チベット旅行記(下)
河口慧海
目 次
第六十一回 問答修行
第六十二回 法王に召さる
第六十三回 法王に謁す
第六十四回 侍従医の推挙
第六十五回 僧侶の状態
第六十六回 下等の修学僧侶
第六十七回 天和堂と老尼僧
第六十八回 前大蔵大臣と最高僧
第六十九回 ラサ府の日本品
第七十回 密事露見の危機
第七十一回 チベット人の誓言
第七十二回 僧侶の目的
第七十三回 婚姻
第七十四回 送嫁の奇習
第七十五回 多夫一妻
第七十六回 晒し者と拷問
第七十七回 驚くべき葬儀
第七十八回 奇怪なる妙薬
第七十九回 チベット探検者
第八十回 不潔の都
第八十一回 旧教と新教
第八十二回 法王の選定
第八十三回 教育と種族
第八十四回 チベットの物産
第八十五回 輸出入品と商売
第八十六回 貨幣と版木
第八十七回 願文会
第八十八回 法王政府
第八十九回 婦人の風俗
第九十回 婦人と産児
第九十一回 迷信と園遊
第九十二回 モンラムの祭典
第九十三回 投秘剣会《とうひけんえ》
第九十四回 チベットの財政
第九十五回 チベットの兵制
第九十六回 秘密露顕の端緒
第九十七回 商隊長の秘密漏洩
第九十八回 チベット退去の意を決す
第九十九回 恩人の義烈
第百回 出発準備
第百一回 出発の準備整う
第百二回 いよいよラサ府を出ず
第百三回 ゲンパラの絶頂
第百四回 山路を辿《たど》って第三の都会に入る
第百五回 いよいよ関所に近づく
第百六回 五重の関門
第百七回 第一の関門
第百八回 第一関門を通過す
第百九回 途上の絶景と兵隊町
第百十回 無事四関門を通過す
第百十一回 いよいよ第五の関門
第百十二回 いよいよ五重の関門を通過す
第百十三回 チベットに別る
第百十四回 ダージリンに旧師と会す
第百十五回 疑獄事件
第百十六回 救解の方策
第百十七回 大谷、井上、藤井三師の切諫《せっかん》
第百十八回 日本軍営の応対
第百十九回 ネパール国王に謁す
第百二十回 首府カトマンズに向う
第百二十一回 国王代理に会う
第百二十二回 獄裡《ごくり》の友を懐《おも》う
第百二十三回 大王殿下の詰問
第百二十四回 ようやく目的を達す
大団円 故山に帰る
解説
年譜
(※地図は底本にあるものではなく、ネット上から拾ったものを参考のため同梱しました。 校正子)
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チベット旅行記(下)
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第六十一回 問答修行
≪その問答のやり方≫ の面白さおよび力の入れ方、声の発動、調子、様子というものが、どうも実に面白い。まずどういうふうになっているかというに、答者《こたえて》は図面にあるごとくに坐っている。スルと問者《といて》の方は立ち上って数珠を左の手に持ち、静々と歩んで答者の前に立ちます。ソウして手を上下向い合せに拡げ、大きな声でチー・チ・タワ・チョエ・チャンといって、ポンと一つ手を拍《う》ちます。そのチー・チ・タワ・チョエ・チャンというのは、文珠《もんじゅ》菩薩の心という真言なんです。すなわち、文珠の本体である智慧の開けんことを祈るという意味で、始めにこのような言葉を発して、それからチー・ターワ・チミエ・チャンというのは、このごときの法においてという意味で、すなわち宇宙間如実の真法において論ずというので、それから問題を始めるです。
その問答は因明《いんみょう》の論理学のやり方であって、因明論理の方則により、まず始めに仏というものは人なるべしというて問いかけると、答者《こたえて》はソウであるとかソウでないとか答える。もしそうだといえば一歩を進めて、「しからば仏は、生死を脱れざるべし」と詰《なじ》る。ソコで答えて「仏は生死を脱れたり」と答えると、問者《といて》は「仏は生死を脱れず。何となれば仏は人なるが故に。人は生死を脱れざるが故に、汝は爾《しか》くいいしが故に」とたたみかけて問いつめるので、ソコで答者《こたえて》がやり手でありますと、仏は人にして生死を脱れたり。仏の生死は仮に生死を示現したりなどというて、仏に法身、報身、化身の三種のあることを解するようになるのです。またもしソウでないと答えると、イヤ、インドのシャカムニ仏は確かに人であった。これはどうであるかというように、どこまでも詰って行く。どっちへ答えても詰るようにして、だんだん問答を進めますので、その問い方と答え方の活発なることは、真にいわゆる懦夫《だふ》をたたしむるの概《がい》があるです。その例を一つ申しますが、今|問者《といて》が言葉を発すると同時に、左の足を高くあげ、左右の手を上下向い合わせに拡げて、その手を拍《う》つ拍子に、足を厳しく地に打ちつける。その勢いは、地獄の蓋《ふた》も破れようかという勢いをもってやらなくてはならんというのであります。またその拍った手の響は、三千大千世界の悪魔の肝を、この文珠の智慧の一声で驚破《きょうは》するほどの勢いを示さなければならんと、その問答の教師は、常々弟子達に対して教えておるです。ソコでその問答の底意は、己れが煩悩の心を打ち破って、己れが心の地獄を滅却《めっきゃく》するために勇気|凛然《りんぜん》たる形を顕わし、その形を心の底にまでおよぼして、解脱の方法とするのであります。
或る田舎者がその問答をやっているところを見にまいりました時に、あたかもカンサということを論じておった。カンサというのは人の相というような意味ですが、チベットの俗語でカンサといえば、煙管《きせる》のことになっているのでございます。ソレで僧侶達は人相のことについて、しきりに論じておったその時分に、その田舎者は何か解らんけれども、どうも問答というものは奇態なものだ。何でも煙管から争いが起っているらしい。ナカナカ煙管一本についても大変な喧嘩《けんか》をやっているものだ。ソレにしても頭をブン擲《なぐ》るやら、砂を浴せかけるやら、他の者が嘲《あざけ》るやら、大騒動をやってキャッキャッと騒いでいるが、アリャまアどうしたことであろうかと、不思議に思って帰ったそうです。それから三年ほど経って、またその田舎者がまたセラのお寺に参詣して、その問答をやっているところを見ると、やはりカンサということについて、しきりに議論をやって、しまいには擲り合いを始めるというような大騒動になって来ましたので、どうもこの坊さん達は困ったものだ。煙管一本で三年も争いを行っているというのは、詰らないわけだ。俺が一つこの喧嘩の仲裁をしてやらなくちゃならんというて、自分の腰の煙管を抜いて、坊さんのところへズッと持っていきました。スルト坊さん達は、その田舎者を見て、お前の来るところじゃないというて叱りつけますと、ナーニ私は、あなた方が三年の間煙管一本について大論判をやっているのが、余り気の毒でたまらない。ついてはこの煙管をあなた方に進《あ》げますから、どうかその喧嘩をよしてもらいたいというたそうです。それが今なお笑話になってのこっております。マアそんなふうな元気をもって問答をやるので、決して儀式にやっているようなものではない。
しかしこれをやるには、始めから仏教を知らんでは行われないわけですが、やはり問答の教科書および参考書が沢山あって、年々それに相応する取り調べをして、一年々々に及第して、二十年間の修行を積んで始めて博士の位を得るようになるのでございます。
≪チベットの僧侶のおもなる教育法≫ といえばまずこの問答法である。これが非常に趣味があって、人を導く要素を沢山そなえているものでございますから、ソコでかの遠いモンゴリヤから、沢山の学生がわざわざ困難な道を踰《こ》えてまいりますので、現にセラ大学には、モンゴリヤ人だけでも三百人余りおりました。ソレからレブン寺にも、ガンデン或いはタシ・ルフンプーというような大きな寺々には、モンゴリヤから沢山学生が来ている。新教派が今日まで盛んに維持ができて、旧教派のごとく品格を落さずにいるというのも、つまりこの問答法が基礎となっている。確かにこの問答が怠惰《たいだ》なるチベット人、蒙昧《もうまい》なチベット人を鞭撻《べんたつ》して、幾分仏教の真理に進ませるので、半開人に似合わず案外論理的思想に富んでいるということも、こういうことから起って来ているのです。デ最も論理的思想に富んでいるのは、学者の中には多いですが、普通人民はやはりソウいう教育を受けないから、実に蒙昧なものでございます。デこの問答が行われている場所もまた実に良い。チベットは元来樹のないところであるが、そこには良い樹が植わっている。ソレは楡《にれ》、柳、胡桃《くるみ》、檜《ひのき》、その他日本に見られない樹の種類の大木がある。それからその下に美しい銀砂が厚く敷いてある。ソウしてそこで一問答が終りますと、
≪法林道場の問答≫ 今度は法林道場という、やはり麗わしい樹の繁った花も咲いているところの道場へ皆寄り集まるんです。そこにも同じく銀砂が敷いてあるです。その周囲《ぐるり》は五、六尺高さの石塀で、入口の門はシナふうの優美なる門です。その中へ皆集まって御経を読む。デ御経を読み終るとまた問答が始まりますので、その時には上の級の人も下の級の人も混雑になって問答をやる。思い思いに教科書にないことやら、世間門のことやら種々の問答をやります。その問答がまた余ほど人智開発にあずかって力がある。デ戸外で問答をやっている時は、一つの級に五十人あろうが百人あろうが、まず問者一人に答者《こたえて》一人で、ほかの者はそれを見聞しているというだけ。もちろん折には問者《といて》も変り、また答者《こたえて》も変るですが、ソレは一組きりです。ところがこの法林道場の中へ入ると、それが一人一人、皆がやるんです。そうして上級下級に論なく、老僧が小僧と問答するという有様です。ですから、その手を叩く音は、ぱちぱちと霰《あられ》の降り乱れるごとく、戦場における鉄砲がパチパチ響いているようなふうに聞えている。
ソウいうようなやり方で、ナカナカ勉強するのも面白い。日々夜々に勉強したです。しかし、師匠一人だけでは余暇があり過ぎて、思うように調べることができないものですから、二人頼んで毎日尋ねに行く。折には先方から、こちらへ教えに来てくれるというような都合で、余ほど進歩するのも早いように思いました。なお妙なふうがあって、大学の生徒になった時分に、その証《しるし》として薪をラサ府へもらいに行くのです。これがすなわち
≪薪もらいの頭陀行《ずだぎょう》≫ である。それを二日ばかりやらんければならん。それはつまり、大学に入学した者の義務としてやることになっている。或る日、私の近隣の小僧が、他の小僧と喧嘩をして石をぶっつけられた。ところが二の腕がはずれたです。デその師匠は、殊にその小僧を愛しておりますので、非常に心配して、これはどうも一生の不具《かたわ》になってしまうという。というのは、チベットでは接骨《ほねつぎ》の法を知らない。チベットのお医者さんは、ソウいう時になると灸《きゅう》を据えるとか、貼薬《つけぐすり》をするとか、薬を服《の》ませるだけですから何にもならん。腕の離れた時は、ただその骨を旧《もと》のところへ入れてやれば癒るものを、要らぬ療治をするものですから不具になってしまうので、その師匠は大いに悲しんでおったです。私もその子が非常に泣声を出しておったのを、散歩しながら聞きましたから、ドウしたのか知らんと思って往《い》ってみますと、腕が脱けている。ソレでお医者さんを呼んだがよかろうというと、お医者さんを呼んだところで、お礼を沢山取られるだけで何にもならん。ドウせ灸を据えてもらっても不具、このまま捨ておいても不具、同じ不具になるなら熱い思いをさせぬ方がよいというて、悄《しお》れかえっておるです。
第六十二回 法王に召さる
≪素人療治の奏功≫ ソレから私が、チベットのお医者さんは違えた骨を旧のところへ入れることを知らないのかといいますと、ソンなうまいことができるものかといっておるです。ソレではしかたがないから、私が一つ癒《なお》してやろうかとこういうたところが、治りますかというわけ。イヤ治らんことはない、直《じき》に治るからといって、ソレからその子の傍へ行って、他の人にその子の頭と左の手を捕えさせておいて、右の手を引っ捕え、わけなく旧のところへ治《おさ》めてやりました。デ少し筋肉が腫《は》れているから、そこへ針をしてやりましたが、果してすぐ治ったです。
それから大分に評判になって、病人がドシドシやって来ることになった。コリャ困った。コンナに病人に来られちゃア本業ができない。ソレに薬もないからというて断ってみたところが、チベット人は断れば断るほど余計出て来る。匿《かく》せば匿すほど余計に見たいというわけで、モウ手を合わさぬばかりにして頼みに来るものですから、どうもしようがない。ラサのシナ人の天和堂《テンホータン》という薬舗《くすりや》へ行って、薬を買うて来て病気に対する相当の薬をやりますと、先方の信仰力が強いので治るのか、薬がうまく病気にあてはまったのか、私も少しは漢方医のことは聞き噛《かじ》っているものですから、ソレでマアどうにか自分の知っている範囲内で薬を盛ってやりますと、不思議に病人が治るです。
殊にチベットで最大難病として、煩《わずら》えば必ず死病とされている病気がある。それは水腫病で、脚気のようではあるけれども、一寸《ちょっと》様子が違っている。その病気の治る薬を、私は前に不思議なことから、チベット人の或る隠者から聞いたことがある。ソレで、ラサ附近ではその薬を用いることを誰もが知らんようでございますから、私はその薬を拵《こしら》えて水腫病の患者に与えました。ところが十中の六、七人は不思議に治った。モウ手|後《おく》れになっているものは、もちろん治らなかったですけれども、そのことが非常に評判になって、始めは自分の寺の中の皆の者に知られただけですが、それが追々ラサの市中に知れ渡り、それから田舎に伝わって、終いにはチベット第二のシカチェ府まで私の評判をしたそうです。
≪活きた薬師様≫ だというような評判で、自分が驚くほど評判が高くなると共に、大変遠い三日ほどもあるような所から、馬を二疋も連れて、わざわざ迎いに来るという騒ぎが起って来た。殊に私は貧民に対しては薬を施して礼物を取らない。それらがまた評判を高くする一の大なる事情となったかも知れない。何故なれば、貧者は薬をもらってその礼金をせないのに、病気が癒るというわけですから、コリャ本当の薬師様が出たんだといったそうです。
またチベットには肺病がなかなか多い。初期の肺病患者には、漢方でも相当のてだてのできるものですから薬を施すけれども、痼疾《こしつ》となってとても癒らぬ奴には薬をやらん。ただ坐禅を勧め、或いは念仏を唱えることを勧めて、未来の安心を得さしめ、死際《しにぎわ》に迷わないように決心することばかり説いてやりました。ソレで病人が私の処へ来るのを恐れる者もあったそうです。それからチベットでは、病気になると妙な風習があって、まずお医者さんを頼みに行かんで、始めに神下《かみおろし》に頼む。スルト神下がどこのお医者さんがよいとか、またどういう薬がよいとか、或いは薬を用いることはならんとか種々のことをいうです。ソコで或る悪い医者などは神下に賄賂《わいろ》をやって、自分のことをよくいってもらおうと思って、運動する医者もあるそうです。私はそんなことは始めは知らなかったですけれども、私の名が余り高くなったものですから、神下も自分の指示したお医者さんで病気が癒ったといえば、大いにその神下の名誉になるわけですから、神下からドシドシ私を指名し、あのお医者さんにかからなくちゃアこの病気は癒らないというて、よこしてくれるようになった。私は神下に運動したこともなければ、顔も知っている者もない。先方でも顔を知らんのに、その評判だけ聞いて私の方に振り廻して来るというのは、畢竟《ひっきょう》己れの名誉が可愛いからでございましょう。
ソウなったものでございますから、政府の高等官吏、或いは高等僧官らが病気になりますと、まず神下或いは卜筮《うらない》者に尋ねるけれども、その人らがいわゆる一時の流行で私に対して指名するものですから、やはり馬でもって私を迎いに来るです。その迎いに来るのは、自分の下僕一人を馬に乗らしめ、私の乗るべき馬を一疋連れて、ソウして必ず或る人らの紹介状のような物を持って、また紹介状のない時分には、その主人が特に頼み入るという書面を持って出て来るんです。しかたがないからその馬に乗って出かけて行く。デ向うに着くと、なかなか扱いは立派なもので、どこへ行ってもお医者さんといえば、命をあずかっていることになっているから、待遇は誠に好くするです。
≪医名宮中に聞ゆ≫ ドウも半開国俗の、時の流行を逐《お》うことは意外なもので、それが尊き辺まで達しまして、一日私を招待することになった。法王はもちろん格別の御病気でもなかった。ただ私の評判が余り高いものですから、ドンな人間か見てやりたいというような思召《おぼしめし》であったとみえる。チベットでは、なかなか法王にお逢い申すということは、非常に困難なことである。ただお通りになるを拝むくらいのことは誰にでもできるけれども、本当にお逢い申してお話をするというようなことは、とても普通の僧侶、否、高等僧官でもむつかしいくらいである。だから法王にお逢い申すということは、私の身に取ってこの上もない名誉でございますから、直ちにその仰せに従って、宮中から送られた馬に乗ってまいりました。その時に法王は、本当の宮殿であるポタラにはおらんで、ノルプ・リンカーという離宮におられたです。これはポタラより西少し南に当り、キーチウ河岸にある林の中に建てられたる大いなる宮殿である。新たに建てられたところの離宮であって、夏の間はいつもここにお住いなされます。しかし、今の法王はこの離宮が非常にお好きであって、本当の宮殿におられることはごく少ない。
≪離宮の結構≫ デ、私は林の中の広い道を三町ばかり真っ直ぐに進んでまいりますと、高さ二丈余り周囲三町四面の石塀《いしべい》が立っている。その石塀の真ん中に、大門がある。その大門の内へ西向きに入って行くと、白く円い郵便箱のような物が、三間ほどずつ隔てて道の両側に立てられてある。ソレは法王がお出入りなさる時分に香を焚くのであります。その両脇の広庭には、大木が青々と茂っている。もっとも中には樹が少しもなくって、広い芝原になって、毛氈《もうせん》を敷きつめたごとくになっている処もある。ソレから一町ばかり進みますと、中には一町半四面ほどの垣がある。その垣の外には、石造の官舎が沢山に建っている。ソレは僧官の住する処である。その僧官の住舎もなかなか立派なもので、いずれも庭つきである。その庭にはチベットで得られる限りの花、樹、草類を集めて、綺麗に飾られているのでございます。
ところで一層奇態に感ずるのは、この一町半四面ほどになっている石垣の隅々、或いは折々の間には、恐ろしい大きなチベット猛犬が、屋根の上から太い呻り声でワウワウと吠えております。ソレはいずれも鉄の鎖で繋《つな》がれているが、すべてで四、五十疋もいたです。この法王は珍しい癖があって、大層犬が好きなんです。強い恐ろしい大きな犬を献上に来た者には、沢山な賞典をやるものですから、遠い処からワザワザ犬を撰択して、法王に献上するという次第である。しかし、前代の法王には、犬を愛するというようなことは例のないことです。その法王の御殿へ入る入口の門は、東、西の隅に南向きに建てられている。それに対し、十五、六間隔てて大きな家があります。その家の後の方に馬を導いて行ってしまった。デ私はまず迎いの人に、法王の侍従医長のテーカンという方の屋敷へ連れて行かれたです。
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第六十三回 法王に謁す
≪離宮内侍従医長の住宅≫ のことでございますから、そんなに大きくもありませんが、かなりに広い客室と書室、下僕《しもべ》部屋と庖厨《くりや》、都合四室ございます。まず花の沢山置いてある庭の間を通ってその宅に着きますと、綺麗な白い布の帳《とばり》が入口に下っている。それを引き上げて内に入るとまた庭があって、その庭の横口がすなわち客室で、シナふうの障子に白い切布《きれ》を張り、その真ん中に硝子《ガラス》を入れてある。室内には金泥の地に龍、孔雀《くじゃく》、花模様の描いてある箪笥《たんす》台の上に、立派な新教派の開祖チェ・ズン・カーワとシャカムニ仏とが安置してある。これは新教派の普通の仏壇の本尊であるです。その前にはチベットの銀の燈明台があって、コレには昼もバターの燈明が三箇ばかり上げてある。
侍従医長は、その前に敷いてあるチベット流の厚い敷物(花模様ある毛の段通《だんつう》)の上に坐っていましたが、その前には高い綺麗な机が二脚並んである。ソレがすなわち正面で、庭に臨んだ方にもまた厚い皮の敷物がある。その敷物の上に客人は坐りますので、私がその敷物の上に請ぜられて坐ると、下僕の僧はジキに一番上等の茶をもって来て、まず机の上に置いてある主人の茶碗に注ぎ、ソレから私に注ぎました。侍従医長は非常に優しい慈悲深い人だそうです。不思議に私と同じような顔で、世人がその後兄弟じゃないかというくらい形までが似ておったです。顔ばかりでなく笑い方までが似ているというのですから、私も妙な感じが起りました。
≪侍従医長の挨拶≫ さて侍従医長の申しますには、別だん法王には御病気ということもない。だが貴僧が沢山な人を救われたことを聞かれ、大いにお悦びなされてお遇い遊ばしたいというお話で、そのことを私に伝えられたから、貴僧を招待したわけである。しかし、今日は余ほど法王もお忙しいから、沢山なお話もあるまい。私がよくお話を聞いて、いろいろ貴僧にお取り次ぎ申して、御相談しなくてはならんこともあるだろうというような御挨拶。それから侍従医長との話が終って、そのお方の御案内で法王の宮殿にまいりました。
先に南向きになっている門に対して、北に進んで入りますと、門の傍に一人の警護僧がおるです。普通の僧侶は筒袖《つつそで》の着物を着ることを許されないけれども、警護僧は筒袖の僧服を着け、長い棒を持っておるです。門内に入りますと、十間四面ほどの敷石詰の庭があって、そのグルリは廊下のようになって取り囲まれている。そこにまた腰かけのような物がズッとあって、ソウしてその門から正面に当り、また入口一間半ばかりの小さな門がある。その中へ入ろうという。門の両脇に警手の僧が四人おるですが、これは別だん長い棒を持たない。ただ短かな物を持っているだけ。その小門より奥行五間ばかり中庭に入って、静かに立ってみますと、左右の壁には勇壮活発なモンゴリヤ人が、虎の手綱を引っ張っている図が描かれてある。その壁は廊下のように屋根があって、中は空庭《あきにわ》になっている。その空庭を真直ぐに行かずに、廊下に沿うて左側に進んで行きまして、しばらく西側の壁の端で待っておりますと、
≪法王の出御≫ 法王が内殿から御出御になります。前案内として、ズーニエル・チェンモ(侍従長)が先に出てまいります。その後へチョエ・ボン・ケンポ(教務大師)、その次に法王、その後にヨンヂン・リンボ・チェ(法王の大教師)がついてまいります。デ法王は正面の右の席へ着かれますと、他の二人はその端に立たれて、ヨンヂン・リンボ・チェは少し下の椅子に腰をかけられた。ソウしてその前には高等僧官が七、八名ついておるです。ソコで侍従医長は私を連れて行って、法王の少し正面の横まで行きますと礼拝をさせます。私は恭《うやうや》しく三遍礼拝して、ソレから袈裟を片肌脱いで、小走りをして法王の前まで進んで行きますと、法王は私の頭へ指して手を載せられたです。侍従医長もやはりそのとおりの礼式をせられた。ソレから下へ下って、二間ほど隔てて侍従医長と私とは並んで立っております。
≪法王の御言葉≫ スルと法王のいわれますには、「お前はセラにおって貧苦の僧侶の病人をよく救うてくれるそうだが、実に結構なことだ。長くセラに止まって、僧侶および俗人の病気を治すようにしてくれろ」というありがたいお言葉でございますから、「仰せのごとくいたします」とお答え申し上げました。
ところで、法王はシナ語をよくするということはかねて聞きおよんでおりましたから、もしシナ語で仰せられては、化の皮がたちまち現れてしまうに違いない。もしシナ語で仰せられたその時は、私は日本人ということを明かして一つ日本人の勇気を示そう。ソレからドウなろうとも名誉ある法王の御前、一か八かやってみようという考えであったです。ところが幸いにシナ語のお話は別だんされないです。ただチベット語で、シナの仏教僧侶のことについてだんだんお尋ねがありましたから、お答え申し上げますと、大いに御満足の御様子でした。デ「誠に感心なことだ。いずれまた相当の官にお前を用いたいと思うている。そのつもりでおれ」というようなお話でございました。その話が終りまして、法王の御面前で私にお茶を下さるということで、ありがたくそこでお茶を戴きました。もっとも法王はそのお茶のすまない中に、内殿へ指してお入りになりました。デ私は
≪法王の御装束≫ の御様子を見まするに、通常の僧服とは違っております。もちろん二十五|条衣《じょうえ》の絹袈裟〔僧侶の着用する袈裟に三種類がある。九条または二十五条の布を縫い合わせたものを大衣(僧伽梨)といい、七条のものを上衣(欝多羅)、五条のものを内衣(安陀会)という〕をかけておられましたけれども、その絹袈裟の下はチベットの羊毛のごく上等なプーツクで、お腰より下にお召になってござるのは、テーマというてシナ製の上等羊毛布で拵えたもの、また頭には立派なる法冠を戴いておられました。もちろん法冠をお着けなさらず、ただそのままで円顱《えんろ》を出されていることもあるです。この時にはドウいうわけであったか、法冠を戴いておられた。ソウして左の手に数珠を持たれている。御歳はその時二十六歳で、今は二十八歳、御身の丈は五尺七寸くらいございます。チベットでは余り大きい方ではございませんけれども、
≪法王の御相貌≫ は俗にいうとなかなか利《き》かん気なお顔で、眼は遠慮なしにいうと狐のように吊《つ》り上り眉毛《まゆげ》もまた同じ形に吊り上って、いかにもそのさまは鋭いお顔をせられている。或るシナの人相学者がその後私に話ますには、今のチベット法王は敢為《かんい》なお顔つきであるけれども、あの眼相《めつき》は善くないからして、きっと戦争でも起して、大なる困難をこの国に来たすことがあるであろうといいましたが、その当る当らんは第二段にして、一寸人相学者が見たらば何か小言のいえそうなお顔なんです。お声はごく透きとおって、重味のある威厳のあるお声である。ですから、自然に敬礼をせなければならんようになるです。その後法王のことについていろいろ聞きもし、またお逢い申して、自分が法王から秘密の法を授かりました。その時々に仰《おお》せられたお言葉などを綜合して考えてみると、
≪法王の政略的思想≫ 法王は、宗教的思想よりむしろ政略的思想に富んでいる。もちろん、そのお育ちは宗教的のみで育てられたんですから、仏教に対する信仰も厚く、充分仏教を自分の国に拡張普及して、僧侶の腐敗を一洗しようというお考えは充分あるようでございます。けれども、ソレよりは政略的の考えが非常に多い。しかして、最も怖れているのは英国であって、その英国を禦《ふせ》ぐにはドウしたらよいか、英国がこのチベットを取ろうという考えを持っている。その鋒先《ほこさき》は、ドウいうふうに禦《ふせ》いだらよかろうかということを、始終考えておられるようです。ソレは私が、その後いろいろ研究した結果によってソウいうことが分りましたので、ソレでまた御自分を守るという思想にも余ほど富んでいる。もし自分を守る思想が乏しかったならば、この法王はもはやとっくに近臣のために毒を盛られて殺されておったに違いない。ところがなかなか機敏で、法王自身がその身を守ることの注意が深いところから、ドウしても近臣の者が毒を盛っても、大抵はその罪悪を見破られて、罪に陥いる者がこれまで度々あったです。ソウいう点からみても、なかなか智慮に富んでいる法王であることはよく分る。
≪五代の法王皆毒殺≫ これまでチベットで、八代から十二代にいたる五代の法王というものは、歳二十五まで生きておられたお方は一人もないのです。今の法王は十三代目でありますが、八代から前十二代までは、十八歳で毒のために殺されたとか、二十二で毒殺されたとかいうお方ばかりです。ソレは全くチベットでは公然の秘密で、誰もが知らん者がないくらいになっておるです。ナゼそんなことをするかといいますに、聡明な法王がその位に即《つ》きますと、近臣の者が旨《うま》い汁が吸えない。己れの利益を完《まっと》うすることができないからで、これまで出たところの法王も、皆随分人物が出たらしくみえるです。その人達の中には二十二、三歳にいたるまで、特別の教育を受けたお方もあるそうです。それぞれの著書を遺して、人民を導かれたということをみても分るです。ソレは歴史によっても充分証拠立てられるのです。
第六十四回 侍従医の推挙
≪離宮内殿の模様≫ ちょうどその後大蔵大臣の宅へ住むようになったから、法王の離宮の内殿も拝観することを許されて、拝観にまいりましたがなかなか立派なもので、その様子はチベットふう、シナふう、インドふうの三つが混合して建てられたようにみられる。庭などは多くはシナふうに摸《かたど》って築山《つきやま》などがありますが、といってまたほかに広い芝原の庭があり、その真中に一寸《ちょいと》花があるというようなインドふうの処もある。その辺はごく運動がしやすくできておるです。
御殿の内はもちろんチベットふうで、屋根はシナふうになっている処もあり、また全くインドふうの平屋根もあるです。庭にはいろいろの石あり樹あり、その樹は柳、檜《ひのき》、桃、楡《にれ》、その他チベットの異様の樹があちこちに植えられてある。花は、一体チベットでは夏向きの花は沢山咲きますけれども、冬はほとんど花など見ることができない。その花は菊、罌粟《けし》、解脱母《げだつぼ》の花、小木蓮、欝金香《うこんこう》、その他種々の花が多く御殿の縁先に鉢植えで置いてあるです。デ内殿のタタキ庭になっている間には、尊き宝石が花模様に敷かれてあり、その横の壁にはチベットで最も上手な画師《えし》が描いた高尚な絵があり、その正面にはチベットふうの二畳の高台(法王の御座)があって、その横にまたチベットの厚い敷物がある。それらはいずれも、皆シナ製の花模様の羊毛段通が上に敷いてあって、その前には美しい唐木の丈夫な高机が置かれてある。床の間はもちろんないのですけれども、ここに茶箪笥が置かれてあって、正面にヂェ・リンボ・チェの金泥の画像がかかってある。ソウいうような室は幾室もあり、なお中に見ることを許されない室も沢山ございました。それらは中に何がありますか。法王が今そこに住んでござるから、私共は行くことができなかったが、何せい外から見ても随分立派なものであります。
私はその後も度々、侍従医長からお迎いを受けて、折々侍従医長の屋敷へ伺って、つまり私の知らない医学上の話を承るのです。けれどもその時分には、必要に迫られてシナの医学の書物も大分に見ておったものですから、ドウにかその先生と話をすることができました。ソコで侍従医長は、非常に私を厚遇して、是非
≪侍従医に推挙したい≫ ソレには私も充分運動するが、あなたも少しほかのシャツ・ペー(宰相)や大臣らに向って、運動するがよいというお話でありましたから、私はソウ長くこの国にいられない、実は仏教を修行する者であって、インドの方へサンスクリット語を学びに行きたいと願っているので、到底この国に留まることはできませんと答えますと、侍従医長はソレはいけない、あなたのような人に他国へ行かれてしまっては、ここに良い医者がなくなるから、是非ともここに止まってくれなくちゃア困るという。イヤしかし、私は医者でもって一生を過ごす人間ではない。また医者は自分の本職ではございません。仏道修行が自分の本分でありますから、いつまでも医者でもってここに止まっていることはできませんといいますと、侍従医長は仏道修行の最後の目的は、衆生を済度するにあるのではないか、医者をして人の命を救い、しこうして仏道に導くことができれば、これもやはり衆生済度の一つであるから、どこにいて衆生を済度するも一つことではないか。だからここに止まってもよいわけではないかと、もっともらしい理屈をいいました。
ソコで私は医者をして人を救うのは、この世だけの苦しみを救うのである。ソレも全く救いきれない。いよいよ定業《じょうごう》が満ちて今死ぬという時になったならば、たとい耆婆《きば》、扁鵲《へんじゃく》といえども救うことはできないのである。いわんや我々のごときヘボ医者、ほとんど医者の道を知らん者は、到底人を救うより害することが多いかも知れない。もちろん、医者で充分人を救い得たところが、衆生が受ける定業の苦しみを救うことはできないのである。我が仏教では、僧侶の本分として衆生の一番重い病気、最も深い苦しみ、長く止まないところの煩いを救うにあるのである。すなわち、この
≪無明の病を治する≫ ように修行するということは、医者をやるよりも急務である。だから私は医者をしてここにいることはできない。実に如来は大医王である。その薬は八万四千の法薬でもって衆生の八万四千の煩悩《ぼんのう》を救うのであるから、我々はその弟子としてその医法を修行せんければならん。だから侍従医になるということはお断り申したいとこういいますと、「ソレではドウしても、あなたはインドへ行かれるというんですか」「マアそうです」「ソリャ駄目だ。とてもあなたはインドへ行くことはできない。ソレとも強《し》いてインドへ出かけるとか、どこか遠い処に行くということになれば、早速法王からして命令を発して、あなたを捉《とら》えてしまってこの国へ留めるようにしますから、ソウいう思いは断念なさるがよい。ソウして我々と共々に働くようになすったならば、大いに幸福を得られるわけでございます」といわれたので、私は不意と自分の胸中の秘密を明かしたことに気がつきました。あまりインドへ行くということを主張しますと、自分が帰る時分に困難するだろうというところに不意と気がついたから、マア好い塩梅《あんばい》にその話はすませました。医者のことについての話はマダ沢山ございますけれども、マアこんなことにしておいて、ここに妙なことが起って来たです。
第六十五回 僧侶の状態
≪セラ大学の特遇≫ 妙なこととは何かといいますに、ドウも法王がお聘《よ》びになったり、或いは貴族、大臣らが迎えるというほどの非常に立派な医者を、今いるような詰らない僧舎に置くこともできまいというのが、私の住んでいるセラのピーツク・カムツァンの老僧達の議論になって来たんです。だんだんその説がカムツァン中で勢力を得て、遂に私に対して、これまでにないことではあるけれども、とにかく法王から招待を受けるような医者は、また特別の取り扱いをしなければならんというので、上等の室を私にくれるようになったです。デそこへ住むがよかろうということになりました。何はともあれ、汚ない臭い厠《かわや》の端の暗い部屋に住んでいるよりは、上等の部屋にいる方が自分も結構ですから、マアそこへ指して移りました。法王に始めてお目通りいたしたのは七月二〇日で、部屋の引き移りがちょうどその月の末頃であります。
一体順序からいいますると、始めてこの学校へ来た者は別に室をもらうことはできない。誰かの処に一緒におらなくちゃアならないけれども、少し金のある人ならば、大学へ入学するとまず汚ない室をもらうことができる。ソレも必ずもらえるときまってはおらんのです。私は少し金の廻りもよいものですから、大学へ入学すると、直ぐに汚ない室でありましたがもらいました。大抵十年くらい経つと四等室くらいまで移ることができる。ソレから三年経つと三等室に移ることができる。ソレも金がなくちゃア駄目です。ソレからまた博士になると二等室に移ることができる。やはりこれも金がもとであるんです。デ一等室は、化身のラーマ達の修学に来ておられる者が住むのです。私は二等室をもらいましたが、なかなか立派なもので、部屋一つに庫裡《くり》一つ、ソレから物置が一つある。誠に小綺麗な二階造り、三階の所もありますが、私のおった所は二階しかない。二階造りは二階が一番よいので、三階造りは一番上の室をもってよいとされている。ソレでソウいう室に住みますと、やはり相当の道具も要《い》れば、また下僕《しもべ》の僧侶も置かなくちゃアならん。ちょうど書生が新たに世帯を持ったようなわけで、いろいろな物を買わなくちゃアならんけれども、随分金が沢山あったものですから、すべて入用の物は、その室に相応した良い物を買うことができました。ココで
≪僧侶の生活≫ について一寸申しておきましょう。僧侶の生活はいろいろの階級になっておりますけれども、大別して三つに分つことができます。上等僧侶の生活と普通と下等の三種であります。普通僧侶の生活ですと、月に一人について衣食の入費が七円くらいのもので、住居はもちろんその自分の属している寺から備えられているのでございますから、ソレに対する金は要らない。しかし或るカムツァンなどは、そのカムツァンに借金がございますので、僧侶に対して室の代償をわずかずつ徴収するです。ソレから、一つのカムツァンへ多くの僧侶がまいりますと、もちろんその中へ入ることができない。その時にはその入りきれない僧侶自らが、ほかのカムツァンへ行って約束して、そのカムツァンの室を借りて住みこまねばならん。ソレにはやはり月一円かかるもあり、好いのになると三円くらいのもある。ごく悪いので二十五銭くらいである。衣服は普通の羊毛布で拵《こしら》えた袈裟と、シャンタブ(下纒衣《したぎ》)と、成規の僧帽と中等の履《くつ》を用いている。ソレでも一通り揃えますと、二十円くらいかかります。食物は朝はバター茶に麦焦し。ソレも大本堂へ行けば、お茶は毎朝大椀に三ばいずつもらうことができるです。けれども、大抵財産のある普通の僧侶は、朝々自分の室で茶を拵えて飲む。昼少し過ぎに、また同じくバター茶で麦焦しを喰いますが、その時には肉を喰います。その肉は乾したのが多く折々は生肉を用いておるです。晩は大抵麦粉のお粥《かゆ》、その中へ乾酪《ほしちち》、大根、脂肪肉等を少し入れ、旨く拵えてそれを啜《すす》るのです。バター茶は大抵隙間もなく机の上の茶碗に注がれてある。ドウもチベット人は肉を喰う割合に野菜が乏しいので、始終茶を飲んでおるです。その茶飲み茶椀はいつも銀の蓋《ふた》で伏せてありまして、それがよい頃に冷《さ》めると飲み、飲んではまた注いで、二十分くらい蓋をして冷ましているのです。もっとも、冬はそんなに長く置くことができないから、五分か六分の間にそれを飲みつつ話をするとか、或いはお経を読むとか、或いは内職などをやっている者もある。ソウいうのが普通の僧侶の飲食物であるです。
デ僧侶の財産はというと大抵田地を持っております。中には或る地方においてヤク、馬、羊、山羊等の牧畜をしているのもありますが、しかしこれらは余り多くはありません。まず家畜ならばヤクが五十疋、馬が十疋くらい、畑ならば前に申したとおり、ヤク二疋で鋤《す》いて一日かかって畑の十枚もやるのが関の山です。それらの財産から、自分の喰物なり小遣なりが出て来ますので、普通、寺から給せらるるところの禄、信者から僧侶に対して一般上げらるるところの「ゲ」を受けるだけでは、中等の生活はできないです。デその寺なり信者なりから受けた上に、自分の財産および内職で、その生活を立てているんです。
≪僧侶の職業≫ 僧侶の内で商売をしないものはマア稀《まれ》な方です。大抵商売しなければ農業、ソウでなければ牧畜、ソレから職工は仏具を拵えるもの、仏画を描くもの、裁縫師、大工、左官、履師、石積みなど、チベット国民のあらゆる職業は、僧侶の内に見出せないものはない。のみならず、俗人にできない仕事でかえって僧侶がやっていることも沢山あるです。これらはただに中等の僧侶ばかりでなく、また下等の僧侶にもある。上等僧侶の衣食住はなかなか立派なもので、まずその財産をいいますと、ヤクが五百疋以上、四千疋以下ぐらい持っている者がある。馬は百疋以上、五、六百疋。田地はヤク二疋で量《はか》った一日ほどの田地が百枚以上、五、六百枚以下。それから商売をやる者では、一万以上、五十万以下の資本をもって商売に従事しているのもある。しかし、僧侶で五十万くらいの資本を持っている商売人は、チベットでも三、四人しかないそうです。これらの僧侶の生活の程度は立派なもので、お蚕《かいこ》ぐるみというわけではありませんけれど、チベットの内でできた最も上等の羊毛布の法衣を着け、その食物は、朝々に粥のようにドロドロになったバター茶を用うるです。これはチベットでは非常によく拵えております。
≪上等バター茶の製法≫ まずそれを半日も煎《に》て、その滓《かす》をよく取って、ソウして真っ黒な少し赤味がかった汁になっている中に、ヤクのごく新鮮なバターを入れ、例のごとく塩を入れて、筒の中で二度ぐらい摩擦したのがごく上等の茶である。こういう茶を一|罎《びん》拵えますには、三十八銭ぐらいかかるのでございます。その一罎というのは、ちょうど日本の溲瓶《しゅびん》の形になっている土焼の茶瓶一つをいうのです。その茶瓶に入れて口より茶碗に注ぎこむのですが、ドウも始めは気味が悪いです。溲瓶から油のドロドロした汁が出るように見えて、一寸手に取って飲んでみる気にならない。こういう茶を飲むのは上等社会でなくちゃアやれないです。
すなわち上等の僧侶は、毎朝その茶でもって上等の麦焦しを捏《こ》ねて、その中にツーというものを入れます。このツーというのは、乾酪《ほしちち》とバターと白砂糖とを固めて、日本のギセイ豆腐のようにできているものです。ソレを入れてうまく捏ねて、ソウしてそれを右の手でよく握り固めて喰います。もちろん朝から肉は喰いますので、その肉はやはり乾肉と生肉とソレから煮たのと三種類です。昼は一升五十銭以上の高価な米、ネパールから輪入された米を煮て喰うんですが、御飯もそのままは喰わない。バターの中に砂糖と乾葡萄を入れ、ソウしてそれを混ぜて茶碗に一ぱい喰うのです。その後で卵|饂飩《うどん》或いは麦焦しを喫《た》べることもある。夜分は小麦団子を雑煮《ぞうに》のように拵えて喫べる。チベットでは粥というているが、その中には肉も入っていれば大根も乾酪も、もちろんバターも入っておるです。しかし、朝必ずしも麦焦しを喰うと限りません。お客さんがあった時分には、ソレがあちこちになっていろいろ変ることもございますが、まずこういうのが上等社会の常食である。上等の僧侶は一日として肉がなくては、決して喰うことができない。ドウかして斎戒《さいかい》を保って肉食を止めるようなことがあると、喧《やかま》しいことで、痩《や》せたとか死にそうになったとかいうてワイワイ騒ぐです。実に哀れなもんです。
第六十六回 下等の修学僧侶
≪憫れなる生活≫ さて上等僧侶の住所は、第一等或いは第二等の住所を、その所属の寺からもらっているばかりでなく、また自分で別荘を拵えたり、或いは自分で寺を持っている者もある。ですから上等の僧侶は実に結構なもので、ソウいう活計《くらし》をする金はどこから来るかといえば、先に申しました財産から供給されていますので、上等僧侶の家には大抵五名以上、七、八十名までの召使がある。ソウしてその中から執事とか、或いは会計主任とかまた商将とか、或いはラーマのお侍《つき》とかいうような者を選抜して、いろいろその勤める範囲が違っております。上等僧侶はソウいう沢山な下僕《しもべ》の僧侶にかしずかれて、荒い風にも当らずに結構に暮していますが、下等の僧侶にいたっては、ソレと全く反対で、実にこれを説明するにも涙が溢《こぼ》れるほど、哀れな境涯にあるのです。その気の毒な有様は、ほとんど言葉に尽せないけれどもまず申しましょう。
同じ下等といっても、壮士坊主ならば余所《よそ》の百姓働きに行ったり、或いは内職をやったり、或いは護衛兵になったりして金を儲《もう》けて、ソレで自分の需用を充すことができますから、今日喰う物もないというような活計《くらし》はしておらない。ココに最も気の毒な、最も哀れむべき者は、下等の修学僧侶の生活である。これは自分の宅から送る学資金もない。また自分で働いて儲ける金もないのです。何分にも科目の調べに忙しいから、どこへも出ることができない。デ自分の学資として仰ぐところは、信者より「ゲ」として上げられた、月々に一円から二円の金。ソレから俸禄として一円ぐらい。ドウも二、三円では到底生活することはできない。朝は大本堂へ行って茶はただ飲めるにしても、肝腎《かんじん》の麦焦しはただは来ない。一月に一円三、四十銭なくては、ドンな者でも腹を太らせることはできない。デ問答修学期の間は、毎日ターサンに行って茶三杯ずつもろうて、ソレで昼御膳をすますけれども、この問答修学期は、一月問答をやれば一月は休み、半月やれば半月休んで復習し、かつ下調べをせんければならん。ソコでこの僧侶は、また問答を習うために教師の処に通わなければならん。ソレは、少なくとも月に五十銭ぐらいの月謝を払わなくては、教えてくれる人はないです。これも余ほどお慈悲のある人でなければ教えてくれないですから、二円の金は大方麦焦しと修学の月謝にかかってしまうようなわけ。といって、自分の室内で夜分まんざら火を燃さずにいるというわけには行かないです。夜分もやはり一寸茶を拵えて、麦焦しを喰わなくちゃアならん。ところで、その茶を買う銭の出どころがない。もちろん、バターなどを入れるような奢《おご》ったことは到底できない。
ですから、下等な修学僧侶は上等僧侶の飲み滓《かす》の茶をもらって来て、それを煎じて飲むんですが、さてその煎じるところの薪、すなわちヤクの糞はこれまたただは来ない。一俵(およそ五斗入)の価が三十五銭もするです。少し余計に焚くと一月に三俵も四俵も一人でいっちまうですが、その貧しい修学僧侶は一俵で一年ぐらい辛抱しなくちゃアならん。
≪修学僧侶の財産≫ ソウいう人の室内に行くと、その財産としては羊の皮と木椀一つ、数珠一つにみすぼらしい敷物一枚、その敷物が夜分の寝床にもなりますので、隅にはその室つきの竈《かま》が一つ、その上に土鍋が一つ、ソレから水を入れる土の罎《びん》が一つある。壁の隅に綴《つづ》った袋が一つかけてありまして、それには先生らの命を繋ぐ麦焦しの粉が入っている。ソレとても満ちてあるものは稀です。けれども、そのうち一番肝腎な財産は何かというと、問答の教科書です。ソレはどんな詰らん僧でも五、六冊くらいは大抵持っている。しかし、それは教課がすみますと、ジキに売ってまた今度要る新しいのを買いますので、決して永久の持物として持たれているものじゃアない。夜分は自分の着ている袈裟《けさ》と下衣《したぎ》とが夜着であって、その上に一枚の古|毛布《ゲット》でもあれば余ほどよいのですが、ソレもないのが多い。ソレでも一人で室を持っているのは、マダ大分に気が利いておりますので、大抵九尺四面の一室内に三人ぐらい住んでいる。ソウして三人共有の土鍋が一つというようなわけ。だからマアチベットの厳冬の夜、ごく寒い時分、ドウしてこの室内で過ごすことができたろうかと思うて、ソウいう人の処へ病気などを診に行くと、思わず涙が溢《こぼ》れて薬代を取るどころではない。金をやって来たいくらいの感覚が起ります。これが下流僧侶の生活の有様である。
ソウですから、この僧侶らは「ゲ」のない時分には、ほとんど食物を得ることができないで、折々は三、四日も喰わずにいることがある。けれども、二十銭なり三十銭なりの「ゲ」をもらうことができると、早速ラサ府まで一里半あるところを、ひだるい腹を抱えて麦焦しを買いに行くです。買うてジキに帰って来れば大いによろしいですが、ことによると余り腹が減ってたまらないので、煮出屋へ飛びこんで、そのもらって来た「ゲ」の総てを費《つこ》うて饂飩《うどん》や何かを喰っちまうから、また腹が減って喰物がなくって、二、三日も喰うことができない。スルと今度は、いよいよどこかへもらいに出かけるというような、可哀そうな有様を私は折々目撃した。ソウいう場合には、自分のできるだけの金をやったり何かします。ソレで修学僧侶などは、私に対して大いに敬意を表し、しまいには途で遇っても、なかなか私の顔など見て歩く者がないくらいになりました。
≪天和堂《テンホータン》主と懇親の因縁≫ 少し話が後に戻りますが、私が医者を始めてだんだん盛んになるにしたがって、薬を沢山買わなくてはならないようになったです。ソコで薬買いにはシナの雲南省から来ている商人で、店の名を天和堂といい、主《あるじ》の名を李之楫《りししゅう》という人の宅へ、折々行かなくちゃアならんようになった。チベットでは薬は皆粉にして用います。シナ人のごとくに切っておいて煎じて飲むということをしない。すべての草根木皮は、粉に砕いて薬を製造します。また角の類、或いはいろいろの礦石《こうせき》類も用うるです。ソウいう薬剤を粉にしてもらうために、その宅に一日二日泊ることが度々あります。何しろ沢山薬を買うものですから、大変好いお客さんになって、先方でも随分好遇するようになって来た。ソコでその人から、景岳全書という医者の書物を借りまして、前に自分の聞いていることや、或いは少し知っている上にその書物を見ましたから、マア大抵の病人を取り扱うことができるようになった。随分
≪危ないお医者さん≫ と自らは信じているけれども、鳥なき里の蝙蝠《こうもり》でマアしかたがない。ソレでもラサ府のお医者さんよりは余ほど立派なもので、生理学の議論ぐらいやったところが決して負けない。その点においては、確かにラサ府のドクトルよりは、私の方に信用をおかれるようになっておった。デ折々その宅(天和堂)へ出かけて行く。その家には室も沢山ある。ラサ府には三軒シナ人の薬店があるけれども、それが一番大きいので、その主はマダ三十歳ぐらい、ごく人の好い方で、大層親切にしてくれた。その家内もなかなかよく行き届いた人で、その夫婦の間に娘の子と男の子が一人ずつ、ソレに女房の母親、ソレから召使が三人、これだけの家内で暮している。
デ皆が私を家族同様に扱うようになったというのは、元来私の処には人から喰物を沢山くれるです。ソレを自分一人で喰うことができない。マア余るものですから、誰にもかまわずやったです。その中でも殊に好きお菓子、或いは酸乳、白砂糖、或いは乾葡萄などをもらいました時分には、必ずそこへ持って行ってやるものですから、子供達は大変な喜びで、私が出て行くと何か必ずもらえることにきまっているように心得て、チャンと待っている。二、三日行かないと、この節はドウいうわけかセラのお医者様がお越しにならないといって、大いに待っているようになり、ソコでちょうどその家の家族の一人のような塩梅《あんばい》になりました。子供と親密になるのは早いもので、全く十年も十五年も手がけたような有様で、ほとんど他から一寸来た人が見た時には、シナから出て来る時分より近眤《ちかづき》であったか、或いは親類であったかのように、人々から折々尋ねを受けたくらい。この親密なる交際が、私がチベットを出ます時分に非常の助けをなしましたので、このことは後にいずれ順序としてお話いたしましょう。
第六十七回 天和堂と老尼僧
≪駐蔵大臣の秘書官≫ 天和堂というギャミ・メンカン(シナの薬舗)は、ワン・ズエ・シン・カン(ラサ府の町の名)にあるので、その宅へ遊びに来る人で、駐蔵大臣(シナの全権公使)の秘書官|馬詮《マツェン》という人がある。この人はシナ人の中でも余ほどの学者で、また経験家で良実な人である。もとチベットで生れた人で、そのおっかさんはチベット人である。だから、そのチベット語にもシナ人の語調はありますけれども、さればとてシナ語もよくでき、シナの書物もよく読めます。むしろチベットの書物よりもシナの書物に通じている人で、北京の方へも二度ばかり行き、またインド、カルカッタ、ボンベイの方へも二度ばかり商《あきな》いに行って、外国の事情にもかなり通じている。それが衙門《がもん》へ指してお勤めに行く。時間はごくわずかで、務めのほかは遊んでいる。薬屋の主と非常に親しいものですから、いつもこの薬屋へ来ていろいろの話をする。
ソレから私が近づきになって、だんだん話をしてみるとナカナカ面白い。またチベット人の種々の秘密の悪い風俗、習慣などを、この人から聞くことができた。それを聞いてよく眼をつけていると、なるほどその言葉どおりのことも分る。全く聞かないと、うっかりしていることも沢山ある。のみならず駐蔵大臣の秘書官ですから、いろいろシナとチベット政府の、その間の秘密の事情などもよく知っておって、いろいろ話をする。元来この秘書官は非常な話好きで、私が尋ねなくても親切によく話してくれる。だから、私は大変有益な友を得ましたので、まあセラなどで書物を読んで余り疲れた時分には、買う薬がなくても運動かたがた出かけて行って、その秘書官と話をするのが何よりの楽しみになった。
≪摂政家の公子≫ 或る時のこと、私が天和堂の門口に立っておりますと、一人の貴族が下僕を連れてこちらの方向に向いてやって来ました。この薬舗はパンナ・ショーへ行く道と、カーチエ・ハカンへ行く道の三角形の角にある店である。スルとアニ・サカンの向うの方から、その紳士がパンナ・ショーの方へ向けて出かけて来るです。私が店に立っているのを一寸見て少し行き過ぎましたが、また後戻りをして見に来たかと思うと、そのつき添いの下僕が、違いない、違いないといった。ソウするとその紳士が私の処へやって来て、「ヤアあなたは」という。その顔をよく見ますと、余ほど痩《や》せ衰えていますけれども、これは前にダージリンで出遇うたところのパーラー摂政家の公子である。様子を見ると、先に聞いておった気狂いのようでもない。ところで、その後は誠に久し振りで、あなたはよくこちらにお越しになることができましたというような話。こんな処で話をしてもしかたがないから、家に入ってはドウかというたら、ソレでは急ぐけれども一寸入りましょうというて、内へ入りました。
スルと天和堂のお内儀《かみ》さんはかねて知り合いとみえて、早速椅子を指して、ドウかおかけ下さいといって請《しょう》じたです。デ何か私の話をしそうですから、私は眼で知らして、さて第二の府であなたにお眼にかかってから、ちょうど半年ばかりになりますと、不意な話をしかけた。ソコで先方も、もちろん私がダージリンにいたことをここで明かせば、自分の身にも害がおよぶというくらいのことは知っているものですから、私の話に応じてうまくつじつまを合わしたです。そんなところを見ると全く気狂いのようでもない。いろいろ話したが常識を備えた人の話と変らない。その話の中に「私はこんなに痩せるわけはないけれども、三か月以前に私の下僕が盗人をした。ソレを譴責《けんせき》したところが大いに怒って、私の横腹へ刀を突っこんだ。ソレで腸《はらわた》が少し出て非常に困難をした。もしあなたが来ていることを早くあの時に知ったならば、こんなに困難もしなかったであろう」「ソレは御気の毒なことであった」と、いろいろそんな話をして、その方々は帰りました。
スルと天和堂の奥さんの話がおかしい。「なかなかパーラーのぼんちはうまいことをいわれる。自分が悪いことをして腹を傷つけられたのに、あんなテレ隠しをいって、あなたを騙《だま》そうとする。けれども、私はその事情をよく知っている」と笑いながら話をした。ドウいうわけで、あなたはソウいうことを知っているかというと、ナアニ私はもとあの兄《あに》さんの女房であった。ソレを兄さんが私の宅が階級が低いものだから、長く添うていることを親から許されなかった。デ兄さんは私を離縁してナムサイリンに養子に行かれた。ですから、あすこの家のことについては、何でも私はよく知っています。一体あのぼんちは女好きで、女に迷うて沢山な借金を拵え、その女と酒とのあげくに何か喧嘩が起って腹を切られたんで、今あのぼんちのいわれたような、立派な話じゃないですといわれた。「ソレじゃア気狂いじゃないか」と聞きますと、「あれは勝手気狂いで、借金取りが来たり、都合の悪いことができると気狂いになるが、当り前はマトモなので実に困った人です。気狂いと思ってナカナカ油断はなりません。金を借りることはナカナカ上手ですから、あなたも御注意なさいませんと酷いめに遇いますよ」と、こういうわけで、そのことはすみました。薬屋との関係は、この後も沢山出ますけれども、これは今はこのくらいでおきます。この後八月上旬のことですが、後々私に深い関係の起る人から、招待されたことについてお話をします。
≪老尼僧の招待≫ ソレはチベットの大蔵大臣の家におらるる老尼僧がある。その方が病気でもって麦田の別荘におられる。チベットでは別だん花を観に行くといったところが、桃の花ぐらいのもので、ジキになくなってしまって面白くもない。ソコで夏になると大抵リンカ(林の中或いは花園)の宴を開くというて、麦畑の間にテントを張ったり、或いは林の中に敷物を敷いて、思い思いの面白い遊びをなし、ご馳走を喰い酒を飲み、或いは歌を謡《うた》い踊りを踊るという遊びをするです。ソレがチベット人は無上の愉快として、いつも夏になるとリンカの宴を開きに行くことを待ちかねるくらいです。
ソレでその麦田の別荘に招待されて行くと、六十余りの尼僧がおられる。それにつき添いの尼僧、女中というような者も七、八名もおるです。家はナカナカ立派にできている。天幕でなく板をもってうまく拵えて、その外部《そと》は切布《きれ》で張ってある。内部《うち》もいろいろ立派な模様|晒布《さらしぬの》で張りつけてある。仮住居ですけれどもナカナカ綺麗にしてある。そこへ招待された。
老尼僧のいわれるには、私はモウ十五、六年間の病人で、ドウせ老病であるから治る見こみはないが、名高いあなたに脈だけ見てもらって、仮《よ》し治らなくても、痛い処が少し助かりでもすればソレでよい。ドウか一応診てもらいたいというお頼み。ソコで容体を聞いたりいろいろ診察しますと、リウマチスです。早速カンプラチンキを拵えてやりました。なお胃病も少しあるようですから、その薬もやった。ソレは非常に良い薬でもないけれども、一体信仰力が強いものですから、その信仰の力は恐ろしいもので、余り結構でない薬が実に結構に利いて、十五、六年この方、痛みのために夜はいつも寝られないで、難渋しておったというその痛みもドウやら取れて、幾分か歩くことも自由が利くことになった。ところが大悦びで、早速そのことを自分の宅の大蔵大臣に報知した。
これは実に前大蔵大臣の内縁の奥様であったです。奥様の尼さんとは変だと思いましょうが、大蔵大臣もやはり僧侶です。殊に新教派の僧侶です。そのことはいうに忍びないけれども、ドウも本当のことをいうておかないとわけが分らんから、善いことは善い、悪いことは悪い、当り前の事実を述べておくつもりです。この大蔵大臣と尼僧と一緒になっていることは、その人らだけに行われていることで、ナカナカその社会では許されないけれども、およそ貴族の僧侶といえば妻がある。公然と妻は持てないけれども、内縁の妻をどこかに隠しておくとか、或いは内に入れてあるとか、ソレにはマア最も便利なのが、坊主の女房に尼といったようなのが、ごく都合がよい。ソレでこの大蔵大臣にも、やはり尼僧の奥さんがあります。しかし、もはや大変な老人で、白髪《しらが》頭で腰はかがんでいるけれども、身体は大きくって元来強壮な質《たち》の人であります。
第六十八回 前大蔵大臣と最高僧
≪七尺四、五寸の老偉人≫ 大蔵大臣の家にはもちろん家来も沢山あり、下僕《しもべ》も沢山ある。ソウいう人達が病気になると、セラのお医者さんに限るというて、皆私の処へ診てもらいに来る。ソレが先方の信仰力で病を治してくれる。こういうふうに信仰されるのはコリャ私の力ではない。全く仏がこういうふうに拵えてくれるので人が信仰するであろうと、自分ながら不思議でたまらなかったです。
ソレからだんだん前大蔵大臣と懇親になって来た。デいろいろ話をしますと、この方は非常な才子で、また博学であるのみならず、難局を裁断して遺憾《いかん》なく外交上の問題などについては、充分処理のできる人です。歳はその時に六十二歳でございましたが、チベットではアレだけ高い人を私は見たことがなかった。七尺四、五寸は確かにある。私がその方の端へ行くと、乳の処までしかない。その方と一緒に道でも歩くと、まるで親と子供と一緒に連《つら》なって歩いているようにしか見えない。その方の着物を拵えるには、いつも二枚分要るです。人を見るの明あって世才に富んでいるにかかわらず、非常に親切で、また義に富み、決して人を欺くというようなことはしない。ただその人の欠点というべきは、若い時分にこの尼僧と一緒になり、ソレがために自分の身を誤った一事です。私と親しく話をする時分に、折々尼僧と共どもに涙を流して、あの時にあんなことがなかったら、こんな馬鹿なことはなかったろうという懺悔《ざんげ》話を折々聞いた。ソウいう点をみても全く根が悪い人でない。一時の若気で、僧侶の正しい行いを完うすることができなかったのである。しかし、世間一体の風潮もすでにソウいうふうであるから、幾分か世間の風潮に染《そ》んだのであろうと思う。
とにかくソウいうお方ですから、私の情実を察してくれて、「ドウもあなたは気の毒なものだ。セラにおられると、あのセラの病人を相手にするだけでも、ナカナカ容易なものじゃない。その上ラサ府からも病人が行くと地方からもやって来るという始末。だから実に書物を読む暇がありますまい」という。「実にその書物の読めないには、ほとんど私も困りきっております」「ソレは気の毒なことだ。ソレに、ドウもこの後そんなふうにやっていると、第一身が危ない」「何が危ないか」というと、「あなたが来てから、ほかのお医者さんが喰うことができんようになったから、その医者達が人を廻してあなたに毒薬を盛らぬとも限らん。マア大抵|殺《や》られましょう。私の見るところでは」と、こういう話。「ソレは困った。何とか方法のしてみようがないか知らん」というと、「あなたは喰うことと、着ることさえできればいいだろう」「イヤもう、ソレだけできれば充分です」「ソレだけは、私が供養して上げましょう。住所もそんなに立派ではないが、お寺にいるより少しは気楽な室を上げますから、ドウです、私の宅へ住みこんで勉強せられては、かえってよく勉強ができるだろう。余ほど困った病人でなくちゃア、ここへは滅多《めった》にいうて来やしない。病人に対しては気の毒だけれども、ラサ府のお医者さんを助けてやると思って、ここで勉強せられちゃアどうです」といわれた時は、実に嬉しゅうございました。チベット仏教を調べるために、せっかくラサ府へ出て来たのに、世間のことばかり見て、その世間のことを取り調べる便宜は得ても、仏教を取り調べることのできんのは、誠に残念のことであると思っておりました矢先へ、そのことを聞いたものですから、その時の喜びは親に遇ったよりも、なお嬉しかったです。
≪大蔵大臣邸に寓す≫ 何事もトントン拍子の好い都合に行って、お金はできるし衣食住は大蔵大臣からスッカリ下さるという。ソコでセラの方から食物その他日用品を皆運び、しこうして、自分の今までの住居の方には小僧だけを留守番に置いて、私が決して大蔵大臣の宅にいるということをいうな、また非常な病人が来ても、大抵はほかのお医者さんに診てもらうようにいえ、私はこれから勉強しなくちゃアならんからといって、小僧には喰物を与え、チャント勉強する道をつけておいて、私は全く大蔵大臣の別殿へ住みこむことになりました。ただしセラで問答が始まると、折々問答の稽古に出てまいりました。けれども、私のもらった御殿はそんなに広くはない。長さ三間に奥行二間ばかり、それが二間に仕切られている。けれども、元来貴族の御殿風にできているものですから、中の壁の模様などは実に立派です。緑色にスッカリ塗られてキラキラ光っている処へ、金でもってチベットふうの花模様が置かれてある厚い敷物、唐木の机、一寸した仏壇もある。何もかも行き届いた誠に清潔な御殿で、その御殿の横にモウ一つ大きな御殿がある。それは新大蔵大臣のおらるる処で、三階造りです。前大蔵大臣チャム・チ・チョエ・サン(弥勒法賢)は、二階造りの御殿におらるるです。ソウいう閑静な処でもあり、何しろ大蔵大臣の邸《やしき》ですから、セラにおった時分の僧侶の友達までが恐れて出て来ない。ソコで勉強するには好都合であるが、さて教師の処に通うのが困難である。ドウも二つ善いことはないもので、
≪チベットの最高僧を師とす≫ ところがココに最も好い教師というのは、前大蔵大臣の兄さんでチー・リンボ・チェという方がある。これは父|異《ちが》いの兄さんで、シナ人のお子だそうです。このチー・リンボ・チェは、やはりセラ出身の方で、七歳くらいから僧侶になられたそうですが、この時には六十七歳であって、その前年にガンデンのチー・リンボ・チェという、チベット最高等の僧の位につかれた。
このチー・リンボ・チェという意味は、座台宝という意味で、新教派の開山チェ・ズン・カーワの坐られた座台が、ガンデンという寺にある。その座台へ坐ることのできるのは、チベットでただ二人、ソレは法王と、そのチー・リンボ・チェである。しかし、法王は常にそこに坐れるわけじゃない。チー・リンボ・チェは、ガンデンに住んでいれば、いつもその座に坐られるのです。デ法王は生れながらにしてその位置を占めているのですが、このチー・リンボ・チェは仏学を学んで博士となった後に、ほとんど三十年も秘密部の修学をしなければならん。修学というよりむしろ修行である。その修行の功徳を積み、学識と徳行との二つが円満になり立ったところで、チベットでは、この人よりほかにこの座台に坐るべき方はないという高僧になって始めて、法王の招待によって、この位につかれるのです。けれども、屠者《としゃ》、鍛冶屋《かじや》、猟師、番太の子供は、その位につくことはもちろんできない。普通、人民の子供でありさえすれば、誰でも五、六十年の修行を重ねて、学徳兼備の高僧となれば、この位につくことができるのです。ですから、むしろ実地の学徳の上からいえば、法王よりもこの方が尊いので、私は幸いにして、こういう尊い方を師匠として仕えるような仕合せを得た。これはなかなかチベットでは容易のことでない。殊にチベットは階級の厳しい処ですから、お遇い申すことさえも容易にできない尊い方である。たとい或る伝手《つて》を経てお逢い申しても、その方から話を聞くということは余ほど困難なことです。しかるに私は、その方を師匠として教えを受けるようになったのは、全く前大蔵大臣の厚意によって、こういう好い幸福を得ることになったのである。ソレでチベット仏教の顕部《けんぶ》についても秘密部についても、この方から充分学ぶことができた。
しかし、このチー・リンボ・チェという方は、余ほど妙な方で、私を一見して、直ぐに私の素性を知っていたかのように取り扱われたです。しかし、マア当分害がなかろうから、ここにいるがよいというようなことを暗々裡に漏らされた。私は実に恐ろしくなったけれども、また私の心の中を見て下すったものとみえて、真実に仏教を教えて下すったです。そのありがたみは、いまだに忘れられない。私はチベットにいる中に、多くの博士、学者、宗教者、隠者からして、いろいろの説を聞いて利益を受けたけれども、この方から受けたほどの感化は受けなかった。こういう尊い方があるから、その弟の大臣が過《あやま》って悪い処へ陥っても、結局自分で真実に懺悔して、未来の大安心を得ようということに勤めるようになったのであろうと、私は察しました。また前大臣の奥さんである老尼僧も、大臣に劣らぬ活発な気象だが、女ですから幾分か優しいところもあるけれども、男|優《まさ》りの思想を持っておられたです。
第六十九回 ラサ府の日本品
≪現任大蔵大臣≫ この尼僧はネパールのカトマンズへ指して、二十年ほど以前に、罪障懺悔《ざいしょうさんげ》のために巡礼に行かれたことがある。その時分にいろいろ難儀した話やら、私がネパールにおった時の話やらがよく私と合いますので、いつもその話を聞きましたが、似た者夫婦とかいうて大臣の義気に富んでいること、この方の義気に富んでいるには、ホトホト感心しました。ソレで私はむしろこのお二方、尊い僧侶と尼僧とが御夫婦になって、仏教の真実体面を汚《けが》したという罪悪を憎むよりは、その心情の哀れなることを察して、折々は自分でもドウも誤りやすいのは色情であると思って、前車の覆《くつが》えるを見て、私の進んで行く道の戒めとしたわけでございました。
だんだん親密になるにしたがって、家内のこと、その家来の気風はどんなであるということから、しまいにはごくささいのことまでも、よく私には分って来た。ソコで現任大蔵大臣は、やはり私のツイ隣りの御殿におられるけれども、なかなか事務が多いものですから、現任大臣とはソウ話をすることができない。こちらの名をテン・ヂン・チョエ・ギャル(教持法王)というなかなか温順な方で、また侵しがたいほど意思が鞏固《きょうこ》なのです。いつも話をする時はニコニコ笑って、まるで友達扱いをされますので、この方は大臣だということも打ち忘れ、先方でも大臣の資格をもって話をせずに、ごく友達ふうに話すです。ソレというのは前の大臣なり尼僧なりが、私を自分の子供のように愛して、いろいろ世話をして下さるものですから、ソレが幾分か関係をおよぼして、こういうふうに親切にされたんだろうと思う。打ち解けて話をする時分には、現任大臣のことですから、政府部内の話も折々ある。
デこの方は、政府でも何かむつかしい問題が起ると、その場では意見を述べずに家に帰って来て、ソレから自分の父親のごとき前大臣に相談をするです。今日はこういう問題があったが、ドウしたものだろうというと、前大臣は前例を鑑《かんが》み、或いはその事変に応じて、それぞれの処分法をばいわれる。一体からいうと前大蔵大臣は、今頃は総理大臣の位置にいるか、高等僧官の中で宮内大臣の位置にいるか、どっちかの位置におられる人だそうです。ソウ行かなかったというものは、この尼僧を奥さんにせられたことから、やはりチベットでもソレが幾分か攻撃の種になって、自然|蟄居《ちっきょ》しなければならんようになったという。もしこの方が、チベットで政治を執るようになっておりますれば、今の鋭敏なる法王とこの老練なる大臣とが相俟《あいま》って、随分面白い仕事ができたろうと思う。こういうような前大臣と現任大臣との夜分のお話には、私もその席にいていろいろ聞いたり、時としてはまた私の意見などをいってみたりするような、親しい間柄になったです。それがために、私はチベットの外交上のことについても充分知るの便宜を得られた。或る日、私はラサの目抜きであるいわば
≪東京の銀座通り≫ ともいうべき、パルコルという道を廻ってまいりました。そこには商業家がいずれも皆店を張っておりますので、その店の張り方は別だん他の国のやり方と変ったことはない。殊に露店も道の広い処には沢山あって、それらの売物は大抵日用品のみです。衣服に要する物、或いは食物に要する物、ソレから日用道具、その中にはもちろんチベットの物が大部分を占めておりますけれども、次いで多いのはインド、カルカッタ、ボンベイ地方から輸入される物品である。
その中で最も私の感じたのは、日本の燐寸《マッチ》です。大阪の土井という人が拵《こしら》えた燐寸が、チベットのラサ府の中に入っておるです。マダほかの物も入っておるですが、その名が記してないから分らない。象の面が二つあるのと一つあるのと、ソレからまた、一つの象を家の処から引き出しているような蝋《ろう》燐寸もあって、ソレにはメード・イン・ジャパンと書いてある。その面は、赤い地に絵を白く抜いてある。もっとも、スイスで拵えた燐寸も幾分か入っているのですけれども、ソレは
≪日本燐寸に圧倒≫ されて今は少ししかない。ソレから、日本の竹|簾《すだ》れに女の絵などの描いてある物がやはり入っている。なお陶器類でも九谷焼――ソレは店の売物としては出ておらんけれども――などが貴族の家に行くとあるです。また日本の絵なども、貴族の家に額面として折々かけられてある。それらの日本品を見て、心なき物品は心ある人間よりもエライと思うて、自分ながらおかしく感じました。殊に日本の燐寸の沢山入っているのを見て、日本の智慧の火が、この国の蒙昧《もうまい》なる闇《くら》がりを照すところの道具となる縁起でもあろうかなどと、馬鹿な考えを起して、ウカウカ散歩しながら或る店頭《みせさき》へ来ました。
ところで大変好い石鹸を見つけ出した。そんな物はかつてラサ府にはなかったので、コリャよい掘出物、買おうと思って値段を聞きますと、その主《あるじ》が私の顔をジロリと見ました。私は何心なく見ますと、ダージリンで知り合いになったところのツァールンバという商業家らしい。ナゼこんな処へ商法店を出しているのか知らん。ソレともあの男によく似た人が、ここにいるのであろうか知らん。或いは兄弟ではないか知らんという感じを起したけれども、ドウ見てもツァールンバである。
ところが私の顔と風俗が全く変っているので、ちっとも、分らなかったようです。けれども、余ほど不審な顔をして眺めておった。もっとも、私がダージリンにいた時分には、多くは日本服を着け、稀《まれ》にチベット服を着けても余り人中に出たことがない。チベットに行ってからは、純粋のチベット服を着けているから、その様子も変っているでしょう。またダージリンでは髯《ひげ》がなかったが、その時分は髯が長く生えておったから、一寸分らんのも無理はない。その主人のいうには、「その石鹸はなかなか値段が高いからよしたらよかろう。こっちの方に安くて好いのがございますから」。私はその安くて好い方は気に喰わないので、高くて好いのが欲しいというと、向うで笑って、いくらいくらという。ソレを二個《ふたつ》ばかり買って帰ってまいりまして、何心なく現任大臣に見せますと、これは香《にお》いも好し、非常に立派だから私にこれを分けてくれまいか、イヤそれじゃア早速お上げ申しますといって、二個とも上げてしまった。
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第七十回 密事露顕の危機
≪再度の奇遇≫ ソコでまた二、三日経って、そのパルコルに出かけ、あの石鹸を二つ三つ買っておかないと売り切れてはラサ府で買うことができないと思うて、その店に行ったところが、その主人は石鹸を売るということをせずに、ジーッと私の顔を見つめている。私は石鹸はこの間の値段で買うからといって銭を出そうとすると、「マアお待ちなさい。あなたは私を御存知ありませんか」という。声が紛《まが》いなくツァールンバに違いございませんから、「知っている」と笑いながら答えました。スルと大いに驚いた顔をして「何しろ内へお入り下さい」といい、モウ日暮れでもございましたから、店の小|厮《もの》に店をしまうようにいいつけて家へ入った。私も続いて家へ入りますと、「ドウかマア久々のことですから、ムサイところではありますがお上り下さい」といいますから、主人に従って家に通りますと、ナカナカ小ざっぱりとした立派な商法家で、二室ばかり向うに抜け、梯子《はしご》段を上に昇り、その人の本堂の室へ着きました。
そこにはその内儀《かみ》さんのペートン(蓮顕)という女が、やはりダージリンから一緒に来ている。私はジキに知りましたけれども、先方では全く知らない様子、主人は笑いながら自分の女房に対し、「お前はこのお方を知っているか」と尋ねましたが、私を見て「存じません」と答えたです。「存じないことがあるものか。大変よく知っているはずだ。お前が世話になった方だ」といわれて、今度は大変よく見ておったですが、全く分らんものとみえて、「どこのお方か覚えません。私が世話になった方ならば知っているはずですが」というと、「ソウいう馬鹿だから困る。それダージリンで差しこみが起った時、尊い薬をもらって治ったじゃないか」、スルと「マアそうです。モウその先はいってくれないでもよろしい。ドウも失礼いたしました。久々でこういう処でお目にかかろうとは思わなかった。嬉しいことでございます」という挨拶《あいさつ》。
ソレから二人は口を揃えて「マアどこからお越しになりましたか、我々紛れもないチベット人ですら、出入りをするに実に困難をきわめて、間道でもあれば脱けて行きたいと思うくらい苦しんでおりますが、ソレをマアあなたはどこからお越しになったか。空でも飛んでお越しになったか」という話。「空を飛ぶようなことは知らない。西北原から来た」といいますと、「ナアに西北原だって、この三、四年この方は、皆その間道々々には兵隊をつけてあるから、どこでも通り脱けるということはできない。間道から来なければ、どこにも通って来る処はないのですから、ドウも空でも飛んでお越しになられたとほか思われません」「イヤそんなことのできるわけがない。道のない処を難儀して来た」と話しましたが、信じないようでした。
私はここ機一髪を誤まれば、自分の日本人たることが顕われて、或いは大いなる災害を自分の恩人たる大蔵大臣およびセラ大学におよぼすかも知れない。商人《あきんど》という者は、殊に利に走りやすいものであるから、ドウいうことから私のことを政府に告げて、金を儲ける算段をするかも知れない。およそ物事は、「機先を制すれば勝利は自分に得らるるもの」、この時に当って一つの策略をめぐらさなければならん、という考えが浮びました。
第七十一回 チベット人の誓言《せいごん》
≪機先の計略≫ ソコで私はことさらに儼然《げんぜん》とかまえこんで、さて「ドウだお前達二人は誠に立派に暮しておるが、しかし俺のことを政府に告げると、随分金儲けができるだろう。私もその方がかえって大変都合の好いことがあるんだ。私が自身にいうて出ると、なんだか本当のことを嘘《うそ》のことでもあるように疑われて詰らない。だからお前達二人で、ダージリンで見たところのジャパン・ラーマがここに忍んで来ておる。ソレを私が発見しましたといって願うがよかろう。スルトお前達は銭儲けができるし、私の方も都合が好い。私はモウ括《くく》られる用意をしておるから」と鋭くいいました。スルと妻君は少し震え気味、その良人《おっと》も非常な驚き方で「ドウいたしまして、そんな悪いことをして多くの金儲けをしたところで、その金が何の役に立ちますものか、それほど私共は悪い人間じゃアございません。喰わずにおっても、そんなことをするのは嫌でございます。たといこれが知れて、私共の身に災難が起ったところが、ドウセ前世の因縁と諦《あきら》めなくちゃならん。こんな商売人こそしておりますけれども、ソウいうムサイ金を取ろうというような考えは持っておらないのでございます。そんなことをおっしゃって下すっては困ります」と、なかなか立派な答え。「そりゃソウだろう。けれども、お前にも金儲けができ、私の方にも便宜を得るわけだから、いってみたがよかろう。ソレともお前達はドウしても政府に告げる気はないのか」「ないどころじゃない。チョオー・リンボチェ(誓いの言葉)、そういうことは死んでもいいません」という。これがチベット人のラサ府における最後の誓いである。
チョオー・リンボチェというのは救世主宝という意味で、ラサ府のシャカムニ仏を指していうのです。すなわちシャカムニ仏に対し、「もし私がこのことを発言するならば、死んでよろしい。ドウか殺して下さい」というくらいに強い誓いを立てるのです。デそのチョオー・リンボチェといって、左の手を拡げて、ラサ府のシャカムニ仏のいる方向に指して、一生懸命に祈るがごとく、恐るるがごとくに誓いを立てました。その時の様子は、いかにも人を欺くようなそぶりは少しもない。全く深い心の底から出て来たとしかみられない。スルとその妻君も同じく「チョオー・リンボチェ」といって、「決してソウいうことはしません。たといあなたが告げてくれろと、ドレだけお頼みになっても、ソウいうお頼みはチョオー・リンボチェ、決して肯《き》くことはできません」。この誓いを得さえすれば、チベットでは公正証書を取ったよりも確かなものである。そこで私は「そんなら無理に頼む必要もない」というて、そのことは一段話がきまりました。ここで一寸
≪チベットの誓いの詞《ことば》の種類≫ について話しておきます。チベットでは誓いの詞が幾種もあって、「南無三宝《クンジョスム》」というのが普通で、「|母と離る《アマ・タン・テー》」とて、我がいうことの違《たが》えば、我が最愛の母と死に別れよというて誓うことになるのですが、また地方においては、その各地の地神或いはその地方で名高い仏菩薩を指して誓います。ラサ府では「チョオー・リンボチェ」というのが主であって、商売の取引き上にもいよいよ確定の値段になると、この詞を出して誓います。これはただ口先だけでいうので、シャカ堂を指して厳格にいうようなことはいたしません。ですから、商売上とかちょいとした話に、「チョオー・リンボチェ」を感詞のごとくに話の切れ目に投げ入れても、それで確実に信用することができない場合も沢山ありますが、しかし、いよいよシャカ堂を指すとか、或いはお経を頭に戴くとかして、この誓言を発して事が決定した場合に、それを破るのは親を殺すよりも大罪としております。大抵普通の場合に用いる誓いの詞は、自分の話を確かめるために、感詞のごとくに詞の間に入れますので、婦女子の話には大へん誓詞を沢山用います。チベットにおける誓詞の数は、私の知っているだけでも四十五種もございますが、くだくだしいから略します。
次に主人は私のただ今の住所を尋ねたから、私は今はセラにいるといったところが、主人は少し考えておりましたが、ソレじゃあなたは、この頃大変名高い法王の御殿に出入りするセライアムチー(セラの医者という意味にて河口師の通称なり。ただし本名はセーラブ・ギャム・ツォー、すなわち慧海という)というのは、あなたのことじゃございませんか」。「ソウだ」といいましたところが、非常に驚いて「ドウもこの頃は、世間ではあなたを
≪薬師様か耆婆《きば》≫ のようにいっております。私共も身体が弱いから酷い病気でも起らないか、ドウか一遍お逢い申して、見て戴きたいと思うておった矢先でございました」というような、いろいろの話が出て、ソレから大変にその人と親密になった。
ソコでまた例の大蔵大臣の処にいるものですから、喰物が沢山余ってしようのないことがある。ソレはやはり大臣方の紹介で、是非見てやらなければならん貴族の病人がある。それらを見に行くと、沢山な礼物の上にいろいろ珍しい喰物をくれるです。ソウいう物は自分一人で喰えないから、みんな薬舗《くすりや》とそこへ持って行って分けてやる。自分の部屋の留守番をしている弟子坊さんにも分けてやる。自分の喰うものはそんになくっても、大臣の処でご馳走があり余るほどあるんですから……。ソレでだんだん親しみを増して来て、私の災難を真実に救う原因となったのです。ソコで私は、やはりその大学の生徒になっているのですから、科目を怠ることはできない。折々セラの方にも帰って問答に出なくてはならん。もっとも医者であるから、幾分か教官の方でも大目に見てくれて、ソウ毎日出なくったって叱言《こごと》は喰わないですけれども、自分も好きなものですから、折々やって行く。ココで僧侶の一般の傾向および学者の理想として望んでいるところの事柄、僧侶の人種の区別等についてお話しておきましょう。
第七十二回 僧侶の目的
≪三種族の性質≫ 三大学には、どこにもチベット人ばかりがいるのではない。モンゴリヤ人、それからチベット人とはいわれていますけれども、少し人種の違っているカムの人もおるです。これらは国を異にするにしたがって、幾分か性質も違っている。チベット人は外見は温順《おとな》しくってよく何もかも考えるですが、一体勉強の嫌いな質《たち》で、ごくごく怠惰な方で、不潔でくらすのも一つは怠惰なところから出て来たようにもあるです。マア、チベット人の坊さんで普通の生計《くらし》をしておる人ならば、冬は本堂にお経を読み、或いは茶を飲みに行くその間は、自分の舎《へや》の前の日当りの好い処に裸体《はだか》になって、背中を亀の甲のように乾している。ソウして羊の毛織りの端くれで鼻汁《はな》をかんで、その鼻汁をかんだ切布《きれ》を頭の上に載せて乾しながら、ウツウツと坐睡《いねむ》り坐睡り好い心持に暖まっているザマというものはないです。年寄りならマダようござりますが、随分若い者がソウいうことをやっておるのを見ても、チベット人の怠惰であるということが分る。ソコへ来てはモンゴリヤ人は、そんなことをやっている者はない。ワザワザ遠い処から出て来たのは勉強が目的であるから、非常に勉強するのみならず、問答などのやり方もなかなかはげしい。大抵五百人いれば、まず四百人までは普通善い方の人になって、百人くらいしか屑《くず》は出ない。
ところがチベット人は、五百人いれば四百五十人までは確かに屑の方で、かの壮士坊主なんかというのもチベット人がおもなのです。カムの人にもモンゴリヤの人にも壮士坊主は稀であります。そうしてモンゴリヤ人は勉強もし、またなかなか進取の気象に富んでいるけれども、実に怒りやすい人間で、一寸したことにもジキに怒る。というのは、つまり自分の種族自慢で、モンゴリヤ人はなかなか立派だ。皆勉強してこのとおり大勢博士になって国に帰る。チベット人或いはカム人とは、全く違っているという高慢の心が非常に強くって、他人に対しても理屈のない詰らないことを非常に威張って怒っている。ソウいう点などみると、実にその人の狭量なことを憫《あわ》れまざるを得ない。そうしてモンゴリヤ人の多数はコンナ者で、余ほど大人らしゅうかまえている人でも、一寸したことで腹を立てる。こういう人種は、忍耐力をもって大業をなすことはむつかしい。ジンギスカンのように合戦をやって一時成就する人ができても、長くその国の文明を形造って、その社会がますます進んで行くようにするというような、充分の力を持っておらぬと思われる。
カムの人は他の者に比すると余ほど善いです。もっともカムは強盗の本場ですから、ごく短気であるけれども、モンゴリヤ人のように一寸したことでジキに怒らない。なかなかその辺には忍耐力もある。身体の強壮なことも三種族の中で第一等です。義侠心も随分ある。強盗をやるような奴でも、人を救うためには随分熱心にやる人間もあるそうです。セラの中にいる坊さんの中でも、嫌味がなくって、いわゆる義侠心に富んでいるという侠気《おとこぎ》の人間は、カムの人に多いと私は観察しました。そうムヤミにお諂《べっか》などいうのは大嫌いの性質である。モンゴリヤ人はドウかするとつけたようなお諂をいい出す。その点においてはチベット人は最も酷《ひど》い。チベットの人間は表面《うわべ》は、男も温順《おとなし》いようにみえているくらいであるから、女もまたなかなか表面は優しくみえている。ただし心に恐るべき剣を収めていることは事実である。これがごく大体の気質の分け方ですが、カムの中にもマンカム(地名)もあれば、バーアもあり、ツァルンもある。その他沢山あって、性質が幾分違っている点があるが、細かなことはココでは略します。
≪僧侶および学者の理想≫ 一体僧侶および学者の理想として、自分がかくなりたいということを希望しているのは何であるかといえば、大抵はかの閉された国において、名声を高く広く挙げたいというのと、財産を沢山に得たいというのが目的であって、衆生済度のために仏教を修行するのではない。自分が苦しくないように、金を沢山得られるように、この世も安楽に未来も安楽に行けるようにというのは、マダマダ余ほどよい方なので、未来はドウでも、その学問を利用して名を社会に挙げ、そして沢山の財を得て安楽に暮らせばよいというのが、千人の内九百九十人までその傾きがあるです。
こういうふうになって来たのは、ドウいうものかというに、つまりかの国では僧侶および学者の価値を判断するには、その学識とか徳行とか、或いは世人をいかに利益しているかという点から判断するのでなく、その財産の多い寡《すくな》いによって、その人の値うちがきまります。それ故千両の財産ある学者は、千両だけの値うちしかない。たといその人が、十万両持っている学者よりも尊い智識であっても、その十万両持っている無学者の方が、かえって社会より称讃を受けている。だから金なしでは何の所詮《しょせん》もない。ただ金これ万事を処するといったようなところに眼をつけて、金を貯えることに非常に奔走尽力している。ソレだから、僧侶が商売をやるとか農業をやるとか、或いは職工をやるとか或いは牧畜をやるとか、いろいろなことをやりますので、ソレからまた僧侶の本分として俗家へお経を読みに行って、その布施金を蓄えるということも、大いに行われている。可哀そうなのは、少しも学資金がなくて勉強している修学僧侶でありますが、それとても目的はやはりその一般の風習に化せられて、今のこの苦労が後の安楽を得たいということに向って進んでいるので、決してその苦しんだことをもって社会を利益しよう、衆生の苦しみを救う資本としてやろうという志望をもってやっているような人は、或いはあるかは知らんけれども、私はソウいう結構な人に不幸にして逢うことができなかった。
≪肉粥《にくがゆ》の供養≫ ソコで、ソウいう僧侶がズッと二十年間も学問して進んで行きますと、何れ博士になることができる。博士になる時分には、少なくとも五百円くらいの金はかかる。ソレはドウいうことでかかるかというと、その学部一体の者に肉粥を供養しなくちゃアならん。ソレは椀に一杯ずつですけれども、その一杯ずつがドウしても二十五銭くらいずつかかるです。そのほかにいろいろ入用なものがあるから、ドウしても五、六百円の金はかかる。その金は、この貧乏な修学僧侶には一文でもあるものじゃアないけれども、またその位置に進んで行くと、金を貸してくれる僧侶がある。その金満家の僧侶は、金を貸し利子を取って、ソウしてその人に恩を被せ、また自分も利子を得るというわけです。ナゼならば、博士になると実際それだけの力のないバカでも、その名だけでお経を読みに行くと、金を沢山得られるからです。ドウなりこうなり、二十年の修行をすまして博士の名をもらった人は、ドウいうことをするかというと
≪一生自分の借金|済《な》し≫ の奉公をしなくてはならん。その金を貸してくれた人に対して……。マア都合好く行けば、五年か八年で借金は抜けるそうですけれども、ソウ行かなければ一生奉公するというような詰らん境遇に立つのです。せっかく苦心して学問して、ソウしてその虚名をもらうためにまた後の苦心を続けるという、実に社会の制裁とはいいながら、その制裁に支配されているチベット僧侶の愚もまた憫れむべきわけである。僧侶のことは、これくらいにしておきましょう。
さて私は大蔵大臣の家にいるものですから、他の大臣達の家へも折々は行くことができた。その中に宰相の一人でショ・カンワ(家の名)という人がある。元来宰相という名前の者は、チベットでは四人、または大蔵大臣も三人ある。けれども、真の大蔵大臣は一人で、一番古くやっている者がすべてその責任を帯びてやりますので、その他はマア次官のようなものです。宰相もまた同様で、一番元老の人が実際の権力を持っているので、その他は次官のようなもので、ほとんど自分の意見の行われるということはないくらい。このショ・カンワというのは宰相中の二番目であって、私も度々遇って話をしましたが、その方の娘が、ユートという華族の公子に嫁に行くことになった。デその結婚式を実地に見ました。ラサ府の中でも殊に正しい結婚式でございますから、そのことについてお話したいと思います。
第七十三回 婚姻
≪奇怪なる多夫一妻≫ 婚姻のことを話す前に、一寸地方とラサ府の結婚のやり方の違っておること、ソレから、かの国の夫婦の関係および権力等について、あらかじめいっておく方が順序かと思います。一体結婚の礼式は地方によって大変に違っているから、一概にいうことはできない。これまで或る西洋人は、ラサ府までは来ずに法王管轄のチベットの関所、いわゆるシナ領のチベットまで来て、ソウして、チベットという名目で公にされている書物が沢山ある。それらの書物の中にいろいろ結婚のことが書いてありますが、ソレは実際その人の見て来たのもあり、また聞いて書いたものもあって、確かなものではあるけれども、ラサ府の中に行われている結婚について、非常に委しく書いてあるものをこれまで見ませぬから、特にラサ府のことをいうのが必要であると思う。そのいろいろ違っている点は、その地方々々について一々説明しなければ、到底細かいことをいい尽すことができないけれども、ソウいうことはとてもおよばない。また自分も各地方について一々結婚の礼式を見たわけではない。ラサ府で二、三の礼式を見ただけであるから、これについて述ぶるのが私において最も便利である。チベットは世人によく知られておるように多夫一妻である。ソレにも種類があって兄弟でもらうのと、また他人同志が相談してもらうのと、ソレから最初は一夫一妻であったが、その妻君の権力が強くて、余所《よそ》の男を引っ張ってまいり、自分の古い聟《むこ》さんの承諾を得て、多夫一妻になることも沢山ある。それでその人倫の紊《みだ》れていることは、ほとんどいうに忍びないほどのこともありますけれども、チベット人は恬《てん》として恥じない。ソレで親子三人の場合にその母親が死ぬと、今度は父親に女房をもらうとか、或いは息子に女房をもらうとかして、その一人の女が親子に女房になるということも、法律上少しも差し支えない。ソンなに紊れておるからして、ドコドコまでも制限がないかと思うと、またソウでもない。従兄弟《いとこ》同士が夫婦になることは犬のようである。兄弟が夫婦になったと同じだから許せないというて、大いに世人を咎《とが》めるのみならず、やはり法律上の罪人としてその処刑を受けなければならん。
≪妻の権力≫ チベットでは一般にいえば妻の権力が非常に強い。例えば夫が儲《もう》けて来た金は、大抵妻に渡してしまう。デ三人夫があれば、三人の儲けて来た金を妻が皆受け取ってしまい、儲けようが少かったとか何とかいう場合には、その妻から叱言《こごと》をいう。デ夫は自分の入用の時分に、妻の手からこういうわけで、これこれ金が要るからくれろといわなくてはならん。もし夫が臍繰金《へそくりがね》を持っていることが分ると大いに妻が怒って、その夫に喧嘩をしかけ、甚だしきは夫の横面をブン擲《なぐ》るというのもある。これはマア甚だしい例で、そんなのは稀ですけれども、一般に妻の権力が強い。例えば自分が余所に行って何かの相談がほぼまとまりそうになると、「これで私は承知した。一遍家に帰って家内に相談して、アレが承知すればソレで御返事をいたしましょう」というても、誰も笑う者がない。自分もやはりそのとおり、家内に相談しなければならんという。ですから妻の権力は非常に強いもので、大抵の場合には妻の命令で商売にも出かけるというようなわけです。三人兄弟で妻を一人持っている場合には、何れも妻の気に入ろう入ろうと心がけて、お髯《ひげ》がないからお髯の塵《ちり》を払うことはできないけれども、御機嫌を伺うということはなかなか力《つと》めたもので、実に哀れなものです。
しかし、チベットにも一夫一妻がある。それらは夫の権力が割合に強い。ソレからまた一時夫婦になって、すなわち自分の好きな間だけ夫婦になって、嫌になり次第別れるという結婚の約束がある。ソウいう女は沢山男を持っておりまして、何れの男からも金を貪り取るという、始末にいかぬ奴である。ソレは田舎では少ないが、ラサとかシカチェという処には沢山あるです。チベットにおいて娼妓とか芸妓とかいう者は大抵こんなものです。こういう細かなことについていろいろいうていますと、なかなか果てしがないから、まずラサ府の
≪正式の結婚≫ についてお話しましょう。チベット国人の結婚期は、およそ男女の歳は同一であって、大抵二十歳から二十五歳くらいにいたる間に行うです。稀には早婚の者もあって、十五、六歳で結婚する者もある。また晩婚の者があって三十歳以後にやる者もある。しかしそれらは例外で、普通は前にいうたとおり同一であって、その女の歳が大抵男の歳と同一である。しかし、折々女の歳の少ないこともある。晩婚の者は非常に歳が違っているのもあります。女房に子ができた場合には、たとい兄弟が五人あっても、阿父《おとっ》さんと呼ばれるのは一番の兄《あに》さんだけで、他は決して父と呼ぶことは許されない。オジというておるです。ところが或る欧州人の著書には、チベットでは一番の兄を称して大なる父、その次の者を称して小なる父というと、こう書いてある。これは大方チベット人が嘘《うそ》をついたのを、その西洋人が真面目に受けて書いたから、こんな間違いができたのでしょう。小さな父などというて呼ぶことは、決して許されておらない。或いは、私は行かぬ東北のカム地方ではソウいうかも知れないが、私の通った地方では決してそんなことはない。
≪結婚は父母の随意≫ ソコで結婚は、その娘の自由選択によるということは、ほとんどないです。総て父母《ちちはは》の随意に出るもので、子女はその相談にもあずかることができない。またそれに喙《くちばし》をいれる権利もない。また娘はその親からこういう息子があるから、お前行ってみないかという相談をかけられることもない。全く父母が絶対的圧制で結婚せしめるのです。ソウですから、この国では離婚の不幸に遇うことが実に多い。けれどソレは、コウいう圧制なことをやったから離婚の不幸を来たしたのである。コリャ注意しなくてはならんというようなことは、全くない。今でもこの強圧なる風俗は、依然として存しているのでございます。だが辺鄙《へんぴ》の地方、或いはラサでも随分野合は行われている。野合の後に、その子女があらかじめその父母に告げ、承認を得て結婚の礼式を挙げる者もまたあるです。けれども、それらはマア例外の方で、どっちかというとその子女の父母がやるのが一般に通じている習慣です。
通常、結婚期に達している男子の父母は、自分の財産および家の系統、階級等に相応した家に、結婚期に達している娘があると、その娘の父母の家に媒介人《なこうど》を遣わして、その娘をばドウかくれろと申しこむです。もしその娘の父母がその媒介人に対し、最初に断然と謝絶する時分には、その媒介人がコリャもう話が成り立たないというて、その息子の父母に告げて、結婚は成り立たぬようになるのです。もしその娘の父母が媒介人に対し、「ドウにかなりましょうから互いによく話してみましょう」と返事をすると、媒介人はその後、五、六遍娘の家に行って、いわゆる媒介人口をきいて勧めるです。ソコでその娘の父母が「ソレでは娘をやりましょう」とほぼ承諾しても、まず卜筮《うらない》者とか或いは高僧に判断を乞うとか、または神下《かみおろし》について、まずその吉凶いかんを尋ねに行くです。自分がよいと思ったからやるというようなことは、ほとんどチベットでは例を見ることができない。卜筮者《うらない》なり神下がきっとよいといえば、ソレでたちまち結婚の相談が成り立つのです。
≪縁談は秘密≫ けれども、その子女の父母はその息子娘に対しては、その相談は全く秘密なんです。ドウも非常な圧制のもので、これらの相談中に日本とか或いは欧米の風俗のように、幾許《いくばく》かの結納《ゆいのう》を納めて、ソウして財産はドレだけ持って来るとか、或いは何個《いくつ》の荷物を贈るというようなことは、決してやらないです。或いはまた夫の財産はドレだけで、妻の財産はこれこれ、ソレで婚姻を取りきめるということもやらんです。その時持って行く者にもドレだけというきまりはないけれど、その家に相当して、世間の人に誇れるくらいの物を持たしてやらなければ、娘の親も恥であるということは承知しておる。もらう方でも娘の母親に対して乳代を納めるのです。その乳代というのは、娘が育て上げらるる時分に、乳を呑ましてもろうたその乳代を納めるというので、またその家相当に恥かしからぬように持って行く。これは日本の結納とは違う。もちろんいくらという内約も何もない。
ソコで娘と息子の両親は、例のごとく卜筮者、或いは神下に聞いて吉日を択んで、いよいよ結婚の礼式を行う準備をするのです。まずその娘の父母は、いつ頃花聟さんの方から媒介人が出て来るであろうと、チャンと慮《おもんぱか》っておる。ソウしてその時間の少し前に、娘に向って今日は大層天気も好いからお寺詣りに行こうとか、或いはどこそこへリンカの宴を開きに行くから、お前は美しく髪の毛を洗わなくてはならんといい聞《き》けると、自分は嫁にやらるるために御粧《おつく》りさせられるとは知らずに、御粧りする者もありますが、どうかすると怜悧《りこう》な娘は悟って、今まで機嫌の好かった娘は、ソレと悟って悲しそうに泣き立てる者もあるです。
≪不意のお化粧《つくり》≫ ソレから両親がです、娘に向って、「マア今日は顔も身体もよく拭《ふ》き取らねばならん」という。この時にはやはり顔や身体を拭いたり洗ったりするです。チベット人でも洗うことを絶対的に悪いとはしておらんですけれど、一般の風習はまず洗うのを笑う方です。しかし、貴族は日々朝起きると幾分か洗う。その洗い方が面白い。ついでに申しておきますが、まず下僕なり下婢なりが湯を柄杓《ひしゃく》に汲んで持って来ると、それを両方の手の平を凹《くぼ》めてその湯を受けて、一旦口に含んで、口から手の平に吐き出しつつそれで顔を洗います。口の中の湯がつきるとプップッと唾《つば》を吹っかけて洗うというそのやり方が、実におかしいです。もっともまた、金盥《かなだらい》に水を取ってスッカリ洗う人もありますが、唾を吹きかけて洗う先生達が随分ある。
ソレはさておいて、まず娘は何も知らずに今日は遊びに行けるというので大悦びで、頭の毛を洗い、古い櫛《くし》で頭の毛を非常によく梳《す》いていると、時分をはからって媒介人が出て来ます。或いはその前に来て、花聟さんの父母から贈ったところの、髪の道具をひそかに娘の父母に渡しますと、娘の父母はその物品を娘のもとへ持って来て、「お前のその櫛は大分古くなっているからそれを棄てて、この新しい良いので梳くがよい。ココに良い油もあるから、これで立派にお粧《つく》りするがよい」という。デお化粧が終りますと、その父母は娘に向って、始めてこうこういうわけで結婚の約定が成り立ったから、お前はこれから某《なにがし》のところへ、嫁入りに行かねばならんということを告げるのです。これは、ラサ府およびシカチェ、その他都会の地では一般に行われていることです。
前にも一寸いったとおり、稀には敏捷《びんしょう》は娘は、その結婚のために髪を洗うというということを知って、泣いて髪を洗わないのがある。「私は行くのは嫌だ。阿父《おとっ》さんや阿母《おっか》さんは、嘘《うそ》をついて私を厭《いや》な処へやるのだ」といって泣き立てる場合もある。ソウいう時には、その娘の友達が前から来ておりまして、巧く慰めて強いて髪を洗わせるです。
≪送嫁《そうか》の宴≫ いよいよ嫁入りの支度が整うと、娘の父母は送嫁の宴会を開かなければならん。その宴会の期限は、その家の貧富の度にしたがって長短を異にし、或いは一日、二日ないし五日、十日また半月に渡るものもある。この宴会の間において娘の父母の親類、知り合い並びに娘の朋友などは、みんな贈物をする。その贈物はその人の貧富および親疎の度合いにしたがって違いますが、その中には金銭もあり、衣類或いは飲食物もある。その祝物を贈って来た人には、まずチベット流の茶と麦の冷酒を飲ませる。チベットでは酒を暖めて飲むということは全くない。デ前にいいましたとおり、茶と酒は終日終夜、絶え間なく飲むのです。すなわち、これが最も幸福の状態チャチャン・ペンマ(酒と茶とこもごも飲むの謂《いい》なり)といって、前にも説明したように、チベット人の幸福の境涯の状態を現しておるです。デ酒の肴《さかな》というようなものは用いない。日中後の食事の時分には、まず麦焦しと肉を出す。その肉は大抵ヤク、山羊、羊の肉を多く用い、稀にはラサ府では豚の肉を用いる者もある。牛肉などはほとんど用いない。殊に婚礼の場合には用いない。その料理のしかたは、生肉、乾肉、煮肉の三種で、焼肉は礼式の時に用うることを許さない。デ大抵肉は油と塩とで煮るのですが、或いは水と塩とで煮るのもある。この三種の肉と共に、ズーすなわち乾酪《ほしちち》、バター、砂糖の三種で拵《こしら》えたギセイ豆腐のような物を与えるです。ソレを喰い終りますと、米飯にバターに砂糖と乾葡萄と小さき柿とを混ぜた物を饗《ふるま》い、夕飯或いは終宴の時分には、卵|饂飩《うどん》或いはシナ料理をご馳走する者もある。こういうふうで、三回或いは四回の美食を日々に供しますので、その間にも茶と酒とは絶えず飲ませ、その飲食の間には或いは面白い話をします。チベットの舞踏は、俗謡を唄って舞踏をやるです。舞踏は足を揃えて歌に調子を合わせ、庭を踏み鳴して踊り立てるです。紀律がチャンと立っておって、ちょうど
≪兵式体操≫ を見るようですけれど、もともと男女が入り混ってやるものですから、その間に幾分か愛情もこもって、随分面白そうにみえるです。楽器はダムニャン(チベット絃)というのを弾じて、これを謡《うた》と足拍子に合わせる。男女幾十人が数珠《じゅず》の環の回《めぐ》るがごとく、歓喜に満ちて踊りまわるのですが、我が国古代の歌垣《うたがき》もこんなものかと思われます。
こういう宴会は、その家の交際の多少と貧富の度合いにしたがって、時間に長短のあるのは前にいうたとおりですが、媒介人《なこうど》が迎えに来てその翌日すぐ嫁入りするというのは、ごくごく貧しい交際のない家のことです。さてその後幾日か経って、いよいよ聟《むこ》さんの家に行くというその前日になると、花聟さんの父母は、その媒妁人と自分の代理者と、ソレから出迎いの者を十数人(貧富によって多少の差あり)、嫁の家まで迎えにやるです。デ媒妁人と代理人とは、まず花嫁の父母にヌーリンすなわち乳代として若干の金を与えます。多いのは日本の金で千円或いは五百円、少ないのは二、三円のもあるです。しかし、娘の父母はこれをジキには受けない、まず辞退して押し戻す。ソレを媒妁人が無理に勧めて受けるようにさせる。中には絶対的に辞退する父母もありますが、その場合に娘の父母のいう言葉は、「我々の可愛い娘をあなたの方に上げるのですから、決して乳代をもらうというようなことは、私共は願わない。ただあなたの方へやったこの娘を、あなたがたが愛して下すって、末長くこの子が、あなたの宅で幸福を受けるようにさえして下されば、ソレで充分です。私共は切にソレを望む」というのです。しかし、大抵は一旦辞退しても、強いてこれを受けさすのがほぼ通常になっている。ソレと同時に、娘の結婚式場に用うる衣服の総てと
≪結婚|玉瑜《ぎょくゆ》≫ を受けるのです。その結婚玉瑜というのは、ラサ府の女の飾りとして、額《ひたい》際の正面につけられてあるものです。ソレは人の女房になった証《しるし》だということですが、ラサ府ではソレがはっきりと分っていない。結婚しない人でもやはり飾りに用いておるです。ところがシカチェおよびその附近の地方では、結嫁玉瑜を頭の後の頂上に着けてありますから、一目見て人の妻たることがジキに分る。ソレでもし不幸にして離婚になると、その男は大いに怒って、その女の結婚玉瑜をその頭の飾りからしてヒン毟《むし》ってしまう。むしってしまえば、ソレで離婚ということがきまります。三行《みくだり》半の暇状を出す代りに、この結婚玉瑜を取ってしまうのです。その他に首飾り環、胸飾り環、瓔珞《ようらく》、耳輪、耳飾り塔、腕輪、指環等の粧飾品で、大変金のかかっているものが沢山あるですけれども、それらは皆、娘の父母がその女子に与えますので、式場に用うる衣服、帯、下着、履《くつ》の類だけを花聟の父母から贈って来るです。デその贈って来た物は、善くっても悪くっても、式の時はソレよりほかのものを着ることは許されない。ソレから嫁を迎いに来た媒妁人とその代理人は、その夜、嫁さんの家に泊って酒宴を開き、ソウしてその喜びを尽す。その宴《さかもり》がなかなか面白い。
≪宴席の盗み物≫ マア一寸酒を飲ませると飲まされまいとの合戦のような騒ぎです。花聟さんの方から来た媒妁人と代理人とは、その夜は充分用心して、決して多量に酒を飲まないです。ナゼそんなに用心をしているかというと、ソレはこの国に一種奇態な風俗がありますので、その奇風というは、もしこの夜沢山酒を飲み、充分熟酔して前後知らずに眠ってしまうと、花嫁の家にいる朋友とか或いは親類の者が、その寝ているところを窺《うかが》って、何か彼らの持って来た内の一つを盗む。ソレは良い物でも悪い物でもかまわない、デその盗んだ者は、昨夜はうまく盗んで上げましたといって、翌日皆の者に示します。スルと大変です。盗まれた人は、その
≪怠惰不注意の罰金≫ として、チベット銀二十タンガー、すなわち日本金五円をその盗んだ人にやらなくてはならない。こういう奇態な習慣があるものですから、媒妁人らは充分注意して、なるべく酒を飲まないようにする。けれどもまた、花嫁の朋友とか親族とかいうものは、巧みに勧めて、酒を飲ませようとかかる。ソコで飲め飲まぬとの争いが、ほとんど戦争のようになりますが、しかし、その酒を侑《すす》める言葉および動作は、すべてこの国に古代から伝わっておるところの習慣によって、巧みに侑めなくてはならん。もし古代の習慣に違う時分には、その花聟の媒妁人或いは代理人は、「あなたがたは古来の習慣を知らない。礼式を知らない。イヤどうも智識がない」といって、大いに罵《ののし》るです。ソレは大変花嫁の家の恥になるというわけであるから、容易なことではない。
ソレからまた花聟の側の人達も、酒を辞退するにそれ相応の文句がある。酒は百毒の長とか、イヤ酒は喧嘩製造の道具であるとか、酒を飲むと智慧がなくなってしまうとか、いろいろの比喩或いは教訓、唱《とな》え言《ごと》をいって辞退しないと、その酌人から大いに罵倒されることがある。ソレからまた、花嫁の方で出してある酒の味がまずいとか、肉が良いとか悪いとか、その他食物の調理のしかたが旨いとかまずいとかいって、大いに論戦して果しがつかんというようなこともある。デどっちが勝ったとか負けたとかいって誇り合うのを、結婚の式に伴う普通のことと心得、花嫁の朋友、親戚、或いは近隣より、いわゆる新聞種として世間に伝えられるというわけなんです。
第七十四回 送嫁の奇習
≪送嫁の祭典と供養≫ いよいよその当日になりますと、娘の父母《ちちはは》は、朝早くからまず送嫁の酒宴を開き、しこうして、古教派いわゆる赤帽派の僧侶をして、その村々の神々および家の神々を祭らしめる。その祭典の趣意は、その神々に対していいますには、「今度某家の娘が某方へ嫁入りをいたします。ついては村の神様並びに家の神々、ドウかこの娘にお暇を遣わし下さるよう。この娘を余所《よそ》にやったということをお怒りなされて、害を与えられぬように願います。その代りにお経を読み供養をして、今日お暇をもらうところの慰みを申し上げます」という次第。デこの法式は大抵その僧侶の住する寺で行いますので、これと同時に、チベット古代宗教のいわゆるポン教の僧侶をその家に招いて、その家のルー(龍王)、ルーというのはチベットでは、その家の財宝を司っている神さまである。殊にルーがその家の運をよく守っているものであるから、もしそのルーが、その家に対して何か怒るようなことでもできると、その家の財産が失《な》くなってしまうと、こういう信仰がありますので、ソコでそのルーがその家の娘に大変愛着して、その娘と一緒に花聟さんの家に行ってしまう時分には、その娘の家は直《じき》に貧困に陥るから、その娘と共に、先方に行かないような方法をめぐらさねばならぬ。その式に用うる経典の言葉が面白い。これはポン教の経典である。その文句は、大抵皆どこでも一つ事で、「その娘の嫁入りすべき家は、決して我が家のように幸福なものじゃございません。また娘御と共にあなたに行かれるごときは、決してルーとしてなしたまうべき行いでない。よろしくこの家に止まって、この家運を守りたまえば、長《とこし》えにルーの享《う》けたまうべき幸福は、尽きることはございますまい」という経文を読んで、ルーに対し盛大な供養をするです。こういうことは、畢竟《ひっきょう》古代の習慣上の礼式というばかりでない。前にいったとおり、もしルーにしてその娘と共にその家を出てしまいますと、実にその家が貧困に陥るであろうという堅い信仰をもっているところから、こういうことを行います。その供養が終って次に
≪花嫁に戒告≫ その娘に対するところの戒告者というものがある。ソレはまず花嫁の前に立って、格言で組立てたところの戒めを告げるのです。その戒告者としては、その戒めの文句を暗記しているくらいな少し道理の分った人間を雇うて来て、その人に戒告せしめるのです。その戒告の文句は大抵きまっている。またしごく通俗にできて、ドウいう人にも解《げ》し得られるようになっておる。その言葉は、「先方へ行ったならば何事も親切に勉めよ。目上の人に仕うるのは女の道であるから、一旦他家へ嫁いだ後は、その家の舅《しゅうと》、 姑《しゅうとめ》に従順に仕うることはもちろん、夫には最も親切に、なお夫の兄弟等にもよく仕え、夫の弟妹などは家の弟妹のごとく可愛がり、その上|婢僕《ひぼく》は自分の子供のごとくによく憫《あわ》れんで使ってやれ」と、こういうようなことをいいます。その中へ譬《たとえ》なども入れて、ごく感心するように戒めます。そのことが終りますと、今度はその父母がまた正しくその場に坐りこんで、同様のことを告げる。ソレはほとんど泣きながら告げておる。親族、朋友等もまた涙ながらに花嫁の前に跼《ひざまず》き、その手を執《と》ってねんごろに、同じようなことを戒めるがごとく勧めるがごとくにいうのです。これらの式が終って、いよいよ花嫁はその家を出ることとなるのであります。ソコで花嫁が花聟の家に持って行く財産は、貧富貴賤によって一定しないが、富貴な者は自分の荘田を送り、貧賤なる者はその度に従って、多少の衣服等を持って行く。
≪花嫁の泣き別れ≫ デその家を出ます時分には、花嫁は大抵大いに泣き悲しんで、馬に乗ることを肯《がえ》んじない。地にひれ伏してほとんど立つことができない。すべてその状態は、自分の父母の家を去ることを惜しむところの真情が顕《あら》われおるのです。これらはただ礼式に泣くのでなくして、真実に長く育った父母のもとを去るに忍びないで泣きますので、その場合には朋友らが介錯《かいしゃく》をして、強いて馬に乗せるです。デ馬の鞍なども西洋ふうのとは違い、日本の古代のふうによく似ている。なかなかチベット婦人は馬によく乗るです。乗るにも決して鐙《あぶみ》の紐《ひも》を長くして乗らない。低い椽《えん》に腰をかけたような工合に、ごく鐙の紐を短くして、足を折って乗っている。男でも女でも皆乗り方は同じです。私共も、始めは大変に困りました。長く乗っていると足の骨がビリビリ疼《いた》んで来るです。
さて花嫁さんは無理に馬に乗せられていよいよ嫁に行く道に出る。その花嫁の飾りは、身には花聟の家から贈って来た衣服を着け、自分の父母より与えられた頭飾り、腕飾りに至るまでの装飾品を着け、そうして頭から顔の部はリン・チェン・ナーンガ(五宝布)、すなわち青黄赤白黒のだんだら織りになっている羊毛布をもって被《おお》うておるです。だからその顔は、どんなのか見ることができない。ソウしてダータル(吉祥幡《きっしょうばた》)を花嫁の首の後に立ててある。その吉祥幡というのは五色の薄絹で造り、ちょうど我が国の寺堂の幢幡《どうはん》形の小さなような物です。長さは一尺二寸ほどの大きさに造ってある。これはつまり吉祥すなわち幸福を招くという意味で、花嫁の首筋の後に立ててあるんです。
≪道中送迎の酒宴≫ 花嫁を迎うる幾多の人と花嫁を送って行く幾多の人と、何れも乗馬で花嫁を率いて花聟の家に向って行く。その道筋において花嫁の親類或いは知己の人々が、その処々において都合三回の送別の酒宴を開くですけれども、道の長短に従って、三里一回或いは五里一回、短い処は二、三町でやるところもあるです。ソコでまた花聟の家および親戚の人々も、道筋の各所において都合三遍の歓迎の宴会を開く。すべて六回ずつの送り迎いの宴会を経て、花聟の家に達するのです。けれども、この行路の送迎の宴会においては、彼らは充分に酒は飲まない。ソレは、彼らは花嫁を安全にその花聟の家に伴って行かねばならんという義務があるからして、たとい強いられても一寸飲むだけ、また片方でも一寸|挨拶《あいさつ》に強いるまでのことです。一体チベットの接待のふうは一方は非常に遠慮し、一方はムヤミに勧めるのが一般の風俗で、ジキに喰ってしまうと、あの人はシナ人のようで馬鹿だという。
その道路において開く宴会は、或いは村落の家の内で開くこともあり、或いは自分らの知り合いの家を借りて開くこともありますけれども、多くはその原の中の便宜な処へ、別にテントを設けて、そこで宴会を開くというのが一般の風習です。さて花嫁は花聟の門前に達したからというて、直ぐにその堂へ上るんではない。先方から迎えに来たわけですから、チャント入ってよいはずですけれども、ココにチベットの奇々怪々なる風俗があって、そこへ入って行こうとしても、花聟の家では堅く門を閉じてあるから、入ることができない。私は実にこの奇なる風習には驚いたです。
第七十五回 多夫一妻
≪厄払いの秘剣≫ 花聟の門前には多くの人が立っておって、その人らの中には妙なことをやる人間がございます。ソレはきまったことで、この花嫁について来たところの悪魔、或いは疫癘《えきれい》というものがある。その悪魔或いは疫癘を、八つ裂きに裂くところのトルマ(秘剣)を自分の右の手で隠して持っておるです。ソレは何で拵《こしら》えてあるかといえば、麦焦しをバターと水で捏《こ》ね固めて、その上を植物の赤い汁で染めてある。その形は立法三角で剣《つるぎ》の形に似ておる。その剣は僧侶が秘密の法を封じこんで拵えたものだそうです。その剣を持っている人は誰か分らないが、その人らの中におりますので、この人は花嫁の門前に到着するのを見ると、その隙《すき》を狙《ねら》って花嫁の顔にその剣を投げつけると同時に、門の戸を開く者がありますので、飛ぶごとくに門内に飛び入ってしまう。その人が入るやいなや、以前のごとくその門の扉が締められてしまう。ドウもおかしなことで、花嫁の顔には赤い汁のかかっているバターと麦焦しが細かに砕けて、綺麗な着物にかかってしまう。
もっとも花嫁さんの顔は、先にもいったとおり五宝布で蔽われているから、顔には直接《じか》にかかっていませんけれども、沢山におカラがかかったようなふうになっている。ナゼこんな奇態なことをやるかというと、ソレはその理由があるのです。ナゼかというと、花嫁はその故郷の神様およびその家の神様の守護を失ってしまったのである。というのは、お暇をもらって出て来たからです。ですから、自分が花聟の家に来る時分には、故郷や家の神様はついておらない。つまり花嫁を護る神様がないから、途中において沢山の悪魔や疫癘《えきれい》がつきまとうて花嫁に従い、ソウして花聟の家に入って来て、嫁と聟とに害を加えるようになるから、これらを追っ払うために、またこれを征服してしまうために、この秘剣《トルマ》を擲《なげう》つのです。ところで擲《なげう》った人は、ナゼそんなに門内に逃げこんで、直《じき》にまたその門を締めるからというと、この人はもしそれを投げてグズグズしていると、花嫁の送りの人に捉《つか》まる恐れがある。捉まると大変です。この時またチベット銀二十タンガー(元)を罰金として、その捉えた人に払わなくちゃならぬ習慣があるものですから、ソコで直《じき》に逃げこんでしまうのです。
≪門前の讃辞≫ ソウすると、かねて門内に待ち受けておる人のいいますには、「この門に対してシェッパ(讃辞)を与えよ。さすればこの門に入ることを許しましょう」という。この讃辞というのは種々の美麗なる言葉、豊富なる名詞をもって、佳瑞祥福《かずいしょうふく》の縁起を讃説するのである。デその花嫁の側の讃説者のいいますには、「讃辞を述べようと思ってもカタがないから、ドウもしようがない」と答えますと、門内の人は門の間からカタの端切《はしきれ》を示して、「さあカタを」といって一寸示したかと思うと、その瞬間に直ぐに門内に引き入れてしまう。ナゼこう機敏にやるかといいますと、またこれにも理由があるので、そのカタの先を花嫁の側の人に捉えられると、二十タンガーの罰金を、その握った人にやらなければならんという、奇習があるからである。ソコでそのカタを見ただけで、讃説者は恭しくかまえて「この門は宝蔵の入口にして、金の柱に銀の扉、或いは門の内には七宝自然の宝堂、玉殿あり、それにおわする方々は、神か菩薩のごとき真善美を備えたまうなり、かかる美しき門に入るは、実に無上の幸いと喜びの基《もとい》をなすの始めなり」というようなことを、多く述べるのです。その讃辞を述べ終りますと、ギイーとその門が開かれるのです。
ココで一寸述べておかなければならんことがある。時としてその花嫁が、花聟の処に出て来る中途で或る村落を通って来ると、その村落の人のために花嫁を奪われることがある。その奪う村の人の口実としていいますには、「あの女は自分の故郷の守護神なしに出て来たから、多くの悪魔や疫癘がつき添うて来た。ソウしてこの我々の村の中へ入ったから、我らの村落に損害を与え、本年の収穫に大害を与えるに違いない。だからこの花嫁を
≪損害賠償の保証≫ として奪わなくちゃアならん」といって、引っ捉《つか》まえるです。デなかなか渡さない。スルと花嫁の随行者は、その要償金のいくばくを与えてまず安全の通過を希《こいねが》い、ここに始めて通過し得らるるのです。もちろんこれは都会には行われておりません。つまり辺鄙《へんぴ》の地に稀《まれ》に行われているので、大抵はソウいうことはせない方が多いのです。ドウか憎まれでもすると、ソウいうことをやられる。さて、その花聟の家の門が開かれると同時に、花聟の阿母《おっか》さんは酸乳とチェ・マとを持って来るです。チェ・マというのは、麦焦しとバターと砂糖と小芋とを混ぜたものです。小芋はチベットでできる自然生のもので、大きさは小指の先ぐらいで芋と同じ味、ごく堅くて旨いものです。この四つを混じて拵えたものをチェ・マという。チベットではこの酸乳とチェ・マとは、非常な祝意を表するために用いるものです。ソコでこの二つの品を、花聟の母は花嫁を始め送迎の人々に少しずつやりますと、彼らは一々これを手の平に受けて舐《ねぶ》るです。
それが終ってから、その母の案内に従って堂内に入って行く。ここでまた酒宴が開かれる。ところで、古教派の僧侶はまたその村の神様、家の神様に向い、「この花嫁は某からもらい受けて、今日より我が家の人となりました。ついては村の神様並びに家の神様は、今日以後、この花嫁の庇護《ひご》者とならんことを希います」と告げるです。ソコで酒宴が開かれますと、花聟の阿父《おとっ》さん阿母さんは、花聟および花嫁、媒介人並びに送迎人らに対して、例の一筋ずつのカタを与える。これは花聟と花嫁と、夫婦の語らいが確定したことを意味している礼式なんです。花聟と花嫁は、宴|酣《たけなわ》にいたらずして、ほかの室に移されてしまう。この始めの酒宴で、日本のように三々九度というような交盃《こうはい》の式はない。
これらの送り迎いの人々および親類の人々などは、依然としてやはり花聟の家に止って日々酒宴を開く。デその間には花聟の親類、知己、朋友らが皆相当の贈物をもって、その宴会に招かれて来るです。その宴会の短いのは二、三日、長いのは一か月にいたることがある。チベット人はこういう宴会とか、或いは遊びに行くとかいうことには、ごく気長いです。ソレからチベットのご馳走というのは、ごくしつこい物ばかりで、シナ人よりも脂気の多い肉のような物ばかり喰うです。アッサリとお茶漬に香物というようなご馳走は、夢にも戴けない。ソウいう重くるしいご馳走で、長い宴会を開く。その宴会が終って送り迎いの人々が帰った後では、なお数日間は、花嫁の朋友下女などが、花聟の家に止っているのが例になっている。もっとも有福者は、花嫁の家から一生使うべき小間使いを添えて来るのが大抵通常である。これで全く結婚のことが終ったというのじゃない。その後一か月、或いは六か月、或いは一か年を経てから、花聟と花嫁は共にまた花嫁の家に出て来るです。その場合には、沢山な人は一緒に来ませんけれども、二、三人の人を引き連れて来て、花聟は大抵花嫁の家に止まり、幾日かの後自分の宅へ帰ってしまう。デ花嫁はその生家に止まること、或いは一か月ないし三か月。ソレは花嫁の望みにしたがって、時日の長短はいろいろになっている。しかし、何月何日逗留しているということは花聟に約束するですから、花聟はその期日になると迎いに来て、家に連れて行くです。
≪縁弟との結婚≫ ソコでその花聟に弟があると、大抵その結婚した後六か月或いは一か年を経て、家内だけで一寸礼式を挙げて結婚するです。大抵兄はその礼式の時分には、どこかへ旅をするとか遊びに行くとかしている留守に、礼式を挙げて弟と結婚させるものもある。ソレは母親が媒妁《ばいしゃく》をするのです。弟が三人或いは五人あっても、同じくこういうような方法でチャンと結婚させます。或いは花嫁と弟らと随意に結婚して、その礼式を挙げないのもある。まずこういうふうで結婚の礼式は終ったのである。チベットでは、この多夫一妻を称してサースンというておるです。こういう奇怪なる家庭に、すべて兄弟が同時に住んでいるということは少ない。大抵その中の一人が家に止っておると、その他の者は商売に出かけるとか、或いは官吏ならば官用を帯びて出かけるとか、いろいろの方法で外に出るようになっておるです。
この多夫一妻の風俗は、今でもチベットでは実に盛大であって、その国人にはそのことは大いに善良であると信ぜられている。稀に外国に出て行ったところの商人等は、この風俗のいかないということを知って、いろいろにいう者がないでもないけれども、ソレは昔からルクソー・ミンヅ(古来習慣がないという意味)という一言で皆破られてしまう。この言葉は殊に強大なる勢力をもっておって、この一語の下に尊き真理も蹂躙《じゅうりん》せられてしまう。かかる奇怪なる結婚式と夫婦の関係は、チベット古代のポン教より生じた習慣で、今日までルクソー・ミンヅの一語の下に、真実仏教の入ったる後も、この習慣を盛んに維持して来たのである。否、盛んに伝わって来たのである。もちろん仏教徒は社会的問題に注意する者少なく、ほとんど古来の坊さんは皆隠居主義で、ヤマ仏法ばかりやって、本当の社会に活用する、活発々地の真実仏教の真面目を顕揚《けんよう》することに注意せず、こういう悪い風俗習慣を打ち破ることをもなさずして、そのままにほおって、仏教本来の面目に似合わぬことをやっておったのです。これらは古来の仏教坊主の欠点であって、決して仏教そのものの欠点ではない。
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第七十六回 晒《さら》し者と拷問
≪法王を咀《のろ》う≫ 一〇月上旬、ラサ府の住居よりパルコル(廻道)へ指して出かけました。ここはラサ府での目抜の処で、罪人などあるとこの道の辺《ほとり》に晒《さら》します。その晒し方にもいろいろある。ただ手錠、足|枷《かせ》をはめて晒しておる者もあるが、この時は大変に晒されているのを見たです。およそ二十人ばかりも、かなたの辻こなたの柱に一人ずつ晒されておった。いずれも立派な着物を被ておる。その首には、三尺四方の板で首の入るだけの穴のあいた、厚み一寸二、三分のごく重い木で拵《こしら》えた板がはめてある。板は二つに割れるようになって、それに二つの桟《さん》があって、その桟をもって二つの板を合わせて、ソウしてそこへ錠をおろしたもので、その板の上の紙にチベット語で罪状が記してある。ソレは何々の罪状によって、この者は幾日の間こういう晒し者にして、その後、或いは流罪或いは叩き放しにするとかいうようなことなんです。叩くのは三百より七百くらいまであります。
なかなか沢山記してございますから一々読むわけには行きませんが、一つ二つ読んでみますと、ラサ府ではなかなか名高い、テンゲーリンという、法王のおらない時分には、法王となり得べき資格のある候補者の寺の人らである。その寺にいる人達の中には、俗人もあれば僧侶もありますが、元来この寺の主人をテーモ・リンボ・チェといい、その執事をノルプー・チェ・リンという。その執事が今の法王を咀《のろ》い殺そうとして、大変な秘密|祈祷《きとう》を始めたそうです。その秘密祈祷は仏教上からやったのでなくって、ポン教の法によって法王を殺すところの咒咀《まじない》を行い、そのでき上った咒咀の紙を履《くつ》の台に詰めこんで、法王に良い履を拵えて上げたそうです。デ法王がその履をはくと御病気が起ったとかいうので、だんだん詮議の末、その履の中を調べてみると、ポン教の咒文が入っておったという。ソレから事が破裂して、そのことに関係ある人が皆捕われることになって、テーモ・リンボ・チェという方も、やはりそれに関係があって捕えられた。或いは世間ではテーモ・リンボ・チェのいいつけで、ノルプー・チェ・リンが法王を殺そうとしたのである、法王が死にさえすれば、このテーモ・リンボ・チェが法王の位に登られるという見こみがあったから、アアいう悪いことをしたので、実に憎むべきラーマであるといっておる人もある。
その真偽はとにかく、何しろ今の法王が位に即《つ》く前まで、このテーモ・リンボ・チェが法王であったのです。その時代にノルプー・チェ・リンという人が、総理大臣の権を握って大変に圧制をして、罪のないのに沢山な人を殺したこともあったそうですが、ソレは全く事実である。デ一旦、今の法王にその位が帰すると、その時の有様を委しく告げた者があるので、法王も内々このテーモ・リンボ・チェ並びにノルプー・チェ・リンに対しては、善い感情をもっていなかったそうです。ソコでこの履を献上したことから皆が入牢するようになったので、テーモ・リンボ・チェはもはや獄中でお逝《かく》れになったが、ノルプー・チェ・リンは、マダその時分には、石牢の中に投《ほお》りこまれておった。その石牢の上の方には窓があって重い罪人ですから、その窓から食物を入れますので、苛責《かしゃく》をする時分にはその窓から出入りをするようにしてある。ソウですから容易に逃げることもできず、その石牢の中で苦しんでおるので、折々この世の日影を見るようなことができると、必ず打ち叩かれるか、恐ろしい拷問に遇わされるそうです。その拷問のしかたはドウであったか、その当時の有様を見ることができなかったから知らんけれども、聞いただけでもゾッとするほどの拷問である。
≪皮肉の拷問≫ その拷問の仕方は、まず割竹を指の肉と爪の間に刺しこんで、爪を剥《はが》して、ソウしてまた肉と皮との間へ割竹を刺すのです。ソレは十本の指とも順々にやられるので、実に血の涙を流しているけれども、ノルプー・チェ・リンはこれは自分の仕業《しわざ》であって、決してテーモ・リンボ・チェ、すなわち自分の主人の命令でやったわけでないと、強情を張ったそうです。ところがイヤそうではあるまい。主人のいいつけでしたのであろうと、非常に責めても肯《き》かなかったという。
私がラサ府に着いている時分には、そんな責苦を受けながら、すでに二年の星霜を経たという。ソレでも自分の主人に対し一言もこうであったといわぬところをみると、全くテーモ・リンボ・チェは、そのことにあずからなかったかとも思われます。けれども、或いはまたノルプー・チェ・リンにとっては、テーモ・リンボ・チェは真実の兄さんであるという。シテみるとその兄に対して罪のおよばぬように保護して、自分がその罪を被《かぶ》ったものか知れません。けれども、とにかくそれだけの非常なる苦しみを受けながら、なおもって自分がその拷問を忍んでおるという忍耐力と、自分の守るべきところを守っている点においては、世人が実に罵詈讒謗《ばりざんぼう》をきわめるにかかわらず、私はひそかに実に可哀そうなものだと思って同情を表しておりました。
そこに晒されている人達は、皆ノルプー・チェ・リンの幕下の者で、すでにそのことに関係あるポン教のラーマで死刑に処せられた者が十六人、そのほか流罪になった人数はよく分りませんが、大分に沢山あったようです。今ここに晒されておるのは流罪になる者が半分で、その半分は三日或いは七日晒されて後に、柳の太い生棒で、三百或いは五百|撲《なぐ》られる者であります。私は現在の世の中に地獄が現れているかのごとく思われ、その人の心事を察して気の毒に思いつつ、向うの方に廻ってまいりますと、シャカ堂の南、西の隅の日当りの好い処、最もパルコルの中の道の広い処であるが、そこの石の上に
≪美しい貴婦人の晒し者≫ がおる。その貴婦人は、やはり前に見たごとく三尺四方の厚い首枷をはめられている。その首枷がかよわい貴婦人の肩を押えつけて、いかにも苦しそうにみえている。デ頭には、小さなブータン製の山繭《やままゆ》の赤い頭かけをかけて、少し俯《うつ》向き心になって眼を閉《つぶ》っておられるです。その端には、この貴婦人を警護している巡査のような者が三人ばかりいる。麦焦しを喰わせるものとみえて、麦焦しの入れ物がその端にある。また差入れ物というようなわけとみえて、少し良い食物もそこに置いてあります。その食物は一々人から喰わしてもらわなくては、自分の手はやはり手錠を下《おろ》されているから、もちろん喫《た》べることはできない。
かかるかよわい尊い婦人は誰であるかといいますと、これはこのチベットでは一番旧い家として、ソウして貴族中でも最も利者《きけもの》として世人の尊崇を受けておる、ドーリンという名家の令嬢であったです。その貴婦人は、ノルプー・チェ・リンの夫人になられた方です。その夫のノルプー・チェ・リンが、石の牢の中におられる前に、少しゆるやかな牢に入っておられた。その牢は、牢番に少しの金を与えれば、そこへ逢いに行くこともできる。それ故にこの夫人は、何かご馳走をもって自分の夫に逢いに行って、泣き悲しみながらいろいろの話をせられたことが発覚して、この夫人もやはり牢屋の中に入れられておったが、今朝牢屋の出口で柳の太い生棒で三百ほどかよわい臀部《でんぶ》を打たれて歩けないほどになっている。その苦しい中でこの首枷をかけられて、ソウして道端の石の上に晒されているという。モウ人事もドウやらなさそうで、実に見るからが涙が溢《こぼ》れるような次第であったです。一体
≪チベットの拷問の方法≫ はごく残酷である。またその処刑もごく野蛮のやり方である。獄屋というようなものも、ナカナカこの世からのものとは思えないほどの処で、まずその拷問法の一つ二つをいいますと、先にいった割竹で指の爪を剥《はが》すとか、或いは石で拵えた帽子を頭に載せるというしかたもある。ソレはまず始めに一貫匁くらいの帽子を載せ、ソレからまたその上に同様の帽子をだんだん五つ六つと載せていくので、始めは熱い涙が出ているくらいですが、しまいには眼の球が外へ飛び出るほどになってしまうそうです。ソウいうやり方もある。ソレから叩くというたところで、柳の太い生棒で叩くのですから、しまいにはお臀《しり》が破れて血が迸《ほとば》しっている。ソレでも三百なり五百なり、きめただけの数は叩かなければやめない。もっとも、三百も五百も叩く時分には、半《なかば》で一寸休んで、水を飲ましてからまた叩くそうです。叩かれた者はとても病気せずにはおらない。小便は血のような真っ赤なのが出る。
私はソウいう人に薬をやったことがあります。またそのお臀の傷などもよく見ましたが、実に酷《むご》たらしいものであります。獄屋も余ほど楽な獄屋といったところが、土塀に板の間のほかには何にもない。かの寒い国で、どこからも日の射さないような、昼でもほとんど真っ闇《くら》がりというような中に入れられておるので、衛生もへちまもありゃアしない。また食物も一日に麦焦しの粉を二握りずつ一遍に与えるだけです。それだけではとても活《い》きておることができない。ソコで大抵獄中に入れば、知己《しるべ》が差し入れ物をするのが常例になっている。その差し入れ物でも、牢番に半分以上取られてしまって、自分の喰うのはごくわずかになってしまうそうです。刑罰の一番優しいのが罰金、笞刑《ちけい》、ソレから
≪眼球《めだま》を抉抜《くりぬ》いて≫ 取ってしまう刑、手首を切断する刑。ソレも直《じき》に切断しない、この両方の手首を紐《ひも》で括って、およそ半日ほど、子供が寄って上げたり下げたりして引っ張っておるです。スルとしまいには手が痺《しび》れきって、我がものか人のものか、分らなくなってしまうそうです。その時に人の見ている前で切断してしまうのである。これは多くは泥棒が受ける。五遍も六遍も牢の中に入って来ると、その手首切断の刑にかかってしまう。ラサ府の乞食には、ソウいう刑に処せられたのが沢山ある。最も多いのが眼の球を抉抜かれた乞食、ソレから耳剃《みみそり》の刑と鼻剃の刑、これらは姦夫《かんぷ》姦婦がやられるので、良人《おっと》が見つけて訴えると、その男と女がソウいう刑に遇うことがある。またチベットでは妙です。訴えを起さずに、直にその良人が怒ってその男と女の鼻を切り取っても、つまり政府に代って切り取ったのだからといって、自分が罪を受けるということはない。流罪にも二通りある。或る地方を限って、牢の中に入れずに放任しておくところの流罪と、また牢の中に入れておく流罪とがある。ソレから
≪死刑は水攻《みずぜめ》≫ にして殺すんです。ソレにも二通りある。生きながら皮袋に入れて水の中に投《ほお》りこんでしまうのもあり、また船に乗せ河の中流に連れていって、ソウしてソレを括《くく》って水に漬け、石の重錘《おもり》をつけて沈めるのです。しばらく沈めておいて十分も経つと上に挙げ、なお活きているとまた沈めて、ソレから十分ばかり経って上げてみるのですが、ソレで死んでおればよいが、活きておるとまた沈める。ソウいう工合に何遍か上げたり沈めたりして、よくその死を見届けてから首を切り、手足を切り、五体放れ放れにして流してしまって、首だけこちらに取って来るのです。
デ三日或いは七日晒し者にするもあり、或いは晒さずにその首を瓶《かめ》の中に入れて、ソウいう首ばかり集めてある堂の中に投りこんでしまうのもある。その堂というのは浮ばれない堂という意味で、そこへ首を入れられると、モウ一遍生れて来ることができないというチベット人の信仰から、こういう残酷なことをするのです。
これらの刑罰は、ドウも仏教が行われている国に似合わぬ、実に残酷なやり方であります。モウ殺してしまえばソレで罪が消えてしまうのであるから、ソウいう意味で罰しなければならんと思うのに、未来の観念まで制限するというのは、実に刑罰の法則にそむいているであろうと思う。実に野蛮のやり方である。
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第七十七回 驚くべき葬儀
≪不可思議なる葬式≫ 私の知合いの人が死にまして、その葬式を送っていかなければならんことになった。ソコでその葬式を送ってまいりましたが、ココに一大不思議なる、世界にほとんど例があるまいと思われるところの葬式を見ました。ソレは屍体《したい》を棺に入れるでもなければ、また壺《つぼ》へも入れない。棒を二本横に並べてそれを縦にして、その棒にまた小さい棒を二本横たえて、その棒を網のように搦《から》みつけて、その上に敷物を敷いて屍体を載せ、その屍体の上へ白い布片《きれ》を被《き》せたままで人が荷《にな》っていくんです。葬式の門出をしますにも、今日死んだから直ぐに明日出すというわけに行きませぬ。コトニよると出せる場合もありますけれども、多くの場合は三日とか四日とか経ってからです。ナゼならば、葬式を出すにも日の吉《よ》い凶《わる》いがあって、それをよく見定めてからドウいう方法の葬式にしようか、この屍体はドウ始末をつければ好いかということをラーマに尋ねなければならん。ソウするとラーマは委《くわ》しく書物を見、かつお経は何々、幾日の何時頃にこの屍《かばね》を門出して、水葬にしろとか、或いは火葬、土葬ないしは鳥葬にしろと、皆一々指図を待たなければならんからです。
チベットのいわゆる鳥葬というのは仏法の方では風葬というもので、チベットでは屍体をチャ・ゴエ(禿鷲)に食わせるのをもって一番良い葬《ほおむ》り方としておるです。その次が火葬水葬で、一番悪いのが土葬である。土葬は通常の病気で死んだ時分には誰でもやらないです。チベット人は非常に土葬を嫌う。ただ天然痘で死んだ時分だけ土葬にするです。ソレは鳥に与えれば鳥に伝染の憂いがあり、また河に流せば、他に伝染の憂いがあるというところから、許されないのです。火葬はマア良い方ですけれども、殊に薪《まき》の少ない処でもあり、マサカ屍体をヤクの糞で焼くこともできませんから、ソレで火葬は余ほど上等の人でなけりゃア行われない。水葬は大きな河の辺では大抵行われるです。ソレも屍体をそのまま河の中に投《ほお》りこまない。屍体の首を切り、手を切り、足を切り、みんな切り離して流すです。ソウするとあっちの洲に止りこっちの崖に止ることもなく、魚もまた食いやすいからということであります。空葬といって空に葬るのは、いわゆる鳥に食わせるので、コリャ実地私が見たところでお話しましょう。
この四通りの葬り方について、ドウいうふうにして好いかとラーマに尋ねるので、ラーマはその人相応の指図をするのです。何でこの四通りの葬り方があるかというと、インド哲学の説明では、人体は地、火、水、風の四つよりできておるという。それ故この四つに帰る道があるので、土に帰るのは地、ソレから水、火、そして鳥に食わすのが、すなわち風に帰るのであるという説明なんです。大抵マア僧侶は皆鳥に食わせる。ただ法王とか、或いは第二の法王および尊き化身のラーマ達は、コリャ別物であって、普通の僧侶は鳥に食わせます。
私が今度送ってまいります葬儀もこの鳥葬で、まずセラの大学から出て、東へ向って行くと河の端に出る。その河辺を北へ廻り、山の端について二、三町も行きますと、同じく河端で、しかも山の間に高さ六、七間もあろうかという、平面の大きな天然の巌《いわ》があります。その平面の処は広さ十五、六坪もある。そこがすなわち墓場でして、墓場のグルリの山の上、或いは巌の尖《さき》には、怖ろしい眼つきをした大きな坊主鷲が沢山おりますが、それらは人の死骸の運んで来るのを待っているのです。まずその死骸の布片を取って、巌の上に置く。デ坊さんがこちらで太鼓を敲《たた》き、鉦《かね》を鳴して御経を読みかけると、一人の男が大いなる刀を持って
≪死骸の料理≫ まずその死人の腹を截《た》ち割るです。ソウして腸《はらわた》を出してしまう。ソレから首、両手、両足と順々に切り落して、皆別々になると、それを取り扱う多くの人達(その中には僧侶もあり)が、料理を始めるです。肉は肉、骨は骨で切り離してしまいますと、峰の上、或いは巌の尖《さき》にいるところの坊主鷲はだんだん下の方に降りて来て、その墓場の近所に集まるです。まず最初に太腿《ふともも》の肉とか何とか良い肉をやり出すと、沢山な鷲が皆舞い下って来る。もっとも肉も少しは残してあります。骨はドウしてそのチャ・ゴエにやるかというに、大きな石を持って来て、ドシドシと非常な力を入れてその骨を叩き砕くです。その砕かれる場所もきまっている。巌の上に穴が十ばかりあって、その穴の中へ大勢の人が骨も脳蓋《のうがい》骨も脳味噌も一緒に打ちこんで、細く叩き砕いたその上へ、麦焦しの粉を少し入れて、ゴタ混ぜにしたところの団子のような物を拵《こしら》えて鳥にやると、鳥は旨《うま》がって喰ってしまって、残るのはただ髪の毛だけです。
≪食人肉人種の子孫≫ さて、その死骸を被うて行ったところの布片その他の物は隠亡《おんぼう》がもらいます。その隠亡は俗人であって、その仕事を僧侶が手伝うのです。骨を砕くといったところが、なかなか暇がかかるものですから、やはりその間には麦焦しの粉も食わなければならん。またチベット人は茶を飲みづめに飲んでいる種族ですから、お茶を沢山持って行くです。ところが先生らの手には、死骸の肉や骨くずや脳味噌などが沢山ついているけれども、一向平気なもので、「サアお茶を喫《あが》れ、麦焦しを喫れ」という時分には、その隠亡なり手伝いたる僧侶なりが手を洗いもせず、ただバチバチと手を拍《う》って払ったきりで茶を喫《の》むです。その脳味噌や肉の端切のついている汚ない手で、ジキに麦焦しの粉を引っ掴んで、自分の椀《わん》の中に入れて、その手で捏《こ》ねるです。だから自分の手についている死骸の肉や脳味噌が、麦焦しの粉と一緒になってしまうけれども、平気で食っている。ドウも驚かざるを得ないです。余りやり方が残酷でもあり不潔ですから、「そんな不潔なことをせずに、手を一度洗ったらドウか」と私がいいましたら、「そんな気の弱いことで坊主の役目が勤まるものか」と、こういう挨拶。デ「実はこれが旨いのだ。汚ないなんて嫌わずにこうして食ってやれば、仏も大いに悦ぶのだ」といって、ちっとも意にかいしない。いかにもチベットという国は、昔は羅苦叉鬼《ラクシャキ》の住家で人の肉を喰った国人であって、今の人民もその子孫であるということですが、なるほど羅苦叉鬼の子孫たるに愧《は》じないところの人類であると思って、実に驚いたです。
第七十八回 奇怪なる妙薬
≪法王および高僧の葬儀≫ 葬式がすんで帰りますと、家ではやはり、その葬式の間もお経を読んでおる。デ肉粥《にくかゆ》とか或いは卵|饂飩《うどん》とか拵《こしら》えて、立派なご馳走を喰わせます。僧侶であれば酒がないだけで、在家では皆そんなものに酒を添えて出します。さてこれよりは、法王とか或いは第二の法王、高等なる化身のラーマのお逝《かく》れになった時分には、ドウいうふうにして葬るかということについて述べましょう。
貴いラーマがお逝れになると、大きな箱を拵え、その箱の中へチベットの自然の沼塩を入れ、その上に死骸を置く。デそのグルリもまたすっかり塩で詰めてしまう。その詰めたり何かする間にも、笙篳篥《しょうひちりき》のごとき笛を吹き太鼓を打ち、まことに殊勝《しゅしょう》なる経文を唱えて、なかなかありがたくみえております。死骸を収めた箱は堂の中に据えて、大抵三月くらいはそこに置いて、活きた人に対して供養するがごとき礼式を行い、しかしてその弟子達は少しも間を欠かさずに、三人或いは四人ぐらいずつで日夜お経を読んでおるです。その棺の前には、チベットふうの純金の燈明台へバターの燈明、ならびに花のある時分には花、ソレからまた銀の七つの水器には阿伽《あか》と称《とな》うる清水、その他沢山な供養物も供えてある。ソレへ詣《もうで》る者は、皆カタ一つと幾分の銭を添えて上げる。デ三月或いは百か日経つと、その死体の水分は、塩に吸い取られて、その死体は全くカラカラになってしまう。この塩は日本の塩と違って、余ほど曹達《ソーダ》の類も含んでいる。ほかに何の成分が入っているか、私は化学上の取り調べをしないから分りませんけれども、確かに曹達が入っている。デその中から死体を出しますと、もはやカチカチになって、全く木で拵えたもののようになっており、腹などもすっかり引っこみ、眼も凹《お》ちてしまって水気は少しもありません。ソコでその死体を出して、良泥と白檀《びゃくだん》の木を粉にした物とを一緒に捏《こ》ねて、その痩せこけた死体に塗るのですが、ソレには何かチベットのほかの薬も混っておるです。ソレですっかり旧《もと》のとおりにまず顔を拵え、ソレから身体も拵えて、全くの立派な木造のようにしてから金箔《きんぱく》を置きますので、チャンとでき上りますと、ソレを像として、ソウしてその堂の中にまた別に七宝で拵えた塔を立て、その塔の正面の中央に厨子《ずし》形のような物を拵えて、その厨子《ずし》形の中へ、今の
≪死体の像≫ を祭りこみます。ソウいうふうにでき上っている堂は、現にシカチェのタシ・ルフンプー寺には五つあって、その屋根は皆金色の光を放っている。いわゆる金鍍金《きんメッキ》の屋根で、シナの二重の御殿屋根ふうに似ておるです。もちろんその装飾、堂の大小および塔の飾り(金飾り或いは銀飾り)も、ラーマの階級によって違いがあります。この像は永久に祭られて、人民もそこへ拝みに行けば僧侶もまた拝みに行くです。だから或るシナ人が笑っていいますには、「チベット人は土葬が嫌いで、土葬をすると何か地獄に落ちたほどに悲しむが、一番エライ法王とか或いは第二の法王とかいうような者は、やはり土葬ではないか、その死体を鳥に与えるでもなければ、水の中へ葬りもしない。チャンと塩漬にして、ソウしてその乾いた死体を泥で塗るのであるから、やはり土葬である」という。一寸面白い話です。デその棺の中へ入っておった塩です。
≪その塩はなかなか尊い≫ もので、一寸《ちょっと》普通の人民はそれをおもらい申すことができない。なかなか金を出しても容易には廻ってこない。伝手《つて》があればまずもらえるといったようなもので、それは貴族と僧官のおもなるものに分たれる。もっとも、大いなる檀越《だんえつ》とか或いはことさらに関係ある大商業家などは、幾分かもらえるです。ナゼその塩が尊いかというと、ラーマのありがたい汁がその塩に吸いこまれているから、ソレで尊いという。これは薬にもなるとかで、風邪をひいた時など、或いはその他の病気の時分は、その塩を呑み湯で飲みますとジキに治ると申しておりますが、いかにも妙な薬です。その薬といえば一つ思い出しましたが、チベットには
≪奇々妙々の薬≫ がある。その薬の本来を知った者は、恐らくチベット人を除くほか、誰も呑むことができぬだろうと思います。ソレはチベット法王、或いは第二の法王というような高等なるラーマ達の大便は、決して棄てない、また小便も決して棄てない、大小便共に天下の大必要物である。その大便は乾かして、いろいろな薬の粉を混ぜて、ソウして法王或いは高等ラーマの小便でソレを捏ねて、丸薬を拵え、その上へ金箔を塗るとか、また赤く塗るとかして薬に用いますので、この薬はツァ・チェン・ノルプー(宝玉)という奇態な名をつけます。ソレは決して売り出すのではない。なかなかそれをもらうことさえ容易にできません。まず好い伝手《つて》があり、お金を沢山上げてようやくもらいますので、もらったところで、チベット人は非常な病気になったとか、或いは臨終の場合にそれを一つ飲むのです。ソレで快《よ》くなれば、そのありがたみが利いたといい、たといそれがために死んだところが、チベット人は満足して、「誠にありがたいことだ。ともかく宝玉を飲んで死んだから、あの人も定めて極楽に行かれるだろう」といって、誉《ほま》れのように思っております。
実に奇々妙々の風俗で、チベット国民が実に汚穢《おわい》きわまるということも、こういうことによっても知り得ることができるでありましょう。しかし、こういう材料で宝玉ができているなどということは、一般人民はほとんど知らないので、この薬は法王が秘密の法で拵えた、ごくありがたいものであるということを知っているだけで、その薬の真面目のいかんは、法王の宮殿に出入りする官吏或いは官僧、そのほかそれらの人々から聞き伝えて、いわゆるチベットの事情に通じている人間が知っているというだけでございます。
第七十九回 チベット探検者
≪女宣教師≫ 一一月上旬にまたラサ府に来て、前大蔵大臣の別殿に住んでおりましたが、その時分には現任大蔵大臣も少しは閑暇《ひま》でした。或る時の話に、現任大蔵大臣がいわれますには、「ドウも英国人は奇態だ。ナゼあのように私の国の中を見たがるのであろうか、わけの分らぬくらいである。ちょうど今から八、九年前のことであったが、シナ領と法王領の境目であるナクチュカという処まで、英国の婦人が二人の下僕《しもべ》を連れて、我が国へ入る目的で来られた」と、こういい出したです。それはミス・テーラーという英国の女宣教師で、シナの地方から北部の方を経て、ラサ府を踰《こ》えダージリンへ出る目的で来たので、大臣はミス・テーラーの名を知らなかったけれども、私はダージリンにおる時から、この女丈夫については聞いておったこともあるし、その女の道案内をして行った男と、私はダージリンでふとしたことから親しくしていました。ですから、私はそのことの一伍一什《いちぶしじゅう》を知っていましたけれども、ソウいう顔もできませんから、珍しい話のように聞いておりますと、大臣は話を進めて、「ドウもその婦人がナクチュカまで来たところが、土人のために差し留められた。幸いに、その土人の酋長は非常に慈悲の深い人であったので、マア土人のために殺されなかったけれども、その地方からドウしようかといって政府の方へ伺って来た。その時に政府の方から、私と私の家来二人をあの地に差し向けることになった。もっとも、ほかに荷持ちとか馬とかいう者はおよそ三十人ばかりも行ったけれども、つまり重立った者は三人で、その主任者が私であった。
デ先方へ着いて聞いてみると、話はちっとも分らない。その婦人はチベットの言葉を使っているけれども、ラサ府の言葉でないから、ドウも話がよく分りにくい。けれどもよく心を鎮めて充分に聞いてみると、大分に分ってきた。デそのいうところによると、実は仏法のありがたいことを知りたいためにこの国へ来たので、これからラサの霊地に行って、ソレからダージリンの方に出たいのであるから、ドウか許してくれということであった。それのみならずシナ皇帝陛下の免状を持っておるといって、その免状を示して是非内地へ入れてくれろというから、ドウもあなたの情を察すると入れて上げたいけれども、私は法王政府の命令を受けているから、絶対的に入れることができん。もし入るならば、必ず殺さるるほどの難儀に遭う。こちらではむろんその保護はしない。ソレでよければ入ってもよいけれど、ソウいうことをして国際上要らない関係を起すよりは、よく説諭をして返すようにしろという命令を受けておるから、決して入れることはできない。お気の毒だがこれから帰ってもらわなくちゃアならんと、こう私が優しくいったところが、なかなか肯《き》かないでだんだん迫って来た。ソレが一日二日でない。四、五日も私に迫った。ドウもしかたがないから、私はそんならば、あなたは内地へ死にに入るつもりか、とても命を全うして入ることはできん。ソレを知りつつ無理に入ろうというのは詰らんじゃないか、ソレよりか相当の保護を加えてやるから、もと来た道へ帰るがよかろう。強いて入りたいというならば、ソリャあなたのご勝手である」と決答におよぶと、その婦人は、「あなたの国はシナ皇帝の配下ではないか。しからばシナ皇帝の命令状を持って来た者は、必ずここを通さなくちゃアならんわけではないか」と、こういって理屈づめに出て来た。もちろん、我が国はシナ皇帝の配下であるけれども、すべてのことをシナ皇帝から命令を受けない。特にこの
≪鎖国主義≫ のごときにいたっては、たといシナ皇帝がこの国に兵を向けて、外国人を入れなければならんというても、決して入れることをしないのは、我が国の主義であると断言し、またその下僕の者はチベット人であるから、こちらに引き取って相当の処分をしなければならん。しかし、後に戻るならば必ずしもその処分をせねばならんというのではないといって、だんだん説諭したので、その後半日ほど経て、トウトウ帰るということになった。けれども、彼らは途中で泥棒に遇って物がなくなって、大分に困っている様子であるから、相当の贈物をして後に返すということにしたという、一伍一什の物語をして、ソレから、「ドウいうわけでしょう、外国人がこんなに来て見たがるのは」という話。デ私は、「サアどうもソレは分りませんが、一体昔からこの国へ外国人が来ておるじゃアありませんか」と尋ねると、そのことはなかなか現大臣はよく知っておられて、「今より六百年ほど以前」といいかけました。
≪外国のチベット探検者≫ ソレをこちらで想像しますと、一三二八年にボルデノーンの僧侶でオドリック〔フランシスコ派の宣教師(一二六五〜一三三一)。一三二五年から一三二八年まで北京に滞在し、帰国の途次、チベットに入ったと伝えられるが、実際に入ったかどうか疑問視されている〕という人が、始めてここへ入ったですけれども、これは天主教の布教が目的であったですが、その目的は達せられなかった。つまりチベットでは、いろいろ奇態な聖書に書いてあるイエス・キリストの奇蹟のようなことをやる僧侶が沢山あったです。ソレでこの事柄をすべて書き留めて持って帰ったけれども、ソウいうことを世間に公にしますと、キリスト教に関係をおよぼすものだから、ソコでその報告書を焼いてしまって、幾分の話も伝わらなかったということです。しかるに世間の学者の中には、こういうておる人がある。オドリックその人は秘密国に入ったけれども、その秘密国の有様を書き留めたことに誤りがあって、その誤りを後世に伝えるのが嫌だというところから、その原稿を焼いたという説をなす者がある。世人は大抵その説のみを信じて、その時のチベットの現状は、ヤソ教よりも奇蹟などが以上にあったということのために、その報告書が焼かれたということを知らない。それ故にその後ローマン・カソリックの法王政府では、シナの方には盛んに布教しましたけれども、到底チベットは天主教の力のおよぶところでないという決定になって、チベットには布教しないということになったそうです。その後一六六一年に、ブリーベーとドルブイツル〔ヤソ会宣教師。一六六一年、中国側からチベットに入り、ラサに二か月滞在の後、ネパール経由でインドに至る〕、こりゃ確かフランス人と思いますが、この二人の兄弟はチベットのラサ府には着かぬようですが、ドノ辺までか入ったらしい。
≪欧州人ではたった一人≫ インドから入って、チベットのラサ府を通過して、シナに出た人があります。ソレはヴァンデプッテ〔オランダ人〕という人です。それからワーレン・ヘスチングという人がインドの太守であった時分に、インドとチベットの間に貿易を開こうと思って、一七七四年にジョルジ・ボーグルという人を使者としてチベットに遣わした。ソレはいわゆる公使のようなもので、その夫人も共に行かれた。この人はラサまでは入ることができないで、第二の府のシカチェという処まで行ってそこに止っておったです。そのシカチェまで着いたところの日記などがあって、その書物は今でも残っておるです。その人が帰ってから、一七八一年にまたワーレン・ヘスチングがキャプテン・ターナ〔イギリスの外交官。旅行家。ブータンからチベットに入り、ラサに一七八三年から一七八四年まで滞在、チベットとインドの友好関係に努力した〕という人を使者として遣わした。その人は二か年おってインドに帰られたが、その時分からインドとチベットとの貿易は盛んになって来たです。けれども、その後ワーレン・ヘスチング〔一七三二〜一八一八。イギリスの初代インド総督。一七七三年から一七八五年まで在任し、英領インドの基礎を築いた〕がインドの太守を辞して英国に帰って後は、ソレが立ち消えのような工合になって、全く交通もほとんどないくらいになって来たです。ところでその時分に、やはりヤソ教の宣教師らがチベットのラサ府までは行きませんけれども、その近郷まで入ってヤソ教を布き、仏教を破ることに努めたので、チベット政府は大分に用心するようになったです。その後一八七一年にロシアの大佐でプレゼバルスキー〔一八三九〜八八。ロシアの探検家。蒙古、中国奥地の探検、ロプノール湖の再発見。東チベット、黄河の水源地探検などによって知られる〕という人が、東の方のカム地方から入って、ラサ府までは五百マイルの処まで着きましたが、そこから追い返されてしまった。けだしこれは、シナ領のチベットを旅行しただけで、法王領の地方へ来たところで止められたのであろうと思う。しかし、その人はなかなかやり手とみえて、今度は北の方から入ったらしい。その時はちょうどラサ府まで百七十マイルの処まで行って、また差し留められたそうです。これもやはり北の方でいえば、ちょうどシナ領と法王領との境まで行ったので、法王領の内に入ることはできなかったのです。一八七九年に英人のキャプテン・キル〔一八四三〜八一。イギリスの探検家。技術将校としてインドに勤務し、後にペルシア、中国南部、東チベットなどを探検し、一八八一年、シナイ半島を旅行中殺された〕という人が、タッツアンルーの方からしてチベットに入って行ったけれども、これもやはりシナ領と法王領との境目、すなわちバー・リタンという処まで行って追い返されてしまったです。我が国の能海寛《のうみかん》師もそこまで行って、ドウやら追い返されたようです。それは私の親友なる現任大蔵大臣も、日本という国から坊さんが二人出て来て、バー・リタンまで入ったけれども、坊さんか何か話がしかと分らんので、そこから追い返してしもうたという話をされたです。ソレで一八八一年および八二年にインド人で、すなわち私の師匠である
≪サラット・チャンドラ・ダース≫ という方が、チベット政府からして巧みなる方法によってチベットに進入する通行券を得たです。八一年に一遍、第二の府シカチェまで入って、二か月ばかり忍んで帰って来ました。デそのことが英国政府に報告になりますと、今度はまた八二年に行くことになりました。その時にもやはり通行券をもらって、またシカチェ辺へ着き、そこからラサ府に行かれたです。なかなかこの方は注意の深い人で、決して日中など外に出られたことは、余りなかったそうです。たとえ出られても、人に見られないよう自分も人を見ないようによく用心をして、止むを得ない場合には出られたそうですけれども、平生は寺の一室に閉じ籠っておって、ただ自分が研究することだけしておられたそうです。この方はラサ府には二〇日ばかりおられたように聞いています。ソレからあちらこちら取り調べをしたそうですが、ちょうどダージリンを立ってから帰って来るまでが一年たらず、その間に取り調べをすましてしまったそうです。その後、先にも一寸申したようにチベットにおいて大疑獄事件が起り、しかして、サラット師が通行せられた関所なり村なり、師を泊めたる家々は皆財産を没収され、刑の重い者は死刑に処せられるという大騒動の起ったことは、すでに述べたとおりでありますが、その後チベットという国は全くの鎖国になってしまったんです。
≪探検家の失敗≫ その後一八八八年、合衆国北京駐在の公使官書記で、ロック・ヒルという人が、やはり進入を企てたけれども、駄目でありました。何でもその間に探検を企てた人の数は、私の知っておるだけで二十五、六名ございます。もし不確かな者を合していいますれば、四、五十名はあるだろうと思いますが、まず確かなのは今いったとおり。
かくの如くチベット進入を企てた者が沢山あって、その他マダちょいちょい国境を窺《うかが》う探偵は、英国からもロシアからも沢山に来たようです。ソコでチベット人は非常に心を悪くしました。ソウでなくても山間の人民で、殊に猜疑心《さいぎしん》の深き国民でございますから、なおさら疑いを深からしめました。もとチベット人は、外国人に対しては誠によく取り扱う性質の者でありましたけれども、シナ政府の政略によって「お前の国へ外人を入れると、仏法を滅されてヤソ教を広められるから、用心しなくちゃアならん、必ず堅く閉じなくちゃアならん」と持ちかけました。それを正直なチベット人は本気に受けて、鎖国主義を奨励しておりました。けれども今より二二年前、すなわちサラット・チャンドラ・ダース師が入ってインドに出て来るまでは、まだ鎖国とはいうものの、全然と鎖国にはいたらなかったです。ところが先生がインドに出て来てから、そのことが知れた後は
≪全国民|挙《こぞ》って巡査か探偵のごとく≫ になったのですから、チベットに入るということは、実にヨーロッパ人としては、ほとんど絶念しなくちゃアならんようなことになったです。デ、ヨーロッパ人は大抵顔色、眼、髪の色までが違っているのみならず、大仕掛けに沢山な同勢、ラクダなども沢山に引っ張って来るものですから、直ぐ追い返されてしまう。現にヘーデン〔スウェン・ヘディン〕という人も、私がラサ府におる時分に何遍かチベットの北の境を侵して入って来かけたけれども、いつも留められて、しまいにはトウトウ帰ってしまった。こういうように沢山な人がチベットを窺《うかが》っているものですから「一体ドウいうわけで外国人はこの国を知りたいのだろうか、この国を是非取りたいのじゃアあるまいか」というような疑いを、やはり政府の人達も持っておるです。もっとも人民のいうところによると、英国人がこの国を欲しがるのは、この国に金鉱山が沢山あるからだ。ソレだけが見こみで、この国を欲しがっているというようなことをいっておるです。私の考えでは英国はソンな小さな考えじゃアあるまいと思う。ロシアがチベットに下りて来て、そしてチベットを土台にしてインドに臨んだ時分には、到底インドの安寧《あんねい》は保たれないことは明らかな数でございましょうから、恐らくそのことを慮《おもんぱか》って、英国はチベットに対し、深き注意を加えているのではあるまいかと想像されたです。
デ現任大臣の話が面白い。国を取られるということは、実に国の恥であるが、なおこの宗教を滅されるということは、我が国に取っては実にいうに忍びない国辱であるから、ドコドコまでも防がなくちゃならん。もしも我が政府領内の者が、互いに反目して争っているこの内訌《ないこう》を外国人が知ったならば、ジキに攻めて来るかも知れない、だからこういうことの知れないように、うまくかの外国人等の進入を防がなくちゃならんという。昔時《むかし》はチベットの法王政府は、確かに宗教のために鎖国を奨励しておった。ところが今は、いわゆる
≪政略的鎖国≫ で、政略上からも鎖国を奨励するようになったものですから、サラット・チャンドラ・ダース師の事件発覚以来、誰も外国人としてチベット内地に入った者がなかったのでございます。
さて、現大蔵大臣は私の師匠のサラット・チャンドラ・ダース師が来たことについて、だんだんいろいろな話をして、「その後は実に我が国も睡《ねむ》りを覚まされた。外人に対する注意力を非常に喚《よ》び起された」というておられたです。
その時分に私は前大蔵大臣と一緒にラサ府のリンコル(廻道)を廻りに行きました。リンコルは、一番|外部《そと》のラサ府を巡る道なんです。この廻道はおよそ三里ほどある。それを一周しますと、ラサ府内にあるところのすべての仏および法《のり》の宝、すなわち経蔵を廻ったことになりますから、非常に功徳を積んだというわけになるのです。その廻り方にもいろいろありまして、ただ歩いてズット廻るのもあれば、一足一礼で廻るのもあり、また三足に一礼して廻って行くのもある。私と前大蔵大臣と供の者一人と、三人連れでブラブラとその廻道《リンコル》を廻りに出かけていきましたが、楽しみ半分に話をして廻って行きますので、大臣は誠にソロソロと歩まれているけれども、私は余ほど急いで歩まないと、ドウしても平均が取れない。そのはずです。大臣は非常に大きいから、私が一足半歩まなくちゃア大臣の一足にたらないのです。大臣は緩々《ゆるゆる》話して行かれるけれども、私は余ほど急がなくちゃアならんから、なかなか辛いです。
第八十回 不潔の都
≪ヤクの角の塀《へい》≫ その道筋の脇で、ちょうどラサ府の東に当っている方に、奇態な高塀がある。その高塀は、ヤクの角を積み立てて拵《こしら》えてあるのですが、その角の数は幾百万本とも知れない実に沢山なもので、塀の長さは一丁ばかりある処もあれば、また半丁余りあるのもある。また二丁ばかりの処もある。ですから、その角の数は何千万本とも知れないです。その角の塀で囲われておる中に、ヤクを殺す処があって、そこで屠《ほお》り殺したヤクの角で、この塀を拵えてある。私はこの塀を見て、実にびっくりした。もちろん、前にも見ないことはないけれども、その日は殊に閑暇《かんか》で心も自ら閑《ひま》でしたから、ソウいうことにもよく気がつく。
デ大臣に、「ドウもヤクの殺されるのも大きなものでございますな」といいますと、大臣は「ドウも可哀そうなものだ」といいながらしばらく歩いて行くと、その高塀の門口があって、内を見るとヤクが殺されるために三十疋ばかり繋《つな》がれている。デ向うの方に一つ縛《しば》ってあって、いよいよ今殺すという有様である。ところがラサ府では、殺す度にお経の本を頭に載せて、ありがたいことを聞かしてやるということもない。ナゼならばラサ府でヤクを殺し羊を殺す者は、仏教徒ではない。シナ人の回回《フイフイ》教徒です。ソレが皆|屠者《としゃ》であるだから、かの回回教徒らはヤクに引導を渡さないで、直ぐに首を切り落してしまう。その殺すところを友達の大きなヤクが、恐ろしそうな眼をして見ている。実にその哀れなさまを少しの間立って眺めておりますと、大臣のいうには、こういう有様を見るとドウも肉は喰えない。誠に肉を喰うのは罪が深いように思われるけれども、いかにも我々凡夫は馬鹿な者で、家《うち》に帰ると自分の食卓の前に肉がないと何にも喉《のど》へ通らない。この可哀そうなことを打ち忘れて喰うのだから、実に我々は郎苦叉鬼《ラクシャキ》の子孫に違いないといって、懺悔《さんげ》しつつ話があった。
ラサ府で殺されるヤク、羊、山羊の数は、先にも一寸申したとおり大変に多いです。デその廻道《リンコル》には政府から道造りがつけてあります。ワザワザ大地へ頭をつけて礼拝して行く人があるくらいですから、かなりによくできておる。注意して歩かないでも倒れるような気づかいはない。けれども、かえってラサ府の市街の道の悪いことといったらしかたがない。高低《たかびく》の多い処で、町の真ん中に深い溝《みぞ》が堀ってある。
≪溝は大小便の溜池《ためいけ》≫ その溝には、ラサ婦人のすべてと旅行人のすべてが、大小便を垂れ流すという始末で、その縁《ふち》には人糞が行列をしている。その臭《くさ》いことといったら、たまらんです。マア冬は、臭《にお》いもそんなに酷《ひど》くはございませんけれども、夏になると実にその臭いが酷い。ソレで雨でも降ると、道のドロドロの上へ人糞が融《と》けて流れるという始末ですから、その臭さ加減とその泥の汚ないことは、見るから嘔吐《おうと》を催すような有様。
一体ラサ府というのは神の国という意味で、いわゆる仏、菩薩すなわち外護の神様の住処《すみか》で、非常に清浄な土地であるというところから、神の国という意味の名をつけられたのである。けれどもその不潔なところを見ると、確かにパンデン・アーデシャがいわれたごとく、糞喰い餓鬼の都としか思えない。実に不潔なものです。私はシナの不潔をしばしば耳にしましたけれど、恐らく糞の中、糞の田圃《たんぼ》を堂々たる都の道路として歩くような、それほど不潔な処はあるまいだろうと思います。もちろん、ラサ府には糞喰い犬が沢山おりますけれども、ナカナカその犬だけでは喰いきれない。犬も糞の新しいのは悦んで喰いますけれども、古いのは喰わない。だから古い奴が沢山残って行く勘定になるのです。
屎尿《しにょう》が沢山ある道の傍に井があって、その井から水を汲み出して呑むというのですから、随分衛生上にはこれほど悪いことはあるまいかと思われる。けれどもしかし、それほど衛生には害になっておらない。これは確かに害になるでしょうが、一体ラサ府の気候は実に好い。冬は余ほど寒いけれども、日本の北海道よりは楽であるです。夜は氷点以下に降りますけれども、昼は華氏の四十度、或いは五十度くらいの間にあるです。夏は八十度以上に越したことがない。ですからその気候の好いことといったら、私が旅行した中、また聞いている中では第一等の地である。ソレでこの不潔市街、汚穢《おわい》きわまる人民、年中|垢《あか》の中に塗《まみ》れている人間も、ソンなに病気を受けないのだろうと思います。
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第八十一回 旧教と新教
≪チベットの仏教≫ チベット仏教は大体に分って二通りある。ソレは古教派と新教派である。古教派は世に赤帽派といわれて、新教派は黄帽派といわれておる。デ古教派の中でも、いろいろその中でまた名が分れてあるです。サッキャアとか或いはカルマーワ、或いはズクパーとかゾクチェンパとか、マダ沢山ありますが、とにかくその主義はほぼ一致しております。その成仏の方法もまたほぼ一致しておりますので、これを総称して古教派というのです。
≪古派の開山|蓮華生《ペッドマ・チュンネ》≫ これを開いた一番最初の人は、ロボン・ペッドマ・チュンネというインド人です。この人はベルチスタンという国で、昔はウルケンというた国の王庭のダナコシヤという池の蓮華《れんげ》の中からできたというので、ペッドマ・チュンネという名がついているのですが、この人の履歴については怪しい想像的のことばかりで、捉えるところがごく少ないです。古代の神話よりもなお怪しいことが沢山あって、その歴史その伝記などというものは、まるっきり年代が滅茶々々です。だから本当のことは分りません。けれども、この人は僧侶でありながら肉食、帯妻、飲酒等を非常に励行した人である。ただこれを励行したばかりでない。仏教の主義に自分の肉欲主義を結びつけて、巧みに仏教を解釈し、しかして成仏の唯一手段、最上秘密の方法としては、僧侶たる者は女を持ち、肉を喰い、酒を飲み、踊りかつ歌うということが最も必要である。この方法こそ五濁《ごじょく》の悪世において、その場で成仏解脱を遂げ得るところの甚深微妙の方法であると教えたのであります。
≪肉欲は菩提性≫ 肉欲を満たすのが必要であるという、その説明はドウかといえば、大欲は大|菩提《ぼだい》性なりといって、人間の中一番大なる欲は女色を求むることである。この女色を愛している中に、無我の本体に到達して大菩提性を得るのである。ソレから人は肉を喰うことを欲するものである。この肉を喰って、その動物の精神をして自分の菩提に感化せしめ、しかしてその喰われたところの動物の菩提を得るようにしてやるのが、これまた慈悲の道である。酒は快楽を得るものである。その快楽を受けて互いに相和合して、我、人共にこの世界を安楽に暮すのが、すなわち真実智恵の発現である。すなわち、酒を飲み肉を喰い女色を愛しつつ禅定を修めて、直ちに即身成仏することができるのであるという。その細かなことについては、風俗を害する恐れもあり、また余りに猥褻《わいせつ》にして、大方の人に知らすことのできぬことも沢山あります。ともかく仏法の好名題を一々|煩悩《ぼんのう》の求むるところのものに配合して、種々|附会《ふかい》の説を施している。
日本でも昔、真言宗において立川流というものが起って、陰陽道と秘密の法とを合して、これに似たような説を唱えて、大いに社会を蠹毒《とどく》したことがあったです。ソレは日本でも或る部分には大分盛んに行われたようで、ただしその経文および論部のいかんは、今残っておるものが少ないから、よくは分りませんけれども、ナカナカ、チベットにあるような大きなものじゃあるまいと思われる。チベットのは、インドから伝わって非常に広く行われ、今もなおその経典が沢山存在している。すでにインドで拵《こしら》えられたサンスクリット語(梵語)の経典および翻訳書籍も、大分チベットに存在している。ソレからそれらの教えについて、その後ラーマ達が自分の思い思いに造り出した説、かえって仏教を蠹毒するところの教えを、仏教の名でもって沢山に世にあらわしておる。ソレは、現今チベット仏教の半分は、その経文で満たされておるというても、決して過言ではないと思われるほどである。すでに私が持って帰った経文の中にも、この宗派において最も確かとせられ、最も信用されているところの秘密部の書物が沢山あります。これはただ私が秘密に調べるだけのことで、社会に公にするのも、ほとんど困難なくらい猥褻のものである。ソウいう主義の教えがチベットの古代に行われて、今より五百年以前までは、なかなか盛んでありました。ところでその教えが実に腐敗をきわめて、いかに倫理の紊《みだ》れていることを習慣としているチベット国でも、実にかつて見ようのないほど困難の地位に陥ったです。ソコで新教派が起って来た。
≪新教派の基因≫ は、インドから来られたパンデン・アーデシャに基づいて、その後チェ・ズン・カーワという方が、シナ領のチベット、すなわちチベットの北部にアムドという処がある。そこのズンカー、すなわち葱《ねぎ》畑の間にある家に生れて、そこから身を起してチベット仏教の腐敗を一洗することになったので、チェ尊、或いは聖と敬称をつけてチェ・ズン・カーワといいました。デこの方は、充分古教派の悪いことを知り、しかして僧侶は全く戒律によって立つべきものである。戒律がなくては、僧侶という名をつけることができない。その戒律の中でも、殊に淫戒《いんかい》を最も重しとするのである。もし僧侶が女を持てば、ソレは確かに俗人である。否、仏法を滅亡するところの悪魔であると、こう確実にきめられて、躬《み》自ら実行せられた。
デ秘密部の大部分は、顕部《けんぶ》の経論によって、僧侶には皆|清浄《しょうじょう》の戒法を受けしむることにせられた。けれども、その戒法を受けねばならんとせられた時分には、まだチベットにはその戒を授けるだけの師匠がなかったくらいであるが、しからばどういう勢いで起って来られたかというと、誠実なる信心の強い方によって、或いはまた誠実なる人が沢山に集まって来、ソレで新教派の芽蘗《めばえ》というものがだんだんできて来たのです。その旗挙げをしたのが、ラサ府より十四、五里|隔《へだた》っているガンデンという寺のある処であったです。もっともチベット仏教は、顕部の経論のみによって立てられておるものは一つもない。新教派もまた秘密部を取っております。しかし、その秘密部はいわゆる正統派の秘密部を取られたのであるが、古教派は邪統派の秘密部であって、全く真の仏教を破るところの教えである。正統派の秘密部には、男女合体しているところの仏様とか神様というようなものは、ほとんどないのである。けれども、チベットでは秘密仏法といえば、必ず男女合体したところの仏体があるので、すでに持って帰りました秘密の図画中にも、ソウいう物が沢山あって、人には容易に見せられぬくらいのものであるけれども、最初はかくのごとき社会に普及している古教派の秘密仏教の尊像を皆打破ってしまって、これは真の仏教でないというだけの認めはつかなかったようです。ソコで新教派の開山たるところのチェ・ズン・カーワという方が、これを好い工合に解釈し、そしてこれを皆抽象的にして
≪男は方便女は智慧≫ 大体男とは方便を意味し、女は智慧を意味するものである。その方便と智慧とが一致して仏ができるのである。決して肉欲を行うたからといって、仏ができるという意味じゃないと、こう解釈された。ソレから肉は慈悲を表したまでで、肉を喰えというのじゃない。お慈悲を行えといわれたのである。酒もまた決して、この有形の精神を紊《みだ》るところの物を飲めというのじゃない。酒は性智《しょうち》を表したもので、その自性《じしょう》の智慧を日々よく用いよと、勧められたまでであるというような工合に、すべて真実仏教の道理に合するように説明せられて、ソウして像は、邪統派の像をそのまま正統派の仏教の解釈に利用してしまったのです。ですから、その真実の内容からいいますと、もちろん正統派の仏教を現しておりますが、しかし表面だけ見ると、やはり邪統派の像を用いているものですから、ドウもおかしいように思われる。
第八十二回 法王の選定
≪化身という意味≫ 宗教上、チベットにおいて最も特別なる化身のことについて、お話したいと思います。一体化身という意味は、その本体は仏或いは菩薩であって、その真体は無形であるから、衆生に見えない。そこでその徳を備えいるところの有形の体を現して、世の衆生を済度するために仮にこの世に生れて来た、すなわち仮にこの世に化けて来たところの身という意味から、化身という。ところで、チベットではただ仏や菩薩が化身して来るというだけでなくって、一寸したラーマもやはり死ぬというと、今度また生れ変って来て、世のために働くという信仰があるので、その化身についても、昔の化身と今の化身とは余ほど違っておるです。昔のは歴史上に残っているだけで、現に私が観察して来たわけでございませんから、果して確実なりやいなやは保証することはできませんけれども、チベットにおいて確実なりとせられている歴史により、古いことはよして中古に起ったところの化身について申しましょう。
≪法王政府の神下《かみおろし》≫ 今より四百年ばかり以前に、ゲンズン・ツブという人があった。そのゲンズン・ツブは新教派の開山のチェ・ズン・カーワの弟子であるが、このゲンズン・ツブが逝《かく》れる時分に、おれは今度どこそこに生れて来るといったそうです。ところがその名指した場所に生れた者があって、生れてしばらくすると、自分の寺に帰りたいといい出した。その寺とはどこかと聞くと、タシ・ルフンプー寺であるといったそうです。シテみれば、ゲンズン・ツブの生れ変りに違いない。ナゼなれば、遺言とその子供のいうこととが一致しておるからというて、連れて来て育てることになり、だんだん生《お》い育ったところで、ソレが第二の法王になられた。その方が死なれて第三代、第四代まで非常に確実な世であったです。ところが第五代、第六代となっては、ドウも歴史を見ても余ほど怪しいことが起っている。その時分に起った怪しいことが、つまり近頃の化身を認定するところの法則になって来たです。第五代目の法王は、ンガク・ワン・ギャム・ツォ(言力海)という方で、この方は自分は新教派でありながら旧教のことを非常に研究して、そうして旧教の説明を新教派に引き入れた人で、その時代に神下《かみおろし》を用うることが大変|流行《はや》ってきた。
その時に確定された法王政府の神下という者が四つある。その四つは皆寺ではありますけれども、神様を祭ってあるところです。しかし神官でなくって皆坊さんを置いてある。その寺の四つの名は一にネーチュン、二にサムヤエ、三にラーモ、四にガートンというのであります。この時分に神下を置かれるようになったのも、つまりこの法王からして、いよいよ
≪教政一致≫ ということになったからです。この法王まではいわゆる宗教ばかりの法王であって、少しも政治を執らなかった。ソレは政治を執るにも自分の領分がなかったからです。ところがモンゴリヤからして、シリー・コーミ・テンヂュン・チョエ・ギャルという王が出て来て、チベットの各部落に分れているところの王様を、皆征伏してしまった。その時分の計算によりますと、一万戸の部落が十三あったというのですから、都合十三万戸あったわけである。ところが、今でもその時分からちっとも殖えておらぬかのようにポエ・チーコル・チュスン、すなわちチベットの戸数は十三万戸であるということが、俚諺《ことわざ》のようにいわれていますが、これは多分その時分に取り調べた、すなわち法王領分のチベットだけについていうたものでしょう。
さてそのモンゴリヤの王は、チベット各部の総てを征伏してしまったけれども、自分は王様にならずにその権を挙げて法王に与えてしまったのです。五代の法王はその権柄《けんぺい》を受けて、その時からいよいよ教政一致ということにしたのです。ですから教政一致になったのは、マダチベットでは三百年経たぬくらいのことなんです。
デ化身はやはり昔のようにして、自分はこういう処から生れて来たとか、或いは私は死んで行く時分には、今度はドウいう処に生れるということを自らいわぬ。その時はドウいうふうにしてきめるかといえば、まず誰か尊いラーマが死んで四十九日経ちますと、その魂はどこかへ生れて行くことにきまっているというのが、チベット人の信仰です。ソコでしばらく経つと、どこへ生れたか見てくれろというて聞きに行く。その聞きに行く処は、いわゆる神下の家です。聞かれると神下は神様を下《おろ》して告げるです。
≪その神の下し方≫ は日本のお稲荷さんとは大分に様子が違う。実に奇怪なやり方で、急に気狂いが起ったかと思うくらいのものです。まず何事にかかわらず、その神下の処へ見てもらいに行くと、坊さんが四人くらい太鼓を叩き、四人くらいは鉦《かね》や鐃鉢《にょうはち》を打ったりして、お経を唱えているその間に、神様が下るのです。その坊さんの様子は頭に大なる帽子を戴いておる。その帽子の後の方に長く足の処まで下っている切布《きれ》が、実に立派な五色の絹である。ソレは金襴《きんらん》、或いは綾錦等も使われている。着物は日本の僧侶の法衣のようなもので、花模様の置かれてある派手な黄色、或いは赤色の緞子《どんす》である。そのまた帯の結目のタラシは長く下っておるが、実に異様な立派なるものです。
ソウいう支度をした神下が、眼を閉《つむ》ってジーッと中腰にかまえこんでおると、その側ではしきりにお経を読んでおるです。スルと次第々々に震え出して、その震えがいよいよ厳しくなると同時に、たちまち後へ倒れてしまうのもあり、或いはまた立ち上るもある。ソレはその神様の性分でいろいろになるのだそうです。まず後に倒れながらブルブル震えつつ、そのラーマはどこそこに生れているとか、その地方の家の向きはどちらであって、そこには夫婦ばかりいるとか、或いは家内が何人おって、何月何日に生れたのが、いつぞや死んだラーマであるというようなことをいうのです。ところがそっとそこへ探しに行くと、奇態にまたそのとおりの子が生れているそうです。
けれども、その母親の乳離れのするまでその家に置いて、ソレから寺に連れて帰って特別の教育を加えて、自ら信ずる力を強くさせるのです。すなわち、「我は前生はかくかくの立派なラーマである。ソウいう立派な人の生れ変りであるから、決して人から馬鹿にされないぞ」、というところの気象の充分満つるようにしむけるのです。かく自信力の厚いところへ、お側《そば》の者がソレを敬いつつ、充分教育を施して行くです。たとい法王の化身といえども、学問をする時分には、やはりよく修めないと臀部《しり》を打たれることがある。ソウいうことは全くないというて、或る僧侶などは弁護しますけれども、ソレは嘘《うそ》なんで、実はやはり修学中は随分酷い目に遇わされるです。
とにかく第五代目の法王からこういう神下《かみおろし》が起って、何事もこの神下に相談するということになったです。国際問題でも、また何か変った国内の出来事でも、自分の心で判断ができがたい、もし道理上よく判断がついておっても、何方にしたらよかろうと迷うような時分、また迷うことも要らぬごく分った事件でも、その神下に尋ね、しかして神が下って来て気狂いのようになり、泡を吹きつついうておるそのことを聞いてから、それを実行するのです。
デ法王政府には先にもいうたように、その政府を外護《げご》するところの神様が四つある。ネーチェンとラーモとサムヤエとガートンです。その中でも最も勢力の強いのは、ネーチェンであります。まず法王が死なれて今度生れ変って来るのを、ドウして知るかといいますと、法王政府は法王がお逝《かく》れになって後一年も経ぬ中に、その四つの寺へ命令を下し、どこに生れ変ったかこちらに来てよく判断しろと、こういうてやると、その四か寺の神下の坊さんは皆出て来るです。デその四人の神下が、自分の平生信ずるところの神を祷《いの》り下げて伺った上、法王は今度どこの方角に生れ変ったということを一々いうですが、そのいう神さんが別々ですから、四人のいうことがまちまちになって違うことがある。或いは二つくらい一致して、他の二つが別々になることもある。大抵は三人くらい候補者ができて来るです。ソウいう時はドウして次の法王を定めましょうか。
≪甕中《かめなか》の名を探る≫ 法王に生れた化身の候補者というのを、ごく秘密に取り調べてみると、三人或いは四人の子供を得ることになるけれども、その子供が五歳くらいになるまでは、政府からそんなに保護も加えない。また粗末にもしないように注意を加えておくです。デ五歳ぐらいになりますと、いよいよその子供をラサの政府へ迎えますが、その取りきめ方はシナの欽差《きんさ》駐蔵大臣と、ソレから法王が逝れて後政治を司《つかさど》っておるところの代理の法王とが立ち会い、総理大臣および大蔵、陸軍、宮内、教務等の大臣達と、その次官のごとき者が皆集まるです。僧侶の方でも最も重い高等僧侶などは、皆そこへ立ち会いまして、まず黄金の甕《かめ》のような物に、その子供が三人あれば三人の名、四人あれば四人の名を書いて入れる。デちゃんと封をして、ソレから七日間大いに祈祷をなし経を読む。つまりこの中で真実の化身を得るようにといって、ソウいう大祈祷会を開きます。祈祷が終ると、前にいうたとおりの高位高官の人々が立ち会いの上で、封のしてある甕をよく検《あらた》め、その封を切って蓋《ふた》を開けると、欽差駐蔵大臣が象牙の箸を持って眼を塞ぎながら甕の中へ突っこんで、一つだけ摘《つま》み出すです。その摘んだ名が誰に当っているか、その当った子供が法王となるのです。
こういうふうにするのですから、その間余り弊害もないようですけれども、私が駐蔵大臣の秘書官の馬詮《ばせん》という人から聞くところによると、随分弊害のあったこともあるようです。ソレは自分の子供が法王になれば、自分らは法王の王族として、シナ政府から公爵を受くることができるのみならず、財産も沢山に得られて、実にこの世における円満なる幸福を受けることができるというので、大いに賄賂《わいろ》を使って奔走する奴があるそうです。デそれらはまず駐蔵大臣に金をやり、ソレからまたチベットの高等僧官にも賄賂を沢山やる。ソウすると、つまりその賄賂を受けた者の子供しか摘んで出されないような方法にしておいてやったことも、ドウやらあるらしい様子です。ソレは必ずしも証拠だてることはできないけれども、ドウもそういうことがあったという話を度々聞きました。法王の化身を定むるについては、以上述べましたごとくナカナカむつかしいけれども、その下の高等ラーマにいたっても、少し面倒なこともあるです。けれども、大抵この神下という奴は実に悪い奴で、賄賂を貪り取ることは非常です。ですから神下の坊さんには大変な金持があるです。現に
≪法王政府のネーチュン≫ のごときは、恐らくチベット中の金満家といわれるくらいに、金があるです。ソコで大抵高等ラーマの化身は、多く貴族の子供とか或いは金満家の子供、大商法家の子供というような者が多い。ソレがおかしいじゃありませんか。貧乏人の子供にラーマの化身が宿らないときめてあるように、ほとんど十中の九までは、皆|富貴《ふうき》の家からその化身が出るという一段にいたっては、必ずその間に何か事が行われているに違いない。ソレはただ表面《うわべ》から観察しただけでも分るですが、実際は全く妙なことが行われていますので、折々嫌なことを沢山耳にしたです。
まず自分の子ができる前からして、神下の処に行って賄賂をやっておくです。ソウしてどこか良い寺へ、その子供を或るラーマの化身だというて、口入れしてもらうのです。良い寺には沢山財産がありますから、ソウいうふうに申しこんでおくと、その寺の財産を自分の子供が生れながらにして得らるることになるのであります。ソレは随分商売的の場合からいったならば、賄賂を沢山使っても余り損はないというものでしょう。それ故に金を沢山贈る者があるんです。これは私のしばしば見聞したことであって、決して表面から観察して、こうであろうというような推測話じゃアない。だから化身の信ずるにたらんということはモウ分りきっておる。昔のことはイザ知らず、今の化身というのは本当の化身でなくって
≪賄賂の化身≫ であると、私はいったことがある。ソレでもその子供に自信力をつけて、よく教育するものですから、ドウも化身と称するラーマは、十人の内でまず八人までは、できの好い方です。二人くらいは屑《くず》もあります。その教育の方法は、教師も付き添い人もその化身とされる子供に対して、鄭重《ていちょう》に敬語を用います。たとえばその化身の子供につまらないことがあっても、無下《むげ》に叱《しか》るということをせないで、あなたは化身であるのに、さようなことを遊ばしてどういたしますかというて、反省させるくらいのものであります……。
だから私は少し考えたことがある。ドウも子供をムヤミに馬鹿だの頓馬《とんま》だのと罵《ののし》り、或いはその記憶力のたらぬこと、判断力のたらぬことをば無碍《むげ》に卑しめて、その自信力を奪うという教育法は、確かにその子供の発達を妨害する教育法だと思います。その子供には自信力をつけて、充分進めるものであるというところの観念を起さしむるように教育することが、必要であるという考えをチベットにいる時分に起しました。
チベット人はソウいうことはもちろん知らない。また賄賂をやるというようなことも、ソレは富貴者の間に行われていることで、一般人民はそんなことはちっとも知らない。実に馬鹿なもので、政府がトンボ返りをしておっても、一般人民はほとんど知らない。一般人民の間に伝えられていることは、どこそこの華族さんに今度お子達ができたが、そのお子達は生れながら、おれはどこの何というラーマであるというたとか、或いはその子供の処へ、その前のラーマの物としからざる物と同じような物を二つ持って来て、あなたのはドチラかと尋ねたら、同じような物の中でよく見分けをつけて、これは本当、これは嘘《うそ》であるというたそうだ。だからあれは確かに化身に違いないというような説が俗人社会に行われております。
≪大臣の失策と神下≫ 政府内において、例えば或る大臣が誤った仕事をしますと、敏捷な大臣はソレと悟って、ジキに政府の外護の神であるネーチュンに何万円かの金、或いはその罪の大小にしたがってソレより少ないこともあるけれど、マア千円以上、少なくとも千円より下の金はない、その金を持っていってネーチュンに頼むです。ほどなくその大臣のした過ちの化の皮が顕《あら》われて、いよいよそれが政府部内の問題となり、譴責《けんせき》をするか或いは重い罰に処するという場合には、ジキにネーチュンを呼び、神様を下して、この人を罰して善いか悪いかについてお伺いをするです。
スルとネーチュンはその時に金を沢山もらってあれば「決して罰するな、余り罰すると国の運命に関わるから、一寸|叱言《こごと》をいっておくくらいがよろしかろう。あれは元来善い男だけれども、今度は心なしに誤ったんだから宥《ゆる》してやるがよかろう」という工合にいうのです。その代りドンな善いことをしておっても、ネーチュンのお気に入らんと、ジキに法王の面前でたちまち神を下して、その善いことも逆《さかさ》まに悪事にいいたてて、譴責を喰わせるとか罰せられるようにされるものですから、チベットの政府部内では法王を恐るると同時に、なおより多くネーチュンなる神下を恐れている。チベット政府の政権は、このネーチュンの左右するところであるというても過言でないくらいである。もっとも、今の法王は余ほど果断な人でありますから、ことによると、ネーチュンのいうことをきかぬこともあるけれども、大抵、古来の慣例にそむくというて、その人のいうことを肯《き》くです。
≪ネーチュン≫ なる者も、ソウいう微細《こまか》なことについては、明らかに是非善悪を断定するが、さて天下の大問題が起って、外交上ドウしたらよいかわけが分らんようなことになると、そのネーチュンなる神下が実に面白い。まず、その身には光明輝くばかりの衣服および帽子を着けて、法王および大臣、高等僧官の前に立って祈りをしておると、やがて神が下って来るです。その下って来る時分に、「この度、イギリス政府とこういうわけで合戦をするようなことになっているが、ドウしたらよかろうか」といって尋ねると、神下は何もいわずにブルブル震えながら飛び上って、神下はドタリと倒れて、気がつかんようなふうになってしまう。ソウすると側《そば》の者は「サア大変だ、コリャ神さんが我々が不敬なことを尋ねたものだから、怒って往ってしまわれた」と、こういうわけですから、一番困難な問題が起って来た時分には、ネーチュンは神さんが逃げていってしまったというので、何もいわんでも、ソレで事がすむです。実におかしくてたまらんです。ソコで心ある博士、或いは僧侶の中においても、是非善悪を弁《わきま》えている者は、ひそかにその挙動の憎むべきこと、その業《わざ》の社会、国家を害することを悪《にく》んで、彼は悪魔である、彼は決して仏法を守る者にあらずして、仏法を破壊する者であるというて、大いに怒っておるです。
第八十三回 教育と種族
≪学校および教育≫ のことについて一寸説明をしておきます。チベットでは教育はあまり普及しておらない。ただ第二の府たるシカチェの辺では、大分に単純な習字とか或いは数えること、読物の類は行われておりますけれども、その他は、寺でない限りはほとんど普通人民の子供は教育されるということはないのです。ですから、もちろん学校も沢山にない。ただ学校らしいものは、ラサ府の法王宮殿に一つと、シカチェのタシ・ルフンプー等にあるだけ、その他は総て私塾のようなものであって、最も広く教育の行われているのは僧侶学校である。普通人民の子供は、僧侶にならなくては中等以上の学問をすることができない。政府の学校へは、普通の人民は入ることはできない。
その普通人民の下に最下族というのがある。その最下族というのは漁師、船渡し、鍛冶《かじ》屋、屠者《としゃ》の四つである。鍛冶屋はナゼ最下族の中に入っているかと云いますに、これはやはりインドも同じ風俗で、鍛冶屋は、屠者が動物を殺すその刀なり出刃庖丁を拵《こしら》えるというようなところから、鍛冶屋も罪ある者として、最下族の中に入れてあるです。この普通人民と最下族の二種族は、政府の学校に入ることができない。殊に最下族の者は僧侶になることも許されない。だが、遠方に行って自分が最下族であるということを押し隠し、ソシて僧侶になっているものもありますが、自分の生れた近処では、誰もがそのことを知っているから、決して僧侶になることを許されない。その点においては平民は僧侶になることができるから、余ほど上等の位置を持っておる。そんならドウいう種族が政府の学校に入れるかといいますと、
≪華族の種類≫ 第一にゲルバという、いわゆる華族です。第二ンガクバ(真言族)、第三ポンボ(古教族)、第四シェーゴ(古豪族)です。第一の華族というのは、古代の大臣或いは将軍らの子孫で、この内にはヤブシーといって法王の種族も含まれておる。その法王族というのは多くはないです。ただ昔から十三代あったその間の王さんについた種族だけをいうので、これらは皆公爵家です。公爵家には法王族と王族の二つある。今いったのは法王族ですけれども、王族というのはチベットの最初の王様で、ニヤチー・テーツヤンという人から、仏教をチベットに入れた最初の大王ソン・ツァン・ガムポにいたり、ソレから代々血統相続で今日にいたっている王族である。その正統者をラハー・キャリーといって、今でもその家は立派に残っている。けれども政権はない。ただその位階は、法王と同じ座に着くことができるです。それから、その法王族のヤブシーというのは、これまでの法王の親族の公爵家が残っているだけですが、それらは大抵その家にやり手が出ますと、総理大臣或いは陸軍、大蔵等の各大臣になることができる。ソウならなくても、つまり勅任官《ちょくにんかん》くらいの役目はいつでも持っておるです。しかしヤブシーというのもラサの法王についていうただけで、タシ・ルフンプー寺の第二の法王の方にもヤブシーというものはありますけれども、ラサの法王のヤブシーほど勢力はないです。それらの二つをつまり王族といっておけばよろしいけれども、やはり華族の中におかないと、ほかに似たような者が沢山あるから、これを華族の中に入れている。
それに似た華族の中にデーボン・チェカー(大将軍族)というのがある。これは昔から大戦争の起った時分に非常に軍功を立てて、よく国家の困難を救うた者の系統である。これらは非常に好遇されております。なお、モウ一つ下にあるところの華族よりは、余ほど優遇されている。デその家の子供なども、太子様などと人から尊称を受けるようになっている。一番しまいのが普通の華族で、やはり昔から大変に由緒ある家、或いはまた国家に功労のあった大臣らの子孫であります。これらの華族の中でも、普通よりも勝れた才を持って、充分国家のために働く人が出ます時分には、ソウいう人は必ず総理大臣にもなることができるです。
第二のンガクバ(真言族)というのは、その祖先のラーマが非常にやり手であって、いろいろ不思議なことをした。そのラーマがつまり妻帯して子ができた。ところで、その不思議なことを伝えるに、余所の人には誰にも伝えずして、自分の子供だけにその一家の特色を伝えていくと、こういうことになっておりますので、それはやはり、今でも国家において必要な地位を占めておるです。
≪ポンボ族≫ 第三はポンボです。これは仏教がチベットに入らぬ前から伝わっている古い教えで、その坊さんはやはり妻帯をしております。その子孫がつまり古教族というので、これらもまた地方の神様を祭り、しかしてその地方の神様が、怒って人民を罰したり何かすることを防ぐために法を行いますが、総て男女結婚の場合には、その村の神を祭るために、このポンボ族を頼むのです。そのほかポンボ族は、人に頼まれて祈祷をしたり咒咀《まじない》をするのを仕事としていますが、ごく辺鄙《へんぴ》の地、すなわちヒマラヤ山中のトルボという処の或る村落は、一村三十軒|挙《こぞ》ってポンボ族であります。ソウいう処は別ですが、一村或いは一地方にポンボ族が一人というような場合には、そのポンボ族は、その地方において行政司法の長官として尊敬を受ける。またソウいう長官でもなく、祈祷もやらずほかの仕事をしておっても、血統の正しい者であるというて非常に尊《うや》まわれている。
ですからポンボというものは昔は一の宗教であったけれども、今は血族そのものがポンボという教えを代表しているだけで、それをほかの人に教えるとか、或いはその説を説明するということはないです。ただポンボの子孫が、その教えを子孫に伝えていくというだけに止《とど》まっている。デ世俗的の仕事をしておる者は、ポンボの中でもラーマでない。ラーマはやはり仏教の僧侶のように剃髪して、法衣《ころも》なども着け、しかしてその種族中で一番最上の席を占めている。要するにこのポンボという者は、血統の上で尊敬を受けるのみならず、またそれ相応の才学があって僧侶となれば、またその僧侶の位置に伴うだけの社会の尊敬を受けるです。第四はシェーゴです。すなわち
≪古豪族≫ のことで、その名のごとく古《いにしえ》の豪農、或いは豪商らの子孫であって、今なお多くの財産土地を持って、地方において権力がある。アアいう山国の人民は、非常に保守力に富んでいるものですから、昔からあるところの財産をそのまま維持して行く。殊に多夫一妻の風俗でもって、その財産を維持するようにばかりしておりますから、昔から財産家は今もなお財産家である。しかし、稀にはこの頃財産、土地を失って、富豪家といわれる実のないものがあるですけれども、やはりシェーゴ(古豪族)の種族として、社会の尊敬を受けていることは同じことです。チベットでは、これより下の種族、すなわち平民或いは最下族がドレだけ金を持ち、ドレだけ社会に勢力を得るにいたっても、決してこの古豪族の貧乏人に対しては、いばることはできない。ソレは昔京都のお公卿《くげ》様に対して、非常の金持の商工人がいばることができなかったのと同じようなものであるです。
平民はトムバというておる。デ、トムバの中にもトムバとトムズノの二つがある。トムバは昔から普通の財産、土地を持って、他人の奴隷とならなかった家系をいいますので、トムズノすなわち小民というのは、平民の下にあって、ほとんど奴隷の業を執っておる者の子孫をいう。しかし全く奴隷でもない。ごく悪い小作人といったようなものです。古代は全く地主と小作人との関係を持っておったのですが、今は皆ソウであるというわけにはいかない。或いはトムバ(平民)の系統であって、小民よりも貧困に陥っている者が、或いはまた小民の系統で、多くの土地財産を持って平民より遠く勝れている者がある。けれども、これらはごく普通の場合でなくって、マア例外というてよろしい。大抵は平民の方が大きくて小民の方が小さい。
≪階級と待遇≫ 小民の血統の者でドレくらい財産、土地を持つようになりましても、また平民がドノくらい貧困に陥っても、その系統、階級というものは決して紊《みだ》れない。したがって、その社会のその両者に対する待遇がチャンと違っておって、決して平民と小民と共に食物を一緒に喰うというようなことはしない。また結婚というようなことも決して許されない。一番最下の族は先にもいいましたように、渡船者、漁師、鍛冶屋、屠者の四つで、これらの中でも、渡船者と漁師とは少しく地位が高い。決して鍛冶屋や屠者のようではない。この鍛冶屋と屠者とは、他の平民とは決して一室内にて共に飲食することができません。渡船者、漁師もその飲食器を共にして喰うことはできんけれども、一室内に団座して飲食することができる。ただ自分の椀《わん》で自分の物を喰うというに止まる。
この四つの最下族は、決して他の種族と結婚することができない。もし平民以上の種族の子供が、これらの最下族の者と野合するようなことがあった時分には、その上等種族の子供は、ただ階級から退けられて、最下族に陥《おちい》らんければならぬ。ソウしてその父母の家へ来ることも許されない。もしその子女にして、過ちを悔いて最下族の者と離婚したところが、また決して従前の上等種族に復《かえ》ることができんです。最もおかしいのは、この最下族と平民とが夫婦になった間にできた子です。その子供を世間でテク・タ・リルというておる。テク・タ・リルというのは、
≪黒白混合の繩族《じょうぞく》≫ という意味で、ソウいう名をつけて最下族よりもなお悪い者としてあるです。デこの最下族中の鍛冶屋とか屠者などが金を拵《こしら》えて、その商売をやめ、農業或いは商業をするようになりましても、彼らは永久に最下族として、決して普通社会の交際を受けることができない。しかし、他の上等種族で鍛冶屋の技に巧妙な者があって、自ら好んで鍛冶業をする時分には、その血等が悪いのでなくただ技が巧妙でやるのですから、これをリク・ソー(工士)といいます。
その血統の階級上において法律上或いは習慣上、その上等種族は下等種族に対して特殊の権利を持っている。例えば華族の子供と平民の子供とが争論、喧嘩をし、もし平民の子供にして、華族の子供に対し怒りの余りに尊敬語を用いずして、対等語或いは蔑視《べっし》した言葉を用います時分には、その争った事柄の是非善悪いかんにかかわらず、法律上必ず平民の子女は悪いものとなってしまうです。またどんな金持の平民の子供でも、自分より一階級上のンガクバ或いはポンボ種族に対し、どんな場合でも敬礼をしなければならんです。同座の場合にはごく貧乏人のンガクバでも、やはりその種族に対して正席を譲らなければならぬ。話をする時分には必ず尊敬語を用いなければならぬ。もちろん、その階級の異なるにしたがって、結婚等も皆別々になっているものですから、自《おのずか》ら品格、容貌、性質、作法等も変っておるです。
≪教育の目的≫ 先にもいいましたように、上の種族は政府も学校へ入学を許します。その学校で教えるところのことは、暗誦《あんしょう》、習字、算数の三つの課目である。第一が暗誦、第二が習字で、時間の上からいうと最も多く習字に費やされている。算数は前に説明したように小石、木屑《きくず》、或いは貝殻で勘定する方法を教えてもらう。何を暗誦するかといいますと、教典の一部と文法書のごく単純なもの、ソレもごく不完全なもので、ソレから修辞学をやるです。チベットでは文法よりも、修辞学の方がマダ必要なくらいです。ナゼならば、何でもムヤミに飾って立派にいうことが好きですから、ちょうどシナ人がムヤミに形容するようなもので、チベット人もソウいう点については、余ほどシナ人にカブれておるのか、或いは本来の性質か知らんが、法王とか或いは少し目上の人に上げる書面でも、ムヤミに立派な誉め言葉を沢山使う。ですから修辞学が必要である。余ほど分らない拈《ひ》ねくった字を、手紙の中へ書き入れることが好きです。殊に上書文と来たひには、お経の中でも見出すことのできないようなむつかしい字ばかり集めることが得意で、何でも人が見て分らないような物を拵えて喜んでおる。またソウいうふうに学校でも教育して行くです。修辞学の中には、一枚の文章を一日かかってからして、修辞学の原書をたよりたより読まなくちゃア分らんくらいむつかしい文章で書いてある。まるで符牒《ふちょう》を書いてあるようなものがある。デ世人一般に分らない字を知るのをもって、最後の目的として居るのですから、実に奇怪なる教育の目的といわんければならんです。
≪奨励の苛法《かほう》≫ ソウいうむつかしい修辞学を教えるのですから、ナカナカ子供にはたえられない。殊に暗誦がおもで、その暗誦の文字もむつかしい。ですから容易に覚えられない。覚えられないのを奨励して覚えさせる唯一の方法は、ブン擲《なぐ》るので、それを最上の良法として用いている。師匠と生徒との関係は、あたかも看守と罪人の関係のごとく、生徒は師匠の前に行くと、終始ブン擲られはせぬかとブルブル慄《ふる》えて怖がっているさまは、実に可哀そうなものです。
私の寄寓しておりました大蔵大臣のごときは、教育上においても余ほど心がけのある人でありましたけれども、自分の家にいる子供に教える第一の方法は、やはりブン擲るのでした。ですから、その子供が大臣の前に出て来るとブルブル慄えてから、モウ今にもブン擲られはせぬかと、いつも逡巡《あとじさ》りをしておるです。その擲るのは総て坦《ひら》たい竹で、子供の左の手の平を三十くらいビュウビュウと擲るのです。その哀れさというたらとても見ておられない。これでは、その子を教育するのではなくて賊《ぞく》するのですから、私は或る時大臣に、教育法というものはこういうものである。擲るのはよくないということを充分説明しました。ところが始めは大分議論をいいましたけれども、何分事の分った方でありますから、その後は子供を擲らんようになって、マア余り覚えないと少し叱言《こごと》をくれるくらいになったそうです。その後も私は、なるべく精神を開発して教えるように勧告しましたところが、大臣はその後ブン擲らないと、かえってよく覚えるようになったといわれたくらいであります。
≪経文の暗誦≫ 大抵一年の間に、十五、六歳になった子供は、三百枚或いは五百枚の紙数を暗誦して、その経文の試験を受けなくちゃアならない。ソレも決して書物によって学ぶのでなくって、そのラーマの口から伝えられて、無意味に暗誦するだけです。その無意味に暗誦した経文、その経を一年に三百枚から五百枚の試験を受けなくちゃアならんのです。一番少ない程度においても、五十枚は暗誦しなくちゃアならん。ソレはごく記憶力の鈍い奴に対する特別の取り扱いで、半年に五十枚ずつ、都合一年に百枚だけ暗誦して、その試験を受けさせるです。モウ十八、九歳から二十五、六歳、三十にいたる間においては五百枚、八百枚、甚だしきは千枚も暗誦する人がある。ドウして暗誦できるのか、私共にはほとんど分らない。私共は半期に五十枚暗誦するだけでも、ヤットコサとできるくらいのことです。
≪鉄砲製造の事業≫ 次に商業上のことについてお話したいと思いますが、それについて私は、明治三四年の一一月一八日に、前に話しました、ダージリンにて知り合いになったところのツァールンバという商人に託して、書面をダージリンおよび故郷へ送ることにしました。このツァールンバは政府の命で、インドのカルカッタへ鉄を買いに行くのです。この鉄はドウするのかといいますに、鉄砲を拵《こしら》えるのです。その鉄砲を拵えるのは、ラサ府の南方にあるキーチウ河の向う側にチェ・チョ・リンという処があって、その東のジブという所に鉄砲製造所がある。これはその時より八年ばかり前に起ったので、ソレまではチベットでは鉄砲を製造することを知らなかった。ところがチベットのハーチェリンという男が、長らくダージリンに住んでおったことがある。一種変った人間で、その男がチベット政府の命令を受けて、インド地方からインドおよびカシミールの回回《フイフイ》教徒で、鉄砲製造に従事した人間を十人ばかりチベットに連れて来て、チベット人にも鉄砲製造法を教えさせた。その十人のうち、死んだ者もあれば国に帰った者もあって、私のいる時分には二人しかおらなかったけれども、チベットの鍛冶屋はその鉄砲を製造することをスッカリ学んで、その人達が教えただけのことは総てできるようになったのです。ドウもチベットでは、他国から鉄砲を輸入することは困難である。殊にインド地方から良い物を輸入することができない。これまでは皆火繩銃ばかりであったですが、今度いわゆる新式の鉄砲ができるようになって、ソレが大分成績が好いので、なお鉄砲を沢山仕入れて大いに製造しようというところから、ツァールンバが政府の命令を受け、金を沢山持ってその鉄を買いに行くことになった。デ内々そのことを私に知らしてくれた。もとより確かな人でありますから、私は早速手紙を認《したた》めてその人に託しました。その手紙はダージリンのサラット・チャンドラ・ダース氏に宛てました手紙で、その中に故郷の方へ発する手紙も封じこみました。
チベット人が、この頃交易のため出かけることの最も多くなっている外国は、英領インドで、その次がシナです。その次がロシアとの関係ですけれども、ロシアとの通商はそんなに開けておらない。コリャほとんどいう必要がないです。政治上の関係は現今にいたり、ますます持ち上って来ましたけれども、通商上の関係はマア絶えてないといってもよいくらいです。私はまず始めに、英領インドおよび隣国ネパールとの交易について少しお話したいと思います。
第八十四回 チベットの物産
≪おもなる輸出品≫ 英領インドの方へ輸出する品物は羊毛がおもで、次が麝香《じゃこう》、ヤクの尾、毛皮、獣皮くらいのもので、なお細かな物は少しくらいずつ出るです。或いは経文とか仏像とかいうものにいたっては、余ほど持ち出すようにインドの方から求めても、ソウいう物は途中で見つけられると没収されるから、余り輸出されておらない。その他日用品も多少輸出されますけれども、すでにシナ茶のごときも、チベットを経てインド地方に来ておったのですけれども、ソレすらもこの頃はすっかり止めてしまったくらいであるから、その他も推して知るべきである。シナからチベットを通じてインドに茶を送るというのは訝《おか》しいようであるが、この茶はインド人が飲むのでなくって、ダージリン近所にいるところのチベット人が飲むのである。ですから、わずかであるけれども、ソレすらもこの頃は輸出を止めたです。
羊毛はカレンポンといって、ダージリンの東にある山都会に出て来る分が毎年ロバでもって五千駄以上六千駄くらいある。ソレからブータンの方に出るのは、一千五百駄以上ある。しかしこれはソレより以上あるかも分りませんが、何分統計などあるわけでもなし、ただその商人について、ドレだけくらい売り出すかということを聞き質《ただ》したまでのことですから、本当のことは分らない。ネパールの方に出るのが二千五百駄内外で、ラタークの方に出るのもやはり三千駄くらいのものと思われる。
≪麝鹿《じゃろく》≫ デ麝香は実にチベットでは沢山である。麝猫《じゃびょう》とて猫のような形の香物《においもの》を持っている動物もあるそうですけれども、チベットのはソウでなくて一種の鹿の類です。やはり草ばかり喰っておりました。その大きさは猫の二倍半、或いは三倍くらいある。形は一寸鹿のようであるが、あんなに背が高くない。可愛らしい狆児《ちんころ》のようなものであって、その毛色は濃い鼠《ねずみ》で、誠にサバサバしたごく軽い毛である。その顔の愛らしいことといったら、実に一見してその動物の性情の愛すべきことが分るです。殊に下顎《したあご》と上顎から二本ずつ曲った美しい牙が出ている。デ麝香は臍《へそ》にあるというような説がありますけれどもソウではなく、あれは陰部、すなわち睾丸の後に膨《ふく》れ上ってついておるです。ですから雌《めす》にはもちろんない。
これを殺すには、月の一五日に殺すと麝香が一番余計あるという。もちろんその麝鹿の大小によって、幾分かその量を異にしておりますけれども、とにかく陰暦の一五日は麝香の満つる頂上だそうです。その時麝鹿のした小便を嗅ぐと、非常に麝香の匂いがしている。一六日、一七日とだんだん月末になるほど、減って行くという。また月が変ると、月初めからポツポツと殖えて、一五日になると充分満ちてしまうというわけで、ちょうど日に関係をしておる。ですから、なるべく一三日から一五日の間に取っておるです。取るのは鉄砲で殺すのですが、しかし、チベットは殺生禁断の場所が沢山あって、その場所には殊にまた沢山麝鹿がおるです。私の住んでおったセラ大学の後の山などには、ナカナカ沢山おりました。けれどもそこは殺生禁断で、そこで鉄砲など放った分には自分の命に関わるくらいのものですから、誰も殺生をやらないです。けれども、またナカナカ賢い方法で取るです。ヤクの尾で拵えたところの紐《ひも》で、山間の草の生い繁っておる処に罠《わな》を拵えておく。スルト麝鹿が草を喰いに来て、その罠に罹《かか》り大いに苦しんで声を挙げて鳴き出すと、そこへ先生やっていって殺してしまう。ソウいう方法で沢山取るのです。
チベットの内でも麝鹿の本場ともいうべきは、コンボおよびツァーリ並びにローバ地方で、この地方には非常に沢山いるから、その地方に行って買えばごく安いです。マア日本で買うほとんど十分の一くらいの値段である。殊にローバの住民はごく野蛮人で、ただその陰部だけを蔽うている種族である。これはチベット人ともインド人ともつかないですが、その言葉によってみると、ドウやらチベットの方に近い。ソウいう人間の持って来る麝香は少しも混り気がなくって、殊に大きな良いのを沢山持って来ますが、値段は非常に安い。何を持っていって買うかというと、小さな鏡、水晶玉、鍋釜《なべかま》、庖丁類、麦焦し、チベットの菓子類、西洋品のごく安い玩具《おもちゃ》類、そんな物を持って行って欺《だま》くらかして換えるのです。
≪麝香の輸出先≫ この麝香はどこへ最も多く輸出されるかといいますと、この頃はシナよりもインドの方に余計輸出されておるです。以前は雲南の商人などはチベットから沢山この麝香を買い出したものですが、インドの方へ吐け口が多くなってからして、値段が大変高くなりましたので、今では雲南の方へ持ち出しても、前ほど銭儲《ぜにもう》けがないそうです。しかし、今でも幾分は持ち出されておるですが昔のようではない。これを雲南からして雲南麝香という銘を打って、我が国などへ輸入して来たらしくみえるです。シナへ輸出するものの中で、一番立派なのはシャー・イ・タクラー、すなわち
≪宝鹿《ほうろく》の血角《けっかく》≫ であります。この血角はシナでは身体を壮健にして寿命を長くし、なお顔の艶《つや》を好くする利目《ききめ》があるというので、いわゆるシナの仙薬を拵えるために、チベットから沢山買い出していくです。ナカナカその値段は高いもので、ごく良い血角になるとその価もまた非常に高い。その角一双の価が、チベットでシナ人の買う値段が、日本金貨に換えて五百円くらいのものがあるです。しかし、ごく悪いやつになると、二、三円しかしない物もあるです。ナゼかというと、ごく悪いものは薬にならない。ただ飾りになるに過ぎない。その悪いのと善いのとを見分けるのは、ナカナカ困難です。チベット人の大抵は、血角といいさえすれば何でも金の高いもののように、五百円も千円もするかのごとく思うて喧《やかま》しくいうておるですけれども、決して黒人《くろうと》の間ではそんなものでない。いかに大きくっても、薬にならんのはごく安いです。
この宝鹿という鹿はどこに多くいるかというと、チベットの東南部に最も多くおるです。また西北部の曠原《こうげん》にも大分におります。その大きさは、ほとんどごく大きな馬ほどある。その形は全く普通の鹿のようであるが、鹿よりも余ほど肥えておるです。その毛色は少しく灰白色を帯びている。なおほかの色のもあるそうです。
≪角の新芽≫ ココに不思議なるは、この血の角は毎年陰暦正月からして新芽を出すのです。その新芽の外部は一面に毛の皮で被われておって、中は全く血で、骨も何もない(師の携帯品の中にあり)。その芽が月々成長して三、四月頃になると、一つくらい枝が生えるです。枝が発すると下の方は少しく堅くなって、骨のような工合に変ずるけれども、上の方は全くの血である。それが段々大きくなって枝に枝を生じ、その枝が成長して九月頃になると、全く成長の極に達するのです。
最も大なる宝鹿の角は、その長さが一丈二尺ほどある。私は実際、その角を天和堂という薬屋へ売りに来たのを見ましたが、その根元から尖《さき》まで計ってみましたところが、今いうたとおりありました。デこれが一番大きな角だという話。その幹の太さは囲り一尺七、八寸あって、つまり血が骨のごとき角になっているのですけれども、その角の全体は根元から尖の方まで、ことごとく毛の皮で包まれている。その角は一〇月から一一月にかけてだんだん枯れたような状態を現して、一二月中旬頃になると、根元からポッキと落ちてしまうのです。毎年、こういうような例で、その角はできては枯れて落ち、落ちてはまた新芽を出すという実に奇態な角であるです。デその血角を取って薬にする一番好い時季は、四月か五月頃である。その時分には、土民がその時を計ってからして巧みに銃殺するです。その弾丸は首筋へあててジキに殺してしまうようにせなければ、その動物を殺したところが間に合わない。
≪血角を砕いて死す≫ ナゼならば、もしほかの処へ弾丸があたりますと、その動物は自分の呼吸のある中にその頭の血角をば四辺《あたり》の岩へ叩きつけて、貴き血を振り棄ててしまうか、或いは土地へ摺《す》りつけてしまうか、とにかくその血角だけは必ず失くして死んでしまうです。ですから、余ほどうまく撃ち殺さないと、その血角を取ることができない。またこの宝鹿は、四月五月の間は自分の頭の血角をよく保護するために、ソンなに遠い処に遊びに出ないけれども、土人は巧みにこの血角宝鹿を撃ち止めるです。私も一番好い血角を求めて来ましたが、しかし、その角は余り大きくなっておらんものですから、値段も少し安かった。しかし薬としては非常に効能があるそうで、チベットの血角を商う大商人に鑑定してもらって、その後買いましたのですから、確かなものでございます。
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第八十五回 輸出入品と商売
≪輸出品≫ ネパールへ輸出する品は羊毛、ヤクの尾、塩、硝石《しょうせき》、羊毛布等の種類です。西北方のシナ地方およびモンゴリヤ地方へ輸出するものは、多く羊毛布の種類である。その種類はナンプ(羊毛製の下等厚地布)、プーツク(羊毛製上等|繻珍《しゅうちん》ようの物)、チンマ(中等羊毛厚地布)、チンチー(中等薄地羊毛布)、デーマ(竪織羊毛薄布)、コンボチェリー(渦巻羊毛布)、ツクツク(羊毛|擬《まが》いの緞通《だんつう》)等で、その他モンゴリヤへの輸出品中、最大部分を占めているものは経典である。次に仏像、仏画、仏器等も輸出しておるです。しかし、この頃チベットでできる仏像仏画は、美術的としては実に詰らぬものである。昔のは余ほど好いですが、だんだん衰えたものとみえ、仏画とは名ばかりで、ほとんど型のようなものです。現にチベットの立派な寺に行って、新しい仏画或いは仏像を見ると、実に嫌になるようなものが沢山ある。最も婬猥《いんわい》な仏、或いは明王とか金剛族とかいうような、仏法を守護する神さんたちまでも、やはり夫婦合体であるから実に見苦しい。
私がチベットにおりました時分に、これがチベット人の短所であろうと考えましたのが、まず四つございます。一は不潔、二は迷信、三は不倫理行の習慣(多夫一妻の類)、四は不自然的美術、こう感じましたが、ソレに対する何か良い長所を見つけたいと思って、余ほど捜しましたけれども、余り良いものを得られない。強いて求むれば、ラサ府或いはシカチェ辺の気候の実に好いこと。次に誦経《じゅきょう》の声の劉喨《りゅうりょう》として実に聞き心地の好いこと。問答の方法の活発なること。古代美術のやや自然的であるということ、まずこれらでございましょう。マダこのほかにも輸出品はありますけれども、略します。
≪輸入品≫ はインドから輸入されるのが一番多い。そのなかでも無地|羅紗《ラシャ》が多い。すなわち青、黄、赤、白、黒、紫の七色、これらは余り沢山売れる方でなくって、お寺の本堂の飾りとかいうものに多く用いられる。最も売れ行き多く、したがって多く輸入されているのは黒蝦色《くろえびいろ》の羅紗です。けれども、余り上等の品はむかない。安物ばかり輸入されておる。ソレから絹ハンカチ、ビルマ縮緬《ちりめん》、ベナレス金襴《きんらん》、薄絹、木綿類、この木綿の中には帆のような厚地の物もあれば、また薄い物もある。色は白地が多く、または浅黄、その中でも余計売れるのは、黒蝦色の無地の大幅木綿晒紗《おおはばもめんさらさ》の花模様、或いは縞《しま》模様物もかなりある。その他、インドから人物、樹、お寺などの書いてある晒紗が大分入っている。これらの品をインドへ来て買います時分には、もちろん英国政府の尺度で買うのですけれども、ラサ府で売る時分には、その切布を四角に折り曲げて、これをチベット語で「カ」という。デ「カ」一個《ひとつ》で幾らということで売ります。しかし、チベットの羊毛などを売ります時は、折には妙なことをして売ることがある。
≪奇なる売買≫ ソレは自分の手を一ぱいに拡げて、これで幾らという売買の仕方です。大きい人でも小さい人でも値段は同じですから、大きな人が買いに行くとこちらが得《とく》をする代りに、商売人が損をする。また肱節《ひじぶし》から指の先までの長さ一つが、幾らという売買のしかたもある。これもやはり大きい人は得をするわけで、我々ごとき者が買いに行くと損です。ソウいう物を買いに行く場合には、大きな人を雇って、ソウして先方で尺度《さし》を取らして買うと、大変得をする。けれども、インドから入って来たものへは、ソウいうことをして売る者はまずない。
ソレからチベット人はナカナカ懸値《かけね》をいう。始めから一定の値段で売るなどということは、ラサ府ではどこの店にもない。必ず懸値をいうにきまっている。信用ある店ですと一割か二割くらいの懸値ですが、それ以下の店では倍、三倍、或いは相場の分らん物は五倍、六倍にもいうことがあるです。デその品物を売買する時のモンラム(願い事)が面白い。
≪モンラム≫ この品をあなたがお求めになって、病気もなくまた煩《わずら》いもなく無事月日を送り、家運ますます繁昌して、かくのごとき品を沢山お求めなされて、遂に多くの家倉を建てらるるようにならんことを願いますといって、品物を渡します。ソレは普通のことですが、お経を売った時のモンラムはなおさら面白い。経文は大抵僧侶に売るのですから、僧侶に対してその書物を恭々《うやうや》しく自分の頂《いただき》まで両手で持ち上げ、「あなたがこの経文をお求めになって、この経文の真意をよく解するのみならず、その正しき意味のごとく実行せられ、しかして、その智慧と道徳とをますます進めて、遂に一切衆生の大帰依主となり、この経典によってますます一切衆生を利益せられよかし」と、熱心に願い立ててその品を渡しますと、客人は例の垢《あか》だらけの銀貨を一寸|舐《な》め、ソレから自分の襟《えり》でその銀貨を拭《ふ》いて、ソウして一応それをよく検《あらた》めてから、さも惜しそうに渡します。
そんなことをするのはドウいう意味かというと、つまりその銭についてある福運までも、共に商人につけてやることを願わぬというところから、その福運だけ吸い取り、並びに拭き取って、しかしてその福運のない殻《から》の銭を渡すという意味である。もちろん大きな商売をする茶商人などは、そんな手間のかかることはしないけれども、普通の人は皆こういうことをやるので、その習慣は地方にいたるほど一層甚だしいです。
≪シナの輸入品≫ シナから多く輸入されるものは絹布類が最も多い。その中でも金襴、羽二重、縮緬《ちりめん》、緞子《どんす》、繻珍《しゅうちん》、綾錦、綸子《りんず》、繻子《しゅす》、モミ、唐縮緬、白地薄絹、絹糸、絹打紐《きぬうちひも》その他銀塊、薬種等も多く輸入されます。シナの輸入品中の大部分を占め、しかしてチベットにおいて、輸入品に対し一番沢山金を費やすところのものは茶である。しかし、この茶はドノくらいチベット国中へ入っているか、計算をしてみることができなかったです。ラサ府へ出て来るだけでも二十五万円ほどのものであろうと思われる。確実なことはむろん分らんのです。東部チベット、すなわちチベット半部に売りこまれる茶は、ラサ府に輸入されるものよりなお余計あろうと思われる。ナゼならば東部地方には住民が最も多いから、余ほど多いだろうと思う。
元来チベット人はソンな貧乏人でも、茶がなくては一日もいられないという有様で、大抵茶を買うことになっておるが、その茶を買うことのできん者は、富貴な人の飲み滓《かす》をもらってそれを煎じて飲むです。デ茶二斤を固めたところの長方形の茶塊(長さ一尺、幅六寸五分、厚さ三寸)一個が、我々がラサ府で買いますと値段が二円七十五銭、ソレは番茶のごく悪いのである。枝のない葉ばかりの茶は五円、時によると五円五十銭くらいすることもある。ラサ府で二円七十五銭の茶は、西北原に行くと大抵三円七十五銭ほどになっております。次に
≪ブータンその他の輸入品≫ ブータン或いはシッキム地方から山|繭《まゆ》で拵えた布、羊毛の広幅布、木綿糸の類が大分輸入されます。なおインド、カシミールおよびネパールの方から、穀類、乾葡萄《ほしぶどう》、乾桃、乾棗《ほしなつめ》および薬種その他、宝石類では金剛石、瑠璃《るり》、しゃこ、瑪瑙《めのう》、琥珀《こはく》、瑜《ゆ》類であるが、なかんずくその大部分を占めておるものは、珊瑚珠と瑜という、髻《もとどり》を飾る宝玉である。品の良いものは金剛石より尊まれている。その代り良い石になりますと、小指の頭ほどの大きさのものでも一千二百円もするです。チベットへは金剛石のごく良いものは余り来ておらん。貴族の家でも普通の中の上等を用いておるに過ぎぬ。珊瑚珠は沢山輸入されているが、日本のように無瑕《むきず》の物は少なく、虫の喰ったような物が多い。ソレでもチベット人は好んでつけます。色は日本婦人の最も好まない赤色、薄桃色もあるが、ソレは勅任官というたような者が髻の飾りに用いる。ナカナカ立派なもので、大きいのは一個百二、三十円もする。しかしソウいう良いのはインドの方から来ずに、シナの方から来るです。インドから入って来る珊瑚珠は、皆虫のついたような物ばかりで、そのほかごく安い枝珊瑚珠を一寸切って、先を円めたような細長い玉を繋《つな》ぎ合わした数珠《じゅず》も沢山入って来るです。年々チベットに入る珊瑚珠は大変なもので、これほどという予算は取れないが、その多くはネパールとカルカッタの方から入って来る。
下等社会では珊瑚珠が高いものですから、ガラス玉を沢山買うです。そのガラス玉は数珠にするので、いろいろの色合いの数珠がラサ府の露店に晒《さら》されてありますが、それらは田舎の人が出て来て、沢山買って帰る。ソレから日本で拵《こしら》えた贋《にせ》珊瑚珠も沢山入る。この珠には、初め随分人が欺《だま》されて金を沢山出したですけれども、今では余り沢山来ていて、本《ほん》珊瑚珠と分ち得ることができるものですから、人も欺されなくなって相場も下落した。けれども、やはり相当の値段に売れておるものとみえて、続々商人がカルカッタから買入れて来るです。
またインドから銀塊、銅、鉄、真鍮《しんちゅう》の類が沢山輸入され、このほかに西洋小間物と日本マッチも多く入るです。デ、経済上からいうと輸入品が非常に多くて輸出品が少ないから、ドウしてもチベットでは金がなくなって困難であろうと思われるのに、その実決してソウでない。
≪チベットの財源≫ は蒙古の方から余ほど来た。その金は蒙古人がただ物を買いに来るよりか、ラーマに上げに来たのが多い。その沢山な金が、つまりチベットの国のものになったので、ソレで幾分かこれまで補いをつけておったのです。チベットは政治上の鎖国を厳格に守っているけれども、通商上においては、決して国を鎖《とざ》すことができない。今、突然通商上の鎖国をすれば、チベットは必ず大|饑饉《ききん》を来たすか、或いは内乱が起るかするであろうと思う。ナゼならば、これまでは蒙古から輸入される金が沢山ありまして、その金によってチベットの財政と経済が維持されておりましたけれども、近頃は蒙古から余り金が来なくなったです。ソレは日清戦争以来、余ほど少なくなった。その上に各国連合軍が北京侵入後は、ほとんどチベットに来る金はなくなってしまったです。すでにチベットに留学しているモンゴリヤの僧侶すらも、自分の家から送らるべきはずの学資金を送られんので、非常に困って、一時学業を中止せねばならんというくらいに立ちいたっておる者も沢山にある。したがって、昔はモンゴリヤ人は学問ばかりして、決して他の俗人社会の業務を取るということはなかったですけれども、この頃はチベットの僧侶と同じように、俗人社会の事業に従事しなければ、食を得られないという哀れな境遇に立ちいたっておる。それくらいですから、チベットへ入るべきモンゴリヤの金は、むろん入って来ない。
加うるに生活の程度がだんだん進んで来て、今より二十年以前は、貴族といえども余り奢《おご》らなかったものが、だんだん他国と貿易するにしたがって、外国のことを見習うて、幾分か体裁を繕《つくろ》い便利をはかるようになったので、しぜん金も余計にかかるようになったです。けれども、商売をしないと金を得ることができない。その商売も、ただ内地だけでやっておった分では到底いかない。多くの利益を得るには外国へ出なくてはならんというところから、少し有力の資産家および僧侶などは、ドシドシ、シナ、インド、ネパール地方へ交易に出かけて行く。
≪通商上の鎖国の利害≫ ですからココで、突然通商上の鎖国をやりますと、この頃はシナから仰ぐところの物品よりか、インドより仰ぐ物品が最も多いのですが、それが全く止ってしまい、第一日用の需用品に差し支えるです。ソレはマア辛抱するとしたところで、自分の国の内にあり余るところの羊毛を売り捌《さば》く道がつかなくなるです。これはともかく、一番の大得意は英領インドです。カシミールの方にも行くけれども、これもやはり英領です。通商上インドと絶ってしまうということは、到底できない。そのあり余る羊毛を自分の国だけで使うということになれば、また以前《もと》のごとくに値段が下って来るでしょう。値段が下れば、遊牧民は金を得ることができない。さなきだに、この頃一体に食物が高価になっておるのに、最も多い遊牧民が金を得ることができんとあっては、その結果は知るべし。必ず饑饉が起るに違いない。
だから到底通商上、英領インドと絶つことはできないです。ソレでも前のごとくにモンゴリヤから金が沢山来ますれば、ソレは随分通商を遮断《しゃだん》しても立ち行かんこともありますまいけれども、今いうとおり、モウこの金の来る見こみはほとんどなくなってしまった。ですから繰り返すようですが、到底チベットそのものは、通商上鎖国をやるというわけにはゆかん。ただ政治上鎖国を守っているというだけに止まるです。かくのごとくチベットでは、だんだん商売の必要が起って来たところからして、この頃はチベット人のすべて、唖《おし》とか聾《つんぼ》とか盲目とかいう不具者、或いは子供くらいを除くのほかは、大抵商売人というてもよいくらい。
そんなら、百姓でも商売をするかといえばやはりします。夏の間は百姓をしていますけれども、冬は別だん用事がないから、北方の沼塩地へ塩を買いに行って、ソレでその塩をまた南方のネパール地方、或いはブータン、シッキムの方へ売りに出かけるんです。僧侶も商売をすることは、先にも申したとおりである。一個の僧侶として商売するのみならず、また一大寺院が、その寺院の資格で商売をする。その時分には大分大きなもので、商隊を組み立てて、或いは百疋ないし二百疋の馬に、二十人ないし三十人の人がついて、それに載せ得らるるだけの荷物を積んで交易に出かけるです。
≪政府そのものもまた商売≫ をしていますので、政府の商隊は、多く北京或いはカルカッタの方に出かける。けれども、商隊に属する人間らは、決して自分達は政府の商業家であるということをいわない。つまり一個人の商業のようにいうているけれども、その政府の商業家は、チベット国内では非常な勢力を持ったもので、到る処で馬を徴発し、食物もまた地方々々から皆納めさせながら、商いに出かけて行くです。ソウですから、普通商業家よりも、政府の商売の方が余計儲かるわけである。華族もやはり商売をする。ソレは商隊を他国へ出すのもあり、また全く商売をせずに、自分の領分から上って来るものだけで衣食している者もある。しかし、これらの人でも全く売買いをしないかといいますと、やはりやります。
全体チベットには余ほど奇態なふうがあって、私共が華族の家などへ行き、何か珍しい物でも見て、これを欲しいと思うと無遠慮に「幾らですか」「さようこれは幾ら幾らです」「そんならこれを私に売って下さるまいか」と、こう出しかけると、「イヤ値段がきまれば売らんこともない」「ソレじゃドノくらいまで負けて下さるか」「イヤそれはいけない」と押し問答の末、値段がきまると、ジキに自分の家に飾ってある道具を平気で売るです。尋ねた人も、別だんその人に恥をかかしたのドウのという考えもない。「イヤ、こりゃ私の処では要る物だから売れない」「アアそうですか」といったような調子で、一向平気です。
どこの家へ行ってもソウいうふうですから、小僧までがやはり売買をやっている。一寸ラサ府へでも行って、何か西洋小間物の奇態な物でも見つけ出して買って来ると、それを寺へ持ち帰って、ほかの小僧を欺して売るとか、ほかの物と取り換えるです。ただ商売をしないのは、いわゆる不具者くらいの者である。その商売も誠実にやるのでなく、前にいうたとおり懸値をいったり、人を欺いたりすることが多い。ドウもチベット一般の人民は、至極|狡猾《こうかつ》な気風に養成されておるです。もっとも未開の所では、真実の仏教が盛んに行われておらんから、こんなふうになっているんであろうけれども、とにかく商売しなくては、安楽に月日を送って行くことができんという気風が、チベット一般の人民に行き渡っておるです。
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第八十六回 貨幣と版木
≪貨幣は銀貨一種≫ その売買のやり方は物品交換もあり、また銀貨で買うこともある。チベットではたった二十四銭の一種の銀貨があるだけですから、買物をするには小さな買物はできない。ソレで切って使うのです。半分に切ったのが十二銭で、三分の二と一とに切り分け、その一方が八銭で、他が十六銭。ソレだけしか分けられない。ところがその切り方が余ほど面白い。半分に切ったからというて、半分まともにあるというのは余ほど珍しい。多くは中の部分をくり抜き、また外側を幾分か削ってしまったもので、三日月形にしてあるものがやはり半分に通用します。ところで一番細かな買物は幾らかといいますと、四銭の買物ができる。その四銭の買物をするには、三分の二の十六銭の銀貨を持って行って、向うから半分の銀貨、すなわち十二銭の釣を取るのです。ところがドウかすると、その半分の銀貨が売手にないことがある。スルと今度は自分の方で、半分の銀貨と三分の二の銀貨(十六銭)と二つ持って行く。デ向うから一タンガー、すなわち二十四銭の円銀を取って、四銭の買物をして来る。八銭の買物なれば、向うへ一タンガー渡して、十六銭のやつをこちらへ受け取る。ソコでチベットでは四銭をカカン、八銭をカルマ、十二銭をチェーカ、十六銭をショカン、二十銭をカーチェ、二十四銭をタンガー・チクと、こういうて勘定をして行くですが、法王領のチベットでは、これよりほかにやり方がないのです。けれどもカカン、すなわち四銭の買物をするのも、ラサ府とシカチェではできますけれども、ほかへ行っては全くできない。モウほかの土地に行けば半分の買物もできない。すなわち一タンガー(二十四銭)以下の買物は少しもできないです。この貨幣のほかに金貨もなければ銅貨もない。またこれより大きい貨幣もなければ、小さいのもない。
≪その地方通用の銀貨≫ ところがチベットの西北原で英領インドに接し、しかして法王領でもあり、またインド領でもあるような地方において、その地方に王様などがありますと、やはり半分の銀貨を発行しておるです。それはその地方で通用しているだけで、法王領のチベットでは通用しない。ソレは平円の形である。こういう貨幣ですから、ナカナカ売買をするにも、余ほど暇がかかって不便でございます。
ソレから一二月頃は、私はお経を買うことばかりにかかっておったです。その前からもちろん経文の買収をやっておりましたけれども、一二月になってからは、金が余ほどできたものですから、ほかのものを買う必要はない。ただお経を沢山買いたいと思って、お経ばかりを買いました。しかし普通の経文は本屋で売っておるけれども、少し参考書にしたいとか、或いはこみ入ったむつかしい書物であると、ソレは本屋には決してない。しからばドウして買い整えるかといいますと、
≪各寺秘蔵の版木≫ その版木は寺々に別々にあるんです。例えば文法上の学者の出た寺には文典の版木があり、また修辞学上の学者の出た寺には、その人の著述された版木が残っているというようなわけで、歴史も論部も皆ソウいうふうで保存されてある。このように版木が別々にあるものですから、その寺々へ版刷《はんずり》人を遣わして刷らせなくちゃアならん。まず紙を買い整える。その紙は紙の樹で拵えたのでなく、草の根で拵えるのです。その草は毒草で根もやはり毒です。その根は白い色で繊維が沢山ある。その繊維でもって紙を製造します。紙質は随分強いが、真っ白な紙はない。少し黒くって日本の塵紙《ちりがみ》のようなものである。ソウいう紙を沢山買い整えて、版刷にカタ(進物用の薄絹)と版代とを持たしてやります。版木の借り賃は、寺によって高い処もあり安いところもあれども、大抵百枚刷って一タンガー、すなわち二十四銭或いは四十八銭、最も高いので一円二十銭ぐらいのところもあるです。ソウいうふうにして、三人なり或いは六人なりの人を遣わして、版を刷らせるのですが、版刷は大抵二人で、一人は刷り上げたのをまとめる役目である。
版刷といったところが、日本の人のようにナカナカ手早くは行かんです。ソレに茶を喫《の》みながら仕事をするのですから、ごく呑気なもので、仕事は一向はか取らない。ですから、割合に入費が余計かかる。デ版刷一人の手間賃が向う扶持《ぶち》で、五十銭ずつやらなければならん。ですからナカナカ書物は高くつくけれども、チャンと刷本になっているものはごく安いです。その代り紙も悪いし、中には版の悪いところが沢山ある。そんな書物でも売っていればよいが、大抵本屋で売っておるのは祈祷のお経と、僧侶学校で用いる問答の教科書です。そのほか少し面白い伝記とか、或いは茶話のような本があるだけのことで、少し学者の欲しいと思うような書物は一つもないです。ソレは、今チベットでは博士になるために僧侶学校に入って教科書を学んでおるけれども、さればとて、参考のためいろいろの書物を調べるというような、面倒なことをやる学者が少ないからでありましょう。
≪本屋は皆露店≫ その本屋なる者も、自分の家で店を出しておるというものはない。チョーカン、すなわち大シャカ堂の前に広場がある。その広場の石の上に、十人ばかりの本屋が大きな風呂敷を広げ、その上へ本を列べて店を出している。ソレも日本のように拡げてみせない。皆積み立てて列べてある。このほかにラサ府では本を売る処はない。シカチェでは、市場に二、三人ソウいう露店を出しておるだけで、そのほかにあるかないか知りません。とにかく私の行った都会では、この二つしか見なかったです。版刷に任《まか》しても、その版木を刷ることを許されん場合には、自分が他から紹介状などをもらい、ワザワザ出かけて行って刷らしてもらうようにして、ソレでようやく書物が整うという始末ですから、ナカナカむつかしい。マアそういうふうにして、大分書物も集まったです。
デその書物は、皆セラの寺に置いてあるものですから、私のおる舎《こや》の近所の坊さんは呆《あき》れかえって、「読まない書物をそんなに沢山ドウするのだろう。実にあの人は遠い国から来ているのだから、あれだけ沢山な書物を持って帰ることはできやしない。博士だって、あの人の持っている書物の三分の一も持っているものはありゃしない」といって、非常に怪しまれたくらい。ソウいう話を聞きましたから、その後買うた書物は皆大臣の宅へ持って行って、自分の部屋に集めておいたです。
さて、一二月も末になって、いわゆる大晦日《おおみそか》となりました。その夜は特に支度をして、まずラサ府のシャカ堂へ指して、燈明《とうみょう》を上げに自分の小僧をやりました。ソレはバターの油を拵えて、ラサのシャカムニ如来の前に列《なら》んである黄金の燈明台に、そのバターの油を注いで上げるのです。別だん黄金の燈明台へ上げたからというて、非常に御供養になるということもございますまいけれども、つまり、シャカムニ如来に対してジカに燈明を上げますには、黄金の燈明台に入れなければ、上げることができない。デ、シャカムニ如来に供養の燈明を上げる時には、その燈明台を借りる代として二タンガー納めなければならん。デ私は自分の舎にあって、まずシャカムニ如来の掛物をかけ、その前にシャカムニ如来の仏舎利《ぶっしゃり》を納めてある舎利塔を置き、大きな銀の燈明台を三つ並べて、バターの燈明を上げ、その他沢山な供養物を供え仏名《ぶつみょう》を唱えて礼拝をいたし、もはや十二時過ぐると思う頃から法華経を唱え始めたです。デ午前四時にいたって、
≪祝聖の儀式≫ を挙げました。祝聖の儀式というのは、神聖なる明治天皇陛下万歳万々歳、皇后陛下の万歳万々歳、並びに皇太子殿下の万歳万々歳を祝願し、次いで日本国家の威力が、旭日の輝くごとく万国に光被《こうひ》せんことを祝願するので、実にめでたい願文である。厳粛にその式を行い、その願文を読み立てて後に自分一人で感じましたことは、チベットのラサ府において神国の天皇陛下、皇后陛下並びに皇太子殿下の万歳万々歳を祝願したのは、大日本帝国|肇《はじ》まって以降《このかた》、ほとんど三千年を経ましたけれども、今始めてかと思いますと、何となくありがたき感に打たれて、我れ知らず涙が溢《こぼ》れました。
第八十七回 願文会《がんもんえ》
≪幾万の燈明≫ 一月四日、すなわちチベット暦の一一月二五日から、サンジョエということが始まったです。この日は、新教派の開山チェ・ズン・カーワのお逝《かく》れになった日で大変な騒ぎ。チベット人は皆家屋の上で百の燈明、千の燈明を供養するのですから、ラサの市中、セラの大寺、ガンデンの大寺、ソレからその間の村々の家の屋根には、幾千幾万の燈明が上っていて、その美しさは喩《たと》えようがない。この日は沢山ご馳走を拵《こしら》えて、ソウして昼の中は皆遊び戯《たわむ》れて踊りを踊る、歌を謡《うた》う、それはそれは誠に陽気な日です。
しかし、ココに一つ随分困ることがある。このサンジョエを行うために、ラサ府の人達は、大抵自分の家へ出て来る目上の人に対して、金をくれといい出す。それはこの一一月一〇日過ぎから乞いますので、サンジョエのために乞食をするのは当り前だといって、随分立派な家の人が金をくれといい出す。私共もあちこちに知っている人があるので、随分金を取られました。あちらで一タンガー、こちらで二タンガーというふうで、ちょうど五円ばかりいりました。マタ来年になったならば、その倍も三層倍もかかるだろうと或る人がいっておりましたが、ソウかも知れません。知っている人が殖えれば殖えるだけ余計取られるんですから……。
サンジョエというのは、チベット暦の一一月二五日の夜の十二時から始まりますので、その意味は普賢《ふげん》菩薩の願文会《がんもんえ》という意味です。二五日の夜から一四日間そのことをやるので、毎夜十二時から朝までお経を読みます。ソレは誰もが詣《まい》らなければならん。私も誠に結構なことですから参拝にまいりましたが、ナカナカ本堂の中は静粛なもので、普通の時から見ますと僧侶も夜分で来る人も少なし、ソレにお経の唱え方の優しいことというたら、音調が何となく厳格であって、自《おのず》から人の心を鎮めるような力がある。ソウいうところを見ると、いかにも極楽世界の菩薩達が集まってお経を読んでいるかのように思われる。
≪堂内の装飾≫ 何故なれば普通の時と違って、本堂の内は綺羅錦繍《きらきんしゅう》で飾りつけられている五色のシナ縮緬《ちりめん》で捲き立てられた柱もあれば、また或る大きな柱は、赤地に青と白との唐草模様の羅紗《ラシャ》で捲き立ててある。デ常には何もかかっておらなかった壁の上にも、また柱の上にも、チベットでは最上等に位する仏画の軸が沢山に掛けられている。その他いろいろの飾物があるのみならず、本堂の中には三千、五千のバターの燈明が燈《とぼ》っておるです。バターの光というものは、菜種油の光よりも非常に白く、一寸ガスの火に似て余ほど明るいです。ソウいう中でお経を読んでいると、何となく自分はありがたい観念に打たれるです。大抵、人は境涯に化せられるものであって、ドウもそこへ行ってみると、自然にありがたくならなくちゃならんようになって来る。なお、その読みつつあるお経の文句の意味などを考えると、そぞろに涙の出ずるを止め得ない。
かかるありがたい普賢菩薩の願文会においても、悪い奴はドウしても化せられぬものか、随分妙なことが沢山ある。夜が明けて僧侶が外へ出て来る時分には、信者が布施をするといって「ゲ」を出します。一タンガーずつ出すこともあれば、半タンガーずつくれることもある。僧侶は出がけにソレをもらうのですが、悪い奴はソレを一遍もらって、またクルッと裏から廻って来てまた一遍、都合が好ければモウ一遍、デ三遍取ったとか四遍取ったとかいうような人間がある。ソレはなるべくソウいうことをしないように、警護の僧をつけてある。ところがその警護の僧が訝《おか》しい。自分が見張りをしておりながら、なるべくソレを取らせるようにする。取らしてそれは自分が取ってしまうです。小僧などはその見張りにいいつけられて、うまく人の間を潜り抜け、クルッと廻ってまた一遍取って来て、私はこれだけ取って来ましたといって、その人に渡すです。スルとモウ一遍やれなかったかくらいの話。もし小僧がいいつけられた時分に嫌がってやらないと、何かにかこつけて太い棒でブン擲《なぐ》られる。小僧は擲られるより盗みをする方が楽ですから、その命に従って盗みをやる。そのことが知れてフン捉《づか》まって、ブン擲られても平気です。もっとも擲られるだけのことで、それがために、寺から追い出されるということも何もない。寺では、ソウいう時分の盗人に対してはごく寛大です。もとより、これは本当の盗人とはいえませんが、しかし、人の家にある物を一つでも取ったという場合には、その僧侶は直ちに退寺を命ぜられるのに、とにかくこういう場合に限り、二度取っても三度取っても、擲られるくらいのことにてすむのは妙です。しかし、私のおった寺では酒に対してはごく厳しいもので、酒を飲んだことが知れると寺を追い出されるです。
≪壮士坊主の奇粧《きしょう》≫ ソウいう悪いことをするのは、壮士坊主に最も多いのですが、壮士坊主というのはすっかり頭を剃っているのもあり、顳《こめかみ》の毛を奴《やっこ》のような工合に、四寸も五寸も伸ばしているのもある。デそれを下に垂らして、吊鬚《つりひげ》のような工合に見せておるのです。しかし、それを厳しい僧官に見つけられますと、その顳《こめかみ》に生えているところの毛を引き抜かれてしまう。一時に沢山の毛を抜くから血が出るです。誠に酷《むご》たらしい有様が見えているけれども、当人はかえって平気です。否、ソウいうふうにして、いかにも勇気|凛乎《りんこ》たる有様を人に示すのであるという。しかし、なるべく僧官に見つからないように、本堂などに来る時分には、その毛をクルッと耳に巻いている奴もあれば、顔一面に鍋炭《なべずみ》とバターを塗りつけて、毛のあるのを分らんように隠している奴もあるです。一寸見るとお化けのようですが、毎日そんな者を見ていると、また何ともなくなってしまう。そんなことまでして、少しばかりの毛を蓄えておくのはドウいうわけかというと、ソレが壮士坊主仲間では、非常に意気だ粋《すい》だといって羨《うら》やまれるからです。
なお厭《いや》なことは、こういう厳粛の法会の時に当って、とにかく金を沢山もらえるものですから、貧乏な壮士坊主の常として、旨い肉を余計喰う奴もあり、また小僧を慕う壮士坊主もある。デ夜の十二時頃に本堂に出かけて行くところの小僧を捉まえて、泣き喚《わめ》く口を塞《ふさ》ぎながら、どこかへ引っ張って行くというようなことも折々ある。それが知れたところで、別だん罪にならん。大抵そのまま打遣《うっちゃ》ってあるです。ソレはみんなそういうことをやるのですから、ソレを余り喧《やかま》しくいうと、かえってその喧しくいい出す僧官が不首尾になって来るものですから、そのまま打遣ってある。多い小僧の中には、面白半分にそこへ行く奴もある。また旨い物をくれるとか、玩具《おもちゃ》をくれるとか、お金をくれるからというて、欲得から好んで行く小僧もある。甚だしきは、少しでも金があるとか、或いは豊かに暮している美しい僧侶を見ると、その小僧はでき得る限りこざっぱりと綺麗に支度をして来て、その金持の僧侶を誘う奴もあるです。ソウして袈裟などを拵えてもらう。誠に穢《けがら》わしい話ですけれども、実際に行われていることですから……。ソウいうことが沢山行われるから、しばしば喧嘩や決闘が生ずるので、実に見苦しいわけです。
≪破戒僧の表裏≫ こういう大罪を犯して、恬《てん》として愧《は》じないところの人間がです、かえって虫を殺したり虱《しらみ》を殺したりすることを、大いに恐れてしないようなこともあるです。ソレからまた、何でもない寺の規則とかいうようなことを、一生懸命に喧《かしま》しういうて守っている。とかく小さなことばかりに拘泥《こうでい》して、イヤ着物の着方はこういうふうにやらないではならんとか、或いは物のいい方はこうだとか喧しくいうて、ソレを守るのが道徳を積んだかのように思っている。ソレからまた堂とか或いは塔へでも参詣した時、もしその堂または塔を右へ廻らずに左廻りをして行くと、モウ大罪を犯したかのように喧しういうですから、人を殺すほどの悪い男でも、やはり堂や塔のある処へ行きますと、必ず右廻りをして、決して左からは行かない。一寸した石瓦《いしがわら》のような仏様の破片《かけ》でもあると、必ず右へ指して廻って行く。ソレは決して悪いことではない。コレには因縁があります。なれどもしかし、そんな小さいことに非常に注意するにかかわらず、人の小僧を夜中|担《かた》げて往ってからして、破戒なことを行うて平気でいるという、その真意が分らない。蒙昧《もうまい》といってよいか、馬鹿といってよいか、いわゆるこれが顛倒衆生《てんとうしゅじゅう》といって、全く逆《さかさ》まな行いをしている者であろうと思われる。
第八十八回 法王政府
≪政府の組織≫ 次に法王政府の組織に移ります。法王政府は非常に錯雑《さくざつ》しておりますので、充分に述べることは困難である。殊に私はソウいうことを専門に調べたのでない。たとえ専門にやるとしたところが、もしソウいうことを専門に取り調べるというと、いかに親しい私の知己の大蔵大臣でも、きっと疑いを起すに違いないです。ですから、なるべくソウいうことはこちらから特に質問しないようにして、何か大蔵大臣と話しつつある間に、折にふれて少しずつ尋ねてみたり、疑いの起らない範囲内において研究したんですから、ドウせ充分なことはない。デ、あちらこちらと尋ね得られる限りは大分尋ねてみたですが、なお細かな部分にいたっては、不明の点も大分にあるです。このことは始めから断っておきます。
さて法王政府の組織は、俗人と僧侶とによって成り立っておる。その数はほとんど均しいので、まず勅任官の僧侶が百六十五名ある。俗人もまた百六十五名もある。僧侶の勅任官をチェ・ズンといい、俗人をズン・コルといっている。その勅任官を一般に統轄《とうかつ》しているのは、僧侶の方ではツン・イク・チェンモという四人の大書記官である。四人の内でもその実権を持っておるのは、その中で一番古く官についたものである。俗人の勅任官を統轄している者は、シャッベー(総理大臣)で、これも四人である。この四人の中でも、やはり一番早くその官についた者にその主権があるので、他の三人はただ相談にあずかるだけで、もっぱらその相談を決定するのは、先任の総理大臣である。
≪内閣≫ は総理大臣四人と三人の大蔵大臣、二人の陸軍大臣、一人の宮内大臣、一人の教務大臣、一人の司法大臣と、僧侶の大書記官とによって形造られている。この僧侶の勅任官の出て来る家筋は、大抵きまっておりまして、決して平民から出ることはできない。まず多くは華族から出ますので、折には真言族、ポン教族、金剛族から出ることがある。その制度は郡県制度か、封建制度かどっちとも名をつけがたいです。
≪華族と人民の関係≫ は一寸見ると封建制度になっております。ソレは華族の祖先という者は、皆国家に功労のある人で、或る地方を自分の領分にもらってある。いわばそこへ封ぜられたようなもので、そこにはその地に属するところの平民がある。デその華族家と家属および平民との関係は、ほとんど国王と人民との関係のようなもので、その平民を生殺与奪するところの権利は、もちろんその華族にあるんです。
またこの華族は平民から人頭税を徴収します。その人頭税は、ごく貧乏人でも一タンガーくらい出さねばならぬ。その上の人になると、十タンガーも百タンガーも納むるものがある。例えば非常に出世したとか、或いは沢山な財産があるとかいう人は、ソウいう大金を納めなければならん。ただ人頭税を納めるだけではない。その華族に対しては、自分が土地をその華族から貸してもらっていることになっておるですから、その租税を納めなくてはならん。ソレでこの人頭税というものは随分苦しい税ですけれども、納めなければ擲《なぐ》られた上に、自分の財産を没収されてしまいますから、非常な苦しい思いをしても、歳の暮には人頭税を納めなければならん。
その税を納むる苦しさにたえずして、坊主になる者も沢山ある。坊主になると人頭税を納むる必要がないからです。税を免れるために坊さんになるくらいですから、ドウせ学問をする考えもなければ、仏教を学んで、人のために働きをしようという考えのあるべきはずもない。或る時、私の師匠のチー・リンボ・チェという方がいわれたことに、「この節、我が国では、坊主の数が沢山あるから仏法が盛んであるといって、大いに悦んでいるがドウだろう。ゴロゴロと要らない石瓦が沢山あるより、金剛石が二つ三つある方が尊いではないか。ドウも困ったものだ」と歎《なげ》かれたことがある。ソレはそのわけなんで、多くの坊主の目的が、すでに人頭税を免れるというにあるのですから……。
しかしながら、一方から考えると実にチベットは残酷な制度で、貧民はますます貧に陥って苦しまねばならぬ。その貧民の苦しき状態は、僧侶の貧学生よりなお苦しいです。ドウいう有様にあるかというと、僧侶の貧学生は喰ったり喰わなんだりしておっても、とにかく月に一遍ずつ学禄をもらうことにきまっているし、また折々は布施物もあるです。デ自分一人のことですから、ドウやらこうやら、その日その日を過ごして行かれるですが、俗人の貧乏人は女房がある。ソコへ子供でもできたら、それこそ大変です。どんなにその子を育てても、多少の金はかかる。その金はどこから借りるかといえば、地主から借りるほかはない。借りたところでめったに返せるものでない。返す見こみのない金を、ドウして地主(華族)が貸すかといいますと、その子が大きくなった時に、その家の奴隷にするのです。ソレを見こみに金を貸してやるのです。というたところで、ドウせ沢山な金は貸さない。むろん少しずつ貸して十円くらいになり、その子が十歳くらいになると、その十円の金のために、十五年も二十年もただ使いをするというわけです。ですから貧乏人の子供は
≪生れながらの奴隷≫ で誠に可哀そうなものです。華族と、その華族に属しているところの平民との関係は、まずこういうふうですから、その点からみると封建制度で、その華族家なる者は、いわゆる諸侯の位置を占めているように思われる。しかしまた、その他の点からみると、また郡県制度であると思われることもある。何故なれば、華族なる者は大抵ラサ府に住しておって、自分の領地に行っておらないのが多い。よしんば、その地に家はあっても留守番だけを置いて、自分達はラサ府にいる。ソウかと思うと、政府から命令を受けて或る郡を治めに行く者もある。デ華族に管轄されている平民のほかに、また政府へ直接に属している人民も沢山ある。なお華族に属しつつ、また政府から幾分の税金を徴収されるです。ですから、人民は二重の税金を払わなくてはならん。人頭税まで混ぜますと、随分沢山な税金を納めなくてはならん。その勅任の僧侶両官は、法王の命令を受けて、三人なり或いは二人なり、司法行政の権力を握って、地方へ租税を取り立てに行くです。地方から取り立てた租税は、もちろん中央政府へ納めるのです。その税は物品もあれば、或いは銀貨もある。殊に金鉱などから納まるところの税の中には、黄金もある。ソレから輸入品に課した税金なども、やはり中央政府に納めるです。
≪租税の費途≫ 中央政府は、その集まった物品および税金を何に使用しているかといいますと、その大部分は僧侶を養うことに使用するです。すなわちラサ府にいる二万四、五千の僧侶と、各地方に散在している僧侶を保護しているのです。しかし、その寺々の坊主なり何なりを、すべて政府で引き受けるというわけではない。ただ事のあった時分に、政府で半分出すとか何とかいうわけで、いわゆるその寺の財産に応じて、政府が補助をするのです。その次が仏堂を普請《ふしん》するとか、或いは仏陀に供養する。そのために随分金が沢山かかる。ソウいうようなところに多く用いられている。
ソレから、親任、勅任およびそれ以下の官吏に、やはり年俸を与えるです。その金はわずかなもので、総理大臣その人でも年に麦が六百石内外、大蔵大臣が麦三百六十石、ソレもキッチリもらうかというに、余ほど妙です。もらわずに打ち棄てておくのもある。私の寄寓しておった現任大蔵大臣は、大蔵大臣になってから、ちょうどその時分が十年目くらいだそうでしたけれども、一石ももらわなかったそうです。「一体ドウいうわけか。義務的にやっているのか。ソレともほかに何か収入があるか」というと、「自分の家に属してある属領から上って来る物があるから、ソレで沢山だ。別だんに法王にご厄介をかけて、そんなに沢山もらうにもおよばぬ」とこういっておるです。しかし、みんなソウいうふうにやっているかというと、「いや、キチンキチンと請求して受け取る者もあるけれども、少し家の楽な者は、大抵はもらわぬことにしている」という。もっとも中にはソウいう好い顔をしておって、内実|賄賂《わいろ》を沢山取る方もある。しかし、私のおった大蔵大臣などは、賄賂をドレだけ持って来なければ、事をせぬというようなことは決してなく、ただ向うから好意上で持って来る物を受け取っておられるだけで、ほかの総理大臣のように沢山取らないようでした。
≪僧俗官吏の職務≫ デこの百六十五名の僧侶の勅任官は、平生何をしているかといいますと、地方の知事のような者に派遣される。もっとも、その時は俗人一人と僧侶一人と、二人ずつで出て行くです。また何かむつかしい裁判事件でも起りますと、地方へ指して僧俗組み合って、二人或いは四人ずつ派遣されることもある。ソレは向うで取り調べをして、裁きをつけて来るだけの実権を持って出かけて行くのです。これまでの例によると、向うで取り裁くといっても、つまり賄賂の多少によって事を決するようになっていたそうですが、現今の法王はナカナカやり手で、ソウいうことをやって来たことが知れると、ジキにその者の財産を没収し、その地位を奪い取ってしまうものですから、大いに恐れて、近頃は大分によく裁断を下すようになったそうです。
しかし、大事件で是非とも法王でなければいけないとか、また大変な悪漢を重き刑罰に処するとかいう場合には、必ず法王の処に持って来るです。スルと法王は、それを裁断して命令を下すのですが、こういうところから考えてみると、法王の資格というものは、余ほど面白いものです。一体、人を刑罰に処して、或いはこれを殺せとか、または流罪にせよとかいう命令を下すということは、政治上俗人の上からいえば当然のことで、少しも不思議はないのです。
けれども、法王といえば具足戒《ぐそくかい》を備えた比丘《びく》である。この戒法の上からいうと、事の善悪いかんにかかわらず、人を殺せという命令はできないはずです。たとい殺してもよい者にしてもです。小乗教の二百五十戒を受けている者は、決して人を殺すことの命令を下すことができない。法王はもとよりその具足戒を受けている人である。だから、その戒法の上からいったら、もちろん人を殺せと命令することができないわけです。しかるに法王はそれをやっている。しからば法王は俗人であるかというに、決して俗人でない。妻君もなければまた酒も飲まずして、チャンと小乗の比丘の守るべきことを守っておられればこそ、セラ或いはレブン、或いはガンデンというような大きな寺の僧侶が、皆この法王の具足戒を受けるのです。
私も法王から具足戒を受けろというて、大変に勧められましたけれども、私はドウもその行いの間違っている人から、その戒法を受けることができないという考えでしたから、とうとう受けなかったです。たとい王様でも、仏法の法則に違ったことをしている以上は、王様であるからといって、具足法を受けるわけにいかないです。しかし、私はこの法王から秘密の法だけは受けました。ナゼかというに、秘密の法は具足戒に関係したことでないからです。
法王その者がすでにソウいう怪しい者ですから、その下におよんでは、僧侶か俗人かわけの分らない者が沢山ある。俗人で僧侶の真似をやっている者もあり、また僧侶は大抵、俗人の真似をしない者はないくらいです。前にも申しましたとおり、耕作、商売等よりして牧畜にいたるまでやるのですから、全く俗人といってよいくらい。ただその違うところは、頭を剃って法衣を着けているだけである。ですから自然、僧侶の中にも壮士坊主というような者ができて、軍人のやることを日課として、なおかつ僧侶の名を保っているというわけです。こういうわけですから、万事が非常に紊《みだ》れておって、チベット仏教の現今の状態は、全く新教派の開山チェ・ズン・カーワがしかれた趣意とは反対のものになって、実に見るに忍びない有様になっているのです。
第八十九回 婦人の風俗
≪ラサ貴婦人の盛粧《せいしょう》≫ 始めに風俗のことを述べます。けれども委しいことをいいますれば、ナカナカ一席のお話では尽きませんから大体を申します。着物の着方は余り男子と変らない。ただ幾分か優しいように着こなすだけであって、着物の仕立方は同じことである。帯は幅一寸五分くらい、丈は八尺くらい。マア細帯のようなものです。ソレは決して結ぶということはないので、その帯の先の織出しの糸が房のようになっておりまして、クルクルと巻きつけて、端切を中へ挾《はさ》みこんでおくのです。ソレから髪の結いようですが、これはシカチェ或いは他の部落の婦人と違い、ラサ府およびその附近の女は、シナ製の大髢《おおかもじ》を入れて中央から左右へ分けます。
実はチベット婦人の髪の毛は短い方ですから、髪を沢山用ゆるほどよいとせられております。左右へフッサリと、ヤクの尾を束《たば》ねたように分けて、ソウしてその分けた毛を後へ下げて四つ組に組むのです。デその両端は、房のついている赤色或いは緑色の絹打ち紐《ひも》で括《くく》り、その紐との繋《つな》ぎ合せには、真珠の紐を七つばかり連ねた根がけのような紐を用いて、両端の締括りにしてあるです。ソレからその真珠の紐の真中には、大真珠、或いは瑜《ゆ》(緑玉)を入れて飾りにしてある。デ頭の頂には高価な瑜、珊瑚珠《さんごじゅ》、真珠等で飾られてあるパーツク(頭飾環)を巻き、その中央にはムーチク・ギ・シャーモ(真珠帽)を戴いている。
耳にはエーゴル、すなわち黄金耳飾り塔(平たい黄金塔にて中に緑玉の飾りあるもの)をかけ、胸にはドーシャル(瓔珞《ようらく》)をかけている。この瓔珞は一番高価なものであると、三千五、六百円もするそうです。時によると、ソレだけ金を出しても買い調えることができんそうです。ソレからケーター(首飾り)、これも宝玉を集めたもので、その首飾りの真中(胸の上部に下っている処)には、セルキ・カーウ(黄金|龕子《がんす》)をつけてある。その龕子一つでも二百円以上、三百円くらいするそうです。デ右の腕には小さな法螺貝《ほらがい》の殻《から》の腕環、左の腕には銀の彫物のしてある腕環をかけている。ソレから前垂れは誰でもかけている。前垂れでも好いのは一個三十六円ぐらいするのがある。そのはずです、チベット最上等の羊毛段だら織ですから……。実に立派なものです。けれども指環は、貴族の婦人を除くのほかは、大抵銀が多いのです。履《くつ》は、皆赤と緑色の羅紗で縫われたところの美しい履をはきます。
ソウいう立派な粧《よそお》いであるにかかわらず、顔には折々|煤黒《すすくろ》い物を塗って、見るからが実に厭《いや》な粧いです。けれども、その国に慣れている人間の眼には、その煤黒い下に赤味があるのが、非常に粋《すい》とか意気とかいうのだそうです。これがマア婦人の身廻りについての風俗といってよい。その容貌はナカナカ美しいのも沢山ある。少し色は黒いけれども、まず日本の婦人とほとんど同じような顔容《かおかたち》をしている。しかし、日本の婦人よりは強壮で、身体が余ほど大きい。とても日本の小さな婦人のようなのは、チベットでは見ることができんくらいです。デ身体の大きなところへ緩《ゆる》やかな大きな着物を着ているものですから、その様子がいかにも寛大に見えている。貴族の婦女子にいたっては、その色の白さといい、その美しさといい、日本の美婦人に対してほとんど譲らないくらいである。
一体、チベット婦人は裁縫というようなことは、決してしないです。綴《つづ》くりするくらいのことでも、やはり裁縫師に頼んでしてもらわんければならん。その裁縫師は男であって、女の裁縫師はない。もちろん、チベットでは機織《はたおり》をする女はある。また糸紡《いとつむ》ぎする者もある。糸を紡ぐといったところで、紡ぎ車があるわけじゃない。細い竹の棒の先に円い独楽《こま》のようなものがついてある。その竹の棒へ練りつけた羊の毛を巻いて、ソウして口でもってだんだん繰り出して、好い加減に長くなったところで、撚《よ》りをかけるという工合にして糸を拵えるのですから、太い糸しかできない。余ほど鍛錬《たんれん》して上手になった人が、まずムラのない細い糸を拵えるくらいのもので、その細い糸といったところで、紡績糸のようなものは夢にも見ることができん。そのほかに糸を拵える方法は、チベットには全くないです。
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第九十回 婦人と産児
≪婦人の業務≫ 上等社会の婦人は何にも仕事がないのです。ただ髪を洗うとか、鏡を覗《のぞ》いてお粧《つくり》をするのが自分の仕事である。地方の婦人は耕作にも出れば牧畜もやるのです。第一、婦女子は乳を煮てバターや何かを製します。
その製し方は煮た乳を好い頃に冷《さ》ますと、その上にクリームができる。そのクリームを取り除けてしまって、その中へ酸乳を入れて蓋《ふた》をして、一日も寝かして(温かに保つの意)おくと、ショー(酸乳)、すなわち固まった豆腐のようなものになってしまう。その酸乳を長い桶《おけ》の内に入れ、その上へ少しばかり微温湯《ぬるまゆ》を入れて、ソウして棒の先に円い蓋のついたもので、上げたり下げたりして充分摩擦すると、だんだんバターとタラー(バターを取った後の実ある乳なり)とが分かれて行く。その分れ加減にしたがって微温湯を加え、なお二時間ばかりも摩擦していると、その中にすっかりバターとタラーとが分解されて、バターはバターでこちらへ取り収めることができる。
ところで、後に残っているそのタラーをよく煮ると、今度は酸《す》い水とその実とが、二つに分かれてしまう。その実というのはちょうど豆腐を漉《こ》したようなもので、チベット語でチューラという。おカラ(豆腐滓)よりはマダ柔らかく、全く豆腐の砕けたようなもので、非常に旨《うま》い。しかし、そのタラーの水も無駄にはならん。ソレを飲むと喉《のど》の渇きを止めるには、ごく都合が好い。少し酸味はあるが、ナカナカ味の好いものです。チューラは生《なま》でも喰いますが、沢山できるものですから、乾し固めておきます。ソレがすなわち乾乳である。婦女子は多くソウいう仕事をやる。ソレから羊追い、ヤク追いに出かける。だから地方の婦人の働きは、あえて男に劣らない。この働きの上からいうても、地方は男女同等であり、また家族の関係からいうても
≪家族の主権者は婦人≫ である。余所《よそ》へ雇われて行った時分でも、男女同じ給金です。別だん女だからといって安いということはない。その代りに働くことも同じように働く。これはやはりチベット婦人が身体が強壮で、いかにも労力にたえることができるからです。ソレから、その性質は一寸見ると、ごく温和でナカナカ愛嬌《あいきょう》があるのです。かかる婦人は決して人に仇を加えたり、或いははげしく怒るということはあるまいと思われるほどであるけれども、時として怒ると非常なもので、ナカナカ容易に承知しない。自分の良人《ていしゅ》が頭を地につけて詫《あやま》っても、肯《き》かないというているのを私は度々見ました。
ソウいう点になると実にわがままきわまったもので、魔女か夜叉《やしゃ》としか思われないほど、恐ろしい有様がみえるです。だからチベット婦人は、或いは猫といってよいかもしれない。常には優しくして、イザこうという時は猫が鼠を捕るごとく、あたかも虎のような勢いを現して、良人を辟易《へきえき》させるです。また、きわめてわがままで、良人を踏みつけて他に男を拵《こしら》えるのを何とも思わんです。実に色欲に耽《ふけ》ることは甚だしい。少し活計《くらし》の思わしからぬ家の婦人などは、ワザワザ他の男の処に出かけて行き、ソレが知れたところで一向平気なもので、良人に向い何をいうかと思うと、「お前は私をよう養わんから、私は銭儲《ぜにもう》けに行ってやった」というような口をきく。実に酷《ひど》い有様です。
ソレからまた小利に齷齪《あくせく》する心がごく鋭い。こうすれば将来ドウいうことが起るとか、或いは一村一国にこういう関係が起ろうなどということは、夢にも思わない。婦人にソウいう注文をするのは少し無理でもありましょうが、少なくとも、他人に対する利害の関係を思うてくれれば、余ほどよいのです。ところが他人はドウでもかまわん。甚だしきは自分の良人が利益を失うても、自分さえ利益を得ればよいというような有様がみえる。実にその点においては鋭い。その鋭い気質が余ほど自分を害している。ナゼならば、自分の利益を得るために自分の良人を害するというのは、つまり自分をも合わせて害するのであるから。ですけれども、そんなことには一向とんちゃくなく、一生懸命に眼前の小利をはかることに汲々《よくよく》としている。ですから
≪チベット婦人の臍繰《へそく》り金≫ というたら有名なもので、奥さんよりお内儀《かみ》さんにいたるまで、臍繰り金のない人はほとんどないです。どんな詰《つま》らない婦人でも、大抵臍繰り金を持っている。いつ離縁されても、「ヘエさようなら」といって出られるように、チャント支度をしてあるです。しかしソウいう悪い点ばかりかといいますと、決してソウでない。また自分の気に入った人に対する時分には、誠に行き届いたもので、ソリャもう、文明の婦女子といえどもおよばないほど、細かなことによく気がついて、何から何までよく世話をする。デ他の人の心を悟り知ることも実に早い。こちらで何もいわない中から、気転をきかして人の欲望を満足させるようにするです。こういうところを見ると、ナカナカ立派な女であると思われるにかかわらず、前にいったような反対した性質を備えている。要するに、チベット婦人は自家|撞着《どうちゃく》の性質を一身に備えた、奇妙奇態な婦人であると思われたです。
≪欲望≫ は先にいったように、小利を見ることに急であるからして、他を顧《かえり》みるに暇がない。しかし、その利益を得るために自分が自立してやるかというに、決してソウでない。ドウしても他に頼らなくては行かないという考えを、始終持っている。コリャ恐らく、チベット婦人の欠点であるかも知れませんが、自分一人で商売をして、充分衣食住をなし得る力があるにかかわらず、なお他人によってその上の利益を得ようということばかり、始終心がけておるです。
まず或る家に嫁入りして後、不幸にして良人《おっと》に死なれても、幸いに財産が自分の手に入ったからというて、安楽に自分の子供を育てながら、後家を守って行くという婦人は、チベットではほとんど見ることができん。ごくのお婆さんとか、ごくの醜婦《しゅうふ》でなければ、後家でいる者は稀《まれ》である。モウ少し売れ口のあるような女なれば、必ず良人を持つ。チベットでは四十、或いは五十くらいまでは嫁入りをするです。というのは、畢竟《ひっきょう》独立心に乏しく、ただ他によって自分の幸福を全うしよう、今得ている状態より好い状態を得たいという欲望、これはマア人として当り前のことで、ソウあるべきはずでもあり、またその心がけがなくてはならんのでしょうけれども……。
というて、その操《みさお》をも守らず自分の身分をも考えずに、良人が死んでマダ四十九日経たぬ中に、もはやお代りができているというにいたっては、実に呆《あき》れかえらなければならぬのです。余ほど教育ある婦人でも、後家を立て通すというような、美しい意気をもって世を過ごすという婦女子は、チベットにはほとんどないです。これでチベット婦人はどんな者かというごく大体は分りましたろうが、さてこの婦人が結婚の礼式は、先に説明したとおりですから、今度はこの婦人が子供を産んだ時の取り扱いについて少し説明をしたいです。
≪産児の命名式≫ チベットでは、男の子ができれば誕生の礼式を挙げますけれども、女の子の生れた時分には、その礼式を行うということはマア稀です。その礼式も地方によって少しずつ違いがありますけれども、大抵男子の生れた時分には、三日経って命名式を行う。最も奇なことは、その子が生れたからといって、決して洗いもしなければ拭《ふ》きもしない。母の胎内から出て来たままで、少し汚れ物をほかへ取っておくだけの話。もっとも産婆《さんば》というような者もありません。もちろん、生れてから日に二度ぐらいずつは身体の各部、殊に頭へ余計バターを塗りつける、それはバターで沐浴《もくよく》するというても好いくらいです。デ三日目の命名式の日になると、まず灌頂《かんちょう》式を行います。ソレは或る僧が秘密の法によって加持《かじ》したところの浄水中に、欝金香《うっきんこう》の花を入れた純粋の黄色な水をその頭に注いで、仏名を唱え礼拝しております中に、おもなる僧侶がその子供に名をつけるのです。
ところが、その名のつけ方が実に奇態である。大抵生れた日柄によって名をつける。例えば日曜日に生れたものなれば、男女ともにニマ(日曜という意味)という名をつけ、月曜はダアワ、土曜はペンバ、金曜はパーサン、と七曜によって名をつけるのです。ところがソウいう名だけでも、同じ名が沢山あって間違いが起るものですから、その上か下へ名をつけて区別する。すなわちニマ・チェリンというと日曜長寿、ダアワ・ブン・ツォクというと、月曜円満という名になる。ソウいうふうに名を分つです。これは、その時その場に立ち会ったラーマが名を与えることもあり、また神下《かみおろし》が名を与えることもあり、或いはその親がこういう名をつけたいといって、直ちにつけることもある。或いは七曜日に関係せずに全く抽象的の名だけつけるのもあり、また動物の名をそのままつける者もある。
いろいろになっていますが、通じて見ると、日本の坊さんの名のような抽象的の名が多い。もしその子供が成長の後、寺に入って坊さんになると、さらにチョエ・ミンといって法名をつける。ソレから命名式の当日は、その親族、朋友等からして、酒肉或いは衣服、または銀子《ぎんす》等の贈物をして来る。デその祝賀のために来たところの人々には、こちらでも茶、酒、米飯、肉等いろいろの饗応《きょうおう》をします。しかし、こういうふうに祝賀または饗応をするのは、都会およびその附近の地方だけで、辺鄙《へんぴ》の土地では富貴の者でなければしない。
さてこの命名式を挙げおわりますと、その式に臨んだ僧侶は、その村の神様および家の神様に対し、今度こういう名の子がこの家に誕生しましたから、この後は尊き神様の守護の下に保育されんことを希《こいねが》うというて、読経供養をする。この読経供養は、新派の僧もあれば古派の僧もあり、或いはまたポン教の僧侶もあって一定しておりません。もし神下の家に子が生れた時分には、僧侶を頼まず、神下自身に命名の礼式を挙げるです。
≪子供の遊び≫ この子供らが、ラサの野でドウいうふうにして遊ぶかといいますと、やはりどこの子供でもアドケない。まず冬なれば雪の投げ合いが最も楽しいので、夏は角力《すもう》と石投げ、どっちが余計遠くまで投げたとか、ドレだけ大きな石をドノ点まで投げたということ、ソレからまた、向うの方へ的《まと》を拵《こしら》えておいて、そこへ大きな石をブン投げて、落してしまうというような遊びもするです。
悪い子供は大きな人の博奕《ばくち》を見習って、博奕をやるものもある。ソレは日本でいえばメンコのような一種の土塊を拵えて、それを遠く投げるのをこちらにいて打つというやり方、それからまた、線を描いておいて、その中に銀貨を入れておく。ソウしてその銀貨を叩き出すというようなこともやっておるです。これは日本の遊びと同じことである。ソレから繩を一筋持って、自分一人で頭の上から足の下へかけて廻しては、飛び廻して飛ぶという遊びもある。この遊びはまた、十人ばかりで行うこともある。例えば二人の子供が長い繩の端を持って、クルクル廻すのを、十人の子供が足|拍子《びょうし》を揃えて、ヒョイヒョイと巧《うま》く飛び越えるです。これも日本の子供と同じで、その飛び越える間に、もし一人が繩に引っかけて躓《つまず》くと、今度は自分が繩持ちになって、それを廻すことにしておるです。これは男の子ばかりではない。女の子供も随分やっている。
そのほかに、アゼ・ハアーモといって、男女混合して、河原乞食の芝居のような真似をして遊んでいるのもある。また鞠《まり》を投げて遊ぶことも、稀《まれ》には行われておりますけれども、これは沢山にありません。チベット人は馬に乗ることが非常に嗜《すき》ですから、貴族の子供などは馬の駆競《かけっこ》をやって、始終遊んでいるけれども、貧乏人の子供はソウはいかんから、野辺へ出かけて行って、馬の形をしている岩に捉《つか》まって、一生懸命走っておるつもりで、その岩の上で遊んでいる。今、記憶に浮んで来たのはこれくらいですから、男の子の遊びはこれだけにして、
≪女子の遊び≫ はどうかというに、これも他の国と同じく、男の子に比べるとやはり優しいです。日本の雛事《ひなごと》というような物祭りの遊び、ソレからまたアゼ・ハアーモの歌を謡《うた》い、或いはラーマ摩尼《マニ》といって、仏のした行い或いは昔の高僧の歴史、または大王が行うた事跡について、いろいろの説明の絵が描いてある、その絵をば、哀れな声、面白い声、活溌な声、いろいろの声で説明する調子が、歌のように聞える。一人の女の子が壁の際《きわ》に立って、歌を謡《うた》う調子で説明の真似をすると、ほかの女の子は謹聴しながら、その音頭取りの声に和して、チベットふうの念仏を唱えるです。ソレがいかにも可愛らしくみえる。
このラーマ摩尼というのは、チベットにはナカナカ沢山おりますが、ラサ府には冬分は余りおらない。というのは、冬分は皆地方へ出稼ぎに行くからです。ちょうど五月頃になりますと、地方の方は農業或いは牧畜のことが忙しくなって、ラーマ摩尼は地方におったところが銭儲《ぜにもう》けができないから、ソコでラサ府に集まって来る。その時分が、ちょうどラサの野辺に小さな赤|蜻蛉《とんぼ》の飛びかう時節で、その赤蜻蛉が青い草の間を飛ぶようになると、ラーマ摩尼が出て来るものですから、その赤蜻蛉を称して、ラーマ摩尼というておるです。デ子供らはそのラーマ摩尼(赤蜻蛉)を捉《つか》まえに行くのも一つの遊びです。野辺に出てあちらへ走り、こちらに走り、時には水の中に没《はま》りこんで、濡れ鼠《ねずみ》になったその着物を脱いで乾かし、自分は裸体《はだか》で走っている子供を折々見るです。ソウいうのが一番子供にとって愉快な遊びである。
第九十一回 迷信と園遊
≪病根は悪癘《あくれい》≫ チベットでは、病人の全癒《ぜんゆ》をはかるには医薬がおもなる部分でない。最も主要なる部分、すなわち病人に対し最も有効なりとせらるる部分は祈祷《きとう》である。彼らの信仰によると、病気は大抵、悪魔、厄鬼《やっき》、死霊等の害悪を加うるによるものであるから、まず祈祷の秘密法によって悪癘《あくれい》を払わなくては、たとい耆婆扁鵲《きばへんじゃく》の薬といえども決して利くものでない。
デいかなる悪癘が今その病人に対して禍いを加えているかということは、普通人間の知らないところであるから、まずこれを知るためにはラーマに尋ねなければならんというので、ラーマの所へ指して書面を持たして尋ねにやるとか、或いは使いをやって尋ねるとか、または自分で行って尋ねるです。スルとラーマはいろいろそのことに関する書物等を見て判断を下し、これは郎苦刃鬼《ラクシャキ》の祟《たた》りであるとか、或いは鳩槃陀鬼《クハンダキ》または夜叉鬼《やしゃき》の害であるとか、或いは死霊、悪魔、その地方の悪神等が祟りをしているとかいうことをよく見定めて、ソレに対する方法として、どこのラーマに何々のお経を読んでもらえという。
もっともラーマの名を書いてあることもあれば、また書いてないこともある。ソレは誰でもやれる方法である時は名は書かない。少しむつかしい方法になると、誰それという指名をするのです。ソコでお医者さんはというた時分に、まずこの秘密の法を三日なり四日なり修めてから、どこのお医者さんを迎えろということもあり、またこの法を修むると同時に迎えるということもある。或いはこの病人は薬は要らない。今まで飲んでおった薬はよして、ただ祈祷だけで治るというような説明もある。ソレはいろいろになっていますが、まずソレを尋ねに行きまして口で答えをするのは、そんなに高等のラーマではない。中等以下のラーマがやります。中等以上のラーマですと、その方法書を自分の侍者に書かせてラーマ自身が実印を捺《お》し、そしてその書面を尋ねて来た人に渡すです。
デ、今日医者を迎えれば助かるべきはずの病人でも、その方法書に、五日の後に誰それを迎えて治療を頼めと書いてありますと、チベット人は病気はドウあれ、まず悪魔を払ってしまわなければ、たといお医者を迎えて薬を服《の》んだところが、到底治るものでないと堅く信仰しているから、まず祈祷をする。
それでその日に病人が薬を得ないために死んでしまっても、その家族らは決してラーマなり或いは神下《かみおろし》なりを、不明であるというて怨《うら》むこともなければ、悪口をいいもしない。かえって「なるほどエライラーマだ。モウ今日死ぬことが分っておったから、お医者さんを迎える必要はないというて、わざと五日の後と書かれた。さすがに感心なものだ」といって感心しておるくらい。もしもソウいわずに、理屈の分った者が「ドウもかのラーマは詰らないことをいうものだ。あの病人は、かの時に薬を服ましておけば助かるべきはずであるのに、アアいう馬鹿な方法書を書いてくれたために、トウトウ病人が死んでしまった」などといいますと、世間ではかえってその人を非常に罵倒《ばとう》し、「彼は外道である。大罪悪人である。ラーマに対して悪口をいうとは不届である」というて、非常に怒るです。その怒られるのが怖さに、よく分っておっても、何もいわずに辛抱している人間も沢山あるということは、私が確かに認めたところです。
もっとも医者といったところで、ほとんど病気を治す方法を知らない。ごく古代の、インドの五明《ごみょう》中の医学が伝わっているだけで、その医学もごく不完全なものである。しかし、不完全な医学だけでも、心得ていれば、病人に対して幾分の助けをなすことができるでしょうけれども、彼らはその医学の何たるを知らずに、ただ聞き伝えくらいでやっている者が多いのである。
≪薬剤中の草の毒≫ チベットの医者の用うる薬の中には、総てツァー・ツク(草の毒)の入っておらぬものは少ない。このツァー・ツクというのは草の根の毒であって、これを多量に喰えば死んでしまうです。つまり興奮剤のようであるけれども、少し多量に入れてあるのを服《の》むと、身体の各部に痺《しび》れを起すことがある。また少量でも病気の都合によっては、非常に腹を下すこともある。
とにかくその薬を服んで病気の治る治らんにかかわらず、必ず病人に対して何かの変化を与えるです。その変化が起ると、病人に利いたような工合にみえるから、お医者さんは利目をみせるために、どんな薬にもツァー・ツクを入れる。昔、漢方医が大抵薬の中に、甘草《かんぞう》を薬の導きとして入れておったようなものでしょう。もっとも一、二の例外はあるけれども、その大部分はソウですから、病人はたまらない。決して自分の病気に適当した薬をもらうことができない。その不完全な医学すらも学ばずに、医者をやっている乱暴なドクトル先生が跋扈《ばっこ》しているのですから、恐らくソウいう薬をもらうよりは、祈祷者に祈祷だけしてもろうて自分の心を安んじ、そして自然療養、或いは信仰的療養をやる方が、かえってチベット今日の状態では、大いに得策であると私は考えたです。チベットでは
≪チャンサ≫ すなわち酒宴を開く仕方は種々ありますが、その中でもチベット人の最も喜ぶ酒宴であって、私共が見ても一番良い有様を現しておるのが一つある。ソレはリンカというて、園遊を試み、その園で酒宴を開くのです。これがチベット人が酒を飲む中において、最も高尚なやり方である。このほかに酒を飲んだり、寄り集まる時分には、いつの場合でも大概|喧嘩《けんか》口論が多い。けれどもこの園遊に行った時分には、いかなる破落戸《ならずもの》も余り喧嘩をしているのを見ないです。全くないという断言もできますまいけれども、私の見聞したところでは、そんなことは全くなかった。壮士坊主なども、園遊を試みる際には、随分荒い遊び方をやるけれども、さて喧嘩は余りしないのでございます。
デ、その園遊はドウいう処で開くかといいますと、ラサ市中を離れて三、四町も行くと、南の方向の河のある処を除くのほか、西、北、東の何れにも林が沢山ある。その林は或る大家の別荘になっておって、全く垣を廻らして、中に人の入ることのできんようになっておるのもあり、また持主がありながら、ごく自由に誰もがそこへ遊びに行くことができるようになっているのもある。その中でも殊に好いのは、キーチウ河の岸にある林であって、その林は樹の繁っている処もありますけれども、下は皆青芝で、毛氈《もうせん》を敷きつめたごとく至極美麗に見えている処もある。もちろん冬の間は枯れてしまって、ほとんど何もないかのように見えておるけれども、四月末から五月になりますと、余ほど芽が出てごく綺麗になるです。殊に河端ではあるし、日本でいう糸垂柳《しだれやなぎ》のごときものもズッと茂っておりますし、桃の樹なども随分その間にある。殊に桃の花の開く時分は、余ほど美しい。
チベットでは、冬の間は枯れ果てた岩山、禿山《はげやま》、および青味かかったもののない、いわゆる灰色の野原ばかり見ていなければならん。冬の一番の眺めは雪の降った中に、あまたの鶴が逍遙しておるのを見るのですが、ラサ府では雪が降っても大抵二、三日で融けてしまう。その雪も一尺以上積るということは稀です。ですからその綺麗な雪景色も、長く見ておることはもちろんできない。地方へ行けばいつまでも雪の積っている処もあるが、ラサ府では決してそんなことはない。デ冬の間はいつも枯れた景色ばかりを見ているので、人目も草も枯れ果つるばかりでなく、心までいかにも生気がないような塩梅《あんばい》に、その楽しみがなくなってしまうです。折から野原は一時に青草で満たされ、ソウしてその間に緑葉青々と生い茂るのであるから、人の心も何となくのどかになって、野外の散歩を試みずにはいられない。めいめい思い思いに、或いは三々五々隊をなして、酒を入れた皮袋または酒の瓶《びん》を持って出かけるのです。
≪園遊に用うる酒≫ そのご馳走は小麦の焼パン、小麦粉の油揚《あぶらげ》、乾乳《ほしちち》、乾葡萄《ほしぶどう》、乾桃、乾肉の類で、その家の下僕がその食物と、敷物および野辺で茶を沸《わか》す道具などを持って行くです。デ朝九時頃から出かけて、午後四時頃、或いは六時頃までもそこで酒を飲み戯れ遊ぶのですが、その酒はネーチャン(麦酒)、ベーチャン(米の酒)を用い、米酒はごく少ない。或いは全く用いない者もあって、多くはネーチャンを飲みます。
この麦の酒の製法はビールなどのようなわけではなく、ごく単純な方法で拵《こしら》えている。ソレはまず始めに麦を煎《せん》じます。その麦も黒いまま洗いもせず、ジキに水を入れて、よく煮たのを拡げて冷す。その冷す間に、麦芽《もやし》を入れてよくこれを攪《か》き混ぜ、壺に入れて麹《こうじ》を寝かすような工合にして三日ぐらい経ちますと、ソレが全く麹に変じてしまう。その麹の中へ水を汲みこみ、ソレをよく混ぜておき、ソウしてその上澄からだんだん汲んで行くもあれば、またその滓《かす》を絞り取って、汁だけ売るのもある。ソレでマア麦一升から酒を五升くらい取るのですから、その薄いことは実に甚だしい。特別に良いのを拵える時分には、二升くらいしか取らないそうです。しかし、そんな良いのは通常売っておる処にはない。
今いうたとおりの拵え方で、三日も経つと酒ができる。チャンとそれを絞り分けて、六、七日を置きましたのは、ソレはモウ貴族が飲む酒として、非常に尊いもののように思っておるです。ナカナカ長くは置かない。一月も置いたのはモウ余ほど古い酒として尊ばれているのです。その酒をガブガブ飲むのですが、ドノくらい飲んでもそんなに酔うということはない。余ほど沢山飲まなければ酔わない。殊に寒い処ですから、酔いの醒め方も早いようです。だが朝から晩まで、また晩から朝まで、飲み続けに飲んでいることもありますから、その場合には随分彼らも沈酔して、前後不覚になっているようなことも随分あります。
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第九十二回 モンラムの祭典
≪休養日の乱行≫ 次にチベットで一番名高いモンラムという祭典について述べます。これはチベット暦の一月三日から始まるので、時によると四日から始まることもあるです。二四日までその祭典が続いて、二五日にいよいよ終りの式を挙げます。これはチベットで最も大なるお祭りであって、また大|祈祷会《きとうえ》である。モンラムというのは願いをかけるという意味ありて、祈祷をするというようなことではない。だがその実際は、シナ皇帝の万歳、万々歳を祈るためにやる方法でございますから、その真実の意味を訳すると、大祈祷会ということになるです。けれども、字義どおり直訳すれば、願いをかけるというだけのことである。
デ、チベット暦の一月一日からこのモンラムの始まるまでは、いわゆる初春の祝いである。この祝いはやり方は少しく違っておりますけれども、やはり元日を祝するというにいたっては同一です。僧侶は三日からこの大法会に出て、読経その他の忙しき仕事に従事しなければならんというところから、大抵一二月二〇日から正月休みという休養日を与えらるるが例です。
その休みの時分に寺に行ってみると、実に驚くばかりの有様を呈している。私はいかにチベットでも、そんなことはあるまいと思いましたが、それは非常なもので、寺の中で公然|骰子《さい》を転《ころ》がして博奕《ばくち》をやっている。どんなに喧《やかま》しゅう夜通しやっていても、誰も何ともいう者がない。子供も皆|旨《うま》い物を喰うて遊びほうだいに遊ぶのですから、私共に置いてある小僧なども、常はおとなしいけれども、モウこの時ばかりは少しもいうことを肯《き》かない。夜などはどこに行ったのかちっとも帰って来ない。ソウいうことが度々あって用を弁ずることができんので、大いに困ったことがある。そのほかに雇い入れてある小僧も、同じように出て行ってしまって、二人とも間に合わぬというようなわけ。これらは、例の汚穢《おわい》なことをやりに行くらしいようでありました。
ソウいう時分に堅く身を守ってジーッとしておる人間は、ほとんど馬鹿なような有様で、学者といわれて平生むつかしい顔をしておる人も、その時はほとんど酒の飲み続けで、酔い潰《つぶ》れたかのように精神が紊《みだ》れてしまう。骰子転ばしをするもあれば、花を弄《もてあそ》ぶもあり、随分立派な人でも喰物の賭けぐらいはやっておる。ソレが非常に愉快なものとみえる。殊に壮士坊主などは歌を謡《うた》うやら角力《すもう》を取るやら、何が何やら寺の中いっさいが乱暴世界になったとしかみえない。近来ますます甚だしくなったようですが、この時にいたれば、もはや平生の厳しい法律も宗規も皆自由を解かれてしもうて、さながら魚が網から飛び出して、再び大海に泳ぎ出したかのごとくに、めいめい勝手に自分の思うままにやるという有様です。
ただこの場合において、女を寺の中へ引きこんで、怪しいことをするというようなことは少しもない。例の美しい小僧が最も忙《せわ》しく、最も収入の多い時だそうです。心あるラーマ博士はこのことを大いに歎《なげ》いて、その寺の僧侶等に忠告したような著書もあるくらいですから、全くこれをよいと思っておる人ばかりではない。少し寛《ゆるや》かにするくらいのことはむろんあるべきはずですが、或いは博奕をしたり、公々然と汚穢な振まいをしたり、神聖に保たるべき寺の中の騒しいこと、なお市場より甚だしいというにいたっては、言語道断の次第で、全く仏法滅亡の兆《きざし》を顕わしている。忠告的の書物が幾らあったところが、先生らの耳には馬耳東風《ばじとうふう》というよりも、見も聞きもせず、いわゆる余所《よそ》の国にある結構な宝物とちっとも違わんのでありますから、何の役にも立たんです。
≪祭祀《さいし》前の光景≫ 以上のごとき乱行が一二日ばかり続いて、いよいよ三日から始まるとなりますと、各寺から僧侶がラサ府を指して出かけて来る。もちろん、セラの大寺からわずかに一里半の道程《みちのり》ですから、三日の朝早く出て来れば間に合います。レブンからは三里くらい。これもその日で間に合う。ガンデンから十六里余あるから、二日前から出て、二日の晩か三日の朝着くように、大抵ソウいう都合に出て来るです。その他小さな寺々からもまいりますが、この時ラサ府に集まる坊さんの数は二万五、六千人、歳によって多少はありますけれども、まず大抵そのくらいの数である。
その僧侶はどこへ泊りこむかというと、一般に町家です。町家では一室なり二室なりを明け渡して、僧侶に貸すというのがラサ市民の義務になっておる。良い僧侶は、五人或いは十人の弟子坊主を連れておりますが、二室ぐらい借りて別居することができますけれども、詰《つま》らない僧侶は、二間四面の室に大抵二十人くらい住んでおるのでございます。マダそのほかに小僧の五、六人もおるというようなわけですから、鮨《すし》を詰めるように詰めても寝られんで、外へ寝ている奴もある。もっとも雪でも降らなければ、彼らはソウ酷《ひど》く寒さを感じないから、外へ寝ることは一向平気で何とも思わない。
ラサ府の住民は大抵平生五万くらいのところへ、不意に二万五、六千の僧侶が入って来る。その上に、各地方から沢山な参拝人が出て来ますから、ナカナカ大変な人数です。しかし、この地方から出て来るというのは今の法王になってからのことで、その前は地方から出て来るどころの騒ぎでない。ラサ府におる人間がドシドシ地方へ逃げ出したというくらい。「ソリャどうも奇態だ。モンラムという大祈祷会があって、沢山な人が集まって来るほどなれば、市内にいて交易でもすれば金が儲《もう》かるではないか。ドウいうわけで市民がかえって地方へ逃げて行くのか」という疑いが起りましょう。けれども、ソレはこの法王以前におけるラサ府のモンラムの事情を知らないからである。
≪執法僧官の圧制≫ 昔はモンラムの時は、執法僧官なる者が非常の圧制を加えたものであります。その執法僧官は、どこから出て来るかといいますと、レブンという三大寺中の一番大きな寺から、一年交代で二人ずつ出て来るです。これはシャーゴというて、つまりレブン寺の法律を司る僧官である。この僧官の位を得るには、まずその当時の政府の役人に、三千円から五千円までの賄賂《わいろ》を納めなければならんです。競争する人間のいかんによって、三千円で得らるることもあり、また五千円かかることもあります。デその僧官は、一年間レブン寺の法律を司ると同時に、ラサ府におけるモンラムと、このあいだ説明しましたチョエン・ヂョエという法王に対する大祈祷を行う間、ラサ市内の執法官となるのです。
ソレでモンラム祭のその時は、ラサ府はすべて僧侶の道場となりまして、人民の総てはその執法官の下に服さなければならん。ところで執法僧官は、ラサ府において大いに金儲けをしなくてはならん。というのは、もと三千円以上、五千円以下の賄賂を使《つこ》うたからで、その使うた賄賂を取り戻す上に、自分が一生安楽に暮せるだけの金を儲けなくてはならんという考えから、市民に対して虐政を施すそのやり方が実に酷《ひど》い。一寸門口の掃き方が悪いとか、或いはそこに塵《ちり》が一本あったというて、百円の二百円のという罰金を命ずる。何かその時分に喧嘩でも起ると、ソレこそ非常な罰金を命じます。ただ罰金を命ずるだけではない。やはりブン擲《なぐ》られるです。ソレからまた、貸した金をドウしても返さないという場合には、この時に願いを出《いだ》しますと、まず貸した人間はその半額くらいしか取ることはできないけれども、確かに取ることができます。その代り借りた者は、すべての財産を没収されるのみならず、その親類にまで累をおよぼすことがあります。実に乱暴なやり方で、ほとんどその時の執法僧官なる者は、無限の権力を持っているところの強盗としか思われないほどの悪法を働くです。
ソコで市民はたまらないから、「ソレ明日からモンラムが始まる」という時分には、その前日、早いのは四、五日前から道具はことごとく一室に入れて錠をおろし、自分達は田舎へ逃げ出してしまって、ソウして留守番を一人くらい置いて、僧侶に総ての室を貸し与えてしまうというわけですから、モンラムの時になると十分の一くらいの市民しかおらないで、全く僧侶ばかりが暮しておるという有様になってしまうです。
≪高僧の諷刺≫ かの執法僧官は、人がおらぬから金を取らぬかというと、何とかかとか口実を拵《こしら》えて、或いは僧侶より、或いは居残りの人民より、沢山な金を取り立てる。デその収入を見当に沢山な金をかけて、わずか一か年間レブン寺の執法僧官とならんことを希望する人間が、沢山あったです。この執法僧官は、モンラムの間とチョエン・ヂョエの時に、ラサ府市民および僧侶を苛《いじ》めて金を取るのみでない。そのほか自分の寺へ帰れば、自分がその役を持っておる間は、寺ででき得るだけ賄賂を貪り、他の僧侶を虐《しいた》げて自分の一家を肥《こや》すことに力《つと》めておるのです。あたかも仏の寺の中で大強盗、大悪魔が横行|跋扈《ばっこ》しておるようなわけである。
これについて面白い話がある。或るラーマ、この方は確かに神通力を得ておって、地獄に行くこともできれば、極楽或いは天堂にも行くことができると、社会から信用されておる方です。或るラサ府の商人がその方の処に行ってからして、「あなたは地獄にお越しになったそうですが、どういう方が地獄の中で、最も重い苦しみをしておりましたか、さだめし御覧になりましたろう」というて尋ねた。「ハァ見て来ました」「ドウいう有様ですか」「ドウも驚いたね、地獄の中に坊さんの多いには。ゴロゴロ坊主頭が、鉄の臼、鉄の杵《きね》で酷い鬼に叩き潰されて苦しんでおるのを見たが、ソレでもマア普通の坊主は、地獄の中でも少しはまた楽なことがある。一番|酷《むご》い苦痛を受けておる人間の顔を見たところが驚いたね」というと、その商人は大いに驚いて、「それは誰ですか」と尋ねると、「ソレはレブンのシャーゴよ。彼は無間《むげん》地獄で一番エライ苦しみを受けておった。シャーゴといえば、我が国にあっては空飛ぶ鳥も落ちるほど恐れられたが、地獄に行くとザマのないものだ」という話をなされたそうですが、なるほどシャーゴの行くべき未来の世は、地獄よりほかにないかも知れません。
≪祭典中のラサ府≫ さて、いよいよモンラムが始まるとなると、ラサ府の市街に行列しておった人糞は、どこかへすっかり持ち運ばれて綺麗になってしまう。ソレから市街の真中の小便と人糞で埋もれている溝《みぞ》も、皆埋まって平らな道になっておる。実にラサ、すなわち神国という名のとおりに、美しく掃除が行き届いてしまうです。この時は僧侶に取っては、ラサ府におって一番気色の好い時で、どこへ行っても美しい。
平生は、僧侶でも婦人でも一寸|蹲《つくも》って垂れ流しをやるですが、この時はソういうわけにいかんです。やはりお厠《ちょうず》に行かなくちゃアならん。尾籠《びろう》な話をするようですが、ラサ府のお厠というのは、大抵一軒の家に一つか二つある。また一つ長屋の内に一つとかいうような工合に、ナカナカ大きく建てられてある。その大きさは、二間四面ぐらいで、その中へ皆入って行く。もっとも入口は小さなもので、中に入るとその二間四面の漆喰《しっくい》で固めてある土間に、深さ一丈、長さ六尺、幅六寸ほどの穴が穿《うが》たれてありまして、その穴の両側に、四角な大きな柱が置かれてあります。ソウいう溝のような長い穴が、二間四面の内に、二つ或いは三つぐらい穿ってあって、一つの穴でも二人或いは三人ぐらい列《なら》んででき得るようになっているのですから、ちょうど九人か十人ぐらいの人が、一度に大小便をなし得ることができます。チベットでは、立ってお便《ちょうず》をすることは、在家の男でなくてはほとんどやらないです。僧侶および婦人、在家の男子でも、少し心がけのある者は皆蹲って小便をする。ソウいうふうに、一家の内でもやはり共同便所のような工合になっておって、その間に仕切りがない、すなわち男女混合ですが、少しも愧《は》ずる様子はないです。
≪祭典中の僧侶≫ ソコでモンラムの大祈祷会をどこで行うかというと、シャカ堂において行う。そのシャカ堂は三階造りの大|伽藍《がらん》ですが、ほとんど詰めきれないくらい集まる。その時のせせこましいことというたら、たまらんです。人間の箱鮨詰というのは、アアいう時を指していうのでしょう。子供などは、人と人との間に挾まって動けない。ドウカすると、出|際《しな》に混雑して踏み蹂《にじ》られて死んだというようなことも折々あるです。日に三度ずつ僧侶を集めるのが例で、まず朝五時に始めて七時に終り、二度目は十時に始めて一時前に終り、ソレから三度目は、三時から始めて四時半頃に式を終ってしまうので、金をくれるのは二番目の時です。
信者の布施もあればまた政府からくれる金もある。一遍に一タンガー、すなわち二十四銭、或いは四十八銭ないし七十二銭くれることもあって、一定しておらぬ。大抵、二十一日間の僧侶一人の収入は、毎年五円以上十円くらいまでで大差はない。もし法王が位に即《つ》いた時とか、或いは御出生、御|薨去《こうきょ》とかいうような場合は例外で、普通の僧侶でも一人二十円内外の収入があるです。高等なるラーマになりますと、この時には、千円或いは二千円、多い時には五千円くらいの収入もある。しかし、僧侶は宿銭は自分で払わなくちゃアならん。ソレとても沢山じゃアない。普通の僧侶なれば、一人前大抵二十五銭ずつ、余ほど良い室で五十銭くらいです。特別に良い室であれば、ソウいう室を借りるのはいずれ貴族僧侶ですから、むろん安い銭では借り得られない。三円なり或いは五円くらいは出さねばならん。たとい幾ら出しても、酒を売る家とか或いは女の沢山おる家へは――ソウいう家ではやはり酒を売りますから――僧侶は泊ることができない。また市中の商店にも泊ることができない。しかし、商家でも店と全く関係のない別室ならば、借りることができる。ソレから祭典中は、カムツァン・ギ・ギケンという教師があって、僧侶の品行を監督している。こういう混雑の最中ですから、随分喧嘩が起らなくてはならんはずですが、奇態にこの場合には喧嘩もしない。表面《うわべ》だけは誠におとなしくやっている。
デ毎日三遍ずつモンラムの祈祷会へ出かけて行くのが例ですから、必ずラサ府の内に住んでおらなければならん。自分の寺に帰っているということは、非常な病人のほかは許されない。ラサ府に留っておっても、必ずその祈祷会に出なければならんということはないですけれども、マア大抵出ない者は少ない。殊に昼の御祈祷の時分には、毎日必ず幾分かのゲ(布施)をもらうことができますから、これは格別で、ことによると朝も晩も少しずつくれることがありますから、三度欠かさずに大抵は出かけて行くです。
≪壮快なる供養≫ チベット暦の一月一五日になりますと、チュン・ンガ・チョッパ(一五日の供養)というて、ナカナカ盛んな供養会が行われる。これは夜分の供養会であって、昼は全くないのです。この夜分の供養は二時頃にすみますけれども、僧侶はソレから外出を許されない。皆自分の室内に蟄居《ちっきょ》しておらなければならん。さてその供養物は、八丁ほどあるシャカ堂の廻りに供えられるので、その供養のおもなるものはドウいう物かといいますと、まずその大なるものは高さ二十間、下幅十五間くらいある長三角形の板へ指して、その側面から二頭の昇り龍が上って行くところの飾り物です。その板の真ん中には花の御殿あり、その御殿の中には、仏が衆生を済度する有様を模擬したるものあれば、また王公大臣の模造もあります。その下にもいろいろ人形が置いてあるです。
ソレは皆何で作っているかといえば、バターでもって造ってある。その人形は極楽世界の天神、天女もあり、また極楽世界にいるという迦陵頻伽《かりょうびんか》、共命鳥《ぐみょうちょう》というような鳥の類もある。美術心に乏しいチベット人の作としては、余ほど綺麗にうまく作っている。これは古代からズッと継続して、そのやり方を学び伝えて来たからでありましょう。ソレもただバターで拵えただけに止まらず、その上に金箔《きんぱく》或いは五色で彩《いろど》りをしてあるから、あたかも美しい絹の着物を着ているように見えている。バターその物は、光沢をそれ自身に持っているからして、こういうふうに彩りをすると非常に光を放つです。
その供養物の前に沢山バターの燈明を供え、また道の中央で大なる篝火《かがりび》――バターの飾り物になるべく熱気のおよばぬ処にそれを焚《た》いて、誰にもよく見えるようにしてある。この供養は朝の四時頃までで、日が上らぬ中に取り片づけてしまう。日が上って来れば、バター細工が融けてしまうからです。デそのバターの光沢と、金箔、銀箔および五色の色に映ずるところの幾千万の燈明とが、互いに相照すその美しさは、ほとんどこの世のものとも思えないほどの壮観および美観を呈しておるです。ソウいう供物一つだけではない。小さなものを合わせると、百二、三十本も堂塔の廻りに飾られてあるのですから、ナカナカの美観で、チベットではこれより以上の供物をすることはない。
これは一年に一遍ずつやるのですが、一月一五日はちょうど陽暦の二月二三日に当りましたが、ドウもその夜の光景というものは、全く一夜に天上の宮殿をこの世界に移したかのように思われる。これは私が見た上での一家言でなくって、不風流なチベット人も一五日の供養は兜卒《とそつ》天上|弥勒《みろく》の内縁に供養したその有様を、このラサ府に現《げん》したのであると、彼らは諺《ことわざ》のようにいうている。この立派な供養を、我々僧侶は一人も見ることを許されない。もちろん、この供養に関係ある僧侶だけは役目として見ることができますけれども、二万五、六千の僧侶中、ソレを見得る者は僅々《きんきん》二、三百人に過ぎない。その他の僧侶は皆自分の室に蟄居《ちっきょ》していなければならぬ。
≪駐蔵大臣の盛粧《せいしょう》≫ せっかく盛大な供養を何で僧侶に見せぬかといいますと、この時にはラサ府の市民が沢山見物に出かけて来ますので、非常に雑踏するです。時々壮士坊主などが大いに喧嘩を始めて、ラサ市民を迫害するというようなことが起っても、混雑の最中ですから整理のしてみようがない。ソコで三〇年この方、その供養物を見ることを許さぬようになったのだそうです。
この供養は、夜の八時頃に始まって四時頃に終るのですが、法王がお越しになってよく検分せらるることもあり、またお越しにならぬこともある。しかし、シナの駐蔵大臣は大抵見廻るようになっている。私はやはり僧侶の一員でありましたから、本当はこの供養を見ることができないのですけれども、前大蔵大臣の好意によって、一緒に連れて行ってもらったです。大臣と一緒ですから、執法僧官のお役人も私を咎《とが》めることができない。もちろん一人で行けば、打擲《ぶんなぐ》られた上ジキに縛《しば》られてしまうわけですが、この時はかえって役人らから舌を出して敬意を表され、ジキ彼らは他へ避けてしまったくらいです。
デ私は大蔵大臣の好意で、パルポ商人の大きな家の二階から、大臣と共に、まず検分の役人がその供養物を見廻る有様を見ました。役人の検分がすんだ後でなければ、我々は見ることを許されない。例年始めに法王が来られるそうですが、その時には法王がお臨みにならんで、駐蔵大臣が来られた。その扮装《いでたち》は余ほど綺麗な飾りです。薄絹張りの雪洞《ぼんぼり》に西洋ローソクを燈《とも》したるものが、二十四張りばかり吊してある。輦輿《みこし》の中にシナの立派なる官服を着け、頭にはいわゆる位階を表したる帽子を被ってジーッと坐りこんでいる。その前後には何十疋の馬に乗っているところのシナ官吏が、今日を晴れと立派な官服を着飾って、前駆護衛をなして行く。殊に夜のことで、市中に輝いている幾万のバターの燈明は、幾千百のガス燈のごとく、白く明らかな光を放ってある。その処へ、美麗に飾った雪洞《ぼんぼり》つきの輦輿《みこし》に乗って行くのですから、余ほど綺麗です。実に美事ですけれども、私は嫌な感じが起った。ナゼなれば余りに飾り過ぎて、かえって卑しむべきふうを現しているからです。チベット人は立派であるというて驚いておりましたが、確かに我々の眼から見れば、実に卑しむべき飾りであると思うて、憫笑《びんしょう》せざるを得なかったです。
駐蔵大臣の次には、チベットの高等僧官および俗人の高等官で、一番しまいに出て来るのがその時の宰相であります。宰相は四人ある。その名は第一がクショ・シャター、第二がクショ・ショカン、第三がラーマ・テーカン、第四がクショ・ホルカンという。一体は四人とも来るのですが、この日はクショ・シャターとラーマ・テーカンの二人が来られたほかは、何か差し支えがあったらしい。もっとも、ショカンは奥さんが亡くなった当時であるから出て来ることができんので、ホルカンはツイその頃宰相になったばかりですから、マダ出るはこびにおよばなかったかも知れぬ。
宰相は何のために来るかというと、その供養物の良否および等級を判断するためです。これはドウいう処から供養を上げるかというと、ラサ府で名高い華族或いは大寺、ソレから小寺の中でも由緒あり資産もあるというような寺では、年々これを上げることになっておる。これはむしろ供養というよりも、自分の負担すべき税金として、上げなければならんことになっておるです。デ大抵ごく低い処で三百二十円以上、ソレからごく好い処で二千円くらいかかるそうで、ソウいう物が百二、三十本も立つのですから、実に壮観です。恐らくバターでもって、一夜にこれだけの大供養を行うということは、私は世界においてほかにあるまいと思います。むろん、これより金のかかった祭典は幾らもありましょう。とにかく、バターでもってこれだけ沢山の金をかけて大供養を行うということは、
≪世界唯一の壮観≫ であると私は考えました。このモンラムの祭典中も、私はやはり大蔵大臣の家におりました。デただその供養を見ただけで法会には行きません。ナゼ行かないかというに、何分せせこましくってナカナカ坐る場所がない。仮《よ》しうまく坐り得たところが、とても動くこともできんくらいですから、そんな窮屈な思いをして、行くにはおよばぬという考えもあったからです。
けれども、ドンな様子か一遍見に行きたいという心地もするものですから、見物に出かけたところが、ナカナカ面白かったです。しかし、一番面白いのは壮士坊主のいる処でした。壮士坊主が騒いでいる処へ、シャーゴの下役を勤めている警護の僧が、長さ二間ばかり、太さ五、六寸ほどの柳の棒を提《さ》げて見廻りに出かけて来る。その棒の端切が向うの方の隅へでも見えると、今まで鼻唄を謡ったり、喧嘩をしたり腕押しをしておった奴が、静まり返って殊勝《しゅしょう》らしくお経を読み始める。その様子が実に面白い。しかし、その人が行ってしまうと、お経の声はまた変じてたちまち鼻唄となるので、祈祷などという考えは、もうとう壮士坊主の心の中にはないようです。
けれども学者の僧侶にいたってはおのずからやり方が違う。いずれも熱心に問答をやっている。これはモウ博士になる一世一代の試験をする大問答ですから、我れ劣らじと一生懸命に問答をやるです。この時はセラ大学一か寺でやるのでなく、三大学の僧侶、三大学の僧侶の中でも最も学識ある人間が、今日いよいよ博士になるという人に対して、問答をしかけるのです。その答者は、すなわち二十年間、雪中通夜の問答の苦しみを積み重ね、鍛え来たったところのいわゆる問答的学問をその時に発表して、大いに三大学の間に名声を轟《とどろ》かし、しかして同じ博士になるにしても、自分が第一等の博士になろうという考えをもって、その問者に答えておる。
その勢いは獅子と虎とが戦うかのごとき有様で、ナカナカ愉快です。一方は陥穽《おとしあな》に入れようとして問いかける。一方はその陥穽の底から引っ繰り返すような答えをする。ナカナカその手段のはげしいことは、想像のおよぶところでない。しかして三大学の堂々たる博士、学者達は、その周囲を取り捲いて一々批判を加えるばかりでない。どちらか負けると、大いにときの声を作って笑い立てることがある。その笑いようはホホ、ホ、ホホホウと三切りに声をしだいに張り上げて行く。ソウいうふうに二、三人声を揃えて笑い出すと、数千人の僧侶が一度に呻《うな》り出して、堂内も裂けんばかりの声を挙げるですから、その問答に臨むところのラーマは容易なことではない。
≪博士の階級≫ 年々このモンラムの間に、三大学から十六人ずつ選抜して、ラハーランバのゲバセー(特別の博士号)になる。すなわち、ラサ府のモンラムの時に得たところの博士という意味で、博士の中でも最も名誉ある博士である。その問答試験に応ずる者は、三大学中でも屈指の学僧が選ばれて出るので、普通の僧侶はもちろん出られない。この後チョエン・ヂョエの時分にまた十六人選抜する。これは第二流の学僧が出るので、これをツォーランバというておる。そのほかにその寺々で許される博士もある。これにも二通りあって、一をドーランバといい、一をリンシーという。このドーランバの中にはナカナカの学者があって、時によるとラハーランバよりも、なお立派な学者があります。いきなり名誉高きラハーランバになろうとすると、金が沢山かかる。しかし一旦ドーランバになって、ソレからラハーランバの大問答試験を受けるようになると、金が沢山かからない。ソコで大変立派な学者ではありながら、金の上からドウも、ラハーランバの候補者に選まれても応ずることができないという事情があって、しばらくココに辛抱しているので、ほとんど玉石|混淆《こんこう》の観がある。
けれども、リンシーにいたっては、ほとんど学力のないことにきまっている。殊にレブンおよびガンデンの二大寺におけるこの最下等の博士は、大抵、五、六年学問を修めた後に、金で博士号を買うて自分の田舎へ帰るです。また田舎へ帰って博士といえば、学問の有無にかかわらず信用される。日本でも同じことですが、チベットでは最も酷いのです。
とにかく、モンラムの時に選抜される十六人の博士は、立派な者である。その中でも第一等の位置を占めるということは、実に名誉である。これはただ博士号を得るにたるだけの教科書に、自由自在に通じているというただソレだけでは、この名誉は荷《にな》われない。確かに他の一切蔵経にわたって、種々の取り調べをした人間でなければ、その選に当ることは今ではできない。その点から考えますと、チベットの仏教学者は、私は日本の仏教学者よりエライだろうと思う。日本にも天台の宗義に精しいとか、唯識《ゆいしき》、或いは真言の宗義に精しいというエライ学者は沢山ありますけれども、仏教全体にわたって深く通じて、いずれの点から来ても、確かに仏教的の返答が精密にできるやいなやはおぼつかない。この点においては、恐らくチベットの博士におよばぬところがあろうと思います。
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第九十三回 投秘剣会《とうひけんえ》
≪兵士の服装≫ モンラム中の様子を見に行くのも随分楽しみで、折々は出かけて見物しましたが、その間は、私の仕事はセラのラハーランバの大博士とマエ・ケンポという大教師について、日々講義を聞きに行くだけ。人は金儲けで忙しいけれども、私は講義を聞きに行くので非常に忙しゅう暮しました。実にその頃は、もはやこの国を出ねばならん時機の迫り来たったためか、非常に愉快に勉強することができました。もちろんその前とてもお医者さんをやるよりも、大蔵大臣の宅におって書物を読み講義を聞く方が多かったですから、随分よく勉強ができましたけれども、この頃からチベットを出《い》ずる時まで、すなわち五月一五、六日頃までは、頭も痛まず肩も凝らず、充分勉強することができました。
さて陽暦の三月四日、すなわちチベットの正月二四日に、トーキャ(投秘剣会)を行いますので、ソレを見物にまいりました。これとても、すべての僧侶は皆外の方に追い出されて、容易に見物することができんのですけれども、幸いに私は、貴族の家(シャカ堂の前の大家)に知るべがあったものですから、その家の窓から投秘剣会を見ることができました。この時にはラサ附近における兵士およびラサ府の総ての兵士はもちろん、平生普通の業務を執っている者も、この時は兵士となって出て来ますから、ほとんど二千四、五百人の乗馬者があるです。その装束が実に面白い。ちょうど、昔の日本の鎧兜《よろいかぶと》のような物を着け、またその兜の上に、赤地に白の段だらの切布《きれ》を赤烏帽子《あかえぼし》のような工合に、後に垂れておる兵士が五百人くらいあります。ソウかと思うと、緑と白の段だらをつけてあるとか、或いは紫の色とかいろいろの色があって、五色どころじゃない。七色にも八色にもその隊が分れている。弓矢を持っているもあれば、鉄砲ばかりを持って行く兵士もある。デ鎧兜の上にはいずれも一人一本ずつ、めいめい色変りの小旗を挾《さ》してごく綺麗な装束です。むしろ戦場に臨んで戦争をやるというよりは、
≪五月|雛《びな》の行列≫ というような工合に、私共は見物いたしました。その調練もごく儀式的で面白い。いわゆる人が見て戦争の危ないことを知るよりは、むしろ戦争というものはコンな呑気《のんき》なものか、一つやってみたいというくらいの面白味を感ずるです。この日まず一発の号砲と同時に兵士が繰り出すので、もっとも目貫《めぬき》として見るべきは、シャカ堂の西の部です。シャカ堂の上には、法王の御座がある。その式の挙げ方はどうかというと、まず一大隊五百名の、五月の雛飾り的の兵士が出て来て、一通りの式をやって通り抜けると、また後から出て来てそのとおり。その式がすみますと、今度は本堂の中からごく綺麗な着物を着た坊主が三百人ばかり、長柄つきの平太鼓、太鼓の表に龍の面の描いてある太鼓を持ち、片手に弓形《ゆみなり》の撥《ばち》を持って繰り出してまいりまして、シャカ堂の前面へ円く列《なら》ぶです。その次に出て来るのが鐃鉢《にょうはつ》を持った僧侶で、その数およそ三百人ばかり、その法衣はいずれも大金のかかったもので、法衣の下に金襴《きんらん》のトエカー(肌着)を着けている者もある。実に美々しい打扮《いでたち》で、この時ばかりはいかに不潔なチベットの者でも、その前夜から湯を沸《わか》して、身体を拭きます。さてその太鼓隊と鐃鉢隊は二重の円列を作り、やがて一人の鐃鉢を持った隊長らしい僧侶が、鐃鉢を打ちつつ踊り出すと同時に、両隊いっせいに調子を合わせて叩き立てるかと思うと、ウーウーウーウーと猛虎の吼《ほ》ゆるがごとく酷い声で、いっせいに呻り立てるその声は、天上にも響くかと思われるくらいです。その式がすみますと、
≪ネーチェンの出御≫ シャカ堂の内から例の気狂いのごとくになっておるネーチュン(神下《かみおろし》)が、チベット第一の晴れの金襴、錦繍《きんしゅう》の服を着け、頭にも同様の冠を戴き、仰向いて両眼を閉じつつ二人の肩に縋《すが》り、あたかも魚が水を吹き出し吸い入るかのごとくに、アップアップとまるで精神を失ったかのように、足を千鳥にはこびつつ、トボトボと倒れそうに出かけて来るです。ソウすると愚民はソレに対して一生懸命に拝み立てる。その側には、また嘔《へど》を吐きかけてやりたそうな顔つきをして、嘲《あざけ》っている僧侶もある。実に面白い。その狂人につき添うて来る僧侶も沢山です。それらの飾りはナカナカ立派なもので、容易に言葉に尽すことができない。この間セラ寺の祈祷会の時分に説明しておきましたが、まず五色の絹で飾り立てたところの二間余りの宝剣(二十四、五本)を持った奴が、両側に列んで出て来る。その次には金香爐《きんこうろ》および種々の宝物箱を持った奴が出て来まして、気狂いはその後から来るのです。どこへ行くかというと、シャカ堂から二丁ほどある平地の処へ、障《さわ》りなく投秘剣の式を終えるように守る神様として出て行くのです。この時ガンデン・チー・リンボ・チェ、すなわち私の師匠である方は、そのチー・リンボ・チェの法服を着けて、法王と共に天蓋《てんがい》つきの絹の大傘の下にしずしずと歩んで来られたが、この方が出られた時分には、先のネーチュンなる神下を嘲っておった僧侶も、真に敬意を表して静まり返っている。私などもいかにも善い如来のごとく思われてありがたく感じました。すなわち、このお方が主任者となり、その秘剣を放ってシナ皇帝陛下の悪運を払ってしまうというわけになるのでございます。
≪市民の石供養《いしくよう》≫ これで投秘剣会《とうひけんえ》は終ったのでございますが、その終りの式は翌朝挙げるのです。ところがココに妙な習慣がある。僧侶なり或いはラサの市民なりが石を買うて、一つ或いは二つくらいずつ背負うて、東、南のキーチウ河畔に持って行くです。この日、そこへ石を持って行って置いて来ると、自分の罪障が消えるという信仰から、こういうことをやるのです。その石は山の方の人民が割り出して持って来るので、一つ十銭とか二十銭という割合で売るのです。これは大変善いことなんで、つまり夏季に当ってキーチウ河が洪水のために溢《あふ》れ出しますと、ラサ府はそれがために大損害を受けることになります。ここに石を沢山積んでおけば、その水の氾濫《はんらん》を禦《ふせ》ぐ用に供することができます。消極的信仰上、偶然の善事とはいいながら、誠に結構なことです。その運ばれる石はナカナカ大きなもので、私は二度運んだとか三度運んだとかいうて、大いに自慢しておるです。余ほど良い家の人でも、ことさらに自分で運んで行くのもある。また人を五、六人を雇い、運び賃を払うて運ばせるのもあるです。
第九十四回 チベットの財政
ついでに財政のことについて説明します。チベット政府の財政は、非常に錯雑《さくざつ》してよく分りかねるのみならず、政府の会計官吏が年々ドレだけ収入して、ドレだけ支出するのか、側の者にはさっぱり分らない。時によって乱高下があるという大蔵大臣の説明であります。税はすべて物品が多いのですけれども、これを金銭に換算すれば、収入が幾らで支出は幾らということが分るわけですが、ドウもソウ明らかにしがたい場合がある。物品によっては、時に値段の乱高下あり、また値段の定まらんような物もありますから、ナカナカ統計を取るのがむつかしいです。ソウいうわけで、チベット政府でも統計ができておらんのですから、私もソレについては説明することができない。けれども、ドウいう工合に出納ができておるか、またドウいう方面から税が納まって来るか、どこへ支出されるということは明らかなことでもあり、かつ納税方法も分っておりますから、その点についてザッと述べておきます。
≪法王政府の大蔵省≫ はチベット語でラプラン・チェンボという。これを直訳しますと、ラーマの大なる台所という意味で、法王直轄の地方およびその各荘田主から――人民より間接に取り立てるわけです――税品を取り立つるです。これはその地方から特別に運んで来ますので、決して金を為替《かわせ》で送るというような便法はない。ただ物品をそのまま、二百里あろうが、五百里あろうが、その遠い処から皆法王政府に送って来ます。ですから、納税者は非常に困難ですが、その途筋《みちすじ》では駅馬を徴発して来ますので、その駅馬なるものは、地方の賦役《ふえき》として必ず徴発に応じなければならん。
その物品は、まず麦、豆、小麦、蕎麦《そば》、マル《バターのことなり》、乾乳《ほしちち》等、いろいろの物が出て来るです。また税関のある地方からは、珊瑚珠《さんごじゅ》、宝石、布類、羅紗《ラシャ》、絹および乾葡萄《ほしぶどう》、乾桃、乾棗《ほしなつめ》類、また地方によっては、皮或いは宝鹿《ほうろく》の血角《けっかく》を納める処もある。ほとんどチベットのありとあらゆる産物および外国から入り来る物品で、大蔵省へ納まらないものはない。
≪稀有《けう》の徴税法≫ ココに一つおかしいことがある。大蔵省で、マルを量《はか》る衡《はかり》がおよそ二十種ばかりある。ソレから麦、小麦、豆等を量る枡《ます》も三十二種ある。ソレは皆大小異なっているので、まずボーチクというのが、ほぼ我が国の一斗枡と同じであって、正当な枡である。しかるに、場合によるとその枡より大きな一斗五升枡で取り立てることもあり、また七升五合枡で取り立てることもあるから、納税者にとっては、大変幸不幸がある。デその間に大小いろいろの枡が都合三十二種もあるのですが、ソレでは枡を拵《こしら》えておく必要がないではないかというに、チベット政府ではまた大いにその必要があるです。
まず一番小さな枡で取り立てるのは、ドウいう地方の人かといいますと、法王の出られた地方の人とか、或いは特に政府の高等官に因縁のある地方の人民とかいうような者で、たとい田地一枚について二斗ずつ納むるという名目があっても、ごく余計納むる人の半分しか納めなくてすむ。これに反して余計納むる人は、二斗の名目で三斗納めなくてはならん。ところが法王の出られた所の人達は、二斗の名目で一斗五升納むれば事がたるのです。その地方の人民は、かくのごとく特別の待遇を受けておるにかかわらず、もし政府に反抗したとか、或いはその村から悪漢、或いは大いにその国を害した人間が出たというような場合には、その村民に対し、倍の枡を用いて取り立てる。名目は、半分納むる人も倍納むる人も同じですから、帳面の上では平均が取れておるが、事実は大いに相違しておる。ソンなら枡が三十余種に分れているのはドウいうわけかというに、その罪科、責任には自ずから軽重がある。その軽重に従い、某《なに》村のは第三番枡、某々村のは第十番枡というふうに、所によって用うる枡が違うからです。バターを収税する時分にもそのとおり、二十種ぐらいの衡《はかり》を用います。
まず収入する時はソウいうふうですけれども、それを売る時分には決して大きい枡を用いない。平均の枡よりか少し小さいのを用いる。また余り小さいのを用いると、商人が非常に不平を鳴《なら》しますから、ソコで少し小さいので売り出すです。ソレから僧侶および普通政府の役人、或いは政府の仕事をする職工とか、商業家等に俸禄を与える時分には、普通の枡で量ってやるです。
デその支出のおもなるものは、前に一寸いったとおり、シャカムニ如来の本堂費である。すなわち堂塔|伽藍《がらん》の修復費、燈明台その他の什器《じゅうき》購入費、掃除費および読経僧侶の手当てでありますが、その中でも最も多く費用のかかるのは、前にいうマルです。マルはこれを油にして、日夜幾万の燈明用に供するのです。その燈明の数は、ラサ府のシャカ堂に上っているだけでも、二万五千は下らぬと思います。なお、何か事のある時分には、一万或いは十万の燈明を上げることがある。それらは皆高価のバターで上げますので、チベットでは菜種油で燈明を上げるということは、ほとんどないです。燈明に菜種油を用いるのは罪悪のように――罪悪とまでは思わんでも、仏を汚《けが》すという考えを持っている。だからラーマが、「死後に供養してくれる時分には、決して菜種油を用いてくれるな」と遺言して死ぬ者も沢山ある。ラサのシャカムニ如来の前には、純金の大なる燈明台が二十四、五も列《なら》んであります。その他幾万の燈明台の中には、一斗ぐらい入るのもありますが、その油は多くは大蔵省から供給されるのです。もちろん、信者から上ったものもありますけれども……。
≪徴税以外の職務≫ チベットの大蔵省は、ただ租税を取り扱うばかりでない。寄附金または喜捨の金品も取り扱うです。シャカ堂へ何を上げて来ても、或いは大法会の時分に、僧侶に対して信者から「ゲ」を与えるにも、一旦大蔵省に納めて後、大蔵大臣の命令によって皆に分つのです。
次は法王の宮室費です。これは無制限で、何ほどでも入用だけ支出しなければならん。とはいうもののムヤミに法王の私用に使うということはなく、おおよそのきまりはあるそうです。しかし今度の法王になってから、ナカナカ入るものも多くなったかわりに、また出るのも多いという話でした。また大蔵省から取り立てた内で、法王政府に属する諸官員および僧官に俸禄(年俸と月俸とあり)を与えなければならん。それらは他国に比較するとごく少ないが、しかし、その諸官員或いは僧官は、皆荘田を持っておるのみならず、ほかに
≪一種の役得≫ があります。ソレは政府から一人について三千円の金を借り得らるる便宜があるので、その金はわずかに五分の利子である。ところが普通チベットでは、年利一割五、六分ぐらいで、高利は三割くらいだそうです。この官吏官僧の借りる金は年五分利でありますから、それを借りて、普通の商業家に貸しても、一割の利子は取れるようになっている。もし官吏官僧が、政府への返金を滞《とどこお》ったからというて、前年の利子を元金に加えることもしなければ、たとい十年利子は払わぬからというて、利に利を加えるということはチベットの法律上許さない。政府は、僧俗官吏にかかる便宜を与え、ソレから三大寺に対し、茶とマルは申すにはおよばず、僧侶に対しても一人平均六円ずつの僧禄を与えるです。
話は余事に渉《わた》ったですが、法王はまた別に財源を持っている。ソレは信者からの上《あが》り物もあり、法王自身についてある荘田もあり、また牧畜場もあるです。その他法王直轄の商隊があって、シナおよびインドの方へ商いに出かける。大蔵省の方にも商隊はあるが、ソレは法王の商隊とは全く別なんです。
法王の台所を称して、チエーラブラン(峰のラーマの台所という意味)という。法王の御殿が峰の上にあるからで、この法王の宮殿は、宮殿なり、寺なり、また城なり、すなわち一つで三つをかねておるというてよろしい。城の建て方としては、チベット第一流である。寺としてもまた非常に立派なものである。宮殿としてもごく適当である。しかしココに
≪一大欠点≫ があります。ソレはこの法王殿の中に、一個の井《いど》もなければ泉もない。全く水がないのです。大なる高塀《たかべい》で厳重に取り囲まれてあるから、敵が攻めて来ても籠城《ろうじょう》しているには、ごく都合が好くできているにかかわらず、その中に水の出る所のないというのは、実に奇態なわけです。その水はどこからあおぐかというと、御殿の処から二、三丁も下へ降り、ソレからまた平地を二丁ばかり行って、遙か向うに流れてある河端の井から、水を運ぶのである。その間の距離は五丁ばかりですが、その中にも三丁は、非常に厳しい石坂を登らなくてはならん。ソレからズッと上まで登るには五丁もある。ソウいう遠い処からして、毎日々々水を運んでおりますので、水運びを商売にしている人間は沢山あるです。デその水はつまり法王の宮殿内に住んでいる人が買いますので、価は一か月一人前二十五銭ぐらいの割合です。ソレからこの法王の宮殿にいる貴族的僧侶は、百六十五名ありまして、その一団体を称してナムギャル・ターサンというている。この貴族僧侶は、その顔容《かおかたち》まで一粒|選《え》りの綺麗揃《きれいぞろ》いで、その生活の有様は、実にチベット国における僧侶中の最高等のものである。
また、これまで法王の台所へ、モンゴリヤから上げた金銀は少なからんです。ところが今日はその収入がほとんどなくなり、したがってチベット国民の負担《ふたん》が重くなったようです。しかし、これまできまっている租税を多くするというわけにいきませんから、つまり大きな枡で取るというような都合になったのです。
≪税品の徴収≫ なお地方には、政府へ納むべき租税を取り立てる場所が二つある。一は寺で、一は地方官である。寺の管轄を受けている人民は寺に納め、地方官に管轄されている人民は、地方官に納めるのです。地方には「ゾン」というものがある。このゾンというのは、戦争の目的によって建てられたる城でありますが、普通の場合には役所として用いている。すなわち裁判のことも警察のことも、また租税の取立ても皆ここでやるです。そのゾンの建てられてある処は、どこでも大抵登り二、三丁くらいの小山の頂上で、ゾンの中にゾン・ボン(城の長という意味、ただし俗人なり)という者がいる。日本でいえば知事のようなものです。
デ麦のできる処からは麦、小麦の処は小麦、また牧畜地からはバターを取り立てるという工合に、その地方々々によって、税品が皆違っている。そのゾンに集まったところの物品或いは銀貨を、中央政府に送ります。もっとも地方政府のゾン・ボンは、中央政府から年俸或いは月俸等をもらわない。その地方から取り立てた租税の中から、自分の月俸を取るです。中央政府から地方政府に対して、物品或いは銀貨を送るというようなことはほとんどない。何か地方に特別のことが起って、その地方の人民が大いに困難に陥ったとかいう時分には、政府から救助金を送ることがあるだけです。その他中央政府直轄の人民は、人頭税を中央政府に納むることがある。また華族および高等僧侶の寺に属しておる人民は、その所属の華族等に税を取り立てられるのはもちろんですけれど、中央政府への分も取り立てられる地方もあり、また取られない処もある。ソレは一向不規則できまってはおりません。これがチベットの中央および地方の財政の概略の説明であります。
≪法王の遺産処分≫ 次に法王の財産は、法王が一人お薨《かく》れになると、その遺産の半分――半分というは表向きで、実は半《なか》ば以上――は、法王出身地の血族の者が大抵もらうことにきまっている。その後の金は、諸大寺の僧侶および新派の僧侶らに、「ゲ」として与えられるのです。ついでにいうておきますことは、普通の僧侶の遺産で、例えば五千円の資産あるものが死ぬと、大抵四千円までは僧侶の「ゲ」および燈明代に供えて、他の一千円をもってその人の死骸を送り、或いは跡始末をつけるというくらいのもので、その弟子達の受けるのは、わずかに三百円か五百円あれば、余ほどよい方である。ことによると弟子が借金してでも、その師匠の功徳のために、「ゲ」および燈明代を供えるという美風がある。これは、俗人社会においては全く見ることはできんけれども、僧侶社会には普通のことで、実に好《よ》き習慣であると考えるです。
第九十五回 チベットの兵制
≪常備兵五千人≫ 次にチベットの兵制について述べます。ただ今常備兵としてあるのは、ほとんど五千人たらずであります。実際の名目は五千人ですけれど、私の観察では少したらないように思う。チベット人口六百万人に対する五千人の兵士は、実に少ない。外国に対することは愚か、自分の国の内乱に対しても、よくこれを平らげて国を安らかに保つということは、でき得ないように思われる。けれどもチベットは、兵隊で国が治っているのではない。威圧で国が治まっているのではない。ただ仏教の信仰力あるがために、国が治っているのである。多数の蒙昧《もうまい》なる愚民は、ただ仏教を信ずるの一念、すなわち法王その人は、活きたる観世音菩薩と信ずるのあまりに、法王に対しては決して剣を向けることはできない。敵として戦うことは決してできないという観念は、一般に染み渡っております。ですから兵士はわずかでも、ソンなに多く内乱も起らずに治っておるです。大抵チベットで
≪内乱の起る場合≫ は法王が薨《かく》れたとか、或いはなお幼くして政を親《みずか》らすることができんという時に当り、或る大臣が威《い》をほしいままにするとか、その時の仮の法王が権をもっぱらにして、人民を虐げるという場合に、人民が憤激して内乱を起すことがありますけれども、法王が成長して実際その国の政を執るに当っては、多少困難なことが起っても、これは活きたる観世音菩薩に仕えるのである、供養するのであるという観念をもって心服しておりますから、兵隊は沢山要らないわけです。
ただチベットで非常に兵士を置く必要を感じたのは、ネパールとの二度の合戦、その後また英領インドとの戦争以来、是非兵士がなくてはならぬというて、まず雇い兵として五千人の常備兵隊が置いてあるので、義務兵という者は一人もない。この雇い兵士は要所々々に分遣《ぶんけん》されておるので、ラサにはわずかに一千人、ソレからシカチェに二千人。テンリーというネパール国に対する最も緊要なる防禦場である所に五百名とはいうておるが、その実三百名しかおらぬかも知れない。そこにはシナ兵も二、三百名ばかりいる。それからギャンチェに五百名、ダムに五百名、マンカム地方に五百名で、都合五千名ということになっておる。それからシナ兵は二千名ほどおる。すなわちラサに五百名、シカチェに五百名、テンリーにも五百名といいますけれども、これも二百名くらいしかおらない。トモ(靖西《チンシー》)に五百名、合わせて二千名です。これらのチベット兵士には、五百名に対し一人の大将がある。ソレはデーボンというておる。ソレから二百五十名に対する一人の将官、その下は二十五名について一人、五名について一人というように長を設けて統轄しております。
≪常備兵の内職≫ チベットの雇い兵の月俸は麦二斗余りで、兵舎は別に建てられてなく市中に散在しているのです。いずれも商家でその家で商いをしているもあれば、また種々の内職をやっている者もある。もちろん、兵士のいる家の建築費用は市民の負担で、私は市民が折々|詰《つま》らぬというて、不平を漏らすのを聞いたことがありますが、シナ兵もやはり市民のこしらえた普通の家に入っております。その中には理髪処もあれば、また喰物店もあるというようなわけで、女房もあれば子供もある。二斗の麦で女房子まで糊口《すご》すということはほとんどできないことで、つまり商売と内職の方で儲けた銭で生活を立てているのです。デ麦二斗もらう義務は、月に五回か六回の調練に出かけるだけである。ソウして一年に一回大演習をやるです。
ソレはラサ市街の北、セラ大学に行く道筋に当っている一里弱の処に、タブチーという小さな村がある。そこにはシナの関羽《かんう》も祀《まつ》ってある。チベットでは関羽のことをゲーサル・ギ・ギャルボ(花蘂《はなしべ》の王という意味)というて、悪魔を祓《はら》う神として大いに尊崇しておる。こういう寺および七、八軒ある小村を過ぎて少しく北に行くと、平地に二丁四面ほどの高地があって、そこに武器庫が建ててある。ソレから北へ二里、西へ半里、東へ二里ばかりある広野があります。その曠原《こうげん》において大調練をやります。
始めの二日はシナ兵、後の二日はチベット兵、これは大抵夏季の終り、すなわち陽暦の八月末九月初め頃に行うので、もっともその時が非常に都合が好い。麦は皆刈り取られて、いずこへ走ったところが麦作を害するということはないからです。その時にはシナの駐蔵大臣はもちろん、チベットの将軍らも皆出て行きまして、成績良い兵士に一円より十円までの金を与えるもあれば、銀製の賞牌《しょうはい》を与えるもあります。今でもチベットでは、兵士に弓を引くことを必要なる業として授けている。鉄砲もこの頃は幾分か西洋式の調練をやっているけれども、見るにたるほどのこともない。これはシナ兵士が教え、またインドで学んだチベット兵が教えているのです。
≪兵士の気慨≫ は私の観察したところでは、シナ兵にもチベット兵にもない。かえって兵士は普通人民より劣りはすまいかと思うほどです。シナ兵の中には、痩《や》せた青い顔をしている奴が随分多い。チベット兵士にはソンなのは少ないが、しかし気慨は持っておらない。これは大方、収入が少なくて活計《くらし》向きに心を悩ますからであろうと思われる。これらの気慨を沮喪《そそう》した兵士に比すると、壮士坊主の方が余ほどエライ。彼らは妻はなし子はなし、少しも顧るところがないから、実に勇気|凛然《りんぜん》として誰をも恐れないという勢いを持っている。その点においては、確かに壮士坊主の方が頼むにたるです。ドウもこれらの兵士は、戦争の時分にはあまり間に合わぬだろうと思う。一番ドウいうことの働きをするかといえば、まず戦争が起れば乱暴|狼藉《ろうぜき》を働いて、内地人の財産を分捕りするくらいのことで、とても国の役には立たない。これは畢竟《ひっきょう》妻帯に原因するので、兵士として妻帯するほど勇気を沮喪するものはないです。チベット人は最も情緒の力に富んでおって、妻子を想うの情も深いです。妻子のある兵士はまず合戦の間に合わぬといってもよいでしょう。
第九十六回 秘密露顕の端緒
≪旧師および故郷への信音≫ 昨年、インドへ交易に行ったところのツァールンバという者が、明治三五年の四月三〇日に帰ってまいりました。これは先にも申しましたとおり、私の信書をインドのダージリンに持っていって、ソウしてサラット・チャンドラ・ダース師およびシャブズンというラーマに渡し、なお故郷の方へも手紙を送る手続きをしてくれたチベットの商人であります。
デ、セラの僧舎へ無事に帰って来たという報知がありましたが、その時には私はセラにおらないで、大蔵大臣の処におりました。ソレで小僧がワザワザその報知を伝えに来ましたから、私はその翌五月|朔日《ついたち》の朝から、その返事を受け取りかたがた行きました。幸いに主人がおりまして、一別以来の挨拶を終りますと、ツァールンバのいいますには、「ドウもダージリンに行ったところが、サラット・チャンドラ・ダース師は国《インド》の方へ帰っておられて、お不在《るす》であったから、行き際《しな》に手紙を渡すことができなかった。しかたがないからシャブズン・ラーマに渡そうとしたところが、ラーマもネパールのカトマンズの方へ、寺詣りに行かれてお不在であった。しかたがないから一旦カルカッタの方へ行って、今度帰って来ると、ちょうどサラット先生もシャブズン・ラーマも帰っておられたから、手紙を渡した。サラット師は返事を書いておくから、明後日《あさって》取りに来いという話であったけれども、私は再びサラット師の処に行くことができなかった。ナゼなれば、私は政府の命を帯びて鉄を沢山買い入れた。もしそのことが英領インド政府に知れた時分には、私は捉《とら》えられて、酷い目に遇わねばならん。だからソウ長くダージリンに留まっていることはできんからで、その翌日出立して帰ることにした。もっともシャブズン氏からは手紙をもらって来た。シャブズン氏の手紙の中には、委細書いてあるはずだ」というて、手紙をくれました。ソレを披《ひら》いてみると、「サラット師への手紙も着き、その中に封じてあった故郷への手紙は、書留にして故郷に送りました。私まで手紙とお家苞《みやげ》を下すってありがとうございます」との返事です。
チベットでは手紙を出す時分には、必ず土産《みやげ》を添えてやる。相当の土産がないと、この間申しましたカタという薄絹を入れてやるのが例ですから、私も相当の土産を贈ってやりました。その礼状かたがたの返事で、その返事に西洋の白砂糖と、ほかに二、三品珍しい物を添えて遣わされました。デその時は、ツァールンバより英杜戦争〔南ア戦争〕、その他いろいろのダージリンからの土産話などを聞いて、別れたことでございます。
≪具足戒《ぐそくかい》≫ 五月一三日、すなわちチベット暦の四月四日です。その時にツァン州のシカチェ府のタシ・ルフンプー寺の大ラーマ、パンチェン・リンボ・チェ、すなわち第二の法王がラサ府へ着かるることになったです。
このパンチェン・リンボ・チェは、その当時二十歳の方で未《ひつじ》の歳であります。モウ二十歳になれば、具足戒を受ける資格がありますので、今の法王ツブテン・ギャム・ツォー大ラーマより、その戒法を受けるために来られるのです。これはナカナカの大典で、法王が位に即く時とか、或いは法王が具足戒を受ける時と同一で、上下|挙《こぞ》ってパンチェン・リンボ・チェをラサ府の市外、すなわち法王宮殿の西バーマーリーという辺まで、歓迎にでかけて行きます。私も迎えかたがた見物ながら、例の薬舗の李之揖《りししゅう》氏と共に、家の子供などを連れて出かけました。ナカナカ立派な行列であります。
この日、その行列を見まして帰りがけに、ツァールンバがお茶を上げるからというものですから、私は一寸その宅へ寄りました。デ上座の敷物の上に坐りこんでおりますと、一人の紳士が入って来ました。それは法王の商隊長を勤めている男で、タクボ・ツンバイ・チョエン・ヂョエという人です。ツァールンバも、やはり政府のために鉄を買いに行ったり何かしますから、その関係で互いに往来することがあるのです。私の坐っている室へ入って来るなり、ジーッと鋭い眼でしばらく私の顔を見つめておったです。私がその男の容態を見ますのに、余ほど腹の悪い男らしい。けれどもまた非常に才子であるように見受けました。
≪危機を孕《はら》む≫ さてその商隊長はズッと進んで私の前へ坐りましたが、そこにはツァールンバもおればその妻君もおるです。ところで、ココに実に危ないことが孕んで来た。その原因を説明しなくてはならん。ツァールンバはインドの方へ交易に行く時分に、私の勢力のますます進んで来るのを見て、大いに望みを嘱《しょく》しておった。それは私がもし法王の侍従医になるならば、それがためにツァールンバは非常に便宜を得らるるという考えを持っておったからです。デ、インドからラサ府へ帰ってみると、ますます私の名声が挙って来ました。それのみならず、私のおる所は大蔵大臣の邸でもあり、また総ての高等官吏および高僧にも交際があるということを以前から知っていて、大いに頼もしく思っている折から、インドへ行って、カルカッタにおいて日本人が義気に富んでおることやら、シナと戦争をしたとはいうものの、その実シナのためにはかるところもあるというようなことを聞いて、ますます日本人を頼もしく思うようになり、チベットへ帰ってその話を私にしたこともあるです。
またタクボ・ツンバイ・チョエン・ヂョエというのは、これは一体タクボ・ツンバという大なる富豪の番頭を勤め、なお法王の商隊として、北京の方へ度々出かけたことがある。すでにこの男は北清事件の時に北京におって、日本兵士のために商品の総てを強奪されたのを憂え、これは決して北京政府の物でないからというて、だんだんその兵士に頼んだけれども、ドウしても聞いてくれなかったそうです。ところがもはやその強奪した物を運び出すという場合が迫って来たので、先生、早速軍営へ出かけて将軍に歎願したそうです。その将軍は、チベット人ということを聞いて大いに同情を表せられ、早速シナ文字と妙な文字で(仮名交りならん)、書付けを認《したた》めて将軍自身が判を捺《お》し、これをその兵士に渡せというから、その書付けを持ち帰ってその兵士に渡したところが、その取り押えられたところの品物は、総て元のごとくに返してくれた。誠に日本人という者は義気に富んでおるということを、喋々《ちょうちょう》とツァールンバに話したそうです。
≪商隊長の疑惑≫ ソコでツァールンバの考えに、このタクボ・ツンバは法王の商隊長であって、よく日本人の義気に富んでいることを知り、かつ日本人の世界に武力を輝かしておることを知りおるが故に、この際、この男にジャパン・ラーマの身上を明かしておけば、大いに得策であるかも知れんという考えを胸の中に持っておったそうです。けれども、私はそんなことは夢にも知らなかった。
ところでタクボ・ツンバは私の顔をジロリと眺めて、いきなり、「あなたはドウも奇態だ」と挨拶もせずに声をかけた。私は黙っておりますと、「私は始めあなたを蒙古人かと思ったが、ドウも純粋の蒙古人とも思われない。またシナ人かというに全くのシナ人でもない。もちろん欧米人でないことはよく分っておる。一体あなたはどこのお方でありますか」といって、私に訝《おか》しく搦《から》んで尋ねて来たです。ソコで私が答えようとするそのとたん、ツァールンバは得たり賢しと、「この方はすなわち日本人である」とこう一口に答えてしまった。サア大変です。ラサ府において日本人だということを明かされたのは、この時が最初であります。ドウも困ったことをいい出したと私は思いましたけれども、その場で打ち消すわけにも行かず、何か話でもあるのかと思って、ジーッと私は黙っておりますと、そのタクボ・ツンバは、なるほどといって大いに感心した様子で、「ソレで分った。ドウも私は日本人だろうとは思ったけれども、日本人がマサカ我が国に入って来るということは、容易にできることでないと思ったから、ソウはいい出さなかったけれども、日本人といわれてみればソレに違いない。私は幾人も日本人を北京で見たことがあるから」とこういうて、すっかり確定してしまったです。
私が一言もいわぬ先に、向う二人で私を日本人と確定してしまった。確定しなくっても、日本人であることはきまっておるけれども、今まで隠してあったことがすっかりばれてしまったです。私はそのまま何もいわずに様子を見ていますと、そのタクボ・ツンバは私に対し、「ヤア実に善いことができた。かねて私は日本へ一度渡って何か珍しい物を買うて来て、このラサ府で売り出したならば、大変|儲《もう》かるだろうという考えを持っていた。ところが交易場にはシナ語を知ってる者も多少あるそうですけれども、内地へ入ればシナ語を知ってる者が、ほとんどないということを聞いていました。私はシナ語をよくやるけれども、先方が知らんではドウもまに合わない。ソレに、とにかく外国人として行く時分には、悪い人間に欺かれやすいからというので、よく行こうとも思わなかった。あなたのような好い人を得たのは誠に結構だ。セライアムチー(セラのドクトルという意味)といえばこの頃実に名高い。よく人のために働かれるということを聞いておった。幸いここで逢うてみて、私は大いに満足した。確かにあなたなれば信ずるにたるから、ドウか私を日本へ連れて行ってもらうことができないだろうか」という案外に好い話である。
「ヤアそりゃようございます。ドウしても私は日本へ一遍帰るつもりでありますから、マアその時に一緒に行くことにしましょう」とこう挨拶をして、ソレから日本についてのいろいろの話をしますと、商隊長も自身が北京で困難した話、ソレからまた日本の将軍から強奪品を返してもらったことやら、日本兵士の勇気は欧米の兵士に勝《まさ》っていること等を、喋々《ちょうちょう》と述べ立てて、日本に大いに同情を表しておられた。ソレは全く諛辞《せじ》でない。その人の心の底からいうておったです。ソコで私はその人にいったです。
「しかし、今私の日本人たることを知っておるのは、ラサ府にあなたとツァールンバさんよりほかにはない。もしあなたがたがこのことをいい出すと、かえって、あなたがたに災難がかかりはすまいか。充分ソコは御注意なさらんといけません」という警語を与えた。「ソレはようございます。あなたが身の利益になるような事情に当てはまって来た折を見て、いよいよあなたの本性を顕わして、あなたの便宜をはかり、ソウして日本人の名誉を我が国に輝かすようにしたら、大いによろしゅうございましょう」と、こういうような愉快な話であった。その日はソレで事がすんで、その晩私は薬舗に来て泊りました。
≪また疑わる≫ その泊った翌日、書記官が例のごとくに遊びに来て、私にいろいろの話をした。その話の中に、余ほど私の注意を喚起したことがあった。ソレは「ドウもあなたはシナの福州の方だというが、私はもちろんソウだと信じておりますけれども、シナ人一般の性質と、あなたの性質がドウも違っているところがある。余ほど奇態だ。あなたの先祖はどこかほかの国ではありませぬか」と、こういう尋ねなんです。「サアどうか、先祖はどこから来たか私は一向知らないが、ナゼあなたは私の性質が、シナ人一般の性質と違っておるということをいいますか」と問い返したら、「ドウも日本人の性質は、機敏でドコドコまでも辛抱して進んで行くという気象を持っておる。ところがシナ人は、向う見ずに進んで機敏のことをやるということのできない質《たち》の人が多くて、あなたのような人は少ないです。ソレにドウもシナ人は、私共はじめ悠長なふうがあるけれども、あなたには悠長なところが余ほど欠けている。いわゆる寛大というような様子がなくって、ごく細かに立ち廻るというようなふうがみえている。その辺は何といってよいか、一言にいえば大体シナ人とみられぬような性質を備えているが、一体あなたの先祖はドウいう方か」といって尋ねたです。
こういうことを尋ねたのは、ほかじゃアない。私の顔色を見ていろいろ穿鑿《せんさく》してみようという考えであったらしい。先生は以前から私と談話するごとに、私の話についていろいろの点から研究してみて、全くこれはシナ人でない。日本人であるということまでは、ほとんど観察を下しておったから、こういうことをいうたものであるです。けれども、好い加減な挨拶をして、その時は何気なく別れましたが、事が重なれば重なるものです。
≪上書を認《したた》む≫ 書記官の話のあった後に、薬舗《くすりみせ》の奥さんのいう話が妙です。「どうもクショ・ラ(君よ)。しかたのないもんですな気狂いというものは」と最初にいい出した。「何ですか」と尋ねますと、「あのパーラーの気狂い公子が、妙なことをいい出したのです。気狂いのいうことですから、もちろん取るにたりませんけれども、公子のいうには、コリャごく秘密だけれども、今におれの国に大変なことが起って来るという。ソリャどういうことかとだんだん聞きますと、ほかでもない日本から坊さんが来ている。ソレは坊さんというけれども、確かに政府の豪《えら》い役人に違いない。その役人が国を探るために来ている。ソレは誰かといえば、すなわちセライアムチーである。あれは私がダージリンに行った時に遇うていろいろ話をした人で、ナカナカ豪い方なんだとしきりにいっておりましたが、奇態なことをいうじゃありませんか。あの人がダージリンに行ったということは、誰も知らんのですけれども、本当にダージリンに行っていたことがあるのでしょうか」という尋ねですから、「ソレは気狂いだから、大方夢でも見てそんなことをいってるのでしょう。ドウせ気狂いのいうことは当てになりません」というと、奥さんのいうには、「家の人達は気狂いのいうことだけれども、コリャ本当らしいというて、大いに信用しているようです。とにかくソウいう話を聞きましたから、あなたに内々申し上げておきます。お気にかけて下すっては困ります」という。話は五月一四日のことでございます。その晩私は大蔵大臣の宅へ帰り、その翌日直ぐにセラの僧舎へ帰りまして、夜分人の寝静まってから、法王に対する上書を書きました。これは、事いよいよ露見におよんだ時の用意のためでございます。
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第九十七回 商隊長の秘密漏洩
≪法王への上書≫ は、ナゼその時に書いたかといいますのに、このことはドウ事が変るか分らない。もはや大分に様子が顕われて来たから、この時に当って処置を施さないと、大いなる禍害を来たしますゆえ、まずドウいう方向に変じても、自分は仏教修行のためにこの国へ来たのであるということを、証拠立てる用意をしておかなければならん。ソレには、この上書を認めておくことが必要であるという考えから上書を認めたです。その上書の書面は、只今も私の手に残っております。自分ながらその文が実に面白くできた。
私はチベット文を沢山作り歌も沢山作りましたけれども、この時ほど愉快の文ができたことはなかった。この文章をもって我が熱心を顕わし、人をして感動せしむるにたるという勢いは、確かにこの文面に顕われていると自分で信じたです。この文章は三晩かかってでき上ったのでございます。
その文の大意は、まずチベットふうに法王に対し敬意を表する言葉をまず書きつらね、ソレからこの雪をもって清められたる美しき美の主人に対し、私は世界の人民の精神的苦痛を救うために、真実仏教の発揚を希望してこの国へ来たのである。今世界に仏教の行われている国は沢山あるけれども、大抵小乗仏教である。大乗仏教の行われているシナ、朝鮮およびネパールのごときは、全く見るにたらない。ただその大乗教の真面目を維持し、世界における仏教の粋《すい》として今日に現存しているものは、我が日本仏教とチベットの仏教のみである。そうして、この尊いところの純粋仏教の真理の種を、世界各国に蒔《ま》かなければならん時は確かに来たっておる。世界万国の人々は、肉欲的の娯楽に飽きて、精神的の最大自由を求めようということに熱中している。この時に当って、真実の仏教をもってその欠乏を満たすにあらずんば、今日大乗仏教の我々の義務が立たない。面目が立たない。それ故に、果してチベット仏教が真実、我が日本国家の仏教と一致しているやいなやを取り調べるために、私はこの国へ来たのである。
幸いにしてチベットの新教派の仏教は、確かに我が国の正統派の真言宗と一致している。その教祖(龍樹菩薩)もまた一致している。かくも善い教えを持っておる両国の仏教徒は、互いに合同して、世界に真実仏教の普及をはからなければならん。これ、私が千辛万難《せんしんばんなん》を忍び、雪また雪を踰《こ》え、川また川を渡ってこの国に出て来たゆえんである。その真実の精神は仏陀も感応ましまして、この誰もが入りがたい厳重なる鎖国内に到達して、今日まで仏教を修行することができたのである。この国の仏教守護の神々も、我が誠心の願望を納受ましまして、ここに止まって仏道を修行することを許されているのである。しからば、かくも仏陀と仏教守護の神々が保護されたる私に、法王殿下の保護を与えられて、共に仏教の光輝を世界に輝かさんことを力《つと》むるは、実に仏教徒たる者の最大義務にあらずや。私は大いにこのことを希望してやまんものであると説き、ソレからセイロンのダンマ・パーラー居士から、インドのブッダガヤの金剛道場の菩提樹下において、シャカ如来の舎利と銀製の舎利塔とを、法王に献上してくれろといって頼まれて来ましたから、これを差し上げますという、文句を入れて帰結をつけたです。
その文章ができたから、良い紙を捜して早くこれを写して差し上げたいという心の急なるために、ソレを差し上げたいがために、私の身分が露見して、死刑に処せらるるというようなことも何も考えなかったです。
五月二〇日、またラサへ帰って大蔵大臣の宅へ泊りました。その日はツェーモエ・リンカーという林の中へ、前大蔵大臣と一緒に園遊に行きました。これがチベットにおいて私が最後の面白い遊びであった。そこでマア互いに胸襟《きょうきん》を披《ひら》いて、チベット古代の高僧の伝記その他いろいろの話をして、愉快に一日を過ごしました。ところで、この頃は第二の法王がラサ府へお越しになって、ご逗留であるからして政府の者は非常に忙しい。また人民も相当に忙しい。地方の人士も沢山ラサ府に集まって、商いも相応にあるからです。
話は少し変りまして、タクボ・ツンバイ・チョエン・ヂョエのことになりますが、彼は五月二〇日、ちょうど私がリンカ(園遊)に行った日です、その時にヤブシー・サルバ(新しい法王の親家という意味)へ、チョエン・ヂョエが遊びに行きました。一体、今の法王は父母はすでに亡くなられて、ただ兄さんがあるだけ。その兄さんが親の代りになってシナ皇帝から公爵の位を受け、デ、ラサ府の南の側に新しい邸ができて、そこに住んでおられるです。法王の威権|赫々《かくかく》たると同時に、その兄の威光もまた大いに民間に顕われている。その兄さんにチョエン・ヂョエが逢いまして、いろいろの話の折に、余ほど話の都合が好かったとみえて、私のことについて何か話し出したそうです。
≪秘密を漏す≫ その時の話の様子をツァールンバから聞きますと、こういう様子でありました。「ドウも我が国へ感心な人が来ている」といってしきりに誉め立てると、法王の兄さんは、「ソレはドウいう人か」「ほかでもないが日本という国から、我が国へ妙な人が来ている。その人は日本の正しいラーマである。そのラーマというのは、シナの和尚に似たような者であるが、それよりもマダ豪い。本当の坊さんとみえて毎日二食、ソレも日中(正午)を過ぎては少しも喰わない。ソレに肉食をしない。また酒を飲まない。ドウも感心なもので」というて、喋々《ちょうちょう》述べ立てたそうです。
時に法王の兄は「その人は一体どこにいるのか」というと、「それはあなた御承知でしょう、セライアムチーです。あの名高いセライアムチーです」と聞くより、法王の兄はしばらく考えた後、「セライアムチーというのはこの頃非常な評判で、すでに我が法王においてもお迎えになるくらいのこと、また貴族、高僧も争って迎えられるというナカナカの名医、わずか一、二年の中に、これだけの名声を博するほどの奇々妙々の医術を施すというところをみると、コリャとてもシナ人でない。ことによると西洋人ではあるまいかと思うておったが、今日お前のいうことを聞いて始めて分った。なるほど日本の人間は、西洋人に劣らない豪いことをやるもんだ。しかし、ドウも困ったことが起ったね」というて、首を傾けたそうです。
ソコでチョエン・ヂョエは、「何ですか困ったことというのは」と申すと、「なアにほかじゃないが、日本という国は私の聞くところによると、英国と親しいそうだ。英国と親しいとするとドウも怪しい。なおこの国は、シナの大国すらも苛《いじ》めるくらいの強力の国である。いわんや我が国のごときは小国、殊に仏教国であるから自分の下につけようという考えで、まず国事探偵を我が国に派遣して、我が国の内情を探らしめたものと考える。ソレはモウそれに違いない。ハテ困ったことが起ったな。セライアムチーに関係ある貴族達は、またサラット・チャンドラ・ダース師が入った時のように、非常な困難に遇いはすまいか。セラ大学も、
≪閉門の不幸≫ に遇うというようなことが起りはすまいか。ドウも困ったことだ。何にしてもコリャ打遣《うっちゃ》っておくことができないが、ドウしたもんだろう」といい出したそうです。チョエン・ヂョエの考えでは、法王の兄はさぞ悦ぶだろうと思っていい出したことが、案に相違したので、大いに憂いの状態に変じてしまった。
もとより、一定の主義と見識とを持っておらぬところのチョエン・ヂョエは、たちまち恐怖の念を懐いて、大いに私を弁護しようという気で、「なアにソリャどうしても、政府の国事探偵とみることができない。ナゼなればあの人は、肉食をしなくては、ほとんど一日もおられないほどのラサ府におりながら、殊にセラ大寺では、肉粥《にくがゆ》や肉の食物を布施として沢山施される処におりながら、ソレを少しも受けずに、麦焦しばかりを喰っているというのは、これは必ず日本の尊いラーマであるに違いない」というて、非常に力をこめて説明したそうです。ところが法王の兄のいいますには、「ソリャお前達は智慧がたりないんだ。世には如来によう似た悪魔がある。悪魔ほど如来によう似せるものだ。恐らくセライアムチーも、その実国事探偵でありながら、真実僧侶のごとくに装うて、大いに我が国民を惑わしておるのかも知れない。決して信ずることはできない。かつ我が国はあのとおり厳重に鎖《とざ》してあるのに、どこから来たか分らないが、入って来るというにいたっては、必ず一通りの奴でない。どこからか飛んで来たのか、或いは不思議の作用をやる者であるかも知れない。だから容易に軽率な取り扱いもできないが、しかし困ったことができた」と聞いて、チョエン・ヂョエは真っ蒼《さお》になって、飲んでおる酒も一遍に醒めてしまったそうです。
第九十八回 チベット退去の意を決す
≪商隊長の狼狽《ろうばい》≫ タクボ・ツンバイ・チョエン・ヂョエ(以下単に商隊長と記す)は、心配らしい顔をして、ツァールンバの処へ尋ねて来たが、その話はいわぬつもりであったそうです。ちょうど晩であったものですから、ツァールンバはお酒をお上りなさいといって充分酒を侑《すす》めた。ところが商隊長は、やけ飲みのような工合にしきりに飲んでおった。もとより親しい友達の仲ですから、ツァールンバが、「あなた何か心配なことがあるとみえて、やけ飲みのような工合に酒を飲んでいるが、ドウしたのですか」というと、「イヤ何でもありませぬ」といって、始めは少しもいわなかったそうです。だんだん酔が廻って来るにしたがって、いわぬ決心のやつがとうとう口を開いて、法王の兄との話の一伍一什《いちぶしじゅう》を話してしまったです。デその話の終った時は夜の十二時で、先生はそのまま帰ってしまった。
その翌朝、早く使いに馬を持たして私をセラへ迎えによこしたそうですけれども、その時私は、セラの僧舎におらない。もっともツァールンバは、大抵私が大蔵大臣の宅にいるだろうとは察しておったけれども、自分の処からジキに使いをよこすことをはばかって、ようよこさなかったのだそうです。その夜商隊長が帰ってから、ツァールンバ夫婦はモウうろうろしてドウしようかと心配の余り、よう寝なかったそうで、可哀そうにその翌日大蔵大臣の方へ手を廻して、私をひそかに呼び出そうというて使いをよこしたそうです。ところが私は、その日は二一日のことであったから、外へ行っておりまして大蔵大臣の宅にもおらなかった。ソコで大蔵大臣の宅にもおらぬということになったので、「サアどうしたらよかろうか」と、大変に気をもみ出した。
ソレはほかでもない。ツァールンバがダージリンから託されて来た手紙が私の手もとにある。私が取り押えられると、その手紙を証拠にされて、ツァールンバその人は下獄されるであろうという恐れを抱き、また私の身上も大いに気づかったです。何しろ自分の身上に振りかかった災難でもあり、また私のためにも大難が起ったというような考えでありますから、夫婦は血眼《ちまなこ》になってラサの町を捜し廻ったけれども見つからない。ほとんど疲れ果て、ドウしたらよかろうか、モウ縛《くく》られたのではないか知らんと思案に暮れているところへ、私はその夕方、不意と遊びに行ったところが、二人は飛びつくように涙を流して、「あなたマアよう来て下すった。コリャもう仏様があなたを導き下すったのだ」と、泣きつくようにいう。何事が起ったのか知らんと思ったけれども、「ソウ慌《あわ》てていわれたところで一向わけが分らぬ。静かにしなさい」といいながら、席に着いて話を聞くと例の商隊長の話を説明したです。
≪ツァールンバの苦心≫ 二人は代る代る説明しおわって、「さて、あなたはドウして下さる御思案でございますか。とにかく私が持って帰ったところのあの書面は、焼いて戴きたい。ソコであなたの方針は、ドウいうふうにおきめになるつもりでございますか」と尋ねられた。ソコで私は答えた。「イヤ私はきまっている。この間からチャンと上書も認めてあるし、いつ事が起って来ても気づかいのないように、私の方ではモウきまりはチャンとつけてある」というと、「ソレじゃアあなたは、モウ知っているのですか」というて、びっくりしておる。「ソレは分っている。そのくらいのことは知っている」「ソレだからあなたは恐ろしいお方だ。法王の兄さんは、あなたは理想外の神通力でも得ているように思っていなさる」「イヤ神通力も何もないが、私は推理上こういうことが起って来るであろうと、大抵知っていたから、その下拵《したごしら》えをしていた」と、こういいましたけれども、ツァールンバは推理作用が鈍いから、「イヤあなたは神通力があって、商隊長と法王の兄さんとの話を知っておられた。ソレで今もあなたがここに来られたのは、あなたがソレと悟られてのことだ。ソレならば早く来て下さればよいに、私共は昨夕《ゆうべ》寝ずにいた」といって、愚痴をこぼしていたです。ソレからまた、「あなたはその上書を法王に差し上げなさるのですか。そんなことをされては我々はたまらない。あなたは尊いラーマに違いないけれども、法王の兄さんはアアいう心の黒い人ですから、何をいい出すか知れない。法王がもし兄のいうことを聞くと、この先ドウなるか分りゃアしません。ソウなると我々は困難しますがドウです」という。「とにかく、今夜|断事観三昧《だんじかんざんまい》に入って、いずれの方法を執《と》るがよいかをきめた上でなければ、ドウするという決定はできないが、とにかく、私がこうきめようという方法だけをいうておきましょう。まずその
≪執るべき方法≫ は四つある。一は日本人としてラサ府に入って来たのは、私が始めてである。事ココにおよんで私の身分、心事をこの国人に知らさずに出て行くというのは、いかにも残念であるから、たとい私が害を受けても、あなたがたや大蔵大臣およびセラ大寺に害をおよぼさなければ、私はここに止まって法王に上書します。第二は上書して私が身を完《まっと》うすることができても、他の人々に害をおよぼす憂いがあれば、断じて上書しません。第三は上書せずに、私がインドの方へ出て行っても、その後にこの国民に害をおよぼすようなことが起らなければ、私は上書せずにインドへ帰ってしまう。第四は上書のいかんにかかわらず、私がインドへ帰った後に、私の知っておる人の総てに禍いがおよぶならば私は帰らない。このままこの国におって上書します。ナゼなれば、私が帰っても害が起り、帰らないでも害が起るならば、その難儀を知人と共に受けて、この国で死ぬのが私の義務であるからです。ただ自分だけ逃れて出るということは断じてしません。もしインドへ帰って行ってもこの国に大いなる害が起らないか、或いは全く害が起らないという見こみが、断事観三昧で立ちますれば、私は帰って行きます。
デこの四通りに分けて、私は今晩|断事観三昧《だんじかんざいまい》に入って、その執るべき道をきめようと思う。しかしこれは私がきめるので、ドウも自分のことを自分できめるだけでは気がすまぬから、なお私の師匠のガンデン・チー・リンボ・チェについて、このことを問い糺す。もちろん私は日本人で今度こういうことになったから、帰るというては問わぬ。私は巡礼に出かけにゃアならぬ必要があるが、出かけた後の多数の病人の利害いかんという点について判断を願って、二者一致すればこれを執り、なおその場合に一致しなければ、さらにチェ・モエ・リンのラーマに頼んでモウ一遍判断してもらう。デそれが師匠の判断と一致すればその判断に従い、私の判断と一致すればその方に従う」とこう答えました。
スルとツァールンバ夫婦のいいますには、「そんなに何もほかの方に見て戴くことは要りません。あなたがきめれば、ソレでよいじゃありませんか。ドウかあなただけできめて下さい」といいましたけれども、「ソリャいけない。こういう大切な場合には人の意見を聞かなければならん必要があるから、私はソウいう方針を執らねばならん」といったところが、「そんならソウいうことに、ドウか早く願いたいものである」ということで、その夜は分れることになりました。ソコで私は帰って大蔵大臣の別殿で独り静かに断事観三昧に入って、確かにその一番善い点を発見することに力《つと》めた。余ほど長時間を経て、始めて無我の境に入ることができて、その後判断ができました。
ソレはこの国に留まっておっては、上書してもしないでも害がある。他国へ去っても、この国人に大なる害のおよぶことはないということであった。まず自分の判断はきまりました。その翌朝、早速ガンデン・チー・リンボ・チェの処にまいりました。巡礼に出かけるというつもりで伺いましたところが、師匠は笑いながら判断してくれましたが、「ドウも巡礼に出かけると、今まで苦しんでおった病人がかえって好くなるわけになっておる。しかし、あなたのいわゆる病人というのは、本当の病人じゃあるまい。マアあなたがここにいると、ラサ府のお医者さんが喰って行くことができないから、その助けにでもなるというようなものかねと」いうお話であった。しかし、確かに師匠は私のこの国を去るということを知っておられたようですが、実に恐ろしい人です。他にも尊いラーマは沢山あるように承《うけたまわ》りましたけれども、とにかく私の親炙《しんしゃ》して教えを受け、殊に敬服したのはこの方であった。これが師匠のガンデン・チー・リンボ・チェと、私との最終のお訣《わか》れであったです。
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第九十九回 恩人の義烈
≪心事《しんじ》すでに決す≫ この日私はまた大蔵大臣の宅へ帰りまして、大臣にこれまでの秘密を打ち明けようと思ったところが、あいにくこの日は五月二二日、すなわちチベット暦の四月一三日で、法王がノルプ・リンカーの離宮からラサ府へお越しになるということで、前大蔵大臣も奉迎に行かれたです。私もしかたがないから、忙しい中に法王の行列を拝観に行きました。この日の法王の行列は大したもので、四人の宰相および各省大臣らを始めとして、皆新調の服を着け立派に飾り立てて出て行かれた。ところがラサ市街へ着かれる前からして、非常に雨が降ったです。その雨といったら酷《ひど》い。頭が痛いような雨。ただに雨のみでなく霰《あられ》も混っておりますので、見物人も奉迎人も皆ズブ濡れです。ところがこういう場合でも、雨具を着けることを許されない。下僕《しもべ》とか馬方とかいうような者は、皆合羽を着ているから好都合であるけれども、金襴《きんらん》の衣裳を着けた大臣達は、顔も手先も雨と霰に打たれながら、ビショ濡れになって馬に乗って来るさまは、いかにも気の毒の次第でした。
その晩です。私は今晩少し秘密にお話をしたいことがあるというて、前大蔵大臣と尼僧に遇いました。尼僧は母親のように私を大切にしてくれた方ですから、わずか一年ほどの交わりでありましたけれども、十年も十五年も交際したよりなお情が深いのであります。その方と二人に対して、私の秘密を明かさなければならぬ場合に立ちいたった。私はいよいよラサ府を去ろうときめたわけですけれども、我が恩を受けているところの前大蔵大臣と尼公に対し、自分の本来を打ち明けずに欺いて帰るに忍びないからです。
≪秘密を明かす≫ ソレで私は前大蔵大臣に申しました。「秘密というのはほかのことではありませんが、私は一体シナ人でない。日本人である。今、突然こういうことを申しても、或いはお信じなさらぬかも知れませんけれども、その証拠はこれでございます」といって、日本の外務省からもらった外国旅行券を示しました。スルと前大蔵大臣は少しくシナ文字を知っておられるものですから、その昇り龍二頭の間に、大日本帝国外務省之印としてある字を読まれて、私の日本人であることを確かめられた。
デ前大臣は、「なるほどソレで分った。私はあなたをシナ人とは思わなかった。始めはソウかとも思ったけれども、あなたのように仏法を熱心に学ぶシナ人には、今まで私は一人も遇ったことがない。かつシナには僧侶こそ沢山あれ、仏教上の智識ある僧侶はほとんどないくらいのものだ。余ほど学者であるというて、人が驚いているところのシナの仏教僧侶でさえ、実に詰《つま》らぬものであるということを、私はしばしば発見した。しかるに、あなたはソウでない。真に仏教を研究しておられるから、かねて私はシナ人でないと思っておったが、或いは私の知らないシナの福州という地方には、仏教の盛んな地方があるのかと、実は内々疑っておったが、今日始めて明らかにすることができた」といいまして、ソレから、「日本人というのは、西洋人と同じことだというような説もあるが違うのか」という尋ねでありました。私は、「ソリャ人種は全く違っている。日本人は貴国の人民と同一の種族である。いわゆる蒙古種族であって、決してヨーロッパ人種ではない。また宗教も違っている」と答えましたが、ソレはもとよりほぼ知っておられることですから、直ぐ私の言葉を信じられて、「さてその秘密というのは、ただ日本人だということだけであって、何もほかに変ったことがないのですか」という。
時に私は、「今日私が日本人たることを、法王政府に告げなければならぬ場合に立ちいたりました」といいますと、「ソレはドウいうわけか。何も別だん告げる必要はないじゃないか」という。「イヤ実はこういうわけである」というて、前にあった一伍一什《いちぶしじゅう》の事情をすべて打ち明けたです。けれども自分が断事観三昧に入ったことと、ガンデン・チー・リンボ・チェに判断してもろうたことが、自分の断定と符節を合わすがごとくであったということだけは、いわなかったです。ドウもソレをいうと、何だか自分がよくよくインドの方へ帰りたいという考えがあるようになりますので、よういい得なかったのです。
前大臣はしばらく考えておりましたが、「ソレではこれからドウなさるつもりですか」
私は断然答えました。「せっかくこの国に来たもんですから、法王に私の日本人であることをお知らせ申したい。この上書を」といいながら、懐から前に書いてあったところの書面を出して、大臣の手に渡しました。ソウしてまた私は大臣に向って、「その上書を法王に奉って、私の日本人であることをお知らせ申すのは、誠にやすいことではあるけれども、ソウするとあなたがたに大いに禍いをかもすことがあるかも知れない。よってあなたがたが、私の他国人たることを知ったから政府に引き渡すというて、私に
≪繩をかけて≫ 法王政府に渡して下さい。さすれば、あなたがたに災害のおよぶ気づかいはございません。私はまた私だけの真実の意見、すなわち仏法を修行するためにこの国に来たということを、法王政府に向って説明しますから」と、決然といいました。
スルと大臣は眉《まゆ》を顰《しか》めていわれますには、「ソリャいけない。そんなことをしたならば、きっとあなたは獄屋に入れられて、遂には餓《うえ》と凍えとに死なねばならん。仮《よ》しまた好い都合に行って、餓と凍えに死なぬにしろ、きっと殺されるに違いない。もちろん外国人たるあなたを、公然死刑に処するというわけにはいかぬから、例の毒でもってひそかに殺すに違いない。何もそんな真似をして死にに行く必要はない。死んでは事がならぬではないか」と私に厳しく詰《なじ》られました。ソコで私は、「事がなっても他人に禍いをかけては何にもならない。自分が死んでも人に禍いをおよぼさなければ、ソレで充分です。すでに今日まで、真の親子のごとくに慈愛されたあなたがたお二人に、禍いを残して自分の身だけ逃れるということは、ドウしてもできませぬ」といいましたところが、慈愛深き尼僧は今まで少し顫《ふる》えておられましたが、眼には涙が満ちて非常に心配らしく、また悲しい有様を呈していましたが、一時に俯伏《うつぶ》せになり声を殺して泣かれました。
時に大臣は辞色《じしょく》を正しゅうして、「ソウいう立派な志のある方を殺して、老い先短き我々が災難を免れたとて何の役に立とうか。私も不肖ながら仏教を真実に信じている一人である。自分の災難を免《のが》るるために、人に繩をかけて殺すようなことはできない。殊に私はあなたが国事探偵でもなければ、また我が国の仏教を盗むために来られた外道の人でもないことは、これまで種々の方面から観察して確かに知っております。たとい
≪この老僧が殺されても≫ 真実に仏教修行に来られた方を苦しめて、自分の難儀を免れることは、私にはとてもできない。殊に我が国の現今の状態は、決してあなたの本籍を明らかにすべき時機ではありません。ですから一時帰郷せられ、他日の好時機を待つよりほかにしようがない。私も不肖であるがガンデン・チー・リンボ・チェの肉弟である。また弟子である。その大慈悲の教えを受けながら、あなたを殺して私の難を免れるということは、ドウしてもできない。もし我々があなたの去った後に困難に陥ることがあるならば、前世の因縁であると諦《あきら》めなければならぬ」というて、老尼僧を顧み、「のう、ソウではないかニンヂェ・イセー(悲智尼)よ」といわれますと、老尼僧はようやく頭を上げて嬉《うれ》しそうにいわれますに、「ようマアおっしゃって下さいました。本当に危のうございますから、一時も早くお帰りなさるがよろしい。決してこちらのことは御心配にはおよびません。こちらのことは、ドウにかまた方法がつきましょうからして、要らない義理立てをせずに、早くお立ちなさるがよい。ちょうどこの時機が、忍んで立たれるには至極好い時であります。第二の法王パンチェン・リンボ・チェはこちらに来てござるし、この月中はラサ府の市街は上を下へと騒いでおりますから、あなたがお立ちになっても誰も気のつく者もありませず、誠に好い都合であります。もしこういう時でもなかった時分には、たとえ疑いを受けなくても、あなたはとてもインドへ行くことができないであろうと、私は思う。ナゼなればすでにラーメンバ(侍従医長)が、あなたを是非この国に止めておかなければならんという意見で、法王にもそのことはすでにお話があったくらいですから――。この時こそ好時期、早速お立ちなさる拵《こしら》えをして、早く立たれるがよかろう」と、言葉に真実をこめて涙ながらに説き勧めてくれました。
第百回 出発準備
≪老尼僧の慈悲≫ 私はその時、このお二方の誠実なる慈悲の心に感じて、心の底から真に悦んだ。余り悦んだものですから覚えず涙が出ました。このお二方のいわるるところは、私に取っては誠に都合の好いことであるけれども、さりとて、オイソレというてジキにそのことに従うわけに行きませんから、ひとまず言葉を尽して、「お二方に、後日禍いの起らぬように、ドウか私を政府に引き渡して下さい」というて、説き勧めてはみました。けれどもナカナカ聞き入れてくれなかった。
遂に老尼僧が私に向って、「そんなに争うていてもしかたがないから、ともかくチー・リンボ・チェに判断して戴いたらドウでしょう。ソレで双方に害がないということになれば、あなたの望みどおり法王に上書なさるもよいじゃありませんか。なんぼ争っていたところが、前途《さき》のことが分らぬでは駄目ですから」といわれますと、大臣もジキにそのことに同意されました。ソコで私は只今までいわずにおったチー・リンボ・チェに尋ねたことをば、トウトウ話さねばならぬことになってしまった。デその次第を話し、なおかつ私が断事観三昧に入ってみたことも話しますと、お二方は笑いながら、「そんなことなら何もこんなに心配するにおよばんのである。もはやお帰りなさるだけのことだ。何も繩をかけて政府へ渡すのドウのということは、要らぬことだ。あなたは私達に義理立てをして、そんなことをいわるるのでしょうけれども、ソレは無益なことだ。もうチー・リンボ・チェがそうおっしゃれば、確かなことである。またあなたの判断までがソレと符合しておるというのは、実にコリャ仏の思召《おぼしめし》があるから、ソレにそむくとかえってあなたが禍いを招く基《もとい》になる。早くお帰りなさるがよかろう。その上また帰られる道々のことについても、こちらから保護をするというわけには行きませんけれども、もしこのことが露見して、あなたの後を追って行くというようなことになれば、ドウにか方便をつけて、あなたがこの国を安全に出られるように、私共でも祈祷をいたします」というて、いろいろ説き勧めてくれました。真に自分の禍いを忘れて、ただ私の身ばかり思って下すったことは、ドウも一生忘れることのできぬほど、ありがたく感じたのでございます。
ソコで私は大臣の宅に置いてあるところの経書類の総てを取り集めて、ジキに薬舗の天和堂へ持って行きまして、そこに預けておきました。デ天和堂の主人|李之揖《りししゅう》氏に向い、私は少し考えもあり、またいろいろ買物をしたいことがあるから、カルカッタの方に一度行って来たいと思う。カルカッタに行ってから、幸いに自分の国から金を取り寄せて、書物を買うことができれば、ジキにこちらに引き返して来るが、もし国から金を取り寄せることが困難であれば、私は一応国へ帰って金の都合をして、来年なり再来年なりこちらに来たいと思うている。ドウなるか、確かなことはもちろん今からきめることはできない。とにかく至急に出立せなければならん。ソコで一番
≪困るのはこの荷物≫ で、書物も持って帰って、一応我が国人にこういう物を得て来たというて、示さなければならんわけであるから、この書物類はすべて持って帰る。ついてはこの書物の荷造りをして、持って行くようにせなければならず、またこの荷物を運送せなければならんが、馬を買うとか何とか好い便宜があるまいかというて、相談しました。ところがこの李之揖氏は、モウほとんど私のためには、身命をなげうっても事をやろうというほど、私を信じてくれたお方です。こういう人があればこそ、うまく事が運びましたので、もしこの人が私を信じておらなかったならば、きっとこの時に何らの働きもせず、かえって裏をかくようなことをされて、私は大いなる禍いに遭ったかも知れない。けれども、この人は実に私を信じて充分尽してくれた。その内実は、私の日本人であるということをほぼ知っておったようです。ナゼなれば、私の宅へ来た時分にふと日本語で書いた書物を見て不思議に思われたからで、その後は余ほど注目して、いよいよ私の日本人であるということを確かめておったようです。
ですから、私がこの時いよいよ帰るとなってみれば、世間でも幾分かの噂《うわさ》の立って来ている時ですから、普通の人間なら随分危ない仕事だと思って、何も世話をせなかったかも知れぬ。ところがナカナカそうでない。よく引き受けてくれまして、「ソレには大変好いことがある。雲南省の商人で私と同郷の者が、ちょうどこれから四日ほど後に、カルカッタに商いに行く。それと一緒に行ってはドウか。その者に荷物を託すれば運送賃も安くつく」という。「幸いにソウいう便宜があれば一つ頼みたい」「よろしい。私の友達だから決していやとはいいますまい。ドウせ帰りに荷物を沢山積んで来るので、往きには空馬が沢山あるから」というような話で、好い都合に話が成り立ちそうですから、いろいろ頼んでおりますと、その友達である雲南省の商人がそこへ出て来たです。
スルと主人がその人に向うて、「ちょうど今あなたの話をしているところだ。誠に好都合だ。実はこういうわけだから、お前一つ二駄ばかりの荷物を、カルカッタまで送ってもらうことはできまいか」と頼みました。ところがその商人は、元来私とは売買上の関係ある人なんです。私がその人から麝香《じゃこう》を買うたり、或いはまた宝鹿《ほうろく》の血角《けっかく》を買うたこともあり、薬を拵えたこともあって、私が取引き上、信実を守ることをよく承知しておるからして、早速引き受けてくれたけれども、その人のいうには、
「私の処には空馬がない。幸いココに好いことがある。ちょうどこの人も四、五日経つと行くのだが、我々よりもかえって早くカルカッタに着く人がある。ソレは駐蔵大臣の衙門《がもん》から、トモの城へ指して兵士の給料を持って行くので、大分に馬も空いておる様子だから、それに積んで行ってもろうたら都合が好くはないか。その代り、少し金を沢山やらんでは肯《き》くまいが、ドウだろうという。「よろしい。荷物が早く着くなら金は少し余計にやってもよろしいから」というので、そのことはほぼきまった。ソウいうことで、かれこれ夕方まで話をしておりました。ソレからまず寺に帰って来たが、寺にあるところの経書類の仮荷造りをして、ラサ府まで持ち出さなければならん。
≪経文と小僧の始末≫ ソコでその夜は徹夜して書物の仮荷造りをして、その翌五月二四日の午前中に、人を雇うてその経書類を皆ラサ府の天和堂に送ってしまった。ところが、その日は幸いに寺内が非常に淋しいです。元来六、七千の僧侶がおっていつでも賑《にぎや》かで、荷物などの取り片づけをすれば人が見て、ドウしたとかこうしたというような、喧《やかま》しい話も沢山出るのですけれども、その日は一つのカムツァン(僧舎)に二人か三人しかおらない。だからマアどこへ行っても人がおらないようなものです。それ故、夜通し荷造りをしても、或いは翌日人を雇うて送らしても、人の疑いを惹《ひ》き起すようなこともなかったのです。
ソレから、私の今まで使っておったチャンバイセー(慈智)という小僧がある。長く仕えておったものですから、その小僧の始末をつけなけりゃアならぬ。ソレは今まで私がおらなくても、毎日書物を学ばせるために教師のもとに預けてあるので、私が帰って行けば、やはり帰って来て水を汲んだり茶を沸したりすることはやっておるのです。私が今ここを去るのに、黙って出て行くわけにはいかない。やはりお暇をやらなければならぬ。ソウでないと、何故書籍などを持ち出すのであろうかと、ジキに疑いを起されますから、ソレで私がその小僧にもいい聞かしました。
「これから私は大変好い都合ができたから、巡礼に出かけなけりゃアならん。ソレは大蔵大臣の弟で、ツアーリーの方に住んでおられる方がある。ツアーリーというのは、第二の霊跡とされている処である。元来チベットには三つの霊跡がある。一は西北原のカン・リンボ・チェすなわちマウント・カイラスである。一はツアーリーというて東南に当り、インドのアッサム地方と境しているヒマラヤ山中にある峰である。一はチョ・モハーリというて、世界第一の高雪峰ゴーリサンガー、或いはエヴェレストともいう。これをチベット雪峰の三霊跡としておる。その一なるツアーリーに私は参詣するつもりであるが、多分四か月はかかるだろう。四か月だけの食料と学資金とを置いて行くから」というて、四か月に余る食料と学資金を教師に預けておいた。子供に持たしておくと、一度に使ってしまうからです。
ソレからまた、自分がセラ大学に入る時分に保証人に立ってもらった人がある。その人には、私の法衣の一通りと少しばかりの金を与え、なおほかの恩を受けた人達および講義をしてくれた教師達には、皆相当の物品或いは金を記念《かたみ》の証《しるし》として送り、それらの用事を皆すまして、ちょうど午後四時過ぎに、私が属しておるヂェ・ターサンの大本堂に参詣して、燈明を上げ供養物を供え、そして釈尊の前にて
≪告別の願文≫ を読み立てました。その願文は「チベット国セラ大寺のヂェ・ターサンの大本堂において、慧海仁広《えかいじんこう》稽首百拝《けいしゅひゃくはい》して大恩師シャカムニ如来に念願し奉る。仏法もとより無碍《むげ》にして偏在なしといえども、衆生の業力《ごうりき》異なるにしたがいて、仏教者中にその偏在を見るは、遺憾《いかん》のいたりなり。慧海仁広|宿業拙《すくごうつたな》くして、現時日蔵仏教徒の協同和合を成就するあたわずして、空しくこの国を去るにいたるといえども、願わくば今日の善縁をもって、他日日蔵仏教徒の円満なる和合を成就し、世界に真実仏教の光輝を顕揚するにいたらんことを、謹んで至心に祈願し奉る」と唱えて、ソレからシャカムニ如来の御名《みな》を十唱十礼して本堂を降りました。
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第百一回 出発の準備整う
≪無限の感慨≫ 本堂の石段を降り、板石の広庭を左に通り抜けてまいりますと、長い急な石段がある。ソレは法林道場(問答の場所)の横に架《かか》っている石段である。その石段を降りると、法林道場の美しい門の前に出ます。その門は平地よりは少し高くなっておりまして、石段を一間半ばかり登りますと、その中にシナふうの門があって、その門の中はいわゆる法林道場であります。その周囲は総《すべ》て低い石の塀《へい》で、その塀は白く塗られてある。その門の前へ出ましたが、門前の処も、やはり等級の低い僧侶が問答の下稽古をする場所で、ナカナカ広いものです。そこにも青々として楡《にれ》、柳の類があって、その間にチベットの木蓮《もくれん》の花が美しい香気を放っております。その場所は、恐らく風流心のないチベット国人が拵《こしら》えた場所としては、実に雅味のある処で、私は三大寺共に見ましたが、この法林道場ほど風雅な景色に富んでいる処はない。その法林道場のずっと上手を見ますと、巌山《いわやま》が突兀《とっこつ》と聳《そび》えていて、その岩の間の流水に日光の映じた景色は実に美しく、ソウいう天然の景色に人為的雅味をつけ加えたのですから、自ら一種の風致があります。
この法林道場に来まして、私は一種の非常なる感情に打たれました。いかにもシャカムニ如来に訣《わか》れを告げて、これから帰るとはいうたものの、せっかく日本人としてこの国に来ていながら、ドウも日本人ということをいい明かさずに、オメオメ帰って行くというのは意気地のない話だ。何とか他の人々に禍いのおよばぬような好い分別がないものか知らん。死ということは、むろんどこへ行っても免れない。早く死ぬか晩《おそ》く死ぬか、何れとも死ぬにきまっている。この際死を的《まと》にして、一つ法王政府に私は日本人であるということを知らしてやろうか知らん。こういう好い文章(上書文)ができたのに、この文章を示さずに殺してしまうというのは残念だと、非常な刺激に打たれつつ出てまいりましたが、不思議にもその法林道場の辺際《あたり》より、ギョクボペブという奇態な大声が聞えました。
これはチベット語で、和訳しますと、早くお越しなさいということで、一体この今の言葉は、誰人《たれびと》が誰に話しかけたのかと、怪しんであたりを見廻しますと、誰もおらない。唯《ただ》、夕陽が法林の樹枝に映って、美しき緑光を放っておるばかりで……。が、鶯の声でもないに何の声であろう。我が心中の迷いの声ででもあろうかなどと思うて、二、三歩歩み行きますと、また不思議にもギョクポペブという美しい大きな声が聞えました。コリャ誰か私に告げるのじゃと思うて、誰かといいつつ遠近《おちこち》を見廻して、法林道場の後の方にも人がおらないかと索《もと》めてみましたが、誰もおらない……。いかにも不思議と思いつつ、自分の舎に帰る方向に着きますと、またまた不思議の声が幾度か発しました。
トコロで我が心は、もはやチベットに留っていては善くない、帰るということに決定しますと、その今まで叫びし声はなくなりました。その時は、ちょうど解脱仏母《げだつぶつぼ》の小堂の横の石段に上っておりました。ソレからセラ大寺の大本堂の前を通って自分の舎《へや》に着きました。ソレから少し残してある荷物を提げて、その晩ラサ府へまいって天和堂へ泊りました。
その翌二五日、天和堂から出まして、これまで誂《あつら》えてある書物の取りまとめにかかりました。せっかく誂えた書物なり、かつは得がたい書物ですから、金の払ってある分だけは集めようと思いましたので、その夕方大分集まり、その翌日も余ほど集まったです。ソコで午後に私も手伝いましたが、主《あるじ》の李之揖《りししゅう》氏が箱などを拵えて荷造りをしてくれました。その翌日ですが、ヤクは毎日午後二時頃から沢山殺すのですから、そのヤクの生皮を三枚ばかり買って来ました。ソレは私共が行って買うのではない。皮仕事をする人間が屠所《としょ》へ行って買って来るのですが、その皮は誠に柔かい。デその血のついてある皮で箱を包むのですが――もっとも、お経文は幾重にも巻いて箱の中に詰めてあるから汚れはしませんが――内皮を外にし、毛のついてある方を内にしてうまく縫いつけた。それが干し固まると板のように張りきってしまうから、実に堅固な荷造りができるです。その荷造りのすっかりできたのが五月二七日です。
その翌五月二八日は、いよいよその商人らも出立するということですから、その商人から馬一疋借りて、私もいよいよその商人らと共に出立することにきめ、その夜大蔵大臣の宅へ訣れに行きました。私の法衣《ころも》とか袈裟《けさ》とか通常の法衣類は、すっかり荷物の中へ入れてしまって、ドウも出すのに不便ですから、前大蔵大臣から一揃えの法衣を借り、なお大臣から餞別《せんべつ》として百ルピー戴きました。これはつまり、これまでお世話になったところのお礼であるといってくれました。実は、こっちからお礼をしなくちゃアならんくらいのものであるですけれども、この場合に、百ルピーは私に取っては非常に役に立つのでございますから、その金を戴き懇《ねんごろ》に訣れを告げて、その晩天和堂の宅へ帰って来ました。
≪出発の間際の変事≫ スルとその帰って来た夜です。これまで全く頼みにしておったカルカッタ行きのシナ人について、全く変ったところの一事件が起って来た。その変事はドウいうことから起って来たかというのに、かねて私と懇意《こんい》な駐蔵大臣の書記官|馬詮《マツェン》が、今度カルカッタに行くシナ人とはいたって眤懇《じっこん》の間である。ソコでその書記官が、自分の友達のためを思って私のことを内々話しこんだです。彼は決してシナ人ではない。確かに日本人らしくみえる。西洋人でないことはきまっているけれども、ドウいう魂胆《こんたん》があって来ているかわけが分りゃあしない。もっとも仏法の方にかけてはナカナカやり手であるけれども、今の時に当って仏法だけの見こみで、この国に来るということは余ほど不思議なことである。ことによると英国政府の依頼を受けて、この国の探偵に来ているかも知れない。ソウいう人と一緒に行くと、後にお前の首がありゃしないと告げたものですから、そのシナ人は大いに驚いたです。書記官はラサのシナ人中では最も物識り、最も老練家として尊敬を受けている人ですが、ソウいうことをいわれたから、一遍に信用してしまった。ソレでこれまで頼みにしておったことが、全く水の泡になってしまったという天和堂主人の秘密談である。ソウなってみれば、どんなにその人に頼んだところで、一緒に行くものでもなければ、荷物を運んでくれるものでもないです。なお李之揖氏がいわれますには、
「しかし荷物だけは、ドウにか私が引き受けてやることができるだろうと思う。金は少し余計かかるけれども、この薬舗から駐蔵大臣の下僕《しもべ》等に特別に頼めば、秘密《ないしょ》で持って行ってくれましょう。ソレは何程《なんぼ》で承知するか分らんけれども、私の薬であるといってやりさえすれば、そんなに貪りはすまい」という話。
「それならドウか荷物だけを一つ出してもらうようにしてもらいたい。ソレから私は急に出かけて行かなければならんが、夜着や食物の用意をして行かんと途中で困るから、その荷持《にも》ちの下僕を一人雇うてもらいたい」と、ようよう話がまとまって、李之揖氏はジキに交渉に行ってくれたです。けれども、先方の人がおらぬとかいうて落胆して帰って来ました。
≪荷物の託送≫ その翌五月二八日、いつも朝寝の主人が早く起きて、まず荷物運搬の交渉に行ってくれた。うまく説きつけたものか、その荷物を監督して行く人には、特別に二十ルピーの手数料、ソレからスイシー、すなわちトモまでの馬二駄の運送賃が、四十ルピーで運んでもらう約束をして来たから、早速その金を先方へ渡してくれろということですから、渡してやり、デその荷物はその夜ひそかに運んでおきました。元来シナ人は横着で、駐蔵大臣の命で給料などを運送してまいります時分には、十疋でたりる場合でも十五疋も十六疋も徴発して、その余分の馬に秘密で人から頼まれた荷物を積んで、賃銭を貪ることを役得のように心得ているのがシナ人の常です。
ソウいうわけですから、私の荷物も天和堂主人の頼みにより、薬舗の荷物と心得えて運ぶことになったのでございます。荷物の方は片づいたが、私と一緒に行くところの下僕を得ておらない。ソレを大いに天和堂の主人も心配し、またその妻君も非常に奔走《ほんそう》してくれまして、ちょうど好い人を見つけてくれた。ソレは還俗《げんぞく》僧でテンバという人なんです。
その人はもとテンゲーリンの相当なる僧侶であった。ところがテンゲーリンのテーモ・リンボ・チェが牢内でお逝《かく》れになると、同時にそこの僧侶で流浪する者も大分できました。その人もその一人で、その後零落して妻君を持ったという始末。いたって正直な人であるという。それのみならず、ダージリンの方へは、若い時分から三遍も行ったことがあって、大いにダージリンの地理に委しいという。その人をドウいうふうにして雇ったかといいますと、まずダージリンの方へ出かけて行って、ブータン、シッキムにおける雪山の霊場を巡り、再びダージリンに引き返してカルカッタに出て、ブッダガヤ、ベナレス等へ参詣し、ソレよりネパールの霊跡を巡ってチベットに入り、ラサ府へ帰って来るのです。その旅行の予定がまず四か月間、ソコでお前の食物および着類等は主人持ちとして、一か月の賃銭が七円五十銭、その半額だけを前金に渡すという約束で雇いまして、十五円だけ渡してやりました。その金はすべて、その男が妻君に渡してしまったそうですが、ソレは妻君の四か月間の食料となるのです。その翌五月二九日、チベット暦の四月二〇日、荷物の渡すべきものは渡して、いよいよラサ府を出立することになりました。
第百二回 いよいよラサ府を出ず
≪天和堂の哀別≫ この時分のラサ府は非常に混雑して、上下の騒ぎは実に眼を廻すばかりである。コー・チャク・バ(警部)三十名、ラー・ギャプ・バ(巡査)三十名、これがラサ府の総ての警察官吏である。これらは平生泥棒を捉えたり、或いは怪しい者を捜索したりするのが本職であるけれども、この時は、すべて法王および第二の法王の警護にのみかかっておりますから、ほかのことは何もやらないです。また高等官および高等僧官らも、すべて自分の職掌上のことに追い廻されておりますから、他のことはドウなっているかということも、気がつかぬくらいです。誠に私の出立には好都合の時であったです。
けれども、ラサ府には沢山の人が入りこんでおって、すでに私のおったセラの僧侶なども皆行っているものですから、ラサ府を出立する時分に旅行服に着替えて出ますと、人の疑いを惹《ひ》く種となりますから、その前々日、大臣の処から法服を借りて来たので、私はその法服を着けて、やはり普通セラ寺の僧侶がラサ府に滞在しているというふうに、装うておったです。
いよいよ出立の当日午前十一時頃までに、天和堂の夫婦はもはや今日はお立ちになるのであるというて、精進料理のご馳走を拵《こしら》えて別宴を開きました。可哀そうなのは、その家の十一になる姉娘と五つになる男の子供です。その二人が行かれるのが厭《いや》だといって泣いている。殊に姉の方は、俯伏《うつぶ》せになったまま顔も見せないで、さも悲しそうに啜《すす》り泣きをしている。モウいよいよ立つという時になったものですから、母親がお訣《わか》れしないかというと、大きな声で泣き立てて、ドウもしようがなかったです。いかにも親しくなると、子供でもこういうものか知らんと思いましたが、やはり人情上、自分も幾分か離別の苦痛を感じたわけでございました。
デその家の弟と妻君の弟と、ソレから妻君の姪《めい》になる娘と、テンバという私の連れて行く男の女房四人が、私を見送ることになったですが、ソウ一緒に連《つら》なって行きますと、人の疑いを惹くからというので、ラサ府を離れて、レブン寺の前の林の中で出遇うことにしようという約束で、皆別々に出かけた。私は荷持ちを連れ僧服を着けて、ボツボツラサの町を出てシャカ堂の少し前の処へ来ると、
≪気の知れぬ巡査≫ 巡査が一人おりまして、ズカズカと私の前へ走って来まして、時が時ですから、何か変なことでも発覚して捉えに来たのじゃないかと、一寸私も注意を引き起したです。スルと私をジーッと眺めて、「おめでとうございます」というわけなんです。ドウいうわけでソウいうことをいいおるのか、一向わけが分らん。分らんことにドウとも挨拶《あいさつ》ができんものですから、黙っておりますと、「実におめでとうございます。マア何もかもよく整いまして、おめでとうございます」と、何をいいおるのか少しも分らんから、私は「フーン」と一声放ったきりで様子を見ていますと、その男が三遍礼拝しました。「コリャ私を捉えるわけでもないらしい。しかしドウも奇態だ、礼拝するというのは」と思っている中に、不意と気がついた。
なるほど私の着ている法衣は大臣の処から借りて来たので、いわゆる高等官吏、まず侍従医にならなければ着られぬくらいの着物です。ところでその時分、私が侍従医になるとかならぬとか、非常に評判の高い矢先に、ソウいう立派な着物を着て出かけたものですから、先生いよいよ私が侍従医になったと判断を下したに違いない。それ故に何もかも整うて、おめでとうございますといったのでしょう。そんなら銭をやらなくちゃアならんわいと思っていますと、その男は三礼をすまし、ソレから舌を出して頭を突きつけた。ソコで私は頭へ片手をつけてやって一タンガーやりますと、彼は舌を出しつつ大いに悦んで去ってしまいました。今ラサ府を離るるというシャカ堂の辺においてです。こういう言葉を聞くというのは、途中|滞《とどこお》りなく目的地へ到着し得るという、おめでたい縁起になったかもしれない。
≪巡査は無給≫ この巡査のことについて、一寸いっておきたいことがある。チベットの巡査には大変悪風があって、実に困ったことがあるです。第一この巡査にはきまった月給がない。その月給は何から仰ぐかというと、市中へもらいに廻るのです。もらいに行くといっても、乞食のようにヘイコラいって一生懸命に頼むわけではない。大抵、三人連れで町家の門に立ち、大きな声で怒鳴《どな》り立てるその言葉がナカナカ面白いです。
百千万の金銀を、持たるる方の施しを受くべき者は、我らなり。何もなき身の頼みに応じ、千万金を惜し気なく、与うる主は君らなり。茅屋親爺《あばらやおやじ》の三十人に大判三十与えよや。茅屋|婆《ばば》の三十人に大判三十与えよや。君は世間を救う主、すべての情《なさけ》を汲み分けて、我らの苦患を救う主。今日君よりの賜物《たまもの》を、今宵《こよい》我が家に持ち行きて、飢えたる婆を悦ばせん。欠けたる椀《わん》に芳《こう》ばしき、酒なみなみと注ぎ堪《たた》え、前後知らずに酔いふして、飲まれるまでに賜《たま》えかし、ハーキャーロー。
このハーキャーローという言葉は、善神の勝利を得たという意味です。右の歌のようなものを、コツコツと何遍か述べたてていると、家内《うち》から金盆《かなぼん》の中へ麦焦しを入れ、その真ん中に好い家なれば銀貨三枚ぐらい、悪い家なれば一枚、或いは半分の銀貨を入れて、その糧《かて》の処にカタ(薄絹)の小さいのを一つ添えてあるです。もしその家に似合わず少しくれると、こういうことは前から習慣がない。あなたの家では、確かに銀貨二枚ずつ、月に一遍ずつくれたではないかという談判を始める。いろいろなことをいわれるのが嫌《いや》ですから、モウどこでも始めから当り前にやるだけの物はやるです。これらはやはり寺の中へも出て来ますが、寺では平生乞食の入ることを許さないこともあり、また許す時がある。平生やっておかないと、その時に来てグズつかれて、大いに面目を失するようなことがありますから、平生でも皆相応にやるです。そのもらって来た金は、巡査中の頭取(コー・チャク・バ、すなわち警部にあらずして三十人の巡査部長のごときもの)に渡して、その中から月に幾らといって銘々分けてもらいますので、一文でも盗むことはできない。盗むと直ぐに知れますから……。
なおこの巡査らは、ソウいうことをして金を得るばかりでない。田舎から道者がラサ府へ出て来ると、金をくれろというです。ソコで田舎者は、一タンガーもやれば沢山だと思ってやると、お前もそのくらい好い着物を着ていながら、よくこのくらいの金を出したなといって、喧嘩《けんか》を吹きかけ、ウカウカしていると打擲《ぶんなぐ》られた上|謝《あやま》って、また金を沢山取られるようになるということは、かねて田舎へも聞えておりますから、なるべくその鋒先《ほこさき》を避けて、こちらから頼んで金を取ってもらうようにするです。私が始めてラサ府に着いた時は、制規の僧服でなくて旅服を着けていたものですから、ジキに巡査に銭をくれといってグズられたから、早速一タンガーやりましたが、ソレで事がすんだです。
今度出立する時にも、ソウいうふうで、着物の立派なのを着ておったのが誤りで、銭をくれろといわれたのですが、一体は僧侶にくれろということをいい得ない規則になっているのです。もっとも何かめでたいことがあって、その人の等級が上るとか何とかいう時分には、くれろといわれるのですから、ソコで私の等級が上ったと思って、くれろといったのでしょう。
この巡査が泥棒などを捉えにいく時でも、決して旅費をもって行かない。行った先で飯を喰い、酒を飲み、自由自在にやっていく。もし三日でも四日でも、人のいない地方へ行く時分には、その近所の人民に余るほどの食物を用意させて、ソレから出かけていくです。コー・チャク・バの方になりますとナカナカ立派なもので、ソウいうようなことをしない。そのかわりに、政府の方からも幾分の手当金があって、大分に品格が違っております。
≪林中の泣き別れ≫ その巡査と別れていよいよラサ府を離れる時に、一寸シャカ堂へ参拝して別れを告げ、ソレから法王の宮殿の下を通り、だんだん外へ出て橋を渡り広原へ出て、レブン寺の少し前の小さな林に着きました。
そこには薬舗の番頭と、その他三人の者が待ち受けております。私はもちろん酒も飲まず、モウ御飯もすんだのですから、何もやる必要はないけれども、着物を着替えなければならん。着ている法衣を脱ぎ棄てて旅行服に着替え、これを大蔵大臣の宅に返してくれといって、その人達に頼みました。
先生らは皆酒を沢山持って飲みながら、ドウも別れが辛い。わずか四か月くらいの旅ですけれども、殊にインド辺《あたり》の熱い処へ行くのだから、死なないようにして下さい。大変御恩になったのにお帰りになって、今度また来られるかドウかそのことも分らないといって、皆泣き出したです。こちらはそれほどにも感じておらんのですけれども、非常に泣き立てて送られたものですから、私も荷持ちも泣き別れに別れました。やがてレブン寺の下を通り抜けて、シン・ゾンカー駅に着いたのはちょうど日暮れで、その駅に泊ることにしました。
第百三回 ゲンパラの絶頂
≪チベット人の癖≫ 五月三〇日、駅馬を雇いシン・ゾンカーを出立しましたが、その道々において、荷持ちのテンバを少しく誡《いまし》めなければならんことがあったです。チベット人はいつも嘘《うそ》をついたり、仰々《ぎょうぎょう》しいことをいうのが癖《くせ》で、もし途中でこのお方は法王の侍従医だなんて、仰々しいことをいわれると、かえって妨《さまた》げになるだろうと思い、決してソウいうことをいうてはならぬと誡めたにかかわらず、昨夜泊った所で、あのお方はどこの方かと尋ねた時分に、「アリャ、ラーマの化身である」と答えたのを聞いたです。ソレからそこではワザワザ室を換《か》えて、床《とこ》から何から皆別々にしてしまった。一時の便宜を得たようなわけですけれども、そんなことばかりいって人を欺《あざむ》いて行くと、大変困ったことが生ずる。
「自分が実際ラーマの化身でないのに、化身なんていうのは、かえって毒をもって人を害したような結果になるから、以後は決してソウいうことをいってはならぬ」と誡めますと、テンバのいうには、「こちらからいわないでも、先方《むこう》から化身でしょうと尋ねたから、ソウですと答えたまでのことで、これから先もソウいうふうにして、お越しにならぬと損です。ラーマの化身というと、この辺では駄目ですけれども、田舎の方に行くと敬われた上に、好い金儲《かねもう》けになる。あんたのように堅いことばかりいっては、金儲けはできません」という。ソレから少しく怒って、「己《おれ》は金儲けに出かけるのではない。人を騙《だま》して金を儲けるなんて、もってのほかのことをいう。実際、ラーマの化身でないのに化身だなんて罪を作り、金を儲けたからって何のためになるか」と、叱りつけてやりました。先生は大いに辟易《へきえき》して心得ましたとはいったが、「ドウも我々は金が欲しいものですから」と、グズグズいっておりました。
その日はネータンという処で昼餉《ひるげ》をすまし、それより二里半ばかり行きますとナムという村があります。そのナムを通ってヂャントエという村まで着きました。この村にはかねてセラ寺において、私をよく知っている僧侶の家があって、相当の活計《くらし》をしておるです。その家に着きましたところが、大いに悦んでどこへ出かけるかという。「実はこれから巡礼に行くつもりだ」というと、「ソリャ善いことだ」といって充分手当をしてくれた。その翌日も馬で送るというような都合で、大変好い塩梅《あんばい》に行ったです。
三一日の未明《あけがた》に、その僧侶から送ってくれた馬に乗って、チャクサムという処まで急いで出て来ました。ソレは前に説明した木の船と皮の船のある処です。そこから馬を返し木船に乗って向う岸に渡り、パーチェという駅まで着きました。これはゲンパラという坂の峻《けわ》しい山の下にある駅であって、ここへ日暮れ方着きました。その夜馬を雇う支度をして、六月一日午前四時にパーチェ駅を出立し、馬でゲンパラに登りましたが、ちょうど中ほど過ぎまで登りますと、私より一日先に立っておったシナ人がその坂の中ほどで馬に草を喰わせ、自分らは茶を拵《こしら》えて朝御膳《あさごぜん》を喰っておったです。私はその人達に一寸|挨拶《あいさつ》して、荷物はドウかといいますと、モウ送って来ることになっておるから、安心してくれろということでした。
≪再び法王の宮殿を望む≫ ソレでその人達に別れを告げて、ゲンパラの頂上へ馬で登りました。その頂上から振り返って見ますと、ラサ府が遙かに東北の方に彷彿《ほうふつ》と見えているのみならず、法王の宮殿も糢糊《もこ》の間に見えております。幸いに往きも帰りも好天気であったものですから、この絶頂から遙かに法王の宮殿を拝することができました。
ゲンパラは海面を抜くこと一万四千九百尺にして、ラサは一万二千尺弱、ラサよりほとんど三千尺の高山で、その道程《みちのり》は四十八マイル、直径およそ三十五マイル、日本の里数にして十四、五里くらいなものです。この山に登ると、ラサの法王の宮殿が見えるということは、チベット人の誰もがいうことで、或いはこの絶頂からラサは見えぬという説もあるそうですが、ソレは事実と違っております。その絶頂から一歩坂を向うへ降りますと、モウ、ラサ府は見えないです。まずここで、久しく住み慣れたラサ府にお別れを告げようと思っておりますと、不意と思い出した面白い旧話《きゅうわ》がありますから一寸お話しておきます。
ソレはネパールに住んでいるチベット人で、ごく豊かな家の下僕《しもべ》である。その名はペンバ・ブン・ツォという、ごく剽軽《ひょうきん》な罪のない男なんです。その男がネパールのチベット人なる自分の近辺の者および主人などと、一緒に巡礼にやって来た。ところで、自分の国の方では食物が沢山あって、値も安いから毎日米の飯を喰っている。また麦も沢山ある。しかるにラサ府の方へまいりますと、食物が非常に高い。高いからして巡礼に行った者などは余り余計喰わない。いつもひだるい腹を抱えているところで尊いラーマに逢いに行くと、ラーマというのは大抵皆金満家ですから、昼御膳などはナカナカ立派なもので、前には乾肉の山ができておるくらい。そのほか、卵製の饂飩《うどん》などのご馳走で御膳を喫《た》べるというのですから、申し分はないです。
けれども、自分達は石屑《いしくず》や小砂利の混っている麦焦しの粉を、少しばかり椀の中に入れて、ソレを茶でかき廻して喫《た》べるくらいのもので、ソレも腹一いい喰べればいいけれども、腹八分目とまではいかない。いつでも半分くらいで辛抱して、ろくに茶を飲むこともできず、水を呑んでいるという始末。ですから赤い顔が青くなって、だんだん痩せてしまう。
≪巡礼の痛罵《つうば》≫ ソウいうふうで先生達は名高いラーマ達の巡礼をすまして、ゲンパラすなわち今私の立ち止っている処まで帰って来た。ソコで皆の者は振り返ってラサ府を望み、「アアいうありがたい処へ我々が参詣《さんけい》することができて、誠に結構なことである。ドウか未来は、こういう結構な仏の国へ指して生れますように」と、ありがた涙を流しながら、仏さまに願いをかけておったところが、ペンバ・ブン・ツォという男は、同行の者が一生懸命拝んでいるにもかかわらず、ラサ府の方に臀部《でんぶ》を向けて不作法な真似をしているので皆驚いて、アリャ気狂いになったのじゃないか知らん。オイオイ貴様何をやっているのかと咎《とが》めますと、その男は一向平気で、「アア嬉しいことをした。このラサという処ほど気色の悪い腹の立つ処はない。一体ラサという処は餓鬼の住む処だ。悪魔の住む処だ。己《おれ》はモウこんな処に来ないぞといって願いをかけたんだ」という。
「ソレにしてもそんな不作法なことをしないでもよいじゃないか。おおかた貴様は気が違ったのだろう」「イヤお前達こそ気狂いだ。俺達は家にいると米の飯も喰えば旨い肉も喰えるし、麦焦しの粉だってラサのような砂だらけでないのを満腹《たらふく》喰って豊かに暮らせる。ラサという処はラーマだの糸瓜《へちま》だのといいながら、夜叉《やしゃ》や郎苦叉鬼《ラクシャキ》のように肉を山のように積んで、俺達に一切もくれんで自分ばかり喰っている。こんな処は極楽も糸瓜もあったもんじゃない。コリャ餓鬼の国だ、悪魔の国だ」といって大いに罵《ののし》ると、皆が怒って「お前のような者と一緒に帰ることはできない。罰《ばち》があたるから」というと、「罰などあたってもかまわない。こんなラサのような処に生れて来ない方がありがたいのだ。実に気が晴々とした。ラサにおる悪魔共が、俺に罰をあてることができれば気が利いている」といったそうですが、コリャ随分罪のない男で、そういうところはまた一理あります。盗人にも三分の道理といいますけれども、この男のは八分くらいの道理はあるです。ドウも貧民はラサ府では実に困難です。餓鬼の国という批評はよくあたっているです。その非常に苦しい状態は、啻《ただ》にこのペンバ・ブン・ツォのみならず、ほかの貧民も乞食も、皆ソウいうような状態にある者が多いからして、ソコでこういうことをいったのでしょう。
≪乞食《こじき》の高利貸≫ もちろん乞食でも、ラサ府の乞食の内には高利貸をしている奴があります。金貸をするくらいの乞食でも、なかなか旨《うま》い物を喰わない。まずい物でも腹いっぱい喰わんで、いつでもひだるい腹を抱《かか》えつつ、金を溜めて高利貸をしている。死んだらドウするかというと、地面の中に埋めてあったところの銀貨を掘り出して、それをセラ大寺なり、或いはガンデン、レブンの二大寺の僧侶の布施金として上げてしまうのです。ソウいう奇態な高利貸の乞食がある。さすがに餓鬼の国に住んでいる乞食だけあって、金の溜め方が一風変っておるです。
ソウいう有様を細かに見て来たから、ラサ府を指して餓鬼の国といい、ラーマすべてを夜叉である、郎苦叉鬼である、肉喰いの悪魔であると罵倒《ばとう》したのは、あながち理由のないことではございません。
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第百四回 山路を辿《たど》って第三の都会に入る
≪ゲンパラ山巓《さんてん》の告別≫ 私はソウいう旧話を思い出しておかしく感じたです。コリャごく近頃の話で、マダ二十年はたたない。私はその男の感じたようなことは感じなかった。とにかくラサ府は悪魔も沢山いるけれども、悪魔ばかりでなくて、その中に菩薩もおられるありがたい処である。願わくば再びこの地に来たり、日本仏教とチベット仏教との協同和合に一臂《いっぴ》の力を尽し、幸いに世界仏教の基礎となるを得ば、誠に愉快のことである。別れに臨んでひとえにこのことを願うという意味で、般若《はんにゃ》心経三巻を読みました。
時に皆が山を降るものですから、一緒に降って行きましたが、今度は道を換えてターマルンという村のある方に降りました。これは別だんその方向に降るべき必要はないのですけれども、そこの村で昼食をして馬を替えなければ、パルテー駅まで進むことができないからです。ソコでターマルンで馬を替え、昼食をしてパルテー駅に進みました。これは先に述べたごとくヤムド湖の岸で、殊に美しい場所ですが、前に通ったほど美しく感じなかった。蜿蜒《えんえん》とうねっている道を南の方へ進んで、パルテー駅に着いた時はちょうど夕方でございました。
ところが私の荷持ちのテンバなる者は、私がセラの医者であるということを話したものとみえて、セラのお医者さんならこの頃名高い医者であるといって、その村長が出て来て早速病人を見て戴きたいという。一応は断ったけれども、ナカナカ肯《き》かない。断ればなおつけこんで強いるものですから診てやりましたが、モウその辺ではセラのお医者ということは、非常な名声になっておりまして、ほとんど薬師如来が来たかなんぞのように礼拝して物を頼むという次第で、実に驚きました。
その翌六日午前二時、パルテー駅出立、昨夜雇い入れた馬に乗り、午前八時頃ヤーセという駅の東の方に着きました。この間の景色は非常によいのですけれども、前に述べてありますから略します。ヤーセ駅の一里ばかり東の方から、入江のごとくになっている湖水に流れこんでおる河があります。その河に架っている石の小橋を南に渡ったです。ここまでは往程と道が一つでも、これから橋を渡って向うに行きますと、すっかり道が変ります。その橋を渡り、東、南の湖水に沿うて一里半も行きますと、また南に曲るようになっておるです。その湖水に沿うて五里ばかり南へ進み、湖水を離れて少し行きまして、ナンカツェという処で昼食を使いました。下僕は余ほど疲れたとみえて、そこへ泊るつもりであったですが、私は非常に先を急ぐものですから、そのナンカツェを離れてまた西の方向に向うて進みますと、非常に大きな原に出ました。デ向うの方には、ブータンの国境に近い雪山が沢山見えている。ごく景色の美しい処で、だんだんその平原地を山の中へ山の中へと進み、ごく狭い谷間をだんだん上って行くと、その河端に一軒家があります。そこから五里ばかり行かなくちゃア家がないというので、そこへ泊りこんだ。その一軒家までは、わずかに三里半の道程ですが、日暮れではあり大変に荷持ちが疲れているものですから、かれこれ半日ばかりかかったです。
≪深夜雪山の旅行≫ 翌日夜の十二時に起きて、もはや出立するといったところが、テンバは大いに不平を鳴《なら》したけれども、この間は少し急がなくては、ドウいうことでまた後から追手が来ないとも限らないから、急いでその一軒家を出立することにしました。ところがテンバは、ドウもまだ真夜中のようでございます。どこの様子を見ても急に夜が明けそうにありませんと、愚痴をこぼしておるです。ソレはモウそのはずです。確かに十二時頃に出立したのですから……。
だんだん山の中へ登って行くほど寂寥《せきりょう》ではあり、雪もだんだん深くなって来るものですから、先生大いに恐怖の念を懐いて、ドウか私を先にやってくれという。ところで先に立たしてやると、向うの方に何かいるようだから一遍見届けてくれという。気の弱い奴で、何が怖いかというと、何だか知らんが怖い。この辺には悪い神さんが沢山おるから、何か悪戯《いたずら》をしやしないかと思って怖くてなりませんという。大丈夫だ、ソウいう神さんはお前ら一人で行くと危ないけれども、私と一緒に行くとめったに悪戯をしないから安心して行けといっても、余ほど怖いとみえてビリビリ震えている。お前は私より歳が上で四十二だといっているが、子供のように怖がっているではないか、そんなに怖がるものでないと宥《なだ》めながら、五里ばかり山を登って行く間に、ザーラーという一村落に着いたのは、ちょうど明け方で、その村で朝御飯を喫べまた馬を雇うた。
この馬を雇うということは容易でない。好い工合に荷馬か旅馬が来合わさないと、馬を得ることは余ほど難《かた》い。駅馬はあるが、ソレは毎日政府の用に取られてしまうから、我々の手には決して入らない。ここで馬を得たのは非常の便利で、これからネーチェン、カーサンというチベット中の最高雪峰を登って行かなければならん。
三里余り急な坂を登ってまた三里余降ると、一寸した斜線状の原へ出ましたが、この辺の山道はナカナカ酷《ひど》い。馬でも容易なことでは登れない。――もちろん降り坂は、馬に乗る必要はないですけれど――道|普請《ぶしん》ができているではなし、岩と岩との雪路を進んで行くので、馬でも余ほど慣れてはいるが、充分注意しないと谷間へ投《ほお》りこまれてしまう。殊に空気の稀薄な処を登るのですから、ナカナカ困難です。けれども、急ぐ時は馬に乗らぬと進むことはできない。さて、その草の生えかかった斜線状の平原をです、遙かのかなたに空を刺すがごとく聳《そび》えておる、幾多の美しい雪峰を望みながら行くこと三里ばかりにして、その夕方ラルンという処へ着くやいなや、例のごとく早く休みまして、翌日夜半に出立したです。馬に乗り山間の谷河に沿うて降って行くこと十里半にして、ツァナンという村に着いた。この十里の間に低い山の谷筋を伝うて行くのですから、少しも雪峰を見ることができない。チベットでは道中雪山を見なければ、景色の味というものはほとんどないくらいのものですから、実に淋しいです。ツァナンに一宿し、翌五日乗馬して、ギャンチェという駅に着きました。この駅は
≪チベット第三の都会≫ ここにバンコル・チョエテンという大きな寺があって、僧侶も千五百人ほどおります。その寺の会計長で、法王政府から派遣されている勅任の官吏がある。この人は老尼僧の姪《めい》の聟《むこ》さんで、私と一緒に大臣の宅に住居《すまい》していたので、ごく心安い人でありますから、私はそこへ尋ねて行ったところが大変悦びました。
その住んでいる家は寺内の横にある大きな家で、家名をセルチョクという。主人は私に、一〇日も二〇日も遊んでおったらよかろうという呑気《のんき》なことをいっておりましたが、私は巡礼に出かけるので明日出立するといったところが、ここから出立して行くには、入用の物を買って行かないと道で非常に困るといいますし、自分もまたバンコル・チョエテン(聖廻塔)という寺も一遍拝観したいと思いましたから、一日そこへ逗留したです。
そのバンコル・チョエテンの寺内にはチベット第一の大きな塔があって、ナカナカの大寺。僧侶の少ない割には、僧舎がほとんどセラ大寺の半分くらいはあるです。この寺にはただ新派の僧侶だけいるのでなく、旧教派の僧侶もサッキャア派の僧侶もカルマ派の僧侶も、この寺に留学することができるようになっております。この寺の宝物などを拝観して、また宿に帰りました。
一体、このギャンチェという地方は大変商売の繁昌しておる処で、毎日朝その大寺の門前に大きな市が立って、その近辺の村々から沢山買物にも来れば、また売りにも来るというわけで、ナカナカ盛んなものです。市場にはそれぞれ張り店をして、青物、肉類、麦焦し、乳、バター、布類および羊毛の布類を並べて、いっさいここで交易商売が行わるるのであります。また西北原および北原からインドへ送り出す羊毛およびヤクの尾等は、皆ここへ持って来まして、単にこの市を継場《つぎば》としてパーリーの方へ送り出す物もあれば、またシカチェ辺の商人がここへ来て買うて送り出すもあるです。しかし、羊毛類は必ずしもこのギャンチェ都会において仲買いされて、パーリーに出るとばかりはきまっておりませんけれども、多くはここから送り出されるです。
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第百五回 いよいよ関所に近づく
≪宿主の疑惑≫ 私は一日その寺に逗留して、六月七日午前五時に出立、主人の厚意により五日間ほど馬で送ってくれることになりましたので、その馬に乗りギャンチェの町を通り抜けてツァンチュ河を渡り、南方へ指してだんだん進んでまいりますと、ネーニンという尼寺があります。この尼寺には活きた解脱仏母《げだつぶつぼ》がおるという。その時の解脱仏母はわずかに七歳です。私は遇わぬからドンナ方か知らなかったけれども、とにかくそこには活きた女の仏様がいるのです。その寺の前で昼食をして、ソレから南の山の中へドシドシ進んで、ちょうど十里ばかりまいりますと、荷持ちのテンバという男の故郷へ着きました。デ小さな寺に宿りました。そこには自分の兄弟もいるものですから、テンバは大いに悦んで、この夜は大分酒を飲んだです。
時にその兄が、「ドウもあの方の様子を見ると非常に色が白い。蒙古人の色の白さとは少し変っている。西洋人ではあるまいか知らん」というと、テンバは大いに弁解を始めました。「ありゃセラのお医者で、こうこういう尊いお方だ」といってすっかり説明しました。スルと、「ソリャ俺だって知ってるけれども、そのセラのお医者さんというのは怪しい。不思議なことばかりして、死んだ者でも生き返らせるという話。ソウいうことをするのは西洋人に限る。お前うかうか行って酷い目に遇いはしないか」と、私が隣室にいるのも打ち忘れて、しきりにそんな話をしておるです。困ったことをいい出した。せっかくここまでおとなしくついて来たのに、いろいろな注《さ》し智恵をして、この正直な男を煽動《せんどう》しちゃア困るわいと気づかっていると、テンバは熱心に、「イヤそんなことはない。アリャ天和堂の主人と懇意な人で、やはりシナの人なんだ」と、天和堂の主人から聞いたことを喋々《ちょうちょう》述べ立てておりました。私は翌早朝そんなことは聞かぬ振りして、午前五時に出立する際に、兄は何か弟に耳打ちしておりました。だんだん南の山の中へ進んで行くこと七里ばかりにして、カンマという駅に着き、小休みしておりますと、十二、三頭の駄馬の中に、私の荷物は全く二疋の馬に載せられてドシドシやって行く。その運んで行くのはシナ人で、全く私の荷物であるということを知らぬようでした。私はその荷物を見て、これから荷物はたしかにカルカッタまで着くに違いないと、大きに安心しました。
≪テンバの誘惑≫ けれどもテンバはその荷物を見て、いよいよ疑いがはげしくなったようです。「かの荷物は天和堂で荷造りをしておる時は、薬舗へ預けておくようなふうであったが、今運んで行くところを見ると訝《おか》しい」と思うたものとみえて、ソレからというものはテンバは物をいわず、考え考えついて来たですが、だんだん路を歩いて来ますと、少し話しかけた。
「これからもうパーリーという関所までは、大方五、六日の道程《みちのり》しかないですが、真っ直ぐにパーリーへ行くよりは、私はドウもほかの道を通ってお出になる方が得策だろうと思う。ナゼなればパーリーへかかると、第一あの関所の取り調べが非常に厳しい。その上に保証人がなければ決して旅行券をくれない。何故にその保証人が要るかというと、つまりインドの方へ行っても、決してインドに永住しない。必ずこっちへ帰って来るというところの、証拠立てをする者がなくてはならんからです。その保証人は、ほかの土地の人間ではいけない。あの村の人間に限っているのです。ソコでパーリーで保証人を頼もうとすると、非常に金を貪られるのみならず、旅行券を得るにも多分の賄賂を使わなければならぬ。ドウも金は沢山かかるし、その上に大いなる困難が生じて、ことによると関所を通り抜けることが、できないようなことがあるかもしれない。ところでココに大変好いことがある。そんなに沢山金を使わないでも、私にその半分も酒代として下されば、好い道を案内します。ソレはほかの道ではない、カンブリン(桃溪)のサンワイラム(間道)を通り抜けて行けば、きっとやすやすと向うへ出ることができます。少し道中は困難でもあり、また野獣が出て来て害を加えぬとも限りませんけれども、マア大抵そんなことはない。私は二度その道を通ったことがある。それが危ないと思うなら、ブータンの方に行くがよい。ブータンには強盗が沢山おるけれども、荷物を隠し、悪い着物を被《き》てお越しになれば、強盗に遇う気づかいはあるまい。ですからこの二つの中、どっちかお取りなすっちゃどうですか」と私に尋ねたです。私はジキに返答しました。
「何かパーリーへ行けば、金を沢山取られるから怖いというのか」「別に怖いわけもないけれども、要らないことに金を沢山使っちゃア、詰らんじゃありませんか」「そうさ。金はドノくらいかかるか知らんけれども、しかし、要らないことに自分の命を棄てるほど馬鹿気たことはないじゃないか。お前のいうとおり桃溪の間道を通ったり、ブータンの間道を通れば、十中の八、九は死ぬのだ。死にに行くより金を沢山出して、良い道を取る方が結構じゃないか。お前は一体馬鹿なことをいう。金がなきゃア、そういう危ない道も行かなくちゃならんが、こっちは金がないというわけじゃアない。そんな危険な間道を通って往く必要はない。殊に強盗の沢山いるブータンに行ったら、殺されてしまうよりほかはない。お前そんなに酒代が欲しいのか。一月七円五十銭の給金といえば、チベットにおって一年も働かなければ得られない給金だ。しかし仕事が豪《えら》いから、割増しをしてこれだけやるのだ。その上にもマダ酒代《さかて》が欲しいのか。酒代はやらぬとはいわない。あちらまで辛抱して行けば酒代はやろうけれども、さもなければ一文もやることはできない。この後は決してそんなことをいうな」といい聞けますと、先生幾分か疑いが解けたらしい。というのは、もし私がそんならお前に金をやるから、間道の案内をしてくれといえば、これは必ず怪しむべき人間であると、私の心を試すためにいい出したので、実際自分は間道から行きたいことはないのですから、その晩必ず私の寝息をうかがい、荷物でも持って逃げて行くに違いない。ソリャもうよく分っているのでございます。
ソウいう点においては、チベット人は決して信用することができない。ごく知り合いの中で、互いに世間体を飾っている間は正直を守っているですけれども、社会の制裁を離れた、いわゆる世間から飛び離れた処に出て来た時分にはナカナカ狡猾《こうかつ》で、どんな恥かしいことでも、かまわずやり遂げるというふうがございますから、容易に油断はなりません。ソレからまた、五里ばかり同じような山中をそんな話をしながら進んで、サールーという村に着いて宿りました。
六月八日、午前一時に出立して南へ出かけてまいりましたが、やはり先生は山の中が怖いとみえて、何だかグズグズいって、行くのを嫌がっているようでした。だんだん西、南の方へ進んで三里ばかり行くと、大変高く登って行かねばならぬ高原地に出ました。登って行くこと四里半にして、大なる池のある処に着き、その池の横に沿うて小さな河がある。その河の南について登って行くこと一里半にして、大きな湖水のある処へ出たです。これをラハムツォ湖という。今私の沿うて来た小河は、この湖と前の池との繋ぎになっている。この湖水を右へ廻り、いわゆる西側から行ってもパーリーの方に出られます。また東の方からでも出られます。私共は左側の方から進みました。
≪曠原《こうげん》中の雪峰≫ この辺もまた、ヒマラヤ山脈の雪峰が曠原の間にどっかりと腰をかけているがごとく、いわゆるこの辺の景色を称して、雪山榻子《せつざんとうし》の国とでもいうのであろうと思われる。ソウいう雪峰が沢山並列しているけれども、珍しいことには余り高くない。ほとんど一千尺くらいの全く雪を冠《かぶ》っている山ばかりで、そんなに美しい景色は、余所の国では決して見ることができぬだろうと思う。もはや夏季でありますから、山の麓の方には幾分か草も生え、殊に湖水の辺には草が沢山ありますから、この辺は夏季の好牧場であります。デその湖水に沿うて南に進むこと八里ばかりにして、夕暮れにラハム・マエという村へ着いた時分には、五月二日の月が、日本の三日月ほどに光を放っておるです。
或る牧畜をやります石造りの家に泊りましたが、その家の南方に大変大きな山がありまして、これをチベット語にチョ・モハーリ(尊母神山)といっておりますが、このチョ・モハーリは、チベットには沢山あります。大きな雪の峰はすべて霊ある名跡とせられ、皆この名をもって称せられている。或いはいう、二十一あり、また三十二ありと。何れが真か分らぬが、何しろチベットのグルリを廻っておる大きな山は、皆この名をもって称せられているようであります。
このチョ・モハーリは、あたかも昆廬遮那《びるしゃな》の厳《おごそ》かに坐するがごとく曠原の一角に聳《そび》え、しかしてこの湖水を擁《よう》してズラリと列《なら》べる雪峰は、天然の白衣観音《びゃくいかんのん》或いは妙音菩薩《みょうおんぼさつ》が無声の音楽を弄《ろう》して昆廬遮那大仏に供養するかのごとく、実に壮快なる天然の曼荼羅を現しておるのです。
この辺は麦も小麦も何にもできない。全く西北の曠原地と同じことで、牧畜しかできない土地です。牧畜も冬になればほとんどできがたいので、他へ移転する者もあるくらいです。しかし、このラハムツォという湖水には、七寸以上一尺二寸までの魚が沢山おる。それを捕《と》る漁師がありまして、夏の間はこの湖水へ来て漁をして売りもし、或いは乾して冬の食料に当てますが、冬はこれらの漁師はチベットの中央地方へ乞食に出かけるのです。いわゆる夏は漁師で冬は乞食、ソウいう人間が大分この辺におるそうです。
第百六回 五重の関門
≪盗難の判断≫ 六月九日、やはり湖辺に沿い乗馬して南の方へ出かけました。ところがテンバはまた妄想を起したです。もはや明日はパーリーという第一の関門へ着くので、事もし発覚すれば、己《おれ》も捉えられて、獄裡《ごくり》の憂き目をみなければならぬという怖れを懐いたからでしょう。彼は私に向い、「この間あなたに申し上げたところが、間道を取るにはおよばぬとおっしゃったけれども、一体詰らぬじゃございませんか。間道とてもそれほど道も困難じゃない。私は二度通ったからよく知っているが、一人でさえ、そんなに猛獣などが出て来て害しはしない。少し向うの方で鳴いているのが気味の悪いくらいの話で、火さえ焚《た》いていれば大丈夫だから、間道をおとりなさい。この間もいいましたとおり、パーリーはナカナカ厳しくって、金を貪ることが甚だしい。私の考えでは十四、五円くらいですむかと思っているけれども、三十円取られるか五十円取られるか分りゃアしない。その上早くて四日、遅いと七日も八日も引き留められます。お急ぎだというのに暇を費やし、無駄な金を取られるより、わずか二日のことですから、間道をお通りなさい」と、しきりに説き立てた。ソレから私は「お前はマタそんなことをいってるのか。役人が金を沢山貪るとは面白い。ドウか沢山取ってもらいたいものだ。法王への家苞《みやげ》にするから」とだんだん説きますと、彼は大いに驚いて大分疑念を氷解してしまったです。
その日一寸また面白いことがあった。二里ばかり行くと、ごくアラケない四人ばかりの人が、私の馬に乗っている前まで来て立ち止《とど》まり、いっせいに礼拝を行うて、お願い申したいことがあるという。何かというと、「私共は北方からパーリーへ塩を売りに出て来たものですが、一昨夜ヤクに草を喰わしている間に、番人が居眠っておったものですから、ブータンの人間かチベットの人間か分りませんが、四十五、六疋持ち去られてしまいました。その盗人を捜しに来たのですが、ドノ方向へ逃げて行きましたか見て戴きたい。もしブータンの方へ行っているものなれば、これから引き返して南の方に行かなければならぬ。チベットへ持ち去ったものならば、これから北に進んで行かなければならぬ。誰に見てもらうという人もないから、ドウか見てもらいたい」という。私はそんなことを知らんというのも可哀そうですから、一寸|占筮者《うらないしゃ》のような真似をして、「急いで北の方へ行けば、今日中に見つけることができる」といってやった。ところが彼らは大いに悦んで行ってしまいました。その夜はチョ・モハーリという山際のラハム・トエという貧村に泊った。この村はほとんど食物もなく、政府へ租税を納めることができんで苦しんでいる者ばかりだそうです。
≪独立国の貢物《みつぎもの》≫ ところがブータンからチベット政府へ、貢物を納めるためにこの村に来ているものがあります。ブータンは一体独立国であるが、ドウいう関係かチベット政府に対し、毎年幾分かの貢物を納めている。もっとも、ブータンには国王はあるけれども、国内は統一しておらぬようです。それ故か、或る部落々々からチベット政府へ貢物を納めるだけで、一国の中央政府から納めるのではない。その貢物を納めに来ると、いろいろな物をもらって帰る。つまり貢物の交易で、ちょうどネパール政府が五年に一遍、象牙とか虎の皮とかいうような貢物をシナ政府へ納めて、絹布金欄の類を沢山もらって帰るようなものでしょう。もっともネパール政府では、一万円くらいの物を持って行って、自分の国へ持って帰ると五万円くらいの価《あたい》ある物をもらって来るのですから、つまり商売的銭儲けに貢物を持って行くようなものです。
さて私はいよいよ関門に近づいたのですから、テンバには公道を取ると断言したようなものの、いよいよドウいう方向を取るかということを定むるために、断事観三昧《だんじかんざんまい》に入らねばならぬことになった。時に、私が先に見てやった北原人のヤクを取られた者が四人共、やはり私の泊っている処へ帰って来て、盗まれただけ一頭も失わずに連れて帰ることができましたといって、私を仏のごとくに礼拝して二タンガーに、カタを一つ添えてくれたです。ソレを見て下僕はいよいよびっくりして、「コリャ本当にただのお方でない」と大いに恐れて、もはや疑いを起す余地もなくなってしまった様子でした。その夜、人の寝静まるまで経文を唱えておりまして、三昧に入りました結果、いよいよ公道を取って進むことに決定しました。もし、これを普通の論理的思想から考えますと、まず公道を取るとすれば、
≪五重の関門≫ において取り調べを受けなければならぬ。一番始めに最も酷いパーリーズンにおいて、厳重な取り調べを受けなければならん。この関門を通過するには、第一保証人を要するわけですが、まずその保証人を頼むにも相当の礼金を与えなければならず、ソレから官吏に沢山な賄賂《わいろ》を使い、四、五日かかってようやく旅行券を得、旅行券を持って第二の関門なるチュンビーサンバに到り、第一の関門からもろうて来た旅行券を渡し、取り調べを受けた上、役人の承認を得てその門を通過し、ソレから第三の関門のピンビタンという、シナ兵のいる城内で取り調べを受けて、通行の許可を得なければならぬ。
無事にそこを通り抜けたところで、今度は第四の関門のトモリンチェンガンにおいて、また取り調べを受けて、書面をもらわなければならぬ。それはニャートン城の大関門仮通過の許可書であります。その書面を持って第五の関門のニャートンに到り、また沢山の賄賂を使い、その長官の面前で直接に取り調べを受けて、一通の書面をもらい、その書面を持ってまた後戻りをして、トモリンチェンガンに帰って来なければならぬ。デその書面を渡して再び取り調べを受けた上、シャーゴから二通の書面を渡してもらうです。
その二通の書面を持ってまた後戻りをして、第三の関門のピンビタンまで引き返さなけりゃアならぬ。その二通の書面の内一通を、ピンビタンのシナの将校に渡し、しかしてシナ将軍から、一通のシナ文字の書面を渡してくれる。その書面と第四の関門のシャーゴからもらった一通の書面、都合二通を持って最後の関門、すなわちニャートン城に来たり、その書面を示し、始めて大関門を通り抜けることができるのです。
デその大関門を通り抜け、ニャートンの小村を過ぎ小橋を渡ると、そこにシナ兵が屯しております。そのシナ兵にシナの将軍、すなわち第三の関門から受けて来たところの通行券を渡し、しかして第四の関門、すなわちトモリンチェンガンのシャーゴから受けて来たところの通行券だけを、自分が持って出て来るのです。これはつまり、インドで所用をすまして帰る時分にその書面を示して、始めてチベットに帰ることを許される手続きになっているのでございます。ただそれだけの手続きを経るだけなれば非常に面倒ではあるが、何も気づかうことはない。
≪関門内と追尾の危険≫ ところが、このパーリーズンからニャートンに到る間において、かつて私がダージリンにいる間に友達となった人間もおり、また私の顔を知っている人間も沢山ある。殊にヤソ教の女宣教師のミス・テーラーという人が、ニャートン城の向うの小村に住居をしておりまして、そこにはまた荷物を取り調べるところの官吏もおります。その官吏はチベット人で、私のことをよく知っている。ナカナカ根性の悪い男ですから油断はならぬのみならず、またミス・テーラーについている下僕も、やはり私と知り合いの人間であるだから、首尾よく関門の内に入ることができたところで、或いはドウいう結果を見るかも分らない。この長い間を通過する時において、知っている人に少しも会わぬということは、全く望み得られないことである。
なおまたパーリーズン(第一の関門)において、少なくとも四、五日も抑留されますから、後から追っかけられるという一の困難がある。もちろん、私がラサを出た日からドウしても一〇日後でなければ、事の発覚する気づかいはない。ナゼなればチベット暦の四月二〇日から三〇日までは、ラサの役人は非常に忙《せわ》しくて、私のおらないことなどは、ほとんど気のつかぬくらいであろうと思われるからです。ようやく第二の法王の具足戒がすみ、役人達も手すきになり、私のひそかに立ち去ったことを知ったところで、ドノ方面へ逃げたろうかと始めて穿鑿《せんさく》にかかって、こちらへ追手を向けるということになるのでしょう。
さすれば今日は、マダチベット暦の五月三日、今日明日に追手の追いつくわけはないとしたところで、四、五日パーリーズンに引き留められておりますと、その間に追手が着くことになるです。下僕や荷物を持っている私の旅行と違い、彼らは官命を帯び、二人なり三人なり早馬で夜を日に継いで追っかけましょうから、ドウしても六日間で追いつかれる勘定です。詳しくいえばパーリーズンで五日暇取るとすれば、チベット暦の五月八日までかかる。デ三日追手がラサを出立すると仮定すれば、ちょうど私は関門内にグズグズしている中に、捉えられてしまうわけです。
ですから、常識の上から考えては、とてもこの五重の関門を無事に通り抜けるということは、殆んどでき得ないことである。否《いな》、全くできないことと考えにゃアならぬ。しかるに三昧の示すところは、常識上ドウしても考え得られないところの方向を取ることを示している。間道を取れば強盗および猛獣の難あり、公道を取れば縲紲《るいせつ》の辱《はずかし》めを受くる恐れあり、いずれの道を取れば無事に目的地に着くことができましょうか。
第百七回 第一の関門
≪公道を取るに決す≫ 私の考えるには、これは常識上の道理に従わなければならぬことである。けれども、一体どっから行っても危険の度からいえば同じことである。つまり公道を取って捕縛《ほばく》せられて酷い目に遇うか、また間道を取って猛獣のために喰われて死ぬか、或いは強盗のために殺されるか、ドウセ免れぬ困難なら本道を取りましょう。殊にこれまで三昧の示すところに従って、着々成功したから、まずこん度もその示したところに従って行こうという決心が着いたです。
ソコでその夜は少しく居眠り、翌朝早く馬にて出かけ、チョ・モハーリの大雪峰の山腹を巡り、だんだん南に進み、ようやくラハムツォという湖水を離れ、なお南の高原に上って行きますと、東と西の遙かの彼方《かなた》には、例の大雪峰が雪|達磨《だるま》のごとく聳《そび》えておるです。その間は広い高原で、もはや夏の時ではありますけれども、非常に寒い処ですから、そんなに草も生えておらぬ。ごく地に引っついたような草が少し生えているだけで、ほとんど石磧《いしがわら》であるです。今日はドウかパーリー城まで着きたいものであると思うて、余ほど急いで馬を走らしたけれど、なにぶん下僕《しもべ》は徒歩ですから、追いつくことができぬ。チュキャーという村に着いた時は、日がすっかり暮れてしまった。この辺は余ほどの高原で、大分寒い。ソレにただ土地が高いというだけでなく、両脇には大きな雪の山がズラリと列《なら》んでいるですから、寒気も非常に厳しい。夜分などはヤクの乾した糞を沢山集め、それを燃して暖気を取らないと、ドウも寒くてたまらぬ。日本の厳冬の間よりも、なお厳しい寒さを感じたです。まずラサ府からダージリンへ来るまでの間において、この辺が一番寒い処でしょう。
その翌六月一一日、朝四時に起きて、少しく茶を沸して飲んでから発足したです。デ曠原地に沿うて南に行くこと二里余にして、ちょうど日の上る時分に
≪パーリー城≫ という城に着きました。例のごとく大きな城が山の上に建てられてある。ちょうどその形は、ラサ府の法王殿のような工合にできているが、法王殿ほど立派ではない。その城下に家があります。その家は皆黒く見えております。このパーリーという処は、雪山と雪山との間の原で、ダージリンおよびカルカッタ、ボンベイ辺から出て来る輸入品は、皆ここへかかりますので、ここに税関があってその物品に対し一々課税するです。またチベットからの輸出品も、大抵ここから輸出される。その輸出品に対する関税は十分の一取るもあり、十分の二取るものもあり、また物によって十分の四取っているものもある。余り税金は高い方ではありませんけれども、大抵物品で取るのが多い。物品で取れない物は、相当の銀貨に換算して取っております。
その城下を通って行くと、その横に小さな三丁|周囲《めぐり》くらいの池がある。その池の城の山手になっておる間の道に、見張っておる人間がある。その人は誰か通りかかると、どこの宿に着くかというて尋ねるです。私共はどこそこの宿ということは分らぬから、どこか好い宿を世話してくれんかといったら、よろしゅうございますというて、こちらが相当の風俗をしているものですから、その番人は貴族の僧侶と目をつけたとみえて、好い宿を世話してくれた。宿屋というても木賃宿で、本当の宿屋はチベットには一軒もない。ヤクの糞をもらったその賃を払うだけですから、糞賃宿というてもよいです。その糞賃宿へ泊りましたが、まずそこへ逗留せなくちゃアならぬという始末。
宿屋の主人のいいますには、「どちらへお越しですか」「一寸カルカッタの方へ行ってブッダガヤへも参詣するつもりだが、しかし急な用事があるから、ことによるとブッタガヤへ参詣できぬかも知れぬ。早く帰って来なければならぬかも知れぬ」「何の御用事でございますか」「イヤその用事は何ということはない。またいうほどの必要もない」「あなたはどちらですか」「己《おれ》はラサだ」「ラサはどちらです」「セラだ」といいますと、「ホウ、それじゃアあなたは化身のラーマでございますか」と尋ねかけた。「イヤ」というと下僕が側《そば》から、「イヤそうじゃない。モット豪《えら》いお方だ」「どなたですか」というと、「このお方は法王の……」と一寸いいかけたから、「黙れ、貴様馬鹿なことをいってはいけないぞ」と叱りつけた。宿屋の主《あるじ》は変に思ったようです。「ソレではあなたは何ですか。法王の僧官でいらっしゃるですか」「イヤそうではない。ただセラのお寺にいるだけである」といいますと、非常に聞きたがるです。聞きたがるほど、こちらではいう必要がないから、「そんなことをいう必要がないじゃないか」とはねつけました。
≪宿主の執拗、下僕の白状≫ ところが、「イヤそれはいけません。ここは非常に面倒な処で、そのすべて、どこにお住みになるか、ドウいう御身分の者か、すっぱり取りただして怪しい点があれば、証明しなければならぬ。ソレからまた、あなたがインドへ行かれて、こちらへ確かに帰って来るという証拠人を立てなければならぬ。その証拠人は容易なことでは立てられぬ。その証拠人を立てるについては、すっかりあなたのことを聞いておかなければならぬ」という。「ソレではいう。私はセラの普通の僧侶で、大学部に入って問答を修行している者である」といいますと、「ドウもソウいうお方とは見えない。あなたの様子から着ておる物から察すると、ドウもあなたは高等僧官であるか、或いは化身のラーマであるかのように見える」「ソウいうふうに見るのはお前の勝手で、私の方ではそんなことはない。ソレは私の僧舎《カムツァン》に問い合わせても分る」といいますと、「ソウでございますか」といって出て行く。その後から下僕の奴もまた出て行ったです。
狭い家ですから、向うの室で話をしていることがこちらによく聞える。「お前の主人はあんなことをいってるが、ドウいう身分の方か一つ聞きたい。本当のことをいわないと、一〇日経っても二〇日経っても、ここを出るわけに行かないから」というようなことをいいますと、下僕は、「ソレでもいうたら大変に怒られるからしょうがない」「そんならこのまま打遣《うっちゃ》っておいてもよいか、一月かかってもよいのか」「イヤ大変急いでいる。非常に急な用を持っている様子で、夜通し来たくらいである」「ソリャ怪しいじゃないか。夜通し来るというのは、どんな用事で行くか知らんけれども、一通りの坊さんじゃない。誰か」と、非常にヒソヒソ話をしておるです。スルと下僕は、「そんならマアいうけれども、俺から聞いたといわぬでくれ、実はセライアムチーだ」「フフン、そんならあの死んだ人を救うというお医者さんか」「ウムそうだ。法王の処にも行かれて、侍従医か博士かどっちか我々はよく知らんけれども、世間の評判では侍従医になったという。一体私はあの人にずっとついておった下僕じゃない。実はその少し出立前に、私の知っておる薬舗の紹介でついて来たのだから、くわしいことはよく知らぬけれども、何にしてもラサ府では空飛ぶ鳥も落ちるようなお医者さんで、非常な評判だ」「ソウか、ソレではなるべく早く手続きをして、四、五日中に旅行券を得るようにしなければいくまい」「ソウしてもらわなくちゃア困る」「時にそのお医者さんというので思い出したが、大変ココに難儀の病人がある。私の親類の者だが、一つその病人を診てもらうわけには行かぬだろうか」。下僕のいうには、「医者などはしない。誠に頑固《かたくる》しい訝《おか》しな人で、何と勧めても人のいうことを肯《き》かない。道々お医者さんをして来れば儲《もう》かるのに、ソレを打遣って来るという始末で、俺ア惜しくてたまらなかった」「お前一つ頼んでみてくれないか」というて、しきりに頼んでいる。
≪病人の診察と証人の依頼≫ ソレで下僕がお医者さんということだけ口がすべったことにして、こちらへ出て来まして、「ヤアどうも何です。主人があなたのことをいろいろ尋ねるものですから、ツイ口がすべってお医者さんということだけいいましたが、大変な病人があるそうですから、ドウせ四、五日逗留のついでに診てやって下さい」「そんなことをいって病人を診ておった日には限りがない。殊に急用を持っているから、病人などを見て暇取っているわけには行かない」というと、「衆生済度のためですから、是非診てやって下さい」という。しかたがないから、「実は大変な用事を持っておるから」と大いに拒むようにして承諾してやりました。宿の主人は悦んで飛び出してしまった。デしばらく経つと、ほかの人を一人連れて主人が帰って来まして、私を或る家へ連れて行ったです。
その辺の家は皆黒く見えている。何で拵《こしら》えたかというと、土のついたままの芝草を煉瓦《れんが》石のような工合に、長さ一尺二寸、幅七寸、厚さ三寸くらいに切って干し固め、ソレを積み立てて家を拵える。ソレはなかなか強いものですが、しかしソレばかり積み立てておくと、風の時分に倒れるから、その間々に柱を立ててある。全く芝草で拵えた家ですが、なかなか大きな家がある。ただし城だけは石で積み立ててある。
この辺は山が遠くて石を運ぶには余ほど入費がかかるから、芝草などで家を立てておるものとみえる。しかし、ラサ府などとは違って二階家というものはほとんどない。一、二軒見受けたが、下の一階だけは石で積み立てて、その上を芝草で積むようにしてある。ソレは芝草ばかりで拵えると、二階の落ちる危険があるからでしょう。私はソウいう二階家へ案内されました。ところで私が脈を見ただけで、大変心地好くなったようです。つまり自分の信仰力で快《よ》くするのでございます。病人はそこの娘さんですが、神経病かちょうど肺病などが起りかけたような工合に、ごく気が鬱《うっ》しておるだけのことですが、ソウいう病気に罹《かか》っておるものですから、少しも外に出ないという。ソレから少しばかりの薬を与えて、「これを飲むと非常に気分が晴々するから、お飲みなさい。ソレから朝晩観音様へ参詣なさい」といって帰って来たです。
しばらく経って大分気分が快くなったというて、宿の主人が大いに悦んで、礼かたがた私の室へ来て、「ここでは証人を頼むことが非常に困難ですが、あなたはどうなさるつもりか」「ソレには困っているが、是非とも一つ証人を見つけなければならぬ。相当のお礼はするつもりだ」といいますと、「ソレでは私が証人の処へ一緒に行って、話をして上げましょう。ここでは誰もが証人になるというわけには行かない。私共でできるならたやすいが、政府が許さない。デ普通の人が行って頼んでもなかなか肯《き》いてくれないから、私が頼んで上げましょう。さすれば沢山な金を取られる気づかいもないから」という。よろしく頼むというと、証人の宅へ行きました。その証人も案外悪い人でもない。けれども善い着物でも着ていると、金を貪りたがるのがチベット人の常であります。ところが私が身分などをいうてはならぬと戒めておいたにかかわらず、主人が、「このお方はセラのアムチーでなかなか尊いお方、法王の侍従医です」と口走ってしまった。鶴の一声というようなものか、早速その人が証人に立つことを承諾してくれました。
第百八回 第一関門を通過す
≪関門の通過と賄賂の多少≫ その証人のいいますに、「お礼は何も要らぬ。手続きを経るだけの金を一ルピー半出せばよいです。しかし、今日はこれから行ったところで、通行券をもらうわけには行きますまい。会議は明日あるか、明後日《あさって》あるか分りませんが、なるべく早くしてもらうように申しておきましょう。さすれば四、五日の中には、出立することができましょう。しかし、今日早く願いを出しておかないとまた遅くなりますから、今日御案内いたしましょう」といって、イソイソ関所へ連れて行ってくれることになりました。
関所は城下の民家の間に建てられてありますので、内に会議室らしいような処も何もない。役人は大分寄っているらしい。そのほかに上の役人が沢山いるのかドウか知らぬが、十四、五人もおりました。チベットの官吏のことですから、役人が揃っておりながら賄賂を貪るために、今日も会議を開かぬ、今日もマダ開かぬというて、三日も四日も、甚だしきは一〇日も打ち棄てておくのではないか、その間に絞《しぼ》れるだけ賄賂を絞り上げ、つまり賄賂の多少によって、早く旅行券を出すとか出さぬとかきめるのであろうと思われる。
証人の案内で願書を出しますと、その役人中の一番豪そうな人が、「今日はむろん会議はない。いずれ明後日あたり会議を開く手続きになっているから、会議を開いた上で何分の返事をいたす。自分で来るにおよばぬ。明後日、宿の主人を聞きによこせば分る」という挨拶《あいさつ》。ソレはドウいう意味かというと、明後日宿の主人を聞きにやれば、今日は通行券はやれない。しかし、これくらい金を納めれば、大抵明後日、集会の折に通行券が戴けるだろうというようなわけで、ドウしても五日くらいかかるそうです。余ほど沢山賄賂を出して、ソウいう都合に運びますので、私は急がねばならぬ関係があるから、特別に今日戴くわけにまいるまいかといいますと、あなたはどういう用事があるか知らんけれども、ここではその日に着いて、その日に通行券をもらうという例はない。またこちらでも与えることはできない。今日はお帰りになるがよかろうといいます。
と、私が病気を診てやった娘の親と宿の主人も一緒にまいったのですが、その人達がその官吏をあちらの方へ呼んで行って、あの人は法王の侍従医であるというようなことを告げたらしい。スルとその役人が出て来て、私にいいますには、「あなたはドウいう用事で行かれるか」という話。「ごく急用があって行くのですが、明日にも会議を開いてもらうことができぬだろうか」というと、「ソレはとてもできぬ」と長官が答えた。明後日まで待ったところで、得られそうな様子もない。ソコで私は一策を案じました。
≪役人を脅す≫ それは「明後日まで私は待ちますから、あなたの方で私が今日ここに到着したけれども、会議を開く余裕がなかったから、三日間待たしておいたということの書付けをもらいたい」というと、「そんな例はない」という。「例はあるまいだろうが、私は普通の私用で行くものではない。秘密の用事を帯びておるものである。その用事は今は明かすことはできぬ。あなた、聞こうというならば、相当の手続きを経てラサ府の方へ行かれて、法王の外務係について聞いてもらいたい。今は私の身分を明かされないけれども、暇がかかるならかかるでよろしい。こうこういうわけで暇がかかったというだけの証明をしてもらわなくちゃならぬ」
「その用向きの大体は」というから、「実はラサ府に容易ならぬ病人があって、その病人に服《の》ませる薬を急いで買いに行かなければならぬ。ブッダガヤに行くというのは一の方便で、その実カルカッタまで早く行って、ジキに帰って来なければならぬ。非常な急用で、一日もカルカッタに泊っていることができんのである。ただその薬一品買えば、ジキに引き返してラサ府に帰らなければならぬ。しかるに、ここで二日或いは三日逗留することになれば、ソレだけ遅れるわけになって、私の責任を完うすることができぬから、是非その証明をしてもらわなくちゃアならぬのである。
もちろん私の身に取っては二、三日逗留したい。この間から昼夜の別なく一生懸命にここまで急いで出て来て、非常に身体が疲れているから、ドウか二、三日逗留ができれば結構であるけれども、ソレでは秘密の用事を果たすことができぬ。今日得られれば、今日にも立ちたいくらいのものなるが、しかし是非くれろとはいうまい。ドウぞ証明してもらいたい」とこういいますと、「一体あなたは何をなさるお方か」「ソレは申しますまい。私が薬が入用だといえば、何をしているということは分っていましょう。だが私はソレだけの用事で行くのではなく、ほかに非常に大切な用向きを帯びているので、実は一日もここに止まっていることができんのであるから、ドウか私が今日ここに来て、願書を出したという書付けだけ下さい。三日逗留していたという証明は、三日経った後でもよいから」と、儼然《げんぜん》といい放ちました。
≪旅行券の手入れ≫ すると長官はびっくりして、少し蒼味《あおみ》がかった顔をして、「イヤそういうこととは全く知らなかった。ドウか少し別席に控えて戴きたい。ソウいうお医者であるということを承る上は、実はこちらにも非常な病人がありますから、ソレも診て戴きたい。しかし、長く止っていることができぬというお話でござれば、長く引き留めはいたさぬけれども、とにかく私の一了簡できめるわけにいかないから、一応協議の上、直ぐに通行券を与えるか与えぬかと決定して、早速お返事をいたします。別席にお控えなすっているその間に、病人を診てもらいたい」という依頼でありました。ソレからほかの家へまいり、その病人を診たり何かしておりますと、ちょうどその日の三時頃に出て来いといいますから、また出かけて行きますと、「今日は特別に協議会を開きました。こういうことは一体例のないことですけれども、ドウもあなたの内情を承わってみると、いかにもごもっともの点もあるように考えます。会議の結果、早速旅行券を上げることに決定いたしましたから、四時頃までお待ち下さい」という。
しばらく待っておりますと、誠に好都合にその日の四時頃私の手に通行券が入ったです。かねて通行券を持っているチベット政府の官商でも、いろいろの打ち合わせやら荷物の取り調べやらで、ドウしても二、三日は逗留せなくちゃアならんそうです。しかるに私はその日に得てしまった。その夜出立したところで、途中に泊るべき処がないものですから、一夜だけそこに泊りました。
≪パーリー城を去る≫ その翌日、早く出立してだんだん南、西の山中に進んでまいりました。この辺はモウ大きな雪山ばかりで、その間が少し平原になっております。三里ばかり上って平原の頂上に着きますと、もうパーリー城は見えない。これから降り坂、昨夜|霰《あられ》が降って土地が非常に湿っている。あたりの雪山は新たに降った霰のために、新衣《しんい》を着けているその寒さはまた格別で、殊に日光の反射が酷《ひど》いものですから、痛く眼を打ちます。水の流れている辺には、幾分の短かな草などが生えているばかりで、別だん樹のようなものはない。ごく淋しい景色です。水はこの平原の頂上を境として、一方はチベット曠原に落ち、一方はインドの方へ落ちます。
その坂を踰《こ》え雪山の少し降り形になっている処を通って行きますと、大分に太い溪流がありまして、その水の美しいことといったら、透き通って、水底にある白い石と黒い石が玉のごとくに見えております。喉《のど》が乾いておりますから一|掬《すく》い飲んでみると、手は縮み上るほど冷たいので、二度と掬って飲む勇気がなかった。馬はすでにパーリー城で返してしまったものですから、馬に乗ってその水の中を渡るというわけにはいかない。履《くつ》を脱いで、この冷たい河を渉るのは難儀だなと考えておりますと、下僕はまず荷物を先に渡し、またこちらに後戻りをして私を渡してくれましたので、その冷たい中へ入らずにすみました。
その水は、私が西北原において首っきり入って渉った水の冷たさと、別だん変っておらぬけれども、もうチベットのラサ府で大分に安楽な活計《くらし》に慣れて来た者ですから、非常に冷たく感じましたので、困難にたえている時分には、非常な困難でも随分辛抱しやすいが、安楽に慣れていると少しの辛抱すら辛いようになるものと深く感じました。
[#改ページ]
第百九回 途上の絶景と兵隊町
≪山麓の絶景≫ 二里ばかり山を降って来ますと、雪山《せつざん》の麓《ふもと》の疎《まばら》に生えている小木の間に、黄、赤、紫、薄桃色等、いろいろな名の知れぬ美しい花が、毛氈《もうせん》を敷きつめたように生えておる。私は植物学を研究しないから、ソウいう植物については一向知らないけれども、非常に美しい。あたりの景色に見とれておりますと、かなたの雪山の頂に、白雲の飛びかうその変幻出没の有様は、あたかも雪山の仙人が雲に乗りて、遊戯三昧に入り、かなたこなたに逍遙しているかのごとくに見えるです。だんだん下へ降って来るにしたがって、しょぼしょぼと雨が降り出して、今まで日光に照されて美しく光っておりました雪山の光景は、いつの間にか消え去りましたが、雨中の雪峰はまた一段の眺めでございます。
道のあちらこちらにはパル(匂いある黄色の皐月花《さつきばな》)、スル(同じ赤皐月)、その他種々の草花に雫《しずく》の溜《たま》っているさまは、あたかも璧《たま》を山間に連ねたかのごとくに見えております。だんだん山間の溪流に沿うて降って行きますと、奔流の巌《いわ》に激して流るるその飛沫《とばしり》が足元に打ちつけるという実に愉快なる光景であります。ソウいう面白い光景も不風流なるチベット人には、……呟《つぶや》く種とほかならぬ。
「ドウもこんな処で雨に降り出されては困る」といって、私の下僕《しもべ》は非常に怒っておりまして、「天道様があるならば、日和《ひより》にしてくれればよいのに困ったものだ。荷物が湿って重くなってしようがありゃアしない。どこにも今夜泊る処があるのではなし、困ったな」と非常に呟くのは無理はないです。苦しいには相違ないが、もし景色を愛する心があったなれば、その苦しみは忘れたろうと思う。けれども、彼らには景色を愛する観念は少しもない。
また奇態にチベット人は景色の趣味を持っておらぬ。石磧《いしがわら》や禿山の中で生れた人間が多いのですから、景色の趣味を解することができぬとみえる。絵でもチベット固有の景色を描いたものは、一枚もない。もしあれば、その絵は必ずシナの絵を真似て書いたくらいのものです。ですから、私の下僕などはソウいう景色の美しい処へ来ても、ヤクの糞の粒々《つぶつぶ》行列している野原へ来ても、一向平気なものです。
雨の降ってるのも、自分の着物の濡れるのも打ち忘れて、面白くてたまらぬ。私がもし絵を書くことができて、この景色を描いて持って帰ったら、さぞ人が喜ぶだろう。写真機械があって、こういう景色を写して行ったら、どんなに人が喜ぶだろうかと思うほど、惜しくてたまらぬような景色。時々《じじ》刻々と眼先が変り、だんだん進んで来ますと、ヒマラヤ山中の名物であるドーロー・デンヅローンというその色の鮮やかさといったら、何と形容してよいか分らぬほど美しい花(小木)が、千載の古木と突兀《とっこつ》たる岩の間に今を盛りと咲き競うている。あちらこちらに種々の珍花異草が綾《あや》なして、轟々たる溪流に臨んでいるさまは、人をして奇と呼び怪と叫ばしめて、なお飽くことを知らず、我この処に止まって、この風景と共に仙化せんか、アア我が父、我が母ないし我が国人にこの景色を見せたならば、いかばかり喜ぶことかと、しばらく岩の上に腰をかけ、我を忘れてツクヅクと眺めておった。
その時の愉快は今思い出しても、心中の俗塵《ぞくじん》を洗い去るの感がございます。けれども非常な降雨で、御飯を喫《た》べる処もないというわけで誠に困りましたが、モウ少し行くと大きな窟穴《いわあな》があるというのでそこまで急いでまいりまして、その河端の窟《いわや》で濡れた枯木をようやく燃しつつ、溪流の清水で茶を拵《こしら》えて飲み、ソレからまただんだん降ってダ・カルポ(白岩村)という処に出ました。この日の行程八里、ここは村というほどでもありませんけれども、兵舎があって、そこに兵士が十六名おるです。そのほか一寸した一軒家のようなものがあって、そこに兵士の女房などが大分住んでおります。兵舎の横に、高さ三十間以上の大きな白い岩がズブリと立っております。石の質は何であるかよく見ませぬ。非常に白い間に草などが生えておりました。私はその夜兵舎に泊りましたが、ここの兵士は旅行券を検《あらた》めたり何かするのじゃない。
≪駅継ぎの兵士≫ これは、パーリー城とチョエテン・カルポ(白塔)城の間の手紙を取り次ぐ場所で、ここまで一方から手紙を持って来ると、その手紙を持って一方の城へ行くのです。チベットでは、ここほど完全に手紙のやり取りのできる処はない。ほかの処では、例えば二十里或いは三十里くらい行って、駅継ぎに渡して向うに運んでもらうという順序になっております。ソレも政府が地方の役所に命令を伝える時に限って行いますので、平生普通の手紙の往復は取り次がない。ですから、もし民間の人が手紙を往復するという場合には、自分の家の者を遣わすか、或いは人を雇わなくてはならぬ。
その夜、兵舎では私を立派な寝台の上に寝かしてくれました。インドを立って以来、立派な西洋風の寝台で寝たのはこの時が始めてであります。ちょうどこの頃は雨期、殊にヒマラヤ山中のダージリンから北の方にかけては非常に雨の多い処で、その翌日も大降りですけれども、ここに泊っている必要がないから、下僕《しもべ》の泣き言をいうにかかわらず、午前五時頃大雨をおかして出かけ、今度は凄《すご》いような森の中へかかりました。ところが、三、四人で抱えるくらいの大きな樹が沢山生えております。これらは皆チベット政府の属領ですが、この辺から樹を伐り出したところで、チベット内地に持って行くことはできない。水は悪し、運搬の道具は揃《そろ》わず、水は南方に流れて自分の国の方へ流れて行かぬのですから、いかにしても運送の便利がない。そのまま打ち棄ててあるらしく見える。ほとんど四里ばかりの森林で、その間には平地もあり、チベットのパーリーの峰から流れて来ている川もあります。その流れは、始めは非常に細いですけれども、だんだん溪流や小河を集めて、下に行くほど太くなって行くという有様であります。ダ・カルポから六里余り来まして、チョエテン・カルポの城に着きました。この
≪チョエテン・カルポ城≫ は欧州人の著書に記されてあるのかないのか、私の見た書物の中には一向見当らなかった。これはごく新しくできた城ですから、ことによるとマダ欧米人の間に分らぬのかも知れない。或いは分っておっても秘密にしてあるのかも知れぬ。ダージリンにいるチベット人でも、古くからいる者は、その城のあることを知らぬようです。またチベット人は銭儲けには抜け目はないが、ソウいうことにはごく不注意で、あすこに城の門みたようなものがあるというくらいの話で、兵士が何人おってドウいう仕事をするのか、ドウいう目的のためにいるのか、そんなことは平気なものです。
デその城の下が通路になっておりますけれども、私は特別に城の中に入って行きました。別だん喧《やかま》しくいう者もなかったです。その城内にシナ兵の市街《まち》がありまして、その市街に三百人ほど兵士がおります。山の中ではあるがナカナカ盛んな市街で、理髪をする兵隊もあれば、饂飩《うどん》を拵えて売る兵隊もあり、また豆腐を拵えているもあれば、小間物を売っている者もあり、兵士は皆相当の商売をして、妻君もあれば子供のある者もあります。兵舎とはいうものの、全く一の市街のようになっております。これらの兵士は半か年交代で、或る時にはシカチェの方から出て来るもあり、他の半か年はギャンチェから出てまいります。何れもシナ政府の俸禄をもらうばかりでなく、またチベット政府からも手当があります。随分収入は多いとみえて、立派に生活しておるです。
第百十回 無事四関門を通過す
≪日本の茶漬けを喫食す≫ 兵隊町の或る兵舎に着き、昼飯を注文いたしますと、米があるからといってワザワザ米の御飯を炊いてくれ、その他いろいろシナ流のご馳走を出してくれたけれども、豚やヤクの肉類が多いから、下僕は悦んで喰いましたが、私はこれは喰わぬからといって断りますと、菜漬けの大変|旨《うま》いのをくれた。この時始めて日本の菜漬けを喫《た》べるような味がいたしました。
そこでは別に咎《とが》めも何もせぬ。ここの城はナカナカ堅固にできておりまして、その南方に当り両脇の山に沿うて大いなる石塀が建てられてあり、その真ん中に門が二つあるです。その門には、毎日六時に開けて午後六時に締めるという書付けが貼ってあります。そのとおりやっているかとその辺の人に聞くと、ソレは非常に確実なもので、たまたま兵士などが何か特別な急用でもできると、その届けをして明けてもらうことがあるけれども、そのほかは夜分など往来すると猛獣に出遇う恐れがあるから、余り往来せないということです。ちょっとした橋を渡り、半里ばかり登り形《がた》の原を進み、ソレから元の河に沿うて森林を降り半里ばかりある原に出ますと、美しい草もあり馬も沢山おります。
≪第二の関門を通過す≫ その原を離れ橋を渡り、四、五丁行きまして、チュンビーの橋に着きました。大分大きな橋で、長さ二十四、五間、幅二間くらいあるが欄干《らんかん》も何もない。橋の東側の方には門が立っており、その門の前に小さな家があって、兵士がその門を守っております。旅行券はその兵士に渡すのですが、もしそこでうろんな者と認められれば、送り返されるという話です。そんなことはないでしょうけれども、兵士にやる物をやらないと送り返されるという風説は、前から聞いておりました。そこへ着くと私の様子を見て、「どこへ行かれるのか」といって執拗《しつこ》く尋ねましたが、下僕が長官に旅行券を渡しますと、長官が、「聞くにおよばぬ。早速通せ」
というのは、旅行券の中に、この人に対しては決して一言も訝《おか》しなことをいうたり、いろいろの挙動をすることはならぬ。もしソウいうことがあれば、後に酷《ひど》い目に遇うから、かれこれいわずに早速通せという命令があるからで、何の故障もなくその門を通してくれた。マアこれで二つの関所を通り抜けたわけです。さらにまた三つの関所を踰《こ》えなければならぬ。コリャまた新しい試験です。しかし、第一の試験に及第しましたから、つまり三昧の示したところが当っているのであるという信仰も出まして、実に愉快でした。河に沿い、だんだん南に降って行くこと二里半ばかりにして、すなわち
≪ピンビタンの兵営≫ に着きました。この日は雨が沢山降っておったものですから、下僕も私も非常に疲れたので、いよいよそのピンビタンの兵営に着き、或る兵舎を借りて宿りました。明日はこの兵舎の取り調べは受けないでもよいという話。直ぐにここからトモリンチェンガンに行き、その関所の長官より書付けをもらい、その書付けを証拠として、もう一つ向うのシナ人の守っているニャートンの城門を通してもろうて、ソレからいわゆる第五の関所なる、ニャートンの本城の守関長の取り調べを受け、書面をもろうて、またピンビタンに引き返して来なければならぬ。ところがピンビタンでは、午前十一時から十一時半までの間でなければ、書面を渡さぬということを聞きました。
ソコでまず、明日早くからトモの方に出かける必要があるけれども、ナカナカ明日中には片づきそうもない。これもやはり四、五日はかかるであろうという予定であった。この間でもやはりグズグズしていると、ドウも追手の着く憂いがあるのみならず、もうパーリーまでこういう者を捉えてくれという通知があれば、ニャートンまでは夜通しでもジキに手紙が通じますから、私は到底自分の目的を達することができぬ。何とか方法をめぐらさにゃアならんと思いました。
ところがその夜、幸いに誰が連れて来たのか、ドウいう関係から出て来たのか分りませんが、ピンビタンの城を守っている長官(シナの将校)の女房が、診断を受けに来ました。これはチベットの婦人で、その婦人が長く煩《わずら》っているという。一寸ヒステリーのような病気でありますが、非常な美人で、ナカナカ、シナの将校に対しては無限の勢力を持っておる。その将校は、兵士に対してはもちろん命令を下す権力を持っていますけれども、家族の中にあっては妻君が隊長で、自分は兵卒となってその命令の下に従っているという話をしておった兵士がありました。
≪関長の妻君を診察す≫ ソレは兵士の悪口でありましょう。けれども、せっかく出て来たものですから、望みに応じて診《み》てやりまして、病症の説明をして注意を加え、少しばかりの薬をやりましたところが、私の説明が長く煩っている容体に適中したとみえて、なるほどセラのアムチーは豪《えら》いものだと感じたか、大いに悦び、「何かお礼をしたいが欲しいと思う物はないか」という。何も欲しい物がないといいますと、自分の家に帰って直ぐに包み物を持って来ました。ドレだけ入っておったか知りませんが、私はそれを押し返して、「私は明日急ぐ用事があって、ニャートンの方へ行かなければならぬので、ニャートンの関所で書付けをもらって、こちらの関所に旅行券をもらいに来なければならぬ。自分も引き返して来たいとは思うけれども、或いは使いだけよこすかも知れぬ。その時分に長官が手間取るに違いなかろうけれども、直ぐに渡してくれるように、取りはからって下さるわけには行くまいか」と頼みますと、「そんなことはわけはない。家の人は堅い人で、部下の兵士が行く場合でも、十一時から十一時半までの間でなければ旅行券を渡さぬけれども、ソレは私が確かに引き受けます」という。「ソレだけがお頼みで、今度また帰って来る時にお目にかかりましょう。これは全く要らぬから」といって、無理に押し戻してしまった。その婦人は悦んで帰られた。明日あちらの方さえうまく行けば、こちらの手続きはできたつもりであるけれども、なお気づかわれるから、私の泊っておる家の兵士の女房に聞きますと、「ソリャもうきっとうまくゆくに違いない。かの人は、家の人に対しては無限の権力を持っていますから」という。日本でいう嚊《かかあ》大明神の家庭であったらしくみえる。
その翌六月一四日午前三時、雨をおかして二里余り行きますと、トモリンチェンガンに着きました。マダ夜が明けませんで、どこもかしこも戸が締っているから、一寸休む家もないです。幸いに雨も少し歇《や》んで来たものですから、或る家の軒下にたたずんでおりますと、やがて戸を明けました。ソコで関所はどこかと聞きますと、この村はずれであるという。関所といっても別に門はない。ただ見張りをしている家があるだけです。そこに着くと今起きたというところ。
≪第四の関門も無事≫ ソレから事情を話して通行券を戴きたいといったところが、例のとおり、そんな例がないとかグズグズいっておりますと、下僕が「こりゃセラのアムチーです」と口走ったです。スルと、「ソレじゃア何ですか、この頃大変名高い法王の侍従医になられたというお方じゃございませんか」と私に尋ねたから、「法王の侍従医になったわけじゃアないけれども、とにかく急用を帯びておるから、早く行かなくちゃアならぬ」と、チベットの紳士流にボンヤリ答えますと、たちまち信用して、思ったよりはやすく書付けを書いてくれたです。
村を離れて一里ばかり登り、これより本流の河川と離れ、西少し南の山間の太い河に沿うてだんだん上に登って行きました。もはやこの辺には大木はない。小さな木が少しあるばかりで、田地もあって小麦ぐらいできるそうです。ソレから一里ばかり行くと城がある。一番大きな城で、また一番しまいの城であります。城は三つほどあって、この城におる兵士の数は二百名、ピンビタンには百名、その前のチョエテン・カルポ城に二百名、すべてで五百名であります。或る時はここの兵士が、五十名ぐらいピンビタンの方へ行くこともあるという話でした。
ここの兵士町は、二丁余りの長さで裏長屋になっている。その間にはやはりチョエテン・カルポの兵隊町のように、いろいろの商売をしておる兵士があります。これはピンビタンにもあったです。その兵隊町を出抜けると大きな門があり、その門の脇に見張りの兵隊が二人おりますから、その兵隊に書面を示すと、早速判を捺《お》して通行を許された。ソレから一丁半ばかりあるニャートン駅に行くのですが、このニャートン駅は、私に取っては非常に危ない処です。
第百十一回 いよいよ第五の関門
≪第五の関所に着く≫ 何故《なにゆえ》ニャートンの関門が危ないかというに、私の知っておる人が沢山おるからです。もちろん敵《かたき》のような人は少しもおらぬけれども、元来チベット人は非常に銭儲けを好む質《たち》ですから、私の顔を見て、チベットの役人にこうこういう者であると告げれば、銭儲けになるという考えで、あばく者があるかも知れぬ。英国人も二人おる。
一人はミス・テーラーという女宣教師である。この人のことは前にもお話をしましたが、チベット内地へ入ろうとして、シナの方から道を取って、ナクチュカという処まで進んで来ました。ここからチベットのラサ府までは、馬で行けば一五日、歩いても二〇日か二四、五日かかれば着きます。そこまで来て、トウトウ謝絶された。もっとも、そこまではわけなく来られることになっておるです。シナ領のチベットであるから。ソレから、こちらは法王領のチベットであるから、進んで来ることを許されなかった。ソレがために後戻りをして、今チベット人を感化するの目的をもって、このニャートン駅に住居しております。
ここは英領インドとチベットと境界を接している処で、チベット政府の官吏もおれば、英政府の官吏もおるです。また貨物の輸出入を取り調べるために、シナ政府から雇われてその駅に住んでいる英人もあり、その英人についているチベット人の書記もあります。なおそのほかに、ダージリンから来ているチベット人が四、五名おりまして、それらは大抵私の顔を知ってるです。その人らに見つけられたらモウおしまいです。余ほど注意を加えて行かにゃアならぬ。けれども見つかったら百年目、ソレまでの運命と覚悟してズンズンやって行った。そこには十軒ばかりの家がある。その中でも最も大きな家は、その官吏の住んでいる家と、宣教師の住んでいる家である。ソレからなお一つシナ官吏の住むような家もある。
≪第五の関門長は人足上り≫ 宣教師の家の向うにチーキャブ(総管)という官名で、その人の実際の名はサタ・ダルケというのである。サタというのは人足廻しという意味で、ダルケはその人の本当の名です。ダージリンにダンリーワすなわち山駕籠舁《やまかごかき》がおりますが、もとこの人はその人足廻しで、人を欺いたり、或いは脅かしたりして、金を貪ることをほとんど常識にしておった悪漢で、ダージリンの誰に聞いてもサタ・ダルケほど残酷な奴はないと、現在酷い目に遇った人などは、涙を流して罵《ののし》っておるのをしばしば聞いたくらいですから、非常に悪い人とみえる。その人に遇わなければならぬ。
ソウいう人足廻しの成上り者ですが、チーキャブといえば、いわゆるチベットの勅任官で、大変な権力があって、帽子には珊瑚珠《さんごじゅ》の飾りをつけることができるのです。成上り者の常として、その言葉の使い方などは、ラサ府における総理大臣よりも威張りくさっております。ナカナカ私共がその門に行って遇わしてくれろといったところが、門前払いを喰うに違いない。その真向いの家は、さすがに欧州人の家だけあって寝室、書室、接客室などもあって、ナカナカ立派な家で、多くの下僕があちこちと忙しそうに働いておりました。その中には、私の顔を知っている者があったろうけれども、私はなるべくその方を見ぬようにしておったから、誰がいたかよう分らない。
デ、チーキャブの処へ尋ねて行きましたけれども、ナカナカ上に上げてくれない。その中の一人の人が出て来て、私の顔を見まして、「アリャ誰か」といって内々下僕に尋ねたです。スルと下僕が、「こりゃセラのアムチー」といい終らぬ中に、「オオあの名高いアムチーか。誰かがセラのアムチーがこっちへ来るといいおった」というと、下僕は、「急ぎの用事で出て来たので、一日も暇取っていることはできない。パーリーでもその日直ぐに旅行券をくれたくらいだから、早く書付けをくれるようにしてくれ」という。大分うまくやるわいと思っていますと、「ともかくこちらへお上りなさい」という。このチーキャブには二人の女房がある。一人は人足廻し時代からの女房、また一人の美人は、チーキャブになってからの女房です。
≪また関長を脅す≫ 事情を打ち明けて、通過の許可書を与えてくれといいますと、「ドウいう用事か」という。「ほかでもないが、私は法王内殿の秘密の用事を帯びて、早くカルカッタの方に行かなくちゃアならぬ。でき得るならば、ドウか二〇日ほどの間にこちらに帰って来たいと思っておるほどの急用。しかし、かかるだけの用向きがあって暇のかかるのはしかたがない。ソレだけの証明さえ戴けば、ラサへ帰ってからの申し訳が立つからよろしい」と例のごとくいい放ちますと、チーキャブは、「その秘密の用事というのは、私の職掌として聞いておかなくちゃアならぬ」という。「ソウですか。あなたは総理大臣の秘密を、お聞きになる権利を持っているですか。いわんや法王だけしか知らぬ秘密をお聞きになる権利がありますか。ソレを是非いえというならばいわんじゃない。しかし、いった以上、責任はあなたが帯びるという証明書に、職務上の印を捺《お》したものをもらいたい。ソウすれば私は人を遠ざけて、あなたに法王の秘密を打ち明けますから」と、儼然《げんぜん》威儀を正していいますと、「イヤそういうことならむろん聞きません。ソウいう大切の御用を帯びているからは、一日でも止めておくことはできぬから、早速旅行券を得らるる方法をはこびましょう。ついては私が書面を認《したた》めるから、それを下僕に持たして、トモリンチェンガンまでおやりなさるがよろしい。さすればトモリンチェンガンで二通の書面をくれますから、その書面を持ってピンビタンへ行けば、シナ将校から一通の書面をくれます。その書面さえ持って来れば、皆ここを通過することができるようになるのですから」というて、直《じき》にトモリンチェンガン宛の書面を認めてくれたです。
前にも一寸説明しておきましたが、ココでかの第四の関門、すなわちトモリンチェンガンでもらう二通の書面について説明しておきます。二通の内シナ文字で書いた一通は、第三の関門すなわちピンビタンに持ってまいります証明書で、これはピンビタンの将校に渡してしまうのです。他の一通のチベット文字で書いたのは帰国証書で、私がインドで用事をすましてチベットへ帰って行く時分に、第五の関門――帰る時には第五ではない第一の関門ですが――のチーキャブに、この帰国証書を見せて、新たに旅行券をもらう手続きをする証拠物でございます。ところが私は出て来たきりで帰りませぬから、この帰国証書が私の手に記念として残っているのでございます。
お話は戻りますが、チーキャブから書面を得るということは、容易ならぬことです。この人が一番|賄賂《わいろ》を貪るという評判が高いのです。その容子《ようす》といったら、見るからが嫌な風采《ふうさい》で、私が法王の秘密用を帯びているといい出すと、たちまちヒシャゲて、見にくいほどお辞儀ばかりしておりましたが、ソレは俺《おれ》の手際をみろといわぬばかりの語気を示しておった。その豹変《ひょうへん》の甚だしいには、私も呆れたです。この時私は、どこの国でも下の者に対してむやみに威張る奴は、必ず上に対して諂《へつら》う奴。上に対して非常に諂っている奴は、きっと下に対して威張る奴で、実に憎くべき侫人《ねいじん》であるとはかねて信じておりましたが、この時において一層深い感じを持ちました。
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第百十二回 いよいよ五重の関門を通過す
≪従者の後戻り≫ その第五の関門の総管からもらった書面を下僕《しもべ》に渡し、「トモリンチェンガンでは、これを持って行けば書面をくれるだろうが、ピンビタンではかれこれいうだろう。ソウしたら将校の奥さんの処に行って頼め。きっと渡すように計らってくれるに違いないから」と、内々いいつけました。ところが下僕はびっくりして、「ドウしてこんなに早くくれたのでしょう。夢のようなわけですな。しかし、あなたも一緒にお越しにならんでは、トモの方でも承知いたしますまい」という。「イヤそれは私も気づかったから、チーキャブに尋ねたところが、委細この書面に書いてあるから、トモの関長が必ずピンビタンへ送る書面を書いてくれるに違いない。遠い処へワザワザお越しにおよばぬ。下僕だけやって、あなたはこっちに待っているがよいという話だから」といい聞けますと、下僕はその書面と、出|際《しな》に私共が持って来たところの一通の書面――ソレには総管の印が捺してあります――とを持って、荷物はなし身軽ですから一散に走って後戻りをして行きました。
デ先に通り抜けて来たニャートンの大城門の傍に見張りをしている兵士に、そのチーキャブから判を捺してもらった書面を渡し、しかしてチーキャブからもらった一通だけ携えて、トモリンチェンガンに行くのです。その関長に書面を渡しますと、普通の者なれば賄賂を使ってさえ、二日も三日もかかるところですが、チーキャブからの特別の命令もあり、先生もまた私を信じてしまったものですから、直ぐに書面を二通拵えてくれた。その二通の書面を持って、また二里余の道を後戻りして、ピンビタンまでまいりました。ソコでピンビタンの役所に着いて二通の中の一通を渡し、そして一通のシナ文字で書いた書面を受け取るわけなんです。
ところが午後の一時半頃になってまいったものですから、案のごとくくれないという。ソレからその下僕は私のいいつけたとおり、将校の宅の方にまいって、その奥さんに「ドウか書面をもらってくれろ」といって頼みますと、その奥さんが直ぐに関所へ駆けつけて来たです。デ将校すなわち夫に対して、この方に書面をやってくれろというたところが、「今日はやることはできぬ。明日やる」といいますと、その奥さんは非常に怒り出し、「私が引き受けてあるものを、あなたが肯《き》かぬというのですか」と、ほとんどチベット婦人の本性を現して喧嘩腰になりますと、
≪鶴の一声≫ しかたがないと思ったのか、急に我を折って、一通の書面を書いてくれたという下僕の話。下僕はその書面を持ち、急いで帰って来ましたのは、ちょうど四時過ぎでございました。その二通の書面の一通はシナ文字で、一通はチベット文字であります。
雨は降っておりますし、もはや四時過ぎですから、今夜一晩ここに泊ってもよいくらいの考えはありましたけれども、なるべくならば出立する方がよい。モウここを離れて半日行けば、英領インドに入るのだから、ドウか今日出立したいものであると思っておりますと、チーキャブのいうには、「今日はあいにく雨が降って非常に困ったものですけれども、これからナクタンという駅へ着くまでは、ナカナカ道が遠い。デその間には、どこにも泊る処がない。もっともこれから四里ばかり上ると一軒屋がある。今夜その一軒屋まで着くことができれば、非常に結構である。そこまで行かれると、明日ごく楽にナクタンまで着くことができるが、ソウでないと、明日は午前の三時頃から立っても、ナクタンに着くことはむつかしゅうございましょう。殊に大切の用事を帯びておられるから、困難ではあろうけれども、今日お立ちになってはドウです」という。
「私はドウも疲れているから、今晩ここへ泊りたいと思うが、しかし、ドウしても明日中にナクタンまで着くことができんでしょうか」といいますと、「イヤそれはドウしたってできない」。ソコで私は下僕に向い、「ドウだ行けるか」と尋ねますと、「ドウも困りました」という。ところがチーキャブのいうに、「主人が大切の用事を帯びておるのに不届な奴だ。行かぬということがあるか」と非常な声で叱りつけた。下僕はヘイヘイと、実に蛭《ひる》に塩をかけたように縮こまって、閉口してしまった。私も一日ここに泊っておっても、禍いでも買うような種になりはすまいかというような萠《きざ》しもありますから、「じゃアそろそろ出かけることにいたしましょう」といって、チーキャブに暇《いとま》を告げて、
≪第五の関門を出ず≫ 出立しました。ニャートン城は、ナカナカ立派な城であります。ニヤートン駅を出《い》で一寸降ると河がある。二間余の小橋を渡り、四、五軒行くと一寸一軒家があって、そこにシナ兵士がいる。そのシナ兵に、ピンビタンからもらって来たシナ文字の通行券を渡して行くので、それには、この二人の通行を許せという文句が書いてあるのです。
ソレからだんだん山に登って行くと、雨はドシドシ降り坂は峻《けわ》しいが、しかし、この辺の道は大分によくできておる。チベット国の境界になるところで全く英領ではない。今ニャートンにいる英人は、チベットの土地を借りて住んでいるようなわけです。雨をおかして、非常に樹の生え茂っている急な坂を二里ばかり登ると闇《くら》くなった。例のごとく下僕は呟《つぶや》き出した。「何もチーキャブの家へ泊らないでも、ほかに泊る処は沢山ある。この雨の降るのにワザワザ出て来たって、どこにも泊る処はあるもんか。荷が重くて動けやしない」と、ブツブツいっている。「ソレじゃア己が半分助けてやるから」といっても、道の中へ坐りこんで動かんです。ようやく宥《なだ》め宥め、ちょうど八時頃まで歩いたが、その一軒家の処までは、マダ二里もあるといってナカナカ歩かない。
ところがその辺に、小さなテントを張ってその中で火を燃しておる者があって、そのテントの近辺にラバが沢山草を喰っております。これはトモの人で、カレポンまでラバで羊毛の荷を運ぶのであります。そのテントについて、是非ここに泊めてくれと頼んだところが、このとおり幕内《うち》には五人もおって、入る処がないという始末。けれども、何といっても下僕は進まぬからしかたがない。坐っておってもよいから泊めてくれと、おして頼んだので、ようやくその中に入れてもらうことになった。
≪無量の感慨≫ 泊りは泊ったが寝ることもできないから、そのまま坐っておると、いろいろの感に打たれたです。あのような厳しい五重の関門を、わずか三日間に通り抜けたということは、実に不思議である。ごく旅慣れて、この辺を度々通過しているところのチベット商人でさえ、この五重の関門を通過するには、七日以上、一四、五日かかるという予定。しかるに私は、殊に大雨中三日間で通り抜けて、無事に出て来たというのは、いかにも不思議である。
始めこの五重の関門を通ろうという決心をしたのは、ドウせ前世の羯摩《カルマ》(業力《ごうりき》)の結果、免れぬ因縁があれば、ブータンの間道を取ろうが桃溪の間道を取ろうが、運命は一であると考えたからで、幸いに事を誤らずにここまで着くことができた。しかし、この間において不思議なことは、私が予期しなかった謀り事が、ズンズンその場合に臨んで施されるように、向うから仕向けてくれた一事である。何《いず》れの関門長も、俗にいう狐に魅《つま》まれたごとく、殊にかの眼の鋭いチーキャブ、二十年以来インド地方にあって、艱難辛苦《かんなんしんく》をなめつつ、種々の世渡りをして来たかの人足廻しのダルケさえ、私の心事について、素振りに対して、一点の疑いを挾むこともなく、かえって閉口頓首《へいこうとんしゅ》して、その日の中に送り出すようにしてくれたというのは、これ全く我が信仰する本師シャカムニ世尊の守護下された徳によることであると、実に仏の冥加《みょうが》の恐ろしいほどありがたいのに感涙を催し、その夜は特にお経を読み、夜中一睡もせずにテントの中で夜を明かしました。
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第百十三回 チベットに別る
≪旅行の道程《みちのり》≫ ここで一寸私の歩いた道程《みちのり》を申すと、ダージリンからラサ府まで大約《たいやく》二千四百九十マイルばかり歩いております。まず明治三二年一月五日にダージリンを出発し、汽車に乗ってカルカッタを経てセゴーリという所まで来て、ここからまた歩いて、二月五日カトマンズに着きました。セゴーリからカトマンズまで約百十五マイルです。三月七日にここを立って、ポカラに着いたのが同月一一日、一四日にポカラを出発して、四月の一六日にチベット国境からわずか十八マイルを距《さ》っているロー・ツァーランに着きましたが、カトマンズからここまで歩いたのが、二百六十マイルばかりです。このロー・ツァーランに一年ほど滞在して、翌三三年四月の六日にここを立って、チベット侵入の便宜上、再び前の方へ戻って来て、ドーラギリー山の東谿にあるマルバ山村に出で、六月一二日にここを立って、ドーラギリー山の北の中腹の、ほとんど二万尺の所を踰《こ》えて、西北原の方に進み、七月四日にチベット西北原のホルトショ州の山峡に達しました。ツァーランからマルバまで約七十マイル。マルバからホルトショ州まで、大約百五十五マイルほどあります。この間は藪《やぶ》の中や豁《たに》を廻って行きましたから、思わず道を余計に歩きました。それから一二月五日に、シカチェ府のタシ・ルフンプー寺に着き、三日間滞在して同地を出発して、明治三四年三月二一日に、ダージリンを出てからちょうど二か年と三か月ばかりで、ラサ府のセラ大寺へ着しましたのですが、ホルトショ州からラサ府までは、種々廻り道などしたので、千二百七十九マイルも歩いております。この間のことは、前に委しくお話したとおりであります。
≪チベットと英領インドとの国境≫ その翌朝起き出ずると、そこには昨夜集めて来てあったところの薪《まき》があって、その薪で湯を沸し茶を拵《こしら》えたから、そのついでに麦焦しを喫《た》べまして、ソレから出立しました。その日はどうせ麦焦しも何にも喰うことができんというので、シッカリ喫べこんで山に登りかけた。雨は歇《や》んいるし、大変好い都合。だんだん登ってちょうど二里たらず登りますと、モハヤ樹の非常に茂っている山を離れて、今度は小さい樹の間に出て来た。
ソレから半里ばかり行くと一軒家がある。その一軒家は何のためにそこに建てられてあるかというと、ダージリンの方から怪しい者が来た時分に、それは欧州人でなくても、たといインド人でもどういう人でも、顔の知らん人がそこへ出て来た時分には差し止めて、ニャートン城に報知することになっている。また忍んで折々歩いて来る人間があれば、捕《つか》まえて直《じき》にニャートンに報知することになっている。そのためにここに一軒家があるのです。その家には婆さんとほかに一人おりました。その息子というのは、カレンポンの方へ商いに行って留守だということで、ソコでまた幸いに茶を飲むことができた。なおこれからはどうしても行けないというものですから、また酷い坂を登って来て腹も減り加減になったから、また麦焦しを一度やり、ソレから山へ登って行った。
ソウして一里ばかりごく小さな木の生えている間を登って行くと、今度は全く雪の山になってしまいましたが、その雪の山に入る前に池がありました。その池には氷が張り、ソレから一里ばかり上は非常な雪でしたが、人が沢山通るものですから、そこが踏まれて堅くなっている上に、昨夜また降ったので、その踏んで堅くなっている上に新しい雪が積っておって、やはり堅いところではあるけれども、幾分か踏みしめて行くような塩梅《あんばい》になって進んで行ったです。この坂の名をゼーラという。その雪の中を登って行く中にも、ズッと下の方を見ると、ナカナカ大変な広い野原の谷間から雲が立っておりまして、それが大いなる林の間に飛んでいるというような有様。実に綺麗です。デ上の方にはパル、スルの花が盛んに咲いているのがよく見えていました。その一里ばかりの雪の中を通り抜けて頂上へ着きました。
この頂上が、英領インドとチベットとの本当の境目である。ここを一足向うに下れば、モウ、チベットの法律をもって支配さるることのない人間になってしまう。これより東北はチベットである。これより西南は英領インドである。まずそこまで着きまして、ソコで私は東北の方を眺めて、またその漠々たる広い谷を踰えて、遙かの東北に当る雪の山が、その雲の中に見えつ隠れつしているさまを観た。かの雪山のかなたには、なお雪山があって、その雪山のかなたにはラサ府があるのだ。デそのラサ府から今日ここまで出て来て、ここでいよいよチベットと全くお別れすることになった。デちょうど私がチベットの国境、すなわちヒマラヤ山中のツァーランに着いてからこの方、ほとんど三年の星霜を経たが、無事に今日自由に音信のできる国まで到達することができたのは、これ全くシャカムニ如来の加護力によることであるという感が、一層深くなったものですから、その時にまた世尊シャカムニ仏に対し礼拝をし、それからその中に感じた二、三の歌があります。それをここに述べます。
みほとけの護りの力我れなくは
|ゆき《ヽヽ》高原に我れ失《う》せけんを
あまつ原|深雪《みゆき》の山をふみこえて
妙《たへ》の御法《みのり》の会《え》にも逢ひけり
万代《よろづよ》に変らぬ雪の深山路《みやまぢ》を
ふみ別《わ》けにしは法《のり》の徳にそ
ソコでチベットの総てに対し、一旦別れを告げて、めでたく英領インドの方へ下ることになりました。
≪名物の雹《ひょう》≫ その時はモウ長く山上に留まっておったものですから、余ほど寒くなりましたが、それをも打ち忘れたです。まず関鎖《かんさ》幾重の難関を無事に踰《こ》えた喜びの余りに、仏陀の徳を感謝するその思いの強いために、非常に寒かったことも忘れた。モウ元に返って来ることになると非常の寒さで、幸いに日が照っているものですから、マアその中にも幾分か温まりを感ずるようなことでありました。
デ雪の中をまた一里ばかり下りますと、石で幅三尺くらいの道ができている。その道はチベットでは夢にも見ることのできない立派な道である。私の出て来た年には、殊に大きな雹《ひょう》が降った。その雹は雪山の名物ともいうべき物で、私は一度ネパールの中で出逢ったことがある。実に驚くべき大きな雹です。雪の中を掘ってみましたが、ちょうど鳩の卵ぐらいのものが沢山ありました。降った時の大きさはドノくらいかというと、鶏の大きな卵ほどであったという。そういう奴が、ドンドン降りかけて来るという話だけ聞いた分には、とても信じられんけれども、今幾分か残っているのを見ても、その大きさが鳩の卵ほどあるのですから、真事《まこと》であると信じられたです。
デこの辺は、もはやダージリンの方へ商いに来る者が沢山にありまして、アッチコッチ通行するです。ダージリンの方から人が沢山来るのでなくて、いわゆるトモの方から出かけて行って買物をし、或いは売るというようなことを行います。デそういう人らについて聞いてみると、全く今いったような大きな雹であるです。ソウいう雹が降ってからして、一月半ばかりは通行が止っておって、ようようこの頃道が開けたというようなことです。ソコで大分にその雹が融けて嵩《かさ》が低くなったものですから、ようやく半か月前からこの通行ができるようになったという。
その雪の中を放れて、今度はだんだん下って行くこと一里にして、また坂を登って行くことが二里です。また下ること二里にしてナクタンという駅に着きました。ここには二十軒ばかりの家がある。ソウしてまた、昔は兵舎にあてられておったものです。今は羊の毛の荷物などを入れるようにしている場所がある。非常な雨降りであって、その町の中の道は非常に悪くなっている。そこの或る家に泊りまして、その夜はよく寝ました。
≪雨中田植を見る≫ 六月一六日午前五時に、非常に雨の降る中をおかして出立して、欝葱《うっそう》たる林の坂道を下ること十三マイルにして、リンタムに着きまして、そこに宿ったです。日和《ひより》なら随分進めるところなんですけれども、雨は降るし、もはやチベット領を離れてソンなに急ぐ必要もないので、ブラブラやって来た。ソレでこの駅に泊らねばならんことになった。
翌日はまた下って行くこと四マイル、その辺へ来ますと、モウ熱気が酷い暑さでたまらない。まず着物を脱ぎまして、それを男に持たせ薄着になって行きましたが、坂を登るんでもないのに汗が沢山出て、全身を湿《うる》おすです。ソウいうところからまた西南の方へ登って行き、ツォムタクバという所まで進んで宿りましたが、やはり雨がしょぼしょぼと降っておる。翌一八日また雨の中を下って行くこと三マイル、またそれから橋を踰《こ》えて登ること三マイル。その辺は田野がよく開けてネパール人がこの辺には沢山移住して来て、新しく田野の開けたのが沢山ある。これは英領で、その租税は皆英領インド政府に納まるんです。ダガその人は、大抵ネパール人が多い。またその間にはシッキム人もある。
この道筋で面白く感じたことは、その雨の降っている中で田植をしている。米が沢山できて、日本の米と同じように非常に旨い。インド米といえば大抵まずいのが多いけれども、このヒマラヤ山中のこの辺にできるのは光沢《つや》があって、ソウして粒も日本の米と同じようである。香ばしい匂いがあって、ナカナカ好い味をもっておる。ソウいう米を作るために田植をやっている。雨がビショビショ降っている。ちょうど日本のことを思い出されて、詰《つま》らん腰折ができました。
五月雨《さみだれ》のヒマラヤ山の稲植ゑに
大和《やまと》のさまのをしと思はる
≪人間らしい臥床《ふしど》≫ それからボエトンという駅に着きました。この辺には欧州人の住んでおります者もありますし、その中にも農業をやっている人が多いようです。そのボエトン駅には郵便局もあれば、天主教の会堂もあり、その会堂に附属した貧民学校もある。ナカナカ盛んな駅である。
その郵便局の下の方まで私共が来ますと、郵便局はナカナカ立派な家で、その縁側に立って、下を通る人を眺めているチベットの紳士が一人いたです。ソレが私の顔を見て、一寸驚いたような顔をして、「上へおあがりなさい」と突然声をかけたから、「イヤ私は上にあがる必要はない。宿を求めているが宿を貸してくれるか」と、こういうたところが、「何でもよいから上にあがりなさい」「しかし、雨の降るのに、上にあがったところで宿を貸してくれないと困る」「よろしい。ともかくおあがりなさい」と笑っている。
コリャおかしい。まるで友達扱い。変だなと思いながら上の方へズッとあがって行くと、英語で、「アナタ私を忘れたか」というを見ると、なるほどダージリンにおった時分に、学校におったチベット語の教師。私の教師ではない、第二番目の教師。ソンナに学問は深い人じゃないけれども、普通よく物の解る教師である。ソレが郵便局長をやっておるです。デ顔を見ると忘れた男、英語でソウいうから自分も察して、「イヤ失敬した」というわけで、ソレから一別以来の挨拶《あいさつ》をして、一体アナタがチベットにおられるという噂《うわさ》を聞いたが、殺されはしないかと案じておったという。フイと気がついたのは私の下僕《しもべ》です。英語で話しておるのを見てボケたような顔をしている。これはいけない。チベット語で話しかけると、どうもその局長はチベット人ではあるけれども、ダージリンで生れたのであるから、ラサ府の言葉を知らぬ。チベット語で話をしてもジキに英語に移ってしまう。ソレからマア英語で話しました。私は元来英語は上手じゃない。どうかするとチベット語が出てしまう。ソコで英語とチベット語と双方で話すようになったです。
スルと下僕は非常な疑いが起ったものとみえて、向うの方へ行って局長の奥さんに尋ねる。「アリャ一体ドコのお方か」「アレはジャパン・ラーマだ」「ジャパンというのはどういう所ですか。イギリスの国の言葉を使っているが、イギリス人じゃないか」「ソウさ、イギリスみたような強い国だ。イギリスでも驚くほど強くなった国で、旭日の昇るごとくにこの頃は万国に名が輝いて、良人《おっと》は新聞を読んでソウいうことを知っている」といったところが、下僕は、「ソリャ大変だ。私は殺される」といって、一遍に青い顔になって怖くてしようがないという。ソレは細君が後に出て来ての話なんです。私の下僕はモウビクビク震えている。デ、まアどうなることかと非常に心配している様子であったですけれども、下僕に対してソンナ話をしている暇もない。その夜は大変立派な西洋ふうの寝床の上に寝て、ラサ府を離れてから久々で人間らしい寝方をして寝《やす》みました。
第百十四回 ダージリンに旧師と会す
≪チスター河畔のラプチェ種族≫ その翌日雨をおかしてカレンポンに着き、下僕をラサ府に帰し、七月一日に荷物を受け取り、その翌日直ちにカレンポンを出立《しゅったつ》して、坂を下ること十マイルにして、チスターという大なる河に出ました。そこには立派な欧州ふうの鉄橋が架《かか》ってある。このチスター河は一寸いわれのある河で、ここでこのヒマラヤ山住民の内で、今もなお原始時代の有様をたもっている種族がある。その種族の祖先が、この河の近所から生れたのであるという言伝えがありますから、この種族について少し説明をしたいと思います。
この種族の名はラプチェという。これに二つの別れがあって、一つは幾分か智能があるのです。一つは実に無能なる種族である。この有能なる種族の祖先は、父をチークム・セーロンといいまして、このヒマラヤ山の土から化生《かせい》したという。その母をドヨという。このチスターの河をば、ドミのランニー・ウンラム・ホクラムといっている。この女はこの河の水から化生したのである。ソレで、その二人からして我々はできたのであるというようなことが、ラプチェ種族の間に神話として伝えられている。このチスター河は、ダージリンの北東の大なる谿《たに》を流れて、ソウしてインドのガンジス河に合している。
≪無能なるラプチェ種族≫ その無能なる種族の方は、ダージリンの西北原の山のダラムタン山村の、大なる石より生れた者の子孫であって、今でもその村には祖先の石が存在しておって、その村人がこの石の子孫であるといっている。ソウしてそのまた子孫は、その村だけにおるばかりでない。シッキムの周囲に散在している。
この種族は実に石から生れたというごとく、その性質がいたって頑冥《がんめい》であること、この石のようであるです。この種族の婦人という者は、その下顎《したあご》に三つの縦筋を描いている。ソレは黒く入墨《いれずみ》をしているものもあれば、入墨するだけの余裕のない者は植物性の黒い物で描いている。もっともラプチェ種族の、この頃ダージリンに住んでおる者は少しあります。それらは皆、チベットふう或いはネパールふうの衣服を着けていますけれども、山の間に住んでいる総てのラプチェ種族は、今なおこの種族固有の風俗を用いている。その服は、サーチエという草の幹の繊維で織って拵《こしら》えて、全く縫うことをしない。その布のままに十文字に体に捲きつけ、ソウして陰部へもまた捲きつけて、端の方でクルッと掩《おお》うている。これをドミのクスドムといっておる。この一《いつ》の着物のほかに何にも着けない。
その食物は、多くは山林の自然生の草の実、或いは葺《きのこ》等であって、その草の毒であるか毒でないかということを知るのは実に鋭敏なもので、何でもこの草は、こういう病気の折にはこれを喰えば癒《なお》るとか、これはいつの時候でなければ喰えないとか、これはまたどういう時に喰えばよいとかというようなことは、皆立派なお医者さんが草の有毒無毒、或いはその性を別《わか》つごとくに、知っておる。その点については、インド人などはとてもおよばんです。インド人は一般に実に愚かなもので、草の名でも知っている者はありはしない。花の名でも知っている者はごく稀《まれ》で、ドンな花を見ても花だというだけで、何にもほかのことは知らぬのが沢山ある。しかし、この種族はこの点については土語で一々名を知っている。それらは実に感心なものです。ソウしてまた、動物性の物も喰うですけれども、多くは植物性の物を喰っている。ソウしてこの種族には、竹が最も必要なものである。
まず竹の筒《つつ》を釜《かま》にして、その中へ種々の物を入れ、それで蒸《ふか》すので、或いは草の根とか果物とかいういろいろな物を入れ、また穀類を入れることもある。塩、蜜等を入れて、その竹の筒にスッカリ蓋《ふた》をして、それをば竹の薪木《たきぎ》で燃すです。よく焼けて、ほとんど外部が黒く焼けて、ほどよい頃まで焼きます。それを取り出し、その蓋をあけてこれを取り出して喰うです。それを喰うには、竹で拵えた椀《わん》のようなもので喰うです。水を汲みに行くにも、飲食や何かを貯えておくのも竹の筒である。何を貯えておくにも大抵竹の筒の中に入れておく。それから乳などを貯えておくのも竹筒である。山間にいる彼らの内には、全く土の竈《かまど》に鍋《なべ》というような物を持っておらん者がある。これらは皆竹の釜で一度煮てしまうと、その焼けた竹筒を一度ごとに棄てて、喫《た》べるごとに新しい物を用いる。ソレから彼らは竹で弓を拵えて、竹の矢に草の毒をつけて、ソレで動物を射ることをやるです。それはナカナカ巧みなものです。
≪ラプチェ種族の研究≫ この種族には稀に一夫多妻の者がありますけれども、多くは一夫一妻で、チベットのように多夫一妻は許さぬ。その性質は非常に怯懦《きょうだ》であって、亡国人のごとく全く精気がない。けれどもそれかといって、この種族が漸次全滅に帰する傾向があるかというに、ソウいう傾向も現していない。その子孫の生産力はチベット人に劣らんほどです。ソレはナゼかというと、一夫一妻もあずかって力あるだろうと思う。
この種族はその古代神話の伝説のとおりに、果してヒマラヤ山中から生れた土着のものであるか、或いはソウでないかということは、今|明瞭《めいりょう》にいうことはできんけれども、その言葉の上から考えますと、チベット語でもなくまたインド語でもない。これは全く土着のもので、ここにできたものであるという解釈を下せばマー適当のようにみえる。その容貌《ようぼう》は余ほど綺麗《きれい》です。色は白くてソウして品格も卑しくはない。ヒマラヤ山民中で一番綺麗なのはこの種族であろうと思う。ほかのネパールとか或いはブータンとかの種族は、これほどに清潔でない。ソウしてその顔容《かおかたち》および色の白さ加減は、マタ日本人の肺病患者によう似ている。女も男もソウいうのが多い。中には少しは活発な者もありますけれども、大体において勇気というようなものは少しもない。けれども、彼らは憎むべき性質をもっていない。盗みということも盛んにやるが、それかといって人を殺すような残酷なことをする野蛮人でもない。ごく温順な野蛮人である。
デ今日ダージリンに出て来ている者は、二種ある種族の内のよい方の部である。悪い方の部の者は、折々出て来てもナカナカ怖がって、余ほど注意して、どうかするとそうそう自分の山家《やまが》へ逃げて帰るというような者が多い。ヒマラヤ山民中で比較的一番綺麗ですから、その婦人などはダージリンで兵士のために、いわゆる辻姫となっておる者が沢山ある。これはほとんどこの種族に限るほど、ダージリンには沢山おるです。
このほかシッキムにはチベットからと、ブータンから移住して来た種族も沢山あって、それらは純粋のチベット語ではないけれども、まずチベットの訛《なま》り言葉を使っている。これでチベット人ということは分るし、またラプチェそのものとは、余ほど体格といい、容貌といい、容子といい、習慣風俗の点にいたっても違っている。このラプチェ種族は、やはりチベット仏教を信ずるけれども、それはごく単純な程度において信じておるのです。ソコでこの住民について充分研究すれば、或いは人類学上、面白いことを発見するかも知れんと思われることが沢山ある。もしもこれが土着のものであったならば、この種族からどういうふうに、ほかに別れて行ったかという研究の材料を得るかも知れない。それからこの者の土語は、その語源において確かにチベット語とインド語とも違っている様子ですから、その言葉がどういうふうに他に関係をおよぼしているか、或いはやはりサンスクリットの言葉に関係あるものかどうか、充分研究したならば、この種族の根本が解る便宜を得るかも知れん。或いはまたこの種族は、他の国から非常の古代にここに移住して来て、ソコでこういうふうになったものであるかも知れぬ。とにかくこの種族については、一の研究をする必要が学術上あるのでございます。
デ私は今のチスター橋を渡ってから、また大変よい道をズンズンと登って行き、今度は登るばかりで、ジョルバ・ガローまでおよそ十七マイルあるのですが、その日直ちにジョルバ・ガローまで着きたいと思うたが、降雨と荷馬の弱いためソウは進めない。私は馬に乗っておりますけれども、二疋の荷馬はナカナカ進めない。七マイルほど来まして或る小村に泊り、その翌日早くジョルバ・ガローへ着き、
≪サラット氏の別荘に着す≫ それから三マイル余りで、ダージリンのラハサビラに着きました。ここは私がチベット語を初めて学んだ、サラット・チャンドラ・ダース氏の別荘のある所で、そこへ着いて門口へ進みますと、家にはサラット・チャンドラ・ダース氏と、その夫人と子供達がおられた。私が声をかけるとその子供が出て来た。私はよく覚えているけれども、その子供は忘れてしまったとみえて、「どなたですか」と聞く。その内に夫人がまた出て来られて、「何の用事でお越しになったか」というわけ。私は笑いながらお忘れになりましたかというたが、まだ分らない。スルとサラット先生が出て来て、「オヤこれは」と驚いて、マアどうして帰ることができたか、嬉《うれ》しいといって大層な喜び。早速荷物をおろせといって、下僕に取り片づけを命じた。ソコで馬三疋と馬士《うまかた》には、賃銭を遣わして帰してしまいました。
サラット先生の喜びは非常なものです。ちょうど本年の春であったかラサ府よりの手紙、昨年もラサ府からお手紙を戴いたが、アノ手紙で無事にラサ府に入っていることは承知しておった。また他の者の噂《うわさ》によっても、大分お医者さんが流行《はや》り、法王の侍従医になっておるということを聞いたから、安心しておったけれども、ソウなってみればコチラへ出て来る場合に、どうして出て来るかということが心配であった。入ることも困難であるが、出て来るのは一層困難であろうと、非常に心配しておった。けれどもマアここまで来れば安心、モウチベットに留っている必要もあるまい。実はアノ時、返事をツァールンバに託して出そうと思うておると、彼は私の宅へ寄らずに逃げてしまった。ソレでよう返事を出さなかった。
アナタがこちらに送って来た手紙を読んでみると、モウチベット語をやる必要もない。またチベット仏教を覚える必要もない。それだから早くお帰りなさいといって出そうと思ったが、マアよく帰って来られた。とにかく、南條文雄博士〔一八四九〜一九二七。真宗大谷派の学僧。オックスフォード大学に留学し、マックス・ミュラーに師事、梵語学を修める。「大明三蔵聖教目録」その他、無量寿経、阿弥陀経、金剛経、法華経などの梵文校訂出版などの著作がある〕が大変に心配して、私の方へ手紙を寄こす度に、アナタのことについて何か聞いたことがないかというて、尋ねて来られた。まず博士の方へアナタが無事に着かれたということを、私が早速手紙を書いて出すからというて、直《じき》にその手紙を出してくれた。
≪大熱病に罹《かか》る≫ ソウいうことでその夜はすますというと、その翌日、朝方から大熱病です。その熱が発したことは非常であって、しばらくして熱が覚めたと思うと今度は痺《しび》れ出して、足の先から手の先までだんだん感覚を失い、その麻痺がだんだん心臓の方まで、侵入して来ることを自覚したです。デ手を動かすことも、足を動かすこともできんようになった。リウマチスではない。何か熱が変化して、進撃を始めているように感じたです。この様子では心臓まで麻痺してしまったら、いわゆる脚気衝心《かっけしょうしん》というような工合で、死ぬのか知らんと思いました。博士も大分心配せられて、傍らを去らずにつききり。
その内にドクトルが出て来られて、確《しか》とは分らんけれどもこれはチスター熱に違いない。チスターのマラリヤ熱に相違ない。あそこの熱を受けては困ったものだというておられたそうです。私はコリャもう死ぬのだな。ここまで来て死ねば、死んだことがよく分るから、マア好い都合である。しかし、ここまで持って来た書物を日本の大学に贈るか、或いはその故郷の人が見られ得る図書館に贈るとか、遺言しておかなければならんという考えを起して、夢中になっておりましたが、それだけは確かに考えをもっておった。その遺言を書き取ってくれといって、私は英語でポチポチ喋《しゃべ》りかけたが、ナカナカ苦しくっていい得なかった。
博士はそれはいう必要はない。アナタのいう意味は判っているから、いわん方がかえって身体のためによかろう。また医者も余り精神を使ってはよくないというから、なるべく精神を鎮めるがよかろうという話。その夜は別に苦しみということはないけれども、やはり足も手も麻痺してしまって、感覚のないことは以前《もと》のとおりであります。その夜自分は観念に入って、病いの基礎《もとい》となるべく遠ざかるようなふうに、心を用いておりました。ちょうどその状態を他からいえば、ほとんど正気の沙汰でないようなふうに、見えておったろうと思われる。
≪病気ようやく平癒《へいゆ》≫ デ三日ばかりは非常に苦しみましたが、ドクトルが余ほど骨を折ってくれたものか、三日ばかり経つと、大分手足に感覚のあることを覚えて来た。だんだん良くなって来まして、八日の日には少し手を動かすことができるようになった。
ソレから、何にしても電報で故郷へ知らしてやりたいと思いましたけれども、電報を三文字かけるに、ダージリンから日本まで三十七ルピーかかるという。ソンなに沢山な金はもはや持っておらん。いろいろ払いをすましてしまった後で、わずか二ルピーしか残っておらん。博士に借りるといったところが、どうもソウ自由に行かないような点もありまして、とうとう電報を出すことができなかった。どうかマア筆の廻る範囲において、ここまで帰ったということを知らしてやりたいというので、郷里の肥下徳十郎《ひげとくじゅうろう》氏に宛てて手紙を出しました。ソレはドンなことを書いて出したか、今判らんです。唯《ただ》、着いたということを知らしてやったように覚えております。
ソレからだんだんよくなりましたが、一か月ほどは本当に何もすることができなかった。その熱病のために非常に痩《や》せたです。チベットにおった時分は、余ほど肥えて体格も丈夫であった。チベット人も、始めラサ府に着いた時と十か月後とは、全く見違えるようになったといっていたが、私自身でもソウ感じておった。ところがまた以前《もと》のように痩せてしまいました。幸いに仏陀の加護で命だけは助かって、一か月余経ってから、大分に書面を認《したた》め書物を見ることができるようになった。
第百十五回 疑獄事件
≪ヒマラヤ山中のマラリヤ熱≫ ここに私が、ダージリンにしばらく止《とど》まらにゃアならんようになったのは、ほかではない。これから直ぐにインドの方に降りますと、インドの平原地は非常な熱気である。私は病気あげくで、その熱気にたえることはできない。殊にチベットの寒い国に長く住んでおったものですから、急にインドへ出てしまうと、せっかく治った病気が再発するという懸念もあり、医者の勧告もあり、かたがた三か月はダージリンに止まるがよいということで、そこに止まることにした。
ようやく十月頃になると、ラサ府から商人が出て来ました。ソレまではほとんどこのパーリーとダージリン間の交通は、途絶されているといってもよいくらい。私の通って来た時分は、モウごくしまいの荷物をカレポンまで送り出すという場合で、その後は誰も通らぬことになっている。けれども、トモリンチェンガン辺の人間は気候に慣れているから、熱病を煩うことは少ない。
チベット人は私の出て来た時分に来れば、必ず熱病に罹《かか》るにきまっているですから、その時分は誰も往来しない。私はそのことをよく知っておった。もとよりヒマラヤ山中は夏季に旅行することはできぬ。北部の雪のある辺ばかりなれば、ソレは大丈夫であるけれども、南部の谷間の方にはいつもマラリヤ熱があるです。仮《よ》しマラリヤ熱におかされぬにしても、熱気が厳しいから、ドノ道ほかの熱病を惹《ひ》き起す憂いがあります。ソレを知りつつ出て来たのは、ラサ府に起ったやむを得ぬ事情のために出て来たので、私がダージリンで病気に罹ったのもソウいう危険をおかしたからです。
チベットからは一〇月頃にようやく第一着の商隊が、ダージリンに着きました。その商隊の人の話を聞きますと、セライアムチーが日本人であるということが分って、このラサ府から逃げ出し、しかして一か月も経たぬ中に、ラサ府に
≪一大疑獄事件≫ が起った。その事件はセライアムチーの住んでおった家の、前大蔵大臣および大臣の官邸にある老尼僧、ソレからその下僕の、大臣に最も親しくしておった者一人が捉《つかま》って下獄された。新大蔵大臣は余り関係がないというので、そのままになっている。それからセラ大学は閉門、ツァールンバ夫婦とタクボ・ツンバイ・チョエン・ヂョエも獄に下され、日々の責苦は非常なもので、誠に気の毒なことであるという風説。なおセライアムチーの親しく出入りした家も穿鑿《せんさく》中で、いつ呼び出されるか知れぬ。それがためにラサ府の人々で、セライアムチーに一寸でも関係のあった人は、皆恐れを懐いて隠すことに非常に尽力をし、また賄賂《わいろ》が盛んに行われているという話です。
けれども、私は考えた。いつもチベット人は嘘《うそ》を製造して、ダージリンに持って来て、人の心を驚かすようなことが度々あるのですから、セライアムチーがダージリンに帰ったということを聞いて、その説に想像説を加えて作った話ではあるまいかと、信用しなかった。デ出て来るなりそんな馬鹿なことがあるものかとはいったけれども、少しは疑念もあったです。そのことは直ぐにダージリンの地方長官の耳にも入りましたので、地方長官が私を呼び出して、「セラの寺には僧侶がドレだけいるか。またドウいう制度か。ソレからソウいう大事件の起った時分には、大学に対し閉門を申しつけるというような法律があるかドウか。そしてこの風説をあなたは事実と思うか」という尋ねであった。「私は事実とは思わぬ。だがしかし、事実でないという断言もようしないけれども、多分チベット人が拵《こしら》えた嘘ではあるまいかと思う」と答えました。というのはシナ人もです、ロシア人が来ておらないのに、ロシア人が来ているというような嘘をつく。ロシアの支配下のモンゴリヤ人が来ているので、本当のロシア人はどこにも見出せないのに、ソレをラサの市街を闊歩《かっぽ》しているかのように、ダージリンへ来て吹聴している。ソレが一々地方長官の耳に入るです。
≪英領インド政府の注意≫ 地方長官はチベットの内情を知ることに非常に熱心であって、どんな嘘でもチベットから出て来た人の話を皆書きつけておくです。現にジョルバ・ガローにおいては、チベット人にいろいろのことを尋ねる官吏を置いてある。その官吏は、まずどんなチベット人が出て来てもその者に対し、「お前はどこから来たか、ドウいう用事で来たか」と一々尋ねて、何か面白い話があると長官の処に連れて行って、長官の前で説明させるです。その長官も、充分にチベット俗語を使用するということはとてもできませんが、子供がチベット語を使うくらいにはできるです。けれども、それだけでは間に合わぬから、チベット人が出て来ますと、チベット人の訳官が英語に訳して伝えるです。この地方長官は、チベットの俗語と文章上の解釈が少しできると、試験を受けることができる。その試験に及第すれば、一千ルピーの賞典を英領インド政府からもらえるです。ですからダージリンの地方長官となった人は、大抵チベット語を研究しない者はない。またカレンポンの長官でも同じことです。これらは英領インド政府が、チベットに対し、いかに注意を怠らぬかを推知するにたるです。殊にワザワザ高い月給を払って、その番人を置くというにいたっては、その注意の綿密なるに驚かざるを得ない。
チベット人はもとよりソウいう内情を知るはずはないけれども、チベット人の嘘をつくことは甚だしいですから、そのままに聞き流して二週間ばかり経ちますと、またチベット人が出て来ました。それもやはり同様な話を伝えるです。その後ラサで私が知り合いになった商人が来たというから、私はその宿へ逢いに行きまして、「こういう話があるが一体ドウか」というと、
「それほど酷《ひど》くもなっておらんけれども、実際、事は起っている。前大蔵大臣は一旦呼び出されたが、牢屋には入れられず、お下げになった様子である。けれども、後にはきっと捕縛《ほばく》されるに違いないという評判。世間では、モウ前大蔵大臣は牢に入ったかのごとく評判しているけれども、私の出て来る時分は屋敷におられたようである。しかし私が出て来てから後に、或いは牢に入れられたかも知れない。確かに入れられているのは、セラの教師と保証人、ソレからツァールンバ夫婦とタクボ・ツンバイ・チョエン・ヂョエで、日々の責苦の酷いことは私が説明するまでもなく、あの柳の生棒で一日おきに三百ずつ笞《う》たれている。我々も差入れ物に行きたいけれども、世間をはばかって行かなかった」という話。
ソコで私は、「日本人ということが分っておれば、ソンなことをしないでもよさそうなものじゃないか」というと、「なるほどチベット政府でも、日本という国は、シナを征服するくらいの立派な国であるということも知り、また仏法国で我々と同じ教えが行われているというて、同情を表する点もあるけれども、政府ではあなたを
≪英国の秘密探偵≫ と思っている」という。「しかし私のことを英国人だというた者があるのか」「そりゃアあのニャートンの守関長のチーキャブが、ラサ府に報告したことがある。ソレはこういう話だ。これまで日本人だといってラサ府に入っておったラーマがあるが、ソレは日本人ではないのである。英国の或る高等官と兄弟であって、その高等官の望みを達するために、自分は日本人という仏教国民の名をもってラサ府に入ったものである。デそのラサ府におる間も、ダージリンの方へは度々手紙の往復をした。その手紙の取次ぎをした人間は誰かというと、ツァールンバなり、或いはタクボなりという説がある。またそのほかの商人にも、その日本人なりといっている英国の国事探偵は、沢山金をやってダージリンへ書面を送り、またこちらからも書面を持って来てもらったという。ところがそのことを誰か密告するものがあって、分るような都合になったので、ラサ府を逃げ出したのであるという。ところが彼は不思議な術を知っている者で、決して一通りの人間でない。欧州人の中には稀《まれ》にはソウいう者がある。彼はもちろん私の関所へは来なかったが、しかし間道というたところが、厳重に塞《ふさ》いであるから通れるはずはない。だから或いは山の際まで来て、ソレから空を飛んで出て行ったかも知れない。すでにラサを逃げ出し、ニャートンにかからずしてダージリンに行っているところをみると、確かにソレに相違ないといって、法王に対して上書したという。ソレから皆が一層非常な呵責《かしゃく》を受けるようになったですが、一体あなたはニャートンからこちらへお越しになったか、或いは空を飛んでお越しになったか」という話なのです。
第百十六回 救解の方策
≪空を飛んで来たか≫ という奇問。「私は鳥じゃアあるまいし、ソンなことはできやしない」というと、「しかし、あなたにはソレができるという評判になっているのです。様子を聞いてみると、セラでも不思議なことが沢山あったという。死んだ人さえ助けたというじゃないか。空を飛ぶくらいは何でもないことだ。チベットでは、皆チーキャブが法王に上書したことを本当にしている」というような話。「ソレじゃア私が空を飛んで来たかドウか、よく分ることがあるから、一遍私のいる処へ来てみるがよい」「ソレは何ですか」「あのチーキャブの命令でもらって来たところの、帰国通行券があるのだ。かの通行券を私と下僕と二人分だけもらって来てあるから、ソレを見れば分る」「ソンなことがありますか。ソリャ嘘でしょう」「そんな嘘をついてもしかたがない。冗談はよして来てみるがよい」というような話。
すでにその時分には、ダージリンでも、「あの人はあんなことをいっておるけれども、ナアに本当の道を通って来たんじゃない。ドウしてあれだけの荷物を持ち出せるものか。我々が少しの荷物を持ち出すさえ非常な難儀をしたくらい。しかるにアレだけの荷物をやすやすと持ち出し、自分の身体もやすやすと出て来るというのは、魔術を使って出て来たに違いない」という評判が立っておったそうです。チベット人がソンなことをいっているというのは、チーキャブが己れの罪を免れるために、馬鹿なことを上書したからです。その後その男が来ましたから、ラサ府に帰る通行券を示したところが、それは真実と信じましたけれども、また一の疑いを起し、多分チーキャブの眼を眩《くら》まして取って来たろうと考えていたらしい。ソウいうことを聞いてみますと、私がジッとしているわけにはいかない。ドウか
≪嫌疑者を救う方法≫ をめぐらさなければならぬ。まず前大蔵大臣は、或いは獄屋《ひとや》に入れられたようでもあり、またそうでもないようで分らない。ドウせ、そういう疑いの端緒を見出された上は、これまで私と関係のあったことを発見されて、或いは奇禍をかわれるようなことがあるかも知れない。ソレはあるべきはずで、前大蔵大臣はナカナカ切って廻すという質《たち》で、随分敵も持っている方ですから、その敵の奴が、或いは仇をくわえることに奔走するに違いない。だから実に危ない。殊に自分のために一方《ひとかた》ならぬ骨を折ってくれた、ツァールンバおよびセラ大学における教師保証人らが、縲絏《るいせつ》の苦を受けているということを聞いては、私は枕を高うして寝ることができないほど、苦しんだです。というても、神でもなければ仏でもないから、空を飛んで行って助けに行くわけには行かず、ドウしたらよいかと思案にくれて、日夜そのことばかり考えにゃアならぬことになってしまった。
その結果として、北京へ行って清国政府に願うて、チベット政府の方へ命令を下すように手続きを取るのが利益か、ネパールの方へ行って頼むのが利益かということについて、余ほど考えたです。ところで清国の方へ行って頼んだところが、仮《よ》し清国の方で私の願いをいれ、また日本の外務省においてもよくその情状を察し、それだけの取りはからいを清国に通じ、清国政府においてよくやってくれると仮定したところで――ソウいうことにするのも、我々一介の僧侶としてはむつかしいことでありますけれども――チベットの実情を考えてみると、ドウしてもいけない。ナゼならばチベットでは、すでに清国そのものを信じておらぬからです。
清国皇帝は英国の貴婦人を皇妃にもろうて以来《このかた》、英国と非常に親密になっているために清国が紊《みだ》れるのであるという風説が、チベットに流布しているのみならず、政府の内にもソウいう馬鹿なことを信じている者もある。全く清国政府に対して信用を措《お》いておらぬのみならず、清国はすでに無勢力になったから、かの国のいうことを肯《き》かないでも、自分の方には少しも痛痒《つうよう》を感じないという考えもあり、殊に外国との関係について、清国から申しこみがあった時分には、チベットはその善悪にかかわらず、ほとんど反対に出るくらいの意向を持っておるです。というのは、清国の執っている方針は、とにかく外国と親密にするという意向が表面《うわべ》に顕われているですが、ソレがチベット政府の大いに嫌うところであるからです。それ故に、今私が清国の手を経て頼むということは非常に不利益で、チベットの人間を助くる場合にはいたらない。かえって害を増すくらいのものであると考えたです。
≪ネパール国王に頼むに決す≫ ネパールの方であると、チベット人はネパールに対して、この頃は大分に恐れをいだいている。というのは、ネパール国民は非常に勇気があって強いのみならず、その兵隊のごときも、総て英国主義の調練をもって養われ、イザ合戦という場合には、非常に強かろうと想像して、なるべくネパール国の歓心を買うようにしている場合であるからです。この際ネパールに行って頼むということは、非常に利益である。殊にネパール政府は日本に対し余ほど好意を表し、留学生を送っておるというくらいであるから、この際ネパール政府に頼むのは、最も好都合である。まずネパールに行って頼むことにせなければならぬ。
それについては金が必要であるけれども、自分の手には金が一文もなくなって、その時にはすでに借金が沢山できておったです。ところが幸いにして、郷里の肥下、伊藤、渡辺等の諸氏が非常に尽力されて、五、六名でもって三百円の金を送ってくれたです。その金を持ってまずネパールへ行って、救済の方法を立てなくちゃアならぬと決心した。
ところが、ダージリンでしかけてある仕事がまだ片づかない。その仕事というのは、ダース博士から頼まれたチベット語の文典の編纂《へんさん》です。一旦断ったけれども、ダース先生はすでに英語とチベット語の大字典を拵《こしら》え、ソレについて完全なるチベット語の文典が必要であるけれども、この際拵える人は、あなたよりほかに適当の人を見出さないから、拵えてくれという強《し》いての依頼であった。ソレで二十頁ばかり書きましたが、ナカナカ文典というのは、新聞雑誌の文章を書くように、直ちに拵えてしまうというわけにいかない。参考書も見なければならず、他の説明も取り調べて、完全なる文典を拵えなければならぬと思って、三か月余りかかりましたけれども、ナカナカ捗《はか》取らない。まずこれは三か年、或いは五か年ぐらいかからなければ、完全なものができぬということを感じたです。
のみならず目下に迫るラサの疑獄事件について、およぶだけの力を尽さなければならず、また郷里の方にも帰らなければならぬから、文典の方は後のこととして、その次第をダース先生に語り、一一月下旬カルカッタの方へ出てまいりました。
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第百十七回 大谷、井上、藤井三師の切諫《せっかん》
≪同窓の友を訪《とう》て旧師に会す≫ 私はカルカッタのマハー・ボーデ・ソサイティーに着き、ここに二、三日おりましたが、日本人もおりませず話をする人もなし、わずかにビルマの坊さんとかセイロンの坊さんばかりで余り感服しない。
私の同窓の友で大宮|孝潤《こうじゅん》という方が、サンスクリット語研究のため、長くこの地に留学しておりますから、そこへ尋ねて行きました。私は例のチベット服しかないから、その服を着てずっと大宮さんの処に行ったです。大宮君は、或る商家の小綺麗な二階を借りておられる。誠に綺麗好きな人で、入るからが気持の好い室である。私は階下《した》の接客室へずっと入って行きましたが、日本語を長く使わなかったものですから、一寸うまく出ない。余ほど注意していても、ドウかするとチベット語が出てしまう。日本語より英語の方が幼稚ではあるが、使う場合が多かったものですから一寸出やすい。
何しろそんなふうで、言葉をかけることが不精《ぶしょう》になっておったものですから、突っ立ったきり大宮君を眺めておりますと、大宮君もまた私の方をジーッと眺めて、トム・カハー・アドミヤハー(お前はどこの人か)という。私はおかしくってたまらぬから、君は大宮君ですかといったです。スルと、「あなたは日本人ですか」といって、私に椅子を与えておかけ下さいといって、先生も腰をかけてジーッと私の顔を眺めている。私も変な顔をして眺めておった。ドウも大宮君に違いないがと思っていると、先生は、「あなたはどなたですか」「私は河口です」「イヤこりゃドウも失敬であった」。滑稽《こっけい》でもあり、実にドウもおかしかった。シナ人かチベット人のように、以前とはまるっきり変っているといって大いに驚いたです。それほど私は変っていたものとみえる。
大宮さんは天台宗の方でナカナカ洒落《しゃらく》な人です。一二月一四日の日暮れに、私は一寸外に出ておりますと、井上円了博士〔一八五八〜一九一九、明治時代の仏教哲学者。哲学館(現・東洋大学)を創立するなど教育面でも活躍した〕が、大宮さんの処に着かれたです。ところが私がそこに居《い》合わしたものですから、殊に先生には教えを哲学館で受け、師弟の関係もあるものですから、非常に喜んでくれたです。まず私は先生を導いてダージリンへまいり、その翌朝三時頃、先生を起して虎ケ岡へ案内いたし、世界第一の高山を御覧に入れた。その時分は、一番ヒマラヤ山を見るの好時機ではあるけれども、ソレでも大抵九時か十時頃からは、雲が出て見えなくなるのが例ですから、先生を早く起して案内したので、井上先生をして「只看唯我独尊山《ただゆいがどくそんさんをみる》」というて、エヴェレストに三嘆せしめたです。二三日に先生と共にまたカルカッタに帰り、その日の夜、直ちに先生と共に立ってブッダガヤに参詣することになりました。
≪バンキーブールの奇遇≫ 私はブッダガヤに参詣するばかりが目的ではなかった。一はデルヒ〔デリー〕市へまいりまして、この頃インド皇帝戴冠式に臨まれている日本の奥中将〔奥|保鞏《やすたか》(一八四六〜一九三〇)。明治・大正期の軍人。元帥。日露戦争時の第一軍司令官〕に依頼をして、ソウしてネパール国王に紹介してもらって、ネパール国王から、私がチベット法王に奉る上書を差し上ぐるような手続きにしてもらいたいという考えがあった。けれども、私は奥中将には一面の識もないから、大宮孝潤君の紹介で、ボンベイの三井物産会社の支配人の間島与喜《まじまともよし》氏の紹介状をもらい、その紹介状を持って奥中将の処へ行くことになったです。その目的のためにまずブッダガヤに行き、ソレからベナレスの仏跡を参拝し、ベナレスで井上先生と別れて私はデルヒに行き、先生はボンベイの方へ行くことになったです。
その夜汽車に乗り、翌日昼過ぎにバンキーブールという停車場に着きました。その停車場で汽車を乗り換えてガヤという処まで行くのですが、五時間ばかり経たないと発車しないという。井上先生は電報を打ちに行き、私は休憩室に荷物の番をしておりますと、そこに英語の分ったインド人が一人おりまして、「あなたはチベット人であるか」といって尋ねたです。「イヤそうではない」「ソレではネパール人か」「ソウでもない」「ソレじゃアあなたはチベットから来たのではないか」「私はチベットから来たのです」「ヘエ、チベットから来ながら、チベット人ではないか」「チベットから来たからといって、チベット人に限ったことはありはしない」といっておりますと、便所の方から慌《あわただ》しく飛び出して来た人がある。
その人がずっと私の側へ来て、「ヤアヤア話の様子を聞いておったが、果してソウであったか」と大いに悦んで、私の手を握られたのが、この間フランスのマルセーユで逝《なく》なられた文学士|藤井宣正師《ふじいせんせいし》〔一八五九〜一九〇二、真宗本願寺派の学僧。当時、大谷光瑞《おおたにこうずい》のインド仏跡踏査にしたがってインドにあった〕である。「ドウも奇態な処で出遇った。よう死なずに帰って来てくれた。ソレにしても、一体こんな所で何故待っているのか」「実はこれからブッダガヤの方へ出かけるつもりです」「君一人か」「イヤ井上円了さんも来ている」「ソリャ奇遇だ。君が出際《でしな》に死なずに帰ってくれろといって僕は頼んだが、よう死なずに帰って来た。実にうまくいった」といって非常な喜び。
とかくする中《うち》に、井上円了先生は用をすまして帰って来られた。互いに奇遇の喜びを談じ、「ソレではこれからドウしようか」というわけ。ところでガヤの方に行ったところがホテルはなし、ダルバ・ガローにはあるそうだが、「そこには沢山な人が泊っているから駄目だろう」と井上先生がいうと、藤井さんのいうには、「なアに大谷光瑞〔一八七六〜一九四八、真宗本願寺派の第二二世法主。明治三二年、インドの仏跡踏査およびヨーロッパ遊学を行った。中央アジアの探検事業で高名〕さんがガヤのダルバ・ガローにいるから、とにかく今から電報を打っておいて、夜通しでもかまわぬから行こうではないか」「ソレは実に好い都合である」というので、早速ガヤの方に発電しておいて、ソレから乗車して、我々三人はガヤの方に出発いたしました。デ、ガヤへ着きますと、大谷さんの向けられた二人の迎いの方が来ておられて、馬車で我々をガヤの市街にあるダルバ・ガローへ導いてくれたです。
≪三師の苦諫≫ 夜の十一時前でございましたが、大谷上人を始め、他の随行の方々と我々と共に団坐してお話することができました。いろいろの話の末、「これからあなたはどこへ行くか」という大谷上人のお尋ねであった。スルと井上先生が、「ドウも困ったものだ。これからネパールの方へ出かけるという。甚だよくないことだ」といいますと、藤井さんは躍起となって、「これからネパールに行くとはもってのほかのことだ。ソレは自分の身を考えないというものだ。ドウいう事情があるか知らないが、ソレはよすがよい」といって止められますと、井上さんは私に代って答えかつ理屈を述べられた。
「ネパールに行かねばならぬという用向きが二つある。一はこれまで買ってある書物は皆ネパールに預けてあるから、その書を取り出しに行くこと、最も重要なる用事はラサに起ってある疑獄事件を救うためであるという。そのことは河口師自ら聞かれたのみならず、私もダージリンにおいてその噂《うわさ》を聞いて、実に気の毒だとは思っている。けれども、これを救いにネパールに行ったところで、果して救われるときまったものでもない。仮《よ》し救われるにしたところが、ソウいうことをやっているより早く日本に帰って、世界にかの闇黒《あんこく》なるチベットの事情を紹介してもらいたい。ソレを私は最も大切なことと思うが、あなたがたはドウ思召《おぼしめ》すか」といって、大谷上人を始め藤井師に尋ねられた。
ところが藤井師は、「もちろんあなたの説に賛成である。ドウしても君は出かけるのか」「もちろん私は行きます」「コリャ驚いた。なぜ井上先生はお止めにならなかったのです」ところが井上さんは、「止めたところでナカナカ肯かない」「肯かないからって打ち棄てておいてはいかぬ。君が行くという理屈は一寸立っているが、大体考えてみるがよい。これまでの河口慧海とは違うぞ。もはや世界の河口ということを知っておるか。君は書生時代の河口のように思っているから、またネパールに行くなどという。途中でマラリヤ熱に罹《かか》るか、猛獣、強盗に出遇って殺されたらドウするか。そんな小事件のために、自分の身を忘れてそんな馬鹿なことをするより、早く日本に帰る手続きをするがよい」と、実に強硬なるいい方であったです。
時に井上先生は、「新門様のお考えはドウでございますか」。上人のいわれますには、「河口さんのいうところも道理なところもあるけれども、マア今日の場合は身を大切にして、早く日本に帰られるのが相当のことと思う。私も両君の説に賛成です。ソレを片意地を張って行くということはよくない。もっともソレだけの精神がなくては、これだけのチベット探検を完成して帰るということはできないことだけれども、よく今日の身分を考えて両君の説に従い、お帰りなすってはドウか」という懇《ねんごろ》なお話でありました。
ソコで私は、「皆さんのおっしゃるところは道理ですけれども、ソレじゃアどうも、日本人の義気というものは全く失くなってしまう。殊に私は仏教を修めているもので、何の因縁がなくても、人の困難を救わにゃアならぬほどの職分を持っている。まして因縁あるのみならず、私はその人達より一方ならぬ深い恩を受け、私がここまで出て来ることのできないのを、出て来られるようにほとんどし向けてくれたといってもよい恩人が、今日禍いにかかっているのを知りながら、自分は大切な身分であるからといって打ち棄てて、日本に帰るということは、ドウしてもできない。私は今こういう処に暖かに寝起きしているが、さて私の恩人である人、友人である方は、今ラサ府でドウいう苦しみを受けているであろうか。昼は残忍なる責苦に遇い、夜は殊に寒いチベットの獄屋、日当りのない石牢の中に入れられて、食物はわずかに日に一度の麦焦し。ドウして過ごしているか知らんと思うと、私は寝ておる中にも涙が出て、腸《はらわた》を断ち截《さ》かるるの思いがある。ソウいう事情に迫っているのを知りながら、打ち棄てて帰ることはできません」と断然答えました。
その翌日七時過ぎに起きて、いよいよ皆でブッダガヤに参詣に出かけるということで、朝御飯を喫べることになった。私はその時、朝御飯も昼御飯も一つことで、共に膳につきますと、またまた非常な忠告を受けましたけれども、私は一旦決心したことでもあり、もはや馬車も来ておりますので、一緒にブッダガヤに出かけて参詣をすまし、その日一日名跡廻りに費やし、その夜井上博士と私は大谷さんの一行に別れて、ベナレスの方へ出かけた。ベナレスに、ロシアの博士でマッチンセンという人がある。この人は、私がダージリンでいろいろ仏教上のことについて話などをした方で、少しはチベット語も知っております。大分親しくなっておったものですから、その人の処へ行って泊った。マッチンセン博士は、ここでサンスクリット語を研究しているので、世間の噂によると、この博士は、
≪ロシアの国事探偵≫ であるということを、ダージリンで聞きましたけれども、とにかく個人として、仏教を非常に研究するということは感心でありますから、仏教上のことについては充分に説明し、博士も大いに喜んで私共を厚遇してくれたです。翌日は井上博士と共にサラナという、いわゆる仏が始めて法をお説きになったベナレスの鹿野苑《ろくやおん》に参詣し、帰途にオルコット氏と、イギリスの女流社会における第一の演説家ベザント嬢の演説を聞きに出かけて行った。デ私は井上先生と共にベザント嬢に遇って、いろいろ話をしたです。井上先生はその晩直ぐにボンベイに行かれた。
第百十八回 日本軍営の応対
≪奥中将を訪《と》う≫ 私はその翌日汽車便の都合によって、ベナレスからデルヒの方へまいりました。デルヒ市へ着いたのが夜の二時頃であった。デルヒ市には非常に人が集まっておりまして、ナカナカ我々が一寸泊りに行く宿屋もないくらい。仮《よ》しあっても一夜の泊り賃がごく安いので六十ルピー、高いのは百五十ルピーもするという。そんな金は私共には一文もないのですから、むろん宿屋に泊ることはできない。マア夜中でも何でもかまわぬから、ドウか奥中将のおられる方に行きたいと思って馬車を雇おうとすると、馬車賃を二十ルピーくれという。余り高いから、少し値切って話をしようと思うと相手にしない。ソコで巡査に頼んだところが、「馬車は到底駄目でしょう。ほとんどないくらいの話だから」といって、荷持ちを一人世話してくれた。ところが五ルピーくれという。巡査が喧《やかま》しくいったので、三ルピーで荷物を持って行くことになった。
中将のおらるる処までは二マイルほどしかないのですが、私がチベット服を着けているものですから、荷持ちは早合点をしてジャパニーズ・ゼネラルのいる所へといいつけたにかかわらず、大変方向の違ったシッキムの王様のおる方へ連れていった。というのは、英領のシッキム人は皆チベット服を着けているからです。そこまではステーションからほとんど五マイルもあるので、夜明け七時頃に着いた。ところが豈《あ》にはからんや、シッキム王のテントが張ってある。「コリャ違う」と思ったが、私はインド語は使えないから、英語を知っておる人について、「私は日本人の処へ行くのだから、よく下僕にいってくれろ」と頼んだところが、よく話してくれたけれども、荷持ちは疲れているから、「行かれない」という。金を少しやるからと、ようやく賺《すか》して出かけたです。わずか三マイルか四マイルしかないのですが、荷持ちは非常に疲れてナカナカ動かない。私も御飯は喰わないし、茶も飲まないので非常に腹が減って困難したが、ようやく十一時頃に、中将のおられる天幕の中に着きました。
そこは軍営になっておりまして、その入口の処は英領インド政府の兵士が警護しておりまして、容易に奥中将に遇わせない。ようやく案内に従って行きますと、始めに伊藤大尉が遇われて、「河口さんというのはあなたか。ドウもお気の毒なことであった。実は間島《ましま》君からの手紙であったから、こちらから直ちに返書を出しておいたが、それがあなたの方に着く暇がなかったとみえる。ワザワザここまで出て来られて、実にお気の毒であった。この一件について、あなたが聞きに来たのかドウかは知らぬけれども、こっちではモウ決議してしまったことであるから、その理由を一通り告げなければならぬが、しかし一寸お待ち下さい」といって外に出られました。
≪由比《ゆい》少佐の挨拶≫ ほどなく由比少佐が出て来られて、やはり同じように、伊藤さんのおっしゃったことを始めにいうて、ソレから、
「ドウもこれは、私の方で取り次いで上げるということはできない。ネパール国王に紹介をして、あなたの望みを全うするということはできない。というのは、第一我々はただこのインド皇帝陛下の戴冠式を祝するために、客分で出て来ているだけであって、外交官としてここに来ているのではない。であるから、外交上のことに喙《くちばし》を入れる権利はむろんない。またソウいうことはできない地位にある。仮《よ》しその情いかにも気の毒であるから、ただ自分の義侠心でやると中将閣下がなされたところが、これが国際問題になると、実に面倒なことが起って来る。その国際問題になることを知りつつ、我々が手を下すということは、これまたできぬ第二の理由である。ソレからおよそ物事には軽重がある。今、日本と英国とはあなたも御承知でもあろうが、同盟をしているのである。すでに同盟をして、善い感情を持って交際している時に当り、このネパールの国王を通じてチベット国へかれこれするということは、甚だ英領インド政府の感情を害することである。その感情を害するに忍びない。これまたお取り次ぎできぬという第三の点である。仮しその感情を害することも厭《いと》わぬとしたところで、ソウいうことをやるだけの価値があるかドウか、英国に対する同盟を完うするということは、今日我が国においては一大問題である。チベット国の疑獄者を救うということは、我が国に取っての大問題でも何でもない。この国家の上から考えてみて、まず大事を先にして、小事を後にするということは、ドウしても我々の執らなければならぬ方針であるから、ソウいう理由をもって、取り次ぎをせぬことに確定してしまった。ソレでその旨《むね》を書きつけた書面を間島さんに送り、その書面をあなたに送るようにしたのである。
こういう理由であるからドウもやることはできぬ。なおそのほかにも、あなたが日本人でありながらチベット服を着けてここにおられると、いかにも国事探偵であるかのごとくみえる。こうしている間にも、英国政府の注意を引くことがあろうと思われる。だから余り長く話することも好まないのである。ソレにまた、あなたのいうところを入れて、これをネパール政府にかけ合うとしたところが、我々が直接にかけ合うわけにはいかない。いずれともこの英領インド政府の長官に依頼して、ソウして事を完うするような手続きにしなければならぬ。ところがこの英国の主義として、表向きそんなことをいうておらぬけれども、なるべく自分の保護国とか、或いはこのインドの近くにある国、例えばネパールは独立国であるけれども、まず英国に関係ある国である。ソレに何の関係もない日本国政府の官吏が、ソウいう話をするということは、英国政府の嫌疑を受ける嫌いがある。ドウいう方面から考えてみても、あなたの望みに応ずることはできないのである」という話ですから、
「私はソウいうつもりでお頼みにまいったのではない。一個人としてなして戴きたい。決して国家を代表してやってもらいたいわけではない」という説明にかかりますと、少佐はソレを打ち消されるような口調で、「ソリャどうも、あなたには感慨にたえぬこともあるであろう。またあなたの情としては、爾《し》かあるべきことで、随分理屈もあるであろうと思う。けれども閣下には、すでにこのことはドウ依頼されてもできないと決定されて、我々もその決議にはもはや賛成して確定したことであるから、何といわれてもできぬときまっている。余り長く止まっていると、あのとおり外にも兵士が護衛しているようなわけで、何の話をするかという疑いを、彼らに起させるようなことになるから、甚だ気の毒であるけれども、早く引き取ってもらいたい」とこういう話であって、何と
≪取りつく島もない≫ ソウいう決定になっているものを、ドレだけ頼んだところが肯いてくれようもないし、国家のことまで賭《と》してやって下さいということは、むろん私の身分としてはできることでないから、「ソレではドウもしかたがないから帰りますが、さて私は昼を過ぎると御膳を喫《た》べないのが例で、もはや今日は十一時半にもなっているようですが、昨日も昼飯を喰わず、殊に昨夜《ゆうべ》から実に長い路を遠廻りをして来ましたので、腹が減って動くことができない始末になっておりますから、ドウか何か喰わして下さいませんか」といって、私は乞食をやりました。ところが「こういう処だから、別だん何もないがお茶とパンでもあればようござりますか」といって、パン二切とお茶を一杯下すった。
ステーションへ来たのは昼の一時頃でございましたが、夜の十時過ぎにならなければ汽車が出ない。その間ステーションで、茫然《ぼんやり》と待っておらなければならぬ。腹は減るし目的は達せず、凡夫という者は、こんな詰《つま》らぬ考えをするものかと思うような愚痴も、実は心の中に浮びました。このままネパールへ行くこともできない。まずカルカッタに帰って、ネパールに行く手続きをしなくちゃアならぬから、またオメオメとカルカッタに引き返して来た。デあっちこっちと奔走しましたが、相当の金を費やせば、また道の開くもので、ようやくネパールへ入る手続きだけはできました。
第百十九回 ネパール国王に謁す
≪ネパール行の紹介状≫ ソレはこのカルカッタ市にて、ネパールのカトマンズ府の学校の長をしておった老人で、ケダルナート・チャタルジーというベンガル人がある。この人は、ネパール国王の信任を得ておる人であるということを聞いたので、そのお方に、「私は是非ネパールの霊跡を参拝したいから、ドウかかの国に入れるよう、王様から通行券を戴けるよう御紹介を願います」と頼みましたところが、快《こころよ》く承諾して国王への紹介状を認《したた》めてくれました。
もっともチベット人、ブータン人、シッキム人などは、特別に大王から通行券を受けなくても、ビールガンジにおらるる司令長官から通行券を受ければ、ソレで事がすむのですけれども、他の外国人はソウはいかない。直接大王から受けねばならぬということですから、伝手《つて》を求めてこの老人に頼んだのでございます。その紹介状を持って、一月一〇日にカルカッタを発足して、ネパールに行ったです。デ、ネパールの入口にあるラクソールの停車場に、一一日の日暮れに着きました。
午後六時、荷持ちを一人雇うて出発。やがてインドの国境を離れ、ネパールの国境にあるシマンという河を渡り、上に昇ると巡査の派出所があって、その巡査が向うへの通行を許さぬ。何故、通行を許さぬかというと、「この頃国王がデルヒから帰って来るので、非常に厳重な取り締りで、これから向うに容易に入れることはできない。よく取り調べた上に入れることにするから、しばらく待っておれ」という。土人などはソウいって咎《とが》められると、非常に辞《ことば》を低うし、内々|賄賂《わいろ》でもやるのかドウか、しまいには通って行ってしまうです。私も賄賂でもやればよいのかと思うと、外国人だからどんなことをしても通行を許すことはできぬという。しかたがないから、私はカルカッタからもらって来た国王へ宛てたる紹介状を示して、「このとおりであるから通してくれ」といいますと、今まではそこの派出所を守っている長に逢わさなかったが、ジキに長の処へ連れて行って逢わせました。
デどうしたらよかろうかと問いますと、早速その書面をビールガンジの関所に送って、何分の処置を請うがよいということであった。ソコで私の人相風俗から国籍、姓名、目的等、総てを詳しく記して、紹介状と共にビールガンジの関所の方へ送ってしまいました。そのビールガンジには司令長官がおって、国王の留守中の代理をしておるのです。早速その命令があるべきはずであるのに、待っても待っても命令は来ない。トウトウ夜の十一時頃になって余り寒くてしようがないから、茶を沸して飲みかけていると、そこへ国王づきの巡査がやって来て、これから直ちにビールガンジへ来いという。随分辛いが一緒にまいりました。で、その間に一首の狂歌が浮みました。
酒飲《さけの》まで旅のなやみに酔《え》ひにける
ビールガンジの冬の夕暮
≪国王の還御≫ その派出所とビールガンジの間は、わずかに一マイル余りしかないものですから、十一時半頃にビールガンジに着きまして、病院の向うの方にある小さな家を貸してくれたから、そこへ泊りました。その翌日、旅行免状を受けるために司令長官の邸《やしき》へ行き、朝から待っておりまして、ようやく午後五時頃に国王の代理に逢うことができました。概略のことを告げると、彼がいいますには、来たる一四日に国王がここに帰って来られるという。この国王ということについては、いうておかなければならぬことがあります。
ネパールには王が二人あって、何れも大王といっている。大王の権利ある者は総理大臣で、本当の大王は、ほとんど権利もなければ何もない。ただ大王の実権ある総理大臣から供給される年俸をもらって、その俸で生活をしているというだけで、いっさいの権利はこの総理大臣にある。ネパール国民は総理大臣の国王あるを知って、真実なる国王あることを知っておる者は、わずかに官吏くらいのもので、ほかの者はあるげなぐらいのものです。そのいわゆる総理大臣の国王が、ここに帰って来られるから、そのお方に逢って、旅行免状を受けるがよい。ソレについては私が紹介の労を執るからということで、国王代理と別れたです。
デ一四日の夕暮れ、総理大臣は大変盛んな式で帰って来られた。随分盛んな歓迎で、大砲の十二、三発も発せられ、その他いろいろの美しい花を散らして歓迎するという次第。なかんずく盛大なるは象の沢山あることで、ネパールの姫君とか或いは王子とかいうような方が、沢山象に乗って来ます。この国はもちろん一夫多妻でありますから、国王に王子、王女が沢山あります。この日はそのままに過ごし、その翌朝十時頃から行くがよい。さすれば午後五時頃に、総理大臣が内廷散歩の際、逢われるように取りはからうからということであった。
これは、ジキに御殿へ行って逢うということは、始めての者にはできぬ塩梅《あんばい》らしい。幸いに内廷で逢うことができたから、かねて用意して行った日本の美術品を土産《みやげ》に上げたです。スルと総理大臣のいうには、これは貴い物ゆえ価をいってもらいたい。その価を上げたいからということであった。私は殿下に上げたものですから、価を戴く必要はないと答えました。
≪国王殿下の御下問≫ ソレじゃアとにかくこちらへ一緒に来るがよいといって、総理大臣は私の顔を見て、ほとんど十年以前から知っておったかのように、親切に導かれて殿上に連れて上った。デ総理大臣が腰をかけられたその側に、また一人腰をかけられた人があった。これは総理大臣の下席の大臣であるかと思って見ましたが、後に聞いてみると、これは真《まこと》の国王であるという。総理大臣は、いわゆるそのお方の総理大臣ですけれども、ドウも容姿といい何といい、全く総理大臣が真の国王のようであって、真の国王その者は、かえって一の大臣たるに過ぎないような有様であった。
デ総理大臣なる国王は、私に尋ねていいますには、「あなたはチベットに行ったということを聞いているが、何の目的があってあの秘密国に入ったか」。私は、「かの国の仏教修行のためであります」と答えると、「かの国で多くの貴族高僧に交ったということを聞いているが、現今あの政府内で最も権力ある者は誰か」という。「私は僧侶のことで仏法を専修しておったから、政府のことは確かに知ることができない」といいますと、総理大臣はジキに、「あなたソレを隠すにはおよばない。我が国と、かのチベット国とは親密に交際しているから、明白にこれをいったところが何も差し支えない。私は参考のためにこれを聞いておくだけである。かつあなたが、チベットの内情に委しく通じているということは、私はモウ前から知っている。あなたがチベットから出られたことも知っておった」と、こういわれたです。
ソコで私は、「もちろん貴国とチベット国とは交際国であるということは、私も知っておりますけれども、余り確かでないことをいうて、誤りを伝えるのも本意ではありませんから辞退します」
「ソレはよろしい。とにかく私にいってみて下さい。その誤りと誤りでないとは、私の問うところでないから」といいますから、私は「ただ今チベット国の最上権者は法王で、臣下の中で最も権力ある者は、シャーターであります」。総理大臣は再び、「今チベットにいるシナ官吏の、チベット政府に対する勢力はいかに」「現今は衰えて何事もできぬという有様」「何のために勢力が衰えたか」「これ北京政府のしだいに無能力になったのと、一は現法王が鋭敏果断にして、政略に長じているとによります」「あなたはロシアのツアンニー・ケンボを知っているか」「知りませぬ。私がラサにおった時分にはおりませぬから」「ソレじゃアあなたは、彼について何か聞いたことがあるか」「ソレはあります」「彼はチベット政府の誰と最も親密であるか、彼は法王と最も親密であって、彼のいうところは皆法王に聞かるるという有様があるか。またすべての大臣高官に信用されているか」「シャーター一人は法王と共に彼を信任しているが、他の者は皆忌み嫌っております」というと、総理大臣の隣に坐っている下席大臣らしいお方は、ネパール語で「あの日本の僧のいうところと、あなたの今まで聞くところの秘密報告とは、相違があるかないか」と尋ねられますと、総理大臣の国王は、そのいうところ実に
≪符節を合わしたごとく≫ であるといって答えたです。ソウして私の方を振り向いて、「チベットがロシア政府と秘密条約を結んだならば、これを全うすることができるかドウか」「ソレは条約の文面を取り換《かわ》しておくだけならば、とにかく成就するでありましょうが、これを公然発表して実地に交際するということになると、法王が毒殺されるか人民が内乱を起すかは免れませぬ」「ソレは何故そういうふうになるか」「ソレは二、三人の希望だけで、政府および人民一般の希望でないから」というようなことで、肝要な話は終りました。
総理大臣が非常に聞きたがったのは、「あなたはどこの道から入ったか」ということであったです。答えようかと思ったが、これをいった日には、またこのネパール国民に大害をおよぼしはしないか、大いなる迷惑を与えるかも知れない。まずこれはいわずにおいて、後に充分好い機会を見ていうのがよかろうと思いましたから、「ドウもこれは大変錯雑した事実で、英語でいうのが困難でありますから、何れ殿下の臣下には、チベット語をよくする人がありましょうから、首府へお帰りになった後、その訳官について詳細に申し上げたい」というと、「ソレでよろしい」といって、ソレから日本国が旭日の昇るごとく強大になったのは、ドウいう理由であるかというお尋ね。
「ソレは人民を充分強健に教育して、天賦《てんぷ》の愛国心を発揮せしめたからであります。しかし、国を出《い》でてより長いことであるから、この頃のことは知りませぬ」といって、ソレで話は終りました。ところが今日は遅くなって旅行券を与えることができぬから、明日二時頃に来いということで、その日はお暇《いとま》いたしました。
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第百二十回 首府カトマンズに向う
≪ランボンの猟宮《かりみや》を訪う≫ その翌日行きますと、門衛の兵士がいばってナカナカ入れてくれない。無理に入ろうとすると打擲《ぶんなぐ》るという勢い。ようやく五時頃門内に入れてくれた。デ総理大臣の国王に逢いますと、「今日は非常に忙しい。明日ランボンの猟宮へ来てくれ。旅行券を与えるから」という。余儀なく自分のいる処に帰って来ると、下僕が「ドウもこりゃア怪しい。あなたはとても旅行券をもらうことができない。総理大臣は、あなたをネパールの内地へ入れることを許さない考えである。明日ランボンまで行かれはしない。きっと途中で、兵士に道を遮《さえぎ》られてしまうに違いない」という。「ソリャ困った」といって、私はまた侍従長の処へ、ワザワザ一里もある処を夜分尋ねにまいりました。スルと、「そんなことは決してない」といって、だんだん説明をしてくれましたから、それでまた帰って来たです。
翌一七日に、エッカという一人乗りの馬車を雇うて、ビンテーという山の下まで四日間ほどの道程《みちのり》を、荷持ちと共にまいりました。ランボンという猟宮は、タライ・ジャンガルというヒマラヤ山の麓《ふもと》にある大なる林の入口にあるので、別だん猟宮といっても、常にそこに建物があるわけではない。一時猟をする場合に仮に設けるのですが、今度インド皇帝陛下の戴冠式の祝いを兼ねてやりますから、非常に盛んなもので、何でもネパール国の首府にあるすべての天幕は、皆そこに張られたかと思われるほど沢山天幕がありました。
およそ五、六千の天幕はありましたろう。その中にも、国王および王妃のおらるる処はナカナカ立派なもので、ソレに相応して、大臣方のおらるる立派な天幕も沢山あります。赤、黄、白、青などいろいろ綺麗な天幕が深い林の中に見えているから、ナカナカ立派です。兵士も二千人ばかりおります。その調練を見ますに全く英国ふうであって、服も皆英制に則《のっと》り、しかして実に立派な大きな体格の人間ばかりを択んで、王の親兵にしてあります。私は中へ入って行って旅行券をもらおうと思うが、ナカナカ兵士が入れてくれない。外で四時間ばかり待っておりますと、ようやく総理殿下(国王の実権あるゆえ殿下というなり)が大象に乗って、銃猟に出かけるのに出遇いました。
ソコで私は、「ドウか早く旅行券を下さい」といったところが、「イヤドウも失敬をした。明日こそきっと与えるから」といっている中に、大象は立ち上った。「明日、何時頃」といったが、モウ大象は森林の方に向って走りこんでしまいました。しかたがないから、そこから一マイル隔てているシマラという、ネパールの方に行く公道にある小村に着いて、その夜は宿りました。
≪番兵に掴《つか》み出さる≫ デ翌朝六時に、食事を終えてジキに猟宮に出かけて行きまして、まず番兵のおらぬ処から柵内《さくない》に入りましたが、総理殿下の対面所がどこにあるか、沢山な天幕であるから、いくら捜してもちっとも分らない。余りあちこちとウロついていたものですから、将校が私を咎《とが》めて、「お前は何故あちこち見廻って歩くか」「私は総理殿下の対面所を求めております」というと、「今は対面の時でない。柵外に去れ」といって、一の兵士をして私を柵外に送らしめた。外に出てはとても逢われないと思いますから、その兵士にかまわずに、私は或る場所に止まっておったです。
スルと兵士はナカナカ肯《き》かない。「何故出ぬか」といって押し出そうとする。私は黙って知らぬふりをしておりますと、番兵らしい者が出て来て、「柵外に出ろ」といって厳命を下した。「私は総理殿下の命令で、今日逢いに来いといわれたから来たので、私は出ませぬ」といって、少しも動かずにおりますと、だんだん迫って来て、遂には私の坐っているのを、後から襟《えり》を引っ掴んでズッと上に引き上げた。スルと私はピョイと立ち上った。そのとたんに番兵は、片っ方の手で私を引き上げておいて、ドーンと一つ私の背中を打ったです。ヒョロヒョロ転げかけるところを、むずと私の襟を引っ捉まえて、まるで賽《さい》の磧《かわら》の子供が、鬼にフン捉まえられて行くような工合に、柵外へ掴み出されてしまった。ソウすると、ほかの兵士共や見物人が一同にドッと笑い出し、中には嘲《あざけ》るような人もあったです。この時ばかりは、なんぼ心ない出家の身にも不愉快を感じました。
しかし、こういう場合に不愉快を感ずるというのは、自分の忍辱心《にんにくしん》が乏しいからで、実に自分はマダ修行が届かぬと、不愉快の念を戒めながら、ジーッと草|叢《むら》の上へ坐りこみました。思えば思うほど、かかる兵士の無礼を怒るより、自分の忍辱心のたらないのを歎きました。このくらい無礼を受けてさえも、忍びがたいほど苦しい観念が起きるくらいだから、チベットの獄裡《ごくり》に虐待を受けている我が恩人はドウしているかと、思わず涙が溢《あふ》れました。その時
高原の獄屋《ひとや》の友を思ふにぞ
わが苦しみは忍ばれにける
トウトウ十一時頃まで考えておりますと、総理殿下の侍従長が出て来られた。「コリャ善い人が出て来た」と思うて、ジキにそこへ行きまして、「実はこういうわけで困っておりますが、総理殿下に逢わして下さらぬか」というと、「ソレはドウも失礼なことをした」というて、早速兵士を呼び立てて、「このお方を総理殿下の対面所まで案内しろ」といいつけたので、案内してくれたです。そこで二時間ばかり待っておりますと、午後一時に総理大臣の王様は対面所に出て来られたです。
≪総理殿下の慈悲≫ 命に従って対面所に入りますと、大王(総理なり)が尋ねていうには、「あなたが今、最も必要なものは何であるか」。私はジキに答えました。「通行券です」と。「通行券はもとよりこれを与える。私の尋ねる意味はソウいうことじゃない。あなたは充分の旅行費を持っているか」「ハイ当座用は充分です」。スルト殿下は、「ドレだけ持っておるか」「三百ルピーほど持っております」「ソレは少ない。私が二百ルピー与える。五百ルピーあれば充分に行ける」「イイエ私は私の持っているだけで沢山です。殿下の御下賜金は辞退します」というと、再三殿下はこれを受けよというて、左右に命じて金を出せといわれた。
ソコで私は答えました。「私は金をもらうためにこの国へ出て来たのじゃアございません。一の必要なことがあって来たのでございます」「その必要なことは何か」。この時に上書のことをいい出さなかったのは、一はうかといい出してネパールの少しでも私に関係ある人々に、禍いのおよばんことを恐れたからでございます。「私が第一に欲しいのは、あなたの国に存在している、サンスクリット語の一切蔵経であります。もしこういう結構な物を下さることができますれば、私の国にある日本の一切蔵経を、殿下に捧げます」と答えたです。スルと殿下は「その経典の目録を書いて出せ。私は今から二五日間経つと首府に帰るから、それまではカトマンズにいる国王代理の司令長官に、目録を出しておくがよい。司令長官にソレを買い調《ととの》えるように命じておくから」といって、ソレから左右に命じて通行券を拵《こしら》えてくれました。
私はその通行券をもらって、一の護衛巡査に送られてシマラという小村に帰って来ました。いよいよそこから北に向って進もうとすると、「もはや午後三時、これから進んで行ったところが、四里の間は森林で泊る処がない。殊に虎などがいるから明日にするがよい」といわれたけれども、私は一日も早くネパールの首府へ着きたくもあり、かねて勝手を知っているから、大抵虎などに襲われるような気づかいはあるまいという考えで、その日進んで行きました。
≪四年前の旧知を訪う≫ 二一日、ネパールのカトマンズ府に着きました。その雑踏している市中を通り過ぎて、当時総理大臣の代理をしている、コンモンダー・イン・チーフ(司令長官)の邸へ着きました。私について来た兵士は、私を司令長官の役人に引き渡したです。ところが今度はまた二人の兵士をつけてくれた。今日は非常に司令長官は忙しいから、明日逢うという。ソコで私は自分の友達であるブッダバザラ師の処に行くことになった。
門の外に出ますと、ブ師の送ってくれた馬とその令息と下僕が、迎いに来ておりました。その馬に乗って迦葉波仏陀《カッサバブッダ》の塔を指してまいりまして、その夕暮れ無事にそこに着きました。この塔の主人はブッダバザラ師で、同師は門前へ迎いに出られておった。同師に誘われて三階に登り、四年以前別後の挨拶終って、例のチベット茶のご馳走になりました。このブ師は旧教派の人であるけれども、ネパールの風俗として妻君はやはり二人ある。もっともネパールでは、三人も五人も女房を持っておる人がある。チベットとほとんど反対である。この方は子供が十三人あるです。
その夜は、私はかかる尊い霊場に泊ったのでございますから、バターの燈明を拵《こしら》えて、私が留守中に死なれた我が父、および特に私のために親切にしてくれた故人の跡を弔い、なおまた有縁無縁《うえんむえん》の一切衆生の菩提《ぼだい》成就を願うために、読経回向《どきょうえこう》をいたしました。誠にこういう尊い霊場で、故人、殊に恩人友人の後を弔うということは、深甚にありがたく感じて悦ばしいやら悲しいやらの涙の溢《あふ》れるを禁じ得なかったです。
その翌朝早く眼が覚めて、窓の辺から外を眺めると、雪山の間から登りました旭日《あさひ》の光が、大塔の金輪に映じているさまは、実に美しいです。また一首
鳥の啼《な》く吾妻《あづま》の国に生れしが
身は雪山の光をぞうたふ
≪司令長官を訪う≫ この日午後一時、ブ師と共に乗馬して、司令長官ビーム・サムセールという方の邸に行きまして、しばらく待っておりますと、司令長官はこの邸内にあるテントの事務所から館の方に帰って来られた。楼上の接客室で逢いましたが、その容貌は温厚篤実《おんこうとくじつ》で、その中に威儀凛然《いぎりんぜん》として侵すべからざる一種の徳を備え、英語もナカナカよくできる。楼上の室内を見るに甚だ宏大で、十四、五の欧州ふうの椅子があり、上坐には白布で蔽うてある長方形の厚いネパールふうの敷物があります。また欧州ふうの額面を室の四壁に懸けてある。すべての装飾が、ヨーロッパふうとネパールふうの折衷であります。コリャごく小事ですけれども、この国の国是《こくぜ》の方針がどんなものかということは、この室内の装飾でも一寸知り得ることができるです。その問答の次第は次に述べます。
第百二十一回 国王代理に会う
≪司令長官との問答≫ 主客席定まって、司令長官が私に尋ねていいますには、「この度あなたは我が国へ出て来て、ドウいう感覚を起したか」「私は実に喜びにたえぬ」「どういうわけであるか」。
「私は、あたかも我が故郷に帰ったかのような観念を得たからです。ソレは貴国の山水、植物の類が、実に我が国のものに似たばかりでなく、貴国一般の国民は、我が邦の同胞に甚だよく似ておりますから、私は山路の困難も忘れて、大いに悦んだわけでございます」というと、長官は少し笑みを含み、「ソリャもとより、我々は同種族であるから、その酷似しているのも怪しむべきではない。けれども、その山水植物等もまたよく似ておるというのは、奇態である。果してソウですか」。「啻《ただ》に山水の景色がよく似ているばかりでない。松、杉、檜《ひのき》、樫《かし》、槲《かしわ》、柳、槻《けやき》、桜、桃、梨、橙《だいだい》、楡《にれ》、躑躅《つつじ》、蜜柑というようなものは皆同一種類で、米、麦、豆、粟《あわ》、稗《ひえ》、黍《きび》、蕎麦《そば》、王蜀黍《とうもろこし》というような物も、また同じ種類であります。なおこの他に似たところの草木、花鳥の類が実に多いから、私はほとんど自分の国へ帰ったかのような観念を得、かつ貴国国民が勇気あるのみならず、他国の人に対してもごく親切にされるのを感じたわけでございます」というと、長官は大変喜び、おもむろに話端を一転した。
≪まず長官に心事を語る≫ ソコで私は話の端緒を改め、「私がこの度貴国へまいりました目的に二つあります。一は私に関係したことについて、チベット国において一大疑獄事件が進行しつつあるということを聞きましたが、ソレを貴大官らの力によって、救済せられんことを歎願するためであります。その次第は、私がラサを出てから一か月も経たないうちに、私の日本人であるということがほぼ露見したについて、私を通過せしめたニャートンの税関長が自分の責《せめ》を免れるために、チベット政府へ私を英国の国事探偵であると告げました。それがために、チベット政府は非常の疑いを増して、無辜《むこ》の知人を獄に下し、大いに呵責拷問《かしゃくごうもん》しているということです。かかることを確かに聞きながら、余所事《よそごと》に看過して国に帰るということは、ドウしてもできません。ソコでこのことをシナ政府へ頼もうかと思いましたけれども、余り道が遠く、或いは事の間に合わぬ憂いもあり、かたがた貴国は、チベット政府と甚だ親密なる関係を持っておられることがありますから、貴国政府の力によって、かの国の法王に私の真実をこめた上書を奉《たてまつ》ることができますれば、恐らくかの国の無辜の下獄者はその罪を免れて、自由の身となることができるであろうという考えから、ワザワザお頼みに来たのでございます。ドウかこれを一つ聞いて戴きたい。
そのほかの目的というのは、ドラバン(ネパール語にてタライ大林《ジャンガル》のこと)のランボンで、総理殿下から命令がありまして、サンスクリット語の仏典を閣下に請求しろということでありますから、このことについても一つ御尽力を願いたいのであります」といいましたところが、司令長官はおもむろに、
「チベットにおける疑獄事件は、私も在ラサ公使からの報告により、かねて承知しておった。同種族、同教団の人間が入ったのに、自分の国民を苦しめるというのは、何たるタワケたことであるかと、チベット政府のやり方を憤《いきどお》り、またその罪人については大いに気の毒に思っていた。幸いあなたがソウいう善い心がけなら結構なこと、私はむろんあなたの上書をかの国の法王へ取り次ぐことは承諾したけれども、何分このことについて全権ある者は、大王殿下(総理大臣)であるから、大王殿下にあなたからよく願ってみるがよい。私もまたそのことについては、充分申し上げておくから」という、ごく同情を表せられた親切なお話でありました。また
≪サンスクリット語の法典≫ については、「かねて大王殿下からの報告もあるから、ソレは充分尽力いたす。しかし困難なことは、ドウも写本が一つあるだけであるから、ソレを写さにゃアならぬ。写すにしてもナカナカ時間がかかるが、大抵あなたはドノくらい滞在の見こみか」という。「一か月の見こみであります」「ソレでは間に合いそうもないが、しかし、幾分かは写し集めることができるだろう。また図書館に二部ある物は、一部上げてもよいわけだから、ドウにか充分得られることに尽力しよう。けれどもしかし、皆得られぬのは困ったものだな」というお話でありました。
「ソレは御|斟酌《しんしゃく》におよびません。いずれ満二か年の中には、このネパール国へモウ一度私はまいります。デその時に、日本の仏教の一切蔵経を大王殿下に献上するつもりでありますから、その時に下さればソレで充分であります。只今集め得らるるだけ戴けば、ソレで私は満足でございます」と答えますと、司令長官は、文部の高等官吏を召喚して委細の命令を下し、その高等官から図書館長に命令を伝えることとなったです。
ソコでこの話はまず一つ片づきましたから、やがて長官に別れを告げて帰ろうとしますと、長官は厚く私を扱うて、廊下の端まで送って来られたです。余り畏《おそ》れ多いから、ドウかお引き取り下さいといって頼みましたけれども、わざわざ下の方まで来られて、「私は名誉ある日本人のあなたに遇うたことを非常に喜ぶ」といわれて、殿内に入ってしまわれた。ちょうどその夕暮れ、私はブッダバザラ師と共に寓居に帰りました。
私はその寓居に止っている間に、ネパール国誌ようなものを作って日本への家苞《みやげ》にしたいという考えを起して、少し取り調べにかかろうとしたけれども、ドウも様子を考えるによくない。ソレは私は表向き宗教家として入っているけれども、その実日本政府の官吏であって、いわゆる国事探偵である。それがために、このネパールおよびチベット国を廻っているというような風説を一寸聞いたです。ソウいう風説のある中に、余りこの国のことについて日本に紹介しようとして調べたことが、かえって奇禍をかうようなことになっては詰らぬ。これはまた後にできるという考えもあり、かたがた英国人の中にもこの国のことは余ほど詳しゅう世間に紹介されておりますから、そのままに打ち棄てて、自分はもっぱら歌など作っておりました。
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第百二十二回 獄裡《ごくり》の友を懐《おも》う
≪チベットの巡礼≫ ココに一つ聞いた話があります。ソレはチベットからここへ参詣に来る者が、毎年二千ないし三千くらいありますが、殊に今年は多い。何故かというに、この大塔へ金を塗るというような、ナカナカの大|普請《ふしん》をしておりますから、その普請を見に来る者と、寄附に来る者が沢山あるからで、それらの人についていろいろチベット内部のことを聞いてみますと、大蔵大臣もいよいよ入牢されたというような話もあれば、また「イヤそうでない。私の来る時分にはマダおられた。ただ一遍尋ねられただけである」というような説もあって、一向要領を得ない。けれども、確かに数名は入獄されているということは明らかな事実であります。もっとも大蔵大臣のことについてかれこれ証拠立てていう人もありましたけれども、その人はドウいう性質の人か解らぬから、いちがいに信用することができなかった。
ココにクショ・ロケラという高僧があります。これはもとラサ府のテンゲーリンのテーモ・リンボ・チェの会計主任です。ですから、テーモ・リンボ・チェがチベットの国権を握っている間は、非常の権力があったのですけれども、元来この人は誠に平和円滑の人ですから、その時分からして余り威張ったり、賄賂を貪ったりするようなことをしなかった。それ故に、テーモ・リンボ・チェが下獄され、牢死するような不幸に遇っても、この人ばかりはその禍いを免れて、自分の寺に住んでおられるようになった。このお方がテーモ・リンボ・チェの菩提《ぼだい》を弔うために、諸所の霊跡を巡拝したいということを政府に願うて、その許可を得、チベットは申すにおよばず、ネパール国、インド等における霊跡をあちこちと参拝して、夏になると一応ラサへ帰ってまた出かけるという都合で、こん度はラサ府からカトマンズへ直接に出て来たので、一か月半しかかからなかったという。
≪ラサにおける恩人の消息≫ 私はその人に遇うことができましたから、チベットの内情についていろいろ聞いてみました。ところが「私が立つまでは、前大蔵大臣は随分世間の噂《うわさ》が喧《やかま》しかったけれども、何のこともなかった。もっとも私の立った後に、或いは縛《しば》られたとかいうような説もあるが、何分ラサの人間は嘘《うそ》をつく者が多いからドウも当てにはならない。マアそんな気づかいはあるまい」という話で、少しは私も安心しましたが、最も聞いて悲しみにたえなかった話は、クショ・ロケラがラサ府の白洲《しらす》へ何か用事があって行かれた時分に、ツァールンバが呼び出されて来ていたという。もっともほかの罪人もあるが、一人ずつ取り調べるのでツァールンバは白洲の蔭に待っておったから、ソレとは知らずにドウしたのかと尋ねたところが、ツァールンバは涙を流していうには、
「ドウも私は盗人もしなければ、また人と喧嘩をしたわけでもない。ただどこの人か知らずにお医者さんを頼んだところが、その人が日本のお方であったということから、私がその日本人の使いをしたとか、或いはまた謀《はか》り事《ごと》を互いに通じて、この国の不為《ふため》をはかったとかいうようなことで、毎日調べられる。けれども、私は一向そんなことは知らない。ただありがたい結構なお医者さんと思って、おつき合い申しただけである。それのみならず、私の夢にも知らないことまで、お前がやったろうといって、いろいろ糺問《きゅうもん》されますけれども、ドウも全く知らないことは、幾らいってみろといわれたところで、何にもしてみようがない。大方これは前世の罪でもあったのでしょう。私はソウ諦めておりますといっておったが、実に可哀そうであった」という話です。
デそのほかの入牢されている人はドウいう様子かというと、「ほかの人には実際逢ってみないから分らないけれども、ツァールンバの様子を見ると、痩せ衰えて余ほど困ったらしい。そのはずだろう。一日おきに打擲《ぶんなぐ》られるから」という話を聞いて、いよいよ私は辛くなりました。このクショ・ロケラという人は、決して嘘をつくような人でないから、いよいよそのことの事実《まこと》であることを確かめて、真に心を痛めました。
早く大王に遇って、かの国の法王へ上書したいものである。ソウなりさえすれば、ドウにかまた方法が立つであろうという考えにばかり駆られつつ待っておりますと、大王は二月の七日頃に首府に帰られたです。その時分には、もはやネパール首府でも、私の評判が大変盛んになって来た。「あのラーマは、この前もすでにこの国に来られて地図を拵《こしら》え、ソレからチベットへ行って地図を拵えて、またこの国へ帰って来たのである」というような流説が立っておったです。
≪大王殿下の宮殿≫ 二月九日の午後二時に、大王殿下にお目にかかることになりまして、ブッダバザラ師と共に国王の実権ある大王、すなわち普通の官名は総理大臣、その名はチャンドラ・サムセール、そのお方の屋敷へまいりました。この屋敷は前に司令長官をしておられた時分の屋敷であって、それほど大きくない。この頃新たに造っている屋敷は非常に立派なものですが、マダそれは普請中で移られておらんので、元の屋敷の方へまいったです。ソレでもナカナカ大きなもので、三丁四面余あります。その屋敷の大門の片脇には兵士が立ち番をしている。その大門から、砥石《といし》のような広い段だらの道を登り形に行くこと二丁余り、その道の左側には兵営もあり、また小さな練兵場もあり、また右には競馬場があります。登りつめた道の正面に内殿の接客室がある。
我々二人はこの接客室に案内されました。室の正面には椅子三脚と、ネパール製の白布の長方形の厚い敷物があり、欧州ふうの黒檀《こくたん》の茶棚《ちゃだな》の上には、ネパール製の女神の獅子に乗っている白色の置物あり、その傍の壁の柱には、同国製の雄壮なる大獅子の面がかけられてあります。入口が二つありまして、その二つの入口の間の壁の内部には、大いなる掛時計があって、その両脇には鹿とは思われぬほど猛烈な顔をしている、鹿の面が一個ずつかかってあるです。
第百二十三回 大王殿下の詰問
≪外務大書記官の瀬踏み≫ 宮殿の接客室には将校達が沢山いる。その中に外務大書記官もおりますが、大王殿下はおりませぬ。外務大書記官は私に向い、「あなたはここに着いてから、モウ二〇日ばかり経ったが、その間に何をしておられたか」「坐禅観法をし、また和歌を作っておりました」。書記官は話頭を転じて、「あなたは日本で何の爵位があり、何の官職があるか」「私は何もありませぬ」「何もそんなに隠すことはない。あなたが高等官吏であって、勲何等であるくらいは、大抵私共の方でも想像ができる。あなたが幾ら隠したところが到底駄目だから、つつまずいわれるがよい」「私は仏教僧侶で爵位、官職、勲等などのある者ではありません」「ソレではドウいうわけで多くの金を費やしてチベットに入り、またこのネパール国に来られたか」「私は官用を帯びてチベットに行ったのでもなければ、またこの国へ来たのでもありません。ただチベット仏教を研究するために、困難をおかしてかの国に行き、またこの国に来たのであります」「チベットに進入された道はどちらからであるか」「私はマナサルワ湖の辺から」といいかけますと、書記官はひときわ妙な声でいわれますには、「そのマナサルワ湖に着くまでに経た道はどこであるか」と、猫の鼠《ねずみ》を追うがごとくに問いつめた。私は泰然として、「その行路のことは大王殿下に申し上げた後でなければ、口外することはできませぬ」「何故に」「私は他に害のおよぶことを恐れるから、このことは今直ぐにいうことができませぬ」と答えました。
察するところ、かねて私の聞いておった風説のごとくに、ネパール政府では私がかつてこの国へ来たことをよく知っているからでしょう。こういう話がすんで後に、外務大書記官は室外《そと》へ出て行かれた。ソレは大王に上申するためであるということは、後に分ったです。後に残っている将校の方々は、チベットおよび日本の兵士の習慣、意気、軍紀等について、いろいろのことを問いましたが、ソレは略します。ソウいう話をして後に、彼らは「この方は僧侶だといっているけれども、きっと日本の高等官吏であるに違いない」と、ネパール語で内々話しておりました。
≪再び大王殿下に謁《えっ》す≫ しばらく経って、大王殿下は親兵百余人に前後を護らせつつ、内殿から出て大門の横にある別殿に行かれた。私もその接客室から出まして、やはり大王の行く方へ来いというものですから、ズッと下の方に降って、正門の臣下の待合所の処まで来ますと、恭々《うやうや》しく礼をしているところの地方長官が大分におりました。その中に私の顔を見てびっくりしている人がありました。私も不意と見てびっくりしましたが、それはハルカマン・スッバという人で、ドーラギリーの雪峰の麓にあるツクゼーという辺の知事であります。かつてその人の宅に私がおったことがあるのです。その時分には一介の乞食坊主でありますから、今日ネパール国王の内殿から出て来たのを見て、非常に驚いたのも道理です。
大王殿下は、まず献上の馬の善悪を見終ってから、別段の長椅子に坐られた。私はその前に近く進んでおりました。スルと大王は、「あなたは何か私に要求することがあるか」「私が殿下に対する一番の要求というのは、チベット法王への上書を、殿下の手によってかの法王に送られんことを願います。なお次に、この間願いました梵語仏典を戴きたい。願いというのはこれだけでございます」というと、大王は、「そのことはしばらくおいて、あなたは四年以前に我が国に出て来られたと聞くが、そのことは真実であるか」「四年以前に確かに来ました」。大王は少し改まった形で、きっといわれますには、「何故そういう事実なれば、私とビールガンジで逢うた時分に、この事実を告げなかったのであるか。あの時に告ぐるが至当の順序ではないか」、とこう詰問されたです。
「私はその時、申し上げることを切に願っておりましたけれども、これを申し上ぐるについて、一の憂いと恐れとを懐いておりましたゆえ、申し上げなかったのでございます」「何故《なにゆえ》に憂い、何故に恐れておったか」「このことは、みだりに発言できぬ一の理由があります。私は四年以前に、この国を通過したには違いございませんけれども、突然このことを申し上げますれば、当国の関所の官吏およびいささかにても関係ある当国民が、殿下の怒りに触れて、法律上或いは罰せらるるにいたりはしないかと憂いましたから、ソコで私はこれを殿下に申し上げなかったのでございます。もし、みだりにこれを告げて、当国の官吏なり国民なりが、チベットの知人のごとく不幸な有様に陥いるようなことがあったならば、私はいかに悲しい思いをするかも知れませぬ。ただこの時に当り、私の願うところは、私が当国を旅行した故をもって、殿下の臣民を罰せざらんことを真実に希望するのでございます。もしその希望をいれられぬならば、私は確かにこの国を通過したに相違ございませぬけれども、只今申し上げた私の言葉は、お取り消しを願いたい」と、真実こめて頼み入りましたところが、大王はその熱心に感ぜられたか、「よろしい。私は決してあなたがこちらに来たことについては我が臣民らを罰しません。全くあなたは安心するがよろしい」と、こういわれた。
大王の一言もって動かすべからず。実に私はこの一言を得て心の底から悦び、その歓喜の情は、自ら満面に溢《あふ》れたかと思います。私は深い喜びの余りに、思わず「殿下の只今の御命令は、実に歓喜にたえませぬ。慎んで寛仁大量の御命令を感謝いたします」とお礼を申しますと、大王も悦ばれた。誠実の徹《とお》るところの喜びというものは、恐らくこれより上の喜びは、世界にまたとあるまいと思うほどでございました。
≪大王殿下もまた疑う≫ ソコで大王は語端を改め、「誰があなたを我が国およびチベットに送ったのであるか、貴国の外務大臣か、また大将軍であるか、真実にその秘密を告げろ」というお尋ねであったが、この一言はまさしく私をもって、日本の国事探偵であるとの嫌疑から発せられたお言葉であります。
実に私はその言を聞いて、ただ風説ばかりではない。大王殿下までかかる疑いを起して、公然私に問わるるというのは、チベット辺ならば格別、ネパールは世界の文明を学んでいる国である。しかるにしからんとは……。かつ世界は非常に文明に進むというにかかわらず、いずこの国においてもうるさいのは、国際上の猜疑《さいぎ》心である。各国皆共々に猜疑心を起し、ロシアがどうしたとか、英国がこうしたかといって、互いに疑いを起している有様は、実に奇態な現象また馬鹿げた話で、まして私ごとき鐚《びた》一文の関係もない一介の僧侶が、国際上のことに関係したかのように思わるるのは、味気なきことと余りのことに、私は呆れ果ててしばらく何もいわずにおったです。
ところが大王は、「その秘密をいうに忍びないのですか」と問われた。「私には一切秘密はありません。私が心中の真実を告げます。私を送ったものは私自身の意思であります」と答えると、大王は笑いながら、「大金を要するところのこの長途の旅行、殊に私と司令長官にさえ、沢山な贈物をしたではないか。その大金の出処はいずこであるか、六年間の長旅というものは容易の金でできるものではない。これらの大金は、決して一介の貧僧にでき得べきことでない。その上、その学識と世界の事情に通じているところを考えてみても、決してあなたを塵外《じんがい》の僧侶と認むることができない。もはや今日、我が前においてその秘密を守る必要はない。もし、秘密を守らねばならぬ必要があれば、明日私が内殿において余人を遠ざけ、親しくこれを聞くからして、隠さずにいうのがあなたの利益である。もし明日、またも隠すようなことがあれば、私は決してあなたの要求の総《すべ》てをいれない。また保護も与えることができない」ということでありました。
ソコで、「私はもとより仏陀の命令を守っているものでありますから、決して虚言を申しません。もし殿下にして、私の真実を御信認なき以上は、私は私の真実を守りしことをもって自ら満足するだけで、只今殿下にこれを証明する途を持っておりませぬ。これまで私のいった言葉のいかんは、他日殿下の知らるる時がございましょう」といったところが、「あなたが内心の真実を告げるならば、誰かこれを疑わん。されば明後日、午前十時半に逢うて、緩々《ゆるゆる》その真実を聞きたいから今晩よく考えて来るがよい」ということで、お別れ申したです。
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第百二十四回 ようやく目的を達す
≪決心の臍《ほぞ》を固む≫ 寓居への帰路、馬上より遙かの空を眺めますと、世界第一のゴーリサンガの高雪峰の巍然《ぎぜん》として雲際に聳《そび》え、千古|不磨《ふま》の姿を現しているのを看て、大いに感じたです。今や人間界の煩悩《ぼんのう》の雲が、まさに我が心の誠実《まこと》を遮《さえぎ》ろうとしているけれども、我はいかに不成功の不運に遇うとも、真実を守る我が心を変えじと決心いたしました。その夕方寓居に帰りました。
この頃、私はサンスクリット語の書物を買うことに奔走して、三部ばかりと、またほかの参考品なども余ほど買い整えた。ソレからカルカッタの在留日本人からして銀の仏を調えてくれろといって、百ルピー寄附してくれたから、私は百十五ルピーかけて銀の仏像三台と、それを蔵《おさ》める厨子《ずし》一個を拵えた。後に聞いてみると、その金は実は私の旅費に使ってくれろということであったそうです。またそのほかにシナの康有為《こうゆうい》先生、それから英国人、インド人およびアフリカの在留日本人で、その当時カルカッタに来ておった人などが、私に沢山金をくれました。私はその金で、カルカッタにいる時分、随分沢山参考書を買い、なおネパール国王に上げる家苞《みやげ》物にもナカナカ沢山金を費やしたけれども、三百ルピーの金が余っておったです。その金を旅費にしてネパール国へ出かけたわけでありますが、私は一文でも金をくれろといって頼んでもらったわけではない。全く皆様の
≪親切なる喜捨金≫ であったです。けれどもその金は、ネパールで大方使ってしまった。何に使ったかというと、書物を買うたり、或いは参考品を買うたりすることのために、皆使ってしまったです。御承知のとおり、私は喰物や着物には一向金のかからぬ人間で、そんな物にはごくわずかほか要らぬ。酒煙草には一文も要りませず、旨い肉を買って喰う必要もなし、その上に大抵どこへ泊っても、喰物だけは人がくれることにきまっているようなものですから、その点においては実に楽なんです。
段々使ってしまって、懐にはもはや十ルピーほどしか残っておらない。「コリャ困った。国王から書物をもらわぬでも、大分に荷物が沢山になったから、これだけの金ではカルカッタに帰ることができない」と思うところから、カルカッタにおられる学友の大宮孝潤氏に頼んで、百ルピーだけ送ってもらいました。大宮君もその時には、あり余った金がなかったそうで、ほかから借り入れて、ワザワザ送ってくれたのだそうです。
≪三たび大王に謁す≫ その翌一一日午前十時半に、約のごとく大王の内殿の接客室にまいりますと、四、五名の将校と一人の書記官がおりました。デその書記官は英語で、私の姓名、父母の名、並びに住居等を尋ねて記された。
またこの書記官からいろいろの質問がありましたが、つまり私が日本の国事探偵ではないかということを探るためであった。その際、突然英語に熟練している一の高等官が私の前にまいりまして、「あなたはチベット並びに我が国の地図を作ったでしょうな、一応私に見せて戴きたい。ソレは只今御持参ですか、どこにありますか」という途方もない尋ね。「私は仏教僧侶で、仏道を修行する者である。だから地図などを作っている暇はございません」と答えたところが、そのお方は「いやいや、決してソウではない。私はあなたの地図を作ったことを、確かに認めている」という。「ソレは、あなたの認めるのはあなたの御随意、眼に翳《かげ》ある者は空中に花を見、また心中に恐怖の念ある者は縄を蛇と見違い、探偵吏は多くの人を盗人と見るの習いですから、私はあなたの見るままに任しておきます」「なるほどそういわれてみれば、一寸理屈があるようだけれども、これはあえて私一人が認めているだけではない。衆人がそう認めているのである」「衆人がそう見るなら、衆人の見るに一任しておきます」と、押し問答をしている間に、本当の国王が来られたといって一同迎いに出られまして、その国王は後の内殿に入ってしまいました。書記官も見えなくなりましたが、大方私との問答の様子を大王に伝えにいったらしい。
しばらく経つと、伝命官は命を伝えて、私とブ師を王の内殿の方に導かれた。四階の殿楼を昇り、その上に着きますと、誠に綺麗な一室に控えております貴き御方の、その傍に大王殿下が座をかまえ、二、三の将校は外の方に坐り、数名の侍従官は外側に立っておるです。総理大臣の大王は、私に近くその前に坐れという。私はチベットふうに大王の前に箕坐《あぐら》をかいて坐りまして、中央におられる方を見ますと、豈《あ》にはからんや、先に私がビールガンジにおいて一の下席大臣と思うたその人が、真の国王であったので実に私は驚いたです。
≪大王殿下の疑念ようやく解く≫ 席定まって総理殿下は、「一昨日話しておいた件について、あなたが秘密に、私に対し最もいおうとしているところの用件は何であるか」と尋ねましたから、「私は秘密は持ちませぬ。しかし最もいわんと願うところの要件は、殿下の御親切なる取り扱いによって、チベット法王に私の上書を伝えられんことと、梵語仏典を与えられんことを願うの二事でございます」。大王、すっかり的《あて》がはずれたというようなふうでありましたけれども、ナカナカ機に応ずることの早い殿下でありますから、直《じき》に「何故《なにゆえ》にチベット法王に上書するのであるか。そしてその上書の趣意はドウか、一通り述べてみなさい」
ソコで私はラサにおける恩人ら下獄の伝説を述べ、次いで、「その上書の趣意というのは、私は仏教国なる日本僧侶であって、チベットに行った目的は仏道修行のほかに何にもない。しかるにチベット政府は私が世間普通の交りをした方々を獄に下して、罪なきの罪を罰せんために、予審の法廷を開きつつあるということを聞いた。あの人々は、始めから私の日本人であるということを知って交ったのでない。彼らは全く、私に対して何事をも知らぬのである。かかる無辜《むこ》の人々を毫《ごう》も罰する理由はない。もしその罪を問うことが必要ならば、畢竟《ひっきょう》その罪の帰するところは、彼らにあらずして全く私にあるのである。何故ならば、私が貴国に入らなかったならば、貴国臣民は決してかかる問法の責に当るはずはないからである。希《こいねがわ》くば、決して貴国臣民を罰することなくして、私を相当の処分に附する手続きを尽すよう願いたい。それがために、法王殿下が私を召喚せらるるならば、私は再び貴国にまいります。もし私のチベットに入ることを許されぬならば、殿下の政府が下獄されている臣民を罰しない前に、殿下の命により、最も学識ある数名の博士を日本に送り、そして我が国の状況はいかがであるか、また私は果して政府の人であるか、或いは純粋の仏教僧侶であるか、またその平生の行為はいかがであるかを、逐一調査されたい。もし厳密に精確の調査を遂げて帰らるるにおいては、法王殿下はその臣民を法に問うべきものであるかないかということが、きっと判然せらるるに違いない。それ故に、いよいよ私を召喚するの必要あらば、このネパールへ指して命令を下して戴きたい。また博士を送り、調査の必要ありという思召《おぼしめし》なれば、私はその往来の旅費を支弁し、その博士をして、首尾よく法王に復命し得らるるようの便宜を供しますから、この二つの中その一を聞いて戴きたい。これが私の上書の趣意でございます」と、かく答えました。大王は静かに聞いておられましたが、私の説明を聞き終って、余ほど日本の国事探偵であるという嫌疑《けんぎ》心が薄らいだようになって来たです。
≪大王殿下の許諾≫ ソコで総理大臣の大王は、「しからばその上書文を、チベット語とネパール語の二つにて記しなさい。そのチベット文のものをチベット法王に送り、ネパール文の方を私が止めておくから」という御拶挨を聞いた時は、私は喜びの情にたえず心中に嬉し涙を流して、殿下の親切なる御厚意を謝しました。
大王は話頭を改めて、「あなたがチベットにおった時分に、誰にもあなたの日本人であるということを告げなかったか」というお尋ねであった。「イヤ私は帰りがけに一人の人に告げました。ソレは御承知でもございましょうが、かつて私がチベット滞在中、非常に好遇してくれた前大蔵大臣に身分を明かしました」といって、その顛末《てんまつ》を告げますると、大王殿下は、私が日本の国事探偵であるという嫌疑心を大いに氷解したようですけれども、私がここに一〇日間ばかり住んでおった間に、何をしておったかということをよく知られなかったとみえて、マダ幾分か疑いも存しているようでありました。ソレは無理もないので、皆が私をもって日本の国事探偵であると、想像的に断定している。その想像がもはや変じて、事実のように思われているから、容易にその疑いが解けない。それについて尋ねられたですが、この時に臨んでの私の弁明は、確かに殿下の疑いをば氷解せしめたようです。
大王は、「あなたは我が国に来てから、すでに二〇日余り経ったが、この長時間に何事をせられておったか」。私は、「ヒマラヤ山の風景、壮観が、私をしてうたた深趣の感にたえざらしめました故、そのつど感想上に浮んだことを詩文に作っておりました」といって、懐中からその書物と、ソレから私が必要と思う梵語文典の目録を出し、「この目録の中にて民間から買い得らるるものは、この際買い入れとうございます。しかし浄書せねばならぬ分は、明年一一月か一二月頃また出て来ますから、その時にお与え下されば好都合であります」といって、大王に渡しますと、大王はツラツラそれを見て、これを伝命官に渡していわれますには、「この目録によって、至急に民間にあるものを、一五日以内になるべく調《ととの》えるように尽力しろ」という命令を下され、さらに私に対し英語で、「一五日以内に若干のサンスクリット語の仏典を、民間から捜し集めて与える。しかし多少時日が遅れるかも知れないから、そのつもりでおってもらいたい」という。
午後三時過ぎに、ブ師と共に乗馬して帰ってまいりました。道は一昨日の帰り路と同じですけれども、今日は、殊にこの国に来たところの目的を達したわけですから、何となく喜びの感にたえず、巍々《ぎぎ》たる最高雪峰ゴーリサンガもひときわ妙光を満空に放ち、洋々|乎《こ》として和楽するがごとくに見えております。我が願いのかくも満足に成就したのは、まさしく仏陀世尊の妙光裡に接取せられているからであると、深く内心に感謝し記念のために歌を作りました。
昨日まで如何になりゆく我身ぞと
なやみし夢のとけし雪山
誠こそ手段《てだて》のなかの方便《てだて》なれ
事成らぬともまことなるゆゑ
いづくにか仏のゐまさぬ所やあると
眺むる空にひかる雪山
≪大王殿下の同情≫ 私の仕事は、チベット語の上書はもはや認《したた》めてあるのですが、その上書をネパール語に翻訳してもらわなければならぬ。ソレには、私の友人のブッダバザラ師がごく適当でありますから、同師に頼んでこれを翻訳してもらいました。やがてその翻訳ができましたので、今度はブッダバザラ師一人で、二月一五日に大王殿下の処へまいったです。デその夜帰って来られての話に、「実に今日は愉快であった」という。「ドウいう話か」といって聞きますと、「今日あなたの上書を差し上げたところが、このチベット語で書いてある文章は、誰が作ったか」というお尋ね。もとより、あなたがお作りになったのであるから、そのとおりに述べたところが、「かかる長文をこんなに立派に書くことができるか」という問いであるから、「私の訳したのは、本文ほど立派にできませんけれども、それによっても文章の善い悪いは、お分りになりましょう」と申し上げたところ、大王はずっと一読せられて結文にいたり、
チベット法王殿下は、観世音菩薩の化身にして一切智者である。その一切智者の殿下に、直接に日本の僧慧海がお遇い申すことを得て、親しくお言葉を戴き、またその教えを受くるにいたりしは、これ取りも直さず、仏陀世尊がこれを許されたのみならず、殿下の内殿の四方を護らせらるるところの、仏法|外護《げご》の神々が許されたからであります。また貴国が全く鎖国となって以来、すでに二十年余り経たれど、誰も今日まで入ることのできぬその中に、独り私が入ることのできたのは、その国の境界を守っているところの神々が、私をしてこの国に入ることを許さしめたからであります。殊に殿下は、一切智者にして慧海の入国を寛大に看過し、しかして、私にその秘密の教えを授けられたのは、そもそもゆかりあることでございましょう。世界における大乗仏教国は、今日においては我が日本帝国と、チベット国のみであるというてもよいくらいであります。もちろん、ほかにも大乗仏教国はあるけれども、萎靡《いび》振わずして、ほとんどその真面目を失うております。今日、世界における二つの大乗仏教国が互いに相知り相交って、世界に真実仏教の光輝を発揚するの時機は、まさしく来たったのであります。その時機来りしがため、私をして入りがたきチベットに入らしめ、遇いがたき法王に遇わしめ、受けがたき法王の秘法を受けましたのであると、私は思いまする。故に法王殿下には、とくとこのことを御考慮あそばされて、私の真実なる願いをいれられんことを希《こいねが》う
という結末であります。これを読まれた時分に、ネパールの大王殿下はその書を下におき、手を拍《う》って、「愉快だ、実に愉快だ、実に愉快だ」と三度大呼せられ、なお、「チベット法王の胸に一弾丸を放ってつらぬいたごとく、実にこの論法は鋭い。これならば法王も、ヨモヤその臣民を罰することはできぬだろう。自分は一切智者でありながら、殊に日本の僧に遇っておきながら、後で日本人であるということが知れたからといって、その知人を罰するということはできぬわけだ。実に好いところから柔らかにうまく撃った。感心な僧侶である。大いに満足した。特にこのことを本人に伝えてくれ」という命令でありましたから、あなたにお話するということでありました。はからざりき私が、ネパールにおいて最大有力なる知己を得んとは、これまた仏陀の妙助であると感謝しました。
その翌三月一〇日頃までは、書物はこの国の図書館長が買い集めてくれますから、私は別だん用事もない。ソレかといって余りあちこち見に歩くのも疑いを受ける種を蒔《ま》くようなものですから、ことさら司令長官に願いを出して|龍樹ヶ嶽《りゅうじゅがたけ》に登ることを許された。デ龍樹ヶ嶽から帰りまして、その夜は龍樹ヶ嶽に登るの賦《ふ》を作り、ソレから真妙純愛観《しんみょうじゅんあいかん》並びに雪山にて亡父を弔い、いませる母を懐《おも》うというような歌を作るのを仕事にして、三月一〇日頃まで過ごしました。こういうことでもしなければ、ほかにドウもしてみようがない。地理や何かの取り調べをすれば、直ぐに疑いを受けます。私は何も疑いを起されてまで、その国情を取り調べにゃアならぬという必要はないから、マア自分の好きな仕事をしておりました。
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大団円 故山に帰る
≪大王殿下に別れを告ぐ≫ 三月一二日に大王殿下から呼び出しがあって、梵語仏典を下された。その時に私は、日本から送ってもらった紅白の縮緬《ちりめん》を、めでたい祝いとして差し上げますと、大王は度々の贈物を受けるわけにいかぬといって、非常に辞退されましたけれども、これは日本におけるめでたい礼式であるからといって、強いて納めました。デ大王殿下は今日は特に改まって、英語の通弁官を介し、ネパール語で「この書物は沢山はない。ただ四十一|帙《ちつ》だけ集めることができた。これは、あなたの贈物に対する返礼として上げるのであるから、そのつもりで受け取るがよい」という。私は厚くお礼を申し上げ、暇《いとま》を告げて帰途に着きました。
随分沢山な書物で、二人の荷持ちがようやくのことでブッダバザラ師の宅まで運んでくれた。ソレから私は荷物の取り片づけなどをして、一四日に出立するつもりでありましたが、少し遅れました。ソレは普通なれば荷物はチスパニーという処まで持って行って、そこで検《あらた》めてもらって税金を払わねばならんのです。ソレではナカナカ手数もかかり、折々物品の紛失することもあるそうですから、特別に願って、こちらで調べてもらうことにしたです。役人の方でも、もちろん取り調べる必要があると認めたものか、その翌日、すなわち三月一五日に取り調べがありました。
デ三月一六日に三人の荷持ちと共に、ブ師に送られた馬に乗って出立しました。その馬は半日ばかりの道を来て後に返し、ソレから我々は、毎日々々早くから出て遅くまで歩きまして、その月の二一日夜、ラクソールの停車場に着き、その荷物を汽車に積みこみ、その翌日の夜、カルカッタの大宮孝潤氏の寓に着きました。その時にはモウ金がほとんどなくなっておった。大宮氏は大変に心配せられて、「ドウも君のように、金のありったけ使ってしまっては困るじゃないか」「しかし、入用の品と考えたから、ツイ買ってしまって金がなくなった」というようなわけで、大いに戒められた。
とにかく私は、ネパールで拵《こしら》えて来た銀の仏様を、カルカッタの在留日本人に見せなければならぬ。というのは、その人達から上げてもらった金で拵えたからで、或る日その三台の仏像を開眼供養《かいげんくよう》するために例のごとく説教しました。私はカルカッタでもボンベイでも、到る処で在留日本人のために説教するのを、自分の職務のように考えておりましたから、どこへ行っても説教しました。その日仏様の供養をしたところが、その人達のいうには、「私達はこんな立派な物を拵えて戴くつもりではなかった。コリャ実にありがたい」といって、相当のお賽銭《さいせん》を上げてくれた。そして私がボンベイに着いたのは、四月上旬であります。
≪在留日本人の好意≫ ところが三井物産の間島さんは、私の慰労かたがたチベットの話を聞きたいということで、私は正金《しょうきん》銀行支店長の松倉|吉士《きちじ》という方の宅へ招かれて、在留日本人の紳士紳商のかたがたのために、一夕チベット談をいたし、ソレから一回アジア学会々員の招きに応じ、英語の通弁人を介して演説をいたしました。デ間島さんは時に発起されて、私のために幾分の寄贈金を集めてくれた。それが四百五十三ルピーばかりありました。それでカルカッタの大宮さんから借りた百五十ルピーを返し、なお帰国の船賃に充てました。特に日本郵船会社の支店長から、船長に対し私を優待するようにという御厚意もあったものですから、私は船中において非常に便宜を得ました。ボンベイにていろいろの買物をすまし、いよいよ四月二四日、ボンベイ発のボンベイ丸に乗ッて帰国することになりました。
出がけ私は、和泉の国で生れて和泉丸に乗りました。今度はボンベイから、ボンベイ丸に乗って帰ることになりました。航海中は例のごとく説教し、その間には読書するのが私の楽しみで、だんだん進んでまいりました。坊主が一人船に乗りこむと海が荒れるということは、よく昔からいうことで、大分気にした人もありましたが海はいたって穏かでありました。
≪故山に帰る心事≫ だんだん日本に近づくにしたがって、私は非常の感慨に打たれて、ドウも日本に帰るのが恥かしくなった。ソレは私が、始め出立の時分に立てた真実の目的は、チベットにおいて充分仏教の修行を遂げ、少なくとも大菩薩になって日本に帰りたいという決心でありました。しかるに、今日は以前《もと》の凡夫のそのままで帰るのですから、実に自分の故郷の人に対して恥かしいのみならず、誓いを立てて出た故山に対し、いかにして顔を合わせることができようかと、香港《ホンコン》を離れて日本間近になるまで、非常に心をいためましたが、一の歌ができましたので、大いに心を慰めました。日本に帰ったところが、ヒマラヤ山で修行しているつもりで帰ればよい。日本の社会の中には、ヒマラヤ山中にいる悪神よりも恐ろしい悪魔がいるかもしれない。またその陥穽《おとしあな》は雪山の谷間よりも酷《ひど》いものがあるであろうけれども、ソウいう修羅《しゅら》の巷《ちまた》へ仏法修行に行くと思えばよいと、決心いたしました。その歌は
日の本に匂ふ旭日《あさひ》はヒマラヤの
峰を照せる光なりけり
仏日《ぶつじつ》の光輝はいたらぬ隈《くま》なく宇宙に遍満しておりますから、何れの世界に行っても修行のできぬ道場はない。日本も我が修行の道場であると観ずれば、別だん苦しむにもおよばないと諦《あきら》め、五月一九日に門司港を経て、同月二〇日に神戸に着きました。汽船の上から桟橋の上を眺めますと、出立の時に涙をもって送られたところの親友、信者の方々は、喜びの涙をもって無言のうちに真実の情をたたえ、懇《ねんごろ》に私を迎えてくれました。余りの嬉しさに、しばらくは互いに物をいうことができませんでした。(完)
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解説
私は一九五六年(昭和三一)、ネパールのトゥリ・チャンドラ・カレッジに保存されている仏教写本の調査に行ったことがあった。その折何人かの土地の故老が、かつてこの地を訪れたことのある河口|慧海《えかい》師と、多田等観《ただとうかん》師(真宗僧侶)をよく覚えていて、慧海師のことを≪お医者さんのラマ≫、多田師のことを≪学者のラマ≫≪多田ラマ≫と親しげに語ったことがあった。
また私は一九七五年(昭和五〇)秋、中国仏教会の招待で、中国仏教の現状を視察する機会を得た。その折、中国仏教会の責任者、趙樸初先生は、西安のホテルの一室で、中国仏教の進むべき道について語られた。談たまたまチベット仏教におよんだ時、チベット仏教の現状は河口慧海の『チベット旅行記』に語られているとおりであった、とその腐敗を指摘され、河口慧海とはどういう僧侶なのかと熱心に私に問われた。
遠く異郷にあって、かえって先人の偉業をあらためて知らされたわけであった。慧海師がかつて私に「あの旅行の時、これは必ず死ぬぞと思ったことが何度かあった。その度に坐禅を組んだ。坐禅とは本来そんなものじゃないが、不思議に生きのびることができた」と語ったことや、慧海師の一日二度の食事が、皆が≪ドカ弁≫と呼ぶほどの量であったことなどを思い出した。
晩年の慧海師に親しく接する機会を得た私としては、現在の仏教史に語られることのない師を思い、一種複雑なる思いであった。
慧海の第一回チベット旅行は、一八九七年(明治三〇)六月から、一九〇三年(同三六)五月までの六年間にわたって行われた。正確を期して書くならば、慧海はこの時、チベットだけでなく、インド、ネパール両国にも訪れているから、チベット、ネパール、インド旅行ということになる。
これは第二回目の旅行も同じである。慧海が、その第二回チベット旅行を挙行したのは、何とまだ、第一回の旅行の疲労も抜けきっていると思えない次の年、一九〇四年(同三七)一〇月から、一九一五年(大正四)九月にかけてであった。しかも、第二回目の旅行は、最初の旅行を上回ること五年という大長期旅行であった。
現在、中国領の一自治区となっているチベットは、第一回チベット旅行の当時、他国人の入国を禁ずる≪秘密の国≫であった。それを慧海はシナの僧侶に身をやつし、平均六、七千メートル級の山が無数に連なる、嶮峻《けんしゅん》なヒマラヤの道なき道を苦心|惨澹《さんたん》の末たどり、日本人として初めてこの≪秘密の国≫に潜入したのである。第二回の時は、チベット側の入国制限は以前とくらべて緩和されていたが、今度は英領インド政府の方が、外国人のチベット入りを厳しく禁じていた。慧海はそれもチベット人に扮して突破、第一回目の行路とは反対側の世界第三位の高峰、カンチ峰(八五九八メートル)を容するカンチェンジュンガ群をシッキム経由で越え、再度のチベット入りを成功させた。
第一回、第二回の旅行とも、慧海は食事を一日二回しか取っていない。しかも、その内容は、大麦の粉にバターと塩をこね合わせたツァンパといわれるチベット人の主食がほとんどである。装備もチベット人と同じ粗末なものであった。交通手段も、時折り、ロバ、馬、羊、ヤク(インドでは汽車も使った)を利用した程度で、大半は最もつらい徒歩に頼らざるを得なかったのである。
近代的装備に守られた現在の登山家ですら躊躇《ちゅうちょ》させられるというヒマラヤを、慧海は大胆にもこのような形で旅行した。しかも、わずか一年おいただけの通算一七年にもわたってである。
慧海をして、これほどまでにチベットへかりたてたものとは、いったい何であったのだろう。直接の動機は慧海自身、本書の冒頭で述べているとおり、仏典の原典探しであった。欧米の東洋学者が、チベットとかネパールのようなインドの周辺諸国に、かえって原典に忠実に訳された経典がある、と主張しているのを知って、慧海はこの壮大なチベット旅行をはじめたのだった。
慧海は、この一七年間にわたるチベット旅行のあと、一九二五年(大正一四)、一九二九年(昭和四)、一九三三年(昭和八)と三回北京に出かけている。これもまた原典に忠実とされるチベット経典の収集が目的であった。
慧海が最初のチベット旅行に出発したのが三一歳の時、最後の海外旅行、北京に発った時には六七歳になっていた。こうして、ざっと海外活動の軌跡だけをたどってみても、そこに、一仏教徒として、生涯を自らの修行と仏教の啓蒙に生きた慧海の一貫した姿勢がはっきり浮びあがってくる。
しかし、慧海はこれまで探検家として話題にされたことはあるが、仏教徒としての側面は全くといっていいほど、正当に評価されていない。確かに個性が強く、反骨精神にあふれ、仏教の革新を叫んだ慧海に対し、強い反撥があったことも事実である。また行動の人であった慧海が、自らもたらしたチベット学が根づくにつれ、その地点から批判されることもあった。だが慧海の一生を顧みる時、いずれ将来の研究を待つほかないが、当然この側面をも含めての評価が、今後下されることになるであろう。
この『チベット旅行記』(『西蔵旅行記』)は、第一回チベット旅行の体験をもとにまとめられたものである。その出版の経緯については「校注者はしがき」に記したので、ここでは省略する。
慧海は、初版序文の中でこういうことを語っている。興味深いので現代文に要約してみよう。
私は世の冒険家にならって、探検の功をあげることを目的にチベットへ行ったわけではない。あくまでも、我が国未伝の経典を得たいがために出かけたのだ。したがって探検家の資格は私にはない。……ただ、今回の旅行では、宗教に関すること以外にも、社会学、経済学、歴史学、地理学、あるいは動植物分布などに関する様々なことを観察することができた。友人たちが熱心にすすめてくれるので、こういった話を中心に、旅行談として本書を出版することにした。……チベットは仏教国である。仏教を除けば、チベットに残るものは荒れはてた国土と、蒙昧なる人々(慧海は蛮人と書く)だけである。しかし、これはあくまで旅行談とすることが目的だから、仏教に関することははぶかざるを得なかったと書いている。
しかし、『チベット旅行記』は当時多く刊行された類書とは違い、単なる旅行記に終ってはいない。その文章は、口述筆記であったためか饒舌《じょうぜつ》であるし、また講談を聞くようなところもある。読者はその語り口の面白さに引かれることもあるだろう。だが、そこに記されていることの多様さはもとより、その鋭い観察者としての眼に、読者は驚かざるを得ないだろう。数年の旅行の中でよくこの内部まで見ることができたというほど、実に公正に鋭く観察しているのである。
当時、この記録が発表されるや、それを疑う者も多く、随分ウソツキ坊主呼ばわりされたという。慧海師も私に、内藤湖南(東洋史学者)さんも、あんな所を通れるわけはないといわれたと語ったことがある。慧海の通ったルートは他の入蔵者も選ばなかった困難なルートであった。しかし、戦後になって川喜田二郎氏のヒマラヤ行の結果、その真実が確かめられたのである。氏は一九五八年、ネパールのトルボ地方まで入り、民族調査を行った。その際、慧海のルートを確かめて、
「つまり師の最後のコースは間道のまた間道の、またまた間道のまたまたまた間道であった。私はまったく舌をまく。その剛毅。その不屈の魂。その周到な準備。そしてその正確な観察。……私は彼のコースをずいぶん歩いたから、身にしみてそれがよくわかる。サングダの部落は、師の記したところとほぼ一致し、十一家族が住まっていた」(『ネパール王国探検記』昭和三二年)
と述べている。
また当時、アジアのこの地域に多くの探検家が殺到した。その探検家の多くは、
「いわゆる文明世界に住む人々にとっては未知であり、地図上の空白部であったアジアの土地にも、そこに住み、そこを熟知し、独自の生活、文化を築きあげている人たちがいた。彼等を単なる研究対象または自己の目的達成のための手段として用い、得た成果を自己と祖国の栄光に帰し、彼等住民に還元することを全く考慮しないという態度が、ヘディンと彼の同時代の探検家たちに共通して認められる」(鈴木啓造訳、ヘディン『さまよえる湖』解説)
という。慧海にはこうした探検家としての側面はない。本書には、確かに文明開化を背景に、チベットの暗黒部分を鋭くつく批判があふれている。だがそこには、同じ仏教国の一僧侶として、チベットの民衆とともに生活した深い共感が、その記述の底に流れていることに読者は気づくはずである。その内容は、チベットが大きく変貌《へんぼう》してしまった今日でも、一部誤りがあるにしても、なお貴重な資料として生きているのである。
ここで慧海の経歴を、その甥《おい》河口|正《あきら》氏の著した『河口慧海―日本最初のチベット入国者―』(一九六一年、春秋社刊)によって記してみる。
河口慧海は一八六六年(慶応二)一月一二日、和泉国《いずみのくに》(現・大阪府)堺市に生れた。――その土地には堺市が記念碑を作り、標示している。幼名は定次郎といい、父善吉、母常の長男で、下には兄妹五人がいた。家業は桶樽《おけたる》の製造である。父親は信貴山《しぎさん》の昆沙門天《びしゃもんてん》を信仰し、周囲の人たちから≪仏の善吉≫といわれたほどの好人物であった。これに対し母親は気丈な大変厳しい人柄であった。慧海自身も、仏教徒としての自分は母親の感化によるところが大きいと筆者に語ったことがある。
定次郎は五歳になると、世学院という山伏寺の寺子屋に通いはじめた。翌年錦西小学校に入学するが、一一歳の時、父親に「職人に学問はいらない」といわれ退学させられた。当時は、長男が家業を継ぐのは当り前のこととされており、父親もその慣習にならったわけである。しかし勉強好きの定次郎は、どうしても思いきれず、一三歳になると再び河辺和一郎の夜学に入り直した。
一四歳になって、定次郎はいったん今井四郎平について勉強をはじめるが、素読だけの授業にあきたらず、直ちに土屋弘主宰の晩晴塾(先輩にのち東京美術学校長となった正木直彦がいる)に変わり、漢学を学ぶことになった。そこで、定次郎は初めて『釈迦一代記』を読んだが、これが直接のきっかけになって仏教に強い関心を抱くようになったという。この年、すなわち一八八〇年、彼は禁酒、禁肉食、不犯の三つを向う三年間続けるという誓いをたてた。しかし、実際にはそのまま十年守り通し、途中しばらく中止したものの、引き続き再開、とうとう一生実践したのである。
一八八四年(明治一七)、定次郎が一八歳の時、徴兵改正令が布告された。それまで、長男だけは徴兵の対象からはずされていたが、この改正で、長男にも兵役の義務が生じるようになったのである。彼は、これでは「銃後の守りが不備になる」と考え、改正撤回の行動をとることに決心する。先生の土屋弘に大阪、難波《なにわ》にある端竜寺の佐迫蓬山師を紹介してもらい、まずそこを訪ねた。そして、黄檗《おうばく》宗本山出張員という肩書と、東京深川にある海福寺の住職、岡田徳栄宛の紹介状をもらうと、天皇への上奏書をたずさえて上京したのである。しかし、そんな定次郎の様子に不審をいだいた岡田徳栄師は、佐伯蓬山師にニセの電報をうって呼びもどしてくれるように連絡をとった。定次郎は「チチキトク」の電報を受けて驚き、帰らざるを得なかった。その足で長柄《ながら》の正徳寺に帰っていた佐伯蓬山師を訪ね、彼はあらためて蓬山師に師事、仏事、読経の修行をはじめた。
一八八五年(明治一八)、摂津|箕面《みのお》の勝尾寺に行き、寺の山中で役《えん》の行者にならって、松葉をしがんで坐禅の修行をした。それは三か月続けられたが、その時、彼は「ものごとは、十分学問を積んでのち考えるべきである」と悟り、土屋弘の晩晴塾に復帰、再び勉強に取り組みはじめた。また彼は堺の教会に派遣されて来ていた宣教師コルベー女史の元に通い、英語の勉強も進めることになる。
定次郎は、仏教の研究上もキリスト教を知る必要があると考え、教会の聖書講読も熱心に聞いたという。この頃、コルベー女史に入信をすすめられるが、彼は断っている。しかも翌年には、学費が続かず退学するが、同志社にも学んでいる。
一八八八年(明治二一)、定次郎は新たに勉学の志を抱き上京、本所の五百羅漢寺(現在は下目黒に移転)に寄宿、哲学館(現・東洋大学)に通いはじめた。紙ハンカチの染色などのアルバイトをしながらの苦学であった。
哲学館の卒業を一年後に控え、定次郎は五百羅漢寺住職、海野希禅師から得度を受け、慧海仁広《えかいじんこう》という僧名をさずけられた。一八九〇年(明治二三)、彼が二四歳の時である。得度を受けて間もなくして、海野希禅師が突然隠退することになり、慧海はその若さで住職に就任することになった。ところが、しばらくすると芝白金、瑞聖寺の後継者問題、向島の弘福寺の住職辞職勧告問題と、あいついで二つの問題が起った。これに対して慧海は「明教新誌」という宗教雑誌に、黄檗宗の腐敗は目に余る、これ以上この宗派に止まることができないので、僧籍は返上したい、という趣旨の強烈な批判文を「黄檗宗の前途」という題で発表した。そして慧海は本当に一時僧籍を返上してしまうのである。
だが、僧籍を離れたのにはもう一つ別の理由があった。それは学問の足りなさの自覚である。俗務が余りに多い住職の地位にいては、必要な学問はできないと考えたのである。
この後、彼は大阪の妙徳寺に行き、黄檗宗管長多々羅観輪師につき、漢文の一切蔵経を読みはじめる。一か月後には宇治黄檗山別峯院に変って、ひきつづき一切蔵経の読破に専念する。これは一八九四年(明治二七)三月まで、約二年間続けられたが、慧海はその間に、チベット、ネパール、インド旅行の決意を固めるに至るのである。そして本書のとおり、横浜の三会寺にセイロンより帰朝した釈興然律師を訪ね、パーリー語の学習に取りかかった。この時鈴木大拙博士とも机を並べている。
この旅行にいよいよ出発という時、彼の周囲の者は皆反対した。たった一人の挑戦であったわけである。
この簡単な経歴をみても、慧海が≪意志の人≫であるということがうかがえるし、明治という上昇気流にあふれた時代に生きた、勉学好きな一人の地方青年の典型的な姿をみることもできるだろう。だが当時にあって、仏教僧侶としての道を取ったことは極めて興味のあるところである。
この旅行の背後には、陸軍の軍人福島安正のシベリア単騎横断(明治二五年)や、郡司成忠の千島探検(明治二六年)にみられる、海外雄飛という言葉で象徴される一種の熱気の影響があったかもしれない。また維新後の仏教の改革運動や、仏教学者南条文雄が英国留学より帰国し(明治一七年に帰国。間もなく設けられた学位制度で初めての文学博士となる)、新しい仏教学を展開しつつあったことに、若い慧海が強い影響を受けたであろうことは容易に想像できるのである。
第一回のチベット旅行期間中の慧海については、この『チベット旅行記』に詳しく書かれているのであらためて紹介するまでもない。ここでは第二回チベット旅行の様子と、慧海の晩年について簡単に触れておこう。
彼が二回目のチベット、ネパール、インド旅行に出発したのは、一九〇四年(明治三七)の一〇月である。この年の二月、日露戦争が始まり、国内の状況は騒然としていた。チベットはチベットで、八月に英軍の侵入を受け、法王が北方に蒙塵《もうじん》し国内は大混乱に陥っていた。それでもあえて、慧海がチベット旅行を強行したのは、第一回のチベット旅行で、ネパール国王と、梵語仏典と漢語仏典の交換を約束していたことと、チベットにある仏典が英国侵入などの影響で失われる恐れがあったからである。慧海は焦《あせ》る気持を仰えながらカルカッタに上陸した。ネパールへ入国、執権チャンドラ・サムセールに会い、約束の漢訳一切蔵経と、実業家大蔵喜八郎から託された日本刀の土産《みやげ》を贈っている。チャンドラ・サムセールも約束を守り、梵語経典約二五万|偈《げ》(八字一句を四句集めたものが一偈)を集めてくれた。慧海自身も約六〇万偈の仏典を収集していたから、合わせるとこの時だけで八五万偈にのぼった。
彼はネパールからチベット入りをしようと考えたが、ネパール政府が英国に気兼ねしていたので、一旦カルカッタへ引き返した。ところが、たまたまインドには、チベット第二の法王パンチェン・ラマが訪問していた。英国がチベットとの関係を正常化しようとして、英国皇太子と引き合わせるためにわざわざ招いたのだった。このため、慧海もパンチェン・ラマに会うことができ、その時、チベット蔵経と日本蔵経との交換を申し入れた。パンチェン・ラマは心よく引き受けてくれたという。しかし、彼がチベットに入国できたのは、インドに入ってから九年後、一九一四年(大正三)のことである。その間、慧海はインドに止まり、中央インド大学などで梵語を習うかたわら、仏典などの収集に当った。
もう一つ書きもらすことができないのは、『チベット旅行記』の英訳本が、Three years in Tibet というタイトルで、一九〇九年(明治四二)、マドラスで刊行されたことである。彼はこの出版で一躍海外にその名を知られることになった。スウェーデンの世界的探検家スウェン・ヘディンは、『トランス・ヒマラヤ』『南部チベット』の二著で、慧海を大きく取り上げているし、英国の弁務官として長くラサに滞在したチャールズ・ベルも、名著『チベットの人々』の中で慧海の鋭い観察をたたえている。
彼がようやくチベットに入国すると、今度は第一次世界大戦が始まった。この時、慧海は青木文教(真宗僧侶)、多田等観(同)、矢島泰次郎(軍関係者)の三人にラサで会っている。第一回のチベット旅行の時とは随分違ったわけである。慧海は一年余チベットで過し、一九一五年(大正四)、第一回チベット旅行以来の恩人、サラット・チャンドラ・ダース氏父子をともなって日本へ帰って来た。
この二度にわたる梵語、チベット語の仏典収集という雄大な旅行を無事終えるあたりから、慧海の活動は花が開いたように多彩になる。
例えば、北京、蒙古の仏典収集旅行、梵語、チベット語経典の翻訳。チベット、ネパール、インドに関する研究。仏教美術の研究、翻訳家の養成。東京大学、大正大学、東洋大学などでのチベット語の教授。仏教美術の展示会、仏教宣揚会の設立、日曜学校の開設、在家仏教の提唱、すなわち在家仏教修行団の設立などその活動は多岐にわたっている。しかし、一見無秩序にみえるこれらの活動も、そこには自ら有機的に結び合わされた「啓蒙活動」「研究活動」「布教活動」のワク組が浮びあがって来るのである。
このように、慧海は日本におけるチベット学の先駆者であるとともに、僧侶としての偉大な実践者だった。慧海が唱えた在家仏教は、引き継ぐ者は少なかったが、仏教思想史に残る大きな可能性を孕《はら》んだ運動であった。慧海自身、生涯を通じて持戒竪固な独身主義を貫いたが、一九二六年(大正一五)、六〇歳の還暦を卜《ぼく》して、自ら具足戒を捨て在家仏教を提唱した。その主旨は、現在の世の中では厳重な戒律を守ることは不可能であるが、五戒(殺生・盗み・邪淫・妄語・飲酒)を生活信条として、釈尊に絶対の帰依をすることによって安心立命を得るというものであった。さらにいえばシャカの原点に帰れということであった。宗派の束縛《そくばく》を離れた慧海は、毎日曜日、信者にこの仏教精神を説いて、終生ひたすら正しい仏教の姿を世に問わんとした。若い時から≪活きた仏教≫、仏教の社会化を求めた結果であった。
晩年、一九四〇年(昭和一五)、財団法人東洋文庫に、将来した梵語、チベット語の文献を寄贈し、文部省より梵語辞典|編纂《へんさん》の助成金を交付された。その後は一切の社交や俗事を断りその事業に没頭したが、大平洋戦争が勃発し、その事業の大きな障害となった。慧海自身も東京空襲が激烈を加える一九四五年(昭和二〇)二月二四日、東京世田谷の自宅で脳溢血のためにその一生を終ったのである。
最後に慧海が将来した厖大《ぼうだい》な資料、いわゆる河口コレクションについて簡単にふれておく。内容は実に多岐にわたっているが、大別すると梵語写本類、チベット語文献類、仏像、仏具類(その他、民具類や、首飾りなどの装飾品、貨幣などを含む)、動植物の標本類の四つに分けることができる。
第一類の梵語写本の大部分は、東大図書館に所蔵されており、高楠順次郎博士の梵語写本と共に、東大写本として貴重な研究資料となっている。関東大震災によってその中二九部が欠損しているが、東大写本の三分の二が慧海の蒐集《しゅうしゅう》である。このほかに一六部の梵語写本が東洋文庫に所蔵され、この中、妙法蓮華経の梵語古写本は世界的にも貴重なものとして名高い。
第二類のチベット語文献では、まずチベット語大蔵経がある。すなわち東洋文庫所蔵のナルタン版大蔵経経部および論疏部、デルケ版大蔵経経部、チョーネ版大蔵経経部、写本チベット語大蔵経経部(ギャンツェのパルコル・チョエン寺所蔵のものをダライ・ラマから贈られた)などである。このほかに大正大学所蔵の大蔵経経部と東京大学所蔵のナルタン版論疏部がある。
次に蔵外文献と呼ばれるチベット語文献である。その大半は東洋文庫に所蔵されている。これも厖大なものであるが、東北大学所蔵の蔵外文献(多田等観蒐集)と共に、史書の異本を多く蔵することで貴重である。このほかに四七部の北京街版のチベット語文献が東北大学に所蔵されている。
これらの経典について大正五年、荻原雲来博士は「其の将来する所の梵夾《ぼんきょう》のみにても実に四百部に垂《なんな》んとす、今や我邦有する所の仏教梵本は其の数に於て一躍して欧米各国の上に位するに至りしは偏《ひとえ》に河口氏の賚《たまもの》なり」(『実習梵語学』)と記している。この文献の特長を記せば、各種の蔵経があること、パンチェン・ラマ系の文献が多いこと、史書の異本を集めていること、古派の文献や北京街版を含んでいることなどであるが、今日改めてこれらの文献を蒐集することは到底不可能といってよいのである。
次に仏像、仏具類がある。インド、ネパールのものを含んでいるが、いずれも東京美術学校校友会編『河口慧海師将来西蔵品図録』(画報社刊、明治三七年)などの目録にまとめられ、その将来物の大部分は東北大学に所蔵されている。
更に植物の標本があるが、これも東北大学に所蔵されている。慧海は二回目のチベット行の前に、植物学者について標本の製作方法を学んでから出かけているが、その標本は約千種におよんでいる。因みに昭和二八年、京都大学の北村四郎教授が整理した結果、一二種の新種を発見し、もし大正期ならば二〇種を越えたであろうという。なお、慧海が晩年身のまわりに置いたもの、およびコレクションの一部は、遺族によって東京国立博物館に寄贈されている。
本文庫は≪はしがき≫でも記したように、多くの読者にこのすぐれた記録文学の古典に接していただきたいと考え、一冊の簡便な形にまとめるもやむなしとした。そのため八章にわたって削除し、他の部分でも削除を行った。また本文にも大巾に句読点をふやすなどの手を加えた。本文の文章は、各回ごとに漢字表記の統一がとれていないが、敢えてそのままとしたところもある。しかし、その全貌は伝え得ると確信している。なお、本解説は河口正氏の『河口慧海―日本最初のチベット入国者―』(一九六一年、春秋社刊)による所が大きい。校訂その他には中西吉治氏、塚本晃生氏の御手を煩わした。記して御礼申し上げる。
昭和五三年一月 壬生台舜《みぶたいしゅん》(大正大学教授・仏教学)
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年譜
一八六六(慶応二)一月十二日、和泉国(大阪府)堺市北旅籠町西三丁に生る。父善吉、母常、幼名定次郎。
一八七一(明治四)五歳。世学院(寺子屋)に学ぶ。
一八七二(明治五)六歳。錦西小学校入学。
一八七七(明治十)十一歳。小学校退学、家業(桶樽《おけたる》製造)に従事す。
一八七九(明治十二)十三歳。夜学校にて習字数学漢学を学ぶ。
一八八〇(明治十三)十四歳。土屋弘先生の晩晴塾に漢学を学ぶ(一時中止せしも二十二歳の二月に至る)。釈迦伝を読んで発心し、十月二十五日、禁酒・禁肉食・不婬の三か条を三年間実行することを誓願す。(これは十年間続けた後、暫く中止し、再び実践し一生続けた)
一八八四(明治十七)十八歳。十月、徴兵令改正に反対のため上京、天皇に直訴を企つ。長柄《ながら》の正徳寺で佐伯蓬山師に師事す。
一八八五(明治十八)十九歳。二月、堺に帰り、米人宣教師コルベー女史等について英語とキリスト教を学ぶ。
一八八六(明治十九)二十歳。京都同志社に入学するも数か月で退学帰郷、再び土屋弘の門に学ぶ。堺市立宿院小学校の雇教員となる。
一八八七(明治二十)二十一歳。小学校教員を辞職。
一八八八(明治二十一)二十二歳。二月上京、本所五百羅漢寺内、黄檗宗溯源教会に寄宿す。三月、哲学館に入り苦学す。翌二十二年にかけて、「溯源教会誌」および「尊皇奉仏大同団誌」等に執筆す。
一八八九(明治二十二)二十三歳。「日本の元気」を出版。
一八九〇(明治二十三)二十四歳。三月、東京本所区緑町四丁目、黄檗宗五百羅漢寺住職、海野希禅師から得度を受け、慧海仁広と名づけられる。四月、同寺住職に任ぜられる。
一八九一(明治二十四)二十五歳。三月、哲学館終学。明教新誌に「黄檗宗の前途」を掲載。五百羅漢寺住職を辞し、黄檗宗の僧籍を返還す。四月、大阪市妙徳寺に入り、黄檗宗管長多々羅観輪師について禅を修し、一切経を読む。五月より宇治黄檗山別峯院にて一切経を読み、二十七年三月に至る。六月、管長に上書し宗政を論ず。
一八九二(明治二十五)二十六歳。一月、僧籍を復し宗務院事務取扱いを命ぜられ、本山の浄化を行う。「黄檗宗実事録」を著す。宗務院事務取扱いを辞め、一切蔵経の読破に専念す。梵語及びチベット語研究と同経典の入手を志し、インド及びチベット行の決心をする。
一八九三(明治二十六)二十七歳。一切蔵経の研究に専念す。
一八九四(明治二十七)二十八歳。四月、黄檗宗を改革せんとして山内退去を命ぜらる。上京、目白僧苑釈雲照律師について律を修す。十一月、神奈川県三会寺の釈興然師についてパーリー語を学習し、インド事情を研究す。三会寺にて仏教日曜学校を開く。
一八九五(明治二十八)二十九歳。二月〜十月、黄檗山の浄化運動に従事す。三会寺に帰って再びパーリー語の学習を続ける。
一八九七(明治三十)三十一歳。二月、三会寺を辞し上京、チベット旅行の断行を発表す。六月二十六日、神戸出帆。八月三日、ダージリン着、サラット・チャンドラ・ダース氏訪問。翌四日、シェーラブ・ギャムツォ氏に始めてチベット語を学ぶ。ダージリン官立ハイスクールに入学、チベット語も学ぶ。九月、ラーマ・シャブズンの許に寄寓。
一八九九(明治三十二)三十三歳。一月五日、チベット旅行準備のためダージリンを発ってカルカッタに戻る。一月二十日、ブッダガヤ着、二十一日同発。一月二十三日、セゴーリ着。一月二十六日、ネパール関所ビール・ガンジ着。二月一日、カトマンズ着。ボーダ大塔村ブッダバザラ氏邸に宿泊、チベット潜入の間道を探索す。二月二十八日、カトマンズ発。四月一日、ツクゼー着、五月十五日、同発。五月二十一日、ツァーラン着、ギャルツァン博士にチベット仏教および修辞学を学ぶ。(十二月七日、父善吉死去)
一九〇〇(明治三十三)三十四歳。三月十日、ツァーラン発、マルバ村へ戻る。六月十二日、マルバ村発、ドーラギリーに向かう。七月四日、ドーラギリーの北雪峰一万九千呎の尾根を越え、チベット領にはいる。マナサルワ湖に向かう。八月六日、マナサルワ湖着。八月十九日、ギャア・ニマ着(慧海の到達した最西北端)、ここよりラサに向かう。十二月五日、シカツェ着、タシ・ルフンプー寺に投宿。同月十五日、シカツェ発。
一九〇一(明治三十四)三十五歳。一月十二日、ランバ村着、ドルヂェ・ギャルボ家に寄寓、三月十四日同発。三月二十一日、ラサ着。四月十八日、セラ大学に入る。医療を施して名声あがる。七月二十日、法王ダライ・ラマに謁す。前大蔵大臣チャンバ・チョエサン氏邸に寄寓す。ガンデン・チー・リンボ・チェより教えを受く。
一九〇二(明治三十五)三十六歳。五月十三日。日本人たること露見す。五月二十九日、ラサ発。チベット脱出を計る。六月十四日、第五関門ニャートンを通過。チベットを脱出。六月十九日、カレンポン着。七月三日、ダージリン着。チャンドラ・ダース邸に投宿。翌四日よりマラリヤにかかり重態。九月、ダース氏の依頼により「チベット文典」の著述を始む(約三か月、一まず中止)。十月、ラサに疑獄事件起り、恩人知友投獄さると聞き、これを救出するためネパール行を企つ。十一月下旬、カルカッタ着。十二月、ガヤーにて井上円了、藤井宣正、大谷光瑞の諸氏と会談、ネパール行を反対さる。
一九〇三(明治三十六)三十七歳。一月十日、カルカッタ発、ネパールへ向かう。一月十五日、ビールガンジにてネパール総理チャンドラ・サムセール殿下に会い、梵語一切蔵経と日本の一切蔵経の交換を請願し許諾を受く。一月二十一日、カトマンズ着。二月十一日、三度総理殿下に謁し、ラサで投獄されている恩人を救出するため、ネパール国王を通じチベット法王に上書する事を願い承諾され、目的を達す。三月十二日、総理殿下より梵語仏典下附さる。三月十六日、カトマンズ発。四月二十四日、ボンベイ発。五月二十日、神戸着。東京麻布飯倉に寓居す。七月、「西蔵探検記」を「東京時事新報」「大阪毎日新聞」に連載(一五五回)。「蔵梵仏典購求会」を発起す。各地にて講演。十一月、将来品展示会が東京美術学校にて開催さる。
一九〇四(明治三十七)三十八歳。三月、「河口慧海師将来西蔵品図録」東京美術学校々友会編を画報社より出版。三月、五月、「西蔵旅行記」上・下を博文館より出版。六月、「生死自在」を博文館より出版。十月十一日、神戸出帆、第二回インド、ネパール、チベット行に発つ。十一月三日、カルカッタ着、カルカッタ大学の寄宿舎に入り、梵語研究を始む。タゴール氏邸に寄宿。
一九〇五(明治三十八)三十九歳。二月、カルカッタ発、三月、カトマンズ着、執権チャンドラ・サムセールと会見、漢訳一切蔵経を献ず。大塔村ブッダバザラ師邸に滞在、梵語を研究、梵語仏典多数を蒐集す。執権より梵語仏典多数を下附さる。十二月、カルカッタ帰着。パンチェン・ラマと会見、日本仏教について説明のため毎日訪問す。
一九〇六(明治三十九)四十歳。一月、パンチェン・ラマとチベット一切蔵経と日本一切蔵経との交換を約す。ブッダガヤ仏跡保存のため仏跡興復会を設立し幹事となる。シャンチ・ニケタン校にて梵語を学び、大正二年五月に至る。勉学の余暇に数回各地仏跡を巡礼す。
一九〇九(明治四十二)四十三歳。Three years in Tibetをマドラスで出版。ダージリンにて、蒙塵中のチベット法王ダライ・ラマと会見。
一九一〇(明治四十三)四十四歳。梵語研究。八月より数か月にわたって、インドおよびヒマラヤ等の風物に関して、雑誌「富之日本」に連載す。
一九一一(明治四十四)四十五歳。梵語研究。五月より翌年一月にかけて英文にて「日本仏教」を書く。
一九一二(明治四十五・大正一)四十六歳。梵語研究。高楠順次郎、長谷部隆諦、溪道元、増田滋良等の諸氏を各地の仏跡に案内す。
一九一三(大正二)四十七歳。五月、入蔵準備のため、ベナレスを引き払ってダージリンに赴き、パンチェン・ラマと書翰を交す。カルカッタに戻り、同市郊外ウッタラ・パラ村で入蔵の準備をする。十一月、日本より一切蔵経および旅費等到着、蒐集した仏典仏像等を日本へ送る。十二月二十日、カルカッタ発、シカツェに向かう。
一九一四(大正三)四十八歳。一月十二日、セポラ峠を越え、チベットに入る。一月二十一日、シカツェ着、パンチャイゴーのマニ寺に宿泊。「雪山歌旅行」を書く。医療を施す。四月十五日、荷物到着、パンチェン・ラマに日本一切蔵経を献ず。植物採集。七月二十七日、シカツェ発、ラサに向かう。八月七日、ラサ着、前大臣セルチュン氏邸に宿泊、知友と久濶を叙す。青木文教、多田等観、矢島泰次郎に会う。九月二十九日、法王に拝謁し、土産物を献上して古本西蔵蔵経の下附を願い出る。十月、ラテン寺に行き梵語仏典を捜すも皆無。
一九一五(大正四)四十九歳。一月三日、法王に拝謁し、西蔵語一切蔵経下附につき謝辞を述べる。一月十九日、ラサ発。一月二十八日、ギャンツエにて法王下附の蔵経を受け取る。二月一日、シカツェ着。パンチェン・ラマより蔵経を受ける。二月十四日、ツァン州シャール寺で梵典を発見す。四月十八日、シカツェ発。五月四日、ダージリン着。七月四日、ダージリン発。八月七日、カルカッタ出帆、この時彼と共にサラット・チャンドラ・ダース父子来朝す。九月四日、神戸着。東京麻布本村町の弟半瑞の家に寄寓す。九月十日より「入蔵記」を「東京朝日新聞」(二一回)に、九月十八日より「西蔵国情」(九回)を「いばらぎ新聞」に連載。十月八日、「チベット・ネパール・インド将来品展覧会」が東京美術学校にて開催さる。十二月、「西蔵の密教」を「高野山時報」に掲載。
一九一六(大正五)五十歳。三月、「西蔵美術品について」を東京美術学校校友会月報に掲載。四月二十一日、「西蔵文典」起稿。
一九一七(大正六)五十一歳。四月、「第二回入蔵談」を雑誌「有終」に掲載す。四月より東洋大学仏教講座にてチベット語を教授す。有志の寄金を得てチベット語研究生を募り、また翻訳に着手す。七月、「美術資料 チベットの部・ネパールの部・インドの部」を美術工芸会より出版。七月、「中外日報」に「西蔵将来大蔵経の疑義」と題する記事載り、いわゆる「大正の玉手箱」事件起る。
一九一八(大正七)五十二歳。一月、「西蔵国民の声」を「高野山時報」に掲載。「雪山会」を「仏教宣揚会」と改め、仏教講話会および日曜学校を開く。
一九一九(大正八)五十三歳。三月、「蔵梵蔵経和訳趣意書」および「一切経中漢訳未翻訳経書表」を発表す。四月、「驚異すべき事実と二大極端の衝突」を「高野山時報」に掲載す。「蔵漢両訳大毘廬遮那経の比較」を「密教研究」に掲載す。六月、「印度密教時代区劃考」を「密教研究」に掲載す。
一九二一(大正十)五十五歳。二月、黄檗宗の僧籍を返上す。(これより釈尊本尊主義の純粋仏教を宣揚せんとす)三月、「仏教和讃」を仏教宣揚会より出版。五月、「入菩薩行」を博文館より出版。(十月三日、母常死去)
一九二二(大正十一)五十六歳。一月、「西蔵伝印度仏教歴史 上」を貝葉書院より出版。六月、「仏教に現れたる長生不老法」(長生不老研究録収載)出版。十一月、「仏教日課」を仏教宣揚会より出版。
一九二三(大正十二)五十七歳。七月、武州御嶽に滞在「西蔵文典」述作。
一九二四(大正十三)五十八歳。一月、「梵蔵伝訳法華経」を世界文庫より出版。四月より宗教大学にて西蔵仏教を講述。四月、「印度歌劇シャクンタラー姫 上・下」を世界文庫より出版。六月、「漢蔵対訳勝鬘経」を世界文庫より出版。八月、青森菊地与太郎氏宅にて「西蔵文典」の著述にしたがう。
一九二五(大正十四)五十九歳。一月、「西蔵美術の系統と根源」を雑誌「寧楽」に連載。二月、「西蔵仏教の概要」を「現代仏教」に掲載。二月十五日、東京発。パンチェン・ラマと会見し、蔵経を入手するため北京に向かう。五月五日、東京着。九月二十一日、「西蔵文典」草稿完成。
一九二六(大正十五)六十歳。一月十二日、還暦に際して還俗を発表す。門弟信者相謀りて還暦記念会を起こし、将来のインド石仏を青銅にて複製頒布す。多羅葉「梵文法華経」を仏教宣揚会より出版。二月、「仏教実修門の一転機」を「中央仏教」に掲載。四月、大正大学チベット語教授。七月、「雪山歌旅行」を「東方仏教」に連載。九月、「在家仏教」を世界文庫より出版。十一月、「真実本尊の応身仏」を「中央仏教」に掲載。十二月、「菩薩道」を世界文庫より出版。
一九二七(昭和二)六十一歳。二月、「仏教宣揚会」を解散して「在家仏教修行団」を設立す。
一九二八(昭和三)六十二歳。二月、「西蔵仏教と酒肉食」を「現代仏教」に掲載。四月十日、「三番叟について」を「東京朝日新聞」に発表。四月、「漢蔵対照国訳維摩経」を世界文庫より出版。六月、「西蔵仏教に就て」を「朝鮮仏教」に掲載。八月、「日本仏教と西蔵仏教との仏身観相違」を「現代仏教」に掲載。十二月、「ナルタン版西蔵大蔵経甘珠目録」を日本蔵梵学会より出版。
一九二九(昭和四)六十三歳。三月十六日、東京発、四日七日、通遼着。パンチェン・ラマに拝謁。四月十九日門司着。十二月、「釈迦一代記」を金の星社より出版。
一九三〇(昭和五)六十四歳。五月、世田谷代田に居を定む。七月、「近松の難文句ヤット解決」「何の雅文句ぞ、これもチベット語」を「東京朝日新聞」に発表す。
一九三一(昭和六)六十五歳。四月「ヒマラヤの山光」を日本蔵梵学会より、十二月、「世界の秘密国西蔵」(世界現状大観第一二巻収載)を新潮社より、「梵蔵和英合璧浄土三部経」を大東出版社より出版。
一九三二(昭和七)六十六歳。一月、「語源の解らぬ邦語の新発見」を「読売新聞」に発表す。
一九三三(昭和八)六十七歳。十月十七日、東京発、橋本光宝氏を帯同し、北京に向かう。十月二十四日、北京着。十一月二十八日、百霊廟着。パンチェン・ラマと会見し、蔵経譲り受けを交渉し承諾を得る。十二月十三日、東京着。
一九三四(昭和九)六十八歳。三月、「蔵文和訳大日経」を西蔵経典出版所より出版。
一九三五(昭和十)六十九歳。五月、「蔵和辞典」編纂計画に着手。十二月、「古代印度ヒマラヤ山の国」を日印協会々報(五八号)に掲載。
一九三六(昭和十一)七十歳。八月、「正真仏教」を古今書院より出版。十一月、「釈迦一代記」(再版)を古今書院より出版。「西蔵仏教の戒律」を発表。十二月、「西蔵文典」を大東出版社より出版。
一九三七(昭和十二)七十一歳。七月、「西蔵語読本第一」(改訂版)を大日本蔵梵学会より出版。
一九三九(昭和十四)七十三歳。三月、「西蔵文化と我国との関係」を啓明会より出版。
一九四〇(昭和十五)七十四歳。五月、チベット語梵語経書類を財団法人東洋文庫に寄贈し、同文庫と「蔵和辞典編纂費助成契約」成立。以来毎日同文庫内河口研究室に通い「蔵和辞典」の編纂に専心従事す。
一九四一(昭和十六)七十五歳。七月、「西蔵旅行記」(再版)を山喜房仏書林より出版。
一九四五(昭和二十)七十九歳。二月十六日、脳溢血を起し二月二十四日、死去。青山墓地に葬る。戒名雪山道人河口慧海。
(本年譜は故河口正氏作製『河口慧海』〈春秋社刊〉所収のものが元になっている)