[#表紙(img/表紙.jpg)]
ウィトゲンシュタイン入門
永井 均
目 次
序 章[#「序 章」はゴシック体] ウィトゲンシュタインの光と陰
第1章[#「第1章」はゴシック体] 生い立ち
第2章[#「第2章」はゴシック体] 像
――前期ウィトゲンシュタイン哲学
1 『論理哲学論考』の本質
2 世界はどのようにできているか
――論理的原子論
3 言語はいかに世界をとらえるか
――写像と真理関数
4 もうひとつの「語りえぬもの」
第3章[#「第3章」はゴシック体] 復帰
第4章[#「第4章」はゴシック体] 文法
――中期ウィトゲンシュタイン哲学
1 検証と文法
――形成
2 文法の自律性
――完成
3 言語ゲームへ
――解体
第5章[#「第5章」はゴシック体] 言語ゲーム
――後期ウィトゲンシュタイン哲学
1 言語ゲーム
2 規則に従う
――規則と実践
3 私的言語
4 意味盲と相貌盲
第6章[#「第6章」はゴシック体] 最期
終 章[#「終 章」はゴシック体] 語りえぬもの
――光と陰、再び
おわりに
文献案内
[#改ページ]
はじめに[#「はじめに」はゴシック体]
†読者の皆さんへ[#「†読者の皆さんへ」はゴシック体]
この本は、ウィトゲンシュタイン哲学の入門書である。あたりまえのことを言っていると思われるかも知れないが、そうではない。まず第一に、この本は「哲学」の本であって、人物紹介の本ではない。そして第二に、この本は入門書であって、解説書や概説書ではない。この二つの点を、まず少し説明しておこう。
もしあなたが、たとえばサッカーを愛しており、自分の尊敬する天才的なサッカー選手のことを、サッカーをほとんど知らない人々に話す機会に恵まれたらどうするだろうか。彼の兄弟にどんな人がいるとか、彼がどんな性的|嗜好《しこう》を持つか、といったことは、ほんのエピソード程度につけ加えればよいとは思わないだろうか。彼を語ることを通じて、できるなら、サッカーそれ自体に興味を持ってもらいたいとは願わないだろうか。
その意味で本書は、本質的に「哲学」の本なのである。私はウィトゲンシュタインの哲学の妙技を紹介することを通じて、哲学がどんなに魅力的なものか、一度も「哲学」をしたことがない人に、何とか伝えたいと思った。しかし、とりわけウィトゲンシュタインの哲学は、彼と同じ問いをみずから持ち、彼と同じように徹底的に考えてみようとする人しか受けつけない、という側面を持つので、それは至難のわざであった。
だから当然、この本はまた、解説書や概説書ではない。天才的サッカー選手の比喩を続けるなら、あなたはおそらく、あなた自身のサッカー人生との関係でしか、彼を語ることができないだろう。私も、私自身の哲学との関わりにおいて、ウィトゲンシュタインを語った。だからこの本は、ウィトゲンシュタイン哲学に関するすべての問題が扱われているわけではない。私は読者を、私の理解するウィトゲンシュタイン哲学の中核へといざないたいと思った。同じ理由で、思想の影響関係の詮索も、ほとんど行なわなかった。私は、私自身が読者とウィトゲンシュタインをつなぐ|梯子《はしご》となることを願ったのである。もちろんその梯子は、昇りきった後は投げ捨てられるべき梯子にすぎない。
当然のことながら、この本は何の予備知識も仮定していない。よく考えれば、必ずわかるように書いたつもりである。しかし、この「よく考えれば」という限定は文字どおりに取って欲しい。この本は「わかりたいあなたのために」ひたすら「わかりやすく」書かれてはいない。わかりにくい問題をわかりやすく伝えるために最大の努力はしたつもりだが、問題そのものをわかりやすくすることなどは、はじめから考えもしなかった。考えつつ読み、ときに立ち止まって考える[#「ときに立ち止まって考える」に傍点]、という過程を省略しないでいただきたい。問題の本質を伝えるためにことがらを単純化し、正確さや厳密さを犠牲にすることを|厭《いと》いはしなかったが、問題の本質そのものは、少しも水準を下げずに伝えたつもりである。問題そのものをわかりやすくしてしまうような入門書なら読まない方がよい、と私は思っている。それは、一つの哲学説を、すでに知っている問題に対する解答へと引き下げてしまうからである。
こう言うと、読者の皆さんは驚かれるかも知れないが、哲学にとって、その結論(つまり思想)に賛成できるか否かは、実はどうでもよいことなのである。重要なことはむしろ、問題をその真髄において共有できるか否か、にある。優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。このことはどんなに強調してもし過ぎることはない。なぜなら、すべての誤解は、哲学者の仕事を既成の問題に対する解答と見なすところから始まるからである。
したがって、本格的な哲学説に関して、それをその真髄において批判したり乗り越えたりすることは、実は不可能なことなのである。なぜなら、問題を共有してしまえば、もはやその問題を超えることはできず、それができると感じる人は、そもそも問題を共有していない(ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「別の世界に住んでいる」)人だからである。本当に理解できたならもう決して超えることができない――ここに哲学というものの素晴らしさと恐ろしさがある。
ある哲学者と問題[#「問題」に傍点]を共有したとき、それによって世界の見え方が変わり、人生の意味が変わる。だが、世界の見え方も、人生の意味も、一般的に言って変えるべき理由はないし、またとりわけ、ウィトゲンシュタイン的に変えるべき理由は全然ない。どんな哲学も、その真髄は少数の人にしか理解されない、というより、そもそも少数の人にしか関わりを持たない。だが、もしウィトゲンシュタインがあなたに関わりを持つとすれば、それを知らずに人生を終えることは、無念なことではないか。そのために、この種の「入門書」があると言えるだろう。
もしあなたが、この本の中に何か自分にひっかかるものを発見したなら、その後はウィトゲンシュタイン自身の著作や、もっと本格的な解説書・研究書に進んでいただきたい。もしそういう発見がなかったならば、その人は多分、ウィトゲンシュタイン的問題とは――少なくとも私の理解するそれとは――無縁だったのである。
執筆に際して、先行の諸研究を参照させていただいたことは言うまでもないが、少ない紙幅を有効に使うために、他の解釈への言及や批判はいっさい行なわず、ただひたすら私の理解するウィトゲンシュタインをストレートに提示することにした。誤りなきを期して、草稿の一部を野矢茂樹氏に校閲していただいたが、筆者の力と本書の志を過信した氏の過大な要求に恐れをなして、全部校閲してもらうことは断念した。信州大学人文学部、および本書の構想・執筆中に集中講義の機会があった九州大学文学部と筑波大学第二学群の学生諸君から、種々の貴重な意見をいただいた。それぞれの皆さんに、感謝します。
†引用および参照について[#「†引用および参照について」はゴシック体]
ウィトゲンシュタインからの引用は、断章体のものはその節の番号により、それ以外のものは邦訳書の頁による(ただし、訳文はすべて筆者による拙訳である)。引用した邦訳書は、青土社から出ている『反哲学的断章』(『断章』と略記)を例外として、他はすべて大修館書店版『ウィトゲンシュタイン全集』に含まれている。
邦訳書の略記法と、それが収められている大修館書店版全集の巻数を以下に示す。
[#ここから1字下げ]
[略記] [邦訳書名]……[巻数][#「[略記] [邦訳書名]……[巻数]」はゴシック体]
『草稿』 『草稿一九一四―一九一六』……第一巻
『論考』 『論理哲学論考』……第一巻
『考察』 『哲学的考察』……第二巻
『文法』 『哲学的文法1』……第三巻
『学団』 『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』……第五巻
『講演』 『倫理に関する講演』……第五巻
『青本』 『青色本』……第六巻
『基礎』 『数学の基礎』……第七巻
『探究』 『哲学探究』……第八巻
『確実性』 『確実性の問題』……第九巻
『断片』 『断片』第九巻
『心理』 『心理学の哲学1』……補巻第一巻
[#改ページ]
序章[#「序章」はゴシック体] ウィトゲンシュタインの光と陰[#「ウィトゲンシュタインの光と陰」はゴシック体]
[#改ページ]
[#ここからゴシック体]
[#ここから3字下げ]
歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『草稿』)
[#ここでゴシック体終わり]
[#扉裏(img/front1.jpg)]
†出会い[#「†出会い」はゴシック体]
いろいろな機会に何度か見かけ、あいさつ程度の会話はかわすようになっても、それほど深く気にとめはしなかった人物が、ある日突然、自分の人生を決定するほどの重要性をもって立ち現れる、そういう体験はないだろうか。私とウィトゲンシュタインとの出会いは、そういう体験に似ていた。
そのころ、私がウィトゲンシュタインについて知っていたことといえば、初期には『論理哲学論考』という論理的に組み立てられた命題集のような本を書き、論理実証主義なる思想運動に影響を与えたが、後期には『哲学探究』という非論理的な断想集のような本を書き、今度は日常言語学派なるグループに影響を与えた、といった程度のことであった。
しかしその後、大学の授業その他の事情によって、あいさつ程度のつき合いをするようになるうち、ある日たまたま、大森荘蔵氏の訳された『青色本』を読んで「あっ」と思った。そこには私が幼い頃から心に秘めていた問題が、実に端的に表現されていたからである。
デカルト、バークリー、シュティルナー、キェルケゴール、フッサール、大森荘蔵ら、その問題に関係がありそうな「哲学」の本を読んでは、かゆい足を靴の上から掻いているような物足りなさを感じていた私は、自分が本当に知りたい問題は「哲学」では扱われていないのだ、となかば|諦《あきら》めかけていた。だが、このような|錚々《そうそう》たる面々が最も重要な(と私には思われた)問題を取り逃がしているように見えることが不思議でならなかった。そのとき、あの顔見知りのウィトゲンシュタインさんが、実は私がいちばん知りたかったことをすでに論じていたことを知ったのである。
しかし、私がウィトゲンシュタインに読み取った内容は、通常ウィトゲンシュタインの名の下に論じられている問題とは違っていた。はじめのうち、私は私の読んだウィトゲンシュタインと世の中で普通に理解されているウィトゲンシュタインを結びつけるのに苦しんだが、比較的最近になって、ある統一的なウィトゲンシュタイン像が描けるようになり、逆にそれ以外の像を結ばなくなった。この本はその粗いスケッチでもある。
では、私の心を捉えていたその問題とは何か。まず、それをできるだけ素朴に表現してみよう。
†「私」の存在――私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか[#「†「私」の存在――私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」はゴシック体]
それは、かんたんに言えば、「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という問いであった。小学校の三、四年生のころ、自分でも問いの意味がよくわからないながら、よくそんなことをぼんやりと考えていたのを覚えている。小学校高学年から中学生になるころには、もっと明確に「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」という疑問をしばしば考えた。無数にいる人間といわれる生き物の中に、自分という特別のあり方をしているやつが一人だけいて、こいつ[#「こいつ」に傍点](両親によって永井均と名づけられた一人の少年)がそれである、ということが不思議でならなかった。だが、もっと不思議なことは、まわりの誰もそんなことを不思議がっているようには見えなかったし、学校の勉強では、どの教科でも、いつまでたっても、そんな問題をとりあげそうにない、ということだった。
そんなことを考えていたある日、私はさらに不思議なことを思いついた。まわりの誰もそんなことを不思議がっているようには見えない、と言ったが、その「そんなこと」とはいったい何だろう。私自身とまわりのみんなに共通の「そんなこと」など、ことの本質上、ありえないのではないか。まさにそのことがこの問題の特徴なのではないか。そして、それだからこそ「まわりの誰もそんなことを不思議がっているようには見えない」のではないのか。この問題は、ことの本質上、自分だけの問題なのではないか。
この思いつきは私を(大げさにいえば)|戦慄《せんりつ》させた。こんな話は誰にも通じそうもないと思ったので、もちろん誰にも言わなかったが、中学二年のとき、ただ一度だけ、この
疑問を、もっと素朴なかたちで、友人の一人に提出してみたことがあった。それは「僕はなぜ生まれて来たのだろう」という問いである。この問いならば、ひょっとしたら他の人に通じるかもしれない、という気がしたのである。だが、私の期待はみごとに裏切られた。聡明で知的にきわめて早熟であったその友人は、私の問いに「両親がセックスしたからだ」と答えたからである。
私は「僕が生まれて来る以前には、両親はまだ単なる二人の男女にすぎないではないか。単なる二人の男女がセックスをしたからといって、どうして僕が[#「僕が」に傍点]生まれてくる理由があるだろうか」という意味のことを(もっとしどろもどろに)言って反論したが、友人は結局その問いの意味を理解しなかった。あるいは、理解しなかったのではなく、理解はしたが深刻な意味のある問いとは思えなかったのかもしれない。哲学的な問いの理解にとって、この二つの区別は常に|曖昧《あいまい》なのである。
私が言いたかったのはこういうことだ。これまで無数の男女がセックスをして、無数の子どもが生まれてきた。これからも生まれてくるだろう。そのうち一人が私であった。しかし、私など生まれてこないこともできたはずである。現に一九五一年までは、私がいない世界が続いていたし、二一〇〇年には、またまちがいなく私のいない世界が存在し続けるであろうから。しかし、どういうわけか、私は生まれ、今ここにこうして存在している。そして、それは永井均という名づけられたこの人間が生まれたということとは別のことである。なぜなら、永井均という名のその[#「その」に傍点]人間が生まれていながら、それが私でなく他人(というよりむしろ単なる一人の人間)にすぎない、という状況は十分考えられることだからである。
だからこの問いは、実のところは、「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」という先の問いと同じ問いなのである。似たような体験を重ねるうち、私は自分の問題が「哲学的な」問題であるにちがいない(つまり「哲学」というものを勉強すれば何か答えが与えられているにちがいない)と信じるようになった。「両親がセックスしたから」というのは、いわば科学的な解答なのである。これと本質的に同種の解答なら、いくらでも可能であろう。それらは、永井均と名づけられた人間が生まれ、自己意識を持つにいたる過程について、完璧な科学的描写を与えることができるはずである。だが、そうしたものはどれも、私の問いに対する答えではないのだ。
†ウィトゲンシュタインの場合[#「†ウィトゲンシュタインの場合」はゴシック体]
哲学を学び始めたころ、私は現象学や実存哲学にその答えがあるにちがいないと信じていた。そのころ私は、問題を私と他者(私でない人間)との違いという形でとらえており、むしろ他者の存在の方に問題を感じていた(あるいは感じていると誤解していた)からである。フッサールからメルロ=ポンティにいたるこの系譜の人々の仕事の中に、実は私の問題がまったく扱われていないことを知るのに、それほどの時間はかからなかった。『青本』と出会ったのはちょうどそのころ、一九七五年の秋のことであった。たとえば次のような文章である。
[#2字下げ] 私は私の|独我論《どくがろん》を「私[#「私」に傍点]に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語でL・ウィトゲンシュタインを意味してはいない。だが私がたまたま今、事実としてL・ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語はL・ウィトゲンシュタインを意味すると理解するとしても、それで不都合はない」と。(中略)しかし注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということである。他人は「私[#「私」に傍点]が本当に言わんとする[#「言わんとする」に傍点]こと」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。
[#地付き](『青本』一一七頁)
私が何よりも感動したのは、「他人は『私[#「私」に傍点]が本当に言わんとする[#「言わんとする」に傍点]こと』を理解できてはならない、という点が本質的なのである」という最後の一文である。私の解するところでは、ウィトゲンシュタインの哲学活動のほとんどすべてが、陰に陽に、この洞察に支えられて成り立っている。むしろ、彼はこの洞察から哲学を開始したとさえ言えるのではないだろうか。それは画期的と言ってよいが、しかし哲学の歴史に一時期を画するという意味でそうなのではない。哲学の歴史などというつまらないものを全部いっぺんに吹き飛ばすほどに、画期的なのだ。少なくとも、私にとってはそうであった。しかし、ウィトゲンシュタインの専門研究者にさえ、この主張の意味が十分に理解されているとはとても思えないし、現在の私自身にも、その深い意味を十分に解きほぐすだけの力はない。
†ウィトゲンシュタインの独我論[#「†ウィトゲンシュタインの独我論」はゴシック体]
ところで、ウィトゲンシュタインが問題にしている独我論とは何だろうか。彼はそれをここでは「私[#「私」に傍点]に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と表現したが、たとえば「私の意識だけが唯一ほんとうに存在するもので、他のいっさいは私の意識へのあらわれである」と表現してもかまわない。独我論とは、文字どおり「私だけが存在する」という主張だが、「私だけが存在する」という主張の真意は、もし私が存在しないとすれば、ある意味でそれは、何も存在しないのと同じである、という点にある。そう理解すれば、それは誰にとっても一応は[#「一応は」に傍点]納得のいく(ある意味では[#「ある意味では」に傍点]理解ができる)主張ではないだろうか。
だが、問題はその先にある。独我論をめぐってはさまざまの議論がなされてきたが、ウィトゲンシュタイン以前と以後とでは、問題の問題性そのものが一変してしまった。以前には、「私に見えるもの」や「私の意識」の外にあるものが存在すると言えるかどうかが、独我論をめぐる最大の問題であった。そして、そうしたものが存在すると言えれば、独我論は否定されると考えられていた。今ではそうではない。そんなことが言えても、独我論が否定されはしない。問題の焦点は、独我論を語ることのできる「私」とはいったい誰なのか、という点にある。
注意深く読めば、ウィトゲンシュタインの独我論の表現それ自体が、すでにこの移行を示している。「私[#「私」に傍点]に見えるものだけが真に見えるものである」という主張は、私に見えないもの(つまり私の意識の外)との対比で語られた主張ではなく、他人に見えるものとの対比で語られた主張であり、そのうえ、他人に見えるものもまた、ふつうの意味では[#「ふつうの意味では」に傍点]見えるものであることが、当然のこととして認められているからである。問題はただもっぱら、そういうふつうの意味で、ものを見ているといえる無数の意識主体たちのうち、今ここでほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]ものを見ているこの私をどう区別できるか、という一点に集中している。「私[#「私」に傍点]に見えるものだけが……」と強調されたその「私」とは何であるか、それが問題のすべてなのである。
その「私」は、事実としては(他人から見れば)L・ウィトゲンシュタインという一人の人物でしかないだろう。だが、当人の意図としては、L・ウィトゲンシュタインという固有名で指せる特定の人間を指して使われているのではない。それは、すでに述べた意味で、その特定の人間との結びつきに必然性がないような、そういう「私」を意味しているのである。
しかし他方で、その「私」は、特定の人間との結びつきに必然性がない自我のことを、一般的に意味しているのではない。そういう脱人格的自我なら、どの人間に関しても一般的に想定可能である。たとえば、記憶喪失に陥って自分が誰であるかはわからなくなっても、たくさんの意識主体のうちから自分自身を識別することは可能である。誰にとっても可能である。
だが問題は、一般的に想定できるそういう自我たちのうちの一つが、他の自我たちとはまったく違ったあり方をしたこの[#「この」に傍点]私である、という点にあるのだ。だから、問題の「私」は、あくまでも今ここにいるこの[#「この」に傍点]私ただ一人を意味しているのである。
それゆえ、問題になっている「私」を言葉で語るときには、どうしても二種の限定が必要になる。一方でそれは、「私」という指示詞がふつうに使われる場合のように、特定の人間を指示しているのではない。他方でそれは、特定の人間との結びつきに必然性がない、一般的な脱人格的自我のことを意味しているのでもないし、その任意の[#「任意の」に傍点]一例を指すのでもない。――独我論の「私」は、そういうものでなければならないのだ。だが、ウィトゲンシュタインは、そういうものについての発言は、他人にはけっして理解されないということが本質的なのだ、と言う。
「独我論の語り」に関する彼のこの洞察に触れて、私は私自身の問題(と問題の理解されなさ)の意味をはじめて理解することができた。現象学者たちは、この問題が終わった後の一般的な自我(とその任意の一例であるかぎりでの自分)について語っていたのだ。同時に私は、ウィトゲンシュタイン自身の哲学の本質をつかんだような気がした。ウィトゲンシュタイン解釈者たちもまた、現象学者たちと同じ地点から思考を始めるので、彼がその光の部分でそもそも何を断念し、何を「語りえぬもの」と見なしたのか、がちっとも理解されない。だから、「言語ゲーム」とはこの断念によって成立するものなのだが、その言語ゲームの内に何が隠されて=示されているのかも、ちっとも理解されない。――私にはそう思われたのである。
†超越論的(先験的)主観[#「†超越論的(先験的)主観」はゴシック体]
この「私」はまた、いわゆる|超越論《ちようえつろん》的(|先験《せんけん》的)主観ともまったく違う。超越論的主観とは、素材としての世界に意味を賦与することによって世界を意味的に構成する主観である。それは、たとえば眼の前の机を見ているとき、与えられた色や形の感覚を素材にして「机」という意味のまとまりを創り出していく、という風にして、結局、世界全体を意味的に構成していく主体である。世界全体の中には、意識の対象となりうるすべてが含まれるから、当然、自分自身の身体や精神も含まれる。それゆえ、超越論的主観は先に述べたような意味での脱人格的自我(特定の人間と結びつかない自我)という面をもつことになる。
ウィトゲンシュタインは、そのような主体をまったく想定していない。イメージ的に言えば、むしろその逆の主体を考えた方が近いだろう。つまり、すでに「机」「地球」「恋愛」「日本」「永井均」といった意味に満ちた世界に対して、一挙に実質(それが実現するための素材)を賦与することによって、形式としての世界を現実のこの世界(=私の世界)として存在させる[#「存在させる」に傍点]主体、というようにである。
『草稿一九一四―一九一六』の中には、たとえば次のような文章がある。
[#ここから2字下げ]
歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。私は、私が[#「私が」に傍点]世界をどのように見たか、を報告したい。
世界の中で世界について他人が私に語ったことは、私の世界経験のとるにたらない付随的な一部にすぎない。
私が世界を判定し、ものごとを測定しなければならない。
哲学的自我は人間ではない。人間の体でも、心理的諸性質をそなえた人間の心でもない。それは、|形而上学《けいじじようがく》的主体であり、世界の(一部なのではなく)限界なのである。人間の体はしかし、とりわけ私の[#「私の」に傍点]体は、世界の他の部分、つまり動物、植物、岩石、等とともに、世界の一部である。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『草稿』二七一頁)
このように語るとき、ウィトゲンシュタインは一般的な超越論的主観を念頭に置いているのではない、ということを理解しておかねばならない。
ところで、『青本』は『探究』に先行する講義であり、『草稿』は『論考』に先行するノートである。いずれも、公刊を意図されたものではない。そして、この問題をめぐるウィトゲンシュタインの悪戦苦闘の跡は、公刊された『論考』においても、公刊を意図して書かれた『探究』においても、きれいに削られている。このことの意味は大きい。彼の哲学の基本図式は、「語りうるもの」と「語りえぬもの」との対比からなるが、独我論をめぐる論議のすべては「語りえぬもの」に属することになるからである。だが、「語りえぬもの」とは何か? それを理解するためには、彼がほんとうに語りえなかったものが、語りえなかったにもかかわらず、いや語りえなかったからこそ、ある仕方で、あらかじめつかまれていなければならないのである。
つまり、光のウィトゲンシュタインと、陰のウィトゲンシュタインが居るのだ。そして、彼の公式の見解によれば、われわれにできることは、光のあたる範囲に限界を引くことによって、陰の範囲を画定することだけである。だが本当は、何らかの仕方であらかじめ陰の存在に触れた者だけが、光の限界の意味を理解しうる――とも言えるのである。
†超越論的(先験的)哲学[#「†超越論的(先験的)哲学」はゴシック体]
ところで、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」は二種類に分類できる。その点について、ここであらかじめ簡単な見取図を与えておこう。(ただし、これから述べることはあくまでも見取図であるから、これだけ読んでよくわからなくても、まだ立ち止って考えるには早すぎる。大まかなイメージが浮かんだなら、すぐに先へ進んでいただきたいと思う)。
第一は、前期における論理の形式や、後期における生の形式など、世界に関して一般的に関係するという意味で「|超越論的《トランスツエンデンタール》(先験的)なもの」と総称できる「語りえぬもの」の領域である。先に触れた「超越論的(先験的)主観」とはもちろん、そのような仕方で世界を意味的に構成する主観のことであった。第二は、倫理的善悪や宗教的な存在、あるいは形而上学的問題など、総じて世界を超えているという意味で「|超越的《トランスツエンデント》なもの」と総称できる「語りえぬもの」の領域である。ウィトゲンシュタインの独我論は、むしろこちらに関係する。
ところが『論考』のウィトゲンシュタインは、この両者をともに「語りえぬもの」と呼んだだけでなく、両者をともに「|超越論的《トランスツエンデンタール》(先験的)」と形容していた。その理由は、「トランスツェンデンタール」に「超越論的」と「先験的」という二つの訳し方がある理由とともに、第2章で説明しよう。今は、答えだけを断定的に述べておく。第一の先験的な語りえぬものと、第二の超越的な語りえぬものとは、これまで述べてきたような意味での「私」(先の引用文では「哲学的自我」とか「形而上学的主体」とかいわれている)の存在を媒介にして、いわば神秘的に結合されているのである。そのことがこの「哲学的自我」を超越論的(先験的)主観と混同させることになった。
この点に関連して、その後の思想展開を、あらかじめ少々図式的に要約しておこう。前期、中期、後期を通して、ウィトゲンシュタインは、倫理、宗教、形而上学、独我論、といった超越的な語りえぬものについての直観をほとんど変えなかった。どのように語りえないか、その位置づけ方に変化があっただけである。しかし、世界の形式である先験的な語りえぬものについての見解は、前期、中期、後期を通じて、大きく変化・進展した。ウィトゲンシュタイン哲学の展開過程とは、実のところは、もっぱらこの部分の進展なのである。「論理」「文法」「生(活)」にそれぞれ「形式」という語を付与したもの――論理形式、文法形式、生活形式――が、それぞれの時期の語りえぬものを示している。それらがどのような内容をもち、どのように変化していくのかを、これから見ていくことにしよう。
[#改ページ]
第1章[#「第1章」はゴシック体] 生い立ち[#「生い立ち」はゴシック体]
[#改ページ]
[#ここからゴシック体]
[#ここから3字下げ]
人間が意志をはたらかすことができず、しかしこの世のあらゆる苦しみをこうむらなければならないと仮定したとき、彼を幸福にしうるものは何か。
この世の中の苦しみを避けることができないのだから、どうしてそもそも人間は幸福でありえようか。
ただ、認識の生を生きることによって。
良心とは認識の生が保証する幸福のことだ。
認識の生とは、世の中の苦しみにもかかわらず幸福であるような生のことだ。世の中の楽しみを断念しうる生のみが幸福なのだ。
世の中の楽しみは、この生にとって、たかだか運命の恵みにすぎない。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『草稿』)
[#ここでゴシック体終わり]
[#扉裏(img/front2.jpg)]
†出生と家族[#「†出生と家族」はゴシック体]
ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインは、一八八九年四月二六日、ウィーンで生まれた。M・ハイデガー、A・ヒトラーが生まれたのと同じ年である。父カールは、ユダヤ人だがプロテスタントであり、オーストリア鉄鋼業界の大物で、一家は大ブルジョア家族であった。母レオポルディーネは、半分ユダヤ人だがカトリックであり、子供たちは全員カトリックの洗礼を受けた。われわれの主人公ルートウィッヒは、八人兄弟の末っ子であった。兄四人、姉三人のうち、長男、三男、次男は、その後、あいついで自殺する。片腕のピアニストである四男パウルと、五男ルートウィッヒも、終生、自殺の誘惑と闘い続けたようである。
父カールは、M・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」を地で行ったような人物で、後に反ユダヤ主義の台頭をうながす時代背景の一つがそこに現れている。母レオポルディーネは、自身がピアニストでもあり、多くの芸術家、とくに音楽家を自宅に招いて華やかな社交をくりひろげた。街には食うや食わずの労働者たちがあふれかえっていたが、ウィトゲンシュタイン家は「ウィトゲンシュタイン宮殿」と呼ばれ、ウィーン社交界の中心であった。
長女ヘルミーネは絵画に才能を示し、当時の新興芸術運動の担い手であったG・クリムトに師事した。長男ハンスは、音楽に才能を示し、その道に進もうとしたが、父に後継ぎになることを強要され、一九〇二年に二四歳で自殺する。三男ルドルフは、演劇の道に進もうとするが、一九〇四年にやはり自殺。次男クルトはチェリストであったが、一九一八年にロシア戦線において、これまた自殺する。三女マルガレーテはフロイトの友人であって、ショーペンハウアーやキェルケゴールなどの哲学書にも親しみ、ルートウィッヒにも影響を与えた。自殺しなかった四男のパウルは、ロシア戦線で右腕を失ったが、片腕のピアニストとして大成し、シュトラウス、ラベル、プロコフィエフが、彼のために左手のためのピアノ曲を作曲した。
†ウィトゲンシュタインのウィーン[#「†ウィトゲンシュタインのウィーン」はゴシック体]
オーストリア・ハンガリー帝国の首都であった世紀末のウィーンに花ひらいた豊かな芸術文化の数々を描き出すのは、その方面の著作にゆずらざるをえない(この方面に興味をおもちの方は、S・トゥールミン、A・ジャニク著『ウィトゲンシュタインのウィーン』藤村龍雄訳、TBSブリタニカ刊、を読まれることをお奨めする)。ウィトゲンシュタインとの関わりという点で、指摘しておかねばならないのはユダヤ人の問題と性の問題であろう。
この芸術文化の担い手の多くは、当地に住み着いてプロテスタントに改宗した裕福なユダヤ人たちであった。輩出した多くの才人のうち、ウィトゲンシュタイン自身がその影響を認めた人物にカール・クラウスがいる。彼は当時のウィーンを代表する文筆家で、作者自身の誠実な表現でないような、道徳性から|乖離《かいり》した芸術文化のあり方を強く批判した。手元に多くの本を置く習慣のなかったウィトゲンシュタインは、ノルウェーに引きこもっって哲学に集中したとき、エンゲルマンにとくに頼んでクラウスの作品を送ってもらっている。
性について公的に語ることは、当時、|羞恥《しゆうち》と|禁忌《きんき》の対象とされていたが、そのことによってかえって、何か秘義的な重要性を持つものとして大いに語られていた。つまり、この時代、M・フーコーのいう「性の言説化」は頂点に達していたのである。その傾向に明確な形を与えたのが、O・ワイニンガーとS・フロイトであり、ウィトゲンシュタインは彼らの著作を、反発を感じつつも愛読した。
†青年時代の彷徨[#「†青年時代の彷徨」はゴシック体]
ウィトゲンシュタイン家の子供たちは、一般民衆の行く公立の小学校には行かず、家庭教師によって教育された。しかし、ルートウィッヒの興味は、そうした勉強よりも機械工作に注がれた。一九〇三年から一九〇六年までの三年間、一四歳から一七歳まで、彼はリンツの高等実科学校で学ぶことになる。一九〇〇年から一九〇四年までの間、ヒトラーも在籍していた学校である。実科学校とは、古典的な教養教育を中心とするギムナジウムとは違い、数学や科学の教育を中心とし、実務的な仕事につかせることを目的とする学校である。おそらくは育ちの違いからであろう、実科学校の生徒たちにとって、ウィトゲンシュタインはかなり浮いた[#「浮いた」に傍点]存在だったようである。級友を親称の二人称 (du) でなく敬称の二人称 (Sie) で呼んで、笑いものにされたりした。また、成績もかんばしくなかった。
卒業後、彼はウィーン大学のボルツマンのもとで物理学を学ぶことを希望したが、ボルツマンの自殺や彼自身の学業成績のためかなわず、ベルリンのシャルロッテンブルクの工科大学で機械工学を学ぶことになった。一年間そこで学んだ後、一九〇八年の春、イギリスに渡り、高層大気観測所で凧による実験研究に従事するが、秋にはマンチェスター大学工学部に研究生として入学し、航空工学を専攻する。この間に、彼の関心は、数学を使ったエンジンやプロペラの設計から数学そのものへ、さらには数学基礎論と論理学へと移っていく。
一九一一年、彼はまず、イエナ大学のフレーゲの門をたたいたが、フレーゲのすすめにより、秋にはケンブリッジ大学のラッセルを訪ね、そのもとで学ぶことになる。ラッセルとホワイトヘッドの共著『数学原理』が出た翌年のことである。ラッセルはこの時の模様を次のように語っている。「私は、はじめは彼が天才なのか変人なのかよくわからなかったが、すぐに前者であるに違いないと思った」と。
しかし、ウィトゲンシュタインは、一九一二年の春頃までは、まだ自分の進路を決めかねていたようである。彼は学期の終わりにラッセルのところにやって来て「ぼくを完全な馬鹿者と思いますか?」と聞いた。なぜそんな質問をするかと尋ねるラッセルに、彼は「もしそうなら飛行機乗りになるし、そうでなければ哲学者になるつもりだ」と答えた。ラッセルは休暇中に哲学の問題について何か書いてくるように勧め、彼は言われたとおりにした。ラッセルは最初の一行を読むや「どんなことがあっても飛行機乗りになってはならない」と宣言したという。
†『論考』への道[#「†『論考』への道」はゴシック体]
それから翌年の秋までの間に、彼はラッセルの論理学を驚くべき速さで吸収し、二人は瞬く間に師弟というよりは対等の議論相手となっていく。この時期のウィトゲンシュタインについて、ラッセルの語るエピソードの一つを紹介しよう。
「彼はいつも真夜中に私の所にやって来て、部屋の中を何時間も|檻《おり》の中の獣のように行ったり来たりした。来るなり彼は『部屋を出たら自殺する』と言うので、眠くなるにもかかわらず、追い出すわけにはいかなかった。ある夜、私は彼に『君は論理学のことを考えているのか、それとも自分の罪のことを考えているのか』と尋ねた。『両方です』と言ったきり、再び沈黙に戻るのだった」。
だが、ラッセルはまた、こうも述懐している。「彼と知り合いになったことは、私の人生で最も刺激的な知的冒険の一つであった。……彼の思考は、ほとんど信じられないほど情熱的で|強靱《きようじん》な洞察力を持ち、私はそれに心から驚嘆したのである」。
ウィトゲンシュタインは、この頃から論理学だけではなく、哲学の他の分野の本も読み始め、G・E・ムーアの講義にも出席し、経済学者J・M・ケインズの知己も得た。また同じ頃、彼と同じトリニティー・コレッジに属していた数学の学生デヴィット・ピンセントと親密になり、一緒にアイスランドやノルウェーへ旅行する。ノルウェー滞在中に前期の主著『論理哲学論考』の論理学的部分に関する構想ができ、一九一三年一〇月ケンブリッジでラッセルに会って、彼の考えを説明する。その時の記録が「論理に関するノート」(『全集1』に所収)である。ピンセントは第一次大戦で戦死し、『論考』はその思い出にささげられることになる。
ラッセルとの面会後、彼は再び、だが今度は一人で、ノルウェーに戻り、そこに滞在して思索を続ける。その頃の状態を、ラッセル宛ての手紙から引用しよう。「ぼくの日々は、論理、口笛、散歩、憂鬱の間を揺れています。すべてが究極的に明らかになるよう、もっと理解力を持つことを、神に懇願したい。そうでないと、もう長くは生きられないでしょうから」。
しかし、その後、彼は手紙のやりとりの中で、一時ラッセルと喧嘩をしたらしい。彼の絶交状のような手紙に対して、ラッセルはなおも親愛に満ちた返事を書いた。それに対するウィトゲンシュタインの返事は、全文を引用するに値するものだが、残念ながらこの小著ではそれはできない。彼は、価値判断が問題になる場合には、自分たちの間には偽善か対立しかありえないと言い、この領域を交際から除外することを提案する。「双方が純粋でありうる領域においてのみ、すなわち、相手を怒らせることなく完全に[#「完全に」に傍点]率直でありうる領域においてのみ、交際すべきです」。「しかし、根底に偽善を宿し、それゆえ二人にとって恥ずべきものであるような、そういう交際を今後も続けるなら、ぼくのあなたに対する愛は危機に|瀕《ひん》するでしょう」。年齢と地位と立場の隔たりを考慮に入れるなら、双方の[#「双方の」に傍点]この|真摯《しんし》さ率直さは、驚嘆に値するものである。
一九一四年の春には、今度はG・E・ムーアが彼に会うためにわざわざノルウェーまでやって来て、十五日間滞在する。このときのムーアがとったノートが「ノルウェーでG・E・ムーアに口述筆記させたノート」(『全集1』に所収)である。そこには、「|写像《しやぞう》理論」と並ぶ『論考』の言語論の二つの支柱の一つである「真理関数の理論」が、すでに姿を見せている。ムーアがケンブリッジに帰ってから、ウィトゲンシュタインはB・A(文学士)の学位を取るために、「論理」という論文をケンブリッジ大学に提出するが、序文と註がないことを理由に、受理されない。このことをめぐって、今度はムーアとの間に絶交状態が始まるのである。
†従軍[#「†従軍」はゴシック体]
一九一三年の一月に父カールが亡くなったため、ウィトゲンシュタインは莫大な遺産を相続していた。一九一四年の七月、彼は文芸誌『ブレンナー』の編集者L・フィッカーを通じて、オーストリアの貧しい芸術家たちに、その三分の一を寄付することにした。それがきっかけとなって、フィッカーの紹介によって建築家A・ロースと知り合い、後に、そのロースの紹介で弟子のP・エンゲルマンとも知り合うことになる。同じ七月の末、第一次世界大戦が勃発する。ウィトゲンシュタインは、ノルウェーに新しく建てた山小屋にこもって研究を続行する計画を断念し、自ら兵役を、しかも最前線への配属を志願し、祖国オーストリア・ハンガリー帝国のために勇敢に闘い、相当の戦果をあげる。その間、ラッセルの方は反戦運動に没頭した。
従軍中の出来事として特筆すべきことは、たまたま立ち寄った小さな街でトルストイの『要約福音書』と出会ったこと、および『草稿一九一四―一九一六』を書き始めたことである。トルストイのこの書は、キリスト教を特殊な神の啓示としてではなく、個人の生に意義を与える教えとして記述したものであり、以後、彼はトルストイに傾倒することになる。『草稿』の始めの方は、もっぱら論理学的な諸問題の検討に当てられており、一九一四年九月の草稿には「真理関数の理論」と並ぶ『論考』言語論のもう一つの支柱である「写像理論」が、すでに姿を現している。パリの法廷で現実の交通事故のようすが人形を使って再現されることを雑誌で読み、思いついたと言われている。この『草稿』には『論考』に直接取り入れられた文章も多く、『論考』は『草稿』の背景のもとに理解されるべきものなのである。
『草稿』の内容は、一九一六年六月あたりから、論理的なものから倫理的なものに変化する。『論考』の六・四二二に取り入れられた七月三〇日のノートと、『論考』には取り入れられなかった八月二日のノートを紹介しておこう。
[#ここから2字下げ]
「|汝《なんじ》……をなすべし」という形の倫理法則が立てられるとき、まず思い浮かぶのは「もし私がそうしなければどうなるのか」ということである。しかし、明らかに、倫理は普通の意味での賞罰とは関係がない。したがって、行為の帰結に関するこの問いは、つまらぬ問いであるはずである。――少なくとも、その帰結は出来事であってはならない。この問いの立て方にも多少の正当性はあろうから。確かに、ある種の倫理的賞罰は存在するに違いない。が、それは行為それ自体の中になくてはならないのである。
(そして、また明らかに、|褒賞《ほうしよう》は快適なもの、懲罰は不快なものでなくてはならない。)
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『草稿』二六三―四頁)
[#ここから2字下げ]
私以外に生きものがいないとき、倫理はありうるか。
もし倫理が根本的なものであるならば、ありうる!
私が正しければ、ただ世界が存在するだけでは、倫理的判断は為しえない。
その場合、世界は、それ自体において、善くも悪くもない。
その世界に生きものがいるかいないかは、倫理の存在にとってはどちらでもよいことでなければならないからだ。そして、生きもののいない世界は、それ自体において、善くも悪くもないことは明らかであり、したがって、生きもののいる世界もまた、それ自体においては善くも悪くもありえない。
善悪は、主体によってはじめて成立する。そして主体は世界には属さない。それは世界の限界なのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『草稿』二六五―六頁)
一九一八年夏、休暇中に『論考』は完成する。二九歳の時である。すぐにヤホダ・シーゲル社に出版交渉を開始するが、失敗。『論考』の原稿をもって戦線に復帰した彼は、一一月にトレント近郊でイタリア軍の捕虜となるが、捕虜期間中も『論考』の手直しを続けた。一九一九年六月、最終決定稿をラッセルに送り、直接会って説明したい旨を伝えた。八月に釈放された彼は、まず遺産の残りをすべて、生き残ったただ一人の兄パウルと姉たちに譲り、以後、きわめて質素な生活を送るようになる。福音書の教えに従ったのかもしれない。『新約聖書』に関して、彼はパウロ書簡を拒絶し、いわゆる共観福音書を、とくにマタイを好んだ。
†教員養成学校[#「†教員養成学校」はゴシック体]
一九一九年九月、ウィトゲンシュタインは、姉のマルガレーテの紹介でウィーン市内の教員養成学校に入学する。しかし、その直後から、後に述べる『論考』の出版交渉の難航も手伝って、彼の精神状態は悪化する。エンゲルマン宛ての書簡から拾ってみよう。
「ぼくがどんなに堕落しているかということは、すでに何度も自殺を考えたということからわかって頂けるでしょう」(一九年一一月一六日)。「最近のぼくの状態は、とても悲惨なものだ。いつか悪魔がぼくを連れ去りに来るのではないか、とおびえているところだ」(二〇年四月二四日)。「最近、ぼくはまったく悲惨な状態にある。もちろんそれは、ぼく自身が下劣でふしだらであるからにすぎない。これまでいつも自殺を考えてきた。そして今もまた、ぼくの中で自殺への思いがうごめいている。……」(同年五月三〇日)。「ぼくは今、これまでもしばしば陥った、非常に恐ろしい状態にある。つまり、ある事実を乗り越えることができない状態だ」(同年六月二一日)。
W・W・バートリーによれば、その原因は彼の同性愛にあったようだ。教員養成学校へ通うために借りた部屋の近くに「彼を性的に満足させてくれる粗野な若者たち」がおり、彼はその誘惑に|克《か》てなかったという。いくつかの反論にも関わらず、私にはバートリーのこの調査結果は真実であるように思われる(興味のある方は、W・W・バートリー著『ウィトゲンシュタインと同性愛』小河原誠訳、未来社刊、を見られたい)。だが、ウィトゲンシュタインを理解するために重要なのは、同性愛的傾向そのものというよりは、むしろそれに対する罪悪感であろう。「罪」という語は、彼にとって、おそらくはつねにあるリアルな意味を伴っていたのである。
†『論考』の出版と小学校教員時代[#「†『論考』の出版と小学校教員時代」はゴシック体]
『論考』の出版交渉は難航した。まず、ワイニンガーの本の出版社であるブラウミュラー社に、次いで、フレーゲが関係していた『ドイツ観念論哲学会報』に、そしてフィッカーが編集している『ブレンナー』に、さらには、かつてそのフィッカーを通じて経済的援助をした詩人のリルケが関係しているインゼル社に、次々と話をもちかけるが、いずれもうまくいかない。そんな中、一九一九年一二月、ウィトゲンシュタインはついにラッセルに会って、『論考』を一行一行説明する機会を得、出版を容易にするためラッセルが序文をつけてくれることになった。直後のラッセルの所見では『論考』は「全部正しいか全部間違っているかどちらかであることは確かで、それは良書の印だ」ということであった。
ウィトゲンシュタインは、ラッセルの序文つきという条件で、今度はレクラム社に話を持ちかけるが、彼自身がせっかく送ってもらったラッセルの序文が必ずしも意にそわなかったことなどもあって、これも失敗する。ラッセル宛てに「『純粋理性批判』が書かれたのは千七百何年だったかといったことを、いったい誰が気にするでしょう」と書いて、出版の遅れを気にしないそぶりを見せた彼だが、本当はこの事態に|辟易《へきえき》していたにちがいない。私の経験から言うと、出版する予定で書いた原稿がなかなか活字にならないのは嫌なものである。その大きな理由は、公刊されないうちは、書いたものから自分を切り離せない、つまり忘れて自由になることができない、ということにある。彼が『論考』の本文を忘れるためにとった手段は、ラッセルにすっかり|下駄《げた》を預けることであった。二〇年七月に養成学校を卒業したウィトゲンシュタインは、任地が決まるまでの間、修道院の庭師の助手として働くが、九月からトラテンバッハの小学校へと赴任する。
ラッセルの委託を受けたドロシー・リンチ嬢は、まずケンブリッジ大学出版部に、次いでドイツの三つの雑誌に話をもちかけるが、そのうち『自然哲学年報』が掲載を許可し、一九二一年秋、『論考』はようやく日の目を見ることになった。だが、その印刷には誤植が多く、ウィトゲンシュタインはこれを「海賊版」と呼んで嫌った。しかしほどなく、ラッセルがC・K・オグデンに相談して、イギリスのキーガンポール社から独英対訳版が出ることになる。二二年一一月、オグデンとラムゼイによる英訳を付され、ウィトゲンシュタイン自身によって校正され、またムーアの提案によって、スピノザの『神学政治論』(Tractatus Theologico-Politicus) にちなんだ『論理哲学論考』(Tractatus Logico-Philosophicus) というラテン語の題名を与えられた、決定版の『論考』が刊行された。完成から四年後のことである。
トラテンバッハの小学校で約二年過ごした後、二二年の秋にはプフベルクの小学校に転任する。ウィトゲンシュタインが新刊の『論考』を受け取り、当時弱冠二〇歳の訳者ラムゼイの訪問を受けたのは、このプフベルクにおいてである。プフベルクでの二年間の後、二四年の秋には、今度はオッタタールの小学校に転任し、この地で『小学生のための辞書』を作成、出版した。彼は、たとえば生徒たちのために何週間もかかって猫の骨格の標本を作って見せるなど、どの任地においてもきわめて熱心に教育に取り組み、かつ生徒たちからも慕われたようである。だが、親たちはこの異様な教師に反感を抱き、二六年の四月、一人の生徒に体罰を与えたことがきっかけとなって、退職を余儀なくされることになる。三七歳の時のことである。
[#改ページ]
第2章[#「第2章」はゴシック体] 像[#「像」はゴシック体]
――前期ウィトゲンシュタイン哲学
[#改ページ]
[#ここからゴシック体]
[#ここから3字下げ]
思想に値札をつけることができるだろう。ある思想の値段は高く、ある思想の値段は安い。さて思想の代金は何によって支払われるのか。勇気によって、と私は思っている。………
間違った思想でも、大胆にそして明晰に表現されているなら、それだけで十分な収穫といえる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『断章』)
[#ここでゴシック体終わり]
[#扉裏(img/front3.jpg)]
1 『論理哲学論考』の本質[#「『論理哲学論考』の本質」はゴシック体]
†限界設定の書[#「†限界設定の書」はゴシック体]
『論理哲学論考』が何をめざして書かれた書であるかを知るには、出版依頼のために『ブレンナー』の編集者フィッカーに宛てて書かれた手紙が参考になる。
[#2字下げ] この本の意義は倫理的なものです。私は一度、ある文章を序文に加えようとしました。結局、やめてしまいましたが。あなたにとっては理解の鍵となるかもしれませんから、それを書いておきます。私はこう書こうかと思ったのです。私の仕事は二つの部分からなる、そこに書かれていることと、書かれなかったすべてと、というようにです。そして、重要なのは、実はこの後者の方なのです。というのは、私の本は、倫理的なことがらをいわば内側から限界づけており、そして私の確信するところでは、倫理的なことがらとは、ただそのようにしてのみ限界づけられうるものだからです。つまり私は、今日多くの人々が駄弁を|弄《ろう》しているすべてのことがらについて沈黙を守ることによって、そのすべてに確定的な位置を与えた、と信じているのです。
そして彼は、序文と結論を読むことをフィッカーに勧めている。結論とは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という一文のことである。序文は少し長いので、前半部だけ引用しよう。
[#ここから2字下げ]
この本は、そこに表現されている思想を――あるいは類似の思想を――かつて自分で考えたことがある人にしか、理解されないかもしれない。それゆえ、これは教説を説く本ではない。理解しつつ読む一人の読者を満足させることができたなら、その目的は達せられたのである。
この本は哲学的な諸問題を論じており、それら諸問題の設定がわれわれの言語の論理の誤解に基づくことを――私の信ずるところでは――示している。この本の全意義は次のように要約されよう。すなわち、およそ語りうることについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない、と。
この本は、それゆえ、思考に限界を引こうとする。いやむしろ、思考にではなく、思考されたものの表現に限界を引こうとする。というのは、思考に限界を引くためには、この限界の両側を思考できなければならない(それゆえ思考できないことをも思考できなければならない)ことになるからである。
つまり、限界は言語の内部でだけ引くことができ、限界の向こう側は端的に無意味であろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『論考』序文前半部)
そして、この序文は「ここに告知された思想が真理であること[#「真理であること」に傍点]は侵しがたく決定的」であり、したがって「問題はその本質において最終的に解決された」という宣告をもって結ばれている。
つまり、『論理哲学論考』とは、沈黙すべきものを内側から限界づけ、そのことによってそれに正当な位置を与えるために書かれた書物なのである。彼にとって、本当に重要なのは、明晰に語りうることがらにではなく、沈黙しなければならないことがらにあったのである。
†言語の可能性の条件[#「†言語の可能性の条件」はゴシック体]
さて、『論考』が限界設定の書であるといわれるとき、しばしば対比されるのはカントの『純粋理性批判』である。『純粋理性批判』もまた限界設定の書であった。それは、経験の可能性の条件を明らかにすることによって、われわれに可能な経験の範囲を限定しようとした。つまり、ものごとがわれわれにどう現れうるかを知ることによって、われわれに現れうるものごとの範囲を限定しようとしたのである。そのためには、可能な経験の一般的な形式を、あらかじめ、しかも経験の内側から規定しなければならない。……カントの直面した問題が、ウィトゲンシュタインの問題と同型であったことは、明らかであろう。ただし、カントは限界の向こう側にあるものについて、別に『実践理性批判』を書いて、雄弁に語ったのではあるが。
カントとの対比で言えば、ウィトゲンシュタインの『論考』の主題は、言語の可能性の条件を明らかにすることにあった、と言える。つまりウィトゲンシュタインは、言語が世界について何ごとかを語りうるのはどういう条件の下でなのか、を問題にしたのである。しかし、経験にせよ言語にせよ、「可能性の条件を明らかにする」とは、奇妙な仕事だと思われるかもしれない。話を言語に限っても、それは現に存在しており、世界に起こるいろいろなことが、現に言語によって語られている。現に生じていることが不可能なはずはないのだから、それは可能であるに決まっている。可能か不可能かわからないことの可能性の条件を明らかにするというならまだしも、もう可能であるとわかっていることの可能性の条件を明らかにするとは、一体どういうことなのだろう。
答えはこうである。言語が可能であることは、もちろんすでにはっきりしている。およそ言語というものは不可能だ、などということはありえない。だが、どういう場合に、そしてどういう場合にだけ可能であるのかは、現実の言語活動をいくら観察しても、それだけではわからない。そして、それがわからなければ、まだ現実に語られていない言葉については、それが語られうるか否かがわからないし、すでに語られた言葉であっても、それが本当にちゃんとした意味をもった正当な言語であるのか、実は条件を満たしていないまがいものの[#「まがいものの」に傍点]言語にすぎないのか、判断することができない。そのような判断ができるための足場を固めること。「可能性の条件を明らかにする」とは、そういう規範的で批判的な作業なのである。「あらゆる哲学は『言語批判』である」(四・〇〇三一)とは、そういう意味の言葉である。
†超越論的(先験的)哲学[#「†超越論的(先験的)哲学」はゴシック体]
以上のことが理解されたならば、すでにわれわれは、序章で触れた「超越論的(先験的)」という言葉が意味することの中核に達したことになる。ところで、同じ「トランスツェンデンタール(独・transzendental)」という語に、なぜ「超越論的」と「先験的」という二つの訳語があるのか、疑問に思われるかも知れない。それをきちんと説明するには、カント哲学はもとより、フッサール現象学などの内容にも深入りする必要があるので、本書の範囲をはるかに超えてしまう。ただ、ウィトゲンシュタインの『論考』の、今まで説明してきた内容に関する限り、むしろより古い訳語である「先験的」の方が妥当である、ということは、理解していただきたいと思う。「先験的」とは、文字どおり、経験に先行して、経験によらずに解明する、という意味をもつ言葉である。この訳語が適切である理由の説明もかねつつ、『論考』のねらいがトランスツェンデンタールであるということの意味を、もう少し立ち入って考えてみよう。
世界の中に起こる複数の出来事の間に、何か連関があるとすれば、それはたとえば、因果的な連関であろう。上流で大雨が降れば、下流で洪水が起こる、といったように。上流の大雨と下流の洪水とは、おのおの他方がなくとも成立しうる独立の出来事であり、今の場合、たまたま因果的な連関があったというにすぎない。独立にとらえることができる二つの出来事の間の、このようなたまさかの関係を、外的関係と呼ぶとしよう。外的関係は、観察や調査によって知られるものであるから、経験的関係と呼ぶこともできる。言語記号というものも、聞こえる音や見える形としてとらえる限り、世界の中で起こる一つの出来事にすぎない。にもかかわらず、言語記号とそれによって記述される世界のあり方との関係は、そのような外的・経験的関係ではないのだ。
もちろん、心理学が人間の経験(知覚や思考など)を、世界の中で起こる一個の出来事として、外的関係の中でとらえるように、言語学は、言語を経験的な探究の対象として、他の諸事実との外的関係の中でとらえる。しかし、経験と世界の関係の場合もそうだが、言語と世界の関係に関しても、そういうやり方ではとらえられない一面がある。なぜなら、そういう外的関係を認識しようとするわれわれの営みそのものが、すでにして[#「すでにして」に傍点]、言語が世界について何ごとかを語りうることを前提にしたうえで為されるほかはない営みだからである。何も言わないならともかく、何かを言う以上、われわれは言語と世界のこの関係の外に出ることはできない。そして、そのようにとらえられた場合、言語と世界の間の関係は、独立にとらえられた二つの事象の間にたまさかに成り立つ外的な関係ではなく、そもそもそれ以外の関係の仕方が考えられないような、内的な関係によって結ばれていることになる。こうした関係は、観察や調査といった経験的探究によって明らかにされるような経験的な関係と対比して、先験的な関係であるといえる。
それでは、たとえば、多摩川の上流に大雨が降ったという事実と、その事実を表現する「多摩川の上流に大雨が降った」という文との間に成り立つ関係は、多摩川の上流に大雨が降ったという事実と、多摩川の下流に洪水が起こったという事実との間に成り立つ関係と、どう違うのだろうか。前者のような関係の特異性は、次のような事情を考慮すれば、すぐに納得がいくだろう。まず何よりも、「多摩川の上流に大雨が降った」という文は、多摩川の上流に大雨が降ったという事態の表現としてしか理解できない。そしてまた逆に、多摩川の上流に大雨が降ったという事態は「多摩川の上流に大雨が降った」という文の理解を通してしかとらえられない。独立に把握できる二つの事象の間に成り立つのではない、このような関係を、内的関係というのである。
それでは、内的と言われるこの独特の関係は、いったい何によって成り立っているのか。「論理形式」を共有することによって、というのがウィトゲンシュタインの答えである。序章の最後のところで、先験的な語りえぬものの一つとして挙げた、あの論理形式である。さて、それでは論理形式を共有するとはどういうことか。そのことの内実を理解するためには、もっと深く『論考』の具体的内容に立ち入らなければならない。
2 世界はどのようにできているか[#「世界はどのようにできているか」はゴシック体]
――論理的原子論[#「論理的原子論」はゴシック体]
†世界・事態・対象[#「†世界・事態・対象」はゴシック体]
『論考』の最初の頁を開くと、世界がどのようにできているか、ということに関する独自の見解が、何の説明もなしに、あたかもご|託宣《たくせん》のように述べられている。この書物の独特のスタイルの紹介もかねて、冒頭の部分を少し引用しておこう。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
一* 世界とは、そうであることのすべてである。
一・一 世界は、事実の全部であって、物の全部ではない。
一・一一 世界は、諸事実によって、そしてそれがすべての[#「すべての」に傍点]事実であることによって、決定されている。
一・一二 なぜなら、事実の全部こそが、そうであることも、また、そうでないことのすべても、決定するからである。
一・一三 論理空間の中の諸事実こそが、世界である。
一・二 世界は、諸事実へと分解される。
一・二一 他のすべては不変のままで、あることがそうであったり、そうでなかったりすることができる。
二 そうであること、つまり事実とは、諸事態の成立である。
二・〇一 事態とは、諸対象(事物、物)の結びつきである。
二・〇一一 事態の構成要素となりうることが、物にとって本質的である。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](以下略)
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
*原注 命題の番号となっている数は、その命題の論理的な重要性を、つまり論述の中で私が強調した程度を表している。命題n・一、n・二、n・三、等は、n番の命題に対する注であり、n・m一、n・m二、等は、n・m番の命題に対する注である、といったぐあいである。
[#ここで字下げ終わり]
このような調子の文章が、七の「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」まで、延々と続くのだが、その二・〇六三までの部分は、世界というものはどのようにできているのかという問題、つまり存在論の問題にあてられている。ウィトゲンシュタインの主張を、簡単に要約すれば、こうである。
事態[#「事態」はゴシック体]とは、諸対象[#「対象」はゴシック体](事物、物)が特定の仕方で結びついてできたものである。事態には、現に成立している事態と、現に成立してはいないが成立可能な事態があり、現に成立している事態が事実[#「事実」はゴシック体]と呼ばれる。また、要素的な事態が結びついてできた複合的な事態は状態[#「状態」はゴシック体]と呼ばれる。そして世界[#「世界」はゴシック体]とは、対象ではなく事実(成立している事態)を全部集めたもののことである。事態には成立している事態と成立していない事態があるが、事態は相互に独立であるから、ある事態が成立している(いない)ということから、他の事態が成立している(いない)ということを、推論することはできない。また、対象が対象でありうるのは、他の対象と結合して事態を構成しうる限りにおいてでしかない。
このような主張が何の根拠もない独断にすぎないように思われたならば、『論考』が超越論的(先験的)な哲学書であることを思い出す必要がある。つまり、ウィトゲンシュタインは、世界は事実このようにできている[#「できている」に傍点]、と独断的に主張しているのではないのだ。そうではなく、およそわれわれの言語が確定した意味を持ち、世界についてなにごとかを語りうるためには、世界はこのようにできているのでなければならない[#「のでなければならない」に傍点]、と主張しているのである。『論考』は、叙述の順序とは逆に考えられている、と見なされねばならない。言語が意味を持つためには、それはある一定の構造を持たねばならない、したがって、世界が言語の中に反映されうるためには、それは言語と同じ構造を持たねばならない、というようにである。言語と世界は論理形式を共有しなければならない、とはそういうことなのである。
†論理空間[#「†論理空間」はゴシック体]
ところで、ウィトゲンシュタインは「論理空間の中の諸事実こそが世界である」(一・一三)と言っていたが、これはどういうことだろうか。実際にそうであることのすべてが世界であるとすれば、実際にそうであるか否かにかかわらず、そうでありうる[#「ありうる」に傍点]ことのすべてが、すなわち論理空間である。かりに、a、b、cという三つの事態しか存在しないとしよう。それぞれに関して、それが現実に成立している場合とそうでない場合が考えられる。事態は相互に独立であるから、可能な組み合わせは、三つとも成立しているケースから、三つとも成立していないケースまで、上の表の八とおりということになる。
[#図表(img/fig1.jpg、横×縦)]
この八とおりの組み合わせが論理空間である。その八とおりのうち、現実に起こるのは一つの組み合わせだけであり、それが現実の世界となるのである。たとえばもし、事態aは現実に成立しているが、事態bと事態cは現実には成立していないとすれば、それ(表中の4)が、現実の世界のあり方なのである。
論理空間そのものに関しては、偶然性の占める余地はまったくないが、その論理空間の許容する可能性のうち、どれが現実化し、どれが現実化しないかは、逆に偶然によってしか決定されない。この例で言えば、可能性がこの八つであることは必然的だが、そのうちの四番目が現に成立している現実だとすれば、それは偶然でしかない。論理の外では、すべてが偶然なのであり、それゆえ、世界が現にこのようにあるのは、もちろん偶然である。しかし、その偶然的な現実は必然的な論理空間を前提する。それゆえ、世界とは論理空間の中の諸事実なのである。
さて、いよいよ言語と世界の関係について、すなわち像の理論について語る順番である。
3 言語はいかに世界をとらえるか[#「言語はいかに世界をとらえるか」はゴシック体]
――写像と真理関数[#「写像と真理関数」はゴシック体]
†写像[#「†写像」はゴシック体]
肖像画であれ、地図であれ、楽譜であれ、およそ現実(人物、地形、音楽)を記号的に表現し直そうとすれば、その記号的表現は現実の写像でなければならない。そして、われわれはそれが写像であることを、像そのもののうちに端的に読み取る。たとえば肖像画は実在の人物の像だが、その写像関係それ自体を再び絵に描くことはできない。かりにできたとしても、もしそういうことをするのであれば、今度はその絵とそれが写像しているものとの関係を描かねばならなくなるだろう。われわれの記号活動は、どこかで必ず、写像関係の外に出てその写像関係それ自体を写像することができない(できてはならない)地点に達する。言語はそうした写像の一例にすぎない。
†言語・命題・名辞[#「†言語・命題・名辞」はゴシック体]
命題は像である。像を構成する諸要素は、それによって写像されるものの持つ諸要素に対応する。だから、命題を構成する諸要素も、命題によって写像されるものの持つ諸要素に対応することになる。命題は対象の名前である名辞から成り立っており、命題における名辞の配列の仕方は、事態における対象の配列の仕方に対応する。つまり、世界の構成要素と言語の構成要素とは対応しているのであって、言葉を語るということの本質は、世界において成立している事実を写像することにある、というわけである。この基本的な考え方を、先ほど説明した世界・事態・対象の存在論に関連づけて、より詳しく述べるならば、以下のようになる。
名辞[#「名辞」はゴシック体]は対象を指示する。要素命題[#「要素命題」はゴシック体]は(要素的)事態の成立を主張し、複合命題[#「複合命題」はゴシック体]は複合的な事態、つまり状態の成立を主張する。つまり、一般に命題[#「命題」はゴシック体]は事実がいかにあるかを語る。対象は他の対象と結合して事態を構成しうる限りにおいてのみ対象でありうるのであったが、これに対応して、名辞は命題の中においてのみ対象を指示することができる。要素命題は、対象と直接に対応する名辞だけから成り立っており、名辞の配置(命題内での名辞の配列のされ方)は対象の配置(世界内での対象の配列のされ方)を写し取っている。このようにして、言葉は世界を写像する。
また、事態は相互に独立であるとされていたが、それに対応して、各要素命題の間にはいかなる論理的依存関係もない。ある事態が成立している(いない)ということから他の事態が成立している(いない)ということを推論することはできないということは、すなわち、ある要素命題が真(偽)であるということから他の要素命題が偽(真)であるということを推論することはできない、ということなのである。
ところでしかし、日常われわれがしゃべったり書いたりしている言葉が、すべて事実の写像である、などとはとても思えない、という素朴な疑問が出されるかもしれない。ウィトゲンシュタインによれば、何であれ言葉が意味をもつためには、それ自身は事実の写像とはいえなくとも、究極的には、事態の写像である(対象の配列のされ方を写しとっている)要素命題へと分析することができなければならないのである。つまり、言葉がちゃんとした意味をもつためには、それは写像命題からできあがっているのでなければならない[#「のでなければならない」に傍点]のである。人が語っている言葉を分析して、それがちゃんとした意味をもっているかどうかを判定すること、そこに(のみ)哲学の役割を認めるという考え方が、ここから出てくることは、容易に理解できることであろう。
ところがウィトゲンシュタインは、究極的な写像命題である要素命題というものの実例を、まったく挙げていない。ここにも『論考』の先験哲学的な本性がかいま見えるだろう。言葉がちゃんとした意味をもつためには、それは事態を写像する命題へと分析されなければならない[#「なければならない」に傍点]。それゆえ、端的な写像命題たる要素命題が存在するのでなければならない[#「なければならない」に傍点]。――彼は、そう考えたのである。
だがしかし、われわれはしばしば間違ったことを言う。つまり、世界に実際に起こっていることと対応していないことを言うではないか。これはどうなるのだろうか。ウィトゲンシュタインの答えはこうだ。対象はさまざまな仕方で配列されている。そのことに対応して、対象の名前の方も、さまざまな仕方で配列することができる。意味のある命題とは、複数の名辞を可能な配列の仕方に従って配列したものである。どういう名辞の配列の仕方が可能かは、どういう対象結合のされ方が可能かに対応している。だから、意味のある命題とは(実際にそうである[#「である」に傍点]かどうかは別にして)そうでありうる[#「でありうる」に傍点]ことを、つまり可能な事態を語る命題なのである。
そして、命題の指示する諸対象の配列が、命題の中の名辞の配列と一致するならば、その命題は真となり、一致しなければ偽となる。名辞の可能な配列のうち、ほとんどは単に可能な事態を表現するだけの偽なる命題であろう。
簡単に言えばこうだ。われわれが文を作るとき、われわれは対象の名前を配列している。その配列は世界の中の対象の可能な配列の一つに対応しているはずだ。この配列が世界の中で現実に起こっているならば、われわれの作った文は真となる。そうでなければ、それは偽となる。もし、その名前の配列が世界の事物の配列を写すことができないように配列されているならば、それは無意味[#「無意味」に傍点]となる。
しかしそれなら、世界に起こる事実を記述することをそもそも意図していない文はどうなるのか。ウィトゲンシュタインは価値判断をそういうものとしているが、そのほかにも、あいさつや命令、意図の表明や約束、それに小説の中の文章や役者の|台詞《せりふ》、あるいは嘘や冗談といった膨大な領域が、『論考』が有意味と見なす言語群から閉め出されることになる!――これは注目すべきことである。後期ウィトゲンシュタインの問題はここから始まるのだから。できるならば事実を正しく記述する真なる文を作り、さもなくばせめて事実を誤って記述する、有意味ではあるが偽なる文を作ること――『論考』のウィトゲンシュタインにとって、これこそが言語の本来の姿なのであった。
この基本的発想は、古代ギリシャにおいて、哲学者パルメニデスの|論理《ロゴス》がソフィストたちの|雄弁《レトリケー》と対立したとき以来、「哲学」という伝統を規制し続けてきたものである。知られるものと知るものにおける形式の共有[#「形式の共有」に傍点]という理念は、アリストテレスからカントにいたる哲学の伝統を形成し、『論考』もまた、その限りにおいて、この伝統を固守している。|形式《エイドス》こそが存在者の存在の根拠である、と同時にまた、認識と言表の根拠でもあるのだ。そしてこの観点からみる限り、その後のウィトゲンシュタインは、論理形式の先験性を拒否して、哲学の伝統を解体に向かわせる反哲学の道を歩むことになる。
†写像形式――語りえぬもの1[#「†写像形式――語りえぬもの1」はゴシック体]
命題が世界を写像するためには、命題を構成する名辞の配置が、事態を構成する対象の配置と対応していなければならなかった。命題が現実を写像しうるために、命題が現実と共有しなければならないものを、写像形式という。ここで重要なことは、この写像形式そのものは、もはや決して写像されない、ということである。命題は、それを構成する名辞の配列そのものによって、直接に事態を写像するのであって、その写像関係の外に出て、その関係そのものを再び命題によって写像することはできないのである。言語と世界の関係そのものは、もはや言語の内に写像されない。それは言語の内に示されるだけなのである。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
四・一二 命題は、現実のすべてを描き出すことができるが、現実を描き出すために現実と共有しなければならないものを、すなわち論理形式を描き出すことはできない。
論理形式を描き出すことができるためには、命題とともに論理の外に、すなわち世界の外に立ちうるのでなければならないだろう。
四・一二一 命題は論理形式を描き出すことはできない。論理形式は命題の内に自らを映し出す。
言語の内に映し出されるものを、言語が描き出すことはできない。
言語の内に自らを表現するものを、我々が言語によって表現することはできない。
命題は、現実の論理形式を示す。
[#ここで字下げ終わり]
たとえばわれわれは「多摩川の上流に大雨が降った」という文を見れば、即座に多摩川の上流に大雨が降ったという事実を理解する。この根源的な写像把握を「『多摩川の上流に雨が降った』は多摩川の上流に雨が降ったことを意味する」といったメタ言語的表現によって描き出すことはできない。なぜなら、この表現の中に登場する二重|括弧《かつこ》に入っていない方の「多摩川の上流に雨が降った」が、すでにこのメタ言語的表現が言わんとすることを実行してしまっているからであり、それを前提としてはじめて理解されるこの表現が、その前提そのものを語る[#「語る」に傍点]ことはできないからである。
おそらくはここにこそ、前期・後期を通じて変わらない、ウィトゲンシュタインの哲学的直観の基盤がある。意味を尋ねるわれわれの問いが突き当たり、突き返される地点がどこかに必ずある。言葉が|吃《ども》り、空転する地点。言葉の背後にある意図や、言葉に込められた思いを持ちだすことは、何の役にも立たない。それらもまた、同じ言葉で語られざるをえないからである。子どもが言葉を持つようになるのはどうしてか、という問いに答えがないのも、実は同じ理由からである。しかし、言語学者も、心理学者も、そして現象学者も、この問いに答えようとし、言語の背後にそれを可能ならしめる何かを想定することによって、問いに答えたと思いこむ。だが、ほんとうに難しいのは、問いに答えることではなく、答えがないこと、あってはならないことを、覚る[#「覚る」に傍点]ことなのである。
†真理関数[#「†真理関数」はゴシック体]
さて、『論考』のウィトゲンシュタインによれば、すべての命題は、事態の写像である要素命題へと分析できるのであった。言いかえれば、すべての命題は事態の写像である要素命題から構成されているのである。それでは、その構成はどのように為されるのだろうか。この点を説明するのが、写像理論とならぶ『論考』の言語論のもう一つの支柱である真理関数の理論である。
真理関数の理論によれば、複合命題の真偽は要素命題の真偽によって自動的に決まる。たとえばpとqという二つの要素命題があり、そこから「p∧q」(pかつq)という連言命題が作られるとしよう。この複合命題は、pとqという二つの要素命題の真理関数であるから、その真理値(真と偽の値)はpとqの真理値に応じて決まる。pとqがともに真ならば真であり、どちらかが偽であれば偽である。「p∨q」(pまたはq)という選言命題や「p⊃q」(pならばq)といった条件命題なども、同様な考え方で処理できる(しかし、たとえば「pなのでq」といった因果命題は真理関数的には処理できない。因果関係は真理関数的な性質ではなく、したがって『論考』の世界に因果的必然性の入り込む余地はない)。
[#図表(img/fig2.jpg、横×縦)]
ウィトゲンシュタインの発案になるところの真理表によって、このことを表すことができる。いま考えているのは、二つの要素命題に対応する二つの事態だけであるから、まず「論理空間」として四とおりの場合が設定され、そのそれぞれの場合に複合命題の真偽が自動的に決定される。真と偽をそれぞれ〇と×で表すならば、上のようになる。
ここに現れる「∧」「∨」「⊃」といった記号を、ラッセルは「論理定項」と呼び、それが意味を持つのはある種の抽象的対象(論理的対象)を指す[#「指す」に傍点]からだ、と考えていた。それに対してウィトゲンシュタインは言う。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
四・〇三一二命題が可能となるのは、記号が対象の代わりをつとめる、という原理に基づいてである。
私の根本思想は、「論理定項」は何の代わりでもない、というもの、つまり、事実の論理は代理されはしない、というものである。
[#ここで字下げ終わり]
前半に関しては、何の問題もないだろう。後半は、論理定項はそもそも像ではないのだから、何かの代理物ではなく、事実の論理形式を示す[#「示す」に傍点]にすぎない、と主張している。事実の論理は、名辞が対象を代理するように代理されるものではなく、命題の形式のうちに直接に示されるのである。
このような考え方が、いわゆる命題論理学(真理関数理論)の範囲を超えて、いわゆる述語論理学(量化理論)にも拡張できるかどうか、すなわち、「すべての」や「存在する」を含む量化命題も要素命題の真理関数として扱うことができるかどうか、については少なからぬ疑問がある*。当時のウィトゲンシュタインは、(∀x)F(x)(すべてのxに関して、xはFである)は、F(a)∧F(b)∧F(c)∧…… という論理積と同じことであり、(∃x)F(x)(Fであるようなxが存在する)は、F(a)∨F(b)∨F(c)∨…… という論理和と同じことであるとみなしていた。だが、彼自身が後に自己批判したところによれば、問題はこの「……」にある。量化を含む命題の場合、この「……」は無限でありうるからである。量化を含まない真理関数命題においては、要素命題の数は有限であるから、どんなに長くても有限な真理値の組み合わせしかなく、したがって真理表を作ってこつこつ調べていくということができた。だが、量化を含む場合には、そうはいかないはずである。今日では、量化理論には一般的な決定手続きが存在しないことが知られているが、『論考』のウィトゲンシュタインはこのような問題を、そして一般に「無限」という問題を、本質的なこととは考えなかったのである。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
[#2字下げ]*論理学をまったく知らないひとには、以下の内容はわかりにくいかもしれない。その場合には、この段落をとばして先に進んでも全体の理解に支障はない。またもっと本格的な論議を知りたい方は、たとえば飯田隆著『言語哲学大全U』(勁草書房刊)の1・2・3および2・2・1(とくにその注(14))などを参照されたい。
[#ここで字下げ終わり]
この真理関数理論に基づいて、論理学の命題はトートロジー(同語反復命題)とみなされた。トートロジーとは、それを構成する要素命題の真偽に関係なく常に真であるような命題である。世界の中で成立している事実について何も語らず、ただ世界の論理的形式を示すだけの命題である。たとえば「多摩川の上流に大雨が降れば下流には洪水が起こる」や「多摩川の上流に大雨が降った」や「多摩川の下流に洪水が起こった」は、それぞれ多摩川に関する事実を語る命題である。しかし、「多摩川の上流に大雨が降れば下流には洪水が起こることになっており、かつ多摩川の上流に大雨が降るならば、多摩川の下流に洪水が起こることになっている」という命題はそうではない。これは「(A⊃B)∧A⊃B」という、世界の一般形式を示しているにすぎず、多摩川について何も語ってはいないのである。
この点に関して、数学も論理学とかわらない。論理学の命題はトートロジーによって、数学の命題は等式によって、それぞれ世界の――事実を語るのではなく――形式を示すのである。それゆえ、論理も数学も、その外部からそれについて語るメタ理論を持つことができない。世界の形式が語りえないのは、それを語るためには、それを免れた言語を必要とするが、そのような言語はありえないからである。
論理について、ウィトゲンシュタインは次のように言っている。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
六・一三 論理は教説ではなく、世界の鏡像である。
論理は先験的である (Die Logik ist transzendental)。
[#ここで字下げ終わり]
この場合の「トランスツェンデンタール (transzendental)」は「先験的」と訳されてよい。なぜなら、それは文字どおり経験的な事実に先立ち、世界と言語の形式を示すものだからである。もちろんそれはまた、世界をはじめて成り立たせるものであるから、世界構成的という意味で超越論的でもある。しかしここでは、「超越論的」という訳語は、別の問題次元のためにとっておくことにしよう。
†アキレスと亀[#「†アキレスと亀」はゴシック体]
ある命題(が真であること)が他の命題(が真であること)から論理的に帰結するということは、それらの命題の構造から直接に見て取られねばならない、というのがウィトゲンシュタインの考えであった。たとえば、先ほど問題にした「(A⊃B)∧A⊃B」がそうである。これは「A⊃B(AならばB)と、Aから、Bを導くことができる」という、伝統的には|前件《ぜんけん》|肯定式《こうていしき》 (modus ponens) と呼ばれる論理法則だが、ウィトゲンシュタインによれば、これを法則として立てるのは余計なことなのである。示されねばならないはずの内的関係を語ってしまうことになるからである。ルイス・キャロルの寓話「亀がアキレスに語ったこと」は、この問題点を鮮やかに提示している。簡略化するなら、それは次のような話である。
亀ははじめ、AであることとAならばBであることは認めているのに、Bであることを認めようとしない。そこで、アキレスは亀に、まずこの「論理法則」を納得させようとして「Aと、AならばBから、Bを導くことができる」という前件肯定式を受け入れるように求める。亀が難なくそれを受け入れたので、アキレスは得々として「今や、君は論理必然的にBを受け入れざるをえない」と言う。すると亀は、その[#「その」に傍点]論理法則(かりにPと名づけよう)を前提に加えないことには推論は完成しないと主張する。つまり、AとAならばBだけではなく、それにP(Aでありかつ「AならばB」であるならばBである)を加えたとき、はじめてそこからBを導くことができる、というわけである。アキレスはしぶしぶそれを認め、「さて今や、君は論理必然的にBを受け入れざるをえない」と宣言する。すると亀は、今自分が認めた「AとAならばBとPからBを導くことができる」という規則をQと置き、それを前提に組み込むことを主張する。つまり、AとAならばBとPだけではなく、それにQを加えたとき、はじめてそこからBが導けるようになるはずだ(なぜなら、もしQを受け入れなかったならば、たとえ他のすべての前提を受け入れても、そこからBが帰結することはないであろうから)というわけである。しぶしぶそれを認めるアキレスの語調は、悲しげな響きを持ち始める。
この問答が果てしのないものであることは、もはや明らかであろう。この寓話の教訓を深く味わうことは、おそらくはどの時期のどの局面においても、ウィトゲンシュタインの哲学を理解するために、大いに役立つように思われる。
†『論考』は何を語るか[#「†『論考』は何を語るか」はゴシック体]
真理関数理論をへることによって、さしあたっては要素命題に関して言われていた「言語の内に映し出されるものを、言語が描き出すことはできない」という事情が、言語全般に拡張され、一般化されることになった。こうして『論考』の言語論は完成する。
だが、もしそうだとすれば、『論考』という書物それ自体は、いったい何を語ったのだろうか。その書物は、それが語りえないと主張したはずのまさにそのことを、そしてそのことのみを、語ったのではないか!
ここに『論理哲学論考』という書物の驚くべき自己否定的な性格がある。『論考』の最後の言葉は「語りえぬものについては沈黙しなければならない」だが、その直前には次のような言葉がある。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
六・五四 私を理解する者は、私の諸命題を通過し――それらの上へ――それらを越えて、上昇したとき、結局それらの無意味なことを知るにいたる。そのことによって、私の諸命題は何ごとかを明らかにするのである。(梯子を昇りきった後は、いわばそれを投げ捨てなければならないのだ。)
私を理解する者は、私の諸命題を超えなくてはならない。そのとき、人は世界を正しく見るのである。
[#ここで字下げ終わり]
それゆえ、『論考』の諸命題は、読者が「世界を正しく見る」ことを助けるための一時的な方便[#「方便」に傍点]でしかなく、いわば教育的価値しかもたない。そして、世界を正しくみるための梯子は、ウィトゲンシュタインの梯子一つしかないのだから、それ以外の哲学の存在が許されるはずもない。本格的な哲学は、哲学なるもの[#「なるもの」に傍点]の存在を許さない。これは哲学の宿命である。哲学一般の価値を称揚するのは、哲学の教師たちだけである。
†形而上学批判[#「†形而上学批判」はゴシック体]
『論考』は、そのまた直前の六・五三において、本来あるべき哲学について、次のように言う。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
六・五三 哲学の正しい方法とは、本来、語られうるもの、つまり自然科学の命題――つまり哲学とは何の関係もないこと――以外に何も語らぬことである。そして、他の人が何か形而上学的なことを語ろうとするたびごとに、彼が命題の中のある記号に何の意味も与えていないと指摘してあげることである。この方法は彼には不満であろう。彼は哲学を教えられている気がしないであろう。しかし、これこそ[#「これこそ」に傍点]がただ一つ厳密に正しい方法なのである。
[#ここで字下げ終わり]
もちろん『論考』の形而上学だけは例外なのである。ここで形而上学とは、『論考』の言語論の規準からみて無意味な命題のことであり、自然科学とは有意味で真なる命題の総体のことである。論理実証主義のスローガンとなった「形而上学の排除」という言葉が、その源泉においてどんな意味を持っていたかは、もはや明らかであろう。
たとえばニーチェは「真理とはそれなくしてはある特定の生物種が生きていけなくなるような種類の誤謬である」(『権力への意志』四九三節)と言う。これは形而上学的真理を地上に引き下ろすことを意図して書かれた言葉ではあるが、『論考』の規準からすればまさしく形而上学的である。逆にニーチェの形而上学批判の精神からすれば、『論考』こそまさしく形而上学的である。ニーチェならば、『論考』の根底に形而上学者の|怨恨《ルサンチマン》を読み取るであろう。その言語哲学は自己救済のために創り出された|捏造物《ねつぞうぶつ》にすぎない。だが『論考』の著者なら、そう語る彼の言語使用のうちにすべての誤謬のもとを嗅ぎ取り、そうした無意味な|戯言《たわごと》を生み出す語りの地平からの脱出こそを|奨《すす》めるであろう。異なる哲学は、どこまでも互いに相手を包み込み合うことができる。どちらに真実性を感じ、どちらを単なる形而上学(=絵空事!)と見るか、それはその人の世界がどんな世界であるかによるのである。
4 もうひとつの「語りえぬもの」[#「もうひとつの「語りえぬもの」」はゴシック体]
†価値・倫理・神秘――語りえぬもの2[#「†価値・倫理・神秘――語りえぬもの2」はゴシック体]
ところで『論考』は、世界の外にある「倫理的なことがら」に向けて、内側から限界を設定するために書かれたのであった。思考の表現である言語に限界を設定することは、その目的のための手段であるにすぎない。限界設定は言語の内部からのみなされうるからである。
それゆえ、この趣旨に従うならば、世界の形式そのものであるがゆえに語りえない「|先験的《トランスツエンデンタール》」なものと、世界の外にあるがゆえに語りえない「|超越論的《トランスツエンデンタール》」なものとは、当然区別されねばならない。つまり『論考』のなかには、二種類のトランスツェンデンタールなものが、したがって二種類の語りえぬものがあることになる。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
六・四二一 倫理が言葉に出せないものであることは明らかである。
倫理は超越論的である (Die Ethik ist transzendental.)。
[#ここで字下げ終わり]
ウィトゲンシュタインはまた「世界の意義は、世界の外にあらねばならない」(六・四一)とも言う。だとすれば、それは世界を超越しているのだから、むしろ「|超越的《トランスツエンデント》」と形容されるべきではあるまいか。それが、世界そのものの形式である論理と同じ「トランスツェンデンタール」という語で形容されているのは、いったいなぜなのか。鍵は、次の言葉が与えてくれる。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
六・四三 善き意志や悪しき意志が、もし世界を変えうるとすれば、それはただ世界の限界を変えうるのであって、諸事実を、つまり言語で表現できるものを変えることはできない。
要するに、そのとき世界は、そのことによって、総じて別の世界になるのでなければならない。世界はいわば、総体として減少したり増大したりするのである。
幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である。
[#ここで字下げ終わり]
つまり、世界と人生の価値は、世界の外にあるとはいえ、世界を超えた彼方にあるのではない。それは、言ってみれば、それが世界を形づくるという仕方で、世界そのもの[#「そのもの」に傍点]としてあるのだ。しかし、だとすれば、それは世界の形式としての論理と、つまり先験的なものと、いったいどのように違うのか。
答えはこうである。限界が変わることによって、世界が総体として別の世界になるとしても、そのことによって世界の論理形式が変わることはない。世界は、いわば総体としてその実質を変えるのであって、その内容(個々の事実)を変えるのでも、その形式を変えるのでもないのだ。だから、そのような仕方で限界づけられた世界は「私の世界」でなければならず、その世界の言語は「私の言語」でなければならない。これが、先験的なものと区別された、超越論的なものの意味である。それゆえ――
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
六・五二 ありうる[#「ありうる」に傍点]すべての科学的な問いに解答が得られたとしても、人生の問題はまったく手つかずに残る、とわれわれは感じる。もちろんそのとき、もはやどんな問いも残されてはいない。まさにそのことが解答なのである。
六・五二一 人生の問題の解決は、その問題の消滅という仕方で見いだされる。
(長い懐疑の後で人生の意義を悟得した人が、その意義がどのようなものであるかを語りえないのは、まさにそれゆえではあるまいか。)
[#ここで字下げ終わり]
これはもはや言うまでもないことであろう。世界の中の事実に関する科学的な問いに対する答えは、世界の限界を変えはしない。人生の問題は、限界が変わることによって世界が変わることにおいてのみ、解決されるのである。
「死」や「神」についても同じことが言える。それらはいずれも世界の中の事柄ではない。死に際して、世界は変わるのではなく終わり(六・四三一)、神は世界の中に自らを啓示することはない(六・四三二)。ここで私の疑惑は、正当とされる言語の範囲の狭さゆえに、この第二の語りえないものの範囲が、彼の意図を超えてあまりに拡大してしまうことはないか、という点にある。だが、それは後の問題としよう。いま問うべきなのはむしろ、それでは「世界の限界」とは何か、という問いであろう。この問いとともに、『論考』をめぐるわれわれの最後の考察は、独我論に向かうことになる。
†独我論[#「†独我論」はゴシック体]
『論考』の独我論は、論理と倫理という二種類の語りえぬものをつなぐ役割を担わされている。「言語」という先験的なものと「私」という超越論的なものが、「私の言語」という媒体によって統一される、という仕方でそれはなされる。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
五・六 私の言語の限界[#「私の言語の限界」に傍点]は私の世界の限界を意味する。
[#ここで字下げ終わり]
世界は、いずれにせよ「私の世界」でしかありえない。世界の限界に「私」がいない世界は考えられないからである。そして「世界が私の世界であることは、この[#「この」に傍点]言語(それだけを私が理解する言語)の限界が私の世界の限界を意味することの内に示されている」(五・六二)。なぜなら、客観的な論理形式によって成り立つ言語を「この[#「この」に傍点]言語」とし、そのことによって世界をこの[#「この」に傍点]世界とするのは、世界の限界に立つ「私」だからである。だから当然、
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
五・六三二 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
[#ここで字下げ終わり]
[#図表(img/fig3.jpg、横×縦)]
眼が視野に属さぬように、主体は世界に属さない。つまり世界はこの図のような形をしてはいない[#「いない」に傍点]のである。それゆえ、独我論は貫徹されると純粋な実在論に帰着する。「独我論の自我は延長を持たない一点に収縮し、残るのはそれと対置していた実在だけとなる」(五・六四)からである。
しかし、この自我(主体)を、デカルト以来の近代的自我やカント以来の超越論的=先験的主体の意味にとるならば、それは根本的な誤解である。通常、超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に対して形式(形相)を、つまり意味を付与することによって、内的関係がはじめて設定される、と考えられている。ウィトゲンシュタインにおいてはそうではない。自我は、すでに形式によって満たされた世界の限界をなすことによって、それにいわば実質を、もっと強くいえば存在を、付与するのである。「私」とは、世界に意味を付与する主体ではなく、世界をこの[#「この」に傍点]世界として存在させている世界の実質そのものなのである。それが『論考』的独我論の真意であり、だからこそ、それは、形式上は純粋な実在論とぴったりと重なるのである。
それゆえ、他者とは、自分とは別の意味付与を行なう別の主体のことではなく、この世界とは別の限界を持った別の世界[#「別の世界」に傍点]のことでなければならない。なぜなら、限界が異なる世界は別の世界だからである。自我と形式の、主体と意味の、この分裂と逆接[#「逆接」に傍点]の感覚こそが、ウィトゲンシュタイン哲学の――前期後期を通じて変わらぬ――強烈な現代性である。少なくとも私自身は、ドイツ観念論や現象学の主格的で反省的な自我理解にまったくリアリティを感じないのに対し、ウィトゲンシュタインには、ほとんど肉感的といえるほどのリアリティを感じるのである。
しかし、それにもかかわらず、二種類の語りえぬものをつなぐという、『論考』が独我論に負わせた役割は、独我論の本質を隠蔽することになった。もちろん『論考』の独我論は、私と私が直接体験するもののみが存在し、それ以外のもの(たとえば他人の心)は存在しない、といった認識論的主張とは、最初から無縁である。にもかかわらず、先験的な論理と超越論的な倫理を重ね合わせるという役割は、独我論それ自体を形式化せずにはおかなかった。認識論的独我論の場合と同様、それは万人に妥当する独我論という逆説的なものになった。『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としてのあり方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。そのことによって、ウィトゲンシュタインの独我論は、示されたのではなく、隠されたのである。『論考』が語りも示しもしない『論考』の秘密がそこにある。
世界の中で起こる出来事はすべて偶然であり、偶然的でないのは、世界を形づくる論理形式と世界を超えた価値だけである、とウィトゲンシュタインは言う。しかし、その二つをつなぐ、世界の限界としての「私」は、実は[#「実は」に傍点]、もう一つの偶然なのである。『論考』の世界は、この私[#「この私」に傍点]の存在という(世界内の偶然とは次元の違う)もう一つの偶然によって支えられているのだ。もちろん読者は、それを一般的な先験的=超越論的自我として読む。それ以外に読みようがないのだから、それは当然のことである。だが、著者にとってはそうではない。世界内の偶然的諸事実を超える二種類の語りえぬもの、つまり、本書の用語で言う先験的なものと超越論的なものとは、序章で述べたこの私[#「この私」に傍点]の存在という奇跡によって、ただそれによってのみ、かろうじて結びつけられているのである。たとえば彼が「この[#「この」に傍点]言語(それだけを私が理解する言語)」と書くとき、それは「その言語(それだけをその人が理解する言語)」のことを言っているのではない。『論考』の内部では語られることも示されることもないこの事実が、『論考』のすべてを支えている――私にはそう思われるのである。
もしそうでないとすれば、つまり『論考』の自我が単に一般的な先験的=超越論的自我にすぎないのであれば、価値や倫理をめぐるすべての議論は、誰にでも当てはまる一つの教説[#「教説」に傍点]と化するであろう。そうなれば、『論考』のもつ類例のない美しさの多くは、失われるように思われる。『論考』は教説を説く本ではないのだ(本書第2章の1の「限界設定の書」の項参照)。
[#改ページ]
第3章[#「第3章」はゴシック体] 復帰[#「復帰」はゴシック体]
[#改ページ]
[#ここからゴシック体]
[#ここから3字下げ]
思想にも、耕す時期と、刈り入れの時期とがある。………
種をまく文章があれば、刈り入れをする文章もある。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『断章』)
[#ここでゴシック体終わり]
[#扉裏(img/front4.jpg)]
†『論考』の影響[#「†『論考』の影響」はゴシック体]
一九二一年に世に出たウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、後にウィーン学団を結成することになる若き論理実証主義者たちに、強い影響を与えた。彼らは『論理哲学論考』のメッセージを、おおよそ次のように理解した。
有意味な命題は、経験的に真偽が検証できる科学的命題と記号規則によって真である論理・数学的命題である。このどちらにも属さない命題、たとえば伝統的な哲学の諸命題は、真偽が問題になる以前に、そもそも無意味であり、あるべき哲学は、有意味な命題と無意味な命題を区別する言語批判の活動でなければならない、と。そこから彼らは、検証可能性を有意味性の一般的基準とし、非科学的な主張を、虚偽を語るものとしてではなく、|無《ナン》|意味《センス》を語るものとして、排除しようとしたのである。論理実証主義者たちは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という主張を、まさにそのような意味に解したのである。
それだけではない。経験的命題と論理・数学的命題の区別それ自体に関しても、すなわち、後者がトートロジーであるというまさにそのことに関しても、ウィトゲンシュタインと論理実証主義者とでは、理解が違っていた。
[#ここから2字下げ、折り返して7字下げ]
六・一二 論理学の命題がトートロジーであるという事実は、言語と世界の形式的――論理的――性質を示す。
[#ここで字下げ終わり]
論理実証主義者にとって、論理学の命題がトートロジーであるとは、記号の使用規則によって(つまりわれわれが取り決めた規約によって)真であるという意味である。しかし、『論考』のウィトゲンシュタインにとってはそうではなく、トートロジーとは、世界の論理形式という最も堅固な実在がそこに示されているがゆえの真理なのである。
同一の言明や言説に心から同意した二人の人物が同一の内容を信じたとは限らない、ということの好例がここにある。幸福な人の住む世界と不幸な人の住む世界とは別の世界だとウィトゲンシュタインは言ったが、ウィトゲンシュタインと論理実証主義者たちとは、まさしく住む世界が違っていた。ウィトゲンシュタインにとって、真に重要なことは沈黙しなければならないことの方にあった。それに対して、論理実証主義者たちにとっては、まさにそれこそが排除すべきものであったのである。そこには図と地の鮮やかな反転が認められるであろう。
ウィーン学団に結集した人々は、その後、ナチスの追跡を逃れてアメリカをはじめとする諸国へ移る。ファシズムやそれを支援する非科学的・非理性的な諸思想に対して、『論考』は精神的抵抗の一つの拠点とさえなった。その著者ウィトゲンシュタインが「冷静に考えるなら、我々はヒトラーに対してさえ怒りを向けることはできない。神に対してならなおさら……」(『断章』一二五頁)という次元で思考する人物であるとは、彼らには想いもよらないことだったのである。
†接触[#「†接触」はゴシック体]
[#1段階大きい文字]
[#ここで字下げ終わり]
オッタータールの小学校を退職したウィトゲンシュタインは、一九二八年末までウィーンに滞在し、始めのうちは再び修道院の庭師の手伝いなどをするが、後にはエンゲルマンと協力して、姉マルガレーテ邸の建築に携わることになる。よけいな装飾をいっさい含まない、抽出された論理形式のような建築物である(この方面のことに興味のある方は、ライトナー著『ウィトゲンシュタインの建築』磯崎新訳、青土社刊、を見られることをお奨めする)。
この期間中、二七年から、ウィーン学団の中心人物であるシュリックとの交渉が始まり、やがて、ワイスマン、カルナップ、ファイグル等とも会うようになった。そうした会合においてウィトゲンシュタインは、自分に言えることはすべて『論考』で言いつくし、もはや哲学に興味を持っていないと語り、哲学を論じるよりはむしろ、たとえばタゴールの詩を――なぜか彼らに背を向けて――朗読することを好んだという。しかし、一九二八年三月、ワイスマンとファイグルに誘われて、彼はなかば嫌々ながら、直観主義数学に関するブラウワーの講演を聞きに行った。ブラウアーの主張は、数学や論理は世界そのものの客観的構造ではなく、実在を秩序づけようとする人間の意志の現れであるとするものであったが、講演終了後、ウィトゲンシュタインは突如として哲学の問題を長時間にわたって語り始めたのである。この事件が一つのきっかけになって、彼は哲学に復帰することになる。
†ケンブリッジへ[#「†ケンブリッジへ」はゴシック体]
一九二九年一月、彼はケインズの誘いによってケンブリッジに旅行し、そのまま留まってトリニティ・コレジのフェロー(特別研究員)として研究生活を再開する。ロンドンからケンブリッジへの列車の中で、一九一四年以来絶交状態にあったG・E・ムーアと偶然に再会したことも、ケンブリッジに留まる大きな原因になったようである。最初の一年間――翌年一月にラムゼイが二六歳で夭逝するまでの一年間――彼はラムゼイと「数え切れないほど議論を重ねた」(『探究』序文)という。二九年六月には『論考』によって博士の学位を受け、一一月には「倫理に関する講演」を行なった。同じ年の九月、ウィーン学団は『科学的世界把握・ウィーン学団』を出版し、本格的な思想運動としての旗揚げを開始する。
ケンブリッジに移った後も、休暇中はウィーンに滞在するのを常としたため、シュリック、ワイスマンの二人との会合は続けられた。二九年末から三二年の七月まで続いたこの会合のワイスマンによる記録が『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』である。ウィーン学団とは元来シュリックを中心として結成された団体であったにもかかわらず、ウィトゲンシュタインの影響を強く受けた彼は、次第に論理実証主義から離れていくことになる。年少のワイスマンについては、いうまでもないだろう。なお、シュリックは一九三六年に、ウィーン大学構内で精神疾患の学生に殺害され、以後、ウィトゲンシュタインとウィーン学団は完全な没交渉状態となる。
三〇年の一月から、ウィトゲンシュタインはケンブリッジで講義を開始した。その模様は何人かの聴講者の報告によれば、通常の講義とはかなり違ったものであった。ある聴講者はそのようすをこう語っている。「われわれも力を振りしぼらなければならなかったが、彼は恐ろしくなるほど力を振りしぼった。彼はノートなしに講義したが、どの講義も十分に準備がなされていた。大体のすじが構想され、無数の実例が考案されていた。しかし、講義の際には、彼はすべてを最初から考え直した。彼はしばしば質問し、出席者はそれに答えることで講義に参加した。彼はときおり『ちょっと待ってくれ、考えさせてくれ!』と言って講義を中断し、何分間も椅子の端に腰掛けて自分の手のひらを凝視し続けた。あるいは『これはひどく難しい!』と叫んだりした」。別の聴講者によれば、「君たちはひどい教師を持ったものだ!」などとも叫んだそうである。彼の講義を聞き、後にウィトゲンシュタイン的に哲学することの実例を世に示した多くの優秀な哲学者たちが、当時はその講義の画期的な意義を理解できていなかったことを告白している。にもかかわらず、ここでもまた、彼の真剣な思考態度は、多くの若い人々の心をとらえ、彼らはときに理解できないままにウィトゲンシュタインの口真似をするようにさえなっていったという。
この過程でウィトゲンシュタインに決定的な影響を与えた人物に、当時ケンブリッジで講師をしていたイタリアの経済学者P・スラッファがいる。N・マルカムの伝えるところによれば、ある日、ウィトゲンシュタインが、命題とそれが記述する事態は同じ論理形式を共有していなければならない、と言い張ると、スラッファは片手の指先であごを外側へこする身振り(嫌悪や軽蔑の身振り)をして見せ「これの論理形式は何だい?」と尋ねた。このことがウィトゲンシュタインに「写像」説を捨てさせるきっかけとなった、という。しかしフォン・ウリクトによれば、問題になったのは「論理形式」ではなく「文法」であり、この事件はウィトゲンシュタインに「文法」説を捨てさせることになった、という。中期ウィトゲンシュタインの「文法」説については次章で論じよう。スラッファは、マルカムが正しければ前期から中期への、ウリクトが正しければ中期から後期への移行のきっかけを、与えたことになるが、かりに前者だったとしても、軽蔑の身振りが問題である以上、それが「論理」と「文法」の両者を一挙に打ち破り、後期ウィトゲンシュタインの生活形式の哲学を呼び寄せる力を持ったことは間違いない。
この時期のウィトゲンシュタインの著作としては、ケンブリッジ復帰から三〇年春までは『哲学的考察』という草稿、三〇年夏から三四年までは『哲学的文法』という草稿があるが、三三年から三四年にかけての口述筆記録である『青色本』と三四年から三五年にかけての口述筆記『茶色本』も重要な文献である。中期から後期への移行はもちろん連続的であって、どこかに決定的な断絶があるわけではないが、「言語ゲーム」という考え方が前面に押し出される『茶色本』が、すでに明確に後期に属する著作であることには、まず異論の余地がないだろう。
†『探究』の開始と告白[#「†『探究』の開始と告白」はゴシック体]
三五年の夏、彼はロシア(当時のソ連)へ旅行する。以前からロシアへ移住する計画を持っており、その下見にいったらしい。ロシアから帰ると、一〇月からの学期に、後に「「私的経験」と「感覚与件」に関する講義ノート」として公表される講義を行なった。三六年の六月に、ケンブリッジ大学のフェローシップの期限が切れたが、すでに四七歳となったこの時点でもなお、これから医学を学んで精神科の医者となり、ロシアで働きたいと真剣に考えていたようである。哲学の歴史にとっては幸いなことに、この計画は実現しなかった。彼はその夏から、第一次大戦直前にノルウェーのショルデンに建てた小屋にこもって、まずは『茶色本』をドイツ語で書き直す作業を試み、それが次第に今日『哲学探究』として知られる書物に形を変えていくことになるからである。
三六年一一月と一二月に『探究』の一八八節までの部分を書いた後、彼はクリスマスにはウィーンへ帰り、一月はケンブリッジで過ごした。ノルウェーの小屋での仕事中にも、彼の心中にはある|蟠《わだかま》りがあった。彼はそれをまずエンゲルマンに手紙で告白し、ケンブリッジ滞在中にムーアとフェニア・パスカル夫人に直接告白する。生前、エンゲルマンとムーアはその内容を公表しなかった。「イギリス人が私的に聞いたことを公にすることは期待できない」として、ウィトゲンシュタインにロシア語の手ほどきをしたロシア人であるパスカル夫人がそれを公表した。そのときのようすは、こんな風であった。
「ある朝、彼はやって来て、私に面会を求めた。私は(確か子供が病気だったので)それは急を要することなのかと尋ねた。彼は断固として、急を要することで待てないと言ったため、私は怒った。私は……もしこの世に待てることがあるとすれば、こんな仕方でなされる告白こそがそれではないか、と思ったものだ。……彼はコートのボタンをかけたまま、背筋をまっすぐにして厳しい表情をして椅子に座っていた。……『告白するために来ました。』彼は同じ目的のためにムーア教授のところにも行ってきたところだった。『ムーア教授は何と言いましたか?』『「君はせっかちな人間だ、ウィトゲンシュタイン」と。』『あなたは自分がせっかちな人間だと知らなかったのですか?』彼は超然と『知らなかった』」。
彼が告白した「罪」は二つあった。第一は、彼の知人のほとんどが彼を四分の一ユダヤ人であると思っているが、実は四分の三であって、彼はその誤解を知っていて正そうとしなかったこと。第二は、オッタータールの教師時代、生徒の一人を殴り気絶させたが、校長に対してそんなことはしていないと嘘をついたことである。いずれも、少なくともパスカル夫人にとっては、少しも急を要することがらではない。エンゲルマンは、おそらくは同じ内容の告白に対する返信の中で「あなたほど魂の純粋さを求めて努力されている方を知りません」と言っているが、ウィトゲンシュタインの厳しい倫理性が、もっぱら彼自身の「魂の純粋さ」を求めるものだったことは注意されてよい。そこに、たとえば|同情《シンパシー》や|慈善《チヤリテイー》の要素は存在しないのである。
†教授就任と病院勤務[#「†教授就任と病院勤務」はゴシック体]
再びノルウェーに戻ったウィトゲンシュタインは、『探究』一八八節の続きとして、現在では『数学の基礎』第T部として知られている原稿を執筆した。この年から数年間、彼の哲学的関心は主として数学の基礎に置かれることになる。その冬もまた、クリスマスにはウィーンへ帰り、一月はケンブリッジで過ごした。ところがその頃、ドイツではヒトラーが統帥権を掌握し、三月にはオーストリアもナチス・ドイツに併合されることになった。ドイツ国籍になることを潔しとしないウィトゲンシュタインは、ケインズらに相談の上、イギリスに帰化することになる。
イギリス国籍になった以上そこで職に就きたいという彼の願いは、ケインズとムーアによってかなえられることになる。一九三九年、ムーアの定年退職に際して、ウィトゲンシュタインがその後任としてケンブリッジ大学モラル・フィロソフィー講座の教授に就任した。かねてからウィトゲンシュタインの言動と影響力を快く思っていなかったブロードも「ウィトゲンシュタインに哲学の教授の地位を与えないのは、アインシュタインに物理学の教授の地位を与えないのと同じだ」と言って、賛成したという。五〇歳のウィトゲンシュタインは教授となり、始めのうちはやはり数学の基礎に関する講義を中心に行なった。
ところが、四一年、第二次大戦の戦火が激しくなるにつれて、彼はまたもや志願して、今度は病院で勤労奉仕をすることになった。ロンドンの病院勤務中は、週末にはケンブリッジに戻って講義もしたが、後にニューキャッスルの病院に移ってからは、ケンブリッジでの講義は一切されなくなった。このころ、彼はマルカムにこう書き送っている。「外的な理由や内的な理由で、僕はいま哲学することができない。哲学だけが僕に真の満足を与えてくれる仕事なのに。哲学以外のどんな仕事も僕を真に元気づけてはくれない。僕は今とても忙しく、精神を集中する余裕がもてない。一日が終わると、疲れ果てて悲しくなるだけだ。――でも、多分、今よりもましな時がきっとまた来ると思う……」。それでも勤務のあいまを縫って『数学の基礎』が書き継がれ、この病院勤務が終わる四四年の初頭までに、それはほぼ完成するのである。
ケンブリッジに戻ったウィトゲンシュタインは、今度は心理学の哲学に関する講義を中心に行なった。それと並行して中断していた『探究』の続きが書かれる。四四年末までに一八九節から四二一節までの部分が書かれ、四五年から四六年の春にかけて、第T部の最後までが書かれ、四六年からは第U部が書かれることになる。だが、彼の哲学的思索、とりわけその著述にとって、職業哲学者の業務は、あまりに多忙で散漫なものだったようである。そのうえ、彼は自分の哲学教育が学生たちに悪影響を与えているのではないか、と疑うようになった。自分の哲学が|生半可《なまはんか》に理解され、学生たちが小手先の巧みな思考技術を身につけていくことを、彼は嫌悪した。才気走った連中が深い動機もなしに哲学の議論をする際に特有の、あのへらへらした雰囲気に、彼は我慢がならなかった。「哲学の教授はいわば生ける|屍《しかばね》だ」とマルカムに書き送ったウィトゲンシュタインは、一九四七年をもって五八歳でケンブリッジ大学を退職した。
†『倫理に関する講演』[#「†『倫理に関する講演』」はゴシック体]
この間の思想展開は次章以下で論じることにして、ここでは、オッタータールの小学校からケンブリッジに戻って間もない時期に行なわれた『倫理に関する講演』の内容を見ておくことにしよう。
この講演は、本章ですでに見た「告白」と関連づけて彼の人間性を理解するためにも、次章で見る言語哲学上の変化の根底にあってそれを支える不変の前提を知るためにも、きわめて貴重な資料である。
この講演において、彼はまず価値を相対的な価値と絶対的な価値とに分類する。相対的な価値とは、あらかじめ決まっている特定の目的に役立つという意味の価値であり、したがってそれは事実の叙述に還元することができる。たとえば「よいイス」とは、イス本来の目的に役立つイスのことであり、目的を知っていれば、それが「よいイス」かどうかは、そのイスに関する事実の知識から自動的に出てくることである。この種の価値判断は、倫理には関係しない。絶対的な価値とは、あらかじめ決まっている特定の目的に役立つという意味での価値ではなく、したがって事実の叙述に還元することはできない。ウィトゲンシュタインが挙げている例ではないが、たとえば「よい宇宙」というのはどうだろうか。ひょっとすると、それは人類滅亡後の宇宙かもしれない。宇宙本来の目的を(あるかどうかを含めて)われわれは知らない。したがって、宇宙に関するすべての事実を知っていたとしても、それが「よい宇宙」かどうかはわからないのである。この種の超越的な価値の次元こそが、ウィトゲンシュタインの言う倫理の次元である。
だが、もしそうだとすると、それは普通の意味における倫理とどう関係するのだろうか。ウィトゲンシュタインは、たとえばこんなことを言う。
「誰かが私に『君はテニスが|下手《へた》だね』と言ったとき、私が『下手なのはわかっているけど、うまくなろうとは思わない』と言ったとすれば、その人は『それならそれでいい』と言うだろう。しかし、私が誰かにひどい嘘をつき、その人が『君のしたことは畜生も同然だ』と言ったとき、私が『ひどいのはわかっているけど、行ないを改めようとは思わない』と言ったとすれば、その人は『それならそれでいい』とは絶対に言えないだろう。その人は『いや、君は行ないをを改めようと思うべきだ』と言うだろう」。
ウィトゲンシュタインは、後者のような通常の倫理的価値判断を絶対的価値判断に分類している。しかし、嘘を反価値的な行為とみなすことは、人間社会の構成と維持のための必要という観点から簡単に説明できることである。つまり、嘘つきを悪い奴とみなす価値判断は、安定を欠いたイスを悪いイスとみなす価値判断と、本質的に同じレベルにあると言える。むしろここで「でも、嘘つきであることは本当に[#「本当に」に傍点]悪いことなのか?」と問えば、それは確かに絶対的な価値判断の地平が開ける問いであろう。この問いには、人間社会に関するどんな事実を持ち出しても、答えることはできないからである。
ウィトゲンシュタインはここで、通俗的・常識的な倫理の水準と、彼自身の思い描く超越的・絶対的な倫理の水準とを、あまりに安易に重ね合わせている、と私には思われる。だが、実はそこに本質的な問題はない。絶対的価値は客観的に実在するわけではないのだから、何を絶対的な価値と言いたくなる[#「言いたくなる」に傍点]かは、人によって違っており、違っていてよいのである。それは、実は、その人の心性を示すドキュメントにすぎない。
ウィトゲンシュタインは、彼自身が絶対的な価値について語りたくなる経験として、三つの例を挙げている。第一は「世界の存在に驚く」という経験、第二は「絶対に安全である」という経験、第三は「罪を感じる」という経験である。しかし、彼によれば、これらの言語表現は、どれもみな無意味なのである。人がある事実に驚くことができるのは、それが事実でないことも想像可能な場合だけである。それとの対比において、ある事実に驚くわけである。ところが、世界が存在しないことは想像できない(それがどういう想像だか、そもそもわからない)。だから、そのような絶対的な[#「絶対的な」に傍点]驚きはありえないはずである。また、安全であるとは、危険なことが起こらないという意味であり、何が起ころうとも安全である、などという絶対的な安全感は、ありえないはずである。また、罪はそれが罪でない可能性との対比において罪でありうるのに、彼が念頭においているのは、そのような相対的な罪ではなく、絶対的な罪なのである。
三つの事例に共通の性質は、物差し自体をその物差しを使って測定される事象の中に入れてしまう、といったことである。われわれはものごとを、存在したりしなかったり、安全であったりなかったり、といった可能性の空間[#「可能性の空間」に傍点]の中で把握する。ところが、その空間の中に位置づけられた一事実ではない、空間そのものを、あたかも空間の中の一事実であるかのように、もう一度その空間の中に入れてしまうということが、ここで問題になっていることである。
ウィトゲンシュタインはここで、言語の限界に向かってこのように突進し、世界を超えて行こうとする傾向を倫理(学)と呼ぶ。確かに、倫理を「人生の究極的意味」を求めるものと見る限り、それはこの傾向の一例ではある。しかし、一般的に言えば、この傾向はむしろ形而上学的傾向というべきものであろう。
もしここで問題にされているのが、いわゆる倫理的な価値にすぎなかったならば、次章以下で述べるような言語哲学上の見解の変化によって、それは当然「語りうるもの」の領域に編入されていったはずである。この講演の時点で、彼はまだ、事実の記述だけを言語の正当な仕事と見なす偏狭な『論考』的言語観の枠内にあった。だが、後期の言語ゲーム的観点が登場すれば、嘘をつくことをめぐる先述のような言葉のやりとりなどもまた、特に絶対的でも超越的でもない、言語の正当で平凡な仕事と見なされることになったはずだからである。
だから実は、本当の問題は価値や倫理にではなく、時にそれらを一例として含みうるような超越性と絶対性にあったのである。言語哲学上の見解の変化にもかかわらず、決して「語りうるもの」の領域に組み込まれえないものが、ここで問題にされていたのだ。
それにもかかわらず、彼はその問題を特に倫理という個別領域と関連づけて語った。外部から見れば、それはウィトゲンシュタインという人物の心性を示すエピソードにすぎない。しかし、彼自身にとっては、それこそがすべてなのである。この点で注目すべきことは、この講演は、講演であるにもかかわらず、本質的には「自分自身に向かって」(『講演』三八八頁)のみ語られたものだ、という点である。この問題次元にとって、他の人がどうであるかは、本質的には問題になりえないのだ。もしこの講演を聞いて、他の人が賛成したとしても、それは誤解であるともないとも言えない。ここには、「独我論の語り」と同じ問題が現れているだろう。
[#改ページ]
第4章[#「第4章」はゴシック体] 文法[#「文法」はゴシック体]
――中期ウィトゲンシュタイン哲学
[#改ページ]
[#ここからゴシック体]
[#ここから3字下げ]
本書を生み出した精神に対して、友好的な態度をとってくれるような人々のために、本書は書かれている。その精神は、われわれをとりまくヨーロッパ文明とアメリカ文明の巨大な潮流を生み出した精神とは別のものである。この潮流を生み出した精神は、進歩の内に、そして、巨大化し複雑化する構成物を構築することの内に、あらわれるが、本書の精神は、いかなる構成物であれ、それについての明晰と透察を求めて努力することの内にあらわれる。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『考察』序文)
[#ここでゴシック体終わり]
[#扉裏(img/front5.jpg)]
1 検証と文法[#「検証と文法」はゴシック体]
――形成[#「形成」はゴシック体]
†論理から文法へ[#「†論理から文法へ」はゴシック体]
ケンブリッジに復帰してまもなく、『倫理に関する講演』がなされる直前、ウィトゲンシュタインは「論理形式について」という短い論文を書いた。注目すべきことは、要素命題の独立性という『論考』の主張が、そこでは早くも否定されていることである。
たとえば、視野の中のある場所が黄色であるとすれば、視野のその場所が青色であることはできない。『論考』的な「論理」の観点から見ても、「黄色である」ことと「黄色でない」ことが両立しえないことは自明であるが、「黄色である」ことと「青色である」ことが両立しえないことは自明とはいえない。「黄色である」ことから「青色でない」ことが推論できるとすれば、それは一般的な論理形式によってではなく、「色」に関する文法形式によってのみ正当化されるのである。つまり、実は、要素命題と見えるものは、真理関数によって外的にではなく、文法によって内的に結びついていたのである。中期ウィトゲンシュタインの「文法」論の萌芽が、すでにここに現れている。
このことは『学団』においてさらに明確な形をとる。『論考』の時期を念頭において、彼はこう言っている。
[#2字下げ] 当時、私はすべての推論はトートロジーという形に基づくと信じていた。ある人が二メートルである、ゆえにその人は三メートルでない、という形の推論がありうることに気づいていなかった。このことは、要素命題は相互に独立であり、ある事態の成立から他の事態の不成立を推論することはできない、と私が信じていたことと関係している。しかし、命題の体系についての私の今の所見が正しいなら、命題の体系によって記述されるある事態の成立からそれ以外のすべての事態の不成立を推論することができるということは、規則でさえある。
[#地付き](『学団』九一頁)
[#ここで字下げ終わり]
このようにして、直接的に把握されるべき「内的関係」、つまり語りえぬものが、論理から文法へと広がっていくことになる。
この展開の初期において、彼は「空間」という比喩をしばしば用いた。たとえば黒い色はより明るくなって、白くなることはできるが、より騒がしくなることはできない。それは「明−暗」の空間内にあって「騒−静」の空間内にはないからである。あるものが「黒い」ということは、一つの空間の中においてそれが「白い」ことを否定しているから、「白い」と語ることは偽だが無意味ではない。だがそれについて「騒がしい」と語ることは、空間そのものの取り違えであるから無意味である。それぞれの領域に特有の構造を持ったこの可能性の空間が、われわれの経験に先立ち、それを規制するのであって、空間の存在を前提としない裸の知はありえない。事実の把握はその空間の中でのみ為されるのであって、経験だけから、たとえば「黄色」とは何であるかを知ることはできない。たとえ眼の前に黄色いものがありありと与えられていても、である。空間を前提としない知は成り立ちえないのである。
†写像から検証へ[#「†写像から検証へ」はゴシック体]
それにもかかわらず、『学団』や『考察』において、ウィトゲンシュタインは「命題の意味とはそれを検証する方法のことである」と要約される検証理論の立場をとった。論理から文法への転換は『論考』の立場からの離反を意味したが、写像から検証への転換はそうではなく、むしろ『論考』の抽象的見解の一つの具体的展開と見なしうる。だから、こちらは、シュリック、ワイスマンを通じて、ウィーン学団の論理実証主義者たちに影響を与えた。
「意味」が「検証方法」のことだ、と言われてもすぐにはピンと来ないかもしれないが、意味を知っているとは検証方法を知っていることだ、という風に考えれば、納得がいくだろう。「多摩川の上流で大雨が降っている」という命題の意味を知っているとは、それがどういう場合に真と見なされ(どういう場合には偽と見なされ)るかを知っているということだ、というのがその趣旨である。これなら、誰でも一応は納得がいくだろうし、それが写像理論の具体化であることも理解できるであろう。
さて、もし命題の意味がそれを検証する方法のことであるとすれば、検証方法が定まらないような命題は、端的に無意味なはずである。そして検証とは感覚的経験によってなされるものである以上、いかなる感覚的経験によっても真偽が決定できないような命題は、実は有意味な命題とはいえない、ということになろう。実際、論理実証主義者は、ウィトゲンシュタインの検証理論を、有意味な命題と無意味な命題とを峻別する批判原理として受け取り、これに基づいて疑似科学批判を展開した。つまり、意味の検証理論に関してもまた、ウィトゲンシュタインと論理実証主義者とでは、同じ一つの考えがまったく異なる目的と脈絡のもとに置かれることになったわけである。
ウィトゲンシュタインにとって検証とは、命題が真であることをある仕方で証拠立てるものなのではなく、命題の意味そのものを始めて定めるものなのであった。検証方式の指定が命題の意味を始めて定める以上、命題は完全検証が可能でなければならない。一見すると、これはあまりに厳しい要求のように思われるかも知れない。しかし、まさにこの点にこそ、検証理論を位置づけるウィトゲンシュタインと論理実証主義者の文脈の違いが現れているのである。
たとえば「箱の上に本がある」という命題の検証に関して二つの見解がある。その本をさまざまな角度から観察し手に取って頁をめくってみるといったことで、この命題は完全に検証される、というのが一つの見解である。そのようなことをどんなに積み重ねても、その命題は完全には検証されない、というのがもう一つの見解である。デカルト的懐疑の精神は、もちろん後者を支持するであろう。錯誤の可能性はどこまでも残るからである。論理実証主義も後者を支持し、物理学的命題が有限個の観察命題によって完全に検証されることはないことを承認することになる。これに対して、ウィトゲンシュタインは言う。「もし私が命題の意味を決して完全には検証しえないのであれば、私はその命題によって何も考えることができず、その命題は何も意味してはいない」(『学団』六四頁)。
つまり、命題が完全に検証されたと言える条件を知っていなければ、命題の意味が確定しないのであって、そのような意味の知識[#「意味の知識」に傍点]こそが、真偽を検証するための前提をなすのである。命題の真偽を知るためには、その命題の意味をすでに知っていなければならない。それは文法規則に属することがらなのであって、経験による真偽の決定は、それを前提としてなされる第二次的な仕事にすぎない。ウィトゲンシュタインにとって、検証条件の指定は文法規則の提示[#「文法規則の提示」に傍点]だったのである。
†隣室でピアノを弾く兄――現象と徴候・命題と仮説[#「†隣室でピアノを弾く兄――現象と徴候・命題と仮説」はゴシック体]
だが、たとえば電子の質量や電荷を規定する命題のような場合、同一の命題に複数の検証方法がある。これはどう説明されるのか。シュリックはこのように問い、自らの問いに自然法則の存在によって答えようとした(『学団』二二八頁)。ウィトゲンシュタインはそれを遮り、同じ問題は科学だけではなく日常生活でも起こると述べて、次のような例を出した。
私が隣室からのピアノの音を聞き、「隣室に兄が居る」と言ったとしよう。根拠を問われれば、「この時間に隣室に居ると言っていた」とか「あの弾き方は兄のものだ」とか「少し前に兄の足音を聞いた」とか答えるだろう。それらは同一の命題の複数の検証のように思われるかもしれないが、実はそうではない。それらはいずれも、隣室に兄が居ることの徴候[#「徴候」に傍点](間接的証拠)の検証にすぎず、その現象[#「現象」に傍点](直接的証拠)の検証とはなりえないからである。「隣室に兄が居る」という命題と、それの現象そのものを記述する命題との関係は、文法規則によって規定された内的な関係だが、「隣室に兄が居る」という命題とそれの徴候を記述する命題との関係は、経験的な観察や蓋然的な推測によって立てられた外的な関係にすぎない。この区別こそが決定的なのである。内的な関係――語りえず示されるもの――と外的な関係――語りうるもの――との対比は、この場面でも崩れてはいない。
自然法則が問題になるような場面に関しても、同じ区別が成り立つ。ウィトゲンシュタインは、シュリックの疑問に「命題」と「仮説」の対比によって答えた。自然法則は仮説であり、命題が点だとすれば、仮説はそれを結ぶ最も単純なグラフである。命題は直接経験によって検証されるが、仮説には間接的証拠しかありえず、そのいくつかの断面が検証されるにすぎない。つまり、どこまでも蓋然的なものにとどまるのだ。だから、一つの命題が複数の検証方法を持つことは、ありえない。検証の方法が違えば意味が違うのだから、|字面《じづら》がどうであれ、それは同一の命題ではないのである。複数の検証方法があるのは、それが仮説だからなのである。
†行動主義[#「†行動主義」はゴシック体]
この考え方に従えば、以下のようなことが言えるはずである。二つの仮説があって、一方の証拠となるようなどんな経験も他方の証拠ともなるならば(したがって、その二つのうちどちらが正しいか、経験的に決着をつける方法がないならば)、二つの仮説は意味が同じである、と。そして、そうだとすれば、今度は次のようなことが言えるはずである。
[#2字下げ] 他人が痛みを感じているという仮説と、痛みを感じていないが、痛みを感じている場合と同じように振る舞うという仮説とは、もし一方を証拠立てる可能な[#「可能な」に傍点]あらゆる経験がもう一方をも証拠立てるならば――つまり、もし経験によってどちらが正しいか決着をつけることができないならば――、意味が同じであると言わねばならない。
[#地付き](『考察』六五節)
[#ここで字下げ終わり]
この例が不自然に思われてなじめない人は、切断されてのたうちまわるミミズは痛みを感じている(いない)という仮説で考えてもかまわない。ここで「証拠立てる」という中期的(検証主義的)な枠組みの中で考えられている内容は、たとえば「自然な同情がわいてくる」という後期的(言語ゲーム論的)な枠組みに移されても、同じように成り立つ。
もう一つ重要なことは、この文の直後にこう書かれていることである。「しかし、他人が痛みを感じていないと語ることは、他人が痛みを感じていると語ることに意味があることを前提している。われわれが、イスは痛みを感じえない、と語るのと同じ意味で、他人は痛みを感じうる、と語っていることは明らかだと私は思う」。では、ミミズはどうか。ともあれ、これはもはや検証主義的には根拠づけることのできない発言であり、同時にまた、「他人」や「痛み」という語の使用規則(文法)によって、これを根拠づけることにも無理があるだろう。ここには、後期思想の予感が読み取れる。
†志向性の問題[#「†志向性の問題」はゴシック体]
この時期の彼は、相互に独立な命題が実在と直接に比較されるという考えを放棄したにもかかわらず、目盛りのついた物差しが物の長さを測るように、体系をなす命題が実在に対して適用される、という考えを捨てていない。文法とその適用とは分裂したままであり、その狭間に深淵が横たわっていることに、彼はまだ気づいていない。また、適用のされ方こそが意味を構成すると考える点で、彼の立場はなお検証主義的であり、その限りで写像理論の枠内にある。後期的な「言語ゲーム」の立場へ到達するために跳び越えるべきハードルはまだ多いが、最初のスプリング・ボードは、おそらく「志向性」の問題にあった。
ウィトゲンシュタインは、『考察』の二〇節の末尾に、「言語から志向という側面が除かれるなら、言語の全機能はそれによって瓦解するだろう」と書き、続けて二一節の冒頭に、「志向・意図において本質的なものは像、つまり意図されたものの像である」と書いた。このいささか唐突な印象を与える「志向」への言及は何を意味するのだろうか。
そもそも命題の検証という営みが成り立つためにさえ、まずは、その像(命題)が真であることが、つまり事実と一致することが意図されて[#「意図されて」に傍点]いなければならない。そして、そのように事実との一致が意図された像が、検証されたり反証されたりするわけである。しかし、いったんこの対比が問題になるや、なおも像が、ただもっぱら実在と比較照合され、その真偽が確かめられるだけである必要はないはずである。
まず真理への意図(志向)があって、時に応じてそれが検証されたり反証されたりするのと同様、たとえばまず願望があって、場合によってそれが実現されたりされなかったりする。願望、予期、恐怖等々も、志向であり、それは時に充足され、時に充足されない。これが、ウィトゲンシュタインの言う「志向という側面」であり、それが除去されてしまえば、言語の全機能が瓦解する、とここで彼は言っているのである。言葉の本来のはたらきを真理を語ることだけに認める|狭隘《きようあい》な言語観からの脱出は、まずはここから始まったのである。
†反ラッセル[#「†反ラッセル」はゴシック体]
志向をめぐるウィトゲンシュタインの議論は、ラッセルの『心の分析』とフッサールの『論理学研究』との対比の中で理解されるべきものである。
ラッセルはほぼ次のような議論を展開した。――欲求は不快感を媒介にして行動を引き起こし、その行動は快の実現まで続き、そこにおいて終結する。静止状態が達成されるこの事態が行動の「目的」であり、不快をともなう初期の心理状態が、目的である事態への「欲求」である。この事態に関する真なる信念をともなうとき、欲求は「意識的」であり、ともなわないとき、欲求は「無意識的」である(『心の分析』勁草書房、七三〜八四頁参照)。
だが、もしそうだとすると、何であれその不快が鎮まりさえすれば、目的が実現されたことになるだろう。私がオムレツを食べたいと思っていたとき、誰かに腹部を殴られて食欲をなくしたとすれば、私が望んでいたのは殴られることだったのか。つまり、ラッセルにおいては、目的とその実現という内的関係が、欲求とその鎮静化という外的関係と混同され、同一視されているのである。
ラッセルが見のがしているのは志向性であり、志向性において本質的だとウィトゲンシュタインが言う「像」である。オムレツを食べたいという欲求は、オムレツを食べることの像を介して、オムレツを食べることによる満足と、内的に、つまり志向的に結びついており、それは、腹部を殴られることや、すき焼きを食べること(結果的にはもっと美味しいと感じるとしても)による満足との、外的な、つまり因果的な、結びつきとは種類が違うのである。予期を例にとって、彼はこう言っている。
[#ここから2字下げ]
予期していたことが実現するとは、端的に「予期していたそのことが実現した」としてしか記述できないことが起こることなのであって、それ以外の仕方でも記述できるような何か第三のもの――たとえば充足感とか快感とか――が起こることではない。
(中略)
pという予期を満たす事態は、pという命題によって表現されるのであり、まったく別の出来事の記述によっては表現されない。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『考察』二五節。『文法』一〇八節も参照)
[#ここで字下げ終わり]
†親フッサール[#「†親フッサール」はゴシック体]
この洞察は、人間(とそれに似たもの)の行動と生活を理解するに際して本質的なものである。なぜなら人間とは、自己自身を欲動的にではなく志向的に捉えて生きる動物だからである。そしてこの洞察は、その本質においては『論理学研究』のフッサールに帰されるべきものである。志向と充実の内的関係をはじめて明確に取り出したのは彼であり、この点に関する、この時点におけるウィトゲンシュタインの見解は、フッサールのそれにきわめて近く、本質的にはフッサールを超えていないからである。
たとえば私が、オムレツを食べている自分の表象像を持ちつつ、これは予期なのか想起なのか、それとも想像にすぎないのか、という疑問を持つことはありえない。しかし、なぜありえないのか。ウィトゲンシュタインは「像によって何かが思念されるのはどのようにしてか?」という問いを立て、こう答えている。「志向は像それ自体の中にはない。なぜなら、像がどのようなものであっても、それはさまざまな仕方で思念されうるからである。だからといって、像が思念されている仕方は、一定の反応が引き起こされた時にはじめてわかる、ということではない。なぜなら志向は、私が像と実在とをいま[#「いま」に傍点]比較するその仕方の中にすでに表現されているからである」(『考察』二四節)。思念 (Meinen) という用語を含めて、この答えの中にはフッサールを超える要素は見あたらない。ウィトゲンシュタイン独自の解答は、まだ発見されていない。
ウィトゲンシュタインがフッサールを超えられないということは、逆に言えば、フッサールの思考が検証主義の枠内にあるということでもある。充実のされ方が志向の意味を決めるとは、検証のされ方が命題の意味を決めるという検証原理の一般化にほかならないからである。
2 文法の自律性[#「文法の自律性」はゴシック体]
――完成[#「完成」はゴシック体]
†「文法」への一元化[#「†「文法」への一元化」はゴシック体]
検証条件の指定が文法規則の提示である以上、検証はもはや、命題を言語外の実在へと直接関係づけることはできない。検証は、命題[#「命題」に傍点]をそれを検証する現象記述命題[#「命題」に傍点]へと内的に(文法的に)関係づけるのである。一九三一年末に、彼はこう語っている。「命題の検証は、再びある記述によってのみ与えられる。……第一の命題は第二の命題から導かれねばならないということを、私は単に文法規則として立てる。だから私は、意味について、意味とは何かについて、まったく語っていない。私はもっぱら文法の内部に留まっているのだ」(『学団』二六七頁)。
「論理から文法へ」の、そして「写像から検証へ」の、中期ウィトゲンシュタインの推移は、こうして「文法」へと統合され、一元化されることになった。
文法は、確固不抜の規則であって、個々の経験に先行してそれを可能ならしめるという意味では先験的でさえあるが、にもかかわらず、それ自体としては、偶然的で恣意的なものである。それは、その文法の外部にある何ものの内にも根拠を持たない。だから、もし複数の文法が競合したとすれば、それに決着をつけるようなものはありえない。「……理由というものは、ゲームの内部において[#「内部において」に傍点]のみ与えられる。理由のつながりは、ゲームの限界において、終点にたどり着く。……『言語と実在』の結合は、語の説明によってなされる。そして、その説明は文法に属する。それゆえ、言語はどこまでも自己充足し自律的である」(『文法』五五節)。
†本質は文法の中に[#「†本質は文法の中に」はゴシック体]
ものごとの本質(「〜とは何であるか」という問いへの答え)を決めるのは文法であるから、実在そのものの本質と見えるものは、実は文法が映し出す影にすぎない。たとえば「黄色と青色は同時に同じ場所を占めることができない」という真理は、物理的あるいは心理的な事実を語るものでもなければ、世界そのものの本質構造を語るものでもなく、色に関するわれわれの文法を示すもの、つまり文法的真理なのである。
そんなことはない、文法などとは無関係に、現に黄色くかつ青い表面がありえないという事実があるではないか――と反論したくなる人は、その反論に使われる「黄色」や「青色」や「表面」という語もまた、文法に従って使われざるをえないことを忘れている。つまり、根拠づけられるはずの文法に依拠せずには、根拠づけるはずの事実を引証することさえできないのである。それゆえ、われわれは文法の外に出ることができないのだ。
文法が競合するケースではどうか。「コンピュータは考えるか?」といった問いが、その一例となるだろう。ある人はさまざまな理由を挙げて、コンピュータには人間以上の優れた思考能力があると主張するが、別の人はその人の挙げる事実をすべて認めながら[#「事実をすべて認めながら」に傍点]、コンピュータが思考するとは認めない。彼は人間的活動の一環に組み込まれていないような思考の存在を、そもそも認めないのである。ここには事実に関する争いはなく、ただ言葉の使い方に関する争いだけがある。つまり、コンピュータが思考するか否かという問題は、スペイン人がなまものを食べるか否かといった問題とは、種類の違う問題なのである。後者には主張から独立の証拠が存在するが、前者にはそれが存在しない。それは、何をその主張の証拠と見なすかが主張の意味をはじめて決めるような種類の問題なのである。
規則の外部に規則を正当化するものがないという点で、文法規則はゲームの規則に似ている。この時点で比較するならば、ウィトゲンシュタインの言語観は、ソシュールのそれに近い側面を持つ。チェスというゲームの構成にとって駒の材質や形状が本質的な(=差異を生み出す)役割を果たさないという比喩は、両者がともに愛用したものであった。このゲームには、当然のことながら、その遂行を背後から動機づけるような外部もない。それがあると思う人は、再び、背後を語るゲームの中に居るにすぎず、そのゲームもまた文法規則に規定されて始めて意味を持つからである。そしてゲームそのものは、つねに語りえず示されるものとして、ただそこにある。われわれにできることは、その事実をそのまま受け入れることだけなのである。
†規準と徴候[#「†規準と徴候」はゴシック体]
文法に外部がないとすれば、現象による検証が、文法規則を外部から根拠づけることができるはずはない。それゆえ、文法への一元化が最終的に成就するためには、「現象」という検証主義的な概念が放棄され、「規準」というウィトゲンシュタインに固有の概念に取って替わられねばならなかった。直接経験に意味の源泉を求める考えが、根底から拒否される必要があったのである。現象から規準へというこの転換によって、「文法」概念を中心とした中期ウィトゲンシュタイン哲学は完成する。そして、それは文法規則によって規定された[#「文法規則によって規定された」に傍点]言語ゲームという形で、後期ウィトゲンシュタイン哲学の中に、その一面として受け継がれていくことになるのだ。
たとえば、地面がぬれていることは雨が降ったことの徴候であり、気圧計が気圧の顕著な低下を示すことも雨が降っていることの徴候である。しかし、「雨が降っている」としか記述できないような視覚印象や、「雨にぬれる」としか描写できないような身体感覚などは、雨が降っていることの徴候ではなく規準である。
いやそうではない、後者のような視覚や感覚といえども、誰かが屋上から巨大なジョウロで水をまいていて、本当は雨など降っていないのかも知れないのだから、結局は降雨の徴候にすぎない、と言いたくなる人は、この状況が「雨が降っている」という表現でしか描写できない理由を捉え損ねているのである。欺かれていようといまいと、つまり真であろうと偽であろうと、その状況は「雨が降っている」状況、つまり定義によってそう確信すべき[#「確信すべき」に傍点]状況なのである。それは文法によって保証かつ要請された当為であり、そういう状況に直面してなお「雨が降っているかも知れない[#「かも知れない」に傍点](がひょっとすると降っていないかも知れない)」などと言う人には、むしろ逆に、懐疑の余地を残す根拠の提示こそが求められるのである。
†他人の心[#「†他人の心」はゴシック体]
「他人の心」の問題に以上の考察を当てはめてみよう。われわれは他人の痛みを感じることができない――これは人間の痛覚の構造に関する事実の報告ではなく、文法に関する所見である。つまり、どこにどんな感覚を感じようとも、他人の感覚を感じたとしてはならない、という「感覚」や「人」という語の使い方に関する所見なのである。いや、そんなことはない、文法などとは無関係に、現に[#「現に」に傍点]われわれは他人の痛みを感じることができないではないか、そういう事実[#「事実」に傍点]があるではないか、と反論したくなる人は、その反論に使われる「痛み」や「他人」もまた、文法に従わざるをえないことを忘れている。
それなら、われわれはどのようにして他人の心理状態を知るのであろうか。規準によってである。会議の席上、非難された人物が顔を真っ赤にして声をあらげて強い調子で反論したなら、その人は「怒った」のである。いやそれでも、その人は単に怒った振りをしただけかもしれないではないか、と反論したくなる人は、その場合でさえ、それが「怒った」ふりでしかありえないことの意味をよく理解していない。外見にだまされていようといまいと、その状況は人が「怒った」と確信すべき[#「確信すべき」に傍点]状況、つまり他の可能性に盲目であるべき[#「盲目であるべき」に傍点]状況なのである。それは文法によって保証かつ要請された当為であり、そういう状況に直面してなお「怒っているのかも知れない[#「かも知れない」に傍点]」などと言う人には、むしろ逆に、そのように留保する根拠の提示こそが求められるのである。根拠の提示と証拠立てのゲームが展開するのは、このゲームの存在を前提した派生的なゲームにおいてである。
だが、実は「他人の心」の問題はそれほど単純な問題ではない。ウィトゲンシュタインは「他人が歯痛を感じていると言えるための規準を明らかにすることは、『歯痛』という語の文法を明らかにすること、そしてその意味で、『歯痛』という語の意味 (the meaning) を明らかにすることなのである」(『青本』五六頁)と言う。だが、おそらくそれだけでは歯痛という語の意味そのものを明らかにすることはできないだろう。
降雨の場合なら、雨が降っていると言えるための規準を明らかにすることは「降雨」という語の意味のすべてを明らかにしうる。雨はけっして降っているふりをせず、「降雨」の意味はわれわれに全面的に[#「全面的に」に傍点]開示されているからである。歯痛の場合はそうではない。われわれは、確かに歯痛の外的規準(状況、表情、動作等)によって他者に「歯痛」を帰属させ(つまり「彼は歯が痛い」と言い)、同じ外的規準を目印にして、自己に歯痛を帰属させる仕方を(つまりどんな場合に「私は歯が痛い」と言ってよいかを)教えられた。だがその際、歯痛とは歯痛の外的な現れのことだと教えられたのではなく、むしろそうではないことも同時に教えられたのである。ここには、規準論だけでは解決できない問題が残されているが、それはもはや「他人の心」の問題ではなく、むしろ「自分の心」の問題であろう。
†志向と言語表現[#「†志向と言語表現」はゴシック体]
志向と充実の関係についても、文法への一元化は為された。この関係が内的であるならば、その関係にとって外的な精神作用は、直観的な理解を容易にするための比喩以上の意味は持ちえないはずである。それならば、この関係にとって本質的なものは何であろうか。それは言語である。言語による表現の可能性こそが、意図、予期、願望等々の志向的なはたらきを、はじめて可能にするのである。人間が自己自身を志向的に捉えて生きる動物であるのは、人間が言語を持つ動物だからである。これがウィトゲンシュタイン独自の洞察であり、言語ゲームというアイディアの中核を形づくる発見でもある。
多摩川の上流に大雨が降ったという文の意図が多摩川の上流に大雨が降ったという事実によってしか検証されないのと同様、オムレツを食べたいという願望はオムレツを食べることによってしか満たされず、N氏の訪問の予期はN氏の訪問によってしか現実化されない。それはなぜだろうか。もし、たまたま同じ表現が妥当する独立に把握可能な二つの事実が問題なのだとすれば、これは奇妙な偶然と言わざるをえない。だが実は、言語表現に先立って、語られることを待つ二つの事態があって、それが後からたまたま同じ表現で語られるのではない。逆に、志向とその充実の関係は、言語表現の中で構成されるのである。願望を例にとって、ウィトゲンシュタインは言う。
[#ここから2字下げ]
しかし今、願望の行為として願望の表現を考えれば、問題は解けると思う。なぜなら言語体系が、その中で命題が死なずにすむような媒体となるように思われるからである。
願望の表現を願望と考えるのは、一定の網の目の線に沿ってしか地上を動きまわることができないといったような生きものを思い浮かべることに似ている。
だが、こう言いたくなる人もいるだろう。たとえ願望の表現が願望なのだとしても、その表現の現場で一緒に働いているのは、言語の全体ではなく、まさに願望そのものなのだ、と。
だとすれば、言語は何の役に立つというのか。そう、端的に必要ないのは、表現のほかに何かが一緒に働いている[#「一緒に働いている」に傍点]ということそのものなのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『文法』一〇一節)
[#ここで字下げ終わり]
一定の網の目とは、もちろん言語の網の目である。だから、思い浮かべられた生きものとは人間のことである。言語による表現の可能性こそが、願望とその充足の内的関係を設定し、願望をはじめて特定のものの願望たらしめる。志向的関係は、充足との関係が外的に規定可能な(つまり別の言葉で記述できる)欲動のようなものとはまったく異なるものなのである。
†予期・意図・思念[#「†予期・意図・思念」はゴシック体]
予期を例にとって、彼は「予期とその実現が接触するのは言語においてである」(『文法』九二節)と断言している。予期することは一つの行為であり、予期していると語ることはその一部である。同時にまた、自己の行為を予期として語る可能性こそが予期という行為をはじめて成立させる。だから、このとき、表現は反省による内面の記述ではなく、予期そのものの発露、つまり予期行為そのものである。だからこそ、予期の表現は予期の徴候ではなく(『文法』九二節)、むしろその規準なのである。
あるイメージを持ちつつ、それが予期なのか願望なのか想像なのかわからない、ということがありえない理由は、もはや明白であろう。言語表現と連続しかつ言語表現の可能性によって支えられた行為[#「行為」に傍点]こそが、このゲームの成立にとって本質的なのであって、イメージや像、そしてそれを対象に関係づける思念のはたらきは、むしろ不要なのである。そんなはずはない、と言いたくなる人は、内省によって自分の実感を語っている。だがそれは、ゲームの成立にとって非本質的な(無関与的な)駒の材質や形状にすぎないのだ。
意図と行為の関係についても同様である。意図(するつもりであること)の言語による表明(の可能性)こそが、かつて持った意図とこれから実行する行為という二つの出来事を内的に関係づけ、為される行為の理解と評価の枠組みをはじめて作り出すのである。
恐怖については、『探究』からの次の引用が役に立つだろう。「われわれは、犬が飼い主に殴られるのを恐れているとは言うが、あす殴られるのを恐れているとは言わない。何故か」(六五〇節)。答えはもちろん「犬は言語を持たないから」というものであろう。だが、この見解にしても、犬に関する因果的事実の主張と解されてしまえば、元も子もなくなる。言語を持たないという事実が、恐れることができないという事実を、因果的に引き起こすのではない。犬は言語をもたないから、明日の事件をいま恐れることができない、とわれわれ[#「われわれ」に傍点]は言う。これは言葉の使い方に関する文法的所見なのである。
†文に意味を与えるもの[#「†文に意味を与えるもの」はゴシック体]
思念や意味志向についても、類似の問題が指摘できる。音声にせよ文字にせよ、文はそれだけでは死んでいるように見える。文に意味を与えるものは何か。そこには、文を生気づける思念といった、何か精神的なはたらきがあるように見える。だが、ウィトゲンシュタインは、文の意味とは文の中に吹き込まれた精神ではなく、意味の説明が求められたとき答えとして出されるもののことだ(『文法』八四節)と言う。また、もっと明確に、こうも言っている。
[#ここから2字下げ]
「思念する」という語の文法を理解するには、ある表現がこのように[#「このように」に傍点]思念されている(=このような[#「このような」に傍点]意図で語られている)と言えるための規準を問題にしなくてはならない。何が思念の規準と見なされるべきなのか。
「それはどのように思念されているか(=どんな意図で語られているか)」という問いは、二つの言語表現を結合することによって答えられる。だから、問いもまた、この結合に関する問いなのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『文法』七節)
[#ここで字下げ終わり]
思念という幻想を消し去るには、たとえば次のような操作をしてみるのも役に立つ。「ある文、たとえば『今日はとてもよい天気だ』を語り、次に、その文の思想内容を、文なしで、それだけ取り出して、考えてみる」(『文法』一〇六節)といったことである。あるいはその逆の操作――つまり「思想内容」なしで、文だけ言う――を試みるのも役に立つであろう。だが、本当に重要なことは、たとえそういう操作が完璧にできたとしても、文に意味を与える精神作用の存在が確認されたわけではないということである。そのような仕方で取り出せる「意味」が、どうして言葉の意味でありえようか。言葉に意味がある(ない)とか、意味がわかる(わからない)とか、意味が伝わる、といったことを問題にするとき、われわれはそういう「意味」を問題にしているのではないだろう。
[#2字下げ] もし「私に見えるのは彼の提示する記号だけなのに、彼が思念している(=言わんとしている)ことを私はどうして知りうるのか」と問われるならば、こう言おう。「彼にもまた記号しか与えられていないのに、彼が思念している(=言わんとしている)ことを彼はどうして知りうるのか?」と。
[#地付き](『文法』二節)
[#ここで字下げ終わり]
にもかかわらず、言語ゲームを背後から動機づけ、それに息を吹き込んでいる超越的で外在的な何かを想定したがる人は絶えない。理由の一つには、言語ゲームという発想が、まさにその誘惑の拒絶を意図して成立したものであることがよく理解されていない、ということがある。だがもっと根本的な理由は、おそらくは人間の「|煩悩《ぼんのう》」とでも呼ぶべきものではないだろうか。もちろん、ウィトゲンシュタイン自身もこの煩悩と闘い続けた(最終的な闘いは次章で扱う「|意味盲《いみもう》」の問題に示されている)。私なら、この煩悩を「ニヒリズム」と名づけるだろう。それはニヒリスティッシュな(虚無なる)超越者の存在を信じることだからである。『探究』には次のような言葉がある。
[#ここから2字下げ]
しかし、文に意味を与えるのはわれわれの思念ではないのか。(中略)そして、思念は心の領域に属する何かである。だがまた、何か私的なものでもある! それは捉えがたい何かであり、意識それ自体とだけ同格でありうる。
どうしてこの考えをあざ笑うことができようか! それはいわば、われわれの言語が見る夢なのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『探究』三五八節)
3 言語ゲームへ[#「言語ゲームへ」はゴシック体]
――解体[#「解体」はゴシック体]
†文法から使用へ[#「†文法から使用へ」はゴシック体]
中期の形成は中期の解体期にもなお進行し、逆に、中期の解体は中期の形成期のうちにすでに懐胎していた。中期の解体とは、それ自体は恣意的であるが、個々の経験にとっては先験的にはたらく「文法」という考えが、しだいに崩壊していく過程である。最初のステップは、語の意味を文法体系におけるその語の位置によって説明しようとする構想の放棄、中期ウィトゲンシュタインの先に指摘したソシュール的な一面の放棄である。
文の意味とは文の中に吹き込まれた精神ではなく、意味の説明が求められたとき答えとして出されるもののことだと主張する、『文法』の先に指摘した箇所に続けて、彼は次のようにも書いていた。「文は記号体系中の一つの記号である。それは、多くの可能な記号の結びつき方の中の一つの結びつき方であり、他の可能な結びつき方と対立している。ある針の位置が他の可能な針の位置と対立しているように」(『文法』八四節)と。類似の記号学的発想は、次のような箇所にも示されている。「語において本質的なのはその意味である、と言われる。しかし、語は同じ意味を持つ他の語によって置き換えられ、そのことによって語の位置が決まるのだから、同じ位置に置かれるなら、ある語の代わりに他の語を置くこともできるわけである」(『文法』二二節)。この節は「このことはチェスの駒の形を変えたり、キングの代わりにナイトの駒を使ったりすることに似てはいまいか」というチェス・ピースの比喩で結ばれている。
つまりウィトゲンシュタインには、言葉の意味に関する現象学的理解を否定するための一段階として、いわば構造主義的な意味理解に訴えた一時期があったのである。続く『文法』の二三節には、その状況がよく示されている。
[#ここから2字下げ]
文法における語の位置がその語の意味である、と私は説明したい。
しかし、語の意味とは意味の説明が説明するところのものである、とも言える。
(中略)
意味の説明は語の使用を説明する。言語における語の使用こそがその語の意味である。
文法は言語における語の使用を記述する。
それゆえ、言語と文法との関係は、ゲームとゲームの記述との関係、つまりゲームの規則との関係に似ている。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『文法』二三節)
[#ここで字下げ終わり]
だから実は、文法における語の位置がその語の意味ではない[#「ない」に傍点]のだ。なぜなら、文法は語の使用の仕方を一般的に記述し説明するが、その語の本当の意味は、言語ゲームにおける語の使用そのものの内にしか示されないからである。ゲームは、記述されなくても(つまり規則体系として説明されなくても)遂行されうる。いやそれどころか、ゲームを構成するすべてを規則として取り出すことは、原理的に不可能なのである。言語ゲームは規則の体系ではなく、規則の記述は、実際に遂行されているゲームに対して、常に事後的かつ部分的にしか為されえないのである。
†規則から慣習へ[#「†規則から慣習へ」はゴシック体]
このことは、一九三四―五年の講義において、さらに明確かつ具体的に議論される。「規則に従う」ということをめぐるパラドックスが、文法主義を最終的に放棄するための決定的な論拠として提示されることになる。この議論は『哲学探究』の中心問題であり、次章でくわしく検討することになるので、ここでは論点だけ簡単に紹介しておこう。
問題の本質は、文法であれ何であれ、およそある一定の規則に従うこと、正確に言えば、ある一定の規則にある一定の仕方で[#「ある一定の仕方で」に傍点]従うことがどうしてできるのか、という点にある。規則は一定の仕方で従われなければ意味がないが、その[#「その」に傍点]一定の仕方を決める規則はどこにあり、それはいつどこで決定されたのか。そして、もしかりにその[#「その」に傍点]一定の仕方を決める更なる規則がどこかにあったとすれば、今度はその[#「その」に傍点]規則に一定の仕方で従うことはどうしてできるのか。その[#「その」に傍点]一定の仕方を決める規則はどこにあり、……。
これが問題の中心である。具体的な説明は次章にまわすが、この考察を通じてウィトゲンシュタインは、われわれの言語ゲームは(明示的に立てられうる)|規則《ルール》から成り立っているのではなく、(盲目的に遂行される)|慣習《プラクテイス》によってできている、という見解に達することになった。この見解が語の意味の問題に適用された結果が、有名な「語の意味とは言語ゲームにおけるその使用である」というテーゼである。使用、訓練、実技、慣習、生活形式といった概念を中心とする後期ウィトゲンシュタイン哲学は、ここから始まるのである。
†中期の独我論論駁[#「†中期の独我論論駁」はゴシック体]
だが、彼が言語ゲームの哲学に安住できるためには、突破しなければならないもう一つの重要な関門があった。それはもはや「他人の心」の問題ではなく、むしろ「自分の心」の問題であった。中期の思索によってこの問題に決着がつけられたと信じたからこそ、彼は後期に突き進んでいくことができたのである。
『考察』五八節において、次のような言語が考案されている。「もし私、ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインが歯痛を感じたならば、それは『歯痛がある』という文で表現される。だが、現在われわれが『Aが歯痛を感じる』という文で表現していることが起こったときは『Aは歯痛があるときのウィトゲンシュタインと同じように振舞う』というように表現される」。こういう言語である。この言語が、検証主義とそれに基づく行動主義の理念に由来するものであることは言うまでもない。そして、当然のことながら、誰もがこの言語の「私、ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン」と同じ立場に立ち、自分の歯痛のみを「歯痛がある」という存在命題で表現することができる。それゆえ、人間の数だけ別々の自己中心的な言語がありうることになるだろう。そこで重要なのは次のステップである。ウィトゲンシュタインはこう言っている。
[#2字下げ] さて、さまざまの人々が中心となり、そのどれもが私にも理解できるこれらすべての言語の中で、私が中心となる言語は特別な位置を占めている。その言語はとりわけ適切である。私はそのことをどう表現したらよいのか。つまり、この特別さを言葉で正しく表現するにはどうしたらよいのか。それはできないのだ。というのは、もし私が中心となる言語でそれをするならば、その言語特有の言葉づかいによるその言語の記述が例外的な位置を占めるのは、あたりまえのことだし、他の言語の言葉づかいでは私の言語は特別な位置を占めないからである。
もし検証主義(行動主義)的言語の提案だけが議論のポイントであったならば、このステップはまったく不要だったはずである。この引用文の二行目で「私が中心となる言語は……」と言われる時の「私」とは何を指しているのだろうか。ウィトゲンシュタインという人物ととることはできない。ウィトゲンシュタインが中心となる言語だけが特別な位置を占める理由は何もないからである。彼が使うのは、提案された自己中心的な言語の一つであるにすぎず、そこにどんな特別な点もないからである。それではこの「私」は、誰もが自分自身を指すときに使う表現として使われ、万人にとっての自分自身を意味しているだろうか。そんなはずはない。そのような意味での「私」が中心となる言語が、提案された諸言語の中で特別な位置を占める理由はありえないからである。それはまさに提案された言語そのものでしかないからである。
そして、ウィトゲンシュタイン自身もここで、まさにそのように[#「そのように」に傍点]主張しているのである。だとすれば、もし彼の主張が本当に正しければ、彼が何を主張しているのか(つまり何を表現不可能だと言っているのか)理解される可能性もないことになるだろう。
あたかもそれを実証するかのように、彼のこのような議論の意味をまったく理解しない解釈者が無数に存在する。ウィトゲンシュタインは、とりわけ中期において、独我論の論駁を執拗に試みた。それは事実である。しかし、彼がいったい何を論駁しようとしたのか、つまり、何を語りえないものとして言語ゲームの外へ放逐しようとしたのか、肝心かなめのこの点が理解されないのである。それゆえにまた、後期ウィトゲンシュタインがなぜ絶対的な倫理や超越的な価値にもはやまったく言及しなくなったのか、ということも理解されないのである。
だが、それは理解されえないというのがまさしくウィトゲンシュタインの主張だったのだから、現に理解されていないというまさにその点において、彼の正しさが証明されている、とも言えよう。ということはつまり、それが理解できたと主張することは、彼を批判することをともなわざるをえないことになるのだ!
この箇所で彼が表現できないと言っている「私」は、序章で論じられた意味での「私」である。それは、ウィトゲンシュタインという人物を(たまたま当人が)指しているのでもなければ、万人にとっての自分自身を意味しているのでもない。固有名によって指示される個人でもなければ、誰もがもつ一般的な自我のようなものを意味するのでもない。つまり、同格の他のものがあるような一つのものではない。そう取らなければ、引用された段落で何が問題とされ、何が断念されているのか、全然わからなくなるだろう。そのような「私」が確かに存在し、ある意味ではそれこそがすべてである(それがなければ何もないのと同じである)ことを、彼は確信していた。だが、それについて語ること(語れないと語ることを含めて)が無意味な遊び駒でしかないことを、ここで彼は自己言及的に(それゆえ自己論駁的に)語っているのである。ここにもまたウィトゲンシュタイン哲学の自己破壊的な性格がうかがえる。
そして、そのようなことをいっさい語らなくなったとき、つまり「語りえず、示される」というようなことも言わなくなったとき、後期ウィトゲンシュタイン哲学は成立する。だから、後期の観点から見れば、中期の独我論論駁は、それ自体、存在してはならない[#「存在してはならない」に傍点]もの、跡形もなく消し去られるべきものなのであった。
†遊び駒[#「†遊び駒」はゴシック体]
独我論の語りが無意味な遊び駒となることに関して、『青本』のウィトゲンシュタインは卓抜なチェス・ピースの比喩を案出した。
[#2字下げ] チェスをしようとすると、相手が白のキングに紙で作った冠をかぶせる。そのことで駒の使い方に変化が起こるわけではないのだが、彼はこう言う。「冠は、このゲームにおいて、規則には表現できないある意味を、私にとっては持っているんだ」。私はこう答える。「冠が駒の使い方を変化させない限り、それは私が意味と呼ぶものを持ってはいない」。
[#地付き](『青本』一一八頁)
[#ここで字下げ終わり]
もし、独我論の語りのゲームというものが存在しないとすれば、ウィトゲンシュタインの言うことは正しいだろう。しかし、たとえばこの『青本』においても、彼自身はそのゲームに少なくとも片足を突っ込んでいる(そうでなければキングに冠をかぶせたくなる理由がそもそもない)。ところが、ここでもまた、彼が批判したかったものが、そもそもの始めから読者と共有されるゲームの中に入ってこないために、彼が何と闘っているのか、何を正当なゲームから排除しようとしているのかがちっとも理解されない(という点において、彼の主張の正しさが示される)のである。つまり、彼が渾身の力を込めて到達しようと努力している地点は、ほとんどの読者や解釈者が、始めから何の問題もなく[#「何の問題もなく」に傍点]到達してしまっている地点なのである。
†第一人称問題[#「†第一人称問題」はゴシック体]
彼の自己論駁の跡をさかのぼってみよう。『青本』のウィトゲンシュタインは、「私」という語の使い方を客体用法と主体用法の二つに区別している。「私は体重六〇キロだ」は前者、「私は歯が痛い」は後者の例である。客体用法の場合、「私」は対象(特定の人物)を指示し、それは固有名で置き換えが可能である。したがって、ウィトゲンシュタインが語る「私は体重六〇キロだ」は「ウィトゲンシュタインは体重六〇キロだ」を意味する。それゆえ、そこには誤りの可能性がある。主体用法の場合、「私」は対象を指示せず、固有名で置き換えができない。ウィトゲンシュタインが語る「私は歯が痛い」は「ウィトゲンシュタインは歯が痛い」を意味しない。主体用法で「私」を使う人は、一人の人物(を他の人物から区別してその人物)について語っているのではなく、それゆえ誤りの可能性もない。
この区別の背後には、内観の対象知覚的(観察的)解釈に対する批判というモチーフが存在する。これは、検証や規準の問題とも関連するので、少し専門的な話題ではあるが、簡単に触れておこう。内観の対象知覚的(観察的)解釈とは、自分の身体感覚(痛み、かゆみ等)や感情(怒り、悲しみ等)や意図や願望などの自己意識を、外界の対象(眼の前の花びんや聞こえてくる音楽)の知覚に見立てて解釈する考え方である。この解釈が誤りである理由は、外界の対象の場合には、対象は知覚する主体に現れるがままに在るわけではなく、したがって誤認の可能性もあるが、内観の場合、感覚、感情等はそれを持つ人に現れるがままに在り、それゆえ誤認の可能性もない、という点にある。だから、感覚の内観に関して検証を問題にすることは意味がないのだ。
眼の前の花びんに関しては、別の人がそれを見ることや、誰もそれを見ないことが可能だから、知覚する主体について語ることに意味がある。だが、ある人の感じる痛みに関しては、別の人がそれ[#「それ」に傍点]を感じることや、誰もそれ[#「それ」に傍点]を感じないことが不可能であり、それゆえそれ[#「それ」に傍点]を知覚(観察)する主体について語ることにも意味がない。誰にも見られない花びんはありうるが、誰にも感じられない痛みはありえない。後者においては、主体と対象を分離することができず、したがって、主体が対象を知覚するという図式も成り立たない。「私は歯が痛い」は「xは歯が痛い」という命題関数の値ではないのだ。痛みの表明(「私は痛い」と言うこと)は、むしろ痛みの表出(うめくこと等)の延長線上にあると解釈すべきであり、だからこそそれは、意図や願望の表現の場合と同様、人が痛みを感じていることの規準ともなるのだ。「『私は歯が痛い』と発言するとき、他人を私と取り違えることが不可能なのは、誰かを私と取り違えて、誤って彼の痛みにうめくことが不可能なのと同じことである」(『青本』一二一頁)。
†第一人称問題と独我論[#「†第一人称問題と独我論」はゴシック体]
この議論の筋には検討すべき問題も多いが、枝葉に拘ることを避けてここでは省略しよう。私が強調したい論点はただ一つ、ウィトゲンシュタインは、それだから独我論は語りえなくなる、と言っているのだ、ということである。彼は、自分に見えている視覚風景(見えそれ自体)を指して「真に見られているのはこれ[#「これ」に傍点]だけである」と語る独我論的発言を例に取って、こう言っている。
[#2字下げ] 独我論的発言をしたとき、私は何かを指したのだが、指す主体と指される対象とが分離不可能な仕方で結合していたため、指す行為から意味を奪ってしまうことになった。私は歯車などを素材に時計を組み立てたのだが、最後に文字盤を針に固定し、針と一緒にまわるようにしてしまったのだ。こういう点で、独我論者の「真に見られているのはこれだけである」はトートロジーを思い起こさせる。
[#地付き](『青本』一二七頁)
[#ここで字下げ終わり]
「真に見られている」とされる「これ」は見え[#「見え」に傍点]であるから、内観される身体感覚の場合と同様、それを見ている者以外の者はそれを見ることはできない。これは文法的真理である。つまり、独我論者は期せずして[#「期せずして」に傍点]文法的真理を語ってしまうのである。それはちょうど、意志したことがすべて即座に実現されてしまうため、自分の意志をどうしても実行できない人に似ている。独我論者が本当に言いたいことはそうではなく、「これ」は「これ」一般ではなく「この[#「この」に傍点]これ」なのだが、そのことをどう語ろうとしても、彼の発言は文法的真理に読み換えられるのである。時計の比喩で言えばこうだ。この時計の針の先には「今」という時刻(!)が表示されているに違いないが、独我論者が問題にしたいのは、普通の時計の針が指すような特定の時刻でもなければ、この時計が指すような今一般でもなく、「この[#「この」に傍点]今」なのである。だが、それは語りえないのだ。そして、ウィトゲンシュタインはただ一人ここで、これを最後に、それが語りえないと語るゲーム (Endspiel) を実践しているのである。もしそのゲームが人に理解されるとすれば、それは何を意味するのだろうか。ウィトゲンシュタインはこの問いに答えていない。
ともあれ、この点を捉え損なうことは、彼の哲学的営為の根幹を捉え損なうことになる、少なくとも私にはそう思われる。彼は後期において、たとえ語らなくなっても、いや語らなくなったからこそ、絶対主義的な倫理感を堅持していた。これは明らかなことだ。それと並行的に、独我論に関しても、彼は後期においてそれを放棄したのではない。ただ独我論的な語りのすべてを、言語ゲームの外へ追放したのである。こうして、独我論という「論」は無意味なものとなった。
こうして、われわれはようやく、後期ウィトゲンシュタイン哲学の、つまり言語ゲームの哲学の、出発点にたどりついたのである。
[#改ページ]
第5章[#「第5章」はゴシック体] 言語ゲーム[#「言語ゲーム」はゴシック体]
――後期ウィトゲンシュタイン哲学
[#改ページ]
[#ここからゴシック体]
[#ここから3字下げ]
哲学のレースで勝つのは、いちばんゆっくり走れる者、つまり、最後のゴールに到着する者である。………
[#地付き](『断章』)
哲学者どうしの挨拶は「あわてることはない」といったものだろう。
[#地付き](『断章』)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここでゴシック体終わり]
[#扉裏(img/front6.jpg)]
1 言語ゲーム[#「言語ゲーム」はゴシック体]
†言語ゲームとは何か[#「†言語ゲームとは何か」はゴシック体]
『青本』の中で、はじめて「言語ゲーム」という言葉を紹介するに際して、ウィトゲンシュタインはこう言った。
[#2字下げ] 今後たびたび、私が言語ゲームと呼ぶものにあなた方の注意を引くことになるだろう。それは、高度に複雑化した日常言語の諸記号をわれわれが使う際の使い方よりも、ずっと簡単な記号の使い方である。言語ゲームとは、子供が語を使用し始める際にとる言語形態のことである。言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の、すなわち原初的言語の研究である。
[#地付き](『青本』四五頁)
[#ここで字下げ終わり]
しかし、『探究』において彼は、「言語を話すことがある活動の、あるいは生活形式の一部であることを際立たせる」(二三節)意図をこめて、「私はまた、言語とそれが織り込まれる諸活動の総体も『言語ゲーム』と名づける」(七節)と言った。こうして、汎言語ゲーム主義とも呼ばれるべき、森羅万象を包み込む言語ゲームという考え方が誕生する。つまり、最終形態における「言語ゲーム」とは、中期のそれとはまた違って、ふつうの見方からすれば言語とは独立の、言語が話される場面や条件や脈絡のすべてをそこに含み込んだものなのである。だから、場合によっては、表面上はまったく言葉が使われないような言語ゲームさえありうることは、注意されてよい。
†言語ゲームの多様性と慣習[#「†言語ゲームの多様性と慣習」はゴシック体]
このようにして、事実を正しく記述することを意図した文だけではなく、あいさつや命令、意図の表明や約束、それに小説の中の文章や役者の台詞、あるいは嘘や冗談、さらには祈りや呪い、といった膨大な領域が、有意味な言語領域に組み入れられた。
『探究』は、子供が「赤いリンゴ五個 (five red apples)」と書かれた紙片をもって果物屋に買い物に行く話から始まっている。果物屋は、「りんご」と書いてある箱の中から赤いのを五つ取り出し、代金とひきかえにそれをその子に渡す。子供も果物屋も、ひとことも言葉を発しないかも知れない。だが、すべては円滑に、何の問題もなく進行する。それはなぜか。このとき果物屋に、なぜそんなことをしたのかと聞いても、おそらくは問いの意味を理解しないだろう。「なぜって、そうしないでどうするんだい?」。おそらく、われわれの生活のあらゆる局面に、このような自明性の局面、つまり、そうするのがあまりに当然で、別の可能性をそもそも思いつかないような局面が存在する。それが今や、言語が有効に働く基盤なのだ。
この問いに対する本当の答えは、彼はそのように訓練され、そのような慣習を生きている、というものである。しかし、そうであるにもかかわらず、彼自身が「私はそのように訓練された」とか「私はそのような慣習を生きている」といった答えを語ることはできない。なぜなら、彼はそれを生きているからである。それは彼の生き方に示されることであり、彼が語ることではないのだ。人は、自分が生きている当のものを語ることはできない(もし語ったとすれば、それを語るという行為の内に示されるそれとは別のものを、彼は生きているのである)。そして言語ゲームは、けっして語られることのない、このような対象化されざる生活形式の中にのみ、基盤を持つものなのである。
行動の理由が語られない地点ではまた、言葉の解釈[#「解釈」に傍点]もなされない。「赤いリンゴ五個」と書かれた紙片は「私に五個の赤い色をしたリンゴを売ってください」という意味だと解釈[#「解釈」に傍点]されたのではない。いかなる解釈も媒介せずに、直接的に把握され、そのまま行動に移されたのである。
†意味と理解[#「†意味と理解」はゴシック体]
果物屋が「赤いリンゴ五個」という言葉の意味を理解したということは、彼が子供に五個の赤いリンゴを売ったことの内に、そしてそのことの内にのみ、示される。「言葉の意味とは、言語におけるその使用である」(『探究』四三節)とは、そういうことである。このように見られた場合の「使用」(独…Gebrauch、英…use)は、けっして「用法」や「慣用」ではない。なぜなら、言語ゲームの主体(言葉を使う当人)は、その言葉の用法や慣用を理解しているがゆえに、それをそのように使うのではなく、根拠なしに、盲目的に――つまり他の可能性を思いつくことなしに――それをそのように使うからである。彼が用法や慣用――つまり規則――の視点に立たない[#「立たない」に傍点]ということこそが、言葉の用法や慣用――つまり言語ゲームの規則――を初めて成立させるのである。その際、彼が「赤」でどんな色を念頭に描き、「五」という数の意味をどのように理解しており、「リンゴ」の概念をどう把握していたか、といったようなことは、いっさい問題にならない。
このことと関連して、ウィトゲンシュタインが提出した「意味の心象説」批判は、彼の哲学の中で最もよく受け入れられ、すでに常識化したと言える。それは簡単に言えば、言葉の意味とはその言葉を言ったり聞いたりする人の心に浮かぶ|心象《イメージ》のようなものではない、ということである。「赤」と聞いて果物屋がどんな色を念頭に浮かべようとも、それは「赤」の意味理解とは関係がないのだ。だが、「赤い花を摘んでこい」という命令に従うことができるためには、赤い花に出会う以前に「赤」の|心象《イメージ》を思い浮かべることが不可欠ではないか、と言う人には、それなら「赤い色を思い浮かべよ」という命令ならどうか、と問い返そう。その命令に従いうるためにも、|心象《イメージ》に先立つ|心象《イメージ》が必要であろうか。
二人の人間が一つの言葉に同じ心象を結びつけていたとしても、その二人が違う意味でその言葉を理解していることはありうるし、また、違う心象を結びつけていたとしても、同じ意味で理解していることもありうる。なぜなら、同じ心象を持っても、それを実際に適用する仕方が違えば、二人は同じ意味理解を持っているとは言えないからである。それならば、その心象を実際に適用する際の使い方もまた同時に心に浮かぶとすればどうか。心象が同じで、心に浮かぶその使い方も同じ二人の人は、同じ意味理解を持っていると言えるだろうか。言えないのだ。心に浮かんだその使い方を実際に適用する仕方が違うかもしれないからである。したがって、第二の心象も最初の心象の適用の仕方を決定することはできない。心に思い浮かぶものをどこまで増やしていっても、もちろん同じことである。
†生活形式[#「†生活形式」はゴシック体]
言葉の意味を定めるのは、言葉を使う人の心に浮かぶものではなく、むしろ生活の形態である。だから、「もしライオンが言葉を話したとしても、われわれはライオンの言うことがわからない」(『探究』四四六頁)。想定されているのは、ライオン的な習性と生活形態を維持したまま完璧な日本語を話すようなライオン、逆に言えば、日本語を話すという点以外では完璧な動物的な生を生きているようなライオンである。彼の発言の意味がわれわれに理解できないのは、彼の言葉と彼の生き方を関連づけることがわれわれにはできないからである。このとき、ライオンの心にわれわれと同じ心象が浮かんでいることがわかったとしても、あるいはライオンの脳の中にわれわれと同じ過程が起こっていることがわかったとしても、そうしたことが事態を改善することはない。
「ある一つの言語を想像することは、ある一つの生活形式を想像することである」(『探究』一九節)。だから、われわれとまったく違った言語を考えることは、われわれとまったく違った生活形式を考えることであり、またその逆も成り立つ。重要なのは、生活と概念との、この内的関係である。
たとえば、けっして感情を表現しないように教育される部族(『断片』三八三節)を考えてみよう。そこでは、痛みにうめく者や歓びを露わにする者は、厳しく罰せられる。事実としては、この社会にも「振りをする(外見で人を欺く)」という現象は存在しているが、それが問題にされる余地はない。痛い(嬉しい)振りをすることはあまりに馬鹿げたことであり、痛く(嬉しく)ない振りをすることはあまりに当然のことだからである。「『振りをする』とは何と滑稽な概念なんだろう!――とその部族の人々は言うかもしれない」(『断片』三八四節)。本質的に異なった生活形式だけが本質的に異なった概念を生み出すのである。
†家族的類似性[#「†家族的類似性」はゴシック体]
ところで、言語ゲームがいかに多様だとはいえ、それらがすべて「言語ゲーム」と言われるからには、それらすべてを貫く何か共通の本質があるはずではないか。ここで、それらすべてを「言語ゲーム」たらしめている当のものは何か、というソクラテス的な問いが立てられることになる。
ウィトゲンシュタインは、この問いを拒否した。同じ名で呼ばれているからといって、そのすべてに当てはまり、他のものには当てはまらないような、何か一つの共通本質があるわけではないのだ。むしろ、相互に別々の点で類似している[#「別々の点で類似している」に傍点]ものが集まって、一つの家族をなしているのである。彼はこのことを、比喩的に「家族的類似性」と名づけた。ひとつの家族は、体格、顔つき、眼の色、歩き方、気質、といった別々の点で互いに似ているのであって、何かひとつの点で互いに似ているのではない、ということである。だから、「ゲーム」と呼ばれるすべてのものに共有されるような本質的特徴は存在しないのである。
「ゲーム」だけではない。「数」の本質も、「生命」の本質も、「言語」の本質も、「科学」の本質も存在しない。さまざまな言語ゲームの中で、緩やかな家族を成したそうした語が、実際に有効に使われている――それだけなのである。
†比喩の焦点[#「†比喩の焦点」はゴシック体]
すべての「言語ゲーム」に共通の本質はないとはいえ、文字どおりにはゲームでない言語活動全般の持つある性質を、ことさら「ゲーム」という比喩によって際立たせようとするからには、そこに何らかの意図が込められていると考えなければならない。「ゲーム」という比喩のポイントは何だろうか。
「ゲーム」といえば勝負のことだと思う人が(とくに日本には)多いようだが、これは誤りである(『探究』六六節)。だから、このゲームの背後には勝利への意志などは存在しない。「ゲーム」はドイツ語では「シュピール (Spiel)」だが、シュピールとは遊戯であり「プレイ」と英訳されてもよい言葉である。「シュピール」という比喩の焦点は、外部にある何ものの像でもないということ、つまり意味の源泉を外部に持たないということである。したがってまたそこには、実際に為されていることを背後から動機づけるような、一切の超越的な想定を拒否する意図も含まれている。欲望、動機、意志といった諸概念にも、それを用いた言語ゲームが現に為されているという以上の意味があるわけではない。つまり、言語ゲームには外部がなく、それ自身以外の何ものによっても支えられていないのである。
†ゲームの根底性――規則とゲームの逆転[#「†ゲームの根底性――規則とゲームの逆転」はゴシック体]
それ自身以外の何ものによっても支えられていないとは言っても、ゲームである以上、それを成り立たせている|規則《ルール》によっては支えられているだろう、と思われるかもしれない。しかし、そうではない。逆に、ともかくも言語ゲームが成り立っているという事実が、規則の規則としての存立を後からかろうじて[#「かろうじて」に傍点]可能にしているのである。ルールとプレイのこの逆転こそが、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念の最大のポイントである。
したがって言語ゲームにおいては、プレイヤーは規則を規則として取り出して対象化したり、改変したりしうるような場所に立つことはできない。そういう場所もまた一つのゲーム・プレイであり、そうであるにすぎないとみなす、そういう徹底的な内在性の立場こそが、このゲームの特徴なのである。だから、言語ゲームの規則とは、人間の欲求や意志によって改変可能な、普通の意味での規則とは違う。それはまた、単なる動物的反応でもなく、また沈澱した歴史的伝統のようなものでもない。それらすべての要素を含みつつ、そのどれでもないような次元こそ、後期ウィトゲンシュタインが発見した、新たな次元なのである。次の「規則に従う」の節で、その点を具体的に述べることにしよう。
†言語ゲームの無根拠性[#「†言語ゲームの無根拠性」はゴシック体]
言語ゲームはあるがままに受け入れるしかない与件である。それには根拠がなく、それがすべての根拠である。「私が根拠づけをし尽くしたならば、私は固い岩盤に達し、私の鋤は跳ね返される。このとき私はこう言いたくなる。『とにかく私はこうやっている』と」(『探究』二一七節)。ここで「とにかく」と訳した「エーベン (eben)」は、「何はともあれ」「理屈ぬきに」といったニュアンスで、変更できない既定の事実を確認する際に使われる語であり、もっと概念的に訳すなら文字どおり「根拠なしに」という意味である。
この「エーベン」が発せられるとき、根拠への問いは終わるのである。「われわれの誤りは、事実を〈根源的現象〉と見るべきところで、つまりこのような言語ゲームが行なわれている[#「このような言語ゲームが行なわれている」に傍点]と言うべきところで、説明を探し求めることである」(『探究』六五四節)。ここでウィトゲンシュタインは、根拠の要求はつねにその提示によって答えられねばならない、という考えそのものを拒否している。根拠のないところにそれを求め、在ると信じるのはニヒリズムである。それは|空無《ニヒル》を信じることだからである。
しかし、言語ゲームはともかくも生きようとする意志には支えられていなければならないのではないか、と思われるかもしれない。だが、そのように語ることもできない。死のうと意志することもまた、われわれのゲームのひとこまだからである。自殺もまた言語ゲームの指し手のひとつなのだから、死に際してもわれわれはこのゲームの外には出られないのである。およそ語りうるものはすべて言語ゲームの指し手であり、それについては沈黙しなければならないと語りうるようないかなる外部も、そこには存在しえないのである。
2 規則に従う[#「規則に従う」はゴシック体]
――規則と実践[#「規則と実践」はゴシック体]
†数列を教える[#「†数列を教える」はゴシック体]
『哲学探究』の中心課題は、|規則《ルール》と|実践《プレイ》の優先順位を逆転させることだが、そのことを強く印象づけるために、ウィトゲンシュタインは「規則に従う」ことをめぐるパラドックスを提示してみせた。これは人間の実践(していること)全般に当てはまる問題なので、どんな例で考えても同じことなのだが、ウィトゲンシュタインに|倣《なら》って、まずは数列の例(『探究』一八五節)で考えてみよう。
「+n」という形の命令に「0、n、2n、3n、……」という形の数列を書けるよう、先生が生徒に教えている。先生が「+2」という命令を与えると、生徒は首尾よく「0、2、4、6、……」と書き始めるが、一〇〇を越えたところから、彼はどうしたことか「100、104、108、……」と続けたとしよう。先生が「何をやっているんだ! ずっと同じようにやっていかなくては駄目じゃないか」と注意すると、生徒はこう答える。「同じようにやっているじゃないですか。先生の命令どおりです」。
こういう場合、先生が同じ説明をもう一度してやっても役に立たないだろう。この生徒は、先生の説明と一〇〇以下のいくつかの事例に基づいて、ごく自然に「+2」という命令を「一〇〇までは2を、二〇〇までは4を、三〇〇までは6を、というように足していけ」と(われわれなら表現するような仕方で)理解するのかもしれないからである。
†数列を教わる[#「†数列を教わる」はゴシック体]
こういう例を与えられたとき、われわれはたいていは先生の立場(教える立場)に自分を同化させ、「とんでもない生徒だ」と感じるものである。先生の立場は強い。その生徒以外のすべての人が彼を支持しているからだ。たとえ理性的説明という武器が使えなくとも、彼には共同体という百万の援軍がついている。孤独なのは生徒の側であり、彼の悲しい末路は眼に見えている。
問題を体で感じるためには、自分を生徒の立場(教わる立場)に置いてみなければならない。生徒である私が「+2」という命令を与えられ、「0、2、4、6、……」と書き始め、自信を持って「100、102、104、……」と続けたとしよう。先生が「何をやっているんだ! ずっと同じようにやっていかなくては駄目じゃないか」と注意するなら、私はこう答えるだろう。「同じようにやっているじゃないですか。先生の命令どおりです」。
今度は孤独なのは私の方である。私以外のすべての人が、「+2」という命令をごく自然に「一〇〇までは2を、二〇〇までは4を、三〇〇までは6を、というように足していけ」と(私なら表現するような仕方で)理解するらしいのだ。共同体は私にとって突如として異様なものとして現れる(カフカや安部公房の描く世界には、この感覚が少し残っている)。
†規則順守のパラドックス[#「†規則順守のパラドックス」はゴシック体]
しかし、たとえばこの例のような場合、こういう「根源的にカフカ的」ともいうべき状況は、通常は起こらない。だが、問題は、起こるかどうかではなく、かりに起こった場合、どちらが正しいかはどのように決められるかということにある。つまり、最初の「とんでもない生徒」の場合でいえば、先生は自分の正しさ[#「正しさ」に傍点]の根拠を(数を頼むといった非理性的な方法ではなしに)提示することができるか、ということにある。
結論からいえば、それは(究極的には)できないのである。そしてウィトゲンシュタインは、かりに[#「かりに」に傍点]起こった場合にどちらが正しいかはどのように決められるかというこの問題に、(幸いにしてなぜか)そうしたことは起こらない[#「起こらない」に傍点]という事実で答えたのである。これはかなり異様な答えであるといわねばならない。そして、これがすなわち|規則《ルール》と|実践《プレイ》の優先順位の逆転なのである。
われわれは普通、規則そのものの中にそれへの従い方の正しさが指定されている、と考えている。つまり、「+2」(言語で表現するなら「2を足して行く」)という規則(言語の場合なら言葉の意味あるいは文法規則)そのものが、「同じようにやっていく」やりかたを、あらかじめ決定している、と考えているのである。どうしてそう考えないことができようか。しかし、よく考え直してみれば、規則(あるいは意味)という|摩訶《まか》不可思議な力を秘めた実体はいったいどこにあり、それはどのようにして正しさのすべてをあらかじめ決めることができるのであろうか。これはまた、「文法(的規則)」という中期の自分自身の考えへ向けられた懐疑でもあることに注意していただきたい。
言語ゲームの実践そのもの以外の場所に、実体化された文法のようなものがあると考えるのは、(「意味」なるものを最終的なものと見なすのと同じ種類の)原因と結果を取り違える錯覚である。とはいえしかし、もし規則がその適用の仕方を決定できないならば、規則に従うことは、その都度その都度の「暗闇の中での根拠なき跳躍」(S・A・クリプキの表現)となるであろう。そんな馬鹿なことがあろうか。問題は規則の魔力、意味の魔力に訴えることなしに、この事態を説明することである。それによってこの魔力の正体を発見することもできるはずである。
[#ここから2字下げ]
「しかし、今ここ[#「今ここ」に傍点]で私が何をなすべきかを、規則はどうやって私に教えることができるのか。私がどんなことをしても、何らかの解釈によって規則と合致させることができるのだから。」――いや、そうではなく、こう言うべきだ。どの解釈も規則と一緒に空中に浮かんでいて、規則を支えるのに役立たない、と。解釈をいくら重ねても、それだけでは規則の意味は決定できないのだ。
「それゆえ、私がどんなことをしても、規則と合致させることができるのではないか。」……
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『探究』一九八節)
[#ここで字下げ終わり]
†根拠の不在[#「†根拠の不在」はゴシック体]
もし「100、104、108、……」と書く生徒が現実に出現したなら、先生は「一〇〇以上になっても2を足していけばいいんだよ」とでも言って「100、102、104、……」と書いて見せるほかはない。「足す」という言葉の意味がよくわかっていないと思われたなら、説明を試みてもよかろう。しかし「足す」とは何か、を説明できるためには、先生と生徒はすでに多くの前提を共有していなくてはならない。
私が生徒である場合も同じである。先生の「正常」な解釈と生徒の「異常」な解釈を、ありうる二つの選択肢として並置し、その後で正常な解釈の方を選ぶべき理由を提示するためにも、どこかにやはり、もはや他の解釈の可能性との並置がなされないような地点が、存在しなくてはならないのだ。そこでは、もはや規則を正しく理解しているから一致した行動が生まれるのではなく、逆に、一致した行動が為されるから規則が正しく理解できるのである。それゆえ……
[#ここから2字下げ]
規則に従うとき、私は選択しない
私は規則に盲目的に従う。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『探究』二一九節)
[#ここで字下げ終わり]
「盲目的に」とは「他の選択肢を視野に入れることなく」という意味である。だから私は選択しないのである。
ここでウィトゲンシュタインが否定しているのは、疑いは根拠の提示によってのみ解消される、という前提である。根拠に基づかない活動に関しては、疑いはそもそも有効性を持たない(逆に言えば、根拠の提示が意味を持つような場面では、疑いもまた必然的に有効性を持つ)。すべての根拠づけがそこから始まる岩盤に達すると、根拠を求める|鋤《すき》は打ち返される。理性(理由)がそこから始まる場所に、理性的な問い(理由を求める問い)を適用することはできない。
†色見本のケース[#「†色見本のケース」はゴシック体]
「赤いリンゴ五個」と書かれた紙片を受け取った果物屋の反応についても、実は同じことが言える。彼はまず「りんご」と書かれた箱を開け、次に赤いのを選び出した。このとき、紙片に書かれた「リンゴ」や「赤」という文字と実際の行動との間に、彼がどんな心象を介入させようとも、それは言葉の理解とは関係がない、ということはすでに指摘した。たとえその心象を適用する仕方も同時に心に浮かんだとしても、心に浮かんだその使い方を実際に適用する仕方が決まらない限り、それもまた意味の理解とは関係ないのであった。
心の中の心象を紙に書かれた実際の表に置き換えて考えてみよう。「リンゴ」「ミカン」「イチゴ」「バナナ」または「赤」「青」「黄」「緑」を△、▲、▽、▼で表し、対応する像(心象あるいは絵)を〇、●、◎、@で表すとすれば、次のような表1[#「表1」はゴシック体]が与えられる。
[#図表(img/fig4.jpg、横×縦)]
果物屋は表1[#「表1」はゴシック体]に従って行動している、と言えるように見える。だが、この表がどう解釈されるべきなのかは、この表には書かれていない。普通は表2[#「表2」はゴシック体]のように読まれるだろうが、ひょっとして(「100、104、108、……」と書いた生徒がいたように)表3[#「表3」はゴシック体]のように読む人もいるかもしれない。そこで、表1[#「表1」はゴシック体]にその正しい解釈として表2[#「表2」はゴシック体]を書き込む必要がある。しかし、「表2[#「表2」はゴシック体]のように読む」とはどう読むことなのか。矢印はそもそもどう解釈されるべきなのか。そこにも解釈の余地がある。すると今度は、表2[#「表2」はゴシック体]の読み方に関して、正しい解釈の表を添付しなければならない。だが、今度はその表はどう解釈されるべきなのか。ウィトゲンシュタインは、こう言っている。
[#ここから2字下げ]
われわれのパラドックスは、どんな行動の仕方もその規則と一致させることができるのだから、規則は行動の仕方を決定することができない、というものであった。そして答えは、どんな行動の仕方もその規則と一致させることができるのであれば、矛盾させることもできるだろう、だからここには一致も矛盾もない、というものであった。
このように考えていくときには、われわれは次々と解釈を行なっている――それぞれの解釈が、その背後にまたもや存在するさらにもう一つの解釈のことを考えつくまで、少なくとも一瞬は、われわれを安心させてくれるかのように――という事実だけからしても、ここに誤解があることは容易に見て取れる。というのは、実はこのことが示しているのは、解釈ではないような規則把握があって、その把握の仕方は、われわれが何を「規則に従っている」と言い、何を「規則に反している」と言うか、ということの内に、規則の適用のその都度、自ずと示される、ということだからである。
それにもかかわらず、規則に従った行動はそれぞれが規則の解釈である、と言いたくなる傾向がある。だが、規則の一つの表現を別の表現で置き換えることのみを「解釈」と呼ぶ方がよくはないか。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『探究』二〇一節)
[#ここで字下げ終わり]
規則とその適用の間の深淵を、規則の適用の仕方を規定する規則(つまり規則の解釈)によって埋めることはできない。今度は、規則の適用の仕方を規定するその規則の、そのまた適用の仕方を規定する規則、が必要になってしまうからである。それゆえ、従われる規則は語りえない。語られた規則に従って行為するには、その規則の使い方の規則が必要となり、使い方の規則が語られれば、今度はその規則の使い方の規則が必要となる……というわけで、どこまで行っても行為にたどりつかないからである(これを「写像関係は写像されない」という前期の思想と対比されたい)。
もはや規則によっては規定されえないような、規則の使い方があって、そこにおいて人々が(規則によってではなく、しかし規則の観点から見て)一致するのでなければ、この深淵を埋めることはできない。このような盲目的一致が舞台の下で有効に働いているときにのみ、舞台の上では規則がその使い方を規定しているように見える[#「見える」に傍点]、つまり働いている「意味」なるものが存在するように見える[#「見える」に傍点]のである(そのことを知った上でならば、場合によっては「意味」を実体化する説明も使うことができる)。
†自然誌的[#「†自然誌的」はゴシック体]
他の解釈の可能性をいったん認めた上で、根拠に基づいてそれを否定し、一つの解釈を正当として残す、といった説明活動は、どこかで底をつく。いや正確に言えば、いつもすでに底をついているのだ。説明が底をつけば、残るのは実例による訓練とそれに基づく慣習(誰もが通常そのように行なうということ)の形成だけである。言語ゲームは、そのような仕方でしか習得されえない。説明や根拠の提示は、われわれの実践がとにかく営まれていることを前提にしているからである。そして、そのような訓練が可能であるということは、人間という動物の持つ自然誌的事実にすぎないのである。
子どもが規則に従うようになる(その一例として、言葉が使えるようになる)のはどうしてか。本当はこの問いには答えがない。「|とにかく《エーベン》」こうであるということがすべての出発点なのである。しかし、文法学者も認知科学者も人間精神の内部に(つまりこのゲームの外部に)規則の基礎を求めている。もちろんそれは、どこまでも有意義な仕事ではある。だが、本当に難しいのは、問いに答えることではなく、結局は答えがないのを覚る[#「覚る」に傍点]ことなのである。
[#ここから2字下げ]
「それなら君は、何が正しく何が誤っているかを決定するのは、人間たちの一致だと言うのか。」――正しかったり誤っていたりするのは、人間たちが語る[#「語る」に傍点]ことだ。しかし、その言語[#「言語」に傍点]において、人間たちは一致している。それは|考え《マイヌンク》(思念)の一致ではなく、生活形式の一致なのだ。
言語によって話が通じ合うためには、定義の一致だけでなく(奇妙に思われるかもしれないが)判断の一致が必要なのだ。このことは論理を無効にするように見えるかもしれないが、そうではない。――測定方法を述べることと測定結果を見て報告することは、別のことである。だが、われわれが「測定」と呼ぶものは、測定結果のある程度の恒常性によっても規定されているのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『探究』二四一・二四二節)
[#ここで字下げ終わり]
「|考え《マイヌンク》」と「生活形式」の違いは、それに対して根拠を要求することが理にかなっているかどうかに現れる。そしてこの場合、「判断の一致」もまた「考えの一致」ではなく「生活形式の一致」なのである。それは、論理を無効にするどころか、むしろ可能にするのである。論理学でさえ、明示された定義や公理や規則以外に、無数の判断の一致を暗黙の前提として成り立っているからである(ここで、第2章で紹介したキャロルの「亀がアキレスに語ったこと」の教訓を、再考してみていただきたい)。
†言語ゲームという底なし沼[#「†言語ゲームという底なし沼」はゴシック体]
この水準まで降りて来ると、まったく別の生活形式というものは、もはや想像することさえできない。けっして感情を表現しないように教育された部族の成員は、感情を表現しないという規則の適用の仕方に関して、われわれと一致している人々である。われわれが彼らの生活を想像できるのは、それゆえにである。彼らとわれわれは別の規則に従ってはいるが、その適用の仕方に関しては一致している。われわれもまた、彼らの規則に従う際には、彼らのように振る舞うであろう。それゆえにこそ、われわれは自分たちと彼らの違いを認識することができ、「振りをする」という観念を滑稽と見なす彼らの世界観に感情移入することさえできるのである。
規則への従い方の違いを再び規則として取り出すことは不可能ではないが、その違いを理解できるためには、取り出されたその[#「その」に傍点]規則の適用の仕方に関しては一致していなければならない。もちろん可能的には、つまり可能性の問題としては、われわれはどこまでも盲目的一致を対象化し、意識化していくことができる。|実践《プレイ》(していること)を|規則《ルール》(すべきこと)として取り出し、他の可能性と対比することによって「|とにかく《エーベン》」を越える根拠の提示がなされる可能性[#「可能性」に傍点]はどこまでもある。にもかかわらず、行為を可能にしているのは、行為がそういう可能性の「空間」の中に位置づけられない[#「られない」に傍点]ということなのである。
しかしまた、逆に言えば、|実践《プレイ》の|規則《ルール》化がどこまでも可能であるということが、言語ゲームを単なる自然的反応ではなくまさに言語ゲームたらしめてもいる。その意味で、このゲームには底がない。実践の内に示されて[#「示されて」に傍点]いることは、どこまでも――可能的には――語り[#「語り」に傍点]うることなのである。われわれはいわば岩盤を砕く鋤をも手にしうるのだが、にもかかわらず底に達することはできないのだ。底なしのこのゲームには「限界」もない。だから、底の底まで進もうとする「根拠を求める」哲学は、空無(存在しないもの)を存在すると信じるにいたるしかない。だが、求めれば底のないこのゲームは、われわれの実践を不可能にはしない。なぜなら、われわれの実践は根拠に基づくものではないからである。
†偶然性と歴史の審判[#「†偶然性と歴史の審判」はゴシック体]
だとすれば、誰の「暗闇の中での根拠なき跳躍」も必ず[#「必ず」に傍点]同じ場所に着地するということだろうか。もしそう考えるとすれば、今度はたとえば「生活形式(の一致)」の実体化に陥るだろう。そうではないのだ。これまでのところ、われわれはなぜか[#「なぜか」に傍点]たまたまひどい不一致を経験していない、というだけのことなのである。「たまたま」と言うのは、それが「たまたま」でないことがわかるような地点に、われわれはけっして立てないからであって、「たまたま」であることがわかるような地点に、立てるからではない。必然であることが証明されるまで、ものごとは偶然とみなされるほかはない以上(つまり必然を主張する側に立証責任がある以上)、これはいわば必然的に偶然に留まらざるをえない事態なのである。
だがこのことは、規則の適用の正しさはいつも事後的に決定されるということとは違う。たとえば、きわめて異能な天才科学者の常軌を逸した学説が世に受け入れられるか否かは、(科学者)共同体の反応が決める。そして実は、その結果によって、彼が「きわめて異能な天才科学者」であったか否かがはじめて決まる(「はじめてわかる」のではない)のである。天才的お笑いタレントの常軌を逸したギャグが世間でウケるかどうかは……、という例でも同じである。共同体に対して「教える立場」に立った彼らは孤独である。共同体が彼らを「先生」と見なすかどうかは、いわば歴史の審判――たとえ数秒後であろうと――を待たねばならない。
だが、彼らの跳躍のよるべなさは規則の従い方の無根拠性とは次元が違う。このようないわば根源的でないカフカ的状況を、規則の従い方[#「従い方」に傍点]の問題にまで拡張することはできないのだ。規則の従い方[#「従い方」に傍点]の正しさは、新たな規則とは違って、共同体の反応が事後的に決めるのではない。われわれが規則の変化を変化として知ることができるのは、規則が生成変化してもその従い方が変化しない限りにおいてなのである。
3 私的言語[#「私的言語」はゴシック体]
†規則に「私的に」従う[#「†規則に「私的に」従う」はゴシック体]
前節で引用した『探究』二〇一節にすぐ続けて、ウィトゲンシュタインは次のように主張した。「それゆえ、規則に従うことは実践である。そして、規則に従っていると信じる[#「と信じる」に傍点]ことは規則に従っていることではない。だから、人は規則に「私的に」従うことはできない。さもないと、規則に従っていると信じることが規則に従っていることと同じことになってしまうからだ」(二〇二節)。
「私的言語」とは自分の内的体験(感覚、気分等)を指すために使われる自分専用の言語のことだが、一般的な解釈によれば、ウィトゲンシュタインは『探究』二四三節以下において、まさに「規則に『私的に』従うことはできない」という理由によって、そのような言語の不可能性を主張したとされる。しかし、実は、ことはそれほど単純ではない。
まず、いま引用した二〇二節自体が、本来、このような語り方では語りえないことを語らされてしまっているということに注意していただきたい。もちろん、ある規則に従っていると信じることはその規則に従っていることではない。だが、規則に従っていると信じる[#「と信じる」に傍点]ことは、明らかに規則に従うことの一種ではある。なぜなら、「信じている」という記述が正当であるならば、彼の行為は「信じる」という語の文法規則には従っているはずだからである。彼の行為は、そう信じているとさえも言えない人(つまり「信じる」という語の文法規則にも「私的に」従っている人)の行為から(何らかの公的規準によって)区別されているはずなのである。だから、この意味では、「規則に従っていると信じることは規則に従っていることではない」という文は、「と信じる」の後に「と信じる」を無限につけ加えないと、その言わんとするところに達することができないのである。
これは、つまらぬ揚げ足取りのように思われるかもしれないが、そうではない。まさにそのことの内にこそ、|規則《ルール》と|実践《プレイ》の逆転による言語ゲームの根源性が、内側から示されているからである。
†私的言語の私的性格[#「†私的言語の私的性格」はゴシック体]
私的言語に関する議論は『探究』二四三節から始まるが、彼は最初にまず、彼が不可能と見なす「私的言語」や「私的規則」の「私的」の内容を、彼が可能(どころか必然)と見なす「私的」の内容から区別している。要点は、第4章の2の「他人の心」の項で説明したものと同じだが、それはここでは「『感覚は私的である』という命題は『ペイシェンスは一人でする』という命題と類比的である」(二四八節)という一文に要約されている。ペイシェンスとは一人で行なうトランプ占いのゲームであり、それを他人と一緒にやることはそのルールによって[#「そのルールによって」に傍点]禁止されているという意味で不可能である。それと同じように、他人の感覚を「感じる」ことはその文法規則によって[#「その文法規則によって」に傍点]禁止されているという意味で不可能である。つまり感覚は文法的に私的なのである。
したがってまた他人の感覚を「知る」こともできない、と言えるかどうか、に関するこの箇所のウィトゲンシュタインの議論は、最晩年の『確実性の問題』の問題意識に通じるものである。だが、私的言語の問題を考えるときには、むしろ無視した方が話がはっきりする。正常な成人に関しては、たとえば歯が痛いかどうかを、自分だけが知ることができ、他人は知ることができない、という場合があり、その逆の場合はない。これは、いま述べた感覚の私的性格からのまったく当然の帰結にすぎない。「知る」という語の使い方について細かい詮索をする前に、まず、このことを認めるべきである。
論点の中心は「正常な成人に関しては」という一句にある。たとえば言葉を覚える以前(あるいは途中の)の子供に関しては、事情が逆なのである。そういう子供に関しては、たとえば痛みを感じているかどうかを、他人(大人たとえば親)だけが知ることができ、自分は知ることができない、という場合があり、その逆の場合はない。大人は子供の置かれた脈絡(前後の状況)と表出(外的な振舞い)から「痛い」という語を教える。だから子供は、痛いとはどういうことであるかを自分自身の事例からのみ学ぶ(他にどんな事例がありえよう)にもかかわらず、自分自身のどのような状態が「痛い」と言われる状態であるのかを、他人から教えられてのみ学ぶ(他にどんな学び方がありえよう)のである。つまりそこには、自分の内的状態を他人が確実に知っており、自分は知らないという段階があったのであり、あったのでなければならないのである。
†天才児の事例[#「†天才児の事例」はゴシック体]
では、この子供が天才であって、自分で自分の内的体験を認知分類し、自分でそれに名前をつけたとすればどうか。ウィトゲンシュタインはこう言っている。
[#2字下げ] 「人間が自分の痛みを表出しない(うめいたり顔を歪めたりしない)としたらどうだろうか。そうなると、子供に『歯痛』といった語の使い方を教えられなくなる。」――それなら、その子供が天才で、その感覚の名前を自分で考え出す、と仮定しよう。――しかし、そんな言葉を使っても、ひとには理解してもらえないだろう。――だから、子供はその名前を理解してはいても、その意味を誰にも説明できないということか。――しかし、それなら、彼が「自分の痛みに名前をつけた」ということはどういうことなのか。……
[#地付き](『探究』二五七節)
[#ここで字下げ終わり]
子供がどんなに天才であっても「その感覚の名前を自分で考え出す」という仮定は、実は成り立たない。言葉を教えられる段階では、転んだりぶつかったりして(脈絡)泣いたりうめいたりしている(表出)とき感じられているものは、必然的に「痛み」であり、くすぐられて(脈絡)くすぐったそうにしている(表出)とき感じられているものは、必然的に「くすぐったさ」である。くすぐられてくすぐったそうにしているにもかかわらず、実は「痛み」を感じているということは、すでに言語を習得した大人に関してはありえないことではないが、言語を習得する段階の子供に関してはありえないことなのである。これは「乳飲み子の|微笑《ほほえ》みは偽装ではないという仮定」(『探究』二四九節)と同様、われわれの言語ゲームの疑うことのできない出発点である。言語の習得以前には偽装が存在しない(言語が偽装を可能にする)といった事実が発見されたというのではない。そうではなく、とにかく[#「とにかく」に傍点]われわれは言語の習得以前に偽装を想定しない[#「しない」に傍点]のである。
それゆえ、感覚や感情を持ってはいるが、それを(抑えるのではなく)表出しないような人々から成る世界が考えられる[#「考えられる」に傍点]、と思うのは錯覚である。それは、われわれが感覚や感情を表出しなくなる[#「しなくなる」に傍点]という想定とは根本的に違う。そのような世界の住人は、われわれと生活形式が一致しておらず、したがって、われわれの「感覚」や「感情」にあたる概念を、そもそも持っていないのである。そのような世界の子供が感覚の名前を自分で考え出す、などという想定には意味を与えようもない。そういう想定を「私的言語」と呼ぶなら、それが不可能であることは言うまでもない。
†感覚日記[#「†感覚日記」はゴシック体]
しかし、通常「私的言語」の典型とみなされるのは、『探究』二五八節の「感覚日記」の箇所である。それはこういう状況である。
[#2字下げ] ある感覚が繰り返し起こるので、私はそれを日記につけようと思う。そのため、その感覚に「E」という記号をあて、それが起こった日には必ずこの記号をカレンダーに書き込むことにする。……
[#地付き](『探究』二五八節)
[#ここで字下げ終わり]
ここでの「私」は、われわれの世界に住む、すでに言語を習得した大人である。私は、この感覚に注意を集中して、記号と感覚の結合を心に刻みつけるが、その結合を記憶しているのは私だけなのだから、私の間違いが誰かによって訂正されるという可能性はない。そこで、この節はこう結ばれている。「何であれ私に正しいと思われることが正しいのだ、と言われるかもしれない。それは、ここでは『正しい』ということについては語れない、という意味でしかない」。それゆえ、記号適用の正しさの規準がないから、私的言語は成り立たないのだ、とこの箇所を読む人が多い。
しかし、「何であれ私に正しいと思われることが正しい」とは、私的言語の特性というよりはむしろ感覚言語の特性、つまり「感覚は私的である」という文法的事実の言い換えでしかない。「感覚」の文法に支えられていなければ、正しいと思われることが起こるとまでは言えても、正しいと思われることが正しいとは言えない。そして、後者のように言えるということは、正しさについて語ることができるということである。正しいと思われることが正しいとは、正しいと思われないことは正しくないということであり、ここにはきわめて明瞭な正誤の区別が存在するからである。歯医者が何と言おうと、私の歯は私に痛く感じられれば痛いのであり、私に痛く感じられなければ痛くない。だからといって「痛い」という語が無意味だという人はいないだろう。
†私的言語と歴史の審判[#「†私的言語と歴史の審判」はゴシック体]
ではなぜ「E」の場合は事情が違うのか。一つの論点は、ここには歯医者が居ないということである。たとえば痛みの場合、患者である私の報告を起点にして、歯医者と私の間で、それを包み込むゲームを始めることができた。痛みの存否、正誤に関する私の権威は、そういう言語ゲームの中に位置づけられていたのである。「E」に関してはどうだろうか。私は誰と「E」に関するゲームを共有することができるだろうか。今のところ、誰ともできない。
しかし、こういうことが考えられる。私はある私的感覚の生起に関する感覚日記をつけながら、それがどのような脈絡(前後の状況)で起こるのかを明らかにしたいと願っている。空しく十五年間が経過する。あきらめかけたある日、その感覚がある客観的事象(たとえば前々日の食事と前日の運動量の関係とか、血圧の最大値と最小値の開きといった)と関連して起こることがわかったとする。しかも、同じ関連でおそらくは同じ種類の感覚を他の人も感じることがあるらしいことが次第に明らかになる。私の十五年間の孤独な営みは未来によって救済されたのだろうか。このたまさかの[#「たまさかの」に傍点]救済がもしなければ、またもし私が十三年目に死んでいたら、私の営みは無意味なものであったのだろうか。
そうではないだろう。私の孤独な営みが理解される可能性に対して開かれていたのは、それが感覚言語の文法に従った営みだったからである。つまり、私と他の人々との間には基本的な生活形式の一致が成り立っていたのである。問題は天才的な科学者やお笑いタレントの場合と同様であり、新たな概念が共同体に定着するに際して、そのような歴史の審判を待つ一時期が存在することは、むしろありふれたことなのである。
だが、もしそうだとすれば、「100、104、108、……」と書いた例の生徒も、本質的には同じではないのか。彼が従う規則がもし「一〇〇までは2を、二〇〇までは4を、三〇〇までは6を、というように」と語りうる[#「語りうる」に傍点]ものであるならば、彼とわれわれの間には、規則に関する不一致は存在しても、規則の従い方に関する不一致は存在しないことになる。われわれもまた、彼の規則に従うときには彼のように書くであろうから。つまり、そのように語りうる以上、彼とわれわれの間には、基本的な生活形式の、つまり判断の一致が、あるのだ。では、それさえもないような「生徒」について、われわれは何を語りうるだろうか。
†私的に従われた規則[#「†私的に従われた規則」はゴシック体]
答えはこうである。「解釈ではないような規則把握」の水準では、規則に「私的に」従うということがどういうことなのか、われわれにはもはや想像さえできない。だから、そういう想定をしようとすると、それは語られたとたんに、規則に「私的に」従うことから「私的な」規則に従うことへ、変質してしまうのである。だからわれわれは、その不可能性を主張したい私的言語へ、ついに行き着くことができない。規則への違う従い方[#「違う従い方」に傍点]は、提示されたとたんに、違う規則[#「違う規則」に傍点]への従い方に変わる。そして違う規則は、われわれにとってどこまでも理解可能なのである。
たしかに人は規則に私的に従うことができない。だが、私的に従われる規則とはどんなものなのか、そもそもわれわれは例示することができない。その意味で、私的規則(その一例としての私的言語)はどこまでも[#「どこまでも」に傍点]可能なのである。そして、まさにそのことの内にこそ、|規則《ルール》に対する|実践《プレイ》の先在性が、つまり言語ゲームの根源性が、内側から示されているのだ。ウィトゲンシュタインはこう言っている。
[#2字下げ] 「E」をある感覚の記号と呼ぶことに、どんな根拠があるのか。というのは、「感覚」は、われわれの公共言語に属する語であって、私だけに理解される言語に属する語ではないのだから。この語を使うには、誰もが理解できる正当化が必要なのである。――それは感覚である必要はない、彼が「E」と書くとき何かを持つのだ、それ以上のことは言えない、と言ってみても、役には立つまい。「持つ」や「何か」もまた、公共言語に属しているのだから。――こうして結局、人は哲学する際に、ただ分節化されない音声だけを発したい地点に到達する。――だが、そのような音声もまた、一定の言語ゲームの中でのみ一個の表現たりえているのだ。今や、そのゲームが記述されねばならない。
[#地付き](『探究』二六一節)
[#ここで字下げ終わり]
私的言語をめぐる議論において、ウィトゲンシュタインはすでに在る何らかの哲学的立場を批判し、それに対立する別の哲学的立場を打ち立てたのではない。ここでもまた、彼が格闘した問題は、普通の人の視界にはもともと入って来ないような問題だったのであり、この格闘によって彼が到達した地点は、普通の人なら始めから何の問題もなく[#「何の問題もなく」に傍点]到達してしまっているような地点だったのである。
4 |意味盲《いみもう》と|相貌盲《そうぼうもう》[#「|意味盲《いみもう》と|相貌盲《そうぼうもう》」はゴシック体]
†問題の連続性[#「†問題の連続性」はゴシック体]
『探究』の第一部と『数学の基礎』の中心主題が「規則に従う」ということにあったとすれば、その後に彼が取り組んだ『心理学の哲学』と『探究』の第二部の中心主題は、意味体験(その欠如としての意味盲)と相貌知覚(その欠如としての相貌盲)にあった。問題は根底において連続しており、渾身の格闘によってついに|拓《ひら》いたいわゆる後期ウィトゲンシュタイン哲学の地平を、彼がなおも疑い、吟味し、執拗に検討を加えていくさまを、われわれはそこに見ることができるのである。
だが、この問題に関する議論は錯綜し、容易にはとらえがたい様相を呈している。以下の叙述は、私の整理によってごく大まかな見取り図を描いただけであることをお断りしておきたい。
†意味体験[#「†意味体験」はゴシック体]
後期ウィトゲンシュタインは意味の使用説を主張した、と言われる。もちろん、それは正しい。しかし、正確に言えば、彼はこう言ったのである。「『意味』という語が使われる多くの[#「多くの」に傍点]場合に関して――すべて[#「すべて」に傍点]の場合ではないにしても――この語を次のように説明することができる。すなわち、語の意味とは言語におけるその語の使用のことである、と」(『探究』四三節)。それならば、「意味」という語が使われるそれ以外の場合とは何か。
たとえば、詩や物語を感情を込めて読むときには、単に話を知ろうと思って読むときには起こらない何かが起こるだろう。こういう場合「表情豊かな朗読においてこの語を発音するとき、それは意味によって満たされている」(『探究』四二八頁)と言うことができる。また、たとえば「私がその言葉を聞いたとき、それは私にとっては……という意味に聞こえた」(『心理』一七五節)といった「意味」の用法もある。この二つの例に共通することは、そこではいわば意味が体験されて[#「体験されて」に傍点]いるということである。
†意味盲[#「†意味盲」はゴシック体]
ウィトゲンシュタインは、このような意味の体験[#「体験」に傍点]を持つことができない障害を「意味盲」と名づけた。彼の言語観からすれば、意味盲がさして重大な障害ではないことは容易に理解されよう。このような意味体験によって取り出せるような「意味」は、言葉の意味の本質とは無関係であり、少なくとも日常のなめらかな言語実践においては、誰もが意味盲だからである。それでは、いったんはいわば|煩悩《ぼんのう》として退けたはずのこの種の「意味」を、彼はなぜ、もう一度あらためて検討し直さなければならなかったのだろうか。
私の見るところでは、意味を体験するということには、二つの内容が込められている。先ほど挙げた二つの例の前者の場合、語が「意味によって満たされる」と言われるときの「意味」とは、語にともなう情感とかイメージといったものであろう。そうしたものは、言語ゲームで実際に使用される言語の意味にとって外的な関係にしかない。それに対して、後者の「私にとっての意味」はそうではない。それは、その言葉が、その人にとって、その時、どのような意味に聞こえたかという、意味と聞き手との個人的で一時的な関係を問題にしている。これはもちろん、聞くときだけではなく話すときにも問題になりうることである。
ウィトゲンシュタインが問題にした意味盲とは、言葉に個人的な情感やイメージを結びつけることができない障害ではない。だから、「どちらかと言うと『水曜日』は太っていて『火曜日』は痩せている」(『探究』四三一頁)といった、語に付随するイメージの問題は、意味盲の問題とは関係ないと言わねばならない。また、「ある語のよく馴染んだ表情、それがその語の意味を受肉しており、意味の生ける肖像になっているという感じ――こうしたことに無縁であるような人がありうるであろう(そういう人は自分の言葉への執着がないだろう)」(『探究』四三六頁)といった問題にしても、それだけのことなら、本来の意味盲の問題とは無関係と言うべきであろう(これらは、むしろ「表情盲」と呼んでみたい)。
本来の意味盲人とは、たとえば「もっとも」という語がそれだけで与えられたとき、それを副詞(「最も」)として見たり、接続詞(「とはいうものの」の意の「尤も」)として見たり、または形容動詞(「理に叶ってる」の意の「尤も」)として見たりすることができない人のことである(『探究』三五〇頁の例を日本語に改変)と解するべきである。もちろん、文脈が与えられれば、彼もこの語をその三種の仕方で自由に使えるのである。こういう人に何が欠けているか、というのが意味盲問題の本質であろう。彼は国語の成績は悪いかも知れないが、日常生活ではまったく不自由しないのだ。
†意味盲人は何を失うか[#「†意味盲人は何を失うか」はゴシック体]
この意味での意味盲に関しては、だから、注意すべきことが二つある。第一に、意味盲人は語に結びつける外的なイメージや情感といった点では、ひょっとすると豊かな意味体験を持ちうるかもしれない、ということである。そして第二に、今の例で言えば、意味盲人とは「もっとも」という語にこの三種の用法があることが理解できない[#「理解できない」に傍点]人なのではない、ということである。理解はできても、「今は私にとって『最も』の意味である」という体験[#「体験」に傍点]が起こらない、という点がポイントなのだ。|喩《たと》えて言うなら、彼は、第一の点では詩人であることができるし、第二点では国語の先生であることができる!(詩人でありえない人を「表情盲」と呼ぶなら、国語の先生でありえない人は「解釈盲」と呼べるだろう)。
「1・2・3・5・□」という数列問題が与えられたとき、浮かんだ答えが7であれ8であれ、一瞬「あ、わかった」と思う瞬間がある。数列の規則性を発見する際のこの体験を、今、意味体験の範例とみなそう。するとそこには、数列の規則把握とそれにともなう心的随伴現象という二面があることがわかる。一瞬の内に本質[#「本質」に傍点]を把握するこの種の体験[#「体験」に傍点]を持たない人が意味盲である。さてこのとき、意味盲人は何を失うだろうか。
規則把握にともなう心的随伴現象は、規則の本質にとってあくまで外的であって、痛みやかゆみなどに比べても遥かに重要度が少ないことは明らかであろう。意味盲人がそれを欠くとしても、意味体験を欠くこの種の表情盲性の意味盲人の障害は、さして重大な障害とはならない(表情盲性といったが、数列に豊かな情感を感じるならば、彼は表情盲ではない)。
しかし、心的随伴現象はともあれ、意味盲人にはそもそも規則を発見[#「発見」に傍点]する力がなかったとすればどうか。それでも彼は、素数という概念を説明されたり、1足す2は3、2足す3は5、3足す5は……などと説明されれば、問題の答えが7となったり、8となったりすることを理解[#「理解」に傍点]することはできるのである。直観的本質把握力を欠く彼の障害は大きいだろうか。彼がそれを欠くとしても、この解釈盲性の意味盲人の障害は、さして重大なものとはいえまい(解釈盲性といったが、数列の意味を理論的に理解できる以上、彼は解釈盲ではない)。
†相貌体験と相貌盲[#「†相貌体験と相貌盲」はゴシック体]
「相貌盲という概念の重要性は『相貌を見る』という概念と『語の意味を体験する』という概念のつながりの内にある」(『探究』四二七頁)。つまり、「もっとも」という語を「ウサギ-アヒル」の反転図形に変えれば、意味体験と意味盲の問題は、そのまま相貌体験と相貌盲の問題となるのである。
[#図表(img/fig5.jpg、横×縦)]
相貌盲人とは、たとえば「ウサギ-アヒル」の反転図形がそれだけで与えられたとき、それがウサギに見えたりアヒルに見えたりという反転体験が起こらない人(表情盲性の相貌盲の場合)、あるいは、それを意図的にウサギと見たりアヒルと見たりすることができない人(解釈盲性の相貌盲の場合)である。しかし彼は、一方では、主観的な見え方というものがない人(表情盲)ではないし、他方では、その絵が見方によってウサギにもアヒルにも見えるという事実を理解しない人(解釈盲)でもない。またもちろん、文脈や背景が与えられても、ウサギやアヒルが見えない人でもない。こういう人に何が欠けているか、というのが相貌盲問題の本質である。
意味体験や相貌知覚を通してウィトゲンシュタインが考察した問題は、いわば「本質直観」の問題であった。彼は対象の新たな相貌が現れてくる体験を「相貌の|閃《ひらめ》き」と呼んで、「なかば視覚体験なかば思考」(『探究』三九二頁)と評した。つまり、そこには何であるか(本質)が閃く(体験される)、という二側面が含まれており、したがって、本質を理解できても知覚することができない表情盲性の相貌盲と、対象の諸属性は知覚できてもそこから内的関係(本質)を把握することができない解釈盲性の相貌盲が考えられるわけである。
何であるかを知覚的にとらえるためには、それが可能性として何でありえ、しかし現実には何でないかを、いわば一瞬の内に把握しなければならない。つまり、可能性の空間を非主題化的に意識する、ということが必要なのだ。狭義の相貌盲人に欠けているのは、この非主題化的な空間把握である。これは大きな障害だろうか。
再び数列との類比で語るなら、たとえばわれわれは、0、2、4、6、……という数列を、一〇〇以後が100、104、108、……と続いていくような相貌において知覚することができない。この点において、正常な人間はみないわば相貌盲なのである。「変化する場合にのみわれわれは相貌を意識する」(『心理』一〇三四節)のだから、相貌の転換を経験しない人は、そもそも自分が一つの相貌を知覚していることを意識できないのだ。とんでもない子供が出現したとき、彼の言うことを理解できたとしても(つまり、彼のような規則理解の可能性と並ぶ別の可能性を自分が選択していたことに気づいたとしても)、だからといって相貌の転換を体験することはやはり困難だろう。かりにそれができたとしても、それができる以上、今度はその共通理解を可能にしている一致点に関して、われわれは完全な相貌盲であるほかはないのだ。
†広義の意味盲の場合[#「†広義の意味盲の場合」はゴシック体]
それならば、意味盲や相貌盲を広義にとって、表情盲や解釈盲を含むとすればどうか。それでもなお彼は、人生を生きていくうえで不可欠な何かを失うわけではない、というのがウィトゲンシュタインの主張であった、と私は思う。この主張には重要で深い洞察が含まれている。広義の意味盲人は、表情盲でもあれば解釈盲でもある。それでも彼らは、なおいわば実践盲ではないのだ。われわれはみな、規則や意味を訓練によって体得させられ、それによって言語ゲームの実践者となる。情感や理屈はその上に成立する二次的なものでしかないだろう。つまり、われわれ自身もまた、実は究極的には意味盲的・相貌盲的な生を生きる、盲目的な実践者なのだ。自分が従っている規則は念頭に置くことができても、規則への従い方(の規則)はついには念頭に置くことができない。そして、まさにこのできなさこそがわれわれの実践を可能にし、われわれのゲームを成立させているのだ。
どんな情感豊かな人も、その情感に対するさらなる情感はもはや存在しない地点があり、どんな理論家も自分の理論構築自体はもはや理論化できない地点がある。相貌が閃く以上、相貌の閃き方はもう閃かない。そのことが相貌の閃きを可能ならしめるのだ。だからこそわれわれは、詩人風の能力も国語の先生風の能力もどちらもまったく[#「どちらもまったく」に傍点]欠如したまま、日本語の熟達者となることができるのである。ウィトゲンシュタインは、「私が『意味盲』という事例を想定したのは、言語を使用する[#「使用する」に傍点]際には意味体験は重要性をもたないように思われたからであり、それゆえ、意味盲人は大したものを失わないと思われたからである」(『心理』二〇二節)と言い、さらに「夢」という比喩を使ってこうも言っている。
[#ここから2字下げ]
意味が心に浮かぶことを夢になぞらえるなら、われわれも通常は夢を見ずに語る。「意味盲人」とはそれゆえ、どんな場合にも夢を見ずに語る人のことであろう。
[#地付き](『心理』二三二節)
[#ここで字下げ終わり]
それを一つの夢と呼べ。それは何ものも変化させない。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『探究』四三一頁)
[#ここで字下げ終わり]
この比喩は、第4章の2の終わりのところで引用した「言語が見る夢」というあのくだりを思い出させる。つまり、われわれには、言葉の見る夢を見ずに言葉を語り、知覚の見る夢を見ずに物を知覚する、そういう地点がどこかに必ずあるのだ。われわれが夢を見るとき、その夢の夢はもう見ることができないのだから。
[#改ページ]
第6章[#「第6章」はゴシック体] 最期[#「最期」はゴシック体]
[#改ページ]
[#ここからゴシック体]
[#ここから3字下げ]
哲学者はいかなる観念共同体の市民でもない。そのことが、彼を哲学者たらしめるのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『断片』)
[#ここでゴシック体終わり]
[#扉裏(img/front8.jpg)]
†発病と渡米[#「†発病と渡米」はゴシック体]
ウィトゲンシュタインは、正式に教授職を辞する一九四七年末を待たずに、アイルランドへ渡り、途中二回ウィーンに戻ったとはいえ、四九年夏までの一年半以上の間、各地の|旅籠《はたご》を転々としつつ著述に専念した。『探究』第U部のほか『断片』や『心理学の哲学』がこの時期に完成した。しかし、四八年頃から彼の健康状態はしだいに悪化していく。四九年五月のダブリンの医師の診断では単に「特殊な種類のひどい貧血症」ということで、大量の鉄分と肝臓エキスを服用することで健康は回復した(かに見えた)。
元気を取り戻したウィトゲンシュタインは、七月に、かねてからのマルカムの招きに応じてアメリカへ渡り、マルカムの勤務するコーネル大学のあるイサカに滞在し、コーネル大学の哲学スタッフたちとともに、主としてムーアが提起した問題について議論した。
その問題とは、「知っている」と主張することが無意味であるほど確実であるような知識あるいは確信の問題である。それこそが、遺作『確実性の問題』の主題なのである。ところが、秋を迎える頃になると、彼の体調は再び悪化し、彼は二日間入院して検査を受けた。当地の医師の診断は「重病ではない」ということで、彼はまた元気を取り戻し、一〇月にはイギリスに戻った。しかし、帰国後のケンブリッジの医師の診断は、今度は「前立腺の癌」であった。この診断を受けたウィトゲンシュタインは、一二月にウィーンに帰って三月まで滞在し、そこに残っていたすべての草稿類を焼却し、その間に、姉ヘルミーネがやはり癌で永眠するのを|看取《みと》った。
イギリスに戻ったウィトゲンシュタインは、一時オックスフォードのアンスコムの家に住むが、五一年からは、癌の診断を下したケンブリッジの医師ベヴァン夫妻の家に移った。四月一六日のマルカム宛ての手紙で、彼はこう書いている。「大変なことが起こった。一ヶ月ほど前、突然、哲学がやれるような精神状態になったのだ。再び哲学がやれるなんて、夢にも思っていなかったのに。頭の中に垂れていた幕が上がった感じだ。二年以上もなかったことだ。とは言っても、まだほんの五週間ばかりやっただけだし、明日はもう駄目になってしまうかもしれない。だからこそ、ますますやる気が出て来る」。
この期間に『確実性の問題』の三〇〇節から六七六節までが書かれた。だが、それがウィトゲンシュタインの最後の焔となった。
†懐疑と根拠なき信念[#「†懐疑と根拠なき信念」はゴシック体]
頭の中に垂れていた幕が上がったその日に、彼はこう書いている。
[#ここから2字下げ]
生徒と先生。生徒は、たとえば物の存在や言葉の意味といったことを疑って、絶えず先生の説明を中断する。先生は言う。「もう邪魔するのはやめて、言う通りにしてごらん。今はまだ、疑うことにはどんな意味もないのだから」。
また、その生徒が歴史(と歴史的なすべてのこと)の存在を疑い、そもそも百年前に地球が存在したかまで疑うと考えてみよ。
この疑いには中身がないように私には思える。だがそれなら、歴史を信じること[#「信じること」に傍点]もまたそうなのではないか。否。それには多くの中身があるのだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『確実性』三〇一〜二節)
[#ここで字下げ終わり]
最後の「否」という否定が、『確実性の問題』という作品を特徴づけている。疑うことに中身がないようなことに関しては、信じることにも中身がない。すべてがその中身であって、その中身でないようなものが何もないのだから、中身がないのと同じである。そういうことがらに関して、「信じる」と語ることには中身がない――以前のウィトゲンシュタインなら、おそらくこう主張したに違いない。
死刑囚の無実や神の存在を「信じる」ことには中身がある。なぜなら、それを信じることと信じないこととは、行為における差異を生み出す有意味な二つの生活だからである。だが、たとえば「誰も見ていない間にも机は存在する」(三一四節の例)と「信じる」ことは、それを疑うことと同様に、中身がないはずなのだ。なぜウィトゲンシュタインは、最後になって、そのようなことを「信じる」と語ることに意義を認めたのであろうか。
その一方で、彼はそのようなことを「知っている」と語ることを断固として拒否した。『論考』のウィトゲンシュタインは、「AはPを知っているという命題は、もしPがトートロジーであるならば、意味がない」(五・一三六二)と主張した。なぜなら「トートロジー」は、言語を使う以上はすでに前提されている真理であるから、こと改めてある個人がそれを「知っている」と主張するような文脈はありえないからである。
「トートロジー」に当たるものは、中期では「文法規則」へ、後期では「言語ゲーム」の実践知へと成長していった。私的言語に関する議論では、「私は自分が痛みを感じていることを知っている」と語ることが不当なものとされた。しかし『確実性』にいたって、通常の経験的事実を語る命題のいくつかが、その地位を占めることになったのである。たとえば、「ここに手がある」(自分の手について)とか「地球は私が生まれるずっと前から存在していた」といった命題である。われわれの生活と活動のすべては、これらを自明の前提とすることによって成り立っており、それらを「知っている」とか「信じている」とか主張する場面は考えられない。
†世界像[#「†世界像」はゴシック体]
知識や信念、懐疑や根拠づけが、すべてそれを前提としてその内部でなされ、営まれる、それ自体は根拠のない信念体系を、彼は「世界像」と呼んだ。
まず第一に、世界像は|鵜呑《うの》みにされねばならない。「私の世界像は、その正しさを私が得心したがゆえに、私のものになったのではなく、また、現にその正しさを得心しているがゆえに、私のものであるわけでもない。それは受け継がれてきた背景であり、真偽の判断もそれを前提としたうえでなされる」(『確実性』九四節)。
第二に、それゆえ、それには根拠がない。「根拠のある信念の根底には、根拠なき信念が存在する」(二五三節)。「われわれの信念には根拠がない、これを覚るのが難しいのだ」(一六六節)。「真実が根拠を持つとすれば、その根拠は真実[#「真実」に傍点]ではなく、また虚偽でもない」(二〇五節)。
第三にまた、世界像はあからさまに学ばれるのではない。「私にとって疑う余地のないこれらの諸命題を、私はそれとして取り出して学びはしない。自転する物体の回転軸のように、私はそれに後から気づく[#「気づく」に傍点]ことができるのだ。この軸は、動かないように固定されているから動かないのではなく、まわりのものの運動こそがその軸を動かぬものとしているのである」(一五二節)。
そして第四に、それは「像」であるにもかかわらず、見られるものではない。「根拠を与え、証拠を出すこと、これには終わりがある。だがそれは、いくつかの命題が端的に真なものとして見て取られることによって、つまり、一種の見ること[#「見ること」に傍点]によって、終わるのではない。そうではなく、言語ゲームの根底にあるわれわれの行為[#「行為」に傍点]によって、終わるのである」(二〇四節)。
†意味と真理[#「†意味と真理」はゴシック体]
第5章の3(「自然誌的」の項)で引用した『探究』の二四二節は、『確実性』のこの文脈において、文字どおりの意味を獲得する。われわれが話が通じるのは、言葉の定義が一致しているからだけではなく、判断も一致しているからである。つまり、われわれの学習は、まず定義を学び、次にそれを使って判断を下す、という二段階にはなっていない。諸判断を受け入れること、つまり世界像を引き受けることが、言葉の意味を身につけることの一部をなすのである。何かを疑う余地のない真理と見なすのでなければ、言葉の意味を学ぶこともできない。たとえば「地球は太陽のまわりを回っている」という命題を鵜呑みにすることが「地球」という語の意味を学ぶことの一部をなし、「夕焼けは美しく、ごみは汚い」という判断を疑わないことによってのみ「美」という概念が使えるようになるのだ。
言葉の意味が真偽の認識や信念から独立していないとすると、懐疑論はそもそも有意味に主張できるかどうかが怪しくなる。意味を確定しておいて事実を疑うことができなくなるからだ。たとえば、一〇〇年前の地球の存在を疑う人は、そもそも地球という語の意味を理解していないことになるかもしれないのだ。
それでは、意味の一部でさえあるような世界像と、それを前提としてなされる事実判断や知の主張は、どのように区別され、どのようにつながっているのか。ウィトゲンシュタインは、一方で言う。「私は、自分が信じて疑わないことがらの根底にまで達した。だが、この土台はまた家の全体によっても支えられている、ともほとんど言える」(『確実性』二四八節)。自転する物体の回転軸という比喩も、これと同じ趣旨を含んでいるだろう。だが、彼は他方で、世界像が流動状態に戻り、思考の川床が動く可能性を認めた上で、こうも言う。「しかし私は、川床を流れる水の動きと川床そのものの動きとを区別する。明確な区切りはつけられないとはいえ」(九七節)。二つの引用文に含まれる「ほとんど……」と「とはいえ……」は、おそらくは彼の動揺を示している。
「家々が原因もなしに次々と蒸発し、牧場の動物たちが逆立ちし、微笑んで言葉を話し出し、樹木は人間に、人間たちは樹木に変わる」(五一三節)といった、まったく前代未聞の状況を考えてみよう。ウィトゲンシュタインはこう言う。「問題はこうだ。『このような最も根本的なことについても、君の考えを変えなければならないとしたらどうか。』答えはこうであるように思われる。『考えを変えてはならない[#「てはならない」に傍点]。根本的であるとはまさにそういうことなのだ。』」(五一二節)。
しかし、本当は「変えてはならない」などと語って[#「語って」に傍点]はいけないのではなかろうか。そういう状況は考えられない、いや、考えない、ということがわれわれの実践を可能にしている、これが彼が本当に言いたいことであろう。だから、考えを変えるか変えないかという問い自体が、問われてはならない問いなのである。
しかし、彼の哲学はそれを問う。つまり、最晩年にいたってもなお、ウィトゲンシュタインにとって、哲学するという営みは自己否定的なのである。それは、結局、それが語ってはならないと主張するところのものを語ることになるからである。彼は本質的な点で「哲学」という言語ゲームの存在を認めなかった。彼自身がやっていることは、あくまでも例外なのである。彼がしているのと同じ種類の他のこと[#「同じ種類の他のこと」に傍点]を人がするということに、彼は本質的な点で意義を認めることができなかったのではないだろうか。まさにそのことの内に、彼の独我論が示されているだろう。
しかしもし彼に、「ほとんど」や「とはいえ」に示された動揺をさらに深く考え抜く時間が残されていたなら、語りえぬものについて語る彼自身の――あるいはむしろ彼自身のような種類の[#「ような種類の」に傍点]――営みを、言語ゲームの一つの種類として認めるにいたる可能性はあったはずである。
†知の主張と根拠[#「†知の主張と根拠」はゴシック体]
知の主張の問題についても、ほぼ同じことが言える。もともと世界像を語る命題の範型は、ムーアが懐疑論を論駁するために「私は知っている」と主張した命題であった。懐疑論はたとえば外界の存在を疑う。しかし私は、ここに手があることを、そこに机があることを、百年前に地球があったことを、どれも確実に知っている。ムーアによれば、懐疑論の誤りは根拠を提示できる場合にのみ知の主張ができると考えたところに、つまり根拠なき知の可能性を考えなかったところにある。
だが、ウィトゲンシュタインによれば、そうではない。逆に、「ムーアの誤りは、『知りえない』という主張に対して『知っている』と言って対抗したことにある」(『確実性』五二一節)。知の主張は根拠の提示を要求されるが、ムーアが出した例はどれもそもそも知の対象ではない。それらを本気で疑うことは、われわれの世界では誤謬ではなく狂気を意味し、それを根拠の提示によって正すことはできない。「地球が一〇〇年前に存在したかどうかを、誰かが疑うとする。その人が、何をその証拠と認め何を認めないのか、それが分からないがゆえに[#「がゆえに」に傍点]、私はこの疑いを理解することができない」(二三一節)。
それゆえムーアは、世界は自分とともに生まれたと信じる王様がいたとすれば、彼にその誤りを証明して見せることはできない。ムーアが王様を自分の世界像へ転向させることができたとしても、根拠の提示による説得によってではない。それは王様にとって世界全体の相貌が一変する経験である。王様はそのとき、比喩ではなしに、生きていることの意味そのものを変えることになるだろう。それは一つの盲目から別の盲目への移行だから、以前の盲目は新たな盲目の正しさを見ることはできず、逆に新しい盲目は以前の盲目の誤りを見る[#「見る」に傍点]ことはできない。
†哲学的知の位置[#「†哲学的知の位置」はゴシック体]
「ムーアが知っていると主張することを、彼は知って[#「知って」に傍点]はいない。それは彼にとって、私にとってと同様、動かぬものなのである。それを動かぬものと見なすことが、われわれの疑いと探究の方法[#「方法」に傍点]の一部をなしている」(『確実性』一五一節)。しかし、他の可能性が視野に入ったときには、それを「知っている」と言ってもよいはずである。一番よい例は、自分の正気を証明するときであり、もう一つの(それと同型の)例は、哲学をするときである。それは、われわれが他の可能性など考えたこともないほどに没入している実践を、他でもありうるものとして眺めた後の発言である。ムーアの場合、懐疑論を対象にするという哲学的文脈が、正気の証明と類似の文脈を構成したのである。そこには、知の主張を正当化する新たな文脈が形成されているのではあるまいか。そういう場合、人はただ示されるはずのことを、語る立場に身を置くことになる。一般的に言って、それを不当とする理由はないはずだ。ウィトゲンシュタイン自身、その種の活動にかまけて一生を過ごしたのだから。
彼がしているのと同じ種類の他のこと[#「同じ種類の他のこと」に傍点]を人がしてよいならば、たとえばムーアのように語ることが批判される理由はないはずである。ウィトゲンシュタインは、ムーアの「知」のかわりに「信」を語った。だが、動かぬものとしての世界像は、もしわれわれが知っている[#「知っている」に傍点]ものでないとすれば、また信じている[#「信じている」に傍点]ものでもないはずである。ウィトゲンシュタイン風の批判をウィトゲンシュタインに向けるならば、信じない可能性が考えられないところでは「信じる」と語ることも不適切だからである。われわれはそれを信じても疑ってもいない。とにかくそれを生きているにすぎない。
ではなぜ、彼は最後になって、そうしたことがらについて「信じる」「確信する」「信頼する」と語ることを自分に許したのであろうか。さまざまな推測が可能だが、推測を語るのはやめよう。ただ一言、次のことは付け加えておきたい。もし「信じている」という語をこのように超越論的[#「超越論的」に傍点](先験的[#「先験的」に傍点])に[#「に」に傍点]使うことが許されるならば、そのとき、それを「もう一つの語りえぬもの」に対して超越的に[#「超越的に」に傍点]使うことも許されているはずである、と。
†最期[#「†最期」はゴシック体]
四月二七日、午後に彼は散歩に出かけたが、その夜、病状は急変した。あと数日の命であると伝えるベヴァン医師に、彼ははっきりと「Good !」と言い、翌日、意識を失う直前、徹夜で看病していたベヴァン夫人に「みんなに、僕は|素晴らしい一生《ワンダフル・ライフ》を送ったと、伝えて下さい」と言ったという。そして、翌二九日の朝、彼は六二歳の生涯を閉じた。
臨終の模様を伝えたマルカムは、この「素晴らしい」という言葉について「|謎めいて《ミステリアス》はいるが不思議に胸を打つ言葉」だという感想を述べている。しかし私には、それはむしろわかりやすい、素直な言葉のように思われてならない。現に、死の二日前、激しい発作に襲われて最期の床に着く直前まで、彼は好意ある医師の自宅で、その天職に没頭しつつ時を過ごすことができたではないか。また、臨終の模様をわれわれに伝えてくれたマルカムその人は、ウィトゲンシュタインに真の友愛を持って接しつつ、しかもその哲学の深い理解者でもあったではないか。クリトンはソクラテスに、ペーター・ガストはニーチェに、真の友愛を持って接したではあろうが、その哲学の理解者ではなかった。ウィトゲンシュタインの生涯を振り返るとき、彼は実に多くのよき理解者に恵まれた、と思わずにはいられない。「みんなに……伝えて下さい」の「みんな」とは、そういう人々のことであろう。このような希有なる幸福を享受した人の生が「素晴らしい一生」でなかったはずはないだろう。おそらくは彼自身、自分の性格に欠陥があることを自覚していたにちがいない。にもかかわらず、彼は、多くの人々の好意と友情に支えられ、人々に受け入れられ、その特異な才能を開花させることができた。彼はそのことを、素直に「素晴らしい」と表現したのではないだろうか。
ウィトゲンシュタインは「哲学者はいかなる観念共同体の市民でもない」と書いた。哲学者は「哲学」なる観念共同体の市民でもなければ、また「反哲学」といったそれの市民でもない。まさに「そのことが、彼を哲学者たらしめるのだ」と。これは、少なくとも私にとっては真に胸を打つ言葉である。しかしまた、それは|綺麗《きれい》ごとでもあるだろう。真にいかなる観念共同体の市民でもありえなかったがゆえに、単に何ものでもありえなかった人物も、また少なくないはずだからである。
ウィトゲンシュタインを「哲学」の共同体につなぎとめ、その共同体の一部からは崇拝さえされる「天才哲学者」たらしめたものは何だったろうか。もし、引用文の前半が真実であるならば、その後半が実現されるためには、希有なる幸運が作用しなければならなかったはずなのである。多分、彼はそのことを知っていたのだろう。運命の恵みは、彼に「世の中の楽しみ」(本書第1章扉裏参照)もまた拒みはしなかったのである。
葬儀は、カトリック式で行なわれたが、彼は生涯、特定の宗派に入信することはなかった。それはむしろ、彼の生の強い宗教性を証拠立てていると言えよう。哲学という名の観念共同体の中に身を置くことが、哲学することとは全然違うことであるように、制度的に容認された宗教に入信することは、宗教的に生きることとはまったく別のことである、そう少なくとも彼は考えていたであろう。いわゆる哲学やいわゆる宗教は、現実との妥協の中で生まれた一種の緩衝地帯のようなものなのである。彼は、そういう場所に安住することができなかった。もちろん、それは素晴らしいことである。だが、その素晴らしさが現実に「素晴らしい一生」を産み出すためには、実は才能と僥倖が必要とされたということも、また忘れてはならないことであろう。
[#改ページ]
終章[#「終章」はゴシック体] 語りえぬもの[#「語りえぬもの」はゴシック体]
――光と陰、再び
[#改ページ]
[#ここからゴシック体]
[#ここから3字下げ]
哲学においては、問いに答えるかわりに問いを立てることが、常に適切である。
哲学的な問いに対して答えようとすれば、間違ったことを言いがちだが、別の問いによってその問いに決着をつければ、そうはならないからである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『基礎』)
[#ここでゴシック体終わり]
[#扉裏(img/front7.jpg)]
†思想の値段[#「†思想の値段」はゴシック体]
ウィトゲンシュタインは、思想の値段は勇気の量で決まると言った。これは私にとって、心から共感できる言葉である。しかし、なぜ勇気が必要なのか。それは、思想にはどんな交換価値も拒否する部分が、つまりそもそも値札をつけることができない部分があるからである。
その人の思想(考えたこと)との関係でしか[#「しか」に傍点]考えることができない問題があるかどうか、その意味では、これが思想の値段を決める。私自身にとって、法外な値段がつく思想家は、今のところウィトゲンシュタインとニーチェの二人だけである。彼らは、他の人も別の仕方で語った、人間にとって重要な真実を、彼らなりの仕方で語った人たちなのではない。他の人がまったく語らなかった、彼らがいなければ誰も気づかなかったかもしれない、まったく独自の問題[#「問題」に傍点]を、ただ一人で提起した人たちなのである。少なくとも私にとって、ウィトゲンシュタインはそういう人であり、彼が勇気をもって語ってくれなければ、私自身が彼と独立に感じていたある問題を、私は一つの問題として考えてよいということすら、知らないで終わったであろう。
最後にもう一度、その問題に立ち帰ってみよう。たとえば、私的言語に関する議論の中に出てくる次の文を取り上げてみよう。
[#2字下げ] 感覚の同一性に関するこういう議論をしているとき、ある人が自分の胸をたたいて、「でもやっぱり、他人はこの[#「この」に傍点]痛みを持つことはできない!」と言ったのを見たことがある。――これに対する答えは、「この」という語を強調しても、同一性の規準を立てることはできない、というものである。そのような強調はむしろ、同一性の規準はすでによく知られているのに、それを思い出させてもらわなければならないようなケースが、さもあるかのように見せかけるだけなのである。
[#地付き](『探究』二五三節)
[#ここで字下げ終わり]
こういう「答え」を出すとき、ウィトゲンシュタインが何を否定し、その否定によって何を断念[#「断念」に傍点]しているのか、そこを痛切に感じとれるかどうかが、彼の哲学の理解の質を決める。「この」を強調しようとした人は、いったい何を強調しようとしたのだろうか。
それは、他の人が持つ、あるいは他の場合に自分が持つ痛みではない、今ここにあるこの[#「この」に傍点]痛みである。つまり彼は、他の人が言う、あるいは他の場合に自分が言う「この痛み」ではない、この[#「この」に傍点]「この痛み」について語ろうとした。そして、それは他の人が持つことができないものだ、と言いたかった。しかし、彼がその発言によって示したことは、一般に人はその人自身の痛みしか持つことができない、という文法的事実にすぎなかったのである。
†独我論、再び[#「†独我論、再び」はゴシック体]
「この」を「私」に置き換えれば、それがそのまま独我論が語りえない理由である。しかし、一般的な「私」ではない「この[#「この」に傍点]私」ということなら、「この[#「この」に傍点]私」であるその人物が誰であるかを特定できさえすれば、それで十分ではないか。そうではないのだ。その人物が誰であるかということと、それが「この[#「この」に傍点]私」であることとは、独立なのである。
[#2字下げ]「でもやっぱり、君が『私は痛い』と言うとき、君は他人の注意をいずれにしろある特定の人物に向けようとはしている。」――これに対する答えは、そうではない、私は他人の注意をただ私に[#「私に」に傍点]向けようとしているのだ、というものでありえよう。
[#地付き](『探究』四〇五節)
[#ここで字下げ終わり]
「私」とは特定の人物のことではない。ここでは、特定の人物であることと、それが私であることが、区別されている。だが、注意しなければならない。そのことは、再び、どの「私」にも当てはまることなのである。だから、たとえば、自分の場合だけ「痛みがある」と言い、他人の場合は「誰それは痛みの振る舞いをする」と言う、というような、自分を特別扱いする語法を採用することが、誰にとっても[#「誰にとっても」に傍点]可能なのである。まさにそのことによって――つまり言ってみれば、独我論が論として成り立つことによって――独我論は語りえないものとなる。
『探究』にけっして登場しない問いは、「でも、その『私』って誰のことだい?」というその次の問いである。言語ゲームとは、その問いが意味を持ちえない世界のことである。そしてそれが、われわれの世界である。そこにももちろん、語りえないもの――生活形式――が示されはする。しかし、その形式に実質を与える「私の生」そのものは、もはやどこにも示されない。独我論が言わんとすることは、その形式にぴったりと乗ってしまうから、示されるのはただその形式だけなのである。規則への違う従い方が違う規則への従い方に変わるのと同じことだ(第5章の3の「私的に従われた規則」の項参照)。
しかし、後期においては、言語観の変化とともに、語りうるものの範囲は無制限に拡大し、示されうるものもまた、原理的には、どこまでも語りうるものとなる。このことは独我論にも妥当し、それがまた独我論の言わんとすることをさらに語りえなくさせる。どんな発言も、言語ゲームの中で何らかの意味を持つ言葉として解釈し変えられるからである。語りえぬものはどこまでも[#「どこまでも」に傍点]語りうるものへと読み換えられる。言語ゲームとは、その読み換えの運動にほかならない。それゆえ、その外部は端的に存在しないのである。
だからウィトゲンシュタインは、もはや「語りえぬものについては沈黙しなければならない」などとは語ることはできない。それがあまりにも容易に語りえてしまい、そのとたんに、それを語るゲームが成立してしまうからである。ここには、のぼった後に外すべき梯子がない。この構造は、もちろん、『論考』において「語りえぬもの」とされた全域に妥当する。
†倫理、再び[#「†倫理、再び」はゴシック体]
『論考』において語りえぬものとされた「倫理的なもの」に関する記述が、『探究』を始めとする後期の諸著作にまったく登場しないのはなぜだろうか。もし『論考』のウィトゲンシュタインの関心がもっぱら「倫理的なもの」を内側から限界づけることにあったのだとすれば、そして後期において、そういう二分法が否定されたのであれば、後期ウィトゲンシュタインは、今や「倫理の言語ゲーム」について積極的に語って然るべきではないか。まして『探究』が『論考』に対する徹底的な自己批判書として企図された書物なのだとすれば、そこでかつての自己の最も深い迷妄が批判され、言語ゲーム論の中に位置づけ直されないのは、いったい何故なのだろうか。
おそらく、答えはかんたんである。批判されない理由は、批判されていないからである。それでは逆に、肯定的な言及もされないのはなぜか。その答えもかんたんである。語りえないからである。『論考』のウィトゲンシュタインが「倫理」と総称した超越論的な領域が、後期において言語ゲーム論の中に位置づけ直されないのは、それが言語ゲームの中に位置を持たないからである。彼はもはや「人生の問題の解決」については語らない。正当な言語の範囲拡大とともに、それは文字どおりまったく語りえないものとなった。
それゆえ、『探究』もまた光の部分と陰の部分を持つ。つまりそれは、そこに書かれていることと書かれなかったすべてからなる書物なのである。ウィトゲンシュタインは「ある種の人たちが部屋に入って来るのを欲しないなら、その人たちが持たないような鍵をかけておけばよい。しかし、そのことをその人たちに語るのは馬鹿げたことである。……」(『断章』二七頁)と書き、少なくとも『探究』に関しては、この「品位ある態度」を完璧に実践した。しかし、多少ともその馬鹿げたことを実行したはずの『論考』ですら、狭隘な「光」の部分を図とする図地反転を引き起こしたのだから、『探究』に関しては結果は眼に見えていた。今度の場合、それは論理実証主義といった特殊な思想の持ち主だけに対する誘惑ではなかった。論理実証主義者の『論考』に関する浅薄な誤解を嘲笑する多くの人々が、『探究』に関しては、まったく同型の浅薄な誤解に陥っているように、少なくとも私には、思われてならないのである。
†読み換え[#「†読み換え」はゴシック体]
誤解の余地はないと思うが、念のためもうひとことだけ付け加えておこう。以上述べたことは、倫理、審美、宗教、神秘、超越性、死、そして独我論といったものを、言語ゲームが届かぬ聖域とすることとは全然違うことである。なぜなら、それらはすべて言語ゲームなのだから。また逆に、言語ゲーム全体を不まじめな冗談のようなものとみなすこととも全然違うことである。なぜなら、まじめと不まじめは言語ゲームの中での対立なのだから。すべては言語ゲームなのであり、倫理も芸術も宗教もその一形態以外の何ものでもない。それを超えるものは〈無い〉のだ。だから、ウィトゲンシュタインは倫理や芸術や宗教を語りえぬものの側に置いた、などと言うことはできない。まさにその意味において、後期において、すべては言語ゲームになったのである。
後に残るのは、言語ゲームの中で語りえず、それを実践することの内に示されるなどとも言えない[#「言えない」に傍点]ものである。しかし、それなくしては何もないと同じであるようなものである。だが、もしそれを神秘と呼べば、その瞬間にその神秘を語る言語ゲームが成立してしまう、という意味で、けっして語りえぬものである。こうして、彼はもはや「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉すら発することはできない、発してはならない地点まで歩みぬいた。もちろん、私はそのことをあえて語り、それを「解説」した。それは、後期ウィトゲンシュタインについて語りながら、このことを感知しない人があまりに多い、と私には[#「私には」に傍点]思われたからである。
先に引用した文章に続けて彼は「品位ある態度。開けることができる人だけが気づくように、つまりその他の人には気づかれないように、扉に鍵をかけておくこと」(『断章』二七―八頁)と書いた。しかし私は、開けることのできない人に対しても、少なくともこの扉に鍵がかかっていることだけは告げておきたいと思った。そういう品位の欠如こそが、入門書の存在価値であろうから。その後のことは、読者諸賢にお|委《まか》せするほかはない。ウィトゲンシュタインの意図に反して、この鍵には、実は多様な開けかたがあるように思われる。私は私で、ここから始まる別の問いを立てることによって、彼の問いに答えていきたいと思っている。
[#改ページ]
おわりに[#「おわりに」はゴシック体]
本書を書きつつ、すでに解決ずみだと思っていた問題の多くが、実は自分の中で未解決であることを痛感させられた。だが、それは著者の問題であって、読者の問題ではないから、疑問やためらいの跡は、すべてぬぐい去って、単純明快な本に仕上げたつもりである。ねらい通りになっていれば、と思う。
歴史に残るような思想は、多分どれも、他になすすべがなかった人によって、苦しまぎれに、どうしようもなく作られてしまったもの、という一面をもつはずである。だが、後から来た鑑賞者たちは、あたかも結果だけがあったかのように、「天才」といった鎮魂のための称号を与えて、彼を健全な精神文化の中に取り込み、古典という名の「いつも新しい」|檻《おり》の中に閉じこめて、彼を鑑賞用の見せ物にしていく。そしてあろうことか、そもそも彼の問題などには縁もゆかりもなかった人々の論評にさらされていくのだ。これは酷いことだが、また避けがたいことでもある。
本書が、またひとつ作り出された手軽な鑑賞用のウィトゲンシュタインとしてだけではなく(それは避けられないことだが)、ウィトゲンシュタイン的な問題をみずから持つ人へのささやかな「呼びかけ」としても役立ちうることを願わずにはいられない。
[#改ページ]
文献案内[#「文献案内」はゴシック体]
本書を読んで、ウィトゲンシュタインの理解をさらに深めたいと思われた方は、本文中に指示した彼の著作のうちから、気に入ったもの、あるいは気になったものを、直接、読まれるのがよいだろう。通常、彼の主著は前期の『論理哲学論考』と後期の『哲学探究』であると言われているが、私としてはむしろ、中期の模索期から入る方が、ウィトゲンシュタイン的問題の中核に達しやすいように思われる。その意味でむしろ、『哲学的考察』(全集2)の始めの方や、『哲学的文法T』(全集3)の全部、それに『青色本』(全集6)の後半五分の一ぐらいが、最もすすめられる。
とはいえ、ウィトゲンシュタインの思索を一筋縄でとらえることは不可能であり、異なった観点から書かれた複数の解釈を知ることは有用、というよりむしろ不可欠とさえ言える。その意味では、近刊の『ウィトゲンシュタイン読本』(法政大学出版局)が、さまざまな論者がさまざまなウィトゲンシュタイン観を提示していて、役に立つであろう。私自身も、そこではむしろウィトゲンシュタインの独我論の扱いを批判するという形で、積極的に私見を提示している。
日本だけに話を限っても、ウィトゲンシュタインに関する書物や論文の数はかなり多い。『ウィトゲンシュタイン』という題の本だけでも、ノーマン・マルコムの伝記(講談社)、黒田亘のアンソロジー(平凡社)のほか、アンソニー・ケニー(法政大学出版局「りぶらりあ選書」)、藤本隆志(講談社「人類の知的遺産」73)、滝浦静雄(岩波書店「20世紀思想家文庫」6)、岡田雅勝(清水書院「人と思想」76)、A・J・エイヤー(みすず書房)、A・C・グレーリング(講談社選書メチエ)、クリスティアンヌ・ショヴィレ(国文社)の、それぞれ特徴のある解説書がある。しかし、題名に「ウィトゲンシュタイン」の名が含まれる本は、書店や図書館ですぐ見つかるであろうし、そのうちのひとつ山本信・黒崎宏『ウィトゲンシュタイン小事典』(大修館書店)には詳しい文献目録もついているから、ここですべてを挙げることはしない。
ウィトゲンシュタインについてだけ書かれたものではない(それゆえ表題に「ウィトゲンシュタイン」の名が含まれていない)文献のうち、一読を奨めたいのは、シュテークミュラー『現代哲学の主潮流2』(法政大学出版局)の第九章、黒田亘『経験と言語』(東京大学出版会)のV、飯田隆『言語哲学大全U』(勁草書房)の第1章、第2章である。
日本語で読める本格的な研究書のうち、一冊と言うなら、私はP・M・S・ハッカー『洞察と幻想』(八千代出版)を挙げたい。私自身のものでは、『〈私〉のメタフィジックス』(勁草書房)の前半と『〈魂〉に対する態度』(勁草書房)の後半が、特にウィトゲンシュタインに関係している。また、独我論については、近いうちに独立の「入門書」を書く予定だが、さしあたっては九四年九月から『本』(講談社)に連載中で、近々本になる予定の『〈子ども〉のための哲学』の前半が参考になると思う。
しかし、ウィトゲンシュタインについての本を読むよりも、むしろウィトゲンシュタイン的な考え方(と著者たちが理解したもの)を使って、直接さまざまな問題にアプローチしたものを読むほうが、得るところが多いかもしれない。そうしたものの中では、「心」についてのN・マルコム『心の諸問題』(法律文化社)、「科学」についてのN・R・ハンソン『科学理論はいかにして生まれるか』(講談社)、「社会」についてのP・ウィンチ『社会科学の理念』(新曜社)などが、すでに古典的といえる文献である。
もっとも、古典的である以上、新しい解釈との間に多少のずれがあることも事実であって、たとえばP・ウィンチの著作とS・A・クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(産業図書)を読み比べて、両者の「規則」理解の違いに思索をめぐらすなら、それだけですでに、後期ウィトゲンシュタイン的問題の中核に入り込んだことになる。その際、落合仁司の『保守主義の社会理論』(勁草書房)や大澤真幸の『行為の代数学』(青土社)を、クリプキ以後的なウィトゲンシュタイン解釈の社会理論への適用例として、参照してみるのも有用であろう。
ウィトゲンシュタインと今日の分析哲学との関係を知るには、M・ダメット『真理という謎』(勁草書房)、H・パトナム『理性・真理・歴史』(法政大学出版局)、R・ローティー『哲学と自然の鏡』(産業図書)を、直接読まれることを奨めたい。現代思想全体との関連については、よい解説書がない。H・ステーテン『ウィトゲンシュタインとデリダ』(産業図書)は、どちらかといえば、すでにウィトゲンシュタイン哲学になじんでいる読者に対してデリダを紹介する本だが、参考になる。
最終校正の段階で、くわしい伝記があいついで二種類、翻訳出版された。B・マクギネス『ウィトゲンシュタイン評伝』(法政大学出版局)とR・モンク『ウィトゲンシュタイン』(みすず書房)である。
永井均(ながい・ひとし)
一九五一年生まれ。慶応義塾大学文学部卒業。慶応義塾大学大学院博士課程修了。専攻は哲学、倫理学。信州大学人文学部教授を経て、現在、千葉大学文学部教授。一九八九年、和辻賞受賞。著書に『〈私〉のメタフィジックス』『〈魂〉に対する態度』『翔太と猫のインサイトの夏休み』『〈子ども〉のための哲学』『ルサンチマンの哲学』『〈私〉の存在の比類なさ』『これがニーチェだ』『マンガは哲学する』『転校生とブラックジャック』『倫理とは何か』『私・今・そして神』、訳書にネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』他。
本作品は一九九五年一月、ちくま新書の一冊として刊行された。