まずは一報ポプラパレスより
第4話 ブランシャール嬢はお悩み
河出智紀
プロローグ
ミオ卿に呼び出されて王女の執務室に行くと、グリーナ王女が二人いた。
「あれ?」
私はその場で立ち止まって、三度まばたきした。それから目をこすってみたが、頬をつねる前に、二人の王女のそばに立っていたミオ卿が笑って言った。
「おはよう、トランス。どうしたんです? ゆうべは遅かったんですか?」
「いえ、そういうわけでは。そちら……殿下、ですよね?」
「そうですよ」
「そちらは?」
「殿下です。どうかしましたか?」
「ええ、その……言っときますけど、二日酔いじゃありませんよ。殿下がふたり、見えるんですが」
「ええ。おふたり」
執務机のグリーナ王女と、その隣に立っていたグリーナ王女が、同時に顔を上げてこっちを見た。座っているほうが、不思議そうな顔をする。
「どうした? トランス」
「いえ……待ってくださいよ」
確かに昨晩、寝酒は飲んだ。しかしそれも水割り一杯だけだから、残っているはずがない。実際頭痛も吐き気もない。
だが……。
「ええと、やっぱり私は酔ってるんでしょうか?」
「朝っぱらから何を言ってる。酔ってるのか?」
「いえ酔っては……いや、酔っているのかも……」
私が混乱していると、ミオ卿がくすくす笑い出した。すると、もう一人のグリーナ王女も、一緒になって笑い出した。
「あはは、おもしろーい。ねえ、姉様ねえさま。お話しどおり、トランスっておもしろい人ね」
「いつもこんな調子だ。飲み込みが悪くて困る」
「姉様……?」
言われて、私は二人目の王女をしげしげと観察した。思い当たる人物は、一人しかいなかった。
「もしかして、マリーナ王女殿下、ですか?」
「やっと気が付きましたね」
ミオ卿が間に立って、私と彼女に両手を差し伸べた。
「マリーナ様、こちら、わたくしの秘書官のデューイ−トランスです。トランス、こちらは殿下の妹君のマリーナ様ですよ」
「よっろしく!」
にこっと笑って、二人目の王女、マリーナ王女が片手を挙げた。
「ああ、なるほど……」
私はやっと納得して、頭をかいた。
「そういうことですか。びっくりしましたよ。マリーナ殿下、お初にお目にかかります。デューイ−トランスです」
「ストップ!」
やにわにマリーナ王女が手の平を突きつけたので、私は面食らった。
「何か?」
「『殿下』はやめてちょうだい。マリーナでいいから」
そう言って、にこっと笑う。
「ね? トランス」
「……分かりましたよ」
私は苦笑した。
なにやら話し合っている二人の王女を、私はしげしげと見つめた。
マリーナ王女は、グリーナ王女と三つ違いの一四歳、サマルカンド王立学院中等科の生徒だそうだ。なるほど、市街にある王立学院の制服を着ている。春から半年、コワルツェンに留学していたということで、私は今まで会ったことがなかった。
背丈はグリーナ王女より若干低く、顔の輪郭にも幼い丸みがある。目鼻立ちや体格はそっくりだが、髪の色が少々違う。グリーナ王女はときおり草色の輝きを見せる金髪だが、マリーナ王女は空色がちらちらときらめく金髪だ。王家の血の現れなのだろうが、ずいぶん印象的で美しい特質を受け継いだものだ。一目で姉妹と分かる。
「よく似ていらっしゃいますね」
「そうですね、似ていなくもなし、似ていなくもありと言ったところですよ」
ミオ卿が、意味深なことを言った。私が目を向けると、見ていてごらんなさい、と彼女は二人のほうを示した。
二人の会話は、口論のような激しいものになっている。
「だから、さっきから言ってるでしょ。シナリオ上必要なこともあるけど、それだけが理由じゃないって」
「絶対に劇場じゃなきゃできないってわけでもないだろう」
「そりゃそこ以外でもやってできないってことはないわ。でも、『亜麻色の女』の舞台には講堂ぐらいじゃ間に合わないのよ」
「舞台装置だの照明だのに凝るのはプロのやることだ。その分のやる気を練習に注いだらいいじゃないか」
「練習は十分してるわよ! そりゃみんな一生懸命なんだから。最高の劇にしたいからこそ、お芝居だけじゃなくって小道具大道具にまで気を配りたいの!」
「何の話ですか?」
私はミオ卿に聞いてみた。困ったような顔でミオ卿は言った。
「あのね、マリーナ様の学校で、来月の感謝祭でお芝居をするんですよ。マリーナ様はその監督をつとめていらっしゃって、それでステージを借りる交渉をなさってるんです」
「ははあ……」
「マリーナ様は王立劇場の大ホールを貸してくれっておっしゃるんですけど、殿下は学校の講堂で十分だろうって。それで言い合いになっているんですよ」
私はうなずいて二人の口論に目を向けた。険悪な雰囲気にこそなっていないが、双方一歩も譲らぬと言った構えである。
ミオ卿が困ったように言った。
「さっき言ったでしょう。おふたり、意地っ張りなところがそっくりなんです。責任感の強いところも。そのくせ、趣味も興味の方向も違いますから、ぶつかると大変なんです。昔から」
なるほど、それで似ていなくもあり、似ていなくもなしか。
「マリーナ様も町では人気のある方ですから、劇場の方に頼めば多分OKしてもらえるんでしょうけど、殿下が許さないんですよ。王族だからって、特別に便宜を計ることはできないだなんて。変に意識なさってしまうものですから」
私ももう肌で知っているが、この国の国民感情は、王室に対して他の国よりもかなり好意的である。地方でも都市部でもおおむねそうなのだが、お膝下のサマルカンドではそれが特に顕著で、酒場で飲んでいてもお上に対する悪口を聞いたことがない。マリーナ王女の人気の高さも聞き知っている。グリーナ王女が潔癖さを見せる必要など多分ないだろうが、そこでこだわってしまうのが彼女であり、また、だからこそ人々も彼女ら王族に好意を寄せるのだ。
などと考えていたら、不意に矛先がこっちに向いたので驚いた。マリーナ王女が言ったのだ。
「ね、トランス。あなたはどう思う?」
「は、私ですか?」
どうも何も、今聞いたばかりで意見の持ちようがないのだが。
しかし、劇の題名を聞いたときに、少し思いついたことがあった。
「『亜麻色の女』は修道女と農夫の恋の話でしたね」
「あ……ちょっと待てトランス」
「だったら、いっそ教会で上演したらどうです」
言ってから、私はグリーナ王女に聞き返した。
「何でしたか?」
「それを言うなと言おうと……」
「どうして? いいアイディアじゃない!」
マリーナ王女がぱっと顔を輝かせた。それはいいのだが――。
「トランス、それもらうわ。ありがとう。姉様、教会のことだったら姉様は関係ないわよね?」
「ない。ないけど、しかし――」
「姉様の協力をあてにするなって言いたいんでしょ? 最初っからそのつもりよ。わたし、これから教会に行って頼んでみる!」
「あ、こらマリーナ」
グリーナ王女が引き留めたが、無駄だった。
「姉様、それじゃまたね。トランス、ありがとう。ミオ、お邪魔しました!」
言うだけ言って、マリーナ王女は鉄砲玉のように出て行ってしまった。さすがグリーナ王女の妹だけあって、行動力もたいしたものである。
「行ってしまった……」
王女は頭を抱えている。私は少し不思議に思って、聞いた。
「殿下、なぜですか? 教会のチャペルを少し借りるぐらいなら、何も……」
「少しですむか。マリーナのことだから、行くとしたらパレスのふもとの分教会なんかじゃない。タリアドの総本山におしかけるに決まってる」
「大寺院にですか?」
さすがに私は声を上げた。サマルカンド市街の中心部にあるタリアド大寺院と言えば、国教であるツァイス教の総本山のことだ。学校祭の演劇ていどに、おいそれと場所を貸してくれるようなところではない。
「そりゃ無理かもしれませんが……」
私は、マリーナ王女の活発な物言いを思い出しながら言った。
「案外、OKをとって来るかもしれませんよ」
「いや、マリーナだから無理なんだ」
王女の言い方に引っ掛かるものを感じて、私は問い返した。
「どういうことです?」
「ん……ちょっとな」
珍しく、答えの歯切れが悪い。王女がそうなら、と思ってミオ卿に聞いてみる。
「長官、どういう意味でしょうか」
「昔からね、その……あまり仲が良くないんですよ」
ミオ卿も、なぜか浮かない顔である。
「あちらと、うちは」
「教会とパレスがですか?」
「まあウルムス家とツァイス教がですね。教会には、大審院があるでしょう」
大審院。ウルムスターの司法権をつかさどり、法曹界の頂点に位置する機関だ。この国では教会組織が司法の働きを兼務しているので、教会総本山に、大審院の法廷が存在している。
そして、大審院と言えば――。
「そう言えば確か……」
「ええ」
ミオ卿が、複雑な表情でうなずいた。
「姉が、いるんです」
1.
「判決主文」
石壁に囲まれた法廷に、黒髪の裁判長の凛然たる声が響きわたった。
「神の名において、被告人を労役四年の刑に処します」
証言台に立っていた男が、ぎゅっと身を縮める。
「去る三八年八月二〇日、掃除夫であった被告人は、被害者ハル−ハード−ハレルスン氏の自宅の書斎において、卿の留守を見計らい、書き物机に置いてあった、現金二万ギルと有価証券などを収めた手文庫を窃取し、そのまま逃走しました。被告人のこの件についての容疑を当法廷は事実と認定します」
正確で厳格な文章が、整列した軍隊のようにその場を流れて行く。
「また被告人には、生活に関わるような、急迫した金銭の需要はなく、犯行の動機は、持ち去った金品を単に遊興の目的に費消するためでありました。さらに、被告人には、以前にも本件と類似した方法での犯行が六件あり、本件の犯行当時、それらの件についての刑罰で、執行猶予期間中でありました」
仮借ない弾劾の声が、ここでいっそう冷厳になった。
「以上の事実に鑑みて、当法廷は被告人に情状を酌量する余地はないものとの判断を下しました。被告人と被告弁護人、この裁定になにか異議はありますか?」
「……ございません」
「……」
眼鏡を掛けた国選弁護人が立ち上がってそう言った。証言台の、もう髪に白いものが交じり始めている男は、それまでじっと黙っていたが、いきなり床に崩折れ、半分泣くようにして叫んだ。
「申し訳ありませんでした、私が悪うございました! だから、お願いです。北に、北に行かされるのだけは勘弁してください! 家で子供たちが待っているんです」
号泣しながら男は訴えたが、法壇の中央に座っていた裁判長は眉ひとつ動かさなかった。記録簿を閉じ、紫の法衣の裾をさばきながら、立ち上がる。
「以前に一度、あなたには立ち直る機会が与えられました。二度はありません。あなたは神のお慈悲を拒んだのです」
「裁判長さま、裁判長さま!」
「お子さんの面倒は教会が責任をもってみましょう。――閉廷します」
裁判長――大法官エナ−ブランシャールの言葉は、それが最後だった。
「お願いです! どうか、どうか――」
彼女ともうひとりの裁判官が出ていったあとの扉に、男の叫び声がぶつかり、空しく散った。
「エナ卿」
高い天井のすぐ下に、すみれ色のステンドグラスをはめ込んだ高窓が続いている。そこから差し込む光が、廊下を神聖な色である紫に染めている。法の回廊と呼ばれているその廊下を歩きながら、上級判事のアーリー−ワイエスが言った。先を行くエナが振り向く。
「なんでしょう?」
黒髪の女は、同じ色の瞳でワイエスを見つめて足を止めた。
本名エナ−ブランシャール、三〇歳。一年前に大審院の筆頭裁判官である大法官になったばかりだが、その才能に意を挟むものはおらず、異例の若さで手にした司法府最高位のポストも、実力で得たものである。
ワイエスは言った。
「北へ行かせるのは妥当と思われましたが、窃盗犯に四年というのは、少々長すぎるのではありませんか」
「そうでしょうか」
ワイエスが隣に並ぶのを待って、歩きだしながらエナが言った。
「タラスの収容所は寒いところですが、設備が悪いわけではありません。わたくしは、あれでよかったと思いますよ」
彼の三人の子供はそうは思いますまい。
胸に浮かんだ言葉を、初老の判事は結局口に出さなかった。エナの判決はいつも厳しいが、理は通っているし、決して不公平でも不十分でもない。子供のことを考えに入れていないわけでもない。法廷での彼女の最後の言葉でも、それは明らかだ。
彼の心配は、別のところにあった。自分の娘ぐらいの年齢の上司だが、その手腕に関しては、すでに認めている。彼が気にかけているのは、そのエナに、最近隠し切れない疲労の色が見えていることだった。
他の職員が帰った後も、夜更けまで事務仕事を続けているのをよく見かける。彼が手伝いを申し出たこともあったが、遠回しに拒絶された。それほど根を詰めて一体何をしているのか、という疑問もあった。
考えつつ歩いていると、隣のエナが足を止めた。
「お疲れさま、裁判長」
見ると、少し先に柔和な顔をした壮年の紳士が立っていた。
「これは、侯爵殿」
「ワイエス殿もお疲れさまでした」
男はそう言って一礼した。リデル侯爵ハル−ハード−ハレルスン卿。先刻の裁判の被告人の雇い主だった貴族である。ツァイス教の有力な協力者でもある。
「この度はどうも、とんだことでしたね」
エナが当たり障りのないあいさつをすると、侯爵が笑って手を振った。
「いえいえ、こちらこそ。たかだか盗みの事件程度で、大法官殿のお手をわずらわせてしまって申し訳ない」
「貴族の方の事件は、わたくしか上級判事が扱うことになっております。いつでも」
エナがいんぎんに言った。聞きようによっては微妙なよそよそしさが感じられる言い方だったが、侯爵は気づかなかったらしく、鷹揚に言った。
「どうです。お二人とも、これから昼食をご一緒願えませんか」
「せっかくですが、これからお昼の礼拝がありますので……」
「ではその後でも結構」
「なにか、御用でも?」
ワイエスが聞くと、侯爵はいやなに、と首を振って言った。
「今度、訴訟を起こすことにしましてね。その相手が少々、一筋縄では行かないものですから」
「……わたくしに手を貸せと?」
「出来ればね。お手伝いいただけるとありがたい」
エナは黙っている。ワイエスはかすかに顔をしかめた。リデル侯の教会への寄進は、少ないものではない。教会の歳入に占める割合で言えば、一割を越えている。それはそのまま、彼の教会に対する発言権となっていた。彼の要求は必ずしも多くはなかったが、しかし教会がそれを断れることは、稀だった。
リデル候ほどではないが、教会にはほかにも数人のスポンサーがついていた。みな貴族である。彼らとの不透明な関係を断ちたいと思いつつ、そう出来なかったのが、今までの教会の歴史だった。
「要点だけうかがっておきましょう。詳しい話はのちほどということで」
エナが、今度は明らかにそっけなく言った。侯爵は動じない。
「ではひとことだけ言いましょう。これを聞けば、さよう、礼拝を後回しにしてでもお昼を付き合ってもらえると思いますな」
「何をでしょうか」
「王家を訴えます」
静かにしかしはっきりと、侯爵が言った。思わず、ワイエスは息を呑み、聞き返した。
「どういうことでしょうか?」
「まあ、後でも結構ですがね。私はこれが言いたかっただけですよ」
「――分かりました。では、のちほど」
エナが、無表情に言った。侯爵の表情が微妙に変わる。
「では、夕方にでも」
もう一度、一礼して、侯爵は去って行った。ワイエスはせき込んで聞いた。
「エナ殿、よろしいのですか。私には重大な問題に思えましたが……」
「わたくしもそう思いました」
歩きだしながら、エナが言った。
「だから、あえてこの場は流したんです。――ワイエス判事、礼拝は休みます」
「は?」
「あなたが出てください。わたくしは、夕方彼がもう一度くるまでに、調べ物をします」
「は、はあ」
ワイエスが呆然と突っ立っていると、エナは紫の法衣をひるがえして、さっさと歩いて行ってしまった。
2.
空が高い。
雲が高いから、そう見える。どんなに長いハシゴを立てても届きそうにないような高みに、丸い羊雲がきれいな列を作って群れている。王女なら、あれは何フィートぐらいの高度にあって、こういう天気の予兆だ、というようなことを言うだろう。
九月。夏場の猛烈な熱さもいつのまにか消え、朝は半袖か長袖かで迷うようになった。すがすがしい秋空の下、私とミオ卿はポプラパレスの庭園を散策していた。
散策といっても、遊んでいるわけではない。冬になると雪が降るが、その重みで折れたり壊れたりしてしまうような植物や施設がないか、チェックして回っているのだ。
本来、庭師の仕事だが、パレスお抱えの職人が急病になったとかで、私の出番となった。よく考えたら一人でも務まる仕事だから、ミオ卿がくっついてきたのには、なにかわけがあるのかもしれない。
「トランス、あの藤棚はずいぶん痛んでいますね」
「もう寿命でしょうね。解体した方がいいでしょう」
クリップボードに書き込みをしつつ、私たちは花壇や植え込みの間を縫って歩いていった。
パレスの周りを大体一周した所で、私は足を止めた。
「少し休みませんか」
「いいですね」
「中を歩き回っていると感じませんが、一周するとさすがに長いですね」
ベンチに腰を下ろして、手を入れるべきところと、あと一冬ぐらいなら越せそうなところを検討した。幸いなことに、手間や費用のかかりそうな修繕箇所は無さそうだった。
大体の見積もりを終えると、話題は世間話になった。
「結局、マリーナ様はタリアド寺院の協力を取り付けられたんですか?」
「だめだったみたいですね」
私は、朝方グリーナ王女の部屋に行ったときの事を思い出して言った。
「殿下のところにいらしてましたが、門前払いを食ったらしいです。ぷんぷんしてましたよ」
「あそこはね……厳しいところですから」
そう言ったミオ卿の表情が、どうも冴えない。私は思い切って聞いてみた。
「長官、教会となにか因縁でもあるんですか」
「え?」
「いや……元気ないですよ。気掛かりなことがあるんでしょう?」
「分かります?」
ミオ卿は、ほおに手を当てて言った。
「わたくし、すぐ顔に出るたちらしいんです。前にヴェルヒャー室長にも見抜かれましたけど……」
話しておきましょうかと言って、ミオ卿はコスモスの咲き乱れる花壇を見つめながら語り始めた。
ウルムスターの教会は、正式には神聖ツァイス教会と言う。この国独自の宗教であるツァイス教の教団で、九〇〇年前にタリアドという聖者が創始した。今も残るタリアド教会の名は彼の名を戴いたものである。
古代から近世にかけて、ウルムスターは何度も異民族の侵略を受けて来た。この小国の人口が半分に減ってしまうような苛酷な刧略もあったらしい。しかし、ウルムスターという国そのものがなくなることはなかった。なぜかというと、一重にツァイス教会があったからである。
宗教というものの力は強力である。神の名の下に集まった人々は、無類の力を発揮した。敵と戦うとき、傷ついた仲間を助けるとき、また、国土を征服された後も、一致団結して機をうかがい、再び自分たちの国を取り戻すとき、ツァイス教は大きな役目を果たした。 今のウルムスターという国の礎を作ったのは、ツァイス教会であると言っても過言ではない。
しかしその教会も、近代に至って堕落した。科学技術が発展し、工業革命が起こったころである。貴族と教会の癒着が激しくなって来たのだ。貴族は資産をもっていたし、教会は信者を動員する力をもっていた。両者が手をつないだとき、この国の国力は飛躍的な増大を見せたが、反対に、貧富の差は激しくなった。
圧迫された民衆は、助けを求めた。そこに助けの手を差し伸べたのは、ウルムス王家だった。貧民たちは王を戴いて革命を起こし、貴族と教会の勢力を、完全とは行かないまでも、かなりそぐことに成功した。このあたり、王族と平民が対立してきた歴史をもつ多くの他国とは、だいぶ様相が違っていておもしろい。
かくして、民衆と仲のいい王家、弱体化した貴族たち、権力を制限された教会が残ったわけである。
ただ、今言ったように、貴族と教会の力が、完全になくなったわけではなかった。貴族の一部は資本家として事業を起こし、富裕な上流階級になることに成功したし、ツァイス教会も特権のいくつかを死守し、ことあるごとに王家に楯突いている。
教会に残された権力のうちもっとも大きなものは、司法権だった。裁判をする権利である。もともと、この国の裁判は古くから教会によって行われてきた。教会法という立派な成文法があって、それに則って司教たちが争いや犯罪者を裁いてきたのである。
だが、いま世界の国々で、教会に司法権を残しているところは少ない。教会のもっている独自の価値観に裁判を任せていると、判決が片寄ることがままあるからである。
ウルムス王家も、教会からこの特権を取り上げようと、長い間苦労してきた。しかし、教会の勢力は依然として無視しえず、いまだに司法権は王家の手に移ってはいない。
以上が、タリアド大寺院に大審院が併存しているいきさつである。
これだけのことを語ったうえで、ミオ卿は今の彼女の悩みを話した。
「いま、大審院の院長はエナ−ブランシャールという女性が務めています。わたくしの姉です」
「はあ」
「妹のわたくしが言うのもなんですが、能力的には申し分のないひとです。ただ、聖職者としては少々厳格にすぎる、と言う話も聞きますけど」
ピンクや赤や白の可憐な花を咲かせているコスモスの花壇を見つめながら、ミオ卿はため息交じりに言った。
「どうも近ごろ、姉の評判がよくないようなのです。日課の礼拝を休んで貴族の方たちと会ったり、お金の話をしているのを聞いたという人もいます。姉が何を考えているのか、分からなくて……」
「長官」
この人には珍しい、沈んだ顔を見て、私は、声をかけた。
「信じてあげるべきですよ。実の姉妹なんでしょう? 長官が信じてあげなくて、誰がお姉さんを信じるんです」
「トランス……」
「正直、うらやましいですよ。私には、兄弟がいませんから」
「……そうでしたね。すみません」
どうもありがとう、と言ったミオ卿の顔が少し晴れているのを見て、私はほっとした。
「あら、お客さんですね」
ミオ卿がそう言ったので、私は振り向いた。垣根の向こうの坂を、黒塗りの高級車が上ってくるのが見えた。車寄せを回って、玄関に横付けする。出てきた人物を見て、ミオ卿が小さくつぶやいた。
「リデル侯……それにワイエス判事も」
「判事? 教会の人ですか」
「トランス、行きましょう」
ミオ卿が勢いよく立ち上がった。
「なんだって?」
グリーナ王女がわざとらしく聞き返した。侯爵が、こちらもわざとらしく、一語ずつ区切って言った。
「もう一度申しますよ。恐れおおいことですが、王家と、政府の機関と、その関係者の方々と、ポプラパレスそのものに、この丘から立ち退いていただきたい」
「……冗談や手違いではないんだろうな。いくら卿の頼みでも、聞ける無理と聞けない無理があるぞ」
王女の言葉は、口調と内容、ともに厳しい。貴族が相手なので、慣例に従って貴賓室に通し、お茶も茶菓子も最上級のものを出したが、王女自身は相手をもてなす気は無さそうである。相手の肩書で態度を変更することは、この王女はない。ただ人を見て、返事をする。
リデル侯爵(リデルという土地の領主である侯爵、と言う意味で、本名のH・H・ハレルスンとは別の、言わば肩書である)という壮年の貴族は、王女の厳しい言葉にも顔色ひとつ変えなかった。悠揚迫らぬ態度で、持参した鞄から一葉の古びた紙片を取り出す。
「私は大まじめですよ。根拠もあることです。というのも、先日、地下蔵を掃除させていたら、こんなものが出てきましてね」
年代物の応接机の上に差し出された紙片を、王女は手に取った。後ろに立っている私からも、文面が見える。
紙片そのものもだが、書いてある文字のインクも、文面も、たいそう時代がかった代物だった。
『神の恩愛を受けしウルムスター王族にして、アリラヤ、ラグフォード、ハイマーラ公である私、シルキナ−テオ−ウルムスは、ここに祖霊と祖父母、父母の名にかけて誓う。すなわち、サマルカンドにある私の城館と荘園を、リデル侯ジョイス−ハード−ハレルスン卿に、喜びとともに譲渡するものであることを』
関係代名詞の多いややこしい文章を、私は三度ほど読み直した。やっと意味が分かったとき、思わず声が出た。
「殿下、これは……!」
「なんだこれは」
同じ思いだったらしく、眉をひそめて王女は聞いた。侯爵がもったいをつけて言う。
「シルキナ国王は二五〇年ほど前に即位された女王陛下です。当時、私の祖先がいくさで手柄を上げ、褒美をもらったという事が年代記にちゃんと記されております。ところが、目録を見てもなにをいただいたのかはっきり書かれていない。今までそれは謎だったのですが、この証文でそれが明らかになったわけですよ」
「それで?」
「それでまあ、先祖のためにも、二五〇年前にいただき損ねた褒美の品を受け取ろうと思って、参上したわけです」
「そんな昔の証文が有効なわけはないだろう」
王女があきれたように言うと、侯爵のかたわらに座っていた小柄な初老の男が口を開いた。
「恐れながら申し上げます。私、ワイエス上級判事と申しますが、教会の代理人としてこの場に同席させていただいております」
「大審院の判事が、なぜ?」
「王女殿下のただいまのような質問にお答えするためです。結論から申し上げますと、この証文は今でも有効だと思われるのです」
「……なんだって?」
「ご説明致しますと、この件は教会法の第一四二条、すなわち国王の賞罰に関する法に該当致します。詳しく申し上げますと、一四二条の第一項及び第四項ですね。この法は、いかなる時と場合に約束されたものであれ、王から臣下への褒賞は間違いなく下されなければならない、それは時とともに忘れ去られることがあってはならないと、まあそういう内容であるわけですが、これは、戦場で手柄を挙げた騎士たちの不満によって決められた法でして……」
「待て、しかしそれは、この証文が本物だった場合のことだろう?」
説明を中断させられた判事は、空咳をしてから、「もちろんでございます」と答えた。
「じゃあ、まずそれがはっきりしてからだ。それが筋だろう?」
「しかしですね……」
ワイエス判事は、顔をしかめた。
「私どものほうでも少し調べましたが、用紙は当時用いられていた公用箋ですし、文体も当時のもの、右肩の国璽(印章)も、教会に保管されているシルキナ女王のものと一致しております。第一、発見されたのが侯爵どのの地下蔵で、二五〇年前のワイン目録と一緒に出てきたそうですから、これは誰がどう見ても……」
法律家らしく長たらしい説明を展開するワイエス判事の言葉半ばで、王女は侯爵に目を向けた。
「侯、これを少し借りてもいいだろう?」
「存分にお調べください。その代わり、一筆書いていただきたいですな」
「分かった」
グリーナ王女は、借用書を書き、ワイエス判事に見せてから、侯爵に手渡した。侯爵は、それを受け取ると、身を乗り出して言った。
「確認しておきましょう、殿下。今すぐパレスを明け渡してくださる考えは、ないのですね?」
「ない」
きっぱりと王女が答えると、侯爵は満足そうに体を反らせた。
「では、私は、不肖ながら殿下を訴えさせていただきます」
「訴えるだと?」
王女が声を上げると、侯爵は余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「まず断られるだろうと思っていましたのでね、先に大審院院長に打診して参りました。院長にはあの証文を本物と認めていただき、目下訴訟の手続きを検討してもらっております」
横で、ミオ卿が体を堅くしたのが分かった。
「遅くとも三日以内には、大審院から審判開始の通知があるでしょうな。その節はよろしく」
それだけ言うと、もう用は済んだというように侯爵は立ち上がった。そのとき、ミオ卿が声を上げた。
「待ってください」
「なんですかな、長官殿」
侯爵が不審げな視線を向けると、ミオ卿が言った。
「大審院の院長が、この件を担当する、ということですか」
「そうでしょうな」
「分かりました。では、訴状をわたくし宛てにしてください」
「あなたに?」
「政治のことならいざ知らず、ポプラパレスの責任者はこのわたくし、王宮長官ブランシャールです。王女殿下に関わっていただくまでもありません。以後、この件に関するすべての折衝は、一切わたくしが承ります」
「ミオ!」
「殿下、お願いです」
ミオ卿が、訴えるようなまなざしで王女を見つめた。何か言いかけた王女だが、それを見ると、ひとつうなずいた。
「ミオに任せる。候、パレス長官がこの件の担当者だ」
「……まあ、いいでしょう。どちらにしても変わりはない」
そう言うと、侯爵は判事を引き連れて出て行った。
「トランス、トワードとヴェルヒャーに連絡をつけてくれ」
二人が立ち去ると、王女は問題の証文を見つめながら言った。
「こいつが本物かどうかを、徹底的に調べるんだ。トワードたちには、こいつの科学的分析を、ヴェルヒャーには古文書と伝承の専門家を探してもらって、文と史実の突き合わせを頼む」
「分かりました」
「ミオ」
「はい」
王女は立ち上がって、こぶし一つ分ほど背の高いミオ卿の前に立った。
「どうしたんだ?」
「いえ……」
「エナと何かあったのか?」
「いえ、別に……」
ちらと私の方を見てから、ミオ卿は無理に作ったような笑顔を浮かべた。
「たいしたことじゃありません。ご心配なさらないでください」
「……」
しばらくじっとミオ卿の目を見つめてから、言った。
「お前にはいつも、私のめんどうばかり見てもらってる。たまには、私にも、お前のめんどうを見させてくれ」
「……お心遣い、ありがとうございます」
ミオ卿は、深々と頭をたれた。
3.
母のソラとともに夕食をとると、ミオはシャワーを浴び、自室に入った。
ナイトスタンドをつけ、ベッドに身を投げ出す。仕事の残りを持ち帰っていたが、今は手をつける気分ではなかった。
「姉さんか……」
姉のエナは、まだ帰っていなかった。仕事が忙しいらしい。このところ毎晩そうで、あまり話をしていなかった。
いや、話をしていないのは、ずいぶん前からだ。
ツ ァ イ シ ン グ
「大審院院長、大法官、大司教、教会騎士団司令……」
右手の指を折り、
「王宮長官、行政府渉内部長、文教部相談役、近衛兵統監……」
左手の指を折る。
そして、ごろんと仰向けになって暗い天井を見つめる。
「余計な壁ばっかりできちゃった……」
姉妹で王立学校に通っていたころは、こうではなかった。事務と経理を学びながら、母の紹介で王宮にベビーシッターをしに行っていたミオと、法律を学びながら教会の慈善活動に参加していたエナは、歩む道こそ違え、最も身近な良きライバルとして、お互いを認め合っていた。苦手分野をカバーしあって、講義のノートを交換したこともあれば、上級公務員と司法官の試験を翌日に控えて、机を並べて徹夜したこともある。
厳しい勉強の合間には、息抜きの時もあった。
五歳のグリーナ王女と二歳のマリーナ王女の面倒を見るために、夏休みに森林地帯のハイマーラまでいっしょに出向いた時には、ミオが抱いていたマリーナ王女をエナに渡したとたん、泣き出したことがあった。その時の姉の顔を思い出すと、小さな笑いが漏れる。
その夏の後半は、エナに付き合って、ミオも教会の活動に参加した。裁判の見学をした時には、姉が裁判長につっかかって行って、引用した判例の間違いを指摘して怒らせたすえ、裁判を中止させてしまい、二人して教会の中を逃げ回ったこともある。
思い出は柔らかな時のヴェールの向こうにあったが、ミオには今でもはっきりと見えた。出来ることなら、あの頃のように姉と笑顔を交わし合いたかった。
しかし、今の二人は、違う山の頂上に登ってしまっていた。声をかけても届かず、互いの表情をはっきりと見ることも出来ない。
「姉さん……あなたは、何を考えているんですか」
ミオは、小さくつぶやいた。
4.
ぶーん、とのんびりした音を立てて、レシプロの軽飛行機が飛んでいる。実験機かと思ったら、すぐ横を雁の編隊が通過したので分かった。模型の飛行機だ。
目当ての男は、ラグ川の堤防にポツンと立って、その飛行機を見上げていた。近くの川原のテントにいた技術者たちに教えられて、私は彼に近づいた。
「昼間っからラジコン遊びとは、いい身分だね」
「ん? 誰だ君は」
ブルーのツナギを着た猫背のその男は、目をしばたたかせながらこちらを見た。
「トランスだよ。トウィー」
「おう、君か!」
メガネをかけて私を見た男は、破顔して私の手を握った。
この男の名は、トワード−グリムと言う。年齢は三〇歳。私的にはグリーナ王女と私の友人の工学技術者であり、公的には、政府が半分出資しているグリム重工の代表取締役である。
今年の冬に知りあって以来ちょくちょく会っていたが、知れば知るほど妙な人物である。ネリーという同い年の奥さんがいて、彼女も科学者なのだが、二人して妙な研究(なのだろう。科学者のやることは私にはよく分からない)を次から次へと手掛けては、三度に二度は失敗している。王女の知人には妙な人間が多いが、その中でも極め付けの人物だ。
「今日は何の用だ?」
「何の用はないだろう。さっき電話したことだよ」
「そうだったな。まあ待て、これが済んでからだ」
大ざっぱなところは相変わらずだ。トワードはそう言うと、テントの技術者たちに向かって手を振った。
「ぼちぼち始めてくれ!」
「今日は何の実験?」
「何の実験はないだろう。さっき電話で言ったじゃないか」
「そうだっけな。でもよく分からなかったんだ」
話が長い上にすぐ専門用語を並べたがるので、彼との会話には体力がいる。今朝電話したときにも、今日は実験があると聞いていたが、何の実験かは聞き流していた。
「見てろよ、今度のはすごいぞ」
「新型機のテスト?」
「新型も新型、これが成功すれば人類の歴史が変わる」
大風呂敷も相変わらずだ。
のんびり旋回していた模型機のエンジンの音が高くなった。青空を切り裂いて、ぐんぐん上昇して行く。
「……どこまで昇るんだ? そのうち燃料が――」
トワードに向かって聞いたとき、どおん! とものすごい爆音が響いて来た。
「なんだ?」
あわてて空を見上げると、まぶしい光の玉が出現していた。雷が立て続けに落ちてくるような爆音を轟かせながら、それはものすごい勢いで天へと駆け登って行く。
「なんだあれは!」
「そうさな、噴進機とでも言おうか」
トワードは満足そうに言った。
「液体燃料を爆発させて推進する全く新しい飛行機だ。今までのプロペラ機なんぞ足元にも及ばん高速を出せる。それどころか、理論上は空気のないところでも飛べるんだぞ」
「そんなもの何に使うんだ? 海の中でも飛ばすのか?」
「馬鹿言え、そんな抵抗の多い流体の中で使えるか。こいつは宇宙へ行くためのものだ」
「……宇宙?」
「さよう」
トワードは、得意げにメガネを指で押し上げた。
「人類の科学は陸海空をほぼ制覇した。次に我々が向かうのは、未知なる大洋、最後のフロンティア、神々の庭である大宇宙だ!」
「ついていけないよ……」
とその時、一際激しい轟音があたりを圧して響いた。見上げると、光球は消え、はるかな高みに真っ白な煙の塊が広がりつつあった。
「豪快な実験だな」
「……いや、失敗だ」
「失敗?」
あーっ、とテントの技術者たちが残念そうな叫び声を上げている。がっくりと肩を落としたトワードに同情して、私は言った。
「落ち込むなよ。たった一度の失敗で」
「そうだな。一〇回や二〇回の失敗でくじけていてはいかんな」
「……そんなに失敗したのか?」
「実験室のミニチュアから勘定に入れたら三六回目だな。いや、私はあきらめんぞ!」
トワードはこぶしを握り締めて、薄れつつある白煙に向かって突き出した。
「今日の失敗は明日の成功の糧だ。失敗こそが我が人生の一里塚! 科学の神には常に生け贄を捧げなければならんのだあ!」
「いるとしてもかかわりたくない神様だね」
私はつぶやいた。
「よし、今日のところはひとまず引き上げだ。おーい、テレメーターの記録をまとめたら後片付けに入れ! 気象条件を記録するのを忘れるな!」
技術者たちにそう叫ぶと、トワードはにっと私に向けて笑った。
「行こう。ネリーは研究室の方だ」
ネリー−グリム夫人は、盆地にいた。
「ここ、入っていいのか?」
「アンタ、二本足でしょ? 無理だと思うわ」
無慮数千冊、数万枚はあると思われる、書籍と資料の堆積の中心に、彼女はあぐらをかいて座っていた。コーヒーカップとポット、クッキーを山のように盛ったバスケットはどうやら床に置かれているようだが、その周囲には、二次関数の稜線を描いて、天井に至るまで巨大な紙の山脈が築かれていた。ネリーの研究室は、正確に文字どおり、足の踏み場もない場所だった。
「やめておけトランス。私でもこの部屋には手が出せんのだ」
横に立ったトワードが引き留めたが、このまま帰るわけには行かない。私は意を決して、その人外魔境に一歩踏み込んだ。
とたんに、入り口の左右の巨峰が、ぐらりと傾いた。
「やめときなって。いったん散らかったら、かたすのに一月かかるんだから」
「散らかってないのか? これで」
「どこに何があるのかは分かってるもの。いま出てくから、おとなしく待ってて」
「あ、ああ」
そろり、と私は片足を引き上げた。そのひざが、片方の書類の山に触れた。
「あーっ!」
怒濤のように襲いかかってきた紙の洪水に、私は生き埋めにされてしまった。
一時間後、私は重工の休憩所でやっと一息ついていた。――私を掘り出すのに動員された研究員たち一八人に、お礼のコーヒーを配り終わって。
「まったく、ろくでもないことしてくれたね」
「ごめん、ネリー」
それが癖の伝法な口調で言ったネリーに、私はもう一度、頭を下げた。
「まあ、入り口まわりだけだったから、三日もあれば元に戻せると思うけどね」
「だから前々から整理しろと言っておったんだ。いつかこんな日が来るだろうと思っていたぞ」
「うるさいね、ひとが仕事場をどうデザインしようと勝手だろ」
「デザイン? デザインか。ものは言いようだな。カオスはデザインかね?」
「カオスじゃないって言ってるだろ! アンタだって私生活は似たようなモンじゃないか! 部屋に帰ったら服はぬぎっぱなし、水は出しっ放し、電気はつけっ放し……」
「いま論じておるのはそんなことではない!」
「おいおい、勘弁してくれ」
私はうんざりして言った。この二人の夫婦ゲンカは毎度のことである。ほっといたら徹夜で口論し続けるので(なにしろ口論にかけてはプロなのだ。学者という人種は)私は仲裁に入った。
「君ら二人のプライベートなんか聞きたくもない。今は仕事の話!」
「ああ、そうだね」
フンと旦那からそっぽを向いて、ネリーは、休憩所の机の上に数枚の書類と、黄ばんだ紙片をおいた。例の証文である。
「ご注文の鑑定結果だけど……はっきり言って専門外だから、詳しくは分からなかったよ」
今日の彼女の服装は、いかにも研究者と言った感じのぞろっとした白衣である。中身は赤のブラウスに黒のタイトスカート、そして同色のストッキング。彼女に言わせると女科学者の定番ファッションなんだそうだ。
「どこ見てんの?」
「あ、いやいや」
「とりあえず、分野の近いところから攻めてみたよ」
ネリーは、書類の一枚を取り上げた。
「まず紙の分析結果だけど、最初からやっかいだったわ。化学分析のために端っこを少し削ったけど、構わないよね?」
「少しならいいと思う。結果は?」
「ホフマン氏法による硫酸バリウム、硫酸カルシウム、炭酸ナトリウムの検査は反応なし。硫酸アルミの反応もなし。少なくともここ五〇年以内のものじゃないね。醤油の反応もなし」
「ショウユ?」
「外国にそういう調味料があるんだよ。これに紙を浸すと、黒っぽくなって昔の物によく似た感じになるの」
「へえ」
「反対に、紙が大量生産されるようになってから使われ始めたロジンとカオリンの反応があったから、三〇〇年より古いものじゃないね。そこから先は、サンプルとの比較になるんだけど、図書館にもそんな古い紙のサンプルはおいてないから、教会聖典部と王室書陵室から二五〇年前の本を取り寄せて比べてみたの」
「で?」
「問題なし。紙質は、たしかに二五〇年前に使われていたものだったよ」
「次は?」
「インクね」二枚目の紙を取り上げて、ネリーは続けた。
「少し赤茶けてるからもしやと思ったけど、調べたらやっぱり鉄タンニン酸が含まれていたよ。酸化に伴って変色する成分がね。こいつは水酸化ナトリウムとアンモニアで、酸化を速める偽装工作ができるんだけど、その二つの反応はなかったよ。そして、すべての文で同じインクが使われていた」
続いて、三枚目の書類。
「紙の表面についても、調査したよ。紙の下の辺に切断痕があるけど、これは便箋からこの紙を切り取った跡だろうね。それに、内容を削除したり訂正した後はなかった」
「じゃあ、そいつは……」
私は、唾を飲みこんだ。
「本物か?」
「お待ちなって。これだけじゃあ、断定はできない。昔のインクと昔の紙さえ調達できれば、同じ条件の偽物を作ることができる。だから次は、筆跡鑑定だね」
ネリーは、足元から古びた分厚い本を持ち上げて、机に置いた。
「これは王室から借りて来た昔の手紙のコレクションだけど、これにシルキナ女王の直筆の手紙も収められてる」
しおりを挟んであったページを開いて、ネリーは見せた。変色した紙が、薄い紙テープで固定されている。
「まず文字の比較。字の傾斜、大きさ、罫線からの高さ、つながり方、単語と単語の間隔、文の頭の空白まで比較したけど、別人と断定できる証拠はなかった。女王は小文字のtの横棒が上過ぎて、縦棒がはみ出さない癖があるんだけど、その点も一緒」
「他には?」
「印章の検査もした。証文の右肩にあるこのちっこいシミみたいなやつさ。二五〇年前のウルムス王家の御璽(認証印)には、印形の枠の左下に小さい欠け目があるんだけど、こいつもちゃんと確認された」
「それで?」
「まあ……それだけなんだけど」
「それで?」
私は重ねて聞いた。
「つまりこれは、本物なのか?」
「科学者は、こういうものに関して断定することはできないのよ」
ネリーは、ソファの背にどさっと身を預けて言った。
「アタシにできるのは、こう答えることだけ。――『偽物であると断定できる証拠は、見つかりませんでした』ってね」
「そうか……」
私は、がっかりして腕を組んだ。
「パレスは今どうなってるんだ」
トワードが聞いた。私は答えた。
「昨日、大審院の判事が来て最後通告をしていったよ。行政府の連中は大騒ぎだ。断固居座るとか、侯爵を闇討ちしようとか、追い出されるぐらいならこっちから出てってやるとか、言ってることはばらばらだけど。みんな平民出だから、貴族に対して反感があるらしいんだ。かえって王族の人たちの方が落ち着いてるぐらいだ」
「高をくくってるんだろう。まさか追い出されやしまいと」
「あのお姫さんは、例によって何か腹積もりがあるんだろうけどね」
「殿下は今回ノータッチだよ」
「へえ? じゃだれが仕切ってるの? あのおヒゲさん?」
ヴェルヒャー室長のことを、ネリーはこう呼ぶ。私は苦笑して首を振った。
「室長は裏で何かやってそうだね。表には出て来ていない。いま頑張ってるのは長官だよ」「ミオちゃんが?」
二人は叫び、顔を見合わせた。私は言った。
「つらいと思うよ。実の姉との対決だから」
「ううむ、そりゃなあ」
トワードが、唸りながら言った。
「エナとミオちゃんの対決か……そりゃ分が悪いなあ」
「ああ、そういえば……」
ふと私は、あることを思い出して聞いた。
「長官とエナ卿って、髪の色、違ったよな。あれは、なぜだろう」
トワードとネリーは顔を見合わせた。
「言っていいものかな」「いいんじゃない。トランスなら」
「そうだな」
トワードは、メガネをちょいと直してから、言った。
「二人の父親が違うんだ」
「え? じゃあ……」
「おっと待てよ、君の想像とは少々ちがう。エナの父親が亡くなってから、母親が再婚したんだ。それで生まれたのが、ミオちゃんと言うわけだ」
「ああ、なるほど」
「でも、だからこそあのふたりは今まで仲がよかったはずなんだけどね。どうしちゃったのかね」
「まあ一時的なものだろう。すぐ仲直りすると思うぞ」
トワードとネリーは、楽観的な見方のようである。私は、頭をかいた。
「だといいんだがね……」
5.
こんこん、と執務室の扉がノックされた。ミオが返事をすると、ぴょこんと金色の頭がのぞいた。
「こんちは。――あれ、トランスは?」
マリーナ王女だった。長官執務室を見回して、ミオ一人なのを見ると、首をかしげる。
「ヴェルヒャー室長のところですよ。お呼びしましょうか?」
「ん、いないんだったらいいの」
「なんです」
「えへへー、ちょっとね」
舌を出して出て行こうとするマリーナを、ミオは呼び止めた。
「あ、待ってください」
「え?」
「少し、いいですか」
「ん、なに?」
マリーナは、部屋に入って来て応接机のイスにちょこんと腰掛けた。ミオは執務机を回り込んで、マリーナの向かいの椅子に腰掛けた。
「ね、なに?」
「ええと……マリーナ様こそ、何だったんですか。トランスに用事でも?」
「あ、たいしたことじゃないの。あのね。姉様のことでちょっと」
「殿下の?」
「うん、あの二人、今どういう関係なのかなーって思って」
「ああ……」ミオは軽く笑った。「どうでしょうね。二人ともよくケンカしていますけど」「ケンカだったら、あの二人もよくしてるじゃない。ほら、よくパレスに来るでこぼこカップルの――」
「グリム夫妻ですか」
「ていうの? あの二人、仲いいんでしょ」
「そうですね。でも、あれをそのまま殿下とトランスにあてはめることはできないと思いますけど」
「んー……姉様に聞いても分かんないんだよね」マリーナは眉間にしわを寄せて腕を組んだ。そんな顔をすると、ますます彼女の姉にそっくりの表情になる。
「聞くたびに、怒られたりはぐらかされたりで」
思案投げ首と言った体のマリーナをミオはしばらくじっと見つめていたが、やがて応接机の上に身を乗り出した。
「マリーナ様、教えてもらえますか。どうやったら、お二人みたいに気兼ねのない仲になれるんです」
「何、急に?」びっくりしたようにマリーナは目を丸くした。「お二人って……わたしと姉様のこと? あ、そうか」
飲み込んだ顔で、マリーナはうなずいた。
「エナのことかあ……」
「はい」
「そうだね、昔はミオとエナってすっごく仲良かったのにね。最近エナ、忙しいからって全然パレスに来ないし。――どうしてあんな風になっちゃったんだろうね」
「ここ一年ほど――院長になったころからですけど、姉はめったに笑わなくなりました。最近では、良からぬ噂も聞きます。わたくしは、どうしたらいいんでしょう」
そのとき、扉にノックの音がした。ミオは顔を上げ、返事をした。
「失礼します。――あれ、マリーナ様」
「チェック! ストップ!」
入って来たトランスに向けて、マリーナがやおら人差し指を立てた。
「様もなし! 敬語もなし! わたしのことはマリーナでいいって言ったでしょ」
「はは……分かりまし――おっと、分かったよ」
トランスは苦笑してから、ミオに言った。
「例の証文の分析、終わりました。結果は白です。室長のところにも回りましたが、日付が書かれていないこと以外は、文の内容の方にも問題はなく――と言っていいかどうか分かりませんが、不備を指摘できるようなところはないそうです」
「そうですか、ご苦労様」
「それと、もうすぐ行政府会議が始まります」
「分かりました。マリーナ様、お引き止めして申し訳ありませんでした。これから用事ですので」
部屋の外に、三人は出た。別れる前に、マリーナがミオに向かって言った。
「あのね、わたし、姉様との間では、聞きたいことがあったら何でも聞くし、言いたいことも全部言うことにしてるの。じゃないと、わたしたちこんな間柄だから、いらない気遣い、いっぱいしちゃうでしょ?」
「……ええ」
「全部ぶっちゃけちゃえば? きっと、前みたいに仲良くなれると思うよ」
「……本当ですね」
この姉妹には、とミオは思う。教えられっぱなしだと。
会議が終わった後のざわめきと熱気が扉からあふれ出す廊下で、ミオは後ろから肩をたたかれた。振り向くと、鼻の下とあごに見事なひげをたくわえた目付きの鋭い男だった。
「室長」
「お茶でもどうかな」
「……ええ」
「おごろう。お疲れのようだからな」
パレスの移転問題に関する、臨時の行政府会議が開かれたところだった。トランスを先に仕事に帰すと、政務室長レイ−ヴェルヒャーの誘いに応じて、ミオはパレス内にあるティーラウンジ『シャンテル』に足を向けた。
玄関ロビーに隣接したガラス張りのラウンジに入り、ホットミルクを注文すると、ミオはクッションのよくきいた席に深々と身を沈めた。ヴェルヒャーはそんな彼女を、じっと見ている。
湯気の立つミルクと銀茶が運ばれてくるころになって、やっとヴェルヒャーが口を開いた。
「まさか審理差し止めの請求が突っ返されるとはな」
「一月ぐらいは引き伸ばせると思ったんですけどね」
大審院の審理は、パレス側の予想をはるかに越えて迅速だった。このままでは立ち退きの決定が出されてしまうと見て、政務室がとりあえず審理の一時差し止めと訴えの合法性の再確認の請求状を出したが、それがあっさり却下されてしまったのだ。
「腹芸の通じん教会相手は、これだからやりにくい。なにしろ聖典を抱えているからな。この上は財界と国外の有力筋に頭を下げてリデル侯を牽制してもらうか――しかしそれにしたって時間稼ぎだ。なんとかして訴えを撤回させられればいいんだがな」
「いえ、向こうも引く気はないでしょう。本気でわたくしたちをここから追い出すつもりだと思います」
「取引はどんな状況下でも成立させ得るものだよ。長官」
「いっそ、すんなり移転した方が波風立たなくていいかも知れませんね」
ミオがカップを持ち上げて、ふうふうと冷ます。銀茶のカップを持ち上げたヴェルヒャーが、顔をしかめた。
「長官がそんなことを言っていてはこまる」
「あ、すみませんでした」
「行政各部の部長たちも戸惑っている。パレスが移転したところで仕事に差し支えはないんだがな」
「利害があまりからまない分、かえって感情的になっているんですよ。皆さん」
ミオは、六分ほど客が入っているラウンジの中を見回しながら言った。
「なんといっても、愛着のある職場ですからね。室長はどうですか」
「私か? どこに行ってもやることは同じだ」
「いいですね、室長は強くて……」
ふう、とミオは息を吐いた。
「わたくしなんか、このところ調子が狂いっぱなしで……」
「あなただけじゃない。影響はあちこちに出ている。さっきの会議では出なかったが、サマルカンドのあちこちで、土地の売り渋りが出始めている」
「どういうことです?」
「新パレスの候補地になることを見込んでだ。まだ二、三カ所だし、地価への影響もそんなに出ていないから、我々も介入するつもりはないが」
「気の早いことですね」
「そうかな? 実際にパレスが移転するとなると、ちょっとした騒ぎになるぞ。新しい王宮の建設が行われるとなったら、当然建設業者も騒ぎ出すだろうし、周辺区域の開発計画も変更を余儀なくされるだろう。軍隊の配置もやり直さなければならん」
「そう言えば、王女のところに手紙が届きました」
「知っている。またジャン国王からだろう。外務に届いたのを私が渡したんだ」
また、という言い方にうんざりした響きがある。ジャンリュック三世は、今までに何度もグリーナ王女にモーションをかけて来たことがある、隣国レンツェルゲンの国王である。「内容を殿下に聞いたんですけど……引っ越しするのならいっそこっちに来い、ですって。こりない方ですね」
「もうそんなところまで、話が広まっている」
ヴェルヒャーは、厳しいまなざしでミオを見つめた。
う ち
「政務室のスタッフが、心配している」
「何をです? 引っ越しの手順ですか」
「そうじゃない。――世間の反応にだ」
ヴェルヒャーは、深刻な面持ちで言った。
「一番の問題は、パレスの移転がありうることとして論議されていることなんだ。――政府は今のところ、移転はしないという結論を出している。あなたもそのつもりだろう?」
「それは……もちろん」ミオはうなずいた。
「にもかかわらず、一部ではパレスの移転がとうに決まったものとして、扱われ始めている。――これがどういうことか分かるか?」
「……」
「王室の権威が揺らいでいるということだ」
テーブルこそ叩かなかったが、ヴェルヒャーは強い口調で言った。ミオの体が、少し揺れた。
「これも会議では話さなかったが、この一週間、政府を相手にした訴訟が五、六件起きている。いずれも、貴族たちからだ。どれも言い掛かりみたいなもので、移転の件に比べればたいした訴えじゃないが、それにしても、前はそんな訴えはなかった。リデル侯の訴えを知って、調子づいたんだろう」
ヴェルヒャーは、畳み掛けるように言った。
「外国政府からも、移転の期日や場所について問い合わせが入って来ている。中には何を勘違いしたのか知らんが、ウルムスター亡命政権・・・・宛の親書すら来ている。――分かるか? 政府がなめられているんだ」
「そうなると……パレスは、移転してはならない」
「そうだ。たとえそれが可能でもだ。移転することは、政府が貴族と教会に負けたことを意味する。マフィアの意地の張り合いみたいだが、我々が職を奉じているところは一国の政府なんだ。――権威のない政府に、国を統治することはできん」
ミオは、ヴェルヒャーの顔を見た。男の表情は、鋼の意志を表していた。
この人のように迷いのない考えが、自分にもできたらいいのに、とミオはいつも思う。「わたくしは、どうしたらいいんですか?」
「そのことだ。――今から頼むことは、法に反することだ。だが、ぜひやってもらいたい」「何を?」
「エナ殿を説得して、リデル侯の訴えを差し戻しにさせてほしい」
「……」
ミオは沈黙した。
その方法は彼女自身、以前に考えたことだった。いや、一番に考えた方法だった。なぜ、常識から考えてもおかしいようなリデル侯の訴えを受理したのか。姉にどんな考えがあるのか、会って聞いてみたかった。話したかった。
だがミオは、今までそれをしなかった。強い職業意識が、彼女にその方法をとらせなかったのだ。二人は、法を司る最高権威である大審院の裁判官と、行政府のトップスリーに位置する官僚である。たとえ姉妹であっても、その間にある壁は厚く高い。立場を離れた親しい会話など、してはならないのだ。
しかし今、ミオは考えを改めた。ヴェルヒャーの話を聞いたせいもあったが、トランスやマリーナと話した事が思い出されたのだ。姉を信じたい。信じなければならない。そのためにも、姉の考えを聞いておく必要があった。
「……分かりました。話してみます」
「頼む」
頭を下げたヴェルヒャーを見ながら、ミオは決意を固めていた。
6.
タリアド大寺院、集会場。
国内随一の壮麗さを誇る大伽藍である礼拝堂に隣接した、これもかなりの規模をもつ集会場に、運送業者が梱包した板のようなものを運び込んでいた。二人がかりでやっと運べるほどの大きさである。
搬入される包みを、少し離れたところに立った院長エナとリデル侯ハル卿が眺めている。 ハル卿が、よく磨いた海泡石のパイプを吹かしながら言った。
「今回はちょっと手違いがありましてね」
「手違い?」
「バッハムからシャルデラ画伯の『聖者ノラの受難』を取り寄せるはずだったんですが、最近の通貨安で価格の折り合いがつかず、手に入りませんでね」
「では、あれは違う絵なのですか?」
集会場に運び込まれつつあるのは、ハル卿が教会に寄進した絵だった。彼の教会への援助は、世間体を配慮して、現金ではなく、多くはこうした価値の高い美術品や工芸品だった。
「国内の画家の手になるものですが、時代はもう少し上ります。圧政時代に地下で描かれた逸品で、さよう、五〇〇万はしますな」
「芸術品の価値を値段で論ずるのはどうかと思いますけど」
エナは聞こえよがしの皮肉を言ったが、ハル卿の笑顔は崩れなかった。彼の笑顔が崩れたのを、エナは見たことがない。ぜひ見たいものだ、と思っている。
「何とおっしゃられても結構。私の望む利益を、院長殿が導いてくださればね。もとよりあなたも同じ穴のなんとかでしょう」
「……」
エナは答えない。ややあって、別のことを言った。
「王家をパレスから追い出して、何の得があるのです?」
「得? 先祖から続く遺恨を晴らし、近ごろおてんばが目に余るあの王女にきつい灸をすえることが出来るのですぞ。これすべて国のためを思えばこそです」
「国のため、ね」
「春先の騒乱も、我々貴族がイウォーンの社交界と対話を続けていれば、回避することが出来たはずです。あの思い上がりの王女の目を、もう少し開いて差し上げようというんでよ。いけませんかな。――おっと」
わざとらしくハル卿は頭をかいた。
「パレスには院長殿の妹さんがおられましたな。もちろん、あの方を愚弄するつもりではありません」
「それはわたくしどもが貴族だからですか」
エナは、冷たいまなざしでハル卿を見つめた。
「確かに爵位はありますが、わたくしも妹も、それは名前だけのことだと思っています」
「いや、お気になさらぬよう。あくまでも私は、妹さん個人に敬意を表していったのですよ」
「それは、どうも」
「ご姉妹とも、職務に精励されているようで、慶賀の至りですな。――では、私はこれで」
やや取ってつけたようなあいさつをして、ハル卿は去って行った。エナは、額を押さえてため息をついた。
聖堂の方から、小柄な白髪の男がやって来た。判事のワイエスである。
「院長。おや、お疲れですか」
「いえ、大丈夫です。例の件の審理は進んでいますか」
「はい。それはいいのですが……」
門の方に去って行くハル卿の後ろ姿を見ながら、ワイエスは言った。
「やはり私は、貴族という人種は好きになれませんな」
「わたくしもです」
言ったエナの顔を見上げて、ワイエスはややあわてて付け加えた。
「いえもちろん、院長のことを言ったのではありませんよ」
「分かっています」
エナ−ブランシャールは、エナ卿と呼ばれる事がある。ポプラパレスのミオもそうだが、これはただの敬称ではない。二人の母親が、一人目の夫の男爵位を未亡人として継いでいるからである。
「それにしても、いつもながらリデル侯は気前だけはいいですな」
「そうでもありませんよ。――今日は、外国から取り寄せるはずだった絵をやめて、国内のものを持って来ました」
そう言えば、とエナは思った。彼は通貨安がどうこうと言っていた。ウルムスターのギルが、他国の通貨に対して弱くなっているということだろう。それはつまり、この国の経済の信用度が、下がっているということだ。
経済の信用度は、今日では国家の信用度に等しい。エナは経済の専門家ではなかったが、以前誰かにそんなことを聞いたような気がした。誰だったろう。
「……ミオだ……」
「は?」
「いえ、なんでもありません」
ずいぶん昔に聞いた事だ。そう、二人がまだ学生だったころ……。
当然ミオも、今起こりつつあるそういった社会現象に、気づいているだろう。あの子は、どう思っているだろう?
「院長、そろそろ次の予定の時間です」
「……分かりました」
短い物思いからさめると、エナは法衣の裾をさばいて、歩きだした。
「ワイエス、あの絵、搬入だけしてもらったら、業者の人に帰ってもらいなさい」
「は? はあ」
「飾る場所を、後でゆっくり考えたいんです。さ、早く」
「分かりました」
ワイエスが、走って行くと、エナは一度天を見上げ、それから礼拝堂に向かって歩きだした。
7.
仕事と礼拝を終え、郊外の閑静な住宅街にある自宅に帰り着いたエナが玄関の扉を開けると、ミオが立っていた。
「あら……」
「お帰りなさい、姉さん。お話があるんです」
「あなた、そこでずっと待ってたの? もう一一時よ」
「いえ、自転車の音がしたから分かったんです」
「ああ、そうなの」
エナは納得して、中に入った。ミオの横を通り抜けようとすると、腕をつかまれた。
「大事な話なんです」
「コートぐらい脱がせてよ」
「……分かりました」
「あと、スープか何か飲ませて。体、冷えちゃったわ」
「リビングに行きましょう」
暖め直したグラタンを、エナは冷ましながらフォークで口に運んだ。その様子を、テーブルの横手に座ったミオがじっと見ている。
「お母さんは?」
「もうやすみました」
「あなたも食べたら?」
「もういただきました」
「そうなの」
ふた口ほど食べてから、エナはフォークを置いた。
「それで、大事な話って何?」
「単刀直入に聞きます」
ミオは、深呼吸してから、思い切って言った。
「姉さん、良心に恥じるようなことをしていませんか」
「……あまり単刀直入でもないわね、その言い方は」
「これ以上――これ以上わたしの口から言わせる気?」
ミオは、瞬きもせずエナの横顔を見つめた。エナは無言でグラタンをたいらげている。
「……学生時代……姉さんと約束しましたよね。ふたりでこの国を、もっといい国にして行こうって。たくさんの人に喜ばれることをしようって。ほんのちょっと前の事なのに……ううん、もっと前からだった。姉さんのお父さんが亡くなって、お母さんがわたしのお父さんと結婚して、わたしが生まれて……姉さんが髪の色とか目の色とかでいじめられそうになったとき、慰めようとして泣いてしまったわたしを、逆に慰めてくれて……あの時の優しい姉さんは、どこに行ってしまったの?」
「……ずいぶん昔のこと、覚えてるのね」
「忘れたんですか?」
「覚えているわよ。忘れたこともない」
いつの間にか、エナはフォークを動かす手を止めていた。
「今でも気持ちは変わっていないわ」
「じゃあ、どうして?」
「どうして、何? わたしが何をして?」
「何って……」
「ミオ、ひとつだけ言っておくわ」
エナは、椅子を引いて立ち上がった。
「わたしは、昔も今も、この国のためを思って行動しているわ。良心に恥じるようなことはしていない」
「でも……」
ミオは顔を上げた。エナは、リビングから出て行くところだった。
「おやすみ、ミオ。まだ起きているんだったら何か羽織りなさい。寒くなって来たわ」
「姉さん……」
姉が階上に上がって行ってからも、ミオはテーブルを離れなかった。
8.
一〇月二四日、大審院大法廷において、リデル侯の訴えに関する最終審理が開かれた。審理は世論に配慮して一般に公開され、かねてから世間の耳目を集めていたこの事件の結末を知ろうと、市民や貴族たち、報道関係者などが法廷に詰め掛けた。
被告代理人として、トランスを連れて法廷に赴いたミオは、マスコミを避けて裏口から入った廊下で、ばったりと侯爵に出くわした。
正装で、数人の従者を引き連れていた侯爵は、突然のこの対面にも驚かず、まずは礼儀正しく挨拶をしてきた。
「これは王宮長官殿、今日はわざわざ御足労願って申し訳ありませんな」
「いたみいります。候こそ、お忙しい中時間をさいて出歩かれるのは、大変でしょうに」
「いやいや、なにしろ王家の行く末が変わる大問題ですからな。屋敷でのんびり報告を待っているわけにもいかないでしょう」
結論はもう出ていると言わんばかりの台詞を口にする。しかしミオは、激昂することもなくやんわりと切り返した。
「たとえ立ち退きを強制執行され、パレスが移転を余儀なくされても、それで揺るぐようなウルムスター政府ではありませんよ。長い目で見たらどうです、侯爵」
「どうですかな、先のことは分かりませんよ。――では、法廷で」
対決の前の前哨戦のつもりであったのかどうかは、分からない。言うだけ言った侯爵は、片手を挙げて廊下の奥へと消えた。
「自信があるみたいですね。――室長の根回しも間に合わなかったようですし、こりゃまずいんじゃありませんか」
「……大丈夫です」
トランスがあきらめ気味に言ったが、ミオは一言、そう答えたのみだった。
あの晩の、姉の言葉を信じたのだ。
「これより、訴状第二一九八八一号、第九回の法廷審理を開始いたします」
大法官エナ−ブランシャールは、そう宣言すると立ち上がって振り返り、背後の聖像に向かって、胸元で聖字を切った。左右に立っていた六人の陪席が同様の仕草をする。
儀式が済むと、七人の裁判官は腰を下ろした。これは大審院に所属する上級判事全員である。通常の民事/刑事事件では、大きな事件でも三人どまりなので、極めて異例の扱いと言える。
階段状の広い傍聴席は満員だった。撮影が禁止されているためカメラや一六ミリを持ち込んでいるものはいないが、最前列に並んだ記者と挿絵画家たちはペンを片手に速記の構えをとり、後列の一般市民たちも興味津々と言った様子である。
裁判長エナから向かって右手には原告リデル侯が座り、左手には被告としてミオ−ブランシャール王宮長官が座っている。二人の視線は互いを見据えて動かない。
「本件の概略を申し上げます」
法壇のそでで、進行役の司教が立ち上がって述べた。
「本件は去る九月二八日、原告リデル侯爵ハル−ハード−ハレルスンによって提訴されたものであります。訴状の内容は、原告の自宅において発見された証文に基づく、ウルムス王家に対する行政府及び王城の土地建物の引き渡し要求であります。なお、被告ウルムス王家は本件に関するすべての交渉権を行政府王宮長官ミオ−ブランシャールに委任したので、以後ミオ−ブランシャールを被告代理人として取り扱います」
一息おいて、
「当法廷は、本件の政治性・重大性を考慮して、他の事件に優先して本件の審理を進めました。しかし、それによって審理の正確や公正を欠くものでないことは、担当の判事七名が神の名にかけて誓うものであります」
司教は着席した。
続いて、裁判長エナの右隣りに座っていたアーリー−ワイエス上級判事が口を開いた。
「本件に関する事実認定をいたします。八回の審理において、当法廷は以下のような事実を確認いたしました。
ひとつ、原告が提出した証文は、正しくシルキナ−テオ−ウルムス女王の直筆になる証文である。
ひとつ、証文の文言は、厳密な意味において、被告の管理せる行政府の土地建物を、ジョイス−ハード−ハレルスンに譲渡させるべき内容である。
以上は、政府においても再確認されたようですが、間違いはありませんね?」
「ありません」
ミオがうなずく。ワイエスは続けた。
「ひとつ、原告は、ジョイス−ハード−ハレルスンの直系子孫である。裁判所は原告の家系を、八つの異なる資料を照合してさかのぼった結果、これも事実であると確認いたしました。
ひとつ、証文の文言が現在に至るまで有効である」
最後のところで、傍聴席がざわめいた。廷吏が、法廷の端につるしてあるドラに向かって撞木を振り下ろす。体全体を震わすような低音が法廷の中にこだますると、傍聴席は静けさを取り戻した。
白髪頭を手でなでつけて、ワイエス判事が続ける。
「当法廷は、証文の文言に対して教会法第一四二条第一項及び第四項を適用することが可能であるとの結論を出しました。
以上が、当法廷が確認した事実であります」
ワイエス判事が口を閉じると、今度は逆に法廷が水を打ったように静まり返った。――それまで傍聴席のあちこちでささやかれていた小さな声が収まっただけでなく、速記のカリカリという音、衣ずれのかさという音すら、消え果てたのだ。全員が、固唾を呑んで裁判長エナを見つめていた。
「では――」
エナが、口を開いた。だが、出て来た言葉はその場の全員の予想を裏切っていた。
「ここで最後に、原告、被告の両人に、一度ずつ、直接意見を述べてもらいたいと思います。それを聞いたうえで、当法廷は結論を述べましょう」
一瞬、法廷に妙な空気が流れた。どういうことだろう? 結論はもう決めてあったんじゃないのか? と市民たちはささやきあった。妙なことを言い出したな、これはマスコミに公平さをアピールする作戦かな、と傍聴していた弁護士や法律家は思った。そして、六人の判事たちまでもが、各々顔を見合わせ、あるいはエナの横顔を盗み見て、困惑したそぶりを見せた。――エナだけは、二人の当事者たちの顔を交互に眺めて、微塵も動揺しなかった。
「ではまず、原告人から。思うところを述べてください」
リデル侯爵はさすがに少し驚いたようだったが、うろたえもせず思い切りよく立ち上がり、空咳をひとつしてから、はっきりした言葉で言った。
「ええ――さきほどの事実認定で、私の訴えはすべて正しいと認められたようです。もとより、その確信があって訴え出たことですが、この法廷でその事が認められ、おおやけに私の言い分が正しいことが証明されたのは、まことに喜ばしく思います。――裁判長、並びに判事の方々が、公正な判断を示して下さることを、私は確信しております」
侯爵は、腰を下ろした。
「被告人。どうぞ」
ミオが、立ち上がった。
行政府王宮長官ミオ−ブランシャールは、背筋を伸ばし、法廷の全員に訴えるような真っすぐな声とまなざしで言った。
「わたくしは、ここで意見を述べるつもりはありません」
法廷の全員がきょとんとなった。
「なぜならば、この大審院は、ウルムスターという国の良心の核とでも言うべき、重要でかけがえのない役割を担っているからです。そこによこしまな私心や計算などが付け入っているはずがないからです。法を行使する裁判官の方々が、正義の何たるかをわきまえておられないはずがないからです。――裁判官の方々に国を思う心、道理を弁ずる能力が備わっているのは明らか、ここで判断を誤り後世に不名誉な名を残されるつもりもないでしょう。ただ、おのれの心に恥じないような決断を下してくださること、わたくしが願うのはそれのみです」
ミオは口を閉じ、着席した。エナは、興奮に少しほおを赤らめている妹をつかの間見つめた。――ミオは、姉の顔がかすかに微笑を浮かべているような気がして、思わず瞬いた。 エナの朗々たる声が響いた。
「裁判の途中ですが、ここで裁判長権限により、審理の内容を切り替えます。廷吏! リデル侯爵を逮捕しなさい!」
誰もが耳を疑った。リデル侯爵は表情を変えそこねたまま、棒を飲んだように身を固くしていた。廷吏が二人、職業的に訓練された反射神経で侯爵のそばに近寄ったが、戸惑ったように裁判長席に目を向けた。
「拘束するのです。聞こえないのですか? 早くなさい!」
あわてて二人の廷吏がリデル侯爵の両腕をつかんだ。侯爵は引きずられるようにのろのろと立ち上がったが、すぐに我に返って叫んだ。
「これはどういうことだ? いったいなんの真似だ?」
「教会法第六七条にもとづいて、贈賄容疑であなたを逮捕します、リデル侯爵。また、第六八条、第六九条、修正六九条四項により、大審院上級判事ハーデル、キャクサレス、パシャラの三名の不逮捕特権を剥奪、収賄及び斡旋収賄の容疑で逮捕告発します。廷吏! いま言った三名も逮捕しなさい!」
法廷は騒然となった。壁際に整列していた廷吏たちがいっせいに走りだし、法壇に駆け上がって名前の上がった判事の腕を取った。そのうちひとりの判事が叫んだ。
「無茶なことをするな! 裁判長、第八一条だ! 上級判事権限であなたの罷免動議を提案する!」
「大法官命令です! 罷免動議の発動権限を凍結します!」
ブーイングとも賛辞ともつかない叫びが傍聴席から巻き起こっていた。速記者たちが猛烈な勢いでペンを動かし、書記官はおろおろし、腕力のある判事に振りほどかれた廷吏が法壇から転げ落ちる。
「トランス!」
ミオが叫び、ドラを指さした。傍聴席で王女の隣に座っていたトランスが柵を乗り越えてドラに駆け寄り、力いっぱい叩いた。
耳を聾するドラの音に、人々が動きを止めた。法廷がいくぶん静まる。
その機を捉えて、エナが有無を言わせぬ口調で言った。
「確認した事実の概要を述べます! リデル侯爵は昨年八月より一八回にわたって、絵画、彫刻などの高価な美術品を、自己の利益に便宜を計らせる目的で教会に対し寄贈しました」「待て、やめろ!」
判事のひとりが悲鳴のような叫びを上げたが、エナは無視して続けた。
「また、上級判事三名は、リデル侯爵と他数名の人間から教会に対して寄贈された物品を私的・公的に横領し、自己の職務権限を乱用し、または同僚に働きかけるなどして、物品を寄贈した相手に対して法で許されていない利益を供与しました。以上ふたつの事実は密接に関係しており、犯罪を形成するに足るものです」
「横暴だ! 手続きも踏まずに、そんなやり方が……」
「お黙りなさい!」
エナの厳しい一喝で、叫びかけた判事だけでなく、再びざわめき始めていた傍聴席も静かになった。
「法の守護者として社会の安寧秩序を守るべき聖職者が、このような破廉恥な罪を犯すとは何事です!」
「そ、それを言うならあんただって同罪じゃないか!」
自暴自棄になったように、両腕をつかまれた判事のひとりが叫んだ。しかしエナは小揺るぎもせずに真っ向から切り返した。
「わたくしが院長に就任して以来、関知できたすべての賄賂はすべて記録し、一括して開封せずにあるところに保管してあります。それらは、今日の審理が開始する前に、すべて送り主に返還されるように手配しておきました。わたくしは自分の良心に恥じるようなことは何ひとつしていません!」
言い返された判事がうめいた。すると、今度は別の判事が言った。
「いまはパレス移転の件に関する審理の途中だったはずだ。わざわざこんな騒ぎを起こしてその審理を中断したのは、王室に対する、あなたの私的な便宜供与じゃないかね?」
「そんなことはありません。ワイエス、六番の封筒を」
言われて、ワイエス判事がエナに封筒を手渡した。エナはそれを開けると、中身――ちっぽけな紙片――を両手で広げて、皆の前にさらした。
「これは、わたくしがある窃盗犯から預かったものです。文面はこうです。『一四五一年六月一日、シルキナ−テオ−ウルムス』」
「それは――!」
リデル侯爵が息を呑んだ。エナは、法壇に証拠物件としておいてあった例の証文を取り上げ、その下に紙片を近づけた。
ふたつの紙片の幅は、全く同じだった!
「わたくしがひそかに科学鑑定に出したところ、ふたつの紙片は元はひとつであり、ごく最近、切断されたことが分かりました。グリム重工のネリー−グリムが証人です」
「それがなんなんだ?」
「この紙片は、リデル侯爵の家から盗まれたものです。窃盗犯はこれを重要な書類の一部だと直感して、返還せずに隠し持っていました。わたくしはそれを借りたのです」
「だから?」
苛立ったように判事がせかした。エナは続けた。
「この日付が、旧暦の証文が書かれた日であることは間違いないでしょう。しかし、シルキナ王女が即位して、シルキナ女王になったのは、一カ月後の一四五一年七月なのです。この証文が書かれた当時、シルキナ王女はまだパレスに居住しておらず、サマルカンド城下町の屋敷に住んでいたのです!」
いまやすべての人間が、エナの言葉に引き込まれていた。エナは明確な論理をもって、説明を続けた。
「つまりこの証文は、王女がパレスに居を移す際に、その邸宅をリデル侯爵に譲る旨のものだったのです。侯爵家の年代記には明記されていなかったようですが。以上のことから、侯爵は現在の行政府の引き渡しを要求できる立場ではありません。のみならず、偽の証文で天下を欺き、あわよくばポプラパレスを手に入れ、王室の権威を傷つけようとした、狡智に長けた犯罪者であります」
エナは、証文を置くと静かに言った。
「リデル侯爵に、有印私文書偽造、詐欺未遂の容疑を追加します」
法廷は、しんとなったままだった。リデル侯爵はなにか言おうとしたが、あきらめたようにうなだれ、じきにがっくりと膝をついた。
エナはちょっと法廷を見回すと、やおら立ち上がった。次にしたことは、誰もの意表を突くことだった。
神聖な紫の法衣を脱ぎ、法壇を降りたのだ。
「みなさん、申し訳ありません。わたくしは多くの罪を犯しました。贈収賄の容疑を固めるためとはいえ、約一年の間汚れた品が教会に届けられるのを許して来ました。また、容疑者をひとりひとりを教え諭し、更生させることもしませんでした。リデル侯の犯罪を暴くために、別の犯罪者とも取引をしました。侯爵を公の場に引き出すために、その証拠の存在についても黙って来ました。今日ただいまも、神聖な法廷で不届きな騒ぎを引き起こし、慣例と通則を無視した手順で議事を進行させました。確信こそありましたが、証拠の提示もしないまま容疑者を実名で弾劾しました。――わたくしは、聖職にあり続けることが許される人間ではありません」
エナはそう言うと、法壇の下からワイエス判事を振り仰いだ。
「ワイエス、あなたを次の大法官に推薦します。今回の事件に関するすべての資料は、文書化して、証拠とともに院長室の金庫に保管してあります。――後を頼みます」
それだけ言うと、エナは胸元で一度、聖字を切り、出口に向かった。
出口の手前に、被告人席があった。そのそばを通るときに、エナは足を止めた。
ミオが、潤んだ目でエナを見つめていた。
「姉さん」
「だから言ったでしょう?」
「……ええ」
そしてエナは、迷いのない足取りで法廷を出て行った。
エピローグ
「ああ、なぜあなたは私の前に姿を現したの? あなたさえ現れなければ、私はこんなにも熱い恋の炎に胸を焼かれる事はなかったのに! 夜ごと涙で枕を濡らすことはなかったのに!」
「泣かないでおくれ。出来ることなら君をここから連れ出したい。扉を破り、石垣を越えて、荒れ地のむこう、大地の果てまで、君を連れて逃げて行きたい!」
「ああ、またあなたは私をつらくさせる! たとえこの世の尽きるところまで逃げても、必ず捕まってしまうというのに、神のおん目とお手を逃れることは出来ないというのに!」
戯曲『亜麻色の女』のクライマックスが舞台で演じられている。修道女が農夫との禁じられた恋に胸を焦がし、手に手を取って教会から逃げ出すシーンだ。
王立学院中等科の講堂である。一週間後に迫った感謝祭に向けての、けいこの最中だった。私は、ふたりに頼まれて見学に連れて来たのだ。――ミオ卿と、エナ卿にである。
「それでも私はあきらめられない。来てくれ! 一緒に来てくれ! たとえ神に背いても、私はあなたを守り抜くから――」
「チェーック! ストップ!」
男子生徒のせりふ半ばで、横から大声がかけられた。マリーナ王女である。台本をもって舞台の上に駆け上がり、ふた回りは大きな男子生徒を子猫のように叱り飛ばす。
「それじゃだめだって言ってるでしょう! いい、あなたは男子禁制の修道院に夜中に忍び込んで彼女を口説いてるのよ? 命がけで彼女を愛してるのよ?」
「で、でも、どうやったら……」
「どうやったらって、本気に好きになってやるしかないでしょ! エマを自分の恋人だと思うの! 彼女のことを思ったら夜も眠れないし朝は起きれない、ご飯も喉を通らない!」
「でも俺、腹減ってるし……」
「そんなこと言ってるんじゃないの! あーもう、一〇分休憩! 役、練り直してこい!」
王女は台本で男子生徒の尻を張り飛ばした。私たちはこらえ切れず、笑い出した。
「あ、やだ、来てたの?」
講堂の入り口のところにいた私たちに気づいて、王女は舞台を飛び降りて駆け寄って来た。
「恥ずかしい所見られちゃったな」
「いえ、ご立派ですよ」
「そうね。これは殿下以外誰にも勤まらないわね」
「エナも来てたの? うわー、恥ずかし」
ほっぺたを押さえてその辺を飛び回ってから、マリーナ王女はミオ卿を見上げ、それからエナ卿を見上げた。
「仲直り、出来たの?」
「おかげさまで」
ミオ卿が頭を下げると、王女はエナ卿に向かって、少し同情の交じった視線を向けた。
「でも、残念だったね。エナ、やめさせられちゃったんでしょ? 仕事」
「自分からやめたんです。ご心配なく、悔いは残っていません」
「いま何してるの?」
「教会の、ボランティアの方で細かいことをね」
「ふうん」
「マリーナーっ!」
舞台の方から、女子生徒たちが声をかけて来た。
「いま行くーっ!」
手を上げてから、王女は、ふたりの手を代わる代わるぎゅっと握った。
「本番、絶対見に来てね! トランスもね!」
「仕事を休んでも行くよ」
「じゃ、ごめんね!」
王女は手を振って走り去った。ふと横を見ると、ミオ卿がこわい顔でにらんでいた。
「休んでも、ですって?」
「あー……いやまあ」
私は、目をそらした。すると、ミオ卿はくすりと笑った。
「その日はわたくしもいなくなりますから。――あなたが休んでも、気づかないと思いますよ」
「そりゃどうも」
最近絶えて見なかったミオ卿の笑顔を久しぶりに見て、内心ほっとしながら私は頭を下げた。
「ああ、いたいた」
後ろに人の気配がした。振り向くと、小柄な初老の男が息を切らしてやって来たところだった。ワイエス判事だった。
「こんなところにいらしたんですか。探しましたよ」
「もう敬語はいりませんよ。わたしはあなたの上司じゃないんですから」
エナ卿が言うと、判事は手を横に振った。
「いえ、それがですね、どうも復帰してもらうことになりそうでして」
「え?」
「市民たちの連名で、嘆願書が来ておるんです。それもたいそうな数でして。それに、エナ殿が進めておられた教会の内部改革の計画ですが、これもどうも、私一人の手には余るようです」
「……しかし……」
「どうでしょう? 無理なら、そうですな」
判事は、意地の悪そうな顔をした。
「新任の上級判事六名の権限で、あなたを強制労働させることにしますかな。――大審院の院長室で」
エナ卿は、背を向けてしばらく黙っていた。私とミオ卿も、黙っていた。振り向かせなくても、彼女がどんな顔をしているか分かったから。
やがて振り向いたエナ卿は、しかし目を伏せて、表情を見せなかった。
「……謹んでお受けします」
「ありがたい! では早速、教会の方へ――」
「ちょっと待ってください、その前に」
エナ卿は、勇んで彼女を連れて行こうとしたワイエス判事の肩を引っ張って、小声で言った。
「毒食らわば皿までということで――この上ひとつ、職権を乱用していいでしょうか?」
「は?」判事は眉をひそめた。「エナ殿、それは……」
「教会の大聖堂を、これから感謝祭まで、私用で借り切りたいんです。――ある人に貸すために」
「は」判事はエナ卿を見た。「は」それから、講堂の中をのぞいた。
「はあはあ! そうですな、結構、大いに乱用してください!」
「以前頼まれたときは、時期が時期だけに、うんと言えませんでしたので」
「いやいや、文句はありません。帰ったら皆にも言って聞かせましょう」
「それじゃあ……」
「分かりましたから、早く来て下さい。事務が滞っておるんです。ほんとに、たった一年任せただけの院長にここまで皆がおんぶしていたかと思うと、情けないほどで」
「ミオ」
エナ卿は、講堂の中をちょいちょいと指さして、ウインクした。それから、判事に袖を引かれて去って行った。――あんな素敵な顔が出来たのか、と私は驚いた。
「トランス、王女に知らせましょう」
ミオ卿が言って、歩きだした。私も続く。
言うまでもなく彼女の笑顔も、最高だった!
[#地付き]――了――
[#改ページ]
■初出
ブランシャール嬢はお悩み[jump novel]vol.14(1998年5月3日号)
底本
著者 河出智紀《かわでともひろ》
小川一水のホームページ 小川遊水池で公開中の作品
http://homepage1.nifty.com/issui/
コメント 小川一水
400字詰め換算108枚
ポプラ第4話/多分最終話。
[#地付き]2008年5月1日作成 hj
底本のまま
・う ち
・                    ツ ァ イ シ ン グ