まずは一報ポプラパレスより
河出智紀
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)礎《いしずえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|NF《ノンフィクション》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)俺たち[#「俺たち」に傍点]
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〈カバー〉
私の名はデューイ=トランス。
イウォーン帝国情報部員――ありていに言えばスパイである。
私は、崇高なる(!)職務を遂行するため、ここウルムスター王国に足を踏み入れた。
政府の要職である、王宮長官秘書官という肩書を得た私は、母国の礎《いしずえ》となるべく、果敢なる勇気と狡知、そして決断力をもって、その任務をまっとうする、はずだったのだが……
第6回ジャンプ小説・|NF《ノンフィクション》大賞大賞受賞作品、珠玉のファンタジーノベル登場!!
河出智紀
TOMONORI KAWADE
1975年生まれ。愛知県在住。
『まずは一報ポプラパレスより』で第6回ジャンプ小説・|NF《ノンフィクション》大賞大賞受賞。「月を歩く」ことが現在の夢。特技はサンルーム造り。
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まずは一報ポプラパレスより
MAZUHA IPPOU POPLAR PALACE YORI
CONTENTS
まずは一報ポプラパレスより
あとがき
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PROFILE
デューイ=トランス
イウォーン帝国情報部員。
ウルムスター王国にスパイとして潜入する。
グリーナ=テオ=ウルムス
ウルムスター王国の王女。
通称殿下≠ニ呼ばれ、国政を司る最高責任者。
中継人(テンドリル)
ウルムスター国内に潜伏している、イウォーンのスパイ。
ミオ=ブランシャール
王女の側近にしてお目付役。
王宮長官の要職に就く。
ジョナサン=オルファ
ウルムスターの貿易商。
政府にも影響力を持つ実力者。
レイ=ヴェルヒャー
政府の各部門を統括する、政務室長。
王女の忠実な部下。
ジャンリュック=レンツェルゲン三世
レンツェルゲン王国の国王。
現在、王女に求婚中。
ジョシュア=ウルムス
ウルムス王家の三男坊。
グリーナの実兄。
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この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
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まずは一報ポプラパレスより
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おそらくあなたは、ウルムスターという国をナメている。
なるほど確かに、ちっぽけな国だ。
総面積三万平方キロ、その大部分を森と山岳とラグ湖という淡水湖に占《し》められ、人々は国土の三パーセントほどの平地に、砂をふりまいたように点々と村落を形成して住んでいる。大都市と呼べるような人口密集地はなく、首都サマルカンドですら、六階より上の階をもつビルを有しない。三八年度GNPはイウォーン帝国の二四分の一、国防費は同四〇分の一、輸出入額は……いや、このへんにしておこう。とにかく、数字として現われるこの国のデータは、およそしけたものである。
その位置は、大陸西北部の高地帯、地学的に言うとシャンテル山脈とグレゴニクス山脈に挟まれた盆地であり、気候区分は西岸海洋性気候《C f c》である。
あなたがたは、この国について、ほとんど何も知らないだろう。特に、我が母国、懐かしきイウォーンの方々は。
大陸最大にして最強、建国以来の星霜《せいそう》六百年を数え、八千万の民《たみ》、三九の諸侯国《しょこうこく》、国軍兵力精鋭百万を誇り、近隣にその殷賑《いんしん》並ぶものなしと称《たた》えられる帝都《バビロス》に武帝の誉《ほま》れ高き神王ハラル二世をおしいただく、偉大なるイウォーン帝国……比較して論ずるも空《むな》しい、堂々たる大国である。その栄光の一翼を担《にな》う(と思っている)市民が、辺境の一小国のことを、その場所すら知らないといって、なんの不都合《ふつごう》があろうか。見よ! 我が祖国はこんなにも豊かで、こんなにも栄えているというのに……!
彼らはいわゆる馬鹿の範疇《はんちゅう》に入る資格を持つ人間であるが、だからどうだという気はない。かくいう私も、かつては幸福なる彼らの一党の眷属《けんぞく》であった。
かつては、と条件をつけるのは、国家の良さというものが、必ずしもイウォーンのそれに代表される富国強兵的な側面だけで判断できるわけではないということが、今では若干《じゃっかん》わかってきたからである。
話をウルムスターに戻すと、この国には、大規模な重工業や活発な商業的繁栄こそないが、素朴《そぼく》で合理的な、農林漁業を軸とした、ユニークな発想にあふれた自給自足態勢がある。人の手の入らない、少々|苛酷《かこく》だが美しい自然もある。食べ物のうまさは、劣《おと》らないどころか他国に比《くら》べて群を抜く。
それらはしかし、この国にしかないというわけではない。この国にしか存在しない、すばらしいものが一つ――それこそが、私にペンをとらせた動機なのだ。
首都サマルカンドの南の丘に、ポプラパレスと通称される平屋の建物がある。名のとおり、背の高いポプラの木に囲まれたその白色の屋敷が、私の現在の、正確な意味での職場である。同時にそこは、私の直属上司ミオ=ブランシャール卿《きょう》や、レイ=ヴェルヒャー政務室長を始めとする、ウルムスター政府要人の職場でもある。
さらにそこには、グリーナ=テオ=ウルムスという名の少女が一人、起居している。彼女は通常、名前に簡潔な敬称をつけるか、又は敬称のみで、他人から呼ばれる。その敬称とは、
「殿下」という一語である。
そしてポプラパレスの正式な名称は、ウルムスター王国行政執行府という。
すなわち彼女こそが、他に並びなき至上、国政最高責任者にして、私の俸給《ほうきゅう》のカット率を決定できる唯一《ゆいいつ》の人物である、ウルムス王室の王女なのだ。
この国にしか存在しない素晴らしいものーそれが、彼女であり、パレスの人々なのだ。私、もとイウォーン帝国情報部員であり、今では王宮長官ミオ卿の主席秘書官である、デユーイ=トランスは、彼ら、中でも王女を敬愛してやまない。その小柄《こがら》な体に秘められた、恐るべき奸智《かんち》と度胸と行動力と、その底に流れる卓越した人間性とを。
1
着陸|間際《まぎわ》に優先軍用機に割り込まれて十分ほど遅れたが、それ以外はたいしたトラブルもなく、私の乗ったアルラインの旅客機は、ウルムスターに一つしかない国際空港である、サマルカンド空港に到着した。一一時五八分、三八年一月一三日のことである。
イウォーンからスパイとしてやってきた私が初めて吸うこの国の空気は、驚くほど清冽《せいれつ》で厳しい冷たさに満ちていた。出立《しゅったつ》前に母国で防寒用のコートを購入する際に考えた、ウルムスターの寒さに対する予想が甘かったことをしぶしぶ認めながら、私はタラップを下ってエプロンに降り立った。
機からターミナルビルまでは、なんと徒歩で移動させられた。シャトルバスを出す気がないのか、それとも出せないのか、どちらにしろここの国情というものが現われているようで、興味深い。
空港自体、たいしたものではなく、イウォーンの地方空港ていどの規模である。二千メートル級の滑走路が平行して二本あり、おもちゃのような可愛《かわい》らしい付属施設が設営されていて、それを軍民共用で使っている。かりにも首都の名を冠した国際空港にしては、情《なさ》けなく思えるほどだ。
通関手続きは、簡単にすんだ。別に危ないものを持ち込んだわけでもないから当然だ。驚いたことに、イウォーンでもまだ数か所でしか使われていない金属探知機が、ここでは使用されていた。事前に調べてあったとおりだ。技術力は低くないらしい。
駅舎《えきしゃ》に毛が生えた程度のビルを出て、周辺を少し歩く。町並みはしっとりとした落ち着いた雰囲気で、ゴミや犬のフンなども見かけない。白い息を煙のように吐きながら歩き過ぎる人々の表情は、概《がい》して明るい。市民の生活程度は、ここで見る限り満足すべきものであるようだ。
かろうじてにぎわいと呼べるぐらいの人ではあったが、大都市で育った私には、かなりものたりない。山間の小国など、こんなものか。イウォーンに比《くら》べたら――考えるうちに、乗合バスの停留所についていた。停まっていたバスがちょうど王宮行きだったので、私はそれに乗り込んだ。
二〇人乗りの小さなバスは、八割ほどの席が埋まっていた。私は先頭に近い席に座って、コートを脱《ぬ》いだ。ブザーが鳴り、ドアが閉じかける。
「待ってくれ!」
言葉と不釣《ふつ》り合《あ》いな若い女の声におやと思って振り返ると、閉じようとする後部ドアを強引に開けて、一人の少女が駆け込んで来たところだった。片手で、まだ小学校に上がりかけぐらいの小さな女の子の手を引いている。
「ふう、間に合った」
ちらっと後ろを見た運転手が、ちょっと驚いたような顔をしてから、再度ドアを閉じた。
バスは動き出した。私は、乗客のほほ笑みに囲まれてこちらへやって来るその少女を、好奇心に駆《か》られて観察した。年齢は一六、七だろう。先のはねた眉《まゆ》と輝く黒い瞳《ひとみ》が、意志の強さを想像させる。シンプルなゴムで縛《しば》り上げた活動的な髪形やきびきびした動作、飾りけのないスラックスとコートからも同じ雰囲気がくみ取れる。
彼女が私の一つ前の席まで来たとき、手を引かれていた女の子が叫んで、座っていた女性に飛びついた。
「ママ! おいてっちゃうなんてひどいよ!」
「エレン? まあ、いやだ私ったら」
「このお姉ちゃんが、バスを追っかけてくれたんだよ」
「あらまあそうなの? どうもすみませんね」
振り向いて少女を見上げた顔に、あら、という表情が浮かんだ。婦人は深々と頭を下げ、もう一度言った。
「わざわざ娘を連れてきていただいて、本当にありがとうございました」
「おっちょこちょいもそこまでいくと、冗談にならんな。おかげで乗るつもりもないバスに乗ってしまった。まあ、行き先が同じだからよかったが」
「すみませんでした、バス代は私が……」
「ありがとう。でも、私には必要ないから」
ああ、とうなずいた母親の膝《ひざ》の上から、女の子が手を振った。
「お姉ちゃん、どうもありがとう」
「よかったな。お母さんをよく叱《しか》っておけ」
ぶっきらぼうなんだか優しいんだかわからないことを言って、少女はくるりと身を返し、私の隣に腰かけた。
しゃべり出した母と娘の楽しげな声を聞きながら、私は横目で、なおもこの妙な少女を観察した。スパイという職業|柄《がら》、人を見る目は悪くないつもりだったが、この娘の素性《すじょう》は、どうもはかりかねた。
と、こちらを向いた少女と目があった。
「何か用か?」
「いえ、別に……」
もごもご答えて、私は視線を窓の方に移した。得体の知れない威圧感のようなものを感じてしまったのだ。およそ年頃の娘とは思えない言葉|遣《づか》いといい、何者だろう。
バスは市街地に入っていた。冬枯れた街路樹が視覚的な寒さをつくり出している。古風で、歴史を感じさせる建物が多い。それに、電線を見かけない。埋設《まいせつ》しているのだろうか。
景観は確かにすっきりしていいが、金のかかる方法を選んだものだ。
いくつかの停留所を過ぎたとき、突然、事件が起こった。
走行中のバスの一番前の席に座っていた男が、すっと立ち上がった。気づいた運転手が、「お客さん、危ないですから……」と言葉を出しかけて、口を閉じた。
男は、手に黒い金属製の品を持っていた。それを運転手に突きつけながら、こちらに数歩歩いてきて、無|造作《ぞうさ》だが滑《なめ》らかな動きで、エレンを抱き上げた。
誰も、事態を理解できなかった。
「このバスは、我々〈|神の角笛《ギャラルホルン》〉が占拠《せんきょ》した」
私の後ろでもう一人、男が立ち上がって、そう言った。
「全員、隣の者と手をつなげ。そことそこ、ひとりの者は、一緒の席に移れ。妙な動きをする者があれば、その隣の人間を撃つ」
事態と指示が理解されるのに数秒かかった。出し抜けに、悲鳴のような声が上がった。私の後ろにいる男の隣で、一般人らしい女が叫んだのだ。
「どういうことなの? あなたたち一体、何を――」
ゴツッ、と鈍い音がし、沈黙が残った。そっと後ろを見ると、殴《なぐ》られたらしく、女はがっくりと首を垂れていた。
「これは小銭目当てのパフォーマンスじゃない。指示どおりにしろ。――運転手、そのまま走れ。しばらく信号はないはずだ」
バスジャックか、と私は理解した。陰険だが巧妙な手だ。普通の人間ならまず動けない。立ち向かって反撃しようにも、動いたとたん、隣の人間が犠牲《ぎせい》になるとあっては、それが縁もゆかりもない他人とはいえ、気後《きおく》れするだろう。それに、動こうとしても、手を放してもらえないに違いない。対テロ部隊の二人連れでもいれば別だが、それにしても、前の男に捕《つか》まっているエレンのこともある。
やれやれ、到着早々こんなやっかいごとに巻き込まれるとは……ため息をつきながら、とりあえず時間を稼《かせ》ぐために、私は隣の少女と手をつなごうとしたが、相手に全くそんな気がなさそうなのを見て手を止めた。バスの前部の男に抱かれて、エレンはわけがわからず目を白黒させている。その男たちをにらむ少女の目つきは、かなり剣呑《けんのん》だ。私はそっとささやいた。
「ここはおとなしく従っておいたほうがいいぜ」
「あまり融通《ゆうずう》のきかない性格なんだ、私は」
少女がいきなり立ち上がったので、私は肝《きも》を冷やした。背後の男が素早く銃口を動かす。
だが引き金が引かれる前に、少女の声が響いた。
「そこの奴《やつ》、取引をしたい」
「なんだと?」
指をさされた前の男も驚いたろうが、私はもっと驚いた。この状況で恐怖に萎縮《いしゅく》しないばかりか、そんな大胆《だいたん》な発言をするなんて、どういう肝っ玉だ。この娘は。
「その子を放せ」委細かまわず、少女は言葉を続ける。「代わりに私が人質になる」
「お前――どういうつもりで」
言いかけた前の男の顔に、はっと驚きの色が走った。少女は無表情に言った。
「どうだ」
「わかった。――いい提案だ」
後ろの男も異議は唱《とな》えなかった。少女は両手を挙《あ》げてゆっくり歩き、男の前に立った。男は素早く少女の片手をつかむと、それを後ろにねじり上げて、動きを封じた。
そんな乱暴な扱いを受けても、少女は眉《まゆ》一つ動かさなかった。ただ、解放されたエレンが、声もなく震えていた母親の胸に飛び込んだときに、ほんのちらっと、目にほほ笑みのような光を浮かべた。
何者だ――? バスを占拠した犯罪者のことが気にならないほど、私の好奇心は少女に刺激されていた。あの度胸、そして自己犠牲の心は、一体どこから出てくるのだろう。――あの少女は何者なんだ?
少女が仲間の拘束《こうそく》を受けるのを確認して、後ろの男が口を開いた。
「我々は、この国の現状を憂《うれ》えるものだ。列強に比してあまりにも脆弱《ぜいじゃく》なこの国の力を、なんとか諸国の水準に引き上げようと今まで努力してきたが、地道な方式に限界を感じて、やむをえず、このような手段をとった。皆さん! ーどうか協力してほしい。不必要な暴力は行使したくない」
すでに一人を殴り倒しておいて言うせりふじゃない。ステロタイプな演説に苦笑しかけて、やめた。世間には、からかってはいけない人間が何種類かあり、そのなかでも警官と異常者がかなりやばい。テロリストはというと、こていねいにこの両者の欠点ばかり取《と》り揃《そろ》えている人種だから、一番やばい。
私の後ろの男は、さらに続ける。
「これから我々は政府に対していくつかの要求を示し、それが受諾《じゅだく》されれば、皆さんを無傷で解放する。政府が要求を拒《こば》んだり、皆さんに協力していただけなかったりしたときは――不幸な事故が起こることも、ありうる」
緊張に満ちた沈黙を楽しむように、男は続ける。
「市民の皆さんの賢明な行動を期待する。――心配しないでほしい。政府も我々のことを無視はしないだろう。こちらには人質もいることだし」
芝居がちに演説を終えて少女を見た男が、ちょっと眉をひそめた。少女が、まったくおびえても恐れても、それどころか困ってさえもいないのに気づいたからだ。
「テロリスト、一つ聞きたい」
少女が言い、どうやらリーダーらしいその男は、うなずいた。
「セガールだ。言ってみろ」
「セガール、貴様の仲間は何人いる?」
「三百万」
「何?」
「事が成功した暁《あかつき》には、全国民が我々に、感謝と崇拝《すうはい》の言葉を投げかけてくるようになるさ」
「おもしろい冗談だ。ここで終わらせるには惜しい奴だな。では聞くが、いま仲間は?」
「残念ながら、友人ベルドだけだ」銃口で少女を捕《と》らえている男を示し、「我々の理想を理解できる人間は少なくてね」
「我々、我々というから何百人いるのかと思えば。――質問に答えた礼だ。セガール、一つ教えておいてやる」
「なんだ?」
「私の仲間も、三百万だ」
その瞬間の少女の、自信と誇りに満ちた表情を、私は忘れない。
すてきな顔だった。
「ダニエル、ブレーキ!」
少女の叫びとともに、強烈な衝撃が襲った。乗客の悲鳴や怒号《どごう》、それらを圧するブレーキとタイヤのかん高い擦過音《さっかおん》が耳をつんざくなか、私はかろうじて両手で体を支えた。
二人のテロリストは、そうはいかなかった。立っていた彼らは、もろにバランスを崩して転倒した。
前にいたテロリスト、ベルドは、後ろ向きに宙を飛んで、背中からフロントガラスにぶつかり、クモの巣状のヒビを走らせた。彼に捕まっていた少女は、器用なことに、衝突の瞬間|胎児《たいじ》のように体を丸め、うまい具合にベルドをクッションにしてぶつかった。
それを見ていた私の横に、後ろにいたセガールがもんどり打って転がり込んできた。こいつはなかなかたいした奴で、初めのショックから立ち直ると、なおも続く減速のGも意に介《かい》さず、見事な身のこなしで通路に降り立ち、座席の背もたれにつかまりながら叫んだ。
「見ろ!」
バスが止まった。
奇妙な静寂《せいじゃく》が訪れた。乗客は静まり返り、エンジン音も止まっていた。ベルドは気を失って倒れ、その前に、少女が真っすぐに立っていた。静かなその空間の中心に、エレン母娘《おやこ》に拳銃を向けたセガールが立っていた。
「うわさ通りだな、その機転、度胸……」
今や隠しようもない憎悪《ぞうお》を込めた視線を少女に送りながら、セガールは吠《ほ》えた。
「そのまま動くな! 貴様は危険だ。あらゆる意味で!」
セガールの拳銃が、さっと少女に向いた。
それが、セガールの最後の動きだった。テロリストは、ゆっくりと床に倒れた。
他でもない。私が殴り倒したのだ。
安堵《あんど》のため息が、そこここで起こった。
少女は、横を向いて、青ざめた顔をしている若い運転手に、かすかなほほ笑みを見せて言った。
「ダニエル=タバック?」
「は、はい」
「ありがとう。いいタイミングだった」
「どうして僕の名前を?」
「客に見せるためにあるんだろう?」
少女の指さした先には、フロントガラスの上縁に貼《は》られた、写真入りのネームプレートがあった。
『運転手ダニエル=タバック(24) お客様の命を預かります!』
「ありがとう。無線で警察を呼んでくれるか。私はここで降りる」
もう一度礼を言うと、少女はくるりと身を翻《ひるがえ》し、いつのまにか開いていた前部ドアから外に出た。迷わず私はその後を追った。
「待ってくれ!」
落葉樹の林に沿った石畳の歩道を行きかけていた少女が足を止め、私はそのそばに追いついた。
「ああ…さっきの」
「これでも命の恩人だ。黙ってさよならはないだろう?」
「そうだな。ありがとう」
「……なんだかなあ」
いかにも気のなさそうなその礼に、私はがっくりきて肩を落とした。
「運転手には特上のスマイルまでつけたくせに、私にはぶすっとした顔で『そうだな』か。ずいぶんじゃないか?」
「私は、彼らには、そうしなければいけないんだ」
「彼ら?」
「お前、外国人だろう」
いきなり図星をさされて、私は言葉に詰まった。二撃目はさらに強烈だった。
「私は、外国人は嫌いなんだ」
イウォーンとウルムスターで言葉の違いはないはずだし、人種だって同じだ。どうしてバレたんだろうと思っていると、にらんでいるような少女の視線が、突然、優しいものに変わった。手を高く上げて振る。
私にではない。振り返ると、バスの窓から、エレンとその母親が、いや、バスの乗客全員が身を乗り出して、手を振っていた。
「お姉ちゃーん、ありがとおー」
再び振り返ると、いつの間にか少女は、枯れ葉の積もった林の中の脇道《わきみち》に入って、ずいぶん向こうまで行ってしまっていた。大事なことを聞き忘れたのを思い出して、私は叫んだ。
「君は――誰なんだ?」
「まだわからないのか?」
呆《あき》れたような声が返ってきて、風が吹いた。枯れ葉が舞い上がる。
視界が塞《ふさ》がれ、すぐに開けた。少女の姿は、もう見えなかった。視線を動かした私は、古びた立て札が小道の入り口にあるのを見つけた。
「ポプラパレス近道」
……運転手が呼んだのか、パトカーがやって来て、バスの前に止まった。テロリストの身柄《みがら》を確保しているようだったが、そんなもの、私は見ていなかった。
――あの少女が?
「まさか」
つぶくやと、私もその道を歩きだした。私の目的地もポプラパレス――ウルムスター行政執行府なのだ。
パレスに到着すると、私は王宮長官であるミオ卿《きょう》のもとに出頭した。ウルムスター政府に潜入し、内情を調査する、それがイウォーン情報部員としての私の使命なのだ。ウルムスターの内通者の手引きによって、わたしは長官の秘書官の職につくことになっていた。
驚いたことに、長官のミオ=ブランシャール卿はまだ二〇代の、若い女性だった。私が長官室に入ると、人当たりのいい笑顔で私を迎え、こう言った。
「デューイ=トランスですね。よろしく、トランス。さっそくですけど、ここの主人のグリーナ殿下が、朝からあなたのことをお待ちです」
「王女が?」
「殿下とおっしゃいなさいね。今、外出からお帰りになったところです。顔見せに行きましょうか」
まさか、と言いたいが、しかし……
ミオ卿についてパレスの廊下を歩き、他より少し高級そうな、一枚板の扉の前につく。王女執務室、と真新しいプレートがかけられた扉を、ミオ卿がノックした。
「殿下、私です」
「入れ」
その声で、最後の疑惑《ぎわく》が吹っ飛んだ。入り口を通って執務室に入った私を迎えたのは、やはり、あの仏頂面《ぶっちょうづら》だった。
「わかったか?」
そう言われても信じられず、ミオ卿に促《うなが》されてやっと、私は自己紹介したのだった。
2
ポプラパレスでの、私の秘書官としての生活は、こうして始まった。
私の肩書は、王宮長官付き主席秘書官。新入りでしかも外国人の私が(ちなみに、イウォーンではなく、南のゼルゼードからやって来たという触れ込みである)いきなり「主席」などと仰々《ぎょうぎょう》しく書かれた名刺を持つことになったことも驚きだが、その理由がまたすごい。
これまでは、そもそも秘書なんぞいなかったというのだ。王宮長官というのは直接行政策にはタッチせず、王宮の連絡役や調整役、会議の司会などを務め、政府と王族の間をとりもつ仕事をする役職なのだが、長官とは名ばかりで、ミオ卿《きょう》は、王女のスケジュール調整からパレスのレストランの食事の価格決定まで、すべて一人でこなしていたというのだ。いやはや、ききしにまさる小国ぶりである。
当然ながら、新参者《しんざんもの》の私にまず命じられたのは、長官の執務環境の整備、平たくいえば掃除やお茶くみなどのアルバイト的労働一般だった。
「私は、何をしにここへ来たのだろう」
パレスの廊下をぶつぶつつぶやきながらモップでふいていると、長官室からミオ卿が顔を出して、
「トランス、この書類をヴェルヒャー室長に届けてくれます?」
しかたなく、パレス内の王室政務室まで使いっ走りをする。
また、行政各部門の高官の名簿を渡されて、
「トランス、部長の皆さんに電話をかけて、集まるように言ってくださいな」
「わかりました。会議ですか」
「いえ、今日はあったかいですから、皆さんとテラスでお弁当を食べようと思ったんです」
しかたなく、各部屋に電話をかけて、脳天気としか思えない長官の意向を伝え(またその誘いに、部長たちがじつに調子よく乗ってきて、ほんとにこいつら政府の重職にある人間かと思うような腰の軽さで集まるのだが)、さらにレストランにサンドイッチの出前を頼むというような、情《なさ》けなくて涙が出そうなことまでやった。
だいたい、行政の各部門が「部」だというのがひどい。財務部、建設部、労働部といった具合だ。他国なら省庁にあたる部署であり、それぞれがビルの一つも持っていておかしくない単位だ。それが、パレスの中に雑居している。各部門間の交流が深まっていいといえばいいが、なんとみみっちいことか。
それら各部門を、レイ=ヴェルヒャー政務室長が統括《とうかつ》し、王女はミオ卿と彼を挟んで、政務に携《たずさ》わっている。君主制なので議会は存在していない。ここらへんは、イウォーンと同じだ。
そういったことを調査し、分析して、システムの長所や弱点を洗い出すのが、私の任務だ。特に弱点。――本国ではわからなかったこういったことを調べて報告することこそ、スパイとしての私の任務なのだ。
なのに――
「トランス、ちょっとお願いできますか」
「なんです」
「私の電話機が壊れちゃったみたいで……あなた、機械にも強かったんですよね」
そのとおり、通信機器の取り扱いは、スパイの必須《ひっす》技能として訓練所で吐くほどたたき込まれた。修理屋で食っていけるくらいの自信はある。しかし、これはないだろう! まさか、敵国の枢要《すうよう》部に侵入して、電話の修理をやらされるとは。秘書官として採用されるために、履歴書《りれきしょ》を派手にしようと思って機械を扱う技能も少々ありと書いたことを、私は後悔した。
盗聴器をつけることだってできたが、情けなさと馬鹿馬鹿しさのあまり、私は何もしなかった。切れたハンダをくっつけて、長官室の古臭《ふるくさ》い電話を、元どおりに修理したのだ。
スパイである私が!
「なんだこれは」
氷の浮いたグラスに満たされていたのは、緑色の液体だった。
「『フローラル』だ。|ウルムスター《ここ》の地酒さ」
一口すすって、私は顔をしかめた。
「変わった味だな」
「そのうち病みつきになる」
ジョナサン=オルファ、本名だ。五〇歳、ウルムスター在住の数少ない貿易商の一人であり、サマルカンド商工会議所の理事であり、国内でも指折りの情報通であり、筋金入《すじがねい》りの愛国者でもある。その彼が、実はイウォーンのスパイなのだから、世の中は油断《ゆだん》ができない。私がパレスに入れるように工作したのも、彼だった。
ウルムスター一の淡水湖である、ラグ湖畔《こはん》の彼のコテージで、私は、ウルムスターの現状についてのレクチャーを受けていた。
「どうも大変な情勢だよ」
ガラスの応接机に広げた資料を前に、彼は言った。
「どこから手をつけるね? 一番の焦点は、去年の暮れに倒れたイリア女王の代理を務めてる、あのお転婆《てんば》のことだが、それ以前から、やれ過激派のテロだの、やれ王族の内紛だの、やれ半島同盟の外圧だのと、難題ばかりもち上がっている」
私はちょっと笑った。かてて加えて、ここにも漁夫の利をねらう、豺狼《さいろう》のような大国の尖兵《せんぺい》がいる。イウォーン、大陸最大の貪欲《どんよく》な強国……内憂外患《ないゆうがいかん》とは、このことだ。
「とりあえず、王女のことから聞きたい」
「イリア女王の長女だ。兄が四人と、妹が一人。妹とは仲がいいようだが、兄たち、特に三番目のジョシュア王子との間は、かなりきな臭いことになっている」
「秒針の音がするケーキでも送られてきたか」
「まだ暗殺まではいかんがね。秋にちょっとした騒ぎが起きている。アルクティカ――王女の乗馬だが、これが街中《まちなか》で、誰かにけつを蹴《け》っ飛《と》ばされて、暴走した。犯人は不明だ」
「馬だって?」
「アンドロメダカップ優勝の経歴もある、競走馬だ。骨折で走れなくなって、薬殺されるところを王女が引き取った。王女様は遠乗りがお好きなんだ」
「そんなことはいい」私は、机に身を乗り出した。「王族たるものが馬なんかで街中をうろついていいのか? 襲ってくださいと言っているようなものじゃないか」
「イウォーンよりここはだいぶ治安がいいんだ。犯罪発生率は約八分の一……」パラパラと書類をめくって、オルファは言った。「それはそれとしても、この王女様のガードが甘いのは確かだな。馬もすごいが、王女の趣味はなんだと思う? 飛行機だぞ。空軍の戦闘機をしょっちゅう乗り回している」
そういえば、私が初めて王女と会ったのも、空港からのバスの中だった。なるほどあれば、フライトの帰りだったのか。
「兄王子たちが本気になったら、かなりやばいな。事故に見せかけて殺すってのは暗殺の基本だが、これほどやりやすい相手もいない。――王族のそろう来月の園遊会が見物《みもの》だな」
「ちょっと待ってくれ」私は、あることに気づいて書類から顔を上げた。「そういえば、なんで上に四人も兄貴がいるのに、王女が代理政権を持ってるんだ」
「いいところに気づいたな」オルファは、にやっと笑った。
「この国の王室は、女系なんだ」
「女系だって?」
「そうだ。女が王になる。前の女王が死ぬか、政権を失うと、その直系の娘が、次代の王だ。旦那《だんな》は副王という肩書になるが、こいつは名だけの代物《しろもの》で、実権はないに等しい。今ふせっているイリア女王の旦那は、三、四年前になくなったが、彼に庶出《しょしゅつ》の娘がいたら、事態はもう少しややこしくなっていただろう」
「逆に娘がいなかったら?」
「そのときは女王の姉妹、その娘、という順番に政権が回る。女王の息子は、その後だ。継承権が低いんで、王子が政権をもつことは今までほとんどなかったんだが、まずいことに、イリア女王には姉妹がいないし、グリーナ王女の妹のマリーナ王女は、まだ一三歳で、未成年だ。ここでグリーナ王女がつまずけば、王子たちにもお鉢《はち》が回ってくる可能性がある。――だから、やばいと言ったんだ」
「そういうことか……」
私とオルファはさらに話し合い、もう一杯ずつフローラルを空《あ》けた。
「ま、さしあたっては来月だな」
オルファは、半白の髪をごしごしかきながら言った。
「園遊会には、王族だけじゃなく外国の賓客《ひんきゃく》も来るし、報道《プレス》も入る。――王女にとっては、初の晴れ舞台だ。お手並み拝見といこうか」
「楽しそうだな」
「ん?」
オルファの顔は、掛け値なしの期待にあふれていた。私は、言った。
「まあ、あの澄ました娘が、コケて泣くところは、見たい気もするが」
「まさか!」
心底意外そうに、オルファは両手を広げた。
「反対だよ。あの娘がどんなことをやってくれるのか、それが楽しみなんだ」
顔をしかめて、私はフローラルを一気にあけた。甘苦《あまにが》い味が喉《のど》を落ちていく。
まったく、どんなことをやってくれるのだろう? あの愛想《あいそ》のないお姫様は。
「気になりますか」
書類に目を通していたミオ卿が、手を休めて、机の前の私を見上げた。
王女の性格についてもう少し深く知りたかった私は、思い切って、王女の第一の腹心と目《もく》されているミオ卿に尋《たず》ねてみたのだ。
「一日中パレスの奥に閉じこもっているのが正しいあり方だとは言いませんが、殿下のあの腰の軽さは、王族として少し問題があるんじゃないでしょうか」
「正論ですね」
二七歳の若すぎる王宮長官は、穏《おだ》やかな笑みを浮かべて、コーヒーに口をつけた。――そういえば、この人物についても謎《なぞ》が、というか不可解なことが多い。美貌と言ってもよい容姿の持ち主だが、世人の噂《うわさ》はもっぱら彼女の実務能力についてかしましい。実力で王宮全体を切り盛りする地位についた才女なのだから、もう少し注意しなければいけない対象なのだろうが――なにしろおっとりとした女性なので、どうもいま一つ警戒しきれない。
「出かけるにしても、せめて車で出るとか、供をつけるとか……」
「よその国ではそんなものでしょうね」
どきりとしたが、顔には出さなかった。実際、イウォーンのハラル陛下など、近衛《このえ》兵をごっそり連れて特注の防弾鋼製のリムジンに乗り、それでも足りずにいく先々に憲兵を配して通行規制を敷いて外出し、これを散歩と称している。
さては私の出自《しゅつじ》を感づかれたかと思ったが、ミオ卿はそこまで深い意味で言ったわけではないらしく、ほほ笑んだままで語を継《つ》いだ。
「でも、トランス、うちではそんなことはできませんよ」
「なぜです」
「殿下が嫌《いや》がるからです」
簡潔に言い切られた。反論のしようがない。
「殿下はああいう方ですからね、護衛は要らないとおっしゃったらテロリストから予告状が来ても一人で歩かれますし、税を下げるとおっしゃったら専用機のガス代が出なくなっても下げますし、セロリを食べると言ったら、それがエビよりもレバーよりも何よりも嫌いであるのも我慢して、お食べになるんです」
「はあ、御意志が強いんですか」
どういうたとえだと思いながら私が相槌《あいづち》を打つと、長官はため息をついて首を振った。
「そうとも言いますけど、頑固《がんこ》だと言ったほうがはやいでしょうね」
「は…」
「あの方のあの性格のせいで、私たちがどれだけ苦労してきたことか。そりゃ私は赤ん坊だったころの殿下のおしめを替えて差し上げたことだってありますけど、まさか成人なさってまで、尻|拭《ぬぐ》いを押しつけられるなんて」
「それはそれは」
「すみません、ぐちになってしまいましたね」
「いえ、それより、そろそろ仕事の続きに戻ります」
「そうですね。お願いします」
長官室を出てから、私は首を振った。どうも勝手が違う。およそ今つかんだ王女のイメージは、小なりとはいえ一国の元首としてふさわしいものとは思えない。いちいち比較してしまうが、イウォーンの王族にみられるような貴人の神秘性とかもったいぶりが、かけらも感じられない。ありていに言って、ただのだだっ子だ。
それに、彼女も。なんなのだ、あの和《なご》やかさは。王宮長官と言ったら、軍隊では参謀《さんぼう》長にも当たる立場だろうに、あの調子でそんな重責がよく務まっているものだ。
廊下の花瓶《かびん》に水を注《そそ》いでまわりながら、私は考えていた。
二月一日、サマルカンド市のラグ湖上で、園遊会が催された。
これは本来、四月の新年度を待って開かれるのだが、女王イリアが病《やまい》に倒れ、王女グリーナが暫定《ざんてい》的に政権の座に就《つ》いたため、そのおひろめの目的も兼《か》ねて、急遽《きゅうきょ》日程を繰り上げて、挙行されたものだった。
氷結したラグ湖の中島であるカンス島が、その会場である。サマルカンドの沖五百メートルに浮かぶその島は、かつて神代《じんだい》に主神クリスターが乗っていた亀《かめ》(いや、笑ってはいけない)が姿を変えたものであるという伝説をもち、周囲一キロに満たない小ささながら、王室の別荘をはじめとするいくつかの建物が建てられており、そこに、普段なら|飾り船《ゴンドラ》が使われるところを、私たちが国中から大車輪でかき集めたソリによって、各国の賓客が次次と到着しつつあった。
年に一度の大イベントであり、しかも予定より二か月も早い開催である。政府は宇宙怪獣でも襲来してきたかのようなえらい騒ぎで、私も例外でなくかり出され、普段の雑用に加えて、道路の雪かきの手配だとか、要人の案内をするコンパニオンの募集だとか、妙なことばかりやらされてしまった。
当日はへとへとで、ミオ卿にくっついて出席こそしたものの、立食式のパーティー会場の隅の椅子《いす》で、死体のようにぐったりと脱力していた。
「お疲れだな」
そばにオルファがやって来た。招待客の名簿にはのっていなかったような気がしたが、どうせ市の幹部あたりに手を回して、誰かのチケットをむしってきたのだろう。それぐらい、朝飯前のたばこついでにやる男だ。
「そっとしといてくれ。死にそうなんだ」
「そうか、じゃ俺が飲もう」
「何? おい待て」
彼が持っていたカットグラスを引ったくって、一気に飲み干そうとして、むせた。
「フローラルか!」
「これが好きなんだよ。まだ苦手《にがて》かね」
「ヒュドラ・カクテルはないか」
「水を勧《すす》めておく。酒なんか飲んだら本気で死にそうな顔してるぞ。お前いったい、パレスでどんなことをしてるんだ」
「どうも疲れる仕事が多くてね」
言えるか、アルバイト同然の下働きだなんて。
「しかし盛況だな」
オルファは、辺《あた》りを見回した。
「あっちで一心不乱に食ってるのがゼルゼードの外相だろ、むこうでウェイターに文句をつけてるのはミダスの副総理だし、おう、デルナムとコワルツェンのジャクソンとウィップが話してるぞ。そばで聞けたらいいんだが」
「みんな、王女のスカートの中をのぞきに来た口さ。それだけか」
「いや、メイン・ディッシュはあちらだ」
ガラス張りで見晴らしのいい会場の一角が、一際《ひときわ》にぎやかになっていた。肩を上げるのも億劫《おっくう》だったが、根性で立ち上がって、私はそちらに向かって歩きだした。後から、オルファもついてくる。
「大物ばかりだぞ。ダッハウのツルゼン首相、イウォーンのヨヒンセル蔵相、レンツェルゲンのジャン国王、それにコンチネンタル紙の大記者のガームもいるな。大丈夫かね」
「さてね」
人の輪の中心は、無論、我らがグリーナ王女だった。どこで拾ってきたのかと疑うような笑みを顔にはりつけて、諸国のVIPたちと談笑している。その中にミオ卿の姿を見つけて、私はその後ろに立った。こちらに気づいたらしく、何か? というように目を向けてくる。なんでもないと目で答えると、ほほ笑んで、また隣にいたどこかの首相だか国王だかと話し出した。
二人の様子を見ているうちに、またそろ不安が頭をもたげ出した。要人たちは、どいつもじいさん――と言って悪ければ、歴戦の外交の名手ばかりだ。こんな海千山千の連中相手に、たった一七の小娘が渡りあえるのだろうか。彼らは自国の権益を守り、他国に一杯食わせるためには、笑いながら人の背中を刺せる連中だ。そんな奴《やつ》らを相手に、ぼろを出さずにやっていけるのか?
考えに沈んだ私の背を、オルファが小突《こづ》いた。
「どうした、心配でたまらないって顔してるぜ」
「……なんだって?」
心配だと。誰が誰の? そうだ、なんでそんなことをしなくちゃならない。私はこの国に何をしに来たんだ?
ぶつぶつ言っていると、一座のざわめきが急に静まった。人垣が割れ、若い男が一人、歩いてきた。――王女と同じ、ウルムス王家の正装をまとっている。
「ジョシュア=ウルムス――王女の三番目の兄だ」
オルファが私に耳打ちした。
ジョシュア王子は、周《まわ》りの客には目もくれず、王女の前までやってくると、ぴたりと足を止めた。どちらも何も言わず、しばし見つめあう。後ろで、オルファが小声で言う。
「やばいな、一番|厄介《やっかい》な相手だ。兄王子の中では、上の二人と末のファイスはそれほどでもないが、あいつの王女嫌いはかなりのものなんだ」
「どうして?」
「昔、一番下のマリーナ王女にからんで、ひともめあってな。今は話してるヒマがないが、――王女にとってもここは正念場《しょうねんば》だぞ。みんなが見てる」
周囲の人間が固唾《かたず》を呑《の》んで見守るなか、先に動いたのは、ジョシュア王子だった。手招きして侍女《じじょ》を呼び、何か言いつける。
一礼して侍女が去ると、王子は、王女に向かって言った。
「グリーナ、久しぶりだな」
「兄上。そうですね、たまにはお顔を見せてください。お元気そうで何よりです。お風邪《かぜ》を引かれたと聞きましたが」
「たいしたことはない。気力で治したよ。妹の大事なパーティに出席するためにね」
「ありがとう存じます」
「……聞きしに勝《まさ》るな」
オルファのつぶやきに、私はうなずいた。飾られた言葉の下で、火花が散っている。互いに相手の底意を探り、なおかつ言質《げんち》をとられないよう、慎重《しんちょう》に言葉を選んでいる。
「母上の病も早くよくなられるといいが……まずは、お前の前途を祝福しよう」
さっきの侍女が、盆に二つのグラスを載《の》せて戻ってきた。片方を手に取ると、それを掲げて、王子は言った。
「我が妹、グリーナの行く手に幸《さち》あらんことを」
王女は、差し出されたもう一つのグラスを見つめていた。表面的にはどうあれ、王子のねたみの心を知るのは、誰よりも彼女だ。王子に勧《すす》められたグラスを疑っても当然だが……
「……兄上の健康と平穏に」
グラスを取り、ゆっくりと口をつけ、ためらわずに液体を口にふくんだ。喉が動く。
満座を、ため息のようなざわめきが走った。オルファが抑《おさ》えた嘆声《たんせい》を発した。
「飲んだぞ。たいした心臓だな」
「当たり前だ」
「何?」
「衆人環視の中で、王子が毒など盛るか。王子は王女を試しただけだよ。あれを疑って断《ことわ》っていたら、王女の立場どころか、王室の威信まで吹っ飛んでたさ。王子も王子だ、一歩間違えば共倒れだっていうのに……」
王女は飲んだ。それぐらいはすると私は踏んでいた。まさか全く疑いをもたなかったということはないだろうから、あの娘は、当然そこまで読んでいたのだろう。ただの気が強いだけのじゃじゃ馬ではないというわけだ。
「問題はこの後だな。とりあえず失点は防げたが、それからどうもっていくか。うまくごまかしてこの厄介な相手から逃《のが》れるか、それとも――」
私は言葉を切った。侍女が一人、グリーナ王女のところにやってきたのだ。さっきと違う娘で、捧《ささ》げ持った盆に、緑色の液体を満たしたグラスが二つ。
「それとも?」オルファが聞いた。
「反撃に移るか」
王女は、侍女の盆を王子に差し出させた。何をするのかと観衆が息をひそめる。
「どうぞ」
王女は、ほほ笑みを浮かべて――私にとっては違和感がありすぎたが――兄王子に言った。
「お取りください。私からも、一献《いっこん》差し上げます」
おもしろい手だ、と私は思った。しかし今一歩だ。相手に杯を選ばせたのでは、毒杯の疑いを抱《いだ》かせることはできない。さすがにそこまでは計算しなかったか。
ジョシュア王子はわずかにためらってから、手前の杯を取った。王女は、それを見て神妙な顔で、残ったもう一方を取った。
「家族のために」
「家族…のために」
王女が液体を口に含む。それを見た王子もグラスに口をつけたが、突然カッと目を見開いて、わずかに口に入れた液体をグラスに吐き戻した。どよめきが走る。
「お……お前、何を入れた!」
「何か?」
涼しい顔で王女は問い返した。激昂《げっこう》した王子が詰め寄る。周囲を意識する以上に、本気で激怒《げきど》しているように見える。顔を赤くして、火を吐くように言葉をたたきつけた。
「何かだと、とぼけるのはやめろ! 何を入れた? 俺を殺そうとしたな!? お前の考えそうなことだ。やられる前にやれというわけだ!」
ざわめきはどんどん大きくなる。まずいな、と思ったとき、私はふと、ミオ卿が全く平然とした顔をしているのに気づいた。
「生憎《あいにく》だな、こんな手で俺をやれると思ったのか? 思い上がるなよ。お前のたくらみなど通用するものか。俺たち[#「俺たち」に傍点]はすべてお見通しだ!」
その瞬間王女の顔に浮かんだ表情を、確かに私は見た。笑顔、まぎれもない勝利の笑みだった!
「失礼」
王女がひょいと王子のグラスを取り上げた。王子がぽかんと口を開け、一座が静まり返る。
それを――王子が毒入りだと言い張り、あまつさえ吐き戻しすらした酒を、グリーナ王女は、口に当てた。
私は思わず、「待て!」と叫んでいた。王女はちらっと私を見、それからそれを、一気に飲み干した。
控えていた侍女の盆に、空《から》になったグラスをおく。その底に、緑色の残滓《ざんし》が鈍く光っている。フローラルだ、と私は気づいた。
王子のグラスを少し眺め、それから手に持っていたグラスを差し出して、王女は、にっこりと笑った。
「こちらにしますか?」
「く…っ」
唇《くちびる》をかみ、ものすごい目つきで王女をにらんでから、王子はきびすを返し、あっという間に人垣の向こうに歩み去った。
呪縛《じゅばく》が解けたように観衆がざわめき出すなかで王女はにこやかに笑みをふりまいていた。
「きわどいところだったな。うまく切り返したもんだ。しかしあの王子、なんだってあんな難癖《なんくせ》をつけたんだ。あんなことをしても、何もいいことは――」
「難癖じゃない」
「え?」
不思議そうな顔のオルファを残して、私は、控室に歩いて行く王女とミオ卿を追いかけた。
「殿下!」
会場を出たテラスで、私は王女たちに追いついた。なんだ、と振り向いた彼女は、いつもの、というより、いつもより不機嫌《ふきげん》そうな顔である。
「何をしたんです」
「なんのことだ」
「私にまでとぼけなくてもいいでしょう。兄殿下のグラスに何を入れたんです」
「違うな」
え? と戸惑《とまど》った私の前に、緑色の液体を満たしたグラスが突き出された。
「飲んでみろ」
王女が最初に手をつけたほうのグラスだった。私は、それに、ちょんと舌をつけた。
「〜!」
文字にできない、人知を越える味が舌を突き抜けた。
「なんですこれは……」
「なんだった?」ミオ卿を見上げて、「タバスコとジンジャーとガーリックとワサビと……」
「ふくらし粉と咳止《せきど》めの薬です。殿下」
「兄上のだけじゃない。両方これだった」
「またなんでそんなことを」
「後にしてくれ。今から吐いてくるんだ」
そういう王女の瞳《ひとみ》が、濡《ぬ》れたように潤《うる》んでいることに、私は初めて気づいた。王女が近くの手洗いに消えると、私はミオ卿に矛先《ほこさき》を転じた。
「長官もグルでしたね?」
「発案は殿下ですよ」
「なぜ?」
「お客様たちを見たでしょう。今のでどう思われたと思いますか」
「それは……殿下の態度を立派だと思ったでしょうね」
「それだけじゃありません。兄君《あにぎみ》たちがグリーナ殿下に敵意を持っているということが、皆に知られてしまったんですよ。これ以上ないぐらい印象的にね」
「ああ……」
ジョシュア王子の面罵《めんば》の瞬間に王女が見せた笑みの理由が分かって、私はうなずいた。
「しかし、それになんの意味が……」
「わかりませんか。殿下は、兄君たちの動きを封じたんですよ」
ミオ卿はいたずらっぽい笑顔を浮かべて説明した。今まで兄王子たちは、王女に嫌がらせをしても、それを具体的にだれそれの仕業《しわざ》と特定されなければ、テロリストや外国の仕業としてごまかすことができた。ところが、今回のことで、王子たちがグリーナ王女に敵意を持っているということが、天下に知れ渡ってしまった。こうなると、王子たちも迂闊《うかつ》に動けない。動けないばかりか、王女の身を守る必要さえ生じてくる。王女が事故にでもあったら、事実がどうあろうと、世間は真っ先に彼ら兄王子たちを疑うからだ。
「対する殿下には、ジョシュア殿下の杯《さかずき》を疑うことなく飲まれたという事実があります。これは大きな強みですよ」
「しかし……凡庸《ぼんよう》な連中はそれでごまかせても、通用しない奴らも大勢いるでしょう。特に、今日来ていた高官たちの中には」
「そういう人たちに対しては、殿下がこんな策を巡《めぐ》らすこともできるという、よいデモンストレーションになったでしょうね」
さらりと言うミオ卿に、私は舌を巻いた。なんという狡智《こうち》と計算高さだ。それに、この寸劇はアイディアの秀逸《しゅういつ》さだけによるものではない。ほとんど敵に等しい大勢の観衆の前で、心から兄を信頼し敬愛する妹を演じ切ったグリーナ王女の演技力、わざわざ王子にグラスを選ばせることによって、敵意のないことを示す注意深さ、一度王子が戻してしまったものをあえて飲み下《くだ》した、過剰《かじょう》と思えるほどの演出力!
惜《お》しむらくは、この仕掛けの根本が、単に吐くほどマズい酒を使うだけだということ、そのチャチさ加減だ。
「しかしどうも、貧乏たらしい芝居でしたね。もっとましな手はなかったんですか」
「うちの国が貧乏なのは本当ですし――殿下の御意向なんです。できる限り血を流さず、できる限り陰湿でなく、というのが」
「まあ、楽な方法には違いありませんが……」
「楽ですって?」
珍しく怒ったように、ミオ卿がきつい視線を向けた。
「殿下は、今までアルコールを口にされたことがないんですよ」
私が絶句したとき、手洗いからグリーナ王女が青い顔をして出てきた。ミオ卿があわてて駆け寄るのを、大丈夫だと押しとどめる。
「殿下、お疲れさまです」
「あんなマズいもの、もう金輪際《こんりんざい》飲まんぞ」
そばにきた私を、王女はじろっと見上げた。
「ところでお前、私があれを飲もうとしたとき、止めようとしたな」
「は、そういえば……」
まただ。とっさに言葉が口をついてしまったが、仮に毒だったとしても、どこに制止する必要があったのだ。
「礼を言う。こころざしはありがたい」
「いえ……」
「しかし、王族に向かって『待て』などと命令形を使ったのは、明らかに不敬罪だ」
「はあ」
「今回は大審院《だいしんいん》にタレ込むのは勘弁《かんべん》してやるが、その代わり、今月分の俸給《ほうきゅう》は一〇%カット!」
「はあ!?」
「反省しろ。私は会場に戻る。狸《たぬき》どもとの化かし合いが終わっていないのでな」
グリーナ王女とミオ卿は、足早に去った。追おうとして、私はやめた。
初めて飲んだ酒の味は、よく覚えている。一四の時だったが、うまそうにそれをなめている大人たちが異常に思えるほどの、強烈な味覚だった。
フローラルのアルコール度数は二〇度。加えて、あのゲテ物カクテルだ。その場で吐いてもおかしくないものを、一気飲みしたうえ、笑顔まで浮かべるとは……。
一七歳の王女の頭脳と度胸と、何よりけなげなまでの意地を見たような気がして、私は苦笑したままそこにたたずんでいた。
3
「五〇〇〇メートルまで、六分五九秒か」
航空時計をちらりと見たグリーナ王女が、前席のシート越しに叫んだ。
「トランス!」
「…………」
「返事をしろ。どうした」
「で、殿下……」
通常、航法士官が搭乗する後席で、|接続ホース類《アンビライカル》を半病人よろしく体にからみつかせた私は、息もたえだえに聞いた。
「平気なんですか?」
「たかだか四Gだぞ。そんなことで格闘戦ができると思っているのか」
「できるわけないでしょう。私は民間人ですよ」
「私だって軍人じゃない」
「じゃ、こんな戦争まがいのことをしなくてもいいでしょう!」
「大の男が泣き言を言うな」
反論するのをあきらめて、私は風防窓の外に視線を移した。天気は快晴で、はるか下方に、ミニチュアのようなサマルカンドの街《まち》が見え、彼方《かなた》まで続く銀色のラグ湖と厚く雪をかぶったシャンテル連峰の対比が絶景だった。
グリムFP・ホッピンフォックス01、一一〇〇馬力の大出力エンジンを小型の機体に搭載《とうさい》した、ウルムスター国産のプロペラ戦闘機である。王女専用で、〈マリンブレード〉のペットネームをもつその機体に、私は乗せられていた。られていた、というのは、王女に無理やりパレスから連れてこられ、なんの説明もなしにコックピットにほうり込まれたからだ。
そのまま離陸。王女の操縦は無茶苦茶で、軍用機初体験の私が乗っていることなど忘れたように最大パワーで急上昇し、一気に高度五〇〇〇メートルの高空まで連れてこられてしまったという次第《しだい》だ。
水平飛行に移ったマリンブレードの機内で、私はようやく一息ついていた。
「いつもこんなことを?」
「いつもはもっと低いところを飛ぶ。五〇〇ぐらいだ」
「じゃあ、なぜ」
「お前のためだ。ここならうちの国が一目《ひとめ》で見える」
「一目で……」
言われて見れば、そのとおりだった。北のシャンテル山脈と西から南に連《つら》なるグレゴニクス山脈に囲まれた、箱庭のような小さな国土が、一望のもとに見渡せる。
「お前、ゼルゼードの出だと言ったな」
「はい」
「ゼルゼードもこんなに小さいか」
「は……」
そんなふうに質問されることは、予想外だった。もちろん私は、そんな南海の国など行ったこともない。
「この国の美しさには負けますよ」
本心も混ざった答えだったが、王女は黙ったままだった。わざとらしいと知りつつ、語を継《つ》ぎ足《た》す。
「来てよかったと思いますよ。自然も、食べ物も、酒も、いいものばかりで――」
「田舎《いなか》の観光地のパンフレットみたいな世辞はやめろ」
「……はあ」
「違うとは言わんが……」
王女の言葉が途絶《とだ》えた。数秒後ぼそりと、
「あれは……」
「なんです」
「つかまれ!」
「え?」
ガクンと衝撃が襲いかかり、私はヘッドレストにヘルメットをぶつけた。機は急加速し、えらい勢いで上昇していく。
「どうしたんです?」
「一〇時方向!」
「なんですか!?」
「左前方だ!」
と言われても、何のことだかわからない。あてもなく低空を漂う綿雲《わたぐも》と彼方の山岳に目を走らせているうちに、機は急に横転した。
「なんなんですか!」
「黙ってろ、ふり回すぞ!」
稼《かせ》いだ高度を速度に変えて、機は旋回しながら急降下していく。しかたなく進行方向を見ていた私は、行く手に数機の航空機がいることに気づいた。西方から首都の方角へと向かっているように見える。王女は、まっすぐそれに向かって突っ込んでいく。
相手は、三機だった。赤色の一機を黒色の二機が護衛するように挟み、向かって左方向へと進んでいる。こちらが接近していくと、気づいたらしく機動を始める。向かってくるかと思いきや、左右の二機は翼を振って増速し、中央の一機だけが、機首をこちらに向けた。
こちらは、高所から獲物《えもの》を見つけた猛禽《もうきん》のように急降下していったが、相手の正面軸線がこちらを向いていたので、それを避けて転回した。首を回すと、相手機が後ろに回って、食いついてきているのがわかった。
「侵犯《しんぱん》機ですか」
「いいから、お前は護衛機のほうを見ていろ」
言われて、離れていった二機を探すと、かなり向こうで旋回を続けていた。妙なことに、こちらに向かってくる様子がない。
「わっ!」
いきなり、王女が機を激しく左右に揺さぶった。窓の外で、地面と空がブランコに乗ったときのように揺れ動く。加速度に耐えて後ろを見ると、赤い機体が巧《たく》みな動きで追走してきている。
「回り込みがうまくなったな……」
つぶやきが聞こえ、ついで機がぐるりと横になった。そのまま鍋《なべ》の内側をたどるように、おそろしくきついコーナリングに入る。
「よし、ついてこい……」
胃下垂《いかすい》になりそうな下向きの高Gが続き、ある瞬間機体がくるっと回転した。その速度のまま垂直に降下、地上が目の前になったところで引き起こす。
「奴《やつ》は!」
「右後ろ! 小さな丘の上です」
こちらの動きについて来そこねたのか、赤い機体はそのまま直進していた。「もらった!」と王女が叫ぶ。
機は、ただでさえ低かった高度をさらに削って、森のこずえを刈り取るような超低空飛行に入った。小高い丘を回り込み、小さな村落のど真ん中を突っ切り、もう一つ丘を迂回《うかい》したところで急上昇する。
「多分、ここだ。……ほら!」
まるで手品のように、真っ正面に、こちらに尾翼を見せた赤い戦闘機が現われた。王女が機銃を発射する。
ガガッという発射音とともに、光る筋が走った。しかしそれは相手の二〇メートルほど上をかすめただけだった。
「外れましたよ」
「外したんだ。無線のスイッチを入れてくれ。Jバンドでいい」
無線機のスイッチを探して、言われたとおりにする。動きを止めた前方の機をにらんで、王女が叫んだ。
「ジャン、この悪ガキ! 紛《まぎ》らわしいまねはやめろと何度言ったらわかる?」
『相変わらず地形を利用するのがうまいな。グリーナは』
若い男の声だった。その時になって、どこからともなく黒色の二機が現れ、赤い機体の左右にぴたりとくっついた。
『何はともあれ、出迎えありがとう。降りてもいいね?』
「馬鹿言え、事前通告もなしに領空侵犯をしてきた軍用機を、受け入れられると思うか」
『ちゃんとそっちの大使に一報入れといたよ。今からうかがいますって。――もっとも、つい一〇分前にだけど』
「……じゃあさっさと降りろ!」
『ルージュミラージュ了解。ノワール1、2、ウルムスタ−ABに着陸する』
『N1了解』『N2了解』
『先に行ってるよ。グリーナ』
フォーメーションを全く崩さない見事な編隊飛行で、三機は旋回、降下していった。黙り込んでいる王女に、私はおそるおそる声をかけた。
「あの……殿下?」
返事は、いきなりの急加速だった。はっきり乱暴と分かる操作で、ものすごい急旋回をする。
サマルカンド空港に帰るまで、私は口をきく余裕もない|連続切り返し《ジンキング》の嵐にさらされ、疲れ果ててしまった。
☆ ☆
ポプラパレスのゲストルームに、飛行服姿のままの少年が、後ろに二人の屈強な部下を従えて、にこにこしながら座っている。その向かいに、対照的にぶすっとした顔のグリーナ王女が座り、背後に王室政務室長のヴェルヒャーが立っている。
私は、隣の控室で、ミオ卿《きょう》のお説教を受けていた。
「だいたいなんですか、殿下が飛び出していこうとしたらあなたは止めるべきなのに、一緒について行ってしまうなんて」
「好きで行ったんじゃありません。言うなればあれは誘拐《ゆうかい》です」
「リデル村のすぐ真上を通ったでしょう。苦情がきてるんです。牛がびっくりして、六頭も逃げ出したって」
「牛なんか、ほっときゃ腹が減って帰ってきますよ」
「極《きわ》めつきは、あの方を連れてきたことです」
「それまで私の責任になるんですか」
ちょっと考えて、ミオ卿は頭を下げた。
「ごめんなさい、言い過ぎました。いえね、いつもあの方がいらっしゃると、殿下のこ機嫌《きげん》が、ものすごぅく、斜めになってしまうので」
「だいたい、あのガキは誰です」
「面と向かってガキなんて言ったら戦争になりますよ」
「殿下は言っていましたよ」
「……後で叱《しか》っておきましょう。あの方は、ジャンリュック=レンツェルゲン三世、一六歳にして、レンツェルゲン王国国王陛下であらせられる方です」
すでに身近に前例がいたせいで、そんなに驚かずにすんだ。しかしレンツェルゲンといえば……
「半島同盟の盟主です。コリドーラ、バッハム、ミダス、デルナム、それにレンツェルゲンの五大国が加盟する安全保障同盟のトップですよ。うちも加われって誘いをかけてきていて、うるさいんですけど……」
「その件で乗り込んできたんですか」
「それもあるでしょうね」
「それも?」私は聞き返した。「他にも何か?」
「ジャン三世陛下は、いつもプロポーズにいらっしゃるんです」
これには驚いた。
「なにしろいたずら好きな方ですから、殿下をお口説《くど》きになるときでも、聞いているほうの歯が浮いてしまうようなことを、平気でおっしゃるんです。殿下もまた、いちいちそれを真《ま》に受けて、真剣に怒られるので、いつか全面戦争の火種になるんじゃないかって、心配なんですけど……」
「なんてまあ、命知らずの坊やだ……」
「殿下も、ヘンなところでうぶな方ですからね」
いや、冗談ごとではないかもしれない。万にひとつ、グリーナ王女がレンツェルゲンの国王に輿入《こしい》れするようなことになれば、イウォーンにとってかなりの脅威《きょうい》となる隣国が出現することになる。
ここはひとつ、なにか手を打っておくべきだろうか。ばかばかしいと思いつつも私が悩んでいると、ゲストルームの扉が開いて、相変わらずにこにご顔のジャン三世と、一段と顔をしかめたグリーナ王女が出て来た。
軍人らしい二人の部下を連れたジャン三世は、出口の扉の前で振り返ると、派手にウインクして、言った。
「期限は一週間だ。いい返事を期待しているよ。僕の未来の花嫁さん」
とっさにミオ卿と私は王女の両腕を押さえたが、口までは手が回らなかった。
「今度そんなことを言ってみろ、うちではマキが不足してるんだ。手足をバラバラにして暖炉にくべてやるからそう思え!」
「寒いんだったら抱いてあげるよ。そのほうが暖かい」
一瞬で真っ赤になった王女に投げキスをよこして、さっさとジャン三世は出ていった。
「いいですね、お仕事の話に移りますよ」
「わかった。もう騒がない」
場所を、王女の執務室に移した。よく思いつくと感心するほど多彩な悪口を列挙する王女を、ヴェルヒャーとミオ卿と三人がかりでなだめ、叱り、抑《おさ》え、静めるのに、すでに一五分を使っている。
「で、なんのお話だったんです」
「ほとんどは、いつもの通りの、安っぽい流行歌みたいな口説き文句だ」
王女が目で促《うなが》し、同席していたヴェルヒャー室長が答えようとした。と、私に目を留め、ミオ卿に何か言いかける。
「いいんだ、トランスは」
王女がそれを見て言った。うなずくと、ヴェルヒャーは機械じみた無表情な顔と声で言った。
「やはり同盟に関することだった。ウルムスターへの陸上部隊の駐屯《ちゅうとん》、軍用車両の自由《ボーダーレス》通行、陸空軍基地の提供・共用などの要求で、これを許すと事実上我が国は占領下におかれることになり、受け入れられないのが明白な提案だったが、今回は少し強気で来た」
「脅迫《きょうはく》でもされましたか」
「近い、というよりその通りだ。原油の供給制限をもち出して来た」
「……ついに来ましたか」
ミオ卿がため息をついた。
ウルムスターにおける各資源の自給率は、国が小さいせいもあるが、大陸諸国の中では高いほうである。農林水産物は、一部の嗜好品《しこうひん》を除いて、ほぼ百パーセント国内で賄《まかな》っているし、石炭や鉄鋼なども九割以上自給している。
弱点は原油や砂糖、銅などで、自給率は一パーセントに満たない。このうち原油は、大陸南西の、レンツェルゲンなどの半島諸国からの輸入に頼っている。彼《か》の国は大産油国で、イウォーンなど大陸中にかなりの量を輸出しているのだが、今回ジャン三世は、それを利用してウルムスターに同盟を迫《せま》ってきたのだ。
私は、無邪気そうな笑顔を浮かべていたジャン三世を思い出して、嘆息《たんそく》した。
「顔では判断できませんね」
「当たり前だ」
じろっと横目で私を見て、政務室長が言った。レイ=ヴェルヒャー、三二歳。妻子もちだそうだが、どうやって今の細君を口説いたのか、想像に苦しむような能面《のうめん》づらである。
「半島同盟の結成は二年前、レンツェルゲンの主宰《しゅさい》によるものだ。ジャンリュック三世は当時まだ一四歳だったが、祖父と同じくらいの歳《とし》の各国王を相手に丁丁発止の大立ち回りを演じて、独力で同盟を成立させた。なかなかの異才というべきだな」
「その割に、国内での評判はよくない」
やぶからぼうにグリーナ王女がそう言った。ミオ卿がうさん臭《くさ》そうな視線を向ける。
「何をお考えになったんです」
「あいつ、外づらはいいが、あまり身内を大切にしないたちらしい。陰で道楽王子のあだ名もあるそうだ」
どこから手に入れたのか、執務机の上にジャン三世に関するらしい数枚の書類を広げて、王女は見入っている。
「産油国中でのイニシアティヴを取るためにせっかく作った半島同盟も、草創期から維持期に入りかけている最近では、今一つまとめ役を果たし切れていない。コリドーラとミダスの間がぎくしゃくしているが、それを仲裁する気配もないし……」
王女は、かすかに危険な雰囲気の笑みを浮かべた。
「なびいた女には興味をなくすタイプだな。政治のやり方で私生活のスタンスまで見える。わかりやすい奴だ。――そこをつつこう」
「つつこうはいいですけど、また危ないことをなさるんじゃないでしょうね」ミオ卿が、わんぱく娘に説教する母親のようなことを言った。「最近、うちの国内でも、地下組織の急進派の人たちがいろいろ動いているみたいなんです。少し控えていただけませんか」
「急進派か……そういえば、そっちも早く片づける必要があるな」
「なんですって?」
「動きが激しいならなおさらだ」
「殿下!」
こわい顔で、ミオ卿が言った。
「約束してください。危険なことはしないと!」
「うーん……はっきりとは言えないが」
「でん、かっ!」
ばん、とミオ卿に机を叩《たた》かれて、王女はあわててうなずいた。
「わかったわかった、危険なことはしない」
「本当ですか?」
「……本当だ」
「よろしい」
うなずくと、ミオ卿は懐中時計を出して、時間を見た。
「あら、もうこんな時間。――仕事のやり残しがあるので、私、部屋に戻ります。トランス、後のことを聞いておいてくださいな」
ミオ卿が出ていくと、王女は私に向き直り、おもむろに言った。
「トランス、今夜ヒマか?」
「は?」
「は、の多いやつだな。今夜予定があるか、と聞いているんだ。なければ付き合え」
「つっ、付き合うんですか?」意表をついた命令に、私はうろたえた。「それはご命令なら……いやしかし、そんな突然」
「何をうろたえて……」言いかけて、王女は赤くなった。「この不埒者《ふらちもの》! 今何を考えた?」
「は? いえその、別に何も、うっく」
額《ひたい》にオークウッドの置き時計をぶつけられて、私はよろけた。
「出かけるからついて来いと言ったんだ、馬鹿」
「それでしたら文句ありません」
「そうじゃなかったら文句が……いや、やめとこう。ヴェルヒャー!」
照れ隠しのつもりなのか、大声で、王女はすぐそばの政務室長を呼んだ。
「グレグ=サイモンの居場所はわかるか?」
「マイナーシティのゴールドハース、という木賃宿《きちんやど》です」
無表情なヴェルヒャー室長が、予習してきたようにすらすらと答えた。それを聞くと、王女は私に言った。
「今夜十時、林の小道の出口に来い。車はあるか?」
「リムジンとはいきませんが」
「走って止まればなんでもいい。来てくれ」
「わかりました」
私は一礼した。
部屋から退出すると、一緒に出てきたヴェルヒャーが私に声をかけた。
「行くのか」
「行きますよ。他ならぬ殿下の命令です」
「命令ならなんでも聞くのか」
「……場合にもよりますが……」
「イエスかノーか」
「イエス、です」
私は、この表情の読めない男をなんとなく警戒しながら、答えた。
「殿下のおっしゃることなら、どんなことでも」
ヴェルヒャーの表情は変化せず、私を見つめる乾いた視線もそのままだった。なんとなく居心地が悪くなって、私は聞き返してみた。
「室長はどうなんです」
「私か。私は……どちらでもない」
それだけ言うと、さっさと去っていってしまった。私は、キツネにつままれたような気持ちだった。
ウルムスターに来てから購入した、シルバーの塗装のあちこちがはげている、中古のウェリントン・コンバーチブルをアイドリングのまま路肩に停め、あまりヒーターの効《き》かない運転席で、私は待っていた。
よくよく考えてみると、これはスパイとして願ってもないチャンスなのではないだろうか。標的国の要人中の要人である王族と、護衛もなしの二人っきりでドライブとは。煮ようが焼こうが思いのままではないか。
思いのまま。そういえば王女は美人だ。そっちの意味でも――いや待て、何を考えている! 私はハンドルに額をぶつけた。スパイだなんだという以前に、男としてあまりにも情《なさ》けない考えだ。私は自己|嫌悪《けんお》に陥《おちい》った。
待つことしばし、ノックもなしに助手席のドアが開いて、一陣《いちじん》の冷気とともに、小柄《こがら》な影が滑り込んできた。
「走ればいいとは言ったが、ここまでひどい車だとは――何を見ている?」
「いえ、別に」
寒さで少し赤らんだ王女の顔から目をそらし、私は車をスタートさせた。自己嫌悪のせいで、スパイとしての意欲も失《う》せてしまっていた。
「どちらへ?」
「とりあえず、街《まち》の方へ行ってくれ」
国道を通ってサマルカンドの市街に入る。どこで止まるのかと思いながら、右、左と言われたとおりに走って行くうち、やけにごみごみした通りに入った。二階建てくらいの、妙にすすけた印象のビルが建ち並び、街路には、真冬だというのに、服というよりは水着と言ったほうがふさわしいような衣装をまとった女たちや、つぎはぎだらけの服を着たヒゲも髪もぼうぼうの男や、体中に鎖《くさり》を巻きつけてヤカンのようなスキンヘッドをふりたてつつ歩いている若者など、尋常《じんじょう》とは言いかねるいでたちをした者たちがたむろしている。
「ここで停めろ」
王女がそう言ったのは、その区画のど真ん中だった。まさか、と、やっぱり、の両方の思いを抱《いだ》きながら、私はおそるおそる聞いた。
「ここで降りるんですか」
「下町《マイナーシティ》のホテル『|金の棺桶《ゴルードハース》』。間違いない」
止める間もなく王女は降りてしまい、しかたなく私もドアを開けた。とたんに、顔中が真っ赤な血にまみれた男がぬっと首を突っ込んできて、私に言った。
「ご、五〇〇ギルだよ」
「な……なんだ!」
「五〇〇ギルだよ。こ、ここに車を停めると、な」
へへへえ、と男はいやらしく笑った。そのときやっと私は、男の顔の鮮血が、塗料か何かでペイントしたものであることに気づいた。
「お、おとなしく払ったほうが、いいよ。ここじゃ、く、車は五分で、ス、スクラップにされちまう」
「おまえはなんだ?」
「あ、あたしは取り立て屋だよ。あんたが五〇〇出せば、あたしたちの、な、仲間が、く、車を、み、み、見張るんだ」
歩道の方をみると、王女は、店の前にたむろしている、チンピラ風の数人と何か話している。ぐずぐずしてはいられないので、私はポケットから札を適当につまみ出し、男に突き出した。
「ほ、き、気前がいいね」
ひゃはは、と叫び出した男を押しのけて、私は外に出た。足早に王女に近寄る。
「何をしているんです!」
「取りつぎを頼んでいるんだが……どうも話が通じない」
「こういう手合いは、こうするんです」
王女を押しのけて、私は、ニヤニヤ笑いながらこちらを見ているチンピラたちの前に立った。ボス格の奴に見当をつけ、いきなり胸倉《むなぐら》をつかみ上げる。
「そこをどけ。どかないのだったら、中の人間に取りつぎをしろ。用がある」
返事として、そいつはこう言った。
「あんた、臭いぜ。犬の匂《にお》いだ」
普段なら、そのまま突き飛ばすくらいだったろう。しかし、そいつの言葉に触発されて、何かが切れた。気がついたら、容赦《ようしゃ》ない右のストレートを、奴のあごに向けて振り抜いていた。
吹っ飛んだチンピラが五メートルほど先のゴミバケツを派手にひっくりかえすと同時に、周《まわ》りの連中が色めき立った。
「ヤロウ!」「てめえ、どういうつもりだ?」「生かして帰さねえぞ!」
五人。多くはないが、そのうち四人がナイフやブラックジャックを取り出した。これは厄介《やっかい》だ。
久しく使っていなかった闘争本能にスタンバイをかけようとして、ふと、私は誰かに監視されているように感じた。思わず周りを見回したとき、横から腕を押さえられた。
「やめろ」
グリーナ王女が、厳しい目で私を見ていた。今まで見たことのない、深い光がそこにあった。
「彼らも、私の民《たみ》だ」
急速に猛《たけ》りが鎮《しず》まり、私の中に理性が帰ってきた。と同時に、いくら急所を突かれたとはいえ、チンピラに挑発された程度で自制心をなくしてしまった自分への怒りが湧《わ》き起こった。
犬と言われたからなんだというのだ。違うのか? その通りじゃないか。自覚し、自制しろ。それがスパイの心構えだ……。
私は、一瞬の自失から覚め、王女の顔を見た。
「すみません、殿下」
「……もう、殴《なぐ》らないか?」
「はい」
その瞬間の王女は、間違いなく「王女」だった。私は、初めて彼女の王族らしさを見たと思った。
なぜそこまでこんな奴らを、と湧きかけた思いは、彼らの一人が上げた奇声にかき消された。
「王女だ!」
「なんだって?」
「王女だ! この女、グリーナ王女だぜ?」
「……本当だ」
「王女だぞ!」
「王女が来た!」
まずいな、と思ったが、意外にもチンピラたちは武器をしまい出した。のびているリーダーにもかまわず、我先にと〈ゴールドハース〉の中に駆け込んでいく。
「……どうなっているんだ?」
「さあ……しかし、差し当たって危険はなくなったみたいです」
気がつくと、監視されているような気分も消えていた。
気持ちが落ち着くと、さまざまな思いがいっぺんに押し寄せた。それを押さえるために、努めて事務的なことを私は聞いた。
「グレグ=サイモン、昼にそう言いましたね。誰なんです?」
「トランス、この国で今一番重大な問題は何だ」
「は?」
「いいから言ってみろ」
「ええと……まず昼に話していた問題ですね。半島同盟の圧力。それに」言うべきか迷ったが、口にした。「他にも、外的な脅威がいくつか」
「国内では?」
「第一に、過激派の動向でしょう」
「ゴミ処理や工場・交通なんかの公害問題、軍事と福祉《ふくし》文教の予算配分、資源問題、あといろいろあるが、まあそれが一番だろうな。正しい認識だ」王女は思案顔でうなずいた。
「政治に関心をもってくれるのは結構なんだが、要求のたびにいちいち何かを壊さないと気がすまないらしいんで、手を焼いている」
「それで」私は先をうながした。
「今までは、もう一つ、兄上たちのことがあって、私もちょっと動きにくかったが、先の園遊会で、そっちのほうは片づいた。しかし今度は、別の意味で厄介になった。私に何かあったとき、皆が兄上たちの仕業《しわざ》だと思うようになったんだ」
ミオ卿に聞いたとおりである。私はうなずいた。
「殿下がそういう風《ふう》にしたんでしょう?」
「そうなんだが、副作用が出た。今度は逆に、兄上たち以外の勢力に、私を害する機会を与えてしまった」
「ああ、なるほど」
私は理解したが、王女の言い方が回りくどすぎて、何を言いたいのかつかめなかった。
「殿下、そこらへんの関係はわかりましたが、まだ私の質問に答えていただいていません。つまりグレグ=サイモンとは何者か」
「当面の問題は、国内の過激派だ。ジャンの要求のことがあるから、こっちを急いでなんとかしないといかん」私の言うことなど聞いていないように、王女は続けた。
「といって、これは生半可《なまはんか》な方法でなんとかなってくれるような問題じゃない。ここは、少々危険でも、即効性のある方法を考えなければいかん」
「殿下、私の言うことを――」
「例《たと》えば、過激派の総|元締《もとじ》めと直《じか》談判するというような手だ」
「――なんですって?」
私は耳を疑った。
「今、なんと?」
「グレグ=サイモン。国内の武闘派勢力の中心的人物だ。ここにいるはずだが」
「な――なんて……」
あまりのことに、私は意味のある言葉を出せなかった。スタンドプレーにも程《ほど》がある!
「たった二人で乗り込んでくるとは、いい度胸だ」
野太い声が頭上から降ってきたのは、そのときだった。
振り向くと、見上げんばかりの禿頭《はげあたま》の巨漢が、数十人に増えたごろつきたちを従えて立っていた。
風の冷たさが感じられたが、ジャンパーの襟《えり》をかきあわせるのも忘れて、私はその男を見上げていた。
「この俺が、グレグ=サイモンだ」
グレゴニクスの山中で一件だけ目撃例が報告されている学会未発表の珍獣、たとえて言うならばそんなものを見るような視線で、王女はサイモンを眺め回した。ややあって言う。
「ずいぶんイメージが違うな」
「何?」
「八角メガネの下から冷たい視線を放ってる、確固とした政治理念をもった酷薄《こくはく》な秀才を想像してたんだが」
意外と平凡なテロリスト像だ、などと感想を抱《いだ》いたりしてしまったが、そんな場合ではない。私は、いつでも王女をかばえるように身構えた。
「何をしに来た?」
「和解しに。それが不可能なら、一時的な譲歩《じょうほ》を求めに」
「……難《むずか》しい言葉はわからねえんだ。ザップ、王女はなんて言ってるんだ?」
「話し合いに来たと言ってるんだ」
答えたのは、サイモンの後ろにいた、革《かわ》ジャンを着たヒゲ面《づら》の男だった。
「初めまして、グリーナ殿下。ザップといいます」
ヒゲ面が握手を求めてきたのも意外だったが、王女がそれを素直に握り返したのも驚きだった。
「グリーナ=テオ=ウルムスだ」
「ザップ! てめえ、政府の奴と握手するなんてどういうつもりだ!」
どら声を張り上げたサイモンに、ザップはため息をつき、言った。
「力ずくばかりが方法じゃないといつも言ってるだろう。仲良くできる相手とは仲良くするのが得策なんだ」
「政府の奴は信用できねえ」サイモンが怒鳴《どな》るように言った。「俺の家も、畑も、みんな政府がもっていったんだ。取らねえって言ったくせに」
「そんなことはありえん」王女が冷静に言った。
「税金の滞納《たいのう》でもしない限り、資産を差し押さえられることはないはずだ」
「税金だと? それこそぼったくりじゃねえか。毎年毎年、わけのわからねえ紙切れ一枚で、汗水たらして稼いだ金をごっそりもっていきやがる。うなるほど金を持ってるくせに、そのうえ俺たちみたいな貧乏人から小銭を巻き上げるなんて、血も涙もねえとはこのことだ。なあ、みんな!」
おう、そうだそうだと周囲の連中が気勢を上げる。これでは過激派というより、山賊海賊の類《たぐ》いを相手にしているようだ。
「あまり自慢できんが、うちの国庫は、金がうなっているとは言えん」口調を変えず、王女は言った。「歳入《さいにゅう》だって歳出《さいしゅつ》だって、財務が毎年、ちゃんと明細を作って公開しているはずだ。必要なお金なんだ。税率のほうは……」そこで王女は少し顔をしかめた。「まだ問題が残っているが、それも近いうちに改正する」
「近いうち? 近いうちっていつだ? おまえらはそればっかりだ。やっぱり信用できねえ。だから俺たちは実力で訴《うった》えているんだ」
「やめろ、サイモン」ザップが苦《にが》い顔で言った。「これはチャンスなんだ。おまえの政府嫌いはわかるが、その政府のトップがわざわざ出向いてきたんだぞ。いつまでも力に頼るやり方が通用するはずはないんだ。わからんか? 変えるべきなんだ」
二人の関係が、私には見えるような気がした。暴走しがちなサイモンを、ザップが抑えるという図式のようだ。
しかし、サイモンはザップの制止など無視して、ギラギラ光る目で王女をにらんだ。
「チャンスというなら、これは絶好のチャンスじゃねえか。一番でかい獲物が向こうから飛び込んできたんだぜ。こいつを人質にすれば、奴らだってどうしようもできねえさ」
まずい。王女の前に私は割って入ろうとしたが、その前に王女が一喝《いっかつ》した。
「やるならやってみろ!」
恐れるどころか、激しい怒りの表情さえ浮かべて、王女は叫んだ。
「それがお前たちのやり方だ! 銃や爆弾で女子供を殺し、こちらの弱みにつけこんで、自分の無理を通そうとする。政治について知らず、知ろうともせず、ただ要求だけを押しつける。言いたいことがあるなら、なぜ堂々と人前で言わない? 理解できないなら、なぜ考えない? 正しいやり方が通らないほどこの国の政治は腐《くさ》っていないはずだ。意見もできず、疑問も表わせず、ただ力で意志を押し通そうというのなら、お前たちは人間じゃない。獣《けもの》だ!」
炎のような意志、というものを、私は初めて見た。私も含めて、サイモンも、ザップも、周りを囲むならず者たちも、その場の全員が、寒ささえ打ち消すような一人の少女の言葉に圧倒されて、静まり返った。
しかしその沈黙を、誰かの言葉が破った。
「でもよ、俺たちみたいなのが偉い人に何か言っても、笑われるだけだぜ」
あちこちから賛同する声が上がった。
「俺なんか役所で言われたぞ。お前みたいな馬鹿に何がわかるって」
「俺もだ」
「俺もだぞ」
ざわめきが起きかけたとき、再び王女が叫んだ。
「今、私がここにいるじゃないか!」
王女は、サイモンの前に一歩踏み出して、胸を張った。
「今、言えばいい。全部私が聞いてやる。さあ、何が言いたい!?」
一同の上を王女の視線が動いた。だが、そのとき、サイモンが成り行きに耐《た》えかねたように叫んだ。
「みんな、だまされるな! どうせこいつの言うことも、嘘《うそ》っぱちに決まってるんだ!」
一瞬、二人はにらみあった。無言の火花が散っているようだった。
王女が、不意に静かな声で言った。
「こうしよう。――私と話したい人間は、自分の意思で、私のもとに来てくれ。その代わり、今後一切テロリズムと縁を切ると誓《ちか》ってもらう。強制はしない。サイモンの下に残るのなら、そうしてもいい」
そう言うと、王女は私の前を通って、離れていこうとした。私は思わず声をかけた。
「殿下――」
「お前は離れてろ」
「しかし」
「命令だ! これは、私の国の問題なんだ!」
国を愛する気持ちから出た彼女の言葉が、私の心を別の意味でえぐった。彼女の国。私は正体を見抜かれたような錯覚を起こして動揺した。
その間に、王女は十歩ほど道路を歩き、一本の枯れた街路樹の前で、こちらを向いて立った。
「さあ!」
私は、動けなかった。
サイモンの周りのならず者たちは、明らかに迷い出していた。今まで表わすことのできなかった本心を、初めて告げることができる機会を与えられたのだから、当然だ。それも、自分たちにとって最も縁遠かった、敵の象徴ですらあった王族に直接! 不満があったからこそ地下組織に身を投じたのだ。できることなら我先に直訴《じきそ》に走りたいに違いない。しかし、同志たちや首領のサイモンへの遠慮や疑心があって、一線を越えられない。そういった彼らの心の動きが、手に取るようにわかった。
立ち尽《つ》くしている私の後ろで、誰かがささやいた。
「あ、あんたは、行かねえのかい?」
さっきの、顔を血まみれにペイントした男だった。私は、呪縛《じゅばく》されたように答えた。
「命令だ」
「命令なら、なんでも従うのかい?」
どこかで聞いた問いだ、と思いながら私は答えられなかった。
それにしてもあの小娘は! この乾坤一擲《けんこんいってき》の大バクチがもし失敗すれば――このまま誰ひとり彼女に近寄らなければ、いや、サイモンがもう一声叫びさえすれば、彼女は嘲笑《ちょうしょう》と侮蔑《ぶべつ》の底無し沼にたたき込まれるのだ。ならず者たちは彼女を笑い、彼女を監禁して、政府との取り引きの道具にするだろう。それならまだいい。この場でリンチにかけられる恐れだってあるのだ。スパイである私は、それを見て国に帰り、報告する。「グリーナ王女は、国内の過激派によって暗殺された」それが私の使命だ。
私の目は、王女の小柄な姿を映していた。不意に私は、彼女が今、巨大な孤独と不安を相手に、恐ろしい戦いをしていることを理解した。当たり前だ。彼女ほど聡明《そうめい》な娘が、それに気づかないわけがない。自分の考えがすべて間違っているという可能性に。自分の理念を信じ、自分の考えはすべて独善なのではないかという恐れをなんとかねじ伏《ふ》せようとする、その心の焦燥《しょうそう》がどれほどのものであることか。彼女はあんなに小さな、一七歳の娘であるのに。
スパイとしてそれを見殺しにするのには、彼女の姿はあまりにも小さすぎ、その心は高貴すぎた。知らず、私は歩を踏み出していた。
傍《かたわ》らに立った私を、王女は仏頂面《ぶっちょうづら》で見上げた。
「来るなと言ったぞ」
「柄《がら》じゃないのはわかっているんですが、不覚にも感動しまして」
「同じく」
横を見ると、ザップが立っていた。私に、「あんたは?」と聞く。
「ただの付き添いだが……一言《ひとこと》、言わなきゃならんことがあってね」
私は、サイモンたちの方を振り返って叫んだ。
「お前たちが何をする気だろうと、私はこの方を守り抜く。死んでもな!」
ほう、というような顔をして、ザップが私の横に並んだ。
「聞いてのとおりだ。グリーナ王女には、少なくとも一人、命を捨ててまでついていくという人間がいる。――そんな信頼を受けている人物だ。信用してもいいんじゃないかな」
――かつての仲間の最後の一人がサイモンのそばを離れたのは、三〇秒後だった。満面を朱に染めたサイモンは、靴音荒く、店の中に入っていった。
王女が、ならず者――いや、彼女の民たち全員と話をするのには、長い時間がかかった。
私は、寒さも苦にならず、その間ずっと少し離れたところでそれを見守り、新しく地下組織の首領となったザップと話し続けていた。
「実にたいした王女様だな」
「身内ながらそう思う」
身内と言ったときに感じるチクリとするものは、ずいぶん小さくなっていた。
「情けないが、今まで自分の国にこんな大人物がいるなんて、思いもしなかった」
「いいさ、もう知ったんだから」
私は、ザップに目を向けて、尋《たず》ねた。
「あんた、どうして過激派なんかに?」
「サイモンとは腐《くさ》れ縁《えん》でな」頭をかきながら、ザップは言った。「昔、一緒に組んで武器の密輸をしたことがあってね。俺は一回で足を洗ったんだが、奴はその世界にのめり込んでいって、その筋じゃ知られた顔になったんだ。一度別れて、何年か会わなかったんだが、奴はその間にどこで何をどうしたのか、過激派の元締《もとじ》めみたいなのにのし上がっていた。武器の闇《やみ》ルートを押さえていたから、国内の武力活動にいろんな形で口を出すことができたんだろうな。再会したのはおととしだが、半分無理やり仲間に引きずり込まれた。それからはなんとかテロを最小限に抑えようとしたが、奴にずるずる引っ張られて、このていたらくだ」
「じゃ、田畑《でんぱた》を国に没収されたってのは嘘っぱちか」
「あれは本当だ。だから国に恨《うら》みを持って今みたいなことを始めたらしいが、原因は王女お察しの通り、税金の滞納だったらしい。とんだ逆|恨《うら》みだ」
「大なり小なり、そういう恨みは誰にでもあるだろうが……」私は、チンピラたちの集団を見ながら言った。「テロリズムに走る前に、どうにかならなかったのかね」
「政治家になれるほど賢《かしこ》くなく、庶民でいられるほど我慢強くなかった。それだけのことさ。いくらでもいるぜ、こういう手合いは」
ザップは、要領を得ない若い男の声にきまじめに聞き返す王女を見て、口もとをゆるめた。
「ま、この先そういうのは減るだろうが」
「そういえばザップ」私はあることを思い出して聞いた。
「セガールとベルドって二人組を知らないか」
「なんであんたが奴らを知ってるんだ」
私たちは顔を見合わせた。
「国内の組織の中では異端でね、理論が先走って現実を見ていなかった。現実を見ていないのはうちの連中もたいして変わりなかったが、奴らのはちょっと度が過ぎた。だから疎《うと》まれた。そんな奴らだよ」
「そうか」
バスを襲った二人組とザップが関係ないと知って、私は安堵《あんど》した。
――王女が、後から後から増えていく訴人《そにん》たちと話し終わったのは、朝の三時に近くなってからだった。
後日の連絡を約束してザップと別れた私は、ようやく一人になった王女のそばに、歩み寄った。
「お疲れさまでした」
「宿題がたくさんできてしまった。帰って寝るぞ」
王女と並んで歩きだしながら、私は改めて、彼女の体の小ささに胸を打たれた。こんなに華奢《きゃしゃ》な体のどこに、大の男を向こうに回して論陣を張り、人の訴えを何時間も聞き続ける力が秘められているのだろう?
それは、彼女の王女としての義務感からくるのだろうが、普通の王族という人種の規範から大きく外れた彼女のその義務感も、私にとっては謎《なぞ》の一つだった。
その王女が、車に近づいたとき、ふらっとよろけた。私はあわててその体を支えたが、靴音がして、横から伸びた手が王女を奪い取った。
「殿下!……本当に、心配ばっかりかけさせるんですから……」
「ち、長官!?」
母親のようにグリーナ王女を愛《いと》しそうに抱き締めたのは、驚いたことにミオ卿だった。
呆然《ぼうぜん》とする私の横で、さらにもう一人の声がした。
「本当にご立派な態度だった」
振り向くと、例の血まみれの男が立っていた。私の見ている前で男はペイントを拭《ぬぐ》い、かつらを取った。私は叫びを押さえられなかった。
「室長!」
「気づかなかったろう」
いつもと変わらない無表情で言ったのは、紛《まぎ》れもなくヴェルヒャー王室政務室長だった。
「君のあの行動は、まあ合格と言えるだろうな。欲を言えば、もう少し早く思い切ってほしかったが」
「い……一体、どうして」
「もちろん、君を監視するためだ。我々が、王女が新米秘書官と二人だけで外出するのを黙って放っておくと思ったのかね? 君が車の中でにやついていたときから、すべて見ていたよ」
「じゃあ、あのときの言葉も」
「命令だからってあの場で指をくわえて見ているような無能者だったら、君を処断していたよ。我々は殿下ほどには甘くない」
淡々と言うヴェルヒャーに、急に怒りが込み上げてきて、私は怒鳴った。
「見ていたなら、なぜ助けてくれなかったんです! 殿下があんなに危険な目にあっていたのに!」
「用意はしていた。完全装備の近衛《このえ》三〇名が待機していたんだが、気づかなかったか?」
言われて、私はさきほど感じた、監視されているような気配の正体に思い当たった。
「じゃあ、なぜそれを」
「それを投入していたら、おそらく事態は最悪の終わり方をしたろう。双方に死傷者と、癒《いや》しがたい憎悪《ぞうお》を残すという……」
ヴェルヒャーは、ミオ卿に抱かれた王女の方を見た。
「我々には、ああいう解決はできん。スタンドプレーや独走が好ましくないのは無論だが、殿下のそれに限っては、必要なのだ。あれでこそ殿下だし、殿下にしか、ああいう解決はできん。――皆に、親和と敬愛を残すやり方は」
振り返ったヴェルヒャーの顔は、意外にも笑顔だった。
「よくやった、君も」
「あ、はあ」
私は、ミオ卿の腕の中の王女の顔を見た。目は閉じられているが、苦しそうではなく、満足感に満ちた安らかな寝顔だった。
「疲れが出たんでしょう。明日はお昼まで休みにしてあげましょうか」
ミオ卿は、私を見てほほ笑んだ。
「トランス、ご苦労様でした」
ミオ卿の笑顔を見たとたん、わけもなく、報《むく》われた、と私は思った。
「トランス、引き上げるぞ」
もとの無表情に戻ったヴェルヒャーに言われ、私はウェリントンのドアを開いた。
4
「おい、君」
ポプラパレスのロビー、広くはないが、西向きのガラス張りで、グレゴニクスの秀麗《しゅうれい》な山容が見える、居心地のよい空間である。ソファで新聞を読んでいた私は、顔を上げた。
「見かけん顔だな。名乗れ」
白衣を着、物凄《ものすご》い度のメガネをかけた、ぼさぼさ髪の売れない学者といった感じの男が、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》などら声で言った。いささかむっとして、私は言い返した。
「見かけないからって、いきなり初対面の人間に名乗れはないだろう」
「おっ、そうだな。私はトワード=グリムという。さあ、名乗れ」
礼儀と家の花壇を、近所づきあいに必要な見せかけだけの代物《しろもの》として同一視している私だが、その私にも、この男の無遠慮さはかちんときた。無視してやろうかとも思ったが、もう一人の人物が話しかけてきた。
「すまないね、こういう話し方しかできないヤローなんだよ。アタシはネリー=グリム。気を悪くしないで、あんたの名前も教えておくれ」
こちらは対照的に、油じみた作業服を着た、三〇前後の女だった。名前から察するに男と夫婦らしいが、旦那《だんな》より頭ひとつぶん高い背丈《せたけ》のせいもあって、威勢のいい居酒屋のおかみといった感じだ。
「デューイ=トランスだ」
さすがに無視するわけにもいかず、私は答えた。すると、トワードと名乗った男が、私の隣に腰かけて、なれなれしく話しかけてきた。
「ほう! 先月入った新入りってのは君か。噂《うわさ》は聞いているぞ。グリーナとつるんで、マイナーシティのごろつきどもとやりあったそうじゃないか!」
「いや別にやりあったわけじゃ……」
「謙遜《けんそん》しなさんな。アタシも聞いたよ。お姫をかばって、袋だたきになったって話じゃない」
どこでそんなことをしたんだ、私が。
「いや、事実はそうじゃなくて……だいたい、なんなんだ? あんたたち」
「私が呼んだんだ」
ギョッとして振り向くと、ソファの後ろに、いつの間にかグリーナ王女とミオ卿《きょう》が立っていた。
「い、いつの間に……」
「今来た。待たせたな。トウィー、ネル、こいつが、ミオの雑用係になったトランスだ」
「だれが雑用係だ……」
「で、トランス。二人が、グリム夫妻だ。不勉強なお前に教えてやるが、二人はグリム重工の社長と専務|取締《とりしまり》役だぞ」
「は?」
「驚かんでくれ。会社っていっても、家内制みたいなちっこい工場を一つもっているだけだ。私は、そこの設計主任もやっている」
「ネルは、サマルカンド大に研究室を一つと、博士号を二つ三つもっている天才だ。お前が百人いるより、彼女の脳細胞が百グラムあったほうが役に立つ」
「たいしたことじゃないよ。博士号ってのは足の裏にくっついたガムみたいなもんでね、取っても別に得にならないが、取らなけりゃ気になるってぐらいの、どってことないシロモノなんだから」
「ははあ……ちょっと待ってくれよ」私はあることに気づいて二人の顔を見比《みくら》べた。「あんたが設計主任であんたが博士? 逆じゃないのか」
「どうしてそう思うんだい?」
楽しそうに聞いたネリーに、私は口ごもった。
「いや、服装が……」
「よくぞ気づいてくれた!」
今こそ出番、という調子で、トワードがパッと両手を開いた。
「事の起こりは、我々二人のなれそめにまでさかのぼる」
「さかのぼるなよ……」
「なにか言ったか? いやなんでもいい。我々二人は、その昔大学で同期の学生だった。彼女は物性物理、私は機械工学を専攻していた。とあることがきっかけでわたしたちは知り合い、そして恋に落ちた!」
「ヤダよあんた! 恥ずかしい」
実にいいタイミングで、ネリーがトワードの頭をひっぱたく。ずり落ちかけたメガネを直して、トワードは続けた。
「しかし、恋に障害はつきものだ。我々のケースも例外ではなかった。理系の分野においては、理学派と工学派は仲が悪いというのが、ベリルとミラーズ以来連綿と継承されてきた、千古の伝統なのだ。我々はその典型だった。付き合い出して三時間とたたないうちに、我々はパートナーが自分と正反対の思考をすることに気づいた。即、大ゲンカだ!」
「あん時は凄《すご》かったわねえ」
「凄かった。彼女の顔ときたら地獄の獄卒《ごくそつ》もかくやという凶相《きょうそう》で、三〇キロはある真空ポンプを木箱かなんぞのように片手でリフティングし……」
「ちょっと待ってよ」
打って変わった険悪さで、ネリーが口を挟んだ。
「片手でリフティングしただって? 誰がそんなことしたんだよ! ありゃちょっと頭にきて、ひっくり返しただけでしょう! それになに、地獄の獄卒? なんだってのよ!」
「獄卒が悪けりゃ魔王だ。サタンだ。耳まで裂けた口の奥には真っ赤な溶岩がたぎり、髪の毛は青白く帯電してさながら針状結晶のように逆立ち」
「青白くなったのはあんたの顔色でしょう!? 腰抜かして這《は》いずってたあんたの格好ってば、下痢《げり》した熊《くま》そっくりだったよ!」
「殿下……」ぎゃあぎゃあ喚《わめ》き出した二人を仲裁する気も起きず、私は王女に尋《たず》ねた。
「何のために彼らを呼んだんです? 騒音でホールのガラスが割れるかどうか試すためですか?」
「彼らならやりかねんな。施設費の余裕もないことだし……」
しごくまじめにそう言うと、王女は怒鳴《どな》り合う二人に声をかけた。
「二人とも、そのへんにしておけ」
王女の声を聞くと、面白いことに二人はぴたりと口論をやめた。呆《あき》れて私は言った。
「切り替えが早いな」
「慣れてるからな」
けろりとした顔でそう言うと、トワードはネリーを見た。
「どこまで話した?」
「最初のケンカのところまで」
「うむ、それ以来、何度となくケンカをした我々だが、問題を抱《かか》えたまま放っておくなどということは、科学者の態度として問題がある。ゆえに、解決策を考えることにした」
「で」私は、二人の白衣と作業服を見た。「その格好か」
「そのとおり!」
ぱん、と膝《ひざ》を叩《たた》いて、トワードは声を張り上げた。
「我々は、互いの仕事を交換することにしたのだ! 私は妻の研究室で理学書を読み、妻は私の工作室で部品の強度試験をする。こういったことによって、我々は相手の考えを理解することができるようになったのだ」
「この格好は毎日だけど、仕事の交換は週一ぐらいなんだよ」
「すばらしい解決法だと思わんかね?」
「そうだな」
疲れを覚えて、私は投げやりにあいづちを打った。
「自己紹介はそのへんにしといて、本題に入らないか、トワード」
「おお、そうですな。トランス、あんたも話を聞くかね?」
これ以上こいつの講釈を聞かされるのは御免だった。私は席を立った。
「すみませんが、やりかけの仕事がありますので」
「つまり、サボってたの?」
ネリーの鋭い指摘に、私は、う、とひるんだ。そーっと横を見ると、ミオ卿がこわい顔でにらんでいた。
「そういえば、パレスのトイレットペーパーの使用量の報告がまだだったような……」
「失礼します!」
三十六計なんとやらだ。早々に私は立ち去った。後で考えると、もう少しその場にいるべきだったのだが。
サマルカンド空港、大型機用第六ガレージ。コートの中にまで染《し》みとおってくるような、底冷えのする寒気の中、そこからレシプロの双発軍用機が引き出された。ウルムスター空軍の汎用《はんよう》長距離機で、今では要人輸送用に改装されている、グリムCP・ラマである。
轟音《ごうおん》を立てて暖気運転を始めた双発機の横で、グリーナ王女とジャンリュック三世が、にらみあうようにして立っていた。
「考えはまとまったかい?」
「おかげでてんやわんやだった」
「そのてんやわんやの成果を、はやく見せてもらいたいな」
にっこり笑うと、ジャン三世は護衛たちを引き連れて、先にタラップを上っていった。
「大丈夫なんですか、殿下」
「打てるだけの手は打った」
それだけ言うと、国家元首として正装をした王女はタラップに足をかけた。私は、無言で付き従った。
今回は、飛行する航空機の中での話し合いという、異例の空中会議である。テロの危険を回避するためという名目で発案したのはウルムスター側だったが、レンツェルゲンの国王はこちらが策謀《さくぼう》を巡《めぐ》らすのを楽しんでいるかのように、即答でOKしてきた。こうなると逆に疑ってしまうのが人間の心理というもので、王女も考えがあるのか、前夜遅くまであちこちに電話をかけていたらしい。それでも、前回のような乱暴な方法ではなくちゃんとしたVIP機で編隊を組んで、いよいよジャン三世が乗り込んでくると、おおかたの手は打ち尽《つ》くしたのか、王女も私室に引きこもった。私とミオ卿は会談のセッティングの細かいところを調整するため深更《しんこう》まで飛び回っていたので、今朝《けさ》は少々寝不足である。
二月二八日、午前七時。こちらが手配したホテルからジャン三世が空港に到着し、前後して王女もやって来た。ミオ卿とヴェルヒャーは他の仕事もあるので留守番をおおせつかり、例によってというか、王女の付き添いは、私一人である。
両国の首脳が乗り込むと、山岳迷彩の中型機は誘導路《エプロン》を走り始めた。管制塔に離陸許可《クリアランス》を要請《コール》、打ち合わせに従って管制は地上全機に待機指令を出し、エプロンと滑走路を空《あ》ける。
滑走路の端に着くと、ラマはいったんエンジン出力を下げた。それから、ゆっくりとスロットルを開き、盛大にプロペラを振り回し始めた。
スピードが上がり、機体が小刻みに震える。VR――離陸速度。機首が上がり、ふっと振動が小さくなる。
七時五〇分、ラマ01は離陸。二〇分かけて高度三〇〇〇に達し、そこで定常旋回に入る。
ウルムスター−レンツェルゲン両国の、首脳会談が始まった。
機内をきょろきょろ見回していたジャン三世に、王女が声をかけた。
「心配するな。落ちやしない」
「その点は、心配してないよ。離陸前に我が国のエンジニアに隅から隅まで見させたし、パイロットだって、我が国のベテランだからね。よその飛行機が操縦できるか心配だったけど、彼らに言わせると、グリム社の飛行機は操縦特性がすごく素直で、安心して飛べるってさ。グリーナはいい会社をもってるね」
「おまえの国にもほしいだろう」
「まあいいや、どっちみち僕の国になるんだから。――おっと、失礼」
レンツェルゲンの言葉だったと思うが、エスプリとかいう言葉があった。「余計な一言《ひとこと》」とでも訳すのだったろうか。ジャン三世はその才能があふれているらしい。王女は、黙って外を眺めている。
機が水平飛行に移ると、ジャン三世は離着陸用のシートから立ち上がって、私の隣にいる王女のそばにきた。彼女の手を取って促《うなが》す。
「さ、ソファに移ろうよ。この席は窮屈《きゅうくつ》でいけない」
「いちいち触《さわ》りにくるな!」
ジャン三世の手を振り払おうとした王女が、ふと妙な顔をして彼の右手を見つめた。
「なんだい?」と笑いながら、ジャン三世は手を引っ込める。
「別に」
「かみつかれるかと思ったよ」
二人は、機の中央のラウンジに移動した。私とレンツェルゲンの護衛もそれに続く。ラウンジにはテーブルとソファが対座式に配置してあり、普段は移動中の会議などに使われる仕様だった。
「さて……」
ジャン三世が口火を切った。
「今回の我が国の提案について、もう一度確認しておくよ。まず第一に、これは我が国を含む五か国が、対等の立場で構成する安全保障会議、通称半島同盟への、ウルムスターの加盟を促すものだ」
それから二〇分にわたって、ジャン三世の、いかめしく装飾された外交用語を多用した講義が続いた。王女はその大半に、「そうだ」「まあな」というようなそっけない言葉で答えていたが、終わり近くなると、押し黙ったまま相槌《あいづち》も打たないようになった。
同盟に加入した場合どうなるかというと、まず同盟の連合部隊、戦車や装甲車、歩兵などの兵力が、ウルムスター国内に進駐し、東の国境――その向こうがイウォーンなのだが――に展開することになる。また、国内の陸空軍の基地についても、これを連合部隊と共用したり、貸与《たいよ》しなくてはいけない義務が生じてくる。もちろん部隊の食料、燃料、弾薬や整備部品などもこちらもちだ。事実上、これらはウルムスターが他国に占領されることを意味している。
これほどまでに同盟がこの小さな国に手を出したがるのには、理由がある。一つは、大陸の宝石と謳《うた》われる、未採掘の莫大《ばくだい》な鉱物資源を有しているウルムスター南部の小自治領の存在。もう一つは、この国が地政学的に見て、大陸の武力バランス上、最重要とされる位置にあるという点である。
この国自体の価値は、はっきり言って、ないに等しい。しかし、大陸の東西の交通を考えたとき、その接点に位置するこの国は、無視し得ない存在になる。
ウルムスターは、戦略的な意味において、大陸随一の要衝《ようしょう》なのだ。ジャン三世が脅迫《きょうはく》そのものと言っていい手法を用いてその占領を目論《もくろ》むのも、イウォーンが私をここに送り込んだのも、そのためなのだ。
「これで、必要なことはすべて話し終わった」
さすがに冗談を挟まず、一国の国王らしい顔を見せて、ジャン三世はグリーナ王女の顔をのぞき込んだ。
「さあ、答えを聞こう」
「答えは」
少し前から閉じていた目を開いて、王女はきっぱりと言った。
「否《いな》、だ」
「へえ……」
ジャン三世は、ソファの背に身を預け、面白そうに聞いた。まるで、王女がどんな反撃をしてくるか楽しむように。
「どうして?」
「小なりとはいえ、主権をもった歴《れっき》とした独立国家が、そんな要求に従えるわけがないだろう」
「それはわかってるさ。僕は無理を承知で頼んでるんだ」
「よそにかまってばかりで、身内の騒ぎが起こっているのに気づいていないということはないか」
「ん? どういうことかな」
ジャン三世は無邪気そうに首をかしげた。彼のこの余裕はどこから来るのだろう。単なる自信|過剰《かじょう》だろうか、それとも……。
王女は、ため息をついて言った。
「うちに入った情報によると、おまえの国の軍の一部で、不穏な動きがあるそうだ」
「いや、聞いてないね」
「落ち着いていていいのか。気がついたら帰る国がなくなっているかもしれないぞ」
「我が国の情勢は極《きわ》めて安定している。軍部にも独走の兆《きざ》しはないよ。不逞《ふてい》な扇動《せんどう》分子を一握りほど捕《つか》まえはしたけどね」
何げなく発せられたジャン三世の言葉に、はっと王女が身を固くした。
「そ――その扇動分子とやらは、どんな連中なんだ」
「気になるかい? いや、もったいぶるのはやめてあげるよ。ボス格がアル=グレンといって、ウルムスターでザップと呼ばれている地下組織のリーダーの、片腕だ」
王女は、恐ろしい目つきでジャン三世をにらんだ。レンツェルゲンの若き国王は、にやにやしながら言った。
「ちゃんと僕の耳に入ってるんだよ。わずか一晩で国内の反政府勢力をまとめて、我が国に送り込んできたのには驚いた。すばらしい手並みだね」
「ひとつ聞きたい」
「うん?」
「その連中は、もう処刑されたのか」
「僕は人道主義者だからね。ちゃんと公正な裁判にかけるつもりだ。今は独房で我慢してもらっているよ。――釈放してほしいかい?」
「……ウルムスター政府は、関与していない」
「もちろんそうだよね! 主権をもった歴とした独立国家が、他国の軍部のクーデターを使嗾《しそう》しただなんてことがあれば、これは世間がほっとかないもんね」
王女は黙って唇《くちびる》をかんでいる。
会談までに王女が打った手の一つが、これだったのだろう。今やサイモンに代わって国内地下組織のリーダーとなったザップの協力を仰《あお》ぎ、彼の部下を使って、レンツェルゲンに政情不安を起こさせる。彼らは民間人だから、ウルムスターの軍人や政府の人間を使うより、露見しにくい。そう踏んだのだろうが、ジャン三世に手を読まれ、送り込んだ彼らを押さえられてしまったのだ。
「そんなに気にすることないよ」
恋人を思いやるような優しい口調で、ジャン三世は言った。「捨《す》て駒《ごま》なんだろ。結局」
射るような視線をジャン三世に向けてから、王女は「関係ない」と繰り返した。
ジャン三世も馬鹿なことを言ったものだ。今の一言は、確実に王女の逆鱗《げきりん》に触れた。何よりも自国の民《たみ》を愛する彼女が、今の言葉で怒らないはずがない。彼がきっと受けるだろう報復のことを考えて、私は頭を振った。
「彼らはウルムスター政府と関係ないんだね。そういうことにしておこう。じゃ、この話はこれでおしまい。元の話に戻そうか」
そう言って、ジャン三世はかたわらの護衛に数枚の書類を取り出させた。同盟への加入|宣誓書《せんせいしょ》だ。
「さあ?」
答えず、王女は私に聞いた。
「今何時だ」
「八時……五八分です」
私が答えると、王女は席を立ち、円形の窓に近寄って、外を見た。ジャン三世が声をかける。
「考えるのは結構だけど、地上に降りるまでには、うんと言ってほしいね」
「地上か……」
王女は、窓際《まどぎわ》で振り返った。
「無事に帰れるかな?」
「そう言ったのは君だろう。落ちやしないって」
「ここへ来て見ろ」
少し首をかしげて、ジャン三世は立ち上がった。ついてこようとする護衛を制して、王女の横に並ぶ。一六歳の少年と一七歳の少女の後ろ姿はけっこう絵になっていて、こんなときだというのに、いいケンカ友達なんじゃないか、と私は思ってしまった。
「……なんだあれば?」
ジャン三世がいぶかしげな声を上げたのは、そのときだった。
「ウルムスターの機じゃないな。あれは、イウォーンの!?」
「そのとおり、あれはイウォーンのグラジオラス重戦闘機だ」
「なぜだ? なぜウルムスターにイウォーンの機体が……」言いかけて、ジャン三世は恐ろしい顔で王女を見た。
「まさかグリーナ、ウルムスターをイウォーンに売ったのか!?」
ジャン三世の問いは突飛すぎるものに思えたが、王女の答えは意外だった。
「高値をつけてくれる客に売るのが、商売の基本だろう?」
「一体どうして? どういう条件で? ああ、グリーナ、なんてことを!」
ジャン三世はこの世の終わりが来たような顔で叫んだ。これはあまりにも意外な展開だった。国を売った? イウォーンの属国に成り下がらせたというのか? あの王女が。寝耳に水とはこのことだ。あまりのことに、私は立場を忘れて叫びかけた。
「殿下、なんということを!」
口をついて言葉が出る寸前、私は思いとどまった。王女の顔に、見覚えのある表情が浮かんでいたのだ。決して、やむにやまれぬ事情で大国の後塵《こうじん》を拝することになった亡国の姫の顔ではなかった。それはラグ湖の園遊会で、あの大芝居のときに見せた、勝利を確信した笑顔に違いなかった。
王女は、元のソファに戻ると、愉快そうに言った。
「ジャン、おまえの計画はもう終わりだ。ウルムスターに進駐しようとすれば、イウォーンと戦争になるぞ」
「……そうなるな」
「この場で誓《ちか》え。もうウルムスターを半島同盟に引っ張り込もうとはしない、禁輸政策などもとらないと」
「……くそっ、あと一週間早く事を始めていればなあ!」
しぶしぶジャン三世は、王女に言った。
「わかった。僕の負けだ。グリーナがそんな手に出るとは思わなかったよ。今後一切、ウルムスターに手出ししないと、ちか……」
至近距離を戦闘機の轟音がかすめたのは、そのときだった。突風を食らって機がぐらぐら揺れる。ジャン三世が、妙な顔をしてつぶやいた。
「なんだ、今の機動は……」
はっと何かに気づいた様子で、再び窓の外に目を向ける。王女が小さく舌打ちをした。
やがて、ジャン三世が、訳《わけ》がわからないといった顔で振り返った。
「あれはどう見ても、不明機に対する威嚇《いかく》機動だぞ? どうなってるんだ。グリーナ、君はイウォーンに切り捨てられたんじゃないか」
「ジャン、さっきの誓いを続けないか」王女は、未練がましく言った。「まだ、ちか、までしか言ってないだろう」
「そんな場合じゃないだろう!」緊張をみなぎらせて、ジャン三世は言った。「このままじゃ撃墜《げきつい》されるぞ。何とかしないと――」
「大丈夫だ。撃ってはこない」
「なんだって? どうしてそんなことが言えるんだ?」
額《ひたい》を押さえてしばらく黙ってから、ぼそっと王女は言った。
「電話したから」
「……はあ?」
彼のこれほどの間抜け面《づら》を見たのは、国内外を問わず、わたしたちが初めてだろう。王女の言ったことが飲み込めず、ぽかんとした顔をしている。いや待て、人のことは言えない。私だって、これまでに何回、王女のとんでもない言葉に、「はあ?」と答えてきたかわからないのだから。
困ったように王女があごをかいていると、操縦室からラウンジに、副操縦士のレンツェルゲン人が入ってきた。ジャン三世に向かって、困り果てた顔で言う。
「申し訳ありません、どうやらイウォーンの領空に入ってしまったらしく………」
「なんだと? らしくとはどういうことだ?」
「それが、計器が故障でもしているのか、正しい数値を示さないのです。我々はウルムスターの上空を旋回飛行しているつもりでしたし、計器にもそう出ていましたが、実際は四〇キロも東を飛んでいたというわけで……」
「故障じゃないんだ」
王女が、間《ま》が悪そうに言った。
「うちのエンジニアに言いつけて、そういう風《ふう》にいじったんだ。見た目は問題なく機能するが、実はずっと東のほうを飛ぶように……」
「グリーナ、どういうことだい」
王女のそばによったジャン三世が、ぐっとその目をのぞき込んだ。王女は、可能な限り目をそらしながら、答えた。
「あー、つまり……ちょっと細工をしたんだ。レンツェルゲンのパイロットはウルムスターの地形なんか知らないから、計器飛行をするしかないだろう。だから計器をいじって、イウォーンの領空に入ってしまうようにしたんだ」
ああ、と私は思い当たった。先日あの妙なグリム夫妻をパレスに呼びつけていたのは、そのためだったのか!
「それで、イウォーンの国王に電話して、うちの輸送機が少しそっちへはみ出すが、撃たないでくれって頼んだんだ。領土の端っこをちょっと横切るだけだって言ったら、大国の国王だけあって、簡単にOKしてくれたぞ」
「じゃあ君は」ジャン三世は、拳《こぶし》をぶるぶる震わせながら、抑制した声で言った。
「僕をだましたのか? イウォーンの戦闘機を見て、僕がウルムスターが占領されたと思うように」
「でも私は、身売りしたなんて、一言も言っていないぞ。おまえが勝手に誤解しただけで」
「そういう問題じゃないだろう!?」
けろりと答えた王女に、ジャン三世の雷が落ちた。
「もう少しだったんだがなあ」
「もう少しだった。危ないところだったよ」
西に転進してウルムスター領内に帰投するラマ01のラウンジで、二人がため息をついた。
「とにかく」
気を取り直したように、ジャン三世が言った。
「これでまた振り出しに戻ったわけだ。決心してくれ、グリーナ。悪いようにはしないから」
「たいがいしつこいな。お前も」
「僕は誠意で言っているんだよ。冗談じゃなくて、本当にイウォーンに攻め込まれたら、困るだろう?」
しばらく二人は見つめ合った。ややあって、王女が席を立ち、ジャン三世のそばに近づいた。
「この手だけは使いたくなかったんだが……」
「なんだ、まだ何かあるのかい?」
ジャン三世は呆れぎみに言ったが、王女が口を寄せ、その耳元に一言ささやくと、さあっと凄い勢いで顔色を変えた。
「ど、どうして君が?」
「図星だったか」
「ぐ……」
ジャン三世は、ピクルスの一気食いでもしたような顔で、口をつぐんだ。
驚いたことに、機が着陸するまで、そのままだった。
「お帰りなさい! ――どうでした?」
心配そうに出迎えたミオ卿、ヴェルヒャー室長、グリム夫妻に向かって、タラップを降りた王女は、沈痛な表情を作って見せた。
「非常に痛ましいことになった」
「……まさか?」
「あいつにとってな」
王女は、タラップの最上段に現われたジャン三世を指さして、にっと笑った。
「なんとかなったぞ」
「グリーナ!」
カンカンカンとタラップを鳴らして降りて来たジャン三世が、王女の腕をとってひそひそ声で何か話した。王女の隣にいた私には、それが聞こえてしまった。
「頼むよ、秘密だからね」
「お前の態度|次第《しだい》だな」
「もう意地悪しないよ。地下組織の連中も帰す。だから、僕が指しゃぶりしてるなんて、だれにも言っちゃだめだよ!」
護衛を後ろに従えたジャン三世が専用車の中に収まると、私は王女に聞いた。
「どうしてわかったんです」
振り返った王女が、私を見上げた。
「立ち聞きは感心しないな」
「忘れますよ。この場限りで」
「……機の中で、あいつが私の手をつかんだろう?」グリーナ王女は、私にだけ聞こえるような小声で言った。「そのとき、親指のたこがわかってしまってな」
「……なるほど」
「ミオたちには秘密だ。――そんな馬鹿々々しい手で勝ってしまったなんて、恥ずかしくて言えないからな!」
顔を見合わせて、わたしたちは、笑った。
5
三月。
依然として、ウルムスターは冬将軍の占領下にある。前夜まで降り続いた雪が積もり、白い絨毯《じゅうたん》が敷かれたような街路を、私は転ばないように気をつけて歩いていた。休日で、近所の店まで買い出しに行った帰りである。
ところどころだれかの足跡でまだらになっている道を歩いていると、後ろからばかぽこと妙な音が接近してきた。振り向くと、額《ひたい》に白い星のある黒鹿毛《くろかげ》の馬が、草色のコートを着た人物を乗せて歩いているところだった。
「トランスか?」
聞き慣れた声に騎手を振《ふ》り仰《あお》ぐと、すっかりなじみになった顔がこちらを見ていた。
「何してる?」
「ちょっとそこまで、酒を買いに行った帰りです。ははあ、これが例の馬ですか」
私の前で足を止めると、黒馬はぶるるっ、と盛大な鼻しぶきを吹いた。もろに食らってしまう。
「アルクティカ、私の知り合いのトランスだ。あいさつ代わりに蹴飛《けと》ばしてやれ」
「やめてください、こんなところで蹴り倒されたら、一張羅《いっちょうら》のコートがだいなしだ」
見れば、後ろに誰も連れていない。相変わらずの単独行動のようだ。王女である以前に若い娘なのだから、もう少し警戒したらどうだと思っていると、王女が唐突《とうとつ》に言った。
「今、ヒマか」
「帰って洗濯でもしようかと思ってたんですが」
「そういえば、寂《さび》しい独身だったな、お前。これからスケートに行くんだが、来ないか?」
これである。毎度ながら、どうしてこの王女は王女らしくないのだ。
「また呑気《のんき》な……行きます」
私が答えると、王女は鞍《くら》の後ろを開けた。乗れということらしい。
「ヤッ!」
身軽に飛び乗った私を、王女は感心したように眺めた。
「乗馬の経験があるのか」
「国で少し。かじった程度ですが」
「スケートは?」
「そっちはまだです。暖かい国だったって前に言いませんでしたか」
「ゼルゼードだったな、お前が言うには」
「え?」
いきなり馬が走りだし、あわてて私は鞍をつかんだ。凍《こお》った路面で蹄《ひづめ》を滑らせやしないかとひやひやしていると、前から王女が叫んだ。
「洗濯はいいのか?」
「春が来てからにしますよ。こう寒くちゃ、干しても凍ってしまいます」
「汚いな! なんだったらパレスに持ってこい。乾燥機ぐらいあったはずだ」
「考えときます!」
一〇分ほどでついたのは、スケート場ではなく小さな池だった。空港のすぐ南にあり、周囲を枯れた林に囲まれた、どっちかというと沼に近いような水たまりである。
近在の家からやってきたらしい家族連れの中に、見たような顔が見かけない格好をしているのを見て、私は目をしばたたいた。
「あれは……」
「なんだ、ミオの奴《やつ》、もう始めてるのか」
「ちょっ、長官ですか?」
ジーパンにジャンパーを着てポンポン付きのマフラーを巻いたその女性は、滑《なめ》らかな足さばきで岸にいた私たちの方にやってきた。
「あらトランス、あなたも?」
「はあ、王女に拾われまして」
「靴はあそこのおじさんに貸してもらえますよ」
「そ、そうですか……」
ふだん、スーツを着たところしか見たことがない私は、ラフな格好で髪まで結《ゆ》い上げている彼女の姿に新鮮さを感じてしまい、思わず口ごもった。王女に一礼した彼女は、身をひるがえして、白鳥さながらの優雅さで去っていった。私は、ぼんやりとそれを見ながら、王女に言った。
「長官……おいくつでしたっけ」
「二七だ。どうした、ぼけっとして」
「私服の長官を見たのは初めてなんで……」
言いかけて、私は絶句した。コートを脱《ぬ》いだ王女は、ヒラヒラのフリルのついた、真っ赤なワンピース姿だったのだ。
「な、な、なんですかそれは……」
「いや、ものの本によると、本格的にスケートをするときはこういう服を着るのが作法らしいぞ。国際級の選手がよくこういう格好をしているそうだ」
「周《まわ》りを見てくださいよ! どこにそんな出来損《できそこ》ないのバレリーナみたいな格好の人がいるんです!」
「彼らは本を読まないらしいな。あとで文教部長を叱《しか》っておこう。……それとも、何か文句でもあるのか?」
「いえ、別に」
衣裳《いしょう》負けしているわけではないのだが、それ以前の常識の問題だ。
王女は、平気な顔で貸し靴屋のおやじのところへ歩いていく。やがて滑り出した彼女を見ると、コスチュームのわりにやけに色気がない。技術的な問題はないのだが、動作が、彼女の性格そのままにやたらと攻撃的なので、まるで戦闘機が滑っているように見える。
よく見ると、二人だけではなかった。グリム夫妻や、執務室の連中が何人かいる。オフの人間が総出で来ているらしい。まったく、のんびりしたものだ。
私がそれを眺めていると、近くにいた綿帽子を被《かぶ》った男がやってきて、隣に並んだ。
「楽しそうだな」
やけに押しつけがましいその言い方に思い当たるものがあって、私は男の顔を見つめ直した。ヴェルヒャー室長のそれに似た、しかしずっと冷酷さを感じさせる無表情が、私を見返した。
「うまくこの国に浸透しているようだな、トランス」
「……〈テンドリル〉か?」
「……馬なんかで移動されたんで、追跡に手間どったぞ」
中継人《テンドリル》というコードネームをもつイウォーン情報部の連絡員は、妙に響かない発声で言った。
「作戦の基本案が決定した。国境の主要幹線道路二本の雪解けにあわせて決行される。陸空|連携《れんけい》の立体作戦で、同時に陽動として、潜入した部隊が数か所の戦略|拠点《きょてん》を爆破する」
「…………」
「お前の役割はその拠点の選定と、国内軍備の実勢の調査、そして、政府組織の平時・有事における弱点の調査」
「わかってる」
〈テンドリル〉の言葉をさえぎった私は、奇妙な衝動に突き動かされて言った。
「なんとか――なんとか、戦争を避けることはできないのか?」
「…………」
「陛下の御聖断に異を唱《とな》えるわけじゃないが……もっと、他の手を使ったっていいだろう。この国はたいした国じゃない。なにもわざわざ、イウォーンの軍隊を出動させなくても、経済や外交面でこの国を支配することはできるんじゃないか」
「迅速《じんそく》かつ完全な占領を、陛下はお望みだ」
冷然と、〈テンドリル〉は言い放った。
「お前の言うとおり、ここはたいしたことのない、踏めばつぶれる卵のような小国だ。軍事力の行使も、最短の時間で終わるだろう」
その短時間にイウォーンが投入することができる兵力が、どれほどになることか。なおも私が抗弁しようとしたとき、〈テンドリル〉は氷のようなまなざしで私を見て言った。
「情が移ったか」
「……そんなことは」
「お前はなんだ。言ってみろ」
「イウォーン帝国軍事情報部少尉、デューイ=トランス」
ゴリッ、と私の脇腹《わきばら》に何か固いものが押しつけられた。その何かを周囲に見られぬよう体に密着させて、〈テンドリル〉は全く人間味を感じさせない、録音音声のような声で言った。
「忘れるな。しかし口にするな。今のだけでも、本来なら抹殺《まっさつ》するところだ」
「……ああ」
「情《なさ》けをかけられても、情けをかけるな。最後につらいのは自分だ。今まで、お前がスパイであることを知った相手は、どんな顔をした? わかってるはずだ」
私は言葉を失った。どんなに王女たちに、この国にひかれようと、決して心を通わせることはできない。それが、私たちの宿命だった。
可能な二通りの選択、だまし続ける、真実を告げる、そのどちらの場合にも、私が安息を得ることは決してない……。
「この土地はお前の土地じゃない。あの王女も、お前の王女じゃない。――忘れるな、ここはお前の居場所じゃない」
〈テンドリル〉はそう言うと、恐ろしい言葉を口にした。
「王女を殺せ」
「――――」
「やれるな?」
私は、凍りついたように黙っていた。出し抜けに、〈テンドリル〉は別人のように破顔し、親しげに私の肩を叩《たた》いた。
「今度一杯やろうぜ。じゃ、またな!」
顔を上げると、王女がこっちに向かってきていた。〈テンドリル〉は陽気に笑い、隠し持っていたものを素早く引っ込めると、一言《ひとこと》ささやいた。
「わかってるな」
立ち去る〈テンドリル〉の後ろ姿を見ながら、息を弾《はず》ませて王女が聞いた。
「誰だ今のは」
「昔の――友人です」
「そうか。おい、お前も来てみろ! 今、ミオたちと鬼ごっこをやってるんだ」
寒さで赤くなった頬《ほお》で、王女は笑った。その笑顔を見続けることができず、私は背を向けた。
「すみませんが、気分が悪くなったので……」
「顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
「帰ります。ごゆっくり」
不思議そうにたたずむ王女をおいて、私は重い足どりで、歩きだした。
サマルカンドの郊外に借りた自分のアパートで、グラス一杯に注《つ》いだ若葉色の液体を、私は一気に飲み干した。フローラルだ。店でアルコールを物色したとき、これが一番安かったのだ。他の、輸入物の銘柄《めいがら》もあるにはあったが、それ一本で、フローラルが二本半買える価格だった。酒の味に特にこだわる性格でない私は、同じ度数の酒を見比《みくら》べた結果、フローラルを手に取った。――外国銘柄の高いのは関税のせいだろうが、そういうところから国民のなかに不満の火種が生じることもあるだろう。王女は、そのへんのことをわかっているだろうか。
強い酒ではないが、量が量だ。すぐにも酔いが回ってくるかと思ったが、一向その様子がない。ふて寝するつもりだったが眠気が全く起こらないので、私はしかたなくデスクに積んだ資料を読み直すことにした。
資料は、ウルムスターの軍備に関するものがほとんどだった。
ウルムスターの常備兵力は、約四千人である。ただしこれは職業軍人の人数であり、戦時においては適齢期の男子が民兵として動員されるので、実数を把握《はあく》することは難《むずか》しい。過去の記録では、一一年のデルナム軍侵攻のときに、二八万人動員という数字がある。これはこの国の国防の特色の一つで、〈国を守るために戦う〉という基本精神のわかりやすい現われである。国土が小さく、海を持たないこの国の軍隊は、そもそも昔から、外へ出て行ってよその庭先を荒らすよりは、中へ入られてそれを追い返すために戦うということのほうが、断然多かった。むろん連戦連勝というわけにはいかず、一度ならず違う旗を仰《あお》ぐ軍の膝下《しっか》に屈したりしたが、その都度《つど》民衆が自力で立ち上がり、自力で侵略軍を追っ払っている。地理的条件からウルムスターの民《たみ》は歴史上あまり他国との交流をもったことがないが、近ごろとかく閉鎖的だと非難されるその国民性が、国防上の観点から見れば、逆に大きな強みになっているようだ。
ウルムスター軍は、六個歩兵師団、四個山岳師団、それに約一八〇機の空軍からなる。
問題はここからで、戦時動員という軍隊の在り方から、必然的に兵力が拠点に集中していない。国中にバラバラに散らばっているのだ。用兵学上の基礎である、戦力は集中して運用するべしとの考えに、根本的に対応していない。空軍も似たり寄ったりで、基地に部隊単位で戦闘機を配備するという、他国では常識となっているやり方をせず、全土の小規模な飛行場に機体を分散させ、ところによっては農道を滑走路代わりに使うような、ほとんどゲリラ的と言えるような運用方法さえしている。だれが考えたシステムか知らないが、その人は、指揮連絡や補給面での恐ろしいほどの繁雑《はんざつ》さを考えなかったのだろうか?
また、この国には戦車が存在しない。あるのは、口径一五五ミリから三〇〇ミリまでの長距離砲だけである。これも他国では主力部隊の援護にしか用いられない代物《しろもの》で、常識では考えられない装備である。さらに、空軍では、小型なくせに燃料をバカ食いし、兵装|搭載《とうさい》量も少なければ行動半径も狭いというグリムFPホッピンフォックスやアイベックスなどの戦闘機を使用しているが、いったい何を考えてそんなものを作ったのかと疑うような機体ばかりである。
要するに、ウルムスターの軍備はお話にならないというのが結論なのだが、それに対してイウォーンの軍事力と言えば――あえてくわしく説明しないが、その総兵力が、ウルムスターの人口の実に三分の一に達すると言えば、どちらがどちらの前で風前の灯《ともしび》か、よくわかるだろう。
私は、資料をひとまとめにすると、ひもで縛《しば》り上げた。後で情報員に渡すためだ。これを参考に、イウォーンでは侵攻作戦の修正が行なわれるはずだ。
することがなくなると、どうしようもない寂寥《せきりょう》感が襲ってきた。
私は、イウォーン中部のザインツェルという町に生まれた。家族のことは覚えていない。というのは、私が二歳のころに事故にあって、私を除く全員が死亡したからだ。
下町の孤児院が私を引き取ったが、なにしろ環境がよくなかった。
院長は町からの援助金をくすねて酒代に回す飲んだくれ。三人いた保母たちは、一人がスリの常習犯で、一人が元売春婦で院長の愛人、もう一人が警察だかマフィアだかに追われている元スパイでしかも院長の第二愛人という具合で、他の孤児たちと同様、私も非行の道に足を踏み入れ、万引き恐喝《きょうかつ》かっぱらいから無免許運転までひと通り犯罪行為のメニューをこなして、めでたく札付きの不良となった。
親友と呼べる友達はいなかったが、三人目の保母の元スパイとは妙に気が合って、ちょくちょく二人で逢《あ》い引《び》きするうちに、いつの間にかスパイとしての技能と女の扱い方を仕込まれていた。
一四のとき、警察の手が入って、孤児院はぶっつぶされた。元スパイの保母も、そのときどこかへ行ってしまった。その後いくつかの事件を経《へ》て、私は軍の情報部に拾われ、我流に近かった諜報《ちょうほう》技術を矯正《きょうせい》され、強化されて、今の職についたのだが――今振り返ってみると、もっと別の道はなかったのかと思えてくる。一二年の荒れ果てた生活で孤独の恐ろしさはいやというほど味わったはずなのに、自分がそれに慣れてしまったと錯覚し、他のどんな仕事よりも孤独なスパイなどになってしまうとは。
しかし、と私は思い直した。それも今だから言えることだ。自分自身以外、何一つ持っていなかった一四歳の私に、ベッドと食べ物と、建前《たてまえ》だけとはいえ市民権を与えてくれる情報部の誘いを断《ことわ》ることは、不可能だった。私の運命は、あのとき決まったのだ。この軛《くびき》から逃《のが》れることは不可能であり、万にひとつ逃れても、行く場所はない……。
――その日、私は二瓶《ふたびん》のフローラルを、胃に流し込んだ。
ポプラパレスは広くはない。しかし、ウサギ小屋並みに狭いというわけでもない。王室政務室を始めとする政府各部門の区画があり、プレスルームやゲストルームもあり、レストランや小さいながらカフェバーもあり、それに加えて、もともとの主《あるじ》である王族の居住する一画がある。
広くはないと言っても、それは他国の宮殿や官邸に比べての話で、部屋数はかなりの数になる。
で、迷った。
「どこだここは……」
平日の昼休み、レストランで昼食をとり、長官執務室に戻るときに、ふといつもと違う道を通りたくなり、回り道をしたのがいけなかった。先日来の悩みのこともあって、ぼんやりと歩いていたら、いつの間にか現在地を見失っていたのである。
中世の王城の地下迷宮でもあるまいし、そのうち見知った所に出るだろうとたかをくくっていたが、甘かった。気がついたら、床には毛足の長い絨毯が敷かれ、壁には絵の具が変色した大時代な絵画がかけられ、天井からはずいぶん長い間使われていないような燭台《しょくだい》がぶらさがっている、ほこりの匂《にお》いの漂う妙な廊下に立っていた。
「まいったな」
調度の数々が――正確にはその古臭《ふるくさ》さが――私に教えた。ここは、どうやらパレスの中でも最も古い、王族の住むエリアらしい。途中に近衛《このえ》のガードする扉なりなんなりがあったはずだが、誰にも呼び止められなかったことを考えると、兵士はトイレにでも行っていたのだろうか。
私が突っ立っていると、廊下の奥から一人の侍女《じじょ》が急ぎ足に駆けてきた。純白のエプロンとティアラをつけ、髪を両肩で切りそろえた、一五、六の可愛《かわい》らしい少女である。何に使うのか、両手でコップを大事そうに捧《ささ》げ持っている。
道を聞こうとして私は声をかけた。
「君、ちょっと聞きたいんだが」
「すみません、急いでいるんです」
早口で答えると、少女はかたわらの一枚板の扉を開け、中に入っていった。
と、ガチャン! と派手な音が聞こえて、泣き声のような叫び声が上がった。
「ああん! 私ったらまたやっちゃった」
扉が閉じ切っていない。そっと中をのぞくと、窓がないのか薄暗い室内で、少女が割れたコップの破片を拾い集めていた。私は黙ったまま室内に入り、少女のそばにしゃがんだ。
「手伝おう」
「きゃ!」
びっくりして猫のように飛びすさった少女に、私は苦笑しながら話しかけた。
「別に妙なことをしようってんじゃない。私はデューイ=トランス。王宮長官の秘書だ」
「ミオ様の?」少女は黒目がちの瞳《ひとみ》を見開いて、驚いたように言った。「じゃああの、グリーナ様と恋人同士で、グリーナ様をお守りするために、ギャングと決闘したっていう、あのトランス様ですか?」
「だからどこからそういう、事実と一万キロは隔《へだた》っているような噂《うわさ》を……いや、まあ一部は事実だが」
「わあ、じゃあやっぱり恋人同士なんですね」
「そこが一番事実と違う」
「なんだ……つまんないの」
しょげ返ってしまう。可愛いというより幼いその様子に、私も反論する気がなくなった。
「君の好きなように思ってくれ。ところで、ちょっと聞きたいんだが……」
「あ、いけない」
しーっと指を立てると、少女はそっと部屋の奥をうかがった。そちらを見ると、幅の広い寝台があり、誰かが眠っているようだった。
「お起こししていないと、いいけど……」
少女は立ち上がり、ベッドをのぞき込んだ。私もつられてそうする。
あまり血色がいいとは言えない顔色の、年老いた女性が横たわっていた。苦しげに眉《まゆ》を寄せ、時折《ときおり》いやいやをするように頭を動かしている。
「うなされておいでだわ。……急いでお水をお持ちしなくちゃ」
「待ちたまえ」
行きかけた少女を引きとめて、私はベッドの横のナイトスタンドを指さした。
「これだよ」
つけっ放しのライトを、ひもを引っ張って消す。老女性の顔は、ふっと闇《やみ》の中に沈んだ。
「白熱灯は熱いからね」
少女が老女性の寝息に耳をすまし、やがてにっこりと笑った。
「外で待っててくださいな。私、コップを片づけます」
廊下に出てしばらく待つと、ちり取りをもった少女が出てきて、そっと扉を閉めた。わたしたちは顔を見合せ、笑みを交《か》わした。
「ありがとうございます、私、どうしたらいいかわからなくって……」
「礼を言われるようなことじゃない」
「いいえ、ありがたいと思ったらその場でお礼を言わなきゃだめだって、お父さんが言ってました。後になると、感謝の気持ちも薄れるって」
少女は、ぺこりと頭を下げた。
「私は、リューリカっていいます。トランス様、陛下をお助けしてくださって、ほんとうにありがとうございました」
「陛下?」リューリカの言った言葉に、私は驚いた。
「じゃ、あれ――あの方が、イリア女王なのか」
「はい。私、女王陛下のお側女《そばめ》をやらせていただいているんです」
「君一人?」
「いえ、あと交替の者と、お医者様がいらっしゃいます。お医者様のおっしゃるには、陛下はお脳の血管のご病気だとかで……」リューリカは、表情を曇らせた。
「お言葉もご不自由になってしまわれて、それで、私たちがお世話をして差し上げているんです」
口調は幼いが言葉ははっきりしていて、聡明《そうめい》そうだ。私は、ふと思いついたことを、聞いてみた。
「リューリカ。君はこの国が好きか? 王女のことは?」
ぱちくりと瞬《またた》いてから、リューリカは私に、「おっしゃることがよくわかりませんわ」と言った。
「わからない? 君のいる、このウルムスターという国をどう思うか、それを聞いているんだが」
「あら」リューリカは不思議そうに首をかしげ、私の目をのぞき込むように答えた。
「ウルムスターの人間で、ウルムスターが嫌いな人なんか、いませんわ」
「他の国と比べて?」
「それは」ちょっと物欲《ものほ》しげな顔をして、「大きな町や、砂漠っていうところや、海っていうものも見てみたいですけど」と言ってから、少女は花が咲くようにぱっと笑った。
「私、この国が一番好きです!」
一番好き、か。
「グリーナ王女は?」
「もちろん、大好きです。私、おととしからここへお勤めしてるんですけど、グリーナ様のこともよく知ってます。グリーナ様ほど、私たちと親しくしてくださる方、王室の方々にはいませんもの!」
「君は可愛がってもらったのか」
「私だけじゃありませんわ」リューリカは白いきれいな手を出して、指折り数え始めた。
「クレモナもチェルシーもナタリーも、あ、これ私のお仕事友達です。ジュートもベラスも、私のお父さんも、お隣のノルドさんも、みんな、グリーナ様にお声をかけていただいたんです。私、言っちゃいます。あの方を嫌いな人はいません!」
「兄殿下たちは?」
元気よく断言したリューリカにそう言うと、わっと驚いたような顔をしてから、うつむいてしまった。
「ジョシュア様は、ちょっとグリーナ様をお嫌いみたいです。ごめんなさい」
「謝らなくても――」
「いいえ! 間違ってたらすぐ謝れって言われたんです。後になると取り返しがつかない、これはありがとうを言い忘れるより悪いことだって」
「それも、お父さんに?」
「おじいちゃんです」
「そうか」
私は、彼女のティアラをつけた頭をなでた。
「いい家族だね」
ぱっと顔を輝かせて、少女は「ありがとうございます!」と言った。
「もう一つ、聞きたい」
「なんでしょう?」
「長官室はどっちだ?」
見る間にほっぺたを膨《ふく》らませると、くるっと向こうを向いて、リューリカはぷーっとふきだした。
「なんだ、笑うなよ」
「だって……迷っていらしたんですか? 私てっきり、陛下に御用があっていらっしゃったんだと思っていましたのに」
「悪かったな」
「ごめんなさい」こっちを向いて目尻《めじり》の涙をふくと、リューリカは言った。「ああ、おかしい。トランス様みたいな偉い方でも迷子になるんですね。そういえば、前にヴェルヒャー様も」
「なんだって? 室長が?」
しまった、というように口を押さえてから、リューリカはいたずらっぽく舌を出した。
「内緒ですよ。――あの方も一回、間違えてこちらへ入っていらっしゃったことがあるんです!」
頭蓋骨《ずがいこつ》の裏側に〈用意周到〉や〈冷静沈着〉といった四字熟語が書き込んでありそうなあの政務室長が、困り果てつつも無表情な顔を崩さずに古びた廊下をうろうろしているところを想像して、私は思わず口もとをゆるめた。
「おもしろい話だ。誰にも聞かせないのはもったいないな」
「ミオ様のお部屋は、ここをまっすぐ行って二つ目の角を右に曲がって、突き当たりの空き部屋を通り抜けるのが近道です」
「ありがとう」
お礼を言って歩きだした私を、背後からリューリカの声が打った。
「またいらしてくださいね。トランス様って、おもしろい方!」
手を振って、私は進んだ。
少女の言葉が胸によみがえる。「この国が一番好きです」
私は、私の国にそう言えるだろうか?
私がそう言える国は、あるのだろうか?
6
静かなときが流れる。
降り積もった雪の下で深い眠りをむさぼっているようなこの国も、少しずつ、ゆるやかに目覚めに向かっている。いつもどおりコートを着て外へ出たとき、耳をかすめる風に厳しさが欠けているのに気づいて驚く、そんな日が増える。山々に響く遠雷のような轟《とどろ》きは、ゆるんで崩れ落ちるなだれの音だ。凍《こお》りついた木々の枝先からはきらめく小さな滴《しずく》がしたたり出し、はがれた白いベールの下から、柔らかな緑色の小さな芽がのぞく。――私は、パレスの周《まわ》りのポプラにそれを見つけた。
王女は、相変わらず鉄砲玉だ。「出てくる」の一言《ひとこと》を残してアルクティカにまたがり、三〇分後には愛機でどこかへすっ飛んでいく。そうかと思えば妙な客をパレスに連れ帰って、一緒にラウンジで茶を飲んだりしている。
ミオ卿《きょう》が私に与える仕事は、少し重要なものになった。といっても、建設部との地図製作に関する打ち合わせとか、長官代理として地元小学校の卒業式に出席するとかのたわいないことばかりで、雑用係が便利屋に変わった程度だ。
時が移り、年度が変わった。四月、私の元に小包みが送られてきた。差出人の名はなく、開けてみるとフリスビーほどもあるチーズで、割ると、中から油紙に包まれた、金属製の道具が出てきた。デルナム製の、自動拳銃だった。それは、嵐の到来を告げるものだった。
四月一〇日、朝。雪どけで国境道路の通行止めが解除されたことを報じていたラジオが、前触れもなく途切れ、同時に、市街の方角でいくつかの重い爆発音が聞こえた。
アパートでそれを聞いた私は、コートの下に拳銃を隠し、家を出て、車に乗った。
サマルカンド市内は、騒然としていた。町角をにわか仕立ての民兵たちが走り、乗用車に代わってトラックが街路を行き過ぎる。その荷台に野砲と兵士たちが満載されているのを見て、私はハンドルを握る手にぐっと力を込めた。
信号のランプが消え、警官が声高《こわだか》に叫んでいる交差点で私が停まったとき、助手席のドアが叩《たた》かれた。ハッとそちらを見ると、ヴェルヒャー室長が、こんなときだというのに無表情のままのぞき込んでいた。
一瞬迷ったが、ここで無視しては疑惑《ぎわく》を招くと思い、私はロックを解除した。さっさと室長は乗り込んでくる。
「助かった。君の車は本当に目立つな」
「どうしてここに?」
「通勤途中だ。私はいつも自転車でね。話は後だ、一一番街に行ってくれ」
「しかし、渋滞《じゅうたい》が……」
手動式のウィンドウをえらい勢いで開けると、身を乗り出してヴェルヒャーは怒鳴《どな》った。
「警察官! 政府のレイ=ヴェルヒャーだ! 優先してくれ!」
交通整理の警官はそれを聞くと、手を振り回して交差する道路の交通を止め、「どうぞ!」と叫んだ。
対向車線から、前の車の列を迂回《うかい》して走りだすと、ヴェルヒャーが身を乗り出したまま言った。
「爆発音は複数だったな。放送局、電話局、変電所、駅、それに軍の施設、襲われたのはそのあたりだろう。君はどこへ行くつもりだった?」
「パレスです」
「そっちは近衛《このえ》が固めているからいいだろう。一一番街の軍|参謀《さんぼう》本部へ急ぐぞ!」
街《まち》のあちこちから湧《わ》き起こった重く長い空襲警報のサイレンを聞きながら、私はおかしなことに気づいた。さっきの爆発に対応して動き出したにしては、民兵の動員や武器の用意が早すぎる。
いくつかの交差点をヴェルヒャーの権力で駆け抜けて、私のウェリントンは一一番街への角を曲がった。とたんに、集まってきていた消防や救急の車の群れに突っ込みそうになる。
急ブレーキをかけて停止するが早いか、ヴェルヒャーが飛び降りて駆け出した。私も、キーを差しっぱなしで後に続く。
一一番街の中ほどにあった国軍参謀本部は、五階建てのビルだったが、そこの一、二階に、えぐられたような大穴があいており、まるでビルに巨大な口ができたように見えた。ヴェルヒャーは責任者を見つけたらしく、消防隊長らしいのをつかまえて様子を聞いていた。
「記者じゃないんだ、爆発の様子なんか言わなくていい。被害状況、それにここにいたなかで意識があって最も階級の高い軍人の居所を教えろ!」
「被害状況なんかまだわからん。警察が現場検証をするのを待たなけりゃ……」
「じゃ、その警察の責任者はどこだ!?」
「室長、こっちです!」
救急隊員の助けを断《ことわ》って座っている、軍服姿の男を見つけて、私は叫んだ。
駆けつけたヴェルヒャーは、男にIDカードを見せて、言った。
「王室政務室のヴェルヒャーだ。参謀本部の機能面での損害はどれぐらいだ? わかっている限りでいい、教えてくれ」
「抜き打ちヴェルヒャーってのはあんたか。名前は聞いてるよ」少佐の襟章《えりしょう》をつけたその男は、真っ黒にすすけた顔で言った。「ゆうべの動員命令といい、あんたがここに来た素早さといい、政府はこのことをわかってたみたいだな。なぜ教えてくれなかった?」
男の言葉に私は驚愕《きょうがく》した。前夜に動員命令が出ていたのか? いやそれよりも、なぜ政府が――王女が知っているんだ。今日の侵攻を。どうして私は知らないんだ?
「通達が出ているはずだ。高度な武力攻撃が行なわれる可能性があるから、警戒しろと」
「それは聞いたよ。夜中にいきなり、本部の主《おも》だった機能をパレスに移したのもそのためだろ? でもその後の命令は、ありゃなんだ」
「後の?」ヴェルヒャーの表情が厳しいものになった。「命令は一回きりのはずだ。もう一度あったというのか?」
「なにを言ってるんだ、攻撃の恐れがなくなったって言ったじゃないか!」
「確かか!」
「間違いない。夜の一時ごろ、パレス直通回線で連絡があった。知らないって言うのか?」
「……迂闊《うかつ》だったな」
やにわに身をひるがえすと、ヴェルヒャーは駆け出した。追いすがりながら私は聞く。
「偽《にせ》の命令が?」
「らしいな。直通回線は細工ができん。敵はパレスの中だ」
「パレスに?」私は思わず聞き返した。「政務室にですか? それとも、他の部門に」
「いや、おそらく」
ヴェルヒャーが言いかけたとき、私たちの前に数人の男が立ちはだかった。
「どけ! 急いで――」
パン! と乾いた音が響き、ヴェルヒャーの語尾と彼の体が吹き飛んだ。コマのように回転しながら倒れたヴェルヒャーを見て、私はとっさに頭から前方に飛び込んだ。
たたき込まれた格闘技術を、頭より先に体が思い出す。一回転した私はそのままの勢いで一人の男の足にタックルをかけ、路上に引き倒した。ゴッと音がし、頭部を打ったのかそいつは動かなくなる。
右にいた男が向けようとした拳銃を右手で弾《はじ》き、左手でパンチを繰り出す。相手はそれを避け、さらにその横にいた男が手刀《しゅとう》を突き出してきたが、私は体を回転させてかわした。かわしついでに正面の相手の拳銃を握《にぎ》り締《し》め、思い切りひねる。バキバキッと指の骨が折れる音がし、男は悲鳴を上げた。
左から二打目の手刀が首をねらって繰り出され、私は避け切れずに、肩でそれを受けた。相当|鍛《きた》え込んでいるらしく、ズンと骨まで響く。顔をしかめながら私は体を半回転させて蹴《け》りを放ったが、相手も読んでいたのか、うまいことかわされた。
と、視界の隅に、拳銃が落ちているのが目に入り、私はそれに飛びついた。前転して、片膝立《かたひざだ》ちで起き上がる。後ろから私に回し蹴りを当てようとした男に、振り向きざま拳銃を向け、私は連続して引き金を引いた。
パパパン!
男の胸に、赤い花が弾けるように咲き乱れた。男は不完全な回し蹴りをひょろひょろと放つと、ぱたりと倒れた。
周りにいた警察や消防隊員が集まってきたが、かまわず私はヴェルヒャーに駆け寄った。
「室長!」
「静かにしろ、傷に響く。大丈夫だ、右肩だから致命傷じゃない。それより、急がなければ!」
「あの、そちらは……」
走り寄って来た救急隊員に、「かまわないでくれ」と無愛想《ぶあいそう》に言って、ヴェルヒャーは立ち上がった。
「いくぞ、トランス」
「そこの君、ちょっと事情を……」
今度は警察官が寄って来た。その鼻先にIDカードを突きつけ、「私は政府の者で、今は国家の有事だ。話は後にしてもらいたい」と一方的に言うと、ヴェルヒャーは足もとに血を垂らしながら歩きだした。私は思わず引き止めた。
「無茶ですよ、室長」
「トランス、わかっているのか」
足を止めず、ヴェルヒャーは私の車にたどり着いた。助手席のドアを開けて乗り込む。
「殿下が危険なんだぞ! 早くしろ!」
しかたなく私も乗り込み、車を発進させた。ちらりと横を見ると、ヴェルヒャーの無表情な顔はそれとわかるほど蒼白《そうはく》だった。
「室長――」
「止血ぐらいできる」
大儀そうに上着を脱《ぬ》いで破り、傷口を縛《しば》る。器用なものだ。どこで覚えたのだろう。
「私も偉くなったものだな。テロの対象になるとは」
「室長、さっきなんて言おうとしたんです。おそらく?」
「その話か。直通電話は、私と王宮長官以外は、王族しか使用できん。長官は不在だし、殿下がそんな命令を出すとは思えん」
「――じゃあ!」
ヴェルヒャーは、うなずいた。
「兄殿下だ」
ガシャアッ!
「あつつ……乱暴な運転だな」
「乱暴なのは運転じゃなくて室長のプランでしょう」
パレス正門を固める近衛部隊が敵か味方かわからなかったので、ヴェルヒャーの考えで強行突破をした。鋳鉄《ちゅうてつ》製の重い門をぶち破って、数十人の近衛兵の中に突っ込んだのだ。悲鳴と怒号《どごう》が巻き起こり、長銃弾が車体に跳《は》ね返る。バンパーがめり込んだ門扉《もんぴ》を、一度バックして振り払ってから、再び私はアクセルをベタ踏みした。古いとはいえ一九〇馬力の出力を誇るウェリントンのV6エンジンが咆哮《ほうこう》し、後輪をホイルスピンさせてダッシュする。
閉めっぱなしの幌《ほろ》を何発もの銃弾がズボズボ突き抜けていくのを、首をすくめて見ながら、コンバーチブルを買ったことを後悔《こうかい》していると、置き去りにした近衛部隊を見ていたヴェルヒャーが言った。
「セムの部隊か。ジョシュア王子の子飼いだ。やはりあのかんしゃく王子か……このぶんではゼルダ、カーラあたりも寝返っているな」
「これからどうするんです」
門からパレス正面玄関に至る登り坂を二速全開で走りながら、私は聞いた。
「正面からいったところで、近衛に阻止《そし》されるのがオチだろう。今ので連絡がいっただろうからな。右の庭に入れ。政務室の窓につける」
「殿下の部屋に直接行ったらどうです」
「途中にポプラの並木があるだろう。この車で直径五〇センチのポプラをへし折れるか?」
「……試すのは今度にしましょう」
正面玄関の車寄せに、紺《こん》の制服の近衛部隊が集まっているのが見えてきたところで、私は思い切りハンドルを切って、パワードリフトをかけながら道路わきの植え込みに突っ込んだ。激しくバウンドする車体を、横転しないようにハンドル操作でなんとか押さえ込み、庭園に走り出る。
玄関前を固めていた部隊が銃撃してくるのを無視して、石造りの像とベンチを跳ね飛ばし、小川を飛び越えて、建物の側面に回り込む。いちにいさん、と窓の数を数えていたヴェルヒャーが、あれだ、とひとつの窓を指さした。
「あの前につけろ」
了解、と答えようとして、私はブレーキがきかなくなっていることに気づいた。あれだけ派手なまねをしたんだからしかたないかと納得しながら、車を建物に寄せて、側面をこすりつけた。ものすごい擦過音《さっかおん》が上がる。
「おい、柱にぶつかるぞ!」
「政務室はちょうどそこですよ」
やけぎみに言ったとたん、車が衝突した。
ウェリントンは、壁から突き出ている柱の部分にぶち当たって、ついに原形を留《とど》めなくなった。私は、衝突の瞬開閉じていた目を、恐るおそる開いて、隣のヴェルヒャーを見た。
「大丈夫ですか?」
「死んではいない。おい、扉が開かんぞ」
「こうしましょう」
私は幌を引き裂いた。すでに銃弾でボロボロにされていたので、楽な作業だった。私はコンバーチブルでよかったと思った。人間なんて現金なものだ。
頭を外に突き出すと、窓から顔を出した執務室のスタッフと目が合った。あれだけ派手な到着をやったんだから、様子を見て当然だ。
「トランス? ――室長!? どうしたんです。その傷は!」
「あとだあとあと! トランス、手を貸してくれ。ぐずぐずしていると近衛の連中が来る」
ヴェルヒャーを引きずり上げ、窓の中に転がり込んでバリケード代わりの机を立てると、私はようやく一息ついた。
王室政務室には、ここのスタッフと、参謀本部からきたらしい数人の軍人がいるだけだった。ベッドがわりの机に寝転んだヴェルヒャーが聞いた。
「殿下は? 状況はどうなっている!」
「わかりません、ここは今孤立しています。室長がここへ来られてよかった。いや、悪かったのかもしれませんが……」
副室長のシリングスが答えた。
「電話は!」
「回線が切られました。他の部署との連絡もつきません。残っているのは、あれだけです」
シリングスが指さした大型の無線機のような機械が、突然ベルの音を響かせた。私は聞いた。
「これは?」
「殿下の命令で運び込んだんだ。空中管制機との連絡用に――はい、こちらグランドヘッドクォーター!」
『ラマ01です。シリングス、状況は変わりましたか?』
「今、トランスと室長が到着しました。それ以外は変わっていません」
『トランスがそこにいるんですか?』雑音|交《ま》じりの声は、ミオ卿のものだった。『代わってください! トランス、聞こえますか?』
「聞こえます。長官、今どこですか?」
『上空です。詳《くわ》しい説明をしているヒマはありません。早くそちらをなんとかしてください! そちらのバックアップがないと、私だけここにいても意味がありません!』
ヴェルヒャーが室内を見回して言った。
「ここにいる制服組は、尉官《いかん》以下の下っぱばかりだ。指揮はできない。戦況はどんな具合だ?」
『陸軍はまだですが、空軍はすでに各部隊長の判断で戦闘を開始しています。まだ敵機が少ないからいいですけど、そのうち数を投入されたら、やられてしまいますよ』
「長官、臨時に指揮官になってくれ」
『私が!?』
「私が補佐する。将校が一人もいない以上、やむをえん。トランス!」
驚くミオ卿にとんでもないことを要請すると、ヴェルヒャーは私に言った。
「殿下のお部屋の場所はわかるな」
「もちろんです」
「行ってお助けしてこい」
願ってもない命令だ。王女に会いに行くことこそ、今の私の目的なのだから!
『トランス、私からもお願いします』
ミオ卿の声に、私はうなずいた。
「わかりました」
「行け!」
廊下へ出るドアの前で、制服の兵士たちが言った。
「出るとすぐ銃撃を受けます。援護しますから、廊下を突っ切ってください。後は自力で……わたしたちも、この部屋を守らなくてはならないので」
「わかった」
兵士がドアを薄く開け、外を見た。遠くから銃声が聞こえるが、この廊下は静まり返っている。「さあ」
二人の兵士が扉から銃を突き出して撃ち出した。呼応するように、廊下の角に陣取《じんど》った近衛兵が撃ち始める。意を決して飛び出すと、私は一目散に廊下を走って、反対側の角に飛び込んだ。後を追うように、数発の弾《たま》が壁にめり込んだ。
しばらく様子をうかがったが、援護のおかげか、追ってくる様子はない。
私は、歩きだした。
パレスの中は、奇妙な雰囲気に支配されていた。人気《ひとけ》のない廊下。曲がり角から横道をのぞくと、いきなり死体が転がっていたりする。散発的に聞こえる銃声を、まだ遠いと思っていると、びっくりするほど近くで軍靴《ぐんか》の音が聞こえ、あわてて身を隠す羽目になる。
手近にあったトイレに隠れて誰ともわからぬ足音をやり過ごしながら、ふと私は、つい先日、パレスの中で迷子になったときのことを思い出し、苦笑した。――今、道に迷ったりするわけにはいかない。
二、三度深呼吸して、廊下に出る。
それからは、運よく誰とも出会わず、王女の部屋の近くまでたどり着くことができた。
部屋の前の廊下では、まだ銃声が続いていた。角からそっとのぞいてみると、王女の部屋の前にいる兵たちと、その手前の角に陣取った兵たちの間で、銃撃戦が交わされている。しかし、遮蔽物《しゃへいぶつ》のない部屋の前の兵たちのほうが、明らかに劣勢だった。
煙を裂いて銃火がきらめくうち、すでに何人か倒れている守備側は見るみる撃ち倒されていき、ほどなく最後の一人が腕に一弾を受けて倒れ伏《ふ》した。血と硝煙の匂《にお》いが痛いほど鼻をつく廊下に、静寂《せいじゃく》が訪れる。
ここにも、王女の影響力を感じさせる光景があった。王女の部屋を守る近衛兵は、劣勢にもかかわらず誰ひとりとして逃げ出そうとしなかったのだ。最後にやられた近衛兵に見覚えがあった。バリモフといって、ミオ卿の配下で王女の警護をしていた、頑固《がんこ》な老人だった。その彼まで……。
そのとき、手前の角から近衛に囲まれて一人の男が現れた。見たことがあるどころではない。ジョシュア=ウルムス。王女を目の敵《かたき》にしている兄王子だ。冷笑を含んだ彼の声が、ここまで聞こえてくる。
「すごい煙だな。目に染《し》みる」
「お気をつけを。足元が血で滑りますので……」
「ふん、後始末が大変だ」
累々《るいるい》と横たわる近衛兵の死体をまたいで、王子は王女の部屋の前に立った。兵をひとり連れて、部屋の中に入る。扉が閉まる。
私は、廊下に残った兵の数を数えた。八人。数の多さに思案していると、隊長格の男が指示を出し、三人ほどが、倒れている人間の中からまだ息があるらしい者をかついで、どこかへ連れていった。残るは五人。
私のいる角からそこまでは、およそ一五メートル。白兵戦にもちこみたいが、五歩と行かないうちに気づかれて蜂《はち》の巣にされるだろう。すると――私は、隠し持っていた武器を取り出した。これを使うしかない。
この拳銃の装弾数は八発。薬室内装弾状態《コンバットワン》にはしていないし、予備弾倉もないから、この八発が全てだ。うち一発は、残しておかなければならない。――それを、王女の体にたたき込むために。
不意に、激しい葛藤《かっとう》が心の奥から湧き起こった。沸騰《ふっとう》する百度の湯のように荒々しくたぎるその情念は、今にも私の理性を打ち破り、長い苦悩の果てに固めたはずの決心を、粉々に吹き飛ばしそうになった。ここにきてまだ、私は迷っていた。この銃を向けるべきは誰だ? 私は、どこへ行けばいいんだ?
その場で立ちすくんでいた私の耳に、乾いた音が響いた。
銃声。まぎれもなく、それは王女の部屋から聞こえた。
その瞬間、私は自分のするべきことを見いだした。
廊下に躍《おど》り出るや否《いな》や、私は立て続けに引き金を引きながら、全力で突進した。
「殿下!」
扉を蹴り開けて躍り込んだ私は、見た。
驚いて振り返ったジョシュア王子、銃口からまだ薄く煙を立てている長銃を王女に向けた近衛兵。そして、口を堅《かた》く引き結んで執務机についている、グリーナ王女。
机の上の割れた花瓶《かびん》から水がこぼれ、床にしたたっていた。――王女は、無傷だった。
「ご無事、で……」
滑《なめ》らかな動きで長銃を動かした近衛兵が、銃口をぴたりと私の顔に向けた。
「今、大事な話の最中だ。トランス」
「やっぱり貴様か」
近衛の紺の制服に身を包んだ男は、〈テンドリル〉だった。
「邪魔をしないでもらいたい。今は、グリーナ王女が、グリーナ元王女になるか、それとも故グリーナ王女になるかという、大事な場面なんだ」
「そしてジョシュア国王陛下が誕生されるというわけか」
「ジョシュア公爵|閣下《かっか》だ」〈テンドリル〉は訂正した。「ウルムスターは、大イウォーン帝国に四〇番目の諸侯国《しょこうこく》として名を連《つら》ね、栄光ある帝国の繁栄の一翼を担《にな》うことになる」
「貴様はなんだ?」ジョシュア王子が、傲岸《ごうがん》な口調で言った。「ははあ、思い出したぞ。グリーナがまたぞろ抱《かか》え込んだ、役にも立たんごろつきの一人だな」
「兄上、撤回《てっかい》してください」王女が強い口調で言った。「私の部下にごろつきなどいません。一人も!」
「そうなさるべきですな」〈テンドリル〉が、眉《まゆ》をひそめた王子に言った。「トランスはこうつきなどではありません。立派な諜報員《ちょうほういん》です。イウォーンの、ね」
言うな、と叫ぼうとしたが、間に合わなかった。それは私にとって、膿《う》んだ傷をえぐられるにも等しい、最も痛い言葉だった。だからこそ、それは私が、自《みずか》ら告白しなければならなかったことなのだ。
絶望に打ちのめされて、私は王女を見た。王女のまなざしは、あろうことか、同情のそれだった。同情? 何に対してだ。国のために親しい人でも売る、禽獣《きんじゅう》にも劣《おと》る私の身分への同情か? やめてくれ!
叫び出したいのをこらえて、私は王女の前に立ち、銃を向けた。
「殿下……」
「何も言うな、トランス」
王女は座ったまま私を見上げて、信じられないようなことを言った。
「知っていた」
「……なんですって?」
「おまえがスパイだということは、わかっていたんだ」
「……いつからです」
「最初から」呆然《ぼうぜん》とする私に、王女は淡々と告げた。「うちは貧乏で小さな国だが、だからこそ、国を守るための情報網には、力を入れている。人国する前から、全部わかってたんだ。私自身が確信したのは、おまえと一緒に飛んだときだが。覚えとけ、ゼルゼードの人間は愛国心が強いうえに、謙遜《けんそん》ってことを知らんから、よそへ行っても、その国をほめたりはしない。――ま、凡ミスだったな」
「わかっていて――わかっていてなぜ、私をそばにおいたんです!? 過激派のときだって、いつだって、私が殿下をどうにかするとは思わなかったんですか!?」
混乱ぎみに叫んだ私に、王女は少し困ったような顔をして、ぼそっと言った。
「悪い人間に見えなかった」
絶句する私の横から、王女は兄王子に声をかけた。
「兄上――兄上がわたしに好意を抱《いだ》いていらっしゃらないことも、あの園遊会の仕返しを考えていらっしゃったことも、わかっていました。それに、イウォーンの侵攻のことも。――イウォーンが兄上と手を結ぶとは、思いませんでしたが……」
「ふん、いまさらそんなことを言ってどうする」
「なぜです?」詰問《きつもん》口調になりながら、私は叫んだ。「なぜわかっていて、何も手段を講《こう》じなかったんです? 殿下は、殿下なら、どんな手だって考えついたでしょう! なぜ私を放っておき、王子の反乱を未然に防がなかったんです?」
「トランス」王女は、困ったような表情をいっそう濃くして、諭《さと》すように言った。
「妹が兄を疑い、上司が部下を罠《わな》にはめるような関係は、私は嫌《いや》なんだ。兄上には少しばかり恥をかかせたが、あんな真似《まね》だって、本当はしたくなかった。別に、お人よしでいたかったっていうんじゃない。必要ならば、計略も策略も、私は使う。でも、それだってよそに対してだけだし、後でみんながぎすぎすしたり、疑心暗鬼になったりするようなことは、したくなかったし、しなかったつもりだ。疑いに疑いを重ねていって、おまえや兄上のような身内にまで神経をとがらせてなければいけないなんてことは、私は嫌だ。――外に敵が一杯いても、中に暖かくて信頼できる仲間がいれば、そこで安らぐことができるだろう? そうだといい、と私は思ってた」
王女は、ふっとため息をついて、力の抜けたような顔で私を見上げた。
「それとも、私が甘かったのか?」
私の言葉は、自然に口をついて出た。
「そんなことはありませんよ」
「さて、グリーナ王女!」
〈テンドリル〉が私の後ろから、王女の長い言葉にじれたように叫んだ。
「あまり時間がありません。最後の質問です。ジョシュア王子にその席を譲《ゆず》って、引退なさる気は?」
王女は、黙ったまま目をつむった。〈テンドリル〉が「けっこう」とうなずく。
「トランス、ここへ来るまでにえらく手こずったようだが弾は残っているんだろうな?」
「ああ。一発」
「よし、それを早いところ使ってしまえ。おまえの行動は情報部員として問題があるところが多かったが、それで帳消しにしてやる」
「わかった」
私は、もうためらわなかった。
目を閉じた王女に視線を注《そそ》いでから、振り返って、引き金を引いた。
〈テンドリル〉は、無表情ではなく少し笑いを浮かべた顔で、死んだ。
私は銃を捨て、呆然《ぼうぜん》として立っているジョシュア王子に歩み寄って頸部《けいぶ》を一撃し、倒れかけるところを支えながら、目を見開いた王女に言った。
「そんな腑抜《ふぬ》けた顔が似合うと思っているんですか、いつもの無茶苦茶なジャジャ馬ぶりはどこへいったんです? ぼさっとしてないでやることがあるでしょう」
「トランス……」
「反乱した部隊の鎮圧《ちんあつ》! 負傷者の救助! 長官や室長に無事を告げて、市内で起きたテロの犯人を捕《つか》まえて、参謀たちを集めて、軍を取りまとめてイウォーンの侵攻をくい止める! それに……王女に銃を向けたスパイの逮捕!」
数秒、私を見つめると、王女はやにわに、ぱん! と自分のほおを叩《たた》いた。それから、ごしごし両目をこすって、元の仏項面《ぶっちょうづら》に戻った。
「トランス、兄上を縛って差し上げろ」
「それもありましたね」
「それから、室長たちのところまで私を案内しろ」
机を回って私の前まで来ると、王女は少し赤くなった目で私を見上げ、張りのある声で言った。
「おまえの逮捕は、それからだ!」
……グリーナ=テオ=ウルムスという人物、並びにその周辺の人々について、これで大体おわかりいただけただろう。しかし、まだ話は終わっていない。
公式にはハラル陛下の体調不全によって中止されたと発表された、あのウルムスター侵攻について、あなたがた、特にイウォーンの方は、実はほとんど何も事実を知らされていない。真実と、若干《じゃっかん》のその後の出来事を語ろう。
ポプラパレスに牢獄《ろうごく》などというロマンチックな代物《しろもの》があったことを、私は初めて知った。考えてみれば、昔ここはウルムス一族の王城だったのだから、牢獄どころか拷問《ごうもん》部屋があっても別におかしくはないのだが。
あの劇的な一幕の後、私は負傷者を病院に運んだり、別々に監禁されていた軍事参謀たちを助けて回ったりと、例によって雑用に近い仕事をこなして駆けずり回っていたのだが、何がなんだかわからないうちにヴェルヒャーのもとで秩序を回復した近衛部隊に捕まり、投獄されてしまった。
そのまま、食料の差し入れだけが続く一週間が過ぎた。戦況が気がかりだったが、脱出の術《すべ》も気力もともにゼロだった。しかたなく、食っちゃ寝の生活に甘んじていたのだが、八日目に、思いがけぬ人物の来訪を受けた。
「よう、運動不足で太ったんじゃないか」
呑気《のんき》なことを言って石造りの地下牢にやって来たのは、私と同じイウィーンのスパイであるはずの初老の男、ジョナサン=オルファだった。
さてはイウォーンからの刺客《しかく》として来たか、と私は身構えたが、オルファは鉄格子越しに私の顔色に気づくと、「心配するな」と鍵束《かぎたば》を取り出して見せた。
「どういうことだ」
「出してやるというんだ。ありがとうぐらい言ったらどうだ?」
怪しみつつも、断る理由がないので、私は牢から出、オルファについて行った。
どこへ行くのかと思ったら、見慣れた通路を通って、王女の執務室の前についてしまった。
「なんであんたがここへくるんだ?」
「いいから入れよ」
オルファに促《うなが》されて部屋に入ると、これも見慣れた面々が並んでいた。王宮長官ミオ=ブランシャール卿、王室政務室長レイ=ヴェルヒャー、それに、グリーナ=テオ=ウルムス王女。
「そろったな。まあ座れ」
王女が言い、私たちは用意されていた椅子《いす》に腰かけた。
廊下を歩いてきたときから私は周囲を観察していたのだが、あの騒乱の痕跡《こんせき》はきれいに片づけられていた。弾痕《だんこん》が少し残ってはいたが、血で汚れた床や割れた花瓶などはきちんと直されている。弾痕どころか、イウォーンの爆撃機にパレスの半分ぐらいは吹っ飛ばされているんじゃないかと思っていた私は、拍子抜けした気持ちだった。
「じゃ、話を始めるぞ。おまえの今後の処遇《しょぐう》について……」
「ちょっと待ってください。戦争はどうなったんです? イウォーン軍はどこへ行ったんですか?」
ぱちくりと瞬《またた》いた王女は、テストで単純な計算ミスを指摘された子供のように、「ああ、そうか」と言った。
「おまえは何も知らないんだったな。ヴェルヒャー、説明してやれ」
立ち上がって一礼したヴェルヒャーが、「戦争は終わった。イウォーン軍は撤退した」とだけ言った。それではあんまり簡潔すぎる。
「一体どうやったんです? イウォーン軍は最低三〇万はいたはずです。それを、あんな無茶苦茶な装備と編成と配置のウルムスター軍で、一体どうやって……」
「イウォーン軍は、八万しか来なかった」
「は? いえ、なぜですか」
私の間抜けな問いに、ヴェルヒャーはぶっきらぼうに答えた。
「燃料が乏《とぼ》しかったからだ。もっと言うと、殿下が極秘裡《ごくひり》にレンツェルゲンに手を回して、対イウォーンの原油輸出を押さえられたからだ」
「しかしそれでも八万といったら……」
「うち国内へ侵入できたのは、一万五千ほどだった。イウォーンとウルムスターの間の道路は、山に挟まれた幅一六メートルの国道が二本だが、規制が解除されたからって全線が開通したわけじゃない。毎年五月末までは、積雪で一車線規制の場所が、一五、六か所残っている。私たちは自国のことだからそれをよく知っているが、イウォーンのハラル王は、三千キロも離れたところで作戦を立てている。根雪《ねゆき》のことまで気が回らなかったんだろう。当然戦車や装甲車が渋滞《じゅうたい》する。そこを狙《ねら》って、うちの重砲部隊が長距離射撃をする。相手は避けられないから、これは外れようがない。壊れた戦車など、重くてそう動かせるものではないから、ただの障害物になる。するとまた進軍が遅れる。さらに、これだけ砲撃を行なうと熱と振動で道の両側の山腹の雪が崩れ落ちる。それを狙ってわざと外したりもする。ここまでやると、もう進軍など不可能になる」
「はあ……」
「それでもどうにか一万五千の部隊が侵入してきたが、補給車両も援護車両もない戦車と歩兵だけの部隊だったから、こんなものは脅威《きょうい》でもなんでもない。地形をよく知っているうちの山岳師団が、三日ほど引きずり回してから、燃料切れに持ち込んだ。これはすべて鹵獲《ろかく》して、郊外に並べてある」
「空軍の攻撃はなかったんですか? イウォーンのグラジオラスやヘリオトロープに、ウルムスターの戦闘機が勝てたんですか?」
「工学的なことは、私はよく知らん」ヴェルヒャーは首を振った。「だが、グリム氏が言うには、いくら足が長くて重武装のイウォーン機でも、二〇分で燃料を使い切るつもりで全速飛行する、的《まと》になりにくい小さなウルムスター機を相手にしては、勝てるわけがないそうだ。向こうの攻撃思想よりこちらの防御思想がより徹底していた、とか言っていたな」
「じゃあ……その兵力を、どうやって指揮したんです? 国内のあちこちに散らばった兵力を統率《とうそつ》したのは」
「それは君も見たろう。ラマ01を空中連絡機として上げて、通信を中継させたんだ。何しろ狭い国だから、一機で十分全土をカバーできる。もっともこれは、あとで気づかれて通信妨害をかけられたので、シャンテル山脈の中継基地を使った光信号に切り替えたが、これは雨でも降ったら使えなくなるから、けっこう緊張した。そうまでして兵力を分散したのは、リスクを小さくするためだ。あまり集積すると、大型爆弾一発で壊滅《かいめつ》する恐れがあるからな」
「もう一つだけ」
「何だ」
「室長、肩のケガはもういいんですか?」
「大丈夫だ。ありがとう」
「納得したか?」
王女の問いに、私はうなずいた。私が調査し、欠点だと結論づけたウルムスター軍の特徴が、次々とイウォーンに対しての長所に変わっていくヴェルヒャーの説明は、いっそ愉快ですらあった。
「そうまで負ける条件がそろっているのに、どうしてハラル陛下は気づかなかったんでしょうね」
「それはお前もだろう」王女が言った。「イウォーンに住んでいて、イウォーンを知っていれば、誰だってそう思う。地図を見ろ。うちの国なんか、小指の先より小さいからな。イウォーンが攻めてくれば、負けないほうが不思議な小ささだ。さて……」
王女は、話を変えた。
「おまえの処遇について、話そうか」
「は」
覚悟は決まっていた。イウォーンなら、捕まったスパイは国家保安法により銃殺、それ以前に情報局によって尋問《じんもん》され、廃人にされているというケースがざらだった。この国でそんなことがあるとは考えにくかったが、王女の言葉が私の心に引っかかっていた。
――身内は疑いたくない――
よそ者の私は、どんな処罰を受けるのだろうか。
「謹慎《きんしん》七日間、並びに減俸《げんぽう》六か月」
「……は?」
「それと、近衛兵五名を射殺したかどで、軍法裁判だ。もっともこれは、緊急避難ということで無罪だろうが。遺族へ悔やみに行くから、ついて来い」
「その……つまり……」
「謹慎のほうは、もう済んでいるな」
私は、王女のいたずらっぽい笑顔を見た。言葉が出てこなかった。まったく、この悪賢《わるがしこ》い王女は、何度私に「は?」と言わせたら気がすむのだろう。
「以上だ。とりあえず今日は家に帰って、洗濯でもしてこい。明朝八時、ミオのところに出頭しろ」
「殿下……」
「退出してよし」
部屋から出た私に、ミオ卿とオルファがついてきた。私は、一つ聞き忘れたことがあるのに気づいて、オルファに聞いた。
「あんたはなぜここに?」
「俺はウルムスターでも指折りの貿易商だぞ」オルファはにやにやしながらそう言った。「昔からそうだし、今後もそうだ。パレスには、陳情《ちんじょう》やら報告やらで、月三回は来てる」
「二重スパイか」
「俺はこの国の人間だよ。この国のために働くのが筋だと思わんかね?」
変則的な肯定《こうてい》の仕方をすると、じゃ俺は用があるから、とオルファは去っていった。
ミオ卿が言った。
「トランス、少し歩きませんか」
私たちは、パレスの外に出た。
一週間地下にいた間に、すっかり空気が暖かくなっていた。サマルカンド市街の向こうに見える、遠いシャンテルの山並みも、白から青へと衣替《ころもが》えを始めているようだ。
「お疲れさまでした、トランス」
ミオ卿が、青い芝をさくさくと踏みながら言った。
「感謝しています、あなたの働きには。私も、殿下も」
「今になって思うんですが……」私は、言葉を選びながら言った。「なんであんなことをしたのか、自分のことながら、正直言ってよくわかりませんね。王女を助けたことですが。今まで、どこへ行っても、どんな仕事をしても、こんなに迷ったことはなかった。――どうして、あんなに心が動いたんでしょう」
「さあ……」ミオ卿は、私を見てほほ笑んだ。「どうしてでしょうね。でも、そんな風《ふう》に考えてくれて、嬉《うれ》しいです」
「私は……」今まで味わったことのない、照れのような気持ちをかみしめながら、私は言った。「ここにいて、いいんですか?」
ミオ卿は、にっこりと笑って言った。
「歓迎します。――ここは、あなたの国ですよ」
そう言うと、ミオ卿はポケットから紙片を取り出した。私に差し出す。
「これは?」
「リューリカからです。あの子、心配していましたよ。――いつ知り合ったんです?」
笑って、私は一礼した。
「帰ります」
「……あしたは、遅れないようにしてくださいね」
ミオ卿と別れて歩きだしてから、私は思い出した。――ウェリントンの、あの無残な最期《さいご》のことを。
しかたない、歩くか。私は、すっかり色づいたポプラの間を通って、バス停へと降りていった。
私は、ポプラパレスのテラスで、これを書いている。が、急いで終わらせなければならない。なぜならば、ミオ卿が、廊下の修繕費《しゅうぜんひ》のことで私を捜しているだろうし、残業にでもなってしまうと、リューリカとの夕食の待ち合わせに遅れてしまうからである。
四月のあの日に、私は決めた。この国に骨を埋めることをである。この国のすばらしい人々――ミオ卿、ヴェルヒャー、オルファ、リューリカ、グリム夫妻、ザップ、それに、グリーナ王女。彼らはもう私と住む世界の違う人間ではないし、ここはもう私の国なのだ。
私の気持ちを表わすのには、多言《たげん》を要しない。安らぎ、それのみだ。
フローラルは、最近気がついたが、かなりうまい。うまく飲むコツは、塩を入れることだ。
車も買った。二四年型サスカチュワンGT、やはりコンバーチブルである。
いま時計を見たが、もうすぐ昼休みが終わる。ここらで筆をおくとしよう。
イウォーン情報部からの刺客《しかく》がくる前にと、この話を書いた。無事皆さんの手元に届けば、それは私がまだ生きているということである。
まずは一報――ポプラパレスより。
[#改ページ]
POSTSCRIPT
星を見るのが好きです。
しかし、先日、星座の名前を覚えようと思ってプラネタリウムに行ったら、客は子供ばっかり。成人がいないのです。今の大人は空を見ないのかと、びっくりしましたね(それ以上に恥ずかしかったですが)。
レンズマン、宇宙のスカイラーク号、スターウォーズなど、アメリカのスペオペには、アインシュタインなど鼻の先で笑い飛ばして宇宙をカッ飛んでいる英雄たちが、実に多く登場します。そういうバカ者たちが、私は好きです。富士見の神坂さんじゃありませんが、相対性理論をブチ破って一光年を一秒で飛んでくれる人が現れたら、マジで全財産捧げてもいいですね。
進化の過程で水の中から陸上に躍り出た無鉄砲な両生類の連中が、我々の先祖です。彼らもそーとーバカだったと思いますが、あてがいぶちで、のーのーと暮らせる惑星上から、わざわざ殺人的な環境である宇宙空間に飛び出ようっていう今の科学者たちも、かなりバカですね。
そういったバカたちこそ、私が最も尊敬する人々です。
どう考えたって、たかだか数トンの荷物を地上一〇〇〇キロまで吹っ飛ばすより、ボスニアあたりの紛争の解決につぎ込んだ方が、数兆円の資産も成仏するでしょう。
にもかかわらず、火星に人間を送り込むことに血道をあげる。
これぞ、地上最高の知能をもつ人類に残された最後の使命と言わずして、なんと言おう! そのけなげさ、愚かさ、ともに土下座して拝むに足るレベルだと、私は思いますね。
人類、こうでなきゃ、いかん!
そういうわけで、私は、盲目的に先へと進む人類のサガを、心から愛します。
(作者酔ってます。虚言妄言、片言隻語の数々は、お見逃しください)
厩戸皇子とエヴァンジェリン姫が私の中で化学反応を起こし、生まれたのがグリーナ王女でした。
右の二人は、それぞれ山岸凉子さんと、遠藤淑子さんの漫画の主人公です。私は小説も好きですが、漫画はその二倍ぐらい――持っている冊数に換算して――好きなので、漫画の影響の方をより色濃く受けてしまっています。
好きな作家は、と聞かれると、困ります。インタビューで答えた通り小松左京さんが好きなのはもちろんですが、その他にもたくさん、もうたくさん、列挙するだけでこのあとがきが埋まるほど、好きな作家、作品があるのです。
大阪のアパッチ、苦沙弥先生の猫、卓球戦隊、星南高校の学生たち、ダンビールのD、オーベルシュタイン、ロークのゲド、緑林寮の連中、字伏と槍使い、ゴーストスイーパー、ミリガン運送、隊長さんと神官さん、ガルちゃん、頬傷の天才医師、九課のサイボーグ、ドグラ星の王子、光画部のアンドロイド、フェアリィの戦闘妖精、メガネのラピュタ王…… 彼らと、彼らを包む世界と、世界を作り出したクリエイターのひとびとに、私は心からあこがれています。
一方で、私は科学が好きです。数学はエビよりもレバーよりもセロリよりも苦手ですが、トンネル効果だとか、サージ電流だとか、シュレジンガーの猫だとかいう言葉を見ると、もう後先考えずにそれを作品の中で使ってしまいたくなります。
世間のさまざまなお話、そして現実の科学の成果、このふたつを混ぜるだけでできるほど、SFというものが簡単でないということは、今回よく分かりました。これからは、いかにしてこの混合物に命を吹き込み、生きたお話を育てあげるかということに、挑戦していきたいと思います。
最後になりましたが、ここに至るまでに力を貸してくださった方々にお礼を申し上げます。審査員の皆さん、集英社と創美社の皆さん、ユースホステル部の皆さん、たくさんの友人たち。
そして、読者のあなた。
ありがとうございます。
[#地から1字上げ]八年九月三日 河出智紀
追加…あとがきで余計なことをしゃべるのは作家として失格! 言いたいことは本文に表すべし! (酔った勢いのたわごと、しかし本音)
[#改ページ]
■初出
まずは一報ポプラパレスより[jump novel]vol.11(1996年8月18日号)
本単行本は、上記の初出作品に、著者が加筆・訂正したものです。
[#改ページ]
底本
集英社 JUMP j BOOKS
まずは一報ポプラパレスより
著者 河出智紀《かわでともひろ》
1996年10月9日 第1刷発行
発行者――後藤広喜
発行所――株式会社 集英社
[#地付き]2008年5月1日作成 hj