チベット旅行記(上)
河口慧海
目 次
校注者はしがき
初版序
第一回 入蔵(チベット入り)決心の次第
第二回 出立前の功徳
第三回 探検の門出および行路
第四回 語学の研究
第五回 尊者の往生
第六回 入蔵の道筋
第七回 奇遇
第八回 間道の穿鑿《せんさく》
第九回 ヒマラヤ山中の旅行
第十回 山家の修行
第十一回 北方雪山二季の光景
第十二回 また間道の穿鑿
第十三回 行商の中傷
第十四回 高雪峰の嶮坂《けんぱん》
第十五回 チベット国境に入る
第十六回 雪中旅行
第十七回 入国の途上
第十八回 白巌窟の尊者
第十九回 山中の艱難
第二十回 月下の座禅
第二十一回 美人の本体
第二十二回 一妻多夫と一夫多妻
第二十三回 大河を渡る
第二十四回 渇水の難、風砂の難
第二十五回 氷河に溺る
第二十六回 山上雪中の大難
第二十七回 人里に近づく
第二十八回 阿耨達池《アノクタッチ》の神話
第二十九回 山中の互市場《ごしじょう》
第三十回 女難に遭わんとす
第三十一回 女難を免る
第三十二回 天然の曼荼羅《まんだら》廻り
第三十三回 兄弟喧嘩
第三十四回 兄弟らと別る
第三十五回 剽盗《ひょうとう》の難
第三十六回 眼病の難
第三十七回 再び白巌窟を訪う
第三十八回 公道に向う
第三十九回 ようやく公道に出ず
第四十回 公道を進む
第四十一回 途中の苦心
第四十二回 同伴者の難問
第四十三回 物凄《ものすご》き道
第四十四回 始めて麦畑を見る
第四十五回 第三の都会を過ぐ
第四十六回 サッキャア大寺
第四十七回 チベット第二の府に至る
第四十八回 大ラーマ、文典学者
第四十九回 異域の元旦
第五十回 二か月間の読経
第五十一回 不潔なる奇習
第五十二回 正月の嘉例
第五十三回 防霰奇術
第五十四回 修験者の罰法
第五十五回 遙かにラサを望む
第五十六回 法王宮殿の直下に着す
第五十七回 チベット人を名乗る
第五十八回 壮士坊主
第五十九回 チベットと北清事変
第六十回 セラ大学生となる
(※地図は底本にあるものではなく、ネット上から拾ったものを参考のため同梱しました。 校正子)
[#地図(tibet_map.jpg)]
[#改ページ]
校注者はしがき
河口慧海《かわぐちえかい》は我が国近代が生んだ傑僧の一人である。
明治二〇年代の当時、仏典翻訳上の問題に悩んでいた師は、大乗教の仏典が仏教の本家たるインドには跡を絶ち、その原典を得るためには、ネパール、或いはチベットに求めなければならないという欧米の東洋学者の説を聞いた。そこで師は、我が国未伝の仏典を求めてチベット行を決心された。当時チベットは、単に寒冷|嶮岨《けんそ》の地であるばかりでなく、国を鎖《とざ》し、入国することはほとんど不可能であった。しかし師は明治三二年、仏教僧侶の本旨たる乞食《こつじき》を行いながら、幾多の困難を冒し、ついに日本人として初めてチベットに潜入された。政治的、軍事的保護もなく、磁石をたよりに単身この壮挙を行ったのである。チベットでは医者として名声を挙げ、ダライ・ラマに拝謁するにいたったが、しばらくして日本人たることが露顕し、チベットを脱出された。
この間の記録が本書『チベット旅行記』である。その叙述は口述筆記であるためか、饒舌《じょうぜつ》であり多少講談調ではあるが、そこに記されているチベットの国情、風俗などは、当時を知るすぐれた記録であるばかりでなく、その面白さは手に汗にぎらしめる感がある。本書が刊行された当時、この記録に疑義を持つ者もあったと聞くが、第二次大戦後、川喜田二郎氏などのヒマラヤ行の結果、その真実が確かめられた。本書の英訳版も、欧米ではチベットに関する一級の資料として位置づけられているという。確かにこの記録の中には、ずいぶん一人よがりの点もある。痛烈なチベット批判が随所に見られる。しかし背後には公正な鋭い観察と、共に生活したチベットの民衆に対する深い共感が流れていることに、読者は気づくはずである。
『チベット旅行記』は、明治三六年「東京時事新報」と「大阪毎日新聞」に「西蔵探検記」として連載され、翌年『西蔵旅行記』とあらためられて博文館より刊行された。昭和一六年には、山喜房仏書林から改訂版が刊行されたが、民俗学上の重要な点などが削除されているため、本書は初版を底本にした。
今日その原本を手に入れることは難しく、表記上のことなどから今の読者には非常に読みにくい。そこで本書では多くの人に紹介することを第一義とし、一冊の簡便な形に編集しなおすことにした。そのため次の操作を行った。
上、下二巻の大冊であるため、チベットの対外関係を記した「チベットとロシア」「チベットと英領インド」「輿論」「清国とチベット」「ネパールの外交」、他に「チベット宗教の将来」「舞踏」、チベット脱出の途中を記した一章「荷物の延着、途中の滞留」を残念ながら削除した。他の章でも削除した部分がある。また同名の章で(一)(二)と別つものは一つにまとめた。
原文はほぼ総ルビで、ゴチックの小見出し以外改行がなく、本来句点とされる部分は読点で区切られており、一行中ほとんど読点がない。そこで難解な漢字はひらき、大幅に句読点を加え、更に適宜改行を施した部分がある。固有名詞の不統一は統一し、「西蔵」「ラハサ」「カタマンド」などの表記も通例用いる表記に訂正した。また促音の片仮名は平仮名にした。
昭和五三年一月 壬生台舜
[#改ページ]
初版序
チベットは厳重なる鎖国なり。世人呼んで世界の秘密国という。その果して然《しか》るやいなやは容易に断ずるを得ざるも、天然の嶮に拠りて世界と隔絶し、別に一|乾坤《けんこん》をなして自ら仏陀の国土、観音の浄土と誇称せるごとき、見るべきの異彩あり。その風物習俗の奇異、耳目を聳動《しゅんどう》せしむるにたるものなきにあらず。童幼《どうよう》聞きて楽しむべく、学者学びて蘊蓄《うんちく》を深からしむべし。これ抑《そもそ》も世界の冒険家が幾多の蹉跌《さてつ》に屈せず、奮進するゆえんなるか。余のこの地に進入せしは勇敢なる冒険家諸士に倣《なろ》うて、探検の功を全うし、広く世界の文明に資せんとの大志願ありしにあらず。仏教未伝の経典の、かの国に蔵せられおるを聞き、これを求むるのほか、他意あらざりしかば、探検家としての資格においては、ほとんど欠如せるものあり。探検家として余を迎えられたる諸士に十分なる満足を供するあたわざりしを、深く自から憾《うら》みとす。されど、余にも耳目《じもく》の明ありて専門の宗教上以外、社会学上に、経済学上に、或いは人類に無上の教訓を与うる歴史の上において、その幼稚なる工業中別に一真理を包摂する点において、地理上の新探検に就いて、動植物の分布に就いて等その見聞せる所も尠《すくな》からざりしかば、帰朝以来、これら白面《はくめん》の観察を収集して、梓《し》に上《のぼ》さんと欲せしこと、一日にあらざりしも、南船北馬暖席に暇《いとま》なく、かつ二雪霜の間に集積せる所は、尨然《ぼうぜん》紛雑し容易に整頓すべからずして、自ら慚愧《ざんき》せざるを得ざるものあり。日頃旅行談の完成せるものを刊行して大方の志に酬いよと強うる友多し。余否むに辞なし。すなわち曾《かつ》て時事新報と大阪毎日新聞とに掲載せしものを再集して梓《し》に上《のぼ》せて、いささか友の好意に対《こた》え、他日を竢《まち》て自負の義務を果さんと決しぬ。チベットは仏教国なり。チベットより仏教を除去せば、ただ荒廃せる国土と、蒙昧《もうまい》なる蛮人とあるのみ。仏教の社会におよぼせる勢力の偉大なると、その古代における発達とは、吾人の敬虔に値いするものなきにあらず。この書この点において甚しく欠けたり。これ余の完全なる旅行談を誌《しる》さんと欲して努力せしゆえん。然れども事《こと》意と差《たが》い容易に志を果すあたわず、敢えて先きの所談を一書として出版するに至る、自ら憾《うらみ》なきあたわず。即ち懐を述べて序文に代う。
明治三十七年三月上
河口慧海誌
[#改ページ]
チベット旅行記(上)
[#改ページ]
第一回 入蔵(チベット入り)決心の次第
≪チベット探検の動機≫ 私がチベットへ行くようになった原因は、ドウか平易にして読みやすい仏教の経文を社会に供給したいという考えから、明治二四年の四月から宇治の黄檗《おうばく》山〔黄檗宗大本山万福寺。京都府宇治市にある。承応三年(一六五四)中国から来朝の隠元禅師により開創された〕で一切《いっさい》蔵経〔一切経また大蔵経ともいう。仏教の経典、律書、論書を集成した一大叢書をいう。ここでは漢訳経典を指しているが、そのほかサンスクリット語、パーリー語、チベット語、蒙古語などの経典が多数現存している〕を読み始めて二七年三月まで、ほかのことはソンなにしないで、もっぱらそのことにばかり従事しておりました。
その間に私が一つ感じたことがあります。ソレは素人《しろうと》にも解《わか》りやすい経文を拵《こしら》えたいという考えで、漢訳を日本語に翻訳したところが果してソレが正しいものであるかドウか、サンスクリット〔サンスクリタ(Samskrta)「完成された」の意味でインドの古典語。ヴェーダを始めとする哲学、仏教経典、その他文学、歴史、科学などの諸文献が多量に存在する〕の原書は一つでありますが、漢訳の経文は幾つにもなっておりまして、その文の同じかるべきはずのものが、或《ある》いは同じものもあればまた違っているのもあります。甚《はなは》だしきは全くその意味を異にしているのもあり、また一の訳本に出ておる分がほかの本には出ておらないのもあり、順序の転倒したのもあるというようなわけで種々雑多になっております。
しかし、その梵語《ぼんご》の経文を訳した方々《かたがた》は、決して嘘《うそ》をつかれるような方でないからして、これには何か研究すべきことがあるであろう。めいめい自分の訳したのが原書に一致していると信じておられるに違いあるまい。もししからば、ソンなに原書の違ったものがあるのか知らん。或いはまた訳された方々がその土地の人情等に応じて、幾分か取捨を加えたような点もあり、その意味を違えたのもあるか知らん。何にしてもその原書によって見なければ、この経文のいずれが真実でいずれが偽《いつわ》りであるかは分らない。これは原書を得るに限ると考えたです。
≪原書の存在地≫ ところでこの頃原書はインドにはほとんどないらしい。もっともセイロンには小乗の仏典〔小乗とは「小さな乗物」の意味、大乗教徒が旧来の仏教を貶称《へんしょう》したもの。したがって自ら小乗であると呼称するものはない。現在は部派仏教、南方仏教などといわれ、パーリー語による経、律、論の三蔵を伝えている〕はあるけれども、ソレはもちろん我々にとって余り必要のものでない。最も必要なのは大乗教の仏典〔西紀前一、二世紀頃、新しい仏教運動が興り大乗と称したが、その独自の思想を表現するために、般若《はんにゃ》経、法華経、華厳経、阿弥陀経などの新しい経典が編簒された。さらに後にインド宗教の影響をうけた密教経典も大乗教の仏典とされている〕であります。しかるにその大乗教の仏典なるものは、仏法の本家なるインドには跡を絶って、今はネパール或いはチベットに存在しているという。その原書を得るためには、是非ネパール或いはチベットに行かなくてはならぬ。
なお欧米の東洋学者の説によると、チベット語に訳された経文〔チベット語訳経典の多くは口語的なチベット語ではなく、サンスクリット語の逐語訳であり、実はサンスクリット語の直訳であるといわれる。したがって、チベット訳からサンスクリット語に還元することも可能であるという〕は、文法の上からいうても意味の上からいうてもシナ訳よりも余ほど確かであるという。その説はほとんど西洋人の間には確定説のようになっております。果してチベット語の経文が完全に訳せられてあるものならば、今日の梵語の経文は世界にその跡を絶ったにしても、そのまたチベット語に訳された経文によって研究することができる。なおチベットの経文と漢訳の経文とを比較して研究するのも余ほど学術上|面白《おもしろ》いことでもあり、また充分研究すべき価値のあることであるから、これを研究するには是非チベットに行って、チベット語をやらなければならぬという考えが起りました。この考えがつまり
≪入蔵を思い立った原因≫ でありまして、ちょうどその時が明治二六年四月で、今より満十年余以前のことでござります。
けれどもチベットは厳重な鎖国《さこく》主義を実行している国で、有力なる西洋人が沢山の金を費やし多くの光陰を費やし、種々の準備を調《ととの》えて行ってすらも今日失敗に帰している者が多い中に、我々ごとき一介《いっかい》の貧僧が出かけたところが、果して目的を達することができるかドウか、また自分はそんな冒険なことをやらないでも、黄檗宗の一寺の住職になっておりさえすれば、ごく安楽に過せる位置までに進んでおります。現に東京本所の五百|羅漢《らかん》〔当時、東京の本所緑町にあったが、明治四十二年移転、現在は目黒区下目黒にある。鉄眼の弟子元慶の開基〕の住職もし、その後は宗内にも河口|慧海《えかい》という名が喧《やかま》しくいわれるようになったから、自分さえ寺を持つという考えがあれば、非常に便宜な地位を占めておったのであります。
ソレを打ち棄てて、死ぬか活きるか分らない国へ行くということは、いかにも馬鹿げた話のようですけれども、これは畢竟《ひっきょう》世間普通の考えで、真実事業のためには便宜の地位を犠牲《ぎせい》にするくらいのことはわけのないことであります。ただこの際、自分の父母なり同胞なり他の朋友なりが、私のあるために幾分の便宜を持っている者もあり、また私の教えを受けることを好んでおる信者も沢山ある。ソレを打ち棄てて行くことは実に忍びない。また彼らは死にに行くようなものだからよせといって止めるに違いないけれども、ソレでは大切の原書によって仏法を研究することができない。ついてはこれらの情実に打ち勝つだけの決心をしなければ、到底出かけるわけに行かぬと考えました。
この理由は、私の決心をするのに一の補助をなしたもので、その実私は二十五歳で出家してから、寺や宗門の事務のために充分仏道を専修することができなかった。一切蔵経を読んでいる中においても時々俗務に使われることがあって、せっかく出家をした甲斐《かい》がないから、かの世界第一の高山ヒマラヤ山中にて真実修行をなしうるならば、俗情を遠く離れて清浄《しょうじょう》妙法を専修することができるだろうという、この願望が私のヒマラヤ山道を越えて入蔵する主なる原因でありました。
≪決心の理由≫ 事の行きがかり理の当然……なさねばならぬはずのことでもなかなか決心のつかぬことが多いもので、殊《こと》に外国行きとか或いは困難な事業に当る場合には、誰しも決心のつきがたいものである。私は仏教を信じているおかげで、世間普通の人々が決心するのに困ることをそんなに困らなかった。普通からいうと、何か一事業を起さんとするにはまず金が資本であると、こう決めて外国行きにもまず金を調《ととの》えてから行くとするのである。しかるに、我が本師シャカムニ仏は我の教うる戒法を持つ者は、いずくに行くとても凍餓《とうが》のために死すということはないと命ぜられた。よりて我ら仏教僧侶は戒法を持つことが資本である、旅行費である、通行券である。そして釈尊の教えられた最も謙遜《けんそん》の行《ぎょう》、すなわち頭陀乞食《ずだこつじき》〔仏道修行者が衣食住についての執着を捨てるために行ずる法。頭陀はサンスクリット語、dhuta(振り離された)の音写〕を行うて行かんには何ぞ旅行費なきを憂えんや、というようなわけで、これが無銭で大旅行を決心した理由であります。
殊に天上天下|唯我独尊《ゆいがどくそん》のシャカムニ如来が、至尊の王位と金殿玉楼、すなわち天下の富貴を捨てて破衣乞食の出家となって、我ら一切|衆生《しゅじょう》のために身命を抛《なげう》って御修行せられたことを思いますと、我らの苦労は何でもないことと容易に決心がつきます。誠にありがたいことで、この後《のち》とてもチベット旅行中いろいろの困難が起りましたが、常にシャカムニ仏を念《おも》うてその困難を忍んだことであります。
≪まずインドを知る必要≫ からインドのセイロンへ留学せられて、その頃帰って来られた釈興然《しゃくこうねん》〔明治時代の律僧。この時、慧海は鈴木大拙師と机を並べている〕という方があって神奈川在におられた。そこへ行って学んだらインドの事情が分るだろうと思って、修学にまいりました。始めは充分親切にパーリー語〔中期インド=アーリア語中の俗語(プラークリット、prakrta)の一種で、スリランカ、ビルマ、タイなどの仏教経典およびその注釈書などに使用されている言語〕の経文および文典等を教えてくれた。ちょうど一年余りおりましたが、その間に同師から聞いたところの話は、「小乗教はすなわち純正の仏教である。日本では小乗といっているけれども、その実小乗という名は大乗教者がつけた名で、小乗その者には決してソウいう名はない。純粋の仏教はこの教えに限る。それ故に本当の僧侶は、黄色の袈裟《けさ》を着けなければならぬ。まずその心を正しゅうせんとする者は、その容《かたち》を正しゅうせよであるから、僧侶たる者はまず黄色三衣を着けるが第一着である。お前も黄色の袈裟を着けるがよい」といわれた。
その時分、興然師はその言葉を実行するために正風会というものを起しておられた。その時に私は小乗の教えは学びますけれども、その主義に従いその教えを守ることができませぬと答えたので、始終議論が起って釈興然師と衝突しておったです。私が大乗教のことをいうと、師は空想取るにたらぬというふうで、始終詰問されたけれども、私はまた余り興然師の小乗教を信じておられるのが偏狭でお気の毒に思うたです。ですからパーリー語は師匠として学んでおりましたが、その主義にいたっては全然反対で、興然師のいうことに一度も従ったことはなかった。興然師も不快に感じられたとみえて、或る時規則を設けられた。その規則は、「大乗教を云々《うんぬん》してこの真実の仏教に遵《したが》わない者は、ここにおることを許さぬ。黄色三衣を着けた僧侶でなければ、ここにおることを許さぬ」という内規を拵《こしら》えて私に示された。
その時に私は「これじゃア私はおることはできませんが、これから私は食費その他の入費を出し寺の用事も今までどおり働きますから、ただパーリー語だけの弟子として教えてくれませぬか」といったところが、ソレはいけないという話であった。その時分に興然師が熱心に私に説かれたことは、「そんな大乗教などを信じて、チベットへ行くなんという雲を掴《つか》むような話よりか、ココに一つ確実なことがある。ソレはまずセイロンに行って真実の仏教を学ぶことである。学べば仏教の本旨が分るから、大乗教云々などいうてはおられはしない。私の弟子として行きさえすれば船賃も出るし、また修学の入費もできるわけだから、ソウいうふうにして行くがよかろう。お前達がドノくらい骨を折っても、外国で学ぶ金が完全にできるものじゃない」といって、しきりに勧められたのです。
時に私は「たといドレだけお金を戴き、ドウいう結構な目に遇《あ》いましたところが、私が日本国家に必要なりと信ずる大乗教の主義を棄てて、あなたの信ずる小乗教に従うことはできません。今日まで教えを受けたのはありがとうございます。けれども、ソレはただ語学上の教えを受けただけで、その主義にいたっては始めから教えを受けたのでないから、これは全くお断りをいたします」と答えたところが、師は余ほど不快を感ぜられ、早速追い払われてしまいました。ソレがちょうど明治三〇年の二月でございます。
第二回 出立前の功徳
≪禁酒、禁烟《きんえん》の餞別《せんべつ》≫ 私は釈興然師に追い出されましたから、東京に帰ってきましたが、到底日本におったところがチベットの事情はよく分らぬから、ボツボツインドの方へ出かけて行くことにするがよかろうという考えで、東京の友人および信者等に別れに行きました。ところがその中には何か餞別をしたいということで、いろいろ尋ねがありましたから、私はマア大酒家《おおざけのみ》には酒を飲まぬことを餞別にしてくれ、また煙草《たばこ》を喫《の》んで脳病を起すような先生には、禁煙を餞別にして下さいといって頼みました。ソウいうことを餞別にしてくれた人が、四十名ばかりありました。その時から今日まで堅くその餞別をたもっておられる人もあり、またおられぬ人もあるようですが、とにかくこれらの餞別は確かに私にとっては善い餞別でございました。ソレから大阪へ帰り、大阪でもまたソウいう餞別を多分にもらいました。この中でも殊に私をして愉快に感ぜしめ、これが長途の旅行中、私の命を救う原因になったかも知れぬと思われた有力の餞別が三つあります。東京で一つ、大阪で一つ、堺《さかい》で一つです。
≪不殺生の餞別≫ 東京であったことは本所の高部|十七《とな》というアスファルト製造の発明人――今でも生存しておるですが――、この人は東京府下での網《あみ》打ちの名人で、この人が網を打って廻った跡には魚が一尾もいないというほどの評判であった。それほど上手なくらいですから、また非常に嗜《すき》で、少しくらいの病気は網打ちに行くと癒《なお》るという。ちょうど私が出立の際、甚だ親しい信者であるからワザワザ尋ねて行ったところが、何故か同氏は非常に憂《うれ》えておられた。ドウいうわけかと尋ねますと、何でも二歳《ふたつ》か三歳《みっつ》の子供がありましたが、その可愛《かわい》い盛りの愛児がこの間死んだので、私の妻はほとんど狂気のごとくに歎《なげ》き、私も漁に出かけても少しも面白くないという愁歎《しゅうたん》話。
ソコデ私は尋ねた。「あなたは子供を失うたのがそれほど悲しいか。もしあなたの愛児を縛《しば》り、これを殺して或いは炙《あぶ》り、或いは煮《に》て喰う者があった時分には、あなたはこれをドウ思うか」。氏は答えて、「ソリャ鬼だす、人ではありません」という。ソレから私は「そんならばあなたは魚類に対しては正しく鬼である。かの魚類といえども、生命を愛《おし》むの情にいたっては人間と同じことである。もしあなたの失うた愛児を悲しむの情が真実であるならば、何故かの残忍なる網打ちをよさないか。もしこの業があなたの本職なれば、ソリャどうも生業《なりわい》のためにやむをえんこともあろうけれども、ただ娯楽《たのしみ》のためにするのは実に無残、無慈悲のことではないか」と、だんだん因果応報の真理を細かに説明して、遂に不殺生戒をもって我がチベット行きの餞別にせよと勧告いたしました。
始めはすこぶる難色がありまして、「ドウも困った、これをよしてしまってはほかに何にも楽しみがない」といって、非常に困っておりましたが、だんだん私の熱心に説くところと、かつ私が命を棄ててもチベット行きを決行しようという餞別としては、これが適当であると感じて、決然立って家の隅にかけてあるところの大きな網を持ち来たり、私に与えていいますには、「あなたのお説に従い、私は今より不殺生戒を堅く持ちます。この不殺生戒を堅く持つことをもって、あなたのチベット行きの餞別にいたします。その証としてこの網をあなたに差し上げます。ついてはこの網はあなたが売ろうが棄てようがあなたの御随意でございます」。聞いて私は同氏のお娘御に火を起してもらって、大きな火鉢の中へその網を入れて燃しかけますと、その傍にいる人々は皆驚いてしまったです。私はその網の燃え上る火を見まして、「法界の衆生、他の生命を愛する菩提《ばだい》心を起し、殺生的悪具をことごとく焼き尽すにいたらんことを希《こいねが》う」と念じ、ソレからまた高部氏に向い「この網を焼いたところの火は、足下の煩悩《ぼんのう》罪悪を焼き滅した智慧《ちえ》の光である。爾来《じらい》この智慧の光を心として、法界に生存せる衆生の性命を愛せらるるように」と説教いたしました。
≪熱誠人を動かす≫ ところがその傍に同人の一族で小川勝太郎という人がおりました。この人もまた高部氏と同じく網打ち、銃猟をする人ですが、その状態を見て非常に感じ、誓いを立てていうに「我れ不殺生をもってあなたのチベット行きを送る。もしこの誓を破らば不動明王それ我に死を賜え」と。その時には私は我が生命を救われたかのような喜びを生じたです。堺では私の竹馬の友である伊藤市郎氏。この方もよく慰《なぐさ》みに網打ちに行かれたですが、高部氏の話をして諫《いさ》めたところが、幸いに私の請《こい》をいれ、網を焼いて餞別にしてくれた。大阪では安土町の渡辺市兵衛氏。この方は以前からナカナカの資産家で、今は株式仲買業および朝鮮で交易することを専門にしておりますが、以前は船場《せんば》で、泉清《いずみせい》という名高い鶏商屋《かしわや》でありました。同氏は禅学熱心家で、殊にソウいう殺生な商売をしなくても充分生活のできる人であるにかかわらず、依然として鶏商《かしわや》をやっておりますから、東京からしばしば書面を送って諫め、また私がチベットへ行く時に諫めたところが、「いかにも貴意を諒した。しかし今急に商売換えはできぬから、おもむろに他の商売を見つけて必ず廃業するから」といって、餞別にしてくれました。その約束どおり、私が出立してから一年有余の後に、かの鶏商を断然廃業して、今の商売に移られたのです。
これらのことは普通の人の考えからみれば、余り過ぎたる行いなるかのごとく感ずるかも知れぬけれども、病気に対する薬は、いつも普通の人に対しては、過ぎたる薬を用うればこそ全快もするのです。普通の人に対し普通の教えを施す場合と、重病人に対し良薬を施す場合とは違うということをよく知らなければならぬ。これらの不殺生の原因、すなわち毎日多くの魚族の命を殺すところの網を焼き、或いはその業を廃するにいたらしめた功徳は、まさしく私がヒマラヤ山中およびチベット高原において、しばしば死ぬような困難を救うたところの最大原因となったのではあるまいかと、私は常に思うておったです。仏の護りは申すまでもないことながら、この信実なる餞別が私のためにドレだけ益をしたか分らぬと思って、いつも諸氏の厚い信心を感謝しました。
デいよいよ出立するには金が要ります。私の貯金が百円余、ほかに大阪の渡辺、松本、北村、春川、堺の肥下、伊藤、山中等の諸氏が骨を折って餞別にくれられた金が、五百三十円ほどありました。その内百円余り旅行の準備に使い、五百円余りを持って、いよいよ国を出立することになりました。
[#改ページ]
第三回 探検の門出および行路
≪故山に別る≫ 私がいよいよ出立の場合になると、世の中の人は「彼は死にに行くのだ、馬鹿だ、突飛《とっぴ》だ、気狂いだ」といって罵詈《ばり》するものがあったです。もっとも私の面前へ来てソウいうことをいうてくれた人は信実に違いないが、蔭で嘲笑《せせらわら》っていた人は、私の不成功をひそかに期しておった人かも知れない。けれども、それらの人も私に縁あればこそ悪口《あっこう》をいってくれたので、かえってその悪口が善い因になったかも知れない。
多くの人が嘲《あざけ》り笑う中にも、真実に私を止めた人もあります。もはや明日出立するという前晩、すなわち六月二四日大阪の牧周左衛門氏の宅におりますと、大分止めに来た人がありました。その中でもごく熱心に止められたのは、今和歌山に判事をしている角谷大三郎という人です。「世の物笑いとなるようなことをしてはならず。もはや君は仏教の修行も大分にできているし、これから衆生済度をしなくちゃアならぬ。殊に今日本の宗教社会に人物のない時に、ワザワザ死にに行く必要がないじゃないか」といってだんだん勧められたが、私は「死にに行くのか死なずに帰るかソリャ分らんけれども、まず私は一旦立てた目的であるからどこどこまでも成就するつもりである」というと、「ソレじゃア死んだらドウする、成就されんじゃないか」「死ねばそれまでのこと、日本におったところが死なないという保証はできない。向うへ行ったところが必ず死ぬときまったものでもない。運に任して、でき得る限り良い方法を尽して事の成就を謀《はか》るまでである。ソレで死ねば軍人が戦場に出て死んだと同じことで、仏法修行のために死ぬほどめでたいことはない。ソレが私の本望であるから惜しむにたらぬ」というようなことで、長く議論をしておりましたが、同氏はドウ留めても肯《き》かぬとみられたか、若干《いくばく》の餞別を残して夜深けに帰って行かれた。そのほかにも幾ら留めてみても留らんといって、涙をもって別れを惜しんで送ってくれた信者の方々も沢山ありました。
世はさまざま、六月二五日朝大阪を出立し、その翌日朋友の肥下、伊藤、山中、野田等の諸氏に見送られ、神戸の波止場から和泉《いずみ》丸に乗船しました。その時に故国に別るる歌があります。
久方の月のかつらのをりを得て
帰りやすらん天津日国《あまつひくに》に
≪航海の快楽≫ 郷里の親友信者が波間のボート中より、各自に帽子或いはハンカチーフを空に振りつつ、壮快に西に向って進行する我が舟を見送りましたが、その後は和田の岬《みさき》より古きなじみの金剛、信貴、生駒の諸山に別れて、唯だ我が一心を主として行くこととなりました。門司を過ぎ玄界灘より東シナ海を経て香港に着くまでは、船長および船員らと親しくなって、時々法話をいたしました。香港でタムソンという英人が乗船した。彼は日本に十八年間もおったというので、なかなか日本語をよく使う。彼は非常な耶蘇《ヤソ》教の熱心家で、私と大変な議論が始まって船中の評判になった。なかなか愉快のことであり、また殊に船員らは法話を非常に喜んで聞きましたから、私も喜んで一の歌がでました。
御仏のみくにゝむかふ舟のうへに
のり得る人の喜べる哉《かな》
≪藤田領事を訪《と》う≫ 七月一二日にシンガポールに到着しました。同地の扶桑館《ふそうかん》という宿屋に着いて、一五日に日本領事館へ尋ねて行きました。その時分の領事は藤田敏郎という方で、領事は私の行く前から、もはや私の乗って行った和泉丸の船長の話で、チベット行きのためにこの地方を過ぎるということを知っておられた。デ「あなたはチベットに行かれるそうだが、ドウいう方法で行かれるか。チベットに行くのは非常の困難だ。福島〔福島安正(一八五二〜一九一九)。陸軍大将。軍事視察のため、しばしばアジア各地を歩いた。シベリア単騎横断で有名〕さんでさえダージリンまで行かれて、ドウもチベット行きは非常の困難だといって帰られたくらいだから、無論駄目なことであろう。マア軍隊を率いて行くか、或いは乞食《こじき》になって行かれるか、どっちか知らんですが、一体ドウいうふうにして行かれるか」という問いであったです。「私はもとより僧侶のことで軍隊を率いて行くということは思いも寄らぬ。仮《よ》し率いて行くことができるにしたところが、私はソウいうことは望まない。出家は乞食をして行くのが当り前ですから、乞食になって出かけて行くつもりです。ドウせ今からこうああと充分方法を考えておきましたところが、その方法が果して間に合うか合わぬか分らぬから、到る処に従い、その機に応じて方法は自ら生じて来るであろうと思っておりますから、これから出かけて行きます」といったところが、領事はドウも危ないというような様子で、手を拱《こまね》いておられました。
≪サラット師を訪う≫ 七月一九日、英国汽船ライトニングに乗りピナン港を過ぎて七月二五日にカルカッタ市の摩訶菩提会《マハーボーテソサイティー》〔一八九一年、セイロンの仏教徒アナガリカ・ダンマパーラにより創立された仏教団体。現在もインド各地に支部、寺院をおき、仏教書の刊行や社会事業を通して伝道活動を行っている〕に着き、そこに数日|逗留《とうりゅう》しておりましたが、同会の幹事でチャンドラ・ボースという人があります。その人が私に向い、「あなたは何の目的でこちらにお越しになったか」という尋ね。「私はチベットに行くのが目的で、チベット語を研究するためにまいりました」「ソレには大変好い処がある。チベットで修学した人で、今チベット語と英語の大辞典を著《あらわ》しつつあるサラット・チャンドラ・ダース〔インドの仏教学者。ベンガル生れ。一八八二年、イギリス政府の命により北京経由でチベットの都ラサに潜入した。いわゆる国情調査にあたるパンディットの一人。著書多数があるが、チベット語―英語辞典は有名である〕という方がダージリンの別荘にいる。そこへ行けばあなたの便宜を得らるるだろう」という。「ソレは好い都合であるから、ドウか紹介状を下さらぬか」と頼んで紹介状をもらい、八月二日に在留日本人に送られてカルカッタより汽車に乗って北に向い、広大なる恒河《こうが》を汽船にて横ぎりにして、また汽車に乗ってヤシの林や青田の間を北に進行しました。我が国で見ることのできない大きな螢《ほたる》が沢山飛んで、青田の水にうつる影のおもしろさ。それがちょうど月が西原に沈んだ後のことでござりました。御仏の昔も思い出《い》でまして、
御仏のひかり隠れし闇《やみ》ながら
猶《なほ》てりませと飛ぶほたるかな
翌三日の朝、シリグリーというステーションで小さな山汽車に乗り替えました。その汽車が北に向ってヒマラヤ山にだんだん上りました。欝茂《うつも》せる大林すなわちタライ・ジャンガル〔タライとはヒマラヤ山系の山すそ地帯。ジャングル地帯や荒蕪地帯をなす〕を過ぎて、汽車の紆曲《うきょく》することは大蛇のごとく、汽関車の声は幾千の獅子《しし》の奮迅《ふんじん》もかくやと思われるほどで、山谷を震動して上りました。
山道五十マイルを上りまして午後五時頃、ダージリンに着きましたが、カルカッタよりは三百八十マイルを経たのであります。停車場《ステーション》からダンリーという山|駕籠《かご》に乗って直《じき》にサラット師の別荘にまいりましたが、大変立派な別荘で私はそこへ泊りこむことになりました。
第四回 語学の研究
≪サラット居士の助力≫ 私がサラット師の別荘へ着いた時には、インドのアッサム地方が大地震で、やはりダージリンもその地震の影響を受けたために、家が大分|毀《こわ》れたり歪《ゆが》んだりしていた。デちょうどその普請《ふしん》中でありました。その翌日直にサラット居士と共に、グンバールという所の寺に住んでいる蒙古《モンゴリヤ》の老僧を尋ねました。この老僧はその時分七十八歳で、ナカナカの学者です。その名をセーラブ・ギャムツォ(慧海)といって、私と同じ名の人であった。その名に因《ちな》んで大いに悦ばれ、だんだん仏教の話も出ましたけれども、私はチベット語を一つも知らず、サラット居士の通弁で幼稚な英語をもって話をしただけであります。その時に始めて、このお方《かた》からチベット語のアルファベットを学びました。ソレから毎日、三マイルあるこの寺へ通《かよ》うてチベット語を勉強いたしました。
一月ばかりやっておりますと、サラット居士は私に対し「あなたはチベットに行くというけれども、ソレはモウよしにするがよい。実に困難なことである。しかし、その困難を犯しても成就すればよいけれども、まず絶望の姿である、だからよすがよい。もちろんチベット語の研究はここで充分できるから、その研究をして日本へ帰れば、充分チベット語学者として尊崇を受けるわけじゃないか」という話でありました。「しかし、私はチベット語学者として尊崇を受けるためにチベットに行くのじゃアございません。仏法修行のためですから、ドウしても行かなくちゃアならぬ必要があります」というと、サラット居士は「必要はあったところで到底成就しないことに従うのは詰《つま》らんじゃないか。行けばマア殺されるだけの分だ」という話。「しかし、あなたはチベットに行って来たじゃアございませんか。私とても行かれぬわけはないじゃアございませんか」と詰問しますと、「ソレは時勢が違っている。今日はモウ鎖国《さこく》が実に完全になったから、私とてもモウ一遍行くことはできない。その上、私は好い方法を求め、通行券を得てかの国に入ったのであるが、今はとても通行券を得ることはできないから、ソウいう望みはよしにして、ただ勉学だけして日本に帰る方が得策です」といって、親切に勧められた。「私はとにかくチベット語を学ばなくちゃアなりませず、その上にただチベット仏教の学問だけ研究しても詰りませんから、ドウか俗語をも学びたい。さもなければかの国に入るに困難ですから、その俗語を学ぶ方便をして戴きたい」といって頼みますと、しかたがないと諦《あきら》めてか、サラット居士は早速引き受けてくれました。
その別荘の下に小さな美しい二軒家があります。その家はラーマ・シャブズンという方の家です。けれども、そのお方はこの頃市場の方に住んでおられて、その家にはおりませぬ。ソレをわざわざサラット居士が呼び寄せて、「あなたの家内一同ここに引き移って、このジャパン・ラーマにチベットの俗語を教えてやってくれまいか」と頼みますと、快《こころよ》く承諾して、そのラーマ・シャブズン師は家族と共にその家に引き移り、私もその家へ寄寓することになりました。
デその俗語を習う月謝は、もちろん私が払いますので、その上私はダージリンにある官立学校へ通って、チベット語の教頭ツーミ・ウォンデンという人から、正式のチベット語を学ぶことにしました。それらの学問にかんする入費は皆私が払ったけれども、食物は総《すべ》てサラット居士が特に施してくれた。私はソレに対し、相当の代価を払うつもりで金を持って行きましたけれども、ドウしても取ってくれない。「あなたのような清浄の僧に供養すると、私共の罪業が消滅して大いに福禄を増すことになるから、是非受けてくれろ」という。私はもちろん金がなくって学問をしておるのですから、せっかくの親切を無にするでもないと思って、その供養を受けることにしました。
私がダージリンに着いた時分には、わずかに三百円しかなかったけれども、家の借賃《かりちん》と月謝と書物代に小遣だけですから、その金で一か年半を支《ささ》うることができた。もし食費を払うとすれば、月に五十円ぐらいずつはドウしても要《い》りますから、五、六か月しか学ぶことができんのです。
≪俗語の良い教師は子供≫ 誠に好都合のことは、昼は学校に行って学問上のチベット語を研究し、夜は家に帰って俗語を研究することで、その上また学校へ行くまでの間にも朝御膳《あさごぜん》の時にも、やはりその言葉を学ぶというようなわけで、俗語の進歩は非常に早かった。
俗語を学ぶにはその国人と同居するに限ります。日に二時間三時間ずつ教師を聘《へい》して学んだところが、到底本当のことはできない。同居していると、知らず知らずの間に覚えることも沢山あります。その中にも殊に俗語の良い教師は男子よりも女子、女子よりも子供で、子供と女子とはどこの国語を学ぶにもソウですが、発音の少しでも間違ったことは決して聞き棄てにはしない。あなたのいうのはこういうふうに間違っているとか、ドウいうふうに間違っているとか、何遍かいう。ソレがまた面白いとみえて、私のよくいい得ないことは向うから発音して聞かせる。こちらからは一生懸命になって口の開《あ》き方、舌の使い方、歯の合せ方を見まして、その音を真似ようとするけれども、ナカナカいけない。ようやくに真似ることができたかと思うと、一日経つとまたその音が出なくなってしまうというようなわけで、毎日笑われます。その笑われるがために、俗語の発音の進みが案外早かったです。ソウいうふうにして一生懸命学んでいるものですから、わずか六、七か月で一通りのことはマアチベット語で話せるようになった。かえって英語で話をするより楽になりました。日本では英語を二年余、一生懸命に学んだけれども、外国に出てみると一向間に合わない。しかるに、英語よりむつかしいかと思うチベット語が、わずか六、七か月学んだだけで一寸話ができるようになったというのも、全く子供や女が喧《やかま》しく教えてくれたからでしょう。
チベット語が分るにしたがって、チベットの事情を聞くことは毎晩のことで、殊にラーマ・シャブズン師は非常な話し好きで、得意になって自分の難儀した話をされた。このお方はチベットで名高いセンチェン・ドルヂェチャン(大獅子金剛宝)という、チベット第二の法王の教師をしておられたお方の一弟子であります。このセンチェン・ドルヂェチャンという方は大変高徳な方で、チベットではこのお方ほど学問の勝れた方はないという評判であった。サラット居士がチベットに入った時、このお方についてホンのわずかの間チベット仏教を学んだそうです。ところがサラット居士がインドに帰ってから、英領インド政府の命令で、チベットの国情を取り調べに来たのであるということが発覚して、サラット居士に関係あった役人、すなわちひそかに旅行券を与えた者および旅宿その他の者が獄に下された。その際にこの高徳なる大ラーマも死刑に処せられることになりました。その時の哀れな有様を聞いて、私は思わず落涙いたしました。一寸そのお話をいたしましょう。
[#改ページ]
第五回 尊者の往生
≪大獅子尊者《センチェン・ドルヂェチャン》≫ 当時チベット第一の高僧大獅子金剛宝は、下獄の上死刑の宣告を受け、しかして死刑に処せられた状態を聞きますに、実に仏教の道徳を備えた御方はかくもあるべきものかと、人をして讃嘆敬慕の念にたえざらしむることがございます。私の説くところは、啻《ただ》にその弟子のシャブズン師から聞いたばかりでない。その後チベットに入り、ラサ府において確かな学者から聞きましたもので、その話の中にはナカナカ感ずべきことが沢山あります。
始めサラット居士が帰るやいなや、チベットに流説が起りました。その時分に大獅子尊者は、もはや自分に禍いのおよぶことを自覚していられたけれども、ただ自覚していられただけで、その罪から身を免れるということもせられなかった。その尊者の意見なるものを聞くに、
「私はただ仏教をチベット人に伝うるのみならず、世界の人に伝うるのが目的であるから、仏教を教えただけで決して彼が仏法を盗みに来たとか、或いはまた国内の事情を探《さぐ》りに来たということについては、一も私のあずかり知らぬことである。またそういう素振りも見えなかった。我は我が本分を守って仏教を伝えたがために罪ありとして殺されるならば、是非もないことである」といって、自若《じじゃく》としておられたそうです。この尊者は実に尊いお方で、すでにインドの方にも仏教を拡《ひろ》めたいという意見を持っておられたそうです。というのは、「もと仏教はインドの国から起ってチベットへ伝播《でんぱ》されたものである。しかるに、今はかえってインドでは仏教が跡を絶ってしもうて、その影すらも見ることができない。これ実に仏陀および祖師に対し、我々が黙視するに忍びないことである。ドウかインドの国へ仏教を布《し》きたいものである」という考えを持っておられた。ソレはただ考えだけでなく、それがためにワザワザ人をインドの方へ派遣された。今ダージリンのグンパールの寺におらるる蒙古の老僧セーラブ・ギャムツォ師も、やはりその派遣者の一人であります。
同尊者は啻《ただ》に人を送るのみならず、経文および仏像、仏具等をインドの方へ送られて、仏教を布くの材料に供せられた。それらの点から考えても、尊者は宗派的或いは国際的関係を離れて、全く仏教の真面目の意味を世界に布教したいという考えを持っておられた尊いお方であります。日本の僧侶の中には外国布教の考えを持っておる者は沢山ありますが、チベットのごとき厳重なる鎖国において、ソウいう考えを懐《いだ》いておらるるというのは、真に尊いことであります。こういう尊い心の方であるから、サラット居士が行かれた時分にも快く仏教を教えてくれたのでありましょう。
しかるに政府部内には、この学識深遠にして道徳堅固なる尊者を嫉《ねた》む者があって、何か折があれば、この尊者を亡き者にしたいという考えを持っている人も沢山あったそうです。ところへソウいう風説が起ったものですから、これ幸いとその風説を元としてダージリンの方に人を派遣し、だんだん取り調べさせたところが、もとより事実でもあり、かつサラット博士は英領インド政府の依頼を受けて行ったに違いないから、事実どおりに確かめられて、直ちに尊者は捕えられて入獄の身となり、またサラット居士に関係のあった他の役人らも皆入獄された。デ罪状いよいよ定まって、尊者は死刑の宣告を受けました。ソレは「外国の国事探偵をその寺に住せしめて、チベットの密事を漏洩《ろうえい》したるが故に、汝《なんじ》を死刑に処す」という宣告であります。
≪高僧の臨終≫ デその宣告を受けて死刑に処せられた日は、我が明治二〇年の陰暦六月の何日であったか日は分らないが、六月の某日に同尊者はチベットの東方にコンボという国があって、その国にコンボという大河があります。実はブラフマ・プットラ河であるが、コンボの領内を流れるからその土地の人がコンボ河と名づけておるです。当日尊者はそのコンボ河畔の大なる巌《いわ》の上に、白装束のまま坐せられております。そこはいわゆる死刑に処する場所でありますので、尊者は静かにお経を読まれておった。スルと死刑の執行者は「何か望みがあればいって戴きたい、また何か喫《あが》りたい物があるならばいって戴きたい」と申し上げたところが、「私は何も望むことはない。ただ経文を少し読まなくてはならぬ。経を読み終わると私が三たび指を弾《はじ》くから、その三たびめに私をこの河の中に投じてくれろ」と、繩《なわ》にかかりながら仰せられ、暫《しばら》く経文を唱えていられたが、神色自若として、少しも今死に臨むという状態は見えない。ごく安泰に読経せられておったそうです。
この節この尊いお方が人に憎まるるために、わずかの罪を口実に殺されるというのは、いかにもお気の毒なことであるといって、見送りに来ておった人が沢山ありまして、それらの人は皆涙を流して、尊者の巌上にござるのを仰ぎ見る者もないくらいで、中には地に俯伏《うつぶ》せになって大いに声を挙げて泣き立てる者が沢山あったそうです。元来尊者は、身に赤色の三衣を纒《まと》わねばならぬ御身分ですが、罪人となって白い獄衣を着けておられる上に、荒繩で縛《しば》られたまま静かに坐禅して経を読んでおられましたが、やがて経を読みおわり、繩目の間から少しく指をあげて一度|爪弾《つまはじ》きをされたその時は、岸辺に群がる見送人は、一時にワーッと泣き出したそうでございます。
≪天人の悲嘆≫ 尊者は弾指《だんし》三たびにおよんで、もはや我を死刑に処せよという合図をいたしましたが、死刑執行官吏は、自分自ら尊者に手をかけて川の中へ投げこむに忍びず、潜然《さんぜん》と涙を流して見送人と共に嘆きに沈んでいるさまは、いかにも悲惨の状態であったです。ところで尊者は静かにいわるるには、「もはや時が来たのにお前達は何をしているのか、早く我を水中に投ぜよ」と促されて、立会官吏も泣きながら尊者の腰に石を括《くく》りつけ、その石と共に静かに河に沈め、暫くして上に挙げてみますと、尊者は定《じょう》に入られたごとく、マダ呼吸《いき》を引き取っておりませぬ。ソコでまた一度沈めた。モウお逝《かく》れになったろうと思って挙げますと、マダ定に入っておらるるようで死にきりませぬ。この体《てい》を見るより見送人は、「この際ドウか助ける道がないものか」と歎いておりますと、死刑執行者も大いに歎いて、今度は沈めることをようしなかった。その時に当り尊者は静かに両眼を開き、役人に向っていわるるには、「汝《なんじ》らは決して我が死を歎くにおよばぬ。我が業力ココに尽きて今日めでたく往生するのは、取りも直さず我が悪因業ココに消滅して、今日より善因業を生ずるのである。決して汝らが我を殺すのでない。我は死後チベット仏教のいよいよ栄えんことを希望するのみである。早く水中に沈めてくれるように」とせきたてられて、役人達は泣く泣く水中に沈めて上げてみると、もはやお逝《かく》れになっておったという。ソレから尊者の死体を解いて、手は手、足は足で水に流してしまったそうです。
私はこのことを聞いて悲しみにたえられなかった。私がもしチベットに入って後に、またこんな悲惨なことが起るようなわけではドウも行くに忍びない。どうぞチベットへ入っても、後にかかる惨事の起らないようにしたいものであるという考えは、この時からして私は充分に持っておりました。かくも仏道を拡むることを本趣意とせられている尊きお方が、かかる奇禍《きか》を買い、悲惨なる処刑に遇《あ》いながら、人を怨《うら》まず天をも咎《とが》めず、自若として往生せられたという尊者の大量にいたっては、これ仏教者の共に欽慕《きんぼ》すべきところでございましょう。
第六回 入蔵の道筋
≪祝聖の儀式≫ 明治三一年の一月一日には、例年のごとく祝聖の儀式を挙げ、天皇皇后両陛下および皇太子殿下の万歳を祝するため読経いたし、ソレから一首の歌を詠《よ》みました。
ヒマラヤに匂ふ初日の影見れば
御国の旗の光とぞ思ふ
この一年間は実に昼夜チベット語を専門に修めることばかりに費やしました。その結果として、大抵これならばマアチベットへ行っても差し支えあるまいというだけ、俗語の研究も学問上の研究もほぼできて来ましたから、いよいよ明年すなわち明治三二年にチベットへ行くという決定をいたしました。けれども、道は
≪何《いず》れの道を取るか≫ ということについて、自ら調べなければならぬ。その道についてはダージリンから直ぐに東北に出《い》で、ニャートンを通って行く道もあり、その横に桃溪《とうけい》の間道《かんどう》もあります。ソレからまた、カンチェンゼンガという世界第二の高雪峰の西側を通って、ワルンというチベットの国境へ出て行く道もあり、そのほかにシッキムから直ぐに入って行く道もありますけれども、何れも関所もあり、或いは関所のない処には番兵が見張をしておりますから、容易には入れない。サラット博士の説では「ニャートンの関所へかかり、我は日本の仏教徒で仏教修行に来た者であるから入れてくれろといって、懇切《こんせつ》に話をすれば入れてくれぬこともあるまい」といわれたけれども、ソレは到底駄目です。私がチベット人について充分研究したところによると、ソウいう方法は取れない。
そのほかにブータンとネパールとの両国について、道を発見することができる。その両国の中、私にとって最も利益の多い道はネパールの方であります。ブータンには仏陀の古跡もなければ、また研究するものも少ない。もっとも、チベット仏教の高僧の旧跡などはありますけれども、ソウいうものは私にとっては余り貴重のことでもない。ただ必要なのは、ネパールにはいろいろの仏跡もあり、またサンスクリット語の経文もあり、仮《よ》しチベットに入り得られぬまでも、これらを取り調べに行くということは余ほど有益なことであります。殊にこれまでは欧米人が入っているけれども、日本人でネパールへ入った者はマダ一人もないのでございます。我々の研究する価値のある国ですから、道をネパールに取ることが最も必要であります。デいよいよ、
≪道をネパールに取る≫ ことにきめました。ソコで直ぐにダージリンから西に進んで、ネパールに行くことができれば美しい山水の景色を見ることもでき、また仏跡にも参詣《さんけい》することができて、誠に好都合ですけれども、また危険なことがあります。このダージリンにいるチベット人は、かねて私がチベットに行くために、チベット語を研究しているということを皆聞き知っているものですから、私がチベットの方向に向って出立すれば、必ず跡をつけて来て私を殺すか、或いはチベットまで一緒に行って、チベット政府へ告げ口をすれば賞金をもらうことができるという考えで、注意している人が随分あったです。それ故にその追跡を免れるためには、是非ともほかの方法を執《と》らなければならぬ。
ソコで私は、サラット博士だけにはチベットへ行くという秘密を明かしたけれども、その他の私に語学を教えてくれたラーマ達には、俄《にわか》に用事ができて国へ帰ると告げて、ダージリンを出立しました。幸いにその時には、国の肥下、伊藤、渡辺諸氏の尽力で六百三十ルピー送ってくれましたから、その金を持って一旦カルカッタへまいりましたのは、明治三二年の一月五日であります。その出立の時分に一首|浮《うか》みました。
いざ行かんヒマラヤの雪ふみわけて
法《のり》の道とく国のボーダに
ボーダというのはチベットの国の名で、サンスクリット語でソウいうのであります。
第七回 奇遇
≪菩提樹下《ぼだいじゅげ》の坐禅≫ 私はダージリンからカルカッタに着き、いろいろ旅行用の買物をしましたが、その時にネパール国政府の書記官で、今はチベットへ公使に入《い》ておるジッパードルという人から、ネパール国に入ってから都合好く行くようにとのことで、二つの紹介状をネパールの或る紳士に宛てたのをもらうことができました。
その月の二〇日頃ブッダガヤにまいりました。その当時ブッダガヤにダンマ・パーラー居士が来ておられて、いろいろ話しましたが、折から居士は「あなたがチベットへ行くならば、法王にこのシャカムニ如来のお舎利《しゃり》〔サンスクリット語 sartra の音写。遺体、遺骨を意味する。狭義ではブッダの遺骨を意味する〕を上げてもらいたい」といって、舎利を蔵《おさ》めた銀製の塔と、その捧呈書と、ソレから貝多羅葉《ばいたらよう》〔貝多、貝葉ともいい、インドで紙の代りに、経文の書写に用いられた。多羅(tara)樹の葉に竹筆または鉛筆をもって書く〕の経文一巻を託されました。でダンマ・パーラー居士のいわれるには、「私も一遍チベットに行きたいけれども、ナカナカあちらから来いというような許しでもなくては、とても入って行くことはできないだろう」というような話でありました。
私はその夜ブッダガヤの菩提樹下の金剛道場で坐禅をいたしましたが、実に愉快の感にたえなかった。シャカムニ如来が成仏なされた樹の下で、私がまた坐禅することのできるのは実に幸福であると、我を忘れて徹夜いたしましたが、菩提樹には月が宿りその影が婆娑《ばさ》として金剛坐の上に映っている景色は、実に美しゅうございました。その時に
菩提樹の梢に月のとゞまりて
明けゆく空の星をしぞ思ふ
という歌を詠《えい》じました。二日|逗留《とうりゅう》の後、ブッダガヤから北に向い、汽車でネパールの方へ出かけました。一日一夜を経て、ネパールの国境に近いセゴーリという処の停車場に、一月二三日の朝着きました。その停車場から向うへ二日行けばネパールの国境に着くのですが、それから先は英語も通用しなければチベット語も通用しない。インド語を知っておれば進むに差し支えはないわけですけれども、私はインド語もよく知らなければネパール語も知らない。ネパール語を知らんでは何一つ物を買うこともできず、道を尋ねることもできぬ。唖《おし》の旅行ではとても目的を達することはできないから、まずこのステーションに止《とど》まって、幾分かネパール語の練習をしなければならぬ必要が生じたです。
≪ネパール語の俄稽古《にわかげいこ》≫ 幸いにセゴーリの郵便局長をしているベンゴール人が、英語も知っていればネパール語も知っておりますから、その人について学び始めた。マア盗人を捉《つかま》えて繩をなうような話です。けれども今日までは、もっぱらチベット語ばかり学んでおりましたから、ほかの言葉を学ぶ暇《いとま》がなかった。学んだところは一々手帳に記し、道を散歩しつつその手帳を頼みにネパール語の復習をするのですが、私がそこに着いてその翌日、例のごとくネパール語の復習をしつつ散歩しておりますと、汽車から上って来た人の中にチベット服を着けた四十|恰好《かっこう》の紳士と、同じくチベット服を着けた五十余りの老僧とその下僕《しもべ》ともいうべき者が二人、都合四人連れの一行がこちらを指して来るです。
「コリャ好い処にチベット人が出かけて来た。ドウかこの人に一つ話をつけて一緒に行くような都合になれば好いが」と思いまして、その人の端《はた》に行き、「あなたはどちらへお越しですか」「私共はネパールの方に行く」という。「ソレじゃアあなたがたはチベットから来たのですか」「イヤそうでもないけれども、この中にはチベットから来た人もおる」という。デ私に向っていいますには「あなたは一体どこか」「私はシナです」「どちらからお越しになったのか。海の方から来られたか、或いは陸の方から来られたか」という。ココでもし私が海の方から来たといいますと、彼らの疑いを受けて、私は到底ネパール国にも入ることができない位置にあるのです。というのは、この時分に海の方から出て来るシナ人は、総てチベットには入れぬことになっております。陸の方から来たといえば、大抵チベットから来たという意味になりますから、ソコで私は「陸の方から来た」と答えて話をしつつ、私の泊っております茅屋《あばらや》の方へ一緒にまいりました。
私の泊っている処は、竹の柱に茅葺《かやぶ》き屋根というごく粗末な家で、その向う側にもまたそんなような家があります。それは皆旅人の泊る処ですが、別だん宿賃を払うわけでもなし、ただ薪《まき》代と喰物を買うてその代を払うだけのことです。その紳士の一行も向い側の茅屋に入ってしまいました。もちろんこの辺にはホテルなどという気のきいたものもなく、また宿屋らしいものもない。その木賃宿が旅籠屋《はたごや》であるです。
≪奇智紳士を翻弄《ほんろう》す≫ 暫くするとその紳士と老僧が私の処へ尋ねて来まして、「時にあなたはシナ人であるというがシナはどこか」「福州〔中国福建省の中心都市。南方に黄檗山万福禅寺がある〕です」というと、「あなたはシナ語を知ってるだろうな」。コリャ困ったと思いましたが「知っております」というと、その紳士は大分にシナ語ができますので、シナ語を使い出したです。私はそんなに深く知らぬものですから、一寸《ちょっと》したことしか答えはできぬ。甚だ困りましたが俄《にわか》に一策を案出した。
「あなたの使っているシナ語は、ソリャ北京《ペキン》語だ。私のは福州の言葉で全然《すっかり》違うからとても話が分らぬ」というと、紳士は「あなたはシナの文字を知っているか」「知っております。文字で話をしましょう」といって鉛筆で書き立てますと、彼には解る字と解らぬ字があったものですから、「コリャとても文字でも話をすることができぬ」という。「そんならチベット語で話をしましょう」といって、チベット語で話をすることになりまして、だんだん話が進み、遂に紳士は「あなたは陸から来たというがチベットのどこから来たか」と尋ねますから、「実はラサ府からダージリンを経て、ブッダガヤへ参詣に来たのであります」というと、紳士は「ラサ府のどこにおられるのか」「セラ〔レブン寺、ガンデン寺と共にラサの三大寺の一つ〕という寺におります」「セラにゼーターサンのケンボ(大教師)をしている老僧がいるが、あなたは知っているか」「ソリャ知らんことはない」といって、幸いに私がラーマ・シャブズン師から聞いて知っておったことですから、うまく答えができたです。知っている話ばかり聞いてくれればよいけれども、ソウでないと化《ばけ》の皮が顕《あら》われますから、余り先方《むこう》から尋ねかけないように機先を制して、かねてシャブズン師から聞いておった機密の話をもちかけた。ソレはシャツベ・シャターという方は、この頃自分の権力を張るために、大分にテンゲーリンに対し、悪意を持っておる様子であるという次第を説明したところが、紳士は大いに私を信じて、もはや一点も疑いないようになりました。シャブズン師に聞いたお話が大分に活用できたわけでございます。
≪尋ぬる人に邂逅《かいこう》す≫ その紳士は語《ことば》を改め「あなたはこれからネパールへ行くというが、誰の処へ尋ねて行くか、これまで行ったことがあるか」という。「イヤ一度も行ったことはない。それ故に紹介状を持って来ました」「ソレはどこの誰からの紹介状ですか」「実はカルカッタにおいて、ネパール政府の大書記官ジッパードルという人から、紹介状を二通もらって来ました。その紹介状はネパールの摩訶菩提《マハーボーテ》の大塔のラーマ〔最も慧海を援助したヤンプー・チョエテン・チェンボ(大塔のラマ僧)、ニンマパのブッダバザラ師のこと〕に宛ててあるのです。そのラーマの名は忘れましたが、その書面には書いてあります。このジッパードルという人は、領事としてチベットに八年ばかりおって、大変によくチベット語のできる人です」といって委《くわ》しくその紹介状をもらった手続きを話しますと、紳士は「ソリャ妙だ。その紹介状を書かれたジッパードルというは私の友達だが、一体誰に宛ててあるのか私にその書面を見せてくれまいか」というから、「よろしゅうございます」といって、荷物の中からその紹介状を出して示しますと、ジーッとその上書を見ておりましたが、「コリャ奇態だ。この書面で紹介された主は私です」という。
≪偶然盗難を免る≫ ネパールで友達というのはナカナカ重いことで、ほとんど兄弟というほどの意味を持っております。それ故に友達と縁を結ぶ時分にも一種奇態の礼式があって、一寸《ちょっと》婚礼のような工合に沢山ご馳走を拵《こしら》え、多くの親類縁者を呼び集めてその式を挙げます。委しいことはくだくだしいから申しませんが、つまり酒を飲む人ならば互いに盃《さかずき》を取りかわし、下僕《しもべ》等にも相当の祝儀をやらなくてはならぬ。ソウいう式を挙げた上でなくては友達ということを許されない。その紳士と私の持っておる紹介状の主とは、いわゆる親友の間柄であります。
僥倖《ぎょうこう》にもその紳士が大塔のラーマだといいますから、私は「誠に奇遇であります。ドウかよろしく頼む」といいますと、「ついては明日一緒に行くことにしましょうが、あなたは馬か車に乗ってお越しになりますか」「私は何れでもよろしい」というと、「あなたのような好い同伴《つれ》を得たのに、馬に乗って話もせずに走って行くのは面白くない。この間、大分に面白い景色の処もあるから、ブラブラ話しつつ歩いて行ったならば、余ほど愉快であろうと思うが、ソウしたらドウでしょう」と、こういう話。
「ソレは願うてもない幸い、ソウ願えれば誠に結構です」。というのは、私の考えではソウいう話の中にも、ネパールの国からうまくチベットに入る道を発見することができれば、大いに便宜を得ることであるという考えで、大いに喜んでいよいよ一緒に行くことになりました。ところへその紳士の下僕が二人、真っ蒼《さお》になって駆けつけ「大変です。泥棒が入りました」というようなわけで、老僧と紳士は慌《あわて》て帰ってしまいました。衣類と、三百五、六十ルピー入っていた鞄《かばん》を一つ取られたそうです。後に宿屋の主人に聞きますと、かの泥棒は大変私の物を盗もうとて、うかがっていたのだそうです。私の難を紳士が受けたようなもので、誠にお気の毒でござりました。
≪カトマンズまでの行路≫ その紳士の名はブッダバザラ(覚金剛)、その老僧はラサ府レブン大寺〔ラサの西五マイルの処にある大寺院。セラと共に代表的なラマ寺である。当時七千人をこえる僧がいたといわれる。日本人では明治三八年寺本婉雅師が青海蒙古を経て、ここにしばらく滞在した〕の博士でマーヤル(継子《ままこ》)というナカナカ剽軽《ひょうきん》なお方でした。
一月二五日、早朝から出立して平原を北に進んで行きました翌日に、ネパール国境最初の関所でビールガンジという所に着いて、そこで私はチベットにおるシナ人として通行券をもらいました。
その翌出立してタライ・ジャンガルという大林で、ヒマラヤ山の玄関というべき入口より少し前の村で宿《とま》りまして、その翌二八日大林入口のシムラという村を過ぎて、幅四里の大林を一直線に横ぎってヒチヤゴリという山河の岸にある村に着いて宿りました。夜の十時頃日記を認《したた》めつつ荒屋《あばらや》の窓から外を眺めますと、明月|皎々《こうこう》として大樹の上を照らしておるに、河水|潺々《せんせん》として何となく一種|凄寥《せいりょう》の気を帯びております。時に大地も震動しそうなうら恐ろしき大声が聞えました。何の声かと宿主に尋ねますと、あれは虎が肉を喰ってから、河に水を飲みに来て唸《うな》ってる声であるとのことを聞いて、思わず一の歌ができました。
月清しおどろにうそぶく虎の音に
ヒチヤゴリ河の水はよどめる
その後二日間、溪流或いは林中、或いは山間を経て、ビンビラーという駅に着きました。この駅までは馬車、牛車、馬も通りますけれども、ここからは急坂ですから、歩行か或いは山籠《やまかご》でなくば行くことができませぬ。私共はやはり歩行で朝四時から大急なる坂を上りましたが、ちょうど一里余上りてチスパニーという関所に着きました。ここには税関があって、出入の物品に課税しております。また砲台があって守備の兵士も大分おります。そこで我らは取り調べを受けまして、チスガリーという峰の頂上に上りましたが、ここから始めて白雪の妙光|皚々《がいがい》たるヒマラヤの大山脈が見えます。これはダージリン、或いはタイガーヒルなどで見た類《たぐ》いでありませぬ。非常に壮観なものであります。その峰を超えて、その夜はマルクーという駅に宿りました。翌二月一日早朝、チャンドラ・ギリーすなわち月の峰に上り、またヒマラヤ山脈の妙光を見まして少しく下ると、山間におけるネパール国の首府カトマンズ附近の全面が見えます。
同行のブッダバザラ師は、山原中に二つの大金色を虚空に放つところの大塔を礼拝して、私に示していいますには、かの一の大塔は迦葉波《カッサバ》仏陀の舎利塔で、他の一つは尸棄《シキ》仏陀の舎利塔〔仏教にはシャカ以前にも六人の覚者が存在したという信仰がある。シャカを含めてこれを過去七仏という。このうち、迦葉波仏、尸棄仏の舎利を納めた塔という意味である〕であるといわれた。私は大いに喜んで礼拝いたしまして、その急坂を下りおわりますと、ブッダバザラ師の出迎いとして、馬二疋に人が四、五名来ておりました。私共はその馬に乗り、その村の近所へ着きますと、また二十四、五名の人が迎いに来ました。セゴーリという停車場からここまでおよそ五十里ほどであります。
第八回 間道の穿鑿《せんさく》
≪ヤンプー・チョエテンの由来≫ カトマンズの大塔村は、いわゆるボーダという名で、迦葉波仏陀の大塔の周囲を廻《めぐ》っているのであります。ブッダバザラ師はすなわちこの村の長《おさ》で、また大塔の主人であるです。このボーダの大塔をチベット語にヤンプー・チョエテン・チェンボという。ヤンプーはカトマンズの総称で、チョエテン・チェンボというのは大塔というチベット語であります。チベットでは、大なる塔のある処は直ぐにチョエテン・チェンボというておりますが、この塔の本当の名は、チャー・ルン・カーショル・チョエテン・チェンボといいますので、これを訳すると、「成すことを許すと命じおわれり」という意味で、このような名の起ったのには因縁がある。
この大塔の縁起によりますと、シャカムニ仏の前の仏で迦葉波仏がなくなってから後に、チャチーマという老婆が四人の子と共に、迦葉波仏の遺骨を納めたとありますが、その大なる塔を建てる前にその時代の王にその老婆が大塔を建つることを願い出て、その許可を受けました。しかるにその後、老婆と子供とが非常に尽力して大塔の台を築いた時分に、その時の大臣長者の人々は皆驚きましていいますには、かの貧困の一小老婆がかかる大塔を建てるとすると、我らは大山のごときものを築かねば釣合のとれぬことだから、これは是非とも中止さすが好かろうと相談一決して、王に願うてその次第を述べますと、王は答えて、すでに我はかの老婆に「成すことを許すと命じおわれり」、王者に二言なしという。何ともすることあたわずと、これによって「許成命了之大塔」という名になったのであります。しかし、この塔のできたのは多分釈尊以後のことであろうと思います。
毎年陰暦の九月中頃から二月中頃まで、チベット、蒙古、シナおよびネパール等から沢山な参詣人が来ます。夏季はヒマラヤ山中を旅行するとマラリヤ熱に冒《おか》されますから、冬季に向ってから出かけて来ますので、その中で最も多いのはチベット人であります。チベット人の中でも、貴族とか郷士とかいうような参詣人はごく少ないです。一番多いのが巡礼乞食で、これらは糊口《くちすぎ》のために廻って歩くので、冬分《ふゆぶん》はこの大塔へ来ておりますが、夏になればチベットの方へ出かけて行きます。
≪入蔵間道を発見する方法≫ ココで私は一番|肝腎《かんじん》な仕事は何かといえば、まずどこからチベットへ入ればよいかということです。ネパールへ来たとはいうものの、ネパールから入る道も沢山ありますから、その道筋についてどこがよいかということを研究しなくちゃアならぬ。けれども、そのことをブッダバザラ師に明かすわけに行かぬ。というのは、宿の主《あるじ》は私はもちろん公道を通ってラサ府に帰り、ラサ府からシナへ帰るシナ人であると信じておるからです。仮《よ》しそれを明かしたところで、この人はやはりネパール政府のチベット語の訳官をしているのですから、ソウいうことを知りつつ大王に申し上げない時分には罪になりましょうから、何《いず》れ私が話をすれば、きっと大王に奏上するに違いない。さすれば私はチベットに行くことができぬようになりますから、ソコで恩人ではあるが、ブッダバザラ師に明かすことができぬのです。
ブッダバザラ師は世間の人からギャア・ラーマ、すなわちシナの国の上人といわれておる。というのは、この人の阿父《おとう》さんはシナ人で、ネパールへ来て妻君をもろうて、この大塔のラーマになったのです。このラーマは旧教派に属していますから、むろん妻君をもろうても差し支えないのです。ギャア・ラーマは私を同郷の人であるというて、大変|好誼《よしみ》をもって世話をしてくれました。
ソレはともかく、私はほかに何とか方法を求めて道を穿鑿《せんさく》しなければならぬ。幸いにこの大塔へ参詣に来ている乞食の巡礼者達は、何れも皆チベットから出て来た者が多い。これらについて道を尋ね研究することが必要であるという考えから、私はそれらの乞食になるべく余計の金銭をやるようにしました。ソレも一度ならず二度も三度も強請《ねだ》らるるままにやるものですから、大いに心服して、シナのラーマはナカナカ豪《えら》い方だといって、大いに私を信用するようになりましたから、或る時私は、「ドウだ己《おれ》は名跡へ参詣したいが案内して行ってくれないか」「ようございます、案内いたしましょう」という。その道々「お前はチベット人だというが、このネパールへ来るのにドノ道を通って来たか」と尋ねたところが、テンリーからまいりましたという者もあるです。そのテンリーという道にもやはり三重、四重の関所があって、容易に通り越すことができない。デその道筋の関所のある処は、間道を通っても容易に通れぬという。しかし、関所のある処を通って来る時分には、ドウしても多分の賄賂《わいろ》を使わなければ通してくれぬということは、かねて聞いておりましたから、私はその巡礼に向い、「お前は乞食の身分で関所のあるテンリーを通って来たというのは嘘《うそ》だ。どこか間道から来たのだろう。そんな嘘をつくにおよばぬじゃないか」と詰《なじ》りますと、「あなたはよく御承知ですな。実はこういう間道があって、そこを通って来ました。その道は余り人の通らない処です」というような、いろいろの話をするです。
ソウいう話を聞いている間に、道筋の幾つもあることが分って来たです。デ一人の乞食に聞いたことを材料にして、またほかの乞食に向い「お前はこういう間道を通ったことがあるか」と尋ねますと、「その道は通らないけれども、ニャアナムの方にはこういう間道があります」というようなわけで、だんだん取り調べてみますとナカナカ道が沢山あります。けれども、ネパールの首府からチベットの首府まで達する間には、ドウしても一つか二つぐらい本道の関所へかからなければ行かれない。例えばニャアナムの間道を取れば、キールンの関所へはかからずにすみますが、その向うの関所で取り押えらるる憂いあり。またシャルコンブの間道を行けばテンリーの関所で取り調べられるというような都合で、ドウもうまく脱けることができない。
いろいろ穿鑿《せんさく》をしてみましたけれども、ドウしてもネパールの首府からチベットの首府へ遠廻りをせずに行く間道は、何れも険呑《けんのん》です。必ず一《ひ》と処《ところ》か二処《ふたところ》は関所を通らなければならぬ。ソウいう場合には巡礼乞食はドウするかというと、一生懸命に頼み、少しばかりの物を納めて通してもらうのだそうです。しかし私はチベットの乞食と違い、押問答をしておる中《うち》には、充分こちらに疑いを受けるだけの材料を備えておりますから、ソウいう間道を通って行くことは甚だ危険であります。
だんだん穿鑿をしている中に、ココに好い道を発見することができました。しかし、この道は大変大廻りをしなければならぬ。普通なれば、ネパールの首府から東北に道を取って行くのが当り前ですが、ソウでなく西北に進み、ネパールの境のロー州に出て、ロー州からチャンタン、すなわちチベットの西北原に出《い》で、なお西北に進んでマナサルワ湖の方に廻り、一周してチベットの首府に行く道を取れば、関所を経ずにうまく入れるという道順が分りました。これ実に私の取るべき間道であると、あらかじめ決定いたしました。
第九回 ヒマラヤ山中の旅行
≪入蔵の旅立≫ 道はあらかじめ解りましたが、何も口実なしにその道を通って行くと決めますと、ドウもこいつは怪しい男であるという疑いをブッダバザラ師に起される虞《うれい》があります。しかるにココに口実として甚だ好い材料を見出した。というのは、マナサルワ湖は経文にいう阿耨達池《アノクタッチ》〔無熱池ともいう。経文にあるGanga、Sindhu、Sita、Vaksuの四大河を流出するという伝説上の池。Gangaはガンジス河、Sindhuはインダス河、他の二河については諸説あり一定しない〕であるということについては、学問上種々の異論がありますが、とにかく普通の説に従えば阿耨達池であるという。その阿耨達池の傍にある天然の曼荼羅《まんだら》なるマウント・カイラスは、仏教の霊跡でありますから、その霊跡に参詣するという口実を設けて行くに若《し》くはないと考えました。
デ或る時にギャア・ラーマに向い、「私はせっかくここまで来たのに、ムザムザチベットを経てシナに帰るというのは誠に残念なことである。シナの経文の中にチベットにはマバム・ユム・ツォー、すなわち阿耨達池があって、その岸に聳《そび》えている山をチベット語でカン・リンボ・チェといっておるが、私はその山に参詣したいという願心が起ったから、ドンな難儀をしても一寸行ってみたいと思うがドウでしょう。荷持《にも》ちを頼むことができますまいか」といいますと、ギャア・ラーマは「ヤアそれは結構なことだが、およしなさるがよろしい。行く道は大変困難でもあるし、殊に西北原には道などはありはしない。私も是非一遍参詣したいと思っているけれども、第一容易に食物を得られないから、行くには充分食物の用意もして行かねばならぬ。ソレに強盗が沢山いるから、多くの同勢を連れて行かないと殺されてしまう。そんなわけで今まで延びておるですが、ドウも荷持ちの一人や二人連れて行くのは、つまり殺されに行くようなものですから、およしなさるがよろしい」といって、だんだん私に説き勧められた。
ソコで私は「ソリャ殺されに行って死んでしまえば、ソレで役目はすみます。もと生れて来た限りには、何れとも死んで行くのです。まず仏法のありがたい処に参詣するために殺されるというようなことは、コリャ実にめでたい、結構なことであります。私は死ぬことは何とも思わない。もし死ぬ時が来ればチベットの曠原《こうげん》で泥棒に殺されないでも、ここに豊かに暮しておっても死ぬにきまっているから、決してかまわぬ。ドウか荷持ちを世話して戴きたい」といって、だんだん私の決心を話しますと、「それほどまでの御決心ならしかたがないから、マア一つ見つけましょう」といって、人をかれこれ捜してくれました。ところがカム〔東部チベットのこと〕という国、すなわち泥棒の本場の国の人間ですけれども、大分に正直らしい巡礼を二人頼んでくれた。ソレに巡礼のお婆さんがある。そのお婆さんは六十五、六ですけれども、ナカナカ壮健《たっしゃ》で山を駆け歩くことができます。その三人と出かけることになりましたが、ギャア・ラーマは、この二人の荷持ちは親切にあなたに仕えるかドウかと見届けるために、ツクゼーという処まで送らせますからといって、人を一人つけてくれました。
≪山中の花の都≫ 主従五人、私はギャア・ラーマから買った白馬に乗って出かけました。ナカナカ良い馬で、嶮岨《けんそ》な坂でもほとんど人が手足で登り駆けるかのごとくうまく進みました。ちょうど三月初めっ方《かた》に、カトマンズを出て山の中を西、北に進み、一日坂を登ってはまた一日降るというような都合で、里程およそ八十五里、一〇日の日数を経て、ポカラという山間の都会に着きました。ポカラという処はネパール山中では甚だ美しい都会で、あたかも日本の山水|明媚《めいび》なる中に、別荘が沢山建ててあるかのごとくに見えます。竹の林に花の山、新緑|鬱茂《うつも》しておるその上に魚尾雪峰《マヂブサ》より流れ来る水は、都会の周囲を流れて遠く山間に流れ去るという。私が通った中ではネパール第一の美しい都会でありますが、その水の色は米の洗い汁のような色です。これは多分山間の土を溶かして来るのでございましょう。
この都会はネパール国中で一番物価の安い処で、米などはごく安いのは、二十五銭で四升ぐらい、普通二升五合ぐらい、ソレに準じて物も総《すべ》て安い。物産は銅で製した器具類。私はテントを拵《こしら》える必要がありますので、六日ばかり逗留しましたが、二十五ルピー(一ルピーは六十七銭)で、中で煮炊《にたき》のできるくらいの広さのテントができました。それからポカラを後にして北方に進みましたが、ナカナカ嶮《けわ》しい山で、馬に乗れない場所が沢山あるです。それ故にまず馬をわざわざ谷間に廻して半日ぐらい歩いて、またその馬に乗るというような都合にして行ったです。
或る日のこと、私の荷持ちは先に立ち、馬を導いてくれるものですから、私は別だん心も留めず、行く先々のことを考えつつ馬に乗って進んで行きますと、自分の眼先に樹の枝が横たわっております。ハッと思ってその枝を避けようとする途端に馬は進む、私は仰向けになるというわけで、トウトウ馬から落ちてしまいました。幸いに馬も気がついたとみえて、走り上らずにジーッと踏み止まり、私もまた手綱《たづな》を放さずにしかと握っておりましたから、岩で痛く腰を打っただけで谷へは落ちませんでしたが、もしその時馬が驚いて駆け出すか、私が手綱を放しますと、
≪千仭《せんじん》の谷間の鬼≫ と消えてしまったのでございます。これは好い塩梅《あんばい》だと思って立とうとするけれども、余ほど酷《ひど》く腰を打ったとみえてドウしても立つことができない。デその山の頂上まで十丁ほどある所を下僕《しもべ》二人におぶさって昇りましたけれども、何分にも痛くて動けませんので、二日ばかり山中に逗留いたし、幸いにカンプラチンキを持っておりましたから、自分でよく腰を揉《も》んでそれを塗ったり何かしたので、格別のこともなく治ってしまいました。
三日目に馬は谷間の方から先に廻し、私達は世にいう深山幽谷というのは、真にこういう処をいうのであろうというような、恐ろしい深山幽谷の間を歩いてまいりますと、カックー、カックーというホトトギスの声が幾度か聞えます。その時に
ヒマラヤの樹《こ》の間《ま》岩間の羊腸《つづら》折り
うらさびしきに杜鵑啼《ほととぎすな》く
ソウいう淋しい山の間を通ってまいりましたが、人は一日二日|交《まじわ》っておる間は誰も慎んでおりますから、その性質等も分らんけれども、長く伴うにしたがって、自ずからその人の性質も現れて来るもので、二人の荷持ちの中一人は非常に大きな男でごく果断な質《たち》、一人は甚だ温順ですが一寸読み書きもできるというわけで、大分に自負心も強い。ソレが果断の人の気に喰わないで折々衝突が起ります。お婆さんの巡礼は正直な人で、二人の荷持ちについて何事も知っているらしくみえます。私は誰にも同じようにつきあっております。殊にそのお婆さんは大変に酒好きですから、宿場に着くと荷持ちは申すにおよばず、そのお婆さんにも同じように買ってやります。またいろいろ人からくれた物などがあると、殊に老人は可哀そうですから沢山やるようにしておりました。老婆はそんなことに感じたのか、或いはまた私が日に一度ずつ飯を喰って、少しも肉類を喰わぬということに感じたものか、何しろ大変私を敬《うやも》うて、少しも巡礼視するようなふうがみえませんでした。
デそのお婆さんは何か私に秘密《ないしょ》でいいたいような素振がみえますが、他の二人の男を憚《はばか》っているらしい。ソレから私が気転をきかして、或る日お婆さんを先に立たして私は馬、二人の下僕は徒歩《かち》で出かけましたが、彼らは荷を背負っておるのですから、大分私より遅れ、私はトウトウお婆さんに追いつきまして共に話しつつ行きますと、そのお婆さんは「あの二人の人達は余ほど後ですか」という。「そうさ二里ぐらい遅れているかも知れぬ」「実はこの間からあなたに内々申しあげたいと思っておったことですが、実はかの二人の荷持ちはあなたの身にとっては恐ろしい人です。一人はカムで人を殺し、また強盗をした人です。モウ一人はそれほどにもないけれども、喧嘩をして人を殺したことのある人で、ドウせ二人とも人を殺すのを何とも思いはしません。しかし一人の温順な方はマサカそんなことはありますまいが、一人の方はあなたが西北原へお越しになれば、きっとあなたを殺してお金や何かを取るに違いありません。ドウもあなたのような御親切な尊いお方が、アアいう悪い人のために殺されるかと思うと、お気の毒でたまりませんからお話いたします」という。「ナニそんなことがあるものか、かの人達は大変正直な人だ」といいますと、老婆は本気になりまして「南無三宝《クンジョースン》、もしこのことが偽《いつわ》りであるならば、私に死を賜え」と証拠立てたです。これはチベット人の間に普通に行われている誓いのしかたであります。その上お婆さんのいうことは偽りであろうとも思われず、ドウもその様子を見るに全く事実らしい。ハテ困ったことができたと、これには何とか方法を廻《めぐ》らさねばならぬと考えました。
≪間道の守備≫ 私は荷持ち二人を気づかいながら、四十里の路を六日間かかってヒマラヤ山中のツクゼーという村に着きました。そこにはハルカマン・スッバという知事がおりますが、その知事の宅へギャア・ラーマの紹介で泊ることになりました。そこへ泊って一両日経ちますと、ギャア・ラーマの好意で送られた下僕《しもべ》は、マアこの塩梅なら大丈夫でございましょうといって帰ってしまいました。けれども、私はこの二人の下僕を追い払わなくては、チベット行きを全《まっと》うすることができぬと案じている矢先に、いろいろ話を聞きますと、これから北のロー州を過ぎて行く間道には、この三か月以前からチベット政府が五名の兵隊を置いて道を守らしむることになったから、外国人或いは風《ふう》の変った人間は誰も入ることができぬようになったという。ソレはこの間道ばかりでなく、何れの間道でも人の一人でも通って来られるような処には、すべて五名ずつの兵隊に道を守らしむることになったという噂《うわさ》。だんだん聞いてみると事実で、とてもこの間道からチベット高原へ進むことができぬようになりました。
≪危険きわまる従僕を解雇す≫ ココに蒙古の博士でセーラブ・ギャルツァン(慧幢《えどう》)というお方が来ておりますが、ナカナカの学者で、僧侶らに経文を教えているかたわら、医者の真似をしております。その人がしばしば私の処へ遊びに来て話をしました。或る夜、荷持ち二人が酒宴《さかもり》をしておりましたあげく、喧嘩《けんか》を始め、いよいよ悪漢の本性|顕《あら》わして互いにその身の悪事を罵《ののし》りあっているところを聞くと、老婆のいうとおりの悪漢で、その互いにいうところを聞きますと、手前は強盗をして人を殺したに似合わず、表部は猫のように柔和な姿をしておるが、時が来たら鼠《ねずみ》を掴《つか》むようにシナのラーマに荒い仕事をしようと考えて、我を邪魔にするのであろうといいますと、一方はそりゃ手前の考えを手前にいっておるだから、よし己《おれ》が邪魔になれば退いてやろうというようなことで、非常な争いをしたあげく、私の許《もと》に来て、彼がおれば私に暇をくれと互いにいいましたから、それを幸いに相当の礼金を遣わして断然その二人を解雇し、老婆にも小遣とカタ〔チベット語でkha-btags。チベットであいさつ、あるいは贈り物につけて贈られる白いハンケチのような絹布〕を与えて放してしまいました。
ところで私の執《と》るべき方針は、今直ちに西北原へ進んだところが、到底行けるものでない。といって後へ帰ることはむろんできない。何とか方法をめぐらさねばならぬと考えております中に、この間から私の処へ度々遊びに来る慧幢《ギャルツァン》博士は、啻《ただ》に仏教上の学問あるばかりでなく、文学上の学問もありますから、博士と相談の上、私は博士にシナ仏教の説明をし、博士は私にチベット仏教および文学を教えるという約束で、博士の住んでいるロー・ツァーラン指してまいることにしました。その途中のチュミク・ギャーツァ(百の泉という意味)、すなわちサンスクリット語にいわゆるムクテナートといっている霊跡に参詣いたしました。
≪ヒマラヤ山中の霊跡≫ ムクテナートというのは首の蔵《おさ》め所という意味。すなわちマハーデーバの首を蔵めた処であるといって、今インド教では名高い霊跡とし、インド教徒も仏教徒も共に霊跡として尊崇しております。百の泉というのは申すまでもなく、百の泉から百|条《すじ》の水が流れ出るというところから、ソウいう名をつけたので、なおその百泉という処にはサーラ・メーバル(土に火が燃《もゆ》る)、チュラ・メーバル(水に火が燃る)、ドーラ・メーバル(石に火が燃る)という名所があって、ナカナカ名高い。どんな処かと思って行ってみましたところが、実に馬鹿げた話で、縦二尺に横一尺ぐらいの岩の間に美しい泉がある。その水平線より少し上の岩の間に穴があって、その穴から火が出るのですが、その火が水の上を匐《は》って上に騰《あが》るのです。愚民がこれを見ると全く水の中から火が燃えて出るように見えるのであります。そのほかも皆そんなもので、一向不思議なことはないが、このあたりの山の一体の形を見ますと、古昔《むかし》は噴火山があったのじゃアあるまいかと思われるような形跡もあります。というのは、雪の積ってある向う側には昔の噴火口の跡らしき池があるのみならず、この辺の岩は普通の山の岩と違って、皆噴火山の岩であるからです。そこの参詣をすまし、山を降ってカリガンガという河の端に出て一夜を明かしました。
≪馬を泥中に救う≫ その翌日河に添《そ》うて上りました。浅き砂底の河を向うに渡らんとて、乗馬のまま河に入りますと、馬は二足三足進んで、深き泥の中に腹を着くまで陥りました。私は早速馬より飛び下りましたが、博士も馬上で驚いておられたが、下馬していいますには、馬はとても駄目だが、あの荷物を取る工夫はあるまいかといわれました。そこで私は直《じき》に着物を脱いで、山に少しく上りて大いなる石を一つ馬のおる側に擲《な》げつけましたが、馬は自分が打たるると思ってかびくびくしておりました。こんなことをしますのは、大きな石を沢山泥の中へ入れて、馬上の荷物を取るための足場を造るつもりです。ところでまた大きな石を前の石の上に擲げんとしますと、馬は私の様子を見て非常に恐れておりましたが、やがてズドンと一つ擲げますと、馬は大変な勢いで飛び上って向うの岸へ着きました。ソレカラ博士と共に博士の馬を渡す道造りに、大石を泥の中に沢山擲げました。およそ三、四時間土木業をやって、ようやくのことで自分らと博士の馬をも向う岸に渡すことができました。
それからサーマル(赤土)という村に着き、その翌日山の中をだんだん北へ北へと行きました。いわゆるドーラギリーの北の方に進んで行くのであります。ツクゼー村から下の山には松、杉の類がありましたけれども、この辺にはソウいう樹はなくて、ただ檜葉《ひば》が沢山|生《は》えているだけです。その檜葉とても高サ一丈五、六尺から二丈ぐらいの樹があるだけで、そのほかには灌木《かんぼく》しかございませぬ。
ソウいう雪山の中を五、六里ばかりまいりますと、キルンという小村がありますが、その村には柳の樹が大分に生えておりました。ほかには別に変ったものはございませぬ。デこの辺に住んでいるのはチベット人ばかりで、ネパール種族はおりませぬ。ですからその屋根の隅々には皆白い旗を立ててありまして、その旗には真言の文句を木版|摺《ずり》にしてあります。これはチベットのどこへ行っても見ることができるので、たといテントを張ってある処でも、ソウいうような旗が立ててあります。その村を通り抜けて、だんだん北へ北へと雪山を進んで行きますと、ちょうど日が暮れたです。深い谷間には檜葉の木が沢山生えておりますが、ホトトギスは月の出たのを悦びてか、幽邃《ゆうすい》なる谷の間より美しい声を放っております。
行き暮れて月に宿らむ雪山の
淋しき空に杜鵑啼《ほととぎすな》く
≪ツァーラン村≫ やがてキミイ(福泉)という雪山の間の小村に着いて宿り、その翌日北に進んで行くこと四里ばかりにしてツァーラン村が見えます。もはやこの辺は、西北原へ一日たらずで出られる処でありますから、雪山とはいいながら、ほぼ西北原と変らぬような有様で、山は何となく淋しく樹は見えませぬ。私のツァーランに着いたのは、ちょうど五月中頃でございましたから、ようやく麦を蒔《ま》きつけたくらいでした。村の様子を見ますと、四方は皆雪山をもって繞《めぐ》らし、東西四里半、南北はごく広い処で一里半ほどの高原地にある村落で、しかして西の雪峰から東の方の谷間へかけて、ごく緩《ゆる》い斜線状になっておりますが、その斜線状に沿うて西の雪峰から流れ来る河があります。これがすなわちカリガンガという大いなる川の源をなしているのであります。
その河はツァーランという村の下を廻って南の雪峰の方に流れ去り、その河岸の遙《はる》か上に村があるのですが、その村の或る一部に小高い山がある。その山の上にロー州の王の住んでおる城があります。ゴルカ種族がネパールを統一するまでは、このロー州もやはり独立しておりました。その城と相対して大分大きな寺がありますが、これはチベットの旧教の一派でカルジクバという宗派に属しているのです。デその寺は、やはりチベット風の四角形の石造りの堂で、赤塗りになっております。その本堂に沿うて建てられてある白塗りの石造の家屋は、すなわち僧舎であります。その城と寺との西側の平地の間に当り、大小三十軒ばかりの村が見えてあります。
第十回 山家の修行
≪ツァーランの風俗≫ 私は博士と共にいよいよ雪の山を踰《こ》えて行きますと、広い原の入口に門が立ってあります。ソレは別だん軍事上の目的で建てられたものでなくて、宗教上その門に仏を祭り、或いは神を祭り、その村に悪神等の入りこまないように建ててあるところのものであります。ですから、別だんに門の両側に高塀《たかべい》があるとか何とかいうようなことはございませぬ。ただ門だけ建てられてあるのです。その門の高さは四間ばかり、ソレに相応した大きさの石造りでありまして、ちょうど我が国における楼門に似ております。その門を通り抜けて半里ばかり行くと、ツァーラン村に着きました。
博士はその村の或る大きな家へ私を案内した。ソレがその村の長《おさ》の家であります。前から我々が行くということを知らしてあったものとみえて、十四、五名も迎いに出ておりまして、我々を導いて入ったです。チベットでもこの辺でも同じことですが、少しよい家では別に仏堂を建ててあります。というのは、この辺でごく尊いお客さんといえば、まずラーマであります。そのラーマを自分の住んでいる処に置くというのは、穢《けが》れるだろうというところから、特に仏堂を設けて仏を祭ると共に、自分の最も尊敬すべきラーマの接待所にしてあるのです。その堂の建て方は自分の家よりは余ほど丁寧で、中も綺麗になっております。その仏壇の傍には特別に経蔵を設け、また仏像の中に経文を備えてあるところもある。これは何も自分達が読むという目的よりは功徳のため、すなわち仏陀に供養すると同一の敬礼をもって供養するためであります。いわゆる臨済の三乗十二分教〔唐代の禅僧、臨済義玄の語録『臨済録』に「三乗十二分教も皆な是れ不浄を拭うの故紙なり」とある〕も、その真を知らざれば故紙《ほご》に等しというような考えはチベット人には全くない。解っても解らないでも、仏法に対してはただこれを尊崇するというのがこの辺の人の習慣であります。その仏堂に私は住みこむことになりました。その仏堂の向いにまた小さな離れ家があって、博士はそこに住んでおります。デ博士と私との御膳《おぜん》を拵《こしら》えるために一人の下僕を置きました。
その村長の名はニエルバ・タルボといって誠に温順な人で、その妻君は疾《とく》に逝《かく》れて二人の娘があるです。その頃姉は二十二、三で妹は十七、八、この二人の娘は日々男衆や女衆を使って牧畜或いは農業をやっている。その働きはナカナカ感心なものです。さてこの村人の楽しみは何かというと、やはり夜分歌を謡い踊りを踊るくらいのもので、そのほかには折々|摩尼《マニ》講、マア日本でいえば念仏講とか観音講とかいうようなものでありまして、その摩尼講にラーマ摩尼が出て、昔の高僧とか仏法守護の大王の伝記などを詳しく説き聞かせるですが、それを聞きに行くのが無上の楽しみであるらしい。
≪奇怪なる修辞学≫ デ私の仕事というのは、毎日朝三時間ずつ博士について講義を聞くだけです。しかし、朝三時間の講義はむつかしいものを学んでいるから、下調べもし復習もしなければならぬけれども、昼からの三時間はごくやさしい。楽しみ半分の修辞学とか、或いは習字作文等が主ですから、その時は折々議論をすることもあるのです。
ソレはチベットの修辞学中には仏教上のことが沢山入っております。それも普通の仏説を応用しておるならば少しも怪しむにたらないですが、チベットには一種不可思議に卑猥《ひわい》なる宗教がありまして、その宗教の真理を修辞学に応用してあるのでございます。しかして、男女間の情交を説くのに仏と多羅尼《タラニ》〔男性と女性を意味する〕、或いは独鈷《どくこ》と蓮華《れんげ》〔密教の法具。インド古代の武器を模す。仁王尊のうち、開口の仁王尊がこれを持つ。独鈷は男性のリンガを、蓮華は女性の性器を意味する〕との関係をもってし、またその蓮華の露の働きを男女の関係におよぼしていろいろ説明をし、ソウしてそのごく穢《けがら》わしい関係からして、清浄|無垢《むく》の悟《さと》りを開かしむるというような処に落しこんであるのです。こんな修辞学は、恐らく昔はインドにあったでしょうが、今はチベットに残っておるだけのことであろうと思われる。
私は修辞学を非常に研究しましたが、何しろソウいう説明のしかたですから、博士と意見が合わんでしばしば激論したのであります。この両性交合教の開山は蓮華生《れんげしょう》〔パドマサンヴァ。八世紀インドのウディヤーナーの人。チベットに招かれ密教を伝えた。呪術に巧みで世の尊敬を受けた〕という僧侶でありますが、肉も喰えば酒も飲み、八人の妻君を持っておった人です。それを清浄なる僧侶とし、救世主として尊崇したのであります。これは恐らく悪魔の大王が、仏法を破滅するためにこの世に降り、かかる教えを説かれたものであろうと私は断定しております。ですから私は博士と意見は合わないので、博士は蓮華生その人は仏の化身であるということを信じております。またこの辺の土民は、この穢わしい蓮華生の仏教を盲信することは実に酷《ひど》いもので、全くこの辺に行われているのは旧教ばかりで、新教派〔旧教とはパドマサンヴァ(蓮華生)の流れを汲むもので赤帽派という。妻帯をしながら厳正なる無欲の生活を行わんとする。新教派は西暦一一世紀にインドから入蔵したアティーシャの系統の仏教と一五世紀のツオンカッパの厳粛な戒律仏教による黄帽派を指す〕は一人もない。博士はもと新教派の教育を受けたる清浄無垢の僧侶で、二十年間セラ大学〔チベットの代表的な学問寺。ラサの北方二マイルにあり、ツオンカッパ師の高弟サッキャア・エーセーの創立。当時六千の僧徒がいたという。セラとは「薔薇の園」の意味で、河口慧海師や多田等観師が勉学した寺である〕で修行をなし、博士の名を得た人であるということは確かですけれども、女のために一旦その身を誤り、それがために蒙古に帰ることができず、といってラサに住《じゅう》しているのも面目《めんぼく》ないというところから、こういう山家におちぶれて、不潔な婦女子などを相手にしておるのだと村人はいいましたが、しかし非常に博学の人でありました。
≪博士との衝突≫ 前回に述べたとおり、修辞学の上について博士と私との間に議論の起ることはしばしばで、或る時博士は怒って講義をやめ「アナタは確かに外道の人でチベットの仏法を破壊するために来た悪魔である。いくら金をもらってもソウいう悪魔に教えを説くことはできない」といって二、三日講義を休んだことがあったです。私は打ち棄てておくと、モンゴリヤ人の癖《くせ》として怒ることも早い代りにまた癒《なお》ることも早い。暫くすると忘れてしまって、「イヤこの間のことはアナタのいうのも少しは道理があるようだ。だんだん考えてみると私の主張が間違っておったようだ。マア講義をやろうじゃないか」というて先方から折れて来ます。「ソレじゃアお願い申します」というてまた講義を聴きます。或る時などは無着菩薩《むちゃくぼさつ》〔アサンガ(Asanga)。四世紀頃、ガンダーラの人。唯識、瑜伽の教義を大成した大乗仏教学者〕の論部の講義を聞いていましたその間、博士のいわるるには「もはやこの菩薩のいうところより上に仏法はない」と断言しました。「イヤそれは間違っている。この菩薩は実にありがたいけれども、龍樹菩薩〔ナーガルジュナ(Nagarjuna)。二、三世紀、南インドの人。中観を説き大乗仏教を宣揚した。八宗の祖という〕の主張された中道論にはおよばない」といって、だんだんそのわけを説明しますと、しまいには「どうもチベット仏教に侮辱を加えた。ナゼならばチベットでは無着菩薩を非常に尊ぶ。ソリャむろん龍樹菩薩も同じく尊んでいるけれども、無着菩薩の仏法が低いというのは、確かにあなたはチベット仏教に侮辱を加えたのである。ソウいう悪魔はブン擲《なぐ》る」というて、前にあるレクシン(経帙《きょうちつ》の締木《しめぎ》)を取り、左の手に私の胸ぐらを捉《つか》まえ、シテ私の頭をめがけてブン擲ろうとしたです。その時は私は大いに声を発して笑いました。スルとその笑い声の奇態なるに驚いて、レクシンを少し横にやったですけれども、私の胸ぐらはやはり捉《とら》えて放さなかった。ソコで私はいうた。「イヤどうも無着の仏法を論じながら、ソンナに執着するというのは困ったものじゃないか」というと、博士はその一言の尖先《きっさき》に打たれて、捉えている手を放し、歯を喰いしばって怒っておられた。暫くすると、モウ顔を見るのも厭《いや》だというて、ほとんど人事をわきまえておらんような有様である。コリャ、大方モンゴリヤ人普通の癖かと思われる。実にモンゴリヤにいる人達は、大抵こういう人達が多い。皆ソウとはいえんが、私の出遇うたモンゴリヤ人には怒りやすい人が多くって閉口しました。また怒るということは馬鹿の性癖であると悟りまして、私はその後|辱《はずかし》めに逢うても忍ぶという心を養成したわけでございます。
こういうふうで毎日六時間ずつ勉強しておりました。その間下調べといったらどうしても七時間かからなければ終らんです。或いは八時間九時間になることもある。ソウすると日に十二時間、或いは十五時間くらい勉強する。そのほかに御膳を一度喰い、茶を飲んでソウして散歩に出かける。
≪登山の稽古≫ 日曜日は全くの休みで、山の中へ指して散歩に出かける。その時は山をドシドシ駆け登る稽古をやりました。この一週間に一度の大運動、これは私がこれから雪山の道のない所を踰《こ》えて行く下拵えをしておくので、ソウして修練しませんければ、私は高い山に登って空気の稀薄《きはく》な所にいたって、重い荷物を背負って行くことが到底できないという考えでありますから、用のないのにわざわざ石を背負って山の上へ登る稽古をしたです。ソして大いに肺部が強壮になって来たように思われました。実際身体も強壮でありました。
ところで、この辺の人々の無上の楽しみは何であるかといえば、女に戯《たわむ》れ肉を喰い、酒を飲むことであります。そのほかには物観《ものみ》遊山というようなこともない。また何か面白い話を聞きに行くというたところが、わずかにラーマ摩尼《マニ》のお説教を聞きに行くくらいのことで、ソレとても毎晩あるわけのものではない。夏は随分せわしいから肉欲上のことも余計に起らんですけれども、夏過ぎて少し暇になりますと、彼らが打ち寄って話をすることは、穢わしい男女間の話より他には何にもございません。一寸《ちょっと》考えてみるとほとんど動物のようです。心の中に思っておることは喰うことと寝ることだけであって、着物はドンな汚ない物を着ておってもかまわない。それも年に一度ずつ新しい物と取り替えるに過ぎぬから、バターと垢《あか》で黒光りに光っておるです。なお一年よりも二年着ておれば豪《えら》いと讃《ほ》められるような風習であります。その間一度でも洗うということはない。身はソンナに穢わしうておるけれども、喰う物と寝ることには大変骨を折ります。デその心に熱心に欲するところは、男子は女子を求め、女子は男子を求めることで、これは老人から少年少女にいたるまでソウいう有様ですから、婬風《いんぷう》は実に盛んであります。私はソウいうような不潔なことをやる人と交際《つきあわ》んものですから、一向始めの内は様子が知れなかった。
日曜日には休みということを知っている村人らは、折々病気を診《み》てもらいに来ることがある。モウ彼らはラーマであるといえば未来のことを知っているかのように思うて、未来記を聞きに来る者もあります。自分の行く末はどうなりましょうか。或いはこれから先どういうふうにしたらよいかと尋ねる。ドノくらい断っても、それをいわなければ何遍も出て来てこちらの時間が費《つい》えて誠に困るから、まずどっちともつかぬような返事をしてやると、それで満足して帰る。どういう心の置き方か、こちらは解らんようなことをいってやるのですが、それが先方には解るように聞えるものとみえます。ソウいうようなふうにして勉強しておる内に、私は大変村の評判になりました。あのラーマはただ書物を読むだけで、そのほかには考え事ばかりしておられる。ソウしてまた山の中へ行っても坐禅をして考えてばかりいる。アレは一通りの人でないというような種々の評判が立ちました。
[#改ページ]
第十一回 北方雪山二季の光景
≪ツァーラン村の夏の景≫ さて、私はこのツァーラン山村には、一年ばかりも住んでおりましたから、四時の変る光景はよく解りました。しかし、この辺はチベットの内地と同じことで、夏と冬との二季に分つのが至当であります。実際もソウなっておりますので、この辺の土人でも春とか秋とかいうような名を知らぬ者が沢山あります。この村の夏の景色の美しさは、この山人も自ら他に誇っておるように清くして美しい。麦畑は四方の白雪|皚々《がいがい》たる雪峰の間に青々と快《こころよ》き光を放ち、その間には光沢ある薄桃色の蕎麦《そば》の花が今を盛りと咲き競う。かなたこなたに胡蝶の数々が翻々《へんへん》として花に戯れ空に舞い、雲雀《ひばり》はまた華蔵《けぞう》世界の音楽師は我のみぞといわぬばかりに謡うている。その愉快なる声に和して、賤《しず》の女《め》らが美しき声で謡う歌は楽器か、雲雀の声は歌か、何れが何れとも分ちがたきに、なお天然の真妙を現実に顕わしたるカックーカックーという美しきホトトギスの声は、これぞ宇宙自体真秘|幽邃《ゆうすい》の消息であります。
≪冬の光景≫ ソレからまた数里を隔てたる西の山々は、皆白雪を戴いておりますが、その頂《いただき》に夕日が入りかかりますと、ツァーラン村の東に列んでいる雪の峰々は、夕日の反射で珊瑚《さんご》色に光っているすばらしさ。夕日がだんだん山の端に入るにしたがって、珊瑚の色は薄らいで黄金色となり、それもまた束の間に薄らいで白銀《しろかね》の色となったかと思いますと、蒼空《あおぞら》は拭《ぬぐ》うがごとく晴れわたって一点の雲翳《うんえい》をも止《とど》めず、見とれております中におぼろ気に幽邃なる高雪峰、否《いな》、兜卒《とそつ》天上の銀光殿かと思わるる峰の間から、幾千万の真珠を集めたかのごとき嫦娥《つき》が、えもいわれぬ光を放ちつつ静かに姿を現して、皚々《がいがい》たるヒマラヤの雪峰を照す光景は、氷光か何とも譬《たと》えようのない光景であります。
冬の月夜は以上述べたようでありますが、さて雪がはげしく降りだして四方の雪峰に積るばかりでなく、自分達のおります平原地にも一尺、二尺と積り、三尺と重なり、揉《か》てて加えて暴風が恐ろしい勢いをもってその雪を吹き散らし、或いは空に捲き上ぐるのみならず、雪峰より雪崩《なだ》れ来る雪の瀾《なみ》が、その暴風と共に波を打って平原地を荒れ廻るその凄《すさ》まじき声は、かのビンドラバンの大林の獣王なる幾千の大獅子の奮迅《ふんじん》して吼《ほ》ゆる声も、かくやあらんかと思わるるばかりであります。この時に当って、もし旅人があるならば、その雪のためにたちまち捲きこまれて、幾千|仭《じん》の幽谷に葬られてしまうということは、珍しからぬことであります。
≪降雪後の荒跡≫ 或る処の田畑は砂を掘り立てられて荒地となり、また平原の或る処には雪の山を形造るというは、これ雪の波と暴風の過ぎ去った後の光景であります。その跡を見ても身の毛がよだつばかりであります。この時に当り外に出でて有様を見ようと思いましたが、ただその恐ろしい吹雪の音を聞くばかりで、顔は雪に打たれて身体は凍《こご》え、手足は痺《しび》れ、眼も開《あ》くことが容易にできないという有様でございますから、どんな有様か確《しか》と見さだめることができませぬ。暴風降雪の過ぎ去った跡でさえ、なお雪をもてくる雲か、但《ただ》しは暴風を追う雲かは知らぬが、疎《まば》らに飛んでおるその下に、ごく細かな雪が煙のようにとんでいます。その切々の間から折々月影が朦朧《もうろう》と見えますが、その色は物凄き薄鼠色を現して、見るからがヒマラヤの凄絶《せいぜつ》愴絶なる光景は、かくもあるべきかと自ら驚きにたえぬほどの凄い景色であります。
私はこういうような山家《やまが》に一年ばかり住んでおったのですから、真に愉快の観念に満たされておりました。デ日々の学問は、ドレだけ勉強しても少しも身体に応《こた》えるようなことはなかったです。空気は稀薄ですけれども非常に清浄な空気で、その上にごく成分に富んでいる麦焦《むぎこがし》粉を、日に一度ずつドッサリ食っております。もっとも動物性の食物はただバターばかりでありますが、蕎麦のできる時分には、その新芽を酸乳でマブしたちょうどシラアエのようなご馳走もありますので、身体は至極健全でありました。陽暦の八月頃は蕎麦の花盛りで非常に綺麗です。私はその時分に仏間に閉じ籠って夕景までお経を読んで、少し疲れて来たかと思いますと、さっと吹き来る風の香が非常に馥《こう》ばしい。何か知らんと思って窓を開けてみますと、雪山から吹き下《おろ》す風が、静かに蕎麦の花の上に波をうちつつ渡って来る風でございました。その時に一首浮みました。
あやしさにかをる風上|眺《なが》むれば
花の波立つ雪の山里
≪僧尼の奇習≫ このツァーラン村の人口は二百五十名、その内で坊さんが百十四、五名、なおそのうち尼が五十名で、男の坊さんは六十余名、何れも旧経派の僧侶ですから、酒を飲み肉を食うことは平気です。尼はもちろん男を持つことは許されないのでありますけれども、五十名の尼の中で男を持たぬのは一人だけ、また女に触れない坊さんは二人、すなわちその寺のラーマとその弟子一人だけで、そのほかは皆|汚《けが》れているという話です。中には尼と坊さんと一緒になっているのもあれば、普通の娘と坊さんと一緒になっているのもあり、また尼と在家の男と一緒になっておるのもあります。子が生れなければ別だん人が何ともいわぬ。ところが子ができると、いよいよ戒法にそむいたということになるのです。実におかしい話ですけれども、その戒律にそむいた時分には、シャクバすなわち懺悔《ざんげ》〔懺悔とはチベット語 gsags-pa(bsags-pa)で、自己の罪過の許しを乞うために告白することを戒律に説いている。さらに大乗仏教では一般的に告白によって自心を清浄にならしめる意味の懺悔を重要視する。言葉は似ているが、キリスト教の原罪を懺悔することと違った思想である〕をしなければならぬ。その懺悔のしかたがまた面白い。ドッサリと酒を買うて百十四、五名のラーマおよび尼さんを招き、めいめい本堂の仏の前にズラリと並んで椀《わん》を持っております側《そば》から、ドシドシ注いで廻るのです。始めの間は何れも殊勝らしくお経を読んでおりますが、ソロソロ酔の廻るにしたがって、お経の声は変じて管《くだ》を捲く声となり、管を捲く声が変じて汚穢《おわい》を談ずる声となる。その見苦しいことといったら何と評してよいか、始めて見た時分には、ほとんど評のしてみようがなかったです。これが釈尊の弟子の集会日だとはどうしても思えなかった。
デその当事者たる尼と相手の男は、別に寺に対して五円ずつの罰金を納めなければならぬ。しかし、その当事者がもし男僧でありますと、その男僧と相手の女は十円ずつ罰金を納めなければならぬ。これは同胞の間で犯したような者だから、罰金が高いとのことです。そのほかに酒と肉とバター茶との供養費が、少なくも二十五円や三十円はかかります。少し派手にやると四、五十円もかかるそうですが、なるたけ派手に酒を飲ますのを名誉とし、またよく懺悔が届いたといって誉《ほ》めるです。如来は酒は好くないものであるといって、在家の人にさえ戒めたくらいでありますのに、いかにツァーランの出家にもせよ、戒律を無にして仏の前で酒を飲み汚穢を談ずるというのは、怪《け》しからぬ振舞いでございます。私はこの有様を見た時、ひそかに東方に向い、我が堂々たる日本の仏教社会の僧侶諸君の多くも、或いはこのツァーラン村の僧侶に対し、ドレだけの差をもっておらるるだろうかと思って実に悲しみました。
第十二回 また間道の穿鑿《せんさく》
≪新年の祝儀≫ 明治三三年の一月一日には、例のとおり祝意を表さなければなりませぬゆえ、その前からこの土地で得られるだけのご馳走を買い集めて、揚げ物その他村人には珍しいような物を沢山|拵《こしら》えました。デ例のごとく元日に天皇皇后両陛下、皇太子殿下の万歳を祝しましたが、山海三千里を隔てたるこのヒマラヤ山中において、明治天皇陛下の万々歳を祝することのできるのは実に愉快であると思うて、覚えず嬉し涙に咽《むせ》びました。その式終りて後、村人らにそのご馳走を施したところが、彼らはこの村|創《はじま》って以来、かかる珍味を得たことはないといって悦んでおりました。私がこの村にまいりましてから満八か月になりますが、村人らは全くこの村に私が生れた人かのように、親しみ敬うようになったです。
ソレは折々私のやった薬がよく利《き》いたこともあるからですが、その薬は私の友達の広岡修造という医師からもらった薬も大分あります。また私がカルカッタでもらった薬も沢山あったので、充分人に施すことができました。それやこれやで私を余ほど必要な人間と認めて、この村に永住されんことを希望する者が沢山ありまして、折々は博士にそのことを伝えるようになったです。博士は学問のある人に似合わず俗情に通じて、ソウいう俗情にはごく一致しやすい性質を備えております。ところで、博士はいろいろ方法を考えてみたけれども、ドウも安全に止めておくには妻を持たせるよりほかに策がないと考えたものか、しきりに自分のいる家の主人の妹を妻にしろといわぬばかりに策をめぐらしたです。しかし私は釈尊の教えを堅く信じ、これを守らなければ自分の生命《いのち》はなきものであるとまで確信しておりますから、一向取り合いませぬ。ほとんど手のつけようがないものですから、博士は種々の方法をめぐらして、私に酒を侑《すす》め、或いは汁の中へ肉の刻んだ奴などを入れて誘惑いたしましたけれども、私は幸いにして、仏陀の光明裡に接取せられておりましたから、ソウいう誘惑の中から免れることができました。もし私が、雪山の垢《あか》まみれの土人と一つになるようなことがあったならば、私は今時分はかのヒマラヤの谷間の黒坊主となっておったかも知れぬ。
≪間道の穿鑿≫ かようなわけで、村人とは大分親しくなりましたから、道のない山の間からチベットに進入する道筋はどこであるかということを探る便宜を得ました。けれども、特別にそれだけのことを尋ねますと疑われる虞《おそれ》があります。すでに私については不思議な薬を持っているとか、或いは色が白いとか、綺麗好きであるから西洋人ではないか知らんといって眼をつけている人もある際に、チベットへ入る道を尋ねますと、ドンナ危険が起るかも知れませんから、うまく彼らの疑いを起さないように尋ねなければならぬ。ソコで私は村民らが出て来ますと、ことさらに言葉を和らげて、「一体チベット辺へ商《あきな》いに行く時分には税金を取られたり、或いは政府の官吏に賄賂《わいろ》を遣《つか》わねばならぬような道筋を行くのは不得策である。ソウいう場合には、本当の道筋から行かずにほかの道筋から行かねばなるまい」と暗に問いかけると、「従来はそんなこともなかったが、しばしば外国人が入りこもうとするので、この頃は間道にも五名ずつの兵士を置いてある。だからソウいう道を通って行くと、兵士がグズグズいって荷物に対し、やはり幾分か金を取ったり何かするから、大切な品物、珊瑚珠《さんごじゅ》とか、或いは西洋小間物を持って西北原に出かける時分には、ほかの処から行かなければいけません」という。「どんな道から行くのか」。「道はありませんけれども、この西の山の隅へ指して行って、あの雪の山を踰《こ》えて降って行くと河がある。その河はドウいう処を渉《わた》って、ドウいう山の方向に進んで行けば人なき処を渉って行かれる」という、詳しい話をしてくれるです。
私は一々それを書き取っておきまして、ほかの人が来た時分にその話を材料にして尋ねると、そこにはこういう危ない処があるとか、或いは注意しないと雪豹《せっぴょう》のために食い殺されてしまうというような話を聞くです。
≪出発の苦心≫ ソウいう工合にして間道の研究をしたが、さてこの村からいきなり飛び出して道のない山の方へ行くことのできない事情があります。長くツァーランに住んでおったものですから、私が出かけるについては、ドノ方面に出かけるかということを非常に懸念するです。もし道のない処をむやみに進んで行こうものなら、それがために村人の疑いを深くして追求されるかも知れない。よってひとまず後戻りをして、ソレから村人らに気づかれぬように、またチベット兵士の守っておらぬ処へ出て行く道はあるまいかと、だんだん穿鑿《せんさく》したところが、ドーラギリー雪峰の山北を横ぎって、トルボへ出てから道のない山の間を三日路ばかり辿《たど》って行くと、遊牧民の来ている西北原に出られる道筋があるという。仮《よ》し遊牧民が来ておらないでも、それから一日か一日半行くと、ゲロン・リンボ・チェのおる処に出られるというような話を聞きました。これ最も私の執るべき道筋でありますから、その方向に進むことにきめました。
デその時季を待つことにしましたが、ドウしても陽暦の六月にならなければ、雪の山を踰ゆることができないという。六、七、八月と三月は通り得られるそうですが、モウ九月に入って一度雪が降れば、塞《ふさ》がってしまうそうです。もちろん、この三月の間とても雪の降らぬということはないけれども、まず夏の間は雪が降っても途中で凍えて死ぬほどのこともなく、ドウにか助かる範囲において進んで行くことができるという。
それらの研究までして時の到るを待っておりますと、このツァーラン村から南の方向に当り、ツクゼー村の近所にマルバという処があります。その村長のアダム・ナリンという人が、ツァーランおよび西北原の方へ商いに来るのみならず、西北原には四、五十頭のヤクを放ってありますので、その下僕がテントを張ってその番をしているという。デ時々見廻りに出て行きますそうで、この人達は公然道のある処を通って行くのですから、行こうと思えばいつでも行かれるのです。こんども見廻りのために出て来て、ちょうど私の世話になっている宅に泊りました。その時に私が、その人の請《こい》に応じて仏教の説明をしてやったものですから、非常に悦んで私にいいますには、「私がチベットから求めて来た一切蔵経が仏堂に供えてあるが、まだ一度も誰にも読んでもらったことがない。是非あなたが私の宅へ来て、供養のために読んでくれまいか」というたっての請求ですから、ソレでは何れ近い中に、あなたの方へ出かけることにしようという約束をいたしました。
第十三回 行商の中傷
≪ツァーランを出立す≫ 私がマルバ村長のアダム・ナリンと約束をしたのは、三二年の一〇月でございます。しかしその後、その人はインドの方へ商業のために旅行したといいますから、そのままに過ぎ去りました。話は戻りますが、私がネパールから買うて来た白馬の処分に困っておったです。ところがこのツァーランの寺の住職でニエンダクという方が、私の馬を見て非常に欲しがりました。この人は種々の事情に通じて大酒を飲む人でありますから、こういう人に要らざる口をきかすのもドウかと思って、馬をやってしまいました。デお経か何か、礼にくれるものがあるならばもらいたいといいますと、喜んで経文四|帙《ちつ》とサッキャア・パンジット〔チベット仏教の一派であるサッキャア派の座主、クンガ・ゲルツェン(一一八二〜一二五一)〕の拵えたチベット語の仏教辞典(筆記物)と、そのほか二、三の書物をくれました。およそこれらの書物を金に見積りますと、六百ルピーくらいのものはありましょう。これは私がツァーランにおる間、常に愛読しておった書物です。
ちょうど三三年三月一〇日、チベット暦の二月一一日にツァーランを出立することになりました。私がツァーランにおる間に全く酒をやめさした者が十五人、ソレからこの村では、煙草《たばこ》の葉を噛《か》んでその辛い汁を吸いこむことが盛んに行われておりますが、私が宗教上から説きつけてやめさした者が三十人ばかりありました。ソレは何れも私が病気を診察して薬を与えた人々で、その薬代の代りに禁酒禁煙の約束をもろうたのでございます。
一年もおりましたので、この村で私の知り合いにならぬ者は一人もございませぬ。懇意《こんい》な人達が餞別《せんべつ》であるといって蕎麦《そば》、パン、マル〔チベット語でバターのこと〕、乾酪《ほしちち》、乾桃、中にはカタと銀貨をくれた者も四、五名ございました。その日の午後三時頃、二疋の馬に経文その他の荷物を負わせ、自分は一疋の馬に乗り、一人の村人に案内されて村|端《はず》れまでまいりますと、私に按手礼《あんしゅれい》〔相手の頭に手をつけて祝福を与えること〕を受けんがために、礼拝して列《なら》んでいる人が百名余りありました。一々に按手礼をし、話をしております中にもはや午後五時頃、余ほど遅くなりましたけれども、次の村まで来て宿りますつもりで出立しました。デ先に通って来ました村の入口の門の処に立ち、再び後を顧《かえり》み「我がツァーラン村におる間親切にしてくれた人々が、ますます仏道に帰依《きえ》して永く幸福を受けられるように」という願いをかけて別れました。
≪マルバ村へ戻る≫ デもと来た路を後戻りして、その夜はキミイに一宿し、その翌日カリガンガの河岸のツクという村に宿りました。そこにもまたお説教を聞きたいという者がありますから、説教いたし、その翌朝|出立《しゅったつ》しようとすると、按手礼を請いに来た者が二十名ばかりありました。
私の師匠の博士は、私の出立の少し以前から他の方へ行っておられましたが、ちょうどこのツクという村でお逢い申して懇《ねんごろ》に別れを告げ、この日の夕暮れマルバ山村のアダム・ナリンの宅に着きました。アダム・ナリン氏はまだ帰っておりませぬが、その父のソエナム・ノルブーという方が、私を綺麗な仏堂に導いてくれました。この仏堂にはチベット語の一切蔵経および他の論部等も安置してあり、立派な仏陀も沢山あります。室は二室あって、前室の窓から望むと桃園があります。
この辺の土地は、ツァーランよりは余ほど低いので物が二季に取れます。まず麦を取って、ソレから蕎麦を取るのです。その畑の四、五丁向うにカリガンガ河があって、その向うに低い松が生えております。その松山の上には、例のごとく雪山が聳《そび》えている実に清浄《しょうじょう》の境涯でございます。家の主《あるじ》は、長く止まって一切蔵経を読んでもらいたいという希望でありますけれども、私はただ雪峰を越す時季を待つために逗留《とうりゅう》しておるのでございます。デ私は毎日チベット語の経文を読み、或いは抜書きなどいたしておりましたが、チベット語の経典でも論部でも自由に解釈のできるようになりましたのは、全く慧幢《ギャルツァン》博士が毎日六時間ずつ、ほとんど一年間教授してくれたからであると、大いに感謝いたしました。
半月ばかり経ちますと、私がツァーランにおりました時分に、このツクゼー村の者でインドのカルカッタへ行商《ぎょうしょう》に行く者がございました。その行商に託してサラット師に手紙を出しました。その手紙の内には日本へ送る手紙もあります。その男はサラット師の処へ手紙を持って行きまして、返書を持って来てくれました。その返書の中に、マハーボーデ・ソサイティーの雑誌が一冊ありました。その雑誌の中を見ると大谷派の能海寛《のうみかん》氏〔東本願寺の僧侶。明治三二年七月寺本婉雅師と共に揚子江を上り、重慶より打箭炉に赴いた。一一月、寺本師は同地を去ったが能海師はチベット入国を計画し、三三年正月以降、その消息をたった。チベット族のために殺されたと推定される〕がチベットの国境まで行かれたが、その関所の官吏のために追い返されたという記事が、日本の或る新聞から翻訳されて載っております。ソレは能海氏同行の寺本氏〔寺本婉雅。真宗大谷派の僧。明治三二年月一一月。能海寛と共に中国経由でチベットに入国を試みたが失敗した。その後、三四年〜三八年、三九年〜四二年の二回、チベットに入り、ラマ教を研究した〕がその事実を通信したということになっておりました。ソコデ、サラット先生がこの記事のとおりであるから、容易にチベットには入れない。もちろんあなたは、いろいろ成功する方法を考えていなさるでしょうが、無理なことをして命を落さないようにという注意書がありました。
≪行商の流言≫ ところが私がその手紙を頼んだ行商が、いろいろのことを流言したです。かの人は英国政府の高等官吏に違いない。というのは、私が手紙を託《ことず》かって行ったサラット・チャンドラ・ダースという人は、英国政府の官吏であって、月に三百六十ルピーずつもらっておる。ドウもベンゴール人で、それだけの月給をもらっておる人は沢山はない。ソウいう人の処へ手紙をやるというのはドウも怪しい。あのラーマはシナ人だといっておるけれども、実は英国人で、なかなか沢山な金を英国政府からもろうてこの辺の地理を取り調べ、ソレからチベットに入りこんで地理を穿鑿《せんさく》するつもりで来たらしい。論より証拠、サラット先生が英語の書物を送って来たところをみると、英語が解っているに違いない。ドウもかのラーマをこの村に置いてはためにならぬという流言。ソレもただ流言するだけならよいが、しまいには私の世話になっている主人に対しても告げたです。
その時分にはアダム・ナリン氏も帰って来まして、そのことを聞いたものですから、顔色を変えて私に向い、「あなたのことをこうこういって悪くいう人がありますが、もしそのいうとおりであると、私共はどんな刑罰を受けるかも知れないが、いかがでございましょう」という。アダム・ナリンという人はいたって正直な人ですから、私は「あなたがもし、私に対して三か年間私のいうたことは誰にも告げないという誓いを立てるならば、私はあなたに秘密を明かしましょう。もし誓いを立てなければ、その流言は流言として打ち棄てておくよりほかはない。何れネパール政府から何とかいうて来るでしょうから、それまで待ちましょう」というと、「よろしい誓いを立てましょう。ついてはかのお経を私の頭に載せて下さい」といいますから、そのとおりにして、ソコで誓いを立てさせました。ところでその主は始終インド辺へ行商に来て、英語の綴りぐらい解る人でございますから、私は日本の外務省からもろうてまいりました旅行券を示しました。
第十四回 高雪峰の嶮坂《けんぱん》
≪雪山の旅立≫ 私はその旅行券を示し「これは日本という国の政府から受けて来た旅行券である。日本という国は仏教国であって、私はその仏教僧侶の一人である。デ仏教を修行するためにこの山国に来たり、これよりまたチベット国に行くので、決して人の疑いを受けるような秘密な用向きを帯びているものでない。だからこの点において政府に訴えるつもりなら訴えるがよい。ことによっては私に繩《なわ》をかけて差し出してもよい。しかし仏法は尊いから、ラーマもまた充分保護しなければならぬという考えならば、私はこれからチベットへ向けて出立するから誰にもいわずにおるがよい」と説き聞かせますと、元来仏教を深く信じているのみならず、私に対しても深心《しんじん》に信用を置いておるものですから――殊に旅行券を持っておるものですから――そのいうところを全く信任して、「決して他言はいたしませんから、ソウいうわけならチベットにお越しになるがよろしい。しかし道筋はドウなさるか」「これから私はトルボ・セーに参詣《さんけい》し、ソレから少しく後戻りをして、ドーラギリーの谷間にある仙人の国、すなわち桃源郷《カンブウタン》という処はどんな処であるか、そこまで案内者を連れて行ってみようと思う。ソレから直ぐにチベットに行くか行かぬかマダ分らない。とにかくあなたがたの迷惑にならぬように、この六、七月頃になれば、早速ここを出立して出かけましょう」といったところが、主人は大いに安心した様子でありました。
しかしその家にいるのも気の毒でありますから、この村の寺に移って読経することになりました。そこで着類《きるい》或いは食物《くいもの》、飲物等、総《すべ》てを調《ととの》えましたが、ちょうど九貫目ばかりの荷物ができました。その荷物を案内者に持たし、自分は経文だけ背負って六月一二日にこのマルバ山村を出立しました。
これからドウいうふうにしてチベットに入るかという困難のところに臨むのですが、これから二〇日間ほどは案内者を連れて山の中を廻ることになっております。その後三日ほどの間は道のない処を出て行くのですが、もし一直線に進んで行けば、十日地で西北原に出られますが、私はその辺の名跡を巡《めぐ》ったり、或いは山の様子を見て、途中間違いないようにして向うへ出ようという考えがありますから、二三日間の予定をしたのでございます。デいよいよ準備を調えて出立する時分に、一首の歌ができました。
空の屋根土をしとねの草枕
雲と水との旅をするなり
しかし、これからの旅はこの歌のようではなかったです。実はこの歌はこれまでの旅に適合しているので、これから後の旅は「空の屋根雪をしとねの岩枕」で、雪と岩との間を旅するようなわけでございました。
≪いよいよドーラギリーに向う≫ この村を出立して、西北に向いてカリガンガ河に添うて一里ばかり登ってまいりますと、雨が降り出しましたから、小さな家のある処に宿りました。その翌日午前七時に出立して、巌石|突兀《とっこつ》たる狭い道を登って行くこと二里ばかりにして、細い桃林のある谷へ出ました。そこで少し食物を喫《た》べ、ソレから細い急な坂を二里半ばかり進みましたが、非常に急な坂で、殊に空気が稀薄《きはく》ですから身体は疲れる、呼吸《いき》は切れるというわけで進みかねましたから、午後三時ダンカル村に着いて泊りました。ところが稀薄なる空気に打たれたのか、或《ある》いは他の原因か非常に疲れましたから、翌一日逗留して一五日に出立しました。今度は北に向い、急な坂を登ること二里にして、巌山《いわやま》の氷の谷を渡り、なおソレよりごく急な坂を北に登ること一里半にして、やや広き急坂に出てだんだん登って行きますと、大分疲れましたので、午前十一時一寸休息しましたが、その辺には水がない。雪の少しく積ってある岩の間に、小さな草の生えている処があります。餓えたる時は食を択ばずではないが、渇したる時は水を択ばずというようなわけで、その草を引き抜いて根を噛んでみたところがごく酸ぱいです。ソレからその根を噛みつつ蕎麦《そば》の焼パンを喰いました。
≪雪山の嶮坂を攀《よ》じ登る≫ 暫《しばら》く休んで、北に登ること一里にして西に折れ、一方に千仭《せんじん》の谷間を望みつつ、崖道の恐ろしい牟伽羅《むから》坂という坂を登ってまいりましたが、その坂路の嶮峻《けんしゅん》なることは何とも形容のしようがございません。デその坂の左側には、高雪峰が剣を列べたごとくに聳《そび》えておるです。ソレから、その山の頂から直下してほとんど道のない岩と岩との間を、猿が樹渡りするような工合に辿《たど》って行くのですが、さすがに山に慣れている荷持ちは、重い荷を背負いながらヒョイヒョイとうまく飛んで行くばかりでなく、私はよう飛ばぬものですから、こうしてアアしてと、いろいろ指図をしてくれた。また私自身の持っておる杖を、岩と岩との間に突き立て転び落ちようとするのを防いだり、まるで杖をば船頭が櫂《かい》を使うような工合に自在に使う。或いはヒョイと、雪車に載せられて千仭の谷底に落ちようとする場合には、うまく岩の端へ杖を突き立てて防ぐ。その杖の先には鎗《やり》のような鉄《かね》がついておるです。もっとも沢山雪の広く積ってある処は、それほど巌《いわ》も厳しくもなし、マア平坦になっておりますから登りやすいが、ソウでない処は実に危ない。ソウいう危ない間をだんだん登って行く間に、雪に映ずる日光の反射のために眼を打たれて、その痛さが甚だしいのみならず、いかにも空気の稀薄なるために、呼吸をすることが困難で胸膈《むないた》を圧迫されているのか、或いは胸膈が突き出るのかわけが分らぬが、今思い出してもぞっとするくらい苦しかった。
案内者兼荷持ちは「こういう急な坂ですから、余り急いで行っても行けませんが、しかし長くここに止まっていて、この辺の悪い息気《いき》を沢山吸うと死んでしまいます」という。けだし荷持ちは、空気の稀薄なることを知らんのです。勇をこして上に登れば登るほど空気が稀薄になりますので、動悸ははげしく打ち出し、呼吸《いき》は迫って気管が変な工合になり、その上頭脳の半面は発火したかのごとく感じて、ドウにもしてみようがない。もちろんその辺には水は一滴もなし、雪を噛んでは口を潤《うるお》しつつ進みましたけれども、折々|昏倒《こんとう》しかかるその上に、持病のリウマチスのために急に足部が痛み出して、ほとんど進行することができなくなって来ました。
第十五回 チベット国境に入る
≪行路難≫ いかにも苦しくてたまらんので、その雪の上へ寝てしまいたくなったことが度々ありましたけれども、ここに寝ておって、時間を費やすと死んでしまいますという注意がありますので、案内者に引っ張られて進んで行きました。この際は実に危険であると思いましたが、この危険はなおドーラギリーの一番高い処を踰《こ》ゆる時に比すれば、マダやさしかったです。ほとんど自分は生命あることを覚えておらぬくらい。或る山腹のごときは、雪崩《なだれ》のために積雪と岩とを持ち去られて砂ばかり残っている処があります。ソウいう坂道を進んで行く時分には、砂車のために谷間に落ちそうになりますと、例の杖をもってこれを防ぎつつ向うへ渡って行きましたが、随分熟練してうまく杖が使えるようになりました。けれどもまだ案内者のごとくにはいかぬ。案内者は猿よりもうまく通って行くです。
ソウいう危ない処を通り抜けて、また平坦な岩の上に出ましたが、モウそこで倒れたくなってドウしてもしかたがない。ジーツと立ち止《とど》まっておりますと、モウ少し下へ行けば水があるからといってくれたけれども、何分にも進むことができない。ソコで案内者は水を汲んで持って来てくれた。その水を飲んで少し宝丹を含んでおりますと、大分に気持が快《よ》くなって来た。自分の手の疼《いた》い処へはカンプラチンキを塗り、少し休息しておりましたが、日はすでに暮れて、星の光と雪の光が闇《やみ》を照しているだけであります。ようやく気分も爽快になりましたから、その星と雪の光をたよりに、甚だ急なる岩の坂を西北に降ること一里半、ほとんど坂落しのような山です。やがてサンダーという十軒ほどある山村に着きました。
≪雪村に宿る≫ この村は、一年の間に三か月間他の村と交通するだけで、後の九か月間は雪のために閉じられて交通することができないのです。その交通する道筋は、私が通って来た道筋であります。こんな驚くばかりの危ない処に、よくマア人が住んでおったものと思われるようです。その辺の雪山および岩山の景色といったら物凄いようで、またその奇観も一々いうに暇《いとま》ないが、私の身体はそれほど疲労しているにかかわらず、精神は豪壮を感ずるの情緒勃発し来たりて、真に愉快にたえない。それがために、自身の身体の苦しみも忘れてしまうくらいです。けれども、その翌日はとても進めないから逗留いたし、その翌日もまた逗留して一八日に出立しました。
この村では妙な物を喰っております。ターウといって蕎麦のような物でありますけれども、蕎麦よりはマダ悪い。ここではこういう物しかできぬ。ソレも年に一遍です。ソレからだんだん西北に進んで一里余も行きますと、また砂車の坂へ出ました。ここでは去年も巡礼が、この砂車に乗せられて死んだというような気味の悪い話のあります処で、その坂を過ぎるとまた達磨《だるま》の坐禅しているような雪峰がありますが、その雪峰の前を通りだんだん進んで谷間に降りますと、その谷間の岩の間にも、また檜《ひのき》の古木が生えておりますが、その檜は実に美しいです。ソウいう谷間の大なる流れに沿うて、西南方に登って行くこと一里ばかりにして、午前十一時にターシータン(栄光溪)という美しい溪《たに》に着きました。
≪谷間の猛獣と薬草≫ ソレから数々の山および猛獣の棲んでいる山際を通り、或いは一歩を誤れば、数千仭下の谷間の鬼となってしまわにゃアならぬ処を沢山進んで行きましたけれども、案内者がありますから、道に踏み迷うような気づかいはございません。何しろ道かといえば道のようなものですけれども、ドウにか足や手で駆け登ったり駆け降ったりする処があるという、峻《けわ》しい坂路を通って行くのですから、随分難儀です。谷間にはやはり樹もあれば美しい草花が咲いております。その中には薬草も沢山あり、また麝鹿《じゃろく》も沢山棲んでおります。
その夜は雪山の間の巌の中に泊り、その翌一九日もまた同じような道を西北に進み、ターシンラという大きな雪山の坂に懸りましたが、何分にも寒くてたえられない。寒いばかりではない。モウ苦しくて、荷を背負っている荷持ちに縋《すが》らなくてはならぬけれども、景色もまた佳《よ》いです。よく見る勇気もなかったが起伏|蜒蜿《えんえん》、突兀《とっこつ》としてあたりに聳えている群雪峰は、互いに相映じて宇宙の真美を現し、その東南に泰然として安坐せるごとく聳えている高雪峰は、これぞドーラギリーであります。あたかも毘盧沙那《びるしゃな》大仏の虚空に蟠《わだかま》っているがごとき雪峰にて、その四方に聳えている群峰は、菩薩のごとき姿を現しております。苦しいながらも思わず、荘厳雄大なる絶景に見とれておりますと、「久しくここに止まっていると死んでしまいますから、早く降りましょう」といって、手を引いてくれますので、この日は四里ばかり山を降って、やはり巌の間に泊りましたが、ナカナカ寒いです。その時苦しい中にも一首浮みました。
ヒマラヤの雪の岩間に宿りては
やまとに上る月をしぞ思ふ
≪行路の骸骨≫ 六月二〇日、また出立して例のごとく恐ろしい山を登って行きました。この辺には灰色の斑紋あるナーという鹿がおりまして、多い処には二百疋も三百疋も谷間に群がっておるです。だんだん山の中へ進んで行きますと山ヤクもおりますし、また雪豹とか山犬《チャンクー》というような猛獣も遙《はる》かの山に見えております。ソウいう奴が折々出て来るそうで、或る場所には喰われたのか死んだのか、動物の骨の散らばっている処もあり、また雪の中に凍え死んだ死骸の骨の散らばっている処もありますが、頭の皿と足の骨は一向ないです。これはチベットの仏具に使うために、倒れた人があると通る人が皆持って行ってしまうので、ただ残っているのは肋《あばら》の骨くらいです。ソウいう物を見る度に、無常の観念に打たれるです。私もまたどこの山の端でこういうふうになって果てるか知らんと思うと、いくばくか先に死んだ人のことを想い出して、後を弔う心も起りました。
その山を踰《こ》えてトルボという村に着きました。そこはツァルカともいう。この一村はチベットの古代の教えなるポン教〔チベット古来の民間信仰。仏教が移入されてからはその影響を受け組織化された。しかし、いまだ不明な点が多い〕を信じております。同じような山の中を毎日進んで行きましたが、その間には景色の佳い処も沢山あり、また仏のような姿をしておる天然の岩もあり、その他珍しい植物や動物も沢山見ましたけれども、これは略します。
とにかく嶮しい山路を、或る時は一日、或る時は二日くらい逗留して英気を養いつつ、七月一日まで進みました。ソコで私について来た案内者を帰すことにしました。その間に大分食物を喰いましたから、荷物は一貫五百匁ばかり減って八|貫匁《かんめ》ぐらいになりました。それを今度は自分で背負って行かねばならぬ。デいよいよ
≪チベット国境の高雪峰≫ を踰《こ》えねばならぬ。私は荷持ちに対し、「私はこれからドーラギリーの山中にある桃源郷に行かなければならぬ。だからお前は帰ってくれろ」といったところが、荷持ちは一緒に帰ることと思いのほか、ドーラギリーへ行くと聞いてびっくり愕《おどろ》き、「ソレはいけません。あんな処へは仏様か菩薩でなければ行けやしません。あなたもソウいうお方か知りません。あすこへは昔から一人か二人しか行った者がないという話です。恐ろしい処だそうですから、行けば必ず死んでしまいます。ソウでなくとも、桃源郷の外を守っている猛獣のために喰われてしまいますからおよしなさい」といって、親切に止めてくれましたけれども、私の目的はそこにあるのだからとていろいろといい聞《き》けますと、彼は涙を流しながら立ち去りました。
私はその朔日《ついたち》の朝、彼の去るのを影の見えなくなるまで見届けまして、ソレから八貫匁ばかりの荷物を背負い、桃源郷には進まずに、かねて聞いてあります北方の山の間へ進んでまいりました。これからは実に言語に尽しがたいほど困難をきわめたけれども、山はそれほど厳しくなかったです。突兀たる岩などは誠に少なかったから、割合に安楽でありましたけれども、何分雪の中ばかり一人で進んで行くのですからたまらない。夜は雪の中へ寝たこともあり、また幸いに岩影でもありますと、そこへ泊りこむことにして、唯《ただ》磁石をたよりにかねて聞いてある山の形を見ては、だんだん北へ北へと進んで行きましたが、聞いたとおり少しも違《たが》わず、荷持ちと別れてから三日路を経て、ドーラギリーの北方の雪峰を踏破し、いよいよチベットとネパールの国境たる、高き雪山の頂上に到達することができました。
≪チベット国境無限の感想≫ ここはすなわちネパールの国端れで、チベットの国の始まりという絶頂です。ソコデ一番にやらにゃアならぬことは、自分の背負っている荷物をおろすことですが、ソレは一寸どこへでもおろすというわけにはいかぬ。その辺は一面の積雪で埋っておりますから。デ都合の好い石のあるような処を見つけて、そこの雪を払ってまずそこに荷物をおろし、ヤレヤレとそこでまず一息して、南の方《かた》を眺めますと、ドーラギリーの高雪峰が雲際高く虚空に聳《そび》えている。高山雪路の長旅苦しい中にも遙かに北を眺めてみると、チベット高原の山々が波を打ったごとくに見えておるです。その間には蜒蜿《えんえん》たる河が幾筋か流れておりまして、そのよって遠く来たるところを知らず、またその去るところをも見ることができない。雲の裡《うち》に隠れているという有様でござりますが、実にその景色を見た時には、何となく愉快なる感に打たれて、まずその南方に対しては、これより遙か以南なるシャカムニ如来が成仏なされたブッダガヤの霊場を追想し、曩日《のうじつ》かの霊場において誓願を立てたが、この国境までにはまずドウにか無事に着いたかと思うと、かつて郷関《きょうかん》を辞する時分には、今より三か年の後にはチベットの国境に入ることができるであろう、何かの準備を整えなくては到底望みを達することは覚束ないから、まず三か年と見積らなければなるまいという考えをしてまいりましたが、ちょうどその予考どおりに三か年の日子《にっし》を費やした。
明治三〇年六月二六日に出立して、明治三三年七月四日にこの国境に着いたのであるから、自分の予期の違わざりし嬉しさにたえられなかったです。とにかく身体が非常に疲れているから、まずその辺で一休みと、こう思うたけれどもドウもよい処がない。雪ばかりで……。ソコでマア袋の中から麦焦しの粉を出して椀の中に取り入れ、ソレに雪と幾分かのバターを加えてうまい工合に捏《こ》ねるです。それからまた一方の椀には唐辛子と塩とを入れておきまして、ソウして一方の麦焦しを雪とバターとでよく捏ねて、その唐辛子の粉と塩とをつけて喰うのです。その旨さ加減《かげん》というものは実にどうも
≪極楽世界の百味の飲食《おんじき》≫ もこれにはおよぶまいかと思うほど旨かったです。デまあ、椀に二杯ぐらい喰いますと、ソレでその日の食事はすむのです。もちろん、これまでとてもいつも一食しかやりません。朝は一寸樹の実の乾したもの、すなわち乾桃《ほしもも》とか、或いは乾葡萄《ほしぶどう》とかいう物を喰っておったです。デ昼だけ麦焦粉の練ったものを椀に二杯ずつ喰べるきり、その椀も随分大きな椀ですから、なかなか腹が太くなるのです。一寸注意までに申しておきますが、その麦焦粉もかの地のはなかなか力が強い。ドウも寒国にできた麦は、余ほど成分に富んでいると思われるです。デまあソレを緩《ゆっ》くりと喰いまして、四面みな雪という雪中に坐りこんで四方を眺めていると、何となく愉快というだけで、誰もおらずただジーッと独りで考えこんでいるだけで、これからどちらへ出かけたらよいのかサッパリ見当がつかない。
第十六回 雪中旅行
≪雪山唯一の頼みは磁石≫ どっちみち北の方に降って行くのであるが、さて何れの方面に降ったならば、今|志《こころざ》すところのマナサルワ湖の方面に近いか知らんという考えから、まず山中唯一つの頼みとする磁石の指し示すところに従って、まず西北の方に向って雪の中を降ろうと決定した。マアこの方向が一番よさそうなという道筋を山の絶頂からよく望んでおきまして、ソレから荷物をヤットコサと背負って、息杖《いきづえ》をたよりにその雪の中を進んで行ったです。
ところがこれまでは、日表《ひおもて》の山の方であるから雪も格別沢山はない。五、六寸積っている処もあれば、また積っておらぬ処もある。或いは諸所に雪融けの痕があって、石がゴロゴロ転《ころが》っているというような処も随分あったです。ところが日裏の方ですから、ドウもその雪の深いことといったら何ともたえられない。ソレはドレだけ深いか分らぬけれども、グット踏んでみると一尺四、五寸は確かに足が入ってしまう。稀《まれ》には七、八寸くらいですむこともあるけれども、ドウもその足を抜くのが困難です。それ故に杖をもってよい塩梅《あんばい》に舵《かじ》をとって、ズブリズブリ渉《わた》って行くようにして、だんだん降って行きましたが、雪の積ってある下に石の高低があるものですから、折にはその石と石との間に足を突っこんで、足を抜くに非常に困難したこともあるです。マアそんな工合でボツボツと下の方に降って行きました。昇りと違って八貫匁の荷物も下りはごく平気なものですが、ドウも雪のために足を抜くのが困難で、これには閉口したです。ちょうど一里ばかり降って行きますと、モウ早や雪もなくなった。サアそうすると石磧《いしかわら》です。ようやく
≪雪山を踰《こ》ゆれば石磧≫ で、ゴロゴロした石が一面に散らばっていて、どこに足を突っこんでよいのか解らない。チベット履《くつ》をはいていますけれども、その履が石磧のために破れてしまいました。もちろん、そこへ来るまでには大分長らくの時日も経《た》っているものですから、その履の破れるのも当り前のことで、履は破れる、足にできている豆が破れて血が出る。ソウしてそのゴロゴロした石に、その血が染まって行くというわけで、モウその痛さといったら実にたえられないです。ソレもただ円い石だけならよいが、角の立った石が折々あって、ソレを踏まなければ行かれない処がある。その上に重い荷物を背負っているものですから、ドウも身体を軽く扱うことができない。ヒョッとその角石の上に乗ると、その荷の重みと共に足を踏みつけるものですから、要《い》らない処に足を辷《すべ》らして、また怪我をすることもある。履が破れた上にも破れてしまったです。
デ二里ばかり行きますと、雪融けの水の集まった周囲の二里くらいの池と、周囲一里くらいの池がある。その池がチャンと並んでいる。その一つの池は長方形で、一つのは円い池、その池の端に出ますと誠に美しい鴨《かも》がいる。茶色や赤色や白い処に黒点の混っている大小幾羽の鴨が、その池の辺に遊んでいるです。誠にその水の清冽なることは透きとおるばかり、雪融けの水の集まった清浄な池といってよい。ソウいう処に来ると、マアその景色の佳い処に荷をおろして、一つよく眺めたら、旅の疲れも充分休まるだろうと考えて、池の端にドッカリ坐りこんで、緩くり眺めているその時の愉快さはまたとない。
足は痛み、腰は棒のようになって折り曲げするのも実に辛いが、しかしその景色を見るとその苦しみは忘れてしまって、遂には我を忘れているというような有様。しかし、こういう処に昔から誰か来たことがあるか知らん、ないか知らんなどいう考えが起って来るです。独り旅ですからな。とにかく私がここへ行き当ったんだから、一つ名をつけてやろうと思って、長方形の池には
≪慧海池≫ それからまた、円い池には私の別名の「仁広池《じんこうち》」という名をつけたです。そんな池を発見したところで、手柄でも何でもありませんけれども、マアそこは昔から人の来た跡もないような所ですから、チベットに入った記念のためにソウいう名をつけたのです。しかしそんなことをしてそこにいてもしかたがない。マダ大分時間もあるものですから、モウ少し西北の方に向って進んで行こうという考えで、だんだんとその池の縁を伝って、また下へ指して降ったです。下の方へ降って行きますと、ちょうど瓢《ひさご》の形をしている池がある。それはその形によって「瓢池《ひさごいけ》」と名をつけておいた。その池の周囲は恐らく半里ぐらいしかなかったろうと思います。
それからだんだん下に降って行くと、ズッと向うに雪山がある。その山の西北の方を見るとテントが二ツ三ツ見えている。奇態だ、ドウも、この辺にも人が住んでいるのか知らん。遊牧民でも来ているのか知らんというような考えが起りました。それはともかく、私はそこで一つの心配が起りました。ハハアかの家のある方向を指して行くと、或いは彼は道のない処から出て来た、怪しい奴だと疑われるようなことがあると、我がチベット進入の目的を達することができぬかも知れない。コリャほかの道を取るがよかろうといって、ほかの方向を見ますと、実に深山重畳としてほかに取るべき途《みち》はどこにも見当らぬ。その雪の山辺のテントのある横に大変低い山|間《あい》があって、その山が西北の方に向って走っている。まず間道でもあるであろうかというような処が、一寸《ちょっと》見えている。ドウもその方向へ指して行きたいような心持もした。ともかく、どうにかきまりをつけなければならんといって、その荷物をおろして、ソレからマアそこへ緩《ゆっ》くり坐りこんだ。というのは、私は例の理論上できめられぬことがあると、いつも断事観三昧《だんじかんざんまい》に入って事をきめるのであります。その例の手段を執《と》ろうと思って、そこへ廓然無聖《かくぜんむしょう》と坐りこんだわけです。そもそもこの
≪断事観三昧≫ ということは、およそ事柄が道理できめられることは、その道理によりて善悪の判断を定めるということはむつかしくない。ところが理論上において少しもきめられぬことで、将来に対してはドウいうことが起って来るか、未定の問題については何か一つきめておかなければならぬことがある。ソレは私は仏陀の坐禅を示された法則に従って、まず無我の観に入るのであります。その無我の観中発見された観念の或る点に傾くのをもって、執るべき方法をいずれにか決定するのでござります。ソコで仮にこれを断事観三昧という名をつけたのでござります。すなわち、その方法によって向う処を決しようと思って、そこに坐りこんで坐禅を組んで我を忘れておったのですが、その時はどのくらい多くの時間を費やしたかも、自分ながら分らなかったのでござります。
第十七回 入国の途上
≪方針一決≫ 断事観三昧の示すところによると、深山の方へ行くのはよろしくない。テントのある方に行くのが安全であるという決定でありますから、ソコでまた荷物を肩に背負うてボツボツと出かけました。普通の考えからいうとドウいう困難な道でも、まず人家のある方には行かないのがよいのです。けれどもしかし、人家がないからといって、全く道のない処に出てしまってはまた困難な場合に陥るから、とにかくこれまでどおりと、断事観三昧の指示するところに従って、やはり進行したのであります。
ソレでちょうど夕暮にそのテントの少し前に着きますと、大変大きな恐ろしい犬が五、六疋もやって来てワイワイ吠え立てた。平生肉と糞《ふん》ばかり喰っている犬ですから、その顔つきは甚だ猛悪で毛は非常に長い。大きさは今の西洋の大きな犬よりマダ大きい。ソウいう奴が五、六疋も私の周囲《まわり》を取り捲いて吠え立てるのですから、随分気味が悪い。けれども、かねて教えられていることがあります。それは何でも犬に遇った時分には、決して犬を打つな。静かに杖の先で犬の鼻先を扱《あし》ろうていると、犬は決して噛《かぶ》りつかぬということを教えられているから、そのとおりやったです。ところが果して喰いつかないで、テントの中の人に声をかけると、老婆が一人出て来られて私の姿を見て、アアこりゃ巡礼の方だわい、とこういいました。
≪深山老婆の親切≫ 別に疑っているような様子も見えない。デ私はラサの方からまいったもので、これからカン・リンボ・チェへ参詣する者ですが、戸外《そと》へ寝るのも非常に寒くて困難ですから、ドウか一夜の宿りを願いたいといったところが、案外快く、ソンならばまずこちらにお入りなさい、大層大きな荷物で重うござりましょうというような話で、ジキに家裡《うち》に通してくれたです。一体この辺はあなた方のお越しになる処ではないが、ドウしてこんな処にお越しになったかという。イヤ実はゲロン・リンボ・チェ(僧侶)のもとへ尋ねてまいろうと思って、はからず道を失ってこういう処にまいりました。アアそうですかというような話で、早速|沸《わか》してある茶などをくれました。
その茶も日本のような茶でなくって、バターも入っていれば塩も入っている。ちょうど実《み》のない吸物のようなものです。よい工合に味がついていて、なかなか旨い。といったところで、我々日本人には始めの中は鼻先へ持って来られるような物じゃない。嫌な匂いがして飲むことができないけれども、久しく辛抱して用いていると遂には好い味になって来るです。まずその茶を飲み終ると、麦焦しの粉をくれるという始末。ところでいつも私は午後にはソウいう物を用いない。すなわち非時食戒《ひじじきかい》〔小乗仏教の戒の一。正午以降翌朝まで食物をとってはならないとされている〕を持っているので、これは戴きませんと断ると、そのお婆さんは大層感心して、こういう旅の中で非時食戒を守る人はごく少ない。そりゃあなた結構なことだ。しかし、これからそのゲロン・リンボ・チェの処にお越しになるには、ちょうど一日ほどの道がござります。あのお方はチャンタン(チベットの西方の高原を指していう)の名高いラーマ(上人)でござります――チャンタンという一体の意味は、北の原ということになっているが、チベットでは西の原を指してチャンタンといっておるです――デ、チャンタン中のラーマであるあのお方に逢えば、誠に尊《たっと》い利益が得られます。せっかく都からお越しになったのだからお逢いなさい。その中に私の息子も帰って来るはずですが、河の水が非常に冷たくてなかなか徒渉《かちわたり》するのは困難ですから、明日息子と一緒にヤク〔哺乳類ウシ科。ヒマラヤ、チベットに産する。肩の高さ一・六メートルにも達し、毛は長く、寒さに強い。野生のものは海抜四五〇〇〜六五〇〇メートルの高山の草地に群れをなしてすむ〕に乗ってお越しになったらよかろう。息子にもこのゲロン・リンボ・チェへ参詣するようにいい聞けるでござりましょうからと、こういうような話。
コリャ大変に好い都合を得た。ところが私の差し当っての困難がある。履《くつ》が破れてしまって一歩も進むこともできない。デお婆さんに尋ねたです。この履をドウにか直す工夫はあるまいか、「ソリャ困ったものだが、ここでジキに直すわけにはいかない。ドウせ二日くらい逗留しなくちゃアその履を直すことはできない」という。それはドウいうわけかと尋ねますと、それはヤクの堅い皮を水に浸《しめ》して、充分柔らかにせないと縫うことができないので、二日くらいかかるという。
≪雪山下の仮住居≫ ところで婆さんのいうには、私の処では明日一日この山におって、明後日《あさって》は他の方へ指して移るのでござりますから、明日ゲロン・リンボ・チェの方にお越しになって、あすこへ二、三日逗留してその履をよくなさるがよろしかろう。明日は息子の余った履をはいて、あっちにお着きになったら、息子に返して下さればソレでよろしいと、万事好都合。
その晩はそこへ泊ることになりました。ちょうど寝ようとしているところへ息子が帰って来ての話に、かのゲロン・リンボ・チェというお方は神通力を得ておって、人の心に思うていること、またこれはドウいう人であるということを見分けもし、大騒動の起ることを前知して人に知らしてくれることも沢山あった。この間もすでにこれこれであったと、いろいろ面白い話をしましたが、それは余談ですから申しません。もしもその息子のいうごとく、真に神通力を得ているものであれば、大いに喜ばしいと思ったです。けれども、チベットには随分山師坊主が沢山いる。ソウいう窟屋《いわや》に住んでおりながら金を沢山|拵《こしら》えることを考えて、己《おの》れは隠者という名義をもって、財産を集めるところの手段にしておる似非《えせ》坊主が沢山あるものですから、もしやソウいう奴ではあるまいかと案じられて、その夜は瞬《まんじ》りともできなかったほど想像にかられたです。
≪ヤクに騎《の》る≫ 夜が明けると、その息子はイソイソして、お婆さんのいいつけを聞いてヤクを連れて来た。そのヤクという獣は、まず日本の牡牛《おうし》より余ほど大きいものです。また小さな奴は牝牛くらいのものもある。少し背が低くて毛深いことは実に非常なものです。またその尾といったらば、ちょうど画に描いたような、獅子の尾のように太くて房の形になって後に下《さが》っておるです。法華経にいわゆる「≪みょうご≫のその尾を愛するがごとし」とあるその≪みょうご≫である。これをチベットでヤクといっておりますが、これは西洋にもないものですから、翻訳ができぬものとみえて、やはり英語でも「ヤク」といっておる。その牝をリーといいます。牛のような顔をしていますけれども、眼つきの鋭くして恐ろしいことは驚くばかりで、時々ギロリと睨《にら》むですな。始めの中は随分、今にもその鋭い角で打ちはすまいかと、恐れるくらいな勢いのある獣に見えるです。けれども、その性質は案外おとなしく、至極人の役に立つもので、日本の牛よりもなお温柔であるというてもよろしいくらい。
そのヤクがいかにチベット国を利益しているかは、何れまた後に折があったらお話いたしますが、一疋のヤクに私の泊った宅の息子は、ゲロン・リンボ・チェに上げるところの乾酪《ほしちち》やバターなどをつけ、二疋は自分らの乗って行くものに供するつもりで、都合三疋のヤクを連れ出した。婆さんは誠に親切な人でお茶を拵えてくれたり、麦焦しの粉やら乾酪やらバターなどをくれたです。これがチャンタンにおいては非常に優遇だそうです。それから
≪ラーマの岩窟《がんくつ》を尋ねる≫ つもりで、だんだん西北の方に向って半里ばかり昇って、また半里ばかり降《くだ》り、それから今度東方に見える山に進みかけたです。ところが大変な霰《あられ》が降り出して、ドウも進んで往くことができない。しようがないから、ヤクの背から荷物をおろして、それを霰のために濡れないように囲って、路端《みちばた》に二時間ばかり休息していながら、自分の目的地に達し得らるる道筋などを尋ねて大いに利益したです。その中に霰も歇《や》んだから、またそのヤクに乗って出かけると、半町ばかりの川がある。幸いにヤクに乗っているから苦もなく渡った。そんな川を二つ渡ってちょうど二里半ほど山を登りますと、白い岩窟が見えたです。ソレで私は白巌窟《はくがんくつ》と名づけた。婆さんの息子がその白巌窟を指さして、あすこがゲロン・リンボ・チェのいられる所であると示したです。それからだんだん上へ昇って行ますと、その白い窟《いわや》の前にまた一つの窟がある。これは白くない、少し灰色がかった黒味の岩であって、その窟中にはゲロン・リンボ・チェのお弟子が住んでいる。そこへまず案内してくれたです。デその息子が窟の主に対して、途中で霰に降られたから時間までにまいることができませなんだが、もうゲロン・リンボ・チェは、お逢い下さらんでしょうかというのが午後の三時頃。スルとイヤもう今日はとても駄目だ、明日でないと。その息子のいうには、ソレではこれはパーサンという者が上げたいといってよこしたから、ドウかゲロン・リンボ・チェにお上げ下さい、私は明日移転するのですから、明日まで待っているわけにはいかないといって、その男は荷物を置いて帰っちまった。ソコで私はその窟の中へ泊りこんだ。
第十八回 白巌窟の尊者
≪巌窟の主人≫ というのはやはりラーマで、そこに坐禅をしているんです。坐禅しているといえば何にもしないでいるようですが、ソウでもない。随分日用品や仏具なども沢山ある。そこには炊事場も寝所《ねどこ》も皆|調《ととの》えてある。その前にお婆さんからもらって来たヤクの乾皮を水に浸した。
ここで二、三日逗留さしてもらって、いろいろ話を聞きますと、「これからカン・リンボ・チェの方に出かけるのは余ほど困難だ。まず二、三日行けば人のいる処に着いて、それからまた二、三日間は人のいる処を通るが、そこから向うは一五、六日無人の地を行かにゃアならんが、あなた道を知っているか」。「イヤ少しも道を知らない」。「それじゃアとても行かれまい。それにマアあなたの着物は好し、大分荷物も持っているようだから泥棒がつきますぞ」。「泥棒がついたらやりさえすればよいが、何しろ道が分らんでは閉口する。誰か案内者を見つけることができまいか」といって尋ねました。すると、「ドウしてこの辺は最も人の少ない処ですから、なかなか案内などする者はありませぬ。あなたはマアあのありがたやのお婆さんに出遇うたから、大変な厚遇を受けてここに来られたが、これから一人で人のいる処に行ったところが、誰だって留めてくれやしません。殊に人のおらぬ処が多いから到底無事に行かれはしない。このとおり御覧なさい。これから幾里の間、どこにもテントの張ってある処は見えないくらいだから、とても案内者を見つけて上げることはできません」とこういうわけ。それから私が、あなたはカン・リンボ・チェの方に行かれたことがあるかといったら、二、三度参詣したという。これから道があるかというと、イヤ道のある方に行こうと思うと廻り路になる。道のない処から行ける場所がある。ドウしても行きたいというなら、私がその道を説明して上げるからお聞きなさい。この山を下へ降ると大きな川がある。その川を渡ってこういうふうに行くんだと綿密に教えてくれた。まずこれで二、三日行くだけの道順が分ったというわけ。
≪巌窟中の坐禅≫ それからその晩は窟の中で坐禅をやりました。その坊さんもやはり坐禅をやるという始末。十二時頃にコロリと寝ました。よい気持で眼が覚めてみますと、モウその坊さんは起きてからに、表の方で火を拵《こしら》えて茶などを沸しておるです。私も早速起き上って当り前なら口を漱《すす》ぐところでありますが、口も漱がず、眼を摩《こす》りながらお経を読むというわけです。ソレがマア、チベットの風俗。臭い口でお経を読むのは誠に辛いけれど、ソウやらんではチベットのラサから来たということを信用されない。ジキに疑われるです。朝起きて口を漱ぐという習慣はあちらには決してないのですから、そのままお経を読んでいると茶をくれた。例のバターと塩と混った茶。それを漱がぬ口で飲むのです。その時分には慣れているから、飲みずらいということはないけれど、随分嫌なもので人の見ていないところなら口を洗って飲むが、ドウもソウはいかない。余ほど我慢をして飲むというわけです。それから例のごとく、やはり麦焦しの団子に唐辛子と塩とをつけて喰ったです。それが一番旨いご馳走。デ十一時過ぎまで話をしておりました。ソレは専門の話ですからむろんお話する必要もない。ソコで十二時前ちょうど逢う時が来たというので、参詣に来ている二十名くらいの人と一緒に、その巌窟へ指して逢いに行ったです。
その巌窟の主人は、その辺ではなかなか尊いラーマであって、どこへ行っても「ゲロン・ロブサン・ゴンボ・ラ・キャブス・チオー」という。意味は比丘賢解主《びくけんげしゅ》に帰依し奉るといって、その辺の土民は毎晩|寝際《ねしな》に、その巌窟の方向に向って三遍ずつ唱えて、三遍ずつ礼拝するです。それを見てもその人がドレだけか高徳であるかはよく分る。デ数十里隔った処からわざわざ参詣に来て、種々な上《あ》げ物をするという次第です。参詣人はいつもその巌窟のある山の麓《ふもと》へ泊って待っておって、その着いた翌日の十一時過ぎから一時までの間に逢うのです。その余は誰が行っても逢わしてくれない。巌窟の外に垣のようなものがあって、時間外は締切ってあるから、ドウしても逢われない。ところが時間になると、その方が巌窟の一寸外に出られて皆の参詣人に逢われるです。
≪ラーマと参拝者≫ 上り物は、お金を持って来る者もあるが、物品を上げる者が多い。めいめい持って来た物を上げて、それからお説教を聞いて摩尼《マニ》を授かるんです。というのは、まずそのラーマが|※[#「口+奄」、unicode5535]摩尼吠噛吽《おんまにべつどみほん》という六字を唱えますと、参拝者がそれに継いで和するのです。それからまた種々の教えを受ける前に逢うと、すぐに三礼をいたします。それから礼のとおり、腰をかがめ舌を出して敬意を表しつつ、机の置いてある前まで進んで、ラーマの前に頭を差しつけます。スルとラーマは右の手を伸して頭を摩《さす》ってくれるです。少し良い人なれば両手でやってくれる。また自分と同等の人、或いは自分より豪い人であれば、自分の額《ひたい》をこちらの頭に突きつけてくれる。これを名づけてチベット語で
≪チャクワンを受ける≫ といっている。すなわち按手礼《あんしゅれい》であります。その按手礼に四通りある。一は額頭礼《がくとうれい》、額を頭につける礼。一は按双手礼《あんそうしゅれい》。それから按隻手礼《あんせきしゅれい》と、按法器礼《あんほうきれい》の四つでありますが、三つは前にいったとおりで、大抵分っておりましょうが、第四番目のは普通に用いない。首府のラサ府では法王がこの礼を用いるです。第二の府シカチェではパンチェン・リンボ・チェがこの礼を用いております。それは、ソウいう尊いラーマが俗人の頭に手を着けるということができないから、ソコで采配のような仏器を拵えて、その器で頭を按《さす》ってやるのが按法器礼であります。一寸見ると頭を打撲《ぶんなぐ》っているように見えておるです。これはごく高等のラーマが俗人に対する応答の礼です。ソコで私が、
≪巌窟尊者の風采≫ その尊者の風采を見ますと、ほとんど七十くらいの老僧で、白髪にしてその言語の鋭いこと実に驚くばかりです。ソウしてその容貌《ようぼう》の魁偉《かいい》にして、いかにも筋骨の逞《たくま》しきところは、ただその禅定だけやって坐っているような人とは見えないほどの骨格の逞しい人で、一見して慄然《ぞっ》とするような凄味《すごみ》のある人であります。けれど、その行うところを見ると、ソウいう凄い殺伐の方でなくって、人に対して慈悲善根を施し、人を愛するということにおいては、実に驚くべき観念を持っておられた。その点においては私は一見して充分敬服したわけでありました。こういうような恐ろしい方もまた、半野蛮のチベットに住んでいるものか知らんと思って、実は呆《あき》れかえった。こういう人ならば、かのお婆さんの息子がいったとおり、私の内心をよく見とおすことができる人であるかも知れないから、これは大いに喜ばしいという考えで、話をするにもなお一層の悦びと勇気とをもってすることができたのであります。それですから、後に話をする時には、自然私の様子にもそのさまが現れたろうと思う。
≪尊者との問答≫ そこでまず私も腰をかがめ、舌を出して進んで頭を突き出しますと、按双手礼をやってくれた。自分とほぼ同じほどに見たくらいの礼をしてくれた。それからジッと私を眺めて、「あなたはこういう処に来る必要はないが、何のためにここにお越しになったか」とこう尋ねられたです。「イヤ実は仏法修行のために諸所の名蹟を廻って苦行しているものですが、あなたのお徳の尊いということを承りましたから、ドウかその仏法上のことをお尋ねしたいと思ってまいりました」。ソウするとゲロン・リンボ・チェのいわれますには、「フーム、どういうことを尋ねたいのか」。「私はあなたが衆生《しゅじょう》を済度《さいど》なさるのはドウいう方法を用いてなされてござるか、ドウかその方法の微妙なる点をお伺い申したい」。スルと「ソウいうことはお前の皆知っていることなんで、一切の仏法はお前にあるので、私に尋ねる必要はない」と、こういったです。そこで一寸日本の禅宗坊さんが問答をやるようになりましたから、私は直《じき》に禅宗坊主の真面目でその問答に応じました。「もとより、一切の仏法はいかなる者にも存在しているに相違ないけれども、昔、善財《ぜんざい》童子〔華厳経に説かれている菩薩。真理を求めて五三人の賢者を歴訪する。因みに『東海道五十三次』はこの話によって定められたという〕が五十三人の善知識を天下に尋ね廻ったということがある。その経歴の苦しかったことは、実に我々仏教僧侶の手本として学ぶべきところである。私はおよばずながら善財童子の跡に倣《なら》うて、この修行に出かけてかくもお尋ねいたしたわけでござる」とこういうと、「私の衆生済度の方便は唯一である。その唯一の方法は大解脱経《だいげだつきょう》というお経によってやっているのである」。その大解脱経というものは、私はマダ読んでみたことがなかったから、「それではそのお経を私に見せて戴くことができまいか」というた。
≪大解脱経≫ するとその白巌窟《はくがんくつ》の禅定者は直ぐに立ち上って、自分の巌窟内に入って、そのお経文一冊を持ち出して来てくれた。それからそのお経を受け取りまして、私はまた直ぐに「この経の真面目は何であるか」といって尋ねると、「それは、三乗はすなわち一乗であるということを説明した経文である」と答えた。それからその経文を持ち帰って読んでみたところが、法華経に似たところのお経でありました。或いは法華経の一部を抜き取って、こういうお経の名をつけたものではないかと思われたような処もあった。
それから例の履《くつ》を繕《つくろ》わなければならんから、その日もそのまま泊りこみになって、その翌日もまた泊りこみ、デそのまた翌日尊者の処に逢いに行って、その大解脱経を読んだ所見についていろいろ問答をした。つまりシナおよび日本ふうの仏法と、チベットふうの仏法とが大分喧嘩をしたわけであったけれども、大いにこの尊者も悦んだわけでありました。
[#改ページ]
第十九回 山中の艱難《かんなん》
≪白巌窟を辞す≫ 七月七日になお一度禅定者に会って、ソレから履の修理をやりましたが、もちろん一度もやったことのない仕事だから、その困難は非常なもので、ややもすると針を手に突き立てて飛び上るような痛い目をみる。ソコデ窟《いわや》の主人が見かねて、こういうふうにするのだというて教えながら、大方自分でやってくれました。これでまず履の用意もできましたから、七月八日の朝、十貫匁ばかりの荷物を背負って立つことになった。実はその時尊者のいうには、是非麦焦しの粉を少し余計持って行かないと、これから先き買う処があるまい。仮《よ》しテントがあったところで誰もくれはしないから、重くもこれを持って行くがよい。ソレでないと途中で死んでしまうようなことが起るであろうという注意から、麦焦しの粉とバターと乾葡萄を多分にくれたです。ソウいう物が殖えたものですから、ちょうど十貫匁余の荷物になったです。
その時の重いことといったらたまらなかった。けれどもしかたがない。ようやくのことでソレを背負い出立したです。なかなか重い荷物を背負って坂を下るというのは足の疲れるもので、ようやく教えられた川端に着いた時は、ちょうど十一時頃でござりましたから、そこで麦粉を喰いまして、ソレから自分のはいている履を脱ぎ、股引も取ってしまい、ズッと裾《すそ》を上まで捲《まく》り上げて、かねて河の深さは尋ねておきましたから、浅そうな所へ飛びこんだ。
≪寒水徒渉の難≫ ところがびっくりするほど冷たい水で、自分の身が切られたかと思うほどの感じに打たれたから、一遍に後戻りして飛び上った。こう冷たくてはたまらない。一町半もあるこの冷たい川を渉《わた》っては、或いは川の中で死んでしまうかも知れないと、しばらく考えておりましたが、モウその冷たさがズッと身体に廻ってまいりまして、少し震え気味になった。コリャいけない。ドウしようか知らんと考えていると、ふと思いついた。かねて堺の岡村の丁子油《ちょうじあぶら》を持っている。これを塗るべしと思って、早速丁子油の瓶《びん》を出して身体にも足にも塗りつけたです。幸い日が照っているし、油を塗りつけて摩擦したので身体も大分温かになったです。それからボツボツ渉るべしといってまた飛びこんだ。ソレでも実に冷たい。始めは冷たくって痛かったが、しまいには覚えがなくなって、足が河底についているのかおらんのか少しも解らない。ただ杖が二本あるものですから、マアその二つの杖をたよりにして、ようやく足を支えて向うの岸まで転《ころ》げそうになって上ったです。
川はかなりの急流で深さは腰くらいまであったです。向う岸に上った時は、実に到彼岸《とうひがん》というような快楽を得ました。それからマア冷たくなっているところを摩擦するのが役ですから、日に乾かして摩擦しようと思ったが、なかなか動くこともできない。もちろん荷物はそこにおろして、その辺に転がってみたり、いろいろなことをして、しばらくそこにいたです。大分よくなりましたし、ほとんど午後の二時頃にもなったものですから、少し進んで行ったらよかろうという考えを起して、だんだんと、教えられた山の間を向うに進んで行くという考えで立ちました。ところがドウも足がダルクなって抜けるかと思うような工合で、なかなか歩けない。
≪寒冽《かんれつ》骨に徹す≫ 余り寒気に打たれたものですから、この筋肉の働きが鈍くなったということは察せられますけれども、いかにも向うに進めない。ソレでしばらく休息して、ボツボツと杖をたよりに登って行ったです。スルト、ドウも足はダルクてたまらない。荷物も以前より重くなっているから、実に苦しい。二、三丁行くと、その荷物を石のある所にうまくおろして休まなくちゃア歩けない。寒いのに腋《わき》の下から汗が出るという始末。実に苦しい。これでは歩けないからこの杖を二本合わして、ソウして荷物を二つに分けて、ちょうど日本で天秤《てんびん》棒で荷《にな》うような工夫で荷って行った方がよかろうと思って、荷物を二つに分けて荷った。
それから一、二丁行くと、元来が丸い杖を二つ合わして荷っているのですから、ドウもその肩の痛いことといったら何ともしようがない。デ重いことは前と同じように重い。別に軽くなったとは思われない。ソコでどうにもこうにもしてみようがない。背中に背負ってみたり、また天秤棒で担《かつ》いでみたり、幾度かアレがよかろうこれがよかろうと考えて、ようやく七、八町山を登って、それから向うの方へ指して降ることになりました。
降りは案外楽なもので、困難の中にも半里ばかりの道を降って川の端に着いたです。その時はちょうど四時頃で、モウ一歩も動けない。ここで泊るよりしかたがない。ソレにまた早くその辺へ野宿ときめこんで、まずヤクの糞とキャンという野馬の糞を拾う必要がある。ソレを薪《たきぎ》にするのでござります。
≪野宿の炊事≫ 荷物を或る場所へ置きまして、例のチベット服の大きな裾《すそ》を上の方に袋形に端折《はしょ》って、その袋の中へ糞を拾い溜めて来たです。デ中位の石を三つ集めて五徳の足のような工合に置いて、ソコで集めて来た糞を塀《へい》のような工合に組立てるのです。それから糞の最も乾いた奴を手で練って粉にして、真ん中にフッサリと置くのです。そのフッサリとしたる間へ、火口《ほくち》に似た木の葉で拵《こしら》えたものを入れて、ソレから日本の昔の流儀で燧火《ひうち》石を打って火を移すのです。ソウして皮の鞴《ふいご》でボツボツと風を送るんです。その送り加減がなかなかむつかしい。私はその
≪稽古には随分困りました≫ 火を拵《こしら》えるには大変長くかかる処がある。もちろんよく乾いている牛の糞を入れると火が早くできるが、ドウかして湿っていると、半日かかってもできない。ソレで非常に困難することがあった。ヤクですか、それは北海道で馬を飼っているように飼い放しにしてあるのですから、糞を拾うには不自由はない。ようやく火ができて、グルリに壁形《かべなり》に積んであるヤクの糞に火がつきましてから、水汲みに出かけるので、チベットの鍋《なべ》をもって水汲みに河へ出かけたです。
デその鍋に水を汲んで来てソレから湯を沸す。湯は高い山の上で空気の圧力が弱いから、奇態にジキに沸く。沸騰《ふっとう》すると茶を手で揉《も》み砕いて入れます。それから茶を煮る時には天然の曹達《ソーダ》を入れます(チベット山中にある曹達)。ドウしても二時間くらい煮ないと茶が好い色になって来ないです。よく煮ないと、チベット人のいいますには毒だと申しますからよく煮るのです。ソウしてよくでき上りました茶の中にバターと塩とを入れて、ソレから実は摩擦すればよろしいのですが、そんな器械はございませんから、そのまま指で掻《か》き廻してソレを飲むのです。茶はシナの番茶の固まったのです。ソレを鍋に一杯の水を入れて煮るです。鍋はおよそ一升入り。その代り昼後は飯は一切喰わない。
≪露宿の危険≫ さて、自分が集め得られただけのヤクの糞および野馬の糞を、一旦湯を沸して真赤《まっか》な火になっている上へ一面に継ぎたして、ソウしてその上へ砂をぶっかけて埋め火にしてしまうです。もちろん、夜通しカンカン火を焚《た》いていると、大変都合の好いことがある。というのは、猛獣などがその火を見てやって来ないです。雪の中にいる豹《ひょう》で実に恐ろしい奴がある。これは英語にスノー・レオパルド、学名をフェリス・ユニガというので、チベット人は唯《ただ》シクと呼んでおる。また雪の中にいる猫で、大変に人に害をするものもある。ソウいう獣は、夜中火を焚いているとやって来ない。ソレですから本当の望みの方からいうと、火を夜通し焚いていることは必要であるけれども、ソレを焚いておくと或いは山の上かどこからか知らんが、泥棒などがその火を認めまして、オオあすこに火があるからきっと人がいるに違いない。行ったらよい仕事ができるだろうといって、その火を的にどこかの山の端《は》から尋ねて来られる憂いがあるのです。随分猛獣の迫害も恐ろしいものでございますけれども、ソレよりもなお人間の迫害の方が余計に怖い。何故ならば猛獣はこっちでよく寝ている時分には、ドウかすると寝息を聞いても、喰わずに行ってしまうこともあるです。ソレですから、泥棒の迫害を防ぐために砂をおっかぶせておく。翌日の朝まで、その火がよく保てるようにしておくです。スルとまず非常の寒さのために、凍《こご》えて死ぬの寝られんのというようなこともない。朝は氷が張っているくらいですから、温度は氷点以下です。ソコでまずその晩寝ましたが、ちょうどソレが陰暦の六月一三日の晩ですから、
≪月は皎々《こうこう》≫ と寒天に輝いて、自分の野宿している前を流れている川に映っておるです。語る友なし、折々聞ゆるは猛獣の声。ただその前面を流るる水の音と明月とが、私の旅中の困難を慰《なぐさ》めるという次第。ソレがまた非常に佳い景色のように感じられるものですから、もちろん山の形などは巌窟《いわや》や禿山《はげやま》ばかりで面白くも何ともないが、ただ月の水に映っているだけが、非常に愉快に感ぜられたので、おもむろに故郷のことなども忍ばれて一の腰折ができたです。
チベットの高峰《たかね》ケ原に出る月は
天津《あまつ》御国の君とこそ思へ
マア寝ましょうとしますけれども、なかなか火があっても、背中が寒かったり腰の辺が凍えて来たりするから、やはり睡《ねむ》られない。ソレで
≪苦しいながら坐禅≫ をするのです。デ、ウツウツしております中に、いつしか夜が明けました。その火を掻き捜すとマダ火がある。それから水汲みに出かけた。朝は川の端《はた》には氷が張っているから、その氷を叩き割って水を汲んで来て、ソウして残っている火に煖《あたた》めている中に、自分の荷拵《にごしら》えにかかる。まず自分の着物の着方のゾンザイになっているのを直します。その中に微温湯《ぬるまゆ》になったところで、直《じき》にその湯を飲んで、また乾葡萄《ほしぶどう》のもらったのを喰いまして、腹ができたから荷物を背負ってだんだん出かけて行く。
さてその川に沿うて登って行けといわれたのか、降って行けといわれたのか、不意と忘れました。確かに登って行けといわれたように思いますけれども、登って行く方の側へ行くと、実に山が高いのです。アアいう高い処には大きな荷物を背負ってはとても登れない。よしんばこの山を登って良い道があったにしたところが、この荷物を持って行っては死んでしまう。だからマアこの川に沿うて降って行こうと思いまして、だんだん川に沿うて降って行きました。スルト路が間違ったのか、ドウも教えてくれたところの、石に大きな仏さんが彫りつけてあるという場所へちっとも出ない。ドレだけ行っても出ない。出ないはずです、登って行くのを降ったから。
第二十回 月下の坐禅
≪|路窮(みち|きゅう)して巡礼に逢う≫ ズット川に沿うて二里ばかり降ると、大分広い原に出たです。向うを見ると原の広さが七、八里もあり、横幅が三里もあるくらい。イヤまあこういう処に出れば安心、山の中でこの荷物を背負っていちゃアとてもたまらない。ソコで磁石を振り廻してみると、西北に向うには自分の降った川を向うに渉らなくちゃア行かれない。ところがその河を渉るのは嫌《いや》です。冷たいのが一番苦しいから……。ドウしようか知らんとしばらくそこに立っていると、向うからお坊さんが渉って来た。それもやはり私のような巡礼者であって、カムという国からわざわざゲロン・リンボ・チェに会いに来たんだそうです。ソコデ私はこの人に道を尋ねるためにいいました。「これから私はカン・リンボ・チェの方に行かなくちゃアならないが、そのカン・リンボ・チェに行くにはドウ行ったらよかろうか」「それは向うに行かねばならん。これから二日ほど行くと人のいる処に出られるから、そこで尋ねるがよかろう。これをズッと行くと、ここから見えておらないが、その原の中にテントがある。そこへ指して行けば必ず泊る処が得られるから」という始末……。
ソコで私はその坊さんに「休息して下さい。少しお頼み申したいことがあるから」といって、それからその坊さんに乾桃を多分にやりました。実は自分でも重くってたまらんですから、沢山やったんです。ソウしたところが、その坊さんびっくりして悦んだ。デあなたにこんなにもらうわけがない、お気の毒だという。イヤ実はあなたに頼みたいことがある。この荷物を向うの岸まで渡してくれまいか、ソウでないと私は大分病気でヒョロヒョロして、ドウもこの荷物を持って渡った分にゃア、この急流に押し流されてしまうかも知れないから、ドウか渡してくれまいかといって頼みますと、イヤそれは何でもないことだ。渡して上げよう。一寸見たばかりでも誠に強そうな坊さん。そのはずです。カムの
≪いわゆる強盗商売の国≫ の人間ですから、非常に強い者でなくちゃア巡礼ができないです。ソコで何でもなく私の荷物を持ちまして、平気で私を引っ張って向う岸に渡してくれたです。その時にはマアありがたいことでした……。それからその坊さんはもと来た道に引き返し、私はその荷物を背負ってだんだんテントのある方へ指して進んで行ったです。なかなかテントは見えない。ところで、その時は疲労がだんだん烈しくなってしかたがなくって来たです。心臓病を起したのかドウしたのか知らんが、息は非常に急《せわ》しくなって来まして、少し吐気が催《もよお》しました。コリャいけないと思って、そこへ荷物をおろしますと、背中の方にも荷物を背負ったために摩《すり》むくれができまして、その痛いことといったらたまらないです。その痛みよりも、今吐き出しそうになっている奴が非常に苦しくって、何か胸に詰《つま》って来たようになったから、ジキに宝丹を取り出して飲みました。
≪無人の高原に血を吐く≫ スルト、ドッと一つ血を吐きました。コリャ大方空気の稀薄《きはく》の処ばかり長く通ったものですから、こういうことになったのか知らんと思いました。私は元来心臓病はないはずだが、ナゼこういうふうに心臓の加減が悪くなったか知らんと疑いましたが、これもやはり空気の稀薄の加減であろうと察したです。もっともチベット人は、空気の稀薄にたえ得られるだけの非常に強壮な肺を持っておるです。私共の肺はチベット人の肺に比すると、大方半分しかなかろうと思います。ですから、肺が自然と圧迫されるのか突き出すのか分りませんが、非常に胸膈《きょうかく》が苦しくなって来まして、ドウもしてみようがなくなった。デ、マア大病というような形状を現して来た。コリャうかうか進んで行くと、つまりテントのある処に達し得ずして死んでしまう。だからマア今夜はここでお泊りだ。ソウしてマア明日になってボツボツ出かけて行こうというような工合で、その晩また野宿ときめこんだです。その距離は二里ほど下って一里ほど来たから、その日は三里しか歩いておらない。ドウもその病気の様子といい、一方ならぬ有様になった。コリャ困ったと思いました。実にヤクの糞を拾いに行く勇気もなくなっちまいまして、マアその処に倒れこんで、前後知らずに寝てしまったです。ソレは大方昨夜寒くて寝られないところから、前後を忘れて寝たようなことであろうと思います。
≪霰《あられ》に打たれて覚《さ》む≫ スルと何か顔をば酷《ひど》く打つものがあるので、ふと眼を覚すと、大変大きな霰が降ってるのです。顔といわず身体といわず、すべてバラバラバラと打ちつけているんです。それからまず起き上ろうと思って坐りかけますと、ドウも身体の各部がリウマチスをわずらっているようにメリメリと痛いので、そのまま静かに坐りこんで、ジッとマア考えておりました。大分に心臓の鼓動、肺の圧迫等が静かになって来たものでございますから、この様子なら死ぬほどの気づかいはあるまい。だが背中の破れた処が痛い。足の疵《きず》が痛い。ソレに何しろ重い荷物を背負ったのですから、筋肉等がすべて痛んでいるとみえて、どこもここも痛いです。これでは今日はとても進むことができないから、今晩はモウ一晩ここへお泊りという考えをきめましたけれども、差し当り困ったことには、例のヤクの糞を捜しに歩くことができないのです。身体が痛くてたまらんものですから……。たといそれを捜しに歩くことができても、もはや霰が降って地の温度で霰が融けて行くという有様で、ヤクの糞も馬の糞も皆湿っておりますから、到底行ってみたところが駄目なんです。それから例のツクツク(裏は赤き羊毛、表は厚き帆木綿のごとき切布《きれぬの》にて製したる四幅《よの》蒲団のごときものにて、目方はおよそ三貫目くらいのもの)という、羊毛の大きな夜着のような物を頭から被《かぶ》って、下には羊の毛皮の敷物を敷きまして、ソレでそこへ坐禅ときめこんだです。別に飲み物を拵《こしら》えようとしたところが、薪《まき》がないからしかたがない、
≪高原月下雪山の景≫ そのままジーッと考えておりますと、追々夜分にもなってまいりますし、ちょうどソレが陰暦六月一四日の晩でございますから、月も明に漠々たる原野を皎々《こうこう》と照しておるというようなわけで、自分の身体に苦しいところがなかったならば、この境涯は実に愉快きわまる高原の夜景であろうと思われたです。何故ならば、その漠々たる原野の遙か向うの月下に、朧《おぼ》ろに雪の山が光っているさまは、あたかも雪の中に神仙が現れておるような有様でありますから、ソウいう有様をよく観じてみると、決して苦しいどころの騒ぎでなく、非常な快楽を感じたことであろうと思う。
けれども、何分にも身体の各部が非常に苦しいものですから、マア坐禅をしているものの、ただその苦しみに心を奪われて、始めは何ということなしにしばらく過ごしましたが、ドウもただ苦しい方にばかり観念を奪われては、ますます苦しくなるわけでありますから、マアここで本当に苦しいところを、押し強く坐禅の妙境に入ってみようというような工合で、自分の心を転じたです。スルとその辺の場所の愉快なことも分りまして、実に面白く感ずるところから、五条の橋の上で坐禅された大燈国師の歌を思い出しました。その歌は
坐禅せば四条五条の橋の上
ゆきゝの人を深山木《みやまぎ》にして
というのでありますが、私はその歌に応《こた》えるつもりで一の腰折れができました。
坐禅せば高野《たかの》ケ原の草の上
ゆきゝの人も深山木もなし
こういうのでございますが、大方大燈様がおられたならば、或いは破顔微笑されたかも知れません。或いは叱早sしった》の声と共に、三十棒を喰わされたかも知れませんなど思うて、だんだんソウいう観念が深くなるにつれて、自分の苦しみも忘れ、我と我が身を忘れたような始末になって来たところから、不意とまた歌が出たというわけです。その時には愉快でした。その歌は
苦しめる我もなき身のゆきの原
法《のり》の光に解くる心は
というようなわけで、その観念のために、その夜は寒気の苦しみにも打たれず、また夜の明けぬにも頓着《とんちゃく》せずに、ツイ暁まで坐禅をそのままに押っ通したというようなことでございました
ソウして翌日《あくるひ》になって乾葡萄を喰って、それからその荷物を集めにかかると、身体の各部の苦痛は大分薄らぎました。疲労はかなりしておりますけれども、この様子なれば進むに気づかいはないというので、その荷物をよく整理して、それからだんだん北東の方に向って出かけました。ソコで身体も大分によろしいものですから、余ほど道が進みまして、朝の中に四里ばかり進行しました。ツイその辺に小流れの水があったから、例のごとく焼麦粉を喰って、その小河を渉ると小さな岡がある。その岡を踰《こ》えて向うを見ると、遙かのかなたに白いテントと黒いテントが見えております。
≪ドウも不思議だ≫ 黒いテントはあるべきはずだが、白い布のテントのあろうはずはないが、ドウしたのか知らん。一体このテントはヤクの毛で拵えたもので、土人がヤクの毛を口で哺《くわ》えて、手で延ばしつつ撚《ひね》りつつ、糸にしてそれを織るのでございます。デ、その布を縫い合わせて家の形のようなものを拵える。ですから大抵は黒いのです。もっとも、ヤクには白い毛のものもありますけれども稀《まれ》ですから、白い毛を集めてテントを拵えるということは、全く向うではないのです。だから私の不審に思ったのは無理のないことで、ドウもソレは分らなかったけれども、とにかく五、六個のテントが見えておりますから、そちらに向って行けば今晩はそこへ一宿できる。ことによれば二、三日、この病気を療養して静かに休まなくってはなるまいという考えも起った。
それから勇を鼓《こ》してテントのある処へ指して二里ばかり進んで行った。そこへ着く半里ほど手前から余ほど苦しくなったけれども、何分向うに目的がチャンときまっているから、そこまでドウやら着きますと、最初にお迎いにあずかったのは恐ろしい例のチベット北原の猛犬五、六疋。ワイワイと吠え立ててお迎い下すった。そこで例の杖の先で犬の鼻を扱《あし》らっておりますと、その一番大きなテントの中から、チベットには稀なる美人が顔を出して、私の様子をしばらく見ておりました。
[#改ページ]
第二十一回 美人の本体
≪美人の一声≫ それから、その美人が門口の紐《ひも》で括《くく》ってあるテントの扉《ひらき》を開けて、こっちへ進んで来てその犬を一声叱りつけますと、今まで非常に吠えておったところの犬は、その主人に叱られたので、俄《にわか》にポカンと耄《ぼけ》たような顔をして、皆チリヂリに逃げてしまったです。そのさまが実に滑稽《こっけい》で面白かったです。デ私は笑いながらその婦人に、ドウか今夜一晩泊めてもらえまいかといって頼みますと、一応私のラーマに尋ねてお答えをいたしますといって家に入り、ソレからまた出て来て、よろしゅうございますからお入りなさいといいますので、マアその中に入ったです。ドウもソウいう処に入ったのは、極楽世界の蓮華《れんげ》の中に入ったよりか、身体の上からいうと結構に感じました。ソコでその夜は何かの話をしてそのまま過ごしましたが、翌日も身体の療養ということで、やはり泊っておりました。その翌日もまた泊っておったです。
その間にいろいろ道筋の話を聞いてみますと、これから半日ばかり馬で行くと、キャンチュー(野馬河《やまか》)という河がある。その河はなかなか大きな河で、ブラフマ・プットラに注いでいる。その川を渡るには渡る場所があって、うっかり渡ると水に持って行かれてしまうという話である。ですから、その河を渡る便宜を得なくちゃアならん。ところでモハヤ二日ばかり療養して、大分に身体もよくなりましたから、翌日は発足したいと思ったけれども、明後日、すなわち一三日でないとその便宜を得られないということであったから、ソコで休んでいることになったです。ところが、ちょうど一二日の晩ですが、そこにいる四、五軒の遊牧民が、私に請うて説教をしてくれということがあった。ソレは私のいる主人のラーマが、私をもって誠に尊いラーマであるから、このラーマの教えを聞くことが必要であるというて、ほかの人に説き勧めたものですから、沢山なといったところで三十名ばかりの人ですが、その人達に対してその夜は説教しました。ソレでだんだんチベットにあるところの仏教のありがたい例話などを引いて、説教の後に三帰五戒を授けてやりましたところが、めいめい布施《ふせ》物を上げました。その中に娘が一人おりましたが、自分の首にかけている
≪珊瑚《さんご》の飾り≫ です、珊瑚珠が七つばかりで、その間に宝石が一つ入っている。その飾りを上げたです。ソレは一旦取りましたが、必要のない物ですから、せっかく下すった志は確かに受けたが、これは入用がないから、お返し申すといって返してやりました。ところでソレじゃア何にも上げる物がないといって、大いに困ってその内の宝石一つだけくれました。その宝石だけは、ドウしてももらわないというわけにはいかない。ほかの人も是非受け取ってやってくれと勧めますから、その宝石だけもらいまして、今もなお記念として私の手にその宝石が残っている。
その翌日、白いテントの主人が出て来て、乾葡萄、乾桃、乾|棗《なつめ》などを持って来まして、私の泊っておる主のラーマと交易しました。ソレは何と交易するかというと、羊の毛、或いはバターと交易するんです。その交易に来た人はラタークの商人《あきんど》です。おかしなチベット語を使って、話もようやく分るくらいにできるんです。その男は余ほど仏教信者とみえて、私にいろいろ仏教のことを尋ねますから、相当の返事をして、仏教のありがたいことを説いてやりましたところが、大いに悦んでドウか私のテントの中に一遍来て下さい、お茶を上げて供養したいと思うから、今日昼の御膳はここで上らずに私の処に来てくれというから、そこへまいりました。スルと乾葡萄など大分高価な物を沢山くれて、なおその日そこででき得るだけのご馳走をしてくれた。デその主人が、明日いよいよその川を渉って、商いの都合で向う岸にいる遊牧民の処へ、共に行くということになったです。
しかるにその私の泊っておったラーマというのは、実に新教派のラーマで、妻帯もしなければ酒も飲まないという側の清浄な方であったので、その名をアルチュ・ツルグーといっている。すなわちアルチュにできたところの化身という意味です。その方がその辺での非常な美人に思われたのか、自分が思ったのか、ドウいう関係から一緒になったか知らんが、その美人を女房として、ソウして清浄な僧侶の品格を全く汚《けが》しておったのです。けれども、その人の心は余ほど慈悲深い寛大な人で善い方で、財産も余ほどあるものとみえて、ヤクなども五、六十疋飼ってたです。羊も二百疋あるです。大きな財産家ではないですけれど、まずそのくらいあれば一寸よい方の側で、妻君もなかなか気のきいた美人です。ですから、一家の内は和楽して実は悦ばしく過ごしていたのです。また世間からみても財産もあり万事整うているから非常に安楽であろうと、こうみられるわけで、私共もツイ結構な活計《くらし》だなと思っておりました。しかるに、私がそのラタークの商人の宅から帰ってまいりますと、
≪美人|夜叉《やしゃ》と変ず≫ で、何か家内で非常な喧嘩が始まったような声がしている。何か知らんとテントの内へ入ってみますと、その菩薩のような美人の妻君は、夜叉のような顔になって、角は生えておらなかったけれど、真赤な顔になってラーマに対して悪口をいっている。その憎気《にくげ》ないいぐさといったら、通常の耳をもって聞くことができない。ところがそのラーマはごく温和な人ですから、黙っておられるけれど、いかにも私が帰って来たのでその手前もあったものとみえて、この畜生といって立ち上って、その美人を一つ打つ真似をしたんです。スルト大変です。サア殺せといってラーマの足元へ坐りこんで眼を閉《つぶ》って夢中になって、サア殺せ、そこに刀があるからその刀でもって殺せ、貴様は人間でない夜叉であるから、
≪己《おれ》を殺して喰《くら》え≫ サア喰え、坊主の所作《しょさ》もできない癖に、坊主ぶって人を誑《たぶら》かす悪魔であるというそのいいようの憎げなことは、今思い出してもゾッとするくらい。私はその時感じました。アアどうも僧侶の身分で女房を持ったというものは、こんなに辛い苦しいものか、人目から見た時分には随分よくみえるが、ドウもこのさまは気の毒なものだなアと思って、実に呆れかえったわけでございましたが、さて打遣《うっちゃ》っておくわけにいかないものですから、まずその婦人をよく宥《なだ》めてマア静かに寝さしてしまうような方法を取りました。それから、そのアルチュの化身ラーマには、外へ行ってもらうようにして、私がラタークの商人の宅へ指して誘導してまいりました。ソレでその夜は、うまく事が収まったというようなわけでございました。
イヤもうチベットの坊さんばかりではありますまい。堂々たる日本の坊さんでも、女房を持ったり子を拵えたりしておる人は、これと同じような難儀を見ていることだろうと思うて、ひそかにその夜は涙を流しましたが、実に女房を持った坊さんほど気の毒なものはないです。
第二十二回 一妻多夫と一夫多妻
≪裸体にて河を渉る≫ それから翌日、私はそのラーマから借りた馬に乗って、ソウして荷物はラタークの商人のラバに載せて、河端を指してまいりました。ちょうどその時には、ほとんど北に向ってまいったんです。高低《たかびく》な高原地で、雪はチラバラ、草が少しくあっちこっちに生えているというような処を通りまして、五里半ばかり行きますと、キャンチューの河端に出ました。その河はそこからズッと西北の方を眺めますと、二十余里も向うの方に、ドッカリと坐っている大きな雪山の間から流れて来ておるです。その流れて行く先を見ますと、東南の山腹の中に入ってしまって、その行く所を知らず、河幅は広いところは三丁余り、水が平らに流れているが、狭い処は半町余りもない処もある。その河の狭い処は、巌と巌とが迫っているような処です。デその河端で休んで昼食することにしました。
ラタークの同行者は五、六人もあるから、それらが薪を拾い集めにまいりまして、私はお客さんで坐りこんでお経を読んでいたです。それから私がアルチュ・ラーマからもらって来た米を煮ました。この米はネパール地方から輸入されているので、一升七十銭くらいの割合いです。その米を私に五合ばかりくれたから、ソレをみな煮て、ほかの人と分けて喰いました。久々で米を喰って実に旨く感じたです。ソレで馬に乗ってジキにその河を渉れば誠に楽ですが、大変砂深い河ですから馬の足が深く入りこんで、或いは馬に害をおよぼすことがあるかも知れないというので、重い荷物は馬から下して、人が向うに運びつけるというわけにしたです。ソウですから、私共も馬に乗って渉ることができない。やはり裸体《はだか》になって渡って行かにゃアならんです。ほとんど臍《へそ》くらいの深さの処ばかり渉りましたが、ソレは案内者に引っ張ってもらって渉って行くのです。水幅が三町半ほどで、その水の中には、朝、氷の張ったのが融けて上流から流れて来た小さな氷塊があるから、それが足や腰の辺に当ると怪我をする。水の冷たいことは申すまでもない。マアそういうふうで、上り終った所でその冷たい感じのために、しばらくは歩むことが困難です。幸い他の人は荷の上げ下しをしたり、馬に荷をつけたりしておるその間、私はしばらく休息して日に煖《あたた》まりながら、自分の身体を摩擦していますと、荷物を皆馬へつけてしまったです。デ私も同行の人達も共に馬に乗って、その河端に沿うて西北の方へやって行ったです。
デ六里ばかり行くと一の遊牧民の集まっているナールエという処に着いた。ソレがちょうど七月一四日です。ここはやはりキャンチューの北岸で、そこに七、八軒のテントがある。その内で一番大きいカルマという老人の家に着きました。この辺は皆仏教信者ですから、向うで疑いさえ起さなければ、何のこともなく厚遇をしてくれる。私は殊にアルチュのラーマから馬を送られたくらいですから、大いに私を厚遇してくれたです。
≪同胞一妻の習慣≫ そのカルマという人の家は実に奇態な家で、チベットにはほとんど例の少ないやり方の家でした。元来チベットでは、大抵兄弟三人あっても五人あっても、嫁さんは一人しかもらわんです。兄さんが嫁さんを一人もらって、そのほかの者はその嫁さんと一緒にいて、やはり夫婦の関係になっておるです(婚姻についての面白い話は後にお話します)。いわゆる多夫一妻です。チベットの国は痩《や》せた国ですから、兄弟めいめいに妻を持つことになると、財産を分配しなくちゃならんというような関係から、かかる習慣が仏教の入る前から形造られておったように思われるです。
ところが、この家には妻君が三人ある。その主人は五十くらいの人で、一番の女房は四十七、八の盲目《めくら》。次のが三十五、六の女、その次が二十四、五です。一番末の女房に子が一人ありました。こういうのはチベットでは類が少ないです。全くないことはありません。娘が二人或いは三人で、養子を一人もらってすましている家もその後見たことがありますから、ないことはないが、こういうふうに始めから自分一人で三人も女房を持っているというような有様は、その後私はどこでも見なかったです。そこでお経を読んでくれないかといいますから、よろしいといって自分の身体を休める必要もあり、かたがたお経を二日ばかり読みました。デ、ドウしても履《くつ》を一足余計に買っておかぬと破れた時分に非常に困るから、ソコで履を一足買って悪い処を修復したです。
デ一八日に大きなチベット羊を一疋買いまして、それに荷物の幾分、およそ三貫目ばかり割《さ》いて背負わして、私が六貫目ほどの荷物を背負うことにしたです。大分楽になったわけで、ソレでヤクの尾で拵えた繩でその羊の首を括《くく》って、自分も荷物を背負ってそこの家を辞して、カン・リンボ・チェの方向に進んで行くことにした。ソコで一、二町は素直に行きましたが、その羊が逃げようとして非常な力を出して私を引き摺《ず》り廻すです。大変な力のものでドウしても向うへ進まない。一生懸命に引っ張って行こうとすると後退《あとじさ》りしてナカナカ進まない。後から杖で打擲《ぶんなぐ》って追いやろうとしても、ドウしても動かない。ソリャどうも非常な力のもので、かえって私が引っ張って歩かれるというわけ。遂にはもう羊と戦いくたびれてしまって、ドウにもこうにも心臓の鼓動は激しくなって来るし、呼吸《いき》も忙《せわ》しくなって来たです。デ様子が変になったからコリャ
≪羊と喧嘩≫ ばかりしていて、自分の身体を悪くしてしまっては困るから、今日は後戻りをして一つ聞いてみなければならん。この羊をドウいう工合にしてやるかということを、よく尋ねなければならんという考えで後戻りをして、またそのカルマという人の家へ来まして、その日はそこへ逗留することになったです。デその主人にわけを聞いてみると、コリャまだ人に慣れない奴だからいうことを肯《き》かない。モウ一疋買うと友達ができるから、ドウにか進んで行くことができるだろう。人に慣れている少し好い羊を上げようからお買いなすったらドウか、イヤそれでは分けてくれ、その羊の値は一円二十五銭くらいのものです。小さいものなれば七十銭くらいからあるです。ソコでまず羊が二疋できました。それへ荷物を三貫目ずつ分けると、自分の背負う分は三貫目、非常に楽になった。これならばズンズン進めるという考え。
スルトその日の午後三時頃にホルトショ(その辺一帯の地名)の酋長ワンダクが、自分の手下を引き連れて私のいる処に出て来たです。私の主人とも話し、また私とも話をしたが、ジロリと私の顔を眺めてドウやら疑いのありそうな趣《おもむき》がみえたです。ソコでこいつは疑わしいという話をしかけられて、花に花が咲いては困ることが起るであろうからと気づかって、私はジキに話の緒口《いとぐち》を開きました。ソレはゲロン・リンボ・チェのことをいいました。ソウするとゲロン・リンボ・チェは酋長の非常に信仰している人ですから、お前はゲロン・リンボ・チェに逢ったかという話です。逢うてこうこういう話をして、いろいろ鄭重な品物をくれたばかりでなく、|菩提薩※[#「土+垂」、unicode57f5]《ボーデサッタ》、|摩訶薩※[#「土+垂」、unicode57f5]《マハーサッタ》〔大乗仏教の真の実践者である菩薩摩訶護の慈悲の行為をいう〕の行を完《まっと》うせよということをいわれたという、一伍一什《いちぶしじゅう》を語りました。ソコでその酋長はスッカリと疑いが解けてしまいまして、大いに私に好意を表して、ソレでは明日私の宅へ来てお経を読んでくれというようなことで、まず翌日はその人の宅へ行くことにきまったです。
≪機一髪殺活自在≫ にやるというのは、禅宗坊主の特色でありますが、私もその端くれの一人ですから、日頃心がけておったことが、こういう時に大分間に合ったように思いました。デその翌日、ワンダクの宅へ馬に乗って出かけたです。荷物は皆運んでもらいまして、三里ばかり行くとその人の宅へ着きました。山の中で雪の大分ある処でございましたが、大きなテントで、なるほどホルトショの部落の酋長といわれるだけの大きな財産を持っておりました。その翌日も逗留して、酋長の請に従ってお経を読み、そこでまた道の順序を尋ねました。デその翌日二里ばかりの道を、馬でもって荷物だけ積んで人一人つけて送ってくれまして、これから先はむつかしくはない。今夜一晩野原に泊りさえすれば、翌日は遊牧民のいる処に着けるであろうという。それからそのいったとおりに、その晩は或る池の端に泊って、その翌日進んでまいりました。
ところが、もう荷物は羊二疋に背負わして自分はわずか三貫目の荷物ですから、歩くにもごく安楽で、マアいろいろの面白い考えもできる。非常に苦しい時分には、なかなか悠長な考えをしている暇もない。幸いに、或る池の端でテントの四つある処へ指して着きました。例のごとく猛犬にお迎いをされたです。コリャおきまりですから、こういう処に着いた時分には、こんなことがあったということをこの後はお話することを止めます。
ソコで或る家に宿りました。ソレから一日ほどの処に、ブラフマ・プットラという大河の源流である、チベット語のタム・チョク・カンバブという川に着くことになっておるんです。その川はチベット唯一の非常な大河でありますから、案内者を頼み、また荷物を向うへ渡してもらう人を頼まなくちゃア、なかなか危ういです。デその便を得るためにそこでだんだん頼みましたが、いくら金をやるからといっても誰も行ってくれない。それからいろいろ珍しい物や何かをやったりして頼んだですけれども、誰あって行こうという者が一人もないです。
第二十三回 大河を渡る
≪薬を施して馬を借る≫ ところが、その近所に病気で困っているお婆さんがありまして、その病人が出て来てドウか薬を下さい。大変悪いようです。いつ頃死ぬのか診てもらいたいという様子を見ると、随分危ない病気で、肺病のようであったから、ドウも私共の手に負えるわけでもございませんけれど、かねて肺病の容体など知っているものですから、逐一摂生法をいい聞けたです。それから薬をやらないと安心しないから、間に合い薬をやりました。スルト大いに悦んで、何をお礼したらよろしいか、こんな尊いお方から、こういうように結構な目に遇うということは、願うてもない幸いだから何かお礼したい。ドウかあなたの方からおっしゃってもらいたいといいますから、それならドウか人二人ばかりと馬三疋ばかり世話してもらえぬだろうか。ここに馬も五、六疋いる様子だから、明日川端まで送ってもらって、この荷物を向うまで運んでもらえまいか。川の中は羊では荷物を渡すことはできぬというから、是非ソウやってもらえまいかというと、ようございますとも、私がそのことを計らいますといってスッカリ引き受けてくれました。
マアよい都合で馬を三頭と、それから人二人を借り受け、その馬の鞍にかけて荷物を四貫匁ずつくらい積み、ソウしてチベット人の常例としてその上に人が乗るのですが、私の荷物は馬三疋に割って何でもなく積んでしまった。それから羊は、馬の上からその人達が引っ張って行くということになって、馬三疋で羊二疋を引っ張りながら、タム・チョク・カンバブの大きい川端に着きました。朝五時頃に出て十一時頃に着いたのですが、その間、ほとんど七里ばかりの道を進行したです。ソコでそのブラフマ・プットラ河の清らかなる水を取って茶を沸し、麦焦しを喫《た》べて、例のごとく腹を拵《こしら》えました。
≪チベット第一の河を渡る≫ 河底の砂が深いから馬は河に入れない。水のある河の広さは十五、六丁、それから河原になっているこちら側の広さが一里ばかり、向う側の広さが半里ばかりある。ですから実に広大な川で、まずこちらの河原を通り過ぎて川端へ着いたのです。ただ今申したとおり、時刻はちょうどよろしゅうございますから、そこで清らかなる水を取ってまず昼飯をすまし、それから、私は例のごとく身体に丁子油を塗った。しかし、塗るのをその人達に悟られてはいかないから、お手水《ちょうず》に行くという都合にして、或る岡の蔭に隠れて油をスッカリ塗って来たです。それからこっちに出て来て、サアこれから入ろうといって川の中へ入ったです。デ二人の人はその荷物を二つに分けて背負って行く。私を導いてくれる人は羊を引っ張って行く。それで十五、六丁ある水の流れている処を渡るのですが、浅い処は腿《もも》ほどしかない。それも水は五、六寸くらいのもので底が見えているですが、やはり砂の中に足が嵌《はま》りこむから腿《もも》まで入る。また深い処は大抵腰の上まである。
ドウやら渡り終ったところでその二人は荷物をおろした。私はその人々に礼物としてチベット流のカタというものをやった。これは白い薄絹です。人に進物をする時分には、物にその薄絹を添えてやるのが礼です。もっとも、カタばかり贈って礼意を表することもあるから、それを一つあて男達にやりました。スルとその男達のいうには、これから西北の山と山との間を通って行くと、マナサルワ湖の方へ出てカン・リンボ・チェに達することができる。しかし、これから多分十五、六日間は人に逢うことはできますまいから、充分御用心なすって、雪の中の豹に喰われないようにお経でもお読みになってお越しになるがよかろう。私共はここで帰らないとまた遅くなるからといって、別れを告げて帰ったのです。サアこれから
≪十五、六日間無人の高原≫ を往《ゆ》かなくちゃアならんかと、早速その荷物を背負って半里ばかりある磧《かわら》をドシドシやってまいり、そこから堤でないけれども高くなっている処を、ズッと四、五丁も上りますと平地に出ました。平地の間にも山がチョイチョイあるです。そこまで来ると羊に草を喰わせにゃアならず、自分も大分疲れているから草のある辺で草を喰わし、自分も荷物をおろして休みながらズット、ブラフマ・プットラ河の流れ来る西北の方向を見ますと、大きな雪の峰が重なり重なって、ちょうど数多《あまた》の雪|達磨《だるま》が坐禅をしているように見えるです。雪が山の裾《すそ》まで一面に被《かぶ》さっている有様は、とてもダージリンやネパールの方からは見ることはできない。これがすなわち、チベットの高原地から雪山を眺めた時の特色であることを感じたです。それからズッと川の行先を眺めてみますと、遙かの雲の中に隠れてどこへ流れこんだか分らなくなっているが、その蜒蜿《えんえん》と廻り廻って上から下までズッと流れ去り流れ来たる有様は、ちょうど一流の旗が大地に引かれているような有様に見えたです。ソコで例のヘボ歌がまた胸の中から飛び出した。
毘廬遮那《ビルシャナ》の法《のり》の御旗の流れかと
思はれにけるブラフマの河
ドウもこの歌ができた時には、歌人から見るとむろん詰らんものでもありましょうが、自分の考えからすると、実に愉快にたえられなかった。マアこういう処に出て来たればこそ、こんな歌ができたんで、この景を見なかったならば、ドウしたってこんな歌なんか自分の脳髄《のうずい》から飛び出すようなことはあるまいと感じて、非常に嬉《うれ》しく自分独りで満足していました。
デ草はすでに羊に食わしてしまったから、自分が荷を背負ってだんだん西北の方向に向って山の間に登って行きましたが、モウ楽です。荷物が軽いからドンドン進行ができる。その辺の山の間或いは高原の間には池が沢山あるです。山の上なぞに上ってまいりますと、ここにもあそこにも池が見えている。その池の大きさは、大きいのは十丁或いは二、三丁、また一丁ぐらいのもある。その辺の名は何というか知らんけれども、コンギュ州の中であろうと思います。デ私はその辺を名づけて「千池ケ原」といいました。それから午後四時頃その池の端に着きまして、荷物をおろし羊は草のある処に置いて、自分は例のごとく野馬の糞を拾いに行きました。
≪遊牧民の跡だもなし≫ その辺はドウも遊牧民の来ない処とみえて、ヤクの糞がない。大抵野馬の糞ばかり。ソコでその野馬の糞を沢山集めて火を拵えて、その夜はそこで過ごしました。その晩は非常に寒いのでやはり寝ることができず、そのまま夜を明かしたくらいですから、また一首の腰折ができました。
虫の音も人声もなき高原に
おとなふ月の友は唯われ
翌日また進行して四、五里西北に進む間は、やはり池もあったですから、その池の水を汲んで例のごとく昼飯をすまし、だんだん西北へ指して進んで行くと、西北に当って大きな雪山が見えます。ドウもその雪山を登って行くには非常に困難ですから、東の方に行かにゃアならぬという考えも起ったです。しかたがないから、雪の山と山との間でも通って向うに踰《こ》えようか、或いは東の方の雪のない山を踰えて行こうか知らんと、しばらく考えに沈むと、何とも判定のしようがないから、例のごとく断事観三昧《だんじかんざんまい》に入って決定して行く。それが誤らずにうまく行ったです。だんだん進んで行くと、今度は池も何もちっともなくなった。
≪水なき曠原《こうげん》に出ず≫ それから水は少しもなくなったです。ドウか水のある辺まで行って、今夜茶を沸して飲んで寝たいものだと思って、四時頃になってもなお歩みを続けて、山また山を踰えて行きましたが、ちっとも水がない。ちょうど七時頃まで歩きましたが何もない。その日はおよそ十一里くらい歩いたです。モウ羊も疲れてしまってナカナカ進まない。自分は喉《のど》が乾いてしかたがないけれども、幸いに草があるから羊に草だけ喰わして、今夜はここへ寝るべしと決心したです。その代り火を焚く世話もいらぬ。もちろん夜分になっては、火など焚いて面倒が起ってはならんから焚くこともできませず、そこへ寝こんだです。ところが昨夜寝られないのと、十一里ばかり歩いて疲れているのとで随分寒くて苦しかったが、苦しみも慣れてみるとさほどでないとみえて、ウツウツと寝こんだです。
第二十四回 渇水の難、風砂の難
≪水の代りに宝丹≫ その翌日五時頃に起きて、羊は草を沢山喰っているから荷物を背負わせ、自分も荷を背負うことにして向うの砂原を見ると、ドウやら水がありそうに見えている川がある。そこまでは少なくとも三里ばかりはあるようですから、マアあすこまで行きゃア今日は水を得られるという考えから、羊を追っ立ててその方向に進んで行った。その前日から水がなくなって困っておったから、非常に喉が乾いて実にたえられない。宝丹などを口に入れてようやく渇きを止めているが、ドウしてもいかない。早く水のある処へ着いたらと思って、急いで行ってみると実に失望した。遠く望むと水の流れている川らしく見えます。そこに着いてみると豈《あに》はからんや、水はすっかり涸《か》れて綺麗な白石ばかり残っている。ちょうどそれが水のように見えておったです。デ私はその時に思いました。餓鬼が水を飲みたい、水を飲みたいと思って行くと、その水が火になって大いに困るという話があるが、私のは水が石と変じてしまったと思って大いに失望した。これではしかたがない。ここからどちらに水を求めに行ったらよいか知らんと思って、あちこちを見たが、その辺には何もない。五分ばかり伸びている草が、チョイチョイあるくらいのことで何にもない。ドウもしようがない。ソコで西北の方向を取って、どこかに水があってくれれば好いと思って、またやって行くと、向うに砂原があってキラキラ水があるように見えている。悦んで行くとそれは不意に消えてしまって陽炎《かげろう》であったが、つまり砂が日光に反射して、水のようにその辺に現れておったものとみえる。コリャ本当に
≪水に渇する生きた餓鬼≫ だと思ったです。
腹の中から水を求めているようになったけれども、しようがない。だんだん進んで行くけれども、ドレだけ進んでも、さて水のある処が見つからない。今夜も水を得られずにいた日にゃア、このまま死にはせぬかと非常に苦しくなった。その度に宝丹を出して飲むけれども、飲むとかえって余計喉が乾くくらい、しかし幾分の助けにはなったろうと思います。それからだんだん進んで十一時頃になると、向うの方に一寸低い溜りのあるような処が見えた。あすこに水があるだろうと思って、そこへ指して砂を踏み分けつつ行きますと、なるほど水がありました。その時の嬉しさは何ともたとえ得られんほど嬉しかった。マアこれを一つシッカリと飲んでそれから茶を沸そうと、モウ片時も待っておれないから、早速荷物をおろして懐《ふところ》から椀を出して汲もうとすると、
≪その水が真赤≫ になっている。これは何か知らんと思うと、チベット高原にある一種の水なんで、それは何百年このかたソウいうふうに腐敗して、そこに溜っておったものであろうかと思われるくらい。早速汲んだところが細かな虫がウジウジしている。コレじゃ直ぐ飲むというわけにはいかない。殊に虫のあるような水を飲むことは私共には許しませず、ドウもこいつア困った。しかしこれを飲まなくちゃア立ち行かず、飲んじゃア仏戒にもそむくし、第一自分の身体を害するがドウしたらよかろうかとしばらく考えておりましたが、ジキに案が浮みました。かねてシャカムニ如来が戒法をお立てになった中に、もし水の中に虫がいたならば、その虫を切布《きれ》で漉《こ》して飲めというお教えのあったことを思い出して、コリャ良《い》いことを思い出したというので、早速切布とチベット鍋を出してその水を切布で漉したです。そういたしますと、外側に虫が残って水が下へ落ちた。それが清水かと思うとやっぱり赤い。けれども、虫のウジウジしているのが眼にかからんから、それを椀に盛って一盃飲んだ時のその味は
≪極楽世界の甘露≫ もおよばなかったです。一盃は快く飲みましたが二盃は飲めない。これをドウか湯に沸して茶を拵《こしら》えて飲んだらよかろうというので、その辺を駆け廻って野馬の糞を集めて来て沸していると、十二時間近になって来た。十二時過ぎると飯が喰えないことになるから、マダ湯は沸ないが、その微温《ぬるま》な水で麦焦しを捏《こ》ねて充分麦の粉だけ喰ったです。例の唐辛子と塩をつけて……。実に旨かったです。それから一里ばかり砂の中を行くと、午後三時頃から非常に風が吹き出した。ドウもその砂が波をあげて来るので、荷物は砂に押っかぶされてしまうし、バアーッと眼の中へ吹きこむから眼を開いて歩くことができない。といって眼を開かんでは方向を見るわけに行かず、眼を開けば砂が一ぱい入って来るというわけですから、何ともしようがない。ソウかといって、ジーッと坐りこんでばかりいるわけにもいかない。
≪砂が波を立てて来る≫ のですから……。アアいう荒い凄まじい景色は日本にいる時などは夢にも見たことがなかった。砂がドシドシ波を立てて来る。ですからたまらんです。砂地がホジクられたようになってドーッと荒《すさ》んで来る。ですから暴風のために今前にあった岡が失くなって、また向うに砂の岡ができているというような始末。ドウもソウいう中ですから坐っていることもできず、進むこともできず、進退これきわまって心中に経文を読んでおりましたが、その暴風は幸いにして一時間ばかり経つとヒョッと歇《や》んでしまいました。大いに安心してその砂原の中をだんだん進行して、ちょうど五時頃に当り、小さな草も生えていれば棘《とげ》のある低い樹の生えている処に着きました。その樹は日本の茶畑のような工合にポツポツと生えていて皆針がある。寒い処であるから葉は青くなっておらんで、真っ黒になっている。コリャ好い処に着いた。この辺の水のある処で今夜はこの枯れた樹を集めて、マア火がよくできるという考えで、その辺の池のある処に荷をおろして、また例のごとく枯芝を集め、野馬の糞を拾ってその夜はごく安楽に、その泊った処も誠に池の中のような処に入ったから、案外風が来ないで、暖《あった》かでその晩ばかりは心安く休んだです。ところがその翌日また
≪一大困難≫ が起ったです。それでその池の端から出て、例のごとく羊を駆ってだんだん山に登って或る山の中腹にまいりまして、遙か向うの方を見渡しますと大きな川がある。その川の折々に池がある(池また川、川また池となるの意)。池はさほど大きなものではありませんけれども、ソウいう池が沢山にあるのです。デ川は皆雪峰から出て来ているのですが、私の見た処では池がその辺に五、六か所ありました。それはもちろんブラフマ・プットラに注いでいる川で、その川の名を後で聞いてみるとチエマ・ユンズン・ギチュ(卍《まんじ》の砂の川という意味)という。それは川が流れて池となり、池また流れて川となるで、その池の配合で、川の流れ塩梅《あんばい》が卍のようになっているのかも知れません。デその川で我が生命を失うかドウかという困難が起って来た。もとより山の中腹から望んだ時は、そんなことの起ろうとは夢にも知りませんけれども、その山から望んだ時には、またこの川を渡らにゃアならんかと思いました。ナゼならばその冷たい、冷たい川を渡るのはちょうど
≪地獄の氷の川≫ を渡るような感じが起るからです。もっとも私は地獄に行って氷河を渡った覚えはないが、それほど辛く思ったです。もとより困難は承知なれども、差し当りの困難に対しては、イヤ随分困ったなと考えの出るものでございます。とにかく、だんだんその川の方に進行しなくちゃアなりませんから、その川へ指して降《くだ》ってまいりました。ちょうどそれが午前九時頃でしたけれど、マダその川端には少し氷がありますし、今渡った分にはとても寒くっていけない。第一氷で怪我をするから、マ少し融けてからでなくちゃアいけない。その間に茶でも拵えて昼飯でも喰いましょうという考えで、そのとおりにやりました。やがて十二時頃になってから、自分の身体へ例の丁子油を塗りつけました。デ深さを探ってみると大分に深いです。まず羊を追い入れようとすると、羊は深いということを知ってでもいるのか、ドウしても入らない。
第二十五回 氷河に溺る
≪羊をひいて氷河を渉る≫ しかたがないから荷物をそこへ置いて、まず羊二疋を引っ張って渡ろうという考え。デ自分はそれほど深いと思わないから、乳の処まで着物をタクシ上げて、例の杖をもって向うへ指してやって行きました。スルと水が乳の処まででなくって、ほとんど肩の辺までありまして、着物がスッカリ濡れてしまった。けれども羊は泳ぐことができるから、首だけ上げてズンズン向うに渡って行くです。もちろん、私が繩を持って引っ張っておらんければ、羊は流されて死んでしまうのです。マア好い都合に向うに渡りきりましたが、ドウもその寒いこと一通りでない。早速羊を石に括《くく》りつけて、自分はまた自分の手でできるだけ身体を摩擦して、暖気を取りました。デ一時間ばかりもそんなことをして費やしたですが、その川の広さはちょうど一町半ばかりある。ソコでその着物をスッカリ脱いですっ裸体《ぱだか》になり、濡れた着物は風に持って行かれないように石でもって押えつけて、よく日に乾くようにして、自分はまたすっ裸体で川に飛びこんだです。こっちで三十分ばかり暖を取って、それからまた油を塗りつけて、その着物を頭の上に載せて渉って行ったです。やはり前の川筋を行ったのですけれども、荷物の重みもありますし、川底に大きな石があってその石に苔《こけ》が生えたようになっておるものとみえて、
≪不意に辷り転《こ》けた≫ スルと頭の上にあった荷物が横になって、片手で上げにゃアならんようになった。モウ杖は間に合わぬようになってズンズン流された。もちろん少しくらいは泳ぐことも知っておりますから、右の手でしかと荷物を押え、左の手で杖を持ちながら、こうやって(手真似をして)泳ぎ泳ぎ流されましたけれど、ナカナカうまい工合に行かない。その時ふと考えた。コリャ自分の命を失ってはならんから、この荷物を捨ててしまって、自分だけ泳いで上ろうか知らんと思いました。しかしこの荷物を打遣《うっちゃ》ってしまうと、たちまち自分の喰物が失くなる。これから十日余り人のいない処を歩かねばならぬということを聞いているから、ソウすると直ぐに飢《かつ》えて死んでしまう。ドウにか足がくっつくか知らんと思って、下へ指して杖を立ててみると杖が立たんです。その中にだんだん押し流されて水を飲む、腕も身体も感覚が鈍くなってきかんようになった。もう一丁ばかり向うの方へ流されると、大きな池の中へ持って行かれるにきまっている。コリャここで死んでしまうのか、ドウせ喰物がなくなって死なねばならんのなら、いっそ
≪水で死ぬ方が楽≫ かも知れんという考えを起して、臨終の願いを立てていいました。十方三世の諸仏達並びに本師シャカムニ仏、我が本来の願望は遂げざれども、我らの最恩人たる父母および朋友信者らのために、モウ一度生れ変って仏法の恩に報ずることのできますようにと願いをかけまして、モウそのまま死ぬことと決定して流れて行ったです。
流れて行くと不意と何か杖の先に当ったから、ハッと思ってしかと握っておった杖を立ててみると、杖が立ちました。ヤこれはと思うと勢いが出ましたから、ウムと立ち上ってみると、水はちょうど乳の処までしかない。これならうまいと思ってズッと向うを見ると、水がドウいう加減に流して来たものか、向う岸の方に流れついている。モウ二十間も行けば、向うへ指して上り得られるような処に流されて来た。コリャありがたいと思ったから、腕も何もよくきかないけれども一生懸命に、その水の中にある荷物を頭の上に挙げようと思ったけれども、重くなっているから上らない。荷物は皮の袋や何かですから、スッカリと水が中に浸《し》みておりませんから、濡れきってはいるがそれほど重くない。それをマア引っ張りつけて、だんだん向うに進んで行ったところが、追々浅くなってきて向う岸に上ることができた。ヤレヤレと思うと、モウその荷物を水から取り上げることができない。閉口したですが、荷物をそのまま抛《ほお》っては自分の命の糧《かて》が失くなるから、一生懸命力をこめて両方の手で荷物を上に引き挙げた。マアこれでいいと思って、ドッカリ坐ってホッと一息つきました。どのくらい流されたのか、何でも羊のいる処とは二町ばかり離れておるです。デ羊は二町ばかり上の方に何にも知らず草を喰っている。私はモウそこへ上ったところで、少しも動くことができない。大体
≪手も足も痺《しび》れきって≫ ドウしてその荷物が上ったのか、後で考えてもその理屈が分らんくらいですが、モウ足をかがめることもできず、凍えきって立つこともできない。そのまま、こいつア困った。このまま死ぬのじゃないか知らんという考えを起したです。ドウもしてみようがない。それからマアどうやらこうやらできるだけ自分で摩擦をした。指は延びないから拳骨《げんこつ》で胸膈《きょうかく》の辺りを摩擦していると、手に暖まりがついて大分指が動くように感じましたから、指を延して全体に対し摩擦を始めたが、なかなか暖まりもつかない。デ大方一時間ばかりも摩擦をやっていると、大分暖まりがついて指も自由がきくようになったから、今度は荷物を解《ほど》いて、その中から宝丹を出して飲みました。その時にはありがたく思いました。いつも難儀するとこの宝丹が役に立つが、これは大阪の渡辺市兵衛の奥さんが出立の時分に親切に送ってくれた。それがマアこういう時に、こうも役に立つかと思って、大いに悦びました。
ソウしてしばらくいるとガタガタ震え出した。その震動がナカナカ烈しくなって少しも止らない。ドレだけ歯を喰い縛《しば》ってみても止らないです。しようがないからそのまま倒れていると、やっぱり震えている。まるで瘧《おこり》が起ったような有様……。デ大方二、三時間も震えておったでしょう。その中に五時過ぎになりまして大分日光の力も薄くなって来たが、ドウやら震えも少し止って立つことができたから、荷物を二つに分けて、そこへ半分残して半分だけ背負って、ドウにか羊の処まで行きたいと思って出かけました。その半分の荷物の重さといったらたまらないです。昔の監獄で負石《おいいし》の責《せめ》に遇わすということはかつて聞きましたが、その罪人の辛さもこんなであったろうと、そぞろにその苦しみを思いやって涙を溢《こぼ》したです。デその荷物を二度に羊の処に運びました。その晩は火も何もない。濡れた着物が少し乾きかけたくらいですから、その濡れている側を外にして、乾いている側を内にして例のツクツクの夜着をば冠《かぶ》って、その晩はそこで過ごしましたが、さてその後にいたってから、実にまたそれよりも酷《ひど》い一大困難が私の身に起って来たのであります。
第二十六回 山上雪中の大難
≪一難免れてまた一難≫ その翌日好い都合に日も照ったものですから、濡れた着物と経文を乾かしました。その濡れた痕《あと》のついた法華経、三部経のごときものは、いまなお私の手に記念物として保存してあるです。その記念物を見る度に、ドウしてあの時助かったろうかと、不思議な感じが起るくらいです。
ちょうど一時頃、荷物を整えてだんだん西北の方に進んでまいったところが、昨日の疲れが酷《ひど》いのと荷物はほぼ乾いているけれども、一体に湿り気を帯びているので非常に重い。その上、少しは羊の荷物をスケてやらねばならんような場合になったので、なおさら自分の荷物が重いのに、川底の石で足の先を切ったものですから、その痛みがまた非常に厳しい。だから進むに非常に困難でしたが、しかし、一足向うに行けば一足だけ目的地に近づくわけでありますから、とにかくボツボツと進むべしというので、緩々《ゆるゆる》とかまえながら二里ばかり行きますと、雪が降り出して風も大分はげしくなりましたから、その辺に泊る処を求めて、或る小さな池の端に着きました。けれども、薪も何も拾う暇がない。大変な雷が鳴り出して暴雪暴風という凄まじい光景ですから、着物なり荷物なりはまた濡れてしまい、せっかく乾したものをスッカリとまた濡らしてしまいましたから、翌日またソレを乾かさなければならん。茶も飲まなかったから随分腹も餓《すい》ている。けれども薪がないからドウすることもできない。乾葡萄だけ喰って昼までその着物を乾かして、ソレから出かけたです。この日が真に
≪大危難≫ の起った日で、ソウいうことが起ろうとは夢にも考えませんでした。さて西北の方に高い山が見えている。しかし、ほかの方を見るとドウも行けそうな道がないから、とにかくかの西北の雪の峰を踰ゆれば、必ず目的地のカン・リンボ・チェ、すなわちマウント・カイラスの辺に達することができるであろうという考えを起しました。後で聞いてみると、その雪の峰はコン・ギュ・イ・カンリという二万二千六百五十尺の高い山であったです。
その山にだんだん進んで急坂を四里ばかり登ってまいりますと、もはや午後五時頃でまた暴風が起って大雪が降り出した。ソコで考えたことは、これからこの山をドシドシ登って行ったならば、今夜はこの高山の積雪のために凍えて死ぬようなことが起るであろう。だから目的地へ指して行くことは後のことにして、差し当り山の麓《ふもと》の川へ向って降って行かなければならんと思い、それから方向を転じて北東の方へ降って行くと、雪はますます降りしきり日も追々暮れて来たです。のみならず、坂は非常な嶮坂《けんぱん》でなかなか降るに困難である。あたりには泊るに都合の好い岩もないものですから、どこかそういう場所の見つかるまで降ろうという考えで進んでまいりました。どこを見ても雪ばかりで、岩もなければ隠れ場も分らない。途方にくれたが、トいってその辺に坐りこむ場所もなし、雪はすでに一尺ばかり積っておるです。とにかくドンな処か見つかるまで行こうという考えで羊を追い立てますと、余ほど疲れたとみえて少しも動かない。無理もない。相当の荷物を背負っている上に、今日昼までは草を喰っておりましたけれども、その後は高山に登って来たのですから草も得られなかった。サア進むことができないといって進まずにゃアいられないから、可哀そうではございますけれども、押し強く後から叩きつけてみたりいろいろなことをしたが、羊はモウ動かない、坐っちまって……。ようやくのことで首にかけてある綱を引っ張って二間ばかり進むと、また
≪羊が雪中に坐り≫ こんでしまって一歩も動かない。ドウもしてみようがない。ハテどうしようか知らん。この雪の中に寝れば死ぬにきまっている。モウすでに自分の手先に覚えがないほど凍えておりますので、羊の綱を持っているその手を伸ばすことができないほど、苦しゅうございます。けれども、このまま積雪の中に立ち往生するわけにいかんから、ドウかこの羊を起して進ませなければならんという考えで、また一生懸命に力をこめて、羊と戦いながら半町ばかり行きますと、またドッカリ倒れていかにも苦しそうな息をついているから、コリャ今晩ここで凍え死ぬのか知らん。ドウにか方法がつかないか知らん。どこにかテントのある処が分っていれば、羊を棄てて出かけるけれども、この間聞いたところでは十四、五日も人に逢わんであろうというから、どこへ行ってみたところがドウせ人のいる処に着かないにきまっている。コリャもう、ドウしても羊と一緒に死なねばならんのかと途方にくれておりました。ドウもしてみようがないから、羊の荷物をおろして夜着を取り出してそれを被《かぶ》り、ソレから頭の上から合羽を被ってしまいまして、ソコで羊の寝転んでいる間へ入って
≪積雪中の坐禅≫ ときめこんだです。羊もその方がよいとみえて、ジーッと私の側へ寄って寝ていました。これが随分暖かみを持つ助けになったろうと思う。その羊も余ほど私に慣れているものですから、まるで私の子のような工合に、二つが左右に寄り添うて寝ておったです。可愛《かわい》いようでもあり可哀そうでもあり、ジーッと見ていると、二疋ともさも悲しそうな声を出して泣いている。いかにも淋しく感じましたが、ドウもしてみようがない。何かやりたいと思ってもそこらに草もなし、自分はもとより午後は一切喰わんのが規則ですから、ただ懐中から丁子油を出して、夜着を着ている窮屈な中で身体へ塗りつけました。スルと大分に温度が出てまいりました。一体油を塗るということは、外界の空気の侵入を禦《ふせ》ぐと同時に、体温を保つ効能があるようです。殊にこの丁子油は、体温を保つ目的をもって拵えたものであるから、非常に暖みを感じたです。ソレからまた口と鼻から出るところの呼吸を止めるような塩梅《あんばい》にしておりましたが、それはこの呼吸が当り前に外へ出たり内に入ったりして、外界と交通しますと、身体の温度を保つに困難であろうという考えであったです。こうして余ほど温度を保っておりましたが、十二時頃からドウもだんだんと寒さを感じて、非常に感覚が鈍くなって、何だかこう気が変になってボンヤリして来たです。人間の臨終《いまわ》の際《きわ》というものは、こういう工合に消えて行くものであろうかというような感覚が起って来たです。
≪雪中の夢うつつ≫ こりゃドウも危ない。しかし今さら気を揉《も》んだところでしかたがないから、このまま死ぬよりほかはあるまい。仏法修行のためにこの国に進行して来た目的も達せずに、高山積雪の中に埋れて死ぬというのも因縁であろう。仏法修行のため斯道《しどう》に倒れるのは是非がない。ソウ歎くにもおよばないが、ただ自分の父母、親族および恩人に対して、その恩を報ずることのできんのは残念である。ドウか生れ変ってから、この大恩に報じたいものであるという考えを夢心に起しましたが、それから後はドウなったか少しも知らない。もし人があってこの境遇を評したならば、全く無覚である、我を失っているものである。或いは死んだ者であるといわれるような状態に陥ったものであろうと、後で想像されたです。その時は全く何も知らなかった。スルと自分の端で動くものがあるから不意と眼を覚してみると
≪羊の身顫《みぶる》いに夢を破る≫ 二疋の羊が身顫いし雪を払っておるです。それがちょうど私の身体の雪を払うようになっておるのです。フッと現《うつつ》にかえりましたが、まだ夢路を辿《たど》っているような心地で、コリャ奇態だという感覚が起った。その中に羊は自分の雪を払い終ってしまいましたから、私も雪を払おうと思って身体を動かしかけると、何だか身体が固くなって容易に動かない。それから例のごとく摩擦をして空を見ると、夜前降った雪の後の空に、まだ恐ろしい黒雲が斑《まだら》に飛んでおりまして、その雲間に太陽が折々光っているという凄まじい空模様である。
大分気分も確かになったから、時計を出してみますと午前十時半頃、それはその翌日の十時半であったか翌々日の十時半であったか、時を経たことはよく分らない。それから麦焦しを喰おうと思いましたけれども、例の水がないものですから、傍の雪を取ってバターを入れて、それでマア麦焦しの粉を一ぱいばかり喰いました。デ羊にもやはり麦焦しの粉を沢山にやりました。彼らは始めのほどは草よりほか喰わなかったけれど、だんだん慣れるにしたがって、麦焦しの粉を食べるようになりました。その時は余ほど腹の餓《へ》っておったものとみえて、沢山喰いました。
それから羊に荷物を背負わせ、自分も荷物を背負って雪の中をボツボツ下の方に向ってまいりました。もうこれから上に向って進んで行くという勇気はない。マア谷間で身体を休めてそれから進行しなくっては、とても身体が持てないという感覚が生じましたから、だんだん下へ指して二里余り降りますと、川が一筋ありました。その川へ着こうという手前から、また綿のような大雪がドシドシ降り出した。今晩もまた、雪の中で凍え死にするような目に遇うか知らんと思っていると、ふと降りしきる雪の中で、実に美しい声で啼き立つるものがあったです。何の声か知らんと思ってよく見ると
≪雪中河畔の群鶴≫ 鶴が七、八羽その河端をおもむろに歩いておるです。その景色には実に旅中の困難を慰められた。その後そこの景色を思い出して詰らぬ歌を詠んで記念にしておきました。その歌は
ブラフマの、川の渚《なぎさ》の砂地に、牡丹《ぼたん》やうなる白雪の、降り積りたる間より、
コ、コウ、コ、コウとなのる声、いづくよりかと尋ぬれば、静かに鶴の歩むなり
それから、その一町余りある川を渡ってだんだん低い方に進んでまいりますと、その辺は谷間でそんなに高低もなし、だんだん行きますとヤクが数十疋もいるような有様が見えたです。例のとおり、石の転げているのがヤクに見えるではないか知らんと思うと、かなたこなたに動くです。コリャいよいよヤクに相違ないと思って、その方向に進むと、果せるかなヤク追いがその辺におりました。デ物を尋ねると、その人のいうには俺達《おらたち》は昨夕ここに移って来たばかりだ。これから向うに行くと四つばかりテントがあって、人が住んでいるから大方そこに行くと、今夜泊まれるだろうという話でございました。
実に地獄で仏に逢ったような心持で、だんだんその教えられた方向に進んで行くとテントがあったです。例のごとく恐しい犬に迎えられて、或るテントについて事情を述べて、ドウか今晩泊めてくれろと願いました。ところが、そのテントの主人はドウ思ったものか、いかに願ってみても泊めてくれない。もちろんその時には私の姿が恐ろしくあったろうと思います。何故ならば髪の毛は二月ばかり剃らんのですから、充分延びているところへ髯《ひげ》が蓬々《ぼうぼう》と生えておりますし、それにいつも腹は餓《へ》りがちで、痩《や》せこけて頬骨《ほおぼね》が出ているという次第ですから、向うで恐れて泊めなかったかも知れないと想いました。いくら頼んでも泊めてくれないから、また犬と戦いながら他のテントに行って頼みました。ところがこれもやっぱり泊めてくれない。それからもう一軒の処に行って一生懸命に頼みました。私はこういうわけで、モウ七、八日人に逢わんで実に困っているから、ドウか救うて下さいといって事情を明かし、手を合わせて拝まぬばかりに頼めば頼むほど、情《すげ》なく出られて閉口しきったです。ドウかテントの隅でもよい。外へ寝ると、今夜この雪のために凍えて死んでしまうから、命を助けると思って泊めてくれないかと頼んだけれども、ナカナカ肯《き》いてくれないばかりか、遂にはお前は己の家へ
≪泥棒に入る気≫ かといわれたです。モウその一言で頼むこともできませず、しかたがないものですから、また外の方に出ましたが、実に泣きたくなるほど辛かった。モウ一軒テントの張ってある処があるけれども、ガッカリしてそこへ頼みに行く勇気もなく、茫然《ぼうぜん》と雪の中に立っていると、羊も悲しそうに鳴いている。可哀そうになったから四軒目のテントへ行って頼みましたところが、そこの主《あるじ》は私の姿を一見するや、お入りなさいといって誠に快く入れてくれたです。ドウもこの一群の遊牧民は実に無情きわまる人間だと思いましたが、案外にも情け深い人に出逢ったものですから、大いに悦んで、早速|幕内《うち》へ指して羊の荷物をおろし、羊は羊で繋《つな》ぐ場所に繋いでその夜はそこに泊りました。身体は非常に疲労して履《くつ》も非常に傷《いた》んでおりますけれども、暖かな火の端ですから、真にこういう状が極楽であるというような感じが生じた。その翌日は身体を休めるために、主に願って逗留しました。デ私は、かねて仏教上、ドウか一切衆生のために尽し得られるだけのことを尽したいという
≪二十六の誓願≫ があって、それを書いていた。こういう自分の熱心なことを書いている時には、足の痛みも身体の疲れも忘れてしまうから、これが真に苦痛を免れる良い方法になった。つまり私のやった誓願は、人の苦痛をも免れしむる良い方法になるであろうと予期して、歓喜したわけであります。
その翌日、朝五時頃出立して、今度は方向を転じて北に向って四里ばかり原野の雪の中を辿《たど》ってまいりました。雪の消えている処は少し草が生えている。デ一の大いなる池の端に着きまして、そこで昼飯をすまし、その池の端で向うの方をズッと眺めてみますと砂原です。砂の山があっちこっちに見えている。これは以前のチエマ・ユンズン河の前にあった砂原より大きい。この砂原で暴風でも起った日にゃア、またこの砂に埋められる憂いがあるから、ドウか早く進みたいという考えが起って来ました。これもやはり経験上苦労に慣れたから、こういう考えがすぐ湧いたのです。それから自分はひとしお勇気を鼓して、羊を駆って大いなる砂地を指して進んで行ったのでございます。
[#改ページ]
第二十七回 人里に近づく
≪ポン教≫ さてその砂原を二里半ばかり行きますと、また草原に着きました。その草原を少しまいりますと、誠に奇態な石ばかり集まっている原野に、山が一つチョンポリと立っている。後にその山の来歴を聞いてみますと、ソレはポンという教えの神さんが住んでいる山であったそうです。
このポン教というのは、仏教がチベットに入る前にチベット人の宗教として行われておったものである。今もなお微々ながら行われておりますが、その教えは一体インドにある教えに似ている。というのは、仏教が入って後ポン教は非常に衰えたので、その後ポン教の或る僧侶が仏教の組織をそのままポン教に取ってしまって、新ポン教というものを拵《こしら》えたです。それ故、今のポン教は犠牲を供するとか妻帯をするとか、酒を飲むことを除くのほかは、教理の上においてはほとんど仏教と同一である。この教えのことは専門に渉りますからここでは申しませんが、つまりチベット古代の教えの神々の住んでいる社というようなものは別にない。大抵は石山、或いは雪峰もしくは池、湖というような所になっている。その山の処を過ぎて少し向うへまいりますと、野馬が二疋向うからやって来たです。
≪羊との競走≫ ところがドウしたのか、羊がその野馬の走る勢いに驚いて、私の持っている手綱を引き外《はず》して逃げ出した。サアそれからその羊をば追っかけた。追っかければ追っかけるほど余計に逃げる。何しろ広い原の中ですから、クルクル回り回って羊の跡を追っかけたが、ナカナカ追っつかない。羊は余ほど走るのが早い。デ私と羊と競走しているものですから、野馬の奴がまた好い気になってそのグルリを走っているから、ドウしても羊が止まらない。モウ私は疲れ果てて遂には倒れそうになった。けれども打遣《うっちゃ》っておくわけにいかないから、自分の持っている杖を棄ててしまって、ソレから一生懸命に走りました。ソレでも捉《つか》まらない。しかたがないから、そのまま自分は倒れてしまって、しばらく羊の逃げて行くままに打遣っておいた。羊に逃げられると自分の食物が失くなるのであるがしかたがない。ジーッと正視していると野馬も突っ立って眺めておるです。ソウすると羊も止まって正視している。コリャなるほど私が悪かった。ムヤミに追っかけたから逃げたのだ。いわゆる狂人を追うところの狂人、馬鹿げたことだと休息いたしました。しばらくして静かに羊の綱を捉まえに行くと、今度はわけもなく捉まえられた。ソレはよいが、一疋の羊の荷物の片っ方がどこへ落ちたか失くなっている。ソリャ一番自分にとっては大事な物を入れてあるから、コリャ困ったと思って、ソレから羊を引っ張りながらあっちへ廻りこっちへ廻り、その辺をスッカリ捜した。随分厄介な話。どこを捜しても、ドレだけ走ったかわけが分らずに追っかけたから、サッパリ見当がつかない。
≪海の中に物を棄てた≫ ようなもので、少しも捜し当てることができない。その中に何が入れてあるかというと時計、磁石、インド銀が四、五十ルピー、それから食物を喰う椀《わん》、乾葡萄《ほしぶどう》、西洋小間物の人にやって珍しがるような物も大分入れてあった。ソコで私は少し考えた。コリャもはやマナサルワ湖に近づいて人に逢うことも近くなったのであろう。ソレにこういう西洋物を持っていては、人から疑いを受けて奇禍を買うようになるから、仏陀がわざとこういう物を失わせるようにされたかも知れない。おもに西洋物ばかり入れてあるもの一つだけ失ったのであるから、これは捜す必要はない。ただ少し困難なるは、銀貨を少し失ったけれども、それはホンの当座用に出しておいたのだから、さして困難もないと、こう考え直して捜すことを止めたです。ソレからその羊の荷物をモウ一度整理して、だんだんと西、北の山の方に進んで行った。けれども、その辺は余ほど広い山間の原野で、二里半ばかりまいりますと、今度は平地を降ることになって、ズンズン半里ばかり降った。
≪マナサルワ湖の間道に出ず≫ スルとそこに一筋の道がある。コリャ奇態だと思ってよく前に聞いてある話を思い出しますと、ソレはマナサルワ湖へ指して行く、チベット本道からの廻り路であるということに気がついた。コリャうまいものだ。これから人に逢うことができるであろうと思って、だんだん進んでまいりますと、大きなる川の端に一つの黒いテントがある。早速そこへ向ってまいりまして、私はこういう者であるから、一夜の宿りを乞いますといって頼みますと、誠に快く泊めてくれた。その人達もやはり巡礼者であって、伴《つれ》の人が五人、その中女が二人で男子が三人、その男子は皆兄弟で一人の女は兄の嫁、一人は娘、デ私は安心しました。こういう女連れのある巡礼者は、大抵人を殺さぬ者であるということを聞いておりましたから、まず大丈夫と思いました。けれども、その人達は強盗本場の国から出て来たのです。その本場というのはどこかというと、カムの近所でダム・ギャ・ショの人であるということを聞きましたから、少しく懸念も起りました。何故ならばその辺の諺《ことわざ》にも
人殺さねば食を得ず、寺廻らねば罪消えず、人殺しつつ寺廻りつつ、人殺しつつ寺廻りつつ、進め進め
ソウいう諺がある国の人で、ナカナカ女だって人を殺すことくらいは、羊を斬るよりも平気にしているくらいの気風でありますから、容易に油断はできないわけです。けれども、モウそこに着いた以上は虎口に入ったようなものですから、逃げ出そうたって到底駄目だ。殺されるようなら安心して、その巡礼の刀の錆《さび》になってしまうよりほかはないと決心して泊りました。
第二十八回 阿耨達池《アノクタッチ》の神話
≪巡礼の刀の錆≫ になると決心したものの、しかし、そのままそこに寝るわけにいかない。いろいろその巡礼と寺のありがたいことなど物語って、ともかくその晩はゆっくり寝ることになったです。その翌日がすなわち八月三日です。五人連れの巡礼も志す方向に進むというので、翌朝連れ立って西北の方に向い、大きな河に沿うて進んでまいりました。その河は東南の雪峰から流れ出して、マナサルワ湖へ流れこんでいる。広さは二町ばかりもあって、大分に深そうな河です。かれこれ一里半ばかり行って山の上に登った処に、誠に澄みきった霊泉がある。それがチュミク・ガンガ(訳は恒河《こうが》の源泉)というのです。そこで水を飲んでソレから北の方の山に登りますと、大きな白大理石がある。その大理石の山のようになっている岩下に、また大きな霊泉がある。その名をチュミク・トン・ガア・ランチュン(見歓自然生泉《けんかんじねんせいせん》)という。その名のごとく実に見て喜び、自然に嬉しい思いが生ずるです。大理石の中から、玉のような霊泉が湧き出ているんですから、実に喜びの心にたえない。それらは皆、インドのガンジス河の一番源の水である。この水は真の霊水であるといって、チベット人およびインド人の中にも伝えられている。
そこを離れてだんだん西北に進んで川端に出まして、或る河の最も幅の広い所を向うへ渡りました。渡ってそこでまた一夜を明かすことになったですが、その日はわずか三里半くらいしか歩かない。遙かに西北の空を眺めますと、大きな雪峰が聳《そび》えている。その峰が、すなわちチベット語のカン・リンボ・チェで、インドではマウント・カイラスという。昔の名はカン・チーセといっている。その雪峰は世界の霊場といわれるほどであって、ヒマラヤ雪山中の粋を萃《あつ》め全く
≪天然の曼荼羅《まんだら》≫ をなしている。その霊場の方向に対して、まず私は自分の罪業を懺悔《さんげ》し、百八遍の礼拝を行い、ソレから、かねて自分が作っておきました二十六の誓願文を読んで、誓いを立てました。こういう結構な霊場に向って、自分が誓いを立て得られるというのは、何たる仕合せであろうかという感じが起りまして、その時に一首の歌を詠みました。
何事の苦しかりけるためしをも
人を救はむ道とこそなれ
ところが前夜私が泊りました同行の人達は、お前は何故そんなに礼拝をしてシナ文字を読み立てたかと聞いたから、その意味の一斑を説きあかしてやりました。スルと大変に感心して、シナの坊さんというものは、そんなに道徳心、すなわち菩提心の篤《あつ》いものであるかと大いに悦んで、随喜の涙に咽《むせ》びました。デその夜はドウか説教してくれろといいますから、私はその人達に対して誠に分りやすく説いてやったものですから、大いに悦んで、こういうお方と一緒になったのはありがたい。カン・リンボ・チェを巡るこの二月ほどの間は、一緒にお給仕を申し上げたいものである。ソウすれば我々の罪障も消えるからと、彼らは互いに物語るようになりました。まずこれで安心、ドウも仏法というものはありがたいものだ。人を殺すことを大根を切るように思うている人間が、仏法のありがたさに感じて、共に苦行をしたいというのは、誠に結構なことであると、私も彼らが涙を溢《こぼ》すと共に喜びの涙を溢しました。その翌日、余り高くない波動状の山脈を五里ばかり進んでまいりますと、遙かの向うにマンリーという雪峰が聳えている。これは海面を抜くこと
≪二万五千六百尺の雪峰≫ であって、巍然《ぎぜん》として波動状の山々の上に聳えているさまは、いかにもすばらしい。その辺へ着きますと閃々《せんせん》と電光が輝き渡り、迅雷轟々《じんらいごうごう》と耳を剪《つんざ》くばかり、同時にツブツブした荒い霰《あられ》が降り出して、轟々たる霹靂《へきれき》に和し、天地を震動するさまは、雪峰も破裂しようかという勢いであった。その凄まじい趣きの愴絶、快絶なることはほとんど言語に絶し、覚えず我を忘れてその凄絶、快絶なる偉大の霊場に進み来たったことを大いに悦んだです。何と形容してよいか、その時の有様は今なお忘れられないほど愉快であった。
ソウいう酷《すご》い勢いが一時間経たぬ中にパッと歇《や》んでしまいまして、後は洗い拭《ぬぐ》うたごとくマンリーの雪峰が以前のごとくに姿を現し、ただ片々《きれぎれ》の白雲が雪峰の前にチョイチョイと飛んでいるくらいのことで、もとのごとく日が明らかに照っているというその変幻の奇なる有様には、実に驚かされたです。かくのごとき境涯の変幻自在なる有様は、実に人を感ぜしむるにあまりありと、私は自ら感にたえなかったです。
ソレから少し進んで、池のごとき沼のごときその端に着いて、一行の人達と一緒に宿りました。私はこの時くらい嬉しいことはなかった。宿る時分にはチャンとテントの中に寝こんで、一番上座に据《す》えてもらって、ヤクの糞を拾いに行く必要もなければ、水を汲みに行く世話もない。ジッと坐りこんでお経を読み坐禅をするのが仕事で、夜は説教をしてやる。ソレだけの勤めで気も安楽ですから、自分の身体も余ほど強くなったように感じたです。
デその翌日、すなわち八月六日は大変な坂を踰《こ》えて行かねばならんのですから、今度は「このヤクに乗って坂を踰えると、大いに安楽だからお乗り下さい」というその人達の注意に従い、かつ大いに厚遇を受けました。それは自分の荷物は皆一行の人が持ってくれたのみならず、羊の荷物まで少なくしてもらったです。こうして五里ばかり進みますと、例の
≪マナサルワ湖≫ の端に到着した。その景色のすばらしさは、実に今眼に見るがごとく、豪壮雄大にして、清浄霊妙《しょうじょうれいみょう》の有様が躍々として湖辺に現れている。池の形は八葉蓮華の花の開いたごとく、八咫《やた》の鏡のウネウネとウネっているがごとく、しかして、湖中の水は澄みかえって、空の碧々《へきへき》たる色と相映じ、全く浄玻璃《じょうはり》のごとき光を放っている。ソレから自分のいる処より西北の隅に当っては、マウント・カイラスの霊峰が巍然として碧空《へきくう》に聳え、その周囲には小さな雪峰が幾つも重なり重なって取り巻いているその有様は、五百羅漢が
≪シャカムニ仏を囲み≫ 説法を聞いているような有様に見えている。なるほど天然の曼荼羅であるということは、その形によっても察せられた。そこへ着いた時の感懐は、飢餓、乾渇《かんかつ》の難、渡河|瀕死《ひんし》の難、雪峰凍死の難、重荷負戴《おもにふたい》の難、漠野独行の難、身疲足疵《しんひそくし》の難等の種々の苦難も、スッパリとこの霊水に洗い去られて、清々として自分も忘れたような境涯に達したです。
そもそもこの霊場マナサルワ湖は、世界中で一番高い処にある湖水で、その水面は海上の水面を抜くこと実に一万五千五百尺以上にある。この湖水の名をチベット語でマバム・ユムツォーといっている。また梵《ぼん》語には阿耨達池といい、漢訳には無熱池《むねっち》としてある名高い湖水であります。この池については仏教にも種々の説明があって、現に華厳経には詩的説明を施しておるです。実にその説明のしかたが面白い。それによると、インドおよびチベットの或る地方を称して、南瞻部州《なんせんぶしゅう》という名の起りも、この池から出ているのである。瞻部というのはジャンブという水音を表している。この音は何故に起って来たかというと、この池の真ん中に大きな宝の樹があって、その樹に実が生《な》っている。
≪その実は如意宝珠≫ のごときものであって、諸天と阿修羅とは、その実を得るのが非常の喜びである。ところが、その実が熟して水中に落ちる時分にジャンブと音がする。その水音に因縁してインド地方をジャンブ州といったので、何故その水音に因縁しているかというに、昔はこの池からして、インドの四大河が出て来たものであるという説明であったです。
その四大河というのはチベットの名では、東に流れるのをタム・チョク・カンバブ(馬の口から落ちているという意味)といい、南に流れるのをマブチャ・カンバブ(孔雀の口から落ちているという意味)といい、西に流れるをランチェン・カンバブ(牛の口から落ちているという意味)といい、北に流れるのをセンゲー・カンバブ(獅子の口から落ちているという意味)という。この四つの口がこの池の四方にあって、ソレからこの四大流が、インドに注いで来たのである。デこの水が、インドへ指して来てインドを潤《うるお》しているから、ソコでこの四大河の根源の池のある所のことを取って、この地方全体の名にすることは当り前のことであるという考えから、ジャンブ州という名をつけたものである。今でもその河は、インドでは皆霊あり聖なる河であるとしている。その経文に書いてある詩的説明によっても
≪東の河には瑠璃《るり》の砂《いさご》≫ が流れている。南の河に銀砂《ぎんさ》が流れている。西の河には黄金《こがね》の砂が流れている。北の河には金剛石の砂が流れている。デその河はこの池のグルリを七遍巡り巡って、ソレから前にいった方向に流れ去るとしてある。この池の中には、今は眼に見えないけれども池中に大きな蓮華が開いておって、その蓮華の大なることは極楽世界の蓮華のごとく、その蓮華の上に菩薩も仏もおられるのである。ソレからその近所の山には百草もあれば、また極楽世界の三宝を囀《さえ》ずる迦陵頻伽《かりょうびんが》鳥〔サンスクリット語カラヴィンカ(kalavinka)の音写。極楽世界に住むという美しい声の鳥〕もいる。その美しさといえば
≪世界唯一の浄土≫ であるのみならず、河の西北岸に立っているマウント・カイラスの中には、生きた菩薩や仏もおられ、ソレから生きたところの五百羅漢も住んでおられる。また南岸にあるマンリーという霊峰には、生きた仙人が五百人もおって、この南ジャンブなどにおいて天上の無上の快楽を尽しているのであると、こういうような説明が沢山ございまして、誠にその説明を見ますと、ソウいう処に行ってみたいような心持がするです。けれども実際来てみますと、ソンなに形容してあるようなものはないです。ただ先に申しましたような、豪壮なる清浄なる景色は確かにあって、霊地である霊妙の仙境であるという、深い深い感じが起ったです。その夜などは碧空に明月が輝いて、マバム・ユム・ツォーの湖水に映じ、その向うにマウント・カイラス山が仏のごとくズンと坐りこんでいる。その幽邃《ゆうすい》なる有様には、ほとんど自分の魂も奪われてしまったかと思うばかりで、いまだに眼について、思い出すと心中の塵《ちり》は、ことごとく洗い去らるるかの感にたえぬのでございます。
≪四大河の源泉≫ マナサルワ湖の絶景に見とれて記念のため歌を詠みました。
東《あづま》なる八咫《やた》の鏡を雪山の
阿耨達池《あのくたいけ》に見るは嬉しも
ヒマラヤのチイセの峰の清きかな
阿耨達池に影を宿せば
ヒマラヤのサルワの湖《うみ》に宿りける
月は明石の浦の影かも
デ一体四大河というものは、こういうふうに詩的説明をされておりますけれども、実はその湖から直接に流れ出しておるというのは一つもないのです。つまり、その湖のグルリにある山の中から四方に発しているのですから、この湖の馬の口、或いは獅子の口から落ちておるなどということは、どこにも見ることができないです。もっとも、かの四大河の発する源泉もです。西に流れるランチェン・カンバブ、南に流れるマブチャ・カンバブ、北に流れるセンゲー・カンバブの源泉は、大抵分っているですが、東に流れるタム・チョク・カンバブの出ている処は、一寸分らない。ソレからインド語では、東に流れるのをブラフマ・プットラという。南に流れるのをガンジス、西に流れるのをストレージ、北に流れるのをシタといっておる。
デこのマナサルワ湖の測量については、欧米人はやったことがあるかも知らんけれども、これまで私の見た欧米人の調製にかかる地図によりますと、大変に小さくできている。マナサルワ湖はそんな小さなものでなくって、湖の周囲が八十里ばかりあるです。その形状のごときも、地図に書かれてあるのは変な工合になっておりますが、今私のいったとおりに、ちょうど八咫の鏡が畝《うね》くって、蓮華の形のようになっておるです。ドウも西洋人の拵《こしら》えた地図は、大分間違っているものもあるらしい。その夜はツェ・コー・ロウというマナサルワ湖辺の寺に着いて宿りました。ところがこの寺の和尚からして、一の
≪驚くべき面白い話≫ を聞きました。このラーマは五十五、六の人で、無学ではありますけれども、ごくおとなしい人で、嘘《うそ》なんかちっともいわないような人であった。デ私にいろいろ仏法の話を聞いているうちに、その人のいうには、この頃我が国の坊さんの行の悪いには閉口しましたという。ソレはドウいうことかと尋ねたら、マア何でもない平僧ならば、不品行なことをやっても目に立ちませんけれども、このマナサルワ湖の中でも有名な寺のラーマ、アルチュ・ツルグー(アルチュの化身という意味)が美しい女を女房にして、寺の財産をことごとく女房の家に送って、あげくの果に残りの品物をスッカリまとめてどこへか逃げてしまった。様子を聞けばホルトショの方に行っているというが、あなたはお逢いにならぬかという話。私は実に驚きました。私に親切にしてくれたかの美人を妻としたるラーマが、不埒《ふらち》にも寺の財産を女房の里に送り、その上寺の財産をあらん限り持って田舎へ指して逃げて行ったとは、人は見かけによらぬものだと実に驚いたです。ところで私も嘘をつくことはできませんから、こういうわけで宿りを求めて大変お世話になったといいますと、イヤあのラーマは、表面《うわべ》は誠に優しくって慈悲深いように見えますけれども、恐ろしい悪い奴です。菩薩の化身などとはもってのほかのことで
≪美人の連れ合いは悪魔の化身≫ 私は悪魔の化身と思っている。いつも仏法を喰い潰《つぶ》す悪魔は、かえってアーいう袈裟《けさ》をかけて頭を剃り、殊勝らしくお経や念仏を唱えている者の中にあると思って、涙を溢したという。私はそのことを聞いていよいよ驚いた。日本の社会ではドレほど坊さんが腐敗しても、マサカ寺の金を取って自分の女房を養い、自分の女房の親を養うというような不徳義な者はあるまいと思いました。
その夜はそこへ泊りまして、翌日また湖水の辺に出て、四方の景色を眺めながらあちらこちらを散歩しておりますと、そこへネパール人およびインド人などのごく熱心なインド教の信者〔ヒンズー教。インド民族が古来より伝承する自然発生的な民俗宗教。仏教やイスラム教などのように特定個人の創唱によるものではない〕が参詣にまいりまして、午前十時頃から湖水の中で礼拝をしている。これは仏教徒でなくインド教徒で、このマナサルワ湖を霊地とし、向うに見えるマウント・カイラスを、インドの三大神〔ブラフマン(創造神)、ヴィシュヌ(持続神)、シヴァ(破壊神)の三神。この三神はまた一体三身であるとも考えられている〕の一なるマハー・シッバの霊体として尊崇礼拝しているのでございます。それらの人が私を見て、かの人は仏法のありがたいラーマであるらしいといって、いろいろな奇なる乾した樹の実などをくれました。
その夜もその寺へ泊り、翌日また湖水に沿うて、西北の山の中に進んで行くことちょうど四里ばかりにして、向うにラクガル湖が見えます。これはチベット語にラクガル・ツォといい、英語にレーク・ラカス・タールというている。その湖水の形は一寸|瓢箪《ひょうたん》のようになっていますが、マナサルワ湖よりは余ほど小さい。ところで、だんだんその方向に進んでまた三里ばかり山を登りますと、よくその湖の水面が見えました。
≪山の前後の二大湖≫ マナサルワ湖とラクガル湖との間には、幅一里くらいの山が垣のように峙《そばだ》って、両湖が限られておるです。デ山の或る部分は谷になっておりまして、その谷の水が両湖に通じておりはせんかというくらいに見えている。けれども水は通じておらんので、全く別々になっているのです。その有様を見ますに、マナサルワ湖よりラクガル湖の方が、余ほど水面が高いように見えておった。後にこの両湖について聞くところによりますと、十年か十五年の間に非常な降雨があると、この湖の水が谷を通じて一緒になることがあるそうです。その時分に、ラクガル湖の水がマナサルワ湖へ指して流れこむということが、証明された。ソコでマナサルワ湖は嫁さんで、ラクガル湖は聟《むこ》さんで、聟さんが十年か十五年の間には一遍逢いに行くというような、チベットの面白い神話のような話がある。そうしてカン・チーセ、すなわちマウント・カイラスの名跡誌には、この両湖が夫婦のごとくに連なっているということを書いてあるが、これもやはり通俗の神話から来たものらしい。
ソレからまただんだんラクガル湖を眺めつつ、山の中を五里ばかり降って平原に着きますと、そこに大きな川が流れている。広さが半丁余りある非常な深い河です。この河は或る場所に行けば、きっと幅が三町にも五町にもなっておる処があるに相違ない。この河がすなわちマブチャ・カンバブというので、ガンジス河の源をなしている。これが南の方に流れて行って、プランというチベットとインドとの国境の山都に流れて行くのです。ソレから向うに出て、ズッとヒマラヤ山を通り抜けて、インドのハルダハルの方から流れて来るガンジスの大流と、合しているのでございます。一体、現今のインド人は、ハルダハルの方から流れている河をガンジスの源流として尊崇しているが、古代は、このマブチャ・カンバブを源流としたことがありました。その川端へテントを張ってその夜はそこへ泊りました。
この辺には四、五のテントがあっちこっちにありましたが、その人は皆プランという山都から交易に来ているんです。ちょうど七、八月時分には、遊牧民も巡礼者もすべてこの辺に多く集まって来るものでございますから、そこで交易をするのですが、その交易のしかたがまたなかなか面白いです。
第二十九回 山中の互市場《ごしじょう》
≪チベットの交易計算法≫ チベットでは、総て物と物との交換をやるので、金銭で物を買うということはごく稀《まれ》である。その物品は、チベット内地人はバター、塩、羊毛、羊、山羊、ヤクの尾というような物を供し、またネパール人および雪山地方のチベット土人は、布類、砂糖、羅紗《ラシャ》類をインド地方より仕入れて、バター、羊毛、ヤクの尾の類と交易し、それをまたインド地方へ売るんです。もっとも羊毛とかバターを売ります時分には、金を取って売ることもあるので、その金は大抵インドの銀貨であるです。それからその勘定のしかたがチベット人のは非常に面倒なものであって、筆算も珠算もないのであります。数珠《じゅず》を持っての勘定で、一寸《ちょっと》二と五とを合わせる時分にも、まず二の珠を数えておいて次に五の珠を数え、ソウして二と五とを合わせ終ったところで、モウ一度それを珠一つあてかぞえ始めて、七になったということが分るのです。そういう都合で、ナカナカ数えるに暇がかかるが、全くそれが普通のやり方で、もし我々が分りきった加減乗除の勘定を直ぐにやってみせますと、彼らは決して承諾しないです。ドレほどいってみても、まず自分の数珠を取り出して、それからボツボツと勘定を始めて、我々が一秒もかからない勘定に、一時間余りもかかるというような始末。ですから、チベット人と少し沢山に商いをする時分には、非常に困る。なお錯雑な勘定になりますと、
≪黒白の石粒と坊主貝≫ 白い石粒と黒い石粒と、それから細い竹屑《たけくず》のような物を持っておりまして、まず白い石粒が十になりますと黒い石粒一つに繰り上げ、黒い石粒が十になりますと竹屑のような物に繰り上げ、それから竹屑が十本になりますと、白い坊主貝のような物に繰り上げ、それが十になりますとチベット銀貨に繰り上げます。ソウいうふうにして、十から百千と沢山な勘定をして行くんです。マア我々が早く読み、早く数えて一時間くらいですます加減乗除の勘定を、彼らは四人ばかりかかって、たしかに三日間の仕事があるのですから、実に迂遠《うえん》千万といわなければならんです。ソウいうやり方で売買するものですから、ナカナカ暇がかかる。
その商いをする所に三日ばかり逗留して見ておりましたところが、誠に詰らない話が一つ起ってまいりました。それはかねて一緒にまいりました巡礼者らは非常に私を信仰した。余り信仰して誉め上げる余りに、
≪女巡礼に恋慕せらる≫ その中の歳のいかない娘が非常に思いを深くしたものとみえて、私に対して訝《おか》しな怪しい素振りが大分みえて来たです。ですから、私はその意中をジキに察しました。ハハアこりゃ何だな、権力なり或いは富貴の力なりを慕うのは、大抵婦人の常であるから、大分同行の親兄弟が、この坊さんは非常に学問があり徳があるというようなことを度々いって聞かせたので、それで我を忘れて、こういうふうな思いが兆《きざ》したものであろうと思ったです。
だからジキにその恋慕に対する垣を設けました。その垣は仏教上の道理で、真正に僧侶の行うべきこと、すべて僧侶というものは清浄であって、世の福田《ふくでん》となるべきものであるということを説きまして、もしも不清浄なことを行って間違いが起ったならば、無間《むげん》地獄へ落ちるのは当り前のことだ。ソウいうことの起るというのは、実に罪障の深いことであるから、美しい娘さんなどは、坊さんから誉められるようなことがあったら充分注意して、自分の身を用心しなければならん。今一時の快楽に耽《ふけ》って、後に長い苦しみを受けるようなことがあっては取り返しがつかないからと、こういうようなことをその娘一人でなく、皆の者に対して説明しました。
もっともその娘は、或る女のように坊主|騙《だま》して還俗させて、コケラの鮨《すし》でも売らしたいというような悪い考えでもなかったでしょう。その娘は十九くらいでした。ごく美《よ》い方でもないが、普通よりか美い方なんです。決して悪い考えはなかったので、つまり人があまり誉めるものですから、こういう人を自分の故郷に連れて帰ることができれば、結構であるという考えを起したらしくみえたです。その後も、ソウいうような詰らぬ話は大分に持ちかけられたですけれど、私だって随分ソウいうことには前方《まえかた》苦しんだこともありますから、マアよい塩梅《あんばい》に切り抜けることができたのです。
さてこの地方はチベット語にンガリというので、シナ人はこれを音写して阿里というているなかなか広い地方で、西はラタークおよびクーヌブまで含んでいるので、この中で一番有名なる所はここより南の方向に当ってプランという山都である。それは前にも一寸申しましたが、そこに大変結構な霊場があって、三体の仏を祀《まつ》ってあるという。すなわち一体は文珠菩薩、次は観世音菩薩、次は金剛手菩薩である。これはセイロンから昔伝わったものだとの伝説ですが、ちょうど私が着きます半年ほど前に大火事があって、三体の中二体焼けて、文珠菩薩だけが残ったという。私はそこへお詣《まい》りに行きたいのですけれども、そこへ行きますと例の関所がありますので、関所の役人などに逢うたり、或いは山都の中にはドウせ猜疑《さいぎ》心の深い商人もいるであろう、毛を吹いて疵《きず》を求めるも要らぬことだと思って、そこには行かないことにしました。ところが私の同伴《つれ》の人達はそこへ参詣する、私は留守番ということになりましたから、その人達が参詣して来る二日ほどの間は、坐禅ばかりやっておりました。
その人達が帰りましてから、だんだん西の方へ進行してラクガル湖の西の端に出《い》で、それよりラクガル湖に沿うて東北に進んで行ったです。その辺からラクガル湖の西の方を見ますと、三つの島があって、それがちょうど五徳の足のような形になっている。よってその三島を名づけて五徳島といっておいたです。それから幾日か経て、八月一七日にギャア・ニマという市場に着きました。
≪ギャア・ニマの市場≫ この市場は夏季二か月間の市場であって、陽暦の七月一五日から九月一五日までの間開けるのです。この市人らは、大抵インド部のヒマラヤ山中に住んでいる人であって、一方の相手はチベット人、ここでは余ほど盛んに市が行われるものとみえて、白いテントが百五、六十も張ってあるです。互いに売買をする人が五、六百人も群をなしているようです。最も多く交易せられるのは、羊毛、バター、ヤクの尾というような先に申した類の物で、チベット内地人の買うのも、やはり先に申し上げたるような代物に過ぎない。そこへ泊って少しばかり買物などをしました。
その翌一日逗留して、その翌日またギャア・カルコという市場へ指して後戻りしました。このギャア・ニマという処は、私の西北に進んだ極点の地です。これまでは目的地に近づく点からみると、大廻りをしておったわけでありますから、実はラサ府を後にしてだんだんと西北に進んでおったわけでありますが、これからは真にチベットへの本道に一足ずつ近づくと同時に、ラサ府に近づいて行くのです。
ギャア・カルコに着いてまた三、四日逗留しました。このギャア・カルコにもやはり百五、六十のテントがあって、ギャア・ニマよりなお盛んに商売が行われている。これはチベット西北原の一地方と、インド・ヒマラヤ人との交易場であるです。ここまではインドのヒマラヤ人も来ることをチベット政府から許されておるです。そのギャア・カルコという処には、ヒマラヤ部落の商人が沢山おりましたが、その中にミルムの商人で英語の分った人間がおった。それが私に御膳を上げたいからといってひそかに招待いたしましたから、そこにまいりますと、私を全くもって英国の国事探偵吏であるという認《みとめ》をつけました。
第三十回 女難に遭わんとす
≪英国の秘密探偵≫ と認めてその男のいいますには、私はあなたの国の支配下の者であるから、決してあなたに不利益なことはございません。その代りにあなたがインドの国へお帰りになったらば、ドウか私の商法を引き立ててもらいたいという話なんです。訝《おか》しいことをいうと思いましたが、だんだん聞きますと、全く私が英国政府の依頼を受けて、このチベットの探検をしているものであるというふうに、勝手に解釈をしておったのです。それから私はシナ人であるといいましたら、シナ人ならシナ語ができるかという。それは知っていると答えました大胆に……。スルとまた、シナ語の少し分っている人間を引っ張って来たです。こいつは困ったと思いましたけれど、先にネパールでギャア・ラーマと逢った手続きもあるから、ソンナに驚かずに相手にしてみますと、案外シナ語ができない。ところで、私はシナの文字をドシドシ書き立てて、お前これが分るか分るかといって話しかけると、その人は笑いながらよしてくれろ、チベット語で話をしたいということになった。ソコでその主人は大いに驚いて、それではあなたはシナ人であったか、そんならばなおよい。シナは大国でもあるし、今、国の方にいる親父もシナへ行って来たことがあるから、商売上何か便宜の用に立つことがあれば与えてもらいたい。私はこういう処にいるからといって、土地書や何かを英語で書いて示した。その様子は、いかにも私に真実を明かすようでありまして、人を誑《たぶら》かすような有様でもなかったから、私も考えたです。この人はインドへ帰るんだから、インドから一つ手紙を出してもらおう。委しいことは書けないが、チベット内地のここ(ギャア・カルコ)まで来たということを、インドのサラット・チャンドラ・ダース師に知らしたい。それのみならず、先生の手から堺の肥下徳十郎氏なり、或いは伊藤市郎氏らに、私が死んでおらないということを知らしてやりたいという考えを起しましたから、手紙のことを話しますと、早速引き受けてくれた。
≪故国へ始めての消息≫ ソコでインドのダージリンのチャンドラ・ダース師へ出す手紙の中へ、日本へ送る手紙を封じこんで、確かに封をして、その男に若干の金を与えて出してもらうことにしました。今度帰って肥下、伊藤の両氏に聞いてみますと、その手紙は確かに着いておりました。随分確実な人であったとみえるです。それからそこへ逗留している中に、私が長い間連れて歩いた二疋の羊が失くなったという始末なんです。その羊はどっかへ逃げて行ってしまったというわけであったが、実はその三人兄弟の一番の弟が大分に悪い男で、金が欲しいというところから、羊を盗んで売ったらしく察せられますけれども、私は全く知らないふうをして、ナアにそれだけくらいの物はやってよいという考えでおった。ところで一番困ったのは、先に申したダアワ(月という意味)という娘である。チベットでは大抵月曜日にできた者をダアワといい、金曜日にできた者をパーサンといい、日曜日にできた者をニマといいます。委しいことは後にお話しましょう。その
≪ダアワという娘≫ が、いろいろなことをうまく持ちかけて来たです。ドウも一心というものは巧みな方法を産み出すものとみえて、ボツボツ自分の故郷の良いことのみいい出した。自分の阿母《おっか》さんは非常に慈悲深い親切な人である。それから自分の故郷には、ヤクが百五、六十疋に羊が四百疋ばかりある。実に豊かな活計《くらし》、チャチャン・ペンマで真に幸福なる活計をしているのである。私は独り娘で、マダ自分の気に合うた聟《むこ》さんがないのであるというようなことから、いろいろな説明をして来たです。チャチャン・ペンマということは、茶と酒と代る代る飲むという意味の言葉で、チベットでは例のバターを入れた茶と、それから麦で製造した薄い酒とを代る代る飲みますのをもって、無上の快楽としている。これは大変に財産の豊かな者でなければできない。デ気風もまた、バター茶と酒の快楽をきわめることに傾いているのみならず、ほとんど人の目的であるかのごとく心得ているのである。普通社会の快楽なる究竟《きゅうきょう》の状態をいい顕わすには、チャチャン・ペンマという一語で事がたりている。少し横道に入るようですが、この
≪バター茶の製法が面白い≫ 三尺もあろうかという筒桶《つつおけ》にバターと茶と塩を入れて、ソウしてその筒桶に相当した棒の先を菌《きのこ》のような工合に円くして、その棒で日本でいえば龍吐水《りゅうどすい》で水を突くような工合に、シュッシュッと扱《こ》き上げ扱き下げる。その力は非常なもので我々にはとてもできない。その扱き上げ扱き下げる間に、茶やバターが摩擦されて一種の茶ができるので、チベット人はその扱き上げ扱き下げる時の音の良否《よしあし》で、旨いのと不味《まずい》のとのできが分るといってるです。
お話はもとへ戻りますが、その娘がしきりに自分の家がこういうように好い都合になっているのみならず、私の地方ではラーマでも皆家内を持っておられる。ラーマが家内を持たれて、この世を楽しく過ごされるということは実に結構なことで、私はかの人達がソウして楽しく過ごされるのは、誠に利口なしかたであると思っている。ドウいうわけであなたは私の相手にならないのか、お前は馬鹿であると、こういわぬばかりにいっている。ちょうどその時にふと思い出したことがあるです。
≪ブッダガヤの釈尊を追想す≫ それはシャカムニ仏がブッダガヤの金剛道場の上に安坐なされて、もはや仏になるに違いないという時に当って、悪魔の大王は大いにこれを恐れて、自分の娘三人を遣わし、シャカムニ如来の心を大いに誘惑しようとかかって、その素振《そぶ》り、その眼つき、如来を色情に誘惑する様子のあらゆる限り、その時代のいわゆる誘惑手段の三十二法を尽したけれども、シャカムニ仏は泰然として動かない。ソコでその三人の娘らは歌を謡《うた》ったです。その歌は、ダアワが私にいったことと同じようなことでございますから、ここに一寸チベット語の経文から訳して、そのことを申してみましょう。
優し美し、いとおしの、姿や妖婉《あで》の女郎花《おみなえし》、香ばしき口に妙《たえ》の歌、いとも嬉しき愛の主、住むふるさとの極楽に、まされる妾《わらわ》の楽しみを、受け給わねば世の中に、これより上のおろかなし
という歌でありましたが、私はもとよりシャカムニ如来のように悟りを開くことができないから、馬鹿には相違ないが、モウ一歩進んで馬鹿になってもよいという考えで、その時に一意これを拒絶することに力《つと》めながらも、ドウやら小説的の境涯にあるような感じが起って、むしろ娘の心を気の毒に思いました。その時一つの歌を作っておきました。
愚かにもまして愚かになりなまし
色にすすめるさかし心を
しかるに娘はだんだんと興に乗じて、是非自分のいうことを肯《き》くようにという素振りを、ますます現して来たです。その時にはちょうど親や兄弟は皆買物に行きまして、テントにいるのは私と娘だけですから、大いに時を得たりというわけで、だんだんと勧めかけた。私はその時に履《くつ》を直しておったです。履を直しつつ娘のグズグズいうやつを聞いているのです。実に面倒でしかたがない。まんざら樹の根や石の磧《かわら》でできている人間でないから、幾分か心の動かぬこともないが、ソンな馬鹿なことをやった日には、自分の本職にそむくわけでもあるし、かつシャカムニ如来の見る前も恐ろしいという考えがありましたから、それがために一点も心の底の掻き乱されるというようなことはなかったです。デ私はその娘に対して、誠に結構な家であろうが、その結構な家に残っているお前の阿母《おっか》さんは生きているであろうか、死んでいるであろうか、それが分るかドウかと、私はポンと一本喰わしてやりました。サアといって娘は非常に驚いたような顔をしたです。
第三十一回 女難を免る
≪術数をもって女を諭《さと》す≫ 娘は驚いて、ソレは生きているか死んでいるか分らない。私が国を出てから、一年ほどこうして阿父《おとっ》さんと一緒に廻っている。デ阿母さんは病身であるから、出て来る時、ドウか死なないようにしてくれろといって、泣いて別れて来たんですが、今ドウしているか分りませんといいますから、私はそれへつけこんで、フーンそれが分らないか、お前は自分の家が実に結構なものである、立派なものであると思っているが、私はチャンと阿母さんの安否を知っていると、少しく仰山《ぎょうさん》にいいますと、娘が恋慕の情は俄《にわか》に恐怖の情と憂愁《ゆうしゅう》の情に変って、ソレでは自分の母が死んだのではないか知らんという考えを起したです。殊にチベットでは、ラーマといえば神通力を得ている人が沢山あるということは、俗人の迷信になっているから、私に対してもやはりその妄信を繰り返して、俄にその情緒を変じた。ソコで私はまずこれで安心だと思い、ナアにお前の阿母さんは死んだというわけでもあるまい。けれども、この世の中は阿母さんが先に死ぬか、お前が先に死ぬか分らぬ、私だって明日死ぬか分らない、ソウいう危ない無常の世の中で、わずかの楽しみを無上の快楽のように思うているのは、実に馬鹿気た話であるからといって、懇々《こんこん》説諭をしたです。スルと郷里の母が死んだか死なないか、ドウか本当にいってくれろといって
≪泣き出した≫ です。ソレには少し困りましたけれども、マアいい加減にその場を過ごしますと、その後も娘は、母のことを思って全く私のことを忘れてしまった。大いに私は安心を得たです。ソコで数日滞在の後、八月二六日に一緒にそこを出立して、東北の方に向って行くと、その辺は一体に沼の原で、そこここに浅い水が見えている。一里ばかり進んで行くと、大変深い沼がある。杖でもって測量してみますにドウも杖が落ちつかない。だからここは到底渡るべき処でないというので、また引き返して、半里ばかり後戻りをして、道を東の方向に取って進みました。スルト今度はその沼から流れて来たのか河になっておりまして、その河を三筋ばかり向うに渡って、ちょうど行くこと四里ばかりにして、その沼の間を離れてまた山の間へ指して着いた。そこでその晩は泊ったです。その辺にはギャア・ニマおよびギャア・カルコへ商売に往来の人が沢山おって、あっちこっちにテントが見えておるです。ソレからソウいう場合に頭陀行をすればよいというので
≪乞食《こつじき》の行≫ をやりました。わずかな物を上げてくれるのですけれども、五、六軒廻って来ると一日の喰物くらいはある。その翌日も同様、頭陀行のできる処は乞食をして、ソレで夜はいつもお説教です。そのお説教が、ナカナカ同伴《つれ》の人らの心を和らげる利目がある。もしソウでなければ、私はその人らのために危うく殺されるはずです。しかし、今の間は殺される気づかいはめったにない。なぜかというと、この辺には人も沢山おりますし、また人がおらないにしたところが、この辺は一体に霊地になっておって、いかなる猛悪の人間も、この霊地に一度入る者は、強盗もやらなければまた狩もしないというわけです。だから今の中は大丈夫ですけれども、その霊跡の地を離れたならば、きっとやられる虞《おそれ》がありますから、余ほど教育をうまくやっておかないといかんです。というような点から、私は力めて説教をしました。ソレがまた大いに悦んで聞かれた。ところで八月二八日の日に、八里ばかりの波動状の山脈を踰《こ》えて行くのに、一滴も水がない。立ち際《しな》にお茶を一盃飲んだきりで麦焦しも喰うことができない。随分|喉《のど》は乾きましたけれども、前に喉が乾いて
≪餓鬼道の苦しみ≫ を嘗《な》めたほど困難を感じない。ソコでその日の夕暮、ランチェン・カンバブの上流の方に着きました。このランチェン・カンバブというのは、英語にリーバ・ストレージといいまして、先にも申しましたように、ズッと西に流れてインドへ行ってシタ河と合してインダス河となって、アラビヤ海に注いでいる河の源でありますが、この河はマナサルワ湖から出ているという土人の説明です。ソレから私は押し返して、ソレでもマナサルワ湖はすべて山で取り囲まれてあって、どこからも河の出る処がないとこう申しますと、イヤそれはソウだが、この河の流れ出す源は、マウント・カイラスの西北方にある山間の、チュコル・ゴンパという寺の東の岩間の泉から流れ出すので、その泉は取りも直さず、このマナサルワ湖から来ている水である。つまりマナサルワ湖から隠れ河になって、こちらに流れ出しているわけだという説明のしかたです。なるほど、一寸面白い考えではあります。けれども、ドウも位置の高低を考えてみると、この河がマナサルワ湖の水面よりも高い処から流れて来ているように思いましたから、土人のいった説明に感服することができなかったです。
デその河の端へ着して、例のごとくテントを張って泊った。その翌日がこの辺で名高いプレタ・プリーという霊跡へ参詣に行きますので、荷物並びにテント等、すべての物と留守番二人をそこに残して、私と娘とその親人《おやびと》と、モウ一人の女と四人で出かけてまいりました。デそのランチェン・カンバブに沿うて西の方に降って行くと、大きな岩が三町ばかり続いている。その岩の間を通り抜けますと、また北の方から注いで来ている一の河がある。ソウいう河がその辺に三筋あるので、トクポ・ラプスン(三筋の友達川という意味)といっておるです。その一筋を渡って一町ばかりの坂を上りますと、大変広い原がある。その原には
≪茶畑のごとき荊棘《けいきょく》の叢林≫ があります。ソレを見渡しますと、ちょうど宇治の茶畑に行ったような観念が起りまして、実に我が国をしのばれるようでした。ソレからだんだん進んで半里余り行くと、また一の川に出逢った。ソレも前のと一緒の名で、ソレを渡ったがやはり深さが腰くらいまであって、ナカナカ両方とも冷たい。氷の流れて来ている河ですから非常に凍えた。デ上に昇《あが》って、だんだん進んで行こうとするけれどもドウも進めない。ソコで同行三人の人に向って、私はここで一息して行きたい。ドウも灸《きゅう》をすえてから出かけないと歩けないから、あなた方先に行ってもらいたい。というのは、その人達はその日に参詣して留守番に帰り、私は一晩霊場に泊るはずですから。同行の三人も、そんならば、この方向に向って道を尋ねて来れば間違いないからといって、その人らは先に行った。ドウもチベット人の身体の強壮で歩くことの早いには――私は余ほど修行したつもりであるけれども――とてもおよばない。足が動かんのに、その人らと一緒に歩いて行くことは実に困難ですから断ったので、ソコでマッチと艾《もぐさ》を取り出して、足の三里に灸をすえますと、大分足が軽いような感じがして来た。
一時間もそこで休息して、だんだん西の方へ二里ばかり進むと、平原が尽きて川に沿うて下流へ降って行くと、ズッと向うに寺が見えている。実に立派なもので、石の摩尼檀《マニだん》がある。その摩尼檀はちょうど汽車の列車が繋《つな》がっているようなふうに見えている。もっともこれはこの辺にあるばかりでなく、ヒマラヤ山中にも沢山あるのです。殊にヒマラヤ山には
≪奇異な鳥≫ がおって、全く汽笛の声とちっとも違わぬ声を出すです。列車のごとき摩尼檀を見て不意とその鳥を思い出して――この辺に汽笛鳥はおらんですけれど――あたかも文明国の土地に出たかのような感じが生じました。
[#改ページ]
第三十二回 天然の曼荼羅廻《まんだらめぐ》り
≪荘厳なる山寺≫ 真実文明国の土地に来たような心地がして、向うの方を見ますと本堂もあれば僧舎もあり、それから何か石の塔のようなものも沢山あって、随分立派に見えている。チベットの高原地で石を集めて家を建てるということは非常に困難なことで、かつ大金を要することであるけれども、ここはプレタ・プリー(餓鬼の街)といって、昔パンデン・アーデシャがインドから真実仏教の面目を伝えてこの国に来られた時、この地に来てプレタ・プリー、すなわち餓鬼の街という名をつけられたです。こりゃドウも余ほど面白い名ですが、一体チベット人は
≪糞を喰う餓鬼≫ ともいうべきもので、マア私の見た人種、私の聞いている人種の中ではあれくらい汚穢《おわい》な人間はないと思うです。もちろんソウいう習慣は昔も今も変らず、パンデン・アーデシャが来られた時分にも、今のとおり汚穢な有様であったから、つまり糞を喰う餓鬼の国の街であるという名をつけられたものとみえる。それをチベット人はインド語の意味を知らんものですから、パンデン・アーデシャは、我々の街に誠に尊い名をつけて下すってありがたいといって誇っておるです。それから寺が建てられていろいろ尊いラーマがまいりまして、その後ズクパー派(チベットの旧派の仏教)のラーマでギャルワ・ゴッツアン・パーという人が、ここに完全な道場を建てられた。デ今に存在しているのでございますが、僧舎も四つ五つあるです。
私はその中の一舎に着いて宿を借りました。そうして先に行った私の同伴《つれ》は、すでに参詣をすまして帰って行きました。そこで昼飯をすまして、その寺の僧侶に霊跡の案内を願ったところが、始めに連れて行った本堂は、表四間に奥行五間くらいの本堂、もっとも石造りで大変丈夫にできておるです。他のチベットふうの寺のように二階造り、或いは三階造りになっておりません。ただ一層の家でありましたが、その中に最も尊く祀《まつ》ってあるのが
≪釈尊と古派の開祖≫ シャカムニ仏と、チベット仏教の古派の開祖ロボン・リンボ・チェの肖像であるです。このロボン・リンボ・チェについては、実にいうに忍びない妙なことが沢山ございますので、これは今日お話することはできませんが、余ほど奇態な仏法の人で、恐らく今日日本の堕落僧といえども、この人の行為を聞いたならば驚嘆せざるを得ないだろうと思うです。デ私は、その二方《ふたかた》がレイレイと並べて祀ってあるということについて、実にいうにいわれぬ嫌な感じがいたしました。何故ならば、そのロボン・リンボ・チェというものは、悪魔の僧侶と姿を変えて、真実仏教を紊《みだ》すという大罪悪人であるからです。その祀ってある須弥壇《しゅみだん》が下に一の幕が張ってある。その幕の中には実に尊いありがたい物があるということで、一タンガー(我が二十五銭)出せば見せてやるという。私は早速二十五銭払って見せてもらいました。
それは、いわゆる古派の開祖のロボン・リンボ・チェが、その土地に来て、この岩に対した姿がそのまま自然に映ったのであるという。もちろん、チベット人はその像に瞳《ひとみ》をすえ、遠慮なくじっと見るということはしない。マズ活きた仏のようであるから、あまり見つめると自分の眼が潰《つぶ》れるというような馬鹿な考えを持っている。私は充分に見ましたが、古代|奸黜《かんきつ》なる僧侶がその岩に彫刻をして、ソウしていい加減な絵具をつけて拵《こしら》えたものであるということが、よく分った。それも非常に美術的に、天然に映ったようにでもできていれば、たとい人造のものでも、私共の眼にはそれを発見するに困難でしょうけれども、実にチベットは美術の進歩しておらぬ国であるから、この像なども詰らないやり方にできている。ですから、ジキに人工であるということが発見された。ソコでこういうものをもって、人を欺いて金を取る奸黜な手段が、この仏教の盛んなチベット国において行われているというのは、実に奇態である。日本あたりでは、こういうようなことをやる悪魔の僧侶が随分あるということを聞いておったが、ドウもチベットの僧侶も日本の僧侶も、一様なことをやって愚民を欺くかと思いますと、実に仏教のために慨歎せざるを得なかったです。
≪天然の霊場≫ けれども、この道場は随分天然的に良い道場なんで、チベットの諺《ことわざ》にも
プレタ・プリーに逢わざれば、雪峰チーセに逢わぬなり、コルギャル池を巡らねば、阿耨達池《アノクタッチ》も巡らざる
というくらいですから、随分尊い霊場である。この諺の意味は、雪峰チーセに参詣してもこのプレタ・プリーに詣らなければ、つまり雪峰チーセに参詣したことにはならない。阿耨達池を巡ってみても、その阿耨達池の東南方にあるコルギャル池を巡らなければ、何にもならぬという意味なんです。デ天然の有様から見ても随分立派な道場であって、その下にはランチェン・カンバブの大河が洋々と西に流れ去っておるです。その川を隔てて、向う岸には奇態な岩壁が重なり立っておりまして、その色合いも黄或いは紅色、誠に爽《さわ》やか青色、それから緑色、少しく紫がかった色というように、いろいろな彩《いろどり》が現れている。さながら虹か、霞の彩られたような、いうにいわれぬ美しい模様を現じている。ことに岩でありますから、突兀《とっこつ》としてその姿の鋭いところは、その美と相映じて余ほど面白く見えるです。こちらの方の寺のある近所には、これまた天然の
≪奇岩怪石≫ が沢山にありまして、いろいろの形をなしている。その岩に愚僧共がいろいろの名をつけて、悪魔降参石とか、或いは馬頭妙王の夫婦の石像、雪峰チーセの石像、観世音菩薩の自然像、迦葉波《カッサバ》仏陀の大塔というような、それぞれに似寄の名前をつけまして、愚民の心を誘惑しておるです。しかし、私は先に拵《こしら》え物のロボン・リンボ・チェを見て、感情を害しているところでしたから、この美なる天然の景色にも感心せずに、案内坊主のいうことが一々気に障るというようなことで、遂にはモウその案内坊主を打撲《ぶんなぐ》ってやりたいくらいに思ったけれども、そのままに一々聞いてまいりました。
デずっと神石窟という巌窟《いわや》の所から川に沿うて二町ばかり降りますと、大きな温泉が三つばかりある。小さな温泉も二つ三つあって、その温度をみるに、非常に熱いのもあって手がつけられない。ドノくらいの温度か知りませんが、たしかに百度以上の温泉でありました。甚だ冷たいというようなものはなかったです。何れも透明な清水である。それからその辺に、温泉の原素の結晶したものがある。その結晶している色を見ますと、白いのもあれば、赤、緑、青というようなのもあるです。それは皆石灰を固めたような工合に固まっている。デ参詣者は、これは霊跡の薬であるといって持って帰るです。なるほど何かの薬にはなるでありましょう。ソウいうようないろいろの説明を聞き、その夜はまたその寺に一宿して坐禅に一夜を明かし、その翌朝帰路に着きました。
≪高原にて路に迷う≫ スルと広い原の中で、ドウいうふうに路を失ったのか、いくら行ってもその河のある処に出ない。ドウもコリャ奇態だ。少なくとも三時間来れば河の端に出るはずだが、モウ早や五時間も歩いたのにマダ河が見えない。だんだん見ますと、北の方の山に向って進んでいる。コリャ大変だと思って、道を転じて南東の方向へ進んだです。スルと河に着きました。その河を渡ってまいります中に、トウトウその日は飯を喰わずに、日暮れになってしまったです。
後で聞きますと、テントの人達は大いに心配して、あのラーマは水に連れて行かれて死んだのじゃあるまいかといって、日暮方ボツボツ帰ってまいった時などには、娘さんが羊を連れて出かけて来たです。デ私の姿を見ると大悦びで、あなたはモウ死んだのではないか知らん。今から捜しに行こうという次第であったという始末。その翌日もやはり東の山の方に進んで行きまして、ラクガル湖の東北、マナサルワ湖の西北の原に着きました。それは大なる雪峰チーセから、山がズッと湖水の方に向って流れこんで行くような工合に、だんだん低くなっている斜形状の平原です。その夜はそこへ泊って、これよりいよいよ大雪峰チーセへ参詣するということになりました。
≪道順≫ ところがその夜の話に、その人らは一緒にこの雪峰チーセを巡ろうということを承諾しない。皆別々に巡るという。何故かというに、その人らはここに来て四日なり五日なりいる中に、この山を三度も巡りたいという。デその巡る道は二十里余りある。私はその人達と一緒に一日二十余里廻って帰るわけにいかないから、どこかに泊って、ボツボツ詣らなければならん。しかるにその人達は、夜の十二時から起きて、翌晩の八時頃まで廻って来るので、ソレで大抵五日いる中に三遍くらい廻ろうという勢いです。娘達も二度廻ったです。ドウも驚きました。私は一度廻れば沢山ですから、先ず、四、五日分の食物を自分で背負って、その廻り道に出かけて行ったです。
これは何を廻るのかというと、雪峰チーセの中央にあるシャカムニ仏の体になっている雪峰と、その周囲を取り巻いている諸天諸菩薩の雪峰と、五百羅漢の雪峰とがあるのです。その外側をグルッと廻るように道がついている。その廻り路にも非常な険しい坂があって、或る時にはほとんど山の頂上まで登らなくちゃアならん場合もあるです。けれども山の間に、ソウいう工合にグルッと一廻りできる道がついている。その道をチイコル(外側の廻り道という意味)という。それからバルコルと申して二番目の廻り道と、ナンギ・イ・コル(内廻道)という道があります。ソレは神か仏でなければ巡られないといっている。普通に巡るのはチイコル(外道)で、そのチイコルを二十一遍廻ったものは、バルコルを廻ることを許されるのです。これは外道の内部にあるのですから、道は余ほどついているけれども、非常に険岨《けんそ》であって普通の者には巡れない。もっとも雪のために仆《たお》され、或いは岩のために進行のできない処が沢山あるそうです。そのナンギ・イ・コルには、雲を掴むようなわけの分らぬ神話が多い。私はそのチイコルに着いて、まず普通の方面より寺へ参詣しました。その廻り路の東西南北の隅々に、一軒ずつ寺がある。これを名づけて
≪雪峰チーセの四大寺≫ という。私は始めに西隅にあるニエンボ・リーゾンという阿弥陀如来の祀ってある寺に参詣しました。その寺がこの霊場では一番収入の多い寺で、日本でも阿弥陀様を祀ってあるお寺は収入が多うございますが、奇態にこのチベットでもソウいうようなことになっておって、大変な上り物です。わずか夏季三月の間に、ここの上り物は一万円内外の物が納まるという。かかる霜枯れた土地としては、非常な収入といわなければならぬ。
ソレは皆ブータン国の王様に納めるのです。妙です。この雪峰チーセという寺は、すべてブータンの管轄地です。一体はチベット法王の支配に属すべきものであろうと思うのに、その昔ブータンのズクパー派の坊さんがこの山に関係が多かったものですから、ソコでこの山の支配権がブータンに帰したことと考えられる。その寺の中に入って阿弥陀如来を見ますると、純粋に光沢ある白い宝石をもってその如来を造ってある。チベット人の技術としては、大変立派にできております。そのお顔がチベットふうにごく優しくできて、いかにもありがたく感じられる。その前に二本の象牙が建てられている。その長さは五尺くらいで、余ほど太い物です。デその後を巡りますと、チベット蔵経の仏部(チベット大蔵経はカンギュル[仏説部]とテンギュル[論疏部]の二つに大別される。日本、中国の経律論三蔵と対比すると、経蔵は仏説部に、論蔵は論疏部に、それぞれ収められ、また律蔵は、基本的なものは仏説部に、注釈類は論疏部にと二分して収められている)が百|帙《ちつ》書籍|棚《だな》に上げてある。この蔵経は、読むという目的でその棚に上げてあるのでなくって、お燈明を上げて
≪供養をする目的≫ で上げられておるのである。実に馬鹿げたことで、お経は読むために拵《こしら》えてあるのに、お燈明を上げて供養するというのは余ほどおかしい。もちろん、お経を粗末にして鼻紙にしたり塵紙《ちりがみ》にするような人間があれば、ソレは常識を失ったものといわなければならんけれども、お燈明を上げるというのも珍しい。けれども、少しも読まずに経堂などにしまってある日本の伽藍寺《がらんじ》のごときよりは、お燈明を上げるだけ優しいように思われる。私はその阿弥陀如来に参拝して阿弥陀経一巻を読み、ソレからその寺の霊跡を尋ねて立ち出た。そこからが、すなわちこの天然の曼荼羅における純粋の処であるです。その名をセルシュンすなわち
≪黄金溪≫ という。もちろん、黄金があるのではないけれども、実に奇々妙々な巌壁が儼然《げんぜん》として虚空を劈《つんざ》くごとくに峙《そばだ》っている。その岩壁の向うに玉のごとき雪峰が顔を出している。その姿を見るだけでも勇ましいという感にたえんほどであるのに、その碧空に峙った剣《つるぎ》のごとき巌《いわ》と巌との間から、およそ千尺くらいの幾筋かの滝が落ちているその壮観といったら、恐らく喩《たと》えようもないです。随分幅が広いのもあって沢山見えておりましたが、その内最も大きなものを選ぶと、七つばかりある。その滝の形状の奇なることは
≪千仭の雪峰より蛟龍《こうりゅう》≫ が跳《おど》って、巌下に飛び降るかのごとき趣がある。或いはまた徐々と布を引いたように落つる滝もあり、蜿蜒《えんえん》として白旗の流れておるようなのもある。モウ私はしばらくそこにジッと坐りこんでその風致を眺め、ウットリとその境涯に見とれて、茫然無我の境に入りました。デその七つの滝を名づけて、試みに雪峰チーセの七龍といったです。実に愉快でした。道の左側にも同じく滝が懸っており、また雪峰もありますけれども、右側にある今の光景には較べ物にならんです。これだけの景色を見ただけでも、種々な難儀をして来たかいがあると思いました。ソウなると何か歌を作ってみたくってたまらないが出ないです。
ソレからだんだん山を廻って行くと、いわゆる山の中央から北に当っている方向の処に出ました。そこにリ・ラ・プリー(ヤクの角の処という意味)という精舎があります。これは金剛仏母が姿をヤクの形に変えて、その時にこの山へ始めて巡りに来たラーマを導き終ると、この巌窟《がんくつ》の中に隠れた。その隠れ際に巌に突き当って角が一本落ちた。その角がここに残ったということで、この地を称してヤクの角の処というんだそうです。その寺が阿弥陀寺に続いて収入の多い寺、坊さんは前の寺よりも余計おるです。といったところで、十五人ばかりしかおらない。前の寺は四人ほかおらんです。
その寺に着いた時は日暮れですから、宿を借りますと、その寺の幹事のような人が大変私を信用してくれて、自分の居間を明けて、この室はちょうどかの雪峰チーセを見るに都合が好し、夜分はごく美しい月を見ることができますから、ここにお休みなさいという。大いに悦んでそこへ坐りこんでいると、茶なども拵えてくれた。御膳は夜分|喫《た》べぬといったものですから、茶の中へバターを余計入れてよく拵えてくれた。ソウしてその坊さんが、私と遙かに相対しておる山について説明してくれた。その門前の南方に当って中央に巍然として聳《そび》えている大なる雪峰は、すなわち雪峰チーセ、すなわちシャカムニ仏の体である。その前の東の方の小さな雪峰は、これは文珠菩薩の姿である。中央にあるのが観世音菩薩、西にあるのが金剛手菩薩の像である。ソレからいろいろほかに見えている細かな峰について説明をしましたが、委しいことは、この雪峰チーセの霊跡史を翻訳すれば分ることでありますから、ここには申しません。
その夜は真に愉快を感じた。その雪峰の前を流れている水は、潺々《せんせん》として静かに流れ去る。その漣波《さざなみ》に明月が影を宿している。その月光が一々砕けて、実に麗《うる》わしき姿を現している。その水音を聞いて、私の観念は非常に静かになったです。あたかも極楽世界で、樹の枝に吹く風の声が正法の声と聞かれるごとく、これもやはり仏法の音楽を奏でているかのごとく感じて、我が心もだんだんと深い霊妙なる境涯に入りました。もちろん、真実霊妙なる霊地は、自分の清浄なる心の中にありということは、かねて釈尊から教えられておりますけれども、やはり我々凡夫はかかる霊地にまいりますと、その心までも霊になって、大いに感化を受けたわけであります。
≪三途《さんず》の脱《のが》れ坂《ざか》を踰《こ》ゆ≫ さてその翌日もその寺で泊りこんで、いろいろその地のことについて研究しましたが、夜はやはり禅定に入ってその楽しみを続けた。その時の楽しみは一生忘れられません。その翌日は非常にきつい坂で三途の脱れ坂というのを踰えねばならん。ところが幹事は誠に親切な人で、ヤクを貸して上げましょうという。私とは余ほど深い縁があるとみえて、でき得るだけの親切を尽してくれ、いろいろな喰物もくれました。そのヤクに乗って、一人の人に案内されて恐ろしい坂を登ってまいりました。スルとチベット人の妄信といってよいか、信仰力といってよいか、仏陀に対して自分の罪業を懺悔《ざんげ》し、自分の善業を積むという熱心は、実に驚くべきほどで、その山を一足一礼で巡るという酷《ひど》い行をやっている者もあるです。それらは大抵若い男女がやっているので、老人にはできない。ただ登って行くだけでも随分困難を感ずるですから、とても若い者のような工合には行かない。私はヤクに乗って登ってさえも随分苦しい。何故かならば、いかにも空気が稀薄ですから。
三途の脱れ坂を二里ばかり登りますと、非常に疲れて呼吸が大分苦しくなったから、少しは薬なども飲むつもりで休みました。スルとそこで面白い話を聞いたです。ソレは向うのシャカムニ如来といわれる雪峰チーセに対して礼拝をしている人がある。その人はいわゆる強盗の本場であるカムの人です。様子を見るに実に獰悪《どうあく》なまた豪壮な姿であって、眼眦《まなじり》なども恐ろしい奴ですから、強盗本場の中でも一段勝れた悪徒であろうと思われたです。その悪徒が大きな声で懺悔をしている。
≪未来の悪事の懺悔≫ その懺悔のおかしさといったらないです。何故ならば、およそ懺悔というものは、自分のこれまでの罪業の悪いことを知って、それを悔い、ドウかこれを免《ゆる》してくれろ、これから後は悪いことをしないというが一体の主義である。しかるに、その人らのしている懺悔は実に奇態で、私も聞いて驚いたです。その後或る人に聞きますれば、カムの人がソウいう懺悔をするのは当り前である。誰でもそのとおりやっているという。だから私は実に驚いた。ソレはドウいうわけかというとこういっているのです。
アア、カン・リンボ・チェよ、シャカムニ仏よ、三世十方の諸仏菩薩よ、私がこれまで幾人かの人を殺し、数多《あまた》の物品を奪い、人の女房を盗み、人と喧嘩口論をして、人を打撲《ぶんなぐ》った種々の大罪悪をここで確かに懺悔しました。だからこれで罪はスッカリ滅《な》くなったと私は信じます。これから後、私が人を殺し人の物を奪い、人の女房を取り人を打撲る罪も、ここで確かに懺悔いたしておきます。
とこういうことなんです。実に驚かざるを得んではありませんか。ソレから上が
≪解脱母《げだつぼ》の坂≫ というので、その解脱母の坂を登って行くと、右側にノルサン(善財童子の住んでいる峰という意味)の峰がある。その山に沿うてだんだん登って解脱母の坂の頂上に達しますと、そこに天然の岩の形で解脱母の像があり、その東北に当って奇巌怪石が雲霞《うんか》のごとくに峙《そばだ》っている。そこに何か像のごとき天然に突兀《とっこつ》として突き立っているものがある。それを称して二十一の解脱母の姿であると説明をしておるです。そこが一番外道の中で高い処で、ほとんど雪峰チーセの高さと高低がない。ですからその辺は随分寒くって、ソレで空気が稀薄ですからジーッとしておっても
≪心臓の鼓動激烈≫ 心臓の鼓動が激しく、いかにも苦しいような感じが生じた。幸いにヤクに乗って上ったものですから、非常な苦しみを受けなかったけれども、もし歩行して上ったのならば、とても今日、ここまで到達することはできなかったであろうという感じが生じたです。もちろん、チベット人は非常に強壮なる肺を持っているから、平気でかくのごとき険山を降り昇りしているんですが、私共は、ナカナカチベット人の半分もない肺を持っているのですから、徒歩《かち》で上ることは思いもよらんことです。
ソレから三町ばかりその坂を降ってまいりますと、大きな池がある。その池はスッカリ氷で張りつめられている。その池について一の神話的面白い話がある。ソレは昔、善財童子がこの池で手を洗われた。その時分には夏の中《うち》は氷なんかは張っておらなかったのであるけれども、その後或る巡礼が子をおぶってこの辺に来て、その綺麗な水で手を洗おうとして俯向《うつむ》くと、そのおぶっている子が池の中に落ちて死んでしまった。ソレからこの山の神様がこれではいけないというので、いつも氷を張りつめることにしたのである。これは神様の徳で、我々を保護するために張られたところの厚い氷であるという説明なんです。そんな話を聞いて、誠に際どい坂をば降ってまいりました。もちろん、この辺にはいろいろと天然の奇なる巌石に名をつけてあるけれども、余り長くなるからよします。坂は非常に厳しいですから、ヤクなんかに乗って降ることはとてもできない。
≪幻化窟の尊者≫ だんだん降って雪峰チーセの東の部へ着きますと、ズン・ツル・プク(幻化窟)という名跡があります。この寺はチベットで最も尊崇され、最も賞讃されている尊者ゼーツン・ミラ・レバ(一〇四〇〜一二四〇。「綿服の人ミラ」という意味。この聖人の詩篇はチベット人に愛読されている)が開かれた道場で、大変面白い話が沢山あるが、皆宗教的専門のことでありますから、ここで説く必要はありませんけれども、ゼーツン・ミラ・レバという方は非常な苦行をされた人で、また仏教的の真理を諸方に顕揚されたところの大詩人である。かくのごとき一大詩人は、チベットにおいては前にも後にも出なかった。ソウしてこのお方の伝記は、実に奇態なことが自然的にできあがっている。全く詩的伝記に成り立っておるです。啻《ただ》にその人一部の伝記が詩的であるのみならず、そのまた思想が全然詩的の幽邃《ゆうすい》な趣味を持っている。それ故に、この頃欧米学者の或る者がこのお方の詩をあちらこちら取り抜いて、分りやすいようなところをその国語に翻訳している。ソレから私の知っているロシアの博士も、私がダージリンに帰ってから私の説明をきいて、ロシア語に翻訳したです。実に完全なものであるといって、大いに悦んでおった。
デこの寺に一夜泊って、その翌日ハムフン・ギ・チュ(靴落し河)という河に沿うて降りまして、南方のギャンターという寺のある下の方に着きました。その寺にはドルヂェ・カルモ(白金剛母)を祀ってある。道筋よりは、十五、六町内へ曲った山中にあるので、通常の道にはタルチェン・ターサムという駅場がある。ここには三十軒ばかり石造の家がある。そのおちこちにテントも十二、三見えている。この辺の
≪一大市場≫ であって、また租税物を取り立てる処である。その市の或る家について宿り、私を送ってくれた人とヤクはそこで暇をやりました。私はその夜、例の観法に一夜を過ごしましたが、その翌日十時頃に、私と別れておった同行の人達がまいりました。
このタルチェン市はマナサルワ湖の西北の隅と、ラクガル湖の東北の隅の斜線状の平原にあるのです。その斜線状の平原に沿い、東南に向ってマナサルワ湖の西を進んでまいり、その翌日もやはり同じ方向に進んでポンリーという雪峰の下に着きました。これは前にも一寸申したチベット古代の教えのポン教の霊跡である。しかるにここに大きな寺があって、その寺はもちろんポン教の寺であると思っていましたが、ソウではなくチベット仏教の新派の寺でありました。ナカナカ立派なものが山の間に建ててある。しかし、その寺までは私はよう行かなかった。さてこの辺にはいろいろの蕈《きのこ》が生じている。すなわち水蕈、黄色蕈が樹もないのに、その湿地に生じている。その蕈が非常に旨いからというので、同行の女達は取ってまいり、バターで揚げて塩をかけて喰いますと、なるほど真に旨いものであったです。ドウもこの辺は、大分霊跡から離れておりますので、
≪土地と巡礼の心≫ その宿主(巡礼者)らのいうには、もはや我々の本業を始めんければならぬと、こういい出したです。その仕事は何であるかというに、遊猟に出かけるという。この辺に住んでいる鹿を撃ちに行きますので、ただそれだけなら当り前ですけれども、都合次第ではその三人の兄弟が出かけてからに、良い旅人を撃殺して、物を取って帰るのじゃないかという疑いもあったです。何気なく進んでまいりましたが、ドウも私の身も大分危ないように感じましたから、何とかしてこの人らと離れなければならん。しかしながら、突然逃げ出したならばかえって彼らの疑いを受けて殺されるようになるかも知れんから、何とかうまい方法がつけばよいがと思いながら、その翌日或る山の端に着きました。
ところが同伴《つれ》の者は、自分の眼の前でチャンクーという獣を発砲して殺しました。しかもそれを喰うためではなく全く慰みに殺したです。この獣は犬のような大きな奴で、毛は余り深くない。それが夏の間は赤茶色で実に綺麗です。ちょうど私が見た時分にはその色でありましたが、冬になると白灰色に変ずるそうです。その灰色に変じたのは私は見たことはないですが、チベット人の誰でもいう説明によるとそのことは確実らしい。ところでその耳は鋭く立っておりまして、その顔つきの獰猛《ねいもう》にして残忍酷薄なる様子を示しておることは、一見恐るべきもので、現に旅人でも一人くらいであると、不意に噛《か》みつかれ喰い殺されることもあるそうです。ソウいう奴が五、六疋向うの山の端にやって来たのを、兄弟三人がこちらから発砲して殺した。その時の顔色を見ると、非常に愉快を感じたらしくみえたです。その非常に愉快に感じている残忍の有様を見て、この様子じゃ人を殺して随分愉快を感ずる方であろう。コリャどうも危ないという感覚が起って来たです。
第三十三回 兄弟喧嘩
≪霊跡とお別れ≫ その翌日はやはり雪が降ったものですから、そこへ泊りこみになったです。その時、宿主らの連れている猟犬は兎《うさぎ》狩りに行って、兎を喰い殺して帰って来るという始末で、大変に殺伐な光景が現れて来た。その翌九月一五日に、だんだん東に向って波動状の山を踰えて、ほとんど峰の頂上に着きました。
ところで宿主のいいますには、モウここでお別れだといいますから、何でお別れかと聞くと、ズット西の方に見えているマナサルワ湖と、湖水の中央から南方に見えているマンリー雪峰を指して、もう尊い霊跡を離れたから、我々はこれから本当の仕事にかかるんだ。だからここで礼拝してお別れを告げて、また後にモウ一遍ここへ巡礼に来た時、お逢い申せるように願いをかけておくと、こう申して礼拝するから、私もそれにならって礼拝して、ソコで余ほど感慨に打たれたです。幾千里の山海を隔て、非常な困難をおかして、日本人として始めてこのマナサルワ湖に着いた。しかるに、今ぞこの霊なる湖とお別れせねばならんかと思うと、何か知らん無限の感に打たれました。それから降って、また波動状の山を幾度か踰えて、ポンリー寺の所属の十二、三テントのある部落の近所に着き、まずその部落へ指して頭陀行、すなわち乞食を行いにまいりました。それはただ物をもらうというのが趣意ではなくて、
≪視察がてらの乞食≫ ドウいう人民がおって、ドウいうふうに暮しているか、或いはいかなる人情風俗であるかを幾分か研究したり、その地の有様も知りたいという考えがあったです。けれども、ただブラブラ散歩するわけにいかないから、まず乞食という姿で行けば物をくれてもくれなくっても、その辺をよく研究することができる。常にソウいう考えを持っているから、いつもどこかへ出ます時分には、乞食に出かけてあちらこちらを見廻ったわけでございます。
その翌日も、その宿主らはそこへ逗留《とうりゅう》して遊猟に出かけた。私はテントの中で、漢字の法華経を読んでおりました。スルとその一番兄の女房と、ソレからダアワという娘(仲弟の女なり)が、外で何か話をしておった。始めは何をいっておったかよく分りませんが、ラーマラーマという声は確かに私のことを意味しているような話でしたから、聞くともなしに聞きますと、ダアワという娘のいうに、あのラーマは私の阿母《おっか》さんがドウも死んだらしいような話をした。本当に死んだのだろうかと、こういって尋ねておるです。スルと他の婦人は笑って、ナニそんなことがあるものか、あなたが余りあの人に思いをかけたから、それでいい加減なことをいって胡魔化したんだ。そんなことをいうのを聞いておった分には役には立ちゃアしない。それにこの間も私の内(夫を指していう)が話したことだが、もしあのラーマが俺《おれ》の姪《めい》の婿《むこ》にならないようであれば、屠《ほふ》って喰い物にするという話であった。実際、内《うち》のも非常に怒っているんだから、そのわけをよくいって、一緒になったがよかろうということを私に聞えよがしにいっておるです。私はドウも驚きました。けれども、その時に決心した。もしかかることのために殺されるならば、コリャ実にめでたいことである。我が戒法を守るということのために殺されるというのは、実にめでたいことである。これまでは幾度か過ちに落ちて、幾度か懺悔してとにかく今日まで進んで来た。しかるに、その進んで来た功を空しくして、ここで殺されるのが恐ろしさに、かの魔窟《まくつ》に陥るということは我が本望でない。ただ我が本師シャカムニ仏がこれを嘉納ましまして、私をして快く最期を遂げしめ給わるようにという観念を起して、法華経を一生懸命に読んでおったです。しかし、その日は何事もなかった。
その翌日二里ばかり向うへ行って、また或る山の端へ着きまして、ズッと向うの方を見ますと、何か建物のあるような処が見えた。ソコであすこは何かといって尋ねますと、トクチェン・ターサム(駅場)であるという。例のごとく私はそこへ乞食に行き、ソレをすまして帰って来ますと、ただダアワが一人残っていて他の者はおらぬ。どこへ行ったかと聞きますと、皆遊猟に行って誰もおらぬという。私は悟りました。ハハアこれでいよいよ
≪今晩料理されるか≫ 知らん。何にしても、危急の場合に迫ったという観念が生じました。しかし、この娘もやはり何かの縁があって、こういうことになったんであろうから、充分に仏教のありがたいことを説きつけてやろう。この娘が私に対し、穢《けがら》わしい思いを起したのは、実に過ちであるということを悟らすまで、懇々《こんこん》と説き勧めてやろうという決心をもって坐りこみました。
ところがその娘は朝から例の水蕈《みずぎのこ》を取り集め、あなたが非常に蕈がお嗜《すき》だからといって、親切らしくそれをくれたです。ソコで例の麦焦しの粉とその蕈を喰いまして、いよいよ法華経を読みにかかると、娘はそれを差し止めて申しますには、是非あなたにいわねばならん酷《ひど》いことを聞きましたから申します。デなければ、あなたに対してお気の毒だから……とこう申すです。そのことはモウよく私に知れているのですけれども、何にも知らんふりして聞きますと、やはり前に私が聞いておったとおりのことをいったです。
私がいうにはそれは結構なことだ。お前と一緒にならずにお前達の親の兄弟に殺されるというのは、実に結構なことである。もはや雪峰チーセも巡り、この世の本望は遂げたから死は決して厭《いと》うところでない。むしろ結構なことである。デ私は極楽浄土のかなたからお前達が安楽に暮せるように護ってやる。是非今夜一つ殺してもらおうと、こういって向うへ追っかけてやりました。スルと大変にびっくりして、娘はいろいろといいわけをいったです。けれどもだんだん私に迫って来て、あなた死んでは詰らんじゃないかとか何とか、いろいろなことをいい出したけれども、私は総て鋭き正法を守るていの論法をもって、厳格に打ち破ってしまった。
デ四時頃になりますと、遊猟に行った先生達は四人《よったり》とも帰って来たです。帰るやいなや、その三人兄弟の中の一番悪い弟がダアワに対して、こいつめ男の端に喰いついて、いろいろなことをいってやがるという小言を一つくれたんです。それはテントの外から私共の話を聞いていて来たんでしょう。スルとその娘の親が、何だとその弟に喰ってかかり、貴様の娘じゃなし、貴様に麦焦しの粉一ぱい喰わしてもらうというわけじゃアなし、俺の娘がドウしたからといって貴様の世話にはならないといって、ココニ兄弟喧嘩が始まったです。
第三十四回 兄弟らと別る
≪撲《なぐ》り倒さる≫ 兄弟喧嘩がだんだん盛んになって、ヤアおのれは泥棒でどこそこで人を殺したの、おのれはチベット政府の金を盗む企てをして、それがばれたものだから逃げ出したのと、あったことかないことか知らんが罵詈讒謗《ばりざんぼう》を始めたはまだしも、しまいには弟が非常に怒って兄を打撲《ぶんなぐ》る、大きな石を投げつけるという始末。私も見ておられんから飛んで出て弟を押えようとすると、私の横面をば非常な拳骨《げんこつ》で打撲った。それがために私は倒れてしまった。その痛さ加減というものは、実に全身に浸み渡ったです。ソウすると娘が泣き出す。女房が泣き出す。一人の男がそれを押えるという始末で、実に落花|狼藉《ろうぜき》という有様に立ちいたった。私もしてみようがない。倒れたまま酷《ひど》い目にあったとばかりで寝転んでおった。スルとだんだん夜にもなって来ますし、追々喧嘩も下火になりまして、その晩はそのまま過ごしましたが、翌日から
≪兄弟離散≫ 一人々々思い思いに行くといい出し、ソコで一番の兄は女房と一緒に、娘は親と一緒に、弟は一人、私も一人で行くことになったです。たちまち困難を感じたのは、荷物を持って行く羊がない。ですから一疋六タンガー(一円五十銭)ずつ出して、羊を二疋買いました。それからその人達に別れて、私は東南の方へ向けてまいりました。その人達は北の方に行くのもございましたが、また後へ引き返す者もありました。かねて私は、道は東南に取らずにズット東へ取れということを聞いておった。けれどもその人らの中で、私を追って殺しに来る者があるかも知れないという考えがあったので、東南の山中に進行したです。もし彼らの毒手から免るることができたならば、実に彼らの兄弟喧嘩で私が拳骨一つ喰ったのが、誠に好い仕合せであると思ったです。幸いにその夜は或る山の端に着きまして、また例の雪が疎《まば》らに積っている草の原に宿りました。これまではテントの中に寝ておりましたのに、急に雪の原に宿ったもんですから、寒気に侵されて一睡もすることができない。その翌九月一九日、雪の原を東南に進行して、ニョク・チエという処のシヤ・チェン・カンバという小さな寺に着きました。デその翌日はその寺へ逗留して、履《くつ》の修復や衣服の綴りをやりました。その寺には僧侶が二名ばかりおりますから、ここまで
≪殺しに追って来る≫ 気づかいもなかろうという考えで、緩《ゆっ》くりしておりました。スルト彼らから買うた一疋の羊が死んでしまったです。誠に可哀そうに感じて、相当の回向《えこう》もしてやりました。それから他の一疋ではドウしても進みませんから、その一疋を他の人に半額で売りまして死んだ羊の死骸は人にやりました。私が羊をくれた人は、トク・チェンの駅場へ羊毛の税品を納めに行った人だそうで、ちょうど四名ばかりそこへ泊り合わせた。その人らに死んだ羊の肉をやりますと、大いに悦んで、あなたこれからドチラの方へ行かれるかと尋ねますから、私はホルトショの方へ行くつもりだといいますと、それじゃア私共もちょうどその方向に進んで行くんだから、あなたの荷物を持って行って上げましょうといいました。彼らはヤクを沢山連れているものですから、そのヤクに私の荷物のすべてを載せてくれた。
それからその寺を出まして、東南に進んで行くこと一里半ばかりにして、周囲十町ばかりある円形の小池のある所に着きました。その池の右側に沿うてまた東南に進みますと、ジキにまた大きな池が見えたです。その池は公球《コンギュ》湖という湖水で、東南から西北へ非常に長く、東北から西南にかけてごく狭い。湖の周囲はほぼ十五、六里だそうで、その周囲の山脈は黒い岩の間に雪がマバラに積っていて、余ほど面白い形状を現しておるです。その湖水の縁に沿うて或る山の上へ登って、湖水の形状とそれから小さな円い池の有様を見ますと、その公球《コンギュ》湖の蜿蜒《えんえん》として西、北に進んで、かの円い形の池に臨んでいる有様は、ちょうど
≪蛟龍《こうりゅう》の璧《たま》を弄《ろう》する≫ ような天然画の有様がある。ソウして、その両岸の山の黒岩の間の斑紋になっている雪は、あたかも斑《まだ》らに飛んでいる雲のごとき有様に想像されて、余ほど面白く感じたです。それから、その池を左にして東南に進んで行くこと七里ばかりにして、その湖の端へ着きました。けれども、その人らはテントを持っておらないから、やはり雪の中に寝るのです。ところがなかなか寝られない。大分に疲れもひどく感じている。こういう時には坐禅するのが一番苦痛を免れる最上の方法で、誠に如来の布《し》かれた方便門のありがたさをシミジミと感じたです。
その翌九月二二日、東南の山中に向って急坂を登らねばならん。余ほど嶮《けわ》しい坂で、随分なれている人達でも苦しい息をついて登るです。私は幸いにヤクに乗せてもらって上に登ったものですから、苦しい中にも幾分か楽でございました。それからまた南の方向に降ること一里半ばかりで、また平地に着きました。その辺は一体にコンギュ州の中です。その平地に真っ白になっている池のようなものがある。あの辺に雪の積っているわけはないが、ドウして白いのかというと、あれはプートーすなわち
≪天然|曹達《ソーダ》の池≫ であるという。その辺へ着きますと、私共の一行は皆それを沢山取り集めて、ヤクの毛で拵《こしら》えた袋に入れて、ヤクに背負わせた。これは茶を煮る時分に入れるのです。それからまた波動状になっている、そんなに高くない山脈を幾度か昇ったり降ったりして、ソウして先に私が死にはぐった所のチエマ・ユンズンの河尻に着きました。その時分にはもはや秋の末でありますから、水も大変減っておりまして、渡るにも困難でない。その上にヤクに乗って渡るんですから、何事もなくその河を渡りました。この頃はほとんど一日に十里くらいずつ歩んでおります。もし私がヤクの助けを得なかったならば、この空気の稀薄な高原地をこんなに沢山歩むことは、とてもできなかったです。夜は例のごとく寒くて寝られない。
その翌二三日、また東南に向ってその人達と共に十里ばかり進んでまいりますと、前に渡ったブラフマ・プットラ河に出た。この辺の河の名はマルツァン・ギ・チュともいい、またコーベイ・チュともいう。それは皆地名に準じて、ソウいう名をつけたものである。そのブラフマ河も、もはや非常に減水しておりましたから渡るに造作《ぞうさ》はない。例のごとくヤクに乗って渡してもらいました。スルと、その河端にその人達のテントがあって、そこへ宿ることになりました。随分疲れも酷うございますが、夜分テントの外に出てみますと、
≪ブラフマ河畔の夜景≫ 月はございませんでしたが、碧空《へきくう》にはキラキラと無数の星が輝いておりまして、その星が水面に映じ、河はその星を流している。遙かのかなたを眺めますと、ヒマラヤの雪峰が朧《おぼろ》に聳《そび》えている。その朧気な夜景は、真に森厳にして侵すべからざる威風を備えているので、何となく無限の感に打たれて五、六首の歌ができましたが、そのうち二つばかり申し上げましょう。
ちよろづの星をやどして流れける
ブラフマ河や天津《あまつ》河かも
天津神まします国のヒマラヤは
ブラフマ河の上にかがやく
その翌日、その人らはほかの方向へ出かけるので、私はその人らと別れて一人でまた重い荷を背負って、だんだん河に沿うて東南に進んで二里ばかりまいりますと、いかにもその荷物が重くなって来た。これまで大分に楽をしておったものですから、非常に重さがきつい。しばらく進んではまたしばらく休むという始末で、遂には進めなくなってしまった。
[#改ページ]
第三十五回 剽盗《ひょうとう》の難
≪白昼強盗に逢う≫ ドウしようか知らんと休んでいると、よい塩梅《あんばい》にヤクを一疋ひいて出て来た遊牧民があったです。ソレからそれに頼んで、ドウかこの荷物をお前の行く処まで持って行ってくれないか、いくらかお礼をするからと申しましたところが、早速引き受けてくれました。
デ一里余り進むと、向うの方から非常に強そうな馬に跨《またが》った奴が三人やってまいりました。その様子を見るに背にはそれぞれ鉄砲を担ぎ、右の腕には槍をさげ、腹の前には刀をさし、ソウしてチベット流の猟帽をいただき意気揚々と近づき来る。その容貌がいかにも獰悪《ねいあく》で、身体も強壮なチベット人中、殊に強壮らしくみえ、ドウ考えても強盗とほか鑑定がつかない。何故ならばもし巡礼者であれば、巡礼に必要な食品を背負っているところの荷馬とか、或いはヤクとかをひいているわけであるのに、ソウいうものはない。行商かと思えば行商でもない。何故ならば商法人は少なくとも幾許《いくばく》かの馬をひきつれている。多い者は八十疋も百疋も荷馬を連れているのである。しかるにこれは三人のほかに何もない。遊牧民かというに、遊牧民なればかかる立派なふうはして来ない。コリャ全く強盗であるということが分って来た。果して私と一緒にいる同行者も非常に恐れている様子ですから、ソコで私は考えた。しかたがない。この強盗に着物から荷物までスッカリやっちまえば、ソレで事がすむんだ。別だん争うことも何も要らない。この際
≪大事な宝は生命≫ だが、先方《さき》に取っては人の生命は何にもならぬ。コリャ何もかもスッカリやってしまうに若《し》くはないと覚悟してしまった。ですから同行の奴は恐ろしがって、なるべくその視線から免れるようにしておるけれども、私はその強盗の進んで来る方向に向って進んだです。スルとその三人の奴が私の前へ来て、「お前はどこから来たか」といいますから、「雪峰チーセへ参詣して来た者であります」「雪峰チーセからこちらに来る時分に、何か商人体の者に逢わなかったか。実は俺の友達がこの辺をウロついているので、それを捜しているのだ」「イヤそういう者に逢わなかった」「ソウかお前さんはラーマらしい、ラーマならば定めて卜筮《うらない》をするであろう。俺の友達がどこにいるか、早く分るように占ってくれ」という。その意味はよく分っている。ソレは友達を捜すのではなくて、ドウいう方向に行ったなら金を持っている商人に行き遇い、その者を屠《ほふ》って金を取ることができるであろうか、その方向を卜筮で知らしてくれろという意味なんです。こういうような大きな盗人に遇った時分には、余り恐ろしいことはない。何故かといいますと、彼らは小さな仕事を心がけておらない。大きな商人を見つけて、それを
≪夜中に屠り殺し≫ その財産のすべてを奪って逃げるというのが彼らの目的であるから、私共のような僧侶で一人旅の者に逢う時分には必ず卜筮をしてもらって、ソレから行く方向をきめて大なる仕事をしようとこういうので、デ僧侶に対しては特にお礼をするんです。強盗からお礼をもらうというのも訝《おか》しいが、向うからお礼をくれるです。ソコで余儀なく私は、いい加減なことをいって人のおらんような方向を指して、こういう処に行けばその友に逢うであろうと、本当らしく述べてやると、彼らは大いに悦んで「また何れ逢うであろう。今お礼をするわけにはいかない。御機嫌よう」といって出かけた。ソウいう話をする中にも、同行の奴はブルブル震えておったです。デ私に向って「あの強盗らは何をいっておりましたか」「あの人達は私に占ってくれというから教えてやった」「あなた本当のことを教えてやりましたか」「ナニ本当のことをいった分には人に迷惑がかかるからな」と、話しながら川端を三里ばかり進みますと、そこに一のテントがあった。そのテントはその男の住んでいる家なんで、その辺にはマダ二、三のテントもありました。その夜はそこに宿り、翌日も非常に疲れているから一日休息して、その翌朝すなわち九月二六日、山羊は一疋でも行くといいますから、そこで荷物を背負わす山羊を一疋買い調えて出かけました。
≪咫尺《しせき》も弁ぜぬ大雪≫ ソウすると雪が大層降って来たです。だんだんはげしくなって、ドウにもこうにも進みきれない。モウ自分の着ているチベット服も全身|濡《しめ》って、その濡りが膚《はだえ》に通って来たです。ソウしてドノ方向に進んでよいか、余り大きな雪が降っているものですから、少しも向うを見ることができない。磁石でもあれば出してみることもできますが、磁石はすでに失くして、ただむやみやたらに進んで行くのですから、実に危ないわけです。
ところがこういう場合に地獄で仏とでもいいますか、一人の乗馬者に逢いました。その男が私を見まして、ドウもこの雪の中でそんなことをしておっては、今晩とても寝られやしない。マア今頃のことだから、マサカにこの辺で死ぬ気づかいはあるまいけれど、何しろ非常の寒さだから、死ぬような苦しみをしなくちゃアならん。聞けばお前さんはラサ府に行くという。少しは廻り路だけれども、私のテントのある処へ来て泊っちゃドウかといってくれるので、私は再生の思いをいたし、ナニ後戻りしてもかまわない。実はこの大雪で後戻りをする道も分らんから、ドウカ連れて下さいと、その人に従い、荷物は馬に幾分か載せてもらいまして、自分は山羊を連れその雪中をおかしてその人のテントに着きました。
翌日、またそのテントの人達も、やはり私の進んで行く方向に移転するということで、その親切にしてくれた人はほかの方へ行きましたが、そのほかの人と一緒に雪の積っている中を六里ばかり東南の方へ進みました。一緒には来たものの、実はいまだに口もきかぬ人ばかりです。けれどもこういう雪の沢山ある中だから、誰かテントの中に泊めてくれるだろうという考えで一緒にやって来たんです。ところがその人達はあたりの雪を掃きつけて、雪のないよい場所へテントを張りつけた。
私はその間外にジーッと立って、その辺の景色を眺めながら、雪の中に立っておりました。皆テントを張りつめてしまいましたから、ドウか今晩宿を借してくれといって頼みましたところが、ナカナカ貸してくれない。押して頼んでも貸してくれない。ソレからまた他のテントへまいって頼みましたけれども、やっぱし貸してくれない。ちょうど五、六軒のテントについて、言葉を尽し事情を分けて頼んでも皆貸してくれない。コリャ困った。私に縁のない遊牧民とみえる。一番しまいのテントへ来て強情にも酷《ひど》く押して頼んだです。こんなに積っている雪の中へ寝ると凍えて死んでしまう。また夜の中に雪が降らないとはいえぬから、ドウか宿を貸してくれ。幾分のお礼をしてもよいからと、拝まぬばかりに頼みました。スルとそこにはお婆さんと娘さんと二人しかおりませなんだが、お前は女ばかりと侮《あな》どって、ソウ押しつけなことをいうか。ここにはテントが七つ八つもある。男のいる幕《うち》へ行って頼めばよいのに、女ばかりいる処へ来て押しつけに泊ろうとは、もってのほかだ。行かないか、行かなければ打撲《ぶんなぐ》るぞといって、今ヤクの糞の火を掻き捜しているチベットの火箸を持って、私を打撲ろうとして立ちかけたのです。
≪衆生済度《しゅじょうさいど》の読経≫ どこでも泊めてくれないので、何ともしてみようがない。でズウット四、五間こっちへ来て、テントの張ってある六軒の家を眺め、ドウも縁なき衆生は度しがたしとシャカムニ如来がおっしゃってござるが、この先生達は私にちっとも縁のない人達ばかりであるから、こういう工合にはねつけられ、今夜この温そうなテントの中を見ながら外に寝なければならんというのは、誠に浅ましいわけであると思いました。しかし、縁のない人もこうやって頼んだのが縁になって、この後ドウいう縁がつくか知れんから、この人らが後に仏教に入るようにお経を読んでやりましょうと思って、お経を読みました。それは仏教の真実広大なる慈悲の主義から来ていることであって、我々仏教僧侶としてはそれをやるのが当り前のことです。
だから一生懸命にお経を読んでやりますと、今頼んだテントの娘が一寸顔を出してしばらく眺めておりましたが、急に幕内《うち》へ入って母に向い、あのラーマは私共が宿を貸さなかったのを怒って悪い凶法《まじない》を唱えて、我らを殺すか病身にするような行いをしている。非常に腹を立てたものとみえるといって、話したのでありましょう。果して阿母《おっか》さんは余ほど妄信の深い人とみえて、ソリャたまらんからお前が早速行って幕内へ招待して、ソウいうことをしないようにしてもらわなくちゃアならんといいつけたらしく、直ぐ私の処へ出て来て、ドウカそんなことして下さらずに、内へ入って緩《ゆっ》くりお休み下さい。今晩いろいろ供養を上げますからといって、トウトウ家へ泊めてくれることになったです。ドウも吹き出すようにおかしゅうございますけれども、つまりこちらの善意が事を助けたので、先方の悟り方は悪いにしたところが、即座に難儀を免れたのも仏の教えのお蔭であると思い、私も大いに悦んだです。
例のごとくその夜は観法で過ごして、翌日早くそこを立って、一里ばかり東南の山中へ進んでまいりますと、その辺には誰もおらないはずでありますのに、ツイその岩の向うの方から二人の人が現れて、
≪私を呼び止めた≫ 強盗の様子にもみえないけれど、刀は二人ともさしている。多分この土地の土人がどこかへ行くのでもあろうと思って、何心なく立ち止まると、彼らは岩の間からこっちへ降りて来て「お前は何を持っているか」というから、「私は仏法を持っている」といいましたところが、わからないです。先生らには……。「お前の背負っているものは何か」「コリャ喰物だ」「懐《ふところ》の脹《ふく》れているのは何か」「これは銀貨だ」といいました。ソウするとその男は二人とも私の前に立って、私の持っている杖をいきなりフン奪《だく》ってしまった。ハハア、コリャ強盗だなと思いましたから、ジキに決心をして、「お前達は何か私の物を欲しいのか」「もちろんのことだ」と大いに勢いこんでいる。「ソウか、そんなら何も慌《あわ》てるにはおよばない、お前の欲しい物をスッカリ上げるから、マア緩くりするがよい、何が欲しいか」といいますと「まず金を出せ」という。ソレで銀貨の入れてある袋をそのままやりました。スルト「背負っているものにドウやら珍しい物がありそうだ、下《おろ》してみせろ」というから、「ハイ」といって下し、また「山羊の背に負わしてあるものはソリャ何か、下してみせろ」というから、ハイといって下しますと、二人で穿鑿《せんさく》して、お経とかまた彼らの要らない夜着とか重い物だけはそのまま返したです。これだけは俺《おい》らが入用だからもらって行くといって、喰物もスッカリ取ってしまいました。ちっとも失くなってはこっちが困りますから、少しもらわなくちゃアならんと思いました。
≪チベット泥棒の規則≫ 一体チベットの盗人に遇《お》うた時は、チャンと規則があるんです。そのことは前に聞いておりました。何でも盗人に逢うた時はスッカリ向うの欲しがる物をみなやってしまって、ソウしてお経を申してドウか食物だけくれろというと、向うから三日分くらいはくれるというから、ソウいう手続きにやろうと思いまして、「私の懐にある物の中にシャカムニ仏の舎利を蔵《おさ》めてある銀の塔がある。それはかつてインドのダンマ・パーラー居士が、チベットの法王に上げてくれろといって言《こと》づかってまいったものであるから、これだけは取らんでくれ」というと、「ソレを俺によこさないか」「イヤそれを持って行くのはよいが、これを持って行った分には、お前が難儀な目に遇うであろう。何故ならば、この舎利様は普通俗人が持った分には、よくお護りをすることができないから、ドウせお前らに善いことはありゃアしない。しかし欲しければ上げる」と早速出して、「マア一遍開けるみるがよい」といって渡しますと、そのやり方は思いのほかに出たとみえて、彼らはそれを受け取らずに「そんなありがたいものならば、私の頭へ指して戴かしてくれろ、デそのありがたい功徳を授けてくれろ」といいますから、それの頭へ載せてやって、ソウして三帰五戒を授けて、悪業の消滅するように願いをかけてやりました。それから今度立ち上って二、三日の喰物をくれろといおうとすると、遙かの向うの山辺からまた
≪二人の乗馬者≫ が現れて来ました。それを私が認めると、同時にその強盗らも認めたとみえ、両人は立ち上って受け取った物だけ引っ攫《さら》い、或る方向へ逃げ去ってしまったです。彼らが山を走ることはあたかも兎の走るがごとくで、私などが追いかけたところで、埓《らち》のあくわけでもない。また追いかけようという考えもない。ソコでかの現れて来た乗馬者を呼び止めて、彼らから幾分の食物をもらってこの二、三日を安全に進もうと思った。ところが乗馬者は、ドウいう都合かこちらの方には進まず、また向うの山の間へ上って行った。だから私は声を上げて、チベット人の呼ぶしかたで右の手を内輪に廻して呼び立てましたけれども、その声が耳に入らんのか、或いは他に用事があるのか、こちらへ来てくれなかった。もっとも肌につけておったインド金貨八枚だけは取られない。自分の荷物は大分軽くなり、山羊の荷物は全く失くなってしまったから、自分の荷物の幾分を山羊につけ山の中へ登って行った。非常に嶮しい山で、三里ばかり進むとモウ日が暮れてまいりました。例のごとくその夜は山の間に露宿して、さてその翌日は、東北の方向を取れば或る駅場に出られるわけですが、何分にも磁石がないから方角が分らない。
≪雪を噛む≫ 東北に行くつもりで進んだのが、東南の方へ進んだものとみえる。後には全く南の方向へ進んで行ったものとみえる。その後その着いた所によって推しますれば、ちょうど今いったような方向に進んで来ておるです。大分進みましたが、午後三時頃からまた雪が降り出した。それから日の暮れるまで進みましたけれど、どこにも人のいそうな処が見えない。デ余り腹が減って喉《のど》が乾いてたまりませんが、何にも喰う物がないから雪を喰いました。一日に一度ずつ喰えば充分であるのですけれど、何にも食わないと一層非常な困難を感ずるです。
日は暮れる腹は減る。ほとんど進むことができないほどになって来た。雪の降っている中ですから、ことさらに池のような深み溜りの間に入って、ソウして雪を掃《はら》いこんで、その中へ寝たんです。ドウも広い原で雪に降られるのみならず暴風に当てられますと、凍え死にをする基《もとい》ですから、それだけの用心をして、池のような中へ入って、そうして例のごとく呼吸を充分注意して、なるべく自分の呼吸と外界と遮断《しゃだん》するような方法にして禅定に入りました。これが一番雪の中で寝るにはいいようであります。その翌日起きると雪は非常に積っているけれども、モウ止んでしまって日が出ている。デその辺の山の様子を見ると、
≪もと来た高原≫ ドウも先に通ったナールエという、遊牧民の泊っていた所の山の形によく似ておるから、もしやそうではあるまいかと思ってだんだんに進んで行くと、なるほど先に見覚えあるキャンチューという大きな河もその端にある。コリャうまい、ナールエの方へ行けば、あそこは遊牧民の集まる処であるから、誰かそこに来ているかも知れんと思って、ワザワザ廻り路をして二里ばかり進んで行ったです。ところが何にもない。見渡す限り雪ばかり。その時にはほとんど失望した。何故ならば腹は充分減っている。喉は乾いて来る。果てには非常に苦しくなった。もっとも荷物は盗人に取られて大いに軽くなっておりますから、重荷を荷《にな》うという苦しみはないけれども、腹が減った苦しみにはたえられなかった。しかたがないからまた雪を喰い喰い進みましたが、そのかいもなく、そこには誰もいないという始末で、実に失望いたしました。
第三十六回 眼病の難
≪雪中の飢渇《きかつ》≫ しかし、これから引き返してキャンチューを渡って向うの方に行けば、またアルチュ・ラーマのおった方向に出られるに違いない。あの人は余り他の遊牧民のごとくに諸所方々に行かない。わずかにあの辺で位置を変じているだけだということを聞いたから、大方あの辺にいるかも知れない。ソウすると、まずかの方向に進んで行くのが今の急務であろうと思いまして、キャンチューを向うへ渡りました。渡った処は、前に渡った処より三里半ばかり川上です。しかし、その時分は水が非常に減って、ほとんど五分の一しかないので、そろそろ氷に変じかけておりましたし、昼頃のことでございましたから、氷の間をうまく杖で叩きつけたり割ったりして、渡ってしまったんです。氷が厚く張っていれば大変都合がよいが、薄いから融けているという有様で、渡るのが非常に危険です。氷の切れ端で足を切ったり何かするものですから、実に危険です。かろうじてそこを渡ってだんだん南へ南へと進んで行ったです。
スルと私が引っ張っている山羊、その山羊の上に載せてあったわずかの荷物――羊の皮の敷物、履《くつ》、薬のような物、それがどこへか落ちてしまったです。その辺を余ほど捜してみましたけれども、何分雪の中の道のない処で落したものですから、どこへ捜しに行ってみようもない。やはり海の中で物を失ったと一つことであるから、やむなくそのままにしてだんだん進んで、ドウか今夜はテントのある辺まで着きたいもんだ、毎晩々々雪の中ばかりに寝ていると、もはや死ぬよりほかに道がないから、遅くなっても充分に進みたいという考えで、腹の減るのを無理押しに押して、午後八時過ぎまでに八里余り進んだには進みましたが、雪の光の反射のために、いわゆる依雪《いせつ》眼病を煩《わずら》った。その痛さは喩《たと》えようがない。今にも
≪眼が潰《つぶ》れてしまう≫ かというような有様で、実にそのままジッとしていることができない。外には雪が非常に積っている上に、また夜分になって雪が降り出した。非常な寒気と痛さで身体中は冷汗を流しているようなわけ。いかにも苦しくてたまらんので、ドウも観念に入ることができない。また横に倒れてみたところで、頭に雪が喰いつくというようなわけで、なお痛さが増して来る。デその辺の雪を手に取って眼に当ててみたりしても、ナカナカ痛さが止らない。ソウしている中に、自分の身体もだんだん凍えて痺《しび》れて来る様子ですから、眼を塞《ふさ》いだままむやみに身体に丁子《ちょうじ》油を塗りつけたです。眼は塞いだけれども寝るにも寝られず、そのままやはり仏法を念じておりますその間に、不意と歌が出たです。妙な時に歌が出るもので、その歌が出てから何だか苦しみが余ほど優しゅうなったように思ったです。その歌は
雪の原雪の蓐《しとね》の雪枕
雪をくらひつ|ユキ《ヽヽ》になやめる
その歌の面白みに、自分と自分の心を慰めて悦んでおりました。これで大和言葉の国風のありがたいこと、かかる困難の時に人を慰めるものであるということを実験したことでございます。
その翌は一〇月一日です。そこにジッと坐っておってもしかたがないから、朝六時頃出かけようと思いますと、モウ雪は歇《や》んで日が照っている。その雪に輝く光線が私の眼にキラキラ反射しますので、一層眼が痛みました。
≪曠原を盲進す≫ 眼を閉《つぶ》って進んでみたがドウも進むに困難である。だから少し眼を開いて進んで行くと、ますます眼が痛み出して、今にも潰れるような痛さ、自分の身体も我れ知らず引っ繰り返って、雪の中であろうが草の中であろうが一向かまわずに倒れこんでしまうんです。そればかりでなく、三、四日前から少しも食物を喰わずにいるものですから、身体が非常に苦しい。ヒョロヒョロして、ちょうど酒飲みが大へん飲み過ごして、ジキに倒れてしまうごとくに、一寸した雪の中の小石につまずいても倒れてしまう。けれども怪我はしない。その辺には雪があり、かつ自分の身体はごく軽くなっておりますから、何ともないです。腹は減る、眼は痛む、足はヒョロつく、という始末で、進退全くきわまって、我れ知らず雪の中へ坐りこんで、コリャ死ぬよりほかに道がないのだろうという考えがつきました。けれども自分の精神は確実で、この雪の中で死んで行くかと思われるような精神は、少しもない。ごく確かですから、この身体の苦痛さえドウにか免れる工夫が立ちさえすれば、充分進めるはずであると思った。けれどもしかたがない。スルトまた奇態に遙か向うに
≪乗馬者が見えた≫ です。それから痛い眼をよく引き開けて、私の見違いではあるまいかと思ってよく見ますと、全く一人の男子が馬に乗ってやって来るです。私はジキに立ち上ってその人を手真似で招いた。声を立てようとしたところが、ちっとも声が出ない。何だか喉《のど》が縛りつけられたような、喉の穴が細くでもなっておるような工合に声が出ない。余ほど無理をして、かろうじて二声ばかり声を発し、手をもってのしかたをして呼び止めますと、向うでもそれを認めたとみえて、こちらへ馬を走らして来た。その時には嬉しかったです。すぐに私の傍へ来まして、この雪の中でドウしたのかといいますから、イヤ実は泥棒に遇ってスッカリ何もかも失くなってしまった。その上に残っておった少しの荷物も途中で失ってしまい、三、四日何も喰わずにいるのだが、何か食物を下さるまいかとやっとの思いで声を出すと、若い男でございましたが感心な心がけで、しばらく首を傾むけ、ドウも私は今麦焦しも何も持っていないけれども、一つこういう物があるからといって、懐から出してくれたのが、牛乳を煮て冷しておきますと薄く上へ張って来る乳皮《クリーム》、それを集めてその中に黒砂糖を入れたものであります。
それはこのチベットの北原《チャンタン》においては無上の菓子として人に贈り、あるいは珍来の客に侑《すす》めるものであるが、それを私に一個《ひとつ》くれたです。それから早速それを旨いとも何とも分らずに喰ってしまい、ソレからその若い男に、どこかこの辺に私の泊る処があるまいか、食物も欲しいからといいましたところが、イヤ私もやはり巡礼者だが、あの山の際《きわ》に私共の父、母およびその同伴《つれ》の者が沢山いるから、あそこへお越しなさい。ドウにかなりましょう。私は急ぎますから、先へ帰りますといって、馬を駆ってその山の方向に去ってしまったです。
デ私のいる処からそこまではわずかに一里ばかりですけれども、そこまで進んで行くのに幾度か倒れたり、或いは眼が痛いので休息をしてみたり、また腹が餓《す》いて喉が乾くので雪を喰ったり、いろいろな真似をして行ったものですから、ちょうど三時間ばかり費やして、午前十一時過ぎにやっとそこへ着きました。スルと早速その少年が迎いに来まして、テントの内へ案内してくれたです。
≪九死に一生を得≫ デ、マア可哀そうにというわけで、向うに拵《こしら》えてあったところの米の御飯にバターの煮たのをかけて、その上に砂糖と乾葡萄とを載せた、チベットでは最上等のご馳走を私にくれた。その時は実にありがたかった。マアそれを二杯ばかり喰いました。余り一遍に喰ってもまた身体を害するであろうと思いましたから、それくらいにして後は牛乳を少しばかりもらって飲んだです。
その夜は眼の痛みで寝られない。けれども薬はなし、ほかにドウもしてみようがない。ただ雪を切布《きれ》に包んで眼に当てていると幾分か楽に感じますけれども、その痛みがはげしいので、その夜は良い寝床を得たにかかわらず、やはり寝られなかったです。ところがその翌日、彼らは巡礼者のことですから出立するというわけ。私も同じく出立しなければならん。彼らはナカナカ出立するのに暇がかかる。何故ならば、その張ってあるところのテントを片づけ、荷物をそれぞれヤクに載せて、それからボツボツ出かけるという始末ですから、容易じゃない。私は茶を飲んで外に出ますと、彼らは忙しげにテントを片づけている。ソレから私は、そのテントを片づけている一番はずれの四、五軒目くらいの処にまいりますと、例の七、八疋の猛犬が吠え立てながら、私のグルリを取り巻いたです。
≪猛犬に噛みつかる≫ 猛犬に取り巻かれたけれども私は眼が痛いものですから、ドウも常のように犬をよく扱《あしら》うことができない。眼を開いて二本の杖で前後に迫る猛犬を扱っている間はよかったですが、痛みのはげしさに不意に眼を塞いだ拍子に、ドウしたものか後の方の杖を、或る犬のために咬《くわ》え取られたです。スルト他の一疋が私の後からやって来て、足に噛みついた。私はジキにそのまま倒れてしまいましたが、少し声を立てて救いを求めましたから、そこへテントを片づけておった人達が慌ててやって来て、犬に石をぶっつけて追いとばしたので、犬はことごとく去ってしまった。ところで私の足を見ますと、出血|淋漓《りんり》としてドシドシと新しい血が出て来る。ソレから私は左の手で、その噛まれた右の足の疵口《きずぐち》を押えてジーッとしていると、これが犬に噛まれた時の一番良い薬であるといって、或る老婆は薬を施してくれたから、その薬をつけて括《くく》って立ってみようとすると少しも立てない。
第三十七回 再び白巌窟を訪う
≪噛まれた疵《きず》の痛み≫ によって少しも立てない。けれどもジッとそこに坐りこんでいるわけにいきませんから、その人達にドウか方法がつくまいか、この辺にアルチュ・ラーマがいるはずだが、おられないかといって尋ねますと、あなたはアルチュ・ラーマを知っているかといいますから、よく知っていると答えたところが、その中の一人がそれなら私の犬が噛んだのだから、アルチュ・ラーマのいる処まで私の馬で送ってあげよう。あのラーマはお医者様であるから充分に疵を治し、あなたの眼病を癒《なお》すことができましょう、だからまずあそこへお越しになるのが一番得策であるといって、親切に馬を貸してくれたです。
ソレからマア押し強く杖に縋《すが》って立ち上りましたが、一本の杖は折れてしまって役に立ちませんでした。デ馬に乗ってテントの二つ張ってある処までまいりまして、眼を開いて向うの方を見ますと、アルチュ・ラーマのテントよりは甚だ小さい。ドウもこれは奇態だと思って、馬から下りてそこへ行って尋ねますと、これはアルチュ・ラーマのテントではない。その奥さんの親の家だという。ソレではアルチュ・ラーマの家へ是非やってもらいたいというと、ちょうどその奥さんが親の家に来ておりまして、私の声を聞き、アレはこの間、雪峰チーセへ指して参詣に行かれた尊いラーマであるといって見に来たです。ソレから私が逢って「あなたのラーマはどこにおられるか」「これから一里ばかり東の方の原にいる」「私はそこへ行きたいが、今日誰かに案内してもらえまいか」「私はモウあんな処に行かないんだから、案内者はつけられませんが、あなたがお越しになるならば、私はこの馬をひいて来た人にいいつけますから、この馬方と一緒に行かれるがよかろう」「ナゼあなたは自分の家にお帰りにならんですか」「あんな悪い人はないから、私は暇を取ってやるつもりです」といいますから、「ソレはいけません」といって、いろいろのことを聞いたりいったりして、そこでマア昼御膳をよばれて、ソレから一里ばかりあるラーマの家に着きました。
≪再びアルチュ・ラーマに逢う≫ スルトそこには召使いばかりいて、誰もおらんでしたが、その夜になってアルチュ・ラーマが帰ってまいったから、実はこういうわけで盗人に逢い、その後こうこういう処で犬に足を喰われたが、何か良い薬があるまいかといいますと、親切に良い薬をくれまして、しかし、この塩梅《あんばい》では数日間ここに滞在しなければ歩くことができまい。或る犬は非常な毒を持っておりますから、まずその毒下しをして、あなたの身体に毒の廻らないようにしなけりゃアならんとの注意ですから、ソレじゃドウかソウ願いたいといって、そこへマア滞在する中に薬の利目か、眼の痛みも少し癒ってまいりました。これまでしばしば難儀の上に難儀を重ねて
≪泣き面に蜂≫ が螫《さ》すというような目ばかりみましたが、これからとても、なおなおドウいう難儀があるか分らん。けれども、まず進むだけ進むのが真に愉快であるという考えから、一首の歌を詠みました。
くさくさに有らん限りの苦しみを
なめつくしてぞ苦の根たえなん
その翌日ラーマに向い、ナゼあなたの奥さんは御自分の家に行っておられるのかというと、ラーマはいろいろ奥さんの行き届かんことを説明された。どっちを聞いてみてもごもっともで、私はどっちが善いか悪いかということは一向分らなかったですが、とにかく男は心を大量に持たなくちゃアならん、女を慰めてやるのが道であるから、マアあなたからお迎えを出すのがよろしゅうございましょうといって、だんだん仏教の方から説きつけますと、「ソレはソウだ」といって迎えの人を二人出したです。ソレで奥さんはようやくのことで、その日暮れに帰って来た。
デちょうど十日ばかりここに逗留し、夜分などは実にすばらしい雪と氷の夜景さえ眼を楽しましむる。その中に碧空《へきくう》には明月が皎々《こうこう》と冴えきっておるです。いわゆる
≪氷光|明徹裡《めいてつり》の寒月≫ を見て、そぞろに故郷を懐《おも》い、或いはその凄まじき清らかなる状態を想うて、幾つかの歌ができましたが、その中の一、二を申せば
塵一つなき高原に月さえて
きよき御国の影をしぞ思ふ
草かれて尾花も萩もなき原に
やどれる月のいともさびしき
こういうようなことで楽しく日を過ごしましたが、幸いに疵も癒《い》え、眼の病もスッカリ癒って身体も丈夫になって来た。ソレからそのアルチュ・ラーマの勧めで、かの白巌窟に住んでいるゲロン・リンボ・チェにまた逢いに行こうということになり、私の荷物と尊者に上げる供養物とを馬につけ、私共三人も馬に乗って行くというわけで、下僕が三人に馬七疋、同行六人で南の方へ指して進んでまいった。大分にすばらしい勢いであったです。無性に駆けて、五里半の路をしばらくの間に着いてしまいました。マダ十一時前で、モウ少し経たなければお逢いにならぬという。十一時になったところで、そこへ参詣に来ている者が三十人余り、それらが皆礼拝をなし、或いは尋ねることを尋ね、受くべきものを受け、めいめい供養すべき物を供養して帰ってしまったから、私の同伴《つれ》も私と一緒に帰るはずであったですが、その尊者のいわれるには、今日は私に対して話があるから待っておれという。ソコでラーマ夫婦は、ソレじゃアここでお別れ申しましょう。あなたはこれから首府ラサに行く道を取られるがいいといって、いろいろ礼などいって別れたです。
≪白巌窟尊者との大問答≫ 何の話があるのかと思って、尊者の端に坐っておりますと、尊者は余ほど思いに沈んでおられるようです。そのわけを私はほぼ察しなかったのではない。何故ならばアルチュ・ラーマの家に泊っている間に、少し聞いたことがある。ソレはドウいうことかといいますと、「あのシナのラーマであるといって、雪峰チーセに参詣した人はシナ人でない。確かに英国人である。チベットの国情を探るために来たのである」と、こういう評判が大分に高くなっているということを、私はそのラーマから聞いたです。もちろん彼は私に、この辺の愚民共は何をいうか知れやしないと、私を信用して、この地方の人民の取るにたらぬことをなお続けていいました。ドウもあなたのような真実に仏教を修行なさる方を捉まえて、ソウいう悪い噂をいうくらいの奴らですから、ドウも困ったものだ。愚かな者はしてみようがないと、こういったくらいだから、そのことがやはりこの尊者に聞えて、或いは思いに沈んで何か質問の端緒《いとぐち》を捜しているのではないかと思ったです。
果して尊者は実際的に問いを起していいますには、「あなたがいろいろの困難を取ってワザワザラサへ行かれるというのは、一体何のためでありますか」と聞きますから、私はこれに対して「私は仏道修行をして衆生を済度しようためにまいったのでございます」と、こう先方《むこう》の実際的の問いをはずして、形而上の仏教的説明の答えをしたです。スルと尊者はジキに「あなたは何の原因をもって衆生を済度するのであるか」「何も私に原因はない。衆生がいろいろの苦しみを受けるからであります」「ソレではお前は世の中の衆生という者を見ているのか」といって、非常に理想的の問いを起しましたから、私も理想的の鸚鵡《おうむ》返しをやったです。「我に我なくしてドウしてこの衆生を見ましょうか」とこういって答えましたから、尊者はニコリと笑って問いを変じ、「あなたはこれまで色欲のために心を苦しめたことがありますか」
第三十八回 公道に向う
≪尊者の諷刺≫ 私は尊者が色欲に関する問いに対し、「かつて大いに苦しんだことがありましたが、今はドウやら免れたようであります。また全く免れんことを希望しているものである」といいますと、ジキに問いは、あの賊に逢った時の思いはドウであったかということにおよんで来たです。尊者のいわれますには、「賊に逢うた時にその盗人を憎いと思ったか、その盗人と別れた後に彼を憎んで呪法でも行って、彼らに仇返《あだがえ》しをするようなことをやったか」とのことですから、私は直ぐに「私にそれだけの取らるべき原因があって、あの強盗に取られたのでありますから、あの人を憎む必要はない。私がかような不幸な目に遇う原因を持っているこそむしろ憎むべきである。私はこの借金なしのできたことを悦んでいるのである。だから何も彼らに対して呪法を行う必要もない。ドウかあの男も私の物を奪ったのを因縁として、この世ではゆかずとも、せめて来世《あのよ》においては真道に入って、立派な人間とも菩薩ともなるようにと願いをかけたわけである」といいますと、「ソリャなるほどもっともだが、これからまたアアいう賊に度々逢うかも知れないから、もはやあなたはラサ府の方へ行くことをよしなさるがよかろう、何故ならば賊に逢って殺された分には、自分の
≪一切衆生済度≫ の目的を達することもできん。であるから、これからネパールの方に帰るがよかろう。ネパールへ帰るにはローという処から入って行くと良い道があるから、そこへ早く行くようにするがよかろう。もしこのまま進んで行くと、ドウもあなたは殺されるよりほかに道がないと思う」と、何か意味ありげに申した後、なお厳格の言葉を発していいますには、「およそ目的を達するためにはドンな方法をも執るべしである。ただラサ府に行くべきことのみをもって目的とすべきものでない。一切衆生済度の目的が信実であるならば、ネパールに帰らねばならんのである」という。私は実に驚きました。ソコで「私はさような曖昧《あいまい》なことはできません。目的を達するためには、ドンな方法を執るべしというお説には同意することができません。大日経には方便すなわち究竟《きゅうきょう》なりというて、誠実なる方法を実行するのが、すなわち究竟の目的を達したのである。別に極楽へまいったのが人間の目的を達したのでもなければ、ラサ府に達したのが目的を達したのでもない。ただ誠実な方法を実行するのをもって、目的そのものとして、一切万事誠実なることのみを行うその端的に目的が達せられるものである」「しからばソレではドノ道を廻ってどこへ進んで行くか」「私はもちろん山道を通ってチベットの首府に行くのである」。ソウすると尊者は非常にせきこんで、「ドウも妙だ、必死の虞《おそれ》ある危険の道を取るよりは、安全に行けるネパールに帰るがよい。お前は乱暴なことをいう人である。私はチャンと行く末のことを見抜いておって、このまま進んで行けば必ず
≪お前が死ぬ≫ ということを知っている」とこういって威《おど》しつけたです。「そうですか。しかし私は死ぬことも知りません。また生れて来ることも知りません。ただ誠実なる方法を行うことを知っているだけであります」と答えますと、尊者は少し頭を俯向《うつむ》けて考えておられましたが、たちまち話頭を転じて、摩尼《マニ》すなわちチベット仏教秘密のことに移りました。こういう問答は専門に渉《わた》ったことでありますから、これから後の分を略します。
だんだん仏教の話が嵩《こう》じてトウトウ夕暮れになってしまった。尊者は大いにその疑念を氷解していわれますには、「イヤこの辺の俗物が俗な考えから種々な説を捏造《ねつぞう》したのである。全くあなたは信実に仏教を求める方である」というて、大いに悦び、さしずめ必要なものは金銭と食物であるからというので、チベット銀貨二十タンガーと茶一塊、ソレから麦焦しを入れた大きな袋一つと、チベット銅鍋《あかなべ》一つ、その他いろいろ旅中に必要なる物品を与えられた。その価が五、六十タンガーですから、ちょうど日本の十五円くらいの物を一度にくれたです。「ドウもこんなに沢山もらっては持って行くのに困難だから、モウ少しすくなくしてくれ」といいましたら、「イヤこれからお前さんの通る処はどこへ行っても私の弟子ばかりで、この袋を見せると、私がくれた物であるということを皆知っているから、この荷物は必ず運んでくれるに違いない。心配するにおよばない」という。ソレからそれを戴いてこちらに帰ってまいりました。すでにその時に約束した、明日は摩尼の秘密法力を秘密に授けてやるといいますから、ありがたいことと心得て、その翌日
≪摩尼の秘密法力≫ を授かるつもりで、その夜は休みました。デその夜ツクヅクと考えますに、尊者に対して、チベットのラサ府へ進入の道は山道を取るといっておいたが、この山道には尊者の弟子が多いから危ない。尊者は私を信用してくれたにしろ、弟子共の中にはやはり疑いを懐いている者があるかも知れない。だからコリャ少し廻り路をしても、公道を取るべしと決定いたしました。
デその翌日、朝の中《うち》に前日の約束のごとく摩尼の秘密法力を授かり、昼頃にそこを立ってその荷物を背負って二里ばかり降ってまいりましたが、随分荷物が重い。ソレから実は尊者から教えられた山道の方へはまいらずに、教えられぬ公道へ出るつもりで北へ北へと進んだです。デ二里ばかりまいりますと二つのテントがあって、その内から一人その辺の立派な遊牧民のふうをしている人が出て来て、恭《うやうや》しく私を迎えたです。不思議なことである。この辺に誰も知っている者がないのに、ドウ顔を見てもその人は知らない。知らない人に迎えられるのですから、気持は少し変であったけれども、迎えらるるままにその中に入って行きました。スルとそこにアルチュ・ラーマがおりました。アルチュ・ラーマは昨夜《ゆうべ》ここへ泊りこんで、私が先夜仏教上のいろいろありがたい話をしたことを、そのテントの人達に取り次いでおられたわけです。ソレで私のこの辺へ来るのを知って迎えられ、三帰五戒を授けてくれといいますから、ソレを授けてやりました。
デほどなくそこを立って、荷馬二疋と一人に送られてンガル・ツァン・ギ・チュという河に沿うて東に降ってまいりました。この河はかつて白巌窟尊者の処を辞して、雪峰チーセに進んで行く時分に渡った河の下流であります。その河岸《かし》に沿うて三里ばかり降って、午後六時頃に河岸のテントのある処に泊りこみました。私を送って来た人は、ジキに荷物をおろしてそこから引き返してしまった。そこでその晩いろいろ公道へ出る道を尋ねると、またブラフマ・プットラ河を向うへ渡らんければならぬという。その河を渡るにはやはり荷持ちと案内人が要るわけですから、その人を雇うことを約束して、翌日はちょうど沼の原を四里ばかり東へ進みました。降り昇りとも一里余ある高い坂を踰《こ》えると、いわゆるブラフマ・プットラ河に着き、その人らの案内で向うの岸へ着くと、一の貧しいテントがある。
≪ヤク拾いの番人≫ そのテントは、その辺に迷うて来たヤクを止めておく処で、つまり番をしているのです。そこにお婆さんと娘がおってそこへ泊りこんだ。その翌日は肌着を綴《つづ》りなどして一日を過ごし、ソレから一〇月一六日また沼の原を東に進んで行きました。この沼の原というのは水の溜っている処に泥があって、その中に草が生えている。余ほど深い沼もあれば、また浅いのもあるが、本当の池の形をなしてはおらぬ、ごく湿地の原です。
そこを四里ばかり行くと、また一の河に着いた。その河はナーウ・ツァンポという。これはこの地方から北方の高原に流れて行って、ブラフマ・プットラに流れこんでいる大河である。渡る場所はかねて聞いておりましたから、砂泥で非常に深く、足がはまりこんで渡るに困難でありましたが、幸いに無事に向うに渡ることができました。その河幅は二町くらいですけれども、深さは乳くらいまであって、一寸急流でもありますし、重荷を背負っているので、ほとんど倒れそうになったこともあります。河を渡って少しまいりますと、大分に大きなテントがあった。頼みこんだところが幸いに泊めてくれた。その夜、その辺の道筋について話を聞きますと、これから二里ほど東、北に当って公道がある。その公道の処にトクスン・ターサムという駅場がある。この高原地では、大抵四日か五日路くらいの道を隔てて駅場が一つずつ置いてある。そのトクスン・ターサム(駅場)より四日路手前で、雪峰チーセに近い方向に当って、やはり一のターサムがある。ソレはサム・ツァン・ターサムというのです。これから後は私は公道を取るのですから、そのターサムのある処は自然によく説明ができて行くのです。デその翌日やはり東に進みました。東北に進めばトクスン・ターサムに出られるですけれども、要らない廻り路ですから、東に進んで公道に出る道を取ったです。その翌一〇月一九日もそのとおりの方向を取ってまいりましたが、ココにまた一の大なる困難が私の身に起って来たのであります。
[#改ページ]
第三十九回 ようやく公道に出ず
≪泥中に没す≫ もとより沼原池を行くのですから、浅い水の処を渡ったり泥の中に入ったりして行かねばならん。デ泥濘《でいねい》の処へ行き当ったから、試みに杖を突っこんでみると大分深そうです。コリャこの中に溺《おぼ》れてはたまらんと、なるべく距離の狭い処を択んで渡りかけました。もちろん浅い水で、殊に泥の上には砂が被っているものですから、それほど深い泥とは思われない。杖を突っこんでみると少しは下に入るけれど、まずもって渡るに差し支えなさそう。ソレに幅は二間にもたりない処ですから、これなら大丈夫とその泥の中へ飛びこむと大変です。二タ足目にはゴボゴボと深く入って、ちょうど斜線状に向うへ倒れこんだです。幸いに杖があったものですから、その杖で踏みこたえたわけですが、さて進むことができない。ソレからその杖を楯《たて》に取って、非常に力を入れ自分の身体を上へ上《あ》げ心《ごころ》にしてウント息張ると、幾分か上りましたから、今度はソロソロと荷物をこの泥の中へ引き下し、背の方に手を廻して向うへ一つ投げては、また次の残ったのを投げる。ソウいう工合で荷物はことごとく向うの岸に投げ終ったです。ソレから自分の着ている着物は濡れてはおりますが、それも帯を解《ほど》いて脱いでしまって向うの岸へ投《ほお》りつけ、下着もそのとおりに投りつけて、丸裸体になりましたが、ドウもその寒いことといったらないです。ところが何が役に立つか分らないもので、子供の時分に足芸の軽業《かるわざ》を見たことがありますが、アレを不意と思い出しました。
≪足芸の利用≫ サテこういう時に急いでやるときっと踏み損うから、マアそろそろやるべしと考え、しずかにその杖に力をこめて、自分の身体を上に上げることにかかりました。ところが、注文どおり斜線状になっていた身体が真っ直ぐになったから、ソコで一本の短い杖を自分の遙か向うへ横にして、ソレから後の足をその杖へ載せるほどの見こみをつけ、デ長い杖を右の手で充分突き立て、自分の身を軽く飛び上り気味に、後の足をその杖の上にフーッと載せて、シッカリとその杖を踏みつけて、それと同時に後の足を上げて、前の杖に乗ってある足の深く入らぬ中にヒョイヒョイと飛んで、自分の身体の軽くなっているのを幸い、向うの岸にわけなく飛び上ったです。飛び上った時には寒くて震えていましたが、しかし非常に愉快でした。妙なもので、子供の時に見た軽業がよい処で役に立ったものだと大いに愉快を感じたです。着物が濡れておりますから、まず絞って乾しました。ナカナカ乾くのを待っておられませんから、トウトウ濡れたままを着て、そこから公道の近所に見えているテントの方向に進んで行ったです。幸いそこにも巡礼者がいて、その夜はそこに泊ることができました。それでその翌日は
≪いよいよ公道に出た≫ です。公道といえば非常に立派なようでございますが、別に人が普請《ふしん》をして拵《こしら》えたというような道ではなく、ただ通りやすい処を馬や人が沢山に通ったというだけです。委しくいえば、商人なり政府の役人なり兵隊なり、或いは遊牧民なりが、最も多く通るために草も沢山《たんと》生えておらず石礫《いしがわら》も少ないというだけ、ソレを公道と呼んでおるです。沙漠の中にまいりますと、その公道といわれておったものも風が一遍吹くと足痕《あしあと》も何も消えてしまう。デ、チベットには本当の道はラサ府の近所に少しあるだけのことで、ほかには道らしい道はない。皆天然に人馬の踏破した跡が道になっておるというに過ぎない。公道といえば車でも通るかというような考えもありましょうけれど、チベットでは人力車とか馬車の通るような道は一つもない。
それについておかしい話があります。ネパールの王様が、ヨーロッパふうにできている四頭曳きの立派な馬車をカルカッタから買うてチベットの今の法王に上げたです。ところがチベットでは、こんな物をもらったところで私の方では動かす処がないから、ドウか持って帰ってもらいたいという始末。けれどもせっかく遠い処を持って来たものだから、マア飾り物にでもこっちに置いてもらったがよかろうというので、今なおチベットの法王の宮殿の中に、その
≪馬車が飾り物として≫ 残っておるです。ソレはツイ四年ばかり前の話です。ソウいうわけですから、道路の悪いということはこの辺ばかりでない。チベットで最も開けているラサ、シカチェでさえ道はほとんどないのです。とにもかくにも公道に出たのですから、これからはマア安心なもので、途中に関所もなく、ラサ府に着くまでは坦々《たんたん》たる公道を大手を振って行けるという道へ出たんですから、ナカナカ面白く感じられるです。
デその日、或る沙漠の間を踰《こ》えて向うへ出ますと、一のテントがあった。ソレがその辺での酒店なんです。ドウもこんな処に酒店があるのは奇態だと思いましたが、これはその月の末頃までロー州のモンダンという山村から売りに来ているのだということでした。この辺では塩、羊毛、ヤク、馬等の交易が盛んに行われるのでありますから、ソウいう商人を目当に酒を売っているんです。もっとも麦で拵えた酒でありますが……。何でもいい、ソウいうテントのある処へ日暮れに着いたのですから、そこへ泊めてもらおうと思って行きますと、その家の人は奇態に知っている人であったです。ソレは私が、ロー・ツァーランという処におった時分に知り合いになった、お婆さんが酒を売っているのです。大いに悦んで、あなたはどこへ行かれたかと思って心配しておりましたが、よくマアほかへお出《いで》なさらないでここまでお越しになりました。これからロー・ツァーランの方へお帰りになりますかという話。デ私はサアどうするか分らんといいましたが、その夜はそこへ泊ったです。大いに便宜を得たようなものでありますが、さて大なる便宜はいつでも大なる厄介《やっかい》を持ち来たすものですから、少しは思案をしてみなければならんこともあります。けれども、その婆さんはごく無邪気な人ですから、何事もなくすみました。
≪第二の酋長の住居≫ 翌日、その婆さんの下僕の者に送られて、荷物はやはりヤクにつけてもろうて、五里ばかり東南の方にあるギャル・プンという人の家に着きました。ソレはお婆さんの紹介で、このラーマは尊い方だから、あなたの処に泊めてくれろということであったです。そのギャル・プンというのはこのボンバ州一帯の第二の長者で、ヤクが二千疋に羊が五千疋、そのほか財産が随分あるです。その人のテントの大きさは、三十間四面のものもある。ソレから横に石造りの仏間もある。また普通の大きさのテントが一つ、遊び屋になっているような小さなテントが一つ並んである。デその最大なるテントの中に入りますと、沢山な物品がそのテントの幕尻の押えになっておって、その上に一々チベット製の毛布がかけてある。その下には何があるか分らないが、大抵バターとか麦とか小麦とか、或いは羊毛とかいうような物が、大部分を占めているのであります。そこへ泊りましたが、そのギャル・プンという主人は七十五、六の人であって、そのお婆さんが八十くらいの人で盲目でありました。デその人には子がないのです。ソンなら養子でもあるかというに、ソレもない。こういう場合には、チベットではドウいうふうに相続するかといいますと、ソレは必ずそのギャル・プンの近親、或いはその兄弟の子で最もその人に縁の近い者をもって相続させるので、他人を養子にもらうということは、チベットでは許されんのです。ですから、そのまま打遣《うっちゃ》っておけば、無論自分の身に一番近い者が出て来て相続することになっておるので、別にソウいう法律が発布されているわけでもありませんけれども、習慣が自然の法律になっておりまして、誰もソレに対し異議を唱える者がないのでございます。
第四十回 公道を進む
≪死後の供養≫ その哀れなる老人二人が、私にいろいろ仏法のことを尋ねますから、懇《ねんごろ》に話してやりますと、誠に結構だ、ドウか我々が死後に回向供養《えこうくよう》のためお経を読んで戴きたい。モウ私共は死んで後のことよりほかに何も望みがないと、大層喜んだです。私は随分身体も疲労しておりますし、余り道を急いで、自分の身体を悪くしてしもうてもならんから、向うの頼みを幸い数日間お経を読むことになった。ところがその長者は、もし私がそこに止《とど》まっていることができるならば、半季でも一年でも止まっていて、長く仏教の説明をしてもらいたいという望みであったですが、これに応ずることはむろんできない。長くここに滞在していると、ヒマラヤ山のロー州以来の思いがけない風説が伝わり伝わって、私の身を危うくする憂いがあるのみならず、いくら沢山着物を着ても、ドウもこの地の厳寒中の寒気にたえ得ることはできないだろうという、想像がついたのです。すでにその時すらも、余ほどたえがたくなって来て、長者の着ておった毛皮の着物を二枚も借りて着ておっても、なお夜分は随分寒気が膚《はだえ》に徹《とお》すくらいでありますから、これから厳寒になって来たらば、こんなテントの中に住むことができようかという感じがありました。ソレでドレだけ頼まれても、そこにいることができなかったのですが、その時の長者の望みというたら非常なもので、それに応ぜぬのは実に気の毒なほどでした。
≪血塊を吐く≫ ところがそこに滞在している中《うち》に、私の身体に病気のような非常な変が起って来た。或る時外へ散歩に出ておりますと、何か喉の処に塊が滞《とどこ》おっているようであるから、何心なく吐いてみると、血の塊を吐き出したです。ドドドッと一遍に吐き出した血は、鼻から口から止めどもなく流れ出したです。ハテこりゃ肺病になったのじゃアないか知らん。私は元来肺が強いつもりであったが、ナゼこんな病気を煩《わずら》うのか知らんという考えも起ったですが、出血はドウも止らない。しかし、ソウいう時はジーッと静かにしておられますのが、前に禅宗のお宗家様《しけさま》(師家。禅宗で自ら悟りを得、弟子を正しく指導し得る高僧をいう)から
≪頭を叩かれた功徳≫ であって、実に苦しくなるほど余計静かになって来る。ソコで呼吸の内外に通ずるのを余ほど阻害して行くような心持をもって、ジッと草原の中に坐りこんでいると、大分に血の出ようが少なくなった。ようやくのことで止りましたが、その時に出た血がドレだけであったか、その辺は真っ赤になって血が沢山|溜《たま》っておりました。ドウしてこんなに沢山血を吐いたものか知らんと、自分ながらビックリして顔も青くなって帰って来ますと、ギャル・プンの長者が、あなたの顔が大変青いがドウしたのかという。その次第を告げますと、そりゃあなた何だ、シナの人などがこの辺に出て来ると、ドウもこの辺は息気《いき》(空気の稀薄なことを知らぬゆえ)が悪いもんだから、血を吐くということを聞いている。ソレには良い薬があるからといって薬をくれたです。
ソコで私も経験ある老人に教えられて始めて肺病でない、なるほど空気の稀薄な土地を長く旅行したためにこういう害に遇うたのかと、ようやく安心いたしました。けれどもまた、三日ほど経ってまた血を吐いたです。今度は大分少なかった。デその老人のいうには、モウ二度やればそんなに血を吐く気づかいはあるまいといいましたが、なるほどソウとみえて、その後はもちろんラサ府にいる時も一度も血を吐かなかったです。そのはずです。この辺は海面を抜くこと一万五千尺の高さで、ラサ府は一万二千尺ですから、ラサ府で血を吐くというようなことは始めからないわけです。デ長者から牛乳などを沢山もらいまして、七日間滞在して養生しておりました。
八日目に出立することになりますと、長者は私に向ってあなたに何を上げても用をなさないが、イーという獣の皮を上げましょうという。それは雪の中にいる猫のような形で――猫よりは少し胴が長いけれども――その毛は非常に柔らかで温かなものである。ソレはチベットでも一番高価に売られる毛皮である。それでもって拵《こしら》えて、肩まで被《おお》わるところの帽子を一つくれたです。これは新しければ二十五円くらい、古いのでも棄て売りにして十円以上の物であると、後で他の人から聞いたです。それと少しばかりのバターと金を十タンガーくれまして、馬と下僕をつけて送らしてくれた。四里ばかりまいりまして、アジョ・プーというその辺の一の部落の長の家に着いて、その夜は泊りました。とにかく、ギャル・プンの家に一週間ほど泊ったのは、大変好いことであったです。もし道中でアレほど出血するようなことが起ると、私は出血のために或いは死んだかも知れん。何故なれば、滋養分を得られないで出血ばかりした分には、補《おぎな》いがつきませんから……。
一〇月二九日その家を出立して、また自分一人で荷を背負って、東南の沙漠地を進んで行くこと四里ばかりで、ブラフマ・プットラの河辺に着きました。その時分にはモウ余ほど氷が張ってございまして、日光が氷に映じてギラギラと光を放っておりました。実はこの方向に進んで来るわけじゃアないのです。これは間道であって、一体公道を行くには東へ進んで行かねばならんのです。しかるに東南に向って来たそのわけは、東に進んで行くとタズン・ターサムという処まで、全く遊牧民のおらぬ無人の地であるということを、昨夜泊ったところのアジョ・プーという人から聞いたから、それでこちらへ来れば遊牧民がいるというので、そのとおり来ました。ところが果して、河端に遊牧民がおりました。そのテントについて宿を借りましたが、宿主は余ほど親切な人でギャルポという人です。その人のいうには、我々は明日あなたの行く方向へ進んで行くのですから、一緒に出かけよう。デあなたの荷物は皆ヤクに載せて上げましょうとこういうわけで、その翌日、そのとおりに荷物をヤクに載せてもらって、だんだん河に沿うて東南に降って行った。
その辺はやはり磧《かわら》で沼の原になっている。行くこと一里半ばかりにして白い砂原に着いた。その砂は余ほど深く足が入って、ドウも抜くに困難を感じておりますと、ギャルポという人は見かねて、お気の毒だけれども、あの裸馬にお乗りになったらドウか、鞍があれば誠に都合が好いけれども、鞍がないから、あなたに乗ることができるかドウかといいますから、それは結構だといって
≪裸馬に乗って沙漠を進む≫ その裸馬に乗りました。デしばらく乗って行くと、馬の背骨で尻骨を痛めた。その痛さ加減は何ともいえない。ですから西洋の女が馬に乗るような工合に、足を馬の背骨の上にかけたけれども、ソレでもものの十町も行くと足が痛み出して来る。しかたがないから、またその馬から下りて、その困難な道を歩いて行きました。困難といったところが荷物は背負っておらず、誠に楽なもので、その砂原を二里ばかり行くと、今度は突兀《とっこつ》と突き立った巌壁と巌壁との間を流れているブラフマ・プットラ河に着いた。河幅は狭まっているが非常な急流です。私共は、凄い水の落ちる横合いの岩の間を通り抜けて向うに出ますと、拳《こぶし》を伏せたような工合の山が三つあって、その間々に三|条《すじ》の溪《たに》があって、ブラフマ・プットラ河は東南の山の間の溪へ流れこんでいる。私共はその流れこんでいる方向へ行かずに、東北の谷の間へ出て行った。ですから、そこでブラフマ・プットラ河と離れてだんだん東北に進んで、大きな山を踰《こ》えて向うに着きますと、誠に広い原が見えている。その山際に一のテントがあって、そこへ私は泊ることになった。この日は七里ばかり歩いたので、私と一緒に来たギャルポという人達は、ほかの方に行くといってその日別れてしまった。
その夜これからタズン・ターサムという処まで行くには、河があるかないかと聞きますと、一つあるという。デその河は危ないから、案内者がなくてはいけんというので、その翌日案内者を雇うて、広い原を東南に進んで行くこと三里ばかりにして、幅一町余の河が一つある。マダ十時頃ですからよく氷が融けない。デ案内者のいうには、今渡った分には
≪氷で足を切られる≫ かも知れない。ここで茶を沸し昼飯をすましている中には、この氷が融けるから、ソウしましょうというので、茶など飲んで十二時頃に河端の氷を叩き割って中へ飛びこんだ。融けた氷が自分の腰や足に打ちつけますから、ドウしたところが少々の傷は受けるんです。向うへ渡り終るとモウ寒気が骨髄に徹して皮膚の感覚を失っておるです。ソレから三里ばかり進んで、その夜は小さなテントに泊り、翌一一月一日九時過ぎ出立、行くこと二里ばかりにして、十二時過ぎに小さな氷河を渡り、なお行くこと二里余にして、チベットの北原においては最も名高いタズン(七つの毛というその意味は、七仏の毛をその寺内に埋めてある故なりという)という寺に着いた。
ソレは小山の上に建てられてある寺で、その寺の端には政府の租税を取り立てる処もある。いわゆる北原地のターサム(駅場)の一つでありますから、一寸市街のようなもので商人も大分集まっておるです。何しろ随分大きな寺で、中には珍しい物も沢山ある。
第四十一回 途中の苦心
≪途《みち》に無頼漢に遇う≫ その翌日は、そこに逗留して堂内にある宝物や像などを拝観した。この地はちょうど、私が前に一年ばかり住んでおったヒマラヤ山のロー州のツァーランという処から、二十五里真北に隔たっている処である。デここへはツァーラン地方の人もその近所の人も沢山商いに来ておるです。けれどもソウいうことは私はよく知らなかった。宝物を拝観して後に寺のグルリを散歩しながら、自分のいる家に帰って来ようと思いますと、道で不意と一人の知っている人に出遇った。
その人は非常の飲酒家《さけのみ》で、ヒマラヤ山中の土民の中でも余ほど悪い博徒といったような男で、常に私に対して蔭言《かげごと》をいい、あれは英国の官吏である、探偵であるというようなことをいい触らしていた男です。けれども、私はソウいう男には普通の交際《つきあい》をして、その男の家の者が病気になった時分には、やはり薬なんかやったものですから、余り酷《ひど》い悪口もいわんけれども、こちらのやり方一つでは直ぐ喧嘩をしかけて酒の種にしようという悪い男です。ソウいう男に遇ったから、私は一策を案じたです。もしこのまま打遣《うっちゃ》っておけば、必ず政府に告げ口をして、私の大目的の妨《さまた》げをなすに相違ないと思いましたから、ことさら言葉を和らげてその男に向い、久々に逢ったんだから酒を一つあなたに上げたい。私は酒は飲まんけれども、ここは駅場でよい酒があるという話じゃから、一番よい酒をあなたに上げて、久濶《きゅうかつ》の情を叙したいと思う。ドウです、私のいる処に来ないかといいましたところが、酒と聞いては少しの猶予もできぬ人間ですから、早速やって来ました。ソレから宿主にいいつけて一番よい酒を沢山に買うて、私もその相手をして、もとより酒は一滴も飲まんのですが、なるべく飲んだようなソウして酔うたようなふうをして、その夜は四時頃までも飲ましてやったです。デ彼は非常に飲んだものですから、酔いつぶれて大変によく寝てしまった。
私もそこへ一寸寝たような振りをしていた。スルと宿主が五時半頃起きましたから、私も起きて宿主に向い、ここに寝ている人は、私の大事な人だ。お前にこれだけの金を上げておくから、今日も充分お前の腕前で酒を飲ましてくれろ。その代りに、お前にもこれだけの礼を上げておくからといって若干の金を渡し、なお宿主に決してこの人を外へ出してくれてはならん。もし眼が覚めて私がどこへ行ったと問うたらば、ツァーランの方に行ったといってくれろといいつけて、ソレから荷物を整え、六時頃そこを出立しました。ツァーランの方に行くというのはいわゆる策略で、実は東南の方向のラサを指して公道を通って進んだです。行く行く考えますのは、彼はヒマラヤ山中の人間の中でも敏捷《すばしこ》い奴だから、もし眼を覚して私がどこへ行ったということを尋ねて、ツァーランに行ったという時分に、ナアにあいつはラサに行ったんだ、俺を欺いて酒を飲ましたとこう悟って、タズンの収税官吏に告げはすまいか、もしソウであると直ぐその官吏に馬でもって追っかけられるから、私がドレだけ急いで逃げてみたところが駄目だ。ドウカこの際今持っているだけの金を皆使っても、この荷物を持って行く人なり、或いは馬なりを借りたいものだと、こう思ってはみましたが、もとより曠原地で馬も何にも得られようはずがないから、しかたがない。ただその公道をズンズン東南に進んでまいりますと、後の方から人馬の煙を立てて大勢やって来る者がある。何か知らんと思ってみますと、様子がドウも
≪一大商隊≫ らしくみえる。近寄るにしたがってなおよく見ますと、馬が八、九十疋に人が十六人おるです。デ私はその中の或る人を呼び止めて、ドウもこの荷物を持ち歩くことが非常の困難である、お金を出すから、ドウかこれを馬に積んで持って行ってもらうことはできないか。スルと私は馬の後から走って行くからと、こういって頼みますと、その男はその中の下僕とみえ、私にはドウするというわけにはいかないと断るです。ソレからその後に出て来る、その中の重立った者と思えるような人に対して、またそのことを願いましたところが、ドウも今承諾するわけにはいかない。とにかく私共は今日向うの山の間に泊るのだから、あすこへ来てはドウだ。少しは辛かろうが急いであそこまで来るならば、またドウにか我々の中で話のつかんこともあるまいというような話でした。
これは結構、よい幸いであるから、ドウかあの山の間まで、ドンなに苦しくっても今日は着きたいものであるという考えで、非常に勇気を鼓して進んでまいり、午後八時頃に、大きな白いテントの二つ張ってある山の端へ着いたです。スルとその中の一番大将であるらしいラーマが一人いる。その横にまたその次らしいラーマが一人いる。ドウも
≪僧侶の商隊≫ とみえる。早速そこに拵《こしら》えてある茶をくれて、ソレからそこに煮てあるところの肉を喰わないといったところが、ドウしてお前は肉を喰わないのかと尋ねますから、私はその理由を逐一述べました。スルとそのラーマは余ほど感心したような顔で、「お前はどこの者か」「私はシナの僧侶である」といいますと、そのラーマは少しシナ語を知っているとみえて、またシナ語で話しかけますから、私はそれを避けるため、あなたのシナ語は北京《ペキン》語だからと申して、例のごとくお断りをなし、やはりチベット語で話しました。ところが先生、シナ文字を出して読んでくれといいますから、それを読んでその文字の意味を説明したところが、始めて私をシナ人だと信じたようでしたが、いまだ多少疑っているようにもみえたです。
さてこれらの人はドウいう人かというに、チベットの西、北の隅で、カシミュールの東境のラタークという処に接しているルトウという国がある。その国のフン・ツブ・チョエ・テンという寺のラーマなんです。一番主なるラーマをロブサン・ゲンズンといい、その次の人をロブサン・ヤンベルという。デその人々の商売を引き受けてやるツォンボンという者がある。ツォンボンとは、商将という意味です。そのツォンボンが、実は私をここへ来いといって導いてくれたので、その他は皆坊さんおよび俗人の下僕であったです。この一隊はカシミュール地方の産物の乾桃、乾葡萄および絹物、或いは毛織物類をラサ府に持って行き、ソウしてラサ府から茶、仏像、仏画の類を買って来るための旅行なのでしたから、私にとっては大変好い便宜を得たわけで、ドウかしてこの人達にうまく話しこみ――この荷物をラサまで一緒に持って行ってもろうては、かえって都合が悪いから――せめてこのチャンタンの間、すなわち一大牧場の間なる曠原を通り抜けるまで、一緒に行くことができれば好都合であるという希望を起した。
ところでその主のラーマのいいますには、あなたはドウいう仏法を学んだか、ドウいうことを知っているかといい、だんだんチベットふうの仏法で質問を起して来たですが、ありがたいことには先にも述べたごとく、私はロー・ツァーランで博士ギャルツァンという方につき、チベット仏教を充分に研究し、また文典については、殊に自分も注意を加えて研究しましたから、かのラーマの問いに対してわけなく答えができたのみならず、いまだこの人達の知らないことまでをチベット仏教について沢山説明してやったです。ところが彼は大いに驚き、チベット文典について非常に質問を起した。その人は大分チベット文典を調べているようですけれど、広く調べておらん。殊に科学的に分類をして調べるというようなことは、向うの人にはとてもできないのですから、もちろん分るわけはない。デ私がだんだん文典上の解釈を施しますと、彼はドウかこれから一緒に行ってもらいたい。我々は、毎日午後二時頃までは馬でもって進行するけれども、二時頃になると必ず泊るから全く暇なんだ。あなたのような方に、文典の講釈をしてもらうのは実に結構である。いずれ相当のお礼もするし、またこの旅行中の食物はすべて私が上げますから、ソウしてはくれまいかという。くれまいかどころの騒ぎではない。こっちからソウ願いたいというて私は早速承諾しました。
第四十二回 同伴者の難問
≪商隊の野営≫ 翌朝四時頃に眼を覚ますと、もはやテントの人はヤクの乾いた糞を燃して肉と茶を拵えておるです。しばらくすると皆の人も起きまして、その内の七、八名は、昨夜放しておいたラバや馬を捜しにまいりました。これは夜通しその辺の草を喰わせるために放ったので、或いは山の彼方《あなた》に行っているのもあれば、山また山を踰えてその向うに行っていることもある。ソレを捜しにまいるのです。デ帰るまでには少なくとも一時間、ことによると三時間もかかることがある。もちろんその人達が捜しに行けば、その馬は逃げて来ないなぞということは少しもない。人の顔を見るとモウ時が来た。帰って行けば旨い豆がご馳走になれるという楽しみがあるものですから、わけもなく帰って来るのです。デそれらの馬群があちらこちらに散ばっているのを、皆の者を集めてまいりまして杭《くい》へ括《くく》りつけ、ソウしてかねて湯でもって潰《つぶ》した豆の中に、麦焦しの粉を入れて捏ねた大きな塊を一つずつその馬にやり、馬が喰っている中に荷物を負わせるので、デ馬の世話役は五、六疋に一人ずつときめてあるようです。この人々は荷物をつけ終る前に、代る代る食事をすますのですが、その食事は、羊、ヤク、山羊の肉が大部分を占めている。都会の地へ来れば豚も稀には喰うようです。
このように荷物を負わせ食事がすむと、ソレから宵《よい》に張ったテントを片づけて、ソレも馬に背負わせ、自分の乗る馬は自分で鞍をつけて、その馬に乗って、自分の受持ちの五、六疋ずつの馬を追って行くのです。私の同伴《つれ》は十六人ですが、その内十五人は皆馬に乗り、一人だけはラサ府へ修学に行く坊さんで、ソレは馬にも何にも乗っておらん。つまり同じ地方の者であるから、一緒に連れ立って来たというようなわけです。デ私とその人とは歩いて行く都合ですから、少しでも早く出たらよかろうというので、その人と共に彼らの荷物を片づける前から茶を飲んで、そのテントのある辺を出て、だんだん東南の方へ進んでまいりました。
≪人には添うてみよ≫ 馬には乗ってみよという喩《たとえ》もありますが、その人はナカナカの学者自慢で、自分は非常な学者のように思っている。実際大分の学者ではありましたが、仏教の要領は少しも知らない。またその細かな区別の存在していることも認めない。ただ広くボンヤリと知っているようにみられたです。ともかく旅行中に良い友達を得たのですから、私も心に嬉しく互いにいろいろのことを話しながらまいりましたが、私の喜ぶにかかわらず、その人は少し私に対して不快の念を持ち、シカもその不快はその後だんだん深くなって来たようでした。その不快の原因は何かというと、昨夜私がチベット文典の大綱を説明した一事にあるです。その人は学者自慢でありながら、チベットの文法を知らない。ソコでその人のいいますには、文法のようなものを知ったところが、本当の仏教の意味を知らなくては何にもならない。つまり、馬鹿の物知りというようなものであるという。その素振りといい、いいようといい、ドウも私に対して少し嫉妬《しっと》心を持っているようにみえたから、よいほどに扱《あしら》っておきました。
その日は大きな山を一つ踰え、前後八里ばかり歩いて或る沼原地に泊って、やはりその夜も文法の講義をしました。その翌五日もやはりその坊さんと一緒に砂原を行きました。この坊さんはラサ府に着いてからも大層難儀して、全く喰物がなくなって困った時分に、私はアベコベに大分の物がありましたから、その人に対し救えるだけのことをして、幾分の助けをしたのであります。ソレは後のことですが、さて道中いろいろ面白い仏教の話が出て来ました末、彼は私の素性を探ろうということにかかったです。デどうも英国の人ではあるまいか、英国人でないにしろ、ヨーロッパ人種に違いない。何故ならば色が白いからというようなところから、だんだん疑いを深くして来た。だがその人の尋ねるくらいのことは、私にはすでに解っているものですから、好い塩梅《あんばい》にその疑いの解けるように説明しておきました。その砂原を行くこと二里にして、またブラフマ・プットラ河の岸に着きました。モウその時分には氷が解けて、静かに下の方へ流れつつ、そうして
≪氷塊の打ち合う音≫ その氷塊と氷塊が打ち合って、非常に凄《すさま》まじい響の聞えた時は、実に爽快に感じた。またその氷に日光が反射する塩梅がいかにも美しくみられたです。その河の岸を東に降って行くこと三里ばかりにして、その河を離れ、ソウしてブラフマ河の流れこんでいる河端に沿うて東北へ三里余り登り、ソレから馬に乗ってまたその河を渡りました。その河岸の少し北に当ってニューク・ターサムという駅場がある。しかしそのターサムへは着かずに、それを左にして東に行くこと一里ばかりにして、或る山の腹に泊りました。
ちょうどその日は九里ばかりまいりましたが、一体この商隊はハルヂェという、駅のあるツイ近所に着くまでは、駅場とか或いは村のあるような処には少しも泊りませんでしたが、ソレは何故かというに、馬に草を喰わせますには駅場のある近所に泊っては、草の良いのを得られません。ソコで駅場よりは少し離れて、どこか良い草の沢山ある処を見つけて、その辺に泊りこみますので、ソウいうわけですから、この西北原地では駅場などへは泊らなかったのであります。
ちょうどこの夜私は感じました。もはやタズンという処から二十六里ばかりもこちらへ来ているから、あの無頼漢に追いつかれて捕えられる気づかいはないが、あの時は随分危なかった。あの男が急に眼でも覚し、ソレと気がついて告発したならば、その告発のために大きな金が得られるのであるから、きっと自分を追ったに違いないが、いい塩梅に酒のために前後を忘れて、一両日は夢中で過ごしたものとみえると、こう想像していささか安心いたしました。例のごとく文典の講義と仏教上の話が終りますと、私を非常に疑っている僧侶、自分が学者として任じている僧侶はどこまでも私を
≪猜忌《さいぎ》の眼≫ で睨《にら》んでいるので、突然私に向い、あなたはインドに行って来たというが、インドにはサラット・チャンドラ・ダース、かつてチベット探検を試みたという人がある。その人に会って来たろうなとこういって尋ねたです。ソレは私のチベット語の師匠ですから、知っているどころの話ではないけれども、ソウいう人はどこにいるのか、インドは三億も人のいる処であるから、なかなかチベットのような工合にどこにドウいう人がいるというて、ドンな名高い人でも尋ねることはできない。それはドンな人かといって、何事も知らないふりで尋ねると、例のサラット・チャンドラ・ダース師が、今より二十二、三年前にチベットの官吏を欺き、旅行券を取ってマンマとチベットに入りこんで、ソウしてチベットの仏法を盗んでインドへ帰って行った。その後そのことが知れて、チベットで第一の学者であり道徳家であるところのセンチェン・ドルヂェチャン(大獅子金剛宝)という方も死刑に遇うし、また沢山な僧侶、俗人らも殺された。ソレから財産を没収された人も沢山あったというような事情を委しく話し、さてサラット・チャンドラ・ダース師は、インドでもナカナカ名高い人だから、あなたが知らんということはない。大方あなたは知りながらトボケているんであろうという、そのいいようが憎らしいいいぐさでありましたが、私はそれに対し、ソリャ名高いイギリスの女王でも私はマダお顔を拝したことがない。ドウも広い処は困ったものだといって、笑いに紛《まぎ》らしてしまったです。
このサラット・チャンドラ・ダース師の話は、チベットのどこへ行っても話がでますので、子供でもその話はよく知っておるです。しかしチベット人中にサラット・チャンドラ・ダースという名を知っている人は誠に少ない。エ・スクール・バブー(学校の長という意味)といっている。そのことについてはいろいろつけ加えた奇談がございます。それはつまり、外国人を導いてチベットに入れたチベット人は殺されるものである。またそれを知って政府に告げざる者は、財産を没収されるものであるということを、子々孫々によく知るように、お伽話《とぎばなし》のようにして親達が子供に話をするものですから、どこへ行ってもそれを知っている。デ、サラット・チャンドラ・ダース師のことが発覚以来
≪チベット国民はほとんど巡査か探偵≫ のように猜疑心を起し、外国人に対しては非常の注意を持って穿鑿するという有様である。そのことは私もよく承知しているから、一言一句といえども――たとえ笑いながら発するごく無邪気の言葉でも――充分注意を加えておりました。だがナカナカ質問のしかたが上手で、笑いに紛らすと、その僧侶はいろいろの点から質問を始めて来る。スルと元来猜疑心に富んでいるチベット人のこととして、皆その猜疑心に駆られてからして、私はほとんど沢山の敵の中に、独り孤城を守っているような姿になって来たです。
第四十三回 物凄《ものすご》き道
≪奇智話頭を転ず≫ 私も危うく感じましたから、たちまち話頭を転じて、あなたがたは一体シャカムニ如来がありがたいか、この国の旧教派の開祖のロボン・リンボ・チェがありがたいかといって、ポンとほかの話を突き出した。これについてチベットに「シャカムニ仏より尊いペッドマ・チュンネ」という語《ことば》があるが、ソレはシャカムニ仏より旧教派の開祖のペッドマ・チュンネがありがたいという意味なんです。デ日頃その国で非常にやかましい議論があるものですから、私の問いが口火になってだんだん議論に議論の花が咲き、トウトウ私の方に向けた質問の矢が一転することになりましたが、私はドウもこりゃ危ない、せっかくここまで来て、見|顕《あら》わされるようなことがあってはならない。余ほど用心しなければならんという考えを持ちました。
モンゴリヤ人がチベットの人を評した語に、セムナク・ポエパというのがあります。その意味は、心の黒い者はチベット人なりということなんですが、実に内情に立ち入っていろいろのことを探り廻るというのはチベット人の癖で、その上腹が立っておってもニヤリニヤリ笑っていて、後で酷《ひど》く仕返しをするというのが、またその性情の一であるです。そんな人ばかりでもありませんけれど、多くはマアそういう傾きがある。
今の諺《ことわざ》のポエパというのは、チベット人という意味でありますが、ついでに、何故チベット人をポエパというかという説明をいたしておきましょう。ポエというのはチベットの国の名で、チベット人はその国を呼んでポエといっております。チベットという名はチベット人自身は|チベット《ヽヽヽヽ》も知らんのです。ソコでポエという意味は、チベット語の「呼ぶ」という意味。その名の意味は、ドウいうところから出て来たかというに、この国が始めてできた時分に、
≪この国の祖≫ となったのは何者かというと、テーウ・トンマル(赤面の猿という意味)という男と、タク・シンモ(巌《いわ》の鬼女)という女であります。テーウ・トンマルは観世音菩薩の化身で、タク・シンモは瑜珈女《ゆかにょ》の化身であるという。その瑜珈女がテーウ・トンマルに請うて夫婦となり、ソレから六道、すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上から一人ずつ呼んで来て、六人の子を拵えたというところから、「呼ぶ」すなわちポエという名をつけたという。これは恐らく、後世或るラーマが仏教に附会して拵えた神話であろうと思われるですが、ソウいう説もある。ところでインド人は、チベットといわないでボーダというておる。ボーダには道というような意味もあり、もう一つほかの意味もあるです。どっちの語源から起って来たか只今不明でありますが、インド学者の説によると、ポエはボーダという音の詰ったのであるとこういうている。なおインド人はこのチベット国を称して餓鬼の国ともいっておるです。ソレはさきにお話したとおり、パンデン・アーデシャがプレタ・プリー(餓鬼の街)という名をつけたのでも分っておるです。このチベット国の名については、マダ二様の名があって、いろいろ研究すれば面白いこともありますが、これは専門的になりますからよしておきます。デ、ポエパの「パ」の字は人という意味で、そこでポエパといえばチベット人という意味になっているのです……。
翌一一月六日、道を東南に取り、波動状の山脈を幾度か降り昇りして八里の道を経て、ようやく大なる雪山の麓《ふもと》に宿り、その翌七日、東に向い雪山の端を降り昇りすること二里余にして、チャク・サム・ツァンボ(鉄橋川)という河に着きました。思うに昔、ここに鉄の橋が架《かか》ってあったろうと思うといったところで、立派な鉄橋ではない。ただ一筋の
≪鉄繩の架橋≫ がこっちの山の岩から向う岸の山の岩へ括《くく》りつけてあって、それへブランコになって人が向うへ渡って行くというに過ぎなかったのでしょう。聞くところによれば、ラサの近くにはその鉄繩が二つ引いてあって、ソウしてその間を通って、好い工合に向うへ渡れるようになっていたそうです。ソレもこの頃はないのですけれど、昔はソレを用いたことがあったので、今このチャク・サム河の鉄橋は、その内のいずれか分りませんけれど、とにかくその一つであったので、ソレに因縁して名をつけたらしく考えられるです。その河は非常な急流で氷が沢山に流れておりますけれども、私はラバに乗って誠に気楽に向うへ渡り、ソレから山間《やまあい》の原を進んでまいりましたが、この辺の山には樹もない。ソレかといって草が深く生えているということもない。マア水のあるような処には草が生え、そのほかは全く石の禿山《はげやま》といってよいくらい、しかし、その平原地になっている処には水も溜っており、幾分か草も生えている。その景色は実に淋しい厭《いや》な有様で、少しも旅行の苦を慰めるというようなことはない。ソウいう山の間を一里半ばかり行くとまた小河があって、ソレからまた同じような山の間を一里半ばかり東南に進んで、サッカ・ゾンという城の西の沼の端へ宿りました。サッカ城は山の上に建てられている城で、その建て方は寺と別に変っておらないけれど、幾分か様子の変っているのは、戦いの目的に備えられていたものであるからでしょう。しかし別に政府から兵を置いてあるわけではない。
≪土着の兵隊≫ 何か事があった時分には、そこに住んでいる二百名余りの人間が皆兵隊になるのです。その時の話でございましたが、一昨年も北原からして或る部落の者が攻めて来て、大合戦のあげく人死にが二、三十名もあり、ヤクを二千疋ばかり取られてしまったそうで、ソレが今チベット政府の裁判沙汰になっているという。すなわちこれは、そのいわゆる遊牧民の襲撃を防ぐために備えてある城とみえる。そこには税品を取り立てる処もあるです。この日はちょうど六里ばかり歩きましたか、その夜も同じく文典の講義をなし(以下同様)、翌日、同じような山の原を東南に進んで行くこと三里ばかりにして、左側にチョ・モハーリという大きな雪山がありました。その雪山の麓を向うへ通り抜けて、東南に二里ほど行って泊りましたが、その日は別に話すこともない。その翌九日、また同じような枯れた淋しい山中を東南に進んで行くこと六里半にして、或る山を踰えて谷間に着きました。
≪禿山の怪獣≫ ところが向うの方に非常に大きな動物が見えた。ヤクの形に似ているが確かにヤクでないことは解っている。早速何かといって尋ねますと、あれはチベット語にドンヤクとて山ヤクという非常に恐ろしいもので、大きさは通常のヤクの二倍半、或いは三倍、背の高さはおよそ七尺、しかし象ほどはない。ジロリとこちらを眺めているその眼は実に恐ろしい。その角の根元の廻りが二尺五、六寸で、長さが五尺ばかり、太さは二尺五、六寸もあります。これはその後ラサ府で山ヤクの角を見たとき分ったので、その時に測量して知ったわけではない。そのヤクの説明を聞くと、やはり草を喰っているんですけれども、何か腹の立った時分には飛んで来て、その角で人なり或いは他の獣類なりを突き殺すのみならず、その舌は小剣を並べたごとく、一度|舐《ねぶ》られるとドンなものでもズタズタに切れてしまうという。私はその後その舌の乾かしたのを見ましたが、その舌の乾いたので馬の毛をこするブラシにしていたです。デこれは山ヤクの子供の舌であるというておりましたが、ソレでもなかなか大きいものである。ソコで私の一行の中の或る正直な男が非常に怖がって、私に向い、ドウか今夜無事に過ごされるだろうか、一つ占筮《うらない》をしてくれろという。ハテ山ヤクが出て来るので恐れているのか知らんと思うと、ソウではない。「ツイ昨年のことであったがこの山の少し下で……」といって、一、二丁ある処を指してその男のいいますには、あそこで強盗のために商売人が六人殺された。今夜も我々は寝ずにおらねばならんかと思うほど何だか怖いから、一つ占ってくれんかというわけなんです。マア心を休める方便ですから、ソンなことは決してないと説明しておきましたが、随分その辺の様子を見ると、山ヤクがノロノロとやって来るくらいですから、物凄い厭な処でありました。
しかしその夜は無事で、その翌日また東南に向って山原地を進むこと六里にして、或る沼原地に宿った。宿る時分にはなるべく沼のある原を択ぶです。ナゼならば沼の原は草が余計ありますから……。その翌一一日も同様山原を六里進み、一二日はクル・ラーという、降り昇り三里ばかりの急坂を踰えて東に行くこと七里ばかりにして、また或る沼原地に宿りました。この間のことです。私と同行しているかの坊さんは、他の正直にして篤く仏教に帰依している人達が、私に対して同情を表することが非常に盛んになって、ツマり私の味方が沢山できて来たものですから、さすが高慢なる坊さんもその味方の悪口を恐れて、私と殊に親密にしようという傾向を現して来たです。もちろんドウいう動機であっても、その人の親切を無にするというのはよろしくないことでもあり、かつその人と反目することは甚だ不得策でありますから、向うの親切よりも私はなお一層親切にしたです。ソレから大いに円満になって、マアこれなればあばかれるような不幸もあるまいかと安心ができたです。
第四十四回 始めて麦畑を見る
≪都なまりの住民≫ その翌一三日、大変大きな坂を二か所ばかり踰《こ》えて、巌石《がんせき》の突兀《とっこつ》として聳《そび》えている山の麓《ふもと》に宿り、その翌日はその突兀たる巌石の間を流れている溪川《たにがわ》に沿うて、東南に行くこと三里、また五里ばかりの緩《ゆる》い坂を踰えて河端に宿り、一一月一五日、その河に沿うて行くこと二里にして平原に出て、ソウしてその曠原を東に横切って三里ばかり行くと、ギャート・ターサムという駅場に着きました。その駅場は前の駅場よりも石造りの家が大変に多い。デ人も大分沢山おりましたが、総《すべ》てで四百名くらいだということです。家屋は六十戸ばかり、風俗もこれまで通って来たチャンタンという、いわゆる遊牧民ばかり住んでいる処とは大分に違い、幾分か都風《みやこふう》に化せられている様子がみえておるです。遊牧民は非常に粗野で、人と物をいうにも剥《む》き出しで、実に荒々しいふうですが、モウこの地方の住民は遊牧民とはスッカリ違って、言葉の使い方も幾分か都風になっている。なお地方の訛言《なまり》は免れておりませんけれど……。
そこで買物などをして二里ばかり東南の山中に進んで、その河岸に宿りましたが、もはや陽暦でも一一月中旬頃でございますから、ナカナカ寒いですけれども、誠に仕合せなことには、その沢山な人達が着くとすぐにヤクの糞を沢山に拾って来て、夜通しテントの中で火を燃しているのみならず、私が文典を講義してやりますので、主人およびその次序《つぎ》のラーマが大いに私を厚遇して、敷物や夜着などを貸してくれたですから、少しも寒さを感じない。その翌日大きな急坂を踰ゆること二回(この里程六里たらず)にして平原に出で、一里半ばかり行きますと
≪巌上の寺院≫ その平原の中央に、大きな岩の柱が二本抱き合わしたように鋭く空中に聳えていて、その上に一つの寺が建っておるです。その岩の高さはおよそ三丁ばかりあるという。その上に寺が建てられてあるのですから、浅草の凌雲閣《りょううんかく》(浅草にあって、通称十二階と呼ばれた建築物。大正一二年の関東大震災で倒壊した)どころの騒ぎではない。実に高いです。その寺の名をセースム・コンパといって古派の寺であります。その下を過ぎて東の沼原地に宿り、その翌日、山の間を東南に行くこと八里ばかりにして、サン・サン・ターサムに着きましたが、その駅場には泊らずに、その東の原に宿った。なかなか火を燃しておっても、この辺は殊に夜分などは寒気が厳しい。翌朝起きてみますと雪も何も降らんですけれど、全く雪の降ったごとくに、その枯草に霜が一面に積っておりました。ソコでつまらない句が一つ出ました。
かれくさや霜の花さく高の原
例のごとく東南の山原を一里半ばかり進んで、或る山の麓の三軒家に着きました。ところがその三軒家の軒を見ますと大変です。沢山な羊を殺して皮を剥《む》いたその身体が、幾十となくかかっております。デそこでまたヤクを殺しておるです。元来チベットでは秋の末になりますと、すべて家畜類を殺して肉を貯えておきますので、その肉は乾肉にするのです。チベットは寒国でございますから、その肉を干しておいたところで別だん腐るということもない。その乾肉の旨いことはチベット人のいうところによると、これほど旨い物はないという。或る人などは夏になって乾肉がなくなったというて、大いに心配しておったのをその後私は度々見ました。ソウですから
≪余ほど旨い物≫ とみえるです。ソウいう旨い肉を拵えるために秋の末に沢山殺すので、秋は家畜を殺すに大変好い時期であるそうです。何故ならば、夏の間スッカリ家畜類が良い草を沢山喰って、その肉が充分肥ったその時に殺して乾肉にするのですから、非常に旨いという話なんです。しかし、自分の部落とか或いはテントの辺で殺してはよくないというので、ワザワザこの三軒家まで連れて来て、この近辺の住民が殺すのだそうです。一人一軒の分を殺すのでなく、一村のを集めてそこで殺しているのです。ちょうどその日に殺した数を尋ねますと、今日は羊と山羊が二百五、六十疋、それからヤクが三十五疋、その内二十疋だけ殺して、マダ後に十五疋ばかり残っておったです。ソレを今殺すという。デ、「ヤクが鳴くところを見ると、余ほど珍しいから見ちゃアどうか」との話でした。ドウしてそんなものを見るに忍びましょう。しかし、その様子を知りたくもあったので、ジッと見ておりますと、ヤクは悄々《しおしお》とただひかれて行く。その後の方から、二人で押して来るです。デようやくその殺される場所まで出て来ますと、直ぐ四足を縛《しば》られてしまったです。ヤクは今自分の友達が殺されて、多量の血の流れているその臭い中へひき出されて、もはや自分も殺されるということを知っているものとみえまして、
≪その眼の中に涙≫ を浮べている。実に見るに忍びない。自分が金が沢山あればドウか皆これを助けてやりたいと思うほど可哀そうでしたが、別にしようもございません。ところがそこへ坊さんがお経を手に持って出て来て、何か口の内で唱えながら、お経と数珠《じゅず》をヤクの頭に載せて引導を渡すです。こうすれば、ヤクが死んでからも生れる処に生れられるから、マア殺して罪はあってもヤクの怨《うら》みを受ける気づかいはないという考えなんだそうです。そりゃマア殺すのは実に残酷ですけれど、お経でも唱えてやったならば、幾分かありがたい利目があるであろうと思われる。けれどもその唱言《となえごと》をしているさまを見るのが余計に悲しくって、私はモウ涙が流れその首を切り落すのを見るに忍びませんから、家の中に逃げこみました。ソウして可哀そうに思って涙ばかり溢《こぼ》しておりましたが、しばらくするとヤクの首を切ったとみえて、ズドンと落ちた音が一つしました。ソレはやはりチベットの鋭い刀で、一度にその首を切り放してしまいますので、スルと血が沢山に流れ出しますが、その血をなるべく外に溢さないように、桶《おけ》のようなものに取っておるです。デその血はよく煮固めて羊羹《ようかん》のような物を拵《こしら》える。ソレがまた大層旨いそうです。もちろん殺さなくっても時々には首筋に傷をつけて、その傷口から血を絞り取ってその血を煮て、ソウして
≪血の羊羹≫ を拵えて彼らは喰うのでございますが、殊に殺した時のは旨いそうです。こんなに沢山殺すというのは、実に酷いことだと思いましたが、その後ラサ府に着いてそこに住んでみますと、このくらいのことは実に小さなことで、ラサ府で一〇月、一一月、一二月のこの三か月に殺される羊、山羊、ヤクの類は、実に五万以上に超ゆるのでありますから、このくらいのことは何でもないことなんです。
ソレからそこを立って、悲哀の感に打たれながら大変急な坂を三里半ばかり登り、また三里降って川端に宿り、その翌一九日、古派の寺でターサン・ゴンパという大きな寺のあるその山の麓を通り抜けて、溪川の傍に泊りました(この日の行路八里)。その翌日また山の中を行くこと二里ばかりにして、マヌユイ・ツォという池の西岸にあるラールンという村に着きましたが、この池は周囲五里ばかりで余ほど深いようにみえました。このラールン村に着くまでは少しも田畑がなかったが、これからして小麦の作られる畑があって、あちこちに村舎も大分見えます。
第四十五回 第三の都会を過ぐ
≪習慣を墨守す≫ その時分はモウ冬季ですから、麦などはドウいうふうにできているのか見ることができなかったが、聞くところによると、この辺の麦作は一斗の種で四斗くらいの収穫を普通とし、もし六斗も取れれば非常の豊作だといって喜ぶそうです。またラサ府の近所では、一斗の種で良い歳には八斗或いは一石くらい取れることもあるが、マア六斗くらいでもよいとしているそうです。これでみても、耕作法のいかに進んでおらぬかが分る。
デその畑を見ると一層驚かざるを得ない。その畑の中にはゴロゴロと石の多いこと、まるで石を植えた石畑のようなものです。これは決して悪口でない。どこへ行ってもそのとおり。だから私は或る時チベット人に忠告して、この石を取り除けてはドウかといいますと、そんなことは昔から習慣がないからやらんという話。チベット人は、昔からの習慣ということを先天的命令のように心得ておって、この習慣がすべての事情を支配しておるです。もっとも、都会の人は幾分か改進的の気象を持っておりますから、西洋品なども輸入するのでございますけれども、一般の人民は非常に昔の習慣を尊んでおりますので、現に自分の田地を害しているところの沢山な石を取り去ることすらも、習慣がないからといってやらんのです。実に面白いやり方ですが、なおそれよりも奇妙なことを、私はその辺の村夫子《そんぷうし》に聞きました。その時はそんな馬鹿げたことがあるものか、好い加減なことをいうているんだくらいに思っていたですが、その後ラサ府でそのことを聞いてみますと、誰もかれもやはり同じことをいっていた。ソレは実に
≪奇妙な量田法≫ であって、そのやり方はまずこういうわけです。一体田畑があれば、ソレに政府から地租を課さねばならん。その地租を課するにも、ドレだけの大きさの田地ということが分らぬ。ところで一寸前にも説明しましたように、チベット人には数学的観念というものは実に乏しい。否、ほとんどないくらいであるから、田地を正当の方法で量るということは到底できない。ソコでヤク二疋に鋤《すき》を引っ張らして、その田地を鋤《す》かしてみるです。デ半日かかると、これがヤク二疋で鋤いて半日かかった田地の大きさというので、ソレだけの租税がきまり、一日かかると一日の田地ということで、政府はソレを標準として税品を取り立てるのです。随分奇態なやり方です。その他いろいろ、そのチベットの風俗或いは僧侶の品行等の話を聞いて、ソレから五里ばかり池の端を通って向うへ出ますと、溪《たに》の流れの合している処があって、そこへその夜は泊ったです。
一一月二一日、ごく狭い山の間の谷間に沿うて行くこと二里ばかりにして、今度はまた大きな池に着いた。その池もやはり周囲五里ばかりのごく清潔な池で、その名をナム・ツォ・ゴガという。その池の北岸を東南に進んで、センゲー・ルン(獅子溪)という溪の間を通って行きました。が、その溪の両側の岩が妙な形をしているので、チベット人はその岩の形を獅子に擬《なぞら》え、ソレで
≪獅子溪≫ とつけたと思われるです。その溪の間を三里ばかり進むと、またセンゲー・ルンという村に着いた。その村に宿らないでナクセーという村まで行って泊りましたが、その日は十里以上歩いたです。ナゼこの日に限ってこのように不規則に歩いたかと申しますと、これから旅行のやり方を変えなければならん必要があったからです。今まではチャンタン(牧場)の草の多い処を通って来たから、馬に草を喰わせるために早く泊りこんで、ソウして充分馬を養わなくちゃアならなかったが、家のある方へまいりますと、田畑が多くって牧場が少ない。それ故、秣草《まぐさ》を買わなくちゃアならない。或る宿屋に着いて、その宿屋から秣草、すなわち小麦|藁《わら》、麦藁、豆の木などを買うて馬にやらなければならない。ところがこれがなかなかチベットでは高価《たか》いのです。今一疋の馬に一晩充分喰わせるとすると、安い処でも十五銭、高い処では確かに三十銭くらいかかる。その上に、なお豆をやり、或いはまたバターを融かして脂にして、馬の口に注ぎこむこともあるです。ですからチベットで行商をやるということは、なかなか困難なことでもあり、費用も沢山かかるそうです。
一一月二二日、また大分に高い山坂を踰えて、山原地を進むこと五里ばかりにして、またブラフマ・プットラ河の北岸に着きました。その辺のブラフマ・プットラ河は、私が先に渡ったようなものではない。幅は二町ばかりですけれど、その深さは青みがかってドノくらい深いか分らない。到底馬でも渡ることはできない。殊に夏になればその河幅が非常に広くなって、一層深くなるそうです。デその河には渡し船がありますが、その渡し船は
≪インド風の四角な船≫ なんです。底は平面の長方形で、舳《とも》の真中に蛇の頭がヌルッと首を出しているところの彫刻物が喰いついている。デそれは、馬も二十疋、人も三、四十人くらい乗れるくらいの大きさのもので、向うの岸に渡りますと、その岸がハルヂェというチベットでは第三の都会の地です。そこまで着けば、まずチベットの内部へは全く入り終ったようなもので、ここからチベット第二の府たるシカチェという処までは、わずかに五日間の旅程しかないのです。デ河を渡ると、南に当ってシナ人の立ててある旅館がある。旅館というたところが宿屋になっているというわけではなく、シナ人がそこへ出て来た時、泊りこむだけになっているまでのことで、別だん宿屋の主人というものもない。全く
≪無主の旅館≫ です。ソレはシナ人がチベットで商《あきな》いをする便宜のため、かつは兵士らが行軍する時分の便宜のために建てられたのである。随分大きなものです。私共の一行もそこへ着いて泊りました。ところが一行の人達は大悦びで、西北原のあの恐ろしい間で幸いに賊難にも遇わず、また猛獣の侵撃にも遇わずにここまで来た、まずめでたい祝うべしというので、大いに酒を飲み、また女を聘《よ》んでその夜は騒いでおりました。ソウいう有様は日本あたりとちっとも変らないようである。その翌日も私は逗留しましたが、もはやその人達と別れる時に臨んでいるものですから、今まで親切にしてくれた恩を謝するために、一日
≪漢文の法華経≫ を読みました。その日は、私共の同行者は実に獣欲的快楽をきわめておりましたが、その有様はいかにもいうに忍びないからよします。その翌二四日に、私は二、三の人といよいよ出立して、サッキャア派の大本山に行く道を取り、またかの一行の商隊は公道を取って、プンツオリンを経てシカチェ府に行くことになりました。別れに臨んで、今まで私が文典の講義をしたお礼として主僧から十タンガー、その他の人々も感心な巡礼のラーマであるといって、若干の金をくれて敬意を表せられたです。
デその主なるラーマと、その次のラーマと下僕《しもべ》一人だけは、私と共にサッキャアの大本山に行くことになりましたので、そこまではあなたの荷物を持って行って上げよう、また共に馬にも乗って行くがよいというので、安楽にサッキャアなる大寺へ指して参詣することになりました。その日は南に向って麦畑の間を行くこと二里、その辺は余ほど土地が肥えている。もっとも、チベット人は耕作法を知らないことは前に申したとおりですから、充分収穫を取ることはできないにきまっているが、何しろ土地は非常に肥えている。
≪麦類の本場≫ とにかくチベットでは、このハルヂェという処が麦、小麦、豆、バターというようなものが一番安い処です。ソレはこの辺で沢山できるからでございましょう。その畑を過ぎて二里ばかりの急坂を踰え、東、南に向って畑の中を行くこと四里半ばかりにして、レンターという小村に宿り、その翌日は河に沿うて七里半行くと、サッキャアの大寺が見えました。なかなか立派なもので、こちらから見ますと、二丁四面余の高塀の中に大なる建築物があり、だんだん近づいてみると皆石造で、その本堂の高さが十間ばかり、東西の長さが三十四間、南北が四十間、石は皆白く塗られ塀は弓形方《ゆみなりがた》に立ち上って、その上にヒワダを重ねたような工合に黒塗りの一城が築かれてある。そのズッと上の屋根になっている処に、最勝幢幡《さいしょうどうはん》と露台が金色の光を放って周囲に突っ立っておるです。その内容のいかんにかかわらず、外部から見た時分には、いかにも森厳《しんげん》にして人をして敬粛の念を生ぜしむるように建てられてあるのです。
[#改ページ]
第四十六回 サッキャア大寺
≪寺の結構≫ デ私はその寺の近所に着いて宿を求め、その宿屋からの案内で、本堂その他諸堂へ参詣いたしました。まず高さが二丈ばかり、厚さが六尺ばかりある石塀の門を通り抜けて門内に入り、いろいろの堂の間を通って本堂の間《ま》に着きました。その本堂を外から見ると、四方形で中は全く塞《ふさ》がっているように見えるのですが、中には空間があって、中庭から光線を導くようになっておるです。
ソレで堂の間口十三間、奥行六間ばかりある玄関を入ってまいりますと、その両脇に二丈五尺余の青と赤との金剛力士が立っている。その力士の様子は日本の仁王と違って、右の足を少し折り曲げ、心に左の足を斜線に突き立て、右の手を空に振り上げ、左の手を伸ばして力をこめている有様である。よほど美術的にできているとみえて、その筋肉の働きなどは大分よく現れています。詳しく見たら、もちろん不充分なものであろうということは、我々素人にもよく分っておりますが、とにかくチベット美術としては、よほど立派なものに違いないです。
ソレからその次の右側に、高さ三丈ばかりある四天王の大きな像が四つ並び、また左側を見ると諸天諸菩薩の大きな画が壁に描かれてある。それは石壁の上に土を塗り、なおその上にチベットの天然の石灰のようなものを塗った処へ、種々の方法を尽して立派に描き上げたものですが、高さ三間半に横四間くらいの大図なるにかかわらず、一も壁の割れたなどという処がなくて、誠に綺麗にできている。建物も随分古いけれども、よく保存されておるです。そこを通り抜けると、中央に東西五間に南北六間くらいの庭がある。それもやはり一体に板石が敷きつめてありますが、そこは下等の僧侶が集まってお経を読み、また茶を飲み麦焦しを喰う処です。良い坊さんは本堂の内で喰うのですけれども、下等の坊さんは皆その中庭にいるのです。その広庭を過ぎて正門、すなわち西の方にある本堂中のいわゆる本堂に入る。この一体は皆本堂ですけれども、ここに本尊様を祀《まつ》ってありますから、仮に本堂中の本堂というておきます。その本堂に入るに二つの入口があって、南の方の入口はこの寺の坊さんらの入る道、また北の方は我々参拝人の入る道なんです。すなわち私共は、その北の口からズッと入ってみますと、実に金碧燦爛《きんぺきさんらん》として、何ともいえない感に打たれたです。
≪本堂内の光景≫ どこから形容してよいか、どこからいい出してよいか分らんほど錯雑しているが、ナカナカ立派です。惜しいかなその仏像の陳列のしかたが拙《まず》いので、参詣人をしてそれほどに敬粛の念を起させない。つまり、ゾンザイな仏像画像および経本等の博覧会に行ったような感じが起ったです。けれどもその天井を見ると、五色の金襴《きんらん》あるいは綾錦《あやにしき》の類をもって蔽われている。ソレから下には諸仏、諸菩薩および妙王、金剛、|薩※[#「土+垂」、unicode57f5]《さった》の類の像などが三百余りもあって、皆金色の光を放っている。その金も非常に精選したものらしく、柱もまた金襴で巻き立てて、その中央には三丈五尺のシャカムニ仏の金色の像が安置してある。ソレは泥で拵《こしら》えたものだそうですけれど、立派な金で塗ってあります。ソレからその仏の前に並べてある七つの水皿、燈明台、供物台等は、多くは純金で、ごく悪い処にあるのでも銀で拵えてある。その仏像、仏具および装飾の錦繍《きんしゅう》等が、互いに反映して輝く有様は、皓々赫々《こうこうかくかく》として目眩《まぶし》く、その立派なることは実に肝を潰《つぶ》すばかりでありました。けれども、私は余り感服しなかった。装飾度に過ぎて秩序なきがために、かえって不愉快に感じました。
≪経殿の模様≫ その仏像を祀ってある後の堂に入りますと、今度はなかなか立派なものがある。ソレは前のごとく赫々と光を放っているものではなく、実に立派な経殿である。その経殿の高さは十間余、広さは四十間で、その堂はすべて経文が満たされているのである。その経典は紺紙金泥《こんしきんでい》および梵語で記された多羅葉《たらよう》の類で、古代この寺を開いたサッキャア・パンジットという方がインドからして沢山経典を取り寄せられ、またその後もインドの方へワザワザ僧を派遣して、沢山取り寄せた経典があるのですから、この中には非常に我々の参考に供すべき経文が、沢山あるであろうと想像しました。版本になっているチベット語の経典はないが、ただ写本だけの経文がここによほど納まっているということでございました。その処を出て本堂のかなたこなたを見廻っておりますと、始めはソンなに思いませんでしたが、非常に嫌な臭いがしている。
≪異臭鼻を撲《う》つ≫ これはチベットのどこの寺に行ってもこういう臭いがするので、とても日本人が始めて入った時分には、鼻持のならぬ臭いであろうと思われたです。チベットでは燈明は皆バターで上げる。ソレから僧侶がここに来て茶を飲む時分に、バターや茶を溢《こぼ》すです。ところが庭は板石といったところで漆喰《しっくい》みたようなものですから、ジメジメ湿っておりますから、そのバターの腐敗した臭いが堂内に満ちている。これはチベット人には良い香《にお》いとして嗅《かが》れているのですけれども、私共には非常に厭《いや》な臭いである。
本堂を出ますとその西側にまた堂があって、いろいろの仏像が飾ってある。その中でも殊に目立った物は古派の開祖ペッドマ・チュンネの像でありました。それは台も像も一体に宝石ででき上っている。グルリの壁もまた庭にも宝石が敷いてある。もっとも、それは敷きつめてあるのでなくって、模様に宝石を置いてあるだけですが、実に人目を驚かすばかりの立派な有様である。本堂の外に出ると僧舎が沢山あって、僧侶が五百名ほど住んでいるそうです。デ南の方の大なる層楼に住んでいる当寺の大教師は、チャンバ・パーサン・チンレーという人で、この五百人の僧侶を導くところの大教師であるです。
第四十七回 チベット第二の府に到る
≪サッキャア寺の主僧≫ ソコで我々一行は大教師に逢いにまいりましたが、なかなか立派な室で、大教師は二畳台の上に乗っておりました。見るからにいかにもありがたそうな風采《ふうさい》です。私はそのラーマに、いわゆるサッキャア派が他の宗派と異っている点を尋ねようと思い、いろいろ話をしかけますと、今日は忙しいから明日来いという。デその翌日出かけて行くことにきめて、その日はそこを拝し、ソレから二階を降りて石の高塀の外に出ますと、遙か南の枯れた柳の林の中に御殿のようなものが大分に沢山に見えている。一行の者は、あすこがすなわち当大寺の主僧《あるじ》であるサッキャア・コマ・リンボ・チェという方のおられる処であるから、逢いに行かねばならんという。
それで私もそこへ出かけて行きました。コマ・リンボ・チェとは上宝という意味で、シナの皇帝もやはりチベット人はコマ・リンボ・チェといっております。東ではシナのコマ・リンボ・チェ、西ではサッキャア・コマ・リンボ・チェ、この二人が日月のごとく尊いお方であると、こういうような工合に民間に伝えられておる。ソウいう尊い人ですから、その人に逢えば誰も彼もが皆礼拝して、いろいろありがたい授かり物をして来るのでありますが、しかし、その人はその実俗人なんです。ソレはサッキャア・パンジット〔一八世紀中葉のチベットの文法学者。その権威ある文法書は「シートウの三十頌と性入法」という〕からの血統《ちすじ》で今日まで続いて来ておりますので、もちろん俗人のことですから肉食、妻帯、飲酒《おんじゅ》等もしておるのですけれども、チベットは妙な処で、純粋の僧侶がやはりその方《かた》の処に行くと礼拝するのです。しかし、シャカムニ如来の教えとは全く違っているのですから、私はそこに行った時分に敬《うやま》いはしましたけれど三|礼《らい》はしなかった。何故かというに、俗人に対して僧侶が三礼するという規則がないから、そのことはやらなかった。けれどもお逢い申してみると、威厳あって随分尊くみえる貴族でした。
≪礼拝を行わず≫ その方に逢っての帰り途に、私と同行のラーマ達が、何故あなたはあのコマ・リンボ・チェに対して礼拝しなかったかといって責めますから、私は別に軽蔑《けいべつ》したわけではない。ただシャカムニ如来の教法を守って礼拝しなかったのである。あの方は俗人で、私は僧侶であるから礼拝したくもできなかったのであると答えますと、ドウもシナの坊さんは非常に意地の堅いもんだといって驚いておって、その翌日かねて約束の時間にサッキャアの大寺に逢いにまいりますと、その尊い教師の側に可愛いらしい十二、三の小僧がおるです。それが教師にふざけている。いかにもその様子のなれなれしいこと、実に教師の子ではあるまいかと思いましたが、しかし、その方は純粋の僧侶であるから妻君がないにきまっている。しかし、その様子がドウも一通りの関係でない。実に訝《おか》しいことであると思いましたが、後にラサ府に着いてからその疑問がスッカリ晴れたです。
実はこの大寺に二週間ばかりも泊って、せめてこのサッキャア派の仏教の綱領だけでも知りたいという考えでした。けれども、ソウいう腐敗した坊主について学ぶのは厭ですから、その翌日出立して、また以前《もと》のごとく一人で荷を背負って、東、南の方へ指して溪流に沿うて一里ばかり登り、ソレから東に二里ばかりの急坂を踰《こ》えて、今度はズッと山の間を東、南に進み、河に沿うて四里余りまいって二軒家に泊りこんだです。荷物を背負っておりながら、とにかく七里ばかりの道を歩くことができたのは、よほど身体が丈夫になっておったからであると思いました。
その翌日、また一里の急坂を登り降ること二里、降雪のために荷物が濡れていやが上に重くなりましたから、その辺の或る家に泊りこみ、その翌一一月三〇日、四、五十疋のロバを率いている七、八人の運送業者に遇ったのを幸いに、賃銀を払い、荷物を託し、タール河に沿うて北に降って行くこと二里、その河がまた方向を変えて東南に降っているから、その河の岸に沿うて降ること六里にして、或る村の端れに宿ったです。デこのロバの運送屋はやはり村の中へは泊らない。畑の中へ指して行きまして、そこへロバの荷物をスッカリおろして、それを三方に積み立てて囲いを造り、その中へ人が入って例のごとく石を三つ集め鍋をかけて、その辺から拾い集めたヤクの糞をもって火を燃すという趣向です。今まで私の一緒に来た商隊よりは、よほど劣っているのです。
一二月一日、河に沿うて降りかつ登ること四里、ソコで河を離れ、東の山中に登ること四里にして、非常に険しい赤い岩の下に着いた。いわゆる赤壁岩で、これをチベットではランラと称している。そこにまた露宿して、その翌日、石壁の間の二里の急坂を踰えて山の原を行くこと二里、カンチャンという大きな寺がある。その寺の野原に宿りましたが、その辺は皆畑なんです。ところが、運送業者はその畑の中をどこでも横行して行くです。こんなことをしたらば、その畑の主が喧《やかま》しく小言をいいはすまいかといって尋ねますと、ナアに決して小言などいいはしない。
≪休み田地≫ だからという。休み田地というのはドウいう意味かといって尋ねますと、一年麦を作ると一年休ませて何にも作らないのだそうです。これはラサ府の方ではないことですけれど、この辺では二年に一期の収穫なんです。またたといそうでなくても、冬の間は田畑の中をどこを道にして歩いて行ったところで、誰も何ともいう者はないのですから、畑の中はどこでも道といってよろしいのです。
その野中に露宿して、その夜は運送屋のために説教をなし、その翌日東に進んで行くこと三里ばかり、チベット政府が新たに建築している立派な寺が山の際《きわ》に見えたです。ナゼ政府が自身に寺を建築するのかというて尋ねますと、その寺の建っている下に泉があるそうです。或る神下《かみおろし》(我が国の修験道《やまぶし》のごとき者)が、これは龍の口であるから、この泉が破裂するとチベット国中が海になってしまう。だから寺を建てて塞《ふさ》いでおかなければならんといったそうです。のみならず、ちょうどそのことをいった時分にシナから
≪妙な預言書≫ が来た。ソレは或る僧侶が何かためにするところがあって、そんな物を作ったんであろうと思われる。私はその預言書を読んでみましたが、つまりこの頃は不道徳の行いが盛んになって来たために、この世界はスッカリ水に溺《おぼ》れて滅亡してしまうとか、あるいはその前に大|饑饉《ききん》が起るとか、大戦争が起るというようなことが沢山書いてあるです。その預言書もです、天から降って来たというので、もしこれを嘘だなどというと、即座にその人は血を吐いて死んでしまうなどということも記《しる》されてある。ところが私は、ちょうどそれを読んだ時分に嘘だといったけれども、幸いに血は吐かなかった。
何しろ悪い考えで拵えたのではなかろうけれども、余りに妄説が沢山記してありますから、少し見識あるものが見れば、嘘なことは分るです。けれどもチベット人の多くはソレを信仰し、しかしてその預言書をチベット語に翻訳して、チベット国中にはどこにも散らばっておるです。デその本を読んでいるその時分に、ちょうど神下《かみおろし》がそんな馬鹿なことをいい触らしたものですから、堂々たる政府がこういう神下のことを聞き、莫大の金を費やして寺を建ててやるという、その馬鹿さ加減には驚かざるを得なかったです。けれども神下の言を聞くのは、ただこれだけではない。国民皆、自分の判断のつかん大抵のことは、いつでも神下の言葉を聞くのですから、日本の天輪王の尊などが、あちらに行けば随分|流行《はや》るだろうと思うくらいに迷信が盛んです。その新築をしている寺の下を過ぎて少し行くと
≪禄《ろく》つきの禿鷲《はげわし》≫ 山の端にチャ・ゴッポ(禿鷲)という鳥が五、六疋いるのを見た。ソレからそのわけを尋ねますと、この辺では死んだ人の死骸を持って来て上げる信者が少ないから、ソレでこの禿鷲が大方餓えているので、タシ・ルフンプー寺の台所から、この八羽の禿鷲に禄がついているんだという。その禄は肉だそうです。鳥に禄があるというのは奇態ですけれど、この鳥は葬式の時に人の死体を持ってまいりますと、それを喰うのです。その有様はドウいうふうにして喰うか、ドウいうふうにして喰わせるか、また葬式のしかたはドンなであるかということは、私がラサ府に着いてから見たことについて、お話しいたそうと思います。
≪持斎堂《じさいどう》≫ さて、その辺を過ぎてナルタンという寺の近所のニュン・ネー・ハーカン(持斎堂)に着いて私は泊ったが、その他の一行は私に荷物を渡して、シカチェ府の方へ行っちまいました。私は少しここで調べ物をする必要がありますから、その翌日も泊るつもりで、その人らと別れて特にここに宿ったのでございますが、持斎堂というのはこの辺の僧侶や俗人が八斎戒を保つその上に、一日間全く肉を喰わぬとか、あるいは人と少しも物をいわぬという行をするために、ここに立てられている堂であります。チベット僧侶は、すべて肉を喰うなということはないけれども、その戒を保つと同時に、ことさらソレを守るのであります。
その翌日ナルタンという寺へまいって、その寺の一番宝物であるところの版木を拝見しました。その版木はチベット一切蔵経の版木で、一切蔵経はチベットで仏部、祖師部に分れている。なお、チベットのラーマ達が拵《こしら》えた語録様の版木も沢山あります。その版木の入れてある堂もよほど大きなもので、三十間の間口に奥行が十間ばかり、その中に版木が一ぱいつまっているほかにも、マダそれくらいの堂と小さな堂が少しあるです。
≪大蔵経の版元≫ デこの寺で大蔵経の版が刷り出されますので、その寺に住んでいる三百人の僧侶はすなわち版刷職工である。私はその寺の大教師に会いましたが、その方はタシ・ルフンプー寺から特派されている大教師であって、ナカナカ問答のやり方が巧みです。デ私は終日仏教の話をして、大いに益を得たのみならず、大層快く取り扱うてくれたです。
その翌一二月五日、東南に向って平原を行くこと五里、スルと巌山の下に金光|燦爛《さんらん》たる御殿風の屋根が見え、その横には白堊《はくあ》の僧舎が沢山立ってある。ソレからその間に朱塗りの殿堂のようなものも混っておって、実に壮大美麗な姿を現している。これが
≪チベット第二の府≫ シカチェにあるところの大寺でタシ・ルフンプーという。タシは栄光、ルフンプーは塊り、その意味は、すなわち須弥山《しゅみせん》の形をしているので、開山のゲンズン・ツブという人がこう名をつけられたんです。その寺には三千三百人の僧侶がいる。もっとも、チベットで一番大きな寺というのじゃない。第二流の寺ではありますけれども、その資格は法王の寺と同等に位しているのです。その寺の向うにシカチェという市街《まち》が見えている。その市街は三千四、五百戸もあろうかと思えるですが、住民は僧侶と共に三万余りだそうです。これは決して当てにはならない。チベット人は統計を作ることを知らないのですから、おおよそのことをいっているのです。私はその大きな寺の中に入ってまいりまして、西北原から出て来たというて、西北原の信者やラーマの泊るべきピーツク・カムツァンという僧舎を尋ねました。ソレはしばらくこの大寺に逗留して、博士、学者、徳者に逢い、仏教上の教えを受けようという考えで泊りこんだのです。この寺の今の主人は
≪チベット第二の法王≫ というてもよい。政治上の権力は少しもありませんけれども、シナ皇帝から与えられている位階の上からいうと法王より上にあるんです。もっとも法王がお隠れになって、再び生れ返って来て法王の位につき政権を執るまでは、時としてはこの第二の法王が政権を執られることもあるんです。だが尋常政治には関係しない。この寺の大ラーマの通俗の名はパンチェン・リンボ・チェで、今のパンチェン・リンボ・チェの名はキャプ・コン・チェン・ボ・チョエ・キ・ニマ(大主護法日)という。私の着いた時がちょうど十八歳で、生れは未《ひつじ》の歳、阿弥陀如来の化身だといわれている。私はこのお方に会おうと思いましたが、離宮の方へ行っておられたので会うことができませんでした。ところで多くのラーマなり学者なり、あるいは博士なりを毎日尋ねて行って、いろいろ仏教上のことを質問するのを私の仕事にしておりました。
第四十八回 大ラーマ、文典学者
≪大ラーマの侍従教師≫ 或る日、この大ラーマの侍従教師であるツァン・チェンパという老僧の処にまいりました。その方は七十四歳の高齢で、ナカナカ親切に仏教のことを説明してくれた。ソレから文法と修辞学においては、この大寺の内で第一等の学者であるということを聞きました。私も文法についてはひとかたならぬ研究の力を費やしたものですから、その点についていろいろ質問しますと、ソウいうむつかしいことは私は知らんからして、これからラサ府に行く道にエン・ゴンという処がある。そこに医者をしている人で大変な学者がある。その方について聞いたならば大抵は分るであろうという。私は自分の分らないことを聞いたのではない。ドウいう説明をするかと思って参考のために聞いたのです。けれどもソウいう次第であったから、そのままお別れいたしました。
もっともチベットへは、昔のインドの五明《ごみょう》とて五つの科学が入っている。それは声明《しょうみょう》とて言語音声に関した一切の科学、医方明とて医学、因明《いんみょう》とて論理学、工巧明《こうこうみょう》とて工学、内明《ないみょう》とて宗教的科学および哲学でありますけれど、ソレをよく取り調べて、明らかに通じている人はごく少ない。ソレはほとんどないというてもよいくらいですから、文法などを心がけるような人は、ごく少ないです。マア政府部内の人で、是非文章を書くに必要だから少し学んでおこうくらいのもので、ソレもごく初歩の文典を学んでいるに止まっている。だから仏教の哲理を説明し、およびそのことを修学するのは甚だしきにかかわらず、歴史とかあるいは科学のことについて質問されると、何にも知らないというような堂々たる博士があるのでございます。数日逗留したが、もはや余り泊る必要もないから出立しようと思うているその日に、大ラーマが離宮から帰って来られるということですから、ドンなお方か、ドウいう行列で帰って来るかと拝観にまいりました。
≪大ラーマの行列≫ スルと道というような道はむろんないのですけれど、広く人の足|痕《あと》のある処が道になっているその両脇に、ツブツブと円い郵便函のような物が立っている。ソレが何かといいますと香を焚く台である。その大ラーマの出て来る前からして、僧俗の者が香を焚いて待ち受けている。ソウいう人達は行列をジーッと見ているというより、礼拝して地上に打《う》っ伏してしまうのが多いです。私はジーッと見ておりますと、馬がおよそ三百騎ばかりで、その大ラーマは金襴あるいは異様の絹布類で装《よそ》われてある宝輦《ほうれん》に乗って来ました。ソレが実に立派なものである。デ始めにはチベット流の音楽、ちょうど日本の簫篳篥《しょうひちりき》および太鼓のようなもので行列を整えてまいります。もちろん、この行列には鉄砲、槍、刀の類を持って来るような者は少しもない。ただ仏具を持っている者を大分に沢山見受けたです。よほど盛大なもので、随分一日泊ってみただけの価値は充分にございました。
その夜、私の泊っている舎《こや》で僧侶らの請《こい》に従って、十善法戒《じゅうぜんほうかい》の説法をいたしました。すると彼らがいいますには、仏法をこんなに分りやすく説いてくれる方はごく少ない。論理的で趣味のないむつかしいことばかり聞いていると、坐睡《いねむり》の出るようなことばかりいわれるから、私共は仏法の坊主でありながら厭であった。けれども今日うけたまわって、仏法のありがたいことを知りましたといって、悦んでおりました。ソレでチベットの中等以下の僧侶が、いかに仏教を知らぬかが分るでしょう。しかし、この寺の僧侶の行いはナカナカ厳格だそうです。後に聞いてみますと……。だが酒を飲むのが一つの癖で、実によく酒を飲みます。
≪酒と煙草≫ それについてナカナカ面白い話は、ラサ府の法王とこの寺の大ラーマとが一緒になられたことがある。その節の話にラサ府の法王がいわれますには、私の方の寺の坊主共は煙草を沢山飲んで困るということであったそうです。ところが大ラーマは、私の方の寺の僧侶は酒を沢山飲んで困る。酒と煙草とどっちが罪が深かろうという話がだんだん出たそうですが、すでにその悪いことが公然の秘密になって、法王達もよくご存じであるけれども、いかんともしかたがない。ところで酒を飲むことを防ぐために、僧侶が市街《まち》に行って帰って来る時分には、門の処に立っている警護の僧に対し、口を開いて香《にお》いを嗅《か》がするのです。デ酒の香いがしていると引っ捕《つか》まえる。ところがなかなか僧侶もずるい。充分酒を飲んで、足はヒョロヒョロ、眼はウトウトしておりましても、口には少しも酒の香いをさせないようにする。それは蒜《にんにく》を沢山喰って、蒜の香いのために酒の香いは消してしまうのです。マアそんな悪いことも、ありがたいラーマの話も聞き、玉石混淆の道場を後にして、一二月一五日朝十時にそこを出立し、シカチェの町を横切って行くことほぼ一里にして、サンバ・シャル(東の橋)という大きな橋に着きました。
≪サンバ・シャル≫ 長さは三町ほどで幅が四間ばかりある。この長さ三町の橋は、日本のごとくに橋抗《はしくい》を打って向うまで架けてあるというものじゃアない。河の中に四、五間ずつ隔てて大きな土手を築いている。その土手は皆石が積み上げられている。それへソレに相応じた長い木の柱を横たえて、ソレからその上に板石を敷き、土を被せてある。欄干《らんかん》もやはり木で拵《こしら》えてある。ソウいう工合にして三町幅の河を向うへ渡れるようになっておるですが、この河の名はツァンチュといいます。その河を渡って北に行くこと一里半ばかりにして、またブラフマ河の岸に着いて、その河に沿うて東に降りて行くこと五里ばかりにして、ペーという村の貧しい農家に宿りました。スルとその農家の内で私が見て変った感じを起しましたのは、五徳の横に積み立ててある薪は、ヤクの糞でなくって芝草の根なんです。芝草の根を土と共に切り取って、それをよく乾して燃すようにしてある。これはその辺で多く用いている薪だそうです。
≪木板の手習い≫ その火の燃えている端に、十一、二の子供が手習いをしておるです。ソレは黒い板木に白い粉を振り蒔《ま》いて、竹でもってその上へ書いておるです。スッカリ書き終りますとその親に見せて、悪い処を直してもらって、一応それを拭《ふ》き取り、また白い粉を振りかけて書くというようなわけで、手習いをしているのです。私は大いに感じまして、ドウしてこんな貧しい家で子供に手習いをさせるかと思って尋ねますと、この辺は皆農家であって、地主に小作料を納めます時分に、字を知らないというと地主にゴマカされる。だから字を習い、数を算《かぞ》えることをよく習うのでございますという。数を算えることは先にも説明したように、石や棒、あるいは数珠《じゅず》で算えるほかにやり方はないのです。貧民で字を習うことは、この地方の農家に行われておりますだけで、ラサ府の方に行きますと、貧民は決して字とかあるいは不完全なる算え方さえも知らないです。ソウいう点はよほどこの辺の方が勝《まさ》っている。その夜はその人達に説教して、その翌日また大河に沿うて降って行くこと二里ばかり、大変嶮しい巌山に沿うて、河を左にして細道を東に降って行くこと一里半ばかりにして、一寸広い所に着きました。デその右側を眺めますと山の上に大きな寺が二つ見えている。
≪エン・ゴン寺≫ それがかねて、タシ・ルフンプー寺の老僧に教えられておった文法学者のいるエン・ゴンという寺である。ソコで公道を取らずにそのエン・ゴンという寺へワザワザ上ってまいりました。坂を登って行くこと一里ばかりにして、寺に着きました。峰の上の方にある寺は男僧の寺で、少しく下にある寺が女僧の寺です。デその寺には男僧が二百三十名、女僧が七十二名いる。なかなか由緒のある寺で、委しいことはここで申す必要はありませんから略しますが、そこにある坊さんの舎《こや》について宿りました。早速その学者に遇いたいといいますと、明日でなければいけないというので、その翌一日逗留して博士に逢いましたところが、その方は仏教のことについて少し説明をされたが、文法あるいは修辞学についてはよく知らないから、医者のアムド・カーサンという方に尋ねるがよかろうという。そのアムド・カーサンという人は、さきに私が老僧から教えられておった文法および修辞学上の大学者であるという。
≪チベット文法の問答≫ ソコでその人の処へまいり、相当の礼物を差し上げて、ソレから来意を告げますと、あなたは文法あるいは修辞学をやったことがあるかという。ソウです、三年ばかりやりましたと答えました。ソレは、私はチベット語を学ぶ始めからチベット語の文典については、非常に注意しておったものですから、ソウ答えました。ところでその学者のいわれますのには、しかし、三年やったって、やり方によっては少しも分らんからなといって二、三質問されました。ソレはごくやさしい質問で、私は直ぐに答えました。ソレから、何か一番むつかしい修辞学上のことを尋ねてくれないかといいますと、その学者は私は修辞学を知らないという。ソレではあなたは、チベット文典については、どういう学派の主義を取って説明されるかといって尋ねますと、チベット文典では不完全なングルチュという人の文典を用いているという。コリャ私に向って嘘《うそ》をいっているのではないか知らんと思いましたから、チベット文法を精確に説明したるシートウ・ラーマの主義を取らないかというて尋ねますと、彼はシートウの名は聞いたが、いまだその書物を見たことはないという。
そこでチベット文法学者中に非常に議論の盛んなる、チベット文字の母音について尋ねました。まず始めにチベットにはドレだけ母音があるかといって尋ねました。これは何でもない問題のようですけれど、実にチベット文法の真意を解釈するには、この問題から決しなければならんのです。ところがその方は少し当惑して、母音が十六字あるといって、サンスクリット語の母音をソロソロいい出したです。奇態なことをいう人だと思いましたから、チベットでは母音は五字だという説があるが、その説には賛成しないかといって尋ねますと、アアそうであったっけ、これはホンに梵語《ぼんご》の母音である。チベットの母音は確かに五字であるといって、大いに恥じて断りをいいました。ところが、そのチベットの母音が五字であるということも非常に間違った説で、西洋人などはチベットの母音は五字であるという説を伝えて、そのまま翻訳して得々としているのでございますけれど、
≪チベットの母音は四字≫ 真実チベット文字を創造したツーミ・サンボーダ〔七世紀の中頃、チベット王ソンツェン・ガムポがツーミ村のサンボーダを始めとする十六名の学生をインドに派遣した。彼はバラモン僧リピカについて、インド文典を研究し、梵字のランツァ体によって始めてチベット文字を作った〕という方の原書には、チベット文字は、四字のほか母音を置かないとしてある。それが全く真実である。それを間違って五字でなければいかんという説もあるので、それがためにチベットの文典学者の中でも議論がいろいろに分れている。ソウいう初歩のやさしいことすらよく知らない坊さんが、文典修辞については大学者であるといわれておるのは、ドウも分らない話だ。ことによると嘘をついたのではないか知らんと思って、いろいろ他の文典上のやさしい話を尋ねましたが、一向何も知らない。ごく知りやすい誠に平凡なことだけ知っているに過ぎない。
こういう方がこのチベット内で文法の大学者であるの修辞学の大博士といわれているのは、実に鳥なき里の蝙蝠《こうもり》であると思って、いかにも文法や修辞学上の学識の程度の低いのに驚いて、自分の宿《とま》っている僧舎に帰ってまいりますと、その舎の主僧が私にあの医者のところで何を話したかと尋ねますから、私は文法について話したと答えますと、かの主僧はもったいらしくいいました。あの医者はツァン州において唯一の文法および修辞の学者で、なかなか一度や二度遇って話したくらいで、あの御方のいうことは解るものじゃない。あなたも真実《ほんと》に文法を知りたくば、ここに二、三年間留まって、あの方に毎日習学したら解るであろう、私なんぞは側《そば》におって始終聞いていても何にも解らないと、かかる滑稽《こっけい》なことを聞いた。私は我知らず吹き出して大いに笑いましたが、かの主僧はその大笑いに訝《おか》しな顔をしておりました。
その翌一八日、東南の方に向って少しく坂を登り、また降ること二里余にして、ブラフマ・プットラ河に着き、その河の岸の大いなる原をだんだん東に向ってまいりますと、向うの方にポンボ・リーウ・チェという古派の寺が山の上に見えている。ほとんど一里ばかり手前になったところで、原の中から突然私を呼び止める者がありました。
第四十九回 異域の元旦
≪また強盗に遇う≫ 何か知らんと思って眺めてみますと、二人の偉大な男が現れて来たです。両人共、前にチベット流の刀を横たえてこちらに進んで来ました。近づくにしたがって何か用でもあるのかといって尋ねますと、一人の若い男は何をいやアがるといって、いきなり下にある大きな石をもって私に打ちつけようという勢い。それから私はジッと眺めておりますと「逃げてみろ、逃げるとこれで打ち殺してやるから」と威《おど》しつけたです。「ハハアこりゃ例の強盗であるらしい」と思いましたから、私は道端の石に腰をかけた。スルと両人ともズカズカと私の前に来て、私の持っている杖《つえ》を強奪《ふんだく》ってしまったです。デ、「何を持っているか早速いえ、一体手前はどこから来たのか」という。「私は巡礼者で雪峰チーセの方を廻って来た者である」といいましたところが、「金があるだろう」というです。「金は少しはあるけれど、沢山な金は西北原で泥棒に取られてしまったから、今ここには余計はない」「その後に背負っているのは何か」「こりゃ経文と食物である」「それを解《ほど》いてみせろ、そこに沢山な金が入っているかも知れない」「金は懐《ふところ》にある。この後の荷物の中には、金は入っていない。私は僧侶だから嘘はつかない。金が欲しければ金を上げる。荷物も欲しければ荷物も上げる」といって、金を出そうとすると、向うから馬に乗った男が三人ばかり走ってまいりました。スルとその二人の男は杖を打遣《うっちゃ》って逸散《いっさん》に逃げ出したです。
これがため、はからずも賊難《ぞくなん》を免れたわけで、その馬に乗った三人の人は私に向い「今の人は何か」と聞きますから、「金をよこせ物をよこせといって出て来たものです」と申したところが、「憎い奴である」というて、しばらくそこに立っておりましたが「あの寺のある下まで行けば村があるから、あすこへ早くお越しなさい。向うへ着くまでは、私がここに見張りをしているから」という御親切であった。ソコで私はその村の方に進んでまいりますと、その馬に乗った人も、しばらく経ってから西の方へ行ってしまいました。その夜はその村に泊らずに、それから三里ばかり東へ進んでニヤー・モ・ホッターという小さな村に着いて宿り、その翌日テーショクという村で昼飯をすまし、その夜はタクツカという村に泊りました。
一二月二〇日は、前夜来大分雪が降りましたので、朝未明に雪を踏み分けながら河に沿うて東南に上ってまいりますと、ブラフマ河の河洲――砂原のあちこちに夜来の雪が残っております。その間に鶴が幾羽か徐《しずか》に歩みながら、誠に高い清い声を放っておるです。その光景に寒さも忘れて幾つかの歌ができました。二つばかり申しましょう。
妙《たへ》や妙玉《たへたま》のいさごの河原の
雪のまにまに群鶴《むれつる》の鳴く
おもむろに雪ふみわけつ妙鶴《たへづる》の
千代にかはらぬ道をとくかな
こういう美しい間を、河の南岸に沿うて降って行くこと三里半ばかりにして、クルム・ナムセーという村に着き、ココで昼飯を喫して、同じく河に沿うて二里ばかり東へ行きますと、河は東、北の方へ流れ去り、本道は東南の山の中へ指して登って行くようになっておるです。その坂を登って行くこと一里半ばかりにして、シャブ・トン・ツブという村に着いて泊り、その翌日、東に清らかな小さな流水に沿うて登ること一里半ばかりにして、その河流の岸に登ってまいりますと、大きな巌山がありまして、山の麓にチャム・チェン・ゴンパ(大|弥勒寺《みろくじ》)という寺があって、その寺は名のごとく三丈五尺余の弥勒仏の像がございます。一体弥勒は菩薩なんですけれど、またこの次に生れ変って来る仏だというので、チベットでは菩薩といわずに仏というておるです。その弥勒の菩薩に参詣して、ソレからその横にある水牛面忿怒妙王《すいぎゅうめんふんぬみょうおう》の大堂と、シャカムニ仏の大堂にも参詣して、或る僧舎について宿りました。この寺は僧舎二百戸に坊さんの数が三百人ばかりあって、第二の府のシカチェから首府のラサまでの間の一番大きな寺であります。
≪主僧凶夢を苦に病む≫ 私の泊った主僧《あるじ》は、何かこの間から続けて凶《わる》い夢を見たというので、大いに恐れている。何を恐れているかというに、自分は財産が沢山あるけれども、この間から続けて死ぬような夢を見たから、ソレが怖くってたまらない。ドウかその災難を免れるように、お経を読んでくれまいかという。私はそんな災難避けのお経は知りませんけれど、何にしてもココに一切蔵経があるから、その中のお経を何か読んでやったら向うの心も休まりましょうし、また幾分か功徳になるだろうと思いまして、ソレじゃアお経を読んで上げようといって、その翌日からチベット語の法華経を始めとして他のお経を読みました。
ちょうど一二月二八日にございましたが、この寺から或る僧侶がネパールのカトマンズへ行くといいますから、大変好都合であると思って、故郷の方へ手紙を出す都合をしたです。ソレは故郷の親友の肥下徳十郎という人に宛てて出しますので、ドウかこの手紙をネパールへ持って行って、郵便局で書留にして出してくれろといって、大分にその僧侶にも金をやって持たしてやりました。よほど正直らしい男でありましたが、ドウなりましたか、その人に託して出した手紙は今日こちらに届いておらない。察するに、嘘をつくような人でないことは分っているんですから、多分その人は途中で死んだのではないかと考えられるです。
その月の三一日の午後、その僧侶の親元の宅へ来てくれというて、馬で迎いに来ました。その馬に荷物を載せ、自分も他の馬に乗って一里半ばかり東に行くと、ターミラという村に着いて、そこでまた読経することになった。その村へ乗り行く馬上で、「明治三三年も今日で終るのだが、マア今年は大変ないろいろの困難を経て、トウトウチベットの中央まで入って来た。これ全く我が本師シャカムニ仏の加護である」とその恩を感謝し、この後も、なおいかなる艱難が起ってもあくまで進んで、その艱難を切り抜けて、いささか仏法のためにする志望を完とうしたいものであるという考えを起しました。もちろんチベットでは陽暦がございませんから、その翌一月一日とても何でもないのです。けれども私はその日はことさら早く午前三時頃に起きて、東の方に向い例年のごとく
≪元旦の読経≫ を始めた。ソレはこの仏教の規定として我が大日本帝国今上皇帝陛下の万歳万々歳を祝願すると同時に、皇后陛下ならびに皇太子殿下の万歳万々歳を祝願して、皇国の御威光がますます万国に輝かんことを深く願うというのが、つまり我が仏教の世間門に対する主義ですから、その主義を確実に実行するために、ドノような山の中におっても、ソレは必ず一月一日になれば東方に向い、読経礼拝して祝願するのでございます。その祝願を終って一首の歌ができました。
西蔵《チベット》の高野《たかの》に光る初日影
あづまの君の御稜威《みいづ》とぞ思ふ
そこで一月五日まで経を読み、その翌日出立してオーミという村まで三里ばかり進んで、そこに泊りました。その村のお寺にスン・チュン・ドルマ(物いう解脱母《げだつぼ》)という菩薩がいるので、その姿は三尺ばかり、非常に綺麗なもので、いかにも物をいうたような、今でも物をいいそうにあるのです。チベット人の説には、かつて本当に物をいったことがあるとしてあるのです。その寺の僧侶に頼まれて、また二日経を読んでやりますと、なかなか沢山な布施物をくれました。私は泥棒に逢って金が失くなったけれども、その後いろいろの人から金を恵まれ、ソレからお経を読んで布施をもろうても、それを使うということはそんなにない。喰物は人からくれるというわけで、大分金ができました。
[#改ページ]
第五十回 二か月間の読経
≪河中の温泉≫ 一月一二日、朝五時出立。荷持ちに荷物を持たして東、南の山間の溪流に沿うて登りました。その辺は一体に雪が氷になって、ドウかすると辷《すべ》りこみそうでよほど注意しないと危ない。五里半ばかり進むと、チョエ・テンという村へ着いた。その村に温泉があって、現に入浴のできるのが三か所ばかりある。ドウいう効験《ききめ》があるか詳しいことは解りませんが、リウマチスにはよほどいいようです。デ河の中には幾処にも温泉が湧き出で、河水と共に湯気を放って流れている。そこで昼飯をすまし、同じ流水に沿うて東に上ること三里半余にして、河辺の柳林の間にある美しい小さな寺に着きました。
それをマニ・ハカンという。マニとは心のごとくなるという意味で、心のごとくなるところの真言を書いた紙を沢山に集め、それを円く長い筒のようにして、その外部《そと》を銅板で綺麗におおい、なお金銀で飾りをつけ、ソウしてその中心には鉄の心棒があって、クルクル右へ廻すようになっております。その大きなのを祀ってあるからマニ・ハカンといいますので、これは殊にチベットで名高いのであります。すなわち
≪チベット新派の開祖≫ チェ・ズン・カーワという方が、このマニを拵《こしら》えられたというので、非常に尊んでおるです。私はこの堂へ泊りましたが、その堂の護《もり》をしている坊さんは、いかにも貪欲な人らしく、私の顔を見ていいますには、あなたはドウも一通りの人でない。私の人相を見ることができるだろうから見てくれろとこういうのです。私は人相見をしたことはないけれども、チベット人は非常に迷信が深いから、少しは戒めにもなるだろうと思って、その男に向いあなたは気の毒なもんだ、金や品物が折々沢山入って来ても、また人から損をかけられたり、あるいは偶然な災難に出遇うて、せっかく貯めた金を時々に失くしてしまい、いつも借金に苦しむという質《たち》だとこういいました。ところが、案外にもそれが非常に適中したものとみえて、びっくりしてイヤこれは実に驚いたといって呆気《あっけ》に取られ、そのことを近所での一番大家ドルヂェ・ギャルボ(金剛王)という人の家に行って、私のことをスッカリ話したとのことで、その夜その家の奥さんとみえる綺麗な方が子供をつれて、ドウか人相を見てくれといって出て来ました。
≪人相を見る≫ 実は私も弱ったですが、その子供を見ますにいかにも勢力がなくって、ドウも死にそうな様子があるのみならず、チベット人は殺生することが非常に嗜《すき》ですから、一つ殺生を戒めてやろうという考えで、ドウもこの子は寿命がない、誠に気の毒なことだといって、いろいろその因縁を話しました。スルとドウにか方法はあるまいかといいますから、私は心の中でこういう大家へ行って一切蔵経を長く読むことができれば、誠に仕合せだ、ラサ府に着いたところが、ドウも忙しくって充分読めはしないから、こういう山家《やまが》でゆっくりとお経を読むのも、ラサ府に着いてから研究の材料を余計に得るわけだからと、ソコで奥さんに向い、お経を沢山読めばドウにかなるだろうとこういいますと、その夜はそのまま帰って行ったですが、翌朝からその子供が非常な病気になったので、その家の人達は大いに狼狽《ろうばい》して、私の言の適中したのに驚き、ドウか幾日かかってもかまわんから、お経を読んでくれろといって頼みに来ました。
ソレからその宅に移ってお経を読むからといったところが、一切蔵経はその宅にはない。そこから少し上に昇った処で、ロン・ランバという駅がある。その駅に一切蔵経があるということで、その駅へ書物を借りに行くという始末。その間、私は坐禅をやっておりますと、勝手元の方で非常に女の泣き声がする。ドウも奇態だ。何か喧嘩でもしているのかと思って耳を欹《た》てて聞きますと、喧嘩の様子ではない。何か非常に悲しいことが起った様子である。けれども、ドウも始めて来た家ではあるし、何であるかといって尋ねに行くわけにもゆかず、ジッと聞いていますと、その家の花嫁さんが私の所へ走って来まして、坊っちゃんが死んだ、あなたのいったとおり死んだ、助けてくれろとこういうことなんです。影が薄いからああはいったものの、偶然にも妙に適中するもんだと早速まいってみますと、全く感覚を失うてしまって冷たくなっている。
≪医術の適中≫ ソレから脈などを見ますと、ホンの微《かす》かに搏《う》っているばかりで、腹の中に手を入れてみると幾分か温気《あたたまり》がある。首筋を持ってみると非常に堅くなっている。私も多少医書を見たことがあるですが、コリャどうも脳に充血したものであろうという考えで、ソレから冷水を取らして切布《きれ》に浸し、その頭を冷しながら非常に首筋なり脳なりへ圧迫力を加えておりますと、二十分ばかりも経ちましたころ、もっとも一時の絶息でもありましたろうが、その坊っちゃんが眼を開きかけて来たです。スルトその時のお婆さんの喜びは非常なもので、可愛い孫の今死んでしまったのがまた甦《かえ》って来たといって、大きな声を立てて悦びますから、しばらく静かにしろといって、だんだんその脳髄、脊髄《せきずい》、筋肉の堅くなっているのをよく揉《も》んでやりますと、ドウやら甦《よみがえ》って来たです。ソコで彼らは大いに驚いて、一通りの方でないというようなことになり、ドウか長くここに逗留して、お経を読んでもらいたいというわけなんです。
寒い間、こういう山家でヤクの糞の沢山ある処で暮すのは、よほど得策でもあり、充分書物も読めるという考えで、そこへ逗留することになりました。その逗留が満二か月余でございましたが、その間にいろいろのことがあったですけれども、余り細かなことをいうのも煩《わずら》わしゅうございますから、その中の興味のありそうなことだけ、お話しいたしましょう。だんだんそこでお経を読んでいるかたわらに、山の間あるいは河の辺を散歩しておりますと、その私に救けられた子供およびその兄などは、私を親のごとくに慕って共に散歩をするです。誠に可愛いもので、私は一体|子煩悩《こぼんのう》で、自分が子を可愛がるというよりは、子供から愛せられるというような点もよほどあるようです。毎日マアお経を読んだ間に子供を連れて遊ぶのが仕事で、実にチベットに住んでおった間の無邪気な楽しみは、この時にありました。けれども厭なこともまた沢山ありますので、ソレはほかのことでない。チベット人には実に
≪汚穢《おわい》なる習慣≫ がある。その二、三をお話しいたしますが、その私のいる家には下僕《しもべ》が二十人ばかりもいる。その下僕が毎朝チベット茶を持って来る。その茶碗は宵《よい》に飲み干したままです。デ申しますには、「これはごく清浄です、前夜あなたが喫《あが》ったのですから」といって、バター滓《かす》の茶碗の縁についてあるのをそのまま侑《すす》めるのです。不清浄という意味は、他の下等の種族の飲んだ茶碗であればその碗は洗わねばならないけれども、自分の飲んだ物および自分と同等の種族の飲んだ物は、清浄であるからといって、チベットでは決して洗わんです。しかし、バターの滓が沢山ついているなどは、実に見るから厭なものであるです。ソレをドウか一寸|拭《ふ》いてくれないかというと、ようございますといって、ジキに取り上げて、自分の鼻汁を拭いた長い筒袖《つつそで》の先で茶碗を拭き取るのです。ソレで誠に清浄になりましたといって、そこに据《す》えて茶を注がれる。いかにもその茶を呑むことはできないけれど、余りに喧《やかま》しくいうと例の疑いを起されることになりますから、なるべく辛抱して呑むのです。
第五十一回 不潔なる奇習
≪卑陋《びろう》至極≫ 食器を自分の着物で拭くくらいのことは平気なもの、卑陋至極ではありますが、彼らは大便に行っても決して尻を拭《ぬぐ》わない。またインド人のごとく水を持って行って、左の手で洗うというようなこともしない。全く牛が糞をしたように打遣《うっちゃ》り放し。しかし、これは少しも奇態なことではないので、上は法王より下は羊追いにいたるまで皆そのとおり。ですから私のように隠れ場へ紙を持って行くというようなことをしますと、大変に笑われるのみならず不審を抱かれるです。子供などがソレを見つけますと、大笑いに笑って向うの方に逃げて行ってしまう。実にこれには困りましたけれど、さてソレかといって、ドウも隠れ場へ行ってそのまま出て来ることはできないから、なるべく隠して紙を持って行って、ドウにか向うの知らん中《うち》にうまく始末をして、厠《かわや》の中から出て来るという始末。これには実に閉口しました。ソレも家のある処では便所があるですが、テントの処では便所というような処はない。
≪便所は犬の口≫ なんです。ドウもその西北原でテントの端でお便《ちょうず》をしておりますと、恐ろしい犬が四、五疋取り巻いて横で見物している。気味の悪いことといったら、始めはなかなかお便が容易に出ない。けれどもソレも自然と慣れるです。ソウしてこっちがそれをすまして来ますと、犬は先を争うてその人糞を喰いに来る。だから西北原の内には便所はないけれど、人糞の転がっているようなこともない。ソレだけではない。彼らは元来生れてから身体を洗うということはないので、阿母《おっか》さんの腹の中から出て来たそのままであるのが、沢山あるです。
都会の人士はマサかそうでもないが、田舎に到るほど洗わぬのを自慢としている。もし顔を洗ったり手先を洗ったりすることがあれば、大いに笑って、その取り締りのないことを嘲《あざけ》るのです。ソウいうわけですから、白い処といったらば手の平と眼の玉とである。ほかは全く真っ黒である。もっとも、田舎人士の中でもその地方の紳士とか僧侶とかいう者は、顔と口と手だけは幾分か洗うものですから、そんなに汚なくもありませんけれども、やはり首筋から背中、腹にいたっては真っ黒なんです。アフリカ人の黒いのよりもなお黒いのがある。デ手の平がナゼ白いかといいますに、向うでは麦粉を捏《こ》ねる時分に手でもって椀の中でその麦粉を捏ねる。であるから手の平についている垢《あか》は、麦粉の中に一緒に混って入ってしまうんです。ソレで手の平には垢がない。マア垢と麦焦しとを一緒に捏ねて喰うという旨いご馳走なんです、ソウいうご馳走をです、黒赤くなった歯糞の埋もれている臭い口を開《あ》いて喰うのです。ソレを見ただけでも随分胸が悪いのです。デ生れてから身体を洗わないという理由は、どうかといいますと、洗うと自分の福徳が落ちるというのです。妙な考えを起したもので、もっとも中央チベットではそれほどにもいいませんけれども、辺鄙《へんぴ》なヒマラヤ山の北方のチベット人などは、実に甚だしい。
≪垢の多少が縁談の条件≫ まず嫁を取る時分に、向うの娘はドウいう顔をしているかといいますと、ドウも垢で埋もれて真っ黒けになって、白い処は眼だけである。手先でもどこでも、垢でもって黒光りに光っている。ソレからその着物というたらば、垢とバターでですな、黒く漆のごとく光っている、とこういうとその娘の福相を現していることになる。もしこの娘が白い顔をしているとか、手先や顔でも洗っているとかいうようなことを聞きますと、そんな娘は福が洗い落されてしまっているから、ソレはお断りだとこういうわけ。ソレは男ばかりでなく、女が聟さんを選ぶにもやはり垢の多少をもって福の多少を判断して、ソレで嫁に行ったり、聟を取ったりするというような始末である。実にこれらのことは、その地に到って実際を見ないものの想像以外で、話だけ聞いては私共でさえ始めは信じなかったのですが、いろいろの地を経て来て、始めてその前に聞いた話の実説であることを確かめたわけです。
中等以下の者は全く着替えがないですから、着物など古くなると垢でボロボロにちぎれてしまう。ソレから人の前でもどこでも、自分の着物の裾裏《すそうら》を捲《まく》って涕《はな》をかみ、ソウしてその涕をうまく摺《す》りつけてしまう。余り涕が多いと、筒袖の方にもソレを摺りつけておくんです。デ裾の方が涕の壁のように堅くなって、その上で鼻をふくことができなくなりますと、今度は膝の辺でまたふきます。ですから、着物は涕とバターと垢との三つの壁になっている。これらは中等以下の社会の人に多い。しかし、中等以上はさすがにそれほどにもない。垢は沢山ついておっても幾分か綺麗な処がある。殊に僧侶にいたっては、顔を洗い手を洗い、着物も綺麗にしなくてはならんといって、しばしば僧官から戒められますから、ソリャ幾分か綺麗なんですが、ソレとてもいろいろ種類があるです。これはラサ府に入って後の実地について充分にお話することにいたしましょうが、何にしてもソウいう人にかしずかれてお茶を戴き、御膳をよばれるというのですから、随分嫌なことは沢山あります。もちろん、雪山のツァーランという処におります時分にも、ソウいうことにはよほど慣れるつもりで勉強しておったんですけれど、やはり嫌なことはいつになってみてもよくないもので、よほど苦しく感じました。
だが嫌なこともある代りに、また天然の景色は格別心を慰めたです。ソレはツイ、チベット暦〔十二支を用いる太陰暦である。干支法によるので六十周期で年がめぐってくる。一〇二七年、インドから時輪経が伝えられ、この年をラプチョンといい紀元元年とする。唐の時代に中国にならい年号を定めたことがあるが、異例である〕の正月前のことでしたが、家の人達は正月が来るからというので忙しくしているけれども、私は窓に経机を置き、お経を読みながら外を眺めると雪が降っております。その少し隔った処には、柳の樹に雪が積って、実に綺麗なナヨナヨとした姿を現している。そればかりでなく、モウ一層美しさを添えるチベットの名物ともいうべき鶴が、その雪の間をあちこちとさも愉快そうに散歩をしている。ソウいうようなふうで、厭な中にも楽しいことは沢山あるので、殊にチベット暦の正月元日には随分面白い礼式がございました。
≪チベット暦の由来≫ 一体チベットの暦は、インド暦でもなければシナの太陰暦でもない。トルキスタン暦を取っているので、その暦はシナの太陰暦にほぼ似ているけれども、全く同一ではない。すでに閏月《うるうづき》のごときも、シナの暦では当年ですけれども、チベット暦は昨年であったです。四年目四年目に、閏月のあることは同じであるけれども、こういう工合に一年後先になっているばかりでない。月の内の日を繰《く》ることも、チベット暦では大変妙な繰り方をするので、七日というような日が二つあってみたり、また一〇日という日が切れて、九日からジキに一一日になったりすることがある。ちっとも私共にはそのわけが分りませんでしたが、その後、或る暦の学者に遇って聞いてみますと、ソレは時間を勘定する上において、或る時には一日余計入れ、或る時には一日切り去ってしまわなければいけないことがある。ソウいう都合で、この勘定はできたものである。なお日の中にも善い日と悪い日がある。悪い日の時分にはその日を切り取って、ごく善い日の時分にはその日を二つ重ねておくという誠に都合の好い暦で、それがチベット国中確かに一般に行われているけれど、その日の繰り方なり正月元日の出て来る日なりが、地方によって一致しないことがあるです。ソレはもとより驚くべきことではない。
チベット政府においては、四名の暦官を置いてある。その四名の者が、白い石や黒い石や棒切れや貝殻でもって勘定して、毎歳暦を拵《こしら》え出すのですが、大抵四人とも少しずつは違っているそうです。その中のよいのを二つ取って、例の神下《かみおろし》に尋ねてどっちがいいかということを聞いて、その一つを取るんです。数学的観念のない半開人のすることは実に憫《あわ》れなもので、噴き出すような馬鹿なしかたであるです。デ正月元日の式は、大抵政府の暦によってやるんですが、ソレとても本当の元日はドウだか分りはしない。大抵シナの太陰暦の元日と、チベットの元日とは同日になることはごく稀《まれ》です。一日あるいは二日|後先《あとさき》になることもあり、また三日くらい違うこともある実に奇態な暦であるです。
第五十二回 正月の嘉例《かれい》
≪元日の礼式≫ は、朝起きますと直ぐに麦焦しを山のように盛り立てて、その上へ五色の絹――ハンカチーフを集めたような物を旗のような工合に插《さ》し、また麦焦しの粉の中にはバターと乾酪《ほしちち》が入って、上に乾葡萄《ほしぶどう》、乾桃、信濃柿のような小さな黒い乾柿が蒔《ま》いてある。デそれをまず第一に、主人からしてチョイと右の手で摘《つ》まんで、何か唱え言をいいながら空中へ三度ばかりパラパラと撒き、ソウしてそれの幾分を自分の掌裡《てのひら》に取って喰うのです。ソレもやっぱり黒い垢だらけの手へ取って喰っている。ソレから自家《うち》の奥さんお客さんなど、おもな者から下僕《しもべ》にいたるまで順々にやってしまいますと、チベット茶と同時に一人一人に小麦粉を捏ねて、ちょうど棒捩《ぼうねじ》にしたような揚げ物と、瓦煎餠《かわらせんべい》にした揚げ物を盆に一ぱいずつ分けるのです。そのお盆は日本のようなものではなく、銅《あか》の皿のようなふうになって、中に白|鍍金《メッキ》がしてあるのです。デ茶を飲みながらそれを喰いますが、別だん日本のように、まず明けましておめでとうというようなこともないのです。まず喰うのが何よりの楽しみで、ソレから肉を沢山喰う。その肉は乾肉、生の肉、煮た肉の三種で、焼いた肉は礼式には用いません。
≪元日のご馳走≫ チベットには川魚もあるのですけれど、魚を殺すのは罪が深いといって、普通の人は余り魚を喰わない。喰うのはヤク、羊、山羊の類を主としている。豚もチベットにいるシナ人は喰いますけれど、チベット人はシナ人に交際している人だけが喰うので、その他の人は余り喰わないです。
朝の式が終りますと、また十時頃に一寸お茶を飲んで、お菓子|或《ある》いは果物のような物を喰います。ソレで午後二時頃に本当に昼御膳を喰うので、その時にはまた良い家では卵入りの饂飩《うどん》を拵えます。ダシは羊の肉などで旨《うま》そうに喰っている。夜分は九時あるいは十時頃に肉のお粥《かゆ》を焚きますので、その粥は普通麦焦しの粉と、小麦団子と肉と大根と乾酪《ほしちち》とを入れるのです。ソレを夜分喰います。しかし、これは毎日順序がきまっているわけではない。時によると、夜分喰うところの粥を朝喰うこともございます。決して一定はしておりませんが、マアこういうようなものが、チベットの上中等社会のご馳走である。下等の者は、粥といっても乾酪や肉を入れることは困難であるからして、脂肪を入れるです。大根などもなかなか得られない。マア小麦の団子を入れるのがよほど上等の分で、ソレも正月とか来客の時にでも喰うが関の山、普通はただ麦焦しの粉を入れてドロドロに拵えて、その中に草の花を入れるです。冬はもちろん草花はない。夏乾かしてあるだけで。もっとも大根の沢山ある地方は大根を入れるのです。普通の食物は、麦焦しを捏ねて喰うのが上下通じてチベットの食物で、これは米よりもかえって悦びます。すでにダージリン辺に来ているチベット人が、長く米ばかり喰うておりますと病気になるといって、ワザワザ、チベットから麦焦しの粉を取り寄せて喰うです。病気の時分麦焦しを喰うと、よほど精分がついてよいという。もっともインドにも麦焦しのないことはない。けれどもチベットの方がよほどよいといって、あちらからワザワザ取り寄せるくらいですから、チベット人にはこれが最も適当した食物であります。
マアそういうふうで正月もすみ、私はお経を読みながらその綺麗な景色を眺め、あるいはチベット風俗の真相はドウいうものであるかも、その家族の人と共に住んだお蔭で、ひとしお研究の材料が得られたようなわけでしたが、さて、その窓の下へ鴉《からす》よりも小さな白と黒の混った、全く鴉の形をした鳥がやって来るです。それをチベット語でキャーカといっている。この鳥はなかなか利口な鳥で、人を見分けることをよく知り、ソレから進退ともにチャンと法則がきまっているようです。或る時、私がジッと窓から覗《のぞ》いていると、その内の大将らしい鳥が、何か朋輩《ほうばい》同志の鳥が喧嘩をしたのを怒ったとみえ、一羽の鳥を喰い殺してしまった。酷いことするものだと思って、その話を宿の主にしますと、ソリャもう
≪鳥の法律≫ というものは、人間の法律より正しいもので、御承知でもあろうがこういう諺がある。
チヤ チム ター ンガ ツァム シクナ ミー チム ニヤ シン ツァム シク ゴ
デ、その意味は「鳥の法律が馬の尾ほど破らるならば、人の法律は大木ほどもやぶらるべし」ということなので、そのくらい鳥の法律はきついものであるといって、いろいろソウいう例話を引いた話を聞きましたことがございました。
長い間経典を読んでおりましたが、大分に暖かになって来ました。三月一四日にそこを出立することになりますと、朝から家内一同の者がドウか三帰五戒を授けてくれろというから、鄭重に授けてやりました。デ昼御膳をそこですまし、布施には金と法衣を一枚もらいました。それは羊毛で拵えた赤い立派な物で、買うと三十五円くらいするそうです。馬で送りたいけれど、皆商いに出してしまっておらんからというので、下僕が荷持ちになって送ってくれました。ソレから東へ進んでヤクチュという河に沿うて四里ばかり上り、チェスンという駅場に着いてその夜は宿り、翌朝六時出立、河に沿うて東に行くこと三里ばかり、その間は皆非常に狭《せば》まったごく高い山の間で、谷間には雪が非常に積り、河には氷が張りつめているという始末。三里向うへ出ましたところで、少し広い処に着いた。左傍《ひだりて》の山の上を見ますと、ごく頂上に一つの白い堂が見えている。ドウも奇態だ。本堂でもなければ、また坊さんの住んでいる寺でもない。何か知らんと思いまして同行の人に尋ねますと、あれは
≪防霰堂《ぼうさんどう》≫ でございますとの答え。その妨霰堂という意味は、これまで私には分らなかったのですが、この時その人から始めて話を聞いて、ソウいう奇態なことがあるのか知らんと思ったです。実は始めて聞いた時分には、余り奇怪でございましたから信用ができなかったですが、その後ラサ府に着いていろいろの人に委しく尋ねてみますと、その時聞いた話が全く事実であったから、ここにこれを見た因縁でその奇怪なるお話をいたしましょう。元来チベットの耕田部では、霰《あられ》を一番恐れているのである。特に夏の間に霰が降りますと、一年一季、あるいは二年一季の収穫の麦、あるいは小麦を、その降霰《こうさん》のためにスッカリと荒らされてしまうものですから、チベットの農民は、その降霰を恐るることは実に大敵国が攻めこんで来たように恐れているのでございます。ですから、それを防ぐ方法を立てなくてはならぬ。その方法が実に奇々怪々で抱腹絶倒せざるを得ないのです。
[#改ページ]
第五十三回 防霰奇術
≪八部衆の悪神征伐≫ チベット国民は、元来宗教を信ずることが甚だしいところから、或る僧侶が奇怪な説を出したです。元来、年々大きな霰の降るというのは八部衆の悪神、すなわち天、龍、夜叉、乾達婆《けんたつば》、阿修羅《あしゅら》、迦楼羅《かるら》、緊那羅《きんなら》、摩伽羅迦《まからか》等が人民を害することを大いに悦んで、霰《あられ》や雹《ひょう》を降らして、ソウして収穫を減却してしまうのである。だからこの八部衆の悪神と合戦をやって、その悪神らを殺戮《さつりく》して、その降霰を防禦しなくてはならないということを主張するところから、その防禦に従事するところの僧侶ができた。ソレは大抵古派の修験者です。さてその修験者らは、ドウいう方法でこの悪神と合戦をして打ち勝つかといいますと、まず八部衆の悪神らが霰を拵《こしら》えるのはいつであるかということを考えなくてはならん。それは冬の間に最も雪が沢山降る時分に、この八部衆の悪神が或る場所に集まって、雪を固めて霰を沢山製造するので、充分作物を害し、人民を殺すにたるだけの霰ができるというと、その霰を天の一方に貯蓄して休息するので、その貯蓄した霰の弾丸《たま》をもって、夏の時分に穀類がほとんど熟せんとする時に当って、これを空中から投げつけるのである。だから人民はたまらない。その霰弾を防ぐ武器としては、充分立派な武器を拵えなくちゃアならん。その武器はまず彼らが霰弾を拵える時分に当って、我々も秘密に或る山の谷の中へ入りこんで、ソウして
≪防霰弾を製造≫ しなくちゃアならん。その防霰弾は何で拵えるかといいますと、泥を固め雀の卵くらいの大きさの物を沢山拵えるです。ソレも一人の修験者が拵えるのではない。一人あるいは二人の従者を引き連れて、ソウしてその寂寥《せきりょう》なる山間の道場に入って、秘密の法則でもって防霰弾を沢山に製造して、一種の咒文《じゅもん》を唱え、その一つ一つに咒文を含ませておくんです。これが夏、霰の降って来る時分に当って、その霰を防ぐところの戦闘用具である。一体チベットにおいては修験者のことをンガクバ(真言者という意味)というている。その者は、昔から修験者の血統のかかったものでなければ、その職業をすることを許されない。だから新派のラーマのように、誰もが坊さんになれるというわけのものでなくって、親から子に血統相続をされますので、これらの修験者は大抵一村に一人ずつあるのです。冬の間は祈祷をしたりあるいは咒咀《まじない》をしたり、あるいは人のために幸福を祈ったりしますので、時によると人に害を加える悪い咒咀をして、人を殺すような祈祷もするというのが、チベット人の信仰である。だから誰々は、どこそこの修験者に逆らったがために悪い咒咀をされて、トウトウ死んでしまったというような話は、どこででも聞くことなんです。冬はマアそういう仕事をして、夏になると霰との合戦に従事するのです。ついでに申しておきますが、
≪チベットは夏と冬の二季≫ チベットには、春夏秋冬の四季はない。夏と冬との二季に分れているだけです。もちろん、チベットの書物には、春夏秋冬の四季の名は現存しているのでございますけれど、その実際は二季のほかはないものだから、チベット人もやはり実際に従って、ヤルカー(夏)、グンカー(冬)という二つしか一年中に用いない。ソレで陽暦の三月一五日頃から九月一五日まで夏で、その他は冬です。
デもはや陽暦の三月、四月頃から畑を耕してボツボツ麦蒔《むぎまき》にかかる。ソウするとその修験者は、一番そのチベットでの高い山の上に建ててある防霰堂へ出かけて行くです。この防霰堂はナゼ高い処に建てているかというのに、霰の雲がドノ方向からやって来るかということを発見するのに便利なために、どこでもその地方中の一番高い山の上に建ててあるのです。デ麦の芽が出ますと、修験者は多くはそこに住んでいるのでございますけれど、始めの内は余り用事がないものとみえて、そこから自分の宅ヘ帰って来ることも折々あるそうです。六月頃になるとだんだん麦が大きくなって来ますから、霰を防ぐ必要も迫って来るわけで、ソコでその堂に詰めきって毎日その守護神、すなわち馬頭妙王、あるいは執金剛妙王、あるいは剛蓮華生《ごうれんげしょう》等に供養をして、祈祷をしますので、ソレが昼夜三遍ずつやって、毎日毎日沢山な真言を唱えるのです。また一番よく大きな霰の降るのが、不思議に麦の大分に熟して来た時分なんです。その時分になると、その修験者らは実に一生懸命になって、その霰を防ぐことに従事するのです。
≪まず山雲と戦う≫ 時に悠然として山雲が起って来ますと大変です。修験者は威儀を繕い、儼乎《げんこ》たる態度をもって巌端《いわはな》に屹立《きつりつ》します。デ真言を唱えつつ数珠《じゅず》を采配のごとくに振り廻して、ソウして向うから出て来る山雲を、退散せしむる状をなして大いにその雲と戦う。けれども雲の軍勢が欝然《うつぜん》と勃起し、時に迅雷轟々《じんらいごうごう》として山岳を震動し、電光|閃々《せんせん》として凄まじい光を放ち、霰丸簇々《さんがんそうそう》として矢を射るがごとく降ってまいりますと、修験者は必死となり、今や最期と防戦に従事する。その勢いは関将軍が大刀を提《ひっさ》げて大軍に臨んだごとき勢いを示し、ここに神咒《しんじゅ》を唱えつつ右の手の食指《ひとさしゆび》を突き立てて、あたかも剣をもって空中を切断するように縦横無尽に切り立て、ソレでもなお霰弾がドシドシと平原に向って降りつけると、大いに怒って修験者それ自身が狂気のごとく、用意の防霰弾を手|掴《づか》みに取って、虚空に打ちつけ投げつけて霰と戦うです。ソレでもいかないと、今度は自分の着ている着物を引っ裂いてしまって、その引っ裂いた着物を空に打ち投げるという、まるで瘋癲《ふうてん》のごとき有様で、霰を喰い止めることに従事している。
幸いにしてその霰がどこかほかの方へ指して行ってしまい、そこではそんなに酷《ひど》く降らぬということになると、その修験者は大いにその戦勝を得たことを誇り、また民人も大いに賀するわけでありますが、もし不幸にして霰が沢山降って収穫を害する時分には、修験者は被害の多少にしたがって、かねて法律にきめられている刑罰を受けなければならん次第である。その代りに、この修験者がうまくやってもやらないでも、その歳霰が降らなかったか、あるいは降りかかってもうまく留めたというような時分には、充分の収入がございます。ソレは毎年きまった税品を取るんです。チベットにおいては、これを名づけて防霰税という。実に不可思議なる税品もあるものです。
第五十四回 修験者の罰法
≪防霰税≫ という不可思議な税品は、ほぼ一反について、麦二升ほどずつ修験者に納めなければならん。マダそのほかによくできると、二升のものは二升五合にして納めなければならんことがあるという。これは実にチベット農民に取っては大いなる負担です。ナゼならば、ただこの修験者に霰税を納むるのみならず、政府にはやはり当り前の租税を納めなくてはならないのですから、実にこういうしかたのために、要らない不可思議の税物を納めているのです。ソコでなお奇態な習慣は、夏の間は収穫のできるのもできんのも、全く修験者の力にあるというところから、その地方の裁判の権力は、皆この修験者に帰しているのです。すなわち
≪夏季の執法官は修験者≫ であって、その霰税を受けるほかに、執法官としての収入がまた甚だ多い。されば大抵これらの人は財産家であるべきはずであるが、奇態にチベットではンガクバといえば貧乏人が多い。ドウも人を欺き、人の妄信に乗じて金を取るような悪銭は、いわゆる身につかぬものとみえるです。けれど権力は非常に強くって、これを称してラー・リンボ・チェというておるです。その意味はラーマの宝というので、一寸道で逢っても貧乏な乞食坊主のような修験者に、立派な紳士が舌を出して、頭を下げて最敬礼をやっておるです。だがこのンガクバは、それだけ大収入を得るに反して、もし霰でも降ると大変です。その時分にはその地方の長官から、その耕田部の害された度合に比して罰金を取られるです。ソレから刑罰に処せられて、尻を擲《なぐ》られることもあるんです。チベットはソウいう点はよほど面白いので、貴族でも、アリャ貴族だから悪いことをしても仕方がない。打遣《うっちゃ》っておけというようなことはしない。こういうところは一寸面白い。これで防霰税のことはすみました。
その防霰堂の下からまた三里ばかり東へ進んでヤーセという村に着いて、この村の少し東の山の中から流れて出るヤクチュという河があって、それが西北に流れてブラフマ・プットラ河に入っている。しかるに西洋の或る地図には、このヤクチュ河がナムド湖から流れて出ているように書いてあるものがある。これは間違っております。その村から、なお東に進んで行くこと一里ばかりにして、世界唯一の一大奇湖を見ました。
この湖の名をチベット語にヤムドツォといいます。西洋の地図にはレーク・パルテーとしてありますが、パルテーというのは湖水の名でない。湖の西岸にある駅の名であります。何かの間違いで駅名を湖名につけたものとみえます。その周囲は確かなことは分りませんが、およそ七十里余あって、湖水の中央に山脈が連綿として浮んでいる。こういうふうに、湖水の中に大きな山があるというのは、世界に類がないそうでございます。もちろん小さな島のある湖水は沢山にあるのですが、ヤムドツォ湖のごとき類はないということは、よほど地理学上名高い。もっとも南の方には、二か所ばかり外部の岸と中央の山とが陸続きになっている。この山脈が湖面に浮んでいる有様は、ちょうど大龍が蜿蜒《えんえん》として碧空に蟠《わだか》まるというような有様で、実にすばらしい。ただそれのみでなく、湖水の東南より西南に渡って、高く聳《そび》ゆる豪壮なヒマラヤ雪峰は、巍然《ぎぜん》として妙光を輝かしております。ただそういう景色だけ見ても、随分すばらしいものですが、時に黒雲飛んで大風起ると同時に、湖面は大なる波濤《はとう》を揚げて愉快なる音響を発します。
実にその物凄く快濶《かいかつ》なる有様に見とれて、私は湖岸の断壁巌に屹立して、遙かに雲間に隠顕《いんけん》するところのヒマラヤ雪峰を見ますると、儼然《げんぜん》たる白衣の神仙が雲間に震動するがごとく、実に豪壮なる光景に無限の情緒を喚起されました。
湖辺に沿うて東へ一里半ばかり行くと、それから東北へ向って行くようになっている。左側は山続きで、右は湖水を隔ててその湖面に浮んでいる山脈に対しているんです。その湖岸の大分広い道を東、北に向って行くこと二里半ばかりにして、パルテーという駅に着きました。その駅には湖に臨んでいる高い山があって、その上に城が建っている。その城の影が逆《さかさ》まに水に映っているので、夕暮れの景色は実に得もいわれぬ面白い風情である。その城の下の或る家について泊りました。その日は十里余り歩きましたが、景色のよいのでそんなに疲れも感じなかったです。翌三月一六日、午前四時に雲と氷を踏み分けながら湖辺に沿うて東、北に進んでまいりますと、やはり左側は山で右側は湖水である。その道はやや北に向っているけれど、決して一直線についているのでなくって、山のウネウネと畝《う》ねくっている所を廻り廻って、あるいは昇り、あるいは降って行きますので、随分氷で辷りこけたり、あるいは雪の深い中へ足を突っこむこともある。その危険は非常であるけれども、ヒマラヤ山を踰《こ》えた危険に比すれば、誠にお茶の子で、わけなく進むことができました。
≪湖上の弦月と暁の雪峰≫ 暁霧《ぎょうむ》をおかして少しく山の上に登ったところで、いかにも景色がようございますから湖面を眺めますと、碧々《へきへき》たる湖上に浮んでいるところの朦朧《もうろう》たる山脈の間から、正月二六日の弦月が上りかけたその美しさ……。微かなる光が湖面に映って、何となく凄味を帯びておりますが、次第に夜の明くるにしたがって月の光の薄らぐと同時に、南方雪山の頂には暁の星が輝々煌々《ききこうこう》と輝いて、その光が湖面に反射している。これら微妙の光景に旅の苦しみも打ち忘れてボンヤリと見とれていると、足元の湖辺の砂原に赤あるいは黄、白の水鳥が、悠々とあちこちに声を放って行き通い、湖上には鴛鴛《おしどり》が浮んでいる。また鶴の群もすばらしい声を放って、おもむろに歩んでいる。その一際《ひときわ》洗ったような美しい景色は、昨日の凄まじい景に比して、また一段の興味を感ぜられたです。こういうところを朝|未明《まだき》に旅をするのは、実に旅行中の最大愉快である。湖辺に沿うて行くこと五里ばかりにして、朝五時頃に山の間の小さな流れの処に着きました。そこで茶を沸して、その流れの水で麦焦しを喰いますので、湖には水は満々と満ちておりますけれど
≪その水はいわゆる毒水≫ なんです。これにも面白い話がある。その毒水になったという次第は、かの有名なイギリス人のサラット・チャンドラ・ダース師が、昔インドからここに来て――チベット人はわずか二十年前のことを昔という――何か咒咀《まじない》をこの湖水の中へ吹っこんだ。ソウするとこの湖の水が真赤になって、まるで血のような有様を示しておった。ところが或るラーマが来て、その赤味だけをなくしてくれたけれど、その毒が残っているから今は飲めないという。これはチベット人の拵えた妄説であって、取るにたらんことでございますけれども、その水が真赤になったということは事実なんで、ソレは何もサラット・チャンドラ・ダース師がソウしたわけではない。何か湖中の或る変化から、水が一度赤くなったことがあったんでしょう。それがちょうどサラット師が帰って後、間もなくソウいうことが起ったものですから、師がソウいうことをやったような風説が起ったのです。もっともサラット・チャンドラ・ダース師は、御承知のごとくインド人である。けれども、チベットでサラット・チャンドラ・ダース師のインド人であるということを知っているのは、世事通の人だけで、普通の人に皆英国人だというておるです。
とにかくヤムドツォ湖の水は昔から毒があるに違いない。ナゼなれば、これはどこへも流れないでそこに溜っているばかりでなく、その辺にはいろいろの元素がある。現にこの辺の山の間には石炭もあるかと思えるような処もあり、またいろいろ妙な鉱物薬品らしいものが土の中にあるのを見ましたから、それらが溶解して水が毒になっているのであろうと思われる。或る西洋人の地図には、このヤムドツォ湖の水が直ぐに北に流れて、ブラフマ・プットラ河に入るところを書いてあったのを見ましたが、アレらは全くの間違いであるのです。その辺は私共が昼飯をやっているばかりでなく、ほかにこの山河の水で昼飯をやっている者も大分にありました。何分ここはチベット第二の府からして首府ラサへ通ずる公道でありますから、往来の者も随分多い。そこで一人出遇ったのがネパールの兵隊で、よほど瓢軽《ひょうきん》な面白い男でした。ソレから道連れになって一緒にまいったです。
第五十五回 遙かにラサを望む
≪未練な兵隊≫ その兵士は、ラサ府にいるネパール公使を守護するために、行っておったんだそうです。ところが自分の阿母《おっか》さんが恋しくなって、一旦ネパールに帰るというので、シカチェまで帰って行ったところが、ふと自分の内縁の女房にしているラサ府の婦人を想い出して、阿母さんの方を打遣《うっちゃ》っておいて、また後戻りをして来たという、とんまな兵隊なんです。ソレからいろいろ話が出て、ネパール政府はラサ府には何人兵隊を置いているかと尋ねますと、その兵隊を置くようになったのは今より五、六年前のことである。それまでは兵隊を置かなかったのであるという。ソレはまたドウいうわけかと聞くと、ナアに今から十二、三年前にラサ府に大変なことが起ったという話。
そのいろいろな話をつづめていいますと、ラサ府にはネパールのパルポ種族の商人が三百名ばかりいる。これはネパールの国民中でも商売には最も機敏な質《たち》であって、宗教は仏教を奉じている。チベット語の仏典でなくサンスクリット語の経文によって仏教を信じておるです。商売はラサ府では非常に盛んにやっておりますので、大抵その品物は、羅紗《ラシャ》、木綿類、絹類、珊瑚珠《さんごじゅ》、宝石類、西洋小間物、米、豆、玉蜀黍《とうもろこし》といったような物を多く商《あきな》っておるです。
≪娘の裸体吟味≫ ところで今より十三年ほど以前に、そのパルポ商人の或る大きな店へ、ラサ府の婦人が買物に行って、珊瑚珠を一つ瞞着《まんちゃく》したとかいうので、店の主人が大変に怒って調べたがどこに入れてあるか分らんので、その女が嫌だといって非常に泣いたにもかまわず、無理往生に家へ引っ張りこんで丸|裸体《はだか》にして捜したところが、何にもないという。ソコで女が出て来ますと、その様子を見ていた外の人達が、その女にドウいう工合であったかと尋ねたところが、こういうわけだというて、裸体にされた一伍一什《いちぶしじゅう》を話したそうです。それをセラ大寺の壮士坊主が聞いていて、直ぐパルポ商人に向い、ドウも無礼だ、嫌だという女を無理に裸体にして耻辱《ちじょく》を与えるというのは、実に不届千万なわけである。一体本当にソウいうことをしたのかと詰問すると、全くそのとおりやったもんですから、ソウだといって答えたそうです。ソンならよろしいといって、その壮士坊主は帰って行ったが、
≪壮士坊主の襲撃≫ セラへ帰った後、このことを親分に話し、壮士坊主の群れを千人ばかり召集した。その壮士坊主は一人の親分に取り締られていて、親分が命令を発すれば直ぐに集まることになっている。その時分には余り沢山おらなかったので、ソレでも千人ばかり集まったそうです。デその夜ラサ府へ侵入して、パルポ商人の総てを打撲《ぶんなぐ》って殺してやろうというて、その用意をしていると、ラサ府とセラとはわずかに一里半くらいしか隔っておらん処ですから、その風聞がラサ府に聞えた。ソコでパルポ商人は大いに驚き、自分の物も何も打遣《うっちゃ》っておいて逃げ出した。もっとも、逃げ出さずにおった者もあったが、大抵は逃げてしまったそうです。その中に、セラの壮士坊主共は、各々に刀または大きな鍵《かぎ》を提げてラサ府に侵入して来たところが、パルポ商人の家はいずれも戸が締めきってあるので、戸を叩き破って屋内に侵入し、すべてのパルポ商人の財産を奪って持って行っちまったです。もっともその時乱暴したのは壮士坊主ばかりではなく、ラサ府にウロついているところのゴロツキ壮士坊主というような、無頼漢《ならずもの》も沢山に混っていて、セラの壮士坊主と共にパルポ商人の店々に闖入《ちんにゅう》し、夜の明けるまで乱暴狼藉を働いて、夜の明け方にソレゾレ獲物を得て引きあげたそうです。一方のパルポ商人は、その翌日家へ帰ってみると、喰う物もないというような始末。もちろん彼らには田畑というような財産はない。すなわち商品が財産であるのに、その商品の総てと売上の金銭を皆取られてしまい、総ての損害高が二十三万円ほどであったという。
≪チベット政府の損害賠償≫ それが国際問題になって、ちょうど五年ほどもかかったが、結局チベット政府がその損害を賠償することになり、ソシてその談判がすんで後、ネパールの兵隊が二十四、五名、ラサ府へ特に置かれることになったということです。その外交上の談判の主任となった人は、ジッパードルという人で、私がカルカッタで、ネパールのラーマに紹介状をもらって行ったその人であるです。すなわちネパールの大書記官で、今はチベットの公使を勤めているのです。ソウいうような話を聞きながら進んでまいりましたが、ゲンパラ(ラは坂という意味)という急坂を登ること一里ばかりで、山の頂に達しました。遙かに東北の方を見ますと、ブラフマ河が東南に流れて行く。その大河に、東北の方から流れこんでいる大きな河がある。その大河をキーチウ河という。その河に沿うた遙かの空を見ますと、山間の平原の中にズブリと立っている山がある。その山の上に金色の光を放っているのが日光に映じてキラキラと見えている。ソレがすなわちラサ府の
≪法王の宮殿≫ でポタラというのです。そのポタラを隔てて少しく向うに、市街《まち》のようなもの、および堂等の金色の屋根がやはり空中に光を放っている。ソレがラサ府の市街である。ここから見ると実に明らかに小さく見える。しばらくそこに休んで、ソレからだんだん下へ急な坂を降って行きました。三里にしてパーチェという駅に着いて泊りましたが、ドウいう加減か自分の足は履《くつ》に喰われてよほど疼《いた》みを感じたです。この日は雪と氷の中をムヤミに歩いて来たものですから……。ソレに十里半もこの困難の道をやって来たものですから、よほど疲れた。
その翌三月一七日、午前四時に、一里ばかり降って行くとブラフマ河の岸に出ました。ソレからその南岸に沿うて二里半も行きますと、チャクサムという渡し場に着いた。これはブラフマ河の北岸に渡りますので、ここには昔、鉄の橋が架っておったのである。現今は渡し場の少しく下に、その鉄橋の跡に、その鎖繩《くさりなわ》が遺《のこ》っている。しかるに今は、この渡し場を称してチャクサムというている。今ではインド流の長方形の船で人を渡しているけれど、これは冬分だけこういう船で渡すことができますので、夏になれば、こんな大きな船でもってとても向岸《むこう》に渡すことができない。ソレで
≪ヤクの皮で拵えた船≫ があるんです。よほど妙なもので、ヤク三疋の皮を集めてそれを縫い合わせ、その縫い目に水の浸みこまない物を塗りつけて水に浮べますので、冬でも沢山に渡人《わたりて》がなければその皮の船で渡るんです。ソウですから、チベットでは船という名を皮という字でもって現していることがある。すなわち、コーウといえば皮というにも用い、また船ということにも用いている。もちろん皮のことでございますから、湿気が酷《ひど》くなりますと柔らかになって重くなる。だから半日くらい水に漬けておくと、またじきに上に引き上げて日光に乾かしますので、その船は一人で背負って行くことができる。だからこの船をごく上流まで背負って行って、そこで荷物なり人なりを積んで、一日ほどなりあるいは二日ほどなりを降って来て、荷物なり人なりを上げ終りますと、今いうとおり、またその船を上げて乾かすというごく便利なものです。私共は大分に同伴《つれ》が沢山あったので、よほど大きな船へ乗って向岸《むこう》へ渡りました。
第五十六回 法王宮殿の下に着す
≪珍しき柳の葉≫ 河の中の砂原を行くこと一里半ばかりにして、山水|明媚《めいび》ともいうべき岩なり、また柳なり桃の樹なりがある処に着いたです。その樹はいずれも河端に臨んで水に影を宿している。ここは非常に暖かな処で、ラサ府よりもよほど好い気候です。昨日お話したヤムド湖の辺は、地面がよほど高い。海面を抜くこと一万三千五百尺くらいのものであろうと思われる。ところがここは一万一千五百尺ほどで、地の高低も違っている。その上に水辺ではあり、日光の当りがよいものですから、この辺の柳はもはや青い芽を発していたです。実に長らく禿山なりあるいは枯れた樹ばかり見ておった眼には、青い柳の葉が珍しく殊に美しく感じました。荷物はもちろん荷持ちの男が持っておりますから、自分は西北原を歩く時のように、荷のために苦しむということはないのですけれど、足の古い疵《きず》が再発して疼みが非常に厳しくなり、ほとんど歩むことができない。そこへちょうど馬方が来ましたから、その馬方に若干《いくばく》の金をやって馬に乗せてもらったです。ソレから進んで一里ばかり行きますと、チュスルという駅に着きました。この駅は東北の方から流れて来るキーチウ河と、西北から流れて来るブラフマ河との三角洲の間にあり、駅場であって大分に繁昌している。
≪窃盗町≫ しかしラサ府に着くまでの道中で、この駅場の人ほど悪い人はないのです。実に薄情で、その上旅人の物を盗むことがごく上手なんです。荷物でも運送品でも何でもかまわず盗みますが、その盗み方がまたなかなか巧く、盗まれた人も一寸分らんということです。ドウもチュスルくらい盗人の盛んな処はないと、チベット国中で評判していないところはなく、私も前々からチュスルに行ったら注意をなさいということを、度々人から聞いたです。それくらい盗人を巧妙にやりますし、殊にここは、多くの人の寄り集まる処で金も沢山落ちる処ですから、非常に金持が多かろうと思って尋ねますと、他の村方よりは貧乏人が大変に多いという。実に奇態な話です。ソレから私共は充分用心をしてそこで昼飯なんかをすまし、馬がないものですから、歩いて東、北の原に進んでキーチウ河に沿うて上って行きますと、益々足が疼《いた》くなって、ドウにも動くことができない。原の中に坐りこまねばならんようになりましたが、幸いに後の方からロバ追いがやって来ましたので、そのロバに乗せてもらって、四里ばかりの道を経て、ジャンという駅に着きました。
その駅で今まで送って来た荷持ち男は、是非返さねばならんようなことが起りまして、しかたなしに返してしまいました。私は足がますます疼みますし、ドウもしてみようがない。その日は幸いにロバの助けがあったので、十里半ばかりの道は来ましたが、明日はとても進行の見こみがない。ところが、ここに泊り合わせている人で、税肉をラサ政府へ納めに行く者がございますので、その人らに頼んで明日は出かけることになりました。けれども、政府へ納め物に行くからといって、自分の村から馬を連れて来るわけではなく、その駅々からして駅馬を徴発して、それで運送を続けて行くのですから、日に三里か、よくいって四里くらいしか行かないのです。デ私は仕方なくその人らに荷物を託し、自分も馬に乗って進んでまいりまして、その人らと一緒に、足の疲れや疼みを休めるために、ナムという小さな村に泊りこみました。その翌日またキーチウ河に沿うて行くこと二里ばかりにして、その河原に出て、その河原を二里進んでネータンという駅に着きました。
≪新派開祖の建立堂≫ そのネータン駅に、チベット駅で一番ありがたいといわれている解脱母《げだつぼ》の堂がある。この堂は、チベットで新派を開く動機となったところのパンデン・アーデシャというインドの尊者が、ここに来て寺を開かれたのであるというて、非常に名高いのであります。私もそこへ参詣して、その中に蔵《おさ》めてある二十一の解脱母に参拝しましたが、なかなかありがたい姿で、美術的の眼から見てもよほど立派なものと思われた。その翌二〇日、また河の辺に沿うて東北に向って二里ばかり、田畑の中を進んでまいりますと、大きな橋がございました。それを渡って東北に一里半ばかりまいりますと、シン・ゾンカーという駅がある。そこに着いてまた宿ったです。
三月二一日、いよいよ今日は国都ラサ府に入るということになりました。私はその駅から馬を一疋雇い、荷物はやはり税肉を納める者に託して、山と河との奇態な景色の間の道を通り抜けて一里足らず行くと、左の山の手に立派な寺が見える。否、一見したところでは寺とは思えない。ほとんど大村落であろうかと思われるくらい。ソレが全くの寺で、その寺の名をレブンといい、ラサ附近では一番大きな寺である。もっとも、法王の管轄のチベット内ではこの寺が一番大きいので、僧侶の数が七千七百人あるです。ソレは定員の数で、時によると八千五百人、あるいは九千人になることもある。ただし、夏など僧侶が地方へ出稼ぎに行った時分には、六千人くらいに減ることがあるが、とにかくなかなか盛んなもので、そこにやはり大学があるんです。もっとも中央チベットで大学の科目を授ける処は三か所ありますので、一はこの寺、一つは私の住みこんだ
≪セラ大学≫ モウ一つはガンデン〔レブン寺、セラ大学と共に、ガンデン寺は学問寺として有名で、ゴグパリの山上の勝地にある。開祖は新教のツォンカッパであり、兜率天に因んでガンデン(喜楽を有するもの)と名づけた〕というのであります。セラ大学は五千五百人が定員、またガンデンは三千三百人が定員でありますが、これらはただ定員というだけであって、もちろんレブン寺のごとく増減は折々ございます。
その寺の下、すなわち今私共が通っている路端《みちばた》に、ヤクあるいは羊、あるいは山羊を殺す処がある。デ法王がお喫《あが》りになる肉類はここから供給されますので、日々に法王だけの膳に供えるためにお用いになる羊が、七疋ずつなんです。ソレでその羊は法王が召し上るのであるから誠に結構なことだといって、チベット人は大いにその羊を羨《うら》やんで、その毛などを持って帰るそうです。もっとも法王は羊だけお喫りになるのではない。ほかの肉も沢山喫るので、その肉もここで殺して供給します。何もこんな遠い処からお取り寄せにならずに、ラサの市中からお取りになれば、大変都合が好さそうに思えるですが、ラサ府では余りに近い。ドウも法王のために殺すという考えでやられてはかなわない。だから少し遠い処で買うがいいというような主義で、つまり自分が命令して殺したんではないという、いわゆる仏教上の清浄の肉を得んために、ソウいうことをやります。その主意は結構なことから起ったのですが、法王の召し上る肉はここから供給すると決めてあるから、内々命令して殺さしたようなもので、私共から見ると、ラサ府で買うのもあまり違わないと思います。そのレブン大学の下を通りかけて二里半ばかり行きますと、先にゲンパラから見えておりました法王の宮殿の下に着きました。
[#改ページ]
第五十七回 チベット人を名乗る
≪法王の宮殿≫ はドウも立派なもので、その立派なことは図面を見ても分るから、ココに説明する限りではないけれど、ただ面白い一つの話がある。或る田舎者が、或る時バターを沢山ロバに積んでラサ府へ売りに来たそうです。ところが、この立派な法王の宮殿を見てびっくり呆気《あっけ》に取られ、これは神の国の御殿ではないかも知らんと、しばらくはポカンとして見とれておったが、ふと気がついて、ハテ、ロバはどこに行ったか知らんとその辺を見ますと、あちらこちらに別れ別れになっている。ソレからそのロバを集めて来て、一体このロバは十疋おったんだが、モウどこへも行っておらんか知らん。勘定してみると九疋しかおらない。ソコで大いに驚いて、モウ一疋のロバはどこへ行ったろうと気狂いのようになって騒いでいるところへ、ラサ府の人がやって来て、「お前は何をそんなに騒いでいるのか」と尋ねると、「イヤ実は十疋いるロバが一疋失くなったので、ソレを捜している。誰か盗んで行ったのではないかと思って、実に気が気でない。この法王の宮殿に見とれてウッカリしている中に、誰か盗んで行ったとみえる」といって、非常に落胆している。ソレからその人がズッと数《よ》みますと、確かに十疋おるです。「何を馬鹿いっている、ちょうど十疋いるじゃないか」「イヤ九疋しかおらない」「ソウさ。九疋向うにいるから、お前の乗っているのとで十疋じゃないか」といわれて、始めて気がついたというくらい、実に法王の宮殿は、これを見る者の心を奪ってしまうというような立派なものであるという一つ話でございます。
この法王宮殿の山の前を東、南に抜けて広い道を七町まいりますと、長さ二十間幅三間ほどの橋があって、橋の上にはシナふうの屋根がある。その下を過ぎて一町余り行くと、ラサ府の西の入口の門に着きました。その門は一寸シナふうに建てられている。ソレから中へ進んで行って、左の広い道に沿うて二丁余り行きますと、大きな広庭のある処に着いた。ここまでは馬に乗って来たのですが、さてここに、チベットで最も聖とせられ、最も崇拝せられるところのシャカムニ仏の大堂がある。ここに安置してあるシャカムニ仏の由来を聞くに、始めて仏教をこの国に入れられたスロンツァン・ガムポ〔五六九〜六四九、チベット王。西は中央アジアから東は唐にいたるまでの諸国が入貢した。インド、中国の文化を取り入れ、ラサに都を定め、初めてチベット王国を創立した。唐太宗の文成公主《ぶんせいこうしゅ》と結婚し、またネパール国の王女ブリクチを后とするなどの影響によって、仏教を信仰することが深かった〕という大王が、マダ仏教を信じない時分に、シナから唐の太宗《たいそう》の皇女なる文成公主を娶《めと》ることになった。その時分に文成公主はその父の太宗に願うていいますには、チベットは人を殺して喰うという国と聞きますから、かの国がその国に仏法を弘めるという約束をしてもらいたい。また一にはインドから当国に移っておられたるシャカムニ仏の像を御供して行きたいと、この約束が成り立ちまして、ソレで文成公主が一緒にこの国ヘ、このシャカムニ仏をお護り申してまいったので、それ以来このラサ府に安置されているのでございます。
≪チベット仏教および文字の由来≫ 実はこの文成公主がこの国ヘ来てから、仏教および文字の必要を感じて、仏教修行のためかつはチベット文字を拵《こしら》えるために、天資|英邁《えいまい》の人を撰んで十六人、インドへ送ったのでございます。その結果チベットにはチベット文字ができ、その文字で仏経も翻訳されることになって、その後だんだん仏教が起って来たのです。ソレは今より一千三百年ほど以前のことで、歴史上からいってもまたシャカムニ仏の経歴からいっても、非常にありがたいことであります。このシャカムニ仏はシナで拵えたのでなくって、インドから一旦シナに伝わり、シナからチベットに伝わったので、もとこれはインドのビシュカツマー(仏工師)が作ったのでございます。
そのシャカ堂に参拝して、まずめでたくチベットに到着したことを大いに悦び、思えばインドのブッダガヤの菩提寺で、シャカムニ仏にお逢い申したが、今またここでシャカムニ仏にお逢い申すというのは、世にもありがたいことであると、無限の情に迫られて、余りの嬉しさに涙が出たくらいのことでございました。今さら申すまでもなく、私は元来シャカムニ仏を非常に信仰しております。他の仏様もありがたいには違いない。けれども、自分の本当の師と仰ぐべきものは、シャカムニ仏のみであると信じているのでございますから、一意ただその教えのみを奉じて、仏様に対しても真実に敬礼を尽すのでございます。それはさておき、私はこれから
≪どこに落ちつくか≫ ということが問題で、実はラサ府の中にも随分怪しい木賃宿のようなものが沢山あり、また酒舗もあって、人を欺いて金を取るというようなことも聞いておりますから、なるべくならば、自分の知っている処に着きたい。その知っている処というのは、かねてダージリンで知り合いになりましたパーラー家(摂政)の公子、この人がダージリンへ来ました時分に、大変親しく交際して、私がラサ府に着けば必ず充分に世話をするという約束もあり、随分善さそうな人でもあり、かたがた、私もその人のためには充分利益になることをしてやったものですから、もちろん自分が恩を被《き》せたのを鼻にかけて、その恩を返してもらおうために行くのではありませんけれど、ドウもほかにしようがないから、その家を尋ねてまいりました。その家なるものはバンデーシャといい、屋敷が一丁四面ほどあって、ナカナカ立派なものです。行って尋ねますと
≪頼む木蔭に雨が漏る≫ とでもいうのですか、その私の尋ねる公子はおらないという。どこへ行ったかといいますと、彼は気狂いだからどこへ行ったか分らないという答えなんです。私もその時には驚きまして、「ソレはいつ気狂いになったか」と尋ねますと、「もう気狂いになってから、二年にもなる」という話。「本当の気狂いですか」と聞きますと、「ソレは気狂いでない時もあれば、気狂いになっている時もある。ちっともわけが分らぬ」といいますから、「しかしその人はどこにいるか」といったところが、「ナムサイリン(兄の別宅)という処に往っている」という返事です。ソコで余儀なくナムサイリンへ尋ねて往ったところがそこの家にも不在で、その家の者もやはり前と同じような答えをしておるです。しかし、少し待っていれば来ないこともあるまいというので、二時間ほども待っておりましたが、またよく考えてみると、精神の錯乱している人に遇ってみたところが、別だん頼みになるわけでもないから、コリャ一つセラ大寺へ直接《じか》に出かけて行って、ソレからマア仮入学を許してもらい、折を見て試験を受けて、大学に入る分別をするのが一番身に取って都合が好いと思いましたから、直ぐに荷持ちを雇い、北方に向ってセラという大寺のある方に出かけてまいりました。
やはりこれもレブン寺と同じく山の麓の段々上りの処へ、上へ上へと建てられているので、こちらから見ますとちょうど一村落のように見えておるです。それへ指してその荷持ちに案内されて午後四時頃着き、ピーツク・カムツァンという僧舎ヘ尋ねてまいりました。一体私は前の手続きによるとシナ人であるというておったんであるから、パテー・カムツァンというのに行かなければならんのですけれど、そこへ行くとシナ人という化の皮が現れる憂いがあるから、西北原の方から来たのを幸いに、西北原の或る部内の者であるといって、ピーツク・カムツァンに着いたんです。
モウその時分は、長い間|鬚《ひげ》も剃らず髪も摘まず、湯にも何にも入らんのですから、随分顔や身体もチベット人のように汚なくなっておったでしょう。デ私は、チベット人としてその寺に住みこむというような決心をしたです。実はチベット人としての入学試験は、私に取ってはむつかしいわけであるんですけれど、俗語の使用はほとんどチベット人と変らんようにできるものですから……。折々どこへ行っても、チベット人として取り扱われることも沢山あったです。この様子なら、チベット人というても気づかいあるまいというので、マア自分の一時の居処を安全にするために、ソウいうふうにして入ってまいりました。そのカムツァンというのには一人の長がありまして、それは年番である。私の行った時分の長はラートエパという人で、ごく親切な無邪気なお爺さんでございました。その人の舎《うち》に泊りこんで、私はここに仮入学をしたいが、ドウいう手続きにすればよいかと尋ねますと、いろいろ教えてくれました。
≪セラ大学の組織≫ まずこのセラ大学について、一寸説明をしておかないと分らんことがあるから、ここでその内部の大略だけ申しておきます。セラ大学を大別すると三つになっているので、一はヂェ・ターサン、一はマエ・ターサン、もう一はンガク・バ・ターサンというこの三つで、ヂェ・ターサンには僧侶が三千八百人、マエ・ターサンには二千五百人、ンガク・バ・ターサンには五百人おるです。またンガク・バ・ターサンを除く他の二つの内には、カムツァン(僧舎という意味)というのが十八ずつある。その中には、大きいのもあれば小さいのもあって、大きなカムツァンには坊さんが千人もいるですが、小さいカムツァンには五十人くらいしかおらないのもあるというように、いろいろに分れている。私のいたカムツァンには二百人いたです。デ、カムツァンにはそれぞれカムツァンの財産がありますが、それらを纏《まと》め一つに統《す》べたものをセラといっているのです。
これはもうごく大体の分ち方で、その中には細かな区別《わかち》もいろいろありますが、それは専門に渡りますからよします。
第五十八回 壮士坊主
≪修学僧侶と壮士坊主≫ なお一つ話しておきたいのは僧侶の種類です。大きく分ちて二通りある。その一は修学僧侶で一は壮士坊主。修学僧侶はその名のごとく学問をするために来ておりますので、これは幾分の学資が要るです。沢山でもありませんけれど、ドウ始末しても月に三円くらい、当り前にやれば八円もかかります。ところでこの修学僧侶は、その学資を使ってセラ大学の科目となっている仏教上の問答を学びますので、二十年の後にはこの大学を卒業するようになっている。ソレも普通のことは自分の寺で学んで来ておりますから、大抵、大学の卒業は三十歳か三十五、六歳の人が多い。特に利発の人であると、二十八歳くらいでその修学を終って、博士号をもらう人も稀《まれ》にはあるです。
ところで壮士坊主というのは、もちろん学問を修行するだけの学資金がない。けれども、やはり僧となってそこへ入っておりますので、何をするのかというと、野原に集めてあるところのヤクの糞を背負って来るとか、あるいは南方のサムヤエ、あるいはコンボから運んで来たところの薪を、ラサ河端からセラまで運んで来るというような仕事をします。ソレから修学僧侶の下僕《しもべ》にもなるです。それらはマア良い方の仕事で、なお大きな笛や笙《しょう》・篳篥《ひちりき》を吹いたり、太鼓を打ったり、あるいは供養物を拵えたりするのも、やはり壮士坊主の一分の仕事になっているのです。
≪壮士坊主の課業≫ これはマア下等な僧侶としてなすに恥かしからぬ業《わざ》であるけれども、壮士坊主といわれるだけ、奇態なことを課業としている奴があります。その課業は毎日或る山の中へまいって、大きな石を打投《ぶんな》げるんです。デその大きな石をドノ辺まで投げたかという距離の程度によって、その筋肉の発達いかんを試《た》めし、あるいはまた、それをどこへ当てるかという的をつけて、ソウしてその石を打投げるということを奨励します。また高飛びもやるです。走って行って山の上へ飛び上るとか、あるいは岩の上から飛び降りるとかいうようなことをやるんです。その間には大きな声で俗謡を歌う。その声が非常に大きくって、どこまでもよく通って美しいというのが壮士坊主の自慢で、ドウだこのくらいの声なれば、向うに張ってある窓の紙を破り抜くことができるだろう、というようなことをいって誇っているんです。その上にまた棒の擲《なぐ》り合いを始める。それらが日々の壮士坊主の課業で、寺にきまった用事がなければ、必ずそれらの者が三々五々隊をなして、思い思いの場所に到って、その課目を怠らず修練している。
ソウいう坊主は、一体何の役に立つだろうかという疑いが起りましょうが、これがチベットでなかなか要用《いりよう》なんです。時にラーマが北原とか、あるいは人のいない地方へ旅行する時分には、壮士坊主が護衛の兵士となって行きますので、なかなか強いそうです。自分に妻子がないから死ぬことは平気なもので、何とも思わずに猪武者で戦いをやるものですから、チベットでは坊主の暴れ者はしかたがないという評判さえ立っておるです。ソウしてまた、壮士坊主は喧嘩をよくする。けれども、出遇いがしらに喧嘩をやるということは稀《まれ》なんで、何か一つ事件が起らなければムヤミにはやらんです。その事件というのも、金銭上に関係したことは余りない。いつも綺麗な小僧さんが種になっておかしい問題が起るです。昔、高野山にあったような、アアいう卑しい情欲を遂げる遂げぬという場合、すなわち彼らが自分の小僧を盗んだとか盗まれたとかいうような場合には、公然決闘を申しこむんです。申しこまれた時分には、ドンな者でも後へ退くというようなことはしない。退けば、その時限り、壮士坊主の仲間から刎退《はねの》けられて、寺にいることができない。その壮士坊主にもチャンと親方もあり、またその仲間の規則もチャンと立っておって、その規則を司っている奴がある。ソレは寺内では公然の秘密で、つまり寺内の僧の長官も何か事の起った時分には、その壮士坊主の長に命じて、いろいろ働きをさせるものですから、まず壮士の長や壮士坊主等が、僧侶にあるまじき行いをしているのを、公然の秘密として許しているのです。
≪壮士坊主の決闘≫ ソコで両方とも承諾していよいよ決闘となりますと、処をきめて大抵夜分出かけて行く。ソウして各自に刀をもって果し合いをやるのです。ソレには立会人があって、どっちのやり方が善いとか悪いとかいう判断を下します。余り卑怯《ひきょう》なやり方をすると、そのやり方をした奴が殺されるまで、打遣《うっちゃ》っておくそうです。しかし、どっちも好い塩梅《あんばい》に出かけて、どっちにもよいほどの疵《きず》がつくと、立会人はその喧嘩をよさしてしまう。デそのまま事をすませよというて、ラサ府へ引っ張って行って酒を飲むのだそうです。もちろん、酒はセラの寺内では非常に厳格に禁ぜられておりますから、決して飲むことはできないけれど、ラサ府に行けば壮士坊主の中には随分酒を飲んで、横着なことをやる奴が沢山あるそうです。
私はその後思いがけなくお医者さんという評判を取ってから、非常に壮士坊主に敬《うや》まわれたです。ソレは何故かというに、彼らが高飛びをして足や手を脱《ぬ》かすとか傷《いた》めるとかいう時分には、直ぐに私の処にやって来ます。来ると、私がそれ相当の療治をしてやると、奇態にまたよく癒《なお》るです。アアいう半開人の病気とか傷とかいうものは、よほど癒りやすいものとみえる。殊に腕の脱けたのなどは直ぐに癒っちまうものですから、彼らは大いに驚いて、我々壮士仲間には特に必要なるドクトルであるといって、非常に賞讃したです。ところで私はソウいう人間から決して礼物を取らない。大抵は薬も施してやる。療治も施してやる。向うから強いて品物の礼でも持って来れば受け取ってやるが、大抵は取らない。ソレがまた先生らの大いに気に入ったので、果し合いなどをして腕を落とされたり、あるいは顔を切られた者で、他のチベットの医師にかかると必ず片輪になって、一生不自由な思いをして暮さなければならん者が、私の処へ来ると、傷薬を貼《つ》けたり、傷を洗ったり骨つぎをしたり、いろいろの世話をしてやるです。ソレが別に片輪にもならず、ドウかこうか都合好く癒るというような工合で、実に彼らは悦んだです。それ故に私は大いに
≪壮士の喝采《かっさい》を博し≫ どこへ行っても壮士が舌を出して敬礼をするようになり、その壮士が影となり日向《ひなた》となって私を護るために、便宜を得たことが沢山ございました。で壮士は非常に義の堅いもので、貴族僧侶のごとき表面は優しいことをいうておっても、陰険な心をもって人を陥しいれ、自分の利益、自分の快楽のみを謀っている者に比すると、やることは随分乱暴ですけれど、その心に毒のないことはむしろ愛すべきである。その他にもなかなか愛すべき点が沢山あるように、私はしばしば感じました。かえって柔らかい物に巻かれ、あるいは上等の羊毛布に巻かれているようなラーマ連は、非常に卑しい陰険な者が沢山あって、交際するにも非常に困ったことが折々あったです。これで僧侶の区別《わかち》が二つあるということが、よく分ったろうと思います。
さて私はもちろん修学部の僧侶になるのですから、その方向を執らなくちゃあならん。ところで大変私の頭の毛も髯も伸びている。十か月ばかりも剃らないから非常に長くなっている。その長いのが寒い処を旅行するには、ごく暖かで都合が好いものですから、そのままに打遣ってあった。その翌日、剃髪《ていはつ》します時分に髯も一緒に剃ってくれといいましたところが、私の頭髪《かみ》を剃った坊さんが大いに驚いて、冗談いっちゃア困るという。ナゼかといいますと、髯を剃るということは大いに愚かなことである。せっかく生えたこういう立派な髯をドウして剃ることができますか、剃ったならば、この辺では皆あなたを気狂いというでしょう。本当のことをいってるのか、冗談ですかといって、決して本当にしない。ソレでしかたなく立派でもない髯がその時に残りまして、今まで存しているので、これがすなわちチベット土産《みやげ》なんです。
≪仮入学の手続き≫ 純粋のチベット人は髯が生えない。カムあるいは辺鄙《へんぴ》の人は髯が生えますけれども……。ソコでチベット人はどんな髯でも非常に珍しがって、自分もその髯のあらんことを非常に求め、私が医者になってから後も、髯の生える薬をくれろというて、非常に沢山な人から頼まれて困ったことがございました。あなたの髯は、多分薬をつけてそんなに立派に生やしたんだろうというようなことをいうて、折々迫られましたが、その日にそこの正規の帽、靴、数珠というようなものを買い整えた。法衣《ころも》は先にもらってあるもので間にあうから買わない。デ私の学部のヂェ・ターサンの大教師に逢いにまいりました。
この大教師は一々人を点検して仮入学を許す人です。この時には試験も何もない。ただチベットで一番よく拵《こしら》えた進物のお茶を一本持って逢いにまいりますと、「お前はどこであるか、お前はドウもモンゴリヤ人らしいが、ソウではないか」と、頭から尋ねられたです。「イヤ実はソウじゃございません。ツイ西北原の方から来ました」というと、その方はなかなかチベットの地理に委しいものですから、いろいろ質問されましたが、もちろん自分が困難して経てまいった地方のことですから、ドンな質問を受けても立派な答えができました。ソコで
≪仮入学許可≫ 仮入学を許されることになりましたから、私はそのラーマに対し舌を出して敬礼いたしますと、やはり右の手を頭につけて、ソウして赤い切布《きれ》ですが、二尺ばかりある切布の裂いた物を首にかけてくれたです。それをもらったのがすなわち仮入学を許された証《しるし》なんです。しかし、チベットでは尊いラーマに遇いに行くと、こんな赤い切布を首にかけるのが例になっております。ソレで私は引き取りましたが、今度は僧侶の中の法律を司っている執法僧官に遇って、また許しを受けねばならん。ソレはもう大教師の許しを受けて来れば、決してむつかしいことではないので、直ぐにすみました。これでマア仮入学ができたんですから、これから大学の議論部に入る試験の下拵えをしなくちゃアならん。ソレについては師匠の選定も必要であるから、その翌日師匠を頼んで、ソレから自分が師匠から学んだところを充分研究したですが、一人の師匠では沢山なことを学ぶことができないから、二人頼んで調べてもらいました。
デ毎日々々その下調べのみにかかっておりましたが、ここに妙な奇遇が起って来た。私の住んでいる向う側の大きな僧舎にいる、大変肥った学者らしいラーマがあるです。或る日、その方が私を呼んで話に来いというものですから、そこへまいりますと、「あなたはこの間、西北原からサッキャアという寺までルトの商群と一緒に来られた方じゃないか」という。「ヘエそうです」。ところが「ソレで分った。私の弟子はその商群の一人である」。「ソレは誰ですか」と尋ねたところが、最も私に親切にしてくれたトブテンというごく優しい人で、始めに私に肉を喰わんか、イヤ私は喰わないという答えをしたその人なんです。それがこの学者の弟子だそうです。ソコで私が西北原の人であるというて、入っていることの
≪化の皮≫ が現れて来たんです。「ソレじゃア、あなたは西北原の人ではないじゃアありませんか」とこうやられた。その時分の話に「あなたはシナ人でシナ語をよくし、シナ文字をよく知ってるということを私の弟子はいっているが、ソレはドウか」という詰問。「イヤそのとおりです」とこう答えると、「ドウもソウいうふうに嘘をついていると、ここに大変困難なことが起って来る。シナ人なればパテー・カムツァンに行かなければならん。ところで私の方に入れておくと、パテー・カムツァンの方から裁判を起して来て、大いに私の方に厄介をかけられる、困ったことが起った。ナゼそんなことをなすったか」と尋ねたです。ソコで私は「ソリャ、シナ人には違いないが、ドウもパテー・カムツァンにシナ人として入って行くとお金が沢山かかる。ところで私は西北原で泥棒に遇ってお金をすっかり取られてしまったから、自分の行くべき本当のカムツァンに行くことができない。多分私が西北原で泥棒に遇ったことは、お弟子からお聞きでございましょうな」というと、「ソリャ聞いて知っている。実に気の毒なわけだ」という話。「それのみならず、パテー・カムツァンに行くと、シナ人は一年経たぬ間にそのカムツァンの役を勤めなければならん。その役を勤めるにも沢山の金がかかるという。だから私はドウも自分の本当の舎に行くことができなかったので、この秘密を打ち明けておきますから、ドウかここにおられるようにして戴かれないでしょうか」と頼みますと、「ソウいう都合なら、分るまで打遣《うっちゃ》っておけ。分ったところが金がないから行けないといえば、ドウにか方法が立ちましょう」と、ココでうまくその一段落がすんだです。私は本当の日本人であるという点からみると、ここでシナ人といったのが秘密になるわけであるから、二重の秘密を保って、公然西北原人として止まることになったのでございます。ソレで毎日毎夜勉強を重ねたものですから、大分に肩が凝り、肩癖風《けんぺきかぜ》を引いてどうにもしかたがないものですから、自分自ら血を取り、それからラサ府のシナ人の売薬店へ薬を買いに行って服《の》みましたところが、早速|癒《なお》りました。
第五十九回 チベットと北清事件
≪大清国皇帝の大|祈祷会《きとうえ》≫ 七月七日のこと、大清国皇帝のために戦《いくさ》に関係した祈祷会があって、なかなか盛んな式だといいますから、それを見にまいりました。デその祈祷会を見ますと、ツォーチェンというセラの大本堂からして、練り出すところの戦争的準備のごとき有様は、実に勇ましい姿である。真っ先に笙篳篥《しょうひちりき》、太鼓、大笛、足取を揃えその次に金|香爐《こうろ》。それに十二、三から十五にいたるまでのチベット人としては、最も麗《うる》わしい子供ばかりを選り集めて立派な法衣を着せ、五色のシナ縮緬《ちりめん》で飾りをつけ、その子に例の香爐を持たして香を焚かせている。ソウいうのが十名ばかり。その後に続いて、両側に鎗《やり》の形で上部《うえ》はちょうどシナ風の剣のごとく、その刃先はベロベロと動いている。その刃先の下に鍔《つば》のようなものがあって、それから金襴《きんらん》あるいはシナの五色の上等縮緬が一丈六尺ほどさがっている。その全体の長さは二丈五尺ほどある。
それを強壮な壮士坊主がようやくのことで持って行くようなわけで、肩にかけてさえ二人でようやく持って歩くくらいのものですから、ナカナカ重い。もちろんその柄は銀あるいは金|鍍金《メッキ》などで飾りつけてあります。なかなか立派なものです。ソウいう飾りのついた鎗が両側に五十本あって、それからその後に、長三角形に拵えた高さ六尺くらいになっている板に、バターでいろいろ模様を置いたものを持ってまいります。その次に、やはり長三角形で四尺くらいの高さになっている麦焦しと、バターと蜜などで捏ねて拵えた赤い煉物を持って行く。それらは皆七、八人が手に提げて行くので、その後にチベットでは最も麗わしい法衣を着け、その上に絹の袈裟を着ている僧侶。
それらは皆何れも高価なもので、チベット人の目を驚かすにたるものです。ソウいう僧侶が二百人ばかりもまいり、その中の半分は太鼓、半分は鐃鉢《にょうはつ》を持っております。その後に、この秘密法を行うところの主任者である大ラーマが、最も立派なる装束を着け、ソウして自分の僧官に相当した僧帽を戴き、静々と歩んで行く。またその後には弟子達が沢山に扈《つ》いて行きますので、チベットでは非常な観物です。ですから、ラサ府の市民もやはり沢山に観に来ております。
大本堂から繰り出して、僧舎の間を二町ばかり下って石塀の外に出ますと、広庭になっている。それはラサ府まで見はらしの広庭である。その広庭を二町ばかり下に降りますと、そこに草家葺《くさやぶ》きのようなものが、竹、木、麦|稈《わら》等で建てられている。その前に着くと、主なるラーマは、先を剣のごとくにしてある三角形のバターの紋付の荷物と、鎗形にしてあるものと、麦焦しで拵えた三角形のものに対して、何か唱え言をする。そのグルリには二百人ばかりの僧侶が太鼓を打ち、鐃鉢《にょうはつ》を鳴らしておるです。ソウしてお経を読み出すその間に、一人の僧侶が鐃鉢を持ってその大勢の僧侶の中を踊り廻るのですが、その踊り方がよほど面白く、太鼓と鐃鉢の調子できわまって行きます。これはちょうど音頭取りのようなものです。だがその鐃鉢を打ちながら踊り廻る様子の活溌で、またその素振りの面白いことは、他の国の舞曲とかダンスとかいうようなものとは、よほど違っている。ソウいうことをやっている中に、時機を計って主任導師が数珠を振り上げ、打ちつける真似をしますと、槍方の僧侶が槍をその草屋の内に打ちつけます。ソレから麦焦しの長三角形も、やはりその草屋に打ちつけると同時に、それに火を放《つ》ける。デ煙と火が炎々《えんえん》と空に上ると、僧侶はもちろん見物人も大いに手を叩いて、ハキャロー、ハキャローと幾度か大きな声で唱えます。ハキャローというのは、真の神が勝つなりという意味である。ソレで式を終るのでございますが、随分仏教上の主義としては、厳烈にして勇壮な有様を呈しております。
これは大方秘密仏教の特色であるかも知れない。その翌日チョエン・ヂョエという法会のために、この寺の僧侶はすべてラサ府へ引き移ることになりました。この法会はチベット法王が、一年の間安穏に過ごさるるようにという大祈祷会で、一か月ばかり続きます。チベットではこの大法会が、第二番目の法会だということである。それがために私もラサ府へまいって、パルポ商人の二階に宿を借りました。
≪北清事件の取沙汰≫ ソウすると都は都だけに、支那の戦争についての風聞もよほど高い。これはシナから帰った商人、あるいはネパールから来た商人等が持ち来ましたところの、風聞であろうと思われる。もちろんチベットからインドへ交易に行く商人も、幾分かの風聞を持って帰ったのである。その風聞《ふうぶん》がなかなか面白い。雲を掴むような話で、あるいはシナの皇帝は位を皇太子に譲って、どこかへ逃げて行っちまったともいい、ナアにそうじゃない、戦争に負けて新安府へ逃げたのである。ナゼ戦争に負けたのだろうかというと、ソレは悪い大臣があって、シナ皇帝の嫁さんに英国の婦人をもらった、ソレから騒動が起ってトウトウ負けることになって逃げたのであるとか、イヤ日本という国があるそうだが、それがなかなか強くて、トウトウ北京を取ってしまったとか、またシナは饑饉《ききん》でもって何にも喰物がなくなったから、人が人を殺して喰っている。デ全く郎苦叉鬼《ラクシャキ》の国に変じかけているとかいうような、取り留めのない風聞も沢山ありました。その後ラサ府では、日本ということについて少し知って来たです。
これまで日本という名さえ知らなかったんである。殊に商法人などは事実であったことか、ないことか知りませんけれど、日本という国はよほど義気に富んでいる国で、戦争に勝って北京を取ってしまったけれど、北京が饑饉の時分に、自分の国から米、麦、あるいは着物など船で沢山持って来て、ソウして幾百万の人を救うた。ソウいうエライ国であるというような良い評判もある。また或る一方には、ナアにそんなことをやるのは好い加減にゴマカスので、実は日本という国はイギリスと一緒になって戦争をやるくらいの国だから、やはりイギリスのように余所《よそ》の国ばかり取ることを目的にしているんである。そんな義気などあったもんじゃない。つまり、やり方が上手なんだというようないろいろな風聞があって、ドレがドウとも取り留めはつかんけれど、確かにシナと各国連合との戦争があったというくらいのことは、確かめられたです。
ちょうど私が泊っているパルポ商人は、その時分にネパールの方に帰るということでございましたから、幸いであると思って、インドのサラット博士と、故郷の肥下氏とに出す手紙を認《したた》めて託しました。幸いにその手紙はこちらに着いたです。こういう手紙を託するのは実に困難です。何故ならば、その人の気風をよく知って、決して他言せぬとか、あるいはまた充分こちらを信用しているとかいうような点がなくては、ムヤミに頼むことができない。随分善い人でございましたから、その人に託して出したわけです。さてこの
≪チョエン・ヂョエという大法会≫ は私共がかつて見たことのない法会で、二町四面のシャカ堂のその中に、一町四面の根本シャカ堂がある。その間に広き敷石詰めの廻り路がある。普通の僧侶はその廻り路へ集まって来ますので、その二階三階にも僧侶の集まる処がある。デ、シャカ堂の中へは、法王あるいは大教師というようなものでなくては、入れない。もっとも、そこへお越しになることもあれば、ならぬこともありますので、その法会に集まる僧侶はおよそ二万人くらいのものです。だがこれは、第二番の法会であるからそのくらいですが、第一のモンラムというシナ皇帝の大祈祷会の時には、二万五千人くらいの僧侶は確かに集まるです。
ソレは朝五時くらいに召集の笛の音を聞きつけて、ラサの市中に泊っている僧侶が皆そこへ出かけて行きます。ソウしてお経を読むと、例のバター茶を三遍もらうことができるです。そのもらうからもらうまでの時間が、三十分ほどずつありますので、その間はお経を読んでいなければならん。さてその二万の僧侶が集まるといったところで、本当の僧侶というような者は誠に少ないので、壮士坊主とか、あるいは安楽に喰うのが目的で、バター茶をもらうのが目的で来るような僧侶が沢山ある。ですから、お経を読むのじゃない。鼻唄なんか謡う奴もあれば、あるいは大いにその中でもって、腕角力《うでずもう》など取っている奴もある。ソレはなかなか面白い。もっとも厳粛な式を行っている処に行けば、いずれも真面目な顔をして真面目にお経を読み、いかにも真実ありがたく見えているですけれど、普通の壮士坊主共が寄り集まっている処に行くと、男色の汚ない話、戦争の話、泥棒の話が主であって、果ては俗間の喧嘩の話から、中には真実喧嘩をおっ始めてブン擲《なぐ》り合いをするというような始末です。なかなか騒々しいことは容易でない。
第六十回 セラ大学生となる
≪壮士坊主の警護僧≫ こういう壮士の状態ですから、ソレを整理するために警護の僧があって、善いも悪いもない、喧嘩両成敗で両方をブン擲る。何かグズグズいっておれば直《じき》にブン擲る。ですからその警護僧を見ますと、互いに警戒して、「オイ来たぞ」と袖《そで》を引き合い、眼と眼で知らすというわけ。ソレでもドウかすると知らずにいる時に、不意と出て来られて、酷い剣幕で頭といわず身体といわずブン擲られるもんですから、中には頭を割り血を吐く奴もあれば、甚だしきは殺される奴も折々はあるです。殺されたところが別にしてみようもない。また殺した人間が法律に問われることもなけりゃア、何にもない。デその死骸は鳥に喰わしてしまうです。
話は旧《もと》へ戻りますが、ソウいうふうにして、壮士坊主は朝二時間ばかりそこで過ごします。その間にはもちろん、茶でもって麦焦しも喰い腹も拵《こしら》える。ソレからしまいにはお粥《かゆ》が一杯ずつ出るですが、そのお粥を取る時の競争といったら、実にたまらんです。もっともその粥は米で煮てあるのが多い。それは施主があって施すので、その中には肉が大分に入っている。その粥なり茶を受ける椀は、小さいので三合、大きなので五合くらい入るのを持って来ている。それで粥を一杯に茶を三杯引っかけると充分なもので、ソレから自分の舎へ指して帰り、道でゲ(ゲは徳を施すの意味)をもらうです。或る信者がその二万人の僧侶に対して、二十五銭とか五十銭ずつとか施すので、ソウいう点にはチベットの大商法家あるいは大地主、あるいは官吏等の沢山財産ある者は、思いきって布施金を出します。デ多い時分には八、九千円の施しをする人もある。ソレは一軒ばかりでなく沢山あります。特にモンゴリヤからソウいう布施金を沢山持って来る者がある。すでにロシア領のモンゴリヤ人
≪ロシアの秘密探偵≫ の僧侶で大博士で、そしてツァン・ニー・ケンポ(定義教師)の官である人は、ソウいうゲを何遍か施したです。それ故その人の名声はチベットで旭日《きょくじつ》のごとくに輝き上って、今もなおその名声が盛んである。一人でそれだけ沢山な施しをしたからといって、別だん特遇を受けるということもなく、ただそれを上げて、自分の道徳を積んだというて喜んでいるのであります。もちろん、その者に仏教上の信心がなくっても、これを上げるのを名誉とし、またそれを多く上げるのを、商法的生活にしている商業家もあるようでございます。
何しろソウいう物を沢山もらうのですから、その時には僧侶は一番金のよく廻る時です。ところが金と喰物の余計できた時が、いつでも小言が沢山起って、喧嘩が余計できるのです。ソウですから、この時には最も決闘が多いけれども、ラサの市街でジキに決闘をやることができんからして、どっか他へ指して行ってやるということになる。ソレからここで決闘をやる約束をしておいて、自分の寺へ帰ってからやることもある。というのは、この時の執法官は各自の寺々の執法僧官ではなくて、レブンという寺の執法僧官が総てを統轄しますので、そのやり方が非常に残酷である。罰金を取ることも実に酷い。それ故に彼らはその点を恐れて、この時にはなるべくやらんようにして、ここに原因を起した決闘を、寺に帰って後やることが多くあるんです。
≪練り物行列≫ その法会の終りの日に大いなる練り物がある。ソレは一口にいい尽すことができない。始めに四天王の装束を着けた者、それから八部衆の大王達、いずれもその種類の面を被り、五百人あるいは三百人ずつの同勢を連れている。その同勢も皆同じような面を被り、種々異様なふうをして行く。なかなかその様子の面白いことは、容易に形容ができない。それらは皆日本の練り物のごとくに厳格のしかけで行くのではなく、思い思いにふざけて行くので、中には見物人にふざけ廻って行く奴もある。デその間には太鼓、笙篳篥《しょうひちりき》、インド琴、あるいはチベット琴、笛など、いろいろ楽器類および宝物を持って行くのです。その中でも殊に眼に立ったのは龍の種類で、いろいろの宝物が龍宮に沢山あるというので、その形を現したいろいろの宝物がある。これは要するに、およそチベットにある、ありとあらゆる器具、宝物、衣服類その模様、古代より伝わっているところの風俗の有様、インドの各種族の風俗の有様等を現したものが、一里ばかり続いて行く。私はその行列を一遍見ただけですから、今記憶を喚び起して、これだけのことをいいましたので、その細かなことはなかなか話しきれない。
≪行列の由来≫ これは妙な考えから、こういう行列が起ったのだそうです。ソレはチベットの新教派の五代目の化身で、ンガク・ワン・ギャムツォという法王が、夢に極楽世界の練り物を見たその夢の順序に従って、始めてこういう練り物を始めたんである。なるほど蜃気楼《しんきろう》のごとく湧いて出たようなやり方の練り物で、実に奇観きわまっているのでございます。
私は秘密なことを見、あるいはいろいろのことを聞きたいために、他の僧侶のごとくそんなにお経を読み、かつ茶を飲みに行くためには行かなかった。ドウいう様子か、その様子を見るだけに折々は行ったけれど、その他は隠れて勉強ばかりやっていました。ソレはナゼかというと、このことの終らない前に大学に入学試験がありますので、その入学試験に及第したいからであります。ところが例のごとく、また勉強の酷いために病気になった。ソレで以前のごとく、薬を買うて飲んだので早速癒った。ソウいうようなことを、私に近づいている人達はよく見て知っておったです。デ折にはいろいろのことを尋ねるです。「あなたは医者の道を知っているのか」「イヤ実は医者のことは知らんのだ」「知らんことはあるまい。自分で薬を買いに行って、自分で自分の病気を癒すくらいだから、きっと知っているんだろう」「そりゃマア少しくらいのことは知ってるけれども、そんなに深いことは知らん」と、こんなこともあったです。こういうことが、後に自分が医者をやらなくてはならんような原因になって来ました。
≪入学試験の及第≫ ところが、その法会の半ばに試験があるからというので寺に帰って来ました。ちょうど四月一八日でございましたが、その試験を受けにまいりました。試験の受け人が四十名ばかりであった。いろいろの問題に対して、筆記で答えるのと口頭で答えるのと二つです。ソレから暗記の経文もありますので、この三科はマアチベットで中等の科目を卒業した者ならば、ちょうどその中に入れるようになっているのです。案外問題も易《やす》かったもんですから、早速合格しました。しかし随分ソレでもむつかしいものとみえて、四十名の内で七名落第いたしました。私は幸いに、その大学に入学を許されたです。
デこの入学を許されるということは、ただ修学坊主だけではない。また壮士坊主にもあるです。壮士坊主中の野心ある奴は、借金しても入学し得らるるまで、一生懸命に勉強するです。入学するというたところが学問するために入学するのでなく、大学に入れば政府よりして、いわゆる大学僧侶の学禄なるものがあって、一か月に一円あるいは五十銭、時によると二円ももらえることがある。ソレはごく不定《ふきまり》ですが、とにかく年に十円くらいの収入があるです。それをもらうために、壮士坊主がその試験に応ずることが沢山ございます。私はいよいよ大学の生徒として一番始めの級へ入りました。スルとそこには十四、五の子供から四、五十歳までの僧侶がおって、問答を稽古しますので、その問答は我が国の禅宗のようなやり方とは、全く違っておるです。ソレはよほど面白い。また非常に活発である。甚だしきは他から見ますと、ほとんど彼は喧嘩をしているのではなかろうかと見らるるほど、一生懸命にやっておるです。(下巻につづく)