永 六輔
遠くへ行きたい
[#表紙(表紙.jpg、横180×縦261)]
目 次
下町からの出発──長いまえがき──
T 浅草育ち
浅草育ち──短いプロローグ──
鯛焼きのシッポのアンコ
町 内 の 頭
肩身の狭い町
かっこよさ
U どこかへ行きたい
どこかへ行きたい──短いプロローグ──
まずは歩きぞめ
踏まず 踏みて 踏む
三流の旅芸人
V 誰かに逢いたい
誰かに逢いたい──短いプロローグ──
小諸出てみりゃよォ〜〜
安来名物荷物にゃならぬ〜〜
蛙が鳴くんで雨ずらよォ〜〜
ベアトリ姐ちゃん〜〜
ハァ佐渡へ佐渡へと〜〜
沖の鴎に潮どき聞けば〜〜
土佐の高知の播磨屋橋で〜〜
守るも攻めるも〜〜
田舎なれどもよォ〜〜
地球を歩く──長い長いあとがき──
僕は乞食坊主──長い長いあとがきのさらにあとがき──
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下町からの出発──長いまえがき──
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浄土宗、最尊寺住職、永忠順。
僕の父である。母は同じ浅草の長泉寺から嫁に来た。
父の母も又、浅草の親福寺の娘だった。
浅草の小さな寺同士が婚姻関係で結ばれて親戚といえば寺ばかり、そして最尊寺の両隣も、その又隣も、お向うも寺という町だった。
寺の収入は直接的には檀家の葬儀であり、法事であり、従って他人の不幸が生活の糧になるという考え方も出来た。
この「考え方も出来る」ということが落し穴になっていて、さらに「坊主丸もうけ」という言葉につきまとわれた。
このことで具体的な差別を受けたりはしないのだが、世間がそういう目でみているであろうと思うだけで、みずから落し穴に飛びこんでしまうのである。
表向きは尊敬されるが、実は軽蔑されている部分を持っているのが寺であり、坊主である、と思うと、気の弱い僕はいたたまれなくなるのだった。
そこで、「芸人は表向き尊敬されながら、実は軽蔑されるという両面を持っている」などという言葉とめぐり逢う。ホッとする。
こうして仲間意識が先に立って、芸の世界にのめりこんでゆく。
尊敬されながら、軽蔑されてきた歴史が少しずつわかってくると、こんどは、その伝統にあやかって「尊敬されたい」という気持と、「軽蔑されたい」という気持がないまぜになり、それが日常生活に反映してくる。
そのうち「尊敬されそうだな」と感じると「軽蔑されなきゃ」という気が起きる。
野坂昭如氏にいわせると、僕は「本音」と「建前」がゴチャゴチャな男だそうだが、全くその通りで「尊敬されたい」という本音と、「軽蔑されなきゃ」という建前がゴチャゴチャなのである。
野坂昭如氏が『火垂るの墓』という作品を書いたり、歌ったり、キックボクサーになろうとしたりする。
『沈黙』を書いた遠藤周作氏がテレビのコマーシャルでおどけてみせたりする。
この種の例はいくらもあるけれど、僕はホッとするのである。
長谷川伸氏が通りすがりの人に「あいつが長谷川伸だ」と指さされて、ホッとした話を聞いた時も嬉しかった。
美濃部都知事が「正直にいって、学者から政治家になりさがったという実感があった」といった時に、好きになれた。
誰だって「たてまえ」と「ほんね」がゴチャゴチャすることがあるのだ。僕はゴチャゴチャしっぱなしなだけだ。
だから「たてまえ」だけの人、「ほんね」だけの人が好きになれない。
勇んで政治家になるようなタイプは許せないと思うほどである。
さて、坊主と芸人の話に戻そう。
僕にとって、お経は歌であり、説教は講談であった。
それは「芸」と名づけるに充分な要素を持っている。
「仏に仕える」という態度を支えるのは、信仰心ではなくて「芸のたしかさ」ではないかと思う。
キイミョウムウリョウ
ジュウニョライ
ナアムウフウカア
シイギイコウ
耳で覚えた経文を節まわしよろしく唱える時の、なにやら、怪しげな芝居がかった気分は子供心にも後めたく、それ故に楽しくもあった。
自分でも何をいっているのかわからないのだから、それがお小遣いになることが不思議だった。
そこで経文を解釈し、仏教に関心を持てば、坊主になるのだろうが、親父は僕をそうは育てなかった。
もっとも、その頃は戦時下で、僕は海軍航空兵を夢みていたし、その上、学童疎開で寺の生活から切り離されてしまっていたから無理もない。
空襲、戦災、多くの人が死んでも、東京ではそれが当り前だったから、お経をあげてお布施を貰える時代ではなかった。
焼跡のバラックに戻って来たのが中学の一年生。世の中も落ちついた。
物心ついて、誰しもそうだろうが、あらためて家業に対して批判的になった。
葬式があれば、月謝が払えるという現実が辛かった。
不幸中の幸いは、親父が悪い坊主ではなかったことである。肩身のせまさを気にして、オドオドと生きているようにみえた。
親父は誰にも威張らなかった、親として子供にさえもオドオドとしていた。生きていることを照れているようだった。
だから寺の子であることには反撥したが、親父をますます好きになった。そして、寺で生れ、育った以上、親父のように生きるしかないと思った。
戦争中は「永」という一字の姓にも劣等感を持ち、疎開先では「東京ッポ」として輪をかけていじめられた。
僕は機先を制して謝ることが身についた。
「ゴメンナサイ」が口癖になった。
人に頼んでおいたことが忘れられている時でも、僕は「ゴメンナサイ」という。頼んだ僕が悪かったという意味である。
うまくいかなかったことを全部自分の責任にしてしまえば気が楽だった。
そのかわり本当に自分が悪いときには、どうしてよいかわからなくなってしまうのが常だった。
「たてまえ」と「ほんね」はそこでもゴチャゴチャになり、本能的に相手を悪者にしてしまうのだった。
なんとかして自分のミスを相手になすりつけてしまうという智恵は、焼跡で生きる手段でもある。
誰もが持っている弱味につけこんで立場を逆転する。あるいはミスをそのままにして得点に結びつける。
泣いている女を前にした男が、悪い奴に思われてしまうのと同じで、僕はヒステリックにわめきたてる。
要するに居直るのだ。
この「居直り」というのは下町の喧嘩のルールでもある。
「悪態」をついて「居直る」。
歌舞伎でも、講談でも、落語でも共感を呼ぶ場面である。
一種の美意識で、正しいか、正しくないかは二の次になってしまう。論理ではなくて情緒である。
二十年間放送の仕事をしていて、最終回までやった番組は二ツしかない。あとは全部途中で喧嘩をしてやめた。
この喧嘩のうち、半分は居直りだったように思う。
素直に「ゴメンナサイ」といえば済んだことなのである。
逆にいえば下町の人間なのだから上手におだててくれればよかったのだ。
「後めたさ」を背負って育つと、おだてられることを意識して待つようにもなる。
「今、おだててほしい!」という時におだてられると、それがお世辞とわかっていながら、なんでもやってしまうのだ。
「オッチョコチョイ」といわれても賞められているような気になり、珍しく「寄生虫」なんていわれると喜び勇むのである。
このあたり下町ッ子の特質であろう。
これがリズムにまでなると、その日その日を送る調子良さとして、まさにうってつけのマスコミ人間になる。
大橋巨泉、青島幸男を下町ッ子としてみると、ほぼ同じことがいえると思う。
だからラジオ、テレビの機構には最適ということにもなる。
例えば、生放送のニュース・ショーの司会をやらせれば僕は第一人者になれる。
安っぽい正義感、甘い説教、どこへでも行く身軽さ、五秒あれば出る涙、なによりもテレビ育ちだから現場処理が上手。
足りないのは、僕をおだてて使うスタッフである。
もっとも、テレビを「尊敬」しながら、「軽蔑」している僕なんかを相手にする局はないだろう。
スターをおだてる暇はあっても、僕をおだてる暇はないのかもしれない。
かくして、僕にはテレビの番組がなくなる。
テレビに出して貰えないのに東京にいると、いかにも人気がないようにみえる。そこで旅に出る。
「旅に出てますので、テレビには出られません」というのだ。
有難いことに、旅に出ていればいるで、カメラが追いかけてきて旅の番組が出来たりする。
そうすると旅がしたいのか、テレビに出たいのかわからなくなって、つまり「ほんね」と「たてまえ」がゴチャゴチャになって、つまるところは居直ることになる。
「遠くへ行きたい」という番組は半年で、「私の感情旅行」は二週間で、それぞれやめてしまった。
逆にラジオの「誰かとどこかで」は五年間になろうとしている。
たかが人間一人の生き方、どうにでも理由がつけられるものだ。
そして、そのオッチョコチョイぶりも四十歳に近くなると、なんだか深く考えるところがあってそうしているようにみられるから面白い。
オッチョコチョイも四十年近く一筋にやっていると風格が出るものとみえる。
自分は天才ではないと見切りをつけたら、それがなんでも一筋に生きていると、なんとかなるものと悟ったこの頃である。
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[#小見出し] T 浅草育ち
浅草育ち──短いプロローグ──
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第一部〈浅草育ち〉は『暮しの手帖』(一九六九年・三号〜八号)に連載されたものである。
放送台本から活字の雑文を書くようになった時、ひとつの目標をおいた。『暮しの手帖』つまり花森安治サンから注文がくることだった。
そして、小さなコラムから始まった売文業の十年目に、花森サンからお電話をいただいた。嬉しくって一日中ニコニコしてから、その顔をギュッとひき締めて、編集部に参上したのをおぼえている。
編集部の大きな食卓をとり囲んで社員が食事をしていて、その中に花森サンと、吉兆≠フ御主人がいらした。
僕は吉兆≠フ御主人が、いうなれば社員食堂のものをおいしそうにめしあがっていらしたことにまず感動した。
花森サンは当時、僕のやっていた深夜放送にいたるまで話題をひろげ、やがて話を下町にしぼり、浅草について書きなさいという結論になった。
その間中、僕はこの編集者が僕についてのいろいろを取材した上で話をしていることをピリピリ感じていた。かつて原稿を依頼する前に、こんなにも書く人間について調べる編集者に逢ったことがなかったので、それだけで感激してしまった。
それにつけても、僕の逢う若い編集者はあれはなんだと思った。
「書かせてやる」という態度でやってきて、断わるとビックリする奴がいる。
待ちあわせた場所で散々喰って、平気で支払わせる奴がいる。
僕が書けないといったら「じゃ五木寛之でも紹介して貰おうかな。電話でいいから僕が行くっていって下さいよ」といった馬鹿がいる。
逆に「野坂昭如に断わられちゃったんですよ。あんな感じで助平なの書いてくれないかな」といった間抜けがいる。
「名前だけ貸して下さいよ。こっちで書くから」といった泥棒もいた。
勿論、キチンとした人もいる。その人に逢ってよかったと思い、育てられた実感を持てる有難い編集者も多い。
しかし、花森サンは昔から憧れていた人であり、それが裏切られなかったということで胸がドキドキしたのである。
葉書にコントを書いて「日曜娯楽版」に投書をしたことから始まって、以後、書けばなんとか売れるという、つまり、しごかれることがなかっただけに、花森サンにそれを期待したことも確かだ。
何回も原稿を破かれてポイと捨てられ、捨てられなければ書き直しを要求される、そんな状態で文章を書いてみたかった。花森サンならそれをしてくれると、そう決めこんでいたのである。
恥かしい話だが、待ちこがれていたそういう状態に僕は耐えられなかった。何度も書き直しをさせられ、やっと受けとってくれたかと思うと、受けとることと載せることは違うのだということを教えられた。
しかも、原稿料はキチンとどこよりも高く支払われるのである。
やがて連載が始まり、僕は疲れ、花森サンと逢うことも恐しくなった。僕はそれを修業だと感じるにはうぬぼれが強すぎた。
芸人の話を聞くと修業の辛さが中心になる。地獄のような修業だけが芸を支えるという言葉にその通りだとも思った。それが自分のことになると、ちょうど弟子が夜逃げをする心境なのである。
そんな時に、僕はラジオのタレントであって、文筆家ではないのだと自分に言い聞かせる。
ここでは「たてまえ」と「ほんね」がゴチャゴチャになることはなかった。
僕にとって『暮しの手帖』は常に「たてまえ」だった。
こうして『暮しの手帖』から遠のいた。
○
しかし、年月がたってみると、花森サンの編集者としての厳しさが、僕を育ててくれたと自覚出来る点が発見出来るのだった。
そのなつかしい原稿がここにある。
この連載が暮しの手帖社からではなく、文藝春秋から本になったことは、ホッとすると同時に花森サンに恥かしい。
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鯛焼きのシッポのアンコ
糖尿性昏睡で亡くなった安藤鶴夫サンのエピソードに「鯛焼きのシッポ」というのがある。
四谷若葉町、安藤家の近所の鯛焼きが、シッポにまでアンコが入っているというので、その良心的な商法に感動した安藤サンがそれを新聞に書いた。その日から鯛焼き屋に客が押し寄せてアッというまに四谷名物になったという話である。
この時の安藤サンの感動はこうだ。鯛焼きのシッポにアンコが入っているのは当り前だが、その当り前のことが当り前でない世の中になっている。
安藤サンの口癖でもあるが、正しいことをしようとするのに勇気がいるいやな世の中で、こうしてシッポにまでアンコの入っている鯛焼きがあることは嬉しい……と書かれている。
こうして安藤サンの感動は多くの人々の胸を打ち、その結果が沢山の客を呼んだ。僕自身もこの安藤サンの言葉に感動して鯛焼き屋に行列をした。並んで買いもし、突然出かけて電話の予約の無い方は駄目ですと断わられもした。
横丁の鯛焼きを買うのに予約をしなければならなくなったかと嘆息のひとつも出た。
そんな時である。浅草の鯛焼き屋の老主人が鼻白んでこういうのを聞いた。
「冗談いっちゃいけません、鯛焼きのシッポにアンコが入っていちゃいけません。ようがすか、アンコの入っている甘いところを喰べてですよ、最後のシッポは口直しにカリカリッと喰べるものなんだ。そのシッポにまでアンコが入ってるようじゃ鯛焼きもおしめェだ、いやな世の中になったもんだ」
僕はドキンとした。アイスクリームについているクッキーやウエハースと同じ理屈なのである。そういえば、鯛焼きを焼く鉄板はシッポが薄く焼けるようになっているし、現にシッポまでアンコをいれると、焼きあがりにアンコがはみだすことが多い。
だからといって、安藤サンの言葉を間違いだともいいきれない。四谷の鯛焼き屋も、浅草の鯛焼き屋もそれぞれに理屈がある。
そして、たかがシッポのアンコといえない問題がここにある。
味覚という点でいえば、鯛焼きのシッポにはアンコの入ってない方がおいしいと思う。口直しにカリカリッと喰べるという説は納得がゆく。しかし、シッポにアンコが入ってないというのでは美談にはならない。
こうして書いているうちに気がつくのは「横丁の鯛焼き屋」「シッポ」「アンコ」という言葉のひびきが、すでに下町好みの心あたたまるニュアンスに満ちていることだ。
そして、紹介された新聞のコラムが、それまで都内の有名な老舗ばかり取りあげてきていたことにも美談になる要素がある。
そして、とどめをさすのが安藤サンの感動振りということになる。
こうして鯛焼きのシッポにアンコがあることが正しいことになり、それまでシッポにアンコをいれなかった店は良心的ではないということになってしまった。今や東京の鯛焼きは全部シッポにアンコが入っているといえる。
僕は美談が嫌いなわけではないが、それがマスコミを通して流れる場合、思いもよらぬ権威として認められてしまうことがある。
もしかすると安藤サンだってシッポにアンコの入っていない鯛焼きで育ったのかもしれない。
そして世の中への不満をどうでもいいようなシッポのアンコに託したのかもしれない。そうでないかもしれない。
僕が違うのはこの話に感動して鯛焼き屋に駆けつけた一人だからである。
「シッポにアンコが入っているなんてインチキだ」といっていた浅草の老人は今でもかたくなにシッポにアンコをいれないで焼いているだろうか。そして、このことを知ったとしたら安藤サンは、もっともっと悩んだに違いない。
賞めるということは本当にむずかしいことである。
○
僕の友達に豆腐屋がいる。
戦争中の岩塩の統制でニガリでなくスマシコで豆腐をつくるようになり、その方が手間がはぶけるので、ニガリを使って豆腐をつくるのは特殊なケースになってしまった。
しかも、スマシコの豆腐で育った僕達の世代はニガリの豆腐の味の方がおいしいとは感じなくなってしまっているのである。その上、大きさで買うから、小さくて値がはるニガリの豆腐は売れない。
それでも、ニガリの豆腐と指名で買う人がいる以上、つくりつづけなければとがんばっている。
美談ではあるが、だからといって、この店にニガリの豆腐を買いに客が殺到するとは思えない。
○
僕の友達がアメリカから罐入りの炭の灰を買ってきた。
これは電子レンジで焼いた肉を、炭火で焼いたようにみせかけるために極く少量をふりかけるものだという。
僕はそんなことをするなら炭火で焼くべきだと思う反面、いかにも炭火で焼いたように灰をあしらう仕事自体の楽しさにひかれた。
○
料理の方法が伝承・継承されても、味そのものは変ってゆくのが当然であり「おふくろの味」という思いあがった表現で、まるで今の主婦の料理に味がないようにいうのは間違っている。
芸の世界で「先代はうまかった」「昔はいい芸人がいました」「下手な芸をうまいと思う今の若い人は気の毒だ」という言葉を聞く時の腹立たしさと同じである。
明治生れには明治生れの名人がいるように、昭和生れには昭和生れの名人がいる。僕の観ることが出来ない故人の芸は僕にとってなんの価値もないが、伝えられてきた技術や、智恵を受けつぐ努力を惜しみはしない。
鯛焼きのシッポにはわざとアンコをいれないで焼く、これは智恵である。
電子レンジで焼いた肉に灰をまぶす。これは技術と智恵の傑作だと思う。その肉だって石油からつくった人造肉の時代がくる。
人造肉を電子レンジで焼いて、灰をまぶしたステーキを「おいしい」といって喰べる人のそばで、それを「まずい」と決めつけることには意味がないのである。
石油が牛や豚の生命を救ったからといって、それももう美談にはならない。
もう一度考え直してみると、事実シッポにアンコが入っていたにせよ、そのシッポにあらためてアンコをいれたのは安藤サン自身ではなかったか。安藤サンにはそうした「美談創造」の体質があったのではないか。
常に感動を求めつづけ、探しつづけ、遂には感動をするための美談を創作して感動する。作家でもあった安藤サンであり、自分でもその感動振りを認めていた。
「永クン、感動したまえ!」ともいった。
こうして安藤サンは当り前のことに感動し、感動する自分に感動し、僕はその感動振りに感動したものだった。それは名人芸と同質といえるものである。
シッポのアンコに限らず、僕達の周辺にはいろいろな種類の美談がいりみだれて、これは女性週刊誌のスキャンダル以上に、判断力をまどわせてはいないだろうか。
僕は僕の敬愛する安藤鶴夫サンについて、いずれ、このあたりから評伝を書きたいと思っている。
○
生活の中で伝えられてきた技術と智恵を受けつぎたいと書いた。
出来ればそれを書きとめておきたいと思うのだが、専門外のことだからとりとめもなく楽しく話すことは出来ても、とりとめもなく書くということは、自分の精神散漫さをあらためてみせつけられて気恥かしい。
とはいえ、そのうちなんとかなるだろうという軽薄さもあって、とにかくはおしゃべり形式の文体で書きすすめる。
○
一本のすりこぎがある。
五十年前、祖母の嫁入り道具のひとつだったが、長い間に五十センチほどのものが二十センチになっていた。三十センチは喰べてしまったことになる。
いきなり|かじれ《ヽヽヽ》といわれても無理な話だが、五十年もかけてかじったも同様。祖母はこんな風に教えてくれた。
「すりこぎは山椒の木でつくるんだよ、だから虫除けになって、身体にいいのさ」
デパートや荒物屋で売っているすりこぎが果して山椒の木であるかどうか、素人の目でわかるものではない。
僕は短くなって使いにくい祖母のすりこぎを家宝にして、新しい山椒のすりこぎを探しはじめた。
宮崎県の高千穂峡、天の岩戸神社に出かけた時だった。なんとすりこぎの専門店があり、この土地の観光土産になっているのである。
山椒の木の枝をそのままに、いろいろな長さに切りそろえて並べてある中から一メートルほどの曲りくねったのを買ってきた。
小柄な女房は「私は仙人じゃないんだから」などと文句をいっていたが、この曲りくねったすりこぎのえもいわれぬ使い良さに感動していた。これで我家は孫の代まですりこぎを買わなくてすむわけである。
しかし、今までで一番長いすりこぎをみたのは福井県の永平寺。
二月、午前三時から坐禅を組んでいると膝の上に雪がつもる。悲鳴をあげて逃げだしたくなるのをこらえてから朝の粥《かゆ》になる。その粥を炊《た》いている台所の入口に、柱が一本余計に建ててあるのかと思ったらすりこぎだった。
もとより実用品ではないのだが、ひとかかえもあり長さも五メートルはあったろうか。味噌摺り坊主≠ネどという言葉があるように寺とすりこぎの関係の深さを認識した。
痔という字がある。この病気が※[#やまいだれ、unicode7592]に寺と書くのは、坐禅もそうだが、冷たい板の間の台所仕事からくる坊主の職業病という話も聞いた。
その永平寺の巨大なすりこぎが山椒であったかどうかは聞きもらしたが、山椒はすりこぎ以外でも、木の芽田楽の木の芽は山椒の若芽のことだし、若芽から葉になると佃煮としておいしい。
○
田楽といえば、なぜ豆腐の串刺しを田楽というのか聞いたことがある。
松本に古くからある「木曽屋」という田楽の店でのことだが、江戸の昔からのれんをあげているのに、老主人は「どうしてですかなァ」とさして大問題ではないという様子だった。妙に故事来歴をふりまわす料理屋のいやみにくらべて、名前なんかどうだっていいという無関心さがかえって味の自信を感じさせた。
この田楽の名前の由来を知ったのは、それから暫くして狂言の本を読んでいた時だった。
能・狂言の母体になる田楽と猿楽(散楽)の内、田楽法師の大道芸に、長い竹棹《たけざお》を地面に立てて、そこにするするとよじのぼるというのがあり、これが田楽法師を串刺しにしたようにみえた。
したがって豆腐の串刺しも、その形が田楽法師のようにみえる、田楽の芸に似ているところからきているとあった。
串刺しについては大津走井の月心寺の庵主さんに聞いた話も思い出す。
ここで食べた精進料理に銀杏を細い松葉で串刺しにしたものが出た。しかも銀杏はコリコリの固さなのである。
細い松の葉がどうして銀杏の実を突きぬけるのか不思議に思ったが、銀杏には縦に一筋柔らかい芯が走っていて、そこへ気合いをこめて突き刺し、貫通させるのだそうだ。
気合いをこめてというと大袈裟《おおげさ》のようだが、吐く息をとめて一息に、一瞬に刺し通さないと松葉が曲ってしまうという。
吐く息をとめる、あるいは息を吐ききるという瞬間が人間もっとも精神を集中出来るというのは芸の世界にもいえる。
バレリーナや体操の選手がポーズを決めたり、歌舞伎役者が見得をきったりするその静止の頂点で息は吐ききられているのである。
スポーツでいうと短距離、特に百メートルは用意で息を吐き出し、ドンで息を吐ききってスタートし、ゴールまで呼吸していない。
競馬の騎手は、ホームストレッチに入ると同時に吐ききる。
藤田嗣治は息を吐ききってあの細い美しい線を自分のものにしたと書いている。
チャンバラでは息を吸う時に斬られるともいう。
とにかく、息を吐いてとめる。又は吐ききる一瞬に起る奇蹟は楽しい。
豆腐に串を刺すのだって心構えはそうありたい。
○
さて、山椒の若芽が育って大きな葉になると、よく毒虫の刺され傷にもんでつけた。実の方は干して粉にして薬味にするのだから無駄のない木である。
山椒の粉とか七味唐辛子とかをよく竹の筒にいれるが、名古屋の「山本屋」(煮込みうどん)の薬味の竹筒は永平寺のすりこぎではないが、長さ一メートル、太さが直径十センチほどのもので不便ではあるが楽しい。
その竹も古い茅葺《かやぶき》の農家を解体した時に屋根組みに使ってあった竹で、長い間の煤で竹の表面に縄目のしみがついているという品だ。
名古屋に行く度に欲しそうな目つきをしていたら、御主人が「盗まれたと思ってあきらめるから持っていきなさい、それは二百年ほど前の竹です」といってくれた。
どうも品性下劣で、ものほしげな目になるのは恥かしいが、そのおかげでこの巨大にして、時代ものの薬味入れは我家の食卓にある。
「山本屋」は箸も普通の割箸の五倍は優にある太さで、しかも檜《ひのき》である。
この箸もゆずって貰ってきた。
我家ではこの箸と、戸隠で買ってきた竹箸を重宝している。
普通竹箸は竹をさいてけずってつくるから、長い間に弓なりに曲ってしまう。一本の箸でも竹の表面と内側では密度の差があるからである。
だから細い丸のままの竹でそろえてある箸は何年使っても曲らない。
……僕はすりこぎの話をしているのに、なんとおしゃべりなのだろう。
山椒のすりこぎはそういうわけで補給がついたが、摺り鉢となると、なかなかいいのがみつからない。
デパートで売っているピンクやブルーの摺り鉢で糸底に大きな吸盤がついていたりするのがあるが、矢張り摺り鉢は茶色がいい。吸盤は便利だが、我家では小学校の娘達が押えてくれる。
五年と一年の娘達が最初に覚えて自分で作った料理は、ピーナッツを摺りつぶして味噌とあえるものだった。僕は娘達の結婚には最高級の摺り鉢をプレゼントすることに決めているだけに、彼女達の協力が嬉しい。
エレクトロニクスの料理も結構だが、山椒のすりこぎを大切にする主婦になってほしいとそれだけを念じている。
ほうろくもこの頃みかけなくなった。
ほうろくで胡麻《ごま》を煎《い》り、パチパチとはねている間に摺り鉢にうつして、すりこぎでつぶす、あの時の香り、たすきがけの母親の腕の白さを思い出す。
○
そういえば着物の上に着る割烹着《かつぽうぎ》もみかけなくなった。僕はみかけないのが不満なのではない。ましてや昔はよかったというつもりもない。
昭和八年生れの疎開児童あがり、昔がいいわけはないのである。
この辺が明治・大正をなつかしむ老人とは全く違うところで、「明治という言葉を聞くだけで心がなごむ」という安藤鶴夫サンの言葉も理解は出来ない。
東京生れの東京育ちではあるが、東京が故郷という意識もなく、思い出しても焼野原とあって、心のなごむ土地も時代もないのである。両親と祖父母のおもかげに断片的に浮ぶ下町の生活、その習慣、その智恵、人と人のかかわりあいをなつかしむことは出来る。
浅草に住む両親の家に電話すると、小さな姪が「お婆ちゃんは|髪結いさん《ヽヽヽヽヽ》にいっている」という返事。その髪結いさんはオートドアの美容院なのである。
そんな言葉の端々に受けつがれてゆく下町の暮しはあるが、もう残そうとして残るものではない。そうして僕の心がなごむ下町の生活は、東京浅草というよりも、日本の、世界の旅の中で肌に感じることが多いのである。
それをメモしてゆこうと思う。
人間の優しさに溢れた智恵を見逃さずにおくものか、ここまで書いてそう決心した。
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町 内 の 頭
最近の浅草でこんな話を聞いた。
亭主が長わずらいで寝たっきり、もとより貯えもないから女房は働きに出る。それだけでは足りないから売り喰いをする。亭主の病気は死ぬことだけが残っているという状態。思いあまった女房は亭主の仲間を訪ねて香奠の前借をしたいと申し出た。それを薬代にしてでも生き延びてほしい一心だった。
仲間は相談しあって、代表が寝ている男の枕元にすわった。
「お前、早いとこ死ななきゃ駄目じゃないか、女房の苦労も考えてみろ、このままじゃ病院代も葬式代もなくなっちゃう。香奠をまとめて未亡人が小さな店の一軒でも持てるようにしてやろう、そのためにはお前が早く死んじまわないと、元も子もなくなっちゃうんだぞ、わかったか、わかったら死ね」
亭主は翌日死に、香奠は未亡人が小さな飲み屋を開業するのに役立ったという。
「死ね」といった友達も、素直に死んだ男も、それをヒューマニズムにもとるということは出来るが、ここには町の暮しのルールがある。ほんとうに助けあうという意味がある。
「諦める」という町ッ子の気の早さからくる生活の智恵でもある。
亭主を救急車で病院に運び、女房は区役所へ行って生活保護を受ける手続きをするのも、ひとつの生き方だが、下町の感覚では、それは照れ臭いのと同時にお役所に迷惑をかけることになる。
どちらかというとふだんお役所に迷惑をこうむっているのは町の人なのだが、それとこれとは別なのである。お役所とかかわりたくないという気持もあるのだ。
こうしてどんなことでも町内で処理してしまい、それが出来るところが下町とその人情なのだ。
これを落語の世界におきかえると、長屋の職人が寝ついている、おかみさんが苦労をしている、そこに頭《かしら》がやって来て「お前が早いとこ、くたばっちまわねェと、かみさんが浮ばれねェぜ」なんていいながら「あとのことはまかしときねェ」と、胸のひとつも叩く。
そんな頭が必ず現われてくる。下町の暮しの中での頭の役割がいかに大きいかがわかる。
勘当された若旦那が頭の家の二階で意見をされたり、夫婦喧嘩を頭が仲に入ってまとめたり、長屋の店子《たなこ》のために頭が借金の言い訳に歩いたり……。
なんでも頭のところに持ちこめば「ようがす、まかしておいておくんなさい」という返事がかえってくる。頭は、親子、夫婦、町内の問題を一手に引き受けたし、それだけ信用もされていた。
元来は町鳶《まちとび》だった頭も明治以降、消防署や警察が充実するにつれて組織の上では存在価値が失われてしまった。しかし、町の生活の中に、よろず万端のまとめ役の必要性をみとめた大岡越前守と、それを受けいれた江戸町民の智恵をもう一度みつめ直してみたい。
江戸時代、頭は町内の旦那衆に生活を保証され、住む家も提供されれば食事の心配もしてもらっていた。生活の不安がないかわりに、ありとあらゆる頼まれごとを引き受けさせられた。
火消しの仕事は江戸の華だったが、ふだんはどぶさらいまでやらされた。僕が子供の頃は、まだ「どぶさらいのおじさん」といういい方が通用していた。頭という言葉は町鳶を尊敬していったものだという。
職業上、クリカラモンモンの勇み肌もいたろうし、町の用心棒といった要素もあるだろうが、筋さえ通れば、水の中でも、火の中でも飛びこんでいく心意気に支えられていた。
交番のお巡りさんと比較してはいけないが、少くとも今日のお巡りさんにもっとも不足している要素を持っている。警察大学あたりでこのへんの歴史をもっと勉強させたらどうなのだろう。
「御町内の皆さんのおかげで生きていられる」「頭のおかげで町内がうまくまとまる」というバランスがなくなってから久しい。なくなるべくしてなくなってはいるのだが、この方が江戸ッ子のいなくなるのを惜しむよりよほど残念である。
○
浅草の鳶の老人がいっていた。
「江戸ッ子っていうと、私共のような勇み肌の町鳶のことをいう方がいますけど大間違いですよ。また、仲間に江戸ッ子を売物にするような野郎がいるんで困るんですがね。私共が江戸ッ子というのは、酸いも甘いも心得て、金もあって、御祝儀も充分にはずめる旦那衆のことだと思ってます。たしかに、そういう方はいなくなりました、旦那はいない、社長ばっかりになっちゃった」
中小企業の社長ともなれば御祝儀をはずむどころではあるまい。ましてや、江戸育ちでないならなおのことである。
江戸ッ子っていうのが金のある旦那のことだというのはよくわかる。金のある旦那がパーッと金をつかうのと、町人がパーッとつかって一文なしになるのとでは、同じつかうのでも、まるで内容が違う。
一文なしになった男は|江戸ッ子のように《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》金をつかったのである。それを尊敬の意味で江戸ッ子といったのではないだろうか。だから江戸ッ子というのは頭という言葉同様第三者のほめ言葉であって、自称する言葉ではないのだ。
「江戸ッ子だ」とそっくり返る奴のいやらしさはここにある。
僕自身、神田で生れて浅草で育ち、江戸以来六代目の町ッ子だが、この「江戸ッ子」という言葉に長い間、こだわりを持っていた。
例えば、代表的な人物で大久保彦左衛門邸に出入りした一心太助という魚屋がいる。今でも駿河台の明治大学正門から通りひとつへだてたところに「大久保彦左衛門屋敷跡」と書かれた木柱が建っていて、僕はそこから二百メートルも離れていないところで生れている。したがって子供の時から一心太助にはなんとなく親近感を持っていた。
それが、大阪で司馬遼太郎サンとお逢いした時に、話が太助のことになった。その時、司馬サンは実に気軽に「あァ一心太助ねェ、大阪にはあんな嫌な奴はいませんよ」といわれた。
いまだかつて一心太助をそんな言い方で表現した人を知らなかったので、僕はビックリして思わず「嫌な奴?」と聞き返した。
そして一心太助が大久保彦左衛門という武士の存在ぬきで考えられないこと、大阪の商人は武士と五分でわたりあい、権威にへつらわずにきたこと、などなど、伺っていると本当に一心太助が嫌な奴に思えてくるのだった。
司馬サンは僕がとまどっているのをみて、
「一心太助は江戸というより三河の人間じゃないんですか」
と気をつかって下さった。
森の石松が、金比羅代参の帰り道、三十石船で逢う江戸ッ子も、僕の嫌いな一人だ。
「江戸ッ子よ、神田の生れよ」とそっくり返る理由にしても、三河の農民が江戸に移住して、神に捧げる稲をつくるための田を耕すことになった、その神田《しんでん》以来で、いうなれば「神田の生れよ」というのは「百姓よ!」と威張っていることになる。けっして地方人に対する都会人という威張り方ではないのだ。権威者の直系だぞという反骨の気風さらにない野暮な威張り方である。
○
そのお粗末な江戸ッ子が元禄から文化文政へ、徳川三百年の歴史の中で、反骨あり、洒落ッ気ありの花川戸助六に育ったことは確かであろう。だから、粋と野暮、江戸ッ子と田舎ッペ、地方人と都会人、といった区別は実は区別ではなく過程なのである。
僕なりの独断と偏見で考えてみると、江戸の町のように地方人の吹きだまりになると、それぞれが故郷を背負ってやってくる。
「越後屋」「近江屋」「三河屋」「甲州屋」「伊勢屋」といった故郷の名前をかかげて武士相手の商売をはじめるが、町が大きくなるにつれて武士よりも町人相手の小商人や職人が増えはじめる。
彼等は故郷を捨てた一匹狼の集まりであり、土地もなければ家もないという長屋住い。同郷意識なしで助けあわなければ暮していけない人達である。いたわりあい、気をつかいあう暮しがこうして生れる。帰るところがないのだから、そこで無事暮せるということに努力を払う。
「生みの母ならがまんもするが、義理の母が父親にひどい目にあわされるのはみていられない」といって身売りする文七元結のお久の優しさは江戸の下町らしい屈折があって好きである。
「生みの母ならがまんもするが……」つまり他人の方により気をつかう。だからといって他人に気をつかう優しい心が誰にでも通じるとは限らない。
これを通じさせるのが頭だったのだ。同じ町で暮し、今朝は何を喰ったかということまで知っているわけ知りが相談にのるのである。
これもくらべてはいけないが、家庭裁判所の調停委員とは考え方の幅が違う。
頭はどぶさらいもするが「飲む、打つ、買う」も仕事の内、硬軟両構えだから頼りになる。常識を振りまわさない、流行語でいえば水平思考のベテランなのだ。逆にそういう人間でなければ頭になれなかった。
明治維新前後の江戸の頭達の動きも面白い。上野の彰義隊では、さすがにふだんのつきあいがあるから弾はこびなどをやっているが、いざ官軍が勝って、天皇が来るとなると新門辰五郎以下そろって品川までお出迎え。動物的感覚で歴史の流れをつかんでいたともいえる。
明治以降、東京の人口はふくれあがり、かつてのいたわりあいもなくなり、町は政治のための組織の中に組みこまれていった。
東京は故郷に錦を飾るための稼ぎ場でしかなくなってしまった。
東京で出世をして故郷に銅像を建てようという人達の町である。そういう町の片隅で細々と江戸以来の暮しの伝統を受けついでいる人達。
新内のお師匠さん、町鳶の頭、駄菓子屋のお婆さん……。
みんな自分達のことを江戸ッ子なんて思ってやしない。「江戸ッ子」っていうのはそういう言葉なんだと思う。
○
旦那がいなくなって、社長ばっかりになってしまったと苦笑いした年老いた頭がつぶやいた。
「この頃はね、銭湯もちゃんと払って入ります。そういう世の中ですから」
頭は昔は銭湯も無料だったのである。
鳶の老人は住みにくくなったことをけっして嘆かない。
山の手の銭湯で「刺青《いれずみ》の方はお断わりします」と貼り紙の出ているところがあるという。僕が子供の頃は、銭湯で刺青をみるのが楽しみだった。上気して赤い肌の刺青は神秘的なお伽話の世界だ。
女湯で、背中一杯、観音様のすかし彫りをした人がいたなんていう話を母親から聞くと胸がときめいた。
これも落語に出てくるが、町内の若い衆が五人そろって背中に一枚絵を彫り、お祭りの時は横に並んで双肌ぬぎになってみせる。
若い時にその真似をしたという竜のシッポを彫った老人もいた。つまり、首も胴もみんな死んじゃってシッポだけ残っていたのだ。
冬になるとシッポが寒がるという話も聞いた。
そのシッポの老人が風呂からあがると、番台にいたおばさんが水を口にふくんできて、その裸身にプーッと霧を吹いたりした。他の人にそんなことをしているのをみたことはなかった。
風呂屋のオガクズだらけの裏庭にはへちまの棚があって、その根元を切ってビンの口の中にいれてあった茎の切口からへちまのしずくがしたたってたまり、このへちま水は番台においてあって、これも特定のお客にサービスしていた。
午後の早い時間、寄席に出かける前の芸人が、お湯につかりながら、一人で稽古したりしているのとぶつかると、他の客は目で知らせあいながら静かにしていた。その芸人は浴槽でも、隅ッコにいて、つつましさを感じさせていた。
何かの拍子にカーンと金属的な音をたてて桶がひびくと、それが嬉しくて、同じような音をたててみようとするのだが、うまくいかなかった。
男湯と女湯の仕切り越しに「とうちゃん、シャボン!」などと品物が往来したり、時には小さな子供が「コラ危い」などといわれながら乗り越えてきたりした。そんなあとで浴槽にウンコが浮くと、その子はとりあえず容疑者になった。
時々、男湯にも女の子が入ってきたし、僕も女湯へ連れて行ってもらった。しかし、学校に行くようになって女湯で同級生に逢ってからは行かなくなった。
我家で銭湯に行く時には祖母が「煙が出てるかい?」と子供に偵察に行かせた。煙突から煙が出ていれば、「さァ行っておいで」ということになった。
銭湯の入口ののれんに肩をななめにいれて首でひょいと持ちあげるようにして入る大人に憧れた。
「のれんは肩と首でスイと入るんだ、手なんぞを使っちゃいけねェ」
そんなことを子供にまで教えてくれたのはやっぱり頭だった。頭は裸になると、前をかくさず堂々と歩いた。
僕は湯上りで涼んでいる親父の股間を突然力一杯引っぱってみたことがある。親父は気絶するかと思ったそうだが、そのせいかその後、僕と一緒に銭湯に行かなくなった。
どうして、こんなに銭湯のことを書いてしまったかというと、今、僕の住んでいる渋谷で、昭和四十四年に三軒の銭湯が店じまいをし、残っているうちの四分の一が経営難で、これも今年中には……という話を聞いたからである。下町では内風呂がないのが当り前だった。銭湯がすいているとホッとしたものだった。
十五年前、二十年前の、あの目茶苦茶な混みようがなつかしい。その頃、子供だった坂本九が、母親と親戚の家へ行って風呂をすすめられ、風呂場のガラス戸をあけて中をのぞき、嬉しそうに叫んだ言葉がある。
「お母ちゃん、すいてるよォ!」
○
頭の話から思い出した銭湯の事を書いていると、なんだか自分が老人になってしまったような気がするが、僕は今、三十七歳。七十年の昔のことならいざ知らず、若いもんが昔をなつかしむのはどうも中途半端でいけない。
しかし、下町の人間は年々歳々のうつりかわりを静かにみつめ、それを伝えていくことに熱心のようである。
浅草という町ひとつ考えても、その歴史の中で流れに逆らうことなく盛んにもなり、衰えもし、今や東京の過去の盛り場というイメージはぬぐいようもない。
「数寄屋橋ここにありき」という石碑が建っているように「浅草ここにありき」とでもした方がいいような町である。
下町の人間にとっては、そこにある人間のつながりさえ大切に出来れば、町がどう変ってしまってもさして問題ではない。
しかし、事実上は、町内の旦那も、頭も、昔のような形ではいない。
もし、今、僕の家に出入りの頭がいたらと思うと、あれもこれもと頼みたいことばかりである。
娘二人を頭の家にあずけて明治の躾《しつけ》を体験させてやりたい。
女房には昔の男の道楽と、それに対処した女の智恵について話をしてもらおう。
棚も吊ってもらって、ついでにいらない本を持っていってもらおう。
女と手を切りたい仲間に紹介してやって、間に立ってもらおう。
……いくらでも仕事があるのだが、「ヘェ、まかしておいて下さい」といってくれる頭はいない。
「お坊っちゃん、大きくなりましたねェ」と目をしょぼつかせてくれる頭はいても、「いいとこへ行きましょう」と誘ってくれる若さはない。
町内が頭の生活を保証しなくなったのだから、頭がいなくなって当り前なのだが、土木工事の下請け、高層建築の足場、正月のかざりつけをしながら自分で生活をしている町鳶の中には、そうなってよかったと思っている人もいるのである。
「生活はみてもらったかわりに、何でもやりましたよ。お産婆さんのかわりに赤ン坊をとりあげたこともある、出来ないっていうことは許されなかったんです。若いのが学校へ行く時代になったら、もう何でもやらなきゃいけねェって修業はしませんからね、息子にはやらせたくないです。浅草っていやァ、まだまだ私共の吸える空気がある町ですけどね、そろそろ呼吸困難てェ奴で。ガードマンなんてのは考えてみりゃ私共の仕事でしたよ」
浅草の頭はそういってガサガサと音がするような両手のもみ方をした。
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肩身の狭い町
浅草の米屋の娘が、日本橋の三越テパートでセーターを買ってきた。
それを知った父親が怒った。
「セーターなら町内の洋品店でも売っているだろう。なにも三越が悪いんじゃないが、三越はうちへお米を買いにきちゃくれないんだよ」
この考え方に江戸以来の町のルールがある。町内はお互いにお得意様なのである。町内の洋品店で買えばこそ、その洋品店がお米を買いに来て下さる。
なんでもない下町の小言のようでいて国産品を愛しましょうという精神につながっているのが面白い。
町内で買物をするのが町のためになるように、国産品を買うことは日本のためになる。理屈ではそうだが、品物の質や、買う人間の嗜好を考えると、そうは簡単にいかないようだ。
高いお金を出しても、外国製品を買った方が結果として経済的な例もよくある。
それでも、国産品を買うとなると、これは愛国心の問題にもなるし、愛するような国があるのかということにもなる。理屈は同じで、住んでいる町を愛していなければ、どこで買ってきたからといって、それを叱っても意味がない。
昔は自分の家の前の道路はちゃんと掃除をして水を打ったものだ。これは子供時代のある時期、僕の責任だったのでおぼえているが、両隣の家の前、お向うの前をどこまで掃除するかが、むずかしいのである。
隣の家の前も掃除してしまえば簡単だが、それは失礼にもなった。
「すみませんねェ」とか、「ありがとう」といわせるようじゃ野暮なのである。
かといって、キチンと境界線だと、これも角がたつ。だから、ほんのちょっと、気持だけ境を越して掃除しておく。誠意を尽すことと、負担をかけることは別なのである。
この頃はこういう習慣も少くなってしまったし、道を掃除しようにも自動車が駐車していて邪魔になる。自分の町をきれいにしよう、大切にしよう、という気持はなくなる一方である。
○
アメリカ式のスーパーマーケットは浅草にもある。品数が豊富で安いとなれば昔なじみの商店に義理立てばかりもしていられまい。お互いがお客様という流通機構はあきらかに過去のものなのである。
「三越はうちへお米を買いにきちゃくれないんだよ」という言葉は実に説得力があるが、町内のささやかな洋品店に売ってないものがデパートにあるなら、これも仕方がないが、時流にとりのこされ、つつましく商いをしている人達を不運だというのも妙なものだ。
岡本文弥のように「新内は亡びていくからこそ美しく、哀しい」という心境ならば、それなりの鑑賞も出来るが、そこは芸人と商人の違いである。
しかし、商人だって古風に徹することで稀少価値を創《つく》り、それが商売になるということはある。博物館に江戸時代の資料をみに行くような感じで、行ってみたくなる店なら浅草だけでも何軒もある。
丸髷にお歯黒のおかみさんさえいるのだ。
鼻をたらしたお婆さんが店番をしている駄菓子屋もある。
食品衛生管理とはほど遠い神経で駄菓子が並んでいる。
有毒色素の展覧会で、教育ママなら顔をそむけるだろう。
僕達は学校から帰ってくるとそんな駄菓子屋を占拠したものだ。メンコでも、ベイゴマでも駄菓子屋の店先でやった。幼稚園から帰ってくる子供に石を投げたり、悪口雑言を浴びせたのも駄菓子屋の店先だった。
僕の子供の頃でも、下町では幼稚園に行く子はエリートで、それだけで腹の立つ存在になっていた。今日では幼稚園はまるで義務教育である。
その幼稚園帰りをいじめると、その家の親が出てくる。僕達は墓地へ逃げ、逃げこんだついでにお医者様ゴッコをした。
大体、子供の喧嘩に親が出てくるということ自体、下町では通用しなかった。出て来ないことが、親の親たるところで、子供を幼稚園にやるような家だったからこそ、出て来るのである。
普通の父親なら「負けて帰ってくるような奴は家にいれてやらねェ」と、泣いている息子を叩き出す。逆にいえば子供の喧嘩まで面倒みられないのだ。
だから下町には、イジメッ子とかガキ大将がちゃんと存在していた。そして、みんなで一目おいていたのである。こういう子がいないと、お祭りの時なんか統制がとれないのだ。そこにはレッキとした子供の社会があった。
だから、お医者様ゴッコの院長でも、はじめからガキ大将の役どころであった。患者は常におとなしく診察されていた。
僕の鼻の脇に小さな傷跡が残っているが、これはお医者様ゴッコでイボを切り落された跡である。
予想以上に血が出たために院長がおどろいて泣きだしたのをおぼえているが、僕にしてみれば、両親にどう説明するか考えるだけで頭が一杯だった。
つまり、このことで親が子供達の遊びに干渉しては、僕の立場もないし、親にも恥をかかせてしまう。特に親に出てこられることは一番困るのである。
※[#歌記号、unicode303d]子供の喧嘩に親が出たァ! とはやされることは下町の子供にとって、致命的な屈辱であった。
僕は傷口を押えたまま家に帰り、わからないように風呂場に行ってから、あらためて泣き出し、父親のかみそりで、自分でイボを剃り落したことにした。
そのくらいだから下町の小学校では授業参観とか、父兄会の出席率が悪かった。授業参観日になると親の来た子は、まるで喧嘩の時に親が出てきたような恥かしい思いをするのだった。
「勉強は学校にまかせとけばいいんで、親がノコノコ出ていくところじゃねェ」という雰囲気はたしかにあった。
近頃のように大学の卒業式はおろか、会社の入社式まで親につきそわれていくのをみてると、「冗談じゃねェや」横っ面のひとつも張り倒してやりたい。
僕が娘達の成績表を絶対にみない主義なのも「子供の勉強に親が出る」のがいやだからである。隣の家の前の道路まで掃除してしまうようで気がひけるのである。
その娘達も学校でスカートをまくられるようになった。しかし、その程度ですんでいるとしたら、あのなつかしいお医者様ゴッコはどこへ行ってしまったのだろう。
女の子のズロースを脱がせてキナコをまぶしたり、肛門にビー玉をつめたり、男の子のオチンチンをどこまで伸びるかひっぱってみたり、子供達による共同研究の独自な性教育だった。
そんなことを学童疎開にまで持ちこんだが、やがて飢えと戦うようになってお医者様ゴッコも終ってしまった。
最近の母と子が外国製の絵本で性器の図解を読んでいるのが本当だとしたら寒気がする。お医者様ゴッコは親子でやるものではない。
○
僕の下町での子供時代は学童疎開が最後で、焼跡になると、もう事情は全く変ってしまい、その中で大人になってきた。
しかし、駄菓子屋は今日でも健在だ。駄菓子屋の駄という字がなんともいい。辞書には「名詞に冠して粗悪の意を表わす」とある。いうなれば菓子屋に対する悪口なのにもかかわらず、ちっとも気にしていないところが好きだ。
医者を藪医者といったり、役者を大根役者といえば相手を傷つけるが、駄菓子屋はみずから駄菓子屋を名乗るところが好きだ。
駄菓子屋での森永や明治のキャラメルは、まるで世の中にこれ以上の菓子はないんだぞというような感じだったし、あの店先で硬貨を握りしめて、何を買おうか迷いに迷い、決心をした揚句に手を広げると手の平に硬貨がペッタリくっついていて、それをはがすと小さく丸く跡が残っていたりした。
勿論、ガラスのショーケースの中に豪華なケーキが並ぶ菓子屋もあり、そこにだって安いものはあったのだが、何故か町の子は駄菓子屋を大切にした。
自分達がそこに|お似合い《ヽヽヽヽ》だったことを知っていたのである。この|似合う《ヽヽヽ》ということも下町の美意識かもしれない。
「割れなべにとじ蓋」式ではあるが、町育ちは似合う、似合わないということをとても気にする。
浅草の木馬館の安来節のおばさん達が芸術祭で受賞をし、その晴れがましい授賞式に出席したものの、いたたまれなくて帰ってきてしまったことがある。理由は似合わないことだからだった。
下町の商家の娘が三越デパートで買物をするのは似合わないという感覚も生きている。
なにが似合う、似合わないという基準になるのかは、それぞれ事情が違うだろうが、その背景には、その家の世間様とのバランスがある。そこですでに感じている肩身の狭さが、町ッ子の性格にそれぞれの影をつけているのだ。
似合わないことをする時の照れ、恥じらい、そして、その裏返しのヤケッパチ。いつでも、そのどちらかにつきまとわれながら育ってきた。
だいたい、浅草という町がそんな歴史を持っている、肩身の狭い町なのである。
○
江戸へさかのぼると、浅草は隅田川沿いに、観音様、猿若町、吉原とあって、ここに集まる人達に支えられて盛り場になった。
観音様は信仰の対象ではあるけれども、その境内の、俗にいう奥山が掛小屋、茶店の並ぶ遊び場所。
猿若町には芝居小屋、芝居茶屋が並び、しかも江戸中でここだけ許されていた。
そして吉原遊廓。いうなれば観音様を除いて俗にいう悪所である。悪所通いであるからには、今日の常識でいう健全娯楽とはほど遠い。
明治に入って猿若町の芝居小屋は都心に進出するが、浅草六区はそれにもまして賑やかな劇場街になる。
関東大震災以後、まず浅草オペラが人気を失い、それをキッカケにして盛り場としては下降線をたどりはじめ、エノケンの時代以後は日本の浅草から、東京の浅草に、そして今は浅草の浅草というところまできている。勿論、売春防止法による吉原の閉鎖もこれに輪をかけた。
つまり、盛り場としての浅草はこうして、江戸の悪所としての後めたさを背負ってきているのである。
女が身体を売り、芸人が媚《こび》を売り、侠客が顔を売る、その淫靡な、妖《あや》しい故の魅力に満ちた町が、そうは簡単に、ご家族そろって陽気に明るくというレジャーブームにのれるわけもない。
天保の改革で、遠山金四郎が猿若町に芝居を残したように、浅草を大人向きの遊び場にした方がいいのではないだろうか。日本を、東京中の盛り場をNHKの番組みたいにしようということは不可能なのだから。
駄菓子屋を不衛生だというのは簡単だし、お医者様ゴッコはいけませんと「正しい性教育」をするのもいいだろう。
「過保護」という言葉がいろいろな分野でいわれているが、僕は一番過保護されているのは「母親」だと思う。妻とか、主婦はともかく、母親の間違った自信過剰はあきらかに、過保護の結果だと思う。息子の入社式に母親がつきそっているのだって、正しくは世の中が母親に過保護なのである。
子供の喧嘩に出て来なかった母親は、子供を信じ、その友達を信じ、もとより、先生も信じて、学校にも行かなかった。愚かな故に素晴しい日本の母親、これもお医者様ゴッコと一緒にどこかへ行ってしまった。
情報文化の時代になって、母親は「奥様」「お母様」とおだてあげられ、「消費者は王様」という言葉は「母親は王様」という意味になり、家にいることは古いと思いこむこともあって、なににでもノコノコと出てくる。
少くとも下町にはそういう母親がいなかった、昔は。
○
浅草育ちのエノケンが死んだ。
僕の世代は元気なエノケンを知らない。すでに足の先を切り落したコメディアンであった。だから涙の出るほど笑ったというおぼえはない。
日本語でジャズを歌うのがうまいなとは思った。
エノケンと同世代の人達にとって、彼の死は、かつて彼を笑った日の想い出と共に心にしみるものがあったと思う。
しかし、彼の全盛期を知らない僕にとっては、喜劇王であるより足の不自由な老いた歌手である。
勿論、惜しいとは思うが、「僕の芸人」が死んだという淋しさはない。なくていいと思うのである。
もっと大切なことはエノケンという喜劇王と同時代に生きた人達が、彼の死を惜しんだように、僕も、同時代を生きる芸人を発見することである。
「この芸人の芸に触れて幸福だった」と思える芸人を創ることである。
エノケンの死を喜劇の終りのように、浅草の終りのように報道することは、なんの役にも立たないことだ。浅草にはまだまだ若い芸人が育ちつつある。渥美清も、萩本欽一も浅草の舞台から出て来た。
そして、今年になって九州の博多淡海一座が浅草で成功したいと再度の東上。地方まわりの芸人にとっては、浅草は東京で唯一の大衆演劇を受けとめてくれると思われているところなのである。
浅草の灯というならエノケンよりも、木馬館であり、淡海であり、大宮デン助のことでなければなるまい。エノケンの死で、勝手に浅草の灯が消えたようなことをいってはいけないと思う。
しかし、ジャーナリズムというのは、それが人形町末広でも、浅草でも消えるのを待ち構えているようなところがある。なんでもいいから消え去れば、待ってましたとばかり、センチメンタルな表現で報道する。
人形町末広だって廃業すると大騒ぎしたから、臨終をみとるように客が押しかけた。
最初から寄席を守る気なら、ジャーナリズムのやることはいくらでもあったのだ。
個人的にいうと、人形町末広がなくなって予定が狂ったことがある。
僕の知っている奥さんの話だが、その奥さんが結婚する前の晩に、父親に「ちょっと出かけようか」と誘われた。
明日は花嫁という日、父と娘でゆっくり話でもするのかと思ったら、出かけた先が人形町の末広。父親は娘を横において話しかけるでもなく、落語に聴きいり、そして、そのまま家へ帰ってきたという。
僕はひそかに、それと同じことをするつもりだったのだ。
そういう場所がなくなってしまったのである。娘の結婚式の前の晩に、僕はどうすればいいのか途方に暮れている。
末広がなくなったことが、落語家の怠慢だとか、話芸の曲り角だとかいう人もいるが、父親と娘が別れを告げる場所がなくなってしまったというふうに考えて、僕は口惜しいのである。
寄席は他にもある。本牧亭もある。しかし、人形町の末広の、あの畳の上で、隣にいる娘の気配をひしひしと感じながら、それが明日は他人のものになってしまうんだと思いながら、落語の芸に身をひたらせたかった。
あの寄席も町内の人達をお得意様に出来なかったのであろう。
「テレビで落語を聞くんなら、どうして末広へ行かないんだい、テレビは家へ買物に来てくれないよ!」
そんなことをいう人もいなかったのである。
そして、もしかして末広があったとしても、淋しい夜をなぐさめてくれるような芸を持った落語家がいないかもしれない。
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かっこよさ
渋谷と浅草をつなぐ地下鉄に稲荷町という駅がある。
終点の浅草からだと田原町の次になる。ちょうど、上野と浅草の鐘が両側から聞えてこようという町だ。
駅のある四ツ角のひとつに釣竿の「東作」という老舗があり、ここから田原町までは仏具屋が目立つ。その仏具屋も田原町に向って右側ばかりに並んでいるのは店先に西陽が当らないためだと聞いた。
その「東作」の向い、右側の横丁を入ったところに、戦災に焼け残った昔ながらの長屋がある。
間口が二間の二階建ての棟割長屋で、ここに林家正蔵、桂文治という老噺家が住んでいる。
間口二間の、一間は格子戸の玄関、あとの一間は出窓で、夏だと朝顔の蔓がからんだりする。格子戸の玄関先の敷石の上には盛り塩が三ツ、軒には紺のれんがさがっていて、いかにも芸人らしくすがすがしい。そんな路地にも近頃は自動車が駐車してしまう。
毎朝、早く起きて玄関前に水を打とうという生活なのに、格子戸をあけて目の前に他人の車が停められていて気分のいいわけがない。
「駐車おことわり」と書いて貼り出すという野暮なことまでしたが、駐車難とあってお構いなしである。
普通の神経でいえば、自動車が玄関先にとまろうとしたら、目と鼻の居間から「そこに停めないで下さい」と注意することになる。
ところが、正蔵師匠は神棚を背中に長火鉢の前にすわっていて、駐車しているのに気がつくと、立ち上ってトントントンと二階にあがるのである。二階の道路に面した窓をあける。つまり玄関の真上になる。この窓の前にはすだれがかかっている。
その窓の敷居に片足をかけ、すだれをクルクルと巻きあげて頭上にかざす構えになり、さらに半身を乗りだして、芝居でいえばチョンと柝《き》の入る間で「やい、手前、そこの字が読めねェか!」と大音声で見得をきるのである。
南禅寺山門の石川五右衛門みたいなものだ。簡単にいえば、芝居がかっているということになる。
この正蔵師匠は駅員の態度が悪いというので駅長室の机の上に尻をまくってあぐらをかき、弁天小僧みたいな啖呵《たんか》をきったという話もあるし、弟子を怒った時にいちいち破門状を渡すというエピソードもある。
その硬骨漢振りはトンガリの異名をとって落語界でも有名だが、真面目というか、律義さも徹底していて、上野や新宿の寄席に通うために地下鉄の定期を買ったものの、同じ上野や新宿に行くのでも、寄席の仕事でない限り、定期を使わないで切符を買うほどである。
稲荷町の駅員が「師匠、定期で乗って下さいよ」といっても、「それじゃ申し訳がたたねェ」といって受けつけない。
なにに対して申し訳がたたねェのかというと「オテントサマ」に対してなのである。
寄席に通うには切符よりも定期の方が手間もはぶけるし、経済的でもある、これは師匠にとって有難いことなのだ。その有難い定期をなんでもない時につかうなんていうことはきまりが悪い、肩身が狭い、照れくさい、恥かしいという。
二階にあがって見得をきるのも同じことなのだ。
長屋の横丁とはいえ自分の道じゃない。自分の道じゃないが、そこに住む以上、掃除もすれば水もまく、これは駐車する車のためにやっているんじゃない、気持よく住もうと思うからだ。
「すみません、停めさせて下さい」と言葉のひとつもかけてくれれば「どうぞどうぞ、道路は私のものじゃないんだから、いちいち断わらなくったって結構ですよ」と返事をする。
それを無断で玄関先に停められちゃ、気持のいいわけがない、だからって玄関をあけて「そこに停めないで下さい」と注意するのはいまいましい。
だいたい自分の道路じゃないんだから停めたって文句はいえないわけで、ここんところがなんとも気持がおさまらない。そこで二階にあがって見得をきることになる。
こうなると車を停めた運転手だってビックリするだけで二の句がつげない。
なにしろ芸術祭賞受賞の芝居噺の名手が二階から見得をきっているんだから、これに対抗しようと思ったら、下の方も見得をきって「やかましいやい! ここは天下の大道だ、手前なんぞに四の五のいわれる筋はねェやい!」とでもやらなければおさまりがつかない。
しかし、実際のところはこの大時代な見幕に呆気にとられて、わけもわからず車を動かしてしまうそうである。
下町の長屋の今日の話である。
正蔵師匠は特別に変った人物でもなんでもない。どちらかというと典型的な下町育ちなのである。
訪ねると約束をすると、僕みたいな青二才が相手でも、朝早くキチンと床屋に行ってこざっぱりした顔つきで待っていて下さる。
芸人ということはさておいても、床屋というのはそういう気軽な場所であった。毎日でも顔を出し、月に一回の理髪店というような考えは昔の下町にはなかった。
正蔵師匠のお宅へ行くと、そうした下町の暮しのアレコレを思い出すことが多い。
例えば、僕の子供時代でも、銭湯では熱いからといって水をうめるのは許されなかった。その熱い湯に入る人がいる限り、その湯は熱くないのである。だからみんなが熱がって入れない湯に鼻唄をうたいながらザブリと入るのは、町内の男としてなんともかっこいい見せ場なのであった。
そして、その入り方が、すまして火も又涼しという入り方と、キンタマをにぎりしめてクーッとうなりながら身を沈め、あとから誰か入ろうものなら「湯を動かすんじゃねェ、湯が喰いつきやがる」と落語通りのことをいって入るのと二種類あり、そのどちらでも僕達観客を楽しませてくれたものだ。
そういう雰囲気があるから熱いからって水でうめる客が入ると、いっぺんで軽蔑されてしまう。だから銭湯ひとつにしても町内の男達の品定めの場所になってしまうのだった。
熱い湯でそれくらいだから彫物に耐えた身体なんか、それだけで尊敬されてしまう。
身体を汚しちゃって恥かしいと、彫物をちらつかせないのが心意気だが、内心はみせたくって仕様がない、それがまァまァみせることが出来るのが、銭湯と祭。
せめてこの時はかっこよくみせたいという苦労をする。かっこよくというのは、常に恥かしい、照れくさいの裏返しになっているのである。
そして、そのかっこよさの手本が芝居であり、芝居もまた、江戸ッ子のかっこよさをなぞってきている。だから下町の生活に芝居がかった言動が多いというのは、それだけ肩身の狭さを承知しあっていたことになる。
特に浅草は江戸時代の芝居町であり、さらに遊廓をかかえて、後めたさを全部背負ってきているから、それだけに日常生活に芝居がかりのやせがまんが多くみられるのであろう。
大晦日の借金取りと長屋の住人とのやりとりなぞは落語でもおなじみだが、やせがまんの芝居がかり博覧会みたいなものである。そんなことを感じる正蔵師匠の長屋だ。
○
「ここまでくれば江戸ッ子も形なしですよ、虫けらみたいなものでしたからね」
四月十五日、佐渡ヶ島の島開きに出かけた僕に郷土芸能以外で関心があったのは、佐渡金山の労務者に送りこまれた江戸の無宿人達のことだった。流人と違って、無宿人達は犯罪をおかしたというよりも、ゴロゴロ遊んでいたところをつかまって送りこまれている。
今でいえばヒッピーの連中をつかまえて強制労働させるようなものである。金山の鉱道に湧く水を汲みあげる人足として、一日中、土の中にいると三年もたたないうちに死んでしまったそうだし、山の事故も含めて死者は続出した。
そんな中で江戸ッ子はどうしたかというと反抗するわけでもなく、島を逃げだしたわけでもなく、殺されるように死んでいった。
ただ、江戸の無宿人は立派な墓を残しているのが面白い。
相川の金山を望む丘の上に「江戸」ときざみこんだ立派な墓が建てられている。流人や無宿人は江戸に限らず大阪からも長崎からも送られているのだが、そもそもが墓をつくって貰えるような境遇ではないだけに奇妙でさえある。
墓は高さ三メートルを越す一枚岩に、「南無妙法蓮華経」と刻まれ、その台石に三十センチ角の字で「江戸」と彫ってある。そして、葬られた無宿人の名前の中には江戸に限らず上州無宿などという男の名もあり、上州も江戸の内にしてあるところが痛ましい。
それにしても上州の仲間を立派な墓にいれてやった江戸無宿人達の諦めきった心情は、江戸が吹きだまりの町だったことを裏づけるようである。
僕はこの墓の前で、戦争中に、「天皇陛下万歳」を三唱して死んだ兵隊に、下町の人間が多かったという話を思い出していた。
「お母さん!」といって死んだのは地方人だったというのである。
下町の人間が、お母さんよりも天皇陛下を大切にしたというわけではなく、ここでもやせがまんの芝居がかりが「天皇陛下万歳!」といわせたに違いないのである。
金山で殺された仲間の仇を討つという気はなく、立派な墓を建てることが精一杯のやせがまんだったのであろう。そして「江戸」という字をことさらに大きく彫って、犬の遠吠えのような心意気を示したのであろう。
今日なら新潟から飛行機で十五分、船で三時間という島だが、江戸の昔だったら、佐渡まで流されて再び江戸まで帰ろうという気は毛頭起きなかったに違いない。
それだけに特別に丹念に彫られた「江戸」という字体の、いかにも江戸らしいのに心をうたれた。
だから「ここまでくりゃ、江戸ッ子も形なしですよ」という案内してくれた人の言葉とは逆に、佐渡まで来ても江戸ッ子はがんばっていると思えた。上州無宿も江戸ッ子に加えてやった思いやりだって気持がいい。
墓石には「天保」の年号があったから幕末に近い時だが、それだけに江戸ッ子意識はあったものと思う。
現に百数十年たって江戸ッ子の子孫が、こうやって墓参り出来た上に、その心意気を嬉しく思っているのだから、ゴミのように捨てられてしまった死体にくらべたらどんなに価値があるかわからない。
しかも墓をたてた江戸ッ子達の墓はないのだから、なんとなくお母さんといいたいところを「天皇陛下万歳!」といって|名誉の戦死《ヽヽヽヽヽ》をした下町の兵隊と似ているところがある。
○
柳家三亀松が胃癌の手術の時に麻酔注射を受け、医師に「麻酔がきいてきますから、ゆっくり、一、二、三……と数えて下さい」といわれ、数を数えるかわりに「さのさ」をうたいだしたという話がある。
「さのさ」の名調子の終りに近く麻酔のためにうたえなくなったら、チェッと舌打ちをしたという話を聞いて、三亀松師匠は口惜しかったんだろうなと思った。
ここにも、芝居がかりがあるが、「さのさ」が麻酔の一、二、三と重なってくるから、正蔵師匠の二階の見得のようにユーモラスでいて説得力のある話になるのである。
そして手術の結果もおもわしくなく死んだために、三亀松最後の「さのさ」ということになり、もしかすると師匠はいろいろ考えて計算ずくでやったのかなとも考えられる。
奇行に満ちた一生だっただけに平凡には死にたくないと思い、一所懸命考えて、よし手術の時に「さのさ」をうたってやれと心に決める。そして麻酔の注射をされる。
なんともいえないうまい間でうたいだす。これがうたいおさめかとチラッと思う。だんだん麻酔がきいてきて、呂律《ろれつ》がまわらなくなる。畜生、麻酔なんかで俺の「さのさ」が崩れるものかと、芸人一代の喉をはりあげる。
しかし、その時には声が出ていない。
……そうだったかどうか知らないけれど、これも臨終のきわに姿勢を正して「天皇陛下万歳!」を三唱する心意気に通じる。
「さのさ」でもよかったのであろうが、簡単に、かっこのいいところがみせられる「万歳!」にしたのではないかと思う。実際に戦死なさった人の気持を冗談まじりでおしはかっているのではない。
僕の世代では、この死ぬまぎわに「万歳を三唱して死ぬ」という兵隊の話が、どうしても理解出来なかったのである。理解出来ないというより、信じたくなかったし、それは陛下にしたって、とっても気の重くなる話だと思っているからである。
だから「お母さん!」とか「痛いよォ」とか「助けてくれェ!」というのが恥かしいから、それをグッとこらえて、そのかわり、もうちょっと立派にみえることというので、芝居がかりになったのだと考えると、なんだかとてもホッとするのだ。
○
下町の暮しの中で、ちょっと気取っていると、「芝居やってんじゃないよ」と野次られ、又は「まるで芝居のようだね」とお世辞をいわれたものである。派手ななりをして歩いていると、「どこの役者だい」とひやかされもした。
正蔵師匠の長屋と僕の家とでは歩いて五分もかからないし、その道筋には役者、芸人の家が何軒もある。邦楽、邦舞のお師匠さんの稽古場も多い。
僕の家の裏には開盛座という小芝居の小屋があって、僕が物心つく頃には映画館になっていたが、時には実演もやっていた。檀家の中にも役者、芸人がいるから、寺とはいっても、そうした芝居の雰囲気は身近なものだった。
大阪の年寄り同士の会話を聞いていると、浄瑠璃の文句が多いように、下町では生世話狂言そのままのようなセリフがよく聞かれた。
日常生活と芝居の舞台が重なったり、落語の主人公と同じヘマをやったりすると、それは芝居通り、あるいは落語通りにやってしまった方が洒落になるような面もあるのである。
正蔵師匠が二階から見得をきるのも同じことで、これが下町の芝居心のある人間同士なら、それはそれで丁々発止と受けこたえ出来るし、笑ってすんでしまうことなのだ。
五代目菊五郎のエピソードに、夫婦喧嘩をして夫人に衿首をつかまれながら「ちょっと待ってくれ、そのつかみ方じゃサマにならねェ、つかむんだったら、こうつかんでくれ」と夫人に注文をつけ、しまいには喧嘩をしているより注文をつける方が多くなってしまうので、夫人の方が馬鹿馬鹿しくなってやめてしまうという話がある。
こうなってくると、自分だけ芝居がかることを相手にも強制することになる。かといって夫婦そろって芝居がかっていたんでは、それはそれで歌舞伎の立ちまわりみたいになってしまって、なんのための喧嘩だかわからなくなってしまう。
芝居の心得が全くない相手では、この芝居がかりの面白さというのは成立しない。せめてエピソードになるくらいのことになってしまう。
それではこの芝居がかりという生活の智恵はなくなってしまうかというと、芝居のかわりにテレビがかりというのはある。
テレビが飽きずにつくるコマーシャルや流行語を借りて、それを共通の知識として、洒落のめすことは出来る。『暮しの手帖』を手にして押し殺したような声でぶっきらぼうに「読んでますか」といえば、それがなんのパロディだかはわかる。
しかし、そこには恥かしさ、照れくささをかっこよさで耐えようという町の人間の心情が受けつがれているだろうか。芝居がかりにひそむ弱い人間の精一杯の反骨精神。そして自分の生き方を守り、それを他人に知らせようとする姿勢。それが駐車難の下町の横丁を舞台にして初めてなつかしくも生き生きとしてくるのだ。
佐渡ヶ島で殺された江戸無宿人も、手術を前に江戸の心意気をうたった柳家三亀松も、そして「天皇陛下万歳」を叫んで死んだ兵隊も、みんな厚い壁の前で一人っきり人間らしく生きようと努力したのである。
かっこよく生きるっていうことは、がまんすることなのかな。
それも意味のないやせがまんなのかな、僕もチョイチョイやってるな、そう思う。
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[#小見出し] U どこかへ行きたい
どこかへ行きたい──短いプロローグ──
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第二部〈どこかへ行きたい〉も『暮しの手帖』(七号〜九号)に連載された。旅について「歩く」ということから考えたいと思った。
しかし、書くにつれて、ありきたりの紀行文になってゆく、それをなんとか押えつけようと悪戦苦闘した。どうして旅に出るのか、その原因をつきとめようとするのだが、結局はわからない。
例えば、旅に出るのは家からである。
家には妻一人、娘二人、猫五匹がいる。
僕がいて新聞を読んでいる。
娘達が宿題をしたり、テレビをみたりしている。
猫が寝そべっている。
妻が「お茶が入りました」と紅茶と、自分で焼いたクッキーを運んでくる。
ステレオがブラームスを響かせている。
そのまま、銀行のポスターにしたっていいような幸福な家族の光景がそこにある。あるとする。
家族が目と目をあわせて笑顔をみせたりする。
そういうのは嘘だと思うのだ。
絶対にインチキなのだ。
それは幸福でもなんでもないのだ。
そういう光景は心細い旅先で思い浮べてこそ実感のあるものなのだ。
男はそう思う。
女はそうは思わない。
だから僕は旅に出る。
だから妻は家にいる。
僕が幸福だなと思うのは年老いた仲の良い夫婦である。
手をつないで歩く老夫婦。
向いあって昔を思い起せる老夫婦。
とどのつまりそうなればいいのだ。
その時に話をすることが沢山あるように僕は家を出る。
僕が勝手気ままに一人旅をする時の、これが家族に対する言い訳なのである。
幸福な家庭に背を向けていなければいけない理由が僕にはあるのだ。
妻が「なぜ」と訊いても、答える必要のない理由なのだ。
そして、女らしい女は、そんなことを男に訊かないものだ。
だから僕は訊かれたことがない。でも、訊かれたら僕はオロオロして「ゴメンナサイ」というだろう。
そして、その場で家を飛び出すに違いない。
股旅ものの主人公は顔をかくすようにして道の端を歩いてゆく。
「道の真中は堅気にゆずれ、俺達はオテント様を正面からはおがめねェ日陰者なのだ」
この言葉とは逆なのが「オテント様はチャンとついてきてくれる」というやくざに対する堅気の発想である。だから団体旅行のオジサンやオバサンはオテント様と一緒という顔をしている。
渡世人が道をゆずり、目を伏せて歩くのは、土地を捨て、家業をすてて、博奕打ちになった気の弱さからである。
気の弱さを自覚しないチンピラが肩で風を切って歩く。このあたりがウラハラに出てくるのがフーテンの寅さんであろう。
恥かしさを強調するのが鶴田浩二。
美しさにすりかえたのが藤純子。
そして僕も、又チンピラ風である。
時にはカメラに追われ、時にはマイクを持ち、時にはメモをする。それが僕の博奕であり、放送局や出版社は街道筋の親分にあたる。
僕は書いたり、撮られたり、しゃべったりすることで、ワラジ銭にあずかり、再び旅に出るのである。
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まずは歩きぞめ
前に出した右足のかかとが地面につくと同時に、それまで左足のかかとにかかっていた重心が腰を中継地点にして右足のかかとに移ってゆく。と同時に、左足はかかとから地面を離れて、最後に爪先が残り、その時に身体の重みは右足にゆだねられて、その間に今度は左足が前に出る。
これを繰り返すと、歩くという状態になる。
普通に歩く場合、重心は常にかかとからかかとに移ってゆく。
だから靴は、この重心が移り易いような形になっている。ゴム底の運動靴などが歩き易いのは、足そのものに密着しながら、軽く、さらに地面との抵抗を弱めるように出来ているからであろう。
日本の履物では、ワラジがこの理屈にかなっている。ワラジは爪先よりもかかとを大切にしている形なのである。爪先はワラジのさきに飛び出しているが、かかとは包むように履いている。
しかし、実際には時代劇に出演するのでもなければワラジを履くチャンスはない。せめて、草履か、下駄である。
ところが、この草履も下駄も、かかとを軽んじていることおびただしい。
下駄はかかとが離れるし、男の場合、草履はかかとがはみだすように履くことになっている。
一枚裏の草履ともなると、軽く鼻緒に指の先をひっかけて、そのまま爪先で歩くようになっている。チャラチャラと雪駄をならすという歩き方である。
半分以上はみだした足袋の裏が、汚れないように歩くのがコツだという。つまり、バレリーナほどではないが爪先で歩けということだ。
僕は下町育ちですといっている手前、夏など浴衣がけに草履や下駄で歩いたりするものの、正直にいうと、そんな日の夜はサウナバスヘ行ってマッサージでもしないことには身体中ずきずきするのである。下町ッ子ぶるというのは苦労の多いものだと何度も反省した。
そして靴で育った僕は、歩き方が違ってしまったのだろうか、どうして昔の人は草履や下駄で疲れなかったのだろうかと考えこんでしまった。
小学校に入って「気をつけェ」「前へ進めェ」と号令をかけられ、「歩調とれェ」と足を元気にあげて歩いた時、あの時、僕は全く別の歩き方を発見したのをおぼえている。靴をひきずって歩くと「靴をひきずるな」と注意もされた。
しかし、日本古来の歩き方は足をひきずって歩く歩き方ではないのだろうか。
子供の頃みかけた下町の大人達の歩き方は、前のめりの、ベタベタと足をひきずるような歩き方だった。
はじめて連れられていった能楽堂で、すり足の運びをみた時、それが洗練された大人の歩き方だという思いでみたものだ。
草履や下駄を履いたら、あの歩き方をすれば、疲れないに違いないのだが、今日の都会で、つまりアスファルトの上であの歩き方をすると、草履ならジャリジャリ、下駄ならガラガラと、やかましい上に足が棒のようになってしまう。散歩は下駄に限るという老人がいるというのに、どうしたらいいのだろう。
○
僕がこうして急に歩くということと対決することになったのは水虫と、皮下脂肪が原因なのである。
一生、肥ることはないであろうと思っていたら、この一年で十五キロも増えてしまった。あきらかに運動不足である。それと同時に右足の水虫の症状がひどくなってきた。
だから、歩くこと、それも素足で草履か、下駄で歩くことが対策になった。
歩き方の研究はさておいて、意外だったのはノーネクタイお断わりのように、場所によって草履も下駄も拒否されることが多いことだった。
ホテルや、レストランで「スリッパと履きかえて下さい」といわれるのはいい方で、冷たく「恐れ入りますが、禁止になっておりまして」などといわれる。
日本人が日本人の履物を履いていることが許されないのはおかしいなどと理屈をこねても「規則ですから」と相手にされない。「着物で草履ならよろしいんですが、洋服で草履はアンバランスですから」と妙な断わり方もされた。
しかし、これは簡単に解決がついた。僕はいつも包帯を持って歩くようにして、文句をいいそうなところだと、手早く足の甲にグルグルと巻きつける。そして、痛そうに足をひきずってゆくと「大丈夫ですか?」などと同情もして貰って堂々と入場出来るのである。不思議なもので、包帯をしたり、痛そうにする手間が、靴をはく手間と変らなくなった。
○
「歩く」
辞書というものは楽しいもので「あるく」という項目をひくと「両足を使って前進すること」と書いてある。後退することは「あるく」ことではないらしい。この両足の使い方が靴の登場によって違ってきたわけだが、ここのところを具体的に考えたい。
僕の親父の場合、靴を履いていると半日もしない間に悲鳴をあげる。草履か、下駄なら一日中、トコトコと歩いているのにである。いうなれば、生れてきてから、死ぬまでそうして歩いているだろうという、乗物を拒否した歩き方である。
乗物に乗るということは親父にとって特別なことであり、又、交通ラッシュの今日この頃では歩いた方が早いという事実もある。
明治生れの町の人間はどこへ行くのでも歩いてゆくのが常識だった。この親父の孫、僕の娘の世代になると、どこかへ出かける時には乗物に乗るのが当然だと思っている。
「歩いて買物に行こう」などというとキャーキャーはしゃいで、歩くというより、ピョンピョンはねているという感じになってしまう。彼女達は歩くということを特殊な体験として日記に書く世代なのである。
そして再び僕。親父と娘の中間で、日本人として歩き方が下手になったことを嘆いているのだ。
この三つの世代の歩き方の変化はなにを示しているのだろう。人間のもっとも基本的な行動である歩く姿勢が変った以上、それが生活に対する感覚も、思考も変えてしまっていることはたしかだ。
歩かなくなりつつある中で、得たものと、失ったものを明確にしておく必要はないだろうか。
そして、歩き方に立派な歩き方があるとしたら、それはどういう歩き方なのだろうか。
水虫を治療し、でっぱった腹部をひっこませることはさておいても、僕は歩こうと決心した。階段も昇ろうと決めた。
例えば、歩道橋である。歩道橋というものが出来て、自動車様にお通りいただくために階段の昇り降りを余儀なくされるようになった。
この階段が苦痛で自殺した老婆もいるし、僕の友達の中にはタクシーを停めて乗り込み、Uターンさせて向う側で降りるという不経済なことをして、はかない抵抗をしているのもいる。
僕も憎々しく思っていた一人なのだが、歩こうという決心をして以後は、なんとこの歩道橋があるとファイトが湧いて、一段おきにピョンピョンと飛びあがってみせるようになってしまった。
これは人間無視の歩道橋というシステムに追従しているのではない。結果としてそうであっても、僕にしてみれば歩くという単調な作業にバラエティがついたということになる。
走る乗物だけでなくビルのエスカレーターも、エレベーターも利用しないようにつとめる。
当然、疲れる。
○
歩くことに疲れると人間いろいろなことを考えるものだ。
一歩一歩足を運びながら、時には身体のおとろえを感じ、時には仕事の反省をし、時には将来を不安に思い……。
ましてや、雨など降って濡れながら歩くとひとしお淋しさもまして、悲しい映画のラストシーンのような気にもなる。歩きはじめの快活さはどこかへいってしまって宿なしの野良犬みたいな歩き方になる。
ボタンを押せばエレベーターのドアもあくし、手をあげればタクシーも停まるのだが、そこをこらえて歩きつづける。
こうなると水虫と皮下脂肪はどうでもよくなって、やがて雑念が去ると、単に歩き方の研究になる。とりあえずは橋懸りを進んでくる能楽師の歩き方だ。
腰のすわった、押し出されてくるような迫力。あれは登場する際に息を吐ききっておいて、そのまま歩き出すのだそうだが、日常生活ではそんなことをしてはいられない。
しかし、歩くことと呼吸の関係が深いことはわかる。
歩調にあわせて吸って吐いたり、吸って吸って吐いたり、吸って吐いて吐いたり、いろいろやってみる。歩調も、それにあわせて変化させる。膝の曲げ方、足の持ちあげ方、いろいろ組みあわせてみる。
靴を履いていると簡単に身体にあった歩き方が発見出来るのだが、草履だと、まるでアッチャコッチャになってしまうのが口惜しい。
ゆるぎない、鮮やかな歩き方。それでいて疲れない歩き方を探す。
福井の永平寺では、朝もやの中を進んでくる雲水の行進に感動した。
ヒタヒタヒタと、大地を力強く踏みしめて、悠然とした歩き方なのだが、その衣が風をはらんでいるということは速度の早いことを示している。
朝五時までの深夜放送を終って、東京の赤坂から渋谷に帰る途中、必ず数人の老人の散歩をみかける。ステッキを持った和服姿もあれば、万歩計を腰にしたトレーニングパンツの人もいる。これは颯爽《さつそう》というわけにはいかないが、ひたむきな健康管理が、ひとつの風格をにじみださせる。
小田実にいわせるとデモに参加してくる人を一見するだけで最後まで歩けるかどうかを見抜けるようになったという。
たしかに隊列の中で、どうしても隊列と同化出来ない歩き方をしている人がいる。必ず落伍してしまうそうだ。
そうかといって軍隊の行進のように一糸乱れない歩き方も不気味だ。ザクッザクッという軍靴のひびきは生理的にも耐えられない。
ソビエトを旅行していて気がついたのは朝の出勤時間、どの駅でもマーチを放送していることだ。不思議に歩調をあわせて、胸をはって工場へ、会社へ歩いてゆく。水前寺清子じゃあるまいし、いやだ、とてもいやだ。
エベレスト登山のフィルムでシェルパの歩き方をみる。凸凹の岩だらけの山肌を素足でペタンペタンと歩いてゆく。動物園でみかけるゴリラやオランウータンの歩き方に似ている。瓦職人が屋根の上を歩いている時にも似ている。
ニューギニア高地では足の裏そのものが靴の底のようになっている人達と歩いた。高地人でもエリートは野球のグローヴのような靴をはく。しかし、半日と歩かないうちに彼等は靴を肩にかけて裸足で歩きだす。
ファッション・ショーのモデルは頭の上に本を乗せて水平に歩く稽古をするが、高地人は水平に歩かなくても頭の上のものを落さない。
いろいろな歩き方を思い浮べながら僕は歩きつづける。
時には座頭や、瞽女《ごぜ》のように、足で地面をさぐるように歩いてみたりする。
無念無想、自然に歩けばそれでいいとわかっていながら、そこは自信を失った悲しさ、うまく歩けないことにイライラする。
アスファルトがいけないのかなと、土の上を、芝生の上を歩いてみる。
じたばたすればするほど疲れる。
もう肥っちゃってもいいやと諦めようとしても「おや、肥りましたね」といわれるとゾッとして、再び歩く決心をする。出来るだけ歩いたことのない横丁を曲って気分をまぎらわしながら歩く。
時には、すれ違う人に「こんにちは」と声をかけてみる。見知らぬ人でも五人に一人は「こんにちは」とごく自然な返事が返ってきたりする。そんなことがひどく嬉しい。
メガロポリスに人間がありあまっていても、考えてみるとそこで「すれ違う」ということは、大変なことだ。もしかすると、恋人とめぐりあうかもしれない。深い表情をたたえた人に感動するかもしれない。
一言のあいさつにほっとする想いもある。
玄関のたたずまいに息をのむ時だってある。
運がよければ財布だってひろえる。
一瞬に季節の変り目を知ることもある。
ウン、歩くことは素晴しいと思う。
排気ガスも鉛害も気にならないから不思議だ。しかし、これも疲れないうちだ。
○
疲れたある時に、思いっきりゆっくりと歩いたことがある。
これから死にに行くみたいだなと考えたら、四国を巡礼して歩いて瀬戸内海に身を投げた市川団蔵丈を思い出した。
あの白衣の巡礼姿で寺を訪ねて歩くというのは、それが老人である場合、自殺をしないにしても、そのまま死出の旅につながるものではないだろうか。寺から寺へ歩き、遍路宿に泊って老人同士で人生を語りあい、又、歩いてゆく。
最近は自動車でグルグルまわるお遍路さんもいるというが、こればっかりは歩かなければ意味がない。一歩、又一歩、足を踏みしめながら御詠歌をとなえて、心はすでに賽の河原。そうやって大往生するための準備をしているのに違いない。
僕は意識して歩き始めるようになって、歩きつづけるということが死を身近に感じることに気がついた。
そうしたら、今度は「バターン死の行進」という言葉を思い出した。
湿地帯のジャングルの中を飢えと闘いながら歩きつづけたという話を聞いた時、戦争の残酷さにぞっとしたものだが、実は死んだ人達にとって、あの行進は仏とのめぐり逢いのようなものではなかったかと思え始めたのである。歩くことによって冷静に死と対決出来たのではないかという勝手な想像である。
当時、小学生だった僕に実態を知るべくもないが、お遍路さんというのが死の行進と重なるのである。
歩くということを、又は、道というものを、強いていえば旅というものを、人生と重ねるのは東洋人の趣味かもしれないが、僕の娘達のように珍しげに「今日は歩いた」と日記をつける世代には全く理解出来ることではない。
これからますます歩かなくなる。
例えば、動く歩道というのがある。この発想はなんなのだろうか。
エスカレーターを平らにしただけのことなのか、それとも道路を動かしてしまうということなのだろうか。エスカレーターにしても、よくみていると、あの動いているエスカレーターをさらに階段として昇っている人が多い。僕もそうだ。これは立ちどまったまま二階へあがってゆく便利な機械としては認めていないわけで、単に気が短いからあがってゆくとは限らない。
動く歩道の上で歩こうとするのも同じで、つまるところ実際に動いているにもかかわらず、動いていることを信用していないのである。信用したくないのである。だったら動かない歩道を歩くべきだし、階段を昇るべきなのだ。
ただ子供の場合は又別な行動がある。つまり、昇るエスカレーターを降りたがることであり、動く歩道を逆行して歩きたがることだ。彼等は動いていることを信用しているのだ。
逆行することで歩くことを実感としてとらえているのである。それも朝から夜まで履いている靴でだ。
この連中が運動不足で皮下脂肪がついたらどうするのだろう。
それよりも水虫になったらどうするのだろう。
余計な心配はやめよう。僕は五体満足な人間として立派に歩けるようになることに努力しよう。芭蕉が歩いた距離を考えればまだまだ歩ける。
水虫の完治する薬は当分の間、出来はしまい。
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踏まず 踏みて 踏む
歩くということを意識して旅に出るようになって、歩くということが、なにかを踏むことだという大発見をした。
あえて、大発見という。「前人未踏」とか「踏破」という言葉がなんと新鮮なことか。
七〇年八月。僕はいろいろなものを踏んだ。
初旬、小笠原諸島の父島で巨大なカタツムリを踏みつぶして歩いた。
東京に帰る時は自衛艦「あけぼの」に乗った。二日間というもの鉄板の上で暮した。心から、土を踏みたいと思った。鉄板は脳天にひびいてよくない。
中旬は甲子園の高校野球。アスファルトのスタンド、そしてグラウンドの芝生を踏んだ。
京都ではお百度を踏んだ。
軽井沢で枯葉を踏み、中仙道を歩いた。
そして下旬は佐渡ヶ島へ渡った。坑道を降りて地底を踏んだ。
地上ではコスモスが咲き、台風に吹き荒されていた。文字通り花も嵐も踏みこえた。
東京では西条八十が死んだ。
○
子供の頃、祖母に畳の縁を踏まないようにと教えられた。祖父が木の根を踏むと馬鹿になるといった。
母は枕を踏まないように注意し、父は新聞を踏むと怒った。
「新聞には字が一杯ある。字を踏んではいけない」というのが理由だったが、その新聞を大掃除の時に畳の下に敷きつめることが理解出来なかった。
同じシーンを今年の高校野球の宿舎でみかけた。
高校生の一人が新聞を踏んだのをみて、「新聞を踏んではいかん」と先生が叱った。「なぜですか」と高校生。「新聞には知識が印刷してある」と先生。
高校生はそこまで聞いてこう返事をした。
「活字文化世代と映像文化世代の違いですね」
僕も活字文化世代である。
道にチラシが落ちていても、字がみえると踏まないように注意する。しかし、活字以外のものなら、わざわざ踏んでみるという性格である。
もっとも板門店附近の「地雷原」では踏む気にならなかった。
というわけで八月に踏んだものを、もう一度詳しく報告。
○
小笠原では夕方にきまったようにスコールがあり、昼間は砂ぼこりをたてていた凸凹道が、夜は水たまりだらけの濡れた道になる。と、明るい間は道の両側の草むらに身をひそめていたアフリカ・マイマイという巨大なカタツムリの大群が、それこそビッシリと道を覆う。
月の光では小石がまいてあるようにしかみえないのだが、道を歩くと当然これを踏みつぶす。半熟の玉子を踏みつぶしたようにカシャッという軽い音につづいて、グシャリという感触が、足の裏から胸元へかけのぼってくる。つまり、なんとも不快な気分に背中がゾクッとして、そのまま立ちつくしてしまうのである。
正直にいうと、僕は踏みつぶす度に悲鳴をあげて、やがて夜は一歩も外出しなくなってしまった。
朝の父島の道は人間と車に押しつぶされたアフリカ・マイマイと、大ひき蛙の死体が点々として、戦場のミニチュアのように血なまぐさい。
やがて一日のうちにひからびてしまうのだが、歩く度に足の下にグシャリとつぶれる生物がいるということは、とても恐ろしいことだと知った。
もし、母親がけつまずきでもして、乳飲児をつぶしてしまったらと、極端なことまで心配する。
それは踏みつぶすべきものは踏みつぶすという勇気も含めてのことだが。
海上自衛隊の「あけぼの」は砲弾も爆雷も積んでいる軍艦である。海軍のことを海上自衛隊といい、軍艦のことを自衛艦というのは、子供がいたずらをごまかしているようで、可愛らしい。
士官待遇という晴れがましさで乗船したものの、一日もしないうちに膝と腰がガクガクしてきた。立ったり、歩いたりする床が鉄板である上に、革靴を履いていなければいけなかったからである。ゴム底の靴はすべって危険だということで履けない。
なにしろ軍艦だからお客様用には出来ていない上に、「敵潜水艦発見!」という号令が飛ぶと蛇航するので、甲板にいると振り落されそうな勢いである。どうしても足を踏んばる、立っていられないほど疲れる。
説明しなければいけないが、仮想敵国相手に爆雷を投げこんだり、大砲を撃ったりするのである。そして僕は戦争ゴッコが好きで乗りこんだわけではない。
月に二度しか往復しない東京都のチャーター船に乗れなくて「あけぼの」に乗せてもらったのだ。自衛隊嫌いの僕にはなんともくすぐったい悪いことをしているような、居心地の悪い船旅であった。
そして中でもどうにもならなかったのが、こればかりは拒否することの出来ない足の裏の鉄板だった。僕は甲板の隅のロープの塊の上に立ったり腰かけたりして、その凸凹、ザラザラした感触をなつかしんだ。同じ船の甲板でも、旅客船の木材の甲板がどんなに歩きよいものかということを知った。
○
島から帰ってすぐに北軽井沢に出かけた。火山灰の砂地の上に積み重なった枯葉の道は、そのカサッ、カサッという音と一緒に歩くことの楽しさを充分に味わわせてくれた。
巨大なカタツムリを踏みつぶすというのはいやだが、どこの国にぽっくりに鈴を仕込むような、歩く音を楽しむ民族がいるだろう。
オランダの煉瓦の道を歩く木靴の音も、あたたかい響きをもっているが、あれなら神主さんの木履も同じこと、少女のぽっくりの愛らしさには遠く及ばない。
京都祇園は、枕の下を水が流れて、それはそれでいいだろうが、紅殻格子にぽっくりの音の方がすんなりしている。
カサッ、カサッと枯葉を踏みながら、歩く音のことを考える。
上方料理の板前が歯のうすい高下駄を履いていて、忙しく動くとキッ、キッと鳥の啼《な》くような音をたててきしむ。あの音はスピード・レースのヘアピンコーナーでタイヤがきしむのと似ていると思う。
わら靴で雪の中を歩いた時に、キューッという音を楽しんだことも忘れられない。革靴でキューッと鳴るのは照れくさいものだが、わら靴でキューッと鳴るのは、同じキューッでも「皆さん、聞いて下さい」といいたくなるようなキューッである。
こういう時に活字というのはいらだたしい。キューッとしか書けないのだけれど、革とわらでは断然音質が違うのだ。実際にそこで起る音と、耳に聞えてくる音が違うものもある。旅と音は切っても切れない仲なのに、文章のいたらなさが歯がゆい。
歩くリズムとそこで発する音が、旅をどんなに変えてしまうかということだけが事実だ。
○
甲子園の高校野球で目につくのはプロではあまりやらないヘッド・スライディングの多いことである。
純白のユニフォームはスライディングで泥だらけになり、それが観客の興奮を呼ぶ。
実は甲子園のグラウンドというのは、高校生にとってヘッド・スライディングがやりたくなるグラウンドなのである。
修学旅行で広間に敷きつめられた布団の上で暴れたくなるように、誰だって甲子園のグラウンドに出れば、転がってみたくなる。それほど柔らかい。つまり、砂利だらけの学校のグラウンドにくらべたら、布団を敷きつめたようなフンワリしたグラウンドなのだ。
近頃、負けたチームが甲子園の土をスパイク・シューズの袋にいれて持ち帰るのが習慣になった。みていればわかるが、彼等はグラウンドの土を掘り起してはいない。両手ですくいとっている。
「もし、ここが甲子園でなかったら、ピッチャーマウンドのところで一日中寝ていたい」
とつぶやいた選手もいた。
僕も取材でグラウンドに出る時は、インタビューする選手の足元にヘッド・スライディングしたいと思う。
さて、土を持って帰るという習慣だが、こんなことがあった。
ニューギニアの海岸で、その砂があまりに白く、一粒一粒が光っているので、それを持って帰って灰皿に敷いたと、そうラジオで話をした。
と、ニューギニアで夫を亡くしたという婦人から、その砂をわけていただきたいというお電話があった。早速差しあげたが、遺骨のない戦争遺族は、その戦死した場所の土でもいいから欲しいのであろう。
ショパンの葬式も思い出す。彼はパリに葬られるが、棺の上に最初にかけられた土は故国ポーランドから運ばれてきたものだった。
考え方は逆である。パリの土をポーランドに持って帰ったのではない。甲子園に故郷の土を持っていったチームの名前もまだ聞かない。
こうして今年も、僕は甲子園の土を踏んだ。高校時代に出場出来なかった口惜しさが二十年たっても忘れられないのである。
○
京都の伏見稲荷の隣に東丸《あずままろ》神社がある。
荷田春満という学者が祀られているのだが、この人、吉良上野の先生だった人で、後に赤穂浪士に吉良邸の見取図を描いてやったという話もあって、学問に関する願いごとをかなえてくれるという。この神社に何万という絵馬がかかっていて、これが試験合格祈願。
受験生ばかりとは限らない。
「祈合格、部長試験、四十八男」
「祈合格、運転免許、酉年女」
さらに司法試験合格御礼というのもある。
どこにでもあるが、ここにもお百度石というのがあったので、ちょっと歩いてみる。なにも祈らなくても百まで数えるのが楽しい。お百度を踏みながら、随分、長い間、ものを数えなかったなァと思った。
汽車の窓を走り去る電柱の数を数えるだけで楽しかったなァ、どうしてだろうなァ、とそんなことを考えるだけでお百度がすんでしまった。
この頃、こうして信仰心のある人と同じことをやってみたくてしようがない。特に京都の街でそれをすることにしている。
先斗《ぽんと》町の老妓のお供をして、借金の神様、縁切りの神様、討論の神様などと歩きまわるのだが、中には浮気封じの神様まである。
女性が特定の男性の、つまり妻が夫に対して、自分以外の女性には、ものが用に立たなくしてしまうという恐ろしい神様のところにも行った。
どこに行ってもお百度を踏むのが楽しいのは、身体を動かして百まで数えることが、今の僕にとってふさわしい健康法なのかもしれない。
○
八月十五日。二十五年前に終戦を知った疎開先に出かける。
「蝉しぐれ、学童疎開の 終った日」とノートにメモをする。
疎開先というのは信州の北佐久郡南大井村、今は小諸市の中に含まれている。疎開した農家の離れから、村の小学校までを歩いてみる。
いつも思うのだが、子供の頃に歩いたところを、大人になって歩くと、あまりにも距離感が違うのが面白い。
谷を越え、山を越えて通ったはずの学校が目と鼻の先にあった。
娘達と一緒だったので、疎開体験をことこまかに伝えるのだが、浅間高原へ避暑をしたようにとられて効果があがらない。この分だと同じ轍を踏みそうで心細い。轍ばかりは踏みたくない。
信濃追分の脇本陣だった「油屋」(一泊二食付千五百円)に泊って、今度は中仙道を岩村田まで歩く。
国道十八号線を横切って中仙道は御代田から小田井へ。ところどころ舗装してあるだけの道である。
小田井にも本陣、脇本陣と残っているが、このあたり観光コースからは見事にはずれているから、なんということのない田舎町の表情がのどかで嬉しい。
岩村田から千曲川畔の塩名田に抜ける。ここに「竹廼家」という古い川魚の料理屋がある。佐久だから鯉が中心になるが、この店の座敷で額に入っている佐藤栄作夫妻の写真をみた。夫の方がセーターを着ている。このセーター姿が、総理大臣を全く別人のように感じさせる。
写真と並んで「春風接人」という書があり、佐藤栄作という署名の下に「花印」があって、「周山」と読める。総理に「周山」という号があるとは風流なものだ。揮毫としてはなかなか立派で、僕の趣味では当人よりも字の方がよほど魅力的である。
それにしても、この揮毫という仕事が政治家の素質のひとつのような古風さが、今日も生きているとは知らなかった。大臣になったら、達筆で、書をものし、花印を押して、号で署名することくらいは出来なければいけないのであろう。
こうして宿場から宿場へ歩いてみると、これ又その距離が意外に短いのに気がつく。約一時間。なんとなく朝に出立すると、夜にならなければ着かないような気でいると大間違いである。
追分宿の入口に浅間神社があり、ここにもという感じで芭蕉の句碑がある。
吹きとばす 石は浅間の 野分かな
句碑を建てたのが寛政五年。芭蕉の死後、約百年を経ているが、今から百八十年前のものだ。
僕は俳句に興味はないが、旅人としての芭蕉には関心がある。寛政年間、死後百年たって句碑が出来るということは、当時のスターとしても群を抜いた人気がなければ出来るわけがない。
今でこそ、生存中からこの種の文学碑の建つのがブームだが、マスコミどころか、木版の出版物しかない当時の情報社会である。その知名度の高さが思い知られる。
芭蕉の歩いた道、弘法大師の歩いた道を歩くのは、僕の宿題である。
○
中軽井沢のアイス・スケート場にふらりと入ったら、リンクの中央で男の子がヨチヨチと歩いている。
勿論、スケート靴をはいているのだが、とてもすべっているとはいえず、かといって奇妙に身体のバランスがとれているので、やっと立ち上って歩きだした幼児のように転びそうで転ばない。その子が、どこかでみたことがあるなと思っていたら、礼宮だった。
あらためてリンクをみまわしてみると、グルグルとすべっている若い人にまじって、ネクタイをキチンと締めた背広姿の男達がそれとなく気をくばりながら、しかもそしらぬ顔ですべっている。さらに注意していると、リンクの周辺には、私服とおぼしき人達がウロウロしている。
おもてむきは「おしのび」なのであろう。
面白いのは、リンクの中にいる若者にステテコに毛糸の腹巻、彫物がチラリとするのや、狸のお化けみたいなメーキャップをしたビキニの娘がいるのだ。天皇陛下の孫が同じリンクですべっているなんて無視して、ふざけあっているアベックもいる。
そんな中で礼宮は、スケートのコーチャーと一緒に真剣にすべっていた。
警備体制はしいているものの、こうして気をつかっている皇室には興味がある。皇室は常に「つつましさ」の象徴であるべきだ。
○
天皇が流されて死んだ歴史のある佐渡ヶ島へ行く。
順徳天皇、死因、絶食。
ここの芸能はまだまだ観光化されていないので楽しいし、その動きに「舞踏」、つまり踏むという要素が大切に残されている。
日本の踊りは踏むことから始まっているはずなのに、それがインディアンや土人のように思えるのか、明治以降、妙に気取って踏まなくなってしまった。所作台をトーンと踏むような形では残されているが、大地を踏みならすたくましさに欠けてしまったのである。
こうして踏むということだけ気にして歩いていると、その踏み方、踏む場所、踏んだものでノートが出来そうだ。
ラッシュ・アワーの電車の中で他人の足を踏むのでも、そのよってきたるところを考えてみようと、足の裏と相談した。
これが一九七〇年八月、僕の旅。
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三流の旅芸人
旅について、いつも思い出す言葉がある。
スイスの高原を一人歩きしていて心細くなった時、家族連れのグループに行きあった。僕は彼等の歩いて行く方向について行きながら「そっちへ行くとなにかあるんですか?」と質問した。
その時、グループのリーダー、つまり父親がニッコリしながら、しかも、さとすように僕にいうのだった。
「あなたはなにもないと行かないのですか?」
恥かしかった。とても。そして、そうか、旅というのはそういうものなのかと思い知らされた言葉だった。
「なにもないと行かないのですか」というのは、旅の目的が出かける先にあるのではなくて、出かけることそのものにあることを教えてくれた。
そんなことは承知の上という気で旅をしていたつもりなのだが、実際には単なる野次馬でしかなかったのだ。「なにかあるから行っていた」のである。
この|なにかある《ヽヽヽヽヽ》というのは、お祭りがあるから、おいしいものを食べられるから、風景が美しいから、友達がいるから、といろいろある。
そして、この|なにかある《ヽヽヽヽヽ》は、それが目的地にあるのではなく、失恋したから、疲れたから、家庭がいやになったから、という理由にもつながる。
それでは、|なにもない《ヽヽヽヽヽ》ということはどういうことなのだろう。
「なにもないのに行く」という状況が果してあるのだろうか。
「また出かけるの?」と娘達にいわれ、「本当に好きね」と女房にあきれられ、それでも出かけていくのはなぜだろう。
「そこに山があるから」という理由で、山に登ることの意味づけをした人もいるが、これも苦しまぎれであることはハッキリしている。
山だけならいいのだが、海があり、川があり、汽車があり、うまいものがあり、温泉があり、思い出があり、歴史があり、こうなると、やっぱり「なにかあるから行く」ことになる。
一時「蒸発」という言葉が流行して、全く理由が思いあたらないという家出が、話題になったことがあるが、となると、この形がもっとも理想的な旅なのであろうか。
しかし、残された人間に思いあたらないだけで、理由がないわけではないから「あなたはなにかないと行かないのですか?」という言葉は、説得力はあるが、詭弁《きべん》ではないかという気もしてくる。
でも、僕が恥かしかったことは確かなのだし、今でも旅の中での反省として、なにかあるからきたのではなくて、なにかを発見するために歩いているのだと自分にいいきかせてはいる。
発見するというか、感じるというか、そのために旅をしているとすると、それでは普段の日常生活の中では、もうなんの発見も感激もないのかということになる。そして、このことは、家庭、女房や子供に対する侮辱になってしまう。
家から一歩も出なくても、毎日が発見であり、感激の連続であるような充実した生活が送れないものか。こうなると、それが出来ない自分の愚かさに嘆息をつくことになってしまう。
いや、出来ないときめてしまってはいけないのだ。やろうとしないで、もっとも楽な方法で自分をごまかそうとしている。その手段が僕の旅なのかもしれない。
それでは「いってらっしゃい」といつも朗らかに送り出してくれる女房や子供に申し訳がたたないということになる。お土産を買って来たり、旅先での話をしたぐらいで、つぐないのつくものではない。
女房の場合は二人の娘を学校へ送り出すという仕事があるので、最初から旅に出るということを諦めきっている。それだけに、どうも一人でフラフラしているのは心苦しい。
それなら出来るだけ家族そろって旅をすればいいのだが、これが恥かしくって駄目なのである。この頃、自家用車で、家族そろって、又は家庭をそのまま移動させているような旅をしている人が多い。
あァいうのがとても理解出来ない。どうして恥かしくないのだろう。
僕も、たまには、そんな形で旅をする破目になってしまう時があるが、もうオドオドしているだけで、「幸福だなァ」なんて思う余裕はとても持てない。
なかには、一人旅をしていることに、「男の一人旅だからアッチコッチで悪い遊びもするんでしょう」という発想もあるらしい。
これも、全くの見当違いなのである。
悪い遊びのために旅をするとか、家族そろって旅をするとかいうのは、僕にしてみると、全く理解出来ない旅で、このことに関しては、最近いただいたお手紙を紹介させていただいて説明したい。
○
お手紙を下さったのは、千葉県市川市の小此木さん、この方はオートバイで走っては野宿をしている。こう書くとイージー・ライダー風の若者を想像するだろうが、小此木さんは孫もいる老人なのである。
走っている間、歌を歌っている時が多いそうだが、歌がなくなってしまうと家族の名前を叫ぶ。中でも孫の名を叫ぶのが楽しいとのこと。
海岸で野宿をすると、どうしてこんな旅をしているのだろうと考えこんでしまうが、それでも再びオートバイに乗って孫の名前を叫びながら走ってゆくのだ。
小此木さんはこうした旅を奥さんと一緒にしたいのだそうだが、奥さんがなかなか同意してくれないという。老夫婦がオートバイで走る図は楽しいが、これは奥さんが同意しない方が当たり前であろう。
結局、いつも一人で走る。ふと、温泉にでも泊ろうかなと思うのだが、そんな気の起きる自分に気合いをいれて道端に野宿するのである。
この小此木さんの旅の話は、若々しいと思う反面、逆にいかにも老人の旅らしくて好きだ。そして、孫の名を叫びながらひとりオートバイを走らせるというその心情が、ズシーンと重味をもってひびいてくる。
「どうしてこんなところにいるのだろう、こんなことなら家にいればよかった」という旅での弱音は、僕も正直にいって何度も吐いた。だらしのない話だが、涙さえ出てきたこともある。
そんな時、戦争で遠く故郷を離れて、しかも死んでいった人達のことを考えて、気持をまぎらわせるほどだ。
つまり、旅というのは僕にとってチャーミングなものというより、みっともない、だらしのない、恥かしいものなのである。股旅ものや西部劇に登場する一匹狼の風来坊のようにはとてもいかない。
次郎長一家二十八人衆とか、国定忠治とその一党が、三度笠にストライプスの合羽をたなびかせて旅をしているのは、今日でいう団体旅行。
森の石松がひとり金比羅代参の帰りに殺される場面だとか、忠治が赤城山で子分と別れてからの旅にあるような悲壮感は、僕にはない。わざと淋しそうに歩いたりしてみるが、これとてもママゴトに毛のはえたようないじましい旅である。
要するに、本当に旅の下で苦しんだり、喜んだりしたことはないのである。
勿論、僕にもささやかながら学童疎開という旅の体験はある。
この場合、戦時下という事情はさておいて、小学生が家庭と家族から切り離されて、旅に出たわけである。
先生や級友がいたとしても、両親から見捨てられたと考えた子供達がいた。これは、死ぬなら子供と一緒にと疎開を拒否した親達がいたからである。僕にしても、疎開してゆく見知らぬ土地に対する不安はいまだに忘れられない。
先生が僕の疎開先である長野県について次のように話をしてくれた。
「永君の疎開する長野県は、昔、信濃の国といったところです。信濃の国の枕言葉は、みすずかるです。永君はみすずかる信濃の国へ疎開するのです」
この時の、ミスズカルという語感の持つ美しさと優しさが、どんなに不安感を救ってくれたことだろう。
僕は、長野県ではなく、みすずかる信濃の国へ行くんだと思うだけで嬉しくなったのをおぼえている。
しかし、期待はうらぎられ、みすずかる信濃の国の生活は苦しく、辛かった。どうしてこんなところにいるのだろうと嘆息をつき、僕にとって信州の山は、そこを越えて行けば東京があるというイメージにつながっていた。そこが空襲下でも、親父と一緒にいる兄貴を、心からうらやましく思っていた。
山を越えれば、もっと暮しよいところがあるに違いないと、子供心にそう思ったのに、僕はこの山国で、信州が一番いいところで、だから山を越えたことはないという沢山の老人にあった。どうして海をみないで平気でいられるのだろうというふうにも思った。
日本の歴史の中で鎖国政策が実施され、それが三百年も続いた事実と重ねてみると、日本人には、遠くへ行こう、なにかあるかもしれない、という好奇心が足りないのだろうか。
今でこそ農協は世界を股にかけた旅行団体を送り出してはいるが、それとても「冥土へのお土産」「この世の見納め」という感じが強い。
あの世界名物の日本人のカメラにしても、見納めの風景を自分のものにしておきたいというつつましい欲のあらわれであろう。
日本のカメラが世界的水準なのは、日本人の旅にカメラが不可欠だからであり、その意味で実に日本人の性格とあっているからである。
○
僕の旅みたいに、文章までゆきあたりばったりなのが恥かしい。カメラの話ではなく、旅に生きたことがないという話である。
僕の周囲でいうと、芸人の世界は旅の世界でもある。
河原者とよばれた人達は、別のいい方をすると土地を持っていない人達である。河原は今でこそ砂利をめぐって利権争いも起きるが、かつては土地としては無価値の区域であり、そこで生きる人間は旅をすることで収入を得るという手段しか残されていなかった。
漂泊の芸人の歴史はこうして百代までさかのぼり、今日でも雪国の瞽女や、盛り場の演歌師として生きながらえている。
河原者、遊芸人、渡世人の伝統は、暴力団、売春婦、タレントという名の芸人が受けつぎ、テレビスターの地方巡業は、表向きプロダクションという名の組織暴力団と無関係ではいられないのが現実である。
「どさまわり」という言葉も「センターまわり」(各地のヘルスセンターを巡業する)と新しくはなったし、サーカスにしてもその多くが地元新聞社の主催という形で巡業をしているが、こうした旅に生きる芸人達にしてみると、何日でも一ヶ所にいられることを待ち望んでいる。
それではテレビスターの場合はどうかというと、高額のギャラをとる彼等でさえ、地方巡業なしでは生活が保証されないのである。事務員を抱え、楽団に仕事を与えなければいけないスターが過労で倒れるのは、多く地方巡業のためであって、テレビで忙しいためではない。
そして彼等にとって、旅は仕事だから、土地に定着して生きている人達のいう旅の楽しみはない。
彼等という三人称は使えない。僕とても三流の旅芸人だからである。
僕は歌ったり、芝居したりはしないけれど、こうして旅について書いている。恥かしいことを書いている。
これでも、よく、旅の雑誌などにある「本誌特派」などという肩書をみると、「あァいやだ、あんなふうにはなりたくない」と心から思っていた時期がある。
旅なんていうものは、とてもだらしのない、みっともないものなのだから、誰にもいわないで内緒にしておくべきだと思っていた。
十年ほど前──。
と、これも書いてしまえば元も子もないのだけれど、アメリカに行って、行かなかったふりをしていたことがあったくらいである。
報道の特派員と違って、たかが紀行文を書くために、それも、うまいの、まずいの、古いの、新しいのというだけ並べて、なにが本誌特派だと思っていた。
あァ、それなのに、この頃の僕ときたら、旅をしていることを鼻にかけて、書いたり、しゃべったり、あろうことかテレビに出たり、かつて僕が不快に感じた「本誌特派」よりもっとお粗末な旅をしている。
旅の話と、味の話を書くようになったら、老化現象だともいわれたが、どちらにしても、旅で食うようになっては旅人とはいえない。
これこそ旅芸人そのものである。
お金が貰えなきゃ旅をしないというところまで落ちる前に、なにもない旅に出発しなければいけない。それとも、旅芸人としての誇りを持つかである。
話は堂々めぐりになるが、僕は僕なりに旅に出る理由を女房や娘達に説明しなければならない。そうしないと、堂々と家を出ていけない。
旅に出ることは、とりも直さず、家を出るということである。このなんでもないことが、実は大変な意味のあることに気がついた。
それでは家出も旅かということになる。旅には違いないが、この場合は旅が目的ではなく、家を出ることの方が目的だから事情が違う。
同じ家を出るのでも「出家」という言葉がある。出家、普通には、僧侶をさしていう。家を出て仏門に入ることだ。
ここでは家を出るということは、家を捨て、家族を捨てて仏に仕えることになる。だから、僧侶のくせに家があったり、家族があったりするのは理屈にあわない。
信州かるかや堂往生寺の絵説き|まんだら《ヽヽヽヽ》を聞いていたら、このことをくどくいうのである。そうしないと石童丸の悲劇が成立しないこともあるが、僕は別の意味で出家と旅を重ねて考えていた。
○
花がつぼみのまま散るのをみて無常を感じて、出家をなさいます。
あとに残された夫人と石童丸はいつ帰るともしれない夫、そして父を待っておりましたが、高野山にいらっしゃるという風の便りに、矢もたてもたまらず後を追うのでございます。
御案内のように、高野山は女人禁制でございます。
一人、石童丸は父を訪ねてお山に入るのですが、やっとめぐりあったその父は、修業のさまたげになるのを恐れまして、お前の訪ねるその人はすでに亡いと答えるのでありました。哀れ石童丸は淋しくお山を降りるのですが、そこで待っていたのはなんと母の死でございました。
いたいけな子供ながら、この上は父と母との菩提を葬おうと、再び高野山にのぼって、父なる人を父とは知らず、その弟子になるのでありました。
妻の死を知りながら、目前の吾子に名乗ることも出来ない、ヒシと抱きしめることも出来ないのも、修業が水の泡になるからでございます。
こうしてお苦しみになっていると、観音様のおみちびきがございまして、再び石童丸を残しまして、信州善光寺に庵を結ぶことになるのでございます。
……といった訳で、この父と子は遂に生きている間に名乗りあわず、石童丸はこれ又、この世の無常に仏様におすがりして生きることになる。
七五調の節づけで聞くと、説得力もあり、楽しくもあるのだが「無常を感じ」という言葉と「仏に仕える修業のさまたげになる」という理由がとても曖昧である。
今日、国鉄や、交通公社がいう旅では、無常感のことをロマンチシズム、修業のさまたげをレジャーといっている。
要するに理由を探して旅に出そうとする旅行業者と、旅に出る理由を探している人達がうまくつながりあって旅行ブームなのだ。
そして、その片棒をかつぐ感じで旅について書いたり、しゃべったりしている僕。
ちょうど花がつぼみのまま散るのをみて、というように自分の立場を悟って無常を感じ、短期間の出家をするのが僕の旅なのであろうか。
照れかくしの恥かしい旅には違いない。
○
僕は寺の子として、というより、寺の子であることに意味不明の後めたさを感じつづけてきて、それが芸人の後めたさに共通すると知ってから、芸の世界へのめりこんだと、自分ではそう思っていたのだが──。
同じように旅に憧れてきた部分には無関心だった。
しかし、旅の中に生きたいと願う心こそ、芸の世界よりも、もっと密接に、後めたさの中で生きることになるような気がしてきたのである。
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[#小見出し] V 誰かに逢いたい
誰かに逢いたい──短いプロローグ──
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結局のところ旅に出るということは人に逢うことだと思う。
なによりも生きている人間は素晴しい。
美しい、面白い、そして悲しい。
新幹線が博多まで開通すると全線の三分の二近くがトンネルの中だという。窓ガラスはトンネルの中だと鏡のように車内を映し出す。車窓をながめることが旅をしている自分達をながめることになる。
これは旅の意味に重要な変化をもたらすに違いない。旅で自分をみつめるという抽象的な意味が具体化されるのだ。
トンネルから出た時だけが知らない土地をみることになる。そこには新鮮な感動の繰り返しがなければいけない。
きっと国鉄は用地買収の困難さだけでなく、自分をみつめるという大切さをおもんぱかってトンネルを多くしたに違いない。
ものはいいようである。
○
ある汽車の中で経典を読む老婆と並んだ。僕が子供の時に習ったお経だったので話がはずみ、寺の子であることも説明した。
その老婆は暇があればお経を読んで仏に仕えているのだが、まだおみちびきをいただけないという。
坊さんには、私の信心が足りないといわれ、どうすればいいのかというと、浅はかだと叱られ、とても迷っているというのである。
そこで僕はお婆ちゃんにいった。
「お婆ちゃん、坊主が偉そうにいうことなんか信用してはいけません。坊主ぐらい救われない連中はいないのです。駄目な、だらしのない坊主なら、まだ信用出来ます。
釈迦もキリストも天皇も、生花や踊りの家元もみんな同じで、利用する人達の生活手段なのです。
坊主がお経をあげるのは、歌手が歌い、八百屋が大根を売るのと同じことなの、それを偉そうに、人が救えるようなことをいうのは、自分が弱虫で、実は中身がなにもないことを隠しているからです。
お婆ちゃんがお経を読むことはけっして間違っていることではないけれど、お経の意味がわかりますか、わからないでしょう。わからないからなんだか有難いような気がするわけでしょう。だったら、お経を読む時間だけ生きている人に尽しましょう、優しくしましょう。惜しまれて死ぬ。このことが一番幸福なんですよ。
惜しまれて死ぬ坊主が、この日本に何人いますか?
みんなお経をあげているだけです。
下手な歌手と同じでなんの役にも立ちはしないの。せめて、声をきたえて、意味不明でも立派なお経をあげられるように商売熱心であってほしいと思いますよ。日本の仏教の主流は、今や完全に置き忘れられた存在なのです」
僕は自分のいうことに自分で興奮する癖があるから、お婆ちゃんはびっくりしてだまってしまった。
そうすると僕も照れくさくなり、あらためてお婆ちゃんに偉そうにお説教をしてしまった自分におどろいてしまうのである。
河井寛次郎サンに次のような言葉がある。
「おどろいている自分に
おどろいている自分」
僕はおどろくために人に逢いに行くのである。
○
第三部〈誰かに逢いたい〉は深夜放送を通じて知りあった人を訪ねて『中央公論』(七〇年一月号〜十二月号)に連載されたものだ。
[#ここで字下げ終わり]
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小諸出てみりゃよォ〜〜
日曜日の朝、午前一時から五時まで、東京放送の「パック・イン・ミュージック」という番組は録音ではなく生放送で、外国に行った時は、時差を計算して電話で現地からの放送にしたほどであった。
東京の放送局だが、深夜のために日本中で受信出来る。したがって北海道の稚内や、鹿児島の指宿あたりからも手紙が来る。
この手紙は週一回の担当の僕あてだけでも、平均三千通は来る。そこから読みたい手紙を選び出し、実際に放送で読めるのは二十通ほどになる。
深夜放送の場合、放送で手紙を読むということ、書いた人に語りかけるということで、コミュニケーションが成立するわけだから、読めなかった多くの投書に対する負い目は重なる一方である。
そこで僕は、投書に対する返事を書きはじめた。手紙によっては返事だけではなく、どうしても逢ってみたいと思うようになった。午前一時から五時の放送を聞いて、僕に手紙をくれる人はどういう人なのだろう。
○
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「私どものところの一老人が、加藤登紀子が赤軍派にカンパしているとの記事をみて、捕えられるのではないかと心配しています。私には過激派学生の行動がどうしてもわかりません。共産党によれば彼等の資金は与党方面から出ているとか……。
まさかとは思いますが、鴨猟の方法はよく訓練されたアヒルが鴨の群を餌のある掘割へ誘導し、予めそこに仕掛けられた網を倒して、それこそ一網打尽に鴨どもを捕える、アヒルは片隅にかくれて無事、アヒルをよき指導者と感違いした野鴨の悲劇、過激派の暴挙に北叟笑《ほくそえ》む者は誰なのか考えてみる必要があります。彼等の暴走を口実に騒乱罪適用が乱用されれば、デモや集会は困難になることでしょう、やがて国民の自由は制限されるでしょう、二度と昔の警察国家は御免です。チクロや農薬の使用禁止乃至制限の例をみても、澎湃《ほうはい》たる輿論の前には、業者本位、消費者不在の行政姿勢をただすことが出来たことに私どもはもっと自信を持つべきだと思います。
[#地付き]国立小諸療養所 沖村栄次」
[#ここで字下げ終わり]
僕はこの手紙を読みながら、沖村サンてどういう方なのだろうと考えていた。
インキンの高校生の悩みを読むと、すぐインキン治療法を教示して下さり、話が痔になると、これも体験から痔についての雑学をユーモラスに伝えて下さるという方でもある。浅草育ちで昔の芸人のエピソードにも詳しい。
こうして僕は信越線に乗った。戦争が終って、焼跡と疎開先を往復した時は六時間もかかった小諸まで、半分以下の三時間足らず。
十一月二十日、小諸はその日「えびす講」だった。駅前通りの両側には、幔幕をはりめぐらして大売出しのスピーカーががなりたてる。僕は観光案内所から療養所に電話をかけて沖村サンのことを尋ねた。思っていたとおり入院患者サンとのことだった。
午前三時に起きているということを考えて、宿直のお医者様かなと思ってもいたのだが、患者サンだとすると、眠らなくてもいいのかな、と気になってきた。
○
駅前から自動車で、療養所まで二十分。小諸の街を抜けると見慣れた浅間山にうっすらと雪の白。
※[#歌記号、unicode303d]小諸出てみりゃよォ〜〜 浅間の煙が……
昔もそうしてくちずさんだものだった。
果して、沖村サンは突然の来客を迎えいれてくれるだろうか、やっぱり、突然というのは失礼ではなかったかと思い悩む。
国道に沿った「国立小諸療養所」という看板の下に「看護婦募集」と書いた紙が寒そうにふるえている。舗装がなくなって山道になり、振り返ると小諸の街が、なだらかな山麓のかげにあった。
時々「国立小諸療養所」という立看板が現われるが、そこには「精神科・神経科」という文字しかない。あれ、結核療養所じゃなかったのかな、と思っているうちに正門前に着いた。ここには「精神科・神経科・内科」と書いてある。
となると、僕は沖村サンを勝手に結核療養中と決めこんでしまっただけで、もしかすると精神病なのかもしれないと思った。
玄関の受付で、沖村サンにお逢いしたいのだが、約束はしていない、けっして無理にお願いはしないという点を強調して面会の手続きをとった。ここではじめて十四年間、結核療養をしている方とわかった。
しかし、面会票の注意事項には、例えばこんなことが書いてある。
「マッチ、ライター、刃物、その他危険となるような品は絶対に患者さんに渡さないで下さい」
これが結核患者に面会する時の注意事項なのであろうか。僕にとって療養所は生れてはじめてのところだから、もしかすると結核の人は突発的に火をつけたり、斬りつけたりするのだろうかと、どうしてだかとんでもない考えが浮んでくるのだった。
そんな馬鹿なことはないと思いながら、小諸からここに来るまでの看板に「精神科・神経科」としか書いてないことが気になった。
表向きには、ここは結核療養所ではないのである。戦前までは軍医学校とかで、古びた木造ながら実にしっかりとした建物である。長い廊下を伝って結核病棟に向うと、鉄格子の窓枠の入った病棟がみえる。
僕は看護婦詰所で担当の看護婦サンに、あらためて、沖村サンにお逢いしたい、突然なので断わられても仕方がないという事情を話し、交渉を依頼した。
「喜んでお逢いしたいそうです」という返事におずおずと病室のドアをあけた。
五つのべッドに三人の患者サンが寝ていて、窓に面したベッドが沖村サンだった。
○
東京の下町育ち同士が見かわす時の、なつかしい面映《おもは》ゆい表情をお互いが同時に感じた。安藤鶴夫サンとの初対面がこうだった。こんなふうに人とめぐりあうことが出来る時って感動する。
六十歳から七十歳と思っていた沖村サンは五十代の血色のよい、立派な体格の持ち主だった。僕は嬉しかった。
「聞いたんですけど、十四年もですって」
「えェ、でも二十二年て人もいますよ、引き揚げて直接ここに来て帰宅していない、つまり未復員なんです」
未復員、沖縄と同様に、その方にとって戦争は終ってないのである。
「いつも、お手紙をいただいてありがとうございます。でも、深夜まで起きててお身体には……?」
「夜の病人というのは心細いもんでね。それに私はいびきがひどいんです、同室の人が寝つくのを待ってそれから寝る、それでラジオを聞くんです」
「十四年間、ここにいて、どんなことを一番考えますか?」
「やっぱり、戦前の下町の暮しかなァ、みんなで気をつかいあって、いたわりあって生きていたでしょう、あれ懐しいなァ。これで病気がなおって東京に帰ったとしても、もうあそこは町じゃないですよ。僕には東京ってのはひとつの建物みたいになっちゃったような気がするんです」
沖村サンは地方からの流れものが、いたわりあって暮してきた江戸以来の下町の話を言葉をひとつひとついとおしむように並べて語るのだった。
「テレビをみたり、ラジオを聞いたりしますね、そんな時、昔のいい芸人をみておいてよかったってしみじみ思いますよ。噺家の口調、浪曲調の節まわし、講釈師の口跡……、昔の芸人の芸は瞼の母じゃないけど、いつでも思い浮ぶんです、これは幸福なことです。
これ、わかってくれますね、本当に、本当に、いい芸をみといてよかった、聞いといてよかった」
僕はこの言葉を聞いて、いい芸を知るということが財産になることを痛切に感じていた。
深夜放送の高校生については、
「先生ですよ、昔の先生は立派だった。私は浅草で育ったけど中学は上野で、同級には高橋義孝、福田恆存なんて人がいましたよ。この僕達の先生が立派な人でした。あの二人が日本語に対して持っている関心は、その先生を受けついでいるんです。今の高校生が先生より深夜放送に親近感を持っているのはどうかなァ、やっぱり、先生が駄目なんじゃないんですか? それと高校生の相談相手みたいになっているラジオの方にも責任がありますね」
○
僕も深夜放送を高校生本位にすることには反対なのである。
「××君、人生に希望を持ちたまえ、来年の受験に備えるのだ、僕も君の進学を祈っているよ」なんていう調子の、あの思いあがった態度はなにを勘違いしているのだろう。あれは下町育ちの人間には照れくさくって出来ることではない。
なにも下町育ちをふりまわしてえばっているわけではなく、それが深夜放送でも「つつましさ」「恥じらい」「面映ゆさ」を大切にしたいということなのである。
現に沖村サンは、僕と向いあっているのが照れるらしく「ちょっと、看護婦さんの部屋にでもいってやって下さい。彼女達だって、あなたとおしゃべりがしたいでしょう」
もとより僕も渡りに船と病室を出た。
看護婦詰所で僕は、結核患者が三十人そこそこだということを知った。元は結核療養所だったのだが、精神科・神経科が主力になりつつあるという。
三時までの絶対安静時間から、四時半の夕食までのわずかな時間があっという間に過ぎて、僕は沖村サンにさよならをいうために病室に戻った。
そこで二十二年前の、つまり、戦争直後の日本人の顔をしている老人に紹介された。未復員の方だった。
長期の療養生活に耐え抜く精神力というのは、あの戦後の混乱と窮乏を耐えた精神力に通じるのだろうと思う。
病院の玄関で沖村サンは明日は雪かもしれないなァといった。そしてあらためて「どうもありがとう」と半分嬉しそうに、半分照れくさそうにいうのだった。
安藤鶴夫サンの「ありがとう」がいつもこうだった。
テレビ時代なんていってるけど、沢山の手紙がつくり出すコミュニケーション、その手紙の主へ、まるで電波のように逢いに行く、……沖村サンと逢えてよかった。
人と人が、もっともっとかかわりあいを持つことを大切にしなきゃ、それも、おずおずと、はにかみながら、それでいて、より深い触れあいのあるような、そんなめぐりあいを大切にしなきゃ、沖村サンと逢えてよかった。
それに僕は健康でよかった。健康っていうことは素晴しい、なんて幸福なんだろう。
○
軽井沢から上野まで、僕は突っぱったまま腰をかけていた。赤羽をすぎる、もうすぐ上野だ、いつものように車掌がアナウンスをする。
「恐れ入りますが、赤羽・上野間はトイレの使用を御遠慮願います」
お役所仕事はなんでもアチラの都合でコチラの都合はお構いなしだ。
また、結核療養所なのに精神科・神経科の看板が出ていたことが気になってくる。やっぱり、その理由を聞くべきだったなと思う。
国立小諸療養所。国立なんだったら、もっと入ろうとする人に親切であるべきではないだろうか。看護婦さん達がいくら親切でも、それは個人的な愛情であって、それを国家の愛情が二重に包んでこそ意味があるはずである。
黄色公害問題以後、赤羽・上野間でオシッコひとつ出来ない状態が何年も続いている。たかがオシッコとはいえないと思うんだけど、乗客はこのアナウンスに笑って応える。
しかし、考えてみよう。国鉄の都合でオシッコをがまんするのはおかしいよ。なんでもがまんしすぎると思うよ。どんどんオシッコをしちゃえば、国鉄だってまさかやってる途中でとめろとはいうまい。そしてトイレを改良するだろう。
そうだ、そうだと思ったけど、結局、僕は上野駅のトイレにガニ股で駆け込んでいった。
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安来名物荷物にゃならぬ〜〜
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「島根県は交通事故増加率が第一位なのに人口がどんどん減っている淋しい県です。
山陰線は単線のまま、中国縦貫道もほんのちょっとかすめるだけ、僕はそんな県の松江市に住んでいます。十万余の人口です。堀川の多い静かな所です。
『松江の人の屁は茶の匂いがする』といわれるぐらい、お茶を飲む町でもあります。
松江では東京の深夜放送も韓国、中国、東南アジアからの電波の中にまぎれこみ、雑音の中で大きくなったり、小さくなったりします。
大きくなると近所のことも考えて、あわててボリュームを下げ、小さくなると鉛筆を置きオンボロラジオを耳に押しつけるのであります。(後略)
[#地付き] 柏木 登」
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松江北高の一年生、柏木登クンに逢うために松江に出かけた日、山陰は雪になりそうな雨が降っていた。
学校の終る四時半まで、僕は街をぶらぶら歩いた。宍道湖をかかえこむようにした島根半島のその半島側と、国鉄山陰線の松江駅側の街を出雲大橋がつないで、橋のたもとの旅館には「ヘルンゆかりの宿」などと書いてある。
城下町らしく、狭く曲りくねった道をたどって松江城、その内濠沿いの道は僕の好きな日本の道である。当時の予算の都合といわれる低い石垣におおいかぶさって水面にまで達しようとする樹木の枝、濃淡の緑が濠に映えて、そのもの静かなたたずまいと、相対する武家屋敷の武骨さと──。
もとより、車は走り、コカコーラの看板も目には入るけれども、そういう夾雑物はエイヤッと視界から消してしまう精神集中力を持ちあわせなければならない。
そんな武家屋敷の一軒にイギリス人、小泉八雲が住んだのが明治二十四年。
○
ラフカディオ・ハーン、風采があがらず、片目の不自由な四十一歳の中年男が、二十四歳の妻をもった新居が「ヘルン旧居」として残されている。
僕は学生時代、彼が日本に帰化した理由が、松江の街の宍道湖にわたる鐘の音の素晴しさに惹《ひ》かれてというふうに教えられていた。
しかし、知らない国の知らない街で聞いた鐘の音に、ここで一生を送ろうという深い感動があったのなら、寒くなったからといって熊本へ移りはしないだろうと思っていた。
彼は母国での生活が不遇であったに違いない、日本の女性の心づかいにこそ感動したに違いないと思うのだが……。
それにしても残されている写真の大部分が右側の顔だけであり、たまたま、記念写真のように正面を向かなければならないものは、ハッキリとうつむいてしまっているところからみても、その左目の不自由さが大きな影を落していたことがわかる。
さらに極度の近眼だったらしく、机を特別に注文して椅子に腰かけて胸の高さにまでしている。その机の残されている記念館に「ほら貝」が置いてあって、それを吹いて夫人や女中を呼んだと説明してある。
羽黒山の山伏が大きなほら貝を吹いているのはみたことがあるが、さして広くない家の中でほら貝を吹くということはとても興味深い。
山の峰から峰へ、あるいは戦国時代に全軍を指揮するのには似合う音だが、あの音に対して「ハイ、旦那様」と答えるのはとてもはずかしいのではないか、きっと夫人や女中は主人が吹くほら貝に対して、台所のほうから銅鑼《どら》をならしたに違いない。ブウブウジャンジャン、これでは修羅場である。
勝手な想像、独断と偏見は常に旅を楽しくする。
宍道湖畔で食事をする。解禁になった白魚がうまいと聞いたが、この透明の小魚が、シラウオとシロウオの二種類あり、躍り喰いにするのはシロウオというハゼ科の魚で、シラウオ(シラウオ科)のほうは水揚げするとすぐ死んでしまうので、躍り喰いのような食べ方は出来ないという。
宍道湖の白魚はシラウオのほうで、お造り、酢味噌、てんぷら、おすましなどに登場する。
食後、コーヒーを飲みに行ったカウンター式の喫茶店で、『巨人の星』を読んでいた女学生二人に声をかけられた。
深夜放送の話をすると、ニッポン放送ばかり聞いていて、東京放送のは聞いたことがないという返事。僕の放送を聞いてくれている高校生に逢いに来たというと、妙な顔をされた。
どうやら深夜放送というのは一方通行のままでいいらしい。勝手にしゃべるのと、勝手に投書をするのとで奇妙なバランスがとれているのかもしれない。とすると、逢いに来たのは余計なことだったのか、いつも迷う。
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「僕は芥川と太宰とビートルズが好きです。
とにかくいいです。読書で感動し、音楽で感動し、映画で感動し……、学校の恐い先生も家庭があって子供がいてなんて考え、自転車をこぐ母親の身体をほっぺたを赤くした荷台の子供が一所懸命だいている姿を見てはいいナーと思い、少し高台の僕の家から外をながめて竹やぶを通して見える黄色い裸電球、あのあかりの下で、どんな親子がどんなことをしてるだろうと思い、一人嬉しくなったり、時には淋しくなったり。道ですれちがう小学生の女の子を見て、なんてこんなにかわいい子ばかりいるのかナーと思ったり、一人でブツブツいいながら、わき目もふらずに歩いてくる子を見て楽しくなったり、僕の両親の人間的魅力について考えたりして、あとは学校の授業とで一日は終りです。
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[#地付き]柏木 登」
四時半、松江北高の校門で僕は柏本登クンと野坂都サンに逢った。野坂サンは安来から汽車通学をしている同じく高校一年の女学生。彼女も番組あてに手紙をくれる一人なのだが、二人が言葉をかわすのは今日がはじめてということだった。
柏木クンは両親が働いているから帰りが多少おそくなっても大丈夫とのこと、野坂サンのほうは安来の自宅に電話をしてお母さんにひと汽車おくらせるという了解をとった。
彼女は汽車で安来まで三十分、駅に自転車がおいてあって、そこから自宅までペダルを踏んで十分近くということだった。僕は駅に自転車があるということが妙に嬉しかった。
自転車に乗り、蒸気機関車にひっぱられた列車に乗って通学する。地方ではなんでもないことに違いないのだが、わけもなく感動するのである。自転車があると聞いただけで、駅前の自転車につもった雪を払い、ひえきったハンドルを握った手を暖める野坂サンのその白い息までが目に浮んでくる。
そしてそれが涙でにじんでくる。僕はほんとうに涙ぐんでしまっているのである。この種の感傷は当人が酔っているだけの話であって、感情過多という病気なのかもしれない。
僕達はすでに暗くなりつつある湖畔で食事をしながら、しゃべったりした。
僕と同じ世代の先生は学校でも中堅クラスだろうが、僕は二人を前にまるで高校生なみの若い自分をみつけた。明治の老人に逢うと自分も日清・日露戦争の生き残りのような気がし、幼児と話をすると、自分も生れて三年目みたいな気になるところがある。
まず二人とも小泉八雲の旧居に行ったことがないというのが面白かった。
「老人心理学」を専攻しようと思っているという野坂サン。
出来ればマスコミ関係の仕事と一応は決めている柏木クン。親父と学校の話がはずんだ。
柏木 親父と一緒に楽しめるのは、マスコミに低俗っていわれるテレビ番組をみている時です。あの時はとても理解しあっているんじゃないかなァ。
野坂 お母さんとアラン・ドロンの噂なんかしていると、お父さんがいやな顔するんです。でも、そういう時のお父さんて大好き。
柏木 もう定年が近いんですけど、兄貴に聞くと、兄貴は親父とバドミントンやったことがあるんですね、僕はやったことがない。バドミントンがやりたいんじゃなくて、親父となにか一緒にしたかったなと思うんです。身体を動かして……。
野坂 私は安来でしょう。学校で安来節を習うんですよ、中学校の時に。その時いわれたのは、郷土芸能を保存するという名目なんですけど、本当は就職して都会に出ていった時、工場や会社でかくし芸として役に立つんですって。安来の街は今でも人口が減っているんですよ。
柏木 僕も松江を出て行くと思いますね。松江って古い静かな街だっていわれるけど、それは住みにくい街っていうことでしょう。
野坂 小さな街に住むっていうことは、なにかすぐ大きな壁に当ってしまうような気がするんです。考えることでもなんでも。
柏木 相談する仲間がいないんです。受験勉強に夢中になってていいのかなアなんて思ってもそんなことさえいえる仲間がいないんですね。先生は相談があったらこいっていってくれるし、僕もゆくけど、受験勉強については話しあえない状況です。そこが一番話をしたいんですけどね。
野坂 私の知っている友達のクラスで、悩みを誰に相談するかっていうアンケートをとったんです。そうしたら一位が友達、二位が両親、そのあと兄弟とか、オジサンとか並んで、先生は最下位だったんです。
柏木 友達と話をするっていうけど、土壇場では友達じゃないんですよ。学年の成績が公表されて順位がついちゃうでしょう。そりゃ人間の価値とテストの結果は違うとわかっていても、友達に対する考え方が変っちゃうんです。僕はそういうことにビックリするんだけど、ビックリしない人のほうが多いんだな。
野坂 勉強しなさいっていうけど、夜の十二時過ぎは前頭葉が働かないから起きてるのは意味がないっていうんです。でも誰かが起きて勉強していると思うとやっぱり起きている、そして深夜放送を聞いている。学校から帰るとすぐ寝て、午前二時頃から明け方まで起きている人もいるし、三時頃に起きてラジオを聞きながら勉強して、そのまま学校に来る人もいます。ラジオを聞くというより、同じ時間に放送局で起きている人がいるということを確認するだけのような気もするわ。
柏木 学校はクラブ活動もしろっていいますよね、スポーツの試合なんかで成績がいいとホッとするところもあるわけです。ガリガリ勉強だけじゃないっていうことになるから。でも運動と勉強っていうのは、それを両立出来る人もいるっていうことで、みんなが両立出来るっていうことにはならないと思うんです。
野坂 友情とか、恋愛っていうことは運動よりも現実的な問題として、勉強の中に入りこんでくると思うんです。私達は共学ですよね、それが共学っていうのは受験勉強によくないっていう雰囲気もあるからって、そうでない学校に行く人もいるわけです。
柏木 僕達にはいろいろな問題があって、そのひとつひとつを考えていけば解決出来るとわかっていても、悩む時間がないんですね。いや悩もうとしないっていうか、つまり、なにもしていないんですよ。僕もなにもしていない自分を発見してビックリしちゃうんです。
野坂 深夜放送に投書して、何千枚の中から選ばれて自分の名前が読まれる、そこで自分がいるって確認出来るんじゃないかしら。
○
あえて二人の言葉だけ並べてみた。
僕も同じようなことしかいえなかったし、解決への方向も話せなかった。松江北高の一年生のなにもしていない一人になっていた。
十六歳。僕は早稲田高校の一年生、NHKの「日曜娯楽版」にコントを投書していた。歴史の先生になろうと思っていた。
セーラー服をみて胸をときめかせ、電車の中でみかけた女学生の後をつけて家までいったこともあった。ラブレターも書いてその家のポストにいれてきた。あの頃、大学受験なんていう言葉は一年生には関係がなかった。
僕と柏木クンは松江の駅まで野坂さんを送って行った。
はじめて言葉をかわしあった三人だけど、夜のプラットフォームでサヨナラをいうのはとても楽しかった。汽車に乗る女の子を見送るというのは気持のいいものだ。
安来の駅には彼女の自転車が待っている。
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蛙が鳴くんで雨ずらよォ〜〜
一月十五日、成人の日、静岡県小山町の湯山松与サンを訪ねた。
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「私は六十九歳のばばあでございます。常々土曜深夜のパックを楽しみにしています。
お笑いなさいますかもしれませんが、せいぜい生きているうち若い人達とも仲よくたのしく暮したいと思いますので……。(後略)
[#地付き]静岡県駿東郡小山町菅沼 湯山松与」
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静岡県というので、なんとなく東海道のィメージでいたら、駿東郡というのはどうも神奈川寄りの山の中らしい。
御殿場線に「小山」という駅をみつけたが、念のためにと思って東名高速バスを調べたら、ここにも「小山」という停留所がある。
バスに決めて東京駅八重洲口のバス発着場で二時間四百円という切符を買う。汽車のホーム同様、待合室で駅弁当を売っていた。
国鉄自慢のリクライニング・シート、トイレつきのバスだが、椅子のクッションは固い。リクライニングなどと洒落るより、その分の予算でクッションを柔らかくした方が本当の親切というものだ。
都内の高速道路から東名高速道路に乗りつぐ。僕の世代だと戦後体験からは想像もできなかった「ハイウェイ」などというものを走る度に「あァ戦争は終ったんだな」と思う。実になんともいまだにそう思うのである。
東名バスは走る。三月十四日以降、このハイウェイは万博に向う車で一杯になるんだろうなとも思う。僕は乗物に乗ると、車窓からの風景が変る以上にいろんなことを考えて、いつも、それで疲れてしまう。
例えば、東名バスの停留所をいくつも通りすぎる。車内のスピーカーは、バス・ストップという英語を使っている。
「次のバス・ストップは厚木でございます」
なんていう。と、すぐ『バス・ストップ』という映画に主演したマリリン・モンローのことを考えてしまう。
医者にいわせると、ビタミンCが足りないのだそうだ。でも、ポカンとして風景を楽しんでいられない理由もある。
友達の車で走ったことは何度もあって、その度に、東名バスの停留所が人里離れたところにあるのが気になっていたのだ。
小山の場合も、停留所から湯山サンの家までどうやって行くのか、どの程度の距離があるのか、皆目見当がつかない。寒いのに山の中で降りる破目になり、そこに道を訊く人も、家もなかったらどうしよう。
○
小山に着く。富士山を正面にして山の中腹を走っている高速道路のバス・ストップ。その山あいに小山の街が見下せた。
酒匂川の上流になる川に沿って御殿場線が走り、その川をはさんで街が細長く続いている。眼下に富士紡績の工場とその関係建物が並び、なんと東京の青山通り二四六号線がそのままこの街を縦断して御殿場に向っている。
街の中央にある役場とおぼしき建物を目指して山腹を降りる。はじめての知らない街に入る時のこの胸のときめき、そんな時、僕はいつも西部劇の主題歌をくちずさむ。
古風な玄関の上にバルコニーがあって、そこから町長さんが町民に手を振るといったような役場は「成人の日」で休日だった。
街には呉服屋がボロ儲けしたであろう振袖姿が目立ち、白いショールが去年あたりから狸や、狐のエリマキになって、毛皮屋も稼ぎまくったと思われる今年の成人の日である。
湯山サンの葉書の住所を頼りにしたら、この小山町菅沼というところは、大部分の家が湯山サンという姓。僕は東京では交番でものを訊くのが嫌いなのだが、駐在所というのは用がなくても行きたいという男なので、その憧れの菅沼駐在所へ。
「湯山松与サン……、園長さんです」
高橋巡査の言葉に、僕はどんなにホッとしたことか。
僕は小山という街も知らないが、その街の六十九歳のお婆さんが、深夜放送を聞いているということもいろいろ想像していた。孤独な老婆で、ラジオだけを楽しみにしていて、なんとなくもの悲しいイメージを持っていたのだが、園長さんという言葉でそれが消えた。
「幼稚園の」
「そうです。駿河幼稚園の園長さんでお父さんが貴族院議員だったという方ですが、きさくな立派な方ですよ」
「じゃ、お元気な方ですね」
「えェ、七十近いというのにモーター・バイクに乗る許可をとりたいなんていうんで、みんなで諦めさせるのに大変でした」
高橋巡査は僕の質問に答えてくれてから、駐在所の前でやっている交通取締りの違反者をテキパキと処理している。
奥サンがお茶をいれてきて「どうぞ」と僕にすすめて下さったのを、違反したおじさんが自分かと思って「どうも」なんていっちゃうから、僕が手を出しそこねたり……。駐在所ってこういうふうに法律と人間らしさが同居していて好きだ。東京の交番も夫婦でやればいいのにと思う。
○
幼稚園も成人の日でおやすみ。
立派な武家屋敷風の門構え。古い屋敷でありながら、西洋館のような棟もある。とにかく、東京の小学校ほどの広さほどの幼稚園で、幼稚園のための建物というより湯山家を開放したという感が強い。庭の中に山もあれば、せせらぎも音をたてている。
そこで「ごめん下さい!」「こんにちは!」どう叫んでも返事がない。
仕方がないので再び駐在所に戻って、お留守のようだからと伝言を頼もうとすると、そんなことはない、今日は風邪気味で自宅にいるはずで、そのために街の成人の日の式にもこなかったとのこと。
「モシモシ、駐在の高橋ですが……」
電話をしたら湯山サンは在宅の様子。僕はもう一度幼稚園に引き返した。
あとでわかったことだが、この時、湯山サンはテレビで成人の日特集の「若者の主張」に聞き入っていて、面倒臭いから僕の声に応じてくれなかったのだという。
「あら、いらっしゃい、どうぞ、あがんなさい」
湯山サンが迎え入れて下さった。新劇の田村秋子サンに似たお婆さん。隣の若者が来たような、気軽な、ちっとも驚いていない迎え方で、これといったあいさつも抜きで、一緒の炬燵《こたつ》に入った。
僕がこの連載を始めて、再認識したことのひとつに、突然訪ねた相手が驚かないということがある。「あら、いらっしゃい」なのである。
「まァ、おどろいた」とか「どうして、来たんですか」なんて言葉にはぶつからない。自意識過剰ということは抜きにしても、もう少しビックリしてくれてもいいじゃないかと思うのだが、「あら、いらっしゃい」なのである。
これは深夜の対話(一方通行だが)のコミュニケーションがいかに強いものかということを知らされる。
現に僕がすすめられた炬燵は、食事を済ませたままであり、「お腹すいてたら、お餅でも焼きましょうか」と、まるで故郷の母親のところへ帰ってきた感じなのである。そんなふうに見知らぬ家を訪問できることがどんなに有難いことか。
金具の沢山ついた箪笥。灰皿ではなくて、煙草盆。神棚には、まゆ玉のように細い木の枝にお餅が刺してあって「木なり餅」というのだそうだ。
湯山サンが炬燵に入った、その背後は茶室の水屋のようなつくり。手を伸ばせば水道の蛇口も電気コンロも思いのままで、合理的な一人暮しができる居間である。
老人というのは身辺をかまわないと、むさくるしいものだが、湯山サンのは、まるで三船敏郎が不精をしているような豪快さがあり、とりちらかした部屋の中で、それが似合って、しかも、爽やかなのが不思議なくらいである。
ただのお婆さんではない。
「どうして深夜放送を?」
「起きてるんじゃないんです。夕方、六時すぎに寝て、夜中の十二時すぎにオシッコで目がさめるんです。それでラジオを聞きながら寝るの、高校にいっている孫に話をあわせようと思って聞き始めたんだけど、まァ、いろいろ勉強になるんで」
息子や娘さんは、それぞれ独立して別に暮しているが、これはお婆さんの主義。
旧家に嫁ぎ、家というものにしばりつけられてきた体験から、子供達には年寄りを気にしないで、自由に暮してほしいと考え、自分も一人暮しを楽しんでいるとのこと。本当に楽しくって仕様がないという生き方なのがよくわかる。若いというより、自由ということの素晴しさに感動した。
「私の若い時は不自由でしたからねェ」
○
貴族院議員、いうなれば殿様である。
千俵の米が入るという米倉のあった大地主で、その湯山家の長男と結婚。
結納の時、約束の杯を口にしようとする松与サンにお父さんが、
「待て、その杯を口にしたら、もう親でも娘でもない、いいんだな、自信があるんだな」といった。
「私はただもう泣きだしてしまいました」
その時、松与サン十九歳。結城はいいが、錦紗はいけないという育てられ方をした山地主の娘。それでも、生命をすてたつもりで湯山家の人になった。
古いしきたりに縛られて泣いた。お正月に羽根をついて、嫁がするべきことではないと叱られた。一晩で綿入れを縫わされたり、下男下女が大勢いるのに下駄まで洗わされた。
理由は常に「嫁なんだから」ということだった。「ハイ」という言葉以外は使えない長い年月が続いた。鹿鳴館のシャンデリアの下でダンスをしたという両親の話とはまるで違う、古風でうす暗い旧家のしきたりに耐えながら母親になってゆく。
松与サンの夫は陶芸家として「青崖」と号し、地主としてでなく、自分の腕で生活しようとする。このあたり、太宰治の反撥と共通する。津軽、金木の太宰の生家に行った時も、その豪壮さに僕でさえ息苦しさを感じた。貴族院議員の大地主というところまで同じ環境である。
今、太宰の生家は代表作にちなんで「斜陽館」という旅館になっているが、その家を幼稚園にした松与サンも、
「私のところは、ごらんのとおりの斜陽族で、木の葉がヒラヒラ散るみたいなものでしたよ。まだ、ヒラヒラしてるんだけどね」
この湯山家のヒラヒラは太平洋戦争中から始まる。敗戦を間近にして、松与サンは国防婦人会の代表として、範を示すために貴金属を含めて貴重品を軍に寄付してしまった。
そして、敗戦、農地開放。土地は小作人のものになった。
「でも、負けて殺されると思えば不満もなかったし、今までの罰だからってさっぱりした気分でしたよ。だいたい、自分で働いて自分で生きるっていうことが嬉しかった」
しかし、湯山サンの気持とは別に、かつての地主は農民の敵という扱いを受ける。
「ざまァみろ、っていうことなんでしょうねェ。だって、戦前は、みなさんが働いている前を、かますに札束を入れて家まで運んできたりしていたんですからね」
戦後は松与サンも自作農の一人。
「絽《ろ》の帯をして百姓して笑われましたけど、他にないんだから仕様がない」
かつての小作人の中には「奥様をみちゃいられない」と作物を玄関先に置いていってくれる人もいた。松与さんが礼をいうと、「直接言葉をかけて下さるなんて」と涙ぐむ。
「そういう人達に支えられて生きてきましたよ、売り食いもしました。世の中が落ちつくと、人の心もなごんで、今でも、私はこの近所の人達の親切のおかげで、このとおり、婆さん一人でもちゃんとやっていけますよ。幼稚園の子供達にも、人気があってね、一緒になって遊んでると、こりゃもう天国みたいなものですよ」
湯山サンの案内で、庭や裏山を歩く。
リス、イタチ、タヌキ、ヘビと賑やかに出てくるという裏山は、湯山サンがお嫁に来た時のまま。
「この山の木は、私のことを一番よく知ってるの、辛い時にはこの木陰で泣いたりしましたから、この木は、私のことをいつだって正しくみつめてくれている、そう思って生きてきましたよ」
湯山サンは目を細めて照れながら、たくましい大木を見上げる。少女のようなお婆さんである。きっと幼稚園の子供達にも、繰り返しこの話をしているに違いない。その時は照れてなんかいないで。
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ベアトリ姐ちゃん〜〜
深夜放送あてにいただく手紙は、その大部分が初対面の名前なのだが、時に、僕の知っている名前を発見する時もある。
つい、最近も漫画家のやなせたかしサンから歌麿の『ビードロを吹く女』に対する僕の説明が違っていたというご注意をいただいた。やなせサンは今年、日本映画賞の漫画賞を受賞して、そのパーティでお逢いしたのに、投書はちゃんと番組あてにとどいたのが有難かった。
だから受験前後の高校生の悩み多き手紙の山の中から「ゼン・平田」という差出名をみつけた時も嬉しかった。
僕はかつて「ゼン・平田」とサインの入った相撲のクロッキーが好きで、取口もそれでおぼえ、その線を真似して描いたことさえある。場所が始まると、必ず『日刊スポーツ』に連載されていたし、雑誌でもよくお目にかかった。
琴ヶ浜や玉乃海(現片男波)が三役で暴れていた時代で、信夫山も好きだったのだが、芸者にもてて大変だという噂を聞いてからはもっぱら、曲者の琴、荒法師の玉の二人だけに熱をあげた。
両国の二所ノ関部屋にもよくのぞきにいったものだった。大きな赤チンの瓶がおいてあって、弟子が土俵ですりむいたりするのを、玉乃海が刷毛でペンキをぬるように赤チンをぬっていたのを思い出す。
だから平田サンのクロッキーも、琴ヶ浜か、玉乃海、それも勝っている取組が描かれることを心待ちにしていたものだ。
この二人の引退を潮に相撲をみなくなったのだが、同時に平田サンの絵もみかけなくなってしまい、いうなれば、そのまま無関心の状態がつづいていた。
そして、深夜放送を聞いているという平田サンの手紙である。平田サンの字は奇妙に曲りくねっていて、名前は同じでも、筆蹟はまったく違っていた。
○
[#ここから1字下げ]
「当方、明治三十五年製の神田生れの下谷育ち、不良少年、ペラゴロ上りの絵かき。所がいろいろ不摂生のせいで十年前に脳出血、その後遺症で、全くの半身不随、右手の握力は0、左手で絵を描く努力をしています。
そんな体調で、よく眠れぬままに深夜放送に親しむようになり、金曜夜の大村麻梨子さんと土曜夜の貴方を楽しんでいます。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]平田」
僕が嬉しくなって、この手紙を放送で読んだら、多くの平田ファンから反響があった。
さすがに年輩の方が多かったが、中にはデザイナーの卵から、トンボ鉛筆のあの独特なロゴタイプは四十数年前の平田サンの作品ですと教えてくれたものもあった。
その平田サンの左手で描いた絵の個展が、千葉県松戸市の千葉興業銀行で開かれるというので僕は早速出かけた。
千葉県といっても江戸川をはさんでいうなれば東京のベッドタウン。毎日多くの通勤者が東京に繰り込み、逆に松戸競輪のある日は東京からどっと繰り出すという街である。
六号線に近い江戸川べりの柴又の帝釈天、土曜日曜には矢切の渡しも営業して、櫓の音をきしませ、渡った先は『野菊の如き君なりき』(伊藤左千夫著)の舞台。
静かだったこの界隈も住宅地としての開発がすすみ、成田空港が出来て高速道路が完成すれば、さらに一変するだろうといわれている。そんな話をする人は空港設置反対運動のことには触れようともしない。
平田サンは八十五キロの巨体を杖で支えて、ベレー帽の下の笑顔は、鯛をかかえたらそのまま恵比寿様のような方だった。
銀行のロビーには紫陽花《あじさい》の絵を中心に、なつかしい相撲のクロッキーや風景画がはなやかに並んでいた。
時おり、平田サンに油絵を習っているという同じ団地の主婦が現われる。平田サンは明るい声で冗談をとばして、その左手の杖がなければ、病人とは思えない。
使えなくなった右手から、左手に絵筆を持ちかえて十年、その間の挫折、苦闘は想像するに余りあるが、平田サンはとうとうその苦心談を語ろうとはしなかった。
僕は、ある日突然右手が使えなくなってしまったらということを考えるだけで暗澹としてしまう。
まして、平田サンは画家である。字を書く仕事なら左手でもさして苦労はないが、絵の場合、かつて右手で描けたのと同じ線を左手で描くということが、どんなに大変なことか、その間のいらだたしさに耐えるだけで神経が参ってしまうだろう。
しかし、平田サンはそれに挑戦してきた。この春の新協美術展にも出品するという。
松戸の駅から十五分。常盤平団地の三DK、その仕事部屋。左手のためのアトリエである。
描きかけのキャンバスが重ねてあって、真中にすわると左手のとどく範囲内になんでも置いてある。
「狭いとかえって便利なものです」
平田サンの言葉は常に明るい。
愚痴にならないように気をくばっているのかもしれないが、転ぶと起き上れない話でも、おかしくってしようがないという感じになる。
○
「この右足がね、鋲を踏んでもわからないの。廊下を歩くと、カチャッ、カチャッって音がする。それで足の裏に鋲が刺さっているなってわかる。刺さってても痛くもなんともないんだなァ、いやァな気持がするけど、でも、そのおかげで足の裏がへらないんだ」
悲しい話を笑わせる。
「夏は蚊が出るでしょ、蚊の奴がね、馬鹿だから右手からでも血を吸いやがって、悪い血を吸って身体に悪くねェのかなァって思うんですよ。私の方は痛くも、痒《かゆ》くもなんともないン。でも、時々さわってびっくりするほど冷たくなっている右手でも血が流れているんだから不思議なもんだ」
風呂場の壁にタワシが打ちつけてある。これは平田サンが自分で背中を洗うためだ。
「左手でとどかないところを、タワシにあてがって身体の方を動かすの」
平田サンの身振りに、笑い上戸の僕はけたたましく笑うのだが、他人の不幸を気にしないで笑えることの楽しさに感動もした。同情を拒否する姿勢が、こんなにも陽性に富んだものであることの素晴しさ。
かつて川島雄三監督のスタッフは「おい、ビッコ!」と声をかけて、このビッコの監督に協力したという。
俺に出来るか? と自問自答。
僕が十年前の、つまり右手のクロッキーと左手のクロッキーを見くらべると、その区別がつかない。
「わかりますよ、左手だとまわしの|さがり《ヽヽヽ》がピンと一直線に描けない。決り手の一瞬を捕えるというのは、これは子供の時からみてますから、パッと焼きつけますけれど、|さがり《ヽヽヽ》が描けない」
この時ばかりは口惜しそうに首をかしげる。
「でもね、左手はまだ使って十年でしょ、今に描けますよ。しかし、絵が描けてよかった。世の中にヨイヨイはたくさんいるけど、みんな直ろうとしないんだよね、疲れちゃって、生きているのに直ろうとしないのはもったいないや……、絵描きでよかった、生きているうちは描かなきゃね」
松戸の団地は息子さん夫婦の家である。
「嫁も絵描きですからね、負けちゃいられませんよ。身体さえこんなことになってなければ、浅草で一人暮しが楽しめたとも思うけれども、身近にいい絵を描いているのがいると、ファイトが湧いていいもんです」
平田サンの話には浅草という言葉が何度も出てくる。
○
僕も同じ浅草の住人だったから、三月十日の大空襲で焼けだされたのも同じ、子供が学童疎開に行ったのも同じ、つまり当時の体験でいうと、僕の親父と話をしているのと変らないのである。
「学童疎開に行った子供達の慰問てんで、紙芝居を持って行きましたよ。親の代表ということだったんだけど、わが子可愛さで、甘いものをかくして持ってってね、家の子の仲間達だけにわけて食べさせたら、その連中だけが腹痛を起してばれちゃった」
平田サンには六人の息子と一人の娘がいる。
「いろいろいますよ、絵を描いているのも、出版屋にいるのも、デザイナーも……、親父のいいとこ、悪いとこがちゃんと一人一人の中で生きてます。全学連のリーダーもいる、仁侠道の足を洗ったのもいる、私も若い時に、こういう顔つきをして、こういうことをやってきたなと思うと、なによりも、思い出がそこに生きているようで、|いとおしい《ヽヽヽヽヽ》もんです。ただね、みんな嫁さんを自分で連れてくるもんだから、みず知らずの女性に、いきなり『お父さん』て呼ばれる、これは身体によくないね」
又、僕は笑う。それをとがめたのはこの時だけだった。
「笑いますけどね、『お父さん!』ていわれるためには、やっぱり立派な父親でいたいもの」
これは身体とは関係のない心情だろう。
親と子の強いようで、はかないつながりをかみしめている男の姿って好きだ。だからこそ、娘や息子の世代の僕や、大村麻梨子サンの語りかけを、トランジスター・ラジオで受けとめてくれるのだろう。
深夜放送をよく聞いていることを照れて、平田サンはこんなふうにいった。
「東京放送の番組もいいけど、あの局の電波は電池を喰っていけません」
このところ受験シーズンなので「合格を祈ってくれ」とか「来年があるといって励ましてくれ」という種類の葉書が多い。
平田サンの学生時代を聞く。
「京華商業ですがね、放校されちゃった。授業中にうな丼をとって喰ったりしたんですから説諭される、先生の方が泣きながらお説教してくれて、腹がへったなんていうと、なけなしの財布から丼までとってくれて……、当座はまじめになるんですが、校長先生に野球のボールをぶつけたらもう許せないっていうんで、それで放校、あの日、入谷たんぼから十二階めがけて歩いたのおぼえてるなア。浅草へ行って、それからがペラゴロ、一番好きだったのが※[#歌記号、unicode303d]ベアトリ姐ちゃん、まだねんねかい……、浅草オペラも震災まで、あとはエノケンの時代……。
そうだ、学校でね、ライカの木村伊兵衛が一緒、それから今の藤田まことの親父の藤間林太郎、いい役者だった」
ペラゴロ時代はちょうど今のフーテンをもう少しロマンチックにしたようなものだったらしい。
○
「学校でもワルだったけど、家でもワルだったよ。家は神田の紐問屋、土蔵があってね、その土蔵の中に閉じこめられたことがある。
それで、しまってある着物を全部ひっぱりだして、その上にウンコをして、まぶしちゃった。それからは、土蔵にいれてくれなくなったけど、お小遣いもくれなくなっちゃって……」
その頃から、平田サンの画才が芽生える。
「看板描いたり、ウィンドウのデザインしたりすると、それでお鳥目《ちようもく》が貰えるでしょ。その日に遊べるお鳥目があれば、それ以上は働かないで、毎日毎日面白おかしく暮したなア。でも、そういう了見だから、これからは家族のものにも楽さしてやらなきゃって時に脳捻転《ヽヽヽ》で、どうも子供達にも顔向けが出来なくってね」
「トンボ鉛筆」が二十四歳の時ということだから、商業美術の大先輩ということになる。
しかし、若い日の平田サンは、ボクシング、相撲とスポーツに熱中し、戦後、力道山がプロレスを始めた時は、年のことも考えずに一緒になってトレーニングをしたという。
その頃の平田サンの仕事は、僕も知っているわけである。
「相撲の世界にいりびたって、旦那面をしてクロッキーを描いてたけど、あの世界はヨイヨイを嫌うんですよ。だから、今はテレビだけでがまんしているの。四つの時から土俵をみてるんです、常陸山《ひたちやま》谷右衛門が横綱でしたよ、十九代だったかな、大鵬が四十八人目だから長いよねェ。一番好きだったのは三根山、これは知っているでしょう。今はね、この人の弟子で大受っていうのが伸びると思う。大受……名前おぼえといて下さい」
縁起をかつぐ相撲界だけにヨイヨイを嫌うのはわかるが、こんなにも相撲の好きな平田サンである。
相撲そのものの人気の下り坂ということも考えて、横綱を増すだけでなく、観客に対するサービスを根本的に考え直してほしいと思う。あそこは身体の不自由な人の行きにくいところである。
もちろん、これは僕の意見であって、平田サンは事情がわかるだけに二度と場所へ出かけることはしないだろう。
○
「足をひきずってヨタヨタ歩くでしょ、交通事故が一番こわいんです。この身体はよけられないんだな。この頃の車は人がよけると思っているでしょ、だから道を歩いていると、いつ轢かれるかわからない。でもね、私はね、そこが、浅草なら轢かれたっていいと思ってるン、浅草で死ぬんだったら本望!」
僕達はその浅草に行くことにした。
平田サンが浅草を語る時の楽しそうなことといったらない。
「ハチローの奴がね、あいつが監督、僕が主将、野球をやってねェ。菊田がヒョロヒョロしてて……」
平田サンと二天門の脇の弁天山の前を通り、観音様を左にみて三社様へ。
竹馬や いろはにほへと 散りぢりに
万太郎の句碑の前でひとやすみして被官稲荷へ。
水商売の女将《おかみ》とおぼしき人達がいれかわりたちかわりお詣りにくる稲荷堂の裏へまわると、
「ここんとこでね、このお稲荷サンを背中にしてね、女を抱いたことがあるの、お尻にね、|石の足跡《ヽヽヽヽ》がついちゃった」
僕はそこで若き日の平田サンの体位を再現して笑いあった。本当にお尻が痛かった。
この被官稲荷は役人が信仰したそうだが、今は水商売や芸人の間に信仰が厚く、鳥居に新門辰五郎などという字もみえる。小沢昭一サンもここには参詣するといっていた。
稲荷堂から横丁をへだてて『鳥たこ』という店があり、平田サンは腰高の油障子をあけながら、「俺は生きてるぞォ」髪をひっつめにした矢絣《やがすり》の女将が「アラァ、いらっしゃァい!」「鴨なべ、喰いにきたァ、精をつけて怪しい振舞におよぶぞ」「なにをいってるの、ここまでくるのがやっとなのに!」
ポンポンはずむ会話とはうらはらに、いたわるように手をとって平田サンをすわらせる女将の色っぽさ。「抱かせもしないのに優しくするな」と子供っぽくすねてみせる平田サン。浅草を舞台にした人情喜劇そのままである。同じ半身不随の渋谷天外と酒井光子の舞台をふと思い出す。
客席の隅に若い娘がいて、それが木馬館に出ている安来節の歌い手とわかると、平田サンは「がんばって歌うんだよ。客の入りが悪いんだってな、でも若い人が歌っているっていうのはいいことだよ」と声をかける。
そんな時の僕は、自分が浅草育ちでありながら、浅草という故郷に対する愛し方の足りなさに後めたい思いをするのである。浅草はすでに若者達の盛り場ではなく、かつてそこで遊んだ若人達のなつかしむ場所なのかもしれない。
平田サンにとっての浅草は日向の縁側の茶飲み友達のような場所なのだ。一番心がなごむのだろう。イルミネーションとジンタと活動写真、十二階の映るヒョウタン池、そこにたむろする不良少年達……。それが平田サンの浅草。そして僕の浅草は焼けただれた町。「国破れて、山河あり」ではなく、そこには焼跡があっただけの世代。
今、若者の街といわれる新宿や渋谷に集まる連中は、年老いても、平田サンのように街そのものを愛しぬくことが出来るだろうか。
○
平田サンは一歩一歩杖をたよりに浅草を歩く。顔見知りが声をかけてくると「生きてるぞォ」と返事をする。
伝法院に突きあたる区役所通りの横丁を曲って「ポイント」というバーをのぞき「生きてるぞォ」国際劇場の前から吉原に抜ける横丁にある「素人料理・貞」という店に顔を出して「生きてるぞォ」そしてお酒が入ると「絵を描くぞォ」
唐桟《とうざん》の矜元にとき色の肌じゅばんがのぞき、ものごしに美妓の香が残る女将が、ラムネをポンとぬきながら、「お酒は飲んじゃいけないんでしょ」とにらむ。浅草なのである。
「これが浅草だよ、永クン。君は気にくわないね、どうして浅草に住まないの、帰っておいでよ、浅草で遊ぼうよ。昔はね、こうやって浅草で飲んだり、食べたりしたあとは、折詰つくって象潟《きさがた》警察へ行ったもんです。差し入れにね、誰でもいいの、あの中にいる奴にも喰わしてやろうってことで、舎弟にやってくれって置いてくるン」
誰でもいいから警察の世話になっている連中に差し入れをするという人情。そうしとけばなにかの拍子で、自分が入った時にも、うまいものが喰えるだろうと心のどこかでそんなことを考えるのだろう。鉄格子の中に入る奴が悪い奴とは思っていないのだ。
「人情ってのはね、大切だよ。深夜放送にはね、人情が必要だよ」
人情、この曖昧な、古めかしい日本語の持っているものを、どれだけ電波で伝えられるだろう。
僕が平田サンを訪ねると放送でいったら、同じ松戸の住人から次のような葉書がきた。
○
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「(前略)ゼン・平田さんの所へ伺われる途中、もし、道に迷われたら交番に聞くよりも、松戸市役所に電話すると良いですよ。昨年、新設と同時に話題になった『すぐやる課』というのがあり、なんでも電話一本で課長みずから長靴をはいて飛んできてくれるそうです。どうぞ道案内して貰って下さい。
松戸市というのは本当に面白い市で、昨年暮の選挙では投票率をあげるために、自治省の勧告を無視して、投票に来た人にカラー・テレビが当る抽選券をくれました。そして軒なみダウンした千葉一区の中で投票率が上ったのが松戸市でした。
なぜならば、考えたあげくいわゆる『意識的棄権』に決めていた私でさえも、家のテレビが古くなり『野球拳』が見られなくなりそうだったので、投票所に出かけ『カラー・テレビ当れ』と書いてきました。でも当りませんでした。
[#地付き]〈松戸市 ジョー〉」
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松戸市っていうのは人情がある町だ。
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ハァ佐渡へ佐渡へと〜〜
深夜放送のパターンのひとつに人生相談がある。
受験に失敗した、浪人生活に絶望した、失恋した、セックスに悩むといった具体的なものから、生きるということの意味を教えて下さい、政治運動に生命を賭けたいのですがどうしたらいいのでしょう、という答えようのないものまである。僕は一応、この種の相談ごとを無視することにしている。
「死にたい」という奴は死ねばいいのだし、「別れられない」という奴はくっついていればいいのだと悟るまで、相談する人の身になっていろいろなことを考えてはみた。
励ますにしても、慰めるにしても、叱るにしても、忠告するにしても、相談される僕が裸になって生き恥をさらさなければ相談になりはしないのだ。
僕が相談ごとを無視しても、その種の手紙がへることはなかった。ことにこの四月、受験に失敗した多くの若者から「生きる望みを失った」という類の手紙が激増した。放送で僕はその種の手紙だけが増えたことだけを報告した。
それを佐渡ヶ島からフェリーで新潟に渡り、東京に向って走っていた『おんでこ座』のマイクロバスが、たまたま聞いていた。
「おんでこ」は鬼太鼓の佐渡ことば、島に伝わる民俗芸能のひとつで『おんでこ座』はこれを育てようとするグループである。
この『おんでこ座』のバスは、そのまま深夜放送を放送中の赤坂は東京放送に横づけになり、玄関からスタジオヘ面会の電話がかかってきた。
「生き甲斐がないなんていう若者がいるなら佐渡ヶ島にこい、島での衣食住は保証する。一緒に働いて、一緒に太鼓を叩こうではないか、とにかく、頭をひやしにこい」
という申し出なのである。
僕は早速この申し出を放送した。
その週のうちに六十三通の問い合せと、申し込みの手紙がきたので、それを『おんでこ座』に送ると同時に、僕自身、佐渡へ行く責任を感じた。本当に若者達を受けとめてくれるのかどうか……。
○
四月十五日、十六日。佐渡ヶ島は島開きだった。観光客にとっては島の民芸、民謡が一度に楽しめる絶好のチャンスである。
その十六日の朝、佐渡郡畑野町畑野に『おんでこ座』を訪ねた。タクシーの運転手に『おんでこ座』に行ってくれというと「おんでこはどこの村にもあるけど」というので、『おんでこ座』と念を押すと、聞いたことがないという。
とりあえず畑野町まで行ってみようということになった。佐渡ヶ島というのはひしゃげたひょうたんのような形をしているが、そのくびれた部分に両津港があり、反対側に真野新町がある。
そして、この中間の部分に畑野がある。畑野の郵便局の前で『おんでこ座』を尋ねると「聞いたことがある。その名前を描いたバスが時々走っている」という返事。
そして、この町はずれに実になんとも瀟洒《しようしや》な洋館が建っていて、その壁に『おんでこ座』の文字があった。
この建物をみつけた時の驚きというのはちょっと形容しがたい。つまり、江戸時代の中に明治時代を発見したようなもので、白い木造の洋館、窓のステンドグラスにこれも白の鎧戸。津軽、金木の太宰治の生家をもうちょっと洒落させたような建物なのである。
佐渡ヶ島というだけで、さい果ての島といったイメージを持っていた人間には、嘆息をついて何度も頭をひねるほどのショックを与えるといってもいい。
離島ということで文化果つる所と考えてはいけないのだ。量の文明に対しての質の文化は離島ゆえに豊かに残されているのであった。そんなことを感じさせる建物なのである。
こんな建物に『おんでこ座』という看板が出ているのに、何故、この狭い島の中で、タクシーの運転手も、畑野町の人も知らないですんでいるのだろう。佐渡ヶ島の人達は自分の島の出来事に関心がないのだろうか。
このことは、佐渡を歩きまわって、いろいろな面で感じた。
例えば、今年、佐渡ヶ島にある六つの高校を卒業した若者で、島に残ったのが二十人たらずと聞いた。あとは全部、島を出ていったのである。当然、島には老人が多い。このことだけを考えても実に厳しい現実がある。
島全体に、息子に家出をされてポカンとしている親父のようなところがあるようだ。時間があれば、島に残った若者の一人一人に逢って島の話が聞きたかった。
さて、『おんでこ座』には島の若者がいた。留守番の娘さんが、今日は座員が鬼太鼓の流しを聞きに行っているので、ここにはいないが、夜になったら帰ってくるということ、そして、よかったら鬼太鼓以外の島の芸能を用意しておくのでいらっしゃいませんかと招待された。
僕は時間を八時と決めて、それまで月並みな観光客に戻ることにした。
○
佐渡ヶ島、周囲二百七十キロ、日本では一番大きな島になっている。
畑野町から望むと四方は山で、大佐渡山地は雪に覆われている。ひときわ高いのが海抜千メートルのどんでん山。相川からのスカイラインはまだ閉鎖中だった。
その相川は真野新町の北にあたり、逆に南の突端に小木がある。相川の金山の金は小木から運び出され、逆に流人、無宿人は小木から送りこまれた。小木は佐渡情話の舞台。今でも、たらい舟が出船、入船を歓迎する。
夜は相川に宿をとったので、島の中央部分にある古い寺を訪ねて歩いた。日蓮が流されていた根本寺は今もそのまま残り、世阿弥の流されていた寺はない。
佐渡に能舞台が多く残されているのは世阿弥の関係かと思ったら、これは関係がなく、金山の奉行として名を馳せた大久保長安が能役者の家の出だからなのだという。
鶯や 十戸の村の 能舞台 大町桂月
今でも、この島だけで四十を越える能舞台が残っている。
ここに流されて斬られた日野資朝がいたのが妙宣寺。枯れきった五重塔が美しい。六百年ほど前のことである。
承久の乱(一二二一)では、順徳天皇も佐渡へ流されて死んだ。
島根県の隠岐の島へ行っても、後醍醐天皇や後鳥羽上皇が流されているし、安徳天皇は壇ノ浦で沈んでいる。その昔の天皇は常に生命の危機にさらされていたのであろう。
それにしても、真野御陵とよばれる天皇の火葬場へ行く道が佐渡ヶ島スカイラインと並んでもっともよく舗装されている。
かつて、天皇、世阿弥、日蓮といった都の名士がこの佐渡ヶ島でどんな待遇を受けたのか興味がある。この人達の都での地位を認識出来るわけもないだろうし、逆にスター意識も通用しない。
それが天皇であれ反体制《ヽヽヽ》であったればこそ流されたわけで、鎌倉、室町時代の島の農民漁民はどんな受け入れ方をしたのであろう。彼等はおそらく無関心で、流人はドン・キホーテとサンチョ・パンサのような視線を感じていたに違いない。
何年か前の新潟国体の時に天皇は佐渡を訪ねている。全島あげての大歓迎だったそうだ。順徳天皇の死から七百三十年たっている。
この間に日本の歴史は変り、佐渡ヶ島も室町時代の後半に金山や銀山が注目されて、江戸幕府の経済的な支柱になる。
佐渡は天領となり、佐渡奉行がおかれて大久保長安が司り、その後、金山の労務者として二千人余の流人、無宿人が強制労働の果てに死んでいったという。
○
タクシーの運転手はガイドを兼ねて、道の悪いのを嘆きながら運転する。
佐渡農業高校の前を通りながら「この学校は明治四十三年に創立された時から男女共学であります」などという珍しいことも教えてくれる。その間に「『おんでこ座』は知らなかったな」と反省する。
真野新町に古い手打ちそば屋があるというので寄る。白魚でだしをとったあっさりとした汁に、つなぎなしの打ったばかりのそば。使った材料の味が、そのまま素朴に味わえる料理は東京にないので、噛みしめてなつかしむ。
この町のはずれに佐渡博物館があって、要するに佐渡百科を要領よく展示してある。ここで野呂間人形の表情のおかしみに感動する。
絶滅直前という朱鷺《とき》の、そのとき色(淡紅色)の美しさにみほれる。
赤玉石を含む石は、どうも趣味がないので良さがわからない。
主な流人という表があって、その最初に養老六年(七二二)一月二十日穂積朝臣老という人が天皇の乗物を指斥したことにより、という理由がついている。奈良時代である。
平安時代にも、五十人ばかりの名前が並び、中には御所の狐を打ち殺した理由で流されているのもいる。安寿と厨子王の母親も佐渡に売られ、山椒太夫に殺された安寿の仇をとった厨子王が、母親をたずねて佐渡に渡ったという話もこの時代。
鎌倉時代になると、前記の天皇や日蓮の名前がみえ、江戸時代になると元禄十三年(一七〇〇)無宿者五十名などと書いてある。博突打ちの名前も多い。丸橋忠弥に道場を貸したために流された大岡源右衛門父子などという人もいる。赤軍派に資金を寄附したみたいなことを連想する。
この博物館、実にささやかでいて無駄がない。こういうことも館長の考えひとつなのだから、アッチコッチのいいかげんな博物館はみならってほしい。
○
小木に行こうというと、タクシーの運転手は道が悪いことを理由に行きたがらない。
今や道の悪いことは貴重であって、フェリーでやってくるマイカー族のいないところへ行くには、悪路を乗り越えるより方法がないといったのだが、両津で鬼太鼓の流しが始まるからという言葉にひかれて小木はあきらめてしまった。
昨夜は暗くてよくわからなかった両津の港には白い船がついて、降りてくる観光客のために、埠頭で佐渡おけさを踊っている。万博に客をとられてしまってという愚痴も聞いたが、船は満員であった。
島中の部落から集まってきた鬼太鼓のグループは市役所前から、この両津出身の北一輝の石碑の前までおよそ百メートルの長さに並んで、この行列が辻々でとまっては太鼓を鳴らしながら進んでゆく。
笹の葉で飾られた太鼓を二人の男が蓮台のようにかつぎ、鬼の面をつけ獅子頭のような髪を振り乱した男が、太鼓にじゃれるようにして舞うがごとく、打つがごとくといった感じで踊り狂う。この太鼓の鳴らし方が部落ごとに違うのである。
笛の入る部落もあれば、鬼に獅子がからむ部落もある。一人ではなく四人で乱れ打ちをみせる部落もある。だからひとつひとつの太鼓をみていっても飽きがこない。
道の両側の群集の中で、昼間逢った『おんでこ座』の若者に声をかけられる。
「夜、『おんでこ座』の座敷で文弥人形をやります。うまくいけば、野呂間人形もみられます」
この二つの人形芝居は素朴な一人遣いだが、説教節に近い古浄瑠璃で佐渡独特なものだけに期待に胸がふくらむ。
鬼太鼓の響きが夕方の加茂湖をわたってゆく頃に、相川の町で相川音頭とおけさの流しがあると知り、それじゃ『おんでこ座』へ行く前にそれをみに行こうということになった。
両津から相川までは車で四十分。相川はすっかり夜になっていた。
『おんでこ座』の取材を後まわしにして、流しを追いかけてばかりいることに気がとがめたが、阿波踊りの流しと一脈通じるおけさはどうしてもみておきたかったのである。
夜目、遠目、笠の内というが、相川の通りを整然と進んでくる街の踊り手達の動きが一糸乱れずだから、なおさらのこと美女ばかりにみえる。
阿波踊りの熱狂的なことにくらべると、この冷静さはどうだろう。裾に波を散らした揃いの紺の浴衣が実に粛々として並んでゆく。一緒になって踊ろうという浮いた雰囲気がないのだ。
相川音頭の歌詞が平家軍談という武骨なものというせいもある。昔は心中もののような柔らかいものもあったそうだが、軟弱な気風を嫌う佐渡奉行の方針で軍談になってしまったという。
※[#歌記号、unicode303d]どっと笑うて 立つ浪風の
荒き折ふし 義経公は
如何しつらん 弓取落し
しかも引潮矢よりも早く
…………
その内容が軍談でも、哀調の漂うメロディに変りはない。お上の取締りというのはいつの世にも中途半端なものである。
○
この流しをみて、再び畑野町に戻った。
『おんでこ座』の座敷が二つに区切られ、すでに人形劇の舞台がしつらえてあり、『おんでこ座』の若者達と、この島での後援者でもある民俗芸能の研究家で農高講師の佐々木義栄氏、そしてこの畑野町出身の風流将軍本間雅晴中将の御子息雅彦氏のお顔もみえる。
僕の世代では本間中将というと、「バターン死の行進」の責任をとらされて死刑になったという記憶が甦る。
ここで『おんでこ座』というグループが今年スタートしたこと。今年一年は資金づくりと基礎づくり、そして来年は本格的に佐渡の民俗芸能を受けつぎ、三年目から公演活動にうつるというような方針を知った。
もちろん、佐渡の若者達の手でこの計画が実現されているわけだが、深夜放送でもいったように誰でも参加できるし、ここで働きながら、技術を身につけてゆく間は自給自足の合宿生活をしてゆくという。
そのためには田畠の仕事以外、観光客のための土産物もつくってゆきたいとのことだった。現に佐渡ヶ島で売っている土産の九〇パーセントが島外産物だとのこと。
観光開発も多くの問題を含んだままだし、若者の離島がそれに輪をかけているから、この『おんでこ座』を佐渡自身が生きてゆくための拠点にしたいということだった。そして、やがては、日本の太鼓を、鬼太鼓中心に再編成して、世界中を公演|行脚《あんぎや》したいという。
若者達の心意気もさることながら、この若者に芸を伝えようという島の人々も増えつつある。
文弥人形の一座を持つ中川慎峰氏もその一人。人形芝居について佐々木氏の解説を伺いながら、文弥人形を拝見することになった。文楽の三人遣いと違って一人遣いだから、人形の動きは、テレビの棒遣いによる人形劇のように単純で楽しくモダンでさえある。
それでいて、その人形の頭《かしら》は古典的な表情だから、ローソクの灯にゆらぐと美しい。近松の本どおりに太夫が弾き語る。太夫も人形遣いももちろん、他に仕事をもったアマチュアである。
それなのに本職の文楽よりも明快で理解しやすい。いかに日本の古典芸能が難解な、観念的なものになってしまっているかがよくわかる。
しかし、こうした素朴な芸を若者達がどうやって受けついでいってくれるだろうか。素朴なものを、素朴なまま受けつぐことほど困難なことはない。ましてや古浄瑠璃のドラマ性をなんの反撥もなしに受けとめることを、今日の若者がするかどうか。
『おんでこ座』の未来には数多くの問題があるが、しかし、『おんでこ座』は生れたばかりのエネルギーに溢れたグループなのである。まずは、そのことを大切にしよう。
佐渡には「つぶろさし」という、野球のバットほどもあるオチンチンを振りまわして性行為を演じる神楽も残っている。『おんでこ座』がこれをぜひ受けつぎたいといっているが、佐渡ヶ島の民俗芸能にはまだまだ興味のあるものがいっぱいある。
「佐渡ヶ島で『おんでこ座』を育てて、将来はこの島を大学にしたいんです。日本海文化圏というものを考えているんです」
と座員の夢は大きい。
僕は佐渡から帰った夜、深夜放送でもう一度語りかけた。
「生き甲斐がないなんていう人は佐渡ヶ島の『おんでこ座』を訪ねなさい」
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沖の鴎に潮どき聞けば〜〜
六月、深夜放送の仲間を訪ねたのは札幌だった。
七二年冬期オリンピックにそなえての地下鉄工事の鉄板の上をデモがつながっていた。他の町と違って、梅雨のない北海道。青空の下に安保反対のプラカードが鮮やかだった。
六月十五日。東京のズブ濡れのデモを、これも傍観してきたばかりだったので、爽やかな気候は嘘のようだった。スズランの花につづいて、大通り公園の花壇は色とりどりに咲き誇っていた。
北海道からくる手紙は全道を覆っている。網走あり、稚内あり、函館あり……。
旭川に近い鉱山の街から修学旅行で東京に来た落語ファンの高校生を、寄席に案内したこともある。
また、手紙ではなくて、放送中に長距離電話をかけてくる方もある。僕がしゃべりながら「エート、ホラ、ウイリアム・ホールデンとジョン・ウェインの出演した西部劇でエート……」なんていっているうちに、その映画の題名を電話してくれるのだ。
札幌について、その電話の主に電話した。
大阪六郎サン。北海道放送に勤務している僕と同世代の方である。
大阪サンは今から釣りに出かけるという。
「一緒に行ってもいいですか?」
「明け方の四時頃から釣るんですよ。シャコタン半島まで行くんですよ」
「お願いします。連れてって下さい」
「釣りがそんなに好きですか」
「いいえ、もし釣るとすると、生れてはじめてになります」
まったく一方的にお供することになった。大阪サンは釣り竿やら、長靴、それに奥さんのアノラックまで用意してくれた。
北海道放送の仲間と『毎日新聞』に釣り情報を書いている記者のS氏。
二台の車が、札幌の街を出たのは午前一時に近かった。小樽から余市を抜け、倶知安《クツチヤン》を左にみて積丹《シヤコタン》半島に入ると、道は凸凹。奇怪な岩壁のつづく海岸線を走る頃には、東の空が明るくなってくる。
岩場には点々と釣り人の姿がシルエットになって、日本海はおだやかである。茂岩というところで車をとめて、僕達は崖を岩場に降りる。
アノラックに身を包んでも、海の風はつめたい。釣り糸の用意をする指先がかじかんでいるほどだ。
○
僻地の夜明けの海岸というのは地球の始まりとか終りを連想させる。
その視界にはコカコーラの看板も電線もない、ただ海と岩壁。そこに恐竜が現われても、あるいは最後の人類が死を待っていても不思議でない雰囲気があるものだ。
そして息の絶えた男のそばにはトランジスター・ラジオが、他の星から送られてくる電波を受けて、ガーガーピーピーと鳴っているに違いない。
今日の段階だと、テレビや新聞の発信発刊が不能になっても、ラジオは最後の土壇場まで生きているであろう。僕がラジオについてその可能性を考える時に、いつも想像するのはこのことである。
○
釣るのはアイナメ、ホッケ、ウミタナゴ、カレイといった魚。
竿はグラスファイバーで、北海道用といういわばなんでも釣れる特製のもの。振り出しで長さが五・二メートルとかで、エイヤッと投げこめば百メートルも先にドボンと針が沈むというのだが、僕がやると足元にドボンと沈む。そのたびにつけた餌が、どこかへいってしまう。
この餌という奴がエラコというミミズとムカデを一緒にしたような奴で、もちろん生きている。臭い。
まさか大阪サンに「つけて下さい」とまではいえないから、悪寒で鳥肌をたてながらエラコに針をひっかける。ジュクジュクと青紫の体液が指先を染める。その指先にまで針をひっかけて「痛ッ!」と思わずなめてしまう。吐気がする。
そんな作業をしぶきに濡れる岩の上で繰り返すうちに、釣りなんかどうでもよくなってくる。離れた岩の上で、大阪サンやその仲間は身じろぎもせず竿先をみつめている。
暗い水平線が一筋明るくなり、遠い海がキラキラ光り始める。
静かな時間。
※[#歌記号、unicode303d]ヤーレン ソーラン ソーラン と歌などもくちずさんで万事うまくいっているようにごまかしながら、僕はインドの行者のようにゴツゴツの岩の上に大の字になって、背中やお尻をその岩の間にはめこむようにしているうちに寝込んでしまった。
まぶしくて目が覚めた。身体中がズキズキ痛むが、気分は爽快だった。こういう状態を休養というのだなと思った。茂岩温泉でひと風呂浴びて、ニセコアンヌプリを正面に倶知安から中山峠、定川渓を経て札幌へ。
そんな釣りの初体験であっても、よし、これからは釣りをしようという気になっていて、車中、大阪サンから釣りのアレコレを聞きだした。「自動餌付け器」はないですかと聞いて笑われた以外は、真面目な質問だったように思う。
○
北海道放送にしても深夜放送はやっていて、白馬康治アナの人気は東京のスターなみとのこと。東京からもファンレターがくるということは、僕が北海道から手紙を貰うのと同じことなのだろう。
[#ここから1字下げ]
「初めてお便りします。
五木さんとのお話の中で盲腸のことを聞き、私も同じなので妙な連帯感をおぼえて嬉しくなりました。私と五木さんとどちらが手術が先になるかそれだけ考えても満足です。高校の時に『蒼ざめた馬を見よ』を読んで以来、JAZZが好きになりました。私の本棚には十四冊の五木さんの本が並んでいます……。札幌市南十八西七 山口喜久子」
[#ここで字下げ終わり]
札幌の市内は住所を探しあてるのが実に簡単である。山口サンは北星学園大学三年生、アパートに一人住い。家族は旭川と網走の中央ぐらい、石北線の上川郡下川町で病院を経営。
高校に通っている弟の辰也クンが深夜放送ファンで、五木寛之サンが自作の朗読をしたり、しゃべったりしているのを教えてくれたのだという。
「恥かしいわ。こんなふうに逢うとは思わないから投書なんかしちゃって、なんて書いたか忘れちゃった。弟は何年も聞いてるのに葉書一枚出したことがないんですよ」
僕が興味があったのは盲腸のことではなく、五木作品を読んでジャズが好きになったということであった。
「あの文章から聞えてくるジャズがとても素敵で、音でたしかめたかったの」
中村八大は初めて五木作品を読んだ時に、この著者はジャズのプレイヤーだと信じて疑わなかった。若い読者の中には、こうして初期の五木作品の文章から、ジャズを聞く人が多いのはたしかだ。
「それと、私達が照れないで読めるラブシーンだし……」
深夜放送で朗読することについては、
「たどたどしいところがとても好き、それに考えて、たしかめながら話すところも……」
○
盲腸のことも書いておく。五木サンが盲腸を散らしながら、なんとか手術をまぬがれようと思っているとしゃべったことがある。
こういうことの反響が意外に大きいのが深夜放送で、手術をすすめる葉書、医者を紹介するという手紙、あるいはおまじないを教えるのから、自分の体験談まで五百通を越えてしまった。
五木サンはそれでも手術を拒否するといい、死んじゃったっていいんだなどというものだから、反響はますますエスカレートした。
そのうちに「手術がいやなんじゃなくて、毛をそられるのが恥かしいのに違いない」という手紙があり、これを読んだら、今度は「それならよくわかる。僕も死ぬほど恥かしかった」と、いかに毛をそられたか、という報告の手紙が山積みになってしまい、その誰もが、あれは男性の誇りを傷つけるもので、ましてや五木寛之がそり落されるなんて考えただけでも悲しい、それに今までの作品のイメージが狂ってしまうから、それなら死んじゃったほうがいいなんていう手紙までくるのだった。
手紙の大部分が高校生なので、共通しているのは、そり落すのがなぜ看護婦でなければいけないのかという点である。看護婦がそる前に自分でキチンとそり落したのに、さらに看護婦がそったのは許せないと怒っているのもある。
メスの入る部分だけをそるのならまだわかるが、丸坊主にしたのを医学的に説明してほしいと訴えてくるのもある。
中には僕の父が若い時に盲腸で入院し、その時に父の毛をそった看護婦が、僕の母です、という楽しいのもある。
「母が父のどこに惚れたのか、いまだに理解に苦しんでいます」と書きそえてあった。
かと思うと、盲腸でそり落すぐらいなんだ、痔の手術をしてみろ、肛門の周囲の毛をそられる時の方が何倍も屈辱的だぞ、とこれは図解入りで、僕も肛門の毛をそることははじめて知った。
どういう趣味なのか盲腸でもなんでもないのに「そってみました」などという奴がいる。記念に毛を同封します、とこうなると、盲腸の話題は禁止のやむなきにいたった。
しかし、こうした形で下半身の話題をとりあげると、投書の数がいきなり急増する点に深夜というものの一面があるようだ。
「永サンの深夜放送は下半身の話が多いので、これからはラジオで欲求不満を解消します」
という手紙が同封されて、パンティや、ブラジャーが詰めこまれたダンボール箱が送られてきたこともあった。
そんなことがあって、僕の番組には「インキンから憲法まで」という異名がついたりもした。そしてこれは、|きわどい《ヽヽヽヽ》点では同じことなのである。
デモに参加する時の心得や、天皇制、差別問題に触れる時と、下半身の話題になった時の、そのきわどさが、生放送というところとあいまって、人格を賭けた生きた電波になるのだと信じている。
○
北海道旅行で留守をしていたある日、放送を聞いて下さっている六十五歳のお婆さんから家に電話をいただいた。
「キャラブキをたいたので召し上っていただきたい」
女房はそのお婆さんと、なんということなしに渋谷のハチ公の前で待ち合わせをした。お互いの着ているものを教えあっての初対面である。
しかし、その日、渋谷のハチ公前で、デモと機動隊が激突していた。
そのさなかを、お婆さんと女房はお互いを探しあって「その二人、立ちどまらないで歩いて下さい!」と機動隊にどなられながら、「つまらないものですが」「雨の中をわざわざ」「いいえ、あたたかい御飯で召し上っていただけば」「本当にありがとうございます」とのんきなあいさつ。
「この時の二人にとって、安保はいったいなんなのだろう」と僕がいうと、「理屈をいわないで食べなさい」と女房に叱られた。
サッポロ帰りの僕にしてみれば「男は黙って、キャラブキ」を食うという図であった。「男は恥かしい時は黙っていろ」小学校の先生にも、そういわれたっけ。
考えてみると大阪サンと過した大部分の時間は、お互いに無言だった。
彼は竿の先と海面をみつめつづけ、僕は眠りつづけ、その前後に釣りの話があっただけである。その他、何も話をしなかった。深夜放送のことにも、デモのことにも触れなかった。それで充分だった。
しかし、果して、ラジオで黙れるか。
[#改ページ]
土佐の高知の播磨屋橋で〜〜
八世市川団蔵、八十五歳。
昭和四十一年六月四日。四国巡礼を終えて、瀬戸内海に投身。死体はいまだにあがっていないという。
辞世
我死なば 香典うけな 通夜もせず
迷惑かけず さらば地獄へ
四国へ出かける度に巡礼ということが気になっていた。
弘法大師のことはよく知らないが、僕とても深夜放送の手紙の主を訪ねて、巡礼を重ねているわけで、四国霊場は八十八ヶ所だけれども、僕には終りがない。八十八という数字が、八十八の煩悩だとか、男四十二、女三十三、子供十三の厄年をプラスしたものとか聞いてはいる。
阿波徳島の霊山寺に始まって、讃岐の大窪寺にいたる四国一周は三百六十余里、健脚でも四十日、老人だったら六十日という苦しい徒歩の旅になる。
なんのために歩くのだろうか?
奇蹟を願うために、楽に死ぬために……。
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「世の中、いろいろなことがわかってくるにつれて、生きることがこわくなってきました。今日、学校で君が代を歌いませんでした。まわりの人は歌っていました。でも、僕は歌いませんでした。なぜだかわかりません。日の丸の旗をじっとみつめていました。君が代ってなんでしょう、天皇ってなんでしょう。僕はわかってきたのでしょうか、わからなくなってきたのでしょうか。
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[#地付き]高知県南国市 小川 隆」
南国という駅はない。後免《ごめん》に南国市の市役所がある。高知市内から走ってくる電車が「ごめん」という行先をかかげているのが、なんとなくユーモラスであった。
警察で小川クンの住所を調べてもらい、福船というバスの停留所までたどりつく。停留所の前の日用雑貨店で訊くと、おかみさんが「番地ではわからない」という。
「お宅は何番地ですか?」と訊くと「さて番地があったっけ」と戸口に貼ってある表札を調べるのどかさ。
二毛作という稲の、その穂が出そろっているという七月の中旬。田圃をへだてて鳥居がつづく鎮守様の前で、自転車に乗ってきた主婦に尋ねると、黒く防腐剤を塗った家を教えてくれた。
小川クンは留守だった。年老いた農夫が出迎えてくれたので「お宅には電話がありますか」と訊くと「あるけれども出たことはない。わしは耳が遠いから」「番号を教えてください」「はて何番だったかな」とここでものどかな会話。
「あとでお電話します」と小川家を辞した。
○
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「高知は今日も雨です。低気圧が土佐の沖でタタキで一杯やっているのだそうです。
(タタキとは鰹をワラの火であぶって、半分ほど焼いて、お酢にひたして包丁の腹でペタペタと叩き、刺身にして、ニンニクやネギをつつんで食べるのです)
今『外道』ということに関心を持っています。
高知県高知市高須
[#地付き]土佐のいごっそ、こずかつまこ」
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南国市から高知市に入ったところが高須である。
こずかつまこサンを探すのは大変だった。この人、実は名前を逆様にした|こまつかずこ《ヽヽヽヽヽヽ》サンだったのだ。
途中、自動車工場で聞いたら、汗と油で真黒の若者が「深夜放送聞いてますよ」と一緒になって探してくれた。そして、こまつサンも留守だった。
東京放送あてに来た僕への手紙の主に、電波同様、突然訪問をする。初めての土地の初めての人。
僕がどういう形で受けとめられるかというその瞬間は気が疲れる。だから相手がいないとホッとする一面もある。
今日は逢わずにすむとなると、そこから普通の旅人になってあらためてキョロキョロし、好きな食事を探すことになる。
荷物を置いた「ホテル・ニュー高知」は市内中央、播磨屋橋の四国唯一の電車の交叉点の角にある。
四国で市内電車があるのは高知と松山で、交叉点があるのは高知だけだと、ここが出身のディック・ミネさんに聞いたことがある。
そして、行ったら刑務所をみておきなさいともいわれた。形ばかり残った城の外濠に沿って刑務所の白い壁が続き、その壁も門も大名屋敷だといわれればそうだと思ってしまう優雅な古めかしい建物である。
高知城内には山内一豊の妻と馬の銅像が建てられている。武士の夫が戦功をたてるために、へそくりで馬を買ったという女房が、はたして銅像になるほど立派なのかどうか。
女房はどうでも、この馬がいわゆる日本の馬で、足が短く太く、ずんぐりむっくりしているのは楽しい。宮城前の楠正成の銅像の馬は、サラブレッドをモデルにしたそうで、競馬の初心者は理想的な馬の体形を宮城前で勉強するのだという。馬につづいて土佐犬。
闘犬は相手に噛みつくのが攻撃だから、当然のことながらアゴが強い方がよい。そこで闘犬用の土佐犬は、筋があって固く、簡単なことでは喰いちぎれないような肉を食べさせられる。これでアゴを丈夫にさせるのだ。
尾長鶏はひたすら尾を長くさせられるために、せま苦しい、細長い箱の上の方に区切られた部屋にいれられて、その尾を箱の底までたらしている。観光資源としてはこの土佐犬と尾長鶏が名物ではあるが、馬では坂本竜馬というのもいる。
山内一豊の妻のように竜馬の姉というのが、傑物だったことを考えると、高知の女性は男をおだてるのがうまいのかもしれない。酒が強いのは薩摩の男と土佐の女という言葉もある。
そして、この夜、僕は鰹のたたきを食べた料理屋で、豪快な仲居に箸拳を教わってグロッキーにさせられた。高知の料理屋で主権をにぎろうとしたら、酒に強く、馬鹿でかい声を持たなければいけない。
箸拳という勝負は、相対した二人が持つ、それぞれ三本の竹の塗箸を相手にみえないようににぎって、お互いが出した箸の合計数をあてるという高知独特のもの。
ただ、気が狂ったんではないかと思うような大音声で叫ばないと面白くないし、負けたら酒を飲むというおまけがついている。
「こいやァッ!」「三本ーッ!」「五本ッ!」
数をいっておいて箸をみせあう。その合計があっていれば勝である。どんなに座敷が乱れていても、箸拳の時は正座するのも行儀がいい。たたきのニンニクの匂いが叩きつけられるような気合いの中で、僕は耳も鼻も喉もすっかり参ってしまった。
そのうえ、ホテルでは自分のニンニク臭さが部屋にこもって眠れたものではなかった。
○
翌朝、電話で連絡をして播磨屋橋のたもとで小川クンと小松サンに逢った。
小川クンは高知工業専門学校の生徒だが、来年は東京での就職が決っている。小松サンは夜を編物の先生で過している。
深夜放送とのかかわりあいは、小川クンの場合、自身でラジオの組立てをしていたからで、小松サンの場合は、眠れない夜になんとなくラジオをつけて、それから聞きはじめたという。二人とも受信状態の悪い遠い街で、東京の街の空気を深夜放送に感じているらしい。
小川クンは就職試験で上京した時に、東京タワーの上から東京放送のビルをみつけてとてもホッとした、と話す。
小松サンは高知県からの手紙が読まれると、それが自分のでなくても嬉しくて、その瞬間、東京にいるような気がするのかな、と笑う。
「放送を聞いていると、それだけ寝るのがおそくなるわけだけど、起きていてよかったと思えた時が嬉しいわ」
起きていてよかったと思わせるような放送をしたことがあったかなァ。
○
再び播磨屋橋を渡り突き当りの高知駅。高知から土讃線で土佐佐賀まで、ここでバスに乗り換えて、幸徳秋水の出身地、土佐中村、土佐清水を経て足摺岬へ向う。
全行程は約六時間、バスが四時間のうち、道路が舗装されているのが一時間三十分。つまり二時間三十分、トランポリンのようにはずみながら走るといったほうがよい。
バスの中で東京からきた学生に話しかけられるが、話をしていると、車がはずむために舌を噛みそうになる。
峠を越え、海岸線を走り、バスは足摺岬に着き、降りるとそこは寺の山門の前だった。第三十八番金剛福寺は、紫陽花の花に囲まれて、ユースホステルもかねている。
燈台までは天然の椿林がつづき、目の前に絶壁とくだけて散る白い波がひろがる。絶壁を望むところどころに「ちょっと待て」という救世軍が立てた札があり、そこには電話番号も書いてあって「もう一度考え直して電話を下さい」とある。
市川団蔵はここにもきているわけだから、この立札をどういう思いでみたのだろう。
足摺岬を単なる自殺用の絶壁として考えるのと、三十八番目のお札所として考えるのではまったく意味が違うが、僕にはどうしてもお遍路そのものが死へ向っての旅と思えるのである。
今までいくつもの岬の突端に立ってきた。海に突きだした岬のそのもっとも先に立つと、前方はもちろん、左右にも海が迫り、後さえ振り返らなければ大洋の中央に立ったような気がする。海岸に平行して走る道とは違って、岬への道は岬同様に海に向って突きささっている。
そんなところで生れ育った人間が、海の彼方に思いをはせるのは当然のことなのだろう。彼らにとって海はそのまま未来の夢に違いない。
桂浜の坂本竜馬、足摺岬のジョン万次郎の銅像が、水平線を望んで立っているのをみると、岬に育った人間のタイプとして共通な点をみつけられる。彼らは振り返らないのだ。
土佐出身の政治家は総理大臣をはじめ数多く出ているが、故郷の開発に貢献するよりも、天下国家を論じているタイプが多い。
中村、清水、宿毛という三つの市に鉄道がなく、そこへ行く道も舗装されていないのをみると、選挙区に駅をつくり、橋をかけ、工場を誘致することに熱心なだけの政治家が情けなくなる。
○
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「僕の住んでいる宿毛市は四国の西南端に位置し西の玄関口です。木材の積出し、真珠の稚貝、ハマチの養殖などが特産です。
又、この附近からはジョン万次郎、吉田茂、林有造・譲二父子などが出ました。竜串、見残しはすばらしいサンゴの景観で知られています。
この静かな土地にも交通事故がふえつつあります。永さんも事故には充分御注意を!
[#地付き]高知県宿毛市片島 池上史昭」
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宿毛の片島で郵便局へ行き、池上クンの家を訪ねた。
局員が「あァ、海上保安署長の坊っちゃんだ」というので、片島の桟橋を見下す海上保安署に行ってみる。
玄関脇に「取調室」「通信室」などが並んでいる保安署で声をかけると、「署長はご家族と浜松に出かけてお留守ですよ」とのこと。突然訪ねるほうも悪いのだが、浜松では仕方がない。
再び凸凹道を宇和島まで。城辺《じようへん》のあたりは地図でみると点々とお札所があり、お遍路さんが歩いているのをみかけてもいいのだが、一人もみかけない。
もう歩いてまわる人はいないのだろうかとタクシーの運転手に聞いたら、簡単に「みかけませんねェ」と一言。ついでにいろいろ教えてくれた。
列車とバスを乗りついで約二十二日。巡礼定期バスというのがあって、これは十四泊十五日、費用が四万一千八百円でもっとも経済的。
八十八ヶ所を、一次、二次、三次とわけて走るバスも出ている。
タクシー貸切りの場合だと九泊十日。九万円のタクシー料金と宿泊費、飲食費がかかるから寺に泊ったとしても軽く十万は越える。
話を聞いている間に、この八十八ヶ所を歩く気になっていた。
来年の春、四十日間で歩いてみようと自分にいいきかせ、その目的は信心よりも、でっぱったお腹をひっこめるのと老人の話を聞き集めるため、弘法大師には悪いが「ヨシ、決めたッ!」と決心。
宇和島に着いた。汽車までの時間に、凸凹寺をみませんかと運転手に誘われて、世にいう性科学の資料の拝観に参上する。
古今東西の人形、写真、絵巻物、器具が陳列されてもとより真面目なコレクション。奇品、珍品、秘品に目を奪われ、ここの報告は深夜放送でもちょっと出来ないなとあきらめる。ラジオは初歩の性教育とか、インキン治療法が精一杯のところである。
宇和島発の予讃線で松山へ。
この汽車が宇和島から宿毛をまわって中村までつながれば、四国旅行もグンと楽になるわけだが、まったく予定がたっていない。
目下のところ、瀬戸内海に橋をかけることだけがクローズアップされているが、橋を渡ってくる自動車のことを思うと……、余計なお世話はやめよう。不便であることだけが守れるものもあるのだから。
○
松山駅の前に正岡子規の句碑がある。
春や昔 十五万石の 城下哉
僕は松山に生れた子規よりも、ここに死んだ山頭火の句が好きだ。自由律俳句だが「笠へぽっとり椿だった」にドキンとして以来、彼の作品は時おり、くちずさむ。
どうしようもない私が歩いている
曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
風の中おのれを責めつつ歩く
どうでもここに落着きたい夕月
ぬれて美しいバナナをねぎるな
これだけ残っているお位牌をおがむ
何でこんなに淋しい風ふく
朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし
○
道後温泉では朝六時に外湯の太鼓がなると朝湯に入れると聞いたが、起きたのは九時過ぎだった。夏目漱石の『坊っちゃん』でもおなじみの古風な建築の銭湯は、外側からだけながめて石手寺に向う。
ここは市川団蔵が『毎日新聞』の記者に写真をとられた場所であり、それが最後の姿になったと聞いている。
第五十一番石手寺。国宝の仁王門をはじめ、その大部分が重要文化財の七堂伽藍。ここはお遍路さんにまじって、温泉の客も多い。
本堂の裏山に洞穴があり、この洞穴の中に四国霊場八十八ヶ所の地蔵と、その地蔵の前に、それぞれの寺の土が置かれている。ローソクの火をたよりにこの八十八ヶ寺の土を踏んで歩けば、四国全土をまわったのと同じことになるというので人気がある。
浅草観音様の四万六千日のように、一日お参りするだけで、それだけお参りしたのと同じ御利益があるというのと同じだ。
この合理性というか、サービスは奇妙で楽しい。
○
松山の高浜港から水中翼船で広島に向う。こきざみに振動しながら五十分ほどで音戸の大橋の下をくぐって呉へ。巨大な造船所を右に江田島をまわり広島へ。
元海軍兵学校は、旭日旗をそのままに海上自衛隊の学校になっている。
その昔は憧れたこともある海軍士官だが、あの時に今の言葉でいう「カッコヨサ」に酔えたのに、今の自衛隊諸兄はどうして「カッコワルイ」のであろう。嫌悪感のみ。
船は広島港の桟橋に横づけになり、降りる時にふとここで射たれた若者のことが頭をよぎった。
広島市皆実町の加藤一孝クンは、東京で勉強している学生だが、春休み、夏休みに帰省した時、地元『中国新聞』の切抜きを送ってくれる。
東京では記事が小さいでしょうからという。その切抜きの紙面は、社会面トップで「またも被爆二世死ぬ」「白血病八歳の女児、五年半も闘病の末」といった見出しで、被爆二世の死が続いていることを伝えている。
そして僕が広島港で乗ったタクシーの運転手は、シージャックの射殺事件を目撃していたことを語り、走る道路の広さについて「原爆のおかげといっちゃおかしいけど、まァ、原爆のおかげですねェ」といった。
僕が「運転手さんは広島の方ですか」と聞いた時に、彼ははっきりと「生れたのも育ったのも広島ですよ。原爆もよくおぼえてますよ」と答えた。年のころ五十歳前後だった。
○
広島県安芸郡府中町でマッサージをやっている三好一治サンも、よく片仮名タイプで打った手紙を下さる。目が不自由な方たちにとって、ラジオがどれだけ楽しまれているかということだけ考えても、仕事の意義はある。
三好サンにはお逢い出来なかったが、僕は道後温泉で逢った若い女性のあんまさんが忘れられない。道後温泉の場合、目のあいたあんまさんは一人もいない。
百五十人の盲人の結束が固いのである。百人が女性、五十人が男性。大部分が地元の盲人で、僕が逢ったのは瀬戸内海の大三島出身の二十六歳。
誤診で十八歳の時に弱視だった眼球をとってしまって全くの盲人。彼女は二週間前に同じ盲人の仲間と結婚して、新婚旅行から帰ってきたばかりだと明るい声でのろける。
「盲人同士の結婚て、いいですよ。幸福ですよ。二人だけの時なんか、ほんとに」
もちろん夫の顔もわからないのだが、十八まで人並みに憧れた理想の男性の顔が夫の顔なのだそうである。あまりのろけるので「僕だっていい男だぞ」といったら、両手で僕の顔をなでまわし「そうかしら」といった。
盲人はどうしてもうつむき加減になる。だから喉を圧迫して声が暗くなる。二人で顔を上にあげて話そうって決めたら、声が明るくなったともいった。
「お金をためて旅行するのが夢です。私達だって旅行が一番楽しいんですよ。行ったことのないところへ手をつないで行くんです」
誇らしげにそういってからつけくわえた。
「皆さんよりはちょっと、疲れますけどね」
○
原爆ドームをのぞむ平和公園には、外国人ヒッピーの姿が目立つ。
広島の悲劇は深夜放送の高校生には伝説として聞えるらしい。
「昔、広島の空がピカッと光りました」という感じなのである。
悲劇は語り伝えきれるものではなく、今日の現実の中で発見し、怒るべきだという意見が目立つ。原爆の体験なんか聞くよりも、ビアフラの飢えや、ベトナムの戦場を自分のものにすべきだという。
「そうかなァ、ビアフラやベトナムの問題を自分のものに出来るかな」
僕はそういいながら、相手の軽蔑しきった視線に耐える。
もう一度、市川団蔵についていえば、僕は来年八十八ヶ所をまわることで、彼の死を少しでも自分のものに出来ると思うし、恥の多い芸人の生活心情がのぞけると思っている。
これは芸と芸人に対する一人だけのデモだともいえるのだ。
[#改ページ]
守るも攻めるも〜〜
今日、あまり知られていない戦争にアルファ国とブラボー国の戦争がある。
僕はこの戦争にまきこまれ、久しぶりに「空襲警報発令!」というような号令にとまどいながら退避したりした。自衛艦という名の軍艦の上の話である。
「アルファ国とブラボー国は目下戦闘状態である。我が国はアルファ国に属している。この海域にはブラボー国の潜水艦が潜行中である。爆雷を発射しながら蛇行する」とスピーカーから戦況の説明があって、作戦を指示されると実戦そのままの訓練が始まる。
房総半島沖、大島がすぐそばにみえていた。
もちろん、飛行機に対する射撃訓練や、魚雷命中ということでの応急修理まで、僕は甲板の隅でこの戦争ゴッコを見物していた。
当然、陸上でも、空の上でも同じ訓練を受けている自衛隊の若者達は多いわけだし、マスコミの報道で少しはその実情を知ってはいたが、狭い艦上で再現される戦争にまきこまれて、その批判よりもなによりも、大変な船に乗ってしまったとオロオロしたのだが、そこは海の上、降りるわけにはいかず、乗ってしまった以上、そこで「反対!」と叫べないなら自衛隊の存在を認めることになってしまいそうになるのだった。
そして、僕は船を降りる時に「ありがとうございました」と最敬礼したのである。
「兵隊さんよ、ありがとう」という言葉が急に思い出されて、義理の辛さに歯をくいしばった。
○
頼んで自衛艦に乗せてもらったわけではない。小笠原諸島父島からの手紙の主を訪ねたら、東京に帰る船がなく、やむを得ず自衛艦の中の護衛艦「あけぼの」に乗ったのである。「あけぼの」は海上訓練をしながら横須賀へ帰ることになっていた。
士官待遇で便乗という扱いで、父島の桟橋から上陸用舟艇で沖に停泊している自衛艦のタラップをあがった時、久しぶりに旭日旗をみた。一瞬、朝日新聞の船かと思ったが、それが昔の海軍旗であることはすぐ思い出せた。
士官室のベッドは二段式の吊りベッドで通風の設備はあるが冷房ではない。八月の南の島で、鉄板の船の中がどんなに温度があがるかを考えなかったのもお粗末だったし、甲板で昼寝しながら帰ろうと思っていたのも想像力が足りなかった。
自衛艦は軍艦であって、戦うための設備はあっても、楽しい船旅の設備なんかあるわけがない。
二十四時間、戦時下で、やれ爆雷だ、やれ大砲だと走りまわる甲板員の間を、ひたすら邪魔にならないところを探しまわり、そこで汗をふきとるのが精一杯。訓練だからやっと八丈島が前方にみえてきたと思っていると、いつのまにか後方に八丈島がある。船は再び南下していたりする。
こちらは「乗せて下さい」といういわば居候だから不平をいうわけにもいかず「どうですか」という声に「はア、いろいろ勉強になります」とどうにでもとれる返事。
食事ばかりは四食なので、大喰いの僕には有難く、江田島出身の偉い方とテーブルをひとつにして「自衛隊のPRをよろしく」などといわれて「ハハハハ」とこれも、どうにでもとれる笑顔。
でもせっかくのチャンスだからと出来るだけ若い乗組員と話をする。その多くが技術を身につけ、貯金をし、退職金とあわせて自家営業をするのが予定だといいきる。
これは自衛隊の隊員募集の時にそうすすめているのだから、けっして特別に要領がいいわけではない。募集要項には次のように書いてある。
[#この行1字下げ]「将来自立のための資金が得られます。衣食住が無料となりますので俸給、賞与、手当等を小遣いで使用する他は貯蓄することが出来ます」
就職についても、
[#この行1字下げ]「規律ある団体生活により鍛練された資質、責任感、根性及び身につけた技術は一般社会においても広く歓迎され、満期になって一般民間会社へ勤める時にも有利な条件で就職することが出来ます」
こうして自衛隊員になると「堅実な営業」「有利な就職」、そして永続勤務による「年金生活」が保障されるわけである。
応募資格の中には「日本国憲法、又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入した者」は資格がないという項目もあるが、「諸君の将来は明るくひらかれている防衛庁」というパンフレットには迎えにいきますといわんばかりのムードが溢れている。
○
小笠原では、ラジオだけがマスコミとして生きている。
しかし、昼に聞こうとすると、高性能の受信機でなければならない。こうして小笠原では深夜放送が重要な娯楽になってくるのである。といっても、島民の生活の中には深夜に起きているということはないから、東京から行った人達の間で聞かれることになる。
その一人に赤間クンがいる。彼は小笠原の美しい貝をスタジオに送りとどけてくれた。
出かけたのは東京都のチャーター船黒潮丸。東京湾を出ると甲板にゴザを敷き、食卓を並べ始めた。二泊三日の船旅の、ここが食堂なのである。それはまるで桜の木の下の宴会のような感じで、三度三度折詰の弁当が並べられるのだった。
船の客は土木建築関係者、お役人、そして医療団が主で、島民はいまだに帰れない。
後部甲板に野菜の箱が積みあげられているのをみて、その量の多さに、もしかすると小笠原には野菜がないのかなと思ったが、まさかと思い、あらためて聞いてみると、やっぱり、月に二度野菜を運ぶことが大切な仕事なのだという。そして、米も、肉も、なのである。食糧が足りない、水が足りない。
今日の小笠原に島民が帰れない理由がここにある。返還されて二年、小笠原はまだまだ一般人の受入れ態勢が整っていない。これからどう開発されるのかというメドもついていない。
飛行機も、自衛隊の水上飛行機か、基地硫黄島に飛んで船で戻るより方法がない。
黒潮丸が父島二見湾の桟橋に着いたら、建設資材の積みあげをやっている人達の中から、赤間クンが作業服のヘルメットのまま声をかけてきた。彼は母島出身で、東京での学生生活を終えて、赤間興業の飯場に入った。
小笠原から深夜放送あてに最初に来た葉書が彼のだったのである。彼から聞いた話もメモの中で紹介してゆく。
とにかく、暑い。湿気が強い。風がないと目まいがするほどである。
早速、小笠原支庁や、警察に行って島の現状の話を伺う。いつもの癖で予備知識なしでの旅である。
大ざっぱにいって島民約三百人、官吏二百人、建設関係二百人ということ。マスコミ関係や、寄港した漁船の乗組員がいつもいるが、これはあまり喜ばれていない人達らしい。島の実情を知らず、その点で無神経だからということだった。
そこで、島に関する知識をひろい集める。
○
父・母・嫁・聟・兄・姉・弟・妹・姪・孫……。小笠原諸島の島の名前は家族構成になっている。
この小笠原という名前が、信州松本の殿様小笠原貞頼からとられているのも面白い。海のない山国の殿様が、一五九三年にこの島を発見、さらに一六七五年幕府の役人が島の名前をつけている。
一八三〇年、ナサニエル・セボリという人がこの島に定住。その後西欧系島民が七十人ばかりになった。一八七五年(明治八年)明治政府が領土宣言をしている。
領土宣言をして、さしてトラブルが起らなかったということは、以後、太平洋上の基地として重要視されるまでは、どうでもよいような島として扱われていたのである。
太平洋戦争中の日本の基地。
敗戦後、沖縄との中継地点としての米軍基地という歴史を経て、今や、米軍基地としても意味がなくなり、住む人の感情がこじれたまま日本へ返還された。
僕は「小笠原返還万歳」という形の記事を、なにげなく、よかったと思いながら読んだ一人である。それが本当によかったのだろうか。僕は、日本の小笠原で「日本人帰れ」という声を聞いた。
戦時中、要塞化にもとづいて内地に強制疎開させられた島民のうち、戦後すぐに帰島を許されたのは西欧系の島民だった。セボリ、ピーター、ウェッブ、ワシントンといった彼等の名前は、瀬堀(セボリ)上部(ウェッブ)等と名乗ることにより日本人として戸籍を登録している。
しかし、彼等の日常生活は英語が中心であり、その暮しぶりも日本人というよりは西欧人である。
言葉の問題で一番苦しんだのは学生達だった。島の中学や高校では在学中に英語から日本語にきりかえられたから、同じ学年でも内地の学力とは差がつくばかり、それでいて内地に就職するハンディキャップは、どうにもならないコンプレックスになった。
小学生の場合でも、二年かかってやっと学童と先生が会話できるようになったという。
こうした青い目の、赤い髪の日本人はかつて戦時下でも、理由もなくスパイという疑いで差別に耐えてきている。そのことが、新しい差別をつくろうとしている学力の差と引っこみ思案という島育ちの性格に重なって、のっぴきならない断絶感になっているのである。
ここでの先生達の苦労は大きい。なにもかも初めてのケースという中で、少しずつ実を結んではいるのだが……。
○
小笠原には地方公務員と国家公務員がいて、この小さな島の中がそのまま日本の縮図のようになっている。原則として単身で島にくるので、奥さんとの電話だけで月給がなくなってしまう人もいるという。
その月給も、賃金ベースが違うので同じように働いても、地方公務員の方が多いという複雑な問題をかかえている。
日本人になるか、アメリカ人になるか、国籍を選ぶという段で、日本人になる決心をしたのは母親が日本人の人達だったという。父親が日本人という場合は、母の国アメリカヘ去っていったケースが多い。母国という言葉の意味をあらためてみつめ直した。
離島の社会は狭い。市庁の官舎に暮している間に、A家から招待を受けて気軽に食事に出かけた。途端にB家とC家からも招ばれ、アッという間に一週間の三度の食事のスケジュールがきまってしまい、ついには同時に二軒の家で食事をしなければ、予定が消化出来なくなってしまった。
断わることは許されなかった。断わることは差別につながった。そこではいかなる理由も通じないのである。
とうとう身動き出来なくなって、好意の板ばさみの中で仮病をつかう破目になった。
島民の海の足はカヌーである。ところが、このカヌーも今では内地で造って運んでゆく。
船外機をつけて海に出ると、サンゴ礁の熱帯魚の美観が果てしない。みえる魚は釣れないというが、カヌーの上から望みの魚を釣りあげる。まるで巨大な金魚すくいである。
支庁クラブの小祝サンは僕と同世代の女性だが、島で生活したいと東京の美容院をたたんで帰島した。女ッ気の少ない父島のホステスとして誰にでも親しまれている。
こうして島で生れ、島で育ったという人達に共通するのは、故郷の島でなくてもいいから島で生活したいという望みが強いことだ。
現に八丈島には小笠原出身者がたくさんいるし、支庁の若者にも、島を出たい気はあっても、同じような島に行けるのならといっていた。なにが、そんなにも島を……。
○
電電公社の若者達は、仕事場が二十四時間起きている関係もあって、深夜放送をよく聞いている。その放送も、電話も、太陽の黒点の位置で全く聞えなくなってしまうことがある。
僕は、小笠原から電話でTBSを通じ、深夜放送を送りだした。
元やくざだったという親分子分がすっかり堅気になって島の飯場で働いているという。親分子分だから礼儀正しい。その点をみんなが見習って、子分志願が続出したという。
つまり、刺青をしていれば、それだけで乱暴者というようなイメージを与える中で、まっとうに働いている人達がいるのである。
楽しみは酒だけという島の生活で、酔ってからむようなことがあったとしても、それはとがめられないと思う。
島の主婦がつぶやいていた。
「飯場の人達を乱暴者扱いするのはよくないと思う。ただの一件だって女性に対して、なにかしたなんていう犯罪は起っていません。あの人たちは相当に自重しているんですね。ありがたいことです」
パパイヤは便秘にいい。量産出来て安く、東京に持っていければ、女性の美容上、大切にされるだろうということだが、事実、水が違っても、気候が変っても、パパイヤあるかぎり快食快便の旅だった。
東京からの新聞の読み方について。
月に二度、二週間分ずつ新聞がくる。一度に来ても一度には読まない。東京からは十五日おくれたまま、毎朝一枚ずつ読んでゆく。一度に読んでしまうと楽しみがへるからだそうである。
鮫の姿は何度もみかけた。
鮫は自分の身長よりも長いものは絶対に襲わないそうだ。赤い褌《ふんどし》をたらせばよいという俗説がある。が、赤くなくても、鮫より大きくみせればいいということらしい。
島の中には昔からの地名もあるが、島にきた人達がつけた地名もある。
ちょっとした坂が「神楽坂」だったり、街灯がポツンとついている辻が「六本木」だったり、東京の遊び場とは何の関連もないところが暮しの中の智恵なのだろう。
○
夜の網戸にたくさんのやもりがペタンと吸いついている。室内の灯りに腹と手の平が白くぽっと浮びあがって、気持のいいものではない。
沖縄では、やもりが顔の上に落ちてきて目が覚めたことがあるが、毎晩観察するようになると、だんだん可愛らしく思えてくるのが不思議だった。
よくつきあうとどんな人間でもどこか良さを発見出来るものだと教えられたが、やもりでさえ好きになったのだから、反省させられた。
小笠原の若者が結婚すると、島の美しい海岸にキャンプをはって、そこで新婚第一夜を過すという。どことて行くところのない島の暮しの中での新婚旅行。うらやましいような、わびしいような、そして、やっぱり、うらやましいと思うのである。
中村八大のピアノ・コンサートが小学校の教室で開かれた。学童、その家族、そして飯場の労務者がつめかけてきた。
小さな島だから、人だかりがあるとあッという間に大きくふくらむ。楽しみにくるというより、時間つぶしにくるといった感じなのである。
子供達のためのコンサートは、酔っ払った労務者が飛び入りで童謡を歌ったり、それなりに面白かったのだが、島の人達には、内地の連中で楽しんでいるというふうに思われたらしい。
支庁の若者がいっていた。
「もっともっと、本当にもっと、気をつかって下さい。島民はオドオドするばかりです」
島に帰りたがっている内地の島民にくらべて、現在、島に住む人達は本当に将来の不安を口にする。
二見湾に廃船がある。
輸送船が半分沈んだままの姿をみせている。その甲板に見上げるような松の木が育っている。船の甲板に松が根をはっているこの奇妙なとりあわせは、恐ろしさを感じさせる。
過疎地帯の廃屋のいろりに草が生い茂っていたのをみた時もそうだった。戦後の歴史をこの船だけが雄弁に物語る。
硫黄島では、米軍と自衛隊が同居している。
僕の叔父がここで戦死しているので行ってみたかったのだが、島自体が基地だから行くのは小笠原以上にむずかしい。地獄の島といわれるくらいで、人間が住むところではないという。
戦略上、ベトナムヘの中継点としての意味があった時もあるが、今ではグアムから直行便で出かけるので何の価値もないそうだが、そこで自衛隊は何を守っているのだろうか。
小笠原は二年前に米軍政下から返還されて目下三百人の島民がいる。沖縄は二年後に米軍政下から返還される予定で百万人の島民がいる。
三百人と百万人の差は大きいが、その島民感情には共通するものがある。
今日の小笠原に米軍時代の方がよかったと断言する島民がいるように、二年後、そして四年後の沖縄に、米軍時代をなつかしむ声がないとはいえまい。
返還されてしばらくして島で人気のあった若者が交通事故で死んだ。
返還以前は右側通行だったのに、以後左側になったことで勘違いしたという。返還されなければ死ななくてすんだのにということになる。
その事故の時、自衛隊のヘリコプターが来るのに時間がかかった。これが米軍時代ならアッという間にグアム島の病院に運ばれて生命が助かったかもしれないという。
「もし、アメリカ時代だったら」
小笠原ではあらゆることが比較される。なにしろ個人所得一位から二十二位までランクがさがってしまったのだから。
領土が返還される、ヨカッタ、よかったという国民感情と、返還された、または返還される島の島民感情とは全く異質のものなのだ。
小笠原はマスコミがつくりあげた国民感情に祝福されながら、東京都のお荷物になっているのが現状である。
東京都と切り離し、日本政府が本腰をいれて開発しないことには、ここにも沖縄をみる思いがする。
○
小笠原の飯場で、昔は極道でならしたものさという老人が、背中の刺青を照れながら先頭に立って働いているのをみた。大阪で深夜放送を聞いていましたよという若者が、この老人の片腕になっている。
「帰る気はしないなァ、この島にいると働くことと、休むことがハッキリしていて気持がいいし、それに貯金が出来るし……」
そのそばから老人が「今の若いのはしっかりしているというか、つまらないというか」と笑っていた。
自衛艦「あけぼの」では、若者達が「早く娑婆に出て商売したい」と希望を語る。
江田島出身者は「情けない」という感じで彼等をとらえる。ここには島で逢った老人と若者の人間的なつながりがない。
小笠原の父島と佐渡ヶ島では、その歴史も文化も違うが、島であることに変りはない。
離島、そこにもうひとつの日本があるという言葉は、どこで読んだものだったか。
……そして、北海道、本州、四国、九州、大きな四つの島には、果して日本があるのだろうか。
※[#歌記号、unicode303d]守るも攻めるもくろがねの〜〜。
今日もその日本の海を守って訓練はつづけられている。
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田舎なれどもよォ〜〜
この夏の終り、深夜放送の最中に、台風が東北を北上して北海道に抜けた時があった。その時、その中心附近で聞いている方々、台風情報をお電話くださいといったことがある。
小岩井、十和田町、弘前、函館、小樽といったふうに聴取者から電話が入り「戸がガタガタいってます」という実況中継が入って緊迫感があった。
今回の旅は、その東北の津軽弁でミュージカルを上演しつづける『雪の会』の仲間と、青森にある日江劇場で働く林征二サンを訪ねることにした。
日江劇場については小沢昭一サンから本州最北端のストリップ劇場と聞いていた。そこで働く林サンからは、芸能史・芸能の素性ということに関してたくさんのお手紙をいただいている。
その青森へ行くのに寝台車を探したのだが、どれも満員。乗ってみればなんとかなるだろうと楽天的な出発だったが、上野駅に着いてみると、その人混みに心細くなった。
○
上野と浅草の中間で育った僕は、浅草という街が都会を代表する反面、上野という街はそこが地方の吐き出し口、といった感じでとらえていた。
もちろん、戦前の話である。
上野という駅は、いつでも東北から来た人と東北へ帰る人でごった返していて、そこに東京ッ子の僕が出かけると、そこはすでに東北であった。
今でこそ旅ブームで、洒落た若者達の姿も多くなったが、子供の頃の印象はそう簡単にぬぐいきれるものでなく、ましてや学童疎開に出発し、また、そこに帰ってきた暗い思い出もつきまとっているのである。
啄木が「故郷の なまりなつかし 停車場の 人混みの中に そを聞きにゆく」とうたったように、上野駅は東北人にとっては故郷そのものだったのだ。今は羽田空港が、農協サンの多いこともあって、啄木が生きていたら空港に行ったであろうと思うほどである。
地下鉄で上野駅に降り、かつての浮浪児の寝床だった地下道を歩くと、あの時のむせた臭いが今日でも鼻をつく。「家出人相談所」とか「出かせぎ人相談所」という表示もこの駅らしい。
「春からすいた時はありません。どうしてですかね」と首をひねる専務車掌氏に甘えて、座席のない僕は車掌室でねばる。
「なぜ寝台車は七時になると起すんですか、九時に到着なんて場合は寝かしておいてくださいよ」などと質問をして時間をかせぐ。
「寝台を片づける人は車掌だけじゃないんです。掃除のために乗ってきて、また、降りる人達がいるんです。汽車をフルに利用するためには仕方がありません」
「起きるのがいやだといったら、無理に起すわけにはいかないでしょう」
「でも、他の人が起きて寝台を片づけはじめたら、とてもホコリッぽくて寝てはいられないでしょう」
そうか、やっぱり、あのホコリは国鉄もわかっているのかと、妙なところでホッとする。
宇都宮を過ぎて空席がひとつ出来たので、早速ゆずってもらうと、それは間違いで再び立たされる。福島を過ぎたところで普通寝台があいていたので、中段にもぐり込む。
あれは身体の骨が固くなっているのがよくわかる。洋服のままはいずりこんでしまったら、もうあの中では洋服が脱げないのである。危うく首の骨を折りそうになったので、そのまま寝る。
お約束の七時過ぎ、平泉だった。花巻を過ぎる。ここ出身の宮城千賀子サンと一緒にお風呂に入ったのを思い出す。
花巻温泉で男湯を女湯だと思って彼女が入ってきたのであり、男湯だと思っていた僕はそこが女湯だと錯覚を起し、一騒動の後、間違えたのは彼女であることに落着。僕はその裸像を拝見しただけ得になった。
そんなことを思い出すのも、目的地が日江劇場であるからであろうと猛省する。
車窓に南部の曲り家をみる。キリストは日本人だという説の裏づけになっている、馬小屋と同じ屋根の下に住む農家である。
※[#歌記号、unicode303d]田舎なれどもよォ
南部の国はよォ
西も東も金の山 コラサンサエー
南部牛追い唄は、その歌い出しの部分に魅力がある。「田舎なれどもよ」という発想は他の民謡には見当らないからだろう。
牛追いというのは「牛と風邪は引くな」という言葉どおり、ひっぱっても動かない習性からくる。牛の尻を叩きながらのびやかに歌い、歌の中でモウとでも啼いてくれたら、こんな気持のいい歌はあるまい。
○
青森に着いて学生時代からの仲間のいる青森放送に連絡をする。
野坂昭如氏がまだ僕達のマネージャーだった時代に、ミュージカルの勉強をするグループがあって、そこにいた津軽出身者が、故郷で津軽弁のミュージカルを上演しはじめてもう十五年になる。
言葉自体にメロディのある津軽弁に作曲されたミュージカルは、地元で強い支持を受けている。
ただし、その言葉を理解しようと思うと、僕にとっては外国語である。文字にしてみるとわかるのだが、鼻に抜ける鼻濁音の多い発音で読まれるともうわからない。
このグループ『雪の会』の秋の公演台本から、書かれたセリフを書きぬいてみる。
題名は『お前は輝やく虹だべか』
金太郎 年ど関係無ェ夫婦だナンテあるもだがして、自分でばり若いつもりでも、アイサず時にアイセツとなねば、可哀想だのァ嫁様だでばな。
勘次 何しに吾れァ、アイセどなねばマイネのや、アイサず時に、おらアイセドなたて、ナンチャも効がねでばな。
(中略)
伝九郎 なァに、未来ズものは、待っていだって来るもでね、未来ズものは、ハッケ廻って、カラモイデ、手のばして、自分でつかむのせ、な、ホダベせ、え。
こうしたセリフから歌へ移る時に、津軽弁の持っているメロディがそのまま、そのつなぎ目を見事にわからなくしてしまうのだ。
土着の日本語が歌われるように語られている以上、そこを突破口にしてミュージカル創りをしている仕事はもっと高く評価されるべきだ。
歌舞伎の発声のままミュージカルに取り組んだ『ラ・マンチャの男』の市川染五郎も、その言葉のメロディ、節を大切にしたことが成功の要因になっている。
しかし『雪の会』の若いメンバーですら、すでに字で書かれた津軽弁を読むことが出来なくなっていた。職場から寄り集まって真剣に本読みをする若者達と別れて、日江劇場に出かける。
○
「関西凄絶ショー 日本無双お色気天国」
青森駅の裏側にあたる通りに日江劇場という建物がある。入場料千円。
百人入ったら超満員という劇場がほぼ一杯で、踊り子が脱いでゆくのを観客は整然と見守っている。舞台と一緒になって陽気にはしゃぐといった明るさがないのは、青森人特有の内攻性なのだろうか。
そんな劇場の事務所に林サンはいた。
僕がストリップを楽しむ時の理屈を並べておくと、観客の前で裸になることは、観客にかわって裸になることなので、観客にかわって殴りあうボクシングや、プロレスと同じ意味あいを持つ。
ボクサーの額が割れて、血しぶきが飛ぶのと、踊り子が見せてはいけない所を見えたように見せるのとでは、たいした違いはないことなのである。
そして舞台に立って一枚ずつ脱ぎすててゆく時の彼女達の表情を見ていると、その観客に対する視線の優しさに気がつく。
回転するレコード音楽、それも最近は藤圭子の歌が多いのだが、その替り目の一瞬に、ふと生活の疲れがよぎる。笑顔は音楽が流れ、踊っている時だけのものなのである。
華やかな舞台と、その舞台裏。本来は裏表であるものを、ストリップ小屋では一度に見られる。
もちろん僕だって、その股間を凝視することを最高の楽しみとしてはいるのだが、それだけではいくらなんでも常連にはなれない。劇場、踊り子、観客が三位一体になって、生きることの哀しさと、哀しさゆえの優しさとを感じあっているから通うのである。
メリー・松原、ジプシー・ローズ、ハニー・ロイ、ヒロセ元美、といった名前は僕にとってマリリン・モンロー同様に思い出の中に生きている。だから、ジプシー・ローズが死んだ時、同時に僕の青春の一部が欠け落ちていったような気がした。
日江劇場の踊り子達を見ていると、藤圭子の歌にはげまされてでもいるように、捨身になって|見せる《ヽヽヽ》努力をしている。
石川啄木が恥をさらけだすような歌を書きつづけたのと、どこか似ているような気がしてならない。
誰もがもっとも隠そうとする部分をさらけだしながら、レコードの藤圭子と一緒になって声を出して歌っている姿は尊くさえもある。
脱ぐことに恥じらった女性が、脱ぐことに生き甲斐を発見してゆくプロセスがどんなに厳しいものか、その点で僕はストリッパーに感動する。
「彼女たちはええ娘でっせ、ええ人間でっせ。僕はストリッパーが大好きです。ほんま」
林サンの、これだけ好きだと断言する態度には「ウヒヒヒ」とストリップ劇場に通う人達にはない情熱がある。
「一所懸命見てくれはる人がいて、一所懸命見せる人がいて、これよろしやんか。これが法律に触れるいうなら、それは法律いうもんはそういうもんと割りきるよりしょうがおまへん、悪いこととは思いまへんで」
最近、出版・演劇・放送の、性に対する表現の取締りが厳しくなりつつある。深夜放送へも「性に関して露骨な表現はしないように」というお達しがあった。
この規定がなにをもって尺度にしているのか、実にアヤフヤなことはご存じのとおりだが、芸能の歴史をたどれば、まさに源流を否定することにもなりかねないことになる。
ストリップ小屋は芸能の源流であり、だからこそ、この底辺の芸能にのめりこむ人達はかなり多いし、この世界から這いあがってきた人もいる。
今日の渥美清を支える庶民性は、けっして、きれいごとではないところに魅力があるのである。
毎日見にくるというバタ屋さんに料金を負けてやる劇場、バタ屋さんの捧げる花束を優しく受けとる踊り子。
「僕は誇りに思いま。ここでなにか小説のようなもんでも書けたら、そない思うてますねんけど……」
林サンの最近の手紙に『病理集団の構造』を感動して読んだむねが書いてあったのを思い出した。そしてここに書いてあるとおり、彼は大阪弁である。青森に住んで二年半、津軽弁はわからないと笑う。
「学生の時から極道して、この道に入りました。極道の世界かて、そこを突きぬけてみると、この踊り子と同じで生きることを真剣に考えまっせ、好きで裸になるのとちゃう、好きで喧嘩するのとちゃう、誰をうらむこともなしや。そら同じ芸の道、あの娘たちかてテレビに出てスターになりたい、一度はそう思うた時もある。けどこの舞台かて同じことや、少しでも拍手貰おうと思うて、足をひろげてますのや、その気持、いとしゅうて」
青森の、これから雪がくるというストリップ小屋で、林サンは満足そうに働いているのである。
津軽で聞く大阪の言葉に脈打っているエネルギー。僕は自分の言葉、東京弁の貧しさに肩身が狭くなって無口になってしまうのだった。
日本中で、深夜放送の僕の声を受けとめてくれている人達が持っている素晴しい言葉。それが、手紙になった時にも生きていてくれたらと思う。
手元にくる手紙は、それが津軽でも、沖縄でも、中央語である東京弁で書かれてくる。
「永サン、今晩は」という書きだしが「永サ、お晩です」であったらどんなに楽しいだろうと思うのだが、そうした言葉が文字に書きうつせない不利もあって、ここでもお国言葉は失われつつある。
しかし、日本人が語りあう時に持っている七五調を基調にした感情表現。なにがなにしてなんとやらという節もある話芸は、歌謡曲の中だけでなく、日常会話の中でも生かさなければなるまい。
一人一人が話す言葉を『雪の会』や林サンのように大切にしなければと思うのである。
田舎なれどもよォ、の|なれども《ヽヽヽヽ》は、その歌声を聞くとけっしてへりくだったものではなかった。
そこにはへりくだるどころか、居直って動かないエネルギーが息づいている、と思う。
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地球を歩く──長い長いあとがき──
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「遠くへ行きたい」という歌があり、そのレコードは二十種類を越えている。同名の旅のテレビ番組もあって二年近く続いている。
そして海外も含めた旅行ブーム。僕も相変らずの旅暮し。
「旅が好き」というのが「たてまえ」。
「旅が好きになれない」が「ほんね」。
それをゴチャゴチャにした本に『遠くへ行きたい──下町からの出発』と名づけた。
ここは「下町を歩いた文章」(『太陽』一九七二年四月号掲載)と、「地球を歩いた」文章(『文藝春秋』一九七二年五月号掲載)を並べて、長い長いあとがきとする。
*
両国界隈フラフラ歩き
下町にそういう人が多かったのか知らないけれども、独り言をいいながら歩く人をよくみかけたものである。頭がおかしいわけではなく、商売の上での言い訳でも考えながら、それを口にして歩いていたのであろう。
だから落語の登場人物が独り言をいいながら歩くのを身近に感じたものだ。
さて、僕も独り言をいいながら国技館界隈を歩いてみた。
携帯用テープレコーダーを持って、子供の頃からなじみのある道をちょうどアナウンサーが実況中継するようにである。
初場所の最中、蔵前国技館から川を渡って元国技館へ、そして柳橋に出て再び国技館までフラフラ歩いて一時間。
ヘンな顔をして通りすぎる昔の僕のような視線にあいながらの独り言である。
○
櫓太鼓はこんなにも低かっただろうかと振り返りながら、蔵前国技館を出て左へ、今、蔵前橋の上を歩いています。
大川の橋は昔はタイコ橋のようになっていて、向うから渡ってくる人の頭の先がみえて、だんだん姿がみえてくるのが楽しかったという話を聞いたことがあります。
自動車や電車が通るようになって橋が平らになり情緒がなくなったというのですが、その情緒のない橋の上をさらに高速道路が横切っています。渡って右側の病院の裏に東京看護学院があり、その先が震災記念堂。
ここの鳩とは随分昔からのつきあいですが、どういうわけか小鳩にあわないのが不思議です。ヨチヨチ歩きの鳩というのはこの世にいないのでしょうか。記念堂の前を突っきって横網町公園を抜けると旧安田庭園の前です。
ここは去年の五月に工事で復活しましたが、それまでは比較的手入れが悪く、それがかえって野趣をそそったものです。安田庭園に沿った横網町一丁目あたりは、まだ江戸の匂いのする建物が多く、木造家屋の木肌のまるで木綿を洗いざらしたような風格がみものです。
一丁目から両国駅に向う途中に無愛想な倉庫に囲まれた橋があり、これが、御蔵橋。
渡ると左側に両国駅、その正面に「水上バス乗り場」という看板がみえますが、冬は休みのせいか汚れて字が消えかかっています。
吾妻橋から浜松町、東京湾一周という水上バス、その昔の一銭蒸気。知るはずのない僕の耳にポンポンポンというエンジンの音が残っているのはなぜでしょう。
親父に連れられての散歩の時の話が幻聴を呼ぶのかな、なんて思います。親父の子供時代の隅田川の思い出が、そのまま僕のものになってしまったり……。
川沿いに両国駅へ向っていますが、橋のたもとのビルの横にささやかな表札をみつけました。「東京相撲記者倶楽部」。入口にある小料理屋がきっと呼び出し太郎サンの店でしょう。
電車通りに突き当った向う側に「山くじら・ももんじや」があります。
森下町の「みのや」(馬肉)、駒形の「どぜう」とならんで、相撲見物帰りの食事が似合うところです。猪が三匹、店先にぶらさがっているところを左に曲ります。
元の国技館、今の日大講堂に向って歩きます。日大講堂の手前がスナックですが、そこに長唄教室という看板が出ています。
その路地の奥に、関取が風呂敷包みを持って歩いています。そのあとをつけてみます。ここは舗装がしてありません。奥まった家に「若松部屋」と書いてあります。木造二階建。両国二の十の八です。又、通りに出ます。
勝手口に「ゴミ容器等取扱いモデル地区・ゴミ容器をきれいにする家」というカードが貼ってあるのが目立ちます。
さて、いよいよ日本大学講堂です。入口に回向院参道と書いてあります。そこを入ります。
ここで相撲をやっていたのが昭和二十九年まで。国技館が出来たのが明治四十二年。それ以前が回向院境内。江戸で最初は深川八幡宮境内。どうしてそんなことを知っているかというと八幡宮の裏にある「横綱塚」という石碑が力強くて好きだからです。
参道にあるキンツバ屋のキンツバをつくっている老夫婦も好きですけれど……。
回向院にも入口の脇に「力塚」という石碑があります。横綱武蔵山、玉錦、男女の川、大関清水川、関脇双葉山といった名前が献納者の名前にみえます。境内に入ります。
昔この境内にチャンコ場があって、この周辺の相撲部屋の食事をまかなっていたそうですが、その余りものを貰いにくる人もいたとのこと。「爺コ」と書いて「チャンコ」と仮名をふってあるのをみたことがありますが、要するに老人が魚河岸のアラで安い料理を作ったのでしょう。
新しくなった本堂を正面に、左側に古い墓石が並び、右側に建立寄附名簿があり、その中に金一萬円、高砂部屋、時津風部屋、それから、エート、これしかないですね、みあたりません。
左奥の墓地で目立つのは「水子」の供養塔、そして犬と猫のもの、さらに牢死、刑死、災害の死者、有名人では……竹本義太夫、山東京伝とあり、他にも芸人、戯作者が多く、ねずみ小僧次郎吉は……。
もう欠いちゃってなくなったのかな。
いや、欠かれて傷だらけの墓がありますからこれでしょうか。でも、陸軍上等兵っていう字があるから違いますね。間違えて欠いちゃったんだなァ。
回向院を裏に抜けました。
このあたり昔、検校屋敷があったと聞いていましたが、アレ、さっき長唄の稽古場がありましたけれど、今度は琴三絃の稽古場、左に曲った突きあたりがちょっとななめになった古い家ですね。ここを右に曲ります。
目の前に京葉道路につながる首都高速道路があり、このあたりアチコチからいろいろな町工場の音が聞えます。社長がスクーターに乗って注文をとりに行くといった感じの風景です。
塩原橋を渡らないで右にたしか、……ありました、石置場の先の五階建てのビル、これが出羽海部屋。表札は「市川」とあります。玄関の前に銀色のジャガーが駐車してあり、玄関をのぞくと、あがりがまちに「千福」のこもかぶり。「横浜・田中」と書いてあります。左側が土俵。きれいに掃除がゆきとどいています。
稽古場はどこでもそうですが、子供にはのぞけないようになっていて、昔、のぞきこんではにらまれたものです。稽古をチャンとみるには贔屓のダンナにならなければいけないと知りました。
でも、大きな赤チンの瓶に太い筆が突っこんであり、それで傷口を治療している取的がいたのが妙に忘れられません。ここにも「ゴミ容器をきれいにする家」というカードが貼ってあります。
ここでUターンして百メートル。
右側に、観世流の稽古場。ここは両国三丁目。左に曲ると右側に両国小学校。ここを左に曲りましょう。
突きあたりが日大講堂。アレ、あ、そうか、「吉良邸跡」はここだったか。立札があって「本所松坂町公園由来 この地は吉良上野之介の上屋敷跡で赤穂義士が討入りしたところです」とあります。公園といっても畳でいうと八畳ほどの世界一小さな公園じゃないかと思うくらい。
その隅に首洗い井戸。それから屋敷の図面が飾ってあって、総坪数が二千五百五十坪。ひろいなァ。
たしかここが時津風部屋の裏だと思うのだけれど……そうですね。両国三丁目十五番地。
時津風部屋の立看板。さらにその上に双葉山相撲道場という看板が横に。ちょっとのぞいてみます。
やっぱり、こもかぶりが置いてあって「部屋見舞、クラブ・ラブレー」という紙が貼ってあり、銘柄がかくれて読めません。玄関のななめ前に、整骨医の岡野サンがいます。
「いいえ、なんでもありません」
今僕がブツブツしゃべっていたら「は?」と返事をした老人がいたので……。
さて講堂に向ってフラフラしていますが、どうも相撲部屋のある街という雰囲気はなくなって、部屋の方が肩身を狭くしているような気がしてきます。もっとも昔から人気力士は別にして、街の人達は力士を大切にする面と、眉をひそめるような面があったような気がするのです。
電車通りに出ました。歩道橋があって、そこに「本所松坂町跡」という石柱。そして、そこはもう日本大学講堂が目の前。
考えてみると、僕がここで思い出すのは相撲よりも菊人形。子供の頃、弱虫で、東京の身体薄弱児童に選ばれたくらいですから……。
だいたい「東京出身」の強い相撲取りがいないということが、地元の人気につながらないと勝手にきめてしまいたくなります。
下町に暮す江戸ッ子、東京ッ子は心の隅に「イナカッペ」という蔑称をひそませているものですが、要するに相撲取りは、その「イナカッペ」で、それも強いわけですから拒否反応があって当り前ではないでしょうか。僕の世代でいうと学童疎開でいじめられていますから東京出身に地方出身を投げ飛ばして貰いたいのですが、もう、その東京も巨大な田舎になってしまいましたから意味がありません。
僕が不用意に道で「イナカッペ」といって親父にたしなめられたことがあります。
「もう、その言葉は使っちゃいけない。田舎の人が聞いたら気を悪くする」
僕はその後、家で親父が「イナカッペ」というのを耳にして反論したことがありますが、その時は「ここには田舎の人がいないから」ということでした。
今度は両国橋に向います。「ももんじや」の手前左「ぼうずしゃも」の看板。その隣には、ちゃんこ料理「刈谷」がみえます。橋の手前は「ももんじや」。そのならびにうなぎの「神田川」。
橋を渡ると左の大川端、浜町河岸から明治座、葭町、人形町と下町らしい街なみが続きます。こんな街で関取の姿にぶつかると、とても似合うわけですが、橋を渡ったら右へ曲って柳橋へ向ってみます。渡りきったところにあるのが祭半纏の専門店「溝口」。
(29)番須田町行きの都電が走ってきました。停留所には、「正しい交通 明るい日本」と標語が書いてあります。「旧跡両国広小路」と彫ってあります。
昔、大火があるたびに橋の界隈で逃げる群集が重なりあって事故が起きたので、小路を広くして火事に備えたということですね。見世物の歴史には欠かせないところです。名前は色っぽい柳橋はコバルト・ブルーの鉄橋。釣り宿がなければなんの変哲もありません。
「はぜ釣り・乗合船・小松屋」並んで「井筒屋」「網春」。ここの上流が神田川です。
橋を渡って右の畔が「亀清楼」。この家だけみていると情緒があるのですが、隣にはビルが立ち並んでいます。この川沿いの料亭の前を蔵前国技館に戻ろうと思います。
古い料亭でうらやましいのは建付がよさそうなこと。音もなくピタッとしまると接着剤でつけたようになる雨戸なんか胸がドキドキします。ビルとビルの工事中の柳橋……。もう蔵前国技館が目の前にみえてきました。
○
久し振りに歩いた道である。
それもテープレコーダーにつぶやきながらで、時折は下町育ちにとって故郷といった感じの街並みもあったものの、それだけのこと。
そして戻ってきた国技館の中でも感じたことだが、「相撲は国技」というイメージはけっして下町のものではないということ。相撲は本当に愛されているのだろうかと疑わしくなっただけだった。八百長の問題、行司の問題。そして健康管理。みんなスッキリしない。
僕がもし、一人だけ相撲取りの名前を挙げろといわれたら、答えるのは、もっとも抵抗のない相撲取りとしての駒形茂兵エ。さらにいわせて貰えば、貴賓席のある国技館なんか行きたくない。
*
「目的地は東京」の世界一周
「世界一周」という言葉をみると、神風号の飯沼飛行士を思い出す世代の僕である。行くでもない帰るでもない。一周という言葉が好きで、それが「山の手線一周」でも、暇があると乗っているくらいである。時間をかけて遊びながらの世界一周、あるいは早廻り記録に挑戦しようというのではない、なにげなく、それでいて常に出発点を目指しているような世界一周、それが長い間の夢だった。だから「私の感情旅行」(TBS・TV)という番組の企画に、世界一周ならやりたいと返事をして、実現のチャンスがやってきた。
「世界一周」。
地球の広さというか、狭さというか、それを自分の身体の疲れで測ってみたいという気持もある。
自分の暮している部屋、住んでいる街の様子がわかっているように、地球のことを知っていたかった。
そのためには東京を出発して、出来るだけ遠い道を通り、出来るだけ短時間に東京へ帰ってくることだ。
僕には毎週土曜日にラジオの生放送という仕事があって、これを休むわけにはいかないから、旅は日曜日から金曜日の六日間。
東京─ロスアンゼルス─ニューヨーク─ローマ─東京というように鉢巻コースなら三日間あれば充分だが、折角の六日間である、南米もアフリカもまわりたい。
そこで作ったコースを書くと、東京─ホノルル─ロス─ガテマラ─パナマ─ベネズエラ─リオ・デ・ジャネイロ─ヨハネスブルグ─ナイロビ─チューリッヒ─ロンドン─フランクフルト─イスタンブール─ベイルート─カラチ─デリー─バンコック─香港─東京。
ここで問題になるのは、チューリッヒからロンドンが一度東京から遠ざかってしまうことで、これは残念ながら飛行機の都合。
スケジュール表をながめていると、とにかく機内と空港で暮すことになる。気候と時差の問題もあって、肉体的に参ることは明らかであった。これをなんとかカバーしたいと思っている矢先に、竹腰美代子サンとバッタリ逢った。僕はスケジュール表をみせて、これは身体のどこが疲れるか気軽に相談した。
彼女がスケジュール表を貸してというので渡したまま、その事については忘れてしまっていたのだが、なんと出発する直前に封筒の束が届けられた。僕はやっぱり三十代主婦にはもてるのだ。
彼女の封筒は空港に着くごとに開封するようにという注文がついていて、いうなればラブレターをかかえて出発するという気分。
三月十一日の午後十時三十分に出発して、ホノルル空港に着いたのが、同日の午前十一時四十分。
早速一通目を開封する。
○
「ろくすけさま
これは、テーブルプランとしての遊びです。時間という数字の幻惑です。人間という精巧な動物が、ジェット機という非情な機械に挑戦しているみたいです。羽田をお発ちになりまして、羽田にお帰りになりますまでが、一四三時間五〇分、その間、六九時間一〇分は、空をとんでいらっしゃるのです。でも、お発ちになりました。HONOLULU空港で、これを御らん頂いているのですから。
及ばずながら、私も、健康管理者として、お供させて頂きます。
今、すぐそこで、次の三つのことをなさって下さい。
@手首を100回ふります。早く強く。
Aしゃがんだり、立ったりを、20回です。
B大またでそこら中歩きまわります。
三つとも、血行をよくする体操です。新しい気分で、LOS行き機内の人とおなり下さい。
[#地付き]竹腰美代子」
ここでは税関が荷物を調べたりするのだが、空港が改築中のため、すべてが不便で時間がかかる。
したがって体操をするのにも、人のいないところへ行ってやってくるという暇がない。
手首を100回早く強く振るといっても、これは人混みの中でやると、なんだか中風になったみたいで、奇妙に人の目について意外に恥かしいものと知った。
パイナップルの匂いのする空港で一時間、そのままロスアンゼルスに向う。
ジャンボ・ジェットの機内では映画の上映があって、ジューン・クリスティ主演の『初恋』をみる。去年のカンヌ・グランプリ作品だ。以後、今度の一周で僕は機内で、ツイギー主演の『ボーイ・フレンド』、ラフ・バローネ主演の『イタリアン・ジョブ』と話題作三本をみることになる。
イヤホーンでは各種音楽が楽しみ。語学のレッスンもできる。ドイツ語はマレーネ・ディトリッヒ、フランス語はシャルル・アズナブール、スペイン語はホセ・ファラーが教えてくれる。
旅も変ったものだ。
さて、ロスアンゼルスはスモッグで着陸できず、僕はサンフランシスコに着いてしまった。それでも竹腰サンの手紙を開ける。
○
「ろくすけさま
機内で、お休みになれましたか。ホノルルから七時間以上も、飛行機の中、きついものです。
さあ、両手を上に高々とあげて、思いきり伸びをしましょう。大きなあくびをどうぞ。
ただし、あごをおはずしになりませんよう御注意を。手を腰に当てて、後へ軽くそりましょう。3回だけでけっこうです。ほんの軽い運動ですが、からだがサッパリするはずですが、いかがでしょうか。
次は、GUATEMALAで、お目にかかります。
すばらしい夜を、おすごし下さいませ。
[#地付き]竹腰美代子」
体操をサンフランシスコの空港ロビーでやって、ロスのスモッグが晴れるのを待つ間に、ニューヨークの黒柳徹子サンに電話する。
受話器がはずれて「ハイ、モシモシ、黒柳でございます」とはじめから日本語。
「ハロー」ではなかったので逆にビックリ。
「あら、どこにいるのよ、いらっしゃいよ」
ロス行きのアナウンスがなければ、一晩中の電話になるところだった。
七時三十分に着くはずが深夜の零時をまわってのロス着。
朝の飛行機まで夜明けのドライヴ。緊張感と時差の関係で眠いはずなのに目が冴えるのだ。フリーウェイをハリウッド、サンセット・ブルーバード、そしてリトル・東京。空港に近いモーテルで二時間ほど眠って、カラカスに向う。これも時差の関係でアッという間に夕方のガテマラ空港。アッという間というのは、ウトウトしていたからである。
○
「ろくすけさま
朝、LOSをお発ちになったと思いましたら、もう夕方でございます。
でも、私は、こう考えるようになりました。飛行機の乗りつぎ、乗りつぎの生活です。これから、お風呂は、いつ、どこで、お入りになるのかしら、などと心配はしておりますが、きちんきちん、と朝昼晩とこないほうが、かえって、お気楽ではないかと思うのです。常識的な旅ですと、何日何泊と申します。でもこの度は、そういうかんじょうが出来なくて、一四三時間五〇分の旅なのですから。
永六輔さんのことですから、独特の面白い目で、いろんなものを、見ていらっしゃることと存じます。
健康には、それがいちばん大切なことです。いやだ、いやだ、と思ったり、いらいらしたり、おこったりしていると、私達のからだの調節をつかさどっております脳下垂体や、副腎皮質の働きを、全部ストップさせてしまうのです。
その点では、大安心な方です。
ただし、運動不足におなりになりませんように、待合時間用三つの体操を又どうぞ……。
@手首ふり100回
Aしゃがんだり、立ったり20回 3分で出来ます。
B大またで歩きまわる
次は、ベネズエラでお目にかかります。
[#地付き]竹腰美代子」
旅客は常に到着客と通過客《トランジツト》にわけられ、僕は常にトランジットの待合室で一時間近い時を過す。
体操も慣れて、とにかく、やれば気持がいいということは、それだけ身体がなまっていることであろう。
ガテマラ空港はガラス張りの近代的なビルなのだが、外には飛行機を見物に来た村人達が並んでいるといったのどかな風景。ここでは再び乗る時にハイジャック防止の身体検査。
飛び立てば食事というのが国際線の機内食だから、今度のような旅はまるでブロイラーの鶏のような餌攻めにあうことになる。食べるのはいいのだが、機内で排泄するというのが気分的にあわただしくて困る。誰かがドアの外で待っていることが多く、それが美しい女性だったらどうしようなんて思うから、もういけない。
まずは便秘の症状で、パナマヘ。
空港のトイレでと思うのだが、くらべてみると機内の方が清潔なので、再び身体検査をすませてタラップをあがる。結果的にはカラカスの空港トイレでと決心する。
かくして南アメリカヘ。
○
「ろくすけさま
PANAMAから、CARACASへ。
暑いところへいらっしゃいましたが、お元気でいらっしゃいますか。人間のからだは、実に精巧です。暑ければ、汗腺が開いて汗を出し、体内の冷却装置をしてくれます。なるべく皮膚を沢山外気に当てて、皮膚にも呼吸させてやって下さい。体内の冷却装置を助けてやって下さい。
精巧な人間のからだは、すぐに、環境に順応しますが、やはり相当な消耗をします。今、ここでは、なるべく休んでおきましょう。もし、人さまの御迷惑にならないようでしたら、待合室のソファに、長々と横になっていらして下さい。そして、できましたら、ベンチに寝たまま、両手を頭の上にのばし、伸びをして下さい。力一ぱい足先まで力をいれて……。六秒力をいれて伸びたら、六秒脱力して休む、三回だけどうぞ。
次は、南ア共和国にお向いになる機内にてお目にかかります。
[#地付き]竹腰美代子」
カラカス空港は新築早々で清潔なトイレ。体操をすませて快便。記念にベネズエラ本場のマラカスをお土産に買う。中南米とくればリズム楽器の宝庫である。
夜明けのアマゾン上空を経て十三日の早朝、リオ・デ・ジャネイロに着く。
ここでは半日ばかり余裕があるので、体操のかわりに市内見物。空港でウロウロしていたら、ブラジル航空(ヴァリグ)の大野二世が案内役を申し出てくれた。リオは三回目なのだが、ポルトガル語が通じないと時間のロスなので大助かり。
まずは、東京のタクシーもビックリする曲芸的ドライヴで、コパカバーナの海岸へ。
さらにコルコバードの丘、砂糖パンの丘、ペレの写真だらけのマラカナ・サッカー場(二十万人収容)とまわってグロッキー。
こうなると日本食でなければ力がつかないだろうということでテンプラ丼。ブラジルでは日本食にこと欠かない。三日目で米の飯が恋しくなるということが疲れている証拠である。
空港に戻り、丹念な身体検査を受けて機内へ。
電波探知器風の時はいいが、両手を挙げさせて、ポケットから股間にいたるまで調べられると、くすぐったがり屋の僕はヘンな声を出してにらまれたりするから困る。
○
「ろくすけさま
RIOはいかがでしたか。
人間は動物です。動きまわった、つかれたは、たちの良いつかれですが、動かないつかれは、悪質です。
JOHANESBURGまで、約八時間半、機内にとじこもりです。椅子におすわりのまま、両足を上げたりおろしたり、20回つづけて下さい。腹筋の運動で、腸のぜん動運動をうながします。運動不足もおぎないます。そして、お立ち下さい。機内最前部から最後部まで、通路を急ぎ足で、3回往復して下さい。
ほかのお客様は、この機からおりたらベッドの休養が待っています。永六輔さんだけ、おりても、また飛行機に乗るのです。実行して下さい。
次はZURICHでお目にかかります。
[#地付き]竹腰美代子」
日本の世界地図だと、南アメリカとアフリカは両端に描いてあるから大西洋のイメージがつかみにくいが、要するにヒョイとひととびである。
その大西洋上の体操は困った。一回だけは急ぎ足で歩くのはいいのだが二回、三回となると、機内の客が何事かと注目しはじめ、これを体操だと説明したら、今度は三回でやめないでもっとやれと声援する騒ぎになってしまった。みんな退屈しているのである。
南ア連邦のヨハネスブルグ空港では、七時間もロビーで待つ破目になってしまった。豪華な大理石をたっぷり使った新空港だが、管理している白人と、公然と差別される黒人労務者の表情は差がありすぎる。
十四日の午後に着いて夜までの半日、待つだけというのは疲れが倍加するせいか、体操をする気力もなくなってしまった。
ヨハネスブルグから深夜のナイロビ空港。こちらは黒人達の表情も明るく若々しい。空港ホステスの帽子が豹の毛皮だったりして民族衣裳を思わせる。
もう、このあたりになると離陸、着陸、そして一時間の待ち合せも、癖のようになってしまい、本当に人間の身体の順応しやすいのに驚く。自分では疲れていないと思うのだが、身体の動きのにぶいのがわかる。もっとも駄目なのが膝小僧。不思議なもので正座をすると気持がよい。日本人だと再認識。
アフリカを北上して十五日早朝のヨーロッパは、アルプスを越えてスイスのチューリッヒ。
○
「ろくすけさま
私は、大体、乗り物などに乗ってじっとしていられるのは人間、三時間が限度と思っているのですが、また長時間の旅で、御苦労さまでした。暑いところから、快適なスイス、お寒いですか。気温への順応はいかがでしょうか。
今、もし熱もないし、お腹もこわしていないし、想っていることもなければ、全速力でかけ出して下さい。息がハアハアするところまで。息がハアハアしたら、一たん止って、小休止。またもう一度かけ出します。二度だけで結構です。これは全身がだるいとき、肩がこったとき、最適の運動です。心臓を総動員して働かせ、新しい血と古い血の総入れかえです。
次はLONDONのHOTELでお目にかかります。
[#地付き]竹腰美代子」
竹腰サンはスイスの空港で走れ、と書いているのだが、チューリッヒ空港では乗客は機外に出ることが許されなかった。
「ちょっと外で走らせてほしい」と頼むと「撃たれても知らない」とおどかされる。しかしながら、竹腰サンのいう通りに走りたいので、やっとタラップの周囲だけという許可を貰って全力疾走。
だいたいが空港というのは警戒が厳しく、なかでも軍事基地を兼ねているところはカメラも禁じられているのだが、まさかスイスでこんなにやかましいとは思わなかった。
フランスの上空からロンドンヘ。ロンドンでは東京行きの飛行機が翌朝の便のため、やっとホテルで最初で最後の一泊。
僕は持参のランニング・シューズにショートパンツで、バッキンガム宮殿、ウェストミンスター寺院、そしてウォーターロー・ブリッジをマラソン。
東京で毎週仲間と走っているので、はじめからロンドンで走るつもりだったのである。走っていれば寒くないという程度の気候だが、ロンドン人種は黒いオーバーコートの多いこと。久し振りにホテルでシャワーを浴びる。
○
「ろくすけさま
お供をして、とうとうLONDONのHOTELまで追いかけてきてしまいました。羽田を発って五〇時間がたとうとしております。ここまでやってまいりましたので私も決心いたしました。どうぞ、永六輔様も御決心下さいませ。これも運命とおあきらめ下さいますよう。只今から10分間の体操を始めます。
@足を前にのばしておすわり下さい。からだの前まげ、年のかずだけゆっくり、ていねいに。
A腹ばいに寝て、手をつけ、上体をそらせます。ゆっくり5回。
B立って両足を思いきり開きます。開くところまで、1回だけ。
C上をむいて寝て、頭の後に両手を組んで、寝たりおきたりの腹筋の運動、つづけて20回。
D上をむいて寝て両足を高々とあげ、あげたまま、足首をまげたり、伸ばしたり、20回。
E椅子に上ったりおりたり、急いで休まずに50回。
さあ、御苦労さま、そのままお風呂にお入り下さい。あるいは、シャワーをたっぷりあびて下さい。シャワーをあびたら、ベッドに直行、一人でぐっすりお寝み下さい。貴重なベッドでの睡眠、運動もしましたし、シャワーもあびたし、夢もみずぐっすりお休みになれるはずです。オヤスミナサイ
[#地付き]竹腰美代子」
竹腰サン、五キロほど走りましたのでこの体操は許して下さい。なにもしなくてもグッスリ眠れました。
十六日朝、空港へ。ロンドンのタクシーの運転手はみんな銀行の頭取のような人ばかり。タクシーさえ残れば、ロンドンはいつまでもロンドンでありうるような風情である。
南まわりで東京まで、もう完全な帰り道。
○
「ろくすけさま
羽田へお帰りになりますまで、あと二八時間あまり、その間、昼夜のみさかいなく、飛行機に八回お乗りになります。
乗りつぎの間の待合室では、なるべく、おのぼりさんの風情で、キョロキョロしながら、あちらこちらと歩きまわります。見るものが何にもなかったら、動物園の熊さんのように、ぐるぐるまわりで結構です。
そして、機内のお人となりましたら、ベルトをはずして良いというサインと同時に次の三つの体操をどうぞ。
@ひじをギュッとまげて上につき上げる。昔の天つき体操です。10回です。
A足首をギュッとまげたら、バレリーナのようにスッとのばす、まげてのばす、で1回とかぞえ、20回。
B首をぐるっとまわす。左から右からで1回で4回。
これだけすんだら、目をつぶってお休み下さい。お休みのときは、常にベルトを軽くおしめおき下さい。
[#地付き]竹腰美代子」
ロンドン−フランクフルト−イスタンブール−ベイルート−カラチ−デリー−バンコック−香港、そして東京。飛行機が降りるたびに一歩一歩近づくという実感のある南まわり。
中近東は再び身体検査の厳しさを増した。カラチ−デリー−バンコックと気温もあがり、三十度を越す上に冷房装置がないから、快適な機内から出るだけでグッタリと疲れてしまう。
憧れていた世界一周などというイメージはさらさらなくなって、なにやら運ばれていくといった感じになってしまい、竹腰サンの体操だけが支えになっていた。
十七日の朝をデリーで迎え、なんだか馬鹿馬鹿しさが先に立ったり、いや、これなりに意味があるのだとなぐさめたり……、途中で降りて東南アジアで遊んで帰ろうかとも思うのだが、十八日には生放送がある身の上、そんな勇気もない。スチュアデスにどこか身体が悪いのかと心配されるというお粗末で、バンコックへ。
○
「ろくすけさま
旅も大づめです。フライトは、時間通りまいりましたでしょうか、途中で少しくるったりすると、かえっておつかれが出ないものですが、どんなぐあいでしたでしょうか。ペーパー通り動かされるより、少々の変化が気分のためによろしいのですが……。大幅に変更になったりすると、またそれは、尚のつかれとなりますが。御案じ致しております。
今、食欲は、おありになりますか、便秘はしていらっしゃいませんか。体操は、食欲と便秘に一番効果的なのですが、どれほどお役に立ちましたでしょうか。
暑いからと水を沢山お飲みになりますと胃液がうすまって消化不良をおこします。疲れやすくなります。暑いのにまったく飲まないと、子供のチエ熱みたいに発熱することもあります。ほどほどに。
お供をしてまいりました私、このへんでお先に東京へ帰ります。健康で笑顔で羽田にお着きになりましたら、若さにタイコバンを押しましょう。長いこと、よくいうことを聞いて下さいましてありがとう存じました。時にはお恥かしいこともおありだったと思っています。お詫びいたします。
[#地付き]竹腰美代子」
竹腰サンの最後の封筒はバンコック。とてもタイコバンを押して貰えそうもないまま香港、そして東京。
合計百四十二時間。飛行時間七十一時間。
僕は地球の広さを感じる以上に、自分が年をとったことを感じた。
翌十八日、僕は毎週やっている「土曜ワイド・ラジオ・東京」の司会をした。どこにも行かなかったような顔をして。本当にどこにも行かなかったような気分だったのである。
竹腰サンの優しい手紙の束だけが机の上にある。
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僕は乞食坊主──長い長いあとがきのさらにあとがき──
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昭和四十七年早春、小豆島、土庄の西光寺へ尾崎放哉の墓参をする。
この数年、ブームとまで呼ばれる流浪の俳人種田山頭火の兄弟子(師・荻原井泉水)にあたるが、二人は逢っていない。共にさすらいの果ての死であったが、浮世を捨てた人だけが持つ安らぎがある。
「いれものがない、両手でうける」
句碑の立つ南郷庵の中には寝袋が横たわり、長髪の若者の頭がみえた。足元にズックが揃えて置いてあるのが爽やかだった。彼も又、放哉に憧れる一人に違いない。
タクシーの運転手と墓を探す。
島にもそこだけしか残っていない塩田を見下す丘の上に放哉はいた。
旅先で死ぬということは旅人の宿命である。
僕にもそのチャンスだけはある。
しかし、死ぬための旅となると、又、意味が違う。
小豆島の坂手から船に乗り播磨灘に投身自殺をした八世市川団蔵。八十五歳。昭和四十一年。まだ遺体があがらない。彼が最後の三日間を過した南風台に行く。
三日間、自分の飛び込む海と相対しながら死の準備をする老人。
それは遠足に出かける子供の様な心境ではなかったろうか。
それとも涙ぐんでは在りし日を偲んだのだろうか……。
団蔵が最後の船に乗った坂手港に観音寺がある。ここにも投身自殺をした生田春月の石碑がある。
享年三十八歳。僕と同じ年だ。彼は身を投げる直前に詩を書いている。
甲板にかかっている海図
それは内海の地図だ
じっとそれを見ていると
一つの新しい
未知の世界が見えてくる
普通の地図では
海が空白だが
ここでは陸地の方が空白だ
これは今の自分の心持を
そっくり現わしているような気がする
今までの世界が空白となって
自分の飛び込む未知の世界が彩られるのだ
○
ここに並べて「遠くへ行きたい」の歌詞を書く気にはなれない。僕の旅はやっぱり、我家に帰ってくる旅なのである。
「遠くへ行きたい」は「たてまえ」で、「家へ帰りたい」というのが「ほんね」なのだ。
そう考えるようになったら、旅も面白くなく、だんだん自分の人生が余生のように思われてきてならない。
小説を書きませんか? ミュージカルをやろう! 会社をつくろう! テレビの司会をしませんか? デモに参加して下さい!
そうした言葉が、耳のかたわらを通りすぎてゆく。有難い言葉だ、優しい言葉だ。
でも、ゆっくり生きていたいと思う。
生かせていただきたいと思う。
旅をして、フラリと家に舞い戻って、そうした生活の一部に仕事があって、家族が暮してゆけることのかたじけなさ。それなのに誰にお礼をいうでもなく生きていることの恥かしさ。やっぱり僕は乞食坊主。
[#地付き]合掌。
[#ここで字下げ終わり]
〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年十一月二十五日刊