まずは一報ポプラパレスよりU
河出智紀
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)卿《きょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数百|隻《せき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)友達[#「友達」に傍点]
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〈カバー〉
私の名はデューイ=トランス。
ポプラパレスに勤務する主席秘書官である。
肩書は立派だが、本当のところは隣接するイウォーン帝国のスパイから転職したばかりの新米雑用係。
今日はグリーナ王女のお供で〈マリンブレード〉に同乗したが、王女のよっぱらい操縦のために機は墜落!
一方、ハイラーマの森の奥では、怪しげな男たちの一団が……!?
グリーナ王女が活躍する人気シリーズ第2弾!!
河出智紀
TOMONORI KAWADE
1975年生まれ。愛知県在住。
「まずは一報ポプラパレスより」でデビューしたと思われているが、その前に「リトルスター」を書いており、正体はSF作家のヒヨコ。趣味は旅行とサターン。
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まずは一報ポプラパレスよりU
MAZUHA IPPOU POPLAR PALACE YORI U
CONTENTS
あなたに木陰の思い出を
Crossing Letter
あとがき
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PROFILE
デューイ=トランス
もとはイウォーン帝国のスパイ。
現在はパレスの秘書官兼雑用係として、王女にふりまわされている。
グリーナ=テオ=ウルムス
病身の女王に代わってウルムスターの国政を司る、通称「殿下」。
国を愛する、まっすぐな気性の王女。
リクター王子
ウルムス王家の長男。
ハイラーマ高原に住んで、動植物の観察をしている。
ファイス王子
ウルムス王家の四男。
パレスの奥殿からグリーナ王女の動きをうかがっている。
ヘルツォーク
ファイス王子に長年仕えている侍従。
王子の性格を熟知している。
ジャンリュック=レンツェルゲン三世
レンツェルゲン王国の若き国王。
グリーナ王女に求婚中の一六歳。
チルデ=イゾット少尉
イウォーン帝国の女スパイ。
情熱的な性格から「フレイム・チルデ」とよばれる。
ラルザック
ジャンリュック三世に仕える初老の侍従。
慇懃無礼な態度の男。
ミオ=ブランシャール卿《きょう》
ポプラパレス王宮長官。
王女のお目付役で、トランスの上司。
レイ=ヴェルヒャー
政府の各部門を統括する、政務室長。
国政を表からの裏からも支える実力者。
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この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
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あなたに木陰の思い出を
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1
きらめく波濤《はとう》を乗り越えながら、イカダはゆるやかに東進していく。
海はどこまでも青く、空も果てしなく青い。両者の接する水平線が彼方《かなた》に見えるが、どちらがより澄んでいるのか、にわかには判別しがたい。
不意に驚くほど近くの海面で、流線形をした銀色のものがはねた。シイラだ。
「ああ……」
まぶしいほどの光に満ちた五月の海を眺めながら、私はつぶやいた。
「平和だ……」
「ひたるな、馬鹿」
どんと背中を押されて、私は前のめりに倒れそうになった。すぐ目の前が海面である。
「なんですか、殿下!」
振り返ると、グリーナ王女がにらんでいた。
御年《おんとし》一七歳の彼女は、去年の暮れに病床に伏《ふ》した母イリア女王の代理として、現在、北の小国ウルムスターの最高指導者の地位にある。黙って座ってほほ笑んでいれば、大陸の社交界でも一、二を争う美姫《びき》で通るだろうに、あいにく黙っていることも座っていることも、彼女は少ない。笑っていることはもっと少ないが、それだけに、ごくたまに出る笑顔が見る者に絶大な影響を与える。
かくいう私、秘書官デューイ=トランスも、その笑顔に当てられたクチだ。つい先月まではウルムスターに潜入して内情を調べる、隣国イウォーンのスパイだったのだが、紆余曲折《うよきょくせつ》を経《へ》て、いまではこの王女の子守りに成り果てている。緊張感が以前の自分の一ぐらいしかない職場だが、私はもうこれに慣れてしまった。我ながら、情けないやらおかしいやら。
王女は、相変わらずの不機嫌《ふきげん》そうな顔で、言った。
「調印するぞ。ペンを貸せ。――何しに来たんだ、おまえ」
「何しに来たにしろ、もったいないじゃありませんか。このすばらしい景色を満喫《まんきつ》しないなんて」
「公私混同だな。減俸《げんぽう》するぞ」
「公私混同は殿下もでしょう? 特使を派遣するのがめんどうだっていうのは建前《たてまえ》で、本当はひさびさのフライトを楽しみたかっただけのくせに」
「う……おまえ最近、態度大きいぞ」
図星入りましたね、と言おうとした私の目に、王女の後ろであぐらをかいて待っている老人の姿が目に入った。出来のよくない漫才などしている場合では、あまりない。
「……ペンでしたね」
「早くしろ」
私がブリーフケースから万年筆を出して渡すと、王女は老人のところに戻って、さしむかいで座った。白く塩の浮いた床板に二枚の書類をじか置きして、さらさらとサインする。
続いて、相手の老人もサインをした。
ぽろぽろの戎衣《じゅうい》をまとった、髪もひげも伸び放題の怪しげな人物だ。真っ黒に焼けた顔には無数のしわがあり、そのどこかに目と口がうずもれているはずだが、さっぱり分からない。名前はダムロンという。
サインを終えると、二人は書類を一枚ずつ手に取り、お互いの入れ物にしまった。
「ヤスタニ、ソレ、マシ」
声をかけられて振り向くと、肩に海鳥をとまらせた少女が、黒い顔に輝くような笑みを浮かべて、盆を捧《ささ》げもっていた。こぶしほどの大きさの、果樹を割ったらしい杯《さかずき》が三つ。
「ありがとう」
礼を言って、ひとつを受け取ると、ツンと青臭《あおくさ》いにおいが鼻をついた。――アルコールらしい。
残りふたつが、老人と王女に渡されるのを見て、私は声をかけた。
「殿下、酒です。やめておいたほうが――」
「マシの神酒《みき》は誓《ちか》いのしるしだ」
老人が太い声で私の言葉をさえぎった。王女たちの会談の最中は離れていたので、彼の言葉を初めて聞いたが、意外にも見事な北部語だ。
驚いていると、王女が一気に杯を空《あ》けてしまった。止める間もなかった。
「殿下……」
「……あのときの一杯よりは、だいぶおいしいな」
言いながら杯を置く手が、みるみるピンクに染まっていく。アルコールに弱いのは体質らしい。
あのとき、とは冬の園遊会のときのことだろう。あのとき飲んだのは小道具として使うためのゲテ物カクテルだったから、味は比《くら》べ物《もの》にならないはずだ。
突然、老人が爆笑した。天を仰ぎ、空を飲み込もうとするかのような大笑いだ。少し下がって立っていた少女の肩から、驚いた海鳥が翼《つばさ》を打って飛び去った。
「老、そんなにおかしいですか」
少々すわった目で王女が言うと、老人はさらに笑い声をはりあげ、自分の杯をぐっと飲み干した。
「ウルムスの家の娘、いい飲みっぷりだ」
「老こそ」
「わしはこれで育った。わしの体はすべて、これと魚族で成《な》っている。一族みなそうだ」
老人は笑いをおさめたが、なお愉快そうに、王女に言った。
「おまえが飲んだマシは、おまえの血肉となる。同じ血肉を持つおまえを、わしは義《ぎ》の兄妹《きょうだい》とするぞ」
「……さきほどの話、よろしくお願いします」
「またいつでも来い」
老人――スプラトの大族長ダムロンは、にやにやしながら言った。彼をおいて、王女は立ち上がった。
「トランス、帰るぞ」
「ふらついてますよ」
「海だからな」
「そういうのとは、ちょっと違うんですが……」
「うるさい、行くぞ」
係留してあった機に向かって歩きだした王女を、私はあわてて追った。
高度二〇〇〇に達して巡航態勢に入ったグリーナ王女の愛機〈マリンブレード〉は、水上仕様の予備タンク兼フロートを切り離すと、目に見えて増速した。
私は、機の後席から、後ろを見ていた。眼下に、大洋にふりまかれた木《こ》っ端《ぱ》のようなものが見える。
それが、海洋民族スプラトのもっとも大きな集落《ルツカリー》、つまり首都だった。――五〇人乗り、一〇〇人乗りの巨大なイカダから、双胴《そうどう》のアウトリガーや、ひとり乗りのちっぽけなカヌーまで数百|隻《せき》が集まった、移動する巨大な海上集落だ。
スプラトは、漂流する民族である。彼らは一生のほとんどを海の上で暮らす。春の婚期を除いて、氏族《しぞく》や部族の単位でイカダの船団を組み、南洋の多島海地方を風にまかせてぐるぐるさまよっているのだ。
一家族平均して一五人、数十家族がひとつの氏族に属し、数氏族がひとつの部族に属する。春の婚期に集合する、スプラトの八部族の族長の頂点に立つのが、ダムロン老人だった。
前に視線を戻して、私は操縦桿《そうじゅうかん》を握る王女に聞いた。
「殿下、ひとつ質問が」
「なんだ」
「今度のことにはどんな意味があるんですか」
「うちでは石油が出ないだろう。そのせいで、レンツェルゲンのジャンとかミダスのコーヴェインとかの、カンディナ半島のいけ好かない連中に頭を下げなきゃならない。あそこは原油の宝庫だからな。今度のことは、状況を打開する絶好のチャンスなんだ。あのじいさんからは、彼らが知っている、海底や多島海の油田の情報と、その採掘許可をもらう。こっちからは、陸上の平野部でしか生産できない小麦や蓄肉《ちくにく》なんかの食料を提供する。フェアな取引だろう?」
「いや、そうでなくて」
王女の答えが少しずれていたので、私は聞き方を変えた。
「わざわざこんな多島海くんだりまでやってきた理由が聞きたいんです」
「遠出は嫌いか? 出不精《でぶしょう》なやつだな」
「バカンスならおおいに乗りますけどね。仕事なら話は別です。だいたい、ウルムスターにも地下資源はあるじゃありませんか」
「なんのことだ」
「私にとぼけなくてもいいでしょう。ハイマーラ高原のことです」
「あそこか……」
私が、ウルムスター南部の高原区域の名を出すと、王女の口調が微妙に変わった。
「あそこは大変だぞ。おまえを一〇人|束《たば》ねたぐらいのカラマツやトウヒが見渡す限り突っ立ってるし、虎《とら》や狼《おおかみ》が出るし、夏は虫、冬は寒さで参りそうになるし……」
機が突風を食らったようにぐらっと揺れ、私は思わず手足を踏ん張った。
「しかし、埋蔵量《まいぞうりょう》は豊富なんでしょう? それも原油だけでなく、石炭から鉄鉱石まで、様々な鉱産資源が存在することが確認されているとか……」
「あそこは自治領だ」
「自治領で殿下が直接手を出せなくても、こんな遠くの民族と話をつけるよりは楽なはずです。サマルカンドからほんの二、三百キロですし……」
「トランス」
グリーナ王女は、突然振り向いた。機がまた、ぐらっと揺れる。
「駄目なんだ、あそこは」
――怒っているのに近いような、妙なまなざしだった。その静かな迫力に押されて、私は口をつぐんだ。
私が黙ると、王女はまた前を向いた。
「おまえが言ったことは、私だって知ってる。でも、駄目だ」
「殿下、それはいいんですが……」
振り向いたときの王女のほおがやけに赤かったので、私はさっきのマシ酒のことを思いだした。
「やけに揺れますね」
「空だからな」
「そういうのとは、ちょっと違うんですが……」
「……これ、酔ってるっていうのか?」
「いうのかって……まさか」
そういえば、王女はこれまで、酒を飲んだことがほとんどない人間だった。
つまり、自分が酔っているかどうか、分からないのだ。うかつにもそれを忘れていた。てっきり、酔いの程度を自覚して操縦していると思ったのに……。
「止めてください、降ります!」
「非常識だな」
「非常識はどっちですか! なんてこった、助けてくれ!」
「静かにしろ、頭に響く。そうか、これが悪酔いだな」
「のんきなこと言ってる場合ですか!」
叫ぶ私と、平然としている王女を乗せて、マリンブレードは薄暮《はくぼ》に近くなった空をふらふらと飛んでいった。
2
「サマルカンド・タワーよりクォーツ21、アウターマーカー上で待機せよ」
「DAT四〇二便、レーダーコンタクト。方位二六〇、高度八〇〇〇に向かえ」
金曜日、午後五時。サマルカンド空港。
週末の夕方なので、発着の便数が多い。加えて、空軍の集中訓練が重なっており、キャパシティの小さいサマルカンド管制塔は、てんてこ舞いの状態だった。
「クォーツ21、何やってやがる! てめえの出番はまだ先だ! そんなとこをふらつかれたら、先客のAL三五が降りられねえだろうが!」
「大変そうですね」
「ああ、これは長官殿」
オレンジ色の光が斜めに差しこむ管制室で、インカム相手に怒鳴っている男に、王宮長官ミオ=ブランシャール卿《きょう》は声をかけた。振り向いて笑ったのは統括《とうかつ》管制官のスワンツである。グリーナ王女がしょっちゅうここに来る関係で、ミオとは顔なじみだった。
「仕事はお済みで?」
「ええ。この週末はゆっくり過ごせそうです」
「あのお姫様のことがなければ、でしょう?」
「その通りです」
ミオは苦笑して、窓の外に目をやった。
西のグレゴニクス山脈の頭越しに差す夕日が、管制塔や格納庫の長い影を滑走路に落としている。いまも国際線の中型旅客機が着陸したところだが、まだ彼女の目当てである、青い小さな戦闘機の姿は見えない。
「殿下はまだでしょうか」
「まだですが、もうすぐ南のルンギッド・レーダーが捕《つか》まえると思いますよ。でなけりゃ燃料が切れてるころだ。――おっと、そらきた」
管制卓の隅の外線電話がベルの音を上げ、スワンツが椅子《いす》に座ったまま、腕を伸ばして受話器を取った。
「サマルカンド・タワー、スワンツだ。……なに?」
声が低まり、目つきが険《けわ》しくなる。ミオは、ちょっと眉《まゆ》をひそめて待った。
「ふん……ふん、そうか。間違いないな? わかった」
ガチャンと乱暴に受話器を置くと、スワンツは口元を歪《ゆが》めて言った。
「マリンブレードが消息を絶《た》ちました」
「……なんですって?」
「ここから南に二八〇キロの地点で、レーダーから消えたそうです」
インカムの呼び出しチャンネルを切り替えながら、目をぱちくりさせているミオにスワンツは言った。
「すぐに救難機を出します。長官はパレスに連絡を」
「……もうお休みどころじゃありませんね」
ため息をつくと、ミオはスワンツが切ったばかりの外線電話に手を伸ばした。
古い屋敷の、奥まった一室で、古びたソファに寝転んだ少年が本のページをめくる手を止めた。
「グリーナが?」
「はい」
地味なグレーのスーツを着た男が慇懃《いんぎん》に繰り返す。
「一五分ほど前に、随員《ずいいん》一名とともに、ハイマーラ近辺で行方不明になりました」
「ふうん……」
少年は、再び分厚《ぶあつ》い本に目を戻した。ばらり、ぱらりとページをめくる。スーツの男は、黙って立っている。
二分ほどしてから、少年は出し抜けに、ぼそっと言った。
「随伴機はいたのか?」
「おりません」
唐突な質問には慣れているらしく、男は即座に答えた。
「すでに救難機がサマルカンド空港から出ておりますが、王女の機体が墜落したのであれば、生死どちらにしろ、発見は難しいと思われます。日が暮れておりますし、あのあたりは地形が複雑ですから」
「グリーナと管制の最後の会話は?」
「それは……」スーツの男が、言葉に詰まった。「申《もう》し訳《わけ》ありません、確認しておりません」
スッ、と少年の目が細まった。
「ヘルツォーク」
「はっ」
「手を出せ。そこに置け」
「……はっ」
少年に示されたサイドボードの上に、男は右手を伏せた。かすかに震えている手の甲に、少年が、本を閉じ、無造作《ぞうさ》に振り上げる。
指三本分の厚さの本が、角を下にしてまっすぐに重力に従った。
「ぐっ……」
男がうめく。少年はそれに目もくれず、再び本を持ち上げて、開いた。
「調べろ。すでに死んでいるのか、それとも生存の可能性があるのか、はっきりさせるんだ」
「はい」
「生きているようだったら、その後の報告は無用。しかし、もしはっきりしない場合は」
言葉を切って、少年はぱらりとページをめくった。そのまま、何も言わない。
男は、無言で頭を下げ、部屋を出た。少年の言葉はあれで終わりであった。少年に仕《つか》えて長い男には、それが分かった。語尾に続く言葉がなんであるかも。
廊下を早足で歩きながら、男は真っ赤に腫《は》れ上《あ》がった親指を拳《こぶし》の中に握りこんだ。
「くっ……」
心臓が鼓動するたびに、後頭部がドクン、ドクンと痛んだ。何かで打ったらしい。
目を開けても、ほとんど何も見えない。あたりが暗いからか、それとも私が気を失いかけているからか。それとも、その両方だろうか。
「殿下」
呼んだが、返事がない。私は、全身の力を振《ふ》り絞《しぼ》って体を起こした。
地面は苔《こけ》か何かに覆《おお》われていて柔らかい。が、ところどころに木の根が露出している。どうやらそれで頭を打ったらしい。
あたりは、鬱蒼《うっそう》たる深い森だ。二抱《ふたかか》え、三抱えもありそうな巨木が闇《やみ》の中に幹を連《つら》ねている。
王女は、パラシュートの布に半分からまったまま、三メートルほど離れたところに横たわっていた。動く様子はなく、どうやら気を失っているらしい。
私は、自分のパラシュートの布を切り離して、王女に這《は》い寄《よ》ろうとした。だが、少し動いたとたん、また頭がズキンとうずいて、がくりと地に伏《ふ》した。
「殿下……」
目の前に暗い幕が下りてくる。まさかこのまま死ぬんじゃないだろうな、と他人事《ひとごと》のような考えが浮かぶ。
意識を失う直前、視界のはしで動く、何者かの黒い影が見えた。
「熊《くま》だーっ!」
と叫んだ拍子《ひょうし》にまたしてもズキンときて、私は頭を押さえた。
「いててて……」
カビ臭《くさ》い毛布に顔をうずめて、痛みが鎮《しず》まるのを待つ。――毛布?
ボロボロでほこりっぽかったが、確かに毛布だった。私は、体を起こした。
そこは、小さな小屋の中だった。縦横《たてよこ》ともに、ほんの一〇歩ほどしかなく、天井は頭をすりそうな低さだ。私が横たえられていたのは床の上だったが、周囲は雑然としていてスコップや脱ぎ散らした服、手斧《ておの》や妙な針金などが散乱している。
そのわりに家具は少なく、食べかけの黒パンや大小の瓶《びん》がこぼれそうに積まれたテーブルと、三脚の椅子、一方の壁に組まれた暖炉《だんろ》、それに窓際《まどぎわ》のベッドがあるだけだ。
そのベッドに、金色の光の塊《かたまり》がのっていた。
近寄った。光の塊は、頭髪の渦《うず》だった。窓から差す陽光が反射して、そんなふうに見えたのだ。金に近い色ながら、角度によっては、ごくわずかに柔らかな緑色が混ざって見える。――そんな妙な色の髪の毛をもつ人間は、私が知る限りひとりしかいない。
「殿下」
私が声をかけると、私にかけられていたものより上等そうな毛布が、もぞもぞと動いた。やがて、頭までかぶっていた毛布をどけて、グリーナ王女が顔を出した。
「ん……」
「起きてください」
「いやだミオ、もう少し……」
私を王宮長官と間違えている。光がまぶしいらしく、目をこすってまた毛布にもぐりこんでしまう。
寝顔を見るのは、確かこれが二度目だ。私がくすくす笑っていると、後ろでバタンと音がした。
「起きたのか」
振り向くと、長身の男がドアのところに立っていた。
頭にかぶった毛皮の帽子が、文字通り天井をこすっている。肩幅も広く、力もありそうだ。着ているものはなんと表現するべきか苦しむが、外で作業をするためのものであることは一目《ひとめ》でわかった。一番上が毛皮の外套《がいとう》で、いでたちからいって猟師かきこりといったところだろう。
ただ、顔の造作《ぞうさ》に少々、引っかかるものがあった。口の周《まわ》りとあごに伸び放題のひげが生《は》えているが、その色が黒や茶ではない。
そしてその目。その、きつすぎるぐらいの輝きを持つ、強い意志を感じさせる瞳《ひとみ》はどこかで……。
「なんだ、私の顔がそんなに気になるか」
「ええと……」
「朝飯を作るが、卵はなんにする? いや面倒だ、おまえが焼いてくれ。私は目玉焼きだ。焦《こ》げる寸前まであぶったやつがいい」
一方的にまくしたてて、テーブルの卓上コンロとフライパンを指さす。それからさっさと部屋の隅に行って、がらくたにしか見えない品々の山を漁《あさ》りだした。
「パンがないな……確かこのへんに、三日前の残りがあったと思ったが……」
「あんたが助けてくれたのか」
「北の谷でお前たちを見つけた。なんのつもりであんなところに寝ていた? 冬眠から覚めた熊が、腹を空《す》かしてうろちょろしているんだぞ」
「飛行機から脱出したんだ。どうもありがとう」
「礼はいい。早いところ飯の支度《したく》をしてくれ。卵は裏庭でニワトリたちから分けてもらえ。気の荒いのがいるから、目玉をつつかれんようにな。これ以上ケガの手当をするのはごめんだ」
そう言って、私の頭に目をやる。触《さわ》ってみると、包帯が巻かれていた。違和感がないのでいままで気づかなかったが、きれいな巻き方だ。
「ああ、あったあった。だいぶ固いな。湯気で戻すか」
「……うるさいな、人が寝ているのに……」
窓際の王女が、毛布の中でもぞもぞ動きながらそう言った。男がそれを聞いて、丸パン片手にベッドに近寄る。
「起きろ、もう朝だ」
毛布の動きが、ぴたっと止まった。ばさっとそれをはねとばして、王女が身を起こす。
「相変わらず寝起きが悪いな」
微妙に笑いを含んだような声で男が言った。と、グリーナ王女が、これまで見たこともないような顔をした。目をまんまるにしたのだ。
「兄様《にいさま》……!」
「何年ぶりかな、グリーナ」
信じられない光景を私は見た。王女が、男の胸に顔を埋めたのだ。
「まったくこいつは、実の兄妹《きょうだい》なんだから顔ぐらい見せにくればいいのに」
愛《いと》しそうに言った男のひげと王女の髪が重なっていたが、境目《さかいめ》はまったくわからなかった。
リクター=ウルムス、と男は名乗った。グリーナ王女の一番上の兄だ。年は二六歳。
少し古くなったパンと目玉焼き、ベーコンとチーズとホウレンソウといった献立《こんだて》の朝食を食べながら、私たちは話し合った。
「するとなんだ、グリーナはよっぱらい運転で戦闘機を一台おしゃかにしたのか」
「ガス欠です」王女がほおを膨《ふく》らませて言った。
ガス欠なのは確かだが、その原因は、やはり王女のよっぱらい運転である。もともと余分の燃料を積んでいなかった機体を、ふらふら蛇行《だこう》させたものだから、燃料が足りなくなってしまったのだ。
「まあ、ケガもたいしたことがなくてよかった」
私は頭に、王女は左手と左足に包帯を巻いている。どちらも着地のときに打ったのだ。それに関しては、王女も素直にうなずいた。
まったく、珍しい光景を見ることができたものだ、あのグリーナ王女が、心からほほ笑みながら食事をしているなんて。片手が使えず悪戦苦闘しているが、左隣に座ったリクター王子がそれをさりげなく手伝っている。同じ兄弟でも、ジョシュア王子とはえらい違いだ。
「王子殿下はここで何をしていらっしゃるんです?」
私が聞くと、王子は顔をしかめた。
「トランス、だったな。聞くが、私にそんな呼びかたが似合うと思うか」
「なんてお呼びすればいいんですか」
「リクターでいい。王子なんて言われると背中がかゆくなる」
ざっくばらんな言い方が、グリーナ王女にそっくりだ。
「今は何をなさっているんですか」
「フィールドワークだよ。リスを追っかけたり、みみずくの巣に首を突っ込んだり、まあ気楽なものだ」
「動物学ですか」
「動物行動学、生態学、その辺だ。学問と遊びの境界線上をぶらぶらしているというところだな」
朝食を食べ終わると、リクター王子はまた外套と帽子を身につけ、ザックを引っかけて出ていこうとした。王女がそれを呼び止める。
「兄様、電話はありませんか」
「あるわけないだろう」そっけなく言って、リクター王子は肩をすくめた。「パレスに連絡するなら、私が近くの町まで行って、代わりにやっておこう」
「私も行きます!」
「グリーナはそこで待っていなさい」リクター王子は、優しく言った。「貂《てん》の罠《わな》を見て回らなければいけないから、かなり歩くんだ。ケガの具合がよくなるまで、あまり出歩かないほうがいい。じき、迎えが来るだろうから。トランス、グリーナを頼む」
「わかりました」
リクター王子は、もう一度はほ笑んで、出ていった。
私は食事の後片付けを始めた。一人暮らしだから手慣れたものだ。王女は、ベッドに腰掛けて窓の外を眺めている。
「そういえば殿下」
「うん?」
「大事なことを聞き忘れていました。ここは、どこです」
「ハイマーラだ」
「え?」
私は、重ねたパン皿を持ったまま、振り向いた。
「ハイマーラというと、あの……」
「そのハイマーラだ」
王女は、窓の外を見たままうなずいた。
「サマルカンドから南に二五〇キロというところかな。……運がよかった。兄上に会えて」
「ここがハイマーラですか……」
流しが見当たらないので、やむを得ずその辺に皿を重ねて、私は王女に言った。
「殿下、外に出ませんか?」
「外に?」窓枠《まどわく》についていたほおづえを外《はず》さず、王女が聞き返した。「でも、兄上は出るなって言ったぞ」
「そこらを見るだけですよ」
ふだんは好き勝手に動いている王女が、子供のように素直に兄王子の言葉に従っているのが、おかしかった。
「遠くへ行かなけりゃ、かまわないでしょう」
「……そうだな」
王女は、うなずいた。
王女に肩を貸して外へ出ると、明るい五月の陽光が降ってきた。はるか南のスプラトの海上で浴びたのとはまた違った、柔らかなやさしい光だ。森の呼気をたっぷり含んだそよ風が、さやさやとそばを過ぎていく。
周りは、何百の年を経《へ》てきたのか見当もつかぬ大樹が立ち並ぶ、深い森だった。
小屋の前は木が切り倒され、ちょっとした広場になっていた。ディナーは無理でも、ランチぐらいなら広げられそうな切り株がそこごこに残っている。少し先を馬車道のような道が横切っているが、そこ以外は、すべて緑のじゅうたんのような下草と苔に覆われていた。
「そこに座れそうですね」
手近の切り株に、私たち二人は腰掛けた。王女は、安らかな顔で木の香りがツンとくる空気を、深々と吸い込んでいる。
ぼんやり座っていると不意に、ほんの五、六歩先の切り株のむこうから、ひょいと茶色い影が飛びだした。小さな前足をぶらんと下げ、黒い丸い目で、問いかけるようにこちらを見つめる。ピンと立った長い両耳と、ぴくぴく動く鼻がなんとも愛らしい。
野兎《のうさぎ》だ。
「おいで」
ちっちっと舌を鳴らしてみせたが、それ以上近寄ってこない。小さなお客は軽く首をかしげると、次の瞬間、稲妻のような素早さで背後の木立に駆けこんでいった。脱兎《だっと》のごとく、とはこのことだ。
森の中からは、かさかさという葉擦《はず》れの音や、軽く早い足音がかすかに聞こえてくる。頭上高くを、ひばりが早口で忙しくさえずりながら、ゆっくりと横切っていく。
「……和《なご》みますねえ……」
「年寄りくさいやつだ」
「そういう殿下だって、だいぶゆるんでいますよ」
「……フフッ」
小さく笑って、王女は私に顔を向けた。
「分かるか、ここに手を出さない、と言ったわけが」
「その話ですか」
「ウルムスターにも、ここほど手つかずの自然が保たれているところは、もうあまりない。イウォーンはどうだ」
「南ツウィッツェンの千年森林、ラバポートの干潟《ひがた》、カナス山嶺《さんれい》……秘境と呼ばれている場所もありますけど、国土が広いからですね。いずれそういった地にも、人が入り、少しずつ開拓されていくでしょう」
「昔に比《くら》べて、ずいぶん人間は力をつけた。大自然の克服《こくふく》も、時間と人手をかけて、機械を使って進めれば、もう難しいことじゃない。そのうち、人口がどんどん増《ふ》えて、開発が進めば……」
「いいことじゃないですか。それだけ人間の住める土地が増えるんです。土地が増えれば、領土争いの戦争も少なくなりますよ」
私は、ついひと月前の争乱を思いだしながら言った。しかし、王女は浮かない顔だった。
「この星の広さは有限だ。人の住む地域を際限なく広げていけば、いつか、森や草原や、山や川がなくなって、見渡す限りの街《まち》になってしまうんじゃないだろうか」
「心配性ですね」私は笑った。「そこまでいくのにどれぐらいかかるか。私や殿下の生きているうちには、まずそうはなりませんよ」
「じゃ、私たちの孫の時代はどうだ」
私たちの孫? と聞き返そうとして、私は頭を振った。一瞬妙な考えが浮かんだのだ。だが、王女はその言い回しのまぎらわしさには、気づかなかったようだった。
「いまは大丈夫でも、開発は止まらないんだ。いずれそうなる。星じゅうに人があふれて、行き場がなくなる。多分このペースだと、ほんの二、三百年でそうなるだろう。もしかしたらもっと早いかもしれない」
王女は、私の目をじっと見上げた。
「ウルムスターの歴史が二千年だ。そのほんの一割だぞ?」
二百年をそれほど短い時間としてとらえることができる視点、それこそ、彼女の偉大なところだった。たまに見せるこういう発想の大きさが、私が彼女を敬愛する原動力となるのだ。
「言われてみれば、すぐのような気がしますね」
「まだ他人事《ひとごと》だと思ってるな。……まあ、そんなものか」
つぶやいて、王女は空を見上げた。
「二百年、そのていどの未来にまでなら、ひとりの王の力でだって、残せるものがあるだろう。……たとえば、ほんの高原ひとつ分の森だとか」
今度は、足元に目を移す。
「鉄だの石油だのは、使えばすぐになくなってしまう。そんなものより、一万年をかけて育ってきたこの森のほうに価値がある。……おかしな考えか?」
「ちょっとついていけませんが……」
地下資源のもたらす利益だって、国のためになる。そう思いながらも、なぜか王女の言葉に、私はうなずいていた。
「殿下の考えは、それぐらい常識外れでいいんじゃありませんか」
「常識外れはずいぶんだな」
王女は口をへの字にして、むこうを向いた。
しばらくそのまま黙っていた私は、あることを思いだした。
「リクター殿下に悪いことをしました。パレスに連絡する方法がありましたよ」
「なんだ」
「戦闘機の射出座席には、無線機がついているはずでしょう」
「……あ、そうか」
「その辺にありませんか」
小屋の裏まで回ってみたが、それらしいものは見当たらない。小屋の中にも、なかったはずだ。
「私たちを運んでくるので手いっぱいだったんだろう」
「すると、落下した地点に残っているはずですね。そうだ、それにカバンも拾ってこなけりゃいけない。見てきましょう」
「場所が分かるのか?」
「確か、北の谷と聞きました。ちょっと行ってきますから、殿下は中へ」
「おまえひとりで大丈夫か?」
いつものように馬鹿にされたのかと思ったが、目がまじめなところをみると、どうも心配されたらしい。私は軽く笑った。
「迷子にならない訓練ぐらい受けていますよ。留守番、頼みます」
「わかった」
王女がおとなしく小屋に戻ると、私は切り株の年輪から見当をつけて、北に向かって歩きだした。リクター王子がひとりで私たちふたりを運んできたぐらいだから、そう遠くないだろう。
小屋から離れると、明るさが減った。うっそうと生《お》い茂《しげ》った木々のこずえが、太陽の光を大地に届く前に吸収してしまうのだ。もっとも、だからこそ森の木々がこれほど大きく育つのだが。
地面は柔らかく歩きやすいが、苔の生えた木の根には注意が必要だった。滑る。それに一度、木々のむこうを、熊らしい大きな動物がのっそりと歩いていくのも目撃した。
一時間ほど歩いただろうか。地面の柔らかさが増してきた。手で触れてみると、湿っている。谷に入ったらしい。パラシュートの紅白ストライプの布は目立つから、注意して探せば見つかるだろう――そう思って歩いていくと、はたして、あった。
水分を含んだ苔を踏みつぶして、私はそれに近寄った。確かに私たちが脱出に使ったパラシュートだ。
目当てのひとつ、スプラトとの条約を記載《きさい》した書類を収めたカバンは、すぐに見つかった。しかし――
無線機がない。脱出時に一緒に射出される救急パックが落ちていたが、付属しているはずの救難用無線機が見当たらないのだ。
脱出のショックで外れてどこかへ吹っ飛んでしまったのだろうか。戦闘機の装備に関しては、残念ながらイウォーンでは学んでいなかった。飛行機好きの少年に毛が生えたていどの知識しかない。
そこらを探してみるつもりで、私は歩きだした。ものの五分と行かないうちに、森のむこうに、あるものを見て私は足を止めた。
人間だ。人数は多い。一〇人以上いるだろうか。
昔の習慣で、自然に姿勢が低くなる。銃がほしいと思ってしまって、苦笑した。警戒する必要など、あるわけがない。
近くの村の人たちだろうと思って、私は普通に歩きだした。
近づくにつれ、彼らの姿が明確に見えてきた。厚手の作業服――というか、軍服を思わせる服を着ている。何かの機械が据《す》えてあり、数人がその周りをせわしなく動き回っていた。残りの人間は、まるであたりを見張るように、円形の陣を組んで、立っている。
私は足を止めた。
円陣を組んでいる男たちが、銃を持っていた。猟銃ではない。あきらかに、戦闘を目的として設計された、突撃銃のようなものだ。
本能的に危険を感じて私は身を隠したが、その動きがかえって目についたようだ。円陣のうち数人が、何かを叫《さけ》び交《か》わしながらこちらへ走ってきたのだ。
私は駆けだした。
背後から、止まれ、と声がかけられた。素直に従う気はさらさらない。と、出し抜けに銃声がして、近くのカシの木の皮が、ビシッと弾《はじ》けた。
こうなってはますます止まるわけにはいかない。
幸《さいわ》いなのは、障害物が無数にあるということだった。できる限り木の陰《かげ》に入るよう、私はジグザグに突っ走った。背後の足音がいつまでたっても消えないような気がした。
無我夢中で、どれぐらい走ったろう。さすがに息切れして、私は足を止めた。おそるおそる背後を振り返る。――鳥の鳴き声がどこからか聞こえてくるが、銃声や足音は、もうなくなっていた。どうやら、まいたらしい。
ひとつ息をつくと、私は南に向かって、早足で歩きだした。
「逃げられました」
「……チッ」
部下の報告を聞いて、そのチームのリーダーは、軽く舌打ちをした。
発砲はまずかった。あれがかえって、相手の逃げ足を速めてしまったのだ。目撃者を作ったのは、よくなかった。
「探しますか」
「その必要があるだろうな」
リーダーは手短《てみじか》に指示を与えた。
「どの程度知られたか分からんが、ともかく、ここは撤収《てっしゅう》する。次のポイントに行くぞ。機材の分解を急げ」
「はい。報告はしますか」
二、三秒考えてから、リーダーはうなずいた。
「隠すほうがまずいだろうな。よし、あの方に報告を」
「わかりました」
走ったせいか、帰りは早かった。行きにつけた目印のひとつを見つけたので、それをたどって、私は丸太小屋に帰り着いた。
リクター王子はもう戻っていて、テーブルで燻製肉《くんせいにく》を切り分けていた。はめっぱなしの腕時計を見ると、もう一二時だ。昼食の準備らしい。私を見て、驚いたような声を上げる。
「早かったな」
「そうでもないでしょう? 北の谷まで行ったんですよ」
「ああ……そうか。熊が出なかったか?」
「ええ、確かに熊を見ましたよ」
「まあケンカを挑《いど》まなかったのは賢《かしこ》い選択だ。それはそうと、パレスには連絡しておいたぞ」
「そうですか」
私は、リクター王子のむかいに腰掛けた。いましがたのことを話そうとした鼻先に、ナイフが突きつけられる。
ぎょっとすると、王子はにやっと笑って、ナイフを回転させた。柄《え》のほうを私に差しだす。
「まだパンが残ってる。切ってくれ」
「……はあ」
「裏に馬がいる」缶詰《かんづめ》に缶切りを突き立てながら、リクター王子は言った。「そうだな、グリーナのケガの具合がよくなるまで二、三日待って、それから帰ったらどうだ」
「その前に、ちょっと……」
私は、ちらっとベッドをうかがった。グリーナ王女が横になっているが、眠っているようだった。
「森の中で、おかしな連中を見つけました」
「なに?」
リクター王子は、缶切りを止めて私の目を見つめた。
「何かの機械を使っていましたが、よくは分かりません」
「見ただけか」
「近寄ろうとしたら、発砲されましたよ」
「ふむ……」
難しい顔で、リクター王子は手元の缶をにらんだ。
「何者でしょうかね」
「やつらだな……」
「心当たりが?」
「ああ。資源ブローカーだ」
リクター王子は、ガシガシと凄《すご》い勢いで缶切りを動かしながら、言った。
「ここの豊富な地下資源を漁《あさ》りにきている連中だ。昔はフリーの山師《やまし》をたまに派遣してくるていどだったんだが、最近、態度が大きい。大っぴらにこの地に調査隊を差し向けてくるようになった。どうもウルムスター本国で、大物のバックがついたらしい」
ガキッ、と音がして、リクター王子の手が止まった。しまった、とつぶやく。
「どうしました」
「ふたが中に落ちてしまった」
「はい」
私はナイフを差しだした。リクター王子は、それを差し込んで、うまくふたを取りだした。
ナイフを私に返し、トマトピューレを皿にあけながら、リクター王子は自嘲的《じちょうてき》に笑った。
「自治領なんて名ばかりだな。本国の都合《つごう》で、いいようにされている」
「そういえば、ここは誰《だれ》が治めているんです。自治領というからには、地元の人間でしょうが」
「私だ」
こともなげにリクター王子がそう言った。私は固いパンを切ろうとしていた手を止めて、まじまじと彼の顔を見つめた。
「……そうなんですか?」
「私はここで生まれたんだぞ。いや、私だけじゃない」
ベッドを振り返って、なんだ、とリクター王子は言った。
「起きたのか」
「二度寝してしまってすいません、兄様。いつ戻られたんです?」
グリーナ王女が、ベッドに体を起こしていた。私はある危惧《きぐ》を抱《いだ》きながら、聞いた。
「殿下、いつ起きられたんですか」
「おまえが入ってきたときだ。まったく、ドアはもっと静かに閉めるものだぞ」
「ということは……」
「いくぞ」
「……やっぱり……」
私は頭を抱えた。そうなるのを恐れて、王女が寝ているのを確かめたつもりだったのに。
「いくって、連中のところにか?」リクター王子が驚いている。当然だ。「何をしにだ、止めにいくのか?」
「はい」王女はうなずいた。「この森に鉱山を造ることなんか、許せません。森のためにも、兄様のためにも」
「無茶するな」リクター王子も、椅子から立ち上がった。「連中は武装しているんだぞ。どうやって止めるんだ。何か考えがあるのか」
「それは……ない、ですけど……」詰まったのは一瞬で、「とりあえず、いって話してみます」
これである。毎度ながら、どうしてこの王女はこうも頑固なのだ。
「駄目だ! だいいちグリーナ、おまえはケガ人だぞ。いくと言っても、どうやっていくんだ」
「トランス!」
「ほらきた」
「何がほらきただ」王女は、有無《うむ》を言わせぬ口調で言った。「おまえも馬に乗れたな。手綱《たづな》を持ってくれ」
「はいはい、わかりましたよ」
言いだしたら聞かない王女の性格は、いつぞやのミオ卿のたとえを思いだすまでもなく、よく分かっている。
「リクター殿下、一〇年前はどうだったか存じませんが、いまのグリーナ殿下は、それはそれは頑固ですよ」
「こら、頑固とはなんだ頑固とは!」
「ほめたんですよ。で、リクター殿下、よろしければ馬を一頭お借りしたいんですが……」
額《ひたい》に手を当てていたリクター王子は、やがて不承不承《ふしょうぶしょう》といった感じでうなずいた。
「グリーナの頑固は、一〇年前どころか、生まれたときからだ。よく分かっている。馬を貸そう。ただし、グリーナの具合がよくなったらだ」
リクター王子は、グリーナ王女に負けないほどの強い口調で言った。
「文句はないな」
あっても許さん、あきらかにそういう顔だった。つまるところ、この人はやはり、グリーナ王女の兄なのだった。
3
「見つかった?」
長官室の机でうとうとしかけていたミオ=ブランシャール王宮長官は、シリングス政務副室長の報告を聞いて、椅子《いす》から腰を浮かした。
「どこで!」
「ハイマーラの森の中ですが、発見者が意外な人物でして」
「もったいぶらずに早く教えなさい!」
せかすミオの目の下には、薄黒いくまができている。服装は昨日のままで、髪型は昨日より崩れている。一晩中まんじりともせずここで頑張っていたのだろう。知らせを待つ間、どれほどの焦燥《しょうそう》に彼女がさいなまれていたかを思って、シリングスは同情した。
「リクター殿下です」
「……あの方が!」
すとん、とミオは椅子に腰を下ろした。
「一一時頃、ハイマーラ東部のポカラ集落から連絡が入りました。二人ともかすり傷ていどのケガで、すぐに送り返すそうですよ」
「よかった……!」
「まあ、なんですな。殿下があのていどの事故でどうにかなるわけがないんです。故障したわけでなし、戦闘を行なったわけでなし、ただ飛びだしただけなんですから。捜索《そうさく》の連中が見つけた機体も、損傷なく回収できるって話ですし、万々歳じゃ……」
言葉を切って、シリングスはミオを見つめた。
王宮長官は、背もたれに体を預けて、くーかくーかと船を漕《こ》ぎだしていた。
「それじゃ私は、これで失礼しますよ」
ミオに聞こえないように言って、シリングスは部屋を出た。
「かまわん」
叱責《しっせき》を予期しながら報告したグレーのスーツの男――ヘルツォークは、主の意外な返事に、顔を上げた。
「生きていたならいたで、手の打ちようはある。いつまでも救難機に飛び回られると、僕たちの手勢が見つかるおそれもあったしな」
「…………」
ヘルツォークの主である少年は、午後の光のあたるレンガ敷きのテラスで、盆から紅茶のカップを取って口をつけた。
「だが、見られたとあっては、放っておくわけにもいかんな。あいつがサマルカンドに戻ったら、かならず対抗策を打ちだしてくるだろうし。――分かるか?」
「……心得ました」
ヘルツォークはうなずいた。彼には主の言葉の意味がよく分かった。グリーナ王女をサマルカンドに帰らせてはならない、と言っているのだ。
「よかったな、ヘルツォーク」
少年が、紅茶のカップをソーサーにおいて、ヘルツォークの右手に視線を向けた。
ヘルツォークは、小さく肩を震わせた。
「ん?」
薪割《まきわ》りをしていた私は、木立《こだち》のむこうで何かが動いたような気がして、手を止めた。私たちがリクター王子の小屋に逗留《とうりゅう》し始めて、三日目の朝だ。
木々のむこうを見つめる。――立ち並ぶカシやスギは、四|桁《けた》に達する年月を経《へ》てきた大木ばかりだ。身を隠されたら、容易《ようい》には分からない。
分からないが、何かが動いたのは確かだ。
私は、手斧《ておの》を持ったまま、小走りに小屋に戻った。
小屋の中では、リクター王子が猟銃を磨《みが》いていた。屋内に駆け込んだ私が扉を閉めると、不思議そうに聞く。
「どうした」
「外に何かがいます」
「どんなやつだ?」
「さあ、しかし隠れるだけの知恵があるのは確かです。私の見るところ、あれは人間っていう、極《きわ》め付《つ》けにたちの悪い生き物ですね」
険《けわ》しい顔で、リクター王子は窓際《まどぎわ》に歩み寄った。窓の下のベッドからも、王女が何事かと顔を出す。
二人して外をのぞき、二人同時に何かの結論に達したらしかった。
次の瞬間、リクター王子はがばっとグリーナ王女を押さえこもうとし、王女はその手をすりぬけてベッドを飛びおりた。
「トランス、そこをどけ!」「捕《つか》まえろ!」
二人に同時に叫ばれて私がまごついたスキに、王女がドアを開けて飛びだしてしまった。とても片足をケガしている人間とは思えない素早さだ。
あわてて私が外に出ると、とたんに、足元にビシッと何かがめり込んだ。前方の木の陰《かげ》にこちらを向いた銃口が三つ四つ光っている。
立て続けに数発、足元に着弾した。威嚇《いかく》だろうが、跳弾《ちょうだん》が当たる危険がある。私は思わず片足を上げたが、王女は微動だにしない。
「おまえたちは誰《だれ》だ!」
王女が叫んだ。いつもながらの無鉄砲である。
「用件があるならここへ来て言え。私もこいつも丸腰だ」
返事はない。しかし銃声も止《や》んだ。気配に振り向くと、リクター王子も出てきていた。
息詰まるような沈黙がしばらく続き、やがてそれはむこうから破られた。
森の中から、男がひとり現れた。以前私が見た服装だ。軍人のような感じだが、どうも実戦部隊より、工兵に近い装備をしている。銃は持っていない。
「名を名乗れ!」王女が叫んだ。「私はグリーナ=テオ=ウルムスだ」
「存じ上げてますよ、姫」男は、ヘルメットを取った。素顔は三十代|半《なか》ばぐらいか。「あたしは、バーレットと言います」
「何が目的だ」
「目的は簡単です。あんたをさらうこと」
ぞんざいな口調でバーレットと名乗った男は言った。王女もひるむ様子はない。
「さらってどうする?」
「当分閉し込めます」
「ここで何をしている?」
「ボーリング探鉱。あちこちに穴を掘りちらかしていますよ。地層のサンプルを集めるためにね」
「誰の命令だ?」
「偉い人です。ウルムスターの」
「撃たれるな」
リクター王子が小声で言った。私はうなずいた。あれほどぺらぺらしゃべるからには、絶対、私たちを逃がさないつもりだろう。
「私は馬を。おまえはグリーナを」
「わかりました」
「質問はそれだけですか。それじゃ」
バーレットが、頭をかくときのように自然に片手を上げた。すると、周《まわ》りじゅうから、ガチャガチャッと装弾音が響いてきた。
「走れ!」
リクター王子の声で、私は王女を横抱きにして駆けだした。同時にすさまじい銃撃が集中して、いままでいたところがあっという間にザクザクの畑になった。
小屋の横手に回りこんだリクター王子が、馬小屋の扉を蹴破《けやぶ》り、銃声に驚いていななく馬を引っ張りだした。鞍《くら》を置くヒマがないのでくつわだけかまして、私に叫ぶ。
「乗れ!」
「失礼、殿下」
無礼者とかなんとかわめいている王女を抱《かか》え上《あ》げて、私はその馬に飛び乗った。リクター王子はと見れば、もう一頭の馬にくつわもなしでまたがって、たてがみをつかんで脇腹《わきばら》を蹴った。
走りだした二頭の馬に銃口が向く。それらが火を吹く寸前、リクター王子が何かを投げつけた。ぽんぽんと少々情けない音がして、白い煙が吹き上がる。
「はぐれるなよ!」
白煙の中、叫んだ王子のあとを、無我夢中で私は追った。
三〇分ほど走ると、森が切れて、小さな広場に出た。そのあたりは特に木々の生《お》い茂《しげ》る密度が濃く、しかも一方にがけが立ちはだかっている。
広場の真ん中に、古びた廃屋《はいおく》が建っていた。屋敷と呼ぶには小さく、小屋と呼ぶには立派すぎる。六人家族がひと夏を過ごすつもりなら、快適に暮らせそうな大きさだ。
「まいたかな」
馬を止めて、リクター王子は言った。私も、手綱《たづな》を引いて馬を鎮《しず》めた。
「さっきの煙玉はなんです」
「熊《くま》に使うクチハッパという罠《わな》だ。ああいう使い方をしたのは初めてだが」
王子はそう言って、馬から降りた。
「ここなら大丈夫だ。外からは絶対に見つからん」
「トランス、いいかげんに降ろさないと怒るぞ」
すでに怒っているのが丸わかりの声で、王女が言った。私にしてもかつぎっぱなしで疲れたので、王女を地面に降ろし、自分も馬から降りた。
その広場、というか空き地は、だいぶ前から人の手が入っていないらしかった。黄色や紅《べに》の花をつけたハシバミの茂《しげ》みがあちこちにもじゃもじゃとかたまり、地面はキンポウゲやスミレの可愛《かわい》らしい花々で覆《おお》われている。がけのところから水が湧《わ》きだしており、二頭の馬が勝手にそこに行って、水を飲みだした。
「ここは……兄様《にいさま》」
怒っていたのも忘れた顔で王女がそう言って、リクター王子を振り返った。王子は、にやにや笑っている。
「覚えていたか?」
「忘れません。……いえ、忘れられません。ここは」
王女は、なつかしそうに廃屋を眺め、あたりを見回した。
「私が生まれたところです」
「そして七歳まで育ったところだ」
「ここで?」
私が聞くと、リクター王子が答えた。
「ここはウルムス王家が昔使っていた別荘だ。母上はお産のたびにここへいらっしゃっていた」
王女は、周りの草の一本一本を愛《め》でるように、ゆっくりと歩いた。
「ここで、兄様とマリーナと三人で、いろんな遊びをしましたね。かくれんぼをしたり、木にいたずら書きをしたり、宝探しをしたり……」
「そのたびにおまえは怒るし、マリーナは泣くしで、散々だった」
マリーナというのは王女の妹のことだ。パレスにいるそうだが、私はまだ会ったことはない。
私たち三人は、廃屋のテラスに腰掛けた。
「しかし、連中があそこまで積極的にくるとは思わなかった」
リクター王子が、ひげをしごきながら嘆息《たんそく》した。
「多分見つからんとは思うが、あまり油断はできんな。早いところ遠くへ逃げたほうがよさそうだ」
言ってから、グリーナ王女の包帯を巻いた足に目をやる。
「傷の具合はどうだ」
「大丈夫です」
「うそをつけ。大丈夫なら、トランスにかつがれたときに蹴りの一発も出しているはずだ」
王女は黙り込んだ。その通りらしい。
「少し休む必要があるな」
リクター王子は、そう言った。
「連中、おかしなことを言っていましたね」
私が言うと、王女は憂鬱《ゆううつ》そうな顔をした。
「ファイス兄上……かな」
「ドーリーはこんなことをする性格じゃないからな」
「あんなやつらの言うことを信用するんですか」どうも気休めっぽいと思いつつも、私はフォローした。「やつらが、兄殿下の名前をかたっただけかもしれませんよ」
「それぐらいなら最初から言わないと思う」王女は、信じたくないことを信じなくてはいけない人間の、苦しそうな口調で言った。「あのバーレットとかいうやつの確信犯的なやり方は、ファイス兄上の性格そのままなんだ」
少しおさらいしておく。王女は六人|兄妹《きょうだい》である。上から順にならべると、リクター王子、ドーリー王子、ジョシュア王子、ファイス王子、グリーナ王女、マリーナ王女となる。すべて、女王イリア陛下の実子だ。
「無事パレスに戻ったら、話をつけないといけないな」
王女は、片足でテラスから地面に飛びおりた。すぐ近くで、小鳥が二、三羽、驚いて飛び立った。
「グリーナ、ファイスの考えも少しは分かってやれないか」
リクター王子が、そう言った。王女が意外そうに振り向く。
「あいつはあいつなりに、この国のことを考えているんだろう。ここの地下資源の豊かさを知って、それでも手を出すなというのは、あまり人を納得させられる理屈じゃない」
「……兄様には分かってもらえていると、思っていました」
王女の顔を、一瞬|寂《さみ》しそうな影がよぎったようだった。
「昔ここの地下を調べて、鉱脈のことが分かったとき、話し合ったでしょう。それでも、この美しい自然を壊すには忍びないって。……私たち三人の頼みを聞いて、母上がここを自治領に封《ほう》ぜられた。あえて禁を犯《おか》す必要は、まだないと思います」
「壊すわけじゃない。ほんの少しの間、場所を借りるだけだ。木はまた植えることができる。動物も鳥も、また放すことができる」
「借りると言うなら、いつ返すかを、まずはっきりさせておくべきでしょうね。誰が返すのかも。私たちの世代で借りを返せないとしたら、森を再び元の姿に戻すまでに、私たちの子孫は、どれほどの犠牲《ぎせい》を必要とすることか……」
口をつぐむと、パッと身をひるがえして、王女は二頭の馬たちのところへ歩いていった。取り残されたていの私たちは、顔を見合わせた。
リクター王子が、頭をかきながら言った。
「甘い……理想論だな。あいつが子供だからか、それとも女だからか……」
「どちらでもないでしょう」大人気《おとなげ》ないと思いつつも、私は反発してしまった。「王女が王女だから、ああなんだと思いますよ。――私は、あれで納得できます」
4
「長官」
「はい?」
「それはスプーンだが」
「……あらやだ」
手元に目を落として、ミオは口をおさえた。スープに使うスプーンを、スパゲティに突っ込んでかき回していたのだ。
「どうりで取りにくいと思いましたわ」
ペロッと舌を出して、フォークに持ち替える。スパゲティをくるくる巻いて口に入れ、そして動きを止める。
「長官」
「ふぁい」
「辛《から》いんだろう?」
ミオは、しばらくその姿勢で凝固《ぎょうこ》していたが、やにわに口の中のかたまりを、ごくんと飲み込んでしまった。
目尻《めじり》に涙を浮かべて鼻を押さえているミオを見つめながら、むかいに座っていたレイ=ヴェルヒャー政務室長が同情ぎみに言った。
「……さっきあなたがかけていたのは、チーズじゃなくてコショウだったんだが……」
「ほんとに、どうしちゃったのかしら」
変ですね、と言ってフォークを置いたミオに、ヴェルヒャーは自分のサンドイッチを一切れ差しだした。
「ツナは好きかな」
「ええ。ありがとうございます」
礼を言って、ミオはそれを受け取った。
午後一二時半、ポプラパレスのレストランの、窓際《まどぎわ》のテーブルである。ラウンジに隣接していて、観葉植物で仕切られているが、ガラス張りの壁面は続きになっている。パレスは小高い丘の上にあるので、植えこみ越しに、青く煙る西方のグレゴニクス山脈が望めた。
ヴェルヒャーは、まだ熱いサンドイッチに歯を立てた。焼けたパンとみずみずしいレタスが口の中でパリッと音を立てる。
瞬《またた》く間《ま》に食事を終えると、あまり食べずにぼんやりとしているミオに向かって言った。
「あなたも分かりやすい人だ」
「……なんですか?」
首をかしげて言ってから、すぐにミオは笑った。
「駄目ですね、ポーカーフェイスは苦手《にがて》です」
「殿下のことが心配なんだろう」
「あれからもう四日でしょう? そろそろ戻られるはずなのに……」
「実はそのことで、あなたを昼食に誘ったんだ」
ヴェルヒャーの言葉に、ミオの顔がこわばった。
「殿下に何かあったんですか?」
「落ち着いてくれ。不幸な話かどうかは、まだ分からん」
かろうじて笑っていたさっきまでの表情は、すでにミオの顔にはない。あらためてグリーナ王女を思いやるミオの気持ちの強さを感じながら、ヴェルヒャーは言った。
「ハイマーラでいま、おかしな動きがある。いくつか情報が入ってきているんだ。未開拓の森林地帯で数人から数十人の正体不明の集団が目撃されている。また、南限の峠《とうげ》から、馬車数台のキャラバンが夜中にこっそり人国してきたという話もある。それに、土地の猟師が、あちこちで機械を使って掘ったらしい深い穴を、いくつも見つけている」
「……無許可で探鉱しようとする山師《やまし》だったら、いままでにもいたんじゃありませんか?」
「だがこれほど大人数で、重装備の者たちとなると、ちょっと例がないな。本国と隣接している、政府管理の関所《せきしょ》を通って何かが運ばれたという報告もあるんだ。どうやら、我々の身内《みうち》が、一枚かんでいるらしい」
「ウルムスターの政府に黒幕がいるというんですか?」
驚いて言ったミオに、ヴェルヒャーはシッと指を立てて、言った。
「どうもそうらしい。そこまで大きな計画だとすると、殿下がそれに巻き込まれた可能性も……」
「のんきにお昼を食べてる場合じゃないじゃありませんか!」
「もうだいぶ前から、うちの調査部が動いている」
ヴェルヒャーは、低い声で言った。
「ことが大きくなってきたので、昨日からハイマーラの領内にも、人数を送っている。すでに捜索《そうさく》を始めているんだ。だから長官、あまりあわてないでほしい」
「……わかりました」
ウルムスター王室政務室の調査部と言えば、大陸各国の情報機関の中でももっとも恐れられている、優秀な組織である。その調査部が動いているというので、ミオはいくぶん声のトーンを下げた。
「騒ぎになったらまずいから軍隊まで動かすわけにはいかないが、殿下に万が一のことがないように手は打った。だからまあ」
ヴェルヒャーは、ミオの不安を和《やわ》らげようと、可能な限り口元に笑いの形を作った。
「少し帰ってこられるのが遅れるかもしれない。そのことだけ、伝えておく」
「頼りにしてますよ」
ミオは、精いっぱいの笑顔で言った。
私たちは廃屋《はいおく》でひと晩を過ごしたが、幸《さいわ》い、夜間の襲撃はなかった。
翌朝、テラスに腰掛けて、ポケットナイフで長めの小枝を削《けず》っていた私は、ふと、あたりがやけに静かになったことに気づいた。鳴《な》き交《か》わしていた鳥の声が聞こえない。
「きたな……」
そろそろと後ろに下がって、屋内に声をかける。
「殿下、追っ手です」
「もうきたか」
舌打ちしながら、二人が出てきた。
「一日か……まあ運がよかったな。グリーナ、すまんがもうひと我慢だ」
「二人とも馬に乗ってください」
私は、削った小枝を数本腰の後ろに差し込みながら言った。
「私が残ります」
「トランス?」
王女が不思議そうな顔をしたが、私はかまわず言った。
「あの馬はずいぶんやせっぱちでしたからね。二人乗りはきついと思いますよ」
「何を言っているんだ」
「時間|稼《かせ》ぎをします。お二人は早いところ本国に戻って、救出隊を連れてきてください。ここでうろちょろされると、目障《めざわ》りです」
「トランス……」
「元スパイですよ、私は。大勢の敵をひっかきまわすのは十八番です」
「グリーナ、行こう」
リクター王子が、そばの木につないであった馬の手綱《たづな》をほどきながら言った。
「議論している場合じゃない。彼を信用しよう」
「……トランス」
王女は、私をじっと見つめながら言った。
「目障りと言ったな」
「言いました」
「不敬罪で減俸《げんぽう》だ」
「はあ?」
思わず私が振り返ると、王女はぷいとむこうを向いた。
「ただし、生きて帰ってきたら、減俸は帳消しにしてやる」
「……殿下……」
「生き延びろよ!」
「わかりましたよ」
王女をくつわのあるほうの馬に乗せ、リクター王子はもう一頭に飛び乗った。
「トランス、頼んだぞ」
「さっさと行ってください!」
ひとつうなずいて、リクター王子は馬の横腹を蹴《け》った。
二頭が廃屋のむこうに消えると、私は手製の武器を手に取った。その辺に生《は》えていたイチイの若木を折って針金をかけた、即席の弓である。イチイは毒があるからあとでかぶれるかもしれないが、ほかに手頃《てごろ》なものがなかったのだ。
小枝を削った矢を持って、私はテラスから地上に下りた。二人に向かって言ったことを思い出して苦笑する。我ながら大風呂敷《おおぶろしき》を広げたものだ。
相手は火器で武装した男たち、一〇人近く。第一線の兵ではないかもしれないが、慰めにはならない。私だってそうだから。
無茶は承知だったが、それでも、できる限り時間を稼ぐつもりだった。
ヘルツォークがパレスのロビーにある公衆電話のボックスから出ると、数人の男がそこに立っていた。中にひとり、見たことのある顔があった。――ヴェルヒャー王室政務室長。パレス内において、ある意味でもっとも大きな力を振るう男である。
話したことはなく、直接の上司でもなかったので、ヘルツォークは軽く会釈《えしゃく》して横を通り過ぎようとした。その時、声をかけられた。
「待て」
「……なんでしょうか」
足を止め、つとめて平静を装いながら聞き返す。
「急ぐんですが」
「ファイス王子が呼んでいるからか?」
「私は王子お抱《かか》えの侍従《じじゅう》です。不自然なことはないでしょう」
「おい――やれ」
突然、ヴェルヒャーの脇《わき》にいた男にヘルツォークは腕をつかまれた。振り払おうとすると、その力を受け流され、あっという間に肘《ひじ》の関節をきめられてしまった。
「何をする!」
「時間がないので手短《てみじか》に言う。貴様はどこの誰《だれ》と連絡を取っている?」
「なんのことだ?」
「とぼけるな。おい――こっちだ」
三人がかりで、そばのトイレに引きずりこまれた。最後にヴェルヒャーが入り、ドアをロックした。
「放せ! なんの権限があってこんなことをするんだ? 大審院《だいしんいん》に訴えるぞ!」
「権限などない。だが、証拠ならあるぞ」ヴェルヒャーが、懐《ふところ》から出した紙の束《たば》をヘルツォークに突きつけた。「ここ二か月の間に、おまえがかけた電話の内容だ」
「盗聴したのか!?」ヘルツォークは内心歯がみしながら叫んだ。「そんなことが許されると思っているのか!」
「貴様とここで物事の善悪を議論するつもりはない。言っておくが、いまの私は、筋道を立てて話し合う気など、さらさらないんだぞ」
「どういうことだ!?」
「貴様は、私たちがもう少し正規の手続きを踏んで当たってくると思っていたらしいが……残念だったな。こういう直線的な方法をとることも、時として我々にはあるんだ」
「くっ……」
ヘルツォークは、自分の認識の甘かったことを認めざるを得なかった。
「ファイス王子に貴様が忠誠を尽《つ》くすように、我々はグリーナ殿下に忠誠を尽くす。殿下のために手を汚《よこ》す人間が必要なら、我々がその役を果たす、そういうことだ。貴様のいかなる手も、我々には通用しない。それ以上に汚い手で反撃する準備があるからだ」
「……何が望みだ」
「ファイス殿下のところへ案内してもらおう」
ヴェルヒャーが、冷ややかな口調で言った。
「奥殿《おくどの》に上がるには宮内部《くないぶ》の許可がいるが、申請《しんせい》している時間が惜しいのでな、貴様の先導で上がる」
「断ったら?」
「家族のことを考えるんだな」
ヘルツォークは、力なく首を縦《たて》に振った。
パレスの王族居住区の廊下を、ミオとヴェルヒャーは歩いていた。ヘルツォークが先を行く。
「こんなに短時間で、どうやってここまで調べ上げたんですか?」
「いろんな手を使ってだ」
「室長……」ヴェルヒャーの言葉の微妙なニュアンスを汲《く》んで、ミオはわずかに眉《まゆ》をひそめた。「いろんな手、ですか」
「正直言って、あなたや殿下には知られたくないような手だがね」
「……ありがとうございます、室長」
ミオには、分かっていた。正しいことだけをしていて務まるほど、施政《しせい》とは甘いものではない。グリーナ王女が王道を歩もうとするためには、誰かがその道の掃除をしなければならない。それが正しいことではないと承知しつつ、汚れ役を引き受けているヴェルヒャーに対して、だからミオは、心から礼を言っていた。
ヘルツォークは、やがてひとつの扉の前で足を止め、ノックした。
「殿下、私です」
中から、まだ若い少年の声で、「入れ」と返事があった。
「失礼」
ヴェルヒャーとミオが部屋に入ると、椅子《いす》に腰掛けて本を読んでいた少年が、驚いたように顔を上げた。
「ヴェルヒャー……それに王宮長官か」
「おわかりですな、なんの用件か」
「ヘルツォーク!」
少年――ファイス王子は、二人の後ろに立っている自分の侍従を見て、声を上げた。ヘルツォークは、うつむいたままひと言、「申《もう》し訳《わけ》ありません」と言っただけだった。
「そういうことか……」
つぶやくと、ファイスはパラリと本のページをめくり、それから思い出したように言った。
「まあ入れ、三人とも」
「兄様《にいさま》……」
「ん? どうした」
「いえ、あれは……」
足場の悪い森の中を馬にしがみついて駆け抜け、二人は一番近いポカラ集落までたどりついていた。あの廃屋から、それほど離れてはいない。
丸太やニス塗りもしていない板で作られた簡素な家屋がぽつぽつと並ぶ、猟師や炭焼きの住む集落に入ったグリーナは、家々の真ん中の井戸のところで、人々を相手に何か話している男たちを見つけた。
「……本国の人間か?」
「ヴェルヒャーの手の者です。おーい!」
グリーナが呼ぶと、男たちは一斉《いっせい》に振り向いた。こちらが誰だかわかったらしく、小走りに駆け寄ってきて、グリーナの前にひざをつく。
「グリーナ殿下! ご無事でしたか」
「探しにきてくれたのか。礼を言うぞ」
「王宮長官が心配しておられました。そちら、リクター殿下でいらっしゃいますね?」
調査官たちのリーダーらしい男が、リクターに向き直って頭を下げた。
「グリーナ殿下をお助けいただき、ありがとう存じます」
「気にするな、私の実の妹だぞ」
「みんな、武器を持っているか」
グリーナの突然の言葉に顔を見合わせてから、男たちは全員がうなずいた。
「拳銃ていどでしたら」
「ないよりましだ、急いできてくれ」
「どうなさったんですか」
「トランスが――トランスを置いてきてしまったんだ。助けに戻る。早く!」
「お待ちください、いま、馬をお替えします」
「そんなヒマはない!」
言うだけ言って、馬首を返す。その様子に、調査官たちもあわてて動きだした。自分たちの馬に走り寄り、次々に飛び乗る。
「兄様はここで待っていてください!」
言って、森の中に駆け去る。そのあとを、十数人の調査官がそれぞれの馬にまたがって追う。
あとに残されたリクター王子は、軽く口元を歪《ゆが》めた。
「トランス、か……」
それから、手近にいた地元民に向かって、言った。
「鞍《くら》とくつわを貸してくれないか。それと、あれば銃を……」
5
じっと息をひそめて待っていると、敵のひとりが慎重にあたりを見回しながら歩いてきた。太い木の根に足を取られたり、頭にクモの巣が引っかかって、あわてて払いのけたりしている。あまり熟練した兵士ではないようだ。というより、もともと資源調査が目的で来た集団なのだから、職業兵士ではないのだろう。
そいつが三メートルぐらいまで近寄ったとき、私は手元の糸を引いた。木の枝の上にのせておいた別の枝が、そいつの背後にガサッと音を立てて落ちた。
「わっ」
そいつは振り向きながら跳《と》びのいた。なんとまあ、私の隠れている茂《しげ》みの目の前だ。――あまりにもおあつらえむきなので、気の毒に思いながら、私は茂みから飛びだした。兵士のぼんのくぼを石で一撃する。
「ぐうっ」
気絶するかと思ったら、そいつは振り向きざまパンチを放ってきた。頑丈《がんじょう》なやつだ。
四、五発のパンチを受けたりよけたりしているうちに、そいつが浮き石を踏んでよろめいた。チャンスを逃《のが》さず、私はそいつの股間《こかん》を蹴《け》り上《あ》げた。動きが止まったところで、ひじ打ちをこめかみに一撃。
相手は無言で倒れた。最初の一発で気絶させるつもりが、てこずってしまったが、映画ではないのだから、まあこんなものだろう。
そいつが持っていた銃に土を詰めて、私は素早く移動した。密林戦のレクチャーを受けたことはないが、市街戦なら多少の経験がある。ひとところにじっとしてはいけない、というのはどちらにも共通して言えるだろう。
狙《ねら》いとしては、敵の半分ほどを潰《つぶ》しておいて、それから逃げだすつもりだった。時間さえ稼《かせ》げれば全員倒す必要はないし、だいいち不可能だ。
木の陰《かげ》から木の陰へと移っていき、またひとりの兵士を私は発見した。一〇歩ほどむこうにいるが、まだ私に気づいていない。
弓を使うことにした。体半分を木に隠したまま、よく狙って矢を放つ。
たいした距離ではなかったので、狙いどおり足首に命中した。悲鳴を上げてそいつは転倒した。
身をかがめて、また移動する。悲鳴を聞きつけて敵が集まってくるだろうが、しかたない。殺さずに相手を無力化するつもりだったから。
甘いな、と思う。思うが、グリーナ王女ならそうしろと言うだろう。無理ですよ、と言う私に、無理でもやるんだ、と。
しかたない。そういう人を、主人に選んでしまったのだから。
「ヴェルヒャー」
本のページをめくりながら、少年は言った。
「もともとウルムスターの一地方だったハイマーラが、なぜ自治領になったか、知っているか」
「イリア陛下の勅令《ちょくれい》によるものでしたな」
ヴェルヒャーは、腕組みをしたまま言った。
「二八年の夏に決定されたことです。動物・植物の商業目的での捕獲・伐採《ばっさい》の禁止、地上・地下の鉱物資源の採取の禁止、入植の制限、建物の建築の制限、地形の改変の制限など、一六項目にわたってハイマーラでの人間の活動を制限し、その代わり、現地の人間には独自の自治機関を創設して、税制や内政に関する自由を与え、本国の都合《つごう》でみだりに環境を変えられることがないようにする、そういう内容の布令によるものですな」
「あいかわらず素晴らしい記憶力だ」ファイス王子は、さして感心したようでもなしに言った。「では聞くが、ハイマーラには学術上貴重な動植物の固有種がいるか」
「……おりません」
「ウルムスター本国の生物相との間に利害関係があって、それが滅びると本国の生態系にも重大な影響を与えるというような生物は?」
「……いない、のでしょうな」
「人間の問題でもいい。習慣上どうしても自然の河川や森を必要とし、それらがなければ民族としての存続が危《あや》ぶまれるような、原住民族がいるか? 僕が言いたいのは、ハイマーラがどうしても手つかずでなければいけない理由が、明確に示せるのかということだ」
「……ファイス殿下の理屈でいけば、ないでしょうな」
「つまるところ」ファイス王子は、パタンと本を閉じて、言った。「あそこはどこにでもあるただの雑木林で、とくに保護してやる理由は、何もないわけだ」
「お説は結構ですけど、そういうことはグリーナ殿下におっしゃってくださいな」
ミオが、初めて口を開いた。
「もうじき、リクター殿下と一緒に、グリーナ殿下が帰っていらっしゃいます。あのおふた方相手に、ファイス殿下、あなたのそんな理屈が通用するとお思いですか」
「そう……グリーナがここへ戻ってきたら、僕の理屈なんか聞きはしないだろうね」
ファイス王子は、そう言って謎《なぞ》めいた笑みを浮かべた。
「戻ってこれたらね」
「いやはや、えらく頑張ったもんだね。あんたも」
ワイヤーで縛《しば》られ、ひときわ背の高いハイマーラスギの巨木にくくりつけられている私に向かって、資源調査隊の隊長――バーレットは、しきりに感心してみせた。
「射かけられて殴《なぐ》られて、こっちは六人もケガ人を出しちまった。なのにあんたはかすり傷だ」
肩をぽんぽんと叩《たた》かれた。銃弾がかすって血がにじんでいるところだ。私は飛び上がりかけた。
「まあ、ひとりも死人が出なかったのが、幸《さいわ》いだったね。あんたも、あたしたちも」バーレットは、にやっと笑った。「死人が出たら、あたしゃあんたを生かしちゃおかなかったよ」
「俺なんかほっといて、さっさとずらかったほうがいいぜ」私は顔をしかめて言った。「グリーナ王女は、いまごろ近くの村までたどりついているだろう。じきにサマルカンドから、ごっそり応援が来る」
「ところがそうはならない。なぜって……」
「パレスに味方がいるってことなら聞いた」
バーレットの言葉を、私はさえぎった。
「しかし、ヴェルヒャー室長とミオ卿《きょう》がいる限り、あんたの思いどおりにはならんと思うよ」
「どうかな」妙に自信ありげな態度で、バーレットは言った。「終わってみなけりゃ、分からないもんだよ。物事は」
そのとき、少し離れたところで銃声が響いた。バーレットが叫ぶ。
「どうした!」
「王女たちだ!」誰《だれ》かが叫んだ。「人数が増《ふ》えてる。ほんとに応援が来たらしいぜ!」
「やれやれ、ハッピーエンドはもうちょい先か」
バーレットが呟《つぶや》いたとき、すぐ近くに銃弾が撃ちこまれた。
それを皮切りに激しい撃ち合いが起こった。が、それがまだやまないうちに、馬蹄《ばてい》の響きが轟《とどろ》いて、すぐ先に王女の姿が現れた。続いてリクター王子が駆けてくる。
「トランス、無事か!」
「まてまて、撃ち方やめ!」
バーレットがあわてた声で言い、銃声がおさまった。
グリーナ王女は、私のそばまで来て、馬から飛び降りた。そのまま、私の肩に両手をおいて、目をつぶった。目尻《めじり》に、涙がにじんでいる。
「トランス、よく無事で……」
「殿下……」
私は、王女の顔を見上げながら言った。
「お尻と足が痛いんでしょう」
「う」
「鞍《くら》のない馬をケガ人が全力疾走させれば、そうなるのが当たり前です」
「涙が出たついでに、だましてやろうと思ったんだが……」
王女は、バシッと私の肩を叩いた。今度はこっちが、涙が出た。
「いてて!」
「よくこのていどのケガで済んだな」
「グリーナ」
リクター王子の声に、私たちはそちらを向いた。立っているバーレットの仲間はもう四、五人しかおらず、そいつらに向かって王女の連れてきた男たちが銃を向けている。
私は、バーレットに向かって言った。
「だから言ったろう?」
王女も、にやっと笑いながらバーレットに言った。
「これまでだな。――パレスに来てもらおうか。おまえのおしゃべりを見込んで、いろいろ話してもらいたいことがあるんだ」
次にバーレットが言ったことが、私には理解できなかった。
「殿下、これで終わりですかね?」
グリーナ王女の後ろから伸びた手が、彼女の肩を強く抱《だ》き締《し》めた。そして、その金色の髪に、硬いものを押しつけた。
「こんなことになるとは、思っていなかったな」
私は、その男を見上げた。バーレットが、得意げに言った。
「だから言ったろう?」
グリーナ王女に猟銃を突きつけるリクター王子の顔は、本物の悲しみに彩《いろど》られていた。
「そんな馬鹿な!」
ミオがテーブルを叩いた。のっていた果物《くだもの》カゴが揺れ、かたわらに立っていたヘルツォークがビクッと身をすくめた。
「リクター殿下が!?」
「一貫しているよ。僕から見れば」
ファイス王子は、まじめな顔で本のしおりひもをもてあそびながら言った。
「兄上はハイマーラの自然について、この国で一番|詳《くわ》しい人間だ。そして、国を思う心も、物の価値判断も、信頼するに足る方だ。今回のことは兄上の発案なんだ」
「しかし……そんな……」
「調査していておかしいと思わなかったのか、ヴェルヒャー?」
ファイス王子は、からかうように言った。
「いくら王族の僕が陰にいると言っても、実際にハイマーラにいるいろんな人間を動かすためには、どうしても現地の指揮官が必要だ。いちいち細かいことまで僕が指令するわけにはいかないからな。ヘルツォークはただの連絡係だよ」
「そういうことか……」
ヴェルヒャーは、ぎりっと奥歯をかみしめた。
「ジョシュア兄上のようなまずいやり方は、僕たちはしない」
王子は、言った。
「ウルムスターの宝は、ウルムスターの人間が扱う。ハイマーラに眠る地下資源は、兄上の手で掘りだされ、僕の手で国の内外に流される。そのための企業との折衝《せっしょう》ももう始めている。――グリーナには、王座から降りてもらう必要があるな」
既定の事実を語るように淡々と王子が言ったとき、ミオが静かな声で言った。
「ファイス殿下――殿下がハイマーラにいらっしゃったのは、どれぐらいの間ですか」
「ん? ――たいして長くない。僕も生まれたのはあそこだが、すぐにサマルカンドに移ったからな。それがどうかしたか」
「グリーナ殿下は七つまであそこでお過ごしでしたし、リクター殿下は二六年ずっとあそこで過ごされているんです」
そう言うと、ミオは笑顔になった。
「いいえ、ファイス殿下。あなたの言うとおりにはなりませんよ」
小さな事実の断片が集まって、目の前の現実につながった。
射出座席に付属しているはずの無線機がなかったのは、彼が処分したのだろう。その後、小屋に戻ったときにもリクター王子に「早かったな」と言われた。私が墜落現場に向かったことを、グリーナ王女が眠っていたあのとき、王子が知ることはできるはずがなかった。バーレットたちと通じているのでない限り。
その後のバーレットの襲撃のときでもそうだ。やつらがその気になれば、丸太小屋の前で私たちを撃つことも可能だったはずだ。
リクター王子が後ろにいなければ。
「もっと早く気づけば……」
「最初はさっさとおまえたちを本国に返して、また隠密《おんみつ》にここでの作業を進めるつもりだった」
王子は、捨《す》て鉢《ばち》な調子で言った。
「こちらの準備ができて、資源を採掘する態勢が整ったら、ファイスがうまくおまえを引退させるはずだった。あれはそういうことに向いていそうだからな。ところがトランス、おまえがバーレットたちを発見してしまった」
「……殿下……」
「もう本国におまえたちを帰すわけにはいかなくなった。――調査部の諸君、武器を捨てたまえ」
馬上の男たちは、くやしげに武器を手放した。
「バーレット、彼らを拘束《こうそく》しろ」
「わかりました。見事なお手並みで」
やや皮肉っぽく言って、バーレットは部下に命令を下《くだ》した。調査部の連中を、縛り上げる。
リクター王子は、それを見ると、グリーナ王女を抱いていた腕を外《はず》した。
「すまない、グリーナ……」
「兄様《にいさま》、私は気づいたんですが……」王女は私が縛られている木を見つめたまま、妙なことを言った。「思い出しませんか?」
「思い出す? 何をだ?」
戸惑《とまど》いぎみにリクター王子が言うと、王女は歩きだし、その木の後ろに回りこんだ。
「この木に見覚えはありませんか」
「……木に?」
「私は、覚えています」
なつかしそうな王女の声が、幹のむこうから聞こえた。縛られたままの私には、樹齢《じゅれい》千年とも二千年ともつかないその巨大なハイマーラスギが、みずから声を出しているように聞こえた。
「ずいぶん前……そう、ちょうど一〇年前ですね。〈二八年五月〉、ちゃんとここにそう彫ってあります。〈二八年五月 リクター=ウルムス、グリーナ=ウルムス、マリーナ=ウルムス〉」
「それは……」
「ああ……高いな。もう私では手が届きません」
幹を一周して戻ってきた王女は、じっとリクター王子を見つめた。
「あの頃、三人でいろんな遊びをしましたね。――巣から落ちたシジュウカラの卵をマリーナが見つけて、それを兄様が巣に戻そうとして落っこちたこともあったし……川で魚を捕《つか》まえる堰《せき》を一日かけて作って、三人一緒に風邪《かぜ》を引いたこともあったし……猟師に、キツネの狸寝入《たぬきねい》りを教えてもらったこともありましたね」
「キツネの狸寝入り?」
私が妙な顔をすると、リクター王子が言った。
「本当に寝込んでいるキツネは、じっとして動かない。だが、仮眠をしているキツネは、耳がピクピク動くんだ」
「それを聞いて、マリーナと私は本当か嘘《うそ》か確かめようと二人でキツネを探しにいったんだ。でもキツネなんてそうそう見つかるもんじゃない。あちこち歩き回るうちに、日が暮れる、道には迷う、おなかがすく……」
「私が探しに出たんだ、それで」
「それで三人一緒になれたのはいいが、今度は小さなマリーナが疲れて、歩けないと泣きだしてしまった。もう真っ暗で歩けたものじゃなかったから、しかたなく三人で丸くなって、野宿することにしたんですよね。――そのときに兄様が、もしここで死んで骨だけになってしまったら、身元が分からないからと言って、木に名前を彫った」
「おおげさな」
「子供だったんだ、ほんとに小さな。……ねえ、兄様?」
王女は、一〇年前に彼女がそうだった七歳の少女のような笑顔を、リクター王子に向けた。
「この森は変わっていません。茂《しげ》るこずえ、暖かい日だまり、ささやくせせらぎ。……木のうろにはリスが住み、切り株の間をウサギが長い耳を振って走っていく。この自然は全然変わっていないのに……兄様は、変わってしまったんですか?」
リクター王子は、じっと王女の目を見つめた。
長い間そうしてから、やがて彼は銃を大地に投げ出し、グリーナ王女を抱擁《ほうよう》した。
王子のひげと王女の髪の毛は重なり、同じ色に輝いていた。
「自然は、その価値を量《はか》るべきものではありません」
ミオは、ファイス王子に向かって、諭《さと》すように言った。
「それが利用できるから、それが珍しいから、それが役に立つから、手をつけてはいけないのではありません。……ただ人間は、自分もその一部であるから、その中にいて心安らぐときがあるから、そして、時には厳しく恐ろしい面を見せる自然を素直に驚き、そして敬《うやま》うがゆえに、自然を自然のまま保《たも》っていく、そういう生き物として、自《おのずか》らあるのです」
「……現実からかけ離れた考えだな」王子は、冷たく言った。「そんなきれいごとを政治の中に持ちこんでも、通用しない」
「人間の役割は、むしろその政治と自然との間の溝《みぞ》を埋めることではないでしょうか」
ミオは、静かに、自信に満ちて言った。
「グリーナ殿下は、そのことをよく分かっていらっしゃいます。……きっとリクター王子も、ね」
リクター王子とバーレットたちを調査官たちに任《まか》せて先に帰し、私とグリーナ王女は、その木の下に立っていた。
「でも殿下、よく覚えていましたね。一〇年も前に文字を彫った木を……」
「覚えているわけないだろう」
「…………はあ!?」
今度こそ聞き違いだと思った。だが、王女は平然と言った。
「この木はよく似ているけどな。どの木だったか、私も忘れてしまった」
「そりゃ一体どういうことです!?」
「バッタリだ」
開いた口がふさがらない。文字どおりの意味でだ。
私の間抜け顔を見て、王女はくすっと笑った。
「この木には文字なんか彫ってない。裏に回ってみれば分かる。……でも、それは兄上も分かっていただろうな。思い出が、兄上の優しさをよみがえらせたんだ」
そう言うと、王女は、私のポケットからナイフを抜きとり、古びた巨木に、新たな文字を彫りつけた。
〈三八年五月 リクター=ウルムス、グリーナ=テオ=ウルムス、デューイ=トランス〉
*
三日後、ポプラパレスの王女の執務室に私が入ると、王女、ミオ卿、室長の三人が、頭をひねっていた。
「どうしたんです」
私が聞くと、話はこうだった。
王女の判断で、今回の一件は公表されないことになった。鼻の利《き》くイウォーンやコー・コ・コーの情報部あたりが嗅《か》ぎつけるかもしれないが、無視する手筈《てはず》である。王室の威信《いしん》を保つためというよりも、まったく二人の王子の名誉を保つために、王女はこの措置《そち》をとった。
だが、そうは言っても、内々で済ますなら済ますで、それなりの処罰を、二人に与えなくてはならない。以前クーデターに近い事件を起こしたジョシュア王子には禁固刑が下されたが、あれは大審院《だいしんいん》の正式な裁判で決められた刑罰である。リクター、ファイス両王子にそんな罰を与えるわけにはいかない。それをどういうものにするかということで、三人は悩んでいるのだった。
それを聞くと、ある考えが私に浮かんだ。
「殿下、それなら首都追放がいいでしょう」
「追放?」
「あるじゃありませんか、絶好の場所が。交通の便は悪い、水道も電気もない、虫や動物がわんさかいる、陸の孤島みたいな場所が」
「……ああ、ああ、あったなそういう場所が。そういう最悪の場所が」
私の提案を聞くにつれて、王女の顔が明るくなった。ミオ卿はうれしそうに手をたたき、ヴェルヒャー室長はうなずいた。
夏に王女は、もう一度ハイマーラに向かう予定である。もちろん私も同道する。
ファイス王子がどのような野性児に変貌《へんぼう》しているか、楽しみである。
[#改ページ]
Crossing Letter
[#改ページ]
1
「それにしても暑いな」
えり元をぱたぱたやりながら、グリーナ=テオ=ウルムス王女がそう言った。むかいに腰かけていた、王宮長官のミオ=ブランシャール卿《きょう》が、じろっとそれをにらむ。
「殿下、お行儀が悪いですね」
「いいじゃないか、誰《だれ》も見てやしない」
「そういう問題じゃありません。レディのふるまいとして問題があると言っているんです。それに」
ちらっ、とミオ卿はとなりの私を見た。
「トランスがいます」
聞こえていないようなふりをして、王女はラウンジの外の庭園に目をやった。葉盛《はざか》りの植えこみのむこうに、パレスを囲むポプラの、空へと伸び上がるような枝ぶりが見える。が、景観のさわやかさとは裏腹に、開け放しの窓から入ってくるのは、じっとりとした生暖《なまあたた》かい空気だ。
八月。
ウルムスター王国は、蒸《む》し風呂《ぶろ》さながらの熱気の中にあった。
この国は山間の盆地にあるので、大気の入れ替わりというものがあまりない。とくにこのあたり、首都サマルカンド近辺は、鍋底《なべそこ》のサマルカンドという言葉があるぐらいで、夏場の暑さは有名だ。晴天が続くと気温が三五度を越えることがざらで、多少の雨が降っても、かえって不快指数が上がるだけである。
ウルムスター王国行政執行府、通称ポプラパレスは、首都の南の丘の上にあるのだが、多少海抜が上がったからといって、事情が変わるわけではない。
窓を開けて、換気扇を回して、昼休みを一時間のばして、なおかつ第一ボタンをはずさないと、仕事にならないというありさまである。今年は冷房が完備される予定だったと聞くが、施設費が先の内乱で傷《いた》んだ館内の修復に、あらかた使われてしまったため、先送りにされたそうだ。
昨日まで三日ほど降り続いた雨は朝がたやみ、今日の天気は快晴、無風である。つまり、不快指数の上がる三条件がきれいにそろったのだ。
それが、グリーナ王女がご機嫌《きげん》斜めである理由のひとつだった。
「それにしてもこの季節になると……ほんとにみなさん、みっともない。トランス、そう思いませんか?」
ミオ卿がうんざりしたように言って、ラウンジの中を見回した。私、秘書官のデューイ=トランスは、同意してうなずいた。
「ええまあ、この光景を政府広報のパンフレットにのせるのは、やめたほうがいいでしょうね」
昼休みは二時までのばされている。職員たちはその間、庭園に涼みに出たり、ちょっと市街まで足をのばして喫茶店に出かけたりしているが、ラウンジに来ている者も多い。
その連中の格好について、ミオ卿は批評したのである。男子職員の大半はネクタイをはずして、アイスコーヒーやソーダ片手にソファでぐったりしており、見苦しいことこのうえない。それだけならまだしも、女子職員ですら、そでをまくり上げて厚紙で顔をあおいでいたり、人目もはばからずスカートをばたばたさせていたりする。ひどいのになると、服装規定もものかは、上半身タンクトップ一枚になって、顔にハンカチをのせてソファ一脚まるまる占領し、昼寝を決め込んでいる剛《ごう》の者《もの》もいる。
かくいう私も、ネクタイもろとも半袖《はんそで》のワイシャツのボタンを二つまではずし、氷をぎっしり詰めたレモネードのグラスを額《ひたい》に当てて、それでやっと意識を保っている、というていたらくである。
王女が、私の方を見ないまま、ぼそっと言った。
「文句を言ってどうなるものでもないだろう」
「ええ。取《と》り締《し》まるほどのことじゃないと言えばそれまでなんですけど。……でも、もう少しきちっとならないかしら」
ミオ卿は、不満そうに言って、アイスティーのストローに口をつけた。
職員がほぼ全滅状態のラウンジの中で、ひとり彼女だけが異彩を放っている。えり元をしっかり合わせてスカーフを締めているうえ、手の甲にも額にも汗ひとすじ浮かばせず、座る姿勢にも髪形にも、まったく崩れを見せない。
初夏のころはさすが長官、たいした気力だと感心していたが、最近になって暴力的な暑さがパレスを包むようになり、それでもまだ彼女が涼しい顔をしているのを見て、感心するようなことではないと気づいた。彼女はべつに、気力で持ちこたえているのではないのだ。
王女が、冠をはずして指先でくるくる回しながら言った。
「あーあ、何もやる気が起きないな」
「困りますね、そんな調子じゃ。――トランス、あしたのお休みに、山にでもお連れしてくれませんか?」
「え、私がですか」
王女と目があった。いつもより目つきがきつい。何か言われるかと思ったら、そのままぷいと視線をそらされてしまった。
「行きたくない」
あら、という感じでミオ卿が私と王女を見比《みくら》べる。それから、今度は何かを試すように言う。
「三時から市街で、財界の方たちとお茶の予定がありましたよね。公用車があいにく空《あ》いていないので、職員の誰かの車でいっていただけますか」
「……いい。アルクティカと行く」
ぶっきらぼうに王女は言った。アルクティカとは彼女の友達[#「友達」に傍点]である馬だ。乗馬[#「乗馬」に傍点]じゃないぞ、といつもこだわっていて、だから、表現も「で行く」でなくて「と行く」になる。
立ち上がると、私の方を見下ろして、ひとこと。
「手洗いにいく」
床を蹴飛《けと》ばすような歩き方で、ずんずんとラウンジから出ていってしまった。
入れ違いに、ひげをたくわえた目つきの鋭い男がやってきた。レイ・ヴェルヒャー政務室長である。さすがに彼は、服装や身のこなしにもスキがない。
室長はラウンジを見回して私たちを見つけると、そばにやってきて腰を下ろした。
「何かあったのか? 殿下がえらい勢いで出ていかれたが」
「ケンカ、でしょう?」
アイスティーをストローでかき回しながら、ミオ卿がいたずらっぽく言った。私は肩をすくめた。
「ご明察です」
「あなたの車に乗るの、殿下は大好きなはずなんですけどね」
「朝からちょっと、ね」
「なんだ、そういうことか。なら放っておいても大丈夫だな」
「ね、トランス。何が原因ですか?」
「いえ、たいしたことじゃないんです。朝がた、私あてに手紙が来まして、表書きを殿下に見られたんです」
「手紙?」
「イウォーンの知り合いからでした」
「それで、どうして殿下が怒るんです?」
不思議そうにミオ卿が聞いてくる。どうも言いにくい。
「……その知り合いというのが、昔の職場の同僚の女性だったんですが」
「女性? ……あなたまさか、むこうで結婚」
「していませんよ!」
あわてて否定し、私は続けた。
「それでまあ、下手《へた》に隠したものですから、殿下にいろいろ勘《かん》ぐられまして。どういう関係だとか何歳だとか。つっぱねているうちに、なんだか険悪な雰囲気になってしまいました」
「職場の同僚というからには、やはりスパイか」
「ええ。まあ」
スパイ、という言葉には抵抗があったが、私は肯定《こうてい》した。
「私がイウォーンと通じているとでも思われたんでしょうか」
「まあそれは、殿下じゃなくても聞きたくなるだろうな」
室長がうなずくと、ミオ卿が首をひねって言った。
「そういう問題ですか?」
「じゃ、どういう問題なんです?」
私が聞き返すと、ミオ卿はなんだか妙な顔をして言った。
「トランス、気づいていないんですか?」
「何をですか」
「……いえ、なんでもありません」
そう言うと、ミオ卿は気を取り直したように聞いてきた。
「なんだったんです、その手紙」
「たいしたものじゃないって言ってるでしょう。聞いてどうするんです」
「いえね、わたくしもちょっと興味が」
「プライバシーですよ。突っ込まないでください」
「まさか、ラブレターとか?」
「そんなわけないでしょう!」
さすがに私が声を大きくしたとき、ヴェルヒャー室長があきれぎみに言った。
「くだらんことで騒ぐな。こっちも似たようなことで頭を痛めているというのに」
私は思わず室長の顔を見た。
「室長……道を誤らないでくださいよ」
「なに?」
「写真を拝見しましたが、きれいな奥さんじゃありませんか。あの人を泣かせる気ですか」
「なんの話だ」
「ラブレターをもらったんじゃないんですか」
彼にしては珍しく鳩《はと》が豆鉄砲を食らったような顔をしてから、室長はふところから一通の封筒を取りだした。
「見るか?」
「じゃ、やっぱり手紙を!」
「しかも、男からだ」
「……え?」
今度は私が面食らう番だった。受けとった封筒に目を落とす。
高級そうな紙の封筒には透《す》かしと金彩の装飾が入っていて、あて名は、流麗《りゅうれい》な筆記体で「グリーナ=テオ=ウルムス姫殿」と書かれている。裏を返すと、差し出し人の名。
「ジャンリュック=レンツェルゲン三世!?」
「今朝、外務に届いた。――トランスおまえ、勘違いにもほどがあるぞ。暑さにやられたか?」
「いえ、話の流れから間違えただけで……」
私はぶつぶつ言いながら封筒を開いた。横からミオ卿ものぞき込んでくる。
読み進んでいくと、横でミオ卿が声をあげた。
「なんですかこれは。ラブレターじゃありませんか」
「だからそう言っているだろう」
ややうんざりしたていで、室長が言った。
「あの坊ちゃん国王が、殿下にデートの誘いをかけてきた。カンディナ半島のあの国に避暑旅行にこないかという内容だ。殿下に渡したら差し出し人の名前を見ただけで火をつけるだろうから、私の判断で勝手に開けたが、開けずに燃やしたほうがよかったか」
「燃やせばいいでしょう。こんなもの」
私が言うと、室長はいまいましそうに首を振った。
「そうもいかん。春先の争乱で、イウォーンを牽制《けんせい》してもらった義理がある。それに、おまえは詳《くわ》しくないだろうが、以前からいろいろ細かいことで借りがあるんだ。経済面とか学術面とかでな」
「べつにレンツェルゲンと事を構えるわけじゃありません。あの坊やの個人的な誘いを断るだけでしょう?」
「同じことだ。国王に個人も公人もあるか。レンツェルゲンの政治方針は、いまほとんどあの坊やの一存で決定されているんだぞ」
あの、という言葉に十二分な力点をおいて、室長は言った。
「半年前に、殿下に口先で負けてしまった腹いせのつもりもあるだろう。下手につっぱねたら、どんなやっかいな報復手段をとってくるかわからん。うかつな対応はできん」
「じゃあ、断れないと……」
「でも、殿下は断ってしまうでしょうね」
難しい顔でミオ卿が言った。
「そういう方ですから」
「あの坊やが相手ではそろばんが働かないからな、殿下は」
室長は言ったが、そこで一段と眉間《みけん》にしわを寄せた。
「働かされても、困るんだ。殿下が招待に応じてむこうに行ったら、ここを先途《せんど》とあの坊やは殿下を口説《くど》きにかかるだろうからな。うちの殿下に限ってとは思うが、万が一間違いなどあってみろ、えらいことだ」
ジャン国王がその方面でかなりの手腕を持っていることは、各国情報部の間でつとに有名である。
「どっちにしろ問題は避けられないわけだ。長官、どうしたらいいと思う」
「どうしたらと言われましても、急には……」
ミオ卿は思案顔で腕を組んだが、ふとこちらに顔を向けて、言った。
「トランスが同行すればいいんじゃありませんか?」
「私が?」
思わず聞き返すと、ミオ卿は急に明るい顔になって言った。
「そうですよ、トランスなら、立場も能力もまったく問題ないじゃありませんか。あなた、殿下にお供して、むこうで殿下を守ってあげてください」
「別に私でなくても……」
「あなたが一番ヒマでしょう?」
「う……それはそうですが」
事実であるので言い返せない。乗り気になったらしく、横から室長も賛成してくる。
「それなら問題はないだろうな。トランス、しっかりお守りしろ」
「殿下がうんと言いますかね?」
「言わせますよ」
ミオ卿が自信ありげに言った。
「殿下だって、近ごろの暑さには辟易《へきえき》してらっしゃるはずです。レンツェルゲンが涼しいのは本当ですから、そこのところを押せば、間違いなく行く気になりますよ」
「いえしかし……私ひとりでですか?」
「護衛を何人もつける余裕は、うちのお台所にはありません。それに、殿下だって大所帯でぞろぞろ行くのはうっとうしがられるでしょうし」
「でも、いま私は……」
殿下と冷戦状態でして、と言いかけて、ふと別のことに気づいた。パレスから離れたほうがいい理由が、私にはひとつあったのだ。
「……まあ、そういうことならしかたありませんね」
「やってもらえますか」
「はい」
私がうなずいたとき、室長がふと、つけたしのように言った。
「トランス、おまえが間違いを起こしたら話にならんのだからな」
「え?」
「あら、そういう心配もありましたね」
ミオ卿はそう言ったが、言葉ほど心配していないようだった。
「その点については、トランスを信用していますから。お願いしますよ」
「ああ……ご心配なく」
どういう意味で言われたのか、一瞬考えてしまった。私は、苦笑して請《う》け合《あ》った。
2
「大陸の南西に、海に向かって突きだしたトンビの首のような形の半島がある。
コリドーラ、バッハム、ミダス、デルナム、レンツェルゲンの五国が軒《のき》を連《つら》ねるカンディナ半島である。
レンツェルゲンはなかでもいちばん西にあり、北、西、南の三方を海に囲まれている。海岸線は長いだけでなく複雑で、北方には氷河の浸食《しんしょく》によってできたフィヨルドが、南側には太古の火山活動によって形成された三日月状の小半島や砂州《さす》が連《つら》なっている。
これは、この国が良港に恵まれていることを示す。
中世において大規模な艦隊を編成して海を渡り、未完成だった世界地図を、ほとんど一国で完璧《かんぺき》なものに仕上げたのは、この国だった。なおかつ、仕上げた地図の四分の一を自国領の色に塗りつぶすという偉業まで達成した歴史をも持つ。
最近では植民地の大半を失い、往時の勢いこそ失っているが、半島諸国の中では、依然として最強の地位にあり、半島同盟という安全保障同盟の盟主をつとめている。
また、別の面でもこの国は強い力を持っている。北部のフィヨルドや、その北の浅海で原油を産出するのだ。文明の維持発展に欠かせないこの資源を武器に、経済面においてもこの国は国際的に大きな影響力を持っている。
国王の座には三八年の現在、ジャンリュック=レンツェルゲン三世が在位している。弱冠一六歳の少年だが、政治的手腕は水際立《みずぎわだ》っていて、半島同盟を提案、結成したのもこの国王である」
「飛ばせ」
「この国王についてはゴシップ紙のネタになるようなうわさが絶《た》えず――飛ばすんですか」
「ジャンのプライヴェートなんか、知りたくもない」
窓の外を流れていく景色を眺めたまま、グリーナ王女が退屈そうに言った。私は、読み上げていたガイドブックのページを、ぱらぱらとめくった。
「じゃ、何が知りたいんです」
「……ポルクロールってどんなところだ?」
「ポルクロールは……」
私は、出がけに買ったガイドブックの、観光のページで指を止めた。
「首都トロンヘイムから南に八〇キロ、イエール湾沿いの小都市。主《おも》な産業は観光。海水浴場と森林公園があり、リゾート地として有名。レンツェルゲン王室の離宮がある、だそうです」
「ふうん……」
聞いているのかいないのか、王女の返事は頼りない。私は、肩をすくめてガイドブックをトランクにしまった。
車窓から見ると、いつのまにか外の風景は田園地帯のそれに変わっていた。一時間ほど前までは、針葉樹と小さな湖が交互に現れる、高地の景色だったのだが。
旅行用のサマードレスを着たグリーナ王女は、気の乗らない顔で窓わくにほおづえをついている。涼しい気候の誘惑と、ミオ卿《きょう》と室長のすすめに負けて出かけてきたものの、これから顔を合わせなければいけない相手のことを考えて、憂鬱《ゆううつ》になっているというところか。
コンパートメントのドアがノックされた。
「はい」
私が返事をすると、ドアが開いて、金モール付きの制服を着た車掌《しゃしょう》が顔をのぞかせた。
「ご乗車ありがとうございます。間もなく、ポルクロール駅に到着いたします」
「ああ、わかったよ」
車掌は、そっぽを向いたままの王女に興味深そうな視線をちらっと走らせたが、何も言わずに一礼してドアを閉めた。王女と私の身分は明かしていない。避暑旅行中の令嬢と家庭教師ぐらいに思われているのだろう。
「もうじきだそうですよ」
「聞こえた」
「……いいかげん、機嫌《きげん》を直してもらえませんか。あの坊やに会うのが気が進まないのはわかりますが……」
私がそう言うと、王女はほおづえを外《はず》して、私の方を見た。
「そういえば、もうすぐあいつと会うんだな」
「会うんだなって……じゃあ、なんでそんなに」
言いかけて、ふと思い当たった。もしかして、三日前のケンカの続きか?
「殿下、まだ怒っているんですか? 何度も言ってるでしょう。あの手紙はただの私信だって」
「私信だから怒ってるんだ」
「は? どういうことです。言いたいことがあるならはっきり言ってください」
「だから……」
王女はもどかしそうに何かを言おうとしたが、前にもましてふくれた顔でむこうを向いてしまった。
私がため息をついたとき、体に力が加わった。ブレーキの金属音が聞こえてくる。
大陸横断特急ミストレルが、ポルクロール駅に到着したらしかった。
駅を出ると、アイボリーのリムジンと黒服の男たちが待っていた。私たちを見つけるが早いか、近寄ってきて周《まわ》りに壁を作る。
「グリーナ=テオ=ウルムス殿下とお付きの方ですね」
「なんだ、おまえたちは」
「ジャンリュック三世陛下の命令で、お迎えに上がりました」
「ずいぶん丁重《ていちょう》な歓迎だな」
「警備には万全を尽《つ》くせと言いつけられております。――どうぞこちらへ」
「ジャンは?」
「シャトーでお待ちです」
黒服たちに囲まれたまま、私たちはリムジンに乗り込んだ。ドアを閉め、私たちの荷物をトランクに収めると、黒服たちはどこかへ消えた。
車は音もなく走りだす。
冷房の効《き》いた客室は、運転席とはカーテンで仕切られており、独立した造りである。ベルベットの内張りや本革《ほんがわ》の対面式シート、クリスタルの小型テーブルなどには、美術的な価値すらありそうだ。窓ガラスやシャーシは厚さから考えて、おそらく防弾、防爆。えらく金のかかった車である。――ウルムスターには、こんな要人送迎用のリムジンなどない。早くも、二国の経済力の差を目《ま》の当《あ》たりにしてしまったという感じである。
席のむかいには、モーニングを着た初老の男性が座っていた。いきなり素性《すじょう》を聞くのも失礼だと思って私は黙っていたが、王女が先に口を開いた。
「私はグリーナ=ウルムスという者だ。おまえは誰《だれ》だ?」
「ラルザックとお呼びください。国王陛下の侍従《じじゅう》でございます。グリーナ殿下のお迎えをおおせつかりました」
老人は、テーブルの横の箱を開けた。クーラーボックスだったらしく、中から白い霧が流れだす。
「なにかお飲みになりますか」
「いや、いい。ありがとう」
「私も結構です」
言ってから、内心で私は舌を出した。暑苦しいSPと高級車の次は、礼服の老侍従ときた。もったいぶるにもほどがある。
横を見ると、こればかりは王女も同じ思いだったらしい。なんとも居心地の悪そうな顔をしていた。
車は、地方都市らしいこぢんまりとした市街を抜け、海沿いの道に出た。王女が窓に顔を張りつけて外を眺める。
「海だ……」
「五月以来ですね」
車が走っている堤防のすぐ下が、真っ白な砂浜だった。色とりどりのパラソルが立ち、家族連れや恋人たちが思い思いに泳いだりビーチバレーを楽しんだりしている。
「泳ぎたいですか」
こくんとうなずいてから、はっと王女は私の方をにらんだ。すぐに窓の外に目を戻して、黙ってしまう。
いま、ケンカをしていることを忘れましたね。言いかけたが、やめた。放っておくほうがいいだろう。
道はやがていったん海から離れ、緑の森の中に入った。木々の間を縫《ぬ》うようなゆるい上り坂を一〇分ほど走ると、不意に視界が開けた。
そこは海に突き出した岬《みさき》の先端だった。研磨したサファイヤのように透き通った空をバックに、瀟洒《しょうしゃ》な白い城館が建っていた。
車は、車寄せに滑り込み、停止した。いままで沈黙を守っていたラルザック老人がドアを開けて外に降り、振り返って深々と一礼した。
「ようこそ、おいでなされませ」
潮《しお》の香りを含んだ心地よい風が、車内に入ってきた。
「よく来てくれたね、グリーナ」
シャンデリアの下がったホールで、ジャンリュック三世はにこにこ笑いながら私たちを迎えた。上下白の揃《そろ》いを着てキザにきめている。
「長旅で疲れなかったかい。いつも飛行機で飛び回っている君だから、列車の長い道行きはこたえたんじゃない? 部屋を用意してあるよ。気に入ってもらえるとうれしいな。まず荷物をそっちへ運ばせよう」
調子よく言葉を並べたてながら、王女の手を引いて歩きだす。
前言を訂正《ていせい》する。私たち、ではなく王女ひとりを彼は迎えに出てきたのだ。私は眼中に入っていないらしい。
声をかけるタイミングをつかめないでいるうちに、ジャン国王はさっさと王女を連れて歩き去ってしまった。私はとなりを見た。ラルザック老人が立っていた。
「えーと……私の部屋は?」
「こちらでございます」
王女たちはホールの階段で二階に上がっていったが、私はそのまま一階の奥に通された。何調というのか知らないが、館《やかた》の内部は貴族趣味の造りで、厚手のじゅうたんが敷かれた廊下に一定の間隔で燭台《しょくだい》が並び、アラバスターの彫刻が置かれていた。私は自分のトランクをごろごろ引っ張って老人のあとについていった。
「ここでございます」
ラルザックが開いた扉から室内を見て、私はしばし無言だった。
「……この部屋は、誰が指定したんですか」
「陛下のご指示ですが、何か?」
ベッドと書き物机、それに簡素ながら応接用のテーブルセットがある。それはまだいい。
しかし、あきらかにそこは、私が来る直前まで倉庫だったらしかった。
部屋には窓すらなく、ベッドも机も、いかにも物置から引っ張りだしてきましたといった感じの薄汚れた代物《しろもの》である。床にはうっすらとほこりが積もり、見ている前でネズミか何かがさっと部屋の隅の穴に逃げこんでいった。
「あれ、クモの巣じゃありませんかね」
「そうでしょうな」
とほん、とした調子でラルザック老人は言った。私は、小柄《こがら》な老人の顔をじっと見つめた。しわの奥に埋もれていて、老人の表情は見えない。
「……どうも、すてきなお部屋で……」
「気に入っていただけて、よろしゅうございました」
すたすたと老人は去っていこうとする。私はあわてて呼び止めた。
「ちょっと、おい、じいさん!」
「ご夕食は六時でございます。正装で食堂までお越しくださいますよう」
言うだけ言って、老人は去っていってしまった。あとに残された私は、しかたなく部屋に入り、照明のスイッチをつけた。わびしい電灯の光が室内をぼんやりと照らす。
その辺にトランクを放りだしてベッドに腰を下ろすと、パフンとほこりが舞い上がった。私は、あわててドアを開け放した。滞在は一週間の予定だが、これはどうも、くつろぐ前に掃除をしなくてはいけないようだ。
腹いせに、扉を蹴《け》りつける。
「……えげつないまねしてくれるな、あのクソガキ」
着いた早々家政婦のまねごとをするのも業腹《ごうはら》なので、私は荷物を放りだして部屋から出た。仕事のためである。
私の仕事は王女の護衛である。それが部屋をあてがわれて休んでいては話にならない。王女に下がれと言われたわけでもないのに、彼女のそばから離れているわけにはいかない。特に今回は、下がれと言われても下がってはいけないのだ。そうミオ卿から念を押されている。
廊下のつきあたりに、二階に上がる階段を見つけて、私は上っていった。案《あん》の定《じょう》、踊り場のところで黒服のSPがふたり、黙然《もくねん》と椅子《いす》に座っていた。私の姿を見ると、前に立ちはだかる。
「ここから先は立ち入り禁止だ」
「私はグリーナ殿下の随員《ずいいん》だ。王女を護衛する義務がある」
「王女の護衛は、滞在中我々が務めることになっている。お引き取り願いたい」
あの坊やは、どうあっても私を王女に近づけないつもりらしい。しかし、ここで引き下がっていてはなんのためにくっついてきたのかわからない。強行突破するべきか、それともなんとか口先でこいつらをごまかして上に上がるべきか。
考えたとき、当のグリーナ王女が階段の上から現れた。
「トランス、何してる?」
「何って……」
いささか頭にきて、私は言い返した。
「いま殿下のところへうかがおうとしていたところですよ! 殿下こそなんです、あれほど注意されたのにほいほいついて行ってしまって! 自覚があるんですか?」
「そんなに叫ぶな」
王女はひょいと黒服の間をすりぬけて、こっちにやって来た。黒服があわてて言う。
「グリーナ殿下、あまりあちこちお歩きになられては困ります」
「ああ、護衛はいいぞ。手洗いだ」
「お手洗いでしたら二階にもございます。私どもにも警備上の都合《つごう》というものが……」
「私は客のはずだがな」じろり、と王女は黒服をにらみ上げた。「それとも、捕虜《ほりょ》か犯罪者なのか?」
「は、そんなめっそうな……」
「護衛はひとりで間に合っている。おまえたちはおまえたちの主《あるじ》を守っていればいいだろう」
言い捨てて、階段を下りていく。ざまをみろという気分で、黒服たちに一瞥《いちべつ》をくれてから、私は王女のあとを追った。
「殿下、何もされませんでしたか?」
「何もって、何をだ? そんな時間があったか」
言われてみればそのとおりである。
「でも殿下、ジャン陛下に気を許してはいけませんよ。あの坊やのことですから、どんな手を使って殿下をまるめこもうとしてくるか……」
「わかってるわかってる」
うっとうしそうに手を振って、グリーナ王女はずんずん歩いていく。
「いまのは、部屋を見てきただけだ。たいした部屋だったぞ。なんだか高そうなものがいっぱい置いてあったが、パレスの宝物をあらいきらいかき集めても及ばないだろうな」
「へえ、そりゃ結構なことで。私の部屋を見ますか?」
「……すごいのか?」
「そりゃもう。パレスのほこりをあらいきらいかき集めても、あの部屋には及びませんよ」
「そうか」
王女は歩みを止めない。そのままではホールを通って表に出ていってしまいそうなので、私は声をかけた。
「殿下、どこまで行くんです?」
王女は、くるりと振り向いた。
「手洗いだ」
「……口実じゃなかったんですか?」
私は、くすりと笑った。
「さっき通り過ぎましたよ」
凝《こ》った花文字で婦人用と書かれた扉の横の壁にもたれて、私は言った。
「殿下、いいかげんケンカはやめませんか」
中からは、手を洗っているらしい水の音がざあざあ聞こえてくる。
「ここは言わば敵地ですよ。いがみあってちゃ、危機に対応できません。やめるのが無理なら、一時休戦ということにでもして……」
扉が開いて、王女が出てきた。私に両手を突きだす。
「なんですか」
「ハンカチ」
「……はい」
私がハンカチを渡すと、それで手をふきながら、王女はぼそっと言った。
「一時だぞ」
「はいはい」
3
事前に調べたところではなんだか難しい長い名前がついていたが、とても覚えられなかった。館《やかた》の人間もそう呼んでいるようなので、私たちも簡潔に、この離宮のことを「シャトー」と呼ぶことにした。
シャトーの裏口から外に出ると、なつかしい匂《にお》いのする風が吹きつけてきた。
「わ……あ」
王女が顔を輝かせて腕を広げる。その広げた腕の先から先まで、一八〇度が水平線だった。かなたの空には白い綿雲《わたぐも》がぽつん、ぽつんと浮かび、その下を大きな船がかたつむりのような速度でゆっくりと動いていく。
地面は、数歩先でばっさりと切り落としたようになくなっていた。近づいて下をのぞきこむと、二〇メートルはありそうな断崖《だんがい》である。はるか下に、砂糖を敷き詰めたような真っ白な三日月型のビーチがあった。周《まわ》りを見回すと、少し離れたところに細いハシゴが岸壁に取りつけられていた。そこから下に下りられるらしい。
「専用の海水浴場か……」
少しうらやましそうに、王女が言った。さっきの顔といい、いまの物欲《ものほ》しそうな顔といい、まるで普通の一七歳の少女である。いや、こんなことを口に出して言ったら怒られるだろうが。
「そう言えば、ジャン陛下はどうしたんです」
「言ったろう? 手洗いにいくと言って出てきた。そのままだ」
「じゃ、待ちぼうけですか、彼は」
「あんな寝言にいちいちつきあってられるか。あれを聞いてると冷や汗が出てくる」
「来なければよかった、ですか?」
「いや、そうでもない」
王女は、目を細めて顔に当たる風を味わっているようだった。
「パレスでうんうん言ってる者たちには悪いが……ほんとに涼しいな、ここは」
「そうですね」
私は、ミオ卿《きょう》と室長の顔を思い浮かべた。
「長官たちにも、ここの空気を吸わせてあげたいですね」
「どうかな」
王女は、ちょっと妙な顔をした。
「ミオはちょっと感覚がズレているからな。――気づいたか? あいつ、あれで素《す》なんだぞ」
「やっぱり体質でしたか。ただの気力じゃ、あそこまで平気な顔は作れないでしょうからね」
「昔からああなんだが、なんだろうな、あの鈍感さは。母方が南方系の血筋だって言ってたが、関係あるのかな」
「そうなんですか?」
あの色の白さだから、てっきり北方系の血筋だと思っていた私は、少し驚いた。
「まあ、それでもミオを連れてきてやったら喜ぶと思うけどな」
「そりゃ喜ぶでしょう」
王女は、ハシゴに近寄って下をのぞき込んだ。
「うわー……高いな。ちょっと下まで行ってくる」
「気をつけてくださいよ」
崖《がけ》の上から見たところ、ビーチに人はいないようだし、ハシゴにもちゃんと手すりがついている。危険はなさそうだった。
王女がハシゴを下りていくのを見送って、私はそこでしばらく海風の香りを味わっていた。すると、後ろで足音がした。
振り返ると、メイド姿の娘が裏口から出てきたところだった。私を見て、声を上げる。
「そこ、気をつけてくださいね。足元危ないですよ」
「ああ、ありがとう。わかってるよ」
返事をして、私は海のほうに視線を戻した。直後、右耳に冷たいものが触れた。
「動くと左右の耳の穴がつながるわよ」
「……誰《だれ》だ?」
「誰だはないでしょ、この浮気者」
「ちっ……!?」
動くなと言われたのにもかかわらず、私は思わず振り向いた。
「チルデ!」
相手が突きだした腕をはじきながら、私はステップバックして上着の下の銃を引き抜いた。相手に突きつける。
ほぼ同時に、手の凶器を肩に引きつけた姿勢で、女が動きを止めた。
私は相手をもう一度よく見直した。メイドの服装と故意に変えた声のせいで、最初、気がつかなかったが、そこに立っているのは、まぎれもなくあの女だった。
「イウォーン帝国軍情報部員、チルデ=イゾッド少尉が、こんなところで何をしている?」
「〈フレイム・チルデ〉でいいわよ。昔みたいに」
チルデは、右手の武器をくるりと回して、エプロンの裏にしまった。はしにつまみのついた二〇センチほどの針は、私にも見覚えのある、彼女の得意な暗殺武器だった。
「ハットピンか。相変わらず陰険なえものを使ってるな」
「目立たないもの。デューイあなた、腕が落ちたんじゃない?」
チルデは、凍《い》てつく夜空のような群青色《ぐんじょういろ》の髪をかきあげて、艶然《えんぜん》と笑った。
「あたし、いまもう一歩踏み込めたのよ」
言われて、私は後ろを振り返った。――絶壁。
「それじゃつまらないから、これ投げてみようかと思ったけど、あなた、銃抜く速さまで落ちてるじゃない。手ごたえないったらありゃしない」
「……ケチをつけにきたのか?」
「そんなわけないでしょ」
チルデは、ゆっくりと私のそばに歩み寄ってきた。私は動けない。耳のそばに、顔が近づく。
「あなたを、殺しにきたの」
「……指令か」
「裏切り者には死を。この業界のおきて、もちろん覚えているわよね?」
「ほっといてくれ、っていうのは無理だろうな」
「ええ」
チルデは、すっと身を引いた。
「一週間、ここに滞在するんですってね。――その間に仕事をするわ。いまのは、ほんのごあいさつ」
「俺はもう足を洗ったつもりなんだが」
「許されるわけないでしょ。きっと殺してあげるから、がんばって。何日もつかしら?」
ぱちっとコケティッシュなウインクを残して、チルデはシャトーの中に戻っていった。
「ふう……」
またやっかいな女に目をつけられたものだと思って振り返ると、王女がいた。
「うわっ!」
「……誰だ、あれ」
「でっ殿下、いつからそこに」
「いま。でも見たぞ」
王女は、私を見上げた。なんだか視線が痛い。
「仲よさそうだったな。知り合いか?」
「え?」
「休戦協定は破棄《はき》だ」
どうも、何か誤解されているらしい。
「殿下、別にあの女性とは妙な関係ではなくて……」
「妙な関係って、どんな関係だ」
「いえ、ですから」
「うるさい、もういい」
岬《みさき》が崩れそうな乱暴な歩き方で、王女はシャトーの中に入っていってしまった。
まったく冗談ではない。
晩餐《ばんさん》の席で、私は鬱々《うつうつ》とした気分でフォークを動かしていた。
ジャン国王とグリーナ王女、それにシャトーに滞在中らしい数人のレンツェルゲン貴族が同席するレセプションの最中である。
パレスに来た手紙、王女とのケンカのそもそもの発端《ほったん》になったあれば、チルデからのものだった。
内容は、簡潔にひと言。「浮気者!」
イウォーン軍部の情報部員である彼女がそんなものをよこした理由は、容易《ようい》に想像がついた。つまり、暗殺の予告状。
私は寝返ったスパイだから、いずれ刺客《しかく》が来るとは予想していたが、あの女がやって来ると知ったときには、さすがに気が滅入《めい》ったものである。
殺すにしろ傷つけるにしろ、およそスマートなやり方をしない。嫌《いや》がらせや脅《おど》しをさんざんやって、相手の神経が参ったところでとどめを刺すのが好き、という偏執狂的《へんしゅうきょうてき》な女である。
変装や潜入の腕もたいしたもので、一度など、バッハムの外務省事務次官に接近して、寝物語に極秘情報を盗んできたことがあるぐらいだ。
ウルムスターにいたのでは、周りの人間にどんな被害が及ぶかわからない。遠国《えんごく》に旅立てば逃げられるだろうと思って、このレンツェルゲン行きに同意したのだが、まさか追って来るとは……。
そんなことをぼんやり考えていると、横からとんと肩をつつかれた。
「あら、失礼」
「ああ……」
振り向いて、ぎょっとした。当のチルデが、銀の盆を捧《ささ》げ持《も》ってほほ笑んでいた。
「なっ……」
とっさにフォークを前に構えた。身構えるかと思いきや、チルデは笑顔を崩さないまま、盆を差しだした。
「温野菜のサラダでございます。――お取り分けいたしましょうか?」
「え、ああ」
思わずうなずいてしまってから、気づいた。彼女は別に武器を持ってはいなかった。私の皿に、サラダを盛りつける。
「ぴりぴりしてんじゃないわよ、小心者!」
去《さ》り際《ぎわ》のひと言は、ごく小さな声でだった。明らかに楽しんでいる。
テーブルに向き直ってみると、貴族のご婦人方がくすくす笑っていた。上座でジャン国王のとなりに座っているグリーナ王女は、他人だといわんばかりにそっぽを向いている。私は、赤くなった。
それにしても、イウォーンはレンツェルゲンにとっても敵国のはずである。いつものことだが、チルデの潜入の腕には驚かされる。王家の離宮に雇い人扱いで入り込むなんて並の手腕ではないし、それを、おそらく私たちのレンツェルゲン行きが決定してから数日でやってのけたのだから、まさに凄腕《すごうで》だ。
考えながら私はサラダにフォークを伸ばしかけたが、引っこめた。あのチルデが出したものだ。安全であるかどうか、疑わしい。
とたんに危険なことに気づいて、私はグリーナ王女の手元を見た。王女の皿にも、サラダが盛ってあった。しかも、いままさにそれに手をつけんとしているところである。
まずい。チルデは私を標的としてここに来たはずだが、目の前にいるのはウルムスターとレンツェルゲン、二つの国の最重要人物なのである。彼女がそちらに危害を加えないという保証はない。
止めたいが、どうしよう? 危険だとはっきり言ってしまったら、理由を問い詰められるだろう。チルデのことをしゃべってしまうと、いろいろ問題が起こるおそれがある。危険な人物を招き寄せてしまったことをジャン国王に怒られるぐらいならまだいい。最悪、正体がばれて危険にさらされたチルデが、この場で武器を取りだすかもしれない。
そのとき、皿の上の砂糖漬けのプラムの実が目に入った。
私は、それにフォークを突き刺した。乱暴に刺したように見せかけて、力と向きを加減した。プラムは弾《はじ》け飛《と》び、狙《ねら》いどおりグリーナ王女の皿に飛び込んだ。
王女がすごい目つきでにらむ。あとでなんと言って謝ろう?
「おや、大変だね。グリーナ、いますぐ替えさせるよ」
ジャン国王が言い、ウェイトレスのひとりがその皿を下げた。チルデである。
チルデは、皿を持って厨房《ちゅうぼう》に入っていく前に、私の方を見て、ひょいとサラダをつまみ食いした。
毒など盛っていなかったのだ。
私は、なんだかひどく疲れたような気分になってフォークをおいた。厨房で笑っているチルデの顔が目に浮かぶようだった。これがあいつの手口なのだ。
4
晩餐会《ばんさんかい》は、その後何事も起きずに、つつがなく終わった。
宵闇《よいやみ》がシャトーを包んでいる。暗い空には少々雲の量が増《ふ》え、伸びかけの爪《つめ》のような月がときどき隠れる。風も出てきた。
なんでそんなことが分かるかというと、私は外に出ているのだ。シャトーの横手の、少し離れた崖《がけ》っぷちに腰掛けている。
シャトーの側面に並ぶ窓がよく見える。窓からは、廊下に並ぶ燭台《しょくだい》のぼんやりした明かりが漏《も》れている。ジャン国王とグリーナ王女の部屋はその廊下沿いにあるから、廊下を見ていれば、そこを通る人間の動きが余さず把握《はあく》できる。二階に行けなくても、監視の方法はあるというわけだ。
ミオ卿《きょう》に聞いた話だが、王女はいつも一〇時には寝てしまうらしい。それ以後は、六時まで目を覚まさない熟睡型で、無理に起こすとものすごく不機嫌《ふきげん》になるそうだ。
いくらジャン国王が女ぐせが悪いといっても、寝ている女性に手を出すほどの無法者ではないだろう。王女が起きてしまったら、手に負えない猛獣に変身するのだから心配はいらない。
つまり、私は一〇時過ぎぐらいまでここでねばっていればいいわけだ。
九時少し前。張り番を始めて一時間ぐらいたったころ、敵に動きがあった。
ランプの明かりを手に持った人影が、廊下に出て歩いていく。部屋から考えてジャン国王に間違いない。
案《あん》の定《じょう》、人影はグリーナ王女の部屋の前で立ち止まった。一日目から夜襲をかけるとは、なかなかどうして動きが早い。
今度だけは、階段のSPを強行突破しなくてはいけない。私は肩を鳴らしながら立ち上がったが、人影が部屋の中に入ろうとしないので、そのまま見守った。
しばらく待つと、人影がふたつになった。どう丸めこんだのか、あの坊やは王女を部屋から連れだすことに成功したらしい。
ふたりは、廊下を奥の方に向かって歩いていく。そっちには階段がある。階段を下りれば、裏口がある。おおかた浜辺を散策するつもりだろう。
私は、シャトーに近づいていった。思った通り、裏口からふたつの人影が出てきた。背丈《せたけ》から見ても、ジャン国王とグリーナ王女に間違いない。
ふたりは、裏口のそばのハシゴへと消えた。私もあとに続く。
昼間は下りてみなかったので分からなかったが、ハシゴはかなり急だった。私がそこにとりついたときには、すでに明かりは下にたどり着いたようだった。ほとんど見えないステップをつま先で探りながら、私は靴音を立てないようにハシゴから下りた。
砂浜に下り立つ少し前から、波の音が聞こえ始めた。意外に小さい。波が穏やかなのだろう。
石灰岩質の白い岸壁と白い砂が星明かりに照《て》り映《は》えて、浜辺は明るかった。
ゆらゆら揺れる明かりが、少し先の岸壁のふもとで止まった。私はそこに近づいて、岩を背にしてしゃがんだ。
ジャン国王の声が聞こえてくる。
「寒くない?」
「涼しいな。ちょうどいい」
「そう?」
BGMは波の音と、岸壁を吹き過ぎる風の声。なるほど、部屋の中よりもここのほうが、よほどいいムードである。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、意外にも王女の声だった。
「ジャン、ひとつ聞いていいか」
「ん」
「おまえ、いままで何人の女性を口説《くど》いた?」
返事は、少し遅れた。
「いろいろ浮名《うきな》を流している、そういうことになってるね、僕は」
「なんでそんなに相手をかえるんだ」
「まあ、仲良くなった女のひとは、少なくないけどね。これからは、グリーナだけだよ」
いまのところは、だろう。
「僕が浮気者か、気になる?」
「男って、みんなそうなのか」
「そうじゃない。男はみんなそうじゃない。――相手を次々にかえる男っていうのは確かにいるけど、別にそれはたくさんの女性と付き合いたいからじゃない。求めているのは、いつもただひとりなんだ」
「ひとり?」
「そうだよ。自分にはこの女しかいない、そう思える相手が現れたら、男はふらふら迷うのをやめる」
出ていって反論したくなったが、もちろんしなかった。
「僕はいま、迷っていない。なぜだか分かる?」
「…………」
「……グリーナが、となりにいるからね」
まあ語る語る。言い分はともかく、一六歳でこれだけの台詞《せりふ》が吐《は》けるのだから立派なものだ。舞台装置と彼の身分を考えると、これで落ちないとしたら女のほうがおかしい。
幸《さいわ》い、グリーナ王女はおかしい女の部類に入っているらしかった。
「男を迷わせてるってことは、その女がそいつにとってのただひとりじゃないってことだよな」
「……グリーナ、もしかして、好きな人がいるのか?」
「……いない」
「僕は?」
「おまえが、もうちょっとしゃべらない人間だったらな」
ここで黙りこまないのが、彼のえらいところだ。
「黙って座ってろっていうのか? グリーナ、僕がどんな思いで君が来るのを待ってたか、分かる? お互いこういう身分だから、会おうと思ってもなかなか会えないだろう。君の顔を見たら話そうと思ってたことが、僕には山ほどあるんだ。その思いを口にしたとたん、しゃべるななんて言われたら、悲しいよ」
前にも思ったが、ただの少年少女として彼らを見れば、悪くない取り合わせに見えなくもない。ただ、ジャン国王は日ごろのおこないに問題がありすぎるし、グリーナ王女の性格を完全に理解しているともいいがたい。王女の男性の好みなど知らないが、彼がチェックメイトを打つには、まだ三手ほど早いような気がする。
――しかしあれだ、私も人の恋路についてああだこうだと言える立場ではないのだ。なにしろいまやってることは、はっきり言ってのぞきそのものだ。いささか情けない。
「グリーナ、聞いてる?」
「ああ……」
どさっ、と音がした。王女が寝転がったらしい。まずいんじゃないだろうか、そんな無防備な姿勢をとったりしたら――
「こら、ジャン!?」
思った通りだ。私が立ち上がろうとしたとき、ぱちんと景気のいい音がした。
私はまた座り込んだ。
「ごめん……びっくりさせたね」
「びっくりとかそうじゃなくて……おまえ、何を考えてるんだ?」
「怒らないでよ。いきなりだったのは、謝る」
「……帰ってくれ」
「ごめん」
「ひとりでいたい。先に帰ってくれ」
「……わかったよ」
速攻はあきらめたらしい。ジャン国王が立ち上がる気配がした。
「ランプ、ここに置いとくよ」
私は身を小さくした。そばを、ジャン国王が気づかずに通り過ぎていった。
ハシゴを上っていく靴音が消えると、私は体を伸ばした。
静かだった。海も風も、一定のリズムを持ったホワイトノイズをささやき続けていたが、それらは背景の一部でしかなかった。舞台の上にいるのは、私と、すぐ近くでしゃがみこんでいるはずの王女だけ。
などと、柄《がら》にもなくロマンチックな感傷にひたっていたのが失敗だった。
ざっと立ち上がる音がしたかと思うと、ランプの光が目に入った。逃げる暇などない。
「……!」
王女が息を呑《の》んだのが分かった。なんとも、最悪の状況だ。
「えーと……こんばんは」
ああ、なんという間抜けな言葉だろう。
王女の答えは、言葉ですらなかった。
ざあっ!
頭から大量の砂が浴びせられた。それも一度で終わらず、三度ほど続けて、砂を蹴《け》りかけられた。
「うわっぷ、殿下、勘弁《かんべん》してくださいよ!」
ものも言わずに、王女は小走りに走っていった。
追いかけられる立場でも状態でもない。砂を振り払いながら、私は自分の間抜けさを呪《のろ》ったのだった。
明けて翌朝。
キシッ、というかすかな足音で私は目を覚ました。
寝転がったまま、毛布を音に向かって投げつけたが、振り払われた。音の主《ぬし》が猫科の動物のように、しなやかな動きで飛びかかってくる。
私は組みつかれる前に転がって床に落ちた。
相手は、ベッドに手をついてくるりと体を回した。おそろしい勢いの蹴りが私の鼻先をかすめたかと思うと、そのまま体をひねり、倒れこむように私に組みついてくる。手に持ったナイフがきらりと光った。
私はとっさにその手を避けて、わきに挟みこんだ。相手の肩口をつかんで、床にねじり倒す。ナイフを持った手の関節を決めながら、指先を相手の喉《のど》に食いこませる。
「いたた……なんだ、結構やるじゃない」
襲撃者は、チルデだった。喉に食い込む私の指に顔をしかめながら、ナイフを放り投げる。
「降参。放して」
私は、指を放して立ち上がった。チルデが、座りこんだまま服のほこりを払って、にやにやしながら言った。
「殺さないんだ」
「ここでそんなまねができるか」
「その辺はやっぱり、甘くなってるわね」
立ち上がると、チルデは戸口の外に出て、トレイを持ってきた。トーストとミルク、あと二、三品がのっている。
「はい、朝ごはん」
「ルームサービスならもう少し穏やかにやってくれ」
「モーニングコールも兼《か》ねたのよ」
トレイをベッドに置く。
「毒は?」
「入れるわけないでしょ。私はこの手でやるのが好きなの」
そういえばそうだった。こいつはそういう悪趣味な女だった。昨日はそんなことも忘れていた。
私がトーストをかじりだすと、チルデは床に落ちたナイフを拾い上げて、指先でくるっと回した。艶《つや》っぽい笑みを私に向けてから、トレイの上のリンゴを取って、むき始める。
「久しぶりね、あなたに朝ごはん作ってあげたの」
「もう一生ないと思って安心してたよ」
「どう、またうちに食べに来ない?」
チルデは、そう言って切ったリンゴをさしだした。私は、チルデの顔を見つめた。男を油断させる魔力を発しているような、切れ長の猫目が、じっと私を見つめている。
「本気か?」
「私はね。うんと言えば、部長も説得してあげる」
「じゃあ、そうする」
きょとんとしてから、チルデは笑い崩れた。
「何よ、全然そんな気ないくせに」
「分かるか?」
「そう言えば私が本国に帰るかもって思ったんでしょ。――分からないわけないじゃない。あたしとあなたの仲だもの」
「いまさらそんなことを言うな。俺はもう昔の記憶は箱に詰めて捨てたんだ」
「うそ」
チルデは、私のとなりに腰を下ろした。かすかな花の香りが空気にまじり、むきだしの冷たい二の腕が触れる。
「箱には詰めたかもしれない。でも、あなたはそれを捨ててない」
「捨てたよ。いまごろ川を下って、海の底で魚のエサになってる」
「いいえ、まだここにあるわ」
チルデの手が私の胸に触れた。
「あたしが、そのふたを開けてあげる」
潤《うる》んだ瞳《ひとみ》が私を見つめている。顔が近づき、髪をとめるレースのティアラが、私の前髪に触れてかさっと音を立てた。
「……メシの邪魔だよ」
私はチルデの体を押し戻した。チルデは急に表情を変えて、ぷっとふくれた。
「もう、堅《かた》くなっちゃって!」
「色仕掛けなんかきくか。特におまえのはね」
「性格まで悪くなってる。あなた、ウルムスターで何かあったの?」
「いろいろ学んだんだよ」
私は、ハムエッグをほおばりながら言った。
「でかい国のでかい町で、給料ばかりいい仕事をしてたんじゃ分からないことをね。だいたい、俺は情報員には向いてなかったんだ。ポーカーフェイスは苦手《にがて》だし、すぐ情に流されるし」
「でも、さっきの動きはそんな悟《さと》った人間の動きじゃなかったわよ」
「黙って殺されるわけにはいかないんだよ」
「あの王女様?」
私は、チルデがトレイに置いたナイフを持って、切っ先を彼女の白い首に当てた。
「殿下には、手を出すなよ」
「……本気?」
「そのためなら、こいつをもう五センチ進めることもできる」
「……本気か」
チルデは、手を伸ばしてトレイからリンゴを取った。しやくっ、とかじる。
「なあるほどね」
「殿下だけじゃない。今後ウルムスターに手を出せば、俺が相手になる」
「大きく出たわねえ。そのためなら、元の非情なスパイに戻るのも辞《じ》さないって?」
「ああ」
「……バカ。大バカ。すかぽんたん」
あきれたように言って、チルデは立ち上がった。
「そこまで入れ込んでるんだったら、スカウトは無理ね。しょうがない、せいぜい念入りに殺してあげるわ」
「ほんとならここでおまえを殺しておくべきなんだろうな」
私は、残念に思いながら言った。
「いまの俺には、それができない」
「あたしとの思い出のせい?」
「それだけは絶対違う」
「そういうことにしといて。あたし、そう思いたいの」
空《から》になったトレイを持って、チルデは出ていこうとした。と、廊下をぱたぱたと足音が遠ざかっていった。
「あら」
チルデが出ていって、顔を出す。
「うわさの王女様みたい」
「殿下が?」
「やっぱ、見られたくなかった?」
「……悪いことって重なるんだなあ」
私は頭を抱《かか》えた。これはもう、完全に誤解されただろう。弁解にどれだけ苦労するやら……。
「ナイスタイミングだわ」
「どこがだ!」
「だって、それがあたしの目的だもの。あなたを困らせて困らせて、困らせ抜くのがね」
「おまえがそういう性格だから別れたんだよ!」
「あら、最初は情熱的ですてきだって言ったくせに」
「言ってない! さっさと出てけ!」
「じゃあね。愛してるわよ」
チルデは手を振って出ていった。――冗談抜きで、頭痛がしてきた。
5
それからのシャトーでの毎日は、私にとって悲惨《ひさん》のひと言に尽《つ》きた。
ジャン国王は、昼も夜もスキあらばグリーナ王女を口説《くど》こうとする。私はなんとかそれを監視して、王女に万一のことがないよう気を配ろうとはするのだが、SPや例のラルザック老人に邪魔されて、常《つね》にくっついていることはなかなかできない。
ジャン国王は、初日の夜の失敗から拙速《せっそく》の愚《ぐ》を悟《さと》ったらしく、長期戦を狙《ねら》ってきた。ひたすら紳士的エスコートに徹して、王女の警戒を解きほぐす戦法だ。王女も王女で、まるであてつけのように、ジャン国王と妙に親しげに話すようになり、私はますます肩身が狭くなる。私にしてみれば、王女が協力してくれないので、仕事がしにくくて困る。
王女は海で泳ぎたがっていたが、やれ遠乗りだやれ貴族たちとの交歓会《こうかんかい》だとかで、なかなかその機会がない。その分のうっぷんも、こっちにくる。
かてて加えて、チルデのちょっかいがある。本気で殺す気があるのかないのか、真綿《まわた》で首を絞《し》めるような陰険な攻撃を次々と加えてくる。どれも対処できないほど危険なものではなかったが、今度こそ本気かもという疑いが常にあって、ひとときも気を抜けない。
しかも、その攻撃を王女に悟られてはならないときている。昔のスパイ時代の同僚とじゃれあっているなど、立派な通敵容疑《つうてきようぎ》だ。殺されかけているんですと言っても、こうチルデが遊び半分のような顔をしていては信じてもらえないだろうし、だいいちそれを言ったらチルデが正体を現してしまう。あの女のことだから、下手《へた》に追いつめたら何をするかわからない。
必然王女の目には、私がメイドと遊んでいるように見える。その分の腹立ちも、またこっちへ跳《は》ね返《かえ》ってくる。
まさに針のむしろのような毎日である。
さらに問題がある。チルデは夜型の人間なのだ。
メイドの仕事をどうさぼっているのか知らないが、昼の間はあまり動かない。夕方から深夜にかけて、攻撃をしかけてくる。こっちは昼の間王女の護衛で疲れ切っているのだから、寝るときぐらいそっとしておいてほしいのだが、そんなことにはおかまいなしである。おかげで、仮眠ていどの睡眠しかとれない。
情熱的といえばたしかに情熱的だが、昔、仲間だったときでさえ、あのしつこさには手を焼いたものだった。「|炎の《フレイム》チルデ」という二《ふた》つ名《な》を、初めて聞いた人間は妙な顔をする。赤毛を連想させる名なのに、彼女の髪が深みのある青だから。
しかし、当のチルデに言わせるとこうらしい。
「本当に熱い炎は、青いのよ」
そんな女だ。
昼間は王女のけんつくを食らい、夜は夜でチルデにからかわれる。
そんな状態で、六日が過ぎた。私はぼろぼろになっていた。
6
ばっ、と白いバスタオルを放り投げると、グリーナ王女は天頂から少し傾いた太陽の光の下に、水着姿をさらした。
白地にグリーンのストライプが斜めに入った、ワンピースの水着である。すらりと伸びた手足がまぶしい。髪の毛はポニーテールにまとめている。
サイズがいくつとかスタイルがどうとか、いちいち述べるつもりはない。そんなに詳《くわ》しく言ったら、まるで私が思春期の少年みたいに彼女を凝視《ぎょうし》しているようではないか。
いやまあ、本当のところを白状してしまうと、五秒ぐらいはそういう状態だった。自制心を奮《ふる》い起《お》こして目をそらしたが、サングラスをかけていたので、誰《だれ》にも気づかれた様子はなかった。
誰にも、と言ったが、そんなに大勢の人間がこの場にいるわけではない。ビーチにいるのは、同じく水着姿のジャン国王と、私の近くにひとりのSP。そして、少し沖に一隻《いっせき》のプレジャーボート。これもおそらく警備のものだろう。
と、王女がこちらを振り向いた。まるで何かを待っているようにじっと私を見ている。すてきですよと言ってやってもよかったが、ジャン国王に先手を打たれた。
「きれいだよ、グリーナ。すごく似合ってる」
「……そうか」
砂の上に足跡《あしあと》をつけて走っていった王女が、波打《なみう》ち際《ぎわ》で、すてん、ばしゃんと転んだ。その上に波が覆《おお》いかぶさる。
起き上がりかけたところへ、今度は引き波が背中からぶつかった。前のめりに海水の中に倒れる。
「何してるんだい、グリーナ?」
ジャン国王が笑いながらそばに走っていって、手を差しだした。
つかまって起き上がったグリーナ王女は、顔をしかめている。
「…………」
「どうしたの?」
「からい」
「……海で遊ぶのは初めてなの?」
「ウルムスターには海はないんだ」
「じゃあもしかして……」
ジャン国王が、からかうように言った。
「泳げない?」
「馬鹿にするな!」
王女はジャン国王の手を振り払うと、バシャバシャ走っていって頭から飛びこんだ。見事なクロールで水をかき始める。
と思ったら、少し泳いだところで盛大な悲鳴をあげた。
「わーっ!」
「どうした!?」
ジャン国王が助走してから海に飛び込んだ。私も走りだそうとした。
犬かきと平泳ぎの合いの子のような妙な泳ぎ方で逃げてくると、背丈《せたけ》ぐらいの深さのところで、王女はジャン国王にしがみついた。
「な、何かいる!」
「え?」
王女が水の中を指さした。ジャン国王は、鼻をつまんで耳抜きしてから、水の中に消えた。
しばらくして、少し離れたところにぶかりと彼の頭が浮かんだ。
「クラゲだよ!」
「クラゲ?」
「こういうやつだろ? 頭が丸くって、足がたくさん生《は》えてて」
立ち泳ぎしながらジャン国王が手でその形を示してみせると、王女はこくこくとうなずいた。
「なんだあれ? 生き物なのか? かまないか?」
「生き物だよ。刺されると痛いから気をつけたほうがいいね」
「どこに行った?」
「いまグリーナの真下にいる」
それを聞くが早いか、王女は猛烈な勢いで水をかいて、ジャン国王のそばまで移動した。不安そうな顔で水中を見ている。ジャン国王が笑いをこらえるように言った。
「グリーナ、怖《こわ》いの?」
「いや、怖いわけじゃない。刺されたら危ないだろう」
「いま、すごい顔してたよ?」
「そ、そうか?」
「怖いんだろ?」
「違うって言ってるだろう!」
「あ、こっちに来た」
ほとんど反射的にグリーナ王女はジャン国王にしがみついた。突然のことに、ジャン国王が沈みかかる。
「ぐっ、グリーナ! やめてくれ! 水がわっ」
「どこだ、どこにいるって?」
「うそだよ、うそ」
王女は腕を放した。そして、ジャン国王をにらんだ。
「うそ?」
「刺すのは本当だけどね。でもいまのは役得だったなあ」
「……ふざけるな!」
今度ははっきりそれが目的で、王女はジャン国王を沈めにかかった。
私は、となりに立っているSPに言った。
「あれであんたの国王陛下が溺《おぼ》れ死《し》んだら、どうする?」
「むろん、グリーナ王女を拘束《こうそく》する」
SPは、くそまじめな顔で言った。
海は、百メートルほど先まで、遠浅になっているらしい。
澄んだ海水が、浜から沖に向かって、形容しようのない美しい青のグラデーションを描《えが》いている。
海草の茂《しげ》みが、浅瀬のあちこちでゆらゆらと揺れている。その間を、人差し指ほどの小魚が群れを作って泳ぎ回っている。ときどき何かに驚いたのか、鋭角的な動きでくるっと進む向きを変え、また元のようにのんきに遊泳を始める。
シャトーから持ちだしたシュノーケルとゴーグルをつけて、ふたりが泳ぎ回っている。ジャン国王は泳ぎながら海中のさまざまなものにいちいち指を向け、水上に顔を出してはグリーナ王女に何事か説明している。聞く王女の顔も、好奇心に輝いている。
それを私は、なんだか妙な思いで眺めていた。
風はあったが日差しが強く、ウルムスターほどではないにしろかなり暑い。塩気と細かい砂が腕にこびりつく。背中には、カッターシャツが汗でべっとりとへばりついている。立ちん坊ではさすがにもたないので岩の根に腰をおろしているが、寝不足と疲労でふらつきがちだ。
しかし、どうもこの不愉快さは、そういう暑さや疲れのせいだけではないようだった。
私は、王女の身を守るためにここに来ている。ミオ卿《きょう》や室長からそう言いつかって来ているのだ。ジャン国王が彼女に手を出さないようにである。
しかし、それを王女が望んでいたとしたらー私は一体、何をしていることになるんだ?
戯《たわむ》れあうふたりを見ているうちに、私はなんだか、ばかばかしくなってきた。立ち上がって、ハシゴに向かって歩きだす。
「どこへ行く?」
やすめの姿勢でじっと立っていたSPが、聞いた。私は片手を挙《あ》げた。
「あんたに任《まか》せるよ」
7
夕刻。
シャトーから少し離れた森の中の遊歩道で、ベンチに腰掛けていた私は、近づいてくる足音に顔を上げた。
敷き詰められた砂利《じゃり》を踏んで現れたのは、群青色《ぐんじょういろ》の髪のメイドだった。
「またおまえか……」
「あなた、仕事はどうしたの?」
「ちょっと疲れたんだ」
「ふうん。ねえ、トランス?」
チルデは、ほほ笑みを浮かべながら近寄ってきた。
「ほんとに、イウォーンに戻るつもりはないの?」
私はちょっとためらった。それから答えたが、答えながら、何かに迷っていた。
「ない」
「そう」
チルデは、髪をなでつけるように右手を頭に当てた。私は立ち上がった。
チルデが手を振りおろす。シュン! と空気を裂いて何か細いものが伸びてきた。予期していた私は、横に飛んでその攻撃を避けた。
黒いひものようなものが、鋳鉄製《ちゅうてつせい》のベンチのひじかけに巻きついた。その一端を持ったチルデが右手を引くと、ジャジャッと耳障《みみざわ》りな音をたてて火花を散らしながら、ひもはほどけた。
いや、ひもではない。ワイヤーだ。数条の細い鋼線《こうせん》とこまかい刃を編みあわせたものだろう。射程は二メートルというところか。
私は油断なく腰を落として言った。
「次から次へと、よくもまあそんなにいろんな武器を使いこなせるな」
「これは見せたことがなかったわね。ジーリ・ソーというの。二秒であなたの首を落とせるわ。腕なら一秒ってところかしら」
「落とされてたまるか」
チルデがムチを扱うような動作で、再びジーリ・ソーを振りおろしてきた。私はくるりと後ろを向いて、逃げだした。
「逃げる気?」
「悪いか!」
上着を着ていないので、銃も持っていない。素手《すで》で立ち向かうには、相手の武器が手強《てごわ》すぎる。逃げるしかないのだ。
森から走りでると、金色の夕日の中にたたずむシャトーに向かって、私は一目散に駆けだした。後ろからは、チルデの足音が迫《せま》ってくる。
彼女がさっきの質問をしたときに、私は気づいていた。今度こそ、あいつは本気だ。私を始末する気だ。
低い植え込みを飛び越えてシャトーの庭に走り込み、建物の横手に回り込む。そこには、西向きの断崖《だんがい》に面して、小さなテラスが突きだしている。私はそのテラスに駆けこんだ。屋内に入る戸口があるはずである。人目の多いところに移動すれば、チルデの動きを封じられる。
テラスに並べられたテーブルや椅子《いす》にぶつかりながら戸口にとりついて、私はドアノブを回そうとした。そして、愕然《がくぜん》とした。ノブは動かなかった。
「そこ、鍵《かぎ》がかかってるわよ」
私は振り向いた。追いついてきたチルデが、楽しそうに言った。
「どうするの? まだ逃げる?」
私は後ろをちらっと見て、すぐ前に視線を戻した。テラスの手すりのむこうは、断崖だった。
万事休す、というところだ。近くの椅子を武器にしてなんとか渡り合うか――そう考えたとき、チルデのむこうに人影が現れたのを見て、私は声を上げた。
「じいさん! 誰《だれ》か、人を呼んできてくれ!」
チルデが振り向いた。モーニング姿の老人――ラルザックがテラスに上《のぼ》ってくるところだった。だが、その後ろからやってくるふたつの人影を見て、私は舌打ちした。
「トランス? 何をしてる」
水着の上にガウンを羽織《はお》った、王女とジャン国王だった。私は叫んだ。
「殿下、来てはだめです!」
「なんだ、私たちは邪魔なのか」
「そうじゃなくて――とにかく、ここは危険です。じいさん、おふたりをむこうへ」
王女の顔に、理解の色が走った。チルデの手に、何か物騒なものが握られていることに気づいたらしい。
「ジャン、行こう」
「え? どうして……」
「とにかく!」
王女がジャン国王の手を引いて走りだそうとしたとき、意外なことが起こった。
ラルザックが、ジャン国王のガウンのえり首をつかんだのだ。
ラルザックは、老人とは思えぬ力でジャン国王をテラスの床に引きずり倒した。それから、逃げだそうとした王女の片腕をつかんだ。
「放せ!」
王女はもがいたが、ラルザックは力任《ちからまか》せに引っぱり、王女の首に腕を回した。ポケットから万年筆を出して、キャップを弾《はじ》いて王女の胸元に当てる。
「お静かに。下手《へた》に動かれないほうが、お身のためかと存じます」
「じいさん!?」
予想外の出来事に、つい、チルデへの注意がおろそかになった。
そのスキに、チルデが動いた。彼女の手から放たれたジーリ・ソーが、生き物のように私の首に巻きついた。ふりほどこうと思ってソーを握ったとたん、手のひらが切れて痛みが走った。
「くうっ……」
「動かないで。王女様がどうなってもいいの?」
言って、チルデが、不気味な笑みを浮かべた。
「おもしろいことになったわね……」
「ラルザック、こんなことをしてただで済むと思っているのか! 護衛たちがすぐに来るぞ」
ジャン国王が叫んだ。ラルザックが慇懃《いんぎん》に答える。
「人払いを命じられたのは陛下ではありませんか。ご心配なく、私もあの女も、すぐにこの場から消えます」
「この国からも、ね」
不敵に言ってのけたチルデに、ラルザックは渋面《じゅうめん》で言った。
「私はまだ正体を明かすつもりはなかったのだがな。不手際《ふてぎわ》だぞ、チルデ」
「ごめんなさい、でもあなたの仕事が遅いのも悪いのよ」
ラルザックのしわが深くなった。チルデが舌を出す。
「……上に報告するぞ、イゾッド少尉」
イウォーン時代にも、私はこの老人を見た記憶がない。ウルムスターで私の人国の手引きをしたジョナサン=オルファと同じような、現地人のスパイなのだろう。チルデが異様にすんなりここに潜り込めたのは、彼の手引きがあったからに違いない。
「おまえたち、何者だ?」
「どうも、ふたりともイウォーンのスパイのようです。殿下、動かないでください。こいつらはプロです。チルデは私を殺しにきたんですが、そっちのじいさんは何が目的かわかりません」
ギリッ、とジーリ・ソーが私の首に食い込んだ。
「余計なこと言うんじゃないの」
「トランス……」
グリーナ王女が、言った。
「おまえ、その女と遊んでいたんじゃなかったのか?」
「遊ばれてたんですよ」
私は、首の痛みに耐えながら言った。
「全部言いますよ。この間の手紙はこいつからでした。私を殺すって内容のね。逃げられるかと思ってこの国に来ましたが、追いつかれました。殿下がジャン陛下と遊び回ってた一週間の間、私はこいつに散々いたぶられていたんですよ。なにしろ陰険な女で」
ソーが一段ときつくなった。少し血も出たようだ。横で、チルデがにらんでいたが、かまわず私は続けた。
「こんなことになってしまって申《もう》し訳《わけ》ありません。なんとか殿下に知られずに事の始末をつけようと思っていたんですが」
「そ……」
みるみる王女の眉《まゆ》がつりあがった。
「そんな重大なことになっていたのに、なんで私に話さなかった!?」
「話せなかったんですよ! 情報部時代の同僚から手紙がきたって言ったときから、殿下はずっと怒りっぱなしだったじゃありませんか! まともに話ができるような機会がありましたか?」
「機会なんか作ればいいだろう! 二日目の朝だって私がわざわざ起こしにいってやったのに、おまえはそいつと……」
「あれは殺されかけていたんですよ! イウォーンに戻らないかっていう誘いを受けていたんです」
「じゃあやっぱり、おまえはイウォーンに戻るつもりだったのか?」
「じゃあやっぱり、殿下はそう疑っていたんですね?」
「そんなこと、疑ってなんかいない!」
「それじゃ何を怒っていたんですか!」
「だってそれは、おまえがそいつと仲良さそうだったから……」
王女の声は、なぜか途中で小さくなった。
「そりゃ従者が女の子と遊んでいれば怒りたくなるのも分かりますが、それは誤解だって言ってるでしょう」
「だから従者とかそういうのじゃなくて!」
「じゃあどういうことなんですか!」
私たちがにらみ合ったとき、いきなりつま先を踏んづけられた。
「何をするんだ?」
「痴話《ちわ》ゲンカはそのへんにしてよ。あたしたちはヒマじゃないの」
「痴話ゲンカ!?」
「ラルザック」
チルデは、私を無視して老人に声をかけた。
「あなたこれから、どうするつもりなの」
「どうしたものかな」
思案に暮れながらラルザックが言った。
「私は、人を殺せという命令は受けておらん。このまま逃げだすか」
「私が受けた命令は違うわ」
チルデは、私の顔を見て笑った。夕日がその横顔を照らしている。美しいが、凄惨《せいさん》な笑顔だった。
「裏切り者を消せ。そういう命令を受けていたけど」
なんのつもりか、チルデは私の首の武器をゆるめた。
「ちょっと気が変わったわ」
「命令に背《そむ》くつもりか? 勝手なことは……」
「黙ってよ。あなたの指図《さしず》は受けないわ」
チルデは鋭く言ってラルザックを黙らせた。
「デューイ、あなたにひとつ聞きたいの。最後の質問よ。返答|次第《しだい》では――殺すわ」
返答次第では殺さないということだろうか。おはこ[#「おはこ」に傍点]の独断専行が顔を出したらしい。
「何を聞きたい?」
「あなた、グリーナ王女が好きなの?」
「……、……」
なんだそれは? そんな質問をされるとは思ってもいなかった。それに、どう答えたら殺されないのかもわからなかった。
いやそれよりも。
「……俺が、殿下を好きかって?」
「さあ、答えて」
そんなふうに聞かれたということは――そんなふうに見られていたということは――
ジャン国王とグリーナ王女を見ていたときのあの妙な気分は――
つまり、私はそうなのか?
そんなことを聞くなとか、おまえになんの関係があるとか、はぐらかす台詞《せりふ》はあったのかもしれないが、私は思いつかなかった。
それどころか、私はいかなる返事も思いつかなかった。
半口開けて阿呆《あほう》のように黙っていると、チルデは不意に苦笑した。
「自覚がなかったの? 鈍《にぶ》くなったわね、まったく」
「自覚もなにも、そんなこと……」
チルデは、私の耳に顔を寄せて小声で言った。
「王女のほうは、自覚があったみたいよ」
「チルデおまえ、何が目的だ?」
私が顔を離して叫ぶと、チルデはもう楽しくてたまらないというふうに笑った。
「だって、あなたが思いっきり困ってる顔、見たかったんだもの」
「おま、……からかったのか!?」
「チルデ、いいかげんにしろ」
ラルザックがたまりかねたように言った。
「私はもう行くぞ。このふたりを縛《しば》るから手伝え」
そう言ってラルザックが、万年筆の先を王女からそらしたときだった。
ジャン国王が、いきなりラルザックに飛びかかった。不意をつかれてラルザックは姿勢を崩す。王女がその腕を振りはらって前に転がりでた。
「ちいっ」
だがラルザックはすばやく体勢を立て直して、ジャン国王を突き飛ばした。ジャン国王はテラスの木製の手すりに背中をぶつけた。手すりがぎいっといやな音をたてる。年寄りのくせに恐ろしいほどの力だ。
「何やってるのよ」
言ったチルデにも、スキができた。私は自分の体をぐるっと回した。ジーリ・ソーがほどける。
「やるわね!?」
チルデが手首を振って、ほどけたジーリ・ソーを私に打ち下ろした。とっさに私はそばにあった木組みの椅子の陰《かげ》に転がり込んだ。ソーが椅子の背もたれに巻きつき、食いこむ。
私は椅子を思い切り引っぱった。チルデがはっと手のひらを広げる。ジーリ・ソーが彼女の手を離れた。そのまま持っていたら、指が飛んでいたろう。
振り返ると、ラルザックが王女の足をつかんでいた。ジャン国王はまだ背中の痛みで立ち上がれないでいる。
ラルザックは、王女の足を思い切り引っぱって、なんと体ごと振り回した。ジャン国王のとなりに王女が叩《たた》きつけられる。
それを見た私は、椅子を抱《かか》えて突進した。
「この野郎!」
ラルザックは横に動いてかわした。私は椅子を振り回して、横からラルザックにぶち当てた。防御しながらもこらえきれずに、ラルザックはたたらを踏む。
そこにもう一回、私は椅子を突きだした。肩口に椅子の背もたれが当たり、ラルザックはよろめいて、テラスの手すりにぶつかった。
そのとたん、手すりが乾いた音をたてて折れた。
ラルザックとともに、すぐそばにいたグリーナ王女が手すりごと後ろへ倒れていった。私は思わず叫んでいた。
「殿下!」
私は駆け寄った。起き上がったジャン国王と一緒に、下方をのぞきこむ。
黒いモーニング姿がばたつきながら砂浜へと落ちていく。途中で、崖《がけ》から生《は》えている灌木《かんぼく》に引っかかってバウンドしたときに、その体が不自然な形に曲がった。おそらく、助からないだろう。
グリーナ王女の白いガウンが見つからない。
「殿下!?」
「ここだ、トランス」
声は、意外にもすぐ近くから聞こえた。私は、身を乗り出してテラスの下をのぞきこんだ。
三メートルほど下の、テラスを支えている柱の土台部分に、王女は右腕一本でつかまっていた。ラルザックほど勢いよく手すりにぶつからなかったかららしい。
「殿下、ご無事で……!」
「無事じゃない!」
こちらを見上げる王女の顔が苦痛に歪《ゆが》んでいる。
「もう、もたない……」
「グリーナ、待ってろ! いま助けを呼んでくる!」
ジャン国王が叫んだ。王女が苦しげに言う。
「急いで――」
そのとき、ずるっと王女の指が滑り、土台石から離れた。王女の目が大きく見開かれる。
「グリーナ!」
ジャン国王の声を横に聞いた瞬間、私は後ろを探って、手に触れたものをつかみざま空中に飛びだした。椅子にからまったジーリ・ソー、そして崖の途中の灌木のことが、頭の片隅で結びついていた。
「トランス……」
「はい?」
「痛いか?」
「そりゃあ、もう……」
私は笑おうとしたが、できなかった。右肩が猛烈な熱を発している。ただの脱臼《だっきゅう》ならいいが、ひょっとしたら靭帯《じんたい》までやられたかもしれない。
「……なんて……なんて言えば」
泣きそうな顔で私を見ていたグリーナ王女が、手を伸ばしてきた。私の首に小麦色に焼けた腕が巻かれる。
「すまない、ありがとう」
ほおに、夕日の色に染まった髪の毛がこすりつけられる。私は無事なほうの手を彼女のむきだしのひざにのせた。
「たいしたことじゃ、あつっ、ありませんよ」
「格好つけるな、ばか……」
王女が、腕にぎゅっと力を込めた。
私は、頭上を見上げた。あれは偶然だろう。そうとしか言いようがない。空中で王女の体を抱きざま椅子を振って灌木にジーリ・ソーを巻きつけ、いったん減速してから砂浜に落下したのだが、我ながらよくそんなことができたものだ。
チルデが森で鉄のベンチに巻きつけたりしたから、ジーリ・ソーの切れ味がわずかに落ちていたのだ。それがおそらく、生死を分けた。ソーが灌木を一瞬で切断していたら、あるいは椅子の背を切断していたら、私たちは勢いのついたまま砂浜に激突していた。腕一本で済んだのだから、安いものだ、ということにしておこう。――猛烈に痛いのだが。
「グリーナ! 大丈夫か?」
ジャン国王の声がした。見ると、数人のSPを連れた彼がハシゴを下りてくるところだった。王女は私の首から腕を離して言った。
「私は大丈夫だ。それよりトランスを……」
「わかったよ。いま侍医《じい》を呼んだ。君も見てもらったほうがいい。どこか打っていないかい」
「腰を少し……」
「とにかく上に上がろう」
「でも、トランスが」
「大丈夫、彼のことはこいつらがみるよ」
「陛下、あいつは、チルデはどうしました?」
私が聞くと、ジャン国王は王女の手を取りながら言った。
「逃げられた。すばしこいやつだな」
「そうですか……」
SPが私の周《まわ》りを囲んだ。ひとりが、頭上のテラスを見上げながら言った。
「あそこから飛び下りたのか?」
「ああ」
「信じられんことをするな。――俺にはできんね」
昼間、一緒に王女たちを警備していたSPだった。そいつは、にやっと笑ってしゃがんだ。
「肩、貸すぜ。凄腕《すごうで》さん」
私は、そいつの肩を借りて歩きだした。
エピローグ
「じゃあな」
「ああ。さよなら、グリーナ」
王女は、手を振ると、歩きだした。ポルクロール駅の駅前である。
SPに囲まれたジャン国王が、残念そうな顔で手を振っている。私も王女のあとについていこうとしたとき、声がかけられた。
「おい、その――トランス、だったか?」
「は、私ですか?」
右肩に巻かれた包帯が邪魔で首を回しにくい。私は体ごと振り返った。
ジャン国王が、私の前に立った。しばらくじっと私の顔を見ていたジャン国王は、やにわに私のすねを蹴飛《けと》ばした。
「痛っ、何をなさるんです?」
「このていどで痛がる男なのか、おまえは」
「はあ」
「よくあんなことができたな」
「必死でしたから」
「必死か……」
ジャン国王は、苦《にが》い表情で言った。
「たとえあの糸ノコのことに気がついたとしても、僕はたぶん、飛びださなかったろう」
「…………」
「だいたいグリーナだって、ただのあてつけで僕と仲良くしていたみたいだしな。おまえの勝ちだ――ふん、せいぜい命がけでグリーナを守れよ」
「おっしゃられなくとも、心得ております」
私の言葉を聞くと、ジャン国王はもう一度私のすねを蹴った。
それから、リムジンに乗って去って行った。
大陸横断特急ミストレルのコンパートメントに荷物を置いて、私はトイレに向かった。出てくると、群青色《ぐんじょういろ》の髪の女が立っていた。もうメイド姿ではなく、普通のスーツを着ている。
「何をしてるんだ、こんなところで」
「イウォーンに帰るのよ。イウォーンはウルムスターのむこうでしょ」
「俺を殺すのか?」
チルデは、肩をすくめた。
「こんなところで殺せるわけないでしょ。――だいたいもう、やる気もなくなっちゃったし」
「どうして?」
「あたし、怖《こわ》がってる人を殺すのが好きなのよ。あなたみたいな死にたがりを殺しても、つまらないもの」
「いいのか? 失敗は本部に知れたら降格ものだぞ」
「ラルザックが邪魔をしたから失敗したのよ」
「そういうことにするわけか」
「死人に口なし」
ふふっ、とチルデは笑った。どこまでも好き勝手を押し通す女だ。
「私、あの王女様のこと気に入ったわ。次はあの子を殺したいな」
刃物の輝きのような危険なほほ笑みを浮かべると、チルデはとなりの車両に消えた。
コンパートメントに戻ると、グリーナ王女はプラットホームの雑踏《ざっとう》を見ていた。列車はまだ動きだしていない。
私は、むかいの席に腰を下ろした。同じように窓わくにひじをついて、外を見つめる。
しばらくして、私は王女の視線に気づいた。直接ではない。ガラスに映った彼女の目が、こちらを見ている。
「殿下」
私は言った。
「あれ、どういう意味なんです」
「あれ?」
「ほら、きのうシャトーで……従者とかそういうのじゃなくて、その続きです」
「あれは……」
王女は、ガラスからも目をそらして、横を向いた。そのほおが昨日の浜辺で見たのとそっくりの色に染まっていた。
「トランス、おまえこそ」
「え?」
「あのチルデって女が最後におまえに聞いたろう。――なんて答えるつもりだったんだ?」
私は、返事に詰まった。ガラスに映った自分の顔を見ると、王女と同じ色になっていた。
「な、なんでもいいじゃありませんか」
「そ、そうだな」
ふたりしてあさっての方向を向いた。そして、それがおかしくてくすくす笑いだした。
ガタン、と列車が動きだした。
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POSTSCRIPT
今回の単行本は、いきなり看板にいつわりがあります。「まずは一報ポプラパレスより」そう書かれているのに、主人公たちがおとなしくパレスにいてくれなかったのです。それどころか国内にさえいない。今回の第一話では山に、第二話では海に遊びに行ってしまっている。意図したわけではありませんが、両方とも旅行記になってしまいました。
これは要するに、作者の性格の反映でしょう。僕も旅行が好きです。
去年の六月には、ただでさえ狭い愛車のビートに、ナベだのコンロだの寝袋だのを詰めこんで、ぎゅうぎゅう詰めの状態で名古屋から長崎までひとりでふらふらと出かけました。
大阪のユースホステルでベルギ一人と韓国人とへたくそな英語で話したり、広島の山の中でうなぎの夜釣りをしていた人たちと酒盛りをしたり、福岡で見ず知らずの人に、同じオープンカー乗りだというだけで一晩泊めてもらったりしました(その人の家のガレージには、僕のあこがれのケーターハム・スーパーセブンが、大切にカバーをかけられて眠っていました)。
一二月には、集英社に原稿を渡しに行ったのですが、新幹線代が惜しくて生まれて初めてのヒッチハイクをしました。東名高速の春日井インターでトラックを捕まえて、東京の荻窪まで。途中、豊田で一度乗り換えましたが、えんえん五時間以上かけて、無事にたどり着きました。帰りも同じルートでヒッチハイク。トラックの運ちゃんにはいい人が多いのでしょうか。サービスエリアでコーヒーまでおごってもらいました。
また、毎年夏には、友人と近場の県の海や山にちょくちょく出かけます。ホテルなんかには入らず、ほとんどテントで眠り、金があればユースホステルに泊まります。それでも一泊五〇〇〇円ぐらいの貧乏旅行ですが。
ヒマと思い切りさえあれば、旅行には案外簡単にでられます。九州旅行の時も、出発を決めたのは前日の夜八時でした。
旅に出たら出たで、恥をかく勇気と若干の注意力さえあれば、旅先の人ともいろいろな世間話ができます。たった一日やそこらの付き合いなので友達になるのは無理ですが、初対面の人とでも、ガスコンロでラーメンを作りながらビールでも空ければ、付き合いで出たコンパなんかより、はるかに楽しい一晩を過ごすことができます。
みなさんも、ちょっとばかり無鉄砲になって、パンツとタオルと根性しか持たない一泊旅行に出てみませんか。夏のキャンプ場や海辺だったら、身ひとつで行っても、宴会にもぐりこむなりなんなりして、おいしく楽しく過ごせるものです。
そんなわけで、今年の夏の目標はこれだ。
「北海道をビートで制覇!」
今回の単行本化にあたって、いろいろな方の手をお借りしました。集英社の八坂編集長、創美社の寺岡さん、樋口さん、挿絵の鷹城さん。ありがとうございました。
また、この本を読んでくださった読者の方にも、あつくお礼を申し上げます。
☆
追記ビートについて
バブル末期に本田技研工業が世に送り出した、ある意味ではスーパーカーな車。
国産スポーツカーの最高峰NSXと同じエンジンレイアウトを持ち、エンジン自体にもMTRECと呼ばれるハイレスポンスシステムが組みこまれている。各車輪がドライバーに近く、車体の剛性も高いおかげで、低速コーナーを三速六〇〇〇回転で駆け抜けるときのダイレクトな操縦感覚は、いかなる白ナンバーの車も及ぶところではない。
また、ソフトトップを開け放ち、ナビ席に荷物を山のようにほうり込んで梅雨の明けた田舎の国道を流せば、適度に巻きこむ風によってストレスが完全に洗い流される。ただし、帽子が一緒にどこかへ行くこともある。
しかし反面、存在そのものが欠点であると言われても反論できないほど小さい。ボディは下に手を入れてふんばったらひっくり返りそうであり、室内は、となりに座ったのが美少女だろうと老婆だろうと、いやおうなしに肩が触れあい、はっと気づいて照れ隠しに笑わなければならないほど、恐ろしくどうしようもなく狭い。
RV全盛の現在においては、主流から地球の反対側ぐらい離れたところに存在している感がある。ドライバーの年齢層は、若者から老人まで幅広いが、絶対数は多くなく、しかもおそらく、ほとんどがひねくれものである。
その欠点は、もし数え上げたら無慮数十か所に上る。作者の個人的な意見を言わせてもらうと、VTECをつけろとは言わないが、せめてDOHCにしてほしかった。
だが、多くの短所を差しひいて、なお何かが残る。乗ってほしい。できれば買え! それ一台を足にして毎日暮らしてほしい。何かがどこかでふっ切れて苦笑が浮かび、昨日よりもやや無責任で明るい人間になれる。
[#地から1字上げ]河出智紀
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■初出
あなたに木陰の思い出を[jump novel]vol.12(1997年5月4日号)
Crossing Letter[jump novel]vol.13(1997年9月15日号)
本単行本は、上記の初出作品に、著者が加筆・訂正したものです。
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底本
集英社 JUMP j BOOKS
まずは一報ポプラパレスよりU
著者 河出智紀《かわでともひろ》
1998年4月30日 第1刷発行
発行者――山下秀樹
発行所――株式会社 集英社
[#地付き]2008年5月1日作成 hj
底本のまま
・服装規定もものかは、