の心の中の「未知の恐怖」を取り除こうと努めてくれたろうに――。
私はその時、ある英国人が語ってくれたことを想い出した。「英国では何でも時間がかかるのですよ。英国人は拙速が嫌いなのです。時間をかけて、じっくりと構えて、よくみきわめて、そしてまるで『醸造する』ようにして人間関係をあたためていくのです。そのためには他所者は辛抱強く、そして誠実につきあっていくことが大切です。『静かにたたき続けよ、さらば扉は開かれん』というわけですよ。」
確かにその通りではあった。少しずつ少しずつ、気づかぬうちに私も仲間に加えられていったようだ。そして気がついた時には、自分も一人前のシャーロッキアン気取りで、英国人の仲間と議論したり一緒に旅をするまでになっていた。
五年間のロンドン生活を終えて私たちは日本に帰って、ちょっとしたきっかけで、「日本経済新聞」の一九八八年一月六日号(申すまでもなく、この日はホームズの誕生日)の文化欄にホームズについて書く機会を与えられた。そこで紹介したロンドンのシャーロッキアンの活動はこんなものである。
「ロンドンのシャーロッキアンは忙しい。暇を見つけてはトラファルガー広場の近くにあるシャーロック・ホームズ・パブに集まって『情報交換』を怠らないし、研究者ともなれば、聖典を繰り返し読み、実際に検証して何か新しい発見をしなければならない。 私も、『バスカヴィル家の犬』の事件現場、英国西南部ダートムアの荒野を数日かけて車で走りまわった経験がある。
一方、公式行事としては一月のお誕生日パーティに続いて、春には研究会が二,三回催されるし、夏か秋には協会主催の『事件現場検証旅行』がある。
私が参加したのは『プライオリ学校事件』で、数十名の会員――医者、大学教授、実業家、弁護士、家庭の主婦、秘書等々――が二泊三日で、入念な事前調査に基づいた実地検証を行なったのである。
秋も深くなり、夜霧が立ちこめる頃ともなると、会員が首を長くして待っていたホームズ登場の懐かしの名画会が催される。どの俳優の演じるホームズが最もふさわしいか、限りない議論が続くのもまた楽しいものである。こうやってシャーロッキアンの仲間入りをしているうちに、交友の輪は限りなく広がり、そしてヴィクトリア時代のロンドンに対する関心はますます深まる。
今でもロンドン市ベーカー街二二一Bの住人ホームズ宛てには、世界各地から一年間に一千通もの手紙が届けられる。そういった手紙を編集した本まで刊行されており、日本からのファンレターも散見される。ホームズ先生は返事を出す。
私の子どもはこんな手紙を受け取った。
『親愛なるたけし君へ』
ホームズさんは君の手紙を受け取って、とても喜んでいました。そして秘書の私に、代わってご返事をするようにとの指図がありました。ホームズさんは実はもう引退してサセックスの田舎で養蜂に精を出しています。
……残念なことに、もう探偵の仕事は引き受けられませんが、昔やった仕事が今でも多くの人びとの関心を呼んでいることをきいて、いつもよろこんでいます。
ホームズ氏秘書
ニッキー・ケイパーン」
この記事が筑摩書房編集部の風間元治氏の目にとまり、シャーロッキアンの目を通してみた英国の風物と英国人の生活とか、精神構造といったものを、体験談風にまとめてはどうかとのお話を頂いた。文章には素人なのでためらいもしたが、同氏の暖かい励ましの言葉を背に受けながら一所懸命に書いたのが本書である。ネタだけは新鮮かつユニークを自負しているが、料理の腕前はいかがであろうか。
もし読者の方々のお口にあえば、シェフとしては大変嬉しいことである。
最後に本書の上梓に格別の御助力を頂いた風間元治氏に深い感謝の気持をささげたい。
第一話
ロンドン・ウォーク
「本当に昔のままであった。時がきて、私は彼と一緒に二輪馬車に乗り、ポケットに拳銃をしのばせ冒険のスリルに胸をときめかせていた。ホームズは冷静で厳しい顔つきをし、そして口をきこうとしなかった。街灯の光が彼の厳しい顔つきを照し出した時、私は彼の額が物おもいにしずみ、唇はしっかりと結ばれているのを見た。……
我々はベーカー街へ向って行くのだと思ったが、ホームズはキャベンディッシュ広場(スクウエア)の角で馬車を止めさせた。降りる時に彼はすばやく左右にするどく目くばりをし、それからも街の角に着くたびにつけられてはいないかと出来る限りの注意をはらっていた。我々の通った道順は確かに尋常ではなかった。なにしろホームズのロンドンの抜け道に関する知識は途方もなくひろかったので、彼は馬小屋が並び建つ小路の網の目の間を確かな足どりですばやく通り過ぎたが、私にとっては、その存在すらも知らなかったような場所であった。我々はやがて古びた陰気な家々が並んでいる小さな通りを抜けて、マンチェスター街へ出て、ブランドフォード街に達した。ここでホームズはまたすばやく細い路地に入りこみ、木の門を通り抜けて人気のない中庭に着いた。そして、とある家の裏戸を鍵であけた。我々は一緒に家の中に入りそして扉をしめた。」
――「空家の冒険」――(著者試訳)
「抜け道まで知るのは大変でしょうが、これから数年かけてロンドンの街をじっくり味わってみたいとお思いでしたら、とにかく歩いてみることでしょう。この街は人口八百万人といわれていますが、東京に較べれば実際ははるかにこぢんまりとした大都会らしくない街です。
地図を片手に歩くのは健康に良いことですし、ロンドンの本当の雰囲気を知ることになりますよ。まあ、手始めにロンドン・ウォークにでも参加されたらいかがですか。」
ロンドン市内の中心地にありながら静かなたたずまいをみせるセント・ジェームズ広場(スクウエア)に面した瀟洒なオフィスビルの一室で、英国の超一流企業の社長であるアーサー卿は、ゆっくりと葉巻から紫煙を天井にくゆらせながら、あの特徴あるパブリック・スクール訛りで私に話してくれた。数年来のつき合いであり、親切で信頼のおけるこの人のさりげない示唆を私は直ちに受け入れてはみたものの、さて、そのロンドン・ウォークとやらは一体どうしたら参加出来るのだろうか。そんな私の問いかけに対して、彼は急に素気なく「あっ、それは何でも、主要な地下鉄の駅の出口に日曜日の朝いくと分るそうですよ。」とだけ言って、微笑むのだった。
この点が実に同根の米国人と英国人を区別している点で、もしこれが米国人だったら、親切心をむき出しにして新聞の広告欄を見たり、秘書を呼んで調べさせたり、はては家族、友人にまで電話して、このウォークを実現出来るようにはからってくれたであろう。私は以前に米国・カナダに数年間住んだ経験があるが、彼らの親切心は際限なかった。
しかし英国人は明らかに違う。彼らの人生観の根底には、ヴィクトリア女王時代の「自助」(セルフ・ヘルプ)の精神が未だにしっかりと根を生やしており、他人に対する親切心というものは、相手が持っているはずの自助の精神を逆なでするものであってはならない、そういった意味では「限定的」であるし、またそれが相手に対するエチケットでもあるという訳である。子どもが石につまずきころんで泣いても、親もまわりのおとなもすぐに走って行ってだき起し、手やひざについた泥をはらってやったりはしない。その子どもが持っているはずの「自助の精神」を認めないことになるからだ。所詮、人生というものは、生れついた時から「平等」には出来ていないし――特に階級社会にあっては――それをとやかく言っても始まらない。大切なのは、誇りを持って人生を生きていくことであり、その為には他人に頼らないで生きていこうとする「自助の精神」が不可欠のものである。「自助」の物質的基礎はなんといってもカネ。従って英国人は、老いも若きも金儲けの話が大好きである。
次の日曜日、「自助の精神」に満ちた私は、時間も場所もあてずっぽうに朝十時半頃、ロンドン塔への最寄り駅、地下鉄タワーヒル駅の出口で柵にもたれて人待ち顔で立っていた。ホームズ流の推理でゆけば、このロンドン・ウォークという得体の知れない「犯人」が日曜日に現れるとすれば、時間は教会での礼拝の済んだ後(それ以前にはロンドンでは世俗的行事は何も始まらない)、現れる場所はウォークというからには観光場所に近い所、しかも間違いのないように出口は一ヶ所しかない地下鉄駅となると、このタワーヒル駅は好条件を備えている。
秋もすでに深く、風も冷たい。観光シーズンも明らかに終った十一月初めの日曜日であってみれば、駅を降りる人もまばら。十一時近くになって、私のまわりで行ったり来たりしている一人の男が目にとまった。季節にはまだ早いと思われる厚手のコートを着て、マフラーを首に巻きつけおまけに手袋までしている。三十代後半であろうか、目つきもするどく、布製の帽子(クロス・キャップ)をやや目深にかぶっていて目の動きはまるで見えない。小柄だが、肩幅もガッチリした男だ。ホームズの好敵手(ライバル)レストレード警部が変装して犯人を追っているのか、と空想逞しくしていたら、その男が私を見つめながらゆっくりと近よって来た。そして、「ハイ・マイト! アー・ユー・フォー・ザ・リッパー?」と非常に強いコクニー訛りで話しかける。
この「レストレード警部」ならぬ愛すべきガイド氏のコクニーを翻訳すると、どうみてもマイトは仲間をさすメイトの意味であろうし、ザ・リッパーは当地ではよく知られた「切り裂きジャック」の事件を言っているのかも知れない。そうか、なるほどと合点した私は「アー・ユー・フォー・ロンドン・ウォーク?」とあわてて聞き返すと、我が意を得たとばかりに「イエス・マイト! あっしが切り裂きジャック係でさあ!」と答えてくれた。
彼の説明によると、ロンドン・ウォークとは、その名の通りロンドンを本当に知りたいと思う人たちの為に組織されているもので、徒歩でガイドの案内を受けながら、観光バスの入り込めない横町、小路を回って人びとの生活とか隠れた由緒ある建物とか、今日のように事件の現場を見て歩くツアーのことである。ロンドン市内だけでも数十種類のコースが午前・午後・夕方に分かれて用意されている。料金は二〜三ポンドが平均的な相場、所要時間は二時間前後、地下鉄最寄り駅で集合・解散、歩く距離は数キロ。当然のことながら、客はいつ「戦線離脱」しても良いのだ。そして今日ここから出発するコースは、約百年ほど前におこった有名な「切り裂きジャック事件」の現場を訪ねるコースであった。そんな会話を交している内に出発時刻の十一時がきたが、私以外には誰も客が現れない。
「レストレード氏」はだんだん不機嫌になり、私に向って、もう一電車待ってからを繰り返すが効果が出ない。日曜日の真昼間、それもよりによって切り裂きジャックではね、とこちらも内心先行き悲観的であったが、十一時も半ばを過ぎた頃、やっとスウェーデンはストックホルムから観光に来たという若夫婦が登場、めでたく出発と相なった。レストレード氏の収入は合計六ポンド。
だが、この「切り裂きジャック・ウォーク」が現場のホワイトチャペル地域に着くまでに、すでに問題が発生した。お互い、全く言葉が通じないのである。肝心のレストレード氏の説明はほぼ完璧なコクニー訛(なま)り、しかも彼は、それがコクニーの本拠地イーストエンド(ホワイトチャペルはその中心地)を巡るツアーであることからして、その背景にふさわしい言葉で私たちに説明しようとする。しかし、それが私には半分も分からないし、北欧の若夫婦には全く駄目ということがほどなく分かった。
コクニー訛りはロンドンの東側、テームズ川の下流側にある下層階級の居住地、イーストエンドで使われている特有の言葉(スラング)で、お世辞にも上品とは言えないものと当の英国人も決めてかかっている。語源的には雄鶏の卵(コックズ・エッグ)から発して「出来損なった卵黄のない小さな卵」、転じて「意気地なし」「甘えっ子」、更に転げまわって地方人の目からみた「都会人」という意味でエリザベス一世時代には使われていたようだ。英国の長い歴史の中でも都会といえば常にロンドンを指し、それ以外には都会というものは考えられなかった。今でもロンドンに行くという時にゴー・ツー・タウン go to town「町に行く」という感じで、タウンという語も定冠詞もつけないで小文字で成句にしてしまっている程、英国人にとってロンドンはすべての意味で中心的存在なのである。そのロンドンの市民の使う言葉が通称コクニーであったが、その当時はまだ「標準語」という国家意識に裏づけられたものはなかったので、地方人にとってコクニーは皮肉と羨望をこめて相対した言葉であったと思われる。
十八世紀にサミュエル・ジョンソン博士が英語辞典を初めて編纂し、これが「英語」であると天下に示した時に、当時勃興しつつあった新中産階級から上の階級は高まる国家意識を背景に争って「標準語」にとびつき、自己のアイデンティティを確立し、差別化を計った。それに対して、産業革命の進展と共に新しい「労働者階級」に転化させられ、イーストエンドから離れることの出来なかった「ロンドン市民諸君」は、以前と同じようにコクニーといわれる彼らの言葉を語りつぎ、今日に至っている。
「コクニー」と「標準語」は確かに用語法、発音もかなり異なるが、それでは「標準語」とは何かとなると、これはこれで一悶着も二悶着もある。BBC英語が標準語である、などと言おうものならスノービッシュな「パブリック・スクール――オックスフォード/ケンブリッジ」出身エリートは、鼻の先にせせら笑いを浮べながら「そういう理解の仕方もありましょうかね」と間接話法で、その話題を紙くず籠に放り込んでしまうであろう。
さて、ホワイトチャペル(名前だけ聞くと世俗を離れた清冽な環境の地の如くであるが、実はもっとも人間くさい、イーストエンドの中心地)地下鉄駅近くの「切り裂きジャック」事件現場で、案内人(ガイド)のレストレード氏が身振り手振りをまじえて大仰な表現で(コクニーはロンドン下町っ子の性格を反映して大げさな表現が多い)微に入り細をうがって、いかに売春婦ケイトがむごたらしい殺され方をしたかの説明に入ったところで、ついに客の方は音をあげてしまった。
だが、ここでコクニー英語にケチでもつけようものなら、レストレード氏が、切り裂きジャックに変身して私たちに襲いかかってくるかもしれない。ここは何とか事態の解決を計るべく、「今日は寒い。もう開店時間がすぎているから、パブにでも行って一杯やらないか」とそれとなく持ちかけると、このパブという一語がまるで魔法のように利き目を現して、「それは何という素晴しい考えだ。マイ・デア・マイト!」ということに相なった。
「しかし」と彼は真剣な顔で、こう言った。「もう一つだけ見ておいて欲しいものがある。それはエレファント・マンだ。彼はこの近所の病院の一室にいたのだが、非常にやさしい性格で近所の誰もが彼を愛していたのだよ。その室だけでも外から見ておいてくれ。エレファント・マンがこの窓から臆病そうに顔を出すと、近所の人はやさしくうなずいて彼を見上げたものだよ、と近所のおばあさんが昔、言っていたそうだ。ロンドンの人間は皆、親切でやさしいだろ。」
これ以来、私はロンドン・ウォークの虜になった。時間をみつけては参加したし、時にはウォークのはしごもやった。一日、三回も歩き回ると英語の勉強にもなるし、ロンドンに関する知識もふえるが、家に帰ると足腰に痛みを感じることもしばしばであった。実に各種各様のコースが揃っていて、文学・歴史コースは無論のこと、パブ巡り、はてはロンドン塔の幽霊巡りまで枚挙にいとまがない。
ウォークには数十人の客の集まるのもあれば、ほんの数人というのもある。なかでも割合にいつも客の集まるのは、ロンドン名物のパブ巡りであった。
一つの地域の有名パブ三、四軒を回り、その由来とか特徴を説明してもらった後、そのパブで一杯勝手にやるツアーだが、途中で良いパブがあるとだんだんに参加者の数が減って、最後まで回ったのは数人、残りは途中で引っかかってしまったに違いない。このロンドン・ウォークは途中下車自由、料金も先払いだから、ガイドの方も一向に気にしないのは面白いことだった。二、三ヶ月ごとにメニューが新しくなるロンドン・ウォークの一覧表を見ながら、一年近くかけてほとんどのコースを消化してガイドたちとも仲良くなった頃、突然「シャーロック・ホームズ」がメニューに加わって来たのには驚いたし、また喜びでもあった。
それも短時日の間に相ついで三ヶ所で開始されたのである。出発地点はそれぞれベーカー街駅、エンバンクメント駅、コベントガーデン駅といった具合で、ガイドも別人。早速参加してみると、それぞれに工夫をこらしながら、二、三の物語にテーマを絞っている。コベントガーデン発は「青い紅玉」「四つの署名」「唇のねじれた男」の事件の舞台が中心、エンバンクメント発は「オレンジの種五つ」「バスカヴィル家の犬」「海軍条約事件」「ブルース・パーティントン設計図事件」などが中心である。
やはり地理的に一番恵まれているのはベーカー街発で、ホームズとワトソンが一緒に生活したベーカー街二二一Bの跡地から冒頭の「空家の冒険」、「ボスコム谷の惨劇」、「恐喝王ミルバートン」など題材には事欠かない。このコースのガイドは、後で分ったことだが役者のはしくれだった。大げさなジェスチャーをまじえて、この露路(レイン)をホームズはサッと通り抜けたとか、この辺りで屋根からレンガをぶつけられたとか、リージェント街のこの辺りでホームズは暴漢に襲われたが危うく事なきを得たとか、本当にこの目で見て来たかの如き名調子で語るものだから、客もつい説明に引きこまれてしまい、名場面では拍手も出るほどであった。
しかし「待てよ」と私は考えざるを得なかった。ロンドン・ウォークはその対象が歴史的建造物であれ、過去の事件であれ、歴史上の人物であっても、すべて「実在」の物なり人なり事件であるはずで、実在しなかった物語上の人物の「活躍」をタネにしてウォークなどしているのはこのホームズ物だけではないのか……私はその大根役者氏にそっと尋ねてみた。
「ねぇ、ねぇ、シャーロック・ホームズは本当はいなかったのでしょう。その架空の人物をテーマにしてロンドン・ウォークを組織するなんて相当なイマジネーションが要りますねぇ。」
すると彼氏はキッとなって「あなたは何を言うのですか。シャーロック・ホームズ氏は大英帝国の最盛期であったヴィクトリア時代後期に大活躍した名探偵で、彼の業績は友人のワトソン医師によって克明に記録され、今日まで語りつがれているのですよ」と厳かな口調で答えた後、ニヤリと口元に笑みを浮かべて、片目をつぶってウインクしてみせてくれた。
第二話
「タイムズ」悩みごと欄から「ストランド誌(マガジン)」へ
「ぼくは新聞は犯罪記事と悩みごと欄しか読まないんだよ。特に悩みごと欄の方はいつも色々な示唆に富んでいてね。」
――「花嫁失踪事件」――
この「悩みごと欄」とは原文の the agony column の訳にあたるものだが、この言葉は古き良き時代の英国人には独特の響きをもって伝わっているようだ。
英国の最も代表的な日刊紙「ザ・タイムズ」紙は一七八五年に創刊された。その二百年目に当る一九八五年には各種の特集記事を掲載した。その中の一つ、同年十月四日号の「悩みごと欄、人生に不可欠な鍵穴」という記事によれば、何年か前に行われた同紙のどの欄が読者に最も読まれているかという秘密調査の結果は、誰もが予想した通り第一面の通称、悩みごと欄と呼ばれている個人広告欄であった。それは英国内の、タイムズ紙を読むほどの知的、裕福な階級の生活をのぞく鍵穴のような意味あいを持っていたようだ。
残念なことに一九六六年五月にこの悩みごと欄は第一面から追放されて、「告知欄」という何の変哲もない見出しに変ってしまったが、実にタイムズ紙の初期の頃から人気のある欄であった。求職広告、求人広告、下宿探しといった内容が、このいわゆる三行広告の始まりであったが、だんだんと人間臭い広告、例えば尋ね人、失恋の悩み、求愛の訴えまでが登場しはじめる。一八〇〇年一二月一八日付のタイムズ紙の悩みごと欄には、こんなロマンチックな広告が掲載された。「一枚のカード――今週水曜日、コベントガーデン劇場よりの帰路の御婦人の馬車に一人の紳士が一枚のカードを投げ込みましたが、その御婦人は既婚、未婚の別を添えてこの広告主に是非御一報下さい。その御婦人を空しく探し求めている若い貴族の心を落ち着かせることになります。」
シャーロック・ホームズが活躍したヴィクトリア時代の後期といえば、馬車と霧、そしてガス灯が走馬灯のように浮んで来るが、当時の最も確実な輸送・通信手段は確かに馬車と電報と、そして新聞広告であった。ホームズがこれらの利便をフルに利用したのは言うまでもない。最も有名なのは「ブルース・パーティントン設計図」事件で、犯人たちが「デイリー・テレグラフ」紙の悩みごと欄を利用して連絡しあっていたのをホームズが見つけだし、逆にそれを利用して見事に犯人をおびき出して逮捕している。
さて、悩みごと欄が第一面にあるという当時の新聞は一体、どんな体裁のものであったのか。
ちょうど私がロンドンのアンティック・マーケットで求めた一八八九年七月二七日号(通算三二七六二号)は二〇頁(通常は一六頁)建てで、虫めがねでも使わないと読みづらいほど小さな活字の羅列である。天気予報の欄以外には図も絵も何も無い、ただただ小活字が並んでいる二〇頁なのである。
第一面はすべて広告・告知欄で埋まっている。出生欄に始まって、結婚通知・死亡通知、雑広告に病院広告と続いた後、中央の一番目につく箇所に「個人」欄がある。これが通称、悩みごと欄といわれるもの、いわゆる三行広告だが、そのトップにはこんなのがある。「OO-CRE――後生だから帰ってくるか、または住所を直ちに、悩んでいる MOOCRE に送るように」――ホームズなら、何か事件の臭いをこの三行から嗅ぎつけたかも知れない。
また八月一日付の第一面には「紛失――七月にロンドン・ウエストエンドにて周りをダイヤモンドで飾った大きなオパール付の指輪を紛失せり、取得者はケンジントンのアディソン通り二三番地に持参乞う、謝礼充分」――何やら「緋色の研究」の逆のケースみたいである。
ついでに紙面構成を見ると、第一面の全面広告に続いて第二頁、第三頁も広告と告知の連続。汽船会社のスケジュール、旅行案内、馬とか馬車の売買、転居通知、商品売買広告、教育、学校関係の広告、慈善団体の活動報告、病院案内、裁判所関係の告知、そして求職求人広告と続く。「一八三三年創立の女家庭教師紹介所、学校及び一般家庭向き。(無料で)高級な英国人、外国人の家庭教師を斡旋。就職希望中の家庭教師一覧表無料贈呈。求人リストも希望者に配布」「エリス夫人が主宰する女家庭教師斡旋所、創立以来五十年の歴史を持つ、最高の英国人及び外国人の女家庭教師を斡旋、相談無料」――「ぶな屋敷」事件を思わせる広告ではないか。そして四頁目からはまさに小活字の羅列。裁判所、警察関係の報告書全文、シティにおける金融、株式関係の記事、外国よりの記事、そして議会での各種の演説、質疑応答が仔細に四頁にわたって報じられている。そのあとに宮廷、社交関係の記事、最後の数頁がまた各種の広告、告知欄といった具合である。
当時の新聞というのは、ニュースとかオピニオンの伝達機関であったと同時に、読者間の通信・連絡手段をも提供していた。そしてホームズはこの点に着目して各種の新聞を読みあさり、事件の臭いのする三行広告を切り抜き整理してデーターとして活用していたのである。
世界に先がけて産業革命に突入した英国は、十九世紀に入って、ますますその国力を高めていく。一八三七年に十八歳で即位したヴィクトリア女王に率いられた英国は、「世界の工場」としてその地位を固め、帝国主義政策を押しすすめて世界各地を植民地化して「大英帝国」を築き上げた。
ホームズの活躍した十九世紀後半は、まさにその絶頂期であった。しかしその当時ですらも、ロンドンの住民の十人の内九人は絶えず空腹であったと言われているように、王室と貴族と大商人と新興産業資本家と少数の知識階級を一握りとすれば、他方には「下層階級」と十把(ぱ)一からげにされた教育の機会にも恵まれない大多数の貧民がいたことになる。細かい活字の羅列のような「タイムズ」紙は、常に前者の側の機関紙であったはずである。その頃の「上流階級」の子弟用には週刊誌として "The Boy's Own Paper", "The Girl's Own Paper" という表題のタブロイド型の絵入り雑誌が人気があった。また「下層階級」用には俗悪な挿絵中心の「黄表紙(イエローペイパー)」物が流行していた。ホームズ物語の作者コナン・ドイルも未だ名が確立していなかった時期には、時おり冒険物語をこの少年雑誌用に書いては僅かな収入を得ていたらしい。
文盲は確かに大英帝国のアキレス腱となりつつあった。産業革命初期には労働者の(特に若年労働者の)「手」だけを必要とした英国の産業が成熟度を増すにつれ、社会は「頭」をも要求しはじめた。一八七〇年の教育法とそれに続く各種の立法措置は普通教育への道を開き、「字を読むことの出来る」中産階級をつくりあげつつあり、そこにジャーナリズムが発展する基盤が存在したのである。
マンチェスター近郊で小間物のセールスマンをしていたジョージ・ニューンズは、ある時ちょっとしたヒントから、当時の一般庶民がいかにこまごまとしたニュースを知りたがっているかを察知して、"Tit-Bits"(豆記事)という名の、いろいろな内外のニュースを丹念に寄せ集めた週刊誌を一八八一年十月に発刊した。「世界中の、最も面白い本、雑誌、新聞から集めた豆記事」というキャッチフレーズは彼の独創的な販売方法――売子たちの帽子に「豆記事軍団」と書いた鉢巻きをさせて街の中をいったり来たりさせた――と相まって創刊号から爆発的な売行きをみせた。
そしてこの成功は、年を経ずして彼をジャーナリズムの寵児に仕立て上げたのである。いってみればこのティット・ビッツは、その後の「リーダーズ・ダイジェスト」誌の原型とでもいえようか。
やがて、時代を読む目に長けていたニューンズは、知的な新興中産階級がいずれは黄表紙の類の低級な雑誌類に満足しなくなると見抜いて、家族全員が楽しく読める「健全な家庭雑誌」を志向した絵入り月刊誌「ストランド誌(マガジン)」を一八九一年一月に発刊する。
いま、この第一号をのぞいてみると、のちに有名になった淡青色の表紙には誌名となった当時の繁華街ストランドの風景が描かれている。乗合馬車、二人乗りのハンソムと呼ばれた辻馬車(現代のタクシーの前身)、着飾った紳士・淑女、警官に新聞売子、それにガス灯が細密に描き込まれた楽しいものである。ここでも最初に二十数頁にわたって広告欄、その後に目次が続く。なかでもプーシキンの「スペードの女王」などを含む外国の翻訳物が多いのが目につく。創刊号の本文は一一二頁。その見開きの刊行の辞に曰く、
「ストランド誌の編集者はこの第一号を謹んで公衆の手にお渡しする。ストランド誌は毎月初めにきちんと発行されるものである。本誌は最も著名な英国の作家たちによる物語や記事を掲載するのは勿論、外国作家の翻訳も併せ掲載されるし、著名な画家による挿絵がそれにつけられる。これまでの雑誌文学の世界でところを得なかった特別な新企画も随時、紹介されることとなろう。既に数多くの月刊物が氾濫しおる状況の下、新しき物にその必要はなからんとの議論もあろう。しかしながらこのストランド誌は、その存在にふさわしい地位を時を経ずして確保するであろうと信ずるものである。編集者がこれまで、安価にして健全なる雑誌を刊行する努力を重ね公衆の寛大なる愛顧を受けることが出来た事実に鑑みるに、この新しい試みも成功を見出すであろうと敢えて願うものである。この第一号には欠ける点も多々ありとは思うも今後の是正に力をつくすことと致したし。もし読者にして本号を好ましきものと思われたる節は、その旨を友人諸氏に伝え、もって助力の手を差し伸べられんことを切に願うものである。」
ちなみに文中の安価にして健全な雑誌とは、ニューンズ自身が発刊していたティット・ビッツ、「豆記事」であった。このストランド誌はヴィクトリア時代の「健全なる中産階級」にアピールし、創刊号より大人気が出た。このストランド誌に着目したのがコナン・ドイルである。
当時のドイルは本業の医者としては全く不成功におわり、天職と意識しはじめていた文筆業の方で渾身の力をこめて書いた長編歴史小説の「白衣組」が「コーンヒル誌」に連載されてはいたが、評判は今ひとつで悩みの多い失意の時期であった。ドイルはこう考えた。一人の主人公による連載物が当ればよいが、どこかで一号読み落すと読者は続けて読まなくなってしまう。しかし読み切り短編の連続では当りはずれが大きい、とすればこの妥協点は一人の主人公による連続物ではあるが、毎号読み切り形式とする以外ない。さて、自分がそういう新しい構想で書くとなると、これまで「緋色の研究」「四つの署名」で世に出したが、未だ不遇な私立探偵シャーロック・ホームズを再び起用して短編の形式で活躍させたらどうであろうか。
こう思い立ったドイルは早速、「ボヘミアの醜聞」「赤毛連盟」の短編二つを書き上げて(彼は一たび、構想をまとめると、筆は早かった)、有名な著作代理人 (Literary Agent) であるワット氏を通じて「ストランド誌」の編集者、グリーンヒュー・スミスに送り届けた。「ボヘミアの醜聞」は第七号(一八九一年七月号)に掲載され、爆発的な人気を得ることに成功した。そして引続き連載した「シャーロック・ホームズの冒険」シリーズにより「ストランド誌」の発行部数は飛躍的に増加し、その数は五十万部にも達したという。
この時期、英国の鉄道網は国内くまなく広がっていたが、アイデアに富むニューンズはこの「ストランド誌」を主要駅の売店に置くことに成功し、長旅の乗客が先を争って買ったという。このホームズ物を契機に「ストランド誌」とコナン・ドイルは長く続く接触を持つことになるのだが、同誌に対する彼の信頼は終生変らなかったという。その名声が高まるにつれて他誌からの勧誘が多くなったにもかかわらず、「ストランド誌」とその名編集者グリンヒュー・スミスに対して、彼は決して義理を欠く行動はとらなかったそうである。
ドイルは一九三〇年七月にその生を終えたが、全くの偶然とは言え、この時期から「ストランド誌」も利益性をしだいに失い、凋落の途をたどることになる。ホームズ物がもはや紙面を飾ることが出来なくなった、というよりは(シャーロッキアンとしては実はそう思いたくもなるのであるが)、その時期以降新しいマス・メディアのラジオが普及し、日刊紙も紙面を充実させ大衆への接近を計ったこともあったが、何よりも世の中のテンポが、当時流行のダンスのリズムのように「速く、そしてますます速くなり」、それに対して「ストランド誌」のようなゆっくりとしたスタイルの月刊誌がついていけなくなったのだ、と『ザ・ストランド・マガジン、一八九一〜一九五〇』の著者のレジナルド・パウンドは説明している。
H・G・ウェルズ、ウィンストン・チャーチル、ハロルド・ラスキ、サマセット・モーム、グレアム・グリーン、P・G・ウッドハウスらの一流の寄稿家を登場させ、時代の動きについて行こうとした努力も報いられず、発行部数もついに十万部を割るに至り、一九五〇年三月号をもって五十九歳の「ストランド誌」はこの世を去った。
一九八七年はホームズがコナン・ドイルの「緋色の研究」によって世に出てから百年目ということで、世界各地のシャーロッキアンの間で各種の記念行事が盛大に催されたが、ホームズは今でも(一八五四年生まれであるから、もう百三十歳を超えているが、サセックス州の田舎で悠々自適の生活を送っている……はずである)変らぬ感謝の念を同誌に捧げているに違いない。
第三話
ホームズとコナン・ドイル
「こうして高架線を走る汽車でロンドンに入ってくるのは、家々が見おろせてじつに愉快だね。」冗談なのだろう、と私は思った。不潔な感じのする眺めなのだ。するとホームズはすぐに説明した。「スレート瓦の家並の上に突き出て、あっちこっちにぽつんと立っている大きな建物を見たまえ、まるで鉛色の海に浮んだ煉瓦の島みたいじゃないか。」「寄宿学校だよ。」「いや灯台だよ。未来を照す灯火だよ。小さいが輝かしい未来の種子をつつんださやだよ。あの中から、今よりももっと賢い、もっと良い未来の英国がとびだすのだ。」
――「海軍条約文書事件」――
ホームズ物語の作者アーサー・コナン・ドイルは一八五九年五月二十二日にスコットランドのエジンバラ市で生れた。ドイルという家名から推察できるようにまぎれもなくアイルランド系で、彼はスコットランド生れのアイルランド人という血筋になる。ドイルがその精神形成を行なった十九世紀後半の英国はまさにヴィクトリア時代の全盛期で世界に先がけて産業革命を達成した同国は世界の工場として工業製品を世界中に輸出して富を蓄積し、海外では植民地獲得とその経営に注力し、国内では都市化が進み、おびただしい数の工場労働者をそこに吸収していた。総じていえば、このヴィクトリア時代後期は英国が最も自信に満ちていた時代と言える。
年表風に時代をたどってみると
一八三七年 ヴィクトリア女王、十八歳で即位
一八三九年 阿片戦争(―一八四二)
一八四〇年 近代的郵便制度成立
一八四二年 香港を英国に割譲
一八四四年 アイルランドでじゃがいも飢饉、一八五一年までに百万人餓死、米国等への移民増加
一八五一年 水晶宮において大英博覧会開催
一八五三年 スコットランド人、リヴィングストン、アフリカ探険、ヴィクトリア滝を発見
一八五四年 クリミア戦争勃発、英国人看護婦ナイチンゲール活躍
一八五七年 インド、セポイ(現地人軍人)の反乱、翌年、統治権が東インド会社より英国王室に移る
一八六四年 四国(英、蘭、仏、米連合)艦隊下関を砲撃
一八六七年 カナダ自治領成立
(一八六八年 明治維新)
一八七一年 労働組合合法化
一八七七年 ヴィクトリア女王、インド女王として即位
一八七八年 第二次アフガン戦争(―一八八〇)
アーサー・コナン・ドイルの少年期はしかし、このような大英帝国の展開とはおよそ縁のないものであった。教養はあっても病弱で経済力の乏しかった父親と、勝気で教育熱心な母親との間にあって、母親の影響をより多く受けたいわゆるマザー・コンプレックスの子だったようだ。貧乏人の教育熱心ということもあったのか、母親の指導で彼は十歳になると寄宿学校に入れられ、そこで二年間過ごした。後に、イングランド北部のランカシャー州にあるローマ教会(イエズス会)系のパブリック・スクールに移されたが、そこでは厳しい規律の下に古典的な学問と、徹底した宗教教育を受ける。結局のところ、彼はそこで敬虔な宗教心を持つに至らなかったばかりでなく、カトリック的思想・教条に対して深い疑念を持ち続けることになる。
その後、ドイツにある同派の学校に移ってドイツ語を勉強したのちエジンバラに帰るのだが、父親は相変らず出世にめぐまれない役人のままで、家長としての責任も不充分であり、まだ若い妹は住込み家庭教師としてポルトガルに出稼ぎに出ていた。弟と妹がその間に誕生したので、母親はやや大きめの家を求めてそれを二世帯で共有することによって生活費を切り詰めようとしていた。彼は母親の強い勧めもあって地元エジンバラ大学の医学部に入学、医者になって家族を生活苦から救いたいという強い意欲に満ちていた。一八七六年十月、アーサー十七歳の時であった。
この時期のアーサーはすでに人並み外れた巨漢で肩幅広く、太い骨格と強い意志を持った青年であった。この医学部在学中に、のちのシャーロック・ホームズの原型となった外科医のベル教授の講義を受け、また親しく交わることが出来た。その自叙伝「我が回想と冒険」の中に描かれたベル教授は「心身共に、きわめてすぐれた人物であった。やせてしなやかで、鼻が高く、端正な顔立ちで、人を射るような灰色の目と、角ばった肩、そしてやや落ち着きのない歩き方をしていた。声は甲高く、耳障りなほどであった。」
ドイルは教授の気にいられて診察の助手をしていたが、ベル教授は腕の良い外科医というだけではなく、患者の「みたて」もきわめて上手であった。その自叙伝でのべている例では、普通の服を着た外来の患者とのやりとりで、
「『君は軍隊勤務をしたな?』『はい、さようで。』
『除隊後、まだ間がないね?』『その通りです。』
『スコットランド高地連隊だね?』『はい、そうです。』
『任官将校ではなかったね?』『その通りです。』
『西インドのバルバドス諸島に駐屯していたね?』『仰言(おつしや)る通りです。』」
「さて、諸君」とベル教授は学生たちに説明する。「この患者は立派な感じの人であったが、帽子をとらなかった。軍隊では脱帽しないからだ。しかし除隊後が長かったら普通の市民の作法通り帽子をとったはずである。態度には威厳があり、明らかにスコットランド人。バルバドスについてはこの患者の症状は象皮病であるが、これは西インド諸島に特有のものであり、我が英国において生ずる病ではない。」
ちょうど今から百年前に、ドイルが世に問うたホームズ物の処女作「緋色の研究」の中の有名なホームズとワトソンの出会いの場面が、ここで思い出される。
「『こちらはワトソン博士です。この方がシャーロック・ホームズさんですよ。』スタンフォードは私たち二人を引合わせてくれた。『はじめまして』相手は心のこもった態度で握手を求めてきたが、その握る力が思いのほか強く私はいささか不快感を感じたほどだった。
『あなたはアフガニスタンに行ってこられたのでしょう?』
『いったい、どうしてそれが分りましたか?』私はびっくりしてたずねた。
『いや、気にしないで下さい。』彼はこう言って一人でしのび笑いをした。」
後になってホームズはワトソンに種明しをする。
「僕は君がアフガニスタン帰りだ、ということを自力で知ったよ。長年の習慣で、思考の過程が非常に早く進むので、途中の一つ一つの過程を意識しないで結論に達してしまうのだ。だが今回の推理の順序を言ってみれば、こんなことになる。ここに医者タイプの紳士がいる。しかし雰囲気は軍人風だ。とすれば軍医に決っている。彼は熱帯地方から帰って間もない。顔は黒いが、それが肌の色ではないことはわかる。手首が白いからだ。困難な目にあい、病気にもなった。やつれた顔付きが、明らかにそれを物語っている。
左腕を負傷している。腕の動きが堅いし、不自然だ。いったい、熱帯のどこで英国軍医がひどい困難にあい、腕に負傷までしたのか。アフガニスタンに決っている。ここまで推理するのに、ものの一秒とかからなかったよ。」
ちなみにホームズとワトソンの歴史的出会いがあったのは、一八八一年のことである。ホームズは一八五四年生れ、ワトソンはホームズより二、三歳年上とされているので、ドイルも含め三人とも、同時代のヴィクトリア人である。
さて、実在のドイルの方は医師の助手のアルバイトに精を出すかたわら、短編小説を書いてわずかばかりの原稿料を稼いだりしていたが、一八八一年に医学士の称号をとってエジンバラ大学を卒業することが出来た。しかし資金がなくて開業のあてもないままに、英国南西部のプリマスで開業していた友人の所に寄寓し、手伝いをしたりしていた。やがて、その友人夫婦と医師としてのあり方をめぐって意見が衝突し、やむなくプリマスを出て英国南部のポーツマス市の一角、サウスシーに家を借り独立開業をする破目になったのは一八八二年夏のことであった。資金のそなえも地盤も何もなく、二室つづきの家具なしの家で古道具市で買った机と椅子を備え付け、看板だけはかけたものの、居間の方は椅子一脚と旅行用トランク一個、それが食卓の役を兼ねるといった窮乏ぶりでパンを買う金にも事欠いたようで幸にも薬だけは薬卸商よりツケで買うことが出来た。
この新米の医者に患者はなかなか現れなかった。最初の年の収入は僅か一五四ポンド、これは当時の住込み女家庭教師の年給を僅かに上まわる程度で、税務署から所得税の申告用紙が届いたのでドイルは自分の収入を記入して納税に該当せぬ旨回答した。税務署は当然、納得しない。「(記入内容が)全く不充分」と横なぐりに書かれた申告用紙が戻されてきた。ドイルはその横なぐりの字の下に「(収入が全く不充分であることは)当方も全く同感」と書き足して送り返したという。
彼がサウスシーの数年間で得たものは結局のところ、幾人かの友人と患者と、そして愛する妻と、そして暇にまかせて書き上げた幾つかの短編小説が一流雑誌に取り上げられたことから得た自分の文学的才能に対するかすかな、しかし確とした手ごたえであった。ドイルは短編だけでは決して自分の小説家としての地位は確立しないと察知した。何か新しい構想とか形式による長編小説を書きたいと願い、考えついたのが子どもの頃から憧れていたエドガー・アラン・ポーの探偵デュパンに対抗できるような探偵シャーロック・ホームズを登場させることであった。
こうして『緋色の研究』は一八八六年に脱稿されたが、出版社をたらいまわしにされるだけでドイルの気持はひどく傷つけられた。やっと同年十月末になってウォード・ロック社が版権一切を二五ポンドで買い取ってくれたので、翌年の「ビートンのクリスマス年報」でやっとホームズは世人の前に登場することが出来たのである。しかし探偵ホームズのイメージは、その挿絵の稚拙さも手伝って、まだ世人の脳裏に焼き付けられるまでには至らなかったようだ。
この頃のドイルは中途半端な気持で医術と文学の世界に二股かけていたが、どちらにも決定的な成功は見通せなかった。ついに意を決して、行きずりの医者の旅人から聞いた、これからは眼科医が儲かるという言葉を信じてサウスシーの医院をたたみ、一八九〇年暮に眼科の講義を受けにウィーンに旅立った。子どもを親にあずけて夫婦で下宿に住み込み、ドイルはウィーンの病院での眼科の講義を聴講に行ったが、率直に自伝で告白しているところでは、少年時代にドイツで一時期過したので日常会話程度のドイツ語はこなせても、早口でしかも医学用語をふんだんに使って行なわれるドイツ語の眼科講義には全く歯が立たなかった。つまるところは「ウィーンで医術を修めた」という看板だけをかついで、尻尾をまいて英国に逃げ帰って来たというのが実相のようである。
しかし、ここまでくればもはや失うものなし、という開き直った心境でロンドンで眼科専門医として開業を決意して、一流の医師街であるハーレー通りの近くのデボンシャ・プレイス二番地に室を借りている。
その自伝でうそぶいているところでは、「毎朝近くのモンタギュー・プレイスの住居を出て徒歩で診察室に着く。時は十時。そして三時か四時まで患者を待てど呼鈴一つ鳴らず。よって心の清澄さを妨げるもの何も無し。」という有様であった。だが何が幸いするかわからない。その頃、彼が渾身の力をこめて書き上げた長編歴史小説「白衣組」が一流月刊誌「コーンヒル誌」に連載されていたこともあって、彼の手許には数多くの雑誌が届けられるようになっていた。また彼には、それらに目を通す充分な時間があった。その中に一八九一年一月に創刊されたばかりの「ストランド誌」があった。彼はそこにホームズを主人公とした読切り連載の「シャーロック・ホームズの冒険」シリーズを投稿し、これが大成功をおさめることとなったのである。
ここでまたドイルは人生の岐路にたった。今度こそ彼の心ははっきりしていた。文筆で身を立てようという固い、そして長年心の奥底に潜んでいた「天職」とでも言うべきものが、ここではっきり形となって現れて来た。時に一八九一年夏、「ボヘミアの醜聞」「赤毛連盟」が世間の喝采を浴びている時であった。
このホームズ物の成功によってドイルは、長年つきまとわれていた経済的困難から解放されはしたが、自分の天職は歴史小説にあり、と堅く信じて疑わなかった。確かにホームズはドイルにとって「金の稼ぎ手」にはなったが、それなりの時間を執筆のために割かねばならなかったし、読切り連載となると毎月新しいプロットを考え出さねばならない。年齢の割にはさまざまな人生の経験を持っていたドイルだが、頭がひどく早く回転するという質ではなかったのでホームズ物を続けるのがだんだんと苦痛になってきたことは想像出来る。
とうとう彼はこの状況から脱出する唯一、かつ最も確実な方法として主人公ホームズの「殺害」を企てた。それが「最後の事件」である。しかし世間は、この「処置」に納得しなかった。一人の婦人は「ひどい人!」とドイルをののしる手紙を送りつけてきたし、金融街シティの若いサラリーマンは抗議の意味をこめて喪章をつけて通勤したという。そして何よりも「ストランド誌」の出版社が納得しなかった。それなのにドイルは一向に意に介せず、本格的長編歴史小説の執筆に取り組んだ。ホームズが奇跡的にライヘンバッハの滝つぼから生還し、読者の前に現れたのは十年後であった。ドイルは結局一九三〇年にその生涯をとじるまでに四編の長編を含む六〇篇のホームズ物を世に送ったのである。
典型的な後期ヴィクトリア時代人であったドイルは、繁栄の絶頂にあった大英帝国の栄光と威信を固く信じて、その国家的行動を弁護した。ボーア戦争における英国の植民地帝国主義的動機と現地での英国軍隊の戦い振りに欧米より批難の声があがった時には、自ら志願して現地で病院勤務をした体験を基にして、英国の動機と行動を弁護してさえいる。その底にはスポーツを愛し、スポーツ精神を自分の行動原理にしていた彼が戦争とスポーツを、共に男らしいプレイとみなし、常に勝者に栄光がある、と単純に混同していたとみられる記述もあるほどである。
とにかく、その愛国精神によりドイルは「サー」の爵位を受けている。時折り、誤解されていることであるが、彼の爵位は実は文学上の業績に対して与えられたものではなかった。結局は文学の世界で「一流」の評価を得られなかったことは終生、彼にとって悔いの残ることであったろう。「もし、ホームズ物に時間を取られなかったら、自分は歴史小説にもっと注力出来、その結果、自分は文学の世界でもっと妥当な高い地位を得られたであろうに。」と自叙伝には悔しそうに記している。
このようにホームズは、ドイルにとって反面教師的存在になってしまったが、しかしホームズの性格とか行動にはドイル自身の影が濃く映し出されているのも事実である。彼は大英帝国の国家的行為については疑念を持たなかったが、市井の生活における公権力の行使とか、確立された宗教的道徳心といったものに関しては優れて批判的であった。
その人生観の底辺を流れる根本思想は、一口で言えば、「動機の人間性」というところに落ちつくだろう。人間の行動は、その動機が純粋に人間的なものであれば、たとえその結果が支配者層が定めた公の法律に触れようとも、それは大いに情状酌量されるべきものである。逆に人間性にもとる、悪意に基づく行動が「不法に」処置されようとも、それはいわば「天罰覿面(てきめん)」というものであって、その処置をした人を単純に「公の法に基づいて」罰するというのは彼の心情からすれば、しのびないことである。「純粋に人間的な動機」に基づいて行動する際には多少とも手段は選ばない事態もあり得るとすら考えていたようだ。問題は、何がいったい「人間的動機」なのか、誰がそれを判断するかということになるのだが、彼の場合にはそれは「自分自身」、簡単に言えば、「独善」的ということになるだろう。この「独善的人間性」こそが、ヴィクトリア時代後期の人の共通項であったとも言える。
こうしてドイルの創造したシャーロック・ホームズはレストレード、グレグソン、ブラッドストリート、ジョーンズ、などのスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)の警部たちとは明確に一線を画す、世界で最初で、唯一の「私立諮問探偵(コンサルテイング・デイテクテイブ)」になった。私人であったが故に、必要とあれば人の屋敷に忍び込むはもちろん、婚約詐欺もやれば、犯人をつかまえながら勝手に釈放したり、犯人を知っていながら警視庁に教えなかったり、かなり非合法的に勝手気ままに振る舞う。が、そこに読者の方も通常でない魅力を見出したに違いない。
「犯人は二人」(「チャールス・オーガスタス・ミルバートンの冒険」)ではホームズは美しい貴婦人が昔書いた恋文をタネに悪徳恐喝屋ミルバートンからゆすられているのを救うため、ミルバートン家の女中と婚約までして(もち論不履行)ミルバートン家の屋敷内の様子を知ろうとし、当日は覆面までしてワトソンと共に邸内に忍び込み、そこで思わぬハプニングで別の女性が現れてミルバートンを打ち殺したのを見逃したばかりか(自分たちもそういう立場にはなかったはずであったが)問題の恋文の類を暖炉にくべて燃やし、一目散に逃げ去るといった始末である。
「アビー農園」では、昔の顔馴じみのオーストラリア人の女性が英国人貴族と結婚し、虐待されていることに義憤を感じていたクロッカー船長が、その夫人と密会しているところをその夫の貴族に見つかると逆に殺してしまい、夫人ともども偽装アリバイ工作をする。これをホームズは見抜いて犯人の船長をおびき寄せるが、つかまえるどころか逆に子ども芝居じみた即決裁判をワトソンと二人で開いて勝手に犯人を無罪釈放してしまう。そしてこう締めくくるのである。
「民の声は神の声。クロッカー船長、君は釈放されたよ。警察が誰かを犯人に仕立て上げたりしない限り君は安全だ。一年たったらこの御婦人のところに戻ってきたまえ。そして今夜ここで宣言した我々の判断が正しいことを君たちの将来が証明してくれるように。」
ホームズの独善性躍如とするせりふである。
第四話
スコットランド・ヤードと黒い博物館
「いずれにせよ、モラン大佐が私たちを悩ますことはもう無いだろうよ。そしてフォン・ヘルダーの有名な空気銃は、スコットランド・ヤード博物館に飾られることになるだろう。」
――「空家の冒険」――
一九八某年某月某日の昼下り、私はニュースコットランド・ヤードにあるロンドン警視庁の正面玄関で、女性刑事Y嬢の、にこやかな挨拶を受けていた。
スコットランド・ヤード博物館、通称「黒い博物館」を訪問するためである。
この博物館は十九世紀以降に起こった凶悪殺人事件、貨幣偽造事件に関係する遺留品や凶器といった類の証拠品を収集陳列してあるので有名である。以前は一般にも公開されていたのだが、犯罪に対する教育効果よりはむしろ犯罪の手口とか精巧に作られた凶器に関する知識を与えるのではないかという理由から非公開となってしまっている。いろいろな理由で、この黒い博物館を訪問したいと希望する人は多いが、扉は固く閉ざされたままである。しかし、そうであればあるほど見たくなるのは人情というもの、特にシャーロッキアンともなれば、モラン大佐の空気銃は一目、見ておきたいと願うのは当然で、警視庁の本丸にある「黒い博物館」に忍び込むにはどうしたらよいか私もいろいろ心をくだいた。話は数ヶ月前にさかのぼる。
ロンドンの新聞の三行広告欄を注意して読むと UNOBTAINABLES(得がたき物)というブロック活字が目にとまる。読んで字のごとく、およそ入手困難な物を入手し、得がたき機会を提供するを業とする者の出す広告なのである。
大人気の芝居とかスポーツの試合、航空ショーなどのおよそ手に入りそうにない切符の入手は朝飯前で、王室の一族が出席されるパーティとか王室関連の行事、外国公館の主催する行事でも何とか入場を確保するといった特殊能力も持っている。ここに頼むとたいていの「得がたき物」は金で買える。なかにはバッキンガム宮殿の建物内への入場もアレンジ出来るというのまである。もっともこれは、バッキンガム宮殿に勤務する者に言わせると簡単な事で、毎日数百人が通用門から出入りする宮殿であってみれば通行パスが毎日相当な枚数発行される、それを宮殿裏の某パブで関係者から仕入れればよいのだという。
パブというところは単に酒を飲むだけの場所ではなく仲間と語らい、見知らぬ人と仲良くなり、情報を交換し、物品を、特に盗品を仲間内で売買したりするところでもある。アマチュア・サッカーチームの集合場所ともなれば、時には喧嘩の場とも化する。パブは、やはりパブリック・ハウス(大衆酒場)なのである。さて首尾よく宮殿の敷地内に入れば、後は建物の中に入るのはちょっとした鼻薬をかがせればすむ、というのが私の聞いた話である。そして大切なのは、これがすべて「合法的」に行なわれることだ、とその男はつけ加えるのを忘れなかった。
この話に勢いをつけられた私は、新聞広告を頼りに幾軒かの「得がたき物」屋に電話して「黒い博物館」への入場を依頼してみたのだが、電話口の相手は口ごもって、決まってこう答えたものである。
「旦那、それはちょっと相手が悪すぎますよ。なんたって相手は警察ですからね。合法的にと言われても、なんせ相手は法の番人、うかつにアレンジ出来ませんや。下手をしたらこちとらの商売も上がったりですぜ。」
ある日私は、酒の肴にこの話を英国人に対する多少の皮肉もこめて一人の若い紳士に脚色して話してきかせた。なにせ、相手はイートン・オックスフォード出身で一流会社の社長補佐の肩書を持つブルー・ブラッド(高貴な血の持主)、相手にとって不足はない。
しかしその男は、意外にも灰色の目をくるりといたずらそうにまわして、こう応えた。「黒い博物館潜入とは面白い試みだ。ぼくも子どもの頃はよくホームズ物を読んだものだよ。この件はしばらく任せてくれないか。その内に君に連絡するよ。」そして仕事の約束でも書きとめるように無造作に手帳に何か書きとめ、別れ際に、ウインクするのを忘れなかった。
何事も起らずに数ヶ月たったある日、朝一番に彼から電話がかかってきた。
「例の件だが」と彼は切り出したが、こちらはもう半ば忘れていた話なので咄嗟に思い出せない。「例の黒い博物館行のことだよ」と、やや声を潜めて彼は言った。
「突然ですまないが、今日の午後一時にロールスロイスを一台調達して、それに乗ってぼくの会社の玄関前に来てくれたまえ。上品な感じのする運転手が良い。一緒にスコットランド・ヤードに行こう。先方は君を待っている。今日は君は日本国、東京都から隠密裡に当地に派遣されている公安関係の要人という筋書きになっている。
なあに大丈夫だよ。以心伝心、先方も大体のことは承知している。しかし、お互い面倒なことにならないように手筈を整えておく必要がある。隠密裡の君は、職業柄犯罪に詳しいし職業上の興味も充分持っているので、今日のお忍びの見学という次第。ドジを踏まないため、ぼくが従者というかたちで従いて行くから安心したまえ。ただし君は英語は全くわからないというふりをして、先方の話には鷹揚にうなずいて、そして従者のぼくの顔を見れば良い。
ぼくが片言の日本語で君に説明するふりをするから、君はそれを聞いてもう一度、鷹揚にうなずけばそれでよい。要は東洋の大君らしく振舞ってくれ。しかし職業柄、目つきだけはいつもより鋭くする必要があるよ。昼寝しているような顔では、公安関係者とは見られないからね。ではグッド・ラック!」失礼な青年貴族もいたものだ。
さて、ここでスコットランド・ヤードに潜入する前に英国の警察制度の発達について一瞥しておくのも無駄ではないだろう。英国に今日で言うところの警察制度らしきものが出来たのは十八世紀中頃であった。それまでは自分の身体と財産は自分で守ることが唯一の方法だったから、地方の封建領主はその広大な荘園内に私兵を雇い、近隣の敵領主とか盗賊の侵入に備えると同時に自領内の秩序を守らせる役目を与えていた。一方、都市貴族とか宗教勢力はそれぞれに屈強な身辺警備の専門家を雇って身の安全を計っていた。都市部の庶民は、自分のささやかな力で身を守ることを基本としながらも、隣組的連帯感で助け合っていた。今で言う警察沙汰が発生した際には「治安判事」による裁判が行われたが、充分な強制力を持たなかったのと、治安判事自身の公正さについて疑問が多かったため、「お上には頼れない」風潮が一般庶民の間に蔓延していた。
この点に着目したのが一七四九年にロンドンの治安判事に任命された、本業は小説家のヘンリー・フィールディングだった。彼は現在のコベントガーデン劇場の筋向いの、ボウ・ストリートに治安判事としてのオフィスを開いた際に屈強の若者を集めて訓練し、彼らを治安判事が主宰する警察裁判所所属の逮捕係(警官)として犯人逮捕にあたらせた。それまでは被害者が自分の手で、または懸賞金をつけて犯人を探し出し、つかまえる以外なかったのである。彼らは総勢八名、シルクハットをかぶり赤い布製のチョッキをつけていたので、「駒鳥」と呼ばれたり、素手で犯人を追いかけ回したのでボウ・ストリート・ランナーと呼ばれたりした。これが今日言うところの刑事巡査の始まりである。「素手で」犯人に立向うという伝統は、今でも丸腰のロンドンの巡査のスタイルに受け継がれている。このやり方は十九世紀に入り、時の内相、英国警察制度の生みの親と言われ、のちに首相となったロバート・ピール卿により一八二九年に正式に制度化され、この時に英国の警察制度は発足したと言える。
彼はそれ以前の一八一二年から六年間、アイルランド総督となっていたが、その時期にピールの名を取ってピーラーと呼ばれた巡査制度を創設した経験があったので、それを生かしたのであろう。こうして首都警察(メトロポリタン・ポリスフォース)が発足し、本部を行政機構が集中しているホワイト・ホール地区の一角にあったスコットランド・ヤードに置いた。現在はグレイト・スコットランド・ヤードと呼ばれている場所である。この場所は、テームズ川に築堤(エンバンクメント)が出来るまではテームズ川に面し、既にサクソン時代からスコットランド王のロンドン滞在中の居所になっていた由緒ある場所である。
こうして発足はしたものの、一方では警察制度そのものに対する理解が未だ行届いてはいなかったし、他方では警察が政治と結託して強大な実力をたくわえ、ついには市民生活の圧制者になるのではという懸念さえもたれていた。したがって最初から前途洋々という訳にはいかなかったし、財政的にも極めて不充分であったといわれる。そのせいか、一八三九年の首都警察法では、会社とか個人が警察職員を私的目的の為に一時雇傭出来ることとした。費用一切を負担さえすれば警官を借りて自分の部下として利用出来たのである。ホームズ物語の中でも、「ボスコム谷の惨劇」ではレストレード警部がマッカーシーの友人たちによって彼の無実を証明する目的で雇われているし、「バスカヴィル家の犬」では今度はホームズ自身がレストレードを雇っているとみられる描写がある。
さて一八四二年には制服の巡査の他に、二人の私服の刑事が登場し、一八六八年にはその数は十五名になった。そして一八七五年に今日の「黒い博物館」の前身が出来たが、目的は警察裁判所での裁判の際に提出する警察側の証拠品を収集、整理、保管しておくことであった。一八七八年には巡査と刑事が正式に分離され、犯罪捜査局(C・I・D)が発足した。ホームズ物語に登場するスコットランド・ヤードの探偵たちは皆このC・I・D所属である。総員一万五千人近くにふくれ上がったところで一八九〇年に国会議事堂近くのテームズ川畔に移転したが、その時に地名もそのまま持ち出し、そこをニュー・スコットランド・ヤードと称した。この建物は現在でも、その美しい姿をテームズ川に映している。一九六八年には、ウエストミンスターの現在地に再度移転したが、地名も「黒い博物館」も、また一緒に持ち出してしまった。そして新庁舎において諸資料を整理した上で、一九八一年十月に「犯罪博物館」という正式名称で開館した。
さて、女性刑事Y嬢の先導で、二階にある「黒い博物館」の扉をあけて中に入った瞬間、ひんやりとした室内の空気と共に私を見下ろしているかのような数十のデスマスクの列に私は圧倒された。焦茶色に塗りつぶされたデスマスクは死刑執行直後に形どられたものらしく、皆それぞれに異様な顔相をしている。
静まりかえった室の中で、それはまことに異様な光景であった。その時コツコツと靴音が背後にひびき、「ようこそ。」という男性の押しころした声がした。振り向くと小柄の、背広をきっちりと着こなした紳士が、にこやかな微笑をたたえて握手を求めてきた。
「私がこの博物館の館長です。」しかし、その灰色の目は鋭く、微笑の影で光っている。突き刺すような冷たい目だ。私は背筋が寒くなるのを感じた。
この館長さんは、しかし非常に親切だった。私が英語がわかりにくいとみてとった彼は、ゆっくりとかんでふくめるような調子で、これが一八八七年にダイソンを殺したチャールス・ピースのデスマスクです、あれは一八九〇年にホッグ夫人を殺害したピアスイ夫人のデスマスク、あれが一八九一年にマチルダ・クロバーを殺したクリーム博士のデスマスクです、と彼は抑揚のない声で、まるで友人でも紹介するかのごとく、淡々と説明してくれるのだった。
その数は三十以上、それらが学校の教室二つほどの広さの博物館の一隅の、壁の上方に取りつけられた棚に一列に並んで無言で私たちに挨拶をしているようで、見ている内に背中に冷たい汗が流れ始めてきた。
英国は統計的にみると、他国と較べて凶悪犯罪の少ない国である。しかし時折り悪魔の仕業のようなむごたらしい、陰湿な殺人事件が発生する。一八八八年の切り裂きジャックによる一連の殺人事件等はその最たるものであるが、この事件は当時の警察の必死の捜査にもかかわらず結局、迷宮入りとなってしまった。その時の死体の一部とか遺留品はまだ幾つか保存されているが、余りにむごたらしいので、この黒い博物館においても陳列していません、との説明であった。
犯罪に使われた道具も数多く展示されていた。大判の銀貨二枚を貼り合わせた間から飛び出すナイフ、鉛の重りの入っているらしいヌンチャクのような道具、実際に殺人に使ったロープの類、出刃包丁、他にも数え上げればきりがないほどの各種各様の工夫をこらした凶器、そしてそれらすべてが実際に使用されたものだと聞かされると、いっそう現実感がわいてくる。デスマスクの犯人たちに関連した道具類も置かれており、別の隅には彼らの首を死刑台で締めたロープの類もぶら下がっている。この教室二つ分のスペースは、まさしく犯罪の陳列場なのだ。
約一時間の説明を受けて、とうとう息苦しくなってきた。しかしこの場を出る前に最後に一つだけ質問が残っていた。それはシャーロック・ホームズとの関連である。唐突な私の質問に館長の目はまた、一瞬輝いた。
「そうですか、あなたはホームズ・ファンですか。実のところ、ホームズはスコットランド・ヤードでは余り好かれていないのですよ。なにせ警察の捜査の邪魔をしたり、犯人を勝手に逃がしたりするのですからね。でも、いわゆる当時でいう『科学的捜査法』とか『推理の科学』というやつをレストレードとかグレグソンらに教えてくれた功績は大きいと言うべきかも知れません。そうそう、記念に一つ良い物をお見せしましょう。」
数分後に館長氏は、古ぼけた一冊の署名簿を持ってきた。「ここを御覧下さい。」
私はアッと驚いた。そこには一八九二年十二月二日の日付に続いて、アーサー・コナン・ドイルの署名がはっきりと記されていたのである。
「そうです。ドイルは黒い博物館を訪れ、今日のあなたと同様、この死刑囚たちのデスマスクに強い印象を受けました。そしてそれをヒントにして『六つのナポレオン』を書き上げたのです。」
この「大冒険」の約一週間後の夕暮れ、私はドイルの著書を求めて、トラファルガー広場の近くにある古本屋街をぶらぶら歩いていた。
と前方より背の高い、しなやかな若い女性がショルダーバッグ一つを肩に掛けただけの軽装で足早に私に近づいて来る。顔には笑みをたたえ、手を軽く振って合図しながら私の前に立った。誰あろう、黒い博物館に私を案内してくれた女性刑事Y嬢ではないか。
にこやかに挨拶した彼女は「御機嫌いかがですか? あの日は少しお顔の色が悪かったようですが……」とからかうように尋ねた後、私の口ごもった返事を待たないで「ちょっと、失礼。今ホシを追っていますので。」と言うなり、雑踏の中にアッという間に消えていった。
全く平凡な会社秘書風のいでたち、しかしあのショルダーバッグの中にはピストルと手錠がしのび込んでいるのだと思った時、「東京の高官」は軽いめまいを感じたのだった。
第五話
新天地を求めて
――ホームズとアメリカ
「私はアメリカのかたにお目にかかるのが、いつも楽しいのですよ、モールトンさん。と、申しますのは私は、これまでに君主が犯した愚かな誤りや大臣の失政にもかかわらず、私たちの子孫たちが、いつの日か、英国旗と米国旗の組み合わさった旗を国旗とするような世界国家の市民となるであろうことを信ずる者の一人だからです。」
――「独身貴族の冒険」――
これはシャーロック・ホームズの口から出た有名なせりふであるが、むしろ生みの親コナン・ドイルがホームズをして語らせた言葉と理解した方が正しいかも知れない。ドイルは典型的な後期ヴィクトリア時代の人間として繁栄の絶頂にある大英帝国そのものに対する忠誠心、愛国心については誰にもひけをとらなかった。しかし、当時としての最高の教育を受け、知識・教養を身につけたそのドイルの目には、十八世紀以来の英国の「為政者の愚行」がある意味では堪え切れなかったが、その最たるものは北米大陸――アメリカとカナダ――に対する大英帝国の政策であった。
ドイルはスコットランド生れのアイルランド人として家庭的紐帯を非常に重んじ、自分も貧乏な一家の長男としての責任感に燃えた青春時代を送っているが、彼にとってみれば「血をわけた同胞」が新天地を求めて雄々しく旅立ち、艱難辛苦の末に建設した北米植民地を本国から離反させてしまったこと、それのみかそれに追い打ちをかけるように第二次英米戦争にも踏み込み、更に南北戦争の一方に加担し、あげくのはては英・米間に緊張にも似たまずい雰囲気をつくり出し、しかも本来同胞であるべき米国が新興工業国として英国と競合し、英国の地位を脅かしつつある。
これは一体どうしてなのか? 一九一四年第一次大戦勃発の直前に、ドイルはカナダ政府の招待で米国経由でカナダ入りしたが、米加国境地帯にあるシャンプレイン湖のほとりで彼は次のように記している。
「この湖の先にプラッツバーグの町があるが、ここで米国は一八一二年の第二次英米戦争で勝利を収めた。こういった戦場を見ていつも感じることは、勝ったのが米国であろうと英国であろうと、全くぞっとするということだ。一七七五年の米国独立戦争が、自分の目からみれば栄光ある過ちであるとすれば、一八一二年の第二次英米戦争は全くたわけた愚行としか言いようがない。もしこれらの戦争がなかったなら、北米全大陸は今や不可分の一大国家として自己の目的を独自に追求していたに違いない。しかも故国に対する汚れなき血と記憶を媒体として両者相互依存の関係で固く結ばれていたであろう。」
さらに続けて、
「政治家たちの浅知恵の故に、一つの人種が上から下まで真二つに割られてしまった。この戦争によって誰が得をしたというのか。英国ではない。英国はかけがえのない子どもたちから引離されてしまった。米国でもない。米国はカナダを失った上に南北戦争に突入してしまったが、もし『統一帝国』が形成されていたらこれは避け得たことである。」と。
これが当時の知識人、ドイルの歴史観でありホームズの米国熱烈礼賛につながったものである。
当時の国際関係を年表風に記してみると、
一七六〇年 ジョージ三世即位(―一八二〇)
一七六三年 七年戦争終結。現在のカナダの地が英国領となる
一七七三年 ボストン茶会事件
一七七四年 第一回大陸会議
一七七五年 米国独立戦争
一七七六年 米国独立宣言
一七八三年 独立戦争終結
一七八八年 豪州への最初の移民(囚人)船出航
一七九三年 インド、英国式の徴税、法律制度採用
一七九五年 南アフリカ喜望峰をオランダより取得
一八〇五年 トラファルガー海戦で勝利
一八一二年 第二次英米戦争(―一八一四)
一八一九年 シンガポール植民地建設
一八三〇年 鉄道旅客輸送開始
一八三七年 ヴィクトリア女王即位
一八四〇年 阿片戦争(―一八四二)
一八四二年 米加国境確定、南アでボーア人と交戦し勝利。香港、英国に割譲
一八四四年 アイルランドでじゃがいも飢饉、一八五一年までに百万人餓死。主として米国への大量移民
一八五一年 水晶宮で大英博覧会開催
一八五四年 クリミア戦争勃発、ナイチンゲール活躍(シャーロック・ホームズ誕生)
一八五九年 (コナン・ドイル誕生)
一八六四年 四国(英、蘭、仏、米)連合艦隊、下関を砲撃
一八六七年 カナダ自治領となる
一八七五年 スエズ運河買収
一八七七年 ヴィクトリア女王、インド女王として即位
一八八〇年 南アフリカ、ボーア人、英国に反乱
このように大英帝国は世界各地に版図を広げ、植民地政策を押し進めていったが、ドイルの思想からすれば北米大陸の場合は他の植民地設立とは一線を画すべきものであった。同じ新天地といっても、オーストラリアの場合は流刑地として出発したものだし、インドは東インド会社という一握りの貴族、大商人たちの欲望に端を発した、なかば私的経営である。南アフリカは豊富な地下資源を狙った山師たちが乗り込んでいった所であろう。それらは「動機の人間性」という点からみると、決して高いものではない。
それらに較べて北米大陸の場合は、人間の精神的、肉体的自由という啓蒙的思想に照らして、その移住者たちの多くは非国教徒であるが故の公的宗教権力からの迫害に抗して、その宗教的拘束から自らの精神を解き放たんとして新天地を求めて北米大陸に移住したものである。または肉体的自由ということに関しては、当時の為政者の信じ難い、傲慢と無為無策によってじゃがいも飢饉に際して百万人もの餓死者を出し、それ以上の数のアイルランド人が住み慣れた故郷をすてて、北米大陸に新天地を求めて移住せざるをえなかった。そういう歴史的背景よりみて、北米大陸への移住者の「動機の人間性」は優れて高かった、とドイルは判断した。悲劇はしかし、その新天地において、こともあろうに血を分けた同胞同士が独立戦争で血を流しあい、独立の結果は、王党派といわれた大英帝国に忠誠を誓った人たちがヤンキーたちに掠奪され、はずかしめられた上でカナダの地に逃れるといった事態までひき起している。
その米国と、英国の支配するカナダの国境地帯では常に緊張が支配し、その間隙をぬって、インディアンと結託したフランス系住民が不安の種をまいた。この状況は必然的に一八一二年の第二次英米戦争で同胞間での再決着をつける結果となった。しかも、それで済んだ訳ではない。その数十年後に今度は米国内部で「諸州間の戦争」といわれる南北戦争が勃発。大英帝国がこれを黙ってみていた訳ではないことは、公然の秘密であった。ここでもまた同胞同士が殺し合い傷付け合い、血を流している。これは何としたことであろうか。
そして南北戦争後の米国では急速に工業化が進行し、富の蓄積も進んで、ドイツと共に新興工業国として大英帝国の前に立ちはだかるようになった。血を分けた同胞同士が今度は経済の場でも争うことになった。しかもその繁栄にやや、かげりがさしつつあった大英帝国に対し、ドイツと米国は正に伸びざかりの、成長にはずみのついた新興国である。
冒頭の「独身貴族の冒険」は高貴な血筋を誇りにする貧乏貴族と、米国西部の鉱山地帯で一攫(いつかく)千金の夢を実現した百万長者のじゃじゃ馬娘との国際結婚話が筋書となっているが、これはドイルが痛烈な皮肉をこめて書いた笑劇とも言える。
熱烈シャーロッキアンの研究によれば、ヴィクトリア時代末期には、このような高貴な血を引く気位の高い、ふところ不如意な「本国」の貴族階級と、成り上がりで教養もないが、持参金だけは目もくらむほど持ってくる、「植民地」成功者の娘との結婚という例がかなり多くみられ、新聞雑誌の社交欄に格好の話題を提供していた。
さて、ドイルが国際性に富んでいたためか、ホームズの取り扱った事件にも多くのさまざまの外国人が登場する。「緋色の研究」「恐怖の谷」の長編では事件の発端が米国であるし、同じく「バスカヴィル家の犬」では主人公ヘンリー・バスカヴィルは叔父の遺産を相続するためにカナダから急遽帰って来る。もう一つの長編「四つの署名」ではインドの財宝をめぐる活劇となっている。短編物では「まだらの紐」のロイロット博士は一時、インドに住んでいた。
南アフリカになると「孤独な自転車乗り」では同地からやって来た二人の悪漢が登場し、「三人の学生」では、試験のカンニングを見つかったギルクリストが、卒業をあきらめてローデシアの警察に就職する。「白面の兵士」はボーア戦争を共に戦った二人の青年の後日譚といった具合である。
オーストラリアに関しても「アビー屋敷の冒険」のメアリー・フレーザー、「フランシス・カーファックス姫の失踪」の悪漢、ホーリー・ピータースが共にオーストラリア人、「グロリア・スコット号」は囚人船における反乱に端を発しているし、「ボスコム渓谷の惨劇」はオーストラリアでの金鉱探しにまつわる話である。
さて、米国に目を転ずると「ソア橋」のネイル・ギブソンは西部を地盤とする上院議員だし、「踊る人形」はシカゴのマフィアに関連しているし、「五つのオレンジの種」はクー・クラックス・クランがらみの話、「黄色い顔」では黒人の女の子が登場するといった具合である。
しかしこれらの誰にもまして、絶対に忘れてはならないのはホームズをして「あの女性」(the woman) と言わせ、そして彼がひそかに愛した唯一人の女性といわれるアイリーン・アドラーであろう。彼女はホームズよりやや若く、一八五八年に米国のニュージャージィに生れ、コントラルトの歌手としてスカラ座で歌い、ワルシャワ王立オペラのプリマドンナとなった。ワルシャワ滞在中にボヘミア王と恋の冒険を楽しんだ。王は無分別な手紙を彼女に書いて一緒に写真を撮り、後になってそれを取り返そうとしてホームズの助力を頼みに来る。「ボヘミアの醜聞」の始まりである。薄幸の美女、アイリーンは三十歳を越えたところでその短い生涯を終えた。今でも何人かのロンドンのシャーロッキアンはアイリーンという英語的な発音でなく、独自の感慨をこめて「イレーネ」と呼びたがる。ホームズにとってもシャーロッキアンにとっても、彼女は「あの女性」なのである。
「統一帝国」に話を戻すと、ホームズの願うように英国旗(ユニオン・ジャック)と、米国旗(スターズ・アンド・ストライプス)を四分割して組み合せた統一帝国旗はどんなものか、実際にデザインしてロンドン・シャーロック・ホームズ協会の機関誌に発表した熱烈研究家がいた。
四分割というのは西欧の紋章とか盾に見られるように、その面積を縦線、横線で四等分し斜めに対称形に図柄を配置するという趣向であろうが、肝心の米国旗の方が対称形ではないので出来上がった物は、何とも言いようもない不格好な物になってしまった。「統一帝国」はドイルのはかない夢に終ってしまったようである。
第六話
バスカヴィル家の魔犬を訪ねて
――ダートムア紀行
「それは犬だった。これまで誰も見たことのないような巨大な真黒な犬だった。開いた口から炎を吐き、目は炭火の炎のように燃え輝き、ゆらめく炎の中に鼻面と首とのどの輪郭が浮び上がった。」
――「バスカヴィル家の犬」――
一九八五年秋の某日、ベーカー街に面したシャーロック・ホームズ・ホテルのロビーで、私たち夫婦と日本から到着したばかりの日本シャーロック・ホームズ・クラブのT氏は、地図を広げて、これからのダートムア遠征の計画を練っていた。シャーロッキアンとしての目的は唯一つ、ヘンリー・バスカヴィルの住んでいたバスカヴィル・ホールを見つけだし、その近辺に今も潜んでいるに違いない魔犬の末裔を探し出すことであった。これまでに幾人かのシャーロッキアンの先輩諸氏がダートムアを探険し彷徨して、数軒の館をそれぞれの発見になるバスカヴィル・ホールである、と報告しているが、私たちはそれらを一つ一つ訪問し、この目で確かめてその信憑性を判断すると共に、未だに何人も発見していないこの魔犬の末裔を探し出し、シャーロッキアンの研究に画期的な一頁を開かんとする秘かな野心を持っていた。
広大なダートムアを相手にするからには、相当入念な事前調査が必要である。その一つとして私はロンドンの金融・商業地区シティのリメンブランサーという要職にあるトニー・ハウレット氏に面会を求めた。リメンブランサーというのは、強いて邦訳すれば有職故実責任者ということにでもなろうか。シティの永い伝統から生れた、しきたり・手続き・行事などを整理、記録、記憶していて、それを再現させる責務を負った、シティならではの非常にユニークで、重要な職である。
伝統あるシティでは、毎月のように行事が催されるが、それらはほとんどが昔ながらのしきたりと約束事に基づいて行われる。それらをとり仕切る彼は非常に忙しい公的な日々を送っているのだが、ハウレット氏は、リメンブランサーである以上にシャーロッキアンであった。
第二次大戦が終り、英国の平和と復興を記念して一九五一年に英国祭を催すことが決ると、ロンドンの各区はそれぞれ、その地域に関する出品とか展示を行なった。ベーカー街を擁するメリルボーン区がホームズとワトソンのベーカー街二二一Bの居室を再現しようと計画したのは当然といえば当然のはなしだが、実際に手をつけてみると、室内のレイアウト・プラン一つにしてもいろいろな説があったし、戦後まもなくの時代では、調度類もなかなか手には入らない。それでもシャーロッキアンたちはメリルボーン図書館に集まり、あれこれ苦心して何とか二二一Bを再現してみせて大成功を博した。その中から戦後版、現在のロンドン・シャーロック・ホームズ協会が再建されたのである。
若き弁護士として活躍していたハウレット氏はその頃からのメンバーで、ハウレット夫人となったフリーダ嬢は当時メリルボーン図書館の司書として働いていた。忠実なシャーロッキアンの同氏もホームズに一つだけそむいたようだ。
「四つの署名」の最後で、モースタン嬢と婚約したとワトソンが告げると、ホームズは低いうめき声を出して「そうだろうとは思っていたよ。だが、ぼくは君にお祝いの言葉をあげる気にならないよ。……愛は感情的なものだ。何によらず感情的なものというのは、ぼくが最も重要視している真に冷静な理性とは相容れないものだよ。」と負けおしみに近い独断的偏見を述べて、ワトソンの気持をいたく傷つけたものである。
現在のハウレット氏は、実直で謹厳な英国紳士の典型のごとき熟年の人物であるが、フリーダ夫人とは常に「感情的な」素晴しい夫婦仲を持ち続けている様子は、たまにしかつき合わない私にも羨ましく感じられるほどであった。
さて、シティのギルドホールと呼ばれる市役所の奥まった一室で、マホガニーの調度類に囲まれたハウレット氏は、女性秘書に伴われて入って来た私を見ると、眼鏡の奥にやさしい微笑を浮べて立ち上がり、しっかり私の手を握りながら、これから三十分ほどは誰も室に入れない、電話も取りつがないように秘書に指示した上でドアを閉ざした。「さて」と言うなり上衣を脱ぎすて、別人になったごとくにくだけた調子で、棚の奥から沢山の資料を取り出してきた。先年の彼自身によるダートムア探険の説明と、私たちに対するアドバイスを与えるためである。
彼は一九七九年の探険の短い報告書を見ながらこう語ってくれた。「バスカヴィル家の犬」の舞台となったダートムア地域は、英国の西南部のデボンシャーの西南地方に展開する岩と草で覆われた荒涼たる台地である。所どころに岩石が堆積したトアと呼ばれる岩峰があり自然の標識になっている。住民は所どころに点在する村落にかたまって住んでいるが、それ以外のところでは樹木もあまりなく、全くの荒地で、耕作はほとんど行なわれていない。注意しなければならないのは、普通の草地に見える所が、水分を多く含んだボッグと呼ばれる湿地になっていて、うっかりすると体が沈んでしまう。動物は放牧の牛以外にポニーと呼ばれる野生の小馬が多い。いずれも人間に危害をくわえたりはしないので安心だが、日没を過ぎたら運転しない方が良い。星明りの他には何もなく、方向感覚がつかめない。道路標識はほとんど見当らない。気温も急に下がり、夏でも凍死する人がいるほどである。
ダートムアの面積は約二〇〇平方マイル、東のボビートレーシー、北のオークハムプトン、西のタヴィストック、南のアイヴィブリッジの四つの小さな町を線で結んだ菱形の地域であり丁度真中あたりにプリンスタウンの町がある。名前は素敵だが仏軍の捕虜を収容するために一八〇九年に建てられた刑務所で有名な所である。バスカヴィル・ホールとして名前があげられている建物は三、四ある……、と丁寧に説明してくれた。
そして最後に、いとまを告げる私の手を強く握って「時間があれば私も一緒に行くのだが――」と心から残念そうであった。数多くのシャーロック・ホームズ研究家の中でもダートムアに関しては右に出る者がないと言われるハウレット氏らしい愛着のこもった挨拶であった。
地図と何冊かの参考文献、資料を書き込んだノートと、そして不時の場合に備えて用意した食料と厚手の防寒具、カメラとフィルム、これらをトランクに押し込んで三人はフォルクスワーゲンを駆って秋晴れの十月のある朝、一路ダートムアを目指して勇躍出発した。東側の入口に当るボビートレーシーまでは、高速道路を一気に走り切れば数時間で到着するはずである。しかし私たちには途中のサマセット州で立ち寄らねばならぬ先があった。他ならぬロンドン・シャーロック・ホームズ協会の本部を表敬訪問するためである。
高速道路を途中でおり、地図を頼りにローペンという小さな村にたどりつく。わずか十数軒の藁ぶきの小さな農家が肩を寄せあうようにして静かに建っている、その中の一軒が目指すホームズ協会の本拠であると知った時、私たちはいささか肩すかしをくった気持であった。
にこやかに出迎えてくれた海軍退役士官ミッチェル氏は協会の事務局長、年の頃は七十歳台、どうしてロンドンの協会の本拠がこの田舎に、といぶかしげに問う私たちに彼は大笑いして「なあに、私たち夫婦が数年前にロンドンを引払ってここに引退した時に、事務局も自然に後を追って来たという訳ですよ。」とこともなげに説明してくれた。
なるほどそう言われてみれば、ホームズの世界では最も権威あるロンドン・シャーロック・ホームズ協会ではあるが、会員総勢七〇〇名程度、年間会費が一人邦貨で二千円強、それで年に二回、数十頁の会報を出し研究会等の催し物も年に数回は行なう、という全くの同好の士の集まりであってみれば、役員連もみな、無給でボランティアとして会の仕事を引き受ける「名誉職」である。現代では郵便も電話も発達している。
「ロンドンに出るのだって汽車の時間をよく調べさえして乗れば三、四時間で着くのですから、それほど不便はありませんよ。ロンドンに較べればはるかに静かだし、物価も安い、治安も良い。交通事故もない。この家も十八世紀に建てられた農家を修理したものですが、住むこと自体に不便はありません。われわれ夫婦はもう引退した身分で、年金だけが唯一の現金収入ですが簡素に生活してさえいれば、そんなにお金のかかるものではありませんよ。」とミッチェル氏は私たちの懸念を見すかしたかのごとくに、ゆっくりと言葉をえらんで語ってくれた。
聞くところによればミッチェル氏の青春時代は、非常に華やかであったようだ。足をやや引きずりかげんに運びながら奥の棚から持ち出してきてくれたアルバムを見ると、英国海軍士官の制服に身をつつみ、直立した若き日の氏の姿は、さぞかし英国女性の憧れの的となったであろう端正なものであった。
「実はその写真は東京で写したものですよ。」とミッチェル氏はちょっと恥かしそうに言葉を足した。「私は、第二次大戦直前に駐在武官として東京の英国大使館に派遣されました。まだ独身でしたから御縁があったら、日本の女性を妻として迎える機会もあったのでしょうが」と傍の奥方に軽くウインクしてみせて「情勢は日増に悪化し、ついに日本は戦争に突入してしまいました。私は交換船で英国に帰って来たのです。」と結んだのが印象的であった。
続いて私たちは二階にある氏の書斎、協会の事務局をも兼ねる八畳ほどの室に通された。七〇〇人程の協会のメンバーの中、約半数は英国外に住んでいる人たちなので郵便物の発送、会費の受け取り、会員との連絡等、けっこう多忙なはずだが、机の上にはカード式になった会員名簿が箱に入れてあり、それぞれのカードの裏側に各年の会費納入記録とか、住所変更等が記してある。
「日本人の皆さんたちなら、すぐにでもコンピューターに入力して能率的にやったらとお思いになるでしょうが、七〇〇枚程度であれば私の頭と手で充分こなせますし、古いカード、新しいカード、それぞれにちょっとした思い出のある場合もあり、こうして手で作っていくのも楽しいものですよ。」と静かに語ってくれた。
日本からのお土産を手渡し、モーニング・ティーにビスケットで小一時間ほど雑談した後に、お礼を述べてミッチェル家を辞去し、一路ダートムアめざして車を走らせた。
高速道路五号線をひたすら西南に向って走る。そのあと一級国道、三八号線に分岐して、ダートムアの東端、ボビートレーシーの町についたのは午後三時頃であった。この町は「バスカヴィル家の犬」物語の中ではクームトレーシーとして描かれている。ステイプルトンに欺(だま)されたライアン夫人がタイピストの仕事をして細々と暮していた町であるが、今でもヴィクトリア時代と変りないかのように、小川のせせらぎの脇に水車がゆっくりと回っているような風景が散在する。最後にいよいよ犯人ステイプルトンを追いつめたホームズは犯人逮捕の手助けにレストレード警部を呼び寄せるが、彼を乗せたロンドン発の急行列車は轟音をあげてクームトレーシーの駅に入って来た、というくだりの描写がある。
この線は、当時は広軌のグレイト・ウエスタン鉄道が大型機関車をつかって早いスピードで運行していたので、このような描写も血沸(わ)き肉躍(おど)るの感があるが、実のところ町の地図を見ても駅の位置が記してない。不思議に思って通りすがりの人に聞いてみたが、首を横に振って知らないと言う。そんなはずはないと、あちこち聞いて回ったら多分、あの鉄工場の奥の辺りではとの答えを得た。たどりついてみると、確かに小さい駅舎らしい廃屋がある。客車が二、三両は発着できる位のプラットフォームらしき土盛りも残っているので多分駅なのであろうが、レールは撤去されていて、わずかに単線軌道がひかれていたであろう、といった感じの雑草の生えた小道らしきものがそこから続いている。世界で最初に産業革命を完成させた英国、そしてその象徴の一つは鉄道であった。それが百年後の今日、そこに住む住民たちからも忘れ去られた存在になっているとは、このグレイト・ウエスタン鉄道をあえて広軌鉄道として高速運転を実現しようとした偉才、ブルーネルはどう感じて墓場から見守っているであろうか?
私たちはボビートレーシーの町を背後にして、急にせばまった、ほとんどすれ違いの出来ない曲りくねった山道を地図を片手に車を走らせ、一気にダートムアの荒地の一端、標高五〇〇メートル程の高さのヘイター・トアに辿り着いた。そこから見渡した大地はちょうど霧ヶ峰の車山近辺の景観を十倍ぐらいに広げて建物と人影を取り去り、草のかわりに岩と砂の地面をむき出しにして、所々に小さな灌木の群生を配置して、最後に数ヶ所に背丈の十倍位の高さの岩のかたまり、岩峰(トア)をすえたような荒涼とした光景であった。
はるか遠くの窪地に目をこらすと、白い教会の尖塔とそのまわりに十数戸の村落らしきものが見える。たぶんウイドカム・イン・ザ・ムア村であろう。それ以外には人間の住んでいるような形跡は何もない。日が沈みかけたこの時刻では、その静けさは何か恐ろしさをすら感じさせる。これがこれから探険しようとする魔犬の悽みか、ダートムアなのである。
最初の日の宿は、ムアの東北のへりにあたるモートン・ハムステッドのマナー・ハウス・ホテルに決めた。マナーは荘園の意味があり、このホテルもこの地方の大地主の館をホテルに改造したものである。
マナー・ホテルという名前はあちこちで見られるが、マナーといっても大小さまざま、しかしこのモートン・ハムステッドのマナー・ハウスは豪華なものであった。大地主たちのきじ撃ちの際の宿泊所として一九〇七年に建てられた、この四階建の堂々たる石造りの建物は一流建築家の設計に基づいて金に糸目をつけずに建てたといわれるだけあって、十七世紀初頭のジェームズ一世時代のいわゆるジャコビアン風の、外観はどっしりとしているが重苦しい感じはない。内装はパステルカラーの明るい色調で、窓は高く、大きく華やかな感じだが、それが天井を通っている重々しい樫(かし)の大木の梁(はり)とも微妙に調和している。調度類もよく手入れされていて、気品あるたたずまいがロビー、図書室、ラウンジ、食堂と入念にしつらえてあった。
四つの切妻を持つ幅一〇〇メートルに近いこのホテルの南側のテラスに立つと、急斜面の芝生の庭とその先に池を配置した庭があり、そのまわりがゴルフ場になっている。室の数は七十程度、もともと領主とその来客のために設計されたものであるから、室も広く、天井は高く、窓を通してダートムアにつながる台地のへりが一望に見渡せる絶好の位置に建っている。ホテルの所有地は二七〇エーカーというから百万平方メートル、とにかく周りはすべて所有地という次第で、宿料は、一泊二食付で夏のシーズン中でも二万円以下という値段である。
この領主館は、時代と共に数奇な運命をたどっている。第一次大戦中は傷病兵のための療養所となり、一九二九年にはグレイト・ウエスタン鉄道に買収され、第二次大戦中はまた米・加・英の将校たちの軍人病院となった。
終戦とともに一九四六年に元の所有主に返還されたが、四八年には鉄道国有化が行なわれたために英国国鉄の関連ホテル会社の経営にゆだねられた。一九八三年、サッチャー政権の政策によって、このホテル部分は分割され、漸次民間会社に売却された。このようなユニークな歴史を持つ領主館をつくった大地主はウィリアム・ヘンリー・スミス、書籍・文房具の大手販売チェーン、W・H・スミスの創立者、その人であった。
このマナー・ハウス・ホテルはバスカヴィル・ホールのモデルにしては余りにも大きすぎるが、シャーロッキアンの仲間で人気があるのは、一九三二年のゲインズボロー映画社の作品「バスカヴィル家の犬」の中で、このホテルがバスカヴィル・ホールとしてロヶに使われたからで、今もこのホテルでは週に一回、泊り客のためにこの昔の映画を上映するという。
真夜中近くフロントに鍵をあけてもらって、南側のテラスから急傾斜の庭の芝生に出てみた。外は全くの闇、星だけが異常に近く、すぐ顔の上で無数に光っている。こんなに星は手を上げれば届きそうな所で輝いているのだろうか。風も止っているせいか木々のざわめきもなく、全く静寂の世界だ。夜がふけた後のダートムアの世界では、悪魔と妖怪と魔女と、そして妖精が跳梁し、人間は寄りつけないという。人間は息をころして、こういった荒野の住人たちに見つからないようにするのである。悪魔は嵐の荒れ狂う夜に一群の魔犬を引きつれてダートムアを駆けまわり、どこにでも出没する。聖なる教会の庭先にも入り込み教会の建物ですら壊してしまう。死者の魂を取りおさえるためである。妖精もムアのあちこちに出現する。それが黒い犬の姿をかりたり、まぼろしの野生の子馬の形をとったり、すすり泣く子どもの姿であったり、喪服の女であったりするそうである。前世の宿世を物語るのであろうか。魔女は余り出てこないが、野うさぎの姿をかりて、薬草で怪我を治してくれたり、恐しい目をして呪いの言葉を発したりする。とにかく魔女には近づいたり、万が一にもからかったりしないことだ。
妖精は昔々からこのムア地方に住みついている小人で、徳ある者をほめ悪しき者を罰するという言い伝えから、人びとは妖精にみつぎ物をして御機嫌をとり結ぼうとする。しかし妖精たちは気まぐれで、いたずらっぽい性格も持ち、道に迷った旅人を湿地に誘い出して難儀にあわせたり、時とすると人間の赤ん坊をさらったり、自分の子供と取り替えっこしたりする。妖精というと、スコットランドのジェームズ・バリーの「ピーターパンとウェンディ」に登場するティンカーベルを想い出すが、ムア地方の人たちもスコットランド人と同じく妖精にはなじみが深い。
悪魔と妖怪と魔女と妖精――これは「遠野物語」の世界である。ダートムアの人たちは神と自然と人間の織りなすわざをどのように見つめていたのであろうか。ホテルに戻ろうとふり向くと、いつの間にか二階の一室のカーテンの隙間から光がもれていた。あるいは執事バリモアがムアの岩かげにひそむ義弟セルデンと連絡を取りあっているのかもしれないと、一瞬私はシャーロッキアンに戻るのだった。
翌朝早く、濃くけぶる朝もやをついて私たちは出発した。途中でハウンド・トアと呼ばれる巨大な黒い岩石が堆積した場所を過ぎ、ムアのへりにあるヒートリー・ハウスというバスカヴィル・ホールの候補を調べるためである。ところがこの建物は、何の変哲もない横に長いだけの二階建の石造りの建物であった。
「ヘンリー・バスカヴィル様、お待ち申し上げておりました。」と執事のバリモアがうやうやしく迎え出た玄関のポーチもない。中から現れた中年の婦人に「実はこの建物がシャーロック・ホームズの物語に出てくる……」と説明し始めたが、らちがあかない。数分後、この婦人を軽く押しのけて玄関に表れた恰幅の良い、もう少し年のいった婦人がにこやかに「私がこの学校の校長ですが何か御用ですか?」と問いかけてきた。
彼女の説明によれば、この学校は地元の篤志家が創立したもので、現在ではある慈善団体が経営の責任を負っている私立学校(インデペンデント・スクール)で、生徒数は九歳から十六歳までの男子だけで総勢二十四名、全寮制ということであった。このインデペンデントという言葉に強いアクセントがかかっていたのは英国の現行学校制度において、政府の補助を一切受けていない、従って教育方針とか財務状況についても政府の干渉とか規制を受けていないという点で独立(インデペンデント)、それが誇りであるという意味である。
このムア地方は英国でもいわば過疎地帯に属するので、こういう小さな学校があっても驚くにはあたらないが、それにしても日本で言えば村の分教場位の規模なので、ちょっとした感慨を抱かざるをえなかった。
「卒業生は皆、良い学校に進学していますよ。」とこちらの心の中を見透したように校長先生は語っていたが、確かに現在では全国的に行われるO−レベルとかA−レベルという検定試験で優れた成績をとれば、オックスフォードでもケンブリッジでも進学出来る可能性があるので、後はいかに熱心に教育を施すかであろう。
さて、この建物がバスカヴィル・ホールの候補になっているという私たちの説明に、女校長先生は顔を赤らめて明らかに興奮した様子であった。でもその証拠は、とさすがにしっかりした質問に私は後生大事に持っていた友人、ハウレット氏のダートムア探険記録の中の該当する部分を切りとってお渡ししなければならなかった。「明日の朝礼で、全校生徒にこのことを申し伝えます。」と校長先生は胸を張って私たちに握手を求めた。
この学校を後にしてブルックマナーに向かう。ここはシャーロッキアンの間では本命といわれているバスカヴィル・ホールの候補である。この家にはパイさんというやや堅苦しい老人が住んでいて、あたりは彼の所有地であるから余り近づかない方が良いと、ハウレット氏の忠告もあったので、この屋敷のやや上方にある道路わきから拝見するだけとした。
この建物も、やはり石造りで三階建、室の数も合わせて十室程度で荘園の領主というよりは自営農民の成功者が代々住んでいる農家という感じである。唯、マナー・ハウスといってもその規模は大小さまざま、このブルックマナーが小さすぎるという訳ではないとしても、その屋敷のまわりもこれと言った趣もなく、バスカヴィル・ホールというには、荷が重いという印象であった。そういった意味では最後に訪れたリュートレンチャードのマナー・ホテルがバスカヴィル・ホールとしては最もふさわしいものであった。
このホテルはムアの北西のへりの位置にあって樹木も生い茂り、なごやかな感じのする地域にある。その林の中に三つの切妻を持つ幅三〇メートルほどの二階建の石造りの建物が、現在はホテルとして経営されていた。歴史は古く、ヘンリー二世の頃にトレンチャード一族がすでにこの場所に住みついていて、一六二六年にヘンリー・グールドというこの地方の有力者がこの場所を買取り、その後、歴代ここを動いていないとのことである。前庭には大きな庭園と小鳥のむれる池があり、その先は牧草地になっている。非常にゆったりとした景色なので、荒々しい魔犬の話とそぐわない気がするが、嵐と霧が交互にこの館を取りつつむと想像すると、ダートムアの自然の厳しさが現れ出るかもしれない。
この館の持主グールド家の歴代の中で異才を放ったのは、サビン・ベアリング・グールドである。彼は一八三四年に生れ、九十歳の天寿をまっとうしたが、大地主であったのみならず、牧師で、ヴィクトリア時代の高名な聖歌作者として「キリスト教徒の兵士達よ、前進せよ」で名をとどめた。だが何よりも彼は、このダートムアの研究者として偉大であったという。
彼はこの地をくまなく歩き回って、既に当時忘れ去られようとしていた民間伝承や民謡を熱心に記録した。その熱心さが災いして仲間の牧師たちからうとまれたりしたが、頓着せず仕事のかたわら自分の教区民に球根を配って歩き、翌年春それらが花咲くのを楽しみに一軒一軒回って行くなど、自分の思い通りに生き、そして教区民の尊敬も集めた人だったようだ。
建物の内部に入ってみると、由緒のありそうな古い調度類がよく磨きこまれ、窓は一部、ステンドグラスでグールド家の紋章を始め色々なデザインが色合いも鮮やかに組み合わされている。秋の日が斜めにさし込むと、ステンドグラスの模様が木張りの床に映り床全体が花びらを敷きつめたように明るく変化する。
たった一人しかいない若いメイドが、私たちの注文のサンドイッチを作っているらしいかすかな音が奥の台所から聞えてくるだけで、すべては静かで平和であった。二階に上って幅の広い薄暗い廊下を歩くと、両側に昔の武将と思われる人たちの肖像画が並んで陳列されている。この中にはバスカヴィル一族のものもあるかも知れない、そんなシャーロッキアン的想像をかき立てられる情景であった。
さて、私たちはダートムアのちょうど真中あたりに位置するプリンスタウンを訪れた。魅力のない土地ほど、大袈裟な名前をつけるというが、このプリンスタウンも、もとはトーマス・ホイットが不毛の地ムアに豊かな農耕地を作ろうと夢みて当時の皇太子(後のジョージ四世)から拝領したものと言われるが、ダートムアの荒地の真中では結局なすすべもなく、そこで考えついたのが刑務所をつくることであった。かくして一八〇九年、仏軍捕虜の収容所として高い塀をめぐらした大規模の刑務所が完成した。しかし生活条件は劣悪で、最初の七年間に一五〇〇人もの捕虜がここで死亡したという。
町に近い高台に上ってみると、町というよりは刑務所があって、その正門付近に数十軒の家があるだけ、その周りはすべてムアの荒地である。「バスカヴィル家の犬」でも、セルデンという囚人が、この刑務所から脱獄してムアに潜む場面があるが、このムアが自然の塀をつくっている地形がわかれば脱獄は容易なことではないと囚人たちにもわかったであろう。
町に入っても、全く殺風景なもので、刑務所の塀の外にいる人たちも、刑務所に勤めている人たちか、その家族、そして刑務所に直接または間接に関係した商売人がほとんどであろう。そうでなければ敢えて住む理由のないような所である。
刑務所正面脇の広場で、所在なげに煙草をふかしている看守を見つけて話しかけてみた。
「そう、一度に数百人は収容出来るはずだよ。何しろ四階建の刑務所だからね。今入っているのはその三分の一程度かな。今はいわゆる重罪人というのは、ここにはいない。でもこんな所にはこない方がいいよ。昼夜の気温差が激しいし、冬は寒さが厳しい。見渡す限りムアの荒地だ。逃げ出すことも出来ない。まさに絶望の地だよ。――バスカヴィルの話? あっ、知っているよ。コナン・ドイルがここに泊って書き上げたという話だよ。」そう言って、彼が指差したのが、すぐむかいにあるダッチイ・ホテルであった。
ドイルは一九〇一年の初め、静養中の地で友人のロビンスンからダートムア地方の魔犬伝説を聞き、興味をいだき、彼を伴ってこのプリンスタウンの町を訪れて、昼間はダートムアを歩きまわり夜はホテルの室にこもって、この「バスカヴィル家の犬」を書き上げたのであった。
丸三日間というもの、私たちは愛車のフォルクスワーゲンを駆ってムアを縦横に駆け回った。物語の中に出てくる岩峰のいくつかに登り、ホームズが潜んでいた古代人住居跡を丹念に調べ、ホームズが打った電報を受け取った郵便局をのぞきこみ、最後には尋ね尋ねして、この魔犬伝説のもととなった暴れ者、ヒューゴー・バスカヴィルの墓までたどり着き、二度と彼が現れて村人をおびやかさないようにと、鉄格子をはめた屋根付の堂の中に納まっている彼の石棺を見届けてきた。
しかし、いったい、魔犬はどうなったのだろうか? この三日間、犬は何匹か見かけたが、大きいのも小さいのも皆やさしい目をして人なつっこかった。ホームズに撃たれた黒い魔犬の末裔はどこに潜んでいるのか?
ムア最後の日、もう夕暮も深くなった頃私たちはムアを横切って帰る途中、牛の放牧地の中を通っていた。草地の真中の一条の小道をたどっていると、両側には数十頭の大きな牛が私たちに気をとめる風もなくじっとうずくまっている。と、その群からわずか離れた所に何か真黒い生物がうずくまって大きな目をじっとこちらに向けている。私は思わず車を止めた。これが魔犬だろうか。この生物は、ゆっくりこちらを向いて立ち上がった。そして二、三歩こちらに歩き出した。これがバスカヴィルの魔犬の末裔なのか、しかしよく見ると、小さな角が見える。
魔犬に角はあっただろうか? この瞬間、この黒い生物はかたわらの母牛の横に甘えるようにすわり込んでしまったのである。
第七話
ホームズと日本武道
「我々は取組み合ったまま、滝の崖っぷちでよろよろとした。しかしぼくはバリツ、つまり日本の格闘術の心得がいささかあるのでおかげで一度ならず助かったものだよ。」
――「空家の冒険」――
世紀の名探偵シャーロック・ホームズと犯罪世界の王者モリアーティ教授は、一八九一年五月四日スイスのライヘンバッハの滝で、いかにも名誉を重んじるヴィクトリア朝の紳士らしく、武器とか、助っ人らには一切頼らないで正々堂々と素手で決闘を演じ、ついには二人とも取組み合ったままの形で滝壺に落ちていったのである。
モリアーティの仕組んだ偽のメッセンジャーが持ってきた手紙を信用して、ふもとのホテルに帰ったワトソンは騙(だま)されたと知ると、息せききって滝に戻ってきた。が時すでに遅く、ホームズの姿はなく、ただ最期を暗示する彼の走り書きが残されているだけであった。かくしてホームズは死んだ。物語は幕が閉じ、これを掲載して売上部数を飛躍的に伸ばしていたストランド社の幹部はがっくり肩を落し、ホームズ・ファンはこの結末に怒り狂った。ひとり作者のドイルだけは、やれやれこれでせいせいした、とほくそ笑んだに違いない。ドイルはホームズを殺したがっていたのである。
一八八七年に世界で最初の私立諮問探偵シャーロック・ホームズを創り上げて世に送り出したコナン・ドイルは、その処女作「緋色の研究」の評判が今一つぱっとしないので、苛ら立ちを感じていた。が一方、自分の文学的才能は中世を題材とした歴史小説において最も発揮されるものと信じこんでいたため、近い将来、自分がホームズ物語作者としてのみ世間に認知されるとか、ホームズの名前は知っていても、ドイルの名前は知らないなどという許し難い状況が発生するとは夢想だにしなかった。しかし生活上の理由もあって、何とかホームズを世に出そうとしていたのも事実である。
一八九〇年には「四つの署名」でホームズを再び登場させているし、創刊されたばかりの「ストランド誌」に読み切り連載という新しい構想でホームズの冒険シリーズの原稿を送りつけたのもドイルであった。この短編シリーズは爆発的人気をまき起しホームズは一躍有名になった。ドイルもやっと長年の貧乏から解放され、いささかの贅沢も出来るようになった。ホームズとドイルは固い握手をかわしたはずなのである。
しかし時がたつにつれて、ホームズ活躍の舞台づくりにドイルはだんだんと疲れてきた。読み切り連載形式は読者に新鮮な読物を与えはしても、他方、毎月毎月違った筋立(プロツト)を探し出すのは作者にとって決して容易ではない。ホームズの為に歴史小説作家として身をたてんとしている自分の「本来の仕事」が邪魔されてきてドイルは苛ら立ちを感じた。そしてついにこのホームズ冒険物を打ち切ろうと決意して、母親にその旨手紙を書き、意見を求めた。長らく貧乏暮しを強いられて子どもの成功のみを生き甲斐としてきた母親には、息子のアーサーがやっとつかみかけた人生の幸運というものを自ら捨て去ろうとする動機は全く理解出来なかった。「やめるなんて絶対にいけません。」と厳しく息子をいさめた。ドイルは自分の母親を "the ma'am" とわざわざ定冠詞をつけた表現を手紙でとっていたほど、母親を尊敬していた。
「ボヘミアの醜聞」でアイリーン・アドラーを "the woman" と心を込めて書いたのも同じ発想であろうか。この世の中で「唯一人の」母親であり、女性であるという意味である。
この母親はドイルの父チャールズ・ドイルが小役人の職につくためエジンバラに着いた時の下宿屋の娘であった。小柄で可愛らしく「スコットランドの女」特有のしっかり者で、しかもフランスに渡ってそこで多少の教育を受けていたから、名家のドイル家にとってもふさわしい相手となった。二人は結婚し、長男アーサー・コナン・ドイルが生まれた。
父親のチャールズは善意に満ちた人だったが、性格が弱く、積極的に人生を生き抜くというタイプではなかった。仕事上の出世からも見離され、従って生活は常に手元不如意でありながら子宝には大いに恵まれるという、典型的な「貧乏人の子沢山」だった。健康にも余り恵まれず年のわりには肉体的にも精神的にもふけ込んでいて、ヴィクトリア時代の父親らしく権威を持って一家の主導権をとることは出来なかった。この頼りない父親に代って一家を切り盛りしたのがドイルの母親メアリーである。貧乏にもめげず、勝気に世渡りをし、教育熱心で特に長男のアーサーの立身出世に自分のすべてを託すほどの打ち込みかたであった。娘達にはそこそこの教育を受けさせると直ちに住み込み家庭教師としてポルトガルに出稼ぎに送り出したりしているが、アーサーに対しては家事の最中でも彼を自分の脇に座らせて暗記物をたたき込むほどの教育ママであった。
彼女は貧乏神にはとりつかれてはいたが気位は高く、隣近所のおかみさん連とは自ら一線を画していた。フランスで教育を受けた時期(スコットランドは英国への対抗心もありフランスには強い親近感をいだいていた)に家系図とか家紋(紋章)に深い興味をいだいて、つっ込んだ勉強をしたらしく、その知識と、彼女の先祖及びドイル方の先祖もそれぞれに由緒正しい家系であるという誇りが混り合い、アーサーはそういう伝統ある家系の長男としての教養として、幼い時から先祖の冒険譚とか両家の系統とかを暗記させられ、頭にたたき込まれたのである。ドイルが後年に至って騎士道華やかなりし中世に想いを寄せ、その時期を題材とした歴史小説作家として身を立てようとした素地は、既に幼少の頃から "the ma'am" によって作りあげられていたといえる。
こんなドイルにとって母親は頭の上らない尊敬すべき絶対の存在であって、成人してからも唯一の相談相手であった。母親も自分のすべてを託した息子については黙っておれず、その友人関係に至るまで、こと細かに忠告したり干渉したりしている。わが国の明治期の母親像にも似た気丈な、偉いスコットランドのお袋さんであったようだ。
「書くのをやめてはいけません。」と母親に厳しくいさめられたアーサーは、直接それには反抗しなかった。母親の気持もよく判っていたが、ホームズが自分の志した道を塞いでいるのがどうしても我慢が出来なかった。そして考えついたのがいささか子供っぽい発想だが、主人公そのものを殺してしまえば、お話は止むなくそれで打ち止めになってしまうだろうというものであった。こうしてホームズは宿敵モリアーティと共に滝の中につき落されたのである。
「ストランド誌」幹部の執拗な説得や読者の抗議にも耳をかさず、ドイルは念願の歴史小説に全身を打ち込んでいくつかの作品を発表したのだが、結局のところ、ホームズ物をしのぐほどの評判を得られなかった。しかし彼はそれを、自分の歴史小説の価値そのものが低いからとは受け取らず、むしろ先行したホームズ物が自分の本来うけるべき評価を歪める役割を果したのだと、ここでまたホームズに対する怨みつらみが出てくるのだった。
しかしそれから八年後、親友フレッチャーの魔犬の話に心を動かされたドイルが「バスカヴィル家の犬」の構想を練ったとき、ホームズは当然その中で活躍することになる。「既にホームズという役者がいたのに、この話のために新しい役者を登場させることもないではないか。」と語ったと伝えられるが、あるいは負け惜しみなのか、そのころ歴史小説で壁にぶち当っていた彼が郷愁にも似た気持でホームズに思いをはせたのかもしれない。ホームズ再登場と知って飛上がって喜んだのは他ならぬ、「ストランド誌」の編集者であった。
この長編は「ストランド誌」の一九〇一年八月号から翌年の四月号まで九回に分けて連載されて、読者の熱烈な歓迎を受けた。だが、これはホームズの復活を意味するものではない。ドイルは注意深く、この事件が発生したのはライヘンバッハの滝での格闘の一八九一年より以前の一八八八年としている。従ってホームズが奇跡の生還をとげたのを読者が知るのは、それから一年半後の一九〇三年十月号の「空家の冒険」によってであった。
いくらなんでも一度は死んだ主人公を復活させるのは、容易な筋書きではできない、第一読者が承知すまい。が、この難問をドイルはいささか安易に日本の武術をうまく利用することによって、簡単に解決してしまった。三年振りに盟友ワトソンの前に姿を見せたホームズは、日本の格闘術バリツの心得があったから、相手の力をうまくすり抜け、そのはずみでモリアーティは自分の態勢をたて直せず、バランスを崩して滝に落ちていったのだと語っている。それではこのバリツとは、一体いかなる技であるのか、当然その後シャーロッキアンの間で喧々囂々(けんけんごうごう)の議論が行なわれた。
現在に至るも、この議論には終止符が打たれていない(次から次へと新しい解釈とか、議論を生み出すのがシャーロッキアンたるゆえんでもある)。最も代表的な解釈は一八九九年にE・W・バートンライトなる人物が日本から英国に持ち込んできた護身術で、彼はバートン流の武術という意味でこの技を BAR (TON) + (BUJ) ITSU = BARITSU と名づけたとするものである。このバリツなるものは当時の月刊誌「ピアソンズ」の一八九九年三月号及び四月号に写真入りで掲載されている。
その写真では、しゅろの木を背景にした日本庭園にむしろを敷き、袴を着けた日本人(解説では攻撃者)を柔道着をつけたバートンライトが、相手の力を利用してバランスを崩させるという過程を示した三葉のものであるが、解説によれば「バランス」と「てこの力」の充分な知識を人体の構造にうまく適用することにより、攻撃者を逆にやっつける技のようで日本で発達した方法をうまく取り入れたもの、となっていて彼の独自性を強調している。
さて、この東洋の君主国、日本の武道に関しては英国の一部の識者の間ではかなり以前から関心が集まっていた。英国人の友人と苦心して探し出したザ・ジャパン・ソサエティ(日英友好親善を目的とした最も伝統的な団体で、知日派の英国人と英国在住の日本人のそれぞれ有識者により構成されている)の一九〇一年の年報によると、日本の柔道と柔術の驚嘆すべき技に関して既に一八九二年四月二十九日の同ソサエティの会合において、T・シダチ氏が日本人の観点からその道徳的及び知的な面も含めて報告した記事がある。
これに対してバートンライト氏からこの日本の護身術を競技としての観点、及び英国人としての観点からも取上げるべきであるとの意見が出され、ソサエティ評議会はこのまことに興味ある事柄について同氏よりの報告を受け入れる、との記録と共に「柔術と柔道」と題した同氏の一文を掲載している。
その冒頭でバリツのことが触れられてあり、彼の言う "BART-ITSU"(ドイルは BARITSU と書いている)は彼自身の名前バートンと(最後まで戦うを意味する)日本語の柔術に由来するものと説明している。BART (ON) + (JU-J) ITSU = BARTITSU。彼は続けてバリツでは一、相手をたたくためにこぶしを使う、二、正式のボクシング及び攻撃、防禦、両方のために足を使う、三、指をやられないための防禦手段として杖を使う、と述べている。そして日本式のレスリングである柔道と柔術は接近戦になった時の防禦用である、と定義して自分のバリツの独自性を主張している。
このバートンライトの報告の内容は当時の英国人の対日観という意味でも興味をそそられるものであるが、シャーロッキアンとしての立場からはホームズが棒術の達人であった話が想い出されよう。ドイルが「ピアソンズ誌」の記事からヒントを得たのは間違いないが、そうなるとややこしいのはライヘンバッハの滝事件が一八九一年なのでどうしてホームズがその時すでにバリツの心得があったのかということになってしまう(ドイルがホームズ復活第一作「空家の冒険」を「ストランド誌」に掲載したのは一九〇三年十月号)。
こういう事態に逢着すると、面倒くさがり屋のシャーロッキアン達は「例のワトソンの勘違い」というわけで責任をワトソンに押しつける傾向がある。だが、そういう決着の仕方にあきたらない熱烈シャーロッキアンの中には、草の根をわけても何か新しい事実を探し出そうとする人たちもいる。
ザ・ジャパン・ソサエティの記事によれば、一八九二年には既に日本の柔術と柔道の紹介が英国の貴顕紳士の前で行なわれたという事実がある。とすれば、その以前にもどこかで同じような試みがあり、ホームズが逸早くそれに目を止め、ひそかに訓練をつんでいたかもしれない。時差はわずか一、二年というところまできた。あと一ふんばりでこの大難問も解決出来るかもしれない。そう思うと振るいたつのがシャーロッキアンの真骨頂なのである。
第八話
シャーロック・ホームズ紀行
「景色の美しいストラウドの渓谷を通り、ゆったりと光り輝いて流れるセヴァン川を渡り、きれいな田舎町のロス駅に着いたのは、かれこれ午後四時頃であった。」
――「ボスコム谷の惨劇」――
季節を問わず英国の風景は美しい。地上は落ち着いているが、空の気配は目まぐるしく変化し、一つの天空に白い雲と灰色の雲がまざり合い、その中に青い空の切れ端がのぞく。そしてそれぞれの形は間断なく変る。太陽の光がさしたかと思うと雨粒が落ちてくる。
私が、英国の代表的画家ターナーの描いた空の形と色が納得出来たのは、ロンドンに着いてからであった。英国の空は落ち着かないが、その下で暮す英国人はどっしりと落ち着いて自分流のやり方で生活している。小雨が降ってもすぐに陽がさし込むと知っている紳士は、固く巻いた傘を広げようとはせず胸を張って雨を楽しむかのごとく歩く。やがて巡ってくる春に遅れまいと老夫婦は庭仕事に精を出し、時には冬の間のリスたちの食料保存場所を掘り当ててしまって、もう一度くるみやどんぐりをそっと埋めておいてやる。
ラグビーも天候には無縁。変り易い天気に左右されるようでは紳士のスポーツは成りたたない。英国人は田舎が好きだ。ロンドンも良いけれど、やはり仕事の場だね。週末はやはり田舎ですごしたいよ、という金融街シティの人間は多い。私たち夫婦もロンドン滞在中、よく車を駆って英国人の愛する田舎を走ったものである。
ロンドンを起点にして、東に向うと二十分ほどでルイシャムの町に着く。ここはホームズ物の一つ「隠居絵具師」の住んだ所であった。その当時はロンドン郊外となっているが、現在では完全な通勤圏となってしまい、アパートと棟割長屋の多い殺風景なたたずまいに変った。さらに東に進めば、ローチェスター市に着くが、この辺りは「金縁の鼻眼鏡」の事件現場、軽い丘陵地帯で単調で平和そうな田舎町といった印象である。もっと東に行くとカンタベリーの寺町に着く。
ホームズの世界では、ここは「最後の事件」で、モリアーティ教授に特別仕立便で追われるだろうと予知したホームズが、汽車を乗り換えるため下車した所である。案の定、モリアーティのチャーターした特別便は、あっと言う間にホームズのひそんでいるカンタベリー駅を通り過ぎて行った。カンタベリーから南へ折れ、ドーバーの町を通りぬけ、海岸に沿って今度は西に向うと一時間ほどでイーストボーンに着く。
ここから田舎道に入り、白亜の断崖に沿ってさらに西に進むと、ホームズが引退して養蜂に精を出しているはずの、海を見下ろす丘の上の一軒家に着くはずである。残念なことに、これまで数多くのシャーロッキアンが探し求めても見つかってはいないのは、さすが人目をくらますのに長けた、ホームズの方に軍配を上げるべきなのであろう。ホームズが自分で書いたと言われている「ライオンのたてがみ」事件は、この辺りのバーリング・ギャップという場所で起ったはず、ホームズの隠れ家もこの近在に違いはない。
この辺りから北に進路を変えてロンドンに戻る途中には「ブラック・ピーター」の住んでいたフォレストロウとか「恐怖の谷」事件の現場であるグルームブリッジの小さな村落がある。そのフォレストロウには、シャーロッキアン仲間のキャシィ嬢と一緒に私たち夫婦で一日探索旅行をしていた時、立ち寄ってみたことがある。
ドイルも宿泊し、昔の「ブラック・ピーター事件」の話を聞いたという宿屋だ。ただしドイルは事件そのものでなく、ブラック・ピーターという犯人の名前が面白く、その名前だけを借りたのだった。
私たち一行に話をしてくれたその宿の女(おんな)主人(あるじ)は、思わずまじまじと見つめたくなるほど、あのイアン・フレミングの傑作007の映画、「ロシアより愛をこめて」のスペクターのスパイである、老女に似ていた。まざまざと思い出すのは、ホテルのメイドに変装して靴先に飛び出し剣を仕込み、必死で007と格闘するシーンだ。
その女主人が真顔で、今でも時折り夜半にその宿を訪ねてくる幽霊とか、地下室の壁の中から二人の死体が出てきたとか、この宿に代々伝わる幽霊のこととかを聞かせてくれた。やはり英国人は幽霊話が好きだなと思わせる。コナン・ドイルもこの宿できっとこの手の話を主(あるじ)より聞かされたことだろう。
そこから少し西寄りの道を選ぶと「吸血鬼」と「オレンジの種五つ」の舞台ホーシャムの町を通り、「ライゲイトの大地主」の住んでいたライゲイトの町に着く。
ここから三十分ほど北西に向うと「まだらの紐」のロイロット博士の住んでいたストーク・ダーバノンの田舎町、この少し西側に位置するリプレイは「海軍条約文書事件」の現場。ここからロンドン中心部までは車でも電車でも小一時間ほどの通勤圏に入る。田舎の雰囲気を今も残している美しい落ち着いた村である。
ロンドンから西南に向って高速道路で三、四十分車を走らせると、オルダーショットという軍隊駐屯地に出る。ここは「かたわ男」が昔の恋人に会いに来た所で、その少し東寄りの丘陵地帯が「孤独な自転車乗り」の舞台となった場所である。高速道路にのってさらに西南に進むと古都ウィンチェスターに着くが、ここは「ぶな屋敷」の現場である。
サウスハンプトンを過ぎると、ニューフォレストと呼ばれる森林地帯に入る。この隅にあるミンステッドの町の小さな教会の裏の墓地にホームズの創造者、コナン・ドイルの墓がある。深い林の一隅の小さな教会、その小さな墓地の片すみに人目もひかずひっそりと建つ碑文には、
「鋼鉄(ハガネ)のごとく真実で
刃(ヤイバ)のごとく真直な
アーサー・コナン・ドイル
騎士
愛国者、医師、そして文学者」
と記されていた。
さらに西に進み、トーマス・ハーディの生まれ育ったドーチェスターに向う途中、ちょっと横道にそれ、キマリッジの海岸に寄り道してみると大変面白い体験が出来る。小石や岩ばかりの海岸線に、そそり立つ崖全体がアンモナイト(化石の一種)の宝庫となっているのだ。
許可なくハンマーなど、専門道具を使用しての採集は禁止されているらしいが、素人が手やそこらにある小石でコンコンとぶつけて、軽くはがれ落ちる一〇〜二〇センチ四方程度の岩片は遊びで採集してよいようで、そこにいる子どもや大人も夢中で収集している。
私たちも半信半疑で、石でたたいて岩を取ってみてびっくりした。まさに博物館で展示されているようなアンモナイトがはっきりと見えるのだ。そうなると面白くなり、ついついより大きい、より形の完璧な化石を取ろうと欲を出してしまうが、こんな海岸の崖で生きた勉強が出来ようとは驚きだ。こういう場所を自由に放っておく英国にも驚くが、さすが博物館、美術館とも、入場無料の精神の生きている国であると感じいる。
エクゼターを越えると「バスカヴィル家の犬」のダートムアの荒野が視野に入る。この荒野をつっ切った所にあるタヴィストックの町の辺りが「白銀号事件」の舞台となっている。
さらに西に向って三時間ほど走ると、英国の西南端、コーンウォール州に入る。ペンザンスに近い所が「悪魔の足」事件の起った場所である。
今度はロンドンから北東に進路をとると、古都コルチェスターを通り海軍基地のあるハリッジに着くが、ここは「最後のあいさつ」でホームズとワトソンが最後の御奉公として力を合わせてドイツのスパイをつかまえた場所である。そこから北に上って行くとフェン(沼沢地帯)と呼ばれる低地に出る。中心地ノリッジの東北で海に近い所が「踊る人形」と「グロリア・スコット号」の舞台である。
ここから今度は西南に向って下るとケンブリッジに着くが、この近在が「スリー・クォーターの失踪」でホームズが駆けずり回った所であり、「這う人」もこの町かオックスフォードで起った事件である。
ケンブリッジから真っすぐ西に向うとベッドフォードに着くが、この近辺に「白面の兵士」はかくまわれていた。続いて西北に向うと産業革命の中心地バーミンガムに着く。ここは「株式仲買店員」「三人ガリデブ」事件のあった場所である。今度は北に進路を転じてどんどん進むと、ダービーシャーの山岳地帯に入るが、マトロックという田舎町のはずれの辺りが「プライオリ学校事件」のあった所で、校長はマトロックの駅から夜行列車に乗ってロンドンのホームズに事件の依頼に来た。
今度は少しゆっくりと、ボスコム谷をめざしてロンドンから西北に向って車を走らせてみよう。
「ボヘミアの醜聞」「赤毛連盟」「花婿失踪事件」に続く、短編第四作の「ボスコム谷の惨劇」では「四つの署名」で知り合ってめでたくメアリー・モースタン嬢と結婚して新婚生活に入っていたワトソンが朝食中に飛び込んで来たホームズの電報で、あわててパディントン駅に馬車を走らせ、やっと十一時十五分発の汽車に間にあった。その車中の二人の姿を描いたシドニー・パジェットの挿絵で、私たちは初めてホームズの足首まである長いねずみ色の旅行用外套とサイズのぴったり合った前とうしろにひさしのついた鹿撃ち帽(ディア・ストーカー)をかぶっているのにお目にかかるのだが、これがまたシャーロッキアンたちの話題になった。原文ではハンチング(クロス・キャップ)となっているからである。狩猟帽(ハンチング・キャップ)がむしろ鹿撃ち帽に似ているが前者はうしろにひさしがついていない。という訳で、これはパジェットの誤りとなるのだが、この鹿撃ち帽のスタイルが、その後ホームズのイメージとして定着してしまった。当時は絵入り雑誌が大流行していたので、挿絵画家の果す役割は大変に大きかった。
このホームズ物語の場合にも、パジェットの描いたホームズが他の挿絵画家の誰にもまして、決定版となったが、これには面白い話がある。シドニー・パジェットには同業の兄、ウォルター・パジェットがいて、彼はその時すでにスティーブンソンの「宝島」の挿絵画家として有名であった。ホームズの挿絵依頼は「ストランド誌」より、この兄のウォルターにいくはずであったのだが、兄弟で同じ屋根の下に住んでいた二人であったので、「ストランド誌」がうっかりファースト・ネームを間違い、シドニー・パジェット宛に出してしまった。
初めドイルはシドニー・パジェットの挿絵は自分の持っているイメージと違うといって難色を示したそうだが、出版社の方から、シドニー描くところのホームズの顔は女性受けすると言われ、女性ファン獲得のため、ドイルは納得したとか、今日私たちが目にするホームズの姿はほとんど例外なく、シドニー・パジェットにその源を持っている。
シドニー・パジェットはロンドン子で一八六〇年に生れ、ドイルとほぼ同年輩、二十一歳でロイヤル・アカデミー・スクールに入学し、六年間画家としての修業を積んだ。彼がホームズ物の挿絵を依頼された時、ホームズのモデルとしたのが兄のウォルターであったし、その友人バトラーがワトソン役となった。彼ら三人は同じ学校で学ぶ仲間であった。
ホームズが有名になった後に、パジェット兄弟が揃って音楽会に行った時、客席にいた婦人が「まあ、ホームズが来ましたよ」と声を上げたという話が残っている。彼は一八九一年の「ボヘミアの醜聞」から一九〇四年の「第二のしみ」までの間、ホームズ物語のために実に三五七枚の挿絵を画き、一九〇八年にこの世を去った。
パジェットはロンドン子であったが、田舎の生活が好きで若い頃はロンドン郊外に住んでいた。その時には鹿撃ち帽を愛用していたと娘のウィニフレッドが語っているが、それが半ば無意識の内にホームズにも鹿撃ち帽をかぶせてしまったのであろうか。作者のコナン・ドイルと挿絵画家のシドニー・パジェットの写真を並べ較べてみると、顔の輪郭も体つきもパジェットがホームズに似ており、ドイルはむしろワトソンを連想させる面白い取合わせとなっている。
さてホームズとワトソンを乗せたグレイト・ウエスタン鉄道の汽車は一路西へ進みレディングの町を過ぎ、この鉄道の機関区のあるスウィンドンに到着する。ここで二人は昼飯を食べたはずだが、当時の鉄道では、まだ食堂車はついていなかったし、トイレもない。そもそも連絡通路のないコンパートメント式だったからだ。だから汽車が駅に着くと、乗客は先を争って食堂に駆け込んだり、必要品を売店で買い求めたり、用を足したりしたのである。今でも中距離通勤列車では一部この種の古いコンパートメント式の客車を使用しているが、終着駅につくとコンパートメントの扉が一斉にバタバタと音をたてて開いて人びとがフォームに降りる様子は、自動扉になれきった目には驚異ですらある。このコンパートメントは停車中を除けば密室になってしまうので、巡り合わせが悪いと次の駅までひどい目にあうこともある。
このレディングからスウィンドンに至る地域はオックスフォードシャーとバークシャーにまたがる「白馬の谷」のある景色の美しい所で、なだらかな丘陵地帯に清冽な川が流れ、森と林が点在し、草地では羊や牛や馬がゆっくりと草をはんでいる――もっともバークシャー側に入るとベーコンで有名なだけあって豚小屋が多く見られるが――典型的な英国の田園生活がそこにくりひろげられる。この地帯は地層的にはチョーク層に属しており、表土を少し削り取ると白墨の色が現れる。地表の茶色、または草色とコントラストをなす。いつの時代に誰が何の目的でつくりあげたのかわからないが、スウィンドンの近くの丘の中腹に地表が削り取られて巨大な白い馬の姿が描かれており遠くからも眺められる。「白馬の谷」の由来はそこからきている。
汽車はスウィンドンから北西に進路をかえ、コッツウォルドの美しい丘陵地帯を抜け、ストラウドの町を通ってセヴァン川に面するこの地方の中心都市、グロースターに到着する。ここからロス・オン・ワイというワイ川に面した田舎町には今は鉄道が通じていないが、当時ホームズは約五時間でこの地に到着したと文中にある。実際にこの町のあたりを車で走ってみると、地形はそれほどけわしくなく、谷というほどのものはありそうにない。唯、ウェールズとの国境あたりに源を発するワイ川が曲りくねって流れているのでボスコム沼のような湿地はあちこちに存在していても不思議はない所である。
ロスから少し北のヘレフォードの町に至り、そこから西に向って車で小一時間ほどの所、ウェールズとの国境の所にヘイ・オン・ワイという山沿いの小さな町があるがここが愛書家にとっては何とも魅力のある「本の町」、もっと具体的には古本屋の集まっている町なのである。町といっても日本の尺度で言えば「寒村」とでも言うべき規模の場所であるが、中に入っていくと大は大きな農家の納屋をそっくり書庫に改造したような古本屋から小はしもたや程度のものまで、その数約二十、それらがありとあらゆる古本の類を並べている。
どうしてこんな辺鄙な所に、と誰もが抱く疑問に答えてくれたのが納屋クラスの本屋の主人である。第二次大戦後まもない頃、一人の男がロンドンでの古本屋商売をあきらめて引退かたがた、この地に偶然やってきて古本屋を始めた。ところが、自然発生的に一軒、また一軒と集まり、今日の盛況になったという。確かに私たちの行ったのが週日であったにもかかわらず、両側に軒を並べる本屋の間にはさまった細い道を肩をすれ合わんばかりにして多くの人びとがぞろぞろと行き来している。
しかし、と店の主人は声をひそめて「実はこの場所で売れる割合はそんなに多くないのです。たいていの店はロンドンの古本屋と連絡を密にしていて、ロンドンからの注文に応じて揃えて出しているのが多い。その意味ではロンドンの古本屋の書庫のような機能もあるのです。本は重くてかさばりますから、こういう田舎に置いておいた方が安上りです。業者間の仲間取引ですね。」と打明けてくれた。
その頃「ストランド誌」を含む、ホームズに関係のある古本の収集に夢中になっていた私は、そのおやじから「バスカヴィル家の犬」の一九〇二年の初版本を「ロンドンで買うよりは、はるかにお得な値段」で買わせていただいた。
さて、バスカヴィル家の犬と言えば、疑いもなくダートムアがその舞台になっているが、こと「バスカヴィル家」そのものについてはその本家争いがシャーロッキアンの間では決着がついていない。そもそもバスカヴィルという家名をドイルがその作品にとりいれたのは、彼がムアの中心地プリンスタウンのダッチイ・ホテルに泊り込み、徒歩と馬車でダートムアを取材にかけずり回った時に、その馭(ぎよ)者として、また案内役として務めたのがバスカヴィルという家名の男であった。そしてある時、ドイルは「今度の作品では君の名前を借りるよ」とこの男に告げて快諾を得たというだけで、ウイリアム征服王に従って英国に渡って来たほどの由緒ある貴族の家系と、この男は関係ないという説もある。
それでは本家筋はどこかとなると、これまた諸説紛々。その一つが、この「紙魚(しみ)の町」ヘイ・オン・ワイから車で十分ほどの距離にある、これこそまぎれもない寒村クリロだというのである。シャーロッキアンとしては当然ながらこの「聖地」を探険しなければならぬ。私たちはこの村につくと、道沿いの一軒の農家にとび込んだ。
バスカヴィル・ホールはこの辺りにありませんか? という質問をするためである。驚いたことに、この農家の主人はいとも簡単に、「ああ、ありますとも。しかし、あの館は十年ほど前にバスカヴィル老夫人が亡くなった後は空家になってしまい、持主がたびたび代ったので今はロンドンで裁判沙汰になっているそうです。でもそうは言っても、昨日あたり二、三人の男が入って改装工事らしきものをやっているのを見ましたから、今日もいるかも知れません。そうしたら中に入れるでしょう。御案内しましょう。」
かくして私たち夫婦はこの親切なお百姓さんと三人で、すぐ近くの脇道に入り、敷地の境界を示す柵を勝手に開けてバスカヴィル・ホールの敷地内に車を乗りいれた。大きなぶなの木が両側におおいかぶさっている進入路を二〇〇メートルも進むと、正面に三階建の荘重な石造りの館が見えてきた。正面の切妻の所にはバスカヴィル家の家紋がはっきりと刻み込まれている。
大きさといい、形といい、申し分なく、これがもし、ダートムアにあったら文句なしにバスカヴィル・ホールとして指名されたであろう。
われわれは幸運にも館の内部ものぞき見できたが、幅が広く天井も高い。廊下には大きな歴史画が両側にかかり、床には赤いカーペットを敷きつめ、まことに荘園領主の館としてふさわしいものであった。
このお百姓さんの勧めに従って、その晩を近くの「バスカヴィル・アームズ」という小さな旅籠に一泊した。英国ではB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)という夕食なし、朝食付きの民宿があちこちにある。車で旅をする限り予め宿を決めておく必要はない。日が暮れてきたら、そろそろその夜の泊り場所を考えはじめれば良いのである。このバスカヴィル・アームズは十室程度の小さな建物であったが、うれしいことに正面の小さなポーチの屋根に耳をつき立てた真黒のバスカヴィル家の犬の像が招き猫ならぬ、招き犬として鎮座している。
ロビーに入れば、これこそ正真正銘のバスカヴィル家の黒犬が尻尾を振って、人なつっこい表情で歓迎してくれたのには驚いた。魔犬とは似ても似つかぬやさしいゴードン・セターで、珍しそうに私たちの周りを離れようとしない。よく見ると、前足が一本欠けた三本足で不自由そうに歩いている。旅籠の娘に聞いてみると、すぐ前を通る田舎道でたまたま走って来た車をよけきれず、前足を切断してしまったとの話、バスカヴィルの魔犬の末裔も、この文明社会では車という怪物には歯がたたないのであろう。
第九話
ホームズ対レストレード警部
――英国人のねばり強さ
「『なるほど』とレストレードが言った。『ホームズさん、私はあなたが取扱った事件をたくさん見てきましたが、今回ほど手ぎわの良いのは見たことがありません。われわれ警視庁の連中はあなたに嫉妬を感じてはおりません。それどころかあなたを非常に誇りにしております。明日、われわれのいる所にお越し頂けたら、最古参の警部から新入りの巡査にいたるまで、皆あなたと喜んで握手したがることでしょう。』『ありがとう!』とホームズは言った。『ありがとう』」
――「六つのナポレオン像」――
これは私立諮問探偵ホームズに対して、ロンドン警視庁の犯罪捜査局警部レストレードが献じた最大級の讃辞である。二人はしかし普段はこのような友情あふれる関係にあった訳では決してない。むしろ互いに非協力的で、相手を出し抜こうと競い合った。おまけにホームズは自分独自の価値観なり正義感に基づいて、勝手に犯人を許したり逃したりするのだからレストレードにとっては目の上のこぶ的存在であったろう。
しかし、多くの事件で捜査に行きづまると、レストレードが、結局はホームズに事件解決の助力を頼んでいる。ホームズの方も事件が首尾よく解決すると、気前よくそれをレストレードの功績にしてやっているといった具合で二人の関係は特に破局を迎えずに長く続いたのだ。だがちょっと突っ込んで考えてみると、二人ともプロの探偵、レストレードは警視庁から給料を貰っているとしてもホームズは手柄をレストレードに渡していたのでは、いったい生活の原資はどこに求めていたのかと、シャーロッキアンならずとも気になるところである。
ホームズが報酬として大金を貰ったことがはっきりしているのは、「ボヘミアの醜聞」と「プライオリ学校」くらいである。一方、相棒のワトソンにいたっては初めこそ割勘で部屋代を支払っていたはずなのが、いつの間にかホームズの居候になってしまっている。
それでいてホームズは、けっこう羽振りの良い部屋代の支払いをハドソン夫人にしていたようである。そうなると、やはりホームズはレストレードをはじめとする警視庁の警部連中の事件の相談にのるたびごとにいくらかのコンサルタント料を取っていたに違いないと勘ぐりたくなるのだが。しかしホームズはそれが表に出るのを嫌っていたし、ワトソンも心得てその点の描写はしていないのだとする説があり、この点の証明はなかなか困難で、「事件」は未だに迷宮入りである。
さて、ホームズから見たレストレード警部は、優秀なプロで行動も早く、精力的であるが、推理力に欠け、考えに深さがなく、平凡であると指摘している。これに対し、レストレードの不満は、ホームズは公的な立場にないのを良いことに、自分の気に入った事件しか手がけないし、その手段、方法にしても非合法すれすれで時には他人の家に勝手にしのび込んだり、はては婚約サギまでするなど目的のためには手段を選ばない点が何としても気にくわない。その結果、ホームズの方がより優れていると第三者の目には映るのが納得出来ないのである。
しかし、二人には共通点もある。それは犯人(ホシ)を追うねばり強さである。職業上当然と言えばそれまでだが、とにかく二人とも決して諦めず、手を変え品を変えして犯人をつきとめていく。ホームズは頭を使い、彼の言うところの「推理の科学」に基づいて、一晩中坐り込んだままででも考えぬく。レストレードは経験を基礎に足を使い、ブルドッグの執拗さで犯人の跡を嗅ぎまわる。要は方法論の違いにある。
この二人の共通点であるねばり強さは、実は英国人の特性でもあって、表面的にはともかく心の中まであっさりした英国人にお目にかかれるとは余り期待できない。困難に遭遇しても諦めず、ねばり強く頑張り抜くのが第一次、第二次大戦の例にもみられるように英国人の長所の一つであろう。
知識、教養の点ではもちろんそれぞれに差はあるが、英国人は自分なりの解釈で自分の国の歴史、地域の歴史、自分の先祖の歴史に強い関心を持っている。明らかな階級社会は自分と他人との差を、いやが応でも意識させ、それが歴史に対する関心を引き出すのであろう。
英国がイングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人による「連合王国」であるという現実は、地域差を意識させることにもなる。歴史に残る戦争の勝敗、そこからくる運不運、損得、具合不具合、精神的な貸し借り、といったことを先祖からしっかりと受け継ぎ、また子孫に伝えていく。だから「復讐」ともなると、二世代かかっても三世代かかってもやりとげる、まさに一たん噛みついたら頑として離そうとしないブルドッグの執拗さが、そこに出てくるのである。だからわれわれ日本人が、もう遠い過去として気持の上ではあっさり水に流している第二次大戦の勝ち・負けも英国人は決して忘れていないし、それをまたしつっこく次の世代に引き継がせている。
ある日、私は英国人の退役陸軍大佐殿に昼食に招かれた。指定されたセント・ジェームズ広場(スクウエア)にある「陸海軍クラブ」の入口の階段をのぼり始めたところ、向い側から降りて来たカイゼル髭の小柄な、背筋をしっかり伸ばしたやせた老人がすれ違いざま、手にした固く巻いたコウモリ傘をいきなり人を刺すようにつき出して私を棒立ちにさせて、甲高い強いアクセントで「貴殿は、ここがどこか御存知か。」と挑むような調子で問いかけてきた。
こちらも負けずに「承知しておりますとも。陸海軍クラブです。」と答えると「その通り。それで貴殿は日本人とお見受けするが、ここに入って何をなさるおつもりか」とたたみかける。
私もここは腹を決めてかからないと具合が悪いなと覚悟して、じっと相手の顔を見つめて「さよう、私は日本人であり、第二次大戦が終るまでは(負けるまでとは言わない)海軍情報部の将校でした。今日は昔のライバルに昼食に招かれたのですよ。」と答えたところ、この「海軍」と「将校」が呪文のように利いたのか、この老紳士は正に私の胸元三寸まで近づいていた傘を下ろし、目と口元に冷ややかな笑みを浮かべ、「なるほど、あの戦争では当方の勝ち、貴殿の負けでけりがついたと記憶しております。とすれば今日は貴殿がおごる番ですかな。では御機嫌よう。」と相変らず甲高い声でわめいたあげく、後をも振りむかず、ゆうゆうと階段を降りてペル・メルの街路に消えていった。
それを呆然と見送って腹ふくるるのを感じた私がだ、その日の昼食代を退役陸軍大佐殿もちとし、腹一杯に、一番上等のメニューをフル・コースで楽しんだことは言うまでもない。日頃、口にしないシガーまで頂戴しながら、紫煙の中に戦後の食料不足の苦しい時期がゆっくりと浮び上がってくるように感じたのだった。
欧州各国は権謀術策を弄して敵になり味方になりして繰返し戦い、勝ったり負けたりしてきてきた。そういった歴史を踏まえた上でのやりとりが現在のEC(欧州共同体)内部でも続いている。日本に対しては一枚岩となって立ち向ってくるECではあるが、一たん、内部にまわると加盟国間での利害対立が絶えず起り、合従連衡で激しい主導権争いをしていることは地元の新聞を見ればすぐ判る。
こういう過去とのつながりを重視する傾向は、英国人の幽霊好きにも現れているように思う。英国人は幽霊が大好き、全国のお化けの所在図が売れ、季節になると幽霊探訪ツアーも企画される。幽霊所在地の住民からみれば、物好きが来て少しは地元に金が落ちるかも知れないけれども、やはり幽霊で有名になるというのは迷惑な話である。
私たちも以前に、有名な幽霊の出る田舎を訪れた時、通りがかりの農夫に幽霊に会いたいが道を教えて欲しい、と慣れないユーモアも多少まじえて尋ねたつもりであったが、その日焼けした肩幅の広く張った老農夫は、頑としてこの村にはそういうものは存在していないし、かつて存在したこともない、と首を横に振るばかりである。業をにやして、買い求めた例の地図を出して見せて、この村はここに出ている幽霊で有名なのだ、と説明したところ、その老農夫はまるで悪魔の呪文でも聞くように私の口元を見つめ、にらみつけて立ち去ってしまったことがあった。
過去への執着は、「伝統」の形成とも深くかかわっていると思われる。英国は伝統を重んじる国とみられているし、事実、日常生活においても長い伝統に裏付けられた仕組みとか、手順というものが結構多い。それでは英国人は伝統にあぐらをかいているかというと、実は決してそうではない。そうみえるとすれば、実は伝統にあぐらをかいている方がコストが安く「実利的」だからである。償却の済んだ古い建物で、同じ物を何十年も繰返し作り、または全く昔と変らないサービスを繰返し提供することは、リスクとコストの少ない仕事のやり方である。しかもそれがお金になるのであれば申し分なく「実利的」なのである。だから出来るだけ、これまでの方法を踏襲しようとするのは当然である。
しかし英国人も、それがいつまでも続くとは決して思っていない。いつかは従来のやり方では無理なことがはっきりし、それでは、もはや実利的ではあり得ないという状況が発生すると予見しているのである。だから実際にその必要ありとなると、実に思いきった変革を行う。その代表的な例の一つが、金融街シティの最も伝統ある取引所の一つロイズ保険組合の建物にみられる。
ロイズといえば、世界で最も伝統のある保険再引受業者の団体で、その建物は石造りの荘重なもので守衛の制服一つをみても、いかにも大英帝国の経済中枢であるシティの代表的な機構の一つと自他共に認めるものであった。そのロイズがスペースの窮屈さを緩和するために現在地の筋向いに新館を建設する構想を発表した時に、世間はあっと驚いた。
それもそのはず、新館は超モダンなデザインで総ガラス張り、中が透けて見え、エレベーターを含むユーティリティー関係は建物本体の脇に集中して塔屋としてくっつけられている。誰かがまるでパーコレーター(コーヒー沸かし器)と皮肉をこめて呼んだが、何から何まで旧館とはコンセプトが対照的なのである。
この新館が五割方完成した頃、私はロイズの役員に会う機会があった。「どうして伝統のロイズが、よりによってこんな超モダンな建物をつくろうとしたのでしょうか?」と聞いてみた。
私の卒直な質問に対し、この役員氏は悠然とシガーをふかしながら「ロイズはいつの時代にもその時々の必要に合わせてきたのですよ。心の中はいつも現代的なのです。なるほど、建物は古いし服装はヴィクトリア時代から変っていない、仕事の手順も書式も何十年も変っていません。しかし保険再引受の対象そのものは、時代と共にめまぐるしく変化してきているし、従来の保険理論ではカバー出来ないものまで引受けの対象にしようと努力しているのですよ。だから、もしいつの日か、新館建設がどうしても必要になった時には、その先何十年、何百年も機能的に満足出来るものを建てるべきだ、というのは関係者の常に一致した意見だったのです。だから新館が旧館と対照的であったとしても何ら驚くには当りません。」という、いとも明快な説明であった。
そういう超モダンな新館を建築出来るのが、実は真の意味で「実利的」なのであろう。この英国人の根底にある「実利性」に着目して日常の物事を観察すると、なるほど、と合点がいく場合が多い。やはり英国人は、一人一人があの七つの海を支配した「冒険商人」達の末裔であり、その精神をしっかりと引きついでいるのだと感心させられたのである。
第十話
ホームズの隠れ家
「シャーロック・ホームズ氏の友人たちは同氏がときどきリュウマチの発作に悩まされながらも、未だに元気で生きていると知って喜ぶだろう。ホームズ氏は長年の間イーストボーンから五マイルほど離れた丘陵地に建っている小さな農場に住んでおり、研究と養蜂に精を出している。」
――「最後のあいさつ」序文――
欧州大陸側からフェリーボートにのった英国人が故郷を感じるのは、ドーバー海峡をはさんだ英国側に屹立する白亜の断崖が近づいてくる時だろう。
「白い土地」を意味するアルビオンという言葉が、そのまま大英帝国の雅語となったほど、それは英国人、特に南部地方の人たちにとっては自分たちの土地を示すなつかしい響きを持っている。
特にホームズの隠れ家のあるはずのイーストボーンの西方には、「セブン・シスターズ」と呼ばれる高さ百数十メートルに達する直立した白亜の壁が海から突き出している。横手から眺めると、その白壁は七重八重に曲りくねった恰好になる。その光景は、正に人を寄せつけない気品と清潔さにあふれている。フェリーの船着場のあるドーバー、フォルクストンから西方に数十キロにわたって広がる海岸線は、昔から商人や海賊たちが大陸側と往来した要衝である。
一〇六六年にはウイリアム征服王がこの地域のペヴェンジーの浜に上陸して、迎えうったサクソン軍を近くのバトルの地で破り、いわゆるノルマン征服を果した由緒ある土地でもある。
ドーバーから海岸線を西に沿ってフォルクストン、ライ、ヘイスティングズ、ペヴェンジー、イーストボーン、ニューヘイブン、ブライトンといった落ち着いた歴史のある古い町々の並ぶあたりでは、ちょっと街道筋から離れると樹木とか生垣にかこまれて、広い芝生を敷きつめて花壇を配した、ゆったりとしたたたずまいの住宅があちこちに見られる。
気候が比較的温暖なため特に引退した人たちに好まれるこの地帯では、庭に一本立つ大きな枝振りの木の下に、木のテーブルと椅子を引き出し、明るい色のテーブルクロスを敷いて、その上にビスケットとティーポットを置いて向いあって小声でおしゃべりしながらアフタヌーン・ティーを楽しむ老夫婦を見かけることも珍しくはない。そしてきまって彼らの足もとには、主人に負けずおとらず、のんびりと手足をのばした老犬が横たわる。空は明るく青く、雲はゆっくりと流れ、わずかに頬のあたりに風のささやきを感じさせる――そんな絵に画いたような風景がそこでは見られるのである。
公共の交通機関が日本とは比較にならぬほど不充分な英国では、通りすがりの旅人がこういった田園風景に接するのは容易ではないが、もし車を走らせれば英国の美しい田舎、特に英国の庭園といわれるケント州とその西に広がるサセックス州、サリー州の風景は人を魅了するに違いない。
湖に囲まれた美しい城、雑木林、なだらかな起伏を見せる丘陵地帯、ホップの畑、りんご等の果樹園、野いちごの茂み、そして手入れの行き届いた緑と花に囲まれた家が両側に立ち並ぶ、そんな小さな村落があちこち見え隠れする。広々とした草地では羊が草をはみ、牛は通りすがりの人間や車をまるで無視するように身動きもせずにうずくまっている。そしてこの小さな村落のそれぞれは、何かしら古い歴史と伝統を持っている。
その中の一つ、ノルマン上陸の地ペヴェンジーに今も残る古城の廃墟の隣に、昔は貨幣を鋳造したという大きな屋敷を改造した骨董屋があった。このあたりは砂浜が東西十数キロにわたって広がっている。昔から大陸と英国にまたがって交易をしていた商人たちの上陸地点でもあったし、彼らの天敵、海賊たちがばっこした地帯でもあった。商人たちから関税を徴収するために現地に駐在していた税関吏たち(もちろん彼らも武装はしていたが)も神出鬼没の海賊たちには歯が立たなかったようで、商人と海賊と税関吏の三つ巴の角逐を伝えた民話が未だにこの地方には沢山残っている、という地元の人たちの話も大いに説得力がある。このミント・ハウス(貨幣鋳造所)という名称を残した二階屋敷の骨董屋には、実にいろいろな物が所狭しとばかりに積み重ねられていた。
土地柄のせいか、英国のものだけでなく欧州大陸製のものも数多く見られる。銀器、真鍮製の道具類は言うに及ばず、食卓、椅子、大時計、たんす、壁鏡、陶磁器、石炭入れ、あちら風のおまる、つい立て、古本、絵、ステンドグラス、ガラス器、とにかく一日中見ていてもあきないほど大規模のものであった。
この地方を車で走るたびに私たち夫婦はこの店に立ち寄っていたから、そのうちに店の愛想の良い若い主人と親しくなった。骨董品の売買にはやはり値段の駆引きがつきもの、陳列品の価格は数字ではなくてアルファベットで記してある。そして興味のある品物が見つかると、主人を呼んで交渉に入るのだが、あちらはアルファベットを横目で解読しながら値引交渉に応ずるといった仕組みである。
何度もこの店を訪れては、二、三時間かけて熱心に店内を見てまわり、あれこれ値段を尋ねて、結局は名残り惜しげに何も買わずに立ち去る日本人夫婦に同情したのか、それとも相手をするのが面倒くさくなってきたのか、ある日、主人はついに意を決したかのように、こちらの顔を真剣なまなざしで見すえて、アルファベットの解読をしてくれた。
Hは5、Aは3、Pは0、といった単純なものではあるが、やっかいなことに何ヶ月かに一回は組合わせを変え新しいラベルを貼るのである。
そして値引については、買手が切り出さない限り主人はもちろん口にしない。言われたら一割までは交渉に応じる。そしてもし、その客が金がありそうで、自分の店に興味を持ち、また来てくれそうだと予感した時には一割五分までまけることもある、そして「こういった条件をあなた方が満たしているとは今のところ思えないが、熱心さは尊敬します。だから、ご自分で解読した価格から一割五分引きが、あなたの取得価格と考えて結構。しかし、この秘密を誰にも洩らしてはいけませんよ。」とおごそかに口に指を当てたものである。
この冗談とも本気ともつかないせりふが、英国人の大いに楽しむところである。私たちは「踊る人形」の暗号を解読したホームズみたいに愉快な気分であった。いろいろの品の値ぶみをしながら二階まできた時、隅っこにさりげなく置かれた古い蓄音機が目についた。一九一〇年前後に製造された、大きなラッパのついた典型的な手まわし蓄音機であった。珍しくも、ラッパの部分がマホガニーの板を上手に八角形に組合わせて、大きな開口部としたもので、おまけにエボナイトではない、その前の時代の分厚く重いセラック盤のレコードが五枚ついていた。この珍しい蓄音機とレコード・セットが無性に欲しかったが、何分お値段の方も相当重い。残念ながらあきらめざるを得なかった。しかし、こういうものは逆立ちしてでも買っておくものだ。
その晩、このマホガニーのラッパの夢までみた私は翌朝とび起きて骨董屋に電話したのだが、すぐあとに売れてしまったとのこと、かえすがえすも残念だった。その後、先物取引の専門書を日本で出版して印税がいささか入ったので、私たちは記念に桜材製の重くて頑丈なシリンダー・ビューロー(フタ付書見台)をこの店で買った。両袖に引出しがあり、書見卓がついて、半円型のふたが開閉するもので、以前から欲しかったから手に入れたときは嬉しかった。そして何よりも「これはヴィクトリア時代後期のものです。」という主人の一言がグッときた。言うまでもなくそれはシャーロック・ホームズの時代のものだったからだ。英国の骨董品と古家具は、それほど楽しく魅力のあるものが多い。
店を出れば、今度はなだらかな丘陵にも巨大な「骨董」が見つかる。イーストボーンを一〇キロほど奥に入ったところにザ・ロングマンが立ちはだかっているのだ。この辺では緑の草地を浅く削りとると、下の白亜(チヨーク)層が白く浮び上がってくる。その自然の色のコントラストを利用して、左右それぞれの手に長い棒を持ちスキーをしているようなポーズの身の丈二〇メートルはありそうな巨人像の輪郭が白の線書きで丘の中腹に描かれている。ウィルトシャーの「白馬」と同じで、この巨人はどこから来たのか、誰が創造者か判らない神秘的なものであるが、比較考証をすると多分サクソン時代のものであろうと推定されている。一九六九年にはこの白いチョークの輪郭を保存するために七〇〇枚以上のコンクリートのブロックを敷きつめた。だから実際にその近くまで登ってみると、なるほど地面の白亜色とは少し違い灰色っぽい、いわゆるセメントの色をしているのはいささか残念だった。
さて、ホームズはこの辺りのどこに隠れ家を持っているのであろうか。「ライオンのたてがみ」という奇妙な題名の事件記録の中でホームズは、自分の庵はサセックス南部に広がるダウンズと呼ばれる丘陵地帯の南面にあって英仏海峡が一望のもとに見渡せる位置にある、この辺りの海岸線はずっと白亜の断崖で、勾配の急な滑りやすい長い一条の小道を伝って、やっと崖下の岩と石だらけの岸辺に出る、と書き記している。だからイーストボーンから五マイルの距離となると、一目ホームズを見たいというシャーロッキアンの熱いまなざしは、どうしてもイーストボーンの西南方に続く白亜の壁の「七姉妹(セブン・シスターズ)」の一角にあるバーリングギャップという、海岸に沿った一点に焦点があってしまうのである。この数十年間というもの熱烈崇拝者たちが入れ替り立ち替り、まるで警察犬よろしくこのあたりを嗅ぎ回ったのだが、未だにホームズの隠れ家は発見されていない。
私たちも五万分の一の地図を買い求め、仔細に検討して、大発見をめざして駆けずり回ったが、このバーリングギャップの辺りは残念なことに南に向って丘陵はむしろ軽い登りになり、そして突然白亜の断崖で海に落ちこむという地形になっているので「一望のもとに英仏海峡を見渡す」わけにはなかなかいかない。この五マイルが直線距離でなく実際の道路をつたって五マイルというのであれば、道のとりようではもう少し東寄りに見晴らしの良い地形があるが、そこから断崖の下に出る道はついていない、etc... 結局のところ誰にも実はよくわからない。それもそのはず、変装にたくみで人を欺くことが大得意のホームズがそんなにやすやすと他人の目につくような生活をする訳がないではないか。
こう結論づけて、私たちはホームズへの敬意を新たにしてロンドンへの帰路についた。その途中、ちょっと廻り道をしてギルドフォードを抜けてウォーキングの町を通った。このあたりは「海軍条約文書事件」の現場、どうしたはずみかふだんはおそろしく散文的なホームズがひどく感傷的になって、バラに頬を寄せて「何とバラは美しいものだろうか!」とつぶやいたのでシャーロッキアンの間ではよく知られているところである。
「バラといえば……」と私も想い出す。ちょうど一年ほど前、新しく仕事上の友人となったスミス氏は、四十代半ばの小柄で、やや小肥りの、頭髪はすでに相当後退した愛想のよい紳士であった。氏はロンドンの金融街シティのある有力銀行の役員である。典型的な英国紳士らしく夏も冬も、ボーラー・ハットをかぶり、ダークスーツとチョッキにきっちりと身をつつんで、きちんと折目のついたズボンによく磨かれた黒靴、そして手には固く細巻きにしたコウモリ傘を腕にかけて、このウォーキングから毎日、中距離列車に乗ってシティに通っていた。
当時週に一回程度の割合で、私はこの人のオフィスを訪ねていたが、驚いたことには、彼は会うたびにいつも小さなバラの一輪を上衣の衿にさしている。それも水々しい切ったばかりのもので、色もいつも赤という訳でもない。この小粋なスタイルをさりげなくほめると、彼はちょっとくすぐったそうな控え目な微笑を浮かべるだけで、バラの秘密には触れようとはしない。
私は勝手に想像をたくましくした。この紳士は大金持という訳ではないにしても、ロンドンの郊外のウォーキングの町のはずれの静かな住宅地で相当広い庭のついた大きな屋敷に住み、妻と息子、娘にかこまれて余裕のある、落ち着いた生活を営むほどには充分な経済力を持っている。上品で美しい妻は、典型的な英国の家庭夫人らしく家事に精を出し、庭仕事が好きで花壇の一角でバラを丹精している。そして毎朝、ご主人が朝食を終えて出勤前に一服パイプに火をつけ、朝刊に目を通していると、夫人はそっと庭に出てまだ朝露に濡れている、今朝咲いたばかりのバラの一輪を切りとってご主人のところに戻ってやさしく頬に接吻をしながらそのバラを上衣の衿にとめてあげる。それはご主人がそろそろ腰を上げて駅に向う時間であることを告げる。――
そんな私の勝手な推理は、ある朝、シティの雑踏の中で見事に裏切られた。街角の花屋の店先で、彼の母親くらいの年恰好のおばあさんにバラの花を衿にさしてもらっているその人物を偶然にも見かけたのである。一ポンド札を渡して釣銭を受取らずに、彼は何ごともなかったように悠然と雑踏の中に消えていった。――
この英国紳士に栄光あれ!
第十一話
ホームズの履歴書
「ぼくの先祖は代々、田舎の大地主だったが、皆、彼らの階級にふさわしい生活を送っていたようだ。だけどぼくの性格はやはり血統からきている。たぶん祖母から受継いだものだろう。彼女はフランス人の画家であったヴェルネの妹だった。えてして芸術家の血統というのはいろいろ風変りな人物をつくり出すものだよ。」
――「ギリシャ語通訳事件」――
シャーロック・ホームズ
一、出生――一八五四年一月六日生れ。ホームズは自分の出生については何もふれていないから推測する以外ないのだが、「最後のあいさつ」の中で、一九一四年には六十歳であるという記述がある。それから逆算して、一八五四年生れとするのが通説のようである。「ボスコム谷の惨劇」の中では、事件の起こった一八八九年に自ら「中年」と言っている。「一月六日」説もたいした根拠がある訳ではない。ただホームズは色々な事件と取りくむ中で比喩、格言を時折り使うのだが特に、シェークスピアの「十二夜」からは二度も引用しているから、これはきっと彼の誕生日がクリスマスから十二日目の一月六日、十二日節の祝日であるため、親しみがあるのだろうといったものである。
両親は先祖代々の土地を受継いだ田舎の大地主という以外何も分らないが、兄弟については彼より七歳上の兄、マイクロフト・ホームズのいることが彼自身の口から「ギリシャ語通訳事件」の中で告げられている。
このマイクロフトは数字にめっぽう強く、今で言う「会計検査官」のような仕事をしていたのだが、ときとしては「英国政府そのもの」と言われるほど、政府の枢要な機密にも通じていた。ホームズとは体格も性格も全く逆だが、先祖から受継いだ「芸術家の血」は、二人に共通した「鋭い観察力」を与えている。
ホームズには姉妹がいたという証拠は何もないが、そこが一部のシャーロッキアンのつけ目で登場人物の女性の誰かをホームズの妹に仕立て上げようとする試みは今でも続いている。
さて出生地となると、これは一層判りにくくなる。田舎の大地主というからにはロンドン近辺でないことは確かだが、たまたま北部イングランドのヨークシャー地方には、マイクロフトという地名がある。その辺りは農家がまばらに点在するだけの過疎地帯で、長男と思われるマイクロフトの名前と一致するから、自分の息子の名前にその地名をつけたのだという説がある。
それともう一つ、ホームズという綴りの語源は、例えばストックホルムというように北欧系のもので北方からのヴァイキングが英国北部に侵入し定着したもので、一例として「プライオリ学校」の事件現場に近い英国北部のダービーシャーのチェスターフィールド市の西北方に「ホームズフィールド」という集落がある。
私もその地を訪れたことがあるが、どちらかといえば荒地に近い丘陵地帯で裕福な暮しの感じは受けなかった。ただ綴りだけは間違いなくホームズと同じであり、もしやこの辺りの農場にホームズ一族の本家があるのでは、と想像をたくましくした。
ところがこの多数説に対して、ホームズはロンドン子である、一歩譲っても彼は故あってロンドンで少年時代を過したという少数説がある。この根拠はホームズがロンドン市内及び近郊の地理にめっぽう強いこと、例えば「四つの署名」でも暗闇の中、疾走する馬車の窓から道路の名前を次々に言い当ててワトソンを感心させたり、特に彼のあげた地名のいくつかは実はその当時でも既に改名されていたので、昔からの住人でないと記憶していないはずであった。それとなによりもホームズ・ロンドン説の決定的根拠は、同じ「四つの署名」の中でワトソンがホームズの指示でウエストミンスターの近くのテームズ川の南側にあるピンチン・レイン三番地のシャーマンという男の所に行き、トービーという名前の犬を借りて来た時、このシャーマンが「ミスター・シャーロックのお友達はいつも大歓迎ですよ」と言っているくだりである。このあたりをわれわれは「シャーロックさんのお友達は――」と簡単に訳してしまいがちだが、どっこい英語を母国語とする英国人紳士、淑女にとってはこれは相当に引っかかるせりふなのである。
英国人は全体に「言葉」については非常に神経質で、特に一応の高等教育を受けたほどの人物ともなれば、その言葉の選び方、アクセント、レトリックなどには相当気をつかうのである。特に伝統的な階級社会であってみれば、言葉は単なるお国なまりではすまない、その人の出生、階級、教養等全人格を示すパスワードとなるので、気を使うことも一通りではない。
一説によれば、英国紳士がしばしば発言最中にどもるのは、別にどもり癖があるというのではなく、その次の最もふさわしい言葉を頭の中で探している、つまり最も適切で相手にも感銘を与えるであろう言葉を頭の中の「辞書」を一所懸命にめくって探している、その幕間つなぎに、どもるのだという説もあるくらいである。われわれ東洋の君子も英語での会話中には、しばしばどもるが、それは頭の中の「辞書」の頁数がきわめて少なく、表現そのものに苦労しているためではなかろうか。
さて言葉にうるさいシャーロッキアンに言わせると、この場合はミスター・シャーロック・ホームズとか、ミスター・ホームズというのが当然で、シャーロックというファースト・ネームにミスターをつけたのは、おそらくこのシャーマンが寝呆けて出てきたのでマスター・シャーロック(シャーロック坊ちゃん)とでも言うべきところをミスターと言ってしまったのか、「例によって」ワトソンの聞きまちがいか、書きまちがいであろうという主張となる。
もしシャーロック坊ちゃんとなれば、話は断然面白くなってくる。ストーリーはこうだ。彼は故あって、(というのはおそらく父親の庶子であるか、または母親が離婚したかして)父親の住んでいるヨークシャーでは育てられず、ロンドンの市内または近郊で幼少時代を送った。正規の学校にも行かず家庭教師について自宅で勉強していたので友達も出来ないし、従って得意とするスポーツもすべては個人技に近いものである。その淋しさから、このシャーマンの経営する鳥の剥製屋によく立ち寄って、飼っている動物と遊んだ、という次第である。こんな訳でこのホームズ物語を辞書を引きながら原文で読んでいくと、時間はかかるけれども訳本にはない言葉のニュアンスや味わいを感じることが出来るし、一つの言葉なり表現の意味を深く掘り下げていくと意外な発見に遭遇することもある。
また、今でもホームズ物語の幾つかは、有名な俳優や朗読者によってテープにふきこまれて発売されている。原文にほぼ忠実に読み上げられているので、原文と対比しながら聴くと非常に勉強になる。この種の文学作品のテープは通称「ストーリー・テープ」と呼ばれ、「嵐ヶ丘」「テス」といった人気作品からシェークスピア物まで、ロンドンではふんだんにレコード店の棚に飾られている。
このテープは活字を目で追うのと違って、アクセント、イントネーション等がわかるので、例えばホームズとレストレード警部のやりとりの箇所では、ホームズがいわゆる「標準語」でしゃべっているのに対して、レストレードが「コクニーなまり」のアクセントでやりあっているのが実によくわかり、聞いていても愉快である。
二、学歴――さて、ホームズの学生時代となるとこれまた、話は面倒だ。ホームズがカレッジとユニヴァーシティを出ているのは明らかだが、どこのカレッジで、オックスフォード/ケンブリッジ、どちらのユニヴァーシティかとなると議論百出となる。
自らをシャーロッキアンと称し、ホームズ研究にいそしんでいる人たちの中には高等教育を受けた人も多い。名門パブリック・スクールからオックスフォードかケンブリッジに進んだという一流精神貴族ももち論少からずいるので、こと、大学の問題となるとじっとしてはいられず微にいり細をうがった議論をする。どちらかの出身者でなければとてもついていけない重箱のすみをつつくような話であるが、当人たちには面白おかしいのであろう。
しかしロンドン・シャーロック・ホームズ協会の機関誌にこれまで発表された多くの「論文」を注意して読むと、奇妙なことにオックスフォードの卒業生は散々あれこれひねくった揚句、「残念ながら結論としてはホームズはケンブリッジ出身らしい」と締めくくれば、他方ケンブリッジ側はそれとは逆のことを述べるといった「ひそかな」傾向がみてとれる。英国紳士らしい、いたずらっぽい皮肉をこめた、いんぎん無礼さに、ホームズはどうやらどちらの大学からも敬遠され、卒業生名簿に名前をつらねることが出来ないようである。
三、職歴――ホームズはとにかく大学を出たことは出たが、いわゆる毛並みの良い学生ではなかったようだ。だから父親の仕事を継ぐでもなく、高級官僚の道を歩む訳でもなく、学生時代の一八七四年に「グロリア・スコット号」事件でその推理力を友人の父親に認められたことがきっかけとなって、世界で最初にして唯一人の「私立諮問探偵」たらんと志したのである。この時期は一八七八年頃と推定されている。この頃はまだ顧客も、学生時代の友人等に限られている。
ワトソンとの有名な出会いは一八八一年初めとする説が多く、そうなるとホームズ・ワトソンのコンビが手がけた最初の事件、「緋色の研究」は一八八一年三月となる。この頃には警視庁の連中ともコンタクトがあったので、諮問探偵として自分自身で事件を請負うかたわらレストレード等にもコンサルタントとして色々アドバイスをしていたと思われる。
ワトソンが記録した事件だけを調べてみると、一八八三年には「まだらの紐」一件、一八八六年には「入院患者」を含む三件、八七年になると「ボヘミアの醜聞」「赤毛連盟」「唇のねじれた男」などの有名な事件を含め合計八件、八八年には「恐怖の谷」「四つの署名」「バスカヴィル家の犬」などの大活劇を含めて合計五件、翌八九年には「ボスコム谷の惨劇」「海軍条約文書事件」等、計七件、一八九〇年には「白銀号事件」等、計三件、そして運命の一八九一年の最初にして「最後の事件」は四月二十四日に始まり、五月四日にスイスのライヘンバッハの滝で宿敵モリアーティ教授との素手の格闘で終焉を告げた。
それから三年間、シャーロッキアンが言うところの「グレイト・ハイアタス」(大杜絶)の空白期間が続くが、実はその間、ホームズ自身の語るところでは二年間というものシガーソンという偽名をつかってチベットを訪れて、ダライ・ラマに謁見の機会を得、その後ペルシャを越えて、サウディアラビアのメッカを訪問し、その後カルツームまで足をのばした。そして最後の一年間は南フランスで過したという。まったく途方もない話であるが、シャーロッキアンにとっては推理の絶好の材料を提供されたことになる。
ホームズは一八九四年の四月に奇跡的に生還し、ワトソンの前に姿を現わす。余りの驚きに、医者のワトソンは失神してしまった。そして二人はすぐに「空家の冒険」に出かける。翌一八九五年にはホームズは再び大活躍をし、五つの事件を片づけるが、その中の一つ「ブルース・パーティントン設計図」では、見事に犯人から新型潜水艦の設計図をうばい返して英国の国難を未然に防いでいる。その後は手がけた事件もへってきて引退前の一九〇二年には「高名の依頼人」等五件を解決し、翌一九〇三年夏の「マザリンの宝石」事件を最後に引退した。サセックス引退中に起った事件「ライオンのたてがみ」はホームズ自身が書いたものである。そしてホームズはひそかにもう一度お国のためにつくしたいと願い、二年間の時間をかけて変身し、第一次大戦が起る直前の一九一四年八月二日にドイツのスパイを逮捕して最後の花道を飾った。この「最後のあいさつ」事件はホームズの創造者(クリエータ)であるコナン・ドイル自身の筆で書かれたことになっている。この事件の時には還歴の年のホームズは、老ワトソンの運転するフォードに乗っていたが辻馬車の時代に較べまさに隔世の感がある。
かくしてホームズ物語として集大成された事件は合計六〇、この内「白面の兵士」と「ライオンのたてがみ」はホームズ自身が書いたもので「最後のあいさつ」はドイルが書いたが、残りの五七編はワトソンが記録したものとなっている。
ドイツのスパイを逮捕したホームズとワトソンは、その時以後二度と世人の前に姿を見せることはなかった。ワトソンのその後は誰も知らないし、ホームズも死亡広告が出ていない以上、依然として健在でサセックスの田舎で余生を送っており、秘書を通じて世人とコンタクトを保っていると信じられているのである。
四、容姿と性格――ホームズはやせて長身、自分では一・八メートルと語っている。やせていることもあって、ワトソンにはもっと背が高く見えていたらしい。細面で額が大きく髪は黒く、鷲鼻で、唇はうすく、口元はしっかり結ばれていて、灰色の目は鋭く人を刺すようである。喋り方は早く、声は甲高い。これがホームズの外見である。
一方、性格はと言えば、これは完全に「二重人格」。また徹底した「仕事人間」である。気に入った仕事があると夜も寝ずに考え抜き、疲れも感じずに行動する。逆に興味の対象が無くなると、全くだれ切ってしまって一日中ゴロゴロしているし、コカインの注射を射ったりして無聊をなぐさめる。こんな日が何日も続くとうんざりして、事件のない状態そのものを恨めしく思ったりする。極端に自己中心的な性格で、自惚れが強く、演技過剰気味。自己主張が強くわがままだから、おそらくワトソン以外では同じ部屋で生活出来なかったであろうと言われている。特に自分より知力が乏しいとみられる相手には手厳しく、そのために警視庁の警部連はレストレードを始めとしてかっこうの餌食となってしまうのである。
しかしもちろん、人間的な暖かい面も持ち合わせている。事件の依頼人に同情を感じるやその人のためには遮二無二頑張るし、また逆に犯人の動機に人間的なものを認めると、独自の正義感に基づいて犯人をつかまえなかったり、勝手に釈放してしまったりする。感情的になることは冷静な推理にとって好ましくない影響を与えるなどと言っている反面、心情の伴わない頭脳を軽蔑したりする。
要するに彼の人間性は複雑であり、一貫性がないけれども彼の生きたヴィクトリア時代に高い社会的評価を得ていた「職人気質」というものをこの探偵業という世界で具現したとも言える。このホームズの職人気質は「仕事のための仕事」をおのずから志向して、富を増やすために仕事を引き受ける訳ではないという彼自身の言葉につらなっている。そういう心情的な面を強く打出して生きていくさまは、当時の人達にも大いにアピールしたに違いない。
さて、このように筆を進めてくると、私が順調にホームズ協会の仲間入りをして大いに楽しんだようにみえるが、どっこいイギリス人の仲間に入りこむのはそんなに簡単なことではなかった。
われわれロンドンのシャーロッキアンの会合は飲み喰いが目的ではないし金持ちの集まりでもない。ただ集まっておしゃべりを楽しみ共通の話題を議論し合い、最後は誰かのウイットで全員が大爆笑をして、愉快な雰囲気のうちに終ればそれで良いといった程度のものである。
研究会は二、三ヶ月に一回の割合で、ロンドンのど真中にある高等法院の裏手にある法律協会といういかめしい名前の古風な石造りの建物の中で行なわれることが多かった。週日の夕方六時頃からぼつぼつ集まり、特別に開かせたバーで一杯やりながら仲間の集まるのを待つ。もちろん飲物を注文するたびに現金で支払う仕組みである。
めったにおごったりおごられたりせず、自分の分は自分で支払い自分のペースで飲む。定刻がくると、バーの脇にある長テーブルの食堂に窮屈そうに詰めあって着席するが、私のような一匹狼に近いのは何とかしてうまく知人のいそうなグループの脇にでも席を獲得しないと、ぽつんとはぐれてしまうことにもなりかねない。スープとサラダと鶏の足一本といった程度の質素な食事である。
最初に私がこの研究会に加わったときだが、肩がふれあうようにして着席しておしゃべりしながら料理(定食)の出てくるのを待っている間、一人のウェイトレスがメモを片手に小声で何かささやきながら席の間をまわっていた。定食なのに何を聞いて回るのかなと一瞬私は気になったが、どうせ大したことではあるまい、とウェイトレスが私の後を通っても気にもとめずそれっきりそのことは忘れてしまった。
料理が出されるのとほとんど同時にワインの瓶がテーブルのあちこちに配られ始め、その中の一本が私の斜め前の口ヒゲを大仰に生やした中年の男性の前に置かれた。
なるほど、料理は節約してもワインだけは添えるものか、さすがは欧州人だね、と自ら納得していると、その男がまわりの誰にもことわりなく、いきなり試飲して「うん、これは悪くない」と自画自賛して、あなたもどうです、と向う三軒両隣りについで回り、最後に私の方を向いて「あなたも一杯いかがですか」ときた。
ブランドをチラッと見ると、よくあるその手の安い白ワインらしい。ラベルも単純明快なもの、まあ、貧乏人の集まりはこんなものさ、と妙に私は納得して、その男が何の理由でかホストまがいの振舞いをするのに多少わだかまりを感じながらもとにかく、にっこり笑って一杯ついでもらった。ここまでは正解だったのだが、問題はその後におこった。
私はまわりの女性達に得点をあげようと、ものの数分もたたないうちに、その瓶を手に取り残りをついで回った。その時、くだんのヒゲ男がにこりともせず私の動作を見ている、そして女性たちがややためらいがちにグラスを差出したのも感じたのだが、そんなことはおかまいなくワインを足しついで回り、最後の数滴は自分のグラスに落し込んでなめるように飲んでしまった。
そのうちにウェイトレスがまた、食卓の間を何かつぶやきながら回ると、あちこちでワインのお代わりを要求する声が起る。最初の緊張感もほぐれ、おしゃべりの輪に一層積極的に入り込んでいた私は、なるほど、しかしいちいち聞かなくったって、空の瓶を見たら次のを持ってくればいいじゃないか、それとも予算の関係から数に限りでもあるのかな、それでは早い者勝ちだと、あさましくも考えていると、ヒゲの男も「もう一本。」と注文した。よしよし、これでまた飲める。
二本目の瓶も私がイニシアティブを取って女性たちについで回った。前よりいっそう女性たちがグラスを差出すのをためらうのを私は飲み過ぎを懸念したためかと思い、「どうせ今日は木曜日、明日は『神様ありがとう。今日は金曜日』という訳ですから、気持を楽にしましょう。」と分ったようなせりふで誘い、そして時にはヒゲ男にも注ぎ、自分ももち論、しっかりと飲み続けた。
男は、だんだんと口数が少なくなり私には余り好意的と思えない発言がチラチラ出るようになった。「だから英国人はネアカでないんだなあー」とこちらは一人合点していた。
しかし事態は一変した。コーヒーが出はじめた頃、例のウェイトレスが白い紙きれを持って現われ、ヒゲ男にも一枚差出した。その途端、周りの女性が口をそろえて「ありがとう、おいしかったわ。」とヒゲ男に、にっこりと笑顔でコーラスしたではないか。すると、ヒゲ男は鷹揚にうなずいて「気にいって頂いて結構でした。」と言って、私に対してだけはするどい目でチラと一瞥をくれて、おもむろに上衣のポケットから財布を出して支払いをはじめた。私はとび上がらんばかりに驚いた。これは彼の買ったワインだったのだ。てっきり料理に添えてレストランが出したものと思っていたのに、これはまあ、一体どうしたらよいか、私は言葉も出なかった。
このヒゲ・シャーロッキアンは私のそういった当惑ぶりをゆっくりなめるようにながめた後、「まあ、良いではないですか。あなたはこの会合は初めてでしょう。それぞれの会合には『慣例』がありますからご承知ないのも無理はありませんよ。まあ、この次はあなたに素晴しいワインをごちそうになりましょう。」
そして女性たちは、おそらく腹の皮がよじれるほど笑いが出ているのを何とか押える風情で、「まあ、素敵! 次の会ではあなたの側にすわらせて頂くわ!」などと口々に言っている。
「ありがとう。」と私はペコンと頭を下げた。それ以外に何がその場で出来たというのか。
紙に書いてない伝統とか慣習を重んじる英国は、まったく疲れる所だと我と我が身に言いきかせるのがやっとであった。
第十二話
事件現場検証旅行
「その晩、我々はハクスタブル博士の有名な学校のある山岳地方の冷たく、身の引きしまる空気に触れていた。」
――「プライオリ学校事件」――
「山岳地方遠征、一九八五年六月十四日―十六日
貴殿の申込用紙と小切手を有難く受領しました。宿泊はチェスターフィールド市マルキン通りにあるチェスターフィールド・ホテルで、貴殿には一人用の個室が予約済です。受領した金額にはガイドブック一冊と、同ホテルが調理する六月十六日(日)の夕食用の弁当代が含まれています。
貴殿は六月十四日(金)午後五時二十五分、ロンドン、セント・パンクラス駅発の列車でチェスターフィールドに行くグループの中に入っています。駅には五時ちょうどまでには到着し、改札口前に集合下さい。そこで切符をお渡しします。列車(シェフィールド行)は通常は二番線から出ますが、駅員に念のためお確かめ下さい。団体旅行ですから一緒に行動し、指定された列車に乗ることになります。
敬具
一九八五年五月九日 スタンレー・マッケンジー」
シャーロッキアンの団体は有名な米国のベーカーストリート・イレギュラーズ、日本のシャーロック・ホームズ・クラブ等、世界各地にあるが、地の利を得ているのは何といっても本家本元の英国のロンドン・シャーロック・ホームズ協会だろう。なにせ、ホームズが住んでいたのと同じ所に会員の大半は住んでいるのだし、会員の行動が、文明の利器の発達によってホームズの当時とは較べものにならないほど、迅速容易になり、また行動範囲も広がっている。
ロンドンの協会では年中行事の一つとして、季節の良い時に事件現場を訪れ、ホームズの活躍した跡を検証する旅行をするのが恒例となっている。八五年度は五十名ほどの参加を得てイングランド北部の山岳地方で発生した「プライオリ学校事件」を検証することとなった。とは言っても、行きあたりばったりの物見遊山旅行ではない。委員を三、四人選んで、ほぼ一年がかりで綿密入念な事前調査を行ない、それをガイドブックの形にまとめて参加者全員に当日配布するのである。この種のことに二泊三日も厭わないほどの会員は、ホームズ研究について一家言ありそうな人達ばかりなので、彼らの厳しい目に堪え得るような高度な内容を持つものでなければならない。
今回の「茂みを分けてのブラブラ歩き」と題したガイドブックは協会会長デイビス氏の筆になり、イラストはマーガレット・バードさん、編集はヘザー・オーエンさんといった超一流のシャーロッキアンが時間をかけて作り上げただけあって、六二頁のパンフレットは中身の至って濃いものであった。事件の背景説明から始まって、プライオリ学校の所在地とその周辺との位置関係を示し、それを当時の陸軍測量地図にプロットして根拠づけを行なっている。
さらに事件委頼人の校長のハクスタブル博士が、ロンドン行きの汽車に乗ったマトロックの駅との位置関係と当時の鉄道の時刻表も調べ上げてある。またこの事件の大きな鍵となった自転車のタイヤの跡についての調査結果を示し、最後にホルダーネス公爵家のモデルについてまで詳細に検討してある。まさに労作という言葉が、そのまま当てはまるような貴重な研究成果であった。
さて、当日参加者の内の三〇人前後のシャーロッキアンがセント・パンクラス駅に集合した。残りの二〇人ほどは車で現地集合とのことで、私が顔を見知っていたのは一〇人前後で初対面の人が多い。年齢はどうみても皆三十歳以上、好奇心旺盛な大学生でもいるかなと思っていたが、考えてみれば英国の大学生にはこんな暇な遊びをする時間の余裕も、資金の余裕もないであろう。
その頃私は、二人の息子たちをロンドン郊外の十六世紀以来続いているというパブリック・スクールの高等部と中等部にそれぞれ寮生として寄宿させていたが、彼らから聞く話とか、校長先生、担任の先生、寮の舎監さんたちから伺う話はなかなかに厳しいものだった。学校では基本的には学生自身の自覚とか自主性を尊重して、紳士の卵として学生を扱っているが、規律は厳として存在する。それを破れば(不運にもそれが学校側に見つかったりすれば)それ相当の厳しい処罰が待ち受けている。勉学の方でも学生にその自覚が不充分でなすべき努力をしないとか、または本人が努力をしていても、素質的にみてその学生が今後の勉学のレベルについていけないと学校側が判断すれば、退学させてしまう。大学でも同じようなことがある。
「英国カナダ学会」の仲間で幹事役をしていたバーミンガム大学のある教授がつくづく言っていた。「研究とか教育の忙しい最中に、自分の担当学科に入学を希望する学生を長い時間をかけてテストし、面接し、この学生ならきっとものになると思って入学を許可したら、その後になってやはり能力的に無理とわかった時は、まるで自分自身が駄目になったように失望し、落胆するものですよ。でもそういう時には思いきって本人に他の途を選ぶように勧めます。それぞれ人によって適性が違うのですから。」
勉学に不向きな若者を学校の中においておくことは(国の税金を使っていようといまいと)学校側にとっても、本人にとっても益するところが何もない。その場合には学校側は他にもっと勉学意欲に燃えている学生を入学させればよいし、当の本人は将来の成果が期待出来ない無理難題にとり組み、悪戦苦闘するよりも、もっと他の面に自分の人生の活路を見出した方が本人のためでもある、というごく当り前の思想がそこにはある。
英国ではよく「個人主義」というが、その本当の意味は、先ず自分が自分を愛するように他人も自分自身を愛していることを知り、人はみなそれぞれ異なった精神構造、肉体構造を持っているのだから、自分は自分の欲する道を歩むについてそれを他人から干渉されたくないし、だからそのためには他人にも干渉することは避けねばならない、とするところに根本の発想がある。しかし、それは他人に対する関心とか興味がないという事ではない。それどころか、英国人は他人に対して絶大な好奇心をいだいている人種なのである。米国人も同じ人種であるが彼らは良い意味で親切心と好奇心をむき出しにしてせまってくるのに対し、英国人は個人主義を尊重してか一見、無関心を装い、従ってその態度もそっけないというか、いんぎん無礼というか、不親切というか、とにかくとっつきにくい存在であるが、実はそのジェスチュアの奥では並々ならぬ好奇心を持って他人を見ているのである。
こんなふうだから英国人はなかなかとっつきにくい。セント・パンクラス駅で貸し切り車輛に乗り込んだわれわれは適当に四人掛けの椅子に座ったが、私の所は私の顔見知りの女性、キャシィ嬢以外の二人は全く面識のない男女であった。しかし三人は当然知りあいであるらしい。こういう場合、以前住んでいた米国であれば、キャシィ嬢がにぎやかに私を二人に紹介し、そして三人は明らかに言葉のハンディキャップのあるこの異邦人を何とかくつろがせようとして、また好奇心むき出しにして、色々と尋ねたり、相づちを打ったり、面白、おかしい話をして溶けこませようと努めるはずであるが、英国人はその点きわめて素気ない。
簡単に名前を告げた後は、三人でべちゃくちゃと早口でおしゃべりを始める。中身はシャーロック・ホームズと全く関係のない世間話なのでとてもついていけない。さりとて不快感を表す訳にもいかないから、わかったふりして、かすかに笑顔を浮かべながら(こういう無理な笑顔を続けていると、そのうちに顔面神経痛的な症状がまま起るものである。)時々、うなずいてみたり相づちを打ったりしてみせる。そうすると「ね、そうでしょう。」とまるで私が全部を当然理解したかのごとく、せまってくる。なるほど、誤解というのはこうして起ってくるのだなあ、と情無くなってくる。しかし彼らの側に悪気がある訳ではない、その証拠に私が何か言い出すと、熱心に耳をかたむけてくれる。そしてていねいに説明したり同意したりする。こうなると「気くばり」の日本人は彼らに失望感を与えないようにと願い、あれこれ無理な話題をつくろうと努力したりする。――わずか、二時間ほどの、しかし私には精神的にその数倍かかった感じの汽車の旅はチェスターフィールドで終り、私たちは駅前のチェスターフィールド・ホテルに入った。
四階建の古いどっしりした感じのこのホテルも鉄道旅行全盛時代の頃に建てられたいわゆるステーションホテル(駅前旅館)の一つであろう。今は一日に十往復程度しか走らない列車からは降りる旅人も少ない。一方、高速道路は市街部を迂回して通っているので車の客の目にも止まらない。こういう「老婦人」的ホテルの前途は厳しい。
仕事柄、私は世界各地をとびまわり、ホテルに泊ることが多いのでホテルについては一家言もっている。それは「ホテルは女性と同じで、丹念な手入れを続けている限り、いつも魅力的だからひとが寄ってくるが、一旦手入れをおこたりだすと途端にしわが出来、しみがつき、そして後になって一所懸命厚化粧しても元に戻らないし、客も戻ってこない。」というのである。これをホテル経営に係わっている内外の友人たちに酒の勢いで語る限りは問題なかったが、ある時、夫婦ともオックスフォード出身で、主人は四十歳前後、英国の一流会社の部長をしているカップルと酒を飲み、食事をする機会があり、何かのきっかけで私は楽しくこの話を始めたところ、いきなりテーブルの下でその大柄な男が私の足を強く、しかし静かに踏みつけてきた。私はその痛さに、思わずのども詰まり、せっかく多少はお色気に関係のある話でも酒のさかなにと努力していた出端をくじかれ、私のホテル談義は奇妙な打ち切りとなってしまった。するとこの英国紳士はさりげなく「ここにいる私の妻はオックスフォードで法律の勉強をし、弁護士の資格も取っていまして、子どもの世話はそっちのけで離婚専門の法廷弁護士として、男性の暴力とか、浮気とかに起因する女性に対する精神的、肉体的虐待に対し、女性の側に立って闘っているのです。」と言ったものである。
なるほど、私の話は女性蔑視ともとられることへの注意だったのだ。私も一矢、報いたくなった。「そうそう、英国は紳士の国と聞いていましたが、昔からワイフ・ビーティングという言葉があるくらい、夫が妻に暴力をふるうことがよくあるんだそうですね。確かホームズの『アビー屋敷』事件でもそんな状況が書かれていましたよ。英国紳士であれば女性に対するエチケットは心得ているし、身だしなみもマナーも言葉づかいも魅力的だし女性はうっとりとして、まさかその紳士が一旦結婚してしまうと妻をなぐるなんて思いもよらないでしょう。人間というのは本当に判らないものですね。」と言いながらテーブルの下でこの男のすねを軽くこつんと靴先でこづいた、つもりだった。ところがここがこのオックスフォードと日本の某大学出身との差、音もたてず陰険に、と注意してつついたつもりだったが何せ、この種のスマートさになれていないので、テーブルのどこかに私のひざがさわったらしい。テーブルの上のワイングラスが、かすかにざわめいたのである。
しまった、と思った時、さすがにこの上流階級出のオックスフォード卒業夫人は微笑を浮かべて、静かに、しかし明るい口調で「おやおや、お二人とも随分仲の良い間柄のようにお見受けしますが、でもテーブルの下での秘密交渉はフェアーじゃありませんことよ。」と軽くたしなめたのである。実のところはその通り、我々はすでに靴をふんづけたり、靴でけとばすほどの親しい間柄になって相当、時間がたっていたのである。
さて、チェスターフィールド・ホテルの会議室で総勢約五〇人、遅い夕食を終え、十時頃から明日以降の「現場検証」の手順とか、要点及び特捜班による一年がかりの調査結果を記した「茂みを分けてのブラブラ歩き」報告書に基づいた報告がなされた後、今度は席をバーに移してまた一杯やりながら、事件についての打ち合わせがなされる。
こういう時は全員真剣に、相当言い争いもする。たかが「遊び」なのにね、と醒めたことをここで言ってはならない。言い争いも彼らにとっては遊びの一過程なのである。言い争って、どうにも収拾つきそうにないとわかった時には誰かが奇抜な合の手を入れる。そこで大きな爆笑が起る。議論にけりがつき、皆、残った一滴を飲み干し、席を立つ。そういった時に、一瞬遅れて笑い出す男がいたとしたら、それはいつも「気くばり」に生きる日本人であるかもしれない。
翌日はバス二台に分乗して朝九時頃からホテルを出て、事件現場に向ったが忙しい中にも余裕を楽しむ英国人らしく十時半頃には一旦ホテルに戻ってモーニング・ティーをゆっくりと味わい休息を取り、三十分後にまた出発と相成る。
正午頃には事件現場に近い所のパブで一杯飲んで、午後二時頃に「プライオリ学校事件」に登場するホルダーネス公爵のモデルとされているチャッツワース公爵の広大な館に着き、入場料を払って大荘園領主が金にあかせてかき集めた絵画とか、骨董品を拝見した後に何十万坪という、とにかく見渡す限りこの屋敷の領地といった感じの庭園で、持参のサンドイッチをほおばるといった旅行であった。
翌日も同じように事件現場と目されるあたりの茂みの中で自転車タイヤの跡を見つけようと、空振りになると始めから分っているはずの努力を全員で真剣に続けてみたり、「特捜班」があらかじめ見つけておいたプライオリ学校らしき農家を訪ねて、「ああでもない、こうでもない」とけちをつけて、中に住んでいる人を驚かせたりしたのである。
そして疲れきった一行は三日目の日曜日の夜七時、チェスターフィールド発のロンドン行急行に乗り込んだが、三十分もたつと「来年はどの事件を調査するかね」とまた真顔になって議論を始めるのである。他人がみたら呆れることであろう。しかしホームズ流に言えば「ネバー・マインド!」。誰にも迷惑かけないで自分たちだけで楽しく遊んでいるのだから、どうか放っといて下さい、というのが熱烈シャーロッキアンの胸の中なのである。
第十三話
ウインブルドン・ビジネス
「彼らは街道沿いにウインブルドンに向っていた。」
――「覆面の下宿人」――
私たち一家はロンドン滞在の五年間をウインブルドンで過した。今、想い返してみてもなつかしい。
今から百年前のシャーロック・ホームズの時代のウインブルドンは、ちょうど東京の田園調布の開発の初期にも似たロンドンの西南方に位置した田園地帯で、市街住宅地としてよりは郊外の別荘地として開発された。今でもヴィレッジと呼ばれる一角には、大きなそして手入れの行届いた瀟洒な屋敷が点在して、静かで落着いたたたずまいをみせている。
私の借りていた家の前にはコモンと呼ばれる大きな緑地帯があって、そこを毎朝私はジョギングすることにしていた。朝六時頃というと、季節によっては霧がすっぽり家々も木々もつつんで、犬を連れて散歩している人たちの姿もよほど近くに来てから、まるでハムレットの父王の亡霊のごとく音もなく現れるという感じであった。誰にもさまたげられずに一人で、朝霧の中をゆっくりと自分のペースで、水気を含んでやわらかく青々とした草の上を走る、この自己流ジョギングが非常に気に入っていた。
そうして半年ほどたった或る日、たまたまその日曜日はロンドン・マラソンが催される日であった。私は毎日、夜遅くまでの仕事が続いて体調が悪く、その日は昼近くにやっと起き上がり、それでも気分転換にでもと思っていつものコースで走り始めた。コモンの中央あたりまできた所で、深い毛でおおわれた大きな犬を散歩させている七十歳くらいの、ちょっと意地悪そうな見知らぬ老人とすれ違った。
こういう時のエチケットとして会釈のつもりで口元に微笑をたたえ、なるべくやさしい目で相手を見て(ジョギングの最中に果してどこまでこのジェスチュアが実現していたかは疑問としても)通り過ぎようとした瞬間、相手の老人は突然、低い声で「ほう、今日はちょっと遅いですな。」と言った。
こちらは驚いたが、次の瞬間「なるほど、この老人は毎朝どこかで私の走るのを見ていたな」と直感した。ここで何か名セリフをと頭の中をガラガラとかきまわして、こう応えた。「そうなんです。実は今日はロンドン・マラソンに参加するつもりでいたのですが、つい寝すごしてしまいまして。かくして罰としてウインブルドン・マラソンをしている始末です。」
「ほほう。」と、その老人はやや嬉しそうな口調で、しかし未だに意地悪そうな表情をくずさず「今日は早起きは三文の得という訳にはいかなかったわけですな。」と言って立ち去ろうとした。
その時私はイギリスの意地悪じいさん、ばあさんを味方につけるには、その連れている犬をほめるに限るとある友人が教えてくれたのを思い出した。そのアドバイスを聞いてから、私も分厚い『マクドナルド版、犬の百科辞典』を買求めて持ち歩き、公園のベンチに座って犬が通り過ぎるとしっかりと人相ならぬ「犬相」を観察した上で、その犬の種類、特徴を頭にたたきこむくらいの努力は積んできた。チャンスだ、この時こそ、と「素敵な犬をお連れですね。これはバレー・シープドッグでしょうか?」と訊くと「全く違います、コモンドーです。」とピシャリとやられたのである。――ザッツ・イナッフ、ナット・フォー・マイ・デイ! 要するに、今日はついていないというわけだ。
私は探偵流につらつら考えた。この老人は必ず私のジョギング・コースに面した家に住んでいるに違いない(エレメンタリー! ワトソン、それは基本の「キ」だよ)。老人であるが故に早起きである。が、散歩にはまだ出ない。冷たい朝の外気にあたって風邪をひくのを恐れるからだ。私の通り道の家々はほとんどが二軒長屋で、一階の窓は通りに向って突き出している。窓ガラスはいわゆる格子窓(ラティス・ウィンドウ)で外から中の様子は見にくいが、中から外はよく見えるという英国人好みのつくりである。朝まだ六時頃の私のコースに面した家で灯のともっている窓は見たことがない。皆まだ眠っていると思っていた。とすればこの老人は朝早く目覚め、老妻をおこさないようにそっと二階の寝室から階下に降り、うす明りの中で窓に向って置かれたロッキング・チェアーに座り、ひざの上に毛布をかけて、格子窓の向う側で起るすべての現象に目を向ける。
静寂をやぶって朝のときを告げるおびただしい鳥の鳴き声、羽ばたき、牛乳配達夫の運転するバッテリー式の電動ワゴンがブレーキの音をたてて止る気配。白い息を吐きながら通りすぎる散歩者と彼の犬。そしてその後に明らかによそ者の東洋人がとてもスマートとは言い難いいでたちとスタイルで、よたよた走りながら彼の前を通りすぎる。
彼はその瞬間、思わず目をとじるかも知れない。
翌月曜日、午前六時、私はホシを探すレストレード警部のしつっこさを胸にひめ、目つきも鋭くして、ゆっくりしたペースで走り出した。コモンの入り口に着くまでには二十軒ほどの家の前を通る。どこかに「犯人」は息をひそめて潜伏しているに違いない。一軒、一軒、いつもは注意していない格子窓をためすように横目で見ながら、私は走った。
たいていの家は厚いカーテンが下してあって、人がのぞいている気配は無い。しかし十軒目にさしかかった時に、カーテンが半びらきになっている窓が一つあった。私は更にペースダウンしてその内部の薄暗がりに目をこらした。と、その瞬間、その暗がりの中で何か白っぽいものがかすかに左右にふれた。よく見ると、それは手であった。
近づいてみると、あの老人である。名探偵の推理の通り彼はここにいて、そして私に「あいさつ」をしてくれたのである。彼の意地悪そうな顔は微動だにせず、ただかすかに右手だけが左右に、ゆっくりと揺れていた。しかし、これで友人になったな、と私は直感した。
このコモンと呼ばれる広大な草地と雑木林、ウインブルドン公園の池とそれに隣接したゴルフ場、そしてその筋向いに世界に有名なウインブルドン・テニスコートが位置している。私はその脇を通って地下鉄駅まで歩いて通勤するのだが、ふだんは人通りもほとんどないその地域も、六月になって初夏を思わせるように強い日射しと木々の緑が一層濃さを増す時期になると、何となくざわめいてくる。そう、ウインブルドン・テニスの時期が近づいたことを知らせるざわめきなのである。
コートの整備とコート敷地内の仮設スタンド造り、そしてマーキー (marquee) と呼ばれる大テントの群が敷地の一角に、まるできのこのように幾つも屋根を広げるのがコンクリートの塀越しに見られる。このテント村の一角は入場証がないと立ち入れない特別地域になっている。ここでは何が行なわれているかは大きな興味の的であった。
或る年の六月初め、ウインブルドン・テニスの準備が最高潮にさしかかった時に、日本で言えば日本経済新聞に相当するロンドンの「ザ・ファイナンシャル・タイムズ」紙の第一面に、「年々派手になるウインブルドン・ビジネス――白いマーキーの中で――」という妙な記事が私の目にとまった。
ざっと読んでみると、何でもこの大テントの大部分は特定大企業の接待の場として利用されているのだが、ウインブルドン・テニスの人気が年々高まるにつれて、そこに招待されることは年々困難になる一方、その中での接待方法が年々派手になりつつある。これは正にウインブルドン・テニスならぬウインブルドン・ビジネスとでも呼ぶべきものである……といった内容であった。「なるほど、」と和製シャーロッキアンは一人で合点した。「これは詳しく事実を調べる必要がある。」と。
しかし、ここに招待されることが決して簡単でないこともすぐわかった。知りあいのいくつかの大企業の幹部に頼んでみたが、この「ビジネス」は何年も続いている伝統的なものであり、二、三年先の招待客までほとんど決まっており、他にもウェイティング・リストが相当長い。今頼んですぐなどというのは、日本ではいざ知らず当地では全く無茶苦茶な話ですよ、というにべもない返事であった。
では来年でも、とちょいと引き下ってみせても「来年のことは全くお約束出来ません。」とつれない返事。なかば諦めかけていたところへ思いがけなく救いの神が現れた。意外にも米国系の会社から「あなたとは大した取引関係はないが、将来を期待して――この辺りに強くアクセントがかかって――何とかしましょう。しかし日取りはおまかせ願います。」という声がかかって、ほどなく仰々しい招待状が届いた。
「弊社は御夫妻をこの伝統あるウインブルドンの行事に喜んで御招待致します。当日は正午までに到着され、十二番入口でこの招待状を係員に御提示下さい。招待者以外は入場を堅くお断り致します。服装――平服」
この最後の一行をそそっかしく私は読み違えてしまった。スポーツ行事の平服というならスポーツ観戦に楽ないでたちという訳で、私はポロシャツにスニーカー、連れの女房はサマーセーターにスラックスといった簡易ないでたちで(水筒だけはうっかり持参するのを忘れたが)とにかくサングラスに帽子と、意気ようよう乗込んだまではよかったのだが、うやうやしくテントに案内された途端、顔面蒼白になってしまった。
すでに数組の立派な紳士淑女が、食前酒をちびりちびりやりながら会話に興じている、例外なく男性はスーツにきちんとネクタイをつけ、ビジネス・ランチに臨むスタイル、女性はカクテル・ドレスかと思える盛装で、およそスポーツ観戦とはほど遠いいでたちである。
一人一人に紹介されて握手を交しながら、私たちはもう逃げだしたくなった。走って帰ればものの数分で家に着くのだから、「お色直し」をしてきた方がよいのではないか。ソワソワしている私たちの気配を察したのか、これもダークスーツに蝶ネクタイの、主催者である某米国系技術会社の営業部長氏がさりげなく近づいてきて、
「よろしいのですよ、服装は自由です。ただ、ここにおこしのお客様方は弊社の重要得意先数社のそれぞれの幹部の方々で、毎年この日にいらっしゃってますのでお互いに充分お知合いになっておられます。何と申しますか、『社交の場』になっているんですよ。したがって皆さまドレス・アップされておられますが、あなた方御夫妻は弊社の仕事にあまり御関係のない――ここでちょいとウインクをしてみせて――いわば『特別のお客様』ですので、あまりまわりの方々をお気になさらないで下さい。」
とにかくいきなり強烈なスマッシュを一発くらったようで、これは前途多難なゲームだと覚悟せざるをえなかった。話の輪の中に入ってはみたものの、相手から名刺を頂いても返す名刺も持ってこなかった日本人は、正に武装解除された日本兵の心境である。
正午すぎた頃になってそれではと、次のテントに案内されてまた目をむいた。大きな円卓には白いテーブルクロスが敷かれ、立派な椅子が十二脚、床には派手な色のカーペットが敷きつめられ、天井からはシャンデリアが下がっている。きちんとした身なりのウェイターが数人、直立不動で私たちを待ちかまえていた。ホスト役の営業部長氏の指示で所定の席に座って、ナイフとフォークの数を一瞥するとこれは昼間からフルコースの食事であることを物語っている。正にランチョン・パーティだったのだ。スポーツ観戦のためのテント小屋でなく、社交の場、ウインブルドン・ビジネスの場なのだといやが応でもさとらされた。
それにしても、マッケンローはもうコートに入っているのではないか、コナーズは、ナブラチロワは、と思うと気が気でない。一体このようにすまして、テニスなどどこでやっていますか、という顔付きで英国経済を語り、政治のゴシップに軽い、慎み深い笑い声をたてたり、そんなことをしている余裕があってよいものか――「時は金なり」。早く、一刻も早く、コートの方に行くべきではないか。
そんな私の落ち着きのない姿を察したのか、隣席の上品な中年の夫人が「今日の第一試合は二時からですのよ。時間はまだずい分ありますね。」と親切に声をかけてくれた。しかし落着かない日本人は「でも、センターコートと第一コート、第二コート以外ではお昼頃からプレイが始まっていますし、今日はまだ三日目ですから、各国の有名選手があちこちのコートで見られるはずですよ。」と言ってみたものの、まあまあそんな試合はどうでもよいのではという顔付きで、こちらの気持はあっさりと無視された。
そのご婦人は続けて曰く、「私たち夫婦は毎年この会社に、いつも三日目に御招待を受けております。主人は購買担当副社長で、こちらの会社から材料部品を毎年相当額購入しているそうで、そんな訳で御招待いただいてますが、私も主人にいつも申しておりますのは、ねえ、あなた、来年も御招待がくるように、この会社からせっせと買いつけて実績が減らないようにしてちょうだい。私、このテニス観戦がとても楽しみなの、と。それに対し主人は、女は男のビジネスに立ち入ってはいけない、しかし、ぼくは君の期待を裏切らないよう努力しよう、ですって。殿方はどうしてああもっ体ぶった言い方をしたがるのでしょう。日本の会社の役員さんも同じですか?」
なるほど、これがウインブルドン・ビジネスの中身ですか。恐れいりました。
フルコースを味わい、話には聞いていたウインブルドンのストロベリー・クリームも頂き、リキュールまで飲んで、テニスを見る前からすっかり出来上ってしまった私が時計を見ると一時四十五分。そこでおもむろにホストの営業部長氏がやってきて「河村御夫妻はセンターコートと第一コートと、どちらを御希望ですか。どちらも正面最前列にお席が用意してあります。」とさりげなく教えてくれた。
まさか、嘘をついているのでは、と瞬間思った。ウインブルドンのセンターコート、第一コートの席を確保するのはほとんど至難の技、まともに抽選で申込んでも絶望的な高倍率、ダフ屋にいってもなかなか手に入らない、たとえあっても目の玉のとび出るほどのプレミアムを一方的に要求される。それが両方、どちらでもお好きな方を、しかも正面最前列、一体これはどうなってるのだろう。
「本日はマッケンローは第一コートで、コナーズはセンターコートでプレイしますが、開始時間が異なっていますので、よろしければ両方御覧になったら如何でしょうか。」この申し出を受けない奴は地獄に行け、とばかり、私は体の中でとびはねる興奮をできるだけ抑えながら「それが私たちの希望にあうようです。」などとやや震え声で答えたはずである。
行ってみると、まさしく最前列、ぎっしり埋まった観客席のそのあたりだけに、空席がちらほらしている。それもそのはず、私たちのテントの六組の内、二組は隣のコートに行ってしまったのだ。このテントの中のアレンジメントのようなことが他のテントでもあったに違いない。マッケンローの試合が終った直後、まだ興奮さめやらない私たちのグループのところに営業部長氏が近づいてきた。「午後のお茶の用意が出来ております。よろしかったらテントの方へどうぞ。」
そこで私は心をコートに残しながらも皆と一緒にまた、テニスに関係のない話に一しきり時間をつぶして、今度はコートを変えてコナーズを応援に。そしてセンターコート、第一コートでの当日のプレイが全て終るとまたテントに帰って、今度はブランディなど飲んだ。そこでやっと、今日のコナーズの出来は良かったが、全体的には好プレイが少なかったなどとスノービッシュな会話を一しきりかわしてから、やっと立上り営業部長氏にいとまを告げることとなった。
別れぎわに例の御婦人がまた、私のかたわらに立った。「来年もまた、三日目にお会いしましょう。でもよほど沢山、この会社の製品を買わないと翌年分は保証されないんですって。そういえば今年は来ていなかったご夫婦が一組あったわ。あの会社は最近景気が悪いからな、と主人が言ってました。なにせ、このテントに招待されたくって、御主人にせがんでいる奥様が多いんですって。『競争は日々に激し』ということかしら。では御機嫌よう。」
そして一九八八年六月十八日付の朝日新聞にこんな記事がのったのである。
「ウインブルドン 人気が過熱。決勝入場券、二十万円のヤミ値。
ロンドン郊外ウインブルドンのオール・イングランド・クラブで二十日から二週間開かれる大会は、単にナブラチロワやレンドルら世界最高水準の選手が覇を競うというだけでなく、英国上流階級や金持ちの欠かせない社交の場ともなっている。
英国経済の立ち直りに比例するかのように、その人気はここ数年上昇の一途をたどっており、特に企業が接待用として、券を買い集めるようになったことで値段が跳ね上がった。」
第十四話
シャーロック・ホームズ・パブの仲間たち
「十五分ほどでブルームズベリー地区にあるアルファ・インに着いた。ここはホルボーンに通じる道の一角にある小さなパブである。
ホームズは上客用のドアを開けて入り、赤ら顔で白いエプロンを着た主人にビールを二杯注文した。」
――「青い紅玉」――
いやしくも英国に住んでパブに入ったことのない男は、禁酒主義者を除いてまずない、と考えてもさしつかえないだろう。特に英国人にとっては、パブは自分の家庭についでなじみ深い場所のはずである。行きずりの旅行者でも、ちょっと覗いてみたくなるような看板がぶら下がり、店構えもまちまち、それぞれに個性があり、内部から聞こえてくるかすかなざわめきと笑い声を耳にすれば、何か扉の中では素敵なことが起こっているに違いないと思いこむ。
実際、いくつかのパブをためしてみて納得することは、その看板、店構え、内部の造作、何から何まで二つとして同じ店はないと言えるほど、それぞれ「個性」が売物であり、それに主人の「個性」が加わって、何とも言えない興味あふれる雰囲気をつくり出し、それが客寄せにつながっていることである。
あるパブの主人から直接聞いた話だが、その店の主人の人柄とか客扱いの良し悪しによって当然売上げが大いに異なる。確かに気の合わない主人からビールをカウンターに置いてもらうほど気の抜けたことはないし、しょせん、酒とお喋りを求めてパブのドアを押すのだから、主人の人となりは大切。もっともこんな話は、洋の東西を問わず同じ、と言ってしまえばそれまでだ。
パブの場合は、主人が客の目の前で蛇口のコックを押し下げてビールを注ぐその仕ぐさとか、スタイルが重要なので、その点目立たないがショーマンシップも多少必要となってくる。客の目の前で、いかに旨そうにビールを注ぐか、が一つの技術ともいえよう。
特に英国人にとってはパブはパブリック・ハウスというその名の通り、子どもの頃は親に連れられて(食べるだけなら構わない)、大きくなったら仲間同士で、年をとったら一人で扉をくぐる懐かしい場所である。
パブは色々な用途に使われる。デートはもちろん、クラブ仲間の集合場所、勤め帰りに仲間と一緒に上司をこきおろして溜飲を下げる所、大いに豪快に飲む所、夫婦で問わず語りの会話を楽しむ所。多くの英国人はビールはパブで飲むもので、それ以外の場所で飲むものではないと思いこんでいるようだ。
ある時、私は会社帰りに英国人の仲間とパブで一杯やっていて、かねての疑問、つまりなぜ英国ではビールの缶化率が低いのか、これほどビールの好きな人種なら持ち運びに便利で冷やすにも都合の良い缶ビールがもっと店頭に置かれても良いはずなのにと口にしたところ、途端にそれまで賑かに喋っていた連中が呆れたといった顔で、異口同音に、
「あなたは一体何を考えているのですか。ビールというのはこうやって立ったまま、お喋りしながら飲むからこそ、旨いんだ。ビール工場から樽詰で直送されてきたものを、このオヤジが太い腕でグイとコックを下げてジョッキに注いだのを、すぐにこうして飲むからこそ、実に旨いんだと、わめいていたのはあなた自身ですよ。
それに較べて自分の家の中で女房、子どもの目を気にしながら缶ビールのフタをポイと引剥して、マイ・ダーリングなんて言いながら、こそこそ飲んでうまいですか。われわれは自分の家ではこれでも謹厳実直な一家のあるじですから、大声をあげてくだらないお喋りをしながらビールを飲むという訳にはいかないのですよ。家族も酒の臭いが家の中に充満するのを好みませんしね。どうしても飲みたい時はひとりで家を出て、近所のパブに行くのですよ。その方がずっと気楽じゃないですか!」
それにしても酒飲みの心理とは、どうしてこうも洋の東西を問わず似かよっているのだろう。「近所のパブ」という言葉がずばり当てはまるほど、パブの数は多い。郵便ポストの数とパブの数と、どちらが多いか、と英国人に尋ねたら、比較にならないと返事もしてくれないだろう。
地元の民にはかくのごとく、不可欠の存在であるパブも外国人には入りにくい。特にこの種のスタイルに馴れていない東洋の君子にとってはなおさらである。しかし勇気を出して扉を押してみたらよい。店の主人が何かお愛想めいたことを早口にはなしかけてきてもかまわずに、カウンターの上に一、二ポンド分の小銭をパラパラと置いて「ハーフ・パイント・ラガー」と大声で自信を持って言えば、とにかく日本人好みのビールが出てきて、代金は勝手に小銭の中から天引きされてしまうのだ。チップもいらない。カウンターにもたれかかって、ゆっくり飲み干して「サンキュー」とジョッキを置けば、それで一幕の終り。
生兵法は大怪我の元で、はじめから通ぶってハーフ・アンド・ハーフなどと言おうものなら、コクニーなまりの強い早口で「ウイッチ・ビア・ユチュズ・マイト?」(旦那、どのビールを混ぜましょうか?)などと逆襲されて、コクニーなまりと無理心中するはめになる。
このような一見楽そうに見えるパブも、裏側からみれば、実はそれなりに難しい商売らしい。パブについて少し詳しく知りたいと思ったら、なるべく多くのパブに通うことはもちろんだが、あまり流行っていそうもないパブに割合に暇な時間帯をねらって顔を出し、主人と親しくなる手もある。ふだんの、客のたてこんでくる時のパブの主人は動作がきびきびしていて、なかなか取りつくしまのない感じを与えるが、暇なときは話は別で、そういう時の主人は退屈しのぎもあって実に親切に応対してくれるし、色々興味深いこともおしえられる。
すべて人間はモティベーション次第だから、そういう時に一杯こちらでおごってやれば店の売上げに貢献するし、自分も一杯、ただ酒が飲めるという次第で、たいていの主人はこの東洋人は好ましい奴だと思うにいたる。こうして親しくなった何軒かのパブの主人たちから教えてもらったところによると、驚くことに彼らのほとんどは雇われ人なのである。また入口にぶら下がっている看板はどれを見てもユニークな絵柄で、それぞれのパブの由来とか、故事、来歴を物語っているように見える。
事実これらのパブは、元はといえば、それぞれの土地の地元のビールやウイスキーを売る居酒屋で、オーナーが即主人であったはずで、主人がこれはいけると思った銘柄を用意していたのである。ところがだんだんと大手のビール会社が進出してきて、先ほどの「家庭的」事情でパブが最も大量で安定したビールの仕向先となり、そのために大手会社によるパブの買取り系列化が急速に進んだ。その結果、フリーハウスという非系列の独立運営のパブを除けば、ほとんどすべてのパブは現在では数社の最大手ビール会社のそれぞれの系列に組入れられてしまい、その会社のビールしか置いていないのが通例である。しかし、これだけでは客寄せの決め手にならない。そこで外観だけは昔ながらのままを残し、より魅力的なたたずまいとなるよう改築して、客扱いの上手な主人の獲得に努める。
パブの主人となる基礎的条件は、子どもの世話をする必要のない夫婦者で、住み込み可能、律義で働き者で、当然ながら健康であるということである。雇われ人ではあるが、あたかもオーナーのごとく全力投球で働くことが要求される。ハードワークを厭っていては、この商売は出来ない、と異口同音に主人たちは語る。
とにかくビール会社は与えたノルマを達成させようと、これでもかこれでもかと樽を置いていく。ノルマを達成出来ないと当然にプレッシャーがかかり、うまくいかないと追い出されてしまう。ある時ガラ空きのパブで一杯飲んだ時、主人が溜息まじりに「店の裏には樽が山積みになっているというのに、また今日持ってくるというのですぜ。もう置き場もありませんや」とこぼしていたのが、ひどく記憶に残った。日本人だったら、きれいな女の子でもおいて、とすぐ考えつくのだが、どうもパブの伝統というのはカウンターの中は男性の仕事場というのが基本のようである。そこで何とか他と差をつけようと力をいれたのが料理の方である。
本来は居酒屋だから、つまみ程度のものとか、ちょっとした腹ごしらえ位の小料理を出しておけば良かったのだが、最近ではその店をまかされた夫婦、特におかみさんの手作りの料理が昼食時には客寄せの決め手になり、サラリーマンたちが手軽で安価なパブ料理を楽しむ傾向が強くなってきた。
料理の方はそれでは主人夫婦の腕次第だから儲かるだろう、と他人のポケットに手をつっ込むような質問を、あるパブの主人にぶつけたところ「そうはいきませんや、旦那。あいつら(ビール会社)はそんな甘いものじゃありませんぜ。女房のつくる料理は事前に、あいつらに献立を出して、そのコストを計算されるのです。だから、原価計算がしっかりしているので大儲けという訳にはいきませんよ。なんせ、客にまぎれてあいつらは見張っているんですから」と。
実のところ、これほどまでにビール会社が「経営指導」しているかどうかは、未だ確証はないのだが、ビール会社の販売部というのは、系列パブの獲得、管理、育成がその主たる業務であるとは、あるビール会社の幹部がそっと教えてくれた。とにかくパブの栄枯盛衰は主人の腕にありということになる。
実際、主人が病気で店に出られなくなると、途端に売上げが落ちるという。店に入ったら「おやじ」がいないとわかると、一杯飲んだらさっさと出てしまう、などというのはどこにでもある話である。その主人の話で面白いのは、彼らの前歴に「お巡りさん」が多いということだ。お巡りさんは肉体頑健で、思想堅固、規律に服するは当然、酔っぱらいを処置するのもお手のもの、それに職業上常に「庶民」と接していたので、彼らの心理を見抜くのが上手などと望ましい条件を身につけているからだそうだ。
「それともう一つ」、と元お巡りさんの主人は教えてくれた。「大抵の店は一人や二人、手伝いの男を雇っているのですが、パブというのは現金商売ですから猫ばばに気をつけなければいけない。まさか毎日、身体検査をする訳にはいきませんしね。それに客から受取った金以上のお釣りを渡したらどうなります? 客とつるんだら何でも出来てしまうんですよ。その点、元巡査が主人となると、ちょいとはにらみが利くんですよ。ハイ。」
それでもアルバイトの若い男が、店にやってきた仲間にタダで飲ませる位のことはしょっちゅうあるようで、この程度は水に、いや、泡に流さないといけないのだろう。
さて、われらロンドンのシャーロッキアンの集まるシャーロック・ホームズ・パブも、実の所有者はホイットブレッドという大手ビール会社、われらの愛する主人夫婦はマネージャーと呼ばれているサラリーマン夫婦である。
実を言えば、シャーロッキアンとしてはこのようなかけがえのない名前のパブは当然ながらベーカー街の一角にあるべきと思うのだが、ホームズに対する熱烈な信仰心はあっても、経済的な意味での実力には遺憾ながら恵まれていない貧乏シャーロッキアンは、この大資本の恣意性の前には如何とも抗し難い。それにパブの建物自体が「バスカヴィル家の犬」に登場するノーサンバーランド・ホテルであると定義づけられているので、パブの名前がますます重みを増すというわけである。そして決定的な利点は、ホームズがサセックスに引退する時に残していった三種の神器とでもいうべき「遺品」の数々が二階の「神殿」に陳列されていて、それを拝みに来る「信者」が跡をたたないという厳粛な事実がある。
一九五一年の英国祭の時に、ベーカー街を擁する地元メリルボーン区が知恵をしぼって、また関係者の涙ぐましい努力により、二二一Bのホームズとワトソンの住み家の再現に成功し、英国祭の終った後これをそっくり米国に持ちこみ、各地を巡回展示して大好評を博した。それが終り故国である英国に陳列品一式が戻ってきたが、一部の個人への返却品を除いて大部分のものはその恒久の置き場所に困っていたところに、ホイットブレッドが名乗りを上げた。当方のパブにどうぞ、ということで、当時ノーサンバーランド・アームズと呼ばれていたパブを改造して二階に小部屋をつくり、そこに「遺品」をつめ込み、パブの名前もシャーロック・ホームズと改めたという次第である。
英国祭の時にはもっと広々としたスペースに、出来るだけ原形(と思われるもの)に忠実に陳列品がレイアウトされていたのだが、現在の「神殿」のものは物置き同然にいろいろな物が所せましと置かれている。しかしネバー・マインド! そんなこと、大したことではない、とシャーロッキアンは思う。神殿の階下で集まって楽しくおしゃべり出来るだけでも良いではないか。「あそこで、何時に。」というだけで、何人かのシャーロッキアンと会えるという根城は貴重なものである。
或る時、われわれロンドン仲間の世話役を自認するメリルボーン図書館の司書であり、同図書館のシャーロック・ホームズ・ライブラリーの番人であるキャシィ嬢から緊急電話があった。
今晩ドイツのテレビ局がロンドンのシャーロッキアンの活動をフィルムにおさめたいと言ってきたので、「あそこに、七時に」集まって欲しいとの依頼があった。それはそれはと、勇んではせ参じてみると、われらが会長以下、例の連中が既に集まっていて、「いったい、ドイツ人が今頃何の風の吹きまわしでホームズなのかね?」と一種の快感を持って語っている。
ドイルにはドイツおよびドイツ人を好まない傾向があったし、特に第一次大戦中には息子と弟を共に戦争で失ったこともあって、口をきわめてドイツをののしっている。ホームズ物語の中でもドイツ人は好意的な取扱いを受けてはいない。その上に英国人とドイツ人はとても第三者の日本人には簡単に理解出来ないような、きわめて複雑な感情をお互いに相手に対して長い間持ち続けているようで(そういう人が多いという意味)、何かの端にそういう独特の感覚が出てくる時がある。
さて、いよいよテレビ撮影の段階になって、今度はドイツ側が驚いた。なんせ数人の白人にまじって毛色の変った東洋人が一人まじっている。
早速、女性インタヴュアーが私にマイクをつきつけて「英語がわかりますか?」ときた。
「何故ロンドンにいらっしゃるのですか。」「仲間の話についていけますか。」「日本でもホームズ物語は読まれているのですか。」さすがに私も、このあたりでいささかムッとなった。
「日本は、実は英国以外で最初にこの物語を翻訳して出版した国ですよ。多分あなたのお国より早いはず。日本ではホームズ研究の伝統は長く、現在の日本のシャーロック・ホームズ・クラブの会員は八〇〇人もいるのです。」
この会話を横でかすかな笑いを浮かべて聞いていた仲間が、インタヴュアーが帰るや否や、「よくやった。あいつらはわかっていないんだよ。英国のことも、日本のことも。」
日独伊三国同盟の真最中に、義務教育のはしりを受けた私は一瞬、複雑な思いがした。やはり戦争同盟では駄目だ、文化同盟でなければね、と自分自身に言いきかせて私はにっこりしたのであった。
あれやこれやで、ホームズにうつつを抜かしている内に、帰国の日は近づいてきた。ホームズとパブ、いつの間にか、日本に帰ったらどこかでロンドンのシャーロック・ホームズ・パブを再現したいという空想をいだくほどになっていた。私は思いきってホイットブレッドに手紙を書き、パブを経営したいが「虎の巻」はないかと質問した。こういう時には、少くとも英国では短時日の内に返事がくるなどとゆめゆめ期待してはならない。しかし、いつかは返事がくると期待するのは大いに結構である。
この一方的な虫のいい質問に対して、案の定約半年たった頃、返事の遅れを多少気にした文面に同封して「イン・キーピング」という三百数十頁の「虎の巻」が届いた。インというのは英国流にいえば一階が居酒屋兼食堂、二階が客の泊る寝室というスタイルの伝統的な旅籠を指すもので、今日流に言えば「パブ経営術」になろうか。
目次を見ると、ある、ある、パブの歴史、種類、市場性、ビールの歴史、醸造法、客に出すための準備、ビールの取扱法、法規、資金、在庫管理と利益計画、許可証、従業員管理、衛生、安全、警備等々ときわめて多岐にわたり、内容も具体的に書かれてある。この一冊を読破すればパブの一軒ぐらい、何とかこなしていけそうな気をおこさせるものであった。
帰国して暫くたった頃、昔から大好きだった横浜のホテル・ニューグランドの社長さんで、長年友人としておつきあい願っている原さんの御好意で同ホテルの顧客向季刊小冊子「ソサェティ・第九号」に「小さくて居心地の良いホテルを持ち、そこにシャーロック・ホームズ・パブをつくることが夢」と題した私のインタヴュー記事をのせて頂いた。この時私は、この小さな記事がどなたかの目にとまって、一緒にやろう、という篤志家が現れるのではないかとひそかに期待したのだが、未だ「事件」は解決していない。
しかし、ネバー・マインド! 気にしない、気にしない。ホームズとワトソンが歴史的な出合いをした時、ワトソンがアフガニスタン帰りであることを瞬間的に見抜いたホームズに、どぎもを抜かれたワトソンがその訳を尋ねると、ホームズは「ネバー・マインド」と言ってしのび笑いをしたと「緋色の研究」に記されているではないか。世間が呆れようと何と言おうと、われらロンドンのシャーロッキアンはホームズ先生の不滅を固く信じ、ホームズ先生の知恵にならい、ある時は疲れを知らぬ獣のごとく動きまわり、さもない時は冬眠中の熊のごとく、いつまでも眠りこける、そんな「優雅」な存在でありたいと願っているのだ。
あれもこれもホームズ冥利につきるというべきか、仕事の合間をぬって探偵ホームズの跡を追い、その記録を断片的に書きとめて、ワトソンの「ブリキの箱」ならぬボール箱にしまいこんでおいたのをこうしてもう一度、取り出し、あれこれつないでみたら、一つのお話になってしまった、と、いうのが実感である。ホームズの拡大鏡を通してみた英国と英国人の素顔が少しでも読者の目に止まれば、拙い筆を取らせて頂いた甲斐もあったと、筆者は望外の喜びを感じるのである。
最後のあいさつ
「ザ・シャーロック・ホームズ・ジャーナル」一九六八年 夏号より
我々が先般、挙行した聖地ライヘンバッハの滝を訪れるスイス巡礼の旅にまつわるエピソードを一つ。
滝に通じる町マイリンゲンの広場でヴィクトリア時代の衣裳をつけ、ホームズ物語に登場する人物にそれぞれ扮装した我々一行、数十人は好奇心に満ち満ちた町の人達に取りかこまれて、名場面の幾つかを寸劇にして興じていた。その時、広場のわきにある精神病院から出て来た若い小柄な看護婦が、この光景にびっくりして足を止めてこのドタバタ騒ぎを見つめていた。そこに一行の一人が近づいて得意気に『お嬢さん、如何ですか、この騒ぎは?』と尋ねたところ、この女性は軽く頬を赤らめて、目をくりくりさせて、こう答えた。「実は私、考えていたのですが、私の精神病院の患者さんを全員外に出して、あなた方を代りにお入れした方がよいのではと――。」
文庫版あとがき
この本は一九八八年に筑摩書房から『われらロンドン・ホームズ協会員』という題の単行本として上梓された。私にとっての処女作が今回ちくま文庫に所収され、より多くの新しい読者の目に触れるようになったことを私は心の底から喜んでいる。
この本は私が五年間生活した倫敦(ロンドン)から帰国してまだあまり時間がたっていない頃に書き始めたものなので、倫敦時代に味わった楽しい雰囲気がそのまま生の形で読者に伝われば良いがと思いながら筆をすすめたものだった。だからちくま文庫に加えて頂くに際しても、写真や挿絵は一部入れかえたが原文にはほとんど手を加えずそのままとして、この文庫版あとがきでその後のシャーロック・ホームズにまつわる出来事などを記すこととした。
最近の数年間で最も顕著なことはホームズの世界の拡大である。私が仲間と一緒に遊んだ頃のロンドン・シャーロック・ホームズ協会のメンバーは七百人前後だったのが、その後入会希望者がどんどん増えて結局ちょうど一千人になったところで入会締め切りとして、それ以後の人は現会員が脱会するまでお待ち願うことになった。そのウェイティング・リストも相当長くなっているようだ。趣味の集いなのだから同好の士は全員入会させれば良いのに、という声もあるのだが本書の第六話でも触れている通り、この会はもともと仲間の手作りの会であり、だからこそ仲間内で楽しく遊べるのだから、その古き良き伝統をあえて崩すこともないだろうと会員の多くが感じているに違いない。このあたりの感覚もまことに英国的なのだが、実際にこの協会の運営に当たっている人たちの仕事ぶりを拝見すると、手作りの会という楽しさもあるものだなあと納得してしまうのである。日本シャーロック・ホームズ・クラブでも、主宰される小林司・東山あかね夫妻の心の広い面倒見の良い運営で若い人中心に会員数はふえ続け、現在一千数百人もの会員を持ち積極的な活動を続けている。モーリス・ルブランの『ルパン対ホームズ』を引き合いに出すまでもなく、イギリス人ホームズを決して好きになれそうにないフランスにも、ついにホームズ協会が設立された。そのお祝いにはロンドンの協会からも大挙してかけつけたというのだから、英仏海峡トンネル開通前にすでにホームズの世界での握手は実現したようだ。日本のホームズ・ファンにとって嬉しいことには、NHKテレビで好評を博したジェレミー・ブレット主演のホームズ物語シリーズが、全巻ビデオになって手軽に入手できるようになった。また同じNHKでもラジオが一九九三年五月の連休時に橋爪功さんの朗読で三夜にわたり特集「シャーロック・ホームズの世界」と題して「ボヘミア王家の艶聞」「最後の事件」「消えた競争馬」をファンの耳に届けた。この時は私が解説を担当した。また、時を合わせて五月二日には同じくNHKラジオで「ラジオ公園通り――若きシャーロッキアン達、ホームズ百年の謎に挑戦」という一時間番組が組まれ、私もロンドン・ホームズ協会員の幹部と国際電話で話しあうなど楽しい一刻をすごした。またホームズの生みの親であるコナン・ドイルに対する関心も高まり、一九八九年にはイギリスでアーサー・コナン・ドイル協会が発足した。最初のシャーロック・ホームズ協会が発足したのは一九三四年であるから、これに遅れること半世紀以上、ドイルがこの世を去ったのが一九三〇年であるから、実に六〇年たってやっと架空の作中人物ではない、実在の作者の研究団体が設立されたのである。
作中人物が作者を凌駕するのを「ホームズ現象」と言うなら、これなどはまさにその好例である。私もこの本に続いて『シャーロック・ホームズの履歴書』(講談社現代新書、平成元年度日本エッセイスト・クラブ賞受賞)『コナン・ドイル』(講談社現代新書)と二冊上梓したが、日本でもホームズ物語を通りぬけて、その生みの親ドイルに対する関心が高まっているのは嬉しいことである。その一例として一九九三年一月には日本テレビの「知ってるつもり」でコナン・ドイルが取り上げられ私も出演した。このように楽しいホームズの世界がますます拡がっていく背景には、日本における「イギリス再発見ブーム」も寄与しているように私は思う。何といってもその火つけ役はこの本の解説をして頂いた林望さんで、平成三年度日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した『イギリスはおいしい』(平凡社)から始まるイギリス・シリーズはそれまでの類書の多くがイギリスの外からイギリスを観察していたのに対し、イギリスの中に入りこんでそこでじっと内在し、著者の鋭いが、しかし温かい目でとらえた、訪問者ではのぞきこめないイギリス人の生活をユーモアをこめて語っていることに読者は新鮮な発見をし、喜びを感じたに違いない。私たちがこれまで知らなかった本当のイギリスがそこには描かれているのだ。私も五年間倫敦で生活した体験を持つが、その新しい切り口と楽しい表現に敬服したのだった。こうしてイギリス再発見ブームは続いているのだが、私は明治維新このかた日本がイギリスから受けた多くの影響に思いをいたす時、日本人はもっといろいろな切り口からイギリスとかイギリス人の本質や本性にまで踏みこんで理解すべきであるし、そのことによって我が国のあり方にも鋭い内省が生まれてくるのではないかと期待するので、このイギリス再発見ブームはこれからも長く続いて欲しいと願っている。この小著もその意味で再登場させて頂くことの意義を改めて感じるのである。この文庫版の企画を進めて頂いた筑摩書房の渡辺英明氏に心から感謝の意を表したい。
さて、最近ホームズ・ファンにとっては嬉しい「事件」が二つあった。その一つは評判のユン・チアン著『ワイルド・スワン』(土屋京子訳・講談社)の中で文化大革命以前に中国で広く読まれていた古典作品の中に「中国人に人気絶大のコナン・ドイルのシャーロック・ホームズもあった。」と記されていることである。いかに世界中の人々にホームズ物語が愛読されているかの一つの証拠であり、サセックスの田舎で悠々自適しているはずのホームズも殊の他喜ぶことだろう。もう一つはお固いことで有名な英国郵政省が一九九三年十月に五枚連刷りのシャーロック・ホームズ記念切手を発売したことである。これは「大事件」である。ホームズ切手を発売して欲しいという声はかなり以前からあったのだが、郵政省の方は一作家の筆になる架空の一人物を切手の図柄にすることについて拒否反応を続けていたのである。しかしこの期におよんで、現在記録されている六〇編のホームズの活躍譚から「ライゲートの大地主」「バスカヴィル家の犬」「六つのナポレオン」「ギリシャ語通訳」「最後の事件」を選んで彼の活躍場面を図柄にしたことは、ついに郵政省が全世界に向かってホームズの存在を確認したことではないだろうか。
やはり、シャーロック・ホームズは生きている!
河村幹夫(かわむら・みきお)
一九三八年八月、長崎市生れ。名古屋で育つ。一九五八年、一橋大学経済学部卒業。三菱商事に入社。ニューヨーク、モントリオール、ロンドンに計十数年駐留。三菱商事取締役を経て、現在は多摩大学教授。専門は先物取引を中心とした企業の統合リスク管理論。LME(ロンドン金属取引所)個人会員でもある。著書に『シャーロック・ホームズの履歴書』(八九年、日本エッセイスト・クラブ賞受賞)『倫敦洒脱(ユーモア)探偵』『コナン・ドイル』『シャ−ロッキアンの冒険と回想』『シャ−ロッキアンの新たなる冒険』『総合商社ビッグバン』『米国商品先物市場の研究』など多数。 本作品は一九八八年八月、「われらロンドン・ホームズ協会員」として筑摩書房より刊行され、一九九四年一月、ちくま文庫に収録された。
なお、電子化にあたり一部図版と解説は割愛した。
われらロンドン・シャーロッキアン
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2003年1月31日 初版発行
著者 河村幹夫(かわむら・みきお)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
(C) MIKIO KAWAMURA 2003