TITLE : 女が会社へ行きたくない朝 人間関係の悩みを解決する法
講談社電子文庫
女が会社へ行きたくない朝
――人間関係の悩みを解決する法――
沖藤典子 著
目 次
第1章 最初の衝撃
会社は三角形のタテ社会
仕事と人間に馴れること
“女の子”と言われて
新人の良さを発揮しよう
第2章 ライバル意識と負け意識
嫉妬の感情に負けない
要領も実力のうち
“良く思われたい”気持
ライバルには柔軟な心で
第3章 女はすぐ辞(や)めるから
期待されていない?
職場の“個性”をつかむ
誰かがやらなければ……
仕事への愛着を育てる
“青い鳥症候群”とは
テーマを持つ
第4章 自信によって支えられるもの
忙しい人、忙しがる人
ハロー・エフェクトの活用
注意のされ上手
借りを作る余裕
第5章 役割意識と協調性
感情地獄に陥ると……
自分の持物は自分で
役割意識が強すぎるのも……
協調性三つのルール
第6章 言葉づかいも化粧のうち
言葉づかいは難しい
誰にも丁寧な言葉で
言葉づかいは同化されやすい
リップ・サービスの必要性
第7章 口(こう)禍(か)と上手なコミュニケーション
人を傷つける言葉と悪口伝達者
情報の受け方、伝え方
よい関係は信頼から
“語らない”のも一つの方法
言って良いこと悪いこと
第8章 感情過多とセルフ・コントロール
女の涙
カタルシスは小さな爆発
“自分”と“他人”との距離
コンスタントに一定の距離を
第9章 積極的なつきあいは“財産”
ノミニケーションの効用
誘われない時のほうが淋しい
自分とのつきあい
第10章 会社へ行きたくない朝
ストレスがたまると……
会社へ行く楽しみの発見
心をふるいたたせるもの
おしゃれも化粧も自分のために
第11章 休み方にも配慮が必要
休暇のとり方をめぐって
休むことは罪悪?
生理休暇と出産休暇
生活に必要な休暇の制度
第12章 オフィス・ラブの明暗
試練の恋もある
幸せな恋を成(じよう)就(じゆ)させるために
“適齢期”にまどわされない
結婚と仕事は人生の両輪
第13章 若い共働きの心がけ
選択の一つとしての職業
家事分担の工夫
共働きが嫌われる時
働く充実感を求めて
近所づきあいを大切に
第14章 働く母を支える“人脈”
“働く母”が増(ふ)えている
子どもは“働きがい”
保母さんは働く仲間
苦労の分かちあいが“人脈”を作る
第15章 よりよい人間関係をめざして
二つの礼儀
“女の敵”は自分自身
上手な自己主張とリーダーシップ
人間関係は生きるための財産
あとがき
文庫化にあたって
第1章 最初の衝撃
会社は三角形のタテ社会
入社一日めというのは、そこだけ抉(えぐ)りとったような、あざやかな印象を残しているものです。
私も、その日の緊張、特に社長から辞令を渡された時のことは、もう二十年以上も前のことでありながら、つい昨日のことのように思い出します。
社長の背広の、ちょっとダブダブした感じ、振り向いた時のけだるそうなしぐさ、私を見やった時の鋭い眼の光、さらには私の前に立っていた人の、はなやかなオレンジ色のツーピースさえ、ありありと眼の前に浮かんできます。
「社員を命ず」
小さい紙片に打たれたタイプの活字は、いよいよ始まる私の社会人としての生活に、激(げき)励(れい)と不安を与えているようでした。
作家であり、かつ東京相互銀行社長室調査役(当時)の山田智(とも)彦(ひこ)氏は、著書『新ビジネスマン学』の中で、入社一日めの行動を次のように書いています。
一 課または係の挨拶まわり
二 業務規定集の精読
三 上司に昼食をご馳走になる
四 夕方、軽くいっぱいやってから、マージャンをやらないかという同僚の誘いを断(ことわ)る
五 その代り、親戚へ入社の挨拶に寄り、頼みごとをきいてもらう(預金勧誘)
受け入れ側としては新入社員をどう迎えるか、当然ながら業種や職種、会社規模によっても違ってきます。入社式のあと、配属をきめる前に研修に入るところもありますし、すぐ第一線に連れ出すところもありましょう。
いずれにせよ、これまでとまったく違う人間関係の中に入ったのです。職場の人間関係は学生時代の先生や友人関係、また家族の中での人間関係とは基本的に違います。
おおまかにいえば、これまでの学校生活はヨコのつながりの場でした。上級生、下級生という上下の関係はあったにせよ、学生というひとくくりの中では平等でした。
先生たちは管理職ではなく、むしろ援助者のような存在、そこでの人間関係は水平的なものであり、何か失敗やミスがあったとしても、それに対する許容度は高いものでした。レポートの出来の悪さも、それはあなただけの責任範囲のものでした。
けれども職場は、三角形の世界、タテ社会です。社長以下新入社員のあなたに至るまで、こまごまとした序列があり、言葉づかいやお辞(じ)儀(ぎ)の仕方さえも、その序列に従ってやっていかなければなりません。
しかも、そこには“仕事”という厳然としたものがあります。“仕事”を遂(すい)行(こう)する機能として構成されている序列、それが職場というものです。
あなたの仕事は、会社の名においてなされるもの、その結果は会社の業績に影響してきます。学生時代のように、悪い成績であっても、自分のことだからそれでいいというわけにはいきません。
仕事には、必ずそこの職場で求められている水準というものがあり、そのレベルを越えていなければ、手厳しい注意や、やり直しが求められます。
その上、部長から課長へ、先輩から新入社員へと降りてくる仕事は全体像が見えません。
往々にして、いったい自分は何をやっているのか、どういう意味の仕事をしているのか、何もわからないままに目先の仕事を一定レベルに、しかも、きめられた時間内に遂行することが課せられています。
私が、市場調査を主業務とする会社に入った時の、最初の衝撃は、まさにこの点にありました。
業務としての“仕事”、月給をもらう人間としての義務、そう思って自分を見てみると、こんなにも注意力の散漫な人間であったか、いかに勉強不足か、思考力がないか、教養がたりないか、ないものづくしの自分を発見するばかりで、すっかり自己嫌(けん)悪(お)に陥(おちい)ってしまいました。
この時、私はしみじみ思いました。学校で学んだことを社会に役立てようというのは、なんという思い上がりであったことか。第一、私はいったい何を学んだというのだろう、すべてはこれからである……。
けれど、こう思えるようになるまでには時間がかかりました。一度、職場の中で劣等感を持ってしまうと、周(まわ)りの人は皆有能な人ばかり、しかも、なんと冷たく思いやりのない人たちだろう、自分の不足を思えば思うほど、それを捨ておく(ように思える)周囲に腹が立ってならないのです。
しかもその周囲は、組織の序列ががっちり固まっていて、それが日常生活に反映しています。
年齢も違い、出身校も違い、それによって持っている雰(ふん)囲(い)気(き)も違っている。加えて、すでに出来上がっている職場の人間関係もまだよくわかりません。
同僚は勿論、先輩一人一人の性格も、まだよく呑み込めておらず、どう接したらよいものか、試行錯誤の連続です。しかも学生時代と違って、いやな人を避けて通ることの出来ない、ある種の強制が働いています。
家族の中では、不(ふ)機(き)嫌(げん)な顔で「放(ほ)っておいてよ」と叫んでも、許されるものがあるけれど、職場の中では、そういうことはけっして許されません。職場ではそれなりの態度、表情が要求されています。
そんな時に、周囲にすっかり溶(と)け込み、楽しそうにやっている同期入社の同僚の姿を見たりすると、そのぶんだけ気持も落ち込み、両肩にしっかりとおんぶお化(ば)けが乗っかったような重圧を感ずるのです。
これは、私に限らず、職場の人間関係に適応出来ない人が抱く、心理的なプロセスであるようです。
仕事と人間に馴れること
職場の人間関係がうまく出来上がっていくには、職場の特性と自己の性格との両方がほど良くドッキングしなければいけませんが、私はこのところがまことにギクシャクしていました。
一人前になるまでには十年かかるという特殊性が調査機関にはあります。それに対して私は学生時代に結婚したり出産したり、致命的な勉強不足のハンディがありました。それに加えてどこか頑強に自分を主張したがる性格、いささか謙虚さに欠けるあつかましさ、それゆえの劣等感、上役にしても同僚にしても、なんと扱いにくい人間が入ってきたことかと思ったでしょう。
“三日、三月、三年”が、つらいところだといいますが、職場で不適応を起こした人間には、なんとも身にしみる言葉です。新人の“五月病”というのも多くは不適応から起こってきます。
だいたい、朝、きまった時間に会社に行くことすら苦痛なのですから、ましてや、そこでの生活が楽しいものではありませんでした。“宮仕え”というのは、こういう苦痛の上にあるものなのか、としみじみ思ったものでした。
私の職業生活のスタートは、仕事と周囲の人に適応し、そこでの生活に馴(な)れることから始まりました。
そして、その時の苦痛が非常に大きかったことが、のちになって私の仕事や職場への未練・執着につながっていったように思います。
職業の選択に際して、自分の思い通りになった人は、男でもけっして多いものではありません。ましてや女性の場合には、試験すらも受けさせてもらえなかったとか、第一志望はダメだったとか、「止むを得ず」この会社に入ったという人が、けっこう多いものです。
私も自分の志望とは違っていました。ですから、入社の時はいずれ一、二年で辞(や)めて、“初志”の職業に挑戦してみようという気持で、どこか本腰を入れたものではありませんでした。
仕事に馴れなかったのも、いずれは辞めて“本来の仕事”につくという気持があったから身を入れていないところがあったように思います。
けれど仕事に馴れ、すこしずつ周囲の人となじんでくると、だんだんそこが良くなってきます。会社を辞めたいと思う時、私はいつもこう自分に言いきかせていました。
「せっかく苦労して、この会社の仕事と人に馴れたんだから、新しいところに移って、また苦労するよりも、ここにいるほうがいいんだわ」
この思いは、私の最初の人間関係が非常に苦痛に満ちたものであったと同時に、私の臆(おく)病(びよう)さのほうが影響していたと思います。新しい人間関係に入るというのは、一種の恐怖でもあったのです。
人間関係の良いところでは、ミスや失敗があったとしても、すぐやり直す力が湧いてきます。復原力があるといっていいかもしれません。けれど、人間関係が悪いと、仕事のミスは、そのまま存在の否定ともいうべき、失(しつ)墜(つい)感(かん)を与えられてしまいます。
「私って、なんとダメな人間なんだろう。迷惑をかけるばかりだわ……」
こんな気持になってくると、仕事はますますミスが出てくる、悪循環がくり返されることになってしまいます。
その結果、人とのつきあいも積極的になれなくなってしまう。私はそれをいやというほど味わいました。
仕事と人間への適応の苦労が、仕事や職場への執着になるとは、なんとも皮肉なことですが、それがキャリアを積むことにつながるとしたら、それも良い体験ではないでしょうか。
“女の子”と言われて
社会人となった私の衝撃は、このようになんともみじめなものでしたが、それはいくぶん表面的なもの、もっとぐさっときたのは、やはり女であるということでした。
三日めのこと、私と大学の卒業年度は同じ、しかし年齢が上で、入社が一ヵ月早かった男性が私に言いました。
「ちょっと、銀行に行って両(りよう)替(がえ)してきてくれない? ついでに、たばこ買ってきて欲しいんだけど」
特に仕事らしい仕事をしていなかった私は、外に出られることもあって、おつかいを頼まれたことを、いやだとは思いませんでした。
ところがそのあと、彼がお得意さんにかけている電話の言葉に、打ちのめされてしまったのです。
「今、うちの女の子に両替に行ってもらうところです。戻ってきましたら、すぐそちらに伺(うかがい)います」
うかつにも私は、自分が“女の子”であることを忘れていました。小学校から一貫して男女共学、その間、私は一度も“女だから”“女のくせに”と言われたこともないし、親からは逆に「女だからこそ、余計に頑張らなくてはいけない」と言われて育ったのです。
学校の成績だって、女だから特に良かったことも悪かったこともなく、すべて私の能力次第でした。
ただ一度、高校の時、担任の先生から、
「四年制の大学に入るのは君の力では無理だよ。女子短大にでも(なんと失礼な言い方)入ったらどうお? 女はなんたって結婚して家庭に入るのが幸せなんだから」
と言われたことがありました。
もっとも、私は教師に対して従順な生徒ではありませんでしたし、女の幸せは結婚にもあるけれど、結婚だけではないと思っておりました。せっかくの担任のおすすめに、従わなかったのは当然です。
その後、私は自分が女の子であることを忘れていました。結婚もし、子どもも産んだ学生時代でしたが、それは女の生理としてそうなのであって、社会の枠(わく)組(ぐみ)からきめられた女として存在しているつもりではなかったのです。
この会社に入ったのも、女として入ったのではなくて、社員の一人として入ったつもりでいました。
銀行で両替を済ませて会社に戻りながらも、私は憂(ゆう)鬱(うつ)でした。ほぼ同年輩の男性にとっても、私は同僚というよりも、“女の子”であったのか……、女であることを外側から無理やりに意識させられた、それがいちばん最初の出来ごとでした。
以後、私は多くの場面で、女であることを、“不利”な条件として意識させられてきました。
それでも、まだ私は“社員”としての待遇であっただけ良かったのかもしれません。
試験すら受けさせてもらえない、同じ社員の中でもいわゆる正社員と準社員の区別があって、女性は一生準社員におかれる。しかも、それを採用の時点では知らされていなく、出社してみたらそういう差別があった。さらには昇進、昇格、給与、ボーナスでこまかな差別がある。新入社員研修にしても今なお女子は三日、男子は三ヵ月と、企業からの期待のされ方も違っていることを否(いや)応(おう)なく知らされていく女性が、OLの大部分を占(し)めています。
そしてそれは、人間誰でも持っているプライドを、いちじるしく傷つけます。どんなにつらくてもこの仕事に耐えていこうと思う時、仕事の上でのつらさ、難しい仕事のつらさ、責任の大きい仕事のつらさなら耐えてやっていくことも出来るけれど、人としての誇りすらもが満たされないような仕事の場合、はたしてそのつらさに耐えられるものなのか、私は疑問に思うのです。
先日も、ある女子銀行員の話を聞きました。彼女は、毎日毎日封筒を切るのが仕事です。
「この仕事を一生続けていくのかと思うと、眼の前が真(ま)っ暗(くら)になります。私には将来どんな展望があるのか、それを思う時がいちばんつらいんです」
この時、彼女が「どうせ女なんだから」と女意識に逃げてしまっても、それを責めることは出来ません。
人は誰しも自分が認められたい、その集団の中で役に立つ存在、いちもくおかれる存在でありたいと思うものです。
それは大きな仕事、はなやかな仕事でなくてもよい、ほんの小さな、花のくさりのような存在感が欲しいものです。
それが満たされない時、さまざまな苦痛を乗り越える以前に、辞めることに魅力を覚え、逃げと知っていて、結婚という確かな(あるいは確からしい)世界にあこがれを抱いてしまうのは、ある面では当然と思います。
幸か不幸か私の場合は、すでに結婚していましたので、夫と共に生活を守らねばならない状況にありました。同じく新入社員である夫の給料だけで、親子三人が暮らしていけない現実が私には救いでもありました。
雇用機会均等法では禁止されましたが、かつて親もと通勤を採用の条件にしている企業が多くありました。その理由は親の監視により、男女関係のトラブルを未然に防ぐことだと聞きました。なんともおかしなことではありませんか。親がかりであることの安心感は、ともすれば生活の自立を妨げます。
アパートで暮らしていれば、絶対に自分の力で働いていかなければならない。その思いが、どれだけさきほどのような“逃げ”を防ぐ上での歯どめになるかもしれません。孤独に強い人間は仕事の上でも強いのです。
新人の良さを発揮しよう
とにかく入社当時というのは、それまで漠然と抱いていた社会人生活と、大きなギャップを感じている人が多いのではないでしょうか。希望と失意、期待と落胆が渦(うず)巻(ま)いているといって過言ではありません。
最初の衝撃は、マイナス面ばかりでないのも当然のことです。初めての月給を受けとった時の感動は、一生忘れられないものですし、“大人(おとな)”の社会に生きている実感もまたあるものです。
ここで一つ、心に留めておかねばならないのは、新入社員はそれなりに大切にされているということです。私はこのことを、だいぶ後になって知りました。
周りの人は、けっこう気をつかってくれています。今年の新入社員は活発そうだけど、あんがい内向的ではないかしらとか、おとなしそうだけど芯(しん)はきつそうだとか、それぞれに思いをめぐらし、こちらが緊張しているのと同じように、向こうも緊張しています。
と同時に、新入社員のうちは、すこしぐらいの失敗もまた、本人の自己嫌(けん)悪(お)とは別に大目に見てくれています。
最初から、一人前だと思っている人はいません。むしろ、一人前になろうと努力している、その姿を印象づけるほうが好感を持たれるものです。さきに紹介した山田氏の例のように、銀行員であれば預金をとってくることも会社になじみ、やる気を示す良い方法でしょう。
新入社員の中には、抱いていた期待と違うあまり、悪口ばかり言う人がいますが、やる気が疑われるだけであまり賢明とはいえません。勿(もち)論(ろん)、フレッシュな眼であるからこそ気のつくこともあるのですが、それは公式のルートを通して言うことが大切です。
新入社員のソフト・ランディングとしては、女性の先輩の人間関係をよくつかむことが大事だと言われています。
特に、一年か二年先輩の人たちの情報を集め、彼女らを刺激しないことです。なぜなら、彼女たちがいちばん、今年の新入社員に関心を持っている層であり、良きにつけ悪(あ)しきにつけ「今年の新人社員は……」と心の中で思っているからです。
比較の対象にされるのも、長いつきあいになるのも彼女たち。彼女たちからどう思われるか、それにより職場の居心地も違ってきます。出来るだけ彼女らをたてて、先輩として尊敬していることを表現して下さい。
「仕事の出来る人間になりたい」その気持を持って仕事をしていれば、周囲のあなたを見る眼も違ってきますし、それによって人間関係も広がってきます。
不思議なことに、良い人間関係が出来ていけば、仕事もまたその範囲が広がってきます。
職場では、可愛い女の子と思われることは、マイナスではないにしろ、あまりプラスでもないでしょう。女性であることを極度に意識した態度や行動は、かえって反感を招くだけ。
人間、男でも女でも“可(か)愛(わい)い気(げ)”は大切なもので、それは明るさとか素直さとか率(そつ)直(ちよく)さといわれる部分にあてはまるものであって、性そのものを売り物にするような“可愛い女の子”ぶりは慎(つつし)みたいものです。
けれど同時に、女性であることのメリットもまたあるものです。その意味で女意識をすべて捨ててしまうのも、もったいない気がします。
たとえば、女性は男性ほど、序列に対して敏感ではありません。そのことは、上役に対しても言うべきことは言う、昇進とか昇格をあまり気にしないで仕事をする結果、いい仕事が出来るなど、女性であるがゆえの利点もまたあるものです。
私も、女性であるがゆえに、スポンサーからなかなか信用されなかったのですが、一度信用されてしまうと、非常に深い信頼関係が出来ることを身をもって味わいました。
それは、男性のように肩ひじ張って仕事をしないことの良さかもしれません。やはり女性でなければ感じ得ないもの、女性なればこそ気づくもの、そういうものを仕事の上に反映させていきたいのです。
それは、私が入社三日めに“女の子”の衝撃を味わって以来、女であることの性を大切にしようと思ってきた結果であると思います。
考えてみると、仕事の不出来、序列組織の驚き、女の子、こうした最初の衝撃が大きかったことが、どれだけ、のちのちの職業生活を助けたかしれません。その一つ一つが私にとってバネになっていったと思います。
現代は情報化社会といわれ、確かに知識なり発見を不特定他者に伝えたり、あるいは記憶したりする機能は眼を見張るばかりです。
けれど人間である以上、当然抱く感情や感性、情緒を伝えることに習熟しているかといえば、必ずしもそうではありません。人類発生以来、すこしも進歩していないかもしれません。加えて社会機構はどんどん複雑化し、多様化しています。
そこには、人間性をおき去りにした、あたかもキカイに眼鼻をつけたような人間が生まれる危険性があります。人間関係が生きていく上での永遠のテーマだといわれるのも、このへんに理由があるのでしょう。
皆さん方にも、いろいろなかたちで最初の衝撃は襲ってきたことでしょう。
その内容、強弱は人によって違うでしょうが、衝撃があったということは、感受性の確かさであり、それを乗り越えていく過程で財産になるのです。
とにかく、新人にいちばん期待されているのは、新鮮さ、積極性、明るさなどであり、“やる気がある”と思われる努力を重ねることが、衝撃を乗り越える第一歩となりましょう。
第2章 ライバル意識と負け意識
嫉妬の感情に負けない
同期入社同士は、心頼りになる存在です。心細さや不安、社内のこまごましたことがわからない新(しん)米(まい)ぶりも、共通に味わっているだけに、親密なつきあいが生まれます。
良き友を得るのも同僚の中から、というのがけっこう多いのではないかと思います。
ところが、良き友であるがゆえに、その親愛感が相手に負けたくない気持も引き起こしてしまうことがあります。組織の中で頼りにしているだけに、競争心をむき出しにされると、受けるショックは大きいものです。
私も、同僚に友人としてのアドバイスを求めたのを、いきなり笑われたことがありました。
入社して三月ほどたった頃、挨拶状を書く仕事があって、彼女に頼んだのです。
「ねえ、ちょっと下書き見てくれない?」
彼女は紙(し)片(へん)をとり上げると、大声で笑い出しました。
「あーら、挨接状だって」
私は、そのひときわ甲(かん)高(だか)く、ホッホッホと聞こえる笑い声を呆然として聞いていました。何人かが覗(のぞ)き込んでニヤニヤしています。
もとはといえば私の不注意、小学生以下の学力、笑われて当然なのですが、私の彼女への期待は、そうした間違いを、友だちとして傷つかないやり方で教えて欲しいというところにありました。
他人の失敗によく気のつく人は、この世の中たくさんいます。ちょっとした言い間違え、勘違い、不適切な表現、そういうものを、あたかも虫眼鏡で探し回っているような厳密居(こ)士(じ)や厳密大(だい)姉(し)は、どこの職場にも必ずいるものです。
仕事での失敗もそうですが、いい気分でしゃべっている時に、「あら、それちょっと違うんじゃない?」などと言われるのもまた興(きよう)ざめがし、針が刺さったような思いになった体験を持つ人も多いでしょう。
とはいうものの、他人のミスにうっかり笑ってしまうことは誰しもあること、私も知らないうちに人を傷つけていることがないとはいえません。
でもこの“挨接状”の場合は、もうすこし激しいものがあるように思えました。彼女は私に対して、また周囲の人たちに対して、優越を示したかったのではないでしょうか。
自分のすぐれていることを周囲の人になんとか認知させたい、その自己顕(けん)示(じ)欲(よく)が、笑い声になったと思うのです。
ですが、彼女はそんな努力をする必要はありませんでした。文章においても、文字、頭の回転、さわやかな弁舌、それらは北海道弁で、もっさりした山だしの熊のような私とは歴然とした違いがあったのです(二年めの昇給では、彼女のほうが私よりも二百円高くなっていました。私の職場では、男女間の賃金差別もありましたが、それは同性間でもありました。正当な実力評価による区別でしょう)。
以来私は、同僚といえども甘え切ってはいけないと固く心に思いました。彼女に対する警戒心が生まれたのは勿論です。理性の上では、彼女は彼女なりに親切な人だと思おうとしたのですが、どうしても気持の上で距離をおいてしまい、彼女に対して心から打ちとけられなくなりました。
同僚の力を正当に評価出来るか、これは男にとっても女にとっても難(むずか)しいことです。仕事の面だけでなく、容姿とか趣味の広さとか、オフィスにはスゴイと思う人がいるもので、そういう人を認めるには、かなり意識的な努力が必要とされるものです。
嫉妬を抱いた相手に対する、オフィスでのいやがらせ類、たとえばタイム・カードを隠すとか、用件を伝えないとか、悪口をふれ歩くとか、男女共にこうした行動に出る人がおります。よく、競争に負けた男が、出世した同僚を妬(ねた)んで、
「あいつは要領がいいだけだよ。実力は俺のほうが上なんだ」
などとクダを巻きますが、私は負けは負けと、あっさり認めたほうが気が楽だと思っています。社内ではつらい思いがします。たとえ、百円二百円の月給の違いでも、その屈辱感は強烈なものです。
けれど、いやがらせをしたり、悪口を言ったりするほうが、よほど要領が悪いのです。そんなうっぷん晴らしは、現状解決になんの役にも立ちません。
あの挨接状の一件の時、私はこう思って自分を慰めたことをよく覚えています。
「彼女は、たとえていえばカミソリのような人だ。よく切れる薄(うす)刃(ば)の鋭さが彼女の武器だけど、同時に欠点でもある。カミソリで木を倒すことは出来ないんだから……。私はマサカリになればいい……」
これが私のライバル意識でした。いささか抽象的な感情でしたが、この遠い未来に眼を向けることは今日、明日のことに目標を定めるよりも心が安まります。
そして、この時の私のマサカリとしての目標の第一は、
「彼女よりも、けっしてさきに辞めない」
でした。長く勤めれば、それでいいものではないのは百も承知でした。けれど、何か一つ彼女に勝てるものがあるとすれば、勤続年数だろうと思ったのです。彼女が質で勝負するのに対し、私は土俵をすり替えて、量で勝負することにしたのです。結果は、彼女は質において私に勝ち、私は量において彼女に勝ち、お互い気を良くしました。
要領も実力のうち
毎日の生活の中には、辞めたいと思うことは多々あるもので、その理由には人間関係のつまずきもあって当然です。
人は、他人を傷つけたことには鈍感ですが、自分が傷つけられたことに対しては非常に敏感です。職場とは、この鈍感と敏感が入り混(まじ)っているところで、敏感な人ほどいたたまれない思いをするものです。
そんな時に、「私は定年まで辞めない」と心の中で繰り返すことは、自分にも励(はげ)みになり、周囲の人に対して用心深くなります。
もっとも未来のことは誰にもわからないもので、さきの予測の出来ないのが人生というもの。でも、心の中でこう思ってしぶとくなることは、こちらの自由です。自分の敏感さをなだめるオブラートの役割として、こういう思い方もあるのです。
その時、“負け意識”を持っていることは身を助けます。これは“負けてはならぬ意識”といったほうが適切かもしれませんが、相手にかなわないにしろ、何か一つ自分にも勝てるものがあると、励まし、ふるい立たせるもの、そういうものを探すための心のありようではないかと思います。
つまり、自分を相手よりも下位におき、そこからはい上がろうとする心的なエネルギーを指(さ)しています。
私はこういう状態に自分をおくことを、「マイナス・ポジションに自分をおく」と表現しています。よく、お母さんたちの講演会に呼ばれた時、
「自分は母親として完(かん)璧(ぺき)だ、立派な良い母親だと思っているお母さんよりも、ダメな母親だなあ、子どもにすまないなあと思って接するお母さんのほうが、子どもにとって幸せなのではないでしょうか」
と言うのですが、これは母が子に対してマイナス・ポジションに立っている発想です。
同僚に対するマイナス・ポジションは、彼女のほうが自分よりもすぐれていると認めてしまうことです。
バリバリやっている同僚、男子社員ともくったくなく人気者になっている同僚、こうした同期の桜の見事さは心にいたく刺さります。おだやかな気持でいられないのはよくわかりますが、追われる者よりも追う者の持つしたたかさをこそ、若いうちは身につけたいものです。
さきほども出てきましたが、よく「要領の良い人だ」と言う言葉を耳にします。これはいったいどういう意味なのでしょうか。一般的には仕事の面で要領のいい人は尊敬されますが、人づきあいの上で要領のいい人は毛嫌いされて、悪い意味でつかわれるようです。
私は、職場の人間関係の上では、“要領の良いこと”は大切なことだと思っています。
ただこれは非常に難しくて、一歩誤ればお世(せ)辞(じ)つかいや、上にへつらい下に傲(ごう)慢(まん)な人間だと思われることになります。よく、上役の背広についている糸くずをとったりするのを見かけますが、その時、非常にいやらしいと思うことがあります。
原則的にいえば、それは親切というものなのですが、その親切さを上にも下にも公平にやっているかどうかが問われているものであり、往々にして要領のいい、いやな奴というのは、こういう公平さに欠けています。だから本質的には要領が悪いのです。
その場の雰(ふん)囲(い)気(き)をさりげなくつかんで、さっと行動する。適切な一(ひと)言(こと)を言う。他人に対する気づかいを持っている。こういう要領の良さは人を感心させますし、その意味では、要領も実力のうちです。
こんな話をしてくれた人がいます。彼N氏は大変なヘビー・スモーカーなのですが、ある時、飛行機で禁煙席に座ってしまいました。
座席をきめる時に、多分、禁煙席しか空(あ)いていません、いやそれでけっこうですなどのやりとりがあったのでしょうが、彼はそのことをすっかり忘れて、禁煙ランプが消えるや否(いな)や、吸い始めました。
隣の席の人がチラと見たような気がしましたし、通りがかりのスチュワーデスも、あれっという顔をしましたが、禁煙席などと思いもよらぬ彼は、悠然としてその旨(うま)い一服を楽しんで、その火を消そうとした時、さきのスチュワーデスがやってきました。
「お客様、ここは禁煙席でございます」
隣の席の人は、禁煙の禁を犯(おか)すとは何ごとかと憤(ふん)懣(まん)やるかたない思いだったでしょうが、この一言で溜飲(りゆういん)を下げました。
当のN氏にしても、嗜(し)好(こう)を満足させた上での注意は身にしみてありがたいと思いました。
「これぞ本当に気働きというものなんだろうなあ」
この件に関する解釈はいろいろあると思いますが、私はN氏の解釈、およびスチュワーデスの行動に賛成です。
本当に要領の良い人というのは、こういう気づかい、相手の気持をたてることにたけている人ではないでしょうか。
“良く思われたい”気持
人間関係においては、往々にして論理よりも、本能や感情が優先するものです。
これはミッチェル・D・グラディの『自分を伸ばす人間関係』(詫摩武俊訳)に出てくる挿話です。
「ソフィとリンダという女性が、同じ職場に同じ給料で勤めることになった。ソフィは勤勉で有能だが、特に愛(あい)嬌(きよう)のあるほうではない。
一方、リンダは同僚や上役によい感じを与え、愛嬌のある女性だが、ソフィのような事務能力はなく、仕事もそれほど念入りではない。
ところが勤めて一年後、昇給額はソフィのほうが少なかった。ソフィがその理由を聞くと、『仕事はできるが、態度をもうすこしどうにかしてもらいたい』という答えだった。
ソフィは当惑したが、自分に何かが欠けているらしいと思うだけで、どういう意味なのかがはっきりわからなかった。同じ職場の人たちも、ソフィがリンダのように、しっくりこないという自分たちの感情を言葉では表わせなかった。
困ったソフィは決意をいっそう固くし、自分にできる唯(ゆい)一(いつ)のこととして以前にも増して勤勉に働き、いっそう有能にさえなった。
しかしその甲斐もなく、その翌年にはリンダが管理職に昇進して、どうしても苦手だった事務から解放されたのに対して、ソフィのほうは今ではリンダよりもはるかに低い給料で、相も変わらず同じような骨折り仕事をしていた。変わったのは、そんな仕事がかえって増えたことくらいである」
これに対して、グラディは次のように解説しています。
「ソフィは特別な例ではない。勤勉で仕事もできるのに、相応の報(ほう)酬(しゆう)を受けていない人は大勢いる。それは社会構造が、その人たちの“態度”をよしとしないからである。みんな“社会的行動の法則”の犠牲になっている。
その法則とは、『どんな社会集団でも、いちばん重要かつ報(むく)われる行動は、その集団の社会構造を維持することである。その集団の存在理由である仕事や義務は、大事なことのように思われても、実は二義的なことでしかなく、報酬には値(あたい)しない』ということである」
ここで著者グラディの言う“本能や感情”というのは、リンダの中にある気働きであり、それを求める周囲の人々の率直な心情をいうのではないでしょうか。“愛(あい)嬌(きよう)”というのは、リンダの中にある周囲への思いやりとかやさしさ、人の心に対する洞察力のようなもの、それゆえの“人気”なのかもしれません。
人からどう思われているか、そのことを気にし出すと、職場は地獄になります。
考えてみると、職場は一日じゅう他人の眼の中、口の間で過ごすようなもの、「人からよく思われたい」と思う気持は大切ですが、意識過剰になると、それこそ間違えた“愛嬌”を振りまくことになり、反感の原因になります。
一方、「よく思われたい」この気持もまた誰でも持っているものです。だいたい仕事をする時には、高(こう)邁(まい)な理想とか企業の使命とか、そういうことはあまり考えないものです。
それよりも、周囲の人からのちょっとした賞(ほ)め言葉や、役に立つと思われたいとか、そのへんの感情で動いているものです。グラディの言う、論理を越える感情とはこのへんにもあるのです。
「よく頑張るわね」
「あなたって明るい人なのね」
そう言われたい一心で仕事をし、自分の振るまいに気をつける、そういう心の動きは大切にしたいと思うのです。
私は常々、人間には“ほんのちょっとの背のび”が必要だと思っています。自分の能力や性格はここまでだけど、もうすこし高望みしてみよう、それが人間の能力を鍛えていくと思っています。
この気持は、とりもなおさず「良く思われたい」という気持に、支えられているのではないでしょうか。
これは老人ホームの理学療法士に聞いた話ですが、老人ホームでは脳卒中や事故などの後遺症で、身体が思うように動かない人にリハビリテーションをやります。
効果はたいして目に見えず、しかもとてもつらいものだといいます。寝ているほうがよほど楽、でも一歩でも二歩でも、自分の足で歩けることが自立につながると、汗(あせ)水(みず)流して頑張ります。
ある時、老人の一人がつくづくと彼女に言いました。
「ワシ、こんな訓練やるの、とてもかなわん。もう、いやでしょうがないけど、あんたの顔を見ると、やらんわけにはいかないよ。あんたが喜んでくれる顔を見るだけでも嬉しいもんな」
訓練は、あくまでも自分のためなのに、傍に喜んでくれる人がいると思うと、それが励(はげ)みになってつらさに耐えていく、誰のためでもない、あんたのためだ、まこと人の心の不思議を衝(つ)いた言葉ではありませんか。
職場においても、かたちを変えてこういうことはたくさんあります。賞められたい、役に立つと思われたい、周囲の人の喜ぶ顔が見たい、そう思って頑張ってしまうことはあるものです。そして、その底には認められたい……と思う気持があるのです。
その気持に対して、同僚としてどう反応するか。「あの人は背のびして、いやね」と見るか、「努力家なのね」と見るか、そのへんは見る側の人間性の問題です。
ところが、このへんの感情の整理が難しく、ともすれば自分がやらないことの理由づけをしてしまったり、相手をご機嫌とりと批難することで正当化してしまったり、自分の感情に負けてしまいます。
ライバルには柔軟な心で
第1章で、新人をいちばん気にしているのは、年齢の近い先輩だと書きましたが、彼女たちこそ、追われる身のせつなさで、“人気”のある新人に嫉(しつ)妬(と)の感情を持つことがあるものです。
仕事の面でも先輩をたてて欲しいと思い、日常的な振るまいでも、敬意を表して欲しいと考え、内心のその思いが満たされない時、新人にいやみの一つも言ってみたくなるのです。
一般的にいって、私の見る限りでは男性のほうが女性よりも年齢による序列意識が厳しいようです。それは男社会の知恵なのか、男性のほうは“若さをもってよしとする”意識が女性のように峻(しゆん)烈(れつ)でないせいか、上を立てる気持が強いようです。それは時として、私などの眼から見て痛々しいようないじましさを感じさせ、必ずしも見習うべきこととは思えません。
けれど女同士が若さを競(きそ)いあい、二、三年も年上になるとオバンときめつけて若さを誇示する、それに対してオバンのほうは「何よ、いま時の若い者は」などと無視をきめ込む、そういうもつれた糸は男には見られません。
先輩風を吹かすのも困りものなら、若さ意識をふり回すのも困りもの、それにしても、どうして女性はこうも年齢にこだわり、若さを尊ぶのか。私には、何やら女が奴隷として商品であったその時代を、そのまま女みずからがひきずっているように思えてなりません。
男も女も年齢を加えることによって、さらに加わっていく何かがあるもの、年上であることに、もっと自信と誇りを持ちたいものです。
と同時に、先輩の立場にある者は、職場への馴れに埋没して見えなくなってしまっているものがある。フレッシュな新人にはそれが見えていることがあるということを留意する必要があります。
「今までこうしてきたんだから」とか、「こうするのがあたりまえ」ときめつけてしまう前に、新人の疑問や感想に対して、率直に立ち向かう意欲を持ちたいものです。それでこそ、後輩からの尊敬も得られますし、余計なライバル意識に苦しむこともないと思うのです。
ところで、この原稿を書いている私の耳に、こんなつぶやきが聞こえてきます。
「沖藤さんは、やっぱり恵まれた職場で、恵まれた仕事をやっていたのよ。だからマイナス・ポジションとか、ほんのちょっぴりの背のびなんて格好良いこと言えるんだわ。私たち、毎日毎日雑用や単純作業ばかり、とてもそんなきれいごと言ってられないわ。せいぜい若さの火花を散らして楽しんでいるのよ」
職場によっては、誰がやってもいいような単純作業を、毎日毎日やらなければならないところがあります。
私は前章で“やる気”が大事だと書きましたが、こうした日常の中で、どうしてやる気など出てくるものでしょう。
Y子さんも、ほとほと自分の仕事がいやになってしまいました。彼女は配転を申し出たのですが、次はその時の上司の回答です。
「あなたの気持はわかりますよ。だけど希望をかなえるわけにはいきません。今の仕事を続けてもらいますが、こうして私のところに言いにきたというのは、それだけあなたに“やる気”があるということでしょう。ひとつ、今の仕事の進め方を、どうすれば楽しいものに出来るか、レポートを書いてみてくれませんか」
そのレポートを書くことになってから、彼女は自分の仕事に対する見方が変わってきたというのです。会社全体の中での自分の仕事の位置づけを考え、改良点を考えているうちに、仕事への愛着もまた出てきたのです。
これが若さというもの、柔軟性というものかもしれません。ちょっとした頭の切り替えで仕事への見方も変わってくる。それによってやる気が出てくるものといえるのです。
私もまたダメ人間から、すこしずつ這(は)い上がった、最初からはアテにされていなかった人間です。有能な人を同僚に持つ苦しみは充分に味わいましたが、彼女のような人が身近にいたことが私の職業生活にとっては、大変な幸運だったと思っています。
最近私は、彼女によく似てきている自分を発見して驚いていますが、それほどに彼女は私に影響を与えた人でした。
若き日のライバルというのは、その後の人生にもさまざまな影響を与えるようです。ライバルというのは、人生における塩・こしょうのようなものかもしれません。
第3章 女はすぐ辞(や)めるから
期待されていない?
「戦力としてアテにされていない」
これは多くのOLが言う言葉です。仕事を一生懸命にやりたい、出来る人と言われるようになりたい、そう思って頑張っているつもりだ。しかし、いざ何か分担をきめる段階になると、女性は重要な部分からはずされている。期待されていない人間であることを、明確に悟らされた時の胸の冷えるような思い、それはOLなら一度や二度は味わったことがあるはずです。
ところが管理者側も、いつ辞(や)めるかわからない人間に、重要な仕事をさせるわけにはいかないと言います。
「女はすぐ辞めるから」これは、企業が女性に門戸を閉(と)ざし、ポストからしめ出す時に必ず出てくる言葉です。
にもかかわらず一方では、女性は適当なところで辞めることを期待されている。年数がたち月給が上がるのは男にとって不愉快、管理職のポストも女性には渡したくない。これは、雇用機会均等法成立以降も同じです。第一、女性の下で働くのかと思うと、男の面(メン)子(ツ)にかかわる、それが本心でもあります。
「結婚退職などで、挨拶に回るでしょう。本人は嬉(き)々(き)としているし、周りの男性もチヤホヤする。残されたほうは針の筵(むしろ)に座るような、いたたまれない思いがするのね。そのあときまって出てくるセリフが『あんたたちも早くしないと……』なのね。いつ辞めるか、そればかり思われているような気がして……」
辞めることを期待されている雰(ふん)囲(い)気(き)と、戦力として期待されない自分、その中で毎日繰り返される仕事のつまらなさ、結局、「これが私の人生なのだろうか、これは私のするべき仕事なのだろうか」という悩みに落ち込んでいくことになります。
こうした有形無形の圧力を、人間関係を保ちながら、どう跳(は)ね返していくか、これが本章のテーマです。
ここで、すこし“戦力”の内容について考えてみましょう。
“戦力”意識を構成するものとしては、つぎの三つが重要な要素になっていると私は考えます。
その職場での仕事のルールやレベルに適応していっているか、第二に仕事に対する愛着を、どのくらい持っているか、第三に自分の将来展望と働くことをどう噛(か)み合わせているか。
さらにその底には、上司があなたの仕事をどう評価しているか、そのことが、かなり重要な色あいを持って流れています。
まず第一の仕事のルール、レベルへの適応ですが、これはT子さんがいい例だと思います。彼女は、ある大企業の広報担当三年め、やはり自分は戦力にならないと悩んだ一人です。
彼女は、まず「麦(ばく)秋(しゆう)」でつまずいてしまいました。「麦秋」は映画のタイトルで、その映画を観(み)た彼女は、陽ざしを浴びた麦畑の黄金色に輝く場面が忘れ難く、以来「麦秋」は大好きな言葉になりました。
「麦秋」は、辞書によると夏の季語で、麦のとり入れの頃、初夏を指す言葉です。
ある時、これまた挨拶状を書く仕事が出来て、さっそく「麦秋の候、貴社におかれましては」云々と書いて上司のところに持って行ったのです。
「君、この麦秋の候ってなんだね。こういう言い方はしないだろう。しかも今は、真夏だっていうのに」
彼女はぐっと詰まりました。言われて見ればその通り、“麦秋の候”とは言わないだろうし、もっと夏にふさわしい言い方は他にもたくさんあるのです。
でも、彼女にしてみれば、ありきたりの“盛夏の候”とか、“猛暑のみぎり”などよりも、ずっと気がきいていて、イメージの大きい表現だと思っていたし、そういう言い方もあっていいと思ったのでした。
彼女は、その上司に打ちとけてはいませんでした。なんとなく肌に合わないものを感じていました。その時、上手に“麦秋”に対する自分の気持を表現出来る親和関係があれば良かったのですが、それもないまま、すごすごと席に戻ってきて書き換えました。
以来、彼女は上司に対して、よりいっそう打ちとけなくなってしまいました。もともと無口で内向的、自分の気持を発散させられない性格だったのも、災(わざわ)いしました。
仕事の相談なども気軽に出来ないし、報告しなければならないことも、ついあと回しにするようになってしまい、上司とのコミュニケーションは絶えてしまいました。当然、上司のほうも使いにくい女だと思ったのでしょう、何も声をかけてくれなくなり、雑用すら言いつけてくれなくなりました。
彼女は常々、なぜ女の子が雑用をしなくてはならないのか、同期の男性社員はさせられないのに……と不満を持っていました。
お客様や同僚にお茶を出す時、お盆ごと叩きつけられたら、どんなに気分がいいだろうと思ったことは一(いつ)再(さい)ならずでした。
お茶ばかりではありません。ちょっとたばこを買ってこい、コピーをとってこい、ここに電話しておけ、あげくの果てに私用までも頼む。「私は、あなたの奥さんじゃない!」と叫びたい思いをすることは、女性なら誰しもが味わうことです。
さきに紹介した山田智彦氏は、
「雑用をしない男は出世しない」
と喝(かつ)破(ぱ)しておりますが、まこと職場には、自分でやればいいような雑用を女性に言いつける男は多いものです。
ところが、そのいやでたまらなかった雑用すら、上司は彼女に言いつけない。隣に座っている同僚ばかり「○○君」と呼ぶのです。
職場の“個性”をつかむ
私にも似た体験があります。
ある時、昼休み返上で仕事をしていると、先輩のところに来客がありました。どんな筋の客かは知りませんが、会社の取引先の人とは思えません。
「ちょっと、お茶出してくれない?」
私はカーッとなってしまいました。それがすぐ表情態度に出る正直さが、悲しくもかつ大いなる損失だと知った時はあとの祭り、以来、彼はことあるごとにそれを持ち出しては、「おっかないよなア」と言い、私に仕事を頼むこともありませんでした。
ふだん、あんなにいやな思いでいる雑用ですら頼まれない……その状況はみじめなものです。自分一人とり残されたように思い、職場の皆から浮き上がってしまった孤独感は、心の均(きん)衡(こう)を失わせます。
職場では時として、こうしたかたちで生意気な社員への制(せい)裁(さい)を加える力が働くものです。
こういう状況は、悪循環を招きます。周りの人が声をかけてくれない、自分の殼(から)に閉じこもる、それがますます人から遠ざけてしまう。結果的に、自分で自分の気持を追い込んでしまいます。仕事の面で頑張ればいいと思っても、その仕事すら自信のあるものが出来なくなる……。
たまに上司のところへ、仕事の結果を聞きに行っても、
「ま、いいでしょう」
ぐらいのことしか言ってくれない。その一言は、「あなたの力は、このくらいのものなんだね」と言っているように聞こえます。自分の能力の低さを指摘されたようで、みじめで悲しく、一人ひっそりと泣くことになります。
T子さんの場合も、まさしくこの状況に陥(おちい)ってしまいました。上司や周囲の冷たさを思うと、とてもここの仕事にはついていけない、会社を辞めようか……、帰りの電車がゴトンと動き出すと、涙がポロポロこぼれてきます。
ぼんやり考えにふけっていて、彼女は乗り継ぐバスを間違えてしまいました。
ふと気がつくと、バスは知らない郊外の道を走っています。慌(あわ)てて降りたその道の向こうに、なんと麦畑が続いているではありませんか。さんざめく夕陽を浴びて、視界いっぱいに広がっている黄金色の大波、その重たげな穂の揺(ゆ)らめきは、かつて映画で観(み)た光景そのもの、その瞬間、彼女は自分の感じ方の確かさを知った思いでした。
これこそまさに「麦秋の候」ではないか、公用の手紙につかったのはまずかったが、自分の感覚そのものは間違っていなかった。眼からうろこが落ちた思いでした。
「私にも我(わが)儘(まま)なところがあった。仕事が思うようでないのも、もとはといえば自分の頑(かたく)なさから出たこと、明日から気持をとりなおしてやり直そう」
これまでは、上司が相手にしてくれないとか、日常のこまごましたところで、示(し)唆(さ)を与えてくれないとか、態度が冷たいとか、それらを思い続けて情けなくくやしかったのが、すうっと遠のいていきました。
T子さんの失敗の大きな原因は、職場という公的な仕事の場において、自分の個性にこだわり過ぎたところにあるといえましょう。
勿論、仕事に個性を出すというのは大切なことです。しかし、その前段階において、まず“職場の個性”に順応するプロセスが要求されるものです。
まずは一度、自分を非個性化してみる。職場での仕事のルールなり、方向なりに自分を合わせる。そのことに従順な段階を踏んだ上で、徐(じよ)々(じよ)に自分の個性を出していく、そういう息の長さが必要です。
そこを飛び越えて、自分の個性を押し通そうとすることは、拒絶されてしまいます。その圧力に負けてしまう、そこでくじけてしまう女性は少なくないのです。
T子さんは、自分の個性を信じたがゆえに、自分を非個性化し、客観視するプロセスを得たのです。その上で初めて、職場で戦力となり得る力をつけていったのでした。
と同時に彼女は、「雑用も言いつけられない自分に耐えられない」思いを味わっている、このことは重要です。なぜなら、彼女がその職場の仕事に、やはり愛着を持っていた証拠だと思うのです。もしそれがなければ、
「仕事は、してもしなくても月給は同じ、仕事なんて無いほうがいいわ」
とふてぶてしく構え、手を抜くこと、上手にごまかすことだけを覚える人間になってしまったことでしょう。
職場ではこの手の人間がいちばん嫌(きら)われます。ただひたすら辞める日を待たれる存在、しかもこのタイプの波(は)及(きゆう)効果は大きく、職場は荒れていきます。
誰かがやらなければ……
私の元同僚のM江さんが、こんなことを言ったことがあります。
「どんなにいやな仕事でも、誰かがやらなければならないのなら、私がやるわ」
調査会社にも、いろいろなセクションがあります。私がずっといた企画室は、苦労も多いけれど、その成果は自分の財産になっていきます。
けれど、彼女の仕事は企画室の人たちの調査票を処理する現業部門であり、労多くして功少ない職場、男も女もそのセクションに行くのをいやがりました。
組織というものは、きれいで立派な仕事ばかりではありません。九割の雑用の上に一割の“立派”があるといっても過言ではありません。
私も、その頃は企画室にいるとはいえ名ばかりで、校正をやらせればミスをする、企画書を出しても通らない、いったい彼女にどんな仕事をさせたらいいのだろうと、なかばホサれた存在。毎日の仕事はコピーをとったり、おつかいに出されたり、そんなことばかりで、いいかげんうんざりしている状況でした。
しかもなお悪いことに、自分の能力のなさを棚(たな)に上げて、「格好の良い、きれいな仕事をやりたい」と思いつめ、自分の個性を押し出す前段階に必要な非個性化、順応のプロセスに気がつかないまま不満をかこっていたのです。
「誰かがやらなければならないのなら」
この肚(はら)のくくりようは見事です。「私がやる」という主張も、私には新鮮なものに映(うつ)りました。
よく、「運・鈍・根」と言いますが、女性の場合は、私も含めて“鈍”なる部分に欠けているところがあるのではないでしょうか。
女性の特質である敏感さは、それ自体は悪いことではないのですが、すぐ傷つく心のみを抱えていることは、自分も他人も息苦しくさせてしまうだけです。
たとえば、仕事上のミスを指摘されると、全人格を否定されたように、ふくれたり傷ついたりする人がいますが、それは賢いとはいえません。
ミスは誰にでも起こり得るもの、問題はミスが起こった時に如何(い か)に処理するか、そこのところで人間がきまるのだと肚をすえる“鈍感”さも、またあわせ持っていて欲しいのです。
自分の仕事に対して不足を指摘された時は、それを率(そつ)直(ちよく)にとり入れる、そういう度量のないところには、いくら有能な人とはいえ、戦力への期待は持たれないものです。
勿論、仕事のミスはあってならないのが職場の原則ですが、ミスを指摘されたことによって人間性が否定されたと思うことはないのです。すぐ訂正し、詫びを入れる、その態度が重要なのです。
その受け入れの姿勢こそが柔軟性だと思うのです。ベテランとは、こうした体験を積み重ね、敏感さと鈍感さを上手に二人三脚させた、その柔軟性にあるのではないでしょうか。
「誰かがやらなければならないのなら、私がする」
こう言い切れる背後には、彼女のこの柔軟性こそがあったと思いますし、こう言い切る人が一人いることによって、職場の雰囲気は変わってきます。
職場の人間関係は、相対的なもので、こちらが変われば向こうも変わる。向こうの変化によってこちらも変化する、微妙な光の交差があるものです。
とはいうものの、中には絶対不変に見える人もいます。
こちらが気をつかえばつかうほどカサにかかってくる。社内CIAのように眼を光らせてスキあらば笑い者にしようと企(たくら)んでいる。ちょっとしたミスも針(しん)小(しよう)棒(ぼう)大(だい)に放送する。上にはへつらい、女性や年若い男性には意地悪の限りをつくす。こういう職場の毒グモの前では、きれいごとは通りません。
ひたすら“鈍”と“忍”の一字、これが職業生活というものかと疑問を禁じ得ない毎日、むしろこちらのほうが多いかもしれません。
私の職場にも、こういう男性がいて、私などは格好な餌、何度槍玉にあげられたかしれません。会社近くの公園で、何時間も泣いたこともあります。
その時、私を支えていたのは、やはり仕事への愛着だったと思うのです。M江さんに教えられたような、組織の一員として役割を持つことへの絶ち切れぬ願望だったのです。
けっしてポストが欲しいということではなく、仕事をする人間としての期待がかけられ、能力さえ磨(みが)いていけば、いつか仕事はやらせてもらえる、そう思って涙をふり切りました。
その将来展望は人の心に大きな作用をおよぼします。
“鈍(どん)”であることは、息長く仕事にとり組む態度を周囲に期待させようとする、本人の心構えからも生まれてくるものといえるでしょう。
それさえあれば、かなりのいやがらせには耐えていけるものです。
ところが、女性の場合には往々にしてそれがない。気持を昇華させる対象のない日常においては、感情だけが肥大し、いたずらに人間関係ばかりが眼についてくる。その結果、職場での女性の評価が落ちることになり、「だから女は」「やっぱり女は」「女というのは」等々言われることになります。
仕事への愛着を育てる
ある時、某テレビ局で働く女性を扱った番組を作ることになり、私もゲストの末席に連(つら)なったのですが、その打ち合わせの時、企業の人事管理にくわしい先生が、こんなことを言いました。
「結局、女性は職場の花であればいいということなんですよ。そう思っている管理職がほとんどです」
ところで、“職場の花”とは、いったいどういう状況にあることを言うのでしょう。その一言の中には、どんな期待がこめられているのでしょうか。彼は言いました。
「つまりですね、職場の潤(じゆん)滑(かつ)油(ゆ)であって欲しいということですよ。職場を明るく、楽しく、周囲の人の働く気を起こさせるようであって欲しいということなんです」
冗談じゃありません。私は思わず言いました。
「それこそ、職場にとっては最大の難問じゃありませんか。潤滑油の役割こそ、管理職のするべきことです。そんなことが、実際に若い女性に出来ることだと思いますか」
職場における人間関係は、まさしく潤滑油次第です。その重要な役割を、入社したての若い平社員に押しつけてくるとは、なんたる職務の怠(たい)慢(まん)でしょう。
管理職の人(ひと)柄(がら)、人を見る眼の温かさ、度量などによって、そのセクションの雰囲気はがらりと変わります。仕事の質と量までも変わります。
だからこそ管理職は重要なポストなのに、その役割を「職場の花」などという言葉を使って女性に押しつけてくる、なんという論理のすり替え、多くの女性がその悲劇に押しつぶされているのが現実です。
よく、職場で実績をあげている女性の話を聞くと、「上司に恵まれた」というのが出てきます。
このことは、その上司が潤滑油としての管理職の役割をよく知っていた、そのなめらかな回転のもとに、女性もまた仕事をする人間として、期待してもらえた結果ということではないでしょうか。
そしてこの、管理職とは何か、ということを知っている管理職が非常に少ないのも現実です。
私はその数少ない上司に恵まれた一人かもしれません。
調査の仕事には、こまごました手作業がたくさんあります。たとえば、アンケートには自由回答欄がついていることが多く、そこに「なんでも気のついたこと」を調査員が聞き出して書き込みます(回答者が直接書き込む場合もあります)。
それを整理するのは、まさしく“根(こん)”のいる仕事で、まず一度全部紙に書き出し、それをいくつかの要素に区分けしてまとめていきます。
小項目から中項目へ、さらに大項目へと分類していって、たとえばその発言が“気分から出たもの”か、“行動、行為から出たもの”か、“特定の嗜(し)好(こう)から出たもの”か、などと定義づけていくわけです。ある時、上司が言いました。
「あなたは、こういうことをやらせるとうまいんだなあ」
その言葉の響きには、いささかの侮(ぶ)蔑(べつ)とあきらめと安(あん)堵(ど)があるように聞こえました。
でも私は嬉しかったのです。やっと自分の得意な分野を発見したという思い、役に立つことが出来たという気持、それは入社以来落ち込み続きだった私の気持を慰め励ますものであったのです。
私の場合は、いささかスケールの小さい話ですが、それでも上司が根気よく私を使ってくれる姿勢を示してくれたことは忘れられないのです。
その“根気”に対して、私も“根気”で対応していくことの大切さを、教えられたような思いでした。
おそらく、「上司に恵まれた」という彼女たちも、それほどにはなばなしい場面であったとは思えないのです。ほんの小さなことに、気持を奮い立たせるものを感じとっていたのではないでしょうか。
と同時に、彼女たちは、上司に対して、腰を据(す)えて仕事をやっていく姿勢を示すことにも熱心だったに違いありません。
よく上司との人間関係を言う時に、
「私たちの功績を全部一人占めにしてしまうんです。彼らはどんどん出世していくのに、私たちは永久に下働き。自分だけがいい子になっているんです」
という話を聞きます。実際に自分より若い男性が上司に立ったり、明らかに自分がポストを継ぐべき時に、他から何もわからない男性が上役になったりすることは、女性への昇進差別として語られます。
私もそれに似た屈辱の思いを味わされており、それがどんなにくやしいものかわかっているつもりですが、むしろそれは好都合、仕事の上でベテランになっていれば、表向きの肩書きなんぞにこだわらなくていいのではないかと思っていました。
逆にそういう立場にいればこそ、積極的に協力することで“恩”を売る、そんな気持でした。
ラインに入って余計な神経をすり減らすよりも、仕事のエキスパートになっていくほうが、自分の身を助ける、そういう計算でもあったのです。
上司といえども一人では何も出来ない、それが見えていれば、さきのような発言はしないですむのではないでしょうか。確かにくやしいことではあるのですが、視点を変えれば、彼女は“人材”であるのです。
この職場で仕事をする毎日を誇りにしようとする気持が、本当にあるかどうか、自分に問いただしてみることが大切になります。それは仕事に対する愛着、“仕事が可愛い”と言えるかという第二の点にもつながっています。
最近は女性を、戦力として活用しようとする気持を持つ経営者が増えてきました。アテにされないどころか、大いにアテにされています。男であろうと女であろうと、やる気があり、周囲とも上手にバランスを保っていく人材こそが求められています。まさに人材活用の時代なのです。
ところが、それに応(こた)えるだけの準備が、女性の間にまだ培(つちか)われていないのではないかという気もします。
ともすれば、辞(や)めろと言われているような居心地の悪さのほうに眼がいき、積極的に自分を主張する以前に被害者意識に陥(おちい)ってしまう。
「頭が固くて、古い考えの人ばかり」と周囲を責める前に、自分のするべきことはあるはずです。
組織の一員として、生き生きと働いている人こそが男女共に“職場の花”でもあります。“職場の華(はな)”、枯れる花ではなく華麗で中心的な存在としての華と言って良いかもしれません。
さきほどの女性への“職場の花”的期待も、“華”として求められていると解釈しても良いでしょう。そういう人に対しては、上司もまた引き立ててくれるものです。
“青い鳥症候群”とは
それは、とりも直さず第三点の、自分が働くことをどう考えるか、将来設計をある程度立てておくことにつながります。
さきのことは恋人次第、夫次第で変わり得ることで、私も結局、十五年で退職せざるを得なかった人間ですが、それでも、とにかくこの会社で、この仕事をやっていこうという気持だけはありました。
辞(や)めたいと思ったことは何度もあります。仕事もすこしは軌道に乗ってくると、“馴(な)れ”が生まれてきます。毎日が時計の振(ふり)子(こ)のように、ただ会社と家の行ったり来たり、かつては新鮮で高(たか)嶺(ね)にそびえる感じだった仕事も、毎日毎日のことになると、すっかり色あせて見えてきます。
会社のデスクで周りを見渡し、いったい私はいくつまで、ここにこうして座っているんだろう、白(しら)髪(が)になっている自分の姿を想像すると、時間の浪費、人生の無駄づかいをしているのではないかと不安でならなくなってくるのです。フリーライターをやっている友人とか、プログラマーの友人がうらやましく、転職への思いが頭をかすめます。
こういう心情を“青い鳥症候群”と言います。この“病気”の名付親は、名古屋市立大学医学部清水将之助教授(当時)ですが、次のような特徴の人が特にかかりやすいとのことです。
@一流大学を卒業している Aその大学に入るためにかなりの背のびで勉強した B一流会社のエリートサラリーマンで、周囲からかなり期待されている
ここでは“一流”のつく人ばかりが定義されていますが、私のような三流どころも一(いつ)再(さい)ならずこの“病気”にとりつかれましたし、OLの中にも、この症状で苦しんでいる人はけっこう多いはずです。その気持の中心にあるのは、“自分のするべき仕事か”意識。自分はこの会社にいてもいなくてもいい存在、誰でもが代りにやれるがゆえに、「私がやらなくては……」と張りつめるものがない……。この仕事は自分の人生に、なんの役にも立たないものだ……。
ところで、よく、適材適所という言葉を耳にしますが、どんな仕事でも、初めから適材もない代りに、適所もないのではないでしょうか。
自分を適材たらしめ、自分のやっている仕事に適所たらしめる。そういう努力がなければ、最初から「ハイ、これが適材適所ですよ」と絵に描いたようなわけにはいかないのです。
これは、私が調査という仕事に向いていない、自分には他にするべき仕事があるのではないかと、さんざん“青い鳥症候群”に悩んだ結果、得た感想なのです。
少なくとも組織には、その人がやらなければ進まない仕事というものはまずありません。けれど、その人がやればベターだというものはあるのです。それを発見していくプロセスこそが、人をして適材適所たらしめていくものでしょう。
組織には「二・六・二」という言葉があります。本当に役に立つ人間二割、即(そつ)刻(こく)辞めてもらいたい人間二割、あとの六割は、いてもいなくてもよい人間。これは男にも女にもあてはまり、特に女性で初めの二割はごく少ないと言います。
我が身を振り返るに、私はずっと「いてもいなくてもよい」六割組でした。最後までそうだったような気がしますが、時として最初の二割ではないかと錯(さつ)覚(かく)し、被害妄想的に残りの二割であると思ったこともあります。
六割組がいかにして戦力としての二割組に入るか、E子さんの例を紹介しましょう。
彼女は、ある小さな広告制作会社の視聴覚セクションにいました。男ばかりの中の紅(こう)一点、雑用はすべて彼女に押しつけられてきます。来客も多く、一日がお茶くみとお茶碗洗いに消えてしまい、そのとりとめのなさに、三年たったら辞めようと思っていました。
ところがある日、彼女は自分の周りを見渡してみたのです。彼女のところには、シナリオライターなどが多くいます。彼らに出来るのなら、私だって……と思ったのが彼女の偉(えら)いところです。
ここから挑戦が始まりました。すこしずつ書きためた原稿を見て、周囲がびっくりしたというのです。雑用の女の子とばかり思っていた彼女が、かなりの線のシナリオを書いている、驚きながらも喜びました。外部に発注する時間も費用もはぶけます。
以来、彼女は雑用がいやでなくなったと言います。職場で認められているという安心感が彼女を寛大にし、親切でよく気のつく社員に仕立てあげていったのです。もし彼女が「時間があって、金があって、責任がない」仕事環境の中で、ただ不平不満をかこっている人であったなら、こうはいかなかったと思うのです。彼女は、いつかはやりとげる……と将来展望を持っていました。それが彼女を救ったのです。
テーマを持つ
私は、企業の女子社員と話をする時、自分自身のテーマを持つことをすすめています。
電力会社に勤めている人なら、電気の歴史を調べてもいいし、照明のあれこれを調べるのも楽しいでしょう。銀行なら貨(か)幣(へい)の歴史や世界のコイン通になるのもおもしろい。
とにかく、自分の勤めている企業に関連のあることに、一(いつ)家(か)言(げん)を持っていることは、仕事だけでない幅が出来ますし、皆が皆、E子さんのような才能を持ち合わせているわけではないのですから、こういう地味な積み重ねを求めるのは大切なことです。
自分のするべき仕事かと悩む時、仕事の周辺部分での専門を持っていることは、けっして逃避ではないでしょう。よく、女性は視野が狭いと言われますが、その真(しん)偽(ぎ)はともかく、そうしたテーマを持つことによって、仕事の幅を広げていく意欲や興味範囲も広がります。
将来、結婚して家庭に入っても、子どもに「お母さんは○○の通(つう)なのよ」などと威張ってみるのも楽しいし、それは一生のテーマともなり得ましょう。自分の関心領域があることは、新聞を読むにしてもテレビを見るにしても、一つ緊張度が加わります。それが視野を広げ、自分の仕事を見る眼も変わってくるものです。
女性の場合は、一般的に自分の能力が正当に評価されないところでの悩みが多いのですが、職業についている人全体で見ると、自分のやっている仕事と能力のギャップは、むしろ、期待される能力に追いついていけないというところにあるようです。
NHK放送世論調査所が、「日本人の職業観」という大変興味ある調査をしています。
まず、自分が持っている能力としては、一位が「仕事をコツコツやりとげる能力」二九パーセント、女性では特に高く三二パーセント、二位は「手早く仕事を仕上げる能力」一四パーセント、三位は「労働に耐えられる体力」一二パーセントです。コツコツ型の日本人という像が浮かび上がってきます。
一方、仕事が必要とする能力では、一位が「先を見通して、物事を計画的にはこぶ能力」が二二パーセント(自分が持っている能力だと思う人は、わずかに九パーセント)、これは男性に特に高く、女性一六パーセントに対して、男性二七パーセント、このへんのところには、男女のおかれている立場、やはり期待のされ方の違いを見ることが出来ます。二位は、「手早く仕事を仕上げる能力」一六パーセント、三位「労働に耐えられる体力」一三パーセント、コツコツ型は四位、一二パーセントとなります。
次におもしろいのが、「自分の能力と、仕事上の能力とが一致している人」の比率で、結果はなんと一九パーセント、つまり、男女合わせて、五人のうち四人までが、自分の能力と期待される能力との違いをあげています。
多くのサラリーマンはコツコツ型なのに、先見力を期待されて悩んでいるといってよいでしょう。
一(いつ)見(けん)、バリバリやっている人も、落ち着きはらっている人も、また威張っている上司も、内心では悩んでいます。それを思うと、彼らへの見方もまた違ってくるのではないでしょうか。
と同時に、この調査では、こうしたギャップを埋めるために、非常に強い向上心を持っていることも指摘しています。
「今の仕事を続けるために、新しい知識や技術を身につける必要があると考えるか」に対して、「大いに必要」四五パーセント、「どちらかといえば必要」三二パーセントと、“必要派”が七七パーセントに達しています。
これを男女比で見ると、男性は八四パーセントに対し、女性は六七パーセント、男性のほうが、より必要にせまられている立場が反映されていますが、女性においても、約七割の人が向上心を持っていること、これは大いに認めてもらいたいと思うのです。
これまで私は、どちらかといえば、人間関係とは関係のないような、むしろ仕事論に近いものを書き述べてきました。
それは、私の意識の中に、職場とは仕事をする場、その中でどういう意識で仕事をしているか、それによって人間関係が違って見えてくる。仕事のやる気のないところでは人間関係も粗雑になり、そちらのほうに愚(おろ)かしいエネルギーをとられてしまう。それから脱(ぬ)け出すためには、まず、“自分のするべき仕事”意識を各人に発見していってもらいたい。人間関係は、そのあとにくるのではないかと考えているからです。
しかし、それは個人の努力だけではどうにもならないものがたくさんあって、組織全体の女性を見る眼、仕事の配分、さらには上司の女性に対する評価の仕方、女はお茶くみ雑用だけして、やがて枯れる花であればいいという上司のもとでは、どんな努力も無駄に終わってしまいます。
配転見込みもなければ、将来への展望が何もない、そういう職場で苦しむのなら、いっそ転職したほうが良いと私は考えます。
けれど、ここで一つ考えなければならないことは、どういう動機による転職かということです。
さきのNHKの調査では、転職希望者(職業を持っている男女の二六パーセントと高率)の転職条件を調べていますが、それによると、女性では二割の人が「仲間と楽しく働けること」をあげており、男性の七パーセントに比して、きわだった違いを見せています。
「仲間と楽しく働く」のは、非常に大切なことで、そうした楽しい雰囲気は、仕事のやる気も出させます。
でも、そういう楽しい雰囲気を作るのも、一つの努力なのです。自分の日常の振るまいや性格をよく考えて、それを求めない限り、どこに行っても楽しくない。結局、迷える青い鳥を追いかけてしまう、その危険性のあることを忘れないで欲しいのです。楽しい雰囲気が、初めから用意されているものではない場合のほうが、むしろ多いと思います。
職場を楽しくするもしないも自分次第、そのことをしっかり頭に入れて転職し、新(あら)たな可能性を発見していく、そういう賢(かしこ)さを身につけたいものと思います。
どこに行っても戦力たり得る自分、そのための努力、そのへんが見定められていない限り、転職は失敗するでしょう。新しい職場に入って気分一新というのは、ほんの束(つか)の間のこと、やがてまた“馴(な)れ”た日常、変わり映(ば)えのしない毎日がやってくる。そうなると、また別のところに行きたくなる、そのくり返しでは有利な転職は求められません。
職場での人間関係の基本として、自分の仕事へのとり組みが大切なことを本章で述べてきましたが、次にそのとり組みを支(ささ)える人間の、感情面についてすこし考えてみることにしましょう。
第4章 自信によって支えられるもの
忙しい人、忙しがる人
「うちの会社の女の子は、まず働かないね。こっちが忙しくてバタバタしているのに、一日じゅう何もしないでボンヤリしているんだよ。あんまり腹が立つもんで注意したら、翌日、両親が菓子折持って謝(あやま)りにきたんだよ。どうなっているんだろうね、まったく」
これは、ある経理課員の憤(ふん)慨(がい)なのですが、実際、自分の忙しい時に、のんびりしている人を見ると腹が立つものです。けれどこの課員の話を聞いていて、次の二つのことを私は感じました。
一つは、相手の仕事ないしは働きぶりを見る時の眼の厳しさ、おそらく、それを支えているであろう彼の“自信”。もう一つは、親までも応援に狩り出すこのOLの心細さ“自信”のなさ。一方がいささか過信気味なら、一方はあまりにも頼りなさすぎる関係が、見えています。
人間関係はつまるところ、他人との関わりの中で、自分をどう位置づけるかということです。ともすれば厳しい眼でしか見なくなったり、必要以上に自信喪(そう)失(しつ)にとらわれたり、それが人間関係をぎくしゃくさせることは、けっして少なくありません。
人は往々にして、自分が忙しい時は、周囲の人がヒマに見えるものです。
「こっちが、こんなに忙しい時に、あの人は何よ」
相手が上司であろうと、同僚であろうと、後輩であろうと、他人のやっていることは楽なこと、自分は大変、その気持が怒りにつながっていき、自分だけが……と思いがちです。
そんな時は、相手が忙しかった時、もしかしたら自分はボンヤリしていたかもしれないことなどは、すっかり忘れているものです。
だいたい人間、一年三六五日緊張しっぱなしなどできないものです。緊張のあとには弛(し)緩(かん)がくるし、集中したあとにはぼんやりしたいものです。
また、もし何日もオフィスでボンヤリしていることが続くとしたら、それは仕事の配分の不公平か、「ちょっと手伝ってくれない?」ぐらいのことも言えない、周囲のほうにも責任のあることです。潤(じゆん)滑(かつ)油(ゆ)としての管理職の出番は、こういう時にあるのです。
私は、けっしてこの彼女の弁護をしているわけではないのですが、オフィスの中で一日じゅうボンヤリしていた彼女は、とてもつらかったのではないか、手伝いたいと言おうにも、仕事に自信がなくて切り出せない。オロオロした気持だったのではないかとも思ったのです。それが翌日の菓子折となって表現されたようにも思います。
職場の中では、ひとたび仕事や人間関係に自信を失うと、その感情はとどめようもなくふくらんでいきます。
仕事が、深みにはまったように進(しん)捗(ちよく)思いままならずの時は、周囲の人が皆すいすいと仕事をしているように見えてくる。自分はどうしてこうなんだろうと思うと、悲しくみじめなのは勿論ですが、周囲の人が、あたかも邪魔だてしているかのような腹立たしさにかられてきます。
それは、夜眠れなくて輾(てん)転(てん)反側としている時に、隣ですやすや眠っている人がいると腹が立ってならないのと同じ心理状況です。
一般的に“忙しい”状況は、人間に自信を与えます。次から次へと入ってくる仕事は有能さの証明であり、それゆえに、
「忙しいですか」
は、ご機嫌伺いの常(じよう)套(とう)句(く)となり、
「忙しくて、忙しくて」
と、答えることに満足します。
ルーズベルト大統領夫人は、
「仕事は忙しい人に頼む」
と言ったそうですが、忙しい人こそ、仕事をテキパキ進める処理能力にたけた、しっかり者なのだそうです。
私も、仕事というものは、水が低きに流れるように、能力のある人のところに流れていくと思っています。
ところが、ここで見分けなければならないのは、本当に“忙しい人”か“忙しがっている人”かということです。
何か忙しげにバタバタやっていないと気がすまない人は、どこのオフィスにもいるもの。仕事の仕方を工夫したり、方式を変えれば量は半減するにもかかわらず、「昨夜は十時まで残業した」とか、いかに自分は働き者であるかを大声で宣伝しようと努めます。
“忙しい人”は、質において忙しい人、“忙しがっている人”は、量と声において忙しい人ということになりましょうか。もっとも、これはあくまでも私が狭い範囲で見ていることですから、例外もあると思いますが。
ここで私が言いたいのは、“忙しがっている人”の心の中の不安、あせりなどに、巻き込まれてはいけないということです。
それはあたかも隣のいびきに、ますます眠れなくなるようなもので、自分もまたじっとしていられないようなあせりで行動し、結果的に失敗し、自信喪(そう)失(しつ)はますます強まってしまいます。
ハロー・エフェクトの活用
札幌にいた頃、ある雑誌に財界人と対談したインタビュー記事を、毎月書いていたのですが、これらの経営者に共通してみられたのは、必ずなんらかの自分を支えるものを持っていたことでした。
その自信が、他人に対する眼をやさしくし、許容度を深め、成功する経営者としての器(うつわ)に仕立て上げていったように思えました。
その支えとは、ある人は英語であったり、ある人は書であったり、またある人は蓄財であったり、かたちはさまざまですが、何か一つ非常に自信のある世界を持っているのです。
それを心理学では、ハロー・エフェクト(波及効果)と言います。一つ何か長所があると、少々の欠点は隠れてしまう、あるいは何か一つすぐれたものがあると、他のものもすぐれて見える。たとえば、数学の出来る人は頭がいいと思ったり、やさしいきれいな字を書く人は心もやさしいだろうと思ったり、そういう影響を与えるものです。
ハロー・エフェクトについて、産業能率大学の安本美典教授が『人づきあいの心理学』の中で、おもしろい例を紹介しています。
アメリカの裁判は陪審制度ですが、まったく同じ言葉で答えても、その人の雰囲気で判決が変わることがあり得るか、という心理学者の研究です。
実際の裁判と同じような模擬裁判で、一方の被告は感じのよい美人、一方の被告は暗い感じの女性。犯罪内容と、答える言葉は同じという設定です。
何回か模擬裁判を開いてもらった結果、判決は二年から七年ぐらいにわたって異なってきました。感じのよい美人のほうが判決は軽くなったというのです。
この裁判についての実験は、もともとは「陪審制度の客観性」について調べることを目的としているものですが、“人づきあい”について考える場合、同じ内容を話していても人間関係によって結果が変わってくる、単に“美人は得”ということではないと教授は指摘しています。
つまり、明るい声、暗い声、なんとなく感じの良い話し方とそうでない話し方、表情の動き、身のこなし方、服装の趣味、それらがすべて結果に影響を与えており、前にも述べた、感情が論理に先行する人間関係の側面がここにも現われています。
同じ本に、アメリカの社会心理学者、フェスティンガーの実験でも、話の内容に注意してもらった時よりも、話す人の性格に注意を向けてもらった時のほうが、説得の効果は大きいということも紹介されています。
人が人を評価する時の基準とは、なんとあいまいなものかと思います。また一方では、なんと鋭いものかとも思います。
私たちには、皆それぞれ自分好みのアンテナがあって、そこにひっかかるものに対しては、すばやくとり込む能力があるということでしょうか。ということは、他人の持つアンテナに対して、どう自分の電波を送るかということ、その時に自分のハロー・エフェクトは何なのか考えておくことが大切になります。
結局、そのハロー・エフェクトの核をなすものが、自分を支える自信ではないでしょうか。
たとえば、整形手術などでも、顔が良くなることより、それを行なった結果、気持の上でゆとりが出来、自信が生まれてくることが大事なのだと言います。その落ち着きが、他人に寛大になり、人間関係をスムーズにするということです。
「自分に対して厳しく、他人には寛大に」
とはよく言われることですが、これはじつに難しいこと、多くの場合は、この逆、自分には寛大で他人には厳しいものです。
他人に寛大になろうと努めた結果、胃をやられてしまった人も私の知人におり、その寛大さも相手次第の場合もありますが、ともかく“寛大”というのは、辞書によれば「心が広く思いやりがあること」。思いやりをどう表現するか、また相手の一つの言葉、注意の言葉などから、いかに思いやりをくみとるか、そこには“感受性”も介在しています。
注意のされ上手
あなたは、上役や同僚から、仕事や勤務態度で注意を受けたことがありますか。その時どう思いましたか。また最近、注意を受けなくなってはいませんか。それはあなた自身が向上したからなのか、あきらめられてしまったのか、どちらなのでしょう。
注意の仕方もあります。ネチネチと何度も言う、仕事の注意のはずが関係のないことまで持ち出す、その時だけ大きな声で言う、注意されるほうの素直さもどこかにふっ飛んでしまうようなイヤみたっぷり、こういう場面に出くわすことは少なくないし、注意されたありがたみを論理的に感謝する前に、注意のされ方に感情的に反(はん)発(ぱつ)してしまうことは多々あるものです。
ところが、それは往々にしてこういう批判を招きます。
「女の人はちょっと注意しても、すぐふくれるんだよな。何も人格全部を否定しているわけでないんだから、もっと冷静であって欲しいんだよ」
まことにその通りなのですが、注意もまたフェスティンガーの説得の論理と同じように、注意する人の人格に、感応している部分があることを知っておく必要があります。
私たちの周りには、“注意上手”ともいうべき人がいて、他の人に言われると気にさわることでも、その人に言われると納(なつ)得(とく)出来ることがあります。これなども、注意における人間関係の機(き)微(び)に熟知している人なのでしょう。
また、“注意のされ上手”は、仕事の上でも人間関係でも非常に大切なことです。相手が何を言わんとしているか、どう改めていけばよいか、そこを察(さつ)知(ち)することは人間の幅を広げます。
私などは、典型的な“注意のされ下手”で、すぐむっとする、頑(かたく)なに弁解する、自説を押し通す等々、大きな損失を重ねてきました。
注意してくれる人がいなくなったらおしまい、注意されることはありがたいことだと思うようになるまでには、やはりかなりの歳月がかかりました。
注意をされた時に、「はい、わかりました」だけではなく、「あ、そうですね。これは結局、こう改めていけばいいんでしょうね」と自分の言葉で、注意のさきにある改善の方向を、自分で発見していく力、これがなければ、注意された意味がありません。
仕事には復唱が大事で、つまり「これは、こういうことなんですね」と、自分の言葉におき換えて表現することが、仕事を正確にすると言われていますが、注意においても、同じことが言えると思います。そしてそこに、ちょっぴりユーモア感覚があれば、雰囲気はぐっとやわらかいものになります。
これには、私自身のことを振り返ってみて思うのですが、やはり“自信”がなければ、なかなか自分の言葉におき換えた復唱やユーモア的発言は出来ないものです。
自信のない人ほど、注意されることに弱く、落ち込んでしまう人が多いのではないでしょうか。そして、私も含めて女性にこのタイプが多いのも現実です。
都市銀行に勤めて三年になるK氏が、自分の社のOLを評してこんなことを言っておりました。
「結局、女性は信念のない人が多いんじゃないのかな。フラフラしていて、そのくせ頑固、他人の意見を聞くことが非常に下(へ)手(た)ですよ。恐(こわ)いのか臆(おく)病(びよう)なのか、人の意見を幅広く聞き入れる度量がないんです。男だったら、『自分はこうだ』と思うものが心の中にあるから、すこしぐらいのことは言われても平気だし、また自分と違う意見の人に合わせていくことも出来るけど、女性の場合は、仕事の時は言いなりになるくせに、あとでゴチャゴチャ言う人が多くて困るんですよ」
ここで彼の言う信念とは、ある意味で自信に近いものなのではないでしょうか。
自分を支える核のようなもの、私には“これ”があるからという安心感のようなもの、またそうした核を持つ過程で、悩んだり考えたり苦しんだりしたことによる人間的な幅、それがあればこそ他人を受け容れる度量、寛容性が生まれてくるといえるのかもしれません。
とかく、女性の人間関係で言われることは、女性のトラブルは、とことん相手をやっつける鋭さを持っているということです。ぐさっと突き刺して、息の根を止めてしまう苛(か)烈(れつ)さがあると言われます。勿論、男にもこういうタイプの人はいますが、女に多いと言われるのは、やはり自信のない弱みのカムフラージュとなっているのでしょうか。
注意と同時に、善意をどう与え、どう受けとるかということも難しいものです。
『峠の群像』の作者、堺屋太一氏によると、“忠臣蔵”の吉(き)良(ら)上野(こうずけの)介(すけ)は“善意と熱心さのために自滅した人”と言えそうです。
上野介は、大変出世欲の強い男で、かつ努力家、休む間もなく働いて将軍や時の権力者に気に入られ、家柄を上げることが出来たのですが、それが自慢の種(たね)、他人にも同じような方法で出世することを教えて回るようになったというのです。
まことに善意な話ですが、過ぎたるお節(せつ)介(かい)、多くの大名にとっては迷惑至(し)極(ごく)だったのです。
「ここで忘れてならないのは、教える者と教わる者との摩(ま)擦(さつ)、確(かく)執(しつ)は、教える側が善意であったとしても生じるということだ」
と氏は述べておりますが、私たちの周囲にも、こういうことはじつによく起こっています。
自分にとって良かったことは、人にもすすめたいもの、「ね、そうしなさいよ」などと言われて、困ることはよくあるものです。
とにかく、上手に注意し、上手に注意される人間、こうなればしめたものと言えましょう。
職場には、他人のことが気になってならない人がいます。「今何やっているの? それどういう仕事? どこまで進んだの?」上役がこのタイプだと息が詰まってしまいます。お節介やきは往々にして他人監視型です。
また、アドバイスが欲しい、何か注意することはないかと話しかけたところ、最初の段階から根掘り葉掘り、こちらは時間が気になるけれど、途中で止めるわけにもいかず、苛(いら)々(いら)させられて、あげ句のはてにアドバイスならぬ批判を加えられることで終わってしまう。こういう体験は多かれ少なかれあるもので、善意の表現、受容にも訓練が求められます。
借りを作る余裕
感謝や謝意の表現として、くだんのOLの菓子折のやりとりがありますが、仕事をはさんだ上でのそれは、感情的トラブルを引き起こすことになります。
私の友人に、ささやかな地域活動をしている女性がいます。
ある時、某新聞社の婦人記者が取材にくることになり、すっかり恐縮した彼女、感謝の心を表わしたい、さらには良く書いてもらいたい下心も手伝って、商品券を渡したのです。ところが、そのあと婦人記者からカンカンに怒った電話がきました。
「あなた失礼じゃありませんか、私はハンカチだと思って受け取ったんです。お返ししますから取りにきてください」
驚き慌(あわ)てた彼女、ハンカチの包みを持って取り替えてきたというのですが、以来、すっかり婦人記者恐怖症にかかってしまいました。
「そりゃ、あなただって悪いわよ。取材はビジネスなんだから、それに対して物をあげるなどという下心が問題なのよ」
と私は言ったのですが、下心も問題ならば、取りにこいという態度も問題、女同士連帯してなどと言いながら、相手が弱い立場の女性となると“地”をむき出しにする女性の存在も気になるところです。
お世話になった人に何かお礼したい、そう思うのは当然の心なのですが、人(ひと)様(さま)に物をあげるというのは難しいものです。もらっても、嬉(うれ)しいというよりも困惑してしまうことも体験するし、善意が通じない悲しさを味わうこともあるものです。
私は、人様から善意を受けた時は、そのまま借りておくことにしています。人間すこし“借り”があって生きているほうが、いいのではないでしょうか。
よく「私はあの人にああしてあげた、こうしてあげた」と言う人がいますが、貸しを意識するのは見苦しく傲(ごう)慢(まん)。でも「あの人からああしてもらった」と思う借り意識のほうは、謙(けん)虚(きよ)にしてくれます。
ともすれば貸し意識のほうは残りますが、借り意識のほうは忘れがち。だから物というかたちのあるものでお返ししておくのは、生活の知恵なのかもしれませんが、少なくとも職場の中や仕事上のことでは、物のやりとりでは解決つかないことが多いのです。
「ありがとう、助かったわ、嬉しいわ」
と、相手に借りを作っておくことは、人間関係をスムーズなものにします。
さきの友人の例でも、彼女は“借り”をすぐ返しておきたい気持があったのではないでしょうか。
この場合は、「お世話になった、いつかお返しする時もくるだろう」と、心ひそかに婦人記者の活躍を期待していればよかったのです。
それが出来なかったところに彼女の弱さがあり、それは今一つ、自分のやっていることに自信がない、そこからも連(つら)なっているもののように思えます。
だいたい、精神的な“借り”というのは、当の相手に返さなくてもいい場合も多いのです。Aさんから受けた借りは、Bさんに返していくことも、この世にはけっこう多いし、借りのかたちも同じではなく、つまり「計算業務でお世話になったから、計算でお返しする」ことに、こだわる必要もないものです。
こういう点になると、女性は気の短い人が多く、気にする人が多すぎると思います。借りを作っておくことの心理的負担に耐え難く、世話になることを極端に嫌う人がおりますが、それはやはり人間関係を狭くします。
“借り”のあることを大切に考えるのも人間関係のキー・ポイントであり、いつかお返し出来る時もあるだろうと思うのも“自信”のなせるわざというものです。
職場では、「出る釘(くぎ)は打たれる」と言いますが、
「人が何かをしようとしたら打たれるのはあたりまえ、それで引っ込んでしまうようだったら、もともと出る釘でなかったということでしょう。太い釘であればいいのですよ」
と言う経営者もいます。太い釘であるためには、注意やアドバイスを上手に受け止める“自信のコントロール”が必要ですし、人間関係を好転させていく“ハロー・エフェクト”を持つ、そのことに私たちはもっと習熟していく必要があると思うのです。
人間関係につまずいた時のことを考えると、どうも一つ自分に対して自信のない時が多いように思えます。ひがみっぽく、被害者意識だけが強い時は、注意やアドバイスも曲解してしまい、せっかくの向上の機会を逃しています。
よく、子どもの個性を育てるには、叱(しか)るよりも賞めることだと言いますが、自分の中の幼児性を検討すると同時に、自分を支えるものを確かめておくことは大切です。
一方、何ごとも自分を卑(ひ)下(げ)する人がいます。「なんて私はダメなのだろう。ぐずでヘマで……」
こういうのを卑下自慢と言います。一見、謙虚ですが、たび重なると鼻についてイヤみです。
自信過剰にならず、卑下自慢にもならず、適度に自分を表現する。これには結局のところ“素直さ”が求められているということでしょうか。
あれこれ考えてみて、つまるところは、こういう平凡なところにつきあたるのも、人間関係の難しさの一つの現われなのかもしれません。
第5章 役割意識と協調性
感情地獄に陥ると……
「私は、ある官庁に勤めて十五年のタイピストです。私の上に四十代が二人、下には二十代が二人いますが、この四十代と二十代がまったく合わないのです。
二人ずつ組になって、この半年以上もの間、仕事のことですら口をききません。係長は五十代の男性ですが、心労のあまり病気で入院してしまいました……」
これは、ある婦人新聞の投書の要約です。
五台並ぶタイプライター、そこに二人ずつ組になって座っている。この二人はおしゃべりしたり、ヒソヒソ囁(ささや)きあったり、クックッと笑ったり楽しげです。
その間に座る三十代の彼女は、どちらに組してよいものやら、おそらく双方から無視され、“こうもり”とか“係長のゴマすり”とか、双方から入ってくる蜂のひと刺しに身の細る思いの毎日。
こうなったら職場は地獄です。一日八時間、通勤の時間も加えれば生活の大部分を占めるオフィスは右も左も真(ま)っ暗(くら)闇(やみ)、仕事すら味けなく、つまらないものになってしまうでしょう。
職場が楽しくないと思っている人は多いものです。癇(かん)に障(さわ)る同僚や先輩後輩、しかも相手が女性であると腹立ちもいっそう深まります。
また、別の例。
Y子さんは経理事務をやっていますが、半年あとに入ってきたA子さんに対して、顔を見るのもいやになるほど苛(いら)々(いら)します。
原因は、A子さんの男性社員への過(か)剰(じよう)サービス。朝、昼、夕方と、三回もお茶をいれるだけでなく、気に入った男性には特別に回数を多くしたり、かぜ薬からティッシュペーパーまでも自分で買ってきて、かいがいしさを売り込む。上司や男性に対する時と、女性に対する時とでは態度ががらりと変わる。
Y子さんは、彼女を無視しようと思うけど、一挙手一投足に神経がピリピリして、今にも怒りが爆発しそうです。彼女に注意しても「私の好きでやっているんだから、気にしないで」と、軽くいなされてしまうだけ。
反面、男性の受けは非常に良くて、ことあるごとに比較され、Y子さんの不利は決定的……。
カマトトぶりを発揮しては、周囲とのバランスを崩(くず)す女性は、このA子さんのような場合に限りません。女性同士、おしゃべりしている時は普通なのに、男性が一人加わると急に態度が女っぽくなり、顔つきや声までも変わってしまう。
おもしろいことに、男性にも似たようなことがあって、女性が一人加わると急に自意識過剰の豹(ひよう)変(へん)君(くん)子(し)になる人がいると聞きました。
この世に男と女がいる限り、避けて通れない浮世のならいなのでしょうか。
けれど、周囲の者にしてみれば、これほど不愉快なことはありませんし、毎日毎日見せつけられる身になれば、世のならいですませることは出来ません。
職場というのは、“毎日毎日”のところだということが重要で、昨日も今日も明日も続くところに、不快感情はますます肥大し、嫌(けん)悪(お)が深くなる要素があります。
Y子さんの話を聞いた時、私は彼女が憤(いきどお)っているのは、自分自身に対してではないかと思いました。
彼女とて男性から良く思われたい、それじゃA子さんの向こうを張って、かいがいしく出来るかといえば、それは出来ない。また、したくない気持も強い。それでは無視してしまえばいいものを、それも出来ない。
私は、この場合のY子さんのとるべき態度としては、“自分のするべき仕事”に熱中して、完全無視を貫くことだと思うのですが、それが出来ないところに苛(いら)立(だ)ちがあるわけです。
一方、A子さんもひどすぎる。Y子さんの注意に耳を傾ける柔軟性、なんのためにこの職場にいるのか、そこを考える気持があれば、二人の人間関係はずっと良くなり、職場は楽しくなるでしょう。A子さんには職場の全体的雰(ふん)囲(い)気(き)を見通す眼が欠けています。
同じことは、タイピストの投書にもいえることです。この五人が協調関係を保つためには、もうすこし、お互いの感情に距離をおく必要があります。
職場に仲良しがいることは大変良いことです。それは、ともすれば乾(かわ)きがちな心を潤(うる)おしてくれる大切な関係です。
私も感情が激しく、人の好き嫌いが強い人間で、“距離”をおくことの難しさを常に味わってきました。男でも女でも好きな人には、とことんのめり込んでしまい、それゆえに職場から浮き上がってしまったこともあります。
前に紹介した「麦秋」の一件のT子さんが、こんなことを言っていました。
「男性の人間関係は、仕事に結びついた関係ですけれど、女性は仕事よりも感情で結びついていますね。だから男性は陽で女性は陰なんです。感情的におもしろくないと、口もきかない、仕事の連絡もしない、私用の電話にはいやがらせをする。上司にだって、おもしろくないことがあると、仕事を頼まれても返事しない人がいたりするんですよ。でも、よく考えてみると、仕事で結びついているよりも、感情で結びついているほうが楽なんですよ。いやなことがあっても居直ってしまえば、それなりに道は拓(ひら)けてきますし、そうなると女は強いです。だけど男の人は仕事の面で何かがあると、すごくダメージを受けるようですね。そのほうが厳しいですよ」
女性の感情過多は、楽なほうを選んでいるということなのでしょうか。
けれど問題なのは、この二つの例で見るように、こうした感情での結びつきは、時として非常識な結果を招き、職場の雰囲気を、けっして楽しいものにはしないということです。
職場での人間関係を、楽しいものにするためには、私は、役割意識が非常に大切ではないかと思っています。
自分の持物は自分で
だいぶ以前のことですが、看護婦の職場定着に関する調査をしたことがあります。その時、何人かの退職看護婦に会って驚いたのは、彼女たちが職場の元同僚、上司の悪口に満ちていることでした。サラリーマン社会は悪口社会だとは思っていましたが、彼女らはいささかひどい。
「ガンと婦長にはなるな」
という言葉があるのを知ったのも、この時です。
彼女たちの婦長拒否症は重症と見えました。何か命令されたり注意されることが不愉快で、女が命令するとは何ごとかという男と同じものが、女性の管理職を嫌(きら)う潜在意識として女性にもあります。しまいには、あの婦長は上にとり入るのがうまいから婦長になれたのだと陰口を叩(たた)くわけです。
同じことが同僚への批判にもあって、仕事熱心な同僚が目(め)障(ざわ)りでならなかったようです。彼女たちの話は、最後まで周囲への不満に渦(うず)巻(ま)いていました。自分はどこも悪くないと思っています。
私は、こういう人たちは、どこにいってもうまくいかないだろうなあと思いました。周囲への不満は誰でも持っているものです。自分が不満を持っているのと同じ量だけ、相手も自分に対して持っているものだと思っているのが無難なのですが、彼女たちには、そこが見えなかったようです。
婦長には管理職としての役割がある。同僚にもまた役割がある。そして自分の役割はなんなのか。そのへんが、きちんとわかっていないと、職場は楽しくなろうはずがありません。
ただただ、他人の欠点だけが見えてしまうことになります。自分を尊重して欲しい気持は、人だれしも同じもの、看護婦の世界に限らず、人それぞれの役割に忠実であることに対して敏感でありたいと思います。
女性の多い職場に、トラブルが多いと聞きますが、とかく女同士ということでもたれあってしまい、一つ緊張がたりなくなってしまうのではないでしょうか。
役割を、どんなものとしてとらえるか、難しいことを言っているのではありません。たとえば、自分の荷物は自分で持つということです。
私がいちばん嫌いなのは、自分の持つべき荷物を他人に持たせる人です。ある時、著名な作家とご一緒する機会があったのですが、彼は自分のスーツケースを係りの男性に持たせて、自分は手ぶらです。
係りの方は、自分のバッグと先生のスーツケースを両手に持って、あとに続きます。なんとも見苦しく、どんな立派な作品を書いているかしれないけれど、たいした人間じゃないなと思ったことがあります。
女性でも、荷物は男性に持たせるものと思っている人がおります。もっとも、そこはバランスの問題で、同行の男性が何も持っていない時には、半分持ってもらうとか、「持ってあげましょう」と言われた時に、お願いするのは当然のことで、頑(かたく)なに大荷物を持って歩くのは可(か)愛(わい)気(げ)がないものです。
自分の荷物は自分で持つ。抽象的な意味でこれは人生の原則、他人に荷物を持たせて平気な人は“お荷物人種”と言われても仕方ありません。
役割に対して鈍感な人は、このお荷物人種に多いのではないかと思います。自分の持つべき荷物と、相手の荷物をきちんと区別する。それこそが職業人の原則であり、この原則が守られて初めて、職場は楽しくなるのではないでしょうか。
役割意識が強すぎるのも……
管理職がその役割意識だけを強烈に持った場合、とかくトラブルの原因を作ることになります。
これは、私の失敗例ですが、初めて管理職になった時、机の配置替えをしたことがあります。気分一新ということと、仕事の能率をもうすこし上げるような配置をしたいと思ったのです。非常に有能な女性がいて、私の仕事を助けてもらいたいという気持もありました。
ところが会議を開いて、その試案を配(くば)ったところ、くだんの女性が、わっと泣き出して会議室を飛び出していったのです。
私が室長の権限をカサに着て、彼女に意地悪をしたというのが、その理由だと聞かされました。
これには本当に驚いてしまいました。この時まで日頃の彼女の私に対する感情、つまりは嫌われていたということに、まったく気がつかない鈍(どん)感(かん)ぶりでした。
私の頭の中には、“仕事の能率”ということしかなく、そうした若い女性のこまかい感情に頭を回す余裕がなくなっていたのも事実です。
これは管理職の役割を持つ者が、時として陥(おちい)るワナであり、エゴが見え隠れしています。
新任早々、手ひどい反撃をくらったものですが、自分の日頃の人間関係を反省すると同時に、役割にのみ突っ走り、能率主義になってはいけないと、大いに考えさせられました。
特に管理職ともなると、職場に長くいて感受性がいささか鈍(どん)磨(ま)しています。そこに責任感が重圧としてかかってくると、自分の役割だけしか眼に入らなくなって、他人を自分の思うように動かそうとあせりが出てくるというわけです。
役割意識を持たないのも困りもの、持ち過ぎるのもハタ迷惑のいい例でした。
お互いの荷物をすこしずつ分け合う関係が職場には大切なことです。自分の役割と相手の役割を尊重しつつ、協力し合う関係がなければ、職場の人間関係は成立しません。
とりわけ、女性に対しては協調性が求められていることは、謙虚に受けとめるべきです。
管理職が男性に何を望むかといえば、まず独創性、ついで企画力、一方、女性には協調性、ついで責任感という調査もあります。この男女の期待のされ方の違いは、これまでも述べてきたような、男女の仕事配分の不平等に原因しているのですが、女性に対してなぜ、こうも協調性が求められるのか、それは現実に欠けていることの指摘ではないか、かえりみる必要もあると思うのです。
前述の銀行マンK氏は、つぎのようにも言っています。
「銀行に入ってくる女性は、一人一人を見ると非常に優秀なんですよ。高校を総代で出た人が何人かいたりして、皆、真面目で努力家でよく働きます。銀行は女性にとってはきつい職場だと思って感心することもありますよ。
ところが、流れ作業になると駄目なんです。結局、指導者がいっぱい出来てしまって、もめるんですよ。あの人と一緒なら仕事しない、なんて言う人まで出てきたりして、調整が難しいんです」
人と歩調を合わせて仕事するというのは、難しいものです。ある場合には、他人のミスを自分のミスとして受け入れなければならないこともあります。他人の仕事の失敗で謝(あやま)らなければならないことも出てきます。
協調というのは、他人の荷物を請(う)け負(お)うことであり、同レベルか、それ以下の人の決定に従うことであり、自分を殺す部分もあるものです。忍耐が必要とされるものです。またその忍耐を背負えるだけの自負心のようなものも持っている必要がありましょう。
もし女性に協調性がたりないとすれば、集団内における身の処し方の訓練がたりないからです。男には千年の宮仕えの歴史がある。女はたかだか百年くらいのもの。大量に働き出したのは、この三十年ぐらい、組織に対する文化遺産ともいうべきものがない。むしろ心してこれから作り上げていく分野のものです。
協調性三つのルール
協調性に関しては、三つの要素があると私は考えます。一つは、集団内のルールを守ること。二つには自分の意見を述べること。三つには、決定事項に従うこと。
まず、集団内のルールを守ること。どんな集団であれ、約束ごとはあるもの、たとえば、特別養護老人ホームの寮母の仕事では、ナースコールが鳴ったら、すぐ近くにいる人が行くという約束ごとがあります。ところが知らん顔をして、誰かが行くだろうとたかをくくっている寮母がいたとします。結果は老人から不満が出、ここの寮母は働かないと評価されてしまうことになります。勿論、近くにいても手の放せない仕事をしていることもありますが、そんな時は誰が見てもわかります。
にもかかわらず一人ルール破りがいると、集団内の監視が厳しくなり、一人一人何をやっているかチェックされ、協調性とともに信頼関係も崩壊してしまいます。その他、集合時間を守るとか、締め切りを守る、分担に責任を持つなど、集団内のルールに対する積極的支持が必要です。
ところが、これもまた悪いルールを作り上げてしまうことがあります。もし、朝は必ず遅刻すべし、などというルールが出来てしまったらどうなるでしょう。
仕事に手を抜くルール、つらい仕事は誰か一人に押しつけてしまうルール、こういうルールばかりになってくると問題は当然起こってきます。
そこで必要なのが、第二の自分の意見を述べること。それは、すこしおかしいのではないか、そうするよりもこうしたほうがいいのではないか、私はこう思うなど、自分の意見をその場で述べる勇気が求められてきます。良い人間関係は、必ずしも相手に同調するばかりではなく、自分の反対意見を述べる自己主張の確かさからも生まれてきます。
あとになってから「私は変だと思ったのよ」とか、「こうしたほうがいいと思ったのよ」など言う人がいますが、それは卑(ひ)怯(きよう)というものです。
だいたい、良い知恵などはあとから出てくるもの、皆が試行錯誤している時に、その知恵があったのなら、どうしてその時に言ってくれないのか、私はいつも腹を立てています。
集団全体が悪い方向に向かっている時はなおさらのこと、自分の意見を言う義務があります。とても自分の意見など言える雰囲気でなかった、などと弁解するのは許されません。
また、自分の意見を述べることは、もしその意見が通らなかった場合でも、胸の中がすっきりします。そのことによって、参加意欲が違ってくるものです。
皆が自分の意見を言うことは、結果として他人の意見を聞くことになり、良いアイデアも生まれてきます。また、こうした訓練を通して、他人の意見を聞き、受け入れるべきものと、そうでないものとの選択力も、生まれてくると言えましょう。
第三の決定事項に従うこと。これについては、あるPTAの例が反面教師となります。一時間以上も遅れてきた人が、決定事項を引っくり返してしまったのです。
「私、遅れてきたんですけど、一番めの議題、どうしてきめたんですか。私は反対です」
などと弁舌たくましくやり出して、結局、決定事項は再び協議事項に逆戻り、えんえんと議論が続きました。
民主主義のルールからすれば、一人でも多くの人の意見を聞き、議論しつくしてきめるのが良いとは思いますが、遅れてきた人には、それをする権利はないと思います。
時間までにくるというルールを、いかなる理由にせよ守っていないのですから、初めにきめたことに従うべきだと私は考えます。
と同時に、少数意見だった人が、決定事項に従わないケースが時々見られます。
「私は反対だったんだから」と、あたかも失敗を待ち望んでいるかのように非協力の人を見ると、がっかりしてしまいます。よしんば自分の意見と合わなくとも、皆できめたことには従う。これは小学生でもやっていることです。
つまるところ、協調性というのは個性を出しあいながら仲良くやることです。職場を楽しくしていこうとする努力の中核をなすものなのです。仲良くするためには、単に気が合うとか、趣味が一致しているとか、そういうものだけではなく、こうした三つの面での努力もまた必要です。
その底には、相手に対する信頼とか、尊敬とか、親愛の情などが流れていることはいうまでもありませんが、こうした協調関係を作り上げていくプロセス一つ一つを、大切にして欲しいのです。
その一方で協調性も間違えた方向にいくと、グループ化や圧力団体化してしまいます。集団とは恐ろしいもので、一人、ボス的人物が集団の方針に対して反抗的対立的態度で人を集め出すと、それが大変魅力的に見えてきます。そちらに参加しないと、村八分にされる恐怖にかられ、風になびくように巻き込まれてしまいます。
そして、その集団内では、マフィアのような緊密な協調関係が生まれてきますし、マフィア内に閉じ籠もってしまうと、外界が見えなくなってしまいます。
私の知人の、特別養護老人ホームの男性指導員が嘆きました。
「どうして女っていうのは、派(は)閥(ばつ)を作るのが好きなのかなあ。必ずグループになるね。そして、グループ同士いがみ合う。仕事をしない奴ほど群(む)れたがるのはどうしてなんだろう。つくづく女とは働きたくないなあ」
しかし、これは女だけではありません。政治家の世界など、○○一家というではありませんか。そこには国を良くするという良識が、どこまで機能しているかまことに疑問です。また、サラリーマン社会においても派閥争いは日常茶(さ)飯(はん)事(じ)です。
「女同士の足の引っ張り合い」とよく言われますが、男の足の引っ張り合いのほうがもっと陰険で壮烈、社会的生命まで奪ってしまうのはザラにあることです。
女同士のそれなど、可(か)愛(わい)いものだと私は思っているのですが、とかく女についてこのことを言われるのは、やはり私も女として心しなければならないと思うのです。
おもしろいことに、一度マフィアに組み込まれると、女性はトイレに行く時まで一緒に固まって行きます。
こういうのを“つれション人種”と言うのです。職場のひんしゅくを買うのは眼に見えています。こうした協調性に対しては、一人一人が批判の気持を持つことが、本当の意味での協調性というものでしょう。
とにかく、職場を楽しくしていくということは、一人一人の役割意識と協調性の上に生まれてきます。
楽しい職場というものが、天から降り、地から湧(わ)いてくるものではないこと、みずからの努力にかかっていることを忘れてはならないのです。
とはいうものの、現実には発作的、衝動的に行動してしまうものです。しまった、と気がついた時はあとの祭り、こちらのほうがずっと多いもの、何やら苦(にが)い思いが残って、「私ってまったく」とホゾをかむ始末です。
ホゾはかめばかむほど味が出る、するめみたいなものです。若いうちは、ホゾをたくさんかむのも勉強というものです。
自分自身のやり方が、楽しい職場作りの阻害要因になっているのではないか。この章において述べたチェック・ポイントに従って点検してみる必要も、またあるのではないかと思うのです。
第6章 言葉づかいも化粧のうち
言葉づかいは難しい
ある有名なタレントさんは、お悔(くや)みの席に出るのが大変苦(にが)手(て)なのだそうです。
若い頃から、誰にでもニコニコと愛想良くすることを叩(たた)き込まれた彼女、人の顔を見ると反射的に顔の筋肉がニコッとしてしまう。もし悲しみの席でそれが出てしまったら……、それを思うと恐ろしくて、とても出かけられないと言うのです。
私も子どもの時から、誰にでもにこやかにすることを強制されて育ちました。
「好きな友だちとばかりつき合っている。好き嫌いが激しい。誰とでも平等に遊ぶように」
通信簿にはきまって、このような注意が書かれ、子ども心にも自分は好き嫌いの激しい人間だから、注意しなくてはならないと、つらい思いでした。
その後遺症を、今でも引きずっていて、いやな人だと思うと、自分の心中を悟(さと)られないように、思わずニコニコしてしまいます。そして、あとでぐったり疲れてしまうのです。
人を見る時、どうしても“好き”か“嫌い”かで分けています。“好き”な人は少なく、“嫌い”な人が多いのは困ったことです。
“好き嫌いの多い人間”であることを、子どもの頃から意識して育った結果、人とつきあうことに大変臆(おく)病(びよう)で、ぎくしゃくしたものになってしまい、これは歳(とし)を重ねても、うまくいきません。
最近は、もうこの歳になれば地をさらけ出してもいいのではないか、また、人と平等につきあうことなど、誰にとっても不可能なことだと開き直ったりもするのですが、今ひとつ中途半(はん)端(ぱ)な気持を抱いています。
感情が激しいのも私の特徴です。良くいえば感受性が強く、悪くいえば気分屋。学生時代にはすぐ、「うわあ、感激!」と叫ぶもので、“カンゲキ”というニックネームがついていました。
感情の激しいことは、人間として見た場合には、けっして悪いことではありません。それゆえに喜びも悲しみも、深く味わうことが出来る、その感受性は財産なのです。
ところが、それは往々にして自分の身勝手となり、表情や行動に出ると、職場では本人にとっても周囲にとっても重荷になってきます。私の職場での歴史は、この感情の平準化の歴史でもありました。
自分の感情をコントロールするには、どうすれば良いか大変難しいテーマで、いずれあとで(第八章)詳しく考えてみますが、ここでは、そのまず第一段階として、コントロールの下手な人のための有効なカムフラージュ法として、言葉づかいに気をつけることが大変役に立つことを述べたいと思います。
雑誌などに出ている職場の不満例を見ると、言葉づかいに関するものが非常に多く出ています。
言葉づかいほど、人間関係の“機微”や、職場の中での“地位”を現わすものはありません。
上役や先輩には、それらしい言葉づかい、下役や後輩にはそれらしい言葉づかい、それは暗黙の強制となって職場を支配し、そこからはずれると生(なま)意(い)気(き)だ、礼儀を知らないと制裁を受けることになります。
また職場には、共通言語ともいうべき独特の言い回し表現法などがあり、それを知らないと仲間はずれにされる憂(う)きめにあいます。日常的な会話の中にもあるし、仕事上必要なテクニカルタームとしてもそれはあります。
後者の場合は、先輩に教えを乞(こ)うことで解決出来ますが、前者の場合は、自然に染まっていくことでしかわかり得ないケースが多いようです。
新入社員の頃、私がいちばん苦労したのが言葉づかいであったように思います。当然のことながら、言葉づかいには生い立ち、家庭でのしつけ、育った地域の風土などが複雑に入り混(まじ)っています。私が生まれ育った北海道は、比較的方言やなまりがないといわれますが、それでも就職して上京した頃は、ずいぶん言葉でつらい思いをしました。
「今朝、上野に着いたんですから」
と言った途端に、どっと笑われた時のくやしさ。「……から」を最後につけるのは、謙(けん)譲(じよう)の気持を現わしていますが、自分が丁(てい)寧(ねい)な言い方をした時に笑われることほど、腹の立つことはありません。同時に私には風土のせいか、しつけのせいか、敬語を上手につかうことが出来ませんでした。
目上の人につかう敬語、同僚への丁寧語、職場では必要不可欠なものがつかえずに、どの人にも乱暴な言葉づかいになってしまいます。うっかり、
「いやあ、今朝遅刻しちゃったんだ」
などと「だ」を言ってしまって、一瞬、相手の表情に現われた不快にたじろいだことが多々ありました。
言葉づかいで自信を失うと、人間関係への積極性も失われてきます。引っ込み思(じ)案(あん)となり、誰とも口をきかず、性格すらも暗くなります。
周囲の人からは“話しづらい人”と敬遠され、それがより無口を引き起こし、自閉症的になってしまい悪循環となりました。
誰にも丁寧な言葉で
そんな時、私は上司のN氏の言葉づかいに、あっと感じるものを発見しました。もともとN氏は、大変言葉の丁寧な人なのですが、朝の挨拶の時、どんな人に対しても、
「おはようございます」
と必ず“ございます”がつくのです。小なりといえども、一つの会社の重役がです。
さきほど、言葉づかいは地位を表わすと書きましたが、朝の挨拶でも、上の人には「おはようございます」。下の人や同僚には「おはよう」が普通です。私もそうでした。
以後、N氏の言葉づかいに注意していると、上に対しても下に対しても言葉の変わらないことに気がつきました。
必ず名前には「さん」をつける。命令口調は使わない。「コピーとってくれ」ではなくて「コピーとってください」なのです。
彼は、もしかしたら私以上に感情の激しい人なのかもしれない。その平準化の手段として言葉を丁寧にしているのではないか、見習うべきはここだと思ったのです。
人は誰でも差別されるのはいやなもの。上司や、上に対する言葉と下の人への言葉とがらりと変わるのにも腹が立ちますし、乱暴かつ命令口調、いくら親愛の情があるとはいえ、「バカ」などと言われて気分の良いはずがありません。
また、同じ新入社員で入ったのに、社長の縁(えん)故(こ)で入った社員と、そうでない人とで、周囲の言葉づかいが違うとか、可(か)愛(わい)い子とそうでない子と違うとか、そういう差別は、たとえば賃金や昇格の差別と違って、眼に見えないだけに抗議も出来なく、「何をこまかいことにこだわっているのよ」と、笑われるのがせいぜいのところです。
けれど、こうした日常的なこまかいことが、こまかいことであるがゆえに日々を楽しくもさせ、つらくもさせてしまうものなのです。
とりあえず私も、目上目下を問わず、挨拶だけは「おはようございます」と言うように心がけてきました。
社会の荒波にもまれているうちに、言葉づかいもだいぶ丁寧になってきましたが、それでも、電話などで相手が乱暴な言葉づかいや、嫌(いや)味(み)なものの言い方をすると、負けずにこちらも乱暴になり、やり込めるような一言を探しています。まだまだ修行がたりないようです。
女性には「女言葉」ともいうべきものが要求されています。具体的にどういう言葉づかいを指していうのかはあいまいなのですが、うっかり男性と同じ言葉をつかってしまい、「なんだ、その物の言い方は」と言われてしまいます。
私は、丁寧で要領のいい言葉づかいをしていれば、女らしい言葉に気をつかう必要はないと思いますが、ただ一つ「○○君」という言い方だけはやめたほうがよいと思っています。
これは、やはり上下を意識した言葉づかい、職場の同僚や後輩は、学生時代とは違うのですから、親愛の情がこめられているとはいえ、傍で聞いていて聞き苦しいものであることを知っておいたほうがよいと思うのです。
私の勤めていた職場では、「課長」とか「部長」とか、役職名で人を呼ぶ習慣がありませんでした。呼び捨てにする人もいなく、皆一(いち)律(りつ)に「さん」づけです。これは創造的な仕事をする職場では大切なことだと思っています。人を呼ぶ時に、こまかな序列意識で呼ぶのは煩(わずら)わしいもの。私のような性格の人間には居(い)心(ごこ)地(ち)の良いところでした。
しかし対外的には「部長の鈴木」などのように、役職名をつけて呼び捨てにするべきです。
職業は第二の性格を作るといわれていますが、職業によって日常の言葉づかいは非常に違ってきます。
新聞記者は記者らしい言葉のつかい方、話しぶりがありますし、同じ新聞社の人でも、取材記者と整理部記者、広告局の人などで微妙に違っています。
いちばん丁寧なのが広告局、そっけなく不愛想なのが整理部、取材記者は二通りあって、押しつけがましいのと、安心して喋(しやべ)ってしまいそうな聞き上手と、やはり職場の雰(ふん)囲(い)気(き)を感じさせるものがあります。
言葉づかいは同化されやすい
本人すらも気がつかないうちに、知らず知らずのうちに染まってくる言葉づかい、それもまた職場の共通言語といえるかもしれません。対外的な場に出た時に、いちばん気をつけなければならないことです。
昨今、新入社員に対して「言葉づかいがなっていない」「態度がなっていない」とよく言われます。
それを言われる新入りの側は、学生言葉だったり、恥ずかしくて挨拶がぎごちなかったりするのでしょうが、そう言う先輩の中にも先輩意識がチラついています。
先輩というのは、既存の職場に同化している人たちです。
たとえて言えば、さきの新聞社の例のように、セクションによって応対が違ってくること、同じセクション内の人は似てくることでも明らかですが、新人はまだこの同化していない異質分子です。その異質性に眼を向けて同化促進の援助をすることも大切である反面、自分の同化性に注意する必要も出てきます。
「同化しきっていて、外の世界の人から見れば、奇異に映(うつ)ることがあるのではないか」
こう醒(さ)めた眼で自分や自分の仕事、態度などを振り返ってみることは、マンネリ化を防ぐ道の発見につながります。
私は、ある国立大学によく電話をするのですが、そこの電話交換手さんは、じつにつんけん、不親切、乱暴、何人ぐらいいるのかわかりませんが、いつかけても不愉快です。
ふとしたことから、そのことが夫との話題になり、彼もまったく同じことを感じていました。
彼は、
「一つには、自分がどんな応対をしているのか、まるで鈍感になっているんだろうな。一人二人いい人がいても、きっとつぶされてしまうんだろう(同化)。もう一つは、大学は偉(えら)い先生方がいるから、自分も偉くなったつもりなんじゃないかな(同化のもう一つのかたち)」
と分析していました。
私の友人の看護婦が、ある時、
「良い人を見習うっていうのは難しいのね、ところが悪い人にはすごく簡単に、すぐ影響されてしまうのよ」
と言いました。
このことは、協調性の注意事項として、前章でも書いたことですが、特に言葉づかいは同化されやすいもの、言葉を仕事の道具としている人は、気をつけなければならないところです。
もう一つの同化のほうは、古来「虎の威を借る狐」と言われているもので、これもまた言葉づかいが影響されやすいものです。
よく、トップと同じような口調で話す上役がいたりしますが、このあたりも狐のなせる業(わざ)でしょう。もっとも、虎といえども、きちんとした立派な虎は、かつての私の上司N氏のように、誰に対しても丁寧であるということも出来ます。
他人の心を汲(く)んだ言葉づかいは、人間関係を円滑にする上での潤滑油のようなものです。
社会心理学者である成城大学の石川弘義教授は、著書『職場で悩む女性へ』の中で、言葉の機能として次の三つを上げています。
一 事実伝達・報告の機能
二 感情表出の機能
三 社会的結びつきをする機能
この三つが、うまく機能して、はじめて言葉は有効な力を持つのですが、私は特に三番めが大切だと思います。
自分の意見を言いたい時には、「イエース・バット」で語れと言う人がいます。
「そうですね」と一度是認し、そのあと「しかし」と反論を述べる。その「イエース」が人間関係にとって大切だというのですが、これなど、まさしく三番めの機能を上手に活用している例でしょう。
わが家には、いろいろな勧誘員がきます。にべもなく断ることが多いのですが、そのあと、す早く「ご苦労様でした」とつけ加えることにしています。
不思議なもので、これを言うと、十人ちゅう九人までがあきらめてくれます。この一言も「イエース」に匹(ひつ)敵(てき)するもので、“社会的結びつきをする機能”として言葉を活用していると言えるでしょう。
こうした言葉のつかいかたによって、人間関係は変わるもの、特に二番めの感情表出の機能と三番めの社会的結びつきをする機能によって、よりなめらかな関係が生まれます。
それは一般的に、リップ・サービスと言われているものです。
女性には、このリップ・サービスの苦(にが)手(て)な人が多いようです。「相手をタテることが大切だ」とはいつも言われることですが、どうすればタテることなのか、タテとヨコの区別がつかないことが多いのですが、リップ・サービスはタテるための有効な方法です。
一言、
「さすがあ」
と感心する。
「しっかり者なのね」
と励(はげ)ます。
つまり、相手の感情に対するサービスとも言えましょう。
これは、けっしてお世(せ)辞(じ)でもないし、その場の感情で同調してしまうことでもなく、ほんのちょっとした相手の感情への共感を示すことなのです。
唇(くちびる)は、物を食べたりキスしたりするためにのみあるものではなく、こういうサービスをするのにも役に立つものです。
けれど中には、複雑な心の人もいて、
「何よ、口さきでばかりうまいこと言って、本心では何を思っているかわかったもんじゃないわ」
などと、表現以外のところにある“裏”を探ることに熱心です。
こういう人を見ると、人間すこし単純に出来ているほうが幸せだなあと思い、気の毒な感じがします。またこのような人はじつに繊細で、それゆえに傷つきやすい。本人も周囲も苦労することになります。気が回り過ぎるというのは不幸なことです。
リップ・サービスの必要性
医療における人間関係を研究しているアメリカの心理学者、カール・ロージャスは“共感”ということを非常に重視しています。“受容”あるいは“尊重”、そうしたものの中から“共感”が生まれ、これのないところに人間関係は成立しないというのです。
“共感”の土壌である“受容”、これも難しいものです。人間関係の中で親子関係がいちばん難しいといわれるのは、親の欲目や過剰な期待、代理欲求などが投影して“受容”が下がるからであり、人間関係が密なものは、時として“受容”に邪魔が入ります。
職場においても同じことがいえ、なまじ仲良しであるがゆえに相手を認めたくない、相手が一歩前に出るのは許し難い気持になって、“受容”は低くなり、従って“共感”が生まれにくい関係が生じることがあります。
人間関係は、立派なことを言うは易(やす)く、行なうは難(かた)し、の典型のようなものであり、また日常の中で“受容”の“共感”のと、いちいち考えてはいられないものです。
リップ・サービスと聞いて、いやだなあ、結局はお世辞じゃないのと思った人がいるかもしれませんが、お世辞は自己を卑(ひ)下(げ)し、自分を低める作用が働きますが、リップ・サービスは相手と同等の位置に立っています。
「ご苦労さま」
「さすがあ」
これらの表現は、相手を励まし、こちらからの“共感”を示すための有効な方法です。人間関係の難しさを解きほぐす糸の最初は、こうした易(やさ)しい方法から入っていくのも大切なことです。
けれど中には、どうも口下手だ、とてもリップ・サービスなど出来ないという人もいるでしょう。さきのロージャスの研究家であり、カウンセリングの実践家でもある大段智亮先生は、次のように述べています。
「人間の関係は“言葉”の次元では生まれない。“態度”の次元できまる」
言葉は、自分の意志や感情を伝えることは出来るけれど、何か一つ本質的なものが伝わらないのも、しばしば体験することです。言葉よりももっと有効なものがある、それが“態度”だと先生は言います。
アメリカの言語学者マジョリー・F・ヴァーガスは、人間のコミュニケーションのうち言葉の持つ力は三五パーセントだとも言っています(『非言語コミュニケーション』)。
いくら言葉が丁寧でも、“態度”が横(おう)柄(へい)であったり、乱暴だったりすると、なまじ言葉が丁寧なだけに、僧衣の下に鎧(よろい)がチラホラ、傷つけられた思いを抱きます。言葉は乱暴でも、限りないやさしさを感じることはよくあることです。
それでは“態度”というのは、どういうことを言うのでしょうか。大段先生の定義によると、
「その人の信念あるいは人生観――その人の対人態度――と、その人の言葉や行動、つまり“信念”と“言動”の中間にあって、両方を包んでいるもの」
ということになります。
つまり、創造性、協調性、責任感、自信度、包容力、対人判断などと呼ばれるものが“態度”であり、これは“性格”が変わりにくいのに対して、努力次第で変わり得るもの。これらの要素を発揮できる時は、そうした“態度”をとる能力があるという意味で、“態度能力”とも言い得るものだということです(大段智亮『人間関係の条件』)。
私たちが「あの人の態度は大きい」とか、「傲(ごう)慢(まん)だ、可(か)愛(わい)気(げ)がない」などと言う時は、どうもそれを言われる人は、“態度能力”の点で欠陥のある人が多いようです。大段先生の講演を聞いた時、
「熱い胸に、冷たい頭」
と言われたのが大変印象的でした。まさしく“態度”とは、熱い胸と冷たい頭の総合体なのかもしれません。
この“態度”も、言葉と同じように、どの人に対しても平等でありたいものです。職場の中で、相手によって“態度”の変わることは不愉快のもと、このあたりにも“態度”の構成要素である「信念あるいは人生観――対人態度――」が問われるのかもしれません。
言葉づかいにしろ態度にしろ、それは人間にとって、お化粧のようなものだと私は思っています。
自分を良く見せるための、ほんのちょっぴりの背のびが薄化粧だとしたら、好感を持たれる言葉づかいや態度に心がけるのも化粧というものです。
女は天動説だといわれます。自分は天地不動、良いも悪いも向こうからくる光のせい、相手の変わることをひたすら待つ、これが天動説です。そういう態度で不満をかこつのは毎日がもったいないではありませんか。自分なりの回転の軸を持ち、つまり地動説あるいは自動説となって、自分が動くことによって受ける光も違ったものになる、そのすばらしさを考えてみたいものです。
第7章 口(こう)禍(か)と上手なコミュニケーション
人を傷つける言葉と悪口伝達者
あるOLが言いました。
「職場で言われていやな言葉はね、『あんたまだいたの、早く嫁にいかないと売れ残るよ』って言われることね。これを言われると、仕事をする気もなくなってしまうわ。言うほうは傷つけようという意識はないんだろうけど……」
なぜ、この一言がぐさっとくるのか、要素は三つあります。これまでの繰り返しのようになりますが、一つは「あんた」という見下げた言い方、二つには「まだいたの」と、職場で期待されていない人間であることをほのめかす表現、三つには「早く嫁にいかないと」のように、女性の生き方を、一つの尺度でしか見ようとしない既成概念の押しつけ。うっかり気軽に言った一言であるにしろ、ただ男であるという理由だけで、これほど悪要素の詰まっている言葉を吐いていいものか疑問です。
けれど、言ったほうはすこしもそのことに気がついていない。ごく普通の挨拶代りで言ったつもり。もし彼が、これほど相手を傷つけてしまっていたことを知ったら驚くことでしょう。
また、こんな話もあります。ある新聞社のベテランの婦人記者が、二児を抱えて悪戦苦闘中の若い記者のことを、
「あの人どうして辞(や)めないのかしらね、仕事が好きなのかしら」
と言ったことで、周囲の人に大きなショックを与えたというのです。
黄(こう)禍(か)論は、黄色人種が西洋文化を圧倒し、白色人種を侵害するのではないかという西洋人の恐怖心から生じた考えですが、口は禍(わざわ)いのもと、うっかり言った一言が相手のプライドを傷つけてしまう「口(こう)禍(か)論」も、また日常茶飯事に起こっています。
私なども、表現に工夫がたりなかったり、ついホンネが出たり、我としらずに人を傷つけてしまったことは何度もあります。皆さん方も、悪意なく人を傷つけた体験を多く持っているのではないでしょうか。お互い慎重でありましょう。
特に気をつけなければならないのは、賞讃されている女性への応対。人はとかく誰かが賞められていると、そのぶん自分が暗(あん)にけなされているような思いになるもので、そんな時に言わなくてもいい一言「そんなこと言うけどあの人だって……」等々、気がつくとつい悪口を喋(しやべ)っているのです。
女に限らず男でもそうですが、どちらかといえば女のほうが“胸にしまっておく”のが下手なような気がします。
だいたいが、相手の良いところを発見するよりも、悪いところを発見するほうが易(やさ)しいものですし、また楽しいもの。この発見能力に特にすぐれている人もいますし、それに加えて胸に留めおく能力がたりないとなると、結果は目に見えています。
前にサラリーマン社会は悪口社会だと書きましたが、これは職場のレジャーの面もあるものです。
相手と意見一致で誰かをこきおろした快感は、サラリーマンであろうとOLであろうと、一度は味わっているはずです。と同時に、悪口がその時その場だけで納(おさ)まっていれば問題はないのですが、それが伝達された時、口禍は凄(せい)惨(さん)なものとなります。
悪口伝達者の存在は、どこの職場にもみられますが、それが多い職場ほど人間関係に摩(ま)擦(さつ)が強いようです。私のいた職場も、相当な悪口社会でしたが、伝達者がいなかったことが幸(さいわ)いしました。
伝達者の心理というのは、正直のところよくわからないのですが、愚考するに伝達された人のダメージが、当人の優越感を刺激するか、自分の存在を認めさせる悪あがきか、胸にしまっておけないバカ正直さなのか、そのへんのところだと思います。
ところが、情報伝達というものは、必ずしも中立客観的に行なわれるものでないところに厄介が生じます。
たとえば新聞報道などでも、必ずそれを取材した記者の人間性、心情が反映され、完全な客観性など幻想です。
調査の数字でも、五〇パーセントを高いと解釈するか低いと解釈するか、その判断基準の明確でないことは多く、分析者の“眼”次第となるのです。主観が加わった悪口の伝達は、百害あって一利なし、その場限りにとどめおくのがマナーというものではありませんか。
情報の受け方、伝え方
子どもの頃、電話遊びをした記憶の人も多いと思います。ある話をAさんからBさんへ、Cさんへと伝えていくうちに、最後の話は最初と大きく違ってしまい、ひどい時には病院に行ったという話が、死んでしまったと伝わることも起こってきます。
デマについて研究したアメリカの社会心理学者ラザスフェールドは、「事態が重大で、しかもあいまいな状況」にデマが発生し伝(でん)播(ぱ)すると分析しています。
たとえば、地震とか銀行のとりつけ騒ぎとか、社会的パニックが発生した時に、その事態の重大さと情報がよく伝わらないあいまいさのゆえに、デマはより効果を発揮します。
日常の職場においても、小さなデマが小さなパニックを生んでいます。他人から与えられるのは“あやふやな情報”であり、伝達者の主観も含まれているとは知りつつも、冷静ではいられません。「まさか……」と疑い、「そうかしら……」と気弱くなり、「やっぱり……」と確認し、うつうつとして楽しめません。シェークスピアは、こうした人間心理の洞察にたけていた人で、『オセロ』は人間の心の弱さ、愚かしさを衝(つ)いた名作ですが、オセロの悲劇は、かたちを変えて日常生活を支配しています。
悪口情報は典型的な“あやふや情報”なのですが、そこに伝達者の快感と、受け手のくやしさが絡(から)んでいるだけに厄介なもの。「なぜそんなことを言われるのか」自分の側の至らなさや真実に、思いをめぐらす余裕がなくなってしまいます。
オフィスにおける情報伝達は、当然のことながら悪口情報だけではなく、仕事上の重要な情報や生活上の有効な情報も、また流れています。悪口情報に敏感になると、これらの本当に大切な情報を、とり逃がしてしまうことになります。
いかに自分が、重要な情報の正確な伝達者たり得るか、また客観的な受け手となり得るか。むしろ、そちらのほうがずっと大切な問題です。
職場においては社員一人一人が情報の受け手であり、同時に送り手。たとえば、お得意さんから電話を受ける(受け手)、それをきちんと上司に報告する(送り手)というような、二つの役割を持っています。
このバランスが崩れて、一方的な受け手だけになったり、送り手だけになったりすると、コミュニケーションも偏(かたよ)って流れていき、情報がまんべんなく伝わらなくなります。
また、受け手が、ある先入観を持っている場合、たとえば、自分はガンに違いないと思い込んでしまった人は、医者や家族がいかに正確な情報を与えていても、すべてはガンであることの立証材料となってしまい、情報としての価値がなくなります。
「疑えば、あざなえる縄も蛇のごとし」というわけです。上手なコミュニケーションには、受け手の成熟が要求されており、これの達人は、いわゆる“聞き上手”ということになります。
私の友人、R子さんは大変聞き上手だと言われていますが、彼女のようすを見ていると、一つには、「ふんふん」というように、よくうなずいています。
「そうねえ」と言うあいの手、これは相手への“受容”として大変重要な言葉です。
ついで彼女は非常に適切な質問を挟(はさ)んでくれます。「それで?」「じゃあ、その時は?」など、その問いかけは、私の話を熱心に聞いてくれているような安心感を与えてくれます。
最後に、彼女は私の話に対して明快な結論を出してくれます。「結局、こういうことなのね。じゃ……こうしたほうがいいんじゃない」。結論が出せないような時は「そう……そうだったの」と何度かうなずくことで、私をすっきりした気持にさせるのです。
同時に彼女の大きな特徴は、ほんのちょっぴりユーモアと毒舌がこめられていること。かなり厳しいことも言ってくれるのですが、話したあと、さわやかな気持になるのは、毒舌がユーモアに包まれていて「まったくその通りだ」とつい思ってしまうわけです。
同情されることは、誰でも好きなものです。感情を是認されたい、全部受け入れてもらいたい、そういう“預けた”ような気分は心地良いのですが、それだけではすまないことがあるもの。何か適切なアドバイスを受けたいと思うことは多いものです。
その時、「歯に衣(きぬ)を着せずに言わせてもらうけど」などと単刀直入にぐさっとやられると、こちらの素直な気持がふっ飛んでしまいます。
相手に反論材料を、せわしく探させているようでは、上手なコミュニケーションとはいえません。
前章で、石川弘義教授の“言葉の三つの機能”を紹介しましたが、コミュニケーションにおいても、この三つは大切な働きをします。
事実伝達や報告としてのコミュニケーション、感情表出によるコミュニケーション、社会的結びつきを強めるコミュニケーション、この三つがバランス良く備わっていて、はじめて上手なコミュニケーションが成立するのです。
聞き上手の、R子さんの例を分析してみると、「そうねえ」と受容することで感情を表現する。「それで?」と合の手を入れることで社会的結びつきを強め、最後に結論に導くことで事実伝達機能のコミュニケーションをはたしています。
よい関係は信頼から
よく、特定のある人の前に出ると、思うように話せなくなることを体験します。胸がどきどきして口ごもり、思うように言葉が出てこない、どうも言っていることが自分の考えや気持と一致しない、恋愛感情のある相手の場合は別として、職場で上司や先輩、同僚にこういう思いを抱くと、本当につらいものです。
人間関係が悪いからコミュニケーションがうまくいかないのか、コミュニケーションがうまくいかないから人間関係が良くないのか、「何を言っても無駄だ」「口をききたくない」という気持になります。
コミュニケーションには言葉を介しない、眼とか手とか全体的雰囲気が作用している場合も多く、うまくいかない場合には「話しづらい雰囲気」とか「うっかり口をきけない気分」とか、眼に見えない主観もまた働いています。
ところが、何かの機会に話し合ってみると、あんがい、やさしくていい人だったということは、しばしば体験することで、コミュニケーションにおいても積極性は大切なものです。
と同時に、上手なコミュニケーションには、お互いの信頼が非常に大切です。特に、嘘の情報が入った時、それに振り回されないためには、日頃の仕事ぶり、つきあいから作りあげた信頼関係が役に立ちます。
ある特別養護老人ホームで、こんなことがありました。
おやつにりんごが配(くば)られた時、A寮母が一人のおばあさんに言いました。
「○○さん、りんごの皮、むきましょうか」
「いいえ、今はけっこうです」
このおばあさんは、もう八十歳過ぎ、すこし記憶があいまいになっています。しばらくしてB寮母さんに言いました。
「A寮母さんは、私にりんごむいてくれなかったんですよ」
A寮母さんは、飛び上がって驚いてしまいました。おばあさんはA寮母さんに悪意を持っていたのでしょうか、それとも忘却によるうっかりだったのでしょうか。
悪く解釈しようと思えば、いくらでも出来ます。A寮母さんなんかに、りんごをむいてもらいたくないと思っていた、なんとかして中傷してやりたいと思っていた、B寮母さんのご機(き)嫌(げん)をとりたかった、等々、一つの発言をめぐってA寮母さんへの批難は集中します。
幸いなことに、A寮母さんは寮母間でも、老人間でも大変信頼されている人でした。B寮母さんも率直に、
「○○さん、りんごの皮、むいてくれないって言ってましたけど……どうしたんでしょう」
と問いかける気持がありました。この場合、B寮母が真相を確かめないままに、C寮母に伝え、D寮母に伝えていったとしたら、職場の人間関係は崩(くず)れていきます。
A寮母の釈明を聞いた他の寮母は、
「○○さん、痴(ち)呆(ほう)状態が進んできたのかしら」
と、さっそくケース記録をつけることで、問題は解決しました。
つまり、他人への批判として情報が流れたのではなく、このおばあさんの状態変化としてとらえたところに、彼女たちの賢(かしこ)さがあり、日常の信頼関係の大切さを教えてくれます。
この時は私もその場に居合わせたのですが、彼女たちの屈(くつ)託(たく)のない笑い声に、救われたような気がしました。
ユーモアと同じく、笑いもまたコミュニケーションの大切な要素で、同じことを言うのでも、ニコニコして言うのと、しかめっ面(つら)で言うのとでは、コミュニケーションの流通が大きく違ってきます。
“語らない”のも一つの方法
と同時に、笑い声というのは意外と無防備で本性が現われ、注意しなくてはいけないことがあります。意識せずに笑い出してしまい、「何よ、その馬鹿にしたような笑い方は」と叱られることはよくあること。
すぐその場で言われれば弁明のしようもあるのですが、深く傷つけたまま気がつかないことも起こってきます。
私の元同僚の男性は、働き者でしっかり者と定評のあるS子さんの、笑い声がどうしても生理的に合わないと言ったことがあります。
「なんだか甘えているようで、そのくせ目立ちたがっているようで、あれを聞くとじつに不愉快になる」
これなどは、言われたほうとしては「はい、すみません」としか言いようのない理(り)不(ふ)尽(じん)な感覚なのですが、やはり職場では自分の笑い方も、一度点検してみる必要がありそうです。
笑い声でいやなのは、自分が戸を開けて入った途端に、ピタッと鎮(しず)まってしまうような場合です。
嗤(わら)い者にされていたのか、悪口でも言われていたのか、敬遠されていたのか、あれこれ憶(おく)測(そく)して気持が沈んでしまいます。笑い声は、意地悪の手段として、仲間はずれを作り、女の派(は)閥(ばつ)作りに大いに貢(こう)献(けん)することがあります。こんな場合、
「あら、何笑っていたの、私にも聞かせて」
「あなたには関係のないことよ」
などの会話に、耐えられる神経の太さがあればいいのですが、おとなしい人や繊細な人は、時として被害者意識だけが残ってしまいます。
「何笑っていたの」
この一言が言えればしめたもの。被害者意識にこり固まり、自分を慰め撫(な)で回すワナに陥(おちい)ることから救われるのですが、こういう神経の図太さは、なかなか持ちえないものです。
時として、自分を図太くすることは大切です。けれど同時に、図太過ぎて周囲に煙(けむ)たい人間になってはいないか、被害者ではなくて加害者なのではないか、そう思う気持も必要。むしろ職場でのコミュニケーションでは、加害者として自分を振り返る醒(さ)めた眼を持っていることのほうが無難といえましょう。
さきほど、女は胸にしまっておくのが下手なのではないかと書きましたが、よく愚(ぐ)痴(ち)を喋(しやべ)ると、すっきりすると言う人がいます。
「私はなんでも喋れる人が、何人もいるわ」
などと言う人がいますが、私は、いつも本当かなあと思って聞いています。
確かに、私も愚痴をこぼし、聞いてもらっただけで胸がすっきりすることは体験していますが、けっして「なんでも」ではないし、また完全にすっきりするというわけではありません。
根本的なところを解決しないでおいて、表面だけをねりあんこの薄(うす)皮(かわ)のように、ちょっと乾(かわ)かしているような気持、中のほうは相変わらずドロドロしたものが残っています。
“感情表出”の下手な人間のせいかもしれません。他人に語ること、他人からの同意や、アドバイスを受けることの下手な人間は損なもの。思えば私などは、損ばかり積み重ねてきたような気がします。
自分でも反省はしているのですが、一方では、こういうやせ我(が)慢(まん)の人にサムライを感じるので困ってしまいます。
愚痴っぽい人が嫌われるのは、愚痴は他人に対して、さわやかな感情を与えないということでしょう。
物によっては、他人に話してすっきりする場合と、話すことによっていっそう気持が沈み、迷いが深まり、自己嫌(けん)悪(お)に陥ってしまう場合があります。
“語らないこと”そのことも上手なコミュニケーションの方法だということを覚えておいてください。誰にも知られたくないこと、秘密にしておきたいこと、それは人に語ってはいけないというのが私の原則です。
よく、「これは秘密よ、あなただけよ、誰にも言わないでね」と、打ち明け話をする人がいますが、ひとたび他人に伝えたものは、もはや秘密ではなくなると思っておいたほうが無難です。
それこそ、悪意なく“うっかり”喋ってしまうことがないとは言えませんし、それによって裏切られた思いをするだけバカバカしいというものです。
人間は誰しも不完全なもの、それを“秘密”の一言で、他人に完全さを要求することは不可能なのです。
「どうして私に打ち明けてくれないのよ」と怒る人がいるかもしれませんし、秘密を打ち明けられるのは嬉しいものですが、自分を守るためのコミュニケーションとして、語るべきものでないものは語らないのは、節度というものです。
もっとも“秘密”を共有するのは、人間関係をより楽しいものにします。
秘密の内容、程度にもよりけりで、A君のハートを射止めた嬉(うれ)しさなどは、誰かに語りたくてしようがないものですが、語る場合には、相手の人間観察をしっかりすること、万一洩らされてしまった場合は、自分の不明を恥じる心構えを持つことです。
言って良いこと悪いこと
自分が大切だと思うことは、自分で守り、自分で解決していくべきですが、やはり第三者のアドバイスを受ける柔軟性も大切です。
私は往々にして、この点で失敗します。その最たるものは、夫の転勤と単身赴任の件でした。
その時、私には秘密にしようという確たる気持はなかったのです。
ですが、このまま別居でやっていきたい、だけど本当にやっていけるだろうかと気持がフラフラしていて、周りの人から「そこまでして働く必要あるの」とか、「問題が起こらなければいいけどね」とか、踏み切った別居に迷いを深め、決心をぐらつかせるような、そんなことを言われる恐怖が口を重くしたのです。
職場の人たちに家庭のことまで喋(しやべ)る必要はないし、何よりも「辞(や)めるのではないか」と憶(おく)測(そく)されるのが、いちばんいやでした。
もうすこしようすを見、私の心に確固としたものが生まれてからと思っているうちに、同居の父がガンを発病し、そうなるとますます言えず、結局一年半、秘密になってしまいました。
あとで、多くの人から「突っ張り過ぎよ」と言われましたが、まさにその通り。余計な心労を背負い込む結果となりました。
自分でとことん考えて、己れの責任の上で物ごとをきめていくのは大切なことで、それが生きていくうえの基本ですが、上手に周りの人に語って、アドバイスを受けながらきめていくのも大切なことだということを、痛感しました。
この時、「辞めたほうがいいんじゃないの」は、私がもっとも言って欲しくない一(ひと)言(こと)でした。これを聞きたくないばかりに、秘密にしてしまったのですが、受け手として“言われていやなこと”は、送り手の側からすれば“言っていいことと悪いことの区別をつける”ことになります。
これもまた、上手なコミュニケーションにとってのきめ手になるもの、自分が言われていやだと思うことは、相手には言わない。その思いやりのある職場と、ない職場では雰(ふん)囲(い)気(き)はがらりと違います。
皮肉、毒舌、いや味に満ち満ちている人は、おそらく“人に言われていやなこと”をたくさん持っている人。その防(ぼう)禦(ぎよ)が攻撃に転じているケースもありますし、まるで鈍感でどうしようもない人もいます。私も思わず知らず、
「あなたは言っていいことと、悪いことの区別がつかない人なのね」
と、叫んでしまったことがあります。
一方、何ごとも裏を考え、奥を探り、毒舌、いや味と受けとらねば気のすまない“曲解好き”も、またいるものです。
私の友人にもこのタイプの人がいて、彼女の仕事の成果を賞めると、必ずいや味に受けとり、「それどういう意味よ」と言ってくる、まことにヘキエキして疲れます。
このへんも、お互いの信頼に今一つ欠けているものがあるようで、素直になれない時には、相手に何か下心があるのではと疑っている場合が多いものです。
上手にコミュニケーションの出来る人は、人生の達人と言ってよいでしょう。これは、「学問に王道なし」と同じように、王道のないものかもしれません。
多くの人は、口は禍(わざわ)いのもとで唇(くちびる)の寒い思いをし、悪口やデマに振り回され、曲解したり頑(かたく)なに殻(から)に閉じこもって無口になったり、傷ついたり傷つけたりしているのが現実です。
ですが少なくとも、言っていいことと悪いことの区別をつける、自分が言われていやなことは言わない、その思いやりこそが王道とは言えなくとも近道ではないかと思っています。
最後に一つ、電話におけるコミュニケーションの注意について――。
電話は、相手が見えない、自分を相手に見せられないということで、さきに述べた三つのコミュニケーション機能のレベルが落ちています。
電話応対については、研修などを受けているでしょうから、ここでは、事実伝達にしても、感情表出にしても、社会的接触にしても、直接会って話すのとは違うコミュニケーション手段だということだけを、お伝えしておきたいと思います。
特に、“感情表出”の点では、会話というのは、いかに眼の動きとか手の動き、全体的印象に左右されるものか、気をつけなければいけません。
なまじ見えないだけに、良い感情も悪い感情も増幅されます。良いほうがふくらむ場合を“電話美人”と言いますが、明るい声、丁寧な言葉づかい、テキパキした応対、それらは衰えた機能回復のための有効な手段であります。
私はよく友人から電話の態度が悪いと批判されています。
「電話の時は、声を一オクターブあげるのよ。そしたらいい印象になるのよ」
とアドバイスを受けましたが、これがなかなか出来ないところが凡人の悲しさで、電話の応対は本当に難しいものだと痛感しています。
第8章 感情過多とセルフ・コントロール
女の涙
前に、「あつい胸と冷たい頭」について書きましたが、これはあくまでも理想。現実はともすれば“あつい胸”だけをもてあますことが多いものです。
ちょっとしたことに涙がこぼれる、ムッとして返事をしようにも言葉が出てこない、胸の中が波立ち騒ぎ、その感情の激しさを我ながらもてあます。私も長い職業生活の中には、こんな思いを何度も味わっています。
ある大学の先生が、こんなことを言ったそうです。
「君イ、女の涙なんて男のしょんべんのようなものだよ。一定量たまると自然に流れ出てくるのさ」
男は、一定量おしっこがたまると流れ出してくるものなのか、男の生理のことはよくわかりませんが、そう言われても仕方ないようなことが、しばしば起こります。
私なども涙(るい)腺(せん)の弱い人間で、すぐ涙があふれ出てきます。
女の涙は困りものとされています。男の涙は、よくよくのこと(最近は男の人もよく泣くようです)。それに比べて、女は涙を“武器”として利用していると言われますが、そんな計算ずくで、涙が出てくるようになったらしめたもの。けっして武器たらんと思って流すわけではないのですが、時と所かまわず出てくる涙が、そういう誤解を与えてしまいます。
私の場合、泣いたことで有利になった経験はなく、武器としてはあまり効力のないもの。周囲を困惑させ人間関係をしっくりさせなくなるばかりでした。
この本を書くために、何人かのOLに会って話を聞きましたが、涙に関しては全員が経験者でした。思わず書類の上にポタポタ涙をこぼしたとか、トイレに駆け込んだとか、更衣室で泣きじゃくったとか、原因も場所もさまざまですが、よく泣いているようです。
フランスのキャリア・ウーマン、クリスチアーヌ・コランジュ女史の『私は家に帰りたい』(寺田恕子訳)を読んでいると、こんなことが書いてありました。
「仕事の上で、いやな問題にぶつかったとき、何よりもがっくりさせられるのは涙である。いじめられる、ばかにされる、不愉快なめにあう、手ひどい仕打ちを受ける、理解してもらえない、そんな立場におかれると女性は泣く。不当な処罰を受けたり、卑劣な手をつかわれたりすると泣く。
自慢するつもりはないが、正直いって私にもそんなことが十数回はあった(自慢にもならないが、かといって恥じているわけでもない。こういう感じやすい面があるのは女として別に不名誉だとは思わない)。ひどく叱(しつ)責(せき)を受けたり、ひどく踏みつけにされたりすると、いくら歯をくいしばり、こぶしを握りしめ、そんなことになったら、みっともないと自分に言いきかせてもだめだ。
頭には一つのことしかない。家に帰ってベッドで思いきり泣きじゃくること。家までもてばいいほうだ! 上司の部屋を出たとたん、涙がどっとあふれたのは一回や二回ではなかった」
女性が感じやすく涙もろいのは、洋の東西を問わないようです。
でも、彼女もカッコの中で書いているように、そういう女性ならではの敏感さは、それほど不名誉ではないし、女性の感じ方、感性のあり方を周りの男性に知ってもらうのは、ある面ではよいことでもあるのです。私の元同僚が言いました。
「女の人が泣いているのを見ると、はっとするんですよ。ああこの人にも心があった、大切にしなくてはならないと。こちらの感情の乾いているのを思い知らされたような気持になりますね」
けれども職場では、こういう感じ方をする男性はごく稀な存在。有利な武器どころか、たとえそれが感激の涙であろうと、涙を見せられたほうは、当惑、困惑、狼(ろう)狽(ばい)、冷笑、あるいは無視、攻撃など、泣いた相手に対する評価を先行させてしまい、涙に伴って生じている感情の世界を認めたがらないものです。
カタルシスは小さな爆発
一九七六年の米大統領選予備選挙の時、民主党候補のマスキー氏は、思わず涙をこぼし、人前で涙を見せるような感情の激しやすい政治家に、国をまかせるわけにはいかないと、カーター氏に敗れた話を聞きましたが、これなども人の感情を無視しがちな、社会風土から生まれた反応なのかもしれません。
日本の社会は、もうすこしセンチメンタルですし、涙に対して許容的なところはありますが、それでも職場でよく泣く女性は敬遠されてしまいます。あるOLは言いました。
「泣いている人を見ると、なんとかしてあげたいとは思うけど、実際にはどうしていいかわからないし、困ってしまうことが多いですね。それに、よく泣く人は周囲とのとけ込み方が下手というか、四(し)面(めん)楚(そ)歌(か)になっているようです」
涙は、やはり不利な“武器”です。
泣いた理由や、その時の状況は忘れられてしまい、泣いたその事実と、周囲への影響の副産物だけが残り、結果として孤立を招きます。まこと男のしょんべんのように、出すだけ出して、あとはすっきりとはいかないようです。
けれど職場では、時として、うわっと感情を発散させたいことがあるものです。それが不幸にも涙であったり、悪口や愚(ぐ)痴(ち)であったり、または哄(こう)笑(しよう)であったりするのですが、何かストレスを吹き飛ばすものが必要です。
お酒の力を借りるのも一つの方法ですが、どこかでこうした発散をすることは、精神衛生を守り、陰(いん)々(いん)滅(めつ)々(めつ)となることから救ってくれます。こういう精神の浄化作用をカタルシスというそうです。
カタルシスとは、もとは排(はい)泄(せつ)とか浄化を意味する医学用語ですが、アリストテレスは、次のように定義しています。
「演劇を見ている時に、主人公への同情やその運命への恐怖など、悲劇を同時に味わうことによって重苦しい感情を解放し、一種の快感を味わう精神の浄化」
私たちは映画を観(み)て、自分がヒロインになったような気分を味わうことがあります。ヒロインの恋に自分も酔い、その悲しみに涙し、観終わったあと心の中にさわやかな感情が流れます。気分がうっとうしい時、映画や演劇を観たいと思うのは、こういうカタルシスを求めているのです。同時体験(擬(ぎ)似(じ)体験であっても)による感情移入、それによる共感、そして発散のプロセスを踏んでいます。感激して涙を流すようなことも、広義に考えて発散――カタルシス――と私は考えています。
何か、ぱっと発散させて、それで気持がすっきりする。このように精神状態を解放することは、特に感情の激しい人にとっては大切なことで、火山の大爆発を防ぐために小さな爆発があったほうが良いようです。
ところが、やり方によっては一長一短、本人にとってはそれで気持が鎮まるものであっても、職場の人たちにとっては「彼女は何を怒っているのか」「何を泣いているのか」さっぱりわからないことになり、女性の過敏症は職場のひんしゅくを買うことになります。
感情が過多になり、他人に対して過敏になってくると、人は二つのタイプに分かれるようです。
批判精神が旺盛になって攻撃的になる人と、被害者意識が強くなってひがみっぽくなり、「私はあの人とは違うのよ」とか、「あなたなんかにわかりっこないわよ」とか、自分の殼(から)に閉じこもってしまうタイプです。同じ人でも、状況によっては、このタイプが入り混(まじ)ります。
「あなたなんかにわからない」このセリフをよく言う人がいますが、私はいつもいやな気分になります。
「わからない」のは確かなことで、相手の感情や状況を理解することなど不可能なことなのですが、それでも、こちらは何か“関係”をつなぎたいと思っている、それをばっさり拒絶されてしまったような思いになります。
批判精神のほうも冷静さを失ったそれは、単なる不平分子に過ぎないこともあり、有効な働きをしません。
いずれにせよ、こういう発散のさせ方は、人間関係にとってはマイナス。自分自身にとっても嵐が納まった時には、あと味(あじ)の悪さが残り、周囲の人と、ひとつしっくりしなくなってしまいます。
“自分”と“他人”との距離
日々のオフィス生活の中では、感情過多は出来るだけ抑えたいもの、こうした心の動きをセルフ・コントロールと言います。
私たち女性は、この点は男性に劣(おと)っているのではないでしょうか。人間関係をスムーズにいかせるための訓練を、もうすこし積む必要があります。
もっとも、中には感情をいっさい顔に現わさず、無感動なのか、習熟しすぎなのか、無気味な人もおりますが、それでも、猫の眼のように秋の天気のように、くるくる気分の変わる人よりも、まだ安心出来るような気がします。
どうすれば、自分を上手にコントロール出来るのでしょうか。
まずその第一歩は、“自分”と“他人”との距離を計(はか)り、その中で“自分”というものをよく見つめることにあると思います。
今、“自分”という言葉をつかいましたが、“自分がある”とか“ない”とかいう表現は、日本語独特なものだそうです。
著書『甘えの構造』の土居健郎先生は、欧米では言語的に一人称の使用が強制され(英語ではI、ドイツ語ではIch、中国語では“我”などのように)、非常に早くから自我意識が目醒めさせられるので、一人称を用いながら“自分がない”という表現が日常的とはならなかった。これに反して日本では、一人称の使用が省(はぶ)かれる傾向にあるために、かえって“自分がある”のか“ない”のかということが、鮮明に意識されるようになったと述べています。
「まず非常にはっきりしていることは、この二つの表現(“自分がある”“自分がない”)が、それを用いる個人の周囲との関係を標示していることである。ここで周囲というのは、自然的環境ではなく、個人がその中におかれている人間関係、すなわち集団のことである。この関係は、だいたいつぎのようになる。もし個人が集団の中にすっかり埋没していれば、その個人に自分はない。しかし、集団の中にすっかり埋没しているところまでいかなくても、したがって個人が集団の中にある自己を自覚し、場合によっては集団の利害と一致できない自己を苦痛をもって認める場合でも、もし集団の物理的強制の結果としてではなく、むしろ集団に所属していたいという、みずからの願望が苦痛よりまさっているゆえに苦痛を押し殺して、あるいはまた、集団に対する忠誠心のゆえに集団と対立する自己を主張しないとするならば、やはりこの場合も、その個人に“自分はない”といわなければならない」
つまり“自分がある”とは、人間関係において、属する集団において自己を自覚し、精神的な独立を保障していること。一方“自分がない”とは、苦痛を押し殺して集団と対立する自己を主張せず、埋没してしまっていることを指摘しています。
これは、私の解釈ではE・H・エリクソンの著書『主体性』で述べられている“アイデンティティ”の概念、すなわち“自分が自分であるところのもの”“自分がよって立つ根拠”と共通するものだと思います。
よく言われることに「主体的に行動する」「仕事に主体性を持つ」などがありますが、“主体性”とはその人の人生観、生き方を支える“自分がある”状況の結果、生まれるものとしてとらえられるもの、と私は考えております。
セルフ・コントロールは、こうした“自分がある”状況、“主体性”を生み出す状況に自分をおいて初めて言いうること。つまり“自分がある”状況を客観的に認知して、そのうえで他人の“自分がある”状況もまた許容する、そのうえで自分をどう表現していくか、その制御関係であるといえます。
そこで要求されてくるのは、自分を突き放すことの出来る客観性であり、冷静さであり、自分を押しとどめることの出来る抑制力ということになりましょう。
「距離をおいてつきあう」とか「一歩の距離をおく」とかいう言い方も、こうしたセルフ・コントロールを助けるための表現であり、人間関係を上手にするための基本です。
私たちは、仲の良い時はベタベタと、お互いの感情のすべてを共有しあう親密感にあふれるものですが、感情とはもともとが理(り)不(ふ)尽(じん)なもの。ちょっとしたきっかけで、顔を見るのもいやなどという嫌(けん)悪(お)にとらわれることがあり、そういう時は向うも同じ感情を持っています。感情もまたキャッチボールのように投げたものは返ってくるものです。
一方、あまりつきあいのなかった人には、比較的淡々と接し長続きする。緊密な人間関係においては、時として自分も相手もセルフ・コントロールが出来にくくなってしまいます。つまり“自分がない”状況になるわけで、それゆえに、ある瞬間目(め)醒(ざ)めた“自分”との葛(かつ)藤(とう)が生じるわけです。
よく、仲良しを、つぎからつぎへと作っていき、結果として、どの人ともうまくいかない人がいます。こういうタイプは、総じてセルフ・コントロールに問題があり、「淡(あわ)きこと水の如し」と古来言われてきた人間の交(まじ)わり方を、もう一度考え直してみる必要があります。
コンスタントに一定の距離を
集団に属して、多くの人とつきあっていかなければならない場合には、自分から適応していく部分と、適応を拒否しなければならない部分の二(に)律(りつ)背(はい)反(はん)性(せい)から逃れられません。
“自分がある”状況と“自分がない”状況。この二つの線引きをどこにおくかは、その時求められている“自分が自分として、よって立つ根拠”すなわち自己認識にあるといえましょう。
「女には親友が出来ない」と、かつては言われましたが、そんなことはけっしてありません。最近では、社会的な場においてセルフ・コントロールの訓練の出来た女性も増えてきました。
一定の距離をコンスタントに保っている、それこそが人づきあいの基本であり、仲良しがすぐ気に入らなくなり、つぎつぎと変えていく開拓精神には、この部分が欠落していると言えましょう。
評論家の扇谷正造氏は、こういう言葉があるかどうかと前おきして、“ホワイト・リスト”を作れ、それこそが財産であると言っております。
“ホワイト・リスト”とは警視庁の財産“ブラック・リスト”をもじったもので、自分に有効な、いざという時には、何か心を打ち明けて頼める人物表(リスト)です。
氏は、ビジネスマンに対してこう言っています。まず「名刺で仕事をするな」○○会社の肩書きがなくても通用する人間になれ、そのためには「誠実な努力をつみかさねること」(仕事を通して信用を得ることとも言っています)、それにはまた、どうすればいいか、「小さな約束をキチンと守ること」(『'82 新入社員におくる言葉』)。
このことは、OLについても言えます。OLのほとんどは名刺や肩書きに無縁です。常に自分個人として仕事に向かっています。いざという時にはそのほうが強い。さらに「小さな約束を守る」こまやかさを持っています。ホワイト・リストを作る条件は十分にあります。あとは大敵の感情過多を抑制するセルフ・コントロールの訓練を積むことです。つぎつぎと友人を変えていく人には、このホワイト・リストは出来ません。
それでは、いかにしてセルフ・コントロールの訓練を積むか、そこが問題です。無感動無感覚にならずして、豊かな感性を持つ人間として自分をコントロールしていくのは難しいことです。
K子さんは、あるメーカーに勤めて三年のOLですが、彼女も私と同じようにすぐ涙をこぼす“お涙人種”。くやしいと言っては泣き、誤解されたと言っては泣き、周囲からはヒステリーだと思われていました。ところがある日、ふと思ったと言うのです。
「私はなんでも自分を中心に考えていたんですね。よく『カニは甲羅に似せて穴を掘る』って言うでしょう。自分の尺度で人を見ていると、気に入らないことばかり。他人の立場に自分をおき換えてみることが出来なかったんです。そんな時は『私ばかり我慢を強(し)いられている』という気持になって、やり場のないものが、わっと出口を探してとび出してしまっていたんです。自分でも困っていましたけど、ある時ふと思いたって胸の中がカッと熱くなった時には、深呼吸をまずして、念仏を唱(とな)えることにしたんです」
念仏といっても、彼女は「ダメ・ダメ・ダメ」と繰り返すだけ。このダメ念仏には「あなたそんなこと言っちゃダメなのよ」と心ひそかに毒づくものと、「こんなことでカッとしていたらダメじゃないの」と、自分を叱(しか)るものと二つあったと言いますが、この二つのおかげで彼女は感情を爆発させることから、脱出出来るようになったと言うのです。
何か単純な言葉を繰り返し、それを自分の念仏として自己暗示をかけるのも、気持を鎮める一つの方法かもしれません。と同時に彼女は自分の至らなさ、自分は偉くもなんともないと、つき放して見ることを覚えました。
セルフ・コントロールは、ある意味では、“顔はニコニコ胸カッカ”、不正直でいやらしいものです。けれど、職場の中での感情過多、過敏症は自分も疲れますし、周囲にも良い影響は与えません。何よりも、なかなか信用されないことになります。どんなに良い人だと思っても、いつ気分が変わり泣き出すかわからない人には、近寄らないものです。
「女は甘えている」と言われる時、仕事への取り組みの真剣さ、責任感のなさもさることながら、自分の感情に正直でありすぎて、それを誰にでも振りまき、自己中心的に行動することに対しても言われています。そこから脱け出すためには、自分なりの“自分がある”セルフ・コントロールを心がけること、それが職場の人間関係を良くする上で非常に大切なことだと我身を思うにつけ、噛みしめる言葉です。
第9章 積極的なつきあいは“財産”
ノミニケーションの効用
職場は“人間動物園”だと言う人がいます。動物園といえば、檻(おり)の前に「世界で一番残酷な動物」と名札が下がっている。何かと思ってのぞくと鏡があって自分の顔が映(うつ)る。
自分こそが世界で一番残酷という戒(いまし)めのエピソードですが、その残酷同士が寄り集まって作る職場集団というのは、残酷物語にこと欠かないものかもしれません。
その中で、いかに自分の現在と将来に必要な“ホワイト・リスト”を作っていくか、それはやはり積極的なつきあいの機会を持つということになるでしょう。
私は、職場を離れてから、職場内での人間関係は、たとえば地域でのサークル活動とか、いろんな人の集まる○○会のようなものよりも、むしろ易(やさ)しいのではないかという感想を持つようになりました。厳密には、どちらが楽とはいえないものであるにしろ、同じ会社の人間は、やはり一つの色に染まっており、「何がおもしろくて、何がおもしろくない」という共通感覚、ツーと言えばカーと響く共通言語のようなもの、それは前に述べた“同化”の結果であるのですが、話題一つをとりあげてみても共通要素は多いのです。
困ったことに日本には、“なわのれん情報”とか“なわのれん営業”とか言われるほどに、夜の酒席は、そのまま昼間の仕事の延長になっています。デスクや会議などで言えないことを言いあい、聞きたいことを聞き出す。だいたい日本の職場では“根まわし”が重要で、ちょっと耳に囁(ささや)いておくことが仕事を進める上で有利に働く、その場をいちばん提供するのも、なわのれんです。
こうしたことをひっくるめて、“ノミニケーション”という造語もあるくらいです。
ところが、こうした“ノミニケーション”が発達し、職場外での人間関係と仕事の結びつきが緊密になると、女性はどうしても不利になります。
男性でも、体質的に飲めないばかりに損をすると聞いたことがありますが、特に女性では職場で居場所を作り、昇給していくことも阻害されてしまうことになりかねませんし、重要な情報から落ちこぼれてしまうことも仕事の上にさしつかえてきます。
日本のサラリーマン社会全体が、もっと仕事と、なわのれんを切り離し、割り切った人間関係を持つようにならなければならないと思いますが、待合政治などがはびこるお国(くに)柄(がら)ですから、なかなか難しいようです。
とはいうものの、ある程度のつきあい、交流は会社勤めには必要不可欠で、それによって気分を変え、発散させるのはストレス解放にもつながります。
猿も酒を作るそうですが、おおむね人間の専売。もしかしたら「必要は発明の母」の通り、己れの残酷さをなだめ、他から受ける残酷さを柔(やわ)らげる、まさに人間関係の潤滑油なのかもしれません。
酒の席では、男性の意外な側面を発見することが多いものです。
謹厳で恐い人と思っていた上司が、実はナイーブで気持のこまやかな人だったり、部下の仕事ぶりをじつによく見ていて、適正な評価をしていたり、あの優(やさ)男(おとこ)と思っていた人が剣道六段だったとか、酔うとサワリたがるサワリ魔だったり、さまざまな“人間の発見”があります。
こちらが向こうの人間性を知ると同時に、向こうにもまた、こちらの人間性を知ってもらういいチャンスでもあります。
酒を飲むと“地”が出るもので、しかも抑(よく)制(せい)がなくなり、感情が昂(たか)ぶって、泣いたり笑ったり怒りっぽくなったり、せっかくのセルフ・コントロールも水の泡になってしまいますが、私はそれはそれでいいと思っています。そういう時間もなければ、職場生活は、ただ固苦しいものになってしまいます。
私は、「酔う」という言葉がとても好きです。酒に限らず、対象に没入し、賛美し、一体感を味わう。醒(さ)めて冷(ひ)ややかに観察しているのではなく、没我の状態ですこしぼんやりしている、そういう感覚の世界。花に酔い、香に酔い、緑に酔い、酒に酔う。
人に酔うというのは二通りの意味があって、あまりの混雑で頭が痛くなる状況と、まさに没頭して「惚(ほ)れる」場合とがありますが、男女関係はさておき、「あの人はすばらしい」と惚れた気持を持つことも、人に酔う大切な感覚だと思います。
私にとって幸せだなあと思う時は、酒に酔い人に酔っている時。心がすっかりほぐれて言葉がポンポン出てき、楽しくてしようがない。周囲の人たちに限りなくやさしい気持になって人にも酒にも陶(とう)酔(すい)してしまう時です。
その時の話題が、仕事のことであろうと、人の悪口であろうと、人生論であろうと、話はなんでもいいのです。
こういう時は、不思議にいくら飲んでも二日酔いしません。人に酔う酒の飲み方をした時は、酒に酔わないものなのかもしれません。人間を発見し感動するのもこういう酔いを味わった時です。ですから私は、「私、ちっとも酔わないわ」と言う人よりも、「ああ、私、酔っちゃった」と言う人に親近感を覚えます。
だいたい私などは、ほどほどに飲んでおけば良いものを、力量オーバーに飲んで、あとで恥ずかしい思いをしたことは数知れず、そんな時こちらの醜(しゆう)態(たい)をつぶさに観察して、あとで話題にする人とは、もう願い下げ、誘われても同席する気になれません。
酒の飲み方にイロハがあるとは思いませんが、とにかく楽しい酒であれば人づきあいの輪もまた広がります。
誘われない時のほうが淋しい
私は常々、“怒り”というのは通過感情だと思っています。非常に強い怒りをじっと胸に秘めて、復讐しようとばかりに、それをバネにして生きていくこともあるでしょうが、小さな怒りは忘れてしまったほうがいい、努力して通過感情にしてしまう。多くの場合は、その時は涙をこぼして怒りまくってもあとになって考えてみれば、どうしてあんなに怒ったんだろう、我ながら不思議に思うもの。「怒った」という記憶だけがあって、その怒りの内容は忘れています。
一方、楽しかったこと、嬉(うれ)しかったこと、これはかなりこまかく記憶に残ります。怒りが通過感情なのに対して、喜びは蓄積感情とでもいいましょうか。どんな些(さ)細(さい)な一言であっても、その時励(はげ)まされた思いとか、ありがたいと感じた思いは、ことあるごとに思い出され、慰めとなります。
酒を飲んで楽しむことも、この蓄積感情のほうに組み込むような飲み方、それを心がけていれば、少々の泥(でい)酔(すい)も恥ずかしさも、人に迷惑かけない限りは許されていいのではないかと思っています。
もっとも、これは私が酒飲み女だからかもしれず、私に対してひそかに眉(まゆ)を寄せる人は、いい気なこと言ってるよと思うかもしれません。
あるOLが言いました。
「私は職場の人に誘われても行かないの。だって、どうせ仕事の話しかしないし、昼間の顔ぶれが夜も並ぶだけだもの、つまんないわ」
そういうものかなあ、と私は思います。
この話を聞いた時、ある老人ホームの寮母さんの言ったことを思い出しました。
「昼休みは個人の時間ですから、仕事の話はしないでください。もし、どうしても伝えたいことや相談したいことがあったら、時間ちゅうに会議を開いて欲しいんです」
欧米人は、仕事の時間とプライベートな時間とを厳密に区別していると聞きますし、確かに日本のサラリーマンには、公私の区別のないところがあります。
いっぱいやっている時の話も、上司や同僚のこきおろしか、昼間の仕事の続き、変わり映(ば)えはしないのですが、ものは考えようだという気もします。人間、「さあ、会議です、話しましょう」と言われても、なかなか話せるものではなく、それよりも、軽い無駄口や、お喋(しやべ)りの中に、重要なヒントがあったり、そうした雰(ふん)囲(い)気(き)の中で、新しい発想が生まれたりするものです。
また、“同じ釜のめし”のたとえの通り、同じものを食べ、飲むという行為の中には、親愛感や、緊張をときほぐすものが含まれています。
さきのOLや寮母さんの意見は正論ではありますが、どこか本質的でない。単に融(ゆう)通(ずう)がきかないという以上に、頑(かたく)ななものを感じます。人間もうすこしルーズなところがあったほうが、可(か)愛(わい)い気があるという気がします。
私はむしろ、話しかけてくれたり、誘ってくれたりする人がいなくなるほうが淋しいし、恐ろしい。周りの人は誘われているのに自分には声をかけてもらえない……。そんな体験を私もしたことがあります。
仲間として認められていない、除(の)け者なのだろうか、嫌われているのではないだろうか。一度そう思い出すと、ひがみ根(こん)性(じよう)はペスト菌のように猛威をふるい出します。
ひがみは強くなればなるほど、自分をいやみな人間にしていきます。「誘われなくって好都合よ」とばかりに、皮肉や毒舌で我が身を守ろうとする。そしてその結果が仕事にたるみが出来てくる……。ひがみといやみとたるみの三み主義はOLの大敵です。
誘われて迷惑な場合はともかく、人間、誘われなくなったらおしまいです。
積極的につきあいを広げていく、それはホワイト・リストを作るための大切なステップですが、同時にそれは同じ課の同じ顔ぶれでなくてもいいことは確かです。
むしろ、学生時代の友人とか、地域のサークルとか、全然職種の違う人と接することで視野が拓(ひら)け、自分の会社というものを客観的に見る眼を養うことになります。
また、たとえ同じ会社であっても、課の違う人とのコミュニケーションも大切で、常に全体的視野で自分の仕事の位置づけを見ておくことは、もし配転になった時に慌(あわ)てずにすみます。
女性は職場にもよるでしょうが、多くの場合、配転がなかったり交流も少なく、他の課ではどんな仕事をしているのか、自分の会社の全体の業務を知る機会が多くありませんから、いろいろな立場の人とつき合う機会を持つことが大切です。
人事異動の時、配属替えになったOLが泣くということを聞きます。私の勤めていた会社でもありました。そこでまた、新たな人間関係を作らねばならないおびえがあったり、仕事への不安があるのでしょうが、少なくとも日頃の心がけで他のセクションのことを良く知っていれば、思わず泣いてひんしゅくを買うことはしないですみます。
もっとも、中には自分の課のことよりも、他の課のことを知っていてそれを触れ歩いたり、属する課の人たちの悪口を宣伝する。自分はなんでも知っている情報通であるとばかり、“廊下とんび”のコミュニケーションを発揮し、せっかくの積極性がマイナスになっている場合もあるようで、何ごとにも節度が大切なのはここにもあてはまります。
職場で積極的なつきあいを広げていくためには、職場のクラブ活動や組合活動に参加することも良い方法です。
最近は、労働組合などが中心になって研修会や講演会などがよく行なわれており、幹部の悩みは出席者が少なく、顔ぶれがきまっていることですが、ぜひ出席することをおすすめします。
その時は、たいした話ではなかったと思っても、あとになって意外なところで思い出して励まされたり、たまたま隣席になった人とお喋(しやべ)りして友だちになったり、交流の機会も広まります。
けれど人間、常に何かに役に立つだろうと計算ずくで行動するのは、とてもいやなものです。いくら職場の中といえども、もっと純然たる自分の楽しみだけでやることがあっていいと思います。
最近は、大型バスを何台も連(つら)ねて出かける社員旅行は、人気がなくなっているそうです。むしろ課単位とか部単位ぐらいのこぢんまりしたものに人気があり、さらに核分裂して気の合った小人数でのグループ旅行などが多くなっているとか。
全社員大型バスの、人気のない理由は私にもよくわかります。まず社長の挨拶があり、ついで訓辞を聞かされ、重役の乾杯がある。そこは職場の序列がそのまま再現される場で、気のきく人はビールびんを持ってお酌(しやく)に回るけれど、こちらは、そういうことが気恥ずかしい人づきあいの悪さ、ただただ疲れるだけでした。
むしろ、日頃仕事をやっている仲間と、差しつ差されつ飲んだほうが、よほど楽しいと思う身勝手さが私にもあります。それは私の人間関係の作り方が、序列や職階にこだわりたくない、人と人との感性のつきあいでありたい、特に旅行や、いっぱい飲むのは、そちらを重視したいという発想があるからかもしれません。
その意味で、さきの、会社の人とは仕事の話しかないから飲みに行かない、というOLの気持とも一脈通ずるものがありますが、私の場合は、話したい相手であれば、仕事の話でもちっともいやではありません。もしかしたら、このOLは、仕事や人間関係そのものに適応出来ていないのかもしれません。
レジャー白書によると、最近は「マス・レジャーからマニア・レジャーへ」変わってきていて、(一)日曜大工(DO IT YOURSELF型)や、各種ホビーなどの創作レジャー、(二)ジョギング、テニスなどの健康的で手軽に楽しめるスポーツ・レジャー、(三)キャンプ、ハイキングなどの自然志向型レジャー、(四)カルチャーセンターなどの知的文化的レジャーなど、かつてのように人が行くから私も行く、お金さえ出せば楽しい式の“金銭消費型”から“時間消費型”レジャーに変わってきています。
生活様式やファッションの個性化が、レジャー、楽しみごとにも個性化の影響を与えているようです。
にもかかわらず、仲間で旅行する時にも、雑誌や本の案内コース通りに回ってくるだけの人がいますが、これは個性的と言えるでしょうか。せめて、行った先の歴史とか産業とか、何か一つ目的を立てて「知って」帰るとか、「感じて」帰るがめつさが欲しいものです。
女性の言葉で気になるのが、
「私、方向オンチなのよ」
これに対して、友人の男性が言ったことがあります。
「女性は、全体を俯(ふ)瞰(かん)して自分の位置を見定めるのが下(へ)手(た)だからだよ」
方向オンチというのは自(じ)慢(まん)気(げ)に言うものじゃない、恥ずかしいことだと知ってもらいたいものです。
広く、いろんな人とつきあうことは大切なことですが、そこには、個性的な魅力のある自分というものもまた育てなければならないのは、当然のことと言えましょう。
自分とのつきあい
酒席でのつきあいや、職場内での活動、旅行などは、これはどちらかといえば他人とのつきあい、他との人間関係を深めるためのものです。
つきあいにはもう一つあって、こちらのほうがより大切とも思えるのが自分とのつきあいです。自分を深め、自分への発見につながる世界のものです。
お茶、お花などがその代表的なものですが、最近は製本教室とか、彫(ちよう)金(きん)、染色など教養的、趣味的なものから、実益を兼ねるものにまで範囲が広がっているようです。
ところが職場によっては、とてもお稽(けい)古(こ)ごとに通うヒマもない忙しい仕事のところもあります。
「お茶とか着つけとか習いに行きたいんだけど、残業も多いし疲れるしで、とても余裕がないんです。これでいいのかなあと時々思うんです」
このへんが、キャリア型OLの悩みで、すこしぐらい仕事が出来るということで、おだてられてやっているうちに、気がついたらカサカサに乾いた人間になっていた――。人とつきあう機会も少ないので恋愛のチャンスもない。いっそ仕事はホドホドにしておいて、自分のやりたいことをやったほうがいいのではないか、無趣味人間になる恐怖が起こります。知人のお煎(せん)茶(ちや)道(どう)の先生の話では、教室に入ってくる若いOLのうち、半年の間に四分の一が脱落するそうです。その人たちのほとんどが仕事の忙しい人、無趣味を嘆きつつも、やはり仕事を選ばざるを得ないのです。
私も、お酒を飲むこと以外は何も知らない、自分とのつきあいの下手な人間で、ただただ職場と家を往復するだけの生活をしてきました。
自分とのつきあいには、二つの要素が必要です。一つは外的条件ともいうべきもので、労働時間がもっと短くなり、オフ・タイムの自由時間を増(ふ)やすこと。
確かに日本人は働き過ぎで、年間労働時間の国際比較を見ると、日本は先進工業国の中でも、いちばん多く働いています。一九八五年の統計で日本二、一一〇時間、イギリス一、九〇〇時間台、アメリカ一、八○○時間台、フランス一、六〇〇時間台、西ドイツ一、六〇〇時間台と、日本がトップです。
また、長時間働くことが良いことだとする考えも職場にあって、周りが残業している時に、自分の仕事だけすませて、さっさと帰るOLは評判がよくありません。
このへんは微妙なところで、私は残業まで、つきあい良くすることはないと思うのですが、一方では、手伝ってあげられるものなら一声、「お手伝いしましょうか」ぐらいはあったほうがよいと思うのです。自分のことだけを優先させる人間は、男女共に期待される人間にはなり得ませんが、しかし、自分のための時間を作る努力は惜しみたくないものです。
もう一つの要素は、内的条件ともいうべき本人のやる気、好みの問題。忙しいといえば誰でも忙しいもの。ヒマになったらやろうと思っても、時間の作り方次第で、ヒマのほうから、「はい、ヒマでございます」とやってくるものではありません。
どんなに忙しい人でも、やる気のある人は何かかにか見つけて、やっているものです。そのへんは才能とか器用さも大きく関係しているのでしょう。
老人ホームの老人たちを見ていると、皆とてもお針が上手ですし、編物などもよくやっています。
老いにはボケが多かれ少なかれ起こるものですが、頭のほうがだいぶ弱ってきた人でも、若い頃に身体で覚え、継続してきたことは、少々のボケぐらいでは失うことはないようです。
若い若いと思っていても、老いはすぐやってくるもの。若いうちからの心がけは、老後の生活を救うことになるでしょう。
ところが、趣味も自分とのつきあいを上手にやっていかないと、問題人間になってしまうようです。
やはりホームのおばあさんですが、大変趣味豊かな人がいました。お習字も手芸も俳句も、人(ひと)並(な)み以上の多芸多才ぶり。ところが彼女は仲間のおばあさんにとても嫌(きら)われているのです。
自分がなんでも出来ることを自慢し、出来ない人を見(み)下(くだ)してしまうからです。
趣味豊かなことが孤立を招き、淋しい思いの日々になっていくのでは、本人はますます趣味に打ち込む状況になるとはいえ、つまらないことなのではないでしょうか。
若い人の中にも、男女共、こういうタイプの人がいます。
趣味というのは、「何が出来るか」が問題なのではなく、それを通して、どれだけ豊かな人間性を身につけるかということであり、そこを間違えると、多芸多才コンテストになってしまいます。
旅行などでも、自分の行ったところを話題にしなければ気のすまない人がいますが、確かに語るほうは楽しいのですが、聞かされるほうは、迷惑な場合もあることを知っておいたほうがよいでしょう。
じつは、私もこのての人間で、自分の楽しいことは、他人も楽しいだろうと押しつけがましいところがあり、よく失敗したものです。
ともかく、積極的に人とのつきあいを広げていくことは大切です。と同時に、そのつきあいを深めていくのも大切なこと、友人は財産であることをお忘れなく。
しかしながら、どうしても積極的になれない“人見知り”をする性格というものもあるでしょう。数多い友人を持つよりも、心許せる人がほんのすこしいればいいと思う人もいて当然、カオの幅の広いことだけが取(とり)柄(え)という人よりも救いがあると思います。
要はホワイト・リストの質ということ。積極的であることばかりが良いわけではありません。やはり、ここでも“人に酔う”心が自分を救うものだということでしょうか。
ところで、お酒や食事に誘われた時、私は一つだけ心がけていることがあります。
割カンは別として相手が払いをした場合、たとえそれが社用経費であっても、「ご馳走さまでした」と必ず挨拶することにしています。
おごられた場合、どうしても気持が落ち着かないのですが、これですこしは楽になりますし、また当然の礼儀というものでしょう。
上司といえども安サラリーマン。財布の底をはたいて無理していることもなきにしもあらず。お金の自由度からいえば、独身貴族といわれるOLのほうが持っている場合もあるのです。このへんの気づかいもまた、大切な人づきあいの要素です。
第10章 会社へ行きたくない朝
ストレスがたまると……
会社へ行きたくない朝は、だれにでもあるものです。毎朝がそのような朝であるかもしれません。
今日一日、またあの人の顔を見て過ごすのかと思う憂(ゆう)鬱(うつ)。仕事の単調さや、おもしろくなさを思った時の身体の重さ。仕事やつきあい上のトラブルなどがあればなおさらのこと、朝から気持がひとつすっきりしません。会社のデスクに向かってしまえば、なんとかなるのですが、そこに至るまでは、電車の中で会社の人に顔を合わせることすら、いやでたまらない……。
はっきりとした理由もなく、今日一日は、ぶらっとして過ごしたいこともあります。そんな時は、会社を辞(や)めて家にいる友人がうらやましく、いっそ辞表を郵送しようかと思ったりもします。
登校拒否ならぬ出社拒否的症状は、多くの勤め人が一度ならず味わっています。
札幌医科大学、臨床心理学研究室の杉山善朗教授の研究によると、子どもに限らずサラリーマンなどの大人(おとな)でも、自律神経性反応が起こるということです。
自分にとって危険なストレスのある時の恐怖や不安が、血圧や心(しん)拍(ぱく)の心身反応を引き起こし、これは普通、心身症といわれています。精神・神経障害とは違い、心のストレスを取り除くことにより、身体に現われている症状を治(なお)すことが出来るとされています。
ネズミの実験でも、ストレスがある時、それを予知したり回避したりすることの出来るネズミと、そうでないネズミとでは、胃(い)潰(かい)瘍(よう)の大きさ、重症度が違ってきますが、これは人間にもいえることで、対処の仕方によって危険を軽くしたり、それに積極的に立ち向かって解決することで、ストレスによる心身症状を軽くすることが出来るといわれます。
また周囲の対処の仕方としても、子どもが学校のテストのある朝、登校に恐怖を感じた時、母親が「あなたは病気だから、今日は休みなさい」などと言うと、かえって良くない。
子どもは強い恐怖からの救いを感じながらも、吐き気や顔が青ざめるような心臓血管反応を、ますます強めてしまうということです。
大人でもこういう場合、同僚などの慰めの言葉によって、症状や行動がますます強められる。こうした状態を条件性心身症状というそうです。
職場には、しじゅう頭が痛い、お腹(なか)が痛い、背中がどうのと、あたかも周囲の同情を求めているように見える人がいます。人は誰しも同情に満ちた言葉や慰めが好きなもので、またそれが強くその人を助ける場合があります。“受容”や“共感”などが大切であるゆえんですが、反面、つき放したほうが、本当の意味での親切の場合もあることを、条件性心身反応は教えてくれています。
人間関係において、いったい何が親切なのか、その判断は非常に難しいものです。
向こうから杖(つえ)を頼りに、手すりにつかまってよろよろと歩いてくるお年寄りがいる。この場合、手を貸してあげるのが親切なのか、一人で歩くのを見守るのが親切なのか、いったいどちらなのでしょう。
もしかしたら、ある日には手を出してあげるのが親切、別の日は見守るのが親切ということがあるかもしれませんし、同じような身体症状の人でも、ある人には手を出すのが親切で、ある人には出さないのが親切ということもあるでしょう。
一般的には、“親切”といえば、手助けしてくれたり、同情してくれたりする人をいうようですが、私たちはもっと“何が親切なのか”考えてみる必要がありそうです。
職場においても、やはりある程度厳しく言ってくれる人、必要以上の同情や、ベタベタした接触を許さない人、つき放してくれる人のほうに本当の親切心があるのかもしれません。
私の元上司のK氏も、こういうタイプの人。私が仕事上で困ったことがあって相談に行っても、
「それはあなたの問題だから、自分で考えてください」
と言って、けっして一緒に考えてくれない。私のほうは、「冷たい人ね」と思っていましたが、それによって、私自身の問題解決能力が養われていったとも考えられます。
会社へ行く楽しみの発見
自分自身の解決能力を養う。これはストレスを未然に防ぐ方法の一つでもあり、職場の中に厳しい人の存在があることは大切なことです。
あなたに対して苦言を呈したり、いさめてくれる人がいない状態になったら、心の健康管理上の危険信号であることも銘(めい)記(き)しておく必要があります。
会社へ行きたくない朝は、とにかくこうした人の存在を思い浮かべ、家を出てしまう。電車に乗ればあきらめもつくというものです。
休んでしまうのも一つの方法。実際、何かおもしろくないことがあって休む場合、これほど痛快なことはないわけで、皆、今頃慌(あわ)てているだろうなとか、気にしているだろうな、と思うことで気分がすっきりします。
けれど、一日二日休むことでストレスが解消するのはほんの軽症。ひどくなってくると、自分で積極的に解決しない限り、おもしろくないことは去っていきません。
休みたい時に休み、出たい時には出る。それが許されていれば、どんなにいいかしれませんが、会社勤めというのは公的な約束の世界ですから、なかなかそうはいきません。
長く勤めれば、それでいいものだとは思いませんが、私が長期勤続の人に尊敬の念を抱くのは、こうした“約束”を守り抜いた人という点にあります。これは“勤め人”というタイプに限らず、仕事を持っている人だれにでも言い得ることです。また、昨今、ボランティアなどの女性の社会参加がいわれていますが、人との関係において考える時、この“約束”ごとのために、どれだけ努力するか。時間を守る、出席を約束した会合にはきちんと出る。そのへんの心がけがなければ、社会参加は絵(え)空(そら)ごとになってしまいます。
今、私はフリーで仕事をしており、多くの人から「あなたは自由でいいわね」と言われますが、仕事について回る約束ごとから、逃れられるものではありません。
引き受けた原稿は必ず書く、締め切りを守る。それが原則で、引き受けたあと失敗したと思うことがあっても、やり通すこと。それはかなりの不自由業です。「つらい仕事も月給のうち」「いやな人とつきあうのも月給のうち」と割り切れるものがないだけに、どうして、こんな仕事を引き受けたのだろうと、馬鹿さ加減にいや気(け)がさすこともあるのです。OLのフリー願望は非常に多いのですが、表面的な“自由さ”だけ見ていたのでは成功出来ないと思います。
先日、私の夫の会社の、若い人が遊びにきて言いました。
「僕が会社へ行く楽しみは、昼休み、トランプのナポレオンをすることですよ。あれがなければ会社へ行く気はしないです」
私も一時、ナポレオンに凝(こ)ったことがあります。十五年の会社勤めの中で、いちばん楽しい思い出といっていいかもしれません。
女三人で姦(かしま)しいといいますが、五人寄ったのですからその賑(にぎ)やかなこと。しかも男も加わって丁(ちよう)丁(ちよう)発(はつ)止(し)、大いに周囲に迷惑を振りまきました。
でも、これは確実に会社に行く楽しみでした。休みたいなあと思った時、仕事の遅れもさることながら、ナポレオンのベスト・メンバーがいなくては気の毒だ等々、理由はいくらでも出てきます。
昼休みを上手に活用することは、前章での人間の多様性の発見同様、他人を知る非常に良い方法です。
特にゲーム類は、お酒以上にその人の意外な側面を発見します。大変なポーカー・フェイスであるとか、大胆極(きわ)まりないとか、細心な注意を払う人であるとか、こういうのは男性は麻雀(マージヤン)で知るのでしょうが、女性はそういう機会も少なく、せめて昼休みのゲームで、仕事のつきあいだけでは知り得ないことを知ること。さらにそうしたつきあいによって、何よりも自分自身が楽しいこと。それは非常に重要なことです。
また、職場の雰(ふん)囲(い)気(き)としても、昼休み賑(にぎ)やかな職場は人間関係がいいのではないでしょうか。
大声で喋(しやべ)ったり、鼻歌を歌ったり、笑いころげたり、そういうことが気分転換となって、午後からの仕事への意欲を強くするように思います。
ただ、私たちのナポレオン・グループで注意しなければならなかったことは、熱中のあまり一時になっても止められないことで、管理の厳しくない職場ではありましたが、やはりひんしゅくを買う種(たね)でありました。
昼休みの活用方法としては、ゲームだけではありません。よく買物に行ったり美容院に行ったりする人がいますが、昼休みは何をするのも自由とはいえ、すこしもったいないような気がします。
ともすると女性は人間関係も狭くなりがち、昼休みをもうすこし視野を広げ、人とのつきあいを深めることに利用するのも一つの方法です。
いちばん重要なのは“楽しみ”であること。編み物に熱中した時は、後輩に先生がいて教えてもらうのが楽しみでならなかったし、ゴルフ(隣のビルの屋上に練習場があって)に熱中した時は、一(ひと)汗(あせ)流すのがたまらなく壮快であったとか、仕事を仕上げた喜びも大きかったのですが、思い出としてはこうした“楽しみ”ごとがあったがゆえに、よりいっそう深いものになっています。昼休みにコーラスなどのクラブ活動をしている会社もありますが、とにかく、会社に行く楽しみの発見がなければ、会社に行きたくない朝の憂鬱から逃れられません。
これらは、甘いものを作る時の塩(しお)気(け)のようなもの、心理学でいう対比効果に近いものではないかと思います。
心をふるいたたせるもの
心の健康管理には、自分がその職場で期待されている人間であるかどうか、そのことも大きくかかわってきます。
いてもいなくてもいい存在だ、とりたてて急いでやる仕事も与えられていない、そんな状況になると、会社に行きたくない朝は動作も鈍(にぶ)りがち。結果として遅刻し、いっそう気持は沈みます。
「私の仕事は、営業に出る人の電話番なんですよ。とりとめのない仕事で本当につまらないんです。でもいないと困るから休めないんです。休むと目立つし……」
このOLの悩みは他人ごとではありません。仕事の約束があるとか、会う予定の人がいるとか、出社しなければならない状況の時は救いがあります。今日はあれをしよう、これも終わらせよう、そういう計画のある朝は、ふん切りもつくというもの。けれど多くのOLは、ただそこにいることだけを求められ、私でなくても誰でもいい……。
「今日するべき仕事は明日に延ばすな」と言うのは、本当なのだろうかと時々思います。今日出来る仕事は、今日のうちにやっておく。だけど、どうしても今日でなければならない仕事以外は、ほんのすこし明日のために残しておいていいのではないか、私はいつもそう思っています。
「これは明日しよう」
と仕事の予定をたてることは、他人からの自分への期待ではなく、自分による自分への期待として、我心をふるい立たせ、明日の楽しさにつながるものではないでしょうか。
けれど、自己裁(さい)量(りよう)が認められない職場、キーパンチャーのように時間で処理量が評価される職場、電話交換手のように一定時間そこにいなければならない職場では、いかに“明日の楽しみ”を残すか、難しいところです。
残念なことに、私にはそういう職場での職業体験がないので、具体的なアドバイスをすることが出来ないのですが、そこはやはり先輩の話を聞くことではないでしょうか。
長く勤めた人には、それなりの“耐えた”歴史があるはず。過去には同じ思いを持ったと思います。自分の気持を率直に語ることで、いい知恵も求められるものです。
私も、職場の先輩W氏のふと洩(も)らした言葉に、とても心打たれたことがあります。
「学生時代には、いろいろ夢や希望を持っていたけど、こうして毎日毎日、会社の仕事をやって、これで人生終わってしまうのかなあ」
むなしい思いをしているのは私だけではなかった。皆その気持を胸に秘めて、こうして職場に集まっているのか。その共感が慰めとなり、不思議なことに励(はげ)まされる思いでもあったのです。
心をふるいたたせるものとしては、その人なりのさまざまな工(く)夫(ふう)があって当然です。
女性なればこそ、着るもので心を引き立たせることもあるもの。よく、晴着を着ると身も心もしゃんとして、心なしか頭のほうもしっかりするような気がしますが、着るものも大事な工夫です。
制服のある職場では、着換えたとたん頭がすっきりするというOLもおります。制服にもまた、晴着と同じ心を引きしめる作用があるのでしょう。
どうしても、女性は服装やアクセサリー、お化粧など、ファッションに目がいきます。
おしゃれは、我心をふるい立たせるものとして楽しいものですが、やはり、そこには節度が必要。人は往々にして外見で判断しますし、その場にふさわしい服装の心がけは、無用な嫉(しつ)妬(と)や陰(かげ)口(ぐち)を防ぐことになります。
一(いつ)見(けん)、複雑と思える人間関係も、その根は実に単純なこと。ファッション・センスへの妬(ねた)みに過ぎないこともよくあるケースで、しゃれた素敵な服を着ている人から受ける一種のくやしさは、女性なら一度や二度は味わっているのではないでしょうか。
こうした感情は、皆の眼がそちらのほうにいっていることに対するあせりのようなもの。相手の優位と自分の劣勢というように、あからさまにすることの出来ない大人(おとな)気(げ)ないものであるがゆえに内攻し、自尊心が傷つけられたような気分に陥ります。
どうしても他人の着ているものに無関心でいられない、それは女として私も同じことです。
私の職場に、とっかえひっかえ服を変えてきて、しかもファッション・ブックから脱(ぬ)け出たようなニュー・モードの人がいました。
制服のない職場ですから、一日じゅうそれが眼の前をチラチラしている。そんな時、一人の男性が言ったのです。
「あの人は職業を間違えているよ。あんな格好したいんなら、キャバレーに勤めればいいのにさ」
男性も底(そこ)意(い)地(じ)悪いもの。表面では「○○さんは美人だから」とおだてながら、陰ではちゃんとひどいことを言っている。しかもそれを聞いた私もまた、ひどくすっきりしたものを感じていましたからひどいものです。
おしゃれも化粧も自分のために
服装は、人からどう思われたいと思っているか、という一つの自己主張です。
考えてみると、在職中私は、ピンクとか赤、また花模様の服というのはめったに着ませんでした。
だいたいが寒色系か無地のもの、チェックとかストライプ。これは好み以上に、「可愛い女と見られるよりも、仕事の出来る女と思われたい」私の精いっぱいの努力であったように思います。
勿論、「おしゃれで仕事が出来る」のがいちばんいいことですし、私の同僚にもそういう人がいましたが、私の場合は、若い頃は特に齢(とし)以上に老(ふ)けてみられるように、つまりは社外の人からも「キャリアのあるまかせられる社員」と思われたい一心で、女性版どぶねずみスタイルでした。効果があったものかどうか、それはわかりませんが……。
服装に関する話題……どこで買ったとか、いくらだったとか、とかく安くて上手な買物をした時は自慢したいものです。それによって人間関係に話題を提供することもあるのですが、反面、競争心をかきたてる場面もなきにしもあらず。また、ぐさっとくるのが、せっかく自分が良い買物をしたと思っているのに、
「あら、それなら作ったほうが安いわよ」
等々、水を浴(あ)びせられた時、買物下手を指摘されたようで、こんなところから人間関係が崩(くず)れることもあります。
とにかく、気に入った洋服を見つけ出して、それを着ることも大切な心の健康管理。それゆえに必要以上のおしゃれや、過干渉には心したいものです。
ある男性が言いました。
「一人が指輪をはめてくれば、きゃっと寄っていって、まず午前中はその話しているね。翌日は洋服でまたきゃっ。どうして女は他人の持ち物にいちいち口出しするのかなあ。朝からやられると、まったく参ってしまうよ」
私も身に覚えのあること、大変耳に痛い言葉でした。
化粧もまた、女なればこその楽しみの一つですが、やはり度を越すと男性からの悪口の対象になります。特に嫌われるのが濃い化粧。
「一時間ごとにトイレに立って二十分は帰ってこないね。この忙しい時になんだと思っているんだろう」
こういう声の多いことも、忘れてはなりません。
けれど、まったく何もしないというのも考えものです。私はこのタイプで、よく洗いざらしの顔のまま会社に行ったものですが、ある老人ホームの主任寮母さんの話に大いに反省させられました。
「全然お化粧しないという人だって、ちょっと気の張る人に会うとか、およばれの時なんかは口(くち)紅(べに)くらいはつけるじゃない。それがホームに働きにくる時は何もしない。それじゃ、いくら口で老人を大切にしているって言ったって嘘(うそ)だと思うのよ。老人たちだって、きちんとお化粧している寮母には『私たちの面倒見るのに、きれいにお化粧して、すまないねえ』って言うのよ。やっぱり気構えっていうのか、そういうものがあるじゃない」
そのホームには、もう亡くなったけれど気難しいおじいさんがいて、化粧をしていない寮母の顔を見ると、こう言ったそうです。
「私はあなたには、おむつ交換してもらいたくありません。そっちのあなた、やってください。おや今日は唇(くちびる)いいかたちに出来ましたね」
職場に行くというのは、人に会うこと、相手がどんな人であろうと、さわやかな印象を与えることが、良い人間関係を作るものだと、つくづく考えさせられる話でした。
前にハロー・エフェクトのところで、美人だから得をするのではない、その雰(ふん)囲(い)気(き)の与える影響こそが問題なのだ、ということを書きましたが、そのためにも、良い印象を与える化粧というのは大切なものです。
化粧は他人のためにするのではなく、自分のためにするのだという説もあります。それはとりも直さず、自分の心の健康を守るということでしょう。化粧によって心がさわやかになり、自分が楽しくなるのなら、それこそ変身願望を満たすような化粧でもいいようなものですが、やはり“職場”という時と所を考えてこそ、初めて心の健康に役立つというものです。
心の健康管理、自分を楽しくさせるための工夫は、こうしたファッションや化粧に限らず、いろいろなものがあるでしょう。
読書やコーラス、趣味、トランプ、さまざまなものがあって当然。そういう“楽しさ”を常に追い求める気持があってこそ、心のゆとりも生まれてくるもの。ひいてはそれが人間関係をスムーズにする大きな要因でもありましょう。
とかく女性は、会社へ行きたくないと思い始めたら、それに対する歯止めがありません。
つまらない仕事、いてもいなくてもいい存在、会社で味わうくやしさや屈辱の思い、それらが自己増殖を始めると、もっと他に自分のするべきことがある、その思いに負けてしまいます。職場の人間関係に悩んでいるOLや、会社を辞(や)めたいと不満を募(つの)らせているOLにとっては、会社へ行きたくない朝というのは、職場生活を象徴しているようなものです。
けれど、さきにも書いたように、おもしろい仕事や良い人間関係は、天から降り、地から湧いてくるものではないのです。私は、もうそろそろ“おもしろ仕事幻想”から脱(ぬ)け出す時だと思っています。いったい、いつだれが、仕事はおもしろいものだなどという神話を作り出したのでしょう。
仕事は基本的にはつまらなく苦しいものです。もし“やりがい”というものがあるとすれば、それを続ける歳月の中にしかない。“やっていきたい”と思う意志の中にこそ、つまらなさの呪(じゆ)縛(ばく)から解き放たれる解(げ)毒(どく)剤(ざい)がある、そういうものなのではないでしょうか。多くのOLは能力が発揮出来ない、エネルギーをもてあましているといいますが、それは自己弁護であることに気づく必要があるのです。昨今の企業は、能力とエネルギーのある人を女という理由だけで放っておくほど甘くはないのです。
OLは、おしゃれであって欲しいと思います。身も心も仕事にもおしゃれな女、それでこそ服装やアクセサリーも一段と映えるというものです。
第11章 休み方にも配慮が必要
休暇のとり方をめぐって
毎年、文化の日になると、胸の痛む思いなくしては思い出せないことがあります。
入社して二年めのこと、私は夫やその友人たちと、文化の日に続く一日を休んで山に行く計画をたて、一ヵ月も前に休暇届を出していました。
ところが、仕事が予定よりもずれ込み、職場の全員が文化の日も休日出勤しなければならない状況になったのです。一方では夫から約束は約束、今からでは断れないと大変な剣幕で責められ、一方では「なるべくなら出て欲しい」という、やんわりとした強制、二者択(たく)一(いつ)をせまられたのです。
結局、私は夫との約束のほうを選びました。その頃は仕事もまだ下積み、責任もなかったし、その時の考えとしては、私一人ぐらいいなくても、なんとかなるはずだ、そのうえ、地方の調査拠点に調査票を発送する仕事よりも、私が行くことを楽しみにしてくれている友人たちとの山行きのほうがずっと魅力的、一ヵ月も前から届を出してあるという気持も手伝って、強(ごう)引(いん)に休んでしまったのです。
出社してみて、私は自分の甘さをいやというほど思い知らされました。確かに仕事は私一人いなくても、無事完了していたのです。けれど、それで問題が解決していたわけではありませんでした。
「あの忙しい時に休んで」
そういう冷たさを含んだ眼が、無数の針のように突き刺さってくるのです。その上、ひょっとした時に出てくる「あの時は大変だったわねえ、大騒ぎだった」などの会話に、つまりは、そこから生まれる連帯感の輪から完全にはずされていたのです。
けっして、悪気があって言うのではないとわかっていても、その話題に入っていけないことはなんとつらく、疎外感を味わうことか、身にしみて味わったのでした。
おもしろくない仕事よりも、個人の楽しい行事を優先させたい、休暇は権利だから休むという考え方、それは仕事の完遂というよりも、そのプロセスを通して得る人間関係の点から間違いだったのです。以来、私は休みをとることにすっかり臆(おく)病(びよう)になってしまいました。
休暇のとり方をめぐって、職場の人間関係にトラブルを生じることはめずらしくありません。
よく休むOLがいました。彼女は旅行ということで夏休みを一週間とったのですが、翌週一日だけ出てきて、そのあとまた三日間「具合が悪い」と休んでしまったのです。
「おかげで、僕は夏休みをとりそこなってしまったよ。休みをとるのは構わないけど、とり方っていうものもあるよなあ」
彼の嘆きはよくわかります。彼女に対して、夏休みをとったあとは心機一転、一所懸命にやってくれることを期待していたのが、なんと迷惑をかけるばかり。彼の心の中には信頼を裏切られた怒りもまたあったのです。彼は厳しいことを言いました。
「いったい、どうなっているんだろう。僕は、健康管理も能力のうちだと思うよ」
彼女が、日頃よく休む人だったことも彼の立腹に輪をかけたようです。
私は子どもの頃から丈夫でしたので、それがむしろ恥ずかしく、身体の弱い人を見ると、それだけで人間が高級のように思えてあこがれたものですが、実際に職場で同僚となり一緒に仕事をするとなると、この高級な人には、時として心を乱されるものでした。
理性の上では、身体の具合の悪いのは仕方ないこと。明日は我が身かもしれないと思うのですが、反面、自分が損をして、相手がいいめにあっているような不愉快さがあるのです。
休む側にしてみれば、「なんとひどいことを言う、何も病気したくてしてるんじゃないわ」と思い、自分が休んでいる時に同僚は働いていると思うだけで、身の細る思いがするものなのですが……。
しかし、休まれたほうとしては、休む人への思いやりが、いつもあるものではないのです。
休むことは罪悪?
休み方には、日頃の人間関係や仕事ぶりが微妙に反映してきます。「あの人だったら、ま、仕方ない」と思ってもらえるか、「またか、いったいどうなっているんだ」と思われるか。さらに休みをとることへの職場の雰(ふん)囲(い)気(き)、管理体制等々、休み方というのは難しいものです。
と同時に、休暇に対する日本人的な発想、「休まず、遅れず、働かず」の三ず主義とまではいかないまでも、“休みもとらずに働く”ことをよしとする忠勤思想が、まだまだ根強くはびこっています。
第9章で労働時間の国際比較を見ましたが、労働省の『賃金労働時間制度等総合調査(昭和五九年)』で見ても、年次有給休暇は一人平均一四・八日、実際に休みをとった日数は八・二日で、その有給休暇消化率は五五パーセントに過ぎません。しかもこの五年間で取得率がむしろ下っているのです。
勤勉であることは良いことですし、日本の経済を支えているものでもありますが、私たちの周りには、依然として、「休むことは罪悪」。また休む人に対して「休める人はいいよなあ」と暗(あん)黙(もく)の批難が漂(ただよ)っています。
また有給休暇数も、日本は非常に少なく、西ドイツ二〇〜三〇日、イギリス一五〜二〇日、フランス二四日、イタリア二〇〜二四日、ベルギー二四日、デンマーク二〇日(労働協約によるもの、一九七六年)と日本より、はるかに多いのです。
同じく週休二日制度についても、日本は規模三〇人以上の企業で、完全週休二日制をとっているのがなんと六・七パーセント、月一回までも含めてやっと半数の五一・二パーセントです(一九八四年)。これに対して、アメリカ八三・四パーセント(一九七六年)、イギリス八八・四パーセント(一九六八年)、西ドイツ七八・五パーセント(一九七一年)と、これでは日本人の働き過ぎを、アメリカやEC諸国から批難されてもいたしかたありません。
けれども最近は、若い人を中心に休みを消化する人が多くなってきました。それを見る年輩者の意識が変わっていないところに「今の若い者は」などの苦情の出る素地があるのですが、私の失敗例のように、休み方も大切、「忙しい時に限って、今日は休みますって平気で電話よこすんだから。仕事をなんだと思っているんだろう」などと、周囲の人から言われないように、仕事全体の流れ、進行に注意すること、休むことによる人間関係の気まずさを作らない心がけが求められます。
一般に、男性よりも女性の休みに眼が厳しいのですが、これは仕事に自己裁量があって予定を立てることの出来る側と、それによってコントロールされる側との立場の違いが反映されています。
前章の電話番のOLのように、用事がなくともいなくてはならない状況では、休みも目立ちます。その上、ちょっと息抜きにサボることすらも許されず、勤めはつらいものになります。
また、仕事の全体の進行が知らされていない職場では、今忙しい時なのかどうか、その判断すら出来ないことがあります。
それは、管理職の能力や考え方にも左右されるのですが、少なくとも「今忙しい時かどうか」、また旅行などで長期に休みをとる場合には、「その時期は忙しい時かどうか」、積極的に問いただしておくことも我が身を守る方法です。もっとも、文化の日の私の時のように、仕事が遅れてしまえば、せっかくの配慮も役に立たないのですが。
生理休暇は男女雇用機会均等法で、こう変わりました。
「生理に有害な業務に従事する女子労働者が、生理休暇を請求した場合には、就業させてはならない旨の規定はなくなりました。しかし、生理日の就業が著しく困難な女子が休暇を請求した場合はその者を生理日に就業させてはなりません」
生理休暇は母体保護のうえで大切な制度。生理時には通勤すら苦痛の人もいるのですから、不正使用や、あたかも“談合”のように、生理休暇をとることを強制しあうようなやり方は、男性からの協力も得られにくくなります。
生理痛には、人間関係とか仕事の満足感も大きく影響している場合があるようです。
これは、働く女性の集まりに出た時に聞いたのですが、彼女は生理痛がひどかったのに、配転後、仕事に張りが出て、人間関係も良くなると、ぴたっとそれが治まったというのです。
医学的なことはよくわかりませんが、生理時、毎回苦痛の人は、お医者さんによく調べてもらったほうがいいですし、精神衛生の面でも問題があるのかもしれません。
生理休暇にしろ、出産休暇にしろ、女性特有の母体保護のための休暇をとることは、心情的につらい思いをするのが現実です。
けっして、表(おもて)向(む)きには出ませんが、女性不採用の理由にしても、「女性は休みが多い」というのが本(ほん)音(ね)としてありますし、それゆえに安心して仕事を任かせられないから、戦力にならないと考えている経営者は多いのです。
また、男性の同僚の中にも、休みの多い女性が同じ給料なのはけしからん、と心の中で思っている人が必ずおります。
「女はいいよなあ、やれ生理休暇だ、出産休暇だ、海外旅行だ、と堂々と休んでいるんだもんなあ」
とあからさまに言う人すらいます。
生理休暇と出産休暇
私の知っている何人かのキャリア・ウーマンは、結局、男性なみの仕事をやっていくために、生理休暇はほとんどとったことのない人ばかりです。
会議だ出張だと、五時間も六時間もトイレに行く時間すらとれないで働かざるを得ない。けっしてそれが良いことだとは思いませんが、仕事の厳しさの中には、身体を酷(こく)使(し)せざるを得ない場合もあるのが現実です。
私は、男性にも生理休暇や出産休暇に匹(ひつ)敵(てき)する休暇制度があれば良いと痛切に思っています。
月に一日か二日、有給休暇の他に“請求すれば休める日”、名目は頭痛休暇でも二日酔い休暇でも良い。今の有給休暇消化率では、とらない人がほとんどだろうけど、制度として用意して欲しい。そうすれば女性の休暇も、もっととりやすいものになるし、女性特有の休暇と戦力を結びつけられることもないのではないか、それが私の期待です。
また男性も妻の出産のための休暇に二、三日などといわず、一ヵ月ぐらいあっても良いのではないでしょうか。
特に昨今の核家族では、夫の役割が多く求められています。第二子出産の時など上の子をどうするか、多くの家族が困っているのですから、こうした制度も必要です。そのことによって、女性の同僚が出産休暇をとることへの理解が深まるのではないかと思うのです。
私がいちばん憤(いきどお)りを感じるのは、「働きたい女は、子を産むな」という、男性からも女性からも投げつけられる出産休暇をとることへの批判です。
代替要員のいない小さな職場では、一人が休めば、そのしわよせは、男性や独身女性にいってしまうでしょう。そんなことでは、休むほうも、針の筵(むしろ)に座る切(せつ)なさを味わいます。
結局、働きたい意志がありながらも、辞(や)めることで解決せざるを得ない状況というのは、多くの女性が体験していることです。
しかも、出産休暇中に不合理な配転をさせられたり、いろいろ悪口を言われることも少なくありません。
出産休暇は、働く女性にとっての権利であると口で言うのはたてまえ、本(ほん)音(ね)の部分では「休めていいなあ」とか、「休むとはけしからん」「戦力としてあてに出来ない」などが、今なお残っているのが現実です。
しかし、私が職場で見聞きした範囲では、やはり、ふだんからよく働き、その職場で重宝(ちようほう)され、人間関係も円満にいっている女性と、そうでない女性とでは、周囲の反応の違うことも事実です。
何ごとによらず、ふだんの生活が、いざという時に反映されるものですが、出産休暇においても、「頑張って、いい子を産んでまた出ておいでよ」と言われるか、「困ったもんだ」と言われるかは、その人次第です。
また、周囲に出産休暇をとる人がいたら、その人が周りの人に、どんなにすまない思いでいるか、そのへんのところもわかってあげて欲しいと思います。
私は、二人子どもがいますが、一人は、大学時代に出産し、一人は就職後出産しました。しかも二人めの時は切(せつ)迫(ぱく)流産を起こして、二週間の絶対安静、妊娠初期から迷惑をかけっ放(ぱな)しです。
「すまない、申しわけない」と思う気持はあっても、つわりのひどさに気分も苛(いら)立(だ)ち、なかなかその感謝の気持が現わせません。産休に入ってから、職場の人たちにビール券を送ったのが、せめてものお詫びの思いでした。
私の体験では、産休には男性のほうがむしろ好意的でした。
「君は、これから大事業があるんだから、あんまり気をつかわないほうがいいよ」
切迫流産で仕事を投げ出した私に代って、徹夜で仕上げてくれたU氏の言葉は、今も忘れられません。
産休で、いちばん気をつかわなければならないのは、独身の女性に対してです。
もう四十歳を過ぎている組合の独身婦人部長が、しみじみと述懐しました。
「私のこれまでの活動を振り返ってみると、母性保護の問題は、避けてきたような気がするんです。表向きは大事な問題ですし、組合員の代弁者としてやってきてはいますが、本心から切実な問題として、とり組んだかと問われると、とてもつらいんです。
本音のところでは、自分のことを思うと胸が痛い。私だって縁があれば結婚したかった、子どもも欲しい。なのに『あなたは一人で気楽でいいわね』などと言われて……。なんのためにやるのかと思うと、気持のどこかに触れたい問題じゃないと思うものがあるんですよ」
これは本当に正直な気持だと思います。
共働きが大変だ大変だと言うけれど、夫も子どももいるじゃないの……。なのに自分は独身貴族だの、金が貯(た)まるだろうなど言われながら、夜ひっそりと暗いアパートに帰って行く。このまま一生働いて老後はどうなるんだろう……、そのうえ、結婚祝いだの出産祝いなど、つきあいとはいえ出る一方、そうした気持があるのが本当だと思います。
独身であることが、人間の評価を下げる見方は私たちの周囲に必ずあります。私の独身の友人が言いました。
「あんたね、どんなに亭主の愚(ぐ)痴(ち)をこぼしたって、『あれだから嫁のもらい手がないんだ』と見下げられるよりはましなんだよ」
独身でいることは、たまたまチャンスがなかったにすぎないこと。その人の人間性とは関係がないし、結婚した女が“いい女”である証拠など、どこにもありません。
最近は、男女共にシングル志向が増えましたが、結婚するもしないも生き方の問題であり、その人の価値とは関係のないことだ、そうしたはっきりとした意識を女性一人一人が持たない限り、出産休暇の問題にしても、展望は得られません。
私の職場が産休をとりやすかったのは、皆が理解があったということもありますが、もう一つ大きな要因として、長期休暇の制度が男女共にあったことだと思います。
五年以上の勤続者に対して、三年に一回、一ヵ月の研修休暇があるのです。研修といっても、旅行でも自動車の運転練習でもよく、やはり仕事の忙しい人は、権利を流してしまうケースもありましたが、それでも制度として用意されていることは、休むことに対して自他の罪悪視をずいぶん少なくしています。
自分にも休みがあると思えば他人にも寛大になるもの。その意味で前に述べた男性の妻の出産休暇も、一ヵ月くらいあっても良いと思うのです。皆が休む側、休まれる側を体験することは、人間の交流の上で大きなメリットになります。
生活に必要な休暇の制度
最近は育児休業制度が普及してきました。教師や看護婦の職場では、出産後一年あるということですが、一般企業にも増えてきました。ある児童図書の出版社では三年を認めているそうです。
乳児保育の問題は、産休あけの母親にとっては切実。赤ちゃんを母乳で育てるためにも、母親の健康管理の上からも育児休業制度は大きな前進です。
実際これまで、赤ちゃんを見てくれる人が見つけられず、どれだけ多くの母親が仕事を辞(や)めたことでしょう。それが「産休を、とるだけとって辞めてしまった」悪評にもつながりました。
けれど、この制度も、休みにくい雰囲気があれば、名目だけのことになってしまいます。
「仕事に、とり残されてしまうのではないかと不安もありますし、何よりも一緒に働いている男性には休みがないのに、私だけ休んでいていいものかって思うんです」
こういう声もありますが、しかし自分の職業を一生の長い眼で見れば、一年や二年のことであせることはないと思うのです。同僚の男性に対しても、恩返しの出来る機会はきっとあるでしょう。
この育児休業制も、スウェーデンのように、夫婦どちらがとってもいいしくみになっていると、どんなに救われるでしょう。
数年前、スウェーデンに行った時、訪問した施設の男性館長さんは、育児休業をとっているところでした。ところがその日、二組の視察団があったため、応援に出てきていて、なんと赤ちゃんを抱(だ)っこしていました。
日本ならさしずめ、「男が職場に赤ん坊を連れてきて、しかもお客様の前にまで」とたちまち白い眼が飛んでくるでしょう。子どもは職場に連れてくるものではないというのが日本の常識です。
このあたり、育児とか職業生活に対する考えが、日本とは基本的に違う。なんと自由で個人の判断を認める懐(ふところ)が広い国なのだろうと感心いたしました。
長期の休暇が男女共に望まれるのは、老親介護休暇あるいは介護時間制度についても同じです。
過日、“老後問題を考える会”という中高年主婦の集まりに出たのですが、その時一人の主婦が、
「子どもたちが大きくなって独立していったあと、もし私が寝たきりにでもなったら、いったい誰が面倒見てくれるんでしょう。夫が休んでくれるような、そういう制度がないと不安です」
と語り、多くの主婦の共感を得ていました。
今後、高齢化社会は急激に進むといわれています。
厚生省人口問題研究所の『日本将来人口新推計』によると、約四十年後には、労働力人口の三・三人に一人が六十五歳以上の老人になります。
今の若いOLが老人になった頃は、若い人の負担が非常に重くなっています。
働く女は子を産まねばならないと私が考えるのも、このへんに理由があるのです。
女性の就労は今後とも進む。もし「働く女は子を産むな」ということになれば、このひずみはもっとひどくなる。私たちは、働きながら子を産んでいくことに、真剣でなければならないのです。
これまで、親の看護は勤めている女性が、勤めていない(公的な仕事のない)女性に、心情はともあれ、かたちの上では押しつけることになっています。
「仕事が忙しくて休めないの。お義(ね)姉(え)さん仕事ないんだからお願いね」
これはよく聞く言葉ですが、それが職業と看護をめぐっての女性間の対立を招き、親族間ののちのちまでのトラブルの原因ともなりかねません。
また、私もかつて体験しましたが、勤めがあり、責任があるがゆえに、親の看病が思うように出来ない……、ある病院の婦長さんが涙ながらに言いました。
「私は看護婦という職にありながら、自分の親の看病が出来ませんでした。本当につらかったですし、今でも悔(く)いとなって残っています」
独身女性が、自分の親と暮らしているケースは多いのですが、若いうちはともかく、親も年をとり病気がちになってくると深刻な問題になります。
私の友人N子さんは、独身の公務員ですが、寝たきりのお母さんを抱(かか)えています。朝、おにぎりを作り、牛乳を枕元において、おむつを十数枚あてて出勤するのだそうです。
「もう本当に疲れてしまった。共働きの人はまだいいわよ。いよいよつらくなったら、どちらかが辞(や)めるという解決方法もあるわ。だけど、私の場合は、私が辞めてしまったら、飢死しかないのよ。このままでは親子共倒れは眼に見えている。病院やホームにも入りたくないっていうし、本当にどうしたらいいのかしら」
彼女に介護休暇があったら、どんなに救われるかと思います。何よりも寝たきりの老人にとっての救いになります。
また、さきほどの中高年主婦の不安に対しても、介護休暇は男女共に必要なのではないでしょうか。老人の看病には重労働が伴います。男手があったら、どれだけ助かるでしょう。寝ている老人にとっても、それはありがたいことです。
老人福祉には、医療、年金、雇用、生きがい、在宅福祉、施設福祉など、さまざまな側面がありますが、老親介護休暇の問題も非常に大切なものとして、今後とり組んでいく必要があります。
長期休暇といえば、夏休みやバカンス論議になりがちですが、こうした生活に直接必要な休暇制度に眼を向け、休むことをタブーとする社会意識を変えなければ、自分の生活そのものが脅(おびや)かされることに注目したいものです。
第12章 オフィス・ラブの明暗
試練の恋もある
男でも女でも、一生懸命働いている姿は美しいもの。職場とはその意味で“美しい”男女が寄り集まっています。さまざまなオフィス・ラブが生まれるのも、自然のなりゆきというものでしょう。
とはいうものの、職場の恋もまた美しいばかりではなく、悲しみやくやしさ、深く傷つく恋もあるもの。人間の出会いが必然的にもたらす感情のあやとりは、恋においてはいっそうあでやかな彩(いろど)りを持っています。
社内恋愛のきっかけは、人さまざまです。一つの仕事を苦労しながらやっていて、お互いの仕事上の悩みや、生活のことを話しているうちにいつしか愛が芽生え……、また何かの会合のあと、送ってもらって個人的な話をしたのがそもそもの始まりであったり、「ご苦労さま」の一言にぐっときたとか、殺(さつ)気(き)立った雰(ふん)囲(い)気(き)を柔(やわ)らげるユーモラスな一言がたまらなくいとおしかったり、ほんのちょっとしたことが、大きな奇跡を生んでいるようです。
目下、社内恋愛ちゅうのT夫さんとJ子さんの場合も、ひょんなことでした。彼が見込んだのは、彼女の悠(ゆう)揚(よう)せまらぬおっとりしたところ。
「うちの会社は、特に女性ということで甘やかしたりせず、猛烈ぶりを競(きそ)いあっているんですが、その中で彼女はおっとりしているというか、のんきというか、課長にどなられて神妙な顔していても、あとでチョロッと舌を出したり、そのしぐさがとても可愛いんですね。第一、叱(しか)られたとかいってふさぎ込んだり、ギスギスしていないんです……」
オフィス・ラブも、皆に祝福されて幸せなカップルばかりとは限りません。むしろ傷ついたり、泣いたり、失意のどん底に落とされる恋のほうが多いのではないでしょうか。
ライバルが多くて恋のさやあてが絶え間ない。そのうえ、彼の心が今一つつかめない。そんな状況になると日々は地獄です。なまじ顔を合わせる機会が多く、仕事も協力し合わなければならないだけに、その恋の相手に対しても、さやあてで気まずくなった女性に対しても、平静ではいられません。
私は、彼の心がどうしてもわからないような場合は、さっさと見切りをつけることを勧めています。
往々にして未練は海の如く深く、恋のライバルに負けるくやしさもありましょうが、恋愛はいっとき、結婚は一生。将来の苦労は眼に見えています。
「その彼、私の目の前で他の女性を映画に誘うのね。私の気持がわかっていると思っていたから、ショックで外に飛び出して泣いてしまったわ。
そんなことがいくつか重なって私考えたの。こんなに人の心に鈍感な人に、いつまでもこだわっていることはないって。つらかったけどあきらめたわ」
こう語ったM子さんは、彼の心がわからなくて大変苦しんだのですが、今はさばさばしています。かつてのように、彼が他の女性と親しげに話しているのを見ても、なんとも思わなくなりました。
ライバルが多く、それゆえに、ひそかな裏切りを受ける恋に苦しむ女性もいます。
E子さんのケースは、信頼出来る同僚とばかり思って、何もかも打ち明けていたG子が、じつは彼女の恋人と通じていたのです。
「裏切りっていう言葉が、こんなに身にしみたことはなかった……。夜も眠れなくって、会社を辞(や)めようか、二人を殺して自分も死のうかと思いつめたけど、結局、無視することにしたわ」
彼女はG子との交際を絶ちましたし、彼とも別れました。
けれども同じ職場。恋を失ったうえに、二人のことが噂で耳に入ってくるそのつらさ、仕事の面では協力しあわなければならない、それは地獄のようなものであったと回想しています。
「友だちや恋人を失うことは、大切な宝を失うようなものだけど、若いうちは失うことを怖(おそ)れてはいけないと思うのね。失ったぶんだけとり戻すことが出来るのが、若さというものだと思うのよ」
彼女にとって、この恋は試練でした。今それを乗り越えて、彼女は新しい恋人を見つけています。
上司との不倫の恋も試練です。恋は相手に妻子がいるとか、すでにきまった人がいるとか、そういうこととは無関係に起こるのですが、成(じよう)就(じゆ)の見込みがないだけに、その袋小路の恋はつらい。恋は倫理だけでは考えられないもの。感情のおもむくままに燃え上がってしまいます。
S子さんの恋は、それが表(おもて)沙(ざ)汰(た)になってしまい、彼は責任をとって退社しました。
「彼の家庭を壊(こわ)そうという気持はなかったんです。でも結局は退職ということで大きな影響を与えてしまったのね……。それに私の将来のことも考えて、やっぱり別れることにしたんだけど……」
彼女は、仕事の面倒もよく見てくれる上司に対しての感謝の思いが、いつのまにか恋に変わっていたと言います。
職場では、女性に対する上司の態度で、仕事のやりがいも大きく変わってきてしまうのですが、それゆえに恋に変わる可能性も潜(ひそ)んでいるようです。
上司の中には、仕事やポストの代償としてセックスを求め、また女性の側でも身体を利用して自分に眼を向けさせ、認めさせようと努力する人が今だにいるそうです。
そのお互いの下心が、恋という一(いつ)見(けん)純粋なものに包まれているがゆえに、のちにトラブルになった時には傷は深いと思います。
上司との人間関係は、OLにとっては職業継続上重要な要素です。仕事の面倒を良く見てくれることへの感謝の気持と、恋愛感情を持つのとは別物。自分にだけ特別に眼をかけてくれているとか、上司の苦労やつらい立場に同情するとか、そういう気持から仕事にまで影響を与えてしまうことは避けるのが当然です。女であることを利用して仕事を有利にするなどもってのほか。心ある男性は、女性が思っている以上に、そういう女性を嫌うことを知っておくといいでしょう。
幸せな恋を成(じよう)就(じゆ)させるために
私の職場で、ある男性が同僚の女性を批判して言いました。
「あの人は、女を売りつけようとしているんですよ。あの人とは仕事、組みたくないなあ」
女性の中には、女の眼から見ても、ちょっとどうかと思うほど女(おんな)々(おんな)として、可愛い気(げ)に振るまう人がいますが、これは女性にとってもはた迷惑。男性もまた苦(にが)々(にが)しく思っているものです。
恋によって、さまざまな人間関係が起こります。一人の男性をめぐって、一人の女性をめぐって、上司をめぐって。それがうまくいかない場合に、職場全体の雰(ふん)囲(い)気(き)を陰(いん)湿(しつ)なものにしてしまいます。
その時、どう事を処すか、そこには正解はありません。大いに泣き、苦しみ、時の過ぎるのを待つしか傷の癒(いや)しようはないように思います。
また、自分が傷つくだけでなく、他人をも傷つけてしまう場合もあります。信頼とか裏切りとか、切実に味わうのも恋の試練、人生の試金石というものです。
また、特に気をつけなければならないのは、女性の口以上に男性の口。夜のデートのことや、身体のことなど、男同士で囁(ささや)かれる内容のひどさにおどろいたことがあります。
「あの人に限って」と思うことは絶対にタブー。女性を心のある人間と見ない下(げ)劣(れつ)な男にこと欠かないのがこの世だと思っているほうが無難です。
「真実の恋」を見つけるまで、くだらない男に身をまかせることのないように、特に純粋でひたむきな女性には注意が肝要です。
オフィス・ラブを上手にして結婚にこぎつけるには、やはりそれなりの努力がいるものです。政治家と同じように、かなり日常行動に深い計算が要求されます。
その注意とは、まず第一に、仕事をきちんとする姿勢を崩(くず)さないということ。都(ど)々(ど)逸(いつ)の文句ではありませんが、「夢に見るよじゃ惚(ほ)れよが薄い、心底惚れたら眠られぬ」状況で、寝不足が仕事の重大ミスを生んだり、デートが重なって疲労がち、つい不機嫌になってしまったうえ、「色に出にけり、仕事に出にけり」となると、たとえ、好意的な周囲であろうと、必ずとやかく言われる原因となります。
仕事に影響を与えない、これがオフィス・ラブの第一の鉄則です。
第二に、彼との会話で得た情報は、絶対に口外しないことです。セクションが違う場合は、その課の内情やら、場合によっては仕事上の秘密も含まれているかもしれません。
自分の情報範囲が広がるのは嬉しく、誰かに喋(しやべ)りたくなるものですが、必ず自分の胸の中にしまっておくこと。「ここだけの秘密よ」というのが効果のないものであることは、コミュニケーションのところで述べた通りです。
昨今は、オフィス・ラブを禁じている会社はないでしょうが、社内のカップルがいやがられる理由の大きなものとして、情報がインフォーマルに流れてしまうことの危(き)惧(ぐ)があるからだと知っておくべきです。
第三に、二人の関係の公表の仕方。女性の多い職場では、徹底した隠(おん)密(みつ)作戦しかないともいわれていますが、公表したほうが良い場合もあり、そのへんのかねあいは職場の雰(ふん)囲(い)気(き)によっても違ってきます。
私は、ある程度関係が深まってきたら、直属の上司には話しておいたほうが良いと思います。
人間誰しも、打ち明けられたり相談されたりすれば嬉(うれ)しいもの、「よろしくお願いします」と顔を立て、味方につけておくのは大事なことです。
上司としても、頼られているという気持と、部下を把(は)握(あく)しているということで人事管理上のプラスになるものです。
もし、それによって二人の関係が明らかになっても、それはそれでいい。あまり徹底した隠密作戦は、それとは知らず思いを寄せる男性や女性が現われたり、心ならずも傷をつけてしまうことにもなります。
C子さんは、相手が女性ばかりの課の課長であったため、仕事の配分にエコヒイキがあるとか、仕事ちゅうにデレデレするとか、痛くもない腹を探られたり、色眼鏡で見られたくない一心で、徹底した隠密作戦をとったのですが、
「隠れて会ったり、周囲に気をつかって、わざとそっけなく振るまったり、腹が立つやら情けないやら、一時は彼の本心まで疑ったりして……」
こういう苦労も、あとになれば楽しい思い出でしょうが、ある程度公(おおやけ)にすることで、二人の絆(きずな)が強くなることもあるものです。
信頼のおける人には、打ち明けておいたほうが無難。時々は「彼がねえ」とのろけるのも恋の楽しさの一つです。そのためにも、信頼のおける人を、ふだんから見定めておく心がけが大切です。
第四に、公私のけじめをきちんとつけること。オフィス・ラブは「あくまでも職場だ」ということを守らねばなりません。
どうしても彼を意識してしまい、電話とかコピーとかお茶とか、世話をやきたくなってしまいます。彼の仕事を優先して手伝いたいのが人情ですが、そこはぐっと抑(おさ)えて公平に振るまうこと。このへんが、きちんとしないケースが多いゆえに、心ある恋人たちは隠(おん)密(みつ)行動にならざるを得ないのです。
また、二人の恋の成(じよう)就(じゆ)のために、他人を利用しないこと。
ある恋愛関係の二人は、彼女の自宅で職場の人たちとの集まりをもったのですが、あとで知った連中は「ダシにされた」とカンカンに怒ったそうです。
利用されたと思うと、腹を立てる人間もこの世にはいるもの、自制するにこしたことはありません。
第五に、自分の恋に自信を持つこと。いうまでもなく恋している女は美しく、自信にあふれているものですが、それでもやはりそこは女。彼が他の女性と楽しげに話していたり、親切にしたりすると心は乱れ、彼の心を疑いたくなります。
この不安や悩みがあってこそ、恋もはなやぎを増すのかもしれませんが、つらいものであることに変わりはありません。
恋をすると溌(はつ)剌(らつ)と元気になるタイプと、打ち沈んで元気のなくなるタイプとがありますが、後者の人は特に気をつけなくてはなりません。不必要な嫉妬に苦しんで、せっかくの愛を壊してしまわないように、情熱を持って自分の恋を守り抜く姿勢でいたいものです。
それでこそ、勤務ちゅうの彼の存在が気になってならない精神状態から、脱(ぬ)け出せるのではないでしょうか。
他にも、こまごまとしたオフィス・ラブの遵(じゆん)守(しゆ)事項が、職場ごとにあることでしょう。
どんなにつらく苦労多いものであるにしろ、恋人にめぐり逢い、恋の楽しさを知ることの出来る人は幸せ。細心の注意で恋を成(じよう)就(じゆ)させていって欲しいものです。
私の友人E子さんは、彼のハートを射止めて幸せの真(まつ)只(ただ)中(なか)にあったのですが、それを見ていた同僚の一人が言いました。
「あの人すこし調子に乗り過ぎているんじゃない? 何よあの態度。あの人、前に○○さんとつきあっていたのよ。うらやましくって言うんじゃないけどさ、どんなつもりなのかしら」
他人の幸せを、祝福出来る人ばかりではないのです。私にも恋人が欲しい……、周囲はその思いに満ちています。中には失恋の痛手や、うまくいかない恋に苦しんでいる人もいるもの。つい自分の幸せにだけ没頭してしまうと、冷たい仕打ちを受けることになってしまいます。
その意味では、“幸せ”な恋を守り抜くのも人生の試金石。悲しい恋と同じように、乗り越えなければならない試練もあるのです。
“適齢期”にまどわされない
心理研究家の三田悠(ひろ)之(ゆき)氏は、「社内結婚に縁のない女」として、次の十二ヵ条をあげていて、このうち三つ以上あてはまる人は、恋愛のチャンスがないと言っています。
ただ私などは、これはあくまでも女を“選ばれるもの”として見る男の発想だな、という気がしています。作家の田辺聖子さんが、「未婚の女にはいい女が多い。いい女だから結婚しないのか、結婚しないからいい女になるのかどちらだろう」と何かに書いておられましたが、まことにその通りです。欠点があるから未婚、未婚だから欠点がある、というわけではけっしてないのです。
それでも、一般的な人づきあいとして、男性はどんな女性をいやだと思うのかを知るうえで参考になると思いますので列記してみます。
一 八方美人
二 おしゃべりで情報局的な役割を持っている女性
三 上役に異常接近している女性
四 仕事だけの女性(キャリア・ウーマン)
五 女性間でボスになっている女性
六 同性の同僚に嫌われている女性
七 会社のムードにとけ込めない女性
八 評判の悪い女性
九 マナーの悪い女性
一〇 プライドの高い女性
一一 意地悪な女性
一二 センスのない女性
私などは、この一から一二まで、かなりあてはまり、大いにショックを受けたのですが、それでもなんとか結婚のチャンスはありました。言わせてもらえば、この“女性”というところを、全部“男性”におき換えてみても、一から一二にあてはまる男性もたくさんいます。
とはいうものの、恋にめぐり逢うための条件を、すこしでも良くしたいもの。この十二ヵ条は心して受けとめ、この項目にあてはまらない男性を選びたいものです。
結局、この十二項目を要約してみると、“人(ひと)柄(がら)の良さ”に突きあたっているようです。
私の勤めていた職場も、社内恋愛、社内結婚の多い職場でした。
男性のハートを射とめていった彼女たちをみると、まず共通しているのが非常に仕事熱心で真面目であること、身体がこまめに動き、利発な感じがするのです。
仕事もまかせられて、ユーモアもあり素朴でもある。組合の仕事などには骨身を惜しまず、そういう人から相手がきまっていったようです。
だからといって、社内結婚や恋愛に縁のなかった人が、さきにも述べたように魅力に欠けているわけではないのです。むしろ、どうしてこんな人を放っておくのか、男も見る眼がないなあ、と思うこともしばしばです。
私の友人R子さんは、前に話の聞き上手として紹介した人ですが、彼女などは友人間ではまっさきに結婚するだろうと思われていたにもかかわらず、今だに独身です。
「結局、仕事が大事だったのよ。私が職業を続けていくことを認めてくれる人とでなければ、どうしても踏み切れなかったの。妥協して結婚するのがいやだったのね。でも、まだあきらめてないわよ。これからだってチャンスあるかもしれないもの」
まことにその通りです。
だいたい適齢期などという言葉自体がおかしなもので、人生は何歳であろうと、結婚するにふさわしい男が現われた時が適齢期。結婚したい気持、あせる気持はよくわかりますが、
「あんなに素敵な人が、どうしてあんなつまらない男と……」
などと言われ、自分もホゾをかむ思いになるほど愚(おろ)かしいことはありません。
私の両親は、双方とも再婚でした。母四一歳、父三三歳、八歳も姉さん女房の家庭に私は育ちました。ですから私の家庭観は、かたちや世間の常識に左右される必要はないという思いが強く、要は本人同士が良ければそれで良い、齢(とし)などはまったく関係ないと思っています。
最近の男性は、一方では「俺についてこい」と胸を張りたいと同時に、反面、「あなた、そうではないわ」と言ってくれる確かさを女性に求めています。ただ言いなりに「はいはい」という素直さだけでは満足しない、やさしさを求めながら芯(しん)の強さもまた求めているわけです。
特に、最近のように情報が多量に流れ、技術も日進月歩、仕事に追いついていくのも容易ではない状況では、夫の世界とはまた違った分野で情報を整理し、提供し得る力を女性もまた持つ必要があると思うのです。
それは、夫のためばかりではありません。自分の一生を通して、みずからを支えるものであり、人生を創(つく)り上げるものです。
自分自身の世界を持つことは、けっして夫をないがしろにすることでも、家庭をいい加減にすることでもありません。
結婚と仕事は人生の両輪
過日、中年の主婦の方から、お便りをいただいたのですが、要約すると、
「私は、自分の人生これで良かったのかと大変悩んでいます。結局は夫と子どものためにのみ生きて、自分には何もない」
と、まことに苦(く)渋(じゆう)に満ちたものでした。ところが、そこに彼女は「あなたは、私と違うんだ」と二回も書いているのです。この心理はいったいなんなのでしょうか。
「私とは違う」そう言ってしまうことで、自分の現状を是(ぜ)認(にん)し、安心を求めようとしているのでしょうか。
ところがそう言われる私とて、迷いと悩みの中で生きている。だけど何か自分のものが欲しい、生きている手ごたえのようなものが欲しい、それゆえに行動し、失敗する。その繰り返しで生きているにすぎません。
もし、彼女と私とで違うものがあるとするならば、彼女が“良い妻であり母である”その枠(わく)の中にはまっている自分のイメージ、他人からそう思われること、それを捨てられなかったのに対し、私はその枠だけで生きることを拒否した、それだけの違いです。
妻が自分なりの生き方をする。それがひいては、夫婦の長い道のりに必ず役に立つものだと信じているのです。
結婚生活がバラ色なのは、せいぜい一年か二年。「恋愛はロマンだけれど、結婚は現実である」の言葉通り、夫婦の人間関係も努力しなければ作り上げられません。
一般的にいって、OLは二〇歳前後に入社して、四〜五年後に人生の分岐点を迎えます。仕事に楽しさを見出せないOLは、こんな仕事に時間を費(ついや)すよりも、誰か一人のために自分を発揮したいと思いがちです。
そこに、結婚か仕事か二者択一を求められる素(そ)地(じ)が生まれます。そして、あたかも逃げ道を求めるように、結婚を選ぶOLのなんと多いことか。けれど結婚はけっして逃げ道でも救いでもありません。
どんな結婚であっても百パーセント満足させてくれるものではなく、必ず不満が生まれます。ましてや逃げ道で結婚した人には、それだけ期待はずれも大きく、不満も大きくなります。
結婚と仕事は自分の人生にとって両方必要なもの。自転車は一輪で走るのは曲芸的に難しいけれど、二輪なら安定して走れる。けっして別の方向に向かって走る二匹の兎ではなく、同一方向に向かうものだと考えることが賢明です。
その時、どういうタイプの男をあなたが選ぶか。それによって、あなたの職業、人生は大きく変わりますが、と同時にあなた自身が男に対してどういう影響を与え得るのか、若い女性の話を聞いていると、どうも受身過ぎて、物たりないものを感じます。
若い時には若い時の夢がありますが、夫に尽くす可愛いい奥さんでありたいと思う気持と、自分の人生を大切にしていこうとする行動とは、矛盾するものではありません。
のちになって、自分が何も出来なかったのは、夫のせい、子どものせいと他人の側に理由を求めるのは、卑(ひ)怯(きよう)というもの、可(か)愛(わい)い気(げ)のない話です。
恋をしてしまうと、相手の男性がどういう女性観の持ち主かなど、見えなくなってしまいますし、男性の意識も恋愛時と結婚後は変わっていくものです。
特にオフィス・ラブの場合は、職場でみる彼と家庭での彼との落差の大きいのに驚くことが多いようです。職場ではバリバリやっている彼が、実は母親には何も言えない男であったとか、結婚してみて初めてわかることは多々あるものです。
ただ私は、自分が相手にがっかりし、不満を持ったぶんだけ、向こうもがっかりし、不満を持っただろうと思ってやってきました。そして、その不満を乗り越えさせたものは、結婚は人生のゴールではなく出発、誰のためでもない自分のための結婚、自分の生き方を大切にしたいという思いでした。
古来、恋愛や男女について幾多の箴(しん)言(げん)、名句が残されていますが、私は、フィヒテの次の言葉が好きです。
「真の永続的な恋愛は、尊敬というものがなければ成立しない」
すばらしい恋をすること、それは生きていく上での原点のようなものです。たとえ悲しい結果に終わろうと、恋多き女と囁(ささや)かれようと、それは“真の永続的な恋愛”のためのプロセスです。
“尊敬されるに価(あたい)する女か”、それこそが一生ついてまわる問いかけです。
第13章 若い共働きの心がけ
選択の一つとしての職業
結婚すると、人間関係はぐっと広くなります。夫の実家のこと、夫の職場の人たち、近所づきあい。そのうえ、共働きとなれば、自分の職場の人たちとのつきあいも、独身時代とは違った配慮が求められてきます。
女性の結婚と職業の問題は、今なお大きなテーマで、オフィス・ラブにしても、結婚したらどちらか一方が辞(や)めるとか(多くの場合、女性が辞める)、配転になる。また、ある都市銀行では、同一支店内での共働きは認められない。したがって同じ市内なら配転になっても通勤出来るけど、一都市一支店の場合には、辞めるか結婚と同時に別居せざるを得ない等々。共働きの意志があっても、継続出来ない場合も多々みられます。
また、今だに、結婚したら辞めるという不(ふ)文(ぶん)律(りつ)のある会社も、なきにしもあらず。強(ごう)引(いん)に勤めてはみたけれど、結局、周囲の無理解で辞めざるを得なかったなど、問題は山積しています。
また、女性の側の意識にしても、従来の既成概念から一歩も出ずに、親や夫の言うままに、結婚したら辞めて家庭に納(おさ)まることを良しと考えている人もいます。結婚さえすれば、あとの生活はバラ色、結婚がけっしてゴールではなく、自分の人生へのスタートであることを忘れています。
私は女性の生き方として、職業だけがすばらしいとは思っておりません。人間誰しも向き不向きがあるように、職業にも向いている人と向いていない人がおります。
また、男性が否(いや)応(おう)なく、職業に一生かかわっていかざるを得ないのに対し、女性はもっと多様な選択の道がある。これはすばらしいことです。それぞれ、その人に向いた生き方を選択していけばよいのです。要は燃焼度の問題です。
けれど一方では、そうした多様性がまた悩みの種(たね)となる。他人の選択のほうが良く見え、自分は何をやっているんだろうとあせりを覚え、何かやっている友人がうらやましくてなりません。
これは、職業についている女性とて同じことです。
仕事仕事と駆けずり回っているうちに、何か大切なものを取り落として生きているんじゃないか。「辞めたい」と思うのは、男も女も共通して何度も味わう感情ですが、男には“妻子”という歯止めがあるのに対し、女性にはそれがない。仕事に対して満足しているわけでもない。いったい、なんのためにこんなにつらい思いをして……と考え込むことは数知れずです。
私は、多くの人から、あなたが職業に執着してきたのはなぜですかと聞かれるのですが、いつも返答に窮します。答えようと思えば、いくらでも出てきます。
「仕事がおもしろかった(ただこれも初めからおもしろかったわけではありません)」「職場の友人たちとのつきあいが楽しかった(同じく初めから友人関係が良かったわけではありません)」「知恵遅れで身障の義姉がいて、彼女のことを思うと辞められなかった」「仕事をすることもまた女の生き方だと思った」「安定した収入が欲しかった」エトセトラ。
なんとでも答えられるのですが、どうもそれは一面でしかない。つきつめれば辞める勇気がなかった、組織にぶら下がって、その中で与えられた仕事をやっているほうが、自分でテーマを見つけ、一人コツコツやるよりも、楽であると思っていたということになってしまいます。
と同時に一種のあきらめ、私にはこれしか出来るものがない。一つの職業を選ぶというのは他の可能性を捨てること。もしかしたら私にはすばらしい商売の才能があったかもしれないし、それは大変もったいないことだけど、“サラリーおばさん”やっているのがいちばん安全、無難、他の可能性のほうは失っても仕方ないと思っていたのです。
この仕事をやっている以上は、この仕事を一所懸命やるしかないなあ、そんなところが私の職業観でした。
また、「あなたは、職業と家庭と立派に両立させて」などと言われると、恥ずかしさのあまり逃げ出したくなります。とてもとても両立などと言えるものではありません。
両立といえば、両方あい並び立って、それぞれが立派ということでしょうが、私は両方ともに七十点クラスの人間です。
ただ私は、それでいいと思っていたということです。やれるだけやってみて、結果として両立しているのなら言うことなし。両立していなくとも止むを得ない。
勿論、月給もらっている人間ですから、「月給に価(あたい)する仕事をしているか」。それは同僚との相対的な比較において、いつも私を苦しめているものでしたが、やらねばならぬ仕事の責任をはたすうえで、家庭がおろそかになるのもいたしかたない。要はバランスの問題で、ある時は家庭を大事に、ある時は仕事優先、夫や子どもに「ごめんね、ごめんね」と言い続ける生活があってもいいと思っていたのです。
今、“家庭”と書きましたが、正確には“家事”です。この両者を混同している人が非常に多く、峻(しゆん)別(べつ)し得ないところに意識の混乱も起こってきます。
“家庭”とは精神的なつながり、夫婦や子どものいつくしみあいなど眼に見えないもの。“家事”は、具体的で眼に見える手作業部分です。
家事分担の工夫
共働きであってもなくても、家庭は大切なもの。調査などで多くの人が「安らぎの場」と答えますが、私も賛成の立場をとっています。
男も女も子どもも、帰ってくれば安心していられる場所。汚(よご)れているとか片づいていないとかは、きれいであればそれにこしたことはないけど、二のつぎの問題です。
私は、家庭とは、身体にしっくり合ったふとんのようなものだと思っています。私も夫も、ふとんに入ればたちまち寝入ってしまう“すぐ寝る人種”ですが、ホテルとか旅館ではどうしても眠れません。
ですから旅行していても、用事がすめば無理してでも最終便とか夜行で帰ってきてしまいます。
「我が家の、おんぼろふとんがいちばんいい」
これがまさに実感で、猫のように自分の体臭のしみついているところで、初めて安心出来るのです。
家庭とは、精神的な体臭のしみついているところ、安心して緊張をほぐせるところでしょう。
ですから、家庭の中での夫や子どもとの人間関係は大切なもの。出来るだけ時間を作って一緒に遊んだりテレビを見たり、心づかいを示すことには努力してきたつもりですが、家事のほうは手抜きばかりをやってきました。
ところが、現実にはこの家事の分担も、人間関係の大きな要素であることは間違いありません。
私は、この家事分担の人間関係では失敗してしまいました。夫への不満はここに集中しています。
「洗濯は僕がする。食器洗いも僕がするから、君は食事の仕度だけやってくれればいい。掃除も交(こう)替(たい)にしよう」
結婚前は確かにこう言ったのです。なにぶんにも二十数年前のこと。電気洗濯機などは高(たか)嶺(ね)の花、しかも、女性が働くことへの意識など今に比(くら)べて問題にならないほど低い時代、私はコロリと参ってしまったのです。
ところが現実は甘くはなかった。「あとでやるから放(ほ)っといてくれよ」「俺のぶんは俺がやるから、お前のぶんだけやればいいじゃないか。掃除だって部屋の半分やればいいだろう」という具合に、なしくずしです。
しかも私のほうにもかいがいしい妻だと思われたい気持もあって、気がついてみたら、すべてが私の役割で、手伝いすらしない夫になっていました。
しかもなお悪いことに、「働きたい女を妻にしたばかりに、この人も苦労している」などという気持が私にあるものですから、なかなか手伝って欲しいと言えない。また言いたくない意地もあるので、専業主婦ならこうするだろうと思うことを、ついやってしまう。そのぶん内心苛(いら)立(だ)ちがあるという状況なのです。
けれど、どんなに頑張っても、専業主婦と同じように出来るわけがありません。
洗濯はたまる、ほこりはたまる、食事も残念ながら時には簡単なものになる。けれどこのへんは考えよう。共働きには共働きの家事の仕方があっていい、幸いなことに夫は手も出さないかわり口も出さない人ですし、自分のことは自分でするので、むしろ気が楽、私のやりたいようにやってきました。夫よりさきに帰って、夕飯の仕(し)度(たく)をして待っていたい気持もあるのですが、残業などの時は「彼は子どもではないんだから、餓死することはあるまい」と思うことにしていました。
問題は、家事の疲労を、そのまま職場に持ち込むことです。私が何よりも恐れていた一言は、
「疲れているみたいね」
でした。ですから、職場に出たら断然元気に振るまう、疲れを見せない、そのことに気を配(くば)ることは最低必要なマナーだと思っていました。もっとも私には、前にも書いたように、病弱な人を高級な人とあこがれ、青白い顔でいたい美意識があるものですから、そのへんは矛盾しています。
家事分担をどうやってうまくやるか。それは多くの共働き主婦の抱える難問ですが、やはり気張らずに「手伝ってくださらない?」と頼むことだと思います。
ある夫婦は、掃除は五点、洗濯は三点、片づけは一点というように、家事をこまかく点数制にして、一ヵ月の得点が均等になるように工夫していると聞きましたが、これなどもいいアイディア。その差が十点以上開いたら肩もみのペナルティなどがあるのも楽しいと思います。
最近は、男性の料理教室、育児教室なども盛況ですが、こういう男性は稀少価値で、共働きの夫の家事時間六分などと聞くと、道はけわしいと思います。
まだまだ男の本心は、家事は女房のするべきもの「俺に迷惑をかけないように働いてくれ」の域(いき)を出ていません。
けれど、本当の意味での生活力なるものを考えた時、外で金を稼(かせ)いでくる経済力だけが生活力ではありますまい。もっと暮らしに密着した行動の中から得られるものが生活力、男のたくましさであるはず。これには男の子の育て方、特に子どもの頃から家事というものを教えていく必要もあると思うのです。女性の男というものに対する意識の変革や家庭科の男女共修なども重要課題です。
家事分担や、共働きを続けていけるかどうかは、生育歴とともに夫の女性観、また夫に影響を与える男全体の女性観とも大きく関係しています。
社会主義国では、「女性をどう遇するかで、社会の質がきまる」と言われていますが、私たちの周囲においても、女性をどう遇するかで男性の価値がきまるのです。
私は、娘を持っている父親によく言いました。
「あなたのお嬢ちゃんだって、将来、何かしたいって思うことがあるはずですよ。その時、男性からの理解と協力が得られなくて何も出来なかったら、父親としてどう思います? 不(ふ)憫(びん)だと思うでしょう。ですから、私たちや奥さんのことも理解して欲しいのよ」
という具合に、味方につけるわけです。道はまだまだ遠いのですが、とりあえずは、こういう身近なところからやっていかなければならないのです。
共働きが嫌われる時
共働きの女性が職場で嫌われるという話を、時々耳にします。
ある時、講演会に招かれたあと、こんな質問をした年輩の女性がいました。
「最近は、若い人の共働きが増えてきましたが、月給だけ欲しくて仕事はしたくないんです。頭の中では晩のおかずのことばかり考えているので、大変困っています。どう思いますか」
この方自身も共働き、だから後輩が、歯がゆくてしようがないのでしょう。ただ、彼女の見方は少々冷たすぎます。
だいたい、他人の“頭の中”がどうしてわかるのか、批難される人の日頃の言動がそう思わせているにしろ、“頭の中では……”などと軽々しく言うものではありません。
とは言うものの、やはり頭の切り換えが大切で、職場では仕事に熱心と思われることは絶対に必要です。
職場で、共働きOLがいちばん気をつけなければならないのは、“世(しよ)帯(たい)くささ”ともいうべきもの。いかにも疲れやつれて飾り気がなく、昼休みになれば肉や豆腐の買い物に出かける。話といえばスーパーのことやら、バーゲンの話、これでは人間関係の良くなるわけがありません。
“頭の切り換え”などというのは、実際的には難しいことです。職場では仕事のことだけ、家庭では家庭のことだけ、そのように都合よくいくものではありません。
一日八時間のうちには、家庭のことを思うこともあって当然。人の頭の中はモザイク模様のようなもので、いろんな色の考えがぎっしり詰まっていて、光のあて具合で、ある時は赤が光り、ある時は青が光るものなのです。頭の中の色を一色に統一することなど、出来るものではありません。
けれど、やはり職場では職場の色というものがある。そこでは晩のおかずの色を出してはいけないのは、あたりまえのことです。
私も、このへんの切り換えがうまくいっていた人間ではありません。あとになって失敗したなと思うことも多々あるのですが、職場の雰(ふん)囲(い)気(き)の、許容度の高かったことに救われていました。また、頭の中はともかく、仕事だけはこなしていれば、とやかく言われなくてもすむ職場でした。
この年輩女性の言いたかったことも、仕事をきちんとやってくれということでしょう。共働きの女性が、いちばん問われているのはここのところです。
共働きであることは、仕事のレベルを下げることの、なんの理由にもなりません。「共働きだから」と周囲に甘えることがあってはならないのです。
職場で嫌われる“世帯くささ”には、亭主や子どもの話があります。これは私も今だに反省するのですが、つい亭主の愚(ぐ)痴(ち)をこぼしてしまうのです。
だいたい、亭主の悪口ほど無難かつおもしろいものはないわけで、気がついてみたら気(き)晴(ば)らしをやっている。そのうえ、子どもの話の多くは自慢話。昼休みを待ちかねて、ある時は待ちきれずに子どもの写真などを見せています。
自分の興味あることは、相手もおもしろかろうと、ついつい周囲に甘えているのです。
今でも失敗したなと思っているのは、ある時、友人から保育問題で電話がきて、いろいろ話しているうちに、子どものいない仲間のことになり、本当にうっかりと、
「あの人、子どもがいないから私たちの気持わからないのよ」
と言ってしまったのです。ところが、私の席の近くに、子どものいない共働きの人がいて、大変傷つけてしまったのです。
私は常々、結婚している女は傲(ごう)慢(まん)だ、子どものいる女はもっと傲慢だと自分を戒(いまし)めてはいたのですが、それでも口からすべり出てしまう言葉がある。本当に申しわけない気持でした。
共働きが嫌われるのは、こうした傲慢さに辟(へき)易(えき)してしまうものがあるからなのです。
そのくせ「家庭を持っているから、大変だ、大変だ」と口走る。大変なのはよくわかるにしても、独身には独身の大変さ、子どものいない人には、またそれなりの大変さがあるものなのです。
自分の大変さだけに頭がいっぱいになり周囲が見えないと、女同士の連帯は生まれてきません。
最近は、パートで職場に出る主婦が増えてきました。パート問題には、待遇や税金面、若いOLの就業機会を逆にせまくさせていることなど、改善しなければならないことがたくさんあるのですが、それでも、働きたい主婦にとっては、勤めやすいかたちであると思います。
ところが、職場によっては、パートの人がいることが全体の雰囲気を乱してしまう、そういう苦情が若いOLから出ます。
「なんでも“経験”よ、って言うんです。昔はこうやったとか、こうだったとか、齢(とし)を振り回すんです」
と言ったのは、若い歯科技工士さん。彼女の気持の中には、昔のやり方ばかりがいいのではない、今のやり方に従って欲しい。さらには“古株”である自分をタテて欲しい、という気持があり、パートの人は扱いにくいと思っています。
一方、パートの人の側から言えば、
「同じ仕事をしていても、給料が違い、そのうえ、向こうは正社員ということで、こちらの意見を聞いてくれないんです。二(ふた)言(こと)めには、あなたはパートだからと、差をつけられます」
パートの人なんて会議に出なくていい、勉強会に出る必要はない、そういう差をつけたがる雰囲気が、パートと正社員の人間関係を歪(ゆが)めているのは事実です。
さらには、日常会話の中にチラチラ出てくるパートの主婦の結婚讃歌が、若いOLを苛(いら)々(いら)させてしまいます。OLの中には子どもが出来ても続けたいと思っている人もいるはず、そこへ、
「なんたって、子どもは母親が育てるのがいちばんよ。早く結婚して辞めたほうがいいわよ」
などと、自分の考えを押しつけてくる。男性から言われることなら反(はん)発(ぱつ)も出来るけど、同性の経験者から言われると、ぐっと詰まってしまいます。
パートに限らず、共働きが職場でOLの反発を買うのは、経験を振り回す、家庭のあることを仕事をしない理由にする、自分の考えを年長者ということで押しつけてくる、独身を軽(けい)蔑(べつ)するなどがあげられています。
一方、若い人のほうにも、私のほうが新しいことを勉強しているんだ、ファイトがあるんだ、何よりも若いんだと、年長者の言に耳を傾けない、これでは職場の交流が密になるわけがありません。
特に若い共働きには、これから産休とか子どもの病気とか、独身者のお世話になることも多いことを念頭において、彼女たちと日頃の協力関係を作っておくことが大切です。
人それぞれの生き方や人生観で、この職場に集まってきているのだということ、そこを尊重する気持を持ちたいものです。
「彼がねえ」などという話は、楽しいのは喋(しやべ)っている本人だけだということを知っておく必要がありましょう。
共働きで、生活を背負っていることによる視野の広さ、そこのところは大切にしたいものです。家庭があるがゆえに気づくこともあり、それを仕事のうえになんらかのかたちで反映させることが出来れば、仕事への取り組みが違ってきます。
働く充実感を求めて
とにかく、職があり、家庭があり、子どもがいる。それは人間にとってあたりまえのこととはいえ、現状ではまだまだ幸せな状況なのです。
私も厳しい労働環境の中で、人間関係に苦労して働きながらも、心のどこかに「好きでやっていることだ」と思っているものがありました。と同時に、この大変さの中から、必ず仕事上でも得るものがあるはずだという気持がありました。
このことは、共働きを考える時、いったい、なぜ働くのかという意識とつながってきます。
私が、かつて働く女性の就業理由を調査した時、未婚者と既婚者とでは、その理由が大きく違いました。
未婚者では「経済的自立」が四七パーセントと半数近い人が答えています。「主体的に人生を生きる」が二位で二三パーセント。これに対して既婚者では「経済的自立」は一六パーセントと少なく、むしろ「主体的に人生を生きる」二〇パーセントとこれがトップ。ついで「自分の専門を社会に役立てる」一六パーセント。「仕事は生きがい」一四パーセントと、未婚者に比して多目的になり、「なぜ働くのか」は、その人その人によって違ってきますし、経済的要因よりもむしろ、精神的な満足を求めて職業に携(たずさ)わっている姿が浮かび上がりました。
大変、正直な結果だと思います。働く理由は、年齢や職場の環境で変わっていくものです。若いうちはお金のために働くけれど、年齢を加えるにつれて、充実感を求めるものになっていく、それこそが働くということではないでしょうか。
共働きというのは、それだけ年齢が加わっており、仕事も重きをなしてきているはずです。まず仕事に取り組む姿勢が問われているのが共働きというもの。それに応(こた)えるだけの内的なエネルギーを持っているかどうか、それによって人間関係も違ったものになるのです。
ですから、私は、ある程度の年齢になったら「夫の月給が安いから働くのよ」と言うのは、たとえ現実がそうであっても、言ってはならない一言だと思っています。
夫とて、それなりの立場が職場の中に出来ている、その立場もまたわかる必要があるのです。
月給の安いのは、能力のせいばかりではありません。夫も心の中では、たとえ安い月給であっても自分の働きを認めて欲しいと思っているのです。ですから、夫の妻への役割期待の調査によると、「経済力」は十五項目のうちの最下位です。
共働きの友人が言いました。
「私が働くことによって、彼のほうが『俺はいったいなぜ働くのか』って悩むんです。妻子を養うという理由が彼にはない。それがトラブルになるんです。私が辞(や)めるから、あなた養ってちょうだいって叫んだこともあるんです」
私の場合は幸いなことに、働くことに対しての夫の理解がありました。子どもに対しても「ママはなぜ働くのか」説明してくれたこともあります。実際的な家事協力はなかったものの、この精神的な理解があったことで、どれだけ救われたかしれません。
けれど、女が働くことに、男の“理解”が必要なのは、おかしなことではありませんか。
男が働くのはあたりまえ、女が働くには男の理解、働くことが何か我(わが)儘(まま)勝手をしているような、そんな雰囲気がまだまだ強い。女房が働くのは、男にとって世間体(てい)の悪いこと、面(メン)子(ツ)をつぶされること、そういう思いを持つ男性がおります。妻の収入があることによって、「妻子のため」という男の大義名分が失われてしまい、男自身が働く目的を見失うのでは、男もまたなぜ働くのかを考える必要がありましょう。
さらには、女房が生活力を持つことで、浮気をするんじゃないか、離婚になるんじゃないか、表向きには言えないけれど、心の中ではこれが心配で、女房を働きに出したくないと思っている男性も多いのです。
女房が働きに出ると生き生きしてくる、男性から電話がかかってきたりもする、心中おもしろくない、こういう幼児性の強い男を亭主にすると女は苦労します。
また、実際に共働きをしながらも、残業して帰ったらいきなり殴(なぐ)られたとか、仕事の電話がくると、傍のものを投げつけるとか、そういうことが現実にあるのです。つきあいで飲んで帰った時の夫の不機嫌は、我が家に限らないことでしょう。それでも彼女らは辞めません。自分の人生は自分でしか紡(つむ)ぎ上げられないことを知っているからです。
よく、離婚の増加は共働きが多くなったためだと言いますが、もし共働きによって社会を知り、より良い男性にめぐり逢うのなら、それは男性自身のこれまでが問題なのであって、共働きは表面的理由にすぎず、本質的な男女のあり方が問われているのだと私は思っています。働いて経済力のつくことだけが、離婚の理由になるものではありません。
ともかく、なぜ働くのか、その自分への問いかけがしっかりしていないと、共働きはうまくいかないし、何よりも職場の中で、自分の居場所を作っていくことにもならないことを、しっかり胸に留めておく必要があります。
近所づきあいを大切に
その他、共働きの人間関係には、姑や夫の職場の人たちとのつきあいがありますが、特に注意しなければならないのは、近所づきあいです。
私は二年間民営アパート、八年間公団住宅、五年間一般住宅で過ごしました(会社員時代)。あとの五年間は亡父と一緒でしたので、近所づきあいは父にまかせていましたが、アパート暮らしの十年間は「あそこは共働きだから」と特別の眼で見られたり、迷惑をかけたりしないように気を配(くば)ったつもりでした。
いちばん困ったのは、デパートなどからのお届けもの。自分で注文する時は日曜日を配達指定しましたし、集金も日曜日に頼んでおりましたが、その約束を守らずに、隣から集金していった書籍販売には、すぐキャンセルしたこともあります。
新聞の投書などで、共働きの家の“荷物預かり場所”になってしまい、お礼の言葉の一つもないと立腹したのを見かけますが、それは怒るのがあたりまえ。共働き主婦の陥(おちい)るワナの一つは、自分は働いているんだから、家にいるヒマな主婦は、そのくらいのことを、してくれて当然というように、近所の主婦を見くだしてしまうことです。見くだすというのは表現を間違えているかもしれませんが、自分は特別だ、立派なんだという態度が、しらずしらずのうちに出て、それが近所の主婦には見くだしているように見えてしまうのです。職場の中では、どんな立場にいようと、どんな立派な仕事をしていようと、近所の主婦とは同等です。
お礼の言葉は勿論のこと、時々は“おすそ分け”ぐらいを持っていくのが賢明というものです。
家庭にいる主婦といえども、大事な電話の途中で、玄関のブザーが鳴ったかもしれませんし、かぜ気味で寝込んでいたかもしれません。
第一、「何かきた」と喜んだのも束(つか)の間(ま)。お隣のものだったと思うとがっかりもし、おもしろくありません。そのへんの心のうちがわからないようでは、近所づきあいは勿論のこと、人間関係全般に未熟さがつきまとうでしょう。
朝の挨拶は勿論のこと、せめてお隣には、勤めさきの電話番号ぐらい知らせておいたほうが、万一の失火の場合など考えると安心です。
私などは、朝出る時のために電気、ガス、ストーブ、鍵などの点検項目を、玄関に貼(は)り出しておきながら、その点検を忘れてしまって、電車に乗ってからさあ大変。近所の家に電話して見に行ってもらったこともあります。共働きであればこそ、近所づきあいを大切に。
働く女のエゴというのもまた、自分では気がつかないうちにあるもの。地域活動には、どうしても不参加が多く、知らないところでお世話になっていると知るべきでしょう。
一方、共働きは迷惑をかけてばかりいるわけではなく、昼間の留守は静けさと気楽さも、近所に提供していることでもあるのですから、必要以上に気を配(くば)ることもありません。
共働きの近所づきあいで、いちばん重要なのは、鍵(かぎ)っ子がいる場合です。子どもはどこでお世話になっているのかわからない。そういう気づかいを近所の主婦に示してこそ、子どもへの眼も温かくなる、私はそういうものだと思っています。
若いOLの共働きは、会社でも地域でも、“気にかかる存在”として、良くも悪くも目立つものです。会社でうっかりあくびをしたために、「やっぱり新婚さんは」と冷やかされる。
冗談話のうちはまだいいのですが、それが仕事への熱意を問われることになり、早く辞めればいいのにと、暗黙のプレッシャーになってきます。
とかく若い共働きは、「いつまで続ける気だろう」と周囲の憶(おく)測(そく)を招きがち。その中での人間関係には、やはり仕事のやる気を見せていくことが大切です。と同時に、頭の中を疑われる言動を慎(つつし)むこと、また先輩の共働きを味方につけておくのも、戦略的に有効かもしれません。
第14章 働く母を支える“人脈”
“働く母”が増(ふ)えている
結婚・出産は女性にとって大事業ですが、育児もまた大変な仕事、難事業です。
家事に対して協力的な夫でも、育児の実際面、おむつを洗ったりたたんだり、離乳食を作ったり、健康管理、それらは母親の仕事として女が背負わなければなりません。
そのうえ、保育者探しや彼女との人間関係、それらも働く母には無視出来ない問題です。子どもを預って育ててくれる良い人とめぐり逢えるかどうか、それが職業継続のキー・ポイントともなるものです。
職場での人間関係も、子どもが出来ることによって周囲の見る眼が変わってき、よりいっそうの心づかいが求められてきます。子どものこと、保育者のこと、職場のこと、働く母をとりまく環境は、けっしてなまやさしいものではありません。
ですが、最近は「子どもが出来ても働きたい」と考える人が非常に増えてきました。
総理府が行なっている『婦人に関する世論調査』でも、「子どもが出来ても、ずっと職業を続けるほうが良い」に対して賛成するのは、昭和四十七年には約一二パーセントだったのが、昭和五四年には二〇パーセント強と、八パーセント以上増えました。ところが昭和五七年には一八パーセントに減ってしまいましたが、しかしこれは同数値と考えていいでしょう。
一方、「子どもが出来たら職業をやめ、大きくなったら再び職業を持つほうが良い」が、この十年間変わらずに四割強も占めています。育児中断型が、女性の意識の主流を占めているのが見られますが、それでも大きな変化として“働く母”志向が増えているのは事実です。
それと同時に、働く母への見方もすこしずつ変わってきております。
かつてのように「子どもを放(ほ)ったらかしにして」「お子さんが可哀相に」などの偏見が薄れ、理解を示してくれる人が多くなりました。
女性は今や職場の三分の一を占め、その中でも特に既婚者が増大し、職場が若い女性で占められていた時代とは違います。女性の職場進出が、周囲の考え方を変えていったといえるでしょう。
私は、亭主持ち、子持ちで就職した人間ですので、私の十五年の職業生活は、まるまる働く母でありました。
就職の時、会社のほうから、フル・タイムは無理でないか、ハーフ・タイム(今で言えばパート)にしたほうが良いのではという提案もあったのですが、そのハーフ・タイムの雇用条件が、今一つはっきりしなかったことと、どうせ働くのなら、フル・タイムで、きちんとした身分でやりたいという気持が強く、それは断(ことわ)りました。
最初の二年間は、札幌から東京へと環境が変わることによる住宅・経済問題、私の家庭の事情があって、子どもは実家に預けました。
子どもがいても働けるような環境と、住宅確保で団地の抽選にあたるまでに二二回、二年を要したのですが、この期間が私にとっていちばん公私ともにつらかった時期でした。
フル・タイムを主張してみたものの、会社の仕事に、一つ本腰になれないものがあり、二十年前のことであれば、子どもを実家に預けてまで働くことへの周囲の眼の冷たさ、私の情緒不安定など、今思い起こしても灰色の季節でした。
「子どもは母親が育てるのがいちばんいいのです。今すぐ辞めてお子さんを引き取りなさい」
エレベータの中にまでついてきて、吉(き)良(ら)上野介(こうずけのすけ)のように善意あふれる人がいたものです。
けれど、私は辞めるわけにはいかなかったのです。子どもを引き取るためには団地に入りたい、団地に入るためには収入が要(い)る、当時は入居資格に収入が厳しくチェックされ、私たちは夫の収入だけでは資格にならない、夫婦合(がつ)算(さん)が求められていたのでした。
この二年間の悔(く)いは、大きく残りました。勤続十五年後に会社を辞めると決意したのは、老父の病気と死、夫の転勤と別居生活によって起こった生活不安などの理由がありましたが、長女に対して、父親と別れて暮らすことを、これ以上やってはいけないのではないか、その気持が非常に強く、二度と悔いを残してはならないと思うものがあったのです。
入社二年後、団地に入居して彼女を引き取ってから、保育者との関係が始まりました。
上の子は一貫して個人保育。幼稚園に入ったあとも保育ママさん宅へ、学童保育の時間終了後も彼女のところへ。下の子も三歳まで個人保育。その頃、私の父と同居を始めたので、初めて公立保育所に入れたのですが、それは父の存在があってこそ出来たことでした。
保育ママさんは三人変わりました。最初の人は、二人めのお子さんが生まれることになって半年後に断られ、二人めの人は、こちらから断り、三人めに出会ったYさんに結局、八年間お世話になったのです。
彼女に出会ったことが、私にとっての幸運でした。子どもを抱えて働いていれば、良い保育者にめぐり会えるか、近くに安心して預けられる保育所があるか、それが職業継続のきめてになります。
子どもは“働きがい”
二人めの人を断ったのは、この人では安心して働けないし、預けられない、と思ったからです。
預けて三、四ヵ月たった頃のことだったと思うのですが、急に残業することになりました。
初めに条件として、残業、出張のあること、それは保育料の他に別途計算で加える約束があり、朝のうちからわかっている時は、それでやってきていたのですが、その夜は本当に突然のことでした。
当時は、まだ電話が団地についておらず、私は電報を打ったのです。ところが、それが気に入ってもらえなかった。九時頃駆けつけた私に、無言のまま子どもの背を押しやり、「すみません、すみません」と謝まる私に対して、一言も口をきかずドアをバタンと閉(し)めたのです。私は子どもを抱きしめたまま、階段にうずくまって泣き崩(くず)れました。
彼女に対して申しわけない気持以上に、子どもが可哀相で不(ふ)憫(びん)で、あの不機嫌な保育ママさんのところで、どんなにつらい思いで待ちわびていたか、それを思うと涙があとからあとからあふれ出るのでした。
この方は、年輩でもあり、更年期障害が出てつらいといつも言っていました。その夜は、本当に迷惑なことだったろうとは思ったのですが、どうしても割り切れません。
その夜から、団地新聞や、電柱の貼紙、友人のつてを歩いて、別の保育ママさんを探し始めました。そしてYさんにめぐりあったのです。
私にとっては安心して子どもを頼めることと、私の仕事が続けられる働き方を認めてくれる方でないと、預けられませんでした。
どうしても残業になってしまうこともたびたび。そんな時、仕事をやり残したまま「子どもがおりますので、おさきに」と帰ることは出来ないのです。
それは責任感というよりも、組織の中で分担で仕事をする者の当然の義務であると思っていました。
残業しなければいちばんいいし、そのような仕事の進め方に批判もありましょうが、男社会の中で、男と同じように働いていく上では、残業は避けては通れないのです。
なるべく残業しないように、仕事を家に持ち帰ることも多かったのですが、「私は子どもがいますから残業しません」とか、「残業出来ません」と拒否する度胸が私にはありませんでした。
私が残業している時、職場の人はやはり気をつかっていました。
でも、私にはそれすらも苦痛。たとえば、「もうそろそろ帰ったほうがいいんじゃない」とか、「残業なんかしていていいの?」などと言われるのは、本当にいやなものでした。
何かやはり労働力として一人前じゃないのではないか、目(め)障(ざわ)りな存在なのではないか、私だって皆と同じようにやることを知って欲しい、そんな気持だったのです。
そのくせ、心の中では子どものことが気にかかる……、一刻も早く終わらせて帰りたい、あれやこれやが入り乱れています。ですから、ある夜、残業していた時に、
「お子さん、大丈夫なの?」
と何気なく言った男性の言葉に、わっと泣き出してしまったことがありました。
何か抑えに抑えていたものがあふれ出てしまって、感情のコントロールなど、どこかに吹っ飛んでしまったのです。
「僕、何か悪いこと言ったかなあ」と当惑していた彼の顔が、今でも忘れられません。私もよく泣く“お涙人種”でありました。
何かの時に、子どもを理由にしたくない、私は切実に思っていました。
ある時、仕事の打ち合わせで遅れてきた女性が言いました。
「すみません。子どもが熱出してしまって……」
女性同士の気安さだったと思うのですが、同僚ならいざしらず、会社の違う人間に、こんなふうに言っていいのかしらと思ったことを覚えています。
私の友人にも子どもがいて、働いている女性が何人もいるのですが、彼女たちは、
「子どもが具合悪くても、それを理由には休まないの。私がかぜひいたとか、叔父が田舎から急に出てきたとか、他のことにしてしまうのよ」
私もそうでした。翌日会社に行って「あら、元気そうじゃないの」と言われて、しまった、マスクしてくるんだったと思ったこともあります。
これは突っ張りすぎでしょうか。そこまで気張らなくても良いではないか、最近は男の人でも子どもを理由に休むじゃないのという意見もありますが、やはり今だに子どものいることは、働く女にとってハンディだと思われがちです。
私が若かった頃は、いっそう強かった。それゆえに、ハンディを出来るだけ小さくしているように他の人から思われたい、勤めが無理なのではないかとか、子どもがいるからアテに出来ないとか、そう思われることを何よりも恐れていたのでした。
最近、子育て奮戦中の、若い働くお母さんたちの座談会を司会したのですが、その時、何よりも強く感じたのは“働きたい”とする彼女たちのすさまじいばかりの意欲でした。
働きたいという意志のうえで職業継続のためのあらゆる努力をする。福祉事務所に足を運び、保育園を訪ね回り、保育園近くに転居までする。その間、「なぜ、そこまでして働くのか」と言う夫との話し合い、そこには何よりも仕事への意欲が先行しているのです。
この時私は、平塚らいてうの「青鞜」発刊の辞を思い出しました。これは、最初の一行が、「元始女性は実に太陽であった」に始まる有名な文章ですが、私はむしろ最後の一行がとても好きなのです。
「烈しく欲求することは、事実を産む最も確実な真原因である」
なんとかして仕事を続けたい、その意欲こそが、働く母を支えてもいるのです。
と同時に、また子どもは“働きがい”でもあるのです。私はいつも、子どもは“生きがい”ではない、だけど“働きがい”だ、この子がいるからこそ働ける、人様に預けてまで働くんだから、いい仕事をしなくてはいけない、職業人としての自分を見直させてくれるものだと思っていました。
保母さんは働く仲間
子どもがいることによって、職場の人に迷惑をかけることは、絶対にないとは言えません。
特に、病気。朝起きて熱を出している子どもを前に、眼の前が真(まつ)暗(くら)になったことも、たびたび、夫とは「どっちが休むか」と口論になります。
知り合いの電話交換手が言いました。
「まったく、一人共働きがいると職場は目茶苦茶よ。よく休むし、保育園から呼び出しの電話がかかると、さっさと帰ってしまう。そのお鉢がこちらに回ってくるんだから、大迷惑よ」
さらに、友人の女医がこんなふうに言います。
「この頃は、共働きの人が増えて困ってしまうのね。自分はさっさと職場に行って、おばあちゃんとか、旦那さんが連れてくるんだけど、やっぱりわからないことが多いし、病気の時くらい休めないのかしら」
こんな時、家での病状を書いたメモでも持たせれば良いのでしょうが、だいたいが病気になれば忙しい、その余裕もなく飛び出してしまうものです。
共働きの母にとって、子どもの病気ほどつらいものはありません。休めば休むなりに、休まなければまたそれなりに、板ばさみになってしまう。
結局、皆に迷惑をかけ、子どもにつらい思いをさせてしまい、いっそのこと辞(や)めてしまおうか……、継続への強い意欲を持ちながら、やはりこう思ってしまいます。
働く母親は、いつも綱渡りをしているようなものです。一難去ってまた一難と、つぎつぎに大波小波が押し寄せます。そのたびに心は揺れ動くのですが、ある時、三人めの保育ママYさんがこんなことを言ってくれました。
「あなた、辞めるなんて簡単よ、いつだって辞められるわよ。だけど、今が本当にその辞める時なのかどうか、よく考えたほうがいいんじゃない」
この彼女の言葉に、どれだけ救われたかしれません。
彼女は私の要求をいつも受け入れてくれ、すこしぐらいの熱では電話もよこさないし、医者にも連れていってくれる。母親代りというよりも、母親そのものでした。
どの保育ママさんとも交換日記をつけていましたが、彼女との間では、子どものことは勿論、テレビのことや家庭の愚(ぐ)痴(ち)、仕事のことから人生観、はては読んだ本の感想まで書き込んでおります。
Yさんが、私にとっていちばんありがたかったのは、「子どもを預かることは私の“仕事”だ」と思っていてくれたことでした。
泣き喚(わめ)き、チョロチョロ歩き回る子どもを、狭い二DKの中で、有給休暇もなく、朝から晩まで面倒見る。事故の心配もあるし、子ども同士の喧(けん)嘩(か)もある、けっして割にあう仕事とは思えないのですが、彼女はいつも「これが私の“仕事”なんだから」と言っていました。この言葉は同時に、私への励ましでもありました。
今思えば私の一人よがり、身勝手もずいぶんあったのですが、ともかくも八年続いた人間関係の中には、彼女に私の働くことを全面的に支えてくれる姿勢があったればこそでした。と同時に、子どもを何よりも可愛いがってくれる、どれだけありがたかったかしれません。
けれど、いつも蜜月だったわけではありません。私の言い方がまずかったばかりに、大変叱られたこともありますし、よく注意を受けました。
働く母親が集まると、「子どもが人(ひと)質(じち)だから、言いたいことも言えなくて……」と言う人がいますが、むしろ言いたいことが言えないのは預かるほうなのではないでしょうか。
もうちょっと気をつけて欲しいと思うことでも、昼間の仕事で疲れているだろうとか、職場の人間関係につらい思いをしているだろうとかおもんぱかって、つい言葉を呑み込んでしまう。一日じゅう家にいるだけに発散のしようもない、そんなつらさもあると思うのです。
共同保育をやって失敗した友人が、預かる人に「預ける側に回ったほうがどれほどいいかわからない」と言われ、ショックを受けたと言っていました。本当にそう思うことも多いでしょう。
保育専門学校の教師をしている友人が言いました。
「保母の中には、働く母親は無責任だと言う人が多いですよ。自分はお化粧して、よそ行きを着てきれいにして出かけるけれど、子どものほうはパンツも取り替えていない。爪も伸びている。もっと子どものことを考えてくれないと……」
私もハッとさせられたのですが、ともすれば忙しい毎日の中で、ついつい見落としているものもあるし、保母さんに対しても、お金払っているんだからという態度に出ることもあります。
そのうえ、時間にゆとりがないので、「お願いします」「さようなら」に終わってしまいがちです。
そのへんを救ってくれるのが、保育日誌であり、保母さんと“働く仲間”としてつきあうという姿勢ではないでしょうか。
やはり、たくさん言葉を交(かわ)しあうこと。子どものこと、職場のこと、家庭のこと、時間がなければノートに書くとか、書くのが苦(にが)手(て)ならば、立ち話でもいい、日常のコミュニケーションが大切なのです。保育者との密な関係こそが子どもにとっての救いなのです。
子どもの育て方、しつけをめぐって、保育者(保母は勿論、自分の母親とか姑なども含めて)との緊密な人間関係を、どうやって作り上げるか、そこがいちばん重要かつ難しいところ。ここがうまくいかないために、職業継続も断念せざるを得ない場合もあります。
働く母は、ともすれば昼間、面倒をみられない自責の念で子どもを可愛いがりすぎます。
しつけの面でも、たとえば、子どもがゆっくり時間をかけて靴下をはくのを待っていられない。つい手を出してしまう。片づけにしても然(しか)り。こんなことでいいのかなあと、私はよく思っていました。そんな時、Yさんが言ってくれました。
「朝と夜しか会えないんだもの、甘えるのはあたりまえでしょう。甘やかしていいんじゃない? 大人(おとな)になっても靴下をはけない人なんていないわよ。共働きには共働きの甘さがあっていいと思うの。ただね、お母さんはあくまでもあなたなんだから、子どもの心をよく見ていてほしいのね」
“母親は、あくまでも私自身である”それは新鮮な思いでした。子どもが甘えるのも母親に対する心の解放であり、それを保育者への気がねから抑えつけてしまっては、子どもの心は緊張し通しになってしまいます。
Yさんは、日曜日可愛いがりすぎて、月曜日に不適応を起こすことがあっても、可愛いがらないよりはまだいいという意見の持ち主でした。
正解かどうか、それは二人ともわかりませんでしたが、子どもにとっては、むしろいいのではないか、その考えも、母親である私の立場を尊重してくれたがゆえの発想だと思うのです。
自分が母親だという主張、保育者の立場への理解、働きながら子どもを育てるときに、いちばん重要なのがこの二点です。
苦労の分かちあいが“人脈”を作る
働く母親について語る時、必ず出てくるのが、子どもの心は、どうしてくれるのか。母親のほうは生きがいとか仕事の楽しさとかいろいろ言えるけれど、表現力のないままに淋しい思いをしている子どもは、いったいどうなるのか……。
私は、働く母と子どもとの人間関係は、そうでない母子の関係とは、また別のものだと思っています。
最近は、親と子の「共育」とか「協育」とか言いますが、私は「育ちの分かちあい」だと思っていました。
涙ぐんでいる子を玄関に置いて会社に向かう時、私は鬼ではないかと思うこともありましたが、お母さんも職業人として育っていく、あなたも育っていってほしいそんな気持でした。
夕方、Yさんの家に走っていくと、家の前で遊んでいた娘が「あっ、ママ」と玩具も放り出して、両手をあげて駆けてきます。私の足はいっそう速くなり、娘を抱きしめる時、私は本当に満ちたりた気持でした。
手をつないで、お喋(しやべ)りしながら家に帰る時、一日じゅう家にいて子どもに苛(いら)々(いら)し、欲求不満に陥(おちい)りがち(私なら多分そうなる)の母親よりも、子どもの心を汲(く)めるのではないかという気がしました。
子どもへの愛情は量より質だ、という人がいますが、かならずしもそうとは断言できません。やはり、ある程度、量がなければ質も醸(じよう)成(せい)されないもの。このあたりが働く母親の最大の悩みです。
その頃は、子どもの自立心を養うために、添い寝などはしていけないこととされていましたが、私は、いつも一緒に寝ていました。昼間、充分自立しているんだから、夜ぐらいはいいじゃないの、働く母親には、それなりの育児法があっていいと思っていました。
子どもは親の背を見て育つというけれど、それは大きくなって物心ついてからのこと(私の感じでは高校を出た頃から)、小さいうちは、親の胸を見て育つものです。どんなに疲れていても抱きしめる、膝(ひざ)の上であやす、胸の中で育てることが、特に働く母には大切なのです。
私の二人の娘も今は上は二十一歳、下は十三歳、共に他人に預けられて育った子ですが、特に暗い性格でもなければ、人の顔色を見る子でもありません。
むしろ集団にとけ込みやすく、友だちの作り上手、いささかおっちょこちょいの可もあり不可もある子ですが、もし私が働いていなくても、こうなったと思っています。
私は時々、聞いてみます。
「あなたたち、人に預けられて育って、淋しいこともあったでしょう?」
「そりゃ、あったと思うけど、忘れてしまったなあ。周りの人が皆いい人ばかりだったから。Yさんのおばちゃんが可愛いがってくれたもんね」
働く母として活躍している人は、皆いい人脈を持っています。夜、預けあったり、困った時には助けあえる人が身近にいます。
おたふくかぜなどの流行(はやり)病の時は、いくらYさんといえども、他の子どものこともあって断られます。そんな時には、私にも助けてくれる人がおりました。
まさに、働く母を支えるものは人脈です。このホワイト・リストこそが、職業継続を助けてくれるのです。
働く母は、往々にして眼の前のことで精いっぱい、とても人のことまで手は回らないのですが、やはり働く母親同士、また家にいる主婦との、交流の場を持っていることが我が身を助けるのです。職場においても、いざという時、救ってくれるのは日頃の仲間です。
学童保育所設立運動をやった時、
「私は今、忙しくてとてもお手伝い出来ません。でも、出来たら、うちの子も入れてほしいんです」
と電話をよこした人がいました。時として囁(ささや)かれる、働く女のエゴイズムを感じるのはこういう時です。その運動は、地域の児童館作りのトップ・バッターとして、勤めのないお母さんたちも手弁当でやっていたのです。私が下の子の切迫流産を起こしたのも、ちょうどこの頃、寒い夜の署名集めや陳情書作りなどが原因でした。
だから言うわけではないのですが、人脈を作るには、やはりそれなりのプロセスがあるものです。
共に苦労をした仲間であればこそ、困った時に「ああ、いいよ」となるもの。“苦労の分かちあい”こそ、ホワイト・リスト作りの最大の近道でもあるのです。
と同時に、こうして母親同士が連帯しあっていることは、子どもに対する最高のプレゼントだと思うのです。子どもは、子ども同士見習って学んでいくものが多くあります。“働く母を持つ子の悩み”なども、その中で解消していたと思います。
子どもは親や学校からも学ぶけれど、子ども同士でも学ぶ。一歳児は一歳児なりに、二歳児もまたその世界で、集団保育の良さはそこにあります。人脈は、子どもの世界でも大切なものなのです。
昨今の非行やいじめの問題で、とかく槍玉にあげられるのが働く母親です。けれど、私が見た範囲では、働く母親はけっして子どもを放ったらかしにはしていない。むしろ、そういう色眼鏡で見たがる世間のほうに問題があるのではないでしょうか。
母親が働くか否かにかかわらず、自分が母親であるという意識のもとに、どう子どもの心と関わっていくか、そこのところが重要であり、つまるところは、子どもとの人間関係であると思うのです。
子育ては、赤ちゃんの時には手間ひまのうえで大変ですが、思春期になればまた、精神的な関わりのうえで別な大変さが押し寄せてきます。私などは、こちらの大変さのほうが子どもの人格形成の上で重要なのではないかと思います。
母親の働く姿勢の中から、子どももまた学ぶものがあるはずではないでしょうか。
第15章 よりよい人間関係をめざして
二つの礼儀
職場は、組織として構成されている序列社会で、上司・先輩・後輩・同僚、性の違い、年齢の違いなどタテの関係、ヨコの関係が交(こう)錯(さく)しているところです。
しかも、感情を持っている人間の集まり、なんとなく気が合わない、肌が合わない、打ちとけられない、苦(にが)手(て)である、そういう人たちも数多くいるものです。
さまざまな生育歴や、経歴を持った人々、感じ方、考え方の違い、ある時は順応し、ある時は反発し、人間関係のいざこざゆえに、仕事への魅力を失うことが起こるのも職場というところです。
この中で、いかに人間関係を上手に保っていくか、多くの人がこのことに悩んでおります。
考えてみれば職場の人たちとは、親や友人、また夫や妻などよりも、多くの時間、顔を合わせ会話をし、共に仕事をする間(あいだ)柄(がら)、それゆえに親愛感も葛(かつ)藤(とう)も深くなっています。
職場の中での差別や労働条件の悪さ、職場での位置づけの展望のなさ、特に女性をとりまく職場環境の問題が、問題として解決される以前に、その各々の屈折した感情が、人間関係の歪(ゆが)みとなって現われてしまい、関係を陰(いん)惨(さん)なものにしている場合もありましょう。
自分が、今どういう状況におかれ、どう対応することが望まれているか、そのことを客観的に見る眼があるかどうか、今、女性にもっとも望まれているのは、ここのところにあると思います。
人は周囲の環境に馴れ、親しみが増していくにつれ、状況への客観性が失われていきます。
客観性をどう保つか、これは私の十五年の職業生活で一貫して悩んできたことですが、少なくとも私は、次の三つのチェック・ポイントを持つ必要があるのではないかと考えてきました。
一つは、相手に対して期待感を持ちすぎてはいないか。あの人なら私の言うことをなんでもわかってくれる、受け容(い)れてくれる、許(ゆる)してくれる、そういう気持は“甘え”につながるもの。人を信じやすい性格は、往々にしてこの過(か)剰(じよう)な期待感を持ち、結果的に裏切られた思いを持つものです。
二つは、自分の感情を出しすぎていないか。嬉しいこと悲しいことを表現していくのは大切なのですが、そこにはやはり節度がある、一度ぐっと胸に抑えることが出来ないものか……。自分の感情とて、時がたてば他人の感情同様遠いものとなり、「時がたてば自分もまた他人である」自分に対するそういうクールさがほしい。
三つは、自分の感情の領域ともいうべきものをきちんと守っているか、と同時に相手の領域も守っているだろうか。人間の感情といえども、出ているのは氷山の一角のようなもの、ここまでは触れてはいいけど、ここからはいけない、こうした線引きが出来なければ、いたずらに傷つけたり傷ついたりするだけです。
よく「あなたのことなら、なんでもわかるわよ」と言う人がいますが、これはよほどの洞察力か、愚かさがなければ言えないことでしょう。海面下にある相手の感情や自分の感情を、あまり忖(そん)度(たく)しあわないこと。それはこの線引きの確かさから生まれてくるのではないでしょうか。
これらを総合してみると、結局は前に述べた感情のコントロールにつきあたってしまいます。他人や自分への客観性を育てたいと思う時は、どうしても自分の“感情”と向き合うことから逃れられないのです。豊かな“感情”を持つのはすばらしいことです。その“感情”と二人三脚しつつ、愚かしく困りものの“感情”にお暇(いとま)願う作業をしなければなりません。
この“客観性”というのは、上司であろうと同僚であろうと、人とつきあう上での基本的な礼儀であるかもしれません。
それでは“礼儀”とは、どういうことをいうのでしょうか。
河盛好蔵氏は著書『人とつきあう法』の中で、フランスの哲学者ベルグソンの“礼儀”の概念をつぎのように述べています。
「ベルグソンは、礼儀を二つに分けて考えている。一つは知性もしくは才能に属する礼儀。もう一つは、心情に属する徳性としての礼儀である」
私たちは、「あの人は礼儀正しい人」だと言いますが、そんな時は挨拶やお辞儀がきちんとしている人を指しています。けれど“礼儀”には、もっと深い意味があるようです。
「知性の礼儀とは、他人の立場に身を置いて、彼らの仕事に興味を持ち、彼らの思想を自分の思想とし、ひと口で言えば彼らの生活を再び生き、自分自身を忘れる能力である。つまり自分の精神を思うがままに、さまざまな形に作りかえうる能力であって、それが社交的な礼儀と呼ばれ得るものである」
完全な社交人は誰に向かっても、その人に興味のあることについて話すことができ、「常にそれを採用することなしに同じる」つまり、その人と話していると、ひそかにこちらの自尊心が満足させられるような人、柔軟な人ということになりましょうか。「採用なしに同じる」というのが難しいところです。
「あ、それはすこし自分の意見とは違うな」そう思っても、相手のその意見に対して理解を示すということになるのでしょうが、一歩間違えば、ご機嫌とりのお追(つい)従(しよう)になってしまいます。
“礼儀”が、しばしば形式的なものになってしまうのは、追従でなしに理解を持つことの難しさゆえ、形に逃(のが)れてしまっているのかもしれません。
“女の敵”は自分自身
特に仕事においても、私たちは容貌やファッションのセンス、人(ひと)柄(がら)においてもすぐれた人には、うらやましさやくやしさ、嫉(しつ)妬(と)の感情を抱きがち。理解どころか欠点を探したくてたまらないものです。
そんな時は相手の「採用しない」部分に、自分の波立つ感情を合わせてしまっています。
“完全な社交人”になるには、そういう自分のダメなところを発見することが、まず第一に必要なのかもしれません。
もう一つの心情の“礼儀”とは、
「相手の心のなかに奥深く降りていき、相手が自己の弱点や欠点と考えているものに、愛情をもってやさしくふれ、それを慰め、力づける礼儀である」
これは、前に述べた“受容”や“共感”にも通ずる考え方だと思います。
人は、自分の弱点や欠点よりも、相手の弱点や欠点のほうによく気がつきます。また、その弱点は相手が自分自身でどう思っているのか、相手がみずから思っている弱点と、こちら側で思っている弱点とにズレが生じる場合もあります。
ですから、善意で注意したことが、余計なお節(せつ)介(かい)だったり、うっかり言った「可哀相に」とか「お気の毒に」が、相手を傷つけてしまう。または相手のそうした言葉に「あなたなんかに言われる筋合ではない」と腹立ってならない感情が起こります。
相手から自分が、どの程度許容されているか、また、自分が相手をどの程度許容しているか、そのへんによっても違ってきます。
ですから、同じことを言われるのでも、ある人に言われれば猛烈に腹が立つけど、ある人に言われれば腹が立たない、素直に受け入れられる。このことも結局は、その相互関係において、どの程度「心情の礼儀」が出来上がっているか、そこのところなのでしょう。
よく「女の敵は女だ」と言われます。女性の口からも発せられるし、男性のそういう眼もあります。事実はどうなのでしょうか。私の友人が言いました。
「男の足の引っ張りあいのほうがすごいわよ。その陰湿さ、社会生命までも断ち切るようなスケールの大きさに比べて、女のそれなんぞ単純かつ可愛いものよ」
男にも、女にも足の引っ張りあいはあるものです。同性であるがゆえに、相手を正当に評価出来ない、したくない気持、嫉妬やライバル意識がむき出しにされてくる。相手の成功が賞讃よりもくやしさになる、なんとか一言ケチをつけたい、そういう気持は誰にでもあるものです。だからといって、それがすぐ「女の敵は女」には結びつかないと思うのです。
むしろ、そう言ってしまうところに問題があり、人誰しも持っている感情を「女だから」ときめつけてしまうことは、みずからを、そのことで納(なつ)得(とく)させてしまう危険性を持っていると思うのです。
ベルグソンの言う、“知性の礼儀”と“心情の礼儀”この二つの礼儀を考えると、女の敵、男の敵と言う前に、乗り越えなければならないのはなんなのか、自分は二つの礼儀をわきまえて生きているか、そこのところに突きあたるように思います。
男でも女でも、敵は自分自身だということになりはしないでしょうか。
王貞治巨人軍監督は「自分が敵だ」と戒(いまし)めていたそうですが、人間関係においても、戦うべき相手は自分だ、ということになると思うのです。
このことを痛感したのは、私が初めて管理職になった時でした。同僚の女性が言いました。
「女が営業に出たら、とれる仕事もとれなくなるわよ」
その一言は、辞令を受けて不安におののいている私を、打ちのめすようなものでした。
この時ほど、女は女を評価しないものなのか、と思ったことはありませんでした。しかし一方では、女が女の味方である保証などどこにもない。この言葉は、彼女に限らず周囲の皆が持っている私への不安なのではないか、私自身が女意識に負けてしまったら駄目だ、そういう励ましの言葉であるとも思ったのです。
私は女である、私の中には女であることに逃げ込もうとするものがある、自分の敵は自分だ、とすると「女の敵は自分だ」そういう論法でもあったのです。
上手な自己主張とリーダーシップ
その時、私に問われていたことは、私にはたしてリーダー性があるのか、ということでした。
管理職に限らず、年数のたった社員には、仕事や人間関係の中心として後輩の面倒を見ていく、あるいは先輩や上司に対して彼らの代弁者として言うべきことは言う、良い意味でのリーダーシップが求められています。
私が、いちばん自信がなかったのはここのところでした。その欠如に気がつきながらも、あえてそこから眼をそむけていたとも言えます。
職場で、指導性があると思う人を見ていて気づくことは、自分を主張することが非常に上手だということです。それによって信用を得ているし、けっして右(う)顧(こ)左(さ)眄(べん)しない強さ、一本筋が通っていることは周囲の人を安心させて、ついていこうという気にさせています。
ところがその自己主張も、時として間違えた方向に行ってしまうことがあります。
人はあんがい、我とは知らずに鼻さきにぶら下がっているものがあり、それがお家(いえ)柄(がら)であったり、子どもであったり、学識であったり、ある人の場合は“自分はダメな人間だ”と卑下自慢であったり、とかく自慢することで自分を主張してしまうものです。
また、何かあった時に、弁解をまくしたてる人がいます。「けっして弁解するわけではありませんが……」などと言いつつ、弁解しています。
弁解は本当に誤解されているような場合には有効ですが、「それがうまくいかなかったのは、○○のせいです」「○○さんがそうしなさいと言いました」とか、責任転(てん)嫁(か)の弁解は私もたびたびやってしまうのですが、自分の評価を下げるだけで、あとで苦(にが)い思いが残ります。
その場ですぐ言い返せなくて、のちのちまでくやしい思いが、鬱積していくこともよく体験することです。
私なども家に帰ってから、ああもいえば良かった、こうも言い返したかったと夜眠れない思いをし、「私はなんて自己主張が下手なんだろう」と思うこともしばしばでしたが、時をとり戻すことは出来ません。
言い返しが出来たとしても、あと味(あじ)の悪さはやはり残ります。むしろ、その時、自分が言いたかったことを時間をかけて発酵させ、意見として述べる機会を探すほうが賢明です。
私の体験では、その時、言い返せなくて残念な思いをしたとしても、それによって自分の感情とのつきあいが深くなり、激情にまかせて言わないで良かったと思うことのほうが多いようです。
その場ですぐ言い返すことも自己主張の一つの方法ですが、感情を整理してから言うほうがずっと上手な自己主張です。
自己主張は、自己顕示欲と混同されますが、けっして同じものでありません。
いたずらに吹(ふい)聴(ちよう)したり、宣伝したり、弁解や言い返すこととは一線を画(かく)した、意見や思想を持ち、それを臆(おく)せず表現することの出来る力、そういうものが自己主張であると私は思います。
第五回「モア」国際セミナーに講師として来日した、アメリカのファースト・ウーマンズ・バンクの女性頭取ジュディ・メロさんは、当時三十八歳ながら経営危機を見事に建て直し、三年間で資本金を倍増させたキャリア・ウーマンですが、プロとして自立しようとする女性に、次のように言っています。
一 最初の職場は、そこでどんな訓練が受けられるかで選ぶ
二 目標を設定せよ。五年後に何になりたいかを考え、その選択は自分の得意とすることを基準に
三 自分の専門分野の基本的な技術を充分に身につけよ
四 決断力を養うこと
五 成功に対して恐れるな
六 自分のスタイルを持ち、人間に対する感性を磨(みが)くと同時に説得力を養う
七 成功しても、自分一人で成功したという幻想を抱くな。腹心のグループを作りなさい
(「北海道新聞」より)
アメリカと日本の違いがあるとはいえ、プロとして自立する条件七ヵ条のうち、四の「決断力」、五の「成功を恐れない」、六の「人間への感性と説得力」、七の「腹心のグループ」、これらのアドバイスは、そのまま、自分を上手に主張し、指導性を養っていくことにつながっているのではないでしょうか。
つまり、プロの職業人をめざしていくには、専門領域でのエキスパートになること(メロ女史の指摘の一、二、三)と同時に、こうしたリーダーシップもまた身につけていかなければならないのです。
上手な自己主張とリーダーシップは同じ紙の裏表、一枚の紙を構成するものといえましょう。
私が、管理職として有能であったかどうか、なにしろ、リーダーシップにまるで自信がなかったので、なんとも言えません。またその評価は、私がするべきものでもないでしょう。
ただ、それを契(けい)機(き)に、私は自分のその弱点と向かいあわなければならなかったし、また、そうしたリーダーシップが、いかに大切か、身にしみて感じました。
と同時に、これは一(いつ)朝(ちよう)一(いつ)夕(せき)で身につくものではなく、やはり、ある程度の年数がたち、職場の先輩になるにつれて、意識してとり込んでいかなければならないものと思うのです。
野球のピンチ・ヒッターといえば、一回の打席、それもめぐってくるかどうかわからないチャンスのために、何万回というバッティングをやっている人です。
OLにも、隠れたバッティングが必要で、それがいざという時の快ヒットになるのでしょう。
リーダーシップは、管理職になる準備として必要なのではありません。職場の先輩になっていく時の、その一つの条件でもあるものです。
人間関係は生きるための財産
私は、職場の中で役職の道、ラインに乗っていくことも、女性の職業生活の中では大切なことだと思いますが、そのことにあまりこだわらなくて良いのではないかと思っています。
女性には、管理職になる道が拓(ひら)けていないこと自体は問題ですが、職業人としての生き方を考えた時、むしろ職場の専門家、仕事のエキスパートとして“一(いち)目(もく)おかれる存在”になっていくことのほうが、わが身を助けるのではないかと思います。
古株、牢名主、オバサン、いろいろ言われますが、その職場の全体のことを知っていて、後輩の面倒をよくみる存在。私はそれを“主(ぬし)思想を持つ”と言っており、そういう存在でありたいと思っていました。
悪いほうにころがると、大変困る考えではありますが、ともすれば長く勤めていると職場にいづらい思いをするもの。そんな時に励ましてくれるのは、私はこの職場に○年いて、○年の歴史をこの膚(はだ)で知っている、私はその○年の“主(ぬし)”であると胆(きも)っ玉(たま)をすえる必要があるのです。
自分は、この仕事のエキスパートである、そう思うのは自(うぬ)惚(ぼれ)もありますが、時として、それも大切なものなのではないでしょうか。
ともすれば女性は、女であることを一種の被害者として、そこからどうしても発想が抜け出ないことがあります。
不当と思われる扱いを受けた時、根本的には別のところに理由があるにもかかわらず、“女”というところにすべての原因を持っていってしまう。そのことが逃げとなり解決を遅らせてしまい、結果的に悪循環となってしまいます。あなたは被害者意識の中に自分を甘やかしてはいませんか。
女性は、もっと上手に自己を主張し、仕事のエキスパートとしての自信を持つ必要がある。そこから生まれてくる自己認識が、より良い人間関係を作る上での土壌ともなるものです。
あなたは、今の仕事を何年続けるでしょうか。
今すぐ辞めたいと思っている人から、一生続けたいと思っている人までさまざまな思いの人が、女性の多い職場、男性の多い職場、お客様相手の職場、機械相手の職場、いろいろな職場で働いています。
なんのために働くのか、その思いも定め難く、毎月の月給だけが楽しみでしかない職場もあるでしょう。
職業についている人で、なんらかの悩みを持ってない人はいないのではないかと思います。
仕事のこと、人間関係のこと、上司とのこと、同僚のこと、それらが入り乱れて毎日が過ぎていきます。あまりの切(せつ)なさに、退職することや転職することを夢見たり、自分には別の適性や才能があるはずだと、流されていく毎日に苛(いら)立(だ)たしさを覚えます。女の二十八歳がいちばんつらいという話も聞きましたが、私がいちばん悩み、転職の話に心が動いたのもその頃でした。
私の十五年の職業生活は、迷いや悩みの連続でしたが、今、振り返ってみると、この十五年は、月給をもらって勉強していたようなものです。
そこで得た友人・知人は、私にとって大切なホワイト・リストであり、これはけっしてお金では買えないものです。
この友人たちとて、ある時は攻撃したりされたり、くやし涙をこぼしては、口もきかなかったり、さまざまなことがありましたが、そういう荒波を越えたればこそ、今、いい友人となっているような気がします。
勤めていた歳月からは、単に月給をもらっていただけではなく、人生へのヒント、すこしは世の中のことを知る才覚、人々への共感もまた受け取っていたのです。
過去はともすれば美化され、いい思い出となりがちですが、それでもいいではありませんか。
人生とは、つぎつぎに思い出を作っていくもの。思い出をたくさん持っていることは、年をとってからどんなに慰めになるかしれません。
女には友情がないとか、大人になってからは友人は出来ないとか言われますが、そんなことはけっしてありません。
職場で共に汗を流し、つらい思いを味わい、涙をこぼしあった人には、齢(とし)や性を越えて“仲間”のような親しみが残ります。学生時代の友人とは違うつながり、深い友情も生まれます。
それこそが、生きていく上での財産というものです。
人は、一生職場にいるものではありません。なんらかの理由で辞めることもありますし、定年の日も必ずやってきます。
どういう理由で辞めるにしろ、やはり“勤めていた歳月に誇りを持つ”それほど幸せなことはありません。
仕事においても、人との関係においても、一生懸命だった日々は、あたかもハロー・エフェクトのように、その後の人生に光を与えてくれるものです。
その努力のプロセスが、つぎに何をやるにしても自信を与えてくれるのです。
職場で過ごす日々は、その長短にかかわらず人生の主要な部分を占めています。
自分は、どんな“仲間作り”をしてきたか、人間関係のさまざまな失敗や苦悩の中から、何を得てきたか、心ひそかに誇ることの出来る日々こそが、あなたをプロの職業人に育てあげていってくれるのではないでしょうか。
あとがき
「若い女性のための、職場の人間関係について書いて下さいませんか」
主婦と生活社から、依頼の手紙が舞い込んだ時の驚きを今も忘れることは出来ません。
この私が? 感情が激しく、勝気で適応力の乏(とぼ)しいこの人間が? 私の脳(のう)裏(り)には、人間関係に失敗した数々の出来ごとが駆けめぐり、即座に断ろうと思いました。
けれど、考えてみるとこの世の中、人間関係に自信を持っている人は、いったい、どれだけいるでしょうか。皆、それぞれに悩み、苦しみ、職場のエネルギーの大半は、人間関係に費しているといっても過言ではありません。人間関係にたけている人だけが、人間関係について書く資格があるものではありますまい。とすれば、私も私の至らなさの中から書けることはあるはずではないだろうか……。
本書は、私の苦(にが)い体験から得た数々のことを整理してみたものです。同僚への嫉(しつ)妬(と)にみずから傷つき、自尊心をもてあまし、くやしさに涙をこぼした日から、私は何を得てきたか。人間関係を良くし、職場の中での位置づけをより確かなものにしていく、人づきあいの基本的なところを考えてみました。
人間関係に正解はありません。これが良いと思うものもない代りに、これで良いというものもありません。
人間関係とは本来そういうものです。人間への観(み)方(かた)、感じ方でその関係は違ってきます。相手の立場に立つことは大事なことですが、また自分の立場を主張することも大切なことです。その時の判断には、さまざまな外的な要素とともに、その人の人間へのセンスのようなものもまた求められています。
いかにして人間へのセンスを磨くか、本書の主テーマはそこにあり、青春の日々をより楽しくするための一つの方向性を見出すものとして、若いOLの参考になればと思っております。
本書が出来あがるまでに、主婦と生活社出版本部の田村一郎氏、また野本道子さんに資料の蒐集からこまかいアドバイスまで、大変お世話になりました。
一つの仕事をなし遂げるまでに、いかに人間関係が大切か、改めて知ると同時に、本書が、今、職場で人間関係に悩んでいる若いOLの皆様の、お役に立つものであることを願っております。
一九八二年三月
沖藤典子
文庫化にあたって
単行本出版以来、多くの方からお便りや電話をいただきました。
「同僚が最近よそよそしくなったんですけど、どうしたらいいでしょうか」
「上司が私に冷たいんです。仕事もおもしろくないし、辞めようか悩んでいます」
「今現業部門に居るんですけど、事務職に変わりたいと思っています。でも試験を受けさせてもらえません。どうしたらいいでしょうか」
私とて、これがキメ手という答をすることは出来ません。でも、皆さん私に手紙を書くことで、あるいはお喋りすることで、気持を整理し、会社に行きたくない朝を乗り越えていって下さったように思います。
仕事や人間関係に自信のない時は誰にでもあるものです。その時、こういう気持になるのは、けっして自分一人ではない、それを知ることで、また明日への意欲が湧いてくるものです。この本は、失敗や失意や、嬉しいこと悲しいこと職場にはいろいろあるけれど、とにかく毎日を明るく生き生きと頑張っていこうよと、私なりのOL美学とも言うべきメッセージをこめたつもりです。元気が出る本でもあります。
このたび文庫化されることになって、ハンドバッグの中にも入るようになりました。会社に行きたくない憂うつな朝、電車の中ででも読んでみて下さい。きっと、今日も頑張って働こうという気持になることでしょう。
初版発行後、働く女性の環境は大きく変わりました。昭和六十一年の雇用機会均等法の施行は、その動きに拍車をかけたように思います。
女性への期待が高まっています。その現実は、仕事をとりまく周辺環境、つまり人とのつきあい方にも変化を求めています。女であるということの甘えや、未熟な人間性にしがみついていたのでは、他のヤル気のある女性の足を引っ張ってしまいます。
職場で期待される存在とは、仕事の能力以上に、周りの人達と上手に手を組んで働いていく力を持っている女性です。協調性やリーダーシップを鍛えていくことが、大切になってきます。職場で伸びていこうとする意欲あるOLに読んでもらうことを、私は切に願っております。
文庫化にあたって、講談社文庫出版部の守屋龍一氏に大変お世話になりました。彼もまたOLが生き生きと元気であることを願っている男性です。氏の要望に応えるためにも、私とあなた、さあ今日も元気よく歩いていきましょう。
一九八八年 春風の日
沖藤典子
本書単行本は、一九八二年、主婦と生活社刊。講談社文庫版は、一九八八年四月刊(本電子文庫版は講談社文庫第七刷を底本としました)。
女(おんな)が会社(かいしや)へ行(い)きたくない朝(あさ)
――人間関係(にんげんかんけい)の悩(なや)みを解決(かいけつ)する法(ほう)――
電子文庫パブリ版
沖藤典子(おきふじのりこ) 著
(C) Noriko Okifuji 2000
二〇〇〇年九月十五日発行(デコ)
発行者 中沢義彦
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
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