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永瀬隼介
サイレント・ボーダー
目 次
プロローグ
七月十九日(月)
七月二十日(火)
七月二十二日(木)
七月二十六日(月)
七月二十七日(火)
七月二十八日(水)
七月二十九日(木)
七月三十日(金)
七月三十一日(土)
八月三日(火)
八月六日(金)
八月七日(土)
八月八日(日)
八月十一日(水)
八月十二日(木)
八月十七日(火)
八月十八日(水)
八月十九日(木)
八月二十一日(土)
八月二十二日(日)
八月二十三日(月)
八月二十四日(火)
八月二十五日(水)
八月二十六日(木)
八月二十七日(金)
八月二十八日(土)
エピローグ
主要参考・引用文献
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プロローグ
入学式って、もっと面白いと思ったのに、全然つまんない。やっぱり来るんじゃなかった。ブラスバンド、とかいったっけ。天井の高い、広ーい体育館に、調子の外れた笛やラッパの音が響いている。その、大きな音の中へ、ぼくはトモダチと一緒に歩いていったんだ。そして、冷たい椅子に座っていなきゃならない。
校長先生や偉い大人のひとがいっぱい並んで、これからお話をしてくれるんだけど、絵本も紙芝居もないから、あんまり面白い話じゃなさそうだ。さっきまでお庭でボール遊びをしてたのに、それもできやしない。ぼくは両腕を挙げて、大きく欠伸《あくび》をしちゃった。だって、退屈なんだもん。
「あいつだよ、あの一年生」
ふーっと息を吐いたとき、ひそひそ話が聞こえた。上級生のお兄さん、お姉さんたちがぼくをじっと見ている。いやーな感じのする眼だ。
「ほら、こっちを見たあいつだよ」
「ほんとか?」
「先生がいま、名前を確認したもん」
「気色わりい〜」
ぼくの周りのトモダチも、こっちを見始めた。丸い顔が次々に覗き込んでくる。
「おい」
後ろの席から肩をつかまれ、振り向いた。浅黒い肌の、絵本で見たイタチみたいな顔をした男の子だった。ぼくの頭のてっぺんからつま先までジロジロ見たあと、こう言ったんだ。
「へんなやつ」
ぼくはゴクリと唾《つば》を飲み込んだ。
──ぼくはへんなやつ? まともじゃないの?
もうすぐ分かるはず。だって、今日は入学式だもの。小学校に上がれば、いろんなことが分かるって言われたよ、お母さんに。
「どっか、いっちゃえよ」
イタチみたいな男の子は、口をとがらせてすっごくイジワルな声を出した。どうして、そんなに嫌うの? お母さんはこう教えてくれたよ。クラスのみんなはあなたのトモダチだから仲良くしましょうね、って。
──こんな子は、きっと地獄へ落ちるんだ。間違いないよ、神様がきっと見ているもの。
カツカツと靴音がした。
「さっ、来なさい」
頭のはげ上がった黄色い出っ歯の、こっちは動物図鑑で見た猿にそっくりの先生が、ぼくの背中に手を添えた。
「外へ出ようね」
ムッとした生温かい息が顔にかかった。ひどい臭いだ。でも我慢したよ。だって、今日は入学式だもの。ぼくは椅子から立ち上がり、体育館の出口に向かって歩いた。
──あれ、お母さんも?
メガネの太ったおばさん先生に、腕をもたれて、お母さんがこっちへやってきた。まるで、テレビドラマで見た悪い女のひとみたいだ。でもおばさん先生、スカートがおなかに食い込んで、みっともないな。これじゃあ、女の刑事さんになれないよ。ぼくはおかしくって、プッとふいちゃった。お母さんの眼はビー玉に似ている。図鑑でいったら、そうだな、フクロウだな。フクロウそっくりの眼が、キョロキョロ動いている。
外へ出たら、なんか胸がスッとした。後ろで「ホンジツハマコトニオテンキモヨク──」と、スピーカーの大きな声が聞こえた。見上げると、青い空に、白のクレヨンで擦ったような薄い雲が浮かんでいた。ぼくは大きく深呼吸をした。
「お母さん、どういうことですか」
大きなソファのある部屋に、猿の先生の怒ったような声が響いた。
「お子さんにまさかこんな」
猿の先生は、立ったまま偉そうに腕を組んで、ぼくとお母さんを見下ろしている。ぼくはニッコリ笑ってみせた。猿の先生は、まるでいけないものでも見たように、慌てて眼をそらした。おばさん先生も、プイッと横を向いちゃった。
──ぼくの入学式はどうなったんだろう?
トモダチのことがちょっとだけ、気になった。ぼくは笑うのをやめて、白い壁に固く鋲《びよう》で留められた四角い鏡を覗きこんだ。
──きれいだ。
うっとりしちゃった。全然、へんじゃないよ。ぼくは思わず立ち上がり、鏡の前に近寄ったんだ。だって、うれしいじゃないか。へんじゃない、みんなと変わらない、いや、ずーっときれいだって分かったんだから。こんなきれいな子、さっきのトモダチの中にはいなかったよ。
フリルのついた白のブラウスはお母さんのお気に入りなんだ。ほお紅と、薄いピンクの口紅。水色のキュロットスカート。紺のタイツ。肩まで伸びた髪は、丁寧にカールしてある。そしてライラックのコロンの香り……。
「男の子なのに、こんな格好をさせるなんて、気持ち悪い──」
──気持ち悪い? どうして?
ぼくはムカッとした。
──なに言ってるんだ、コイツ。
猿先生の言葉が終わらないうちに、ピカッと光った。お母さんのフクロウの眼が。
「こ・の・子・を」
「えっ」
「守りたいんです!」
大きな声だった。
「え?」
猿の先生は、口を開いてポカーンとしている。
「守りたいんですよ、学校で、イジメられたら、殺されたら困るから、あたしのたったひとりの子供なんだから」
そして、ぼくの腕を掴んで引き寄せたんだ。
「ほら、これ、これ、見て、見てください」
紫色の唇がブルブル震えている。白いツバがパッパッと飛んでいる。
「あたしね、よーく考えたの。男の子はお行儀悪くて乱暴だから嫌われちゃうけど、女の子なら大事にしてもらえるでしょう。こんな目に、女の子なら、逢わないでしょう? さ、よーく見てもらわなくっちゃ」
ぼくのブラウスのボタンが弾けとんだ。
──寒いよ!
お母さんが、ブラウスをビリビリ引き裂いた。ぼくが、大好きなミルクチョコの銀紙を破るときみたいに、乱暴な手つきだ。ぼくはブラウスも、肌着も、あっという間に剥ぎ取られて、キュロットスカートとタイツだけになっちゃった。
猿先生がゴクッと息を呑んだ。突き出た喉仏が、コロンと動いた。
「ほら、痛いんですよ、ものすごーく痛いの。こんなになっちゃうと、ホント、痛いんだからあー」
そう、ぼくの身体には、いろんなところにしるしが浮いている。ナイシュッケツ、というやつらしい。つけられたばかりの赤黒いしるしと、治りかけの黄色いしるし。二つのしるしはつながって、斑《まだら》模様になっている。
おばさん先生は目玉が落ちそうなくらい、びっくりした顔をして後ろにさがり、ドアを開けると、転がるように出ていった。大きな悲鳴がだんだん遠くなる。
「ねえ、あたしだって」
お母さんは着ていたコートを床に落として、ワンピースも脱いじゃった。痩せた肩、あばらの浮いたおなか。やっぱりしるしが、ちょうどこぶしの大きさのしるしが幾つもあるんだ。
「先生、ちゃんと見てくださいね」
お母さんは、顔一杯の笑顔を浮かべたよ。猿先生は口をパクパクさせたまま、ぼくたちを見ている。同じしるしで繋がったお母さんとぼく。
「どうしました!」
ドアがドンッと開いて、先生たちが飛び込んできた。引きつった顔に、こわーい色が浮かぶ。
「ふざけているのか?」
「入学式の日にこんな……」
「警察が、いや救急車が先だ」
お母さんの笑顔がスッと消えたよ。周りをキョロキョロ見回して、こぶしをギュッと握り締めた。
「なんなの、これ。いやよ、あたし……」
ぼくには分かる。お母さんは怖いんだ。ぼくのことを嫌うひとたちが怖いんだ。
脅えた眼をしたお母さんは、赤ちゃんのようにイヤイヤをした。先生のひとりが、コートを拾ってくれた。
「さ、お母さん、落ち着いて」
その手を払って、お母さんは叫んだよ。目玉と目玉の間にシワが寄って、怖い顔になっている。
「うるさい、あっち行きなさい、行きなさいよ!」
そして、ぼくをギュッと抱き締めたんだ。
「かわいそうな子──」
小さく呟いたのが聞こえた。かわいそう……ぼくはお母さんの頭を両手で抱いて、頬を寄せた。こんなになっちゃって、お母さん、ずーっとかわいそうだ。
──熱い!
ぼくの胸に、しずくが落ちた。お湯みたいなしずく。涙がポタポタたれていた。お母さんが泣いている。肩を震わせて、泣いている。
──よくも泣かしたな!
ぼくは怒った。だってそうだろう。お母さんが泣くのはもうごめんだよ。今日は入学式なんだ。ぼくにもトモダチができて、いっしょに写真を撮ったりする、とっても楽しい日なんだ。
「いやだ、いやだ、いやだ!」
もがいた。手と足をバタバタさせた。でも、お母さんは放してくれない。
──お母さんをいじめるやつは許さない!
あいつら、殴ってやる。ぼくはお母さんの肩に噛み付いた。放して、お母さん、放して、ぼくが殴ってやるから。思いっきり噛んだ。血の味、鉄の味がした。それでもぼくを放さない。お母さんのだんだん高くなる泣き声が、ぼくの耳に響く。頭がガンガンする。中から意地悪な小人が思いっきり蹴飛ばしているみたいだ。
──先生たち、いなくなれ、出てけ、そして──
あいつの顔が浮かんだ。暗がりのなかでニタニタ笑って、お母さんとぼくを待っている。
──みんな、いなくなれ、どっかへ飛んでいけ!
ああ、脳ミソが痛い。眼の奥がキリキリ痛い。ねえ、お母さん、ぼくの頭はもうすぐ壊れてしまうよ。お母さん、ぼくの大好きなお母さん……ぼくは、もう──
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七月十九日(月)
昨夜から細い、針のような雨が降り続いていた。辺りは陰鬱な灰色に染まり、街路樹の青葉も、まるで引退間近の馬上のジョッキーのようにしおたれている。
新青梅街道沿いに建つファミリーレストランの店内は、折からの雨と午前の中途半端な時間帯が重なって、閑散としていた。仙元麒一《せんげんきいち》は窓際の席に座り、水滴が流れていくガラス越しに、外を見ていた。派手な水しぶきをあげて、タンクローリーが吹っ飛んでいく。ついさっきまでは朝の渋滞に呻いていたクルマの群れも、いまは軽快に距離を稼いでいる。街道の向こう側では巨大な鳥籠に似たゴルフ練習場が雨に煙っていた。時折、白いボールの軌跡がネットを揺らす。
新宿から西へ二十キロほど離れた、まだ武蔵野の面影を残す小平市と田無市の境目辺り。レストランやカーディーラーなどの大型店舗が連なる街道沿いの背後には、畠と背の高い防風林に守られた農家が点在し、それを圧倒的な勢力で侵食するように、マンションや一戸建てが密集する白っぽい住宅地が広がっている。
尻が痛い。腕時計に目をやる。十時五分──かれこれ五時間近く、この席に座り続けていることになる。
ニチャ、ニチャ。
──まだ食っていやがる。
真向かいの席では、女が黙々と顎を動かしていた。工藤和美、三十一歳。身長は百五十センチ足らずだが、体重はおそらく百キロ近くあるだろう。丸い顔に丸い鼻、丸い眼、丸い口。丸を寄せ集めて出来上がったような顔だった。咀嚼《そしやく》するたびに、顎に刻まれた脂肪の分厚いシワがタプタプと揺れる。真っ赤な薔薇をあしらったプリント柄の派手なワンピースと、袖から突き出たボンレスハムのような太い腕。耳の下できれいに切り揃えたおかっぱ頭のてっぺんには、小ぶりの、これも真っ赤なベレー帽がちょこんとのっかっている。
「ごめんなさいね、食べるのが遅くって」
ケチャップがべったりとこびりついた口が話しかけてきた。
「いえ、お気になさらずに」
四十一歳の仙元は、軽い笑みを浮かべて答えた。細身のチノパンとキャメルのジャケット。短く刈った頭に太い首、肩幅の広い骨太の身体はゴツい印象は否めないが、心持ち垂れた眼としゃくれた顎が、なんとも言えない親しみ易さを醸《かも》し出していた。しかし、固く結んだ薄い唇は、それだけを見ていると、鋼を呑んだ強靭な意志を感じさせる。
「よく噛まないと、胃腸に悪いでしょう。父が胃ガンで死んだから、よけい神経質になっちゃって」
「ほう、いい心掛けだ。やはり健康がいちばんですよ」
にこやかに応対しながら、和美の腹に収まったメニューを反芻《はんすう》してみた。こんなデリカシーのない胃袋の持ち主には、二度とお目にかかれないだろう、と思いながら。
まず手始めはチョコレートパフェだった。次いでクラブサンドにクラムチャウダー、メインディッシュのステーキ、三百グラムの特大のやつだ。レアで注文し、ガムみたいにクチャクチャ噛んで飲み下した。そしてビーフシチューにピラフ、この大盛りのナポリタン……。
「すみません、仙元さん」
斜め上から、疲れた声が降ってきた。相棒の南田俊平が、百八十以上はある長身を屈め、隣に座った。麻のスーツが無残なシワになっている。芥子《からし》色のタイは力なく緩んだままだ。トイレで顔を洗ってきたらしく、いつもは青白い顔が少々赤みを帯びている。まだ三十前の南田にもこの持久戦は応えるのだろう。充血した眼を瞬《しばたた》かせ、細く長い指でこめかみを揉みほぐしている。以前、編集部のアルバイトの女の子が、削げた頬と整った鼻筋、ジェルで整えた漆黒の髪がなんとかという若手俳優に似ている、と教えてくれた。憂いを秘めたところが魅力だとも。
だが、仙元にとっては一介のデータマン、つまりフリーの取材記者にすぎない。長年、筆一本で食ってきたルポライターの眼から見れば、被取材者へのアプローチも、インタビューの際の突っ込みも、まだまだ甘い。現にいまも、仙元がここまで粘る理由が分からないのだろう。軽いため息と俯いた視線。表情に不満の色が濃くなっている。しかし、仙元には確信があった。この女は難物だが、必ず落とせる、脂肪で固めた身体の奥に、こいつだけが知っている事実が隠されている。
南田が座ると、和美は慌ててナプキンを口にやり、ケチャップを拭いた。空になった皿を、まるで自分には関係ない、と言わんばかりに横に押しやると、南田の整った顔をチラッと上目遣いで窺う。卑屈で、自意識過剰で、自己本位の性根が透けて見えるようだった。
職業柄、感情を自制心で包み込み、対応する術は心得ている。仙元は厚手の白いカップからすっかり冷えたコーヒーを一口|啜《すす》ると、両手の指を組み合わせてテーブルの上に置き、語りかけた。笑みを浮かべ、静かに、刺激しないように。
「さあ、工藤さん、お食事も終わったことだし、そろそろ話を聞かせてくださいよ」
ゲフッ、とウシガエルのようなゲップを出すと、和美は値踏みするように仙元を見た。
「わたしが喋ったら、あいつ、大学を辞めることになるかしら」
「当然でしょう」
間髪を入れず、答えた。
「第一、社会が許しませんよ。女性にとって卑劣極まりない、唾棄すべき行為なんだから」
和美は太い腕を頭の上でクルクル回してウェイトレスを呼ぶと、オレンジジュースを追加オーダーした。仙元は続けた。
「あとはあなたの決断ひとつです」
和美の丸い顔にじんわりと笑みが浮かんだ。顔面の筋肉がすべて弛緩《しかん》した、奇妙な笑い顔だった。
「ギャハハハハッ」
突然、けたたましい笑い声が響いた。金属を激しく擦り合わせたような、聞く者すべてを不快にする笑いだ。周囲の客が、棒を呑み込んだような表情でこっちを見る。
「どうしたんです、工藤さん」
内心の動揺を押さえ、仙元は訊いた。
「あのねー、あのねー」
笑いを噛み殺して、和美が喋り始めた。
「あいつったらさ、ちっちゃいのよ」
丸い、コロンとした親指を突き出して、
「これくらいなんだから」
「普通の状態で?」
「ううん、勃起して」
隣の南田が、ポカンと和美を見つめている。地球外生物に初めて出会った人類のようだ。仙元はテーブルの下で、長い足を蹴っ飛ばした。南田はハッと我に返ると、取材ノートにペンを走らせ始めた。
「ねえ、聞いて聞いて、あいつ、わたしをホテルに誘い込むとさあ、自慢話を始めたのよ」
「ほう、どんな」
仙元は身をのり出した。
「ぼくは若い女は飽きてんだ、試験の単位をちらつかせれば、アホな学生がいくらでも股パカパカ開くんだ、って。そいでもって、卒業して人妻になった女も、ぼくのテクニックが忘れられずに会いにくる、とか言っちゃってさ、あのエロオヤジが」
ウェイトレスが脅えた表情でそっとオレンジジュースのグラスを置くと、逃げるように立ち去った。
「でも、あの大きさじゃあねー」
和美は二年前、犯されたのだという。相手はテレビにもよく登場する、カトリック系女子大学の教養学部教授・小堀隆だった。よりによってこんな女を、とも思うが、和美の弁によれば、新宿のデブ専、つまり太ったホステス専門のクラブで働いている時、しつこく誘われたのだという。
「だってさ、わたしのオマンコに入ったときだってえ、どこどこ?≠チて感じだもの。カクカクッと腰を動かしたらすぐいっちゃうしさ。あっけないったらありゃしない」
仙元は、眼尻の柔和なシワをより深く刻んで、語りかけた。
「工藤さん、もっと具体的にお願いしますよ。まず、ホテルの名前と時間、部屋に入ってからのやりとり、それに襲われたとき、あなたはどう抵抗し、どんな形で挿入されたのか」
「そんなに聞きたいの?」
「もちろん。あなたの勇気ある告発で、あの男の正体を白日のもとに晒《さら》しましょうよ。世の中はあの男の仮面に騙されているんだ」
和美はストローをくわえ、ズズッと派手な音をたててオレンジジュースを飲み干すと、しれっとした口調で言った。
「いいよ、今朝はとくべつ気分がいいから話してあげるよ」
「ありがたい」
和美は空になったグラスをテーブルに叩きつけるように置くと、仙元を見た。
「そのかわり、あいつが大学を辞めなかったら承知しないからね」
一瞬、和美の眼が冥《くら》い不気味な光を帯びた気がした。ツンと生臭い、獣《けだもの》の臭気めいた匂いが鼻孔を刺す。が、露骨な性描写を絡めた告白に聞き入るうちに、僅かに芽生えた疑念も、脳裏の片隅へと追いやられた。
午後一時。雨はすっかりあがり、雲の切れ間から黄金色の光の束が射し込んでいる。青梅街道を新宿方面へ向かって走る黒のゴルフは、路面に残った雨を激しく巻き上げ、まるで白煙を噴いているようだった。ラジオのニュースが梅雨の終わりを告げていた。運転席の南田は、シフトダウンで小刻みな加速を加えながら、前を走るクルマを次々に追い越していく。助手席でタバコをくゆらす仙元は、窓を少し開け、諭すように言う。
「安全運転でいこうや。お互い寝不足なんだし」
だが、南田は硬い表情のまま、鋭角的なハンドル捌《さば》きをやめようとしない。
「不満か? おれのやり方が」
「いえ、べつに」
「おれもおまえもフリーだ。不満を腹に溜め込む必要はない。言いたいことがあるなら言え」
「──あの女、おかしいですよ」
「なら、あいつが言っていることはデタラメか?」
ファミリーレストランで堰《せき》を切ったように喋り始めた和美の証言は、微に入り細をうがっていた。ホテル名はもちろん、部屋の番号からベッドの位置、それに交わされた会話の細部まで記憶していたのだ。
「あのデブの話は事実だ」
仙元はさも大儀そうに懐から取材メモを抜き出すと、指でめくり、事前にリサーチした情報を確認した。
「おまえも聞いた通りだ。あいつの話は、おれたちの事前取材とぴったり一致した。教授はその尊大な外面《そとづら》とは裏腹に、大学の創立者一族の娘と結婚したおかげで家庭内では頭が上がらない恐妻家。蓄積した鬱憤のためか、酒癖、女癖の悪さは知る人ぞ知るってやつだ。あの女に、これだけの話をつくることができると思うか」
「しかし──」
仙元は南田の言葉を遮って続けた。
「断っておくが、あの女に接触したのはおれたちが初めてじゃない」
「どういうことです」
南田が怪訝《けげん》な表情を見せた。
「すでに東都新聞と週刊タイムがあたっている」
「でも、記事にはなっていませんよ」
仙元はタバコを挟んだ指を自分のこめかみに当て、
「ここだよ。辟易してとても付き合いきれない、と退散したんだろう。さもなければ、気まぐれなあの女の興味を持続させることができず、相手にされなかったか。いずれにせよ、あの女はまともじゃない。それは承知のうえだ」
南田は、前を見つめたまま唇をギュッと引き結んだ。おそらく、明け方から存分に味わった、和美の言動の数々を思い返しているのだろう。
張り込みを開始したのは昨夜の十時だった。青梅街道と五日市街道に挟まれ、背後には広大な小金井公園の森を控えた住宅地の、瀟洒《しようしや》な一戸建てが建ち並ぶ一角に、まるで時の流れから取り残されたようなモルタル造りのアパートが建っていた。壁はところどころ剥げ落ち、借り手のない部屋のドアには二本の板をクロスさせ、クギで乱暴に打ち付けてあった。このボロアパートの二階北側の端が和美の部屋だった。
仙元と南田は一週間前からここへ通い始め、都合四回ほど訪ねた。しかし、すべて空振りに終わっている。電話のない部屋に住む、職業不詳の女だ。原稿の締め切りが迫っていたこともあり、徹夜覚悟の張り込み以外、接触する手立てはなかった。アパート前にゴルフを停め、雨の中、和美をひたすら待った。
昼間、太陽が出ている間は背後の森が眼に痛いほどの青葉を茂らせ、新興住宅地特有の明るい雰囲気を漂わせているのだが、夜、まして雨が降っているとなると、様相は一変した。小金井公園の森は黒々と横たわり、家々の間、水銀灯の届かない路地には、まるで道往くひとを待ち構えてでもいるかのような暗闇がぽっかり口を開けていた。
午前四時を回った頃、丸い影が水銀灯の下に見えた。黄色い傘をクルクル回し、ピンクの長靴でスキップしながら水たまりを蹴飛ばして派手な飛沫を上げ、さも楽しげに歩いてくる。周囲の闇を取り払い、ランドセルを背負わせたら、そのまま小学一年生の下校風景だ。
「和美だ」
仙元は低く囁くと、運転席で船を漕ぐ南田の肩を強く揺すった。慌てて伸ばした背中をポンポンと叩いて「待ってろ」と言い置き、助手席のドアを開けた。安手のビニール傘を差して素早く歩み寄る。
「工藤和美さんですね」
「うん」
呆気なかった。誰何《すいか》もなにも無い。声を掛けられるのを待っていたかのように、和美はニッコリ笑い、仙元を見上げたのだ。不健康に膨らんだ顔が水銀灯を青白く照り返し、真っ赤な口紅が、天麩羅油でもなすり付けたようにテラテラと光った。夜明け前の闇に沈んだ、人気《ひとけ》のない住宅地。しかも降りしきる雨の中、見知らぬ男に話しかけられて笑顔を見せるその神経は、どこかが間違いなく歪んでいた。
仙元が身分を明らかにすると、「お部屋にきてよ」とひとこと言い置いて歩き始めた。南田に片手を挙げて合図を送り、後を追う。
アパートの錆び付いた鉄製の階段を、足音も凄まじく駆け上がった和美は鼻歌まじりにドアを開け、部屋の蛍光灯を灯した。炊事場の付いた二畳ほどの板の間と、その奥の、おそらく八畳程度の部屋。すえた油と、腐敗した蛋白質の臭いが鼻をついた。背後で低く呻く声が漏れた。南田の端整な顔が強ばっているはずだ。和美は肥えた身体を捩《よじ》り、妙なしなを作って、
「わたし、お掃除、あまり得意じゃないから」
と言い訳めいたことを口にしたが、目の前の光景は、そんな次元をはるかに超えていた。青白い光に浮かび上がった部屋の中央では化粧台が横倒しになり、上から椅子が叩きつけられ、鏡が粉々に割れていた。右隅に置かれた鮮やかな朱色のタンスは、抽斗《ひきだし》という抽斗から夥《おびただ》しい数の下着やワンピースが垂れ下がっている。床には弁当の空箱、食べかけのパン、黒く汚れたペットボトル、新聞、雑誌、残り汁に青カビの生えたカップ麺、変色したパンティ──ありとあらゆるゴミが散乱し、腐臭を放っていた。ただひとつ、部屋の正面奥に寄せられたダブルベッドが、そこだけ別世界のように、シワひとつない純白のベッドカバーを被せられ、鎮座している。
「仙元さん、あれ」
南田が低く囁いた。上方を凝視している。視線の先を辿ると、ちょうどベッドの上の天井に、等身大のヌードポスターが貼られていた。腰に手を当て、にこやかにポーズをとった白人の若い男。怒張した赤黒いペニスが屹立《きつりつ》して、臍《へそ》のあたりまで届いている。
「まあ、お行儀悪いこと。女の子の部屋をじろじろ見るもんじゃなくってよ」
二人の強ばった視線に気づいた和美が、はにかむように言った。
「おれ、もう少しで吐きそうでした。あんな臭くて汚い部屋に住んでるなんて、どうかしてますよ」
南田はハンドルから右手を離し、口を押さえた。
この部屋ではとても取材ができない、と食事を文字通り餌にして、首尾よく二十四時間営業のファミリーレストランに誘い込んだまでは良かったが、和美はやはり普通≠カゃなかった。取材意図を伝えたにもかかわらず、料理を食い散らしながらペラペラと芸能関係のゴシップ記事の受け売りを喋りまくったのだ。仙元は次から次へと垂れ流される愚にもつかない話に相槌をうち、それでも話題を修正しようと試みたが、無駄だった。
仙元は分かっていた。この手のパラノイア型は、聞き手が少しでもダレてしまうと、途端にすべてに興味を失い、黙りこくってしまう。仙元は持てる忍耐力を総動員して、和美の注意を引き付け、逸らさなかった。
南田は顔を歪めて吐き捨てた。
「まだヒロスエとかスマップとかヒカルとか、頭の中でガンガン響いていますよ」
「おかげであの女、レイプの詳細を喋ってくれたんだ。我慢のし甲斐があった、と言うべきだろう」
「でも……」
不満げな声が漏れた。
「本当にレイプだったのか、と言いたいんだろう」
南田はチラッと仙元に視線を走らせた。
「そうです。ホテルにも一緒に入っているし、合意と主張されたらヤバイんじゃないですか」
「おまえはいつから検察官になったんだ? おれたちはレイプされたと明言する女の話を聞いたんだ。合意か強制かは関係ない」
「でも、それじゃあ」
「売れるんだよ、この記事は」
ゴルフは練馬区を抜け、環状八号線を越えた。
「南田、明日は直《じか》当たりだ。教授に取材の予約を入れておけ。あんたのレイプを告白した女がいます、とな」
「仙元さんはこれから?」
「寝るよ。四十を過ぎると、さすがに徹夜は応える」
荻窪駅を越え、JR中央線を跨ぐ陸橋の手前で仙元はゴルフを停めさせた。
南田は仙元の後ろ姿をルームミラーで確認すると、軽い舌うちをくれ、アクセルを踏み込んだ。エンジンの回転数がグンと上がる。タコメーターの針の動きとタイミングを合わせ、クラッチを離した。タイヤが金属質の軋《きし》みをあげ、テールを激しく振りながら車線に飛び出した。
パパーッ、パーンッ!
後続のクルマがクラクションを叩き、急ブレーキを踏む。南田は構わず加速して、陸橋を駆け上がった。
──勝手なことを言いやがって。
南田は仙元と組んで二年になる。前職は女性週刊誌のデータマンだった。毎週、テーマに沿って取材を行い、データ原稿にまとめる仕事は要領さえ覚えてしまえば簡単だった。報酬も同世代のサラリーマン程度には得られた。しかし、与えられるテーマは芸能、事件から流行、風俗、グルメまで幅広く、このままだと専門性のない便利屋で終わるのは目に見えていた。しかも、データ原稿はいくら書いても所詮データであり、誌面を飾る完成原稿ではない。
南田の所属した女性週刊誌の編集部ではアンカーマンと呼ばれるスタッフが、複数のデータ原稿をもとに、完成原稿をまとめていた。そして、アンカーマン、データマンともに身分は将来の保証のない一年契約のフリーだ。取材の差配を行うデスクは社員編集者で、南田の担当者は完成原稿をまとめたこともなければ、取材現場での夜討ち朝駆けも経験していない、権力とプライドだけを振りかざすド素人だった。
南田は自分の取材したネタを自分の手で書いてみたかった。それも事件専門で。カネと欲望と暴力が渦巻く事件の現場ほど、南田を魅了するものはなかった。しかし、あの女性週刊誌の編集部にいる限り、便利屋のデータマンとして重宝がられるだけだった。ライターとしての将来を真剣に考えるなら、見切りをつける時期にきていた。だが、どこの組織にも縛られないフリーのライターとして食っていくだけの自信も実績もない。それでツテを頼り、硬派で知られる総合月刊誌「黎明」編集部に潜り込んだのだ。
メインライターとして活躍する仙元のもとで取材に走り回るようになると、毎日が眼を見張らされることばかりだった。
「テープレコーダーは持っているか」
これが初日の第一声だった。慌ててショルダーバッグから取り出してみせると、「机の奥にでもしまっておけ」と言われた。仙元は取材中、テープを一切、使わなかった。その理由をこう説明した。まず、テープが回っていると相手が警戒心を抱いてしまい、本音が引き出せない。加えて、テープに録音しているという安心感が取材者の集中力と緊張感を奪い、取材の突っ込みの矛先を鈍らせてしまう、と。時にはテープどころか、メモもとらないことさえあった。事件の渦中にある人物を直撃すると、取材を受ける受けないの押し問答から、いつの間にか話が核心に迫っていることがある。こういうとき、仙元は絶対にメモを出さず、取材が終わってから猛然とペンを走らせた。一時間程度の話なら、一語一句、正確に頭の中に入っていた。仙元は「慣れと集中力だ」と、事もなげに言った。
そして、土地登記簿の読み方から拘置所での接見取材、市役所の窓口では絶対に取れない戸籍謄本の手に入れ方、いざとなれば相手を恫喝《どうかつ》する度胸、被取材者へのバーター等、事件取材の様々なノウハウを教わった。
口の重い大物政治家や獄中の殺人犯の談話など、南田が逆立ちしても取れない話をモノにしてしまう仙元の取材力には、敬服するしかなかった。だが、南田には分かっていた。仙元にとって自分は単なるデータマンに過ぎない。仙元が編集長にライターとしての一本立ちを推してくれない限り、ここでもチャンスは巡ってきそうもなかった。
焦りは、日増しに強くなるばかりだった。仙元の実力は卓越していた。和美への取材のアプローチにしても見事の一言で、とても付け入る隙はなかった。
──おれなら、あの部屋を見ただけで逃げ出したはず。いや、東都新聞も週刊タイムも匙《さじ》を投げたんだから、それが普通なんだ。ところが、仙元だけはあの女ととことん付き合い、話を引き出してしまった──
たとえ頭が普通ではない女だろうと、いったん食いついたら絶対に離れず、信頼を勝ち得てしまう粘りと技術。おれはいつになったらあの男の域に達することができるのだろう。一度、そう考えてしまうと、焦りは奔流となって押し寄せ、自信を萎えさせるばかりだった。
──ちくしょう、チャンスさえあればおれだって!
南田はいっこうに姿を見せないチャンスに突進するかのように、アクセルを踏み込んだ。
南田と別れた仙元は、青梅街道に面したコンビニに入り、サンドイッチとセブンスターを三箱買った。
コンビニの袋をぶら下げて歩道を左に折れ、乾物屋、煎餅屋、八百屋、肉屋がずらりと軒を並べる通りを歩く。買い物籠を持った白い割烹着の主婦がいてもおかしくない、ひなびた商店街だった。五分も歩くと、正面に、濃い緑に抱かれた神社が見えてくる。その右隣に建つ四階建ての白いマンションに仙元の部屋があった。
三階の一番奥、三〇六号室。部屋の玄関を入ってすぐ左が八畳ほどの仕事場で、右にバスルームとトイレ。廊下の突き当たりに十畳のリビングがあり、右の引き戸を開けると八畳のフローリングになっていた。
ベランダに臨むリビングのガラス戸を開け放つ。タバコの匂いのこもった重い空気が流れ出ると、代わりに濃い緑の香りを含んだ風が入ってきた。分厚い木立の先端がちょうどベランダの床と同じ高さにあり、その向こうに朱色の、巨大な鳥が翼を広げたような社殿が見える。
仙元はよれたジャケットとズボンを脱ぎ捨ててバスルームに入った。シャワーの熱湯と冷水を交互に浴び、筋肉のこりをほぐす。ゆったりとしたスウェットの上下に着替え、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出す。籐製の椅子に腰を落ち着け、まず一本を飲み干した。冷えたビールが喉元を心地よく滑り落ちていく。一息ついたところで、サンドイッチを齧《かじ》りながら、もう一本をゆっくりと空にした。
食事を終え、タバコに火を点けてくゆらす。ベッドに潜り込む前に仕上げなければならない原稿があった。仕事場に入り、パソコンの電源を入れた。
四百字で二枚ほどの、情報雑誌向けのコラム原稿にとりかかった。仙元はキーボードを叩きながら、来月号の「黎明」を思った。目玉の巻頭記事。署名原稿としては久々に手ごたえのある記事だ。辛口の文化人としても名の知れたカトリック系名門女子大教授のご乱行は、世間の耳目をひく、センセーショナルな記事になるはずだ。自然と笑みが漏れた。
このところ、仙元の立場は微妙に変化していた。編集部の空気で分かる。目に見えるミスを冒したわけでもないのに、自分を見る周囲の目が冷ややかだった。
たしかにここ一年、スクープと呼べるものはなかった。取材には運も巡り合わせもあるが、それにしても当たりがない。普通のライターなら十分に評価される程度の仕事をこなしているものの、仙元は遊軍的な動きを許された、いわば看板ライターだ。編集部の期待も大きい。プラスの過去など、マイナスの現状の前ではあっという間に忘れ去られてしまう。煩わしい人間関係を無視し、実力で勝負してきた仙元には敵も多い。
昨夜の張り込みにしても、脂の乗ったライターなら、編集部がクルマを出したはずだ。担当の編集者がいい顔をしないから、仕方なしに南田のゴルフで張り込んだが、以前の仙元ならそんなことはなかった。事件モノに強い剛腕ライターとして、下へも置かぬ扱いだった。それがたった一年でこのザマだ。しかし、この取材が記事になれば、また一目置かれるはず。だが……と、ここで頭を掠めるものがあった。今回、スクープをとばしたとしても、後が続く保証はない。夜討ち朝駆けが日常の事件モノはそろそろ体力的にもきつくなっている。なんとか突破口が欲しかった。突破口、どこにあるのだろう。今の仙元には見当もつかない。
──だから、こんなチンケなコラムを細々と続けることになる。スズメの涙のギャラが欲しくて……。
自嘲気味に呟くと、キーボードを叩く指に力を込めた。弱気になっている自分が忌ま忌ましかった。
一時間後、完成した原稿をメールで情報誌の編集部へ送った。リビングに戻り、グラスにウイスキーを注いだ。ソファに身体を沈めてストレートであおる。タバコに火を点け、肺の隅々まで染み渡らせた紫煙を吐き出しながら、酔いの回り始めた頭で南田のことを思った。
──今日は妙に反抗的だった。おれの言葉を食い入るように聞いていたいつものあいつじゃない。わざわざ大事な取材に同行させたというのに、あからさまに非難してきた。おまえに、あの取材ができるのか? あのデブに怖《お》じけづいてまともに視線も合わせられない腰抜けが……。
しかし、若い相棒への苛立ちは長くは続かなかった。仕事を終え、緩んだ神経に強烈な睡魔が入り込む。タバコを台所の流しに投げ捨て、奥のフローリングに置いてある簡易型のパイプベッドに横になった。徹夜の張り込みと、それに続く長時間の取材で疲弊しきった身体は、アルコールの酔いもあって、あっという間に心地良い眠りに引き込まれた。意識が遠のき、深い深い闇の淵へと舞い降りていく。
どのくらい経ったのだろう。
──………。
頭の隅で声がする。
──ハジ──マル
今度ははっきり聞こえた。
──ホラ、アレダ
脳の一部が覚醒し、仙元に語りかける。
──アレガハジマル
漆黒の闇の中、針の先ほどの光の点が見えたかと思うと、それを中心にスーッと視界が広がる。人影が二つ、浮かび上がってくる。夕陽が降り注いで、影が長く尾を引いている。道路の脇に立つ人影、小さいのと大きいの。クルマがひっきりなしに走っている。道路は……左右併せて六車線。ずいぶん広い道路だ。濃い排気ガスが夕日に炙《あぶ》られ、オレンジ色の霧が垂れ込めているようだ。人影に眼を凝らすと、見る見る大きくなり、こっちに迫ってくる。まるでカメラのズームだ。夕陽を照り返したその顔を覗き込む……おれだった。幼い、五歳くらいのおれ。もうひとりは……大人、女……三十歳くらい。おふくろだ。おれの肩に筋張った両手を置いて、走ってくるクルマを見ている。ゆったりとした、柔らかい笑みを浮かべて──何を待っているんだ? ひとか?
そうだ、誰かを待っているんだ。でなきゃ、あんな道路の縁に二人、立っているわけがない。いったい誰なんだ? 見たいよ、どんなクルマに乗って、誰が来るんだ? 男、それとも女?
と、耳の底で微かな音が聞こえる。機械の発信音だ。それは次第に大きくなり、脳全体をじんわりと覚醒させる。電話が鳴っていた。深い眠りから強引に引き戻され、枕元の時計に眼をやると午後四時だった。額の汗を袖口で拭いながら、受話器に耳を当てる。
≪もしもし……≫
女だ。地の底から湧き出たかのような、暗く、か細い声だった。寝起きの朦朧《もうろう》とした頭で、ほんのひと呼吸だけ、考えた。
──まさか。
≪もしもし、あなた?≫
こんどは涙声だった。間違いない。涙を流すはずのない女が泣いている……得体の知れない夢の続きを見ているような気がして、ゾクッと身体が震えた。
*  *
──払えない額じゃない。
友田勇志《ともだゆうじ》の目が、釘付けになった。
『ワンルームマンション。六畳1K、バス・トイレ付き。賃料五万五千円、管理費四千円』。不動産屋のガラス戸に、ベタベタと賃貸アパート、マンションの広告が張り付けてある。
身体が火を噴くような重労働の代償として得るひと月の収入を考えれば、たとえ借りても十分にやっていけるはずだった。ひとり暮らし。甘い響きだった。この言葉を思い描くだけで、十八歳の勇志は未来への希望が開けていく気がした。が、それも一瞬だった。家族──自分には家族がいる、と思った途端、現実に立ち戻った。勇志は頭を振り、「だめだ」と呟いた。ワンルームマンションも、ひとり暮らしも、どうあがいても無理なのだ。つまらない妄想にかられた自分がひどく惨めに思えた。
小さなため息をひとつ漏らすと、サマージャケットの胸ポケットから一枚の紙きれを取り出した。パブ『マドラス』の簡単な地図が記してある。さっきから何度、見入ったろう。多摩川を渡ってこちら側へ来ると、とたんに土地鑑を失ってしまう。
JR川崎駅東口の原色のネオンに彩られた繁華街の一角、雑居ビルの二階にある『マドラス』にたどり着いた時、すでに約束の午後六時を一時間近く回っていた。ドアを開けた途端、ミラーボールの閃光が眼を刺した。ムッとする熱気が顔を撫でる。獣の雄叫びに似たブラックミュージックが腹に響く。自分と同世代か、少し上くらいの男と女たちが、店内にひしめきあっている。けたたましい笑い声、アルコールとニコチンと安っぽい香料のむせるような匂い。赤、青、ピンクのレーザー光線が煌《きらめ》いて疾る。
「遅せえな、ユウジ」
不満げな声を撒き散らしながら、小太りの男が寄ってきた。同僚のイサムだった。二つ、年上のはずだ。紫のダブルのスーツと、黒のシルクシャツ。グリースをたっぷり付けて撫でつけたテカテカのオールバック。エナメルの尖った白い靴。典型的な不良少年上がりのファッションが、ニキビの浮いた凶暴な顔に合っている。
「あんなクソみてえな仕事、適当にうっちゃっとけばいいんだよ」
勇志の仕事場は、この川崎から多摩川を挟んで対岸の東京、大田区にあった。移設作業の会社で、主に法人関係のオフィスの移動を手掛けている。一般家庭の引っ越しと違い、膨大な量の書類や事務機器を扱うため、現場の作業員の労働量は並大抵ではない。イサムは腰を痛めたとかで、一週間前から来なくなっていた。
「ほら、行ってきな」
イサムがアゴをしゃくって、店内の奥を示す。ステージの上に、白いスーツの新郎と、ラメ入りのブルーのワンピースの新婦が共に花束を抱えて立っていた。今夜は同僚のタクヤの結婚パーティだった。剃り込みの入ったパンチパーマと、ナイフで抉られた左頬の傷跡。暴走族時代、特攻隊長として鳴らしたタクヤは、仲間の祝福を受けながらも、どこか冷めた顔だ。二人を取り巻く人垣の輪には、特攻服を着込んだ、中学生と分かる少年、少女たちもいる。細い腕を突き上げ、耳障りな甲高い歓声をあげ続けている。勇志は人の輪を縫い、声を掛けた。
「タクさん、おめでとうございます」
「おう」
眉毛のない、ツルンとした顔を愛想良く向ける。が、勇志を認めると、さもつまらなそうにフンと鼻を鳴らした。
「タッくん、だれ?」
隣の、茶髪の新婦が、タクヤの耳に口を寄せる。
「つまんねえ野郎さ」
唇を捩って答える。左頬の傷跡が、まるで笑ったように震えた。
「なあ、ユウジ、そうだよな」
三白眼を細めて勇志を睨《ね》めつけた。熟柿に似た、アルコールの強い匂いが漂う。
「よしなよ」
女はタクヤを咎《とが》めると、勇志に低い声で、
「ゴメンね」
と謝った。細い眉が申し訳なさそうに優しいへの字を描く。
「このひと、すっかり酔っ払ってるからさ。今日はアリガトね。楽しんでってね、ユウジくん」
女はメグミ、と名乗った。微笑むと右の頬にえくぼが刻まれ、仄《ほの》かな愛嬌が覗く。勇志はペコリと頭を下げると、人の輪を抜け出し、ソファに腰を下ろした。イサムがヘラヘラと笑いながら、隣に座った。緩んだ口からは、シンナーのやり過ぎでボロボロに溶けて黒ずんだ歯が覗いている。いやな予感がした。
「ユウジ、腹一杯食ってけよ」
イサムは、テーブルの大皿にフォークを突っ込んだ。食いかけのサンドイッチとチキンの唐揚げ、パスタをグチャグチャにかきまぜる。
「いいですよ、イサムさん、おれ、自分で食いますから」
「会費七千円分のモト取んなきゃな。なんならこれ、土産に詰めてやってもいいぞ。こんだけありゃあ、二、三日はもつだろう」
ナイフでスッと切り込みを入れたような眼に、愉悦の色が浮かぶ。勇志はこんな悪意のこもった眼を、数え切れないくらい見てきた。おそらく、自分はこういうサディストを魅きつけて止まない匂いみたいなものがあるのだと思う。
「イサムぅ」
甘ったるい女の声が降ってきた。
染めた金髪が、貧弱なトウモロコシの穂にしか見えない、しもぶくれの少女が黄ばんだ乱杭歯を見せてニッと笑っている。
「だれぇ、このひと」
正面の席に身体を投げ出す。
「ヘーッ、なんかかわいいじゃん。紹介しなよ」
五分刈りにまるめた頭と、細面の、禅寺の修行僧を思わせる勇志の顔立ちに、ネットリした眼をやる。
イサムは底意地の悪い声で、
「ばーか、こいつに女と遊ぶカネなんかねえんだよ。スッゲー、ケチでさ。ここに来るんだって一カ月、悩んだんだぞ」
「ウッソー」
大仰な声をあげて、小さな眼を見張る。
「ホントだよ。だからほら、これ食わせてやろうと思ってよ」
残飯を山と盛った皿を手に持ち、勇志の口に押し付けてくる。
「食えよ、遠慮すんな」
──いつもこうだ。
「この野郎、食え、と言ってんだろうが!」
イサムは何が気に食わないのか、事あるごとに勇志をいびる。まして、オンナが自分に興味を持ってきたのだ。嫉妬に歪んだ顔が迫ってくる。いつもは愛想笑いを浮かべてやり過ごす勇志も、今日は妙にムカついた。さっきのタクヤの態度のせいだろうか? いや、違う。あんな扱いは慣れっこだ。それに、メグミの執りなしがあったじゃないか。じゃあ、不動産屋の広告か? そうだ、たった六万円足らずのカネで、自分の置かれている状況がいかに絶望的か、分かっちまったんだから。目の前の、脳味噌が溶けかかっているアホ野郎に、その傷口をかき回される筋合いはない。
「やめてくださいよ」
勇志は皿を腕で払った。残飯がテーブルの上にぶちまけられる。
「なんだ、こらー」
顔を真っ赤にしたイサムが勇志の胸倉を掴んだ。眉間にシワを寄せて凄む。
「このカマ野郎が!」
平手で頬を激しく張り、突き飛ばした。派手な音をたてて床に転げ落ちた勇志が顔を上げると、イサムが人差し指を突き立てて、来い来い、と招いている。
「根性なし。かかってこいよ」
思いがけない余興に歓声と嬌声が沸き上がり、あっという間に人の壁が出来た。残酷なショーを期待して、どの顔も喜色に醜く歪んでいる。そこへロレツの回らない声が割り込んで来た。
「ユウジ、トモダユウジじゃん」
背のヒョロっと高い男が見下ろしている。骨張った顔と金壺《かなつぼ》マナコ。見覚えがある。中学の同級生だった。確か佐々木とかいった。頭のとろい男で、不良グループのパシリ専門だったはずだ。ラリッているのか、眼の焦点が定まらない。
「あんたさー、こいつコワいんだよー」
佐々木がイサムに顔を向け、さも重要な秘密を打ち明けるように言う。闖入者《ちんにゆうしや》に顔を強ばらせたイサムも、佐々木の間延びしたトーンに安心したらしい。
「この腑抜けがどうしたって、ああ?」
イサムが両手をズボンに突っ込み、肩を揺すって睨めつける。
佐々木の金壺マナコがチラッと勇志の顔を嘗めた。
「人殺しなんだから、こいつ」
「ヒトゴロシ?」
意味がよく飲み込めないまま、イサムが訊き返す。佐々木は「そうそう」と、嬉しそうに頷いた。
「同級生を包丁でブスリと刺しちゃったんだから」
「ウッソー」
乱杭歯の女が、すっとんきょうな声を出す。佐々木は間延びした口調に力を込めた。
「ホーントだって、新聞にも大きく出たじゃん。中学生のイジメ殺人発生≠チて。全身、メッタ刺しで、最後は喉をかっ切ったんだから。すごいことやったんだよ、こいつ」
イサムのニキビ面から見る見る血の気が引いていった。まるで自分が切られたかのように、喉に手をやりながら、後ずさる。
「スゲー、モノホンの人殺しだ」「ヤッベーよ」「刑務所、出てきたの?」「人殺した奴、初めてだよ、初めて見た」
好奇心と恐怖の入り交じった声が聞こえる。勇志は無遠慮に降ってくる視線を振り払うように立ち上がると、人垣をかき分けてドアを開け、階段を駆け降りた。張られた頬が熱い。
「人殺し」
川崎駅への道を歩きながら、呟いてみた。
「おれは人殺し」
夜の帳《とばり》の降りた街。毒々しい光の海が視界を覆い、濡れて溶けた。足を踏み出すごとに、底のないぬかるみに埋没していくようだった。拭いようのないレッテルが、勇志を暗黒の淵へと引きずり込んでいく。
*  *
午後七時。埼玉県所沢市。昔の陸軍飛行場跡地につくられた、「東京ドーム四個分」が謳《うた》い文句の、だだっ広い公園に隣接してそびえ建つ総合病院がある。八階の廊下に面した窓から、西の空に微かに残った臙脂《えんじ》色のうろこ雲が見えた。
仙元は「富田令子」の名札を確認すると、病室のドアをノックした。「どうぞ」と、小さな声がした。六畳ほどの部屋にベッドがひとつ。頭を包帯でグルグル巻きにし、その上からネットを被った女が、天井を見つめている。高い鼻梁と固く結んだ唇、秀でた額。意志の強さを凝縮した顔は以前のままだが、この女の、こけた頬と眼の縁に浮いたどす黒い隈は初めて見た。仙元は丸椅子を手元に引き寄せ、腰を降ろした。
「派手に転んだもんだな」
令子は自宅階段から転げ落ち、傷口を数針縫ったのだという。
「看護婦から聞いたよ。大したことがなくて良かった」
念のために脳波をとり、CTスキャンを当てるが、二、三日の検査入院で済む、との話だった。白い壁で囲まれた殺風景な部屋をぐるりと見回した。小型の冷蔵庫とテレビ、簡単な造りつけの衣装棚。仙元はジャケットの内ポケットからタバコを取り出し、口にくわえた。
「病室よ。少しは場をわきまえなさいな」
硬い声だった。仙元の無作法をなじる、冷たい視線が突き刺さる。
「わざわざ呼び出すほどのケガでもないだろう」
この女が、階段を転げ落ちたくらいで電話口で泣くはずがない。
「何があった」
タバコを箱に戻しながら尋ねた。令子は返事の代わりに、形のいい唇をギュッと噛み締めた。低い、空調の音だけが聞こえる。
気まずい沈黙の中で、ふと思い出したことがある。令子の、学生時代のあだ名はFROZEN≠セった。八年前、仙元が離婚を申し入れたとき、涙ひとつ見せることなく、淡々と対処していたその顔は確かに硬く、凍っていた。感情の発露、というものを忌み嫌っているとしか思えなかった。その令子が泣きながら、別れた夫に会いたいと電話をしてきたのだ。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。その音が次第に大きくなり、近づいてくるのが分かる。
「何か言ったか」
くぐもった声が聞こえた気がした。
「悪魔よ」
今度はハッキリ聞こえた。
令子は上半身を起こした。両足をベッドの縁から投げ出して座り、顔を向けた。
「悪魔?」
「そう、悪魔が降りてきたの」
悪魔の降臨。FROZEN≠ノ最もふさわしくない物言いに思え、仙元はふっと唇の端を捻った。
「笑わないで」
令子が睨んだ。が、次の瞬間、身を屈め、手で口を押さえた。短く切った息が漏れる。湧き上がる嗚咽を噛み殺していた。仙元は椅子から腰を上げ、肩に手を置いた。薄い肉を通して、骨が触れた。
「どこに降りてきたんだ?」
「───」
「聞こえない」
「信太郎よ!」
喉から声が絞り出た。
──信太郎が……。
仙元と令子のひとり息子。そういえば、どこにも姿が見えない。母親が怪我を負い、入院したというのに……胸の奥に、重い黒々としたものが広がった。
「信太郎が、どうした」
指の間から見える令子の唇が痙攣《けいれん》したように震えた。
「分かるでしょう。階段から落ちた、というのはウソよ。本当はね──」
瞳がみるみる潤む。
「バットで殴りつけてきたのよ。死ね、ババア! と叫んでね」
ぷっくりと膨らんだ眼の縁から、涙が一筋、頬を伝った。それを合図に、感情が堰を切ったように溢れ出す。令子は背を丸め、シーツに顔を押し当て、泣きじゃくった。
信太郎は今年四月で中学三年になったはずだ。都内でも指折りの有名私立中学に通っている、と聞いた。二年前の春、令子が珍しく弾んだ声で電話をしてきたのを覚えている。「苦労した甲斐があったわ」と、何度も繰り返し、いかに自分がうまく育てたかを、滔々《とうとう》と語って聞かせたのだ。
まるで未来は約束された、と言わんばかりの口ぶりだった。あの何事にも冷静な女が、こうも気持ちを高揚させるほど、難関の中学合格は嬉しいものか、と面食らったほどだ。
仙元が最後に信太郎と会ったのは、小学六年の初夏だった。あれは江戸川河川敷の野球場だ。関東地区の少年野球大会に出場した信太郎のチームは、順調に勝ち上がり、決勝までコマを進めていた。エースで四番の、チームの大黒柱は、この日も見事なピッチングを見せた。スピードののった速球で胸元をつき、相手バッターをのけ反らせる。そこへ、山なりのスローボールを放ると、面白いようにバットがクルクル回った。真っ青な空の下、よく陽に灼けた信太郎は、三振を取るたびに顔をほころばせた。マウンドの上で白い歯をみせ、遠慮勝ちにガッツポーズをきめる姿を見て、仙元は誇らしくてならなかった。
両チーム無得点のまま回を重ねた試合は終盤、味方の不運なエラーで負けはしたものの、帰り際に声をかけると、はにかみながらも笑顔を見せた。
あの、眩しいくらいに輝いていた信太郎が、まさか母親に暴力を……。
「野球はどうした。続けているのか?」
嗚咽が止んだ。
「野球?」
「そうだ。あいつは才能があった」
「バカ」
涙と鼻水で濡れた顔を上げた。
「野球で食べられる保証なんて、いったいどこにあるの。プロに入って活躍できるだけの才能があの子にあったというの?」
ティッシュで顔を拭いながら、さも呆れた、というふうに言った。
「やめたのか」
「あたりまえでしょう。スポーツばかりやっていても驚くほど成績のいい子はいるわ。あたしも、そういう子供を教えたことがある。その子は狂のつくサッカー好きで、ブラジルにまで自費留学して勉強は二の次三の次。なのに、ストレートで東大法学部へ入ったもの。でも、そんなの例外よ。信太郎には、最高の教育を受けさせたいの。他人《ひと》に誇れるだけの学歴があれば、将来の職業の選択肢と人生の可能性は飛躍的に広がるわ」
才能とは社会的地位を築き、金を稼ぐ手段にほかならない、と信じて疑わない女に、いまさら言うことはない。野球を楽しむ才能、いや、野球から生きていることの充足感を得て、それを他の分野で生かす才能もある、ということなど、未来永劫、分からないだろう。令子は自分の経験値でのみ、ものごとを判断する、筋金入りのリアリストだった。その女が、悪魔という言葉を使っている。外部から遮断された密室で荒れ狂い、爆発した信太郎の暴力の凄まじさが窺えた。
「情けないけど、あなたにお願いするしかない。あの子はこのままだとダメになってしまう」
一転して気弱な声が、仙元の耳朶《じだ》に響いた。令子が、すがるような眼で見ている。息子の成長をただひとつの心の支えに、強く、自信を漲らせて生きてきた女が初めて見せる表情だった。視界がぐんにゃりと歪んだ。令子の顔が、溶けた飴のように伸びる。視線を受け止めることができず、さりげなく窓に眼をやった。救急車の赤色灯がクルクル回りながら近づいてくる。サイレン音はいつの間にか止まっていた。静寂の中、心臓の鼓動だけが聞こえる。
このままだとダメになる……令子の言葉が、鋭い錐《きり》の切っ先となって胸を抉る。崩壊した母子の生活。自分は、この女と、たったひとりの息子を捨てたのだ。その本当の理由を、令子は知らない。
*  *
「おまえら、いい加減にしろよ!」
頭をスキンヘッドに剃りあげ、でっぷりと太った入道のような中年男が凄んだ。
「ここは公道ですよ。文句があるんなら、警察、行きましょう」
黒のTシャツ。下は迷彩ズボンと編み上げ靴の、まだ十代とみえる若い大柄な男が、腰に両手をあて、入道の前に立ち塞がる。クルーカットにほお骨の張った、岩のような力強い顔と、カミソリを思わせる鋭い眼。太い首と腕、隆起した胸筋。
「違法な看板は撤去するまでです。このままだと、歩行者の迷惑になりますから」
背後で同じ格好の髪の長い、細身の少年がきびきびと動いている。手慣れた手つきで、電柱からテレクラの立て看板を引きはがし、足で踏み付けていく。スキンヘッドが若い男の胸の辺りまでしかこない入道は、握り締めた拳を震わせるが、それだけだった。理屈でも暴力でも分がない以上、ただ、雑言を浴びせ続けるしかなかった。
「おまえら、親の臑《すね》かじりの分際で、こんなふざけた真似をしてただで済むと思うなよ」
「脅迫ですか。立派な刑事罰の対象ですね」
若者の冷静な口調は変わらない。
午後九時過ぎ、渋谷・センター街の喧騒《けんそう》はピークを迎える。熱気を孕《はら》んで蠢《うごめ》く群衆と極彩色のノイズ。ミニのワンピースから尻と胸を突き出した女たち。甘いコロンとフェロモンの香り。腕を絡ませ、腰を擦りつけ合うカップルを前に、ペアのリングの売り込みに余念がない白人露天商。ファーストフード店の前に座り込み、甲高い声で笑い転げる子供たち。時折、険を含んだ青い視線を走らせ、唾を吐く。眉にピアス、肩にタトゥー。トルエンとシンナーの匂い。スーツを着込んだサラリーマンは、ここではゴミ以下だ。けばいネオンサインが、湿気を含んだ大気の中でギラつく。
若い男が辺りを睥睨《へいげい》するその後ろで、少年が看板の撤去作業を手早く済ませる。
「作業終わり」
「OK」
立ち去る二人の背中に向かって、入道がいまいましげにタンを飛ばした。
「あのコスプレ集団にはまいるぜ」
聞き覚えのある声に、入道が眼を向ける。眼付きの鋭い、パンチパーマの遊び人。ファッションヘルスの店長だ。この時間になると、決まってコンパニオンのスカウトに出てくる。肝臓をやられているのか、顔がどす黒い。
「あんたんとこもか」
「ああ、月百万ぶちこんで捨て看℃T《ま》いてんのに、根こそぎ持っていきやがる」
「やつら、どういうつもりだ?」
「ボランティアで街を守る自警団だとよ。『シティ・ガード』とかいったな」
「ケッ、ポリのほうがまだ融通がきくぜ」
入道が顔を歪めて吐き捨てる。
「そのうち、おれの店にも踏み込むかもな。女の子にチンポをしゃぶらせるのは違法です、とか言ってよ」
店長がケタケタ笑う。
「でもよ、警察も、あれだけおおっぴらにやられたら、沽券《こけん》にかかわるんじゃねえか」
入道のもっともな疑問に、店長が声を潜めて言う。
「どうも、リーダーに気兼ねしているらしい」
「警察幹部の息子とか親戚か?」
「さあねえ」
ヘルス店長の肩書を持つ遊び人が、狙いを絞ったらしい。気の無い返事を潮に会話を打ち切ると、趣味と実益を兼ねたスカウトへと飛び出していった。
午後九時三十分。渋谷・スペイン坂は途切れることのない人の波が肩をぶつけ合って上下している。半年サイクルで様変わりする輸入雑貨店からけたたましい音量で吐き出されるラップとレゲエが、無数の嬌声と重なり合って空気をビリビリ震わせる。
煌々と辺りを照らすテレビ取材班のライトが、肌も露《あらわ》なキャミソールの群がるFMラジオのオープンスタジオ前から、人波をかき分けて降りてくる。テレビカメラと女性リポーターが階段を小走りに駆ける。その前を行くシティ・ガードのメンバー数人が、足を進める。カメラに向かって、ショートカットの女性リポーターが、よく通る声を張り上げた。
「この渋谷を安全な街にしようと立ち上がった有志のボランティアグループ、『シティ・ガード』の面々です。彼らは夏の夜、ともすれば暴走しがちな若者の行動を監視し、繁華街のトラブルを未然に防ぐべく、活動を続けています。では、リーダーの三枝航《さえぐさわたる》さんに話を聞いてみましょう」
先頭を行く少年はマイクを向けられると、足を止め、ぐっとカメラを睨んだ。太い眉と隆起した形のいい鼻。削げた頬から力強い顎にかけた鋭角的な輪郭には、強固な意志が張り付いている。手足が長く、筋肉質のバランスのとれた身体は、中量級の黒人ボクサーのようだ。左の耳たぶでダイヤのピアスが、ネオンサインを照らして赤く、青く輝く。
三十間近の、少々とうの立った丸顔の女性リポーターの質問に、三枝航はよどみなく答える。
「ぼくたちは、犯罪をこの街から駆逐したいんです。趣味や自己満足でやっているほかの自警団と一緒にして欲しくない。掛け値なしの本気だし、命を捨てても構わない、という人間しかメンバーにしません」
「じゃあ、ナイフや銃にも立ち向かうというんですか」
剥き出しの正義感に鼻白んだリポーターが、皮肉交じりの質問をぶつける。だが、動じた様子はない。
「もちろん。見て見ぬふりをしない、というのがぼくたちのモットーですから」
凜《りん》とした口調に気圧されたのか、リポーターは一瞬、怯《ひる》んだ表情を見せたが、気を取り直して再び質問を繰り出した。
「でも、警察がいるじゃないですか。わたしは警察の仕事にまで立ち入って、活動するのは行き過ぎだと思います」
「重要なトラブルはすぐに警察に連絡して処理してもらいます。でもね、渋谷の犯罪は、ぼくら若者の独特の嗅覚でなきゃ摘発できないものもあるんですよ。独自のネットワークから入ってくる情報もあるしね」
「しかし──」
と、女性リポーターが反論しかけた途端、ピピーッと鋭い笛の音が、空気を切り裂いて響いた。瞬間、メンバーが駆け出していた。
「あっちだ、あっち!」
「逃がすな!」
激しい靴音と荒い息遣いが錯綜する。人の流れが止まった。キナ臭い緊迫感が張り詰める。
「失礼」
三枝航が身体をしなやかに弾ませて走りだした。動きの強ばった群衆の間を軽やかなステップを踏んで縫い、井の頭通りを突っ切っていく。
女性リポーターも慌てて後を追う。
「何かあったようです。メンバー全員がもの凄い勢いで走っていきます。カメラさん、早く!」
人波をかきわけ、早口で実況を続けながら、最後は息も絶え絶えになったリポーターがカメラ、ライトとともに現場に到着したとき、騒動は頂点に達していた。
路地の角、派手な電飾で彩られたCDショップの前。黒々とした髭面の、一見して中東系と分かる大男が三枝航と揉み合っている。怒声が上がった。ボディチェックを拒否したのだろう、頭ひとつ小さい三枝航に両腕を広げてつかみ掛かった。周りで腰を落とし、成り行きを見守っていた他のメンバーが距離を詰めたそのとき、風が舞った。両腕をかい潜り、懐へ飛び込んだ三枝航。と、跳ね上がった左足が大男の両足をなぎ払う。巨体が宙に浮いた。そのまま巻き込むように路上に叩きつける。肉を打つ鈍い音が響いた。二人がひとつの塊となって倒れ込んだ次の瞬間、小さな身体が上になり、流れるような動きで腕をねじり上げ、片膝で背中を押さえた。動きを封じられた大男は大声で喚き、首を曲げ、血走った眼で威嚇するが、三枝航は構わずねじ上げる。哀れな悲鳴が迸《ほとばし》った。
「葉っぱの売人ですよ」
路上に散らばった、複数の大麻入りビニール袋をアゴでリポーターに示すと、「キム」と鋭い声をかける。進み出た大柄なメンバーが、代わって大男を押さえる。テレクラの看板を撤去していたあの若い男だった。
「警察に連絡したか」
「はい」
立ち上がった三枝航の視線の先に、メンバーに囲まれ、いまにも泣き出しそうな顔で立ち尽くす少女がいた。ハイネックのワンピースにヒールサンダル。腰まで届く髪と褐色の肌。
「だめだよ、こんなのに近づいちゃ」
歩み寄った三枝航は、厳しい表情で諭《さと》す。
「女子高生?」
コクンと頷く。
「葉っぱ、買ってないよね」
「うん」
「初めてだよね」
「うん」
「じゃあ行きな。今度見かけたら、学校に連絡しちゃうよ」
「ごめんなさい」
少女はペコリと頭を下げて、踵を返すと、人込みに紛れて消えた。
リポーターは、再び三枝航にマイクを突き付ける。その顔にはあからさまな非難の色が浮かんでいた。
「三枝さん、これはやりすぎと違いますか」
キムと呼ばれた男に締め上げられ、身動きの出来ない大男に眼をやりながら、
「民間人の、しかも未成年のあなたたちがここまでやるのは──」
三枝航は、さも呆れたというふうに両手を上げ、
「法律を勉強したほうがいいな」
「法律?」
「刑事訴訟法第二百十三条にこう記してあります。『現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる』とね。つまり、現行犯なら民間人の未成年でも逮捕することができるんですよ。それが法治国家だ。ぼくは悪事を前にして見て見ぬふりは出来ない」
理路整然とした物言いに、リポーターは口ごもり、ただ睨むしかなかった。三枝航は人差し指を突き付けて、構わず話を続ける。
「たとえば、あなたが街角の暗がりに引きずり込まれてレイプされたとする。それを通行人が見て見ぬふりをしたら許せますか? そんな国、ぼくは住みたくないな。ぼくたちは十代のガキだけど、少なくともあなたたちテレビのように、傍観者を決め込んで好き勝手なことを言ってるだけじゃない。ちゃんと行動して、リスクを背負っている。この街で、ぼくたちのやり方で、精一杯、戦っているんですよ」
どっと拍手が巻き起こった。熱を帯びた人垣がみるみる膨れあがり、路上をびっしりと埋めていく。ブルーの髪の毛を逆立てたタンクトップの女が舌を突き出し、カメラを威嚇した。鼻に安全ピンを突き刺した男がシャウトするパンクロッカーを真似て絶叫する。
「シティ・ガード、あんたらが正しいよ! そいつら、クソくらえだ!」
それを合図に、耳を聾する怒号のシャワーが降り注いだ。
「クソテレビ、引っ込め」「へ理屈こくんじゃねえ、このババアが」「帰れよー、むかつくー」
女性リポーターは、強ばった顔でカメラの正面に立つと、敵意に満ちた無数の視線と罵声に負けまいと再び声を張り上げる。
「思わぬハプニングはありましたが、これで彼らの真の姿を伝えられたのではないでしょうか。犯罪撲滅を目指して、危険と隣り合わせのボランティア活動に邁進《まいしん》する十代の正義。果たして皆さんは彼らの行動をどう判断するでしょう。以上、渋谷からでした」
*  *
東京都と埼玉県に跨がる狭山丘陵地は、オオタカの営巣が確認されるほど、豊かな自然が残る一方で、なだらかな曲線を描く裾野の方々に、土を削られ、セメントで土台を固められた住宅地が広がっている。
病院を出た仙元は、西武新宿線航空公園駅の前でタクシーを拾った。西武ドームの方向に十分も走ると、無数の建て売り住宅が放つ、均質で控えめな明かりが、左右に光の海となって広がる。
──家庭内暴力。
まさか、自分の身に降りかかろうとは思いもしなかった。令子が語ったところでは、信太郎の様子がおかしくなったのは中二最後の期末テスト終了後だったという。中三への進級を目前に控えても成績が思ったように上がらず、進路指導の懇談会で高等部への進学が難しい、と告げられ、そこからふさぎがちになったらしい。令子が声をかけても罵声が返ってくるだけで、次第に欠席も多くなり、二週間前からは完全な登校拒否。そして今朝、夏休みの補習を前に業を煮やした令子が問い詰めると、バットを振り上げたという。
ブランコとシーソー、それにジャングルジムが申し訳程度に備わった小さな児童公園の前で、タクシーを降りた。上弦の月がジャングルジムの上にあった。冥《くら》い予感が胸を締め付けた。三年ぶりに会う息子の変容……思い描くだけで、怖気《おぞけ》がふるった。通りから北に伸びた路地を五十メートルほど歩く。道の両側に立ち並ぶ建て売りの窓はどれも白々とした明かりがついている。二本目の十字路を右に折れて左側の三軒目に、その家はあった。
──環境抜群、日当たり良好、バス停まで徒歩三分……。
埼玉県所沢市の、何の変哲もない建て売り住宅だった。
午後十時過ぎ。耳を澄ますと、周囲の家からさざめくような生活の音が聞こえる。音量を絞ったテレビ、寝床につかない子供を叱る母親の声、風呂のお湯、トイレの水流。しかし、目の前の家だけは、物音ひとつせず、玄関灯さえ消えたまま、ひっそりと佇んでいる。十一年前、仙元と令子が購入した敷地四十五坪の4LDK。脇にガレージがあり、軽自動車が収まっている。昼間なら白い壁もところどころ黒ずみ、歳月に見合う少々くたびれた姿をさらしているのだろうが、夜の闇を透かして眺めると、三人で暮らしていたあの頃と変わらない。
インターホンを鳴らす。二度、三度。返事はない。アルミ製の門扉の間から手を伸ばしてかんぬきをはずし、中へ入った。玄関ドアの前に立つ。令子から預かった鍵を差し込む前に、ノブを回してみる。玄関ドアは音もなく開いた。瞬間、脳裏に浮かんだものがある。ドアの向こう、金属バットをもって立つ、信太郎の姿……。
足が強ばった。ドアをそっと手前に引き開け、内部を窺う。街灯に浮かび上がる三和土《たたき》と、合板で組み立てた下駄箱の上、御影石の置き時計。靴を脱ぎ、玄関口に上がる。その奥、廊下の向こうは濃い闇に包まれていた。三年を過ごした家なのに、得体の知れない怪物の喉に迷い込んだ気がした。
「信太郎」
呼びかけて耳を澄ます。が、返事はない。昔の記憶をたぐって右の壁を探る。指の先に触れたスイッチを押すと、オレンジ色の光が広がった。シンと静まり返った廊下。左に二階への階段と和室、右に洗面所とバス。そして正面。キッチンとリビングにつながるドアがある。一歩一歩、周囲に眼をやりながら、慎重に足を進めた。階段の暗がりは特に注意を払う。
クリーム色のドア。ノブを回して押す。そのとき、ヒヤッとしたものが足下に流れ込んだ。冷気だった。薄い、湯気のような冷気が立ちのぼっている。仄かな白い明かりがドアの透き間から見えた。その明かりに誘われるように、ドアを押し開け、左の壁を探ってスイッチを入れた。
冷蔵庫だった。横倒しになって、キッチンテーブルを真っ二つに押し潰している。白い明かりは冷蔵室、冷気は冷凍室から漏れ出ていた。
グルリと視界を巡らす。食器棚のガラスは木っ端微塵に割られ、食器は床に落ち、破片を辺りに撒き散らしている。テレビは、スイカ割りの要領で金属バットを振り下ろされたらしい。上部が丸くへこみ、ブラウン管全体に蜘蛛の巣に似た幾何学模様の亀裂が入っていた。
「信太郎」
低い声で呼びかけた。ジーと、冷蔵庫のモーター音だけが聞こえる。仙元はゆっくり後退すると、和室の前に立ち、襖を一気に引き開けた。洋服箪笥が畳の上に倒れ、令子の服を撒き散らしていた。人気はない。階段を上った。二階は廊下に面して左側に三つ、部屋が並んでいる。奥が寝室で、中は仙元が書斎として使っていた部屋。そして手前は……そう、六畳のフローリングは、信太郎がひとりで眠れるようになったらベッドを入れ、子供部屋として与えよう、と令子と二人で決めた部屋だ。
引き戸に耳を寄せてみる。規則的な、柔らかい音。息を吸って吐く音。信太郎がいる。
息を詰め、そっと戸を引いた。窓際のベッド。開け放した窓から差し込む月の光を浴びて、信太郎が寝ていた。
細身のジーンズと裸の上半身。肩まで伸ばした髪が顔にかかり、襟首の産毛が金色に光っている。母親に似て尖った鼻と、おおぶりの耳。細い首から、なだらかな曲線を描いて続く青白い胸、アバラの浮いた脇腹。月明かりのせいだろうか、ガラス細工のような儚《はかな》さが漂う。右手を胸に置き、左腕をベッドの縁からダランと垂らし、全身の力が抜け切ったその姿は、無力、という言葉がもっとも相応しいように思えた。野球少年だった頃の逞しさが消えた代わりに、剥き出しのか細い神経が全身に張り付いている。
この子が母親をバットで殴ったなど、とても信じられなかった。
しかし、あの階下の惨状からは、信太郎の凶々《まがまが》しい苛立ちが瘴気《しようき》となって立ちのぼっていた。
厳然たる事実と、わずかな希望の狭間《はざま》で、仙元は立ち尽くすしかなかった。そのとき、ジャケットの内ポケットで鳴った音がある。携帯電話だった。慌てて取り出し、耳に当てる。
≪仙元さん? おれです、南田です≫
南田の高揚した声が耳朶を打った。軽く舌打ちをくれ、低く、囁くように言う。
「どうした」
≪どうした、って、取材ですよ。教授のアポが取れたんですよ≫
途端に、職業意識が目覚めた。
「反応は?」
≪ビンゴです。小堀のやつ、うろたえた様子で、記事の内容をしきりに聞きたがっていました≫
「何時だ」
≪明日の午後二時。大学はまずい、と言うので、こっちでホテルの部屋を取りました≫
「よし、分かった、それ──」
言葉が詰まった。凝視していた。信太郎が顔をひねり、じっと見ている。月光の陰になり、表情は窺えないが、漆黒の瞳が仙元を捉えて動かない。時が止まった。静寂が流れる。
≪どうしました、聞こえます? 仙元さん≫
南田の尖った声が受話器から漏れる。信太郎の視線が、仙元の心を探っている。次の言葉を待っている。
乾いた唇を嘗め、やっとの思いで口を開く。
「南田、おまえひとりで行ってくれ」
≪なに言ってんですか、仙元さん。こんな大事な取材を──≫
戸惑いと怒りを含んだ声を遮り、強い口調で言う。
「めったにないチャンスだろう、おまえひとりで話を引き出してみろ、取材内容の報告は電話で頼む」
南田に言葉を差し挟む余裕を与えず、電源を切った。再び、静寂が流れた。信太郎の唇が微かに歪んだ。ユラリと上半身を起こした。ベッドの上に膝を立て、右手で髪をかき上げる。
「お父さん、だよね」
まだ幼さを残した声だった。心の片隅にポッと暖かな火が灯った気がした。
「ああ、お父さんだよ。おまえを迎えに来たんだ」
信太郎は俯き、頭を両手で抱えると、膝に額を置いた。月光を浴びて浮かび上がるその姿は、この世の苦悩を一身に集めて佇む少年の彫像のように見えた。
「お母さん、死んだかい?」
掠《かす》れた声だった。仙元はゴクッと唾を飲み込んだ。心臓の鼓動が高く大きくなる。平静を装い、静かに語りかけた。
「いや、大したケガじゃない。だが、しばらく入院することになるから、おまえはお父さんのところで暮らすんだ」
と、ビクンと細い肩が震えた。次の瞬間、視線が絡んだ。電気ショックで跳ね上がったような、不自然な動きだった。顔が目の前にあった。両眼を剥き、ニタリと笑う唇。
「あのババア、今度は殺してやる」
しわがれた老婆の声。部屋の空気が音をたてて凍りついた。
「あいつの腐った脳ミソ、ぶちまけてやる」
悪魔。ふいに令子の言葉が蘇った。
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七月二十日(火)
ゴッと空が鳴っている。羽田空港を飛び立つジェット旅客機の爆音だった。多摩川の河口、大田区羽田。鉛を溶かし込んだようなとろりとした汽水の遥か対岸に、川崎市の工業地帯の煤煙が白くもやっている。東京都の地図を広げると南の果て、一番下のどん詰まり。羽田は、東京湾に迫《せ》り出した空港の隣にひっそりと、身を屈めるようにして佇む街だった。人ふたりがやっとすれ違える隘路《あいろ》が網の目となって入り組み、古びた町家が密集して建ち並ぶその一角に、友田勇志の自宅はあった。
黒ずんだ木造の借家。軒先に張った針金を伝って朝顔のツルが伸び、淡いピンクと藍色の花を咲かせていた。終戦直後に建てられたこの家は、一階に六畳と台所を兼ねた四畳半の二間、二階に四畳半と三畳の二間きり。年代物の安普請だから根太が緩み、歩けば家全体がミシミシと不気味な音をたてた。
朝七時。勇志の一日は祖父・武三《たけぞう》の介護から始まる。脳溢血で倒れ、一年前から寝たきりの武三は、一階の六畳に置かれたベッドの上で一日を過ごす。
朝、部屋にこもった大便の臭いを、窓を開けて入れ替え、紙オムツを新しいものに替える。紙オムツがなかったらとても下の世話はできない、といつも思う。赤ん坊の便は甘いミルクの匂いがするという。しかし、老人の便は、半端な愛情や同情など、木っ端微塵に打ち砕いてしまう猛烈な臭気を放つ。勇志は紙オムツを手早くくるんでコンビニのポリ袋に入れ、固く結ぶ。尻の汚れをティッシュで拭い、金盥《かなだらい》に張ったお湯でタオルを絞り、筋張った身体を拭いていく。
ベッドの上で身体を左右に動かしながら、湿ってシワのよった浴衣を着替えさせる。次いで、上半身を持ち上げ、両腕をとって自分の首に回し、もたれさせる。肩で武三の体重を支えながら、両の手を腰と尻に当てる。イチ、ニのサン、と声を掛けて、一気に抱え上げる。寝たきりの生活で肉が落ちたとはいえ、鋳物工場の熟練工として激しい肉体労働に従事してきた武三の身体は、見た目以上にずっしりと重い。ベッドの隣に置いてあるソファに座らせ、両脚をむくまないよう、重ねた座布団の上に置いてやる。
言葉の不自由な武三は、虚ろな眼で見上げ、呻くような声で、何かを語りかけてくる。勇志は笑顔をつくった。
「よかったな、じいちゃん、きれいになって」
重労働が報われるひとときだった。ベッドのシーツを新しいものに替え、シワができないよう、ぴっちりと張ってマットの下にたくしこむ。浴衣であれ、シーツであれ、シワは床ずれの原因になる。細心の注意が必要だった。
つけっ放しにしたテレビから、天気予報を伝える女性の甲高い声が流れる。時報がわりだった。七時半だ。母親の君子が夜勤のビル清掃から帰るまで、あと一時間。昨夜、君子が作り置きしていた野菜スープの鍋をコンロに掛ける。煮立つまでの間が洗顔の時間だ。水気を含んだ黒い板張りの、人ひとりが立てば、それだけで身動きがとれなくなる洗面台で歯を磨き、顔を洗う。タオルで顔を擦り、鏡に映った自分の顔に呆然とする。眼は落ち窪み、やつれてくすんだ肌からは余裕のない生活の疲れが滲み出ている。祖父の介護と、身体を極限まで痛めつける重労働の毎日。希望など何もなかった。この家で祖父を、そして母を看取り、朽ち果てていくのだろう。それ以外の生き方は考えられなかった。
──おれは人殺しなんだから。
そう呟くと、どんな苦役にも耐えられそうな気がした。一年前、母は少年院から帰ってきた自分を何も言わず、迎えてくれた。むっつりと押し黙り、苦虫を噛み潰していた祖父の武三は、それからしばらくして倒れたのだ。母は寝たきりの老人を抱えながらも、一切の福祉サービスを断った。区が派遣するホームヘルプサービスはもちろん、ショートステイから入浴サービス、無料で貸し出される車椅子、紙オムツの支給、果ては寝たきりの老人に支給される老人福祉手当までも拒否し、今日まできたのだ。
「わたしと息子で頑張ってみます」と言い張る母親に音を上げた訪問指導の保健婦が、困惑の態で帰っていった姿は、いまでも勇志の脳裏に焼き付いている。勇志には分かっていた。それが、世間への贖罪《しよくざい》だと。母が己と息子に課した苦役だと。
──罪を償え、生きている限り、罪を償え。
母の丸い背中は、いつもそう言っている。周囲の白い目に耐え、この汗と糞尿の匂いのこもった家で目覚め、メシを食い、馬車馬のように働くのだ。
ソファに座った祖父の口に、スプーンで野菜スープを注ぐ。喉をくだるごとに、萎《しな》びた喉仏がそこだけ別の生き物のように動く。祖父は糞ぶくろだと思う。口から栄養分を摂り、糞をひり出し、生を継ぐだけの存在。生に目的があるのなら、祖父のそれは何なのか。そして自分の生は……。
と、背中で声がした。ピクン、と全身の神経が芽吹いた。スプーンを止めた。脳に張り付いて離れない声。懐かしい声。テレビだ。振り返ると、三枝航が映っていた。夜の街でインタビューに応えている。揺るぎない意志を塗り固めたような力強い顔と、重量感のある声音。テレビの画面で見ると、よりいっそう光り輝いて見える。ひとを魅き付けてやまない、不思議な魅力。シティ・ガード、という言葉が断片的に聞こえたが、何のことか分からない。そう、航のやることは、いつも自分の理解の範疇《はんちゆう》を越えている。
──所詮、自分とは生きる世界が違う。あいつは特別な人間なのだ。
「サエグサワタル」
再びスプーンを動かしながら、嫉妬と羨望を込めて小さく呟いてみる。祖父の眼に一瞬だけ、焦点が結ばれた気がした。
*  *
「起きてよ、シュンちゃん、もう八時だよ。準備しなきゃいけないんでしょう。ノート、読み返すんじゃなかったの?」
ミキの声が、アルコールで腫れた頭に突き刺さる。ベッドから起き上がろうとして、南田は、思わず呻いた。
「あんなにめちゃくちゃ飲むからだよ」
「水、くれ」
「もう」
薄いブルーのレースワンピースに、透かし編みの涼やかなカーディガンを羽織ったミキは、むくれながらも冷蔵庫から冷たい水をグラスに注いで差し出した。
新宿から小田急線で二つ目の参宮橋駅前に建つマンションだった。窓から代々木公園の濃い緑を一望する七階の|1《ワン》LDK。十三畳ほどの部屋はベッドと壁一面の本棚、床に積まれた書籍の山、それに木製のおおぶりのデスクとパソコン、テレビ、コンポのセットが据えられただけの、生活臭の希薄な空間だった。南田がこの部屋を借りて一年近くになる。駐車場込みの家賃十五万円は、収入を考えれば分不相応だが、それなりの事情があった。ミキの父親だ。まだ高校生だったミキと六本木のクラブで知り合い、付き合うようになって三年になる。短大の卒業を前に、そろそろ交際をオープンにしたい、というミキの願いで半年前、自宅を訪ねた。そのとき、大手広告代理店で部長職を務める父親はこう言い放ったのだ。
「署名原稿も書いていないようじゃあ、フリーターと変わらないじゃないか」
コネでテレビ局のアルバイト社員になったばかりのミキと南田は年齢が十近く離れている。不安定で将来の展望の見えない仕事はもちろん、父親はその年齢差も気に入らなかったらしい。ともかく、手痛い屈辱を味わわされた南田は、すぐさま赤羽の安アパートを引き払い、精一杯の見栄を張ってこのマンションを借りたのだ。南田なりの意地だった。おかげで編集部に隠れて他誌のアルバイト原稿を書く羽目になったが、これも一流誌の月刊「黎明」で署名原稿を書けるようになれば笑い話で終わる。
「今日は大事な取材があるんでしょう。そんなことで大丈夫なの?」
ミキの甲高い声が響く。否応無しに昨夜の醜態が脳裏に蘇った。
──あの仙元が取材に同行しないだと? いったい何のつもりで……。
電話の直後こそ、自分を一人前と評価してくれたのか、と心が躍ったものの、メインの取材を、ましてフロントを飾る記事の核を、仙元が何の含みもなく任せてくれるとは思えなかった。仙元にとっても久しぶりのスクープなのだ。
拭いきれない戸惑いは、いつしか取材への強い不安に姿を変え、南田の神経を苛立たせた。しかも取材相手は、テレビでも有名な論客なのだ。以前、女性の社会評論家を散々罵倒し、嗚咽させたシーンを深夜の討論番組で観た覚えがある。果たして、自分ひとりで太刀打ちできるだろうか。そう考えると、不安は嵐のように頭の中でうねり、取材ノートを読み返して戦略を練る代わりに、バーボンのボトルに逃げ込んだ。昨夜遅く訪ねてきたミキを引き留め、半ば強引に酒の相手をさせた結果がこの体たらくだ。
ベッドに俯《うつぶ》せになったまま、ぼんやりとミキを見た。長い髪を整え、口紅をひき、出勤の準備に余念のないキビキビした動き。もう、幻想に躍らされる高校生のガキじゃない。
「お酒、飲んでるときのシュンちゃんって、怖い者なしで、すっごく頼りがいあるのにね」
ミキがコンパクトを覗き込んだまま、言う。
「早くうちのお父さん、納得させてよ」
取材の不安を酒で紛らわすような男は願い下げ、と、その整った冷ややかな横顔に書いてある。ミキはテレビ局で、自信に溢れた男たちを、それこそ星の数ほど目にしているのだろう。最近、自分を見る眼に微かな侮蔑の色を感じるのは気のせいばかりではないはずだ。
テレビが、威勢のいい音楽とともに、ワイドショーの始まりを告げている。多分にミーハーなところのあるミキの視線がキョロリと据えられた。が、好きな芸能人のネタがなかったからか、再びコンパクトに集中し始めた。
見るとはなしに眺めていた南田の反応は逆だった。画面に引き寄せられるようにして身体を起こすと、デスクのブックエンドからノートを引き出して、ペンを走らせた。
『渋谷』『自警団』『シティ・ガード』『三枝航 サエグサワタル』
乱暴な字で書きなぐる。ネタノートだった。興味がある事柄を見聞きした際は、何でもメモに取るようにしている。もっとも、今の今まで、実を結んだ例はただの一度もないが。画面がコマーシャルに切り替わると、詰めていた息を吐いてペンを置いた。
「シュンちゃん、努力してんのに、なんか空回りしてんのよねえ」
ため息まじりに、ミキが言う。南田を見る眼に同情と諦めがある。隠し通してきた恥部を指摘された気がして、視線を外した。ブランド物のバッグの中につっこまれた一冊の文庫本が眼に止まった。
「なんだよ、これ」
カバーのない、黄ばんだ表紙。南田は顔をしかめ、素早く抜き取った。
「シュンちゃんが読め、って言ったんでしょう」
「おれが?」
「そうだよ。酔っ払って、これを読んで、おれの人生は変わったんだ、おれはこんな作品を書いたら死んでもいい≠チて言ってたわよ」
トルーマン・カポーティの『冷血』だった。アメリカ中西部の片田舎で起きた一家四人惨殺事件を、二人の殺人者の心の襞《ひだ》にまで分け入り、偏執的とも思える緻密さで描いた、ノンフィクションの最高傑作。南田を、ルポライターへと導いた重い一冊。角のめくれた表紙を、苦い思いで見た。心が震え、消しようのない炎が灯った、あの十八歳の冬が蘇った。
──やがて、家路についた彼は、林のほうへ足を進め、樹陰のなかへはいっていった。彼の立ち去ったあとには、空がひろびろとひらけ、波打つ小麦畑には風のささやきが流れていた──
最後の一節は、いまでも諳《そらん》じることができる。そんな自分が、いま、無性に腹立たしかった。
「読まなくていい」
分厚い文庫本を丸めて握り締めると、ザラッとした嫌悪感が身体中を貫き、顔が火照った。
「どうして?」ミキが気色ばんだ。
「わたし、シュンちゃんのこと、できるだけ知りたいと思っている。だから、読め、といわれれば何でも読む」
「いいんだよ、ミキ。こういうのは強いられて読むもんじゃない」
髪をかき上げ、睨んできた。
「わたしがバカだから、何も知らない、お勉強も出来なかったバカだから、こういう難しい本、分からない、と思っているのね。そうでしょう」
「違うよ」
南田は力なく微笑んでみせた。
「違うんだ、ミキ、ごめん」
「もういい! 勝手にしてよ」
ミキは玄関に立ち、形のいい脚を交互に曲げてハイヒールを履くと、後も振り返らず出ていった。ズシンッというドアの音が、二日酔いの頭に響いた。
南田はベッドに横になり、酒臭いため息をひとつ、漏らした。チャンスを待つ自分と、見切りをつけ始めた自分。泥酔し、痺れた頭で、夢想の中に遊び、ありもしない才能と可能性をこれみよがしに吹きまくる、醜い男の姿が浮かんで、恥辱に胸が潰れた。
──死んでもいいって、おまえに死ねんのか? 未練たっぷりのくせして。
南田は唇を噛み締め、白い天井を凝視した。
*  *
カーキ色の作業着に、白い粉がふいている。乾いてこびりついた汗の跡だ。軍手をはめた手で額の汗の粒を拭く。朝から何台のロッカーを運び出したのだろう。強烈な太陽が照りつける午後二時。出口のない空間で蒸された熱気が、肌にへばり付く。
今日の仕事場は東京・新橋のオフィスビルの三階から上、三つのフロアーを占めるマンション販売会社だった。業績不振で郊外へ移転するらしい。すでにコンピュータ等、精密機器類は運び出してある。勇志たちは残りのフロアーの一切合切を、路上で待機する大型トラックに載せていく。班長の青木は十六人の作業員を六人、六人、四人の三組に分け、それぞれロッカー担当の組とその他のデスク・応接セット等を担当する組、そしてトラックに積み込む組へと割り振った。勇志はロッカー担当だ。二人一組でロッカーを下まで降ろす。
スチール製のロッカーは書類こそ抜き取ってあるものの、二人で持ち上げると、背中が軋むほど重い。厚手の平たい合板製のキャスターに乗せ、押して階段まで運ぶ。エレベータが使えればラクだが、このビルには二台しかない。しかもかなりの年代もので昇降のスピードがすこぶる遅く、他のフロアーの利用者もいる。ワンフロアーに百以上はあるロッカーを運ぶとなると、幾日かかるか分からない。いきおい、キャスターから降ろして階段を使うことになる。加えて靴は、誤って荷物を落としたとき足を潰さないよう、つま先に鉄板を仕込み、分厚い革で縫い上げた重い安全靴だ。階段を一歩、下りていくたびにゴソッと体力を削ぎ取られるようだった。
腕が強ばり、腰がしなる。全身の筋肉が悲鳴をあげる。噴き出た汗の玉が、頬をゆるりと伝う。勇志は、ただ身体を動かし続けた。階段を、声を掛け合いながら降りていく。一階のロビーまで運ぶと、あとはトラックに積み込む作業員の仕事だ。勇志は、安全靴の底をゴトゴト鳴らして階段を駆け上がり、また新手のロッカーに取り付く。何も考えなかった。余計な思考が入ると、それだけ辛くなる。一年間の経験で学んだ、この重労働を乗り切る唯一のコツだ。
三時の休憩。階段に座り込み、安全靴の紐を緩め、首を垂れて束の間の休息を貪る勇志の頬に、触れたものがある。冷やっとしたその感触に思わず顔を上げると、四角い影が立っていた。
「飲みな」
シゲさんだった。差し出した缶コーヒーを、ペコリと頭を下げて受け取る。エラの張った、平家蟹を思わせるいかつい顔に、四角い短躯。短く刈ったゴマ塩頭。五十を二つ三つ、越えたくらいだろう。先日、初孫が生まれたと聞いた。
「どっこらせ」
大仰な声とともに勇志の隣に腰を下ろすと、手拭いで首筋を拭いた。シゲさんは、極端なガニ股で歩く。重い荷物を持ち上げ過ぎたから、自然と足が曲がった、と噂されていた。
「何かあったろう」
勇志の顔も見ずにボソッと呟く。胸ポケットからハイライトを抜き出すと、口にくわえ、火をつけた。紫煙をフッと吹き出す。
「タクヤの結婚パーティだよ」
タクヤとイサムは今日も作業現場に顔を見せていない。昨夜の騒動はシゲさんの耳にも入っているのだろう。
「気にすんな」
首の汗疹《あせも》を掻きながら、睨みつけるような目でこっちを見た。
「あいつら、クズだ」
怒りを含んだ声だった。
「いいか、勇志、ここでは真面目に働いた者が勝ちなんだ。イサムはもう一週間以上来てねえし、タクヤも無断欠勤を続けている。頭も度胸もねえやつは、身体を痛め付けて生きていくしかねえってのに」
最後の言葉は自嘲気味に聞こえた。
「単車を乗り回して粋がっても、ハタチを過ぎたらただのノータリンよ。あいつら、他にカネを稼ぐといったら、タタキかカツアゲしかねえだろう」
シゲさんは前の職場の土木会社が潰れて以来、十年間、この仕事を続けてきた。最初は日給月給制の臨時作業員だったが、真面目な仕事ぶりが買われ、三年後に正社員へ昇格したという。重労働に音をあげ、半年ももたない者が大半を占める中で、これは希有な例だった。もっとも、仕事は相変わらず現場の作業員で、社員は六十過ぎの女性事務員を入れて二十人に満たない、吹けば飛ぶようなちっぽけな会社だ。しかし、一言の愚痴も漏らさず、黙々と働くその姿には、鋼のような決意が漲《みなぎ》っていた。
「四十を過ぎて、なんのとりえもねえオレを、この会社は雇ってくれた。ここで、汗水流して、ガキとカカアを養ってきたんだ。オレはまともな勤め人になれたんだよ」
勇志は同意を示す代わりに、缶コーヒーのプルタブを引き上げ、喉に流し込んだ。よく冷えた甘い味が、疲弊しきった体の細胞ひとつひとつに染み渡っていく。
「勇志、おまえが昔、何をやったか、おれは前から知ってたんだ」
まろやかなコーヒーが、途端に苦味を増した。飲み口から口を離し、唇を噛む。
「おれが、ここに来たときからですか」
「ああ」
この職場は少年院を出た後、保護司の紹介で訪ねたのだ。すべて納得ずくの就職と分かってはいたが、まさか現場にまで知れ渡っているとは……自分の知らぬ間に散々囁かれてきた陰口が聞こえた気がして、どす黒い憤怒と屈辱が湧き上がった。だが、シゲさんは構わず話を続けた。
「青木だって同じだ」
顎でしゃくったその先に、踊り場に立つ、青木がいた。金縁メガネと神経質そうな細面。じっと時計を見ている。休憩時間は十五分。始業時間を一秒たりとも遅らせまい、と秒針を睨んでいるのだ。
「いまのおまえの仕事ぶりに文句をつけられるやつは、誰もいねえ」
節くれた太い指でハイライトをもみ消すと、シゲさんは立ち上がった。
「だがな」
小柄なシゲさんが、勇志を見下ろして言った。
「一度でも無断欠勤したら、おまえはクビだ。分かっているな」
勇志の脳ミソが、出口のない苦悩で膨れ上がる。
──おれは嫌われている、みんな、辞めさせる口実を探している、トラブルの元だから──
シゲさんは、それとなく忠告してくれたのだ。
──おれは辞めない、辞めたら、生きていけない。
自分を、自宅から通える範囲で雇ってくれる職場が他にあるだろうか? いや、ない。自分は人殺しなんだから。
日給八千三百円の臨時作業員。自分の収入がなかったら、家賃も払えないし、じいちゃんのオムツも買えない。なにより……そう、ホフマン方式とかいっていた。弁護士は、あいつが一生の間に稼いでいたはずのカネから賠償金を弾き出したとかなんとか、したり顔で説明したっけ。あいつ、生きていたら、間違いなく、親からカネを根こそぎふんだくっていたはずなのに。チクショウ、あいつの家は今頃左ウチワか、おれの稼いだカネで。おふくろは毎月、律義に十万円の賠償金を払い込んでいる。これが、あと二十年続くらしい。おれは逃げられない。縛られたまま生きていく。
「休憩終わり!」
いやに威勢のいい青木の声が、コンクリートの壁に反響して間伸びした木霊《こだま》となり、辺りを飛び交った。勇志は安全靴のゴワゴワした太い紐を締め、汗を吸って重くなった軍手をはめて立ち上がった。
*  *
南田の取材に、思わぬ同行者があった。月刊「黎明」の編集長の巽伸之だった。大学時代、ラグビー部のフランカーとして活躍した、身体も声も態度もでかいこの男は、取材経費をせっせと夜の街にばらまき、カロリーとアルコールを過剰に取り込んだおかげで、今は筋肉の代わりに脂肪がこってりへばり付いている。
ダークブルーのダブルのスーツにポマードで固めたオールバック、派手な金色のストライプのネクタイ、薄いワインレッドのサングラス。巽の第一印象は、どうひいき目に見ても、不動産屋の品のないワンマン社長だった。
データマンとして雇われて二年。面と向かって言葉を交わしたのは今日が初めてだ。昼過ぎ、南田は九段下の編集部で取材に仙元が同行できなくなった旨を報告した。指を舐め舐め、取材の精算伝票に眼をやっていた巽は、南田が話を終えると、顔を上げてこう言った。
「おまえ、名前は何だっけ」
末端のフリーの名前など、いちいち覚えていられるか、というわけだ。徹底して無視された存在。それが今の自分だ。次いで年齢を訊かれ、答えると、巽の唇に冷笑が滲んだ。
「おまえひとりじゃ荷が重いだろう、あ?」
なめた口調だった。しかし、何も言えなかった。小堀から話が引き出せるのかどうか、自信はなかった。夢にまで見たチャンスが到来しているのに、気弱になっている自分が情けなかった。
「おれが同行してやるよ」
巽の、いかにも恩着せがましい言葉を聞いて、南田は身体がふっと軽くなるような安堵感を覚えた。ひとりで小堀と対峙しなくてすむ、と思うだけで、重くのしかかっていた憂鬱が嘘のように消え失せた。だが、それもいっときだった。自分の席へと引き上げた南田に、同僚の久保田がこうクギを刺してきたのだ。
「南田、安心している場合じゃないだろう」
フニャっと弛《ゆる》んだ童顔に、小賢《こざか》しい笑みを浮かべている。
「何がです、久保田さん」
南田の口調が尖った。久保田は三十半ばの、いま売り出し中のライターだ。スポーツものの記事が得意で、別名小判鮫。文章はキレとも格調とも無縁だが、マスコミ嫌いで鳴るJリーグやプロ野球の有名選手に取り入って、独白物をまとめてくる腕は天下一品だった。
「編集長が同行する意味が分かってるのか?」
「分かりません」
ムッとして応えた。
「テストだよ」
「テスト?」
そう、そう、と嬉しそうに頷いて、続けた。
「おまえはな、今日、この先見込みがあるかどうかのふるいにかけられるってわけだ。ここでしくじれば、間違いなくジ・エンド。あの短気な編集長のことだ。敗者復活戦はないぜ」
久保田のいたぶるような言葉を無表情で聞き流し、平静を装った。が、乱打される心臓の鼓動は、まるで警報機のように耳の奥で鳴った。思い当たる節はある。編集部では三十を境に、フリーの人間は極端に少なくなる。不安と緊張が再び鎌首をもたげて、南田の胸をキリキリ締め付けた。
約束の時間は午後二時。南田と巽は十五分前、日比谷公園前に建つホテルの一室に入った。しかし、二時を十分過ぎても、小堀は来なかった。時計が分針を刻むごとに不機嫌になる巽の顔を盗み見ながら、胃が痛くなる思いで南田は待った。午後二時を二十分ほど回った。腕時計に眼をやった巽が部屋中に響き渡る舌打ちをくれたとき、小堀が現れた。
南田は我が眼を疑った。大柄な身体を包んだ仕立てのいいスーツと丁寧に櫛の入ったグレーの豊かな髪。初老の押し出しの強い紳士、といった外見はテレビで見た通りだが、額に深く刻んだシワと、落ち窪んだ眼が、苦悩の深さを窺わせた。討論番組で、論敵を罵倒する際の、猛禽類を思わせる眼光の鋭さはすっかり影を潜め、代わりに視点の定まらない、オドオドした眼で南田と巽の顔を交互に窺った。
お互いに名刺を交換し、型通りの挨拶を済ませる。ソファに腰を下ろすと、まず教授が口を開いた。
「あなた方はわたしが大学で『性の倫理』の講義を担当しているのをご存じですか?」
巽と南田が答えないでいると、沈黙を恐れるように一方的に語り始めた。
「主にヘーゲル、カント、ルソーからフロイトまで、各々の性の問題へのアプローチの仕方を講義しています。そして、ここ二年はフロイトを取り上げ、リビドー、つまり性的本能エネルギーが抑圧されることによって形成される男女の心理面について、生物学、保健衛生学、文学の観点から論じているのです。お分かりですか?」
巽が、うんざりした口調でいった。
「我々は先生の教え子じゃないんだ。講義なら別でやってください」
「いや、そういうつもりではなく……」
小堀は肩を落とした。
「何を言いたいのか、簡潔にお願いしますよ」
「ですから──」
小堀はスーツの袖口で額の汗を拭った。
「いまご説明しました通り、わたしの学問は普通のひとから見れば極めて難解なのです。わたし自身も学習意欲に富む学生を相手にしている現場の学者として、自らの体験を重視するが故、普通のひとから見れば倫理に外れる行動があるかもしれません。そこのところを理解していただいたうえでないと、あなた方の取材も興味本位の、極めて不愉快な部分へ偏向していくのではないかと心配しているわけです」
「あなたの行動は、普通の、良識ある人間から見ると、極めて破廉恥なんですよ」
巽はピシャリと言い放った。小堀は俯くと、それっきり黙りこくってしまった。あからさまな侮蔑の色を浮かべた巽は腕を組み、じっと小堀に視線を据えたまま動かない。我慢比べのようなひとときが過ぎた後、小堀はしわぶきをひとつ漏らすと、それが合図といわんばかりに腰を浮かした。ソファから滑り落ちるようにして床に正座し、額を擦り付ける。絵に描いたような土下座だ。
「書かないでください、お願いです」
か細い声で訴えた。プライドをかなぐり捨てた、なりふり構わぬ男の懇願だった。
「末代までの恥だ。家族に顔向けができない。なぜこんな……」
肩を震わせ、我が身に降りかかった不運を呪う言葉が途切れると、巽がソファからゆっくり立ち上がった。余裕のある笑みを浮かべて、小堀の片腕を取る。
「さあ、先生、べつに取って食おうってわけじゃないんだ。我々は事実のみを知りたいんです」
強引に引き起こされて立ち上がるその姿は、まるで処刑場へ引きずり出される罪人のようだ。頬を涙が伝い落ちる。胸ポケットからプレスのきいた瑠璃色《るりいろ》のハンカチを出し、顔に圧し当てる。小堀は観念したのか、ボソボソとしゃべり始めた。
南田は奇妙な感覚にとらわれていた。手中にしたスクープに、興奮してしかるべきなのに、頭は冷え冷えと冴え渡るばかりだった。頃合いを見て小堀の話を遮り、ポイントを衝いた質問をぶつける。言葉に詰まり、首筋の汗を拭う大学教授の哀れな姿が、ますます南田を冷静に、残酷にしていく。テレビで傲然と胸を張り、持論を堂々と披露する文化人の運命が、いま、自分の手中にある、そう思うだけで胸が高ぶった。尖った言葉の石つぶてで袋小路に追い詰めていく。
「結局、工藤和美さんと寝た、ということですな」
一時間が経過した頃、巽が結論を下すように言った。
「……酒に酔ったうえでのことだが、確かにあの女と関係を持ったことはある。しかし」
俯いていた小堀が顔を上げ、ひたと見つめた。
「あの女も、昔はああじゃなかった。いまは醜く太り、精神に異常をきたしているが──」
「でも、デブ専で知り合ったんでしょう。おまけにあんた、女子学生とも派手に関係していたらしいじゃないか。文化人の肩書を利用して、調子に乗り過ぎたんだよ」
巽の有無を言わさぬ伝法な物言いが、小堀をうちのめす。恥辱で顔から首まで朱に染まる。ドンファンを気取った女漁りは、疑いようのない事実だった。
「しかし、レイプではない、断じて──」
「彼女はハッキリ、レイプだったと証言している。なあ南田」
ダメ押しをしろ、と巽の眼がいっている。
「そう、無理やり突っ込まれた、と言っています。大した持ち物じゃなくて拍子抜けした、とも」
「あ、あの女が、一度、テレビに出てる人間とやってみたいと言ったから、それで──」
喋るほど、蟻地獄にはまり込んでいく自分に気が付いたのだろう。口を噤《つぐ》んで無念を漂わせ、顔を伏せた。
「まあ、レイプは親告罪ですからな。つまり、被害者の主観に左右されるわけだ。男は合意のうえと思っても、そうじゃない例はゴマンとある。恋人同士はもちろん、夫婦間のレイプも成り立つ御時世だから、男にとっちゃあ厄介な世の中ですよ、先生」
勝ち誇った巽のダミ声が部屋に響いて、取材は終わった。
小堀は背中を丸め、悄然と出ていった。巽の手が南田の背中を慰労するように、ポンポンと二つほど叩いた。
「ご苦労、南田」
南田は取材を終えた安堵と、巽に認められた手応えを感じた。
「やつが何を言おうと、女の証言がある以上、大した反論はできやしない。この記事は、おれたちの完勝だ」
巽は記事の善し悪しを勝ち負けで評価した。完勝は、訴えられても負ける心配のないスクープ、というわけだ。
四十代半ばにして、将来の役員は間違い無しと囁かれる巽には、ひとをひととも思わぬ傲岸不遜さとともに、売れる記事を見分ける天性の嗅覚が同居していた。巽は現在の総合月刊誌「黎明」生みの親でもある。
戦後、左寄りの論壇誌として出発した「黎明」は、七〇年代にピークを迎えるが、その後は部数減に歯止めがかからず、いわば落日のオピニオン誌だった。しかし東西冷戦終結後の論壇の混沌の中で、満を持して編集長に就任した巽は「学者、評論家どもの御託宣は、もううんざりだ」と言い放ち、それまでの執筆者を一掃、代わりに徹底したノンフィクション路線を打ち出して、総合月刊誌へのリニューアルを敢行した。
陰では思想も何も無い、やじ馬根性丸出しのスキャンダル雑誌、と揶揄《やゆ》されたが、外野の声など巽にとって耳をくすぐる垢でしかなかった。
巽は編集者、ライターの上に絶対的な権力者となって君臨し、経済・政界ネタから芸能、セックス、事件ネタまで、世間の耳目をひくセンセーショナルな記事を連発した。同時に月ごとの記事の人気アンケートを集計して読者の支持を得られない作家、ライターは容赦なく切った。その代わり、実力のある書き手は経験や年齢に関係なく、業界一のギャラで優遇した。おかげで部数は飛躍的に伸び、いまや自他共に認める「黎明」中興の祖である。
取材を終えた一時の安堵感が過ぎると、絶対君主の顔に戻った巽が南田を睨《ね》めつけた。
「おまえ、この記事をどうするつもりだ?」
不意に投げかけられた言葉が、スクープをモノにした高揚感をいっぺんに萎えさせた。南田の資質と、忠誠心を問うテスト。
「どうって……」
巽の狷介《けんかい》な眼が、サングラス越しに注がれる。
「おまえ、この先何年、データマンがやれると思う」
唇を噛んだ。
「もうじき三十だろう」
逃れられないシビアな現実を突き付けられ、南田は俯いた。
「完成原稿をまとめてみろ」
予想もしない言葉だった。弾かれたように顔を上げた。
「しかし、仙元さんがこの記事は──」
「いまのおまえに遠慮している余裕があるのか。署名原稿を書いてナンボの世界で、いつまで下働きで満足しているつもりなんだ」
将来への焦りと不安を見透かした言葉が、鋭い切っ先となって胸を抉った。
「じきに無能の烙印を押されて終わりだ。そのあと、どうする。女性誌のデータマンに戻って、ありもしないチャンスを待つのか?」
正念場だった。二つにひとつ。チャンスを引き寄せるか、それとも指をくわえて見逃すか。
「分かりました。おれに書かせてください」
この瞬間、南田は仙元を切った。巽は満足げに頷いた。
「四百字で三十枚、明日の朝までにまとめてこい。出来がよければフロントだ」
その夜、編集部に泊まり込んだ南田は、ひたすらパソコンのキーを叩き続けた。データ原稿書きとは比べものにならない集中力で、文章を練って、削って、一本の作品に仕上げていく。プレッシャーはあったが、それよりも「黎明」のフロントページを自分の署名原稿が飾る、という事実のほうがずっと勝《まさ》った。工藤和美の証言とレイプの現場を迫真のタッチで綴り、有名文化人の欺瞞を告発したスクープだ。正義と怒り、女の無念をほどよくブレンドした、と自分では満足のいく出来栄えの、四百字三十枚の記事を朝の十時までかかって書き上げた。
午後三時。初校の棒ゲラが巽から直接渡された。
「駄目だな。こんなんじゃあ、使いもんにならねえよ」
不機嫌な声とともに、バサッと叩きつけるように机に置かれたゲラの束は、真っ赤だった。赤ペンで、文章の至るところに×点と?マークがつけられ、「意味不明」「論旨が曖昧」「書き手の自意識過剰」といった文章が躍り、大きく「構成を練り直せ」と書きなぐってあった。巽は腕時計に眼をやり、
「タイムリミットは、そうだな。午前三時だ。それまでに書き直してこい」
そっけなく言い置くと、大股で編集室を出ていった。悄然とした南田がゲラに眼を通しているその後ろから、幾つもの顔が覗いていく。データマンが書き上げた、初の完成原稿にどんな評価を下されたのか、編集部員もライターも興味津々なのだ。
「やっぱり無理なんじゃないの」「おい、誰かスタンバってたほうがいいんじゃないか」
そんな嘲笑まじりの声が聞こえた。今夜が締め切りだ。しかし、ギリギリまで引っ張れば、明日の正午までなら原稿は入る。巽が宣告したタイムリミットの午前三時でダメなら、手練の書き手にバトンタッチさせても十分間に合うというわけだ。しかし、それはライターとして失格の烙印を押されたにも等しい。
南田は、萎えそうな気力を奮いたたせて赤の入ったゲラの読み込みに集中した。ひとを見下した傲岸不遜な態度にはとても馴染めなかったが、巽の編集者としての眼は確かだ。罵詈雑言《ばりぞうごん》で埋め尽くされたゲラの向こうに、書き手を導く一本の確かな線が見える。文章への思い入れを排除し、対象物からの微妙な距離感を確保しろ、全体を貫くメリハリのきいた起承転結は必須、変化球は必要ないから、直球で攻めてこい、と言っている。もう、不安も焦りもなかった。そんな段階はとっくに越えていた。これが、待ちに待ったチャンスなのだ。モノにしない限り、自分に将来はない。南田は再びパソコンに向かった。
昼間、一時間余りの仮眠をとっただけなのに、まったく眠気を覚えなかった。キーを叩きながら、神経が尖り、五感が指先に集中してくるのが分かる。どれくらい経ったのか。時間の観念が失せていた。チラッと窓に眼をやる。青い闇が降りていた。いよいよ、締め切りの夜が来ていた。ひと月に一度のクライマックス。編集部は興奮と焦燥が錯綜し、刻一刻と緊迫感を孕んでいく。南田の耳は、無意識に音を識別していた。電話の呼び出し音は仕方ない。打ち合わせのざわめきも、デスクの野太い指示も、割り付けのやりとりも、慌ただしく駆け込み、飛び出して行く靴音も気にはならない。だが、クライマックスの夜に似合わない音は、ささくれた大音響となって鼓膜に突き刺さる。ダメだ。いったん気になったら、もうダメだった。
「うるさい!」
短く叫ぶと立ち上がり、南田は、ロッカーの上に置いてあるテレビの電源を切った。一瞬の静寂のあと、再びノイズに満ちた空間が広がる。
「なにすんだ、このヤロウ!」
プロ野球中継をサカナに、有名選手のゴシップを得意げに披露していた久保田が、顔を真っ赤にして迫ってくる。
「やめろ」
新聞を広げていた年配の編集者が立ち上がった。執り成すように言う。
「久保田、大目にみてやれ。やっこさん、余裕がないんだろう」
久保田は憮然とした表情で、仲間の輪の中へ戻っていった。幾つもの悪意に満ちた声が聞こえる。
「追い詰められてヒステリーが出やがった」「仙元がいなきゃただの使いっぱしりのくせしやがって」「落ち目の仙元は出社拒否か」
白々しい笑いが起こって、さざ波のように後をひいた。だが、気にならない。自分がいま、どういう立場に追い込まれているのか、よく分かっている。これで失敗したら、もう編集部にはいられない。仙元と自分がひたすら歩き、身を削るようにしてモノにしたスクープも、どこかの、もの書きとしての意地も魂もとうに捨て去ったライターの手で手際よくまとめられて終わるのだ。こめかみが憤怒で膨れ上がる。冗談じゃない。そんなことはさせない。南田はパソコンの画面を食い入るように見つめて、キーを叩いた。
[#改ページ]
七月二十二日(木)
午前三時。巽は、中央の編集長席で南田の原稿を受け取ると、唇をひん曲げて眼を通した。二度ほど読み直し、「こんなもんだろう」と言い置くと、赤ペンを走らせて「直して印刷所へほうり込め。ご苦労」それで終わりだった。
南田は数箇所の直しに手を入れ、一時間半後、原稿をじりじりしながら待っていた印刷会社の担当者に渡した。
茜色に染まり始めた東の空に、薄い灰色の雲がたなびいている。南田は、窓際に立って大きく背伸びをした。腹が鳴った。そういえば、昨日の夕方、菓子パンを齧《かじ》りコーヒーを啜っただけで、腹には何も入っていない。食事などすっかり忘れていた。それより、全身に満ちる充実感のほうがずっと大きかった。自分の書いた完成原稿が、天下の「黎明」のフロントページを飾るのだ。しかも署名入りで。自然と笑みがこぼれた。
ガランとした部屋に、パソコンを叩く音だけが響く。名のあるノンフィクション作家が二人、原稿の最終チェックに余念がない。すでに巽は帰宅し、編集者も取材記者もほとんどが締め切りを終えて、夜の街に繰り出していた。おそらく、打ち上げと称して六本木か青山あたりで飲んでいるのだろう。南田は毎月恒例のこの飲み会に顔を出したことがない。仙元が群れるのを嫌ったから、倣《なら》ったまでだ。なら、いっそのこと、自分もこのまま一匹狼で通してやろう。そんなふてぶてしい覚悟が、腹の底で燃えていた。自分は、もうデータマンじゃない。名だたるノンフィクション作家と伍してフロントを書く、実力派ライターなのだ。そんな自信が身体の芯から湧き出して、狂おしいほど火照った。
「南田、電話だ」
先輩ライターの不機嫌な声が、南田を現実に引き戻した。返事もせず、切り替えのボタンを押して受話器を取る。
≪もしもし、あたし≫
粘りつくような甘い声に顔が強ばった。
≪お仕事、ご苦労様≫
工藤和美だった。今頃何の用で──と考える間もなく、突然スイッチが入ったようにまくし立てる。
≪あいつ、まだ大学を辞めてないけど、いったいどういうこと? あれだけ喋ってあげたのに、こんなんじゃタダじゃおかないわよ≫
「ちょっと待ってください、工藤さん。掲載誌はまだ出ていないし、そんな無茶を言われても」
≪じゃあ、雑誌が出たらあいつ、辞めるのね≫
南田は息をひとつ吐いたあと、受話器に語りかけた。優しく、刺激しないように、仙元を見習って。
「ぼくらに人事権はありません。それは大学当局が決めることで──」
猛烈な喚き声が受話器の向こうで弾けた。
≪だって約束したじゃない。もうひとりのあのおじさん、世間が許さないって言っていたわよ。インチキ、デタラメでわたしを騙そうったって、そうはいかないんだから≫
──やっぱり普通じゃない。
「工藤さん、いくらなんでも記事も出ないうちから、そんな無茶を言われても対処のしようがありません。もう少し待ってくださいよ。それから考えましょう」
南田は諭すように言い聞かせ、半ば強引に電話を切った。和美の言い分を載せた記事が出たら納得するだろう。支離滅裂な抗議など、軽く受け流すにかぎる。署名記事が誌面を飾れば、すべてが変わるはずだ。生活も、周囲の自分を見る眼も、そして将来さえも。
[#改ページ]
七月二十六日(月)
濃い、排気ガスの臭いが鼻をつく。耳元で、声が聞こえる。優しく、慈愛に満ちた声。おふくろだ。間違いない。何か囁いている。おれの肩を両手で掴み、口を寄せ……なんだ、何を言ってるんだ? 分からない。声は確かに聞こえている。なのに、意味が掴めない。周波数が微妙にずれたラジオのようだ。おれは首をひねっておふくろを見た。ふっくらとした優しい顔。おれのことをいつも「可愛い、可愛い」と、頬ずりしてくれるおふくろ。冬の寒い夜、寝るときは股に挟んで温めてくれるおふくろ。しかし、微笑んだ三日月の眼はおれを見ていない。その視線は、轟音を撒き散らすクルマの群れに注がれている。一台も見逃すまい、と凝視している。おれは思わず俯いた。おれの、青のズックを履いた小さな足がぶるぶる震えた。
何を待っているんだ? 教えてくれ、おふくろ。あんたは何を語り、何の目的で、そこに立っている? クルマなんか見ないで、ちゃんとおれに向かって喋ってくれよ──
プツンと遮断された夢は、目覚めた仙元の脳でグルグル回っていた。出口を求め、ガラス瓶の底で死ぬまで這い回る蟻のように。
この夢をみた後はいつもそうだ。身体中の力が抜け、どんよりとした倦怠感に浸ってしまう。
左右の壁を埋め尽くす本棚。外廊下に面して磨りガラスのはめ込まれた窓。緑色のカーテンの透き間から覗く白々とした光が、朝の到来を告げていた。
書斎の床に敷いた布団で腹ばいになり、タバコに火をつける。いつもと変わらぬ朝の儀式。指一本、動かしたくない気分だが、タバコはべつだ。肺から血管へ回ったニコチンは、目覚めたばかりの脳へ送り込まれ、頭の働きを促進すると信じている。
二本目に火をつけて、立ち上がった。ノブを回す。銀色のシリンダー錠。掌に、コツンとバネ仕掛けの金属が当たる感触がして、ドアが開いた。チェーン錠も取り付けてあるが、そこまで念を入れたくはない。
昨日、朝一番に灰色の作業服を着込んでやってきた錠前屋のおやじは、仙元の注文を耳にするなり、露骨に怪訝な表情をした。
──玄関ならともかく、自分の部屋にまでチェーン錠を付けるひとは初めてですな。
実直な顔がそう言っていた。幸せな奴だ、そう思った。このおやじはもちろん、客もだ。何百という家庭に出入りしているはずなのに、少なくとも自分と同じ体験をし、同じ気持ちになった客はいないということだ。本当だろうか。やっぱりこれは特殊なケースなんだろうか。
このマンションは賃貸と分譲が半々だ。管理人のじいさんからそう聞いたことがある。仙元は月の賃貸料十三万円を振り込んでいる。目黒に住む、この部屋のオーナーの口座に。敷金は二カ月。ドリルで派手に穴を開けて、勝手にカギを取り付けた代償は幾らなんだろうか。名前以外、顔も年齢も知らないオーナーは荒れ狂うだろうかと、タバコを二回、吸うあいだ考えた。
もっとも、考えただけだ。命には替えられない。以前、何かの本で読んだことがある。子供の家庭内暴力に悩む親は、自宅の一室にカギを取り付け、セーフティーゾーンを確保すべし、と。寝入ってから頭をかち割られないように。永遠の眠りから逃れるために。
廊下へ出て、リビングのドアを開けた。ソファとキッチンテーブルが置かれただけの、静まり返った空間。その右隣、以前、仙元が寝室に使っていた八畳のフローリングが、信太郎の部屋だった。白い引き戸が固く閉じている。その上に、赤いスプレーで「入るな」と、ご丁寧に「!」までつけて大きく描いてある。昨夜まではなかった。ため息が出た。シリンダー錠にチェーン錠、そして父親を拒絶するスプレー文字。まだまだ、序の口のはずだ。
信太郎が起きるのは、いつも夕方だった。おそらく、明け方までビデオを見て、スナック菓子を食べて、漫画本を読み散らしているのだろう。すべて、仙元が買ってきたものだ。信太郎の注文≠ノ従って。
指を折って数えてみた。一、二、三……信太郎をこのマンションに引き取って、今日で一週間になる。初日、つまり信太郎を連れ帰った日、仙元は泣きたくなるような絶望感に打ちのめされたのだ。
所沢の家で信太郎の変わり様を初めて目の当たりにした夜だった。身の回りの荷物をまとめると、信太郎をタクシーに乗せ、そのまま、この部屋へ連れてきたのだ。あの家、凶々しい瘴気の漂う建て売り住宅から逃れさえすれば、昔の信太郎に戻ると信じていた。
事実、タクシーの車中での約一時間、一言も口を利かなかった信太郎が、この部屋に入るなり、口を開いたのだ。
「シチューが食べたい。お父さんの作った、コーン入りのやつが」
仙元が幾度か作ってやったクリームシチューだった。六歳まで暮らした、ただそれだけの親子なのに、父親の手料理を覚えている。その健気さが、たまらなく胸に染みた。
時計を見ると午前零時。聞くと、今日一日、何も食べていないという。腹が減るはずだ。
仙元はコンビニまで走り、ルウと牛乳、ジャガ芋、タマネギ、ニンジン、コーンの缶詰を買った。鳥肉も欲しいが、ここはベーコンで間に合わせた。食材を選びながら、湧いてくる自信を感じた。
──一時の気の迷いだ、反抗期がエスカレートしただけだ。とことん、付き合ってやるさ。シチューを食えば、そう、おれの作った温かいシチューを食えば、あいつの顔にも笑顔が戻るはず。
いつもはタバコとビール、それにサンドイッチしか買わない、見るからに自堕落な、正体不明のオヤジが、真夜中、ずっしりと重みのある食材を買い求めたから、ロンゲにメッシュの入った店員はチラチラと仙元の顔と商品に眼をやり、首を捻った。
マンションのリビングでは、ジーンズと白のTシャツを着た信太郎が、キッチンテーブルの椅子に座っていた。両肘をテーブルの上につき、視線はじっと何かを考えるように、ガラス窓の向こう、暗い木立に向いている。仙元は信太郎の背中を見ながら、調理に取り掛かった。
フライパンはないから、アルミの深ナベを使う。まず、底にサラダオイルを垂らしてジャガ芋、タマネギ、ニンジン、ベーコンのぶつ切りを炒めた。キツネ色になるまで炒めて、水を加える。煮込みながら丁寧にアクを取り除き、食材が柔らかくなったところでルウと牛乳、コーンを加えてさらに煮込む。でき上がったときは、午前一時になっていた。
その間、信太郎は一言も喋らなかった。仙元も同様だ。シチューを食いながら、ゆっくり話そうと思った。学校のこと、将来のこと、野球のこと……時間をかけて、これまでの溝を埋めよう、母親のことは、それから話せばいい。皿を信太郎の前に置いた。湯気の昇るシチューの皿。親子の絆。
信太郎は、黙って食べ始めた。けたたましくスプーンを動かし、シチューをすくいあげ、口に入れていく。瞬く間に皿は空になり、お代わりをついでやる。話どころではなかった。最初は旺盛な食欲に眼を細めたが、じきに何かが違う、と気づいた。ただ機械的に口へ詰め込んでいくスプーンと、蠕動《ぜんどう》する喉。掃除機がゴミを吸い込むような食い方だった。
三皿を平らげ、鍋が空になって初めて、仙元を見た。感情のない、ガラス玉のような眼が据えられた。口元を腕で拭う。肩まで伸ばした髪の毛の先に、綿くずのようなシチューがくっついている。ピンク色の舌が、薄い唇をペロリと舐めた。
「うまかったか」
心の揺れを読み取られないよう、平静を装い、訊いてみる。
「クソだね」
信太郎の唇が歪んだ。
「てめえのシチューは、クソだ。とても食えたもんじゃない」
詩を朗読するような言い方だった。お父さん≠ェ、てめえ≠ノ変わっている。信太郎は右手を口にもっていった。指を喉に押し込む。背中が丸くなったとたん、吐いた。白い、すえた匂いの嘔吐物がテーブルの上に撒き散らされ、床のカーペットに垂れた。
「てめえら、絶対許さねえからな」
ざんばらになった髪の毛の間から、吊り上がった眼が異様な光を放つ。鼻にシワを刻み、憎悪の凝り固まった顔──と、皿を掴んだ。振り上げ、壁に投げ付ける。肘が鋭角に突き出た、きれいな投球フォームだった。粉々に砕け落ちた陶器のかけらひとつひとつが、絆の切れっ端に見えた。信太郎は八畳のフローリングに入り、引き戸を閉めた。父親への宣戦布告、だった。
信太郎が活動し始めるのは夜だ。それまでは刺激しない限り、パイプベッドに入って、うつらうつらしている。太陽が沈めばこのマンションの部屋から一歩も出ることなく、仙元に注文≠出す。仙元には、昼間の自由時間≠ノ、やらなければならないことがあった。睡眠不足で疲れ切った身体に鞭打ち、今日は病院へ行く。昨日までは信太郎の通う中学校、児童相談所、そして警備会社を回った。
──警備会社。
まさか、息子のことで警備会社を訪ねるとは思いもしなかった。二日間の入院で退院した令子が、あらゆるツテをたより、見つけてきたのだ。
プライドの高い女だ。息子の養育を放棄したと思われたくないのだろう。上野にある警備会社が、家庭内暴力に大変な効果を発揮している、と電話をして来たのは三日前だった。
≪とにかくその警備会社、家庭内暴力に間違いなく効く≠轤オいのよ≫
警備会社と家庭内暴力。いったい何の関係があるのか、見当もつかなかった。
「親の命を守るために、腕っこきの警備員を派遣するとでもいうのか」
≪ふざけないでよ≫
尖った声が鼓膜に響いた。
≪あたしだって必死なんだから。信太郎が立ち直ってくれなかったら、あたし──≫
最後は涙声だった。一、二……指を折る。三度目の涙だった。指を折らなければ、二つ以上の出来事を数えられなくなっている。そして令子も、感情が高ぶると涙が出てしまう、FROZEN≠ニは掛け離れた女になっている。分かっている。信太郎だ。信太郎さえ元に戻れば、指を折らなくても二つ以上の出来事が頭に入るし、令子の緩んだ涙腺も閉じるはずだ。
要領を得ないまま訪ねた警備会社は、上野丸井近くのオフィスビル三階にあった。昼飯時だったらしく、担当者はズボンのベルトを締め、爪楊枝で歯をせせりながら出てきた。ビニールのサンダルを履き、エラの張った、小さな眼の男だった。仙元からひと通り話を聞いた男は、バネの緩んだソファで得心したふうにこう言った。
「ああ、ハンソウですね」
「ハンソウ?」
「おたくのお子さん、登校拒否、といったレベルじゃないんでしょ。家庭内暴力なら、ハンソウで持っていくしかないですよ」
どうも話のベクトルが食い違っているようだ。仙元は、ここへ来た経緯を説明した。おたくの警備会社が、どういうふうに家庭内暴力に対処するかは知らない。ただ、有効な手段を持っていらっしゃるようだから、と。
男はしかめ面をし、大仰な仕草で後ろへそっくり返った。「まいったなー」と、芝居がかった口ぶりで言った。ひとつ、大きな息を吐いて座り直すと、急に丁寧な口調になった。
「ま、ここまで来ていただいたんだから、説明しますけど、本来はね、精神病の患者のご家族に頼まれて、やってたんですよ」
「精神病、ですか」
男は頷いた。
「他人に危害を加えたり、ひどい自傷の恐れのある患者さんは、警察が保護し、医師の診断のうえで強制的に入院させる措置入院があります。しかし、そこまではいかなくても、深刻な症状の患者は多いんです。何年も自分の部屋に閉じこもったまま出てこない、とか、幻覚、妄想で近所とトラブルを繰り返している、というケースは珍しくありません。病院は、連れてくれば診察する、と言うばかりでしょう。警察は事件や事故でも起きない限り動かないし、家族は途方にくれているのが現状なんですよ」
ハンソウとはつまり搬送のことだった。精神病患者の家族から泣きつかれて、警備会社がやむをえず動いたのだという。
「まあ、うちが患者の家族にとって最後の頼みの綱になったのを、子供の家庭内暴力に悩む親御さんが聞き付けたんでしょうなあ。最近、お客さんみたいなひと、ほんと多くなっていますよ」
「搬送先はどこなんです?」
男の滑らかな口調が止まった。小さな眼が虚空《こくう》を睨む。
「家庭内暴力も精神病院ですか」
男は、口ごもりながらも、話を続けた。
「いや、それはね、納得してもらったうえで、という決まりなんですけどね……まあ、施設ですよ」
「施設?」
「ほら、ヨットとかカヌーとか、いろいろあるでしょう。死亡事故とか、起こってるから大っぴらにできないけど」
つまり、民間の矯正施設への搬送ということだ。わが子の家庭内暴力、あるいは非行に悩む親たちの駆け込み寺、死と隣り合わせの苛酷な訓練、子供たちを支配する暴力。幾つかの死亡事故が明るみに出て、猛烈なバッシングが巻き起こったのは、もう十年以上前のことだ。仙元も取材に当たったから、よく覚えている。そして、クローズアップされた苛酷な暴力の陰で、目覚ましい成功例と、感謝する親たちがいたことも知っている。末はヤクザか凶悪犯罪者か、と言われた極めつきの暴力児童が更生し、難関の国立大学医学部へ入学を果たしたケースすらあった。
「どこも、いまは細々と経営しているけど、逆に需要は増えるばかりなんですよ。あの騒動が起こるまでは、施設に親が申し込めば血の気の多い職員が家に押しかけてぶん殴って、有無を言わさずクルマに押し込んで、施設まで運んだんですがね。いまは警察やマスコミがうるさいから、そんなことやる施設はまずありません」
「その代わりを、あなたたちがやっているわけだ」
男は痛いところをつかれた、と言わんばかりに顔をしかめた。
「うーん、結果的にはそうなるけど、べつに我々が積極的に売り込んでいるわけじゃないんですよ。医師の立ち会いも、患者本人の同意もないままの搬送は、人権上問題あり、と言われれば、現行法上、反論の余地はないですから。しかしね、あなたも相当苦労されてるからここまで来たんだろうし、釈迦に説法を承知で言うんだが──」
案外、知性を感じさせる男だった。話に一本の筋が通ってムダがない。
「あたしらも、親御さんから頼まれると、イヤとは言えなくてねえ。十年、十五年、家に閉じこもって風呂にも入らず、年老いた親を殴ったり蹴ったりして苛《いじ》めながら生きてる、クズみたいな人間もいるんですよ。親を半身不随にした子供さえいますから。そういうのが治るかどうかは別にして、酷い家庭内暴力から引き離すことができれば、それだけで感謝されるんです。依頼があれば、応えざるを得ませんよ」
通常は、警備員三人一組で、搬送業務にあたるという。料金は十万から二十万円。ただし、距離と手間に応じて、アップすることもある。そして、年間の依頼は三十を越え、都内には他に三社、搬送を引き受ける警備会社があるが、ノウハウも実績も当社がトップを誇る、と。
トップ企業にしては、金銭面のセールストークはおざなりだった。仙元は聞き終えると辞去を告げた。男は、とくに引き留める素振りを見せることもなく、さっさと奥へ引っ込んだ。
外へ出て考えた。たしかに、家庭内暴力に一定の効果はあるだろう。家族の安全を確保するという意味で。しかし、自分には必要ない。自分は、妻と息子を置いて勝手に家を出たのだ。その代償を支払うときは今をおいてほかにない。とことん、信太郎に付き合うつもりだった。
スナック菓子五袋とコーラの一・五リットルビン、オレンジジュースの一リットルビンをキッチンテーブルの上に置く。菓子の銘柄を間違おうものなら、激怒して荒れ狂ってしまう。もう一度確認して、ドアを閉め、マンションを出た。
信太郎の食欲は偏っている。スナック菓子とコーラ、ジュースしか口にしない。一度、握り飯とポテトサラダを置いたところ、床に投げ捨て、グチャグチャに踏みつぶしてあった。薄い膜が張ったようなか細い信太郎の身体は、小麦粉を油で固めたジャンクフードと大量の人工甘味料を溶かし込んだ清涼飲料水で出来ている。
警備会社の件は帰宅後、令子に連絡した。落胆のさまは予想した通りだった。「そう」と、か細い声で言ったきり、黙りこくってしまった。だが、沈黙から口を開いたとき、解決の糸口の見えない苛立ちは仙元へと向けられた。
≪それであなた、この先、どうするつもり?≫
「病院へ行こうと思っている」
≪病院? なんの?≫
「精神科だ」
≪信太郎は精神病じゃないわ≫
嫌悪と偏見に凝り固まった声だった。
「べつに精神病と決めつける必要はない。最近は児童心理学の分野もあるんだ。登校拒否、家庭内暴力で通院するのは珍しいことじゃない」
≪あなたが通院させるというの?≫
「できるわけがないだろう」
睡眠不足と徒労感で、思わず語気が強くなる。
「信太郎は、マンションから一歩も外へ出ようとしない。専門家の意見を聞いて、おれが対処していくしかないんだ。可能性のあることなら何でも試してみるつもりだ」
≪どこかツテのある病院でもあるの≫
「ああ、ひとつだけな」
ウソだった。警備会社からの帰り途、上野アメ横にある喫茶店でカレーピラフを食ったとき、めくった週刊誌に書いてあった。『全国奇跡の名病院紹介』という特集記事の中に一覧表があり、不登校・家庭内暴力に実績のある精神神経科を持つ総合病院、と一行で紹介されていたのだ。住所と病院名は手帳にメモしてある。
『武蔵野東病院』。荻窪から各停電車で七つ目、国分寺にあった。藁にもすがりたい心境だった。鬱々とした気持ちのまま髭を剃り、洗顔し、チノパンとジャケットを着込むと仕事部屋と玄関に鍵をかけ、マンションを出た。ギラッとした太陽が照りつけて、思わず眼を細めた。
*  *
開け放した窓から緑の匂いを含んだ微風が吹き込む。レースのカーテンが揺れる。黒田ちづるは窓を背に、丸椅子に腰掛け、柔らかな視線を注いでいた。組み合わせた脚はすらりと伸び、右手の細く白い指はモンブランの銀色のボールペンを弄んでいる。長い髪を黒のリボンで縛り、縁無しのメガネと卵型の顔、白衣が目鼻立ちの整った知的な美貌を際立たせる。
十畳ほどのリノリウム張りの部屋には、砂を敷き詰めた箱庭がひとつ、置かれていた。ちづるの視線の先では、この小さな砂場のような箱庭で男の子がひとり、オモチャを使って遊んでいる。キリンの親子、カンガルーの親子、象の親子……壁には木製の作り付けの棚があり、ジオラマ製作に使用する、精巧な模型がずらりと揃っている。家屋からビル、樹木、柵、クルマ、橋、列車、レール、それに人間、動物、神社、教会、城、はてはウルトラマン、怪獣まで置かれ、ちょっとした玩具店の趣があった。ここは心理療法のひとつ、『箱庭療法』を行う部屋だった。
箱庭の枠は厚さ二センチほどの木板で、内径寸法は縦五十七センチ、横七十二センチ、高さ七センチ。この寸法は、箱を腰のあたりに置いた時に、全体が子供の視野に入ることを考慮したもので、外側が黒く、内側を青く塗ってある。この青は、砂を掘ったときに、水が出てくる感じを出すためだ。これらの規格は、一九二九年、ロンドンで子供のための心理療法として考案されて以来、変わっていない。子供は箱庭で、自分の世界を自由に表現し、ドラマを組み立て、心を癒していく。ちづるは、組んだ膝の上にバインダーを置き、時折、モンブランのペンで少年の行動をメモしていった。
少年は小学三年生。箱庭療法は今日が二回目だった。一回目は山をつくり、その周囲に動物の親子を並べて終わりだった。父親は銀行マンで母親は専業主婦。上に二歳違いの姉がいる。二カ月前から不登校が始まり、言葉数も極端に少なくなったという。
少年が棚から取り出したのは今日も動物の親子のみ。まず砂を盛り上げて山をつくるところまでは一回目と同じだった。その後が違う。今度は頂上から穴を掘ると、次いで、穴の底に動物を置いていく。キリン、カンガルー、象、ライオン、すべて親だけだ。残った子供は穴の縁にぐるりと置いて、底の親を見下ろす形になっている。ここまで終えて、少年は、ちづるの顔を見た。大人の顔色を窺う、不安げな、暗い表情。ちづるはニコッと微笑み、答えてやった。
「やっちゃえ、やっちゃえ」
少年の顔に、戸惑いの色が浮かんだ。
「ほんとうに、いいの?」
遠慮がちな、か細い声が漏れた。
「いいから、やっちゃえ」
少年の顔がパッと輝いた。両手で砂をすくい、穴の中に注ぐ。縁の子供たちを倒さぬよう、慎重に。中の親たちを埋め終えると、少年はその上の砂を掌で叩いて平らにし、玩具の置いてある棚へ歩いていった。取り出したのは白い家。屋根の上に十字架のある教会だった。少年は教会を平らになった山の頂上に置くと、手を合わせてしばらく瞑目した。動物の子供たちも、教会に向かって頭を垂れている。一幅の宗教画のような光景だった。
少年は眼を開くとちづるに向き直り、ニカッと笑ってみせた。
「やったね」
ちづるが言うと、少年ははにかんだ表情を見せた。
「これでいいの?」
「いいわよ。きみが思うようにやればいいんだから。それがイチバンなの」
そう、思ったようにやるのがイチバンだ。それが心を開くきっかけになる。あとは、親が現実を見つめて、変わればいい。ちづるは、子供の問題行動の裏には、何らかの形で親が絡んでいる、と信じている。親と子供の間には、暗くて深い、底無し沼に似た溝が広がっている。そして、溝の形は家族の数だけある。ちづるは少年を送り出すと、箱庭をコンパクトカメラで写真に収め、バインダーを閉じた。
外来で初めての患者に当たると、いつも憂鬱になる。患者のせいじゃない。この「精神神経科外来受診の方へ」という調査表のせいだ。ちづるは古びた木製の机に置かれた一枚の紙に目をやった。
診察室には机と、肘当てのついたビニール張りの椅子。専門書の詰まった書棚。それに患者用の丸椅子が二個。学生に人気のない大学教授のゼミ室のような殺風景な部屋だった。その窓から、錆が浮いて赤茶けた鉄塔が見える。高さ五メートルくらい。蔦が網の目のように絡まり、上部は崩れ落ちて、原型をとどめていないが、かつては患者たちの動向を見張る看視所だったという。もっとも戦前、病院全体が背の高い鉄柵で覆われていた頃の話だ。
当時の大規模な精神病院は、今は内科と外科を備えた近代的な総合病院に生まれ変わっている。しかし、ちづるは窓から廃墟のような鉄塔を見るたびに、この調査表に込められた精神障害者への根深い偏見を突き付けられる思いがする。
「精神神経科外来受診の方へ」は、二代前まで遡って、父母、祖父母の病歴および死因を記入するようになっている。ご丁寧に、白い枠を枝分かれさせた系図まで付けて。核家族化が進んだいま、祖父母の死因を正確に記せるクランケは半分もいない。加えて、クランケ本人の病歴、学歴、家族構成、女性は初潮と月経の閉じた時期、出産の有無まで記す欄がある。
苦悩と諦観の果て、やっとの思いで病院へたどり着いたクランケと家族に、こういうものを書かせる病院側の無神経さがちづるには許せなかった。一度、精神神経科の会合で廃止を訴えたことがある。しかし、「以前から続いているものを急にやめるのはいかがなものか」との声が大勢を占めて、あえなく却下された。三十二歳、独身、病院内の派閥に属さず、地方国立大学出身の、愛想のない女性医師の声など、この病院では聞こえないに等しかった。
ちづるはいつものように重い気分で、午後最初の調査表を手に取った。が、眼を通した途端、ピクン、と心の隅が弾んだ。何も記していない。しかし、名前の欄には仙元麒一、としっかりした文字で書いてある。その下の余白に「息子の家庭内暴力の件で相談に参りました」と、小ぶりの、これも強い意志を感じさせる文字が躍っているだけだ。自分の意志で記入しなかったに違いない。この病院に来て三年になるが、こんなケースは初めてだった。
診察室に入ってきた男は、文字と同じ印象だった。短く刈った頭に、太い首と広い肩幅の中年男。世間一般の評価で言うところの二枚目ではないが、静かな決意を秘めた眼が印象的だった。
ちづるは、調査表を手に訊いてみた。
「仙元さん、まず、これに記入しなかった理由をお聞かせいただけますか」
「気分が悪いからですよ。とてもそんなもの、書く心境じゃないのに、受付でヒョイと突き出されて事務的に書いてください≠ニ言われても抵抗があります」
低い、それでいてよく通る声だった。
「でも、基礎資料としての意味はあるんじゃないですか」
「それは、先生との会話の中で、必要とあらば出てくるでしょう。口はばったい言い方ですが、患者が抱える様々な事情を聞き出すのも医師の務めだと思いますが」
「分かりました。その件はもう結構です。息子さんのお話をお聞きしましょう」
気分が良かった。確かにそうだ。この仙元という男の言ったことは正論だ。クランケおよびその家族とのコミュニケーションを無視する精神科医は、それだけで失格だ、とちづるは思う。
──久々に歯ごたえのある仕事ができそうだ。
期待に胸が高鳴った。
武蔵野東病院は、その名の通り、武蔵野の面影を残す鬱蒼とした樹木に囲まれた丘の上に建っている。病院の門を出ると、なだらかな道が、下の住宅街まで続いていた。冷房のきいたロビーを後にした途端、炎天に炙られた熱気が全身を覆い、背中を汗が伝った。仙元は歩きながら、黒田ちづるという女医のことを考えていた。
黒田ちづるの質問は、最初から核心をついてきた。冷徹さと洞察力を兼ね備えた質問の鋭さは、今、思い返しても冷や汗が出る。仙元は職業柄、政治家から弁護士、大企業のトップまで、ディベートを得意と自負する連中とさんざん渡り合ったことがあるが、ちづるは一味も二味も違った。医者と患者の家族、という関係が無意識のうちに仙元を萎縮させたのかもしれないが、それを差し引いても、見事な切れ味だった。
「最悪の環境ですね」
仙元の話をひと通り聞いたあとの、それがちづるの第一声だった。
「お父さんは八年前、離婚したきり、ほとんど息子さんに関心を示さず、教育は奥さんに任せっぱなし。えーと、職業はルポライターということだけど、無頼を気取っていらっしゃるのかしら」
ちづるの戦略は明らかだった。激怒させて、反応をみる。手だれのインタビュアーが、ここぞと思ったときにやる、ウルトラCだった。それをのっけからぶつけてきたのだ。仙元は感情の萌芽を自制心でくるみ、淡々と答えた。
「無頼を気取るほど、売れているわけじゃない。根がズボラなんですね。女房が教育者だから、つい、甘えてしまって。反省しています」
「じゃあ、子供なんか、つくらなきゃいいのに」
メモに眼を落としながら、しれっとした口調で切り返す。
「息子さんは野球が好きだ、とおっしゃいましたが、それをやめた原因は何だと思いますか」
「多分、女房じゃないかと。中学受験に専念させるために、少しでも時間が惜しかったのだと思います」
「中学受験……確か私立A中学でしたわね。都内でも三本の指に入る難関校……お父さんは合格の知らせを聞いたとき、お気持ちはどうでした。さぞやうれしかったでしょう」
「というより、女房の喜びようにびっくりしてしまって。そんな女じゃない、と思っていたもので」
ちづるが眼を上げた。細い眉の間に硬い筋が二本、刻まれている。
「どうして? どうして、一緒に喜んであげないんですか。家を出て、勝手に生きているといっても、父親なんでしょう。そんな女じゃない、といっても、奥さんは女手ひとつで息子さんを育てたんですよ。それともあなた、恋愛時代の、お互いが幻想に捕らわれた甘い時代の物差しで、彼女のことを見ていたんですか? だとしたら、あなた、とんでもない勘違いをしているわ」
これほど見事にやりこめられると、返す言葉がなかった。
──女房の二十年来の知己のような顔でまくしたてやがる。
だが、不快感はなかった。それよりもこの女の、迷うことなく攻め込んでくる、直截的な本質の掴み方と優れた勘が気になった。仙元が抱え込み、暗い闇の淵に沈め込んでいるものを、この女が見過ごすはずがない、そういう確信にも似た気持ちがあった。仙元の膨れ上がる不安をよそに、ちづるは話を続けた。
「息子さんは中二の秋、つまり一年近く前からクラス中位だった成績が下がり始め、母親も、口うるさく勉強を強要するようになった。それに反発して、次第に部屋へ閉じこもりがちになり、登校拒否に。そして、朝、咎《とが》めた母親に金属バットで殴りかかった、と──その間、仙元さんにはご相談がなかったんですね」
「ええ」
「そういう関係が構築できていないのだから、当然ですね」
関係が構築できていないのは、女房となのか、それとも信太郎となのか、訊こうとしたが、やめた。おそらく、両方となのだろう。ちづるの固く結んだ唇がそう言っている。
「ところで」
ちづるは椅子をクルリと回すと、仙元のほうへ向き直った。
「離婚の原因は何ですか? まさか、性格の不一致なんて、頭の悪い芸能人みたいなことはおっしゃらないでくださいね」
腋の下に冷たい汗が滲む。
「それは、……いま、言わなくてはなりませんか」
「いえ、気が向いたときで結構です。ただ、興味本位、と思われては心外なので、言っておきますが」
薄いレンズの奥の瞳が光った。
「わたしは家庭内暴力は家族病だと思っています。実際、ご両親に問題のあるケースがほとんどなんです。アルコール依存症、浮気、博奕、不和、虐待……子供は、親の心を映す鏡だと思ってください」
仙元は額の汗をハンカチで拭いた。濃紺の布地に黒い染みが広がった。
「失礼な物言いになるかもしれませんが、仙元さんには、不可解な点が多すぎます。母子二人にほとんど近づこうとせず、傍観者を決め込んでいたひとが、今になって全面的に受け入れている。大変なときだから、というのは分かります。でも、お仕事だって犠牲にされているはずです。そこまでやる理由はいったい何ですか」
仙元は、呻くように言った。
「離婚は、わたしの勝手が原因です。女房は関係ない」
「贖罪、のつもりですか」
「そう……ですね」
罪を償う、たしかにそうだ。ちづるの瞳は、何かに感づいている。
──来ないほうが良かった。
後悔が胸を掠めた。
──もう、これっきりだ。
だが、ちづるは診察を打ち切ると、仙元の心を見透かしたようにこう言った。
「じゃあ、今週中におうかがいしましょう」
「どこへ?」
思わず聞き返していた。
「あなたのお宅ですよ。息子さんは家から一歩も外へ出ようとしないんだから、直接出向くしかないでしょう。まず、息子さんと会ってみないことには、治療もなにもありません。とにかく、すべては会ってからです」
仙元が事前に調べた限りでは、精神科医の往診は例がなかった。それをこの女はさも当然、といった口ぶりで──
「おうかがいする日時は明日にでも連絡しますから」
ちづるは仙元の戸惑いなど無視して、ごく事務的な口調で言った。胸を掠めた後悔は、どこかへ吹き飛んでいた。
「お願いします」
頭を深々と垂れた仙元に、ちづるは、「緊急の用件があったらここに電話してください」と言い添えて、携帯電話の番号を記した名刺を差し出した。
今日、初めて会った精神科医が、往診してくれるという。仙元は暗闇に一筋の光を見た思いがした。
信太郎を引き取ってからまだ一週間というのに、気力体力を吸い取られ、抜け殼になった気がする。自分の力ではどうにもならない戸惑いの日々が続いていた。
のっけから強烈なボディブローを見舞ったのは、信太郎の通う、中学の担任教師だ。クリーム色の瀟洒な校舎と、焦茶色のタータンの張られた校庭。古びたレンガ塀で囲まれた私立中学は、世田谷区松原の住宅地にあった。所沢から通学するとなると、西武新宿線で東村山まで出て国分寺へ、そこからJR中央線で吉祥寺へ、そして井の頭線で明大前駅下車と、三回、いや、自宅から所沢駅までバスを使うから計四回の乗り換えが必要だった。朝のラッシュ時なら二時間近い通学時間だ。指を折りながら、気が滅入った。
夏休みの午後。人気のまばらな教員室で面談した三十代半ばの担任は、痩身をゆったりした上等のスーツに包んだ、顎の細い、神経質そうな風貌の男だった。
「弱りましたね」
担任は、信太郎の欠席が二週間に及んでいることを確認すると、顔をしかめ、デスクのパソコンを手慣れた手順で操作した。ディスプレイに赤の破線が現れる。
「ご覧ください。入学以来の富田くんの成績はこんな具合なんです」
破線はグラフになっていた。入学テストに始まって中間、期末、実力、業者模試等の学年順位が結ばれてる、と説明した。信太郎のそれは、途中までディスプレイの中央辺りを前後しているが、残り三分の二になって、打ち上げに失敗したロケットのように急降下していた。
「入学以来、富田くんは学年二百六十二人中、中位前後をキープしていましたが、昨年秋から急激に落ちましてねえ。中二の最後の実力テストは二百四十一番ですよ。お父さんもご存じのように、うちは中高一貫教育で独自のカリキュラムを実施し、抜群の大学合格実績を誇っていますが──」
「申し訳ないが、知らないんです」
「は?」
「わたしと信太郎の母親は離婚したもので、進路相談の類いは一切耳に入っておりません。ですから、都内屈指の難関校という程度のことは存じていますが、教育方針までは把握していませんので……」
怪訝《けげん》な顔をした担任は、引き出しからバインダーを取り出した。暫く眼を通したあと、ぱたんと閉じ、得心した表情で顔を上げた。
「なるほど、お母さんがとても教育熱心な方なので、つい……」
生徒の個人データから、母子家庭の事情を察した担任は、口調が妙に優しくなる。
「しかし、いくら中高一貫校とはいえ、成績が極端に悪いと、高校へは進めません」
全体の十パーセント、つまり二十五人前後が進学不許可となるらしい。後ろに二十一人を残すだけの信太郎は、それだけで有力な切り捨て候補だ。
「しかも、富田くんは長期欠席が続いています。このままだと、とても」
語尾が途切れた。高校への進学は絶望的、ということだ。担任の狡猾そうな眼が、早く見切りをつけて他の学力相応の高校を考えろ、と言っている。
「先生」
仙元は身を乗り出した。
「信太郎のことをご存じなんですか」
「はい?」
担任は困惑の表情をみせた。
「ひどい状況なんです」
仙元はつとめて冷静に話した。
「不登校と家庭内暴力です」
担任はゴクッと息を呑み、次いで惚けたように仙元の顔を見た。
「母親を金属バットで殴り殺そうとしたんですよ、先生。その兆候が学校であったのか、原因は何なのか、わたしは知りたいのです」
担任の顔が引きつった。酸素不足の金魚みたいに口をパクパクさせた。やっとの思いで大きな息を吸うと、喘ぐように言葉を出す。
「お母さんは、富田くんが風邪をこじらせて、身体の調子が思わしくないから、とおっしゃっていました。まさか、家庭内暴力なんて……いえ、そんな素振りはまったくありません。知るはずがないでしょう」
眩暈《めまい》がした。
「風邪、ですか」
「はい、一時、入院して点滴をうけるほどだった、と。体調が回復したら、これまでの遅れを必ず取り戻させます、と強い口調で……」
「先生はその間、信太郎にお会いになったんですか」
非難する気は毛頭なかった。しかし、腺病質の顔がみるみる強ばって、過敏に反応した。
「だって、お母さんは大丈夫、とおっしゃるし、第一、ご自宅は──」
お医者さんごっこが見つかった十歳の子供のように喚いた担任は、不意に言葉を呑み込んだ。自宅は埼玉県の所沢、しかも母親はフルタイムで働く小学校教諭。家庭訪問には遠すぎるし、時間の調整も難しい、というわけだ。その後、担任が口に出した言葉は、言い訳と責任逃れに終始した。
曰く、生徒たちの家庭には極力踏み込まず、プライバシーを尊重するのが学校の方針であり、何か家庭的な問題があった場合、教育相談所か児童相談所を利用してもらうことが望ましい。これは校長、教務主任、学年主任、生活指導部も承知しており、学校側の総意である、と。
仙元はそっとため息を吐《つ》いた。どんな優秀な学校にも、レベルに応じた落ちこぼれはいる。令子の話では、信太郎は睡眠時間を惜しんで勉強していたという。しかし、全国から集まった選りすぐりの秀才の中で、ついに息切れしたのだ。能力が無かった、と言われればそれまでだが、その時、手を差し伸べてくれる人間がいたなら、おそらく踏みとどまれたと思う。
令子では無理だ。風邪、と偽って不登校を隠し、朝に夕に尻を叩くばかりだったろう。彼女の唯一の宝は、学業成績という数字のうえでも曇ることは許されなかった。ましてこの若い、頭でっかちの担任では、子供の不安と焦りなど、忖度《そんたく》しようがなかったろう。ディスプレイ上のグラフの形状だけがすべてだ。
懸命に走り続けた信太郎が哀れだった。朝夕、二時間かけた通学と、睡眠時間を削る勉強。息が切れ、倒れ込んだ先に見えたのは、憎悪の二文字。砂を噛む思いがした。ペラペラと、自己弁護を繰り返す、担任の上ずった声がいまでも耳に残っている。
その言葉に従ったわけではないが、児童相談所も訪ねた。カウンセラーと名乗る五十絡みの女性は、化粧をこってり施した福々しい丸顔を、さも気の毒そうに歪めてみせた。
「焦ってはだめ、お子さんを刺激しないことよ。いまはとにかく、お子さんの言い分に耳を傾けるの。そして、頃合いを見て、いい聞かせましょう。あなたをどんなに愛して育てたか、暴力がどんなに意味のないことか──」
延々と言葉が続いた。言葉は上滑りして、口から出たとたんにツルンとどこかへ消え失せてしまう。
「お父さん、絶対負けちゃだめよ。頑張りましょう」
これ以上ない女性カウンセラーの空虚な言葉を背中に受けて、仙元は児童相談所を後にした。一昨日のことだ。
坂道は終わり、車庫を半分地下に収めた建て売り住宅がズラリと両側に続いている。強烈な西陽が降り注いでいた。額から噴き出た玉の汗が小鼻と頬を伝い、顎から垂れた。また夜がくる。今夜をどう乗り切るか、そう思っただけで、足元から震えがはい上がった。仙元は奥歯を噛んだ。信太郎と過ごす夜。眠れない夜。萎えそうな気持ちを奮い立たせて、家路を急いだ。
*  *
カーテンを閉め切った部屋で電話が鳴っていた。ベッドから手を伸ばし、受話器を掴んだ南田は、欠伸まじりの声を出し、誰何《すいか》した。コンポのパネルに目をやると午後五時過ぎ。徹夜明けの睡眠を貪っていた頭は、まだ半覚醒の状態だ。
≪あ、南田ちゃん、おれおれ≫
うんざりした。
≪そろそろ締め切りだけど、テーマ、決まった?≫
ヌードグラビアを売り物にした青年週刊誌のデスクだった。名前は魚住。丸い顔にチョビ髭を蓄え、黄色いセルフレームのメガネを掛けた、いかにも業界然とした男だ。南田は月一回、「おれたちの英雄」というタイトルで、二十枚ほどのルポを書いている。アルバイト原稿のひとつだ。これまで、学生実業家や新進のデザイナー、街の不良から身を起こしたボクサーなど、様々な人物にスポットを当ててきた。
≪今回も期待しているからさ≫
覚醒し始めた頭に、ポッとランプがともった。
「デスク、いいのあるよ」
机のブックエンドからネタノートを引き出し、手早くめくった。
「渋谷の自警団、シティ・ガードっていうんだ。ワイドショーで紹介してたんだけど、リーダーの少年、正義感剥き出しで結構面白いと思うよ」
≪ああ、あれね、ぼくも見たよ。すっごく強いんだよね。悪を成敗するピュアな正義感って、いまどき珍しいよね。いいじゃない、それいこうよ≫
例のごとく、新宿二丁目のオカマバーで散々飲んだ揚げ句の朝帰りで見たのだろう。軽い能天気な口調に少し腹が立った。
「デスク、テレビでやつらを見たとき、なんかおかしい、って思わなかった?」
受話器から、言葉に詰まり、息を呑む声が聞こえた。
「あいつら、変だよ」
≪何が?≫
「存在そのものがさ」
≪もしかして、それ、ジャーナリストの嗅覚ってやつかな≫
茶化した物言いだった。急に、こんな調子がいいだけの男の相手をしているのがバカらしくなった。南田は、原稿がアップし次第、連絡を入れるから、と告げると、電話を叩きつけるように切った。
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七月二十七日(火)
「てめえ、そんなに面白いか。おれがこんな様《ざま》になって、え?」
トランクスにTシャツをはおっただけの細く青白い身体。パイプベッドに胡座《あぐら》をかいた信太郎が、リビングの仙元を睨《ね》めつける。午前零時過ぎ。口の周りはべとついたコーラに塗《まみ》れ、スナック菓子のクズが、いびつな楕円を描いて張り付いている。仙元はキッチンテーブルの椅子に座ったまま、力無く答える。
「面白いはずがないだろう」
「ウソだね。おれがこんなになった途端にすっ飛んできただろう。面白いから、来たんだ」
信太郎の吐く言葉が、今夜も仙元を苛《さいな》む。
「あのババア、おれのことをナマケモノだといいやがった。落ちこぼれで、どうしようもないヤツだと、さんざんバカにしたんだよ」
「母さんは、おまえのことを思っている。たしかに厳しい言葉があったかもしれない。しかし、それは愛情があればこそ、だ」
みるみる眉間にシワが寄る。
「てめえに何が分かる! ずっとシカトしてやがったくせに。今頃現れて、勝手なこと、ぬかすなよ」
「心配なんだ、信太郎。おれはおまえの父親なんだぞ」
自分の言葉が、他人の口を借りて出ている気がした。いくら言葉を尽くしたところで、信太郎の心には届かない。高くて厚い、氷の壁が立ち塞がっている。
「おれは決めたんだ」
信太郎の硬い瞳が動かない。沈黙が流れる。喉が渇く。仙元は、粘つく舌を引きはがして話しかけた。優しい、柔らかな声音で。
「何を決めたんだ?」
口元にニヤリと笑みが湧いた。
「復讐だよ──てめえとババアを殺すんだよ」
信太郎が跳ねるようにして立ち上がった。
──来た。
リビングの、椅子に座った仙元の回りをグルグル歩き始めた。苛《いら》ついた怒気が全身に突き刺さる。夜中恒例の儀式だった。
「てめえら、なんでおれを生んだんだ、おれ、頼んだか?」
両手でキッチンテーブルを力任せに叩くと、血走った眼を向けた。
「てめえがおれの父親? ふざけんな! おれは認めない、絶対認めない」
激しい憎悪が、信太郎の中で荒れ狂っていた。呪いの言葉を吐きながら、再び歩き始めた。グルグルと回るその輪が、日増しに速く、狭くなっている気がする。この輪が仙元に触れた瞬間、何かが爆発するのだ。間違いない。いまはまだ、八年間の空白が分厚いバリヤーとなって仙元を覆っている。しかし、強引に始めた共同生活が、日を追うごとにバリヤーを薄く、弱くしていた。信太郎は、言葉とは裏腹に、仙元を父親と認識し始めている。信太郎の中で、いまはまだ揺れて定まらない父親の像が正確に結ばれたとき、襲い掛かってくるのだろう。そのとき、母親に金属バットを打ち降ろした両の手は何を握っているのか。
と、信太郎は輪を解き、キッチンの冷蔵庫へ歩み寄った。おもむろに手をかけ、振り返った。
──何を……。
笑った。舌をベーッと突き出した。唇が耳まで裂けたように見えた。精神を病んだ顔……両手に力を込め、冷蔵庫を一気に引き倒した。食器棚に倒れかかり、深夜のマンションには不似合いな派手な音が、腹に響いた。
「へへ、こんなの、まだ大したことないぞ。これから、もっともっとメチャクチャにしてやる」
分かっている。これからが本番だ。だが、自分の生活は、すでに破綻している。そう、仕事を失い、無収入に等しい生活。スクープを青二才にさらわれた、無様《ぶざま》な中年ライター……。
よりによって南田は、小堀の取材を終えたホテルの部屋から電話をいれてきたのだ。妙に高揚し、上ずった、それでいて脅えを含んだ声だった。
「おれが原稿をまとめることになりました」
その一言で、すべてが見えた。メイン取材を放棄した自分を、編集長の巽が切ったのだ。南田のデータ原稿さえ回してくれれば、自宅でも十分に仕上げられる仕事だ。しかし、巽は、最近めぼしい実績のない仙元を切り捨てる潮時だと判断した。そして、南田は与えられたチャンスに飛びついた……
若い人材が育てば、フリーのライターなど、いくらでも代えがきく。途端に、現実の生活が重くのしかかってきた。家賃、食費、光熱費……銀行の残高を思い浮かべて、ため息が出た。新たな仕事を求めようにも、いまの状態では動きようがなかった。信太郎が落ち着くまで、と思ってきたが、目の前で冷蔵庫を引き倒し、仙元の顔を嬉しそうに覗き込んでいる、この悪魔に魅入られた息子が元に戻る日は来るのだろうか。
絶望に打ちひしがれた仙元の耳に、来客を告げるチャイムが鳴った。途端に信太郎の顔に脅えが走った。慌てて自室へ引っ込み、引き戸をピシャンと閉める。
玄関のドアを開くと、パジャマ姿の男が立っていた。階下の二〇六号室。週末になると必ず、四、五歳の息子の手を引いて散歩に出掛ける、柔和な風貌の男だった。その男が、腕を組み、不機嫌な視線で睨めつけている。
「何なんですか、おたくは」
尖った声が飛んできた。
「夜中の一時ですよ」
「申し訳ない」
仙元は頭を下げた。だが、三十前後の、この実直そうな男は、怒りが溜まりに溜まっていたのだろう。
「最近、夜中になると怒鳴り声とかしてるでしょう。すごく迷惑しているんですよ。子供も起きちゃうし、ぼくは寝不足になっちゃうし。こっちは毎日、仕事しているんですよ。いったい何があったんです」
不審に思うはずだ。常日頃、通勤する様子もない正体不明の男の部屋から、響いてくる罵声。警察に通報されないのを僥倖と感謝すべきだろう。
「息子が来ていまして。ちょっと──」
言葉を詰まらせ、婉曲に言い訳をする自分が惨めだった。
「息子さんが?」
男は息を呑んだ。
「ええ、いろいろ問題がありまして。申し訳ない。以後、気をつけますので」
男はまじまじと仙元の顔を見た。落ち窪んだ眼と削げた頬。憔悴しきったその顔から、問題の一端を嗅ぎ取ったのだろう。全身を覆っていた険が消え、声のトーンが和らいだ。
「事情はいろいろおありでしょうが、何分、夜中だしね。隣近所でも問題になっているみたいだし──」
仙元は頭を下げ続けた。男が帰ったあと、リビングのソファに座り、タバコに火を点けた。冷蔵庫に直撃された食器棚が、辺り一面にガラスの破片を撒き散らしている。引き戸を閉めたフローリングからは、テレビの音と、スナック菓子を齧《かじ》る乾いた音が漏れてくる。
じきにこのマンションも出て行かざるを得ないだろう。その後はどうしたらいい? 山奥の一軒家にでも引っ越すか? だが、カネはどうする? 仕事はあるのか?
疲弊しきった頭には重すぎる問題だった。朝を待った。いまは、黒田ちづるを待つしかなかった。
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七月二十八日(水)
「エイ、エイ」
野太い気合が辺りに響くと、ハトの群れが一斉に飛び立ち、ビルの谷間で弧を描いて、灰色の空に消えた。渋谷駅前の、山手線に沿って細長く延びる宮下公園では夕方、シティ・ガードのパトロール前の訓練が始まっていた。公園の中ほどにある、四角い池のほとり。十名のメンバーが黒のTシャツ、迷彩ズボンというユニフォーム姿でトレーニングメニューを次々に消化していく。
南田は木陰でノート片手に、時折ペンを走らせながらその様子を観察した。最初は正拳突きだった。ベンチに座った老人やカップルが好奇の眼を向ける中、少年たちは気合もろとも拳を突き出す。指導は、キムと呼ばれる大柄な少年だ。リーダーの三枝航は脇に立って腕を組み、全員を睥睨《へいげい》するように見ている。受けから蹴りと続き、一息入れた後で実戦的な訓練に移った。三枝航が前に出た。
「いいか、相手の攻撃を冷静に見極めることが大事なんだ。パンチかキックか、それとも掴んでくるのか、まずそれを判断する」
三枝航は、キムと向かい合って立った。両腕を垂らし、足を肩幅に開いた自然体。キムは両拳を顎の辺りで構えたクラウチングスタイル。スッとキムが動いた。左腕を突き出しながら拳を開く。が、掴む、と見せかけて、右のストレートパンチが飛んだ。
三枝航は、キムの唸る拳を、瞬間的に両腕を絡めて捌《さば》いた。パンチが流れた。すかさず肩の関節を逆に捩りあげ、上半身の動きをピタリと止めた。次いで両足を払って地面に叩きつける。キムの巨体が呆気なく舞い上がり、砂埃をあげて沈んだ。相手の力を利用した、見事な体捌きだった。メンバー全員が眼を輝かせ、噴き出す汗を拭おうともせず、羨望の眼差しを向けている。
「だが、こんなことよりずっと大事なことがある。分かるか?」
全員、真剣な面持ちでかぶりを振った。
「悪を排除する、という強い心だ。ぼくたちは、正義を遂行するためにここに集《つど》い、活動しているんだ。志をひとつにすれば、一プラス一が十にも百にもなる。悪を排除するという崇高な目的がある以上、負けること、逃げることは絶対に許されない。ぼくらには不安や迷いを駆逐する、絶対的なパワーが必要なんだ。そして、すべてのパワーの源泉は、ここにある」
三枝航は、胸を拳で軽く叩いてみせた。
「肉体の痛みなんて、心次第でどうにでもなる。この世の真理はただひとつ。高邁なる精神はあらゆる肉体の苦痛を超越する≠ニいうことだ。だから、心さえ、魂さえ屈服しなきゃ、この世に不可能なんてない、とぼくは信じている」
ゆっくりとした、聞く者の心に染み入る話し方だった。公園の西側に接して走る山手線を電車が間断なく通過し、東側の明治通りからはクルマの轟音と道路工事のドリルの破砕音が響いてくる。両側からサンドイッチ状に迫ってくる轟音で、隣の話し声さえ聞こえない時間帯がひっきりなしに到来するが、航の言葉は、力んでいるわけでもないのに、クリアに聞こえてくる。言葉のひとつひとつに、不思議な力強さがあった。
「ぼくは中途半端な生き方はいやだ。羊となって百年生きるより、誇り高いライオンのまま一日で死んだほうがずっと素晴らしいんだ。みんな、そう思わないか?」
柔順な、同意を示す声が辺りいっぱいに満ちた。感極まって眼を真っ赤に泣き腫らしている少年さえいた。
南田は、取材ノートをめくり、密かに進めていた事前取材の結果を確認しながら、得心したように軽く頷いた。
訓練終了後、夜のパトロールに同行した南田は、嬌声と騒音に満ちた、原色に輝く繁華街を歩き、時折、三枝航と言葉を交わした。
「こうやって遊んでいる若者がいる一方で、同世代のきみたちが、自警団を組んでパトロールしている。つまりきみたちの自己犠牲のうえに、彼らの安全が確保されているわけだよね。少し理不尽な気もするんだけど」
「価値観はひとそれぞれです。気にしません」
答えは常に明瞭で簡潔だった。メンバーに的確な指示を与えながら、三枝航は辺りに注意を払い、からかい半分に近寄ってくる酔漢は強い視線だけで制した。メンバーは、強力なリーダーの統制のもと、生き生きと動いていた。
一度、ピリリ、と笛が鳴った。航を先頭に、全員、瞬時に身を翻して走る。南田も息を弾ませて走った。編み上げ靴の硬い踵が、アスファルトを激しく乱打する。身を絞るような緊張感が、一歩足を進めるたびに高まっていく。ファーストフード店の前。三人の、髪を肩まで伸ばしたチーマー風の少年がスーツ姿の中年男二人のネクタイを捩じ上げてこづいている。三枝航はその輪の中に飛び込み、強引に双方を分けた。他のメンバーが周囲を固める。チーマーの小柄なひとりが三枝の顔を見るなり、慌てて逃げようとしたが、三枝航は襟首を掴んで引き寄せると、
「逃げるな、他人を殴るなら理由があるんだろう、それをちゃんと言え!」
厳しい口調だった。
「このおっさんらが、おれたちをオチコボレ、と笑ったんだ。だから──」
金髪のチーマーが、弁解するように言う。
「本当ですか」
三枝航は、唇の端を切って血を滲ませ、赤い酔眼で睨めつける男に訊いた。
「バカヤロウ、おまえらガキに嘗められてたまるか! 勝負してやるぞ、こら」
酒臭い息とともに吠えて、拳を振り回した。航は、腕をとって抑えた。
「ガキにもプライドはあります。言葉の暴力はよくない。おまえたちも」
口を半開きにして立ち尽くすチーマー三人を振り返った。
「フライパンのポップコーンじゃあるまいし、そんなにポンポン弾けるなよ」
三人は三枝航に促されて頭を下げ、自分たちの暴力を詫びた。サラリーマン二人も興奮が収まると、捨てゼリフを吐きながらも、そそくさと立ち去った。
南田は口笛でも吹きたい気分だった。大人に注意されれば反発して、逆に暴力をふるいかねない街の不良少年が、航の前では素直に自分の非を認めたのだ。なにか魔術でも見ているような気がした。管理職と覚しきサラリーマンも、自分の息子のような年齢の少年の持つ凜とした雰囲気に、完全に気圧されていた。
得体の知れないこの力こそ、カリスマなのだろう。南田は、三枝航という強力な磁力を持つ少年に、たまらない魅力を覚えた。一緒に街を歩くだけで気分が高揚した。生まれ持った資質の差に、年甲斐もなく嫉妬さえした。
同じ年頃の自分を振り返れば、文学に耽溺し、本の中にだけこの世の真実があると信じる、狭量で単純な少年だった。ただ現実の世界から逃避していただけなのに、全身に不機嫌の鎧を纏《まと》い、他人の干渉を病的に忌避することが、世俗に塗《まみ》れない、超然とした孤高の姿だと思っていた。人間の底知れぬ苦悩と欺瞞《ぎまん》を掴み出してみせたドストエフスキーの作品の、バターのように濃密な一節を口の端《は》に載せれば、それだけで他の人間とは違う、という優越感に浸ることができた。
もしあの頃、三枝航に出会っていたなら、自分の救いようの無い矮小さを骨の髄まで思い知らされ、心服して何のためらいもなく跪《ひざまず》いていただろう。それだけの魅力が、この少年にはある。しかし、と南田は思い直した。自分はいま、報道する側の人間なのだ。相手との距離感を失えば、感情移入が過ぎて真実が見えなくなる。それに今、自分は三枝航が悪を憎悪する本当の理由を知っている。
この世に理由の無い正義など存在しない、そう思った途端、すっと引いて、客観的に三枝航をとらえることが出来た。
パトロールは午前零時に終わり、解散となった。南田は、本格的なインタビューに臨むため、三枝航とキムとともに事務所に向かった。
渋谷駅前から井の頭線の高架に沿った小路を入り、突き当たりを左に折れ、大ガードを潜った。小便のすえた臭いと、ホームレスのダンボールハウス。大ガードを抜けてすぐ右、街灯が灯る薄暗い、急な勾配の坂道が延びている。その坂を登りきったあたり、ヌードスタジオの裏手に木造二階建ての古びた焼肉屋があった。
煙に燻《いぶ》されたブリキの看板には赤いペンキで『木浦《モツポ》』の文字が見える。焦げたタレの甘い匂いが、一階店舗の換気口から薄青の煙とともに噴き出し、辺り一帯に漂っている。
店の外に鉄製の階段が張り出していた。二人について足を進めると、二階は唐辛子とニンニクの香りが漂う倉庫と『シティ・ガード』の事務所を兼ねる、二十畳ほどの板張りの部屋だった。
隅に麻袋がうずたかく積まれ、壁に沿って置かれた鉄製の棚には原色に彩られた缶詰がずらりと並ぶ。残りのスペースをガラスの衝立で二つに区切り、手前がスチール机を二つ置いただけの事務所、奥が応接室になっていた。もともとエアコンのない倉庫だから、昼間の炎天の名残をとどめ、じっとしていても汗が噴き出してくる。キムが窓を開けると、幾分涼しい夜気とともに、焼き肉の煙が流れ込み、白熱灯に照らされた部屋は朧《おぼろ》な青に染まった。
事務所の机のひとつに、キムが座り、応接室に航と南田が入る。二人は擦り切れた革張りのソファに向かい合って座った。床下から焼肉屋のざわめきが漏れ聞こえてくる。
「ご承知でしょうが、ぼくたちは完全なボランティアなんです。この事務所にしてもメンバーのキムのお父さんから好意で提供してもらったものです」
航はパトロール中には見せなかった柔らかな笑みを浮かべた。
「きみたち『シティ・ガード』の活動は、純粋な正義感の発露、ということかな」
「もちろんです」
「最近、ファンも増えたみたいだね」
南田は、あの若い雑多なエネルギーが噎《む》せ返るセンター街で、航に向けられていた周囲の憧れと好意の視線を見逃さなかった。
「そうですか」
気の無い答えだった。しかし、航は、いまや有名人だ。若者たちが、街の治安を守るために自警団を結成。しかもリーダーにはカリスマ性があり、テレビカメラの前でも理路整然と自己主張ができる、十八歳の少年。注目されるのも当然だった。
南田はひと通り、『シティ・ガード』の概要を訊きながら、持ち札を切る頃合いを測っていた。昨日、手に入れたばかりのとっておきのエースのカードだ。ペン先でトントンと取材ノートの端を叩きながら、視線を上げた。航の双眸がひたと自分を見つめている。澄んだとび色の瞳は、揺るぎない自信と希望に満ちていた。二十九歳の南田は眩しさに一瞬、眼を細めた。
以前の自分なら、この、毫もてらいのない正義感に、新興宗教の教祖が滔々と語る理想にも似た、一種の不気味さを感じたはずだ。しかし、今は違う。憐憫と余裕をもって、ひたと据えられた瞳を受け止めることができる。
昨日、渋谷警察署を訪ねたのは、ほんの小さな疑問からだった。朝のワイドショーを目にしてポッと広がった疑問。渋谷に少年を中心とした、別の自警団が存在することは知っていた。たしか、ニューヨークで生まれた少年たちの自警団の日本支部、と名乗っていたはずだ。もっとも彼らの主な活動は、泥酔者の介護や強引なナンパの阻止、電話ボックスのビラの撤去など、いってみれば町内会の見回りと大差なかったと記憶している。以前、テレビのドキュメント番組で紹介された彼らの素顔は、気弱で真面目、という印象が強かった。メンバーのひとりが、参加の動機を「輝ける場所が欲しかったから」と語るのを見て、コンプレックスの裏返しだな、と妙に納得してしまったのを覚えている。
しかし、『シティ・ガード』は違う。根本的なスタンスの違い、と言えばいいのか。テレビ画面を通して聞いた三枝航の、強靭な意志に貫かれた言葉の数々は、世俗の垢にまみれ、ストレートな感情をつい自制してしまう雑誌記者の性《さが》が染み付いた南田の琴線にも触れるものがあった。が、同時に、拭いようのない違和感も湧き上がった。あのテレビに映し出された派手な乱闘劇は、理屈がどうあれ、警察の職分を完全に侵食している。
なぜ、警察は傍観したままなのか。魚住からの電話で取材を決めるや、まずその疑問を解くことが先決だと考え、昨日、管轄の渋谷警察署を訪ねた。応対したのは胡麻塩頭に猪首の、目玉のギョロッとした、いかにもたたきあげ風の五十がらみの警官だった。差し出された名刺には「生活安全課・課長」と記載してある。課長は、廊下にしつらえた小ぶりのソファセットに座るなり、頭をボリボリかきながら、
「たくッ、広報担当が応対すりゃあいいのに」と、誰に言うともなく愚痴った。言外には、たかがフリーのルポライター風情《ふぜい》に、という蔑みがあった。
「副署長じゃダメなんです」
南田は、腰を下ろしながら、一言クギを刺した。強いもの言いに虚をつかれたらしい課長は、一転、尖った視線を向けてきた。南田はそれを正面から受け止めて言葉を継いだ。
「まさか課長にお会いできるとは思いませんでした。幸運、なんでしょうね」
課長は憮然とした表情で横を向いた。南田は薄く笑った。自分は「黎明」で書いているライターだ、と言い聞かせるだけで、余裕をもって対処することができる。フロントの完成原稿をまとめるという大きな試練を乗り越え、自分がライターとして揺るぎない自信を得たことを知った。
警察は所轄で事件が発生した場合、公式発表、個別取材を問わず、マスコミへの応対は副署長が担当する。まして一介のルポライターなら、副署長の木で鼻をくくったような対応でお茶を濁されるのがおちだ。今回、担当の生活安全課、以前は防犯課と呼ばれていたセクションの長が直接出てきたのは僥倖以外の何物でもなかった。いや、確とした事件が発生したわけではないから、公式発表のレジメもなく、副署長のルーティンワークの範疇外なのだろう。おかげで取材はのっけから本筋に迫ることができる。
「『シティ・ガード』なる若者の自警団を、なぜ、野放しにしているのか、という質問ですな」
課長が取材の意図を探るように、南田の反応を窺う。
「野放し、という表情が適切かどうかは判断つきかねますが、わたしはあのままだと事故が起こってもおかしくない、と思います」
「彼らは、常に細かな連絡を交番に入れてくるし、よほどのことが無い限り、相手の身柄を拘束する、なんてことはありません。警邏《けいら》の警官も、口を酸っぱくしてやり過ぎを諫《いさ》めているし、彼らもそれは分かっていますよ」
「でも、不慮の事故は有り得る。拳銃なんか十万二十万で買える御時世だ。何かあったら、警察の責任は免れない、と思いますが」
課長がひとつ、咳払いをくれて、再び口を開いた。
「犯罪を未然に防ぎたい、という彼らの気持ちは、あなたが考える以上に純粋ですよ。今時の若者には珍しい、正義感に溢れた連中だと思いますがねえ。十七、八なんて、遊びたい盛りだろうに」
声のトーンが追従を含んだ気がした。南田は眉根を心持ち、寄せた。
──この男は理解を求める振りをして、何かを隠している。いや、隠してはいるが、穴をあけて欲しい、とも言っている。
テレビカメラの前で、理路整然と自分の意見を述べる、自信に溢れた三枝航の顔が浮かんだ。
「遠慮、していませんか? リーダーの三枝航くんに」
課長は口をへの字に曲げ、腕を組み、天を仰いだ。
──当たりだ。
沈黙はものの一分と続かなかった。
「遠慮はしていない。だが、同情はしている。彼にはできるだけ力になりたいとも思っている。警官なら当然のことだ」
強い口調でそう言うと課長は背広の内ポケットから万年筆を取り出し、傍らのシステム手帳にペンを走らせた。
「いずれ分かることだからな」
そんな自嘲めいた呟きが聞こえた。
課長は白いページを無造作に破り、南田に手渡した。そこには角張った文字で、
三枝光次
綾子
と、書かれていた。
「誰です、これ」
「察しがつくだろう」
「家族?」
「みなまで言わすな。データベースで引っ張り出してみろ」
課長は苛立たしげに席を立ち、人差し指を突きつけ、
「いいか、おれと会ったことは記事にするな。それから、彼の潜ってきた過去を記事にして良いか否かは本人に確認しろよ。分かったな」
そう言うと、そそくさと歩み去った。
南田はすぐさま、九段下の「黎明」編集部へ帰り、パソコンに取り付いた。新聞のデータベースに検索キーワードを打ち込む。出て来た記事は三件。最初の記事の日付は、一九九五年八月十日。社会面に十数行の扱いで掲載されていた。航が、正義を滔々と語る理由、自警団を結成した動機のすべてが、そこに書かれていた。
南田の脳裏に、昨夜、エースのカードを引き当てた際の興奮がまざまざと蘇った。目の前の航に、それを突き付けたら、いったいどういう反応を示すのだろう。十八歳のカリスマと、その悲惨な過去。南田は密かに舌なめずりをしながら、軽いジャブを繰り出した。
「でも、正義感だけじゃないと思うな。命を賭けて、なんて、そんなに軽々しく口にできるはずはないもの。ほかに理由があるんじゃないの?」
「どんな?」
航は、さも面白そうに聞き返した。
「家族構成を聞きたいんだけど──」
チラと航の顔を見る。が、静かな表情は微動だにしない。
「ご両親はすでに亡くなっているよね」
言ったあと、南田はごくりと唾を呑んだ。沈黙、それとも動揺? だが、航は一瞬の逡巡もなく口を開いた。
「ええ、殺されました。十四歳の時に」
ジャブを繰り出したつもりが、強烈なアッパーカットで打ちのめされた気分だった。南田は次の言葉が続かなかった。慌てて眼を伏せ、懐をまさぐると、一枚のコピー用紙を取り出した。昨夜、データベースから引き出した記事だった。
「これ、だよね」
憐憫を含ませたつもりだが、卑屈な、許しを請う口調になっていた。エースのカードが、ただの紙切れになった気がした。航は手に取り、さっと眼を通すと南田を見つめ、呟いた。
「知ってたんだ」
「うん、まあ……」
「記者だもん、当然ですよね」
相手の動揺を嗤《わら》うつもりが、逆に嗤われている。航の声が、鉛を呑んだように重くなった。
「ひとつだけ、ハッキリさせておきます」
部屋の空気がピンと張り詰めた。
「ぼくの過去は、あなたが勝手に探し出してきたもので、ぼくが進んで明かしたわけじゃない。このことだけは記事の中で明確にしてください」
取材を拒絶したわけではなかった。内心、ホッとしながらも、あくまで冷静を装い、南田は訊いた。
「そりゃあ、事実だからいいけど、でも、なぜ……」
「売名行為、と受け止められたくないんです。『シティ・ガード』の活動は、犯罪を憎む気持ちから生まれた、ということを記事を読むひとに知って欲しいんです」
南田は、航の条件を受け入れた。これで、狙い通りの記事が書ける。自警団リーダーの隠された過去、おぞましい体験が培《つちか》った信念。
一九九五年八月十日付の朝刊にはこう記してあった。
〔九日午後六時ごろ、東京都大田区西羽田一丁目の会社員、三枝|光次《こうじ》さん(四五)方で「両親が倒れている」と、三枝さんの長男(一四)から一一〇番通報があった。
蒲田署員が駆けつけると、二階寝室で光次さんと妻の綾子さん(四〇)が死亡しているのが見つかった。光次さんと綾子さんは胸などを鋭利な刃物のようなもので刺されており、自宅内にも物色の跡があることから、警視庁捜査一課と蒲田署は強盗殺人事件と断定。九日午後十時、同署に捜査本部を設置し、捜査を開始した。
調べによると、三枝さん宅は夫婦と長男の三人暮らし。長男は三日前から中学の臨海学校で家を留守にしていた。現場は京浜急行線穴守稲荷駅の近くの商店街に隣接した住宅地。玄関にカギはかかっていなかった〕
その後の報道によれば、死亡推定時刻は九日未明。怨恨ともの盗りの双方から捜査が進められたが、結局、犯人は挙げられないまま、今日に至っていた。
十四歳で、両親を残虐な殺人事件で失い、しかもその凄惨な現場の第一目撃者となったのだ。ショックは想像を絶するだろう。犯罪を憎む気持ちが高じて、自警団を結成した、というストーリーは、万人の共感を得るはずだ。ヌードグラビアが目玉の青年週刊誌にはもったいない、世間の耳目を引くスクープだった。
午前一時、取材を終えた南田は、事務所を出る際、握手を求めた。南田には取材がうまくいったとき、つい右手を差し出す癖があった。以前、仙元から「傲慢《ごうまん》だな」とたしなめられて以来、控えていたが、今日は思わず手が出てしまった。それだけ、手応えがあったということだ。航は躊躇なく、その右手をグッと握り返してきた。厚みのある掌と確かな握力。と、妙な違和感が南田の指先に触った。ザラッとした感触。紙やすりに触れたような……。
南田の訝しげな視線に気づいた航は、手を離し、小指の下、掌の肉厚の部分を示した。はっと息を呑む。赤黒く盛り上がり、乾いた餅のようなヒビが入っている。その角質化したヒビに爪を割り入れ、引き剥がせば、地肌が見えるのでは。そんな気さえする、異形《いぎよう》の手だった。
「毎日、手刀を立木に叩き込むんです。内出血を起こしても、血を抜いて、叩いて固めます。こんな手になればもう大丈夫。ブロック二枚を重ねて割れます」
「空手?」
航が頷いた。
「どんな危険な場面に遭遇しても対処できるようにね。幸い、メンバーの中には格闘技の経験者が多いから、指導者には事欠きません」
──いや、違う。人間の手は、幾ら鍛え込んでもあんなふうにはならない。とすると、何だろう、何があんな異形の手を──
ふっと芽生えた疑念を、航の言葉が断ち切った。
「南田さん、ぼく、これからもこんなふうに、過去をいろいろ詮索されるのかな」
これまでの自信に満ちた言葉とは一転して、どこか沈んだトーンだった。十八歳の、まだ大人になりきれない不安定な心が覗いた。悲惨な事件がもたらしたトラウマと、それを乗り越えようとする意志の葛藤。南田は噛んで含めるように語った。
「これはほんの序の口さ。いまに津波のような取材攻勢がある。覚悟しておいたほうがいい」
少しだけ、優位に立った気がした。頬が自然と上気してくる。しかも、「黎明」のトップ記事をまとめたばかりだというのに、またスクープをものにしたのだ。確実に上向いた運気に酔っていた。
渋谷駅前でタクシーを拾った南田は、すぐに車中からデスクの魚住に電話を入れた。取材を終えたことを告げ、次いで記事掲載への条件を告げた。
「今回は署名でいきますから」
≪署名?≫
「おれの名前を、記事はもちろん、目次にも入れてください」
≪南田ちゃん、どうしたの? 「黎明」の編集部に知れたらやばいでしょう。くれぐれも名前だけは内密に、って言っていたじゃない≫
うろたえると、途端に激しくなるオネエ言葉が耳に響いて、急に腹立たしくなった。
「署名記事にできなきゃ、おれ、書きませんよ」
力を込めて言った。
≪そりゃあ、署名は問題ないけど、南田ちゃん、なんか今夜は変だね。お酒でも入ってるの?≫
非難めいた言葉は無視して、自分の名前をタイトルの下に大きく載せるように、と指定してから電話を切った。
──いつまでも、ひと山いくらのライターと一緒にするなよ。
窓の外を流れるネオンと人の波を、心地よい高揚感とともに眺めた。南田は、将来が確実に開けていくのを感じた。
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七月二十九日(木)
午後六時、仕事を終えた勇志はプレハブ造りの作業員詰め所を出た。駆け足なら十五分で家に着く。手には汚れ物を詰めたズックのバッグが一個。濡れたタオルを絞り切るように、体力を使い果たしたはずなのに、仕事から解放されると、いつもどこからか力が湧いてくる気がする。安全靴を脱いだせいか、それとも、多摩川から渡ってくる潮の香りを吸い込んだからか。擦り切れたジーンズに、色の褪せたピンクのポロシャツ姿の勇志はバッグを小脇に抱え、駆け出した。
──まず、じいちゃんのオムツ、それから食事の支度、洗濯。
習慣になっている帰宅後の段取りが、自然と頭に浮かぶ。と、背後からクラクションが鳴った。振り返る。流れるような直線で縁取りをした濃紺のクルマ。黒のフィルムを貼った運転席の窓から、眉のない顔が覗く。背中に冷たい汗が浮いた。
「よう、人殺し」
タクヤだった。唇のへりを吊り上げて、薄笑いを浮かべている。左頬の傷跡が醜く歪む。
「乗れ」
アゴをしゃくる。蛇に睨まれたカエルだった。勇志は助手席に乗り込んだ。強いコロンの香りがした。エンジンが唸りをあげ、タイヤが軋む。
「R31スカイラインのGTS─Rだ。二・四リッターまであげたフルチューンエンジンだぜ。ラクラク二百キロは出る」
上機嫌なタクヤはステアリングを握りながら、勇志に一瞥《いちべつ》もくれず、勝手に喋っている。
「キャッシュ百八十万だ。いい買いもんだろうが」
「おれにはクルマ、分かんないから」
タクヤの細い眼が、抱えたバッグを一瞥する。
「作業着か」
「はい」
「汗くせえな」
「すいません」
タクヤはシルクの紫のシャツに細身の白いパンツ、黒のエナメルの靴。はだけた胸元には金のネックレスが光っている。
「タクさん、仕事やめたんですか」
「メグがいるんだぜ、あんなとこにいれっかよ」
メグミのためにもステップアップしなければならないのか、それとも、メグミが稼いでくれるから、働く必要がないのか。どっちともとれるが、おそらく後者だろう。キャッシュで払ったというクルマのカネも、メグミの蓄えのはずだ。メグミは蒲田駅前のピンサロで働いている。イサムが「いい女をつかまえたよな」と、羨ましげに言っていた。そう、こいつはヒモだ。それもとびっきり陰湿な。
暴走族時代、敵対するチームのメンバーをシメる時は、必ずひとりになるのを狙っていた、と自慢げに語っていたのを覚えている。二日でも三日でも、蛇のように執念深く付け回し、ひとりになったところを三、四人で襲い、仲間のアパートに連れ込んで、殴って蹴って、最後はオナニーをやらせるのだという。嫌だ≠ニいうと、また殴る蹴る。顔が紫色に腫れ上がり、殴っている連中もどんな顔だったか思い出せなくなる頃には決まってやる≠ニいうらしい。でもいくらしごいても、勃たない。それをみんなで笑って唾を吐きかけると、どんなワルでもオイオイ泣き出す、としたり顔で言っていた。聞きながら、反吐《へど》が出そうだった。ほかにも、さらって首まで埋めたやつの頭を木刀でかち割ったり、素っ裸に剥いて多摩川大橋の上から突き落としたり、タクヤのヤキいれは天下一品だったらしい。
「おまえ、同級生を殺したんだってな」
容赦のない言葉が突き刺さる。
「イサムがビビッてたぜ。あの腰抜けが」
クルマが止まる。目の前に灰色のコンクリートがあった。多摩川の堤防沿いを走る、人気のない道路だ。
「だがな、おまえも腰抜けだ」
ステアリングに片手を乗せ、タクヤが睨めつける。唇が歪む。
「殺された野郎はバカだ。臆病者の扱い方を知らねえ」
ふいに右手が動いた。拳が鼻にたたき込まれる。激痛に涙が滲んだ。思わず両手で押さえると、ヌルッと血が垂れた。
「汚すな!」
怒声に、慌ててバッグからタオルを取り出して拭う。
「ヒステリー起こせば何すっか分からねえ腰抜けは、ヤキで分からせるに限る。そして、油断しねえことだ」
どこか遠くで声が響いているようだった。
「生かさず、殺さず、という言葉を知ってるか?」
勇志は弱々しく頷いた。降りかかる悲劇への前奏に相応《ふさわ》しい言葉だ。
「おれは鵜飼だ」
口に流れ込む血を飲み下しながら、勇志は呻いた。
「おまえは鵜だ」
目の前が暗くなった。メグミが一羽目で、おれが二羽目の鵜。そういうことだ。
「やべえ橋を渡るのは、もうイヤなんだよ、勇志」
タクヤは環八沿いのカーショップを荒らしまくって、栃木の少年院に食らい込んでいたことがある。夜中、ウインドウを鉄パイプでぶち割って、商品を洗いざらいかっさらっていく、という知恵のかけらもない荒っぽい手口だった。それもタクヤの勲章だ。しかし、二十歳《はたち》になれば、つぎは少年刑務所だ。マエもつく。
「百万、耳そろえて持ってこい」
百万……尖った声が耳朶を打った。
「おれとメグのパーティ、弁償しな。おまえのおかげで台なしだ。カネ貯め込んでんの、イサムから聞いて知ってんだ」
勇志は頭を垂れた。
「勘弁してください。ほんと、おれ、悪かったです。でも、百万なんて──」
「ババアも働いてんだろうが。カネがねえ、なんて言ったらてめえ、埋めちまうぞ!」
鼻に皺を寄せ、凄んだ。ピーンと金属の弾ける音がした。さっき、拳をつくっていた右手が、今度は光っている。スチールの尖った刃が突き出ていた。刃渡り十五センチほどの飛び出しナイフだ。
「明日だ、持って来い。いまの時間、ここで待ってるからよ」
「でも、タクさん」
硬い刃が頬に当てられた。
「おまえにタタキやれって言ってるんじゃねえんだ。ババアがカネ握ってんなら、蹴倒してでも引き出してこい。もしフケたりしやがったらてめえ、チンポの先から楊枝、埋め込んで、これでウィンナーみてえに切り裂いてやっからな」
身震いがした。タクヤなら何の造作もなく、やるだろう。笑いながら、さも愉快そうに。
助手席から蹴り出され、アスファルトの上に這いつくばった。バッグを投げ付けられた。けたたましいエンジン音を残して、クルマが去っていく。
夕陽を照り返して銀色に輝く吊り橋、産業道路が通る大師橋が目の前にあった。激しい渋滞を起こしているのだろう。苛立たしげなクルマの轟音が降ってくる。堤防上の遊歩道を下流に向かって歩き、大師橋の下を抜けると、今度は首都高速の高架が現れる。高架は橋となって多摩川を跨ぎ、川崎に入ると大師橋と重なる。二段重ねの道路は高速が上で、産業道路が下だ。ここを通るたびに、カネを持ってるやつがやっぱり偉いんだ、と思ってしまう。カネを払う高速と、その下を走る、カネのいらない産業道路。
堤防を降り、多摩川を背に、そびえ立つ高速の高架の下を、品川の方向へ向かって歩いた。いがらっぽい空気が喉にへばり付く。血の混じった痰を吐く。絶望感が胸を締め付けた。
──百万円。
どこにあるというのか。おふくろは貯めこんでいるのだろうか。いや、たとえあっても、これ以上、迷惑はかけられない。
足が重い。乾物屋の角を右へ折れて、路地を五分も歩けば家だ。クソと小便の臭いがこもったちっぽけな借家。高速の下は人気のない駐車場と公園が広がっている。いち早く夕闇が入り込み、仄暗い、粒子の粗い大気が辺りを支配していた。公園のブランコが揺れる。錆びた鉄が擦れあう軋んだ音がする。黒い人影が両腕で鎖を抱くようにして手を組み合わせ、長い脚を投げ出している。そこで、視線が止まった。
ブランコからユラリと、陽炎《かげろう》のように人影が立ち上がった。こっちへ歩いてくる。勇志は足をひき、身構えた。
「待ってたよ、勇志」
眼を凝らした。水銀灯の下、浮かび上がった男。レモンイエローのサマーセーターにチノパン。削げた頬とがっちりした顎、太い眉。三枝航だった。
「航!」
弾んだ声、自分でも上ずっているのが分かる。左の耳でダイヤのピアスが白く光った。場違いな光、自分から遥か遠くにある煌めき。次の瞬間、航に会えた喜びは空気の抜けた風船のように萎《しぼ》んだ。かわりに冥《くら》い戸惑いが頭をもたげる。
「どうして航がここに?」
「友達だろう、ぼくとおまえは」
勇志より頭半分背の高い航は、見下ろすように柔らかな視線を注いできた。しかし、戸惑いは消えない。
「だって、テレビでも紹介されてるじゃないか。おれ、朝のワイドショーで見たよ。やっぱり航はスゴイよ。おれの思った通りだ。仲間だって何人も引き連れてるじゃないか」
「ぼくの本当の友達はおまえだけだよ、勇志」
優しくくるむような声。航、昔と変わらない。が、その顔が歪んだ。眼を細め、のぞき込んでくる。
「どうした、勇志」
「なに」
「その顔だ」
はっと息を呑んだ。忘れていた痛みがジリジリと広がってくる。そっと触ってみる。鼻がぷっくりと膨れていた。指を見ると、黒々とした粘った血が付いている。
「殴られたな」
顔を伏せた。こんな姿、もう航には見られたくない。
「誰がやった」
静かな口調だった。
「大したことない。それより」
思い切って顔を上げた。
「おれに用があったんじゃないのか」
航は黙ったまま踵を返すと、公園の、ペンキの剥げた木製のベンチに座った。風がとまっている。淀んだ大気が、肌にまとわりつく。勇志は水飲み場でタオルを濡らし、鼻に当てた。
「おまえの家をのぞいてきた」
「臭かっただろう」
「ああ、ウンコの臭いがした」
勇志は航の隣に腰を下ろした。
「じいちゃんが倒れてね。おれが今日、遅れたから、オムツ、まだ替えていないんだ。おふくろはまだ寝ているはずだし」
「少年院を出たのは一年前だったな」
「うん」
「毎日働いているんだな」
「移設会社だよ。ここから駆け足なら十五分でつく」
「イセツ?」
「荷物、運ぶんだ。でっかい会社のロッカーとか事務機器とか」
「休みは」
「水曜だけ。事前に申し出れば休みをくれるって話だけど、そのときは日当がもらえない。日給月給の臨時作業員だから」
「アルバイトみたいなものか」
「そう。何の保証もないんだ。病気で倒れたらそれで終わり」
ふと、シゲさんの顔が浮かんだ。無断欠勤はクビだ──。でも、前もって言えば、休ませてくれるのだろうか。勇志には分からない。水曜以外、休みをとったことがないから。
「面白いか」
「面白いもんか。毎日、毎日、重たい荷物を運ぶだけだよ。年少のほうがよっぽどいいや。畑耕したり、木工工場で机やテーブル作ったりできたし……でも、やんなきゃ、食えないからやる。航みたいに頭良かったら、他にも道があったんだけどな」
出所後の素行を点検されている気がしたが、航だから許せる。勇志にとって、航は特別な存在だ。
航は、常に光り輝いていた。勉強も一番でスポーツも万能。羨ましさを通り越して、所詮、自分とは人間の種類が違う、と諦めざるを得ないほど非の打ちどころがなかった。
翻《ひるがえ》って自分はどうだろう。小さいときから周囲の眼ばかり気にしていたから、親にも近所にも、手のかからないいい子と思われていた。他人に優しくしてやれば、それが自分にも返ってくると信じていた。だから、みんなの喜ぶことをしてやろうと、いつも思っていた。
小学校に入学してすぐに、下校途中、腹痛を訴えた子のランドセルを持ってやった。その子は喜んでくれた。嬉しくなってニコニコ笑った。すると一緒に帰る友達が、口々に言い始めた。ユウジはランドセルを持たせると嬉しがる、と。みんなの期待を裏切るのは嫌だったから、喜んで持った。一個、二個、三個、四個までは持てた。しかし、五個になって百メートルも歩くとへたりこんだ。ひとりが、尻を蹴った。
「せっかく持たせてやったのに、つまんないよ」
勇志はよろめく脚を踏ん張って立ち上がった。また歩いた。両膝をついてへたった。
「こいつ、面白いぞ」
笑い声が聞こえた。今度はヨロヨロと立ち上がったところを二人に蹴っ飛ばされて、前のめりに倒れ込んだ。そこへ、体重が勇志の倍はありそうな肥満児がランドセルの上から乗っかってきた。息が詰まって、手足をバタバタさせた。
「カメだ、カメだ、こいつ、カメみたいだ」
全員が手を叩き、笑顔で囃《はや》し立てた。勇志はこのときからオモチャになった。
大声を出し、自己主張すれば、イジメの矛先はそれていく。だが、勇志はヘラヘラと笑うことしかできなかった。笑って、機嫌さえ損ねなければ、嫌な目に遭うことはない、と信じていた。それに怒るより、笑うほうがずっと簡単だった。しかし、とんだ思い違いだった。最初、押したりつねったりの、遠慮がちな攻撃は、じきに蹴ったり殴ったりの本格的な暴力へとエスカレートした。
小学四年になると、便器に顔を突っ込まれ、体育前の休憩時間、ズボンとパンツを剥ぎ取られて女子の更衣室の中に蹴り込まれた。素っ裸のまま股間を押さえて、ウロウロと歩き回って、黄色い罵声を浴びた。昼休み、サンドバッグみたいに殴られ、蹴られ、教室の床に頭をこすりつけて、許しを乞うと、せせら笑いとともに給食の残飯、みそ汁と牛乳とミートソースにパンクズを溶かしたやつを食わされた。トイレに行かせてもらえず、午後の算数の時間、こらえ切れずに席を立とうとすると、後ろのやつがコンパスの針を腕に突き刺した。振り返ると、細い眼で睨めつけ、囁いた。
「そこでしちゃえよ。みんな待ってんだから」
チラチラと教室のあちこちから、好奇心に満ちた視線が刺さってくる。
勇志は、膀胱が破裂する寸前、派手な音を立てて小便を漏らした。モワッとした湯気が立ちのぼり、教室中に甲高い悲鳴と嘲笑が響いた。生あったかい感触が、次第に冷え冷えとし、小便に濡れた肌が猛烈に痒くなってくる。勇志は相変わらずヘラヘラ笑っていた。ここでも泣くより、笑うほうが、ずっと簡単だった。
教壇には、髪をきっちり七三に分けた、まだ大学を出たばかりの、女みたいに肌の白い担任がいた。しかめ面をして足早に寄ってくると、さも呆れたといわんばかりに、甲高い声で言った。
「おまえ、ちゃんと便所、行かなきゃだめじゃないか」
そこでまた、どっと笑い声が巻き起こる。
──こいつら、腹の底から楽しんでやがる。
でも、笑い続けるしかなかった。暗い絶望に沈み込みながら、一緒に口を大きく開けて笑った。と、勇志の視界をキラッと横切った光があった。足元に射し込んだ一筋の光、航だった。しゃがみこみ、雑巾で、小便を拭っている。唇を結び、何かに怒った顔だった。
「ほっとけ」
低い声、勇志にしか聞こえない声が漏れた。
──ほっとけ。
航は、無視しろ、と言っている。周囲の馬鹿笑いがいつ果てるともなく続く中で、航はひとり、小便の後始末をしてくれた。それでも、顔にへばり付いた笑いを引き剥がせない自分が情けなかった。骨の髄から臆病者で弱虫なんだ、と思った。それに比べて、航は、何という勇敢な男なのだろう。
以来、航は、身体を盾にして勇志を守ってくれた。二人はいつも一緒だった。悪ガキどもからちょっかいを出されても、航は歯牙にもかけず、毅然とした態度を貫いた。殴られても蹴られても、それは同じだった。
自分は世の中の誰よりも、航のことを知っていると思う。勇志は小学六年の冬の日、航の真の勇気を見たのだ。誰にも真似の出来ない行為。低能どもが恐れおののき、一目置いた勇気。あの光景と匂いは、いまでも勇志の脳にくっきりと刻まれている。一生、忘れない。あんなこと、ハンパなゾクのタクヤだったら、きっと尻尾を巻いて逃げるだろう。タクヤ……眉のない顔、百万円……そうだ、明日だ、どうしよう──
「誰か、おまえんちに訪ねてきてないか?」
はっと我に返った。
「週刊誌とか、テレビとか、ぼくのこと、訊きに来てないか?」
航の真剣な顔が、勇志の答えを求めていた。そうだ、これが会いに来た目的なんだ。
「いや、来てない」
「そうか」
航の気持ちが分かった気がする。テレビとか雑誌とか、そういうものに追いかけられる毎日。自分にとっては夢の世界の出来事だった。
「航はもう、有名人だから、いろんなひとが寄ってくるよね」
「ほかの奴らのところへ行って、何訊かれたっていいんだよ、勇志。でも、おまえは違う」
何者も恐れぬ、深いトビ色の瞳。ひたと据えられたその視線から逃げることなど、勇志にはできなかった。
「おまえだけなんだ、ぼくのことを知っているのは」
「うん」
「雑誌でもテレビでもいい。もし、訊かれたら、おまえ、どうする?」
「何も答えるわけ、ないだろう」
勇志は鼻の痛みも忘れて、少し睨んでやった。航の顔に、淋しそうな色が浮かんだ。
「そうだな、馬鹿な質問だよな。どうしたんだろう、ぼく。勇志はたったひとりの友達なのに、こんなこと言っちゃって」
航の顔が、泣きそうに歪んだ。
「気にするなよ、航」
「ぼく、少し変になっている。最近また、胸のあたりがモヤモヤして、苦しい時があるんだ。どうしてなんだろう」
航は首を捻って、考え込む顔をした。分かっている。航は悩んでいるんだ。頭がよくて、いろんなことを体験してしまったから、時々こういうことがある。勇志は、励ましてやった。昔みたいに。
「大したこと、ないよ。航は特別な人間なんだから、普通のやつらには理解されないことがいっぱいあるさ」
「本当にそう思うか?」
「当たり前だよ、おれ、いままで航にウソついたことないもの」
「ぼくもだよ、勇志」
航が、白い歯を見せて微笑んだ。
──航に信頼されている。
そう思うだけで、勇志は幸せだった。
「何だっけ、航のグループ、ほら、シティ──」
「シティ・ガードだ」
「それ、どんなこと、してんの?」
航のことなら、何でも知りたい。それが自分には許されると信じている。おそらく、この世界でただひとり……。
「悪い奴らをこらしめるんだ。当たり前のことをやっているだけさ」
やっぱり、航だ。ワルを憎む、鋼のような心……航だけは自分を裏切らない。航だけがこの世の真実だ。しかし、高揚し、躍った勇志の心も一瞬だった。
「誰なんだ? おまえを殴ったのは」
航の表情が変わった。硬い顔、怖い顔、真実のみを要求する顔。
「おまえはまだ、ぼくの質問に答えていないよ」
航の尖った視線のせいだろうか。また鼻がジンジン痛くなってきた。火で奥から炙《あぶ》られるような痛みだ。航はウソを許さない。
「誰なの、勇志」
答えるしかなかった。この痛みを与えた凶暴な拳を。鵜飼を気取って、百万円を脅し取ろうとしている、冷たいナイフを。
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七月三十日(金)
「信太郎、信太郎」
何度もノックを繰り返す。萎えそうになる気持ちを奮い立たせ、引き戸の向こうに声を掛け続けた。五分が過ぎたころ、反応があった。
「うるせえ!」
怒声が響く。ガラリと引き戸が開いた。午後三時過ぎ、トランクス一枚の姿で現れた信太郎は、熟睡を遮られた怒りで眼は血走り、歯を剥き出し、いまにも掴みかからんばかりの形相で吠えた。ほつれた髪が、荒い息とともに波打っている。
「てめえ、ふざけんな──」
次の瞬間、言葉は途切れ、見る見る顔色が変わっていく。怒りはウソのように消え、代わりに気弱な影が張り付いた。俯き、悄然と立ち尽くす信太郎からは、令子が悪魔と呼んだ忌まわしい狂気が抜け落ちたように見えた。仙元は我が眼を疑った。喜びと戸惑いが激しく交錯し、思わず両手を差し伸べた。が、希望を断ち切るかのように、凜とした声が響く。
「お父さんは下がって」
背後に控えていた黒田ちづるが、仙元と入れ替わるように前へ出る。カチッとしたベージュのワンピースに肩まで下ろした流れるような黒髪、プラチナのイヤリングとネックレス。隙の無い、均整のとれた身体が、信太郎と対峙《たいじ》する。
「こんにちは、信太郎くん」
優しく語りかける。が、信太郎は俯き、黙りこくったまま動かない。すっとちづるが振り向いた。縁無しのメガネが、仙元の動揺した顔を仄《ほの》かに映し出す。
「お父さん、あなたは書斎に戻ってください。わたしがいいと言うまで、出てこないで」
有無を言わさぬ強い口調だった。
「さ、早く」
仙元は、後ずさりするように、書斎に入った。
ドアの閉まる音がした。仙元が消えたのを確認すると、ちづるは向き直り、柔らかな笑みを浮かべた。
「ねえ、シャツでも着たら」
ハッとして信太郎が顔を上げた。
「わたしはあなたの母親でも恋人でもないんだから、裸じゃマズイよ」
信太郎は弾かれたように身を屈め、床に脱ぎ捨ててあったTシャツと、短パンを取り上げ、素早く着込んだ。
「それでいいわ」
ちづるはキッチンテーブルの椅子に座る。
「ねえ、きみも座ったら? その部屋じゃ話なんてできないよ」
八畳のフローリングの間は、床にスナック菓子の袋と菓子クズ、ペットボトル、ビデオ、コミック本が散らかり、足の踏み場もなかった。信太郎は顔を赤らめ、引き戸を閉めると、もうひとつの椅子に腰を下ろした。
「わたしはね、医者なの」
ピクッと瞼が震えるのが見てとれた。ちづるはテーブルの上で細い指を組み合わせ、ゆったりした口調で語りかけた。十四歳の痩せた、青白い肌の少年は、さも心細そうに俯き、沈黙を守っている。家庭内暴力に走る子供は、肉親に酷い暴力を振るう反面、外部の人間には驚くほど素直に接するケースが多い。家庭内暴力に陥ってから日が浅いほど、その傾向は強く、毅然とした態度の他人が相手ならなおさらだ。ちづるは、淡々と話を進めた。
「今日は、信太郎くんのお話を聞かせてもらおうと思ってきたの」
信太郎は顔色を窺うように、視線を上げた。
「ぼくの?」
「そう、いろんな思いや感情が絡まって、きみは今、迷路の中にいるのよ」
リビングの開け放した窓から風が吹き込んで来た。木の葉が擦れ合う音がする。ちづるは、窓の外に眼をやり、信太郎の言葉を待った。焦る必要はない。ゆっくり待てばいい。木立の向こうに、神社の朱色の神殿が見える。ピチピチと跳ねるような、小鳥のさえずりが聞こえた。
「分かんないよ……」
ぽつりと呟いた。
「ぼくはただ、頭が痛かっただけなんだ。学校へ行く時間になると、頭が割れるように痛くて……」
「でも、学校を休むと決まったら、ウソのように痛みは引いてしまう──そうでしょう?」
信太郎の眼が、驚いたように大きく見開かれる。
「なぜ、分かるの?」
「だってそういう子、最近多いのよ。テストとか受験とか友達関係とか、厳しいことばっかりだもんね。とくにきみの通う学校はそうだと思う。身体が無意識のうちに行きたくない≠チて悲鳴をあげてるの」
もう何日風呂に入っていないのだろう。信太郎は汗と脂で絡まった髪を垂らして、再び顔を伏せた。
「だけど、お母さんは毎朝、うるさかったんだ」
噛み締めた唇が見る見る白くなる。
「どんなふうに?」
ちづるは上半身を屈め、信太郎の顔を覗き込んだ。
「言ってごらんなさいな。いま、君の言葉を聞いているのは、わたしだけなんだから。何も心配する必要はないのよ。さっ、信太郎くん」
ちづるは、膝に置かれた信太郎の右手を軽く握った。手の甲に熱い滴りが垂れた。瞬間、言葉が急流となって迸《ほとばし》り出た。
「勉強が遅れちゃう、怠け癖がついたら、一生治らない、苦労して育ててんのにこんなになっちゃって、高校どうすんの、大学どうすんのって散々言われて、辛くて焦って、それでも学校、行けないから、すっごく悩んで、いつの間にかぼく、頭の中に靄《もや》がかかったみたいになって、お母さんもヒステリーみたいになってぼくを叩くし……」
眼を固く閉じ、涙を流しながら、そこまで一気に喋ると、信太郎は頭の中の靄を振り払うように、両手で激しく髪の毛をかきむしった。
「あのババアさえ、この世にいなけりゃ、と思ったとたん、バット、握ってたんだ。おれ、もうメチャクチャだ」
髪を振り乱し、呻いたしわがれ声は、最後にか細く途切れた。
と、ちづるが眉根を寄せる。腰を浮かせ、髪の中を凝視する。表情に、訝しげな色が滲んだ。
右手をそーっと伸ばし、指先で髪をかき分ける。それを認めたちづるの眼がすっと細まった。
「終わりました」
ちづるが呼びかけると、書斎のドアが開き、仙元が安堵と不安が入り交じった顔で現れた。彫像のような、冷たい表情のちづるを認めて一瞬、言葉を呑み込んだが、すぐに気を取り直して口を開いた。
「信太郎はどう──」
「シーッ」
ちづるが人差し指を唇に当てて、制した。次いで玄関を指さす。唇が動いて外で≠ニ言っている。仙元は、ちづるとともに、マンションを出た。
歩いて五分ほどの、商店街の中の喫茶店に入り、窓際の奥の席を選んで座った。
「信太郎は怒声をあげるでもなく、あなたと向かい合っていたようだ。いったいどういう処置を──」
仙元の、当惑を滲ませた声に、ちづるは冷静な表情で答えた。
「お父さんの期待に背《そむ》くようで、気が引けるけど」
細い喉首がわずかに上下した。
「今日は信太郎くんの状態を見ただけです。それ以上でも以下でもありません。わたしの姿を見て態度を変え、会話に応じてくれたのは、単にご両親が相手ではなかったからです。信太郎くんは狂人ではないのだから、これは当然のことです」
狂人ではない、というちづるの言葉が木霊となって響いた。本当に狂人ではないと断言できるのだろうか。母親を殺そうとし、復讐さえ口にする息子。いや、願わくば、狂人と言ってもらったほうが、どれだけ気が楽か。そんな仙元の思いを見透かしたように、ちづるの言葉が続いた。
「思春期は、心に誰もがモンスターを飼っているんです」
「モンスター?」
思わず問い返していた。
「そうです。十四、五歳の子供にロールシャッハテストを受けさせてみると、統合失調症と見まがうような結果がよく出ます。思春期というのはそれくらい恐ろしい時代なのです。でも、その時期の心の揺れを覚えている大人は、残念ながら多くありません。今の自分の心とは掛け離れた別世界だから、みんな忘れてしまうのです」
頷くしかなかった。十四、五歳の自分の心の中など、ベランダに置いてあるサボテンの心を想像するより難しい。モンスターと言われれば、確かにそういう得体の知れないものが姿を現し、信太郎の体を支配してしまった気がする。
「仙元さん、そんなに大したことじゃないんですよ」
ちづるの顔に、何かを面白がるような、乾いた笑みが浮かんだ。
「まず不登校という現象ですが、これは学校およびそれに関連するストレスから本能的に自分を守ろうとして起こる無意識の回避反応であって、これはこれで健全な行動なのです。仙元さんは信太郎くんがお母さんを殺そうとしたことに大変なショックを受けたようだけど、これもそれほど気にすることじゃありません。もともと子供は、生まれてから何度も親を殺しているんだから」
「どういうことです」
自然と語気が強くなった。しかし、ちづるの形のいい唇は、自信に満ちた言葉を淀みなく紡《つむ》いでいく。
「例えば一歳の子供が、親から何かを制限されたとき。そう、ハサミとか、飲み込んだら危ないビー玉を取り上げられると、火がついたように泣き出すでしょう。全身を強ばらせ、顔を真っ赤にして。そういう時の子供は心の中で親を殺しているわけです。しかし、何度殺しても、親は生きている。そして温かいもので満たしてくれる。これが親子の親密な感情を育てる基礎なんです。子供は、欲求不満を爆発させながらも、徐々に親の設定した限界を体得し、社会における子供なりのルールを覚えていきます。ところが、こうして子供なりに出来上がった人間≠ェ、根本から一気に覆される時がきます」
「それが思春期だと……」
「そうです。セックスの衝動と、親からの拘束・支配を逃れようとする衝動。つまり親離れですね。この二つの衝動が、凄まじいパワーとなって、子供を内部から大きく揺さぶるのです。この猛り狂うパワーが、何かの拍子に溢れ出たとき、制御不能の行動に衝き動かされてしまう……大人の想像を遥かに上回る残虐性、暴力性を示すのも、思春期のパワーが桁外れだからです」
「信太郎の場合、それが家庭内暴力……というわけですか」
ちづるは軽く頷き、テーブルに置かれたティーカップから紅茶を一口飲んだ。優雅な手つきでカップを戻すと、話を続けた。
「仙元さん、境界型人格障害という言葉をご存じですか?」
初めて聞く言葉だった。
「知りません」
開き直った出来の悪い学生のように、憮然と答えた。ちづるは、柔らかな口調で語り始めた。出来の悪い学生に、噛んで含めて教えるように。
「精神医療の対象となる患者は、大きく分けて二種類が存在します。精神病群と神経症群です。うち精神病は、医学的な定義が必要ないほど明瞭なもので、統合失調症など、いわゆる気がふれた状態として誰もが認知できます。分類上、やっかいなのは神経症で、医学的に定義するなら、環境によって変化するストレスをうまく処理できなくなり、苦痛を感じるまでになった状態をいいます。代表的な病例がノイローゼですね。しかし、主観的な訴えが病気の定義になっているため、その輪郭は極めて曖昧模糊、といわざるを得ません」
仙元は職業柄、専門家の難解な話を簡潔に言い換える術を心得ている。つまり神経症は、どこからどこまでを病気とするか、厳密な基準はない、というわけだ。
「そしてこれは米国での話ですが、一九八〇年代に入ると、この定義も不確かな神経症を診ることの多い精神科医を、さらに戸惑わせる病態が見られるようになったのです。神経症と判断して治療を始めてみると、統合失調症的な反応を示す患者がいる。統合失調症は薬物治療が普通だから、薬物を投与してみます。でも効き目がない。一方、神経症は心理療法で快癒を図ります。ところが、この患者たちには心理療法もまったく効果がなく、かえって悪化するケースが続出しました。医者たちはこの厄介な病態に境界型人格障害という名前を付けました。つまり、精神病でもない、神経症でもない、その境界にある病気ということです」
ちづるの言葉に、軽い揶揄が込められた気がした。
「信太郎もその境界型人格障害だと?」
仙元は、はやる気持ちを抑えて訊いた。病名が明らかなら、すでに何らかの治療法も確立されているのではないか。しかし、ちづるの言葉は、そんな仙元の期待をあっさりと打ち砕いた。
「ええ、もっとも近い病名、という条件付きならね。八〇年代前期、米国でこの病名が生まれた時代背景を知れば、仙元さんも納得されると思うけど──」
ちづるはメガネのツルを指で軽くつまんで持ち上げ、仙元の理解度を値踏みする、怜悧な視線を走らせて話を続けた。
「ここからは、もうひとつの説として聞いて欲しいのですが、実は、境界型人格障害という病名については、精神科医の間でも、さまざまな批判があるのです。当時、米国の景気はどん底でした。精神科医も当然、シビアな市場原理の真っ只中で苦戦を強いられ、個人病院の倒産が相次ぎました。新たに精神医療の対象となるべき人々を発掘しない限り、経済的な成功は望めない。そこで考え出されたのが、金持ちの息子、娘を相手にした商売です。つまり、暴力をふるい、学校へも行かず、性的に抑制がきかない青少年に対して、境界型人格障害の病名が付けられ、治療するシステムが作られた、と言われています。もっとも、この治療システムそのものが、いい加減極まりない代物で、実際は医者個人の裁量に委ねられているのが現状です。わたし自身、確かな効果を発揮する治療システムなど、見たことも聞いたこともありません。つまり、病気かどうかはっきりしない、曖昧な症状の中で、いわば強引に名付けられた病名だから、治療法など、存在するはずがないのです」
断定した物言いだった。
「わたしが先ほど、狂人ではない、と言った理由もそこにあります。信太郎くんは医者のわたしが相手なら、素直に自分の気持ちを吐露してくれます。しかし、お父さん、お母さんだと態度は豹変します。冷静に相手を認知して、行動に移しているのです。なぜだか分かりますか?」
「いえ」
「親に問題があるからです。過剰な期待、有無を言わさぬ支配、家庭の不和、あるいは子供への徹底した無関心……親の勝手な思い込みと言動が、子供を閉塞状況に追い込み、挫折や絶望をきっかけに感情が爆発するのです。自分がこうなったのは親のせいだ、殺してやる≠ニ。これはわたしの個人的見解ですが、『家庭内暴力』ほど、この病気を正確に表している言葉はないと思います。だって、家庭という枠組みがなければ、子供の暴力も起こり得ないわけでしょう。家庭と親がすべての原因、といっても過言ではありません」
仙元は何も言えず、下を向いた。ふいに視界の端が光った。オレンジの光。顔を上げ、窓の外を見ると、陽は傾き、商店街のビルの間から西陽が差し込んでいる。眩しかった。手をかざし、眼を瞬《またた》いた。そのときだった。脳のどこかをピンセットで摘ままれたような、嫌な痛みが頭の奥で芽を出した。脂汗が首筋を伝う。仙元は固く瞼を閉じ、額を右手で押さえた。くぐもった呻きが漏れた。頭の中に緋色の炎が渦巻いて、その奥に一瞬だけ、黒い人影が二つ、見えた。が、それは確かな像を結ぶ間もなくかき消えて、深い闇の中へと沈んでいった。
閉じ込めたはずの過去。抹殺したい出来事の数々。なのにまた、あの冥い感情が姿を現そうとしている──
「大丈夫ですか? 顔色が悪いようだけど」
ちづるの心配げな表情が覗き込んでいた。
「いえ、少し疲れただけです。ご心配なく」
西陽はビルの陰に消え、茜色の柔らかな空が広がっていた。夜が来る。舌に、ざらついた鉛の味が滲んだ。重い、憂鬱な気分に押し潰されそうだった。
「先生、わたしはこの先、いったいどうすればいいのか……」
弱々しい言葉が口をついて出た。自分で喋っている気がしなかった。打ちのめされ、絶望したほかの人格が、勝手に目の前のちづるにすがっていた。
「口はばったい言い方だけど、やはり愛情だと思います」
柔らかく、それでいて確信に満ちた口調だった。
「仙元さんは信太郎くんに対して腰が引けていますね。愛情を注ぐふりをして、自分を守っている。覚悟を見せながら、その一方では逃げ道を作っている気がしてなりません。なぜなんでしょう。なぜ、あなたの全人格を晒して対峙しようとしないのですか」
仙元は顔を伏せた。
「精神医学の世界にどの家の戸棚にも木乃伊《ミイラ》が隠れている≠ニいう言葉があります」
氷の声が背筋を撫でた。胴震いがした。たまらず顔を上げる。ちづるの冷ややかな目が、仙元をじっと見ていた。
「これはね、どんなに幸せそうな家族でも、他人に言えない恐ろしい秘密を持っている、という意味です」
喉が渇いた。舌が張り付いて動かない。仙元はテーブルに置かれたアイスコーヒーを一気に飲み干し、それでも足りずに水を流し込んだ。怖気《おぞけ》がわき、首筋が粘った汗で濡れた。
「仙元さん」
不意にちづるが腰を浮かした。手が伸びる。しなやかな細い指が、まるで別の生き物のように、なまめかしく動いて、仙元の短く刈った髪の毛に触った。右の側頭部。耳の十センチ上のあたり。
「ここに──」
すっと伸びた白い喉が震えた。鮮やかな青の静脈が眼に痛い。
「ありますよね」
何のことか分からなかった。が、次の瞬間、全身に電流が走った。
「信太郎くんのここに傷が──」
──ウオッ──
野獣めいた唸り声とともに、仙元はちづるの手をなぎ払った。バランスを失ったちづるがテーブルに両手をついた。ティーカップが滑って床に落ちる。陶器の割れる音が、辛うじて理性をつなぎとめた。我にかえった仙元は、慌てて身を屈めた。破片を拾いながら、小さな声で詫びた。
「申し訳ない、つい……」
「いえ、お気になさらないで」
仙元は駆け寄ってきた女の店員に何度も頭を下げ、拾い集めた破片を渡すと、再び椅子に腰を下ろした。
「あの傷は──」
仙元は眼を伏せて、呟くように言った。
「幼い時分、散歩に行った公園の階段で転んでしまって……わたしがもっと注意しておけばよかった」
「そうですか」
それ以上、ちづるは何も語ろうとしなかった。硬い、気まずい沈黙が流れた。先にちづるが席を立ち、次いで仙元が、肩を丸めて続いた。
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七月三十一日(土)
航は約束を破らない。仕事を終え、会社を出る勇志を、門の外で待っていた。ライトブルーの薄手のブルゾンに両手を突っ込み、押し黙ったまま歩く航。その後を勇志はついていく、忠実な柴犬のように。
「あれか」
航が言う。堤防の前にクルマがあった。タクヤのスカイライン。コクンと頷く。
運転席のドアが開いた。眉のない顔。タクヤが、いつものように薄笑いを浮かべて、降りてきた。
「なんだ、そいつは」
低い声が漏れる。右手を黒のパンツのポケットに差し込んでいた。飛び出しナイフを握る右手。唇が震えてうまく話せない。
「震えてねえで言ってみろ、あ?」
「友達なんだ」
静かな声。航だった。タクヤの顔が、ゆっくりと向けられる。
「友達? おまえが?」
「そうだ」
「笑わせるぜ」
タクヤは勇志を睨めつけ、口の端を吊り上げた。左頬の、ナイフに抉《えぐ》られた傷跡が醜く歪んだ。
「おれはこんなやつ、用はねえぜ。勇志」
タクヤが歩み寄る。子ウサギをいたぶるキツネのような足取りだった。
「ぼくはある」
航の毅然とした、しかし静かな声音が、タクヤの動きを止めた。勇志は航の横顔を見た。が、タクヤに向けられた静かな瞳は動かない。
──怖くないんだろうか?
勇志は思った。いつもそうだ。航はどんな場面でも、怯《ひる》まない。本当に勇気がある。自分は、こんなに震えて、言葉もうまく出ないのに。
「何だと」
向き直ったタクヤの顔から笑みが消えた。代わりに青白い、怒気が浮かび上がる。が、航は構わず話を続けた。
「きみの言い分はこの勇志から聞いたよ。パーティが台なしになったといっても、勇志のせいじゃない。敢えて言えば、勇志に絡んだヤツこそ問題だよ。それを百万円払えなんて、無茶だ。とても納得できない」
「横から突然出てきて、なにをゴチャゴチャ言ってやがる」
タクヤが鼻にシワを刻んで凄んだ。
「おれが一声かけりゃあ、喜んですっ飛んでくる後輩がゴマンといるんだぜ。おまえ、コンクリートで固めて東京湾に沈めてやろうか?」
「しょうがないね」
航は両手を広げ、外国人みたいにすくめると、右手をブルゾンのポケットに突っ込んだ。瞬間、タクヤは飛び出しナイフを引き抜いた。スプリングの弾ける音。尖ったブレードを突き出し、腰を落として身構える。が、航は何の躊躇もなく、スッと右手を引き出した。勇志は思わず声を上げそうになった。タクヤの眼が、磁石に吸い寄せられたパチンコ玉みたいに動かない。
「きみにやるよ」
一万円札の束だった。端をつまんで、軽く振る。
──なぜ、航が?
勇志は息を呑んで航の顔をみつめた。いつもと変わらない静かな表情。
「百万ある」
タクヤの喉仏がゴクッと動いた。
「勇志はカネがない。代わりにぼくが払う」
一瞬、呆気にとられたタクヤは、弾かれたように百万円を奪い取ると、パンツのポケットにねじ込んだ。タックの部分が無様に膨らんでいる。
「その代わり、ちょっと話をさせてくれ。勇志の友達として、きみと話しておきたいことがある」
「本気か?」
タクヤの口調が険を帯びた。
「場所を変えよう。話はそれからだ。そのぶっそうなモノもしまってくれ」
タクヤは鈍く光るブレードを、威嚇するように二度、三度、素早く突き出してから、手慣れた手つきでグリップに収め、ポケットにしまい込んだ。
「航、よくないよ。帰ろう、もう帰ろうよ」
おもわず声が出ていた。
「腰抜け、おまえはすっこんでな」
タクヤがせせら笑いながら運転席に乗り込む。
「大丈夫、分かってもらえるさ。これ以上、こんな目にあうのは嫌だろう。ちゃんと話をしておかなくちゃダメなんだ」
それだけ言うと、航は助手席に座った。マフラーを震わせ、耳をつんざく爆音とともに発進したスカイラインが、ロケット弾のように堤防沿いの道路を突っ走る。勇志は呆然と立ち尽くした。スカイラインはタイヤを激しく鳴らして左折し、消えた。
勇志が入所していた中等少年院は、三浦半島と伊豆半島に挟まれた、相模湾を望む高台にあった。以前は少年刑務所として使われていた施設で、動物や天使のペンキ絵が描かれたコンクリートの塀が、周囲をグルリと囲んでいた。入所当初の一週間は独居房で過ごし、その後、五人一部屋の雑居房に移された。十五歳の勇志は最年少だった。最初、痘痕面《あばたづら》の目付きの鋭い、大柄な少年から、何の罪で入ったかを問われた。生きた心地がせず、震える声で同級生を刺した、と答えると、「ほう」という声が漏れた。
「で、殺したのか?」
「はい」
全員が息を呑むのが分かった。続けて殺人の理由を訊かれ、いじめの仕返し、と答えると大柄な少年は「大した野郎だ」と、感心した口ぶりで言った。
「十五で中等にぶちこまれる奴はなかなかいねえ。普通は初等だからな。おまえ、そんなぼくちゃんみてえな面で、まさか殺しとはな」
どうも褒められているようだった。共同生活を送るうちに分かったが、少年院には罪状の内容でランク付けがあった。自分より強い者を相手にした殺人が最高で、次がヤクザ、警官を叩きのめした人間、最低ランクは幼女へのいたずらなど変態行為だった。窃盗、恐喝などの中途半端な不良も「まっさら」と言われ、軽蔑の対象だった。
第一級の殺人で一目置かれた勇志には、誰もちょっかいを出さなかった。しかし、自由を奪われ、長い隔離生活を送る少年たちのストレスとヒステリーは、外界の想像をはるかに超えていた。雑居房にはトイレが付いている。これを使って、看守の目を盗んではリンチが行われていた。勇志の雑居房のターゲットは、四歳の幼女にいたずらをした、太った男だった。事あるごとに、「くせえ」「豚野郎」と殴られ、蹴られ、そのたびに、分厚い眼鏡ごしに、細い眼を悲しそうに瞬《しばたた》かせていた。そして、リンチがエスカレートすると、トイレを使う。数人で押さえ付けておいて、便器に溜めた小便、クソを口に詰め込むのだ。じきに太った男は、夜中、意味不明の叫び声を上げるようになり、雑居房から消えた。神経がおかしくなり、精神病院へ移送された、と噂された。しかし、勇志にとって、少年院の生活は外界より平穏だった。朝六時の起床から夜九時の消灯まで、厳しい規律はあるものの、穏やかな日々が続いた。
入所したての頃、面会に来た母親の君子がこう言ったのを覚えている。
「電車の窓から海が見えたよ。あれは二宮から国府津の辺りかねえ。松の木の向こうに、青い海がキラキラ光ってきれいだった」
生来の気弱な性格が張り付いた顔に、精一杯の笑みをつくっていた。
「家の前だって海だろう」
勇志が言うと、君子はかぶりを振った。
「あれは河だろう、海じゃないよ」
自宅近くの堤防に立って河口を見れば、そこはもう羽田の海だった。でも、母は海じゃない、という。肩身の狭い思いをして暮らす街の、鉛色の海は、母にとって本当の海ではないのだ。勇志は唇を噛み、込み上げる涙を堪《こら》えた。
もうじき寿命を迎える蛍光灯がチラチラする二畳ほどの台所で、丸い肩を屈めて夕食の支度を進める君子の髪は、その半分が白髪の鼠色だった。少年院では気づかなかった。一年前、帰ってきて初めて分かった。事件のショックと心労で白くなった髪。勇志を心配させまいと、黒く染めた心遣い。心根の優しい人柄そのままの、柔和な顔もガラリと変わってしまった。額に深いシワが刻まれ、頬の肉は弛み、四十半ばの年齢より十は老けて見える。
「勇志、申し訳ないんだけどねえ」
台所から母が声を掛けた。
「夜中、じいちゃん起きるから、気をつけて欲しいんだけど」
「ションベンか」
勇志は、居間と食堂を兼ねた四畳半で、テレビに眼をやったまま訊いた。伸びたランニングシャツと古いジーンズを切った半ズボン。昼間の、炎天に炙られた熱気がへばり付いた夜だった。扇風機のプロペラがかき回す生ぬるい風を浴びながら、丸い黒塗りのちゃぶ台にほお杖をつき、テレビのバラエティ番組を見ていた。自分と同年齢の若手アイドルグループの、下手くそな歌が頭を素通りしていく。
「そうなんだよ。気持ち悪いみたいだね。オムツが濡れちゃうんだよ」
絶対濡れない、小便を吸ってもサラサラと乾いたままって書いてあるのに、と勇志は思った。スーパーのバーゲンで買った、正価の五〇パーセント引きの特価品だから、質が悪いのか。
「おれ、今夜からじいちゃんの隣に寝るよ。それならすぐ分かるし」
いつも二階の三畳間に寝ている。隣の四畳半は母の部屋だ。ひとりで寝る時間だけが、心身ともに休まる時間だった。
「そんなおまえ、よく眠んなきゃ、仕事が大変だろう」
「いいよ、それくらい何でもない」
君子がホッとため息を吐いた。
「すまないね」
勇志は知っている。母がいつも隣近所に気を遣っているのを。隣家と軒が接しているから、臭いが漏れて迷惑をかけると、窓の開け閉めも最低限にとどめる生活を続けているのだ。夜中の祖父のうめき声で、近所の心証をこれ以上悪くしたくない、という母の気持ちは痛いほど分かる。
ちゃぶ台に、母が今夜のおかずを並べる。鯖の塩焼きにカボチャの煮付け、ネギと豆腐のみそ汁。勇志がご飯をよそい、母子二人の夕餉《ゆうげ》を囲んだ。六畳の、ベッドに寝たきりの祖父が力のない咳をひとつ、漏らす。
──食わなくては。
勇志はみそ汁をすすり、飯を口に詰め込む。箸で鯖を裂き、カボチャを突き刺し、咀嚼して飲み下す。食欲はなかった。疲労と心痛。重労働と百万円。航とタクヤ。胃はピクリとも動かない。だが、メシを食わなければ明日の仕事が出来ない。生きるために、かき込むしかなかった。母は黙々と、背を丸めて食う。母にはこの後、仕事が待っている。夜十二時から朝七時までの七時間。清掃会社の派遣で、ビルの掃除を行う。
「今日はどこだっけ」
「巣鴨」
頭の中に都内の地図を広げる。池袋の近く。巣鴨と羽田。東京の端から端だ。
「ここからだと一時間はかかるかもな」
「そうだね」
「後片付けはおれがやるから、少し寝なよ」
いまは八時だった。二時間余り、身体を休めることが出来る。
「すまないね」
母はいつも謝っている。勇志は覚えている。父が死んだときも、周囲に頭を下げ続けていた。西|糀谷《こうじや》の鉄工所で働いていた父は、いつも笑みを絶やさない、気弱な男だった。ひたすら真面目な生活を送っていたのに、魔がさしたのか、小学校に入学して間もない勇志と母を残し、行方をくらませた。
近所の、金歯を光らせた噂好きのおばさんが、小さな眼をキラキラ光らせて訊いてきたことがある。
「スナックのおねえちゃんと逃げたんだってねえ」
勇志には何のことか分からなかった。しかし、父親が何か恥ずかしいことをしでかした、とだけは分かった。父は六年後の冬、勇志が中学一年のとき、骨になって帰ってきた。灰色の雲が空を覆い、粉雪の舞う、底冷えのする夕方だった。大阪で行き倒れ、どぶ川に顔をつっこんで死んでいた、と聞いた。父にふさわしい最期だ、と思った。祖父は、自分の娘と孫を捨てた男を徹底して嫌っていた。
「あんな男は骨になっても許せない」と、骨壺が家の敷居を跨ぐのを拒んだが、母は頭を下げ、近所にも頭を下げ続けて、葬式を執り行ったのだ。これっぽちも悲しくない、母の頭を下げる姿だけが記憶に残る葬式だった。そして、勇志の事件……。
──自分のために何度、頭を下げたのだろう。
薄暗い部屋の中で俯き、黙々と箸を動かす母を見ていると、気が滅入った。自分は母に似ていると思う。謝ることが習い性となった人生。他人に気兼ねし、顔色を窺う人生。
勇志には、いつかこの生活が破綻する予感がある。母が夜中、息子が昼間働くという、寝たきりの祖父の面倒を最大限、考慮した生活は、そろそろ限界にきていた。澱《おり》のように溜まった母の疲労が、一気に噴き出す日は近いような気がする。シグナルはあった。まず食欲がない。今も、柔らかいカボチャをモグモグと、いつまでも噛んでいる。喉をくだっていかないのだ。充血した眼の下の隈も、日を追うごとにどす黒くなっていく。そして、勇志が帰ってくると、いつも二階の四畳半で泥のように眠りこけている。涎を垂らし、ゴー、ゴーと間延びした鼾をかいて。つい一カ月前までは、夕食の支度に取り掛かっていた時間だ。
祖父の介護と苛酷な労働は、母の小柄な身体を確実に蝕んでいた。母が倒れたら、いったい祖父と自分はどうなるのだろう。勇志は一度、仕事休みの日に区役所の老人福祉の窓口へ行ったことがある。もちろん母には内緒だ。そこで得た情報は、勇志の不安をますます煽った。担当者によれば、区内にある特別養護老人ホームは六カ所。現在、六百〜七百人の入居待機者がおり、いま申し込んだとしても、入居は二、三年先になる、と。母が福祉サービスを一切拒否している現状では、絶望の二文字しか見えないのと同じだった。
母が倒れ、自分が途方に暮れる日は確実に迫っている。そう考えると、目の前の母に声を掛けずにはいられなかった。
「仕事、休んだらどう」
母の丸い肩が強ばった。箸が止まる。
「休むって、どういうことだい?」
「疲れているみたいだから、二、三日休んだら……」
母の声が尖った。
「休んだら生活していけないんだよ。この御時世だし、仕事があるだけでも運がいい、と思わなくちゃ」
身を粉にして働く二人の収入を合わせても月四十万円足らず。そこから生活費と家賃、祖父の介護用品代、そして月々の賠償金十万円を差し引けば限りなくゼロに近い。つまりギリギリの生活、ということだ。百万円の蓄えなど、訊くまでもなかった。
「それより」
母が声を潜めた。硬い表情だった。
「おまえ、最近、三枝君と会ってないかい?」
予期しない言葉だった。黙りこくったままの勇志に、母が言った。
「中学の同級生だよ。たまに遊びに来ていたじゃないか」
「どうして」
「見かけたからさ」
「どこで」
「家の近くでさ。立ち止まってこっちを見ていたよ。すぐにいなくなったけど、あれは三枝君だと思うね」
「いつ」
「今日。お昼におじいちゃんのおむつを替えて、買い物に出たとき、いたよ」
──昼?
心臓が高鳴った。
「会ってないよ、人違いじゃないのか」
言ってはみたものの、疑念は湖に投げ込んだ一個の石となり、波紋となって広がった。昨日、航が自宅まで来たのは知っている。航の口から直《じか》に聞いた。しかし、今日は昼間、仕事に出て留守と承知しているはずだ。夕方、自分とタクヤに会うまで、家の周りでいったい何をしていたのだろう。
あの航が目的もなく、行動するはずがない。だが、見当がつかなかった。やっぱり航のやることは理解できない。そう思うしかなかった。
「お母ちゃんは、あんまり会って欲しくないんだよ」
ポツンと呟いた。
「おまえは友達だって言うけど……」
「なんだよ」
勇志の言葉が気色ばんだ。
「怖いんだよ、じいちゃんもそう言ってたし……じいちゃん、そういうとこ、昔からカンが鋭かったじゃないか」
母と祖父は、以前から航のことを良く思ってない。成績が良くて、勇気があって、優しくて、最高の友達だ、と何度言っただろう。だが、分かってくれなかった。航は自分と違って強いし、媚びるところがない。年齢よりずっと大人びて見える。航の魅力は、並の大人には分からない。まして母や祖父のように、身の周りの小さな世界しか興味のない人間にはとても無理だ、と自分に言い聞かせてきた。しかし、面と向かって言われると面白くない。
「あのコはどこか怖いところが──」
「うるせえな、ほっといてくれよ」
勇志の強い物言いに母は口をつぐみ、再び背中を丸めてメシを食い出した。
──航は百万円をタクヤに渡して話をつけてくれたんだぞ、おれがカネがなくて弱虫だから。
そう叫びたいのをグッとこらえて、勇志はメシをかき込んだ。と、勇志は米粒を噛みながら思った。航は本当にタクヤと話をつけたのだろうか。陰湿で、凶暴で、情のかけらもない筋金入りのあのワルが、話して分かるとはとても思えない。唇が強ばった。箸が止まった。得体の知れない怖気が背中を這い上がる。
*  *
「南田さんですか、ぼくです、三枝です。こんな夜中に電話をしてしまって、すみません」
≪いや、いいんだ。まだ仕事中だから。それより、どうしたの?≫
「雑誌、送っていただいてありがとうございます。うまくまとめて貰って感謝しています。ただ……」
≪言ってごらんよ≫
「ただ、困ったことが起きてしまって」
≪困ったこと? なんだろう≫
「ミーハーみたいな女の子たちがパトロールの後からついてくるようになってしまって……取材の申し込みとかも急増しているし、メンバーも浮足立ってきて、活動を休止せざるを得なくなったんですよ。ぼく、どうしたらいいのか分からなくなって……」
≪それは申し訳ないことをしたね≫
「いえ、南田さんのせいじゃないんですよ。ぼくの心が強くないから、まだ弱いから、揺れているんです」
≪どうだろう、君の言い分というか、信念を改めて手記という形で発表したらいいんじゃないかな。ページはある程度、確保できると思うけど。ぼくと編集部に責任があるのは間違いないんだし≫
「それより、南田さん、相談にのってくれませんか」
≪相談?≫
「はい、新しいワルを探しているんですけど、なかなか道が見えてこないんです。ぼく、この世のワルを一掃する、と決めているから、何とかしたいんです。南田さん、どうしたらいいんですか。このままだと世の中って、ますます悪くなるばかりでしょう。ぼく、信頼できる大人って、南田さんしかいないから──」
≪三枝くん、少し混乱しているようだね。でも、新しいことを始める人間に障害はつきものだよ。パイオニアは常に孤独なんだ≫
「そうですね。強い心を持たなくちゃならないんですね」
≪近いうちに伺うよ。暫くスケジュールが詰まってて無理だけど、必ず行くから≫
「お願いします。待ってますから。それまで、ぼくたちなりに努力を続けるつもりです」
≪ねえ、ちょっと、三枝くん……≫
「なんでしょう」
≪風の音が強いようだけど、そこ、どこ?≫
「ああ、ぼくの一番大切な場所ですよ。ここにいると、すごく気持ちが落ち着くんです。最近、苦しくなるとよく来ることにしています。なにか、出口が見えてくる気がするんですよ」
≪いつもひとりなの?≫
「ええ、まあ……」
≪誰かいるのかな≫
「さっきまでいました」
≪さっきまで?≫
「はい、これまでの無軌道な生き方を反省したと言って、ぼくが腹を抱えて笑う面白いこと話してくれるヤツがいたんですけど、今はいません。消えました。それでいろんなこと、考えていたら、どんどん淋しくなっちゃって……」
≪三枝くん、きみ、やっぱり混乱しているよ。話が支離滅裂だもの≫
「ぼく、ヘンなのかな」
≪とにかく、近いうちに行くから≫
「待ってます、南田さん、約束ですよ」
≪もちろんだよ≫
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八月三日(火)
作業員の更衣室はプレハブの二階にあった。仕事を終え、着替えを済ませた勇志は外階段を降りながら、思わず顔をしかめ、尻に手をやった。腫れている。熱もあった。
今日の仕事はデザイン事務所の引っ越しだった。そのアクシデントは、昼休みが終わってすぐだった。大型のカラーコピー機を持ち上げた時、ふっと足元がふらついたのだ。ズシンと凄まじい音がして、コピー機とともに尻餅をついた。相棒が真っ青な顔で立ち尽くしている。重さ百五十キロ以上ある機械だ。押し潰されたらただでは済まない。ひとつ間違えば、重大な事故につながる。
ここ三日ばかり、十分な睡眠がとれていない。夜中、じいちゃんの唸り声で目を覚ますせいだ。昨夜も二度、起こされ、じっとりと小便を吸ったオムツを替えた。睡眠不足は、集中力を削ぎ、足腰の粘りを確実に奪っていた。
中腰になって立ち上がりかけた時、現場監督の青木が足音も荒々しくすっ飛んで来た。
「ばかやろう!」怒声とともに、尻を蹴りあげた。安全靴の鉄のつま先が肉にめり込み、呻き声が出た。
「何やってんだ! おまえにこの機械が弁償できんのか、ああ」
作業中の物損事故は保険で賄えるはずだ。しかし、青木の顔は勇志への憎悪に凝り固まっている。厄介者のミスは絶対に許さない、ということだ。シゲさんの忠告はウソじゃなかった。足を引きずりながら、そう思った。
と、前方から自転車のベルがリンリンと鳴った。重い足を止めて、顔を上げた。
若い女が笑っていた。ぴっちりしたショートパンツに、白のTシャツ。自転車のカゴには、丸めたバスタオルと小振りのポーチが入っている。
「ユウジくん、だよね」
地味だが、丸い鼻にポッテリとした唇の、愛嬌のある顔だった。どこかで見た気がする。
「ほら、結婚パーティに来てくれたじゃん。タクヤとあたしの」
「ああ」
メグミだった。陽の下で見る、化粧っ気のない顔はまるで別人だ。
「お風呂の帰りなんだ。これから着替えしてお仕事」
「おれ、仕事の帰りなんです」
メグミは、くたびれた格好の勇志を、上から下まで見て、
「へえー、頑張ってんだ」
感心した、という口ぶりだった。
「えっと……」
言葉に詰まった。謝らなければ、と思った。
「パーティ、すみませんでした。おれのせいで」
「いいのよう、あんたが悪いんじゃないもの。イサム、バカだから、気にしちゃダメよ。あいつ、シンナーやり過ぎなんだよ」
笑いながら、そう言った。右頬にえくぼが刻まれ、白い歯が見えた。きれいな歯並びだった。勇志もつられて微笑んだ。二人して笑ったあと、メグミの顔が微かに曇った。
「ねえ、ユウジくん」
口元を寄せてくる。歯磨きの匂いが鼻孔をくすぐる。思い詰めた表情だった。
「タクヤのこと、知らないかなあ」
息が詰まった。
「タクさん、どうかしたんですか」
「ここんとこ、ずーっと帰っていないのよ。ケイタイもつながらないし」
激しい動悸が胸を打った。
「どうしたんでしょうね」
声が掠れていた。が、メグミは勇志の動揺に気づかなかった。自分を励ますように、笑顔をつくる。
「ま、どっか、女のとこにでもしけこんでいると思うけどね。あいつ、遊び人のろくでなしだからさ。ユウジくんみたいに、真面目な働き者じゃないもんね」
それだけ言うと、バイバイ、と手を振って去っていった。勇志は、ペダルを漕ぐメグミの後姿を見送った。汚れ物を詰め込んだバッグを握る手が、小刻みに震えた。
*  *
この日、営業部から通常の刷り数より三割増しの部数が二日で完売した、と報告があった。昼過ぎ、巽編集長の忠実な右腕と自他ともに認める次長の五十嵐が、新聞を広げた南田の机に寄ってきた。チラッと見やると、頭をボリボリ掻きながら小声でこう言った。
「南田、待遇に不満があるなら言ってくれ」
黒縁メガネの厚いレンズ越しに、腫れぼったい眼が見つめていた。よれたスーツの肩に白いフケの雨が降り注いでいる。南田は新聞に視線を戻すと、素っ気なく応えた。
「いえ、別にありませんが」
「そうか。だが、編集部ではおまえの報酬を見直すことに決めたからな。そういうことを結構、気にするひとだからな、巽さんは」
それだけ言い置くと、ユラユラと肩を揺らして、離れていった。
南田は、新聞に目をやりながら、密かにほくそ笑んだ。青年週刊誌。シティ・ガードの署名記事が利いたのだ。レイプスキャンダルほどではないにせよ、テレビでも幾度か取り上げられたし、後追いの取材も相次いでいる。現に、あの沈着冷静な三枝も音をあげるほどの注目ぶりなのだ。先日の電話がそれを物語っている。
そして巽も内心、動揺しているのだ。自分の子飼いになったとばかり思い込んでいたライターが、突然、他誌に登場し、脚光を浴びたのだから。署名にしたのは正解だった。あれを巽は、現状に満足していない自分からのメッセージ、と受け取ったのだ。すべてが上手くいっている。こわいくらい順調だった。しかも今日はテレビ局から夕方のニュース番組に呼ばれている。小堀教授のレイプスキャンダルについて聞きたい、と言ってきた。もちろん出演するつもりだ。雑誌の宣伝になるのだから、文句を言われる筋合いはない。第一、自分は何ものにも束縛されないフリーなのだ。世間に実力が認められた以上、自分の意志を優先して何が悪い。
──おれはもう、巽とさえ対等なのだ。
笑いを噛み殺すのに苦労した南田は、右手で口を押さえ、ことさらにしかつめらしい顔をつくった。
*  *
──ついている。
長山良夫は、そっと隣に目をやった。ショートカットの栗色の髪に、ピンクの唇。こぶりの鼻と、大きな瞳。リスを思わせる美少女だ。白いニットの胸を押し上げる豊かな膨らみと、チェックのミニからスラリと伸びた長い脚を盗み見た。十五、六歳だろうか。きめの細かい乳白色の肌が、ネオンの青や赤を仄かに反射して、どこか人工的な美しさを醸し出していた。
──六万円でも安いくらいだ。
長山良夫は、今夜の幸運を神に感謝したいほど、気分が高揚していた。情報は間違っていなかった。同僚の高田は、キザな、遊び人を鼻に掛けた嫌な男だが、金さえ払えばきっちりした情報を流してくれる。渋谷|109《イチマルキユー》の地下二階。エスカレータの昇り口の左手。そこで待っていれば、女の子がやってくる。援助交際目的の女子高生だ。高田は五千円でそう教えてくれた。セミプロの女子高生が多いテレクラと違い、109の地下二階はごく普通の、こういうことに臆病なコが利用している、とも言っていた。
地下二階は、輸入雑貨と菓子のフロアーだった。香料にミルクを混ぜ合わせたような安っぽいコロンの匂いと、甘いチョコレートの香りが充満して噎《む》せ返るようだ。制服や私服の女の子が黄色い声を張り上げ、笑い転げている。長山良夫の他にも、サラリーマン風の男が二人、新聞で顔を隠しながら、チラチラともの欲しそうな視線を走らせていた。だが、今夜の長山良夫は自信があった。イタリー製のダブルのスーツに、黒のメッシュの靴、金無垢《きんむく》のローレックス。女の子は腕時計で相手を値踏みする、とこれも高田の情報だ。万全だった。
おかげで、こんな上玉をものにできたのだ。道玄坂を、肩を並べて歩きながら、手を絡めてみる。細い、ひんやりとした指をキュッと絞り、握り返してくる。長山良夫は嬉しさのあまり、頭がクラクラした。
三十四歳の長山良夫は、家電メーカーに勤務する営業マンだ。髪の毛は薄く、二重アゴの太め。同じフロアーの女性社員が密かにムーミンパパ、と呼んでいるのを知っている。それはまだ許せる。だが、今年入社した短大出の女に、新人歓迎会で「主任の指、イモムシみたいにプクプクしているね」と笑われ、「絶対、彼女いないよね」と酒臭い息を吐きつけられた夜は、部屋に帰ってひとり、屈辱に涙した。その指を、いま絡めているのは、あんな騒がしいだけの女など足元にも及ばない、トビッキリの女子高生だ。
湿った熱気が粘りつく夜だった。顎を伝う汗を、スーツの胸ポケットから取り出したハンカチで拭った。
「本当にやらせてくれるんだよね。ちゃんと六万円、払うからさ」
耳元に口を寄せ、念を押してみる。うん、と恥ずかしそうに頷くのを見て、長山良夫は肩を抱き、足を早めた。
道玄坂から路地を右に入り、けばけばしいネオンが浮かび上がるホテル街を歩く。白いタイル壁の、曲線を大胆に使ったラブホテルの自動ドアをくぐった。冷んやりとした空気が、頬を撫でた。気が変わらないうちに、と思うと、自然と肩を抱く手に力がこもる。
「おじさん、ちょっと痛いよ」
少女が口を尖らせた。大きな瞳がキラリと光る。リスがシャム猫になった。
──可愛い、本当に可愛い。
思わずヨダレが垂れそうになり、慌てて口を押さえた。
エレベーターの前にパネルがあった。長山良夫はパネルから部屋を選び、ボタンを押した。ボックスからキーを取り出し、エレベーターに乗り込む。三〇二号室。
部屋に入ると、ダブルベッドに腰を下ろし、華奢《きやしや》な肩を抱き寄せた。
「ダメだよう、シャワー浴びなきゃ」
少女は顔をしかめ、両腕で胸を押した。
「よし、来い。一緒だ」
長山良夫は、細いスベスベした腕を掴むと、ガラス張りのバスへ向かった。
「いやだよ、恥ずかしいじゃん。おじさん、やめようよ」
腰を落として抗《あらが》う少女を、無理やり引きずった。大胆に少女に迫る自分が意外だった。この密室なら、邪魔するものは誰もいない。リスのようなこの少女の身体を、戯れながら隅々まで洗ってやりたい。そんな気持ちが奔流のように押し寄せて、もう止まらなかった。
「あと一万、いや二万払うからさ、いいじゃないか。全部で八万だぞ」
少しだけ、抗う力が緩んだ気がした。
「さ、ぼくが洗ってあげるから」
勢いに任せて引きずる。
「おじさん!」
緊張した声だった。見ると、少女の整った顔が強ばっている。様子が変だった。
「どうしたの?」
腕を放した。脅えた視線が、ドアに向けられている。
「誰かいるよ」
耳を澄ますと、ノックの音がする。少女が、「いやっ」と短く叫んで、長山良夫のたるんだ胸に顔を押し付けてきた。気分が良かった。おそらく、ホテルの掃除婦かなにかだろう。警察なら、ホテルを出たところで声を掛けるはずだ。少女は、援助交際がばれたら、退学だけでは済まないのだろう。蓮っ葉な言葉遣いだが、しっかりした家庭で育った品の良さがほの見える。ここは毅然としたところを見せなくてはと、長山良夫は大きな瞳を見開いて震える少女に、「大丈夫だから」と囁き、ついでに髪の毛を優しく撫で、大股でドアに歩み寄った。
「何ですか」
「すいません、フロ洗いの洗剤を忘れたんで。規則で、部屋の中に置いたままお客さんをお迎えするといけないんです」
か細い、女の声だった。やはり掃除婦だ。
「しようがないなあ」
軽く舌打ちしながらチェーンを外し、ノブを回した。鷹揚なところを見せようと、声を掛けた。
「これから気を──」
言葉が終わらないうちだった。シュッという音とともに眼に焼けるような痛みが広がった。次いで、肩、頭、腹に激痛が走る。長山良夫は呻いて、その場に崩れ落ちた。ドアがバタンと閉められる音が響いた。
やっぱりサトミは凄い、とユカは思った。催涙スプレーをシュッと一吹きした後は特殊警棒だ。シルバーの二十センチほどのスチールの棒を一振りすると、スルスルと一メートルほどに伸びるやつ。これを使って、頭といい腹といい、滅多矢鱈に殴っている。
男は、両手で頭を抱え、鼻水を垂らしながら、「許してください、命だけは助けて」と泣いている。時折、激しく咳き込む声が、耳に障る。
「てめえ、ふざけんな、このブタ!」
サトミは、肩甲骨のあたりまで届く髪を振り乱し、ヒョウ柄のワンピースから黒のパンティが覗くのも構わず、荒れ狂っている。尖ったカットブーツのつま先が、ブヨブヨの腹にめり込む。その感触が面白かったのか、何度も何度も蹴っていた。
男がぐったりして動かなくなると、スーツの内ポケットからサイフを取り出して、中を改めた。ピューと低く口笛が鳴った。
「十六万だって」
手早く抜き取ると、今度は手首のローレックスの金無垢《きんむく》を外す。表裏を引っ繰り返したサトミは、急に険しい顔をすると、思いっきり男の顔に投げ付けた。
「だっせー、イミテーションじゃん!」
偽のローレックスが男の額に当たった。ざっくりと切れて血が噴き出す。だが、男はピクリとも動かない。
「出よう」
周囲に注意深く眼を走らせ、非常階段を使って外に出た。
ユカはサトミのフルネームを知らない。TOKYO─FMのスタジオ前で声を掛けられて知り合った。多分、高校には行っていないと思う。エンコウで入ったホテルで、二人のヤクザに押さえ付けられ、S(覚醒剤)を注射され、人生変わったって言っていた。
体がカーッと熱くなって、何度やっても欲しくて、ずっと腰振って、いろんなことさせられて、気が付いたら、事務所みたいなところに連れ込まれて、そこで一日中、いろんな男に輪姦《まわ》されたらしい。だから、エンコーやる男に復讐してやるって言っていた。今日が三回目。ユカから見ても、今夜の暴れっぷりは凄かった。
エンコーオヤジは、どんなに痛めつけても絶対に警察に訴えない、と教えてくれたのはサトミだ。でも、あれじゃあ動けないから、ホテルの従業員が気づいて警察が来るんじゃないだろうか。ドスケベのハゲオヤジが入院しようが死のうが、いっこうに構わないが、警察に捕まるのはいやだ。自分は、そういう危ない人生とは関係ないんだ、と信じている。
サトミはパルコパート1と2のビルに挟まれた通りで、八万円くれた。サイフの中身は折半と決めている。
ユカは高校一年だ。でも、入学してから二日で行かなくなった。理由は分かっている。母親のせいだ。
父親は一流の総合商社勤めで、母親は見栄っ張りの専業主婦。弟は有名私立中学に通っているからお気に入り。しかし、ユカは第一志望の女子大の付属高校の入試に失敗して、第二志望の私立高校に入学した。出来の悪い子、は自覚していた。
あれは入学式の翌日だった。高校の制服は有名なデザイナーズブランドで、結構気に入っていた。帰り道、自宅近くのショッピング街で前から歩いてくる母親を見つけて手を振った。母親はシカトしてユカの横を通り抜けた。自宅に戻った母親は悪びれる様子もなくこう言った。
「だって、近くに知っているひとがいたんだもの」
そう、制服から娘の通っている高校を知られたくなかったのだ。その日を境に高校に行かなくなった。制服もカッターナイフで切り裂いて、ごみ箱に捨てた。せいせいした。母親は一度、
「このまま中卒になってもいいの!」
と喚きたてたが、ユカが、
「うるせえんだよ、クソババア」
と凄むと、青い顔で口をパクパクさせて黙り込んだ。以来、何も言わなくなった。父親はもともと子供に興味のないひとだからいい。とにかく、いまのユカは自由だった。
「あーあ、なんか面白いこと、ねえのかよ」
夜九時、歩道いっぱいに人がざわめく公園通りを、渋谷駅へ向かって歩きながら、サトミが呟いた。面白くない理由は察しがつく。振られたのだ。ダンサー系の古着を売るショップの男の子。劇団員だと言っていた。結構貢いでいたみたいだけど、やっぱり駄目だった。ユカは知っている。ケイタイにその男の子から連絡が入ったから。
「あれ、性格ワルスギだよ。身体はバツグンにいいけどさ」
そう言って男の子は下品に笑った。ユカを誘ってきたけど、断った。サトミに遠慮したわけじゃない。パープーでタイプじゃないから、それだけだ。
ユカは自分が可愛いと知っている。耳にタコができるほど、周りから「可愛い」「美人だ」と言われて育った。サトミが近づいてきたのもそれが理由だ。エンコーオヤジを誘う、最高のエサ。街頭のスカウトから貰った名刺はもう百枚を超えたはず。気が向いたら電話しようと思っている。AVは絶対イヤだから、もちろん有名な芸能プロダクション。もらった名刺になかったら、自分で売り込んでもいい。自信はある。サトミも一応美人の部類だけど、自分とは比べものにならない。
その性格と同じ、サトミのキツイ顔がパッと輝いた。見ると車道の端にクルマが一台止まっている。ナンパ目的のクルマだ。助手席から、男の子が笑顔で手を振っている。色黒の、目付きの鋭い不良っぽい顔。サトミの好みだった。どうして、こんな男が好きなんだろう、といつも思う。多分、Sを打ったヤクザも同じタイプだったのだろう。尻を振ってついていったサトミの姿が目に浮かぶようだ。
「ねえ、遊ぼうよ」
爽やかな声だった。
「どうしようか」
サトミが溶けそうな顔で訊いてきた。
「行けばいいじゃん、あたし、帰るから」
素っ気なく答えた。
「ユカ、冷たいよ」
頬を膨らませて、サトミがすねた。
「一緒に来なよ。ほら、こっちも二人だからさ」
男の子が助手席を出てきた。メッシュのシルバーのシャツに黒のレザーパンツ。長い脚が、歩道と車道を隔てる銀色の鉄柵を軽々と跨いで、こっちに来る。
「おれ、キンゾウってんだ。お笑い系の名前だろ? ったく、親も何考えてんのかね」
「エー、覚えやすくていいじゃん。あたし、好きだよ」
サトミは、瞳をキラキラさせ、口に手を当てて笑っている。運転席の男の子を見ると、キャップを目深に被り、ハンドルに腕を置き、前を向いたままだ。
──すかしたヤツ。
ユカは、顔をしかめた。と、男の子がスッとこっちを見た。ふわっと空気が動いたみたいだった。ドキッとした。吸い込まれそうな光がユカをとらえた。左の耳にダイヤのピアス。素敵なアクセントだ。
サトミとキンゾウが、ケラケラ笑っている。男の子の唇が動いた。「コ・イ・ヨ」と言っている。一瞬、周囲のざわめきが聞こえなくなった。周りが真空になったみたいだ。気がついたら、コクンと頷いていた。
クルマは246を、横浜へ向かって走った。後部座席にはサトミとユカ。キンゾウは、助手席から盛んにジョークを飛ばして、サトミを笑わせている。ユカは、適当に相槌を打ちながら、運転席の男の子の横顔を観察した。削げた頬と力強い顎。強く結んだ唇から、強い意志を感じる。こんな男の子、見たことがない。ほとんどの男は、ユカを前にすると、眼は媚を含み、顔がだらしなく緩んでしまう。なのに、ひとりでドライブを楽しんでいるかのように、前を向いたままだ。
サトミは大口を開けて、喋りまくっている。高校を半年で退学になったこと、父親をぶちのめしたこと、そして今夜のオヤジ狩りのこと。その時だった。運転席の男の子が、初めて口を開いた。
「そのオヤジ、どうしたの」
静かな口調だった。
「ぶっとばしてやったよ。足腰、立たなくなるくらい。ねえ、ユカ」
ユカは、「よしなよ」と小さく言い、脇を肘でつついた。
「いいんだよ、あんなクソオヤジ。カネでピチピチの女の子を抱こうなんて、ふてえヤツだよ。思いっきり痛めつけて、カネ、もらっちゃえばいいんだよ」
「きみ、S、やってるでしょう」
運転席の男の子が、ドキッとすることを言った。
「分かる?」
サトミが、まるでタバコを見つかった中学生のように、首をすくめた。知らなかった。ヤクザに打たれて以来、常習者になっていたのだ。男とS。カネは幾らあっても足りないだろう。オヤジ狩りに熱中するはずだ。
「さっきからすごくテンション高いし、多弁じゃない」
男の子が言った。不思議なことに、あれだけ笑い転げていた陽気なキンゾウが、押し黙ったままじっと前を見ている。
「タベンってなに?」
サトミが、ポカンとした顔で訊いた。
「お喋りのことだよ。それに少し、口臭もあるし」
サトミが、細い眉をしかめてユカに囁く。
「匂うかな。リステリンでうがいしてんだけど」
確かに、卵の腐ったような臭いがする。だが、気になるほどじゃない。ユカは小声でなだめてやった。
「ホント、少しだけだよ。気にすることないよ」
サトミは、ポーチからメンソールのタバコを抜き出して火をつけた。キンゾウが助手席の窓を少し開けた。冷房の利いた車内を、生ぬるい風がかき回す。サトミは、長い髪を盛んにかき上げながら、むっつりとタバコを吹かしている。
「ねえ、サトミちゃん、S、どこで買ってんの。やっぱ、イラン人かなあ。それともヤクザ?」
キンゾウが、軽い調子で訊いてきた。ちょっと沈みこんでいたサトミの顔がまた明るくなった。
「あたし、ヤクザ大嫌いだもん。センパイから教えてもらった番号に電話すると、髭もじゃのイラン人がもってくるよ。ワンパケ、一グラムで一万五千円。炙って鼻から入れると、跡も残んないし、まったく問題ないみたいよ。痩せるし、朝まで遊んでも全然疲れないしね。ホント、魔法のクスリだよ」
サトミは助手席に身を乗り出した。
「ねえ、キンゾウくんもやるんなら、紹介してやるよ。すっごく気持ちいいんだから。ホント、空、飛べるんだよ」
キンゾウは、チラッと運転席に視線をやり、「そうだね」と言葉を濁すと、また黙ってしまった。サトミは、シートにドスンともたれると、つまらなそうに外を見た。白々とした街灯の放列が流れていく。
「決まり、ですか」
キンゾウがポツンと呟いた。
運転席の男の子が、微かに頷いたように見えた。何が決まったのだろう。隣をみると、サトミも顔を曇らせ、眼をキョロキョロとせわしなく動かしている。車内が、モヤッとした重いもので満たされた。変だった。何か変だ。逃げよう、不意に思った。でも、二ドア車だから出られない。小さな、空気の薄い部屋にカギをかけられ、閉じ込められた気がした。キンゾウも男の子もじっと前を向いたまま、動かない。口を開けば、辛うじて保たれている危ういバランスが、崩れてしまいそうだった。そんなユカの不安をよそに、左折のウインカーが点滅し始めた。
──どこへ行くの?
クルマはスーッと滑るように246をはずれて側道を降りて行く。人気のない薄暗い道。もう限界だった。
──降ろして!
叫ぼうとしたとき、運転席の男の子が、言った。
「横浜、行く予定だったよね」
確か、サトミがそんなことを言っていた。
「今日はここで別れよう。サトミちゃんはキンゾウが送っていくよ」
「それ、いいね」
サトミが、ガバッと身体を起こした。さっきの不安そうな表情は、さっぱり消えている。
「あたしは?」
「ユカちゃんはぼくが送っていく。どこ?」
「武蔵小杉」
「なんだ、ここからなら三十分、かかんないよ」
クルマが停まった。田園都市線の二子玉川園駅だった。東横線の武蔵小杉は、目の前の多摩川を渡って、川沿いに下っていけばいい。時計を見ると午後十時。駅からは帰宅を急ぐ人の群れが吐き出され、ファーストフード店の前では男の子と女の子のグループが笑い転げ、歓声を上げている。とたんに、車内に華やいだ空気が戻った。
「そうしようよ、ユカ。あの子、あんたのこと、気に入っているみたいだし」
サトミが囁いた。運転席の男の子が、振り向いた。深い海を思わせるきれいな瞳が、とまって動かない。胸がドキドキした。なんだろう、この気持ち、瞳にスーッと魅き寄せられていく自分を感じて、ユカは頷いた。何が決まったのか、あれほど不安だったのに、すっかり忘れていた。
*  *
午後十時、金英達《キムヨンダル》・日本名・金村英一はファミレスの窓際に座っていた。窓の外は、堤防沿いの道路を挟んで、多摩川が黒々と流れている。気分は鬱々として晴れなかった。原因は分かっている。三枝航だ。いまは自分の人生のすべてを占めるようになってしまった男との出会いを反芻した。
渋谷の、キムの両親が経営する焼肉屋からセンター街までは、直線距離でわずか三百メートルほどなのに、キムにとっては別世界だった。薄っぺらな華やかさと、同世代の日本人の、問題意識も何もない快楽主義が、どうしても肌に合わなかった。
日本の高校にあたる朝鮮高級学校を卒業したのはつい四カ月前のことだ。中級学校の時分から、都内の国立大学への進学を希望していた。だが、朝鮮学校の日本での立場は各種学校に過ぎず、国立大学受験の資格は与えられていない。朝鮮学校から国立大を受験するには、大検合格が条件になっている。
キムは一年前、大検に合格した。これで大学入試センター試験は受けられるはずだった。しかし、気が変わった。父と母は毎日、昼過ぎから材料の仕込みを始めて夕方五時から朝六時まで店を開け、酔っ払い相手に身を粉《こ》にして働いている。その収入の中から日本政府に税金を払い、ちゃんと市民としての義務を果たしている。なのに、自分は普通に国立大学を受験できない。やっぱりおかしい。すべてを承知のうえで大検の資格もとったはずなのに、疑問が芽生えると、それは夏の雨雲のように広がって心中を黒々と覆った。折り合いをつけて試験を受けることなど、とてもできなかった。公立、私立大学にしても、高級学校の卒業生に入学を認めているのは全体の半分に過ぎない。十八歳の、自意識が強烈に芽生え始めたキムには、日本社会の理不尽さが我慢ならなかった。
高級学校を卒業後、家の手伝いを始めた四月下旬のある夜半のことだ。仕事を抜け出してセンター街の、二の腕に派手なタトゥーを入れたフランス人が開く露店に行った。目当ての品はジッポーのライター、羽を広げた鷲を彫ったやつだ。
日本人のガキどもが喚いてひしめき合う昼間は苦手だった。ライターを手に入れた帰り、センター街を根城にしている不良たちと、目が合った合わないの些細な理由でケンカになった。相手は四人。ビルの間の暗がりに連れ込まれた。幼い時分からテコンドーを仕込まれたキムは、ひとりを派手な後ろ回し蹴りで吹っ飛ばした。そいつは呆気なく昏倒した。すると、残りの三人がナイフを抜いてきた。光り物を見た途端、キムは足がすくんだ。怖かった。壁に張り付いたまま動けなくなり、あとは殴られ蹴られ、カメのようにうずくまった。そのとき、通りかかった三枝航が割って入ったのだ。
ケンカというより、容赦のない制裁だった。三人と向かい合った航は、信じられない動きを見せた。ひとりが突き出したナイフに向かって自ら飛び込んだのだ。
唖然として声もないキムの前で、相手の腕を、ナイフごと脇で挟んでねじ上げた。バキンッと竹の割れるような音がした。肘が、逆にへし折れていた。恐怖心が少しでもあったら、絶対に出来ない芸当だ。航は、泣き喚くその不良の上に馬乗りになり、髪の毛を掴んでアスファルトに何度も叩きつけた。鈍い音がビルの谷間で木霊した。残った二人は、泣いて許しを乞うた。「殺さないでよぅ」という哀れな声は、今でも耳にこびりついている。
その後、航から自警団結成の計画を打ち明けられた。渋谷から、いやこの世から犯罪をなくす。その高邁《こうまい》な理想に魅かれ、キムは航に協力を申し出た。
まず、父親に頭を下げた。店の二階の倉庫を事務所として使わせて欲しい、と頼み込んだ。息子の突然の大学入試ボイコットを、心情としては理解しながらも、やはり快く思っていなかった父親は最初、渋った。しかし、キムの「来年は東大でも一橋でも入ってやる」という言葉に折れたのだ。
航と行動をともにした途端に、その魅力に参ってしまった。航のような人間こそ、世の真のリーダーに相応《ふさわ》しい、とまで思った。抜群の勇気と行動力。そして、信念。
だが、南田とかいう雑誌記者のインタビューを傍らで聞いたときは、自分の耳を疑った。航にあんな過去があったとは。だが、両親を惨殺された無念が今の航を作り上げた、と思えばすべてに合点がいった。
雑誌記事の反応は予想以上だった。女の追っかけがついて回り、女性誌や週刊誌に追いまくられ、あっという間にアイドル並の扱いとなった。航はしばらく自警活動を中止すると告げたが、それも当然だった。ガキどもにまとわりつかれるようでは、とてもパトロールなど出来ない。それは分かる。
ファミレスの席に座り、そこまで思い返したとき、自分はなぜ、こんなところにいるのだろう、と疑問が頭をよぎった。
テーブルの向こう側には少年が二人、背中を丸めてじっと座っていた。都立高校の二年生、と言っていた。航を神のごとく敬い、何かあると「おれの命は航さんのもの」と口にする、筋金入りの信奉者だ。
しかし、自分はこんなところにいていいのだろうか? これからやろうとしている行為は本当に許されることなんだろうか。高校生二人は何の疑問も抱いていないらしい。キムは、このまま席を立って、どこか遠い場所へ逃げたらどんなにラクだろう、と思った。だが、それは出来ない。航と出会って以来、日を追うにつれ、頭の中に霧がわいてくる。最初は薄い、微かな霧が、いまは脳を真っ白に覆っていた。自分で考えようとしても、濃い霧が邪魔をしてうまくいかない。航の言葉だけが、キムを導く指針だった。航に従っていれば、それだけで安心だった。
ケイタイが鳴った。尻のポケットから取り出して耳に当てた。
*  *
サトミは駅前の公衆便所でSを一発きめたあと、キンゾウに駆け寄った。
「どこ連れてってくれるの」
猫のように身体をくねらせ、腕に絡み付いた。
「面白い店があるんだ」
キンゾウがニッコリ笑った。サトミは思わず腰を擦り付けた。股間が疼いている。Sを常用するようになって、身体が変わった。性欲が、以前とは比べものにならないくらい昂《たかま》っているのが分かる。体の芯はすでに熱く潤っていた。早々にその店を切り上げて、二人だけになりたかった。
「早く行こうよ、キンゾウくん」
キンゾウの逞しい腕が、サトミのくびれた腰を抱えた。
「サトミちゃん」
「なに」
「いい夜になると思わない?」
耳元で囁いた。熱い吐息が耳たぶを嘗める。サトミは腰が砕けそうになり、キンゾウの肩に顔を埋《うず》めるようにしてすがりついた。
高島屋の裏手の路地を入った雑居ビルの地下だった。キンゾウは腕をほどいた。振り向きもせず、さっさと階段を下りた。
「待ってよ」
サトミは慌てて追った。照明もない、洞窟みたいな階段だ。擦り切れた革張りの分厚いドアを開けると、突風に似た大音響が二人を襲った。ラップミュージックの重低音が腹の底に響く。
店内は照明が落とされ、ラムと葉っぱの甘い匂いが漂っていた。店の奥は暗闇に近い。客が何人いるのかも分からなかった。キンゾウは、そこだけピンライトに照らされたカウンターに座り、手招きをした。サトミは恐る恐る、隣に座った。
「なに、飲む」
「キンゾウくんは?」
「ズブロッカ、ソーダ割りで」
よく分からなかったが、同じものでいい、と答えた。カウンターの中で人の動く気配がする。でも、暗くて顔はもちろん、年格好さえはっきりしなかった。スッと腕が突き出され、グラスが二つ、置かれた。
「こういう店、どう?」
答える前に、背後で気配を感じた。複数の足音。ハッと振り向いた。人影がひとつ、二つ……五つあった。不気味な黒い彫像。じっとこっちを見たまま動かない。
「キンゾウくん」
思わずしがみついていた。真ん中の背の低い男が腕を上げた。それを合図に、ラップがプツンと切れた。静寂。耳の奥がジンジン鳴っている。男が一歩、前へ進み出た。カウンターのライトがその顔を照らした。
はれぼったい眼の小太りの男。汚らしい無精髭と脂ぎったドレッドヘア。分厚い唇が紅をさしたように赤く、ぬめっている。
「キンゾウ、だな」
怒気を露《あらわ》にした声だった。キンゾウはストゥールをクルリと回して向き合った。
「それがどうした」
大きく脚を組み、グラスを啜りながらしれっと答える。クールな二枚目。小太りの男の眉間にみるみる筋が刻まれた。
突然、膨らんだ険悪な空気に、サトミは何がなんだか分からず、キンゾウに身体を擦り寄せた。小太りの男はキンゾウを睨めつけた。
「おまえらがいい気になって歩きやがるから、おれたちはえらい迷惑してるんだ。目障りでしょうがねえ」
「おまえたちは社会に害毒を撒き散らすだけのゴミだ。おれたちがいる限り、渋谷には一歩も足を踏み入れさせない」
「なんだと……」
男のはれぼったい眼がすっと細まった。
「おまえたちが何で稼いでいるか、調べはついているんだ。舌先三寸でたらし込んだ女をよってたかって輪姦《まわ》して、それをビデオに撮って暴力団に流してんだろう」
キンゾウはさも不快そうに唾を吐くと、続けた。
「シティ・ガードは、おまえらを許さない。潰すと決めたんだ」
男が分厚い唇を歪めてせせら笑った。
「三枝がいねえと何もできない腑抜けの集まりが。おまえひとりくらい屁でもねえぜ。しかも今夜は女連れときた」
そう言うと顎をしゃくった。黒い彫像が二つ、弾かれたようにドアに向かった。
「誰も入れんなよ。今夜はこれでクローズだ」
「キンゾウくん、もう出よう」
サトミは泣きそうになって訴えた。
「キンゾウ、覚悟しとけ。てめえの女がヒーヒーよがるとこ、たっぷり見せてやるからよ」
男は、サトミを上から下まで、嘗めるように視線を這わせると、舌をベロリと突き出した。舌先から唾液が一筋、たれて糸を引いた。
キンゾウの顔が強ばった。拳を握って立ち上がった。ストゥールが倒れた。空気が揺れた。背後に控えた仲間二人がダッシュし、キンゾウに襲い掛かった。二人同時に腰にタックルを見舞い、反撃の暇を与えないまま床に倒れ込んだ。怒号、罵声。肉を打つ鈍い音が店内に満ちる。
サトミは、小太りの男に頬を激しく張られ、音を立てて転がり落ちた。床に顔を派手に打ちつけ、うっと息を詰まらせた。ワンピースの裾がめくれ、黒のパンティが露になった。
「キンゾウ、見とけよ」
肘をついて身体を起こそうとしたサトミの顔を、サッカーボールみたいに蹴りあげた。仰向けに引っ繰り返ったサトミの身体に馬乗りになり、ヘラヘラ笑いながら拳を叩きつけた。鼻血が喉に流れ込み、サトミは咳き込んだ。男は構わず腕をねじ上げ、豹柄のワンピースをビリビリに裂いた。
「バッキャローッ」
サトミは血を吹いて吠え、身体を捻《ひね》って抗った。だが、抵抗もここまでだった。拳が腹に、顔に、叩きつけられる。哀れな悲鳴と、助けを求める金切り声。サトミの喉を迸る絶叫は次第に弱く、か細く、消えた。圧倒的な暴力を前に、ただ震えるしかなかった。
男はパンティに手を掛けると、一気に引き千切った。両腕を押さえ込んでのしかかり、熱い、ぬめった舌が、唇が、全裸に剥かれたサトミの身体を上から下へ、執拗にはい回る。荒い息遣いが速く、太くなる。卑猥な笑い声が降ってきた。仲間二人が、上気した顔で覗き込んでいる。
床に打ち倒され、俯せになったキンゾウが、サトミの視界の端で揺れた。頭を上げ、こっちを見た。その口元に微かな笑みが湧いた気がした。サトミはいいようのない絶望感に襲われ、すすり泣いた。キンゾウの姿が霞んで消えた。
*  *
「名前、まだ聞いてないよ」
「ワタル」
「どんな字?」
「海を航海する、の航だ」
ユカはぴったりの名前だと思った。クルマは、東横線の鉄橋の近く、横浜寄りの堤防に停めてあった。ここからユカの自宅までなら、歩いてでも帰れる。航は、ちゃんと約束を守って自宅まで送り届けてくれたのだ。もう少し、航と話をしていたかった。
「いい名前だね」
「母親が付けてくれたんだ」
「お母さん、海が好きだったの?」
「ああ、よく二人で遊びにいったよ」
「泳ぎに?」
「いや、ぼくは波打ち際で遊んで、お母さんは浜辺に座って、白いパラソルをさして、ぼくを優しく見ているんだ。でも、時々、ずっと遠くの水平線を眺めていることもあった。そんなとき、決まってお母さんの瞳から涙がこぼれているんだ」
「なにか、悲しいことでもあったの」
「そうだと思う。ぼく、全然平気だったのに。お母さんがいてくれるだけで、良かったのに。ぼく、お母さんがいてくれれば何もいらなかった。苦しいことも辛いことも、何にもなかったのに……」
「お母さんはどうしたの?」
「死んじゃった」
ユカは俯いて呟いた。
「ごめんね、いやなこと訊いちゃって」
「気にすることないよ。それより、ぼくのこと、どう思う?」
「どうって……」
期待に胸が高鳴った。
「どこかヘンじゃない?」
ユカは予想もしなかった航の言葉に、思わず顔を上げた。だが、ひたっと見つめた航の眼は真剣だった。
「ヘンじゃないひとって、いないよ。大人なんて、皆ヘンだよ。変態ばっか。あたし、触られただけで吐き気がしちゃう」
ラブホテルでエンコーオヤジに掴まれた手首が、今でもぬめっている気がして、ユカは顔をしかめた。
「でも、やっぱりぼく、ヘンなんだ」
不思議な、感情の起伏を感じさせない声だった。そういえば、さっきから、航の言葉には感情の色がないような気がする。無色、無臭の透明な声。どうして、こんな声が出るんだろう。意識しているんだろうか。
「航くんの声って、なんか薄い繭《まゆ》にくるまっているみたいだね」
「どうして」
「悲しいこととか、面白いこととか、そんないろんなことが、航くんの口から出ると、同じトーンになる気がする。絶対に繭が破れないんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
ユカは、溢れる興味を抑えることができなかった。
「航くんが面白いことって、なんだろう」
「面白いこと?」
すごく頭がいいはずなのに、まるで小学一年生のような訊き方だった。
「心がわくわくして、気持ちいいことだよ」
少し間があいた。
「ぼく、そういうことが分からないんだよ」
悲しそうな顔だった。繭に少しだけ、裂け目が出来た気がした。
「どうして?」
航が視線をすっと逸らした。そして、多摩川の向こうを眺めると、呟くように言った。
「どうしてだろう、それをいつも考えているんだ」
彫像のような整った横顔に、仄暗い陰影が浮かんだ。
「ただね、悪いことだけは絶対に許せない。そうお母さんに教えられてきたんだ。男なら勇気を持ちなさい、逃げてはダメです≠チて。だから、ぼく、逃げなかった。もちろん、これからも逃げないよ」
「絶対に?」
「そうだよ。だって、悪いヤツって、この世にいらないもの」
ダイヤのピアスがキラリと光った。こっちを向いて、航が優しく言った。
「ユカちゃんも、そう思うだろう」
ユカは、吸い込まれるように、コックリと頷いた。
「そうだよ、ユカちゃん、悪いことするヤツって、みんな地獄に行っちゃえばいいんだ」
航が眼を細めて笑った。素敵な、向日葵《ひまわり》みたいな笑顔だった。ユカもつられて笑った。
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八月六日(金)
「そのガキ、シャバへ出て一年か」
巽のダミ声が会議室に響いた。
「ええ、昨年八月、小田原の中等少年院を出所しています」
南田はノートに目をやりながら、答えた。肌に、羨望と嫉妬の眼差しを痛いほど感じる。
雑誌は生き物だ。常に新鮮な、読者が食指を動かすネタを取り入れないと、途端に活力が失せてしまう。編集現場は、鮮度の高い独自の記事をいかにモノにするかが勝負だった。編集会議は、各人の能力が満座で査定される、極めてシビアな場だ。南田の前に、有名男優の乱交スキャンダルを披露した若手編集部員は、巽から散々罵倒され、涙を滲ませて引き下がることになった。曰く、「キャバクラのネエちゃんの噂話以下だ。ウラ取りの材料を持ってこい」と。
だが、苛ついていた巽も、南田の報告になると、身を乗り出してきた。編集会議に出席しているフリーは、南田のほかにはベテランの実力派と言われるライターが二人いるだけだ。普通、編集部員は自らが抱えるフリーからネタを提供してもらい、それを会議で披露する。しかし、南田の場合、仙元専属のデータマン、という立場で編集部に出入りしていたため、決まった担当編集者はいない。いや、まったくのフリーであったとしても、駆け出しで何の実績もない南田に、興味を示す編集者などいなかったろう。おかげで南田は巽の子飼いライターとして、編集部でも一目置かれる存在となった。もちろん、今月号のスクープのおかげだ。
名門女子大学教授のレイプ事件を報じた号が発売されるや、テレビ、スポーツ紙がこぞって取り上げた。問題の教授は、文化人としてテレビでも馴染みの顔だっただけに、話題性はピカ一だった。おかげで月刊「黎明」は大幅に売り上げを伸ばし、無名だった南田も一躍、スクープライターとして知られることになった。南田自身、テレビのワイドショーから取材を受けるほどの騒ぎが続いている。端整なマスクとスマートな物腰は、番組の担当プロデューサーにも評判が良く、定期的にコメンテーターとして出演しないか、という打診さえある。
しかも、青年週刊誌とはいえ、シティ・ガードのリーダー、三枝航に関するスクープも飛ばしたのだ。これまで溜め込み、沸々と煮え立っていたやり場のない焦りと憤怒は、ついに噴射口を見いだし、南田のポジションをぐんと押し上げていた。
おそらく編集部の面々は、人を見る目のなさを呪い、歯軋《はぎし》りしているはずだ、そう思うだけで気分はたまらなく高揚した。しかし、続けて三の矢、四の矢を射たないかぎり、必ずフロックとあざ笑う向きが出てくる。その点、南田はついていた。昨日、ワイドショーを見ていた視聴者から、名指しで編集部に電話が入ったのだ。JR蒲田駅前の繁華街でスナックを経営する女性だった。自分の息子を殺した男が大手を振って街を歩いている、という訴えだった。
すぐに面会の約束を取り付け、編集部を飛び出した。開店前の、カウンター席とテーブル席が三つだけの店内で、熊井光江と名乗る女性が待っていた。大柄な、化粧の濃い、メスライオンを思わせる赤茶けた髪の中年女だった。
──自分のひとり息子は殺されたのに、犯人の同級生は自宅で幸せに暮らしている。たった三年、少年院に入っただけで、どうして許されるのか──
タバコをふかしながら、光江はまくしたてた。
「あの人殺しが、女の子とうれしそうに話してんのを見たのよ。夕方、自転車に乗った女とデレデレしやがってさ。あたしゃ、あれ見たとき、マジでぶっ殺してやろうかと思ったよ。うちの息子はあいつに殺されて、こっちは毎日、酒で気持ちを紛らわしているっていうのにさ」
口紅のべっとりついたタバコを忌ま忌ましげに灰皿でもみ消すと、カウンターから身を乗り出して訴えた。
「テレビであんたを見たとき、ああこのひとならあたしの気持ちが分かってくれる、と思ったんだ。ねえ、少年法かなんだか知らないけど、こんなバカなことが許されていいと思うかい?」
同情した素振りで相槌を打ちながら、頭に閃くものがあった。うまくいけば、最近の少年犯罪の凶悪化で非難される少年法を俎上《そじよう》に、面白い記事が書けるかもしれない。南田は光江から写真を借り受けた。クラスの集合写真。問題の少年は真ん中の列、左端にいた。坊主頭の、どこか儚《はかな》げな、影の薄い顔立ちだった。そして被害者の大柄な少年、光江の息子は、殺されたという憐憫を差し引いても、その凶暴な性格が十分に窺える、知性とか思いやりとは無縁の顔に見えた。南田は少年の職場を教えてもらうと、外へ出た。腰の軽さは雑誌記者の必須条件だ。
夕方五時半、少年は薄汚れたズックのバッグを手に持ち、門を出てきた。暫く後を尾ける。多摩川の堤防に沿った道。小さな公園に面した通りで声を掛けた。
「友田くん」
少年は、ビクッと肩を震わせ、振り向いた。顔には戸惑いと疑心が張り付いている。
「友田勇志くん、だよね」
笑顔で語り掛けた。
「誰?」
あからさまな警戒の色。
「ちょっと話を訊きたいんだ」
「だから誰だよ、あんた」
苛立ちを露にした声だった。南田は名刺を取り出すと、二本の指で挟んで差し出した。
「時間がとれると有り難いんだけど」
名刺に見入っていた少年が、顔を上げた。ひどく不安そうな表情だった。
「特派記者って……新聞のひとかい?」
か細い声で言う。
「いや、雑誌のほうでね。ほら月刊黎明って──」
言葉が止まった。少年の顔がみるみる歪む。泣いているのか、怒っているのか、分からない。少年は名刺を掌で丸め、アスファルトに投げ付けると、拳を握り締めて叫んだ。
「帰れ、帰れ、帰れ!」
爆発した激情に気圧され、南田は思わず後ずさった。少年は辺りを見回すと、大声で怒鳴った。
「おれに近寄るな、二度と来るな! おれは何も知らない、だから喋らない!」
少年は足を一歩、踏み出した。
「あんた、今度見かけたら、ただじゃおかない、分かったな!」
恫喝の言葉とは裏腹に、ひっくり返った声は何かにひどく怯えていた。もう一度、辺りにグルリと眼をやると、南田を睨み、バッグを小わきに抱えて走りだした。
南田は、友田勇志に反省の色がないことを強調して、会議の席の話を終えた。
「面白えな」
巽がボソッと呟いた。
「加害者はたった三年で少年院を出て、反省の色もなく、面白おかしく暮らしているのに、被害者の母親は毎日、悲しみにくれて滂沱《ぼうだ》の涙か」
巽の頭は瞬時に記事の構成を弾き出したようだ。
「おまえはこれ一本でいけ。連続でフロントを書いてみろ。ただし──」
薄いワインレッドのサングラス越しに、睨めつけた。
「そのワルガキの話が絶対必要だ。脅しでもなんでもいい、口を開かせろ。どうやって殺意が芽生え、殺したのか、少年院の生活、今の生活、最後は被害者の母親と対決させるんだ。反発でも謝罪でもいい、とにかく生の声をたっぷり載せろ。出来がよければ、百枚でも二百枚でもスペースをやるぞ。一挙掲載だ。現行法では矯正できない凶悪な少年の実像を描いて、偽善の皮を被った人権屋どもにほえ面をかかせてやる」
強烈な発破だった。南田は、少年が見せた周囲への過剰な警戒心と、怯えが気になったが、ともかく、ネタを巽が認めてくれたのだ。
──何がなんでも喋らせてやる!
迷いはなかった。仙元の手垢がまったくつかない、独自のネタで勝負するのだ。そう思うだけで武者震いがした。
会議を終えると南田は、胸を張り、大股で編集部へ戻った。口笛が自然と口をついて出るほど、気分は高揚していた。
「南田さんよ、ご機嫌のところ、まことにすまないがね」
編集部の前で不意に呼びかけられた南田は慌てて口を噤《つぐ》み、声の主を見た。グレーの制服に、胡麻塩頭の角張った顔を持つ初老の男。黎明社の警備員として働く中山だった。背の高い南田の耳元に、伸び上がるようにして囁く。
「ちょっと面倒なことが起こってるんだ。来てくれないか」
「何です」
南田の訝しげな声を、強い視線で制すると、スーツの袖を引いた。不吉な予感が胸をよぎる。連れていかれた先は、地下一階の警備員の詰め所だった。
「とんでもない女だよ、あれは」
中山は、怒りを含んだ声で言うと、鉄製のドアを開けた。中山と同じ年格好の警備員が二人、うんざりした表情でソファを見下ろしている。その視線の先には、女が座っていた。脂肪の塊から太い手足が突き出た、コロリとした女。赤いベレー帽にオカッパ頭、濃いブルーのワンピース。工藤和美だった。南田の顔を見るなり、勢い込んで立ち上がった。
「この大ウソつき、いったいどうしてくれんのよ!」
肉厚の唇を憤怒に歪ませて、吠えた。顎から垂れた肉の襞が小刻みに揺れている。
「あの男、大学辞めるっていったじゃない。わたしをレイプしたあいつを社会から抹殺してやるって、大見栄をきったのはあんたたちでしょう。それが、どうして、まだ大学にいるのよ。もう、わたし、悔しくって悔しくって──」
和美は、両手で顔を覆うと、大声で泣き出した。狭い地下の部屋に、オットセイの喚きに似た泣き声が反響して、耳を覆いたくなるほどだった。
「たまらんな、こりゃ」
中山が、ドアを指さした。身振りで、外に出ろと言っている。
「あの女、突然、やって来たと思ったら、受付を突っ切って、階段を駆け上がったんだ。社長に会わせろーッ≠チてものスゲエ形相で叫んでな。それで慌てて制止したってわけだ」
中山はドアの外でこれまでの経緯を説明した。黎明社の警備員は、全員警察のOBだった。柔剣道、逮捕術の有段者ばかりだ。和美がいくら普通じゃないとはいえ、取り押さえることなど造作もなかったろう。
「所轄に連絡しようかとも考えたが、まあいろんな事情があるんじゃないかと思ってな。それであんたを呼んだんだ」
「申し訳ありません」
南田は深く頭を下げた。警察が入れば、当然、事情を聞かれる。コトが大きくなって、ほかのマスコミがこの騒ぎを嗅ぎ付けないとも限らない。南田のスクープを叩く格好の材料だ。
「どうする?」
中山が訊いた。
「おれがなんとかしますから」
「あの手の女はやっかいだぜ」
「大丈夫です。おれのネタ元です、じっくり時間をかけて言い聞かせますよ。この責任は記事を書いたおれにありますから」
部屋から警備員に出てもらい、泣きじゃくる和美と向かい合った。
「工藤さん、前にも話したように、ぼくらには大学教授を辞めさせる人事権はありません」
ゆっくりと、諭すように言った。
「だから、こんな真似をされてもどうにもならないんですよ」
教授の在籍するS女子大学では、今月号が発売された翌日に学内で緊急会議が開かれ、一カ月の謹慎処分が決定していた。刑事事件でも訴訟沙汰でもなく、単なる告発というのが解職に至らない理由だった。女子学生との関係についても、噂の域を出ない、と処分の対象から外れている。文化人としてイメージダウンこそ避けられないが、大学教授としての地位は安泰というわけだ。レイプ教授、という汚名は一生ついて回るにしても。
「女性誌でもワイドショーでも、あれだけ叩いているんだから、これで良しとしましょうよ。ねえ、工藤さん」
笑みを浮かべ、柔らかく言った。和美の泣き声が止んだ。顔を覆っていた両手を下ろした。涙で化粧が剥げ落ち、口紅は唇をはみ出している。
「ほら、これ使って」
南田はハンカチを差し出した。ひったくるように取ると、顔を拭った。
「帰る」
和美は丸めたハンカチをテーブルに置いて立ち上がった。ドアを開けて送り出してやる。通路には両腕を組んで、苦虫を噛み潰した中山がいた。
「大丈夫ですよ。終わりました」
すれ違いざまに囁いた。
「ほう」
さも感心した、という口ぶりで中山が小さく言った。階段を七歩、上がった時、和美が振り向いた。
「ねえ、南田さん、やっぱりわたし、納得できないんだな」
長身の南田を見下ろして、そう言った。
「わたし、悪くないもん。あのヒヒジジイを大学から追い出すまで、バンバン記事、書いてよ」
腰に両手を置いて、一気にまくし立てた。
「それがあなたの義務だよ。そうじゃなきゃ、ケジメ、つかないでしょう。あなたもプロならそこまでやらなきゃダメじゃん。わたし、あなたを一人前の書き手にしたいのよ。あの文章、粗いし甘いもん。出来が良くないよ。あんなヘタクソな記事でこの先、やっていけんの? 将来の可能性を感じないもの。女性の独白で構成するなら、太宰治くらい読みなさいよ。『きりぎりす』読んだ? もっと突っ込んでよ。わたしが覚悟を決めてネタをあげたんだから、読者の琴線に触れる説得力のある記事、書きなさいよ」
南田の忍耐は脆くも崩れた。
「だったら自分で裁判所に訴えたほうがいいな。はっきり言っておきます。あなたのその身勝手な態度には辟易しています。我々はもう協力できない。あとは勝手におやんなさい」
言い終わった途端、和美の太い足が飛んで来た。体重の乗った踵《かかと》がもろに腹にめり込んだ。南田は、呆気なく階段を転げ落ちた。そこへ罵声が降ってきた。
「裁判だと? よくも言いやがったな、バカヤロウ。てめえ、絶対許さないからな、覚えてろ!」
和美の身体はゴムマリのように弾んで階段を駆け上がり、消えた。
「大丈夫かい」
慌てて駆け寄った中山が抱き起こした。
「ええ、不意をつかれただけですから」
「あいつ、しつこいぜ。気をつけたほうがいい」
中山の言う通りだった。和美はおかしい。どこか大事な部分が弾け飛んでいる。この先、全エネルギーを傾けて、南田を憎悪するはずだ。間違いない。
──仙元がいたなら。
そう思った。フリーの物書きとして幾多の修羅場を潜ってきたあの男なら、有効なアドバイスをくれるはず──
南田は、驚異的な忍耐力で和美を懐柔し、話を引き出したあの底知れぬ実力を、今になって思い知った気がした。だが、自分は仙元を切ったのだ。踏み台にするために、一人前のライターとしてのし上がるために。もう後戻りできない。南田は立ち上がると、スーツの埃を払った。
それに、と思った。自分はあの三枝航から相談をもちかけられているのだ。ワルを憎む、少年たちのカリスマ。三枝航は、信頼できる大人はあなたしかいない、と言ったじゃないか。頭のおかしいデブ女の戯《ざ》れ言など、気にする必要はない。もう、そんな瑣末なことに気を取られている暇はないのだ。仙元に頼ろうとした自分がひどく情けなかった。そうだ、会いに行かなくては。約束を果たさなくてはならない。三枝航の信頼を裏切ってはならない。
「なあ、ミキ、三枝航って知ってるか」
「サエグサワタル?」
ミキが、まだ興奮の収まらない、上気した顔で訊いてきた。
「渋谷で自警団を結成した少年だよ。テレビでも紹介されたはずだがな」
「あ、知ってる。最近、評判になってたよね」
仰向けになった南田の上に、全裸のミキがのってきた。張りのある、形のいい乳房が、南田の胸で潰れた。このところ、二人の間にはどうしようもない透き間風が吹いていたが、それも今回のレイプスキャンダルのスクープで消えたようだ。あれほど不機嫌だったのに、今夜は自分から泊まっていくといってきかない。ベッドの上でもいつになく積極的で、南田も、若い弾力に富んだミキの身体を存分に堪能したばかりだった。
「重いよ、ミキ」
ミキの身体を強引に振りほどこうとすると、ミキは「イヤイヤ」と甘い声を出して腰を振り、腕を背中に回してしがみついてきた。火照った肌が、快感の名残を留めている。
「そういえばさあ、うちの局でもワイドショーのプロデューサーが出演を交渉したらしいけど、けんもほろろに断られたらしいよ」
「だろうな」
あの三枝航が、わざわざスタジオまで出向いて、くだらない評論家の話に調子を合わせるなど、とても想像できなかった。
「シュンちゃん、知ってるの?」
大きな瞳が見つめる。
「ああ、取材したことがある。おれが書いた記事がもとであいつ、知られるようになったんだ」
「へえー、そうなんだ」
感心した口ぶりが気分よかった。
「近いうちにまた会わなきゃならない。なにか相談があるらしい」
「ねえ、ねえ」
がばっと身を起こしたミキの長い髪の毛先が、顔をくすぐった。
「じゃあ、会える?」
瞳が、キラキラ光っている。
「おまえが?」
「うん」
「バカ、遊びじゃないんだぞ」
「ケチ、仕事でもないんでしょ」
「ミーハー気分で会うやつじゃない。あいつは特別だよ」
ミキがクニャと屈み込んで、耳元で囁いた。熱い吐息が耳たぶにかかる。
「シュンちゃん、なんか変わったね。強くなったみたい」
「なにが」
「ここが」
と言うと、クククと喉で笑った。ミキのしなやかな手が、南田を誘っていた。
「ねえ」
視線がねっとりと潤んでいた。
「なんだ」
「もう一回、やろうよ」
「できないよ」
「できるよ、ほら、もうこんなになってるもん」
ミキは上機嫌だった。あの、交際にいい顔をしなかった父親も、「黎明」の記事を認めてくれたらしい。ミキが間延びした声で囁いた。
「シュンちゃん、変わったんだからあ」
南田はミキの後ろから腕を回し、指を這わせて抱き寄せた。柔らかな部分はもう、十分に潤っていた。
──そう、おれは変わったんだ。
南田の中で不意に、凶暴な欲望が爆《は》ぜた。身体を反転させ、ミキの背中にのしかかると、片手でくびれた胴を抱え、強引に持ち上げてから、丸い尻の肉を掴んで引き寄せる。
「優しくないのはいや!」
小柄なミキの身体が、南田の下でくねる。
「いやあ」
髪を振り乱して抗うミキを押さえ付け、手を添えて、熱く滴る肉の中に突き入れた。
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八月七日(土)
なにかが変だった。ここ数日、いつも誰かの視線が注がれている気がする。
勇志は仕事の帰り、重い足取りで歩きながら、ふと背後に眼をやった。熱い西陽に焦げた堤防沿いの道。頭を垂れてトボトボと歩く野良犬と、自転車に乗ったプール帰りの男の子が三人、こっちは黄色い笑い声を撒き散らして、あっという間に追い越していった。思い過ごしだろうか。
このところ、妙に苛ついている。タクヤだ。タクヤの行方が気になる。航もあれから姿を見せていない。しかも一昨日《おととい》は突然、興味本位の雑誌記者から声を掛けられるし、そんなとこ、航に見られたら誤解されるに決まっている。母は、航を家の近くで見かけたと言ったが、得体の知れない視線と何か関係あるのだろうか。分からない。航が現れてから、周囲の空気がガラリと重くなって、勇志を幾重にも締め付ける。対岸の工場地帯から吹いてくるいがらっぽい風が喉に張り付いた。空咳を二つ、吐いた。
帰宅して玄関の引き戸を開けると、こもった大小便と汗がぬるい臭気となって臭った。勇志は、一階の窓という窓、炊事場の出窓まで開け放って、外の空気を入れた。
「ちょっと待ってなよ」
虚ろな眼で呻く祖父に一声かけて、風呂場から金盥《かなだらい》を運ぶ。お湯をはり、タオルを浸す。祖父の浴衣をめくって手早くオムツを替え、尻をティッシュで拭う。次いで、祖父の身体を、タオルで強く擦るようにして洗う。今朝、いつもの時間、起床することができず、オムツを替え、食事をさせただけで仕事に出たのだ。全身に鉛が流し込まれたみたいに重く、身体がいうことをきかなかった。疲労と睡眠不足のせいだ。朝できなかった分、丁寧に洗ってやる。祖父が、気持ちよさそうに眼を細める。
階段から重い足音が響いてきた。母だった。部屋を見回すなり、小さく叫ぶ。
「どうして窓開けるの!」
けたたましく歩き回り、窓を閉めていく。
「臭いが外へ漏れたら、ご近所が迷惑するじゃないか」
声に険がある。眉間にシワが寄って、表情に余裕がない。身体全体から生活の疲れが滲んでいた。
「今朝だって、お隣に言われたんだから」
勇志の苛立ちにポッと火が点いた。
「なんて言われた?」
「臭くてご飯も食べられない、そう言われたんだよ」
「こんな蒸し暑い部屋で、じいちゃんがかわいそうだろう。隣なんか、気にすんなよ」
勇志は強い口調で言い返した。
「勝手なこと言うんじゃないよ。ここでずっと生活していかなきゃならないのに、お隣とうまくやっていかなきゃ、ますます住み辛くなるだろう」
言ってしまってから、母の顔に後悔の色が浮かんだ。勇志は唇を歪め、吠えた。
「おれが人殺しだから、近所に悪いってのか、世間体が悪いってのか、ええ!」
母は視線を伏せて、ぽつりと呟いた。
「ごめんよ、勇志。そんなつもりじゃあ……」
まただ。また、謝っている。勇志は膨れ上がった怒りの矛先を失い、唇を噛んだ。足を振り上げ、思い切り、金盥を蹴った。白く濁ったお湯が跳ねて、畳を濡らした。凹んだ金盥と、祖父の哀しげな顔。ウウッと言葉にならない声が耳朶《じだ》を打つ。臭くて暑いこの部屋に縛られたままの自分。何もかもぶっ壊してやりたかった。勇志は祖父と母に背を向けて、外に出た。少し頭を冷やしたかった。ここ数日の苛立ちで、頭が普通じゃなくなっている。
路地を抜けて、五分も歩くとコンクリートで固められた堤防に出る。冥い藍色の多摩川を挟んで遥か対岸、川崎の工場地帯の上には、すでに青黒い闇が広がり、それを背景に製油所の煙突から出る炎がゆらめいていた。印画紙に写しこまれたようなダークブルーの上で、くっきりと浮かび上がるオレンジの炎。昔と変わらぬ故郷の風景だった。
サンダルをつっかけた右足のつま先が熱く火照っている。金盥を蹴った足。母親の俯いた顔。祖父の哀しい顔──祖父とあの金盥をつなぐ想い出が、勇志の脳裏に鮮やかに浮かび上がった。
父が駆け落ちした後、迎えた小学一年の夏休み、勇志はいつもひとりだった。当時、祖父の武三は鋳物工場で、母は近所のクリーニング店で働いており、勇志の相手をする余裕はなかった。遊園地へも、キャンプにも行けず、お盆を過ぎた頃、勇志は母に泣いて訴えたのだ。絵日記に書くことがないよ、どこか行きたいよ、と。
翌朝から、祖父が不可解な行動をとるようになった。お茶一杯、自分でいれることのなかった祖父が、炊事場に立ち、鍋にお湯を沸かした。そして、サツマイモを二個、煮た。煮え上がったサツマイモを今度は摺鉢に入れると、スリコギでていねいにこね始めた。最後に小麦粉を混ぜて練り、丸い団子を五、六個つくると、それをタッパーに詰めて弁当箱と一緒に風呂敷で包み、工場へ出掛けるようになったのだ。この奇妙な朝の行事が十日も続いたろうか。
幼い勇志は、丸い団子を祖父のオヤツくらいに思っていた。いつも気難しい顔を崩さない、寡黙な職人気質丸出しの祖父が、勇志は苦手だった。詳しいことを訊くなど、とても出来なかった。
日曜の朝。
「起きな、勇志」
祖父のしわがれた声で目覚めた勇志は、せかされて着替えを済ますと、麦藁帽子をぽんと被《かぶ》せられ、そのまま自転車の荷台に乗せられた。よく晴れた日だった。
同じように麦藁帽子を被った祖父の肩には布の袋で包んだ、長い棒状のものが掛けられていた。無口な祖父は、勇志に話しかけるでもなく、タバコをくわえたまま黙々とペダルを漕ぎ、自転車は堤防の上をゆっくりと上流へ進んで行った。
三十分も経ったろうか。多摩川が大きく弧を描いているところで、自転車は停まった。そこには野球のグラウンドが一個、まるまる収まるような広大な砂州が張り出しており、勇志の背よりも高いススキが一面に生い茂っていた。
祖父の後に尾いてススキをかき分け、勇志は砂州の先端まで歩いた。視界が開け、河辺に出たところで、祖父は辺りのススキを踏み倒して足場をつくり、布の袋から一本の棒を取り出した。その棒を振り出すと、先がスルスルと伸びて、釣竿が姿を現した。
「魚を釣るの? じいちゃん」
勇志は声を弾ませて訊いた。
「ああ」
ぼそっと答えると、祖父は竿の先端に手早くテグスを取り付け、末端の十本近い小さな鉤《はり》を、あの団子の中に詰め込んだ。そして、鮮やかな竿捌きで河の中に投げ込んだのだ。
「鉤をな、鯉が吸い込んじまうんだ」
祖父の顔が、残暑の強い陽差しと幅広の麦藁帽子がつくった濃い影の中で、ニカッと笑った。初めて見た祖父の笑顔だった。
「鯉はな、みんな自分の道を持っていて、朝と夕方、そこを回りながら餌を拾うんだ」
祖父はタバコをうまそうにふかすと、テグスに眼をやった。赤と白の、ピンポン球くらいの浮子《うき》が、川面で揺れている。
「ずっと餌を撒いてきたから、釣れるぞ」
毎朝つくっていたあの団子は、鯉を誘う餌だったのだ。どんな鯉が釣れるのか、勇志はキラキラ光る川面を見つめながら胸が高鳴った。
二本目のタバコに火を点けてすぐ、ふいに浮子が上下に動いたかと思うと、ストンと消えた。瞬間、祖父はタバコを飛ばし、一気に竿を立てた。
「きた!」
竿がしなって青い空に弧を描いた。祖父が両足を踏ん張る。
「こりゃあすごいぞ!」
テグスがヒュンヒュンと唸り、竿が軋む。身体ごと、河へ引き込まれそうな勢いだ。
「勇志、手伝え」
夢中で竿に取り付いた。ガタガタッと凄まじい手応えが、掌から腕、脳天へと突き抜ける。勇志は力いっぱい引き絞った。それでも、獲物はグングン底へ沈んでいく。
「この野郎!」
祖父が叫ぶ。二人は竿にとりついたまま、右に左に振られた。鯉は力が強いだけでなく、頭も良かった。弱ったとみせてテグスをたるませ、突然、黒い背鰭《せびれ》を水面に立てて突っ走った。しかし祖父は相手の動きを見ながら竿を上手くコントロールした。
「ほら、勇志、腰を入れて踏ん張らんと!」
勇志を叱咤激励しながら、絶妙の力加減で我慢比べのようなひとときを制すると、獲物は白い水しぶきを上げ、のたうちながら岸に引き上げられた。頭から背中、尾鰭にかけて真っ黒で、腹は濃い黄金色の、勇志の胴回りくらいありそうな巨大な野鯉だった。ススキの茂みの中で、鈍い音をたてて暴れ回る鯉を見て、祖父は満足そうにタバコに火を点けた。
「じいちゃん、でっかいねえ」
「ああ、多摩川の主だな、こいつは」
祖父は岸に腰を下ろし、タバコを吸い終わると、飽きずに鯉に見入る勇志に声を掛けた。
「さあ、帰るか」
「鯉はどうするの?」
「そりゃあ、持って帰るさ。勇志の母ちゃん、ぶったまげるぞ」
だが、こんな大きな鯉をどうやって持って帰るのだろう。祖父は竿以外、何も持っていないのだ。そんな勇志の心配をよそに、ズボンのポケットから白い布を取り出すと、河の水に浸した。水を十分含んだ布を広げると、ちょうど祖父が両手を広げたほどの幅があった。その布を、暴れ回る鯉に被せると、クルッと捻って持ち上げる。鯉は、布にくるまれ、あっという間に肩にかつぎ上げられた。しかも魔法でもかけられたように、ピクリとも動かない。
「じいちゃんの田舎には鯉とりの名人がおってな。手拭い一本で、こいつよりデカイやつを川から抱き上げてきたもんよ」
祖父の故郷は、たしか九州の大きな川沿いの村だと聞いたことがある。
自宅に帰ると、祖父はすぐに金盥に水を張って、玄関先に置いた。今も使っている金盥、勇志が凹ませた金盥だった。鯉を放すと尾鰭の部分がはみ出して、勇志はその大きさに改めて驚いた。
「砂を吐き終わったら、鯉こくと洗いにしてやるからな」
祖父が上機嫌で言った。
「コイコクとアライってなに?」
「みそ汁と刺し身だ。今晩、食えるぞ」
近所からも続々と見物人が訪れて、一様に驚きの声をあげている。ステテコ一枚でビールを飲んでいた祖父が奥から顔を出し、珍しく高揚した口ぶりで、いかに苦心惨憺して釣り上げたかを説明すると、ついでに「一緒に食おう」と誘っていた。父の駆け落ち以来、暗い顔で過ごしてきた母も、不意に訪れたその賑やかな光景を、眼を細めて眺めている。勇志は、なにか温かいもので心が満たされた気がして、とても嬉しかった。
だが、その幸福もつかの間だった。昼下がり、金盥の中でエラを開き、苦しそうに口をパクパクする鯉を見ているうちに、気持ちが変わった。丸い目玉が、命乞いをしていた。殺して食べることなど、とても出来なかった。勇志は母に訴えた。ねえ、逃がしてよ、食べるのよそうよ。白い割烹着にすがって何度も訴えた。
母は、切ない顔で「そうだね」と言うと、祖父に勇志の願いを伝えてくれた。
「いまさら、そんなことが出来るか」
と取り合わなかった祖父も、日頃はおとなしいが、一度言い出したら絶対に退かない母の粘りに負けて、渋々、鯉を金盥から布にくるんだ。そして、朝と同じように鯉を肩から吊るし、自転車の荷台に勇志を乗せて堤防を走った。黄昏のススキの砂州には、夥しい数の赤トンボが舞って、すでに秋の気配だった。
「おまえは母ちゃんにそっくりだな」
ススキを踏み分けて歩きながら、祖父が呟いた。
「仏さんの生まれ変わりかもしれんな」
川面は夕陽を照り返して、黄金色に輝いていた。布から解き放たれた鯉は、最初ゆったりと流れに身を任せていたが、じきにゆらゆらと、まるで溶けるように水の底へ消えていった。
母も、そしていまは寝たきりの祖父も、自分を心から愛してくれたのだ。あの夏の一日は、祖父と母の確かな愛情の証しとなって勇志の胸に深く刻まれていた。
いつの間にか夜の帳《とばり》が降りていた。暗闇の中に浮かぶ炎が、怖いくらい鮮やかに見える。夜風が頬を柔らかく撫でていく。
勇志は、堤防を降りた。セメントを張った小道を歩き、ヒバの生け垣に挟まれた路地に入る。その時、気配を感じた。振り返った。不意をつかれた人影が見えた。スッと小さな船工場のプレハブの陰に隠れた。そのまま息を潜めて動かない。
勇志は踵《きびす》を返した。航に会おう。だが、どこにいるのだろう。渋谷……シティ・ガード……そうだ渋谷だ。あの街に行きさえすれば、航に会える気がする。
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八月八日(日)
仙元は疲労の極にあった。もう、夜明けが近いはずだ。なのにまだ終わらない。
「バカ」「死ね」「どっかいっちまえ」
憎悪を凝縮した罵声が、エンドレスのテープのように耳元で響く。信太郎は、椅子に座った仙元の周囲をグルグル歩き回りながら、この三つを、唾の飛沫と一緒に吐き続けた。同じ言葉が頭の中で、いつ果てるともなく回る苦しさは、紛れもない拷問だった。
──だが、もうすぐだ。
黒田ちづるがやってきた夜は何ごともなく過ぎた。信太郎は、引き戸の向こうでブツブツ呟きながら、テレビを見ていたようだ。しかし、翌日からは同じだった。ビデオを眺めてジャンクフードを食らい、それに飽きると父親を痛罵する毎日。昨夜、いや、もう今朝か。午前二時過ぎ、仙元が書斎で布団に横になったとき、
「起きろ!」
と怒鳴ってドアを開け、入り込んできた信太郎の顔には、精神の歪みが深く刻まれ、父親から見ても醜悪なケダモノとしか思えなかった。
結末は確実に近づいていた。強ばった蒼白の顔が、そう言っている。垢と汗で絡まったざんばらの髪の間から、鋭い眼で睨めつけて、機会を窺っていた。
グルグル回る信太郎の身体から吐き出されるすえた垢の臭いが、仙元の身体に沈澱した疲労を増幅させ、心身の忍耐力を奪っていく。いつまで持ちこたえられるのか──弱気が頭をもたげたとたん、短い口笛に似た音、ピュッと息を吸う音が聞こえた。結界は呆気なく破られた。
「このやろう!」
怒声をあげて襲いかかってきた。腰を激しく蹴りつける。仙元は椅子の上でバランスを失い、床に尻餅をついた。立ち上がろうとするその肩を、顔を、腹を、信太郎の足と拳が襲った。
「あんな医者なんか呼びやがって、バカにしやがって、てめえら、みんなぶっ殺してやる!」
赤い口が裂け、悪鬼の形相で息子が吠える。
「仕返しだ、てめえら、許さない──ぶ……ちのめして、ぶっ……殺し……て、ぶ──」
息を切らしながらも、拳を、足を振り上げる。だが、筋肉が削げ、ジャンクフードと清涼飲料水でできた薄い肉の殴打は、大して痛くもない。仙元は、石仏のように座り込み、信太郎の怒りを受け止めた。
──腰が引けている。
ちづるの言葉が、耳鳴りのように響いた。
──逃げ道を作っている。
──対峙していない。
そう、身体は向き合っても、心は退いている。自分の過去からも逃げている。ちづるの指摘した通りだ。
突然、殴打がやんだ。信太郎が荒い息を吐きながら、目玉をギョロギョロと左右に動かし、何かを探している。素手では大したダメージは与えられない、と分かったのだろう。視線が止まり、キッチンテーブルの椅子に両手をかけた。持ち上げ、よろめきながら、ニッと笑った。背もたれの部分を握り、振りかぶる。そのまま、杵で餅をつくように振り下ろした。
「いっけー」
おかしな叫び声だった。椅子の脚が一本、折れたのが見えた。頭から肩にかけて、鈍い痛みが広がる。背中を丸め、思わず呻《うめ》いた。再び振りかぶられた三本脚の椅子は、今度はリビングの窓に向かっていた。
「いっけー」
──ダメだ、
仙元は両足を踏ん張って立ち上がり、腕を伸ばし、椅子を掴んで引き寄せた。信太郎の足がたたらを踏んで、胸に飛び込んで来た。細い、骨張った身体を受け止める。椅子がテーブルの上を滑って、床に落ちた。信太郎は全身をブルッと震わせると、歯を剥き、両手を広げて掴み掛かってきた。爪が、顔をかきむしる。ベリベリと皮を剥ぐ音がした。それは、自由を奪われた野生動物の怒りだった。
呻いて顔を捻ったその時、視界が光をとらえた。凝視した。鮮やかな朱の光。どこまでも広がるオレンジの色の海……。
──ダメだ、くるな、
瞼を固く閉じた。朱の色と信太郎……見たくない。が、その瞼をこじ開けようと、信太郎が尖った爪を突き入れてくる。目玉をえぐり出そうとする確かな意志が、強ばった指先から伝わる。仙元は頭を激しく振り、眼を開けた。息を呑んだ。
テーブルも床もソファも、部屋中のすべてが朱色に染まっていた。窓から、鮮やかな光の粒子が降り注いでいる。まるで、その色以外、存在しないかのような見事な染まりようだった。窓の外が赤々と燃えていた。火事か? 違う。神社の社殿だった。朝焼けを浴びて、濃い、溶鉱炉のような火色をつくっている。どす黒い記憶が、仙元の中でうねった。赤く揺れる網膜の奥に、二つの黒い人影が浮かんだ。仙元と幼い信太郎。胸がむかついた。きな臭い匂いが辺りに垂れ込めた。耳の底で、金属の擦れあう嫌な音がする。封印したはずの過去の扉が、いま、こじ開けられようとしていた。
「信太郎」
掠れた声を絞り出した。仙元の左手が、か細い腕を掴んでねじ上げる。
「てめえ、ふざけんな!」
初めて、父親の抵抗に遭った信太郎は、身もだえして猛り狂った。口を大きく開けて、歯を二の腕に突き立てる。
仙元は、右手の人差し指と親指で、顎の頤《おとがい》の部分を挟むと、ギリギリと力を込めた。たまらず、信太郎の口がぽっかり開く。瞳に、憎悪の炎が灯る。が、それも一瞬だった。炎はスーッとその勢いを弱めて消え、代わりに恐怖の青い色が広がった。
「信太郎、お父さんが、どこまでも一緒だ。心配しなくていいんだ」
指先が柔らかな肉に食い込む。穏やかな声音だった。仙元は、目尻にシワを刻み、笑顔を浮かべた。両手をそっと首に当てる。
「な、大丈夫だぞ」
垢でべとついた首を、両手が締め付けていく。仙元のとろんとした眼が、だらしなく緩む。信太郎の顔が、震えた。
「お父さん、許してよ……」
「もう遅いよ、信太郎」
優しく詰《なじ》り、ぐっと力を入れた。両手に太い、青い血管が浮いた。信太郎は身体を捩り、仙元の両手首に爪をたてて引きはがそうとする。が、かまわず喉を絞っていく。ヒュー、ヒューとフイゴに似た浅い呼吸が漏れ始めた。
「さあ、もうすぐだよ」
彼岸へと誘う声。永遠の朱色の世界が、そこまでやってきていた。信太郎が、顔を激しく振った。断末魔のあがき。頸骨が軋みをあげる。ざんばらの髪が、大きく乱れて、割れた。そのときだった。とろんとした仙元の眼が、瞬時に凍った。大きく剥いた目玉が焦点を結ぶ。髪の割れ目を、突き刺すように凝視していた。唇がブルブルとわななき、声にならない声が漏れた。
硬直した両手が、首から浮き上がるように離れた。両の腕を、大空を舞う鷲のように大きく広げ、ゆっくりと信太郎をかき抱いた。右の側頭部、耳の上、十センチあたりに刻み付けられた傷。白い三日月。社殿に反射した火色の光に包まれて、息子を抱き締めた。
「お父さん……」
信太郎の声がした。憑き物の落ちた顔、幼い顔が見上げていた。
「助けてよ、お父さん」
両眼の下縁がぷっくりと膨れ、蜜柑色の涙が二筋、両頬を伝う。
「ぼくはもう、ダメなんだ。自分で自分が、どうにもならないんだ」
仙元は、信太郎の身体に顔を押し付け、肩を震わせた。
「おまえは、おれのたったひとりの息子だ。おれが……守ってやる」
嗚咽しながら、そう言った。記憶の底から湧き上がる忌まわしい過去と直面し、仙元の身体は、おこりに罹《かか》ったように震えた。それは朱い、煉獄の光景だった。
*  *
ガラス越しに空が見える。淡い青と、降り注ぐ銀色の光のカーテン。午後四時。新宿副都心に建つ高層ホテルの最上階で、ちづるは水に浮かび、漂っていた。屋根をガラスで覆った屋内プール。
水に浮かんでいると、たとえようもない平穏な気分になれる。耳元で囁く、赤ん坊の笑い声にも似た小波の音と、一切の重力を取り払った浮遊感。ふーっと漏らした吐息が、水を伝わり、共鳴を含んだ重い響きとなって鼓膜を優しく嘗める。すべてが現実と遊離していた。
休日は、こうやってプールに来るのが習い性となっていた。泳ぎに疲れると、浮かんだまま気持ちをカラッポにした。心を病んだ患者と応対していると、自分の心身がいいようのないストレスに蝕まれていくのが分かる。
自殺未遂を繰り返す鬱病患者、一切の対人関係を拒否する強度の被害妄想患者、幻聴と不眠症に悩む司法試験の受験生──ハゲの強迫観念にとらわれ、毎日鏡ばかり見て暮らしていた大学生は、親が田舎へ連れて帰ったと聞いた。今、どうしているのだろう。また、医者である自分を、相思相愛の恋人と思い込み、花束を片手に尾け回した中年のストーカーもいた。
彼らの妄想を正面から受け止め、対処していると、どうしても心身に歪みが出る。自己解放が必要だった。プールの水に、背負い込んだ患者の情念のようなものを溶かし去る、それがちづるのストレス解消法だった。
だが、今日は上手くいかない。気になってしようがなかった。仙元麒一だ。何かを隠している。息子の信太郎より、ずっと興味をそそられた。なんとかしてやりたいと思う。自分は医者なのだから。心の闇を観察し、明かりを照らしてやるのが、自分の仕事だ。
ちづるは水の中で身体をクルリと反転させると、抜き手をきって、プールの縁まで泳いだ。水から上がると、男たちの熱い視線を全身に感じた。シンプルな黒のワンピースが、均整のとれた姿勢のよい身体に似合っている。白人のグループが低い口笛を飛ばした。外国の航空会社のクルーたちだ。しかし、ちづるは毫も表情を動かすことなく、自分のデッキチェアに向かった。背もたれに掛けていた純白のタオルをとり、これみよがしに全身を隈なく拭く。チェアに座って形のいい脚を優雅に組み、ボーイに目配せして、飲み物をオーダーした。スコッチのペリエ割り。
水滴を結んだグラスから、琥珀《こはく》色の冷たい液体を、ゆっくりと味わった。舌の上で気泡が弾けて、ふくよかな燻香《くんこう》が口中いっぱいに広がる。心地よく疲労した体の細胞のひとつひとつにアルコールが染み込んで、身体全体が覚醒していく。
精神科医を志し、夢を実現した自分と、救いを求めている人々。しかし、根っこは同じだった。ちづるは分かっている。仙元の脅えた顔が脳裏に浮かんだ。
どの家の戸棚にも木乃伊が隠れている
突然、あんな言葉を突き付けられたら、自分も平常心ではいられなかったはず。そう、昔なら。だが、今は違う。重い過去を直視し、たゆまぬ努力と研鑽で乗り越えたからこそ、国立大学の医学部に合格し、他人には言えない深い傷を心に抱えながらも、医者になれたのだ。
と、テーブルの上で鳴り始めた携帯電話がちづるを現実に引き戻した。
「はい、黒田です」
受話器の向こうで弾む、感謝の声。
「そう、それはよかった」「その調子でいったらどうかしら」
柔らかな受け答えとは裏腹に、言葉が耳朶を打つたびに、得体の知れない不安がちづるのこめかみをキリリと締め付ける。
「では、このまま、経過を観察することにしましょう。いえ、とんでもない──あなたの努力の賜物ですよ」
電話を切った途端、胸が高鳴った。両手を胸に置き、鼓動を確かめた。全身を、沸騰しそうな熱い血が駆け巡っている。深呼吸をした。この眼で見た、あの白い傷。仙元の背後に潜む木乃伊が、このまま姿を現さずに終わるはずがない。そんな確信に似たものが、ちづるの中でグルグルと渦巻いていた。
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八月十一日(水)
「おれ、今日、学校まで行ってきたんだ」
予想もしない信太郎の言葉だった。夕方、帰宅した仙元は、淡い希望に胸を焦がした。
「あんまり近いから驚いちゃった」
荻窪から明大前駅まで、中央線と井の頭線を乗り継いで約三十分。所沢の自宅からなら二時間近く要するから、四分の一の所要時間は確かに驚きに値する。
「これが普通なんだ。今までは遠すぎた」
そう言ってやると、信太郎は少しだけ微笑んだ。信太郎の座っているベッドは、きちんとシーツが伸ばされ、スナック菓子の袋やペットボトルで足の踏み場がないほど散らかっていた床も掃除が行き届いていて塵ひとつない。汗と垢でほつれていた髪の毛は丁寧にクシが通り、真ん中できれいに分けてある。
「校庭の見える所まで行ったんだ」
「それで?」
「引き返してきた」
「そうか」
仙元は眼を細めて頷いた。信太郎は、自分のやりかたで現実と闘っている。ゆっくり前へ進めばいい。時間はたっぷりあるのだから≠ニ言おうとして、仙元は思わず息を呑んだ。
「お父さん」
信太郎の瞳が、硬く強ばっていた。
「おれ、自分で自分が怖いんだ。どんなに憎くても、お母さんを殺そうとしたなんて、やっぱり普通じゃないよ」
ネクタイを緩めながら言葉を探す。適切な言葉。父親に相応しい物言い。
「そんなことはない。すべてはストレスが原因だ。人間の心は、思ったほど強くはない。おまえは勉強、勉強で追いまくられ、自分を見失っていた、それだけだ」
信太郎はかぶりを振った。
「みんなスゴイ勉強してるんだよ。クラスの半分は東大目指して、先生たちもきみたちが将来の日本をリードしていくんだ、選ばれた人間なんだ≠ニ発破かけて、みんな必死にやっている。おれ、そんなに成績よくないのに、休んじゃったから、もう二度と追いつけない、そう思うたんびに、イライラしちゃって、頭が変になったんだ。いま考えるとよく分かる。でも、それで親を殺そうとしたことが、許されるとは思わない。やっぱり、おれ、どこか大事な部分が間違っているんだ」
母親に対して覚えた殺意。それを実行に移してしまった事実は、信太郎の心に大きなトゲとなって突き刺さっていた。仙元は優しく訊いた。
「どこが間違っていると思う?」
「分からない」
信太郎は両手で頭を抱え、掻きむしった。
「おれ、もう本当の落ちこぼれになっちゃった。人間のクズだよ。そんなの、自分には絶対に関係ない、と思っていたのに……今日だって、校庭の陰から、クラブ活動で来ていたクラスの奴らの姿がチラチラ見えるんだ。そのたんびにすっごく寂しくなって、あいつら、おれのいたことなんかすっかり忘れて、もうすぐ高校上がって、いい大学入って、高級官僚や一流会社の社員になって、しっかり生きていくんだろうなって思ったら、なんか情けなくて、どうしたらいいのか分かんなくて」
「ひとの生き方はさまざまだ。一|括《くく》りにできるもんじゃない」
信太郎が顔を上げた。すがるような眼だった。
「おれ……」
語尾が力なく消えた。
「なんだ」
「今日みたいな真似、二度としたくない。あの学校、もう見たくないんだ。でないとおれ、本当になにをしでかすか分からない。教室なんかに入ったら、もう終わりだよ」
「じゃあ見なきゃいい」
「えっ」
「行かなければいいだろう。簡単なことだ」
唾をゴクリと呑み込む音が聞こえた。
「本気でそう思う?」
「こんな状況でたったひとりの息子相手に冗談が言えるほど、図太くはないつもりだがな」
「ねえ、お父さん……」
「なんだ」
「あの学校、やめてもいいのかな」
不安と心細さを凝縮した声だった。
「もちろんだ」
「本当?……」
「おまえの人生なんだから、好きにやればいい」
「人生?」
信太郎が、ポカンと惚けた顔を向けた。まるで初めて聞いた言葉の意味を問う、幼児のようだった。
「そうだ。母さんが何と言おうと、おまえは自分の好きな道を生きていけばいい」
「それが人生なの?」
ストレートな問いかけに、仙元は言葉に詰まった。ジャケットを脱ぎ、シャツの腕をまくりあげ、ソファに腰を下ろすと、深刻な表情で重々しく口を開いた。
「難しい質問だな」
唇を軽く嘗めて、言葉を続けた。
「ひとそれぞれに人生はある。価値観もさまざまだ。しかし、好きな道を選んだやつのほうが、少しだけ、幸せになれる確率が高いような気がする」
「お父さんも、好きな道を選んだんだね」
信太郎の声が、微かに尖った。
「そう見えるか」
「うん」
仙元は、咳払いをひとつすると、タバコに火を点けた。身勝手な父親の像は、信太郎の心に確実に映し込まれている。硬い空気が、促成栽培に等しい父子をキリリと締め付けた。
「でもおれ、本当はお父さんのこと、よく知らないんだ」
遠慮がちな声音だった。
「どんなふうに育って、どういう友達がいて、お母さんとどういうふうに出逢って結婚したのか、とか。お父さんがいなきゃ、おれもこの世に生まれていないわけだから……おれ、お父さんのほうのおじいちゃんとかおばあちゃんとかにも会ったことないし。確か千葉のほうだったよね」
「ああ、ちっぽけな漁師町だ。なんにもない田舎だよ」
「でも、海とか山とか、遊ぶとこ、いっぱいあったんでしょう」
「そうだったかな」
気のない相槌で応えた。
「楽しかった?」
「まあな」
仙元は、話題を逸らすように、足下に置いたデパートの紙袋を取り上げた。
「おまえに買ってきた」
手渡された紙袋の中を、信太郎が覗き込む。訝しげな表情が次の瞬間、輝いた。
「これ──」
二個のグローブと一個のボール。顔を上げた。
「おれと、お父さんの?」
「ああ、おまえのストレートは、大したものだった」
「見たこと、あったっけ」
「一度だけな。江戸川の河川敷のグラウンドだった」
「そういえば、見に来てくれたよね……」
信太郎が呟いた。たった三年前の出来事なのに、その眼は老人が遠い昔を懐かしむように虚空をゆったりとさ迷った。
「おまえは勉強より、野球の才能があった。それだけはお父さんにも分かる」
タバコの煙の先で、信太郎の顔がくしゃっと歪んだ。ぷっくりと膨らんだ眼の縁から、涙がこぼれ落ちた。
*  *
夕闇が迫ろうとしているセンター街は、香水と埃、それにミルクみたいな甘い匂いで噎《む》せ返っていた。左右から押し寄せる鮮やかなネオンサインの洪水と、けたたましい笑い声。濃密で華やかな空気が充満していた。
勇志は何処にも自分が入り込める場所を見つけられず、すっかり臆してしまった。行き交う自分と同世代の群れは極彩色のバリヤーで包まれ、声を掛けることなどとてもできなかった。人波に逆らわず、あてもなく歩くと、通りの真正面に交番があった。立ち止まり、意を決して尋ねると、若い警官はすぐに地図を示して教えてくれた。「最近は活動していないみたいだよ」という言葉が気になったが、とにかく、訪ねることにした。今日は水曜日。勇志の会社の定休日だ。この日を逃すと、また一週間、航に会うチャンスを逃してしまう。
警官に教えて貰ったとおり、大きな通りのスクランブル交差点を渡り、線路の高架を一本くぐって急な坂道を歩いた。下の、渋谷駅前の喧噪がウソのような、古びた焼肉屋だった。立て付けの悪いガラス戸の透き間から盛大に噴き出す煙に巻かれながら、勇志は外階段を上がり、板張りの戸を叩いた。
「誰だ?」
鋭い声が聞こえた。勇志はドギマギしながら、名前を告げた。
ドアが開いて、背の高い男が現れた。ほお骨の張った、目付きの鋭い顔。自分と同じくらいの年頃だろうか。黒のTシャツの胸が、分厚い筋肉で盛り上がっている。男は、坊主頭に擦り切れたジーンズと青のワークシャツ姿の勇志を上から下まで睨めつけると、口を開いた。
「初めて聞く名前だな」
太い腕を組んで、値踏みするようにじっと見る。
「入団希望者ならいまは受け付けていないんだが」
「いえ、三枝に、三枝航に用があって……」
「リーダーに?」
頬の筋肉がグリッと動いた。
「ええ」
俯き、消え入りそうな声で答えた。と、勇志の鼓膜が微かに震えた。聞こえてくるものがある。耳を澄ました。初めは空耳かと思った。微かな音。間違いない。男の背後、衝立の向こうから、細く、とぎれながら漏れてくる。腋の下に冷たい汗が浮いた。
「おまえ……」
男の顔が寄せられた。ハッとして勇志は後ずさった。
「リーダーの何なんだ?」
言葉が出なかった。その時、声がした。
「どうした」
男を押しのけるようにして航が現れた。細身のベージュの綿パンに白のTシャツ。勇志の顔を認めると、「よくここが分かったな」と労《ねぎら》うように言った。
男は素早く脇によけて、直立不動の姿勢をとった。
「下がっていろ。ぼくの友達だ」
「リーダーの友人ですか?」
意外そうな声だった。当然だ。オドオドしたみすぼらしい自分と、輝いている航。落差がありすぎる。
「そうだ。ぼくの小学校からの一番の親友だ」
真っ赤なブルゾンを羽織りながら、強い口調で言った。
「失礼しました」
「出掛けてくる」
「はい」
「ドアを閉めろ」
「はい」
男が一礼してドアの向こうに消えた。
「行こう」
航は外階段を降りていく。振り向きもせず、まるで、お前は後をついてくるのが当然だ、と言わんばかりの、自信に溢れた足取りだった。焼肉屋の裏の路地に、クルマが停まっていた。瞬間、目を疑い、それが紛れもない現実だと悟ると身体が凍った。航は運転席のドアを開けながら、勇志を見た。恐怖に歪み、蒼白になった勇志の顔を認めたはずなのに、感情の揺れは見えない。
「乗りなよ」
誘蛾灯に吸い寄せられる、羽虫のように、勇志は助手席へ座った。クルマは坂道を下り、渋谷駅の前に出た。赤いブレーキランプの波が道路を埋め尽くしている。渋滞に巻き込まれた車中で、勇志は恐る恐る運転席を見た。頬が削げ、陰影のはっきりした顔からは、胸の内は窺えない。重くて黒々とした、タールのような沈黙が、車内に満ちた。
「このクルマ、タクヤのだよね」
震える声で、勇志は言った。怖い。だが、言葉を掛けないと、このまま永遠に沈黙が続きそうな気がした。
「そうだよ」
なんのてらいもなく、応えた。
「タクヤ、どうしたの」
航が、こっちを見た。
「それを知りたくて、ぼくに会いに来たのか?」
全身の毛穴から冷たい汗が湧いた。
「それもある。けど……」
ブレーキランプの赤が次々に消えて、クルマが動き始めた。前を向いた航の薄い唇が、ゆっくりと動く。
「ぼくの前で、偽りは口にして欲しくないな」
静かな響きだった。航は常に真実を要求する。逃げ道はない。意を決して、勇志は言った。
「おれのこと、いつも誰かが見ている気がするんだ。なぜだろう、と思って……航と会ってから、そういう感じがしてるし」
声が上ずった。
「ぼくが勇志のこと、見張ってると思ってるんだな」
探るような視線がチラッと勇志を嘗めた。
「見張るなんて──」
舌がもつれた。
「大丈夫だよ、勇志。ちょっと気になることがあってね。やましいことがないなら、心配する必要ないよ。ぼくらはただワルを排除しているだけなんだから。いまはパトロールできないけど、代わりにいろんな方法で悪い奴を捜し出して、懲らしめているんだ」
今日の航は、饒舌だった。
「じゃあ、パトロールはもうやんないの?」
「あれは最終的な目的じゃない。パトロールができなくなったときは胸がモヤモヤして、すごく苦しかったけど、いまは違う。ワルって、どこにでもいるんだよ、勇志。特別な存在じゃない。そんな簡単なことが、ぼくは今まで分からなかったんだ」
勇志は唇を噛んだ。蜘蛛の巣に搦《から》め捕られて身動きのできない、一匹の羽虫になった気がした。
「ねえ、勇志」
「なに」
「さっき、何を聞いたの?」
不意に投げつけられた言葉が耳朶《じだ》を打った。
「事務所の奥から聞こえただろう」
航はすべてを知っている。意識とは無関係に震え始めた膝を両手で押さえ、答えた。
「誰かが、呻いていたよね」
男の背後から聞こえた音は、確かに人の声だった。細い、掠れた声からは男か女か、分からなかった。しかし、間違いなく呻き声だった。
「おまえは正直だ。やっぱりぼくの友達だよ、勇志」
航は、満足げな笑みを唇のへりに浮かべた。蜘蛛の糸はますます強く、幾重にも絡まってくる。もしかすると、呻き声の主はこのクルマの持ち主……タクヤなんだろうか。そんな考えが一瞬、脳裏をよぎったが、すぐに振り払った。これ以上、厄介事に頭を突っ込むのは御免だった。そもそも、今夜、航に会おうとしたのが間違いなのだ。航の行動に疑問を差し挟んではならない。あれほど肝に銘じていたはずなのに。
いつの間にか、クルマは高速の下を走っていた。灰色のビルと、イルミネーションの光が、左右に渦巻いて流れていく。
「どこへ行くの? 航」
「ぼくが、おまえの疑問に答えなかったことがあるか」
航が何を言っているのか、分からなかった。──なんのこと? 疑問なんて、もうないのに。
必死に頭を巡らしていると、航が言った。
「あのワル……タクヤのことを教えてやるよ」
頭の中が白くなった。
「おまえ、タクヤがどうなったって、さっき、訊いたよね」
どこか遠くで、航の重みのある低い声が聞こえている気がした。
「今から見にいこう。ぼくとおまえは友達なんだから、特別に教えてやるよ」
高揚した口調だった。
「最近さあ、面白いことばかりだよ」
航がこっちを見た。
「今日はいろんなことを話したいね、昔みたいにさ」
顔の筋肉がとろけるように動いて、笑った。
風が鳴っていた。腐った海の臭いが鼻を衝く。地上からどのくらい離れているのだろう。下を恐る恐る覗き込む。街灯の放列が、灰色の画用紙の上に並べた米粒のように見えた。目の前には濃い藍色の東京湾が広がり、その向こうに、ビル街を彩る光の海が横たわっている。右手に巨大な吊り橋が、赤い灯火の縁取りを鮮やかに輝かせていた。橋の上にはクルマがひしめきあっていたが、その騒音も、ここまでは届かない。聞こえるのは大気を切り裂く風の音と、怪物の咆哮《ほうこう》を思わせる汽笛だけだった。ブオーン、ブオーンと、哀しく吠えている。
「来いよ」
空中に張り出した一本の鉄骨の上から、航が優しく誘った。腰を下ろし、足をブラブラさせて微笑んでいる。航は光の粒を散らした湾岸の夜景をバックに、まるで空中に浮いているように見えた。
──怖くないんだろうか。
作りかけのまま捨て置かれた、湾岸沿いの大きなビルだった。ビルの最上部には鉄骨が剥き出しのまま、無残な姿を晒していた。下に眼をやっただけで平衡感覚が狂い、墜落しそうな錯覚に襲われた。勇志は、打ちっぱなしのコンクリートの床から、足を踏み出すことができなかった。
「ほら、大丈夫だよ」
航がすっと立ち上がり、歩いて来る。何の気負いもない歩き方だ。薄手のブルゾンが、風を孕んで丸く膨らんだ。
「来るんだ、勇志。ぼくがここにいるじゃないか」
腕を差し伸べた。深いトビ色の瞳が誘う。勇志は、震える手を伸ばし、航の指に触れた。瞬間、グッと掴《つか》まれ、引き寄せられる。勇志は抗うことなく足を踏み出した。空中に延びた幅三十センチほどの鉄骨の上を、慎重に、航の瞳だけを見て歩く。あれほど怖かったのに、航に手を貸してもらっただけで、こうやって地上の遥か高みにあるビルの鉄骨の上を歩いている。不思議だった。
指を絡めたまま鉄骨の先端近くまで歩き、航と並んで腰を下ろすと、風に揺れる鉄のたわみを直に感じた。目の前の風景を遮るものは何もなかった。高速道路のイルミネーションと、東京湾をグルリと囲むネオンの帯。遊覧船の白い光と屋形船の黄色い光が、藍色の海のあちこちに散らばっている。視線を上げると、夜空には無数の星が瞬いていた。視界いっぱいに展開される、夜のパノラマだった。
「浮いてるみたいだろう」
航の横顔は風に吹かれて陶酔し、緩んでいた。はじめて見る、航の無防備な顔だった。
「怖くないのかい」
「怖い?」
小首をかしげて、勇志を見た。
「落ちたら死んじゃうよ」
「おまえは怖いのか」
「もちろんだよ。航がいなかったら、こんなとこ、来れやしない」
勇志は航の手をギュッと握り締めた。それだけで勇志の全身に満ちた恐怖が指先を伝わり、逃げていく気がした。
「そうか、ここは怖いのか……」
力なく呟くと、航は俯いた。黙りこくったまま、何かを考えている。よく晴れた冬の昼下がり、公園のベンチに座って、物思いにふける哲学者のようだった。
「どうしてなんだろう」
不意に航が囁くように言った。
「ぼくはどうして、こうなっちゃったんだろう」
「何が?」
航の横顔に、深い戸惑いが張り付いていた。
「よく分からないんだよ。こうして自分のことを考えると、何もかも分からなくなる。どうして死ぬって、怖いんだろう。それすら、分からないんだ。一度、死んでみたら分かるのかな」
「それは航が勇気があるからだよ。死ぬことも怖くないから、なんでもできちゃうんだ」
勇志は言葉に力を込めた。
「そうかな」
「そうさ。じゃなきゃ、悪い奴を懲らしめるなんて無理だよ。普通の人間にはとてもできないことだもの。おれなんか、怖がりで臆病で、取り柄なんてなにひとつないバカだから、よく分かるんだ」
「ねえ、勇志」
柔らかな吐息が頬に触れる。航が、顔をぐっと近づけた。
「ぼくって、やっぱりヘンなの?」
すがるような眼差し。瞳に哀しい色が宿っている──その一瞬、ゴッと耳が鳴って視界が回った。突風が、勇志の身体のバランスを崩し、背後へとのけ反らせた。フワッと浮き上がった身体が、鉄骨から真っ逆さまに落ちていく錯覚に襲われて、眼を固く閉じた。恐怖に全身が強ばる。と、傾《かし》いだ肩が、強い力で掴まれた。航の逞《たくま》しい腕がガッチリ支えていた。
「慌てるな、ぼくがここにいる」
眼を開けると、自信に満ちた力強い顔が見ていた。やっぱり航は特別だ。悪を憎む、鋼のように強い心。そうだ、あのワルだ。あいつに会わせてくれるって言ったんだ。勇志は座り直すと、破《わ》れ鐘のように響く胸の動悸を抑えて訊いた。
「ねえ、おれ、タクヤのこと知りたかったんだ。タクヤはどこ?」
「いるじゃないか」
航は無邪気な子供を諭すように言った。目尻が笑っていた。さも可笑しそうに、唇が歪む。
──ホラ、オマエノウシロカラミテイルヨ──
航の視線が、勇志の背後をゆったりと漂った。後ろ──ここは空中に張り出した、鉄骨の上だ。闇を漂う、タクヤの姿が脳裏に浮かんで全身が粟立った。
「見てみなよ、勇志」
航がアゴをしゃくった。後ろを見たら、そのまま、奈落の底へ突き落とされる、そう分かっていながら、勇志は錆びたゼンマイ仕掛けの人形のように、ぎこちなく振り向いた。航に逆らうことなど、できない。
タクヤがいた。そしてもうひとり。二つの顔が並んで、こっちをじっと見ている。勇志は、自分の腕を噛んで、喉をせり上がる悲鳴をこらえた。
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八月十二日(木)
午後一時、空には雲ひとつなかった。JR目白駅の改札を出ると、通りを覆う排気ガスが炎天に炙《あぶ》られ、陽炎《かげろう》となって揺れていた。雑司が谷方面へ十五分ほど歩く。学習院大学を過ぎ、目白不動尊の近くに背の高いレンガ塀で囲まれたS女子大があった。仙元は、鉄製の門扉が大きく開かれた校門をくぐった。
三十分後、校門を出た仙元は、ジャケットを脱いでネクタイを緩め、タバコに火を点けてしばし佇《たたず》んだ。深々と吸い込んだ煙が、いつになく胸を締め付ける。振り返ると、夏休みのキャンパスは学生の姿もまばらで、容赦なく照りつける太陽の下、皆、一様にうなだれ、黒い影とともにゆっくりと這うように移動していた。
──まだいやがる。
芝生を一面に貼った、緑の濃い前庭。周囲を睥睨《へいげい》する創業者の銅像横に、小柄な初老の男が佇立している。仙元と眼が合うと、再び、深々と頭を下げた。この炎天下、一分の隙もない黒のスーツ姿だ。人生の大半を、他人に仕えることで過ごしてきたあの男は、すべての事情を承知しているのだろうか。尊敬する主人に対して、この自分が何を話し、何を求めたかを。仙元は軽く目礼を返し、目白通りを歩いた。太陽が頭の真上でギラギラと輝き、つむじが煙をふいて燃えそうだった。
行き交うクルマの騒音が、強烈な陽光に焼かれ、けたたましい熱風となって鼓膜を叩く。息を吸うごとにいがらっぽいガスが喉をくだり、黒い汁となって、腹の底に沈澱していくのが分かる。毛穴という毛穴が開き、粘り気のある汗が滲んだ。
クルマの轟音、道路の縁石……不快なデジャヴュを感じた瞬間、夢、が脳裏で瞬いた。肩に氷の感触。母の、あの冷たい手が置かれた気がして、弾かれるように首をひねった。バランスを失った視界が地面をとらえ、グラリと揺れた。貧血と日射病が、一度に襲ってきたような、自分が自分でない無力感に襲われ、たたらを踏みながら歩道の鉄柵を掴んだ。炙られた鉄で掌がジリッと焼けるのも構わず、そのまま身体を支え、喘《あえ》いだ。蟻が、貧弱な街路樹の植え込みの陰で、右往左往しているのが見えた。目障りだった。革靴の先を擦って蟻を潰し、息を整えて身体を起こした。汗を吸ったワイシャツが肌に張り付き、歩くたびにズルズルとよれる。
道端に苦い唾を吐いた。網膜の裏で、じんわり結んだ像がある。テレビで見た南田の端整な顔、小堀教授をペラペラと非難する薄い唇。あれはチャンスをものにした男の、自信に溢れる顔だった。
──こっちはせっぱ詰まったフリーの、最後のあがきか。
噛み締めた奥歯がギリッと軋んだ。こめかみがチリチリと燃え、言いようのない怒りが煮え始める。その矛先は南田ではない。この暑さと、閉塞感に縛られて手も足も出なくなった自分だ。
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八月十七日(火)
タクシーを降りた仙元は、ジリッとする眩しさに眼を細めた。白々とした住宅地の背後には、濃い緑が広がっている。焼けたアスファルトから陽炎が立ち上り、乾いた大気が焔《ほむら》のように揺れていた。このまま永遠に続くのでは、と錯覚しそうな、暑く干からびた日々が続いている。
仙元はこのところ、仕事らしい仕事をしていない。あの工藤和美から引き出したスクープは南田の手で記事にされ、今月号のフロントを飾り、大きな話題を呼んでいる。しかし、不思議と怒りも悔しさも覚えなかった。信太郎が見せた狂気と、そこからの奇跡的な恢復《かいふく》。絶望から希望へと、世界が大きく反転したこのひと月近く、余計な感情が入る余裕などなかった。スクープ合戦に眼を血走らせ、命を削るようにして取材に歩いた日々が、遥か昔の出来事に思われた。
信太郎は順調に恢復していた。夕方、神社の境内で行うキャッチボールが、父と子の日課となっている。日を追うごとに速く、キレを増していくボールは、信太郎の状態そのものだった。体調のいい日は、ひとりで街をぶらつくこともある。信太郎は新しい道への一歩を確実に踏み出していた。
なのに、鬱々とした気分は続いている。足が、鉛でも張り付いたかのように重い。
「富田」の表札がはめ込まれたレンガの門柱の前に立ち、インターホンを鳴らした。誰何《すいか》する令子の声が、灰色のプラスチックのスピーカーを通して聞こえた。言葉に詰まった。夫婦、という括りを失った赤の他人同士はいったい何と名乗ればいいのか。
「あなた?」
女はタフだ。てらいがない。
「ああ」
「入ってよ。門も玄関もカギかけてないから」
事務的な声に導かれて、足を進めた。玄関ドアを遠慮がちに開く。灼熱の炎天から急にかげった空間に入り、一瞬、視界が眩んだ。
靴を脱ぎ、上り框《かまち》を跨いで奥へと延びる廊下を歩き、正面のドアを開ける。キッチンテーブル、食器棚、冷蔵庫、テレビ。すべてがきれいに買い換えられ、信太郎の暴力の痕跡を残すものは何もなかった。その代わり、微かに漂う匂いを仙元の嗅覚がとらえた。鼻の粘膜を刺激する粒子の正体を悟り、眉根を寄せる。
キッチンテーブルの椅子には背筋を伸ばして座り、脚を組んだ令子がいた。白のブラウスと萌黄色のスカート。髪を後ろで束ね、薄い化粧を施した凜とした顔がこちらを向いている。仙元は、強い視線を感じながら、向かい合う形で椅子に腰を下ろした。居心地の悪い沈黙が流れた。
「信太郎、治ったんですって」
令子がおもむろに口を開いた。
「だいぶ良くなっている」
「それはよかった」
素っ気ない口調だった。二日前、信太郎の劇的な変化を電話で伝えたとき、令子は弾んだ声でこう言った。「早く会わせて欲しい、なんなら、そっちに行ってもいいから」。しかし、それは不可能だった。当の信太郎が、絶対に会いたくない、声も聞きたくない、と言い張っていたのだ。婉曲に、信太郎の意向を伝えると、勘のいい令子は一転して冷ややかな口調で、仙元から直接、詳細を聞きたい旨を伝えてきた。
「で、中学はどうなるの?」
「おそらく、二学期から公立の中学へ転校するはずだ」
「信太郎の希望なのね」
「そうだ」
令子は視線を下げ、深いため息を漏らすと、独り言のように呟いた。
「あたしのこれまでの教育は、全否定されたってわけか」
「今回のことにはいろんなことが絡み合っているんだ。自分を責めることはない」
慰めたつもりが、逆に火を点けた。硬い視線が据えられる。
「あなたなんかに分かるもんですか、あたしのこの気持ちが!」
怒りの形相でまくしたてた。
「あなた、一カ月も一緒に暮らしていないじゃないの。あたしは十年近く、あの子をひとりで育ててきたのよ。塾に通わせて、毎晩勉強をみてやって、週末はお弁当持たせて模試受けさせて、やっと難関の私立中学に入れたと思ったら、このザマじゃない。あたしなんかいい笑い者よ。教育者が自分の息子の教育に大失敗したなんて、こんなみっともない話がある? せっかくレールを敷いてやったのに、息子はそこから勝手に脱線しちゃったんだから」
一息入れると、これが結論だ、と言わんばかりに言葉に力を込めた。
「信太郎はあたしの人生だったんだから」
言葉がなかった。仙元は空咳をひとつ吐いた。気まずい空気が流れる。令子の悲嘆が、透明な紙ヤスリとなって肌を擦った。耐え切れず、口を開いた。
「しばらくおれに任せてくれないか。長い目で見て欲しいんだ」
「じゃあ、あなたが信太郎を大学まで通わせるっていうの?」
唇のへりが、さも面白そうに吊り上がっている。
「信太郎が望むなら、な」
「お金、どうすんのよ」
返す言葉がなかった。大体、離婚する際も満足な慰謝料が払えず、月々の養育費に至ってはわずか半年で滞り始め、令子の催促がないのをいいことに、なし崩し的に一年足らずで止めたのだ。この女は、仙元のカネなどはなっから当てにしていなかった。小学校の教師として堅実に働きながら、家のローンを支払い、おそらく年間百万以上は費やしたであろう教育費を、捻出してきたのだ。生活力という点では、仙元など足下にも及ばなかった。
「なにか算段でもあるの? ベストセラーを出すとか、長期連載が決まったとか」
連載どころか、久しぶりのスクープさえ駆け出しの若手ライターにさらわれ、編集部からは干されたも同然なのだ。この袋小路に追い込まれた現状をすべて打ち明けたら、令子はいったいどういう反応を示すだろう。
「だいたい、あなたがあたしと結婚したのだって、生活の安定が保障されるからでしょう。女房を働かせて、自分は好きなものを書いていけばいいって、そういうさもしい根性でモノ書きになっても、芽が出るわけないじゃない」
容赦がなかった。
「夢と理想で生きていけるのは、才能のある人だけなんだから。偉そうなことを言いたいなら、お金を稼いでからにしなさいよ」
「当面のカネなら心配いらないんだ。なんとかする、約束する」
と、令子の瞳がみるみる潤み、両手で顔を覆った。くぐもった声が漏れる。
「あたし、なんてひどいことを言ってるんだろう」
すすり泣きが交じった。
「あなたは何も言わずに信太郎を引き取り、すべてを犠牲にして治してくれたというのに……仕事だって支障が出てるんでしょう」
「大したことじゃない。これからバリバリ働いて取り戻すさ」
「まともになってくれただけでも感謝しなくちゃいけないのに、あたし、信太郎に殺されるとこだったのに──」
ここいらが潮時だった。感情が猫の目のようにクルクル変わって際限がない。
「無理しなくてもいい」
仙元は手を伸ばし、令子の腕を掴んで引き寄せた。涙で濡れた眼が、惚けたように、仙元を見つめる。額に粘りついた汗が光った。
「専門家の手に委ねよう。ちゃんとしたプログラムを組んでもらうんだ。その場|凌《しの》ぎに止めても、何の解決にもならない。逆にその反動が怖い。やるからには一生、断つ覚悟で取り組まないと」
「あなた──」
仙元は立ち上がり、サイドボードからグラスとウイスキーのボトルを取り出すと、テーブルに置いた。
「知ってたの」
「部屋に入ったとき、アルコールの匂いがした。香水や口臭消去剤では、身体に染み込んだその匂いは消せない。それに脂汗が浮いて、手も唇も小刻みに震えている。ジェットコースターのような感情の激しい起伏も、以前のおまえにはなかったものだ。アルコール依存症の条件をすべて満たしている」
ボトルからグラスに三分の一ほど、ウイスキーを注いでやった。令子は震える手でそれを掴むと、喉を鳴らして一気に飲み干した。途端に頬に赤みがさし、表情に余裕が出てくる。
「恐れ入ったわ。ルポライターの観察力ってやつ?」
そう言うと、ふふっと笑った。仙元は以前、アルコール依存症の専門医に取材をした経験があった。入門書を片っ端から読み漁り、実際に断酒会の会合に参加したこともある。いつもは難解な話ほど、取材を終え、記事にまとめた途端にきれいさっぱり忘れてしまうのだが、酒浸りの自分にとって聞き捨てならない話のオンパレードだったため、いまでもよく覚えている。
「いつからなんだ」
「三年前。キッチンドリンカーってやつ? 信太郎の中学入試のプレッシャーと仕事のゴタゴタが重なって、ついつい酒に逃げちゃったのね。最近の小学生って、万引きから集団暴力、恐喝まで、なんでもござれだもの」
酒臭い息をひとつ、吐いた。
「夜中、こっそり飲んでいたんだけど、信太郎がいなくなってからはもうダメ。坂道を転がるように、アルコール依存症へ一直線よ。あたしはそんな自堕落な人間じゃない、と信じていたけど、そんなのただの思い込みに過ぎなかった。いまは半日、酒が切れるとイライラしちゃう。そのうち、妄想とか失禁とか、いろんなことが起こるのかもね」
「仕事はいつまで休めるんだ」
「さあ、いつまでかしら。一応、ケガの事後経過がよくないから当分、自宅静養に努める、という内容の請願書を診断書と一緒に提出してあるけど──今は夏休みだから大した支障もないのよ。でも新学期が始まったら新しい担任も決まって、あたしの居場所なんかないんじゃない」
まるで他人ごとのような口ぶりだった。
「おまえは依存症のほんの初期だ。腕のいい信頼できる医者の心当たりがある。四、五日、待ってくれ」
令子が緩んだ顔で微笑んだ。
「あなた、医療ジャーナリストに転職したほうがいいかもね。ほら、新聞とか週刊誌で名医紹介、とかやってるやつ。きっと、売れるわよ」
「考えとこう」
仙元は腰を上げ、ボトルをサイドボードに戻すと、辞去を告げた。
「ねえ、運転免許証、持ってる?」
頬杖をついた令子が、とろんとした眼で訊いてきた。
「ああ、フリーにとっては身分証明書代わりみたいなものだ」
「じゃあ、乗ってって。表のクルマ」
テーブルの上からカギを摘まみ上げると小さく振った。
「信太郎をドライブに連れてってやろうと思って買ったけど、結局、塾への送り迎えだけで終わっちゃった。代わりにあなたがドライブに連れてってよ」
「分かった」
仙元はカギを受け取ると、そのまま背を向けて外に出た。玄関脇の、トタン屋根を差し渡しただけのガレージの中に、オートマチックの白い軽自動車。つつましやかな幸せの象徴のようなクルマだった。
イグニッションキーを捻る。長いこと乗っていなかったのだろう。四度目でエンジンが回った。窓を開けてアクセルを踏んだ。クルマをスタートさせ、淀んだ車内の熱気を追い出すと、タバコに火を点ける。苦い味が舌を刺した。
両側に同じような建て売りがぎっしりと並ぶ通りを走りながら、令子のことを思った。
──アルコール依存症との戦いに勝てるのだろうか。
令子が抱えた絶望の深さと、自暴自棄とも思える言動。気休めに初期の依存症、と言ったが、実際はかなり深刻な状態だ。習慣化して既に三年が経過している。依存症を完治させるには強靭な意志が必要とされるのに、人生の目標を失った令子に耐えられるだろうか。十年以上続けた断酒が、たった一本の缶ビールで水泡に帰し、以前より悪化したケースなど掃いて捨てるほどあった。
──令子の苦悩、そして自分の苦悩。
いまにも壊れそうな令子が哀れだった。遥か昔、出会った時のことを思った。
自分はなぜ令子を妻にしたのか? 同世代の女に比べて、もの静かで落ち着いた物腰。その毅然とした横顔に、まず魅かれた。つき合い始めてからも、それまでの女たちのように依存心を見せることもなく、適度の距離感を保ち続けた。女に自分の内面に踏み込まれることが何より苦手で、幾度となく別れを繰り返した仙元が、令子とならやっていけると思った。そして、仙元のその確信は、信太郎という息子が生まれるまで、裏切られることはなかった。
令子の持つ、冷たく光る水晶の魂。その魂にいま、亀裂が入ろうとしている。
クーラーのスイッチを捻った。油臭い熱気が冷房口から吹き出した。アクセルを踏み込んだ。悲鳴に似たエンジン音が足下を這い上がった。
突然、脳裏に張り付いたあの光景が蘇る。道路の端に立つ母子。五歳くらいの自分と母親は、夕陽に炙られ、血の色を滴らせている。不安は澱《おり》のように溜まっていくばかりなのに、母親の言葉は仙元の耳に届かない。
脳の襞にしまい込まれた記憶が、蠢《うごめ》き始めている奇妙な感覚。信太郎を絞め殺そうとした自分はどこへ行こうとしているのか。戸棚のなかで蠢く木乃伊が、這い出そうとしている。その先にあるのは、あの白い傷──
所沢街道へ出ると、夕方の渋滞が始まっていた。灰色の煤煙にまみれたクルマの群れが、まるで養豚場の豚のようにひしめきあっている。速度を落とし、ついには停まってしまったクルマの中で、気は滅入るばかりだった。
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八月十八日(水)
簡単なインタビューものの記事をまとめ終えた南田俊平が、九段下の黎明社ビルを後にしたのは午前一時だった。通用口から外に出た途端、生ぬるい大気が全身を覆って鼻から入り込み、淀んだ排気ガスの滓《かす》が喉にへばり付いた。視界の端で小さな光が瞬く。見上げると、目白通りを挟んで斜《はす》向かいに建つ、高層ホテルの中腹の部屋が光源だった。パッ、パッ、と不規則な光が、窓を叩いている。歪んだ秘め事の最中か、それともいかがわしい商売の連中か。
──くそったれが。
おぞましい光景が、南田の脳をゴリゴリと噛み砕く。声を出さずに罵って、唇を噛んだ。もっと仕事に没頭していたかった。余計な思考が入り込む隙のないくらい、取材にのめり込み、原稿を書いていたい。屈辱と悔恨。あの、暗がりで光ったフラッシュが稲妻のように脳裏を疾《はし》って弾ける。自分は、あいつらに心身ともに屈服し、跪《ひざまず》いて許しを乞うたのだ。なぜ、こんなことになったのか。胸の中を、コールタールのような黒い粘着質のものが、激しくのたうっていた。
──とことん飲んでやる、浴びるほど飲んで、すべてを忘れてやる。
南田はとびっきり強い酒精を求めて、闇の底に沈んだ街を歩き始めた。
*  *
午前二時。明かりをおとした暗い書斎。玄関先の蛍光灯の光が差し込まないよう、窓には厚手のカーテンを引いてある。モニターの放つ青白い光が、仙元の顔に陰影を刻む。エアコンの冷気が狂おしいほどの熱帯夜を、冷えた清涼な空間に仕立てていた。夜明けまであと三時間。正常な生活サイクルが戻った信太郎は熟睡の真っ只中だ。仙元はパソコンの画面をスクロールし、息をひそめて文字を追った。信頼、という名の太く強靭な糸で結ばれた父と息子の記録──
≪八月九日 月曜日≫
朝からなにやらゴソゴソしていた信太郎が午後、書斎のドアをノックしてきた。部屋をみてくれ、と言う。わけが分からないまま、リビング横のフローリングを覗いた。驚いた。スナック菓子の袋とペットボトル、ごみ屑で足の踏み場もないほど散らかっていた床がきれいに掃除され、ピカピカに磨きあげられていた。信太郎は確実に変わっている。わたしが試しに「ついでに身体も清めたらどうだ」と言うと、素直に従った。所沢からここへ来て三週間、初めて、風呂を使ってくれたのだ。汗と垢の匂いを洗い流したさっぱりした顔は、見ているだけで気持ちがいい。夕食はトンカツとポテトサラダ。旺盛な食欲で、きれいに平らげた。食後、共に西瓜を味わう。
≪八月十日 火曜日≫
昨日頑張り過ぎた反動か、信太郎は一日中ベッドの中。無理は禁物。
≪八月十一日 水曜日≫
朝、共に朝食。顔色良し。午後、用事あり。信太郎は「心配ない」と笑顔。後ろ髪を引かれる思いで外出する。午後一時、黎明社近くの喫茶店で次長の五十嵐と会う。「暫く自宅で待機して欲しい」との旨。結局、期待した仕事の話はなかった。帰宅途中、新宿のデパートでボールとグラブを買う。今のわたしには過ぎた散財だが、快気祝いと思えば安いもの。帰宅するなり、信太郎からうれしい報告。ひとりで中学まで行ってきたという。そして、中学を代わりたい、と。信太郎は自分の意志で立ち上がろうとしている。わたしはひたすらサポートするのみ。
≪八月十二日 木曜日≫
帰宅後、神社の境内でキャッチボール。信太郎の投げるボールは山なりで軽い。しかも、三十球ほどで腕が上がらなくなった。体力の衰えは甚だしい。これから、毎日キャッチボールを行うことにした。そう宣言すると、はにかんだような笑みを見せた。夕食、ミートスパゲティとサラダ。信太郎、食欲なし。食後は早々に「頭が痛い」と、部屋に入る。久しぶりの運動で疲れたのか? 要注意。
≪八月十三日 金曜日≫
夕方、キャッチボール。夕食後、信太郎が爆発した。「母さんに会ってみないか」と言ったとたん、顔色が変わった。「顔を見るのもいやだ」と凄みのある声を出し、次いで歯を剥き「ここを出て行けと言うなら、おれ、死んでやる!」と喚いた。信太郎の負ったトラウマは根が深い。まだまだ安心はできない。気を引き締めなくては。
≪八月十五日 日曜日≫
午後、信太郎を誘って駅前の書店まで行く。勉強が忙しくて、小説をまったく読んだことがない、と言う信太郎に文庫本を選んでやる。E・ヘミングウェイと山本周五郎の短編集。信太郎は「堅すぎる」と顔をしかめたが、「良い本に堅いも柔らかいもない」と強引に押し切った。お盆で街中のクルマがめっきり減った。
≪八月十六日 月曜日≫
夕方、いつものようにキャッチボール。球威は日増しに強くなっている。時折、戯れにカーブを交ぜてくるが、あらぬ方向へ飛んでいくことがしばしば。信太郎は「小学校の時は変化球が禁じられていたから」と弁解。三十分ほど汗を流したあと、境内のベンチに腰掛けてアイスキャンディ。信太郎の口から初めて、あの八月八日の明け方を振り返る言葉が出た。以下、できるだけ正確に記す。
「あのとき、おれ、お父さんの気持ちが分かったんだ。うまく言えないけど、生身の魂がぶつかりあった気がする。肌の温もりが伝わってきて、ああ、おれはこのひとをこんなに追い詰めていたんだな≠ニ思うと、身体を覆っていた縛りみたいなものが、ふっと解けて……おれ、呪いみたいなものが解けた気がする。お父さんのおかげだよ、ありがとう」
わたしは信太郎の真剣な眼差しを受け止めることが出来ず、曖昧な笑みを浮かべて俯いた。明日は所沢の令子に会いに行く。
画面をスクロールするキーボードの指を止めた仙元の眼が焦点を失い、暗闇を漂った。欺瞞と偽りで糊塗した日記。あのとき、首に添えて絞った手の意味を、信太郎は知らない。
ふと、同じ屋根の下で息を吸い、言葉を交わしている事実に、戦慄が疾った。自ら引き裂いたはずの父子の関係が、まるで弄ばれるように、再び肩を寄せ合っている。仙元は、呪われた運命を罵りながら、キーを叩いた。昨日の記録。
≪八月十七日 火曜日≫
令子に会う。信太郎の恢復を喜んでくれた。しかし、彼女の健康状態に問題あり──
肩を丸めてパソコンに向かった。親子の絆を確かめるべく書き始めたはずの日記が、いつの間にか自分の中のどす黒い感情と向き合う場になっている。信太郎を、こんなに愛しているのに……信太郎のためなら何でもできる。現に、仕事も生活も、すべてを犠牲にしているが、後悔は微塵もない。だが、蘇った過去は、己が普通の父親でいることを許さない。仙元の十本の指先は、真実とは掛け離れた場所でさ迷い、踊り、青白く光るディスプレイに言葉を紡いでいった。
*  *
ドアをそっと開け、内部を窺う。薄暗い店内。前方に目を凝らした。息を呑んだ。カウンターのライトに朧に浮かび上がるおぞましい光景。天井に向けて開いた白い両脚が、ぐらぐらと揺れている。荒い息とすすり泣き。
脚の間に割って入った一個の黒い塊が、叩きつけるように腰を振っていた。卑猥な笑い声。男二人がボトルをらっぱ飲みにしながら囃《はや》し立てる。黒い塊は最後、女を抱え上げると人形のように振り回し、野獣めいた咆哮とともに果てた。弄ばれ、床に投げ捨てられた女の身体が視界で弾けた。
「キムさん」
掠れた声が呼んだ。キンゾウだった。床に転がったまま見上げている。
「こいつら、正真正銘のワルだ。制裁してください」
右の拳。ドアの前でよたっていた二人を瞬時に打ち倒した拳が火照った。
「ヘドの出るレイプ集団だ。遠慮する必要はない」
頭の芯で憤怒が膨れ上がり、破裂した。黒い塊が慌てて立ち上がり、三人の男がこっちを向いた瞬間、突進していた。キムの前蹴りが、さっきまで腰を振っていた男の剥き出しの股間を潰し、分厚い手刀が鎖骨を割り箸のように折った。情けない悲鳴がこぼれて散った。二人の男が、突然の乱入者に掴みかかろうとした刹那、吹っ飛んだ。顎を割られ、肩を砕かれ、のたうちまわっている。スピンキックと踵落とし。二つの足技が瞬時に炸裂し、派手な喚き声が迸《ほとばし》る。股間を、顎を、肩を押さえて転げ回る三人の男。稲妻が閃《ひか》ったような速攻だった。
ふっと息を抜いた瞬間、カウンターの暗がりが動いた。シュッと空気を切り裂いて、腕が突き出た。キムは身体を捻りざま、右の裏拳を入れた。顔に朱が散った店員はアイスピックを握ったまま、声もたてずに崩れ落ちた。
「おまえら、ぼさっとしてるんじゃない」
キンゾウが身体を起こしながら叫んだ。
入り口に惚けたように突っ立っていた二人の高校生が慌ててドアを閉めた。
「やれ」
その声を合図に、床でのたうつ男たちに蹴りを入れ、踏み付ける。悲鳴と怒声が錯綜し、血の生臭い匂いがプンと漂う。キムは床に横たわる女を見た。犯され、殴られ、ぼろ屑のようになった全裸の女。身体を海老のように丸め、眼を固く閉じてすすり泣いている。
「こいつのことは気にすることないですよ」
いつの間にかキンゾウが隣にいた。
「さっき、渋谷で拾ったばっかりですから。オヤジ狩りであぶく銭を稼ぐシャブ中ですよ。救いようがありません」
本当だろうか。本当に救いようがないんだろうか。興奮が収まると、再び疑問が頭をもたげた。輪姦された女と、嬲《なぶ》られる男たち。血と反吐とザーメンの臭い。酷《ひど》い暴力の残滓。自分はこんなところにいていいんだろうか。何かが違うような気がする。他のヤツは……そう、キンゾウはどうなんだろう。
「キンゾウ」
「なんです」
「おまえ、いいのか」
「なにが」
鋭い視線が睨めつける。
「こういうことをしてていいのか? 疑問はないのか?」
キンゾウは息を呑み、答える代わりに唇を噛んで眼を伏せた。
「おれ、だんだん自分で物事を考えられなくなっている。頭に霧が湧いて何も見えない感じなんだ。おまえもそうだろう」
俯いたキンゾウの頬が痙攣した。
「このままだと、とんでもないことになりそうな気がする」
キムは語気を強めた。
「キンゾウ、少し考えてみないか。おれとおまえで」
返事はなかった。キンゾウも迷っているのだ。この沈黙が何よりの証拠だ。キンゾウと二人で動けば、まだ間に合う。射し込んだ一条の光明──
「ウソだったんですか」
不意に漏れた言葉が、キムの希望の芽を摘《つ》んだ。キンゾウは手の甲で口の血を拭い、怒りを湛《たた》えた眼でキムを見た。
「あんた、リーダーに身も心も捧げたんでしょう。そう言ったじゃないですか」
「それは……」
「ワルを潰すだけならこんなこと、しませんよ」
「どういうことだ?」
予想もしない言葉にキムの声が尖った。
「あんたに火を点けたかったんですよ」
「なんだと」
声が掠れてうまく出ない。
「キムさん、あんた、臆病なとこ、あるでしょう」
「おれが……」
臆病者──このおれが──視界が白く染まった。キンゾウの胸倉を掴み、拳を鼻面に押しつけて吠えた。
「殺すぞ、キンゾウ!」
「あんた、女が輪姦されるの見てキレたでしょう。おれが床に這いつくばってんの見て、本気で怒ったでしょう。こいつらをただぶっ潰すといったって、あんた、甘いから足下を掬《すく》われる可能性がある。だからこの女を使ったんですよ」
キンゾウは平然と答えた。
「おまえが仕組んだのか」
「まさか。おれにそんな頭はない。リーダーですよ。さすがに人の使い方が分かっている。これでサブリーダーも一皮剥けたでしょう。リーダーも喜びますよ」
頭が痺れた。キムはゆっくりと手を放した。
「リーダーが……」
「ねえ、キムさん、リーダーがいつも言ってるじゃないですか。社会の規範を乱す奴は絶対に許してはならない、自分たちは理想を求めて突き進むんだ、と。キムさん、分かってます? あんた、ナンバー2なんですよ。サブリーダーなんだから、もっとリードしていかなくちゃ──」
「分かってる」
「ほんとですか」
嘲るような視線が、キムを刺した。
「ああ、リーダーの意志はおれの意志だ」
キムの巨体がカウンターを猫のようなしなやかさで飛び越えた。昏倒したままの店員をひっぱり上げ、そのままカウンター越しに床へ投げ捨てる。
「こいつも忘れるな」
冷ややかに言い放つ。
「おれを刺し殺そうとした」
床に転がった三人を思うままにいたぶり、暴力に酔っていた高校生たちが眼をギラつかせて頷いた。
「その調子ですよ、キムさん。ワルに遠慮する必要なんてありません」
キンゾウの口調は心なしか、自分にいい聞かせるようだった。
──そうだ、こいつらどうしようもないワルなんだ。そして、おれたちは正義のために働いている。人生に何の目的も見いだせず、ただ日々の享楽を貪るだけの輩には絶対に理解できない崇高な志を持って──でも──
女のすすり泣きが鼓膜に貼り付いたまま離れない。それは次第に大きくなり、高くなり、無数のトゲとなってキムの脳みそを突き刺した。周囲に垂れ込める血と暴力のカーテン。外界を遮る壁。呼吸が、炎天下をうろつく野良犬みたいに早くなる。息が苦しい。眼が霞む。
──おれは──これから──どう……なる──
両脚が無様なほどわななき、へたりこみそうになった。キンゾウが見ている。優位に立とうとしている。笑っている。ダメだ……おれはなんばーつー……さぶりーだ……
──英一、英一、いるんだろ!
ドアを激しく叩く音で目が覚めた。粘つく汗が全身に浮いている。頭が鉛の塊を詰め込まれたように重い。焼肉屋の二階、シティ・ガードの事務所。キムは床に敷いた寝袋から起き上がると、パンツ一枚の姿でドアを開けた。眩しい陽の光が射し込んで、顔をしかめた。
「こんな昼までごろごろしやがって、おまえ、お天道さんに恥ずかしくねえのか。少しは家の仕事を手伝ったらどうなんだ」
肌着の半袖から突き出した太い腕を組み、父親が険しい顔で立っていた。短躯だが、がっしりとした厚みのある体格と、ぎょろっとした眼、太い筋張った首が、頑固一徹の性格を体現していた。
「申し訳ないけど、おれ、世の中を良くすることのほうが大事なんだよ。父さんなら分かってくれてると思ったのに──」
父親は息子の言葉にいささかの関心も示さず、射貫《いぬ》くような眼で上から下まで見回すと、さも不快そうにフンッと鼻を鳴らした。
「世の中の仕組みも知らねえガキが、きれいごとばっかり言いやがって」
吐き捨てるように言うと、怒気を全身に漂わせて階段を降りていった。
リーダーのこと、知らないからだ。
キムは腹が立った。大人はどうして、こう狭いものの見方しかできないんだろう。一定の価値観に囚われていては何の進歩もない。いや、むしろ後退するばかりだ。
リーダーのような人間がこの世にいることを、父親は知らない。大人たちの企んだ悪事と、それを暴いて正義を遂行するリーダーと自分の姿が目に浮かんで、キムは頬を緩めて笑った。どんな困難が待ち受けていようとも、リーダーと一緒なら成し遂げられるはず、そんな赤々と燃え盛る自信が身体の奥からたぎって、キムは堪らず、ウオッと吠えた。
──そうだ、おれはもう臆病者じゃない。変わったんだ。
夢の中で芽生えた心の揺れに、キムは強引に蓋をして、リーダーから新たに命じられた任務を反芻した。これからは些細な失敗も許されない。リーダーと自分たちは、今までとは比較にならない巨大な悪に挑むのだ。今日はその、記念すべき出発の日なのだ。
ドアを閉め、寝袋を片付けたキムは、ふと板張りの床に残る赤黒い染みに目をやった。そのとき、耳の奥で聞こえた音がある。コンクリートを穿《うが》つ音。地の底で響く冥いエコー。闇の中から、リーダーのもうひとつの顔が浮かび上がった。キムの身体が、意志とは関係なく震えた。三枝航に逆らうことなど、とても出来ない。黒々と広がる恐怖に押し潰されながら、そう心に刻み付けた。
*  *
「ギャラのほうですが──」
心なしか硬さを孕んだ声音だった。
「──でお願いしたいのですが」
月刊「黎明」より三割方、安い原稿料だった。タバコを指先で挟み、仙元は薄い紫煙を吐いた。
「いいですよ」
途端に男は硬い表情を解き、目尻を下げた。
「そうですか、いやー、良かった。名の知れたライターの方にこんな額では失礼かと思ったんですが、なにぶん、うちは弱小出版社でして。とても一流どころと同じようには払えません。いやー、良かった、本当に良かった。いい仕事ができそうですな」
大仰《おおぎよう》に喜んでみせると、コーヒーを啜《すす》った。五十歳前後の、頭のはげ上がった小柄な男だった。部数はそれほどでもないが、社会派の堅実なルポで知られた月刊誌の副編集長である。名前は吉川といった。仙元がツテを頼って電話を入れたところ、名前を聞くなり、ああ、ルポライターの、と得心した声が聞こえ、すぐにでも会いたいと言ってきたのだ。打ち合わせ場所として指定してきた喫茶店は、新宿東口の家電量販店の裏手にあり、出版業界では知られた店だった。ゆったりとスペースをとって置かれたテーブルと椅子、それにサービスの行き届いた店員の立ち居振る舞い。どれをとっても普通の喫茶店とは比ぶべくもなかった。もっとも、コーヒー一杯が千円もするから、仕事の打ち合わせでもない限り、足を向けようという気にはならないが。
「ところで仙元さん、立ち入ったことをお訊きするようですが──」
重々しい口調とは裏腹に、その表情は好奇心に満ちている。
「黎明から離れたというのは本当ですか」
「どこで聞いたんですか」
「噂になってますよ」
「干された、とか?」
虚をつかれた吉川は、一呼吸置いて、ボソボソと喋った。
「まあ、口さがない連中はそんなことも言っているようですが」
そこまで言うと、身を乗り出した。
「できればウチのメインライターになってもらえませんか。取材力と筆力を兼ね備えたライターは、いまや天然記念物みたいなものです。夜討ち朝駆けで鍛えこまれたライターなんて、若手には皆無に等しい。それでも一流どころの出版社は、手塩にかけて育てることもできるんだろうが、うちクラスでは無理です。仙元さん、若手ライターを育ててくださいよ。実績のあるあなたなら、みんな喜んでついていきます」
吉川の誘いの言葉を聞きながら、不意に南田の顔が浮かんだ。南田にとって、自分は良き先輩と言えただろうか。通り一遍の取材のテクニックは教えてやったものの、データマンとしての利用価値のみを重宝していたのではないか。もし、南田の将来を考えていたなら、編集長の巽にライターとしての一本立ちを進言してもよかったはずだ。将来の見えない南田が、自分を踏み台にして、チャンスをモノにしたのも仕方がない気がする。結局、自分の狭量が招いた報いなのだ。
仙元は眉根を寄せ、短くなったタバコを灰皿で捻った。
「どうだろう、仙元さん──」
吉川の言葉が終わらないうちに、仙元の携帯電話が鳴った。
「失礼」
ジャケットの内ポケットから取り出した。
≪仙元さん、仙元麒一さんですね≫
聞き覚えのない重い声が鼓膜を叩いた。
≪こちらは警視庁荻窪警察署の者ですが、至急自宅へ帰ってもらえませんか≫
不安が胸を抉《えぐ》った。突然の警察の呼び出し。信太郎だ。間違いない。確か今日は体調が悪い、と言っていた。マンションで寝ているはずなのに、いったいどんなトラブルが発生したのか……。
≪とにかく、帰ってもらえば分かります。現場は確保していますから、あなたに確認して欲しいんです≫
有無を言わさぬ口調だった。
──現場、確保、確認。
警察の吐いた三つの単語が、不吉な塊となって重くのしかかる。怪訝な表情をした吉川に、挨拶もそこそこに喫茶店を飛び出した。歩道を埋める通行人の波を強引にかきわけて走った。新宿通りでタクシーをつかまえて乗り込む。激しい動悸が胸を突き上げた。
九段下の黎明社。午後三時過ぎ、四階の全フロアーを占める月刊黎明編集部では、通信社から二十四時間送られてくるテレックスのペーパーをチェックしていた若い編集部員が、突然、眼を剥き、叫んだ。
「ちょっと、これ仙元さんとこじゃありませんか」
とたんに編集部全体がざわめき、人の輪ができた。苛立たしい声が飛ぶ。
「おまえ、ちゃんと全員に聞こえるように読んでみろ!」
若手編集部員はペーパーを高く掲げ、上ずった声で読み始めた。荻窪のマンション、仙元麒一、ルポライター。編集部全体が息を殺した。速報は五行しかなかったが、聞き終わった後も、全員が顔を見合わせて声もなかった。ただひとり、編集長の巽だけが、詳しい情報を求めて怒鳴っている。南田は、自分の席に座ったまま、顔から血の気が引いていくのが分かった。耳の奥で金属質の音が鳴り、視界が霞んだ。編集部を覆っていた沈黙の袋がどこかで破れ、それをきっかけにざわめきが広がり始めると、南田はよろめく足で席を立ち、トイレへ入った。洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗った。ハンカチで乱暴に拭い、鏡を見た。削げた頬と、生気が失せたうろんな眼。暗く、くすんだ肌。
──どうしようもない臆病者、裏切り者の顔。
自分への憤怒がみるみる膨れあがり、眉根が筋を刻んだ。南田は、拳を振り上げると、鏡に激しく叩きつけた。亀裂が入り、顔がまるで泣いてでもいるように歪んだ。
青梅街道でタクシーを捨てた仙元は自宅マンションに通じる商店街を走った。マンションが近づくにつれ、道行く人の数が増していく。
「怖いね」「そんなひどいことを?」「物騒になったもんだねー」
強ばった声が断片的に聞こえ、流れていく。白いマンションの前には赤色灯を回したパトカーが三台と救急車が一台、停車していた。蠢くやじ馬を突き飛ばし、つんのめるようにして、玄関の前に出た。ロープが張られ、険しい表情の警官が数人、慌ただしく動き回っている。無線の濁った音が、苛立たしいノイズとなって耳を刺す。息が切れ、もつれる舌で名前を告げると、警官のひとりがロープを上げて通した。信太郎、信太郎、と呟きながら階段を駆け上がった。
部屋の前では目付きの鋭い、私服の刑事らしき男が二人、立っていた。年嵩《としかさ》のほうが軽く目礼してドアを開ける。生臭い、淀んだ匂いが鼻を衝いた。
廊下の突き当たり、リビングの右手から閃光が連続して漏れていた。夢遊病者のような足取りで、廊下を歩いた。紺色の制服と帽子を身に着けた白手袋の男が、カメラを構え、フラッシュを焚いている。信太郎の部屋、八畳のフローリングだった。
鮮やかな赤と白。
一瞬、床に落ちた操り人形に見えた。仰向けに、大の字になって横たわるパジャマ姿の信太郎と、その下に広がる血溜まり。ベッドのシーツを固く握り締めた右手が、断末魔の凄まじさを物語っていた。薄く開いて天井を凝視するその眼には灰色の膜がかかり、既に生の兆しはない。血は、首から流れていた。パックリと開いた黒紅色の、石榴《ざくろ》を思わせる傷口と、温もりの失せた白蝋《びやくろう》の肌が、逃れようのない現実を突き付けた。
「しんたろう──」
震える足を踏み出した。
「申し訳ありません。まだ鑑識作業が終わってませんので」
肩を掴まれた。振り返ると、ドアの前にいた刑事、年嵩のがっしりとした体格の男だった。
「息子さんですね」
仙元は、小さく頷いた。
「激しい物音と悲鳴を聞いた管理人が駆けつけ、マスターキーでドアを開けたときは、すでに息子さんは倒れていた、ということです。犯人はどうもベランダから排水管を伝って逃げたようですな。恐ろしく身軽な連中ですよ」
フローリングの窓が開き、カーテンが揺れていた。
「仙元さんおひとりでお住まいだと聞いていましたので、我々も確認して貰わないことには──」
刑事が詫びるように言った。
「一緒に暮らし始めて──」
──仙元は右手を差し上げると、指を一本一本、確かめながら折った。五本折って握り拳をつくると、放心した顔を刑事に向けた。
「分からない──一カ月にはなっていない、と思うが」
抑揚のない声だった。
「息子さんのお名前は」
「信太郎。信じるの信と書きます」
刑事は目配せをした。若い相棒が素早く身を翻して駆け出す。
父は、変わり果てた息子の姿を凝視した。
「仙元さん、こんなことになって大変残念です。争った跡がありますから、知り合いの線は薄いかと。物盗りか怨恨か、今後の捜査によりますが、ざっと見た限り、物盗りの形跡は見られません。事件解決には仙元さんの協力が必要です。いかがでしょう。怨恨の線は──」
刑事の重々しい声がズルズルと崩れて、連続した耳鳴りのように聞こえ始めた。直《じき》に言葉の意味が判別できなくなった。脳が、外部からの刺激をシャットアウトし、ピクリとも反応しない。ざらついた鉛色の真空地帯が、周囲を覆った。
信太郎の姿が紗がかかったように朧になると、代わりに重なり合って浮かび上がった影がある。おぞましい写し絵。幼い子供だった。西の空から降り注ぐ朱色の光を浴びて、冷たいコンクリートの上に横たわる信太郎。頭から血を流し、眼を固く閉じた蒼白の顔は微動だにしない。
「ちょっと、仙元さん、気を確かに!」
刑事が、強く呼び掛けた。口を半開きにした虚ろな表情の仙元は、まったく反応しないまま、両膝をカクンと折って跪《ひざまず》き、深々と頭を垂れた。それは神に懺悔する、罪深き咎人《とがにん》のようだった。
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八月十九日(木)
──どうしたんだろう?
仕事の帰り道、勇志は奇妙な空気の緩みを感じていた。周囲にぐるりと眼をやる。肌を刺す、あの視線が消えたような気がする。航の仲間の監視が解かれたのだろうか。いや、そんなはずはない。自分はまたひとつ、航の秘密を見てしまったのだから。全身に絡んだ蜘蛛の糸が、そう簡単にほどけるとは思えなかった。強烈な西陽が顔に照りつけて、首筋を幾つもの汗の玉が伝った。出口のない不安が頭蓋の中で膨れあがる。
航の秘密、航の目的……。
──気が狂いそうだ。
頭を激しく振って、あのビルの屋上で見た光景を脳裏から追い払った。でないと、本当にどうかなりそうだった。堤防上の遊歩道には陽に焼けたコンクリートの熱気が漂い、歩くたびに足下へ絡み付いてくる。勇志は何かに急き立てられるように小走りに駆けた。
首都高速の高架のたもとで左に折れ、人気のない駐車場を駆ける。頭上を走るクルマの轟音が、地鳴りのように腹に響く。天井を高速道路のコンクリートで塞がれ、夕陽を遮断したブランコと滑り台だけの小さな公園は、水銀灯に照らされて、白く淡く浮かび上がっていた。丸い時計塔の上で薄汚れた鳩が三羽、羽根を膨らませて佇んでいる。
勇志は足を止め、公園に入った。ブランコに腰を下ろしてみた。前後に揺らすと、錆びた鉄の軋む音がする。あの日、航はこのブランコに座って、勇志を待っていたのだ。そういえば──航の言葉を思い出した。
──最近また、胸のあたりがモヤモヤして、苦しい時がある。
暗く沈んだ顔で言っていた。航の苦悩はすべて取り除かれたはずなのに、得体の知れないものが黒く覆いかぶさって、また苦しめている。その正体を、勇志は知らない。すべてを分かっているつもりなのに、分からない。航はいったいどうなるんだろう。何かが暴走し始めていた。制御するハンドルもブレーキも、おそらくこの世には存在しない。絶望と不安が頭をキリキリ締め付けた。一瞬、ブランコから突き落とされそうな錯覚を感じて鎖を握り締めた。不意に肌がチリッと鳴った。勇志は人の気配を感じて立ち上がった。
「待ってたんだよ」
勇志の身体が強ばった。聞き覚えのある声。腐肉を求めてうろつくハイエナ。
「家の前で待っていたのに、帰ってこないから」
あの男が歩いてくる。なんとかという雑誌の記者。だが、以前とは形相が一変していた。眼球が麻痺したように揺れ、眼の下にはどす黒い隈。顔色が、この暗がりでもはっきりと分かるほど不健康な色をしている。
「じいさんの世話もしなくちゃいけないんだろ。ダメだよ、こんなとこで道草くってちゃ」
「あんたには関係ないだろ」
勇志は身構えた。男は構わず歩み寄ってくる。吐く息が酒臭い。勇志は顔をそむけた。
「臭いか」
「ああ」
「きみの家よりマシだろ」
男の顔が、歪んだように笑った。身震いするほど不快な笑顔だった。
「何が」
「あんな臭い家で暮らしているなんて、おれには信じられないよ」
勇志の握り締めた拳が、憤怒でブルブル震えた。
「なぜ、おれに付きまとうんだよ」
「きみが人を殺したからだ。あの事件はまだ終わっちゃいない」
心臓がドクンと波打った。破裂しそうだった。息を詰めて次の言葉を待った。
「同級生を包丁で刺し殺して、今、どういう気持ちなのか、話して欲しい。熊井くんの母親は毎日泣いているんだぞ」
勇志の身体から強ばりが解けた。心地よい安堵が全身を包んだ。だが、男の酔って濁った眼に、勇志の感情の動きを見抜くことはできなかった。
「おい、何とか言ったらどうなんだ」
男は勇志の手首を掴んで引き寄せた。髪にフケが浮き、額が脂と汗でテカテカ光っている。緩んだ口元には、白い唾の泡が浮いて、不潔な酔いどれそのものだった。
「放せよ」
勇志が、腕を強引に振りほどくと、男は呆気なく前のめりに倒れ込んだ。身体全体が軟体動物のようにくねって、情けないほど無力だった。長い手足を動かして、立ち上がろうと腰を浮かせたが、力尽きたのか、そのままドスンと座り込み、血走った眼でジロリと勇志を見上げた。
「こら、おまえ、ちゃんと話をしろ、この人殺しがぁ」
一気に酔いが回ったのか、胡座《あぐら》をかいて吠えるその声はロレツが回っていなかった。
「酒なんか飲んで仕事すんなよ」
吐き捨てると、勇志は後も見ずに駆け出した。
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八月二十一日(土)
「もちろん、仙元さんが打ち合わせ中だったことは承知しています。ええと……」
荻窪駅のステーションビル最上階にある喫茶店だった。テーブルを挟んで仙元の前に、荻窪署の刑事が二人座っていた。ヒョロっとした若いほうが森、ガッチリとした短躯の中年は三宅と名乗った。三宅は柔道に相当入れ込んだのか、両耳がカリフラワー状に潰れている。
森が、手帳をくりながら、続けた。
「編集者の吉川さんから話はきいています。新宿の喫茶店で仕事の打ち合わせ、でしたね」
「具体的に何をやるか、という話ではありません。顔合わせと思っていただければいいでしょう。しかし、刑事さん」
仙元は、苛ついた口調で言った。
「進捗《しんちよく》状況はどうなんです。あなたたち、ちゃんと捜査しているんですか」
「は?」
森は鳩が豆鉄砲を食らったような顔でまじまじと見た。
「犯人はどこまで絞り込めたんです。複数で、しかも逃げる際に三階のうちのベランダから排水管を伝って逃げたんでしょう。だったら、若い、身軽な連中に決まっている。それも組織だって訓練を受けたような、ね」
森が何か言おうと口を開いた。が、仙元は無視して続けた。
「物盗りの形跡はないにしても、争った跡は色濃く残っていたようだから、親しい知人じゃない。だとすると、犯人は自ずと絞られてくる。お分かりですよね」
含みをもたせて、二人を交互に見比べた。
「何をおっしゃりたいのでしょう」
上半身を乗り出した森が、上気した顔で訊いてきた。仙元はぐっと顔を近づけ、ひと呼吸分まじまじと見つめた後、言った。
「犯人の目星はついていますよね」
森の、ごくっと息を呑む音が聞こえた。
「教えてあげましょうか」
森が眼を固定したまま軽く頷いた。仙元は、ひとさし指で軽く自分の鼻を押さえた。
「え?」
「わたしですよ」
途端に森は不快そうに顔を歪めた。
「仙元さん、こんなときに冗談はよしましょうよ」
「冗談?」
仙元は険しい表情で睨んだ。
「あなたたち、わたしが息子の家庭内暴力で悩んでいたことはもう調べがついているでしょう。だとしたら、どこかの若い連中を使って殺したのかもしれない。可能性としてあり得ない話じゃない。家庭内暴力なんてのは地獄なんだ。すべての価値観とか希望が吹っ飛んで、いつ止むとも知れない凶暴な嵐の中で翻弄されてしまうんですよ」
仙元は、挑むような視線で二人を睨めつけた。
「わたしの書斎に取り付けた鍵がなによりの証拠ですよ。いつか殺されるんじゃないか、とビクビクしていた。息子が怖くて怖くて仕方なかったんだ。自分の血を分けた息子が、狂ってしまって制御できないんだから。ましてわたしは父親といっても、一緒に暮らしてきたわけじゃない。離婚して、女房が育ててきたんだから、親子関係は希薄ですよ。アリバイを確かめるのは当然だし、あなたたち、いまもってわたしが何かしら関係あると思っているんじゃありませんか。だから、こうやってわたしを呼び立てたんでしょう。違いますか」
「それは誤解ですよ、仙元さん」
森が強い口調で言った。
「いや、誤解じゃありません」
制するように、低い声が漏れた。
「あなたのおっしゃる通り、我々は、何らかの関係があると思っていますよ」
むっつりと押し黙っていた三宅が、口を開いた。森が唇を噛み、今にも歯の擦れる音が聞こえてきそうな顔で、年上の相棒を凝視している。
「ただし、あなたが直接であれ間接であれ、手を下したという意味じゃない」
「どういうことでしょう」
仙元は低く、窺うような視線で、三宅を見た。二人はテーブルを挟み、正面から向き合う格好になった。
「あなたの仕事ですよ。ルポライターは、他人の恨みを買うのが仕事みたいなもんでしょう。いや、これはべつに皮肉でもなんでもないのですが」
「分かってます。その点は刑事さんと変わりませんよ。国家権力がバックにつくにせよ、つかないにせよ、ね」
三宅のカリフラワーがピクンと動いたが、反応はそれだけだった。
「仙元さん、我々は、あなたのご協力を得たいんです。怨恨の線はどうしても捨て切れません。仕事関係で、なにかトラブルとか、恨みを買ったようなご記憶はありませんか」
仙元はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「それこそ誤解ですよ。第一、我々は自宅住所をオープンにしていない。名刺の連絡先にしても編集部付です。よほど頭の狂ったやつでない限り、編集部へ押しかけるとか、本人を追い回すとか、そんな直截な行動には出ません。まして、自宅の住所なんて、ごく限られた人間しか知らない。よしんば、わたしに恨みがあってアプローチしようとしたやつがいたとしても、なんらかのサインはあったはずです。執拗な電話とか尾行とか。ところが、そういうものは皆無だった」
仙元はいったん言葉を切り、喉を振り絞るように言った。
「わたしは突然、息子を殺されてしまったんですよ。まるでこの世からかき消えるように、いなくなってしまった」
語尾が震えた。
「まだ十四でした」
短い嗚咽が漏れた。三宅は、空咳をひとつくれて、居ずまいを正した。
「仙元さんの心中はお察しします。ただ、思わぬところで恨みを買う、ということはあるものです。自分の意識の外で、とんでもない爆弾の導火線に火を点けてしまったという経験は、わたしにもあります。どんな些細なことでも結構です。なにか思い出すことがあったらご連絡をください」
「お願いします」
森も神妙な顔で頭を下げた。
三宅はテーブルの上の伝票を掴むと、訊くとはなしに訊いた。
「仙元さんは、これからお仕事ですか」
「注文だけは山ほどありましてね」
疲弊しきった顔に、自嘲的な笑みが浮かんだ。
「どれもこれも、今回の事件に関して手記を書け、というものばかりです。まったく因果な商売だ。ハゲタカの群れですよ。もちろん、断りましたがね」
そう言ってから、自分に言い聞かせるように呟いた。
「いや、自分の仕事を卑下するのはよくない。いまの言葉は撤回させてください」
三宅は軽く目礼をくれると、
「また連絡させてもらいますが、ご自宅でよろしいですね」
暗に、「黎明」編集部と縁が切れた事実を確認する口ぶりだった。
「ええ、当分、移る予定はありません」
仙元は肩を丸めて黙り込み、窓に眼をやった。中央線の薄汚れた燕脂色の電車が、太陽光を反射してぎらぎら光るホームの屋根に吸い込まれ、それと入れ違いに黄土色の電車が出て行った。スモッグにまぶされた大気が鈍色《にびいろ》の街を覆っていた。
三宅は、憐憫を含んだ視線を注ぐ森を無言で促し、席を立った。
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八月二十二日(日)
来客を告げるインターホンが、フローリングに響いていた。枕元の時計を見ると、午前十時過ぎ。ベッドにつっぷしたまま、放っておいた。しかし、正確に一呼吸分の間隔を置いて鳴らされるその音には、ドアの向こうに立つ人間の姿が伝わってこない、無機質の響きがあった。このまま放っておけば、永遠に鳴り続けるのでは、そんな錯覚さえ覚えてしまう鳴り方だった。南田は、二日酔いで痛む頭を押さえて、ベッドを這い出ると、ドアホンの受話器を取り上げ、耳に当てた。
「どなた」
思い切り不機嫌な声を出す。が、次の瞬間、耳を疑った。
──まさか。
「ちょ、ちょっと待ってください。起きたばかりなんです」
南田はパンツ一枚の裸体に慌てて綿パンをはき、ポロシャツを着込むと、ドアの前に立った。意を決してロックを解き、ノブを捻《ひね》る。射し込んだ光に一瞬、顔をしかめた。陰った男の顔。心持ち垂れた眼が、じっと注がれている。短く刈った頭に太い首、がっしりした身体。間違いない。
「どうしてここへ──」
喉がキュッと絞られて、うまく声が出ない。
「おまえに訊きたいことがある」
仙元麒一だった。
ベッドに腰掛けた南田は、フローリングに突っ立ったままの仙元を仰ぎ見た。
「葬式、行きましたよ、息子さんの。でも仙元さん、いなかったでしょう。話をしたかったんだけど……」
「タバコ、いいか」
「どうぞ」
灰皿代わりのグラスを渡す。仙元はセブンスターを口の端にくわえると、ライターで火を点けた。
「女房は──令子はどうしていた」
南田の脳裏に二日前の葬式の光景が浮かんだ。遺影を抱いた、母親とおぼしき女は、両側を関係者に抱えられ、やっとの思いで立っていた。
「いまにも崩れ落ちそうな感じで、ホント辛そうでした」
「そうか」
紫煙をゆっくりと吐いた。
「警察は怨恨の線を捨てていない」
冷や汗が、南田の背筋を伝った。
「つまり、おれの仕事が何か関係があるのでは、と見ている。ルポライターなら、他人の恨みを買うのが仕事みたいなもんでしょう≠ニも言われたよ」
仙元はスッと屈んで、南田と同じ高さから覗き込んだ。
「南田、おまえはどう思う?」
「どうって──」
顔を伏せて口ごもる。
「警察の話だと賊は複数らしい。足跡が残っていた。おまえに心当たりがあるのか、ないのか、それを知りたいんだ」
仙元は、黙りこくった南田に構わず、話を進めた。
「おれのパソコンなんだよ」
わずかに南田の肩が揺れたのを、仙元は見逃さなかった。
「おれは取材データの管理には細心の注意を払っている。フリーの物書きにとって唯一無二の財産だからな。もちろん、パスワードを打ち込まない限り、内部を見ることは出来ない。電源を入れ、画面を立ち上げて、十五秒以内にパスワードを入れないと、そのまま閉じてしまうプログラムを組み込んでいるんだ。それに、パスワード自体にもちょっとしたトラップを仕掛けている」
仙元はじっと、南田の顔を凝視した。まるで、心の中の、些《いささ》かの揺れも見逃さない、といわんばかりに。
「やつらは、信太郎を殺した連中は、おれのカギをかけた部屋に忍び込んで、パソコンをいじっていた。日時のログが残っていたんだよ。金目のものを物色した跡はないし、やつらがパソコンのデータだけを狙っていたのは間違いない」
南田の心胆を寒からしめる言葉を紡ぎ出しているというのに、仙元の口調には不思議なほど、感情の発露がない。
「おまえだけなんだよ、あのデータのことを知っているのは」
仙元が立ち上がり、窓際に歩み寄る。
「誰に漏らした」
南田の頬が緊張と動揺でコリッと盛り上がった。重い沈黙が流れた。クーラーの、低い唸り声だけが響く。
仙元は窓の外に眼をやった。眼下に大きく、緑の海のように広がる代々木公園と、その向こう、陽光を反射してギラつく西新宿の高層ビル街が見える。八月も半ばを過ぎたというのに、一面に油を流し込んで炙ったような、真夏の東京だった。
「そのパソコンのこと、警察には言ってないんでしょう」
俯いていた南田が、顔を上げた。振り向いた仙元と視線が絡む。
「ひとつを語れば、すべてを明らかにせざるを得ない。おまえもそのことは分かっているはずだ」
スッと息を吐いた南田に、安堵の色を見た仙元は、一気に距離を詰めた。
「もう一度だけ、訊く。誰なんだ」
「知って、どうするんですか」
声が険を含んだ。当たりだ。ローティーンのガキのように唇を尖らせ、下から睨みつけてきた。
──この男は、追い詰められるといつもこんな顔をする。
「おれは知らない。警察に任せてくださいよ」
ふて腐れた口調とは裏腹に、声が震えていた。
「残念だよ、南田」
仙元の身体が傾いだ瞬間、拳が疾った。南田の頬が痛打され、のけぞった。仙元はそのまま胸倉を掴むと、ベッドから引きずり出して、床に押し倒した。
眼を剥き、声にならない声で叫ぶ南田に馬乗りになり、腹といわず顔といわず両拳を打ち込んだ。唇から漏れる獣じみた唸り声。肉を打つ鈍い音が、山奥の木霊のように深く、重く、響く。鼻血が喉を伝い、激しく咳き込む。血の飛沫が、フローリングを濡らす。恐怖に顔を歪ませ、南田は悲鳴をあげた。
「言うよ、言う、だから止めて」
矜持《きようじ》を捨てることに慣れてしまった男の哀願だった。全身の強ばりを解き、動きを止めた仙元は、荒い息を吐きながらふらりと立ち上がり、窓枠にもたれた。
「教えてくれ」
南田が鼻にティッシュの束を押し当てて呟いた。
「おれだって、あんなことになるなんて、露ほども思っちゃいなかったんだ」
床に胡座をかく形で座り込んだ南田は時折咳き込み、背中を丸めて語り始めた。
「ガキどもなんです。『シティ・ガード』っていう渋谷の自警団」
「シティ・ガード?」
南田は鼻を押さえたまま、ゆっくり腰を上げると本棚からスクラップブックを抜き出し、クリップで綴じた雑誌記事を手渡した。
「これですよ。おれが書いた」
仙元は、渡された記事を見やった。
「十八歳、三枝航……両親を惨殺された過去を持つ少年……」
キーワードを拾い読みするその頬が、みるみる強ばっていく。
「仕方なかったんだ、仙元さん」
南田は詫びるように言った。
「まさか、あんなことになるなんて」
仙元は視線を上げると、軽く顎をしゃくり、先を促した。
「おれ、この記事が出たあと、三枝から電話をもらったんです。あいつ、街の注目が集まってパトロール活動が出来なくなり、悩んでいたんです。こっちも記事を書いた手前、放っておけなくて。それで事務所に行って──昼過ぎから三枝の部下二人をまじえて、酒を飲みながら話したんだ。マスコミへの対処の仕方とか」
想像がついた。南田は酒が入ると、日ごろの気弱さがウソのように饒舌になる。おそらく、この時も兄貴風を吹かして喋ったのだろう。
「あいつらが、まだ記事になっていない、誰も知らない事件について訊きたい、と言ったので、つい……ガキだと思っていたら、とんでもないことを言い出して」
予想した通りだ。この、虚勢で凝り固まった男は、酒が入ると自分を大きく見せようという自意識が過剰に働く。
「急に三枝がそんなワルは許せない≠ニ色めきたって。残りの二人も、ガラリと豹変して詳しいことを教えろ≠ニ迫ってきたんです。拒否したけど、もう後の祭りだった。キム、と呼ばれてた身体のデカいヤツがおれを殴って蹴って、それでも喋らないと分かると、今度は押さえ付けて──」
南田は、肩を震わせて嗚咽した。
「押さえ付けて、それからどうした」
「おれのズボンとパンツ脱がせて、キンゾウっていうサディストが、ケツにモップの柄を突き立てたんです。それを写真にとって、バラまく、と脅かされて、そんな屈辱、あなたに想像できます? 仙元さん」
見上げた南田の眼は無様に緩み、濡れていた。
「それで、データの所在を喋ったのか」
南田は両腕で頭を抱え込み、呻いた。
「でも、まさかこんなことになるなんて……やつらの残酷なゲームだと思っていたんです。結果的にシティ・ガードの活動を休止に追い込んだおれを痛めつける口実が欲しかったんだ、と。だが、おれのせいであんたの息子は殺されてしまった。あのガキどもに」
三枝航。崇高な理念を持った自警団のリーダー──
「でもね、仙元さん」
喘ぎながら顔を上げ、仙元を凝視する。
「あんたが息子と一緒に住んでいるなんて知らなかったんだ。ずっと以前に離婚した、と訊いていたから──」
「息子がいる、と承知していたら、喋らなかったのか?」
「それは……」
仙元は南田を責める言葉のその裏側で、苦い思いが突き上げていた。心をまだ完全に開ききっていない信太郎は、電話にも、来客を告げるインターホンにも出ようとしなかったはずだ。あの日は朝から、体調が悪いと言っていた。おそらく身じろぎもせず、ベッドに潜り込んでいたのだろう。留守と思い込んでマンションに侵入したやつらが、顔を見られ、殺害に及んだに違いない。信太郎のことを一切知らされていなかった南田には、言い分がある。それに、いまさら南田を責めて何になる……。
「ガキどもが、あいつらに頼まれた可能性はあるか」
震える南田の肩が止まった。
「あいつらって……」
「大学だ。S女子大学……」
南田は激しくかぶりを振った。
「そんなことはありえません。前々から計画していたら、三枝たちはあんな反応はしない。あのスキャンダルはおれから話題にしたんだし……仙元さん、大学側はバーターを持ちかけてきたんでしょう。おれ、そう聞いていますよ」
仙元の頬に硬い筋が浮いた。
「レイプ事件の情報は、確かにバーターだ」
二呼吸分の沈黙が流れた。
「南田、今の話は忘れろ」
南田は何か言いたそうに奥歯を噛んだが、それ以上の質問はしなかった。カトリック系の名門大学、S女子大学を巡る組織的な裏口入学。しかも大規模な受験詐欺グループが絡んだ、スキャンダルの匂いをぷんぷん放つ話だった。
仙元は、その情報を南田から得ていた。ある情報提供者を通じて断片的な話を耳にした南田は、その段階では情報の意味する全体像を把握できずに、世間話のひとつとして仙元に伝えた。しかし、勘と経験で撚《よ》り合わせた、フリー記者のアンテナは敏感に反応した。S女子大学の組織図、係累を調べあげ、以後、三カ月にわたって話を拾って歩き、まるでジグソーパズルを完成させるように、事実を一個一個はめ込み、後ろで糸を引く人物を特定したのだ。
外堀を完全に埋めた以上、やることはひとつ。直《じか》当たりだ。そこで持ち出されたのが、バーター。つまり、辛口の文化人として著名な教授のレイプ事件の詳細を流す代わりに、裏口疑惑を記事にするのは差し控えて欲しい、というもの。大学創設者一族の娘を妻にした小堀教授は当時、テレビ文化人としての知名度を武器に、経営陣への参入を盛んに画策していた。その野心を快く思わない勢力が収集した、精度の高い情報だった。仙元はS女子大側の申し出を呑み、これまでの取材結果と、裏口入学を巡る詳細な相関図をパソコンのデータとしてしまい込んだ。著名教授のレイプと裏口入学を天秤にかけた結果だった。
読者にとって、テレビで活躍する文化人の生々しいセックススキャンダルは強烈な興味の対象だ。庶民は常に生《い》け贄《にえ》を求めている。権威ある有名人の転落の振幅が激しいほど、快感も大きい。他人の不幸は蜜の味だ、日々の退屈な生活の潤滑油だ。しかし、南田にはコトの概略は伝えてあるものの、具体的な事実は何ひとつ教えていない。
「リーダーの三枝航を、おまえはどうみる?」
南田は押し黙ったまま俯いた。仙元は待った。一分、二分……。
「あいつ、変なんです」
沈黙に耐え切れず、南田が口を開いた。
「どこが」
「感情のあり様がどこか常人とは違うような……とにかく自警団なんてのは隠れみのに過ぎない。両親が惨殺された悲劇の少年、なんてのはこっちが勝手に作り上げたストーリーであって、もっと底の知れない何かが、あいつの中には潜んでいます。おれには分かる」
南田の喉仏が、ひきつったようにゴクリと動いた。
「あいつは、何物にも動じない、ダイヤモンドのように硬くて強い魂を持っているんです。それがあの、圧倒的なカリスマの秘密だと思う。ただ……」
「ただ、なんだ?」
南田はこめかみを親指で押さえ、記憶の糸を手繰って、続けた。
「感情の見えない能面のような顔に、一瞬だけ、変化が生じた時がありました。おれが、渋谷のシティ・ガードの事務所で散々|嬲《なぶ》られているとき、訪ねてきたヤツがいたんです。あれは……メンバーじゃない。たしか……」
眉間にシワを刻み、じっと考え込む。
「そう、三枝がキムにこう説明したんですぼくの友達だ、小学校からの一番の親友だ≠ニ。有無を言わさぬ強い口調でした」
小学校からの一番の親友──仙元は脳の襞に刻みつけた。
「三枝はその後、どうした」
「事務所を出ました。その訪ねてきた親友とどこかへ行ったはずです。もしかすると──」
「なんだ」
「あいつが以前、編集部に電話してきたとき、受話器の向こうから強い風の音がしたんですよ。編集部の窓から外を見た限りじゃ、風なんてそよとも吹いていなかったのに……三枝はそこが一番大事な場所だと言ってました。気持ちが落ち着く、とも」
仙元の眼が鈍く光った。
「ほかに何か、印象に残っていることはないか。おまえがインタビューした際のことも含めて、言葉、動作、仲間とのやりとり、何でもいいから、ひっかかったことを思い出してくれ」
南田は、仙元の言動の真意を測りかねていた。息子を殺された父親なのに、奇妙なまでに冷静だった。結果的に事件を招いてしまった男が目の前にいるにもかかわらず……。それとも根っからのリアリストゆえ、死という現実を従容と受け入れたのか。さっきの突風のような暴力は、怒りとも憎しみとも違う。もし、口を割らなかったら、おそらく死ぬまで殴り続けたはずだ。顔色ひとつ変えず──腋の下に冷たい汗が湧いた。
どこか、おかしい。この男は、どこか変だ。普通じゃない──そうだ、普通じゃない、普通じゃ……不意に思い出したことがある。
「右手です」
すっと声が出ていた。
「右手?」
「ええ、三枝の右手が変でした。取材の別れ際、握った右手が、変にザラッとした感触で、見ると赤黒く変色していたんです」
自分の掌の肉厚の部分を示して説明した。
「ここが古くなった餅のように角質化してひび割れていました」
「おまえ、三枝と握手したのか」
傲慢な心根を見透かされた気がした。頬が火照り、耳の付け根まで朱に染まるのが分かる。
「ええ、まあ……」
眼を逸らした。
「続けてくれ」
「本人は空手の練習のせい、と言っていました。手刀を立木に打ち込んだからだと。でも、いくら空手とはいえ、人間の手はあんなふうにはならないと思う。それほど妙な、異形の手でした」
「異形の手……」
仙元は、薄い唇をかすかに動かして呟き、空を見つめた。息子を惨殺されたこの男は何を考えているのか……南田は、沸騰し始めた好奇心を抑えることができなかった。
「仙元さん、いったいどうするつもりなんです。これ、自分ひとりの手で決着をつけられる問題じゃありませんよ」
顔を向けた仙元の視線に冥い影が宿った。
「おまえに言えというのか、ガキどもにいいように嬲られ、泣いて許しを請い、ペラペラさえずったおまえに」
それだけ言うと、仙元はくるりと身を翻し、ドアを開けて出ていった。残された南田は、腹に響く音とともに閉じられたドアを惚けたように見つめ、次いで顔をクシャッと歪めて屈み込み、嗚咽した。
*  *
三〇六号室。廊下のどん詰まりは風がそよとも吹かず、蒸した暑熱が溜まっていた。額に汗を浮かべた森刑事はインターホンを押して、返事を待った。右手に商店街の果物屋で買ったメロンをぶら下げている。幾度か押し、応答がないのをみてとると、首を捻って部屋を後にした。
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八月二十三日(月)
やたらと喉が乾く。デスクの端に置いてある銀色のポットを取り、グラスに冷水を注いだ。口に含み、ゆっくりと飲み干す。緊張の色は隠せなかった。
──どんな顔で現れるのだろう。
黒田ちづるの喉がキュッと鳴った。
「仙元さん、どうぞ」
平静を装って呼び入れた。ドアを開け、診察室に現れた仙元は、軽く目礼すると、丸椅子に腰を下ろした。涼やかなライトグリーンのジャケットを小わきに抱え、生成《きな》りのチノパンと半袖のポロシャツが、筋肉質の身体に無理なく似合っている。その、ゆったりとした物腰は、初めてこの部屋に来たときと同じだった。しかし、表情は硬く尖った石を思わせ、感情のかけらさえ窺えなかった。それは息子を失ったショックで、自失しているのとも違う……敢えて言えば、皮膚の下でうねる感情の波を強靭な自制心で抑え込み、蓋をした、そんな張り詰めたものが、仙元の全身を覆っているように見えた。
突然の死を弔う型通りの挨拶を交わすと、それっきり沈黙が流れた。背筋を這いのぼってくる居心地の悪さに耐え切れず、ちづるは口を開いた。
「仙元さん、信太郎君を亡くされたショックは当分、癒されないと思います。でも、月並みな物言いですけど、時が必ず解決してくれます。そこに至るまで、あなたがどう過ごすかは、酷なようですけど、あなた自身の問題です」
仙元の頬が動いた。
「ご心配いただき、ありがとうございます。死は不変です。後悔しても何も生まれないと思います。この世に、現実以上の確かなものは存在しません。嘆いても、叫んでも、もう信太郎の肌の温もりも、声も、わたしには感じることができないのです。大丈夫です。もう、心の整理はつけました。ただ──」
「ただ、何でしょう」
再び沈黙が流れた。
「医者には──」
ふっと漏らした。
「守秘義務がありますよね」
「ええ」
「ひとを殺したい気持ち、先生には分かりますか?」
予想しない言葉を投げつけられ、息を呑んだ。しかし、仙元の言葉には不思議な硬質のきらめきがあった。
「どうしようもなく殺したい、この手で絞め殺したい、息の根を止めたい、という欲求ですよ」
両手を上げ、首を絞める仕草をしてみせた。
「こうやるんです」
パントマイムの役者のような、大仰でリアルな手つきだった。
「意味が分かりません。もう少し詳しく説明してください」
答える代わりに仙元は、薄い、自嘲的な笑みを浮かべた。
「ひとを殺したい、それだけですよ」
なんの気負いもない声音に、ちづるの肌が粟立った。
「犯人を、あなたの手で殺したい、ということですか」
仙元は軽く唇を嘗め、次いで首を捻った。
「どうでしょう。先生はそう思いますか?」
何も言えず、押し黙ると、仙元は強い口調で言葉を吐いた。
「おれには信太郎を保護してやる資格なんて、最初からなかったんです。そのことを忘れて、馬鹿な夢を描いてしまったおれは、救いようのない愚か者だ。先生──」
仙元のすがるような眼がひたと見つめていた。
「助けて欲しいんだ。信太郎を助けたみたいに」
「わたしにできますか?」
思わず身を乗り出していた。
「できる」
強い視線の底に冥い光を見て、ちづるは眼を細めた。
「先生、おれがどうなっていくかを、あんたに見て欲しいんだ」
その言葉が脳髄に響いた刹那、好奇心が、ギラリと光った刃先となってちづるの心臓を貫いていた。ちづるは、弾む声を強引にねじ伏せて、言った。
「あなたはまだ、相当ショックを受けているようだから、診察を行うのはやぶさかではありません。ただ、ひとつだけ、条件があります」
「なんです?」
闇に浮かぶ白い月がちづるの脳裏で朧《おぼろ》な光を放った。信太郎の頭に刻み付けられた白い月。
「頭の傷、信太郎くんの傷のこと、教えてくれますね」
仙元は穏やかに微笑んでみせた。
「いずれ、その時がきますよ、約束します。今日は先生に会えて本当に良かった」
仙元は立ち上がり、片手でこめかみを軽く揉みながら、ゆっくりと踵《きびす》を返した。ドアを開けて出ていく後ろ姿に、ちづるはぽっかりと開いた暗く冷たい穴を見た気がして、視線を止めたまま動けなかった。
その日の診察とカルテの整理を終えると、ちづるは書棚からファイルブックを引き抜いた。椅子に座ってページをめくる。指が止まった。一枚の写真。恰幅のいい身体を三つ揃いの仕立てのいいスーツに包んだ初老の男。短く刈った銀髪と口ひげ。逞しい骨格の、意志の権化のような顔。眼光が鋭く、こっちを睨みつけている。二十世紀初頭、南ドイツのチュービンゲン大学で精神科の主任教授を務めたロベルト・ガウプ教授だった。
ちづるはファイルしてあった犯罪心理学の資料に目を通した。
当時、異常な精神現象のすべてが脳の物質的変化で説明できるとする考えが支配的な中、ガウプ教授は、早くから精神分析の創始者フロイトに理解を示し、柔軟な思考で専門の妄想研究に取り組む優れた精神医学者だった。その教授の目に止まったのが、大量殺人者のワーグナーだった。
事件は何の前触れもなく始まっている。一九一三年九月三日。まだ残暑厳しい夜、国民学校教師のワーグナー(三十九歳)は、中庭で家族や隣人と談笑したあと、就寝した。四日未明、ひとりベッドから抜け出したワーグナーは、就寝中の妻を棍棒で一撃し、ナイフで刺して殺害する。そして幼い四人のわが子を次々にナイフで刺し殺したのだ。ワーグナーの凶行は続く。銃と弾薬で武装して街へ出ると歩行中の人々に対して銃を乱射して四人を射殺、十二人に重傷を負わせた。
おぞましい殺戮劇の主役として九人を殺害したワーグナーが、ガウプ教授の研究室に連れて来られたとき、この元教師の左腕は肩から先が失われていた。乱射事件の現場で取り押さえられた際、怒り狂った男たちのリンチに遭い、腕を付け根から引き抜かれたのだ。
ガウプ教授はワーグナーの姿を見たとき、激しいショックに襲われた。隻腕のせいではない。恐ろしい怪物めいた男を想像していたのに、目の前のワーグナーは、穏やかな物腰で振る舞う、温厚な教養溢れる紳士だった。なぜ、この男が──
興味を抱いたガウプ教授は、ワーグナーの精神鑑定を担当することになる。
ワーグナーは「早く首を切って殺してほしい」と述べ続けたが、裁判所はガウプ教授の鑑定をもとに、精神病の疑いが強いとして無罪を言い渡し、療養施設に収容した。一時期、ワーグナーは自分を無罪にした鑑定結果を恨み、ガウプ教授を拒絶した時期もあった。しかし、それを除けば良好な関係が保たれ、ワーグナーの死までの二十五年間、ガウプ教授はこの大量殺人犯を観察し続けて、膨大な著作、論文を発表している。
この二人の関係を、高名な精神医学者が異常犯罪者を貴重な研究材料としてとらえた結果、と見ることは簡単だが、ちづるはそうは思わなかった。
一例を挙げると、ナチズムの逸話がある。ワーグナーは犯行前に自伝をまとめ、その中で『人類の病的部分を絶滅すべきである』という主張を開陳している。そしてこれは、当時、台頭しつつあった民族優先学の主張を反映したものだった。晩年、ヒトラーの熱烈な崇拝者となるワーグナーにとっては、至極当たり前の記述だったが、ガウプ教授は当初、自伝に述べられたこの思想を厳しく否定した。良識ある真摯な科学者として当然の姿勢だった。
ところが、後年、ガウプ教授はワーグナーの自伝をこう評価している。『彼は、家族や民族が精神的に変質しているという判断に立って、いろいろな観念を鋭く把握したが、それらは、とりわけ民族優生学の分野で、こんにちなお十分に通用している』
あからさまな称賛だった。
当代随一の精神医学者にいったい何があったのか? ちづるは、ガウプ教授がワーグナーの心の闇の部分にはまり込み、我を見失ったのだと信じている。
精神医学に携わる者は、常にある危険性と隣り合わせている。治療者の側にも、独自の内的世界がある以上、患者の問題を真剣に受け入れようとすればするほど、自分が密かに沈めておいたはずの深層の部分に触れ、激しく揺さぶられてしまう。その揺さぶりが臨界点を越えたとき、時として治療者は常識では考えられない行動に出ることがある。
治療者が、自分の職分を忘れて患者に愛情を抱くことは珍しくないし、連続殺人犯の精神鑑定を担当した医者が、犯人処刑の瞬間、身を震わせ、泣き喚いたケースさえあった。また、獄中の殺人犯に魅入られた女医が、脱獄の手助けをしたという事件も報告されている。
モンスターに取り込まれ、心を操られる治療者。それは精神医学でいうところの「転移」と対を成す、「逆転移」が作用していた。
「転移」を最初に発見したのはフロイトである。この転移という言葉は、患者から治療者に向けられる「感情」を指している。面談中、患者が治療者に寄せる感情は、期待、好意、願望から恐怖、不安、敵意までさまざまである。そして、これらの感情の本質的な部分は患者が過去、あらゆる対人関係の中で交わしてきたものと同じと見做《みな》されている。転移は、患者が周囲との関係で満たされなかった内的葛藤を、治療者との関係という外的なものにすり替えた、という意味で、前向きな姿勢と捉えられ、概《おおむ》ね症状が好転した証拠として歓迎される。
一方、逆転移は文字通り逆のベクトルであり、転移とは反対に、治療者が患者に抱く感情のことである。逆転移そのものは治療現場で日常的に見られる現象で、特別珍しいものではない。だが時として、一般的な信頼感を遥かに凌駕《りようが》した、深い情動へと発展することがある。治療者が患者と同一化して無意識のうちに押し流されたり、自分の問題を患者に投影して治療の本筋を見失ってしまうのだ。
モンスターは、この逆転移のメカニズムを上手く利用して、ひとの心を自在に操ってしまう。そしてちづるは、ガウプ教授もその犠牲者のひとりと考えていた。
ガウプ教授の顔写真をもう一度、見た。ちづるは、絶対に越えてはならない線を自分の中に張り、それを弾いてみた。「大丈夫、わたしは越えない」そっと呟いた。
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八月二十四日(火)
「三枝くんはとても頭が良くて、中学のときはずっと学年全体でトップだったと思います。ただ無駄口を叩かず、何を考えているのか、分からないところがあった。すらっとしてカッコいいから、憧れている女の子はいたけど、なんかみんな怖いとかいってね。近寄り難い、と言うのかな。大人びていたのかもしれない。いつも図書館にこもっていろんな本、読んでいたし。こんなに有名になるんなら、唾つけとけば良かったね(笑い)。お父さんとお母さんを強盗に殺されたでしょう。すっごい可哀想だった。でも、あのときのことが『シティ・ガード』の活動につながってるんでしょう。かっこいいよね。親友? ああ、トモダくんだよ。友達、彼しかいなかったから、間違いないと思う。フルネーム? トモダユウジ。ちょっとペン貸して。書いてあげる。友田勇志。そう、小学校も一緒だったはずだよ。でも、友田くん──言っちゃっていいのかな。いいよね。わたしが喋ったって書かないでくださいね。えーと、彼、同級生を殺したんです。知らなかった? 包丁で刺し殺したんですよ。これ、すっごい有名な話。イジメられていたんだよね。だからキレちゃったみたい。それで友田くん、少年院に入ったから、先生たちが卒業アルバムに写真、載っけなかったんです。でも、いま思うと可哀想だよね。卒業アルバム?……うーんと、貸しちゃっていいのかなあ。ま、いいか。マスコミのひとだし。名簿屋とかに流さないでくださいね(笑い)。そういえば友田くん、どうしてんのかなあ。なんか、想い出しちゃうな。彼、お母さんが働いていたから、家の手伝い、よくしていたんだよね。一度、わたし、クラブ活動の帰りに、多摩川の堤防のとこで話したことがある。自転車のチェーンが外れて、それを通りかかった友田くんが直してくれたんです。彼、スーパーの袋をぶら下げていたから、訊いたら毎日買い物してるんだって。赤いリンゴが覗いてたから、美味しそうだねって言ったらくれたの、一個。お礼を言ったら友田くん、横向いて、照れくさそうだった。でも、そのあとイヤなもの、見ちゃってね。わたし、リンゴをスカートのポケットに押し込んで、帰ろうとしたときだった。中学のよくないグループの男の子が二、三人、ニヤニヤ笑って近づいてきたの。うん、あいつもいましたよ。わたし、急いでペダル漕いで逃げたけど、振り返ったら友田くん、地面に突き飛ばされていた。友田くん、泣きそうな顔をしていた。わたし、謝りたいな。あのリンゴ、食べなかったんだよね。せっかく貰ったのに、慌てて逃げたから落っことしちゃって……友田くん、本当は優しいんだと思うな。あんなやつ、殺さなくても良かったのに。もう少し我慢すれば一緒に卒業できたのに……あ、まだ質問、あるんですか。ええ? 三枝くんの右手? なんですか、それ。ザラッとしてるんですか。知りません。手、握ったことなんかないし(笑い)。覚えてませんよ」
「あのコは本当に掴みどころがないやつでね。わたしらは可哀想だと思って引き取ったのに、全然なつきやしないんだ。まあ、ふた親をあんな事件で殺されたんだから、仕方ないけどね。でも、わたしにとっては甥っこに当たるわけだろう。なんとかしてやろうと思ったけど、あの態度じゃあどうしようもなかった。この家にきて、開口一番、何と言ったと思います? 月に十五万円渡すから、ぼくに構わないでください≠ニ、こうだよ。おカネ? 弁護士を雇って、両親の保険金や自宅を売り払ったカネを信託に預けてね、そこから引き出していたようだね。まあしっかりしているというか、抜け目がないというか。高校? 一応合格したようだけど……港区の有名な私立高校。成績は良かったからね。でも、あれ、ひと月も通ってないでしょう。この家からも出ちゃったし。ええ、中学卒業と同時に外にアパート借りて出ちゃって、それっきり梨のつぶてですよ。テレビや週刊誌だとなんか有名人になったようだけど、あれ、何を考えてんのか分からないもの。なんか、大人を小バカにしているというか……ちょうぜん? ああ、超然としているんだろうねえ。まあ、わたしらには関係ないけどさ。右手の傷? さあ、気がつかなかったなあ」
*  *
午後四時。新橋駅前のビジネスホテル。仙元は両手を伸ばせば左右の壁に届きそうな部屋の、ベッドに座り、取材ノートに見入っていた。朝から歩き回って得た、二つの収穫。最初の証言は三枝航と友田勇志の、中学時代の同級生。都内の短大に通う十九歳、名前は吉村沙織。二番目の証言は三枝航の伯父、三枝光太郎だった。航の父親、光次の実兄である。しかし、この大田区大森駅前で八百屋を営む伯父は航とは没交渉で、連絡先すら知らなかった。
仙元は、吉村沙織から借りた布張りの卒業アルバムを開いた。航は三年二組にいた。大人びた、物憂げな顔。仙元は航の顔、息子を殺したに違いない男の顔を脳裏に刻み込んだ。
汗を吸ったポロシャツを脱ぎ、麻の開襟シャツに着替えると、ショルダーバッグを肩にかけてホテルを出た。
途中、乗り込んだ山手線の車内は夏休みのせいか、この時間帯につきもののけたたましい嬌声と、青い汗の匂いが希薄だった。
渋谷駅で下りた仙元は、『シティ・ガード』の事務所を訪ねた。午後四時三十分。裏手のヌードスタジオから艶っぽい歌謡曲とまばらな拍手の音が漏れ聞こえる、焼肉屋の二階。錆の浮いた鉄製の階段を上がり、ドアを叩いた。返事の代わりに、一階のガラス戸がガラリと開いて怒鳴り声が響いた。眼のギョロッとした、禿頭《とくとう》の男だった。昔観た映画の、そう、アーネスト・ボーグナインに似ている。
「そこは誰もいないと言ってんだろうが。帰れ帰れ!」
マスコミの度重なる取材にうんざりした人間が見せる怒りようだった。ならば、まともな常識のある男ということだ。夕方五時の開店まで近くの喫茶店で時間を潰し、店に入った。
五つのテーブル席にカウンターだけの、煙に燻《いぶ》されて青く煤けた店内。仙元は一番奥のテーブルに席をとり、生ビールに牛タンとカルビを注文した。男は不機嫌さを噛み殺しながらも、型通りの応対をした。一歩、店の敷居を跨いでしまえば、客は客だ。まっとうなサービス業の鉄則だった。店内では、仙元に続いて入った工事現場の作業員風の男が二人、声高に喋っているだけで、他に客の姿はなかった。仙元は、タンとカルビを炙りながら、男を呼んだ。眼をギョロつかせたアーネスト・ボーグナインは、三枝航の素性を小出しにしてやると、途端に食いついてきた。仙元の前に腰を下ろし、声を潜めて言う。
「あのやろうのおかげで英一はおかしくなったんだ。ったく、長男だっていうのに」
朝鮮学校へ通いながら大検の資格を取った努力家の息子。大学入試を前に民族意識に目覚めた硬骨漢。男は幾分の自慢を滲ませながら、息子のことを語ってくれた。
「来年は東大でも一橋でも入ってやる、と啖呵《たんか》をきったから、大目にみてやったのに。毎晩、おかしな連中と街をほっつき歩いて、正義とかなんとかほざいていたが、所詮、ガキどものお遊びじゃねえか。おれには分かっていたんだ。あれじゃあ、得体の知れない新興宗教に息子を取られたのと同じだよ」
「いつから帰ってないんですか」
「週刊誌とかテレビが頻繁に訪ねるようになってからは、活動そのものを休止していたようだな。しかし、姿を消したのは──」
男の告げた日は、信太郎が殺された日だった。
「行き先は?」
「その有名人のリーダーと一緒なんだろ」
吐き捨てるように言うと、男はギョロリとした眼で睨《ね》めつけた。
「あんた、あいつのことを取り上げるんなら、いい加減、きれいごとのヒーロー像に仕立てないで本当のことを書きなよ。あいつに子供をとられて、泣いている親は多いと思うぜ。あいつらの年代ってのは暴走し始めると際限がない。あいつは英一を都合のいいように操《あやつ》ってるんだ。絶対、許せねえよ!」
男は吐き捨てるように言葉を切ると、さっさと店の奥へ引っ込んだ。
勘定を払い、店を出た仙元は急な坂道を下って渋谷駅へ引き返した。夕刻の人波に揉まれながら再度山手線を使い、品川駅で京浜急行に乗り換える。ビルの谷間を走る小豆色の電車は、京急蒲田駅で五分ほど停車した。隣に座った和服の中年女が、ハンカチで鼻を押さえ、顔を顰《しか》めた。車内にドブの臭いが漂う。窓の下に、幅十五メートルほどの運河が横たわっていた。澱んだ緑色の水面が、西陽を浴びてギラついた。
ゴトンと鉄輪が軋み、電車が動いた。窓から見える風景は一変していた。電車は線路の両側に密集して迫る背の低い民家やアパート、町工場の軒先を掠めるようにして走った。首都高速の羽田ランプを越えてすぐの穴守稲荷駅で降りると、微かに潮の香りを含む、ざらついた風を感じた。駅の入り口に建つ赤い鳥居をくぐると、頭上で万国旗がたなびく小さな商店街が左右に伸びていた。仙元は、ショルダーバッグから卒業アルバムの住所コピーを取り出し、文庫本ほどの大きさの地図帳の大田区のページで目指す住所の見当をつけて歩いた。
中学の周辺をやみくもに歩いて、やっと突き当たった吉村沙織と違い、今度は同級生の名前も住所も分かっている。苦もなく話がとれるはず、と高を括っていたが、ことごとく留守だった。遊びたい盛りの十八、十九が、夏の夜、おとなしく家に収まっているはずもなかった。当たりがあったのは五軒目だ。午後八時過ぎ。クルマ一台がやっと通れる路地に面した灰色のマンションの二階。まず母親が顔を出し、用件を伝えると、その男、竹下満雄は不機嫌さを全身に貼り付けて出てきた。七三に分けた髪とネクタイを解いたワイシャツ姿には、社会に出たばかりの初々しさとともに、まだ仕事に馴れない苛立ちと疲労があった。細面の、陽に灼けて赤くなった顔が迷惑だ≠ニ雄弁に語っている。
それでも竹下満雄は、ひとがいいのか気弱なのか、玄関口で取材を受けてくれた。
「三枝とは小学校から一緒でした。ええ、友田もそうです」
「三枝くん、ご両親を失っているけど、その後、目立った変化はあったのかな」
「あいつは強いですよ。もともと静かなやつだけど、おれたちとは人間が違うんじゃないかな。べつに落ち込んでいるとか、そんな様子もなかったし……友田以外に親しいやつもいないから、クラス全員がなんか腫れ物を扱うような感じだったな」
細い指でワイシャツのボタンをいじりながら、竹下満雄は、仙元と眼を合わそうとしない。仙元は質問を続けた。三枝の異形の右手については、そんなの、あったかな≠ニ首を捻り、次いで付き合い、なかったから≠ニ呟いた。
「友田くんはイジメられていたようだけど」
十秒間の沈黙。
「イジメ、あったよね」
再度の質問。竹下満雄は下唇を軽く噛むと、口を捩《ね》じ曲《ま》げるようにして開いた。
「あいつ、おとなしくて、目立たないんだけど、なんか気に障《さわ》るんですよ。小学校のときから、いつもイジメられていました。だから中学であんな事件、起こしちゃって……」
さも不快そうに顔を歪めた。おそらく、自らも苛める側に回ったことがあるのだろう。過去を悔悟する苦渋の色が濃く漂っていた。竹下満雄はそれまで眼を合わそうとしなかった顔を傲然と上げ、仙元と正面から向き合った。
「おれ、はっきり言ってこういう取材、迷惑なんです。高校の推薦もらって、この不況のときになんとか地元の信用金庫に入れて、親とか親戚とか喜んでるんですよ。それに、三枝がマスコミの有名人になろうが、おれには関係ないですよ。おれ、働いてるんですよ。あしただってこの炎天下、自転車で得意先回り三十軒ですよ、三十軒」
仙元を睨みつけた。
「三枝が渋谷のヒーローとかいったって、あいつだって小学校のときは──」
顔が醜く歪んで、言葉を飲み込んだ。
「小学校のときは、何だ」
仙元は語気を強めて詰め寄った。有無を言わさぬ口調。その迫力に気圧《けお》されたのか、竹下満雄は再び眼を逸らした。
「重要なことなんだ、教えてくれないか」
仙元は重い声で訴えた。竹下満雄の、薄い頬が観念したように緩んだ。
「小学校のときシカトされて、よく殴られてたんですよ」
三枝がイジメの犠牲者。初めて聞く話だった。
「理由ですか? 理由、理由、何だろう。何かあったんだけど……そうだ。『おとこおんな』だ」
おとこおんな──仙元は虚空を眺めて呟いた。
「あいつ、お母さんにブラウスとスカートを着せられて、それが評判になったんです。みんなに『おとこおんな』って呼ばれて、あいつ、暗かったし、無口だったし、あれじゃあイジメられても仕方なかった気がするな。中学の時? もうイジメはなかった。その理由? そういえば──なんだろう」
竹下満雄は首を捻って、真剣に考え込んでいるふうだった。
ブラウスとスカート。母親から強制された少女の格好。仙元の脳の裏で、青白い光がポッと灯った。『おとこおんな』という言葉が、蛍光ペンで縁取りしたようにくっきりと浮かび上がり、頭を芯から痺れさせた。
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八月二十五日(水)
欅《けやき》の大木が、巨大な聖堂のようにそびえて、濃い緑色の日陰をつくっている。仙元とちづるは中庭に置かれた白い木製のベンチに並んで座っていた。武蔵野東病院の昼下がり。空には、綿菓子に似た雲が湧いて、眼に痛いほどの青と白のコントラストをつくっている。干天続きで空気が乾いているせいか、日陰に入ると仄かな風がそよいで、それほど暑さを感じなかった。蝉が、天空を焦がす勢いで盛大に鳴いている。
「診察室よりずっといいな」
仙元が呟くように言った。
「ええ、解放感があって、気分を変えるにはいいでしょう。それに、診察室では口を開こうとしない患者さんも、ここだとリラックスしてくれるケースが多いんです」
「だろうね」
仙元はネクタイを緩め、タバコをくわえると、眼を細めて火を点けた。
「黒田先生、おれはこの二日間、話をかき集めてみた」
フッと紫煙を吐くと、こっちを見た。アーモンド型の黒曜石に似た瞳が、輝く夏の光の中で、そこだけ氷の粒を散らしたように冷たい。
「誰の?」
「犯人だ。信太郎を殺したやつだよ」
瞬間、ちづるの視界に白い光が散った。仙元の顔が、熱せられたアメのように歪んだ。
「さえぐさわたる。十八のいかれたガキだ」
仙元は、ジャケットの懐から南田の書いた雑誌記事のコピーを抜き出し、ちづるに渡した。
「自警団をきどっちゃいるが、その正体は殺人を屁とも思わない、狂信者集団の親玉だ。こいつが信太郎の首を切り裂いたんだ」
ちづるは、戦慄《おのの》く心を抑えて記事に眼を通した。その記事は、三枝航という名の少年の背景と現在を、不思議な熱っぽさを孕んだ筆致で描いていた。筆者の、少年に対する思い入れが伝わってくる文章だった。両親を何者かに惨殺された少年の、悪を憎む心から生まれた自警団『シティ・ガード』。そして、危険をものともしない勇気溢れる行動の日々。読み終えた後、思わずかぶりを振った。この記事に述べられた少年と、仙元が口にした冷酷な殺人者との落差に戸惑いを隠せなかった。
「信じられないようだな」
仙元が、ちづるの動揺を見透かして言った。
「この少年が信太郎君を……」
「ああ、間違いない。経験と勘が絶対とは言わないが、おれは事件専門のルポライターとして十年以上、食ってきたんだ。やつはどこかおかしい。犯罪者という括りの外に存在し、潜んでいる気がする」
「でも仙元さん、この少年、両親を何者かに惨殺された過去があったから、正義に目覚めたんでしょう。なのになぜ……」
「男勝りの精神科医が、小娘みたいなつまらない感想だな」
見下した声が、ちづるの背中をグッと押していた。
「仙元さん、詳しく話をきかせてよ」
凜とした声で催促した。脳裏に浮かぶガウプ教授の顔。心中に張った一本の線を爪で弾き、その確かな強靭さを確認しながら、仙元と向き合った。
「そうこなくては」
仙元がユルリと笑みを浮かべて、ちづるを見た。降り注ぐ陽光が濃い影をつくり、二人を暗い緑の底へと誘《いざな》っていく。抗う気持ちと引き込まれる身体が絡み合い、ちづるは言いようのない息苦しさを感じた。激しい蝉時雨の中で、風景と時空が微妙に捩れ、自分が自分でないような、不思議な感覚が浮き上がってきた。ちづるは、仙元が語る言葉のひとつひとつを脳細胞に取り込み、いつしか身震いするような快感の中に漂っていた。新たな洞穴が、ちづるを凝視していた。
「先生、こいつはどこか狂っているんだ」
仙元は、それが結論といわんばかりに強く言うと、ちづるを見つめた。漆黒の底無し沼──ちづるは慌てて眼を逸らした。
「わたしは医者だから、その三枝航という十八歳の少年が信太郎君を殺したかどうかは分かりません」
いったん言葉を切って、顔を上げた。背筋を伸ばしてあごを引く。
「もちろん、その少年がなぜ、仙元さんの部屋へ忍び込もうという気になったかという動機も含めて、だけど」
探りを込めたつもりだが、仙元の顔には些かの変化も窺えなかった。軽く息を吐いて呼吸を整え、話を続けた。
「すべて、警察の職分でしょう。でも、仮定という条件つきなら、幾らかお話ができると思います」
「だろうね。先生が興味を持つ話だと思っていた」
挑発的な物言いを、ちづるは無視した。
「この少年には、心理学的に見て大いに注目すべき点があるわ」
「どんな?」
「幼少期の女装──母親から女装を強いられていたという事実──」
仙元は唇を舌で嘗め、軽く頷いた。
「犯罪史上にその名を連ねる二人の連続殺人犯の幼少期とまったく同じなの。チャールズ・マンソンとヘンリー・リー・ルーカス……二人は猟奇殺人の本場、米国が生んだ正真正銘の怪物──そして、二人とも、学校に上がった最初の日に、女の子の格好をさせられている。当然、周囲はバケモノ扱い……」
「マンソンなら知っている。確か、シャロン・テート事件の主犯だったな」
「そう、仲間と一緒に臨月間近の女優シャロン・テートの腹を裂いて惨殺した……そして、ルーカスは全米を放浪しながら数百人を嬲り殺しにしたと言われる、史上最悪の殺人鬼よ」
仙元は新しいタバコに火を点け、深く煙を吸い込んだ。指が小刻みに震えている。動揺しているのだろうか──
「先生に相談してよかった。いろんなことが分かる。おれは三枝航というガキのことをとことん知りたいんだ。アメリカの殺人鬼二人と共通点があったなんて、面白いじゃないか」
硬い視線で先を促されたちづるは、誘導されるように口を開いた。
「マンソンとルーカスは、ともに劣悪な家庭環境に生まれ、親の愛情なんかこれっぽちも受けずに、まるでドブネズミみたいに育ったという点でも酷似しているわ。とくにルーカスはひどかったみたい。母親は売春婦で、幼いルーカスは母が客と性交する姿を見せられながら育ち、同時にひどい虐待を加えられているの。角材で失神するほど殴られ、しかも泣くことさえ許されなかった──」
「父親はいなかったのか?」
「いました。足の不自由だった父親も同様に、妻と見知らぬ男とのセックスを見せられ、手ひどく虐待され、ルーカスが十四歳の時、屈辱に身もだえしながら死んでいった……雪の夜、戸外で凍死、と記録されているから、この世の地獄ね」
「その母親はどうなった?」
「成人した息子のルーカスにナイフで刺されてジ・エンド」
「自業自得ってやつか」
「それもあるけど、家庭内の暴力行為は、しばしば次の世代へと受け継がれていくの。表面化、あるいは潜在化して、あらゆる形でね。これを専門家は『暴力のチェーン現象』『虐待連鎖』という言葉で表現しています。つまりルーカスのケースでは、被虐待者が、その理不尽な暴力に対する怒りを増幅させ、加虐的な性格異常者へと変身していった、というわけ。ルーカスには、暴力の起爆装置みたいなものが母親からしっかり据え付けられていたと断言してもいいと思う」
「どうして三枝航の母親は女装なんかさせたんだ?」
仙元の声がわずかに震えていた。
「女装させた息子を小学校の入学式に連れて行って、晒し者にしたんだぞ。その母親の心理ってやつが、おれには分からない」
女装で入学式に──胸の悪くなる不快感をこらえて、説明した。
「子供を外部に晒したくない、永遠に自分のものにしたい、父親と同じ男性≠セと認めたくない……いろんな理由が考えられるけど、親の歪んだ、暗いエゴの犠牲になっていたのは間違いないと思います」
仙元は、指に挟んだタバコの火口に眼をやり、じっと何かを考えているふうだった。ちづるは言葉を続けた。
「その三枝という少年が実際に殺人を犯したかどうかは別にして、家庭環境は気になるわね。感情の揺れが見えない、というあなたの仕事仲間の証言もあるし……両親にぜひ話を訊きたいところだけど──」
仙元が視線を上げた。
「惨殺された両親に、か」
「そう。それに、両親を殺した人間の正体も大いに気になるところね」
「だが、三枝が両親を殺していないことだけは確かだ。アリバイがある」
「臨海学校?」
「そうだ。伊豆半島の奥、西伊豆の松崎で行われた臨海学校に参加していたのは間違いない。その最中に事件は発生している。死亡推定時刻から逆算して、とても不可能だ。第一、三枝が松崎を離れたとしたら、級友、教師が気づいているはずだ。三枝の犯行はあり得ない」
「そうかしら」
ちづるの冷ややかな反応に、仙元は眉をひそめた。
「何が言いたい」
「見方を変えたら、これ以上は望めないアリバイということよ。それに、同情が先にたって、まず疑われることはないもの」
仙元の顔が紅潮した。
「先生、あんた、三枝航が……」
ちづるはかぶりを振った。
「分からない。でも、ずば抜けた頭脳の持ち主でもあるんでしょう。何を仕掛けてもおかしくないわ。心理学専門の医師なんて、一筋縄じゃいかない人間の心の奥底を常に見せられているから、事実を額面通りに受け止められないのよ。何か裏がある、と感じてしまうの」
喋っているうちに、ちづるは身体の奥底から、何か陶酔感のような、もやっとしたものが湧いてくるのを感じた。
「仙元さん、もう少し、彼のことを知っている人物はいないの? 親友とか」
「ひとりだけ心当たりがある」
「だれ?」
「友田ユウジ。ユウジは勇ましいに志と書く。こいつは三枝の小学時代からの親友で、とんでもない事件を起こしている」
そう言うと、仙元はもったいぶった素振りで、ちづるの顔を覗き込んだ。
「どんな事件だと思う?」
「焦らすなら、相手が違うでしょう、仙元さん。わたしはあなたの担当医よ」
ピシャリと言い放った。仙元は、フフンと鼻で笑い、タバコを一口吸うと、紫煙とともに言葉を吐き出した。
「中学時代、同級生を刺し殺して少年院に入っていたことがある」
「殺人の理由は?」
「執拗なイジメらしい」
まだ言葉を交わしたことも、見たこともない、三枝航と友田勇志という二人の少年が、脳裏で弾けて青い火花を散らした。
「彼の話、わたしにもぜひ訊かせて欲しいわ」
「学問的意義、ってやつかね」
「三枝航のことを知りたいのよ。その正体を見極めない限り、あなたも下手な動きはしないほうがいいと思う」
「実は、三枝航のことでもうひとつ分からないことがあってね」
そう言って、面白がるような視線を飛ばして来た。
「右手のここのところに──」
掌の肉厚の部分を、タバコを挟んだ左手でゆっくりと撫で上げるようにして、ちづるを見た。
「ザラッとした傷があるらしい。これがどうにも気になって仕方がない」
傷──そういえば、ちづるはまだ仙元の秘密を知らない。白い傷。信太郎の頭に刻み付けられた傷痕の正体──
仙元はちづるの深まるばかりの疑問をよそに立ち上がると、
「もう少し、調べてみますよ、先生」
と言い置き、返事も待たずに立ち去った。仙元麒一と三枝航を取り巻くどす黒い澱《おり》のようなものに、足を取られた気がして、ちづるはベンチから立ち上がることができなかった。
*  *
浜辺に生える松の木々は、一様に節くれだって捻じ曲がり、何かを掴もうともがく、老人の断末魔の腕を思わせた。海からの烈風に、黒い枝が身もだえするように高く低く、ヒューヒュー泣いている。波の砕ける重い音が、腹の底まで響いてくる。辺りは一面、真夜中の青い闇だった。
「おまえ、あのビデオを見て、どう思った?」
「怖かった、すごく怖かったよ、航」
勇志は、航と肩を並べて砂浜に座り、囁くような声で話した。
「なんであんなことを……航とお母さんが可哀想だよ」
「ぼくもなんとかしたいと、いつも思っていたんだ。もう限界なんだよ、勇志」
と、ゴッと風が鳴り、巻き上げられた砂がつぶてとなって二人を襲った。勇志は咄嗟《とつさ》に腕で顔を覆い、眼を固く閉じた。硬い砂粒が肌を打ち、尖った痛みが広がった。瞼の裏に、ビデオに映った航と優しいお母さんの姿が浮かんで、涙が滲んだ。腕でゴシゴシ擦って眼を開けると、闇に浮かぶ航の顔があった。
「泣いているの、勇志」
「少し、ね」
「砂が眼に入ったのか」
「違うよ」
航が、闇をすかしてじっと見ている。
「じゃあ、ぼくのために泣いているの?」
勇志はコクンと頷いた。
「すごく辛い目にあってきたんだね、航とお母さんは」
首を傾げて、航が言った。
「どうして勇志は泣けるんだろう。ぼくにはとても無理だな」
「それは航が強いからさ。おれみたいに泣き虫じゃないもの」
「そうかな」
寂しそうな横顔だった。耳元で、風が空気を裂いて、鋭く、短く鳴った。ナイフの切っ先が掠めたような気がして、勇志はビクッと肩を竦《すく》めた。
「ぼく、どうなるんだろう」
ポツンと航が呟いた。
「航、おれがついているよ」
「ぼく、勇志になら、何でも言えるんだ。勇志だけは、ぼくのことを分かってくれる、そう信じているんだ」
ドーンと大砲に似た大音響と一緒に、砕けた黒い波の飛沫《しぶき》が飛んで来た。風も波も、刻一刻と強くなっていく。心なしか、闇も深くなった気がする。航は前を向いたまま動かない。ただ、薄い唇だけが、微かに動いて言葉を紡いでいる。
「勇志は許してくれるだろうか」
「何?」
「ぼくがやってしまったこと、だよ」
ヒヤッとしたものが背中を撫でた。
「何をやったの、航」
航がこっちを見た。潮に濡れた髪の毛が額に張り付き、瞳が潤んで見える。まるで雨に打たれてさ迷う子犬みたいだ、と勇志は思った。
「全部、話すからさ、勇志、ぼくを見捨てないで。ぼくを助けてよ。ぼく、おまえがいるから、まだ大丈夫だけど、そうじゃなきゃ、もうどうなっているか分からない」
「おれ、ずっと航の味方だよ。嘘じゃない。だから、なんでも言ってよ、航」
「嫌いにならないか?」
「ああ」
「ずっと友達だよね」
「もちろんさ」
そのとき、航が笑った。初めてみる笑顔だった。──航が笑っている──勇志は頭がじんわり痺れて、全身が柔らかな温かいもので包まれた。うれしかった。航が笑ってくれたんだから、なんでもできる、と思った。
と、変な声がした。なにかが唸っている。耳の深いところで確かに聞こえる。呻くような、もがくような、嗄《しわが》れた声。航? いや、笑っている。飛沫に濡れて輝く笑顔だ。天使の笑顔だ。でも、聞こえる。地獄の底から響く唸り声。それは細く、長く、一本の針金となり、勇志の頭蓋骨をグルグル巻いて締め付けた。モヤッとした凶々《まがまが》しい感情が、目の前の海で黒くうねって膨れ上がり、砕けた。航が笑っている。
──やめろよ──
叫んで拳を振り上げ、航の笑顔を殴った。だが、航の笑顔は空気みたいにユラユラ揺れて、笑い続けている。
──航、おれはおまえの親友だろう──
呻きながら笑う航がひどく醜悪なものに見えて、勇志は思わず立ち上がった。
──やめろ、やめろ!──
タオルケットを跳ね上げ、中腰になっていた。隣のベッドで、祖父が虚ろな眼を見開き、呻いている。ハーッ、ハーッと耳障りな荒い息は、自分の口から漏れていた。
玄関のガラス戸を叩く音がした。一発叩くごとに激しく、大きくなっている。勇志は身構えた。柱の時計を見た。午後十一時過ぎ。母の君子は仕事に出掛けて留守だ。
──航の仲間か?
鳥肌が立った。祖父の呻き声が、悲痛な響きを帯びている。
「大丈夫だよ、じいちゃん」
勇志はランニングとパンツのまま慎重な足取りで、玄関ににじり寄った。ガラスに人影が、冥いシルエットとなって映っている。
「誰?」
囁くように呼びかけた。
「友田勇志君、いますか」
低い、大人の声だった。全身を縛っていた緊張が、ふっと解ける。
「だからあんた、誰だよ」
強い口調で言った。
「訊きたいことがある。大事な用だ」
硬い声音だった。
──警察か?
玄関の電灯を点け、ガラス戸を開ける。髪を短く刈った、ジャケットとネクタイ姿の、首の太い男だった。一瞬、眉根を寄せた男の表情を勇志は見逃さなかった。部屋にこびりついた排泄物の臭いだ。気後れがした。
「ここでは話しにくいから、外へ出て」
男はアゴをしゃくった。
「ちょっと待ってください」
勇志はいったん奥へ退がって、ポロシャツとジーパンを着込むと、サンダル履きで出た。周囲を素早く見やる。
「どうした」
「えっ?」
「随分、警戒しているようだが──」
ギクッとした。
「誰か見張ってでもいるのか?」
刑事だ。間違いない。恐る恐る訊いた。
「あの──話ってなんですか」
「三枝航のことだ。知ってるだろう」
やっぱり。
「おれ、何も知りませんよ」
声が上ずってしまう。ダメだ。
「最近、会っただろう」
喉が渇いた。適当な言葉が浮かばなかった。
「君は三枝航の友達じゃないか。ちゃんと調べはついている」
男はそれだけ言うと、先に立って歩き始めた。路地の角に駐車したクルマ。勇志は男に促され、助手席に乗った。軽自動車だった。しかも白の。これも覆面パトなんだろうか。一抹の疑念が胸を掠めた。
男は、クルマを発進させた。路地を横切った猫の目玉がヘッドライトに照らされて、青く光った。辺りは闇の底に沈んで、怖いほど人気がなかった。
「あの、刑事さんですよね」
「誰が」
「あなたです」
男の唇が歪んだ。
「おれの名前は──」
男は名前を名乗った。センゲンキイチ。
「何をしているひとですか」
「ルポライターだ」
「ルポライター……」
「雑誌に記事を書く人間だよ」
カッと頭に血がのぼった。
「騙したな!」
男の、少し垂れた眼にシワが刻まれた。
「おまえに話を訊きたい、と言っただけだ。おれはおまえのことなら何でも知っている。清掃婦として働く母親と、寝たきりのじいさんの三人暮らし。一年前、少年院から出て、いまは移設作業の会社で働いている。給料は日給月給のアルバイト扱い。一日の賃金は八千三百円。休日は水曜──今日はせっかくの休みを邪魔して悪いと思っている。そして少年院に入ったのは中三のとき。罪状は──」
「チキショウ、降ろせ、降ろせよ!」
勇志は走っているクルマのノブに手を掛けた。が、肩をグイッと掴まれ、引き戻される。
「あいつ、おかしいと思わないか?」
重い声だった。思わず振り向いた。男の横顔に硬い筋が浮いていた。
「簡単にひとを殺しちまう」
心臓が縮み上がった。身体が動かない。
「あんた、なぜ……」
「おまえなら、心当たりがあるはずだ」
勇志は唇を噛んだ。
──この男はどこまで知っているんだ。タクヤか、それとも、もうひとりのことか? いや、もしかすると──
さっき見た夢の続き。松崎の夜。足が震えた。
「右手のこと、知ってるだろう」
予想もしない質問だった。
「なに、それ」
「ほら、右手のザラッとした部分だよ。赤黒く盛り上がった──」
安堵感に身体が軽くなる。
「ああ、航は勇気があるからね。あんな強いやつ、見たことないよ」
クルマが停まった。フェンスに囲まれたバスケットコートほどの公園と、朽ちた工場のコンクリート塀に挟まれた通り。男はライトを消してこっちを見た。青白い街灯が、瞳のなかで冷たい光を放っている。
「どういうふうに強いんだ?」
「あんたみたいな普通の大人には分からないよ」
「そうだろうな、教えてくれ。三枝がどう凄いのかを」
男は案外素直だった。勇志の気持ちに余裕が出た。
「記事にするんだろう」
「いや、そんなんじゃない。ルポライター業はこのところ開店休業だ。世間体があるからそう名乗っているが、本当はプータローみたいなもんだ。それに、記事にするとおまえが困るだろう」
「記事にはしないんだな」
「約束する」
男の強い意志を秘めた眼は、記事にしない代わりに話を聞かせろ、と言っている。
「航って、ワルが嫌いなんだよ。大嫌いなんだ。だから『シティ・ガード』をつくって、ああいう活動をやっている。それに、どんなことにも絶対に負けない」
ほんの僅かだが、男が頷いた。
「あいつね、ワルを黙らせちゃったんだよ。一発でね。右手の傷はその証拠さ」
「ほう」
男は、さも感心したというふうだった。勇志はこの男に航のことを少しでも分かって欲しかった。
「たしか小学校六年の冬だった。あいつもおれと同じイジメられっ子でね。その日も呼び出されて、陽が陰った寒い、暗い校舎の裏で殴られ、蹴っとばされて。面白半分さ。でも、そんなの、慣れっこだからどうってことなかった。そしたらあいつら、根性焼き、入れてやるって言い出して、タバコの火を押し付けてきたんだ。おれ、熱くて痛くて、ワーワー泣いちゃった。そしたら口にタオル突っ込まれて──」
脳天を突き上げる激痛がまた腕に焼き付けられた気がして、勇志は思わず唾を呑んだ。
「航がやめろ≠チて叫んで、自分だってタバコを押し付けられてるのに、あいつ、おれを助けてくれたんだ。勇志の分まで引き受けてやるから≠ニ言ってね」
「タバコ二本か?」
──だから普通の大人だっていうんだ。
口に出さずに罵った。
「そんなんじゃない。二本じゃ面白くないだろう。あいつら、ライター出してきたんだ。ライターで炙ったんだよ、右手を。でも、航は呻き声ひとつ漏らさなかった。そのうち、肉が焼けて、変な臭いがして、脂が青白い炎になってポタポタ落ちてきたんだ。それを見てあいつら、びっくりしちゃって、泣き出すやつもいた。ライター、持ってたやつがブルブル震えて落っことすと、航は自分で拾い上げて炙ったんだ。あいつら、腰を抜かしやがってさ。だらしないったらありゃしねえの。その後はだれも航には手出しをしなくなった。そんな勇気のあるやつ、いるかい。あんた、見たことあるかい」
男は首を振った。勇志は胸がスーッとした。もっともっと、航のことを知って欲しかった。
「航は可哀想なやつなんだ」
「それはそうだ」
男が切り返した。勇志はムッとした。
──なに言ってるんだ、こいつ。
「親からも苛められていたんだろう。酷い家庭だったらしいな」
──ほんとうに全部、知ってるのか?
「父親と母親が、よってたかってあんなバケモノつくりやがって」
男の頬が笑ったように見えた。瞬間、頭の中が真っ白になり、掴み掛かっていた。
「あんた、航のことが分かってんのか!」
が、突き出した腕は捩られ、逆を取られた。激痛に呻いた。呻きながら、それでも叫んだ。
「お母さんは違う。きれいで優しくて、航はお母さんのこと、大好きだった。守ろうと必死だったんだ!」
「誰から守るんだ」
「え……」
「父親だろう」
ふっと腕を解かれた。
「どんな父親だった」
勇志は腕をさすって男を睨めつけた。が、男は構わず問い詰めてきた。
「三枝を地獄に突き落とした父親は、どんな人間だった。これは、おまえしか知らないことなんだ」
──そうだ、航のあの地獄を知っているのはおれだけだ。
「航の親父は、人間じゃなかった──」
言葉が続かなかった。
「どういうことだ」
男の言葉に誘われるように、口を開いた。
「ひどいことをしていたんだ。殴って、つねって、首を絞めて、木刀で叩いて、真冬に風呂場で水ぶっかけて、それを止めさせようとするお母さんの髪を掴んで引きずり回して、蹴っ飛ばして、そしてそして──」
怒りと恐怖で舌がもつれた。
「そして、どうした」
「航の目の前で、泣きわめくお母さんの首を絞めながら犯して……航はそれをいつも見せられていた。見ないと、気絶するまでぶん殴られた。そして、お母さんは気がおかしくなって、時々精神病院に入れられるようになって、その間、あのクソおやじは、逃げ回る航をグッタリするまで殴って、お母さんの代わりにして弄んだんだ。あいつ、柔道やってて、相撲取りみたいに身体でっかいから、どうしようもなかったらしい。外じゃ、真面目なサラリーマンが、航の家を地獄にしていたんだよ。あんなケダモノ、もっと早く死ねばよかったんだ」
「誰が殺したんだ?」
「えっ」
口をポカンと開いた。
「おまえ、知ってるだろう、三枝の両親を殺したヤツを」
心臓の鼓動が大きくなった。ドクンドクンと耳に響く。それを打ち消すように喚いた。
「警察だって分からなかったんだ。なんでおれが知ってるんだ。あんた、おかしなこと言ってるよ」
「いや、おまえは三枝のすべてを知っている。おれには分かる」
男の眼が動かない。黒い氷のような瞳だ。
──この男、本当はどこまで知っているんだ?
刑事にもこんな男はいなかった。ジワジワと誘導され、気がついたら自分の言葉に追い詰められ、逃げ場を失っている。さっき、自分の頭で沸騰した怒りも不安も恐怖も、結局はうまくコントロールするための道具だった気がする。勇志は耐えられず俯いた。視線を合わせると、氷の瞳がすべてを見抜いてしまう気がする。
「おまえ、殺されるぞ。三枝はどこかタガが外れ始めている。おまえのおふくろも、寝たきりのじいさんも殺される。おまえは三枝のことを知り過ぎているんだ。そんなヤツを、いまの三枝が許すはずがない」
重い恐怖が胸を締め付けた。
「あんた、やっぱり記事にするんだな、航のこと」
「いや、それは違う」
勇志は顔を上げた。訳が分からない。
「だったらなぜ──」
「おれは三枝に会いたいんだ」
「事務所に行けばいいだろう。渋谷の」
「姿を消したまま行方知れずだ」
「行方知れず?」
男は頷いた。そういえば、このところ不審な視線がない。監視の目は間違いなく解かれていた。
「おまえ、事務所を訪ねたあと、三枝と一緒に出掛けたろう。そのおまえが知らないはずがない。この世でたったひとりの友達なんだから」
たったひとりの友達。航と同じことを言っている。
「おれは三枝に会う」
「あんたが──」
「もう決めたんだ」
男は確かな決意を露《あらわ》にして言った。勇志の頭の中でいろんなことが錯綜していた。この男は警察じゃなく、ルポライターだと言っている。だが、記事にするわけでもないのに、なぜ、これほど執拗に航のことを追うのだろう。しかも、自分が事務所を訪ね、航と出かけたことまで知っている。湾岸沿いに建つ廃墟ビル、空中に張り出した鉄骨──背筋が凍った。
「あんた、どうして航に会いたいんだ。おれに分かるように説明してくれよ!」
思わず叫んでいた。
「おれの息子を殺したからだ」
身体が硬直した。
「仲間と一緒に殺したんだ。だから、姿をくらましている。『シティ・ガード』の活動どころじゃない」
「そんな……」
声が掠れた。
「名前はシンタロウ。十四歳だった。喉を切り裂かれて死んでいたんだ。新聞にも大きく報道されている」
航がまた殺しを──ふと、暴走、という言葉が浮かんだ。もう、航は止まらない。勇志には分かる。たったひとりの友達なんだから。どうしたら──勇志の眼が宙を彷徨《さまよ》った。そして決意した。
「警察は関係ないよね」
勇志は念を押した。
「警察に駆け込むくらいなら、おまえのところへは来ない」
──じゃあ、どうして航に──
と言おうとして、言葉を飲み込んだ。この男の目的は、いま、うっすらと見え始めている。それを承知で、自分は決意したのだ。
「おれはおふくろとじいちゃんを守ってやらなきゃいけない。そのために、生きているんだ。おれは生きなくちゃならないんだ」
勇志の唇が震えた。
「分かっている」
男は頷いて、パネルの時計に眼をやった。
「送って行こう。じいさんが待っているだろう」
「あんた、いつ航のところへ行く?」
「もうひとりだけ、会って確かめたい人間がいる。それからだ」
男はヘッドライトをつけた。目の前に白い闇が広がった。
「航のことを知っているヤツか?」
「いや、まったく関係ない」
素っ気なく言うと、クルマをスタートさせた。ルームミラーからぶら下がったちっぽけなお守り。金糸で縁取りした学業成就≠フお守りが、左右に小さく揺れた。
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八月二十六日(木)
「たくッ、つまんねえこと嗅ぎ付けてくるもんだよ」
角刈り頭の、小柄な初老の男だった。いかつい、酒灼けの赤ら顔が、さも不快そうに歪んでいる。
「あんた、どこから訊いたんだ?」
「いろんなところですよ。微かに漏れ聞こえてくる声をかき集めて、ここまでたどり着いたわけでして」
ソファに座り、向き合った仙元は、両手を膝の上で組み合わせて、ゆったりとした口調で応えた。プレハブの二階。京浜急行蒲田駅近くの食品問屋の応接室だった。トラックヤードの向こうに見える環状八号線は、クルマが上下六車線にみっしりと連なり、熱い排気ガスを吐き散らしていた。午前十時。倉庫前には三台の四トン車が横付けされ、次々にダンボールが積み込まれている。コマネズミのように走り回る作業員たちの顔は高く昇った陽に炙られて、すでに汗まみれだった。
「おおかた、町内会長あたりが喋ったんだろうが」
吐き捨てるように言うと、男は大理石の卓上ライターでタバコに火を点けた。男の名前は三村博。この食品問屋の二代目社長で、つい三カ月前まで保護司を務めた、地域では名の知られた篤志家だった。ソファ横のサイドボード上には初代社長のブロンズ製の胸像とゴルフ大会か何かのトロフィーが数本置かれ、壁には法務大臣の署名と印の入った感謝状が額に収められて飾ってある。
「あんた、保護司の仕事をどの程度、知ってるんだ?」
「非行少年や仮釈放者を保護観察する、いわば無給の国家公務員でしょう。生活が安定して社会的信望があり、加えて職務遂行に懸ける熱意が必須と聞いています」
三村は、横の表彰状をアゴでしゃくった。
「おれはもう三十年続けてきたんだよ。保護司の仕事は、建前上は保護観察所、保護観察官の補助だが、実際は保護観察実務のほとんどが保護司によって行われているんだ」
「観察官の絶対数が少ないためですね」
「そうだ。日本の保護観察制度は、ボランティアの保護司によって支えられているといっても過言じゃない」
誇りと自信に満ちた言葉だった。
「しかし、三村さんは三十年続けてきた保護司を三カ月前に辞めてしまった……」
三村は途端に口を固く結び、虚空に眼を漂わせた。
「その理由をお訊かせいただきたいんですよ」
沈黙。動揺を隠し切れない浅い呼吸を四つ、漏らしたあと、三村はおもむろに口を開いた。
「誤解されちゃかなわねえから言っとくが、他人様の裏側をコソコソ嗅ぎ回るマスコミってのが、おれは大嫌いなんだよ。だが、あんたは友田勇志のことで気になることがある、と言ったから、おれは会うことにした。まさか、おれが保護司を辞めたことまで知っているとは思わなかったが──回りくどい言い方は苦手だ。早いとこ本題に入ろうじゃないか。あんたもプロなんだ。いろいろ調べてからここに来たんだろう」
仙元は柔らかな笑みを浮かべ、尻をよじってソファに座り直した。
「では単刀直入にまいりましょう」
静かに言った。
「わたしは三村さんが保護司を辞めた理由は、友田勇志にあると思う」
「どうして」
三村は、タバコを灰皿で捻った。指先が微かに震えていた。
「友田を担当して以来、おれは保護司の仕事が分からなくなった≠ニ、幾度となくおっしゃっているじゃありませんか」
酒席でつい漏らした己の愚痴を思い出したのだろう。赤ら顔が、みるみるどす黒く染まった。
「あなたは少々のことで自信をなくすようなヤワな方じゃない。つい二年前には夜中、日本刀を持って殴り込んできた少年を取り押さえたことも──」
仙元は口を噤《つぐ》んだ。三村がうんざりした表情で右手を振り、やめてくれ≠ニ言っている。
「尋常じゃないワルっていうのはいつの世でもいるもんさ。紹介した先の仕事が気に食わねえ、と逆恨みするバカは珍しくもなんともない。おれも若い時分は相当ヤンチャやったほうだから、やつらの行動パターンはだいたい読めている。ワルの脅しくらいで参っていたら、いまどきの保護司なんてとても務まらねえよ」
三村はテーブルのグラスから麦茶をグッとあおり、大きく息を吐いた。次いで仙元をジロリと睨む。
「あんた、勇志のこと、どう思う?」
仙元は、首を傾げた。
「あの殺しをやったかどうか、だよ!」
荒い語気が部屋全体に響く。
「彼に実際に会った感触も踏まえて言えば、殺しはやっていない、と思います」
三村の眼が鈍く光った。
「勘か?」
「それもあります」
「なにか掴んでいるようだな。だが、詳しくは聞かない。このトシで厄介事に巻き込まれるのは御免だからな」
「賢明です」
チッと軽く舌を鳴らし、三村は頬をしかめた。
「おれは官憲じゃないから、勇志が罪を犯したかどうかを判断する立場にはない。しかし、あんたがルポライターとして事件の真相を追求したいってんなら、それはやるべきだと思う。この意味、分かるよな」
仙元は頷いた。
「おれは、延べ二百人以上の不良少年を見て来た。だが、友田勇志だけは理解できなかった。あいつはどこか違うんだ」
そう言うと、テーブルのインターホンのスイッチを押して、麦茶もう一杯、と怒鳴り、話を続けた。
「普通、少年院から出てきたばかりの少年は、屈折した部分とか開き直り、後悔など、感情の揺れが多かれ少なかれ、あるもんだ。暴力団に入るしかない筋金入りのワルだって、それはそれで、ある種の覚悟がある。しかし、あいつには見えなかった」
「保護観察中の対象少年は、定期的に保護司を訪ねる、いわゆる遵守義務がありますが、それを破ったことは?」
「なかった。月に一度、われわれ保護司は保護観察所への経過報告書提出を義務づけられているが、おれは担当者の意見欄にいつもこう記入していたよ。積極的な更生の姿勢がうかがえる≠ニ。もちろん成績の評定は優良≠セ」
「更生の姿勢、というと、罪の認識はあったわけですか」
「いや、罪の認識というよりは、なにか、自分を追い立てているようだった」
「追い立てる?」
三村は、女性事務員が運んで来た麦茶のグラスを受け取ると、半分ほど飲んでテーブルに置いた。
「あんた、あいつの仕事場を知っているだろう」
「ええ、移設作業の会社ですね。そこの現場作業員をしていると聞いています」
「酷い重労働なんだよ。クーラーも止められたサウナみてえなビルの中で、ひたすら荷物の運び出しをやるんだから。あいつ、身体が小さいし細いだろう。辛いと思うんだが、愚痴ひとつ漏らしたことがねえ。あそこの社長とは懇意にしているから、これまでも保護観察中の少年を何人か引き受けて貰ったことはあるが、まず一年以上続いたためしがないんだ。ところが、勇志だけは黙々と働きやがる。あいつ、寝たきりのじいさんがいて、その面倒もみているから、自分の時間なんかほとんどないはずだよ。まだ十八だろう。いったい何が楽しくて生きてんのか、とつい言いたくもなってな。おれは訊いたことがあるんだ」
仙元は身を乗り出した。
「なんと?」
「おまえ、もう少しラクな仕事に替わってもいいんだぞ≠ニな。そしたらあいつ、こう応えやがったよ。おれ、人殺しだから、この仕事がなかったら生きていけません、カネが稼げません≠ニ」
「人殺しだから……」
仙元は呟いた。
「そうだ。あいつはおそらく、気が遠くなりそうな重労働の最中も人殺し、人殺し≠ニ自分に言い聞かせているんだろうよ。でなきゃ、あそこまで自分を追い込めるわけがねえ」
麦茶の残りを飲み干すと、三村は窓の外に眼をやった。それは、作業の進行具合をチェックする、食品問屋社長の顔だった。つられて仙元も視線を移す。トラックが荷を積み終え、去ったあとの仕分け場では、コンクリートの床に散ったビニール紐や送り状の残骸を若い作業員が二人、キビキビとした動作で片付けている。倉庫の中には、伝票の束を片手に、商品の点検に余念がないベテラン風の男の姿が見えた。
「三村さん、あなたの会社、保護観察中の少年を預かっています?」
三村は渋面をつくり、胡麻塩の角刈り頭を指先でガリガリと掻いた。
「そこを突っ込まれると弱いんだが……結論からいえばいない。だが、これには訳があってな。以前、何人か使ったこともあるが、従業員は全員、おれが保護司をやっていると知っているから、新入りに気を遣うんだよ。それで人間関係がギクシャクして駄目になっちまう。それに、保護司のとこで働くのも息苦しいようだしな。なんとか出来ねえか、といつも思っているんだが……これはおれだけじゃない、保護司全員が持っている悩みなんだよ。もっとも……」
そう言うと、三村は唇を噛んだ。
「おれたちみたいなちっぽけな会社はいつ吹っ飛んでもおかしくない御時世だろう。いまの従業員を食わせるだけでも精一杯なんだ。勇志なら、働いてもらってもまったく問題ないが、正直なところこれ以上、雇う余裕はないんだよ。いま、勇志のいる会社だって、そろそろ人員整理が始まるって噂だしな。そうなりゃあ、日給月給のアルバイト扱いの勇志は真っ先にお払い箱だろう。まったく、世知辛い世の中だよ」
仙元の脳裏に、どこか儚《はかな》げな風貌の坊主頭の少年が浮かんで、消えた。
「三村さん、あなたの話はよく分かりました。しかし、友田勇志が、他の不良少年とは違って見えた、という理由だけで、あなたが保護司を辞める理由にはならない。そうですよね」
「そうだ、あんたの言うとおりだよ」
三村は大きく咳払いをすると、ティッシュで口を拭った。
「おれは、保護司として、やっちゃならねえことをやっちまったんだ」
淡々とした口調だった。
「勇志のことがどうにも気になってな。今年の、そう、桜の花の散る頃だった。訪ねてきた勇志をクルマで家まで送ってやったんだよ。その途中、ちょいと寄り道をしてしまって……」
「どこへ」
「多摩川だよ。でっかい砂州が張り出した、葦とススキの草っぱらだ。辺りはもう薄暗かった。人気はないし、草はザワザワ揺れているし、やっぱ、気味が悪いわな」
「同級生殺しの現場ですからね」
三村はフンッと鼻を鳴らしてタバコをくわえた。
「おれは内心、ドキドキしながら、勇志を横目で観察したよ。そうしたら、あいつ、何と言ったと思う?」
「さあ」
「こう言いやがったんだ。ここで鯉を釣ったことがある≠ニ」
「鯉?」
タバコに火を点け、紫煙を吐き出した三村の口ぶりには、悔恨と戸惑いが色濃く滲んでいた。
「ああ、小さい頃、じいさんと二人で釣りに来たんだと。それででっかい野鯉を釣り上げて、持って帰ったけど、可哀想になってまた逃がしにきたんだとよ。そんなことを教えてくれたよ。あいつ、よっぽど楽しい想い出なんだな。テグスのしなる音とか、竿を持った腕の軋みがこっちにまで伝わってくるような話しぶりだった。眼なんかキラキラさせちゃってよう。あの鯉は多摩川の主に間違いない、とか言っていたな」
「それだけですか」
「それだけだ。動揺も何もなかった。おれも、殺しのことを訊くのがなんか嫌になっちまってな。その場所に勇志と一緒にいる自分が酷く汚い人間に思えてよ。それまで保護司をやってきた、誇りとか自信みたいなものが木っ端微塵に砕け散ってしまったんだ」
三村はそこまで喋ると、ソファに背をもたせかけて天を仰いだ。口はへの字に曲がっていた。
「殺しをやった人間の反応ではない、と……」
「そんなこと、おれには分からん。だが──」
三村は、再び視線を仙元に戻して言った。
「おれは、保護司をやってきて、ひとつだけ自信を持って言えることがある」
決然とした言い方だった。
「子供の問題行動ってのは、学校でも友達のせいでもない。家庭だよ。まっとうな家庭の子供が、とんでもない行動を起こすってのは極めて稀だ。もちろん、おれの言うまっとうな家庭というのは、財産があるとか、親の社会的地位が高いとかいうことじゃない。子供に十分な愛情を注ぎ、社会的規範を教えることのできる家庭だ。そんな家庭で育った子供の心には、感情を制御する力と、善悪を識別するリトマス試験紙みたいなものがあるんだ」
「友田勇志には、それがあったと」
「ああ、親父はいないが、その分、母親とじいさんの愛情を存分に受けていたはずだ。でないと、あんな重労働に従事し、寝たきりのじいさんのクソと小便を始末できるような少年には育たない。とっくにケツをまくって、糸の切れたタコみたいに街をフラフラしているはずだ。教育の専門家や学者のお偉いさんがなんと言おうと、おれは子供の問題行動の根っこは、家庭にあると信じている」
三村はここまで一気に語ると、仙元に向かってひとさし指を突き付けた。
「あんたに言いたいことはこれだけだ。あとは取材するなり、雑誌に書くなり、好きにしてくれ。ただし、おれのことは書くなよ。おれはマスコミが大っ嫌いなんだ」
仙元は、これまで幾度となく浴びせられ、もはや何の痛痒も感じなくなった罵詈《ばり》に頷くと、ソファを立った。頭の芯では、卒業写真で見た三枝航と、昨日会ったばかりの坊主頭がグルグル渦を巻いていた。
*  *
南田はステアリングを鋭角に切って、ゴルフを空いたスペースに入れた。目白通りから靖国神社へと上っていく路地の途中にある、少々傾斜のついた空き地。黎明社の借り上げ駐車場だった。他のクルマにボディが擦らないよう、左右に注意する。傾き始めた陽差しに一瞬、視線が眩み、二日酔いの頭が疼痛《とうつう》に呻いた。なにもかも面白くない。南田は、呪詛《じゆそ》の言葉を吐き散らして、この鬱屈したどうしようもない状況を呪った。
友田勇志を巡る、少年法の糾弾企画は遅々として進んでいなかった。いや、南田自身、とても仕事のできる状態ではなかった。仙元の息子を結果的に死に追いやってしまった自責の念と、正体を現し始めた三枝航の底知れぬ恐ろしさは、酒で紛らわす以外になかった。それでも、アルコール臭い身体を引きずるようにして、友田勇志に会いに行ったが、結果は惨憺たるものだった。酒なんか飲んで仕事すんな=Aだらしなく倒れ込んだ自分に投げ付けられた悪罵は、いまでも耳にこびりつき、思い出すたびに恥辱で胸が潰れそうになる。
まったく目処《めど》のつかない取材が仇《あだ》となり、編集部でのポジションも変わりつつあった。昨夜、次長の五十嵐から「相談がある」と、応接室に誘われたときも、嫌な予感がしたのだ。五十嵐は、黒縁メガネの分厚いレンズごしに、腫れぼったい眼を瞬かせて、ボソボソ呟いた。渋茶を啜るようなその口調とは裏腹に、内容は辛辣そのものだった。
「少年法がダメなら他のテーマに切り替えろ」
他のテーマ……驚いて南田が問うと、五十嵐はあっさりとこう告げたのだ。
「仙元の手記をとって欲しい。おまえしかいない。編集長がそう言っているんだ」
目の前が真っ暗になった。五十嵐の言葉が淡々と続いた。
「家庭内暴力に悩んでいた息子との生活、仄かに見えた希望、それを打ち砕いた理不尽な暴力。仙元に存分に書いてもらえ。なんなら特別連載でやってもいい。あいつに交渉できるのは、取材のパートナーだったおまえしかいない。もちろん、おまえは仙元の取材スタッフに復帰だ」
勝手なことを──と思った途端、弾けていた。
「そんなこと、できるわけないでしょうが!」
立ち上がりざま怒鳴った。
「この少年法の企画、絶対モノにしてやりますよ、だから、仙元の名前なんか出さないでください」
「記事が潰れれば、おまえの居場所はないんだぞ、南田」
腫れぼったい眼が、ジロリと光った。
「巽編集長がそう言っているんですか」
「おまえ、レイプ告発で慢心したのか知らないが、最近、まったくやる気がないだろう。他のスタッフからも不満の声が上がってるんだ。データマンからやり直すなら残る道もあるが、それがいやなら、とっとと外でメシを食え、ということだ」
容赦のない最後通牒だった。
──今日こそ、友田勇志をひきずってでも話を取ってやる──
額の奥で蠢《うごめ》く鈍い怒りは、時を刻むごとに確実に太く、硬くなっていった。南田は追い詰められていた。
エンジンを切り、シートベルトを外そうとしたそのとき、助手席のドアが開いた。ふっと視線を上げると、赤いベレー帽とオカッパ頭。
「よいしょ」
それは、シートにどっかりと腰を下ろした。丸い顔がユルリと微笑んだ。工藤和美だった。
「南田さん、待っていたんだから。もう午後三時だよ。こんな重役出勤でいいの? 天狗になってない? いい気になりすぎよ。あんな中途半端な記事で」
真っ赤なルージュを塗りたくった唇が、ペラペラ動いた。
「あんた、何だよ、こんなとこまで!」
南田が吠えた瞬間、ガチャリと金属質の音がして、左手首に冷たい感触が巻き付いた。手錠だった。片方が和美の右手首に繋がれている。
「通信販売で買ったの。よく出来てるでしょう」
ニッコリ笑った。
「こ、これは──冗談じゃ済まないよ、工藤さん」
「冗談? バーカ、本気だよ。てめえら、よってたかってバカにしやがって」
歯を剥き出した。
「クルマ、出せよ!」
「なに言ってんだ、話なら編集部で訊こう」
南田が右手で和美の丸い肩を押した瞬間、バチ、バチンッと凄まじい音がした。首筋の硬直、痺れ。鉄棒でぶん殴られたようなショックに呻いた。
「もう一回いく?」
ニターッと笑った。首にスタンガンを押し付けていた。強烈な麻痺が、脳天に這いのぼる。手錠とスタンガン、しかも相手は和美だ。抵抗する気力をごっそり奪い取られ、力なく首を振った。
「五分間だけ、休ませてあげるよ。すぐの運転は無理だからね」
南田はステアリングに頭をもたせ、荒い息を吐いた。
「ねえ、新聞見たよ」
和美が機嫌よく話しかけてくる。
「仙元ってさあ、あのおじさんだよね。息子、殺されちゃったやつ、ルポライター」
舌の付け根に苦い味がわいた。
「わたしとの約束、守んないからだよ。だから、神様が天罰を下したんだよ。ねえ、そう思わない?」
南田は、痺《しび》れた頭をゆっくりと上げた。ヘドが出そうな勝手な物言いに、ポッと怒りが膨らんだ。
「天罰なんかじゃないよ、工藤さん」
「なんで」
和美が、呆けた顔で訊いた。
「あんたと同じさ」
「同じ?」
「狂ったやつの仕業さ。正常な人間にはとても理解できない精神構造の持ち主に、仙元の息子は殺されたんだ」
「わたしが狂ってるですって?」
和美の顔が朱を帯び、醜く歪んだ。南田は怒りに任せて吐いた言葉を悔いた。が、もう遅かった。
「信じらんない! その程度の洞察力でどうして記事なんか書くのよ、わたしって女の子が全然、分かっていないじゃない。わたし、アリ一匹殺せないのよ、マザー・テレサやダイアナ妃に負けないくらい優しい性格なんだから。小学二年のとき飼ってた金魚、サクラちゃんていうんだけど、縁日ですくってきたのね、そのサクラちゃんが死んだとき、わたし、一週間泣いたんだから、学校も休んで。それを知りもしないで、おかしなこと言わないでよ。あんたみたいな無神経の分からず屋、こうしてやります!」
和美は手錠の鎖を太い両手で持つと、「エイッ」と掛け声とともに思い切り引っ張った。左手首がゴリッと鳴り、激痛が走った。皮膚が破れ、血が滲んだ。
「やめてくれ、工藤さん」
「あなたさあ、わたしに言った最後の言葉、覚えているでしょう」
粘つくような口調が耳朶に響いた。
「なに……」
「まあ、信じらんない! わたしにあんな大変なこと、言っておきながら、もう忘れたの!」
眼を剥いて喚いた。
「呆れた。あなた、わたしにこう言ったんだよ。裁判所に訴えたら≠チて。わたしのこと、笑い者にしたかったんでしょう。法廷に引っ張り出してさあ、新聞やテレビの晒し者にして」
「違う、おれはただ──」
「誤解してるよ、わたしのこと。わたし、あなたたちの取材は受けたけど、自分から売り込んだことなんて、いっぺんもないのよ。わたし、引っ込み思案なんだよ。あなただから言っちゃうけど、自分のことが分かってるの。わたしがみんなの前に出たら、ひとり残らず笑うもの。レイプなんて忘れて、大笑いしちゃうもの」
和美の目尻に涙が浮いた。南田の脳裏に、僅かな希望の光が瞬いた。乾いた唇を嘗め、静かに、優しく、諭すように言う。
「分かった、悪かったよ。工藤さん、だからさあ、この手錠はずしてよ。おれたち、話せば分かるって」
和美は悲しげに太い首を振った。あごの肉がプルプル震えた。
「ううん、もう話し合いじゃ分かんないの。ダメなのよ。わたしたち、このままじゃ、永遠に分かりあえない二人なの。さあ、クルマ出して。約束の五分、たったよ」
眼が濡れていた。涙のせいばかりじゃない。
「どこへ──」
和美が耳元へ、ぬらつく唇を寄せて囁いた。
「わたしのお部屋に決まってるじゃない。ちゃんと分かりあおうよ」
熱い、生臭い息が耳を嘗めて全身に鳥肌が立った。ゴミの山とベッド、そして天井のポスター──南田は身震いして、かぶりを振った。
「クルマ出せ、ってんだろが!」
怒声と同時に、バチンッ、と今度は左の胸が鳴った。電気ショックが心臓を直撃した。意識が白く薄れる。
──殺される。普通じゃない。
朦朧とした南田の眼に、股間に手を伸ばし、まさぐる和美の肉厚の手が見えた。
*  *
「完全な情性欠如ね」
「なんだ、それは」
仙元の目尻に訝しげなシワが刻まれた。午後四時、新宿駅東口の喫茶店。新宿通りから路地を一歩入ったビルの二階。黒田ちづるは窓際の席で仙元と向かい合っていた。涼しげなライトグリーンのスーツと白のブラウス。ちづるは休診日を利用して、西新宿にあるホテルのプールで泳いだ後だった。
「その三枝という少年の右手の火傷は、勇気とか我慢強さとか、そんな生易しいことの証明じゃないわ」
冷房が利いているはずなのに、ちづるは身体の芯が火照って仕方がなかった。
「情性とは恐怖、悲しみ、同情、あわれみ、喜び、後悔といった、人を人たらしめている感情的能力のことだけど、三枝航はその情性が抜け落ちているのよ。だから、恐怖も苦痛も感じないの」
「先生、あんたの言いたいことはこういうことか。つまり、三枝には苦痛がないから、手をライターで炙られても平気だと……」
「そう。炎の熱さを肌の感覚として感じても、それを苦痛へと転換できないんだと思う」
仙元は首を横に振った。
「おれには分からない。だとしたら、そいつは人間じゃないだろう。おれには想像もつかない。そいつに見える世界とか、感じるものはいったい──」
ちづるはメガネのツルを軽く摘まみ上げて、仙元を見た。打ちひしがれ、悄然と肩を落とした男の姿。わき上がる笑みを呑み込み、唇を開いた。
「米国では囚人グループを対象にした、こんな興味深い実験が行われたことがあります」
以前、読んだ文献の記憶を手繰る。
「まず、被験者全員に数字が8にきた時点で強い電気ショックを与えると説明しておいて、1から順に12までの数字を見せていくの。すると、指定した数字の8が近づくにつれ、ほとんどの囚人は神経が高ぶって動悸が激しくなり、大汗をかいたのに、情性欠如と鑑定されていた囚人だけは平然としたまま、何の変化も見せなかった……」
「そいつをポリグラフにかけたとしても、なんの役にもたたないわけか」
ちづるは頷いた。
「わたしたちはギロチン上のユーモア≠ニ呼んでいるけど、稀に死刑執行を前にした凶悪犯罪者が平然と啖呵をきったり、バカ話に興ずることがあるの。これはべつにマッチョでも豪胆でもなくて、ただ恐怖を感じる能力が欠如しているから、と言われているわ」
「死刑が怖くないのか?」
「そう。彼らは、他人の命をゴミ屑みたいに扱う一方、自分の命も同じくらい軽く考えているの。だから、実にあっさりと自ら命を絶ってしまうことがあるわ。べつに悔恨とか、贖罪とか、そんなナイーブな感情につき動かされたわけじゃなくて、ただ、死ぬという事実、この世から自分が消えてしまうという事実に対して、なんのブレーキも働かないのよ。自分の命に興味がない、と言っていいかもしれない。物事に対する恐怖心が皆無で、言動も常軌を逸しているから、彼らを一般社会に置いたら、抜群の行動力とカリスマ性を備えた底知れない人物、として畏怖され、尊敬される可能性は十分あると思う。三枝航、みたいにね」
「その情性欠如ってやつは生まれつきなのか」
「いろんなことが考えられるけど、三枝航の場合、その生育歴に問題の根っこがある気がする。想像を絶する恐怖と苦痛、屈辱を間断なく与えられ、感情を司《つかさど》る自律神経系が摩耗したのだと思う。その父親、普通じゃないもの。母親をレイプして、それを子供に見せて、そして子供にまで──」
胸が熱くなった。航は恐らく生まれてからずっと、虐待され、父親の慰み者にされてきたのだ。暗く、長い、果てしないトンネル。いったいどれだけの絶望を胸にしまい込んできたのだろう。ふと、自分の過去を思った。誰も知らない、戸棚に潜むミイラ……身震いがした。奥歯を噛んだ。メガネを外して眉根を揉み、心の揺れを気どられないように深く息を吸い込んだ。背筋を伸ばし、仙元と向かいあう。
「わたしが見聞きした中でも最悪のケースね」
毅然とした態度を崩さず言った。
「あんたは、環境があの少年をつくったと言いたいのか?」
「いま現在、考えられる可能性のひとつということです。確かに環境にすべての原因を求めるのは間違っている。ニューヨークやロサンゼルスの劣悪なスラム街で育った黒人少年の中にも、世界的な科学者や高潔な人格の聖職者になったケースはいくらでもあるもの。でも、この少年の場合、閉塞された家庭の中で、愛情の一片もない偏執的な父親から執拗な虐待を受けた、ということで極めて特殊なケースといえるでしょう。とくに、唯一の庇護者である母親が神経に異常をきたして入院したときの恐怖と絶望は相当なものだったと思うわ。少年の心の傷は誰にも分からない。いえ、もしかすると、わたしたちの概念でいう心というものがまったく育たなかったのかもしれない」
「心がない……」
仙元がポツリと呟いた。テーブルに置かれたアイスコーヒーのグラスをじっと見つめている。溶けた氷がカラン、といやに大きな音をたてた。
「子供の心理的成長過程は、心をつくることを目的としているの。とくに乳児期の最初の一年間は、ひとの一生を決定づける最も重要な期間、と言われているわ。人間の神経系統は胎児のときから成長を続けて、あらゆる外的な刺激に反応しているのね。そして、この世に生を受けた赤ん坊は、実際に触覚的な経験をすることで周囲の状況を学び取り、これから先、自分の外部環境を信頼できるかどうかを判断するわけ」
「信頼できなかった場合は?」
「共同体の社会化された一員となるための能力を著しく阻害してしまう、不幸なハンディキャップを背負っていかなくてはならないわ。他人と共感的関係を結ぶことはもちろん、人を愛することも受け入れることもできない孤独な世界……それは、こちら側の世界にいる人間には想像もできないけど、喩《たと》えて言えば、真っ暗な荒野を手探りで進んでいくようなものじゃないかしら」
ちづるは医者らしい淡々とした口調で語った。仙元はネクタイを緩め、大きく息を吸い込むと、喘ぐように囁いた。
「三枝は、自分のやっていることが分かっているのか」
ちづるは、目の前のペリエを一口含んで喉を湿らした。
「社会病質者、つまりソシオパスを強引に定義づけると、他人との境界線を尊重しない人々のことです。彼らは我々の言う良心の呵責《かしやく》なしに、盗みから殺人まで、まるで野の花を一輪摘むような気楽さでやってしまうの。個人的な境界線の意識がないため、他人を苦しめて殺しても、何の痛みも感じないのよ」
仙元の顔にテラテラ光る脂汗が浮いている。ちづるを怖いほど凝視して、次の言葉を待っていた。
「つまり、世の中のすべてを自分の世界、所有物、と考えているわけ。かといって、善悪の感覚がないわけではなく、十分に現実を踏まえているから、警察権力、あるいは法的縛りからの巧妙な身の躱《かわ》し方はわきまえている──人間社会のルールから完全に逸脱した、最悪のアウトサイダー、と言えば分かりやすいかしら」
喋っているうちに、額の奥が熱く疼いてくるのを感じた。
「猟奇殺人のメッカ、アメリカでは彼らのことをボーダーと呼んでいるわ」
「ボーダー?」
「そう、人間が越えてはならない線を踏み越え、向こう側へ行ってしまった人々のことよ」
「なるほど」
「三枝航が本物の情性欠如だとすれば、これは我々の想像を絶したモンスターの誕生ね」
ふっと、仙元の唇が歪んだ。
「あんた、浮き浮きしているようだな。貴重なサンプルを目の前にした学者の高揚した気分が、こっちにまで伝わってくるよ」
錐《きり》のような尖った言葉にカッと眼の奥が熱くなった。心の闇が底知れないほど、それを覗き込み、じっくり観察したいという、歪んだ好奇心を見透かされた気がした。ちづるは恥辱と怒りが交じった激しい情動につき動かされた。
「仙元さん、言い忘れていたけど、あの少年を生み出した主因として考えられるものが、もうひとつだけあるわ」
残酷な言葉が、何の躊躇もなくスラスラと出る。
「どんな?」
ちづるは口調に力を込めた。
「父親の度重なる暴力よ」
瞬間、仙元の顔に殺気を孕《はら》んだ険が浮かぶ。一瞬、怯んだが、もう後戻りはできなかった。
「酷い暴力が原因で、脳に異常をきたしているのかもしれない」
仙元の顔を見据えた。
「──前脳の奥深くにしまい込まれた扁桃体、これは灰色の細胞が集まったクルミほどの大きさの器官で、恐怖、逃避、攻撃といった人間の本能的な行動をコントロールしているんだけど、この部分に異変が発生すると、とんでもない凶悪犯に変貌することがあるの。アメリカでは、家庭的な子煩悩の夫が、自動車事故をきっかけに凶暴なレイプ殺人犯に変貌したケースがあるわ。最新鋭のPETスキャンで脳の電気的な活動を調べたところ、扁桃体に激しい損傷が見つかったのよ」
仙元の視線がゆるりと動いた。
「先生、教えてくれ」
「なに」
息が止まりそうだった。
「信太郎も──おれの息子も、頭の傷が原因で家庭内暴力に走った可能性はあるのか」
ストレートな問いかけがちづるを直撃して、情けないほど心が震えた。
「いえ、それは──」
後悔が胸を刺す。
「あんたの考えを訊きたいんだ」
逃げを許さない強い言葉だった。ちづるは唇を噛んだ。
「どうなんだ、先生」
「年月が経っているし、その間、信太郎君にまったく問題はなかったわけだから、関係ないと思います」
「信用していいのか」
「わたしは、信太郎君をこの目で見て、診察したのよ」
「そうか」
吐息のような声だった。そのとき、仙元の携帯電話が鳴った。ジャケットの内ポケットから取り出し、耳に当てると、一瞬、顔を顰《しか》めた。
「ええ、心配いりません。元気ですよ。この声を聞けば分かるでしょう。マンション? 暫く帰る気はありません。ちょっと事情が変わりましてね。ああ、逃げも隠れもしませんよ。あなたたち、わたしに任意の事情聴取でもかけますか?──なら結構。じゃあ、仕事中なので」
仙元は携帯電話を切ると、軽く舌打ちをくれた。
「警察ですか」
「ああ、おれの居場所が分からなくて連絡してきたんだ。おそらく捜査が暗礁に乗り上げて、やることがないんだろう」
そう言うと、薄い笑みを浮かべた。
──どうして──
ちづるは、気持ちを奮い立たせるように、疑問を、それも極《ご》く真っ当な疑問を口にした。
「仙元さん、あなた、この少年を警察に訴えないの?」
「訴えてどうなる」
「それは──」
「仮に殺人が立証されたところで、三枝航は未成年だ。少年法がある。よくて無期刑だろう。しかも少年法第五十八条では、無期刑については七年で仮出獄を許すことができる、と定められている。つまり、無期刑を言い渡されても、最短なら七年で社会へ復帰できるわけだ。それに、あんたが言う通り、情性欠如だとしたら……」
言葉を引き取った。
「精神障害と鑑定されて、医療少年院での治療となるでしょう」
「つまり、犯罪者ではなく、病人として扱われるわけだな」
「責任を問えない以上、そうなるわね」
「そんなことが納得できると思うか? おれは、息子を殺されたんだぞ。よってたかって喉を切り裂かれて」
右手がテーブルの端を掴んだ。甲の血管がみるみる膨れあがる。唇のへりが吊り上がった。口が裂け、凄みのある鬼の形相が浮かんだ。ちづるの足下を、ゾクッと冷気が這い上がった。
「仙元さん、あなた、以前わたしの診察室に来たとき、こう訊いたでしょう。ひとを殺したい気持ちが分かるか≠チて」
「ああ」
「仙元さんには分かるの?」
膝が震えた。戸棚に隠れたミイラの正体に一歩、迫った。
「分かるよ」
仙元の眼が、じっと見つめている。歯がカチカチ鳴った。
なぜ──
しかし、これ以上、踏み込むことはできなかった。ちづるは下を向き、沈黙の中に逃げ込んだ。
「折角だから、行ってみるかね」
唐突な呼びかけに、顔を上げた。
「『シティ・ガード』の事務所だよ。話したろう、道玄坂の焼肉屋。メンバーのキムってやつの父親がやっている店だ。もしかすると、航が来ているかもしれない。万にひとつの可能性かもしれないが」
ちづるの反応を楽しむかのように、仙元は言葉を続けた。
「ルポライターなんて仕事をやっていると、考えられないような偶然に遭遇することがある。行方を絶った渦中の人物の所在がどうしても掴めず、途方に暮れて街中をほっつき歩いていたら、そいつが目の前にいたとかね。確かな意志を持って動き続ければ、必ずなにかに当たる。おれがこの仕事で得た、唯一の信念だよ」
「いいわ、行きましょう」
見えない手に引かれるようにして、ちづるは立ち上がった。
外に出ると、強烈な西陽が射していた。ちづるは思わず手をかざし、目を細めた。梅雨が明けて以来、まとまった雨が降っていない。乾いた大気が西陽に焼かれ、チリチリと音をたてそうだった。
──何かが歪んでいる。
ちづるは、暑気に炙《あぶ》られた雑踏の中を、軽い眩暈にも似た視点の揺れを感じながら歩いた。騒音と排気ガスの狂おしい二重奏。新宿駅の東口は相変わらずの人出だ。山手線の大ガードの向こうに高層ビルが、峻険な山々のように連なり、夕陽に赤く染まって輝いている。新宿通りの交差点を、膨れ上がった群衆が移動していた。
信号が赤に変わった。前を行く仙元は、道路の縁で立ち止まった。ジャケットを右手に持つ、ワイシャツ姿の幅広の肩。二組のカップルが、黄色い声を張り上げて走っていく。クルマの群れが、爆音を撒き散らして発進する。淀んだ大気が眼に痛い。後方のビルにはめ込まれた巨大なオーロラビジョンから、重厚なクラシック音楽と、映画の予告編らしきセリフが降ってきた。道路の向こう側では陽光に照らされた白、赤、ピンクのパラソルが、まるで色鮮やかな朝顔のように咲いていた。
それはスローモーションの映像を見ているようだった。前に立つ、仙元の肩が右に傾《かし》いだ、と、見えた途端、グラリと反転して、崩れ落ちた。キャパの写真。頭をライフルで撃ち抜かれた兵士のようだった。クラクションが激しく鳴らされ、クルマが頭部をかすめて走っていく。人混みがサッと割れ、けたたましいざわめきが波のように広がった。
「仙元さん!」
ちづるは屈み込み、仙元の身体に覆いかぶさるようにして、顔を見た。白目を剥き、呼吸が浅く、短くなっている。ちづるは素早く辺りを見回すと、好奇心を露にした若い男、茶髪を肩まで伸ばした色黒の男がぶら下げる、白いポリ袋に目を止めた。
「ちょっと貸して!」
手を伸ばした。
「なにすんだよ、このババア」
男は唇を尖らせ、吠えた。
ちづるは立ち上がり、男の頬を平手で激しく張った。
「バカ、人が生きるか死ぬかの時にその態度はないでしょう!」
頬を押さえ、呆然と立ち尽くす男からポリ袋を引ったくると、中身をぶちまけた。CDが数枚、コンクリートの上に散らばる。そのポリ袋を、仙元の口に当てた。すぐに呼吸が深くなり、裏返っていた眼の焦点が結ばれる。仙元は頭を振りながら上半身を起こした。
「おれはいったい……」
視線が朦朧としている。
「気を失っていたのよ」
ちづるは、仙元に肩を貸して立ち上がった。
「少し……休みたい」
頭を押さえ、呻くように訴えた。足がふらついている。ちづるは仙元の身体を支えたまま歩いた。
「急に呼吸が苦しくなって、意識が薄れたんだよ、先生」
駅ビルの中にあるビジネスホテルだった。ツインルームのベッドに長々と横たわった仙元は、小さく呟いた。
「呼吸亢進よ」
もうひとつのベッドに腰掛けたちづるが言った。並んで置かれた二つのベッドの奥に、窓が大きく切ってある。
「コキュウコウシン?」
「そう、急激な神経のたかぶりで肺のガス交換が異常に高まり、血中の二酸化炭素が減少したの。それで呼吸困難に陥り、失神したってわけ」
「医者のあんたがいて良かった」
「あなたの吐き出した息をポリ袋で再度吸い込ませただけよ。血中の二酸化炭素を増やせば、自然と意識は回復するの。それより──」
ちづるは、軽く息を継いだ。
「何があったの? 失神するほどの神経のたかぶりって、よほどのことだと思う」
仙元はじっと天井を見つめていた。ちづるは待った。
「夢なんだ」
消え入りそうな声で言った。
「おれにはよく見る夢があるんだ」
醒めた視線がちづるをとらえた。
「夢?」
「五歳くらいのおれが、おふくろと一緒にいるんだ。夕暮れの、オレンジ色の景色の中に──そう、クルマがひっきりなしに走る道路の縁だ。おふくろは背後から肩に両手を置いて、おれの耳元で囁いている。優しい、とろけるような声で。そしておれは振り返る。柔和なおふくろの笑顔。しかし、その視線は矢のように突っ走るクルマの群れに注がれている。おふくろはおれを見ていないんだ。なのに囁いている。それが分かったとたん、おれの足はすくみ、喚き出したくなる。そこでいつも目が覚めるんだ」
戸棚に隠れていたミイラが顔を覗かせ、こっちをじっと窺っていた。それは漆黒の、洞穴のような眼だった。
「お母さんはなんと言ってるの」
「それは……夢の中の声は、チューニングの狂ったラジオみたいに、意味が掴めなかった。聞こえそうなのに、聞こえない。そんな中途半端な状態がずっと続いていたんだ」
「その声がさっき聞こえたのね」
少しの沈黙。
「そうだ。何の前触れもなくだ。その瞬間、脳のあらゆる箇所が火花を散らし、連続して発火していくようだった」
仙元は半身を起こし、ちづると同じようにベッドの縁に座った。
「おふくろの言葉をいま、あんたに口に出して説明すれば、おれの心はバラバラに砕けてしまいそうなんだ」
弱々しい、すがるような眼だった。
「ええ、無理して言う必要はないわ。あなたはいま、大きなショックを受けている。おそらく、夕焼けと発進してきたクルマの爆音が過去の記憶を喚起させたんだと思うけど……」
しかし、腑に落ちない点があった。夕焼けの中を走るクルマの爆音なら、これまで幾度となく体験しているはず。もうひとつ、記憶の縛りを解く、なにか重要なファクターがあったのでは……だが、新宿駅東口はいつもと変わらない雑踏だった。
何だろう──ちづるは、雑踏のシーンを、ビデオのコマ送りのように一から順に映し出していった。巨大な交差点、群衆、赤信号、夕陽……。
「心理学の世界ではよくあることなのか?」
仙元の問いかけに、ちづるは我に返った。
「記憶が封印される、という現象だよ」
「時々報告されているわ。恐らく、心理的防衛機能が働いたんだと思う。五、六歳までの子供は、これ以上のストレス、ショックに耐えられない、となると、脳が自動的に閉じてしまうの」
唇を軽く嘗めて強ばりをほぐす。
「フロイトにこんな興味深い言葉があるわ。ひとは辛くて重要な意味のある記憶を無意識のうちに抑圧してしまう≠ニ」
仙元は彫像のように身じろぎもせず、聞き入っている。
「そして、固定化された長期記憶は、あるきっかけを与えれば、突如として蘇るの。さっきのあなたみたいに……」
「分かった」
小さく頷くと、ちづるを見た。はっと息を呑んだ。表情が尋常ではなかった。陽に灼けて浅黒かった顔が、血の気の失せた白蝋色に変わっている。
「稀に、家庭内暴力に悩む父親が子供を殺す事件があるが……」
ちづるは拳を握り締めて身構えた。
「おれもつい最近、信太郎を殺そうとしたことがある」
呟くような言い方だった。
「暴力と向き合おう、信太郎と対峙《たいじ》しようと思ったとたん、首に手をかけていた。信太郎は泣いたよ。お父さん、助けて≠ニ」
淡々とした口ぶりだった。ちづるは声を絞り出した。
「本気で殺そうとしたの?」
「指がギリギリ食い込んで、あのままいったら、間違いなく喉を引き千切っていた。よほど怖かったんだろう。信太郎はガタガタ震えていたよ。あれが結果的に、一種のショック療法になったんだと思う。それで快方に向かったんだ」
「それは違うわ。ショック療法というより、家庭内暴力に真っ向から向かい合った仙元さんに、信太郎君が応え、心が通じ合ったのよ」
掠れる声に力を込めた。
「違うんだ」
仙元は小さく首を振った。
「なぜ、途中で手を緩めたと思う?」
「分からない」
息を詰めて仙元の言葉を待った。好奇心、後悔、恐怖、期待……さまざまな感情が錯綜して、ちづるの脳裏に白い雷光が疾った。
「信太郎の頭の傷だよ。あいつが最後のあがきで頭を振ったとき、ざんばらの髪が割れたんだよ。そこに、白い傷が見えた。あの白い傷がおれの過去を突き付けて、絞め殺してしまう寸前で止めてくれたんだ」
戸棚に隠れた木乃伊《ミイラ》がズルズルと這い回り、胸の悪くなる腐臭とともに姿を現そうとしていた。
「傷のことを教えてやるよ」
部屋の空気が、一瞬にして凍った。
「あんたは以前、言っていたよな。それがおれの治療を引き受ける条件だと」
耳を塞いで床に座り込みたかった。しかし、意識とは逆に、ちづるは弱々しく頷いていた。
「あの傷をつけたのは、このおれなんだ」
何の力みもなく吐かれた言葉。
「日曜日だった。そう──」
仙元が窓を見た。つられて眼をやる。藍色に薄い灰と萌黄の色を混ぜた黄昏の空が、林立するビルの透き間から見えた。
「あの日も天気がよかった。おれは五歳の信太郎を連れて、近くの公園へ遊びに行ったんだ。女房はテストの採点があるとかで、購入したばかりの自宅に籠もったままだった。当時、おれは大した仕事もなく、暇だけは腐るほどあった」
こっちを見た。何かを訴えるような顔だった。
「些細なことなんだ。夕方になっても、信太郎は帰りたくない、と駄々をこねてね。おれが手を引くと、信太郎は抗って振りほどき、おれの腕に爪をたてて、走り去った。おれは後を追った。信太郎は小高い丘にあるコンクリート造りの階段を上っていった。いたずら盛りだ。少しおれを困らせたかったのだろう。おれは大股で駆け上がり、信太郎を受け止めてやるつもりで前に回った。ところが、信太郎は今度は噛み付いてきた。手首にギリギリと歯を突き立てたんだよ。無性に腹が立って──その刹那だった。夕陽が目に入ったんだ。赤い色が、溶けたマグマになって脳に注ぎ込まれてくるようだった。そのマグマが頭全体でグルグル渦を巻き、耳がキーンと鳴って、辺りが闇の底に沈んだんだ──そう、真っ黒なシャッターが降りて太陽の光を遮断したような……代わりに錆の匂いのする、どす黒い感情が鎌首を持ち上げて、その後のことは」
仙元は右の掌を見つめた。
「この手が覚えている。信太郎の柔らかい肩を、おれはたしかに押したんだ。信太郎は階段を人形のように転がったよ。そのとき──」
視線を上げた。
「おれは強烈な快感に襲われたんだ。体がふんわり浮いて、下半身に痺れが走って、そう、いまにも射精してしまいそうな……信太郎は階段の下に横たわり、夕陽を浴びて頭から血を流していたというのに──罪悪感とか後悔よりも、忘我の境地で得た快感のほうが遥かに大きかった」
「奥さんはそのことを──」
仙元は首を振った。
「いや、知らない。おれは自分が怖かったんだ。いつまた、信太郎に手をかけてしまうかと思うと、とても同じ屋根の下にいることはできなかった。おれは毎晩、布団の中で奥歯を噛み締めて震えていたよ」
「それで離婚して家を出た、と」
「ほかに方法はなかった。おれが信太郎を殺すのは時間の問題だった」
「──児童虐待は、一般のひとが想像しているよりずっと多いんです。そのほとんどは母親で、マタニティ・ブルーという言葉に象徴されるように、育児ノイローゼから子供に暴力を振るうパターンが典型なんだけど……米国では子供を絞め殺した瞬間、最高のオーガズムに達した、と証言した父親のケースが報告されているわ。ただ、家庭という密室の中での出来事だから、なかなか実態は掴めなくて……三枝という少年の家庭もそうでしょう」
それらしき言葉を紡ぎながら、何か的を射ていない気がした。あの母親の出てくる夢と、どんな関係があるというのか。ちづるの戸惑いをよそに、仙元は右手をじっと見つめている。その指を一本、二本……折って見上げた。
「先生、おれは信太郎を二度、殺そうとしたんだ。普通じゃない。マンションで、喉を切り裂かれて死んでいた信太郎を見たとき、おれは自分がやった錯覚に襲われた。いや、あれはおれがやったんだよ。間違いない」
放心、忘我……その中に微かに浮かんでは消える、愉悦の表情をちづるは見逃さなかった。
「あなた、何を言ってるの!」
喉を絞って一喝した。だが、それは自分の揺れる心を覚醒させようとした叫びだった。
「いい加減なこと言わないでよ。アリバイだってちゃんとあるんだし、あの殺しの場に、あなたがいたわけないじゃない。そんなおかしな錯覚は信太郎くんに対する冒涜《ぼうとく》よ。あなたは信太郎くんを立ち直らせよう、と一生懸命だったじゃない」
「そうだろうか」
仙元は首をひねった。
「分からないんだ」
その当惑と苦悩を凝縮したような物言いに、ちづるは言葉を失った。両手で頭を抱え、仙元は呻いた。
「ほんとうに分からないんだよ、先生。おれの中にはもうひとつ、開いていないドアがあるんだ。最近、それが軋んでひどく嫌な音をたてやがる」
「お母さんの言葉は聞こえたんでしょう」
「なのに、ますます軋むんだ。青錆が浮いて、ほとんど腐っているのに、最後の最後で開かない──ほら、少しだけ黙っててみな。先生には聞こえないのか? ギシギシいう嫌な音が」
空調の音と、仙元の苦しげな吐息。ちづるはベッドの上で尻を捻《ひね》って後ずさった。仙元は、気弱な笑みを浮かべた。
「先生、おれ、どうしたらいい?」
ちづるは唾を飲み込んだ。言葉を探した。この場を乗り切る、最も適切な言葉を。
「お母さんは?」
「───」
「お母さんはご健在でいらっしゃるの」
「ああ」
「会ってみたらどう」
みるみる仙元の顔が険しくなった。ちづるは逃げ出したくなる自分を抑えて続けた。
「会うべきよ。会って、夢の言葉の真意を確かめるべきです。もしかしたら、あなたのまだ知らない大きな真実があるかもしれない。ほら、あなた言ったじゃない。動き続ければ、何かが得られるって。自分の目で、言葉で、確かめてみたほうがいいと思う」
仙元の表情が緩んだ。
「おふくろはすごく優しかった。母性本能の塊みたいなひとだった。おれは、おふくろの大きな愛情に包まれて育ったんだ。でも……」
そこで言葉を切ると、よろめく足を踏み締めてベッドから立ち上がった。
「先生の言葉に従おう。おれは先生の患者なんだから」
仙元はジャケットをハンガーから外して着込むと、ちづるに背を向け、部屋を出ていった。ドアが閉まると同時にちづるはベッドへ倒れ込み、大きく息を吐いた。強ばっていた身体中の筋肉が弛緩し、背骨を引き抜いたような虚脱感に襲われた。
そう、ちょっと見るだけでよかったのだ。暮色の濃い渋谷駅ハチ公口に降り立ったちづるは、横断歩道を渡って井の頭線沿いに進み、急な坂を歩いた。古ぼけた焼肉屋の二階。『シティ・ガード』の事務所。手前のビルの角に立ち、そっと様子を窺う。一階の店からは煙とともに、賑やかな客の声が漏れてくる。視線を外階段の上に移す。と、視界にとまった黒い影がある。それは、ドアの前に佇み、遠慮がちのノックを繰り返していたが、反応がないと分かると、肩を落として降りてきた。街灯に照らされた顔。坊主頭の、清々しい禅僧のような風貌。華奢な体。──友田勇志。
間違いない。仙元に聞いていた特徴と重なる。ちづるは、胸の高鳴りを覚えた。三枝航の秘密を握る少年が、いま、目の前にいる。三枝本人に接触するのはためらわれたが、その周囲の人間、まして友田勇志であれば、訊きたいことは山ほどあった。たとえ、同級生を刺殺した殺人者であっても──
ちづるは、坂を下って駅へと向かう勇志を、ビルの陰に身を隠してやり過ごし、背後から尾けた。擦り切れたジーンズに色の褪せたオレンジのポロシャツ。右手にはズックのバッグを下げている。井の頭線のガードを潜ったところで声をかけた。
「友田くん」
細い肩がビクンと震えた。振り返ったその顔には、警戒の色が露だった。
「友田勇志くんよね。三枝航くんの友達の──」
勇志は一歩、後ずさり、身構えた。
「あんた、だれ」
「医者よ」
「医者?」
「そう、精神科の医者なの。あなたに訊きたいことがあってね」
敵意の籠もった視線が、一切の接触を拒否している。
「ちょっと静かなところに入ろうか」
ちづるは構わず誘い、顔を捻って渋谷駅前へ続く路地を見やった。
右側に井の頭線のガードと、それを覆う工事中の銀色のフェンス。左側には安手の食い物屋が軒を連ねている。焼き鳥屋、立ち食いうどん、腸詰め屋、居酒屋……適当な店がない。ふと、空気が動いた。見ると勇志が背を向けていた。
「待ちなさい」
ちづるは慌てて腕を掴んだ。身体から、すえた汗の匂いがした。
「おれ、あんたなんかに用はないよ」
勇志が腕を払った。
「三枝航は病気よ。あなた、彼を助けてやりたくないの?」
大きな瞳が光った。
「航が病気って、どういうことだよ」
声が震えていた。
「病気だから、簡単にひとを殺してしまうのよ」
勇志は一歩、足を踏み出し、真正面からちづるを見た。
「治るの?」
頭上を電車がゆっくりと通過し、鉄の玉を転がすような轟音と、車内の蛍光灯の光が降ってくる。凝視する顔が淡いミルク色の膜に覆われ、まるで泣き出しそうに揺れた。恐怖と絶望に身を縛られ、それでも航を助けようとしている顔だと、ちづるは思った。異常な精神を持った殺人鬼に対して、この少年はまだ友愛を注ごうとしている。ちづるの頭は混乱し、そして痺れた。
──いったい、この少年は──
助けてやりたい、心からそう思った。ちづるは、少年の肩に右手をそっと置いた。細い骨格が、薄い肉を通して直に感じられる。鼓膜を震わせていた轟音がいつの間にか消えて、辺りにはアルコールと、焦げたタレの匂い、酔っ払いの甲高い笑い声が満ちていた。
「治るわよ。でも、それにはあなたの協力が必要なの」
「どんな? おれ、何でもやるよ」
勇志の鉛を呑んだような表情に、仄かな光が射した。
「彼の本当の姿を知りたいのよ。情報は多ければ多いほどいいの」
「航のことは、おれしか知らないんだ。他のやつは駄目だ。デタラメばかり言うから」
勇志の顔が上気していた。圧《おさ》えられていた感情が、奔流となって溢れようとしている。
「あいつ、苦しんでいたんだ。おれに、ヘンじゃないか、と訊いてきたことが何度もある。哀しい、淋しい顔をしてさ。おれ、あいつをなんとかしてやりたいんだよ。医者だったら、なんとかできるよね」
「ええ」
ちづるは、太い鉱脈を探り当てたと確信した。勇志は≪航が苦しんでいた≫、と言っている。もしかすると治療の糸口があるのかもしれない。呪われた鎖を解いてやる何かが。
「航は可哀相なやつなんだ」
ちづるは、はやる気持ちを抑えて言った。
「わたしもそう思うわ。本当に可哀相──」
「分かってくれるんだね」
勇志の顔が輝いた。賛同者を得た喜び。もうひと押しだ。
「ええ。だって、小学校の入学式に女の子の格好をさせられて出席したんでしょう。惨めで悲しかったと思うわ」
ふいに勇志の表情が硬くなった。
「なに言ってるの?」
怪訝な声音だった。
「彼のお母さん、異常な精神状態に陥っていたのよ。だから、あんなバカなことを──」
眼が吊り上がった。
「あんた、航のこと、何も知らないじゃないか!」
怒声が弾けた。ちづるは戸惑い、叫ぶように言った。
「だって、それが原因でおとこおんな≠チて言われて、イジメられて──」
勇志は首が折れるのでは、と思うくらい左右に激しく振った。
「優しいお母さんなんだぞ、航が身体弱かったから、強く育つようにって女の子の格好させたんだよ。それだって家の中だけだ。それを、どこかのバカが見かけて、学校でペラペラ言い触らしておとこおんな≠ネんて──」
鼻の上にシワを刻んで、吠えた。
「誰が女の格好で入学式なんかに連れてくるもんか、デタラメばっかり言いやがって!」
憤怒で語尾が震えていた。ちづるはわけが分からなかった。仙元は、確かに入学式の話をした。その光景を思い浮かべて、ちづるは吐き気さえ覚えたのだ。二人の怪物、チャールズ・マンソンとヘンリー・リー・ルーカスに共通するおぞましい過去……。
勇志は、憎悪をこめた視線をプイッと逸らすと、路地に広がる人波の間を、跳ねるようにステップを踏み、消えた。
*  *
窓の外は淡い墨を流し込んだような暮色だった。線路の両側には若い稲穂が、暗い緑色の海となって波打っていた。東京駅から一時間余り。電車が速度を落とし、ホームに入ると、それまで窓辺に頬杖をついて外を見ていた仙元は、何かを振り払うように、すっと席を立った。
房総半島の付け根に近い、太平洋に面した小さな町だった。ひとつきりの改札口から、残り少ない夏を海で過ごす客が吐き出され、狭いロータリーは民宿のマイクロバスが数台、ひしめき合ったが、それもつかの間だった。最後尾から駅前に降り立った仙元は、タバコに火を点けると、辺りを見回した。
『海と緑の街へようこそ』
駅の真ん前に立てられた白い看板には、ところどころはげ落ちた黒いペンキの文字が躍っている。ロータリーの出口では、梨の露店が店仕舞いの最中だった。仙元は腰の曲がった老婆に声を掛けて千円札を差し出し、ポリ袋に五個入れてもらってから歩いた。軒先に浮輪と麦藁帽子、水中メガネがぶら下がった商店街を抜け、国道を左に折れて、海とは反対方向へ向かう。ドブと潮の臭いの混じった淀んだ川を越えて、周囲にミカン畑の広がる急な坂を登った。
八年ぶりの帰郷だった。十分ほど歩いて振り返ると、夕闇に溶け込む寸前の街が見えた。造り酒屋の煙突と一面に広がる甍《いらか》、その向こうに漁船のひしめく港と、人気《ひとけ》の失せた海水浴場があった。海水浴場──ふいに、フラッシュバックが襲った。脳裏に蘇る深紅。それは血の飛沫だった。
高校二年の夏。海の家でアルバイトをしていた仙元は、東京から来たOLと知り合い、熱病に浮かされるようにして童貞を捨てた。女は久美子といった。長い髪の、目鼻立ちのキツイ、豊満な肉体を持った女だった。ビキニ姿で尻を振って歩くと、男どもはそのなまめかしい腰のくびれに眼が釘付けになった。
女が町を去り、赤トンボが舞い始めた頃、仙元は漁師町の旅館の宿帳から住所を控え、電車に乗った。久美子に会いたかった。夜の海岸で嫣然《えんぜん》と微笑み、十七歳の仙元を誘った肉が、たまらなく恋しかった。夕刻、住所を頼りに北千住のマンションに辿《たど》り着き、玄関横で女を待った。牛乳を飲み、菓子パンを食いながら。夜中二時、玄関に横付けされたタクシーから、久美子はすっきりと伸びた脚をもつれさせ、甘い嬌声をあげて出てきた。隆起した胸が大胆に割れたラメ入りの真っ赤なワンピースとルージュ。ピンク色の頬としっとり濡れた瞳が、カールの緩んだ黒髪の間から覗いている。仕事帰りのOLの姿ではなかった。
仙元の腹筋の上で汗にまみれ、まるで別の生き物のようにうねった腰はいま、若い男の腕に抱かれていた。パンチパーマと角張った凶暴な顔。浅黒い指が、ワンピースの上から久美子の身体をせわしなくまさぐっている。手首のゴールドのチェーンが、ギラリと光って仙元を挑発した。エントランスに続く階段を、黒い影となって駆け上がり、仙元は二人の前に立ち塞がった。男が剣呑《けんのん》な視線を向けた。
「久美子」
仙元は呼びかけた。濡れた酔眼が、焦点を結ぶ。
「おれだよ、久美子、会いにきたんだ」
微かな戸惑いの色が走った。が、それもほんの一瞬だった。女は白い喉を見せてケタケタ笑い、仙元を罵った。田舎町の汗臭いガキに用はない、迷惑だ、帰れ。呂律《ろれつ》の回らない声が響いた。女は横目で仙元をとらえたまま、男の首っ玉にしがみついて、耳たぶを嘗め上げるようにして囁いた。
「このいかれたガキ、なんとかしてよ」
醜い売女《ばいた》。仙元は頭を振った。瞬間、男の尖った靴が飛んで来た。腹にめり込み、その場に崩れ落ちる。硬い踵《かかと》が、仙元の頭に幾度もめり込んだ。だが、不思議と痛みも恐怖も感じなかった。その脚を掴むと、怒声をあげて引きずり倒した。不意をつかれ、階段で頭を打って昏倒した男にのしかかり、仙元は拳を叩きつけた。歯が折れ、鼻が潰れ、血が飛んだ。自分の拳が裂け、ピンク色の肉が飛び出した。それでもやめなかった。鮮血が男の顔面を真っ赤に染め、皮膚がズタズタに切れた。女はその場に崩れ落ちて泣き出した。
「やめてやめて、死んじゃうよ」
「今度会ったらぶち殺す。覚えとけ」
荒い息を吐いて立ち上がった仙元は、そう言い捨てて、深夜の、ぬるい大気が漂う街を走った。
あの時、頭の芯で、緋色の炎がポッと灯ったのを覚えている。あれが、自分の中に潜む凶々しい血を意識した最初ではなかったか。
坂道を登りきると、堅牢な石垣が道沿いに延び、その上に実家の屋敷が建っていた。正面に海を望み、背後はなだらかな傾斜を描いた田園と雑木林、お椀の形に隆起した山々が控える風景は、以前と変わらなかった。町の農協長を務めた義父は八年前に亡くなり、今は妹夫婦が跡を継いでいた。仙元の帰郷は胸を患って亡くなった義父の葬式以来、ということになる。
玄関口に出てきた妹の理恵は、麒一の顔を見るなり、驚きと困惑の色を露骨に浮かべた。玄関脇の応接間に通され、型通りの悔やみの言葉と、「信太郎はもう義姉さんの子供だと思っていた」と、葬式に出なかった言い訳を聞かされた。麒一が途中で遮り、自分も葬式に出なかったと告げると、理恵は言葉を呑み込み、この七つ年上の兄の顔をマジマジと見つめた。
理恵と麒一は父親違いのきょうだいだった。母親の香織が東京での生活を捨てて、この街へ帰ってきたのは麒一が六歳のときだ。実の父親とは離婚した、と聞いたが、幼い麒一には何の記憶もないし、興味もなかった。帰郷した香織は、過去を塗り潰して見合いをし、農協勤めの実直な男と結婚した。小太りの、頭のはげ上がった男だった。幾ら香織が色白の美貌の持ち主とはいえ、周囲の目のうるさいこの田舎町でコブ付きと一緒になったのだから、男にとって最後の結婚のチャンスだったのだろう。
男は麒一を邪険にするでなく、かといって可愛がるでもなく、ごく普通に、近所の赤の他人と変わらぬ接し方をした。その距離の取り方は絶妙で、世間体を保ちながらも、義父と息子の間には最小限の言葉しか交わされなかった。だが、理恵が生まれると眼を細めて可愛がり、仕事に励み、出世の階段を一歩一歩昇った。自分の理想とする家庭を築くことに生きがいを感じる男だった。そして男にとって、麒一は理想の家庭の盲腸だった。あってもなくてもいいが、目障りになる振る舞いをしたら切り捨てると、その冷たい眼が言っていた。
香織は息子に変わらぬ愛情を注いだ。柔らかな笑みを絶やさず、なにくれとなく世話を焼き、義父に隠れてそっと小遣いを渡した。義父が仕事で忙しい日曜日は弁当をつくり、妹をつれて三人でよく裏山に登った。香織は海を眺めながら「二人ともお母さんの子供だから愛情は同じ」と、冗談めかしてよく言っていた。そんなとき麒一は、くすぐったいような気恥ずかしいような、妙な居心地の悪さを感じた。結局、麒一は母の愛情は存分に感じながらも、最後まで新しい家庭には馴染めなかった。高校を卒業すると、アルバイトで貯めたカネを懐に、この死んだような田舎町を飛び出した。東京で新聞配達奨学生となって受験勉強に励み、翌年、都内の私立大学に籍を置いた。
実家から一切の仕送りもなく、アルバイトに明け暮れて大学を卒業した仙元は準大手の広告代理店に就職し、暫くは平穏な生活が続いた。
二年後、妹の理恵が上京してきた。名目は短大入学だが、甘やかされ放題で育った理恵の目的は明らかだった。母親譲りのスラッとした美貌で、夜な夜な六本木のディスコに繰り出し、ブランド品を身にまとい、都会の色に染まるまでひと月とかからなかった。夏を迎える頃には銀座のクラブホステスのアルバイトで仙元の給料以上のカネを稼ぎ、遊びにもいっそう磨きがかかった。それとなく注意する仙元を煙たがり、「自分の可能性を見極めたいの」と聞いたようなセリフをほざいては夜の街に消えた。
そんな理恵が、仙元に助けを求めてきたのは、短大卒業を間近に控えた冬だった。ホスト遊びを覚え、チンピラとチークを踊っているうちに、すっかり入れ揚げ、抜き差しならぬ関係になったのだという。一年ぶりに見る理恵は、ハタチの年齢がウソのように肌の艶は失せ、眼の下に隈が浮き、萎《しお》れた菜っ葉のように憔悴しきっていた。同棲相手のホストは、別れようとすると殴る蹴るの暴力を振るい、しまいには「逃げたら殺す」と脅すのだという。
夜、仙元はホストを呼び出した。実の兄がカタギのサラリーマンと知ると、チンピラの本性を剥き出しに、嘗めた口を利いてきた。曰く、理恵はおれが女として仕込んでやった、別れるならその元手分のカネを出して欲しい、嫌なら千葉の実家を訪ねるまでだ、と。
仙元は、喫茶店を出ると、無言のままビルの暗がりにホストを引きずり込み、薄い腹に膝を突き上げて、足腰が立たなくなるまで締め上げてやった。最後にヒイヒイ泣きわめくチンピラの右腕をへし折ったとき、仙元の心は凍っていた。怒りも後悔も、何の感情もなかった。このとき、自分はひとを殺すことさえたやすく出来る、と確信した。
──つまらないことばかり思い出す。
タバコに火を点けた。いがらっぽい味がした。力のない咳をひとつ。
目の前の理恵は幾つになるのだろう。頭の中で、自分の年齢から七つ引いてみた。分からない。仕方なく指を折る。四十、三十九、三十八……三十四歳か。顔を上げると、理恵が険しい眼で見ている。
首から肩にかけて年相応の肉がつき、髪をひっつめにして、いまは二児の母の貫禄さえ漂わせていた。理恵は短大を卒業すると、この町の信用金庫に就職し、中学の同級生と結婚した。地元のスーパーに勤務する夫は今夜、地区の寄り合いで遅くなるらしい。理恵の冷めきった顔は「いまさらなにをしに来た」と言っている。自分の過去を知る男は、たとえ実の兄貴でも疎《うと》ましいというわけだ。
苦い笑いを噛み殺して言った。
「おふくろの顔を一目見にきたんだ。最終の電車で帰るから」
「なにもそんなに急がなくても」
と言いながらも、理恵の肩からほっと力の抜けたのが見てとれた。
仙元は、廊下を渡って、離れの隠居部屋に案内された。途中の居間では男の子が二人、テレビに釘付けになりながら夕食の最中だった。
「いくつになった」
「小一と幼稚園の年長」
初めて見る甥っこを紹介するでもなく、理恵は歩を進めた。
「信太郎が亡くなったこと、母さんには言ってないから」
「悪いのか」
「もうすっかりぼけちゃってダメ。刺激すると奇声を発して暴れるのよ」
理恵が襖を引くと、八畳ほどの薄暗い部屋の窓辺にペッタリと座って、香織は外を見ていた。明かりが瞬く街の向こうに、夕暮れの残照を残す、朱と灰色の混じった海が見えた。理恵が蛍光灯を点けると緩慢な動作で振り向き、眼を瞬《しばたた》かせたが、それっきりだった。筋張った身体にシュミーズが張り付き、しなびた顔には表情といえるものが見えず、虚ろな視線を向けるだけだった。
「母さん、麒一だ、分かるか」
中腰になって話しかけたが、反応はなかった。軽い痴呆が出てきた、と聞いたのは半年前だ。いまは息子の顔まで判別できなくなっている。八年前と比べると、別人のように萎《しぼ》んでいた。まともな会話ひとつ、できそうもなかった。失望と安堵。夢の中で囁く母の言葉。その真意を確かめる手立ては、これでなくなった。
「おまえが面倒をみているのか」
振り返って言った。
「ええ、でももう無理よ」
「無理?」
「話しかけても応答がないし、徘徊も出ているの。この前は自分のウンチをべったり壁になすり付けて大騒ぎだった。もう手に負えないわ」
「じゃあどうする」
「来月から特養に入るの。町立の特別養護老人ホーム。普通なら二年待たなきゃいけないんだけど、父さんが懇意にしていた町議が口をきいてくれてね」
さばさばとした口調で言うと、視線が茶箪笥の上をさらった。
「あった、これ」
赤地に、金糸が縦横に走る、羅紗張りの古びたアルバムだった。
「兄さん、持ってってよ」
右手で差し出し、挑むような眼を向けてきた。
「これ、東京での生活がぎっしり詰まっているみたいよ」
「東京?」
「わたしには関係ないもの。父さんが亡くなってから母さん、これ引っ張り出してよく眺めていたわ。前の旦那との思い出でしょう。わたしの姿が見えると慌てて隠していたけど、ぼけてからは放りっぱなし」
仙元に押し付けると、清々したといわんばかりにパンパンと手をはたき、「お茶でもいれてくるから」と言い置いて出ていった。
東京の生活、仙元の父親との思い出。理恵がこの世に存在する前の出来事。勝ち気な理恵の怒りが、手にとるように分かった。仙元は畳の上に胡座《あぐら》をかいた。香織が、ぼんやりと見つめている、仙元は、手元のポリ袋から梨を取り出した。
「母さん、食うか」
香織は無言のまま、両手で押しいただくように受け取ると、おもむろにかぶりついた。汁が垂れるのも構わず、無心にしゃぶっている。仙元は、角の擦り切れたアルバムに手を置いた。東京での生活。自分の知らない過去。梨をシャリシャリ齧《かじ》る音を聞きながら、黒々とした不安が、脳裏に広がっていくのを感じた。表紙を開く手が、無様に震えた。
荻窪署刑事の森は、坂を登りきると、石垣の上に建つ屋敷を見上げた。なまこ壁の蔵を併せ持つ二階建て。外観からも太い柱と梁に支えられた頑丈な造りが分かる、堂々とした旧家だった。僅かにコケの匂いのする石造りの階段を上がる。柊《ひいらぎ》の生け垣で囲われた前庭には、刈り揃えられた芝生がはられ、柘植《つげ》の植え込みと薄桃色の花をつけた百日紅《さるすべり》、それに石灯籠が、バランス良く配置されていた。森は水銀灯の下でハンカチを取り出し、首筋の汗を拭うと、ふっと息を吐いた。
捜査は暗礁に乗り上げていた。午後の会議は、相変わらず単調な聞き込みの報告が続き、本庁一課長の癇癪《かんしやく》がついに爆発した。
「荻窪はどいつもこいつもボンクラ揃いか! 徹底してローラーした結果がこの程度では上が納得する責任をとってもらわんとな」
ギロリと睨まれた捜査本部長の署長が震え上がって檄《げき》を飛ばし、散会後、今度は三宅が弾けた。仙元の居所を聞かれた森が、≪マンションから出払ったまま、居所は不明≫と告げるや、真っ赤な顔で≪身辺を洗い直せ。実家の聞き込みはやったか≫と怒鳴りつけた。携帯電話で連絡はとっている、と言い添えても、三宅は聞く耳を持たなかった。森は慌てて東京駅へ向かい、電車に飛び乗った。だが、最寄り駅のひとつ手前で降りてしまい、土地鑑のない森は、散々迷った揚げ句、やっとの思いで仙元の実家の前までたどり着いたのだ。
森は呼び鈴を押した。暫くして女の声がした。どこか不機嫌そうな声音だった。
震える指がとまった。一枚のモノクロ写真。黄色く染まった想い出。アルバムの中から、じっと仙元を凝視する二対の瞳。梨を齧り、汁を啜る音。封をしていた過去が、そこにあった。仙元は、その古びた写真を指先で慎重に剥がし、香織を見た。無心に梨を食っている。
「母さん──」
呻くように声を出した。
「ほら、これだ、おれと母さんだよ」
香織がゆっくりと顔を上げた。写真を鼻先に近づけてやった。ぼんやりとした眼に、確かな意志が宿ったように見えた。仙元は掠れる声を絞り出した。
「おれなんか生まなきゃ良かったのに」
香織の顔に変化が生じた。見る見る歪んで、瞳が濡れた。
そのとき、廊下を苛立たしげな足音が近づいてきた。仙元が、写真をジャケットの懐にしまうのと同時に、襖が開いた。
「兄さん、お客さんよ」
「だれだ」
「会えば分かるって」
仙元は、両手を畳について立ち上がると、ふらつく足どりで玄関に向かった。
「ちょっと、兄さん、大丈夫?」
「おまえはお袋を見ていろ」
廊下が足の下でたわんでいた。懐の写真をジャケットの上から右手で押さえる。脳髄に抱き続けてきた緋色の炎が、音をたてて燃え盛るのが分かる。夢の中で母親が囁いた言葉と、封印されたはずの過去。揺れる視界の中で、見覚えのある顔がぐんにゃりと歪んだ。警察、若い刑事、信太郎……瞬間、火の玉が、脳裏を疾って爆発した。仙元は見えない何かに弾き飛ばされるように走った。玄関に立ち尽くす森を突き飛ばし、そのまま一直線に駆けた。生け垣を、まるでハードルのように跳び越え、石積みの塀の縁に足をかけて、高々とジャンプした。
森はそのとき、雄叫びを聞いた。大気を震わす絶叫。あっと思う間もなく、もの凄い力に突き飛ばされ、玄関に引っ繰り返った。
慌てて体勢を立て直し、庭へ目をやるのと同時だった。空中へ跳んだ仙元の背中が一瞬止まり、次の瞬間、絶叫とともに塀の向こうへと落ちて行った。森は玄関を抜け、階段を駆け降り、石垣の下へ回りこんだ。田圃が広がり、稲穂の割れた道が、黒く茂った雑木林の方角へと一直線に延び、山裾を覆い始めた闇に溶けるように消えていた。仙元の姿はもうどこにもなかった。森は見上げた。高い空の藍色と、覆い被さってきそうな石垣の黒。塀の縁まで、四メートルはある。
「跳んだ──」
森は呟いた。いま、この目でたしかに見たはずなのに、信じられなかった。全力で疾走し、一気に空中へ跳び出したのだ。水を張ったプールへダイビングするように、何の躊躇もなく──そう思った途端、全身に冷水を浴びたような震えが走った。
と、ヒイイイーと、哀れな悲鳴が降ってきた。森は階段を駆け上がった。玄関先でシュミーズ一枚の筋張った老婆が、白髪をザンバラにして身悶えしていた。
「母さん、落ち着いてよ!」
先の、娘とおぼしき女が、裸足のまま背後から羽交い締めにして、懸命に抑えている。だが、老婆はあらん限りの力を振り絞り、苦悶の表情で吠えていた。右手に食いかけの梨を握り締めている。
「キイチー、キイチー」
悲鳴とすすり泣きの混じった慟哭《どうこく》が、濃い藍色の天空へと吸い込まれていった。
*  *
ちづるは、グラスオーダーしたシェリー酒を呷《あお》ると、カウンターの向こうのバーテンにシングルモルトのペリエ割りを頼んだ。宇田川町の山手教会裏にあるバー。公園通りから一歩、奥に入ったビルの地下だった。間接照明の柔らかな光が満ちた店内にはビル・エヴァンスのピアノが流れ、壁には鮮やかなトリコロールを大胆に使ったリトグラフ。よく磨き込まれた分厚い一枚板のカウンターの上では、淡い青緑色の陶製の壺から一抱えの真っ赤なバラが咲いている。店内の隅々まで、弾けばピンと音のしそうな品の良さが漂っていた。ほどよくクッションの利いた背の高いカッシーナに座ったちづるは、冷たいカットグラスを口に運んだ。
二杯目のペリエ割りをオーダーし、一気に飲み干した。酔いが回って、すべてを忘れてしまえたらどんなにいいだろう。三杯、四杯、とピッチをあげた。しかし、ちづるの期待とは裏腹に、酔うにつれ、こめかみがきりきりと疼いた。抑えきれない疑問が湧き上がる。額の奥で勇志の声がした。
≪入学式なんかに連れてくるもんか≫
ウソとは思えなかった。確か、病弱な男の子が強く育つようにと、女の子の格好をさせる風習があったはず。有名な人形作家が戦前、着物を着ておかっぱ髪で写っている写真を週刊誌のグラビアで見た覚えもあった。
不意に携帯電話が鳴った。こめかみの産毛がピリッと震えた。バッグから取り出し、耳に当てた。思わず握り締めた。激しいノイズが響いた。それは虫の──無数の鈴虫やコオロギがわんわん鳴いている。
≪ああ……≫
ノイズの間から、微かな呻きが流れた。
≪あああ……≫
間違いない、仙元だ。
「いまどこ?」
低く呼びかけた。
≪……分かった、全部、分かったんだ≫
「なにが分かったの、何が──」
≪頭が割れる、壊れる≫
と、その言葉を最後に、ウアーッと悲鳴が砕けて飛び散り、携帯はプツンと切れた。背筋を悪寒が疾った。歯の根が合わない。ガチガチという耳障りな音が顎からこめかみにかけて這い上る。
ちづるは、うわ言のように仙元の名を、沈黙したままの携帯に呼びかけた。
「お客さま」
バーテンが硬い視線を送って咎《とが》めた。ちづるは震える手でカードを差し出し、勘定を済ませると、外に出た。足下が定まらない。まるで雲の上を歩いているようだ。公園通りへ出て、タクシーを停めた。行き先を千駄ヶ谷の鳩森神社と告げ、やっとの思いで乗り込むと、窓側に身体を寄せて大きく息を吐いた。これまで経験したことのないショックが、ちづるを襲っていた。
仙元は母親に会うことで、最後の扉を押し開けたのだ。ギシギシと軋む、青い錆の浮いた扉。その向こうに何を見たのか?≪壊れる≫仙元の叫び声と悲鳴が、頭の中で膨張していまにも破裂しそうだった。
そして、自分の木乃伊も蠢《うごめ》いている。過去の忌まわしい光景……ダメだ。仙元と出会って以来、何かが歪んでいる。このままでは、自分もどうにかなってしまう。
航と仙元を取り巻く闇は、自分にはとても手に負えそうもない。もしかして取り返しのつかない場所に足を踏み入れてしまったのではないか。悔恨と恐怖が、ちづるの胸を焦がした。
何の前触れもなく≪警察≫という単語が瞬いた。途端に、それが唯一の方法だと確信した。だが、いまはダメだ。迷宮深くはいり込んで抜け出せない事柄の数々を整理する必要があった。マンションの部屋に帰り、酔いを覚ましてからだ、とちづるは自分に言い聞かせた。シートに深々と身体を沈めて眼を閉じた。タクシーの背後から一定の車間距離を置いて尾いてくる一台のクルマになど、気づきようもなかった。濃紺のボディと、窓に貼った黒のフィルム。スカイラインだった。
ちづるは鬱蒼と茂った森を抱く鳩森神社の前でタクシーを降りた。都心とは思えない静寂《せいじやく》が辺りを満たしていた。燈明が灯る薄暗い境内を抜け、階段を降りると、目の前がマンションの玄関だった。オートロックの暗証番号を押して自動ドアを開き、中に入る。郵便受けからクレジットの請求書と百貨店のダイレクトメールを取り、エレベータで三階に上がる。南寄りの角部屋だった。自宅ドアの鍵穴にキーを差し込んだそのとき、背後から手首を掴まれた。
ハッと振り向いたときは、黒い人影がのしかかっていた。分厚い手に口を押さえられ、悲鳴を上げる暇もなかった。もうひとつの影が、施錠を解いてドアを素早く開くと、そのまま身体ごと持ち上げて内部に押し込んだ。ドアがズンッと閉められ、ちづるは居間のソファに投げ出された。ライトが点けられ、男二人の姿が浮かび上がった。黒のTシャツと迷彩ズボン、底の厚い編み上げ靴。
「いいマンションじゃない」
色黒の端整な顔。二十《はたち》前後の細身の男だ。周囲をぐるりと見回すと、
「さぞかし防音効果も高いんだろうねえ。あんたの声、隣まで届くかな?」
喉でクククッと笑った。
「あんた、友田勇志にえらく興味あるようだね」
渋谷、勇志、分かった。シティ・ガードの事務所を覗いたとき、見られていたのだ。
≪確かな意志を持って動けば、必ず何かに当たる≫
仙元の信念。自分の知らないうちに、三枝航のもとへ引き寄せられていた。
「あなたが三枝航?」
男は大仰に両手を広げ、おどけた表情をつくった。
「おれなんか、リーダーに比べたらゴミだよ、ゴミ。ねえ、サブリーダー」
背後に立つ大柄な筋肉質の、岩石を思わせる男はそれには応えず、ハンドバッグを投げて寄越した。
「名前は黒田ちづる。三十二歳。武蔵野東病院に勤務する精神科医か」
指先には病院の発行するIDカードがあった。
「精神科医だって?」
色黒の男が、険しい顔で迫ってきた。ちづるの顎に手を当て、引き寄せる。
「おい、言ってみろ、何が目的だ」
「三枝航は狂っているわ。精神を病んでいるのよ」
三白眼が光った。
「おれたちのリーダーが狂っているだと」
男は怒声と共に拳を振り上げた。
「やめろ」
低い声が響いた。大柄な男が前へ進み出た。拳を降ろした色黒は、不満そうに鼻を鳴らして下がった。ちづるは、二人の関係を瞬時に見てとった。ナンバー2を快く思っていないナンバー3。ぎくしゃくしたやり取りで分かる。突破口が見いだせる気がした。
だが、二人に意思の疎通がない分、コトは大男の独断で性急に進んだ。
「リーダーが待っている。来てくれ」
有無を言わさぬ口調だった。瞬間、怖気《おぞけ》がふるった。人の心を持たない殺人鬼。ちづるは叫んだ。
「いやよ、絶対いや!」
大男がすっと距離を詰め、右手を伸ばしてきた。その手を払った瞬間、息が詰まった。鳩尾《みぞおち》に左の当て身を食らい、意識が靄に包まれた。フワッと空中に浮いて担ぎ上げられたとき、ちづるの意識はなかった。
「ちょっと待ってください」
キンゾウが声を掛けた。
「なんだ」
だらんとした女医の身体を肩に載せたまま、キムはキンゾウを見た。一瞬、自分の眼を疑った。仄かな心の揺れ。不安と戸惑いが薄い膜となって覆う顔。
「本当にリーダーのところへ連れていくんですか?」
「なぜ」
「この女、医者でしょう。さっき変なこと言ってたじゃないですか」
「リーダーが狂っているというのか?」
キンゾウが眼を伏せた。頬が膨らみ、短い息が漏れた。何かを考えている。
「この女、どうなるんでしょう」
呟くように言った。
「リーダーが決めることだ」
沈黙。キンゾウは煩悶し、逡巡していた。分かる。同じだ。頭の霧が薄れ始めているこの自分と。キムは奥歯をギリッと噛んだ。次の言葉が、すべてを決める。決断すべきとき──
「リーダーに逆らえます?」
不意に訊いてきた。キンゾウが見ていた。すがるような視線。キムの中で恐怖と希望が絡み合い、膨張し、言葉が噴き出そうとした。それは恐怖に支配された柔順か、それとも希望を見いだす突破口か、口を開くまで自分でも分からなかった。が、舌が震え、言葉がうまく出ない。その土壇場の躊躇が、キンゾウを元の場所へと舞い戻らせていた。
「もういいんです。忘れてください、サブリーダー」
呆気なかった。顔からはきれいに膜が拭い取られ、代わりに堅い意志が張り付いていた。
「おれたちはリーダーの言葉が絶対です。そんな大事なことがまだ分からないなんて、おれはやっぱり頭が悪いんです」
キンゾウは踵《きびす》を返した。
「人がいないか、見て来ます」
玄関のドアを開け、周囲を確認し、振り向いた。その顔にもう迷いはなかった。柔順な従僕。キムは後に続いた。肩に担いだ女がやけに重たく感じた。
頬に吹き付ける風は、赤錆と淀んだ潮の匂いがした。髪が流れて、毛先が顔をくすぐる。混濁した意識が次第に鮮明になり、視界が開けていった。ちづるは昼間の熱気を留めるコンクリートの上に横たわっていた。片肘をつき、上半身をゆっくりと起こすと、ひとりの男がソファに座っていた。さっきの色黒とも大男とも違う、削げた頬と力強いアゴを持つ男。床に置かれたランタンの黄色い炎がその姿を照らしている。
ちづるは、長い髪を風に嬲《なぶ》らせたまま、見つめた。バランスのとれた筋肉質の身体を包む黒のTシャツと迷彩ズボン。黒の編み上げ靴。ダイヤのピアス。両手を軽く組み合わせ、脚を高々と組んだその姿は、しなやかな豹を連想させた。吸い込まれそうな深い瞳が動かない。
男の背後には黒い空と、その下にネオンの瞬くビルの群れが帯となって弧を描き、深い藍色に染まった海が広がっていた。とてつもなく高い場所だ。どうしてこんなところにいるのか、見当もつかなかった。
「ここは?」
「ぼくの部屋さ」
静かな口調だった。ちづるは顔を捻って周囲を見回した。暗闇に目が慣れるにつれ、辺りの状況が把握できてきた。建築途中で捨て置かれたビルの最上部。背後には、剥き出しの鉄骨の群れが、まるで暗い林のように佇んでいた。
「あなたは?」
「三枝航」
あれほど接触を恐れていたのに、いまは戸惑いも恐怖もなかった。あまりに現実感を伴わない場所に置かれたため、感情が麻痺したのか? いや、違う。三枝航の醸し出す空気だ。静かに澄んで、透明感さえ漂っている。静謐《せいひつ》という言葉が頭の芯に灯った。
「あんた、医者なんだってね」
柔らかい、上質の絹のような肌触りの声だった。ちづるが頷くと、ゆっくりと脚を解き、背中を丸めて顔を伏せた。風が鳴った。馬のいななきに似た突風が、耳元を切り裂いた。ランタンの炎に浮かんだ肩が震えている。ちづるは眉をひそめた。
「どうしたの」
かすかに嗚咽が、聞こえた。
「泣いてるの?」
「どうしてこうなったのか、ぼく、分からないんだ」
くぐもった声が風に千切れていく。
「ねえ」
航が呼んだ。
「なに」
ちづるは、航を見つめたまま立ち上がった。
「ぼくを助けてよ」
瞬間、脳裏で火花が弾けた。
──この少年は助けを求めている──
「信太郎くんを殺したのはあなたね」
「どうして知ってるの?」
顔を上げた。頬が涙で光っている。
「あなたのことは何でも知ってるわ」
「たとえば?」
語尾が震えていた。
「お父さんに苛められたんでしょう。地獄みたいな生活を強いられていたのよね」
「だからぼく、ヘンなのかな」
首を傾げた。
「異常な環境だもの。誰でも防御しようとする本能が働くわ」
「ねえ、先生」
先生、という言葉が信頼と同義に聞こえ、ちづるの緊張をふわりと解いた。
「なに」
「ぼくのこと、治して欲しいんだ」
そう囁くと、航は自分の身体を両腕でかき抱いて震えた。得体の知れない怪物の影に脅える幼児のように。
「でないと、僕はもっとヘンになる」
か細い声が漏れた。航の周囲に張り巡らされた眩《まばゆ》い磁気が、ちづるを搦《から》め捕《と》って誘った。ちづるは航のもとへ歩み寄り、ソファの隣に腰を下ろした。航はちづるの膝に、何のためらいもなく頭を載せてきた。肌に伝わる息遣いと体温。ちづるは、じんわりと湧き上がる満足感に浸った。
──この少年を治せるのは自分しかいない──
地獄を生き延びてきた航が堪らなく愛おしかった。左手の指を航の右手に絡め、もう一方の手で髪の毛を撫でてやる。荒れ狂う野生の狼を手なずけた動物学者のように。
「大丈夫よ。わたしが治してあげるから。そして、あなたを助けてあげる」
「先生はぼくのこと、何でも知っているって言ったよね」
「ええ」
「誰にきいたの?」
航が優雅に身体を捻ってこっちを見た。心の鎖を解いてすべてをさらけ出した、穏やかな顔だ。ちづるは髪を撫でていた右手を、そっと下ろして額から鼻、唇へと、撫でるように這わせた。指先から、航の温もりが伝わって、ちづるを酔わせた。心地よい安堵と浮遊感が、ちづるを包んだ。
「勇志なの?」
「いいえ」
ちづるは首を振った。
「だろうね。あいつはぼくのたったひとりの友達だもの。ぼくのことを分かってくれるのは、あいつだけだ」
針の先ほどの嫉妬がポツンと灯る。患者の振り子が、治療者である自分をさしおき、勇志へと傾いている。
「でも、あなたのことを喋ってくれたのは友田勇志くんよ」
「どういうこと」
訝しげな視線がちづるを射した。瞳がランタンの炎を映して妖しく揺れた。ちづるは、まるで強い睡眠薬でも投与されたように五感が痺れて、朦朧とした。なのに、航の姿だけはくっきりとした輪郭を伴って見える。ちづるは問われるまま、仙元と勇志のことを喋っていた。喋りながら、指を絡めた左手に、じんわりと力が込められるのを感じた。ちづるは固く握り返した。二人の魂が溶けてひとつになった気がした。
航は下から腕を伸ばし、ちづるを引き寄せて、囁いた。
「その男、子供を殺されたからぼくに興味を持っているんだね」
ちづるは頷いた。
「復讐が目的なら、こんなバカげた話はないよ」
「どうして?」
「だって、ぼくらは世の中のために戦っているのに、くだらないことで邪魔をするからさ」
先ほどとはうって変わって、揺るぎない意志を感じさせる声だ。
「どうしてくだらないの?」
「親子なんて幻想に過ぎないのに、いつまでも縛られているからさ」
親子なんて幻想──乗り越え、克服したはずの自分の過去。
航の顔がぐっと接近した。吐息が頬にかかる。
「だから、そいつはいらない」
氷の瞳がランタンの炎を吸って妖しく揺れた。
「それにひとを殺すって、とっても素敵なことなんだ」
邪気のない微笑み。耳元で囁く声がした。
「どうして医者になったの?」
「えっ」
予想もしない言葉だった。
「あんた、医者になった理由があるはずだ。それは誰にも言えない理由だよ」
心を覗き込む、航の瞳。全身の細胞が沸騰した。視界に醜い木乃伊が浮かんだ。それは深夜、中学生の自分にのしかかる男の姿だった。酒臭い息と獣の赤ら顔。母親の留守の夜、突然、襲ってきた父親。誰にも言えないショックと屈辱。日ごとに重く、深くなる虚無感を癒すため、むさぼり読んだ心理学の本。医者になって、冥い過去を超えた自分──すべてが極彩色の渦になって廻り、砕け飛んだ。
ちづるの朦朧とした意識にピシッと亀裂が入り、三枝航への憐憫と共感は、呆気なく消えた。代わりに、鈍磨してどこかへ隠れていた恐怖が現れる。ちづるの五感が覚醒した。眼を固く閉じた。脳裏に描くガウプ教授の顔──しかし、硬く弾けるはずの線が、いまは溶けて消えていた。ちづるは、暗く深い洞窟に迷い込んで出られない自分を悟った。
航にライトグリーンのスーツを剥ぎ取られ、下着を引き裂かれた。
航の肌の温もりを、首筋を這う熱い舌の動きを、胸から脇腹、股間へと降りていくしなやかな指使いを、感じた。身体が自分の意志とは関係なく、弓なりにのけ反り、歓喜の声が喉を絞った。
「ああっ……」
吐息が漏れた。しなやかな指が、敏感な女の芽を、柔らかく、つまむように撫で上げる。身体の奥が熱くとろけ、快感に肌が総毛立つ。ちづるは細く白い腕を航のがっしりとした背中に回して、抱き締めた。航は手を添え、ゆっくりと入ってくる。
「はあっ!」
喘ぎとも悲鳴ともつかぬ声が、迸った。より深い快感を求めて腰を突き上げる。陶酔の中で、航に翻弄され、引き裂かれた自分の姿が見える。
「あんた、ぼくを助けると言ったけど、そんなのウソだろう」
低く押し殺した声。
「ぼくを助けようとすることで、ホントは自分が助かりたかったんだ。他人に愛を与えることで、自分が愛されたかったんだ。あんたが医者になったのも、そういうことなんだ」
航の手で掴まれ、引きずり出された過去。ちづるには分かった。航の抱える闇は自分の想像を遥かに超えて、無限に広がっている、と。
首に、ザラッとした、いやな感触。右手のケロイド。両手が絞られ、指先が首に食い込む。意識が薄れる。視界に朱のカーテンが降りる。落ちていく、落ちていく……その刹那、指が離れ、息を吹き返した。酸素を求めて、金魚のように口をパクパクさせた。
「気持ちいいだろう」
航が訊いてきた。ちづるは喘ぎながら、言った。
「あなた、お父さんと……お母さんを虐待したお父さんと同じこと、してる」
「そうだよ」
「同じように……苦しめたいの」
怪訝な色が浮かんだ。
「苦しい? ぼくのお母さん、気持ちいい、って言っていたのに」
「あなた、なにを……」
航は春の日だまりのような笑みを見せた。
「あんた、本当にぼくのこと、知ってるんだね。すごいよ、うれしいよ」
再び、首が絞められる。薄れる意識。何度繰り返されたろう。命が、航のコントロール下で弄ばれていた。生と死の間をさ迷いながら、ちづるはそれでも航と母親の、秘められた関係を知ろうともがいた。
「教えてよ、教えて……」
航は、絶頂を迎えようとしていた。両手に力が込められる。首が絞まっていく。息が出来ない。闇の中、意識が薄れる。もう戻らない。分かる。漆黒のカーテンが降りてくる。
と、低く重い航の声が、闇から湧いた。
「殺してやるからね」
瞬間、脳裏に光が灯った。
──分かった。
新宿駅東口、仙元が雑踏の中で倒れたとき、聞こえた声。オーロラビジョンから流れた映画のセリフ。女の声でこう言ったのだ。
──殺してやる。
背中に氷柱を突っ込まれたような悪寒が疾った。じゃあ、仙元は──絶叫が喉をせり上がった。が、そこまでだった。ゴキンッと鈍い音が響いて、あらゆる感覚が断ち切られた。永遠の闇を漂い、ちづるが消えた。
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八月二十七日(金)
陽射しに灼かれ、溶けたアスファルトが踵の下でスポンジのように凹む昼下がり。池袋駅北口の大ガード近くの繁華街を仙元麒一は歩いた。
小便と嘔吐物のすえた臭いが漂う路地をさ迷い、パチンコ屋のスピーカーが盛大にがなりたてる一角に、目当ての映画館はあった。古いアメリカ映画のポスターが、申し訳程度に貼られた名画座。館内はガランとして、黒い頭が五つ六つ、船を漕いでいる。バカでかい時代物のクーラーがブンブン唸っているおかげで、身震いするほど寒い。眼が暗闇に慣れるのを待って最後列から見渡すと、ひとりだけ、顎に手を当ててスクリーンに見入っている男がいる。仙元は、そっと後ろから近づいて、肩を叩いた。
男は、振り返りもせず、右手をゆらゆらと振った。モノクロのスクリーンにクギ付けになった横顔が、いいところだから出て行け、と言っている。スクリーンを見ると、酒場の客全員が勇壮なラ・マルセイエーズを合唱しているシーンだった。
湿った薄暗い通路の、便所近くのソファで、仙元は壁にベタベタと貼られた古い洋画のスチール写真をぼんやりと眺めながら待った。
男がやって来たのは、五本目のタバコを灰にした後だった。
「あんた、本気なんですか」
男はソファに腰を下ろすなり、慇懃《いんぎん》な口調で言った。白のジャケットを素肌にひっかけ、薄い胸にはシルバーのペンダントがぶら下がっている。髪を後ろになでつけ、一重の眼が鋭く光る、抜き身のカミソリのような印象の男だった。
「伊達や酔狂でおまえに連絡するほど、物好きじゃない」
男は唇の端を捩《ね》じ曲げてタバコをくわえると、漆黒のカランダッシュをカチリと鳴らして火を点けた。
「チャカなんて、ハタチ前のガキさえ持ってる御時世だ。そんなもん、おれに言わなくても幾らでも手にはいるでしょうが」
「おれの拳銃の知識はそこらへんのガキと変わらない。粗悪品をつかまされ、指が飛ぶのは御免だ」
男が上目遣いで見た。
「流行のトカレフ、とか?」
「ああ、トカレフだけはイヤだ。あれはいい加減なコピーが多すぎる。それに、オートマチックよりは弾づまりの心配のないリボルバーがいい。講習付きで手に入れたいんだ」
「講習?」
「そうだ。実際にこの手で撃ってみたい。おれには奥多摩や丹沢の山奥に行って、ひとりで撃つだけの度胸も土地鑑もないからな」
「その素人らしい謙虚さは大事ですよ」
男は薄く笑った。名前はヤマモト。フルネームは知らない。仙元が長年のルポライター稼業で培った情報網のひとりだった。裏世界に通じ、自らを広域暴力団の構成員と仄めかしていたが、実際はソープの女を三人ほど操る、ホスト崩れのヒモだった。しかし、どこから仕入れてくるのか、情報は確かだ。それ相応の報酬さえ保証してやれば、まずハズレはなかった。
「どうだ、頼まれてくれるか」
ヤマモトは無言のまま携帯電話を取り出すと、番号を呼び出した。
「おれだけど──」
そこまで言うと、顔をしかめて、チェッと舌打ちした。
「ちょっと待っててくださいよ」
ヤマモトは大儀そうに立ち上がると、ズルズル歩いて売店横にある公衆電話にとりついた。
「百でどうです。拳銃に実弾、講習、おれの手数料込みだ」
戻ってきたヤマモトはそう言った。トカレフなら十からせいぜい十五万だ。百万。高いか安いか。だが、迷っている時間はなかった。
「分かった」
ブザーが鳴り、館内放送のダミ声が二本目の上映開始を告げた。ヤマモトは、池袋から程近い私鉄の駅前ロータリーを二時間後の待ち合わせ場所に指定し、ついでにフッと短く鼻を鳴らして、顔を歪めた。
「ここもションベン臭いが──」
仙元を上から下まで睨めつけて、
「あんたも相当臭いますよ」
ズボンとジャケットには土と緑色の葉汁がこびりつき、ところどころ血が滲んだ泥だらけの足下は、薄いビーチサンダル履きだった。だが、臭いも汚れも、感知する感覚が麻痺してしまえば気にならない。
「チャカ買う前に、その格好はなんとかしなきゃな」
ヤマモトはもっともな忠告を垂れると、そそくさと館内に消えた。
映画館を出た仙元は、デパートでポロシャツと薄手のサマージャケット、チノパン、下着一式と靴を買い揃えた。東口のサウナに入り、身体を洗ってから着替えた。休憩室でウドンを啜って時計を見ると、約束の時間まで三十分足らず。
銀行で百万円を引き出し、電車に乗った。十五分ほどで降りた駅は、くすんだ商業ビルと商店、マンションが雑然と建ち並ぶ、都市計画とは無縁の街だった。駅前のロータリーの真ん中に、噴水の止まった池があった。ヤマモトは、池の縁に座り込み、緑色の水面を覗いていた。金魚が四匹、ラッキョウのような白い腹を見せて浮いている。ドブの腐った臭いがした。仙元にチラッと眼をやったヤマモトは、「煮えてやがる」と吐き捨てると、立ち上がり、手を差し出した。仙元が封筒を渡すと素早く中を改めて、内ポケットにしまい込んだ。
強烈な陽射しのなか、肩をそびやかして歩くヤマモトの後について、寂《さび》れた商店街を抜け、幹線道路沿いの歩道を歩いた。大気が揺れている。轟音をあげて走り去るトラックの群れが、陽炎の中で歪んで見えた。仙元はジャケットを脱ぎ、肩に掛けた。
「以前、馬鹿な国会議員が引き起こした拳銃密輸疑惑を覚えています?」
交通量の多い幹線道路から人影の疎《まば》らな小道に折れると、いつの間にか肩を並べて歩いていたヤマモトが声をかけてきた。額に汗の玉が浮いている。
「たしか都内に非合法のガンクラブを作れば大儲けできる、と知人に拳銃を密輸させた話だったな」
仙元も取材に動いた記憶があった。ヤマモトは前を向いたまま、軽く頷いた。
「あれ、本当なんですよ。あの議員、間違いなく遊んだことがあるね。都内には数箇所、非合法の射撃場が存在するけど、全部、こんなところに、と思うような街のど真ん中ですよ」
そう言うと、ヤマモトは、声を出さずに笑った。
「ヤクザって、わざわざ山奥まで出ばって行くほどの体力も気力もないんだね。拳銃オタクのトーシロとは違うんですよ。ま、いろんな人が遊んでるみたいだけど」
ヤマモトの眼が一瞬、仙元の顔を興味深げに嘗めたが、それだけだった。
ヤマモトの足は住宅街のはずれ、夏草がぼうぼう生えた空き地に接して建つトタン張りの町工場の前で止まった。赤錆の浮いたシャッターは半分降りたままで、暗い内部はしんと静まり返っている。窓の多くにベニヤ板が打ち付けられ、残っているガラスにもヒビが入り、ガムテープが貼ってあった。夜逃げで捨て置かれた町工場にしか見えない。この建物のどこに射撃場があるのか、見当もつかなかった。
仙元の疑念をよそに、ヤマモトが「いるかい」と奥に呼びかけると、暫く間を置き、初老の小男がシャッターの下から現れた。錆とオイルで煮しめたようなツナギと赤銅色の肌。灰髪が後頭部にわずかに残った禿げ頭。背は仙元のアゴの辺りまでしかないが、肩の張った、がっしりとした体格だった。不敵な表情でぐっと見上げる。白く濁った右眼は表情がない。男は左眼をジロッと動かして中へ入るよう促した。
「ヤマモト、おまえ、携帯使うなってあれほど言っといたろうが!」
入るなり、男の低い怒声が響いた。
「巷にゃあ盗聴オタクの暇人がウヨウヨしてんだ。おまえ、ここ割られたら責任とれんのか。エンコの一本や二本、飛ばしたって間尺に合わねえんだぞ」
ヤマモトが映画館で舌打ちした理由が分かった。ヤマモトは頭を掻いて詫びると、封筒を渡した。
「まあオヤッサン、宜しく頼むよ」
ヘラヘラ笑いながら言い置くと、仙元には一言もなく、逃げるように出ていった。男は、ムスッとしたままシャッターを下ろした。次いで、工場内のグラインダーや高速旋盤、フライス盤、コンプレッサー、それに通風機を次々に動かす。耳をつんざく機械の轟音が、閉め切った工場内に充満した。男は仙元に、さも面白くなさそうな一瞥をくれ、プイッと横を向くと工場の右手、『便所』とプレートの掛かったドアを開けた。
「来な、こっちだ!」
空気をビリビリ震わす轟音にかき消されまいと、大声で怒鳴る。二坪ほどの洗面所の横、清掃道具を入れるロッカー。男は扉を開けて、清掃道具をかきわけた。コンクリートの壁に木枠のドアが切ってあった。ドアを押し開くと、下方へ伸びる階段が続いている。裸電球が等間隔で四個、ぶら下がるだけの、冷んやりとしたカビ臭い階段を降りて行く。ひと一人がやっと通れるだけの空間。コンクリートで打ち固めた壁を伝い、二十段と少し歩いたところに、スチール製のピカピカに磨き上げられた四角いドアがあった。男は取っ手に両手をかけると、横にスライドさせた。レールを滑る音と、腹に響く衝撃音。その向こうに、闇が広がった。
男が壁を探ってスイッチを入れると、白熱灯が一斉に灯り、目映《まばゆ》いばかりの光と冷え冷えとした空気の中に地下室が浮き上がった。幅五メートル程度。高さは身長一メートル七十五の仙元が立っても、まだ三十センチほどの余裕がある。奥行きは、そう、十五メートルはあるだろうか。手前に厚手の板を組み合わせた射撃台が二つとパイプ椅子。射撃台の上には病院の血圧検査で使うような黒いマクラが置いてある。そして天井から側面、床までびっしりと敷き詰めた古畳。防音効果を考えての措置だろう。スチール製のドアを閉めると、天井から伝わる工場の機械音と、地下室に満ちた空調の音が微かに聞こえるだけだった。
「リボルバーがいいんだな」
男の重い声に、僅かにエコーがかかっている。
「ええ」
「ここには大概のものは揃っている。手を見せてみな」
仙元の右手を掴むと、まず上腕を肘から手首にかけて順に親指で揉むように押し、次いで掌を押した。ベテランの医者のような、自信に溢れた手つきだった。
「三八口径でも大丈夫だろう」
男はひとりごちた。
「素人は二二口径から入るのが常道だが」
仙元を見た。
「あんた、ヤマモトを通して来たくらいだから、対人用の銃の醍醐味を知りたいんだろう」
仙元は頷いた。
「幾ら払った?」
「百万」
男は「あの野郎」と唇を噛み、ひとしきりヤマモトが抜いた手数料のバカ高さを愚痴り、「今度会ったらただじゃおかねえ」と呟いて背を向けた。
「なら、これでなきゃ申し訳ねえな」
背後の壁に接して置かれた底の深いファイルボックスを引き出すと、油紙の包みを取り出した。木製の射撃台の上に置いて油紙を剥ぐ。黒光りする拳銃が現れた。ボディの冷たい鋼と銃把の美しい木目。
「チーフスペシャルだ。持ってみな」
仙元は、男に言われるまま銃把を掴み、引き金にひとさし指を回した。みっしりとした鋼の重さと冷たさが、掌を通して伝わる。流れるような曲線と丸みを帯びた形状は無駄を一切排した、合理の極の美しさがあった。ただ、手の中に収まるほどのコンパクトさが意外に思える。
「アメリカの刑事が持つ拳銃だ」
仙元の怪訝な顔から察したのだろう、男は拳銃を取り上げて説明した。
「全体的に丸みを帯びたデザインは、ホルスターから引き抜いたとき、上着の裾にひっかからないように、との配慮だ」
手慣れた手つきでシリンダーを振り出す。
「弾倉を見てみな」
穿った丸い穴がひとつ、ふたつ──五つだ。リボルバーは六発だと思い込んでいたが……。
「一発少ない分、シリンダーは肉厚に作ってある。コンパクトだが、安全性は抜群だ。ただし──」
銃身を示した。
「バレル、つまり銃身が短い分、命中精度は悪くなる」
小指の半分くらいの長さ、三センチ程度だろうか。男はシリンダーを静かに戻した。
「弾を込めてみな。基本的な扱い方を教えてやるから」
仙元に拳銃を渡すと、射撃台の上に弾丸を無造作に置く。
「まずシリンダーラッチを前方に押し──」
左側面の突起を、銃把を握ったまま右手親指で押す。
「シリンダーをスイングアウトする」
軽く左に振ると、カチャッと音がしてシリンダーが出た。滑らかな動きだ。
「ゆっくり、丁寧にやればいい」
弾丸を一個ずつ、慎重に込めていく。
「トリガーはシングルとダブル、どちらでも引くことが可能だが、最初はハンマーを起こさず、立射のダブルアクションで撃ってみな。銃ってやつがいかに当たらねえか分かるから」
男は耳栓を渡した。次いで、右手で銃把を掴み、左手を添えるよう指示する。足を肩幅に開いて腰を落とし、拳銃を握った両手をぐっと伸ばす。
「いいか、プロは片眼を閉じ、フロントとリアのサイトを合わせて撃つ」
フロントは銃身の上の小さな突起、リアはハンマーの上に刻まれた溝だ。
「だが、あんたは素人だ。両眼を開いて撃てばいい」
トリガーに人差し指をかける。狙うのは十五メートル先の射撃板。
「グリップが小さい分、しっかり握らないと手首を痛めるぞ」
ぐっと指に力を込めてトリガーを引いた。重い炸裂音。指先から手首まで、ドカンと衝撃が来た。銃身が、蹴り上げられたように跳ね上がった。射撃板を狙うどころではなかった。硝煙のツンとした匂いが鼻孔を刺す。
「そこだ」
男が指さす。見ると、五メートルほど先の畳に裂け目が入り、仄かな紫煙が上がっている。
「トリガーを引く際、どうしても銃全体を引っ張っちまうから、銃口がお辞儀をしちまう。なかには自分の足をぶち抜いたやつもいる。抵抗の少ないシングルアクションなら、少しはましだが、それでも狙いはまず定まらないと思ったほうがいい」
次にハンマーを起こし、シングルで撃つ。今度は十メートルほど先の畳をぶち抜いた。結局、十発撃って、直径四十センチほどの射撃板をとらえたのは一発だけだった。
「動かない標的でこれなんだ。銃なんて所詮、手の延長にすぎない。覚えときな」
その後、ダブルアクションも交ぜながら、三十発を撃った。命中率は話にならなかった。男は一発撃つごとに姿勢を正し、力の入れ具合をアドバイスした。緊張と筋肉の酷使で全身が強ばった。
「四十撃って当たったのは三発か。まあこんなもんだろう」
男は、拳銃を油紙に包むと、銃弾十発とともに手渡した。
「あまり過信はしないことだ。所詮、道具なんだからな」
「この銃で、ひとを確実に殺すにはどこを狙えばいい?」
一瞬の沈黙。次いで、ざらついた低い声がした。
「本気か」
「もちろん」
男は左眼をギョロギョロ回して仙元を見た。暗闇で光る深海魚の目玉のようだった。
「あんた、見たところ、筋者でもガンマニアでもなさそうだが、ワケありなのか」
「ああ」
「拳銃を握ったの、初めてだろう。殺せるのか」
「できる」
「どうして」
「殺したいからさ」
左の目玉が、グルリとひと回りして、頬が薄く揺れた。
「なるほど、分かり易くていいや」
男はどっかりとパイプ椅子に腰を下ろした。
「実際に撃ってみて分かったと思うが、相手が動き回れば、五メートルの距離でもまず素人には当たらない。だから無理して狙うことはない。感覚で撃つんだ。そのとき狙うのは」
男は自分の額を指さした。
「頭だ。ここさえ狙えば、銃口がお辞儀しても胴体のどっかに当たる。当たれば三八口径だ。ただじゃ済まない。二二口径なら突き抜けるだけだが、これは違う。肩だろうと足だろうと、ぶっとい傷が開く。こぶりのサツマイモくらいの銃創ができて、そこの細胞がグチャグチャに破壊されて血が噴き出すんだよ。人間の身体にサツマイモが二つも開けば、間違いなく死ぬ。まあショック死だな」
「ショックを感じなかったら?」
「なに」
男が、左眼を細めた。白く濁った右眼は丸まったまま動かない。皿の上の煮魚の目玉。
「相手がショックを感じない人間ならどうする」
ゴクッと唾を飲む音が、聞こえた。
「頭か心臓しかねえだろう」
ドスを利かせて言った。
「頭か心臓をどうすればいい」
男の顔にみるみる険が浮いた。
「トーシロがゴチャゴチャと──」
「答えろ、どうやるんだ」
ガタッとパイプ椅子が倒れて男が立ち上がった。憤怒が、顔を朱に染めていた。
「そいつを押さえ付けて、銃口を押し付けて、ぶっ放すしかねえよ」
仁王立ちになって吠えた。ねじ曲がった唇から唾が飛んだ。
「そうすりゃあ、脳みそと血糊でこっちもグシャグシャだ。おまえ、そんな殺しができんのか?」
「できるさ」
シラッと答えた。
「簡単だ、そんなこと」
「簡単……だと……」
男は口を半開きにして、惚けたように立ち尽くした。仙元は手に持った油紙の包みを開いてチーフスペシャルを取り出した。スイングアウトしたシリンダーに弾丸を一個ずつ丁寧に込める。弾倉を埋め終わると、残りの五個をポケットにしまい、シリンダーを元に戻した。右手で銃把を握り、銃口を男に向けた。左手を添え、狙いをつける。男は金縛りにあったように動かない。唇が震えている。
「あんた、何者だ?」
それに答えず、仙元は訊いた。
「怖いか?」
返事を待たずにハンマーを起こした。カチリ。金属の擦れる音。男は、電気ショックを受けたように、首を上下に激しく振った。
「撃つな、撃つなよ……」
か細い涙声で唱えた。構わずトリガーに指をかけた。密閉された地下室で出口を失った恐怖が、男の顔にべっとりへばり付いていた。
「そうか、怖いのか」
呟くと、仙元は合点がいかない、というふうに首を捻った。腕の構えを解き、右手に握った銃をじっと凝視する。長い長い静止。
男は、強ばった唇を動かして、かすれた意味不明の言葉を漏らした。顔全体が脂汗で濡れ、滴《しずく》がポタリと落ちた。金縛りにあったように動かなかった。一分、二分……不意に仙元が顔を上げた。男の存在など忘れたかのように背を向け、スチール製の引き戸を開けた。途端に上から工作機械の凶暴な唸り声が降ってくる。階段を三段飛ばしで駆け上がりながら拳銃をズボンと腹の間に差し込んだ。強烈なドラムに似た音が、頭をジンジンさせる。背後で太い息を吐いてヘナヘナと座り込んだ男の姿など、知る由もなかった。
工場のシャッターを開け、外へ出ると辺りには生ぬるい暗色が漂っていた。時計を見ると、まだ午後四時を少し回った時刻。時間のせいじゃない。あれほど強烈だった陽射しが嘘のように消え、代わりに湿りを含んだ風が顔を嬲った。見上げると、空は一面、鉛色だった。千切れた雲が、西へ向かって飛ぶように流れていく。
地下室に潜っていた、僅か一時間余りの間に、世界が一変していた。
仙元は駆けた。ドクンドクンという心臓の音が鼓膜に響く。住宅街を貫く小路を走りながら、適当な場所を探して、血走った眼を左右にやる。息が弾む。あった。ブランコと滑り台だけの小さな公園。それに公衆便所。仙元は和式トイレに飛び込むと、震える手でドアのカギを閉めた。額から首筋にかけて、ねっとりした脂汗が浮いている。アンモニア臭い、蒸れた空気が肌に絡み付いた。荒い息を吐きながら、チーフスペシャルを腹から抜き出した。銃身に左手を添え、そっと自分の喉元に当てる。冷たい鉄の感触。トリガーに指をかけた。静止。時間も空間も、すべてが止まった。ヒグラシが鳴き喚き、熱い奔流となって鼓膜を叩いた。眼をそっと閉じ、仙元は待った。が、来なかった。期待したものは闇に沈み、黒い塊となったまま動かなかった。頬が強ばった。涙が滲んだ。頭の中で燃えたマグマがのたりと動いて、声が聞こえた。
≪死ぬという事実、この世から自分が消えてしまうという事実に対して、何のブレーキも働かないの。自分の命に興味がないのよ≫
ちづるの声が、頭蓋骨の奥で蠢いた。銃を腹にしまい込むと、転がるように便所を飛び出し、よろめく足でベンチに倒れ込んだ。目尻をジャケットの袖で拭き、携帯電話で黒田ちづるの番号を呼び出した。だが、呼び出し音の代わりに、繋がらない旨を知らせるアナウンスが聞こえただけだった。次いで、武蔵野東病院へ電話を入れると、応対した女性は「欠勤です」と事務的に答えた。理由までは教えてくれなかった。
*  *
──いったい幾つ埋めればいいのだろう。しかも、あんなひどいモノを。
キムの頭の中に垂れ込めていた乳白色の霧が、時を追うごとに薄く、淡くなっていく。
濁って酸素の希薄になった空気が、汗ばんだ体に絡みつく。ランタンが二個、ひとつは天井から吊るされ、ひとつは作業を終えたばかりの床を照らしていた。地下の、空調室となるはずの部屋だった。四方をコンクリートで固められた、だだっ広い空間。キムを入れて六人のメンバー全員が床に座り込み、肩で息をしている。迷彩ズボンに編み上げ靴。裸の上半身は汗に濡れ、ランタンの明かりを反射して、テンプラ油をぶっかけたように光っている。皆、疲れ切っていた。飽きるほど、ツルハシを振るってきたのだ。両手がビリビリ痺れている。身を削る重労働だった。鋼の尖った切っ先が、硬いコンクリートを叩いては跳ね返され、僅かな破片とともに青白い火花が飛び散った。その無数の火花が、いまでも瞼の裏でチカチカと瞬いている。厚く硬いコンクリートの床を引っ掻いて延々と掘り、埋めたのだ。賽《さい》の河原の石積みにも似た、いつ果てるとも知れない仕事だった。
ゼイゼイという荒い息だけが壁に反響して、言葉を交わす気力もない。自信と誇りを胸に渋谷を闊歩し、周囲の畏敬と羨望を全身に浴びながら、街の治安に努めた日々が嘘のようだった。投げ出されたツルハシとスコップ、コンクリートの残骸、セメントをこねるベニヤ板。狂気に支配された現実を物語る道具の数々をぼんやり眺めた。
キムの頭を厚く覆っていた霧が少しずつ薄れ始めたのは、あの日からだった。
荻窪のマンションに侵入した日。
リーダーとキンゾウ、そしておれ。誰もいないはずだった。事前に電話を入れて留守を確かめ、インターホンも鳴らしている。反応はなかった。おれたちはドアの前でゴム手袋をはめた。リーダーが顎をしゃくって行け≠ニ言っている。おれはポケットから道具を取り出した。錠前屋のアルバイトから流してもらった開錠セットだ。器具の先端をシリンダー錠の鍵穴に突っ込んで、慎重に回すと、カチッと音がして呆気なく開いた。
手早く部屋を見て回る。二人がけのテーブルセットとソファのあるリビング、フローリングの部屋。カギのかかった玄関脇の部屋。
「ひとがいます!」
キンゾウが低く叫んだ。フローリングに置かれたベッド。キンゾウが布団を剥ぐと、震える、パジャマ姿の少年がいた。瞳が恐怖に濡れている。
「息子か?」
リーダーが言った。少年は喘ぐように頷いた。薄い胸が波打っている。
「中学生だろう」
頷く。
「なぜ出なかった。インターホンを鳴らしたのに」
震えて、歯がガチガチ鳴っている。
「病気なのか?」
リーダーの言葉にかぶりを振った途端、少年はベッドから吹っ飛んだ。顎を蹴りあげられていた。
「リーダーの前でなんだ、その態度は! 口があるだろう、口が」
仁王立ちになったキンゾウが吠えた。
「はい、すいません」
少年は悲しいほど柔順だった。
「おまえの父親の仕事場は玄関脇の部屋だな」
リーダーの問いに、少年はヨロヨロと立ち上がりながら言った。
「はい、そうです」
「カギは?」
「ここにはありません。お父さんが持っています」
圧倒的な暴力の前で、自分がいかに無力かを少年は悟ったようだった。
「キム、開けろ」
リーダーの命令で、おれは部屋のドアを開けた。その後はキンゾウの出番だった。デスクトップ型のパソコンに取り付くと、すぐに立ちあげた。少年はリーダーの前で正座をさせられている。
「このオヤジ、いやな性格をしてますね」
キーボードとマウスを操作していたキンゾウが吐き捨てた。
「どうした」
「いえね、このSPECIALっていうフォルダに間違いないと思うんだけど──なかなか開かないんですよ」
画面のフォルダをクリックするが、まるで合わせ鏡のように次から次へと、新しいフォルダが現れる。
「二十階層、三十階層──まだだ」
水に浮かぶ、薔薇の花弁のようなフォルダだった。キンゾウの顔に焦りの色が浮かぶ。せっかく自宅に侵入したのに、情報にアクセスできなかったらリーダーに面目が立たないから必死だ。それになにより、名門女子大の裏口入学の情報を手に入れ、社会に正義を問う、というおれたちの計画も水泡に帰してしまう。三分、四分──フォルダが開いた。しかし、そこからピクリとも動かない。固い沈黙が流れた。
「キンゾウ、パスワードじゃないのか?」
おれは思わず声をかけた。
「オフィスのと違ってひとりで使うパソコンなんだから、普通はパスワードなんか使わないんですよ。それに、パスワードを打ち込むとこなんか、どこにもないんです」
キンゾウは、マウスをせわしなく動かす。と、ピーッと甲高い警告音が鳴った。
「チクショウ、なにか仕掛けやがったな。このオヤジ、ホントいやなやつだ。なんでパーソナルで使うパソコンにここまで──」
キンゾウが呻いた。
「猜疑心《さいぎしん》の塊なんだろう。自室にカギを掛けるのも異常だ。しかもチェーン錠まで取り付けて。この男はおかしい。頭の中が歪んでいる」
リーダーは、判決を下す裁判官のように言った。
「違うよ、違うんだ!」
少年が喚いた。床から立ち上がって拳を握り締めている。
「どう違うんだ」
リーダーが訊いた。
「お父さんは異常なんかじゃない。おれのせいだ。おれが暴れるから、部屋にカギを掛けたんだ」
「おまえ、何をやってたんだ」
リーダーが少年の眼を覗き込んだ。
「登校拒否に家庭内暴力でおれ、メチャクチャだった。でも、もう治った。中学も転校して、二学期からちゃんと通うと決めたんだ。全部、お父さんのおかげなんだ。お父さんがおれを助けてくれたんだ」
一気にまくしたてた。
「おまえのせいでおれは──」
突然、キンゾウの怒りの矛先が、少年へと向けられた。右ストレートが頬で炸裂した。少年は引っ繰り返って、呻いた。キンゾウの思考は手前勝手で短絡的だ。いつの間にか、仕事部屋にカギを取り付けさせた少年が、パソコンのセキュリティシステムも設置させたことになっている。
「おまえが治っただと? 昼間からベッドに入り込んで、ひとが訪ねてきても、勝手にカギを開けて入り込んでも出てこない。なんでそこまで無視できるんだ。どこがまともなんだ。ちゃんと家を守れよ。犬っころほども役に立たない、この出来損ないが!」
キンゾウは床に転がった少年に、指をポキポキ鳴らして歩み寄った。
「おれがその甘えた性根を叩き直してやる」
少年は床を這うようにして、背を向けた。
「キンゾウ、戻れ」
リーダーの鋭い声が疾った。キンゾウは少年をそのままに、弾かれたように駆け寄った。
リーダーはディスプレイを見ていた。
「このフォルダを開いてくれ」
おれは二人の背後から覗き込んだ。画面の右片隅に寄せられた『DIARY』のフォルダ。キンゾウがクリックする。セキュリティがかかっていないらしく、瞬時にびっしりと文字が現れた。
「頭からスクロールしろ」
しばらく文章を追っていたリーダーが、突然、何がおかしいのか、ククッと笑った。床に這いつくばったままの少年は、これから何が起こるのか見当もつかず、不安そうに視線を巡らせている。すべてを読み終わるのに、五分も要らなかった。リーダーは、ディスプレイから視線を外すと少年に言った。
「この日記にはおまえのことが書いてある。知っていたか」
少年は眼を大きく見開いてかぶりを振った。
「いいえ、知りません」
「父親はおまえに何をした。明け方、生身の魂がぶつかりあった経験ってのは何なんだ?」
少年は、アッと短く叫んだ。知られてはならない父と子の秘密。だが、リーダーは構わず続けた。
「おかげでおまえの呪いは解けたんだろう」
「おれ、狂ったみたいに暴れてどうしようもなかったから、お父さん、追い詰められたんだ。それでおれの首を絞めて……」
「殺そうとしたんだな」
少年は慌てて首を振った。
「お父さん、変になっちゃったんだ。おれがあんまり暴れるから……その後は二人とも我に返って泣いて……おれが悪いんだ」
「バカなやつだ」
リーダーが呟いた。
「ここに書いてあることは全部ウソだ。ぼくには分かる。おまえの父親は本当のことを書いていない。臆病で卑劣な社会のゴミだ。そしておまえもゴミだ」
「違うよ」
少年は再び立ち上がった。
「おれのお父さんはゴミなんかじゃない!」
恐怖で紫色に染まった唇がブルブル震えた。
「命を懸けておれを助けてくれたんだ。仕事もなにもかも止めて、毎日おれのキャッチボールに付き合ってるんだ。おれがまともになるようにって。だからおれ、しっかり生きていかなきゃダメなんだ」
信じられなかった。少年は、父親を庇《かば》っている。この逃げも隠れも出来ない密室で、おれたちのリーダーに真っ向から逆らって……だが、それも一瞬だった。キンゾウが怒声を上げて、少年を蹴り倒した。床に倒れ込んだ少年は四つん這いのまま廊下へ逃げた。か細い悲鳴が、途切れ途切れに漏れている。
「おまえにはやっぱり制裁が必要だ。そうですよね、リーダー」
リーダーが軽く頷いた。キンゾウはネズミを弄ぶネコのように、ゆっくりとフローリングに追い詰めた。喉で短く笑って脇腹に蹴りを入れる。編み上げ靴の硬い爪先がめり込んだ。また引っ繰り返った。今度は荒い息をゼイゼイと吐いて、動かない。
「キンゾウ、ナイフを使え」
「えっ」
おれとキンゾウは同時にリーダーの顔を見た。だが、リーダーはいつもの静かな表情だった。
「不登校に家庭内暴力。こんな社会のゴミはいらない。しかも、ぼくたちの邪魔までして──キンゾウ、そうは思わないか」
キンゾウは唇を固く結んだ。
「返事がない!」
リーダーが短く叫んだ。
「そう思います、リーダー」
キンゾウの眼が青く光った。
「おれたちは正義を遂行するために、懸命に努力しているんですよね」
尻のポケットから飛び出しナイフを抜いた。ピーンと金属の弾ける音がして、白く光るブレードが飛び出した。
「やめて、助けて」
ナイフを見た途端、少年の喉から悲鳴が迸《ほとばし》り出た。ベッドに手を掛けて這い上がろうとするが、腰が抜けて立てない。キンゾウは唇の端を吊り上げてにじり寄ると、少年を見下ろした。たまらず、おれは低く叫んだ。
「リーダー、ひとが来ますよ」
もう逃げ出したかった。だが、リーダーを無視した勝手な振る舞いは絶対に許されない。それが『シティ・ガード』の掟だ。
「キンゾウ、人間の命なんてそれほど大したものじゃないんだ。もちろん、おまえの命も例外じゃない」
リーダーの言葉に、キンゾウがビクッと震えたのが分かった。得体の知れない力に押されるように、一歩、足を踏み出した。
「キム、おまえの命だって吹けば飛ぶようなものだ。分かるか」
リーダーがこっちを見た。おれはその感情の窺えない水晶のような視線を止めきれず、俯いた。
「分かります」
骨の髄から分かってる。リーダーに背《そむ》いたら、どうなるかを……。
「この世に、ぼくたちの崇高な志を阻むものは何もない。もしあるとしたら、排除するまでだ。ぼくは、自分の信じるもののために戦う。正義はすべてを駆逐できるんだ。理想の世界は、いまやぼくたちの掌にある」
さっき「ナイフを使え」と命じた声が、今は己の信念を滔々《とうとう》と語っている。これがリーダーだ。どんな場面でも些かの揺れもみせない強靭な意志。荒い息が部屋を満たしていた。キンゾウと少年、そしておれ。
「キンゾウ、目の前の線を越えるんだ。醜い大人どもが引いた勝手な線を越えない限り、その先の理想は掴めないぞ」
リーダーが促す。しかし、キンゾウは唇を噛んだまま動かない。いや、動けない。眼を見開き、フーッ、フーッと歯の間から憤怒の息を漏らしている。手に取るように分かる。キンゾウは怖いのだ。リーダーと、そして目の前に横たわる殺しが。だが、リーダーは違う。リーダーは別格だ。一切の恐怖心と無縁だ。現にもう二つも──
不意に部屋の空気が動いた。
「貸せ」
リーダーは踏み出すと、キンゾウの手からナイフを取り上げた。
「こうやるんだ」
言うなり、涙を流して許しを乞う少年の肩を左手で押さえ、ナイフを横に払った。迷いのない、流れるような動きだった。首を裂かれ、少年が崩れ落ちるのと、リーダーがスッと下がり、血しぶきを避けるのと同時だった。少年は右手でシーツを掴んだまま、ゴロンと横になった。眼を丸く開いている。喉は熟れきったスモモみたいに紅く、ぱっくりと口をあけ、その奥に白い骨が見えていた。
おれとキンゾウは眼を見開いて固まったまま、真っ白になっていく少年の顔を眺めていた。さっきまで、悲鳴をあげていたのに、もう生のかけらもない。この少年の命はどこへ消えたのだろう。喉から流れる血と一緒に出てしまったんだろうか。不思議な気がした。ドンドン、と玄関のドアを叩く音と、誰かが呼びかける声が聞こえる。どこか遠くの山で響く、木霊《こだま》のようだ。
「行くぞ」
リーダーの太い、強固な意志を含んだ声で我に返った。おれたちは、窓を開けて外へ飛び出した。
あれからなんだ、おれの頭の霧が晴れてきたのは。少年は本当にゴミだったんだろうか。疑念がポツンと湧くと、それは白い和紙に垂らした一滴のインクのように広がっていった。あの少年は、父親を尊敬していた。恐怖に震えながら、庇っていた。ゴミがあんなこと、するだろうか。
おれは親父を尊敬している。知らないやつは朝鮮民族特有の儒教のせいだと言うだろうが、違う。親父はちっぽけな焼肉屋を営み、おれと弟二人を育ててくれた。教養も商売の才覚もないが、愛情だけは、存分に注いでくれた。だから何のてらいもなく、尊敬している、と言える。
じゃあ、親父を尊敬しているおれも、あの少年と同様、ゴミなのか? 違う。おれも少年もゴミじゃない。リーダーは間違っている。
おれはカンテラに照らされたコンクリートの床を見た。細長く湿った陰が三つ。深く埋め込まれた棺桶だった。ひとつめは男。ゾクあがりのワル、と言っていた。ヒモで食ってる怠け者で、カツアゲしか能のない街の不良。二つ目は女。オヤジ狩りで荒稼ぎをしていた高校中退の女だ。チーマーどもに輪姦され、すすり泣いていたあのシャブ中の片割れ。そして三つ目。いま埋めたばかりのやつ。おれとキンゾウがさらってきた年増の女医者だった。リーダーは『シティ・ガード』を崩壊させかねない情報を握っている、だから殺した、と言っていた。もし、おれがあのマンションの部屋で、キンゾウの迷いを受け止めていたら、死ななくてもよかった女だ。
おれたちはリーダーが殺すたびに、分厚いコンクリートをツルハシで砕いて穴を掘った。そして、セメントを流し込んで埋めたのだ。あの荻窪の少年以外、すべてそうやって始末した。
だが、もう終わりだ。霧が晴れたいま、何が正しくて何がワルかが分かる。リーダーが、いや三枝航がワルだ。あいつは狂ってる。
キムは立ち上がった。階段に座り込み、じっと俯いたままのキンゾウに声を掛けた。
「キンゾウ、もうやめよう」
ユラリと顔を上げた。眼が、タバスコを垂らしたように赤い。
「なにをです?」
「三枝はおかしい。普通じゃない」
キンゾウが立ち上がった。
「キムさん、本気ですか」
眼がスッと細まった。緊張と殺気が張り詰めた。もう後戻りは出来なかった。
「医者の女が言った通りだ。ヤツは狂っている」
四人のメンバーが立ち上がった。険しい視線を飛ばしてくる。
「いまごろ何を言ってるんですか」
「やっと分かったんだ、キンゾウ。おれたちは三枝にコントロールされているんだ」
「バカな。おれはもう迷いませんよ」
「おれたちは三人の死体を埋めた。全員、あいつが殺したやつだ。おまえ、こういうことをやるために、すべてを捨てたのか? 親を捨て、友達を捨て、学校を捨てて」
キムを囲むメンバーの輪が、ジリッと狭まった。だが、キムは続けた。
「これから、まだまだ意味のない殺しが続くぞ。現に三枝は、新たな敵に備えろ、と言っている。二十四時間体制で、このビルを固めろ、と命令しているんだ。おかしいと思わないのか。おれたちは、あいつの敵とやりあうためにシティ・ガードを結成したのか? もっともっと高邁な理想があったのと違うか?」
キンゾウが鼻を鳴らして笑った。
「キムさん、いや、キム、あんた怖くなったな。おれは知っているんだ」
伝法な物言いに変わった。
「何を」
「光りもん、見てビビッたろう。街のチーマーどもにフクロにされて、手も足も出なかったろう」
脳裏に、足が竦《すく》み、カメのようにうずくまった自分の姿が湧いた。助けて、助けて、と無様に叫んだ臆病者。屈辱に眼が眩んだ。
「三枝から訊いたのか」
「リーダーは何でも知ってるさ。あんた、自分の親父を尊敬してるんだってな。バカじゃないの。親とか兄弟とか、そんなの自分の意志で選んだものじゃないだろう。気がついたら勝手にいたんじゃないか。こっちは頼みもしないのに。あんた、もっと賢くなれよ。あんたの親父のどこが尊敬に値するんだよ」
「その汚い口を閉じろ、キンゾウ」
「小汚い焼肉屋をやるしか能のない、向上心も社会への疑問も持たない間抜けだろう。そしてあんたはどうしようもない臆病者だ」
怒りに視界が揺れた。憤怒の呻きを漏らして、一歩、足を踏み出し、そのとき声がした。
「ダメだったな」
振り向いた。全員が一斉に視線を注いだ先に、階段を降りてくる人影があった。
「やっぱりダメだ」
その姿を見た途端、頭の芯が痺れ、固く結んだはずの意志が粉々に砕け散るのが分かった。出口のない自分の運命を悟り、足下から震えが這い上がった。
「リーダー!」
キンゾウが叫んだ。戸惑いと恭順のまじった声だった。だが、三枝航の視線はキムだけをとらえていた。ランタンの炎に照らされ、陽炎のようにゆらめきながら歩を進めてくる航。キムはピクリとも動けなかった。陰影をくっきり刻んだ氷の顔が、キムの前で止まった。
「おまえはダメなやつだ」
地を這う霧のように低く、朧《おぼろ》な声だった。
「なにが」
キムは拳を固めた。無様に鳴っている歯を噛み締めた。
「心が弱い。本当の正義が分かっていない」
「リーダー、あんたは狂っているんだ。でなきゃ、あんなに簡単にひとを殺せはしない」
喉を絞った。どろりとした汗がこめかみから頬へと流れた。航は視線を据えたまま、かぶりを振った。
「本物の正義の前では、すべてが許されるんだ。ぼくの言葉こそが真実なのに、それを疑うならもう救いようがない。堕落したゴミは『シティ・ガード』にはいらない」
キムは、最後の審判を下された死刑囚だった。強烈な死の臭いが鼻をついた。見え始めた暗黒の底無し沼──生きたかった。全身の細胞が身を捩《よじ》って泣いている。死ぬのは嫌だ、骨の髄から怖い。キムは砕け散った意志の切れっ端をかき集めて、向かい合った。生きて、ここを抜け出して、いろんなことをやりたかった。大学だって行ってやる。約束したんだ。父親の顔が一瞬だけ、浮かんだ。武骨で愚直な顔だった。
右足を後ろに引いた。四方をコンクリートで塞がれた地下室。退路はなかった。息を吸い、ゆっくりと吐いた。全身の筋肉が軋《きし》みをあげ、ピンと張った。キムは両腕をアップライトに構えた。航は両足を軽く開いたまま佇立した、柔らかな自然体だった。
「キム、本物の正義の強さを見せてやるよ」
冷えた声。唇を噛んだ。血の味が滲んだ。航の言葉に誘われるように、キムがすっと動いた。と、空気が裂く音がした。ノーモーションから飛ばしたキムの右前蹴り。三枝航の自然体がユラッと揺れた。身体の芯を捻って透かす。キムは空を切った右足をそのまま踏み込み、踵《かかと》を基点に、素早く回転した。膝を折り畳んだ左脚が、スプリングで弾かれたスウィッチナイフのように伸びる。右前蹴りから左のバックスピンキック。わずか半呼吸の間に放った、電光石火の連続技だった。前蹴りを見事な体|捌《さば》きで透かした三枝航も、続けざまに肩口から飛んで来た左踵には一瞬、反応が遅れた。高速のコマを思わせるスピンキックが頬骨を砕く寸前、上半身を鞭のようにしならせ、スエーで逃げる。が、反応が遅れた分、両足が揃い、僅かに体勢が崩れた。勝機! 連続技は捨て身のフェイントだった。
キムはコンクリートを蹴った。絶叫とともに空中高く跳び上がり、右脚を振り下ろした。ブンッと空気が震えた。一本の鋼となった脚の切っ先、硬い踵が脳天を直撃した、と見えた瞬間、キムの巨体が弾け飛んだ。脳天を襲ったはずの脚が、合掌の格好で重ねた三枝航の両腕に払われていた。キムの身体が、空中で無様に傾《かし》いだ。標的を失い、泳いだ右脚を、航の両手が瞬時に抱え込み、そのまま身体ごと巻き込むようにスピンした。キムの巨体が、きりもみ状に回転して床に叩きつけられた。骨と肉がバラバラになりそうな衝撃音。キムがコンクリートの床で跳ね上がった。
「グウッ」呻いた。顔を顰《しか》め、上半身を捻って片肘をつき、それでも立ち上がった。腰がよろけていた。吐く息が荒い。
「キンゾウ、ナイフだ」
航の声に、キンゾウがビクンと反応した。
「今度はできるだろう」
コクンと顎を上下させ、キンゾウが低く身体を沈めた。ピーン、と金属の弾ける音。右手にナイフを握り、ジリジリとにじり寄る。
「恐れる必要はない。相手はゴミなんだ。殺すなんて簡単だ」
腕組みをして立つ航が、冷たく言った。
「おれだって、人ぐらい殺せる」
キンゾウがぶつぶつと口の中で呟く。
「おれはあんたとは違う」
念仏のような声だった。
「そうだ、おまえは臆病じゃない。だから殺せる」
航の言葉に後押しされるように、キンゾウが一気に間合いを詰めた。瞬間、跳ねたゴムのように右手がしなる。ナイフが疾った。キムは懸命に上半身を捻った。が、朦朧とした意識は反射神経を鈍磨させ、一瞬の差で、首に氷が触った。ビュッと冷風が吹き込んだ。キムは手を当てた。熱い。ヌルッとした湯が手を濡らした。
「許さない。リーダーのことを悪く言うやつを、おれは許さない!」
キムの全身が沸騰して、力が抜けた。自分の意志とは関係なく、カクンと両膝が折れた。
「キム、おれはあんたとは違う。臆病者じゃない。おれだって人くらい殺せるんだよ、分かったか!」
キンゾウが、爆発した。ナイフを持ったまま絶叫した。勝ち誇った鬨《とき》の声だった。キムは虚ろな眼でキンゾウを見た。口を開いた。声の代わりに血が垂れ、ゴボッ、と腐った沼の泡が弾けるような音が漏れた。見下ろすキンゾウが唇を歪めた。右足を振り上げ、胸を蹴りつける。キムはそのまま木偶《でく》のように後ろへ倒れ込み、床に黒い血溜まりを作った。右手が二回、コンクリートを掻いて、止まった。
傍らで見ていた航が腕組みを解き、静かに歩み寄った。そっと腕を回しキンゾウの肩を抱いた。足下には血塗《ちまみ》れの肉塊。顔を寄せ、さも愛おしそうに頬擦りをする。キンゾウは、とろけるような笑みを浮かべた。
「もう、恐れるものはないよ、キンゾウ。おまえは線を越えたんだ」
「はい」
「どうだ、世の中が変わって見えるだろう」
「はい」
「簡単なことなんだ」
「はい、おれはもう何も怖くありません」
自信に満ちた声が四方のコンクリートに反響し、柔らかく辺りを満たした。キンゾウは愉悦の中に漂い、陶酔した。
*  *
地の底から響くような鼾《いびき》だった。頬を嬲る生臭い息で目覚めた南田は、ゆっくり首をひねった。和美がいた。口を開け、よだれを垂らした和美が、眠りを貪っている。欲望を満喫し、だらしなくのびきった顔。一糸まとわぬその脂肪の塊は、煮崩れた餅のようにダラリと緩んで広がっていた。
天井にはポスター。屹立したペニスを誇らしげに晒す金髪の男。ゴミの山が放つ腐臭と汗、それに体液の臭いが暑気に蒸れて、呼吸するごとに猛烈な吐き気が込み上げた。記憶が蘇った。頭を持ち上げて視線を走らせる。手足を大の字に広げ、ダブルベッドに縛り付けられた素っ裸の自分。南田は恥辱に心臓を掴まれ、思わず叫び声をあげそうになった。
昨日の夕方、アパートの前にクルマを停めさせた和美は、手錠でつながった南田をスタンガンで散々痛めつけたのだ。南田は、容赦なく加えられる強烈な電気ショックに、次第に頭が朦朧として、夢遊病者のような足取りで、この反吐が出そうなアパートに連れ込まれた。和美は、ベッドに突き飛ばすと、すぐに縛り付けた。あらかじめ用意してあった細引きのナイロン製の紐。抗《あらが》うほど、締まっていくやつ。
自由を奪い取り、スーツからシャツ、パンツまで、鋏で切り刻んだ和美は、自らも裸になると、鼻を鳴らしながら、のしかかった。顔をベロベロなめ回し、手で南田の下半身をしごきながら、喚いた。
「一晩中、可愛がってあげるから、わたしのこと、分かってね」
南田のモノは、意識とは関係なく反応した。屈辱と恐怖が股間に血液を送り込み、情けないほど怒張した。和美はしごきながら舌を這わせ、肥えた身体をくねらせて、上目遣いに囁いた。
「まあ、こんなになっちゃって、わたしが恥ずかしいくらい」
和美は四回、いや五回、南田を犯した。夜明けまで、ゆっくりと、痴態の限りを尽くして。粘りつくような肉で散々揉み上げ、精を吸い尽くした和美が、
「これで分かり合えたみたいね」
とニッコリ笑った途端、南田の意識は薄れた。
──逃げよう。
目覚めた南田には、それしか頭になかった。右手首の、緩んだ紐に首を伸ばして噛み千切り、縛りから解放されると、部屋の中央に陣取るタンスの中を探り、真っ赤な上下のスウェットを引っ張り出して着込んだ。次いで、ハサミで切り裂かれた服を取り上げ、財布と免許証、携帯電話、キーホルダーを抜き出す。
──逃げろ、この化け物屋敷から一歩でも二歩でも遠くへ。
焦れば焦るほど、手が震えてうまく抜き出せない。チャリンとキーの束をゴミの山に落とし、拾い上げたその時だった。シンとした静寂に身体が硬直した。鼾が消えていた。背後に生臭い風を感じた。弾かれるように振り返った。素っ裸の和美が仁王立ちになって睨んでいた。
「まだ分かってないのかよ、このノータリン」
丸い鼻に縦ジワを刻み、黄色い歯を剥いている。シュー、シューと蛇の声が迫る。悲鳴が喉までせり上がった。殺される──南田は咄嗟《とつさ》に化粧台の椅子を掴み、思いきり横に払った。鈍い手応えが肩まで響いて、豚の金切り声のような悲鳴が耳を打った。ゴミの中にドスンと倒れ込んだ和美に向かって、椅子を振り下ろした。何度も何度も。悲鳴が次第に途切れ、消えた。
髪の毛をべっとりと血で濡らした和美は俯せのまま、頭を潰されたガマガエルのようにピクリともしない。南田は、ふっと息を吐くと、急にひどい喉の渇きを覚えた。昨夜から散々弄ばれて、汗と体液をこってり絞られたのだ。食い物のカスが腐ってどす黒くなった台所の蛇口を捻り、錆びた水道管を伝ってくるぬるい水を喉を鳴らして飲んだ。乾きが収まると、ふいに怖気《おぞけ》がふるい、恐る恐る和美を見た。赤く濡れた首筋でモゾモゾ動くものがある。息を詰めて凝視した。血にまみれて羽をこする蠅。ヒッと短い悲鳴を漏らし、南田は外へ転がるように出た。ダボッとした、それでいてつんつるてんの赤のスウェットなど、気にする余裕もなかった。──殺した、いや、生きている、これは正当防衛だ、おれは拉致され、レイプされたんだ。えっ、おれが、この男のおれがレイプされた?
頭はパニック寸前だった。アパート前に停めたゴルフに乗り込み、タイヤを軋ませてスタートさせた。
まず服を買って、それからそれから……考えがまとまらない。眩しい。目を瞬《しばたた》く。すれ違うクルマのライトだった。パネルの時計を見るとまだ午後五時。だが、空には黒い雲が厚く垂れ込めている。陰気な空気が胸を締め付ける。どうしようもない息苦しさを感じて、窓をあけた。生ぬるい風が少しだけ、脳に酸素を送り込んだ。
──どうしたらいい?
編集部か? ダメだ。トラブルを嫌う巽に罵詈《ばり》雑言を浴びせられるのがオチだ。さんざんデスクや編集部員の笑い者になって、うなだれる自分の無様な姿が見えた。女に拉致され、レイプされた間抜け。いやだ、絶対にいやだ。せっかくここまで来たのに。あの仙元を押しのけ、フロントを書くライターにまでのし上がったのに。これから、仙元に頼らない独自のネタで勝負できそうだというのに。
南田は自分の運命を呪って呻いた。水滴が弾けた。ひとつ、ふたつ、大粒の雨が、フロントガラスを叩き始めたかと思うと、あっという間に土砂降りの雨が辺りの風景を鉛色に染めた。
*  *
あの男が訪ねて来たとき、夕方から降り始めた雨はますます激しくなっていた。雨水の流れが玄関先の排水口に吸い込まれ、ぐるぐる黒い渦を描いている。
勇志は男に少し待つように言い、家の中へ戻ると身支度を整えた。階段を降りる音がして、母の君子が顔を覗かせた。不安と恐怖の混じった表情。
「どこへ行くんだい、こんな時間に」
「大事な用が出来たんだ」
「いま訪ねてきたの、だれだい」
「知り合いだよ」
勇志は素っ気なく答えた。
「おまえ、そんなひと、いないじゃないか。家まで訪ねてくるような親しいひと、いないはずだよ」
責めるように言うと、君子はゴクリと喉を鳴らした。
「もしかして、三枝君かい」
消え入りそうな声が、勇志の神経を引っ掻いた。ジーパンのベルトを留めながら、睨んだ。
「おふくろ、航が怖いんだろう、だったら口を出すなよ、今夜で全部、ケリつけるから」
言ったあと、唇を噛んだが、もう遅かった。君子は両手で勇志のボタンダウンの胸元をひっしと掴むと、涙ながらに訴えた。
「行っちゃダメだよ、勇志、もうかかわんないほうがいい。あんたに何かあったら、じいちゃんはどうなる、あたしはどうなる!」
胸倉を掴まれながら、勇志はベッドに横たわったままの武三を見た。白い無精髭が浮いた、その顔は、じっと眼を閉じ、何かに耐えるように唇を震わせている。勇志は顔を伏せた。胃が絞られ、酸っぱい味が喉をせりあがった。
「大丈夫だよ、航はおれの友達なんだ。おれ、行かなきゃいけないんだ」
「おまえ──」
勇志は、何か言おうとする君子の腕を強引に払いのけ、大股で玄関に降りた。スニーカーに足を突っ込み、ビニール傘を掴みながらガラス戸を開ける。太い雨粒が顔を叩いた。傘を手にした仙元がそっと振り向いた。
「行こう、早く!」
勇志は短く声を掛けた。君子が転がるように玄関を飛び出してくる。戸惑った表情で立ち尽くす仙元に、勇志が怒鳴った。
「あんた、ボヤボヤすんなよ、早く来いよ!」
勇志と仙元は走った。後ろで君子の声がした。
「勇志、おまえになにかあったら、あたし──」
語尾が、雨に煙る路地の暗がりに消えた。
激しい雨音だけが聞こえる。多摩川の堤防に停めたクルマの中には、固い沈黙が張り詰めていた。仙元はフロントガラスを叩く雨粒を、じっと見つめて動かなかった。
「おふくろさん、泣いていたな」
ボソッと呟いた。助手席の勇志は、前を向いたまま、硬い表情を崩さない。
「おまえは幸せだ」
「なにが」
尖った声を吐いた。仙元は続けた。
「あの小便とクソの臭いの籠もった家で、おまえたち家族はお互いが愛情を注いでいる。なかなかできることじゃない」
「皮肉か」
勇志が強ばった顔を向けた。
「違う。本気でそう思うんだ。家族って脆《もろ》い、幻想みたいなものなのに、おまえたちは強靭な絆で結ばれている。なぜだろう」
首を傾げて訊いた。
「教えてくれ、なぜだ」
「知るか、そんなこと」
勇志は強い口調で吐き捨てた。
「それより、行くんだろう。航のところへ」
「そうだな」
仙元は深い息をひとつ漏らすと、小さく言った。
「場所を教えてくれないか」
勇志の説明したアジトの場所は仙元にも記憶があった。湾岸沿いのオフィスビル。一時、マスコミが盛んにバブルの遺物≠ニして紹介していたオフィスビルだ。都の第三セクターが建設に取り掛かったものの、提携していた不動産会社が倒産し、折からの緊縮財政と相俟《あいま》って建設途中で捨て置かれたままになっていた。
白の軽は環状八号線を世田谷方面に向かって走り、第一京浜を右折した。途中、ファミリーレストランに立ち寄り、仙元はカレーライスとコーヒーを、勇志はコーラを注文した。食事を終えると仙元はトイレに入り、ショルダーバッグからチーフスペシャルを取り出した。装填された弾丸を確認して、腹に差し込む。ついでに電話を一本入れた。相手の、手前勝手な言い分と哀願に、気のない返事で答え、場所と時間を伝えた。
「あんた、もう会ったのか」
トイレから戻った仙元に、勇志は低く言った。店内は激しい雨のためか、閑散としていた。
「だれに」
「ほら、もうひとりだけ、会って確かめたい人間がいる、と言っただろう」
「ああ」
「確かめたのか?」
「もちろんだ」
「何が分かった」
仙元はそれに答えず、タバコに火を点けた。勇志は、ゴクッと喉を鳴らして訊いた。
「復讐するのか? 息子の」
一口吸ったタバコを指先でつまみ、勇志を見た。静かな眼だった。ゆっくりと唇が動いた。
「あいつは殺さなきゃいけない」
途端に勇志の口元に引きつった笑みが浮いた。
「あの航を相手に、あんたひとりでいったい何が出来るんだ。くだらない記事を書くしか能のない中年に」
「おまえはどうする。案内するだけで終わりか」
「おれは──」
言葉に詰まった。仙元は畳み掛けた。
「おれが殺されれば、次はおまえとおまえの家族だ。それは分かっているだろう」
勇志は首を振った。
「おれには、案内するしかできない。あとはあんたひとりでやってくれ。おれは知らない」
「分かっている」
「何が」
「おまえには人は殺せない」
「バカにしてんのか」
上目遣いに睨んだ。
「まっとうな家庭で、まっとうな愛を受けて育ったんだ。おまえには無理だ」
「まっとうな家庭だと? 親父は飲み屋の女と逃げて、ドブに顔突っ込んで野垂れ死だぞ。おかげでいまはクソとションベンの臭いにまみれ、明日を生きるカネさえ心配する毎日だ。そのどこがまっとうな家庭なんだよ」
「さっきの質問に答えてやろう」
仙元が勇志を見た。
「おれが確かめたかったことだよ」
さも面白そうな含み笑いを漏らすと右肘をテーブルに突き、上半身を乗り出した。
「おまえは愚かなやつだ。おれはおかしくって涙が出たよ」
にじり寄った仙元の顔は、勇志の顔とほとんど接していた。
「やっていない殺しで年少に食らい込むような大馬鹿野郎だ、おまえは」
勇志は眼を大きく見開き、歪めた唇をギリッと噛んだ。仙元はテーブルの上で両手を組んで、囁くように語りかけた。
「おまえが殺した同級生、熊井良平のことだが──」
勇志の頬が痙攣したように歪んだ。視線に冥《くら》い光が宿る。だが、仙元は続けた。
「とんでもないガキだったようだな。授業には出ず、手下を引き連れて学校内を練り歩き、恐喝にリンチ、果ては女子生徒を便所に連れ込んでレイプし、妊娠させた、なんて噂もある。おまえが熊井良平を殺したのはイジメの報復、といわれているが、犠牲者はおまえだけじゃない」
「調べたのか」
「おかげで、身体中の汗を絞り切るほど歩いたよ」
「なんで分かる。おれが熊井を殺さなかったって、なんであんたに分かる」
「おまえの心は、ひとを殺すようには出来ていないんだ」
静かな、しかし決然とした言い方だった。
「夜中、ひとりで多摩川の河原に熊井良平を呼び出し、包丁で刺し殺す。こんな恐ろしいことがおまえに出来るか? 三枝の正体を知らなかったら、おそらくおまえの言うことを信じたろう。警察や学校と同じようにな。だが、おれはあいつの正体と、おまえとのおかしな関係を知ったんだ。三枝が絡んでいなきゃ無理だ」
「あんた、航が殺したと言うのか、あの熊井を理由もなく」
「どんな理由がある」
「熊井の正体を知っているのか?」
「凶暴な、他人を思いやる心を一片も持たない、どうしようもない少年だった。みんなそう言っている。匿名で、という条件付きだったがな」
勇志は薄く笑った。
「その通りだよ。だから航は依頼したんだ。熊井に、あのクソ親父を殺すようにって」
仙元の眼がスッと細まった。
「どういうことだ」
「今度はおれが答えてやるよ。あんたに借りは作りたくない。あんた、航の両親を殺したやつのことが気になるんだろう。この前、おれなら知ってるはずって言ったよな。大当たりだよ」
勇志は憑《つ》かれたように喋りまくった。
「航はクソ親父を殺して、お母さんを自由にさせてあげたかったんだ。ずっと続いてきた地獄にピリオドを打ちたかったんだよ。だから熊井に頼んだ。クソ親父をぶっ殺してくれってね。あいつ、カネさえ出せば何でもやるからね」
仙元の心臓が激しく乱打された。全身の血が逆流し、動脈が音をたてて破裂していくようだった。
「殺されたのは父親ひとりじゃない、母親も一緒だ」
喘ぐように言った。
「だから、熊井が止まんなかったんだ。あのバカ、興奮しやがって、お母さんまで刺したんだ。もう分かるだろう?」
「何が」
頭が混乱した。途端に、勇志の顔が怒りに膨らんだ。
「あんた、こんな大事なことがなぜ分かんないの。航はこの世で一番大切なお母さんを、あのバカに殺されたんだぞ。こんなムカつくことがあるか?」
張り付いた喉を引きはがした。
「それが原因で、航は熊井を殺したというのか」
「そうさ。ちゃんと理由があるんだ。おれと航しか知らない理由がね」
仙元は奥歯を噛み、少しだけ、視線を虚空に漂わせたあと、語りかけた。
「ついでにおまえを脅して、代わりに少年院へ送り込んだ、というわけか」
勇志は低く吠えた。
「おれと航はそんな関係じゃない。おれ、航が可哀想だったんだ。航の地獄を訊かされて──」
「いつだ」
「なに?」
「おまえがその地獄ってやつを訊いたのはいつなんだ」
「臨海学校だよ。夜、二人っきりのとき、この耳で聞いたんだ」
「伊豆の松崎だな。航の両親が刺し殺された夜だろう」
勇志は唇をへし曲げた。
「あんた、本当によく知っているな。そうだよ。おれはあの夜、初めて、あいつのおやじのことを知ったんだ。夜中、泊まっていた民宿の空き部屋に忍び込んで、家から持ってきたビデオを見せてくれたからね」
「ビデオ?」
「そう、ビデオだ。家族全員が映っているビデオテープだ」
常軌を逸した暴力とセックス。仙元はおぞましい光景が脳裏に浮かび、息を呑んだ。しかし、勇志の語ったビデオの内容は、仙元の想像とは掛け離れていた。
「それにはお母さんと十歳くらいの航が映っていた。どこかの草原みたいなところだった。お母さんは黄色のワンピースに幅広の白い帽子。航は半袖シャツに半ズボン、それに麦藁帽子。二人で、笑って立っているんだ。夏休みに撮ったらしい」
そう言うと、グラスに半分残っていたコーラを飲み干し、重い息を吐いた。
「それだけか」
「それだけだ」
「ちっともヘンじゃないだろう」
「ああ、写真ならね」
小さく呟いた勇志の顔が強ばった。
「二人はそのまんま、動けなかったんだ。動くとぶん殴られた」
「父親に、か」
「そう、固定カメラにしてビデオを回したまんま、あのいかれた親父が横で見張ってるんだ。少しでも笑顔が崩れたり、体が動くと、おやじが出て来てぶん殴る。画面の真ん中に、突然、熊みたいな大男がどうして出来ないんだ≠ニ怒鳴り散らしながら登場して、張り飛ばすんだ。お母さんはうずくまって呻いてた。航なんか二メートルも跳んで引っ繰り返るんだ。そしておやじは、画面の外に戻る寸前、カメラに向かってお道化るんだ。ピースサインしたり、眼を剥いてベロベロバーをしたり。おれ、途中、何度も涙が出て吐いちゃった。二時間のテープ一本、丸々それだけだもの。二人は、ビデオ一本分の写真を要求されたんだ」
──ビデオ一本分の母子の写真。
「なぜそんなビデオを──」
と言いかけて、言葉が止まった。まともな質問がひどく空虚なものに思われた。だが、勇志は、憎悪を滲ませて答えた。
「おやじが、世界中に二つとない家族の絆を撮りたい≠ニ言ったらしい。無茶苦茶なんだ、あのおやじ。早く殺しちまえばよかったんだ」
「その夜、航から殺人の依頼も打ち明けられたんだな」
「そうだよ。ビデオを見たあと、真夜中の海岸で航はおれに語ってくれた。もう限界だ、熊井に頼んだ≠ニ。熊井のやつ、身体はデカイし、空手をやっていたから、腕っ節は無茶苦茶強かった。高校生をパシリにしていたからね。学校にはほとんど来ないし、臨海学校に出なくても誰も気にもとめない。航はこう言ったよ。今夜、熊井が刺し殺しているはずだ。五十万、払う約束をした≠ニね。おやじは毎晩、酒をベロンベロンになるまで飲んで寝るから、忍び込んでナイフを突き刺しさえすればよかったんだ」
「ところが、熊井は母親まで殺してしまった──」
「おかげで航の計画は台無しだよ」
勇志は涙声になっていた。
「航は、真夜中の多摩川の河原で熊井の喉をかっ切り、そしておまえと会った。そうだな」
仙元が強い口調で言うと、俯き、呻いた。
「堤防の端っこの、空港のすぐ近くに、海に突き出た祠《ほこら》があるんだ。そこで待ってたら、航がやってきた。手には黒く濡れた包丁を持ってた」
「航はなんて言った」
「熊井を殺した、お母さんの仇《かたき》をとってやった、とはっきり言った」
「それから?」
「それからって…………」
語尾が小さく消えた。
「おまえに頼んだんだろう。警察に行ってくれって、頼んだんだろう。血まみれの包丁を押し付けて」
涙で濡れた眼が仙元を見上げた。
「でも、おれ、脅されちゃいない。おれ、航が可哀想だったから、あいつに頼まれなくても引き受けてやるつもりだった。それだけは分かって欲しいんだ」
「おまえはやっぱりバカだ。救いようのない大馬鹿野郎だ」
仙元は眼を細め、短くなったタバコを灰皿に押し付けた。頬がゴリッと動いた。
「嵌《は》められたんだよ」
瞬間、勇志の顔が凍りついた。
「あんた、何言っている──」
「おまえに計画を打ち明けたのも、熊井を殺した夜、現場近くで待たせたのも、すべて計算ずくと思えば合点がいく」
勇志の見開かれた眼が、何かに脅えたように左右に頼りなく揺れた。
「おかしいよ。だってそうだろう。計算といったら、お母さんを殺されちまったことが大きな計算違いなんだから」
「だから、最初からそう計画していたんだ」
「どういうことだよ」
勇志が喘ぐように訊いた。
「熊井には父親だけでなく母親も殺すように依頼した、ということだ」
「なぜだ。なぜ、お母さんまで殺す必要があるんだよ」
「分からない」
大きく首を振った。
「あの家庭でいったい何があったのか、分からない。本当のことは三枝航しか知らないんだ」
「じゃあ、熊井を殺したのは──」
「口封じのためだろう」
仙元は席を立った。
「そして、次はおまえだ」
激しい雨脚がアスファルトを黒く濡らしていた。クルマは水しぶきを跳ね上げて走った。助手席の勇志は頬杖をついて、窓の外を流れていく滲んだ夜景を見ていた。
「あんた、後悔しないのか」
視線を窓の外に向けたまま、口を開いた。
「なにを」
「これからやろうとしていることだよ」
「もう決めたことだ」
仙元は、前方に視線を向けたまま、素っ気なく答えた。
「愛する息子のための復讐ってわけか」
勇志が呟いた。
「おれには、あんたみたいな親父がいなかったんだ。そして航にも──」
言葉はそこで途切れた。仙元の唇が何かを言いたそうに、二度三度、動いたが、それだけだった。
「なあ、あんた」
勇志が呼びかけた。
「航は病気なんだろう」
「どうして」
「昨日、医者に会ったんだ。女の医者」
「どこで」
仙元の眼が底光りした。
「渋谷。夕方、事務所に寄ってみたんだ。もしかしたら、また航に会えるかもしれない、と思って。でも、会ってたら、やっぱり殺されたのかな──その後、声かけられて──医者だって言ってた」
「それからどうした」
「航のこと、病気だって言うから、おれ、少し話したけど、逃げちゃった。デタラメばかり言うから」
「どんなデタラメだ」
「小学校の入学式だよ。航が女の子の格好させられて出た、なんて言うんだ。おれ、頭にきて──」
「その女は治せると言ったか」
「ああ、治るって言ったよ。でも──」
勇志は坊主頭を窓にもたせるようにして、眼を閉じた。
「もう手遅れだ」
クルマはハザードランプを点滅させながら停まった。JR田町駅の手前で右に折れ、東京湾に向かう橋の上だった。下を芝浦運河が流れ、両側には明かりをおとした暗いビルが建ち並んでいる。ビルの間を縫って吹き込む強い風が橋を揺らし、雨を横殴りに叩きつけていた。勇志は、辺りを不安そうに見回した。
「ここじゃない。もっと先だろう」
仙元は腕時計に眼をやった。
「少しだけ時間をくれ。会わなきゃいけない人間がいる」
「誰?」
「おまえには関係のないやつだ」
そう言うと、仙元は激しい雨の中、傘を差し、肩を丸めて出ていった。前方に、同じようにハザードランプを点滅させたクルマが停車している。駆け寄った仙元が、助手席の窓を指で叩くと、スッとドアが開いた。そのまま乗り込んだ仙元と、運転席の人物のシルエットが、対向して走ってくるクルマのヘッドライトに浮かび上がった。眉根を寄せた勇志は、助手席のドアを開けた。ゴッと吹きつける風はドブの臭いがした。叩きつける雨が運河の水面を、まるで沸騰したように白く泡立たせ、強い臭気を膨らませていた。勇志は、前方に眼をやり、歩を進めた。あっという間に全身がずぶ濡れになった。
「おれ、仙元さんしかいないんです。折り返しの電話があったとき、これで助かったと、冗談でなく、思いました。仙元さん、おれ、あんたの息子が殺された原因を作ってしまったんだし、こんなこと言えた義理じゃないことは重々承知している。でも、あんたしかいないんだ。仙元さん、助けてください」
仙元は、ジャケットの懐から折れ曲がったタバコを抜き出すと、指先で延ばした。
「和美がおまえをレイプ、か」
火を点けながら言った。ポロシャツにスラックス姿の南田は、耳の付け根まで真っ赤にすると、怒りと屈辱の入りまじった顔を向けた。
「仙元さん、もとはといえばあんたのネタなんだ。だから──」
「おれにも責任の一端がある、と言いたいのか」
言葉を引き取った。南田は唇を固く結んだ。
「面白い」
仙元が呟いた。
「えッ」
「レイプ告発をした女が、逆に男をレイプしたんだ。こんな面白い話があるか」
「おれ、和美を殺したかもしれないんですよ、それどころじゃ──」
「南田、おまえ、どうやって拉致され、レイプされ、命からがら脱出したかを克明に書いてみろ。当事者にしか書けない最高のスクープだ」
「そんな──」
仙元は紫煙を吐きながら語った。
「おれたちは他人の恥部に手を突っ込んで生活してるんだ。一生、隠し通したい秘密だってあったはずなのに、無理やり暴いて生きてきたんだ。そのおれたちが、リスクのない安全地帯から、いつまでもえらそうなゴタクを並べて生きていけると思うな」
予想もしない言葉に呆気にとられ、南田はポカンと見つめた。が、それも一瞬だった。拳をグッと握り締めて詰め寄ると、怒声をあげた。
「あんた、何をえらそうなことを言っているんだ。あんたが他人を説教する資格があるのか、さんざんおれをデータマンとして利用してきたくせに。仲間をこれっぽちも思いやる気持ちのないあんたに、肥溜めみたいな部屋で、豚みたいな女から好き放題|弄《もてあそ》ばれたおれの気持ちが分かるか。ええ、どうなんだよ」
そこまでまくし立てた南田は、ふっと口を噤《つぐ》んだ。助手席の仙元がこっちを凝視していた。いや、違う。後ろだ。硬い視線が南田の背後に据えられて動かない。南田が弾かれたように振り返ると、運転席の窓からじっと見つめる顔があった。雨に濡れた、坊主頭の少年。
「おまえは……」
眼と眼が合った瞬間、少年は窓の向こうで身体を素早く反転させた。と、車内の空気が激しく動いた。仙元が、助手席を飛び出していた。
「まて、待つんだ!」
仙元は叫んだ。追いすがって腕を掴むと、引き寄せた。
「放せよ、バカヤロウ」
勇志は身をよじって抗った。
「あんた、あいつの仲間だろう。記事にしないとかいって、大嘘じゃないか。自分の息子の死をネタに、航のことを記事にするんだろう。復讐なんて、これっぽっちも考えちゃいないんだ」
大粒の雨に濡れた顔が、燃えるような憎悪に歪んでいた。突風が、耳元で鋭く鳴った。
「落ち着け! 違うんだ」
仙元は腕を掴む手に力を込めた。
「ほら、あいつ、慌てて来たぜ」
尖った視線の先に、水たまりを蹴飛ばして走ってくる南田がいた。
「友田勇志は、その少年は、おれが先に接触したんだ」
荒い息を吐きながら、南田が言った。
「なんだと?」
「彼の事件を通して、少年法の問題点を厳しく衝《つ》いてやるんだよ。もう企画も通ったんだ。編集長もOKを出して、これからってときなんだ。抜け駆けはやめてくれ」
予想もしなかった南田の言葉に、腕を掴む力が緩んだ。勇志は、手を振りほどくと、駆け出した。坊主頭が見る見る小さくなり、雨の中に消えた。南田の喚き声がした。
「あんた、ひどいよ、おれのスクープの邪魔をするなんて。これ、編集部の人間から聞いたんだろう。そうに決まっている。おれの足を引っ張ろうとしているやつがあそこにはウヨウヨしてるんだ。あんたもおれが妬ましいんだろう、おれがフロントを任されて悔しいんだろう。何とか言ってみろ」
南田が、右手でドンと肩をついてきた。仙元はよろけて二、三歩、たたらを踏んだ。
「あんたみたいなロートルの時代じゃないんだよ」
嵩《かさ》にかかった南田は左腕を伸ばし、胸倉を掴んだ。仙元は無言のまま、逆にその手首を右手で掴むと、捻りながら引き剥がした。氷の瞳が、南田を怯《ひる》ませた。眼に脅えが走り、喉仏がせりあがった。
「おまえ、そんなにスクープが欲しいか」
仙元が低く言う。腰を落とした南田はいやいやをするように首を振り、手を引こうとする。が、仙元は許さない。南田の左手を腹部、ずぶ濡れになったジャケットの下にギリギリと引き寄せていく。
「ヒッ」
喉を絞る悲鳴に似た声とともに、南田の視線が落ちた。引き寄せられた手が、ズボンと腹部の間、ベルトに挟まれた銃把に触っていた。
「おまえにスクープをやるよ」
南田は眼を剥き、ゴクッと息を呑んだ。
「ついてこい。本物の銃を使うところを見せてやる」
ザラッとした声だった。南田の長身が強ばって動かない。
「どうした、最高のネタだぞ。人を殺すところを見せてやる。こんなチャンスは二度とない。おまえのレイプなんか問題にならない、超弩級のスクープだ、保証する」
「仙元さん、あんた、まさか三枝航を──」
南田が喘ぐように言った。仙元は、唇を歪めた。頬の肉が緩んだ。笑ったような泣いたような、奇妙な顔だった。
「おれはもう、簡単に人を殺せるんだ。なんのためらいもなく、この手でな──どうだ南田、これから何が起こるのかを見たくないか」
南田は力なく首を振り、下を向いた。形のいい鼻を伝って雨が滴り落ちた。
見上げると、夜空を覆う黒い雲に裂け目が入り、白く縁取られた雲間からは仄かな月の光さえ覗き始めていた。
雨脚は急速に弱まっていた。強烈な陽光に炙られ続けた街を冷やせば、それで用は済んだとでもいうように、分厚い雨雲は遠ざかりつつあった。
そのビルは、暗い空に向かってそびえ立つ、漆黒の巨大な墓標に見えた。仙元は、冷え冷えとした大気を身体全体で感じて、軽い胴震いをした。周囲には、仙元より頭二つ高い位置までフェンスが張り巡らされ、外部からの侵入を拒んでいた。
フェンスの上部に両手で取り付き、懸垂の要領で一気に身体を引き上げると、右足を掛け、向こう側へ飛び降りた。ビルまで約三十メートル。錆びた鉄骨が至るところに積み上げられ、伸び放題の雑草と相俟って、視界を完全に遮っている。フェンスを境に、街の息吹を遮断した荒涼たる異界が広がっていた。おびただしい数の虫の音が響いて、仙元は深い山の中を歩いている錯覚に襲われた。昨夜の記憶が蘇る。舌の根に苦い味が湧いた。
右手で腹部に差し込んだ金属の冷たい感触を確認した後、周囲を窺《うかが》いながら歩いた。水気を含んだ雑草が足に絡まり、一歩ごとに引き抜くようにして進む。腋の下に冷たい汗が浮き、少しだけ息が乱れた。
ビルの正面に、玄関が黒い口を開けていた。分厚いガラスは粉々に割られ、壁にはスプレーで下手くそな漢字が書きなぐってある。暴走族が集会に使った時期もあったのだろう。だが、今は虫の音以外、何も聞こえない。不意に、視界の端で光が揺れた。オレンジ色の明かり。玄関の脇、鉄製の観音開きのドア。大きく開かれ、地下へ続く階段が見えた。その奥から、仄かな明かりが漏れている。
仙元は、誘われるように歩を進めた。階段を慎重に一歩、一歩降りていく。明かりは、天井から吊るされたランタンだった。奥は漆黒の闇が広がり、どこまで続いているのか分からない。かなり広い部屋、ビル全体をコントロールする機械設備が収まるはずだった空間なのだろう。
ランタンが照らす床に視線を落とす。途端に生臭い臭気がプンと匂った。男がこっちを見ていた。喉を切り裂かれ、裸の上半身を真っ赤に染めた男……迷彩ズボンと編み上げ靴が血を吸い込んで、ぼてっと膨らんでいる。剥いた眼と、めくれ上がった唇。顔には死の間際の苦悶が張り付いたままだった。
そっとチーフスペシャルに手を伸ばした。そのとき、背後の階段から靴音が響いた。
「ひとりか」
剥き出しのコンクリートに声が反響した。黒い人影が次々に降りてくる。全部で五人。
「荻窪のガキの親父だろう」
先頭の男。鋳型で打ち抜いたような整った顔が浮かんだ。
「なぜ、おれのことを知っている」
仙元が静かに言った。
「リーダーはすべてを承知だ。くだらない脳みその大人には想像もつかないようなことまで、な」
「こいつも三枝が殺したのか」
床に転がる死体を視線で示した。男は得意げに吠えた。
「違う、おれだ。おれだって人くらい殺せるんだ。サブリーダーのくせに、泣き言いいやがるから喉をかっ切ってやった」
死体の角張った顔に記憶があった。焼肉屋の親父、勤勉と一途な正義感が凝り固まった顔、『シティ・ガード』のナンバー2、金村英一……。
「怖かったろう」
「なんだと」
「こいつを殺すとき、怖くて震えて、ションベン漏らしたろう。ほら、パンツの中に手を突っ込んでみろ」
顔色が変わった。右手が尻のポケットに伸びる。残忍な笑みが浮かんだ。南田の尻にモップを突っ込んだサディスト。三枝航の忠実な片腕。名前はキンゾウ……。
「あんたは、息子にまともなしつけもできない、情けない親父だよ。あの出来損ないのガキと同じように命乞いしな、ほら、這いつくばってみなよ」
「おまえの正体は半端なサディストだ。うすっぺらな、恐竜ほども脳ミソのないアホだ」
「ククク、なら注文に応えてやろう。まず足の腱をぶった切って、床を嘗めさせてやる。その次は指を一本一本切り落として口に突っ込んでやる。覚悟しな」
キンゾウがぺろりと舌なめずりをした。右手がピクンと動く。瞬間、仙元はチーフスペシャルを腹から抜き出し、構えた。左手を添えて腰を落とす。滲んだ汗が指先に絡み付いた。銃口はピタリとキンゾウの眉間に据えられた。
「なんだ、それ」
呆けた顔で呟いた。仙元はそれに答えず、ハンマーを起こす。カチリと冷たい音。キンゾウが声をあげて笑った。
「モデルガンだろう。ハッタリだ、おれには分かる」
「本物だ」
「撃てるもんか」
蒼白に染まる顔。ギリギリの虚勢だった。
「怖くねえぞ」
仙元はトリガーを絞った。轟音がコンクリートの壁を叩いてけたたましく反響した。金属質の尖った耳鳴りが、一本の針となって鼓膜を刺した。喉を裂いたような悲鳴と、床をのたうつ重く湿った音。キンゾウが右の肩を押さえて転げ回っていた。エラにフックを叩き込まれ、甲板に引き上げられたマグロのようだ。潰れて肉と骨の砕けた肩。押さえた指が、トマトを握り締めたようにめり込んでいる。仙元は素早くチーフスペシャルを構え直し、呆然と立ち尽くす残りの四人を銃口で制した。
「ちっぽけな脳ミソをぶちまけてやろうと思ったが──」
銃口を振って、外へ出ろ、と促す。ジリッとひとりが階段に向かって動いた。それを合図に全員、顔を引きつらせ、甲高い喚き声をあげて走り出した。狭い階段を我先にと駆け上がっていく。
仙元は派手にのたうつキンゾウに馬乗りになり、チーフスペシャルのボディを掴んで振り下ろした。口に銃口を叩き込む。前歯が砕けて、くぐもった悲鳴が漏れた。銃口を突っ込んだままハンマーを起こし、三枝の居場所を尋ねると、「上だ、いちばん上だ」と絶叫し、ついでに、「あんたの息子を殺ったのはあいつだ、おれは関係ない」と叫んでガタガタ震えた。恐怖、激痛、出血、絶望。凶々《まがまが》しいカルテットでショック状態に陥ったキンゾウの眼は次第に焦点を失っていった。
仙元は立ち上がるとチーフスペシャルをしまい込み、こめかみを蹴り上げた。眼球に薄い膜が張り、ピクリとも動かなくなったキンゾウをそのままに、天井からぶら下がるカンテラを引き千切ると、階段を上がった。澱んだ血の臭いに胸がムカついた。酸っぱい味が込み上げ、胃液が逆流した。背中を丸め、雨に濡れた雑草の中に嘔吐した。胃が空になるまで吐き続けた。身体が重くうねった。壁に手をつきながら歩いた。正面から右に回り込むと、螺旋《らせん》状の非常階段が、天高く、渦を巻いていた。
無数の黒い巨木が、淡いレモン色の海から天に向かって伸びていた……階段を昇りきった仙元は、目の前に広がる幻想的な光景を前に、一瞬、錯覚にとらわれた。空には雲間から姿を現した満月。辺りに満ちた月光は、コンクリートの床をレモン色に浮かび上がらせ、整然と並ぶ鉄骨を、ひと抱えはありそうな巨木に見せていた。
ビルの最上部は十四階だった。十階から上は建設途中で、どの階も床半分にコンクリートの分厚い板が敷き詰められ、残り半分は鉄骨を剥き出していた。十四階部は天井のない吹きっさらしで、鉄骨は床から空へと突き出している。
潮の香りを含んだ強い風が吹きまくり、乱立する鉄骨に当たってむせぶような哭《な》き声をあげていた。
仙元は、耳の奥に重い動悸の音を聞きながら、額の汗を袖で拭った。周囲に視線を走らせ、鉄骨がつくる濃い影のひとつひとつに警戒の眼を向けながら歩いた。
床の中央には、東京湾に向かって一個のソファが置いてあった。触ると、ぐっしょりと水気を含んだ革の感触がした。濃いブルーの中に浮き上がった東京湾の夜景は、激しい雨で大気中の汚れが拭い取られた分、くっきりと輝いて、真珠の粒を散らしたようにきらびやかだった。降り注ぐ満月の透明な光は、海に向かって張り出た鉄骨に、深い陰影を刻んでいる。ぐるりと見渡した仙元の視線が、一点で止まった。空中へ水平に延びた一本の鉄骨の先端に、そいつはいた。レモン色の柔らかな光に浮かび上がった黒い人影が、直立して腕組みをし、こっちを見ている。
「おまえが──」
喉を絞った。声帯が震えて、語尾が途切れた。
「あんた、本当に来たんだね」
テーブルに向かい合って話しているような口調だった。風に吹き飛ばされて届かないはずなのに、なぜか凜とした声が耳に真っすぐ飛び込んでくる。
「名前は仙元麒一。そして信太郎の父親。あんたのこと、全部訊いたから、知ってるよ」
──いったい誰から──
仙元の疑問を察知したかのように、男はあごをしゃくった。
「ほら、あのひとからだよ」
仙元は、誘われるまま、右手を見た。一本の鉄骨の上。三個の塊が並んでのっていた。中程度のスイカくらいの、しかしいびつに歪んだ黒いスイカ。仙元は眉根を寄せ、凝視した。背中を冷たい汗が伝う。
「そこからならカンテラを使わなきゃ無理だ。あんた、持ってるじゃない」
面白がるような声が響く。仙元は右手に握ったカンテラを頭上高く掲げた。舌が乾いた。背筋を無数の虫が這い上がり、心臓さえも凍った気がした。闇から浮かび上がったのは、人間の頭部だった。こちらに顔を向けて置かれている。左の二個は、大きな黒い眼で仙元をじっと凝視していた……違った、黒い眼は、目玉が抜け落ち、ぽっかりと空いた眼窩だった。顔全体の肉も腐って崩れ落ち、人相はおろか、性別さえ分からない。しかし、右端の顔は分かる。長い髪と、整った卵型の輪郭。黒田ちづるだった。眼を閉じ、思索の森に迷い込んだように俯いている。すっぱりと切り取られた彫刻の頭のようだった。
瞬間、仙元の脳髄でのたうつマグマがドンッと音をたてて爆発した。夜空を貫く絶叫。視界に、燃えた飛沫が朱色の雨となって降り注いだ。と、その端で、黒い影が動いた。顔を向け、揺れる視線の焦点を結ぶ。男が腕組みを解いていた。その姿がみるみる大きくなって迫る。雨に濡れ、風にたわむ鉄骨の上を、まるで大地を疾走するように駆けてくる。カンテラを向けた。間違いない、こいつだ、これが三枝航だ。一瞬、瞳孔を射した光に顔をしかめたが、速度は落ちない。仙元はカンテラを投げ捨てると同時に、ジャケットの裾を跳ね上げてチーフスペシャルを引き抜いた。腰を落とし、左手を添えて構える。銃口を降ろしながら額を狙う。息を吐き、身体の動きが静止すると同時にトリガーを引いた。乾いた炸裂音が響いた。瞬間、航が跳んだ。左に大きくダイブして弧を描き、落ちていく。仙元の視線は、空中に描かれた弧の先端を追った。十四階から真っ逆さまに落下した、と見えた航の身体が、空中で一回転した。しなやかな、密林の黒豹を思わせる身のこなしだった。十メートルほど下にせり出した鉄骨の上にフワッと、まるでフクロウが狙ったネズミに舞い降りるように着地すると、そのまま十三階のフロアへと走り込んだ。
感情の一切を放棄した、恐怖も躊躇もない動きだった。
航の声が、下からした。
「これは息子の復讐なの?」
下で航の声が移動している。確かな意志を持って動いていた。
「違う」
「じゃあ、黒田ちづるを殺した復讐?」
「違う」
「分からない。それ以外の理由ってあるの」
僅かな戸惑いを滲ませた声だった。
「おまえをこの手で殺したい、それだけだ」
突然、乾いた笑い声が弾けた。
「同じなんだね」
冷えた、氷の言葉だった。
「ぼくと同じだよ。だから、日記にあんたの本当の心を書けなかったんだ」
階下から響く足音の間隔が狭まった。航が走っている。
「あんた、ぼくの思ったとおりのひとだ」
それを最後に声が消え、次いで足音も消えた。大気を切り裂く風の哭き声と、遠くで吠える汽笛だけが聞こえる。仙元は、チーフスペシャルを構えたまま、周囲に眼をやった。
──どこから来る?
隠れるとしたら空に延びた鉄骨の陰しかない。おそらく、この鉄骨の森を伝って接近するはず。仙元は、身体をゆっくりと回転させて移動した。三百六十度、すべてを視界に収めて、待った。月光に照らされた床が仄かに浮かび上がって見える。遠近感が微妙に狂い始めていた。口の中が粘つく。乾いた喉がひりついて痛い。我慢できなかった。仙元は中腰になって屈み、周囲を窺いながら、左手を銃把から離し、床に出来た水たまりをすくった。その時だった。水たまりの中で何かが揺れた。
──上だ!
咄嗟に身体を捻って転がり、空を見た。視界いっぱいに、黒い怪鳥《けちよう》が飛んだ。仙元は、腰だめのままトリガーを引いた。怪鳥の羽ばたきと、炸裂した銃声が交差する。漆黒の影が空中で不自然に捩れ、着地したとたん、バランスを失って倒れ込んだ。ガリッとコンクリートを掻く不快な音がした。右手に握ったハンティングナイフが、床を削っていた。鉄骨の突端でじっと待ち、チャンスを窺って飛び降りた航。
仙元は跳ね起きざま銃口を向けた。四つん這いになった航の眉間を狙う。距離は二メートル。大丈夫。外しようがない。荒い息遣いと心臓の鼓動。さっき咄嗟に放った銃弾が航の右膝側部の肉を、迷彩ズボンの布っきれと一緒に抉り取っていた。流れた血がコンクリートに黒い染みをつくっていく。だが、苦痛を感じない航は、じっと仙元を見つめている。吸い込まれそうな瞳。恐怖も絶望もない、深山の湖の静けさをたたえた瞳だった。仙元は、ハンマーを起こした。指に力を込める。
──殺せる──
脳髄に灯る鈍い光。そのとき、張り詰めた神経の先端に、何かが触った。不意に、航の瞳がユルッと揺れた。仙元の指が、コントロールを失って強ばった。同時に声が、言葉にならない絶叫が鼓膜に熱風を吹き込んだ。
仙元の視線が僅かに動いた隙を、航は見逃さなかった。右手がしなり、ハンティングナイフが疾った。凍った風がジャケットの袖を叩く。思わず両腕を引き、反動で指が動いた。シングルアクションのハンマーが落ち、銃口が火を噴いた。オレンジのマズルフラッシュ。鉄骨を叩いた跳弾の音がした。ナイフが袖ごと腕を切り裂き、鮮血が垂れた。手首と肘の間にジリッと熱が広がる。腕を伸ばし、構え直した。が、遅かった。航は左足で立ち上がり、右足を擦るようにして走った。スキップを踏むような動き。鉄骨の森を盾に、右に左に、ジグザグに駆けていく。みるみる遠ざかっていく背中に、銃口が頼りなく揺れる。仙元は構えを解き、奥歯を噛んで呻いた。航の先に、絶叫の主、坊主頭の少年がいた。
クルマと自分の足では距離感がまったく違った。まして、視界を遮る激しい雨が降っていたのだ。運河のドブの臭いの中を走った勇志は、古いビルと倉庫が立ち並ぶ入り組んだ迷路に迷い込み、予定外の時間を費した。早く航のもとへ行かなければ、と焦るほど、方向感覚は怪しくなった。吊り橋のイルミネーションを頼りに、海辺で無残な姿を晒すこのビルを見つけて入り込み、ぐっしょりと濡れた身体で螺旋階段に取り付いたときは、息も絶え絶えだった。それでも、両足を引きずるようにして昇った。螺旋をあとひと回り、というときに夜気を切り裂く乾いた音が響いた。勇志は、呻き声を漏らして一気に駆け上がった。そこで見たものは、月光の下で争う二匹の獣──いや、無抵抗の航に拳銃を向ける仙元だった。息子の復讐。本気だった。勇志は叫んでいた。それは「やめろ」か「待て」のどちらかだった気がする。
まだ、自分は訊いていない。航のことならすべてを知っているはずなのに、知らないことがある。──航は本当に嵌めたのか? 親友の自分を。
二発目の銃声が弾けて、戒《いまし》めを解いた航が駆けてきた。一歩ごとに跳ねるような、引きずるような、妙な足取りで。後ろから仙元が銃を構えている。腰を落とし、両腕を突き出して。
勇志は動けなかった。航がやってくる。そう思っただけで、筋肉は強ばり、呼吸することさえ忘れた。木偶《でく》のように佇む勇志に、航はもたれかかり、腕を回した。肩にかけた左腕、友情の証し。
「勇志、来てくれたんだな」
腕にぐっと力を込めた。温かな息が頬にかかる。だが、勇志の視線は、鉄骨の林の向こう、呆然と立ち尽くす仙元に注がれた。右手からダラリと垂れた拳銃が、指先に引っ掛かっている。月光の下で仄かに浮かぶ顔は、どこか歪んでいるようだった。
「こっちを見ろ」
低い声。勇志は首を捻った。一点の曇りもない、強い意志に貫かれた航の顔。
「あいつ、ぼくのこと、訊いたろう」
勇志は頷いた。
「おまえ、喋ったろう」
航の黒い瞳が動かない。
「友達なのに」
這い上がる怖気に、背骨が軋んだ。やっぱり航は特別だ。頭のキレが違う。すべてを知っている。ダメだ。このままじゃ──勇志は喚くように訴えた。
「航、おれ、おまえを誤解していたんだ。あいつがあんなこと、言うから」
「なんて」
冷たい刃が右の頬に押し付けられた。右手に握った分厚い鋼のハンティングナイフが、目の下で月光を吸い、凶暴な光を放った。
「あいつはなんて言ったの」
「おれのこと、嵌められたんだって。航は最初からお母さんも殺すつもりだった、だからすべてを知っている熊井は消されたんだ、そう言ったんだよ」
「勇志、おまえはどう思ったんだ。大事なのは他人の言葉じゃない。自分の考えだ。ぼくはおまえの考えを聞きたい」
「おれ、航のこと、信じていた。本当の友達だと思っている。でも──」
「もういいよ」
航は最後まで聞かず、悲しそうに顔を振った。
「ぼくはおまえが疑問を持つことに耐えられない。ぼくたちは友達なんだから、ぼくがこれまでおまえの疑問に答えなかったことはないはずだ。そうだよな」
首に回された左腕に力が込められた。勇志は喘ぐようにして、頷いた。
「せっかく、疑問を持たないようにって、うまく考えたのに」
柔らかい声だった。
「あんな腐った大人のこと、聞いちゃうからダメなんだ。もう、おまえは見込みなしだ」
そう言うと、航は長いため息を吐《つ》いた。首に左腕が食い込んで呼吸が出来ない。勇志は両手をかけ、腕を引きはがそうとした。が、ギリギリと締まっていく。
「ぼくのお母さんは、やっぱりお父さんのものだった。首、絞められて、最初は嫌がってたけど、そのうち、そういうふうにされなくちゃ満足しない身体になっていたんだ」
航の顔が、凝視していた。ガラスの目玉だ、と勇志は思った。
「お母さん、お父さんに何と言ったと思う?」
勇志は呻き、声にならない声を漏らした。
「首、絞められながら、殺してよ、と言ったんだ」
──殺してよ?──
「あの子、殺してよ、と囁いていたんだ。ぼくのこと、殺して、だってさ。二人の生活に邪魔だから。お母さんはお父さんのほうが大事だから」
航の唇がギリッと歪んだ。
「殺すしかなかった。お母さんのこと、あんなに好きだったのに──ぼくはこの世でひとりだって分かったんだ。お母さん、ぼくのこと、助けてくれなかった。二人で頑張ろう、いつかお父さんを殺そう、地獄に突き落としてやろう、って誓ったのに、結局、お父さんに負けちゃった」
ナイフの切っ先がスーッと下りた。
「あのときからなんだ、ぼくがヘンになったのは」
勇志の右頬に、アゴまで届きそうな長い傷が刻まれた。
「だからぼく、おまえにこんなことも出来ちゃうんだよ。もっといろんなことも出来ちまう。簡単なんだ」
耳元で囁いた。ナイフを今度は左の頬に当て、まるで設計士が線を引くように、一直線に下ろした。
「どうしてだろう」
航は、小首をかしげて、勇志を見た。首を絞められ、切り刻まれながら、勇志は嗚咽していた。固く閉じた両眼から涙が流れ、頬の血を嘗めて落ちた。航の顔が訝しげに歪んだ。
「おまえ、苦しいの?」
勇志は荒い呼吸を吐きながら、小さく首を振った。
「じゃあ、悲しい?」
ウン、と唇が動いた。
「ぼく、分からないんだ。悲しいとか、苦しいとか、怖いとか、言葉では知っていても、どういうことなのか分からない。なぜだろう」
航が淋しそうな顔で呟いた。と、くぐもった声が聞こえる。勇志が呻いていた。
「何を言ってるの、勇志」
指一本分、左腕を緩めた。
「……たくないよ」
「聞こえないよ」
今度は指二本分、緩めた。
「……死にたくない」
はっきり聞こえた。
「なぜ? 死ぬのなんて全然怖くない。簡単じゃないか。おまえ、そんなことも分からないのか?」
航が呆れたように言うと、勇志の首にナイフの切っ先を当てた。そのとき、勇志の身体がフラッと沈みこんだ。意識を失い、崩れ落ちたように見えた。次の瞬間、両足が床を蹴り、頭を突き上げた。不意にアゴを強打された航は、強烈なアッパーカットを食らったボクサーのようにたたらを踏み、螺旋階段の柵にもたれた。勇志はそのまま後方へ、倒れ込んでいった。階段を転げ落ちる激しい音が響いて、消えた。
仙元は、チーフスペシャルを構えた。勇志が引き出した航の真実。優しい母親の言葉。「あの子、殺してよ」。脳味噌が真っ赤に膨れ上がった。
フラリと柵から身を起こした航が、こっちを見た。ハンティングナイフをしっかりと握り締めている。だが、両眼の焦点が定まっていない。仙元は距離を詰めながら、ハンマーを起こした。約五メートル。トリガーを引いた。ぶれの少ないシングルアクション。銃声が夜空に尾を引いて吸い込まれ、航のTシャツ、下腹部の辺りが、痙攣するように震えた。だが、倒れない。足を引きずり、向かってくる。もう一度。ハンマーを起こす。銃口を定める。指を、引く──カチャッと空しい音が響いた。仙元は眼を剥き、呪いの言葉を吐き散らして吠えた。弾の勘定さえできない大間抜け。ノーマルなリボルバーより一発少ない五発の弾丸を、撃ち尽くしていた。
乾いた笑い声。航は一気にダッシュし、ハンティングナイフを突き出してきた。仙元は顔を捻った。切っ先が耳元で空気を裂く。横っ跳びに転がって逃げた。シリンダーを振り出し、薬莢をばら撒いた。床を転がりながら、ジャケットのポケットに左手を突っ込む。残りの弾丸は五つ。指先で探る。
不意に冷たい突風が頬をかすめ、ガチン、とナイフがコンクリートを砕く音がした。航がグリップを両手で掴み、体重をかけて飛び込むように、ナイフを振り下ろしていた。刃が、転がって逃げる仙元の頬を紙一重で掠《かす》る。
仙元は、喉を鳴らしながら、四つん這いになって床を這った。左手の指先に、二個の弾丸が引っ掛かっていた。立ち上がりながら、震える指でシリンダーの穴をまさぐる。そのとき、左膝の後ろに肉の裂ける感触。鉄棒で殴られたようなショックが襲い、ガクンと折れた。左膝を床について振り返る。的を外した航が、そのまま横に払ったナイフで、左膝の裏を裂いていた。するすると左足首に絡み付く五本の指。とたんに物凄い勢いで引っ張られ、不様な万歳の格好で床に叩きつけられた。胸をしたたかに打ち、肺の空気が押し出されて呼吸ができない。酸素を求めて喉を掻きむしりながら、身体を反転させた。航の左手が仙元の左足首を掴んだまま、一気に引き寄せた。背中で、コンクリートの擦れる音がした。足首を掴む手が離れた。
航は仙元にのしかかると右肘でアゴを押さえて馬乗りになり、上半身を起こすと、両手で握ったナイフを頭上に振り上げた。仙元は、呪詛とも悲鳴ともつかない声を漏らしながら左手を伸ばし、ナイフを持つ両手首を掴んだ。だが、体重をかけた白刃の切っ先は確実に下りてくる。噛み締めた仙元の唇から血が滲む。その陰で、そっと右手を動かした。銃口を航の胸に向ける。トリガーを絞る。再び、空を切る音。ツキに見放されたロシアンルーレット。
航が短い笑いを漏らした。左手が銃身をガッチリ掴んでねじ曲げた。仙元の、銃把を握った手の甲にヌルッと生温かいものが触った。ハラワタだった。さっきの銃弾で航の下腹部の筋肉が裂け、飛び出したハラワタ。瀕死の状態なのに、それを毫も感じさせない。
「もう終わり?」
航の耳まで裂けた唇がニタリと笑う。口からどろりとした血が、糸を引いて垂れた。
やっと仲間を見つけた愉悦と陶酔。
「ぼくが殺してやるから。そして、あんたは永遠にぼくのものだ。ちゃんと飾ってあげるから」
視界が揺らいだ。食いしばった歯の間から唾を飛ばしながら上半身を捻る。左手で押さえたナイフの切っ先が喉元に迫っていた。その時、銃把を握る仙元の右手が動いた。航の力がほんの僅かだが緩んでいた。航には永遠に届くことのない肉体の悲鳴が、聞こえた気がした。
仙元は怒声と同時に銃口を持ち上げ、トリガーを絞った。くぐもった炸裂音が響いた。瞬間、航の身体からあらゆる力が蒸発して消えた。ぐったりともたれかかってきた肩を、肘を振って横に払い、立ち上がる。ゴロンと仰向けに倒れたその鳩尾《みぞおち》から、黒い血がこんこんと湧き出ている。鉛が肉を破壊し、穿《うが》った冥い泉だった。
仙元は、中腰のまま銃口を向けた。トリガーに指をかける。こめかみまで五十センチ。とろんとした眼で航が見上げ、呻いた。声にならないその声を、乾いた銃声が呑み込み、オレンジの舌がこめかみを嘗めた。航の身体が、電気ショックを受けたようにバウンドした。脳漿が飛び散り、仙元の胸が黒く濡れた。月光に照らされたデスマスク。口元に浮かんだ微笑。それは、この世のすべてから解き放たれた安堵の表情に見えた。仙元は肩を大きく上下させて、長い長い吐息を漏らすと、放心したように立ち尽くした。
勇志は一階下の螺旋階段の踊り場に倒れていた。仙元は、鼻の下に掌をかざして規則的な呼吸を確認すると、背中におぶって階段を降りた。膝の裏をナイフで裂かれた左足が、一歩、踏み出すごとに熱く疼《うず》く。仙元は、手摺を伝って、慎重に足を進めた。
玄関奥のエントランスに勇志を横たえ、フェンス沿いにグルリと回ってみた。鉄製のドアがあった。閂《かんぬき》を外して外へ出ると、倉庫の陰に停めた白の軽を回して、ドアの前に停車した。意識を失ったままの勇志を再びおぶって、助手席に運び入れた。軽を発進させた仙元は、ジャケットのポケットに残った三個の銃弾を指先で弄びながら、静まり返った深夜の倉庫街を後にした。
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八月二十八日(土)
朦朧とした意識にじんわりと硬い線が入った。闇に沈んでいた視界がセピア色に染まり始めている。仙元は、両側からいやな温もりと圧迫を感じた。半開きの瞼をこじ開けて辺りをみた。
クルマの後部座席で、二人の男に挟まれて座っていた。身体がいやに重かった。腰の辺りから背中、首、後頭部にかけて、まるで分厚い鉛の板がへばり付いているようだ。
「お目覚めかね」
低い声が右隣から聞こえた。身体をゆっくりと捻った。細面の、顎のしゃくれたカマキリに似た男。ダボッとしたスーツをだらしなく着込んだパンチパーマ。剣呑な眼を向けてきた。
「おまえ、やりすぎなんだよ」
仙元はシートにもたれた。何を言えばいいのか分からなかった。カマキリがじっと顔を覗き込んで、唇をさも愉快そうに歪めた。
「ちょいとお仕置きがきつかったかな」
ダメだ、分からない。仙元は、頭を振った。
「あの四百万は余計だ」
静かな、凄みのある声音だった。とたんにセピア色の風景がくっきりとした色彩を帯びた。窓の外を、滲んだネオンが流れていく。
──そうだ、新たに四百万を要求したのだ──
鮮やかな映像を伴って記憶が蘇った。
すでにカネは底を尽きかけていた。信太郎との生活費に、チーフスペシャルの購入代。昨夜半、意識を失ったままの友田勇志を自宅の玄関先に横たえると、仙元はガラス戸を叩いた。路地の角に隠れ、母親が出てくるのを待った。両頬を切り裂かれた勇志を抱え、母親が泣き喚くのを見届けた後、軽を駆って蒲田のラブホテルに潜り込んだ。ベッドに倒れ込むと、泥のように眠りこけた。昼過ぎにベッドを這い出てシャワーを浴び、左足の膝裏の傷口に裂いたシーツを幾重にも巻き付けて、ギプス代わりに固定した。出前で取ったチャーシューメンで空きっ腹を満たし、電話を一本入れた。あいつは慌てた口調で、いま来客中だから三十分後に、と言うなり電話を切った。再度、電話を入れると、今度は幾分落ち着いた声で場所を指定した。湯島の、名も知れぬ旅館。
白塗りの塀が続く屋敷町だった。辺りは夕闇がたれこめ、起伏のきつい路地は、行き交う人影もまばらだった。定刻通り旅館を訪ねた仙元は、庭に面した濡れ縁のある和室に通された。そこに待っていたのは小柄な初老の男。黒のスーツを着込んで律義に正座し、伸ばした背筋と白髪のまじった七三分け。あいつじゃなかった。あいつに秘書の名を与えられ、身も心も捧げた忠実なしもべ。炎天下、大学の正門で銅像のように佇立し、見送っていた男だ。
「おれは理事長と話をしたはずだが」
「今夜は、わたしがすべての事情を承知したうえで参りました」
どこにでもある平凡な顔、すれ違った途端に忘れてしまう顔が、一切の感情を排して言った。
「なるほど、金輪際、おれの顔など見たくないというわけか」
仙元は、座布団の上に胡座をかくと、懐からタバコを抜き出した。ゆっくりと火を点けて、秘書の顔を窺う。
「当然でしょう」
くゆらすタバコの先で、平凡な顔が尖った。
「あなたがブラックだとは思わなかった。まさかこんなあくどい真似をなさるとは。落ちるところまで落ちたモノ書きほど、始末に負えないものはありませんな」
白い鬢《びん》が、かすかに震えていた。
「先日の三百万は、あなたが御子息の問題をひとりで背負い込み、大変な状況にあるとお聞きし、理事長のポケットマネーで都合したもの。それをさらに四百万とは、今度は御不幸に遭われた御子息のお見舞い金とでもいうことでしょうか。理事長は、あなたを買い被っていたようだ」
「ひとを見る目がなかった、ということですな」
自嘲を含ませて言った。
「だが、あなたは理事長の弱みを握っておられる。仕方がありません」
秘書は信義を裏切られた無念を強く漂わせ、分厚い茶封筒をテーブルの上に置いた。仙元はさも当然、と言わんばかりに取り上げて、中を改めると、懐に収めた。
S女子大学の理事長。謹厳実直を絵に描いたような、地位も教養も分別もあるはずの紳士が、女とカネをあてがわれた揚げ句、凄腕の受験ブローカーグループにたらしこまれ、ついには他の理事も巻き込んで始めた裏口ビジネス。入学試験の点数に下駄を履かせるなどという生易しいものではなく、理屈抜き、ただカネだけで入れる「まる入れ」で豪快に稼いだ報酬のほんのカスリだと思えば気もラクだった。
「これが本当に最後なんですね」
「もちろん」
それ以外、言うべき言葉はなかった。秘書は、眼を据えたまま軽く頷いた。だが、安堵の色はただの一筋もうかがえない。当然だ。身内のレイプ教授の情報をバーターで与えた時点で終わったはずなのに、カネに困って首の回らなくなったルポライターから三百万、さらに四百万の計七百万を引き出されたのだ。
「理事長にはもう、連絡をなさらないように」
「分かった」
仙元が言うと、秘書はその長年の習性からか、頭を下げてしまい、苦い色を浮かべた。立ち上がった仙元は、胸に氷の空洞を抱えたまま、外へ出た。
御茶ノ水駅から湯島聖堂を越え、本郷通りと蔵前橋通りを渡った一角。街路樹の葉が風に擦れる音がする。仙元は、左足を軽く引きずりながら、夜の道を歩いた。何の前触れもなく、疑念がチラッと芽生えた。以前の交渉は、目白にある大学本部の理事長室だった。四百万を手に入れた安堵感で、緊張も警戒心も途切れていた。ふと、なぜ大学を遠く離れた旅館で、しかも夜、秘書が対応したのか、と思ったとたん、背後からアスファルトを噛むタイヤとエンジンの爆音が響いた。弾かれて振り向いた時は黒のベンツ、ヘッドライトを消した鋼鉄の塊が迫っていた。次の瞬間、背中と腰に激しい衝撃を感じて視界が一回転し、地面に叩きつけられた。意識はそこまでだった。
「あんたたち、大学関係者じゃないだろう」
「どうして」
カマキリが、さも面白そうに訊いた。
「何の工夫もない荒っぽい手口だ。しかも手慣れている。おおかた、あくどい受験ブローカーの一味──」
言葉が終わらないうちに、耳から頬にガツンと脳天まで響く音を感じた。左隣の髭面の大男が、サザエのような拳《こぶし》で殴りつけていた。
──あくどいのはおまえだろう。
重々しいバリトンが、どこか遠くで聞こえた。舌がコロンとした固いものに触る。奥歯が二本、折れていた。呻きながら、吐き出した。
「おれは、どうなる」
窓に黒のフィルムを張り付けたベンツは、外堀通りを飯田橋駅前の交差点にさしかかっていた。
「おまえはまっとうな取引を踏みにじったクズだ。理事長も、なまじっか内輪で処理しようとしたばかりに余計な手間が増えちまった──しかし、あの秘書のじいさんは大したもんだ。ちゃんと仕切って、最後の段取りまで指示してきた」
カマキリの狡猾そうな眼が注がれた。
「そうだな、まずおまえには、その取材データとかいうやつの所在を喋ってもらおう。コピーも含めて、洗いざらい、すべてだ」
「いやだ、と言ったら?」
口の端にシワを刻んだ。
「死んだほうがよっぽどましって方法がいくらでもある。そのうち、床に頭を擦り付けてうたい出すって」
「おれは、死ぬのか」
「死にたくないのか?」
そのとき、仙元の頭で、何かが湧いた。それは──失ったはずの感情。銃口を己の喉元に押し付け、トリガーに指をかけたときさえ、ピクリとも動かなかった感情が、いま、クッキリとした輪郭とともに浮かび上がって、身震いするほどの平安を得た。仙元は口を開いた。
「ああ、死ぬのはイヤだ。絶対イヤだ」
車内に笑いが弾けた。大男も、若い運転手も、そしてカマキリも、声を上げて仙元を笑っている。自分の置かれた状況がまったく分かっていない愚か者。この期に及んで女々しく命乞いをする臆病者。
「三百万だ四百万だとちびちび小金を引き出しやがって。ワルならワルで、腹据えて、ドカンと一発で勝負してみろ。おれは、おまえみてえなどうしようもないハンパ野郎を見ると虫酸《むしず》が走るんだよ。だから足下みられてこういう様になっちまう」
カマキリの骨張った拳がこめかみを殴りつけた。指にはめた金のカマボコが皮膚を裂いて、ぬるい血が頬を流れた。
「カネは何に使った。女か?」
「……生活費だ」
下卑た笑いが、前にも増して響いた。
「おまえは本当に笑わせてくれるぜ。生活費だと? そんでまた、足んなくなって四百万ってわけか。母ちゃんはどうした」
「別れた」
「逃げられたか。そいつは利口だ。今頃、若い男をくわえこんで、つまんねえカスとの生活なんざこれっぽちも頭にねえよ」
野卑な嘲笑に包まれながら、仙元はがっくりと首を垂れた。微かな笑みが滲む。
「どうした、まだ話は終わってねえぞ。ああ、このハンパ野郎が。もっと笑わせてくれや」
カマキリが、目尻に涙を浮かべてヒーヒー笑っている。背中を丸めた仙元の後頭部を、大男が「起きろ」と、何度も殴りつけた。仙元は、抱え込んだ左手をジャケットの内ポケットに、右手を腹に、そっと差し入れた。大丈夫。札束と銃把。しっかり触った。息も絶え絶えのハンパなネズミの身体検査など、必要なかったというわけだ。右手を抜き出す。
「起きろ!」
大男が、髪を掴んで引っ張りあげた。仙元は身体を起こしながら、銃口をそのビヤ樽腹に突き付けた。クルマは市ヶ谷の駅前を抜け、防衛庁前の四差路にさしかかっていた。
大男が訝しげに片眼を細め、視線を下げた。腹に感じた異物の正体。髭面が引きつり、醜く歪んだ。カマキリの甲高い嘲笑に包まれて、トリガーを絞った。耳をつんざく轟音と、肉が弾ける音。濃い硝煙と血の匂い。瞬間、車内に怒声と喚き声が交錯し、空気がビリビリ震えた。ドアのノブに手を掛け、悲鳴を絞り出しながら、逃げようとするカマキリの背中。仙元は脊髄のど真ん中に銃口を据えて撃った。血が飛び散り、一瞬、視界が黒くなった。
タイヤの軋む音。パニックに襲われた若造が、喚きながらアクセルを親の仇のように踏み込んでいる。制御を失ったベンツは、テールを振りながら左右に大きくぶれて、前を走るバンに激突し、そのままガードレールへ真っ正面から突っ込んだ。仙元は頭を両腕で抱え込み、丸くなって屈んだ。鋼の潰れる音、全身を鉄板でぶっ叩かれたような衝撃。視界が真っ白になり、それでも頭を左右に振ると、すぐに意識が強靭な線を結んだ。
ハンドルで胸を強打し、頭でフロントガラスを砕いてつっ伏した若造は、半開きの白眼を剥いたままピクリともしない。仙元はチーフスペシャルを腹にしまい込むと、若造のスーツの上衣を剥ぎ取って顔を拭った。嫌な臭いのする血糊がべっとりとくっついた。右側のドアを蹴り開け、ぐんにゃりしたカマキリの死体を蹴り出し、狭い洞窟から這い出るようにしてアスファルトを踏む。とたんに仙元の耳に、クラクションと怒声の波が打ち寄せた。仙元は状況を把握していない周囲のドライバーにベンツを指し示しながら、よろめく足で後退した。
もったりと蒸れる夜気の向こうから続々と集まり始めたやじ馬どもが、興奮して口々に叫んでいる。仙元はベンツを凝視した人波の輪に飲み込まれ、そこから抜け出ると、外堀通りを反対側へ渡り、タクシーを停めた。行き先を告げると、エンジンルームから白煙を噴き上げるベンツと、それを遠巻きに囲む人だかりに気をとられていた初老の運転手は、それでも未練を断ち切って発進させた。
仙元は内ポケットの封筒を押さえながら、シートに身を沈めた。荒い息が耳の奥で鳴っている。
首都高速横羽線の高架沿いのコンビニで買ったのはセブンスター一箱と黒のマジックペンだった。横断歩道を渡って正面にある、高架下の公園でベンチに座ると、水銀灯の明かりを頼りに買ったばかりのマジックペンを動かした。腕に力が入らない。時間をたっぷりかけて書き終わると、仙元は立ち上がって辺りを見回した。川崎方向へ延びる大師橋の位置でだいたいの地理は分かる。左足を引きずりながら歩を進めた。
友田勇志は、祖父・武三の、小便を吸って重くなった紙オムツを替えると、テレビをつけて、夜十時のニュースを待った。母の君子は、仕事を休んで二階で寝ている。母は心労でぼろ雑巾のように疲れ切っていた。当然だった。夜中、息子が玄関先に倒れ、左右の頬を刃物で切り裂かれていたのだから。勇志は救急車で運ばれ、病院で縫合してもらった後、警察の聴取を受けた。勇志は、「帰宅途中、何者かに頭を殴られ、それから後のことは覚えていない」と言い張った。母は終始、無言だった。
警官に強要される形で被害届を出した後、自宅に帰って眠り、目が覚めると昼過ぎだった。慌てて公衆電話まで走り、会社に電話を入れた。事務員のおばさんが「班長が直接電話くれってさ」と冷たく言い放ち、青木の携帯の番号を告げた。勇志は恐る恐る、番号を押した。電話に出た青木は、勇志だと知ると、≪おまえ、明日からこなくていいから≫とだけ言って切った。クビだった。一度でも無断欠勤したら、おまえはクビだ<Vゲさんの忠告が脳裏を掠めた。受話器をフックに戻して泣きたくなった。明日からどうやって生きていけばいいのだろう。
勇志は、ぼんやりとテレビ画面を見つめた。昨夜の出来事が、ニュースに出るかもしれない。しかし、市ヶ谷でヤクザの抗争事件があり、二人が射殺された、というニュース以外、殺人絡みの事件はなかった。あの海の辺の朽ち果てた巨大なビルの中で起こったことなど、誰も知りようがないのだろう。あれは別世界だった。この世から切り離され、宙に浮かんだ異空間だった。
テレビのスイッチを切ると、膝を抱えて考えた。
──航はどうなったんだろう。
自分がこうやって生きている以上、もはや航がこの世にいるとは思えなかった。恐らく、仙元は、息子の復讐を果たしたのだろう。そして自分も、自分の家族も救われたのだ──安堵感があってしかるべきなのに、勇志の心には、ザラッとした灰色の寂寥《せきりよう》感が巣くっていた。小学校のとき航が自分を守ってくれたこととか、ライターで手を焼かれても顔色ひとつ変えなかったこと、二人でいろんな話をしたこと、航が自分だけに見せた哀しい顔なんかが頭の中を駆け巡って、どうしようもなく膨らんで、涙が溢れた。あいつは可哀想なやつだった、いま、心からそう思う。地獄みたいな家で、あんなに好きだったお母さんにまで捨てられて、殺されそうになって、狂ってしまったのも当然だと──自分が少年院に入ったことなど、やっぱりちっぽけなことだった。
隣の、畳の擦り切れた六畳間で、武三が縮緬皺《ちりめんじわ》の顔を歪めて、ウウッと唸っている。排泄物の臭いがこびりついた家。この生活を守るために航の呪縛から逃れ、生き延びたはずなのに、結局、自分は仕事がなくなり、母も寝込んでしまった。破綻は音をたてて迫っていた。勇志は腕で涙を拭ったが、後から後から湧いて頬を伝った。航に切り裂かれた傷口が涙で濡れ、熱く痛んだ。堪えていた感情が、堰《せき》を切って溢れた。
「じいちゃん、おれ、どうしよう」
思わず祖父に話しかけていた。涙で霞んだ視界の中で、祖父が苦しげに唇を歪めていた。自由にならない筋肉を寄せ集めて、声を出そう出そうとしている。羽をむしられた鶏みたいな首がギュッと細まり、ヒイイと呻いて幽《かす》かな声が出た。それは、──コロセーと言ったように聞こえた。目の前が真っ暗になった。カッと顔が火照り、背筋が震えた。ベッドの傍らに座り、「ごめんな、じいちゃん、ごめんな」と嗚咽しながら詫びた。
玄関がガタンと鳴った。誰かいる! 勇志は振り向き、立ち上がった。涙に塗《まみ》れた顔を、祖父の枕元の手拭いで擦《こす》って、恐る恐る足を進める。
「誰?」
ガラス戸の向こうに低く呼びかけた。
「誰だよ」
返事はなかった。勇志は三和土《たたき》に降りて、戸を開けた。玄関先に封筒が落ちていた。手に持ってみると分厚く、ずっしりと重い。玄関の裸電球を点けて、封筒の中を見た。ハッと息を呑んだ。手が強ばって、三和土に中身が滑り落ちた。真新しい札束だった。しかも四つ。慌てて空の封筒を改めた。表に黒いマジックで「友田勇志さんへ 仙元」と、震える文字で書いてあった。勇志はすっ飛ぶように玄関を出て、左右に眼をやった。辺りは闇の底で静まり返り、街灯の白い光が路地をポツンと照らしていた。
≪はい、富田ですけど≫
「おれだよ」
≪───≫
「元気そうじゃないか」
≪明日からまた入院よ。久里浜にあるアルコール依存症専門の国立病院。今夜はたまたま、身の回りのものを取りに来ていたってわけ≫
「勝手に外へ出てもいいのか」
≪アルコール依存症専門の病棟を日本で初めて開放病棟にした病院だから、患者の自主性に任せているの。わりと自由なのよ≫
「──信太郎のことは申し訳なかった。おれが預かっておきながら、あんなことになってしまって」
≪起こってしまったことは仕方ないでしょう。嘆いたからって信太郎が還るわけじゃなし。それよりあなた≫
「なんだ?」
≪あたしのとこへも警察が来たわよ。元旦那の行方が知りたい≠チて。相当焦ってたみたい≫
「───」
≪でもあたし、自分の息子の葬式にも出なかった男のことなんか訊かれても困るって、そう言ってやったわ。だって本当に知らないんだもの。興味もなかったし≫
「それで警察は?」
≪苦虫を噛み潰して帰ったわ。でもね、あたしには分かる≫
「なにが」
≪あなた、目星がついたんでしょう≫
「なんの」
≪犯人の。でなきゃ、消えるわけないもの≫
「前妻の勘、ってやつか?」
≪いつも重要なことは何も言わず、行動してしまうのよ。離婚のときだってそうだもの≫
「──もし、犯人が分かったらおまえ、どうする?」
≪分かったら──≫
「目の前にいるとして」
≪──目の前に──≫
「手を伸ばせば届くとして」
≪──届くと──そう──殺してやる、この手で復讐してやるわ≫
「復讐──か」
≪あなたはどうする?≫
「おれも殺すよ」
≪──ねえ≫
「なんだ」
≪もしかしてこれ、意見の一致じゃないの。それも初めての≫
「いや、そうじゃない」
≪……どういうこと?≫
「令子、おれのは復讐じゃないんだ」
≪復讐じゃない──≫
「そうだ、これは復讐じゃない」
≪──分かった──あなた、それ以上は言わなくていい≫
「夜遅く邪魔したな」
≪用件はそれだけ?≫
「それだけだ」
≪さようなら≫
「ああ、さようなら」
仙元は、シャッターを降ろした酒屋横の公衆電話を離れると、路地を縫い、月の明かりを頼りに堤防へ上がった。多摩川の対岸では、川崎の工場地帯から上がるオレンジの炎が蠢いていた。堤防の階段を降り、護岸コンクリートの縁に両足をぶらんと投げ出して座った。生臭い海の匂いがした。足下で小さな波が砕け、飛沫が顔に当たった。ズボンからタバコを取り出し、唇に挟んで火を点けた。仙元は一本を灰にすると、思い出したように、ジャケットの懐を探った。指の先に触れた硬い紙の感触をつまみ上げ、ひっぱり出す。クシャクシャに折れ曲がった一枚のモノクロ写真。指先で丁寧に伸ばして、月の仄かな光の中に置いた。ざらついたコンクリートの上に浮かび上がった記憶──
母の香織に手をつながれた、幼い仙元だった。小学校の入学式の朝、父の撮ってくれた写真の中で、二人は着飾り、ともに微笑んでいた。たしか、フリルのついたブラウスは、着るたびにいつも「可愛い、可愛い」と言ってくれた、母のお気に入りだった。キュロットスカートの色は淡い水色で、顔にはほお紅と薄いピンクの口紅もつけていたはず。丁寧にカールした髪と、ライラックのコロンの香り……。母と自分の服の下に潜む、おぞましい刻印さえも見えるような気がした。そして夕陽の中、道路の端に立ち、疾走するクルマの群れに向かって息子を突きとばそうとしていた母親の狂った笑顔──
仙元はククッと、さもおかしそうに喉で笑うと、ライターを取り上げて火を点けた。細長い火の先端に指でつまんだ写真をかざして、丁寧に炙る。チロッと浮かんだ青白い焔《ほむら》。それを呑み込むように深紅の炎が現れ、全体を嘗め尽くして燃え上がった。仙元は、指先をジリジリ焼いて包む炎を凝視した。右手の火傷、三枝航の苦悩──緋色の中で航の顔が揺れた。指をそっと離した。燃える写真は火の玉になってゆらゆら漂い、黒い川面に落ちて消えた。
仙元は腹に差し込んだチーフスペシャルを抜き出すと、シリンダーを振り出し、一発だけ装填された銃弾を確認した。シリンダーを左の掌で擦るように回してボディに収める。そのまま銃口を喉元に押し付けて、左手をそっと添えた。トリガーにかけた右手ひとさし指に力を込める。ハンマーの空撃ちが四回続いた。マズルフラッシュがきらめいたのは、五回目だった。
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エピローグ
九月に入ると、それまでの炎天が嘘のように、雨の日々が続いた。篠突《しのつ》く白い雨が、灰色の街に澱《よど》んだ熱気と煤煙を洗い落とし、流れて行った。ほぼひと月の間続いた長雨の後、晴れ上がった秋の空は広々と高く蒼く、澄み渡っていた。
黄昏時、ブランコと滑り台を置いただけの、ちっぽけな公園のベンチに座った武藤茂男は、道路を挟んで向こうに横たわる多摩川の堤防をぼんやりと眺めていた。薄汚れたジャンパーと作業ズボン。時折、思い出したように、右手に握ったカップ酒を呷《あお》る。仕事がない、カネがない、時間がない……酔いで朦朧とした頭に、逼塞《ひつそく》した現実がのしかかる。エラの張った四角い顔に浮いた無精髭が、ひきつったように震えた。空になったカップ酒の容器を投げ捨て、痰を吐き、武藤茂男は両手でゴマ塩頭を抱えた。背中を丸めた短躯が、哀れなほど小さく見えた。
「シゲさん」
聞き覚えのある声だった。顔を上げると、道路に立って微笑む男がいる。すっと伸びた細身の身体が、一本の若竹のようだった。
「おれですよ」
男はまっすぐ歩いてきた。坊主頭にトレーナーとジーンズ。
「おまえ……」
武藤茂男は呻くように呟いた。友田勇志だった。
「酔っ払うにはまだ日が高いんじゃないですか。仕事、どうしたんです」
勇志は隣に腰を下ろした。
「クビだよ」
「シゲさんがクビ?」
「おまえに偉そうに説教垂れながらこのザマよ。青木の野郎、これ以上、年寄りの面倒はみれねえ、とぬかしてな。おれのことをゴミみたいに言いやがって──」
唇をひん曲げて唾を飛ばし、あらん限りの悪態をついた後、武藤茂男は勇志を見た。
「おまえこそどうしてる」
「バイトの帰りなんです」
穏やかな表情だった。顔に貼り付いていた、あの沈んだ暗い色が消えている。
「寝たきりのジイ様は死んだか」
「おれとおふくろで世話しています。区のヘルパーや介護サービスも利用できるようになったし──」
勇志は病弱な母親に仕事を辞めさせたこと、自分がコンビニとパチンコ屋のバイトを二つ掛け持ちで働いていること、特別養護老人ホームへの入所申し込みを終えたこと、等を告げた。武藤茂男は大きく頭を振った。
「大したもんだ。おまえは大した奴だよ。それにくらべたらウチのガキはどうしようもねえ」
顔を顰《しか》め、吐き捨てるように言った。
「出戻りの娘がサラ金でカネ借りまくっちまってよ。ピーピー泣き喚く赤ん坊の世話をカカアに押し付けてトンズラよ。おれは毎日職安に通っちゃいるが、仕事はきれいさっぱり何にもねえ。もう勤め人は無理だな。仕方ねえからまたドカチンの日雇いやろうと腹くくったが、それだってあぶれているヤツが山ほどいるっていうじゃねえか。学も何もねえジジイなんて、どこでも用無しよ」
「でもシゲさん、失業保険が出るでしょう」
武藤茂男は鼻で笑った。
「ああ、一応社員だったからな。しかし、出るったって三月《みつき》も先だ。家の恥を晒すようだが、あのやろう、カカアが爪に火を灯して貯めたなけなしの蓄えまで持っていっちまった。おかげで正真正銘のスカンピンだ。サラ金の取り立ても来やがるし、孫を抱えたカカアは身動きとれないし、八方塞がりってやつだ。とても三月は待てねえ。失業保険より今日の一万、いや五千円でいい。いますぐ現金の入る仕事が欲しいんだ」
酒臭いため息を吐いて、武藤茂男は顔を伏せた。二十にもならない小僧の前で、あらん限りの愚痴をぶちまけた自分がひどく惨めだった。
「じゃあ、おれんとこへ来ればいい」
「なんだと」
武藤茂男は太い首を捻り、赤く濁った眼で睨んだ。
「おれ、パチンコ屋の店長に話しますよ。うちの店長、見かけは怖いけど、情のあるひとなんです。それにシゲさんなら自信を持って紹介できます」
「おれがおまえの世話になるっていうのか」
皮肉と戸惑いを込めたその言葉に答えず、勇志は腕時計に眼をやると立ち上がった。
「おれ、そろそろ行かなくちゃ。じいちゃんにメシを食わせて、それからコンビニのバイトなんです」
と、小わきに抱えた本が目に入った。朱色の表紙に、黒字のタイトル。武藤茂男は無遠慮に顔を近づけ、眼を凝らした。こうこうにゅうがくあんない≠ニ読めた。
「おまえ、高校、行くのか」
武藤茂男は、口を半開きにして見上げた。勇志は頷いた。
「夜間だけど奨学金もあるらしいし、頑張れば来年の春からなんとか通えそうだから──」
「勇志、おまえ、いったいどうしちまったんだ」
武藤茂男は、さも驚いたと言わんばかりに勇志を見つめた。
「どうしたって……」
「以前とはまるで人が違ったみてえだ。あの頃はおまえ、一日一日を過ごすだけで精一杯だったろう」
「おれ、どうしようもない意気地なしなんです。だけど──」
勇志の視線が一瞬、遠くを見つめた。
「──生きろ≠チて言われたから」
「誰に?」
答える代わりに、静かな笑みを浮かべた。
「シゲさんのこと、店長に話しときますから。おれ、またシゲさんと一緒に働きたいんです。シゲさん、おれのこと、いろいろ気にかけてくれたし」
それだけ言うと、くるりと背中を見せて駆け足で去っていった。公園の門を出た勇志の姿が見えなくなると、武藤茂男は、ベンチの背もたれにそっくり返って空を見上げた。深く澄んだ蒼い空の、怖いほど高いところにハケで掃いたような金色の筋雲があった。秋の凜とした風が、酒で火照った頬を撫でた。
「どっこらせ」
大仰な掛け声とともに腰を上げると、空に向かって両手を突き上げた。大きく深呼吸をした武藤茂男は、よろける足を踏み締めながら歩き始めた。こんな心地よい気分は久しぶりだ、と思った。
主要参考・引用文献
『記憶を消す子供たち』 レノア・テア (吉田利子訳) 草思社
『精神鑑定の事件史』 中谷陽二 中公新書
『犯罪心理学入門』 福島章 中公新書
『箱庭療法入門』 河合隼雄編 誠信書房
『冷血』 トルーマン・カポーティ (龍口直太郎訳) 新潮文庫
銃器の取り扱いについて床井雅美氏に貴重な助言をいただいた。謹んでお礼を申し上げる。
〈底 本〉文春文庫 平成十七年二月十日刊