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デッドウォーター
永瀬隼介
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プロローグ
「夜が静かだね」
「うん、静かだ。気持ちのいい夜だ」
「何も心を乱すものがない、邪魔なものはすべて、取り払われた。こんなに心を落ち着かせてくれる夜は初めてだよ」
「そうだ。聞こえるのは甘い吐息と、喘《あえ》ぎだけだね」
「いや……よーく耳を澄ますと、別の音も聞こえるぞ」
「なに?」
「すすり泣きだよ」
「そう? 嬉し泣きじゃない? 随喜《ずいき》の涙ってやつ」
「ククッ、おまえは面白い。ますます面白くなる」
「ありがとう、二回目だから、余裕があるんだ」
「なあ、おまえ」
「はい」
「ここまできたらやっちまえよ」
「あんた、何言ってるの。もう、やったよ、やってる最中じゃないか」
「もうひとつ、上のことさ」
「上のこと……」
「そうだ。その細くて白い首だよ」
「この首が、どうかしたのか」
「誘っているだろう」
「なんて?」
「知りたいか」
「もちろんだよ。あんたとおれの仲じゃないか。隠すことは何もない、と言ったじゃないか」
「怒るなよ。感情の率直すぎる発露は、ただ醜いだけだ」
「怒ってなんかいない、ただ……」
「……おまえのその両手をかけて、絞めるんだよ」
「絞める……」
「そうだ。最高に気持ちいいから」
「本当かい?」
「いままでわたしの言ったことにウソがあったか」
「いや、そんなこと、あるわけない。やる、やってやるさ」
「そうだ、グイグイやってしまえ、おまえにはわたしがいる」
「首に手を置けばいいんだね」
「さあ、わたしが手を添えてやるよ」
「ありがとう」
「どうだ?」
「ほら、力を入れたよ。ぼくの腕の筋肉が、固く、筋ばっていく──うあっ、すごいや」
「そうだ、その調子だ」
「なにかが絡みついてくるよ」
「もっともっと強く絞め上げるんだよ。そして、あそこがどんな具合か、わたしに教えてくれ」
「最高だよ、やっぱりあんたはすごい。こんなの、信じられるか、ああ、溶けそうだ、ぶっ飛ぶよ、あったかい肉がぐいぐい締めてくるよ!」
「そのまま、一気にいっちまえ」
「よしッ──あれ?」
「どうした」
「こいつ、息をしなくなったけど」
「死んだか?」
「きれいだ」
「なにが」
「月明かりに、クリッと剥《む》いた白目がきれいだ。青く光っている」
「死んだな」
「そうみたい」
「これでおまえは人殺しだな」
「ああ、そうだね」
「ついに道は拓けた──」
「ひとを殺したぼくはこの先、どうなるの?」
「大丈夫、予定通りだ。わたしの言うとおりにしておけば、何も心配いらない」
「分かっている。ぼく、あんたがいなければ何も出来なかったもの。あんたがぼくに、この世の真の姿を見せてくれたんだもの」
「この先も、ずっと一緒だ。わたしとおまえは、どこへ行こうと、魂でつながっている」
「やっぱり、あんたは最高だ。この世で唯一無二の存在だ」
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吹きおろす寒風が、まるで地響きのように鳴っていた。昔、対立する暴走族のヘッドからカツ上げしてやった腕時計、タグ・ホイヤーのコピーに目をやると、午後八時まであと十分余り。水銀灯の放列が、白く固く凍っている。眼下には、黒い汽水が表面を波立てながら、ゆったりと流れていた。この辺りの荒川は、腐った潮の臭いがする。強烈な突風に、足元が揺れた。道路が波打っている。荒い呼吸の音が、鼓膜に響く。
村越亮輔は、クルマの騒音と排気ガスに塗《まみ》れた千住新橋の歩道を、白い息を吐きながら昇っていた。ペダルを踏む毎にチェーンが軋《きし》んだ音をたてるポンコツのママチャリは、寒風をものともせず、グイグイ走る。上下全六車線の日光街道を疾走するトラックのヘッドライトが、風に膨らんだ亮輔の全身をなめ回し、次いで強烈な横風を見舞い、追い越して行く。右手には、大きく弧を描いて北関東へ向かう高速道路。無数のクルマの尾灯が、赤く細く連なって一本の線となり、闇の中へと溶けていく。冷えきった耳が痛い。軍手をはめた指先から痺《しび》れが這い上がってくる。舌で唇を嘗《な》めた。カサカサに乾いて、紙やすりのようだ。底冷えのする、一月の終わりだった。
薄いトレーナーに黒のダウンジャケットを羽織っただけの亮輔は、冷たい風の重みを全身に感じながらペダルを漕いだ。ジーンズの布地を通して、次第に大腿部が張ってくるのが分かる。
──トレーニングのひとつさ。
そう思えば、どうってことはない。
──おれは殴り合いを職業にした男。
汗とワセリンの匂いのこもったジムで、二時間のトレーニングを終えたばかりだった。身体の芯は、まだ火照っている。その熱は、東京の真冬の冷え込み程度では収まりそうもない。背筋にじんわりと浮いてきた汗の膜を感じながら、亮輔はひたすら前へと進んだ。全長約五百メートルの橋は、その中央部からかなり傾斜のある下りになる。上半身を屈め、一気に駆け降りる。身を切る風圧と冷気に、涙が滲《にじ》む。ピンクのネオンサインが瞬《またた》くファッションヘルスの角を左折し、小路に入る。みすぼらしい商店街。シャッターを下ろした閑散とした通り。腕時計を見る。あと五分。サドルから尻を上げ、背中を丸めてペダルを一気に踏み込む。
JRと東武線の乗り入れる北千住駅前は、夜ともなると、仕事帰りのサラリーマンの群れでごった返す。その雑踏の中を、地元の不良や遊び人、チンピラが我が物顔で闊歩《かつぽ》し、喧噪《けんそう》と殺気の入り交じった濃密な空気が漂う。周囲を背の高いビルに囲まれ、押し潰されそうな閉塞感に満ちたロータリーは、タクシーの列でギッシリと埋め尽くされ、そこへ無理やり車首を突っ込んだ高級外車が、苛立《いらだ》たしげにクラクションを叩く。灰色の豪華な駅ビルのエントランスでは、赤いブーツを履いた金髪の少女が、男のエレキギターの伴奏で、ヘタクソなオリジナルソングを絶叫している。
亮輔が駅前の牛丼屋に着いたとき、時計は七時五十八分を示していた。あと二分。ママチャリを店の横に投げ捨てるように立て掛け、軍手を脱ぎ、急いで裏口へ回る。雑多な飲食店の換気扇が吐き出す生臭い温気《うんき》が、乱立するビルに挟まれて出口を失い、澱《よど》んでいる。胸がむかついた。息を止め、スチールドアから入る。タイムレコーダーを押し、挨拶もそこそこに、厨房で手早く賄《まかな》い飯をかきこんだ。牛皿とワカメの味噌汁におしんこ、丼飯。だが、丼飯は半分、残す。代わりにダウンジャケットのポケットからバナナを一本、抜き出し、口に押し込んだ。
身長百七十六センチ、体重六十七キロ。試合になると、これをライト級のリミット百三十五ポンド(六十一・二三キロ)まで落とす。激しいトレーニングを続けながら食事を制限し、六キロの肉をそぎ落とす作業は、十八歳の、まだ成長過程にある身体には応える。日頃から注意しておかないと、あっと言う間に体重オーバーで塗炭《とたん》の苦しみを味わうことになる。次の試合はふた月先だった。二戦二勝二KO。亮輔の全戦績だ。新人王も十分狙える、とジムの会長は言う。自信はあった。右のフックがテンプルに入ると、相手は呆気《あつけ》なくマットに沈んだ。
青い上っ張りを着込むとスポーツ刈りの頭に白い丸帽を載せ、店頭に立つ。三十の席を配置したコの字のカウンターは客がひきもきらない。二人のバイトと共に丼を片付け、オーダーを奥の厨房へ向かって叫び、茶を注ぐ。湯気の立つ牛丼を出し、代金の精算を済ませる。溜まった丼は、頃合いを見計らい、洗浄液をたっぷり含ませたスポンジで洗っていく。十時になると、今度は亮輔が厨房に立つ。注文を受けて、手早く牛丼を盛っていく。
一度覚えてしまえば小学生にでも出来る、単純で、面白みのない作業に見えるが、案外奥は深い。社内マニュアルでは一杯の並盛りは、白飯二百五十グラム、牛肉八十グラム、ツユ三十cc、タマネギ五切れと決まっている。盛り付けの熟練者は、十杯に九杯、つまり九十パーセントの割合でこの数字を実現してしまうが、アルバイトを始めて三カ月の亮輔はとてもその域には達していない。牛肉八十、ツユ三十、タマネギ五切れ──呟きながら、盛り付けに熱中する。意志の強さを滲ませた固い唇と、そげた頬。亮輔は額に浮いた汗を袖口で拭いながら、黙々と仕事をこなしていく。
午前二時、客もまばらな店内で突然、胴間声《どうまごえ》が響いた。
「こんなもん、食わせてカネとってんのか!」
クリーム色のセーターを着込んだ小柄な老人が、丼を握り締めて突っ立っている。灰色の髪がところどころ逆立ち、顔は酒焼けで赤黒い。厚手のセーターは肩に穴が空き、スラックスは脂でテカテカ光っている。ホームレスの生活で蓄積した疲れが、全身から滲んでいた。
「どうしました」
奥から慌てて出て来た店長の富井は、終夜営業の牛丼チェーン店にさえそぐわぬ客の貧相な風体《ふうてい》を認めるや、とたんに目を細めた。
「なにか粗相がありましたでしょうか」
声に、侮蔑《ぶべつ》のトーンがあった。
「不味《まず》いよ、食えねえよ、こんなもん」
老人が、唾《つばき》を撒《ま》き散らしながら怒鳴った。
富井は腰に両手を置き、小太りの身体をそっくり返らせて、嗤《わら》った。
「お客さん、ムチャを言わないでくださいよ。あんた、きれいに食べているじゃないですか」
老人の持つ丼を、顎をしゃくって示した。飢えた野良犬が舌でなめ切ったように、米粒ひとつ残っていなかった。我に返った老人は、さっきの威勢の良さがウソのように俯《うつむ》いて押し黙った。
「不味かったら食うなよ」
富井が嵩《かさ》にかかって言った。老人の紫色の唇が震えている。言葉が出ない。勝ち誇った富井が止《とど》めを刺すべく、口を開こうとしたそのとき、亮輔が動いた。素早くカウンターの外に出ると、老人の肩に手を置き、出口へと誘った。
「ジイさん、帰りな」
ドアを開け、背中を押した。真夜中の、身を切るような冷気が全身を刺し、亮輔はひとつ、身震いをした。老人の口から、白い息が上がった。
「腹が減ってなあ。カネもねえのに、ついふらふらと入っちまった」
老人は俯いたまま、ボソボソと呟いた。
「牛丼、うまかったか」
「ああ」
コクンと頷《うなず》いた。皺《しわ》だらけの目が、わずかに潤んでいる。
「温ったかくて、うまかったよ」
「そうか、だが、食ってからカネを払わないのはよくない。ただ食いは卑怯だ。あんたは卑怯者だ」
鋭い言葉に、老人は顔を上げた。濁った目が恥辱の色に染まる。
「今度だけは許してやる。二度目はないからな。次は警察に来てもらうことになる」
冷たい声音で言った。
「分かったら帰りな」
亮輔の声を背に、肩を丸めた老人は、ゆっくりゆっくり、引きずるように足を運び、遠ざかっていった。店内に戻り、カウンターに入ると、富井の尖《とが》った声が、客に聞こえないよう小さく飛んできた。
「よけいなこと、するんじゃないよ。ああいうのはクセになる。駅前の交番に突き出しときゃいいんだよ」
亮輔はジーンズのポケットを探り、百円玉を三枚、取り出すと、レジに入れた。
「並盛りでした」
富井がいまいましげに舌打ちをくれ、奥へと戻っていった。ほっと一息つき、カウンター席を見回した亮輔の視線が止まった。入り口近くの席で嘲笑を浮かべ、ビールを飲みながらガンを飛ばす若い男。年の頃は自分と同じくらいか。チャコールグレーの革ジャンパーに、金色に染めた長い髪。筋肉質の大柄な身体。眉の薄い、険のある顔が挑発していた。亮輔は、その視線に誘われるように、前に立った。男が、さも面白そうに睨《ね》め上げる。
「この甘《あま》ちゃんが、笑わせてくれるぜ。ホームレスのジジイにチンケな施し与えて、自己満足に浸ってんのかよ」
せせら笑った。
亮輔はカウンターを布巾で拭きながら、無表情のまま、低く言った。
「初めて見る顔だな」
男はコップをカウンターに置いた。
「ブラッディ・ドラゴンだ」
瞬間、亮輔の顔が白く染まった。
「マサハルの使いか?」
男は軽く頷いた。
「ヘッドが会いたがっているぜ。もう、我慢できねえってよ」
いつか、この時が来るのは分かっていたはず。なのに、動揺を抑えられない。言葉に詰まった。あのマサハルとサシでやるのか?
「逃げ道はねえぞ」
動揺を察知したのか、男が、さも面白そうに言う。そうだ、どっちみち逃げ道はない。決着を付ける時はいつかは来る。亮輔は腰を屈め、囁《ささや》くように言った。
「仕事の後だ。あいつのヤサで雁首|揃《そろ》えて溜まってろ」
「何時だ」
「朝四時には終わる」
「ヘッ、真面目な勤労青年が、ご苦労なこった」
千円札をカウンターに置き、男は立ち上がった。鋭い一瞥《いちべつ》をくれる。
「逃げんなよ、イーパーイーパー」
吐き捨てるように言うと、出ていった。肩を怒らせた後ろ姿を見送りながら、亮輔は拳《こぶし》を握り締めた。
イーパーイーパー……半々。そう、おれは半々、本当の日本人じゃない──呪詛《じゆそ》のように呟いた。
午前三時 南青山。加瀬《かせ》隆史《たかし》は、ウォッカのオンザロックを口に含んだ。火の塊のような液体が、喉を滑り落ちていく。鋭い視線と形良く隆起した鼻、薄い唇。その端正な顔を僅かに歪《ゆが》めた。世の中のすべてが面白くない、といわんばかりの不機嫌な顔だが、軽くウェーブした髪が、剣呑《けんのん》な雰囲気を心持ち和《やわ》らげている。青山通りから二十メートルほど奥に入った路地のビルの三階だった。まるで隠れ家のように、ひっそりと佇む会員制のバーのソファで、加瀬は、グラスを傾けていた。
「おまえは目先の仕事にとらわれ過ぎる。長期的なビジョンはあるのか? 日銭稼ぎだけじゃあ、この先、生き残っていけないぞ」
「分かってますよ」
目の前には、口髭を蓄え、メタルフレームのメガネをかけた桐田明夫の、ふくよかな顔があった。紺色の上等なスーツの光沢が、加瀬の神経を苛立たせる。
「おまえ、三十半ばだろうが。書き手として、自分のポジションを確立する時期はとっくに過ぎている。残酷な言い方だが、これが現実だ。ええ、加瀬よ、現実を直視しなけりゃダメなんだぞ」
哀れみを含ませた表情で言った。左隣には黒のドレスのホステス。その華奢《きやしや》な肩に回した腕が、さらりと動いた。
腰をくねらせ、女がドレスのふくらみに伸ばした手をやんわりと外す。それでも構わず、今度は尻に触る。触りながら、目は笑っていない。
「おれは酒を飲んだらとことんバカになる。これがおれのストレス発散法だ。そのかわり、おれは月産四百枚だ。原稿の執筆だけじゃない。テレビもラジオも、スタッフ五人を抱えた事務所の経営もある。おまえも、こうやってバカになるくらい、仕事をやってみろよ。なあ、加瀬、おれはおまえのことが心配なんだ」
眉間《みけん》に筋を刻み、憐憫《れんびん》の表情を見せた。
「ねえ、先生、楽しく飲もうよ」
甘い声がした。化粧をこってり塗りたくったケバい顔に、胸と腰がパンと張り出した女が、チラチラと加瀬に媚《こび》を含んだ視線を送りながら、しなだれかかる。自他共に認める女好きの桐田が、髪に手を突っ込み、ギュッと抱き締めた。抱き寄せた女にほお擦りをしながら、じっと加瀬を見ている。勝ち誇った顔だ。女が白い喉をのけぞらして嬌声をあげた。栗色のロングヘアに塗《まぶ》したラメが、軽薄さをいっそう際立たせる。この白痴が。声に出さず、罵《ののし》った。
加瀬はグラスを一気に呷《あお》り、熱い息を吐いた。
「三十五ですよ」
低く言った。
「なんだ」
桐田の顔から酔いが消え、目を細める。
「おれは三十五歳です。焦っています。今日一日の生活さえ保証の無いフリーの書き手なんだから、当然ですよ。でも、やるだけやってみます。心配しないでください。腹は括《くく》ってますから」
「ひとりでか」
「そうです」
桐田が、面白くなさそうに視線を逸《そ》らせた。軽く舌打ちをくれる。
五歳年長の桐田と付き合ってもう七年が経った。初めはよかった。同じ事件専門のフリーとして活動する先輩の立場から、さまざまなアドバイスをくれたし、仕事を紹介してもらったことさえある。無事、原稿をアップした後は一緒に酒を飲み、ねぎらってくれた。一時は、このひとの後についていこう、共に大きくなろう、とまで尊敬し、崇《あが》めていたのだ。しかし、ひとつの出来事が、加瀬と桐田の間に深い溝をつくった。
桐田は以前、加瀬と同じ月刊誌、週刊誌のフィールドで事件モノを追っていた。時には、桐田が書く記事の取材記者として、加瀬が助っ人を買って出たこともある。師弟関係にあるのだから、当然だと思っていた。ところが四年前、ある大企業の創業者一族を襲ったスキャンダルを加瀬が嗅《か》ぎ付けた時から、二人の関係に亀裂が入る。婿養子が暴力団のつつもたせに引っ掛かり、慰謝料を要求されて支払った、というスクープだった。これを桐田は、加瀬に相談もなく、自分の一存で潰《つぶ》したのだ。潰して、創業者一族に恩を売った。直接、カネにしない桐田の狡猾《こうかつ》さが、安定したビジネスに繋《つな》がった。大企業が発行する広報誌の編集に食い込んだのだ。桐田は自分でプロダクションを起こし、編集を丸ごと請け負うと、そこを足掛かりに、企業モノの記事へとシフトしていった。
その理由を、「事件モノはいまの読者のニーズと掛け離れている」「苦労と収入が見合わない」「フリーの事件記者の時代は終わった」等々、ずらっと一ダース以上も並べたて、口八丁手八丁のビジネスモノへと転身していったのだ。以来、功なり名を遂げた財界人や、野心に満ちたITビジネス界の風雲児に取り入り、通り一遍の取材で毒にも薬にもならない記事を量産し、荒稼ぎをしていた。おかげでいまや、いっぱしの経済ジャーナリストとして、年間十冊以上の単行本を出し、講演や座談会、ワイドショーのゲストコメンテーター、さらには時事問題も扱うFMラジオの人気番組のパーソナリティも務める売れっ子ぶりだ。
「おれはおまえのことをいつも気にかけているんだ。分かるだろう」
桐田は唇に笑みを浮かべると、懐から葉巻を取り出し、吸い口をポケットナイフで切り落としてゆっくりと火を点ける。カネに不自由しない人間だけができる、自信と余裕に満ちた仕草だった。ライターは金無垢《きんむく》のデュポン。口の中で味わった紫煙をひとつ、フーッと吹き出す。甘い葉巻の香りが辺りに満ちる。
「なあ、加瀬よ」
声のトーンが丸くなる。目尻に柔らかな皺を刻む。
「おれはおまえのことが心配なんだよ。なんとかしてやろうと思っている」
加瀬は、曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。桐田には、後輩のスクープを潰してのし上がった、という負い目がある。だから、こうやって、誘ってくる。カネをちらつかせ、取り込もうとする。取り込んで恩を売り、自分の心に巣くう負い目を消し去りたいのだ。
「また、おれと組まないか。いま、仕事が増える一方なんだ。おれは片腕が欲しい。おまえは取材力、筆力ともにピカ一だ。ビジネスモノの世界にくれば、おまえは明日から超一流よ。昔の栄光にすがるしか能の無い半ボケのジジイや、鼻っ柱の強い小利口なガキの駄法螺《だぼら》に付き合って、適当にチャチャ入れて、持ち上げたうえで矛盾点を突っ込んでやればあなたは本物だ≠ニ、途端になびいてきやがる。イエスマンの御用ライターしかいない業界だから新鮮なんだな。おれとおまえなら、いくらでも稼げる。なあ、おれの事務所に来いよ」
「おれが桐田さんと仕事を──」
桐田は指の間に葉巻を挟み、満面に喜色を浮かべて、身を乗り出してきた。
「そうだ、月八十、いや百万を保証する。なあ、やろうぜ。苦労が報われない事件モノのルポは、夢と理想だけ食ってれば満足する、若いヤツらに任せとけばいいんだ。四十になると身体が動かない。なにより気力が衰えちまう。今から準備しておけ。悪いことは言わない。事件モノのライターなんて、将来は真っ暗だぞ。嫁さんだっているんだろう。おれはおまえの哀れな末路を見たくないんだ」
桐田の説得を聞きながら、加瀬は宙に視線を漂わせた。
「哀れな末路、ですか」
「そうだ、そのときになって後悔しても遅い」
加瀬は桐田に視線を戻した。
「まあ、やめときますよ」
さらりと言った。桐田の喉仏がゴクリと動いた。目に戸惑いの色が滲む。加瀬は唇の端を捻《ひね》って、続けた。
「おれは書きたいものを書きますよ。いまさら転身なんて、器用なことはできないし」
皮肉の色を敏感に嗅ぎ取った桐田の顔が、微かに強《こわ》ばる。だが、加瀬は構わず言った。
「おれ、事件モノが放つ臭気にどうしようもなく、吸い寄せられてしまうんですよ。この気持ち、桐田さんなら分かってくれますよね」
「忘れたよ」
ボソッと呟いた。
「いつまでも事件モノなんかにこだわってちゃ、将来はないだろうが」
口髭を歪《ゆが》め、吐き捨てるように言った。桐田の顔がシラけた。次いで、取り込みに失敗した怒りが滲む。
「なにかアテはあんのか」
「アテ?」
「そうだよ。事件モノでこの先、生き残っていけるというアテだよ。まさか情熱とか正義の追求とか、そんな青臭いことは言わないよな」
桐田の表情に、いたぶるような色が浮かんだ。
「まあ、手掛けているネタはありますが」
言葉を濁した。
「デカいネタか」
「うまくいけば、話題になると思います」
言いながら、後悔が胸を刺す。まだ早い。取材はこれからが本番なのに。
その心の揺れを見透かしたように、桐田が尖った言葉を投げてきた。
「そうやって、まだ書きもしない作品について得意げに喋りまくるヤツに限って、獲らぬタヌキで終わるんだよ。でっかい仕事をやってやる、もう準備は出来ている、あとはタイミングの問題だ、と周囲に吹聴《ふいちよう》してれば、当面は惨めな自分から逃げていられるからな。そういう無能で哀れな書き手を、おれは山ほど見てきたよ」
眉根を寄せた。
「才能も執念もない貧乏人、現実と向かい合うことを避けてきた敗残者の群れだ」
吐き捨てると、一転して柔らかな口調で言った。桐田の顔に悔恨の色が浮かぶ。
「加瀬よ、気分を悪くしたら謝る。だが、これが現実だ。おれはおまえのことを何とかしたいと思っている。困ったことがあったら遠慮なく言ってこい。昔のよしみだ」
「ありがとうございます。でも、とことんやってみますよ」
加瀬は一礼すると、ジャケットの懐から財布を抜き出し、一万円札五枚を女に渡した。精一杯の見栄だった。
「おれの分です」
「無理するなよ」
哀れむような桐田の言葉と、女の嬌声を背に、加瀬は慇懃《いんぎん》な物腰のボーイから黒革のショルダーバッグを受け取ると、コートを着込み、外へ出た。暖房の効いた、汗ばむほどの店内から、冷たい外気に触れると、途端に下半身が絞れ、強烈な尿意を催した。道端の植え込みで、アルコール臭い小便を盛大に迸《ほとばし》らせる。得もいわれぬ快感を感じながら、真夜中の空を見上げた。氷の粒を散らしたような真冬の星空が広がっている。
──あの男も、こうやって空を眺めているのだろうか──
小便を終え、ふと、思いを馳《は》せた。確か、星のきれいな冬の夜が好きだと言っていた。この世では決して得られない、永遠を感じる、とも。瞬間、辺りに静寂が満ちた。透明な霊気が加瀬を包む。
──取材を成功させなくては。
唇を噛んだ。自信はある。なぜなら、自分は、信頼されているのだから。あの怪物に。
脳裏に、男の顔が浮かんだ。繊細さと孤独と、底の知れない冷徹さを張り付けた顔。酔った頭で、もし、ここにいたら≠ニ考えた。取材を始めて以来、胸のうちに押し込めたはずの妄想。もし、この場所で、あいつが目の前に立っていたら、おれはいったい……
あり得ないはずなのに、なぜか振り払うことが出来ないでいる。男が笑っていた。口を大きく開け、天を仰いで哄笑《こうしよう》している。言いようのない恐怖が全身に絡《から》み付く。終夜、クルマの途絶えることのない青山通りの騒音が鼓膜にじんじん響く。現実の世界がここにある。
──もう、後には引けない。
この自分に、すべてを完遂し、作品にまとめ上げるだけの力があるのだろうか。加瀬は、胸に巣くう弱気を追い払うように頭を振り、足を進めた。
村越亮輔の住処《すみか》は、JRの綾瀬駅から北へ向かって五百メートルほど離れた、住宅と飲食店、町工場が混在する雑多な街の安アパートにあった。六畳一間に、申し訳程度の台所が付いた風呂無しの部屋で、家賃は三万円。ジムでシャワーを浴びるから、風呂無しでも別段不便は感じなかった。いつもは、午前四時に牛丼屋のアルバイトを終えると、モルタルアパートの部屋へ直行し、服を脱ぐのももどかしく布団に潜り込み、眠りを貪《むさぼ》るのだが、今日は違う。
あれほど強かった風が止んでいた。亮輔は夜明け前の、冷え込みの厳しい街をママチャリを走らせながら、頭がまるでシャブをキめたみたいに冴え冴えとしてくるのを感じた。
午前四時二十分 千住新橋を渡って橋のたもとで右折するアパートへの帰り道を、今日は日光街道を直進した。東京の幹線道路には夜が無い。疾走するヘッドライトの群れ。夜の果てで炸裂するエンジンの爆音が、脳ミソを刺激して、無性に苛立ってくる。ペダルが重い。足に力が入らない。無理もなかった。ジムのハードワークに続く、夜通しの立ち仕事をこなした後なのだ。疲労|困憊《こんぱい》している。しかし、眠気は不思議なほど感じなかった。当然だ。政春が待っている。
日光街道沿いに、生活臭の希薄な、くすんだ色の街並みがいつ果てるともなく続いた。亮輔は東武伊勢崎線の鉄路を越えた辺り、都立高校の先にある雑居ビルの前で止まった。サドルに跨《また》がったまま見上げる。サラ金にエステサロン、ビデオ屋、興信所等が入った、五階建ての古ぼけたビルだ。各階に二部屋ずつ。最上部の五階の一部屋だけ、煌々《こうこう》と蛍光灯が点いている。ブラッディ・ドラゴンの溜まり場で、夜になると亮輔と政春のヤサになった部屋だ、五カ月前までは。
亮輔はママチャリのスタンドを立てると、ひっそりと静まり返ったエントランスを歩き、エレベータに乗り込んだ。ガクン、と大きく揺れ、喘ぐような稼働音と共に昇っていく。昔と変わらない、オンボロエレベータ。階を示す数字が、一つ二つ、増えていくごとに、全身の血が激しく逆流していく。狭い箱の中は、息が詰まりそうだ。五階。蛍光灯がチカチカする薄暗い廊下を歩く。固く閉じたドアの前で呼吸を整える。灰色にくすんだ街を肩で風切って歩いていた頃、この部屋に戻ってくるたびに、ホッと全身の強ばりが解けたことを思い出す。夜、仲間を帰した後、政春と酒を飲み、腹の底に溜まった怒りをぶつけ合い、ほんの僅かの希望に相好を崩して笑い、酔い潰れると床に敷いた寝袋にくるまり、泥のように寝入った。何も怖くなかった。自分が死ぬ時は、政春と一緒だと信じて疑わなかった日々。身体の芯から荒《すさ》んでいた。カネと暴力だけが、この世のすべてだった。
──裏切ったわけじゃない。
亮輔は奥歯を噛み締め、スチール製の重いドアをノックした。
「入りな」
重く、低い声がした。間違いない。政春だ。ノブを回して押し開く。ムッと強烈な刺激臭がした。トルエンの匂い。積み上げられた段ボール箱が、僅かに開いたトイレのドアから覗いている。中にはオロナミンCの瓶、トルエンをたっぷり注ぎ込んだC瓶が詰まっている。ブラッディ・ドラゴンの資金源。これも昔と変わらない。
事務用のテーブルにパイプ椅子が四、五脚、それにテレビと冷蔵庫が置かれただけの殺風景な部屋。見慣れた光景だった。ヌードとバイクのポスターを貼りまくった壁のところどころが、赤黒い染みになっている。血の跡だった。
二人の男が、椅子に跨《また》がってこっちを見ている。テーブルの上にはバーボンのボトルとグラスが二つ。換気扇が唸《うな》っている。頬が熱かった。暖房のせいばかりじゃない。据えられた四つの目玉が肌に突き刺さる。
ひとりは金髪の大柄な男。さっき、牛丼屋に来たヤツだ。口をへの字に結び、敵意を露《あらわ》にして睨《にら》んでいる。政春は、さも面白そうにニヤけていた。オールバックに固めた髪と、生来の凶暴さを秘めた一重の三白眼。薄い唇の端から、煙草が垂れている。ナイフで肉を殺《そ》ぎ落としたような痩身に、紫色のスーツ。胸元に太いゴールドのネックレス。全身から漂う退廃と狂気は、いっそう濃くなっていた。細く白い十本の指で、つやつやと輝く髪を後ろへ軽く撫でつけ、政春が口を開いた。
「亮よ」
ニヤつきながら、言う。
「恥かいちまった」
視線を外し、わざとらしくひとつ、ため息をつく。
「おまえのせいだよ」
舌が張り付いた。政春の怖さ。骨の髄まで染み込んだ恐怖が甦る。
「おれは、おまえが帰ってくると信じていたんだぜ」
亮輔は両足を踏ん張った。
「政春、誤解してもらっちゃ困る」
舌を引きはがして喋った。
「誤解だと?」
三白眼が底光りした。
「そうだ。おれはおまえに言ったはずだ。ブラッディ・ドラゴンはおまえに任せる。おれはひとりで生きていく≠ニ」
言葉が終わらないうちに笑い声が響いた。政春が、腹を抱えて笑っている。
「おいおい、おれとおまえの仲だぜ。酒飲んだ勢いで喋ったことを、まともに受け取れるか? ブラッディ・ドラゴンはおまえにとって、そんなヤワなものだったのか?」
酒の勢い──その通りだ。亮輔は唇を噛んだ。ひとりで生きていくと決めた夜、この部屋で政春とバーボンを呷《あお》り、痺れた舌で自分の決意を語った。呂律《ろれつ》が回っていないのが、自分でも分かった。政春も酔っていた。でなければ、怖くて言えなかった。政春は、口を幼子のように開いて、ワーワー泣いた。泣き疲れると鼻水を垂らし、肩を丸めて嗚咽《おえつ》した。涙が涸《か》れるまで嗚咽して、崩れるように寝入った。政春の、苦悶の張り付いた寝顔。絞め殺したくなる衝動を、僅かに残った理性で抑え込み、ふらつく足で外へ出た。八月の、気が狂いそうな湿った熱い夜だった。以来、政春とは会っていない。
「プロボクサーになったんだな」
政春が言った。五カ月前は、まだ練習生だった。
「ああ」
「二戦二勝二KO勝ち……立派なもんだ」
政春は知っていた。駆け出しの四回戦ボクサーの戦績を……。
「おまえ、ケータイくらい買えや。せっかくお祝いの一言くらい、言ってやろうと思ったのによ」
ククッ、と喉をひきつらせ、
「この貧乏人が」
と笑った。
「亮よ、おまえタイマンはピカ一だった。このあたりじゃあ間違いなく最強だった。ケンカ自慢のチーマーも族も、そろってビビっていたもんなあ」
そう言って、隣の金髪に意味ありげな一瞥をくれる。金髪の目が細まり、頬がゴリッと動いた。亮輔は言った。
「ボクシングとケンカは別だ。水泳と陸上競技くらい違う」
亮輔の言葉に取り合わず、政春は続けた。
「世界チャンピオンにはなれそうか?」
「分からない」
「ライト級は世界でもっとも層の厚いクラスなんだってな。人材豊富な階級だもんなあ。たしか日本人のチャンピオンはガッツ石松と畑山隆則の二人だけだったな」
「よく知っているな」
「勉強したんだ。ボクサーは世界チャンピオンにならなきゃ食えない、この世で一番割に合わないプロスポーツってこともな──下手すりゃあ、引退後はパンチドランカーだ。パンチ食らって死ぬことも珍しくない」
政春は得意げに喋った。
「牛丼屋の皿洗いでやっていけんのか」
「なんとかな」
「亮、戻ってこい。殴られ過ぎて頭がパーになってからじゃ遅い。おれんとこだったら、ばっちり稼げる。世界チャンピオンなんか、目じゃねえぜ」
「脳の溶けたアホなガキにC瓶売りつけて、それで稼ごうってのも先がないぜ」
政春がククッと喉で笑った。視線が尖る。
「亮、おれはのし上がるぜ、そう約束したはずだ。てっぺんまでだ。もうこれよっか上は無い、ってとこまで行くんだよ」
静かに言った。そうだ。ただのワルで終わらない、いつも確かめ合ってきた。二人で誓った、肌が粟《あわ》立つような言葉。苦い味が舌の上に湧いた。おれたちの過去。色彩の失せた風景。ざらついた記憶。
十年前、小宮政春と初めて会った。場所は、足立区内の小学校だ。共に、中国残留孤児の三世だった。
亮輔は、両親、祖母と共に中国から帰国した。残留孤児の祖母は、長年の苛酷な農作業ですっかり身体が弱っていた。江戸川区にある都の帰国者支援施設に入るなり、寝込んでしまい、半年の入院生活を送った揚げ句、亡くなってしまった。岩手県の祖母の実家は既に代替わりがしており、家族を招いてくれた祖母の兄に、もはや面倒を見るだけの力は無かった。亮輔の父の従兄弟《いとこ》に当たる人物は、祖母、つまり叔母が亡くなってしまえば、何も関係はない、と言わんばかりの態度に終始したらしい。結局、両親と亮輔の家族三人は、足立区の安アパートに住み着き、肩を寄せ合って暮らした。
亮輔の父親は、中国の貧農の生活にうんざりして、母親の国、日本への帰国を決意したという。帰国当時のことは、亮輔の記憶にはほとんど無い。ただ、親戚の家で出された白飯を、涙を流しながら食べていた父親の姿だけは覚えている。
日本に帰ったら、バラ色の生活が待っている、との幻想は、頼りの祖母の死で呆気なく砕かれた。中国語しか分からない、貧農の親子三人が、異国の大都会で放り出されて、それでも人並みの生活を維持できる可能性は、万に一つも無いだろう。亮輔の家族も例外ではなかった。
日本の小学校は、イジメと差別の温床だった。日本語の分からない亮輔にとって、授業はただただ退屈な時間だった。好奇心に満ちた同級生に何か問われても「ありがとうございます」としか言えなかった。父親が、日本人は礼儀正しいから、ありがとうございます、さえ言えば親切にしてくれる、と教えてくれたのだ。
「中国人はバカだ、アホだ」「臭い」と罵られても、「ありがとうございます」としか言わない亮輔を、日本のワルガキどもはからかい、嗤った。次第に言葉を理解し始めた亮輔は、周囲に充満していた悪意と蔑視を知った。憎悪をたぎらせ、復讐の機会を窺った。その相棒が、政春だった。
小宮政春は母親と残留孤児の祖父と共に、日本の土を踏んだ。日本に帰国する前に政春の両親は離婚し、父親は中国に残ったという。当時、政春は六歳だった。一家三人は北関東の寒村にある祖父の実家に身を寄せたが、日本語も分からない中国人に居場所は無く、じきに疎《うと》まれ、東京へ出たらしい。足立区の都営住宅に転がり込み、祖父の生活保護で食いつなぐ毎日。母親は将来を悲観して首を吊り、政春は祖父との二人暮らしを余儀なくされた。
亮輔が初めて言葉を交わしたとき、政春は、目の冥《くら》い、陰気な子供だった。「つまんない」政春の口癖だった。「我慢しろ」亮輔の口癖だった。
小学校時代は二人、共に疎まれ、蔑《さげす》まれ、絶望の日々だった。こんな腐った、情のかけらもない国に帰ってきた親を心底、恨んだ。いつかブチ殺してやりたい、とさえ思った。政春は、痩せて、貧相な体つきに加え、極端に寡黙で何を考えているのか分からないところがあった。それだけに「気味が悪い」「目付きがイヤだ」と、イジメの標的にもされやすかった。自然と、体力に勝る亮輔が楯になり、理不尽な暴力や悪罵に抵抗した。それでもイジメはエスカレートするばかりで、顔を赤黒く腫《は》らし、全身にマジックインキで卑猥《ひわい》ないたずら書きをされた政春は、「死にたい」「どっか行きたい」と、涙目で訴えた。「耐えろ」抱き締めてやった。「いつか仇をとってやる」そう約束した。
中学に入ると、亮輔は動いた。政春に復讐の実行をもちかけた。ひとりじゃ怖かった。グズで泣き虫の政春でも、いないよりマシだ。
「おれは死ぬ気でやる。約束だ。おまえの仇をとってやる」
ウソだった。自分の怒りをぶちまけたかっただけだ。
「亮、おれ、この日を待っていた」
政春の頬がとろけた。
「二人して仕返しして、苛《いじ》めてやろうね。おれ、泣いても喚《わめ》いても、許さないからね。殺しちゃったら、荒川に捨てればいいさ」
そう言ってケタケタ笑った。初めて見せる笑顔だった。亮輔の背筋を悪寒が走った。政春は苛められすぎて、頭がおかしくなった。間違いなくネジが一本緩んでいる──。
町角の暗闇に潜み、イジメたヤツらに酷い仕返しをする毎日。主導権を握ったのは亮輔ではなく、痩せて貧相な政春だった。
政春は狡猾だった。どんな時も、自らが決めた復讐のセオリーを守った。政春にとって、タイマンなど、ガキのお遊びだった。絶対に勝てる状況を、蛇のような執念深さで待った。
標的が一人きりになると見るや、声を殺して鉄パイプで殴りかかり、徹底してぶちのめした。政春は止まらなかった。相手の腕を折り、歯を砕き、命乞いの悲鳴が迸ると、唇を吊り上げて笑い、今度はブラスナックルを嵌《は》めた拳を振り上げた。ガツン、ガツン、と舌なめずりをしながら叩きつけた。鼻が折れ、頬が砕けた。悲鳴が消える。それでも、止めない。壊れていた。堪《たま》らず間に入った亮輔に、殴りかかってきたことさえある。目と唇が裂けた、悪鬼の形相だった。一通りの復讐を終え、怒りと憎悪を発散し尽くすと、暴力は快楽になった。
政春の放つ、底無しの狂気は、街のワルを圧倒した。二人で繰り出せば、同世代の少年で相手になるヤツはいなかった。中学も二年になると、授業にはほとんど出ず、繁華街を彷徨《うろつ》いた。ケンカの強さで有名になった二人は、暴走族に誘われた。ただの族ではない。残留孤児の二世、三世が集まって結成された暴走族だった。政春は、祖父を都営住宅に残して、家を出た。以来、一度も会っていないという。生きているのか、死んでいるのか、それさえも分からないという。一度、口を歪めて、吐き捨てたことがある。おれの人生に、あのジジイは関係ない、だから捨ててやった、と。怒りと嫌悪に塗れたその顔は、あいつさえいなければこんな腐った国に来ることは無かった、と言っていた。
東京の北部を中心に活動するこの暴走族のルーツを溯《さかのぼ》ると、今から十年以上前、自然発生的に生まれた、あるグループに行き当たる。当初は、日本社会のイジメや差別に悩み、やり場のない怒りに疲れ果てた残留孤児の二世、三世が夜、どこからともなく下町のちっぽけな公園に集まり、鬱憤をぶつけ合い、慰め合うグループだった。
ところが、日本人のワルを真似、バイクで暴走するメンバーが現れて以来、様相が一変した。社会の底辺で蓄積され、溜まりに溜まった怒りが爆発するまで、それほど時間を要しなかった。日本人の暴走族や、チームとケンカを繰り返し、ヤクザとも渡り合い、新聞|沙汰《ざた》も数多く引き起こした。その捨て身の暴力に、世の不良少年たちは戦慄し、次いで羨望と称賛のまなざしを送った。いつしかグループは、日本人のメンバーが八割を占める、いわば日中混合の一大暴走組織へと発展した。
政春はここでも、先頭を切って暴れ回った。胸に五星紅旗を縫い付けた特攻服を着込み、盗んだバイクを改造してぶっ飛ばした。日本刀片手に、敵対する組織を蹴散らす政春に、亮輔は付いていくだけで精一杯だった。怖かった。近いうちに死ぬ、とマジで思った。政春に、恐怖の二文字は無かった。
政春が怖くて堪らない亮輔は、シャブの味を覚えた。ダチが回してくれる、この白い粉は、恐怖心をウソのように消してくれた。しかし、魔法の薬なんかじゃなかった。一度、地元のテキヤグループと揉めた際、荒川の河川敷きで決着をつけることになった。連中はドスや日本刀で武装して来た。
政春から電話があり、嬉々《きき》とした声で集合が掛かったとき、威勢よく承知したものの、震える下半身は小便をチビリそうだった。殺される、と初めて思った。
いつものようにシャブをポンプでキめた。だが、恐怖が大きかった分、量も多すぎた。スーッと足元から寒気が這い上がり、全身がみるみる冷たくなった。全身に鳥肌が立ち、身体が宙に浮き上がった気がした。突然、耳の奥でパッキーンと乾いた音がして、脳ミソが凍りついた。大声で喚いてしまいそうな高揚感に包まれ、ドス黒い殺意が頭をもたげた。時間と場所の感覚が曖昧になり、気が付くと乱闘の最中、チェーンを振り回してパンチパーマに叩きつける自分がいた。ドスを腰だめにして突っ込んでくる相手の頭皮がズルッと剥け、悲鳴が迸った。
固めた拳を狂ったように打ちつけた。次々に男たちが昏倒《こんとう》していく。逃げようとする男の襟首を掴《つか》んで引き倒し、顔面を編み上げブーツの踵《かかと》でメチャクチャ踏み付けた。踵の下で、トマトを踏み潰すような感触があった。自分はスーパーマンになった、と確信し、下半身が痺れた。射精しそうな快感のなかで、肉を叩きつける音に酔った。
風景がシャッターを切ったみたいに連続して変わった。怒声と呻き声、笑い声が弾けて一本の光の線となり、網膜に血の雨が降った。空と地面が引っ繰り返った。視界がグルグル回った。自分の甲高《かんだか》い笑い声が耳の奥でキンキン響いた。脳髄がドンッと爆発し、足元が呆気なく崩れ落ちた。悲鳴を上げて、奈落の底へと落っこちていった。
意識が鮮明になると、目の前に政春の顔があった。これまで見たこともない、怒りの形相だった。
「シャブはなあ、食うもんじゃなくて、食わせるもんなんだよ、この臆病もんが」
倉庫みたいなところで椅子にロープで縛り付けられて、散々殴られ、蹴られ、水をぶっかけられた。猿轡《さるぐつわ》を噛まされ、クソと小便を垂らしながら、シャブが抜けるまで放っておかれた。頭のてっぺんからつま先までガタガタ震え、耳の奥から尻の穴、眼球の裏を無数の虫が這い回った。声の出ない喉で絶叫した。身体をタオルのように捩《よじ》って、泣いた。虫が消えるまで、発狂しそうな恐怖を味わった。以来、シャブに手は出さなくなった。代わりにタイマンになると、自ら志願して出ていった。死ぬ気で殴り合った。負い目が背中を押した。これ以上、政春に嗤われたくなかった。あの、グズで泣き虫の薄汚いガキが、いつの間にか、自分の上にいた。政春に認めてもらいたい一心で、勝ち続けた。政春は愉悦の笑みを浮かべた。亮輔は嬉しかった。
そのうち二人とも、族だけでは満足できなくなった。メンバーは二十歳になると判で押したように引退し、塗装工とか板金工になって、茶髪のコギャル崩れに子供を産ませた。その鮮やかな変わり身が気に食わなかった。
一年前、政春と亮輔は自分たちのグループを立ち上げた。それがブラッディ・ドラゴンだ。
「おれたちは、いつだって半々だった」
煙草に火を点けて、政春が遠い目をした。引き込まれるように、亮輔は頷いた。
「政春、小学生のおまえはおれにこう言った。中国と日本、どっちが自分の国なんだ? と。おれは答えられなかった。おれにも分からなかった」
フッと紫煙を吐くと、政春が指に挟んだ煙草をユラユラと振った。
「頭のユルいガキどもに、中国人、チャンコロと罵られて、臭い唾を吐きかけられて、おれは死んでしまいたい、とおまえに泣きついた。覚えているか?」
「覚えている」
言葉が終わらないうちに頬を、熱いものが疾《はし》った。指先で弾いた煙草だ。顔を振って避けた瞬間、目の前に拳が突き出された。政春が泣き笑いのような、奇妙な顔をしている。
「なあ、亮、二人でのし上がろうって、約束したじゃないか」
背筋を冷たいものが流れた。
「なぜ、心変わりがした?」
「まともになりたかったんだよ、政春。ちゃんと話したじゃないか」
政春はゆっくりとかぶりを振った。
「おれはおまえを信じていた。だから──」
隣の金髪に向けて顎をしゃくった。
「こいつらにも、亮は必ず帰ってくる、待ってろ、と見得を切ってたんだぜ。それを恥をかかせやがって」
鼻に皺を刻んだ。唇がめくれ、頬の肉が歪み、怒りの形相に変わった。
「ええ、亮、どういうことだ!」
「おれとおまえは違うんだよ、政春。違うんだ……」
声が掠《かす》れてしまう。
「違う?」
目を訝《いぶか》しげに細めた。亮輔は続けた。
「おれは、いつの間にかおまえが怖くなっていた。一片の迷いもなく、ワルのてっぺんを目指すおまえに、ついていけなかった。もう、シャブに頼るわけにはいかない。ここで決断しないと、手遅れになるとわかったんだ」
ブラッディ・ドラゴンのメンバーは十人に満たなかった。しかし、いずれも政春を慕ってきた、筋金入りのワルだった。ブラッディを立ち上げてすぐ、政春はケツ持ちをヤクザに任せた。族の時分は忌み嫌っていたヤクザを、あっさりバックにつけたその真意が亮輔には理解できなかった。が、じきにすべてが明らかになる。シャブだ。ワルガキ相手の葉っぱやトルエンをちびちび流しているうちは問題ないが、莫大な利益を生むシャブとなると話は別だ。ヤクザは黙っちゃいない。地回りとのケンカ程度では乗り出してこない大手組織が、暴力のプロのメンツにかけて、本気で潰しにくる。いくらブラッディがつっぱっても、木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》だ。狡猾な政春には、それが分かっていた。
政春は、ドラッグの密売組織網を築くつもりだった。ヤクザの力は不可欠だ。
「シャブに触ったら、もう抜け出せないんだ、政春」
亮輔は訴えた。
「半々として差別され、苛められた怒りは分かる。おれも、おまえも、この国で散々酷い目にあってきたんだから。しかし、おれはヤクザになる気はない」
「亮輔、おまえこそ勘違いしている」
目が冥《くら》い光を帯びた。
「おれもヤクザなんかになるつもりはないぜ」
政春は新しい煙草に火を点けた。
「そこんとこは、おまえが一番わかっていると信じていたのに、残念だ。おれはおまえのこと、全部知っているのに……」
手のひらに滲んでくる汗を、亮輔はジーパンの股で拭った。
「おまえの母ちゃん、何年になる?」
くぐもった声で政春が言った。薄ら笑いが浮かんでいる。
「貧乏がいやだからって、浅草のキャバレーに勤めていたじゃねえか。おれはおまえの母ちゃん、好きだったぜ。昼間っから酒臭かったけど、きれいだったし、オカシカイナサイって、よく小遣いくれたじゃねえか」
オカシカイナサイ──変なイントネーション。聞くたびに、恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。それを、政春は完璧《かんぺき》に真似てみせた。亮輔は拳を握り締めた。思い出した。おふくろのことじゃない。政春がいじめられていたもうひとつの理由だ。いじけた目で、他人のことをこそこそネズミのように嗅ぎ回っていた、いけすかないガキ。ケンカじゃかなわないから、弱みを握るんだ、と冥い目で呟《つぶや》いていた。まさか、相棒の自分のことまで嗅ぎ回っていたとは。
「おまえ、母ちゃんは中国、帰ったって言ってたけど、そんなのデタラメだもんな。本当は、日本人の若い客とデキちゃって、おまえと父ちゃん、ゴミみたいに捨てられたんだろう。あれは中坊になってすぐだったから、イチニの──」
わざとらしく指を折ってみせた。
「もう六年か」
一日中陽の差し込まない、暗いションベン臭いアパートで、膝を抱えて泣いていた親父の姿が甦った。惨めな親父、哀れで弱い親父……。
「父ちゃんだって、あれじゃまいっちまうよ。ああいうことやって、当然だな」
ああいうこと。口の中に苦い味が湧いた。
「半年前だよな」
さも面白そうに、亮輔の顔をのぞき込んでくる。
「千住の飯場で人、殺《あや》めそうになったのは──そう、おまえがここを出て行っちまうひと月前だ」
何も言えなかった。
「殺人未遂でいま、拘置所に食らいこんでるんだろう。おまえ、さっき偉そうなこと、ほざいていたけど、ホントは親父を見て怖くなったんだろう。年とって、おっさんになっちまった自分を見ているような気がしてさ」
唇を噛んだ。飯場で酒の肴《さかな》にさんざんバカにされ、どつき回された揚げ句、ついにぶち切れて反撃、スコップでケンカ相手の頭をカチ割った親父。
「そのほうがずっとわかりやすいぜ」
政春が冷笑した。
「違うんだ、政春。それはひとつのきっかけにすぎない。本当の理由はさっき言った通りだ。おまえのことが怖くなったんだ。おれにはおまえほど、ワルを突っ張り通す根性がないんだよ」
惨めな言葉が、スラスラと口をついて出る。亮輔は、政春の気が済むのなら、土下座して床に額《ひたい》を擦り付けてもいい、と思った。だが、政春は目を閉じ、小さくかぶりを振った。
「どうして、こんなことになっちまったんだよぉ」
顔が苦しそうに歪んでいる。
「なあ、亮、帰って来いよ」
涙声だった。騙《だま》されてはいけない。政春は感情が猫の目のようにクルクル変わる。演技をしているわけではない。そのどれもが政春なのだ。一人の政春を見つめては駄目だ。うまくコントロールされ、自分を見失ってしまう。沈黙が二人を支配した。地鳴りに似た空調の音。日光街道を爆走する改造車のエンジン音。一分……二分……沈黙に耐え兼ねたように、喚き声がした。
「ヘッド、早くやらせて下さいよ。こんな情けない野郎、おれなら一発ですから!」
金髪が椅子から立ち上がり、吠えた。と、政春の頬がとろけた。
「そうだ、せっかく亮に来てもらったんだもんな」
酷薄な笑みが浮かぶ。
「タケオはおまえとやりあわなくちゃ、気が済まないらしい」
タケオ。金髪の男。
「ヒーヒー泣きが入るまでやりますよ」
両手を組み合わせてポキポキ鳴らした。
「ヘッド、おれがきっちり、ケジメとらせますから」
言葉を引き取って政春が言った。
「亮、タケオがブラッディの正式メンバーになる手土産に、元ナンバー2のおまえをぶちのめすとよ」
キナ臭いにおいが漂う。ボクシングのリングとは全く違う、殺伐とした、地の底に堕ち込んでいく感覚に包まれた。
「シークレットルームだ。二人でとことんやりあいな」
そう言うなり、政春は腰を上げた。スーツの上からカシミヤのコートを羽織り、ゆったりとした足取りで玄関ドアに向かう。
シークレットルーム。別名、密室マッチ。部屋の中で二人きりで向かい合い、何を使っても構わないから、相手を戦闘不能に追い込み、先にドアを開けて自分の足で出てきた方が勝ち、というタイマンの究極のルールだった。亮輔は、密室マッチで負けたことがない。追い詰められると、自分でも恐ろしくなるくらい、胆《はら》が据わった。威勢のいいワルが、この部屋で向かい合うなり、泣きわめいて、許しを乞うたこともある。だが、ここに入った以上、倒すか倒されるか、だ。深夜、すべての人間が出払ってしまう雑居ビルの一室は、どんなに物音がしようが警察に通報される心配はなかった。
密室マッチの相手はさまざまだった。ブラッディの挑発にキレて乗り込んできたチームもあったし、敵対する相手の頭《ヘツド》を強引に拉致《さら》って連れ込み、やり合ったこともある。壁の赤黒い血の跡はすべて、亮輔が相手を容赦なく殴り倒した証しだった。
亮輔はダウンジャケットを床に脱ぎ捨て、トレーナー一枚になった。タケオは革ジャンを着込んだままだ。向かい合うと、タケオは身長で五センチほど勝《まさ》っている。横幅もひと回り、デカイ。ライト級とミドル級くらいのハンディがあった。だが、迷いはない。やり合うだけだ。亮輔は軽く足を開き、両拳を顎の高さで構えた。タケオは腰をグッと落として身構える。二人して、ゴングを待った。視界の端で、玄関のドアを開ける政春の姿を捉える。コートが消える。ギイーッ、と神経を引っ掻くような不快な音が響いた。次いで、ドスン、とドアが閉まった。ゴング。
瞬間、タケオの腕が動いた。パンチ? 違った。なんの躊躇もなくパイプ椅子を握り、横殴りに振ってくる。ケンカ慣れした動きだった。ゴッと空気が鳴った。こめかみを砕く寸前、亮輔は身をすくめ、かわすと同時に右足を振り、相手の両膝を払う。タケオがバランスを崩し、椅子ごと派手に倒れたところを思い切り蹴りあげた。シューズの先が横腹にめり込む。タケオの息がグッと詰まり、身体がくの字に折れ曲がった。亮輔は素早く馬乗りになり、拳を振り上げた。ボクサーのベアナックル。タケオの顔が恐怖にひきつった。太い両腕をクロスさせ、必死に顔面をカバーする。思う壺だった。腹ががら空きだ。亮輔は両手を床に付き、身体を逆立ちの要領で空中に躍らせる。膝を鋭角に曲げ、体重を乗せて鳩尾《みぞおち》に落とす。グウッと呻き声がした。全身をエビのように曲げて、苦痛に耐えるタケオ。
亮輔は革ジャンの襟を、クロスさせた両手で掴み、一気に絞め上げた。苦悶に歪んだタケオの顔が真っ赤に膨れ上がり、次いで白くなる。呼吸が荒く、早くなる。亮輔は奥歯を噛み、全力で絞め上げた。ギリギリッと鳴る奥歯が鼓膜に響く。タケオの充血した眼球。焦点の定まらない赤い視線。喉がグエッと鳴る。こめかみで膨れ上がった血管がいまにも破裂しそうだ。意識を断ち切られ、落ちるまで、あと十秒──そのとき、両手首に指が巻き付いた。タケオの肉厚の手が、ガッチリ握り締めていた。抗《あらが》う暇もなかった。もの凄い力で襟から引きはがされる。両腕の骨と筋肉が軋んだ。ピューッと息を吸い込む音がする。反撃の狼煙《のろし》。胸を膨らませて新鮮な空気を肺に取り込み、息を吹き返したタケオが強ばった口を開いた。
「これからだぜ」
瞬間、ガツンと鈍い音がして、網膜に火花が散った。タケオが太い首を振って繰り出した頭突きが、鼻を直撃していた。ブチッと軟骨の潰れる音が頭蓋に響いた。思わずのけ反《ぞ》る。間髪を入れず、両足が胸を蹴り飛ばしてきた。馬に蹴飛ばされたような衝撃だった。身体ごと、根こそぎ吹っ飛ぶ。壁に頭を打ち付け、一瞬、眼前が白くなった。立ち上がるタケオの巨体が朧《おぼろ》に見えた。
亮輔は頭を振り、ふらつく足を踏み締めて立ち上がった。タケオがテーブルのバーボンボトルを取り上げ、振り下ろした。ボトルの割れる音が頭の芯に響いた。テーブルの縁で割ったボトル。鋭いガラスの切っ先が、天井の蛍光灯を反射して、ギラリと光る。
タケオは一気に勝負をつけようと、距離を詰めてきた。視線に殺気が宿る。獲物を追い詰めた狼のような目だった。右手に握ったボトルを突き出す。シュッと空気を裂く音。身体を捻って後ろへ下がる。踵が壁に当たる。窓際へと追い詰められた。もう後は無かった。振り返る。眼下に日光街道の凶々《まがまが》しいヘッドライトの連なり。窓ガラスに映ったタケオの顔。愉悦と恐怖の入り交じった表情が、初めて経験する極限の状況を物語っている。やるかやられるかのシークレットマッチ。ここを勝機、と見たタケオは唸り声をあげ、ボトルごと突進してきた。
上半身を捻って向き直り、身構えた。ロープに追い込まれたボクサー。ボトルが疾《はし》る。上体を動かさず、左肘だけで払う。トレーナーの袖がスパンと切れた。グッと腰を落とす。構わず突っ込んでくるタケオにタイミングを合わせ、左足を踏み込んだ。体重を瞬時に前へ移動させる。同時に、右の拳を振った。腕がしなり、外から内へと抉《えぐ》り込む。右フックの動きだった。プロデビュー以来、二人をマットに沈めたフィニッシュブロー。絵に描いたようなカウンターだ。ガツンッ、と骨を打つ鈍い衝撃音と共に、タケオが吹っ飛んだ。ボトルが右手を離れ、壁に当たって砕けた。巨体がテーブルを真っ二つにへし折って引っ繰り返る。床に転がったタケオは口から血の泡を噴き、青い目を剥いて失神していた。
亮輔はひとつ、息を吐くと、床のダウンジャケットを拾いあげて着込んだ。ドアを押し開き、外へ出る。冷気が肌を刺す。壁にもたれて、政春が立っている。一瞥をくれると、何も言わず、中へ入っていった。三分後、出て来た政春は、細い目で睨《ね》めつけた。
「おまえ、拳《こぶし》使ってねえな」
「ああ」
「肘《ひじ》か?」
右肘を突き出すポーズをしてみせる。
「そうだ」
亮輔は答えた。政春は肩をすくめた。
「こめかみに一発だ。見事なもんだ」
「カウンターで入った。当分は目が覚めないはずだ」
「拳を使うまでもなかったのか?」
「おれはボクサーだ。もう、ケンカで拳は使わない」
政春が、鼻白んだような表情を見せた。
「聞いたようなことをほざいてくれるぜ。だが、これでわかった」
「なにが」
「おまえは無理だ。おれの片腕にはなれない」
「………」
「おまえはブラッディそのものだった。相手を徹底してぶちのめし、血まみれにするのが、おまえの流儀だったはずだ。街角で出会ったら、どんなワルでも震え、真っ青になって逃げ出すくらい、恐怖心を植え付けるのがおまえのやり方だった。それがどうだ」
顎をしゃくった。
「おまえが血まみれじゃねえか」
途端に、顔面に鋭い痛みを感じた。亮輔は、顔を右手で拭った。手の甲に鮮血がべっとりと付いた。頭突きで潰された鼻の血だ。亮輔はハンカチを引っ張り出し、鼻を押さえた。
「大した血じゃない。それにおまえのヤサを大事な子分の血で汚すのも悪いと思ってな」
「へッ、おれはもう、こんなとこ住んじゃいない。昔の、いつもカネに詰まってピーピーしてたおれじゃないんだぜ」
「政春」
「なんだ」
尖った視線を向けた。
「シャブだけはやめろ。ヤクザとつるむなんて、おまえは焦っている」
「ヤバイ橋渡んなきゃ、おれたちは銭の面《つら》がおがめねえんだよ。よく言うだろうが、ハイリスク・ハイリターンってよ」
「政春、聞け」
「うるせえ、黙れ」
吐き捨てるように言うと、顔を歪めた。
「もう帰れ!」
鋭い声だった。
「腑抜けになったおまえに用はない。帰れ。そして、前科持ちの父ちゃんと一緒に、頭パーになって、このクソ面白くもねえ街でくたばっちまえ」
亮輔はエレベータに乗り込んだ。政春は仁王立ちになり、吠えるように言った。
「おれは半々だ。だが、負けねえからな。どんな手を使ってでものし上がる。見とけよ、亮!」
拳を握り締めていた。目には憎悪の炎が燃えていた。エレベータのドアが閉まった。一瞬、政春の顔が泣いたように見えた。落ちて行くエレベータの中で、亮輔は頭を振った。鼻血が逆流し、口の中に血の味が広がった。ピュッと血を吐き、錯覚だ、と呟いた。政春とヤクザ。シャブでカネを掴もうとする政春。黒々とした不安が胸を抉った。
午前五時。山手線の大塚駅前はまだ閑散としていた。朝の早い出張なのか、スーツとコートに身を包み、大ぶりのブリーフケースを持ったサラリーマンや、建設現場へ向かうニッカボッカにジャンパー姿の労働者、朝帰りの、惚《ぼ》けた顔の若者たちの姿が、散らばっている。加瀬隆史は、夜明け前の閑散としたロータリーを、白い息を吐きながら、ゆっくりと歩いた。足元がおぼつかない。南青山のバーを出てから、二軒、ハシゴした。しこたま酒を注ぎ込んだ身体は、足を踏み出す毎に右に左に、傾《かし》いでしまう。コートのポケットに両手を突っ込み、背を丸めて、自宅への道を辿《たど》った。
大塚駅北口から山手線の外へ向かって、徒歩六分。加瀬のマンションは、都電荒川線を越えた商店街のはずれにあった。三階の二LDK。部屋に入ったとたん、生活の温気《うんき》が冷えきった身体を包む。暗い十畳のリビング。四角いテーブルに椅子が二つ。カーテンを閉め切った窓。キッチンの、緩んだ水道蛇口から垂れる水滴。真冬の屋外と同じ、寒々とした光景だった。蛇口に直接口を付け、冷たい水を貪るように飲む。酒に灼けた喉が、どうしようもなく渇いていた。
脱いだコートを椅子の背に掛け、ショルダーバッグをテーブルに置き、引き戸をそっと開ける。八畳の和室に敷かれた二つの布団。膨らんだ片方が、静かな寝息をたてている。妻の美知子だった。足音を忍ばせて、近寄る。静かな寝顔。朝帰りの、痺れた頭が重く沈んだ。
一緒に夕食をとらなくなって、幾日になるのだろう。仕事がたてこんでいるわけじゃない。それでも、加瀬は食事を仕事場に借りている部屋の近くで済ますことが多くなった。
美知子はこのところ、妙によそよそしい。心当たりは無かった。強いて言えば、生活の不安定か。フリーの、まして事件専門のライターに、明るい将来などあり得ないことに気が付き始めたのか? だとしたら、おまえは間違っている。酔った頭に怒りが灯った。おまえの夫は、あのコウモリライターの桐田とは違う。桐田なんか比べものにならない、志の高いモノ書きなんだ、と揺り起こしてでも教えてやりたかった。
飲み屋の匂いのこびりついたジャケットとズボンのまま布団に潜り込む。おもしろくなかった。妻が寝入っていることも、この布団が冷えていることも、二日酔いの頭も、そして桐田と飲んだことも、すべてがつまらないことだらけだ。身体を休めた途端、頭の芯がジンジンと疼《うず》く。とても眠れそうもなかった。隣の布団をめくり、乱暴に入り込む。ビクッ、と美知子の肩が動く。
──もしかして、起きてたんじゃないのか? タヌキ寝入りか? そんなにおれのことがイヤなのか?
背後から、細い肩を抱き締める。耳に囁きかける。美知子──。
「よしてよ」
嫌悪を露にした声音。邪険に加瀬の腕を払うと、伸ばした細い指が、枕元の卓上ランプのスイッチを押した。布団を舐めるように、オレンジの明かりが広がる。
「お酒クサイ」
振り向いた顔が、まるで汚物でも見るように、醜く歪んでいた。指で鼻を摘まんで、顔を顰《しか》める。
美知子。二十八歳の女。柔らかい曲線を描いた顎と、高い鼻梁。白い陶磁器のような肌に、黒目がちの瞳。整ったアーチ型の眉。艶のある黒髪。とろけるような笑顔──以前は、他人に自慢したいほど美しい妻だったはず。ところが今はどうだ。朝の、寝起きの顔、という事情をさし引いても、これがあの、自分の愛した女とは信じられなかった。疲れの滲んだ肌と、険のある視線、ぱさついた髪。目覚まし時計に目をやり、けだるく呟く。
「まだ五時じゃないの」
くるりと向きを変え、固い背中を見せたまま、フーッとため息をついた。ミチコ、ミチコ、ミチコ……耳元で囁いたばかりの、媚を含んだ甘い声が、頭の中でグルグル渦を巻いていた。噴き出した恥辱と憤怒のやり場を失い、加瀬は再び美知子の肩に手をかけた。
──どうかしている。
冷静な自分が呟いている。しかし、止まらなかった。強引に抱きすくめ、パジャマの襟元から左手を差し入れる。柔らかな乳房をつかみ、首筋に唇を寄せる。後れ毛が鼻孔をくすぐる。
──美知子……。
抗う、しなやかな身体を強引に、押さえ込んでみたかった。酔いのせいか? それもある。だが、一番の理由は美知子の態度だ。不満があれば、言ってくれればいい。それを、嫌みったらしく背中を見せて、自分のすべてを拒否する、その子供じみた態度に腹が立つ。一緒に夕食もとらず、まともな会話ひとつせず、セックスも御無沙汰だ。夫婦の体《たい》を成してないじゃないか。
乳房を荒々しく揉みしだき、舌先でうなじを嘗める。自然と股間が猛《たけ》ってくる。右手を腰骨の脇からパンティの中へと入れる。柔らかな和毛《にこげ》を指先でかきわけ……変だった。抵抗がまったくない。いや、抵抗どころか、全身の力をダラリと抜いて、横たわっているだけだ。奥歯がキリッと鳴った。みるみる股間が萎《な》えた。
──バカにしやがって。
怒りが全身を貫いた。荒い言葉を吐こうとしたその刹那《せつな》、声がした。美知子のか細い声が、何か言っている。
──マンション──
なんだ?
「このマンションよ」
固い声だった。美知子は乱れたパジャマの襟元を整え、ぱさついた髪を手で押さえながら、上半身を起こした。布団の上に座って向かい合う。硬い視線が据えられる。
「マンションが、どうした」
すっかり酔いが醒めていた。美知子の唇を見つめて、次の言葉を待った。
「来月、賃貸契約の更新でしょ、二回目の」
そうだ。四年前の二月、新婚のおれたちは入居したんだ。しかし、それがどうした。また更新すればいいだけの話だろう。確か、更新料がひと月分、必要なはずだが、それが用意できないほど、家計が逼迫《ひつぱく》しているわけじゃない。加瀬が黙っていると、美知子は苛立ちを露にした。
「保証人よ。いったい誰に頼むの? わたしはもう、イヤよ。兄にまた頭を下げるのはゴメンですからね」
思い出した。第一回目の更新の際、手続きのために管理している不動産会社を訪れると、ブランドもののスーツを着込んだ、一見ホスト風の若い営業マンがこう漏らしたのだ。
「ご主人の職業がねえ」
どういうことですか、と気色ばんで迫った。営業マンはヒョイと肩をすくめ、「これは口外してもらっては困りますが」と、断ったうえで説明した。問題はただ一点、フリーライターという加瀬の仕事だ。つまり、社内の取り決めで、フリーのモノ書きは、単行本で勝負できる有名な作家は別にして、フリーターと同じ程度の信用しかないのだという。それゆえ、新たに保証人を入れて貰わなければ困る、と慇懃《いんぎん》無礼な口調で言ってきた。
加瀬は湧き上がる怒りを圧《お》し殺して抗弁した。家賃十三万円と管理費一万円、計十四万円を二年間、毎月、期日に遅れることなく振り込んできた。この積み重ねの事実が、何よりの信用じゃないのか。しかし、営業マンは、加瀬の仕事の絶対的な信用度の不足を主張し、聞く耳を持たなかった。その整った横顔が、フリーライターなどまともな職業じゃない、世間で認知された仕事じゃない、と言っていた。しかも、保証人は現役のサラリーマンでなければならず、出来れば一流と言われる会社に五年以上、在籍した信用のおける人物を、と。帰り際、加瀬が、わたしは信用が無いんですね、と言うと、営業マンは愛想笑いを浮かべて首を傾げ、否定も肯定もしなかった。
帰宅して、美知子に、不動産屋でのやりとりを話して聞かせた。
「おれはとことん、社会的な信用の無い人間なんだよ」
冗談を交じえ、軽い口調で言った。美知子にも笑ってほしかった。そうすれば救われたはず。しかし、美知子は思い詰めた表情で、兄に頼んでくる、と呟き、押し黙った。義兄は、大手の総合商社の社員だった。加瀬は、急に自分が惨めになり、どうしようもなく腹が立った。沈黙に耐えられず、明るい口調で言った。
「こんな無礼なマンション、じきに出てやるさ。次の更新までに頭金を貯めて、おれたちのマンションを買おう。頭金さえ出来てしまえば、ローンの支払いはこれまでの家賃の範囲内で収まるんだから」
美知子は、ポツリと言った。
「そうだね、二年もあるんだもんね」
そうだ、おれたちには二年もあるのだ。その間には子供も生まれるだろう。出産費用も、育児費用も、必要になるだろう。家族の出費は年々、増えこそすれ、減ることはない。それが年齢を重ねるということだ。だが、それがどうした。カネの問題など、些細《ささい》なことだ。自分はまだ三十そこそこの、将来を期待される、気鋭のライターなのだ。本気で己の未来を信じていた。
翌日から、美知子は駅前のスーパーでレジ打ちのパートを始めた。理由を問うと、少しでも頭金の足しになれば、と言った。加瀬は、おまえは苦労性だ、と笑った。本音を言えば、パートなどやめて欲しかった。女房一人、養えない甲斐性無し、と陰口を叩かれるのが嫌だった。しかし、保証人の件もあり強くは言えなかった。デカい仕事を一発こなせば自分は売れっ子のライターになる、という確信があった。カネなど後からついてくる、とうそぶいていた。
ところが二年経って、現実はどうだ。子供もいないが、マンションの頭金など影も形もない。美知子は相変わらず時給七百五十円のパートを続けている。原稿料の振り込みが遅れて、美知子のパートに助けられたことも一度や二度じゃない。パートの給料は、マンションの頭金ではなく、生活費の足しになっていた。だが、自分の仕事への姿勢は頑として変えなかった。有名芸能人のゴーストライターや、企業のPR誌など、割のいい仕事を振られても、ことごとく断ってきた。事件ライターとしてのプライドがあった。
誇りと信念を失ったときはペンを折る、と決めていた。この覚悟は、美知子にも打ち明けたことがある。反応がどうだったのか、今となっては記憶になかった。恐らく、自分の言葉に酔っていただけなのだろう。振り返れば、あっという間の二年だった。状況は良くなるどころか、じり貧になりつつある。三十五歳。もう中年といってもおかしくない年齢だ。目の前の美知子は、パートに疲れ、生活に疲れ、そして亭主の不甲斐なさに疲れ果てている。
「保証人はおれが用意する」
強い口調で言った。美知子が不審げな顔を向けた。
「おれにだって、保証人になってくれるサラリーマンの一人や二人はいるさ。おまえが知らないだけだ」
美知子は目を伏せた。睫《まつげ》が微かに震えている。保証人はいたとして、その先はどうするの、と言っている。
「大丈夫さ、美知子」
もう、心配する必要はない、と教えてやりたかった。優しく肩を抱いた。今度は抗わなかった。肌の温もりを通じて、やっぱり夫婦なんだ、と実感した。もう話していいだろう、夫婦なんだから。
「実はな、美知子」
「なに?」
不安げな視線を向けてきた。
「スクープだよ」
「スクープ?」
眉根をひそめた。無理もない。これまで、具体的な仕事内容など明かしたことがないのだから。
「そうだ。犯罪モノの、世間が目を剥くスクープをやってやるよ。誰もがとれない、と思い込んでいた話だ。もちろん、普通の犯罪者の話じゃない。ほら、覚えて──」
言葉が止まった。布団の上に座り込んだ美知子が、背中を丸め、両手で耳を押さえていた。
「聞きたくない」
小さく呟いた。どうした?
「スクープとか、犯罪とか、もうどうでもいい。結局あなたのやってることって、他人が隠しておきたいことをハイエナみたいに嗅ぎ回って、世間に発表して、それで終わりでしょう。ジャーナリズムとか、社会正義とか、そんなのきれいごとよ、大ウソよ。ただのスキャンダル屋じゃないの!」
声が震えていた。目を固く閉じ、堰《せき》を切ったように言葉があふれた。
「わたし、普通の生活をしたいの。毎月、決まったお給料をいただいて、子供を育てて、時々一緒に遊園地とかに行って、親子でご飯食べて笑って、そんな平凡で人並みの生活をしたいのよ」
美知子はすがるようにして見上げた。瞳が濡れていた。
「隆史さん、もう無理しないで。フリーのライターなんてやめてよ。ちゃんとしたお仕事に就いてよ。わたし、このままだとダメになっちゃう」
美知子の哀願を耳にしながら、加瀬はどんどん冷めていく自分を感じていた。
──どうしたんだ、美知子、おかしい、この反応は異常だ──
「これからもっともっと一緒の時間をつくって、わたしのこと、大事にしてよ、わたしを抱き締めてよ、しっかり守ってよ」
嗚咽し、震える美知子の背中を抱き寄せながら、加瀬は、なにかが違う、と感じていた。いったいいつからだろう、おれたちがおかしくなったのは。過去を溯った。ダメだった。昨日のことさえ、うまく思い出せない。酔いのせいか? 違う。カネが無い。追い詰められている。だから余裕がない。おれは逃げたい。だが、一度逃げたら、あとは堕ちるだけだ。
加瀬は、出口のない、狭く暗く湿っぽい部屋に佇んで、途方に暮れている自分を知った。不意に背筋がゾクッとした。恐ろしい疑問が芽生える。湿っぽい部屋に佇んでいるのは本当に自分か? いや、自分じゃない。あいつだ──。
脳裏にあいつの顔が浮かんだ。あの、狭く暗い部屋のあいつが、自分と同化している。交尾する蛇のように、絡み合っている。自分があいつとかかわって以来、美知子もおかしくなっている。あいつが持つ不思議な力が、おれの全身に張り付いて、奇妙な磁場を作り出している。その磁場が、おれと美知子を捩れた異界へと誘《いざな》っている……酔っ払いの妄想だろうか。しかし、いったん思ってしまうと、それ以外に理由は無いような気がする。数時間前、妙に苛つき、桐田とやりあった自分は、どこか違っていた──何かが待ち受けている。暗く、底の見えない穴……だが、賽《さい》は投げられたのだ。
「大丈夫だ、美知子」
加瀬は囁きながら、妻の潤いの失せた髪を撫でた。
「おれがいる。おれがおまえを守ってやる」
美知子のすすり泣きが聞こえた。加瀬は、両腕に力を込め、美知子を抱き寄せた。
午前五時三十分。綾瀬の自宅アパートにたどり着いた亮輔は、買い置きの鎮痛剤を飲むと、倒れ込むように布団に入った。六畳一間。テレビとちっぽけな食器棚があるだけの、寒々しい空間。眠気はまったく無かった。天井の蛍光灯を見つめながら、白い、血の匂いのする息を吐きながら、政春のこと、親父のこと、自分のことを思った。全身が熱くなる。頭の中をいろんなことがグルグル回って、弾《はじ》けた。布団を蹴った。立ち上がると、素早くトレーニングウェアに着替え、身を屈めるのも窮屈な玄関でランニングシューズを履き、部屋を出た。
軽いジョグで綾瀬駅に向かって走る。夜明け前の、ひと気の失せた大通り。呼吸を整え、白い息をフッフッと吐く。冷気が鼻孔に吸い込まれる度に、折れた軟骨が痛む。だが、鎮痛剤のせいか、我慢できないほどじゃない。
綾瀬駅前。二十四時間営業のゲームセンターから、耳障りなビーム音が聞こえる。右に折れ、上を線路が走るガード下に走り込む。暗い、トンネルのような空間が前方に続いていた。幅二メートルほどの通路の両側に、店仕舞いしたラーメン屋や居酒屋、焼き鳥屋がずらりと並ぶ。ちっぽけなスナックからカラオケのダミ声が漏れる。そこだけ、看板を縁取る真っ赤な電飾が眩しい。
食い物と生ゴミの臭いが淀むガード下の通路を、ストライドを伸ばして走った。その足元から、黒いものがバサッと派手な音をたてて羽ばたく。カラスの群れだった。ギャーッ、ギャーッと耳をつん裂く怒りの声が、トンネルのような通路で反響し、ガード上部の隙間から、真っ黒な奔流となって飛び出して行く。亮輔は、スピードを緩めることなく走った。
背中に汗が浮く。腕を前後に大きく振り、脚の回転を上げる。ガード下を三百メートルも走ると、正面にガランとした駐輪場が迫る。左に折れ、車道を渡り、綾瀬川の堤防に続く階段を駆け上がる。スコーンと視界が広がる。百八十度、展望が開けた。
目の前に幅二十メートルほどの、水の淀んだ綾瀬川、その向こうにコンクリートの帯が連なり、鉛色の空が続いている。いつの間にか、空がべったりと厚い雲に覆われていた。右手にJR常磐線の鉄橋が架かっている。ガランとした電車が、窓から眩《まばゆ》い蛍光灯の明かりを放ちながら、轟音《ごうおん》をあげて通過する。頭上には首都高速|三郷《みさと》線。トラックのエンジン音が間断なく響く。綾瀬川を跨ぐ橋の歩道を、亮輔は一気に駆け抜けた。黒々とした水の、ドブ臭いにおいが鼻孔を刺す。
眼前に、コンクリートの高い壁が聳《そび》える。関東拘置所の塀。犯罪者たちを外界と遮る、高さ六メートルほどの壁だった。その向こうには、東京ドームの五倍の広さの別世界が広がっている。橋を駆け降りると、壁に沿って、一直線の歩道が延びていた。
壁の両端から、中央に向かって強烈なライトが照らしている。拘置所の逃亡者をいち早く発見するサーチライト。夜明け前の青い帳《とばり》を切り裂き、光と闇のコントラストが辺りを支配していた。
亮輔は拘置所の壁と綾瀬川の堤防に挟まれた、幅三メートル、距離にして約五百メートルの、巨大なコンクリートの溝のような歩道を走った。オレンジ色の街路灯が、歩道を朧に照らす。脚の回転を速める。ギアをトップに入れる。頬に当たる風が痛い。トップスピードに乗り、そのまま駆ける。耳元で、鋭い風切り音がする。呼吸が苦しい。胸が、酸素を求めて波打つ。ゼーゼーと喉が鳴り始める。息が上がる。それでもスピードを緩めない。トラック一周余りの距離を一気に駆け抜ける。壁が終る五十メートルほど前から脚の回転を緩め、全身の力を徐々に抜き、惰力で走る。ゆっくりと立ち止まり、息を整える。足を止めた途端、熱い汗が、全身の毛穴から噴き出した。
拘置所の壁に両手を置く。ザラついた、冷たいコンクリートだ。額に浮いた汗を手の甲で拭う。首を垂れ、目を閉じる。誰もいない。周囲に、生命《いのち》の気配は無かった。背後の綾瀬川を隔てて響く首都高速の地鳴りのような轟音が、無機質な世界のただ一つの息吹《いぶ》きのようだ。分厚い壁の向こう側に思いを馳せる。ちっぽけな冷たい部屋に押し込められた惨めな親父。そしてもう一人──まだ会ったことも、言葉を交わしたこともない男。亮輔は小さく、その名を呼んだ。
「いつごろ出そうなの」
「なんのことでしょう」
「最高裁判決だよ。いまのあんたにとって、一番気になることだろう」
「さあ、まだ分かりませんね。でも、高裁の判決が出て一年が経過したから、いつ出てもおかしくないでしょう」
二人は、声を潜めて話していた。隣り合う二つの部屋。コンクリートの壁。昼だというのに薄暗く、黴《かび》と、消毒薬の匂いが満ちた、底冷えのする空間。キュッキュッと、靴のゴム底の擦れる音が響く廊下。刑務官の咳払い。
二千人余りの未決囚が収容されている、関東拘置所の独居房だった。どこかで水滴の垂れる音がする。
「怖いだろう」
膝を抱えて座る男が訊いた。肉のこけた顔に無精髭、くすんだ肌。痩せて貧相な身体に、厚手のセーターと丹前、灰色の毛織りのズボンを着込んでいる。年の頃は五十前後か。壁に耳を寄せて返事を待つ。
「怖い?」
訝しげな声。丸刈りの頭に、色白の肌。確かな知性を感じさせる瞳と、高い鼻梁《びりよう》、薄く固い唇。二十代半ばの若い男だった。黒のスエットの上下。部屋の中央で正座をし、背筋を伸ばしたその体躯は、どっしりとした量感に満ちている。端正な顔が、僅かに曇った。
「怖いとはどういうことです」
「だってあんた」
隣房の男は、戸惑いを含ませて言った。
「一審だって、二審だって、死刑判決じゃないか。すると、最高裁は書面審査だから、冤罪《えんざい》の疑いでもないかぎり、門前払いだろう。無期が出る可能性は万に一つもない」
「当然でしょう。わたしが罪を犯したのは八年前、十八歳のときでした。未成年とはいえ、十八歳、十九歳は刑事罰を適用される年長少年です。法律上、何の問題もありません。わたしは、五人の女を犯し、縊《くび》り殺したのですから、死刑を免れる可能性はゼロでしょう」
感情の揺れを些《いささ》かも感じさせない、淡々とした口調で続けた。
「あなたは死刑が怖くないのか、と言いたいのですね」
「そうだ、その通りだ。あんたはまだ二十六歳だ。なのに、首を吊るされて死ぬんだよ。それが怖くないなんて──」
ゴクリと唾を呑み込んだ。痩せて筋張った喉が隆起した。
「おれには信じられない」
「怖くないですよ。だって、わたしが消えても、わたしの魂は永遠ですから。結局、この世で、永遠といえるものは、魂だけなのです。このコンクリートの壁を、この頑丈な鉄格子を見てください。あと千年もしたら、跡形もなく消えています。われわれ収容者、そして看守、職員にいたっては百年も経たないうちに、すべて、この地上から失せているわけでしょう。この世のすべては幻想に過ぎない。つまり、生と死すらも、幻想なのですよ。真実は唯一、魂だけです」
自信に溢れた口ぶりだった。それを聞いた隣房の男は、目を伏せ、感に堪えない声を出した。
「すごいなあ、あんたは。それが悟りとかいうものなんだろうな。本当にすごい。それに比べたら、おれなんか」
ブツブツと愚痴めいた言葉が続いた。と、
「ああッ」
突然、若い男が小さく叫んだ。
「どうした!」
声を低め、隣房の男が言った。
「ほら、窓をご覧なさい、雪ですよ。雪が降っている」
コンクリートの壁に切られた六十センチ四方ほどの窓。独房はA棟の四階にあった。鉄格子がはめ込まれ、金網で覆われた窓。その向こうに、雪が降っていた。暗い、灰色の空から、白い、淡い雪が、まるで幻のように降ってくる。若い男は、うっとりとした顔で見つめた。
独居房は、間口一・五メートル、奥行き二・五メートル、高さ約四メートルの、極端に狭くて高い、いびつな空間だった。手前に薄い畳二枚が敷かれ、奥の板敷には、洗面台と便器が置かれている。この、座っているだけで息が詰まりそうな独居房が、雪のおかげで、仄《ほの》かに明るくなったような気がした。
「ああ、本当だ。随分冷えると思ったが、雪まで降りやがった。昨晩は星がきれいだったのに、気まぐれな天気だ」
隣房の男は首をすくめて身震いし、苛立ったように言った。
「やってらんないよ」
「雪が嫌いなんですか」
「ああ、大嫌いだね。子供の頃の、惨めだった自分を思い出してしまう。冬になると、自分の掌《てのひら》さえ見えない雪嵐が吹き荒れて、土壁のちっぽけな家で、家族が固まって震えていた。この日本では考えられないほど貧乏だった。バカにされて、苛《いじ》められて、人間扱いじゃなかった。あそこでは、日本人の血が入っている、というだけで人間扱いされないんだ。おれのせいじゃないのにね」
「酷《ひど》い目に遭ったんですね」
「リーベングイヅ、と散々罵られてさ」
「リーベングイヅ?」
「日本の鬼の子と書くんだ。日本鬼子《リーベングイヅ》だ。鬼畜のような日本人の子供、ということだな」
「そんなことを……」
「まあ、中国だけじゃなく、日本に来てからもずっと惨めだったがね」
自嘲気味に語った。
「でも、あなたは偉いと思います」
「なんだと?」
憮然《ぶぜん》とした口調だった。構わず若い男は続けた。
「日本語が流暢《りゆうちよう》だ。素晴らしい。ネイティブの日本人と変わりません」
「いや、発音とか微妙な言い回しはやっぱりおかしいさ。でも、努力はしたよ。ネイティブとかなんとか、よく分からないけど、一生懸命勉強したんだ。区の日本語教室とか通ってさ。ボランティアの先生とか、ホントに親切だったなあ。『先生、おはよう』というテキストから勉強したんだ。カセットテープも付いていたから、おれ、擦り切れるまで聞いた。おれ、日本語さえ喋れれば、日本人になれると思っていたんだねえ。だって、母親が日本人だもの。耳がイイ、と先生にも褒められたよ。生まれつき──そう、天性のものらしいね。でも、おれは勘違いしていた。いくら日本語が上手くなっても、この国のひとたちは絶対に日本人と認めてくれないんだね。悲しいね」
ふーっとため息をついた。
「飯場暮らしが長かったから、荒っぽい言葉も覚えたよ。たたっ殺す≠ニか、コンクリートに漬けて沈めるぞ≠ニか。そういえば、年寄りの元ヤクザが雪が降ったとき、笑顔でこう言っていたなあ。これが全部シャブだったら、おれ、大金持ちだ。こんな上物のシャブ、めったにねえぞ≠ニ。最初は何のことか分からなかったけど、後から意味を知って、なるほど、と思ったね。感心したよ。ヤクザじゃなきゃ言えない言葉だよね」
隣房の男は、ククッと喉で笑った。
「わたしは、雪を見ると、母を思い出す」
若い男の静かな声音がした。
「どんな母親だった?」
「雪が降ると、必ず一緒に雪ダルマを作るんです。母は働いていましたから、帰りは夜遅くなることもある。そんな時でも、近くの児童公園まで行って、水銀灯の下で二人で、せっせと作るんです。頭にバケツを被《かぶ》せて、顔に炭を埋め込んで目鼻を作って。そのために、母はアウトドア用の木炭を買い込んでいたくらいでしたから。本当に楽しかった。だれもいない夜の、自分たちの吐息の音しかしない、怖いほど静かな公園で、汗をかいて大きな雪ダルマを作ることが、あんなに楽しいなんてね。母も息を弾ませて、子供のような笑顔を見せていました」
「そんな優しい母親がいて、なぜ、人を殺した?」
隣房から届く、皮肉を込めた問いに、若い男は答えた。
「見てしまったんですよ」
「なにを」
「新しい世界です」
「新しい世界──」
「そうです」
「教えてくれ」
息を圧し殺した声がした。
「どういう世界なんだ?」
「それは、すばらしい、光に満ちた世界ですよ」
陶然とした声だった。
「光に満ちた世界──」
そう呟くと、隣房の男は、黙りこくったまま、目を宙に据えた。沈黙が流れた。一分、二分……若い男が口を開いた。
「それより、心配なのは今日の面会だ。あなたの息子さんはこの雪の日でも面会に来ますか?」
「それは大丈夫だ」
一転して、自信に満ちた声だった。
「あいつは必ず来る。親のおれが言うんだから間違いない。そういう男だよ」
「いい息子さんだ」
吐息のような声だった。外では雪が、音もなく降っていた。一面の銀世界まで、もうすぐだった。
午後二時。村越亮輔は、拘置所の正門横にある面会人用の控室で、自分の番号が呼ばれるのを待っていた。暖房もない、ガランとした、田舎の駅の待ち合い室を思わせる建物。ビニール張りの長椅子が十脚。左手に飲み物の自動販売機。前方に、ガラスで仕切られた喫煙室が。背後には、駅の売店に似た差し入れ店がある。今日は雪で面会人が少ないためか、売り子の中年女性二人も手持ち無沙汰の様子で、足元の電気ストーブに身を寄せている。
長椅子では、背中を丸めた老夫婦と、弁護士とおぼしきスーツにコート姿の男性、背中に赤ん坊を背負い、やつれた表情の母親がじっと寒さに耐えている。喫煙室では、紫煙にまみれて、ヤクザ風の男が数人、声高に喋っていた。
自動販売機で買った紙コップ入りのホットミルクを啜りながら、三十分ほど待っていると、スピーカーの割れた声が、亮輔の持つプラスチックの札の番号を呼んだ。紙袋を抱え、いったん外へ出て、拘置所の壁にはめ込まれたドアをくぐる。金属探知のゲートを通過し、職員から荷物のチェックを受けて、木製のドアを開ける。と、そこはもう塀のなか、拘置所の敷地だった。
昼過ぎから舞い始めた雪は、時間と共に勢いを増し、辺りは白い綿毛の絨毯《じゆうたん》に覆われたようだった。二十メートルほど前方に、クリーム色の建物がある。降りしきる雪の中を小走りに駆け、磨《す》りガラスの嵌まった観音開きの扉を押し開く。消毒液の匂いが鼻をついた。拘置所内の控室だった。倉庫にも似た、だだっ広い空間だ。採光が悪く、薄暗い。長椅子が置かれ、ここでも、数人の面会人がじっと待っている。
亮輔は、木製の書面台で差し入れ用紙に必要事項を記入し、二番と書かれた窓口に進んだ。初老の職員に、ジャンパー一枚と股引二枚、厚手の靴下三枚を差し出す。
「確かに預かりました。お疲れさん」
職員の声に頭をペコリと下げ、長椅子に座る。十分後、スピーカーで自分の番号が呼ばれ、九番の面会室に入るように、との指示があった。奥の面会室へ向かう。一直線に廊下が延び、右側に手前から順に十一個の面会室が並んでいる。ここに来ると、いつも思う。まるで小学校の廊下のようだ、と。喉がやたらと渇く。緊張していた。これも小学校の時と同じだ、と思ったら、苦い笑いが込み上げた。
左手には一面に大ぶりのガラス戸が続き、白い花びらを思わせる雪が降りしきっていた。磨りガラスに、青いペンキで九番と記されたドアを開ける。間口二メートル、奥行き三メートルほどの細長い部屋。真ん中を金網入りのガラス板で区切られ、向こう側に未決囚が座る。こちら側には三つのパイプ椅子。亮輔は真ん中に腰を下ろし、じっと待った。二分、三分……正面のドアが開いて、父親、村越|巧《たくみ》が現れた。いつものように、貧相な顔が笑顔を浮かべている。背後から、中年の屈強な男、ブルーの制服制帽に身を固めた担当刑務官が続く。
「亮、どうした」
亮輔を見るなり、笑みが消え、皺の刻まれた顔が強ばった。
「え?」
何のことか分からなかった。
「その顔だ。鼻だよ、ボクシングでやっちまったのか?」
「ああ……」
そっと手をやった。病院で治療を受けたばかりの鼻。タケオに潰された鼻。ガーゼを被せ、厚手のテープで覆ってあった。
「そうなんだ、スパーリングでちょっとやられちまって」
「情けないね」
正面に座った巧が顔を歪めた。担当刑務官は右隣の書面台で立ったままボールペンを動かし、会話内容を記録している。
「気を抜くからケガなんかしてしまうんだ。たとえ練習でも、相手を殺す気持ちで立ち向かわないと、本物の戦士にはなれない」
低い声で言うと、巧は刑務官に顔を向けた。
「担当さん、こいつ、プロボクサーなんですよ。デビューして二戦二KO勝ちの新人。結構な成績上げてるから、天狗になってしまって」
自慢めいた口調に、刑務官は些かも反応を示さない。俯いたまま、黙々とペンを走らせるだけだ。巧は肩をすくめると、向き直り、身を乗り出してきた。
「なあ、亮、寒くて寒くて、たまんないよ」
哀れな声で言った。
「さっき、差し入れしてきたよ。ジャンパーと股引と厚手の靴下」
「悪いな、いつも」
気弱に言った。亮輔は声を潜めた。
「それより、刑はどうなんだよ。地裁の判決、もうじきだろう」
「心配ないよ。先にナイフで脅したのは向こうだし、前科持ちの札付きのワルなんだからね。弁護士さんも、正当防衛が認められそうだ、と言っている。このぶんだと執行猶予がつくかもしれない。もう少しの辛抱さ。仮に懲役になっても、それも運命だ。潔《いさぎよ》く受け入れるさ」
父は変わった、とつくづく思う。殺人未遂で逮捕され、拘置所に入れられた当初は、泣き喚き、メシも喉を通らず、精神錯乱の一歩手前だった。面会で会うたびに、痩せ細り、憔悴《しようすい》し、父親はもう立ち直れない、と思った。それが、今はどうだ。すっかり元気を取り戻し、前向きに生きようとさえしている。なぜ、これほど激変したのか。亮輔は不思議だった。しかし、面会を重ねるにつれ、分かった。隣の独房の男。名前は穂積《ほづみ》壱郎《いちろう》、二十六歳。五人の女を犯し、扼殺《やくさつ》した、正真正銘の殺人鬼。二度の死刑判決を受け、最高裁の判決を待つこの穂積との交流が、父親を立ち直らせたのだ。
面会の席で巧が憑《つ》かれたように語る穂積の姿は、魅力に溢れていた。曰《いわ》く、死をも超越し、悟りの境地に達した超人。この世に蔓延《まんえん》する欺瞞《ぎまん》と偽善を、簡単に抉《えぐ》り出してみせる恐るべき頭脳の持ち主。慈愛と思いやりに満ちた聖人。
「ただの殺人鬼じゃないか」
以前、亮輔が反発してみせると、巧は怒りで顔を真っ赤にした。
「おれは、隣の房の穂積しか知らない。あの男が何をしたかなんて関係ない。穂積は、神の言葉を知っている。穂積の語る言葉は真実だ。偽りはこれっぽっちもない。ところが、この世を見ろよ。ウソだらけじゃないか。おまえだってこの日本で散々思い知らされてきたはずだ。でも、穂積にウソは無い、裏切りはない、おれが半々でも、穂積はそれで差別したりしない。バカにしたりしない。おれは穂積を信じている。それをおまえはただの殺人鬼だと? おまえだって中学校さえ満足に行っていない、ただのチンピラじゃないか! ええ、負け犬だろう!」
興奮した巧は椅子から立ち上がり、面会室のガラスを拳で叩いて、いまにも掴みかからんばかりの形相で吠えた。背後から刑務官に抱き抱えられ、ドアの向こうへ引きずられていった。その間も、足をばたつかせ、叫んでいた。
「穂積はなあ、おまえなんかとは人間が違うんだよ!」
以来、亮輔は面会の際、巧を刺激しないよう努めた。自然と、巧の言葉に耳を傾けるようになった。いつしか、穂積という人間に興味を持ち始めた。中国の寒村の隣人たち、日本の親族、そして妻。周りの人間達にバカにされ、疎《うと》まれ、裏切られ続け、誰も信じなくなった哀れな父親。その固く閉ざされた心を解きほぐし、虜《とりこ》にしてしまった穂積──亮輔はまだ会ったことも、言葉を交わしたこともない穂積に、感謝した。そして、魅了されていた。
「穂積は最近、こんなことを話していたよ」
巧は両手を組み合わせ、ゆっくりと語り始めた。亮輔は呼吸することも忘れ、耳を傾けた。
トロリとした温かいものが、鼓膜から脳に回っていくようだった。
午後四時十分。新宿歌舞伎町の奥にある、今時珍しいクラシック喫茶店に、加瀬はいた。ガランとした店内。窓際の席。外は飲み屋と性風俗の店が密集する通り。すでに雪はやみ、あちこちで雪かきが始まっていた。排気ガスに塗れたグレーの雪の塊が、そこかしこに小さな山を作っている。
夕闇が迫り、ネオンの瞬き始めた凍った街路を、ポン引きとマルチ商法のキャッチセールスマンが、安手のコートやジャンパーに両手を突っ込み、投げやりな様子で行ったり来たりしていた。厚手のベンチコートを着込んだショーパブの女の子が、足元を這い上る冷気を足踏みで紛らわし、やけくそ気味に黄色い声を張り上げている。加瀬は顎に手をやり、その様子を眺めていた。
店内に配置された時代物の大型スピーカーからバッハのマタイ受難曲の荘厳な調べが流れてくる。カール・リヒター指揮のミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団。一九五八年に録音されたこの演奏は、峻険な冬の山々を思わせる、孤高の香りがある。外の、猥雑《わいざつ》で薄汚れた街の冷え冷えとした光景と、厳粛な宗教音楽。心に余裕のあるときなら、ある種の感慨に耽《ふけ》ることもできたろうが、いまはダメだった。
妻の美知子のこと、これからの取材と原稿の執筆……それにマンションの契約更新も、いまの加瀬にとっては重大な問題だ。加瀬は店内の時計に目をやった。午後四時二十分。約束の時間から二十分──軽く舌打ちをくれたそのとき、声がした。
「申し訳ない」
一人の男が、コートを腕に抱え、立っていた。百八十センチを超える痩身。ぱさついた髪の毛と、目の下に隈《くま》の浮いた灰色の顔。沈んだ視線。頬から顎への尖った固い線が、蓄積した疲労と、無頼《ぶらい》の匂いを漂わせていた。しかし、身に付けているモノはどれも高級品ばかりだった。コットンギャバジンを使ったコートはバーバリー。手に提げたクラッチバッグはバラスコリ、十万円以上する逸品だ。漆黒《しつこく》のアルマーニのスーツと、プロコヴニックの膨《ふく》れ織りのシルクタイ。靴は、泥で汚れているが、ヴェルバノのキッドスキンだった。手首に巻いたシックな腕時計、アールデコ風のエメリック・メールソンを合わせると、総額で軽く二百万円を超えるだろう。だが、男にはブランドを意識させない、品の良さみたいなものが身に付いている。育ちのせいだろうか。不思議なほど、嫌みなところがなかった。
「東京のタクシーは雪に弱くて困る」
呟くように言うと、向かい側に腰を下ろした。フワッとした空気の揺れにのって、カリフォルニア・ノースの爽やかな香りがした。優雅な手つきでウェイターを呼び、コーヒーを注文する。遠慮がちな咳払いを漏らすと加瀬を一瞥し、軽く頬を緩ませた。膝の上に置いたコートのポケットから缶ピースを取り出して、テーブルに置く。一本抜き出し、唇に挟んで火を点ける。一片の無駄もない、流れるような動きだった。
「どうです、その後」
低い、地を這うような声だった。
「ああ、うまくいってる」
「そう」
フッと煙を吐いた。男は大手出版社「文英社」の榊《さかき》祐一郎《ゆういちろう》だった。出版部に所属し、おもにノンフィクションを手掛けている。年齢は加瀬より一つか二つ下だ。同世代の、気心の知れた編集者だった。榊が週刊誌に配属されていた時分からの付き合いだから、もう五年になる。しかし、プライベートなことはほとんど知らない。独身で、かなりのギャンブル狂らしいが、体質なのか、酒をまったく飲まない。会社の仲間と群れることもない。噂では、ひと回り年上の、有名女優と付き合っているらしいが、定かでない。ただ、飄々《ひようひよう》と、独自のペースを守って生きている榊を見ていると、背後に謎めいた何かがあってもおかしくないような気がした。組織の人間として生きるには色々不都合もあるはずだが、そういう俗世の匂いが、榊にはなかった。
「いい仕事ですよ」
榊は満足気に目をすがめた。
「これはあなたにとって、間違いなくターニングポイントとなる仕事だ」
珍しく力を込めて語った。話題になる作品ということだ。この先の取材さえうまくいけば。
「分かっているさ、榊さん。だからこそ、あんたをパートナーに選んだんだ。他言の心配のないあんたに、な」
「だが、そろそろ部長には言いますよ。われわれ二人きりで本を印刷し、製本して店頭に並べられたら理想なんだが、日本の硬直した出版システムを考慮すると、そうもいかない。部長も仲間に入れてあげなきゃね」
ジョークなのだろう。しかし、笑える気分ではなかった。意を決して言った。
「榊さん」
「なんです」
訝しげな表情を向けた。加瀬の声のトーンに、何やら強ばったものを感じたのだろう。
「あんたにお願いがある」
「カネですか?」
加瀬の唇にふっと苦い笑みが浮かんだ。よほど、貧乏臭い空気を纏《まと》っているのだろうか。
「察しがいい、といいたいところだが、違う。あんたにカネを借りるときは、首をくくる前だ。まあ、時間の問題かもしれないが」
榊は、加瀬の軽口にピクリとも反応しない。ピースをくゆらしながら、冷ややかな視線を向けている。
「じゃあ、加瀬さんのお願いはなんでしょう」
軽く唇を噛んでから言った。
「マンションの保証人になって欲しいんだ」
「保証人?」
首を捻った。一流出版社のエリート編集者には、未来|永劫《えいごう》、関係のない話だった。加瀬は、賃貸契約更新の保証人の件を説明した。一通り、聞き終わった榊は、さも不快げに顔を歪めた。
「バカバカしいシステムだ。四年間、なんの問題もなく住んで利益をもたらしてくれた契約者への感謝の気持ちがまったくない。よろしい、保証人になりますよ。ただし一度きりだ」
「一度きり?」
榊の真意が分からず、問い直した。
「そうです。あなたはもうじき、単行本を書き上げ、世に問うことになる。それですべては変わりますよ。そんなくだらない建前とか価値観に拘泥《こうでい》するような不動産会社のマンションに、この先二年も住み続ける必要はない。他の、もっと程度のいいマンションへ移るか、いっそ購入してしまったほうがいい。それだけの利益と名声を、今度の作品はあなたに必ずやもたらします。ノンフィクションでは珍しい大型ベストセラーは間違いなしですよ」
ここまで言うと、榊は、少し面映《おもは》ゆ気《げ》な笑みを浮かべた。
「それと、首をくくるのはもう少し先にしてください。でないと、わたしが困る。今日、取材費として八十万円、振り込んでおきましたから。他の仕事に手が回らない分の、ささやかな補填《ほてん》分と思っていただければいい。ご自由にお使いください」
確かにここ暫く、他の仕事をこなす余裕はなかった。しかし、多すぎる。そう言おうとしたとき、ポン、と榊が両手を軽く打ち合わせた。この話はもう終わり、とその顔が言っている。
「さあ、仕事の話に移りましょうか」
加瀬は、感謝の言葉を述べ、二人で進めている仕事の進捗《しんちよく》状況を説明した。かつてなかったほど、気持ちが高揚していた。いつもは冷静な榊が珍しく怒りを含ませて語った言葉で、これまでの不安が消え失せ、代わりに、この仕事は絶対に成功する、という確信めいたものさえ感じた。それに、八十万円の取材費にしても、榊の心遣いと同時に、期待の証しでもある。ならば、その期待に応えねば、という覚悟が腹の底に溜まってきた。
ターゲットは穂積壱郎。関東拘置所で最高裁判決を待つ、希代の殺人鬼。八年前の晩秋から冬にかけて、連続強姦殺人が発生した当時、世間はその手口のあまりの狡猾さと残虐さに慄然とし、恐怖に戦《おのの》いた。場所は都内の閑静な住宅地から公園、歓楽街の暗がり、東京湾のベイエリア──意表を突く場所で、一面識もない若い女性を襲い、犯し、殺す。警察は振り回され、手口はエスカレートする一方で、最後の犠牲者は尻の穴まで犯され、陰部には赤いバラの花が突っ込まれていた。
連続殺人は約二カ月にわたって続けられた。切り裂きジャックの再来、とマスコミはセンセーショナルな報道を繰り広げ、犯人を挙げられない警察を非難した。しかし、事件は呆気なく解決した。土曜日の夕方、代々木公園の暗がりで、ジョギング中の若い女を植え込みに引っ張り込もうとして、警邏《けいら》中の警官にあっさり取り押さえられたのだ。
当時十八歳。一部の先鋭的なマスコミを除き、名前と顔写真こそ出なかったが、その身辺は徹底して洗われた。母と息子の二人暮らし。母は有名化粧品メーカーに勤めるキャリアウーマンで、高校教師の父は、壱郎が三歳の時、病死していた。
小学、中学共に問題行動はなく、成績も優秀。世の教育ママの垂涎《すいぜん》の的である有名私立高校に進んだものの、登校拒否となり、中退。その後は、無職のまま、毎日を送っていた。かといって、今で言う引きこもりでもなく、隣人との挨拶もキチンと交わす、明朗な少年として、評判も上々だった。大学検定試験を受けて、いつかは大学へ進学したい、という希望も持っていたようだ。
とにかく、どこをつついても、凶悪な殺人鬼につながる事実は見られなかった。その落差が、逆に世の興味を引き付け、事件の残虐性と相俟《あいま》って、センセーショナルな報道は過熱するばかりだった。事件の三カ月後、沈黙を守り続けた母親が動いた。自ら命を絶ったのだ。デパート屋上からの飛び降り自殺だった。遺書には、五人の女性の遺族への謝罪の言葉が並び、次いで、勤務する化粧品メーカーに対し、迷惑をかけたことへの詫びが綴《つづ》ってあった。そして最後、息子について、こう書いてあったのだ。
『正直に申します。いまでも、あの子がひと様を五人も殺《あや》めたなど、とても信じられないのです。あれほどの重大かつ残虐な事件を引き起こした子供の母親としての自覚が足りない、と言われれば返す言葉もありませんが、なにか夢の中の、現実感を伴わない、うたかたの世界の出来事のように思えてしまうのです。
いったい、なにが原因なのか、母親のわたしにも、まったくわかりません。あの子の心に、突然、悪魔が舞い降りて棲みついた、としか思えないのです。そうです。あの子は、悪魔そのものです。
ただ、ああいう子供を産み、育てたのは、母親であるわたしでございます。すべての責任は、わたし一人にあります。これから、夫のもとへ赴き、深く、深く、詫びてまいります。本当に、本当に、申し訳ございませんでした』
母親の自殺を知ったとき、加瀬には、幾つかの歯軋りが聞こえた気がした。これで母親の手記がとれなくなった、という呻《うめ》きと共に。すでに、いくつかのマスコミが手記取りに動いていた。いったいどこが取るのか、加瀬は息を詰めて待っていた。これだけの衝撃的な事件だ。手記をモノにしたら、大スクープは間違いなしだった。しかも、母親は聡明で教育熱心な女性だ。自分の息子への複雑な思いと共に、慚愧《ざんき》と悔恨に満ちた、素晴らしい手記になるはずだった。加瀬自身は、他の仕事に追われて動けなかったが、これだけの仕事なら、一か八かですべてを賭ける価値は十分にあった。しかし、水面下で動いていたであろう、多くのマスコミ関係者の努力と執念は、この母親の自死で、すべて水泡に帰したのだ。
以来、穂積に関する報道は、潮が引くように少なくなった。一審、二審で死刑判決が出たときこそ、新聞報道はあったものの、他に目立った動きはなかった。母親の無念の自死が、取材者の意気を殺《そ》いだ格好だった。そして、八年という月日の流れは、事件をすっかり風化させてしまった。
ところが、ここへきて、母親の手記以上のスクープが実現しそうなのだ。すべては、加瀬の直感と忍耐の賜物《たまもの》だった。
それは、昨年の夏の夕暮れだった。新宿駅東口の紀伊國屋書店で仕事の資料を漁《あさ》った後、靖国通りを歩いていたとき、噎《む》せ返る雑踏の中で、ふと引っ掛かるものがあった。目の前に聳える巨大なデパート。たしか、この屋上から、穂積の母親は飛び降りたはず。フラッシュバックのように、事件が甦った。五人の女を犯し、縊《くび》り殺した十八歳の息子と、その母親が己に科した制裁。加瀬は、得体の知れない、大きな力に圧《お》しとどめられるようにして、立ち止まった。周囲に渦巻く嬌声と笑い声が、ボリュームを絞るように消えた。頭が透明になる。さまざまな事実が錯綜し、絡み合い、弾けた。平凡な日常、平凡な風景──落下する母親。
次の瞬間、人込みをかき分け、走り出していた。何かに衝《つ》き動かされるように玄関を入り、エスカレーターを大股で駆け登って屋上へ出た。そこは、下の雑踏がウソのように閑散とした空間だった。電動自動車やちっぽけなメリーゴーラウンドなど、幾つかの遊戯物が置かれたエリアと休憩用のベンチ、イベント用のステージ。それに熱帯魚やハムスターなどの小動物を扱うペット屋。白いペンキが塗られた、高さ二メートルほどの鉄柵を透かして、下を見た。クルマが密集した靖国通りと、蟻《あり》の群れのような歩行者の列。カラフルな服が、絵の具を垂らした、鮮やかな水の流れに見えた。あの密集した歩行者の群れに墜落したら、間違いなく犠牲者が出たはず。加瀬はペット屋に入り、そこの主人、黒縁メガネをかけた小太りの中年男に話を聞いた。八年前の事件を、男は鮮明に覚えていた。
「あのお母さん、顔から落ちて、なんかグチャグチャだったらしいね」
飛び降りた場所は、と問うと、表側の靖国通りとは反対側を指し示した。男は暇なのか、先に立って案内してくれた。
「閉店まで女子トイレに隠れていて、ここをよじ登ったんだね」
高さ二メートルほどの柵。下にはビルに囲まれた、トラックの荷降ろし場があった。
「あそこへ飛び降りたんだ」
てっきり賑やかな靖国通りと思っていたが……自殺者の心は、一種の錯乱状態にある。十中八九、他人のことなど考えない。まして、街中での自殺となれば、孤独感に苛《さいな》まれるのか、より賑やかな方へと行きたがる。例えば、最も多い電車への飛び込み自殺だ。ほぼ九割は朝夕のラッシュ時である。しかし、目の前の自殺現場は、暗く、薄汚れた、トラックの排気ガスの臭気が充満する、いわばデパートの裏の顔。荷物の搬入口だ。普通であれば、華やかで笑い声が満ちた靖国通りへ向かうはず。もし、誰にも迷惑を掛けることなく死ぬ気なら、富士の樹海へでも迷い込み、服毒自殺をしたのでは──。
髪を振り乱し、必死の形相で柵をよじ登り、薄汚れたひと気の無いビルの谷間へと落ちてゆく中年女の姿が脳裏に浮かんで、胸が痛くなった。このデパート屋上を最後の場所に選んだ理由があるはず。そんな疑問を察したように、ペット屋の主人が言った。
「ここへさ、何度か遊びに来てたらしいよ」
「え?」
加瀬の訝しげな表情に構わず、続けた。
「警察のひとから聞いたけど、あそこ、母子二人だったでしょう。息子がまだ小さい時分、週末とか、ここへ来て遊んでいたらしいね。デパートの屋上は穴場なんだよ。入場料はいらないし、遊戯物の料金も、本格的な遊園地に比べたらずっと安いしさ。うちのペットを眺めるのだってタダだもの。土日になるとアイドル歌手のイベントショーとかあるし。そういうのが目当てで来るひと、結構多いんだよね」
男に礼を言ったあと、加瀬はベンチに腰を下ろした。夕日が熱く、眩しかった。手庇《てびさし》をし、目を細めた。スモッグに塗《まみ》れた西の空。濃い、血が滴ったような臙脂《えんじ》に染まっている。それは母親の、無念と絶望の色に見えた。冷静に死に場所を選び、息子との想い出を抱えるようにして死んだ母親。デパートの屋上で遊んでいた母子。遥か昔の、二人の笑顔が辺りを漂っているような気がした。なぜ、自分の息子が≠ニいう母親の疑問が、加瀬の脳髄に入り込んで、沸騰し始めていた。
その日を境に、加瀬は取材に動いた。八年近い月日は、周囲の人間の口を幾らか軽くしたようで、新しい話、高校教師の父親が肝臓ガンで亡くなったことや、良家の出で、名門女子大を卒業以来、一度も働いたことのない母親が夫の死後、意を決して働きに出たこと等が分かった。
加瀬は、穂積壱郎が関東拘置所に居ることを突き止め、手紙を書いた。返事は来なかった。
最後の手段、と腹を括り、直接拘置所を訪ねてみた。もとより、期待していなかった。万にひとつの可能性があれば、四の五の言わずに動いてみる、それがフリーの事件ライターに必要な、最低限の資質だ。その万にひとつが、当たった。穂積は会うことを了承し、面会室で相対したのだ。ドアを開け、現れた穂積は、深々と一礼し、担当の刑務官に促される形で正面の椅子に座った。白のTシャツにカーキ色の半ズボンというラフな格好だった。後から知ったが、拘置所の未決囚は刑に服しているわけではないから、私服で過ごすのだという。
「あなたの手紙は拝見しました。随分、お調べになったようですね」
静かな口調だった。丸刈り頭に、色白の肌、深く澄んだ瞳。背筋をスッと伸ばし、加瀬の視線を真正面から受け止める。まるで、やましいことは何もない、といわんばかりの顔。知的で物静かな青年、といった印象だった。目の前の男が、五人の女を強姦し殺した連続殺人鬼、とはとても思えなかった。薄く、形のいい唇が動いた。
「わたしのこと、知りたいんですね」
狭い部屋。ガラス一枚隔てて、向かい合う男。世を震撼《しんかん》させた、あの穂積壱郎。希代の殺人鬼がすぐそこにいる。
「そうだ、きみのすべてが知りたい」
渇いた喉を引き剥がして答えた。
「あなたは事件当時、わたしの母、穂積伸子を取材しましたか?」
「いや、取材していない」
「どうしてです」
「手持ちの仕事で手一杯だった」
「でも、手記を取りたかったのではありませんか?」
正念場だ、と思った。
「おふくろさんの手記より、きみの手記のほうがずっと魅力があるよ。なにせ、その手で五人の女性を殺した殺人者なんだからな」
穂積は顔を歪めた。怒り? 背筋が凍った。加瀬は拳を握り、身構えた。その緊張を無視するかのように、穂積はぐーっと顎を上げ、天を仰いだ。次の瞬間、穂積の顔が弾けた。ハーハハハアッ、面会室に、金属質の声が響く。高らかに笑う穂積。加瀬は、何が起こったのか理解できず、パニック寸前になった。だが、それも一瞬だった。笑い声が消えた。穂積は目を細め、こっちを見ていた。
「分かりました。よろしくお願いします」
そう言うと、立ち上がった。
「あなたのこと、気に入りました。いいお付き合いができそうだ」
クルリと背中を向け、刑務官と共に出ていった。第一回目の面会は、穂積によって強引に打ち切られ、終わった。
以来、加瀬と穂積の交流が始まった。手紙と面会。穂積は、手紙のやり取りを始めるに当たり、こう注文を付けてきた。
「手紙の発着を編集部宛にするような姑息《こそく》な真似はしないでくださいね。あなたへの手紙はまず、あなた本人に読んでいただきたい」と。望むところだった。加瀬は名刺を差し入れ、穂積からの手紙は仕事場に直接、送られてきた。
穂積は確かな筆力で、膨大な手紙を送ってきた。それは、三歳のときに見た父の死顔から始まり、優等生で通した小学校、中学校、そして高校で感じた、社会への幻滅。暴力の魅力、殺人に至るまでの心の変化を詳細に記してきた。その記憶力は抜群で、望めば、ある特定の日の出来事を、全部記してくるのでは、と思えるほどだった。
面会の席で、母親の死について直接訊いたことがある。穂積はこう答えた。
「駄目でしたね」
「駄目?」
「もう少し上等な人間と思っていましたが、駄目でした」
上等な人間──嫌悪をもよおす違和感があった。少なくとも、自分の母親に対して言う言葉ではない。そのことを指摘すると、身を乗り出し、
「加瀬さん、分かりません?」
と逆に問うてきた。言葉が出なかった。かぶりを振るしかなかった。穂積の顔に、明らかな失望の色が浮かんだ。
「穂積壱郎がすべてを語るノンフィクションが、ついに実現するんですね」
榊は、吐息をつくように言うと、コーヒーを一口飲み、続けた。
「わたしも週刊誌の時代、散々デスクに絞られ、取材に走りました。しかし、少年法にがっちり守られ、終始、隔靴掻痒《かつかそうよう》の感がつきまとった取材だった。当時は、穂積の言葉が、それもこんなに分厚くとれるなんて、夢にも思わなかった。母親の自殺は決定的でしたよ。あれで、全マスコミの出足が止まった。世間は、やりすぎだ≠ニ非難するし、正直、自分たちの記事があの母親の死に、幾分かの責任があるのは事実ですからね」
「その幾分ってのは、どれくらいだろう」
ふいに言葉が出ていた。榊の顔が一瞬、強ばったように見えた。加瀬はたたみかけた。
「マスコミの責任はどのくらいだと思う、榊さん」
榊は指の間に挟んだピースを振った。
「加瀬さん、いちばん悪いのは穂積ですよ。その事実を忘れてはいけない。五人の無辜《むこ》の女性が惨《むご》たらしく殺された事実、その被害者の家族が今も背負っている哀しみを、常に踏まえて動くべきです。でないと──」
一息ついて、言った。
「厄介なことになりますよ」
──厄介なこと──
「あなたは穂積に心を寄せ過ぎている。もちろん、取材対象者にシンパシーを感じるのは、これは当然のことです。被取材者は、少しでも自分のことを理解してくれる人間、同情してくれる人間に対して心を開くものです。これは取材上の絶対的な真理ですよ。現に、世を賑わす手記の類は、そうやって相手の懐に飛び込み、信頼を勝ち得た人間がモノにしているわけですから。ですが──」
テーブルの向こうの榊がグッと身を乗り出した。
「穂積は危ない。わたしの勘がそう言っている。それに、シンパシーとか思い入れが文章に出過ぎると、作品自体が台なしになる。なにより、弁解の余地のない残虐な事件だ。読者がつかない。だから加瀬さん、今後の詰めの取材は心して臨んでほしいんです」
「分かってる。おれもプロのライターだ。中立の立場は絶対に崩さない。もし、おれがおかしくなったら榊さん、今みたいに遠慮なく指摘して欲しい」
榊は加瀬の目を見据え、深く頷いた。
「もちろんです。わたしはあなたの担当編集者ですから」
力を込めて言い、言葉を継いだ。
「加瀬さん。わたしは取材は基本的にあなたにお任せしている。取材先も、取材方法も、一切口を挟む気はありません。ただ、現時点でひとつだけ、気になるとしたら、犠牲者の関係者の話です。作品に深みと厚みを出すためにも、読者の胸にズシンと響く、印象深い話が必要です。犯人が憎いとか殺してやりたいとか、そんなありきたりな話ではダメです」
「あんたの言う通りだ。いくら大スクープとはいえ、穂積の話だけでは一方通行だ。作品に膨らみがない」
「ありますか? 取材のあてが」
「あるよ」
余裕の表情で応えた。
「周辺取材を続けているうちに挙がってきたんだが、犠牲者の関係者に面白そうな人間がいる。必ず喋らせてみせる」
「期待してますよ」
榊が微笑んだ。窓の外には、暗い冬の闇が迫っていた。ぎらつくネオンと蠢《うごめ》く人の群れ。淀んだ大気が凍っていた。
午後五時、夜の帳《とばり》が降り始めたなか、村越亮輔はママチャリに跨がり、日課のジムワークに向かっていた。所属する『綾瀬拳闘クラブ』は、JR綾瀬駅から埼玉県寄りに一・五キロほどいった、綾瀬川上流の右岸にある。
周囲を鉄工場や運送会社の倉庫に囲まれた、殺風景な街。ジムは、野ざらしの空き地に建つプレハブだった。目の前を流れる綾瀬川から、ドブの腐った臭いが漂ってくる。この川の水質の悪さは全国の河川でも一、二を争う凄まじさらしい。幅が約二十メートルの川の両側は高さ二メートル程度のコンクリートの護岸壁で仕切られ、頭上を走る首都高速六号三郷線からは疾走するトラックの爆音がひっきりなしに降ってくる。
ジムのある右岸は、護岸壁に沿って幅十メートルほどのアスファルト敷きの歩道が設けられており、はた目にはジョギングやサイクリングの格好のコースに映る。しかし、よく見ると犬のフンが一面に放置され、割れたカップ酒やビール瓶のカケラが水銀灯の下で鈍く光っていた。コンクリートの壁には、スプレーで描いた意味不明の漢字やドクロのマークが、そこここに躍っている。
車道を隔ててジムの前にあるその歩道は、ほぼ一直線に延びており、三十メートル毎に、高速道路を支える直径十メートルほどの巨大な支柱が建っていた。人影はほとんど無い。綾瀬川の対岸には白っぽい都営住宅が、白銀灯に照らされてズラリと並んでいる。冬の夕暮れ特有の埃っぽい空気が、呼吸の度に喉に絡み付く。
亮輔は、漕いできたママチャリをジムの前で停め、白い息を吐きながら、磨りガラスのはまった引き戸をガラガラと開けた。籠もった汗とワセリン、革の匂い。蒸された湿気と熱気がムワッと押し寄せる。
リングがひとつに四本のサンドバッグ、パンチングボールが二個に、バーベルを備えたベンチ一基。野獣の咆哮《ほうこう》のようなボーカルのブラックミュージックが流れるなか、数人のボクサーがトレーニングの真っ最中だった。サンドバッグの革を弾く、重く鋭い音。床でキュッキュッと鳴るシューズ。ロープスキッピングのリズミカルな音。短く切った呼吸音。リング上ではヘッドギアを着用した、プロデビュー間近の新人が、スパーリングとは名ばかりの、力任せの殴り合いを演じていた。ジムの会長の苛立った怒鳴り声が、破《わ》れ鐘《がね》のように響く。
「おら、いけいけ、ボディががら空きだろ。ぶん殴れ、やっちまえよ。相手をぶっ殺す気でやるんだよ。てめえら、キンタマあんのか! おら、ディフェンスはどうした。小学生のケンカじゃねえんだぞ!」
怒声の嵐に負けまいと、亮輔は大声を張り上げた。
「こんちは!」
鋭い視線が飛んできた。
「亮、こっち来い!」
ドスの利《き》いた声。片手に竹刀《しない》を握る、黒々とした顎髭の太った男。年齢は三十代半ば。リング上のスパーリングに荒っぽい檄《げき》を飛ばしていた会長の大和田が、鬼のような形相で睨んできた。薄汚れた白のTシャツを高々と押し上げて、太鼓腹が波打っている。潰れた鼻と腫れぼったい目、髭の中、唇の右端から耳にかけて走る白い線は、裂けた傷を縫った跡だ。亮輔は観念して足を進めた。
「鼻、どうした、ケンカか?」
歴戦の傷痕を顔中に残した、この元東洋太平洋ジュニア・ウェルター級王者は、口元をさも不快げに歪めた。亮輔は、厚手のテープを貼った鼻を右手で押さえながら言った。
「ちょいとやっちまって」
「見せろ」
右手人さし指を上に向け、クイクイと曲げる。亮輔は、潰れた鼻を「どうぞ」と寄せた。額を指先で弾かれた。
「拳だよ、てめえの商売道具を見せろ、と言ってんだ」
亮輔は慌てて両手を突き出した。
「骨折なんかしてたらてめえ、ただじゃおかねえぞ」
脅しの口調とは裏腹に、大和田は手のひらを指先でそっと軽く、柔らかく、丁寧に揉んでいく。同時に亮の表情を、一筋の変化も見逃すまい、と窺う。ひととおり、触診したあと、ほっと顔を緩ませた。安堵の表情だった。
「大丈夫みてえだな」
「拳、使ってませんから」
ボソッと亮輔は呟いた。大和田が眉間に皺を寄せた。
「当たり前だ。ボクサーの両手は凶器なんだ。ケンカなんかやったら、大変なことになる。それに、素手で殴って骨折でもしたら、ボクサー生命を絶たれちまう。ボクサーがリングの外で人を殴るなんて、絶対に、あっちゃならねえんだ」
したり顔で大和田が言った。亮輔は視線を逸らした。でないと、腹を抱えて大笑いしそうだった。そもそも、亮輔がボクシングを始めるようになったきっかけが、この大和田とのケンカなのだ。
昨年の初夏だった。綾瀬駅の南口、飲み屋が連なる、薄汚れた繁華街を深夜、後輩と二人で練り歩いていたとき、いいカモが前をユラユラ動いていた。千鳥足のデブ。後輩が前に回って、チラッと顔を確認し、戻ってきた。
「髭面の間抜けオヤジです、ぐでんぐでんに酔っ払ってる」
よれたチノパンにポロシャツ。あんまりカネはなさそうだったが、いざとなればキャッシュカードを奪ってぼこぼこにして暗証番号を聞き出せばいい。手慣れたオヤジ狩りのつもりだった。
そっと後をつけた。街灯の途絶えた暗がりにきたとき、後輩が素早く背後から忍び寄り、デブの襟首を掴んでスナックの陰へ引きずり込んだ。
「おっさん、カネ出せば──」
言葉が終わらないうちに、後輩が吹っ飛んでいた。アスファルトに転がりながら腹を押さえ、ゲロを吐き散らしている。デブが平べったい鼻に皺を刻み、仁王立ちでせせら笑っていた。
「このクソガキどもが、ぶちのめしてやるからよ、どっからでも来いや」
亮輔はカッと頭に血がのぼった。
「上等だよ、クソオヤジ」
自慢のパンチ、タイマンで負け知らずの右拳を顔面に突き入れた。が、顔が無かった。拳が空しく宙を泳ぐ。一瞬、何が起こったのか分からなかった。混乱したまま、左右の連打で一気に追い込む。だが、デブは前後左右に頭を振り、余裕でかわした。今になって分かる。絶妙のヘッドスリップだった。しかも、両手をチノパンのポケットに突っ込んで、易々《やすやす》とかわし続けたのだ。
屈辱に、身体が燃えるようだった。怒声をあげ、メチャクチャに両腕を振り回した。が、デブは、まるで透明人間だった。ただの一発も当たらなかった。猛り狂う亮輔の周囲を、軽やかにステップを踏み、酒臭い髭面を突き出し、「ほれ、殴れよ、ニイちゃん」とからかった。
亮輔は怒りで奥歯を軋ませ、唸り声を吐き散らしながら、パンチを放った。だが、手練のマタドールと猛り狂った単細胞の闘牛だった。次第に息が荒くなる。呼吸が苦しい。どうしたんだろう? パンチを振るうたびに、体力がゴソッとそげていく。視界が朦朧《もうろう》とし、両足が泳ぎ始めたそのとき、デブがスッと身体を寄せ、右拳を突き上げた。デブのアッパーがガツン、と顎を直撃し、間髪をいれず放った左フックが頬に炸裂《さくれつ》した。首が捩れ、そのまま横倒しに吹っ飛ばされた。アスファルトに転がったまま動けなかった。意識はあるのに、まるで脳と身体を繋ぐ神経を断ち切られたみたいだった。
「つええよ」
アスファルトに大の字になって、呻くように言った。
「あんた、めちゃくちゃつええや」
完敗だった。ケンカの質が違う。髭面のデブが太い腕を組み、見下ろしていた。侮蔑の言葉を覚悟し、唇を噛んだ。だが、違った。
「おまえ、ボクシング、やれ」
水銀灯の下、仄かに見えるその表情はマジだった。
「おまえのパンチ、ぶっ壊れた扇風機みたいだったぜ。当たれば、日本ランカーでも倒れる。そのパンチ力は天性のもんだ。世界は保証できねえが、努力と運次第では日本チャンピオンならなれる。おまえみてえなバカなワルでも、どこか取り柄はあるもんだな」
そう言うと、デブは柔らかな笑みを浮かべた。
「おまえ、特別におれのジム所属のボクサーにしてやる。有り難く思えよ」
デブは、恩着せがましく言った。亮輔はその太った髭面を見ながら、ボクシングをやることに決めた。世の中に強いヤツはいくらでもいる。もう、中途半端なワルは卒業だ、と思った。
カーンとゴングが響き、一斉にジム内の動きが止まった。その場で軽くシャドウを繰り返す者。息を整える者。リング上の二人は、各コーナーに帰り、ロープを握って俯いている。ヘッドギアに覆われたその顔から、大粒の汗が滴り落ち、ゼイゼイと荒い息が漏れる。
ジムの練習はすべて三分に一分のインターバルを挟んで進んだ。試合の感覚を、日頃の練習から身体に覚えさせるためだ。
「亮、おまえは一週間、スパーリング禁止だ。その代わり、基礎体力をみっちり付けてやるからよ」
そう言うと、大和田は唇をぺろりと舐めた。練習の再開を告げるゴングが響く。途端にジム内の熱気が揺れ、鍛え上げた肉体が躍動する。パシンッと竹刀が床を叩き、大和田が怒鳴った。
「もたもたすんじゃねえよ、早く着替えてこい!」
ロープスキッピング五R、プッシュアップ二R、シャドウボクシング五R、ミット打ち四R、サンドバッグ五R、パンチングボール三R。少しでもスピードが鈍ると、竹刀が容赦無く唸った。
仕上げは腹筋だった。体重が百キロ近いデブが腹の上に両足で乗り、踊るように踵《かかと》でギュッギュッと踏み付ける。冗談でなく、涙が出た。大和田はリングのスパーに目をやりながら、時折罵声を上げつつ、鼻歌を口ずさんでいた。このクソデブが、と声に出さずに罵った。しかし、亮輔は大和田が嫌いではなかった。
一度、こんなことがあった。大和田は雇われ会長だ。ジムのオーナーは、錦糸町でパチンコ屋と数軒のサウナを経営する、望月という小太りのハゲオヤジだった。週に一、二度しかジムに顔を出さない、このオーナーが、亮輔の素質と素性を知ると、ジム内のオーナー室──壁いっぱいに日の丸の旗を広げ、巨大な虎の剥製《はくせい》が睨みをきかす、BGMに君が代が流れそうな部屋に大和田と共に呼びつけ、満面の笑顔でこう言ったのだ。
「よっしゃあ、こいつの売り出しは決まった。元暴走族最強のケンカ屋で、超弩級《ちようどきゆう》のハードパンチャーで、しかも中国残留孤児の三世とくれば、マスコミの話題性も申し分ない。こりゃあ金の卵だぜ」
太い両腕を組み、じっと聞いていた大和田が口を開いた。
「キンタマでも何でもいいけどよ、オーナー、中国とか三世とかは、よくないな。おれは反対だ」
「なんでよ、大和田」
望月は口を尖らし、訳が分からない、という顔でまくし立てた。
「ボクシングってのは、ただでさえ人気がないプロスポーツなんだぜ。話題になるなら、何でも利用しなきゃやっていけねえんだよ。これでテレビのドキュメントとかつけば、チケットもバッチリ売れるって。最高のプロデビューができるのに、もったいねえよ」
「亮、おまえ、どうなんだ」
大和田が厳《いか》つい髭面を向けてきた。
「そういうのを売りにしたいのか」
亮輔は首を振った。
「いやです。おれ、芸能人じゃありませんから。ボクサーですから、リングで勝負します。必ずチャンピオンになりますから」
大和田は軽く頷くと、望月に言った。
「チャンピオンになるとよ、オーナー」
ブチブチと未練たっぷりに愚痴を垂れていた望月も、亮輔の意志が固いと知ると、肩をすくめ、腹立ち紛れに吠えた。
「日本じゃねえぞ、世界だぞ」
それで話は終わった。以来、亮輔は大和田が好きになった。とっつきにくい偏屈だが、信頼に足る、芯のようなものを感じた。
午後七時三十分。トレーニングが終わった。すべての体力を絞り取った気がした。シャワーを浴び、着替えて外へ出た。底冷えのする冷気が肌を刺した。ママチャリに跨がり、北千住駅前の牛丼屋へ向かった。身体がどうしようもなく重い。ペダルに力が入らない。サドルから尻を上げ、体重をかけて漕いだ。これから明け方まで、立ちっぱなしの仕事が続く。夜空を仰いだ。首都高速の黒いコンクリートの向こうに、凍った星の粒が散っていた。拘置所の塀の向こうにいる男、穂積壱郎のことを思った。
午後八時。大塚駅南口。加瀬は仕事場近くの居酒屋で初老の男と向き合っていた。頭がきれいに禿げあがった、浅黒い肌の小男。名前は長谷川勇《はせがわいさむ》。大手の調査会社に勤務する、警視庁のOBだ。
店の隅の座敷席に座った二人は、互いにビールを啜《すす》りながら、小声で言葉を交わした。
「加瀬よ、あんたがおれに直《じか》に頼むんだ。さぞかし面白そうなネタなんだろうな」
長谷川は目尻に皺を刻み、好奇心と猜疑心《さいぎしん》を含ませた視線を向けた。
「ええ、まあ」
加瀬は口ごもった。
「いまはまだ、明かせないってわけか」
長谷川が、コップを一息にあけた。加瀬はビール瓶を掴み、空になったコップに注いだ。
「はっきり記事にできると決まったわけじゃありませんからね」
シレッと言った。長谷川は、唇に薄い笑みを浮かべ、頷いた。
「おれだって、古巣のカイシャを探るんだ。それなりに気苦労もある」
カイシャとは、警察の隠語だった。長谷川は古くからのネタ元だ。長谷川が捜査一課の刑事時代から、こうやって顔を突き合わせ、情報を得てきた。この刑事は、相応のカネさえ支払えば情報の出し惜しみはしない。殺人事件の現場写真や、有名女優の自殺死体の検死場面を映したビデオ映像さえ流してもらったこともある。
「長谷川さん、今回はたいしたお願いじゃない。警察官の連絡先を割ってもらいたいんです」
「連絡先? 幹部か?」
訝しげに目をすがめた。
「いえ、幹部どころか、キャリアでもありません。まだ三十そこそこの若いサツカンですよ」
「名前と素性は分かってんのか?」
「大体のところは」
加瀬は、タコ刺しを一切れ、箸で摘まんだ。
「なら、勝手に電話を入れればいいだろう。別におれに頼むほどのこともない」
シラけた顔で言うと、長谷川はテーブルのハイライトのパッケージから一本抜き取り、唇に差し込んだ。百円ライターで火を点ける。
「職場に電話するのはイヤなんですよ。警察には外部からの電話をいちいちチェックする野郎がいるでしょう。こっちの素性を根掘り葉掘り、訊かれるのは堪りませんから。それに、おれはまだ、ヤツが所属する部署を知らないんです」
加瀬はタコを口にほうり込み、奥歯でコリコリと噛んだ。長谷川は煙を吐き、薄い頬を歪めて笑った。
「ヤツらは他人を詮索するのが仕事みてえなもんだからな。それは仲間うちでも変わらない。まったく、因果な商売だよ」
そう言うと、コップを口に運んだ。加瀬は手帳にペンを走らせた。名前をひとつ書き付けると、ちぎって渡した。
「この男です。携帯電話の番号を割ってください。おれは、こいつと直に話したい」
「収賄絡みか?」
剣呑《けんのん》な視線を向けた。
「いえ、プライベートなことですよ」
素っ気なく応えた。長谷川は押し黙った。据えた視線が鋭くなる。
「長谷川さんには迷惑をかけません。息のかかった後輩に話を通せば、すぐに割れるでしょう。たかが携帯電話の番号なんですから」
懐から白封筒を取り出し、テーブルの上に押しやった。途端に、長谷川は頬を緩めた。煙草を灰皿で捻ると、封筒を取り上げ、中身を改める。唇をすぼめ、ホウッと息を吐いた。
「五万か。随分奮発したじゃないか。ルポライターってのは貧乏と同義語だと思っていたがな」
嘲笑を含ませた物言いを無視して、加瀬は言った。
「あなたのことは信用しています。だからギリギリまで喋っちまいましょう。おれはいま、ある殺人事件を追っています。もう解決した事件です。サツカンはこの事件に関係しています。もっとも、被害者の関係者としてです。しかも警視庁に入る前の学生時代の出来事だ。警察組織とは何の関係もない話です。周辺取材で浮かんだ人物が、たまたまサツカンだったに過ぎない。そういう話ですよ」
「携帯の番号だけでいいんだな」
長谷川は念押しした。
「もちろん。あとはおれ次第です」
そう言うと、再び、箸をタコ刺しに伸ばした。長谷川は封筒を懐にしまい込み、コップを掴んだ。喉を鳴らし、旨そうにビールを飲んだ。
午後八時四十分、居酒屋の前で長谷川と別れた加瀬は、仕事場へと急いだ。身を切るような木枯らしが、熱っぽい頬を嬲《なぶ》った。ネオンが滲んで揺れる。視界が歪んだ。ビールをコップで三、四杯、飲んだだけなのに、妙に足元がふらついた。大塚駅南口の、幾つもの路地が交差する繁華街。自宅マンションとは山手線を挟んで反対側。十分も歩けば、美知子のいる暖かいマンションの部屋で、一緒に夕食が摂れるというのに、今夜も足は向かない。
酔っ払いが闊歩する、凍《い》てついた通りの、ちっぽけな雑居ビル。一階は倒産寸前の印刷屋。ガラス戸越しに、初老の主人の沈痛な横顔が見えた。加瀬は蛍光灯の切れた暗く狭い階段を上がり、四階の仕事場へ入った。向かいの部屋は興信所だ。二十四時間、うさん臭そうな男と女が出入りしている。
仕事場は二十平方メートル足らず。壁いっぱいの書棚と、パソコンが載った木製のデスク、ソファベッド。デスクの前には嵌め殺しの窓。薄汚れた硝子の向こうには、極彩色のネオンを照り返すビルの群れが、延々と連なっていた。下を見ると、路地で蠢く、千鳥足の酔漢たちの姿があった。加瀬はブラインドを乱暴に引き降ろした。
家賃は雑費込みで七万円。最近、妻の美知子は、仕事場の費用を無駄な出費と考えている節がある。嫌みっぽく言われたことがある。
「仕事、そろそろマンションでやったらどうかしら。子供もいないんだし、わたしはパートで昼間空けているから、仕事に集中できると思うけど」
美知子は分かっていない、事件専門のフリーライターは、常に危険と隣り合わせという事実を。家族を面倒に巻き込みたくないという自分の配慮が分からないのか──言ってやりたかった。だが、やめた。カネがなく、仕事もうまくいかないと、どうしようもなく気弱になると知った。
カビ臭い空気がすっかり冷えきっていた。ダウンジャケットを脱いでソファベッドに投げ、ファンヒーターのスイッチを入れた。セーターにチノパンというラフな姿で椅子に座り、ブックエンドの資料ファイルを抜き出す。デスクライトを点灯し、ファイルされた手紙と、事件資料を開く。ブーンと羽虫のような音がして、灯油臭い暖気がヒーターから流れ始めた。貧相とはいえ、誰にも邪魔されない自分だけの空間は、心が落ち着く。加瀬は、デスクの上のファイルに集中した。
そこには穂積壱郎の、現段階で知り得るすべてがあった。手持ちのデータを読み返す。それが事件取材の鉄則だった。いくら目を通しても、読み落としは必ずあった。ひとつひとつ、文節を拾い、再考し、頭の中のジグソーパズルにはめ込んでいく。
『人を暴力でコントロールし、嬲り、そして殺す。ああ、なんと甘美で素敵なことでしょう。この至福の行為は、経験したひとでないと分からないと思います。雑踏の中から見ず知らずの女を選び取り、後をつけ、そして襲う。こっちもギャンブルなら、あちらもギャンブルですよね。では、わたしのような人間に狙われた女性は不幸なのでしょうか? いいえ、違います。なぜなら、それが彼女のこの世で定められた運命なのですから。そもそも、人の命など、大した価値はないのです。アウシュビッツを見てください。南京を見てください。スターリンの大粛清を思い出してください。いま、この時間にも、ニューヨークのブロンクスでは女性が犯され、パレスチナとイスラエルは幾多の命を踏み越えて、いつ果てるともない血の紛争を繰り広げています。人間がこの世にある限り、暴力と殺人はなくなりません。そして、神は我々に、その行為を許したもうたからこそ、地上へとお連れになったのです』
穂積の言葉は観念的で、そして具体的だった。強姦し、殺す場面など、徹底してディテールにこだわり、読むほうの胸がむかつくほどだった。
『陰部にわたしの勃起したペニスを挿入し、強引に腰を動かしました。彼女は身を捻って抗いましたが、それを押さえ付け、顔を殴りました。固い拳が柔らかい肉を叩きます。唇が切れ、血が出ました。鼻が歪みました。彼女が諦め、おとなしくなるまで殴った後、怒張したペニスを前後させました。すると、膣内に裂傷が発生し、血がペニスを包みました。これが潤滑油となり、動きをスムーズにしてくれたのです。彼女は、鼻から血の泡をブクブクと噴き出しながら、すすり泣いていました』
『首を絞めると、彼女の瞼がめくれ、目は恐怖とショックで白く濡れました。喉がひくつき、掠《かす》れ声が聞こえます。なんと言っているのかわかりません。わたしは耳をそっと唇に寄せました。タスケテクダサイ、オネガイデス。マダシニタクアリマセン≠ニ言っていました』
こういう描写が延々と続くのだ。しかも、きれいに整った文字で。手紙は、縦書きの便箋にびっしりと書かれていた。ヘドが出そうになる。それでも読んだ。
二時間後、ふと視線を感じ、目を手紙から逸らした。美知子だった。ファイルとノートが散乱したデスク。その下から、美知子がじっと見ていた。薄いちっぽけな写真立て。埃《ほこり》を払って取り上げる。恋人時代の加瀬と美知子が写っていた。どこかの公園で撮ったスナップ写真だ。鮮やかな青葉の下で微笑む美知子。ブルーのサマーセーター。ウェーブのかかったロングヘア。艶のある髪を、細く白い指先で軽くかき上げ、柔らかな瞳を向けていた。加瀬も、照れたような笑いを浮かべている。わずか五年前の二人なのに、どこか別世界の人間に見えた。
美知子は、銀行勤めのOLだった。知人のカメラマンのパーティで出会ったとき、美知子は二十二歳だった。結婚を約束するまで、それほど時間は要しなかった。口説きの文句は、三十前後の売れないモノ書きだったとしても芸がないものだった。おれはライターとして、これからが勝負だと思っている、おまえの力が必要なんだ──自分の才能を偽っていた。無限の可能性に満ちた男、と信じさせたかった。
自分とは別の世界に住む女性だった。万事控えめで、加瀬の話に真剣に耳を傾けてくれる美知子が、たまらなく愛《いと》しかった。
美知子は、加瀬が読んだ本の感想を語ると、そのタイトルをメモした。次に会うときまでに読み込んできて、自分の感想を述べた。嬉しかった。美知子は単なる恋人じゃない、同志だ、志をひとつにするパートナーだ、と舞い上がった。自分の最大の理解者だ、と信じた。
美知子は、おれの可能性に賭けていたはず。結婚後は銀行を辞め、加瀬の望むまま専業主婦として、夫の仕事のバックアップに専念した。しかし、どこか儚《はかな》げで、自己主張に欠けるところがあった。
「わたしは隆史さんについていくだけ」
そう何度、囁かれたことか。マスコミ業界に住む、心身ともに逞しく、自己主張の強い女性を見続けてきた加瀬には、それも新鮮だった。自分に頼り切っている美知子を必ず幸せにしてやる、と心から思った。
ところが今の体たらくはどうだ。薄汚れたオンボロビルの仕事場に燻《くすぶ》る、敗残者。美知子は人生の賭けに負けた。だれが見ても、そう思うだろう。
しかし、美知子、おまえは大逆転のクジを引き当てたのだ。この仕事さえうまくいけば、すべてが変わる。あの榊も保証したのだから。
背中が固く筋ばっていた。加瀬は両手を突き上げて伸びをし、上体を左右に大きく捻った。ダストボックスから溢れ出たゴミ屑と床に転がるウィスキーボトル、雑誌の山、領収書の束。
乱雑としか形容しようのない部屋の様子に眉を顰め、首を捻った。いつからだろう。以前は、美知子が定期的に訪れて、掃除から郵便物の整理、確定申告に備えた領収書の細かな仕分けまでやってくれた。また、加瀬の書いた記事は細大漏らさずチェックし、スクラップ帳にまとめた。仕事が立て込んでマンションへ帰れないときは、わざわざ温かい夜食を運んでくれた。美知子は日々の不満をひとり胸にしまい込み、加瀬の仕事を懸命にサポートしていたのだ。
ところが、このところさっぱり寄り付かない。なぜだろう。なにが、美知子をああ頑《かたく》なにしてしまったのか。出口の見えない生活、澱《おり》のように溜まっていく不満と鬱屈。美知子、おまえは、このおれに愛想が尽きたのか、とことんイヤになってしまったのか。胸が疼いた。気持ちがどうしようもなく塞いだ。
加瀬は、穂積の手紙を取り上げた。ひたすら読み込む。この状況を打破する、唯一の材料。背を丸め、手紙に没頭した。眼球が乾いて痛い。首から背中にかけてへばり付いた疲労が、腰に溜まっていく。それでも文字を追う。無数の言葉の海から、やがて、一つの単語が浮かび上がった。「至高」の二文字。手紙には、一番目の女性を強姦し、殺したあと、こう記してあった。
『そのとき、わたしの魂に、至高が舞い降りたのです』
舞い降りた、マイオリタ、シコウが舞い降りた──妙な既視感が、頭の中で揺れる。いつしか、あれほど思っていた美知子のことが脳裏から離れ、消えた。
午後九時。スピーカーから「減灯の時間です」と、就寝を告げる声が響く。二十四時間、消えることのない各房内の電灯は、それまでの六十ワットから二十ワットに減灯される。しんと静まり返った廊下を歩き、薄暗くなった独房の中を、ひとつひとつ入念にチェックしていく。ゴム底の靴を履いているから音はしない。
規則では、収容者は部屋の中央に布団を敷き、仰向けになって中に入っていなければならない。時々、「明るくて眠れない」と、俯せになったり、顔にタオルを掛けている者がいるから、注意が必要だ。幅二十センチ、長さ六十センチほどの監視窓のスライド式ドアを引き上げ、内部を覗く。
三十一歳の白井透《しらいとおる》は、この関東拘置所に勤務して五年になる。栃木県の生まれで、中学、高校と剣道部に所属。地元の商業高校を卒業後、刑務官になってからも所内の剣道部に所属して続けているため、今では四段を取得していた。身長百七十センチ、体重七十五キロのがっちりとした体格。角張った顔に、太い眉と胡座《あぐら》をかいた鼻、ぎょろりとした大きな目。スポーツ刈りの頭。その実直な性格の通り、生真面目な体育会系の青年、といった印象の姿形だった。
白井は、高校の剣道部顧問教師の薦めと、倒産・リストラとは無縁の官舎付き公務員という身分にひかれ、高校卒業後、刑務官の道を選んだ。しかし、どうせなら警官か自衛隊員になっていれば良かった、と後悔したことが再三あった。四日に一度の夜勤に、一挙手一投足が監視される厳しい服務規程。加えて、担当する収容者の中には、粗暴な暴力団員や、頭のおかしくなったシャブ中がうようよいる。真冬の、底冷えのする夜中、素っ裸の身体に大便をなすり付けてニタニタ笑っているシャブ中に、お湯をかけて洗い流してやり、ホースで部屋中に水を撒き、凍える手で窓枠や壁にこびりついた大便の掃除をしたときは、寒くて情けなくて、涙が出た。
以前、刑務所に配属されていたとき、慰問の漫談家が、懲役囚を前にこう言ったことがある。
「あなたたちは刑期が限られているけども、ここの職員さんたちは通いの懲役で、しかも定年までの終身刑なんだから大変なんだよ。かわいそうな職員さんに迷惑をかけちゃダメだよ。おとなしく生活してあげようね」
懲役囚たちはドッと爆笑した。刑務官たちは一様に渋い顔をしていた。白井は、奥歯をギリッと噛んだ。定年までの終身刑──その通りだ。やっぱり最低の職場だ、と思った。頭のイカれたマメドロ(強姦犯)が出所後、担当刑務官に復讐した、という噂もあった。そのマメドロは、刑務官の自宅を捜し当て、まだ高校生だった娘を犯したのだという。事実かどうか、分からなかったが、十分にあり得る話だと思う。繁華街で、担当していたチンピラや暴走族に報復された、などという話は枚挙に暇がなかった。それゆえ、無闇と飲み歩かないように、との通達が出たこともある。
三十前までは、栃木の両親から、結婚の催促が再三あったが、今はぱったり途絶えてしまった。諦めたのだろう。田舎の同級生のほとんどは、高校を卒業して遅くとも五、六年で結婚していた。中には小学校高学年の子供を頭に三人の子持ちもいた。
白井が結婚しない理由は二つある。この仕事を続けていく自信がないこと。そして、女性と付き合おうにも、いまの生活ではその機会が皆無に等しいことだ。田舎からは見合い話もあった。が、互いが自然に結ばれる恋愛ならともかく、自分の足元が定まらないうちに、一緒になることを前提に見合いの席に臨むのは、なにか男としての責任感が欠如しているようでイヤだった。
独身の白井は、仕事の中で、世の理不尽、といったものを痛感することがある。収容者の面会に付き添い、面会室へ赴くときだ。暴力団員の情婦や女房の中には、なぜ、こんな女が、というような極上の美人が珍しくない。和服をピシッと着こなし、楚々とした抜けるような白い肌の美女が、厳つい顔をした強面《こわもて》のヤクザの面会に訪れ、涙にくれる光景は、羨ましさを通り越して異様だった。背中一面に鮮やかな刺青をいれた、生きるか死ぬかのアウトローの世界で生きる男たちは、独特のワルのフェロモンを放つのだろうか。
翻《ひるがえ》って、栃木の商業高校を卒業後、地道に、真面目に生きている自分はどうだ。女っ気もなく、苛酷で神経を擦り減らす仕事に従事し、確とした将来の展望も見えないまま、悶々とした毎日を送っている。何かが間違っているとしか思えなかった。
この夜も、鬱々とした気分で仕事についていた。廊下を歩きながら、ふっと目を上げる。四六七号のドア。顔が火照《ほて》った。グーンと血圧が上がった気がした。この房の前に来ると、途端に動悸が激しくなる。
穂積壱郎、二十六歳。希代の連続殺人鬼。収容者番号三九二。担当して四カ月になるが、この男だけは分からない。残されたたったひとつの裁判、最高裁の判決を受けると、死刑が確定するというのに、些かも感情の揺れがみられない。終始、平静な態度を崩さず、ゆったりとした自然体のままだ。ことさら作っているポーズとも思えない。なぜだろう。定期的に、ジャーナリストと名乗る男が面会に訪れているが、その会話も淡々としたもので、不躾《ぶしつけ》な質問に対しても表情を崩すことなく、冷静な口調で応えている。
白井は息を詰め、監視窓のスライド式ドアをそっと引き上げた。目を剥いた。ああっと声が出た。穂積が立っていた。房の向こう側、四角い窓の近くで佇立《ちよりつ》し、背中を見せている。一瞬、廊下の非常ベルを押そうと思ったが、止《や》めた。規則違反といっても暴れたわけでも、反抗したわけでもない。
「ほ、穂積!」
思わず名前を呼んでいた。
「三九二番」
慌てて番号を言い直す。穂積がクルリと振り返った。二十ワットの電灯の下で、その顔が柔らかく緩んだ。
「ああ、すみません、あまりにも星がキレイだったものですから」
そう言うと、頭を下げ、音もなく布団に入った。
「お休みなさい、白井さん」
目を閉じ、穏やかな寝顔になった。いつもの穂積だ。白井は強ばっていた全身の力が、ふっと抜けていくのを感じた。
「ああ、おやすみ」
小さく言った。自分のことを白井さん≠ニ呼ぶ収容者は、穂積だけだった。普通は担当さん≠ニか、センセイ≠ニ呼ぶのが常だった。穂積の言葉には気負いとか強がりはもちろん、収容者につきものの卑屈さや投げやりな態度が微塵《みじん》も感じられない。不思議な男だ、と思った。穂積の存在が気になって仕方がなかった。同時に、自分が関東拘置所の刑務官という仕事を忌み嫌っている本当の理由、いや、恐れている理由が、確かな輪郭を伴って頭に浮かんだ。
穂積は、この拘置所で執行される死刑が怖くないんだろうか。おれはこんなに怖いのに──。
電車は速度を落としながら荒川の鉄橋を渡り、小菅駅のホームへと滑り込む。東京に今年初めての雪が降ってから二日後、加瀬は関東拘置所を訪ねた。午前九時。風はなく、抜けるような青空が広がっていた。
駅の改札を出て路地を右に折れ、荒川の堤防に沿う国道を歩いた。頭上には首都高速。行き交うクルマの群れが吐き出す排気ガスと地鳴りのような轟音が、加瀬の神経を苛立たせる。
面会者の通用門の前には、決まって数台のベンツやクライスラーなど、高級外車が違法駐車し、目付きの鋭いスーツ姿の男たちがたむろしている。面会に訪れた暴力団員だった。堅牢な鉄製の通用門の奥には、高さ六メートルほどのコンクリートの壁が聳える。その下部に切られたスチール製のドアを潜ると、そこが面会受付所だ。「面会願」と記されたザラ半紙に、ボールペンで必要事項を記入し、窓口の担当者に差し出す。顔見知りの担当者は、「取材はダメですよ」と、クギを刺したうえで、白いプラスチックの番号札を渡してくれた。四十五番だった。
面会は被疑者の担当弁護士を除くと、一日一組(三人まで)となっている。法的な裏付けがあるわけではない。拘置所側が決めた規則である。それでも拘置所の規則は絶対だから、先に面会人があった場合、その日の面会は不可能となる。
面会は土日祝祭日を除く朝八時三十分から夕方四時まで。間に一時間の昼休みがある。
加瀬は、一週間に一度の割合で、穂積壱郎の面会に訪れていた。
自分の番号が呼ばれるまで、面会者控室で待つ。暴走族の少年少女が、何がおかしいのか、ケタケタ大口を開けて笑っている。小指のないヤクザが、サングラス越しに鋭い視線を飛ばす。携帯電話を相手に喋りまくる、化粧の厚いホステス風の女と、くたびれたスーツの男。息子の面会に訪れたのか、背中を丸めた老夫婦は揃って黙りこくっている。
三十分後、番号を呼ばれ、塀の中に入る。ショルダーバッグを携帯電話と共にロッカーに預けた。金属探知ゲートを潜る。拘置所内の控室で再びボールペンを握る。拘置所がマスコミ関係者に義務づけている誓約書の記入である。三番と書かれた窓口で、ビニールのホルダーに入った書面の見本と、白紙を一枚、受け取る。
拘置所特有の、カビと消毒薬の混ざったような臭気の中で、加瀬はペンを走らせた。冒頭に「誓約書」と記し、「関東拘置所長殿」と断ったうえで日付、住所、氏名等を書き、最後に次の文面で終わる。
『本日、貴所に収容中の穂積壱郎と安否の件で面会するにあたり、貴所の規則を遵守するとともに、一切の取材活動ならびにその公表をしないことを誓います』
しかし、と加瀬は思う。白紙を差し出し、面会者に「関東拘置所長殿」と書かせる側の厚かましさには、毎度のことながら辟易《へきえき》する。必要事項を印刷した用紙を使えば済むことなのに、敢えて白紙を用いる狙いはどこにあるのだろう。マスコミ関係者への嫌がらせとしか思えない。
加瀬は、記入を終えた誓約書を三番窓口へ提出すると、その足で一番窓口に並んだ。一番は金銭の差し入れ窓口で、二番は衣類や書籍類の窓口である。「差入願(現金)」と印刷された用紙に必要事項を記入し、現金を添えて窓口へ差し出す。ひと月に一度、便箋、封筒、切手代として、五千円を差し入れることにしている。領収書を受け取り、スチーム暖房機の前の長椅子に座って番号が呼ばれるのを待つ。四十分後、面会室に入った。
三脚のパイプ椅子があるだけのボックス状の空間。何度入っても、慣れるということがない。ざらついた空気が身体中を覆い、締め上げる。加瀬は中央の椅子に座って、穂積を待った。ゴクリと、唾を飲み込む。
ドアが開いた。穂積はいつものように、一礼をして現れた。丸刈りの頭に、色白の肌。確かな知性を感じさせる瞳と、高い鼻梁、薄く形のいい唇。すっきりと伸びた背筋と、無駄な肉をそぎ落とした筋肉質の身体。薄いブルーのスエットの上下を着込んだ穂積は、どこか修行僧を思わせる、超然とした雰囲気を身にまとっていた。後から担当の刑務官が続く。三十そこそことおぼしい、がっちりとした体格の刑務官だ。目深《まぶか》に被った制帽の鐔《つば》で表情は窺えないが、以前も何度か同席したことのある男だった。穂積の右隣の書面台でノートを広げ、ペンを持つ。
「お元気ですか、加瀬さん」
穂積が微笑む。目の前の殺人鬼は、いつもと変わらぬ穏やかな声音だった。加瀬に視線を据えたままゆっくりと腰を下ろす。
「ああ、変わりはないよ。きみは?」
「おかげさまで。しかし──」
言葉が止まった。穂積は顔を突き出し、金網入りのガラス板の向こうからのぞき込むようにして加瀬を見た。冷徹な観察者の目だった。
「加瀬さんは疲れていらっしゃいますね。なにか心配事でもおありですか?」
「どうして」
思わず声が出ていた。
「だって、匂いが違いますよ」
「違うって、なにが」
「今日は濃い、疲労の匂いがする。この穴から出てくる空気で分かるんです」
そう言うと、視線を下げた。ガラス板の下部にはめ込まれた、幅十五センチほどの金属板。無数の穴が穿《うが》たれた、収容者との通話口だ。
「疲れているといえば年中疲れている。フリーのモノ書きの、職業病みたいなものだよ。労働量に見合わぬ安いギャラでこき使われているからね」
軽い調子で言った。が、穂積はのってこなかった。
「いや、そんなものじゃありませんよ」
ゆっくりとかぶりを振った。
「仕事ではなく、対人関係──知人と──いや──」
首を捻った。
「違うな」
心を見透かすような視線が、加瀬の顔をはい回る。粘つくような不快感に、加瀬は眉根をひそめた。
「家庭だな」
断定した物言いだった。
「あなたは子供がいない」
「どうしてそんなことが分かる」
平静を装って言った。心臓が跳ね回っている。奥歯を噛んで耐えた。
「だって、子供の匂いがしないもの。あなたの身体からは、一度たりとも子供の匂いがしたことはありませんよ。だから、子供には恵まれない夫婦だ」
自信に満ちた口調だった。
「子供はいない。だとしたら、奥さんだ」
美知子──ギリッとこめかみが軋んだ。微かに眉を顰《ひそ》める。その動揺を、穂積は見逃さなかった。一気に切り込んできた。
「あなたの疲労の原因は奥さんだ。当たりでしょう」
早口で言うと、頬を緩ませた。
「奥さんとうまくいっていないのですか」
薄い唇に、笑みが浮かんだ。加瀬は言葉が出なかった。動揺を抑え込み、穂積の顔を睨んだ。構わず、穂積は続けた。
「わたしはもう八年間、塀の中で生き、独房で暮らしています。両手を伸ばせば、掌《て》が壁についてしまう、狭くて暗い、コンクリートの部屋です。ここにいると、五感が信じられないくらい研《と》ぎ澄まされるのです。特に鋭敏になるのは、聴覚ですね。廊下を歩く人の足音で、人物を特定できるのはもちろん、何を考えているかまで、わたしには分かります」
そう言うと、穂積は視線を右隣に疾《はし》らせた。俯き、書面台でペンを動かす若い刑務官。その制帽の鐔が微かに震えたように見えた。
「一年以上、人跡未踏の深山で山籠もりしたある有名な武道家はこう言い残しています。夜中になると、狐狸《こり》の息の音が聞こえた。その音の強弱、高低で彼らが何を考えているのか分かった。人里では得られない、超人的な感覚を、わたしは体得した≠ニ」
穂積は滔々《とうとう》と語った。
「ここはつまり、人里を離れた深山なんですよ。ひとりになって、モノを考えるには最高の場所だ。でもね──」
唇のヘリを曲げて、笑みを浮かべた。
「あなたの奥さんのことはもういいや。少し一方的に喋りすぎましたね」
そう言うと、口を噤《つぐ》んだ。今度はあなたの番だ、とその静かな顔が促している。あまり沈黙が続くようだと、刑務官に面会を打ち切られてしまう。加瀬は、動悸がおさまるのを待って語りかけた。
「今日は、ぜひ、きみに訊きたいことがあるんだ」
穂積は軽く頷いた。
「きみの手紙に、こんな箇所があるよね。『そのとき、わたしの魂に、至高が舞い降りたのです』と。第一の強姦殺人の情景を記した後だ。覚えているかな」
「はい、覚えています。たしかに書きました」
その顔に感情の揺れはない。
「この至高≠ネんだよ。おれが気になるのは」
「ほう、どうして気になるのですか」
「最初は、何か観念的なものと思っていた。比喩と言ってもいい。殺したことで見えたもの、感じたもの、そういうものを至高という言葉で表したと考えていたんだ」
「違う、というわけですか」
「そうなんだ」
「その根拠を聞かせてください」
「根拠と言われても困るが」
加瀬は口ごもりながらも、説明した。
「お母さんの遺書の一節を思い出したんだよ。ほら、こう記してあったろう」
言葉を遮るように、穂積が口を開いた。
「加瀬さん、それは『あの子の心に、突然、悪魔が舞い降りて棲みついた、としか思えないのです』でしょう」
加瀬は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「そうだ」
「つまりあなたは、悪魔と至高が一緒だと考えていらっしゃる」
「ああ。もっと言えば、抽象的なものではなく、ちゃんと姿形があるもの、この世に存在し、人間の目で見えるものだ」
穂積は顎をしゃくり、先を促した。
「おれは、きみの手紙をそれこそ舐めるように、何度も何度も読んだよ。神経は疲弊し、目はしょぼつく。肩は凝る。しかし、身体に蓄積する疲労と反比例して、どんどん手紙に引き込まれていく。頭がクリアになり、視線が一本の針になる。すると、ふいに文章の裏まで見えてくるんだ。きみがいう、五感が研ぎ澄まされた状態だと思う。その、極度に集中力が高まったとき、ひとつの言葉が浮かび上がったんだ」
「それが至高というわけですね」
「その通りだ」
加瀬は、穂積を正面から見つめた。氷のような瞳が動かない。薄い唇が、まるで別の生き物のようにぬめって蠕動《ぜんどう》した。
「至高をイコール悪魔と考えるあなたの推理は、間違っているし、当たってもいる」
穂積の輪郭がクリアになって浮き上がる。目の前のガラス板が、いつの間にか取り払われた気がして、背筋がぞくりとした。
「神と悪魔は表裏一体です。神がいて、悪魔がいる。その逆もまた真なり。そして、神の中にはまた悪魔も潜むのです」
静かに言うと、右隣の刑務官を見た。
「白井さん、もう終わりますから」
刑務官が、僅かに頷いた気がした。
「加瀬さん、あなたは本当に熱心だ。わたしは感動してしまった」
感に堪えぬ、といった口ぶりだった。
「だから、あなたにプレゼントを用意することにしました。わたしのことを、もっともっと知ってください」
プレゼント、という単語が、加瀬の脳髄でピシッと音をたてて固まった。穂積は、楽しみにしていてください、と言い置くと、立ち上がり、ドアを開けて去った。全身のこわばりが解け、代わりに重い疲労感がべったり張り付いていた。時計を見る。二十分が経過していた。拘置所側は面会時間を三十分程度、と定めているが、担当刑務官の判断でどうとでもなる。時には五分で打ち切られることもあった。今日は運がよかった、と加瀬は思った。
重い足どりで面会室を出ると、控室の長椅子に座り、ノートに猛烈な勢いでペンを走らせた。面会室でもノートを広げることは出来るのだが、とてもその気になれなかった。穂積の放つ、得体の知れない磁力のせいだろうか。正面からしかと向き合い、穂積の目を見ていないと、ガラス板の向こう側へと引き込まれ、翻弄《ほんろう》されてしまうのでは、との恐怖感がある。
加瀬は、穂積の語った一語一句を、正確に記していった。「五感」「聴覚」「深山」「悪魔」「神」「至高」「プレゼント」……キーワードを確認し、ペンを動かす。十分後、ほっと息をついた加瀬は、書き落としがあったことに気づき、慌てて書き加えた。「刑務官」「白井」と。
午後一時過ぎ。大塚駅南口の仕事場に帰った加瀬はネクタイを緩めただけでソファにもたれ、まどろんだ。穂積との面会を終えた後は、いつもこうなる。三十分にも満たない時間を向き合っていただけなのに、気力体力ともにごっそり奪われ、指一本、動かすことさえ億劫《おつくう》になる。一時間ほど仮眠をとらないと、頭も身体も動かない。
だが、睡眠は寝入りばなに断ち切られた。電話の呼び出し音。加瀬は舌打ちをくれ、ソファから立ち上がると、デスクの電話を取った。長谷川だった。
≪割れた。いまから言うからメモしろ≫
抑揚のない声で、依頼してあった男の携帯の番号を伝えてきた。加瀬はメモを取り、礼を述べた。
≪携帯の番号だけでよかったんだよな≫
加瀬は首を捻った。受話器の向こうから、長谷川の含み笑いが聞こえる。加瀬の戸惑いをよそに、電話は切られた。
加瀬は、一抹の不安を抱えながら、聞いたばかりの携帯の番号をプッシュした。留守電になっていた。加瀬は、まだ顔も知らない相手に、自分の素性と用件を手短に伝えると、仕事場の電話番号を告げて受話器を置いた。必ず返事は来る、との確信があった。穂積壱郎が犯した連続強姦殺人事件。男にとって、他人事《ひとごと》ではない。自分に電話を入れ、会わずにはいられないはず──それにしても、と思った。長谷川のあの含み笑いは何だろう。得体の知れない疑念が胸をよぎった。
午後三時。大塚駅にほど近い大手スーパーの地下一階。食料品売り場に並んだ八台のレジのひとつを、加瀬美知子は担当していた。そろそろ混み始める時間だ。店内を行き交う人の波が密度を増し始める。
紺の地味な制服を着込んだ美知子は、お客の列を機械的に捌《さば》いていく。バーコードで読み取った値段を口に出してお客に告げ、バーコードが歪んで読み取れない値段はキーで打ち込んでいく。籠にポリ袋を入れ、お釣りとレシートを渡し、両手を前に揃え、四十五度の角度で頭を下げる。
「ありがとうございました。またご利用ください」
朝の十時から、休憩の一時間を挟んで、いったい何度口に出しただろう。パートを始めた当初は、立ちっぱなしの仕事に苦労した。足が腫れ、ふくら脛《はぎ》が強ばり、腰が痛んだ。夜、風呂で入念にマッサージを施さないと、眠れなかった。二年経ったいまは、慣れて肉体的苦痛も感じなくなった代わりに、脚が太くなった。月日が経つほど、平凡と倦怠《けんたい》の中に埋没していく気がして、そんな自分を、なんとかしたい、と焦ったこともあった。しかし、今は、違う。脳裏から離れない黒々とした記憶。封印してきたはずの蓋が、こじ開けられようとしている。
チラッと視線を上げて、客の列を確認する。様々な顔。太った中年の主婦。くたびれ切った老女。そのなかに、幼い子供の手を引いた、自分と同じ年頃の若妻、幸せではちきれそうな丸い顔があった。まるでそこだけライトでも浴びせたように輝いている。眩《まぶ》しさに思わず目を細めた。
不意に脳が揺らいだ。耳の奥でキーンと金属的な音が鳴り始める。視界が眩《くら》んだ。慌てて視線を戻す。手に持ったネギの束がグニャリと曲がる。ダメ、唇を噛み締め、太くなった脚を踏ん張る。周囲のノイズが鼓膜を刺して、頭の中を引っ掻き回す。目の前の、メガネをかけた初老の女性が訝し気な顔で、のぞき込む。
「あなた、顔色悪いけど、大丈夫?」
笑顔を向けようとしたが、顔の筋肉が強ばって動かない。こめかみから首に、粘った汗が浮いた。手足の先から血が引き、氷のように冷たくなった。視界が小さく狭く、縮んでいく。初老の女性の顔が、まるでクレーンで吊り下げられたみたいに上昇していった。遥か上から見下ろして口をパクパク開いて、何か言っている。しかし、何も聞こえない。突然、世界から音が無くなった。両の掌がヒンヤリした。床だった。腰が崩れて、ペタンと座り込み、美知子はレジのカウンターの下から見上げていた。四角に切った視界と、次々に現れる顔顔顔……好奇心と憐憫《れんびん》が入り交じった、いろんな醜い顔が、視界の縁から首を突き出し、覗いている。不思議な光景だった。まるで、小さな段ボール箱に入った子供みたいだ。世の中から疎外され、閉じ込められた子供──瞬間、恐怖が尻から背中へ這いのぼり、全身を貫いた。逃げ場所のない閉塞感。突然、自分の周りに出現した小さな空間の中で、美知子は震え、戦《おのの》いた。
「助けて」
声に出さずに叫んだ。
「助けて、隆史さん」
両手を顔に押し当てて、すすり泣いた。
「早く助けに来てよ、隆史さん」
美知子は、凍りついた荒野をひとり、彷徨《さまよ》っていた。
関東拘置所では午後六時から八時まで、廊下と各房内に設置されたスピーカーからラジオ放送を流している。収容者が番組を選んだり、音量を調節することはできず、在京の民放FM局に限定されていた。ただし、房内にスイッチがあり、オンオフの判断は収容者の判断に任されている。
穂積壱郎は、常にスイッチをオフにしていた。しかし、例外があった。モーツァルトだ。廊下にモーツァルトの曲が流れると、決まってオンにして聴き入った。だが、民放のFM局で、しかも夜の早い時間帯にモーツァルトが流れることなど、年に数えるほどしかなかった。
この夜、穂積は久しぶりにスイッチをオンにした。流れてきたのは、セレナード第十三番、ト長調『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の中の「ロマンツェ」だった。部屋の真ん中に正座した穂積は、夢の世界を漂うようなオーケストラの調べに、陶然とした表情で聴き入った。
モーツァルトが終わり、ラジオのスイッチをオフにした途端、待っていたように隣から声がした。
「よかったね、穂積」
村越巧だった。
「ええ」
「いつ以来かね」
「前回は秋口の涼しい夜でした。番組にゲストで呼ばれた若い小説家が、リクエストしてくれたんですよ。あれは交響曲第四十一番『ジュピター』の第一楽章でした」
「おれ、音楽はよく分からないけど、モーツァルトってのはいいね。耳を傾けていると、なんかこう、気持ちが澄み渡ってくるみたいだ」
「音楽のすべてを知り尽くした、人類史上、ただひとりの人物ですから」
「音楽の神様、かね」
「そうとも言えるでしょうね。神の認識にもよりますが」
含みを持たせた物言いだった。が、村越は反応せず、言葉を続けた。
「神様といえば、今日、どっかのボランティアの人から、聖書の差し入れがあったんだけど、穂積は読んだことあるかね」
「ありますよ」
「面白かったか」
「ええ、野蛮人の歴史と妄想の物語、として読めば、ね」
「野蛮人?」
「あなたの手元にある聖書を読めば分かりますよ。人を騙《だま》し、騙されるバカな手合いとか、頭が桃色に染まった男の女漁りとか、近親相姦とか、くだらない蛮行の数々が、これでもか、と書いてありますから」
「でもさ、神様というのは、いろんな預言もしているんだろう」
「聖書に記されている預言なんて、後《のち》の世の人々が、都合のいいように解釈できる、曖昧で漠然とした言葉の羅列ですよ。どれをとっても、さまざまな解釈が成り立ちます。インチキがばれてしまったノストラダムスの予言と同じですね」
「そののすとらだむすってのは、よく知らないんだが、じゃあ、穂積は神様の存在を信じていないのかい」
「聖書に書かれた神は信じません。もし、この世のすべてに通じた全知全能の神なら、曖昧で意味不明な言葉を残す代わりに、千年後、二千年後の全人類がハッと脳天に衝撃を受けるような言葉を残せばよかったのです」
「たとえばどんな?」
「簡単なことです。光は、二回|瞬《まばた》きするほどの僅かな時間に我々の住む世界の周りを七回半廻ってしまう。光ならば、この地上から天に輝く太陽までは、瞬き二回を約五百倍した時間で到達する。そして、光より速いものは、この世に存在しない≠ニ記してあれば、当時の、地球が丸いことさえ理解できていない野蛮人には何のことかまったく分からなくても、その後の人類には、想像を絶する大変なショックになっていますよ。なにせ十九世紀になって英国の物理学者、ジェームズ・マクスウェルが電磁気学の方程式を発見し、これによって光は電磁波の一種であり、光源の運動状態によらず真空中を秒速三十万キロで伝わる、という事実が導かれるまで、人類は光の速さなど想像の外だったわけですからね。全人類が、ああ、神はたしかに言葉を残された、神は我々をどこかで見守っている、と悟り、この世は一変していたかもしれない」
「つまり、あんたが言いたいことはこういうことか。聖書のなかの神様は何も分かっていなかった、と」
「そうです。三千年も四千年も前に、野蛮人の土地の方々で言い伝えられた世迷《よま》い言《ごと》を、現代に生きる人々が信じ、崇めても仕方ないでしょう。あの中に登場する神は、弱い者を騙し、たぶらかすために生み出された、妄想の産物です」
「じゃあ訊くが、あんたはさっき、こう言ったよな。聖書のなかの神は信じない、と。するとほかに神はいるというのか」
「ええ、存在しますよ。かのプラトンはこう言っています。全能なるものを神という。全能であるからには、存在することも、もちろん可能である≠ニね」
「そんな難しいことは、おれには分からないよ。もっと簡単に言ってくれ。いったい、この世のどこにいるんだよ」
「説明しましょうか」
「頼む、教えてくれ」
「最初は例え話でいきますよ」
「ああ、おれは半分中国人で、まともな教育を受けていないから、知識と理解力はよくて中学生並みだ。だから、できるだけ易しく話してくれると助かる」
「わかりました。まず、三次元の世界を考えましょう」
「さんじげん……ちくしょう、もう理解できない」
身を絞るような声がした。
「村越さん、落ち着いて。三次元、つまり三つの次元の世界とは、長さと幅、それに高さのある、立体の世界、これは縦と横と高さといってもいい。わたしたちが普通に暮らしているこの空間ですよ」
「縦、横、高さ──ああ、この独房もそうだな」
「その通りです。では、二次元もわかりますね。これは長さと幅だけの世界。つまり平面の世界です」
「うん、わかるよ」
「これは、たとえて言えば蟻の世界です。蟻は平面を動いて生きている。人間とはまったく視点が違います」
「蟻と人間を比べて、いったい何が言いたいんだ?」
訝し気な声がした。
「この蟻の生きる平面の世界に、突然、人間が一枚の壁を立てたとしたらどうなります?」
「びっくりするだろうなあ、蟻は向こう側に行けなくなってウロウロすると思うよ」
「でも、上から見下ろす人間は、すべて分かっている。三次元の世界から見たら、二次元で起こっていることはすべて理解できる。反対に二次元の世界からは、いったい何がどうなっているのか皆目見当もつかない」
「だろうね」
「そこで四次元です。四次元とは三次元に時間を加えたものです。時間を超越した空間です。ここでは時間が自由になる」
「ああ、そんな世界、見当もつかないよ」
「それでいいんです。それこそ、人間ではない、神の住む世界ですから、理解できなくて当然です」
「どういうことだよ」
「つまり、四次元から見たら、三次元の世界のことは過去から未来まで、全てお見通しということですよ」
「すると、四次元の世界に住む人間がいたら……」
「あくまでも例え話ですが、そういう存在が真の神なのです。人間の考えの及ばないことを、すべて知っている存在ですね」
「まさか、そんなヤツがいるなんて──」
「いますよ。わたしは会っていますから」
「でもさ、穂積──」
村越巧の言葉が止まった。息をひそめ、耳を澄ます。
「ああ、クソッ、足音だ。見回りがきた」
囁くような声だった。
「おやすみなさい、村越さん、今夜も冷えるから暖かくして寝てくださいよ」
「ああ、ありがとう」
床に敷いた薄っぺらな布団に入り、目を閉じた穂積は、廊下を歩く刑務官の足音に合わせて、軽くロマンツェをハミングした。そして、小さく、ため息をつくように呟いた。
「恐ろしいんですね、白井さん。あなたの足音がそう言っていますよ」
前夜の寒気が、道着《どうぎ》に残っていた汗をパリパリに凍らせていた。朝六時半。白井は拘置所内の剣道場で、寒稽古に参加していた。薄暗い道場内では、総勢五十人ほどの職員が気合を迸《ほとばし》らせ、稽古に没頭していた。参加者は拘置所の剣道部員だけではなく、女子も部外者もいる。仕事柄、剣道を趣味とする職員は多かった。
二人一組になって消化する基本稽古は、前後に移動しながら、相手の立てて構えた竹刀に左右の面をリズミカルに打ち込む切り返しから始まり、飛び込み面の打ち込み三十本、小手から面の連続技二十本、相手が面を振りかぶってくる一瞬の隙に、スパンと胴を抜き打つ、抜き胴を二十本をこなした頃には、すっかり身体も温まっていた。固く凍った道着も体温でほぐれ、白い湯気を上げている。
参加者は、全員同時に竹刀を打ち込む。お互いが向き合った一瞬の静寂の間は、荒い息と道着から立ちのぼる湯気で、道場が朧な白に染まり、まるでスチームバスのようだった。直後、裂帛《れつぱく》の気合が道場内に充ち、足が床板を踏んで地響きが巻き起こる。竹刀が小手を面を、パパンと叩く乾いた打撃音が反響し、白い大気がうねるように揺れる。厳寒の朝の荘厳な稽古風景だった。
白井は、このピンと張り詰めた寒稽古特有の空気が好きだった。稽古に没頭している間は、少なくとも現実を忘れられる。
三十分後、自由稽古に入った。三分毎に相手を代え、試合と同じ形式で打ち合う。審判はいないが、相手の打撃が有効かどうかは分かる。一本取られたときは、竹刀を下ろし、静かに一礼してまた立ち向かう。この繰り返しだった。抜き面の得意な白井は、竹刀の切っ先の微妙な揺れで相手の攻撃を察知し、一瞬にして飛び込んだ。まだ三十一歳と若く、高校時代、インターハイに出場したこともある白井は、本気になればまず負けることはなかった。公務員のなかでは、刑務所、拘置所よりも警察の方が遥かに武道のレベルは高い。所轄署対抗の定期戦に備え、強い選手を奪い合い、全日本クラスがゴロゴロいる警視庁なら白井も並の選手だろうが、ここでは、敵はいなかった。
しかし稽古は違う。一方的に打ち込んで完膚無《かんぷな》きまでに叩きのめせば、次の日から誰も相手をしてくれない。外部から隔絶された拘置所内の人間関係にもヒビが入る。まして一般職員も多く参加する寒稽古ならなおさらだ。白井は二本とると一本は相手にとらせるようにしていた。相手の攻撃の出端《ではな》を狙う出小手は、みみっちい感じがして好きではなかったが、稽古では積極的に使ってみた。不得手な技を繰り出すことで、得意技にも幅が出る。稽古ならではの効用を頭に置いて、相手を務めた。
五人目、小柄だが、がっちりした体格の男が白井の前に立った。互いに礼をし、竹刀の切っ先を合わせる。そのとき、気づいた。面金の奥の柔和な視線。定年間近の職員で、名前を高田正造といった。
関東拘置所剣道部のOBでもある高田は端正な剣筋が特徴だった。それほど強くはないが、基本にのっとったキレイな竹刀捌きをする。まず、白井が抜き面と出小手を一本ずつとり、次いで高田が抜き胴をきめた。高田と竹刀を合わせると、気持ちが清々《すがすが》しくなる。人格者で通る高田の人柄が出た剣道ゆえ、だろう。
三分が経過し、互いに礼を交わす。このとき、高田の視線が、訝しげに歪んだのを見逃さなかった。白井はこの瞬間、心が動いた。高田なら──。
午前八時、寒稽古を終えた白井は、更衣室で手早く着替えを済ませると、高田に声を掛けた。短く刈った胡麻塩頭と、エラの張った四角い顔。防具袋に防具をしまい込んでいた高田は、白井を認めると、目尻に皺を刻み、柔らかくほほ笑んだ。
「今日は一本、とらせてくれてありがとうよ。こんなジジイに気を遣うなんて、おまえも苦労してんだな。栄光のインターハイ選手なのによ」
軽い口調で言った。
「高田さん、ちょっと訊きたいんですけど」
「なんだい」
面を面紐で縛りながら応える。
「自分の剣道、変でした?」
高田がゆっくりと振り返った。柔和な視線が注がれる。
「変というか、重かった気がするな。なんか、背中に鉛をしょい込んで、力任せに打ち込むような剣道だった。一言でいえば、強引な剣道だ」
白井は目を伏せ、ひと呼吸置くと、口を開いた。
「高田さん。今日、時間とれませんか。相談にのってもらいたいことがあるんですが」
正面から高田の顔を見て言った。
「いいよ、おれもこの春で定年だ。久しぶりにおまえと酒も飲みたいしな」
白井の意気込みをはぐらかすかのような、あっさりとした物言いだった。現在、総務部勤務の高田は、定時の五時で終わりだ。今日、夜勤明けの白井も、丸一日、休みだった。場所については、白井から提案した。
「自分の部屋ではどうでしょう」
「おまえ、いまでも官舎住まいか」
「はい、独身の自分には広すぎる部屋です」
自室の場所を説明して、高田と別れた。
白井は管理棟の端にある武道場を出ると、帰宅の途についた。といっても、官舎は拘置所の敷地内にある。歩いて五分の距離だ。
小ぎれいな公団住宅を思わせる集合住宅が、有刺鉄線を張り巡らした壁の内側に沿って、まるで獄舎への外部の目を遮断するかのように、ズラリと並んで建っていた。職住接近、というやつだったが、家族持ちは大変だろうな、と独身の白井はいつも思う。ランドセルを背負った子供や、買い物のポリ袋をぶらさげた主婦が、警備員の配置された要塞の入り口のような鉄の扉を潜って、官舎のあるエリアを出入りする光景を見るにつけ、砂を噛むような気持ちにとらわれてしまう。凶悪な犯罪者と四六時中、顔を突き合わせた職員の日常は、どこかに歪みを生じさせる気がする。しかも、家族も同じ塀の中にいるのだ。自分が結婚したとき、果たして官舎住まいで耐えられるだろうか、家族共々、有刺鉄線を張り巡らしたこの塀の中で暮らせるだろうか。
もっとも、いまはまだ、気楽な三十男の独身生活が続いている。それに官舎も、現実の生活に照らし合わせれば、利点は多々あった。なにより、民間の十分の一近い破格の家賃と、満員電車に揺られることのない、抜群の通勤条件は、それだけで十分に魅力的だ。
白井の部屋は、五階の東端だった。八畳と六畳の二部屋にダイニングルーム。それにバス、トイレ。関東拘置所は、荒川と綾瀬川に挟まれる形で建っていた。窓の向こうには塀を隔てて綾瀬川の淀んだ流れと、対岸の首都高速三郷線が見える。朝の渋滞にひしめくクルマのエンジン音が風にのって僅かに聞こえる。白井は、熱いシャワーで汗を流すと、そのまま六畳間のベッドに潜り込んで睡眠を貪った。3 その電話が加瀬の仕事場に入ったのは、昼の二時だった。パソコンに向かい、総合月刊誌のコラム記事をまとめているとき、デスクの固定電話が鳴った。
≪加瀬さん、ですね≫
静かで低い、確かな自信を感じさせる男性の声だった。加瀬は仕事柄、電話の第一声で、相手の素性を推し量ることができる。この声は管理社会で生きる人間のもの、と直感した。年の頃は三十前後か。ともかく、初めて聞く声だった。ならば、あいつに違いない。心臓が跳ねた。冷静を装って訊いた。
「どなたでしょう」
≪ナリタセイジと申します≫
成田聖司。長谷川が割った携帯電話の持ち主。当たりだ。成田は続けた。
≪あなたが一昨日、お入れになった留守電を聞きましてね。少し逡巡いたしましたが、お話だけでもお伺いしようと思いまして。いったいどのような目的でわたしに連絡をくださったのでしょう。わたしの携帯の番号をどこでお知りになられたのかもお聞きしたい≫
冷静な声だった。加瀬は受話器を握り締め、ほくそ笑んだ。成田聖司は、二番目の犠牲者の関係者だった。それも、特別な関係の──。
穂積の毒牙にかかり、命を落とした犠牲者の名前は吉本《よしもと》貴子《たかこ》。都内の女子大に通う二十歳。殺された現場は、新宿歌舞伎町の裏通り。深夜、ビルとビルの間の穴蔵のような隘路《あいろ》へ引きずり込まれ、強姦、殺害されていた。加瀬は静かに語りかけた。
「わたしがお聞きしたいのは、吉本貴子さんを失ったあなたの怒りと悲しみです。それと、わたしは穂積の関係者、犠牲者の家族、当時の捜査関係者等、考え得る限りの取材を敢行しています。そのなかで、あなたのことが出てくるのは至極当然の成り行きだと思いますが」
≪では、この携帯の番号も?≫
「もちろんです」
きっぱりと言った。沈黙が流れた。加瀬は待った。受話器の向こうで、焦《じ》れて口を開こうとする気配が伝わる。微かな吐息が漏れ、成田の声がした。
≪貴子は、わたしの恋人でした。結婚を約束していました。それがあのような事件に巻き込まれてしまい、すべては終わったのです≫
「お気の毒としかいいようがありません」
憐憫と同情を込めて言った。
≪あなたは、雑誌に事件記事を書かれるのですか?≫
「いえ、書き下ろしの単行本です」
息を呑む音がした。
≪あの事件だけで単行本なんて無理でしょう≫
声のトーンがわずかに高くなっていた。動揺している証拠だ。
「大丈夫です。とっておきのネタがありますから」
軽く牽制した。
≪それはわたしですか? 犠牲者の恋人が警官になっていたという事実なら、女性誌の記事がせいぜいだと思いますがね≫
「成田さん、あなたの話だけで本になるなんて、それは無理ですよ。ただ、わたしはあなたのことはどうしても入れたい。作品に厚みを与える意味でも、諦めるわけにはいかないのです」
≪断っておくが、わたしはなにも話しませんよ。わたしの気持ちをご理解ください≫
犠牲者の恋人、八年前の事件──いまさらほじくり返してどうする。傷口に塩を擦《す》り込むような真似は止めてくれ──成田の懇願が聞こえたような気がした。ここらが潮時だった。加瀬はとどめの切り札を放った。
「実は、穂積がわたしに全面的に協力していまして」
成田が絶句した。まだ見ぬ警察官の、驚愕の顔が見えた気がした。加瀬はたたみかけた。
「拘置所で最高裁の死刑判決を待つ穂積が、わたしと面会し、事件のすべてを語っているのです」
≪そんなバカなことが──≫
信じられない、という声だった。
「事実です。だから、わたしはあなたに会いたいのです。でなければ、一介のフリーのモノ書きが、わざわざ現職の警察官に連絡なんてしませんよ」
≪本当に、穂積は事件のすべてを語っているのですね≫
「あなたにウソを言って得になることなどありませんよ。詳しいコトはお会いして話しませんか。なんなら、今晩でもどうです」
加瀬は一気に詰めた。成田は、加瀬の勢いに押されるように、午後七時以降なら、と答えた。殺人鬼、穂積壱郎に恋人を殺害された男の悲痛な叫び。作品にグッと厚みが出るのは間違いなかった。加瀬は、今夜会う約束を取り付け、電話を切った。
午後五時三十分。白井の部屋を高田が訪ねてきた。腕には、貰い物というウィスキーのボトルを抱えている。白井は、八畳間に置いた応接セットへ案内した。高田は周囲をグルリと見回すと、感心した口ぶりでこう言った。
「男の一人暮らしはウジが湧く、と言うが、キレイにしているじゃないか」
実際、部屋はきっちり整頓してある。毎日の掃除機は欠かさなかったし、衣装箪笥の中はパンツ一枚に至るまで、キチンと畳んである。もちろん畳にはチリひとつ落ちていない。性分なのだろう、身の回りは常に整えておかないと、気持ちが落ち着かなかった。そのための労力を惜しいと思ったことはない。
「官舎住まいは慣れてしまうと、これほど経済的で便利なものはない。しかし、いつかは出ていかなきゃならないんだよな」
自分の半生を振り返るような口ぶりだった。高田は結婚後、三十代半ばで千葉県の新興住宅地の建売り一戸建てを購入したという。定年後は、都内の警備会社に再就職が決まっているらしい。
白井は、近くのスーパーで買い込んだ総菜、鳥の空揚げやポテトサラダ、生ハム等を皿に盛り付けてテーブルに並べた。ビールをコップに注いで、頭をペコリと下げる。
「せっかくお招きしながら、たいしたもてなしもできませんが、どうぞ摘まんでください」
高田は、気を遣うな、と言わんばかりに手を振り、コップを傾けた。
「で、話というのはなんだ」
雑談のあと、口火を切ったのは高田だった。すでにビールからウィスキーに代えている。白井は目を伏せ、唇を噛んだ。
「仕事のことだろう」
「はい」
「刑務官がいやになったのか」
沈黙。両手に包み込むようにして持ったカットグラスの中で氷が溶け、カランと鳴った。白井は眉根を寄せてウィスキーを呷《あお》ると、顔を上げ、口を開いた。
「怖いんですよ、高田さん」
「怖いって、何が」
白井は意を決して言った。
「死刑執行がです」
「おまえ、担当するのか」
「順番からいって、そろそろだと思います。いつかは来る、と覚悟していましたが、実際に自分が担当することを考えると、怖くてたまらないんですよ」
高田は目を細め、諭すように言った。
「関東拘置所に配属された以上、それは職務としてまっとうしなければならない、われわれの義務だ。こういっては何だが、執行を無事終えれば、おまえも一人前の刑務官として胸を張っていいんじゃないか」
白井の耳を、高田の声が素通りしていく。おれは、こんな月並みな言葉を聞きたくて、高田に会ったのではない、との思いが突き上げた。腹を据え、口を開いた。
「高田さん」
「なんだ」
強ばった白井の表情にただならぬ雰囲気を感じ取ったらしい高田は、鋭い視線を飛ばしてきた。白井は、その視線を正面から受け止めて語った。
「われわれ刑務官は、受刑者を矯正して、社会復帰させるのが仕事ですよね。つまり、教育者だ。自分は、そういうプライドを持って、受刑者に接してきました。ところが死刑になってしまえば、その人間の持つ可能性も、歯軋《はぎし》りして悔やんだ悔恨の情も、すべては無駄になるわけですよね。人の命を奪って、何が教育者だ、と自分は思うわけです」
高田が答えた。
「だが、死刑確定者は受刑者じゃない。つまり、死刑を執行されて、はじめて刑に服するわけだ。受刑者となったときはもう死んでいるんだから、教育も何もない。死刑制度が悪いというなら、人の道を外した凶悪事件を引き起こすヤツはもっと悪い。当然の報いだな」
自信に溢れる言葉だった。白井は苛立った。膨れ上がる疑問を抑えることができなかった。
「高田さんは何人の執行に立ち会ったんです」
唇が焼け付くような言葉だった。高田の頬がグリッと動いた。視線が固く尖る。初めて見る、険しい形相だった。
「聞いてどうする」
問われて、返す言葉がなかった。
「執行を命ぜられた際の参考にするのか、ああ、人殺しの先輩によ」
揶揄《やゆ》するような口調だった。白井はカラになったグラスを握り締め、俯いた。後悔が胸を刺す。人格者で鳴る高田を、怒らせてしまった。やはり、言わなければよかった──そんな白井の気持ちをよそに、高田が言った。
「いいだろう。教えてやろう。八人、やったよ」
白井は顔を上げた。高田はボトルを掴むと、自分のグラスにウィスキーを注《つ》ぎ足し、喉に投げ入れるようにして飲み干した。
「おれは八人だ」
酒臭い息とともに吐いた。目が赤く充血している。その血の涙が浮いたような目は、おまえは定年まで何人殺すんだ、と言っていた。
「白井、刑務官の服務規程には、死刑の執行に関する記述はない。しかし、これは間違いなく、おれたちの仕事だ」
白井は息を呑んだ。赤黒く染まった顔が、表情を一変させていた。あの好々爺《こうこうや》然とした柔和な視線はすっかり消え、代わりに挑むような悽愴の色を帯びている。
「おれはあとふた月で定年だ。おまえに、全部教えてやろう。どうやって殺すかをな」
部屋の空気がギリギリと音を立てて軋む。額を脂汗が伝う。白井は、高田の顔を凝視しながら、自分が承知している死刑の知識を反芻《はんすう》していた。
最高裁で死刑判決が決定すると、その瞬間から収容者は死刑確定囚となる。面会は親族と弁護士に限られ、外部との手紙のやりとりも制限されてしまう。これが交通権の喪失である。死刑囚は、死刑執行で初めて刑をまっとうしたことになるため、その間は未決囚として扱われることになる。懲役囚に科せられる労務作業も無く、独居房でひたすら執行の日を待つことになる。死刑の確定から、実際の執行までは個人差があるが、概《おおむ》ね、五、六年だった。
そして、法務大臣が死刑執行命令書にサインをした瞬間から、死刑に向けての歯車が動き出す。刑事訴訟法第四七六条にはこう記してある。『法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない』と。
法務大臣のサイン押印された執行命令書は、検察庁の黒塗りの公用車で拘置所まで運ばれる。白井ら若い職員は、この公用車を密かに「霊柩車」と呼んでいた。
死刑囚への執行言い渡しは、拘置所長自らが行う。この言い渡しは、二十年以上前までは前日言い渡しが通例だったが、関東拘置所の場合、昭和五十年代から即日言い渡しとなっている。つまり、言い渡しがあったその日に、死刑執行となるわけだ。白井は、以前、ある先輩から即日に変更になった理由をこう聞いたことがある。
「前日に知らせると、死刑の恐怖に耐える時間を徒《いたずら》に引き伸ばすばかりで、かえって苦しめることになる」と。
だが、もう一人の、いまはもう退職してしまった先輩は、皮肉な笑みを浮かべてこう言った。
「前日だとわれわれ刑務官の余計な仕事が増えるだろう。面会人への手配もしなくちゃならないし、死刑囚監房の監視を強化する必要もある。しかも、死刑執行を察知した人権派の弁護士、市民団体の連中が大挙して押しかけてくるから、マスコミも注目する。簡素化、利便性を重視し、世間の目をごまかすには、即日言い渡しの執行が一番いいんだよ」
しかし、この先輩も、実際に自分が執行を担当した経験については、曖昧な言葉で濁すだけで、頑として明かさなかった。
「白井」
高田が呼びかけた。
「おまえ、刑場に入ったことがあるだろう」
予期せぬ言葉にうろたえつつ、答えた。
「はい、あります」
刑務官なら、誰でも刑場の内部の様子は知っている。定期的に掃除当番を割り振られるためだ。執行の日に備えて、日頃から掃除、点検が行われている。
刑場は、拘置所の広大な敷地の北東の方角、木立の中にある。外壁が灰色の、公園の管理事務所を思わせる建物だが、玄関の代わりに頑丈な観音開きの鉄扉が付いており、窓の類は一切ない。鉄扉を開けて入ると、分厚いコンクリートで固められた内部は夏でもひんやりとした空気が漂っており、正面に祭壇が設けられている。死刑囚はここで教誨師《きようかいし》と最後の儀礼を行う。線香が焚かれるなか、読経に合わせて唱和し、キリスト教徒なら聖歌を歌い、聖書の言葉を唱え、犠牲者の冥福を祈るのだ。白井は、初めてこの刑場に足を踏み入れたとき、線香の香りと共に、すえたような異様な臭いに取り巻かれ、吐き気を覚えた。あれは、間違いなく死の匂いだった。しかし、不思議なことに、それは二度目からはまったく感じなかった。
「実際の死刑場ってのは、世間で言われているようなものじゃない」
高田の言葉に、白井は頷いた。言わんとしていることは分かる。十三階段のことだ。映画やテレビでは、十三階段を一歩一歩昇る場面が、死刑の象徴的なシーンとして描かれる。白井も、実際にこの目で刑場を見るまでは、十三階段があるもの、と信じていた。しかし、違った。
祭壇の隣に白いカーテンが降りており、そこを開くと、一段高くなった刑壇がある。広さは縦一メートル五十センチ、横一メートル。死刑囚は目隠しと手錠をされ、刑壇の上に立つことになる。ここは鉄板が張られており、真ん中で二つに割れるようになっている。
「いいか、白井」
目を据えて、高田が語りかけてくる。もう、逃げられなかった。
「世間じゃあ、死刑囚はみんな、真人間になって、悟りの心境で昇天していくと思っているようだが、そんなの真っ赤なウソだ。たしかになかにはそういうヤツもいるさ。しかし、希有《けう》な例だ。ほとんどのヤツは恐怖に震えながら運ばれていくんだよ」
高田は、まるで毒でも飲むように顔をしかめ、グラスを飲み干した。その顔が、酔いか、それとも興奮のためか、赤く膨れている。
「執行の朝、死刑囚監房から連れ出すのは、警備隊員だ。この時点で、恐怖のあまり、小便を漏らすヤツも、泣き喚くヤツもいる。荒れ狂って抵抗するヤツも、腰が抜けて立てないヤツもいる。だが、警備隊員は屈強な人間ばかりだから、有無を言わさず引き出す。刑の執行日が決められたら、延期は絶対にない。力任せだよ。引きずるようにして刑場へ連れていくと、教誨師の読経もそこそこに、後ろ手に手錠をはめ、目隠しをして、刑壇に立たせる。そこでおれたちの出番だ」
グラスをテーブルに置くと、前屈みになって顔を寄せた。熟柿の匂いに似た息がかかる。
「刑壇で待ち構える刑務官は二人だ。白い新品の手袋をはめた手で、ひとりがまず首に天井から滑車で吊るされた白麻のロープをかけ、もうひとりが両足の膝を縛る。次いで直立させて、鉄板の上にちゃんと乗っているか、確認するんだ。傍らに立つ保安課長が、すべて滞りなく済んだことを確認すると、合図を送る。この合図を受け取るのは、電動式の五つのボタンの前に並んだ五人の刑務官だ。こいつらが、ボタンを一斉に押す」
高田は、白井を凝視したまま、親指でグイッと押す仕草をした。
「すると、鉄板が二つに割れて、死刑囚は真っ逆さまに落ちていく。昔はボタンを押す役はひとりだったが、負担が大きすぎるということで五人に増えたんだ。五人だと、誰のボタンが当たったか分からず、罪悪感にとらわれることも無い、という上の親切心らしい。もっとも、殺すことに変わりはないがね」
冷笑を浮かべて続けた。
「死刑囚が落下した先はコンクリートで囲まれた地下室になっていて、ここにも二人の刑務官がいるんだ。なぜだかわかるか?」
白井は息を詰め、大きくかぶりを振った。
「ロープが捩れて、もの凄いスピードで回転するんだ。まるで独楽《こま》みたいにな」
「人間の身体が、ですか」
思わず訊いていた。高田はゆっくりと頷いた。
「そうだよ。宙吊りになった身体が、ブンブン回るんだ。落下した死刑囚は床から三十センチのところで止まるよう、ロープは身長に合わせて事前に調整されている。首は若干伸びてしまうが、それも計算済みだ。そして、首を吊られた人間は身体中の穴の筋肉がいっぺんに緩む。そのままだと、糞尿が服から染み出して、辺りに飛び散ってしまうことになる。だから、抱きつくようにして止めてやるわけだ」
高田は両手を広げ、抱える仕草をしてみせた。
「すると、白い手袋をはめた手のひらから伝わってくるんだ。酸素を求め、大きく波打つ肺と、最後まで全身に血を送り続ける心臓の動きだ。バクン、バクン、と音も聞こえる。コンクリートの壁に反響してな。おれは初めて経験したとき、鼓膜が破れそうだった。身体の中で、何か別の生き物が暴れ回っている感じだな。あれが断末魔のあがき、というんだろう」
「でも、首の骨が折れて、即死なんでしょう。そう聞いたことがあります」
白井の願望を含ませた問いに、高田は「違うな」と小さく呟いた。
「即死が瞬時に命を断ち切られる、という意味なら、違う。まだ生きているんだよ。死亡の判定は、階段を降りてきた二人の医官が行う。ひとりは心臓に聴診器を当て、もうひとりは脈を取るんだ。同時に、ストップウォッチで、吊るされてから死ぬまでの時間も計る。死亡の判定が下るまで、だいたい十二、三分だ」
「そんなに長い時間ですか」
呻くように言った。
「相手は健康で頑健な身体なんだ。生命力が違う。なにせ、複数の人間を殺した極悪人だからな。一般人より、ずっと強い身体を持っている。簡単には死なないさ」
高田はズボンのポケットを探り、ハイライトの箱を取り出すと、「吸っていいか」と訊いた。白井は慌てて、来客用のブリキ製の灰皿を差し出した。高田は緑色の百円ライターで火を点けた。眉間に皺を寄せて、大きく吸い込むと、フーッ、とため息をつくように、紫煙を吐き出した。そして、視線を宙に漂わせながら呟いた。
「こんな話を知っているか」
視線を白井に向ける。
「死刑に失敗した話だ」
死刑に失敗──白井は息を呑んだ。
「いや、正確に言うと、失敗しそうになった話だな」
「知りません」
「あくまでも噂だから、真偽のほどは分からないが、今から三十年以上も前に起こったコトらしい」
高田は淡々と語った。
「何がまずかったのか、今では知る由もないが、死刑囚を吊り下げた瞬間、ロープが滑車から外れて、そのまま床におっこちたそうだ」
「死刑囚が?」
「そうだ。普通は落下のショックで首の骨、つまり頸骨が砕かれ、その時点で意識を失うらしい。しかし、死刑囚はこのとき、コンクリートの床の上で全身をくねらし、凄まじい悲鳴をあげてバタバタ跳ねていたんだ。可哀想に、死刑囚は生きていたんだよ。だが、約四メートルの高さから、後ろ手に手錠をはめられたまま受け身もなしに落ちたんだから、タダじゃ済まない。ひどい打撲を負ったんだろう、口と鼻から血の泡を噴いていたらしい。所長以下、職員一同は、眼前の想像を絶する出来事に、喚くやら、頭をかきむしるやら、大騒ぎだ。死刑は執行されたのに、手痛いミスのおかげで死刑囚が生きているんだからな」
「ちょっと待ってください、高田さん」
喘ぐように白井は言った。
「あなたはさっき、失敗しそうになった話、とおっしゃったじゃありませんか。それだと、完全に失敗した話──」
言葉が止まった。高田は首を振っている。吸いさしのハイライトを指先に挟み、突き付けるようにして言った。
「まだ終わっちゃいない。話はこれからだ」
目の奥が怪しく光った。ブリキの灰皿で煙草の火口を捻った。低い、石を擦り合わせるような声が、部屋中に満ちた。
「いちばん慌てたのは、下で待ち構えていた刑務官二人だ。悲鳴をあげ、鮮血を吐きながらのたうち回る死刑囚を前に、ピクリとも動けなかった。そのとき、上から所長の怒鳴り声がした。なんとかしろッ≠ニ。所長はパニック寸前だったろう。死刑の失敗なんて前代未聞の大失態だ。自分の経歴の重大な汚点になってしまうのはもちろん、もしこれが表沙汰になったら、死刑廃止を唱える勢力に大きな力を与えることになる。それ、みたことじゃない。そんな残酷極まりない制度は即刻、止めるべきだ≠ニ。世論も一気に同調するだろう」
高田は、新しい煙草を抜き出すと、火を点けた。それは、目の前の白井をわざと無視するかのような、ゆっくりとした仕草だった。ジリジリと時間が流れていく。
「で、どうなったんです」
たまらず、白井は声を出した。高田はしわぶきをひとつ、漏らすと、語り始めた。
「刑務官にとって、上司の命令は絶対だ。ひとりが動いたんだよ。なんとかしろ≠ニいう言葉に従ってな」
「動いたって……」
言葉が掠れてしまう。
「痛みと恐怖で絶叫し、のたうつ死刑囚の上に馬乗りになり、鮮血を浴びながら、襟首を持って絞め上げたんだ。夢中だったろう。渾身の力を振り絞り、五分、十分、絞め上げた」
「周りの職員はどうしたんです」
「みな、凍ったように動かなかったらしい」
「じゃあ、死ぬまで……」
高田は頷いた。
「そうだ。死刑執行完了、ということで、失敗は闇から闇へと葬られた」
「その刑務官はどうしたんです」
「極限の状況にありながら、職務を忠実に遂行したということで、所長からは内々に報奨金が出たらしいな。それよりも、問題はその後だ」
「問題?」
「おまえも知ってのとおり、順番が回ってきたにもかかわらず、死刑執行の担当に任命されない刑務官もいる。家族に不幸があって喪中だとか、女房が妊娠中の刑務官だ」
白井は頷いた。生まれてくる子供に何かあったら、という、いわゆる因果応報に結び付けてしまうことを避けるため、妊娠中の妻を抱える刑務官は死刑執行が免除される。高田は続けた。
「その刑務官も、子供が生まれる予定なんてなかった。ところが当日、疲労困憊して帰宅すると、女房が嬉しそうな顔で妊娠しました≠ニ報告したんだな。事前に、死刑執行の担当になった、と家族に言うバカはいないから、無邪気な女房の笑顔を見て、慄然としたらしい。それはそうだ。死刑の執行に携わればただでさえ気にするのに、思わぬアクシデントに見舞われ、死刑囚とはいえ、苦しみ悶える人間を自らの手で殺したんだからな」
「じゃあ、その刑務官はひとりで苦悩を抱えこんで……」
「ああ、子供が生まれるまでは心配でたまらなかったらしい。五体満足で生まれるのか、なにか障害はないか、とな」
「生まれた子供はどうだったんですか」
「別に問題なかったらしいな」
あっさりとした物言いだった。
「取り越し苦労ってやつだ。そもそも、子供の誕生を、自分の仕事と結び付けること自体がおかしいんだ」
高田は、そう言うと、唇の片端を曲げて、自嘲的な笑みを漏らした。
「こんな話をするなんて、どうかしているな、今夜のおれは」
カラのグラスを掴むと、顎をしゃくった。白井は慌ててボトルを傾けた。
「ペラペラ、くだらねえことを喋っちまった」
琥珀色の液体を生《き》のまま流し込み、フーッと熱い息を吐くと、きっと睨《ね》めつけた。
「ついでに言っちまうが、お上《かみ》が死刑の存続を決めている以上、それを執行する人間がいる、これは当然だ。しかし、実際に手をくだす人間の気持ちは、本人しかわからないと思う。もし、それがイヤなら刑務官を辞めるしかない。簡単なことだろう」
「高田さんは辞めようと思ったことはありますか」
ふっと視線が和らいだ。頬を緩ませ、高田が微笑んだ。胡麻塩頭の好々爺。いつもの笑顔だった。
「さあな。でも、辞めていたら、負けた気がしたと思う。敗北感を一生、背負っていかなきゃならなかったろう」
「何に負けてしまうんですか」
「おれの抱えている現実ってやつだよ」
さらりと言うと、グラスを傾けた。深い皺を刻んだ横顔に、冥《くら》い色が浮かんでいた。白井は、もう、触ってはいけない、と言い聞かせた。夜が更けていた。窓の外に、凍った闇が降りていた。
午後九時、成田聖司は、約束の時間ちょうどに現れた。山手線大塚駅から上野方向へひとつ目の巣鴨駅前。待ち合わせた場所はファミリーレストランのチェーン店だった。入り口の自動ドアが開き、現れたその姿を見た瞬間、この男だ、と直感した。黒いコートを左腕にかけ、右手に茶色の革製の書類鞄を提げている。遠目には、仕事帰りのサラリーマンにしか見えない男はドアを入るなり、ふっと、首を捻り、肩にホコリでもあったのか、軽く手で払った。だが、加瀬は、男が一瞬、背後に視線を飛ばしたのを見逃さなかった。
加瀬は、目印代わりにテーブルに置いた週刊誌を、指先で叩いた。店内は混み合う夕食の時間帯を過ぎ、閑散としていた。
男はゆっくりと店内を見回し、加瀬を認めると、軽く会釈をして、足早に歩み寄ってきた。グレーのスーツに、七三に分けた短めの髪。身長は百八十の加瀬より少し低い程度か。だが、上半身は遥かに厚く逞しい。首が太く、筋肉の締まった体躯をしていた。
「加瀬さん、ですね」
成田は柔らかな目元と、薄い形のいい唇、小ぶりの鼻の、優し気な風貌の男だった。しかし、その視線の奥には、一枚の刃のような鋭さが秘められている。
「電話では失礼いたしました」
加瀬は立ち上がり、一礼した。二人は、テーブル越しに向かい合う形で着席した。成田の立ち居振る舞いには、一分の隙もなかった。さりげなく、観察を続ける。
「こんなに遅く、申し訳ありませんね」
「ああいう含みのあることを言われた以上、来ないわけにはいかないでしょう」
低く静かな声音だった。電話では感じられなかった、どこか哀切さを帯びた、染み入るような声だった。
水の入ったグラスを運んできたウェイトレスに、成田はブレンドコーヒーを注文し、加瀬も、同じものを、と頼んだ。気まずい沈黙が訪れる。加瀬はゴホン、と大仰《おおぎよう》な咳払いをし、懐から名刺を取り出した。
「フリーのライターをやっております」
成田は、受け取った名刺をテーブルの上に置き、軽く頷くと、自分の名刺を差し出した。
「成田聖司です。堅い職業ですが……」
そう断った。現職の警察官。たしかに堅い職業だ。何をいまさら……だが、手に取った名刺に視線を落とした瞬間、血の気が引いた。名刺にはこう記してあった。『警視庁 警務部人事一課』と。
脳裏を、あの長谷川の電話がよぎる。──携帯の番号だけでよかったんだよな──意味深な物言い。その意味がいま、分かった。警務部人事一課とまでは予想もしなかった。喉がひりつき、身体が強ばった。加瀬は、視線を素早く左右にやり、店内をチェックした。
「大丈夫ですよ。加瀬さん、これはプライベートなことですから」
成田が、加瀬の心を読み取ったかのように言った。加瀬は態勢を立て直した。
「あんた、監察官だろう」
正面から斬り込んだ。しかし、成田は、表情を毫《ごう》も変えることなく、答えた。
「そうです。さすがは事件専門のルポライターだ。大した観察力ですね」
視線を据えてきた。心中のうかがえない、氷のような目だった。この男が監察官……加瀬は初めて見る本物の監察官を前にして、腋に冷たい汗が浮いてくるのを感じた。コーヒーが運ばれてきた。加瀬は一口すすり、動揺した心を鎮めた。
警務部人事一課に所属する監察官は、警察内部の警察、ともいうべき存在だった。監察には、所轄署毎に警務課員が署員の内規違反を調査する所属内監察から、全国警察本部に対する警察庁の特別監察まであるが、その中で最も恐れられている監察が、警務部人事一課による監察である。
彼らは、重要な問題を抱える警察官、主に犯罪に絡む可能性のある警察官を、極秘に調査し、張り込み、尾行を繰り返し、その身辺を徹底して洗う。調査の内容は、暴力団関係者や前科者との癒着、男女関係、金銭トラブル等である。そして、クロと判明すると、一気に追い込む。
警務部人事一課監察官の最終目的はただひとつ。問題のある人物の、警察からの追放だ。退職金も年金も出ない懲戒免職をちらつかせ、必要とあらば、事前に調べ上げた詳細な住宅ローンの内容から子供の教育費用まで持ち出し、依願退職に同意するよう、持っていく。因果を含めて追放してしまえば、仮に将来、不祥事がマスコミの手で暴かれたとしても、すでに警察を自主的に退職した人物、と知らぬ存ぜぬで通すことができる。
人事一課の監察官は内部で「ゲシュタポ」と呼ばれ、畏怖されているが、それだけに筋金入りのエリート揃いである。まず警察大学を上位の成績で卒業し、所轄署に配属された後も抜群の実績を挙げた者が、選抜の対象となる。この中から、署長の推薦で公安警察に入り、そこでも優秀な成績を残した者のみが、警務部人事一課に配属されることになる。目の前の成田は、幾多のハードルを越え、選ばれた筋金入りの監察官だ。ならば、その言葉を額面通りに信じることはできない。
「成田さん、あんた、フリーのライターなんかに会っていたことが分かると大変でしょう」
軽く牽制してみた。途端に成田の顔が蒼白に染まった。目の辺りに険が浮かぶ。
「どういう意味ですか」
「おれとあんたの間には何の接点もない。ならば、われわれが一緒にいたら、どう見ても情報提供だ。公安の尾行なんかあったら一発ですよ」
「貴重なアドバイスをありがとうございます。だが、わたしもこの道のプロだ。尾行はないと確信できたから、ここまで来たんです。それに、探られて痛む腹でもないしね」
自信に満ちた表情だった。
「だいたい、呼び出したのはあなたでしょうが」
成田の頬が強ばった。
「わたしは血も涙もない機械じゃない。遠い昔、貴子と一緒に生きた時間は、わたしの人生のなかで至福のときだった。いまになって、そのことがよく分かります。わたしは、職業柄、自分の感情を極力抑えて生きてきた。今回の取材もできることならお断りしたい、無視したい。だが、あなたはあの穂積の信頼を得て、肉声を引き出しているというじゃありませんか。相当、優秀なルポライターでいらっしゃるんでしょう。獄中の連続強姦殺人犯に接触するなんて、普通の人間にはとても考えつくことじゃありませんからね」
皮肉めいた物言いに、加瀬は薄い笑みで応えた。成田はコーヒーカップを取り上げ、ゆっくりと口に運んだ。カップをテーブルに戻し、再び口を開いた。目が充血していた。
「穂積と特別な関係を築いたと言われれば、犠牲者の関係者としては無視できる話じゃない。だから、こうやって、あなたの指定する場所にやってきたんですよ。あなたの狙いを確かめるためにね。興味本位で取材なんかされたらたまらない。犠牲者の霊も浮かばれないでしょう。こう言っては悪いが、所詮、あなたは第三者です。愛する女性を、一緒に生きていこうと誓っていた女性を、頭の狂ったケダモノに弄《もてあそ》ばれ、殺された男の気持ちなど、分かりっこないんだ、未来永劫に」
一気に語り終えた成田は、ガックリと首を垂れた。警察官という仕事に誇りを持つ男のプライドが、辛うじて、慟哭《どうこく》を抑えているように見えた。加瀬はテーブルの上で両手を組み合わせ、静かに語りかけた。
「成田さん、率直に言いましょう。おれはこの作品に自分のライター生命を賭けている。覚悟を決めているんです。おれは、生涯に二度とないチャンスに遭遇している。作品の質を高めるためなら、何でもする。悪魔に魂を売り渡してもいい。おれは、あんたの話が欲しいんだ。怒りとか、哀しみとか、絶望とか、事件の当事者でなければ絶対に分からない話が欲しい。おれは、それを作品の中で生かしたい。成田さん、あんたの話を無駄にはしません」
成田が顔を上げた。
「加瀬さん、穂積はなんと言っているんです。反省とか後悔とか、そういうことを口にしていますか?」
加瀬は首を振った。
「あれはそんな殊勝な人間じゃない。情のかけらもない化け物ですよ。そんな男に殺された貴子さんの無念の幾分かは、おれにも分かると自負している。でなければ、ただただバカみたいに歩き回って周辺取材を続けて、あんたという存在に突き当たることも無かったはずだ。おれは、あんたのことを知ったとき、背筋が震えましたよ。成田さん、すでに察しているとは思うが、おれがあんたに接触を試みた理由は、その職業にある」
成田の眉がピクリと動いた。加瀬は続けた。
「あんたが警察官という職業を選択したその背景には、貴子さんの非業の死があるはずだ。でなければ、有名国立大学の法学部に在籍して、弁護士を目指していたエリートのあんたが、ノンキャリの警察官を志望するはずがない。違いますか?」
「それも取材で得た情報ですか?」
「足で稼ぐのがわれわれの商売ですから」
成田は軽く頷くと、視線を宙に漂わせた。加瀬は唇を噛んだ。一歩も引く気はなかった。ここが正念場だった。身を乗り出し、成田を睨んだ。熱っぽい空気が、首筋の辺りを覆った。
「貴子は苦学生でした」
ため息のような声だった。
「母一人子一人。奇《く》しくも穂積と同じ境遇ですよ。しかし、常に前向きでした。アルバイトに励み、学資はすべて自分で稼いでいました。あの夜も、歌舞伎町の料亭で仲居のバイトの帰りでしてね。割の良いバイトだと頑張っていました。終電間際まで働いていたから、駅まで最短距離の、ひと気のない路地を走っていたんです。そこを穂積に襲われ──」
成田は、吉本貴子が高校時代の後輩で、貴子の大学卒業を待って結婚する約束をしていたこと、二人の関係を周囲には伏せ、密かに愛を育《はぐく》んできたこと等を明かした。そして事件当時、法学部四年だった成田は、弁護士を目指していたが、事件をきっかけに警察官を志望、警視庁に入ったこと、三十になった今も、まだ結婚する気にはなれないことなどを、ポツリポツリと語ってくれた。加瀬は無言のまま耳を傾けた。成田の受けた衝撃と怒り、絶望が、加瀬の脳を焦がした。
「ああ、もうこんな時間ですか」
夜十時を回っていた。成田は、座席の脇に置いたコートと鞄を手に取ると、向き直った。
「今夜はこれで失礼します。明日は早いので」
加瀬は慌てて背筋を伸ばし、頭を下げた。
「お会いできてよかった。感謝しています」
「加瀬さん、あなたもご承知のように、わたしは世間のひとから見れば極めて特殊な仕事に就いている。そこでお願いなんですが──」
成田の固い視線が加瀬を捕らえた。
「わたしの話を作品に反映させるか否かはあなたの自由だ。ただし、ひとつだけ、条件があります」
「なんでしょう」
「本にまとめる際、わたしの名前は伏せて欲しいのです」
「分かりました。だが、職業は書かせてもらう。監察官にまでは言及しませんがね」
強い口調で言った。成田の視線が尖った。加瀬はたじろがなかった。
「あんたが警察官だから、おれは接触したんです。こればかりは譲れない。事件の怒りがあんたの人生を変え、警察官を選択させた。この事実を無視しろ、というのは、おれに筆を折れ、と言うことです」
ふっと成田の表情が緩んだ。
「分かりました。いい作品になることを祈ってますよ」
加瀬は息を吐き、全身の強ばりを解いた。成田が立ち上がった。加瀬も続いて腰を上げようとしたそのとき、成田が口を開いた。
「そうだ、あなたにどうしてもお聞きしておきたいことがあったんです」
低く重い声だった。加瀬は首を捻った。
「穂積の裁判報道などを読むと、あの男は死刑が怖くない、というようなことを言っていますね。それは今でも変わらないのですか?」
「ええ、恐怖心とかはまったく無いようです」
「でも、精神鑑定の結果は正常だったんですね」
「その通りです」
いったい、成田は何を言いたいのだろう。加瀬には予想もつかなかった。
「では、なぜ上訴したのでしょうか」
「え──」
言葉が出なかった。ガツン、と頭を殴られた気がした。その通りだ。なぜ、上訴したんだ?
将来、確実に訪れるであろう死刑に、微塵も恐怖心を抱いていない穂積を、加瀬は半ば畏怖していた。穂積の、その常識では推し量れない精神構造に、加瀬は魅かれ、取材にのめり込んできた。だが、死刑は怖くない、と明言しながら、一審、二審の死刑判決を受け入れず上訴し、最高裁判決を待つ穂積。たしかに矛盾がある。気がつかなかったわけではない。ひっかかるものはあった。それでも、死刑がほぼ確定した男への憐憫のようなものが、その疑問を鈍らせていた。が、成田のいまの一言で目が覚めた。頭を覆っていた霧が晴れていく。同時に、得体の知れない恐怖が襲ってきた。おれは、穂積に取り込まれているのか? 獄中にいるあの殺人鬼に……。
「死刑が怖くないなら、潔く死ねばいいんですよ」
怒気を込めた成田の声が、頭蓋の中で、木霊《こだま》となって鳴り響いた。加瀬には言うべき言葉がなかった。所詮、無責任な第三者。悄然とうなだれ、うちひしがれた自分の哀れな姿を前に、成田が一瞬、口元に微笑を浮かべたような気がした。
美知子は今夜もひとりだった。冷たい部屋と、淀んだ空気。テレビの白っぽい画面から流れるニュース。午後十時。ソファに座り、パジャマ姿の美知子はペラペラとよく動くキャスターの唇に、ぼんやりと見入っていた。テーブルには、半分食べただけのカップ麺。すっかり冷えて、化学調味料のイヤな臭いを放っている。このテレビのキャスターの年収は確か二億円だった。以前、女性誌で読んだことがある。でも、喋りは上手いけど、話している内容は頭に残らない。時折、悲しげに顔を歪めたり、笑ったりするけど、瞳の奥は冷え冷えとしている。早くこのつまらない仕事を終えて家に帰りたい、風呂に入ってナイトキャップを飲《や》って、あったかいベッドに入って眠りたい、という態度が見え見えだ。これで年収二億円は高いと思う。庶民の味方ぶるのはやめなさい、と声を大にして言いたいな、わたしは──。
二日前、パートのレジ打ちの途中、倒れて以来、頭の芯が痺《しび》れている気がする。夫には何も伝えていない。言えば、いらぬ詮索をするだろう。そう、心配ではなく、詮索だ。夫は、ひとの裏側を探るのが病的に好きなのだ。職業とプライベートの境目が、もはや滲んで消えているのだ。だから、夫には教えてやらない。所詮、他人なのだから、なにをされるか分かったものじゃない。
ちょっと待って、いま、他人と言った? 自分の夫のことを他人と? 両腕で胸をかき抱き、奥歯を噛んだ。目をギュッと閉じる。精神のコントロールが利かない。耐えられるだろうか。夫が、あの仕事を終えるまで、我慢できるだろうか。取り乱し、パニックに陥らないだろうか。黒々とした不安が胸を抉る。いや、この自分が、何も言わなければ、それで終わりなのだ。そうだ、分かるわけがない。あんなこと、いったいどうやって知るというの。冷静に考えれば、何も心配いらないのに、やっぱりわたしはどうかしている。心身共に消耗しきっているから、悪い方へ、悪い方へ、考えてしまうのよ。そうだ、何も気に病む必要はないのに。ホッと安堵の吐息をついた。そのとき、声がした。
──またもや、十代の少年による暴力事件です──
目を開いた。テレビ画面。あのやる気のないキャスターが、重々しい口調で言っている。
──民家に侵入して主婦を脅し、現金を奪い──
やめて¥ャさく叫んだ。耳を両手で覆い、屈みこんだ。テレビの向こうで悲しそうな顔で言ったって、どうせ他人事じゃないの。もう、追いかけないで。調べないで。そっとしておいて。なんで、わたしばかりこんな目に遭うのよ。やっと忘れようとしていたのに。もう少しだったのに。本当? 本当に忘れられるの? あんな酷《ひど》いこと、忘れるわけないでしょう。胸に秘めたまま、生きていこうなんて、虫が良すぎるのよ。おめでたいのよ。
隆史さん。心の中で叫んだ。隆史さん、早く、帰ってきて。そして、わたしを抱き締めて。あなたの肌で、わたしの凍えた心を暖めて。でも、あなたの口から、あのことが出て来たら、わたしはいったい……いえ、あなただって……。
美知子は頭を抱え、目を固く閉じた。自分の抱える魂が、闇の彼方へと落下していく。出口は見えなかった。そして、一筋の光さえも。
面会室のガラス板の向こう、穂積壱郎が見つめていた。
「分かりましたか?」
冷静な口調と、一段高みから見下すような視線。今日は、その化けの皮を引き剥がしてやる。加瀬は挑むように言った。
「なにが」
いつもとは明らかに違う、加瀬の口調に、穂積は眉を顰めた。
「なにがって、至高ですよ」
「いや、分からない」
突き放すように答えた。
「どうしました、加瀬さん。今日はなにか、怒っておられるようだ」
柔らかな声で言った。加瀬は、意を決して言葉を投げた。こいつは所詮、変態の人殺し、と胸のうちで罵りながら。
「きみは死刑が怖くないらしいね」
「ええ」
シレッと答えた。
「怖くありませんよ」
「なぜ?」
加瀬の問いに、穂積の視線が細くなった。
「教えてくれよ。穂積くん」
ガラス板の手前に張り出した、幅三十センチほどの木の板の上に両手を組み合わせ、上半身を乗り出して訴えた。
「おれは死ぬことは怖い。死に至るまでの過程で、どんなに苦しむかと思うと、気が狂いそうになるくらい怖い。交通事故かなんかであっという間に死んだら、と思うが、その瞬間の激痛はきっと凄まじいはずだ。それに、人間は死の直前、自分の一生を早回しのフィルムみたいに回想するというだろう。それも悲しくてやりきれない。寝ている間にポックリいくのも、心構えができてないからイヤだ。死んでいるのに、まだ生きている、と思い込んで、この世をフラフラと彷徨《さまよ》うかもしれない。自分が幽霊になるなんて、それこそ死んでもイヤだ。長生きしてボケて死ぬのも、自分の死を覚悟できないから御免こうむりたい。結局、自分が死ぬことを考えると、おれは聞き分けのない駄々っ子みたいになってしまう」
穂積の形のいい唇に、うっすらと笑みが浮いた。白い肌に仄かに赤みがさしている。加瀬はここぞとばかりに、言葉に力を込めた。
「翻ってきみは、最高裁が上告を棄却し、死刑が確定してしまうと、ひたすら執行を待つことになる。五年先、あるいは十年先、必ず死ぬ日がくる。しかし、それは当日まで分からない。毎日、毎日、死の音に耳を澄ますことになる。しかも、最後は首をロープで縛られ、突き落とされて死ぬんだぜ。首の骨を折り、惨めに糞尿を漏らしてさ」
ゴホン、と咳払いが響いた。右隣に立つ刑務官が、チラッとこっちを見た。咎《とが》める視線が、面会に相応《ふさわ》しくない会話、と言っている。前回と同じ、ずんぐりした刑務官だった。名前は白井。加瀬は、軽く会釈すると穂積に向き直り、口調を柔らかなトーンに変えた。
「穂積くん、おれは、そんな残酷な死に方には耐えられないよ。今日か明日か、と待つ間におそらく、神経に異常をきたしてしまうと思う。なぜ、きみは怖くないんだ?」
「生きている、ということが幻だからです」
透明な、抑揚のない声だった。加瀬はかぶりを振った。
「そんな観念的な言葉でなく、もっと具体的に説明してくれ」
「わたしの肉体は、生きている間、死を実感することはない。あなたは、自分は違う、実感しているから怖い≠ニ反論されるだろうが、死んだことのない者が、死を実感した、と語るのはまやかし、ペテンです。そして、死を実感したその瞬間から、わたしの肉体は存在しないのだから、死はそこに存在しない。それゆえ、死という概念そのものが幻なのです。おわかりですか」
加瀬は拳を握り締めた。
「でも、われわれはこうやって生きている。生きていること自体は幻ではないだろう」
穂積は肩をすくめ、語った。
「直情的なひとだ。単細胞、といってもいいかもしれない」
侮蔑するような笑みを漏らすと、続けた。
「だから、死が幻ということは生もまた幻なのですよ。つまり、生と死を分かつ境界線など、存在しないのです。もっと言えば、生と死は同じであり、生きようが死のうが、魂は永遠なのですよ。だから、わたしは死ぬことなど、何も怖くない。怖がる理由が無い、といってもいいでしょう」
加瀬は、この禅問答めいた会話に終止符を打つ頃合いだと判断した。頬を緩ませ、静かに語りかけた。
「じゃあ訊くけど、なぜ上訴したんだ? 怖くないなら、一審の判決を潔く受け入れて、死ねばよかったんじゃないか?」
言いながら、顔が火照《ほて》った。成田が指摘した、もっともな疑問。将来を約束した女性をレイプされた揚げ句、嬲《なぶ》り殺された男の怒り。加瀬の胸に、希代の殺人鬼を追い詰める快感が湧き上がった。穂積の動揺を見逃すまいと凝視した。が、穂積の冷然とした表情は崩れない。ぽつりと呟いた。
「誰に入れ知恵されたんです?」
「えっ」
言葉が詰まった。ガラス板の向こうから、すべてを見透かすような、深く透明な視線が据えられている。
「加瀬さんがそんなことを言うはずがありません。わたしはあなたのこと、よく知っているもの。誰かにそそのかされたんだ。そうでしょう?」
背筋に汗が浮いた。視線を逸らし、唇を引き締めた。沈黙が流れた。隣に立つ刑務官の白井が書面台のノートを所在無げにめくる。迷っている。面会を打ち切る頃合いか。
「せっかくの面会時間を無駄にする必要はありませんよ」
朗らかな穂積の声がした。顔を向ける。春の日だまりのような笑顔を浮かべていた。
「上訴した理由をそんなに知りたいのですか」
加瀬は頷いた。
「至高に会ったからですよ」
素っ気なく言った。加瀬は、渇ききった喉を引きはがした。
「では、至高が命令したのか?」
「至高に命令された、なんて言ったら、あなた、逃げたと思うでしょう。わたしが至高の存在に責任転嫁をして逃げた、と」
穂積は顔をしかめ、イヤダ、イヤダ、と呟いて続けた。
「そんな単純なことじゃありません。至高はもっともっと高みにいるんです。わたしは自発的に上訴したんですよ」
「だって至高に会ったから、と言ったじゃないか。いま、そう言ったろう」
難詰する口調になっていた。
「それは間違いありませんよ」
「じゃあ、なんで──」
「至高を見ていたいんです」
頭が混乱した。独房に幽閉され、五年後か、十年後か、いずれにせよ、間違いなくロープに吊るされ、死んでいく男が、いったい何を見たいというのだ?
「そのうち、教えてあげますよ」
からかうように言った。穂積は楽しんでいる。自分は、穂積のオモチャになっている。
「おい、穂積!」
怒声が出ていた。何か言わないと、このまま、ガラスの向こうからいいように操られてしまいそうだった。
「ああ、そうだ、加瀬さん。わたしも人間だということを教えてあげますよ」
人間──何のこと? わけが分からず、加瀬はただ穂積を見つめた。
「わたしが拘置所で唯一、不便を感じていること。それはモーツァルトです」
「モーツァルト?」
「独房の中にいると、無性に聴いてみたいときがあるんですよ。たしか高名な文学者だか評論家が言っていましたよね。あれは人間どもをからかうために、悪魔が生み出した音楽だ≠ニね。わたしもそう思いますよ。だって完璧すぎるもの」
そう言うと、ニコッと笑った。
「ね、人間らしいでしょ」
穂積とモーツァルト。加瀬は虚をつかれ、言葉が出なかった。
「面会を終わります」
白井の声がした。ノートを閉じ、顎をしゃくって穂積を促す。穂積は素直に立ち上がった。加瀬は、冷たいパイプ椅子に腰を下ろしたまま、呆然と見送った。穂積は一礼し、小さく言った。
「プレゼント、期待してくださいね」
一瞬、何のことか分からなかった。ぷれぜんと、プレゼント──そうだ、前回の面会で穂積は約束したのだ。あなたにプレゼントを用意することにしました。わたしのことを、もっともっと知ってください、と。
分からない。面会に訪れるたびに、分からないことが増えていく。至高、プレゼント、上訴……もしかして、穂積に弄ばれている? そう思った途端、背筋を悪寒が這いのぼった。穂積。殺人鬼。初めて面会に訪れたとき、この男がなぜ、と思った。修行僧にも似たその風貌と、連続殺人が結び付かなかった。八年にわたる拘置所生活で改心したのだろう、と心のどこかで思っていた。いや、思いたかった。それは面会を重ねるたびに、強くなった。送られてくる手紙で、猟奇事件の詳細を知っても、どこか他所《よそ》の出来事のような気がした。目の前の穂積と、事件がどうしても繋がらなかった。しかし、いま、分かる。穂積の心は邪悪に塗《まみ》れている。それは、自分の想像を遥かに超えて、深く、冥い。
拘置所の外へ出た。冷たい風が頬を嬲った。鈍色《にびいろ》の空が、重く厚く、広がっていた。穂積のプレセントをどこかで期待している自分がいた。
「それで、ブツはいつ入るんです?」
小宮政春は、煙草を銜《くわ》えたまま言った。午前二時、亀有駅前。すっかり人通りの絶えた商店街の外れにあるスナック。隅のボックス席で、政春は、ひとりの男と向かい合っていた。年齢《とし》の頃は三十二、三。清潔な短い髪と、プレスの利いた紺のスーツ、実直そうな黒縁メガネ、柔らかな視線。公立中学の社会科教師、と紹介されたら信じてしまいそうな、穏やかな風貌だった。しかし、男の正体は、足立区から葛飾区にかけてシマを持つ暴力団『一心会』の若頭、岡野保《おかのたもつ》だった。
「今夜はいやに急いでいるじゃねえかよ」
岡野はゆったりとした口調で言った。両手をさりげなくテーブルの上で組んでみせる。欠けた小指と、金のカマボコリング。
「善は急げ、と言うじゃないですか」
政春は素っ気なく返した。紫のダボッとしたスーツに、胸元のゴールドのネックレス。指先で煙草を摘まむと、目を細め、フッと煙を吐いた。薄暗い、BGMさえない店内には、不気味な静寂が漂っていた。
隣のボックス席には、岡野の舎弟が二人。太ったスキンヘッドが猪瀬、背の高い骨張った身体のパンチパーマが田代だった。猪瀬は、眠たそうなトロンとした目で、ビールを啜っている。田代は、時折鋭い視線を飛ばして、政春の顔を窺っていた。どちらも黒のシルクシャツにボンタンズボンと、典型的なチンピラスタイルだった。
ボックス席の背後、カウンター席では、革ジャン姿の有松武男がひとり座り、顔を強ばらせて政春と岡野を見ていた。金髪の長髪に薄い眉、尖った視線。亮輔にシークレットルームでぶちのめされ、失神した名残が、顎の青黒いアザとなって残っていた。
客は他にいない。スナックは岡野が二十歳《はたち》そこそこの情婦にやらせており、閉店後はしばしば商談の場となった。
「カネは用意できたのか?」
岡野が言った。政春は唇をペロリと舐めた。
「もちろんです。でなきゃ、こうやって岡野さんのシマまでわざわざ出張ってきませんよ」
岡野は鼻で笑い、グラスのウィスキーを一口含んだ。カラン、と氷が鳴った。
「一週間もすれば入るだろう」
「幾らですか」
「グラム一万で売ってやる」
恩着せがましく言った。
「ただし、現ナマと引き換えだ」
政春は片頬を歪めた。
「岡野さん、おれ、少し調べたんですよ」
煙草をクリスタルの分厚い灰皿で押し潰す。
「なにを」
岡野が不快げに眉根を寄せた。
「小岩の族の連中にもグラム一万二千じゃないですか」
「差額が二千もあるだろう。感謝されこそすれ、文句言われる筋合いはねえやな」
「ヤツら、末端のユーザーですよ。でも、おれらは仲卸しです。売人、使ってるんですよ。利益、ほとんど無いじゃないですか」
「おまえら、グラム一万五千で売人に渡してんだろうが。ガキが、そんだけの小遣い稼げば上等だ」
せせら笑って言った。
「ちょっと待ってください。おれら、売人の面倒も見たうえで、小売りのルートを開拓したんですよ。その努力とリスクを認めてくださいよ。ブラッディ・ドラゴンを、頭のトロい族のガキどもと一緒にしないでください」
毅然《きぜん》とした物言いだった。ガタッとテーブルが動いた。隣のボックス席の田代が、目を吊り上げて仁王立ちになっていた。
「政春、おまえ、若頭にその態度はなんだ」
ドスを利かせて言った。
「大事なビジネスなんです。言うべきことはちゃんと言わせてもらいます」
淡々とした口調だった。カウンターでは武男が、拳を握り締め、ストゥールから腰を浮かせていた。
「このガキが、甘く出ればつけ上がりやがって!」
田代が唾を吐き散らし、一歩、踏み出そうとしたそのとき、岡野の鋭い声が飛んだ。
「待て」
田代が不満げに視線を向けた。
「政春の言う通りだ。これはビジネスなんだから、そう尖んがるな。おう、猪瀬」
「はい」
スキンヘッドの猪瀬が、小さく答えた。
「ヒカリもん、仕舞え」
猪瀬は、テーブルの下で抜いていたドスを手慣れた手つきで白鞘《しらさや》に収め、懐にそっと入れた。とろんとした目で政春を一瞥すると、つまらなそうにビールを啜った。カウンターの武男は、腰が抜けたように、ストゥールに座った。カチカチと鳴る奥歯をぐっと噛み締める。顔が蒼白に染まった。
「政春、族のガキどもは、おれらがケツ持ちをやっている。ゆくゆくは極道の世界に入りたい、というワルばかりだ。だから、特別に安い値段で流してやっている。まあ、先行投資だな。おまえらブラッディのケツ持ちも、おれら一心会だ。おれは、おまえのその度胸と頭をかっている。でなきゃ、一万なんてはした金でシャブ流すはずがねえだろう」
岡野が諭すように言った。
「でも、一万は高いです。一心会は韓国からグラム千円で仕入れているじゃないですか」
「ほう、そんなことまで知ってんのかい」
黒縁メガネの奥の目が光った。
「ビジネスに情報は不可欠ですから」
さらりと言うと、煙草に火を点けた。
「じゃあ、いくらならいいんだ? ええ、やり手ビジネスマンの小宮くんよ」
軽い調子で言った。
「グラム五千円でどうです」
力みのない声音だった。一気に半値。ヤクザのメンツを無視した暴挙。ゴクッと息を呑む音がした。カウンターの武男だった。目を剥き、全身を強ばらせている。沈黙が流れた。猪瀬と田代の視線が、政春に向けられる。岡野は首を傾げた。
「意味が分かんねえな」
ボソッと言う。政春は、煙草を一口吸うと、薄い唇を開いた。
「二キロ、買います。一千万、耳そろえてお渡しします」
岡野は、軽く頷いた。
「なるほど」
値踏みするような視線を向ける。
「二キロとは大きく出たな。ええ」
「おれらはブツが入る確実なルートさえあれば、まだまだビジネスを大きくできます」
自信に溢れた口調だった。
「政春よ、おまえ幾つになった?」
「十八です」
「ケツの青いガキだと思っていたが、いつの間にかおれと直《ちよく》でシャブの取引をやるとはな」
ククッと喉で笑うと、岡野は続けた。
「ブツが入ったら、連絡してやる。その代わり、きっちり一千万用意しとけよ。でないと、しっかりケジメ、とらすからな」
黒縁メガネの奥がギラリと光った。
「煮るなり、焼くなり、好きにしてください」
岡野はさも面白そうに、片頬を緩めた。
「いい覚悟だな、政春。中国の小汚ねえド貧乏なガキから、よくはい上がった。ほめてやるよ」
政春は毫も表情を変えず、頭を下げた。
「今後ともよろしくお願いします」
「ブラッディは一心会の盃を受ける気はあんのか?」
岡野が言った。政春は微笑した。
「冗談でしょう。おれにはヤクザ張っていけるほどの根性も度胸もありません」
岡野が目尻に皺を刻んだ。
「せいぜい稼ぎなよ」
「岡野さんの期待は裏切りませんから」
「おまえの相棒、どうした。亮とかいうヤツよ。ケンカが滅法強いって評判の野郎だったが」
亮──政春の瞳が凍った。
「あのやろう、とっくにフケました」
「マジか」
意外だという表情だった。
「ええ、いま、チンケなボクシングジムにいます。牛丼屋のバイトやって、メシもろくに食わず、汗水垂らして、ヒーヒー呻いていますよ。バカな野郎です」
「いい極道になる、と思ってたがな。そうか、ボクシングかい」
岡野は顎を撫ぜ、哀れむような目を向けた。
「おまえは頼りになる相棒に逃げられたってわけか。可哀想なヤツだ」
「冗談じゃないですよ。おれ、あんな根性なし、面倒みてやるほど、甘くはないですから」
政春は、憤然とした口調で言った。
「そりゃそうだ。政春、おまえはトップに立つ男だもんな。トップは二人はいらない」
黒縁メガネの奥、柔らかな視線が一瞬、冷たい、濡れた光を放った。
政春と武男は、冷え冷えとした街灯の下を歩いた。左右に下ろされたシャッターの壁が続く、シンと静まり返った商店街。夜の底で眠る薄汚れた街。コートを着込んだ政春は、両手をポケットに突っ込み、白い息をひとつ、大きく吐くと目をしばたいた。冷気が痛かった。
「大丈夫ですかね」
頭ひとつ、背の高い武男が遠慮がちに言った。
「なにが」
「岡野です。あのやろう、ただのヤクザじゃありませんよ。狡《ずる》くて、がめつくて、カネのためなら何だってやる外道《げどう》ですから」
「いいじゃないか」
「え」
武男がポカンとした顔を向けた。
「外道で結構。おれも同じだ。カネのためなら親でも殺すぜ」
武男は絶句した。政春は続けた。
「カネがなかったら、おれは、あいつが言ったように、ただの中国の小汚いガキだろう。岡野は、おれがカネを握っているから、ああやって時間をつくり、交渉の席にも着く。これからはモノホンのヤクザと五分で付き合っていくんだぜ。ヤバイ橋を渡らなくてどうすんだ」
「いや、おれ──」
武男が口ごもった。
「どうした、タケオ。ビビったのか?」
せせら笑うように言った。
「そんなんじゃありません」
言葉に力を込めた。
「ただ、ヘッドが焦ってるんじゃないか、と思って」
「なんだと?」
政春が足を止めた。見上げた顔が朱に染まっていた。
「タケオ、どういうことか説明してくれよ」
低い声で言った。湧き上がった怒気に気圧された武男は、肩をすぼめ、それでも消え入りそうな声で言った。
「シャブ二キロはやり過ぎなんじゃないかと。おれら、仲卸しを始めたばかりだし──」
「二キロだから効果あんだよ。一千万の現ナマをチラつかせたら、岡野の野郎、コロッと態度が変わったろうが。こっちに力あるとこ、最初にガツンと見せておかないと、結局、舐められちまうんだよ。タケオ、ヤクザなんかに媚売って、この先やっていけると思ってんのか。おれらブラッディはヤクザ、踏み台にしてのし上がるんだよ。おまえ、それがイヤなら、盃もらってもいいんだぜ。おれが岡野に頼んでやろうか、ああ。こいつ、ウチで使いもんになんないからあんたの舎弟にしてください、犬っころみたいに蹴飛ばして、こき使ってください、ヘタうったら指でもマラでもつめてください、ってよ」
一気にまくし立てた。
「いえ、そんな」
武男は唇を噛み、俯いた。
分かっている。政春は声に出さず、呻いた。自分は、亮に嫉妬している。ボクシングに没頭し、変わっていく亮を羨ましいと思っている。亮には絶対に負けたくない。勝って、嗤ってやりたい。負けるくらいなら、いっそ死んだほうがマシだ。武男の指摘は当たっている。自分は焦っている。先日、久しぶりに亮に会って悟った。亮が、自分の住む世界から飛び立ち、大きく羽ばたいてしまったことを。あのとき以来、自分の中で何かが砕けた。この日本に来てから、自分の中に溜まっていった怒りとか諦めとか、そういう黒々としたタールみたいなものを、かろうじて包んでいた薄い膜に亀裂が入り、流れ出している。
岡野のあの哀れむような目は、こう言っていた。相棒の亮輔を失い、おまえは拭い難いダメージを被っている。立ち直れるのか、極道と伍してやっていけるのか≠ニ。バカな。亮輔がいなくなったくらいでおれがヘコむと思ったら大間違いだ。武男の言う通り、二キロはやり過ぎかもしれない。シャブの取引の定石に従うなら、数箇所から仕入れるべきだ。その方がリスクも分散し、価格の駆け引きも柔軟にやれる。だが、まだるっこしいことをやる時間はない。これ以上、広く深くヤクザと付き合っていく気もない。早く、一日も早く、亮よりずっと高みに昇り詰めて、見下ろしてやる。そして、おまえはまだその程度か、おれはもうここまで来たぜ≠ニ言ってやる。
焦りと野望が腹の底でグツグツと音を立てて沸騰していた。政春は、舌の先をゴリッと噛んだ。激痛が脳幹を突き刺した。錆びた鉄の味が、口中に染みた。
その日は突然、訪れた。寒稽古終了後、シャワーで汗を流して拘置所へ出勤した白井は、勤務前の点呼時、警務部長から告げられた。
「本日、死刑執行を行う。次の者は速《すみ》やかに準備に取り掛かるように」
呼び出され、隊列から一歩前へ出た刑務官は白井を含めて十名。頭が真っ白になった。覚悟はしていた。しかし、いざ、自分の番になると、緊張と恐怖で足が竦《すく》んだ。殺す、吊るす、死刑執行人、国家公務員法による業務命令……これまで、幾度となく考え、反芻した言葉が、脳髄をギリギリ締め付ける。
ドンッ、と肩を叩かれた。白井は顔をしかめ、振り向いた。
「ぼさっとしてんじゃないぞ」
険しい顔をした先輩職員がいた。名前は後藤。四十代半ばの後藤は、普段は温厚な、中肉中背の、どこといって特徴のない男だが、この時は違った。目深《まぶか》に被った制帽の庇《ひさし》の下、刺すような視線がギラついていた。細い目が吊り上がり、唇を固く結び、睨んでいる。
「しっかりしろ!」
後藤は握った拳でもうひとつ、胸をドヤしつけた。ふっと我に返った。
「いいか、おまえはただ、おれの指示に従って動けばいい。余計なことは考えるな」
周囲の刑務官たちは、何事もなかったように、朝の職務に就くべく、動き出している。白井は、半ば放心して立ち尽くした。
「白井、ひとつだけ忠告しておく」
囁くような低い声で言った。
「相手の目を見るんじゃないぞ」
何のことか分からず、無言のまま後藤を凝視した。
「吊るすヤツの目を見たらおまえ、厄介なことになる」
吊るすヤツの目、厄介なこと──瞬間、白井は背筋を氷の塊で撫でられたように、ブルッと身震いした。鳥肌が立った。自分は死刑執行人だと、己の皮膚で実感した。
「分かりました」
掠れた声で答えた。
午前十一時。
拘置所の敷地内の片隅、すっかり葉を落とした木立の中に建つ刑場。冷え冷えとしたコンクリート造りの建物の中で、白井たちは、ただ待っていた。観音開きの鉄扉が、ゆっくりと開いた。死刑囚の登場だった。
屈強な警備隊員数名に左右前後をがっちり囲まれて、入って来た男は、悄然と頭を垂れ、細い肩を落としていた。灰色のセーターにゆったりとした作業ズボン。唇の分厚い、金壺眼《かなつぼまなこ》の痩せた小柄な男だった。腰縄をうたれ、手錠をはめられたその哀れな姿は、雨に濡れる野良犬のようだった。丸刈りの、でこぼこした頭は霜が降りたように白い。
還暦間近のこの男は、強盗傷害で五年の実刑判決を受けながら、刑期を終え、出所したその足で民家へ押し入り、一家四人を殺害、金品を根こそぎ奪った凶悪犯だった。最高裁での死刑確定後、六年と三月を独房で送り、この朝、死刑執行を告げられていた。
金属の軋む音とともに、鉄扉が静かに閉められた。窓のないコンクリートの部屋を、蛍光灯が白々と照らす。空調の音が低く重く、響く。カビ臭い空気が満ちていた。目をしょぼしょぼと瞬かせ、俯く男。ずらりと並んだスーツ姿、制服姿の男たち。立ち会い人は、拘置所関係者が拘置所長をはじめ、総務部長、警務部長、管理部長、教育課長、保安課長、医官二名、それに刑務官たち。他に担当検事、検察事務官、袈裟《けさ》を着込んだ教誨師二名も臨席している。
正面に設置された祭壇には蝋燭《ろうそく》が灯され、線香の束から太い紫色の煙がのぼっていた。祭壇の前には白い布を張った小卓が置かれ、生花と菓子や果物などの供物が供えられている。祭壇の右側には、白いカーテンが降りていた。その向こうは、死刑執行の場所、絞首刑の刑壇になっている。刑壇の下はコンクリートで囲まれた地下室で、ここでも、二人の刑務官が、首を吊るされ、落下してくる死刑囚を待っている。他にも五人の刑務官が、電動ボタン、刑壇の鉄板を開くボタンを前に、じっと待機していた。
背の高い黒縁メガネの拘置所長に促され、中央の丸椅子に座った男は、静かに口を開いた。
「煙草を吸わせてください」
落ち着いた声だった。四方を囲むコンクリートの壁のせいか、反響して聞こえた。スーツ姿の所長は軽くうなずくと、懐からマイルドセブンのパッケージを取り出した。警備隊員が手錠を外してやる。男は丸刈りの白髪頭を下げ、一本抜き出すと、分厚い紫色の唇にくわえた。所長がライターで火を点けてやる。男は脚を組み、金壺眼を細め、さもうまそうにくゆらした。
白井は、後藤とともに、白い手袋をはめ、祭壇の横に直立して執行のときを待っていた。後藤が首にロープをかける間、両足を縛る役目を与えられていた。
目の前の男は覚悟を決めている、明鏡止水《めいきようしすい》の境地に達している、と思った。落ちつき払い、泰然として煙草を愉しむ男を前にして、自分の、緊張でガチガチに強ばった全身が徐々にほぐれていくのを感じた。緊迫した部屋の空気も、心なしか和らいだようだ。白井は、自信が湧いてくるのを感じた。動揺することなく、上手く、スムーズに執行できるかも──粛々と自分の運命を受け入れ、黙って死んで行く男に、尊敬にも近い気持ちを抱いた。
男は、分厚い唇を尖らし、ゆっくりと煙を吐き出した。
「カステラもどうだ」
所長は笑みを浮かべ、そなえられた菓子の中から一切れのカステラを摘まみ上げた。
男は、大きくかぶりを振ると、吸いさしの煙草を指先に挟み、視線を落とした。背中を丸め、ぼんやりとした目でオレンジ色の火口を眺める。
「死にたくねえなあ」
ボソリと呟いた。瞬間、部屋中の空気が凍った。立ち会い人たちが、慌てて顔を見合わす。だが、声はなかった。男の頬が、痙攣《けいれん》したように震えた。
「なんで、六年も待たせて、突然殺すんだよ。お偉い大臣の気まぐれかね。ええ、所長さん」
男が、鋭い視線を所長に向けた。嗄《しやが》れ声を絞り出す。
「カネも権力もある大臣が、銀座の高級クラブでブランデーでも傾け、いい気分になって、ホステスのケツを撫でながら、そろそろ一人くらい殺してやるか、と思ったんだろう。そんでもって、ハンコをついたんだよな。そんなバカなことでおれは殺されなきゃいけないのかい」
地獄の底から湧いてくるような凄みのある声音だった。
「毎日毎日、コンクリートの壁を見つめてよう。お迎えが今日か明日か、と待つ身にもなってみなよ。おれは坊さんの説教も、神父さんの聖書の話も、いろいろ聞いてきた。安らかな気持ちで死んでいけるなら、と思って努力したよ。でも、無理だった」
重く低い声が、刑場の中に満ちる。居並ぶ立ち会い人たちの顔が強ばる。唾を飲み込む音が二つ三つ、聞こえた。
「なあ、所長さん。仏教とかキリスト教とか、いろんな宗教の人間がここへ出入りしてんのは、結局は拘置所のためなんだろう。凶暴な殺人犯をおとなしい柔順な人間に変えて、殺しやすくするために洗脳してんだよな。そういうことだろう。そして、羊みたいに柔順になって、殺し頃と判断したら、一気にやっちまう。そういうふうになってんだよな」
硬直した所長の顔に、みるみる汗が噴き出た。所長は、喉仏をゴクリと動かした後、口を開いた。
「きみとお別れするのは非常に辛い。きみが安らかに最期の時を迎えるのを、われわれ全員が祈っています。どうぞ立派に、お務めを果たしてください。そして、被害者の方々の冥福を祈り、謝罪してください」
妙に甲高い声だった。男は、フッと鼻で笑うと、再び俯き、短くなった煙草の火口に目をやった。
袈裟姿の大柄な教誨師が男の前に出ると、朗々とした重厚な語り口で最後の法話を行った。が、男は火口を見たままだった。煙草が燃え付き、灰になっても、その姿勢は変わらなかった。まるで彫像のようだった。男は、法話など聞いていなかった。うわの空だった。死刑への恐怖と怒りで、全身が固まっていた。このまま、無事に済むわけがない──白井は息苦しくなった。まるで部屋中の酸素を吸い取られたような。口を開けて喘いだ。動悸が鼓膜を打つ。
「なにか言い残すことはありませんか」
教誨師の厳《おごそ》かな声音が響いた。男は目を閉じ、分厚い唇を歪め、苦いものを飲み込むような表情をした。
保安課長が、白井と後藤に向かって目配せをした。蝋燭の炎が揺れた。後藤が一歩、前に踏み出していた。慌てて後を追う。突然、電流に打たれたように身体が竦んだ。読経が始まっていた。教誨師の腹の底からわき出る読経が、コンクリートの壁に反響し、烈風となって白井を襲った。ワンワンと耳鳴りがする。錯綜する木魚と鉦《かね》の音。喚きたてる読経。鼓膜がビリビリ震える。線香のむせるような匂いが鼻の粘膜に張り付いた。視界が揺れた。彫像になってしまった死刑囚が、大きくかぶりを振った。イヤダ、イヤダ、と全身で訴える。死刑に向かっていま、歯車が回り始めた。ゴトリ、という巨大な歯車の音が、白井の耳に確かに聞こえた。
後藤が男の肩に手を置き、立ち上がるように促した瞬間、「チキショーッ」と絶叫が響きわたった。小卓の倒れる音がした。菓子が、生花が、床に散らばる。男の剥いた眼球がこぼれ落ちそうだった。両手をメチャクチャに振り回し、暴れた。喉の奥が、ガハッ、ガハッと鳴っている。うまく聞きとれない言葉で、「イヤだ、助けて」と吠えていた。後藤が腰にタックルを食らわせ、雪崩込《なだれこ》むように押し倒した。警備隊員数人もワッと取り付き、男を押さえる。怒号と悲鳴が弾けた。
後藤は男の筋張った首を掴み、顎に手をかけ、強引に立ち上がらせると、背後から羽交い締めにした。自由を奪われた男は、それでも痩せた身体を強ばらせ、両腕を突っ張り、あたり構わず蹴飛ばして暴れ回った。口を大きく開け、舌を突き出して、悲鳴を上げた。まるで手負いの野獣だった。読経の声が、いっそう高く太く響いた。男は、子供が駄々をこねるように腰を落とし、歯を食いしばって抗った。灰色のセーターがめくれ上がり、痩せて萎《しな》びた腹が露になった。
死臭がムンムンと匂った。白井は、両手で耳を押さえ、その場にへたり込みたかった。拘置所長をはじめとするお歴々は、眼前で繰り広げられる凄まじい光景に何もできず、ただ立ち尽くしていた。白井の腰が、抜けたようにフラッと下がった。その時、尻を蹴り上げられた。制帽がふっ飛んだ。前につんのめりそうになりながら、振り返る。
「白井、これは職務だ、職務だぞ! 落ち着け、冷静になれ」
男を羽交い締めにした後藤が、強く低く言い、顎をしゃくった。
「刑壇だ、開けろ」
白井はひとつ、息を吐き、落ち着け、と言い聞かせた。床に転がった制帽を拾い上げ、被り直すと立ち上がり、白手袋をはめた手で祭壇の右隣の白いカーテンを引いた。滑車から吊るされた白麻のロープが、そこだけライトを当てたように、暗闇にくっきりと浮かんで見えた。
男は後藤に腕を捩《ね》じ上げられ、呻いた。動きがピタリと止まる。逮捕術の見事な応用だった。後藤と警備隊員らは男を抱え、一段高くなった刑壇へと強引に引き摺り上げた。同時に、両腕を後ろにねじって手錠をかけると、それを腰紐で身体に固定した。後藤が、鉄環で留められ、輪になったロープを引き寄せた。だが、男は激しく丸刈りの白髪頭を振り、身体を捩り、ロープを首にかけさせまいとする。
喉を絞るような悲鳴が迸った。突き出した舌まで使って、ロープを避けようとした。無駄な抵抗だった。警備隊員の一人に頤《おとがい》の部分をがっちり掴まれ、動きを止められた。ロープが、細い、皮膚の弛《たる》んだ皺だらけの首にすっぽりとはまった。白井の視線は、吸い寄せられるように、男の表情を追った。目尻から涙が流れ、黄色い歯を剥いて吠えていた。白い唾が飛ぶ。と、白井の全身が硬直した。目が合った。充血した金壺眼が、白井を見つめていた。動けなかった。
男の視線が、確かな意志をもって凝視していた。赤唐辛子を擦り込んだような赤い目が、助けてくれ、死にたくない、と命乞いをしている。だが、それも一瞬だった。男は、背後から白い布で素早く目隠しをされた。白井の脳裏で、充血した二つの目玉が、泣いていた。白井は、呆然とつっ立っていた。
「白井、脚を縛れ!」
後藤が叫んだ。我に返った白井は、腰から素早く細引きを抜き出し、片膝をついて屈み込むと、男の両脚に回した。筋張った肉が、ズボンの布地を通して伝わる。肌の温《ぬく》みさえ感じられた。指先が震えてうまく結べない。男の股間がみるみる濡れ、白い湯気があがった。ブッと脱糞の音がした。強烈な大便の臭いが漂う。恐怖で全身の筋肉が緩んでしまった死刑囚。白井の歯がガチガチ鳴った。身体中の細胞が震えていた。焦るほどに指先が踊り、時間だけが徒《いたずら》に経過していく。全身から汗が噴き出す。読経と鉦と木魚の大音響が耳を聾《ろう》して、どうにかなりそうだった。
「落ち着け、白井」
怒気を含んだ後藤の声が、頭上から降ってきた。なんとか結び終わると同時に、後藤の鋭い声が響いた。
「完了!」
白井は襟首を掴まれ、横へほうり出された。視界の端に、刑壇に立つ男の姿が見えた。首をくくられ、両手両足を固定された男は身体をイモ虫のように盛んにくねらせていた。が、その姿も一瞬だった。
ドカンッと凄まじい大音響が轟《とどろ》いた。刑壇の鉄板が真ん中から割れた音だった。保安課長の合図に従い、五人の刑務官のうち、一人が押したボタンが刑を執行していた。男は、白井の目の前で、暗闇に飲み込まれるようにして消えた。白麻のロープが身震いし、ビーンと鳴っている。医官がコンクリートの階段を降りていく固い靴音が、耳の奥で反響していた。いつの間にか読経は止んでいた。今頃、地下室では糞尿を撒き散らしながらクルクル回転する男の身体に二人の刑務官が取り付いているのだろう。跳ね返る心臓の音を聞きながら。
首の骨を砕かれ、大きく突き出した舌を歯で噛み切って、ぶらりと吊るされる男。心臓が止まり、完全に死ぬまで十二、三分。脈をとりながら、ストップウォッチを見つめる医官。白井の脳裏に、高田の言葉が飛び交った。法に則《のつと》った死刑の遂行。合法的な殺人。だが、合法的な殺人など、存在するのだろうか?──白井は、霞がかかった頭でボンヤリと、そんなことを考えた。
無表情な顔が、自分を見つめている。後藤が手をさしのべていた。白井は、刑壇の横に、尻餅をつく形で座っていた。
「おまえは運が悪かった」
囁くような声で後藤が言った。白井は、後藤の手を掴み、立ち上がりながら、訊いた。
「どうしてですか」
首を左右に小さく振って、後藤は答えた。
「普通のヤツならよかったのにな。よりによってあんな──」
言葉が止まった。言い淀んだあと、後藤が口を開いた。
「いや、運がよかったのかもしれない」
それは、独り言のように聞こえた。背後から押し殺した声がした。白井は振り返った。スーツ姿の男たちが集まっていた。
「驚きましたね」
「わたしが差し出したカステラを拒否したじゃないですか。あのときから、様子が変だな、とは感じたんですがね」
「一時はどうなるかと思いました。まさかあれほど暴れるとは──」
「それにしても凄いものですね」
「無理やり首にロープをかけたときは、さすがに目を閉じてしまいましたよ」
所長を中心に管理部長、総務部長、それに検察官らが、興奮を抑えきれない様子で身振り手振りを交え、話しこんでいた。白井は唇を噛み、視線をそらした。
その日の仕事は、午前中の死刑執行のみで終わりだった。白井は、封筒に入った特殊勤務手当二万円を受け取り、所内の風呂に入った。極力、他の刑務官と顔を合わせないようにした。ダウンジャケットとチノパンを着込み、外へ出た。空は真っ青に晴れていたが、風が強かった。このまま官舎へ帰る気にはなれなかった。特殊勤務手当二万円を一刻も早く遣い切りたかった。拘置所から少しでも遠くへ離れたかった。ダウンジャケットに両手を突っ込み、首をすぼめ、冷たい風に背中を押されるようにして、小菅駅へ向かった。
家族のある刑務官はいったいどうして過ごすのだろう
ふと、思った。死刑を終えた男は、妻とどんな会話を交わすのだろう。いったん疑問が湧くと、それはとめどもなく広がった。妻は死刑執行の実態を知っているのだろうか。男は人を一人、あの世へ送った手で、我が子を抱くのだろうか。そのとき、どんなことを思うのだろう。お父さんは今日、世のため、ひとのために、極悪人を殺してきたよ。そう胸を張って、言えるのだろうか。これはまともな仕事なのだろうか。白井の脳幹は白く痺れ、答えを求めて喘いだ。
東武伊勢崎線の電車に乗り、銀色に輝く荒川を越えた。電車は南千住を過ぎると地下へ潜り日比谷線へと繋がる。三ノ輪、入谷──虚ろな視線で、駅名のプレートを見やる。
上野で降りた。午後一時過ぎ。駅前の雑踏に身を委ねて歩いた。少しでも賑やかな場所へ行きたかった。クルマが渋滞した大通りを渡り、アメ横へと入る。通りの両側に魚屋、乾物屋、八百屋等の食材店がびっしりと連なり、客寄せのダミ声が飛び交うひと込みの中にいると、ほんの二時間前のことがウソのように思えた。死刑執行の四文字が、頭の芯で渦を巻く。
視線をめぐらした。アメ横の通りから延びる隘路に、焼き鳥屋があった。アルコールと焦げたタレの匂いが充満した薄暗い店内。ジャンパー姿の、ひと目で肉体労働者と分かるゴツイ男たちがたむろし、コップ酒や焼酎を啜っていた。赤銅色の顔で声高に喚き、笑い、怒声を上げる。白井も、カウンターのビニールを張った丸椅子に腰を下ろし、焼酎のお湯割りを注文した。とことん、酔ってみたかった。焼き鳥の串を片手に、焼酎を喉に流し込んだ。強烈な酒精が、頭の芯をほぐしていく。が、いくら飲んでも、醒めている部分がある。冷静に自分を観察する、第三者の目が、どこからか見ている。
真面目で職務に忠実な自分は、裏を返せば冒険を恐れる臆病者ということだ。臆病者だから、我を失うほど酔うことができない。自意識過剰で、第三者の目を異常に気にする小心者が、自分の正体だ。黙々とグラスを口に運んだ。五杯目を飲み干し、勘定をした。足元がふらついたが、まだまだ頭はしっかりしている。自分は完全に酩酊することはない、と思い知った。肥えた女将が告げた勘定は三千五百三十円。安い、と思わず心躍るケチな自分と、ポケットから引っ張り出した万札を差し出しながら、六千四百七十円と即座にお釣りを弾き出す、セコい自分がいる。
店を出て、小銭を数えながら舌打ちをした。特殊勤務手当二万円を遣い切るはずだったのに、こんな場末の薄汚れた焼き鳥屋で飲んでしまった自分が、惨めだった。所詮、この程度の男──。
奥歯を噛み、もっともっと冒険してやる、と自分を叱咤《しつた》した。これまでに経験したことのない、スゴイことをやってみたかった。見上げると、虚ろな視界にピンクの電飾で彩られた看板が目に入った。テレクラの文字。雑居ビルの三階。肩を怒らせ、大股で向かった。
エレベータを降り、一時間分の料金三千円を窓口の若い男に支払う。ベニヤ板で仕切られた個室に入り、電話を待つ。一度、二度、失敗した。着信音が鳴った瞬間、他で取られてしまった。が、自分には剣道で鍛えた反射神経がある、と言い聞かせ、身構えた。受話器に手を置き、目を閉じて精神統一する。無我の心境。リンのリの瞬間、取り上げる。繋がった。成功だ。甘ったるい女の声がする。ぶっきらぼうな口調でお茶に誘うと、女はあっさりOKした。冒険に一歩、足を踏み入れたと思うと武者震いがした。
待ち合わせ場所は丸井デパート前。途中で買ったグリーンガムをクチャクチャ噛んで焼酎の匂いを抑えた。鋭い視線を飛ばしながら、待った。
現れたのは、金髪の、口を半開きにしたボヤッとした顔の、まだ高校生くらいの女だった。白いセーターに、黒革のハーフコートを着込んでいる。頭の程度はともかく、スタイルは良かった。膝上十センチの短いスカートから伸びる長いスラリとした脚に、ワインカラーのロングブーツ。白井は角張った無骨《ぶこつ》な顔に精一杯の苦みを利かせ、女をガラス張りの喫茶店に誘った。女は素直についてきた。白井はガムを噛みながらホットコーヒーを飲んだ。喫茶店は混んでいた。ひといきれと暖房で汗ばむほどだった。ジンジンと頭が痺れていた。フワッと浮き上がるような感覚が、全身を包んでいた。焼酎の酔いが今頃になって回ったのだろうか。太い首を傾げ、眉根を寄せた。
目の前の女は、つまらなそうな顔で、アイスティーのグラスに突っ込んだストローをいじっている。寡黙な、渋い大人の男を演じるつもりだった。しかし、沈黙が続くと、小心者の自分は堪らなく不安になる。口を開こうとした。話題がなかった。歌謡曲のヒットチャートも、アイドルタレントのゴシップも、何も知らない。いったい何を話せばいいのか分からなかった。目の前の女に粘った視線を向ける。コートを脱いだ女。白いセーターを突き上げる二つの膨らみは、思いのほか高く隆起していた。生唾をゴクリと飲み込む。頬が火照った。
「ねえ」
女の厚ぼったい唇が開いた。
「なんだ」
素っ気なく言う。期待に胸が高まる。こんな喫茶店で時間を潰すより、手っ取り早くホテルに入りたいのか? カネさえ払えば、いつでも股を開く用意があるというのか? 淫《みだ》らな妄想が、際限無く脳ミソを駆け回る。
「おなか空いたんだけど」
パンパンに膨らんでいた期待が一気に萎《しぼ》んだ。しかし、白井はガックリと頭を垂れてしまいそうな落胆を強引に抑え込み、鷹揚《おうよう》な口調で答えた。
「なんでも注文しな」
女は、ミートソースのスパゲティを注文した。再び、シラけた表情で、ストローを弄んでいる。改めて考えた。自分が知っていること、話題にできること──自信を持って語れるのは、剣道と拘置所のことしかなかった。何か興味をひくこと、凄いことを言わなければ、と思った瞬間、口が勝手に動いていた。
「おれは人を殺したことがある」
ビクッと頬を震わせ、女が見上げた。大きく見開いた瞳に、好奇心と恐怖が色濃くあった。興味をひいている。白井はコーヒーカップを持ち上げ、女に目を据えたまま、啜った。女の顔が強ばった。白井はじっと凝視した。さっきまでの、堅物で小心者で融通のきかない、真面目なだけな自分とはおさらばだ、と声に出さずに笑った。
「おじさん、ヤクザ?」
女が眉間を寄せ、囁くように言った。ヤクザ──白井の頭で、苦い記憶が渦を巻いた。拘置所や刑務所で散々見せつけられた、ヤクザのフェロモンと、それに引き寄せられるとびきり美しい女たち。密かに嫉妬し、歯噛みする自分がいた。
「そう見えるか?」
低く言った。女はコクンとうなずいた。目に脅《おび》えが浮かぶ。人殺しのヤクザ。気分がいい。腹に溜まっていた不満とか鬱憤が、口元まで溢れてきた。二万円がなんだ、特殊勤務手当がなんだ。胸の内で激しく毒づいた。銀行の預金残高は、おそらく五百万円を超えているはず。社会のゴミでしかない犯罪者どもと四六時中顔を突き合わせ、クソ面白くもない生活を送ってきた代償としては安すぎるが、少なくとも、目の前の女くらいなら優に百人はモノにできるカネだ。ワルの自分が耳元で囁いた。やっちまえ、強引につっこんじまえ、この女を思う存分、いたぶってやれ。頭が痺れた。重々しく口を開いた。
「やらせろよ」
感情を抑えた、氷のようなトーンで言った。口の中が渇いた。ゴクリと生唾を飲んだ。耳の付け根まで火照った。
「なあ、やらせろよ。カネは払う。幾らだ?」
自分の声じゃないみたいだった。女の厚ぼったい唇が動いた。
「いいよ、三万円なら」
視線を落とし、脅えた声で言った。また、未知の冒険に一歩、足を踏み込んだ。犯罪者を教育し、更生への道筋をつけてやる拘置所職員が、ヤクザを装い、昼間からエンコーを……考えるだけで脳ミソがクラクラした。興奮した。視界が、捩れた。女の惚けた顔が、水アメのようにグニャリと伸びる。仏頂面のウェイトレスが、スパゲティを運んできた。目の前の女は身を固くしたままだ。
「そう怖がるな。せっかくこうやって知りあえたんだ。楽しくやろうじゃないか」
白井は目尻に柔和な笑みを刻んでみせた。女は首をすくめ、上目遣いに見た。
「五万円、やるぞ」
余裕の口ぶりで言った。
「ほんと?」
女が上半身を乗り出し、小さく訊いた。気分がよかった。
「ああ」
軽く顎を上下させた。
「おまえ、腹減ってんだろう? スパゲティ、食っちまえよ」
優しく、いたわるように言った。女はホッと息を吐いて緊張を解くと、フォークを取り上げた。
そこからはスローモーションのように、ヒトコマ、ヒトコマが、区切って流れた。女が、タバスコを盛大に振りかけ、フォークを突っ込み、口に運ぶ。顔を皿に近づけ、肘を張って食う、絵に描いたような犬食いだった。育ちが悪い女。外見とぴったりだ。タバスコをバカみたいに振りかけるなんて、悪いアタマが、もっと悪くなってしまうだろうが──タバスコの朱──足元から震えが這い上がった。白井は凍りついた。動けなかった。女の犬食いのせいじゃない。タバスコだ。一滴、一滴が、脳裏にへばり付き、ヌルッと濡れた。この朱色は、男の目の色だ。赤唐辛子を擦り込んだような、断末魔の視線。タスケテ、シニタクナイ、と訴えていた極悪人の目玉。死刑を目前にした男の恐怖と、自分の取り乱した醜態が蘇る。頭蓋で響く言葉、後藤のアドバイス。
──相手の目を見るんじゃないぞ。吊るすヤツの目を見たらおまえ、厄介なことになる──
本当だ。自分はもう、厄介なことになっている。あの男の目が、離れない。脳裏にへばりついたまま、熱したアメのようにベトベトに溶けている。鼻の奥に、男がひり出した大便の臭いが残っている。鉄板の割れるあの大音響が脳髄で響いた。胸がむかついた。空中で独楽のように回り、糞尿を撒き散らす死刑囚。胃袋が大きく隆起した。たまらず中腰になった。テーブルに両手を付き、背中を丸めた。込み上げる奔流を押さえ切れなかった。
女が、キョトンとした目で凝視している。口の周りにべっとり付いたミートソース。ニヤッと薄い笑みを浮かべてやった。ワルのフェロモン。耳の後ろでゴボッと音がした。何の前触れもなく嘔吐物《おうとぶつ》をぶちまけた。焼酎と胃液に塗れた未消化の焼き鳥がテーブルに飛び散り、女の金髪をぐっしょり濡らした。豚の悲鳴のような金切り声が、鼓膜を叩く。白井は、嘔吐しながら、天井を見た。クルリと一回転し、仰向けに倒れていた。幾つもの顔がのぞき込んでいる。怒った顔、蔑《さげす》みの顔、嘲笑した顔、好奇心を露にした顔。全員生の感情をストレートに出していた。
白井は、その顔をひとつ、ひとつ、凝視しながら、穂積のことを思った。感情の窺えない、冷徹な顔。あの顔は、死刑のときも変わらないのだろうか。あの男は、首にロープを巻かれ、コンクリートの地下室へ突き落とされて、それでも平然と死んでいけるのだろうか。自分は、たった一度、死刑執行の手伝いをしただけで、こんなに壊れてしまったのに──
冷静な第三者の自分が、宙に浮いて俯瞰《ふかん》していた。ゲロまみれで大の字になった自分。真面目で臆病で、自意識過剰で僻《ひが》みっぽく、嫉妬深くて、ウジウジ悩むだけの自分。翻って、穂積の気高さ、悟りの境地はどうだ。死を超越し、拘置所の独房で静かな日々を送る連続強姦殺人犯。すべてに中途半端で、生きることに汲々としている三十一歳の自分とは月とスッポンだ。
──運がよかったのかもしれない──
死刑執行後、無様《ぶざま》に腰の抜けた自分に手をさしのべ、哀れむように言った後藤。その意味が、いまよく分かる。薄れていく意識のなかで考えた。最初の死刑で、あんな酷いコトを体験してしまえば、この先、刑務官を続けるなどとても無理、という意味だ。自分は刑務官を辞めるのか。たったひとりの死刑執行で辞めてしまうのか。このまま刑務官を続けたら、定年まで何人、殺すのか? 辞める潮時かもしれない。確かに運がよかったのかもしれない。だが、だが──あの孤高の超人、穂積壱郎の死刑をこの目で見てみたい。忌まわしい殺人犯の分際で、刑務官である自分を畏怖させ、拭い難いコンプレックスを植え付けた男。本当に死ぬことが怖くないのか。手錠を後ろ手にかけられ、残酷極まりない絞首刑に処されるというのに、それでも穂積は泰然自若と死んでいけるのか……意識がフェードアウトした。白井はゆっくりと目を閉じた。
ふっと視線を感じて、加瀬は顔を向けた。午前十時。関東拘置所。陰鬱な雲が空一面を覆う、冷え込みの厳しい真冬日。面会受付所のカウンターで「面会願」にペンを走らせているときだった。
射るような視線が、ペンを握る加瀬の手元を見つめていた。さりげなく観察した。まだ十代とおぼしき男。短く刈った髪に、ダボッとした緑色のトレーナーと色の落ちたジーンズ。紺色のスタジアムジャンパー。目鼻立ちは整っているが、なめし革のような肌と、そげた頬、歪んだ鼻、太い首が、暴力の匂いをプンプン発散していた。身長は百八十の加瀬より少し低い程度か。しかし、ガッチリとした筋肉質の身体は、比べものにならないほど逞しい。ジャンパーの袖をまくりあげた腕は、しなやかな筋肉の束がうねり、指先で弾けばビンッと音がしそうだった。
加瀬には一目で分かった。こいつは暴走族や暴力団のチンピラなんかじゃない。トレーニングの専門家のメニューに添って、徹底して鍛え込まれ、無駄な肉をそぎ落としたプロの肉体だ、と。
「なにか用か」
静かに言った。若い男は、虚をつかれ、弾かれたように顔を上げた。
「あの」
言い淀んでいる。加瀬には、見当が付いていた。男が凝視していたもの。それは、加瀬が書き込んだ穂積壱郎≠フ名前だ。面会に訪れた友人か? しかし、二十六歳の穂積とは年齢が離れ過ぎている気がする。かといって兄弟でもない。穂積は母ひとり子ひとりだ。持てるデータと経験を駆使し、忙しく推測した。が、確たる回答は出てこない。加瀬は背を向け、窓口の刑務官に面会願を差し出した。
面会は一日一組と決まっている。早い者勝ちだ。仮に、この男が面会で来ていたとしたら、自分のやるべきことはただひとつ。先に面会手続きを行うことだ。加瀬はプラスチックの番号札を受け取った。六十八番だった。
「あの」
再び男の声がした。顔を向けた。今度は余裕があった。男は右手に白いものを握っていた。プラスチックの番号札だ。加瀬の脳が瞬時にひとつの回答を弾き出す。この男は穂積の面会に来たわけじゃない。面会すべき人間は他にいる。だとしたらなぜ? 疑問が膨れ上がる。と、背後から肩を押された。険しい顔をした大柄な極道が、「ジャマだ」と舌打ちして、通り過ぎる。面会受付所は通路の一部だ。真ん中に二人が突っ立っていたら、確かに目立つし、ジャマになる。加瀬は、外へ出るよう、顎をしゃくり、踵《きびす》を返した。面会人用の控室前で向かい合う。外気は冷たく、周囲には人影がなかった。
「穂積のことか?」
機先を制して言った。男は呆気にとられた表情で見つめた。
「きみは穂積壱郎を知っているのか」
加瀬はたたみかけた。男は横を向いて答えた。
「直接は知りません」
「なら、間接的には知っているんだな」
切り返した。
「ええ、まあ……」
口ごもった。
「どうしておれに声をかける」
男は俯いた。逡巡していた。が、それも一瞬だった。顔を上げ、ひたと見つめる。
「あなたは弁護士さんですか」
加瀬は頬を緩ませた。濃紺のスーツの上下に、灰色のコート。たしかに、ここではネクタイを着用した人間のほとんどが弁護士だ。しかし、まともな大人なら、フリーのモノ書きの持つ諦観とか猜疑心が染み付いた自分の顔つきを、まず弁護士と見誤ることはない。加瀬は、穂積を知るらしい、この若い男に興味を覚えた。
「おれが弁護士だとしたらどうする?」
「穂積は、やっぱり死刑になるんですか。おれ、それが聞きたくて」
消え入りそうな声だった。加瀬の胸に、残忍な喜びが湧いた。
「過去、事件当時十八歳の少年が死刑になった例はない、十九歳なら、幾つかあるがな」
男の顔に、ポッと赤みがさした。瞳の奥に、安堵の色が浮かんだ。持ち上げて落とす。加瀬は、一気に斬り込んだ。
「だが、穂積は間違いなく死刑だな。一審、二審ともに死刑を支持した以上、最高裁がそれを覆すとすれば、新しい重要な証拠、あるいはこれまで知られていなかった事実が明らかになり、冤罪の疑いが生じたとき以外はあり得ない。上告棄却でジ・エンドだ」
「だって、十八歳ですよ。少年法があるじゃないですか」
男が、強ばった顔で言った。
「つまらん知識だけはあるんだな」
加瀬が唇を捻って薄く笑った。
「本来、刑事罰は十八歳から適用されるんだよ。穂積は見ず知らずの五人の女性を犯し、殺している。情状酌量の余地はまったくない。穂積は人間の心などこれっぽちも無い、卑劣で残虐なケダモノだ。死刑は当然だろう」
男が息を呑んだ。表情に戸惑いと怒りがある。
「あんた、弁護士じゃないな」
不快感を露にした声だった。
「おれがいつ、弁護士だと言った」
男は唇を噛み締めて睨んだ。かまわず加瀬は言った。
「おまえ、だれの面会に来た。身内か、それともワルのダチか?」
「あんたに言う必要はない」
加瀬は唇を捻った。
「そりゃあ、そうだ。じゃあ、なぜ、穂積壱郎に興味を持つ? あんな変態の連続強姦殺人犯が死刑になったところで、おまえに何の関係がある?」
言ってしまってから、自分はどうしたんだろう、と思った。目の前の、名前も素性も知らない若い男を挑発する理由はどこにある?
日々、鬱積していく苛々のせいだ。塀の中の穂積に翻弄されている自分が惨めで情けなくてやりきれないのだ。加瀬は、少しばかりの後悔を滲ませ、口を噤《つぐ》んだ。男は憎悪の一瞥をくれると、面会人控室へと入っていった。加瀬も続いて入った。外は寒すぎる。加瀬は自動販売機でカップ入りのホットコーヒーを買い、最後列の長椅子に腰を下ろした。さっきの男は、加瀬の二つ前の長椅子の中央で背を丸め、俯いていた。加瀬は湯気のたつコーヒーを啜った。甘ったるい味が舌に染みた。
天井のスピーカーが割れた声でがなり立てた。
「六十番から六十六番までの方、中へお入りください」
加瀬は手元の番号札を見た。六十八番。舌打ちをくれた。男が立ち上がり、出て行った。その横顔は硬く尖っていた。
面会室の穂積は、いつもと変わらなかった。プレゼントがまだ届かないんだが、と言うと、ちゃんと手配していますから、と答え、まったく別の話題を振ってきた。それは四日前、執行されたばかりの死刑についてだった。
「大変な死刑だったようですよ」
薄い唇に、面白がるような笑みを浮かべた。
「死刑執行の直前に、大暴れして、職員のみなさんは大慌てだったらしい」
「本当か?」
加瀬は息を呑んだ。
「わたしがウソを言うわけがないでしょう。加瀬さんとわたしの間で、ウソを言って何の利益があります?」
穂積は頬を緩めた。死刑執行があったことは、加瀬も新聞報道で承知していた。しかし、死刑囚が暴れたとか、そういう事実は一切報道されていない。当然だ。死刑は国家の恥部だ。必要最低限の情報以外は、一切公開しない。それをなぜ、穂積は知っているのか? 死刑は、密室で、限られた人間のみの立ち会いのもと、執行されるはず……膨れ上がる加瀬の疑問をよそに、穂積は語った。
「よってたかって吊るしたんですよ。腕をねじ上げ、首にロープをかけてね」
深い湖を思わせる穂積の瞳を凝視しながら、変だ、と加瀬は思った。右横でペンを持つ刑務官を見やる。俯いたまま、微動だにしない。角張った顎に、がっちりとした上半身。確か白井という名前だった。通常なら刑務官は、収容者が拘置所内部のことを喋った時点で制止するはず。まして、死刑執行の具体的内容など、厳禁のはずだ。この白井は、加瀬の見たところ、規則を厳守する、ごく普通の刑務官だ。ならば、穂積を制止しないのはおかしい。加瀬は目を細めた。
「しかし、刑務官のみなさんも大変だ」
同情した口ぶりで穂積は続けた。
「仕事とはいえ、ひとを殺すんですからね。因果な商売ですよ。怖くて当たり前です。ひとを殺すのは、上の命令ではなく、自分の意志でやらなきゃいけないんです。納得してやらないと面倒なことになる」
穂積は視線を上げ、隣に立つ白井の顔を見た。白井の頬が微かに震えた気がした。
「きみは納得していたのか。納得して見ず知らずの若い女性を嬲り、殺したのか」
堅い口調で加瀬が訊いた。穂積がゆっくりと視線を戻した。
「もちろんですよ。でなければ五人も殺しません」
「至高ってヤツに唆《そそのか》されたのか?」
皮肉を込めて言った。
「唆されたは誤解です。教えてもらったのです」
「何を?」
「新しい世界ですよ。その世界を知れば、死ぬことなんてなんでもない」
「じゃあ四日前、死刑執行で大暴れしたヤツも、きみの言う新しい世界を知っていたら、おとなしく死んでいけた、というのか」
「それは無理ですね。犯罪者のほとんどは自己本位の欲望のみで生きているバカですから。カネのために四人も殺すなんて、わたしには信じられない。その男は、心安く死ぬために、宗教に縋《すが》ったようですが、最後の最後、無駄だった、と嘆いたそうですよ。泣き喚き、糞と小便を漏らして死んでいったというから、救いようのない愚か者だ」
そう言うと、喉でククッと笑った。加瀬は唇を嘗《な》めた。
「きみは何のために殺した? 見ず知らずの女性を五人も犯して縊《くび》り殺すなんて、おれにはそっちのほうがよっぽど理解できない」
「加瀬さん、魂ですよ。われわれは魂を、来《きた》るべき新しい世界のために高めていかなくてはならないのです。そんな簡単なこと、どうしてあなたは分かってくれないのかな」
嘲弄するような響きがあった。加瀬は言葉に力を込めた。
「なあ、穂積くん、きみが贈ってくれるというプレゼントと至高は関係あるのか? 至高の正体に繋がるような何かが含まれているのか?」
穂積は無言のまま、視線を据えた。加瀬は中腰になり、仕切りのガラス板に顔を近づけた。
「至高ってのは何なんだ。本当に存在するのか? きみの妄想が生み出した幻なんじゃないか? 教えてくれよ穂積くん」
「加瀬さん、この世のすべては幻ですよ。ゲンカなんです」
「ゲンカ?」
「幻に化する、と書きます。万物はみな、幻の如く変化する、という意味です。徒然草にもこう記してありますよ。人の心、不定なり。物みな幻化なり≠ニね」
頭にぐんと血がのぼった。
「おれはそんな観念的なことを訊いているんじゃない。もっと真面目に答えろ。至高とはいったい何なんだ!」
穂積は唇をひきしめ、冷然とした表情で見つめていた。加瀬は一瞬、吸い込まれそうな錯覚に襲われ、目をしばたいた。
「時間です」
冷たい声が響いた。刑務官の白井がノートを閉じていた。穂積は立ち上がると一礼し、くるりと反転して、ドアを出ていった。加瀬の足元から冷たいものが這い上がってきた。我を失い、感情を露にしてしまった自分。穂積に翻弄されている自分──。
拘置所の門を出た加瀬に近づく人影があった。さっきの男。面会受付所で声をかけてきた若い男だった。ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、固い表情で歩いてくる。加瀬は右足を引き、身構えた。男は目の前で立ち止まった。
「まだなにか用か」
男は口ごもり、唇を噛んだ後、言った。
「おれ、やっぱり穂積のこと、教えてほしいんだ」
すがるような声だった。
「理由を言ってみろよ」
「おれの親父が、穂積の隣の独房にぶち込まれている。親父は穂積のこと、凄い人間だ、と言うんだ。おれ、穂積ってどういうヤツなのか、知りたい。あんた、弁護士じゃないとしたら、穂積の親族かなんかなんだろう。なあ、教えてくれよ」
「親父はなんで拘置所にいる」
男は俯いた。沈黙が流れた。
「言えないなら、おれも喋らない。自分だけ、知りたいことを訊くなんてムシがよすぎるだろう」
「分かった、言います」
若い男は、村越亮輔と名乗った。年齢は十八歳。父親は中国残留孤児の二世で、飯場のケンカが原因で殺人未遂に問われ、判決を待っている、と。
加瀬は、拘置所前の喫茶店に亮輔を誘った。今時珍しい純喫茶の看板を掲げた、古ぼけた喫茶店だ。店内は意外と広く、十以上あるソファ席の間に、ゴムの木の大振りの鉢が置いてあった。客は一組だけ。暴力団と思われる目付きの鋭い男たちが四人、大きく足を開いて座り、よたっていた。ビールを飲みながら、怒鳴るように喋っている。加瀬と亮輔は、奥の左隅の席に腰を下ろした。加瀬はコーヒーを、亮輔はトマトジュースを注文した。
「きみは高校生か?」
「いや、バイトやってる」
「どこで」
「北千住駅前の牛丼屋。カネが足らなくなると、日雇いのドカチンもやる」
「フリーターってわけか。気楽でいいな」
「違う!」
亮輔は顔を強ばらせた。目の前に、固く握った右の拳をかかげる。節くれだった指と、甲に浮き上がる太い血管。見るからにタフな拳だった。
「おれはプロボクサーだ」
加瀬は得心した。鍛え込まれた肉体。格闘技のプロ──。
「ケンカのためか」
「どういうことだよ」
亮輔は眉間に筋を刻んだ。
「おまえ、暴走族かなんかの不良だろう。気に食わない野郎をぶちのめしたいんじゃないのか」
加瀬は挑発するように言った。亮輔は鼻で笑った。
「おれは世界チャンピオンになる」
確かな自信を滲ませた声だった。
「ほう、夢が大きいのはいいことだ」
「あんたこそ何者なんだ?」
「何者とは?」
とぼけて言った。
「穂積と関係があるんだろう。じゃないと、面会なんか来ないはずだ。やっぱり親族なのか」
「おれは穂積と文通しているんだ」
「文通?」
亮輔は訝しげな色を浮かべた。
「そう、文通。手紙のやりとりだ。おれはフリーのモノ書きでな。あいつのことを書こうと思っている。そのために色々調べて、面会にも訪れているわけだ」
「あいつの何を書く?」
信じられない、という顔だ。
「そこまできみに言う必要はないだろう。これはおれの仕事だ」
「穂積に気に入られているんだな」
憎々しげな物言いだった。
「おかげさまでな」
素っ気なく言うと、名刺を渡した。亮輔は慣れない手つきで受け取った。
「ジャーナリスト……加瀬隆史」
小さく呟くと、首を捻った。
「知らないな。おれはあんたのこと、テレビでも見たことないぜ」
「テレビに出て、したり顔でコメントするようなジャーナリストはインチキなんだ。社会正義のために戦おうとするなら、テレビなんかで媚を売っている暇はない。おれの周りでは、ああいう出たがりのモノ書きは男芸者、もしくは太鼓持ち、と嗤っている。それに、テレビで顔を晒《さら》すと仕事にも差し障りがあるだろう。ほら、ああいう怖いお兄さんたちに顔を覚えられたら厄介なことになる」
声高に喋るヤクザたちにチラッと目をやり、小声で言った。亮輔が薄く笑った。
「なるほど、あんた、本物のジャーナリストなのか」
「そういうことだ」
「裏を返せば、不器用で頑固で貧乏ってことだろう」
「大した洞察力だ」
「スカしてやがんな」
亮輔は、さも呆れた、といわんばかりに吐き捨てた。
「きみはケータイ持ってるか」
「いや、そんなもの買うカネはないし、おれには必要ない」
「じゃあ、所属するボクシングジムの名前は」
「綾瀬拳闘クラブだ」
「なるほど、後楽園組だけを相手にした、まっとうなジムだな」
「よく知ってるな」
綾瀬拳闘クラブは、プロライセンス取得だけが目的の素人とか、ダイエット目的の女性といった、そういうてっとりばやくカネになる相手には一切背を向け、ひたすらプロボクサーの養成に努めていた。それは、大和田が、雇われ会長を引き受ける際の条件でもあった。
「つまり、時代に乗り遅れた貧乏ジムってことだ」
加瀬はボソッと呟いた。亮輔は険のある視線を飛ばした。が、加瀬は無視して言った。
「お互い、これで身元が確かになった。本題に入っていいぞ」
亮輔はグッと顔を寄せた。
「なあ、教えてくれよ。本物のジャーナリストの加瀬さんよ。穂積はどんな男なんだ。五人の女を殺して、あいつ、全然反省なんかしていないんだぜ。しかも、自分の死刑を当然だと認め、怖くない、と言っているんだから」
「至高のことも言っているだろう」
「シコウ? おれは中卒だし、あんたが言うように暴走族のワルだったから、難しい言葉は分からない」
憮然とした口調だった。加瀬は説明した。
「この世の最高の存在、そうだな、神様とか、そういうことだ」
「ああ、神様か」
亮輔は得心したように頷いた。
「神は間違いなくいる、と言っている。少なくとも親父はそう聞いている。しかし、聖書の神様じゃない。穂積によれば、聖書の神は弱い人間をたぶらかすために生み出された妄想の産物だってよ。そして、本物の神は人間の考えの及ばないことをすべて、ひとつ残らず知っている存在らしい」
「なるほど」
加瀬は、運ばれてきたコーヒーを啜った。
「で、穂積はその神に会っているのか?」
亮輔は頷いた。
「会っている。実際にこの世にいるんだ」
上気した声だった。加瀬は眉を顰めた。亮輔の前のトマトジュースは手付かずのままだ。
「本当か」
「ああ、本当だ。おれの親父がそう言っていたもの」
「おかしいな」
「え?」
口を半開きにして、加瀬を見た。
「きみはあの変態に取り込まれている。親父の話を聞いているうちに、憧れ、惚れてしまったんだろう。いま流行のカリスマってやつか?」
「そんなんじゃない」
唇を強ばらせ、低く言った。
「穂積はおれの親父を理解し、一人前の男として扱ってくれている。親父はこの日本で、中国人だから、日本語がヘタだから、それだけの理由で苛められ、差別されて生きてきた。飯場のケンカも、バカにされたからなんだ。中国から連れてきたおふくろも親父に幻滅し、貧乏に嫌気がさして、日本の男と逃げてしまった。その惨めな親父が、穂積と出会って以来、変わった。生きる力を取り戻したんだ」
加瀬は皮肉な笑みを浮かべた。
「そんなに感謝しているなら、会ってみればいいだろう」
「会う?」
「ああ、面会したらいい。おれなんかに話を聞くより、よっぽどおもしろいぜ。なにせ、本物の連続強姦殺人犯で、死刑間違いなしの男なんだからな。めったにあることじゃない」
「なにを話せばいい?」
気弱な声だった。
「あの穂積と、おれは何を話せばいいんだろう」
表情に、不安と恐怖がへばり付いていた。
「おれの中で穂積は、一本の鋼《はがね》の芯になりつつあるんだ。穂積は確かに殺人者だよ。でも、そういう恐ろしい事実を超えて、おれを魅きつけてしまうんだ。ああいう、死ぬことを少しも恐れない凄い男がこの世の中にいる、と思うだけで、おれは強くなれる。そんなスーパーマンに、おれがなんて言葉をかければいい?」
「自分で考えろ」
加瀬は突き放した。
「世界王者になりたいんだろうが。ボクシングの世界チャンピオンは、世界で一番、殴り合いの強い男なんだ。それが、拘置所に繋がれている変態の殺人鬼にビビってどうする」
言いながら、これは自分への叱咤だと分かっていた。自分は、獄中の穂積を恐れている、畏怖している──。
目の前の新人プロボクサーは、意を決したように言った。
「なあ、加瀬さん。おれ、あいつに会うよ」
「ほう、その気になったか」
加瀬は感心した口ぶりで言った。だが、亮輔は一人で会うと決心したわけではなかった。亮輔は続けた。
「だから、あんたと一緒に連れていってくれ。面会に同行させてくれよ」
加瀬は不快げに眉根を寄せた。
「ダメだ」
「なぜ」
「これはおれの仕事なんだ。仕事に第三者を入れるわけにはいかない」
「ひとつくらい、例外があってもいいだろう」
「断る。おれは一人で決めて、一人で行動することにしている。これは、おれのルールなんだ」
「いくらお願いしてもダメなのか」
「悪いな、協力できなくて」
「フリーのくせに、融通が利かないんだな」
亮輔は怒気を露にして睨んだ。
「だからいろいろ苦労している」
加瀬は唇のヘリを歪め、自嘲した。
「白井、本当に大丈夫なのか?」
後藤が、眉を顰めて言った。拘置所内の職員食堂。午後二時、閑散とした食堂で昼定食のカニクリームコロッケランチを食べながら、白井は後藤と向かいあっていた。
「問題ないですよ、まったく」
俯き、ボソボソと答えた。
「おまえ、上野でちょっとヤバかったんだってな」
「ええ、まあ」
「喫茶店で引っ繰り返り、病院へ運び込まれたんだろう」
「申し訳ありません」
箸を置き、頭を下げた。
「いや、別に責めているわけじゃない」
後藤は慌てて手を振った。
「死刑執行のあとは、誰でも神経がささくれ立ち、普通じゃなくなる。ましておまえは、初めての死刑であれだけの経験をしたんだ。おかしくなるのが当たり前だ。小菅の飲み屋で地回りと揉め、大立ち回りを演じたヤツもいるくらいだからな」
後藤の慰めを聞きながら、白井は、苦いものを飲み込んだ。四日前の騒動は、病院から連絡を受けた警務部長が処理してくれた。後藤は声を潜めた。
「だがな、一緒にいた女、十六歳らしいぞ。おまえがまさか、テレクラで遊ぶとはな」
「どうかしていました」
首をすくめ、頭を掻いた。後藤が目尻に皺を刻んだ。
「まあ、上野の一件はもう済んだことだ。それより──」
言葉を切り、眉間を寄せた。
「これから先はどうだ。やっていけそうなのか」
探るような視線を向けた。言外で、おまえはもう辞めるんだろう、あの酷いアクシデントは考えようによっては運が良かったんだぞ、おかげで刑務官を辞める踏ん切りがつくじゃないか、と言っている。
「もちろんです」
白井は些かの逡巡《しゆんじゆん》も見せず、断言した。
「自分は、刑務官が天職だと思っています。現状に甘んずることなく、心身を錬磨し、職務をまっとうする覚悟です」
背筋を伸ばし、きっぱりと言った。後藤は口を半開きにして唖然とし、次いで唇を引き締めた。
「そうか、よく言った。おまえは、初めての死刑執行であれだけのことを経験してしまったのだから、辞めるものとばかり思っていた。おれの刑務官生活のなかでも、死刑執行を機に辞めていくヤツは山ほどいた。おれ自身、幾度、辞めようと思ったことか」
「自分も辞めるつもりでいました。これまでに経験したことのないショックで、頭がどうにかなりそうでした。でも、まだ、辞めるわけにはいかないのです」
「心変わりがしたということか?」
「まあ、そうです」
「誰かに諭《さと》されたのか?」
白井は沈黙し、次いで意を決したように口を開いた。
「はい、自分に、刑務官を続けるべきだ、と勇気を与えてくれた人物がいます」
「だれだ?」
「いえ、それは……」
言い淀み、視線をそらした。
「まさか、彼女ってことはないよな」
後藤が軽い調子で言った。
「そんなもの、いません」
語気を強めて否定した。後藤は表情を和らげ、宥《なだ》めるように言った。
「まあ、肩肘張らずにやるんだな。職業柄、息を抜けとは言えないが、緩急をつけないと、すぐ疲れてしまうぞ。そういうのを、世間じゃバーンアウト症候群というらしい」
「そうですか」
興味なさそうに答えた。
「刑務官を続けていれば、そのうちいいこともあるさ」
「あの、後藤さん」
白井は視線を戻し、顔を強ばらせた。後藤は鷹揚な視線を向けた。
「なんだ」
「後藤さんは家族がいますよね。確かお子さんは二人」
後藤が訝しげな表情を浮かべた。
「それが、どうかしたのか」
「死刑執行のあと、奥さんは何かおっしゃっていましたか?」
後藤は眉根を曇らせた。白井の言葉の真意を推し量るような表情だった。
「いや、後藤さん。そもそも死刑執行に手を染めたことを、あなたのご家族はご存じなのですか」
箸を置き、後藤は白井を見据えた。
「不愉快だな、そういう質問は」
低く重い声だった。が、白井は身を乗り出すと、一気に喋った。
「どうしてです。自分らの仕事は、そんなに酷い仕事なんですか。家族が知っているのかどうかを訊いたくらいで、不愉快だ、と突っぱねられるほど、隠しておきたい仕事なんですか」
後藤は舌打ちをくれると、周囲をグルリと見回した。昼飯どきを過ぎた食堂には、人影も疎《まば》らだった。後藤は深い息を吐き、口を開いた。
「青いな」
「青い?」
「ああ、情けないくらい青い野郎だよ、おまえは。自分のトシを考えてみろ。もう子供の一人や二人、いたっておかしくないだろう。それが、酩酊して、公衆の面前で醜態を晒した揚げ句、今度は仕事の八つ当たりか」
「自分は八つ当たりなんか──」
白井の言葉を遮るように、語気を強めた。
「おまえ、おれのカミさんが泣いてそんな仕事はやめてくれ≠ニでも訴えたら気が済むのか。子供が、人を殺して得たお金で学校なんか行きたくない≠ニでも喚いたら満足か。どうなんだ、白井」
白井は俯き、唇を噛んだ。
「さっきの質問に答えてやろう。おれは、死刑執行のことは、家族には一切話さない。それが夫として、父親としての義務だと思っている。おそらく、カミさんは気づいているだろう。だが、何も言わない。たぶん、墓に入るまで、そのことについては口にしないだろう。それでいいと思っている。刑務官でなくても、仕事の全てを洗いざらい女房に話すようなバカはいない。カネを稼いで、家族を養うということは、理想や奇麗事だけじゃ済まされないんだ。独り身のおまえには分からないだろうがな」
後藤の自信に満ちた声が鼓膜に響いた。
「いいか、この国に死刑制度がある限り、だれかが執行しなくてはならないんだ。これは公務員として至極当然の任務なんだ。それがイヤなら、おまえ、辞めてしまえ」
後藤はそれだけ言うと、白井の返事を待たず席を立った。食いかけの定食の載ったトレイを両手で掴み、憤然とした足取りで去っていった。
「そのプレゼントは気になりますね」
目の前の榊祐一郎は、ポツリと言った。午後七時。御茶ノ水駅前に建つ文英社のビル。五階の広々とした会議室には、榊と加瀬の二人きり。長いテーブルの端に向かい合って座っていた。榊は、傍らに置いた缶ピースに手を伸ばす。
「ああいう、自己顕示欲の強い男のやりそうなことだ」
榊は、フフッと鼻で笑うと、唇に両切りピースを差し込み、火を点けた。
「自己顕示欲──」
加瀬は、榊の言葉を復唱してみた。
「そうは思いませんか、加瀬さん」
榊が怜悧《れいり》な顔を向けていた。
「あなたに、公表を前提とした手紙をせっせと送りつけてくるんですよ。自己顕示欲以外の何物でもないでしょう」
「いや、おれは自己顕示欲とは違う気がする」
「じゃあ、なんです」
「面白がっているんだよ。あの男は、おれを試している。いったいどこまで自分を理解できるのか、試して、楽しんでいるんだ」
「どうしてかな」
榊が煙草の煙を目で追いながら訊いた。
「加瀬さんはどうして、そう思ったんでしょうね」
加瀬は視線を宙に漂わせた。
「あいつのプレゼント云々は、おれが手紙の中の至高の二文字にぶち当たったからだ。おまえの書く至高とは観念的なものではなく、この世にしっかりと存在するもの、つまり生身の人間ではないか、との推理をあいつの前で開陳したためだ。そのことにヤツは俄然、興味を覚え、プレゼントを送ってくる気になった。そういうことじゃないだろうか。いや間違いなく──」
ふっと我に返り、言葉を切った。何の説明もなく、突然、至高のことを口に出したところで、榊も戸惑うだけだと思い至った。改めて説明しようとしたそのとき、榊が言葉を挟んだ。
「では、至高が人間だとすると、そいつは穂積の共犯者なんですか?」
「共犯者?」
加瀬が訝しげに目を細めた。
「だってそうでしょう。たしか穂積の手紙の中で、至高の文字が出てくるのは第一の強姦殺人のくだりの次の一節だけだ。そのとき、わたしの魂に、至高が舞い降りたのです≠ニ。つまり、初めての強姦殺人を終え、穂積は至高と一体になった、ということではないですか?」
忘れていた。榊の記憶力を。榊には、穂積から届く手紙のコピーを渡してある。この男は、すべてのデータをファイルして頭にしまい込み、必要とあらば瞬時に弾き出す能力がある。天性のものなのだろう。週刊誌の編集者時代は、一年以上前の傷害強盗事件の取るに足らないベタ記事を、犯人、害者《がいしや》の名前から被害額まで、正確に記憶しており、周囲の度肝を抜いたことがあった。加瀬がその記憶力を称賛すると、そんなの特別なことじゃないでしょう、事件全般が自分たちの守備範囲だし、そもそも一度読んでいるんですから、と不思議そうな顔で言った。
「相変わらず大した記憶力だ」
加瀬が感心した口ぶりで言うと、
「別に誇れるほどのものではありません」
榊は素っ気なく答えた。
「あなたの能力のほうがずっとすばらしい。大量の手紙の中にただ一箇所、記された至高の二文字。そこに秘められた何かを嗅ぎとり、穂積にぶつける。それだけの直観力は、わたしにはありません。記憶力など、われわれの仕事では何の評価の対象にもなりませんよ。それより加瀬さん」
冷静な視線が、注がれていた。
「わたしはあなたの推理を知りたい。共犯者はいると思いますか?」
加瀬は乾いた唇を舐めた。
「事故現場の記録、捜査資料を見る限り、いない。共犯者の姿など、影も形もない。おれ自身、いまのいままで、共犯者など、いるはずがないと思っていた。いや、共犯者という言葉さえ思い浮かばなかったのが本当のところだ。しかし、あんたの話を聞いて気が変わったよ。共犯者はいると思う。現場にいたかどうかは別にしてね」
「その根拠は?」
「おれは、穂積と三十回以上の面会を重ねてきた。これまで、あいつが胸襟を開いて付き合っている人物はおれひとり、という自惚《うぬぼ》れがあった。しかし、違うんだ。あいつはまだ、何にも喋っちゃいない」
言いながら、加瀬の脳裏に亮輔の言葉が蘇った。拘置所内の穂積が、隣房の亮輔の父親に喋ったこと──神は間違いなくいる──。
では、神とはなんなんだ? 穂積が見た、神の正体とは誰なんだ?
「プレゼントが楽しみですね」
疑問を断ち切るように、榊が言った。
「獄中の連続殺人犯がわざわざ送りつけてくるとは……」
唇に笑みを浮かべた。
「加瀬さん、あなたもよくよく見込まれたものだ」
心臓が跳ねた。加瀬はおののく心を封じ込め、
「榊さん」
ぼそりと呼びかけた。
「神が人間だとすると、それはいったい誰なんだろうな」
榊はみるみる顔を強ばらせ、首を捻った。
「さあ──」
初めて聞く、榊の戸惑いの声だった。瞬間、加瀬の背筋を冷たいものが這い上がった。自分は、とんでもないものを探し当てようとしている──至高、プレゼント、神。全身が総毛立ち、ブルッと身震いした。
「おれは、それを知るのが怖い気がするんだ」
弱々しく言った。
「大丈夫ですよ、加瀬さん。わたしが付いています。あなたは一人じゃありません」
榊が凜《りん》とした声で言った。
「頼むよ、榊さん。おれを見ていてくれ。おかしなことになりそうになったら、引き留めてくれよ。でないとおれは──」
すがるような言葉だった。語りながら、加瀬は鼓膜の奥がどうしようもなく火照ってくるのを感じた。耳を澄ました。地を這う掠れ声が聞こえる。それは至高の正体を求めて呻く、悪魔の声だった。
昼食後、暫くして穂積壱郎は隣房の音、ペタペタと忙し気に歩き回る足音に耳をとめ、声をかけた。
「村越さん、掃除ですか」
「いや、ちょっと部屋の整理をな。どうも明日、転房があるらしい」
「そうですか」
「穂積、おれはあんたの隣にいて楽しかったよ。あんたにはいろんなことを教えてもらった。ありがとうよ」
村越巧のしんみりとした声がした。
「所詮、人間というのは愚かな存在なんですから、あんまり突き詰めて考えないことです」
「おれは、その愚かな人間の中でも、特に愚かな男だからね」
そう言うと、自嘲めいた含み笑いを漏らした。
「愚かさを自覚しているとは、素晴らしいことですよ」
「おれは現実を呪うばかりで何も出来ない、クズみたいな男だったが、あんたと付き合って変わった気がする。シャバへ出たら心を入れ替えて──」
言葉に詰まり、涙声で言う。
「ゴメンよ、穂積。あんたはもう、シャバへ出ることはないんだなあ。おれは、なんて気が利かない、トンチンカンな野郎なんだ。つくづく、イヤになるよ」
「何をおっしゃいます。謝ることなんてありませんよ。わたしは、死ぬことなど、何とも思っていないのですから。この世を去ることで見えてくるモノもあるのです」
「やっぱりあんたはスゴいよ。もったいないよなあ。まだいくらでも生きられるってのに、死刑台に送られるなんてよ」
長い長い嘆息を漏らした後、村越は声を潜めた。
「ところで穂積、あんたと話すのもこれが最後だから、ひとつだけ訊きたいんだけど」
「なんです」
「刑務官がさあ、時々、あんたに小声で話しかけているだろう。あの白井って堅物《かたぶつ》だよ」
「ええ、よく話し合っています」
あっさり認めた。
「いったい何を話しているんだ?」
好奇心を露《あらわ》にした声だった。
「いろいろ苦労とか悩みがあるようですよ。刑務官という仕事は、矛盾の多い職業ですからね」
「ムジュンって、つまり矛《ほこ》と盾《たて》のことだよな。おれは漢字の国で育ったから、文字の形はよく頭に入っているんだ。正確な意味は分からないけどね」
「矛と盾。まさにおっしゃる通りですね。矛盾とは、あなたが生を受け、育った国、中国のこんな故事からきています。その昔、あるところに矛と盾を売る者がいて、自分の矛はどんな盾でも突き破ることができる、自分の盾はどんな矛でも跳ね返すことができる≠ニ言ったんですね。この自信満々の男は、客からではその矛で盾を突いたらどうなるんだ≠ニ言われて、言葉に詰まった、と」
「つまり、納得のできないコトだよな」
「そうです。その納得のできない、つじつまの合わない事柄が、刑務官という仕事には多いんですよ」
しみじみとした言い方だった。
「それであんたに相談したってわけか」
「まあ、簡単なアドバイスはしましたがね。果たしてどこまで分かったことやら」
「穂積、あんたはとんでもない男だよ。おれたちを顎で動かす刑務官から相談を持ちかけられるなんて、そんな話、聞いたこともない。白井はあんたに何も言えないだろう」
「この世に執着のある人間、生に未練のある人間は、詰まらない悩みを背負ってしまう運命にあるんですよ」
穂積は断定した。
「一枚の壁を突き抜けさえすれば、すべては変わるんですがね」
「あんたは以前、この世に神がいる、と言ったよなあ」
「はい」
「おれは、あんたが神に思えてならないよ」
「なにをおっしゃいます。神は、わたしなど、足元にも及ばない存在ですよ」
「その神ってのを、おれも見てみたいなあ。穂積、おまえの言う神様はいま、いったいどこにいるんだ?」
「人間の社会に紛れこんでいますよ。来《きた》るべき日に備えてね」
「来るべき日ってのは、どんな日だ?」
「神のみが知る、光に満ちた、素晴らしい日です」
「では人間の社会に紛れこんでいるというと、人間の姿形をしているのかね」
「そうです。人間そのものです。一目見ただけでは、だれもこれが神とは思わないでしょうね。わたしもそうでしたから」
「じゃあ、普通の人間なんだな」
「怪しい新興宗教の教祖みたいな姿をしていたら、わたしは近づきませんよ。そんなの、インチキに決まっているでしょう。見た目はごく普通の人間ですよ」
笑いを含んだ声だった。村越巧は、感心した口ぶりで言った。
「へえー、おれたちと変わらないんだね」
「ええ、目立たず、ひっそりと生きています。別に世の中に自己の存在を誇示する必要はありませんからね」
「目立つのが嫌いなんだな」
「それはもう、徹底していますよ。自分の姿を人前に晒さず、しかし、ちゃんとわたしには、必要なことをしっかり伝えてくれました」
「必要なこと?」
「はい、命というものを考えるうえで必要なことです」
「神様は、命というものをどう考えているんだ?」
穂積は即座に答えた。
「選ばれた人間、神に認められた人間は、命を自由にコントロールできるんです」
「それは、自分の命だろうか、それとも他人の命なんだろうか」
「両方ですよ。この世は所詮、デッドウォーターなんです」
「デッドウォーター?」
穂積は淡々と説明した。
「死んだ水、腐った水のことです。大雨の後、河原に取り残された水たまりがあるでしょう。あの水たまりの魚は、太陽の光に炙《あぶ》られ、腐っていく水の中で、死んでいくしかない。この世の人々も、デッドウォーターにとらえられた魚です。わたしは、かわいそうでならない」
「うん、なんとなく分かるような気がする。おれの人生なんて腐れ水そのものだった。しかし穂積、おれはあんたと出会って変わったよ。この牢獄にいても、世間のヤツらより、ずっと自由だと思うもの」
「そうでしょう。わたしは神に、解放される幸福を教えてもらいました。あなたもそれを知りつつあるのです」
「じゃあさあ、あんたが殺した五人の女も、解放してあげたってわけか」
「もちろんです。わたしはこの世のすべての業苦《ごうく》から解放してあげたのです」
「神の指示で?」
「神は、わたしの耳元で囁き、教えてくれました」
「じゃあ、神と一緒にあんたは──」
村越は息を呑んだ。
「そういうことです。神はわたしと共にあります」
「おれ、やっぱり神はあんただと思う」
「村越さん」
「なんだい?」
「わたしはあなたと離れたくないな」
鉛のような重い声だった。沈黙が流れた。しわぶきを一つ響かせたあと、村越は言った。小さく、囁くように。
「おれもだよ、穂積。離れたくないに決まっているじゃないか」
「そうでしょう。あなたは、すでに一段、高みに上ってしまったのだから、この先、満足はありませんよ」
「おい、穂積、なんとかしてくれよ。あんたなら、なんだって出来る」
切迫した声で訴えた。
「なあ、白井に頼んでくれよ。村越を転房させないようにって。あいつなら、あんたの望みをかなえてくれる」
「いや、そんなことは一時しのぎであって、根本的な解決にはならない」
冷ややかに言った。
「いっそのこと、この監獄から、外へ出てしまいましょうよ」
「そんなことができるのか?」
「できますよ。簡単だ、そんなこと」
穂積は、静かな口調で続けた。
「村越さん、これから言う、わたしの言葉を信じることができますか?」
「もちろんだよ、穂積。だってあんたの言葉には矛盾はないもの」
村越巧は、震える声で答えた。
「村越さん、やはりあなたは素晴らしいですよ」
穂積は晴れ晴れとした声で言った。
夜十時。小宮政春は日光街道沿いに建つ雑居ビルの五階、ブラッディ・ドラゴンの事務所にいた。薄汚れた事務用のテーブルを挟み、向かい合って座るのは、一心会の若頭、岡野保だった。脚を組み、シラけた顔で周囲を見回している。ヌードとバイクのポスターをベタベタ貼りまくった壁。ちっぽけなテレビと冷蔵庫。それにトルエンの匂い。トイレに積み上げた段ボール箱の中からただよう、その刺激臭に、岡野は鼻をひくつかせ、つまらなそうに言った。
「族の溜まり場そのものじゃねえか」
「わざわざ出張ってもらわなくても良かったんですがね」
政春はゆっくりと煙草に火を点けた。隣のパイプ椅子には武男が座り、緊張した面持ちで二人の様子を見守っている。向かい側の同じ位置には、田代。亀有のスナックで凄んできた岡野の舎弟だった。
「なに言ってんだ、政春」
岡野が、目尻に柔和な皺を刻んだ。実直そうな黒縁メガネと上等な紺のスーツ。外見だけなら、ヤクザというよりは中学校の教師だ。
「おまえを一人前と認めた証拠じゃねえか。こんな大事な話、ケータイ一本で済まそうなんて気はねえよ。なんせ、一千万からの話だからな」
恩着せがましく言った。
「そりゃどうも」
軽く頭を下げ、煙草を吹かした。
「それで、いつなんです?」
「三日後だ。いまさら、言うまでもないが、ブツは現ナマと引き換えだ」
「分かってます」
「で、場所なんだが──」
岡野は組んだ脚を解き、身を乗り出した。
「西綾瀬に、おれの女のヤサがある。ごく普通のマンションだ。ここでブツを渡す。約束通り二キロ。韓国モノのユキネタだ」
「岡野さんの彼女のマンションですか」
政春が眉を曇らせた。
「不満か?」
「おれらにとっては初めてのデカいビジネスなんで、慎重にいきたいんです」
「じゃあ、問題ねえだろう。おれの女のマンションなら、まだサツどころか、組の他の連中にも割れていない。それに、こう言ってはなんだが、おまえはシャブの本格的な商いはトーシロだ。ここはおれに任せてくれよ。おれだってヤバイ橋は渡りたくねえんだ」
政春は考えた。乗るべきか、それとも降りるべきか。その逡巡を断ち切るように、岡野が言った。
「なあ、政春よ。一心会の若頭のおれが、わざわざここまで来たんだ。その意味が分かるか? 極道のビジネスは、カネだけじゃねえんだぜ。メンツってものを考えろよ」
岡野は、メガネの奥の目を細め、諭すように続けた。
「おれのメンツをおまえが潰す、というなら、このビジネスは不成立だ。シャブ二キロは諦めろ。おれらもガキの我《わ》が儘《まま》に付き合っている暇はない」
それだけ言うと、隣の田代に顎をしゃくり、立ち上がろうとした。そのとき、政春が口を開いた。
「分かりました、岡野さん。場所はそこで結構です」
岡野は浮かした腰を戻し、目尻に笑みを浮かべた。
「そうかい。じゃあ、商談成立だな。ほら、手を出せよ、政春」
岡野が右手を伸ばしていた。欠けた小指と金のカマボコリング。政春は言われるまま、握手した。湿った、生ぬるい掌だった。
「政春よ、あの血はなんだ?」
はっとした。尖った視線の先を追った。ポスターを貼りまくった壁。そのところどころに滲む、赤黒い血の跡。
「リンチでもかましたのか」
「違います。ここで昔、タイマン張ってたもんで」
「ああ、亮とかいうヤツだな」
武男の頬がピクッと動いた。岡野は上機嫌で続けた。
「あの野郎、連戦連勝だってな。おれら極道の世界でも、タイマンで負け無しのガキがいるって有名だったもんな。惜しいことをしたよ」
「そんなの、昔の話ですよ。おれとあいつはもう別世界の人間ですから」
「おまえは、亮のことだとすぐ熱くなるんだな。まだ未練があんのか」
からかうように言うと、岡野は返事を待たず、立ち上がった。背後に回った田代が素早くコートを着せる。
「今日は猪瀬さんは?」
政春の問いに、岡野は顔を強ばらせた。
「あいつは危ない。すぐに刺しちまう。狂犬みたいなヤツだ。まともなビジネスの場には必要ない男だからな」
あの亀有のスナックでドスを抜いていた猪瀬。政春の脳裏に、太ったスキンヘッドの、眠たそうな目が浮かんだ。
政春は、岡野を下まで送っていった。路肩に停めた黒塗りのベンツに乗り込んだ岡野はウィンドウを降ろし、ニヤけた口調で告げた。
「いよいよ、このオンボロビルともおさらばだな、政春」
ベンツはタイヤを軋ませ、日光街道のクルマの流れへと吸い込まれていった。
「いいんですか、政春さん。あいつらのマンションで取引をやるなんて」
武男が不満気な口調で言った。
「タケオ、これはチャンスなんだ。岡野だって、このビジネスはまとめたい。その証拠に、わざわざおれのとこまで足を運んだじゃねえか」
「それはそうなんですが」
「こんなクソビル、一日も早く出てやる」
五階建ての雑居ビルを見上げて吐き捨てた。──見ていろよ、亮、おれはのし上がるからな。おまえには絶対届かないところまでのぼってやる。そのためなら、おれは何だってやる──。
政春は呪詛の呟きを呑み込み、ビルの中へと入った。慌てて武男が後を追った。
それは、加瀬が拘置所の穂積を最後に訪ねて一週間後、仕事場に届いた。分厚い、大ぶりのマニラ封筒。差出人はこう記してあった。
葛飾区小菅 関東拘置所内 穂積壱郎
加瀬は、封筒をデスクに置き、慎重にハサミを入れた。間違いない。プレゼントだ。加瀬の胸が期待と不安で高鳴った。
封筒の中身は、紐で綴じた、B4サイズの七十枚ほどのコピーの束だった。表紙には、『連続強姦殺人事件被告人 穂積壱郎精神状態鑑定書』と記してあった。鑑定書には手紙が添えてあり、丁寧な筆蹟で次のように記してあった。
「この鑑定書は、わたしが鑑定人に頼み込み、コピーを差し入れてもらったものです。鑑定人は渋りながらも、わたしに同情的であったため、同意してくれました。この中には、わたしの生活史、家族歴、犯行の模様、身体所見、心理テスト所見、面接所見など、すべてが網羅されており、あなたの執筆に少なからず、役立つものと思われます。なお、本コピーには、立件はされませんでしたが、わたしが起こした、少々面白い事件も併せて記してありますので、必ず読んでください。それにしても、弁護側が用意した鑑定人らは、わたしに刑事責任がない、と結論づけているのですから(もちろん、第一審、二審ともに却下されましたが)、おめでたい連中です。わたしが計画的に、かつ冷静に、犯行に及んだのは確かなのに、鑑定人の鋳型に嵌められた蒙昧《もうまい》な頭脳では、無罪となってしまうのですからね。あなたには、ぜひともすべてを知っていただきたい。至高の存在に思い至ったほどのあなたですから、この鑑定書の中から必ずや、面白い事実をすくい出してくれるものと信じています。あなたなら、なにか閃くものがあるはずだ。わたしはあなたの優れた直観力を信じています」
加瀬は、高まる動悸を耳の奥で聞きながら、コピーをめくった。それはまさに宝の山だった。鑑定人とのやり取りは、驚愕の一言に尽きた。大学教授の鑑定人と助手二人が穂積と面談していた。そのいずれもが、穂積に巧妙にコントロールされていた。彼らは、象牙の塔に籠もった学者バカだった。鑑定人の手になる面接所見には、こう記してあった。
『被告人は、年齢相応の外見の青年である。鑑定人や鑑定助手に対しては極めて礼儀正しく応対した。当方の質問に対する供述は率直で正直であり、隠蔽とか誇張、拒否の態度はない。感情的な反応は自然であり、人間的な暖かさが感じられ、意思の疎通も十分とれる。多少の刺激を試みても感情的に激することはなく、常に温和に誠実に対応した』
加瀬は、読みながら嗤った。これではまるで、クルマの窃盗で鑑別所に収容された非行少年ではないか。穂積は、見ず知らずの五人の女性をレイプし、殺した、日本の犯罪史上、稀に見る凶悪な連続殺人犯なのに、鑑定書を読む限り、その事実を失念してしまっているとしか思えなかった。
『率直で正直』『人間的な暖かさ』『温和に誠実に』──色紙となって中学の校長の部屋に飾られそうな、白々しい言葉の羅列に、思わずかぶりを振った。
穂積は一連のレイプ殺人以外にも、事件≠ノ手を染めていた。鑑定書はまず、一人目の犠牲者が出る三日前に起こしたレイプ事件に触れていた。公表が前提とされていない鑑定書ゆえか、被害者の実名と事件の詳細が記されている。穂積は深夜、杉並の住宅街の路上で二十歳の女子大生を住宅建設現場へ引きずり込み、犯していた。しかし、この件は、山本美智子という犠牲者の要望もあって表沙汰にされず、強姦事件として立件されることはなかった。たしかに、五人の犠牲者を出した連続強姦殺人に比べれば、些細な事件と思われた。
鑑定書では、この強姦で自信を持った穂積が、一連の強姦殺人に及んだのでは、と推測していた。そして穂積も、鑑定人との面談であっけらかんと答えている。
「あれは面白い体験でした。あんなに簡単にレイプが出来るとは思ってもいなかった。圧倒的な暴力の前に、人間がいかに無力かと思い知りました。あれで火が点いたという事実は否定できないと思います」
穂積と鑑定人との面談は都合三回、計八時間に及んだと記されていた。穂積は質問を受けるだけでなく、逆に繰り出すことで、通常の鑑定人と犯罪者という関係を破壊しようとしていた。そしてそれは、見事に成功していた。穂積は突如、虚を衝いた質問で斬り込み、相手を狼狽させたうえで、じっくり料理していた。こんな具合に。
「先生はなぜ、犯罪心理学を専攻したのですか?」
──罪を犯す人間の心のメカニズムに興味があったからです。
「それはウソだ。建前でしょう」
──どういうことですか。
「先生は自分に興味があったんでしょう」
──君の言いたいことを詳しく説明してくれないか。
「つまり、先生は思春期、美しい女性を自由にしたい、メチャクチャにしたい、レイプしたい、と思った。そんな自分を、異常性欲者じゃないか、と悩み、苦しんだ。それで心理学の本を繙《ひもと》いたのではないですか。勉強一筋の優等生にはよくあることですよ。友達に相談して、バカ話に興じてしまえば、呆気なく解決してしまうことなのにね。でも、優等生のプライドとコンプレックスがそれを阻んでしまう。どうでしょう。当たっていませんか?」
──これじゃあ、きみの方が心理学者みたいだね。
「お褒めにあずかり、ありがとうございます。でも、わたしはそうでしたよ。妄想とか膨らんで仕方が無かった。もっともわたしの場合、実際、実行してしまいましたけどね。まあ、わたしと先生は実行したかしないかの違いだけ。根は同じなんですよ」
──じゃあ、わたしにも、レイプ殺人犯になる可能性があったと?
「いや、そういう問題ではなくて、先生もレイプ殺人犯なんですよ。わたしに負けず劣らず凶悪な、ね。大脳生理学的観点からすれば、わたしと先生はまったく同じなのです。つまり、夢に見たことも、外界での出来事同様、現実とする考えは、いまや珍説でもなんでもありません。この科学者たちの説に従えば、殺意を抱いた人間は、おそらくその時点で実際に殺してしまっているのです。あの虚言癖と誇大妄想、そして清々しい聖性と病的なまでの潔癖症に首までどっぷりと浸かった偉大なるキリストもこう言っているではありませんか。情欲に駆られて女を見る者は、すでに心の中で姦通の罪を犯しているのだ≠ニ。思考と行為の違いは、世の良識ある人々が思っているほどにはハッキリと分かれてはいないのです。いえ、境界線は実は極めて曖昧で、深く突き詰めていくと、淡く滲んで消えてしまいますよ。呆気なくね。それは先生だってご存じのはずだ」
──きみの主張を受け入れてしまえば、この世は罪人だらけになってしまう。
「そうですよ。この世は、おぞましい罪悪に満ちている。そんなこと、当たり前でしょう。地球に重力があり、枝からリンゴが落ちるのと同じくらい、疑問の余地はありません」
穂積は鑑定人をからかって遊んでいた。鑑定人は、鑑定しながら、実は穂積に鑑定されている。面談は茶番の連続だった。
鑑定人が、レイプ殺人の生々しい描写に興味を示すと、俄然、サービス精神を発揮し、延々とその場面を述べ立てた。
「恐怖で乾ききった女性の性器にわたしの怒張したペニスを突き入れるときの快感は、得も言われぬものがありました」
「しっかり閉じたアヌスに唾をつけ、強引に割って入ると、強力な締め付けが襲い、わたしの頭に白い稲妻が疾りました」
「圧し殺した呻き声と悲鳴、そして青大将に飲み込まれたカナリヤの泣き声のような命乞いの中で、血潮に濡れながら快楽に浸る、これに勝る幸せがあるでしょうか」などなど。
最後に、「お役に立ちましたか」と結んでいるが、加瀬には分かる。穂積は心の内で舌を出し、「勃起しましたか」と笑っているのだ。
助手のひとりは、こんな質問を発している。
──きみのその異常なまでの性欲、見ず知らずの女性を殺してまで満足させようとした性欲は、いま現在、独房の中でどうやって発散しているのか?
おそらく穂積は舌なめずりをしただろう。その顔が、加瀬には見えるようだった。穂積はこう答えていた。
「オナニーですよ。決まっているじゃありませんか。おかげでわたしの独房は、栗の花の匂いがプンプンしています」
──しかし、自慰行為にふけるには、想像が必要だよね。つまり、頭の中で描く妄想だ。
「もちろんです。先生が知りたいのは、何を思い描いてオナニーに励んでいるのか、ということでしょう。つまりオカズの中身を知りたいんだ。そうですよね」
助手は消え入りそうな声で認めただろう。加瀬の耳には、鑑定書の字面からは絶対に分からない、助手の戸惑いに満ちた、小さな声が聞こえた。
──そういうことになるかな。
穂積は満足げにうなずくと、胸を張り、背筋を真っすぐに伸ばして朗々と答えたはずだ。唇には、柔らかな笑みさえ浮かべていたかもしれない。
「強姦殺人のことを思い浮かべています。あれは、想像を絶する快感に頭が痺れて脳が涎《よだれ》を垂らすくらい、強烈な体験でした。いまでも、生々しい臨場感を伴ったあのレイプの光景を、ペニスを締め付けるあの天にも昇る快感と共に、思い浮かべることができます。わたしは若い女を五人も嬲り、犯し、殺したのですから、いつでも自分のペニスを勃起させることができますよ」
穂積は、人格障害と精神分裂が併存している、と主張する鑑定人の言葉を「わたしは正常です」の一言で、あっさり否定していた。
それでも、穂積が放つ邪悪なフェロモンに正常な思考が麻痺したのか、それとも犯行時十八歳という年齢を鑑《かんが》みると、十分に更生の余地はあると思ったのか、鑑定人は、減刑に執念を燃やし、あらゆる手段で説得にかかっていた。
──家庭環境は決して恵まれているとはいえないよね。高校教師のお父さんは、きみが三歳のときに亡くなり、それからはお母さんが働きに出て生活を支えてくれたんだよね。聡明な子供だったきみが、心に負った傷は大変なものがあったと思う。
「先生、それは大きな勘違いですよ。母は学歴も高く、才能に溢れていた。中途入社ながら、大手の化粧品メーカーで幹部寸前まで昇進したんですからね。もっとも、わたしのために、そのキャリアはもちろん、命まで絶ってしまいましたが、それはともかく、母の年収は、おそらく先生の二倍はあったでしょう。しかも、母は裕福な旧家の出だ。なにがしかの援助も受けていたはずです。家庭教師兼養育係として、聡明で優しい女性を雇う余裕もあったおかげで、小汚くて臭いマンションの一室の、無認可の保育所なんかに詰め込まれて苦労することもなかったわけだ。ええ、恵まれていましたよ。しかも、化粧品メーカーというのは、女性が顧客だから、イメージをことのほか大切にする。休日とか育児休暇、あるいは日々の労働条件は、このうえなく恵まれたものだったはずですよ」
──しかし、寂しかったはずだ。
「ご冗談を。母が無職のアル中で、息が詰まりそうな狭い公営住宅にしょっちゅう若い男を引き入れるような家庭なら荒《すさ》みもしたでしょうが、わたしには愛情もカネも十分に与えられていました。凶悪な犯罪の原因を環境に求めようなど、科学者にあるまじき行為だと思いますよ。わたしは正常だ。あなたよりずっと正常だ。それだけです」
──じゃあ私立の、偏差値のとびっきり高い高校に進学しながら、二年で中退してしまったのはなぜかな。きみの心に問題があったとはいえないだろうか。
「向上心ですよ」
唇を捻り、答える穂積の姿が見えた。声に出さずにこの低能が≠ニ罵っている。
「つまり、十六歳にもなって、やれ歴史の年代がどうの、英語の文法がこうの、と言われても、面白くないでしょう。あんなの、特別に時間を割いて、教室に詰め込まれて学ぶ必要がありますか? 量子力学とかカント哲学の基礎さえ教えてくれないのですから。それならば高校をやめて、貴重な時間をもっと有効なことに使うべきだ、と思ったのですよ」
──それが、連続強姦殺人というわけか。
しかし、鑑定人のこの皮肉な物言いも、穂積にはまったく応えなかった。
「そうです。よくお判りだ。それでこそ科学者の正しい洞察力というものですよ」
加瀬には、穂積の含み笑いが聞こえた。
鑑定人らは穂積の嘲弄を称賛と勘違いしたのか、それとも精神鑑定の得難いサンプルとして生かしておきたかったからか、手の込んだ科学的根拠まで提出していた。
それは、先天的な暴力衝動に関するデータを駆使した、牽強付会としか思えない労作だった。
鑑定人らは穂積壱郎の母親、伸子に目を付けた。壱郎を妊娠したとき、通院していた産婦人科で大量の黄体ホルモンの投与を受けていた事実を探り当て、そこから突破口を見出さんとしたのである。つまり、こういうことだ。黄体ホルモンとは、胎盤形成に貢献する女性ホルモンの一種であり、流産の予防に使用されるケースが多い。
この黄体ホルモンは、胎児に対して男性ホルモンとしての働きが強く出ることがデータ的にも裏付けされている。そして胎児期に黄体ホルモンにさらされた子供は、さらされなかった子供に比較して、著しく高い攻撃性を示す傾向がある。ここから鑑定人が導き出した結論は、穂積の犯罪の根っこには黄体ホルモンがある、というもの。
穂積は鑑定人から、黄体ホルモンが一連の事件を誘発した可能性がある、と告げられ、こう述べている。
「黄体ホルモンというのは説得力がありますね」
鑑定人の、欣喜雀躍した心の様が、透けて見えるようだった。しかし、期待を持たせて突き落とす、その落差が大きいほど、穂積の愉悦もまた倍加する。穂積の言葉が続いていた。
「母は二度、流産していました。今度こそは、という切なる願いから、黄体ホルモンの投与を受けたのでしょう。先生のおっしゃるとおりです。黄体ホルモンに責任があります。なぜなら、母が黄体ホルモンさえ使用しなければ、わたしは母の胎内から流れ出て、下水の汚物と成り果てていたのですから」
ニッコリと笑い、鑑定人を完膚無きまでに叩いてやろう、と身を乗り出す穂積の姿が確かに見えた。穂積は、鑑定人の主張をあてこすった揚げ句、真っ向から反駁《はんばく》していた。
曰く、データの信憑性に重大な疑問がある。いずれのデータも欧米のもので、しかも都合のいい部分だけ抜き出している。もし本気で黄体ホルモン云々を証明したいのなら、自分の母親が通った産婦人科を調査すべきである。すなわち、同時期に生まれた、黄体ホルモン投与の子供と、そうでない子供を追跡調査したら、少なくとも外国の文献に頼るよりは遥かに信憑性があるし、裁判官を説得する有力な材料にもなるはず。もっとも自分以外に二、三人の殺人犯が誕生していなければ、データとしての意味はないが、ともかく、今のままでは、スナック菓子を食べ過ぎた子供が凶暴性を発揮し、いずれ世の脅威となる、とする女性誌ネタと同レベルである、と。
徹頭徹尾、愚弄され、無知を嘲弄され続けた鑑定人らは、結局、二審でも鑑定結果を却下され、穂積から手を引いていた。その残骸が、目の前にあるコピーの束だった。鑑定書に至高≠フ二文字はただの一度も登場しなかった。
目を通し終わると、加瀬は視線を上げた。肩から背中にかけて、固く強ばっている。背筋を伸ばした。四階の窓から、濃い臙脂色に染まったビルの群れが見えた。それは腐った肉の色だった。午後四時。夕暮れが近い。
鑑定人との面談の中に頻出する悪意と、窺い見えた穂積の本性、頭が痺れていた。
面白い。本にまとめる際、有力な補足材料となる。しかし、──加瀬の頭にひっかかるものがあった。何か大事なことを見逃した気がする。もっと他に何かが……眉根を、次いでこめかみを指先で揉んだ。ゆっくりと、丁寧に、細胞をひとつひとつ、ほぐすように。次第に脳の細胞を覆っていた強ばりが溶け、じんわりと浮き上がってくるものがあった。
それは、添付されていた手紙だった。もう一度、読んだ。一語一語を口の中で呟き、吟味しながら。
『この鑑定書の中から必ずや、面白い事実をすくい出してくれるものと信じています』
──面白い事実。
『わたしが起こした、少々面白い事件も併せて記してありますので、必ず読んでください』
──面白い事件──表沙汰にならなかったレイプ事件。ふいに、脳の細胞がザワッと粟立った。震える指でコピーをめくった。読み進めるうちに顔が火照った。杉並在住の二十歳、女子大生。八年前の事件……喉が張り付いた。まさか? いや、そんなはずはない。疑問と不安とかすかな希望が交錯し、視界が揺らいだ。息が苦しくなり、両手で胸を押さえて喘いだ。これまで脳に巣くっていた疑問の破片が音をたてて繋がり、ひとつの確かな形を作り上げた。それは、この世で唯一の真実だった。認める自分と、認めたくない自分。頭蓋が軋んだ。そのとき、デスクの電話が鳴った。
加瀬は、おののく心を強引に封じ込め、受話器を取った。
≪あの、加瀬さん、いらっしゃいますか≫
若い男の声、聞き覚えのある声だった。
≪おれ、村越です。拘置所で一度、会った──≫
村越亮輔。中国残留孤児の三世。穂積に異常なまでの興味を持つプロボクサー。加瀬の意志とは無関係に、脳がデータを弾き出した。なぜ、村越が電話を? 加瀬の疑問を察知したかのように、早口で言った。
≪親父が死にました≫
亮輔の父親。殺人未遂に問われ、判決を待つ男。穂積の隣房──。
「死因は?」
受話器を強く握り締めた。
≪自殺です≫
自殺──穂積の隣にいた男の自殺──瞬間、世界が逆さまになった気がした。目を剥き、叫んでいた。
「なぜだ! おまえの親父は、穂積に出会って生きる力を得たんじゃないのか?」
≪おれだって分からないよ。だから加瀬さん、こうやってあんたに電話したんだ≫
切羽詰まった声が響いてきた。脳髄が揺れた。胸がどうしようもなくむかついた。吐き気が込み上げ、目尻に涙が滲んだ。デスクの上、開いたままの精神状態鑑定書のコピー。穂積からのプレゼント。レイプ事件──加瀬の足元が、呆気なく崩れ、奈落の底へと堕ちていった。
翌日、午前十時。加瀬は小菅駅前の喫茶店で村越亮輔を待っていた。店は荒川の堤防の近く、駅の改札を出てすぐの路地の中にあった。店を切り盛りするのは、二人の中年女性で、いつ訪れても無駄口を叩かず、黙々と仕事をこなしていた。店内には小さく、クラシックが流れている。
穂積との面会を終えた後は、きまって気力体力をごっそり奪われていた。歩くのも大儀なほど疲労困憊しているときがある。加瀬は、拘置所からの帰り途、この静かで小ぎれいな店で休むことがあった。亮輔は、約束の時間から五分遅れて到着した。安っぽいスタジャンに、ジーンズ。目が充血し、下瞼にどす黒い隈が浮いている。
「メシは食ったのか」
「いや」
向かいの席に座った亮輔は、力無く俯いた。
「モーニング、食うか」
亮輔は小さく頷いた。加瀬はオーダーを済ませ、
「いろいろ大変だったろう」
声をかけると、
「司法解剖をやってから葬式だ。はやく弔ってやりたいのに、死体を返してくれないんだ」
口の中でボソボソ言った。顔全体に、粘った脂汗と、疲労が濃く浮いている。
「親父さん、いつ発見された」
「一昨日《おととい》の夜十一時。見回りの刑務官が見つけて人工呼吸したけど、ダメだったって」
「どうやって死んでたんだ」
亮輔の頬の辺りがゴリッと動いた。
「首吊りだ。下着を裂いて、紐にして、独房のドアのノブに引っかけて、座り込んで死んでいたって」
「遺書は?」
小さく首を振った。亮輔にモーニングが、加瀬にブレンドコーヒーが運ばれてきた。亮輔は、バタートーストを一口|齧《かじ》ると、ひと掴みの刻みキャベツを添えた目玉焼きをフォークでつっ突きながら、さも不味《まず》そうに口に運んだ。加瀬はコーヒーを啜り、両手をテーブルの上で組んだ。
「きみがおれに電話したのは理由があるんだろう」
フォークが止まった。視線を上げる。その目を正面から見据えて言った。
「穂積のことだろう」
亮輔は憤然とした顔で睨んだ。唇を引き締め、喉をゴクリと鳴らすと、口を開いた。
「ああ、そうだ。おれは死んだその日の午前中、親父に面会している」
「何を話した」
「親父はこう言っていた。明日、転房かもしれないから、この後掃除する≠ニ」
「それから?」
「おれが、穂積と別れるのは寂しいだろう≠ニ言うと、親父は笑顔であれはいつか死刑になる人間だ。遅かれ早かれ、別れはくる。もう十分、話したから未練はない。あの男は死んでも魂の残る人間だから、会おうと思えばいつでも会える。おれは、あいつから生きる力をもらったんだから、それを大事にしていく≠ニ、さばさばした様子で言っていた。自殺するなんて、おかしいんだよ」
「じゃあ、親父さんはなぜ死んだ?」
「分からない」
掠れた声で言った。
「だが、穂積なら知っていると思う。もしかしたら親父には、おれの知らない苦悩とか、そういうものがあったのかもしれない。穂積は、死ぬ瞬間も、隣の部屋にいたんだから、何かを知っているはずだ」
「おれに訊いて欲しいのか」
亮輔の肩が震えた。じっと俯いている。
「穂積にこう言って欲しいんだろう。なぜ親父は自ら命を絶ったのか、教えてくれ≠ニ」
「そうだ」
亮輔は顔を上げた。決然とした表情だ。
「そのとおりだ。あれは神を見ている。何でも知っていると思うんだ」
加瀬は小さく頷くと、おもむろに言った。
「じゃあ、きみも来い」
「え」
絶句し、加瀬の顔を凝視した。
「どうせ、今日はこれから面会に行くんだ。同席させてやる」
「だって、あんた、この前は絶対に同席させないって──」
「気が変わった」
それだけ言うと、コートを掴んだ。しかし、亮輔は身じろぎもせず、ただ座っていた。
「どうした、怖くなったのか」
せせら笑い、顔をのぞき込んだ。
「穂積のことが怖くてたまらないんだろう」
平静を装って挑発した。だが、亮輔は唇を噛み、黙ったままだった。加瀬は頬を歪め、切り札を繰り出した。
「おれは、殺されたと思う」
瞬間、亮輔が弾かれたように顔を上げた。
「殺されたって……」
「穂積だよ。隣房のあいつが、きみの親父を殺したと思っている」
亮輔の顔に、驚愕の色が張り付いた。
「どうしてそんなこと──」
鉛を呑みこんだような声だった。
「あいつはきみが思っているような人間じゃない」
冷ややかに言った。
「でも、独房の中でどうやって殺す」
喘ぐような声。加瀬は唇を捻った。
「コンクリートの壁を通り抜けて首を絞め上げたんじゃないか。なにせ、本物の神に会っている人間だからな」
「あんた、からかっているのか」
亮輔の顔が険しくなった。
「どうした、ボクサー、来るのか来ないのか、はっきりしろ」
加瀬は立ち上がり、コートに袖を通した。
「行くさ。行ってやる」
自分を鼓舞するように言うと、亮輔は腰を上げた。喫茶店を出た加瀬は、背後で亮輔の息遣いを感じながら、足を進めた。両手をコートのポケットに突っ込み、背中を丸めて歩いた。鉛色の空。淀んだ排気ガスと、ドブの臭い。拘置所を取り巻く空気は、重く沈んでいた。
亮輔は知らない。自分が面会への同行を許した、本当の理由を。加瀬は目を細めた。脳裏に、忌まわしいレイプ事件の被害者の顔が浮かんだ。女は、声を殺して泣いていた。
二人は穂積を待った。拘置所の面会室。消毒薬とすえた汗の臭い。息が詰まりそうなちっぽけな空間。加瀬の左隣に座る亮輔は、小刻みに膝を震わせていた。盛んに唇を舐め、金網入りのガラス板の向こうに視線を据えている。
緊張しきった亮輔を見ていると、加瀬の、堰を切ってしまいそうな感情も、幾分落ち着いた。
──大丈夫だ。
心の中で呟いた。
──なんとかなる。
ドアが開いた。穂積が現れた。その背後から刑務官、ずんぐりした体躯の白井が続く。真っ白なトレーナーを着込んだ穂積は、優雅に一礼し、腰を下ろした。
「そちらは村越巧さんの息子さんですね」
亮輔に視線を向け、静かに言った。
「そうだ」
加瀬が答えた。
「この村越亮輔くんは今日、きみにぜひとも訊きたいことがあるらしい」
時間は限られている。単刀直入に斬り込んだ。穂積は小さく頷いた。
「お父さんがお亡くなりになって、さぞかし気落ちされていることでしょう。さあ、なんでも訊いてください。お父さんはあなたのことを、とても有望なボクサーだと自慢されていました。あなたは面会にもよく来られていたし、親孝行な息子さんだとわたしも感心していたんですよ」
慈愛をこめた視線を注ぎ、滔々《とうとう》と語りかけた。
「おれは──」
亮輔の太い首が強ばっていた。
「おれの親父は──」
言葉が続かなかった。穂積は首を傾げた。
「どうしました。遠慮することはありませんよ」
その言葉に勇気づけられたように、亮輔は言葉を継いだ。
「親父は、あんたに感謝していた。生きる力を与えられた、と本当に喜んでいた。その親父がなぜ──」
「なぜ、自殺したか、と」
穂積が言葉を引き取った。亮輔は口を半開きにし、「ああ」と、呻くように言った。
「そんなことですか」
拍子抜けした、と言わんばかりの口調だった。
「そんなことが知りたくて、あなたはここまでいらっしゃったわけですか」
加瀬は息を詰めた。穂積の顔が溶けるように捩れ始めた。みるみる軽侮と嘲りの色に染まる。唇に残忍な笑みが浮かんだ。
「あの日、少し話をしたんですよ。あなたのお父さんと」
「どんな!」
亮輔が勢い込んで訊いた。穂積は焦《じ》らすように口を噤み、目の前にいる、若いボクサーをまじまじと観察した。その冷たい視線は、どれだけのダメージを与えてやろうか、と思案するサディストそのものだった。薄い唇が動いた。
「お父さんが、転房したくない、と泣き言を口にするので、わたしはこう言ってやりました」
鼻に皺を寄せ、歯を剥いた。目が嘲笑していた。赤黒い舌でペロリと唇を舐め、愉快そうに語り始めた。
「あなたは生きる価値のない人間のクズだ。この先、わたしと離れて、正しく生きていけるのか? できないだろう。あなたは周囲の人間から蔑《さげす》まれ、バカにされ、しかも愛する妻は愛想を尽かし、どこかのチンピラと逃げてしまった。とことん、ダメな人間だ。あなたを苛《いじ》める世間が悪いんじゃない、あなたが悪いんだ。泣くな! 泣けば、すべてが許されると思ったら大間違いだ」
穂積はいったん言葉を切った。冷然とした表情に戻り、亮輔を凝視した。ひとり、残された息子の強ばった顔と、固く結んだ唇。満足気に頬を緩め、穂積は続けた。
「するとあなたの哀れなお父さんは、こう言ってすがった。穂積、たのむよ、見捨てないでくれよ。おれ、なんでもやるし、努力するから、助けておくれよ。なあ、穂積、おれ、あんたと別れたくないよ」
加瀬はブルッと震えた。それは、年老いた、哀れな男のか細い声だった。一面識もない村越巧だったが、瞬間、目の前に現れた気がした。加瀬は亮輔を見た。握り締めた拳が白く染まり、横顔が屈辱と怒りで真っ赤になっている。ガタッと音がして、パイプ椅子が倒れた。亮輔が中腰になった。全身の筋肉が張り詰め、怒気が立ちのぼっている。その肩を、加瀬は掴み、引き寄せた。
「落ち着け、挑発してるんだ」
低く囁き、パイプ椅子を元に戻した。ガラス板の向こうの穂積は顎を捻り、座るように、と指示した。亮輔が、いまにも食いつきそうな形相で腰を下ろすと、穂積は再び口を開いた。
「だから教えてやったんですよ。いまそこで死ねば、永遠の命と安寧を得られる、とね。村越さんは喜んでくれましたよ」
加瀬は、乾いた舌を引きはがして言った。
「じゃあ、おまえが村越巧を──」
穂積は両手を開き、肩をすくめた。
「べつにわたしが手をくだしたわけじゃない。もっとも、どうやって死ぬかはちゃんと教えましたよ。首吊りなんてのは、紐を掛ける高さが三十センチもあれば可能なんだ。大袈裟に、これ見よがしに、高い場所からぶら下がる必要なんてないんです。ねえ、白井さん」
右横に立つ白井に向かって言った。制帽を目深に被った白井は、ただ黙ってノートにペンを走らせていた。
「この野郎!」
怒声が弾けた。亮輔が立ち上がり、ガラス板に掴みかかった。加瀬は背後から羽交い締めにして、強引に引きはがした。穂積は微動だにせず、ガラスのような目玉でじっと見つめている。それは、実験動物を観察する科学者の目だった。
「亮輔、やめろ、罠なんだ、挑発して遊んでいるんだ」
懸命に宥《なだ》め、椅子に座らせた。
「面会を終わります」
白井がノートを閉じ、静かに告げた。と、穂積が首を回した。
「ちょっと待ってください、白井さん、あと一分だけ」
人差し指を立て、左右に軽く振る。白井は頷き、再びノートを開いた。それは、主人に仕《つか》える下僕の姿だった。
「おい、おかしいじゃないか!」
思わず叫んでいた。
「刑務官がそんな──」
加瀬の言葉を遮るように、穂積が口を開いた。
「加瀬さん、時間がないんだ。手早く済ませましょうよ」
今度はあんただ、とその顔が言っていた。
「プレゼントは届きましたよね」
一気に抉り込んできた。加瀬は、おののく心を抑えて頷いた。穂積は満足そうな笑みを浮かべた。
「面白かったですか」
「ああ、実に面白かった。鑑定人らはきみに翻弄され、大変だったろう」
精一杯の虚勢を滲ませたが、穂積は取りあわず、一転、話題を変えた。
「おかしいな」
首を傾げた。射貫《いぬ》くような視線を隣の亮輔に向け、次いで、加瀬を凝視した。
「あなたが、この人を面会に同行させたことが不思議でならない」
穂積は見抜いていた。加瀬は心臓をわし掴みにされていた。もはや、一ミリたりとも動けなかった。
「あなたは、わたしとの面会には担当編集者さえ同行させないひとだ。なぜ、大して親しくもない、この男を連れてきたんです?」
「それは──」
声が上ずっていた。
「村越巧の自殺の顛末を、あなたの作品に挿入するのかとも思ったが、どうもそうではなさそうですね。なぜなら、あなたがいつも身に帯びている、仕事への熱みたいなものが、今日は微塵も感じられないからだ。かといって、あなたがこの男を助けようなど、万にひとつも考えるわけがない。あなたは究極のエゴイストなんだから」
エゴイスト──胸に錐《きり》を揉み込まれたような気がした。左隣の亮輔が、不審な目を向けてくる。冷や汗が腋《わき》の下を流れた。
「わたしが怖いのかな?」
からかうような口調だった。──図星だ──思わず飛び出しそうになる言葉を呑み込み、視線を逸らした。口を噤んで、下を向いた。
「まあ、いいや」
ボソッと言うと、穂積は立ち上がった。
「よく考えておきますよ。あのプレゼントは、あなたに予想外のダメージを与えたようだ。そのダメージの正体を、わたしはもうすぐ知ることが出来る」
断定した物言いだった。加瀬は顔を上げ、立ち上がった。
「おい、待てよ」
震える声で呼び止めた。穂積はぐるりと顔を巡らした。これだけは言わなければならなかった。榊がくれたヒント。至高の正体。静かに語りかけた。
「至高ってのはおまえの共犯者じゃないのか」
「共犯者」
ポツリと穂積が呟いた。
「面白い表現だ」
独り言のように言うと、踵を返した。ドアがガタンと閉まり、穂積と白井が消えた。
「どういうことだよ」
凄みのある声がした。亮輔が眉間に筋を刻み、睨んでいた。
「ええ、加瀬さん、あんた、おれを利用したのか? 自分が怖いから、おれを同行させたのか?」
「うるさい!」
一言叫ぶと、コートを掴み、加瀬は外へ出た。廊下を小走りに駆け、控室の極道どもの不審げな視線を振り払い、拘置所の鉄門をつんのめるようにして出た。
「おれはあいつを許さねえぞ」
肩を並べるようにしてついてきた亮輔が吠えた。
「穂積は親父を殺したんだ。あんたの言ったとおりだったよ」
加瀬は足を止めた。拘置所の前を走る一直線の道路で、二人は向かいあった。
「穂積は独房にいるんだ。おまえ、許さないと吠えるのは勝手だが、いったいどうする? 経緯はどうあれ、結果は自殺だ。証拠なんてまったくない。親父さんは自分の意志で勝手に死んだんだ。自殺|幇助《ほうじよ》は問えないぞ。それに、おまえのその自慢の拳も、いまの穂積にはかすりもしない。どうせあいつは死刑になる。死刑の前では、おれたちは悲しいくらい無力だ。死刑以上の刑罰はないんだから、あいつは怖いものなしだ。あいつは塀の中で国家の庇護のもと、とんでもない化け物に育っている」
一気にまくしたてた。加瀬は肩で大きく息を吐いた。
「おい、変なこと言ったな」
亮輔が首を傾げ、眉間を寄せた。
「あんた、いまおれたち≠ニ言ったろう」
低く、挑むように言った。加瀬はチッと舌打ちをくれ、横を向いた。亮輔は勢い込んだ。
「加瀬さん、あんたもあいつが憎いのか。ええ、殺してやりたいくらい、恨んでいるのかよ」
加瀬は唇を結び、無言のまま立ち尽くした。
「おい、なんとか言えよ」
ジャケットの襟を右手でねじ上げ、腕を伸ばした。加瀬は、道路の右側の壁、拘置所の職員住宅を囲むレンガ壁に押し付けられた。
もの凄い力だった。抗う術《すべ》はなかった。
「なんであんたが穂積を恨む。あんたはあいつを利用して、のし上がろうとしているんだろうが。本を書いて世間に名を売り、カネを儲けようとしているんだろう。そのあんたが、なぜあいつを恨む。これまで、五人の犠牲者のことなんか、これっぽちも考えてこなかったくせに」
ナイフのような言葉だった。容赦なく加瀬を突き刺し、抉った。
「勝手な野郎だ」
吐き捨てるように言うと、腕を緩めた。加瀬はアスファルトに両膝をついて倒れ込み、首を手で押さえて喘いだ。
「そうだ、おまえの言葉は全部、当たっている。おれは勝手な男なんだよ」
荒い息を吐きながら言った。
「加瀬さん」
亮輔の声が降ってきた。
「おれはあんたの生き方を軽蔑するぜ」
憎々しげに頬を歪めるとペッと唾を吐き、背中を向けた。加瀬は、懐からハンカチを取り出し、髪にこびりついた唾を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。膝の砂を両手で払い、腰を伸ばした。遠ざかっていく亮輔の背中が、いやに小さく見えた。
大塚駅前の仕事場へ帰った加瀬は、途中のコンビニで買ったカップ麺で昼食を済ませると、鑑定書をもう一度、読み返した。脳裏で亮輔の言葉が聞こえる。
──五人の犠牲者のことなんか、これっぽちも考えてこなかったくせに──
そうだ。自分はこれまで、犠牲者の痛みなど知ろうともしなかったし、また知る必要もないと思っていた。それが正しいんだと信じていた。
事件モノのライターとして活動するようになって以来、悲惨な現実というやつにはイヤというほどお目にかかった。幼い娘を変質者に殺された両親、新婚の妻をシャブ中の通り魔に刺殺された夫、苦学生の一人息子をチーマーに殴り殺された老夫婦。初めのころは、犠牲者の家族の話を聞きながら、貰い泣きしていた。しかし、いつの間にか麻痺してしまっていた。憐憫に顔を歪め、それらしき言葉をかけながら、心の内ではスクープの文字が躍っていた。
所詮、第三者じゃないか。そんな言葉に逃げ込み、自分を納得させてきた。取材者が、ひとたび第三者という枠組みから外れたらどうなってしまうかなど、想像したこともなかった。コピーをめくりながら、加瀬は、思い知っていた。自分の傲慢さと、情けないほど脆《もろ》い心を。
午後五時。加瀬はコピーを閉じ、窓の向こう、押し潰されそうな冥い空を見ながら、固定電話の番号を押した。
二週間前と同じ、巣鴨駅前のファミリーレストランだった。午後八時、成田聖司は、今夜も計ったように約束の時間ちょうどに現れた。
グレーのスーツに七三に分けた短めの髪。逆三角形の身体と、一分の隙も無い身のこなしは、切れ者の警察官のそれだった。キャメルのコートを腕に抱え、黒革の鞄を提げた成田は、加瀬の姿を認めると、ゆっくりとした足取りで近づいてきた。表情が険しかった。
「久しぶりですね」
加瀬は座ったまま、声をかけた。
「迷惑なんですよ、加瀬さん」
嫌悪を露にした言い方だった。
「なにが?」
加瀬は素っ気なく続けた。
「いったいなにが迷惑なんですかね、成田さん」
成田の顔が赤みを帯びた。
「このまえ、お話ししたことであなたの取材は終わったと思っていたのに、どうしてまた呼び出されなきゃいけないのです」
加瀬は、気色ばんだ成田を無視して、唇に薄い笑みを滲ませた。
「まあ、座ってくださいよ。コーヒーでも飲みましょう」
成田は挑むような視線を向けたまま、腰を下ろした。加瀬は指を鳴らしてウェイターを呼んだ。オーダーを済ませると、おもむろに口を開いた。
「成田さん、前回も言ったが、おれはこの作品に賭けている。あんたの事情なんか知ったことじゃない。もちろん、名前は出さないが、最大限の協力はしてもらいますよ」
「脅し、ですか? 現職の警察官が、こうやって、ルポライターと会っていることが上に知れたら、厄介なことになる、とでも思っているのですか」
「まあ、人事考課上、プラスにはなりませんな。でもご安心ください。そんなこと、考えたこともありませんよ。ただ、事情が少しばかり変わってね。ここだけの話、穂積に対するある疑問が湧いてきたんですよ。あんたの意見を是非、拝聴したいと思ったんです」
「疑問?」
成田は警戒心を滲ませ、目をすがめた。加瀬は軽く咳払いをすると、口を開いた。
「率直に言いましょう。これは警察官の直感で答えて貰いたいんだが」
乾いた唇を舐めて湿りをくれ、続けた。
「穂積壱郎に共犯者はいると思いますか」
「共犯者?」
呟き、訝し気な表情を向けた。当然の反応だった。
「ええ、連続レイプ殺人を穂積と共に行った人物ですよ」
成田は目を剥き、首を振った。
「初めて聞く話だ。いったい、どこからそんな話が?」
喘ぐような声だった。
「成田さん、穂積の供述調書や捜査資料等をひっくり返して、隅から隅まで読んでも、共犯者に言及している部分はただの一箇所もない。つまり、これまでまったく表面に出なかった話だ」
成田は重々しく頷いた。
「しかし、おれは今回の取材を進めるなかで、どうしても気になる事柄が出てきた。穂積が送ってきた手紙の中の言葉なんだが──」
「どんな言葉です」
「至高──この上なく高い、という意味の言葉が出てくるんです」
成田は、訳が分からない、と言わんばかりに眉をひそめた。加瀬は説明した。
「第一の強姦殺人の模様を記したあと、穂積はこう書いている。『わたしの魂に、至高が舞い降りたのです』と」
「抽象的で分かりにくい表現ですね」
冷徹な表情で言った。
「その通りだ。おれは、獄中の穂積に直接ぶつけてみた」
「で、穂積は何と?」
「その存在を認めはするが、否定も肯定もしない。いまもって、至高の存在はまったくもって分からないのが実情なんです」
「その至高について、ほかに何か言っていないのですか」
上半身を乗り出してきた。真剣な表情だった。加瀬は視線を宙に泳がせ、二呼吸の間、思案を巡らした後、語った。
「こんなことも口にしていたな。至高に新しい世界を教えてもらった。それを知れば、死ぬことなどなんでもない≠ニ」
成田は、顎に手をやり、考え込んだ。コーヒーが運ばれてきた。成田はカップを取り上げ、一口啜って言った。
「そこまで言う以上、至高という存在があったのかもしれない。しかし──」
視線を上げた。
「犯行現場にもう一人の人物がいたという痕跡はまったくありません。わたしも警察に入って以後、内密に当時の捜査関係者から話を聞いたことはあるが、単独犯という事実に異議を挟むような材料は皆無だった。警察の捜査は、一般の人間が考えるよりずっと優秀です。身びいきで言うわけではありませんが、わたしは警察の捜査に瑕疵《かし》はなかったと思う」
「それはそうだろうが──」
加瀬は中空を凝視した。
「申し訳無い、加瀬さん」
成田は頭を下げた。加瀬は何のことか分からず、眉根を寄せた。
「あなたの精力的な取材、そして、卓越した推理力には心より敬意を表します。しかし、いまの材料だけでは、警察を動かすのは無理だ。もっと、確かな材料がないと……」
「成田さん、誤解してもらっては困る」
加瀬は軽く手を振った。
「おれは、再捜査をやってもらおうと思って、あんたに連絡したのではない。犠牲者の関係者でもあるあんたに、おれの疑問を是非とも聞いてもらいたかったんだ。そして、意見を聞きたかった。ただそれだけですよ」
成田は苦渋の表情で呟いた。
「いまのわたしは吉本貴子の恋人である前に、警察官です。なんとかあなたの努力に報いたい、と──」
加瀬は冷ややかな視線を向け、かぶりを振った。
「出過ぎた行為だな。あんたに頼みたいことがあったら、回りくどい言い方はしない。具体的に伝えるよ。これまでどおりに、ね」
挑発的な物言いに、成田の表情が怒気を帯びた。顔が白くなる。
「加瀬さん、あまり図に乗っていると後悔しますよ」
声に凄みがあった。加瀬は唇を曲げて笑った。
「まあ、そう気色ばみなさんな。おれは、至高の正体を知るためなら、なんだってやる。その覚悟だけは承知してもらわないと困る」
成田は眉を曇らせ、独語《ひとりごと》のように呟いた。
「変わりましたね」
「なにが」
「いまのあなたは居直っているというか、前回と比べて随分と余裕がないようだが」
顔が火照った。
「そんなことはない。おれは清濁併せ飲むことに慣れ切った、フリーのモノ書きだ。執念だけが取り柄なんだよ」
動揺を強引に抑え込み、自嘲を滲ませて言った。
「それより成田さん、質問に答えてくれ。あんたは至高が存在すると思うか?」
下唇を噛み、少し迷った表情を見せた後、成田は言った。
「加瀬さん、この前も言ったが──」
「なんです」
「死を怖がっていないはずの穂積が、なぜ上訴をしたのか、という疑問です。これについて、穂積は何か語っていたでしょうか」
ついさっき、垣間見せた激情がウソのような淡々とした口調だった。加瀬は答えた。
「穂積はこう言っていた。至高を見ていたい≠ニ」
「なるほど」
成田は得心したように、顎を上下させた。
「となれば、やはり至高はいますね」
断定した物言いだった。
「加瀬さん、至高はどこかにいますよ。間違いない」
成田の瞳が強い光を放った。加瀬はその視線を受け止めて語りかけた。
「あんたにお墨付きをもらった以上、おれも自信を持って動ける。おれはいま、無性に仲間、いや、同志が欲しい。穂積は一人で抱え込むには重すぎる」
成田は目を見開いた。
「同志? それがわたしだと?」
加瀬は無言のまま、凝視した。成田は口を歪め、吐き捨てた。
「バカな。わたしは事件の当事者だが、あなたは所詮、第三者じゃないか。そして、わたしは警察官で、あなたはフリーのモノ書きだ」
加瀬の頬のあたりがひきつれた。
「なにからなにまで違う、と言いたいのか?」
「だって事実でしょうが」
突き放すように言った。加瀬の顔が憤怒に染まる。
「おれは穂積が憎い。殺してやりたいほどに、な。それはあんたも同じだろう」
成田が顎を引き、首をひねった。
「加瀬さん、いったいどうしたんですか。取材者が第三者の視点を失ったら、満足のいくものは書けないでしょう。まして、あなたは一冊のノンフィクション作品を書こうとしているのですよ。普通の雑誌記事じゃない」
加瀬は唇を吊り上げ、声を出さずに笑った。
「まさか警察官のあんたに取材者の心得を教えてもらうとは思わなかった。ありがたく拝聴するよ」
成田が不快げに眉をしかめた。加瀬はテーブルの上に身を乗り出し、囁いた。
「おれは伊達や酔狂であんたに会っているんじゃない。本気で穂積を憎んでいる。これだけは分かって欲しいんだ。取材者の同情とか、気休めなんかじゃない」
切迫した表情だった。成田の視線が尖った。
「わたしに何を要求する?」
「あんた、獄中の穂積に復讐したいだろう」
成田は一瞬、顔を強ばらせ、ついで静かに頷いた。
「もちろんだ。可能なら、司直の手をわずらわせることなく、自分のこの手で殺してやりたいほどですよ」
両手をテーブルの上に置いた。関節の太い、肉厚の手だった。
「存分に死の恐怖を味わわせてね」
震える声で言った。ぎゅっと両手を握り締めた。節くれだった拳が、怒りと無念の塊に見えた。
「じゃあ、おれに協力することだ」
それが当然、とばかりに加瀬が言った。息を呑む音がした。成田の蒼白の顔がみるみる強ばる。
「分かったか?」
成田は、加瀬の言葉に誘われるように、顔を小さく上下させた。
巣鴨で成田と別れた加瀬は仕事場へ戻り、自宅へ電話を入れた。美知子に、今夜は仕事場に泊まる、と告げた。美知子は、そう、と素っ気なく言い、寒いから暖かくして寝てください、と形ばかりの気遣いを口にした。なぜ、夫が今夜帰らないのか、その理由を聞こうとはしなかった。
冷えきった、ちっぽけな部屋。加瀬はキッチンの戸棚からグラスとウィスキーのボトルを取り出すと、デスクライトを消し、ソファベッドに座った。嵌め殺しの窓から、ネオンの明かりが射し込むだけの、暗く冷たい空間。ウィスキーをストレートで飲《や》った。喉が焼け、涙が滲む。
穂積壱郎。
小さく呟いた。邪悪な味が舌に湧いた。カラになったグラスに、ウィスキーを注いだ。二杯目を、毒でも呷《あお》るように、喉へ流し込む。胸が燃え、頭が痺れた。コンクリートの独房にとらわれた死刑囚。二十四時間、厳重な監視態勢に置かれた連続レイプ殺人犯。国家権力に守られた穂積。自分は無力だと思い知った。
奥歯がギリッと軋んだ。グラスを力任せに叩きつけた。凍った二十平方メートル足らずの仕事場に、ガラスの砕ける鋭い音が響いた。──究極のエゴイスト──穂積の嘲りが耳の奥で聞こえた。加瀬は両腕で頭を抱え、呻いた。獣の唸るような声は、じきにすすり泣きに変わった。嗚咽と慟哭が、頭蓋で反響した。このまま──このまま、世界が終わればいい、と思った。だが、世界は続いていく。明日も、その次も。加瀬は、血のナイフで心に刻み付けた。復讐、の二文字を。
翌日、午前九時三十分、加瀬は関東拘置所にいた。面会室。目の前には穂積。余裕たっぷりの表情でこっちを見ていた。隣に刑務官の白井。忠実な下僕にふさわしい、しかつめらしい顔でノートに視線を落としている。
「昨日の今日で、あなたも熱心ですね」
穂積が嘲るように言った。
「今日はおひとりですか」
「きみとじっくり話をしたい、と思ってね」
「ほう、まだひとりで会うだけの勇気が残っていましたか」
白い歯を見せて微笑んだ。
「実は、わたしもあなたに会いたくてたまらなかったのです。電報でも打とうか、と思っていたところでした」
加瀬は両手で膝をグッと掴んだ。平静を装って訊いた。
「なぜだね。なぜ、きみがおれに会いたいと思うんだ?」
「分かったからですよ」
目に、愉悦の色が浮かんだ。
「あなたが、わたしを恐れる理由が分かった。わたしは、精神鑑定書のどの部分が、あなたにダメージを与えたかを突き止めた」
抑揚のない語り口が鼓膜を震わせ、頭の芯に響いた。
「言ってみろよ」
加瀬は低く言った。
「おい穂積、その理由というやつを言ってみろ」
伝法な物言いに、穂積は一瞬、虚をつかれた表情を見せたが、すぐに余裕の笑みを浮かべた。
「なにを興奮しているのですか。すべてはあなたが彼女と会う前の出来事でしょう。そんなに熱くなる必要はありませんよ」
静かに言うと、凝視した。沈黙。加瀬はおののく心を抑え、穂積の視線を受け止めた。
「穂積、神はたしかに存在するよ。こんなこと、偶然であるはずがない」
罅割《ひびわ》れた声だった。穂積は晴れ晴れとした顔を見せた。
「その通りです。加瀬さんも、やっと理解したようですね」
加瀬は身を乗り出した。
「なぜ、分かった」
「簡単でしたよ。前にも指摘した通り、あなたは奥さんとうまくいっていない。そして昨日、あなたの全身から漂う疲労は倍加していた。それは仕事の疲れじゃない。奥さんのことを考え、苦しみ悩んだ末の疲労だ。わたしは考えた。なぜ、奥さんのことで前にも増して苦悩しているのか? ひとつの可能性として、わたしが送った鑑定書がある。もっと突き詰めて言えば、いまのわたしでは鑑定書以外に、対象とすべき選択肢がないわけです。そこで鑑定書に絞って考えてみた。すると、みるみる道は拓けたではありませんか。あの鑑定書で、奥さんが関係あるとすれば、ただひとつだ」
ひとさし指を立てた。加瀬は、呼吸を止めて待った。
「レイプですよ」
息を呑む音がした。白井だった。ノートから上げた顔に、驚きと戸惑いが張り付いている。加瀬が鋭い視線を飛ばすと、慌てて目を伏せた。穂積は白井の反応に興味を示すことなく、続けた。
「わたしが最初に犯した事件。いや、事件じゃない。あなたの奥さんは訴えなかったんだから。わたしは一連の強姦殺人で逮捕されたあと、刑事さんにあの女から奪った定期券を示してこの女もレイプしてやりました。しかし、命は奪っていません≠ニ教えてやったのに、あの女は最初、認めなかった。ひどい話じゃありませんか」
さも呆れた、と言わんばかりにかぶりを振った。
「刑事さんの厳しい追及があって、しぶしぶ認めたんですよ。だが、訴えなかった。その言い分がふるっている。自分が訴えようが、訴えまいが、死刑になるのは確実なんだから、関係ないでしょう、と言い放ったらしい。したたかな女だ。自分がレイプされたことが、そんなに大変なことなんですかね。たかがレイプじゃないですか」
穂積は加瀬の目を覗き込み、続けた。
「しかし、愉快だ。わたしと加瀬さんが、ひとりの女を通して繋がりがあるなんてね。あなたもやっと理解できたように、やはり、神はいるのです。これはあらかじめ定められた運命なんですよ。神はすべてをお見通しだ。われわれは神に導かれ、この場所で顔を合わせている。素晴らしいじゃありませんか。でも加瀬さん」
慈悲に満ちた視線が注がれた。
「鑑定書を読んだときはさぞかし驚かれたでしょうね」
「いや、何も感じなかった」
加瀬はぼそりと言った。
「ウソだね。あなたは偽りを口にしている」
穂積が勝ち誇ったような薄ら笑いを浮かべた。
「本当だ。最初、読んだとき、おれは分からなかった。五人の連続レイプ殺人に比べたら、些細な、とるに足らない事件だと思った。たかがレイプじゃないか、とサラッと読んでしまった」
「そんなのおかしいですよ」
穂積は口を尖らせた。
「だって、あれには名前も書いてあったでしょう。たしかヤマモトミチコだ。あれは決して匿名ではありませんよ。わたしは鑑定人に確認しましたから」
教え、諭すように言った。
「分かっている。だが、漢字が違った。知という字が、日のついた智となっていた。おそらく誤植だろう。鑑定人の大学教授が文字の打ち込みを助手に任せたのか、それとも校閲をしなかったのか、いずれにせよあの鑑定書に誤植は山ほどあった。美知子と美智子。よくある誤植だが、字面が違う。それにおれは、自分の妻がおまえの毒牙にかかっていたなんて、これっぽちも考えていなかった」
「しかし、読み返したら、ピンとくるものがあった、ということですね」
「そうだ。旧姓、山本。杉並在住の女子大生。年齢二十歳。八年前の状況とぴたりと合う」
「しかし、それだけじゃあ偶然ということもありうる。もしかして、以前、打ち明けられたことがあったんですか? 過去、レイプされたことがあって、そのとき、もの凄く感じたから、強姦プレイをやりましょうよ、とか」
ヒッヒッ、と喉がひきつれるような笑いを漏らした。加瀬はとり合わず、話を続けた。
「おまえが指摘した通り、おれはいま、妻とうまくいっていない。妻はおれには隠しているが、ここ暫く神経を病んでいる。おれには、その理由が分からなかった。しかし、鑑定書のレイプ事件と妻を結び付けて考えると、途端にクリアになることがあった。以前の妻は、おれの仕事場を定期的に訪ねて、掃除と書類の整理をやってくれた。しかし、ある時期から仕事場へ来なくなった。分かるだろう?」
加瀬は視線を据えた。穂積は、軽く顎を上下させた。
「そうだ、おまえの手紙が届くようになってからだ。同時に暗い顔で塞ぎこむようになった。手紙の差出人を見て、恐れおののいたのだろう。おれが嬉々として取材を続ける間、あいつは針の蓆《むしろ》に座っていたはずだ。忌まわしい過去の事件が蘇り、身も心も引き裂かれてしまった妻はいま、ひとりで地獄の底を這いずり回っている」
「天国かもしれませんよ」
嘲るように言った。グッと奥歯を噛んで耐えた。
「おれは最初、鑑定書に目を通して、レイプを些細な事件だと思った。そして再度、読んだとき、世界がひっくり返った。暗転した。おまえの底の知れない悪意を全身に感じて、肌が粟立った。なぜ、おれが、と思った。認めたくなかった。不幸な偶然だと天を呪った。おれは勝手な、狡《ずる》い、自己本位の男だ。それを思い知って泣いた」
穂積は目を細め、低く小さく、囁くように笑った。
「面白いか?」
「だって、最高じゃない。わたしは、あなたの妻になる女性を犯した。しかし、あなたはいま、何もできない。ほら」
ガラス板に顔を近づけ、挑発した。
「わたしはいま、あなたの目の前にいる。なのに、あなたは手も足も出ない。さぞかし憎いでしょう。悔しいでしょう」
加瀬は、ただ無言で見つめた。穂積の唇が裂け、目が吊り上がった。いまにも涎を垂らしそうな表情で、ニタリと笑った。それは、人間の皮一枚を脱ぎ捨てた、悪鬼の顔だった。
「美知子は素晴らしかったよ」
穂積は赤黒い舌で唇をベロリと舐めた。唾液がぬめり、テカテカと光った。
「道を尋ねるふりをして柔らかな腹部に拳をめり込ませ、失神した美知子を建築現場へ引きずり込んだ。白いブラウスを脱がせ、ブラジャーを剥《は》ぎ取った。慎重に、破ったりしないようにね。と、美知子は目を覚ました。目を剥《む》き、大声で叫ぼうとしたので、顔を二、三発、拳で殴り、殺しちまうよ≠ニ脅してやった。あとは思うがままさ。小鳥のように震える美知子のきめ細かな肌、掌に吸い付く乳房を乱暴に掴み、乳首を口に含んで舌で転がし、パンティーを脱がせ、白い伸びやかな脚を開き、淡い茂みに指を這わせ──」
穂積は憑かれたように喋りまくった。レイプの模様を身振り手振りを交え、仔細に語った。加瀬は目を逸らすことなく、すべてを聞き、すべてを目に収めた。奥歯が軋み、こめかみの血管が膨らんだ。
「やせ我慢も大変ですね」
生々しいレイプの光景を語り終えた穂積は、いたわるように言った。晴れやかな笑顔だった。
「終わりか?」
加瀬は素っ気なく言った。
「無理しなくてもいいんですよ、加瀬さん」
穂積は視線に哀れみを込めて続けた。
「まだ大事なことがありますよ。だって、美知子は取り返しのつかない罪も犯しているんだから」
「罪?」
加瀬は身構えた。
「そう、あなたの妻が生きている限り背負い続ける罪です。美知子が、レイプされた直後、警察に駆け込んでいれば、その後の連続強姦殺人はなかったかもしれない」
穂積は得意げに胸をそらせた。
「つまり、美知子の乳房についたわたしの歯型とか唾液とか、体内に放出した精液とか、あるいは現場に残った靴跡とか、そういう有力な証拠物件を調査して、警察はわたしを逮捕できたかもしれない。ところが、美知子が泣き寝入りしたおかげで、わたしは味をしめ、暴走し、次々に事件、最高に興奮する殺人レイプ事件へと手を染めていった。加瀬さん、あなたの妻、美知子は卑怯で自分本意で恥知らずな女ですよ。あなたと同じだ」
穂積は勝ち誇った顔で凝視した。
「加瀬さん、この世はデッドウォーターなんだ」
デッドウォーター……加瀬は首を微かに捻り、呟いた。
「そう、出口のない腐れ水ですよ。いくら足掻《あが》いたところで、この世にいる限り、腐れ水にどっぷり浸かったままだ。絶対に逃げられません。だから無理せず、神の定めた運命に従って過ごせばいいのです」
「言いたいことはそれだけか?」
加瀬が冷たく言い放った。穂積は、訝しげに眉を顰めた。加瀬はゆっくりと口を開いた。
「おれは今日、ここへ来るまで逡巡があった。いくら冷酷な犯罪者とはいえ、そして、妻が過去、卑劣な犯罪の餌食になったとはいえ、一民間人であるおれが手を下すのは許されることじゃない、と思っていた」
「ちょっと待ってください」
穂積は右手を挙げ、制した。
「その冷酷な犯罪者とは、わたしのことですか?」
「もちろんだ」
視線を据えたまま言った。穂積が破顔した。
「独房にいるわたしに、あなたが手を下すだって? いったいどうやって? あなたは指一本触れられないんですよ。それとも、あなた、二、三人殺して、わたしの隣に来ますか? それなら可能性はあるかもしれないな。まあ、あなたも村越巧のように、自分で命を絶ってしまうでしょうがね。死ぬことを恐れない人間はまた、他人の死にも細やかに配慮するのです。あなたをこのうえなく甘美な死へと、誘《いざな》ってあげますよ」
歌うように言った。加瀬は強ばった唇を歪めた。
「おまえはいい気になって喋り過ぎた。これまでの面会で、おまえは重要なコトを教えてくれた」
「なにを?」
からかうような物言いだった。加瀬は金網入りのガラス板越しに、指を突き付けた。
「このおれがおまえを破壊し、死の恐怖へたたき込む手段だ」
それまで氷のように無表情だった加瀬の顔が、一瞬にして憤怒《ふんぬ》に震えた。
「おれには、死刑の恐怖に醜く歪むおまえの顔が見えるよ。穂積、地獄へ堕ちろ」
「ばかな。わたしは死の恐怖とは無縁だ。死ぬ瞬間まで、わたしは無敵なんですよ」
気負いのない言葉だった。
「約束するよ、穂積。おれは必ずおまえを破壊する」
加瀬は立ち上がり、射貫くような視線を向けた。が、それも一瞬だった。次の瞬間、バサッと音をたてて身を翻した。その背中に、穂積の言葉が突き刺さった。
「おい、加瀬。わたしは独房からおまえの家庭を破壊し、仕事を破壊し、美知子を破壊してやったぞ。現実を見つめろ。ここは国家という最高権力の庇護のもと、水も漏らさぬ監視態勢と分厚いコンクリートに囲まれた拘置所だ。貧乏な能無しルポライターに何ができる」
高らかな嘲笑を浴びながら、加瀬は後ろ手に面会室のドアを閉めた。口の中で異物が動いた。加瀬は舌で探《さぐ》り、掌に吐き出した。それは、砕けた奥歯の破片だった。
午後七時、成田聖司は、浅草のホテルにいた。嵌め殺しの大きな窓の向こう、川面《かわも》に水銀灯の放列が滲む隅田川が見える。対岸の首都高速六号線は、ヘッドライトが光の帯となって流れていた。開けた眺望と広々とした部屋、行き届いたサービスを売りとする、この界隈では珍しい高級ホテルだった。
窓際の応接セットで向き合うのは、ひとりの初老の男。薄くなった髪をオールバックに固め、メタルフレームのメガネに紺のスーツを着込んだ実直そうな男の名前は君塚正義。綾瀬西警察署の副署長だった。ハンカチを片手に、さっきから盛んに額の汗を拭いている。
「暖房が利きすぎですか?」
成田が声を掛けた。
「いえ、そんな」
語尾が震えた。目を伏せ、成田の顔を見ようとしない。分厚い筋肉質の身体を上等のスーツに包んだ、威圧感たっぷりの成田と、いまにも萎《しお》れそうな君塚。親子ほど年齢の離れた二人だが、その力関係は明らかだった。
「まあ君塚さん、おラクになさってください。わたしだって、警察の大先輩であるあなたに栄達を遂げてもらいたいんだ。高卒のノンキャリアで署長目前の地位まできたのだから大したものです。親族縁者の誇りでしょう」
「いやもう、副署長で終われるなら、わたしは御《おん》の字です。それを、あのバカ息子が──」
唇を噛んだ。成田は焦《じ》らすように、ゆっくりと口を開いた。
「大学まで出しておきながら、同情しますよ。まさか、ギャンブルに狂って四百万もの借金を作るとはね。それもサラ金ですからね」
毒でも飲んだように顔をしかめ、成田は言った。君塚は平身低頭し、こめかみを伝う汗を拭いた。
「署長候補となった方は、最低一年の行動確認がわれわれ人事一課監察係によって行われます。君塚さんもご存じのように、それは徹底したものですよ。尾行、聞き込みを繰り返し、必要とあらば、カードの支払い先までチェックしますからね」
「当然ですよ。署長となれば一国一城の主だ。部下の模範となる、高潔な人柄でなければ務まりません」
消え入りそうな声だった。
「しかし、あなた御自身はまったく問題なかった。惜しい、実に惜しい」
眉の辺りに無念を漂わせた。君塚がボソボソと呟いた。
「まあ、運が無かった、ということです。家族さえしっかり監督できない者に、署長の資格はありません。息子の借金はわたしが責任を持って返却しますから、どうぞご心配なく。わたしは所詮、副署長留まりの男だったのです」
「副署長留まり? 何を勘違いしていらっしゃる」
冷たい声音だった。君塚は顔を上げた。怪訝な表情だった。乱れた少ない髪が、額の汗にへばり付いている。成田の唇に冷笑が浮かんでいた。
「あなた、このままだと依願退職を強いられますよ。当然、再就職先も無しだ」
「どういうことです?」
虚ろな目が泳いでいる。
「息子さん、厄介な場所で遊んでいたんですよ。錦糸町の雑居ビルの地下にあるカジノバー。もちろん、暴力団の息のかかった会員制の裏カジノですよ。一晩に莫大な現ナマの動くヤツ」
君塚の顔から血の気が引いた。
「これが表沙汰になったら、あなた、大変ですよ。上は激怒するでしょうな」
「そんな、なにかの間違いでは」
君塚がすがるように身を乗り出した。成田は、懐から茶封筒を抜き出すと、写真と報告書を無造作にテーブルにばら撒いた。顎を捻って、見るよう促す。君塚は、震える手で取り上げ、凝視した。空調の音だけが響いた。三分後、強ばった唇がわなないた。
「申し訳ありません」
細い声を絞り出し、深々と頭を下げた。成田は哀れみを滲ませて言った。
「まあ、君塚さん、頭をあげなさいよ」
一転して柔らかな物言いだった。
「この話はまだ、わたしの段階で止めてますからご心配なく」
君塚は訳が分からず、口を半開きにして見上げた。
「君塚さん、あなた、まだ署長を諦めることはありませんよ」
「どういうことです?」
成田はグッと顔を近づけた。眉根を寄せ、固い視線を注ぐ。
「よく聞きなさいよ」
低く重い声だった。副署長は喘《あえ》ぎながら頷いた。
「いずれにせよ、これから話すことはあなたの判断次第だ。署長の椅子を獲得し、功なり名を遂げるか、それとも屈辱に塗れた依願退職か、二つにひとつです」
匕首《あいくち》を胸元に突き付けて迫るような声だった。君塚の顔全体に玉の汗が浮いた。成田は頬を緩めた。
「なに、たいしたことじゃない。少しだけ協力してくれればいいのです。わたしの大事な友達のために」
諭すように言った。
「大事な友達?」
君塚は、メガネのフレームを指先で押し上げ、肉の薄い顔を強ばらせた。
「そうです。まさか、ゲシュタポと忌み嫌われる監察官に親しい友人がいるなど、思ってもみませんでしたか?」
君塚は慌ててかぶりを振り、口から泡を飛ばして弁解した。
「とんでもない。それは誤解です。監察官も、同じ警察官じゃありませんか。しかも、警察組織の規律を身を挺して守るという──」
成田は視線で君塚の言葉を制し、ゆっくりと頷いた。
「そうです。そして、同じ人間なんですよ。わたしも、わたしの大事な友人も、ね。その友人が頼み込んできた以上、わたしも無下《むげ》に断ることはできない。また、断ることが許される状況でもない。君塚さん、正直に言いましょう。ある捜査の情報が欲しいのです」
「いったい、何を……」
蛇に睨まれた蛙。君塚はすっかり呑まれていた。
「なに、たいしたことじゃありませんよ」
成田は、目尻に皺を刻み、喉で笑った。
「少し調べてもらえば済むことですから」
有無を言わさぬ口調だった。
十分後、君塚はガックリと首を垂れ、承知した。
君塚に因果を含め、丁重に送り出した後、ルームサービスでブランデーを注文し、ソファに深々と腰を埋めた。ネクタイを緩め、天井を仰ぐ。視線を宙に据えた。凍った瞳が動かない。感情の失せた、死人のような横顔だった。
オーダーの品を運んで来たボーイを、チップを渡して鷹揚な笑顔でねぎらい、グラスに注いだブランデーを含む。口中を強烈なアルコールが灼き、次いで陶然とした味と香りが広がった。
ボトル半分がカラになった頃、窓にゆっくりと視線をやった。目を細める。黒々とした隅田川の川面で揺れる街灯の放列。ガラスの向こうに吉本貴子の顔が浮かんだ。タカコ……そっと呟いてみる。あの忌まわしい過去を乗り切った自分に怖いものなど、何もない。
グラスを優雅に傾けながら、闇に浮かぶ貴子の蒼白な顔を見つめた。
夜十時過ぎ、加瀬が自宅マンションに帰ったとき、美知子はソファに座り、テレビに見入っていた。
「ただいま」
小さく言った。ニュース番組では、したり顔のコメンテーターが、このままでは日本経済は破綻あるのみ、なぜ、この国で暴動が起きないのか不思議だ、みんなおとなしいですね、怒る気力もなくなったんですかね、情けない国ですね、とテレビで能書きを垂れるだけの自分のことは棚に上げ、デップリ肥えた顔を歪めてみせた。間を置いてゆっくりと振り返った美知子は、加瀬の姿を認めると、首を傾げ、微笑んだ。硬く、ぎこちない笑いだった。
「帰ったの」
語尾が儚《はかな》く掠れた声の裏に、戸惑いと非難があった。帰るならいつものように夜半過ぎ、自分が寝入ってからにすればいいのに、と言っている。
加瀬は立ち上がろうとする美知子を制して、隣に座った。美知子は、身をよじって離れ、逃げるように俯いた。これが昨夜、帰らなかった夫へのごく自然な対応だとすると、夫婦仲は限りなく崩壊に近い。加瀬はリモコンを取り上げて、テレビのスイッチを切った。美知子はハッと顔を上げ、眉をしかめたが、それだけだった。風船が萎むように肩を丸め、再び俯く。沈黙。ファンヒーターの唸り声が低く響いている。
「気になるニュースでもあるのか」
加瀬は静かに呼びかけた。
「別に」
ポツンと言った。
「最近、疲れているんじゃないか」
美知子は返事の代わりに、小首を傾げた。
「パート先で倒れたらしいな」
瞬間、髪をバサッと振り、顔を向けた。
「どうして」
目を剥き、唇を吊り上げて睨んだ。
「どうしてあなたが知ってるの」
加瀬は息を呑んだ。病的に青白い肌と、焦点の揺れる、充血した目。脂の抜けたパサパサの髪。美知子は確実に追い詰められていた。
「上司から仕事場に電話があった」
加瀬は努めて冷静な口調で説明した。慇懃な上司の話。レジ打ちの最中、奥さんが突然倒れた、暫く休憩室で休んだ後、大事をとって早退した、奥さんは内密に、と言っているが、最近、疲れているようだからご主人の耳に入れておこうと思った、との好意の電話。言外に、そろそろ辞めてくれないか、と匂わす、微妙なトーンがあったことには触れずにおいた。
美知子は乾いた白っぽい唇を噛み、肩を震わせた。
「どうして、いままでそういうことを言わないわけ? それって隠し事でしょう。心配なら、病院でも何でも連れていけばいいじゃない。あなた、わたしくらいの女、幾らでも言いくるめられるでしょう。相手を強引に説得するのがお仕事なんだから」
加瀬は両手を組み合わせ、じっと美知子の顔を見た。
「そうだ、美知子、もう隠し事はやめだ。おれたちは夫婦なんだ」
決意を滲ませた声だった。
「おれは、おまえに訊かなければならないことがある」
美知子は筋ばった手を口に添え、目を見開いた。
「いったいなにを──」
語尾が掠《かす》れ、消えた。
「穂積のことだ」
瞬間、美知子は瞼をギュッと閉じ、まるで嘔吐するかのように背中を丸め、嗚咽した。
加瀬は静かに続けた。
「おまえが八年前、ああいう事件に巻き込まれたことを、おれは知らなかった。知らずに取材を進め、穂積との面会を続けていた。おれは自分の能天気ぶりをつくづく呪ったよ。いまさらおまえをいくら慰めたところで、おまえの傷は癒えやしないだろう」
悲痛な嗚咽が続いていた。
「だが、おれたちは夫婦だ。おれは、穂積を許さない。おまえに今もって地獄の責め苦を負わせているあいつを許すわけにはいかない」
毅然とした物言いだった。加瀬は、か細い、悲鳴のような嗚咽を漏らす美知子を見つめた。
「美知子、協力してほしいんだ」
美知子の嗚咽が止まった。振り上げた顔は涙に濡れ、憎悪と嫌悪に塗れた悽愴の色があった。
「協力って……」
加瀬は、美知子のその痩せた肩を両手で掴み、語りかけた。低い掠れた声だった。
「穂積に、共犯者はいなかっただろうか」
美知子は顔を引きつらせ、呻くように言った。
「あなたってひとは……」
絶句し、震える声を絞り出した。
「わたしのことも書くのね。自分の妻が八年前、ケダモノに犯されていた、って書くんでしょう。本物のジャーナリストの覚悟とか、空虚な美辞麗句を並べ立てて、自分の行動を勇気ある告白にしたてあげ、話題づくりをするんでしょう。ねえ、それが、あなたのいうジャーナリズムというやつなの。そこまでして名を上げたいの?」
加瀬は両手に力を込めた。
「違うんだ」
美知子は激しくかぶりを振った。
「いいえ、あなたは功名心の塊だもの。自分の仕事のためなら、妻を犠牲にしても何の痛みも感じないのよ。あなたはそういう類の人間なのよ。胸に手を当てて問いただしてみなさいな。またとない材料を手に入れて、小躍りしている自分がいるでしょうに」
言葉のひとつひとつが臓腑に響いた。胸がむかつき、吐き気が込みあげた。美知子との間に横たわる溝の深さを思い知り、愕然とした。加瀬は震える声を絞り出した。
「おれはただ、共犯者がいたのかどうか、知りたいだけなんだ。教えてくれ、美知子。犠牲者の中で、生き残った女性はおまえしかいない」
血を吐くような言葉だった。
「痛い!」
美知子が叫んだ。苦痛に顔を歪め、掴まれた両肩をよじっている。加瀬は慌てて手を離した。美知子は両腕をかき抱き、憎悪に満ちた視線を向けた。
「隆史さん、それを知ってどうするの? あの男はどうせ死刑になるんでしょう。だからわたし、訴えなかった。法廷に出て、好奇の目に晒されるのがイヤだった。それなのに、このわたしをまだ痛めつけたいの?」
「わかってくれ、そうじゃないんだ」
「わたし、あなたの仕事場で穂積からの手紙を見たとき、息が止まるかと思った。目の前の忌まわしい偶然を死ぬほど呪った。それからは、いつ分かってしまうのか、とビクビクしていた。もう終わってしまったことだと信じていたのに──」
両手で顔を覆った。
「刑事にね、言われたのよ」
くぐもった声がした。
「あの男が逮捕され、わたしへの……」
絶句し、涙声で呟いた。
「わたしへのレイプが発覚したとき、わたしは警察に呼び出されてね。刑事たちは取調室にわたしを押し込み、取り囲んで、忌ま忌まし気にこう言ったの。あなたが訴えていれば、五人の命は救えたかもしれない≠チて」
加瀬の耳の奥で、穂積の声が聞こえた。
──美知子は取り返しのつかない罪も犯している──
「わたし、それから何も言わないことにした。もちろん、あの男を訴えないし、法廷にも出ない。そう決めたの。ねえ隆史さん、わたしって卑怯なの? わたしがレイプ直後のボロボロの身体で警察に駆け込んでいれば、事件は防げたの?」
加瀬は泣きじゃくる美知子を抱き寄せ、囁くように言った。
「いや、悪いのは穂積だ。おまえには何の罪もない。おまえは被害者なんだ」
嗚咽が途切れ、美知子は加瀬の胸に頬を寄せた。熱い息遣いが、シャツの布地を通して伝わる。
「わたし」
呟いた。息を詰め、必死に次の言葉を探っている。
「わたし、警察にも言っていないことがある」
美知子が顔を上げた。すがるような表情だった。
「あの男は喋っていた。なにか、楽しそうに喋っていた。わたしにひどいことをしながら……」
「なんて言ってた」
加瀬は迫った。美知子の顔に脅《おび》えが疾り、次の瞬間、両手で耳を押さえ、目を固く閉じ、鋭く叫んだ。
「覚えていない。あんな男の言うことなんて、覚えているはずがないじゃない!」
「他に人影はあったのか。どうなんだ、美知子、おい、答えろ!」
いつの間にか肩を強く揺さぶっていた。美知子の顔がガクガクと前後に揺れた。ハッと我に返り、加瀬は手を離した。
「すまん、つい──」
気まずい沈黙が流れた。美知子は両手で加瀬の胸を押し、尻を捻って離れると、ほつれた髪を整えた。
「人影はなかったと思う」
小さく言った。
「そう、あの男しかいなかった。でも──」
目を伏せた。
「狂った男の独り言という感じじゃなかった。間違いなく誰かと喋っていたわ。細かな指示を受け、忠実に実行していた。そして、二人して喜んでた」
それだけ言うと、口に手を当てて嗚咽した。
「分かった。ありがとう」
加瀬の目の奥がルビー色の光を帯びた。それは凍った血の色だった。
「おまえにもうひとつ、頼みがある」
加瀬は一呼吸置き、言った。
「実家へ帰ってほしいんだ」
美知子は意味が理解できない、と言わんばかりに顔を上げた。
「しばらくゴタつくことになりそうだ。おまえはここを離れたほうがいい」
それだけ言うと、黒革のショルダーバッグから封筒を抜き出した。美知子は押し付けられるままに受け取った。札束が見えた。
「隆史さん、いったいあなたは……」
美知子の涙に濡れた顔が強ばった。
「別にやましいカネじゃない。百万ある。実家に世話になるんだ。肩身の狭い思いをしてもらいたくない」
言いながら、舌に苦い味が湧いた。美知子の実家は杉並の旧家だ。しかも父親は、外資系証券会社の日本支社長まで務めた元エリートサラリーマン。肩身の狭い思いはこれまで、山ほどしてきたろう。たかが百万ぽっちで、偉そうにいったい何を言っている。自嘲し、唇を噛んだ。
「これから何を──」
加瀬は美知子の言葉を途中で遮った。
「おれはケリをつけなきゃならない。穂積をこのままにしておくわけにはいかないんだ」
「わたしのためなの」
美知子がすがるように訊いた。加瀬は冷笑した。
「いや、おれのためだ。美知子、おれは勝手な男なんだよ」
美知子は目を逸らし、宙を見つめた。
「そうね。なんにも説明してくれないんだものね。わたしたち、夫婦なのに」
凜とした声だった。加瀬は何も言わず、舌先で砕けた奥歯の跡を探った。
シンと冷える夜だった。ヘッドライトをギラつかせたクルマが時折行き交うだけの、暗く静かな車道で、タクシーがタイヤを軋ませ停車した。西綾瀬二丁目。午前零時まであと十分。二人の男がタクシーから降りた。痩身にコートを着込んだオールバックと、屈強なゴツゴツとした身体の革ジャンパー。小宮政春と有松武男だった。
政春はポケットに両手を突っ込み、眉間に筋を刻んだ不機嫌な表情で周囲を見回す。武男は、緊張した面持ちで、茶色のブリーフケースを胸に抱えるようにして持っていた。電柱の住所番地を頼りに、歩を進める。目的地、岡野の情婦のヤサ。
前方に停車するシルバーのベンツが見えた。ウィンドウに濃いスモークを施した、典型的なヤクザのクルマだった。武男が白い息を吐いた。
「あそこじゃないですか」
ベンツは、レンガ色のマンションに横付けされていた。政春は乾いた唇を舐めた。
「かもな」
玄関の自動ドアが開いて、男が二人、現れた。岡野の舎弟の田代と、黒いコート姿の、ガッチリとした体格の男だった。七三に分けた髪はカタギそのものだが、分厚い肩のあたりに殺気が宿っている。男は、大股で歩いた。パンチパーマの田代が愛想笑いを浮かべ、しきりに話しかけるが、正面を向いたまま、まったくの無表情だった。
ベンツの運転席から若い男が弾かれたように飛び出し、後部座席のドアを開けた。コートの男は鷹揚にうなずき、身体を入れた。ゴクッと唾を飲み込む音がした。武男だった。強ばった顔が、コートの男にクギ付けになっている。滑るように走り出したベンツに向かって、ボンタンズボンとよれたジャンパー姿の田代がペコペコと頭を下げた。
「あいつ……」
武男が呟いた。
「岡野の兄弟分か?」
政春が訊くと、武男は太い首を振り、呻くように言った。
「あれは、たしか──」
武男の言葉を遮るように声がした。
「おい、政春」
田代だった。ニヤついて、こっちを見ている。さっきまでの卑屈な態度がウソのようだった。
「ちゃんと用意してきたんだろうな」
顎をしゃくり、武男が抱え持つブリーフケースを示した。政春は冷たく言った。
「岡野さんは中ですか」
キッチリ無視された田代は、忌ま忌ましげに口を歪め「ついて来い」と吐き捨てた。田代が肩を怒らせて歩く後ろから、二人は続いた。武男の顔が蒼白になっていた。怖いのか? 政春は肘で脇腹を突いた。武男は顔をしかめ、頭を下げた。ふと思った。さっき、コートの男を見たとき、武男は何を言おうとしたのだろう。疑問と不安が膨らんだ。小さく頭を振った。バカな。もう、ビジネスは始まっているのだ。ヤクザ相手のシャブ取引。失敗は許されなかった。逡巡している暇はない。
部屋は二階の角だった。廊下で、角刈り頭の若い衆二人がよたっていた。すれ違いざま、卑屈な顔で田代に頭を下げ、政春に鋭い視線を飛ばした。政春は黙殺し、冷然とした表情を毫《ごう》も変えなかった。
田代がドアを開けた。部屋の玄関に足を踏み入れた途端、甘ったるい香水とアルコールの匂いがした。広々としたリビングの中央にはソファが置かれ、黒縁メガネの岡野がシラけた表情でグラスを傾けていた。情婦の趣味なのだろう、壁には、アイドルタレントのパネルがベタベタと貼ってある。
岡野はゆっくりと顔を向け、唇の端で笑った。隅でテレビに見入っている男がいた。スキンヘッドのデブ。だぼっとした白のジャージに身を包んだ猪瀬だった。瞬間、岡野の言葉が蘇った。ブラッディ・ドラゴンの事務所。──猪瀬は狂犬みたいなヤツ。まともなビジネスの場には必要ない男──。
ならば、これはまともなビジネスではないのか? 背筋が震えた。
「座れよ」
岡野は顎をしゃくった。政春は動かなかった。
「どうした、政春」
せせら笑いを浮かべた。ソファの端に腰をおろした猪瀬は、その眠たげな視線をテレビに据えたままだった。画面では、お笑い芸人と若い女たちが、口を開けて大笑いしている。ボリュームは絞られていた。政春が首を捻った。
「ちょっと納得できませんね」
硬い声音で言った。
「なにが」
剣呑な口調だった。政春は猪瀬に視線を向けた。
「なんで猪瀬さんがいるんですか」
「猪瀬はおれの舎弟だ。ここにいてなにが悪い」
岡野はメガネのフレームを指先で摘まみ、政春を睨んだ。ヤクザの怒気が満ちた。
「ガキがゴチャゴチャぬかすってのは好きじゃない。あんまりつけあがるんじゃねえぞ」
頬に冷たい笑みを滲ませ、凄んだ。横でカチカチと陶器の触れ合うような音がした。武男だった。唇が震えている。歯が鳴っていた。血の気の失せた顔に脅えがあった。完全に呑まれている。政春は胸の内で罵った。情けないチキン野郎を相棒に仕立てあげ、ヤクザのヤサに乗り込んだ自分の愚かさを。ここに亮輔がいたら──唇をギュッと引き締めた。弱気になった自分を呪い、自分を捨てた亮輔を呪った。
岡野はグラスを啜り、さも大儀そうに首を回した。コキコキと骨が鳴った。
「今夜はおまえにいい話があるんだよ」
怒気はきれいに消え、穏やかな物言いに変わった。政春はかぶりを振った。
「おれはビジネスをやりに来たんです。カネは耳を揃えて用意しました」
静かに言うと、武男の肩をポンと叩いた。ハッと我に返った武男に目配せをした。胸に抱え持つブリーフケース。慌ててジッパーを開き、政春に手渡した。政春は岡野に視線を据えたまま、ブリーフケースを逆さに掴んで、大きく振った。中身が床にぶちまけられた。百万の札束が十個、落ちた。岡野は、一瞥をくれただけだった。シラけた顔が、それがどうした、と言っている。酷薄そうな唇が動いた。
「たった一千万ぽっちの商売でおまえ、満足してんのかよ」
せせら笑った。
「ああ、小宮くん、人間、志は高く持たなきゃな」
濁った目をジロリと向けると、唇の端を捻って笑った。
「もっとも、ド貧乏な中国孤児のガキは、その日その日を食うだけで精一杯だろうがな」
中国孤児のガキ──目が眩《くら》んだ。普通の状況なら耐えられる。たとえ汚い靴で踏み付けられ、唾を吐きかけられようとも耐えてみせる。しかし、今夜はやっと辿り着いたビジネスのスタートの日なのだ。希望と絶望。これまで経験したことのない、身を焦がす憤怒が全身を貫いた。岡野にまともなビジネスをやる気など、これっぽちも無い。このヤクザの頭にあるのは、脅しと懐柔だけだ。嵌められた自分を悟った。
「おい、岡野さん」
視界が赤く濡れた。ブリーフケースを床に叩きつけた。必死の思いでかき集めた一千万を、五倍にも十倍にも増やして、のし上がっていく記念すべき日。すべてが終わった。
「あんた、罠に嵌めたつもりか」
一歩も引く気はなかった。
「おれはヤクザの下につく気はないぜ」
重い声で言った。岡野が白い歯を剥いて哄笑した。
「おまえ、バカか。うちの親分は若いもんに優しいんだ。一千万を手土産に舎弟になれば、命だけは助けてやると言っているんだぜ」
「うるせえ!」
足元の札束を蹴飛ばした。帯封が解けて、万札が部屋中に舞った。猪瀬が眠たそうな目を向けた。政春は唾を飛ばして吠えた。
「ヤクザが、なに偉そうなこと、ほざいてやがる」
「なあ、政春よ」
岡野がなだめるように言った。
「一心会が族あがりのガキ相手に、五分でシャブを商ったなんて分かったら、メンツ丸潰れよ。おまえも大人になれや。これから修業積んで、うちの組で上を目指せ。このままだといずれ、おまえはヤクザに潰される」
岡野の慈悲。おかしくて涙が出た。亮輔の顔が浮かんだ。ボクサーの亮輔。別の世界へ行ってしまった亮輔。リング上で目映《まばゆ》いカクテル光線を浴び、歓声の中、笑っている亮輔。おれは負けない。涙が両の頬を伝った。
「政春、泣くことはねえだろうが。おれらの組は、まだまだデカくなる。シャブのビジネスは天井知らずだ。しかもだ──」
勘違いした岡野。これは普通の涙じゃない。魂を絞った血の涙だ。岡野は、もったいぶって一拍置いた。
「おれらには、サツの情報も筒抜けなんだぜ。お咎めなしにシャブを扱えるんだから、言うことねえだろう」
サツだと? それがどうした。頭がクラクラした。ヤクザになるためにワルをやってるんじゃない。てっぺんにのし上がるためだ。てっぺんとは、そう、亮輔を見下ろし、嗤ってやる場所だ。自分がヤクザになってしまったら、当たり前すぎて反対に嗤われるだけだろう。瞬間、耳の奥がキーンと鳴った。コロセ。誰かが呟いていた。マサハル、ヤッチマエ。血の滴《したた》る声だった。コイツラヲコロシテシマエ──。
そのとき、背中を掴まれた。振り向いた。ニヤけ面のパンチパーマが見下ろしている。田代がヤニで汚れた歯を剥いた。
「おい、政春。おれがみっちり仕込んでやるからよう」
臭い息が顔を舐めた。ヘドが出そうだった。この汚い、クソチンピラの下だと? 脳髄がドンッと炸裂した。フザケルナ。懐に素早く手をさし入れ、引き抜いた。金属の弾ける音がした。銀色のブレード。コロセ、ころせ、殺せ! 地獄の声が、頭蓋を吹っ飛ばす勢いで膨脹した。右手で握った飛び出しナイフを、突き入れた。ブレードが切っ先から音もなく痩せた左胸へと吸い込まれた。田代が黄色く濁った目を剥き、哀れな呻き声を出した。カクンと膝を折り、床に転がった。ナイフがズルッと抜けた。抉った心臓から、血が噴いている。頭から足の下までビクビクと震えていた。
「イノセッ」
岡野が叫んだ。同時に、猪瀬が立ち上がった。その肥満した身体がウソのように軽々とソファの背を飛び越えた。スキンヘッドの下の眠たそうな目。巨体が、弾むように迫る。政春は短く息を吐き、右腕を突き入れた。血に濡れたブレード。猪瀬は上体を捻って躱《かわ》すと、突き出された手首を掴み、ねじ上げた。飛び出しナイフが呆気なく落ちた。殺すか殺されるかの修羅場をくぐってきた、プロの動きだった。足を払われ、床に俯せに組み伏せられた。頬に、ヌルッとした生温かい感触。田代の血を吸った万札がべっとりと貼り付いていた。政春は猪瀬の巨体に押さえ込まれ、ピクリとも動けなかった。
屈辱と憤怒で歯がガチガチ鳴った。顔を捻り、武男を見た。まるで魂を抜かれたみたいに呆然と突っ立っている。
「タケオーッ、コロセーッ」
怒鳴った。武男は弾かれたように顔を向けた。蒼白の顔が、みるみる恐怖に濡れる。
「タケオーッ、ヤッチマエーッ」
武男の顔が凍っていた。頭上で声がした。
「若頭、どうします」
猪瀬だった。初めて聞くその声は、重く罅割《ひびわ》れていた。
「無駄だ、やっちまえ」
岡野が、ため息をつくように言った。髪の毛を掴まれ、頭を引き上げられた。背骨が軋んだ。伸びきった喉に冷たい氷の感触。右手に握るドスの刃が食い込んでいた。下半身が痺れ、クソと小便が音をたてて漏れるのが分かった。
「切るぞ」
猪瀬が言った。イヤだ、死ぬのはイヤだ──。声にならなかった。迸った悲鳴を、ドスが切り裂いた。喉を真横に、一直線に切られた。刃先が、耳の下まで一気に走った。鼓膜の奥で、肉がさっくりと切れ、血が噴き出すイヤな音がした。政春は自分の命が、指の間からこぼれ落ちる砂のように、消えていくのを感じた。喉の裂けそうな悲鳴が響いた。パニックに陥った武男が玄関へ突進していった。怒号と絶叫が交錯した。涙で視界が溶けていく。
リョウ、リョウよお……亮輔が笑っていた。その顔が、滲んで消えた。
午前四時半。亮輔はママチャリに跨がり、アパートへの道を急いでいた。綾瀬駅へ向かう直線路。安手のダウンジャケットに、色の褪せたジーンズ。亮輔は人気《ひとけ》の失せた夜明け前の街を、寒風を切り裂いて走った。
昨日、区立の葬儀会館で父親の葬式を済ませた。参列者は父親のドカチン仲間二人と残留孤児のジイさんが一人。それだけだった。焼き場で真っ白に焼き上がった骨を引き取り、ちっぽけな骨壺をアパートに置いた後、牛丼屋のバイトへ行った。
カネがない。極力切り詰めた葬儀費用は十万もかからなかったが、これから先、墓所も買わなくてはならない。デビュー三戦目の試合もひと月余り先に迫っている。栄養のあるものを食い、併せて減量を進め、体調を万全に持っていかなくてはならない。悲しみに浸っている暇はなかった。
穂積の顔が浮かんだ。父親を言葉で嬲り、死へと導いた男。何年か先、死刑が執行されたとき、自分の怒りとか悔しさは少しでも軽減されるのだろうか。いや、それは無いだろう。自分は穂積が死を恐れないことを知っている。拘置所の穂積は、死刑執行の恐怖を軽々と超え、首を吊られ、死んでいく。しかし、と思った。加瀬の言葉が蘇る。──死刑の前では、おれたちは悲しいくらい無力だ──あの男は間違いなく穂積を憎んでいる。だが、その理由となると、見当がつかなかった。ルポライターが、獄中の連続殺人犯に抱く憎悪とは何だ? そして、穂積が口にしたプレゼントとは? 分からないことだらけだった。
そのとき、風を切り裂く音に交じって声がした。ムラコシ、と聞こえた。掠れた、か細い声だった。キキーッとブレーキが軋んだ。ママチャリを停めた亮輔は周囲を見回した。暗く沈んだ街。街灯の放列と、無人の道路。吹きすさぶ寒風が紙屑を舞い上げ、電線を鳴らした。耳を澄ました。ムラコシ……確かに聞こえた。間違いない、自分を呼んでいる。誰だ! 声のした方向、黒い路地がぽっかり口を開けている。
目をこらした。何かが動いた。ブロック塀にもたれ、ゆっくりと立ち上がる人影。呻き声と荒い息遣いが聞こえた。亮輔に向かって、一歩、一歩、近づいて来る。街灯の下、顔が浮かんだ。亮輔はゴクリと唾を飲み込み、その姿を凝視した。革ジャンを着込んだ、肩幅の広い大柄な男。金髪に血がへばり付き、右目が腫れ上がっている。記憶を探った。思い当たった。シークレットルーム。自分がぶちのめした男。
「タケオだろう」
男は小さくうなずいた。
「ケンカ、また負けたのか」
政春の片腕は亮輔の嘲りにとりあわず、掠れた声を絞り出した。
「一心会に追われている」
一心会──この辺りで有名なヤクザ組織だった。たしか、政春がケツ持ちを任せていたはず。とすると、ヤクザ絡みのトラブル……全身の血が逆流した。
「政春はどうした」
低く言った。タケオは視線を逸らした。唇がわなないている。最悪の事態が頭をよぎった。目眩《めまい》がした。が、問い詰めている余裕はない。いまは目の前のタケオの処置が先決だ。
「後ろだ、乗れ」
タケオはよろめく足を踏み締め、荷台に跨がった。亮輔は腰を上げ、ペダルを踏み込んだ。素早く視線を巡らす。辺りに人影は無かった。
五分後、線香の匂いの充満するアパートに入った。部屋の端には、ちっぽけな祭壇と骨壺、額に入ったモノクロの写真があった。写真は、父親が昔、日本へやって来たときの証明写真を引き伸ばしたヤツだ。若い、肌のツヤツヤした巧は、唇のあたりに微笑を浮かべている。それは、希望という名の微笑だった。
タケオをひとつきりしかない布団に寝かせ、湯を沸かした。洗面器に張った湯でタオルを絞り、傷口を拭いてやった。頭皮が五センチほど縦に切れているほかは、腫れた右目が塞がっているだけで、大した傷はなかった。オキシフルをふりかけると、布団の端を噛んで悲鳴を抑えた。
「政春は生きているのか」
亮輔は、荒い息を吐いて横たわるタケオに、冷たく言った。タケオはのろのろと上半身を起こした。
「死んだよ」
消え入りそうな声だった。
「ヘッドはヤッパ使って一人、ブッ殺したけどな……最後は猪瀬っていう狂犬みてえなデブに、首を裂かれて死んだ」
背中を丸めた。
「おまえ、その現場を見たのか」
「ああ、見た」
小さく呟いた。
「それで逃げてきたのか」
タケオは唇を噛み、目を伏せた。
「逃げてきたんだな」
畳み掛けた。
「村越、おれの話も聞いてくれよ」
今にも泣き出しそうな顔を向けた。亮輔は尖った視線を据えた。
「話せよ」
タケオは眉をハの字にして、政春が一千万のシャブの取引を行おうとしていたこと、若頭の岡野の情婦が住むマンションに赴き、嵌められたことを涙声で語った。岡野──黒縁メガネの、中学校教師のような風貌のヤクザ。一度、千住の繁華街をうろついているとき、政春に紹介されたことがある。政春は後で言っていた。
──あいつは本物のヤクザだ。おれは岡野をとことん利用してやる──
「おれはヘッドに忠告したんだ。焦ってんじゃないかって。でもヘッドは、おれの言うことなんかまともに聞かなかった」
タケオは弁解するように言った。
「あいつら、ただのヤクザじゃない。マジでサツとつるんでんだよ」
サツとつるんでる? 何のことか分からなかった。亮輔は顎をしゃくって、先を促した。タケオは口ごもったあと、ゆっくりと、記憶を辿るように語り始めた。
「今夜、いや、もう昨夜だな。おれとヘッドは岡野のイロのマンションの玄関先で、一人の男を見た。そいつは、岡野の舎弟に送られて、ベンツで去っていったんだ。おれは最初、大物のヤクザかと思った。しかし、違った」
「警察の人間か」
重々しくうなずいた。
「そうだ。おれは昔のアイツを知っている。おれの地元は上野なんだが、そこでは有名なマッポだった」
「どんなふうに」
タケオは毒でも飲んだように顔を顰めた。
「点取り屋よ。点数稼ぎのためなら何でもやるゲス野郎だ。駅前に捨てられていた自転車をわざと目につく場所に放置して、盗んだ野郎を補導するなんて朝飯前だ。チーマーがよたってると、わざと難癖つけて、少しでも反抗的な態度をとったら、すぐに公務執行妨害でしょっぴいてしまう。酒、煙草でも容赦しない。出世しか頭にないマッポなんだ。あいつのこと、ぶッ殺してやりたい、と思っているワルは山ほどいたぜ」
「いま、そいつは警察のどこにいる?」
「さあな、本庁で出世しているとは聞いたが、確かなことは……」
自信なさそうに答えた。
「そいつが警察の人間だと政春は知っていたのか」
タケオはかぶりを振った。
「いや、すぐに田代って舎弟に声をかけられて二階の部屋へ上がったから、言う暇がなかった」
「しかし、そいつが岡野とくっついているって証拠はないだろう。もしかすると、事件か何かの話を聞きにきたのかもしれない」
「ヤクザのマンションにマッポがひとりで来るわけねえだろう」
吐き捨てるように言った。
「それに部屋で揉めたとき、岡野が言ったんだ。おれらには、サツの情報も筒抜けだ。お咎めなしにシャブを扱えるんだ≠ニ。岡野は間違いなくマッポとつるんでいる。そういうとんでもない極道と、おれらはシャブの取引をやろうとしていたんだ」
腫れた右目が赤く光った。
「そんな凄えヤクザどもが、おれらガキとまともな商売をするわけがないんだ」
タケオはがっくりと首を垂れ、両腕で金髪頭を抱えた。
「おれは頭を下げ、一千万の札束を差し出して詫びを入れようと思ったのに、ヘッドは一歩も引かなかった。田代の心臓をヤッパで一突きにして、それで猪瀬っていうスキンヘッドのデブに押さえ込まれて──」
亮輔は目を閉じた。ヤクザ相手に、最後まで突っ張りとおした政春。のし上がろうと必死に足掻き、死んだ政春。イーパーイーパーの哀れな末路。
「村越、おまえにだって責任があるんだぜ」
亮輔は目を開けた。タケオが充血した目で睨んでいた。
「ヘッドは、おまえがブラッディに二度と帰らない、と知って変わった。見返してやろうと焦ったんだ」
「だから、ヤクザに殺されたというのか」
呻くように言った。タケオは勢い込んで吠えた。
「そうだよ。おまえがヘッドを追い込んだんだ!」
赤い唾が飛ぶ。亮輔は拳を握り締めた。目の奥が熱くなった。おれが政春を追い込み、殺しただと──当たっている。タケオの言葉は間違っていない。心のどこかで、早く死んでくれ、と願っていた。疫病神みたいに忌み嫌っていた。自分は政春が怖かった。政春の狂気が怖かった。そして、政春は己の狂気に身を焦がし、破滅した。あれほど怖かった政春はもういない。自然と含み笑いが漏れた。タケオの腫れ上がった顔が脅《おび》えた。腰を捻って後ずさる。亮輔は拳を解いた。
「タケオ、おまえ、これからどうする」
「おれは……」
口ごもり、言った。
「おれはヘッドの復讐をする。だから、あの場から離れたんだ」
離れたんじゃなくて逃げたんだろう、と声に出さずに罵った。亮輔はトレーナーの襟口を掴み、タケオを引き寄せた。
「なら、おまえ、これからおれと行こうぜ」
タケオが目を剥いた。顔から血の気が引いていく。
「どこへ」
か細い声だった。
「一心会の事務所さ。岡野の野郎をブッ殺してやるんだ」
視界の隅で、父親の顔、若い、希望に溢れたモノクロ写真が笑っていた。
「二人で政春の弔い合戦だ。政春は可哀想な野郎だった。この国で苛められ、蔑まれ、いいコトなんてひとつも無かった。なあ、タケオ、政春の無念をおれら二人で晴らしてやろうぜ」
タケオが顔を左右に振った。
「それはダメだ」
喘いで言った。
「ダメだと?」
額が触れ合うくらい、引き寄せた。
「いま行っても返り討ちだ。おれは、時間をかけてじっくりやる」
「じゃあ、これからどうすんだ?」
嘲るように訊いた。
「横浜にダチがいるから、暫く身を隠す」
「せいぜい長生きしろよ」
言うなり、突き飛ばした。布団に倒れ込んだタケオは顔を苦しそうに歪め、呻いた。
「おまえ、もう帰れ。ここはおれのアパートだ。居座られちゃ迷惑だ」
亮輔は強い口調で言った。タケオは無言のまま半身を起こして胡座をかき、俯いた。背中を丸め、動こうとしない。
「どうした」
「外は一心会が張っているはずだ」
声が震えていた。亮輔は舌打ちをくれた。
「このチキン野郎が」
立ち上がり、見下ろした。
「ついて来い」
亮輔の強い口調に促され、タケオはゆっくりと腰を上げた。部屋を見回す。祭壇に飾られたモノクロ写真に視線を止めた。
「だれだ」
「おまえには関係ないだろう」
突き放すように言った。が、タケオは、殺気を孕《はら》んだ亮輔の声のトーンを読み取れず、続けた。
「親父か? 刑務所に入っているとかいう親父が死んだのか?」
ブンッと空気が唸った。亮輔の素早い右フックが、鼻先を掠めていた。のけぞったタケオにひとさし指を突き付けた。
「刑務所じゃない、拘置所だ。よく覚えとけ、このノータリンが」
タケオは顔を引きつらせてうなずいた。
外へ出ると、東の空が朱色に染まっていた。綾瀬駅へ続く直線路は、人影がまばらだった。周囲に視線を巡らせながら、二人肩を並べて歩道を歩いた。駅前に到着したとき、タケオの顔が強ばった。
「おい、あれ」
原色のネオンサインが瞬くゲームセンター。その前で煙草をふかし、唾を吐くパンチパーマが二人。鋭い眼光で、辺りを窺っている。亮輔とタケオはビルの陰に隠れ、息をひそめた。
「一心会だ。おれを探している」
今にも泣き出しそうな声だった。亮輔は背後を振り返った。イトーヨーカドーのシャッターの前を、三人のチンピラがよたって歩いている。焼き肉屋とパチンコ屋のビルの間の暗がりにタケオを引っ張り込んだ。放置された自転車や、野菜屑が溢れ返った段ボール、背丈よりも高く積まれたビールケースの間を縫って、奥へと進んだ。
亮輔は首を振った。
「ダメだ。ヤクザがそこらじゅうに出張ってやがる」
「村越、どうするよ」
脅えを露にした声だった。
「このままやり過ごすしかないだろう」
「しかし、あいつら執念深いぜ」
「これ以上、おれにどうしろって言うんだ」
思わず怒鳴っていた。タケオは両手で、ダウンジャケットの袖を掴んで訴えた。
「なあ、村越、おまえ、おれを見捨てないよな」
塞がった右目から、涙がこぼれた。
「泣くな、うっとうしい」
亮輔は吐き捨て、タケオの両手を振り払うと、前後左右に目をやった。両側を灰色のコンクリートに遮られた、幅一メートルほどの路地。足元に夜の冷気が溜まっていた。ゴミが散乱し、胸のむかつく腐臭が漂っている。と、重い足音がした。駅の裏通り。薄闇のなか、朧な人影が、ゆっくりと移動していく。
年老いたホームレス。ザンバラの髪がところどころ逆立った、小柄な老人だ。首には醤油で煮しめたような、茶色のタオルを巻いている。蓄積した垢が臭ってきそうな風体だった。両手にパンパンに膨らんだ紙袋をぶら下げ、肩を落とし、足をひきずって歩いている。薄汚れた鼠色のコートはサイズが哀れなほど大きく、身体をすっぽりと包み、裾が地面をすっていた。この世の不幸をすべて背負ったような、陰鬱な顔。地面に濁った目を落として歩いていく。
見覚えのある顔だった。記憶を辿った。
「ジイさん」
そっと声をかけた。老人は、ハッと振り向いた。口を半開きにして、目を泳がせた。
「おれだ、ほら、牛丼屋で会ったろう」
水銀灯に、老人の顔が浮かびあがった。酒焼けした赤黒い肌に、分厚い紫色の唇。汚れた目を細めた。
「ああ、あのときのニイちゃんか」
嗄れた声だった。
「牛丼、ゴチになったんだよな」
先日、因縁をつけてタダ食いをしようとした、ホームレスの老人だった。
「ニイちゃんには、こっぴどく怒られたよな。あんたは卑怯者だ≠チて」
老人は照れ笑いを浮かべ、垢と脂で固まった髪を掻いた。
「ジイさん、あんたに頼みたいことがある」
亮輔は囁くように言った。
「なんだよ」
警戒の色が浮かんだ。
「服を交換してくれ」
老人は首をかしげた。
「連れが追われている。何も言わず、助けてくれ」
「服って、このコートか?」
「そうだ」
亮輔は背後を振り返り、立ち尽くすタケオに顎をしゃくった。
「革ジャン、脱げ」
タケオは肩をすくめた。
「勘弁してくれよ。こいつ、おまえが牛丼を恵んでやった、タダ食いのジジイじゃねえか。乞食野郎の汚ねえコートなんて着れるか」
亮輔は唇を噛み、動いた。鋭角に曲げた右膝を、タケオの鳩尾に突き入れた。タケオの顔が苦悶に歪んだ。くぐもった呻き声とともに、身体を二つに折り、両膝をついた。
「じゃあ、おまえ、ヤクザにリンチくらって死んじまえ」
冷たく言い放った。タケオは右手を挙げて恭順の意を示し、膝を折ったままもがくようにして革ジャンを脱ぎ始めた。
「おれはイヤだよ」
老人が、分厚い唇を捻った。黄色い歯がのぞいた。
「こいつはおれのこと、バカにしやがった。交換なんかしてやんないよ」
「ジイさん、こいつはバカなんだ。ウサギくらいの脳ミソしかない、可哀想な野郎なんだ。勘弁してくれよ」
笑みを浮かべ、亮輔が言った。
「いーや、ダメだ」
老人は首を大きく振った。
「いくらニイちゃんの頼みでもダメだ。おれはこいつ、キライだ」
「交渉決裂だな」
ボソッと言うと、亮輔はタケオが脱ぎかけていた革ジャンを強引に剥ぎ取った。その懐を素早く探り、財布を抜き出した。中身をあらため、そのまま老人に差し出す。
「革ジャンに、このバカの全財産をつけるからどうだ。二万ちょっとある」
途端に老人の赤黒い顔が緩んだ。
「まあ、しょうがねえな。受けた恩は返さなきゃな」
あっさりボロのコートを脱いで、タケオにほうった。喜色を浮かべ、革ジャンと財布を受け取ると、ニンマリと笑った。特大の革ジャンに袖を通すと、小柄な老人の全身がすっぽりと隠れ、まるで革のコートのようだった。
タケオが、地べたから尻を引きはがすようにして、よろめく足で立ち上がった。
「おい、カネまでとられたら電車にも乗れないだろうが」
弱々しい声だった。腹を右手で押さえ、左手にボロのコートを握っている。
「どっちみち、そのコートじゃ乗れねえよ」
老人は吐き捨てると、首のタオルを解いた。
「これはサービスだ」
恩着せがましく言い、タオルをヒョイと投げた。
「頭から被りな。さすがにおれらの仲間にはまだ金髪はいねえ」
ヒッヒッ、と喉をひきつらせて笑うと、老人は亮輔に濁った視線を向けた。
「ニイちゃん、これで貸し借りは無しだな」
「ああ」
亮輔はうなずいた。
「おれは卑怯者じゃないだろう」
「立派な宿無しだよ」
老人は、垢でテカった顔に満足そうな笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち去って行った。
「ボサッとすんな。ヤー公どもがやってくるぜ」
垢に塗れたコートとタオルを持ち、立ち尽くすタケオに言った。タケオは唇をへの字に曲げ、コートを羽織った。汗と垢を練り合わせた、凄まじい臭気が臭ってくる。タケオは、顔を顰め、くせえ、と呟いた。鼠色の、垢と汗を吸って重くなったコートは大柄なタケオにぴったりのサイズだった。
「タオルも忘れるな」
タケオは観念した表情で茶色のタオルを頬被りにした。
「おまえは宿無し、仕事無しの、浮浪者なんだ。腰を屈《かが》めて背中を丸め、ゆっくり歩け」
タケオが恨めしそうな目で見た。亮輔はかまわず言った。
「その格好で横浜まで行っちまえ。もう二度と来るなよ」
ホームレスの格好で立ち尽くすタケオの眼前に、右の拳を掲げた。
「今度見かけたら、おれがおまえを殴り殺す」
低く言い、踵を返した。頭が怒りで煮え立っていた。タケオへの怒りじゃない。ヤクザに殺されて終わった政春と、政春を見捨てた自分への怒りだ。東の空が、赤く白く、明るんでいた。
その女性の住む家は、JR中央線国立駅から歩いて十五分ほどの、閑静な住宅街にあった。百五十坪ほどの敷地に建つ、ライトグリーンの外壁の洋館。鉄柵を巡らせた庭一面に芝生がはってあり、ベランダの前には白い椅子とテーブルが置いてある。雲ひとつない、磨きあげたような青空から、穏やかな陽光が降り注いでいた。その瀟洒《しようしや》な洋館の前に立ち、天を仰いでみる。眩しさに、加瀬隆史は思わず目を細めた。
午後一時、玄関のインタホンを押した。暫くして華やいだ声がした。年齢相応の、まっとうな生活を送っている女性の声だ。
加瀬は、インタホンに向かって、名前と職業を名乗り、突然訪ねた非礼を詫びた。
ふりーじゃーなりすと……戸惑いに満ちた声が聞こえた。うさん臭い職業への疑問と嫌悪。当然の反応だった。加瀬は、来訪の目的を丁寧に、具体的に話した。
それは、穂積壱郎の名前を出した瞬間だった。インタホンの向こうから、絶句する気配がした。加瀬は相手の動揺を無視して、現在、自分が穂積と面会を繰り返し、手紙のやりとりも行っている旨を伝えた。
沈黙が流れた。加瀬は待った。女性は必ず取材を受ける、という確信があった。事件の詳細、新聞雑誌等の報道では知り得なかったことを、知りたいはず。そして、死刑がほぼ確定した穂積壱郎がいま、獄中で、どのように生きているかを──。
一分後、玄関ドアが開いた。秀でた額と、理知的な整った顔。長い髪を黒のリボンで留め、すっきりと伸びた身体に、クリーム色のブラウスとリーフグリーンのロングスカートがよく似合っている。黒目がちの瞳で、加瀬を見つめた。その清潔な佇まいは、加瀬の想像した通りだった。
名前、山岸京子。年齢、四十三歳。旧姓、塩田。夫は開業医。子供二人。
加瀬の脳裏に、穂積からのプレゼント、精神鑑定書に記されていた一節が蘇る。穂積は、家庭環境を問われ、こう答えていた。
──家庭教師兼養育係として、聡明で優しい女性を雇う余裕もあった──
加瀬は、妻の美知子を実家へ送り出した後、この一節をもとに、精力的な取材を続けていた。あのシニカルで冷静な穂積が、聡明で優しい、と口走ったほどの女性。なにか引っかかるものがあった。穂積の実家はすでに取り壊され、跡形もなかったが、周辺の住人をしらみ潰しに当たっていくと、一人の女性の存在が浮かび上がった。それが、塩田京子だった。京子は、穂積が三歳の時に亡くなった父親の知人の娘で、日中、母親のいないウィークデイを中心に、通いで幼い穂積の面倒をみていた。この山岸京子なら、穂積について、新しい事実を語ってくれるはず……。
だが、加瀬の期待は呆気なく砕かれた。玄関先に出てきた山岸京子の顔はこわばり、引き結んだ唇が敵意を露にしていた。
「申し訳ありませんが、お引き取りください」
真っ白な歯が陽光にきらめいた。強い意志を秘めた瞳が、正面から見つめてきた。
「迷惑なんです。こうやって自宅まで押しかけられるのは」
凜とした口調だった。
「もう、壱郎くんのことはそっとしておいてくれませんか。お願いします」
それだけ言うと、白く細い両手の指をスカートの前で重ねて一礼した。優雅に身を翻すと、背筋を伸ばし、自宅の中へと戻っていった。ドアを閉める音が響いた。付け入る隙を与えない、見事な拒絶だった。
加瀬は顎に手をやって考えた。あまりにも一方的で頑なな拒絶に不自然なものがある。なにか裏があるのではないか。陽光を浴びて輝く瀟洒な二階建ての家を見上げた。幸福と成功の証し。至高に繋がる糸が、この奥に眠っているような気がした。
加瀬は待った。近くの路上を行き来し、それとなく目を配り、京子が出てくるのを待った。忍耐は、ノンフィクションライターの必須条件だ。ターゲットが現れるまで、ひたすら待つ。徒《いたずら》に流れるだけの時間に飽いて苛つき、無駄と思ってしまった時点で、忍耐は途切れ、集中力は雲散霧消してしまう。あとに残るのは、疲労と後悔、それに取材の失敗だけだ。この時間は必ず報われる、取材をモノにできる、と信じるポジティブな思考の持ち主でないと、事件の取材現場では生き残っていけない。
加瀬は、待つことには自信があった。二十代の時分は、夜から明け方近くまで、取材対象者の帰宅を待つことなど日常茶飯事だった。筆力にまだ自信がない分、体力と忍耐力がモノをいう取材でカバーしなければ、食っていけなかった。新鮮で希少な話さえとれれば、多少の文章の粗さは大目にみてもらえた。スクープは次の仕事につながる。ターゲットを捕らえるためなら、いくらでも待つ。それがノンフィクションライターの仕事だ。
加瀬は、京子の自宅の位置を頭に描きながら周囲を歩き、大まかな地理をつかんだ。ターゲットを逃がさぬよう、歩き、立ち止まり、さりげなく視線を周囲に巡らせ、待った。昼下がりの住宅街は人気《ひとけ》がない。その分、通行人は目立つ。不審者と思われぬよう、ショルダーバッグの中からポケット地図帖を取り出し、時折目を落としてはしかつめらしい表情をつくった。何か目的を持った人物、と思わせるだけで、住民の不審感は格段に希薄になる。
二時間後、加瀬の待ちは報われた。京子は夕方の買い物に行くのだろう。ベージュのコートを着込み、ショッピングカーを引き、玄関を出てきた。
加瀬は背後から観察した。警戒心のかけらもなかった。一定の距離を置いて尾行《つけ》る。手入れの行き届いた生け垣と、レンガ塀が続く住宅街の道を歩いた。広々とした大学通りに出る。京子は国立駅の方向へ向かって歩いた。おそらく、途中にある高級スーパーマーケットに寄るのだろう。その後は有名なパン屋か、それともブティックで洒落たブラウスの一枚でも買い求めるのか。京子は裕福な開業医の妻らしく、リラックスした雰囲気で、すっかり葉の落ちた銀杏並木の下の歩道を歩いていた。加瀬は頃合いを見計らい、一気に距離を詰めた。
「山岸さん」
振り向いた京子の顔が、加瀬の姿を認めるなり、ひきつった。
「あなた、さっきの……」
ほっそりとした喉が震え、息を呑む音がした。次いで目のあたりに険しい色が浮かぶ。
山岸京子の戸惑いと怒りを無視して、語りかけた。視線を据え、低く、囁くように。──事前に連絡をせず、自宅を訪ねたのはこちらのミスだった。獄中の穂積はまだあなたを慕っている。そして犠牲者の関係者は事件の真相と、穂積の育った環境を知りたがっている──。
周囲の通行人が、二人を、さも興味深げに眺めていく。歩道の中央に立ち、買い物途中の主婦に切々と語りかける加瀬の姿はいやでも目立つ。気の強い、世間ずれした女なら、何の迷いもなく怒鳴りつけるだろう。しかし、京子は国立の高級住宅地に住む、開業医の妻だ。加害者サイドの人間としての負い目もある。
唇を噛み、視線を周囲に泳がせた。狼狽している。迷っている。もちろん、すべて計算のうえだ。加瀬は周囲の好奇の視線など目に入っていないかのように、京子だけを見つめ、ひたすら語りかけた。
「なぜ、見ず知らずの五人の若い女性をああいう形で嬲り殺す凶悪な人間が誕生したのか、母親が自ら命を絶った以上、語れるのはあなたしかいないのです」
両の手を握り締め、眉間に筋を刻んで訴えた。京子の額に汗が浮き、頬がピンク色に染まった。もうひと押し。
「犠牲者の関係者の中には、語ることがあなたの義務だと考えている人もいる。お願いだから、少しだけ時間をいただけないでしょうか」
虚実を併せた話を、真摯な口調で訴えた。言外に、絶対に諦めない、という覚悟を滲ませながら。
京子は落ちた。小さくうなずくと、少しだけなら、と消え入りそうな声で答えた。一刻も早く、好奇の視線に晒されたこの場を離れたい、と言わんばかりに、足を速めた。加瀬はほくそ笑んで後を追った。
二人は、大学通り沿いのファミレスに入った。奥の禁煙席はガランとしていた。
窓際のボックス席に向かいあって座る。加瀬はコーヒーを、京子はミルクティーをオーダーした。京子は名刺を受け取ると、加瀬の顔をうかがった。
「フリーということは、どこにも所属されていないのですか?」
加瀬は口元に微笑みを浮かべた。
「生活が安定していない分、組織のしがらみもありません。この取材は、わたしひとりで動いていますから、あなたとこうして会ったことが他に漏れる気遣いはありません。どうぞ、お気をラクになさってください」
京子は軽く顔を上下させ、唇を動かした。
「このようなことを言うのは──」
口ごもり、俯いた。
「なにか?」
加瀬は穏やかに語りかけた。京子は、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐くと、小さく言った。
「壱郎くんが……いえ──」
「どうぞ壱郎くんで結構ですよ」
京子は顔を上げた。切羽詰まった表情だった。引き結んだ唇が動いた。
「本当に壱郎くんが、あんな恐ろしいことをやったのでしょうか」
加瀬は視線をすがめ、首を傾げてみせた。
「といいますと?」
「壱郎くんは優しくて繊細な子でした。それはもう、ため息が出るくらい、素晴らしい子供だったんですよ」
加瀬は悲しげな表情をつくり、顔を左右に振ってみせた。
「残念ながら、彼がやったことに百パーセント間違いありません。現場に残された証拠と、本人の自供、真犯人しか知り得ない秘密の暴露もありましたので、冤罪の可能性は万にひとつもないでしょう」
「そうですか」
京子は肩を落とし、暫く黙り込んだ。オーダーしたコーヒーとミルクティーが、テーブルに置かれた。京子はミルクティーを一口含むと、ぽつりぽつりと語り始めた。穂積の母親がフルタイムで働き始めた四歳のときから小学校三年までの約五年間、面倒を見たこと。当時、京子は短大を卒業して一年目。大手の自動車メーカーに勤務していたが、お茶汲みが死ぬほど退屈で、なにか他の仕事に就きたい、と考えていたこと。折も折、父親から、穂積母子が困っていると聞き、少しでも助けになれば、と思い引き受けた、と説明した。
「勤務形態は通いの家政婦でしたが、実際はいい加減なもので、お勉強を見てやったり、一緒に遊んだり、お母様が残業で遅くなると、よく泊まったりもしました。そんなとき、壱郎くんはとても喜んでくれて、ひとつのベッドに入って、いろんな話をしたものです。最初は一、二カ月のつもりでした。プロの家政婦さんが見つかるまでの繋ぎだと、軽く考えていたのです。しかし、壱郎くんの相手をしているうちに、彼の聡明さや独創性にぐんぐん引き込まれて、結局、五年間もあの家へ通うことになったんです」
京子はひとつ、大きくため息をつき、厚手のカップを口に運ぶと、再び話し始めた。
「わたしも、いまは中学生と高校生の二人の子供がおりますが、幼い頃は、ついつい壱郎くんと比べては、落胆していました。うちのは本当に普通の子供でしたから」
「では、穂積は普通ではなかったのですね」
加瀬の言葉に、京子は顔を強ばらせた。
「いえ、そういう意味では……」
言葉が詰まった。狼狽した京子は口を手で押さえた。加瀬は、傷ついたウサギを追い詰める狼のように、上半身を乗り出した。
「どのように普通でなかったのか、お聞かせください。随分と感受性の強い子供だったようですが」
有無を言わさぬ強い口調で迫る。京子は目を閉じ、胸を両手で押さえて息を整えると、静かに語り始めた。
「壱郎くんの頭には、三歳のときに亡くなったお父様のお顔が刻み付けられていたのです。実際に死に顔を見ても、三歳の子供に死ぬ、という事実が分かるはずがありません。壱郎くんは幼稚園の年長さんくらいになると、盛んに、死ぬということはどういうことなのか、生きることとどう違うのか、訊いてまいりました。わたしは、それまで生きるとか死ぬとか、突き詰めて考えたことなどない、凡庸な女でしたから、死んだらお星様になるのよ、などと適当に答えておりましたが、聡明なあの子が納得するはずもありません。それで、肉体は滅びても、魂は永遠に生きる、お父様はいつも壱郎くんのことを見守っていらっしゃるのよ、と言いますと、じゃあ、その魂というものを、いますぐ見せてくれ、と迫るのです。神様のもとにいるから、そう簡単には出てこれない、とごまかすと、では神様とはなんだ、とこうです。わたしはもう、泣きたくなりました。そのうち、薄々と感づいてくるのですね。この平凡な女では、確かな答えなど得られない、と悟ったのでしょう。死ぬことについての質問は、小学二年になった頃からピタリとしなくなりました。その代わり──」
卵形の顔が上気していた。喉が渇いたのだろう、京子は再びカップを取り上げた。ミルクティーを一口含むと、そのままカップを両手で持ち、語った。
「その代わり、空に興味が向かったんですよ」
「空?」
京子は大きくうなずいた。
「冬の、そう、今日みたいな青い空でした。壱郎くんは小学三年になっていて、わたしとのお別れは目前に迫っていました」
「どうして」
加瀬の問いに、京子は生真面目な口調で答えた。
「わたしは二十六歳でした。お見合いがまとまり、春には結婚を予定していたのです」
遠いものを見るように、窓の外に目をやった。隣のビルの上に、鋭角に切った青い空が広がっていた。京子は、記憶の糸を手繰るように話し始めた。
「壱郎くんの自宅から、十五分も歩くと駒沢公園でした。天気のいい日を選んで、ときどき散策に行くことがありましたが、その日は特別でした。もう夕方近かったと思います。よく晴れていたけれども、身を切るような寒風が吹き付けて、雲を残らずどこかへ運び遣《や》ったとしか思えない、もの凄い青い空、いえ藍色の空が広がっていたのです。わたしは、あんな怖い空を見るのは初めてでした。駒沢公園には石を敷き詰めた広場があって、その中央に立つと、ぐるりと三百六十度、空が見渡せるのです。壱郎くんは、歓声を上げて広場に走り込むと、中央に大の字に寝て、空を見上げました。目を見開き、一心に見ていました。遮るものは何もない、吹きっさらしですから、わたしは凍てつく寒風に往生しながら、それでも付き添っていました。周囲には、人影が殆どありません。日は傾き始めて、寒くなる一方なのですから当然です。しかし、壱郎くんは、大の字になったまま動こうとしないのです。壱郎くんは、わたしにぼくみたいに寝っ転がれば、寒くないよ≠ニ言うので、わたしも同じようにしました。たしかに寒さは幾分やわらぎましたが、それよりも、視界一杯に広がる藍色の高い澄み切った空に目を奪われて。それはもう、ため息が出そうな素晴らしさでした。二人、空に浮かんで、天空を眺めているような錯覚に陥ったのです」
京子は想い出を慈《いつく》しむような目で語った。加瀬は、軽くうなずくだけで、一切口を挟まなかった。
「二人してその、神々しいまでの冬の空を見ていたら、突然、壱郎くんがこう言ったのです。あの空の向こうはどうなっているの≠ニ。それは、この世の不思議に初めて触れたような声でした。わたしは、神とか死とか、そういうものは苦手ですが、宇宙のことは結構詳しいんです。高校時代は天体観測部にいたくらいですから。それで、説明してあげました。人間の住む地球は、太陽を中心とした九個の惑星の集まり、つまり太陽系の中の一部で、太陽系は銀河系の一部である。そして、銀河系の直径は、一秒間に地球を七回半回る光の速さでも十万年かかる、と。そういう気宇壮大な話をすると、壱郎くんの瞳はキラキラと輝き出すのです。空を眺めながら、じゃあ、その向こうは?≠ニ上気した声で訊いてくるのです。それで、ビッグバンを説明してあげました。つまり、宇宙は無の状態から約百五十億年前、大爆発が起こって、そこから始まったとされている。宇宙はビッグバン以来、ぐんぐん膨張していて、人間の目で観測できるのは、百五十億光年向こうの宇宙までである、と。壱郎くんは際立って聡明ですから、じゃあ、宇宙の果ては百五十億光年先にあるんだね≠ニすぐさま理解してくれました。わたしは、ホッと胸を撫で下ろしました。なぜなら、百五十億光年の先はどうなっているの? と無邪気に訊かれでもしたら、もうお手上げだからです。それは人智を超えた、神の領域である、とでも説明するしかありませんもの」
神の領域……加瀬は声に出さずに呟いた。京子は柔らかな視線を、加瀬に戻した。
「わたしは、西の空を朱に染めて沈みゆく太陽を指さし、いまここに降り注いでいる光は、八分二十秒前に太陽から飛び出したもの、と説明しました。秒速三十万キロの光のスピードでも八分二十秒を要する場所に、太陽は存在する。ならば、百五十億光年という距離が、どれほどのものか、この地球が誕生して、まだ四十六億年しか経っていないことを考えても、わたしたちの住む宇宙の広さが分かるでしょう、と。わたしは、宇宙の広大さ、不可思議さを、少しでも実感して貰いたかった」
「彼は、そのような話を十分に理解していましたか?」
京子は大きくうなずいた。
「もちろんです。あの子は、物事の本質を瞬時に把握する直観力を持っていました。普通の子供とは違うんですよ」
まるで出来のいいわが子を誇るような言い方だった。
「しかも壱郎くんは、わたしのごく基礎的な宇宙の話から、一気に発想を飛躍させてみせたのです」
「どんなふうに」
加瀬は静かに訊いた。京子の話の腰を折らぬよう、不審感を抱かせぬように。
「空が暗くなり、氷の粒のような星が瞬き始めたときでした。二人とも、口を噤んだまま並んで仰向けになり、刻一刻と変わりゆく、天空の大パノラマに見入っていました。いつの間にか、あれほど強かった風がピタリと止み、辺りをシンとした冷たい透明な空気が支配していました。壱郎くんは、突然、口を開いたのです。それは、ため息のような、朧で儚い声でした」
京子は視線を宙に漂わせ、唇に笑みを浮かべた。それは、菩薩《ぼさつ》を思わせる穏やかな表情だった。
「壱郎くんはこう言ったのです。ああ、わかった≠ニ」
「わかった?」
加瀬は眉根を寄せた。
「そうです、ああ、わかった、京子さん、神はいるよ≠ニ言ったのです。わたしは、訳が分からず、問い質すと、壱郎くんは暮れゆく空を見ながら、こう言いました。ぼくはたったいま、神の存在を実感した。神はぼくを見ている──≠サれは確信に満ちた言い方でした」
「では、彼は神の存在を認めたのですか」
京子はかぶりを振った。
「凡人の考える、いわゆる神頼みの神ではなく、この世界を司《つかさど》る神、とでもいうのでしょうか。壱郎くんは弾むように言いました。広い宇宙から見たら、地球なんて、砂粒よりも小さい。その見えないくらい小さな粒の表面に、薄い膜みたいな酸素がへばり付いて、人間たちがいがみ合い、慰め合いながら暮らしている。これは、神じゃないとできないことだよね。京子さん、神は絶対にいるよ。この世にいるんだから、ぼくはいつか、神に会えるよ≠ニ。わたしはそのとき、全身が震えるような感動を覚えました。九歳の壱郎くんから、とても大切なこと、この世の真理みたいなものを教えてもらったような気がしたのです」
京子の唇は震え、瞳も潤んでいた。
「加瀬さん、新聞の報道等で読んだのですが、壱郎くんが死刑の恐怖をまったく感じていない、というのは本当でしょうか」
すがるような視線だった。加瀬は言葉に力を込めた。
「本当です。あの男は、死ぬことなど怖くない、と本気で言っています。わたし自身、面会の席で聞きましたから、間違いありません」
「でも、それは罪悪感の裏返しではないのでしょうか」
「失礼ながら、それはあなたの願望でしょう。少なくともわたしが見る限り、罪悪感を抱いている様子は皆無です」
加瀬はぬるくなったコーヒーを飲み干すと、両手を組み合わせた。
「ところで山岸さん」
圧し殺したような声のトーンに、京子の顔が強ばった。訝しげに眉を顰める。
「穂積はその後、神に会ったのでしょうか」
京子は首をひねった。加瀬は続けた。
「穂積はあなたにこう言いましたよね。ぼくはいつか、神に会える≠ニ。ならば、会えたのかもしれない。死を恐れないのは、神に会ったからではないでしょうか。あなたはそう思いませんか?」
京子の顔から血の気が引いた。
「いったいあなたはなにを……」
目を見開いた。
「では、質問を変えましょう。山岸さん、わたしはいま、穂積の共犯者を探しています」
「共犯者──あの事件のですか?」
「そうです。率直にお訊きします。あなたは、共犯者がいたと思いますか」
京子は、小首をかしげた。
「どうしてわたしに」
「穂積は、あなたにもっとも胸襟を開いていた、と思われるからです。あの男は、あなたのことを聡明で優しい女性≠ニまで言っているのです。それゆえ、あなたにだけはなにかを漏らしているのではないか、と」
「壱郎くんがそんな──」
表情に戸惑いと恐怖があった。加瀬はぼそりと言った。
「穂積壱郎は小学三年のとき、神を身近に感じ、その存在に魅せられたわけですよね。ではその神は、九年後の事件、五人のうら若き女性が犠牲になったあの連続強姦殺人事件になんらかの関係があるのでしょうか?」
京子は唇を噛み、目を伏せた。
「どうしてそんな──」
涙声で言葉にならなかった。京子はプレスのきいたハンカチで顔を押さえた。丸めた肩が小刻みに震えた。圧し殺した嗚咽が漏れる。加瀬は射貫くような視線を据えた。そげた頬が隆起する。ザラついた空気が周囲に満ちた。ふいに加瀬が立ち上がった。
「この続きは明日にしましょう。今日と同じ、午後一時に自宅を訪ねます。いいですね」
そう言い置くと、返事を待たず、加瀬は踵を返した。支払いを済ませ、外に出た。辺りは薄暗くなっていた。黄昏の冷たい空気が肌を刺す。我を失い、嗚咽する京子。黒々とした疑念が胸に渦巻いた。
大学生や高校生、それに買い物帰りの主婦が行き来する大学通りの歩道を、国立駅へ向かう。そのとき、携帯電話が鳴った。懐から取り出し、耳に当てた。聞き覚えのある声。硬い声音が鼓膜を刺した。加瀬は唇を噛み、応えた。
「申し訳ない。近々、説明したいと思っていたところだ──分かった、これから行こう」
携帯を仕舞うと肩を丸め、大股で歩いた。
榊祐一郎は、神田神保町の喫茶店で加瀬を待っていた。御茶ノ水駅前にある文英社からなら、徒歩で十分もかからない距離だ。午後六時、この神保町の裏通りにある喫茶店は混み合い、ざわめいていた。
加瀬と榊は、隅の目立たぬ席で向かい合った。
「聞き捨てならぬ噂を聞いたものですから、確かめようと思いまして」
榊は両切りのピースをくゆらしながら、弁解するように言った。
「どんな噂なんだ」
挑むような口調だった。榊は唇を歪めた。
「あなたが、幾つかの出版社からカネを前借りして回っている、という噂です。それも、これまでのあなたの仕事とはまったく関係ない、ビジネスとか芸能関係の編集部、という噂でした」
「なるほど」
加瀬は素っ気なく言った。
「それで、おれはどのくらいの額を前借りしたことになっているのかな」
榊の沈んだ視線が、加瀬に据えられた。瞳には哀れみの色があった。
「数百万です」
「三百二十万だよ。正確には、な」
そう言うと、加瀬はテーブルのカップを取り上げた。榊は目を細めた。
「加瀬さん、あなた、いったいどうしたんです。カネならわたしが都合したのに」
加瀬は一口、コーヒーを啜ると、険のある視線を飛ばした。
「たかが八十万のカネで、偉そうなことは言われたくないな」
榊のそげた頬がピクリと動いた。みるみる憤怒の色が浮かんだ。が、加瀬はカップをテーブルに置くと、続けた。
「カネがいるんだよ、榊さん。これからは詐欺まがいのビジネスモノとか、アホなジャリタレのゴーストライターで前借り分を稼がなくちゃならない」
榊は訝しげに首を傾げた。
「本業のノンフィクションはどうするんです。あなたは穂積の事件の単行本も仕上げなくてはならない」
「事件モノは呆れるくらい儲からない。それはあんただって承知しているはずだ。この仕事を始めて十五年近くになるが、おれは頭が悪いから、悲しいことにいま、やっとそのことに気づいたよ。もうノンフィクションは止《や》めだ。潮時だよ。あんたにはマンションの保証人をはじめ、プライベートでも散々世話になったし、不相応な夢も見させてもらって感謝している。だが、限界だ。この先の展望がまったく見えない。申し訳無いが、降りさせてもらうよ」
加瀬は自嘲的な笑みを浮かべて、続けた。
「おれはこれまでのライター生活で縁のなかった、ビジネスとか芸能関係のチャラチャラした編集部を回って分かったんだが、ああいうとこに出入りするライターは口とか格好ばかりで、書けるヤツが少ないんだな。おれが顔を出したら、一も二もなく、前借りを承知してくれたよ。ちょいと居場所を変えれば、儲かる話がザクザクだ。まったく、おれは今までなにをやってたんだろうな」
加瀬はガリガリと頭を掻いた。
「あんたに借りた八十万は明日にでも返すよ。これから社内でいろいろ面倒になるとは思うが勘弁してくれ。発刊寸前までいった単行本が、ライターの一方的な都合で消えるんだから、おれだって責任は感じている。あんたの上司がゴチャゴチャ言ってきたら、おれが直《じか》に説明に赴くよ。もし、法的な手段に出るというなら、それもいいだろう。逃げも隠れもしない。賠償金というものが発生するなら、できる限り支払う。あんたには、極力迷惑をかけたくない。だが、これまでおれが得た情報、つまり穂積の手紙等を使って、他のライターに書かせることは承知できない。それだけは譲れない」
硬い口調で言った。
「というわけで、この企画は、すべて終わりだ」
フフッと榊が笑った。唇を捻り、冷たい笑みを浮かべる。
「八十万はわたしのポケットマネーだから、返すにはおよびません。それと、社内のことまで心配してくださるのは有り難いのですが、それも取り越し苦労というものです。わたしは、社内的にそんな弱い存在じゃない」
自信を滲ませた言葉だった。
「それより加瀬さん」
榊は身を屈めた。
「本当のことを教えてくださいよ」
尖った顎をしゃくり、促した。
「何があったんです? おそらくプレゼントでしょう。あなた、穂積に翻弄されているんじゃありませんか? 以前にも言ったように、あなたはひとりじゃありません。わたしに話せば、なにか解決策が見つかるかもしれない」
それは切れ者の編集者の顔だった。加瀬は小さくかぶりを振った。
「かなわんな」
ボソッと言った。
「榊さん、穂積はおれたちの想像を遥かに超えたモンスターだよ」
榊の瞳が妖《あや》しい光を放った。ピースの火口を灰皿で捩り、テーブルに置いた缶から新しい一本を抜き取る。ライターを点ける手が、小刻みに震えていた。
「これはおれのプライベートに関することだから、あんたの胸にだけ、とどめておいてほしい」
そう前置きして、加瀬は語り始めた。静かに、淡々と。唇の端から垂れたピースの灰が落ちるのも気づかず、榊は耳を傾けた。プレゼントとして送られてきた精神鑑定書の内容。妻が穂積に犯されていた過去。精神を病んだ妻。勝ち誇った穂積の笑顔──榊の顔がこわばり、息を呑む音がした。加瀬が語り終えると、榊は目を閉じ、力なく首を振った。瞼が震えていた。
「まさかそんなことがあるとは……」
「榊さん、これは現実なんだ。そして、おれと妻はその当事者だ。もう客観的な立場から筆を執るわけにはいかない。おれは首までどっぷりと穂積の毒に犯され、瀕死状態だ。この身も心もボロボロの哀れな男が、掛け値なしのいまのおれだ」
いったん言葉を切り、榊を観察した。悄然と肩を落とし、現実を受け入れようと苦悩するエリート編集者。加瀬は下唇をゴリッと噛み締めた。血と憤怒の味がした。
「榊さん、おれはつくづく、自分の覚悟のなさに幻滅している。はっきり言おう、おれはライター失格なんだ。そして、あんたもおれに幻滅している。なあ、そうだろう」
榊は無言のまま、淡々と語る加瀬を見つめた。その顔には、疲労と戸惑いがべっとりと張り付いていた。
「本物の書き手なら、どんな障害があろうと、記録として残すはずだ。たとえ家族を犠牲にしても、研ぎ澄まされた筆致で、またとない犯罪ノンフィクションをモノにしたはずだ。でも、おれには出来ない。おれには、妻を犠牲にして書くだけの覚悟と非情さがない」
加瀬は両手で顔を覆った。
「おれには、作品を残すだけの才能がなかったんだ。情けないが、これが現実だ。穂積は、こう言って嗤ったよ。わたしは独房からおまえの家庭を破壊し、仕事を破壊した≠ニ。ヤツはおれを見切っていた。所詮、その程度のライターだと見下していた。おれは、穂積の暇つぶしに遊ばれただけなんだ」
くぐもった声が漏れた。榊が言葉を継いだ。
「たしかに、きっちり書くライターはいるでしょう。取材者が突然、思わぬ展開で当事者となってしまった戸惑いと怒り、己の欺瞞、奥さんに起こった悲劇と絶望を抉り出すことで、魂の救済を求める作家は間違いなくいます。しかし、それは紛れもない天才であり、狂人です。わたしはそこまで、加瀬さんに求めることはできない。その意味では、わたしも所詮、凡庸な編集者なのですよ」
薄く笑った後、顔を強ばらせた。蒼白の肌が、まるで幽鬼のようだった。
「だが、本音を言えば書いてほしい。すべてを書いて、あなたに地獄に堕ちてほしい」
血を吐くような声だった。生気を失った冥い榊の顔を、指の間から見ながら、加瀬は小さく言った。
「おれには、もう書く資格はないんだ。ゴメンよ、榊さん」
その言葉を聞いた途端、榊は俯き、肩を震わせた。加瀬の胸が疼いた。地獄の業火が、身体の芯を燃やしていた。榊、おれはもう、地獄に片足を突っ込んでいる──声に出さずに呟いた。書く資格はない──この言葉の真の意味を知ったとき、榊はどういう反応を示すだろう。沈黙が流れた。周囲のざわめきが尖ったノイズとなり、鼓膜を突き刺した。加瀬は顔から両手を離すと、テーブルの下で拳を握り締めた。空間が捩れ、極彩色に染まった。とろりとした汗が、こめかみを流れた。尻のあたりがゾクッとした。喚《わめ》き出したくなる衝動が襲ってきた。加瀬は震える榊の肩を見て耐えた。二分後、榊は顔を上げ、声を振り絞った。肩はもう震えていなかった。
「加瀬さん、あなたの担当編集者としてお訊きしたいことがあります」
「なんだ」
榊は新しいピースをくわえ、火を点けた。深く息を吸い込むと、紫煙をフーッと吐き出した。赤く濁った目を向ける。
「穂積の言う神とは、やはり人間だったのですか?」
加瀬は軽く頷いた。
「おそらく、な」
榊は訝しげに目を細めた。
「だとすれば、明晰な頭脳をもった穂積があれほど見事に洗脳されるものでしょうか。わたしはそれが不思議でならない」
「それはおれも調べてみた」
「洗脳のテクニックを、ですか?」
「ああ。抜群の洗脳技術の前では、頭脳のよしあしは関係ない。条件とか環境さえ揃えば、本当に呆気なく、脳をコントロールされてしまうんだ。むしろ、明晰な頭脳のほうが理解力が深い分だけ、いったん傾いてしまえばとことんまでいってしまう」
一息おき、加瀬はカップの冷えたコーヒーを口に含んだ。
「洗脳が成功するか否かは、相手と波長が合うかどうかで決まる。ラジオの短波放送を考えてみればいい。雑音だらけの放送の、部分部分で波長が合って、そこだけ言葉が明瞭に聞こえたとしよう。すると、聞こえなかった部分まで、意味のある深遠な言葉に思えてしまう。それが洗脳だ」
「じゃあ至高と穂積は──」
「ああ、波長がピタリと合ったんだ。雑音など一切聞こえず、これ以上は望めないほど、クリアに言葉が入ってきたんだろうな。榊さん、あんたなんか、頭脳明晰な分、洗脳されたらあっという間だぜ」
からかうように言った。
榊は口を噤み、沈黙した。眉根を寄せ、宙を見つめた。思案を巡らしている風だった。
「どうした?」
加瀬は声をかけた。不意に榊が視線を戻した。
「加瀬さん、至高は男ですか、それとも女ですか」
一気に斬り込んできた。加瀬は唇を引き締め、首を捻った。
「さあ、な」
「では、女の可能性もあるんですね」
「可能性はあるさ。しかし、おれもまだ絞りきれていない」
煙草の火口を眺めながら、榊がポツリ、と呟いた。
「まだ、ですか」
「そう、まだ、だ」
加瀬は静かに応えた。榊はもう、二度と話すことは無かった。
翌日、午後十二時四十分。国立駅を降りた加瀬は、燦々《さんさん》と降り注ぐ陽光を浴びて大学通りを歩きながら、不意に、胸がざわつくのを感じた。二度目の訪問。しかも昨日の今日──焦っているのか? あの女にこだわり過ぎていないか? 最悪の事態を想像し、頭の芯が軋んだ。山岸京子を追い詰め過ぎて、失踪、あるいは自ら命を絶つようなことがあったら……。
一度思ってしまえば、その危惧は確かなリアリティをもって加瀬に迫った。あの豪壮な自宅の中で手首を切り、血の海の中で事切れている京子の姿が脳裏に浮かんで、脳が粟立った。加瀬は頭を振り、足を速めた。動悸が鼓膜を叩く。冷たい汗が背中を濡らした。
昨日と変わらぬ青い空と陽光。広々とした敷地に建つ、洋館のライトグリーンの外壁が眩しかった。
加瀬の心配は杞憂に終わった。玄関のインタホンから、京子の落ち着いた声が聞こえた。加瀬は肩を上下させ、ほっと息を吐いた。通された居間は約三十畳ほどの広さで、天井からはシャンデリアが吊られ、革張りのソファセットの周囲には、観葉植物の大型の鉢とアップライトのピアノ、目に鮮やかな原色の熱帯魚が優雅に舞う水槽、木目の美しい重厚なサイドボードなどが、バランス良く配置されていた。
勧められるまま、ソファに腰を下ろした。京子は昨日、黒のリボンで留めていた髪を、今日はカチューシャでまとめ、細身のジーンズと白のブラウスが、四十三歳とは思えない若々しい身体によく似合っていた。しかし、顔には疲れが滲んでいる。肌がくすみ、目に力がない。お茶の用意をしようとする京子を制して加瀬は本題に入った。
「山岸さん、早く終わらせてしまいましょう。あと二つ三つの質問に答えていただければ、それで終わりですから。お互い、時間を無駄にする必要はない」
京子は加瀬を見つめた。加瀬の勝手な物言いに対する非難の色があった。
「その代わり、ちゃんと答えていただかないと、わたしも納得しませんよ」
言外に、自分の覚悟をのぞかせた。京子は唇を噛み、睨んだ。その瞳に輝きが戻ってくる。くすんだ肌が、青白く染まった。
「別に隠し立てすることはございませんから」
ソファに座ると背筋を伸ばし、突き放すように言った。加瀬の頬が緩んだ。両手を前で組み合わせ、上目遣いに京子の血の気の失せた顔を見た。
「では始めましょう。山岸さん、あなたは結婚されてから穂積と会いましたか?」
京子の表情は変わらなかった。小ぶりの唇が動いた。真っ白な歯がのぞく。
「ほんの数えるほどです。一年に一、二度、世田谷の自宅を訪ねていましたでしょうか。会うたびに、壱郎くんは逞しく、立派な少年へと成長していました。それはもう、眩しいほどでした」
「最後に会ったのはいつです」
不意をつかれた京子は、加瀬を見つめ、次いで視線を宙に這わせた。暫く思案を巡らし、語った。
「それは、有名な私立高校に入学しながら、二年で中退してしまった後でした。お母様は自慢の一人息子がドロップアウトしてしまったことを非常にお嘆きで、壱郎くんを横に、意見をしてやってください≠ニおっしゃいました。この子は大検を受けて大学に行く、と言っているけれども、経歴に傷が付くのは間違いないし、そんな問題を抱えた人間を一流の企業は相手にしません≠ニ。壱郎くんは、素知らぬ顔でそっぽを向いておりましたけれども──」
いったん言葉を切った京子の頬に赤みがさした。
「そういえば……」
「なんでも結構です。ぜひ、お聞かせください」
言い淀んでいた京子が、加瀬の言葉に励まされるように、口を開いた。
「わたしが帰る際、壱郎くんが最寄りの桜新町の駅まで送ってくれたのです。珍しいことがあるものだな、と思っていたら、京子さん、とっても楽しいことがあったんだよ≠ニ、それは邪気のない、輝くような笑顔を向けてまいりまして」
語りながら、京子の瞳が過去を見つめ、ひとつの事実を探り当てていた。
「そのあと、フリースクールについて何か言ったような記憶があります」
「フリースクールって、問題を抱える子供が通う施設のことですか」
「ええ、わたしは、ああ、お母様に内緒でフリースクールへ行き、将来を模索しているんだな、と感心した記憶がありますから」
「そのフリースクールと楽しいことがどう結び付くのですか?」
加瀬は語気を強めた。が、京子は力なくかぶりを振った。
「わかりません。もう十年近く前のことですから。ただ、楽しいこととフリースクールがいま、ふと頭に浮かんだだけです」
加瀬は、尻をよじって、さらに身を乗り出した。
「そのフリースクールの名前を思い出してください。場所はどこです?」
「場所は、たしか──」
京子は両のひとさし指をこめかみに当てて記憶を手繰った。
「駅の近く……ごく普通の民家でした……壱郎くんが指さして教えてくれましたから」
名前については、風≠ニいう言葉が入っていた気がする、とだけ言って、口を噤んだ。フリースクール、楽しいこと、風。三つの言葉が加瀬の頭の中で渦を巻いた。
「他になにか、穂積のことで思い出したことはございませんか。昨日、わたしが申し上げました、共犯者につながるような何かです」
京子は唇を噛み、下を向いた。まるで自分の無力を呪うかのような、苦渋に満ちた表情だった。
「加瀬さん、ひとつお訊きしたいのですが」
京子がすがるような目を向けた。
「なんでしょう」
「その、共犯者がいた場合、壱郎くんの罪は軽減されるのでしょうか」
「共犯の程度にもよりますが」
加瀬は曖昧に言った。
「可能性はありますね」
瞬間、京子の顔に、一条の光が射し込んだ。形のいい小づくりの唇が、動いた。
「わたしはこの八年間、罪の意識に苛まれておりました」
「ほう」
加瀬はさも興味深げに相槌を打った。
「昨日、加瀬さんがおっしゃったように、あの子はたしかにわたしには胸襟を開いていたように思います。口はばったい言い方ですが、お母様の伸子さんに告げられないことでも、わたしになら、伝えてくれたと思うのです。しかし、わたしは自分の幸せを優先して、壱郎くんを見捨ててしまいました」
京子は堰を切ったように訴えた。
「昨日、わたしがあのような醜態を晒しましたのは、事件以来、罪の意識にとらわれてきたからです。わたしが定期的に壱郎くんに会い、相談相手になっていてあげたら、あの事件は防げたのではないのか、と思えてならないのです」
加瀬の脳がビクッと反応した。確信した。やはりこの女は──落胆と安穏が加瀬の胸を焦がした。京子の、自己弁護に塗れた悔恨の言葉が続いた。
「それまで、いつもそばにいたわたしが、突然、いなくなったのですから、その落差は、九歳の壱郎くんにとっては耐えられなかったのではないでしょうか。しかも、あなたはわたしが半可通な知識で宇宙の成り立ちとかを教えたから、神を身近に感じ、その後の事件の遠因になった、と考えていらっしゃいます」
加瀬はかぶりを振った。
「それは違う。あなたがいてもいなくても、結局、あの男は人を殺していますよ。なんの罪悪感もなく、ね」
「でも……」
見上げた瞳が濡れていた。にじり寄ってくる。自分の罪の意識を払拭してもらいたい、慰めて欲しい、とこの女は言っている。桜色の唇が半開きになり、喘いでいる。苦いものが口中を満たした。目の前の女性、穂積がもっとも心を許していたと思われる山岸京子は、穂積壱郎の本当の姿を知らない。京子の端正な顔が捩れて、溶けた。加瀬は、胸が締め付けられるような息苦しさを感じ、ネクタイを緩めた。
「どうしたのですか、お顔の色がすぐれないようですが」
心配げに覗き込む京子の顔があった。加瀬は右手を挙げて心配に及ばない旨を告げ、囁くように言った。
「それで、あなたは会われましたか?」
京子は言葉の意味が分からず、えっ、と絶句した。
「あなたは、拘留中の穂積に会われましたか? あの男は刑が確定していない未決囚だから、まだ外部の人間と面会できるのですよ。あなたが関東拘置所に行き、面会願を提出し、穂積が了解さえすれば、明日にでも会えます。罪の意識に苛まれているのなら、会って謝ればいいでしょう。簡単なことだ」
突き放すように言った。
「それは──」
京子は消え入りそうに呟くと、目を伏せた。加瀬は、豪奢な調度類に囲まれた居間を無遠慮に見回した。
「あなたのご主人の職業は開業医だと承知しております。そして、その成功の度合いは、この家が象徴しています。あなたが、希代の連続殺人鬼となり果てた穂積との関係を取り結ぶようだと、ご主人の地位とか名誉に傷が付く──そう考えて、あなたは面会を自粛されておられる。それは至極当然のことです」
京子は大きくかぶりを振った。
「違うんです」
両手で耳を押さえた。
「そんなんじゃありません。わたしは怖いのです。わたしの知っている賢くて優しい壱郎くんが、世間を震撼させた、あんな酷い事件を引き起こしたなんて──」
加瀬は静かに口を開いた。
「その通りです」
京子はゆっくりと顔を上げた。惚けたような表情だった。加瀬はかまわず続けた。
「穂積はわれわれとは別世界に住む、怖い怖い、連続強姦殺人鬼です。だから、あなたも自分を責めることはない。怖がって当然だ。あなたが存在しようとしまいと、あの男は殺人鬼になっていました。あの男に同情なんかしてはダメです。どうしても同情を寄せたい、なんとかしてやりたい、と思うならご自分の家庭を崩壊させる覚悟で臨まなければダメです。それをただ、自分の気持ちが済まない、とか、穂積を慰めることで自分を慰めたいとかいうような自己満足に根ざした甘い考えでは取り返しのつかないことになります」
「そんな、甘い考えなんて──」
加瀬は京子の言葉を制して言った。
「別に非難しているわけじゃない。安易な同情は禁物ということです。あなたは穂積との付き合いが長かった。もしあなたが面会なんかに訪れたら、これまでの関係を逆手にとって、とんでもない手を仕掛けてきますよ。それは底無し沼に足を突っ込むようなもので、絶対に逃れられません。あの男は他人の不幸が、このうえない快楽なんだ。そういう化け物に育ってしまったんです」
京子は両腕で自分の胸をかき抱くようにして、ブルッと震えた。黒目がちの瞳が、加瀬に据えられた。わななく唇を開き、言葉を絞り出した。白い歯がのぞいた。
「加瀬さん、いまのわたしが言えるのは、あなたの力でその共犯者をなんとか突き止めてもらいたい、とただそれだけです」
か細い声で言うと、俯いた。加瀬は一礼し、立ち上がった。京子は、背中を丸め、悄然とした姿でソファに座り込んでいた。加瀬は、その姿を見下ろした。高級住宅地に建つ瀟洒な自宅と貞淑な美しい妻、幸せに満ちた家庭。加瀬は、突然、身を絞るような衝動にかられた。この家を壊し、京子を絶望の淵に叩き入れてやりたい──。
加瀬は、邪悪な自分の心を振り切るようにして、外へ出た。冬の日は傾き、埃っぽい暮色が漂っていた。
大塚の仕事場へ帰った加瀬は、暖房もつけず、冷えきった部屋の、冷たいソファベッドに腰を下ろし、ひとりで酒を飲んだ。午後七時。手にはウィスキーのグラス。一口飲むごとに、火の滴りが食道を下り、胃を灼いた。昼、立ち食いうどんを啜っただけで、何も口にしていなかった。疲弊しきった身体の細胞のひとつひとつが休息を求めて悲鳴をあげている。しかし、神経は昂り、妙に苛ついた。酒が気分を和らげてくれるかと思ったが、逆効果だった。アルコールの酔いが回るにつれ、自分の周囲から去っていった人間のことが脳裏をよぎる。
むごい過去を背負わされた美知子。父親を言葉でコントロールされ、殺された村越亮輔。そして、全精力を挙げて仕込み、上を説得して通した単行本を、寸前で潰された榊祐一郎。
みんな、穂積に弄ばれた、哀れな犠牲者だ。そして、この自分も、そのひとりと成りつつある。そうはさせるか──声に出してみた。ひどく間の抜けた、なんの説得力もない物言いだった。自分の間抜けぶりに唖然とし、次いで涙が滲んだ。山岸京子が漏らしたキーワードが聞こえる。フリースクール、楽しいこと、風……可能性が残っている限り、自分は前へ進む。神は、もう手の届く場所にいる。そんな確信にも似た思いがあった。
耳を聾する音がする。鼓膜を引っ掻く電子音。うるさい! 叫んで跳ね起きた。いつの間にか横になってまどろんでいた。慌てて身体を起こし、デスクの固定電話を引き寄せた。微かな期待に胸が高鳴った。美知子か? 杉並の実家で肩身の狭い思いをしている美知子が寂しさの余り、電話をかけてきたのか? 受話器を掴み、耳に当てた。聞き覚えのある声。アルコールで痺れた脳を励まし、検索した。瞬間、心臓が凍った。いま、ここで聞こえてはならない声。ゾッと悪寒が走り、鳥肌が立った。
≪加瀬さん、こんばんは≫
明るい声。穂積だ。独房にいるはずの殺人鬼。なぜ電話番号を? いや、そんなことよりなぜ、電話を──あり得ない現実に、頭はパニック寸前だった。
「どうしておまえが……」
声がうわずり、舌が張り付いた。
≪だって、名刺を差し入れてくれたじゃないですか≫
さも呆れた、と言わんばかりの穂積の声だった。
≪だからわたしがあなたの仕事場の番号を知っていても、おかしくはないでしょう≫
その通りだ。たしかに、自分は求められるまま、名刺を差し入れていた。おかしくはない──違う、違う! そんなことじゃない! 加瀬は激しく頭を振った。割れるような痛みに、呻いた。
≪加瀬さん、なんて楽しいんでしょうね≫
からかうように言った。
≪わたしがあなたとこうやって、電話で自由に語り合えるなんてね≫
含み笑いが聞こえた。
≪でも、わたしは常にあなたの側《そば》にいますよ≫
ひと呼吸置いた。瞬間、穂積が短く叫んだ。
≪ほら、後ろだ、こっちを見なさい!≫
頭から冷水を浴びせられた気がした。背筋が震えた。首をねじ切るようにして振り返った。視界が揺れた。テーブルの上のグラスとソファベッド、そしてスチール製の玄関ドア。だれもいない。当たり前だ。耳元で喉が引きつったような笑いが聞こえた。
≪ひっかかりましたね。加瀬さん≫
声が弾んでいた。
「おまえ、拘置所からどうして電話を──」
辛うじて言葉を絞り出した。が、穂積は無視して喋った。
≪それにしても、いまの携帯は軽くて薄いんですね。科学の発達ってのはやっぱり凄いや≫
感心した口ぶりだった。瞬間、何かが引っ掛かった。が、その正体を吟味する前に、穂積の言葉が、鼓膜を抉った。
≪美知子にわたしのこと、話しましたか?≫
愉悦を露にした声。美知子のすすり泣きが聞こえた気がした。胸がむかついた。こみあげた嘔吐感を噛み殺し、応えた。
「ああ、話した。おまえのことを殺したい、と言っていた」
晴れ晴れとした声がした。
≪それは無理だ。わたしは、この塀の中で死刑になるんだから。それより──≫
沈黙。いたぶるような沈黙だった。
≪楽しいパーティをやりましょうよ≫
朗《ほが》らかに言った。加瀬は受話器を握り締めた。
「ふざけているのか」
≪そうじゃない、あなたと美知子、二人で面会に来てください。いろいろ話しましょうよ。わたしとあなたたちは、絶対に切れない糸で結ばれているんだから≫
加瀬はおののく心を抑え、かさついた唇を舐めた。
「おい、穂積、調子に乗るなよ。おれはおまえを許さない。これだけは覚えておけ」
ヒッヒッ、と圧し殺した笑いが聞こえた。
≪加瀬さん、あんたはやっぱり面白いや。わたしはもう寝ますよ。楽しい時間だった。美知子を思い描きながら、わたしはオナニーをして寝ることにしよう。あの苦悶と恥辱に満ちた美しい顔。柔らかできめの細かい肌は、恐怖に粟立っていた。そのブツブツをわたしは掌で撫でながら、精を放った。めくるめく快感の中で、わたしは射精したんだ。美知子は本当にいい女だったよ。素晴らしいレイプだった≫
プツッと電話が切れた。加瀬は受話器を落とした。両手で頭を抱え、呻いた。──おれは壊れない。まだ、壊れるわけにはいかない。おれはまだ──口の中で呟いた。
「ここは戦後すぐ、うちの親父が建てた家でさあ。敗戦記念住宅だってよ。だからボロも年季が入っているわな」
初老の男は、五分刈りの白髪頭を上下させ、呵々《かか》大笑した。東急田園都市線の桜新町駅近く。百坪ほどの敷地に建つ木造の平屋建ては外壁に茶色のペンキが塗られているものの、半分以上は剥げて地肌をさらし、割れた板に継ぎが当てられ、崩壊寸前に見えた。加瀬と初老の男が相対しているリビングルームのソファも、革がところどころ白く擦り切れ、ほどけた縫い目から綿がはみ出している。
中肉中背ながらガッチリした体躯の男は、紺色の作務衣《さむえ》を着込み、白足袋を穿いた足をどっかと組み、煙草を吹かしながら、喋りまくった。男は、フリースクール『風の子』を主宰する叶《かのう》良光《よしみつ》。加瀬はすでに叶のプロフィールを調べあげていた。六十一歳の叶の口調は若々しく張りがあり、年齢を感じさせなかった。しかも自信に溢れている。
「おれは中学の教師をやっていたわけさ。でも日教組が強い時代で、ストがしょっちゅうあってね。教育者でござい、聖職者でござい、と胸張ってる人間が子供をおっぽらかして、カネよこせ、給料上げろ、とやるのはおかしいんじゃないか、と思ったわけよ。学校が荒れるのも当然だよな。子供は先生を尊敬できないんだもの。だからおれ、四十《しじゆう》で辞めちまった。以来、自宅を開放してフリースクールをやってるから、もう二十年になるね。親父の遺産があるからやってこれたけど、いやもう子供はワルくなる一方だよ。ワルくなるから、イジメが悪質になる。登校拒否のイジメられっ子が増える。おまけに、肝心の親は金髪頭のぼんくら揃いときているから、学校の内も外も問題だらけだわな」
一通り、まくし立てた後、加瀬を見た。
「ところで今日はなんなの? マスコミの人はしょっちゅう来るよ。でも取材は表面だけだ。問題の本質なんて興味ないんだな」
派手に煙を吹き上げ、首をコキコキと捻った。
フリースクール『風の子』は、すぐに見つかった。京子の記憶に沿って、駅の周囲の商店を三、四軒あたってみると、呆気なく判明した。スクール名に風≠フ文字が入っている、という京子の記憶も正確だった。
「でもあんた、少し早く来すぎたね。問題のある子供ってのはだいたい昼まで寝てるんだ。だから、まだ二、三人しかいないよ」
午前十時過ぎだった。加瀬はひとつ、咳払いをした後、訊いた。
「こういうフリースクールの運営で一番の苦労はなんでしょう。わたしなんか、子供がまだいないもので、とんと見当もつかないのですが」
「子供がいないの。あっ、そう。それは幸せだ」
叶は短くなった煙草を灰皿で捻り、身を乗り出してきた。
「これからの世の中、子供は作らないほうが賢明だよ。おれは真面目にそう思うもの。登校拒否なんてなったら、最悪だね。子供で苦労する人生なんて、無いほうがマシだ」
吐き捨てるように言った。
「おれはそういう家庭を無数に見てきたもの」
加瀬の頭をよぎるものがあった。自殺した穂積伸子。自慢の息子が世の中を震撼させた殺人鬼になってしまった母親の苦悩と絶望。加瀬は思った。叶の言う家庭には、穂積の家も入っているのだろうか、と。
「ああ、フリースクールの苦労だったね」
叶は新しい煙草に火を点けると、旨そうにくゆらした。
「苦労といえば、全部苦労だな。登校拒否だけじゃなくて、札付きのワルも来てるから、揉《も》め事は多いよ。暴力沙汰なんてしょっちゅうだな。壁なんかバカバカ穴あけられて、ヤツらのエネルギーといったら底無しだからね。でもおれ、腕っ節には自信があるからさ」
袖をまくって拳を握ってみせた。筋肉の束が盛り上がった腕は、とても還暦過ぎの男のものとは思えなかった。
「おれ、学生時代、空手やってたからね。ワケの分からないガキはどんどんぶっとばしちゃう」
そう言って、ニカッと笑った。
「しち面倒くさい説教なんかしてらんないよ。身体でぶつかって、身体で分からせる、これがおれの教育方針だな。大学生とか、ボランティアで子供の面倒みてくれる人間もいるけど、まず体力がないと務まらない。理屈とか知識じゃ子供は動かないんだよ。おれは学校でも体罰、どんどんやればいいと思うよ。子供ってのは人間として未完成な、いわば獣《けだもの》なんだから、大人が分からせてやるしかないんだよ。学校からビンタの音が消えて、子供は大人をなめるようになったんだ。もう無法地帯だもの」
「なるほど」
加瀬は得心したようにうなずいた。叶は己の肉体主義の賛同者を得た喜びを、満足気な笑みで示してみせた。しかし、叶は誤解していた。加瀬は賛同したわけではない。ただ、目の前の男が神≠ナも至高≠ナもなかった、と確信しただけだ。加瀬は切り出した。
「叶さん、このスクールに穂積という子供がいましたよね。もう十年近く前になりますが」
「ホヅミ……」
叶の顔が強ばった。目を細め、加瀬の真意を探るように睨めつけた。
「あのホヅミのことか?」
低く言った。
「そうです。穂積壱郎。連続強姦殺人犯です。五人の女を殺した──」
叶は右手を振って制した。
「よく嗅ぎ付けた、と褒めてやりたいが、あいつは三日間しかいなかったんだぜ。おれも随分後になって知ったくらいだ。どういうヤツだったのか、まったく記憶にないな。印象はゼロだよ、ゼロ」
顔をさも不快げに歪めた。
「あの事件とウチは関係ないんだ。残念だったな、ご期待に添えなくて」
そう言うと、煙草をもみ消した。加瀬は両手を挙げ、まあまあ、と今にも立ち上がりそうな叶を押し止《とど》めた。
「わたしも、何の材料もなくお訪ねしたわけではないのです」
懐から取材メモを取り出した。わざわざメモをめくるほどの情報量でもなかったが、話を進めるうえでの小道具だ。
「穂積は当時、ある人物にこう言っています。フリースクール『風の子』に行ってみたら、とても楽しいことがあった≠ニ」
叶は眉間に深い筋を刻み、首をかしげた。加瀬は続けた。
「わたしが気になるのは、この楽しいこと≠ニいう部分です。穂積はめったなことで感情をあらわすような少年ではありませんでした。それが、楽しいこと、とストレートに表現しているのですからね。注目して当然でしょう」
「それは違うと思うぞ」
強い語気だった。
「たった三日では楽しいことなんてないもの。ボランティアによるカリキュラムの説明と、生活規則の徹底。掃除とかメシ作りの手伝いとか、そういう地味なことで終わっているはずだ。長く通えば、レクリエーションとか、夏のキャンプとか、冬のスキー合宿とか、色々行事もあって、仲間もできて、楽しいこともあるだろうけど、三日じゃとてもとても。現に、そいつは三日で辞めてしまったんだから、面白くなかったんだろう。何かの間違いじゃないのか? さもなければ、ひねくれた天邪鬼《あまのじやく》で、逆のことを言って大人をからかったんじゃないか」
京子と穂積の関係を考えれば、それはありえない。加瀬は思案を巡らせた。そのとき、ふいに浮かんだ言葉があった。ボランティア──。
「叶さん、そのボランティアってのは何人くらいいるんですか?」
「いまは五人。学生が三人に、退職教師が二人だ」
叶は面倒くさそうに答えた。
「じゃあ、十年前は? 穂積が通っていた当時はどうなんです」
「そんなこと、知ってどうすんだよ」
さも不快げに尖った視線を向けた。
「穂積とはいったいどういう人間だったのか。なぜ、ああいう凶悪な連続殺人犯が誕生したのか。少しでも接触のあったひとには残らず、話を聞きたいのです」
「おれは、大事なのはいまだと思うがね。いま、生きて苦しんでいる子供のほうがずーっと大事だよ。そんな、畜生にも劣る男のことなんて、もうどうでもいいだろう」
吐き捨てるように言った。加瀬は両手を組み合わせ、静かに言った。
「叶さん、わたしはいま、穂積と会っている。獄中の穂積と手紙をやりとりしている。わたしにとって、穂積はいま、なんだ」
「会っている、だと?」
絶句し、喉仏が上下した。
「ええ、拘置所で最高裁の死刑判決を待つ穂積と、わたしは定期的に面会しています」
目を剥いた叶の顔が、まるで汚いものでも見たように、醜く歪んだ。
「じゃあ、穂積に訊けばいいだろう。おれのスクールのこと、どう思っていたのか、あいつに直《じか》に当たれば済むことだ」
加瀬はかぶりを振った。
「それは、あなたが取材というものを知らないからですよ。こういうルポルタージュに、客観的な視点は欠かせません。犯人の言うことを鵜呑《うの》みにして書いたら、わたしは間違いなく世間の笑い者になる。それ以前に、穂積はこのスクールのことをわたしには一言たりとも喋っていないのだから、直当たりはまだ早すぎる。拘置所での面会は、さまざまな制約と限られた時間のなかで行うため、十分な準備が必要なのです」
「そんなもんかね」
つまらなそうに言うと、煙草に火を点けた。もうひと息だ。加瀬は言葉に力を込めた。
「叶さん、あなたがスクールに人生のすべてを捧げているように、わたしも取材に命を賭けています。でなければ、あんな凶悪犯に会いに、わざわざ拘置所まで出かけたりはしませんよ。一回、ほんの二十分程度、会うために、半日を潰しているんですから。それも、いつも会えるとは限らない。そういう、徒労の日々を送り、周辺取材を繰り返し、やっとあなたに辿り着いたんだ。叶さん、頼みます。当時のボランティアを教えてください」
加瀬は深々と頭を下げた。しわぶきが聞こえた。
「しょうがねえな」
嗄れた声だった。加瀬は頭を下げたまま、ほくそ笑んだ。
奥の書斎らしき部屋へ引っ込んだ叶は十分後、一冊のノートをもって現れた。
「ボランティアの住所氏名と簡単な経歴などが書いてある。書き写すのは自由だが、持ち出しは困る」
ポンとテーブルにほうると、ドッカとソファに座り直した。ノートはB4判の薄いもので、表紙に黒のマジックで『九二年度ボランティア名簿』と記されていた。
「まあ、役に立つとは思えないが、命を賭けている、とまで言われちゃあなあ。こういう甘いとこ、情緒的なとこが、おれのダメなとこだな」
叶のボヤキを聞きながら、ノートを手にとり、ページをめくった。一ページに一人分が充てられ、経歴の下に自己の意気込みや希望を書くフリースペースが設けられていた。
加瀬はパラパラとめくってみた。カビと埃のまざったようないがらっぽい匂いがした。ボランティアは計九人。加瀬は、取材メモに順番に氏名と住所、フリースペースの記述の要約をメモしていった。黙々とペンを動かしながら、これから先の取材を思って滅入《めい》った。九人全員に当たる覚悟だった。穂積が山岸京子に語ったというとても楽しいこと≠フ正体を、なんとしても突き止めたかった。たとえ一パーセントでも可能性があるなら挑む。それが取材者の鉄則だ。しかし、あれから十年経っている。学生だった者たちは就職し、東京を離れ、海外へ出ているケースもあるかもしれない。現在の居場所を突き止めるだけでもひと苦労だ。しかも、話してくれるかどうかも分からない。よしんば話してくれたとして、穂積の言う、とても楽しいこと≠フ正体が分かるとは限らない。いや、もしかすると、当時のスクール生に関するコトかもしれない。とすれば、取材対象はボランティアではなく、当時のスクール生全員だ。しかし、問題を抱えたスクール生と善意のボランティアはまったく別だ。十年後のいまは、スクールに通っていたという事実さえ隠したい者もいるだろう。その前に、スクール主宰者の叶がプライバシーを盾に情報提供を拒否するはずだ。
加瀬は苦笑して、頭を振った。ものごとを悪い方へ、悪い方へ、と考えたがる。疲れている証拠、行き詰まっている証拠だ。この閉塞状況を打ち破る何かが欲しかった。
六人目。ページをめくった。指が止まった。信じられなかった。息を詰め、もう一度、確認する。間違いない。動悸が鼓膜を叩き、文字が歪んだ。
「どうした」
心配げな顔で、叶が覗き込んでいた。
「随分顔色が悪いぞ。真っ青だ」
顔から血の気が引き、冷たい汗が浮いてくるのが分かった。
「具合でも悪いんじゃないか?」
加瀬はひとつ、乾いた咳を漏らした。
「少し疲れているだけです」
握った拳を口に当て、喘ぐ息を圧し殺した。叶はフッと息を吐き、ソファにもたれた。
「まあ、若いうちは後先考えずに働かないとな。最近の子供は、親父はいつも酒飲んで帰って、休みの日は寝ているだけだ、とかバカにするが、子供のため、家族のため、一生懸命働いている証拠じゃないか。あんたも不幸にして子供なんか出来ちまったら──」
叶の言葉が頭を通り過ぎていった。目の前に突き付けられた事実。至高の名前。脳髄が沸騰し、細胞のひとつひとつがわなないていた。粘った汗がこめかみを伝い、ノートに垂れた。神はたしかにいる、と確信した。ノートに記された名前、汗で滲んでしまった名前を脳に刻み付けた。成田聖司の名前を。
来客を告げるチャイムがぼんやりと聞こえた。朦朧《もうろう》とした頭で、そういえば、先から鳴っていたような──深い睡眠の淵から引き戻され、目を開けた。枕元の目覚まし時計を見る。午後五時十分。誰だ? 官舎は拘置所の中にあるから、外部のセールスマン等が入ってくることはない。訪問者は百パーセント、関東拘置所の関係者だ。
白井透は、六畳間のベッドから起き上がり、玄関へと向かった。
「どなたですか」
声をかけた。
「白井、おれだ。高田だ」
高田正造。ドキッとした。先日、この部屋で死刑の話をして以来だった。白井は少し待ってください、と言い置き、よれたパジャマをチノパンとワークシャツに着替えた。
ドアを開ける。小柄だが、がっちりとした身体。短く刈った胡麻塩頭。エラの張った四角い顔がこわばっていた。
「夜勤明けか」
低く言った。
「そうです」
「手間はとらせない。少し話したいことがある」
ジャンパー姿の高田は、返事も待たず、靴を脱ぎ、部屋へ上がりこんだ。勝手に八畳間のソファに座り、顎をしゃくった。
「茶も水もいらない。座れ」
硬い声音だった。高田は背中を丸め、両手を組んだ。
「おまえ、最近、おかしいそうだな」
白井が腰を下ろすなり、口を開いた。
「上野の件ですか」
「それもある」
下から睨みつけた。
「なあ白井、おれがこの前、レクチャーしてやった死刑の話は役に立ったか?」
「はい、おかげさまで十分に心構えができました」
殊勝に言った。
「それが、あのザマか」
口調に険があった。白井は唇を引き締めた。
「おまえ、後藤にも絡んだらしいな」
背筋が強ばった。
「あいつに、あんたの家族は死刑執行のことを知っているのか、とか訊いたそうじゃないか」
「それは、死刑に携わった自分の率直な疑問であり、別に他意はありません」
「えらそうなことを言うな。おまえがおかしくなったのは、収容者番号三九二番のせいだろう」
顔が火照った。腋に冷たい汗が浮いた。収容者番号三九二番。穂積壱郎だった。高田がなぜ、穂積のことを……絶句し、訝《いぶか》る白井をよそに、高田が続けた。
「やばい噂があるんだ」
そう言い、口を噤んだ。白井の反応をうかがうように、凝視する。
「なんです、その噂というのは」
「おまえが、三九二番を特別扱いしているという噂だ」
喉が引きつった。乾いた舌を動かし、辛うじて声を出した。
「なんのことか分かりません」
高田が唇を捻った。
「あくまでも噂だが──」
視線が尖った。
「おまえが三九二番に携帯電話を渡した、という噂だ」
携帯電話──ドンッと後頭部が炸裂した。
「そんなバカな」
応えながら、胃がキュッと絞られた。いったいどこから──疑問と動揺が錯綜し、視界が揺らいだ。
「三九二番を担当している刑務官は、おまえだけじゃない。刑務官は三交代制で勤務しているんだからな」
「どういうことです?」
高田はゆっくりと語った。
「あの三九二番は五人の女性を強姦し、嬲るようにして殺した殺人鬼だ。ああいうヤツは狡猾で、普通の人間の思いもよらぬことをやる」
白井の喉仏がゴクリと動いた。高田は淡々と続けた。
「おれの知り合いの刑務官で、配属先の刑務所の受刑者にそそのかされ、糸ノコを持ち込み、渡したヤツがいる」
「糸ノコ?」
「そうだ。監獄の鉄格子を切断するためだ」
「その刑務官はどうなりました」
「発覚して自殺したよ」
「なぜです」
「表向きは糸ノコの持ち込み発覚が理由と処理されたが、おれは違うと思う。おそらく、受刑者に命令されていたんだろう。発覚したら自ら命を絶て、とな」
「ばかな」
白井は吐き捨てた。高田が眉を吊り上げた。
「ばかなだと? なぜ、おまえがそう言える」
「だって、受刑者が命令するなんて──」
口に出した後、息を呑んだ。穂積と村越──高田が小さくうなずいた。
「たしか、三九二番の隣房の男も自殺したよな。殺人未遂事件の容疑者だったが」
探るような視線を向ける。
「はい、首を吊っての縊死《いし》でした」
おののく心を抑えて言った。
「まあ、その話はいい。さっきのことだが、他の刑務官に三九二番が仄めかしていたとしたら、どうする?」
こめかみが軋んだ。
「それは──」
言葉が出なかった。
「そこから、携帯電話の話が漏れたとしたら、おまえにも三九二番の狙いが分かるだろう」
分かる。朧げに見えた。
「揺さぶっているんだ。おまえを揺さぶり、コントロールする。それが三九二番の狙いだ」
白井は逃げるように目を伏せた。
「もう一度、訊く。携帯を渡したことがあるのか?」
大きく首を振った。
「ありません。そんなこと、するわけがない」
自信に満ちた声を絞り出した。沈黙。額の辺りに、高田の鋭い視線を感じた。
「分かった。信用しよう」
ぼそりと言った。ほっと息を吐き、顔を上げた。高田がグッと指を突き付けた。
「ただし、携帯を渡したことが事実で、それが上に発覚したら、おまえの懲戒免職で済む話じゃなくなる。いいか、これからは誤解を生むような行動は慎めよ」
「ご心配をかけて、申し訳ありません」
深く頭を下げた。穂積の顔が浮かんだ。白井はほくそ笑んだ。あの男を理解しているのは自分しかいない。穂積を守るためなら、いくらでも偽りを言おう。現場の刑務官を上手くコントロールするだけのためにある理不尽な規則や命令を、唯々諾々と受け入れ、つつがなく定年退職を迎えようとしている高田の忠告など、まともに聞けるものか。自分はもう違う世界に足を踏み入れたのだ──。
糸のような雨が降り始めていた。新宿御苑近く。靖国通りと明治通りに挟まれた、スナックや居酒屋、バーが密集する一角。雑居ビルの二階にあるスナックから降りてきた長谷川勇は、空を見上げて、チッと舌打ちをくれた。腕時計を見ると、午後十一時。もう一軒回るか、それともタクシーをつかまえ、三鷹の自宅まで帰るか、思案した。浅黒い肌が酔いのためか、不健康な紫色に変わっていた。
酩酊した頭では決断がつかない。とりあえず歩いてみれば、そのうち決まるだろうと、コートの襟を立て、濡れたアスファルトに踏み出した。禿頭《とくとう》を細かい雨が叩いた。身体がよろけ、慌てて両足を踏ん張った。警察を定年退職して二年目。すっかり酒に弱くなった。自嘲めいた笑みが漏れる。指を折ってみた。一軒目の小料理屋でビールを二本あけ、スナックで水割りを四杯飲んだだけだ。昔はボトル一本空けた後、所轄署の道場に横になり、睡眠二、三時間で聞き込みに飛び出していくことなど、ザラだった。
いったいいつの話だ? 二十年、三十年前の、自分の将来は限りなく開けている、と信じていた時代だろう。いまは、本庁捜査一課の元刑事という肩書だけで民間の調査会社に席を与えられ、日がな一日、新聞を読んで過ごすだけの穀潰《ごくつぶ》しじゃないか。身体も心も鈍って当然だ。長谷川は立ち止まり、ハイライトをくわえ、火を点けた。禿頭から水滴が流れ落ち、視界を滲ませた。顔をしかめ、目をしばたいた。
そぼふる冷たい雨に濡れ、フラフラと歩いた。いつの間にか、人気のない寂しい通りに出ていた。ふっと顔を上げた。前から、アスファルトに滲んだ街灯の明かりを踏んで、背の高い男が近づいてくる。黒色の傘をさし、レインコートを着込み、ゆっくりとした足取りで迫ってくる。長谷川は足を止め、眉をひそめた。全身から、異様な迫力が漂っている。瞬間、刑事時代に培われたアンテナが反応した。
腰を落として身構えた。酔いはすっかり醒めていた。男から、殺気のようなものが流れてくる。昔、刑務所にぶちこんでやったヤクザのお礼参りか? 顔が傘の陰になって判別できない。男は、確かな意志を秘めて歩いて来る。長谷川は苛立った。
「だれだ?」
短く誰何《すいか》した。男は歩みを止め、傘を上げた。長谷川はあっと叫んだ。
「加瀬……か?」
断定はできなかった。ほおがそげ、くすんだ肌とギラついた目。あの、シニカルな笑みをたたえた端正な顔とは別人だった。
「先日は世話になりました」
ボソッと言った。氷のような表情だった。長谷川は口を半開きにして立ち尽くした。
「おかげで、うまくいきましたよ」
ハッと我に返った。加瀬のために割ってやった携帯電話の番号。警視庁警務部人事一課所属の監察官。
「長谷川さん、あんたにもうひとつ、お願いがある」
一歩、足を踏み出した。雨の音が激しくなる。長谷川は後ずさった。
「加瀬、おれとおまえの仲だ。そんなの、電話一本で済むだろうが。こうやって、不意打ちされるのは好きじゃない。おまえ、尾行《つけ》てたのか」
加瀬は唇を捻った。
「長谷川さんも酒が弱くなりましたね。たった二軒でそのザマとは」
太い雨粒が街灯に照らされ、まるで無数の銀の粒が降り注いでいるようだ。いつの間にか、ずぶ濡れになっていた。首筋から冷たい雨が流れこんでくる。長谷川はブルッと身震いした。加瀬が、哀れむような視線を注いでいる。
「おれは急いでいるんです。時間がない。それに、また成田絡みのお願いなんでね。断られてはたまらない」
静かに言った。長谷川は眉間に筋を刻んだ。
「成田だと? おまえ、ゲシュタポに返り討ちにあったんじゃないだろうな」
脅えを含んだ声だった。加瀬は苦笑を浮かべた。
「ばかな。そんなやばい取材はしていない」
さらに一歩、踏み込んだ。
「成田ってのは、いろんな噂があるんじゃないですか? おれはそんな気がしてならない。長谷川さん、あんた、電話でもそれとなく匂わせていたじゃないですか。携帯の番号だけでいいのか、と。あれ、監察官という仕事以外にも、いろんな含みがあったんじゃありませんか。おれは、いまになってそう思うんですよ。成田は普通じゃありませんから」
長谷川は慌ててかぶりを振った。
「知らない、おれは知らないぞ」
フッと頬を緩め、加瀬は言った。
「まあ、いいや、改めて調べて欲しいんです。成田の噂とか仕事ぶりとか」
コートのポケットに右手を入れ、封筒を抜き出した。
「三十万ある。これでお願いしたい」
ゴクッと唾を飲み込んだ。
「いやだ、と言ったら?」
乾いた舌を引き剥がして訊いた。
「あんたとのことをすべてぶちまけますよ、警察内部の情報を売って小銭を稼いでいたイヌだって。あんたの元上司とか同僚はどんな顔をするでしょうね」
抑揚のない言い方が不気味だった。長谷川は声を絞り出した。
「どうした、加瀬。おまえ、まるで別人みたいだ」
加瀬が一気に身体を寄せた。ヒッと喉を鳴らし、長谷川が身を引いた。加瀬は封筒を持った右手を伸ばし、濡れたコートを掴んで引き寄せると、懐に素早く突っ込んだ。小柄な長谷川は見上げる格好になった。加瀬が目を細め、凄みのある笑みを浮かべた。
「あんたとの付き合いはこれで終わりだ。つまり、おれの最後の依頼ってことだ。よろしく頼みますよ」
静かな口調だった。左手に握った傘の柄を差し出した。
「これ以上、濡れたら身体に毒だ。使って下さい」
「加瀬、おまえ……」
長谷川が呟いた。
「あんたももう、トシなんだ。そろそろ引退したほうがいい。自宅で盆栽でもいじるほうが似合ってる」
加瀬は傘を強引に押し付けた。長谷川は目を剥いた。
「成田は危ないぞ。やめとけ。あいつの裏側を触ったら、とんでもない火傷《やけど》を負っちまう。おまえ、ヘタするとタマとられるぞ」
声が上ずっていた。加瀬は何も言わず、背中を向けた。雨の中、消えていく加瀬を、長谷川は放心したように見つめていた。傘を叩く雨の音が強く、激しくなった。
その男が現れたのは、デビュー三戦目の試合があと一カ月後に迫った、二月の終わりだった。
いつもより一時間早い午後四時にジムに入った村越亮輔は、柔軟運動からプッシュアップ、腹筋等の基礎体力トレーニング、次いでロープスキッピング、サンドバッグ、パンチングボール、シャドウボクシングを順にこなしていった。試合の一週間前までは、身体を徹底的にいじめ抜き、スタミナ、スピード、打たれ強さを養う。
外は身を切るような寒さだったが、ブラックミュージックが鳴り響くジム内は、汗とワセリン、革の匂いが充満したサウナ風呂だった。六人のボクサーが黙々とトレーニングに励んでいる。シャドウで己の姿を映す壁一面のガラスは曇って見えなかった。サンドバッグの革を叩く重い破裂音と、床を鳴らすシューズの小気味いい音。亮輔は一通りのメニューをこなすと、スパーリングに入った。タケオとのタイマンで潰した鼻も、すっかり癒えていた。
リングサイドで、会長の大和田が、竹刀を片手に鋭い視線を飛ばす。パートナーは、ライト級の亮輔より一階級上のジュニア・ウェルターの選手。年齢は三十近いが、日本ランキング上位に名前を連ねたこともある、実力派のテクニシャンだ。
ヘッドギアを被り、水に濡らしたマウスピースを口にはめ、十二オンスのグローブで向かい合った。
「亮、おまえ、パンチばっかに頼ったボクシング、やるんじゃねえぞ」
大和田の怒声が飛んだ。言わんとするところは分かっている。二戦二KO勝ち。しかもデビュー戦が試合開始早々、右フックをテンプルにきめて一R、二戦目が左ジャブで相手をのけ反らせ、右フックで顎を打ち抜き、失神させて二R。いずれも早いラウンドの、しかも得意の右フックでケリをつけているため、パンチを過信したボクシングに陥るのを恐れているのだ。大和田は、「日本人に、本物のハードパンチャーはいない」と、諭すようにこう言ったことがある。
「たとえば石の拳《こぶし》、と恐れられたロベルト・デュランだ。デュランはまだ街のチンピラの頃、ダチにそそのかされて馬を殴り、ぶっ倒している。パンチ一発で馬が失神したんだ。そういう怪物が、本物のハードパンチャーだ。相手ががっちり固めたガードごと吹っ飛ばしてKOするボクサー。こんな本物のパンチ力を持ったボクサーは、残念ながら日本人からは出ない。食い物とか骨格とか筋肉とかが違う以上、仕方のないことだ。日本でハードパンチャーと持て囃《はや》されても、世界に出ていけば、並のボクサーだ。だから、日本人はディフェンスとオフェンスのバランスを徹底して身につけ、総合力で上回るしかない」
つまり、日本人ボクサーからは、圧倒的な強さで長期政権を築く、本物のスーパースターは未来永劫、出ない、そしてそれは亮輔も例外ではない、ということだ。大和田は、その髭面の鬼瓦のような風貌からは想像もできない、冷静な理論家だった。
大和田はまた、ディフェンスの必要性をこう説いた。
「いいか、ボクサーを引退してからの生活がずっと長いんだ。余計なパンチを食らってドランカーになっちまっても、誰も面倒みてくれないんだぞ。ディフェンスは徹底して磨け。日本人は身体が硬いから、パンチを受けるとすぐ棒立ちになる。だから、腰の入ったフィニッシュブローをモロに食らってしまうんだ。とにかく、動け。上半身を鞭《むち》のようにしならせながら、どの体勢からでもパンチを出せるようにしろ。ノーガードの派手な打ち合いは素人は喜ぶが、プロから見たら最低のボクシングだ。命を賭ける、と言葉で言うのは簡単だが、リングの上で命を賭けるほどバカなことはない。命ってのはもっと大事にするもんだ」
大和田は、自分のジムのボクサーが劣勢になると、早めにタオルを投げた。見切りはどのジムの会長より早かった。不満を口にするボクサーには「世界戦ならいくらでも待ってやる。日本でチマチマやってる野郎が、おれに文句を言うのは百年早い。悔しかったら、早く世界ランクに入ってみろ」と、斬り捨てた。
大和田の罵声を浴びながら、ディフェンスを重視した五Rのスパーを終え、リングから降りると、練習生が寄ってきた。来客だという。見ると、出入り口のガラス戸の前に、ひとりの男が立っていた。よれたコートを着込んだ、背の高い中年男。パサついた髪がほつれ、そげた頬には無精髭が浮いている。くすんだ肌は土気色で、隈の浮いた目は、なにかに憑かれたようにギラギラと光っていた。首を傾げた。見覚えがなかった。近づき、声をかけた。
「だれでしたっけ」
男は薄い唇を捻った。
「村越、おれだよ」
低い、重い声。思い出した。加瀬隆史、フリージャーナリスト。ゾッとした。最後に会ってから、まだ二週間しか経っていないのに、この変わり様はなんだ? ホームレスになっても、こうは変わらないと思う。なにか、大事なものが入れ替わってしまった、そんな印象だった。この二週間、いったい何があったのか。亮輔の驚きと戸惑いをよそに、加瀬は小さく言った。
「少し時間がとれないか。話したいことがある」
「話? いまさらなんだよ」
わだかまりがあった。穂積への面会を終えた後、激しく加瀬を詰《なじ》り、唾まで吐きかけた自分。が、加瀬は、過去のいきさつなど忘れたかのように言った。
「おまえ、穂積に復讐したいんだろう」
息を呑んだ。言葉が出なかった。
「ほら、親父さんを殺された復讐だよ。おまえ、絶対に許さないと言ったじゃないか」
いまさら何を迷う必要がある、とでも言いたげな加瀬の顔だった。
「方法があるのか?」
思わず訊いていた。
「ある」
静かに言った。亮輔はジムの壁の時計を見た。午後七時。
「バイトが八時から始まる。三十分くらいなら時間はとれる」
「ジムの先の歩道で待っている。そこで話そう」
それだけ言うと、もう用は済んだといわんばかりに背中を向け、ガラス戸を開けて出て行った。
亮輔はシャワーを浴び、手早く着替えて外へ出た。綾瀬川の上流、百メートルほどのところに人影が見えた。亮輔はダウンジャケットのジッパーを顎まで引き上げ、ママチャリに跨がると、車道から護岸壁沿いの歩道へと上がった。
加瀬は高さ二メートルほどの護岸壁を背に、立っていた。
「ドブの臭いがするな」
加瀬は亮輔に視線を向けた。
「冬にこれでは、夏はたまらんだろう」
「ああ、日本で一、二を争うくらい、汚い川らしい」
護岸壁に沿って伸びる、幅十メートルほどの広々とした直線の歩道には人の姿が無く、ただ水銀灯の明かりだけが延々と続いていた。歩道の上を走る首都高速から、トラックの爆音が轟く。高速を支える無数の巨大な支柱と、ひび割れたコンクリートの護岸壁、寂寞《じやくまく》としたアスファルトの直線路、ドブの臭い。未来都市の廃墟へ迷い込んだような錯覚を覚えた。
冷たい風が吹いていた。しかし、背の高い護岸壁のおかげでそれほど寒くはない。加瀬が、コートのポケットから温かい缶入りのウーロン茶を差し出した。
「ウーロン茶なら構わんだろう」
砂糖を大量にぶちこんだ缶コーヒーや炭酸飲料は、ボクサー生活を続けている限り、口にできない。亮輔はウーロン茶を受け取るとプルタブを引き上げ、一気に飲み干した。冬の夜だ。身体を暖めておきたかった。加瀬も同じように口にした。
「あんた、変わったな」
亮輔がポツリと言った。加瀬は無精髭をしごき、痩せて肉の落ちた頬を緩めた。
「髭を剃り、風呂に入って一晩眠れば、もとのおれに戻る」
「なにやってたんだ」
「調査だよ。復讐に必要な、な」
なんの気負いも無く言った。
「おまえの協力が必要なんだ」
「説明してくれよ」
水銀灯の光が、加瀬を照らした。目の下に隈の浮いた、蒼白の顔。幽鬼のようだった。加瀬は俯き、ぼそりと言った。
「至高の正体が分かったんだ」
至高──この世の最高の存在。穂積の神。
「本当か?」
囁くように言った。
「ああ」
加瀬はゆっくりと顔を上げた。自信に満ちた表情だった。亮輔は尖った視線を飛ばした。
「で、分かったとしてあんた、どうするんだ? 殺すのか?」
「殺しはしない。痛め付けるだけだ」
「断る」
「なぜ」
加瀬は続けた。
「穂積は至高にそそのかされ、一連の犯行に及んでいる。つまり五人殺害の裏には至高がいる」
「その至高をぶちのめしたら、穂積が死ぬとでもいうのか? あいつは牢獄の中にいるんだぜ。それに、死刑なんか怖くない、と言っているんだ。そんな化け物にどうやって復讐できる。たとえ殺したところで、痛くも痒くもないだろう。至高を引きずり出し、痛めつけたら、被害者の家族は少しは癒されるかもしれない。しかし、おれには関係ない。おれの親父の死と、その至高はまったく関係ないんだから。第一、おかしいじゃないか」
「なにが」
「あんたが、そこまで穂積にこだわる理由だよ。あんた、やっぱり何かあるはずだ。穂積を憎む理由があるんだろう」
加瀬は顔をそむけた。沈黙が流れた。高速道路のトラックの轟音と、冷たい風の音。生臭いドブの臭い。唇が震えた。
「そうだ。理由がある」
地を這うような加瀬の声だった。亮輔は思わず足を引き、身構えた。
「おれの妻は、穂積に犯されていた」
「なんだと?」
亮輔は眉間に深い筋を刻んだ。
「結婚前、そう、まだおれと知り合う前だ。女子大生だった二十歳の妻を暗がりに引きずり込み、犯していた。その成功に味をしめ、穂積は連続殺人に手を染めていったんだ」
加瀬が顔を向けた。憎悪に燃えた視線が、亮輔に据えられた。
「おれは、自分の妻を犯した男に擦り寄り、手紙を書かせ、話を聞いていたんだ。以前、おまえはこう言ったよな。五人の犠牲者のことなんか、これっぽちも考えてこなかったくせに≠ニ。その通りだよ。おれは、穂積に殺された五人の痛みとか苦しみとか、無念とか、そういうものより、スクープを優先していた。ところが、いざ自分の妻が犯されていたと知ると、あいつへの怒りでこの身体が焼け焦げそうになった」
「勝手だな」
ポツリと言った。加瀬は冷笑した。
「おれは勝手な男さ。穂積も言ってたろう、究極のエゴイストだと」
亮輔の脳裏に、面会室での加瀬と穂積のやり取りが甦った。至高とはおまえの共犯者じゃないのか? 穂積は呟いた。面白い表現だ、と。
「加瀬さん、その至高はあんたの推理通り、共犯者だったのか?」
「おそらく、な」
「じゃあ、現場にいたのか?」
加瀬はかぶりを振った。
「いや、いなかった」
「なら、共犯者じゃないだろう。そんなヤツ、ぶちのめしたところで意味がない。おれには理解できないことだらけだ。殺されたんならともかく、あんたの奥さんは生きているんだろう。あんたに復讐なんて口にする資格があるのか?」
「このままだと、おれの妻は生きながら死んでしまう。おれは妻を守るためなら、何だってする」
鋼《はがね》のような声だった。亮輔は首を振った。
「でも、おれにはできない。おれのパンチを振るうだけの理由がない。獄中の穂積をぶちのめすならともかく──」
「おまえさえ協力したら、獄中の穂積を壊せる」
「壊す?」
亮輔は目を見開いた。
「ああ、壊す。もっと正確に言えば、死ぬことは怖くない、とうそぶいているアイツに、本物の死の恐怖を味わわせてやる。死刑に処されるその瞬間まで、な」
加瀬の顔が心なしか笑っていた。
「そんなこと、できるわけがない」
亮輔の声は震えていた。
「いや、できる。そのためには、おまえの協力が必要なんだ。そのプロボクサーのパンチがな」
「警察に頼めばいいだろう」
「至高は警察関係者だ」
亮輔は目を見開き、口を半開きにした。
「おれにマッポを殴れって言うのか? プロボクサーがマッポを殴ったらいったい──」
呻くように言った。加瀬は指を振った。
「そうじゃない。その男には厄介な連中がついている」
「厄介な連中?」
加瀬は顎を上下させた。
「ヤクザだ。ここらあたりをシマにしている一心会の幹部で、岡野という男がいる──」
一心会の若頭、岡野保──瞬間、頭に白い閃光が疾った。背中を丸めた。吐き気がせり上がり、思わず口を押さえた。タケオの話が、生々しく蘇る。シャブの取引で政春を嵌め、始末したヤクザ。猪瀬という狂犬みたいなデブに首を裂かれ、死んだ政春。マッポと関係のある岡野──噛み締めた奥歯がギリッと軋んだ。
「村越、どうした」
加瀬の声が降ってきた。弾かれたように亮輔は頭を上げ、両腕を伸ばし、加瀬のコートの襟を掴んだ。
「やるよ、加瀬さん。おれがそのヤクザをぶちのめしてやる! 足腰が立たなくなるくらい、殴りとばしてやる」
「やっと親父さんの復讐をする気になったか」
加瀬が酷薄な笑みを浮かべた。
「違う!」
コートの襟を離し、俯いた。
「親父の復讐だけじゃない。おれはもう何も言わないから、あんたも訊くな」
ゴッと耳が鳴った。突風が吹き付け、砂塵が舞った。
川面の波立つ音がした。
「臭い川だ」
加瀬は肉の薄い頬を歪め、足元に唾を吐いた。
闇に浮かぶナビゲーションシステム。鮮やかなスカイブルーの水晶画面には、詳細な地図と共に、目的地まであと〇・九キロの表示があった。
午前零時五十分。岡野保の黒のベンツは、綾瀬駅の北、首都高速三郷線の高架の下を這う車道を、荒川の方向へ向かっていた。
運転席でステアリングを握るのは、眠たそうな目をしたスキンヘッドのデブ、猪瀬だった。後部座席には、ダブルスーツの岡野と、その右隣にチノパンに黒の革ジャンパーを着込んだ成田聖司がいた。成田は鋭い視線を窓の外に向けたまま微動だにしない。岡野が声をかけた。
「この辺りには、おれらも来たことがありませんよ」
黒縁メガネのフレームを摘まみ、成田の横顔をうかがった。左手には闇に沈んだ住宅街。右手には延々と綾瀬川の護岸壁が続いている。
「飲み屋も風俗もない、面白味のない街ですもんね」
だが、成田は水銀灯の下、流れていく護岸壁に目をやったまま一言も発しなかった。岡野は中学教師とみまがう穏やかな顔を、緩めた。
「成田さん、おれらはあんたの情報で随分といい思いをさせてもらっています。あんたが所轄を押さえているおかげで、シャブのガサ入れも事前に察知できる。今夜は野郎ひとりを始末すればいいんですね」
成田が動いた。首を回し、鋭い視線を飛ばした。
「おい、岡野、ヤクザが警察に向かって舐めた口をきくんじゃないぞ」
岡野は、ヘヘっと下卑た笑いを漏らした。
「おれらはあんたが綾瀬西警察署の君塚をどうやって丸めこんだか知りません。でも、あんたの凄腕はちゃんと認めてますって。そうカリカリしなさんな。あんた、泣く子も黙る警視庁監察官殿でしょうが。おれらも十分な礼を尽くしているとは思いますが、困ったときはもちつもたれつですよ。どうぞ遠慮なさらずに」
成田は薄く笑った。
「いいか、岡野。別に始末して欲しいんじゃない。わたしは、ある悪意を持った民間人から、おまえたちとの関係を詮索されている。もし、その男が脅迫、恐喝等の卑劣な手段に出たら、しかるべき措置を講じて欲しい、というだけだ。警察と暴力団の癒着などという話になったら、お互い、甚大なる不利益をこうむることになるだろう。あまり面白い話じゃない」
「分かってますって」
シートにそっくり返り、大儀そうに言った。
「で、今夜、おれらは近くで待機してればいいんですね」
「そうだ。三十分が経過してもわたしが帰らなかったら、分かっているな」
「ええ、おれがあんたの携帯に連絡を入れ、あんたがすでに解決済み≠ニ言ったらそれでよし、しかし急用ができた≠ネら、おれらが駆けつける」
「あとは任せる」
「大船に乗った気でいてください。おれら、野郎の一人や二人、あっという間に消してやりますから。現に最近も──」
岡野が口を噤んだ。成田が凄みのある視線を据えていた。
「わたしはな、喋りだけが達者なヤツは嫌いなんだ」
岡野は肩をすくめた。
「あと五百メートルほどで五兵衛橋ですが」
運転席の猪瀬が言った。
「適当な場所で停めろ」
成田が指示した。岡野が顔を向けた。
「その、綾瀬川にかかるなんとか橋ってとこで野郎は待ってるんですか」
「そうだ」
「どうしてそんなとこで待ってるんですかね」
岡野は首を捻った。
「その橋は歩道専用でクルマの通行が無い。人気の無い場所で話したいらしい」
「まあ、そんだけ大事な話ってことでしょうが、こっちには好都合だ」
唇に残忍な笑みを滲ませて言った。
「そういうことだ」
成田が小さくうなずいた。
窓の外、廃墟のような古びた護岸壁が流れていく。このまま、綾瀬川沿いを一キロも下れば、コンクリートの塀に囲まれた関東拘置所がある。成田は目を閉じた。真夜中の、暗く湿った独居房。耳を澄ませば、静かに寝入るあの男の寝息が聞こえるような気がする。
二十六歳の穂積壱郎──成田には想像もできなかった。
脳裏に浮かぶ少年の顔は、寂しげに俯いている。絶対的な孤独と虚無を貼りつけた、ガラス細工のような冷たい横顔。凶暴な性欲と世界への憎悪が猛り狂う思春期のなかで、十六歳の穂積は呻いていた。この世を司《つかさど》る神の存在を信じながら、それに到達できない苛立ちと絶望は暴発寸前だった。
成田は出口を見失ったまま苦悩する穂積を強引に押さえ込み、自分の知識と弁舌と肉体を総動員して、一個の穴を穿ってやった。壁はあっという間に崩れ、決壊した。黒々とした苛立ちは濁流となって流れ出し、一歩間違えば成田をも呑み込みそうな勢いだった。怪物は軛《くびき》を断ち切り、野に放たれた。成田は、自分がやってしまったことに震えた。その身も凍るような恐怖をよそに、穂積は歓喜し、涙を流した。
自分の耳元で「やっと会えたね」と、吐息のように呟いたあの少年の声は、いまでも鼓膜にへばりついている。
穂積の視界には、成田しかなかった。成田はこの世の真理を教え、まだ見ぬ理想郷へと導く教師だった。穂積の透明でピュアな魂は、成田という絶対的な存在を得て、一気に成長し、この世とあの世のハードルをいとも軽々と飛び越えた。だが、穂積は神を渇望していた。神を与えなければ、成長し続ける穂積の魂は間違いなく、成田を食い殺しただろう。全能の神となる以外、助かる道はなかった。自分のすべてを信頼し、崇拝する穂積が恐ろしかった。成田は鋼《はがね》の仮面を被って洗脳し、神を装った。偽りの神はいつしか真の神となり、永遠の契りを結んだ。自分の命令ひとつでいかようにも動く怪物。成田は、人間をコントロールする快感を知った。そして芽生えた悪魔の計画……。穂積は神の僕《しもべ》となり、嬉々として奉仕した。
穂積──呟いた。おまえの神はここにいる。
ベンツは、五兵衛橋の二百メートルほど手前で停まった。外に出た成田は、頬を嬲る、凍った生臭い風に思わず顔をしかめた。
綾瀬川を跨ぐ五兵衛橋は、幅四メートルほどの歩道専用のちっぽけな橋だった。両側の手摺りはヘソの辺りまでしかなく、吹き付ける風に波打つように揺れていた。むせび泣く電線と、真夜中の首都高速を疾走するトラックの轟音が、重く鋭く響いている。
コートを着込んだ加瀬は、長さ約二十メートルの橋の中央に立ち、水銀灯の下、両手をポケットに突っ込み、黒々とした川面を見ていた。橋から川面まで六メートルくらいか。パサついた髪が風に乱れ、ほつれた。
成田が現れたのは、約束の午前一時を五分ほど回ったときだった。
「加瀬さん、寒くないんですか」
呼びかけられ、振り向いた加瀬は、そげた頬を緩めた。
「いや、全然。それより成田さん、あんた、こんな時間に呼び出され、さぞや面食らっているだろう」
成田は目を据えたまま、首を小さく振った。短く刈った七三の髪と革ジャンパー。背は加瀬より少し低いくらいだが、二人並ぶと、その体格差は歴然としている。成田の、逆三角形の分厚い、バランスのよい身体はプロのスポーツ選手のようだった。
「なんの企《たくら》みがあるのか知らないが、あなたがわたしの身辺を犬みたいに嗅ぎ回っているのは知っている。フリーのモノ書きほど、不作法な輩《やから》もいませんな。同志が欲しいとか、本気で穂積を憎んでいるとか、殊勝なことを言っていたようだが、その結果がこれですか」
黒の革手袋をはめた両の手で手摺りを掴み、綾瀬川の下流方向に目をやった。七三に分けた髪は、電線の鳴る北風の中でもまったく乱れなかった。
加瀬は、成田の横顔を見据えた。
「おれは、執念だけが取り柄のフリーライターだ。あんたのことは徹底して調べあげたよ。付き合いのあるヤクザに酒や女をたかる悪徳警官は珍しくない。だが、シャブ取り引きにまでかかわってはまずいだろう」
「わたしと暴力団との関係──これもあなたの本の中で紹介されるわけですか? 連続レイプ殺人事件被害者の恋人が辿った転落の人生、とかなんとか」
余裕たっぷりの口ぶりだった。加瀬はかぶりを振った。
「いや、もう本を書くのは止めたよ」
小さく言った。
「ほう、それはまたなぜ」
成田は手摺りから手を離し、ゆっくりと顔を向けた。加瀬は静かに語りかけた。
「フリースクールへ行ってきたよ。桜新町駅前の『風の子』だ」
低い声だった。水銀灯の下、成田の顔が蒼白になった。
「あのスクールで、あんたは穂積に会っている。あんた、穂積との関係をおれが嗅ぎ付けるのでは、と心配で堪《たま》らなかったろう。おれから連絡が入ると、いつもビクビクしていたんじゃないか?」
「なるほど、そこまで調べましたか。穂積がなぜ上訴したのか、そういう大事なことに疑問を持たないあなたの貧しい洞察力では、わたしと穂積の関係までは辿りつけない、と踏んでいましたが」
成田は、濁った笑いを漏らした。
「まいったな」
頭を掻いた。
「もっと穏便に解決しようと思っていましたが、無理ですね」
フーッと大きく息を吐いた。
「穂積との関係、暴力団との関係、そのすべてをひっくるめて、警察に突き出しますか? あなたは一躍時の人となり、貧乏で先の見えない、惨めなフリーのライター生活からおさらばだ」
「いや、そんなことはしない」
決然と言った。
「ほう」
顎を撫でながら、加瀬を凝視した。
「本を書くことも止めた、わたしを警察にも突き出さない。ならば、あなたの目的はなんだ?」
加瀬は天空を仰ぎ見た。無数の朧な星が凍った空に散っていた。
「穂積は神に会った、と言っている」
視線をゆっくりと戻した。
「あんたにはすっかり騙された。いったい、どんなペテンにかけて穂積の言う至高≠ヨと収まったんだ?」
成田は首をすくめた。
「穂積は神を求めていたんですよ。それでボランティアとしてあそこに通っていた大学生のわたしが、ちょっと知恵を授けてやった。すぐに食いついてきましたよ。哲学とか宇宙物理学を使って、アイツの脳ミソを洗い直してやったんです」
「なぜ、あんたがフリースクールなんかでボランティアをしたのか、おれは不思議でならない」
成田は静かに答えた。
「社会の底辺で蠢《うごめ》くクズとか弱者を、じっくりこの目で観察するためですよ」
顔が愉悦にとろけた。
「面白かったですよ。気弱なイジメられっ子を物陰に呼んで死んじまえ、おまえみたいな社会のゴミはいらないんだ、汚くて醜くて、見ているだけでヘドが出そうだ≠ニ罵《ののし》ってやれば、ガクンと落ち込んでね。メソメソ、いつまでも泣いていた。親切な、兄貴みたいな大学生が、突然、自分を酷い言葉でいびるんですからね。信じられない落差だ。ショックだったと思いますよ。でも、穂積は違ったなあ」
吐息のような声だった。
「わたしは、彼が訪ねてきたその日に、こいつはモノが違う、と分かりました。絶対的な孤独に耐える強靭な精神を持っているうえに、頭脳明晰で、卑しい社会の常識というやつに昂然と背を向ける勇気があり、創造力は無限。わたしは雑多なゴミクズの中でダイヤモンドを見つけた思いでした。この男は社会の真のリーダーになれる、と確信しました。同時に、わたしの奴隷になれる、ともね」
「で、あんたは奴隷を選んだというわけか」
「当然でしょう」
当たり前のことを訊くな、とでも言いたげな表情だった。
「スクールにいた三日間、穂積とマンツーマンで向き合い、あいつの苦悩と苛立ちにひたすら耳を傾け、魂を解きほぐし、新しい世界への入り口を開いてやった。穂積は変わりました。その変貌ぶりは恐ろしいほどでした。スクールを辞めさせた後は、いろんなコトを教えてやりましたよ」
「例えば?」
「例えば仏陀です。仏陀はこの現実の世界を、無常の世界であり、苦の世界であるとした。そして、この世に常住不変のものがあると錯覚し、固執することで無数の煩悩が生じてしまう、しかし、実際は常住不変のものなどただのひとつもなく、すべては無常である、つまり諸行無常である、と。わたしは穂積にこう言いました。この世の真理を悟ることで、一切の苦は無くなる。世界は、選ばれた知性によって浄化され、豊かな新しい世界へと昇華していくのだ≠ニ」
「穂積は出来のいい生徒だったのか」
「それはもう。乾いたスポンジが水を吸い込むように理解しましたよ。三日間しかスクールにいなかった穂積は、わたしの名前さえ知らない。しかし、この世の絶対的存在として、その尊敬と信頼の念は、この先も死刑になるまで変わりませんよ」
「そしてあんたは共犯者になった」
「そういえばあなた、先日も言っていましたね。穂積と一緒に連続レイプ殺人を行った人物≠ニかなんとか」
せせら笑うように言った。
「そんな人物、いるわけがないでしょう。あの現場には、穂積と犠牲者の二人だけだ。それは動かしようのない事実だ」
唇に含み笑いを湛《たた》え、嘲《あざけ》るような視線を向けた。加瀬は成田を見据えたまま、首を振った。
「いや、あんたは犯行現場で、コト細かな指示をしている。乳首を舐めろ、ペニスを突っ込め、首を絞めろ、とな」
成田の目が尖り、険を帯びた。
「それは、穂積が証言したのですか」
「違う。だが、あいつはおれに電話をしてきた」
「電話?」
「そう、携帯電話でな」
成田は目を細めた。
「いったいいつの話です」
「拘置所から電話をしてきたんだよ。穂積はこの世から隔絶された独房で、あんたの想像を絶する化け物に成長している。穂積はこう言っていた。いまの携帯電話は軽くて薄い≠ニ」
「なるほど」
感心した口ぶりだった。加瀬は続けた。
「つまり、穂積は事件当時、携帯電話を使っていた。ちょうどデジタル携帯が出始めて、月の基本料金も一万円以下へと大幅にダウンした時期だ。あんたは携帯を穂積に買い与え、声だけでコントロールした。自分は決して手を下さずに、な」
成田は両腕を広げて肩をすくめ、ピュッと低く口笛を吹いた。
「素晴らしい。その通りですよ。あいつは、姿を見せないままこの世の真実を教え、導くわたしに幻想を抱き、妄想はみるみる膨らんでいった。もう、思いのままでしたよ」
「恋人の吉本貴子を殺すためか」
一気に斬り込んだ。が、成田の表情に、動揺はうかがえなかった。
「そうですよ。わたしは貴子が鬱陶しかった。わたしは、真面目で融通のきかない貴子に飽き飽きしていた。あの女、わたしと別れたくないあまり、妊娠した、なんて言って。それで殺すことにしたんですよ。わたしには将来がありましたからね」
瞬間、スイッチが入ったように成田の顔が変わった。鼻に皺を寄せ、怒りの形相でまくし立てる。
「ところがあの女、妊娠なんてウソだった。検死しても、妊娠の兆候さえも認められなかった。どこまでもふざけた女だ。わたしを騙したんだ。卑劣でウソつきで自己本位で、救いようのない女だ」
成田は恨みつらみを述べ立てた。
「しかし、あの女がいたおかげで、わたしは人をコントロールする快楽を知った。いまでは貴子に心から感謝していますよ。もっとも死んでしまって年齢もとらず、柔順になった貴子ですがね。あいつは殺されてよかった。殺されて邪悪な魂が浄化され、素直になった」
ため息のような声だった。加瀬はキリッと歯を軋《きし》らせ、唇を薄く開いた。
「監察官の仕事についたのも、人をコントロールする快楽のためか」
嬉しそうな笑みを見せた。
「そうですよ。ノンキャリア、キャリアを問わず、警察官はわたしの存在を畏怖している。必要とあらば取調室やホテルの一室に連れ込み、罵詈雑言《ばりぞうごん》を存分に投げかける。調べあげたネタを材料に、ちょっと揺さぶりをかければ、こっちが笑いたくなるほど怖がって、大抵の要求は呑んでくれる。最高ですよ。わたしの天職です。幾多の競争を勝ち抜いて、このゲシュタポの地位を射止めた甲斐がありましたよ」
「あんたは、自分が疑われないよう、吉本貴子以外に四人を殺すよう指示した。そして穂積は喜んで従い、見ず知らずの女を弄び、殺した」
成田は大きく頷いた。
「魂を解放してあげたんですよ。欲望と悪意に塗《まみ》れたこんな世の中、早く捨てたほうがいいんだ。そうは思いませんか。貴子だっていまはわたしに感謝していますよ」
「おれにそんな戯《ざ》れごとは通用しない」
成田は頬をとろけさせた。
「一人だけだと疑われるでしょう。どんなコトが出来《しゆつたい》するか、知れたもんじゃない。念には念を入れて、というわけです。もちろん、襲う場所や逃走経路もコト細かにレクチャーしてやりましたよ。わたしの仕事に抜かりはありません」
自慢げに言った。加瀬は汚物でも見るように顔をしかめた。
「自分の恋人を変態に襲わせて、死ぬまでの一部始終を聞いて興奮するなんて、おまえは畜生にも劣るゲス野郎だ」
「なんとでも言うがいい」
成田は鼻を鳴らして笑い、腕時計に目をやった。加瀬は身体を捻り、手摺りに両手を置いて、下流の川面を眺めた。
「臭い川だ」
ポツリと言った。
「デッドウォーターそのものだな」
成田は訝しげに眉根を寄せた。
「デッドウォーター……死んだ水、ですか」
「そう、出口のない腐れ水──穂積はこう言っていたよ。この世はデッドウォーターだ≠ニな」
成田は唇を吊り上げ、笑った。
「うまいことを言うじゃありませんか。しかし、勝ち続ける者にとって、この世は澄みきった美味い清水に満ちていますよ。独房の穂積にとってはデッドウォーターでしょうが、ね」
加瀬は手摺りから手を離し、成田と相対した。
「死刑の怖くない穂積が上訴してまで見たい、と願っているのはなんだ?」
「わたしが吹き込んでやった理想の世界、というやつでしょう。わたしが近いうちに実現する、まったく新しい世界──バカな男だ。どうせなら、五人を殺した時点で電車に飛び込んで死ね、とでも教えておけばよかった。まさか、執拗さだけが取り柄のフリーライター風情に付け込まれるとはね」
忌ま忌ましげに吐き捨てた後、再度、さりげなく腕時計に目をやる。表情に微かな苛立ちがあった。
「おい、成田」
太い声で呼びかけた。
「さっきの質問に答えてやろう」
成田は加瀬を凝視した。
「おまえが犯行現場でコト細かな指示をした、と証言した人物のことだよ」
加瀬はひと呼吸おいた。トラックの轟音と、腐った水の臭いがした。息を吸い、声を絞り出した。
「おれの妻だ」
成田の頬が隆起した。
「あんたの妻だと?」
「そうだ。おれの妻が教えてくれた。おれの妻は結婚前、穂積に犯されている」
瞬間、成田の顔がパッと輝いた。白い歯を見せた。
「なんだ、神はこの世にいたんじゃないか。そうか、最初に度胸だめしで襲わせた女は、あんたの妻になったのか」
喉仏を動かし、ケタケタ笑った。
「穂積もさぞ喜んでいることだろう。あれは面白かった。わたしは穂積の現場中継を聞いていて勃起してしまったよ。ペニスが隆々とそそり立ってね。まさか、あれほど興奮するとは──」
言葉を切り、真顔に戻った。
「では、おまえがここに呼び付けた理由は、やはり復讐なんだな?」
「そうだ」
重い、地を這うような声音だった。成田の顔が強ばった。腕時計にチラッと目をやる。加瀬は、欠けた奥歯を舌先で探った。
「さっきから時計を見ているようだが、大事な約束でもあるのか」
成田の頬が隆起した。加瀬が唇を捻った。
「ヤクザどもはアテにならんぜ」
「わたしひとりで十分さ」
革手袋をグッと握り締めた。太い首がこわばり、視線に残忍な笑みが浮かんだ。
岡野が携帯に手を伸ばしたとき、ベンツの窓をコンコンと叩く音がした。見ると、黒のレザーのツナギに白のフルフェイスのヘルメットを被った男が立っていた。運転席の猪瀬が舌打ちをくれ、窓ガラスを下ろした。
「すいませんが」
ヘルメット越しにくぐもった声が聞こえた。瞬間、肉の弾ける鈍い音がした。猪瀬がスキンヘッドをのけ反らせ、助手席に引っ繰り返った。鼻がひしゃげ、鮮血が噴き出している。が、弾かれるように起き上がった。
「野郎!」
巨体を躍らせた猪瀬がドアを蹴るようにして開け、外へ出た。懐のドスをスラリと抜き、腰を落とす。フルフェイスの男は革手袋をはめた両手を握り、顎の高さで構えた。
「おい、猪瀬、落ち着け!」
後部座席から岡野が叫んだ。が、怒りに猛り狂った猪瀬は止まらなかった。短く息を吐き、ドスを突いた。が、男は上半身を鞭のようにしならせ、捌《さば》いた。猪瀬は瞬時にドスを引き、薙《な》ぎ払い、突き上げた。刃が街灯を反射し、キラッ、キラッと光る。野獣めいた唸り声が響く。しかし、男は絶妙のステップワークで避け、刃をかいくぐって左のジャブを放った。猪瀬のこってり脂肪のへばりついた顔がパパンと鳴る。憤怒の唸りを漏らして、猪瀬が突っ込んだ。男は、身体を素早く反転させ、左のショートアッパーを放った。拳が顎をとらえ、突き上げる。ドスが落ち、猪瀬は一瞬、棒立ちになった。その隙を見逃さなかった。男は左足を滑らすようにして踏み込み、腰の入った右ストレートを振り抜いた。グヮシャ、と鈍い音が響いた。猪瀬の巨体が宙に浮き、次の瞬間、ベンツのボディに叩きつけられた。顔半分がひしゃげた猪瀬は、グウッと呻いて崩れ落ちた。白目を剥き、ピクリとも動かない。
「ちくしょう、ヒットマンか?」
岡野は喚きながら懐に手を入れた。9ミリパラベラム弾を装着した自動小銃。グロックを取り出そうとしたその時、ガラスの砕ける音がした。頑丈な編み上げ靴がスモークの入った窓を突き破っていた。男は素早く左手を差し入れてロックを外すや、ドアを開け、岡野の髪を掴んで引きずり出した。
岡野は喉を引きつらせて悲鳴を上げ、グロックの銃口を向けた。男の右拳が頬を抉り、手からグロックが飛んだ。男は左手で岡野の襟首を掴み上げてベンツのボディに押し付け、右フックを脇腹にめり込ませた。黒縁メガネがずり落ちた。岡野は身体をくの字に曲げて呻いた。ピンク色の涎が糸を引いて垂れた。
「まだまだ、こんなもんじゃない」
フルフェイスの中から掠れた声が漏れた。岡野の上体を強引に引き上げる。顔が、恐怖と涙で濡れていた。
「た、助けてくれ」
両手を上に挙げ、命乞いの声を絞り出す岡野を無視し、右拳が疾った。アッパーが鳩尾を突き上げ、フックが頬骨を砕いた。ストレートが喉仏を潰し、か細い悲鳴を断ち切った。男は、黙々と拳を振るった。鼻にめり込み、唇が裂けた。血にまみれ、目鼻さえはっきりしなくなった顔がガクンと後ろに垂れた。男が襟首を離すと、岡野は木偶《でく》のようにゴロンと横たわり、長々と伸びた。男はフルフェイスのヘルメットを脱いだ。白い湯気が上がった。村越亮輔の顔が、憤怒で朱に染まっていた。
右手に掴んだヘルメットを振り上げる。唇を歪め、血まみれの岡野に投げ付けた。潰れた顔に激突した白のヘルメットは鮮血をなすり付けてゴロゴロと転がった。
「わたしを殺すとでも言うのか? フリーのライター風情が」
成田が嘲った。
「ナイフでも何でも出すがいい。腕をへし折ってやるから」
握った両の拳をアップライトに構えた。分厚い上半身が膨れ上がる。太い首に筋肉の束が浮き上がった。
「どうせこの後、負け続けたおまえの人生に終止符を打ってやるんだ。さあ、こいよ。復讐してみろ。あんたの可愛い奥さんのすすり泣きは良かった。そのうち、よがりだしてな。穂積の野郎、興奮しまくって、柔らかな乳房に噛み付き、血を啜ったほどだ。あの圧し殺した悲鳴と嗚咽、甘いよがり声は、まだ耳に残っている。また近いうちに聞かせてもらおうか」
唇をすぼめ、チュッチュッ、と歯を鳴らした。加瀬は目を据えたまま、かぶりを振った。
「いや、あんたへの復讐じゃない」
成田が顔を歪めた。
「なんだと……」
ゴッと突風が鳴った。橋が上下に大きくたわんだ。加瀬が動いた。ヘソの高さの手摺りに右足をかけて一気に蹴り上がり、成田の首に左腕を回した。成田は予想もしない動きに一瞬面食らったが、次の瞬間、両手で左腕を掴み、引き剥がそうとした。圧倒的な体格と筋力の差。顔には余裕の薄笑いさえ浮かべていた。そのとき、加瀬が手摺りから跳んだ。川面に向かって身を躍らせる。加瀬の全体重が、首に回した左腕にかかった。グッと首を絞められた成田は驚愕の表情で両足を踏ん張った。しかし、無駄だった。手摺りを支点に背中が弓なりになり、大きくのけ反った。加瀬は、左腕で成田の太い首を絞め、右手で革ジャンパーを掴み、そのままぶら下がった。成田はたまらず、後ろ向きにエビ反りになり、両足が浮いた。二人はゆっくりと、もつれあうようにして、六メートルほど下の川面へと落ちていった。黒い飛沫が派手に上がった。
真冬の、しかも真夜中の川だ。一瞬にして、身体が痺れた。深く息を溜め込んでいた加瀬は、手足をばたつかせて浮き上がろうとする成田の腰にしがみつき、水中へと引きずり込んだ。二十秒、三十秒──狂ったように身もだえする成田の動きが徐々に緩慢になった。両手を離して浮き上がる。成田が咳き込み、新鮮な空気を求めて激しく喘いだ。その頭を両手で掴み、肘を伸ばして上から押さえつける。体重をかけて押し込んだ。ゴボゴボと泡が立ち、成田の腕が虚空《こくう》を掴んで痙攣した。脱力したのを見計らい、加瀬が両手を離すと、水面に顔が突き出た。目を剥き、口を大きく開け、裏返った悲鳴が上がる。加瀬は背後から髪を掴み、再び、頭を押さえた。それを三度、繰り返すと、ぐったりと動かなくなった。加瀬は半ば失神した成田を仰向けにして顎に手をかけ、岸へと向かった。幅二メートル高さ三十センチのコンクリートの棚に引き上げ、成田を横たえた。胸が大きく波打ち、呼吸するごとにゴボゴボッと口から水を吐き出す。腐った水と共に、殺さないでくれ、死にたくない、と濁ったか細い声が漏れた。
立ち上がった加瀬の足がよろめいた。身体の芯から冷えきっていた。加瀬は痺れる足を引きずるようにして歩き、橋の下に隠しておいたビニールの包みを取り出した。そのとき、声がした。
「加瀬さん、大丈夫か」
亮輔だった。護岸壁に取り付けられた非常用の鉄製のハシゴを伝って降りてくる。
「来るな」
鋭く叫んだ。
「来るんじゃない、村越!」
右手を上げ、制した。
「川に落ちたんだぜ。凍死しちまうよ」
「おれは大丈夫だ。この男も鍛え上げた身体だ。簡単にはくたばらん」
加瀬は横たわる成田のもとへ戻り、ハシゴの途中で固ったままの亮輔を見上げた。
「上へいってろ、十分で済む」
「十分って、あんたいったい──」
「頼む、時間がないんだ。戻れ!」
激しく腕を振った。亮輔は唇を噛み、ハシゴを上がって行った。亮輔の姿が視界から消えると、加瀬は水を吸って重くなった革ジャンの襟首を掴み、引き寄せた。
「おい、成田、聞こえるか」
成田は、小さくうなずいた。水銀灯の下、虚ろな視線が宙をさまよった。
「腐った水の中で死にたくなければ、おれの言うことをきけ」
成田は「ああ」と、か細い声を出した。加瀬は、ビニールの包みを解き、中身を抜き出した。
十分後、全てを終えた加瀬は、ハシゴに取り付いた。しかし、力が入らない。肩で喘いだ。体温が奪われ、身体中が痺れて動かなかった。
「加瀬さん、掴まれ」
上から亮輔が腕を伸ばしていた。加瀬は、一気に引き上げられた。ハシゴを昇り、護岸壁の上にへたりこんだ。成田は下のコンクリートの棚で横たわったままだった。
歯の根が合わなかった。身体の芯から冷えきって、頭が朦朧とした。
「早く暖めないと」
亮輔の切迫した声が聞こえた。
「おれのジムが近い。シャワーも暖房もある」
加瀬は亮輔に手を取られて護岸壁を降り、ママチャリの後ろに跨がった。左手を亮輔の胴に回した。
「おれが駆けつけたとき、あんたがあの男を引きずり降ろす形で川へおっこちていった。無茶すんなよ」
亮輔がペダルを踏み込みながら、言った。
「頭が悪いから、あれ以外の方法を思いつかなかったんだ」
「あいつ、あのままだと凍死しちまうぞ」
「悪いが、途中の公衆電話から一一〇番してくれ。あいつが見下している下っ端の警官どもからギュウギュウ絞られるはずだ」
「わかった」
「ヤクザどもはどうした」
「ぶちのめしてやったよ。半殺しだ」
「そうか」
小さく言った。よかったな、と口の中で呟きながら、意識が白くなった。
「あんた、猛烈に臭いぜ」
亮輔の声がどこか遠くで聞こえた。加瀬は頬を緩め、薄く笑った。──腐れ水、デッドウォーターだから仕方がない──濡れたコートに突っ込んだ右手の指先、痺れてうまく動かない指先でビニールに包んだ塊、マイクロレコーダーを触った。
三月五日、金曜日の午後四時、加瀬はレンタカーのカローラを駆って、真っ赤なボルボを尾行していた。
ボルボの運転席には桐田明夫。遥か昔の盟友、いや、師匠とさえ思っていた男。桐田は南青山の事務所を出ると、青山通りを赤坂見附の方向へ向かった。道は混んでいた。今日は打ち合わせと称して情婦と密会する日だ。ぎっしりと詰まったクルマの渋滞の中で苛つく、桐田の歯軋りが聞こえてきそうだった。
午後四時半、ボルボは紀尾井町の高級ホテルの地下駐車場へと滑り込んだ。加瀬は適当な場所に停め、座席を倒して観察した。口笛を吹き、エレベーターへと向かう桐田。口髭をたくわえ、メタルフレームの洒落たメガネをかけた四十男。上等の芥子《からし》色のジャケットとブラウンのパンツが、無理なく似合っている。
一時間半、待った。戻ってきた桐野の隣には、カチッとした白のスーツを着込んだ、背の高いスタイルのいい女がいた。ハーフと見まがうような彫りの深い顔に、派手な化粧と、燃え立つような赤毛の豊かな髪。メスの匂いがプンプン漂ってきそうな女だ。
女は、毎週水曜日の夜、桐田がパーソナリティを務めるFMラジオ番組のアシスタントだった。桐田の緩み切った顔は終始、ニヤけていた。情事の名残を色濃くとどめる二人の姿を、加瀬はそっとカメラに収めた。
翌日、新宿駅前の喫茶店で桐田を待った。約束の午後三時、濃紺のダブルスーツにヴェネチアレザーの艶やかな靴できめた桐田は上機嫌だった。
「加瀬、おまえの噂は聞いている。ついに転向したんだってな」
脚を組み、ふくよかな顔に笑みを浮かべて言った。
「これまで厳しいことも言ってきたが、おまえのことを思えばこそだ。事件モノなんてつまらん。一歩、離れてしまえばよく分かる。なんであんな報われない苦労ばかりしていたのか、つくづく情けなくなるよ。結局、自己満足の域を出なかったんだな。いくら頑張って取材したって、世間は大した興味を持たないからカネにならない。つまり、市場がない、需要がないわけだ。小学生でも分かるシンプルな経済原則だ」
桐田は懐から葉巻を抜き出し、吸い口をポケットナイフで切り落として、ゆっくりと火を点けた。さも旨そうに紫煙を吐き出す。
「おまえ、芸能人のゴーストライターとか引き受けているんだってな。目先のカネだけならそれもいいが、将来を考えるなら、やっぱりビジネスモノだ。財界への人脈や出版社へのコネさえ付けちまえば、まず食いっぱぐれがない。おまえくらいの取材力と筆力なら、仕事はいくらでもある。おれも自信をもって紹介できるよ」
桐田は身を屈め、囁いた。
「なあ、加瀬、ゆくゆくはおれの事務所へ入るんだろ。今日はその相談だよな」
目尻に柔らかな皺を刻んだ。
「そんなんじゃありませんよ」
素っ気なく言い放った。桐田の眉がピクリと動いた。
「今日は清算してもらおうと思って来たんです」
「清算?」
「おれが桐田さんのために尽くした分です」
「おまえ、なに言ってる」
桐田の声が尖った。加瀬は鼻で笑った。
「あんた、おれを踏み台にしたじゃないですか」
踏み台──桐田が不快げに眉根を寄せた。加瀬が掴んだ、ある大企業の創業者一族のスキャンダル。これを独断で潰して創業者一族に恩を売り、のし上がった桐田には負い目がある。
葉巻を灰皿で捻り、桐田は吐き捨てた。
「いまごろ、なにを言ってやがる。この負け犬が」
加瀬は余裕たっぷりにかぶりを振った。
「仕方ないですね」
黒革のクラッチバッグから一枚の写真を抜き出し、テーブルに置いた。
「こんなものを持ってます」
指先で押しやった。桐田は摘まみ上げ、見るなり顔が蒼白になった。口髭が震える。
「桐田さん、成り上がるのは結構だが、番組のアシスタントと出来ちまうのはマズイですよ。頭の軽い芸能人じゃあるまいし」
「おまえ、尾行《つけ》たのか」
「ええ、まあ」
「そこまで堕ちたのか」
侮蔑と憎悪のこもった視線を向けた。
「デカいネタを手掛けているとかなんとか、エラそうにほざいていたようだが、それはどうした」
「あれはもうやめました」
気負いもなく言った。桐田の唇が吊り上がった。
「やはり口だけで終わったか。最後まで、惨めで無能な自分から逃れられなかったようだな。清算とか、わけの分からないことを言っているが、要はカネが欲しいだけだろう。幾らだ、言ってみろ」
「べつにカネなんか欲しくないですよ」
ボソッと言った。桐田がメガネのフレームを指先で摘まみ、まじまじと加瀬の顔をのぞきこんだ。
「じゃあ、なにが目的なんだ?」
声が掠れていた。
「頼みたいことがあるんですよ」
桐田の喉仏が上下した。額に粘った汗が浮いた。加瀬が薄く笑った。
「なに、いまの桐田さんなら簡単なことです。大したことじゃありませんから」
宥めるように言った。だが、その目は凍っていた。
白井透は動けなかった。三月十七日水曜日、午後七時三十分。関東拘置所A棟四階の独居房四六七号室。
間口一・五メートル、奥行き二・五メートルの狭い部屋。手前に薄い畳二枚が敷かれ、奥は板敷になっている。その板敷の部分に、穂積が立っていた。
「だから、この前と同じように、携帯を貸してください、と頼んでるんですよ」
端正な顔に笑みを滲ませ、小さく囁きかける。
「わたしはまた、あの男と語り合いたいんだ。さあ、白井さん、お願いします。あなた、持ってるでしょう」
右手を差し出した。ドアを背にして立つ白井は、力無くかぶりを振った。
「ダメだ。ただでさえ疑われているのに、危険すぎる。こんなことが発覚したら、自分の懲戒免職だけでは済まない。拘置所全体の大問題になるんだ。もう少し待ってくれ。落ち着いたらなんとかするから」
「わたしは怖くありませんよ。白井さん、以前から言ってるじゃありませんか。現世のくだらない常識とか規則とか倫理観ほどくだらないモノは無い、と」
「そのとおりだよ、穂積、自分だって分かっている。しかし、今はマズい」
高田の忠告が、白井を引き止めていた。穂積が正しいことは分かっている。穂積は死刑さえも超越した、紛れも無き超人だ。しかし、高田の忠告にも、一分くらいの説得力はあった。糸ノコを持ち込み、自殺した刑務官。揺さぶり、コントロールする穂積。そして、この独房の隣で命を絶った村越巧──。
「そもそも、あんたが他のヤツに携帯のことを仄めかしたんだろう。そういうバカなことをしなければ、二人だけの秘密で済んでいたんだ」
非難めいた口調になっていた。後悔したが、遅かった。穂積は差し出した右手を握り締めた。
「おい、白井、おまえ、そんなこと言っていいのか?」
声のトーンがガラリと変わった。凄みのあるザラついた声音。白井の腋に冷たい汗が浮いた。
「わたしが、すべてを告白してやろうか? すると、おまえはどうなる? 警察に引き渡されて、厳しい取り調べに晒されるだろう。公務員になって将来安泰だ、と喜んでいるあんたの両親は、自慢の息子が縄付きになって嘆き悲しむだろう。体裁を異常に気にする田舎者だから、自殺するかもしれない。いや、間違いなく自殺する。わたしには分かる。おまえは罪を償った後、東京の片隅でホームレスにでもなって残飯を漁り、段ボールにくるまり、露命をつないでいくか?」
穂積の視線が愉悦で濡れた。それは、獲物を絞り上げ、飲み込もうとしている爬虫類の目だった。
「わたしは死刑なんか怖くない、この世にわたしが怖いものなどないんだよ、白井」
白井は俯き、肩をすぼめた。分かっている。自分が間違っている。穂積に逆らおうなどとした自分が、思い上がっていたのだ。白井は小さくうなずいた。
「やっと分かったようだね」
穂積が満足そうな笑みを漏らした。
「さあ、渡しなさい」
再び、右手を差し出した。もう、抵抗できなかった。白井は制服のズボンのベルトを緩め、中を探った。太股の内側にガムテープで張り付けていた携帯電話。手を伸ばした。そのとき、空気が動いた。穂積が中腰になり、放心していた。ああ、と吐息のような声が漏れた。みるみる頬がとろけ、喜色が満ちる。
「どけ」
短く叫ぶなり、白井を突き飛ばし、ドアの右側壁に取り付けられたスイッチ、午後六時から八時までのラジオ放送を房内に流すスイッチをオンにした。天井のスピーカーから音楽が流れた。クラシック音楽。白井には、曲名も、作曲者も分からなかった。ただ、立ち尽くし、陶然とした表情で聴き入っている穂積を見て、これが穂積が好きなモーツァルトなんだろう、と思った。しかし、次の瞬間、白井は我が目を疑った。
至福の境地を漂っていたはずの端正な顔が、まるで悪魔の囁きを聞いたように、みるみる歪んだ。恐怖と苦悶の張り付いた、醜い顔。白井は息を呑んだ。声をかけることさえ忘れて、見入った。
穂積の腰がガクンと落ちた。次いで両膝を畳に付き、両腕で頭を抱えた。そのまま前につっ伏し、呻いた。丸い背中が震えた。それは、天の神に謝罪する咎人《とがにん》のようだった。微かに漏れた嗚咽が、次の瞬間、まるでボリュームを上げたように大きくなり、部屋中に満ちた。鼓膜を震わす大声で穂積が泣いている。信じられなかった。あの超人が──ハッと我に返った。白井は慌ててズボンのベルトを締め、ドアを蹴り開け、笛を吹いた。ピリリリリッと鋭い音が響き渡った。収容者の異変を発見した刑務官。白井は、無我夢中で笛を吹き、非常ベルを押した。視界の端で、穂積が、まるで子供のように泣きじゃくっていた。助けて、ぼくを助けて、という声が聞こえたような気がした。
四月二日、金曜日。朝から鉛色の雲が垂れ込め、午後三時を回る頃はもう薄暗くなり、あちこちでヘッドライトが眩《まばゆ》く光っていた。非番の白井透は住所を頼りに、JR山手線の大塚駅南口に降り立った。埃っぽい空気が喉に絡みついて、痰を吐いた。息が白く染まる、冥く寒い、春の一日だった。
ロータリーを埋め尽くすタクシーの群れと、その周囲にびっしりと建ち並んだ商業ビル、行き交う人の波、轟音をとどろかせて路面をゆっくりと移動する黄色のチンチン電車。想像していたよりもずっと賑やかな街だった。
白井はポケット地図を片手に駅の周辺を歩いた。しかし、縦横に走る小路が迷路のように入り組んで、土地勘のない白井は、たっぷり三十分以上もさ迷った。おかげで、目当てのビルを見つけたときは、もはや動くのも億劫だった。いや、疲労は道に迷ったせいばかりじゃない。あの加瀬隆史が、自分に対してどういう反応を示すのか、想像するだけで憂鬱だった。だが、自分には、会わねばならない義務があった。
そのビルは、道の両側に飲み屋や商店がズラリと並ぶ、繁華街の中にあった。五階建てのちっぽけな雑居ビル。一階は印刷屋の看板が出ていたが、錆びの浮いたシャッターが下りていた。住所に従えば、四階の四十一号室になる。一階の出入り口横の集合ポストを見た。たしかに加瀬の名前がある。他に興信所や弁護士事務所、ビデオ屋等の名前が並んでいた。エレベーターは見当たらなかった。白井はコートを脱ぎ、スーツ姿で狭い、穴蔵のような階段を上った。
人気のない、暗く沈んだ廊下。塗料のはげたスチール製のドア。白井は背筋を伸ばして萎えそうな気持ちを立て直した。大きく息を吐き、インタホンを押す。すぐに≪はい≫と応答があった。低い男の声だった。間違いない、加瀬だ。
≪どなた?≫
白井は口ごもった。なんと言えば……不覚にも、いまのいままで、まったく考えていなかった。
「白井と申します」
とりあえず、名前を名乗った。
≪白井……さん……≫
怪訝な声がした。覚悟を決めた。
「関東拘置所勤務の白井と申します」
沈黙。心臓が高鳴った。十秒、二十秒──ダメか、と思ったとき、ドアが開いた。軽くウェーブした髪に鋭い視線、隆起した鼻と薄い唇。そげた頬。のぞいた顔は、たしかに加瀬隆史だった。
「久しぶりだな、白井さん」
無表情のままポツリと言った。長身に厚手のグレーのセーターとデニム地のパンツ。リラックスした姿だった。
白井は右手にコートを持ち、直立不動の姿勢で頭を下げた。
「お忙しいところを、突然、お訪ねして申し訳ありません。本日、失礼を承知でうかがいましたのは──」
言葉に詰まった。加瀬が軽くかぶりを振っていた。目が笑っている。
「汚いところだが、中へ入ったらいい。このビルで、そんな立派な挨拶をする人間はいない。みんな、ドアの向こうでビックリしているよ」
耳たぶまで熱くなった。自分は体育会系で拘置所勤務だから地声が太い。横幅のある鍛え込まれた身体をすぼめ、恐縮して中へと進んだ。
狭い部屋だった。八畳と少しくらいだろうか。白々とした天井の蛍光灯。壁いっぱいの書棚と、ベッドとしても使えるソファ。一番奥の嵌め殺しの窓の前には、パソコンの載った木製のデスク。その横でファンヒーターが唸り、石油の燃える匂いが漂っていた。
デスクの上には書籍の山と開いたノート。床にも本、雑誌が積み重なっており、どれも芸能、ビジネス関係のものに見えた。白井は首を傾げた。素人目にも、あの穂積を相手にハードな取材をしていた加瀬にはそぐわないように思えた。しかし、まともな言葉ひとつ交わしたことのないライターの仕事に口を挟むほど、無神経ではなかった。
加瀬にすすめられ、ソファに腰を下ろした。
「コーヒーでもいれようか」
加瀬が言うと、白井は慌てて手を振り、「今日はお話をしにきただけですから」と、中腰になって断った。
「そうか」
加瀬はあっさり引き下がると、デスクのチェアに座り、クルリと向き直った。長い脚を組み、じっと白井を見ている。話のきっかけが欲しかった。が、加瀬から口を開く気はなさそうだ。白井は両膝に手を置いて背筋を伸ばし、意を決して言った。
「本日、おうかがいいたしましたのは──」
加瀬が右手を挙げて制止した。
「その前に白井さん」
「はい」
口を半開きにして、加瀬の端正な顔を見つめた。
「これはプライベートだよな」
意味が分からず、次の言葉を待った。
「つまり、あんたは私的な時間、たとえば休日などを利用して、自分の意志でおれの仕事場を訪ねて来た、ということだ。上司の命令なら、おれも対応を考えねばならない」
「もちろんプライベートです。今日は非番です。仕事は一切関係ありません」
力をこめて続けた。
「失礼ながら、加瀬さんの住所は拘置所の『面会願』で確認いたしました。面会者のもとへ刑務官が訪ねるなど、決して許されることではありません。しかし、これには事情があるのです」
「穂積のことだな」
「えっ」
絶句した。こめかみが熱くなった。
「おれとあんたの共通点といったら、穂積壱郎以外にあり得ないだろう」
たしかにそうだ。小学生でも分かる。
「その通りです。穂積のことです」
白井は、イタズラを指摘された小学生のようにあっさりと認めた。冷然とした顔が見つめている。堪らず目を逸らし、スーツのポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭いた。乾いた唇を舐めて、ゆっくりと口を開く。
「実は……穂積に異変が生じました」
加瀬の反応をうかがう。が、表情に変化はなかった。白井は深く息を吸って語った。
「泣き喚き、ガタガタ震えています。怖くてたまらないようです」
歓喜か、それとも驚愕か──どちらでもなかった。加瀬は軽くうなずき、「そうか」と呟いたきりだった。
肩透かしを食らい、膨れ上がった緊張と気負いの遣り場を失った白井は、上半身を乗り出し、堰《せき》を切ったように喋った。
「先々週の水曜日、つまり三月十七日の夜、穂積は突然、おかしくなりました。床に屈み込んですすり泣き、悲鳴をあげ、その後、狂ったように暴れ回ったのです。壁に頭を打ち付け、血だらけになり、刑務官数人に押さえ込まれながらも、泣いて暴れて叫んで……。医官が鎮静剤を打ち、なんとか収まりましたが、その後も部屋の隅にうずくまったまま、ガタガタ震えているのです。ウンウン呻きながら、怖い、助けて、と呟いて。もう、見ているこっちも切ないくらいです」
「刑務官の仕事も大変だな」
加瀬は他人事のように言った。それは気のない相槌以外のなにものでもなかった。
「加瀬さん、あなたは以前、おっしゃってましたよね」
言葉に力を入れた。ここが正念場だった。白井は感情の窺えないその目を見据えた。
「あなたは穂積に指を突き付け、こう言いました。おまえを破壊し、死の恐怖へたたき込んでやる≠ニ。まさにあなたの言った通りになったんですよ。穂積はいま、死の恐怖におびえ切っている。あの、死刑など怖くないとうそぶいていた男が、いつ来るともしれない、しかし必ず訪れる死刑執行の日におびえ、狭く暗い独房で膝を抱えて震えているのです」
加瀬の目が細まった。怒気のようなものが浮いた。白井は言葉に詰まった。加瀬が薄く唇を開いた。
「白井さん、おれが穂積に怒りをぶつけたのは事実だ。その理由をあんたは承知しているはずだ」
顔がカッと火照った。おぞましい過去。穂積が語った、加瀬の妻のリアルなレイプシーン。あの、ガラス板の向こうで見せた加瀬の憤怒の形相は、いまでも脳裡に焼き付いている。白井はあのとき、加瀬が面会室の金網入りのガラスを突き破り、穂積に躍りかかるのでは、と本気で思ったくらいだ。それほどの凄まじい怒りだった。白井は頭を深く下げた。
「申しわけない、加瀬さん。わたしには仕事上の守秘義務があるのに──」
「いや、べつにあんたを非難しているわけじゃない。ただ、おれがいくら激怒しようと、拘置所の中の穂積には手出しができない。物理的に不可能だ。本音で言えば、穂積を八つ裂きにしても飽き足らない。まして、嬲り殺された犠牲者の家族の怒りたるや、察するに余りある。しかし、そのことと、いま、あんたが言った穂積の変わり様は何の関係もない。いい気味だ、天罰が下った、とは思うが、それも刑務官であるあんたからの伝聞であって、実際にこの目で見たわけではない」
「いや、でも実際にわたしは──」
加瀬が右手を挙げ、白井の言葉を制した。
「たとえそうだとしても、単に今まで装っていた穂積のメッキが剥がれたということだろう。遅くとも今年中には最高裁の判決があるはずだ。死刑が確定してしまえば、穂積はいつ来るともしれない絞首刑の恐怖に晒される毎日を送ることになる。そして、最高裁が下す判決は上告棄却、つまり死刑で百パーセント間違いない。独房の穂積は冷静を装っていたものの、ついにその現実に耐え切れなくなった。違うかな?」
白井は俯き、小さく言った。
「加瀬さんのおっしゃることが正しいとしても、わたしは救われました」
「救われた?」
疑念を露にした声だった。白井は顔を上げた。
「わたしはあなたに謝らなければならないことがあります」
「なんだろう」
冷然とした顔だった。白井はわななく唇を懸命に動かした。
「穂積に携帯電話を渡したのはわたしです。あなたのもとへ電話をかけられるよう、便宜を図ったのは刑務官であるこのわたしです」
「なるほど」
素っ気なく答えた。まるで、とっくに承知していた、と言わんばかりの口調だった。
「わたしは穂積にコントロールされていました。現にあの夜も──」
「あの夜も、どうした?」
加瀬が目で先を促した。
「穂積が壊れた夜も、わたしは携帯を渡すよう、迫られていたのです。渡さないと、おまえと家族をメチャメチャにしてやる、と脅されていたのです。いまから思えば、まことにおかしな行為なのですが、わたしはそのとき、携帯電話を隠し持っていました。二度とやるまい、と思っていても、なぜか巧妙に隠して、穂積の独房を訪ねていたのです。心のどこかに、穂積の希望をかなえたい、穂積に嫌われたくない、見捨てられたくない、という悪魔の囁きに身を任せてしまう自分がいたのです。わたしは穂積の要求に抗《あらが》いましたが、無駄でした。恐怖に震えたわたしは、穂積が差し出した手に、携帯電話を渡そうとしたのです。そのとき──」
白井の耳の奥で、あのクラシック音楽の荘厳なメロディが聞こえた。
「穂積の顔が喜びに震え、突然、わたしを突き飛ばしました。そのまますっ飛ぶようにして房内のラジオのスイッチを入れました。聞こえてきたのは、クラシック音楽でした。穂積は突っ立ったまま、しばらく聴き入っていました。幸せそうな表情でした。至福の表情、とでもいうのでしょうか。しかし、じきにおかしくなったのです。喜びの顔が恐怖の形相に変わり、膝を折って畳につっ伏し、嗚咽が漏れ始めました。嗚咽は鼓膜を震わす泣き声となり、わたしは間一髪で救われたのです。泣き喚く穂積を見て、わたしは我に返りました」
白井は深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
加瀬が静かに言った。
「白井さん、あんたは刑務官の仕事を続けていくつもりなのか?」
予期しない質問に戸惑い、そっと見上げた。
「どうなんだ。この先、続けられそうなのか」
真剣な表情が、曖昧な答えは許さない、と言っていた。
「自分は許されるなら続けたいと思っています。もっとも、あなたが携帯電話の件を上に報告されるなら、処分は受けます。わたしはそれだけの罪を犯したのですから、当然のことです。いや、あなたが穂積のことを書かれる作品の中で、電話の件に触れてあれば、別に報告していただかなくとも、わたしの処分は免れませんが」
白井は強い口調で続けた。
「しかし、勘違いしないでください。わたしは、すべてを無かったことにしていただきたい、と思って、今日、参ったのではありません。わたしは穂積の現状のご報告と謝罪のために訪ねたのであって、他意はありません。刑務官をクビになったところで、まだひとり身ですし、鍛えた身体ですので、何をやっても食っていく自信はあります」
加瀬は白井の顔を凝視した。
「最近、おれの知ってる警視庁警官が懲戒免職になってな。ヤクザとの癒着が原因だった。ああなると、人生終わりだな。せっかく安定した公務員になったのに、この不況下、年金も退職金も再就職もなしだ。人生の敗残者だよ。当然の報いといえばそれまでだが」
弄《もてあそ》んでいるのか──白井は睨んだ。腋に冷たい汗が浮いた。二呼吸分の沈黙が流れた。と、加瀬は頬を緩ませ、柔らかな笑みを浮かべた。
「おれはもう、本は書かない。だから白井さん、あんたは安心して仕事を続けたらいい」
「書かないんですか?」
思わず訊いていた。加瀬はうなずいた。
「妻のこともある。おれには書けない。これ以上、妻を傷つけることはできない。それに、もう事件モノはやっていないしな」
そう言うと、床に積み上げられた書籍の山に視線をやった。
「見てくれ。いまは芸能人のゴーストライターとか、ビジネス本の執筆が主力だ。こっちのほうがずっとカネになるものでね。おれも食わなくてはならない」
背後でドアの開く音がした。振り返ると、若い女性がいた。ショートカットにまとめた髪と、白い肌に薄い化粧を施した、細面の美しい顔。ぴっちりとした細身のジーンズに黒革のハーフコート。口に手を当て、驚いた表情で立っている。
「あら、お客さまでしたの」
女は丁寧に頭を下げた。
「初めまして。加瀬の妻でございます」
白井も立ち上がり、一礼した。コロンの香りが漂ってきた。加瀬が右手を軽く挙げた。
「ああ、悪いが先に行っててくれ、すぐに追いかけるから」
「分かりました」
加瀬の妻は微笑み、
「どうぞごゆっくり」
と言い置いてドアを閉めた。無理のない、優雅な立ち居振るまいだった。
「加瀬さん、お出掛けでしたか」
「ああ、まあ……たまには週末の銀座に出たい、と言うもんでね。と言っても、映画を観て簡単な食事を摂るだけだが」
「それではもうお暇《いとま》しなくては。どうも長々とお邪魔しました」
慌ててコートを掴み、頭を下げると、加瀬が声をかけた。
「白井さん、もう少しいてくれ。女房はお茶でも飲んで時間を潰しているから。それに、おれもあんたに話しておきたいことがある」
話しておきたいこと──白井は、勧められるまま腰を下ろした。
「おれは穂積との面会に通ううちに、いろんなことを知ったんだよ。拘置所の規則は、所長の裁量によるところが多く、各拘置所で異なる点が多々ある、とね」
白井には、加瀬が何を言おうとしているのか、分からなかった。が、加瀬はかまわず続けた。
「たとえば面会の時間とか、差し入れ品の制限、甚だしきは死刑執行の宣告方法まで違うようだな。関東拘置所は即日言い渡しだが、場所によっては前日言い渡しもある。それは、日々のラジオ放送もしかりだ。関東拘置所では午後六時から八時まで、各房内のスピーカーからラジオ放送を流している。そしてそれは在京の某民放FM局に限られる。他の拘置所のなかには、いったんラジオ番組を録音して刑務官が検閲したうえで流すところもあるが、関東拘置所は何の手も加えず流す、いわゆるラジオ番組のライブ放送だ。白井さん、どこか間違いはあるか?」
白井は唇を舐めた。
「よくお調べだ。その通りです。在京の民放FMは音楽番組が多く、ニュース報道はほんのお飾りだからです。犯罪報道はほとんど無いし、政治色も希薄です。まあ、適度に軟弱だからという理由ですよ、チェックする理由がありません」
加瀬は満足そうな笑みを浮かべた。
「合理的だな。収容者が聞きたくなければ自分の房内のスイッチをオフのままにしておける、というのも好ましい。冷酷非情な連続殺人の犯人といえども人権がある、ラジオを聞くかどうか選択する程度の自由がある、というわけだ。そして、穂積はモーツァルトが好きだった──」
面白がるような声のトーンに、白井は思わずゾクッと身震いした。
「しかも、穂積の耳は、異常に鋭敏になっていた。あんたは覚えているか? 穂積は面会室でこう言っていた。八年間、独房で暮らしていると、五感が信じられないくらい研ぎ澄まされる。特に鋭敏になるのは聴覚で、廊下を歩く足音だけで人物を特定できるのはもちろん、何を考えているかまで分かる≠ニ」
覚えている。穂積は、あのとき、自分の方をチラリと見上げ、言葉に出さず、こう言ったのだ。おまえのことも分かっている、おまえは死刑執行に手を染めるのが怖いのだろう、足音がそう言っている≠ニ。ザワッと脳が疼いた。何かが頭にひっかかった。目の前の加瀬が、何を言いたいのか、朧に見えてきた気がした。薄い唇が動いた。
「その穂積が、好きなモーツァルトを聞き逃すはずがない」
低い、掠れた声だった。モーツァルト──白井の脳の一部が覚醒した。自分を突き飛ばし、スイッチを入れた穂積。陶然とした表情でクラシック音楽に聴き入る穂積──やはり、あれはモーツァルトに間違いない。だとしたら、加瀬は……白井は小さく頭を振った。分からない。肝心の部分が繋がらない。疑問と推測が錯綜し、頭が軋んだ。呻くように咳払いをひとつ、漏らした。と、白井のもつれた思考を断ち切るかのように、加瀬の声がした。
「ああ、もうこんな時間か」
腕時計を見ている。つられて白井も自分の時計に目を落とした。午後五時を五分ほど回っていた。窓の外に目をやると、すっかり暗くなり、ビルのネオンが瞬いていた。白井は慌てて辞去を告げ、立ち上がった。今度は加瀬も止めなかった。ついさっき、白井の頭を軋ませた疑問は、はるか彼方へと押しやられ、もはや解決の糸口さえ見えなかった。加瀬の話の意図が分からなかった。白井の胸にポッと小さな怒りが芽生えた。一方的に疑問だけを植え付けられ、ポンと放り出された怒り。
「奥さんのこと、心配しておりましたが、お元気そうでなによりですね」
言ってしまってから後悔した。自分はなんて卑劣な男なのだ。全身がカッと熱くなった。しかし、加瀬の表情に変化はなかった。
「おかげさんで」と応え、淡々と続けた。
「もう事件モノはやらない、と誓ったからな。これまでの不規則な生活に終止符を打ち、カネの心配をしなくなって、女房も元気になってくれたよ」
それだけ言うと、右腕をスッと伸ばし、ドアへと誘導した。
「あの、加瀬さん」
声が上ずっていた。加瀬は怪訝な顔だ。なにか言わなくては、この場をとり繕うなにかを──あった、もうひとつ、訊きたかったこと。村越巧の息子。穂積の言葉に嬲られ、自殺してしまった哀れな中国人の息子。
「村越さんの息子はどうしています」
言った後、白井は我が目を疑った。加瀬は顔をほころばせ、白い歯を見せた。初めてみる、満面の笑顔だった。
「また勝ったよ」
何のことか分からなかった。
「先日、デビュー三戦目の試合が後楽園であってな。相手はアマチュア出身のテクニシャンだったが、四ラウンド、コーナーに追い込むと、左のアッパーで相手の顎を突き上げ、狙いすました右ストレートでリングに沈めたよ。これでデビュー以来、三連続KO勝ちだ」
思い出した。村越の息子はプロボクサーだった。
「しかも、得意の右フックを封じてのKO勝ちだから、これまでの勝利とは意味が違う」
まるで自分の息子を自慢するような口ぶりだった。
「そうだ、村越にも教えてやらないとな」
「なにをですか?」
途端に加瀬の顔が強ばった。
「穂積さ。あいつが独房で死の恐怖にうち震えていることを教えてやるよ。村越は喜んでくれると思う」
まるで他人事のような口調だった。加瀬はうれしくないのだろうか──白井はもっと話してみたかった。得体の知れない疑問が、胸の奥のほうで小さなシコリとなって残っている。だが、何を話せばいいのか、もう分からなかった。白井は頭を下げ、加瀬の仕事場を後にした。
加瀬は白井が帰ったあと、窓の下を眺めていた。ビルに囲まれた路地。コートを着込んだ白井が両手をポケットに突っ込み、ゆっくりとした足取りで駅の方向へと歩いて行く。暗いビルの谷間に白井の姿が消えたのを見届けると、デスクの抽斗《ひきだし》から一枚のCDを取り出した。パソコンにセットし、部屋の明かりを消してソファに腰を下ろした。窓の外、赤やピンクのネオンが忍び込む空間に、流麗なオーケストラの調べが流れた。モーツァルトの交響曲第三十八番『プラハ』第二楽章だった。歓喜と哀愁、怒りと悲しみ、人間のあらゆる感情が幾重にも重なり合い、すべてが疾風のように去っていく。
加瀬は目を閉じた。桐田への依頼、新宿の喫茶店で渡した、このCDのコピー──。
桐田はまじまじと加瀬の顔を見た。
「桐田さんが持っている水曜日のFM番組でこれを流して欲しいんです」
夜、七時から八時まで、経済の話題や流行、グルメ情報を交えながら音楽を流す、能天気な番組。
「どういうことだよ」
桐田の声が尖った。
「モーツァルトの交響曲に重ねて、セリフが入っています。聞いてもらえば分かりますが、別に大した内容じゃありません。インディー映画の紹介とかなんとか、あなたの得意な駄法螺を並べて流してもらえば問題ない」
「バカな、そんなこと、できるか」
顔が紅潮している。加瀬はせせら笑った。
「できますよ。選曲はあなたに任されているんでしょう。信頼するアシスタントと打ち合わせして決めた、とでも言えばいいじゃないですか」
打ち合わせ≠ニ称したホテルの情事。屈辱と憤怒。桐田のぽってりした顔が赤黒くなった。
「できるだけ早く流してください」
歯軋りの音が聞こえた。透明のパッケージに入ったCDを、まるで親の仇でも見るように睨んでいる。
「これで、おまえとおれは一切、関係がなくなるんだな」
声が震えていた。
「もちろんです。たった三、四分の時間をいただくだけですよ。世渡りのうまい経済評論家と、ケバい情婦の戯言《ざれごと》よりはずっとマシだと思いますがね」
唇を噛み締めた桐田は頬を痙攣《けいれん》させながら、CDを取り上げた。
二日後、加瀬のもとへ電話があり、三月十七日の放送で流す、と伝えてきた。
加瀬は、この部屋でラジオ放送を聞いた。流麗なモーツァルトに続く、男のセリフ。重く低い、臨場感のある声。成田の告白。五兵衛橋の下で、マイクロレコーダーに収めた声。風にむせび泣く電線の音と、高速道路の轟音もしっかり拾っていた。抜群の効果音だった。パソコンで編集したオリジナルCDは、我ながらほれぼれする出来栄えだった。加瀬は、獄中で壊れていく穂積を思って期待に震えた。
暗く沈んだ仕事部屋。耳に、成田の声が響く。
「わたしは神ではない。おまえを騙していた。わたしは卑劣な詐欺師だ。おまえを思いのままに動かし、命令を実行させることが面白くて仕方なかったのだ。わたしは至高などではない。わたしは──」
壊れてしまった穂積。燃え盛る地獄の業火《ごうか》にのたうつ穂積。視界が鮮やかな緋色に染まった。暗く埃っぽい仕事部屋で加瀬はひとり、涙した。
日暮里でJR常磐線に乗り換え、北千住駅で電車を降りた白井は、夕方のラッシュで混雑するホームを歩いた。関東拘置所のある小菅駅は東武伊勢崎線で隣の駅だった。
乗り換えの階段へ向かう白井の視線がふいに止まった。前方から歩いてくる三人連れ。左側にステンカラーのコートを着込んだ小柄な男。胡麻塩頭に、エラの張った四角い顔。高田正造だった。真ん中の、ニコニコ笑う娘を挟んで、右側には和服に朱色の角襟コートを着た妻とおぼしき丸顔の初老の女がいた。定年退職の記念に、一家揃って食事でもしてきたのだろうか。高田は、職場では見せたことのない、リラックスした表情だった。妻と共に笑みを浮かべ、娘の話に耳を傾けて、ゆっくりと歩いてくる。
白井は立ち止まった。挨拶をしなければ、と口を開こうとしたそのとき、息を呑んだ。真ん中の、シルバーのダウンジャケットを着たおかっぱ頭の娘。年齢は三十前後だろうか。目が虚ろで定まっていない。笑顔に焦点がなかった。言葉の代わりにアー、アー、とか細い声が漏れていた。
高田と目が合った。雑踏の中、ひとり立ち尽くす白井の姿を認め、四角い顔が蒼白に強ばった。が、それも一瞬だった。柔らかな視線で一瞥し、笑みを浮かべた。はっと我に返った白井は慌てて会釈をしたが、高田は応えなかった。ごく自然に視線を逸らすと、娘の言葉に相槌を打ちながら、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
遠ざかって行く親子三人を見送りながら、白井は高田の言葉を反芻していた。あの、官舎で酒を酌み交わした夜、高田は三十年前の事故、自らの手で死刑囚を絞め殺した刑務官のことを語ってくれた。そして、妊娠した妻を前に、明かせなかった苦悩も──口の中に苦いものが浮いた。
あの夜、白井は、八人の死刑執行に携わった高田に対し、「辞めようと思ったことはないか」と問い質した。その後の、自分とのやり取りが、一瞬のうちに頭をよぎった。視界が眩み、足元が揺れた。高田の声が聞こえた。
「辞めていたら、負けた気がしたと思う。敗北感を一生、背負っていかなきゃならなかったろう」
「何に負けてしまうんですか」
「おれの抱えている現実ってやつだよ」
高田の抱える現実──白井はその場に立ち尽くし、雑踏の中へと消えて行く三人の姿を追った。四月。もう桜が咲き初めている季節なのに、なんと寒く、陰鬱なのだろう。三人は灰色の雑踏に呑み込まれるようにして消えた。白井はコートのポケットに両手を入れて俯き、踵を返すと足を進めた。背を丸め、一歩一歩を踏み締めるようにして、ゆっくりと歩いた。黙々と家路を急ぐひとの群れの中、肩を突き飛ばされ、背中を押され、怒声を浴び、白井はつんのめるようにして歩いた。冷たいコンクリートに響く無数の靴音。脳裏に親子三人の笑顔が浮かんだ。白井は目を細め、小さく頭を振った。胸に、なにか温かいものが満ちてくるのを感じた。白井は歩きながら、生きることの意味を考えた。が、すぐに柄にもない、と気づき、頬を歪めて苦笑した。
〈主要参考文献〉
『死刑』 菊田幸一 明石書店
『いま、なぜ死刑廃止か』 菊田幸一 丸善ライブラリー
『死刑執行人の苦悩』 大塚公子 角川文庫
『死刑囚の最後の瞬間』 大塚公子 角川文庫
『小蓮《シヤオリエン》の恋人』 井田真木子 文春文庫
『裸の警察』 別冊宝島編集部編 宝島社文庫
『警察腐敗』 黒木昭雄 講談社+α新書
『全国監獄実態』 監獄法改悪とたたかう獄中者の会 緑風出版
*拘置所、警察関係の方々からも貴重な話をうかがった。この場を借りてお礼を申し上げる。ありがとうございました。
単行本 二〇〇二年三月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成二十年七月十日刊