TITLE : 日本のアウトサイダー
日本のアウトサイダー   河上徹太郎
目次
中原中也
萩原朔太郎
昭和初期の詩人たち
岩野鳴
河上 肇
岡倉天心
大杉 栄
内村鑑三
正統思想について
日本のアウトサイダー
「アウトサイダー」という表題は最近イギリスでベストセラーになった、C・ウィルソンの著書から借りたものである。彼は当時二十五歳の青年で、十六歳で学校を出ると、ありついた公務員の勤めが厭で、土方から皿洗いに至る自由職業を転々とし、その暇に大英博物館へ通って文学・哲学書を乱読、その思想的遍歴から本書を書いて一躍文名をなした。彼はその後第二作を書いて出版し、その一部が今日邦訳されている。
アウトサイダーという言葉は、別に事新しい概念ではない。インサイダーの反対語、つまり常識社会の枠外にある人間の謂で、アウト・ロウ、疎外された者、異教徒、異邦人、これ等のわれわれにお馴染の文壇用語はすべて字義的に一応妥当するのである。或いは、叛逆、虚無、頽廃の徒も、結果的にこの仲間に入れていいであろう。ウィルソンも、その二著を通じて引合いに出した人物は、ドストエフスキーやランボーのような最も典型的な人は勿論、ヤコブ・ベーメやスウェーデンボルグのような宗教的神秘家から、変った所でバレーのニジンスキーやT・E・ローレンスのような行動の人を含めて、現代ではサルトルの『嘔吐』やトインビーの歴史哲学にまで及んでいる。
こういう主題的雑駁さは当然、その中にどんなに著者の主観的統一があろうとも、本書の観念的曖昧さを露わしている。その点をついた非難は、内外共に見出される。明かに彼は、その経歴も示す如く、観念界のディレッタントである。然し彼はアウトサイダーの概念の内容がどうとでもとれるのをわざとそのまま辿っているのであって、その辿った跡が直線でないといって非難しても、それは彼が承知の上でやっていることである。彼はアウトサイダーの概念を定義しない。そのためそれが一層生きて来るのだが、そこにこの問題の現代的意味があることも事実だ。
しかしこのディレッタンティックな本が、イギリスであれほどセンセイションを起したという事実は、少からず興味をそそるのである。例えば第一次大戦後のドイツの思想界に衝撃を与えたのはシュペングラーの『西欧の没落』だが、この書の観念的実証性にはそれなりの説得力があった。敗戦国のドイツ人は自国の運命の中に西欧のそれを錯覚したろうし、戦勝国民も戦勝が自国に何も益しないという二十世紀的世界大戦の収穫を初めて知って世紀の歴史に眼覚めたろうからだ。これに対しウィルソンの著書がこれに似た作用を及ぼしたとしたら、それは正しくこのディレッタンティズムのせいだと思うのである。つまり思想的な権威が現代を救い得ない時、これを否定し、「初心」を再建する役目を果すものとしてディレッタンティズムが受入れられるのである。それにウィルソンのニヒリズムには、権威の崩壊を追求しているうちにもそこに何か希望を求める素人っぽさが窺える。いわば彼は思想家でないから、身勝手に思想から型破りの功徳を求めることが出来、きらびやかな思想の鳥瞰図を作ってその分布の大胆な模様変えをやって見せることも出来るのだ。だいたい彼は結局バーナード・ショウを最も尊敬し、「アウトサイダー」の言葉もショウの『未熟な者《インマチユリテイ》』の序文からとったのだといっているが、イギリスの事大主義への皮肉を生命としたこのアイルランド人を師と仰いだ所に、ウィルソンの叛逆精神の由来を尋ねることが出来る。そうなれば彼がアウトサイダーという呪符をいつも手にして古今の思想遍歴をしたときに、この言葉は一種の「開け胡麻」のような、奇蹟的な力を持っていたといえよう。そしてこの異教的な護符がある以上、少くとも彼自身がイギリス・ジャーナリズムの上でのアウトサイダーだという資格は持つのである。これが彼の変則的な人気のゆえんだと私は思う。『アウトサイダー』が異常な人気を博した後、彼は雑誌原稿に、放送に、インタービューに、眼が廻るように忙しく、その間にせっつかれて遽しく第二作『叛逆人と宗教』を書いた。取り扱った題材は新しいが、方法的に処女作と同じだから、その素人性がそのままマンネリズムとなっている。彼は何に義理を立てて、そんな未熟な芸の二番煎じを急いだのだろうか?
これはちょっと、わが最近の素人作家の登場と事情が似ている。今日のわが文壇で素人だということは、もはやナイーヴだということではない。むしろ反対に、素人だから恐いもの知らずで、文学的な約束を無視し、読者の読み方となれ合って、手っ取り早い状況設定に成功した小説が書けるのだ。つまり彼等は、決して新鮮さが買われているのではなく、一種単刀直入な型破り、それに必要な語感の鈍感さ、それに伴う悪達者さが取り柄になって来る。それは素朴とか無邪気とかいうのと反対に、文学以外の観念連合をうまく取り入れることの巧みさといった、後天的な才能が眼について来るのである。
これは日本の文壇論であるが、『アウトサイダー』にも、素人だから思想の面で人の意表を衝き、或いは型破りなその結合をしているものがあるのは確かで、それがイギリスのジャーナリズムを引っかき廻したとしたら、イギリス思想界も非常時で、焼きが廻ったという訳だ。ウィルソンに場当り的な魂胆はない。彼は、携帯テントをゴルフ場に張って寝泊りしたり、ドーヴァーで馬鈴薯掘りをやって旅費を稼ぎ、パリへ渡ったりする放浪生活を経ながら、それがかえってその思想に敬虔とさえいえる堅実な求道性を帯びさせるのだが、彼をアウトサイダーの英雄に仕立てようとするロンドンのマス・コミのファン気質は、正しくそれが自分をインサイダーに近づけるのだとウィルソンは嘆いている。これは日本のマス・コミによく似た要請であるが、では彼が何故インサイダーに転向してはいけないのかというと、その理由はまず三つある。第一に、彼の著述の動機がアウトサイダーたることに結びついていること。第二に、アウトサイダーであることが彼の良心に添うこと。第三に、現代にあってはその方が暮しいいこと、この三つである。勿論実際問題としてこの三つの事情は、ウィルソンが生きてゆく上において一つの実感となっているのであろう。とにかくそうなると彼が生きる上で良心的であることと、仕事の上で純粋であることとが一致するのは結構なことであるが、そのため彼はアウトサイダーという立場の専門家でいなければならないとなるとこれはまた辛いことである。しかもそれは現代のジャーナリズムによくあることであって、新人ということが前いった意味で素人であることを要請するなら、素人であるという職業上の資格が専門化し、素人という名の玄人が発生するのである。これは接客業界の女性に見られる現象であるが、これと同じことが文壇に起っており(現在のこの世界の新人の興廃による交替の激しさの原因の一つはこのためである)、ウィルソンが嘆くアウトサイダーの地位の不安定もこれによるのである。
アウトサイダーの話を始めるに当って、その内容より先にその現実の在り方から見て来たが、私はウィルソンと同じく、アウトサイダーを定義しようとは思わず、こういう問題が発生するところに現代文化の諸問題を見出そうとしているのである。つまり、私は解説や結論をつけようとしているのではなくて、思索的漫歩といった気持で書いていることを読者が認めて下されば幸である。
ところでアウトサイダーという概念は、一つの時代を支配する実証主義なり観念論なりの体系に対して、偶像破壊的な作用をする時に一番本領を発揮するものだといえよう。そうするとこれはいつの世にもあるものであり、また哲学とか文学とかいうものは、本質的に世の通念を匡すという性格を持っているから、芸文の徒は何等かの点で多少ともアウトサイダーである。そして近代文化の上では、何といっても十九世紀の実証主義が大きな力であったから、その反動として起った世紀末のニヒルや懐疑が典型的なアウトサイダーの在り方を示すのである。ボードレールやニイチェがその代表であるが、ドストエフスキーだって、ヴァレリーだって、現代文化に対して最も鋭く触れる面はみな同じ作用から成り立っているのである。
ところでわが国にあっては、明治以来の立国の精神が、十九世紀西洋の物質文明の成果を出来るだけ取り入れてその後れを取戻そうというのだから、それは徹底した功利的実証主義であった。勿論一方、この西洋文明の基礎をなす近世の人文主義に眼覚めたわれらの先覚者も十分にいた。しかし現実のわが社会は、何としても功利主義と物質主義が先行し、その跳梁に任せる外なかったのである。
従ってそこに多くのアウトサイダーが脱落せねばならない筈であるが、現実にはそれが余りはっきりした思想の形をとらなかった。その多くは政治的叛逆者であって、まず明治初年の新政府に対する不平党に始まり、それは武力で鎮圧されたが、やがて自由民権運動となり、それが明治三十年代の無政府主義・社会主義に連なり、更に後年のマルキシズムに発展していったのである。これらの動きが持つ意義については、人によって説があろうが、アウトサイダーという一般的な精神純化運動としては、決して大きく見ることは出来ないのである。
そういう場合その力は文学運動に現れるのが一般であるが、わが明治期の文学にはその面ではっきりしたものが現れていないのである(それほど明治の功利精神は強かったといえよう)。しかし新しい文学運動の底には、多少ともアウトサイダー精神が流れているのであった。まず明治二十年代に興った『文学界』一派は、形を主としてイギリス浪漫派に藉りて、青春の解放を朗かに歌ったアウトサイダーであった。またそれに一代後れて出た自然主義の対社会的効用は、それなりのブルジョア道徳排撃であった。また大正期の心理派・耽美派、それから初めてわが国で科学主義に眼覚めたプロレタリア文学など、それぞれの中にアウトサイダーの要素を見出すことが出来るであろう。要するに立身出世主義の当時の世の中で、文学をやろうということ自体が既に精神的アウト・ロウとしての社会に対する挑戦であった。
私は以前から我が明治以来の文学にあるアウトサイダーの系譜を辿って見たいと思っていた。しかもそれにはも一つ重要なモメントが絡んでいる。元来アウトサイダーとは字義的にいって異教徒・異邦人の謂である。すなわちキリスト教徒でないという意味だ。つまり西欧ではインサイダーがキリスト教徒であって、概念の対立がはっきりしている。ところで日本では明治以来キリスト教がはいって来て、明治の文学者の過半は若い時その教えを受けているくらいだが、一体この教えは我が国民の精神生活にどの程度にしみこんでいるだろうか? この問題は近年主としてわが文芸評論家の間で論じられて来たが、アウトサイダーの観念をここに当てはめてその説明に役立たせることが出来るのではあるまいか? 民族的に異教徒であるわれわれがキリストの教えに接する時、そこに生れる教義は如何なる異端の偶像崇拝的様相を呈するだろうか? しかも人の求道心というものは洋の東西を問わず同じであろうから、神を求める心の激しさが即ちアウトサイダー的情熱の激しさに通じることにもなるのである。こういう概念の矛盾が、かえってキリスト教の本質と日本的アウトサイダーの在り方との両方を解明する結果になることも考えられたのであった。
今この仕事を始めるに当って、私は評伝的にその代表的人物の紹介を列記してゆくよりも、いきなり私に親しかった典型的アウトサイダーの風貌を描くことから始めて見よう。しかも彼があったがままの姿を描くよりも、現在いればどんな生き方をしているであろうかという風に考えて見たい。私にとって、ある所のものよりもあり得るものの方が興味があり、またそれが正しい批評というものだと思っているのだ。しかもそれは同時に、私に時事的な発言をする動機を与えてくれるであろう。
中原中也
T
私がまず紹介したいのは、詩人中原中也である。彼は昭和十二年に三十歳で病死したが、私より五歳年少であった。生前その奇行を以て身辺の者を一人残らず悩ましたが、今はそういう私情を棄てて彼の純潔さの面を覗いて見たい。
猫が鳴いてゐた、みんなが寢靜まると、
隣りの地で、そこのがりで、
まことに緊密でゆつたりと細い聲で、
ゆつたりと細い聲で闇の中で鳴いてゐた。
あのやうにゆつたりと今一夜《ひとよ》を
鳴いて明さうといふのであれば
さぞや緊密な心をいて
猫は生存してゐるのであらう……
あのやうに悲しげに憧れに充ちて
今ああして鳴いてゐるのであれば
なんだか私の生きてゐるといふことも
まんざら無意味ではなささうに思へる……
猫は地の雜草の蔭で
多は石ころを足の裏に感じ
その冷たさを足に感じ
霧の降る夜を鳴いてゐた――
これは詩人の死の丁度二年前の作で、必ずしも傑作ではないが、心境の歴然たるものがあり、挙げたくなった。暗い影が独語するような、蕭条たる詩である。中原は、こうした見紛うべくもなく執念の籠った意識を持ち続けていた。そしてこの暗い意識は、自ら仄白い燐光を放って、いつもあたりを照しているのであった。殊に顕著なのは、この詩の中に流れる「時間」の観念である。それはヴェルレーヌの初期の小唄によくあるように字句にしみわたり、心境のやるせなさに持続を与え、これを現前させるのである。つまりこの中には心境が歌われているのではなく、それが流れているのである。中原が現代詩人でユニークなのは、その点である。
ではこの詩人の不寝番の意識の表面に浮ぶものは何か? それはさしあたり都会生活の残り滓のようなやくざなものばかりなのであるが、それがまたいちいち近代文明の理論に根を引いていって、彼の潔癖な心理を悩ますのであった。
この穢れたに汚れて、
今日も一日、ごしたんだ。
…………
赤ん坊の泣聲や、おひきずりの靴のや、
昆布や烏賊《するめ》や洟紙や、首や、
…………
吁! はたして昨日が日《おてんき》であつたかどうかも、
私は思ひ出せないのであつた。
但し、彼がこんな風に暮している時、必ずしも憂鬱だと限ってはいなかった。結構そういう心象を玩んで御機嫌なことがあったし、又そういう時の話は次から次へ鮮やかなイメージが続いて、聞いていても面白かった。
ところでここで問題になるのは「赤ん坊の泣声」から「洟紙や首巻」にいたる数々の表象であるが、これらはそういう都会生活の落し屑から始まって、新進学徒の雑誌論文や流行作家の新作にまで及ぶのであった。しかし彼はその見事な批評を文章にする才能を、奇妙に欠いていた。ようやく次のような基本的な信条が遺っているくらいである。
凡そ析なるものは、私には吸氣の氣持でなく呼氣の氣持でなされると思はれる。而して瞑想とは、その反對に、吸氣の氣持でなされると思はれる。
私は時藝の萎凋する理由を、時代が呼氣的勢にあるからだといふやうに考へる。
自己析がなされることはそれが必然的であるかぎり結構な態であるが、その析の結果が、直ちに行爲に移らないで、その析の記慾となる時悲慘である。
その記慾は、析が纖細であればあるいのでもあらうが、その慾は昂ずれば、やがて事物から自己を離することになる。尠くとも理論と事實とが餘り對立して、人格の裂となる。
來藝が非常に感覺的であるか又、一方非常に理論的であるかの何れかにしてゐるのは、以上の理由によるのであらう。
この呼気と吸気という言葉の着想は面白く、明確である。しかし中原の論理はいつもそれから発展してゆくものがなく、最初のイメージを限定しようとして、何か弁解がましい啖呵に終るのが常である。そしてこれは彼の詩の作法にも通じる手法である。とにかくここで彼が呼気という主観的な方法論を信ぜず、吸気という受動的状態において人間の生命の円満な具現を見たのは、彼の本質的な態度であって、或いはここに彼が生来浸っていたカトリックの恩寵の世界を擬らえることも出来るであろう。彼は人おのおのその静謐さのうちに己れを恃んで待っている状態が、最も美しく、創造的なものと考えていた。
それにしてもこの論文で「分析の結果が、直ちに行為に移らないで」とか、「事物から自己を隔離する」とかいう表現は、彼独特のニュアンスを帯びて用法が熟していないのだが、要するに分析がその人の身につかないで、生きる方向に添ってゆかぬ近代性にいつも彼は苛立っていたのであった。何しろ時代は超現実主義の詩や新興芸術派の小説がはやっていたことを想えばいいのである。
つまり当時は第一次大戦の戦後派の時代で、この戦争に距離をおいて介入して漁夫の利を得た我が国は、この戦後のデカダンスを欧州の交戦国が精神的に表現した形の上で輸入して味わっていたのであるが、現在第二次大戦のそれに際会し、われわれはそれを今度は自らの体験によって生み出したのである。この相違はそれだけで確かに戦後思想の着実性の上に現れている。
中原が今の詩論を書いたのは戦後十二年目であったが、今度の戦後十二年目は、精神文化の面でも、問題なく、ポジティヴで「建設的」に進んでいる。しかしここで中原の眼を、いま私の中に蘇らせて見れば、彼の所謂分析がますます「呼気」の上でなされ、記録慾が人格の分裂の上で行われていることは、ともに変りないのである。
その一例として、心理学の進歩とコミュニケーションの発達は、人間の営みの価値評価の上で戦前には思いも寄らなかった領域が開けて来ている。例えば久野収、鶴見俊輔、藤田省三の三氏による『戦後日本の思想』という研究の如きものの考え方は、確かに戦前になかった。社会心理学が、これほどまで文芸作品の具体性の世界に平行して発言することは出来なかった。私はこれを興味深く読みながら、しかもその「大衆思想」の章の中で私が躓くのは次のような点である。農村に働き者の女性がいて、洗濯が好きである。従って電気洗濯機の存在は痛し痒しである。じゃ、手でなさいというのが状況主義への没入であるが、果してそれでいいだろうか、という反省である。まあ電気洗濯機なんか機械だから前むきでも後むきでもいいが、同じように島木健作の戦争時代の作品『礎』や『生活の探求』が引合いに出され、この中にある状況への順応が彼の弱さだという発言には、私は納得出来ないのである。これが或る急進的な立場に立って島木が弱いといっているのなら、まだしもである。これでは島木健作という人間を取り除けて、ただそういう立場にある一指導者を抽象して批評しているだけである。島木はともあれ順応の作家ではなかった。ただ怒りが彼を導いていた。島木が『満洲紀行』の中で現地の官僚や指導者に対して口を極めて罵っているあの情熱はどうだというのだろう? 私は彼が生きていたら、一番現在の日本について何というか聞いて見たい。彼もまた妥協を知らぬ正義派型アウトサイダーであった。そういう島木の島木たる所以のものを無視して、電気洗濯機なみに反応を試されては、もともこもないのである。
同じように、この研究座談会で以前『心』グループの批判をやっていたことがあった。まずこの派の指導理論を――そんなものがあるのかどうか、とにかくあるとしてかかったところに問題があるのだが、――漱石の日本的儒教精神とカント派の理想主義哲学を引合いに出して理路整然と説いたところは、私は心から傾聴したのであるが、最後にやはりそれがこれらオールド・リベラリストの体系の非常に精密な分類に終って、彼等が生きた所以のものに何等触れていないのが物足りなかったのである。
恐らくここに書かれた分析は、御当人たちは意識していないことが多いだろう。然し彼等はそれでいいのだ。人生は三年生きても三十年生きても、途中幾つの思想を征服したかよりも、ただその間の時間の密度が問題なのである。
この種の穏健な教養主義の先輩に対する不満はよく例の見られるところで、現に亀井勝一郎君が戦時中から「岩波文化」の名の下に非難した相手も、このグループと外延の上でメンバーが重複している筈である。更に典型的な例は、太宰治が死の直前に志賀直哉に口汚なく食ってかかったことであろう。しかしこれらの場合にいえることは、亀井氏にしろ太宰氏にしろ、相手に対してこうあって欲しいという人間的願望が底にあったことだ。その非難が所謂ないものねだりの形をとればとるほどそうであった。それに引き換え、上述のグループ批判は、理路整然としていればいる程、私には欠席人民裁判の冷たさを感じるのである。
だから『心』批判の結論を見るがよい。このグループで結局買われているのは柳田国男・柳宗悦の二氏ということになるのだが、それはつまりこの二人には「物的」なお土産がついているからだ。それに最も破滅型の辰野隆博士を秀才優等生型に分類しているのは、全然同氏の環境から見た後天的な判断に過ぎず、論者の人間的好悪を表すための御都合主義に他ならないのである。
ここでまた少し中原を見よう。
彼は詩人だから当然人々の発想ということに一番重点を置いて見ていた。即ち手近かなところでは小商人の天気に対する愚痴から、大詩人の詩的表現に至るまでである。そして近代人の心理の倒錯に対して最も神経質で、人々の無意識の裡の嘘に対してもあたかも作為的な佯りのように食ってかかるので、現実の人づき合いの上では間違いを起すことが多かった。それは中原の方が常に正しいとは決していえないのであった。その点ちょうどドストエフスキーの政治的予言と同じことで、彼の場合外れることがあってもかえってそれだけ一層彼のロシア民族に対する信念の正しさを証明する結果になるのだったが、そのようなものが中原にもあった。つまり彼の人間を見る原理だけは、絶対に正しく、健康で、且つ含蓄に富むものであった。今私は戦後の思想風景の中に佇んで中原の表情を思い返して見るのだが、それに近い心象を歌ったのはまず次のようなものだろうか? この詩は確か私が初対面の頃持って来て見せてくれたもので、彼の自己紹介であり、その点でも印象の深いものである。
われ星に甘え、われ太陽に傲岸ならん時、人々自らを死物と觀念してあらんことを! われは御身等を呪ふ。
心は腐れ、物は穢れぬ。「夕暮」なき競走、油と虫となる理想! ――言葉はに無なるのみ。われは世界の壞滅を願ふ!
蜂の尾と、ラム酒とに、世界は解されしなり。夢のうちなる法、夏の夜風の小鎚の重量、それ等はになし。
陣營の野に笑へる陽炎、を隱して笑へる齒、――おゝ古代! ――心はろ笛にまで墮落すべきなり。
家族行と木箱との剩は最早、世界を理知にて笑はしめ、感にて斷せしむるなり。――われは世界の壞滅を願ふ!
マグデブルグの球よ、おおレトルトよ! 汝等されてあるべきなり、其の他はすべて解しければ。
マグデブルグの球よ、おおレトルトよ! われ星に甘え、太陽に傲岸ならん時、汝等ぞ、讚ふべきわが從!(『地獄の天使』)
中原は常に「宇宙的《コスミツク》」な詩人というのを理想のように語っていたが、それは要するにゲーテの「全人」のように、人間性の完璧が自然の理法に協《かな》ったようなものを考えていた。ちょうどここに天文の言葉があるのを別にしても、これはこの理想を歌ったもので、古き良き時代の純潔と知恵に憧れた、近代呪詛の宣言である。この家庭旅行と木箱の如きブルジョア生活の象徴への嫌悪や、科学もその草創期の素朴な合理性のうちにのみ受け入れようとするところは、その後、彼が大いに影響を受けることになったヴェルレーヌの原人性によく似ているのだが、この詩はもっと「傲岸」であり、定言的である。いわばここで中原は人間存在の「形而上的秩序」ともいうべきものの根本を規定し、これを万人に押しつけようとしているかに見える。彼が夢見た通り、分解した世界の廃墟からラム酒やマグデブルグの半球が形を現すかどうかは知らない。しかしこれだけはっきりした誇りを以てそれを予言したヴィジョンの美しさは、私は疑うことが出来ないのである。
しかし現代がかく厭わしいものであるとはいえ、ただ現代の汚濁を分析し、これを否定することは詩ではない。このことを中原は肝に銘じて知っていた。それは彼にいわせれば「呼気」の気持でなされることである。ところで、呼気と吸気は人間が努力せずして同一量であるが、これは驚くべき人体の予定調和である。中原はそれを信じ、その上で安んじて仕事をしている。のみならず、呼気と吸気が一致しているのは「現在」という時間の上であるから、詩はいつもそこで作らねばならぬ。これは彼にとって掟であった。彼がアーサー・シモンズを読んで、「経験は何ものもヴェルレーヌに教えなかった」という言葉に出会った時、彼は狂喜した。だからヴェルレーヌも中原もよく歌った悔恨とは、過去の経験を思い出して、意識の上で反省することではない。それは専ら現在のわが肉体の上に描かれる白日夢なのである。彼はそれをヴェルレーヌから学び、一層彼に親しんだ。
少年時代、恐らく中学二三年の頃の詩の中に、次の一節がある。
ポトポトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が史的現在に物を云へば
嘲る嘲る と山とが
ここに書かれた「歴史的現在」という言葉に私は思わず眼が止ったのだが、彼はこの頃第一次戦後派の一つであるダダイズムに惹かれていた。それは要するに心理的にも感覚的にも現前するものだけに信を置く超現実的な一状態なのであるが、今日でいうと「実存的」という状態がそれに近いのである。中原の現実に対する態度はいつもこれなのであって、在る物は「紅い伽藍」や油の切れた荷車の音であり、一寸「歴史」に意識が奪われると、悠久な「山や川」に罵られるのである。彼にとって、全心理学が「現在」にしかないように、全歴史学も「現在」にしかないのだ。
中原の頃もそうだったが、今日でも歴史の流行は実に著しいものがある。近年学問的に歴史の発達は驚異的であり、われわれ素人もお蔭で興味深い研究報告に接することが出来る。しかし、時に専門家の所説にわれわれがついていけないと感じさせるものがあるのは、いつも歴史家の意識が「現在」から離れ、いくらでも過去に溯れるとか、どんな未来の形式も築けるという不遜な倨傲に囚われる時である。一例を挙げれば、現代の史家が、自分達は先史時代のことをその時代の人よりもよく知っていると豪語していることがあるが、もし本気ならそれは全く歴史の中に生きる「時間」というものを知らず、それがただ機械的に縦に流れているものだと思っている浅はかさのいわせる業である。
しかもこれは先史時代だけでなく、あらゆる歴史についてとかくあり勝ちな考え方である。歴史がただ現在の中にのみ存在することを繰返し説いているのは、ベルジャーエフの歴史哲学である。そこに彼の世界観の現実主義的な深さの魅力があり、同時にそこからドストエフスキー風な黙示録的歴史観が導き出される。そしてその上に彼は「自由」の観念をそれこそ自由に操りながら、自ら「実存的」と号するその哲学を築いているのだが、私は彼の裡に中原の精神が実に見事に体系づけられているのを感じる。中原は恐らくベルジャーエフを知らずに死んだと思うが、いま生きていたら読ませてやりたいものである。
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中原中也が三十歳で死んだ昭和十二年に『夏と悲運』という詩を書いている。
とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。
思へば小學校の頃からだ。
例へば夏休みもづかうといふい日に、唱歌室で先生が、オルガン彈いてアーエーイー
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻が可笑しいといふのぢやない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が可笑しいといふのでもない、
それどころか、俺は大體、此の世に笑ふべきものがあらうとは思つてゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない。
すると先生は、俺を下に立たせるのだつた。
俺は風のよくる下で、隨淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう反省のしようもなかつた。
(中略)
大人となつた今日でさへ、さうした悲はやみはせぬ。
夏のい日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と離してゐるやうに感じ出す。
すると俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。
(中略)
どうして笑はざゐられぬか、實以て俺自身にもらない。
しかしそれが結果する悲ときたらだ、いやといふほど味つてゐる。
中原はこういう悲運に一生つき纏われていた。この笑いは無垢であり、無償である。もうこうなると、中原が悪いのでもなく、相手が悪いのでもない。典型的なアウトサイダーというべきであろう。近頃は不条理という言葉があるが、不条理とは元来こんな風に双方の立場にそれぞれ論理があって、その上で両者が相容れぬ場合をいうのである筈だ。即ちこの世を統一する至上の原理の喪失をいうのである。しかし、俗間ともすれば不条理とは、こちらの立場が筋が通っているつもりだのに、外界のしきたりがこれと相容れぬ時、何か不正を訴えるような気持でこれが使われている傾向がある。この頃のようにすべての発言が政治的に彩られる時、この傾向は一層顕著なのであるが、正義なり何なり訴える相手があるならば、そこにより高い秩序を認めることになり、不条理の問題は生じないのである。
カミュの『異邦人』のムルソーは、アラビア人を殺し、その理由を問われて「太陽のせいだ」と答えた。この場合、不条理はこの常識外れな陳述にはない。それはこの同じ太陽がこのアラビア人の屍体の上に照ったことにある。中原は道玄坂で酔って街灯を壊し、留置場に三十日間入れられたことはあったが、「社会的」にはそれ以上の「悪」はしなかった。この刑の重さは、恐らく警察で「それは電灯のせいだ」とでも陳述したからであろう。或いはランボーと共に「俺は惡を少しも冒してゐなかつた。その日その日は爽やかにぎて行き、先き先き後する事もなからう。善に於て殆ど死んだやうになつてゐた俺の魂、葬ひの蝋燭のやうに嚴しい光がき上る俺の魂に、惱みはなかつたのであらう。」(『地獄の季節』)といってよかったのである。ただその間に中原は、不条理の相手方をじっと見つめるその視線を外らすことはしなかった。理由もなしに笑い出して先生に立たされながら、先生が怒る理由がないことも知っていることも、またどんなに怒っているか自分で知らないことも、彼はちゃんと見て知っているのである。これはムルソーがアラビア人の顔も裁判官の顔も全然見ていないのとは、根本的に違っている点である。中原はこの不条理の底から、ギョロギョロした眼でこの世を見た。そこから彼のアウトサイダー的な幻想《ヴイジヨン》が数々生れた。そしてそれがこの世の知的・心理的なまやかしを裁くのだった。しかし前章で私はそれを社会批評的に牽強し過ぎたので、今その抒情的な面を覗いて見たい。
正確にいえば中原には特に「晩年」といった文学現象はなかった。殆んどすべての夭折した天才には、それが指摘出来るのにである。今挙げた詩にある一種の諦観は、彼の初期の作品にも常に言葉になって現れている。「幸福は和める心には一挙にしてる。」とか、「謙抑にして神恵を待てよ。」とかいった教義が、いつも時には突忽に結びになったり、或いはルフレンになったりしているのがその特徴である。しかし死ぬ前の一年は、脳を患って殆んど囚人のように精神病院に入れられ、出て来て鎌倉で落着こうとしたが、ここも彼の期待を裏切り、遂に東京を逃れて郷里へ引籠ろうと決心したことは、人一倍妄執の強い中原には辛いことだったろう。先ずそんなところに、彼の「晩年」の抒情が生れた。
長門峽に、水は流れてありにけり。
いい日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌みてありぬ。
われのほか別に、
客とてもなかりけり。
水は、恰も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。
やがても蜜柑の如き夕陽、
干にこぼれたり。
あゝ! ――そのやうな時もありき、
いい、日なりき。
これは東京からの友人を郷里へ迎えて近傍の名勝長門峡に遊んだ時のもので、死の一年足らず前の作だが、何か冷たく、佗しいものがある。なまじっか何もお膳立をしないで、水と夕日と自分だけ出しているので、水が彼の心をつつ抜けに洗っているようで、やがて水の代りに「時間」が果てなく流れ出すのである。
中原は近代詩人にしては風景や季節に敏感であった。そしてその感覚は正確であった。死ぬ前郷里へ隠棲する外ないと決心したのも、少年時に馴染んだその風景に縋って救われようという気持が強かったことは確かだ。その年の夏、私宛の手紙にこんなのがある。
去年の暮には面倒かけました。なんにしろせつない病氣で、二度とかかりたくありません。夕方になるといちはやく南のに金星が出ます。今日もやつとつたな、さう思ひます。十月になつたら田舍に引上げます。そして月のを行して暮したいと思ひます。さしあたり行つて見たいのは島、俵山泉、尾傍の島(云々)。それに關東の自然はやつぱり僕にはつまらない。枯れた葭に押寄せたいかなんかみたいで、どうも感が足りなくて仕方がない。……
彼はこの帰郷を待たないで死んでしまったが、都落ちにも一応風景による釈明がついて、そこに理窟が成立つ男なのである。
旅といえばこんな詩もある。
桑名の驛はかつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた
夜更けの驛には驛長が
綺麗な砂利を敷き詰めた
プラットホームに只獨り
ランプを持つて立つてゐた
桑名の夜はかつた
蛙がコロコロ泣いてゐた
燒蛤貝の桑名とは
此處のことかと思つたから
驛長さんに訊ねたら
さうだといつて笑つてた (後略)
昭和十年夏の作、旅情掬すべきものがあるが、初めて関西線を通ったのは、偶々東海道線が不通だったからで、求めて漂泊の旅に出た訳ではない。
ここで駅長にものを聞く彼の表情は、実に髣髴としている。五尺に足らぬ身長にふさわしい小さな顔の、眼だけ丸く大きく精一杯のお愛想笑いをしているのだ。中原のこの顔は、前述の「笑ひ出さずにやゐられなかつた」顔とは反対のものである。それは傲岸も卑屈も妥協もなしに、持前の素朴な感受性で世間とつき合おうとしている。何しろアウトサイダーの笑顔がそのまま市井の駅長さんに通じたのだ。
そして彼が最も抒情的になるのも、またそういう瞬間であった。「の畑で眠つてゐるのは……赤ン坊ではないでせうか?」と歌ったり、「にゐるのは、あれは人魚ではないのです。にゐるのは、あれは、浪ばかり。」ときめつけたりした。そういう抒情というのは、単なる幻想というよりは、彼の場合何か天から与えられた啓示の一部を垣間見るような感じである。そういう宗教性の強いのが中原の詩には感じられるが、それは彼の郷里の山口の風土とも結びついているのである。
由来山口はザビエルの昔からカトリックとは縁が深く、明治中期には有名なビリオン神父が長くいて教化を垂れた。今日山口にあるザビエル記念碑のため最も尽力したのは中原の祖父であり、祖母もまたビリオン時代の信者であった。中原自身はあまり教会に接近しなかったが、その地理的・家庭的雰囲気は彼の魂に深い影響を及ぼしていない筈はないのである。
しかし中原の詩にあるカトリック的要素は、そういう環境による地盤に恵まれていたとはいえ、一方個性的な、いわば彼の魂の中にある形而上的傾向から育っていったものであることも事実である。その方がわれわれ一般読者の受ける感動も強い筈だ。この経過を大ざっぱにいえば、先ず前に述べた彼の少年時代のダダイスト的傾向に端を発し、それが二十歳頃になってフランス象徴派の詩人に親しみ出すと、ボードレールでもランボーでも、反撥するにしても一応カトリックに対する関心は強いのだから、次第に彼のダダ的イメージがカトリック的色彩を帯びた観念に凝結していったものだ。それがヴェルレーヌを発見するに至って、そのカトリックへの改宗が中原の創造過程の中で彼を自ずとその方向へ導いたのである。
も少し敷衍すれば次のようになる。ダダとは第一次大戦後の感覚的なデカダンスの一種であるが、中原が直接感銘を受けて愛読したのは、当時辻潤氏や佐藤春夫氏の推薦によって尖端的アヴァン・ギャルドとして登場した高橋新吉氏の『ダダイスト新吉の詩』であった。そしてここにある感覚の放溢は、実は高橋氏が観音経の信奉者であるという事実に観念的に裏づけられているのであって、そういう汎神論的な世界観の基盤が先ず中原に与えられたことは意味あることである。このダダイズムが容易にランボーの眩暈に通ずる。中原は自らいっている。「いつたいランボーの思想とは、簡單にいへば、パイアン(異徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつてキリストとは、多一牧歌としての價値を有つてゐた。」(『ランボー詩集』後記)これは「ランボーが私を生んだ」とまで自認するカトリック詩人ポール・クローデルが、ランボーのことを「野性状態にある神秘主義者」と呼んでいるのと相通じる言葉である。
また中原は昭和二年(十九歳)の日記の中でいっている。「ダダイズムとは全部意識したとしてなほ不純でなく生きる理論を求めた人から生れた。」即ち、中原は意識家が何より嫌いだったが、ダダイストがすべて作為で出来たようなイメージの世界に生きながらも、窮極の純潔は貫くものであることをいった自戒である。かくして彼は多彩なイメージから出発して、次第にカトリックの恩寵のような無意識な素朴さの中に凝結してゆくことを、少くとも自らは欲した。
従って中原のイメージは決して生得環境的なものではなくて、いわば教養的なものである。例えば彼は時の文学青年の常として十九世紀ロシア文学に負う所が多いが、次の私に親しい詩も実はチェホフあたりの風物を日本の田園に翻訳して得たものに違いない。
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴氣の中できをするであらう。
そのきは怨めしさうにながれながら、パチンとを立てるだらう。
木々が若い學仲間の、頸すぢのやうであるだらう。
夜が明けたら地線に窓が開くだらう。
荷車を挽いた百姓が、町の方へ行くだらう。ためいきはなほ深くして、
丘にきあたるのやうであるだらう。
野原に出た山ノ端の松が、私を看守つてゐるだらう。
それはあつさりしてゐて笑はない、叔父さんのやうであるだらう。……
これは『ためいき』という彼が二十歳の時の詩だが、この、音楽でいったらアンダンティノ八分の六拍子とでもいいたいリズムの揺れ方は無類である。ここにあって可見のイメージはすべて手なずけられて、一律に戦いでいる。ほとんど風景の書割だけで出来ているような、こんな抒情的な詩は中原の全作品の中で珍しいのである。
ところで、この舞台は正しくロシアの平原のノスタルジアである。これに対し、今たとえばこれを次のリルケの『オルフォイスに捧げるソネット』の一節を取出して見ると、これも同じくロシアの平原へのノスタルジアでありながら、その対照が面白い。
しかし、主よ、あなたには私は何を捧げよう、言つて下さい、
萬物に、聽く耳をお授け下すつたあなたには。――
或る春の日の憶を、
ロシアでの、その夕べを――一頭の馬を……
あちらの村からその白馬はひとりやつて來た、
脚に杭を引摺つたまま、
夜を草地にひとりゐるために。
彼のたてがみの縮れ毛が何とふさふさとその頸を打つたか、
その無禮な物に
猛り立つた疾驅につれて。
駿馬の血の泉が何とはげしくつたことか。
それはほんとに、限りない廣野を感じてゐた。
それは歌ひ、且つ聽いてゐた――、あなたの傳の圈《わ》も
彼のにこそ閉ぢられてゐるのだつた。
この馬のを、私は獻げよう。
リルケは、青年期にロシアに遊び、その限りない野と森に魅せられたのだが、それが一生の間彼のノスタルジアになって、頭を離れなかった。彼はそこに何か異教的な神の姿を認めたらしい。「兇暴な血を躍らせる白い馬」というのはその象徴なのである。
この野性と神秘は中原の『ためいき』にはない。こちらはもっと牧歌的で絵画的だ。それは両人の資質の外に、年齢の相違――『オルフォイスに捧げるソネット』はリルケ四十八歳の作である――もあろう。しかし制作年代が数年しか隔たらぬこの二作には、見逃せぬ類似がある。西欧文化の中心からちょっと外れたこの二人のアウトサイダーには、世紀末的ロシアへの憧れは、共通の宿命なのである。そして両者とも神に到達しようとしたが、リルケのは暗い、知的な、神秘主義の神であり、中原のは、とにかく理想としては、日常的な素朴なカトリシズムである。
従って、私が今リルケを引合いに出したのは、決して気紛れな思いつきではない。リルケもやはり中原と同じく現代の現実の非情な悖理から脱出して、己が純潔を神に返上しようと企てた詩人であった。『ドイノの悲歌』からの次の短い引用は、正しくその心境を歌った美しいものである。
かうして凶暴に打ち合ふ槌と槌の間に
われわれの心は生きてゐる、ちやうどかみ合ふ齒と齒の間に
舌が生きてゐるやうに、けれどもそれは
それでも讚へる舌であることに變りはない。
この場合中原にいわせれば、この舌が歯のことを「笑ひ出さずにやゐられない」というところである。
しかしリルケにあっては、舌は笑い出さずに、讃え出す。この抜け目なさが、中原にとってリルケが性に合わない所以である。中原はリルケについて次のように「日記」に書いている。「この詩人はよい理想家だ。彼は慥かに心臟から出發して、機制の面に這入つた。しかしまだ心臟に囘歸してゐない。擾亂が足りないからだ。個性が足りないからだ。信仰が理窟だからだ。」
ここで中原のいいたいことを、彼の別の用語で要約すれば、ともあれリルケのようにヴァニテの多い詩人は許せないというのである。それにしてもリルケは彼にとってどうも気になる存在であった。何しろその歌声が宿命的な共鳴盤のように互いに響くからである。
さて私は最後に最も中原らしい詩を思い出して見よう。それは『サーカス』と題し、二十歳の時の作である。
幾時代かがありまして
茶色い戰爭ありました
幾時代かがありまして
は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此處での一《ひ》と殷盛《さ か》り
今夜此處での一と殷盛り
サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋《や ね》のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それのくの白い灯が
安値《や す》いリボンと息を吐き
觀客樣はみな鰯
咽喉《のんど》が鳴ります牡蠣殼と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外《やぐわい》は眞ッ闇《くら》 闇《くら》の闇《くら》
夜は劫々と更けまする
落下傘奴《め》のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
これは如何なるサーカスであろうか? 確かに場末の小屋掛けで、サーカスの悲哀という、わが国古来の角兵衛獅子の伝統が多分に遺った雰囲気である。しかしこれは中原の多くの詩に見られるところだが、このわが「伝統的」風景は同時に西欧の色褪せた風俗画と同じモティフをなしているのであって、前の『ためいき』の場合と同じく、ことによるとその翻案であるかも知れないのだ。
更に具体的に想像して見ると、このレンブラント風の照明を浴びたサーカス小屋は、「観客様」はみな眼の赤い鰯であって、漫画の群集のようにただの壁かも知れない。そして芸人たちは一人もいなくて、ただ宙に吊ったブランコと破れ木綿が隙間風に戦いでいる。何か大戦争の廃墟の跡のように人気なく、それでいて汗っぽい人間臭の漂った情景である。そしてこの不気味な場所にあるものはただ「真ッ闇」な屋外の夜と、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という時間の流れるリズムだけなのである。
こういう時の流れの観念は、この詩の初めの方にある「茶色い戦争」や「冬の疾風」という、過去からの時の流れと奇妙に一体をなしている。そしてそれがこのサーカス小屋を背景に、暗い、緩い、死のワルツを奏でているのである。
ここで時間の問題は、年代的な経過すなわち「過去」と瞬間的な経過すなわち「持続」とさしあたり二た通り考えられるが、中原はこれを一つのイメージで提出しているのである。そしてそれはほとんど次のベルジャーエフの言葉のように私には聞える。「……すなわち二つの過去がある訳である。かつて存在し、消滅してしまった過去と、いまもわれわれにとって、われわれの現在の成分として、存在する過去である。現在の記憶の中に生きつづける過去は全く別の過去、変形され明化された過去である。われわれはこれに創造作用を加えたのであり、この創造作用の後にはじめてそれはわれわれの現在の中にはいったのである。回想は過去のたんなる保存でも再建でもなく、つねに一個の新しい過去、変貌せしめられた過去である。」(『孤独と愛と社会』氷上英広氏訳)
だからベルジャーエフにとって、歴史というものは、過去を切り取ってこれを客体化した時、これは死物なのである。再び彼の同じテクストから引くと、
「われわれの世界は未完成の世界である。それは創造しつづけられてゆくのである。世界はわれわれの内的実存の立場の認識にとっては、進化するのではない。世界は創造されるのである。進化としての世界の変化は、すでに第二義的なものであり、この変化はつねに決定論の相のもとにある。進化は客体化の世界に属する。これに反して内的実存は創造を知って、進化を知らない。自由を知って、決定論を知らない。精神の作用《アクト》を知って、自然過程の因果律を知らない。進化は時間の中で起り、時間の威力の下にある。然し精神の第一義的作用は、時間そのものを生みだす。時間に決定されず、時間を決定する変化があるのである。」
ベルジャーエフはこのように極端に決定論に反対して意志の自由を擁護する。だから時間でも、時空的四次元の範疇の下に考えることは絶対にしない。進化とは既に歴史的段階を前提とした考え方で、それは客体化された考えである。即ち実存的でない。「時間が変化を生むのでなく、変化が時間を生むのである。」或いは変化は、即ち運動は、時間の中でなく、永遠の中で生れるといえば正しいであろう。
中原の『サーカス』の詩の中から以上のような哲学的理論を描き出すことは無理であろう。しかしこれだけの引用文を写しながら、私がそこに『サーカス』に盛られた歴史感覚といったものと何も矛盾を感じなかったことは事実である。ところが今日の歴史科学者には、何と進化論者が多いことであろう。ちょうど十九世紀後半と同じ科学主義が、百年を隔ててまた現れている。ダーウィンの猿がいま原爆に生れ変ったのだ。
中原は『サーカス』のような、いわば竹久夢二調の風俗に接しても、これを決して情緒的な思い出の中に止めておかなかった。「茶色い戦争」とは恐らく応仁の乱だの、三十年戦争だののことであろう。吹き荒ぶ「冬の疾風」は幾多のシューベルトたちに『菩提樹』を作曲させたであろう。そして中原はそれをサーカス小屋の汚れ木綿の中に現前させるのである。幔幕は「回想」の目方を背負って、重たげに揺らぐ。中原はそれを決して社会科学者がきれいな手袋と精巧なピンセットで施す分析作業に委ねるのを許さなかった。何故ならそれは過去を「客体化」するからである。
中原はこういう時「遮断する」という言葉をよく使った。私は今度彼の全集を読み返して見て、活字ではこの言葉に出会わなかったが、会話ではよく口にしたものだ。それは何でも時間とともに流れてゆくものを横に断ち切って調べることをいうのであって、動的なものを静的に見ることになるから、観察としては誤りであり、思索としては怠惰なことなのであった。つまり歴史についてベルジャーエフなら「客体化」という所である。中原は歴史を遮断することも戒めていたが、もっと個人的な、各瞬間の意識や表象を遮断することもよくないことだとしていた。つまりそれが詩としてのイメージを不純、或いは作為的なものにするからである。この戒律の厳しさは、今その作品によく現れており、彼の詩句の美しさはそれによるのであり、それに第一あれ程独自なイメージに客観性がある根拠はそこにあるのだ。
そして私が彼の詩の中にある時間の流れを頻りに指摘したのも、このことなのである。それは単に修辞の問題ではなくて、彼が生きている上で各瞬間を過す心構えの問題であった。ベルグソンは純粋持続を発見したろうが、中原はこれを生きて見ようとした。それは辛いことに違いない。
辛いこつた辛いこつた!
なまなか傳的存在にされて
あゝ、この言語玩弄の世に、
なまなか傳的存在にされて
(パンは奪はれは與へられ)
あゝ、小兒病の横行の世に!
と彼は綿々と歎く。では彼はどこへ行くか? それは一と言でいえばカトリック的な世界なのだが、私のこの呼び方は便宜的なものであって、正確にそういえるかどうか知らない。第一彼は信者ではなかった。そして我々異教徒の未信者にとって、キリスト教の中での新教・旧教・正教などの概念も極めて混沌としている。
しかしそれでいいのだ。のみならず、われわれの悩みはかえってそういう所に生きているのだ。中原は、何よりも先ず自分をアウトサイダーとして純潔に保たんがために、カトリックに憧れたのだった。少くとも彼にとってカトリックとはそういう風に見えたのであった。この言葉の上の矛盾が、かえって事実をよく説明してくれる。だからここでは、概念を定義するよりも、表に現れた徴候を見よう。
先ずカトリックは中原にとって考え得べき最も完璧で、包括的な世界観であった。しかもそれが同時に、最も活きた実践倫理の面を備えていた。中原は恐らく、日本の近代詩人の中で最も形而上的要求が強かった人であろう。詩人は誰でも哲学的傾向があるというのではなく、一つのコンクリートな世界観を身につけるという意味でである。そしてその点で、彼は個性的な近世哲学よりも普遍的なカトリシズムに、より惹かれたのであった。その普遍性と包括性が、彼を力一杯自由に、人間的に振舞わせてくれるのであった。それにこの神学が、ギリシャの自然哲学を自ずと前提としていることは、彼の知的好奇心の働きを満足させるのである。この面では彼は時に応じてランボーとともに異教徒《パイアン》になるのであった。
殊にカトリシズムが彼を喜ばせたのは、その実践的な面であった。「原罪」とか、「宥し」とか「恩寵」とか「召命」とかいう概念がなくては、彼の衝動的な近代生活は法がつかないのであった。これがまた彼の行為を縛るより、正しい自由を与えたのである。時に彼はこの掟の下に、旧約人の如く厳しく、且放埒に振舞った。そして彼の創作行為はその挙句、
しかし、噫! やがてお惠みが下ります時には
やさしくうつくしい夜の歌と
櫂歌とをうたはうと思つてをります……(『我が祈り』)
というのが彼の理想であった。彼はそういう風に、歌というものが生活の坩堝の中からたち上った精気のようなものに限るよう努力していた。
しかし中原がキリスト教に惹かれる本質的なものは、やはり前にベルジャーエフを引用した文の中にあるように思われる。ベルジャーエフにいわせれば、キリスト教があらゆる宗教の中で最も正しい時間の観念を持っているという。これは彼の終末観的世界観による永遠の観念から来るのだが、現在の瞬間だってこれに結びついているのである。例えばギリシャ人が時間を幾何学的図形の上に並べて考えるのと違って、罪だの救いだのいう瞬間的な現実を、過去から未来におよぶ有機的な時間で表象するキリスト教の考え方は、中原のように言葉より行為を、しかも無意識的な状態で捕えようとする詩人にピッタリなのである。こういうと理窟っぽいけど、中原は直観的にそれを感じ、しかも罪の意識の振幅の大きいカトリックの世界に浸って気安さを感じていた。
以上私は中原の中にあるカトリック性を絞ろうとして、ただ表面を撫でるに終った。しかしこの問題はいつか章を改めて還って来るであろう。
萩原朔太郎
明治・大正から昭和に時代が移ったことは、確かに日本の近代精神史の上での一つの転機なのであるが、この時代のアウトサイダーの代表として萩原朔太郎を選ぶことは、その仕事の重さからいっても、また今の読者に訴える印象からいっても、必ずしも適切でないかも知れない。然し氏がその例として最も典型的な詩人であることは、これは動かすことが出来ないであろう。
年譜によれば氏の作詩は大正二年二十六歳の時に溯り、北原白秋が主宰する『朱欒《ザンボア》』に投稿することによって詩壇に乗出した。その機縁もあり、大正文化の華やかさを身につけて一世を風靡したこの鬼才の驥尾に附して、先ず大正っ子の高踏詩人としてのダンディスムを存分に発揮した。と同時に、それなりに大正文化の根のなさを身にしみて感じ、しかもそれを明治文化の延長として当然の宿命であることも自ずと理解した。氏は詩人がその本来の仕事の上で文明批評家であることを身を以て示した型の、恐らく日本最初の近代詩人であった。もっともその批評がそれ自体としては幼稚杜撰なものであったけど。時代が経てば、詩人は作者のつもりでいても、多かれ少なかれその時代の風俗を背景とした登場人物と化する。そして萩原氏のように思索家として素朴で、その表現が多分に悲憤慷慨調を帯びている場合は、殊にその傾向が強いのも事実である。
例えば氏は「遅すぎた悔恨」と題して次のようにいっている。
今になつて、私が漸く始めて知つた一つの事は、私の去に受けたすべての文學的育が、根本的に皆ウソであつたといふことである。明治以來の日本の文壇が、私にへた一切のことは、すべてに於て「西洋に蹤せよ」といふことだつた。それは私等の傳の中から、すべての古い傳統的な觀念を叩き出せと命令した。その文學的指令は、時に自然主義の名で呼ばれ、ロシア文學の名で呼ばれ、また或は、享樂主義・唯美主義等々の名で呼ばれた。馬鹿正直にも私は、すべてこれ等の指令を忠實に〓奉した。そしてしかも〓奉することによつて文壇から除外され、日本の文學からのい世外人にされてしまつた。現實してゐる日本の文學には、どこにもそんな舶來種のイズムは無かつた。すべては傳的な國粹で固まつてゐた。
今になつてから、私は漸くそれを知つた。日本の風土氣候に合はないものが、日本に於て生育し得ないといふことを。……彼等は私を欺いたのだ。或はまた、馬鹿正直にも私が彼等に騙されたのだ。私はそれが口惜しいのだ。(『絶望の逃走』)
これが氏のアウトサイダーとしての宣言である。この言葉は然し、殊に今日の文壇常識によって字義通りにとってはいけない。ここには先ず、自分が文壇から疎外されているという被害妄想があるが、それは一応棚に上げるとしても、ここでいう「遺伝的な国粋精神」というのは、実は日本の自然主義文学のことである。萩原氏はそれまでわが文壇を支配して来ていた自然主義と徹底的に闘うのを一生の仕事とした。つまりそれは外国の形式を輸入しながらそのような「壮大な叙事詩」とならずに、わが古来の心境性に還ってゆくのが許せなかったのである。そして自らは忠実に西洋の抒情詩を追蹤し、唯美主義だか象徴主義だかとにかく新しい近代文学を日本に興そうとした。しかもそれはそれで遂に日本の風土に育たないことを自ら感じ、この二重の裏切りから絶望したのがこの言葉である。それにこれを書いたのは昭和十年頃で、その頃はわが文壇ではとっくに自然主義の時代は去っていた。しかもその頃から萩原氏は『日本への回帰』というエッセイ集を書くようになって日本精神に沈潜してゆくのだが、それでいてこのような恨み言をいうことは、私のいうことを裏書するであろう。
つまり氏が「西洋に追蹤」して裏切られたのは、何も文壇人が騙した訳じゃなく、日本に於ける西洋の運命そのものであった。そして氏は、自分のこの錯覚を恐らく意識して自ら悲劇人として振舞った。このことは、詩人が現実の社会にあってその習俗と容れられないという万国世紀末詩人に共通な悲運とも重なり合った。然しそれはこの間の事情をこんがらかせるよりは、かえって詩にニュアンスをつけ、そのモティフとなったのである。
だからこのことは氏の作詩の第三のモティフである「望郷」ということについてもいえる。氏が若い時から郷党に入れられぬということは、氏の流離と絶望の所以であったが、このことがまた前の二つの精神的不遇の仮託として創作の動機になっている。『郷土望景詩』と題する小篇は大正末期のもので、氏の作品としては中期に属するものだが、その序文で次のように述べている。
土! いまく土を望景すれば、萬感胸につてくる。かなしき土よ。人々は私に《つれ》なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。單に私が無職であり、もしくは變人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後《うしろ》から唾《つばき》をかけた。「あすこに白痴《ば か》がいて行く。」さう言つて人々が舌を出した。
少年の時から、この長い時々の間、私は境の中にんでゐた。さうして世と人と自然をみ、いつさいに叛いて行かうとする、卓拔なる超俗思想と、叛を好む烈しい思惟とが、いつしか私の心の隅に、鼠のやうにをつていつた。
いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
人の怒りのさびしさを、今こそ私は知るのである。さうして故の家をのがれ、ひとり都會の陸橋を渡つて行くとき、がゆゑ知らず流れてきた。えんえんたる鐵路の涯へ、汽車が走つて行くのである。
然しこの壮年期の意気未だ衰えぬ時に、何が氏の心をかくまで郷土に惹きつけるのであろうか? かくも氏を裏切った郷土は、これに想いを返せばまだ二重の裏切りをするのではあるまいか? 所詮それは、氏の親友室生犀星氏の名吟、
故はきにありて思ふもの
そして悲しく歌ふもの
なのではないのか?
だから氏が「望景」という時、この「望」の中には「希望」「絶望」の「望」が多分に含まれているというべきであろう。つまりこのノスタルジアには多分に精神的なものがあり、想いは魂の故郷からの漂泊という形をとるのである。(因みに萩原氏は観念的な翻訳語をよく動詞に使ったり、日常的な意味を持たせたりする癖があったが、さっきの「思惟」という言葉は、この「想い」という程の意味である)
氏は上州前橋の産、家父は医を営み、可なり裕福であったらしい。少年時代マンドリンを弾いていたというが、それは当時の地方都市の児としては思い切って尖端的な風俗である。こういう好尚が因循な田舎町でどんな白眼視を招き、それが自ら求めて「時流に容れられぬ者」の意識を築いたかは明瞭である。このような境遇の児にとって、故郷はそれがどんな土地柄であろうとも厭離の情を起させたであろうし、それを去ることは即ちあらゆる「遺伝的な国粋精神」と義絶することであって、遠く都会に遊んで「西洋に追蹤」していったのである。
ところで、この都会の放浪者の姿については、氏の生前己が唯一の師と仰ぎ、「二人目のない唯一最上の詩人」と呼んだ三好達治が、昭和十八年氏の死を哭して『文学界』に書いた『師よ 萩原朔太郎』という追悼詩がそれをよく伝えている。
幽愁の鬱塊
懷疑と厭世との 思索と彷徨との
あなたのあの懷かしい人格は
なまい熔岩《ラヴア》のやうな
不思議な樂そのままの不朽の凝晶體――
あああの色の誰人の手にも捉へるすべのない影
ああげに あなたはその影のやうに飄々として
いつもうらぶれた淋しい裏町の小路をゆかれる
…………
會の雜沓の中にまぎれて
(文學どもの中にまぎれてさ)
あなたはまるで獄囚のやうに 或ひはまた彼を跡する密偵のやうに
恐怖し 戰慄し 緊張し 推理し 幻想し 錯覺し
飄々として影のやうに裏町をゆかれる
いはばあなたは一人の無〓漢 宿なし
行ひの漂泊
夢病《ソムナンビユール》
零《ゼロ》の零《ゼロ》
そしてあなたはこの代に實に地上に存在した無二の詩人(下略)
三好のこの長恨歌は、まだこの調子で続いてゆき、実に活き活きと萩原氏の詩語をちりばめ、また氏の蹌踉たる現実の風貌を描いて的確である。私もまた三好を通じて氏の晩年の風貌に接したのだが、このような姿がよく場末のビヤホールなどで見かけられた。それはもはや処女作時代のトウィードの上衣に黒の蝶ネクタイをしめ、何ものかを見つめて透んだ瞳の瘠身のダンディではなく、よく漂泊の風雪に耐えた小柄の初老の人であったが、それだけに精神的に昂然たるものを表に現していた。次の詩は奇異な着想だが、案外氏の現実の風貌を自分なりに潤色してよく伝えている。
とほいでぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裝をきて、
ひとびとの窓からしのびこむ。
床は晶玉。
ゆびとゆびとの間から、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬《はじめ》のある、
探偵は玻璃の衣裝をきて、
街の十字巷路《よつつじ》を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、いさびしい大理石のを、
曲《くせもの》はいつさんにすべつてゆく。
この『殺人事件』と題する詩は、出世作で代表作である『月に吠える』の一篇である。当時浅草で楽隊の囃しと共に封切られた全三十巻の連続大活劇から借りたイメージだが、この憂いを帯びた好男子の探偵は、同時に犯人であり、そこにエロティシズムと、表現派風なミステリーと、病的に繊細な感受性とが託されている。先ずこの中の「玻璃の衣装」や「晶玉の床」は、氏の性情の中にある高踏的なダンディスムに通ずるのであって、これこそ北原白秋や木下杢太郎が中心になった『スバル』の大正期官能主義運動に後輩として馳せ参じた萩原氏の面目が躍如としているものである。そしてそれは新時代の審美主義の先駆としての気概に燃えているため、頽廃的であるよりむしろ逆にヘレニスティックな健康を備えているといえよう。この傾向をつきつめて古典音楽の明朗な諧調に達した傑作に『純銀の賽』があるが、その中の次の一節は『殺人事件』の今挙げたイメージと同じであることが分るであろう。
みよわが賽はにあり
白鳥はこてえぢのまどべに泳ぎ
卓は一列
同志の瞳は愛にもゆ
みよわが賽はにあり
賽は純銀
はあとの「A」は指にはじかれ
草のうへ
同志の瞳は愛にもゆ(以下略)
むかし前橋という町には、利根川に沿って四阿《あずまや》のある庭を持った古風な料亭があったりしたが、そんな田舎びた書割からこのルネッサンス風な、明るい、幾何学的な庭園のイメージが湧いたのであろう。とにかくこの颯爽として頽廃の陰のないダンディスムは氏として異例のことであって、燕尾服を着たような殺人犯人と共に、この伊達な賭博者は、郷土から出てそこに容れられないのをむしろ誇りにしているかのようだ。
然しこの健康を裏がえすとすぐ病的な感覚に通じていることは、今の「純銀の賽」を次の詩の「齲歯」に見たてることによって証明されるであろう。これも『月に吠える』に出て来る『空に光る』という傑作である。
わが哀傷のはげしき日
するどく齲齒を抜きたるに
この齲齒は昇天し
たちまち高原の上にうかびいで
ひねもす怒りに輝けり。
みよくもり日のにあり
わが瞳《め》にいたきとき
金色《こんじき》のちさき蟲
中に光りくるめけり。
この種の生理的・神経的な感覚が萩原氏の詩を鋭く彩り、それが極めて鮮やかな独創性をなしているのだが、それがまた大正期の詩の美学の中心をなしていたともいえよう。美が病的な繊細さを以て詩人に脱俗の手引をすることは、氏も理論的にはむしろ戒めていたが、実際にはこの原理によって氏が傑作を書いたことは否めない。『殺人事件』の「こひびとの指と指の間に流れる青い血」という病的なエロティシズムのイメージは、『月に吠える』の中で色々な形をとって現れる。「けぶれる竹の根はひろごり、するどき青きもの地面に生え。」(『竹』)というのもそれなら、「それらの生物の身体は砂にうもれ、手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる」ところの『くさった蛤』の情慾もそれである。こういう悩ましさをもてあます青春が、ボードレールの当時いわゆる「悪魔主義」の世界へ通じるのだが、この官能主義に浸っているうちに、ボードレールの日常性の軽蔑から現実嫌悪に共鳴してゆくことは必然である。そしてその先で彼は近代の否定をやるのだが、その時萩原氏の身の周りにある近代の未成立を発くのである。そしてこれが三好達治のいう、「思索と彷徨の灰色の影」なのである。
ところで萩原氏は、そのうっとうしい春をもてあました少年の日の孤独から出発するのだが、この、何人にも訪れる青春の憂鬱を、氏は郷人の偏狭さや、自分のエリートとしての宿命に錯覚したことは前述の通りである。然しそれによって次の美しいイメージが定着出来れば、文句をいうことはないであろう。
憂鬱なる櫻がくからにほひはじめた
櫻の枝はいちめんにひろがつてゐる
…………
く櫻のはなは酢え
櫻のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
…………
けれど私はこの室にひとりで坐つて
思ひをはるかなる櫻のはなの下によせ
…………
ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命《いのち》をもとめ
なにものの影をみつめて泣いてゐるのか
たゞいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで
く見の憂鬱なる笛のひびきをきく。
この故郷での若い日の感傷の甘さが、やがて詩人につれなく当る郷土の裏切りの苦杯に変ると同時に、『郷土望景詩』の序文に見られる望郷の念に還り、遂に最後の詩集『氷島』に至ると、殊更に装ったような悲愴調になるのである。その最初の書出しは、ちょうど今の序文のイメージの発展である。
月は斷崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低くめり。
無限にきの彼方
續ける鐵路のの背後《うしろ》に
一つの寂しき影は漂ふ。
ああ汝 漂泊!
去より來りて未來をぎ
久《くをん》の愁をひ行くもの。(下略)
この肩を怒らせた漢文口調の文語体は、詩の気分に合った調子を求めて殊更に使ったのだと作者自ら断っていたが、この詩集の初版は、緑色の堅表紙に明治初年の国定教科書みたいな装幀であった。当時私はこれを単なる時流に背いた復古趣味と解したのだが、著者自身の意図によれば、この表紙の象徴する「明治」への憧れなのであった。それは我々の時代よりもっと堅実に「西洋を追蹤」し、そしてこの著者の如き敗残の漂泊者を嘲笑しているものなのであった。
勿論この「漂泊者」には、敗残の影だけではなく、「氷霜に耐えた孤高の人」という気概はある。それは萩原氏が愛読したニイチェにあやかった擬態でもあった。然し氏をニイチェと較べるのは、余り適切でない。何しろニイチェには全形而上学の価値の転換があったが、萩原氏には形而上学的なものは何もなかった。それに当人同士よりも何よりも、その背景をなす文明がまるで違っている。ニイチェの背後にはそれ自体爛熟して行詰りかかった西洋文明があるが、こちらはそれに追蹤した上での得失が問題になっているのだ。
だから萩原氏が同じ『氷島』の中で
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ盡せり
と歌っているのは、この人の状態をよくいい現し得ているのだが、このニヒリズムは西洋の世紀末的であるよりは、東洋の老荘のそれの匂いがするのである。
ところで萩原氏の社会習俗ならびに文壇的風潮に対する叛逆と脱却は、今の時勢とは可なりずれがあって、これを現在の一般読者に説明することは、徒に労多くして功尠いであろう。何しろ時代は大正から昭和初めにかけての「良い」時代であり、文壇は垣を周らした中で論争でも何でもやっていた訳だ。或いは戦後文壇の垣がとれて、世間の波が直接ぶつかって来るようになったことは、それが文学者の特殊地域的遊離性を洗い落すことによって、萩原氏の怒りの数々を解消したろうが、同時にその波乗りの技術の巧拙が文学の主導性を支配するようになると、これまた氏の新しい怒りを誘うであろう。とはいえ敗戦は、西洋文明の恩恵のわが国土への根の下し方について、厭でもその一応の決算を我々に強いた。また戦後の諸権威の失墜は、文学の上でも精神的金利生活者を正当にも淘汰した。そのため萩原氏のカン高いポレミックには多くの解決がつけられている。これは真面目な論客にとって忘れられぬ敗戦の恩であり、萩原氏にもその味を味わわせたかったといっても、私は不謹慎ではないのである。
ところで詩人が社会批評家であるべきだといっても、その場合の社会批評とは、その道の専門家がやるような分析的・記述的なのとは違って、結局そこに生きて見た上で住み心地の方から来るのである。ということは決して感覚的・生活的な報告や抒情だけを意味するのではなく、「時間」を直接に経験した表現であるがために活きているのであって、そのため時代がたってもそれなりに読まれるのである。
元来詩人はその時代の健康性というものに最も敏感で、その尺度であるべきだ。中原中也などはその自覚を強烈に持っていた人だった。だから詩人が住みよくない時代というのは、時代の方がどこか間違っているのであって、従って詩人が住み心地の悪さを正確に歌えば、それが正しい社会批評になるというのが詩人の信条なのである。こういう考え方はボードレールあたりから出ているのであるが、例えば彼はテオドル・ド・バンヴィルの『人像柱』を批評した中で次のようにいっている。
當時のパリ(註、『人像柱』の出た一八四一年頃)は、今日のやうな、混沌、ガラクタ置場、時間の潰し方などには一向り好みなく、文學的享樂とは對に相容れない馬鹿とやくざが住むバベルではなかつた。その頃は、パリ人は、他の人々の意見を作り上げてやることを引受け、一人の詩人が出て來ると常に先づ第一に拔かりなく知つてゐるやうな、ばれた人々から成つてゐた。……バンヴィルは、詩が最も語り易い言葉であり、思想は自ら律の中に流れ入る態の、際立つたの一つとして現出したのであつた。(『ロマン派芸術』より)
ボードレールがこれを書いたのは一八六一年であった。これによれば四一年のパリは文学者の住みよい理想的な町だったことになるが、すると丁度この二十年の間に、四八年という重大な革命の年を挟んでいるにしろ、パリはそんな風に堕落したのであろうか? 私は社会史に疎いから具体的にはいえないけど、彼のいうことは分る。それは政治を含めて一つの美的秩序を持った社会であり、そこでは詩語は最も一般的な俗語を以てその時代の理想を語り、社会は詩人を神輿のようにかついで、リズム正しく揺れ動くのである。ボードレールはむしろ四一年の世相からでなくバンヴィルの詩の中からそれを読みとり、それを「古き良き時代」の思い出に託して描いて、併せて当代の蕪雑さを嘆いているのである。
ボードレールは芥川竜之介に影響した如く、萩原朔太郎にも影響を与えた。大体ボードレールが大正期のわが作家に歓迎されたのは、一般論としていえばその反俗精神、即ち反自然主義・審美主義・官能主義等々のためである。「人生は一行のボードレールに如かず」という芥川の有名な言葉は、「凡俗な日常生活のだらだらした小説は何て退屈なんだろう」といい換えてもよかったのである。つまりそれは萩原氏のいうような「西洋文学追蹤」への擁護だったのだ。
だから萩原氏には今引いたボードレールのバンヴィルを通じての詩人観は、実際に読んだかどうか知らないけれど、ピッタリだったに違いない。六一年のパリは四一年のそれが崩れたものだったかも知れないが、大正期の東京は明治期のそれが煉瓦や電車の軌道だけ敷いて中味のなかった所へ、戦勝による二十世紀的成り上り者趣味を詰め込んだものであった。詩人の純潔な感覚の論理を躓かせるに、事を欠かないのである。
然し人間的に萩原氏とボードレールは勿論遠い。ボードレールは近代合理主義に対し、その神をひっくるめて挑戦しているのだが、萩原氏の敵である当時の文化にはそんな思想的な実体はない。そして萩原氏が自分の感覚の上でボードレールと同感したということと、ボードレールを文学的に理解したということとは別なのである。後者の点では簡単にその誤解を指摘することが出来る。例えば「謂世紀末とは、文の爛熟にふ廢デカダンスの思が世を風靡し、人々は官能の享樂に疲れて、却つて死の安息を思ふ厭世離のが濃やかだつた時代だつた」とか「フランス象詩には、人生の無爲と倦怠を歌ひ、厭世觀を抒したものが尠くなかつた」などいって、これとボードレールを直結したりしているが、こんな消極主義から彼の近代文明批評を引き出すことは何としても無理であろう。然し萩原氏の詩人的直観は、この誤解に関らず、或いはこの誤解に基づいて、ボードレールの真意を掴んでいるのである。
ともあれ詩人の自負と矜持は、ボードレールがバンヴィルの上に描いたように、一社会の師表としての詩人の理想像を描くものである。そしてこの理想像が傷つけられるに応じて、彼はそれだけアウトサイダーになるのである。では萩原氏のバンヴィルは誰かというに、それは白秋でも鉄幹でもなく、否そんなものは近代日本にはあり得ないというのが、氏の詩人としての出発点であった。勿論四一年のような黄金時代は、明治の如何なる時期にも仮想も出来なかった。
だからこのアウトサイダーは、一面たわいないダンディとして出発する。『純銀の賽』の賭博者も、「玻璃の衣装をきた探偵」もその一変身である。それはまた、カフェー華かなりし頃の五色の酒の酔に尖端的気分を味わう白秋の流れを汲み、西条八十の「銀座の柳」調にも無縁ではないのだから、次のような情緒を歌う所にも萩原氏のダンディスムは現れるのである。
に灯ともり
おとろへはててわれあゆむ
金のゆきにふり
戀魚のめざめこそばゆく
…………
につけるの雲雀かがやく銀座四丁目三丁目。
なやましげなるにしあれば
こよひ一夜を勸工場《ばざあ》の窓に泣きぬれて
あしたの菊をぞわれ摘まむ。
序にこの大正調の遊蕩振りが最後の『氷島』の時期に到ると次の悽愴な情調に堕ちるのを紹介するのも一興かも知れない。
坂を登らんとしてひに耐へず
蹌踉として醉月の《どあ》を開けば
狼藉たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電氣の影に
しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家なく
妻子離散して孤獨なり
いかんぞまた漂泊のを知らむ。
女等群がりて卓を圍み
我れの醉態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
殘りなく錢《ぜに》を數へてみ去れり。
ダンディというものは、ボードレールによれば、金や暇の使い方の名人の筈だから、勿論造花のような銀座のバーの常連でもなければ、場末の「酔月」でたかられもしない。萩原氏が流行小唄の作詞者になれなかったのは当然である。この二つの酒の歌に共通することは、氏が酔客になろうとして、どうしてもなれないことが歌のテーマになっていることである。そして一八四一年だったら、氏は酒場の板についた御客になる資格はあった訳だ。
それにしてもボードレールによればダンディは、過去の栄光を一身に受けて、落日の如く荘厳に沈みゆくものだそうだが、我々には先ずその栄光ある過去がない。のみならず我が国のダンディは、何か新しいものを身につけて、これを開拓してゆこうという先駆的存在がこれに属するようだ。ダンディが前向きだということになると、我々の光栄みたいだが、然し考えて見るとこれは手離しで誇るべきことかどうかは分らない。なぜなら彼等は何等時代を背負っていないのだ。それでいてダンディの本質上没落すべき役割を持っている。ではどうするかというと、彼等は可能性のうちに没落するのである。これが明治の開化期のあとを受けた大正っ児の精神的運命である。
つまり萩原氏は、精神的にも、或る程度実生活の上でも、前衛的であろうとした。気質からよりも、わが社会的・文化的な遅れがそれを命じるのである。そしてその結果は、自ら目指した思想や、装ったポーズの空しさを知った。だから自ら犯人であり、同時に探偵であるというような二重性のアレゴリーが生れるのだ。大正という時代は、精神文化の表面にはこの種の喜劇が波立っている。例えば生来クラシックな優雅に浸ることに汲々たる傾向の人が、思わず新奇な衣装で現れて人を驚かしたりする。当人何も計画的な芝居を打ったのではないのだ。だから彼が後で気がついて驚くことは、自分の考えてやった創意と、それが齎した効果の食い違いである。しかもそういう時大正っ児というものは、ほくそ笑むよりも、てれたものだ。
そこで最後に萩原氏はグールモンの言葉、「古典主義は中風だつた。浪漫主義は癲だつた。自然主義は多血症であり、デカダン文學は經衰だつた。文學はこれから却した時、めて健である。」をもじって、「古典主義はどこにもなかつた。浪漫主義はニキビ年のい感傷だつた。自然主義は老耄の屈な居眠りだつた。デカダン主義は享樂家の薄荷酒《ペパミント》だつた。文學はこれらの稚態からする時、めて眞に文學である。」といって見たりする。すると日本にはまだ文学はない訳だ。古典、浪漫はもう我等の手の中にはない。自然主義は生涯の不倶戴天の敵であったが、デカダンのペパミント文学は、或る意味で、自分でこれを意識しながらやっていたのである。それも悪いと知りつつ溺れるのではなくて、或る未知の発見、つまり前の時代を超克するものと信じて酔っているうちに、それがまた新しい稚態の一つだと気がつく、といったものなのである。だからグールモンのは文学を健全ならしめるための箴言なのだが、萩原氏のは、まだ存在しない真の文学をこれから生むための方策の形をとっているのである。こうして、今ないものを生むために、あらゆる今あるものから義絶することが、大正期のアウトサイダーの性格であった。しかもそのために自分が今在る所のものに対する不在証明も、しばしば贋造したのである。
昭和初期の詩人たち
前章には萩原朔太郎を明治大正から昭和に移るわが精神史の中でアウトサイダーの典型として取上げたが、然し考えて見ると、元来詩人というものは何時の世にも原則的にアウトサイダーなのではあるまいか?
終戦直後三好達治は『行人よ靴いだせ』と題し、当時の都会の荒廃を歌っている。(詩集『駱駝の瘤にまたがって』所載)
行人よ靴いだせ
行人よ靴いだせ
脂ぬり刷毛はかん
泥《ひぢ》はらひ釘うたん
鋲うたん
革うたん
靴いだせ行人よ
行人よ靴いだせ
故の柳水にうなだれ
塵たかくジープは走れ
掘にゆく舟を見ず
街衢みな蕪
ボイラー赤く錆び
蛇管は草にきたり
ここにして〓《つゑ》つき停《た》つな
巷路暮春の風
いかなれば聽くをもちひん
天ひろく
眼はむなし
つばくらら肱をめぐりて
地にしける甍《いらか》をかすむ(下略)
思い出今も新たな敗残の東京の春景色を描き、これに反撥するかのように格調は高い。街頭の靴磨きという、戦前になかった風物をクローズ・アップして周りに焼跡を配した所に、この詩人の天性巧みな画題の構図があるのだが、その主人公となるものはやはり巷路に〓《つえ》を曳く詩人の姿である。そしてこの詩人の姿勢は、この廃墟と同じようにうらぶれているように見えながら、――或いは、見せかけながら――実は決して腰はくだけていない。昂然と己が恒の心を持しながら、眼のみ果てない地平線の彼方まで焼跡のすべてを見透している。そのポーズには長い人生行路を放浪のうちに送る漂泊者の孤影を気取ったものがあるが、これが詩人というものの常套的な役割であって見れば、特にそれにこだわる必要はあるまい。然し私が先に引いた萩原朔太郎の『珈琲店酔月』を覚えている読者があれば、この場末の酒場で酔いしれた老詩人の孤独と、この焼跡の詩人の哀傷とに、一脈の共通点があるのを認めるであろう。一方は自分でインチキバーへとび込んで女どもにカモられているのだし、他方は祖国の悲運に際会して、その変り果てた姿を嘆いているのだが、この立場の違いに関らず、その喪失感というか、何か常のものの形が欠けたのを嘆く気持が共通するのである。
先にもいったように、三好達治は萩原朔太郎を熱烈に崇拝していた。しかも思想的に共通するもののないこの二人に、それを内容的に説明するすべがないのだが、この二つの詩にある嘆きとか悲しみとかいうより怒りに近い烈しい感情は、二人の似通った詩語の行文の間に共通しているのである。こういう感情は、ただ受動的に自分の置かれた立場に傷つくだけでなく、進んでこれを裁こうとする。即ち理性による批判に似た作用をする。そしてこの怒りに似た感情が、甘い涙と反対の、冷たい笑いの効果を呈する。詩人が文明批評家になるのは、この形においてである。
三好のこれと同じ時期の作品に『ちつぽけな象がやつて来た』というのがある。或る婦人雑誌に載った、軽妙な古典的ロンド調の諧謔詩である。
颱風が來て水が出て
日本東京に秋が來て
ちつぽけな象がやつて來た
生二年六ヶ月
百貫でぶだが赤んぼだ
象は可愛い動物だ
赤ん坊ならなほさらだ
貨車の臥藁《ねわら》にねそべつて
お薩《さつ》やバナナをたべながら
晝寢をしながらやつて來た
…………
ちつぽけな象がやつて來た
いただきものといふからは
輕いつづらもよけれども
それかあらぬか身にしみる
日本東京秋の風
…………
話は当時タイ国から上野へ寄贈された小象のことである。象は銀座の街頭で満都の歓呼を浴びながら動物園へ入った。これは三好にとって、御愛嬌どころか憤懣のたねであった。敗残の身で明日を思わぬ都民のこの心ない狂態は、当時三好を怒らせ悲しませたが、この怒りは象がまだ赤ん坊だというせいに帰せられた。この八つ当りから生れたのがこの諷刺詩である。
しかもこれで分るように、アウトサイダーは風俗を紊す側に立つばかりでなく、この場合のように良識を護る正義派の立場もとるものなのである。否、前者の場合は後者の目的のためにとる抵抗の一姿態なのである。この象の詩は、先の靴磨きの詩と同じく、戦後のパンパンやカストリの時代の屈辱と破廉恥の横行の中で、やる方ない悲憤を歌う反俗の心が内にひそんでいる。
この悲憤と反俗は、戦後の頽廃という日本の砂漠の中にあって、容易にわが身を異国から来たアウト・ロウに見立てることが出来る。『駱駝の瘤にまたがつて』というのは、詩人が自らそういう東邦のやくざ渡世に身をやつしての戯画であり、世の頽廃に処するに自ら更に徹した頽廃を気取るのは、これも一種の英雄主義であるが、それが又そのまま自嘲に通じることによって、諷刺は更に完璧になるのである。
自嘲といえば、「象」にも「靴磨き」にもそれがあったのを私はいい忘れていた。一般に詩人の孤高は、それによって自分が疎外されたものという意識を生むことになって、自嘲の形でわが身に返って来る。詩人がいわゆる良心的であればある程そうである。それが同時に詩人の戯作者気質というものと合体し、その想像力をかきたてるのである。詩人の姿勢は、スポーツ選手と同じく、腰を低め、眼を地上近く据えねばならぬ。それによって自分のスタンスの安定感を保ち、視野を正確且つ精細にすることが出来るのである。
えたいの知れない駱駝の背中にゆさぶられて
おれは地球のむかうからやつて來た人だ
病氣あがりの三日月が砂丘の上に落ちかかる
そんな天幕《てんと》の間からおれはふらふらやつて來た仲間の一人だ
何といふ目あてもなしに
ふらふらそこらをうろついてきた育ちのわるい身なし兒だ
ててなし兒だ
合鍵つくりをふり出しに
拔取り騙《かた》り掻拂ひ樽ころがしまでやつてきた
おれの素姓はいつてみれば
幕あひなしのいつぽん 影繪芝居のやうだつた
もとよりおれはそれだからこんな年まで行先なしの宿なしで
國籍不明の札つきだ
けれどもおれの思想なら
時にはの雄鷄だ 時に正午の日まはりだ
また笛のだ 噴水だ
おれの思想はにぎやかな祭のやうに華やかで陽氣で無鐵で
斷つておく 哲學はかいもく無學だ
その代り驅引もある 曲もある 種も仕掛けも
覆面も 藥も 鑪《やすり》も 匕首《あひくち》も 七つ具はそろつてゐる……
地口はこうしてまだまだ続く。この男、若い頃はいっぱし伊達なアンチャンだったが、今では腕もなまり、こうして捕縄もうたれたが、然しまだ今宵星のふる時分、世間の奴等の掟とする鉄の格子から、又もや駱駝の瘤にまたがって抜け出す才覚はある、というのである。終始自分の詩人的経歴に沿った自嘲と誇りで綴りながら、骨なしの世相への皮肉ともとれる。三好は戦時中北陸のうらぶれた漁村に疎開していて、かなり後れて上京、その当座この種の世を慨く詩を数篇書いたが、私はこの三つが、その着想の警抜さも手伝ってその代表作だと思っている。
元来三好達治は、古雅な詩語を弄ぶ趣味があるので擬古典的な形式主義者に見立てられ勝ちだが、決してそれは詩人としての本性ではない。青少年時代を陸軍の学校で過しながら途中で厭気がさして仏文系の大学コースへ転じたのは、敗退ではなく、己が命を知ったためである。そういう生活上の不覊は当然詩作の上にも現れていて、彼の詩はしばしば居心地のよさよりも居心地の悪さから生れるというアウトサイダー詩人の性格を備えているのである。『駱駝の瘤』の中の三つの詩はよくそれを証しているが、一時彼が盛に書いていた社会・風俗批評的アフォリズムやエッセイの類は、それは概ねこちらの気持の代弁だからいいようなものの、時にあらずもがなの頑迷さがあり、それでもそれが一応人を納得させるのは、彼の筆徳――人徳の代りに仮りにこういう造語が許されれば――の御蔭であろう。
敗残の東京の姿をかくも自虐的に追う三好の執念は、その前の時期によるべもない北陸の浜辺に独り疎開し、不如意と孤独を黙々と噛みしめた彼の狷介さと正しく通じるものなのである。一は世相を慨く社会詩人の諧謔で、一は静寂に沈潜する自然詩人の抒情だなどと区別することはおよそ当らないのである。のみならず私は彼の北陸隠棲時代の詩が今までの所その最大傑作じゃないかと思う。少くともそこに三好達治のすべての詩境に通じるモティフがあると思って、今心当てに引用句を探したのだが、どうも恰好なのが見当らぬ。むしろ次のリフレンのような断片が、却ってその書割を描いて実感があるように思えるのである。そこは「天には鴉がばらまかれ、ひよろひよろ松がけむつてゐる、のつぺらぼうの砂濱」であると思って戴きたい。
一とぶ鳥は
友おふ鳥ぞ
荒磯《ありそ》
一とぶ鳥は
頸長し鳥
臀重し鳥
一とぶ鳥は
日暮れてとぶぞ
荒磯《ありそ》
そして詩人は次のような意味の句で結んでいる。「然し自分はそんな情緒の季節が過ぎゆくのを見送っていたのではない。断崖に立ち、うち返す波の声の上で、すでにおれの喪ったもの一切を、遠い彼方の方角に知っていたのだから」と。そうなればもはや疎開も敗戦もない。昔ながらの詩人の自己喪失である。そしてこのことは、彼が若年の頃から身に感じていたものが、戦争を機縁にはっきり形をとったのであった。
三好の学歴は年齢の割に遅れて、昭和二年に東大仏文卒となっているが、その少し前から京都で梶井基次郎を知り、梶井はそれから数年で夭折するのだが、彼は恐らく三好が最も心服し、教えられた同輩であった。この時代はいわゆる第一次の左翼時代で、若い作家の多くが今よりもっと無雑作に左傾していた。又それだけに、残った芸術派の連中は何らかの知的装備を施して身を支えねばならなかった。知性が抒情しようとすると、虚無とか頽廃とかいう表情をとる。そんな言葉が初めてわが文壇に現れるようになった。又知性が文学の創造の面で参画するようになったので、批評文学がその正当な地位を獲たのもその頃からである。
今も名の伝わる同人雑誌でいえば、三好達治や梶井基次郎等が『青空』を始めたのは大正十四年である。又その翌年、堀辰雄の加わった『驢馬』が創刊されている。所で筑摩書房で近年出た現代日本文学全集は、この三好・梶井・堀と一巻に抱き合せているが、私はこのヒントなしにでもこの章のテーマとしてこの三人を纏めて見たかったのである。たまたまこの全集の解説者中村真一郎は、現在大きく隔たったこの三人の作家も、その初めは共通した雰囲気の親近性のうちに出現したものであることを説いているが、今私は厳格な意味での文学論をやっているのではないのだから、問題はやはりこの「親近性」の中にあるのである。
所で、梶井・堀ともに抒情的な散文作家であり、表面上病弱繊細な感覚の作品を遺しているだけだから、少くともアウトサイダーというような対社会的な意味をそれにつけることはこじつけに見えるかも知れない。然し時代感覚というものは、ただ作家の純粋さの中にあるものだし、それに直接間接この二人の影響によってわが昭和文学の近代性の重要な部分が開かれたことは、近年になってますます認められて来ている。
梶井の出世作『檸檬《レモン》』は、前述『青空』創刊号に載ったものである。この作は恐らく今の若い詩人にたわいのない大正末期のダンディスムを思わせるに過ぎないだろうが、ここで定着されたシニシズムの意味は大きいのである。当時梶井は大学にあり、マルキシズムの擡頭に脅かされながら、一方デカダニズムに足を引っ張られて迷っていたが、ここで彼は一応後者に身を堕し、自分の姿を試して見たのであった。
倦怠をもてあました青年が果物屋でレモンを買う。するとこのチューブから絵具を搾り固めたような一顆の果実に、しつこかった憂鬱が手もなく紛らされてしまうのだ! やがて彼はそれを持って丸善に現れる。そして日頃憧れの美術書の前に立つのだが、それが今日はどうしたことか興味索然としているのである。
「あ、さうださうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶ひ出した。本の色をごちやごちやに積みあげて、一度この檸檬で試して見たら。
「さうだ」
私はまた先の輕やかな昂奮が歸つて來た。……やつとそれは出來上つた。そして輕くり上る心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据ゑつけた。そしてそれは上出來だつた。
見わたすと、その檸檬の色はガチャガチャした色の諧をひつそりと紡錘形の身體の中へ吸收してしまつて、カーンとえかへつてゐた。私は埃つぽい丸善の中の空氣が、その檸檬の圍だけ變に緊張してゐるやうな氣がした。……
それから彼はさらに思いついて、何くわぬ顔をしてその儘外へ出る。「丸善のへ色い恐ろしい爆彈を仕掛けて來た惡が私で、十後にはあの氣づまりな美書がみんな木つ葉みぢんになる」という想定なのである。
児戯に類する幻想だと開き直られてはそれまでである。然し美と自分の倦怠を卒直に対決させて、実にすっきりしたイメージである。これは百の丸善が空襲で爆撃されるよりもっと大きな事件である。何しろ一デカダン詩人の欠伸がこれをすっ飛ばすのだからだ。
倦怠は好んで地球を廢墟にする
そして欠伸のうちにこの世を呑むだらう
ボードレールは『悪の華』の序詩でこう歌っているのだが、それは彼が、倦怠があらゆる悪徳の中で最も潜在的なエネルギーを持ち、かつ意図が純潔なものであることを知っていたからである。だからこれは単なる衰弱ややけっぱちの一種ではない。そして梶井はボードレールの精神をこの散文詩で見事に実現したのであった。
思えばボードレールの流行はわが文壇で長く且つ多様であった。目ぼしいものでも永井荷風・芥川竜之介・萩原朔太郎がある。然し荷風のは彼の耽美主義の代弁であり、竜之介のは余りにも贖罪とかけ離れた知的シニシズム、そして朔太郎は反日常的な高踏主義をこれに託したのであった。私は梶井がその理解者として唯一とも最初ともいわぬが、大体この世代において初めてわが詩人たちがその近代性を身につけるようになったのであって、その見事な例としてこの『檸檬』が現れたのである。
「デカダン詩人の倦怠」とはあまりに事古りた幻想であるが、これが事古りたという印象を与えるのは、二流三流の亜流がよってたかって感動を類型化したからである。大体ボードレールの頽廃とは、科学や合理主義にしばられて動きがとれない所から脱出するための血路なのだが、近代日本ではこれらの桎梏そのものよりも、それを国家的に確立するための精神主義――例えば富国強兵主義・立身出世主義のようなものへの反抗なのである。しかも文学史的にはも一つ手がこんでいる。文壇では、今いった日本的合理主義への反抗の役割は、自然主義がひと先ずまともに果したのであった。そしてデカダン詩人の憤懣は、主としてこの自然主義に対して向けられるのである。
西欧の自然主義は科学的合理主義の文学的応用だが、日本のはその方法論を藉りての、原初的な人間主義《ヒユーマニズム》の発揚である。だからそれは、客観主義を標榜しながらいくらでも風土的な地方主義と結びつくのである。精神の真の自由を目指す詩人達が白眼視するのはここの所であって、前章に述べた萩原朔太郎の反撥もこれに向けられていた。そういえば彼の実生活上の風俗における「西洋追随」は、一般明治大正のインテリ紳士のそれの枠を越えたものがあったが、これ又自然主義への反感が然らしむるものが大いにあるように思える。さらに又朔太郎のみならず大正期の詩人には、木下杢太郎で代表される如く、異国趣味が多いが、これは詩人が職能上とる一様式《モード》であって、単に個人的な趣味というようなものではないのである。そして大正上半期の詩人を広くエキゾティックな詩人と総称することも出来よう。――第一次大戦ブームの寵児・北原白秋も。修道院の次に「隨《かんながら》の山をうたひし大和の詩人《うたびと》」たちをたたえた三木露風も。さては高村光太郎・柳沢健・堀口大学も。さて私はその中で一つだけ場合を挙げよう。
エキゾティシズムが絵画趣味《ピトレスク》なものを手段とするのは最も手っとり早い方法論である。アウトサイダーが色彩主義を拠り所にするということは、理論的には根拠はないが、その点で端的に結びつき易いのであろう。梶井の『檸檬』も、タネは強烈な色彩にある。所がここにその原型ともいえる散文詩が、金子光晴の『水の流浪』の中にある。(ここで個人的なことをいえば、私は学生時代に日夏耿之介の『黒衣聖母』と金子光晴の『こがね虫』を最も愛誦していた。年いたらぬ私は金子氏の専ら色彩豊かな感覚に魅せられていたようだ。そして私が大学を卒業する年の大正十五年に、氏の第二詩集『水の流浪』が出たのであった)
所で私がいう詩は、『果実店』と題し、港町の裏町を歩いていての幻想である。
とある街角に出た時私ははたと立止つた。角店の一軒の果實店の豐饒な色祭が私のくらい心に火車を投げこんだからだ。
五點形に、三角に、或はなんとなく亂雜につみあげた林檎の紅、ネーブルの、蜜柑、朱欒《ザボン》、瓜形のバナナ、梨、鳳梨その他季はづれな、南方からの果實のたぐひ。うらやましいほどつやつやした開放的な新鮮な香氣にみちあふれた果實の生命《いのち》が、私のからだの頭から爪先まで照り映えた。一人の搬人がそのとき、門口につけた荷車から大きな丸籠に盛られた山もりのくだものを店の方へはこんでゐたがどんなはずみか、重い籠が均を失ひ、搬人の腕のあひだから果實が無數の爆彈のやうにころがりおちた。やかな夢が往來へ八方に散亂し、い泥濘のに、赤や、や紅の色がみるみる氾濫した。
私の鬱屈のいかたまりがそれによつてはじめて、はけ口をえた。私はおもはず萬歳と叫んだ。祭の爆竹がその間、うすぐらい街のどの横丁のどのすみからも一時に打出されたやうにきいたのは、そら耳だつたかしら。
措辞必ずしも冗漫でないと保せず、イメージも未熟で、他の佳篇をおいてこれだけ引用するのは作者に対して心苦しいのだが、とにかく私はこの着想を見てほしいのである。ここには梶井の「レモンのがカーンとえつた」ものはないが、その下地をなす豊饒と、梶井の叛逆の心の原動力は、よく説明されている。この色彩の氾濫は確かに異国趣味から来ている。金子氏は二度西遊し、殊に二度目の時は夫人と共に東南アジアで行く先々の旅費を稼いで、二年かかってパリへ辿りついたような流浪の旅であった。パリへ行くに色彩豊かな南方諸地域を経ねばならないことは詩人にとって幸運な宿命である。もっとも上述の二つの詩集はこの二度目の洋行の前に刊行されたものだが。とにかく金子氏ほど身を以て放浪して異国趣味を聚集した大正詩人は先ずないであろう。そして私としては、当時『こがね虫』の中にあった、
二十五の〓惰は、金色に眠つてゐる。
の一句など、この詩集の全魅惑を要約した誇らかな凱歌として、驚喜したものであった。
(金子氏はその後の詩集『鮫』の序文で、「よほど腹の立つことか、軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあつたときの他は今後も詩は作らないつもりです」といっている。氏をこのように色彩家としてのみ扱うのは当を失し、氏が若くクロポトキンやシュティルネルに親しんだアナーキスト的ヴァガボンドであったことは忘れてはならない。一般に大正から昭和初期のわが詩人にあるアナ的要素は重要である。これは小説家における自然主義の如き気質的な結びつきを示しているのだが、今は触れない。)
前に述べた中村真一郎の梶井基次郎に関する解説によれば、梶井は同年輩の人達には「西欧的」に見えるようだが、彼はむしろ川端康成のような「日本的」な抒情作家なのだ、といっている。恐らくそれは作家論として正しいのであり、と同時にそういう議論が通る程今やわが文壇の一般レベルも「西欧化」したといえるのであろう。然し私は私なりに梶井の文章が齎した啓示を説かねばならぬ。それは『檸檬』が戸口を開いた世界なのだが、そこで設定された倦怠は、さてどんな風に息づいて行くであろうか? 例えば彼の名篇『冬の蠅』の初めの方を見よう。
私は開け放つた窓の中で裸體の身體を晒しながら、さうした灣《うちうみ》のやうに賑やかな溪のを眺めてゐる。すると彼等(註、冬の蠅)がやつて來るのである。彼等のやつて來るのは私の部屋の天井からである。日陰ではよぼよぼとしてゐる彼等は日なたの中へ下りて來るやよみがへつたやうに活氣づく。私の脛《すね》へひやりととまつたり、兩脚を擧げて腋の下を掻くやうな眞似をしたり、手をりあはせたり、かと思ふと々しく飛び立つては絡み合つたりするのである。さうした彼等を見てゐると彼等がどんなに日光を怡《たの》しんでゐるかが憐れなほど理解される。とにかく彼等が嬉戲するやうな表をするのは日なたのなかばかりである。それに彼等は窓が明いてゐる間は日なたの中から一も出ようとはしない。日が翳るまで、移つてゆく日なたのなかでんでゐるのである。虻や蜂があんなにも溌剌と飛びつてゐる外氣のなかへも決して飛び立たうとはせず、なぜか病人である私を眞似てゐる。しかし何といふ「生きんとする意志」であらう! 彼等は日光の中で交尾することを忘れない。恐らく枯死からはさうくない彼等が!
これは伊豆の山奥で療養中の筆者が、自分と同類のような冬の蠅の生命を、まるで怡しんでいるかのように観察しての名描写だが、正しく「日本的」なセンスを持った、緻密な名文である。然しこの密度の細かさは、例えば日本美術の細密画の生地をなすような素質的なものではない。この描写はそういう空間的・視覚的なものではなくて、時間的・音楽的なものである。というのは、観察によるものではなくて、自分の意識の流れに沿って測ったものなのである。つまり描いたのでなく、自分の生きる時間で測った所にこの文章の鮮かさがあり、そういう点で梶井の文学は、独創性というよりも、従来わが文学に先ずなかったといってもよい劃期的なものなのだ。
そしてこれまで私は倦怠という逃避的な響きのする言葉を遠慮勝ちに使って来たが、この懶惰な怪物こそ自分の意識で時間を算える唯一の生き物なのである。そしてボードレールが初めてこの怪物を生けどりにしたことを高言したのだが、それによって彼自身獲得した非情の哲学は、前世紀末から今世紀にかけてのドストエフスキーや、ニーチェや、サルトルに至る重要な思潮に、直接影響を与えたとはいえないまでも、同時代の同類性を以てこれを生んでいるのである。(例えば、バークレイの経験哲学がニュートンの引力の法則の発見を助け、某々の数学の理論がアインシュタインの相対性原理の仮説を導いたというような科学史上の事実に類比されることが、文学史にも起るものである)
固より梶井の文学には、自分の意識に擬していた匕首を逆手に振りかざして現実の世界に挑む態のものはない。彼はそれを回避したのではなく、彼の前にあるその意識の「闇の絵巻」が余りに濃くて、切っ先が外界まで届かなかったというものであろう。然し少なくとも切りつけたことは確実であり、そのポーズは鮮かである。
もっと具体的にいえば、プルーストが日本へはいって来たのは昭和の最初期であり、昭和六年の書簡にも彼は正当な感激を以てそれを読んでいることが分る。然し『冬の蠅』(昭和三年)や『闇の絵巻』(同五年)の頃彼はプルーストを読んでいたかどうか、何れにしろこれらの作品にはプルーストなみの時間的密度の細かい「意識の流れ」が定着されていて、これを単に日本的な抒情といったのではすまされない近代文学の原型が認められるのである。
さて、文体の上に現れた時間とか持続とかいうことになって来ると、それは堀辰雄の問題とも接近しているのである。この、梶井と同時代に出て同病であった作家は、資質の相違に関わらず一面で似た働きをしたのであった。彼までをこのアウトサイダーの列伝の中で挙げることは、この文学的にも実生活の上でもおとなしい人にふさわないように思えるかも知れない。然し彼のあり方は、しいて名前をつければ、存在のアウトサイダーとでもいうか、積極的に何も手出しをしないで、例えば、防波堤が自分で自分を設定するように、着々とわが文壇に近代性を確立していったのであった。
彼が愛した土地は戦前の軽井沢で、そこにチョコレートの箱の絵のような古風な西洋の田舎を夢みた。又彼が親しんだ文学は、プルーストにしろ、リルケにしろ、或いはわが王朝の物語にしろ、読んでいててれ臭い程これにかぶれて見せた。そこから時に堀の文学を鼻持ちならぬ模倣のように貶す人があるが、その模倣こそ堀が生命をかけて努めた道で、そこに彼の独創性があるのである。
堀の代表作『風立ちぬ』の書出し。
それらの夏の日々、一面に薄《すすき》の生ひ茂つた草原の中で、おが立つたまま熱心に繪を描いてゐると、私はいつもの傍らの一本の白樺の木蔭に身をたへてゐたものだつた。そして夕方になつて、おが仕事をすませて私のそばに來ると、それからしばらく私はに手をかけ合つたまま、遙か彼方の、だけ茜色を帶びた入雲のむくむくした塊りに覆はれてゐる地線の方を眺めやつてゐたものだつた。やうやく暮れようとしかけてゐるその地線から、反對に何物かが生れて來つつあるかのやうに……
明らかにこれはジイドの初期の『アンドレ・ワルテル』から『狭き門』に至る文体である。然しジイドでもプルーストでもよいが、堀はこれを模倣するといっても、ただ能なしのお弟子が粉本を臨画するようなのではなく、ジイドの存在の中に完全に溶け込んで、その息吹を自分で呼吸する如く歌い出すのである。つまりこの文体をジイドの作品全体との関連において捕えているのだ。その結果彼の醸し出す空気には或る独特な濃密さがある。しかもそれは『菜穂子』(昭和十年、三十二歳の作)あたりからはっきり出て来たのであって、それだけ歳月をかけて身につけたのであり、そこまでゆくということは、彼がいわゆる模倣者の主体性の欠如と反対に、およそ強い意志と、頑迷なまでに己れを枉げぬ趣味の強靱さがあることを示すものである。だからそれは堀をハイカラ気取りの、フランス近代文学の亜流作家と見立てる通説とはおよそ反対のものである。
かくして堀にとって軽井沢は、私が大正期の詩人について述べた意味での異国趣味と同じものであった。それから梶井の『冬の蠅』がその文体の上に独自の持続を齎したと同じ成果を、形は違っても堀の『風立ちぬ』などの散文は示しているのである。そして、梶井は日本的抒情性、堀は王朝的物語性に則りながら、そこに生み出された現実は、およそ「西欧的」で「近代的」なものであった。それは明治大正の先輩が、あらゆる叛逆と革新を以て企てて来たものであって、それがこの二人の病詩人の極めて特異な小世界で実現されたことは特記すべきである。然し題材的にも人々は彼等の作品に余り重きをおかず、又直接その影響はそう見られないであろう。にも関らず彼等が昭和期の文学の劃期的・象徴的な道標であることは確かであり、のみならずその実績は次第に認められて来たのである。
岩野鳴
私がかつて岩野鳴論を書いたのは昭和九年五月号の『文芸』で、今からちょうど二十五年前に当る。今再び彼を論じるに当り、いろいろ資料を読んだ中で、それを読み返して見たのだが、私の鳴に関する讃美は変らず、この旧稿の論旨も大体改める必要はないのを感じた。しかもそれがそのままここで使いものにならないことは、私のこの研究の性格と同時に、鳴と現代文学との対照が時代と共に変って来ているためである。
私はそこで、「明治に偉大な小は澤山ある。然し偉大な小家は鳴たゞ一人である」と書いた。当時の私の誇張癖を割引きすれば、私はこの前言を取消す必要を認めない。先日私は同年輩の友人で鳴をよく知っている井伏鱒二君を煩わして一夕思い出話を聞いたが、その時彼は、最後に「とにかく、エライ人だった、と書いてくれよ」といって結んだ。この「エライ」というのは、私の評価と近いことを感じたのだが、彼がまだ二十歳位の無名時代、鳴が「月評会」といって月一回五銭の会費で自宅へ十人位人を集めて文学放談をするのを聞きに行ったという情熱は、他に名士訪問をしなかった彼としては異常なことである。そうなると井伏君の独特なスタイルは、或いは鳴の描写論の影響がないとはいえない。とにかく二人とも自分の肉体でもって描写する人である。それに今度私は鳴の厖大な論文を拾い読みして、中で一番大切なのは、半獣主義でも、自然主義でも、表象主義でも、日本主義でもなく、その一元描写論だと思った。少くともこれら何々主義論の中に生きている信念は、この描写論の中に普遍化されているのである。
ところで鳴の描写論、或いは彼の描写の方法論は何かといえば、それは彼の文章が彼の生きている呼吸とぴったり合うということに外ならない。この簡単だけどむつかしいことが彼の念願であり、この信念を主張し説得するために千万言費して、霊肉一致だとか、刹那主義だとかいっているのである。思想と生活の一致ということはよくいわれるが、彼程見事にそれを実現した文学者はなかった。否、彼は一つの情念《パツシヨン》が行為となって外へ現れねば、それが思想という名をもって呼ばれないという自動装置みたいなものを身につけていた。これは固より、何か衝動的にやってしまったことに後から理窟がつくというのとはまるで違う。彼にはそんな弁解も後悔もないのである。と同時に、何か理念を先に立てて行動する理想主義には潔癖に苛立った。彼には宗教すらこの型に見えた。彼はその時代の青年の常として、英語を勉強するためにミッションスクールに近づき、一時受洗するまでにキリスト教にはいるのだが、やがてすぐこれに反撥して終生ヤソ嫌いで通すのもこの気持からである。(私はこの気持が内村鑑三の宣教師嫌いと感情的に同じ型であるのを感じ、面白く思った。共に日本人の精神の自立性を重んじてそうなるのだが、その挙句鳴は日本主義を唱え、鑑三は無教会主義に拠ったのである)
それとともに彼が大正期になってわが知的青年層を掴んだケーベル一派の教養主義的人格主義を排撃しているのが眼につくが、これとても相手の思想内容がどうこうというより、思想の中に寝そべり、その陰に隠れて行動する微温性が厭なのであって、つまり彼のヤソ嫌いと同じことである。彼は実に多くの論争をしているが、その動機が理論よりも思想家の生き方にいいがかりをつけているのが見える。然しこんな場合、論争は大抵喧嘩を吹っかけた方が負けで、のみならず敵は必ず個人攻撃をされたかのようにいきり立ち、正当防衛と常識の名の下に理不尽な言葉を返して来るものである。私の個人的なつき合いでは、中原中也がよくこの種の喧嘩をしかけては袋叩きに合い、ことに日常の私交の上でひどい目に遭っていた。
鳴のこの種の批判は宗教界や哲学界相手の他流試合だけでなく、仲間内の自然主義者達に対して最も辛辣になって来る。これは敵対でもなければ勿論憎悪でもなく、ただ自分は彼等と違うという信念がここで最も微妙に働くからであって、彼の独我論《エゴテイズム》がそこでむき出しに出るのである。例えば彼が死ぬ二年前の大正七年に書いた『現代将来の小説的発想を一新すべき僕の描写論』という長い表題の論文は彼の一元描写論の最も円熟したものだが、その論旨はとにかくとして、その中に次のような一例がある。
かの正宗白鳥氏の冷靜な主觀といはれてゐるのは渠《かれ》の胃病的憂鬱がもたらす態度にぎず、田山袋氏の感傷的主觀は、渠の思索的經驗がやつと老境に至るまでは現れないで、年時代を不な感的にばかりすごした慣の爲めであり、また、島崎村氏の處世的には考へ深さうであつて實は殆ど無容な藝の行きかたは、餘りに世俗的な苦勞を世俗的にして來たからである。有島武氏の感激だらけ、いや意氣みだらけの主觀は、思想的生活上若しくは感的生活上の苦勞を可なりして來てゐながら、それを餘り自分に反省しなかつた爲めのやうに受け取れる。尤も、これはすべてその創作から見てのことだ。
(註、なお大正十一年国民図書株式会社版の鳴全集は誤植が多くて読めたものではない。以下私が勝手に訂正する責任は版元に返上する。)
長年一緒に文壇生活をして来た相手を見る人間的な眼はさすが狂いがなく、その気の利いた皮肉は時にいい過ぎじゃないかと思わせるものがあるが、「創作から見ての」話だというのは社交的な弁解ではないので、これが描写論即ち文学論だと更に高所からきめつけているのである。
ここで鳴は描写を四つに分類し、作者から甲乙丙という人物を平面的に通して概念的人生に至るのと、作者から甲を通しそれがさらに乙丙を映して具体的人生に至るのと、そのそれぞれをまた二た通りに分けて説明しているが、それは今詳しく説明する必要はない。要するに自然主義者は客観を目指して平面的になり、概念的人生にしか到達していないが、自分は甲という人物への移入主観によって、すべての人物の相関関係が解けて人生が具体的に描けるというようなことらしい。だから鳴にとってこの原理は、その代表作である長篇の「五部作」の田村義雄という殆んど鳴そのままのような人物が見、感じ、為したように書いた自伝物から、その後「有情滑稽物」といって或る人物を主人公に仮託して纏めた短篇に至るまで、同じ事情なのである。
そしてここで鳴の描写論に正当な論理の転換が起っているのであって、前述の自然主義者に見られる如く平面的な描写は実は公正な客観世界が描けているのではなく、作者の人間的未熟が現れているのであり、自分のような一元描写によって全人的な主観と客観の燃焼が行われるのだと自負しているのである。そして泡鳴はそれを彼なりにやった人である。
「五部作」は義雄(鳴)が東京の生活に行き詰り、自分が悪疾をうつした情婦お鳥を残して単身北海道で一と旗挙げようとするが、それもうまくいかず、そこへお鳥が追っかけて来てすったもんだする頃の生活を描いたものだが、そこに鳴の人となりも作風も端的に出ている点で定評があるので、私もそれをまず取り上げる。彼の「哲理」を解説することは退屈だし、第一作品なり生活なりがこれを解説しているのであって、その逆ではないからだ。次の文章は、義雄が居候している友人夫婦の家へお鳥が東京から辿り着いて待っている所へ、義雄が道庁の技手と未開地の旅から帰って来た所で、『断橋』の一節である。
「有馬君」と云つて、義雄ががらすを明けるが早いか、
「おう、待つてゐたよ。」勇も立つて障子を明け、「あの、お鳥さんが來てゐるよ。」
「さうか?」義雄は何げなささうに答へ、實は嬉しい樣な、賑やかになつた樣な心持ちを押し隱し、手早く靴をいでから、「あァ疲れた、疲れた」と云ひながら、のッそり立つて、二三這入つたところで、お鳥の方にちよッと目をやる。見おぼえの東お召の袷《あは》せにまがひ大島の紡績がすりの織をつけてゐる。
「……」お鳥は、お綱とさし向つてゐる爐ばたの隅から目をあげてかれを瞥見したが、直ぐを向いた。胸一杯の恨みがさきに立つて、いざと云はば、覺悟の柔の手を出しもしかねなささうだ。
義雄はかの女がその鋒を隱してゐる樣子を看破したので、わざと氣で、勇とお鳥との間に坐わりみ、ポケットから草を一本探り出し、それに火をつけて、二三度うまさうに吹かす。その實、渠は吹かすばかりだから、草の味を實際に味はつたことは少いのである。
「どうだつたね?」勇が先づ言葉を出したのに答へて、
「苦しい目もしたが、快でもあつたよ。」
「それはよう御座いました、ねえ」お綱さんが愛想を云ふあとについて、お鳥はにが〓〓しさうに、「快など、しなくてもえい、さ。」
「どうせ、僕の快は」と、義雄はお鳥の方へは向かないで、「苦しみ、さ。孤獨の自覺が宇宙を經的に自己としてしまふその活動をやつてゐればよかつたのだ。」
「そして、それが出來たと云ふのか、ね?」勇のこの問ひには少なからぬ冷笑が含まれてゐると義雄は見たが、惡びれずに、
「無論、出來たと云つても、僕の刹的燃燒が人的に行つた時よりほかに、現實の眞理はないのだ。」
「まァ、さう云ふ六ヶしい議論は置いて、お鳥さんに挨拶でもし給へ。――それに手紙が來てゐた」と云つて、勇が一を持つて來たのが、大野吉とあつて、敷島(註、土地の馴染の遊女)の本名代《うめよ》の手であるので、直ぐ義雄はふところへ入れた。
気はいいが料簡が狭くてこの居候をもて余している友人夫婦。下卑で、見栄坊で、無自覚な情婦。彼女が荷厄介でいながらその「羽二重肌を人に渡す」のが惜しい義雄。この葛藤が始まるのだが、既にその空気はこれだけのうちに感じられる。
そしてこの例で分る如く、彼の描写とは、現在行われていることのそれであると共に、そこにすべて過去が背負われており、又未来への方向性も含まれているのである。そういう全存在を荷った瞬間の持続の上に成り立っているので、「存在は盲目的で、道徳的にいへば無目的である。」(『半獣主義』)ということになるのである。
彼のこの本能主義は、その私生活上のスキャンダルも加えて、社会的にも文壇からも一斉に攻撃を受けた。しかも文学的に自負する所の強い彼は、仲間からの支援も潔しとしなかった。
僕の作の主人公は、自ら標榜してゐるり、家ではない。否、人の着せるには反抗するばかりでなく、自分の求以外に心を引かれない男である。秋聲氏のいふ「恨の苦痛の少しもはない」とか、森田氏のいふ「もう少し深な倫理的葛の起る可き筈」とかいふ念上の不足も、先入の見に煩はされてゐるからであつて、僕の主人公としては却て幸ひにも、其の反對な以を、渠等に證明して貰つたわけだ。或新聞に、「耽溺文士の生活が憾なく現はれてゐる」とあつたが、そんな單純のものではない。僕から見て、夏目氏森田氏一のもつとも舊式だと思はれる點は、實生活そのものに於て、に藝の材料になるものとならないものがあるやうに、定めてかゝつてゐることだ。然しそれはボドレル以の修辭の藝觀である。
何しろ「自然主義」といえば「社会主義」と同じく、世間からは「危険人物」視されていた世の中である。「五部作」の中で主人公が札幌で歓迎会に臨むと、芸者達が、「あの方が自然主義なの?」と囁く場面がある位だ。明治四十二年の『耽溺』を出世作として世に出た彼は、「耽溺文士」という普通名詞の代表者として扱われるのだが、しかも自分の自然主義が他の何人とも違う独創性に本能的に気づいてこれを強調しようとするもので、ますますそれに類型化されて行った不幸は、この不幸そのものを自分の生の喜悦であり創造であると観ずるに至った次第である。
だから鳴の一元描写論はそういう広義の道徳的意味も含んでいるのであって、井伏鱒二君が「月評会」で親しく聞きとめて伝えてくれる次の言葉は、粗笨ながら逆に私の前の二つの引用文の註釈として役に立つのである。
感移入といふことを知つてゐながら、一元描寫がわからない作家はすくはれない人間だ。繪畫で一元描寫をとり入れたのはセザンヌだ。詩ではじめてこれをとり入れたのはボドレルだ。戲曲でてとり入れたのはゴルキーだ。小では日本の岩野鳴である。
ここでこの杜撰な芸術論を彼の意図に沿って正しい位置にまで復原して説明する労を私はとる気はない。ただ彼はこの三人に共通する近代文学の大切な要素を直観し、それを誤りなく自分に擬していることは確かだ。我々はそれをむしろ彼が全然使わず、又恐らく知らなかった言葉、例えば「自意識」という概念を持出して説明した方が明快かも知れないのである。彼がボードレールをボドレル、象徴主義を表象主義と書いてしきりにその精神を祖述していた時、昭和期以後の我々文学青年のように「自意識の化学」方程式には通暁していなかったろうが、そこに十九世紀リアリズムから抜け出る近代的方法があり、しかもそれが彼の場合には極めて原始的、肉体的な方法で手のうちにあることを、はっきり感じていたのである。それを口籠って半獣主義から日本主義に至る理論を編み出した苦衷は同情出来るけれど、その跡を必ずしもおさらえする必要はなさそうである。
ここで私は個人的な経験を混えていうのだが、私にとって鳴のどの論文よりも彼の訳したアーサー・シモンズの『表象派の文学運動』の方が印象が強く、又それによって鳴自身を語っているように思えるのである。この本は大正二年新潮社の出版で、鳴は金が欲しくて一ヵ月で翻訳したといっているが、大分以前から読んでいたのではなかろうか。論文集『神秘的半獣主義』(明治三十九年)以来彼はしばしば象徴主義について書いているのである。この翻訳は何しろ独特の文章構成法と語彙を持っていて忘れられないのだが、私は、二十そこそこでこれを読んで魅了され、ちょうど自分が憧れていた世界がそこに現されているのを、正しくこの文体によって理解したのだから、青春の偏執というものは恐ろしいものである。私は本書によってボードレールやヴェルレーヌの世界に手引されたのだが、しかも同時に鳴という人も本書から描き出して親しんだのだった。そしてそれは今考えても誤っていないと信ずる。
その証拠に私は鳴の訳文によって二三引用して見よう。まずランボー論では、
ランボの祕密は、思ふに、且つ渠が何故に文學に於ける無比の事を事實り成就し、それからまた靜かにえて東洋の一傳となり得たかの理由は、乃ち、渠のが藝家のでなく、實行家のであつたことだ。渠は夢想家であつたが、すべてその夢想は發見であつた。渠は渠の氣の同一行爲として、短曲『母』を書き、またアラビヤ人と象牙並に香の取り引きをした。渠はその生活の間に渠の力を盡して生活し、確信を以つてその身をその身に溺沈したのだが、それが同時に渠のみ並に(事物を對的でなく觀察すれば)點であつた。
周知の如くランボーは十九歳で最後の詩作を終り、後はあらゆる職種を転々としながら、その足跡はアフリカから中近東に及ぶのだが、この件りを訳しながら鳴は、蟹罐製造業者となって樺太で苦労し、新聞記者として北海道の未開地を放浪したことを思い出さなかったろうか。否、この放浪の時期に、本書をもう読んでいたか否かにかかわらず、こんな自懐にふと陥らなかったらむしろ不思議である。鳴もまた「その生活の瞬間毎に渠の全力を尽し」たのであった。ここに彼の作家としての無比の「エラサ」がある。彼も亦創作でも恋愛でも事業でも同じく全身火の玉となって相手にぶつかっていった。ここいらはランボーにとって詩作でも貿易でも「気分の同一行為」であるのと似て見える。少くとも明治末期の小説家の中ではその点異例である。鳴の刹那主義はフランスのサンボリストの文学的に反事大主義的なのと、生き方の上で同じなのである。
しかし厳密にいえば、ランボーの精神が実行家のそれだとすると、鳴はあくまで芸術家の精神に徹した人である。彼の世間的な実行力はそこから湧いて来ており、少くとも作家であるということには一生迷いのなかった人であった。そこはランボーとまるで違うのだが、ついでにランボーが夢想家であったといわれて見ると、それに因んで思い出す一節がある。それは五部作の中の『憑き物』の中で、義雄が新聞ゴロのような仲間と寝そべって何かうまい話はないかというようなことを話合っている時、一人が、「田村君は空想家だからなあ」と呟くと、義雄は突然起き上って威儀を正し、「僕を空想家だというのは当っていない。自分の努力には必ず実行が伴っている。自分が詩人であり、実業家であり、耽溺家であり、探検家であることは、その一つ一つがその物であり、そこに全心全力を傾注する、全人的な、最も真剣な霊肉合致を悲痛の自我に実現するのだ」というようなことを滔々としゃべり出すのである。この空想家とシモンズのいう夢想家とはちょっと違うが、とにかくこれと「ランボーは夢想家であってその夢想は発見であった」というのを比べれば、鳴には夢想はなくて彼は実践的であり、その行動は実現を目標とするモラルの探究であり、すなわち表現の世界では詩的発見ではなくて散文的造型だったのである。
次にシモンズのヴェルレーヌの章を見よう。その一節、
人が經驗に依つて學ぶのは、疑ひもなく會に取つてはいいことだが、藝家にはその利は疑はしい。藝家が、餘り明かに了解出來ないことだが、會に關係がないのは山が家庭生活にないのと同じだ。渠は會の規則で審せられない。渠は、會の因襲を受けても拒んでも、それが爲めに賞められも責められもしない。會の規則は常人が常人の爲めに作つたものだが、天才の人は根本的に異常である。詩人は會に反し、會は詩人に反して、直接の對抗だ。その打〓を、然し、屡々けることが出來るのは協だ。それの破格が一方に許され、それの自由が他方に禁じてある。結果はいつも最上の物でなくて、藝は一般に失敗である。が、幾人かの有性があつて、これには協が出來にくい。そして、〓ルレンの性はかう云ふ性の一つであつた。
この社会的習性との非妥協は、ヴェルレーヌと同じく泡鳴の終生の信条であり、創作動機であったが、それだけならすべての芸術家に通有であり、藤村なら条理をつくしてこの非条理を説いた筈だ。といってこの矛盾を「天才の特権」として昂然と社会性を踏まえて立つ時代は、ローマン派初期とともに過ぎた。泡鳴の立場はこの社会に傷つく所にあり、その立場は互角だ。わが自然主義者は、時の社会の因循さに反抗し、これを超越しているようでいて、実は落伍している。これがわが私小説発生の一事情だが、泡鳴は敢然と、馬鹿正直に、ドンキホーテ式にこれと闘った。
ここに彼の『悲痛の哲理』がある訳だが、しかもこの場合泡鳴は、シモンズによるヴェルレーヌとともに、
……〓ルレンは經驗から何物をも學ばなかつたと云へば云へる、渠が萬事を學んだのは人生から直接で、日を日に比べなかつたと云ふ意味でだ。
これがこの二人を他の一般作家と、或いは少くとも天才を凡俗芸術家から分つ所以である。彼等が経験から学ばなかったのは、鈍感からではない。もっと強烈な体験を与える次の日があったからだ。その瞬間瞬間を全人的に受けとめて生きた点、二人とも無類な誠実さを示したのであった。次のシモンズの描くヴェルレーヌの像はそのまま鳴に通じるのである。しかも前者が女性的で後者が男性的だという点では、殆んど対蹠的であるにもかかわらずである。
すべて渠(ヴェルレーヌ)の苦痛、不幸、並にひ、乃ち、一生渠に一從つたものにしては、僕は思ふに、人としてあつても稀だ。その生活から得るところがさう多く、若しくはその生活振りがさう十、さう烈に、生きることの爲めにこのやうな天才を以つてしたものは。そこが、實に、渠の一大詩人であつた以だ。〓ルレンは人としてすべての刹にその十な價値を與へた、すべての刹からその刹が彼に與ふべきあらゆる物を得ただ。これは常ならず、屡々ならず、多、樂しみであつた。が、エネルギ、一有性の活力、乃ち、常に受けては又盡しつつ、決して休息せず、決して動的、若しくは無頓着、若しくは不決斷ではなかつたものだ。僕に取つて出來いのは、渠を知らなかつた人々に渠が如何に誠實であつたかと云ふ觀念を傳へることだ。「誠實」なる語は、思ふに、これが他の人々のことで云へばく不十であつても、これをこの一人に關して云へば、その保つ力がまだ十ではない。渠は罪を犯したが、渠の人部を以つてだ。渠は後した、そして渠の靈魂部を以つてだ。そしてその日のすべての事件に、のすべてのに、創的本能のすべての衝動に、渠は同じ無比の感覺を持つて行つた。(傍点河上)
これを写しながら私は、これがちょうど私の書き得る鳴論の最も肝要な部分だとまで思ったのであった。そしてこの稀な資質に、ヴェルレーヌはおよそ無意識なのだが、鳴はよく意識していた。これがこの二人の生き方の大きな相違で、そこからヴェルレーヌの夢遊病者的な寝呆け眼《まなこ》と、鳴の議論ぽい喧嘩腰の対照が生じるのである。
これ程自分自身を書かれたようなシモンズを読んで鳴がどう感じたか知らない。恐らく腹の底では動かされながら、表面は何かと反撥したのではないだろうか。しかもそれは単なるあまのじゃくではない。今いったように、鳴の類い稀な作家資質と、これを議論化するパッションとは、同一根源から出て二つの別の作用だからだ。現にこのシモンズの訳の序文にも、この中の霊魂とか、神とか、音楽とかいう観念に引っ掛って身勝手な反駁を書いている。それは死よりは生を、抽象よりは具象を、永遠よりは瞬間をといった、彼の一方的な理論から来ているのである。
シモンズの鳴訳を右の少し長過ぎた引用で読んで、今の読者はどう思うであろうか。とにかくこの佶屈《きつくつ》だけど意外に明確な直訳体から私は鳴の表象(象徴)主義への肉体的に浸透した理解を読みとったのであった。その上はもう鳴自身の手になる「表象」とは「霊肉一致」のことである、などという奇怪な長談義はいらない筈だ。いや、彼がサンボリスムを誤解したとさえいうまい。ランボーやラフォルグがヴィクトル・ユーゴーや自然主義者に耐えかねて天上の湖水や月の光の下に遊ぶ精神の中に、鳴は一挙にして宇宙と生命の理の交錯する場を直観したのだ。否むしろ太陽の児である彼自身の生態がそこに象徴化されているのを感じたのだった。少くとも、わが国で最初のサンボリスムの唱道者であった上田敏や蒲原有明の修辞学よりも、鳴はこの流派の史的必然性のうちにその精神を汲んだのであった。
日本主義という言葉についても似た事情がある。ただしこの概念は、現在政治的意味の消長の間に浮沈し、釈明なしに手をつけられない面倒があるが、鳴はこれを明治末から大正初期の国運隆盛時に唱えたため、それにつき纏う倍音を整理するのに手がかかるのである。しかしその趣旨は簡単で、彼の当初からの思想である個我の生々発展の論理が、現実肯定・肉体肯定の様相を帯びるとともに、その背景として密着するわが国土・民族を讃美する形をとって来たまでである。この抽象論の上に、具体的には、彼の愛読した古事記を初め古神道の研究が、露骨にいえば陽物礼讃的趣味に合致し、又「まつろうものは同化し、まつろわぬものは平定する」というその征服欲が鳴の実生活の主義に恊《かな》って、その内容をなしているのである。要するにフランスのサンボリスムも日本の古神道も、鳴という台風の眼から見れば東西何百キロかの地点にあって、互に逆の方向に吹いている同じ風速何十メートルかの風に外ならないといっては、鳴は或いは気に入らないだろうが、私にはそう思える。
鳴にとって前記の「まつろわぬものは」云々の四道将軍の同化平定策は「人道であり、福音であった。」だから鳴はいつも「征服愛」という言葉を使った。所で『征服被征服』という小説は、第二の妻遠藤清子との納得の上での共同生活から遂に夫婦関係を結ぶ経過を書いたものだが、この異常な求愛過程を鳴は「征服」という表現を用いて、そこに彼なりの霊肉合致の愛情を認め、これを描いているのである。所が世間ではこれを「耽溺文士」のスキャンダルとして取扱い、「霊が勝つか肉が勝つか」という煽情的な事件として見まもったものである。この例を引合いに出すのも、私は鳴が史上尊敬する人物として豊太閤、ジンギスカン、ナポレオンなどの侵略者を挙げている真意を説明するためであって、彼等はその「征服愛」故に偉人とされるのである。だから彼等の雄図は一代で空しいではないかという人があれば、その無償性故に彼等が立派なのだと答える位、鳴の英雄観は彼独自の自然主義的人間観で貫かれているのだ。だから彼の日本主義理論の中で世界征覇を唱えるのも、ただこの人間観の延長であり、応用である。『断橋』の中でいう。
ジンギス汗等が後世の爲めに何等の建設もしなかつたのは、渠等の自己發展、自己滿足のほかに、何等のけちな俗見もなかつた證據である。……謂「子孫のために美田を買は」ないのは、國家民衆の爲めばかりでなく、子孫の爲めにも、しく盡す樣な餘裕がないほどに、自己を充實させて置く必があるからである。そして、ジンギス汗等は、豐太閤と等しく、義雄の主張する自己充實に於いて殆ど憾がなかつた。この自己充實は刹主義に於いて最も充分に發揮せられるものであるから、自己の刹に關係がない去もしくは未來に於いて、何等の建設もしないのは、乃ち、却つて美田を買はない以であつて、最も僞りのない公明正大だと、義雄は思ふ。渠の自己中心は世界に對して日本中心となつてゐる。そして、渠はそれを刹主義で發揮するのを歐米の僞文明國に對しても憚らないのである。
見られる通り、ここには国家主義的意図は全くない。偏えに自己中心的で、それも余りに忠実な文学論的図式である。
もう引用の煩をとらないが、『憑き物』の中で義雄が伊藤博文暗殺の報を聞く件りでも、伊藤を豊太閤と同じく自己の生々発展だと思っていたといっている。彼はその時、ちょうど中学校から講演を頼まれ、「豊太閤も、伊藤公も、現代の発展的思想に於いては全く僕に属しているのだ。……おれは宇宙の帝王だ!」という演説をぶち、満堂の生徒にどっと笑われて、怒ってとび出すのであるが、これは鳴を逸話的に語るによく人が引き合いに出す所である。しかし今更笑うことはないのだ。笑うのなら彼の作品、殊に論文の第一頁からこの種のドンキホーテ式ジェスチュアが現れている筈である。
君はホメロスの歌つたケンタウロスを知つてゐよう。(註、鳴はギリシャ語を解し、その号はホーマーから来たという。)……先づ、面は胸のあたりから明であつて、眼には見えないが、その顏までが靈であることを知らせるだけの用意を施し、後部は、また、獸の形であつて、如何に剛健で、壯なところがあるのを示す。そして、後の絡點をはつきりさせてはならない。どこから區別があるのからない樣に畫いて置く。ろ、から見ても、後から見ても、同じ態度であらせたい。且、炎々たる火焔の根と殘烈な足踏みとを以つて、孤寂の雲を驅けらしめるのである。この祕的靈獸の主義は生命である。またその生命は直ちに實行である。この靈獸は僞賢の解をあざ笑ふ。然し、これが靈と獸との二元的生物に見えては行かないので、自體をつて自體を養ふ悲痛の相をし、たゞその物の中に於てばかり充實する表象の、流轉的刹に現じた物でなければならない。
これが鳴の処女論文『神秘的半獣主義』(明治三十九年)に出て来る霊獣の姿である。彼は一生この獣の幻《ヴイジヨン》に憑かれていた。そしてその姿は終生殆んど変っていない。こいつが原始時代から未来にかけて生き抜く生態を現在に於て垣間《かいま》見ようというのが、彼の芸術的企図である。それは「時間」を遮断し、人間をすべて始源的要素に分解して始めて可能な、未聞の方法なのであるが、彼はこの方法を名づけるにははなはだ無知であった。今まで見て来た表象主義とか日本主義とかいう図式は、まるで未知の大洋を航海するに中世の平面世界地図を以てするようなものだ。この地図の四方は、海水が滝になって流れ落ち、洋上には怪獣が泳いでいる、あれである。それでいて泡鳴は、その下で地球が円いことを(コロンブスとともに)信じている。だから航海に成功するのである。
ここで問題はやはり最初の描写論である。鳴の作品を人は時に荒けずりだという。そう見える下で如何に人物が的確で躍動していることか。又思いがけぬ飛躍のあとで、又その本来の安定を得ていることか。それは自伝物に見られると共に、「有情滑稽物」を端倪すべからざる短篇に仕上げ、晩年の「おせい物」では鬼気を帯びた人間臭を漂わせるのである。彼を尊敬する井伏鱒二君の話によると、鳴は死の直前、「これからいいものを書くぞ」と医者に軒昂としていったという。
「じゃ、君も臨終に立会ったのかい?」と私が聞くと、
「いや、ちょうどその時僕は浮間ガ原で桜草を摘んでいた」と、彼はサバサバと答えた。
河上 肇
以上五章文学者ばかり扱って見ると、やはり争えないもので、地金が出て、「あまりに文芸的な」ものになって来たようだ。ここいらで方向を変えることにし、手初めに河上肇を取り上げて見よう。
断るまでもなく私は政治にも経済学にも疎い人間であり、しかも彼については研究や人物論の刊行されていること、斯界第一であろう。その上私は如何なる新しい意見もつけたそうという野心もない。ただ私がここで取り上げるのは、彼が私のいう日本のアウトサイダーの系譜にどんな風に並ぶかを考えて見ることと、その上いささかの私情を交えることを許されれば、彼が私の同族であることからしばしば起る、やみがたい親近性にひかれてである。
私の彼に関する思い出は青少年時代にしかない。私はその頃毎夏郷里岩国の海岸へ水泳に帰っていた。彼はやはり子供の健康のためにその地で二階を間借して夏を過していた。或る年、そこの小学校の校庭で私が砲丸投をやっていると、隣の二階の窓から彼は読書の合間によく顔を出して眺めていたが、何しろ子供があの重たいものを投げるのだから足許へストスト落ちるので、一度感想を洩らしたことがある。
――労多くして功尠いような遊びですな。
次は私の一高の一年、野球部の選手として対三高戦でこちらから遠征した時のことだ。彼は菓子折を携えて一高の宿舎百万遍へ訪ねてくれたが、あいにく私が留守だったもので、その菓子折を持って空しく引返した。後で聞いた所によると、夫人から、「そういう時は菓子折だけはおいて来るものです」とたしなめられたそうである。
昭和三十三年十月中旬、静かに降る雨の中を、京都吉田上大路の彼の終焉の地である旧宅を訪うた。ここいらの家並は、勿論京風だけど、雨だの背景の松山だのにしっくり嵌まって落着いていて、どことなく郷里の岩国を思わせた。
山村一去路千里   雲間シクム阿母家
ツテ作《 ナ リ》二風塵場裏客ト一十年不レ見故
彼は出獄後帰郷しようとしたが、周囲を慮ってやめた。この詩はその頃の作である。そして母を東京や京都へ招んで会っているが、郷里へは遂に昭和四年に立ち寄ったまま再び訪れていない。獄中で郷里の実弟左京氏から、向山《ムカイヤマ》に蘭が咲きましたといわれて、何を措いてもこの花を留守宅へとりよせた彼なのである。
私は未亡人とは恐らく三十年以上会わなかったが、今でも血色のいい、挙措のハキハキした、そして「刀自」という敬称がピッタリな老婦人になっていた。それは『自叙伝』に登場する、夫をかばって家を護る女丈夫の面影もあれば、同時に私の親友で二十四歳で死んだこの家の長男政男君の慈母であった頃のそれも失っていなかった。政男君は生来病弱で、この年まででも生きられたのは並々ならぬ両親の配慮の御蔭である。同君は私が十代で文学を語り合った最初の友であり、その死は大正十五年で、父の心境に大きなショックを与えた。それから二年たった昭和三年には大学教授辞職、翌四年に新労農党結成というように、身辺に急に風波が激しくなって来るのだが、これはあながち偶然ではない。
私は未亡人と少時とりとめもなく昔話をして辞した。床には故人の写真と、その傍に先年訪れた郭沫若の
東方的先覺 卓越的馬克思主義的鬪士
河上肇先生 永不朽!
一九五四年一月三十日 河上先生去八年
郭沫若
という書が掛っていた。先日大掃除に頼んだ京大の学生アルバイトがこの写真を見て、
「御宅の御主人は何してらしたのですか?」
と聞くので、
「あなたの学校の先生よ。」
と答えると、
「そういえば見たような顔だ。」
といったそうだが、それが今では学生の一般常識なのだろうか?
その時の未亡人の故人に関する話では、たまたま自分のことを心配する周りの人達に向って、
「わしは正直だから救われるが、お前らはみんな地獄へ落ちるぞ。」
といったというのが一番頭に残った。この人間認識が誤りなく河上肇の一生を導いて行ったのである。
その午後私は始めて東山麓の法然院に分骨された氏の墓地に詣でた。雨は殆んどあがり、靄になって静かな境内の松柏の間にたちこめていた。この寺は故人が最も愛した寺で、昭和十六年十二月二十四日の日記に、
今日も好にて春の如し。午後ひとり杖を曳きて東山法然院に詣づ。光景三十餘年めて到れる時と寸毫も異ならず、年ふりたる松と松、わらぶきの寺門、水澄みて底まで明な庭の池。靜かに本堂の障子をあけて中に入れば、くおぼろげに佛像見え、左右の燈明螢の如し。(下略)
氏は出獄後、次女一家孫を混えた団欒のうちに東京で暮していたが、この一家が上海へ移ったので、寂しさに耐えず、今度は長女一家のいる思い出の京都へ引越して来た。この日記はその四日後で、まだ荷物も着いていない頃である。その文章の終りの方に、
余めて京に來り、この寺に詣で、余もし死なばここにこそ親のと親友のみ極めて少數ののみ集まりて簡單な法を營み貰はんものと思ひ定めしが、その後京を出でて、風塵の間に彷徨すること十有二年、今日計らずもまた此の寺に到ることを得て、感慨少からず。(下略)
とある。
更に翌年一月四日の日記には、「法然院にて」と題し、
來て見れば三十年あまり經にしかど
昔ながらにゆらぐみあかし
そして二月二十六日には、この詩境を五言の長詩に訳しているが、それは「十載重ネテ曳レ杖」くと、「佛燈如レ螢煕《ヒカ》」ったりして、「斯地希クハ埋レ骨」めることになるのである。
墓地は山門の傍、大文字山の裾にあたる小高い斜面にあった。一隅に梅の樹があり、その下に自筆の歌碑が建っている。(原文万葉仮名)
たどりつきふりかへりみれば山川を
こえては越て來りつる哉
この歌は昭和七年入党の頃の作である。
私が氏の晩年から筆を進めてゆくのは、この心境が清純であり、いわゆる「人間的」であるので、取りつき易いからには違いない。然しそれは、出獄後の氏がマルクス主義の実践活動をやめ、のみならず漢詩を作ったり、孫の相手をしたり、野球見物に興じたりする「好々爺」に転落して、市井の俗人に還ったということでは決してない、氏のこの静謐は、出獄の時転向しなかったから得られたのである。もし氏が晩年節を屈していたら、この心の安らぎは得られなかったろう。確かに氏が検挙に甘んじ、模範囚として満期釈放され、マルクス学者としての経歴を断ち切ることを声明したのは、もはや肉体的条件が許さないことを知っての方針の転換なのだが、それは屈服でもなければ、妥協でもない。だから余人ならいざ知らず、氏の場合は敗北でない。これも氏のいう幾「山川を越えて辿りついた」一道程で、自らこの老人にふさわしい楽な足場を選んだのである。
だから彼のこの道は、昭和八年一月、地下生活百何十日目かに中野で刑事に踏ん込まれた時に初まるのだが、『自叙伝』に描かれた事実をもし信じていいのなら、その時義弟大有章氏が刑事に持たせて氏に示したという手紙は、正しく氏の心を知り、その運命を正しく導いた美しい文章である。勿論それは半ば官憲に強いられて書いた文章であるが、それなりに筆者の心を語っていると私は信じる。それによれば、自分が兄上の居所をあかしたことは色々考えた挙句であり、それが今となっては一番いいと思ったからで、この上無駄な難儀を見るよりも、出る所へ出て一日も早く又兄上の天職である書斎に帰られるがよい、兄上をこの窮地へ追い込めたのは私の責任であり、悪かったというのである。筆者がこの時どれだけの気持をここに籠めることが出来たか、それは分らないが、今読者がこれに理想的な意味を盛れば、それが恐らく最も正しい道であり、そして現実はその後その通り開けて来たのである。
それにしても『自叙伝』の中のこの部分、即ち家出して地下にもぐり、検挙、入獄から、釈放に至る叙述は実に鮮かだ。行く先々の宿の主人、連絡の党員、検事、囚人のそれぞれが人間的に躍如している。氏はもと大学でも法科より文科に学ぼうとし、ここいらの描写は「創作」のつもりで筆をとったといっているが、それは氏の「小説家」的教養の上での同年輩である自然主義の客観描写とは、筆力の上でまるで違っている。疑いなく氏の「信念」の力がこれだけ人間の姿を深く刻んで浮彫にしているのである。この検事戸沢とドストエフスキーの『罪と罰』の同ポリフィリイと、勿論立場も人間も違うが、鮮かさにおいて似たものがあるのは故ないことではない。ドストエフスキーの超人に関する「信念」が、この『罪と罰』という理想小説を書かせているのであって、それが検事という敵役――或いはお望みなら弁慶に対する富樫といってもいい――に人間的ニュアンスをつけるのである。
彼が獄中で官憲の勧めで書いた二つの手記に『獄中独語』と『獄中贅語』がある。これもその執筆の動機や環境の上でそのまま受けとれないものがあろうが、二つともはっきりした信念で貫かれていて、それなりに出獄後の境地に結びついているのである。
『独語』の方は昭和八年七月二日、市谷刑務所で公判前に書かれ、心の中に執行猶予の望みを捨てなかった時である。文中個条書的にピック・アップすれば、
一、自分は今後身辺の自由を得んがために、共産主義者としての資格を自ら抛棄する。(それは生死を超越した筈の老僧が山に入って薬草を採る心である。)
一、従って今後合法非合法を問わず、実際運動と関係を絶つ。(選挙運動の如きは、好きな人には面白くてたまらないらしいが、私は厭で厭でたまらなかった。)
一、以上のことは、マルクス主義の基礎理論に対する私の学問上の信念が動揺したことではない。
一、以後一生私は政論を断ち、ただ資本論の翻訳は纏めておきたい。
大体こんな所であり、なお前述の歌碑の「たどりつき」の歌もその中に引用してあった。
検事は約束に背いてこれを各新聞に発表した。その宣伝効果をあてにしてである。そして大体新聞の論調は同情的であった。つまりここに「人間的に没落を告白するマルクス主義者」を見たと思ったからである。
然しその真意がそうでないことを知っている点で、筆者自身と裁判所側は同じであった。検事は七年を求刑した。意外の重さに河上は更に一線を譲って「マルクス主義の宣伝は勿論、その理論的研究も翻訳も抛棄する」ことを上申した。それでも判決は五年であった。彼は控訴を取り下げて下獄した。
この間のいきさつ並びにかけ引きについては、私は素人だから深く論じることは慎しもう。それにしても、『独語』ではっきり引かれている一線、つまり実践運動はしないけれど理論の正しさは認めるということを確認するために、身を敗残の老兵や薬草を採る老僧に擬らえたのであったが、この時世間はこれを降伏のしるしと見、一般に「転向」の烙印を押したのであった。つまり世間は、こんないわば文学的な声明になれないから、そう分類したのであろう。それによって見ると、河上は自分を「特殊なマルキシスト」と呼んでいたが、この「特殊」さは「日本的」というほどの意味であった筈だのに、こうなるとそれは「日本では特殊な」という意味になって来る。転向といえば、当時有名な佐野・鍋山の転向声明は河上の『独語』の一ト月前であり、これがはっきり陣営の上での寝返りを示す政治的なものであるなら、『独語』はたとえ体の骨や筋は抜かれて姿は変っても、一つ立場にしがみついていることを宣言する、精神的な告白である。これを「転向」の側に仮に置いて扱う所に、当時のマス・コミの未熟と当惑がある訳であるが、こういう便法的なものの見方は看過しておくべきではない。それは戦前戦後を通じて変りなく行われているのであって、或る存在をあまり幽霊だ幽霊だといって騒ぐもので、それが真物の幽霊になって始末に困ることは今でもよくある。
それはとにかく、『独語』で河上は意地を張ろうとは決してしたのではなく、検察側の意図に沿おうとしたのである。然し彼の学者的良心は、学問の真理にそれ自体で自立性を与え、それを自分の存在から突っ離すことによって、自分の意思を純潔にし、以て身のあかしを立てようとした。これは理想主義道徳の世界では正しいのだが、裁判所では通用しない。却って学問の真理と学者的良心とが一つに見えて、この甲羅(権威)で身をかばうかに見えるのである。殊に彼の場合のように、ブルジョア経済学の伝統しかないわが帝国大学で、この伝統の上に立って五十歳にしてマルクス主義経済学の真理に到達した人だと、この人格と学問の分離の対世間的な表現は、はた眼に識別が困難であろう。彼の学者的潔癖がそのまま傲岸に見えるのである。
かくして検察側は、『独語』はマルクス主義の宣伝に見られる虞れがあるといった。これは少くともこれを転向の宣言と見るよりは正解した訳だった。それにしても、ために五年の判決は辛かった。
未決下獄を通じて、豊多摩・市谷・小菅と四年の獄中生活は、生来虚弱で既に還暦近いこの書斎人にはこたえたに違いない。彼は殊に小菅の初期には仮釈放を夢見た。周りの看守あたりの少し信用のおける連中までが、悪意なしに希望を持たせるのだが、時が来ても実現しないで却ってより暗い失望に陥る。獄中の手記にあるそこいらの描写は実に鮮かだが、然しそれはあらゆる囚人に通じていえることだといわれればそれまでである。
実際彼がそれに耐えたのは、必ずしもマルキシズムという十字架に一心に縋りついてではなかった。それはむしろ「あらゆる囚人」の如く耐えたのだった。そういうと世上すぐに河上肇の精神性ということをいう。そうに違いないのだが、然しそれを例えば彼が二十代に伊藤証信の無我愛に入った時のような、宗教的な絶対性の中に没入して救われたと解しては、又当らないのである。又ヴェルレーヌやワイルドのような世紀末人の獄中記には、当の自分の悖徳ではなくとも、それに託して自分の到らなさ一般を懺悔するつもりで試練を受ける気持があったが、河上にはそれもない。ただ彼は隣人にへり下るような、一市井人のつつましやかさで、この試練を受けた。そして模範囚になった。
模範囚になると前述の仮釈放の誘惑(?)がしばしば襲って来た。然し一二度の経験で、これに抵抗した。一には期待に外れた時の無駄な失望から免れるために。そして二にはそれに必要ないささかの人間的又は信念上の阿諛から潔癖になるために。そして後の理由の純潔のために彼はしばしば、彼の平生を知る妻や友人の励ましを受け、敢て満期釈放を自ら望む態度で、獄中の後半を過した。
仮釈放の夢が破れて、失望のどん底からすぐ満期釈放への積極的な決意に転じられる自分のことを、彼自身はこともなげに次のように説明している。
――一時彼は間もなく假釋放になるものとのみ思ひんでゐたが、しかし一見、そんな馬鹿な妄想は打ち拂はねばいかぬぞと決心すると、彼は能役者が面を取り替へるほどの容易さを以て、綺麗に首を囘らすことが出來てゐる。かうした手際の見事なのは彼の一つの特で、そのため、執着のい人を見ると、彼自身、自で自に感心するのであつた。
そういったものであろう。然しこれはそういう時の彼の心理を説明しただけで、何故満期を望むかという動機の問題は依然として残るのだが。
『自叙伝』の中に「須磨の伯父」といってよく出て来る人物がある。これは河上謹一といって、明治十一年帝大出の法学士であるが、日銀や満鉄の理事をした後、住友の大番頭をした人で、そんな経歴にも関らず河上肇は一生尊敬しており、私も河上一族の中で一番の大人物だと信じて、よく相談事を持ちかけた老人である(彼は昭和二十年に八十九歳で死んだ)。その伯父が、彼の判決のあった時、「五年といはれてへこたれるやうぢや駄目だぞ。ようし、それぢや俺は十年はひつてやるつて位の意氣でゐなくちやいかん。」といわれて、初めのうちはひどいことをいう人だと思ったが、そのうち自分でもそんな気になった、と『自叙伝』でいっているが、この気性は彼も生来持っていたものである。そしてこの「意気込」はそのまま彼の謹直さに通ずる。私は彼の厳父河上忠氏も僅かに知っているが、この人は維新戦争に参加したこともある岩国藩士で、後岩国町長などつとめており、私の子供心の記憶では、とにかく正座以外の姿勢でこの人を想像することはできない、という一事でも人格がわかるであろう。こういう侍の気性を肇氏も受けついでいた。勿論氏は帝国政府の裁判など信じてはいなかったろうが、それに従うことが義務感や意気込の対象になる点で、目標の混淆が起ってはいなかったろうか? 殊に民衆に伍することは氏の観念的な喜びでもあろう。昭和三年に大学教授を辞する時も、不当な弾圧には憤りつつも、「教授会の決議だから」という理由ですぐ承諾しているし、同五年に新労農党から立候補する時も、「党の推薦だから」というので、自分でも柄でないことを自認する選挙運動にとび込むのである。これらの気持と、満期まで頑張る気持と、私は相通ずるものがないとはいえないと信ずるのである。
それにしても、不遜ないい方だが、四年の獄中生活は彼の人間性の最も円熟した時期であった。彼の歌は、三好達治が純粋な意味で一流の歌人だといっているが、獄中にあって秀歌が輩出している。先ず母を恋うる歌、
秋なれば母の待ちくらすふるさとの
門邊の柿の葉落ちつくしけむ
彼の親孝行は有名だが、母は彼の死の翌年八十六歳でなくなった。二十代で吉田松陰の野中獄へ送った母の手紙に感激していた彼である。
又これは昭和十四年に出獄の日の思い出に詠んだものだが、牢に因んで、
別れぞと登りて見れば荒川や
みちぬらし水さかのぼる
または見ぬ庭ぞと思ふ庭の面に
眞紅のダリヤきてありしが
然しこんな哀傷の日々のうちに、次のような絢爛たる歌もある。これは次女芳子が良縁を得て嫁ぎゆくと聞いて喜びの歌。彼女は父に次いで地下生活に入り、検挙された位で、それだけにこの喜びは一入である。
いざ行かな野の蝶も香に醉へる
春のりととつぎて行かな
うらうらと照れる光に大輪の
牡丹かがよふ頃の新妻
芳子はこの歌を書いて送って来た半紙に津田青楓氏に頼んで絵模様をあしらい、新居を飾った。又その後若い二人が面会に来た後では、次のように詠んでいるのである。
紅白のあふひく日を君と會ひ
忘られぬものとなりにし葵
すべて字面だけ見ると恋歌のように濃艶である。
次に『獄中贅語』だが、『獄中独語』が公判前の作で、ややアタフタした心境であったといってよいなら、これは満期出獄を決意してその直前に書いたので、謙虚のうちに不敵なものがあるといえよう。かなり長いもので、「第一章、釈放の日を待つ喜び」「第二章、マルクス主義について」「第三章、宗教的真理及び宗教について」「第四章、結び」の四章からなっている。要するにこれは検事が置土産に転向声明を書いていって貰いたかったのが、はっきりすかされたものなのである。
その主旨は例えば次のようなものである。第二章の中に、
私には徹頭徹尾、思想上の轉向といふことは問題にならなかつた。最下獄の際は、丁度佐野、鍋山といふやうな、私が豫てから敬してゐた同志が……相いで轉向を聲明し出した頃だつたので、私にとつては當く未知の世界であつた刑務といふものが、何だか知らぬが力を有する怪物のやうに思はれ、――人は長く牢獄に繋がれてゐると、致命の毒酒をでも呑まされたやうに、理性も何も痲痺させられて了ふものかも知れないと、聊か怖れをなしたものだが、幸にして私の刑期が短かつた爲めか、その後私の思想はひに動だもせず、正直に云へば、數年に亙る刑務生活はろたゞ私の學問的信念を々固くするに役立つばかりであつた。
…………
私は去をみて何のゆるもない。その點に於て私は改悛のなきものと看做されても致方ない。しかしながら、刑期をへて釋放された曉には、私はもう世間から全く隱居する決心であり、再び法に觸れて刑務にりするやうな事はしない積りである。直に言へば、それはマルクス主義が謬であると考へるからでもなければ、共主義動が間つて居ると考へるからでもない。たゞ私は間もなく六十を越さうとして居るのに、もう一度國禁に觸れるやうなことがあつたら、今度こそは々牢死するの外あるまいが、さういふ方向を目指してむには、もはや私の氣力が耐へ得ないのである。
これに加えて出獄の当夜新聞記者団に手交した手記からその末尾を引用すれば、その心境は明らかになるであろう。
私は今囘の出獄を機會に、これでマルクス學としての私の生涯を閉ぢる。……に鬪爭場裡を去した一個の老廢兵たる今の私は、たゞどうにかして人ののにならぬやう、會のどこかの隅で、極く靜かに呼吸をしてゐたいと希ふばかりである。――歌三首あり、併せして人の嗤ふに任かす。
ながらへてまた歸らんと思ひきや
いのちをかけしにさすらひ
長き足をらくにすわれと吾妹子が
うて待ちにし此の座蒲團よ
巖水あるかなきかに世を經んと
よみいでし人のいのちしのばゆ
これは転落を声明するもののように或いは「思想的」な面からとる人もあるだろうが、私はそうは思わない。高い調子で張り切った文章であり、出獄後の澄んだ、雅致ある心境を約束しているのである。『独語』とは実質的にやや譲って辞句が軟らかであるが、骨はむしろ硬い。殊に「社会のどこかの隅で」云々の句は伊達ではなく、或いはこれが彼の終生変らぬ根本信条だったともいえるのである。
所でこの第三章をなす宗教論は、彼自ら高く買っているものであって、「この見解の中には、今まで人の言つてゐない重な識が含まれてゐると、私は信ずる。」といっている。それによれば、科学的真理の外に意識そのものを省る宗教的真理の存在を認め、そして彼はこの物心両界の弁証法的統一に達した、というのである。然し宗教的真理は認めるといっても、宗教は阿片なりという真理を成り立たせる現実はこの世の中にあるのだから、自分は依然として唯物論者であり、無神論者だと宣言する。
だから見られる通りこの宗教論は、理論としては彼が自負するように卓抜なものではない。ただ彼の実践性を裏づける言葉として興味があるだけである。と同時に、これによっていい得ることは、彼が一時伊藤証信の「無我苑」に飛び込んだことを彼の唯心的傾向の如くいわれているが、これが後年共産運動に参加する下地になったというよりも、正確にいえば、生来この運動をやるような素質のあった彼が、まだマルキシズムを知らなかったので、この情熱だけが仮りに形を借りて外へ現れたのが、無我愛運動だったのである。
この間の彼の風貌については、作田荘一氏が次のように追憶している。
二十七の河上さんが東大農學部講師を辭し、その頃讀賣新聞に匿名で寄稿してゐた『會主義論』に筆を擱くに當つて「吾れ對の眞理を得たり」と叫んだままで家庭をも離れて疾風の如き勢で鴨の無我苑に飛びこんだ時の意氣みは、それこそ一切を擲ち身を捧げて起ち上つた動のであつた。
然しそれから五十を過ぎて労農党のために地方遊説をしていた時は、くたびれた洋服に身を包んで三等列車に坐し、
ずんだ面やつれしてゐる顏色と共に、どうしても日働いて歸つた日傭勞働と見擬ふやうな外貌を見せてゐた。この風態は間い頃まで和で悠然と大講堂に現はれて得意のプロレタリヤ經濟學をいて意氣の揚つてゐた頃とは甚だしい變りやうであつた。
この三態のうちどれが河上に似合いかと私は問うているのではない。どれも本心であり、彼の真の姿であろう。彼は、これが正しいと思った道は絶対に行きづまるまで行って見なければ引返さない、といっており、又レーニンの、「革命の諸経験について書くよりも、これに参加する方が、より愉快でありより有益である」という言葉を、労農党運動をしていた頃の思い出の中に実感としてしばしば引いていることを、私は想起しておこう。
作田氏の名に因んで、次の王陽明の詩が思い浮ぶのである。
險夷原《モト》不滯胸中   何異雲大
夜靜濤三萬里   月明飛錫下天風
氏は明治の末頃支那から帰る時の土産にこの詩を楊守敬に書いて貰ったのを河上に贈った所、出獄の日に訪れて見るとその幅を夫人が客間にかけていた、というのだ。実にいい詩だし、失礼ながら自作のどれよりも彼の心事を語っている。
労農党時代から地下生活の頃にかけては、身近な一部の人からは痛ましい柄にない、生活ぶりであったようにいわれる。本人も決して居心地がよくはなかったのだが、こういう時は一種の宿命感のようなもので落着く人で、時に迫害された信徒の浄福の如きものすら感じていた。この時期がアウトサイダーとしての河上の面目が最も躍如としているのだが、それは彼が「特殊なマルクス主義者」であったためである。彼は「正しいと思った道は絶対に行き詰りまで行って見ないと引返さない」人だけに、その行動でも学説でも「清算」が無数にある。然し同時にその「清算」された過去が完全に否定されるのではなく、それによって彼の人間性が一本の道程としてつながり、彼はモラーリッシに成長してゆくのである。そこの所が「特殊なマルクス主義者」である所以であり、その学説も、マルクスがアダム・スミスの延長の上にあるように、正統経済学から派生していると思うが、これは私の批判の対象ではない。
何れにしても、そんな訳で彼の心ならぬ地下生活への進出は、機が熟したというよりも人間が熟した時に行われている。そこから彼の安らぎや日蔭者の浄福も生れるのだが、一方彼のこの時のうらぶれた姿を見て痛ましいとか柄にないとか人がいうのは、彼の実生活上のぶきっちょさから見ての話で、これは別問題である。とにかく『自叙伝』の中の地下生活時代の項は、そのままわが左翼文学中の最高傑作である。
彼はここの所を書くのに鴎外の『大塩平八郎』を引合いに出して説明しているが、それが又実にピッタリなのである。大塩の著述生活、その円満な人格、正義感などを、平素尊敬する鴎外の忠実な考証を読んで、彼は己れを知る者に遭ったように嬉しかったに違いない。しかも同時に幸田成友の『大塩平八郎』を読み、その解釈の上では幸田説をとりながら、やはり鴎外を捨て切れないのは、河上が如何に「文学的」な人間であったかを示すものである。
鴎外は大塩について「八は己が陰謀を推しめたのではなくて、陰謀が己を拉して走つたのだ」といっているが、こういう時は全くそういったものであろう。河上もこれに擬し、「家出に際し、私は少しも『心に逡する怯』を有たなかつたが『踊する競』を有つて出かけた譯ではない」といっている。
更に河上は大塩が事破れて後、美吉屋五郎兵衛の宅にかくまって貰い、一と月程で足がついて捕手に囲まれ、自殺するまでの心事に託して己れを語っている。そのため五郎兵衛一家は極刑に処せられるのだが、大塩は何れ免れぬ運命だのに、何故そんな迷惑を他人に掛けてまで生き延びたかったか。その心事も地下運動をして見れば分る、というのである。それに破廉恥罪でも、自分の利益のためでもない場合、行動の過程中他人に迷惑を掛けることがあっても、さまで意に介さないものだ。妻はよく「自分で好き勝手なことをして置いて自分が難儀を見るのは勝手だが、そのため他人に迷惑をかけては」という。然し地下運動は決して「自分の好き勝手なこと」ではない筈だといっている。
こういって来ると少し弱音と強がりが混っているように見えるが、然し自分の場合に照して、追いつめられた大塩も、ギリギリの所まで逮捕のことは考えていなかったのであろう。そのため他人の迷惑の実感が伴わないのだ、といっているのが本当であろう。
彼は昭和二十年八月十五日、
あなうれしとにもかくにも生きのびて
戰やめるけふの日にある
と詠んだ。この喜びのニュアンスは微妙だが、とにかくこれが一徹な敗戦主義でないことは確かである。そしてマッカーサー司令部の前に赤旗が歓呼したことも聞き、党の最後の勝利を信じつつ、彼は物資窮乏の極であった昭和二十一年一月三十日、六十八歳で死んだ。
岡倉天心
T
岡倉天心に対する評価は、現在まだ定説が出ていないようである。そして或いは後世このまま終るのではないかという気もする。つまり今の言葉でいえば彼は「教祖的」な人物であり、そういう人物は、その人間と、その仕事と、それから世間への影響或いはその取沙汰とが三つともかけ違って、それぞれ別の面からなされるからである。特に彼は今日まだその生前の人間的魅力の呪縛から人々は解放され得ない時期にある。といって彼をよく知る人物を私の手近かに求めることは出来ない程度に時代は隔ってしまった。
ところで彼の仕事とは何かといえば、先ず明治初期における美術行政、それから横山大観以下日本美術院派の巨匠の画業の指導、その他これに関連する一連の対社会的事業が筆頭だが、これらは当然年とともに後世の補修を経て今に遺るので、創始者の個性的な名は薄れてゆく。その点これら文化的事業は、橋を造ったり数学の定理を発見したりする科学的事業よりも、独創の領域が曖昧である。では彼の文筆上の仕事はと見るに、二三の美術史稿の外に、『東洋の理想』と『茶の本』は、今読み返しても感銘新たなものがあり、一応明治期における名著の中に数えることが出来るが、これとてそれによって天心という名を文筆家として後々まで留めしめるといったものではなく、どちらかといえば天心の名がこれらの著述に権威を与えているのである。
そう考えて来ると「教祖的」ということは、多かれ少かれ生きながら伝説的ということである。ということは必ずしも名実が伴わないというのではない。未だ生成期の星雲のように、本体とその周辺のガスが未区分の状態にあり、人間的に当人の働きかける作用と、周囲からの反応とが混り合って混沌としているのである。これを平たくいえば、当人のあくが強いもので、世間が動物的本能で感情的な分泌物を出してこれを包もうとするのと同じである。この場合私のとる態度は、誤解されることがなければ、彼の存在をその赴くままに伝説化することである。といって神秘化することではない。ありのままに理想化することで、それが彼の正しい姿を知る最上の方法だと信ずるのである。当世風な歴史の理念で彼の言行を裁ち截り、政治的意図で批判することは、戦後よく行われることだが、長い眼で見れば、これはかえって彼を限定し、あり合せの枠に嵌めることになる。天心は明治期を通じての大ロマンティストであった。されば彼を大いにロマンティックに扱おう。これが彼のような状態にある人物を知る正しい道である。「死者をして死者を葬らしめよ」とは、もともとそういう意味ではないのだが、今こう転用することも許されよう。そしてそれが歴史というものの本当の意味である。
天心が今日の歴史科学者に一番引っ掛かるのは、彼が大アジア主義という、戦争の侵略主義に直接利用された思想の持主だったことと、明治政府の絶対主義や強権性の線に沿って仕事をして来たことである。この面から理論的に押して来れば、一応その通りである。然し私はそれを真向から弁護するよりも、もっとありのままの天心を説くことによって釈明したい。彼の『東洋の理想』が去る大戦で大東亜共栄圏の理想にすり変えられたのは、ニイチェの民族純潔主義がナチの政策遂行のための宣伝に利用されたのと、運命は似ているかも知れない。然し天心はニイチェが思想家であるという意味で厳密に思想家ではない。或いは彼は理想家ではあったろうけどだ。彼がボストン博物館へ赴くため横浜を出帆した明治三十七年二月十日、日露開戦の詔勅が下ったのだが、『日本の覚醒』はその年、『東洋の理想』はその前年、それぞれニューヨーク及びロンドンで初版が出ている。その中にこの戦争目的に沿った言葉はある。然し所謂「総力戦」でない時、言論はかえってこちらから国家目的を利用出来るということは、今の人に納得させることが出来ないだろうか? 例えばそれは「黄禍」に対する「白禍」という、売言葉に対する買言葉が中心思想であって、時の同盟国同調国であった英米を十分刺戟するに足るものであることを見ても、現代の言論戦と違うことが分るだろう。
又或る歴史家は、天心の経歴や気骨に如何に在野性が覗われようとも、彼はあくまで明治政府の権威を愛し、その背景の下に仕事をしたことを力説している。然しこういう天心の絶対主義とは、あくまで筆者のセンスによる絶対主義である。天心の放埒な行状に在野性を認めるなんてこと自体が事大主義的な考え方であるし、彼の非政治的な野望は当時新政府と結託した方が実現の可能性が多かったのである。天心が明治初期の美術官僚を動かして美術学校を建てたのも、そこを失脚した後ボストンの富豪ビゲローの寄附金で日本美術院を創立したのも、彼の気持に変りはないのである。勿論当時政府の強権主義に対し、一方に自由民権を旗印とする進歩的在野精神はあった。然しこれと直接結ばないことは、彼の在野精神と関りないのである。天心は自分の理想を実現するに当時として最も可能性のある側の力を借りたのである。政治力はただ彼の方で利用したのであって、それによって彼に何の妥協もない。そこから彼の保守性を描き出すのは、今日の人間が今日の尺度で既往を計っているに過ぎない。
然し天心の思想や政治性に関する今日的解釈が保守的だということは、敢て弁明する必要はない。何故なら彼は思想家でも野心家でもないからである。つまりそこに彼の人間の大切な部分は潜んではいない。例えば彼は今日の分類によれば美術評論家に属するのだろうが、彼の美術史稿に大した発見がなくてもそれは重大なことではない。大体彼は美を発見しようとも創造しようともしなかった。つまり美は彼にとって既にあるものなのである。これは彼が古美術に対しても新美術に対してもいえる態度である。彼はただこれを実現しようとした。しかも壮大奔放な形においてである。これはロマンティシズムの定義の本質にかなう憧れであり、その意味で私は彼を明治の大ロマンティストと呼ぶのである。
大体明治二三十年代の思潮を、その中の文明開化を官とし、自由民権を野とする対立に分けて、如何なる実益があるだろうか? それに実情は、官というのは維新以来の藩閥争いであり、野というのは没落者・疎外者・純理的進歩論者の混淆であり、しかもその実力的指導者は旧幕系の操觚者の系統であって、思想的にこれを色分けする本質的なものは先ずない。即ち官に功利的な文明主義があり、野に理想的な文化主義があるといった秩序立ったものではなかった。それよりも、この澎湃とした実利的近代国家形成の機運の中に、およそこの実利性を無視したロマンティシズムが生れたのは、その余裕といおうか、絢爛を求める必然的な憧れといおうか、人間解放への本能といおうか、とにかく注目に価する現象なのである。このロマン主義運動の代表は、文壇における透谷・藤村の『文学界』の運動であるが、その藤村がいっている。
日本民族の史で、ロマンチックといふべき時代は凡そ四つある。その最も早いのは、安の初期、第二は、足利時代、第三は、川氏の中期、第四は、明治年代である。試みに、その代表的な人物を擧げれば、第一期には、歌人在原業、第二期には、畫舟、第三期には、國學本居宣長、第四期の明治年代には、熱の人岡倉天心が最も大きなロマンチックな素質を備へてゐた人であつたと言へると思ふ。
藤村のこの見方は、見方自体が又ロマンティックであり、一寸意表に出た人選のようで、それぞれ個性的であるがために人を納得させるのである。これらのロマンティストは、藤村のいうように一世を代表していながら、それでいて決してその時代の傀儡ではない。即ちその時代思潮の標本みたいな類型ではない。時代の中にいてそれに創られた人物であるよりも、その外にあって、自分の声でその精神を大きく歌っているような存在である。のみならず、時に時代の流れの自然的な歪曲を、自分一人の手で受けとめて、これを正しい方へ匡そうとする気魄も見える。つまり私のいうアウトサイダーとはそのような存在であって、その故に私は天心をその中に数えたいのである。
天心は必ずしも独創的な思想家ではない。私には明治(の美術)という巨大なパイプオルガンのような楽器のあらゆる音栓《ストツプ》を使って、最も微妙な音色を出そうとする名演奏家のような気がする。正しく音楽でいえば、作曲家でも批評家でもなく、演奏家である。そしてそれを美術の畑でなしたのであって、それ故に彼は画は描かなかったけれど、日本美術に手を染めたのである。例えば今日西洋音楽史上名演奏家といえばパガニニが先ず頭に浮ぶが、これ程伝説に包まれた人物はあるまい。写真もなければレコードも発明されなかった時代に生れたことが幸して、正しく悪魔の蹄でヴァイオリンの四つの弦を奔放にかき廻した。彼の出現は全ヨーロッパを震駭させ、彼によってヴァイオリン音楽は非常に変った。しかも西洋音楽史の本流は、パガニニという巨岩にぶつかって向きを変えるということもなければ、ヴァイオリンという楽器はストラディヴァリゥスの十七世紀以来、今日でも同じ形をしているのである。名演奏家というものはそんなものであり、それによって彼の偉大さはいささかも傷つかない。そして又パガニニがシューマン以下の人物であるというものでもないのである。
天心にとって美術が道具だったといってもそれは失礼にはならない。彼の大学の卒論は『国家論』であった(その頃の大学は後世の高等学校のように法文科混合だった)。ところが、彼はその前年結婚していたが、早くも痴話喧嘩が始まって逆上した若い細君の手でこの原稿が焼かれてしまった。然し天心は、それから全然稿を改めて、二週間の間に「美術論」を書き上げたのであった。お蔭で成績はビリから二番だったという。それでも当時は就職出来た。「文部省出仕、音楽取調掛」という役名である。これは当時の文学士として、決して場違いな職場ではなかった。それがそのまま続けば彼を校長とするわが音楽学校に半世紀も早く杵屋教授などいうのが現れたかも知れなかったのである。然し省内にあること二年、人事関係でもたもたしているうちに美術畑に移り、文部少輔九鬼隆一に見出され、ついでフェノロサを知るに及んで、天心の一生は決定したのであった。
ところで天心が美術に対する時の態度はどうかというと、ここに如何にも彼らしく、又私のいう「演奏家説」にあて嵌まっている一節がある。それは『茶の本』の中にあり、文章も特徴があるので、長いけど見本として写して見よう。
昔々、龍門の峽谷に、眞の森の王といふべき桐の木が立つてゐた。は天高く聳えて星と語り、根は地に深く潜つてその銅のとぐろ卷は、地に眠る銀龍のそれと絡まつてゐた。たまたまある偉大な妖師がこの木で不思議な琴を作つたが、そのの頑固なこと、たゞ樂の手によつて馴らす以外にはがなかつた。長い間その樂は支の皇帝に祕藏せられてゐたが、その弦から妙なるをひき出さうと代る代る努めた人々の努力も無駄であつた。彼等の根限りの努力に答へたものは、彼らが歌ひたいと思ふ歌とはおよそ不和な侮蔑の耳ざはりなばかりであつた。その琴に向つては如何なる名手も顏色なしであつた。
に伯牙といふ琴の名人が現はれた。じやじや馬を馴らさうとする人のやうに、彼はやさしく琴を愛撫し、柔かく弦に觸れた。彼が自然と四季を歌ひ、高山流水を歌ふと、古木の憶は勃然として目覺めた。再び甘い春の息吹きがにたはむれ、春の奔流は溪谷を舞ひ下りながらのに笑みかける。忽ちにして聞えるものは夢かとふ、數知れぬ夏の虫の聲、靜かにたたく雨の、憂ひを含む郭の鳴き聲。聞け! 虎の嘯き――谷のこだまするを。秋のべ、人影もなき夜、月は劒の如くく霜白き草の葉に輝く。來ればに舞ふは白鳥の群か、嬉々として枝を打つは凄じき霰か。
に伯牙子を變へて戀を歌へば、森は思ひに沈む熱き戀人の如く搖れ動き、には氣位高き乙女の如く雲一つ光り輝いて飛ぶ。しかし、その雲のぎる時、地上に曳く長き影は失に似てい。再びべは變り、伯牙の歌ふは戰の歌、劒戟のきか踏み鳴らす蹄のか。かくて、琴のべ忽ちにして龍門の嵐を呼び、龍は雷光を御して轟くなだれは深山に碎けて鳴動する。恍惚とした中國の帝王は、伯牙にその利の祕訣の存するところをねた。「陛下、人がみな失敗いたしましたのは、自分のことばかり歌つたからでございます。私は琴にその主題をばせましたところ、琴が伯牙か、伯牙が琴か、本當に私にも區別がつきかねましてございます。」と彼は答へた。
これはいうまでもなく道教の物語であるが、天心は東洋精神を説く時一番頼りにするのは、結局仏教でもなく儒教でもなく、それは道教であった。道教の持つ「自然主義」が彼の膚に一番合うのである。そしてこの伯牙の態度が、彼の美術鑑賞は固より、美術行政でも、美術指導でも、その規準をなしていたといえよう。勿論、その成果は別問題だし、又時に傲岸な彼も事芸術に関して自ら伯牙だと己惚れる不遜は決して持合さなかった人である。だから彼自身この話を註釈して、弦を我々の胸にある琴線、伯牙を勝れた芸術品に擬らえている。
ここで天心が画家たちの実際の制作に当ってどんな指導を与えたかを知りたいのは人情だが、その点に関し大観以下「門弟」は、書いたものの上では殆んど何もいっていないし、又それが無用な誤解を生まないため当然のことであろう。然し明治三十四年のインド旅行で、詩聖タゴールの本家の客となっていた時、その家の若主人スレンダラ・ナース・タゴールが「思ひ出」の中に次のように書いているのが見える。
唯一つだけ、印象を去らないことがあるが、それは岡倉が仕事のことを讃めてゐたベンガルの一美家が、彼の勸に從つて未完成の繪を持つて來たことがあつた。すると、岡倉は何とも言はずしてたゞ簡單にスケッチの一隅に、或る角度で二本のマッチの棒を置いただけであつた。この美家があとで私に話したでは――彼の苦しみ惱んでゐた缺陷の本質が、はつきりしたと同時に、それを修正する方法も明瞭になつたと。
こういう場合に外人の方が何でも率直にいい、又いえる立場にある筈だ。例の京都奈良を爆撃から救ったといわれるウォーナー博士も天心に心服していた弟子だが、彼が解決に苦しんでいる問題は何でも、天心の教えを受けると胸がすくような気がしたと、これはウォーナー自身後年牧野伸顕に語っている。(牧野伸顕『回顧録』)
然し天心のこの暗示的なやり口は、時に陰口のたねにもなっている。或る人が天心に画を見て貰いに行った所が、黙ってただ画面を撫でていたという。そんな所から彼をインチキだとかハッタリだとかいう人がある。勿論、このベンガルの絵描きにやったと同じ仕種の当否はここで質すことは出来ないが、それを彼の社会的な事業の性格に結びつけて、彼の能力について悪い意味での「教祖的」な批評が行われるのは、殊に日本によくあることである。
次の逸話はこれに結びつけて意味あるものに解釈するのも一興である。天心が大時代な大酒飲みだったことは数々の逸話を残しているが、美術学校長時代、いつもの直垂《ひたたれ》に乗馬姿で登校する途中池の端の待合へ乗りつけ、昼前から雨戸を締め百目蝋燭をつけさせて蜿蜒長夜の宴を張ったり、米国からの一客人をもてなすために、日米国旗を描いた蒔絵の盃を数百枚流して隅田川で曲水の宴を張ったり、たねは尽きないのであるが、次のもその一つである。校長時代根岸に住み、森田思軒・饗庭篁村などの根岸派の文人とよく飲んでいた頃、「言語は末なり、人間直ちに香世界に住して、無言にて意味のじるやうにすべし」という訳で、或る時三人で箱根で飲んでいた時、無言で眼つきや何かで会話をしながら用を足した(これは明らかに老荘の世界にあやかったものだ)。始めのうちは女中まで心得てつき合っていたが、そのうち鰹の塩辛を橋向うの土産物屋から買って来いと顔色で命じると、女中はうなずいて起ち、やがてステッキを一抱え持って来たには三人共禁を破って大笑いになった。ところがその中にカチムチの木が四五本あったので、天心はこれを世の俗物どもに山葡萄の蔓だろうなどいわせては勿体ない、俺が漆をかけて使ってやるといって持って帰ったのはいいが、御蔭で漆にかぶれて彼は四五日寝込んでしまったというのである。
天心インチキ説に並んで、天心が或る人々を毒し、その素質を損ねたという説もある。小人が天才の一喝に会って萎んでしまったきりになるのは、それがもともとだから話にならないが、今日天心門下と称せられる一流画家について、むしろ天心がいなかったらかえって違った才能の下に真の完成を見せたかも知れぬというのである。然しこれはすべて「教祖的」な人に共通する性格じゃあるまいか? 厭なら近寄らなければいいのであるが、そういっても無駄だ。「教祖」の悪影響というものはお弟子の方ででっち上げるものであり、それに気がつく人は稀である。しかも一方、弟子の個性はそれに関りなく生きているのであって、それは一滴の水の流れを磐石と雖も遮ることが出来ないようなものである。
然しすべてこういう人間的な疑義が起るのも、私は天心が何故古美術に固執したかということを、彼の場合として説明すれば解決がつくのではないかと思う。その意味でこの摘発者と、彼を保守派とする進歩的評論家とが同じ陣営に属することになるのは皮肉である。
さてそうなると私の最も不案内な美術界に踏み入らねばならなくなったが、ここで私は自分が理解出来ることだけ辿って筆を進めてゆくつもりであり、それでも間違っていたら、識者の叱正を乞いたい。
私が天心を親しく知る人から話を聞いたのは、故牧野伸顕翁である。翁は大学時代天心と同級であり、昭和二十四年八十九歳で死んだが、最後に至るまで天心のことを情熱を以て語っていた。翁が文部次官時代(明治二十六・七・八年)天心は美校校長だったが、始終次官室にねばっていて美術について講義を聞かされたそうである。その『回顧録』を読むと、天心が如何にわが美術界の恩人であるかの讃美に満ちている。私が翁の話で感動したのは、その頃の明治人は、日本に鉄道が必要とあれば自分で鉄道のことをイロハから勉強してこれを敷き、学校がいるとなるとやはり自分で研究してこれを興していることである。その調子で翁は天心から美術の講義を聞いたのだ。素直な、聡明な聞き上手と、情熱的でおっかぶせるような(ために策士と思われる)語り手、――私はそういう場面を想像したのであった。
私がこの話を引合いに出すのは、牧野氏の忠実謙虚な官僚振りや、二人の協力によって第一回文展が生れたことを語るためではない。たまたま必要だと思ったものはトコトンまで自分でこれを究め、正しい状態に置き、発展させるという明治人の気魄についてである。これが天心の美術に対する態度でもある。だから思い切ったことをいえば、一方天心は『国家論』についても、明治の音楽教育についても、美術と同じ情熱が持てたかも知れなかったのである。少くともそういったからといって、彼の美術鑑賞眼に対して少しも冒涜ではない。
鑑賞眼は天性のもので、何もいうことはない。ただ天心は仕事が美術畑に運命づけられ、維新以後の文化の荒廃で美術界が全く沈滞萎靡しているのを見て、これを再興するにわが古美術の伝統に着眼したところに、認識の正しさと共に、その気宇の壮大、ロマンティシズムがあるのだ。例えば初代鉄道技師が日本にない鉄道を敷くために鉄道のイロハを勉強したように、天心は日本に途絶えた美術を興すために、わが国民の美意識の源泉にこれを求めたのである。そのため時の文人画派と新興の洋画派を敵とすることになるのだが、前者の頽廃を卻けたことは道理があるとしても、後者の文明開化性を押えたのは、彼の眼が昏かったからではない。いわば彼は新しいものを求めて古美術の道へ踏み込んだのだ。これが天心の進歩性である。そしてここに彼が眼先の時流を追わず、易きにつかぬ在野性、或いはアウトサイダーとしての真面目があるのだ。
この点を理解した上で、新政府が天心を起用したこと、及び初代美校が天心のイデオロギーで発足したことの功罪を論じるのは構わないであろう。美校が出来る前に工部美術学校というのがあり、それは時の工部卿伊藤博文の開明思想の下に、画家フォンタネージや、彫刻家ラグーザを教師にして洋風の美術教育が発足していたのであるが、明治十五年これが廃校になり、二十二年に天心の美校が開かれたのであった。前者がそのまま続いていたら、日本の美術界は相当変っていたであろう。或いは今日もっと繁栄していたかも知れない。石井柏亭の『日本絵画三代志』には、この点に関する天心への皮肉が書いてある。然しそんなことは天心の知ったことじゃなかった。彼は己れが正しいと思うことを手を抜かずにやったまでだ。
この機運を推進した原動力は、やはり天心とフェノロサの出合いという宿命であろう。フェノロサは時に帝大で生物学を教えていたモースの推薦で、文学部の哲学講師として来朝し、天心は在学中そのヘーゲルの講義を聞いたりした。然しフェノロサにとっても天心にとっても、必ずしもヘーゲルでなくてもよかったのである。フェノロサはヘーゲルの観念論哲学の応用で美学も講義していたが、日本美術に打ち込んだのは日本へ来てからであった。即ちつてがあって狩野友信に紹介されたのが縁で、それから病みつきになり、西洋の油絵より日本画の方がプラトンのイデアを体現しているというようなことをいい出した。モースという人は人力車と小舟で当時の日本を青森から鹿児島まで歩いた程で、いわば生物学者の昆虫に対する好奇心で見たように日本民族の勤勉と優雅を讃えた人だが、フェノロサはそれに劣らず日本人のセンスを観念的に愛した。
だからフェノロサと天心は、自分の求める新しいイデアを日本美術に発見したという点では共通するものがあるのだ。明治十七年、この二人が千古の秘仏であった法隆寺の夢殿観音を開いて見たことは余りにも有名だが、この進歩性が二人の美術に対するイデオロギーをなしているのである。かくて二人は文部省内で提携して共通の志をのべ、明治十九年には美術取調委員としてヨーロッパに派遣された。これはフェノロサにとっても初めての欧州美術行脚であった。二人は一年滞在して帰って来たが、結論は「西洋のこと果して本邦に適するや否やを考えるに、一として直ちにこれを実施すべきものなし」というのであった。行かなくても分っているような結論だが、然し行ったから確信を得たのである。ルーヴルを一日で素通りして、『フィガロ』紙で冷かされたような旅であった。
かくして洋画部もなければ、日本画も殆んど狩野派だけを教授とする美術学校が明治二十二年に始まるのだが、前に一寸述べた工部美校の廃止も天心――フェノロサの圧力であり、それについては洋画家小山正太郎と天心の「書道論争」というのが、両者の対立を象徴して意味あるものであった。要するに書道を非美術とする小山の実証主義とその反対の天心の精神主義との対立だが、天心はこれに勝つことによって、やがて文部省内の図画教育取調委員会の席上、小山が鉛筆画を採用せよというのに、天心は毛筆採用の主張を通す程、その説が行われたのであった。
かくしてこの美術学校は、その前に狩野芳崖・橋本雅邦の二大家が維新以来の時勢の変遷で陋巷に賃仕事をしていたのを拾い上げたが、芳崖は死んだので雅邦だけを教授にしたり、教員に烏帽子直垂で登校させたり、工芸部門の教授は眼に一丁字ないような職人揃いだったり、いろんなことがあるのだが、大観・観山・春草等の卒業生が輩出するに及んで、世評も定まったといっていい。かくて明治三十一年、天心の放埒や、それまで不当に押えられていた反対派の策動だののため、美術学校長から失脚しても、直ちにその一派の努力の挙句日本美術院を結成してその業を継続することが出来たのである。殊にその経営が困難になるや、四人の高弟を連れて常陸五浦《いつうら》に院を移して隠棲したのは、天心の仕事にロマンティックな悲壮美の色彩を点じたのであった。
然し一方から見ると天心の仕事に消長があるのは、確かに彼の倦きっぽさのせいでもある。彼が五浦に居を構えた明治三十九年には、支那・印度・欧米の主要な旅行はすませ、ボストン博物館に東洋部長の椅子も出来、『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』の三大英文書の刊行を終った時であった。それは隠居でもよければ、又ボストンで半年暮した後の半分の静養でもよかったのだった。
では「天心の理想」は何であったろうか? 彼が美校や図画教育の理想にわが古美術を置いたことは確かに正しかった。彼が文人画は固より四条派よりも狩野派を宗としたのは、わが美術の健康さを求めたからで、それは意識的なルネッサンス運動である。だから更にその源を求めて、当時治安の悪い支那の奥地を西安から蜀の道を尋ね、初めて竜門の大々的な紹介をしているのである。そして又印度でも象にまで乗って、出来る限りの探索をしている。
それから、英文の著書やボストン博物館東洋部長の仕事もまた、彼の「理想」をなしているのである。それは国粋主義者が海外宣伝に力を尽したというものではない。その動機が何であったにしろ、何のハンディキャップなしに世界を舞台に自分の信ずる美の体系を表現し得たことは、彼にとって最上の無償の喜びだったに違いない。
それにしても、滔々たる大アジア精神の本流をたぐりゆき、これを時人が朦朧派と呼んだ美術院一派の新日本画で受け継がせて、果して天心は満足していたのだろうかという疑問が起る。然し元来骨法正しい狩野派が朦朧派になったとしても、それはその精神に則った新しいリアリズムなのである。『東洋の理想』は今いった大アジアの精神から日本の伝統を説いて、芳崖・雅邦・大観・春草の業績の紹介で終っている。この場合ここに登場する古今の画家の鼎の軽重など問題ではなく、大切なのは伝統なのである。自分の理想に囚われた天心の心事は、正にそういうものであろう。
明治三十年頃、新しい歴史画が論壇のトピックスになった。何ごとも自分の高揚されたロマンティシズムのたねにする一代のダンディ高山樗牛は、自分の観念の代弁としてこれを捕え、あるたけの悲壮美をここに盛ろうとした。それはつまり天心の模倣なのであるが、天心の理想はこの概念的空疎を排し、もっと画題に即し、その人物になり切ることを旨としている筈のものである。
天心は歴史的人物の画題に向っては、実に綿密正確な考証を課し、小うるさく駄目を出している。それでいて例えば「山姥」の謡が分らないというと、あれは婆さんだと思うからいけないので、山の精なのだというような教え方をする(橋本秀邦(画家、雅邦の二男)談)。私はそういう逸話を読むと、恰も時代を同じゅうする団十郎の活歴の芸談を聞くような気がするのを禁じ得ない。そうなると朦朧派の没骨《もつこつ》手法も、活歴と並んで新しいリアリズムの追求だといったら牽強に過ぎようか? とにかく天心も団十郎も、それは伝統と現代的リアリズムの間に挟まれて主題の厳格の線が蕩漾するのを見る時とった、彼等の新しい方法なのである。だから今日事によると団十郎の型が金ピカの風俗画に見え、初期美術院派の画が律義過ぎて薄手に見えたりする。ここで天心を伝統主義と反対に、その意に反した「洋化」で日本画を損ねたという説をなす人もある。彼の国際性と、その近代性との相剋の中には、そういう現れもあるだろう。然し実際問題としてその点で彼の責任を問おうとするなら、それは私が先に述べた「教祖の悪影響」の問題になるのである。団十郎といえば、天心が美校校長時代、序に音楽学校の校長もやらないかといわれ、団十郎を教頭(?)にすれば、と答えたという。この問答は双方冗談だろうが、天心が団十郎を高く買っていたことは事実である。
天心の奇想天外な逸話の数々はよく彼の人となりを語っているのだが、今は割愛する。中で最も無邪気なもので忘れられないのは、ピクニックなどに出るとよく手料理を作りたがった。或る時、荒川へ鮎漁に行った時、俺が石焼を拵えてやるといって石を温めて鮎をのせるのだが、グジャッとして誰も手を出さない。仕方がないので天心は終いにその石の上に卵を落してフライド・エッグスを作り、一人で食べていたそうだ。又或る時、松茸のほうろく蒸しを真似して筍でそれをやるといい、筍を薄くそいで、ほうろくの中の小石と塩を敷いた上に並べ、下から蒸した。するとどういう訳か、酸っぱくて食べられないものだそうだ。こういう失敗談は前のカチムチのステッキの話と似て、何か天心の生涯とも無縁でない気がする。
天心に英語で書いた「白狐」という音楽夢幻劇の台本がある。私は今度それを何気なく読んで、意外な感銘を受けた。それは安部の保名に命を助けられた白狐が、保名の失踪した恋人葛の葉に化けて連れ添っているが、やがて真物の葛の葉が現れるに及んで、名残を惜しみつつ去るのである。(これはおそらく天心の理想的な日本女性の型である)
こるは(白狐)
しい形骸や漂ふ雲の
ゆらめく影にばかり心を留め給ふな。
凡そ萬物の奏は法《のり》の車
永劫の轉變の中にこそ搏ち動いてをります。
…………
優しいよ、
どこから來て、
どこへ行くぞ?
のやうに散つて
のやうに溶けてしまふ。
このように、天心のような孤独な天才には、その磊落さを以てしても覆い切れぬ淋しさが、一生つきまとっていたに違いないのである。
U
昭和三十三年十二月上旬、私は日立市の有志の方々に案内されて、五浦(土地の人はイズラと発音する)に遊んだ。いうまでもなく、ここは明治二十九年谷中の日本美術院が経営困難になったので、天心自ら大観・春草・観山・武山の四人の弟子を従えてここに居を卜し、院を移転した所である。その日は絶好の小春日和で、風もなく、海の水は透き通るように澄んでいた。私は何か陰惨な海岸を想像していたので、その点むしろ先入主を裏切られた。次の詩は天心がここで作ったものだが、なる程風光明媚だが、それもただのうららかさだけのものではない。
蝉雨露松一邨   鴎白掠水乾坤
名山何處葬詩骨   滄爲誰招月魂
この詩が厳しいように風景もきびしい。そして少くとも道教が宗教である意味では、この詩に動かし難い宗教性があることは確かだ。
五浦は、何という土質だか、粘土を堅めたような岩の岬が、松と薄に覆われて、小さな入江をいくつか抱き、単調な常陸海岸に変化をつけている。その印象は、一寸見ると伊豆大島の日向っぽさがあるが、又仔細に見ると北海道の海岸に似た寒々しさもある。天心が何故こんな土地を選んだのか、飛田周山の案内で遊んだ時一眼で気に入っていきなり買ったというが、偶然という外あるまい。「都落ち」という心境にあやかって荒涼の地を選ぶ程、センチメンタルな酔狂を持合せた人とは思えない。地図で見るとアメリカに手を差延べたような地点で、晩年ボストンとこことに半年交替で住んだ天心には因縁があるが、そのためか戦争中例の風船爆弾を飛ばす基地に使われたことは、日本の古美術を爆弾から護ったというウォーナー博士の師としては心外に違いない。
「天心遺跡」と大観の筆で書かれた表札のある長屋門を入ると、一段低く天心の住居がある。大きな座敷一と間に、炉を切った茶室風の小部屋がついており、炉のうしろの狐格子の障子と、部屋の隅に三角になった床《とこ》の他は、何の変哲もない質素な住いである。もとはもっと広かったそうだが、とにかく天心は当時東京へ出れば本郷の橋本雅邦邸に泊ったから、ここが本宅の訳で、一代の美術家の邸としては簡素なものである。これで見ると分るが、やはり天心はいわゆる茶がかった人ではなく武士気質なのだ。ましてや先にも書いたように、米人の客を迎えるため隅田川に派手な曲水の宴を張った時「今紀文」と謳われたというが、そんな御大尽めいた名は更に似つかわしくないのである。
天心が心が落ちつかない時よく籠って御経を読んだという、夢殿もどきの六角堂は、庭前更に一段低く、断崖の中腹にあり、ここに坐れば全く海しか見えない。
天心の家を中央に、海に向って右側には観山・武山、左側には大観・春草の住居がある。大観のはその後増築されて今も横山家の別荘であり、春草の家は今はない。観山と武山のは今では渡り廊下でつないで五浦観光ホテルの離れ座敷である。私達はその一つで昼間から天心にあやかって蜿蜒と宴を張ったが、短い冬の日がいつ暮れるともなかったのも天気のせいである。院の跡はそこから北の方へ四五町離れた所にあって、薄に囲まれて小麦畑になっていた。
但しこの地に今天心の遺物は只一つ、竜王丸という朽ちた釣舟しかない。これは天心が自分の考案を入れて造った御気に入りだったが、二三度乗っただけで彼は死んだのであった。とにかく話に聞いていたこの舟を私が見て意外だったのは、これも二三人しか乗れない全く平凡な和船に過ぎず、ただ天心の工夫というのは、中央に枠があってそこからセンター・ボードが上げ下げ出来るようになっていることである。では帆柱はどこへ立てたのかと見ると、どうもそのセンター・ボードの後部、舳から全長の三分の二の所にしか場所がない。これでは風力のロスが大きい上、第一操りにくいと思うのだが、こんな点に天心という人は思わぬ抜けた所のある人だったようである。これが彼の人柄の豪放さに救われて御愛嬌になるのであるが、そんなことが又彼の文化事業の西洋かぶれの中にもあるのじゃないかと疑っては、彼の信用に関わるであろうか?
然し、釣に関するこんな逸話もある。彼は外国にいても各国の釣道具を見て来ては自分で工夫していたが、ドイツ製だかの真似で、魚が食うと自動的にこれを引っ掛ける竿を作り、自慢でこれを出入りの漁師に見せた(この漁師は今も存命だそうで、五浦で私は会いたいと思ったが、沖に出ていて会えなかった)。すると漁師が「それじゃ魚があんまり可哀そうだ」といったら、天心はそれきり使わなくなったそうだ。
彼はもっと若い頃銃猟も嗜み、当時のことだから、谷中から日暮里や三河島あたりへ出かけて雉や山鴫を撃ったらしいが、獲物をとるのに夢中になるというよりも、悠々と歩いていて鳥がいたら撃つという態度だったらしい。私はこれらに無関心や生物愛護の心よりも、むしろ天心らしいスポーツマンシップを感じるのである。
猟に因んで、橋本秀邦に次の追憶談がある。氏が天心・一雄親子と三人で碓氷峠に近い霧積温泉へ遊びに行った時、月夜に鉄砲を担いで歩いているとむささびが飛んでいる。撃ち落して持って帰ると、翌朝天心が若い二人にそれを写生しろという。二人はこんな醜悪なものと思うけど、とにかく命令に従って描いて見せると、天心は、これはただぶら下っている死んだ獣じゃないか、君達は昨夜これが飛んでいるのを見た筈だ、とたしなめたそうである。
五浦ホテルの武山だったか観山だったかの部屋に、大観の書で天心の次の俗謡が掛っていた。
慮めさるな世の影を
と夢見し人もある
これは「春夏秋」のうち「春」の句で、序に後を紹介すれば、
夏  さつき夜に雲間も明けて
何を未のほととぎす
秋  吹けよ浦風そよそよ吹けよ
松は苦しき聲をする
色は變るな墨繪の松よ
に折れれば折れる迄
都々逸としても余り傑作には属さないが、然し私には何か当時の天心の心境が籠っていて、先に引いた漢詩を和訳した「五浦エレジー」に聞えるのである。大体五浦時代の天心は、いわば功なり名とげた後の隠居で、悠々自適していればいい筈であるが、この戯作には何となく世にすねた響きがある。すねたといっては卑屈なら、これは正しく『屈原』が五浦へ隠居して作った句である。
『屈原』というのは大観が明治三十一年、日本美術院開院式を兼ねた第一回展覧会に出品した彼の生涯での傑作である。屈原は楚の人、正道を踏んで容れられず、讒に会って朝を去り、世を挙げて濁り、我独り清む云々の辞を遺して投水した故事によるもの。明らかに当時美術学校長を追われた天心を諷し、その画面は、悲風惨々たる荒野を道服をまとった魁偉な屈原が、一本の花を手にしてさ迷っているもので、当時画としても題材としても一世を震駭させ、フェノロサも樗牛も絶讃した問題作であった。
院にとっては、谷中が経営困難で五浦へ移ったことは「都落ち」であろう。それは先の校長失職以上に天心の心を痛めしめたものだが、彼のアメリカ滞在が長くなったことなどのため、以前の情熱を持たなくなったことにも責任がある。それに四人の愛弟子が家を挙げてついて来て、日夜一堂に会して仕事を励んでいるし、天気さえよければ釣舟を沖へ出して漁がないと読書や午睡まで船の中で楽しんだというし、文句ない筈である。思うに彼のように宏大な夢を持ったロマンティストは、何がなしにもうこの上充たされる筈のない夢に胸をさいなまれるのであろう。思えば贅沢な都々逸である。
そうなるとこれは天心の我儘ともいえるが、気の毒なのは四人の高弟である。彼等は天心への心服の度は厚く、又この地を「東洋のバルビゾン」と呼ぶ美名に酔うだけ若かったろうが、その若さ故に一方当時煙草屋一つないこの僻遠の地の佗住居は辛かったに違いない。(時に大観は三十九歳、他は四・五歳若かった)御大の天心は半歳はボストンへ行って留守だし、観山・武山はまだしも、大観・春草はいわゆる朦朧派の本家というので斯界の風当りは強く、画の売行きが悪いので、生活も苦しかった。絵具買いなどにことよせて、東京の空気を吸いにゆくこともよく行われた。然し移転後二月で春草は眼を患い、治療のため代々木へ移ったので先ず脱落、後を追うように大観の家が失火全焼して東京へ帰った。残された観山・武山の二人も淋しくなって相携えて旅に出、留守勝のことが多くなった。
それだけに、移転一年目にこの地で観月会を催し、東京から画家・文士その他名士数百名を招んで徹宵宴を張ったというのは、天心の気宇にふさわしく派手なものだったに違いない。村人挙って駅から院まで御客を運ぶ手伝いをし、庭前に行燈や篝火をたき、笛太鼓で興を添えたという。又断崖下の波打際には大観・春草の夫人連が趣向を凝らした模擬店を開き、主客怒濤の飛沫を浴びて歓を尽したそうである。
門前の一隅に分骨された天心の墳墓がある。土饅頭なのは大陸の何かにあやかったのだろうか? この中に未亡人の手で星崎はつ子の写真が一緒に葬られているそうである。この人は、天心が大学を出て文部省出仕早々引き立てて美術調査に初の洋行まで連れていってくれた大恩人、文部少輔九鬼隆一男の夫人である。この夫婦の間に疎隔が生じたのは九鬼氏の方に責任がなくはないらしいが、海外から帰国する夫人と届ける役の天心と船中で二人が投合したことは、夫に不満のある細君と、夫の腹心との間のよく世にあるいきさつで、社会的には全然面目の成立たない事件である。しかもその後はつ子は、放蕩者の夫と正式に別れて旧姓を名乗り、天心の谷中の宅の近くに一戸を構え、二人は公然出入りしていたという。後、天心は浜尾新らの強い忠告に屈して手を切る事にしたが、ためにはつ子は狂死するのである。天心が美術学校長を追われる迄の反対派の策動には、この種のスキャンダルも一つの役目を果しているのだが、そういうことに無頓着なのは、天心の封建的磊落さと、近代的エゴイズムとが合致して形作った性格の一斑である。
天心に関する戦後に行われた評価についてどうも私にしっくりしないものがあることは、一と通り書いた。それは天心の大アジア主義の思想が去る「大東亜戦争」の宣伝に使われた所を咎め立てするような狭量なものだけではない。要するに歴史科学者は、明治という時代に一つの歴史的役割をあてがい、その性格の線に沿って天心の吐いた台詞や演じた仕種を拾い集めて彼を処断しようとするのだ。つまりテーゼというものを先にきめておいて、それにどう触れるかで人を批評する所の、近代政治主義の現れである。天皇主義者・強権主義者、さては侵略主義者の名目すら与えられ兼ねないのである。
天心は思想家ではない。自分の幻想《ヴイジヨン》を追う人――これが私のアウトサイダーの定義だ、――である。ただそれが美術という無償の世界を舞台とし、しかもそれが自ら筆をとることなく、プロデューサーの形で行われたために、彼の正体が「科学者」の手で捕え難く、代りに彼の言行の一部が政治的色彩をあてがって証拠物件に取上げられるのである。然し思えば明治という実利主義万能の時代に、彼程非実利的なものを現実社会の最上層部に持ち込んで成功した人はなく、その点奇蹟的な存在である。彼の人物の評価は、先ずそれを手がかりにして始めるべきではないだろうか?
明治二十二年に美術学校が開校された時の制度は、驚くべき復古的な色彩で始められたのだが、これはフェノロサ――天心の線でなされたのであって、それが成功したのは単なる国粋主義ではなく、実は彼等が近代主義に眼覚め、そこから功利主義に至る道を暗示し得たからに他ならない。といってすぐ襖絵の海外輸出を考えるには、彼等は精神的にも物質的にももっと志が遠大であった。狩野芳崖と橋本雅邦が維新以来陋巷に逼塞して僅か手内職のような賃仕事で口を糊していた時、「毛唐なんかにゃ会わねえ」といって閉ざしていた門を叩いて出廬を促したのは、仏法を畏れて開扉を拒む寺僧を尻眼に、夢殿の千古の秘仏を白日の下に曝したのと、意図まで同じフェノロサと天心の手口であった。芳崖と雅邦とがその儘の腕でわが近代的美術学校の祖にならねばならぬように、夢殿観音はやがて一群の同族と共に百貨店の陳列ケースに列ばねばならぬ運命の第一歩が始まったのだ。では天心は、それを自分の手柄として誇ったろうか? 或いは又、已むを得ぬ運命と悲しみつつ手を下したのだろうか? こういう疑問は、そもそも天心の評価を誤る手初めである。それを質したくなるのは我等近代人の病弊であって、天心はもっと素朴で線の太いロマンティストである。彼はわが明治の精神の健康な側を代表しつつ、自分の宿命的な審美感の命ずるままにそういうことを行動していったまでだ。彼は明治草創期の人にふさわしく、強烈な実行家の精神で貫かれていた人である。
ではそれと同じく、後世の「公正な」美術評論家は問うだろう。天心は、芳崖の『悲母観音』と藤原期の仏画を比べ、雅邦の山水と足利期のそれと比べてそれで満足しているのか、と。これは重要な問題であり、ただ次のようにはぐらかす外ない。では又次のような仮問も起り得る。天心が古美術の格調を重んじながら、その最も身近な弟子に朦朧派が出たことは、その本来の理想と食い違いはしないのか、と。
もし天心が理論家だったら、こんな疑惑が起ったかも知れない。然し彼は専ら現実的に自分の夢の実現を求める、正真のロマンティストであった。だから自分の情熱を愛する如く、日本美術を愛し、その生きた現れとして弟子の大観・春草の仕事を愛し、雅邦を尊敬した。これらは渾然とした一つの生きものであった。個々の部分を批判することはあっても、中の一つの存在を取上げて否定することは、自分が胃弱であるからといって胃を切り取って捨てるように、愚劣な自己否定である。
序ながら、芳崖が美校開校を待たずに死んだ後、雅邦は天心より二十七も年長だが、彼の最も信頼出来る先輩であり協力者であった。天心はよく彼の家へ泊り込んで酒を飲み且つ談じたが、雅邦の臨終の状を近親が次のように伝えている。
の病篤しと聞いて天心はアメリカ行のを一とばしてゐたが、或る時見舞に來てやつれた顏を眺め、「どうも起てないね。」と呟いた。そして並ゐる見舞客の中で然持參の辨當箱を開いてムシャムシャ食べ出したが、そのうちおかずの牛を一と切れ箸でつまんで差出すと、瀕死の病人はそれを手に受け、一と口でべてしまつた。するとやにはに天心は辨當箱をへて下へ走り出たままボロボロをこぼすのであつた。それが二人の最後の會見だつた。……その後も天心は上京すると橋本家へ泊つたが、何か面白くないことがあるとの寫眞のへ坐つてジット見入つては、ツマリマセンネと呟くのを常とした。
これは話としてはただの義理人情という外ないであろうか?
では逆の場合を考えて、もし天心が内村鑑三のように非戦論を唱え、幸徳秋水のように天皇制に疑いを持ったとして、それがどれだけ彼の大観や春草への指導力に寄与したろうか? 永徳や山楽が秀吉の覇業を批判しなかったことが、彼の画家としての人生に何の関りがあろうか?
そして彼の「政治的関心」が屡々当時のインドや支那のことで現れるのは、自分の世界での日本の先進性を認めているからで、当然のことである。先に引用したタゴール家の若い当主の手記の中に、次のような一節がある。初対面の時の鮮かな描写だが長いので極めて抄略して見ると、
岡倉は莊重だが慇懃な客人として、言葉少なに一座に加はつてゐた。やがて彼のは見えなくなつた。私は交的會見はつたと思つて、の室のヴェランダに移つた。するとそこに彼が一人坐つてゐた。彼は私に草をすゝめ、ボツ〓〓と語つた。然彼は、
「君は自分の國をどうする氣なんだね。」と聞いた。私はすつかりまごつき、革命の準備をするには今條件は不利だ、今は個人々々が時代が高まり來るためその一小部をなすのみだ、といふ意味のことをしどろもどろにべた。
岡倉は私年の意氣沈を聞き、
「それは非常に私を悲しませる。」
と長大息した。
その日の会話はそれ以上述べてないが、恐らく天心は具体的には何もいわなかったであろう。
ここで私は、天心の侵略主義否定に関する余りにも有名な言葉を、責任上やはり一応紹介しておこう。
西洋人は日本が和な文藝に耽つてゐた間は、野蠻國とみなしてゐたものである。然るに洲の戰場に大々的戮を行ひ始めてから文明國と呼んでゐる。(『茶の本』)
ヨーロッパの示せる奇怪な組合せは、何を意味するか――病院と水雷、キリストの宣師と帝國主義、和の保證としての大な軍備の維持? かゝる矛盾は、東洋の古代の文明に於ては存在しなかつた。日本の王政復古の目的はかゝるものではなかつた。(『日本の目覚め』)
然るにわが現代の論者は、日本の明治をかかる侵略目的を持つものと説いている。それならそれで天心は、誤ったわが理想を警める先駆的予言者ではないのか!
序ながら、天心の美術史観を按ずるに、例えば宋元の雄渾さを推称し、それによってわが足利期の山水画の史上に卓抜な所以を説いているのであるが、そのうちにも元という名をとかく挙げたがらないで、それを南宋の衣鉢をつぐもの、或いは西蔵式の影響という風に敬遠する傾きがある。これは元という侵略民族のヴァンダリズムを糾弾したい彼の政治的関心から来ているのであって、支那の美術はこの時代からそのまま衰退してゆくとするもののようである。彼の文華至上主義はそういう時非常に繊弱で純潔な様相を呈するのであって、それは人間的に見て、彼の豪放な大アジア主義とはっきり対照的に見えるのである。
今度の敗戦によって日本の獲た恐らく最大の功徳は、日本文化が非常に素直に外国に受け入れられるようになったことである。これこそ如何なる戦勝も贏ち得ぬであろう所の、全く思いがけぬ儲けものである。これは恐らくポツダム宣言受諾的低姿勢が先方にわだかまりをなくしたのであろうが、そのためにわが国民には、卑屈や、日本ブームにのぼせ上る軽薄さやらの悪弊を伴った。然しそれは別問題で、このこと自体は素直に喜んでいいと私は思っている。
所で明治三十年頃も、別の形で日本文化が世界の注目を引いた時で、その点似たものがあるような気がする。即ち明治維新という、曲りなりにも外国の干渉抜きの革命で近代的後進国として出発し、自力で老大国支那に勝ったという、まだ自分の身には危険を感じない文化の力の魅力が欧米人を捕えた筈で、その点戦勝と戦敗が逆なだけで、事情が似ている気がするのである。そしてこの点から見れば天心は、この日本ブームを自分で捲き起し自分で乗った人なのであった。
彼はこのブームに乗って大いに東洋精神の優位について叫んだ。そこから志士・思想家岡倉天心の名が出来上るのだが、彼自身ここで西洋の物質文明に対する東洋の精神性を説こうとしていて、実は物質文明の進出に負けないような人間性の恢復をいつも強調していたのである。だからそれは国内に向ってもそうであった。彼が国粋主義に見られるのは、国内に向っては外来の物質文明に足をとられて人間性を害うなと警める時であり、外国に向っては東洋文化が自然で健康な人間像をいつも追求しているものであることを宣伝する時である。このように彼は、先に述べた私の造語によれば、「意識的なルネッサンス運動家」であった。
日本ブームに絡んで、今やあらゆる趣向を凝らした演出が行われ、そのタレントに今日ことを欠かない。そして天心はその大先輩なのだが、たまたま私は『大観画談』を読んで感じたことがある。それは彼が昭和五年イタリーへ日本美術展を持っていった時、ただ掛軸を壁へぶら下げたのでは面白くない、日本流の牀と畳がその前に欲しい、そうなると活花がないとおかしい、というので、大工・経師・花のお師匠さんまで連れて行ったのであった。大観はこの大名旅行につけても明治三十七年初めて春草とニューヨークへ渡って金に窮し、絹地に自分で芭蕉布を貼りつけて額仕立にして売ったことを思い出したといっている。それはとにかく、この畳を添えるサービスは、ゲイシャやサクラをあしらってエキゾチシズムをあおるのと同じに見る人があるかも知れないが、凡そ正反対のもので、これが正しく天心仕込の企画だと私は信ずるのである。こんな企画は今なら何でもなく、又そのために却って人工的になるのだが、天心はいつも自然で、所を得たものを求めてやった。そしてそのため無理も通した人であった。然しその挙句活きた東洋精神を発現したのである。因みにこの美術展はローマで大変受けて、パリからもその儘持って来るようにと招聘があったが、パリまで畳を持込む準備が出来なかったので断ったそうである。
最後に天心の言葉で私の出会った最も美しい一節を紹介する。これは一九〇五年アメリカでの講演原稿の中にあり、美というものが如何に触れれば消えるように繊細なものであるか、又それを敢て手にしようとする人間の罪業のかなしさを述べたもので、この繊細さがあるが故に、彼の豪放な性格がそのまま打ち出せたのである。
マーテルリンクはもし花にがあつたなら、人が寄れば飛び去るであらうと言つた。私はもしがを培養するものゝ殘かられようとしたとて之を咎めぬつもりである。思想のたる美はを持たぬ。根は人生に根ざしてゐる。美が一時の賞玩の爲に如何に摘まれ苅られ、小の中に無理に押しまれたかを思ふとき、私は苦しい。宋の詩人、蘇東坡は「人はを着くる事を恥ぢず。されどの身には如何。」と言つた。若し佛家の世因果のが眞ならば、は如何なる罪業を犯して來たのであらう。願くば畫家の爲にの世の生れ變りのよからん事をる。(『日本的見地より見たる現代美術』)
一読してやはり天心は夢殿観音を発いたことに一抹のうしろめたさを感じているに違いない。とにかくこの言葉は、天心がわが儘だった一生のすべてを顧み、詫び且つ誇った辞世のようである。
大杉 栄
大杉栄をこの「日本のアウトサイダー」列伝に一枚加えることはかねて予定していたのだが、いよいよ筆をとるに当っていろいろその事績や著述を調べてゆくうちに疑惑が生じて来た。といっても彼の人物に不足がある訳ではなく、ただ私のこれまでのような筆遣いでもってこの人物を躍如として描くことが出来るかどうかが危ぶまれて来たのである。彼は確かに魅力のある人物だ。しかも「大」の字をつけて、大人物といってもよい。然し私が今まで見て来たようなアウトサイダーといえるかどうか? 彼は同時代の多くの社会運動家と同じく、彼等と共通の理想をはっきり掲げた理想家であった。然しこの「理想」は、私などの眼から見ると、はなはだ現実的な、或いは抽象的なといってもいいものであった。彼流のサンディカリズムに落着くところの直接行動主義がそれを証している。また彼は時のアナーキストがそうであったように、ロマンティストであった。然し彼のロマンティシズムには明治の進歩派によくある粗野とハイカラの奇妙な混淆があった。それは時の習俗に反抗するものにはなり得ても、精神の自律性を示すものではあり得ないのである。それに彼の思想は、その論文集を読むと時流を擢きん出る論理の犀利さはあるのだが、思想家として一家をなす独創は認められないのである。要するに彼は実行力と人柄の魅力を持った実際家であり、私のいう幻想を追う者即ちアウトサイダーであるという定義からははずれるのである。となると、私のように社会運動史に疎い者が今更発禁と検束の連続で成り立った彼の一生の跡を辿って見たとて何になろう。私の当惑はここにあるのだ。
私の叙述はいつもいわゆる外伝の形をとるのだが、大杉の場合あらかじめ考えられる特徴は次のことである。すなわち彼がその理想の面では時流より遥かに進んだものを胸に抱いていながら、人間としてはやはり日本の明治末期の一般的感情のうちに時代の空気を呼吸していたことである。この制約が恐らく私の筆を導いてゆくであろう。すなわち彼を超人としてでなく、時代の児として、といっても彼の如き性格でもやはり日本の歴史が押した鋳型の一つに嵌められて生きたことを指摘することによって、彼の姿を描くことになるであろう。
然しこの点についても、私よりこういう問題にかけて適任者である平野謙氏が、昭和三十三年七月の『群像』に『日本のテロリスト』と題して興味ある一文を書いている。それは大杉一派の古田大次郎や村木源次郎のことを扱った所で、後年テロ事件で獄死した村木が或る時友人の家で庭先の花を眺めながら、「花っていいものだなあ」と思わず呟いたということから、このアナーキストの心情をわが国の私小説作家に結びつけているのである。そこのところを平野氏は大体次のように説明している。
古田らはたしかにアウト・ロウに価するものだが、そのアウト・ロウ振りはメンタリティにおいても、生活形態においても、わが私小説家たちの精神構造とほとんど瓜ふたつといってもいい。テロリストも私小説家もいわば部落共同体のような特殊世帯の中でだけ、うごきまわることを許されていたに過ぎない。そして昭和初年のマルクス主義文学がついに私小説をアウフヘーベンすることができなかったように、わが革命運動もまた古田・村木らの精神的メンタリティをきびしく断絶することができず、いつも論理や思想を情緒で中和し、融解して来たのである。
これは若干の措辞に引っかかる所があるが、大体の論旨において私の考えている通りのものである。否、正直にいえば、私が大杉伝で漠然と考えていたテーマを、平野氏がその綿密な考証による日頃の文学史観から、ずばりと明言していたのであった。
平野氏は特に「いわば部落共同体のような特殊世帯の中にある」私小説家とテロリストとの結びつきを取上げている。これはこの引用文の後段の「私小説をついにアウフヘーベンできなかった昭和初年のマルクス主義文学」と睨み合せて意味あることであって、この文学論をバック・アップするためにテロリストの生活感情まで引合いに出されたのだと見てもいいだろう。平野氏としてはここまで情緒と理性の対立を浮彫にして取上げる必要があるのだが、私はそこまで理窟づけることは、これまた私の平素の文学観から出来ないのである。テロリストが花が美しいといっても一向構わないし、殊にそれが「日本的」なことだとは思わない。明治末期のアナーキストも私小説家も、大久保あたりの三間か四間の借家に住んでいたろうし、大杉栄と江口渙が久米正雄や宇野浩二と鵠沼海岸でよく一緒になって、文学談をやったり、時に花札を引いたりしても特にどうということもないのである。
勿論テロリストが私小説家的日常性を身につけていたことは厳然たる事実であって、指摘するに足る特徴であろう。然し彼等が共同体的特殊世帯の中にあったことは、まだ日本の知的層が狭く限られていたという、いわば偶然の事情から来る結果であって、これを本質的な性格に算えることは私はためらうのである。この場合私は私小説家と限定しないで、事実はそうであったろうが、ただ彼等が文学者と接近した生き方をしていた、といって見たらどうであろう。その方が実り多い結論が引出せるのではないだろうか?
幸徳秋水等のいわゆる「大逆事件」は明治四十三年に検挙が行われたが、大杉はその二年前から「赤旗事件」の主謀者として千葉監獄にあり、却ってそのためにこれに連坐する厄を免れた。そして大杉を初め当時の社会主義者が文学に接近し出したのは、大逆事件後の取締りが厳しくなったためだとされているが、千葉監獄で大杉は殊にロシア文学に親しんで出て来たのであった。大杉に関するその友人の回想は皆それぞれ印象的で且つ美しいが、私は中でも佐藤春夫氏の『吾が回想する大杉栄』を愛読した。これは佐藤氏が私の敬愛する先輩であるためだけではなく、かつて大杉という人物の概念を私に持たせてくれたのはこの文章なのである。これは未知の読者に紹介するためにどこか引用しようと考えても何も思い浮かばないのは、かえって全体が渾然としていて切りようがないからだといえよう。そして読後これがテロリストの印象記でなくて文学者のそれであるといわれても何の不自然を感じないのは、考えると驚くべきことである。
大杉は、佐藤春夫氏にしても、また前に述べたように鵠沼の旅館へ仕事に来る大正中期の作家たちにしても、その話題は殆んど文学・芸術談であって、主義や運動については語らなかったという。のみならず、当時漸くマルキシズム文学理論が定義づけられたのだが、この旗幟をはっきりさせる作家ほど小説がまずいと、その友人に気兼ねなく高言しているのである。これはあくまで共産主義を受け入れられなかった彼の政治的発言だととられるかも知れないが、では別の場合、例えば中西伊之助氏が朝鮮を舞台とする小説を書いたのを読んで、その朝鮮人が出て来る所は非常に感心するが、「自分」が出て来ると、筋っぽくて消化し切れず、読んでいられないという意味のことをいっていたのを記憶するが、これらは彼の文学眼の高いことを示すものと私には思えた。そしてそれは彼に文学者的素質があるかどうかということよりも、彼が文学を通して人間を見る眼を持っていたこと、ひいては彼の人間的成長の度合を示すものなのである。
だから私は何も我田引水的に大杉を文学に結びつけようとしているのではない。また彼は青春の或る時期に作家志望だったということもなかったらしい。ただわが国のような文化の後進国では(同じ状態のロシアと半世紀余り遅れて)、文学がいかに思想的・人間的教化に役立つか、すなわち他の学問を通じてだと抽象的にしか伝え得ないものを具象的に活きて描き得るかをいいたいのである。そして今でも日本は或る点後進国の域を脱しないが、文学がそういう役割を果す時期はもう過ぎたようだ。これは今や日本も社会文化生活の上でそれなりに或る種の成熟を示したということを示すものである。
それにしても、大杉は明治十八年に生れ、同三十九年に最初の入獄の経験をしているのだが、やはり明治の時代に育った児である。ここで私はたまたま中村光夫氏の新刊の名著『二葉亭四迷伝』を読み、感銘が深かったのだが、その印象が何となく大杉と結びつくのを私は敢て打消そうとしないのである。もちろん二葉亭は明治元年が五歳であり、世代は遥かにかけ離れているが、共にまず陸軍の学校へはいったことは、経国の志を同じくすることを示し、そして二人共途中でこの職業に疑惑が生じて外国語学校に転じ、それぞれロシア語とフランス語で教養を身につけるのである。そして中村氏によれば、二葉亭はもともとロシアの侵寇に備えるためにロシア語をやったのだが、当時の外語の教育が完全にロシア文化の移植であり、またその文学にも親しんでゆくうち、自らオブローモフやバザロフを気取って、あのような人柄が出来上ったというのである。これと似たようなことがフランス語の大杉にも起ったのではあるまいか? 語学が人間を形成することは後進国で一般の例であり、社会や文化が未熟な国では、文学が進んで活きた典型のイメージを示し、人間の情操をリードするのである。青野季吉氏によってロープシンの『蒼い馬』が翻訳されたのが私の学生時代で、このテロリストの姿に大いに我々は興奮したものだったが、これが「大杉一派」を動かした時代もあったらしい。ただしそれは大杉自身にとってすでに晩年であったが。同じような形でネチャーエフ、クロポトキン、バクーニンなどの人間像が大杉の青春を形作ったのである。
然し大杉の文学趣味はその後ある程度動物の生態に関するそれにとって代られたようである。彼がダーウィンの『種の起原』を訳したのが大正五年、ファーブルの『昆虫記』は死の前年の大正十一年だが、架空の小説から生きた動植物に変ったことは、彼の実行家の精神を証するものであろう。もっともこの動物趣味は、ベルグソンの『創造的進化』やクロポトキンの『相互扶助論』の中に方法論として採り入れられているのだから、これらの愛読者であった彼としては、理論的にもそれに学んだ筈である。
大杉の思想は如何なものであったかを説明するのは私の任ではない。その上それは余り重要でないといってもいいと思っている。然し今となると明治大正の社会運動史、或いは無政府主義思想史を編むに当って、大杉の名を逸することが出来ないところから、彼のために一章を設けるのは当然であろう。そうなると、彼を形作った思想家としてまずベルグソンが挙げられるが、これは「生の跳躍」とか有機体の進化とかいう題目の中に、本国のフランスでもそうであったごとくサンディカリズムの理論を汲み、一方日本の文壇でそうであったごとく個人主義的自我の生命力を認めたのであった。そしてそれを支えるものにソレルの『暴力論』があった。
然し彼の「思想」の中心をなすものがクロポトキンであったことはいうまでもない。大正十一年に大阪で催された全国労働組合総聯合協議会はいわゆる「アナとボルの対立」の行くところまで行った大激突として史上有名だが、この時アナ系の総帥として総同盟にぶつかった大杉の思想はクロポトキンの『相互扶助論』であり、その翌年彼は暗殺されたので、これが彼の思想の頂点と見ることが出来よう。
然し彼の運動の方でなく、人間的な面での思想の中核は、案外マックス・シュティルネルの『唯一者とその所有』のようなところにあるのではないだろうか? これは彼が大正六年から同棲して死出の旅をも共にした伊藤野枝の先夫辻潤が翻訳してわが国に流布されたもので、大杉は辻とも交友があり、本書については一再ならず紹介の筆をとっている。例えば、
私は人を愛する。けれどもそれは利己心からの自覺があつて愛するのだ。ちそれが氣持ちがいいからだ。それが私を幸にするからだ。………私は私以外の何にも屬するものでない。……斯くして私が取る事の出來る、そして私が保つてゐることの出來るものは、總て私のものだ、私の財だ。そしてそれが爲めには、總ての手段は私に取つて正當なものとなる。……
こういう条りを彼はとくとくとして引用し、しかもそれをシュティルネルにも愛他心があることの例証として挙げているのだが、このエゴと強者の哲学こそ、大杉が一生を通じて捧げていた生活上の哲学ではなかったろうか? 私はこの度大杉の印象を聞くために神近市子氏に会ったが、女史の言葉の中で一番頭に残っているものは、「大杉さんはとても男の我儘というものの強い人でした」という文句であった。いずれは英雄主義の若い男と、「青鞜社」の若い女の出会いだったのだが、それにしてもこの言葉はシュティルネル的な意味合いで受取ることが出来よう。
辻潤氏はその後日本の詩壇のダダイズムの元祖のような形に発展してゆくのだが、それと大杉を結びつけて考えるのは決して不自然ではないのである。かくしてわが詩壇にアナ系の詩人というものがいまだに綿々と脈を引いているのは、平野流にいえば「部落共同体的」な生活感情を母胎として詩が生れるのだといえるだろうが、エゴのアナーキーというものが実感され易いのは、これまた「日本的特性」だということが出来よう。
ところで、シュティルネルのこの本だが、アンドレ・ジイドがかつて見事な短文で、やや嘲弄的な批評をしていたのを思い出し、今読み返して見た。そのうち、
利己主義なんて我々はに知つてゐる、などいつてはいけない。それでは哲學の仕事を穿きへたことになる。彼は命名なのであつて、發明することがその使命ではない。大ニイチェに叱られようとも、彼は創もしなければ、價値の轉換もしない。……唯一とその有とは、よく整理された利己主義のことである。
といっているが、ニイチェは当時わが国にベルグソンと共に、或いはその協力者であるかのごとく、輸入されていた。然しジイドがここにニイチェとシュティルネルを真物の個人主義と疑似のそれとの対照として見事に峻別しているのは、或いは大杉には理解されないかも知れない。彼は「思想家」ではないからである。然しその先でジイドが、
個人が偉大になるにつれて、その數は第に少くなる。かくて、個人の數を出來るだけふやさうとする理論は、體に對する個人の數を減らすことになり、第に會主義に接する傾向を帶びるのである。すべてが個人であれば、もはや個人はない。ああ、自我の愛のために、個人主義をやめよ!
といってシュティルネルの「体系」を敬遠しているのは、或いは大杉には体験的にわかるかも知れない。彼は「社会運動家」だからである。
それにしても大杉は単に粗暴なテロリスト、行動一辺倒の実行家であったのではない。彼が『新潮』などに文学論を書いたのは、大逆事件以後のカムフラージュと金策のためだったとはいえ、優に読むにたえる正論であった。例えば当時流行の「民衆芸術論」にしても、トルストイやロマン・ローランを正しく引いて、文壇小説に生気を与える機能は果していた。そしてその中に例えば次のような理論があると、私は一層よく彼の人となりがわかる諧謔に接した気がするのである。
民衆が今攻〓と防禦との格鬪を傍觀するとする。民衆はいつでも防禦に同する。そして其の攻〓がはねけられた時に拍手する。攻〓は少なくとも外觀上其の瞬間の公安の紊亂である。
査と泥棒とが格鬪してゐる時でも、民衆はやはり、心窃かに査の失敗と敗北とを希する。これは査が公安維持であり、泥棒が公安紊亂である、と云ふへに從はないで、一つはたゞその瞬間の外觀に從ふからである。……
それからまた『近代個人主義の諸相』という論文も、よく纏った上に自分の理想で裏打ちがしてあるので、空疎な観念に堕していない点印象に残った。それによれば、個人主義に第一期と第二期とあり、この二者の対照は、社会的と心理的、ロマンティックとネオ・ロマンティック、ディオニソスとアポロ、楽天的と悲観的、という風に特徴づけている。例を挙げれば、前者にバイロン、スタンダール、後者にショーペンハウエル、ヴィニーがあるというのだ。そして更に第三の個人主義がある訳で、それはこの両者の融合にあって、能動的で繊細な感性の持主である筈なのだが、わが国にはまだ出ていないと結んでいるけど、暗に自分をそれに擬しても満更ではなさそうな所が個性的であった。ちなみにこれが載ったのは『早稲田文学』大正四年十一月号である。
大杉にはまず小説といえるものは『死灰の中から』があるだけで、これは辻潤と伊藤野枝との三角関係を書いたものだが、何等性格の創造はなく、時の自然主義小説としても二流以下である。やはり人間記録としては『自叙伝』が随一であろう。他に『獄中記』と『日本脱出記』があるが、前者はゴシップ的興味があり過ぎ、後者はその死の直前、ベルリンで開かれる筈だった無政府主義者大会に参加するため、上海で贋旅券を手に入れ、フランスまでゆくのだが、大会がお流れになったので、パリでメーデーに参加し、演説して投獄され強制送還されるいきさつを書いたもので、記録としては珍重するに足るが、行文余り人を食っていて、パセティックなもの、つまり人間味が足りないのである。
これらに比べると『自叙伝』は大正十年頃の筆であるが、本腰を入れたものがあって、この種のものとしては、河上肇のそれと並んで双璧であろう。幼時から書き出し、幼年学校時代を中心とする粗暴や不良性は後年のテロリストの素質を約束するものである。それでも十六の時修学旅行中男色が発覚、禁足を申し渡された時は、黙想に暮し、今までの生活を一変して「憂鬱な」少年になったといっている。そして翌年退学、更に翌年キリスト教に入信、洗礼まで受けている。然しこれらの瞑想的生活の記述が、反抗や粗暴のそれに比して影が薄いのは、理の当然であろう。
彼が宗教にはいったのは、その頃幸徳秋水や堺枯川と「平民社」をやっていた石川三四郎の手引だが、石川自身すでに宗教に慊《あきた》らず、当時通っていた本郷教会の牧師海老名弾正も、日露開戦の機運と共に国家主義的立場をとるようになったので、大杉は断然キリスト教から手を切るのである。
ここで序ながら彼が共産党とはっきり分つことを明言した個所は『日本脱出記』の中で同志近藤栄蔵に裏切られたところに出て来る。大杉は大正九年極東社会主義者会議に出席するため上海に渡った時運動資金を若干手に入れるのだが、翌年その次の取立を近藤に頼んだ。ところが近藤はその金を大杉等アナ系に渡さなかったばかりでなく、後逮捕された時仲間の秘密を官憲にしゃべった。そういう事実を述べた後、大杉は書いている。
……僕は其後或る文章の中で「共黨の奴等はゴマノハイだ」と罵つた事がある。それは一つにはに此の事實を指したのだ。そしてもう一つには、これも其後だん〓〓明かになつて來た事だが、無階級の獨裁と云ふ美名(?)の下に、共黨が窃かに新權力をぬすみ取つて、謂はゆる獨裁の無階級を新しい奴隷に陷いれて了ふ事實を指したのだ。
だから彼は遅まきながら共産党との提携が理論的にも実際的にも不可能かつ危険だと覚ったのだといっている。然しそれは全く時既に遅く、翌年大杉は殺されて無政府主義者は中心を失い、残った中浜・古田・村木等は、報復と称して幼童や銀行員を狙い、かくてプリンス・オブ・ウェールスや福田雅太郎大将を狙った陰謀も全く末梢的テロリズムの不発に終って、いたずらに同志の刑死を積み重ねてゆくのである。
『自叙伝』の文章から話は外れたが、私はこの文中の白眉はやはり「葉山事件」の条りだと思う。それはあたかも河上肇のそれの中の地下生活数カ月の描写と対蹠的に好一対といえるものである。すなわち河上の場合はこの沈痛な時期に人の情けの温かさのほのぼのとするものがあり、大杉の場合はこの殺意漲る瞬間に濃艶とすらいえる影がさしているのだ。葉山事件とは、人も知る大杉が神近市子と相許していた時に新たに伊藤野枝との恋愛が始まり、本妻の堀保子もまだ別居して存在する時に起った「四角関係」を清算したもので、結果はそうだが事件は大杉が神近に短刀で咽喉を刺され、危く一命を落す所だったのである。こういう同志間の情痴事件は、その心理的解決は御望みなら小説家の想像に任せておいて、私は詮索する情熱は持合さない。神近さんは一般論として「何しろ私の若い時は文学少女でしたから」の一言を私に洩らしたが、それは自分の人間的未熟と共に周囲の社会的未熟を含めていっているように聞えた。一方大杉は性の問題でもアナーキーを主張するのが彼の理想に忠なる所以だと解する論調が、例えば事件の前年の大正四年に書いた『羞恥と貞操と童貞』という雑誌論文で、「野枝さん」という呼びかけを終始ばら撒いた文の中に見え、これを実行に移そうとする気構えが窺われる。そして堺枯川の全集を見ると、葉山事件の批判として、性の自由もいいが残された者の不幸も考えて見るべきだ、という意味の大人びた言葉が見える。
そしてこれら性の解放を唱えた大杉の論文が、岩野泡鳴の半獣主義によく似ているのは、時代思潮のなすわざであり、彼等の教養の源が狭く限られた同一個所から出ていることを示すものである。
序ながら堺の文章の中で「大杉と荒畑(寒村)」というのがあり、大杉の風貌を写してまず典型的だと思うので紹介する。
二人とも敵に當るの力は甚だいが、其の行き方はつて居る。大杉は其の鐵板の如き度胸の力を以てドシンと打つかるが、荒畑は其の利劒の如き感の切尖を以てズカリと刺しす。
文に就いて云へば、荒畑は才氣縱、奇拔にして巧緻、殆んど天成の文人である。大杉に至つては、未だ十に專門文士たるの技倆を示した事は無いが、而も彼れの文は常に直截簡明、理義徹、正々堂々の趣きをへてゐる。そして又、時としては存外輕妙な文字を作る事もある。
辯に就いて云へば、大杉はドモリである。エンゲルスが二十個國の語でドモつたと云ふ話があるが、大杉も亦五六個國の語でドモつて居る。尤も三宅嶺さんがあのドモリで演家になつて居る如く、大杉も亦ドモリながら善く明晰な話などをやる。荒畑に至つては、其辯は其文と同じく天成である。彼れが其のの走るに任せて、夢中になつて路傍演をやる時の如き、殆んど人をしてホレボレせしむるに足るものがある。……
大杉は斯くの如き辯に拙であるが、それで居て存外、人との應接には洒落ながある。此の雜誌(註、大正元年に大杉と荒畑とが創刊した雑誌、「近代思想」堺は外部からこれを援けた。)の經營に就いても、自分で大廣など取つていた。重ねて云ふが、人間は中々複雜なものである。傲岸大、人を人とも思はぬ樣な大杉が、又思ひの外、愛嬌になる事がある。彼れが病身なる細君の爲に、時として水を汲んだりして居るのを見ると、聊か滑稽でもあり又極めてイヂらしくもある。
荒畑にも亦、其のもろい悲哀のの面に、打つて變つたヒョウキンな趣きがある。……
風から云へば大杉は白皙長身のハイカラである。洋などの着付も甚だ氣が利いて居る。ネクタイの色の好みなども頗る澁く凝つて居る。荒畑はそこになるとカラもう駄目である。……
神近さんも大杉は食べ物や服装について「貴族趣味」だと証言していた。その金は初めのうちは後藤新平から出ていたらしい。
「大杉は革命家という気取りを持っていた人でした。」
と神近さんはいう。この「気取り」がその人柄とマッチして、あの時代に男からも女からも惚れられ、そしてその最後の奇禍を別にしても、その仕事が次第に影を薄めて来たのである。神近さんはいう。
「あの人は結局運動から脱落したでしょう。」
そこで私が、
「じゃ、今生きていたらどうなったでしょう?」
と聞くと、
「さあ。内田魯庵のような文章でも書いているでしょうか。」
そういった女史の昔ながら美しい鷲のような眼には、軽蔑も憎しみもないなごやかさがあった。
然し私はもうよそう。大杉が運動から脱落した御蔭で私の「アウトサイダー」に拾われたとあっては、決して彼の名誉ではないのだから。
内村鑑三
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さて今度は内村鑑三だが、私はかねがね彼を「日本のアウトサイダー」の最も典型的なものと目指していたのである。と共にそこには言葉の上で正面からの矛盾があることも、私は承知している。
元来アウトサイダーとは異教の徒のことであり、正統に弓を引く者の謂である。しかるに鑑三は日本という異教の国にキリスト教の根をしっかり据えた人であり、クリスチャンの中でも最も正統の信仰を奉じた人である。しかし私はこの矛盾はあえて意識して犯している。元来私は、思想を体系として本流分流の判別をしているのではない。私のアウトサイダーの定義はと問われれば、それは「幻《ヴイジヨン》を見る人」という漠然とした一語を用意しているだけである。それが時にはオーソドクスで「教祖的」な存在にも見かけられることは、今まで私がこの連載で拾い上げた顔触れを見てもわかるであろう。また私がこの題名のヒントを得たコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』を見ても、フォックスやニューマンのような伝道者、ベーメやパスカルのような古典的な信者の列伝も掲げているのである。この考え方を推し進めていえば、エルサレムの神殿で激昂したキリストが、「汝らこの神殿を毀て。われ三日にしてこれを建てん。」といった時、ここにおいてアウトサイダーも窮まったといっていい筈である。
それにしても私がこの一連の研究を始めた動機をもう一度おさらえして見るに、それは次のような気持なのである。つまり日本が西欧から近代文明を輸入するに一応形の上では恰好がついているが、その文明の本質にあるキリスト教精神は本当に身についているとはいえない。それで一体我々の「近代化」はすむのであろうか。又日本的キリスト教というものがあるとすれば、それは如何なるものであろうか、如何にして可能であろうか、という問題である。そしてこれは正に内村鑑三が身を以て実験して見せていることである。だから彼を取り上げることによって私は自分の問題の結論を引き出すことが出来る筈だし、しなければならないのである。
しかし、今私はこの章を書き出すに当って、その心構えを以て取り掛ってはいるものの、必ずしも結論は出ないだろうという気がする。これはやはり明治中期の文明批評家、或いは文明の実験台としての鑑三の紹介で終るであろう。それほどこの問題は未だに生きている大問題であり、鑑三という一個性の生きた道程から強いて結論を出すのはかえって無理が生じるように思われる。以上の弁解も或いは私の無力のためと、予め諒承願っておきたい。
私は今まで鑑三の生き方について実験的という言葉を再三使った。日本におけるキリスト教徒は如何にして可能なりや、この問題を彼は生きた所にその真価があるのだ。彼の世界的名著の表題も『余は如何にして基督信徒となりし乎』であって「何故に」ではない。つまり過程だけ語っているために人間性が出ているのだ。彼が入信する動機は、明治十年札幌農学校の官費生となり、最初は禁酒禁煙の誓約書に署名したのだが、一年たたぬうち「イエスを信ずる者の契約」に躊躇煩悶の挙句署名し、これは半ば上級生の強制であったとされている。何しろ最初は札幌神社の社頭に額づいて、この邪教をわが国より追払い給えと祈るような青年だったのである。
所で私は信徒ではないから不当な涜言をするかも知れないが、彼のこの回心は異教徒からクリスチャンへの抜本的な切り換えではなかったのである。それは生来いわば武士道的儒教主義で育てられた少年が、この教義を否定することなく、その延長の上にそれよりもっと完璧な体系で「義」というものが存在することを知った喜びなのである。早い話が、敬虔な子供が鎮守の神の怒りを恐れて足早に社前を通り過ぎていたのが、今その偶像に気兼ねすることなく、もっと自由な、抽象的な神の観念に礼拝することが出来れば、彼の良心はどんなに満足するだろう。八百万の神に対する唯一神、個別に対する普遍。明治開化の児として、合理主義に開明された、啓蒙性と結びついた教えは、どんなに安心してついてゆけただろう。『余は如何にして……』はこの種の合理的な入信の過程が記されているので我々の興味を引くのだが、思えばここで福沢諭吉がお稲荷さんに小便を引っ掛けて神罰をためすのと同じ近代性が、このお稲荷さんもキリストも同時に立てようとする新発意《しんぼち》の祈願の中に現れているのは興味あることである。引用は手当り次第に可能だ。例えば一八八六年(二十五歳)アマースト大学在学中の日記、
の攝理我が國民の中にあらざる可からずとの思想により、多大の感動を與へられたり。もし凡ての善き賜物にして彼より出づるならば、然らば余の同中の稱讚す可き幾何かの人物は、同じく至高《いとたか》き處より出でしものならざる可からず。我等は我等獨得の賜を以て我等のと世界とに仕へんと試みざるべからず。は二十世紀間鍛によりて得られたる我が國民性が米歐思想によりて然置き換へらるるを欲し給はざるなり。基督の美點はが各國民に與へ給ひし凡ての特性を《きよ》め得るにあり。《さいはひ》なる、奬勵的なる思想なる哉。日本國(この三字伏字河上の推定)も亦の國なりとは。
日本をそのまま聖化しようとする、否、日本がこんな立派な国だからそれができるという異教主義が、鑑三の思想の根柢である。そしてそこには、日本がそれなりに高度の文化を持っていたから、この高度の宗教を受け入れる力があるのだという誇らかな思想から、次のような異教徒一般の謙虚な悦びに至るまでの幅があるのだ。
何故なら異徒として生れることに幾多の利があるからである。異は、思ふに、人の未發の段階にして、基督の如何なる形態に依りてせられたる段階よりもより高き、より完全なる段階に發展し得可きものである。未だ基督によりて觸れられざりし異國民の中に永の希が存する……
しかしこれは日本を野蕃国視したものでは決してなく、その二三行前に「余は基督國滯在の最後に至るまで、……嘗て米英人たらんとの願を懷きしことはなかつた。」の字句が見えるように、福音の至高の状態までこれから引上げられる特権ある異教徒が、「生来の基督教徒」より確かに幸福だといっているのである。彼は恐らく一生の間この異教性を失わなかった。何故ならそれによって日々新たに神の摂理と恵みを感謝することが出来たからである。だからいい得べくんば、この異教性が彼の信仰の源泉であり、支柱であった。これこそアウトサイダーの定義ではあるまいか。
鑑三は日露戦争の時、幸徳秋水・堺枯川等と非戦論を唱え、それが世に行われなくなって『万朝報』を退社すると共に社会的発言の口を閉じて聖書研究に没頭するのだが、その中でも『羅馬書の研究』が圧巻だとされている。私は教義について語る資格はないが、パウロがかくも彼にとって魅力的なのは、それが異教徒から回心したものであるからだということは、文中しばしばそれを憶わせる字句に出会うのである。
この書については後に又触れるつもりである。しかし新約の研究と並んで旧約のそれを見れば、その中で個性的な論調で眼を惹くのは、モーゼの十誡の註釈である。それも私は今その序をなすモーゼの業績の紹介の部分からいうのだが、彼がモーゼの使命を説いているうちに、そのイスラエルを救ったことと自分が日本を救うことの間に事情の相違が大きいに関わらず、混同して興奮するような口調がともすれば見えるのである。彼は老文明国エジプトから、新興の気を負うイスラエルの救出が説きたかった。そしてそのためのモーゼの決意と、それが神の御心であることを称えたかった。その挙句、エジプトをアメリカに、イスラエルを日本に擬したくなるのだ。しかしそれでは宗教事情も、両国の歴史の長短も逆になるのだが、そんな筋書の細部には関わっていられない、といった調子である。そしてこの脱出が民族の自由への解放である点で、彼の近代政治論に結びつく。そして最後に「の幕屋人の間《なか》にあり、人と共に住み、人の民となり、また人と偕《とも》に在《いま》して其と爲り給ふ」というのが人類救済の窮極であり、そこから彼の一生の信念であったキリスト再臨説に結びつくのである。このことは大事なことである。
ところで鑑三の人となりやその信仰の内容を考えてゆくと、結局明治初期におけるキリスト教の在り方一般を見る必要があるようだ。海老名弾正の思い出を読むと、それも大正十五年になってからのことだが、
「海老名君、君と俺が死んでしまったら武士的基督教は無くなるよ」
と彼がいったと書いてあるが、晩年までこの自覚を持ち続けたことは、彼の信仰の特異性よりはその強さを証するものと私には思えるのである。
だから或る時内村が海老名にこういったという。
「お前ら(熊本の連中を意味する)の基督教はナショナリズム(国家主義)だ、植村(正久、横浜の連中をいう)のはエクレシアスチシズム(教会主義)だ、俺(札幌を意味する)などはスピリチュアリズム(精神主義若しくは信仰主義)だ」
そこで海老名が、「そんなことをいっちゃいかん。みんな精神主義だ。君こそインディヴィデュアリズム(個人主義)というのだ」と答えて笑ったといっている。つまりこの三人ならびにそれによって代表される三つのバンドが明治初年のキリスト教の三大地盤であったのだが、この言葉はそれなりにその中での三派の気風を表している。熊本は土地柄から国粋的だが、やがて京都の新島襄の同志社へ流れ込んだ。横浜は早くから外人の手で教会が組織されていたが、植村は三人のうち最も武士的力行の徒である。そして内村は開拓地的ピューリタンだ。しかもこの三人に共通することは、内村は高崎、植村は旗本、海老名は熊本の士族で、即ち大体反新政府的立場の出であることである。このことは他の「後進国」のように、宣教師が先ず医薬諸機械など文明の産物を携えて庶民の生活の中へはいって信者を獲得したのと、日本が大いに違う点である。即ち先にいった儒教的な「天」というような思想の地盤があって、それの開化した形として唯一神の信仰がそれに結びつくのである。
武士道のモラルが維新の改革に遭って現実社会における適用の場を失い、その情熱のはけ口を求めてキリスト教に来ただけでなく、当時の宣教師が多くニュー・イングランドのピューリタンであって、ことに初代札幌農学校の指導者であったクラークの如き、南北戦争直後の人道主義的な軍人があったことは、先方もこちらの情熱を受け入れるに好都合な条件を持ち合せていたというべきである。鑑三の場合を見ても、彼が明治十年に十六歳で札幌農学校を志願したのも、官費で新しい科学教育が受けられるということの外に他意はない。それが当時の北海道という茫漠たる新天地へ集団的に連れてゆかれ、異国風な戒律厳しい生活に入れられて見ると、この狷介な少年は必ず新しい、夢の多い国が眼の前に開けたのを信じたに違いない。彼はまだ半信半疑のまま「入信の契約」をした。しかし私はこれを少年の自信のなさと取らず、そこに意味をつけてよいなら、そこに彼の信仰の特徴が既にきざしているといえるのではないかと思う。即ち第一に、彼が飽くまで国籍感を捨てず、日本人の情操の上に立って福音を信じたこと、これはメイフラワー号の乗客が国教に追われて海を渡ったのと全く違うのである。彼は札幌にあってもアマースト大学にあっても、常に心は家郷にあることを告白しているが、これは単なる感傷ではない。ものを考え感じる指導理念のようなものが、彼の内になくて、彼よりもより高い外の或るもの――時にそれが「ホーム」であり、又「(神の)義」であるのだが、――にあるためであって、そういう人は決して独我的な意味での孤独にはならないのである。まあここまで理窟をつけていいかどうか知らないが、とにかく彼の入信の時の「保留」には、そんな性格的なものが窺われるのである。
ここで言い添えておきたいことがある。鑑三は大体初めから伝道を志したのではなく、学校では水産科学を研究し、それによって日本の発展のために尽そうとしたのである。彼はアマースト大学でも地質や鉱物学を続けるのだが、やがてその志は次第に枉げられて、語学教師、ジャーナリスト、伝道師というコースをとることになった。だから科学者としての彼の真価は問題にするに足りないのだろうが、彼は最後まで、神の福音を説くにも、当初の科学者の態度を捨てなかったといえるのである、勿論自然科学者でクリスチャンは沢山いる。然し彼等は学問は学問としておいて、処世の面で、また身を修めるモラルの上で、キリストの教を服膺しているのである。然し内村の説法は、論理そのものが、たとえキリスト再臨の如きミスティックな題目についても、科学的である。それが私には大きな魅力をなしているようだ。それに明治初年といえば、キリスト教も新思想なら、十九世紀科学も新思想であった。果して内村は加藤弘之や井上哲次郎などの十九世紀合理主義で叩かれた。それでもへこまなかったのは、彼の人間や信仰の強さだけではない。彼が科学的だったからだ。時に科学者が、自分の学説の届かない先を不可知論的に神の摂理に委ねているのがあるが、内村の窮理にはそんな妥協はない。私は先年物故した、近代物理と哲学とを兼備する碩学ホワイトヘッドのものを時に愛読するが、氏の形而上学はその明晰な科学的宇宙観で解明して行けば行く程、それがそのまま神の啓示となる所にいわれぬ魅力を感じるのである。鑑三の方法には、それと同じ底力がある。ホワイトヘッドは、「神は宇宙の創造の以前にあるのではなく、それと共にあるのだ」といっている。この態度が彼の思想の根本をなし、時に既成宗教の側から悟性的で敬虔の域を脱するものとして非難され、内村にいわせてもそういうかも知れないが、私はそれだからホワイトヘッドの哲学のコスミックな豊饒さを感じ、それが内村の予言の信拠性と結果において結びつくのである。何故ならホワイトヘッドが、「従来の科学は常識の洗練にあるのだが、新しい科学は常識を超えた想像にある」という時、これが、古典科学の合理性に対し二十世紀科学の仮説性のことをいっているのではなく、彼の場合には新しい自律的・包括的な世界観を意味することが感じられる。ホワイトヘッドはこの原子時代に形而上学の域に達した科学者として私の一番納得のいく人だが、今内村を読んで何となくその後味が似ているのが妙である。
以上述べた如く、内村の科学精神とキリスト教精神が並存することが、決して二元的ではなく、むしろそれによって強固な一つのものになっていることは、それが又丁度彼の祖国愛と神の愛との妥協のない綜合と、事情を一にしているのである。
先にモーゼの十誡に関する内村の註釈について、そこで彼が思わず我田引水的にモーゼを自分に擬する所に、彼の魅力と説得力が生れることを述べたが、次の場合なども、私は通説と違うのではないかと思うのだが、それなりに面白い解釈なのである。それは十誡第一条「汝我が面《かお》の前に我の外何者をも神とすべからず」についてであるが、この「我が面の前に」というのはエホバの神とイスラエルの民との関係についていい、他の国民が如何なる神を有するかは暫くこれを問わないのだというのである。それに続いて次のような意味のことをいっている。当時何れの国にも神があった。然しこの教を受けたイスラエル人は、他の民の前で「汝等の神は神に非ず」とはいわなかった。ただ「我等の神はエホバなり、我等はエホバの前にあり他の何者をも拝せず」というたのである。即ち宗教学上の所謂拝一神教であって、唯一神教ではなかった。ただしこの思想がついにはエホバのみ真の神にして彼の外に神あるなしとの唯一神教に帰着すべきは勿論である。モーゼが初めから明白にこれを唱えなかったのは、蓋し唯一神教そのものは当時未だ民衆の直ちに受け入れ難き大真理なりしが故に、むしろ思想上必然的にここに帰結すべき拝一神教を以て始めたのであろう。
こう説明した後内村は、イスラエルは頭脳明晰な国民でありモーゼは偉大な学者であったから、永遠の真理であるエホバの神のみを信じた、といっている。これは論理的には逆のような気がするが、私はそれを問わない。何故なら内村の入信の過程には、拝一神教から唯一神教への転移があり、自分をモーゼ、日本をイスラエルに擬らえる自負があったから、こういえたのである。「彼は斯くして基督信徒となった」のである。かくしてこの中にモーゼの寛容を借りての入信の最初の喜びを述べた章がある。それは内容的には前に述べたことであるが、札幌で入信の契約に署名した時の感想である。
新しき信仰の實際的利は直に余に明白となつた。力を擧げて其を自分から驅しようとしつつあつた間にさへも、余は其を感じてゐたのである。宇宙に存在するは唯一のであること、以に信じてゐた如く多數――八百萬以上――に非ざることを余はへられた。基督的唯一は斧を余の凡ての信の根に下した。余の爲せし凡ての誓、怒れる々を宥めんとして余の試みつつありし種々雜多の禮拜形式は、此の唯一のをめることによつて今や不なものとなすことが出來た。そして余の理性と良心とは應《こた》へて言つた「然り!」と。余は一なること、多數に非ざること、これ實に余の小なる靈魂に喜ばしきづれであつた。東西南北に在す四方の々に長きを捧げ、中する凡てのに一々長きを反復し、此の日を此のに、彼の日を彼のの爲に守り、夫々に特別な誓を立て斷ち物をする必は、もはやなかつた。々のを發見し、其のが余を守り支へ給ふことを知りたる以上は、を捧げざるの故を以て余を罰するのもはや有り得べからざることを確く信じて余は頭を高く擧げ、何の疚しきなく、々に來るのを、嗚呼、如何に昂然としてしたることよ。
この文章は勿論八百万の神と義絶して唯一神に帰依したことを表明しているのだが、しかも尚私がその字句にこだわって、まだここに絶対の転向がないことを指摘するのは、少くとも彼の信仰のこの段階では正しいのみならず、最後に至るまでこの「初心」を捨てなかった彼の場合、殊にそうだといえるのである。即ちこの文章では彼の言葉によればまだ拝一神教の段階にあって、唯一神教に至っていないのである。それはこの引用文の辞句に拘わっていえば、「雜多の禮拜形式は、此の唯一のをめることによつて今や不」になったといい、これらの偶像礼拝を絶対的に冒涜といっていないことや、「々のを發見し、其のが余を守」るというふうに、神々と神とを位階を異にした同類と扱っていることがそれを証明しているのである。これらは彼が異教道徳を完全に捨て去り得ないことを表明している。「異世界は暗の支配するであるにしても、其は月と星との支配するところである。勿論薄き光である。併し其にも拘らず落着きと比較的な純潔との支配するである。」という同じ書中のこの言葉は、肯定か否定かといえば、遠慮勝ちながらもこの世界を肯定しているのである。だからそれにすぐ続いて、「余の父は立な儒學であつた。……夫故自然に余の初期の育は儒的であつた、余は支諸賢の倫理的政治的訓は理解出來なかつたにしても、其のの體の感じはみんだのである。」といった時、その誇りは抜くべからざるものがある。
かくして現実の人格の面でも、キリスト教道徳を儒教道徳の延長或いはその完成の如くに考えていた彼が、明治十七年二十三歳で初めてキリスト教国の土を踏んだ時、そこでは物質文明なみに精神的にも洗練されているかと思ったところが、親切なクリスチャンがチップを要求したり、すりに遭ったりして、すっかり驚いてしまうのである、然しこんな人種的優越性の問題は、特にキリスト教と関係なしにでも、例えば技術者が洋行しても感じたことである。とにかく内村は、札幌の精神的故郷であるニュー・イングランドのカレージの雰囲気の中では霊感と感謝に満ちた生活をして来るのだが、土着の「生来の基督教徒」が既得の信仰の上に安住していることには、彼の「初心」である異教性が時にムクムクと叛逆心をもたげるのだった。彼にはどうしても悩みと戦いによる信仰がほしいのである。だからしばしば憤激の対象として宣教師が選ばれる。彼の宣教師嫌いは有名で、帰朝後もよく彼等と喧嘩した。次の言葉も、はっきり宣教師とはいっていないが、
基督何ぞやと問へば今の、殊に米國流基督信は答へていふ、「會的奉仕《ソシアル・サービス》」と。ち會本位の基督である。「噫我れ惱める人なる哉」といはないで「噫不完なる會哉」と叫ぶ基督である。故に彼等は新約書其儘の信仰を懷き得ない。會的基督にキリストの奇蹟的出生、彼の復活、彼の昇天、彼の再臨等を信ずる必はない。(『モーゼの十誡』)
というふうにきめつけ、ここでも最後の切札「キリスト再臨説」が持ち出されるのである。そしてこれは、後年渡良瀬川事件や幸徳秋水との接近などの頃の彼の社会主義者的言辞とも照し合せて、意味あることである。
一つには彼の学費は先方の好意によるアルバイトなどで賄われたのだが、時に自分の回心の話を公衆の前でさせられて、その謝礼で補われるのを非常に屈辱に感じたりした。それは未開国の野獣を生捕って芸をやらせる猛獣使いの手口だといって自嘲して口惜しがるのである。そして時にすべて職業宗教家を不潔なものに思ったりした。彼の無教会主義の一斑はそういう動機も加わっていると思う。彼は同志と共に札幌に最初の教会を建てたのだが、その費用は初め或る教団から借りていたのを、日常生活をきりつめてまで苦労して短時間にそれを返すほど、ミッションの金には潔癖であった。勿論趣旨は違うが、外国からの金を平気で使って自分の理想を実現した岡倉天心と比べて、そこには人間的な違いがあることも確かである。
『余は如何にして基督信徒となりし乎』は、岡倉天心の『茶の本』、新渡戸稲造の『武士道』と共に明治草創期に西欧文化で人間形成された代表的文化人の英文による名著だが、それが揃ってわが国の異教文化の精髄を海外に宣伝しようとしたものであることは、単なる反撥ではなく、与えられた新しい教養による自己発見が、従来の儒教的人間学の「暗黒の月と星の世界の純潔」が明るみに出されたものと見るべきである。現在の我々から見るとこれらの書はともすれば国粋主義の現れと見られる虞れがあるが、むしろそこには新輸入の鏡に照らした自己分析の報告という告白性があるというべきで、それ故に、これらを広い意味での文学書と見る時、いわゆる明治文壇の浪漫主義や自然主義の偏狭さを補う重要な自我の文学の一部門をなしているといえるのである。
内村の二三の著書が、例えば河上肇や大杉栄の『自叙伝』と並んでわが近代文学史の正統の中に座を占め、のみならず専門の小説家が果さなかった重要な自我の文学の一面を補強していることに注目するのは大切なことである。この見方で照らす時、鑑三が日本人紹介のため英文で書いたも一つの名著『代表的日本人』で、如何にその主人公たちに己れを擬しているかが納得出来るのである。(この書は日清戦争中に書かれ、彼は捷報を聞きながら、後年後悔する程わが国運の興隆に狂喜していた時期であるが)
まず主人公の人選だけ見ても、この書の著者の意図は分るであろう。西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮上人の五人である。彼等は鑑三自身の分身でないとすれば、聖書の中の名君・指導者・義人・殉教者なのである。読者はこの中の西郷が余りにクロンウェルにつき過ぎ、日蓮がルーテルもどきの法難に遭うと思うだろうか。いや彼等の運命の個別性はちゃんと描き分けられているのだが、その節に殉ずる純潔が神の国の「義」に準じるまでに昇格されるためにそうなるのである。或いは又、既成宗派を難じる日蓮が鑑三の無教会主義に似、西郷の征韓論が長袖者流の「内治論」に屈したのは、鑑三の悩みと戦いの信仰が宣教師流の社会安穏のそれにまるめられたのに似ているが、それはすべて唯一神の御心の裁きによってそうなっているのである。鑑三はすべてそういう自分の(信仰)心の動きで人事社会一般を批判した。彼に敵が多いこと、又一方それでいてその社会批評が意外な層にまで人気を呼んでいるのは、ともにそのためである。
鑑三は多くの人物評論・評伝の類を書いているが、そこには神と自分がいつも副人物として登場するので私には面白く読める。つまりそれがいつも告白文学だからである。実際明治二十七年或いはそれ以前に、これだけはっきりした近代意識で何等かの主体性ある人物を描いた文学者は、そう思って見ると二葉亭以外にないであろう。『代表的日本人』がその代表だが、他にクロンウェル、ルーテル、カーライルなど彼の尊敬する人物の像は実に鮮かだ。然しこの見方を推しつめてゆくと、結局彼が一番見事に彫り刻んだ像はモーゼとパウロだということになり、再び俗間の小説文学による人間像の概念から外れてしまう。
ここで多くの明治の先覚者についていわれる如く、内村鑑三がもし文学者になったら、という設問が行われる。彼に文才があることは明瞭だし、教養の資として外国文学に親しんでいるし、現に今いった勝れた評伝も書いている。彼の『宗教と文学』というエッセイを読むとダンテを大いに推称すると共に、ゲーテやシェクスピアを認めるにもやぶさかでない。しかし彼は所詮文学を方便に使うだけの人である。のみならず、時に清教徒リゴリズムで以て、劇場へ行ったり小説本を読んだりすることを卑猥だといって却ける人である。そういう人を無理に文学熱に眼覚めさせても、せいぜいパスカルと共に「芸術的創造は虚栄だ」というであろう。何故なら彼には小説的人物を創造するよりもっと生きた、彼の情熱をそそる創造的仕事があるのだ。それは自分を登場人物に仕立てることである。このパッションは、小説家がモデルを描くマニアよりもっとしつこく人に憑くもので、それこそ死ななきゃ治らないものである。鑑三が札幌で教会を造ったり、渡米早々白痴院で働いたり、帰朝後の不敬事件、『万朝報』の論説執筆、渡良瀬川事件、非戦論、それから教界の中での無教会主義、キリスト再臨運動等、次々に彼の身の上には何か起るのである。彼を信ずることの篤かった厳父が明治四十年に死するに当り、「現世について語るなかれ」と遺言したのは、何も現実社会問題にタッチするなといったのではなく、彼のマニアックな性分を戒しめたのであろう。事実彼はその後専ら福音の世界に閉じ籠って聖書の研究に没頭するのだが、父の遺言にある「現世」の中には「キリスト再臨」も含まれてはいないかなど私が茶化しては、この敬虔な親子に対して失礼であろうか。
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以上私は、内村鑑三が日本的、或いは武士道的キリスト教徒であったということを私なりに解釈しようと企て、それを彼の個人的ならびに時代的背景の下に描いて見ようとしたのであった。私のいいたい論旨は大体すでに尽したつもりであるが、なお彼の生涯の中で重要な事蹟について具体的に語った点は少いし、ことに彼の教義については殆んど触れていない。以下この二つを手づるにして私の鑑三観を再説敷衍してみたい。しかし断るまでもなく私は神学者でも信者でもないのだから、教義について多く語り得ず、また誤るかも知れないことは、自分としてはここに重点をおきたいだけに、甚だ残念である。
鑑三の事蹟について、少年時の札幌農学校、入信、それから四年間のアメリカ留学というようなことは、一応項目的に触れた。それから後の人物を最もよく語っている事件乃至事実として私は次の四つを挙げる。即ち、不敬事件、非戦論、無教会主義、キリスト再臨運動である。
今これを逐次語りたいのだが、最初にいえることは、これらが実に共通した要素を持った事件だということである。それも内村という人物が中心にいて、四つの外的事件がこれに触れたために起った、形は異なり内容を一にした反応というのではなく、一つの精神が発した言葉が、たまたまその語られる機縁を異にしたために違った響きを発したという態の共通性なのである。それが分れば例えば彼の対社会的発言の中にある意見の豹変――日清戦争に賛成して日露戦争に反対したこと――だの、日露戦争後次第に時務を論じることをやめて、聖書研究に閉じ籠って来たことだのに何の不自然もなくなるのである。戦後近代日本精神史の研究が勃興し、内村鑑三の再評価がしきりに唱えられるが、それが今いったような時務論を手がかりにして彼の史眼とか限界とかを規定して終っているのは、何としても私は物足りないのである。鑑三自身がこれを聞いたら、又もやパリサイ人が、と嘆くであろう。極言すれば彼の一生の問題は、「彼は如何にしてキリスト再臨を信ぜしか」の一事に帰するといえると思うのである。(念のためいうが、これは彼の名著『余は如何にして基督信徒となりし乎』の表題と同じく、「如何にして」であって「何故に」ではない)
そうはいったものの、最初の不敬事件はその重要性においてやや劣り、彼の身にふりかかった災難という受動性が多分にある。しかしその反響が社会的に大きく且つ彼の人物を色づけたことや、それによって彼の世間に対する覚悟が出来たことは、彼の生涯の四大事件に数えるに価するのである。この事件を簡単に説明すれば、これは明治二十四年に教育勅語が初めて下賜された時、当時第一高等中学校の講師をしていた鑑三は、全校職員生徒がこれに最敬礼した中で、ひとりチョッと頭を下げただけだったといって非難を浴びたのである。
彼はその瞬間、偶像の前で敬礼しないクリスチャンの本能が兆したのだと、アメリカの友へは書き送っている。しかし彼はもともと天皇を畏敬するたちの人だ。積極的に勅語にそっぽを向く人ではない。時の校長もこれは神への礼拝ではないからという意味の勧告文を送り、鑑三自身同信の教師とも相談して、敬礼し直すことを申し出た。しかしその時すでに問題は彼個人への批判から離れ、キリスト教対皇室のそれに抽象化されており、彼はその一方の名儀人で被告に過ぎなかった。
しかし私にとって問題が重要なのは、それが鑑三の天皇観にはなくて、その信仰の上にあるからなのである。何故なら、この時これを不敬事件と見做す国家主義的官学派の一領袖は井上哲次郎であったが、その論難の要旨は大体次のようなものであった。即ち「ヤソ教は大体唯一神教であって、天照大神も釈迦も拝まない。多神教たる仏教は古来温和な歴史を作っているが、唯一神教たるヤソ教は激しい動乱を起している。わが憲法は、安寧秩序を妨げず、臣民の義務に背かない限り信教の自由を認めているのだ。内村氏の事件はこの限界を越えているではないか。」これに対して内村の書いた公開状の要旨は、「足下はキリスト教徒がわが国に不忠で勅語に不敬である理由を儀式上のことに求められた。しかし儀式より大切なものがある。勅語に敬礼しないのと勅語を実行しないのと、いずれが不敬か? 陛下はこれを服膺せよといって下さったのだ。我々キリスト教徒は、仏教徒、神道家、儒者その他何人よりも不忠、不孝、兄弟夫婦朋友間で不和ではない。のみならず、朝に御真影に向って敬礼しながら、夕べに盃をとって、猥らな反勅語的な言葉を平気で口にする者が、文部省にも、帝国大学にも、足下の尊敬する諸寺院にもいるではないか」ということを、もっと激しい口調でいっているのである。
しかもこれは、国会での与野党の応酬の如き、上べだけ装った正義派振りではない。少くとも鑑三がいっていることは、彼が日夜実践している道徳律そのままなのであって、良心に恥じずそれが口外出来るのである。そこで私は連想するのだが、この場合天皇がエホバで井上哲次郎が祭司の長であっても同じことなのである。そしてこの怒りが彼の信仰なのである。(天皇は正確にいえばエホバではなくカイザルに違いない。しかしそれはイエスのいうカイザルではなく、今の場合エホバの部分的代言人であることは、彼の儒教的道徳観からいえるのである)
偽善者ぶった学者やパリサイ人に対するイエスの怒りは、鑑三が常に取扱った題目である。律法を振りかざして来る彼等に対し「愛」というしなやかな盾でこれを受け流すイエスを彼は常に描写しているが、例えば彼が晩年に書いた『十字架の道』と題するイエス伝の中で、エルサレム入城後のイエスと学者との論義を論明し、「羔《ひつじ》の怒」について、また「ああひなる哉、汝等僞善なる學とパリサイ人よ」の間投詞について論じているあたり、道徳的態度の上では確かにこの事件での鑑三とイエスの心事は同じなのである。
勝ち誇ったイエスが「カイザルのものはカイザルに返せ」といったのは、聖書のちょうどここに出ている。そしてこの言葉は、普通ただ頭ごなしの帝権排撃に解釈されているが、そうではなく、当時ユダヤにはデナリというローマの貨幣とシケルというこの国のものとがあり、「デナリは皇帝に、シケルは神殿に」というのがその真意だと彼は説いている。このイエスの言葉は、「貢はカイザルに返すがよきや」という学者達(パリサイ派は反ローマ帝政党である)の陰険な設問に対する答えなのだが、イエスはデナリとシケルを使い分けることによって、一挙にこの政治的並びに道徳的陥穽を逃れた。井上の立場は政治的にはカイザルに結んでいるが、その言葉に政治的術策はないのだが、内村が井上から勅語を奪いとって、逆にこれで井上を打ったのは、勅語をカイザルに返したのであると共に、勅語の中のシケルを自らの身につけたのである。つまり勅語は律法なのであって、律法は守るべきである。しかしこれを祭祀の長に預けておくと、制度化し、虚ろな儀礼となる。だから「人の義とせらるるは、信仰に由りて律法の行《おこない》に由らず。」(『ロマ書』三ノ二八)
鑑三の言葉はそれなりにこの線に沿っている。彼の信念にはいつもこういう考え方がある。不敬事件は決して彼の信条告白に触れるような魂の上の問題ではない。しかし皮相な現実問題であるだけに、鑑三の精神の方法論ともいうべきものが明白に現れていて、彼の窮極の信念確立を論じる説明に役立つと思うのである。教育勅語は儒教精神の上に築かれており、鑑三はこれを自分の儒教性で受けとめて、その道のパリサイ人をやっつけたのだ。この遣り口が、しかも一こくで、妥協のない二者選一的態度で現れるところに、彼の個性があり、魅力があり、そしてそれが唯一神の信仰の世界に起った時に、キリスト再臨というせっぱ詰った大宇宙観が生れるのである。
それにしても彼はこの事件のため教職を奪われ、殆んど同時に妻の病死に会い、のみならず国賊と罵られて社会的に葬られた。この試練は勿論彼の信仰には役立ったに違いない。そして『十字架の道』の今述べた部分は大正十四年に書いたものだが、その章の結びが、「國體問題を以て我等にる我國の僞忠臣と僞愛國に對しても我等は同一の筆法を以て彼等をすべきである。」で終っているのは、非戦論時代のことを回顧しているのだろうが、もっと適切には不敬事件の痛手に通じるのであろう。
次は非戦論である。非戦論の論拠は彼の場合にあっても常識的に考えられる理由で解していいのであって、例えば、今の平和論者の中にもある人道主義や、キリスト教徒としての「殺すなかれ」や「敵を愛せよ」の教が根柢にあるのだが、特に彼の場合大切なのは、それが愛国心に基づいていることである。そしてその理由が戦争によって、勝負にかかわらず、国土や人心が荒廃するという、甚だ現代的なものなのだが、しかもそれが現実の社会批評から割り出したのでなくて、聖書の教を解釈することによって結論したのであることを私は見出し、その点で興味を感じるのである。
彼の「殺すなかれ」の説は広い意味にわたっているのであって、先にも挙げたモーゼの十誡の講義の中のこの項目の中には、これは大正八年に書いたものだが、明治三十四年の渡良瀬川鉱毒事件にまで言及しているのである。そこでは「今日に至る迄本家又は工業主にして辜《つみ》なき男女工の生命を奪ひしもの幾許ぞ」といい、「誰かその株主の子女の手をりし指が無辜の血の値ならざりし事を知らう乎」というのである。ここまでいけば完全な社会主義であって、渡良瀬川事件の時は現地を視察して来て慷慨調の論文を書き、また幸徳秋水と交って、「……眞面目なる會主義なり。余は君の如き士を友として有《も》つを名譽とし」云々といったりしている。
だから非戦論の中にある「殺すなかれ」も、個人の良心の面からよりも、社会正義の面から導き出されているのである。ところで彼が日清戦争を謳歌してすぐその直後態度が豹変した次第は、つぎの彼自身の言葉でよく分るのである。
之を來の日本の外交に於て見よ、同一の實利主義の實行を見ん、何故に鮮は救はざる可らざるや、曰く鮮の獨立は日本國の利なればなりと、何故に支を伐つべきや、曰く充の算あればなりと、彼等は日戰爭を義戰なりと唱へり、而して余輩の如き馬鹿ありて、彼等の宣言を眞面目に受け、余輩のらぬ歐文を綴り「日戰爭の義」を世界に訴ふるあれば、日本の政治家と新聞記とは心密《ひそ》かに笑て曰ふ「善哉《よいかな》彼れ 正直よ」と、義戰とは名義なりとは彼等の智が公言するを憚らざるなり、故に戰て支に屈辱を加ふるや、東洋の危殆如何《いかほど》にまでれるやを省みる事なく、國民擧て戰會に忙《せ》はしく、ビールを傾くる何萬本、牛を屠る何百頭、支兵を倒すに野狩《のじしかり》を爲すが如きの念を以てせり、而して戰局を結んで戰捷國の位置に立つや、其主眼とせし隣の獨立は措《おい》て問はざるが如く、新領土の開鑿《かいさく》、新市場の擴張は國民の注意を奪ひ、《ひとへ》に戰捷の利を十二に收めんとして汲々たり、義戰若し誠に實に義戰たらば何故に國家の存在を犠牲に供しても戰はざる、日本國民若し仁義の民たらば何故に同支人の名譽を重んぜざる、何故に隣鮮國の誇に勉めざる、余輩の愁歎は我が國民の眞面目ならざるにあり、彼等が義を信ぜずして義を唱ふるにあり、彼等の隣に對する親切は口の先きに止《とどまり》て心よりせざるにあり、彼等の義侠心なるものの淺薄なるにあり、或人は肥後人をして「る敵をふに妙を得たる武士なり」と曰《い》へり、今日の日本人は皆悉く肥後人とせしにあらざるなき乎!
この文章は鑑三のものの見本として面目躍如としているので、少し長く引用してみたのであるが、戦争に勝ったお蔭で非戦論になったことは、この度負けたお蔭で非戦論者がたくさん出来たことと対照的だ、などいっては悪い洒落だが、とにかく日清戦後のブームの中でひとり苦り切った顔付をしている彼が、ここに手を取るように見えるのである。それも彼の愛国心がさせるわざだが、だからこれは近頃の戦争絶対反対とも、トルストイの無抵抗主義とも、人道主義のそれとも違い、たとえ仮定にしろ、義戦なら国が亡んでも戦ったらどうだ、と肯定的に出るのである。従ってこの亡国も彼の愛国心の現れなのである。それと同じように、この論文は『時勢の観察』という題で明治二十九年に書いた、日本人のけち臭さを縷々と述べた快文字の一節であるが、『代表的日本人』その他日本讃美の著述がたくさんある中にあって異色あるものであり、それというのも現実的に日本人ののぼせ上っていることを戒めたいからである。従って彼が戦争を呪うのは、根本には聖書の終末観が現れているのだ。つまり負ければ廃墟になり、勝てばソドムになり、いずれにしろ末世の現れであって、キリスト再臨説が非戦論に結びついているのである。
この気持は当然日露戦勝後の大ブームには当然大きく燃え上ったのであって、『日露戦争より余が受けし利益』などいう皮肉な題でそれを述べているのである。しかしその中には、「ロシアは高ぶったから負けた、これは神の摂理である」といった論理が見え、それだけ抽き出せば日本の宣戦を肯定しているように見える。これは全文読めばすぐその真意が判るのだが、彼の戦争観はその信仰の論理から導き出されているのだから、一般社会評論家の常識では納得出来ないものがあり、時に不徹底だとか矛盾だとされたりする。次の一文の如きその典型であろう。
《ゆ》けよ、兩國の和主義よ、行いて他人のさざる危險をせよ、行いて汝等の忌みふの戰爭の犧牲となりて殪れよ、戰ふも敵をむ勿れ、蓋《そ》は敵なるものは今は汝に無ければなり、只汝の命ぜられし職を盡し、汝の死の贖罪の死たらんことを願へよ、人は汝を死にひりしもは天に在て汝を待ちつつあり、其處《そ こ》に敵人と手を握れよ、只死に至るまで和の願を汝の口よりつ勿れ。」(『非戦主義者の戦死』)
これなどは今日の非戦主義者が決して許すことの出来ない文句であろう。或いは少くとも理解出来ない言葉であろう。そしてこれをもし人が「理解」しようとして、まず「汝の敵を愛せよ」とか、「人もし汝の右の頬を打たば左の頬を向けよ」とかいった教を援用しようとしても筋が通らない。殺せとはいわないにせよ、愛する敵に向って突進せよというのである。これはそんな新約的な温情主義ではない。少くともそれだけではない。これは無抵抗主義でも諦観でもないが、さりとて例えばソクラテスが義務感から敢然陣頭に立ったあのヘレニスティックな悲壮感ではない。鑑三の中にある武士道精神は時にそういう無償の情熱に燃えることがあるが、この場合それが少しも混っていない。
では何かといえば、これは実にはっきりした、個性的な表現であり、私は一部の人に非難されようとも、敢てこれを実に美しい言葉だといいたい。ここには論理なんかない。いっている意味は簡単なパラドクスだ。罪なきキリストが十字架で刑死したと同じ理由で、平和主義者は戦死しなければならないのである。これが基督者の死というものであり、贖罪ということの意味である。贖罪は結果である。だから文中、「贖罪の死たらんことを願へよ」というのに引っかかって、それを目的意識的に解釈してはならない。こんな美しい文章の中では、それでも功利的な臭いがして不純になる。
ここに現れているのが、鑑三独特の竹を割ったような論理の迸出である。それはあらゆる掛引を絶し、己れを虚《むな》しゅうして直接神の前に見参する。彼が聖書を全面的に信じ、キリスト再臨を絶対に確信するのもそこから来るのだ。鑑三の偉大さはこの言葉の中に具顕されている。
彼の非戦論がその愛国心の迸るところから生れたと私は述べた。彼は旧約ではモーゼ、新約ではパウロを最も尊敬しているのだが、それにキリストを加えて、この三人が如何に愛国心に燃えていたかを、あらゆる機会に述べているのである。前に挙げた『十字架の道』のエルサレム入城の章で、彼はイエスが如何にエルサレムを愛したかを、その熱烈な頌歌である詩篇一三七を藉りて説明し、
エルサレムよ若し我れ汝を忘れなば
我が右の手に其巧《たくみ》を忘れしめよ。
若し我れ汝を思ひ出でず
我れ汝を我が凡ての歡喜《よろこび》の極《きはみ》となさずば
我が舌を我が〓《あご》につかしめよ
そしてその先でエルサレムの滅亡をつぎのように嘆くのであるが、これが前の日清戦後の絶望感と非常に通じるものがあるのを見て貰いたい。そこから私は彼の非戦論が愛国心と同じ源泉から発し、そして辿りつくところは終末観だというのである。
「噫ヱルサレムよヱルサレムよ、豫言を殺し、汝にさるゝを石にて〓つよ」と云ふ。《きよ》き城《まち》は盜賊のとなつた。の城《まち》は惡の占領するとなつた。殿は存し、祭儀《まつり》は行はれ、祭司と民の長老等はを説くと雖も、エホバのは山を去り給ひて、今やされし其一子をさへ殺さんとして居る。之を見てイエスは泣かざらんと欲するも能はなかつた。悲劇は危機に臨むも危機を覺らざる事である。殿あり、禮拜あり、職あり、學あるが故に、の恩寵はえず、信は安なりと思ふ事である。祭司の眼に榮光が輝きし時に、イエス御一人の御眼には滅亡が鮮《あざや》かに映つた。は衆人と共に流す時は左に辛らくないが、一人で流す時に堪へ難く辛らくある。滅亡は確に目にたはる、然るに宗は政治家に和して曰ふ「康《やす》し康し」と。此に在りての子は獨り胸を打ちて叫び給ふ「噫ヱルサレムよ、ヱルサレムよ」と。天下の憂に先《さきん》じて憂ふ位ではない、天下が憂へざる先きに泣くのである。
しかも日露開戦絶対反対を表明し、事破るるや幸徳・堺等と万朝報を連袂退社した鑑三は、開戦とともにその筆鉾を収めた。そして銃後の一国民としての務めにいそしみ、また「もし自分が召集されてこれを忌避したなら、代りの誰かが征って斃れねばならぬ、だから自分は敢然銃をとって起つ」という意味のことをいったのは、今日なら勿論であろうが、当時でも妥協だとか変節だとかいって非難された。しかしそれは彼の気質からいって、またその信念の根本信条が今述べたようなものであってみれば、私には当然のことで、重ねて釈明不要に思える。少くともつぎに掲げる『万朝報退社の辞』は、思想的には立入ったものを含まないけど、よくこの間の事理を尽し、且つ彼の人となりを語った名文であって、その後起り得る誤解や非難を簡潔に予め封じているはずのものである。
小生は日露戰爭に同意することを以て日本國の滅亡に同意することと確信いたし候。
然りとて國民擧つて開戰と決する以上は之に反對するはとして小生のぶ能はざるに御座候
然りとて又論として世に立つ以上は確信を語らざるは志士の本に反くことゝ存候。
殊に又報にして開戰に同意する以上は(其意は小生の充分に諒とするなれども)其紙上に於て反對の氣味を帶ぶる論文をぐるは之れ小生の爲すにびざるにして、又報が世に信用を失ふに至るのと存候。
〓に至て小生は止むを得ず、多くの辛き實をび、當の間論壇よりくことに決心致し候間、小生の意御諒察被下度候。
報に對する小生の好意は今日も日と毫も異なる無之候。
つぎは無教会主義である。これは鑑三がわがキリスト教界に投じた一大波紋であって、その動きは今なお遺っており、教団の中では、われわれ門外漢の端倪を許さない問題らしいが、私は勿論そこに立入る資格も興味もない。私はただこれを鑑三個人と聖書から見たところを概観してみよう。すると問題は又同じような所へ落着くのである。
先ず原理的にいうと、教会というものが現実社会にある制度であり組織である以上、そこに人間的因襲の弊がつき纏うのは当然である。だからそれを抜きにして清新な感激で神や聖書に直結しようというのが無教会の趣旨である。それには鑑三の入信当時の環境がその動機をなしており、札幌農学校で仲間内で礼拝することから初めて、それが教会を作って伝道を初めたという素朴な宗教体験が終生貫いているのだといえよう。そして救済は儀式によらず信仰によるのだというような運動を展開するのだが、それは不敬事件で説明した心境に繋がっている。明治三十四年に創刊された『無教会』という雑誌の巻頭言がその宣言のようなものだが、その中から眼につく文句を拾ってみると、つぎのようになる。
「無會」は會の無いの會であります。……「無會」の無の字は「ナイ」と讀むべきでありまして「無にする」とか「無する」とかいふ意味ではありません。……天國には實は會なるものはないのであります。「われ城《まち》(天國)の中に殿《みや》(會)あるを見ず」とヨハネの默示に書いてあります。……彼には洗禮もなければ餐式もありません。……しかし此世に居る間は矢張り此世の會が必であります。……(それは)のられた宇宙であります。其天井は蒼穹《あをぞら》であります。……その床はい野であります。
この天真爛漫な法悦は、その限りにおいてこの世がそのまま天国になったようで問題ないのだが、しかし現実の彼の無教会主義はむしろ彼が自分の信仰の純潔を護ろうとしての闘争なのであった。彼が明治二十六年に書いた『キリスト信徒のなぐさめ』という名著は、即ち不敬事件後の失意のうちの著作で、かなり荒々しい感情の跳躍が見られるのだが、その第三章は「キリスト教会に捨てられし時」となっている。そして教会に捨てられたお蔭で神様に拾われ、人間が見えるようになったといって、未信者にも神の福音があるというふうなことになる。教会は、
一度其に入りて見れば猜疑、僞善、佞奸の存するなきにあらざるを知る。尖塔天を指して高く、風琴樂《がく》を奏して幽《かすか》なる處のみ、の會にあらざるを知れり。孝子家計のを補はんが爲めに夜に物を鬻《ひさ》ぐ處、是れの會ならずや。貞良人の病を苦慮し、東天未だ白まざるに殿に願を罩《こ》むる處、是れの會ならずや。
ということにまでなるのである。この中の異教性は、時期が時期だけに流石ただならぬものがある。それにしても彼が当時現実に教界の中で排斥されたかどうかは別にして、ただ現存の教会の無意義や堕落に慊らずにいるうちに、教会自体というものに疑いを持って来るのが鑑三の常で、そこに彼の良心の働きの鋭さがあるのだ。
教会の堕落といっても、会堂が単なる社交機関になるとか、牧師や長老が汚職をするとかいうことではない。教会がそれ自体の繁栄を目指して活動し、実績を上げることで満足する宗教的自慰を彼は最も嫌悪するのである。
彼がアメリカ宣教師を嫌い、よく直接喧嘩したし、また彼等が支那奥地で自分は一応洋風の生活でくつろぎながら、いたずらに受洗者の数が累進するのを誇っているようなのに露骨に盾つくのは、その故である。この事情を彼は、聖書の中から比喩を選んで見事に説明している。それはイエスがエルサレムにおける受難を弟子達に予告した時だ。ペテロは主の身を案じ、且つまた生きて伝道した方が福音のためだと思って、彼を引きとめ、主よ宜からず、此事汝に来るべからず、といったのに対し、イエスは怒って、
サタンよ我が背後《うしろ》にけ、汝は我に躓《つまづ》くなり、それ汝はの事を思はず人の事を思ふなり
といった。ペテロのこの精神、即ちただ身の安泰を計って伝道の実績を挙げようというのが教会的精神なのであって、イエスはこれを見抜き、それを「人の事を思うもの」ときっぱりはねつけたのだ。つまりこの時期には使徒たちはやがて教会を建てて、法的勢力の拡張をはかる宗教上の政治性の端緒を見せ初めたのだ。――
というのが鑑三のこの句の解釈である。だから彼は、伝道は福音の敵だと繰返し述べている。この一節は彼の無教会精神の真髄を伝えるものである。因みにこれは昭和五年一月、即ちその死の二ヵ月前に書かれたものである。
従って彼の教会排撃は、後世の制度化され、堕落したもののみならず、今いったように初代教会にも及び、あれほど尊敬するパウロをも、教会に重きをおいたことをその害悪の一つに数えている。次に彼が中世以後最大の偉人とするルーテルをも、ローマ教会に対抗する勢力を築いたことを称えつつも、自らまた法王になったと難じているのである。何故なら「キリストの十字架上の死に因りて殿と職と儀式とは無用に歸した」(『十字架の道』)からである。しかしわが国には幸にしてまだ教会の伝統がない。だから「日本に於てキリストの弟子と成りしは、信仰の事に就ては米歐人に學ぶを廢めて直にキリストに學ばねばならぬ。紀元一千九百二十八年(この文執筆の年)を以てキリストの會をめて地上に實現せん爲にり且努力せねばならぬ。」(昭和三年五月 『聖書之研究』)
明治十年に儒と武の誇りを棄てないで入信した鑑三が、五十年たち、死の二年前に書いた日本的キリスト教観がこれである。彼は大正十三年に『日本の天職』という一文を書いているが、その中でわが国は武力や商工業、また美術でも立つ力はなく、ただ宗教を世界に供するのがわが国の役割ではあるまいか、といっている(勿論これは他の生業をやりながらの話であって、全国民が坊主になれといっているのではない)。これはわが国の仏教的地盤の豊かさからいっているのだが、そこへキリスト教がはいったのだ。そしてこの教会的処女地への期待、即ち彼が日本人であるが故に一層信念が固かった無教会主義は、次のキリスト再臨説に結びつくのである。
鑑三のキリスト再臨説は、その思想の根幹でありその頂点である。ここに至って彼の思想の奔流は、その豊かな水量を以て渦巻き泡立ち、見て壮観であるのみならず、われわれの足許をすくう勢で押し寄せてくる。大体鑑三という人は、明治という時代の突端に立って、二千年(或いは数千年)流れて来たキリスト教の歴史を横にガッシリ裸身で受け止めた人である。だから彼の中に、罪、十字架、復活、再臨の約束がすべてごまかしなしに活きている。彼はそれを一個人、一世代の異教徒の資格の下に身につけるのだ。「キリストわれにありて生く」の実感は、二千年前の改宗者パウロにおけるような悲劇的な現実性はなくとも、明治初期の文化人には異常な実存性を持っているのである。
さて私のような素人がいうのはおこがましいが、一応話に筋道をつけておくと、再臨とは贖罪の保証だと思っている。即ち我々の罪に対し、律法的道徳がその個別的な外傷癒法に過ぎない時に、全く無垢な「人の子」イエスが我々のあらゆる罪を背負って十字架についた。この生身の罪を贖った肉体は復活せねばならぬ。そしてこの傷つける肉体と愛の約束を交した現世は、必ずいつの日かそのすべての歴史的現実の保障のために、この肉体そのものの再臨を見なければならぬ。これが最後の審判の倫理であり、再臨の論理である。だからキリスト教を信じる以上、再臨まで信ぜねば不徹底だというのが、徹底主義者内村鑑三の説である。
それにも一つの理由がある。それは亀井勝一郎氏がよくいうように、日本民族には罪の意識がない。いやあるのだが、それは『古事記』以来しなどの川の水で洗いに洗えば流れ落ちる態《てい》のものである。中世親鸞が出てこの意識を強調したけれど、それは仏の慈悲で救われるものであった。ところがキリストはこれを無垢の血で贖ったのである。この未聞の取引を虚心で信じた鑑三は、それがわが儒仏の知らぬ抜本的な救済であることを知った。と同時に、自分並びに自分の周囲を見廻し、そこに再臨を迎うべき諸条件――つまり頽廃の――が備わっているのを知った。彼の再臨の信仰の堅さはそれによるのである。
しかし再臨を語ることの困難は、いうまでもなくこれが事実上今までに起っていないこと、そしてこれが超自然的な現象である点にある。つまり何としても一般社会科学的常識では、そこまで踏み込んでゆけないのである。しかし逆に見て、社会的・歴史的にも傾聴すべきもののある鑑三の人間学を追求して行って、再臨説の閾で止ったら、それは点睛を欠くであろう。否、初めから彼を信じないのと同じである。彼が再臨を説くや、決して論理的でない。信仰のイメージで、いわば詩人の如く語る。それでいて、こちらが信ずる信じないにかかわらず、分る気がするから妙である。彼によれば、イエスの再臨は初臨の時の如く野をさまよったりしない、電光の如くあまねく且つ公然と来る、その時屋上にある者は、物をとりに階下に下る暇もないだろう、という。いわれて、なるほどそんなものに違いない、という気がする。しかし私が再臨を信じるかと問われると、不信者の私は答に窮する。もしそんな往復ハガキのアンケートが来たら、まず返事を握り潰す所だろう。
ともかく今まで述べたところで、彼がキリスト再臨を信じるということは、キリストを信じるということと、殆んど同じだということがいえるのである。ところで大正七年は彼が再臨運動を社会的に最も活溌にした年だが、その年に書いた『基督再臨を信ずるより来りし余の思想上の変化』という論文には、それが結果的に書いてある。まずそれによって聖書が非常に分りよくなった、というのである。それはそのはずで、再臨は聖書の論理的帰結ではなく、聖書が再臨の必然性の上に築かれた人生学だからだ。だから彼は次に、再臨が分って人生が分ったといっている。これはつまり日清日露戦後の国民の驕慢や頽廃が再臨信仰に照らされてはっきり眼に映じたことをいうので、いわゆる終末観の問題である。
終末観と再臨説は厳密に教義の上からいえば同じではない。然し今鑑三の人間観・社会観を論じる上でそれを便宜上同一視することは許されるのみならず、話が簡明になると思うのである。所で終末観はパウロでもルーテルでも堅く信じている思想だが、とくに私が惹かれるのは、私が最も心服する近代危機の思想家ドストエフスキー、バルト、ベルジャーエフ等が揃ってこの危機の解明に終末観を持ち出しているからである。私が鑑三の再臨説にすぐついてゆけるのも、正直な所これら近代思想家の社会批評の素地があるからに違いない。
例えばベルジャーエフの中で私が最も愛読した『奴隷と自由』の終末観は、まず人間が革命、戦争、集団(つまり組織や階級)、美、その他あらゆるものに隷属することを説明している。それから解放されるために、時間を宇宙的(生物的)、歴史的、実存的の三つに分け、キリストの第一と第二の降臨の問に歴史的時間が流れており、その間にも水平の歴史的時間の中に垂直に実存的時間がつきささっているのだが、ついに後者が前者に最後の勝利を得た時に、歴史の終局が来、人間が自由になるといっている。大切なことは、これが未来記ではなくて、現代の批判であることだ。
鑑三にはこのようなメタフィジックはないが、同じようなパースペクティヴがある。そして非戦論の時代から『聖書之研究』に閉じ籠って来ることは、彼自体が歴史的時間から実存的時間へ推移円熟していったのだ。彼は単なる代表的クリスチャンではない。わが国に近代の黎明と頽廃とが一緒に押しよせて来た時、これを身に受けて、キリスト再臨という思想で一挙にさばいた人だ。それは明治の思想的天才というよりも、実践的精神界の英雄であり、常に戦いに出て死を恐れぬ闘士であった。
正統思想について
以上私は心のままに明治以後の文学者思想家の中からアウトサイダーに属すると覚しい人を摘み食いするように選び出し、その事蹟を検べて来た。その間、アウトサイダーとは何か、と一再ならず人にも聞かれたが、私はただ漠然と「異端」或いは「幻《ヴイジヨン》を見る人」以外の定義を掲げず、また答える術を知らなかった。というと無責任に聞えるが、自分の胸の中には直観的にそのイメージは描かれていたのであって、その群像を描き上げて見れば、彼等の定義は自ずとそこに要約されるだろうと予想していたのであった。
しかし書き上げて見ても、そこに一貫した性格は浮き上って来ない。のみならず彼等の激しい個性は互に背き合っていて、一掬の網の中にすくい上げることはできないのである。それは私の人選がチグハグで纏りないためや、叙述検討の至らないためでもあるが、そこにはさらに重要な一つの事情がある。つまり、アウトサイダーというのは何れはインサイダーということの対立概念であるが、近代日本にはインサイダーがないことを示すものなのである。従って同時に私は、この探求によってインサイダーの姿を逆に照し出そうと企図したのだが、それも果せなかったのであった。
しかし一方、インサイダーの具体的な姿は示し得なかったけれど、そのためにも用いた個々のスポット・ライトは、インサイダーのあり得べき形や個所について、いろいろのヒントを与えてくれた。そのことはそれなりに収穫であった。私はそれらの部分品を点検し、あわよくば残欠を補填するようにして、それを観念的に造型するよう努力して見ることが出来る。
ここでインサイダーを定義すれば、それは大体正統主義、オーソドクシイの意に解していいと思う。正統は伝統と無縁ではないが、正確には別物である。伝統とは過去にあって自分の外に繋がるものであるが、正統は直接自分の中にあるものである。そして明治以来のわが文化の混乱、知識人の不幸は、正統を持たないことにある、と簡単にいい切れるようである。強いてこれに当るものを求めれば、卑近なことでは、明治の立身出世主義をその代表と見做すこともできよう。何故なら、わが世紀末的頽廃詩人も、社会改革家も、宗教家も、皆これに反抗して立った点で揆を一にするからである。ところが大正期においてわが国運の上昇は一応峠を越すのであるが、それとともに立身出世主義にも現実的にやまが見えた。そこでアウトサイダーは精神的に共通の枠を失ったのだが、しかもそれが思想の安定を齎さないで、かえって混乱を増した。つまりアウトサイダーは明確な表現様式を失い、それを得るためにさらに高級な、微妙な範疇を手にしなければならなくなったのだ。中原中也の苦悶は正しくそれにほかならない。
たまたま最近私が読んで感銘を受けた本の中で、これは現代というよりも第一次大戦前後に属するものだが、正統を求める点で共通している二著があった。G・K・チェスタートンの『正統思想《オーソドクシイ》』と、T・S・エリオットの『異神を追ひて』である。それは後者の題名が示すように、異端の道を辿って正統に到達している点でも一致しているのである。そして彼等の場合、正統とはカソリシズムなのだが、これは正統すなわち伝統ということなのであって、西欧知識人の魂の故郷が依然そこにあると感じ入る次第である。しかもそれは既成秩序としてカソリシズムを身につけるというのではなく、「異神を追う」近代的彷徨の挙句、自分の中にそれがあることを発見したのであった。それについてチェスタートンの冒頭に次のような比喩があった。因みにこの『正統思想』という著書は一九〇八年のもので、イギリス風の機智と逆説で論理を運んでゆくので、われわれ東洋人としては分り難いが、異教徒としては分りやすいというスタイルのものである。
私はこれまで屡々ひとりのイギリスの快走艇操縱が航路をわづかにつたばかりに、南の新しき島とばかり思ひこみながら、實はイギリスを發見した、といふ筋の小を書いてみようと想を描いて來た。……氣がついて見れば、ブライトンの樓閣だつた。粗野な寺院にイギリス旗を樹てようと、完に武裝し號で語り合ひながら上陸した男は馬鹿を見たものだ、といふのが恐らくは一般の印象であらう。こゝで、私は彼が馬鹿氣て見えたことを否定しようと思はないが、もし君にして彼は馬鹿をみたのだ、あるひは少くとも愚かさが彼の唯一乃至支配感だつた、と想像したとするならば、君はこの物語の主人公のロマンスに富める性格を充な氣配りを以てしては究しなかつたことになる。彼の算はその實、いとも羨ましき算であつた。さうして、もしも彼が私の意中の人物だとしたならば、彼はその算を知つてゐたのだ。へ出る魅惑的恐怖と再びわが家へ歸る人味ある安感とを同じ數間に併せ有つより快なことがまたとあるだらうか? ……ニュー・サゥス・ウェールスを發見すべく武ぶるひし、幸なを流した瞬間、それが古きサゥス・ウェールスだつたことに氣がつくほど光榮なことがあらうか? ……澤山の足をもつた市民の棲む、さうして怪奇な、古風な燈のある、この不可思議なる宇宙的市――どうしたらこの世界が見知らぬ町の恍惚とわが住む町の安易と榮譽とを同時にわれわれに與へることが出來るだらう?(甲鳥書林版 山之内一郎訳)
引用しながら面白いのでつい長くなったが、それも私の論旨にとっては先廻りし過ぎるが、私の趣旨にとってはピッタリなのである。要は新しい宇宙都市を発見しようと用意万端整えた男が古いイギリスを発見したということなのだ。しかも「諸君は、彼が専ら馬鹿をみたものだ、と思ってはならない」のだ。或いは彼は、万端装備を施したから、古いイギリスが発見出来たのかも知れない。この寓話はアウトサイダーが回り回ってインサイダーを建設するという教訓から成立っているのだが、それが完全武装と暗号を語る慎重さをもってなされるということに意味がある。つまりアウトサイダーは十分意識的に、知的に、その操作をなさねばならない。だからこのヨット乗りは、あらかじめ彼の「誤算を知っていた」のだ。
ところがわが日本のアウトサイダーにとっては事情が異なり、旧大陸は実在しない。或いはそれは少くとも、観念的に存在するアトランティードの如きものである。だからそこへ辿り着いて生活する糧、彼に必要な装備はアウトサイダーとして身につけていた品々である。だからわが国では、アウトサイダーがそのままインサイダーになるのである。これは観念的に矛盾した事実がいろいろ起る所以であって、最も叛逆的な詩人が正規の伝統を形作り、岡倉天心はその近代主義を打ち樹てるために狩野派の骨法を墨守し、内村鑑三は正統キリスト教精神に憑かれたために無教会主義に拠るなどいうことになるのである。
或いはT・S・エリオットは前掲の論文の中で、正統主義に対立して異端主義という概念を掲げ、そうして見るとこれは古典主義と浪漫主義の対立に似たものであるといっている。この浪漫主義と、チェスタートンの人物の「ロマンスに富める性格」というのが呼応しているのに注意すべきだ。そして古典と浪漫の対立は、反撥し合うというよりは、或る一つのものの楯の両面ともいうべきものなのであって、浪漫主義は、類型や伝統を脱ぎ捨てて、純個性的立場に立って外界に挑みかかり、何ものかを摂取して来て、やがてはこれを古典主義に寄与するものなのである。この純個性的ということが浪漫主義の弱みでもあれば抽象性でもあるのだが、又それによって古典主義は新しい生命を吹き返すのである。これを日本のアウトサイダーの場合に当て嵌めれば、彼はいつも個人的に孤立した感覚なり思索なりの世界にあって、それによって現実にない正統主義の像をひたすら刻んでいるのである。
ここで私は、われ人ともにいい古したテーゼを繰返しつつ、明治におけるキリスト教の正体を簡単に再吟味する義務があるようだ。何故ならざっと見渡しても、明治の文学者・社会運動家その他文化界一般の代表者のほとんど全部が一度はキリスト教の門をくぐっていることは、私の今までの列伝を見ても明らかである。しかも特徴的なことは、その先ず全部が新教であること、それから大部分が入信後間もなく離教していることである。教界史を見ても、明治二十年代は内村鑑三の「不敬事件」で象徴されるように、国粋主義の時代で布教に障碍が大きかったが、三十年代には実績大いに上り、この分では十年もたてば日本国民の過半がクリスチャンになるのではないかと牧師達を楽観させたのであった。それが今日では教会の会員数は数十万、もし信仰の熱度というものが量り得るものなら、それは決して他の社会的情熱に比して高いとはいえないものなのである。
あらゆる宣教師の意図が、如何に純粋で宗教的狂熱に駆られたものでも、広義の文化的征服であることには変りない。だから彼等は、その蛮地へ行く仲間が医薬その他文明の日用品を布教に役立たせるように、何等かの近代的産物を誇示することによって、わが入信者の信用をかち得たことは当然である。その時近代物質文明とキリスト教の同一視が行われ、かつこれは原理的に正しいのだから、こちらの知的な入信者はこの原理に感づくことによって、この新しい科学と宗教の双方に対する信頼を高めたのであった。それにわが国では精神的な面で特殊事情が加わっていた。それは明治初年に来た宣教師が概してピューリタン系の高潔の士で、これに接したわが国民が人格的に畏敬の念を懐いたことである。時あたかもわが封建制度が瓦解し、士族たちが武士道精神のやり場に困っていた時である。その情熱がキリスト教的個人道徳にすり換えられるのに好機だった訳だ。だから明治初期の入信者はおおむね旧藩士だった。しかも主として佐幕系の出だったことは、新政府の派閥に拒まれての抵抗乃至所在なさからであり、ここにキリスト教がその在野性とヒューマニズムの精神を発揮するのである。
これらの概観からいえることは、明治の日本には近代物質文明と、ヒューマニズムと、キリスト教が一緒になって輸入されたのであり、近代日本が専らこれによって形作られたのなら、史的に見て前二者の本質をなすものがキリスト教である以上、近代日本の正統思想はキリスト教である、と仮にいうことが一応許されるのである。これは実際にキリスト教の布教状態がどうであろうと、又この精神や教義がわが国でどのように理解され、誤解されていようと、関りないのである。昭和三十四年は丁度新教布教の百年目であるが、未だにそれが地についているとはいえない。しかし私のいっているのは一つの理想論的仮説である。だから現実的には、今いった物質文明とヒューマニズムとキリスト教の三つのうち、前二者が、どしどし近代生活に取り入れられるとともに、キリスト教は置去りにされているのである。それは功利的に当然のことであって、しかも本質論としてキリスト教がこれらの文明の根本原理をなすことはかえってこれによって証明されるのである。離教者が多いのはこの功利性から説明がつくし、明治のキリスト教が新教であったのは、その近代主義のためだといえよう。
明治の新しい学問は大体英学からはいって来たので、新時代の書生が英語を勉強することから始めているうちに、それがキリスト教にはいるきっかけを作っている。これは内村鑑三がその線で大成した代表であるが、岩野泡鳴のような暴君的な独我論者が初めのうち受洗するまでこの道へ迷い込んだことは、如何にこの教えが新知識にとって魅惑であったかを示すのである。わが開化とキリスト教は、このように広く表裏一体をなしているのである。一方卑近なことでは、信徒の生活の雰囲気が洋風で開化的であったことへの憧れがある。すなわち会堂では妙なるオルガンの楽の音が聞え、また若い男女の屈託のない交際社会が開けているということがどんな明るい希望を齎したか、それは藤村の『春』の世界がよく示していてくれる。
勿論これらは宗教本来の道から見れば副次的なことで、そういう傍道からの通路があったからこそ、その後での離教者も多かった訳だが、又一方それだけに門前市をなして賑い、祭壇の前には異教徒の雑多な信仰告白が聞かれ、「日本的」なキリスト教の諸相が現出したのである。
実をいえば近代科学とヒューマニズムとキリスト教が一緒くたに輸入された、ということが既におかしいのである。前二者がその源泉をキリスト教から発していることはいうまでもないが、仔細に見ればこれらはルネッサンス以来徐々にキリスト教に対して叛旗をかかげ、その激突は十九世紀半ばを過ぎて最高潮に達しているのである。例えばハウプトマンの『寂しき人々』なんて科学と宗教の衝突が中心テーマをなしているのだが、わが国ではそれが官能のロマンチシズムにすり換えられて、田山花袋の『蒲団』で徒に逝く春の長い怨みをかこっている有様である。ハウプトマン風の悲劇が欧州の後進国のイブセンにあっては、更に露骨で深刻になっているのを見れば、思い半ばに過ぎるであろう。
勿論わが国でもこの相剋はあった。それは例えば又、あの「不敬事件」を持ち出してもいい。加藤弘之も井上哲次郎もとにかく西洋流の人文科学者である。それが国家主義と結びついたのだが、それだけの点では純民間の福沢諭吉の実証的功利主義とも歩調を共にし得るものだ。この科学主義が内村鑑三の精神主義と衝突したのは、わが明治の輸入文化の流れの中で当然起るべき宿命的事件であって、この事件の具体的いきさつや論旨は二の次であり、これがわが国で起った西欧の科学と宗教の衝突なのである。
しかしこの事件は、両者の思想的立場が尖鋭化して起ったというより、当時の時代思潮の中にある復古主義が官学派に気勢を添えたものであり、わが国民感情に何となく根強いヤソ嫌いが爆発したものとして考えた方が近いであろう。実際にはわが国では科学もヒューマニズムも宗教も、共存してわが新知識の糧になっているのである。このことはわが国が後進輸入国であるがためであるが、しかしこれらが平和共存し得るということは、ここに西欧文明の新しい可能性があると思ってはいけないだろうか。(水産)科学から出発して宗教に到達した鑑三は、この両者が育つ新しい土壌が日本にあることを信じていたようである。彼がしきりに「日本のキリスト教」ということをいう時、『代表的日本人』の著者である以上日本人の特性や優秀性を頭においていたことは確かだが、然し完全に恩寵の世界に生きていた彼は偏狭なショーヴィニズムを振廻していた訳ではなく、本国の如く形骸化せぬ、若々しい生命に満ちたキリスト教を日本に育てたく、又日本ならそれが出来ると確信していたのである。彼が晩年あんなにキリスト再臨運動に熱心だったのは、彼の愛する近代文明の処女地日本が明治一代に余りに速やかに頽廃に覆われたのを見たからであろう。その気持を不信者の私が代って冒涜の言葉で表現すれば、キリストはこの日本なら、この日本なればこそ、再臨せねばならぬ、というのであろう。(というのは、もしキリストが再臨すれば、正しく世界全土遍くである筈だからだ)
従って、私は日本の思想の正統はキリスト教だといったが、鑑三は正統のキリスト教は日本だというのである。そしてこの二つはシノニムである。
ところでヒューマニズムとキリスト教だが、内村鑑三の入信がピューリタン的ヒューマニズムからはいったといえるように、日本基督教会の正統と目される植村正久も、若い頃ウォーズウォースなどの人間主義的な自然詩人に惹かれているのである。彼は江戸旗本の出で、明治初年布教解禁と共にいち早く横浜バンドを結成し、その後明治大正に亘って教化を垂れ、その歿後現在に至っても日本基督教会はその直系の手の内にあるという大立物だが、内村・植村のみならず、それに続く新教の代表的牧師、森明、高倉徳太郎が皆文学を青春時代の糧にしているのは面白い現象である。明治の文学者の多くが、若年キリスト教の情操に育てられて後、これを捨てていることは人のいうところだが、宗教家の方でもその逆のことをやっていることに注意すべきである。それも彼等は方便的に、主として英、主として浪漫派の文学を潜って出て来ているのであって、これが明治文化一般の風潮なのである。
植村の讃美歌の訳詞は島崎藤村の『若菜集』の一名吟のオリジナルになった程の名訳である。又彼がバイロンを論じて、「あゝバイロン、汝は哀しみたれど之がためににむこと能はざりき。汝の歌は嘆きたれど眞正の安慰を與ふこと能はざりき」と惜しんでいるのは、不倫の文学を郤ける点内村と同じなのだが、彼より遥かに文学の魅惑に惹かれていたことがよく分る。
森明についていえば、私は今度彼の僅かに遺された著作に眼を通したが、中で『霊魂の曲』という戯曲風の小品に感動した。しかしここへこの大正期の同人雑誌にありそうな文章を部分的に引用したのでは、今の読者から、なぁんだ、といわれるにきまっているから出さないが、とにかく贖罪という恐ろしい現実を自分の言葉でこんなに美しく書けるということは、多くの人から静謐謙虚な基督者だったと惜しまれる人柄をよく示している。彼は森有礼の子で、有正の父。一生病弱で、大正十四年三十七歳で歿した。
明治の思想の本流を尋ねながら話がだんだん小粒になって来たと読者はいうだろう。それは承知の上であって、私は日本にはインサイダーはいないという建前であり、ただ正統思想をキリスト教、或いはキリスト教的なものに置いたとなると、現実にあるキリスト教の正統的なものはどんなものかと窺って見たのである。そして、伝統即ち正統ではないけれど、伝統のないところに正統はないといえるのであろう。わが国では正統はただアウトサイダーの希望の中にだけあるのだ。
だから序ながら、日本にはキリスト教の伝統がないからキリスト教芸術は分らないということがいわれるが、私はそうは思わない。我々に或いはキリスト教芸術は創れないかも知れない。しかし我々の中のアウトサイダーは、よくキリスト教芸術を解する。つまりそこには正統への希願が存するからだ。それから又、日本民族は宗教を持たぬ民族であって、美意識のようなものがその代用をなしているとか、儒教や神道は一体宗教なのかどうか、などいう比較宗教学的な問題がよく提出されるが、私にはそうまでして宗教を定義する実益がどこにあるのか疑問である。美意識も儒教も神道も原則的には宗教でないであろう。しかし或る特定の人、或る特定の場合には、これらは宗教であろう。問題は、どんな人、どんな場合に、宗教という絶対者が必要かということである。この緊切さを措いて、どこででも間に合う宗教の規格品を取揃えて見ようという心掛けは、私には無縁である。私は、人は宗教なしにすまされればすますがいいと思っている。しかし宗教とは、これなしにはすまされないということがその本質なのである。これは一種のトートロジーだが、それに内容的に何等かの意味を与えようとするのが、アウトサイダーの企図であり冒険なのではあるまいか。
さて私はもう一度責任上、今まで手放しに描きなぐったアウトサイダーの像を、出来るだけ整理しておく義務があるようだ。
最初に出て来る数人の近代詩人は、むしろ自分達の近代性を高揚するためにデカダンスを装うのだから、彼等にとってインサイダーというのは、観念的美学などのような融通のきかない敵であり、従ってこれはもはや理想的要素は含まず、超克すべき相手なのである。だから自然彼等は、それ自らのアウトサイダー振りの中に意識して古典性を装っている。中原中也、萩原朔太郎がともに死後二十年にしてアントロギッシュな格調を備えて見える所以である。
しかも中原には、彼にとって明確な、敵なるインサイダーの型があった。それは何でも現実の生命のおおらかな流れを遮断して生きる大正期のリアリストのやり口で、その点でそれが古いブルジョアの生活感情でも、新しい社会学者の思想でも、敵として区別なかった。そういう現代人の生命力の疲弊を彼はほとんど生理的に嫌悪し、その結果彼は終末観的な絶望を懐いていた。このような思想は同時代の大思想家の誰にも似ていなかった。そして彼のこの神経の間に張りめぐらされた形而上学大系の精妙さは、実際驚くべきものがあった。しかしこの神経のオーガニズムは、彼の詩にも遺っていねば、彼の友人・批評家の知的網膜にも映り出されなかった。それは彼の肉体の死と共に滅んだのである。とにかく私にとって、彼程見事なアウトサイダーはないのである。
萩原朔太郎にとってインサイダーは、わが自然主義文学だといえるであろう。つまりこれも理想ではなく、敵の方だ。もっともそれは「西洋のそれを模倣せよといいながら自ら伝統の中に屏息するわが自然主義」という条件的のものである。そしてこの条件は、その原義通りの意味よりも、彼がそう限定することによって意識的に自然主義から自分を隔絶しようとしたことに意味があるのだ。彼はそういうアーティフィシァルな審美家である。ただしこの審美家は、如何なる美も創造しなかったが、しかし美一般を讃える役目は十分努めた。従って彼を美に仕えるアウトサイダーと呼ぶことが出来、彼自身それが本望だろうが、私はやはり反自然主義的な、擬装したダンディスムを彼の本領としたい。それによって彼が大正文学の反俗性に寄与した功績を認めることが出来るのである。
三好達治について一言いうべきことは、多くの場合インサイダーが常識家であるに対し、彼は常識の側に立つアウトサイダーなのである。つまり彼にとって自明の理である常識が、世間で余りにも安易に踏みにじられていることへの憤りが彼のパッションなのである。これは一般にアウトサイダーが自分の信ずる正義のための義憤家だということではない。三好には勝れた社会諷刺の漫画家の才能がある。彼の感情の源泉は万人のものと同じであり、これは詩人として、アウトサイダーとして珍しいことである。
然しここで取上げた文学者のうち、岩野泡鳴は最も純潔なアウトサイダーであろう。彼が自然主義と同時代であったことは、彼にとって場違いでも不幸でもなかった。彼はこの一元性を利用して、その独我主義《エゴテイスム》を存分に表現した。そして諸権威のすべてを自我の下に屈服させて、自分の世界を築いた。西洋の自然主義が浪漫主義を先に立てて、その感情過多に対する叛逆であるに対し、日本のそれが人間性の解放という点でロマンティックな役割も兼ね備えていることは、例えば中村光夫君などが指摘していることだが、泡鳴のはその両方とも違っていた。彼程浪漫主義を峻拒した人はわが自然主義にいなかった。だから彼の後継者がわが文壇に出なかったのは、自然主義の責任でも後輩の不徳でもない。彼の文学は絢爛たる自我の祭典である。その孤立性は、今私が彼を他の如何なるアウトサイダーとの関連において述べることも許さないのである。
河上肇の感情は、党に対しても、思想に対しても極めてナイーヴである。だから主義に対する異端性というものは、まず全くないであろう。ではあらゆる社会改革運動が現存秩序に対して叛逆的だという意味で、彼はアウトサイダーなのかといえば、その点勿論その通りである。しかしそれだけではない。彼は社会を改革したいだけでなく、社会を改革する自分をもって社会と対決したいのだ。これは一般革命家に見られる自己満足、虚栄心、擬装した非情、意志的な義務感などいう、型通りに自分の人間性を思想に預けてしまって出来た表情とは違って、謙虚な自己卑下であり、自分の価値を無に置いたような存在への懺悔であり、ほとんど宗教的贖罪にも似た自己放棄である。ここで彼個人が、裸形で、無類の美しさをもって人類と対決しているのが見られる。この時彼が対決しているのは社会悪ではなく、存在そのものである。その点で彼は「特殊なマルキスト」であるだけでなく、特殊なアウトサイダーである。
岡倉天心は、美術プロデューサーとして、正統性を異端主義の形のうちに盛り立てた点、私のいうアウトサイダーの一典型かも知れない。彼が復古主義者に見られたのは、現在ある美術の中の若い生命を一番大胆に伸ばそうとしている時で、つまり彼の精神の中の近代的なものが最も活動している時であった。それからまた美術行政家としては、国家権力主義の中に伍して国家権力主義と闘った。これが後世彼が絶対主義者と見誤られる所以だが、彼はこれを支配し懐柔せんがために、その中に伍したのである。そして最後には敗れるのだけれど、それまではいつも権力を掌握していられたので、あれだけ仕事が出来、それはあの時期には奇蹟的な成功であった。いって見れば彼は常に内側《インサイド》から働くアウトサイダーであった。その上また彼の人となりを見れば、豪放繊細端倪すべからざるアウトサイダー振りをもって正統を護持した人である。
内村鑑三に至って、私が本書で述べた意図は殆んど尽されているのである。近代日本の精神について、キリスト教の正統について、アウトサイダーとインサイダーの関係について、すべてがあるのみならず、自らそれを力強い実践性で生きているのである。彼は日本から出たほとんど唯一の神学者であった。すなわち名書『ロマ書の研究』を含む聖書研究と『ガリラヤの道』と『十字架の道』の二部からなるイエス伝は、自らの手で書いたこの種のものとして日本唯一のものである。そこには彼の論敵も承服せねばならぬ彼の正統性がある。先に書いた私の鑑三論は、彼が異教徒の心を捨てないで、その延長の上で唯一神を奉じたように書き過ぎていると、私は一牧師に難じられたが、筆の勢で或いはそうなったかも知れない。私も鑑三が異教の神々を捨ててエホバに帰依したことは認めている。しかし彼は終始自分の心で納得ずくでエホバを信じてゆくのである。従ってその際彼の心がその初心を忘れずにいることは、堅信の助けにこそなれ、不純の証しにはならない筈である。彼は瑣かの不純も混えずに、キリスト教の罪と救いの根本義を通して日本人の心を見た。そのため何の先入観もなく日本人の純潔と汚れが見えた。ここにはドストエフスキーの『作家の日記』にある国民性への透徹した眼光と同じものがあると私はいいたいのだが、人は承服しないだろうか。何しろドストエフスキーのような心理性がなく、又民族の「救い」の観念が貫いていないのだが、それはロシアには正教の伝統があり、我にはそんなものはないからで、ただそれだけの違いである。彼は専ら日本人の心を持ち、それでもってキリスト教の信仰は偏えに正統を目指した。正統とは態度の点でそういえると共に、教義の上でもそうなのである。そして主として前者のために迫害を受けた。信仰の上での改革者は多少とも異端者だが、鑑三は正統なるが故にアウトサイダーなのであった。
ところで、今次の大戦は前後二十年の知的ブランクを生じたが、今よかれ悪しかれようやく時間が自主的に流れ出すに当って、いろいろなことに思わず気づかされるものである。政治的観念の浮沈やその史的な必然については諸説を聞かされるが、私に考えさせるのはもっと素朴な驚きである。というのは、戦争というのはいわば人工的な大きな柵《しがらみ》が我々の時間の流れに投げ込まれたようなものである。流れは一時遮られ、涸渇する。とともに、柵はダムのようなものを造って、上流からの水を停頓させる。その時この溜り水の中では、今まで上流では歴史的に縦に流れていたものが溜って横に混り合い、そこにアナクロニスティックな貯水池が出来る。いって見ればそこまでの歴史の流れはそこで一旦御破算みたいなものである。
戦争による文化の一時的な干あがりは、水源水脈の研究に便で、潮干狩のようにこの研究を流行させた。戦後の歴史ブームはそのためだが、しかし戦後の河床が涸渇の後をうけて常態に復した時、そこに流れる水はもはやアナクロニスティック(この言葉は「時代遅れ」という常識語ではなく、「時代の次元の混乱した」という意味に解して貰いたい)に中和された溜り水の表面が溢れたものに他ならない。と同時に、そこには戦前見られなかった新しい水源も加わり、全然別個の様相を呈するのだが、その要素をなすものは既にあったものであり、ただそれが以前と違った秩序の下に現れているのである。だから、それを過去と全然違ったものと思うのも間違いなら、過去のデータを現代の意識の中に生かして解釈するのも意味ないのである。我々はこれを現在ある秩序の下に理解するのみだ。これが私のいう正統主義である。
だから戦争という文化の人工ダムは、過去の分析に便ならしめるとともに、今いったアナクロニズムを作ることによって、我々素人にはものを考えるに非常に便利にしてくれた。というのは、我々日本人は過去一世紀の間に、西洋の近代、近世、否、二千年三千年の全歴史を詰め込んだ。その目方の重さもさることながら、その中に含んだ矛盾を歴史的に解決することなく呑み込んだのをどう始末するかが戦前の昭和期の問題だった。近代科学と人道主義、リアリズムとデカダンス、ベンサム的功利主義と資本主義的不合理、これらの矛盾をむしろ同義的な現実であるかのように取り入れた始末を、今更もてあましていたのであった。
二十年間の戦争時代は、これらの観念の相剋を現実的に中和したといっても、私は思想家として怠慢の譏りは受けないと思う。今や「キリスト教文化は日本人の身についているか」といわれても、それは身につかないなりに、我々はもはやそれから離れられないのを感じるようになった。あたかも昭和初年、西欧では文化の危機が叫ばれ、「近代の超克」といって膿んだおできを切開手術するような議論が起った時、我々はその毒がせいぜい不均等にしか回っていない体をどう処理するかに迷ったものだが、今日ではその毒は中和され、清濁何れにしろ別の形で我々の成分になっているのを感じる。すべて戦争によって生じた知的ダムの、意図しないで齎された功績である。
この考え方から私の以上のアウトサイダー分析の仕事を見ると、この知的ダムのお蔭でこれら先人の業績が静的《スタテイツク》に見えて辿りよくなったという便益は否定出来ないのである。それとともに、彼等の或る種の情熱の水脈は、今日既に涸れていて我々自身の問題にはならないものもある。と同時にその表現が固定して、古典的な塑像のように永遠に我々に話しかけるものもある。
しかしこれら諸問題の中で依然として残る根本のものは、アウトサイダーと正統との一対の観念である。何故なら正統とは、我々が生きてゆく限りその中にあって、次々に新しい養分を摂り、新しい世界を眺めて、重心を失わず動いてゆくものだからである。そして今私のこの「アウトサイダー」列伝がその姿を消極的にしか描き得なかったのなら、いつかはそれをまともに描く日が来るかも知れない。その場合にはこの結びの一文が、新しい本の序文になる訳である。
中原中也(一九〇七―一九三七)
明治四十年山口県に生る。東京外国語学校専修科でフランス語を学ぶ傍ら、詩作に専念し、昭和四年河上徹太郎、大岡昇平、阿部六郎等と雑誌『白痴群』を発刊、その後、『歴程』『四季』等の同人となった。昭和十二年三十歳で歿した。
詩集に『山羊の歌』(昭和九年)、『在りし日の歌』(昭和十二年)があり、ほかに『ランボオ詩集』(昭和十二年)、『中原中也全集』がある。
萩原朔太郎(一八八八―一九四二)
明治二十一年前橋市に生る。郷里の中学卒業後、第五、第六高等学校に学んだが、病を得て中退。以後東京に住み、詩作に専心する。明治四十四、五年頃、北原白秋の主宰する詩誌『朱欒《ザンボア》』に詩を投稿、白秋に知られた。後に同誌上で知り合った室生犀星等と感情詩社を作り、雑誌『感情』を発刊した。第一詩集『月に吠える』(大正六年)はその特異な発想と表現により注目され、詩人としての評価を決定した。その他、『青猫』(大正十二年)、『純情小曲集』(大正十四年)、『氷島』(昭和九年)等の他、『虚妄の正義』(昭和四年)、『絶望の逃走』(昭和十年)等の箴言集、『詩の原理』(昭和四年)をはじめとする多くの詩論を残した。昭和十七年五十四歳で歿した。
三好達治(一九〇〇―一九六四)
明治三十三年大阪市に生る。三高を経て東大仏文卒。大正末期から梶井基次郎等と雑誌『青空』を発刊、後に『詩と詩論』や『四季』の同人となった。詩集『測量船』『朝菜集』『一点鐘』『朝の旅人』等がある。
梶井基次郎(一九〇一―一九三二)
明治三十四年大阪に生る。三高時代から作家を志し、東大英文科に入学してから『青空』の同人となり、『檸檬』以下のユニークな短篇を発表。『青空』廃刊後は『文芸首都』『近代風景』『創作月刊』等に『冬の蠅』を始め、多くの作品を発表したが、昭和七年三十一歳で歿した。
堀辰雄(一九〇四―一九五三)
明治三十七年東京市に生る。東大国文科に在学中、中野重治等と同人雑誌『驢馬』を発行。また芥川竜之介に師事した。軽井沢、富士見等に病を養いつつ執筆した『美しい村』『風立ちぬ』『菜穂子』等が代表作。昭和二十八年四十九歳で歿した。
岩野鳴(一八七三―一九二〇)
明治六年淡路島に生る。十三歳で大阪泰西学館に入り、キリスト教の洗礼を受ける。一年にして上京、明治学院に学んだが一年で中退、さらに専修学校に入学、経済を修める。明治学院在学中、国木田独歩らと雑誌『文壇』を発刊、新体詩を発表。専修学校卒業後、一時東北学院に籍をおく。明治三十四年、最初の詩集『露じも』を自費出版。再び東京に戻り、相馬御風等と、雑誌『白百合』を刊行、ロマン主義運動を起す。『白百合』をその後脱退し、『神秘的半獣主義』(三十九年)、『新自然主義』(四十年)、『悲痛の哲理』(四十三年)などの評論を発表。四十二年には蟹罐詰事業を企て樺太に渡ったが失敗して帰京した。また小説『耽溺』を発表し、これを転機に小説『発展』『毒薬を飲む女』『放浪』『断橋』『憑き物』の五部作を大正七年までに完成、傍らシモンズの『表象派の文学連動』を翻訳(大正二年)。また当時発刊した雑誌『新日本主義』に「一元描写」を主張する論文数篇を発表。引き続き長篇短篇の創作を多く試みたが、大正九年四十七歳で歿した。
河上肇(一八七八―一九四六)
明治十一年山口県岩国町に生る。山口高等学校を経て、明治三十五年東大法科を卒業。東大農科、専修学校、学習院などに教鞭をとる傍ら、三十八年『読売新聞』に『社会主義評論』を連載、注目を受く。この年の暮、執筆を中止し、教職を去り、妻とも別れて、伊藤証信の無我苑に入る。しかし伊藤の思想に疑問を持ち、無我苑を出る。四十一年京都帝国大学法科大学に招かれ、昭和三年まで経済学者として学究の生活をつづけた。この二十年間に、次第にマルクス主義経済に近づく。『唯物史観研究』(大正十年)、『社会組織と社会革命』(十一年)、『資本主義経済学の史的発展』(十三年)を発表したが、さらにマルクス主義の研究を深め、その成果を『経済学大綱』(昭和三年)、『資本論入門』(四年)に反映せしめた。昭和三年大学を追われ、翌四年新労農党を結成し、七年正式に共産党に入党した。同八年、八カ月の地下生活後検挙され、服罪。獄中にあって、『獄中独語』『獄中贅語』を執筆。出獄後は東京、京都に生活し、『自叙伝』の筆をとった。第二次大戦直後六十八歳で歿した。
岡倉天心(一八六二―一九一三)
文久二年横浜に生る。幼名角三、のち覚三と改む。天心は号。幼時、ジョン・バラーに英語を、僧玄導に漢籍を学ぶ。明治八年東京開成所に入学、ついで東大に政治、理財学を学ぶ。明治十一年以後、アーネスト・フェノロサに師事、狩野芳崖、橋本雅邦らに私淑。十三年大学卒業。十九年美術取調委員として、フェノロサと渡欧。二十二年美術学校開校に努力し、翌年校長となる。三十一年、反岡倉派による美術学校事件のため、雅邦等と辞職、ともに日本美術院を創立し、国粋美術の興隆につとめる。三十四年にインドへ旅し、三十七年には招かれてボストン美術館におもむき、のちに同館の東洋部長となる。この間英文で『東洋の理想』(三十六年)、『日本の覚醒』(三十七年)、『茶の本』(三十九年)などを刊行。三十九年、日本美術院を東京下谷から茨城県五浦に移す。此頃半年ごとに交代で日本と米国に生活する。四十三年東大にて美術史を講ずる。大正二年赤倉の山荘に歿す。享年五十一歳。
大杉栄(一八八五―一九二三)
明治十八年香川県に生る。初め名古屋の幼年学校に入学したが、上官に反抗して放校され、外国語学校フランス語科に転じた。在学中幸徳秋水、堺枯川等の平民社に加わり、三十九年卒業後、屋上演説事件、筆禍事件、赤旗事件等のために数回入獄。大正元年荒畑寒村とともに『近代思想』を、つづいて『平民新聞』を刊行。三年『労働運動』を刊行、無政府主義運動の先頭に立つ。九年上海に渡り「極東社会主義聯盟」を組織。十一年国際無政府主義大会に参加するため渡仏したが、大会は無期延期となった。翌十二年関東大震災の混乱のうちに、妻と甥とともに、甘粕大尉に殺害された。享年三十八歳。
論文集に『正義を求むる心』『自由の先駆』『自叙伝』『日本脱出記』『獄中記』等があり、翻訳にクロポトキンの『一革命家の思出』『相互扶助論』、ダーウィン『種の起源』ファーブル『昆虫記』がある。
内村鑑三(一八六一―一九三〇)
文久元年江戸の高崎藩邸に生る。はじめ儒教の教育を受けたが、のちに英学を学び、札幌農学校に入学後、思想の転換を来し、明治十一年キリスト教の洗礼を受けた。卒業後水産関係の仕事に従ったが、十七年渡米してアマースト大学、ハートフォード神学校に学び、二十一年に帰国、ミッション・スクールで教鞭をとったが、宣教師と衝突、職をしばしば変えた。第一高等学校の講師在任中、二十四年いわゆる勅語不敬事件を起し、職を追われ、各地を放浪したが、その後著作に専念。二十九年より『万朝報』の英文記者となり、また三十一年よりは、『東京独立雑誌』を創刊し、キリスト教的社会評論に従事した。三十三年には日本最初の聖書雑誌『聖書之研究』を創刊、傍ら研究会を開き、活躍した。明治二十六年『基督信徒のなぐさめ』を処女出版して世に問うたが、英文で書かれた『余は如何にして基督信徒となりし乎』(明治二十七年)は名著として各国語に訳された。また同じく英文の『代表的日本人』も知られている。昭和五年六十九歳で歿した。
この作品は昭和四十年十一月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
日本のアウトサイダー
発行  2002年10月4日
著者  河上 徹太郎
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861218-3 C0893
(C)T决u Kawakami 1959, Coded in Japan