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葉桜の季節に君を想うということ
歌野晶午
目 次
出会い
古屋節子が築いた屍
再会
ヤクザ探偵成瀬将虎
交際
千絵ちゃん
蜜月
久高隆一郎殺し、それから
破局、そして復縁
安藤士郎という生き方
大破局
成瀬将虎、二十歳の挫折
約束
補遺
歌野晶午著作リスト
[#改ページ]
出会い
1
射精したあとは動きたくない。相手の体に覆いかぶさったまま、押し寄せてくる眠気を素直に受け入れたい。
以前歯医者の待合室で読んだ女性週刊誌に、後戯のないセックスはデザートのないディナーようふふ、というようなことが書いてあったが、男から言わせてもらえれば、ふざけるなバカヤローである。射精した直後に乳など揉みたくない。たとえ相手がジェニファー・ロペスであってもだ。男という生物の体は、エデンの昔からそうできている。
なぜ俺がそういうことを考えているのかというと、今まさに精を放出し、女の腹の上で荒い息を吐いているからだ。
これも何かの雑誌の受け売りなのだが、射精時のエネルギー消費は百メートルを全力疾走したのと同じだそうだ。二〇〇〇年のオリンピック・シドニー大会、九秒八七でゴールを駆け抜けたモーリス・グリーンが、ウイニングランの途中で見つけたスタンド最前列の巨乳ちゃんにタッチしたいと思っただろうか。
女の肌はしっとり濡れている。絶頂を迎えようとする時、彼女の体は熱を帯び、激しく発汗した。今はそれが冷めかけ、俺の体から火照りを奪っていく。
鼓動が聞こえる。耳で聞いているのではなく、体が感じている。肌から肌へと伝わってくる。生きていることを実感する。単調な響きの繰り返しが心地よい。母親の胎内にいた時はきっと、毎日がこんな感じだったのだろう。
このまま眠ってしまいたい。そして次に目覚めた時、赤子として生まれ変わっていて、人生を一からやり直せるのなら、どれほどしあわせなことだろう――。
雲が切れて丸い月が覗く。雲が流れて月が隠れる。空は最前からずっとそんな調子で、白んだり深い灰色になったりと、落ち着きがない。
あたりはしんとしている。雲はあんなに動いているのに、木立の葉が風に騒ぐことはない。鳥や虫の声も絶えてない。
闇の中に懐中電灯の光の輪が浮かんでいる。
静けさの中に、ザクッ、ザクッ、と土を噛む音が響く。
吐く息は白いというのに、男の額には玉の汗が浮かんでいる。汗は瞼に溜まり、頬に落ち、首筋を伝い、腋の下を流れる。トレーナーは背中に張りつき、ラグビー選手のように湯気をたてている。
男は全身汗にまみれてシャベルを振るっている。機械仕掛けの人形のように、規則正しく腕を引き、腰を入れ、腕を斜めに振りおろす。
三日ほど降ったりやんだりの天気だった。この地方特有の黒土は充分湿り気を帯び、さほどの苦もなくシャベルは土を掻いた。
また雲が切れた。黒いスクリーンの中に、風景が薄ぼんやりと浮かびあがる。
低い木立が屏風《びようぶ》のように広がっている。木立の前にはいくつもの土饅頭が築かれている。饅頭の中央にはそれぞれ棒が立っている。棒は平たく背が高く、表には梵字が記されている。卒塔婆《そとば》である。
ザクッ、ザクッ、ザクッ。
夜の闇の中、男は墓を掘り起こしている。
男がゆっくり振り返る。シャベルを動かす手は休めず、首だけをそろそろと後ろに向ける。
雲が切れて丸い月が覗く。白い月が男の顔を照らす。
体がビクンと震え、俺はわれに返った。
あまりの気持ちよさに眠りの世界に吸い込まれてしまったようだ。
ふたたび眠りに落ちそうになるのをどうにかこらえ、左手で女の体を探る。脇腹をなで、肋骨を指でなぞり、乳房を掌で包み込む。そうしておいて右手では、乱れた茶色の髪をなで、耳たぶをつまみ、後れ毛の張りついた首筋をタップする。そして最後に口づけを。ごく軽く、小鳥が木の実をついばむように。
ああ、なんだって俺は、一度斜め読みしただけの記事に呪縛されているのだろう。そもそもこの女とのセックスに愛情などないというのに、律儀にサービスをしてしまう俺。
溜め息を吐きながら、腕立て伏せをするように上体を浮かした。膝を突いて完全に上体を起こし、ペニスを抜く。体をよじって枕元に手を伸ばし、ティッシュペーパーを二、三枚抜き取り、しなびたペニスを丁寧に拭う。
サービスついでだ。ティッシュペーパーをもう二、三枚手に取り、それを女の股間に持っていく。すると女は恥ずかしそうに身をよじり、背中を向けた。なんだ、こいつは。処女でもあるまいに。
不愉快になり、俺はベッドを降りた。脱ぎ捨ててあったブリーフとシャツを拾い上げ、バスルームに向かう。ああと溜め息をついたり、ちくしょうと吐き捨てたり、舌打ちを連発したりしながら、頭からシャワーを浴びる。
部屋に戻ると、入れ替わりに女がバスルームに向かった。それを見てまた不愉快になった。わざわざバスローブを着ていたからだ。ついさっきまで素っ裸で男に組み敷かれていたというのに、今さら隠すことに何の意味があるのだろう。それが女心といわれても納得できない。
濡れた髪を後ろで縛り、ソファーに体を投げ出してタバコをくわえる。セックスなどしなければよかったと思う。毎度のことだ。
セックスは、そこにいたるまでの過程が楽しく興奮するのであり、ベッドに入ったあとは退屈と苦痛にさいなまれる。耳たぶを噛むのも、乳首を吸うのも、膣を指で掻き回すのも、すべてがルーチンワーク。しないですめばそれに越したことはないのに、ついつい奉仕してしまう男の性。射精の瞬間は恍惚に包まれるが、直後、一転して泥沼のような疲労が全身にのしかかる。そして後悔。それでも時間が経つと、また女の体を欲してしまう。これも男の性。毎度毎度、その繰り返しだ。
シャワーの音がやむ。女はいつまで経っても姿を現わさない。見ると、洗面台の前でルージュを引き、茶色の髪にブラシを当てている。
俺は二本目のタバコに火を点ける。事後の一服はどうしてこんなにうまいのだろう。ニコチンの粒子が六十兆個の細胞一つ一つの奥にまで浸透し、倦怠感を安らぎに変えてくれる。脳の血管が収縮するのが手に取るようにわかり、いかにも寿命が縮みそうではあるのだが、この一服はどうしてもやめられない。
ようやく女が身繕いを終えて戻ってきた。じゃあ出ようかと、俺はタバコを消して腰をあげる。女は何か言いたげに口をもごもごさせたが、俺は知らぬふりをして、サングラスをはめながらさっさと部屋を出た。
無人の廊下をエレベーターまで歩き、無言で箱の中に乗り込む。一階まで降りると、無人のロビーを抜けて外に出た。
自動ドアが開いた瞬間、もあっとした熱気が全身にのしかかってきた。冷房に慣れた体にはたまらない。凶悪に輝く太陽をさえぎるように、額に手をかざして駐車場に急ぐ。
車の中はいっそうの地獄だった。空気はサウナのようで、息をすることさえままならない。シートは直射日光に焦がされ、尻が焼けるようだ。エンジンをかけるのと同時にクーラーを全開にし、ラブホテルをあとにする。
五分経っても、少しも涼しくなった気がしない。俺の愛車はミニ。BMWの手に渡った新生ミニではなく、オースチン・ローバーのミニ・メイフェア。八九年製の車体はあちこちがたがきていて、クーラーの機嫌もきわめて悪い。
助手席の女は、時折何か言いたげな目をよこしてくる。俺は知らん顔をしてハンドルを握る。女は所在なげに携帯電話をもてあそぶ。
たいした会話もないまま目黒駅に到着した。都バスの営業所の前に車を停め、女に別れを告げる。
「今日はどうも」
しかし女は車を降りようとしない。
「五時までに帰らないといけないんだろう?」
女は首をこちらに向け、上目づかいにじっと見つめてくる。
「何?」
「いい?」
「何が?」
「だから……」
「だから?」
「ほら」
「はい?」
俺はどこまでもとぼけた。すると女はつと目を伏せて、
「少し援助して……」
と、か細い声で言った。
おい、おまえも金目当てだったのかよ。援助しろ? ふざけるな。さっきのあれはなんだ。喘ぎ、悶え、濡らし、そうやってたっぷり楽しんでおきながら金までむしり取ろうというのか。金をもらいたいのは、ヘトヘトになるまでご奉仕さしあげた俺のほうだ。あのな、おまえ、いい機会だから日本語を教えてやる。援助交際? 美化するにもほどがある。そういうのは売春というんだ。憶えておけ、この売春婦が!
――と啖呵《たんか》を切るわけにもいかず、
「ああ、うっかりしていた。ごめん」
俺は曖昧《あいまい》な笑みを返しつつ、財布から一万円札を抜き取った。女はわずかに眉を寄せ、俺の顔と一万円札とを見較べた。俺は溜め息混じりに下唇を突き出し、もう一枚抜き取った。女はすると、二万円をひったくるように手中に収め、トートバッグの中に無造作に突っ込み、助手席のドアを開け、俺のことなど一顧だにせず、夕方の雑踏の中にまぎれて消えた。
「売女! 淫売!」
俺は独り吐き捨て、タイヤを鳴らして車を発進させた。
俺は女が好きだ。セックスも好きだ。疲れるだの奉仕したくないだのと文句をたれてみるものの、喉元過ぎればなんとやらで、またぞろ誰かと肌を合わせたくなってしまう。女のぬくもりが、柔らかさが、匂いが、俺を陶酔の世界に導く。興奮するのではない。むしろ鎮静され、ふわふわとした綿雲の上を歩くような幸福感に包まれる。精神世界の権威なら、胎内回帰願望がどうのこうのと説明づけるのだろうが、理由などどうでもいい。とにかく女を抱いた時、俺は至上のしあわせを感じることができるのだ。
じゃあ抱くだけでいいじゃないか、それ以上の行為をしなければへとへとに疲れることもないのに――という意見はもっともであるが、いったん抱いてしまったら、挿入し、腰を使い、射精したくなるのが人体の神秘というものなのだ。
まあそれはそれとして、俺が女を求めているのは肉体だけを目的としているからではない。セックスなどしなくていい、手すら握らなくてもいい、一緒に食事をするのが楽しく、夜通し話をしても飽きることがなく、一日会わないだけで胸が苦しくなる、ただそばにいるだけで安らぎを与えてくれる、可能なら生涯の伴侶となりうるような、そんな女との出会いをも夢見ているのだ。笑ってくれ、そう、プラトニックな恋愛だ。
肉体を欲する一方で、肉体とは無縁の関係にも憧れる。虫のいい話だ。矛盾している。俺の中には二つの人格が存在している。
まあそれもさておいて、魂が震えるような恋愛を欲している俺は、テレクラで、出会い系サイトで、合コンで、路上で声をかけて、まだ見ぬその人の姿を探し求めている。
まるでだめだ。
お金ちょうだい、援助して、バッグ買ってー、援助して、今月ピンチなのぉ、援助して、カルティエの三連ってかわいいなぁ、援助して、二枚でいいからぁ、援助して、ケータイの支払いがー、援助して、援助して、援助して、援助して、援助して――どいつもこいつも二言目には、援助援助援助援助援助援助援助援助!
薄汚い金の亡者しかいやがらない。ただ食事をしただけで援助しろとのたまう輩《やから》もいるから始末に負えない。タイユバン・ロブションのランチもこっち持ちだというのに。
この国の女はいつからこうなってしまったのだろう。売春を援助と婉曲的に表現するところに大和撫子《やまとなでしこ》の奥ゆかしさがあると思っているのだろうか。
さっきの女も、電話でアポった時にはそんなことはおくびにも出さなかったくせに、結局は金目当てだった。
金と引き替えにセックスするだけならソープやデリヘルを使うさ。ソープ嬢やデリヘル嬢はその道のプロ、こちらは完全な受け身で、金に見合ったサービスを満喫できる。なのにあえてプロを避けているのは(たまには利用するが)、体だけでなく、心のつながりを期待しているからにほかならない。ところが今日日の素人はプロ以上に金に血道をあげている。そのくせサービスもしない。吉原のソープのおねえさんのほうが百倍人情味があるぞ、おい、おまえら。
昨日俺は馬鹿を見て、今日も幻滅させられ、それでも俺は明日も誰かに声をかけることだろう。
魂が震えるような女とめぐりあいたい。すなわち、世俗にまみれていない女。金銭やモノでつながるのではなく、肉欲も超え、心と心で愛し合えるような女。たとえるなら、野辺に咲くタンポポのような――。
二十一世紀のこの時代にそんな妄想を抱いている俺である。
2
そして俺はついに麻宮さくらとめぐりあうことになるのだが、彼女との劇的な出会いを語るにはまず、平成十四年八月二日の午後四時四十分に営団地下鉄広尾駅の2番ホームに俺が立っていた理由を語らなければなるまい。
その昼下がり、軽めの昼食をとった俺は、例によって白金台のフィットネスクラブに足を運んだ。
白金台というのは港区の白金台、美しく上品で裕福な小マダムたちが銀杏並木の下のオープンカフェでまったりとアフタヌーンティーを楽しんでいるという、あの白金台である。そのメインストリートである外苑西通、通称プラチナストリートに面したビルの三階にあるフィットネスクラブで、俺はだいたい一日おきに汗を流している。
なにしろ場所が場所だから、狭いフロアーはいつもシロガネーゼの香水と汗の匂いでムンムン――と言いたいところだが、現実においでなさるのは、ステップを踏むたびに二の腕がたぷたぷ震えるひっつめ髪の熟女であり、生白い肌と黒々とした臑毛《すねげ》のコントラストが醜悪な会社帰りのオヤジであり、白髪薄毛の年金生活者であり、校章入りジャージを着た区立中学の生徒であったりする。新小岩や武蔵小杉あたりのフィットネスクラブと何ら変わりない。白金台はそもそも山の手の古い住宅地で、いわゆる地元民というのが結構いるのである。
世の中にはナンパ目的でフィットネスクラブの会員になるやつがいるが、そういう輩と一緒にしないでもらいたい。俺は純粋に体を鍛えている。いいセックスをするには体調管理は不可欠だ。と、それだけでは誤解を受けそうなので、仕事のためが八割とつけ加えておこう。俺はガードマンをやっている。やわな体では、炎天や風雪の下でやっていけない。
真剣に取り組んでいる証拠に、俺の腹筋は六つに割れている。ベンチプレスは八十キロは軽い。たった八十キロと笑うやつは、自分の体重以上のバーベルを持ち上げるのがどれほど困難か、一度試してみてから文句を言いやがれ。
さて八月二日のこと。
夏休み期間中とあってか、この日は学生ふうの人間で混雑しており、集中力を欠いた俺は早めにロッカールームに引き揚げた。ウエイトトレーニングに際しては、充分集中して行なわないと怪我をする。それでも、ベンチプレスにバーベルカールにスクワットにデッドリフトと、二時間近く筋肉をいじめただろうか。
シャワーを浴び、後ろ髪をゴムで縛りながらロビーに出ていくと、スキンヘッドにペイズリー柄のバンダナを巻いた、いかにも一癖ありそうな男が近づいてきた。
「成瀬先輩、お疲れさまです」
極太の眉を八の字に崩し、キヨシは手を差し出してきた。
「何?」
俺はあらぬ方に目をやってタバコをくわえた。
「何って、そんないじわる言わないでぇ、ねえ、センパーイ」
キヨシは両手を拝み合わせ、体をくねらせる。こいつは顔に似合わぬ軟弱君で、バーベルやダンベルには触れようとせず、エアロバイクをちんたら漕ぎ、女に混じってジャズダンスをすることに喜びを感じている。
俺はタバコを斜にくわえたままデイパックを開けた。合成樹脂製の青い袋を取り出し、キヨシに手渡す。キヨシはその中をちらと覗き込むと、ますます口元をだらしなく緩め、ダンプに轢《ひ》き殺されたヒキガエルのような鼻を人差し指の腹でごしごしこすった。
「ごっつぁんです、先輩」
袋の中身はアダルトビデオである。この男はまた見かけによらず小心者でもあり、レンタルビデオ店の女子店員にアダルトビデオを差し出せない。だから俺が代わりに借りてきてやり、こうして又貸ししている。
キヨシこと芹澤清が俺のことを先輩と呼ぶのは、たんに俺が七つ歳上であるからではない。やつは今現在都立青山高校の生徒で、俺は同校のOBなのだった。
彼とはこのクラブで知り合った。高校が同じということもあってかウマが合い、トレーニングの帰りに一緒にお茶を飲んだりコンビニに立ち寄ったり、時には先輩風を吹かせて六本木で一杯おごってやることもある。
「楽しそうですねー」
タンクトップにトランクス姿のインストラクターがほほえみながら近寄ってきた。高村結花は今春体育大学を卒業したばかりで、顔立ちにも言葉遣いにも幼さを残している。
「べつにぃ」
キヨシはあたふたと自分のスポーツバッグを開けた。
「レンタルビデオ?」
結花の問いかけを無視し、キヨシは袋を無理やり押し込む。
「エッチなビデオ」
俺は結花の耳元でささやく。まあと目を丸くする彼女。
「ヒッチコックでしょう。誤解されるようなこと言わないでくださいよ」
キヨシは俺をひと睨みして、
「そんなことより結花ちゃん、このごろ愛ちゃんを見かけないんだけど、彼女、何時ごろ来てるの? 夜?」
「愛ちゃん?」
「久高愛子さん」
「ああ、久高さん。久高さん、当分の間休むそうですよ」
「え?」
「体調を崩したとかで」
「えー、ホントに?」
「電話があったんですよ。しばらく行けないから休会扱いにはできないかって。でもだめなんですよね、うちは。長期間連続で休むにしても、その間の月会費はいただく決まりになっていて。いけない! ボクササイズの時間だわ。じゃ、あたしはこれで。お疲れさまでしたー」
結花はシャドウボクシングをしながら走り去る。
「夏バテですかね」
キヨシが虚ろな目をよこしてきた。久高愛子というのは、このフィットネスクラブの会員にして、この強面《こわもて》野郎がひそかに心を寄せる歳上の女である。
「夏バテだろう」
俺はタバコを灰皿に落とし、デイパックのショルダーストラップに腕を通した。
「夏バテ……。でも、今年の暑さはただごとじゃないし……」
キヨシはぶつぶつ繰り返したのち、さっと立ちあがって、
「お見舞いに行きましょう」
「あん?」
「先輩、車に乗っけてってください」
「彼女の家に押しかけるのか?」
「押しかけるだなんて。お見舞いです」
「電話で様子を訊いてみろよ」
「家の人が出たら嫌じゃないですか」
「ケータイだよ」
「番号知りません」
「交換してないのか?」
「してないですよ。言い出せるわけないじゃないですか」
キヨシは茹《ゆ》で蛸《だこ》のような顔の前で手を振りたてた。
「損な性格だ」
「今日はそれを返上し、思い切ってお見舞いにいこうとしているんですよ。だから先輩、車出して」
キヨシは汗臭い体をすり寄せてくる。
「気持ちはわかるが、彼女には――」
俺は後ずさりしながら親指を微妙に立ててみせた。
「わかってますよ。べつにどうこうするつもりはない。先輩じゃあるまいし」
「おいおい」
「僕はね、愛ちゃんが好きなんですよ。彼女にステディがいようが関係ない。久高愛子という女性を、純粋に愛しく思っている」
「お。ステディときたか。最近授業で習ったか?」
「茶化さないでください。愛ちゃんを愛しく思うからこそ、僕は彼女の体調を心配しているんです。そう、ただ思い、ただ心配している。奪い取ろうなんて、これっぽっちも思っていない。そういう愛情も不純であり、倫理的にあってはならないことなのですか?」
ぎょろりと目を剥き、キヨシが迫る。俺は両手を胸の前に掲げて、
「今日は車で来てない」
「また、見えすいた嘘を」
「本当だ。綾乃に持っていかれた」
綾乃というのは同居している妹である。療養中の友人を見舞いたいからと、ミニに乗って房総方面に出かけていってしまった。
「とにかくつきあってくださいよ。一人じゃ恥ずかしい」
「女にうつつを抜かしていると受験に失敗するぞ」
「お見舞いですって」
「しかし、お見舞いしようにも、愛ちゃんの家がわからないだろう」
「南麻布四―×―×」
こいつにはストーカーの素質がある。
結局俺は舎弟の押しに負け、久高愛子の見舞いにつきあわされることになった。
南麻布というのは港区の南麻布、各国の大使館が集まっていて、昭和の昔には怪人二十面相が跋扈《ばつこ》していたという、あの由緒正しいお屋敷町南麻布である。昼日中だというのに人通りは絶えてなく、ワイドショーの野暮なナレーションが漏れ聞こえてくることもなく、こちらも足音を殺し、息をひそめないといけないような緊張感が漂っている。
そんなおよそ東京離れした一角にある久高家も屋敷と呼ぶにふさわしいたたずまいで、門柱には警備会社のステッカーが貼ってあり、塀の上には忍び返しがしつらえられているというものものしさだ。
しかし重圧的な門構えのわりには意外とガードは緩く、インターホンを鳴らすと、応答するより早く玄関のドアが開いた。現われたのは四十前後の女性だ。
「愛子さんはいらっしゃいますか?」
もじもじしているキヨシに代わって俺が案内を請うた。
「どちら様?」
相手は門扉の隙間から俺を見、相方を見、そして彼の手元に怪しむような視線を送った。キヨシの手にはヒマワリの花束が握られている。黄色い花はしあわせを呼ぶのだそうだ。
「成瀬と申します。こっちは芹澤。白金台のフィットネスクラブで一緒の者です」
俺はサングラスをはずして丁寧に挨拶をした。相手はああとうなずき、少々お待ちくださいと家の中に消えた。
ほどなくして久高愛子が現われた。淡い緑のノースリーブの上にレースのカーディガンを羽織り、鍔《つば》の広いストローハットをかぶっている。ちょっと表に出るだけでも日焼けを気にしているのが、いかにも良家の娘らしい。なにしろ親子三代聖心という血統書付きだ。聖心とは、言うまでもなくあの聖心、皇后陛下美智子様の出身校である聖心女子学院で、初等科、中等科、高等科は白金にある。片や究極のお嬢様学校、片や都立高校、キヨシもとんでもない女に惹かれてしまったものだ。
「やあ」
キヨシがぎこちなく手を挙げた。
「どうしたの?」
愛子は戸惑うように突然の訪問客を見較べた。目に力がなく、少し痩せたように見受けられた。
「具合が悪いと聞いたから」
「え? ああ、そうなの……」
「これ、お見舞い」
キヨシは花束を差し出した。愛子はますます戸惑った様子で、手を出したり引っ込めたりする。キヨシは無理やり花束を押しつけて、
「夏バテ? 調子はどう?」
「違うの」
「こうして外に出てこられるくらいだから、まあまあなんだね。寝たきりだったらどうしようと、ここに来るまでずっとドキドキしてたよ」
「違うの。わたしじゃなくて、家族が、ちょっと」
愛子はか細い声で言って目を伏せた。
「看病?」
「そうじゃなくて、おじいさんが……」
「ああ、そう」
「死んじゃったの」
「え?」
俺とキヨシは顔を見合わせた。
「おじいさんが死んじゃったの」
うつむいたまま、愛子はかすれた声で繰り返す。伏せた睫《まつげ》の間から涙がこぼれ落ちた。
「お悔やみ申しあげます」
俺はそうとしか言えなかった。
「いつ亡くなったのですか?」
キヨシが神妙な面持ちで尋ねた。
「二週間、になるかしら」
「ずっと具合が悪かったのですか?」
「ううん、元気だった。事故で」
愛子は目頭を指先でぬぐう。
「交通事故ですか?」
「ええ。車に轢かれて。それで、ごたごたしてて、クラブに行くどころじゃなくて、でも大げさにしたくないから、自分の具合が悪いということで……」
愛子はそれきり口を閉ざし、顔を上げようともせず、彼女の周囲に居心地の悪い沈黙が発生した。
どこか遠くでセミが鳴いている。あれはアブラゼミだろうか、いやクマゼミか、有栖川宮《ありすがわのみや》記念公園で鳴いているのだろうか、あそこの公園は何藩の屋敷跡だったっけ、などと意味のないことを考えて間を持たせようとしてみる。
「じゃあまあ落ち着いたらまた白金台のクラブで会いましょう。久高さんも体に気をつけて」
俺は彼女にそう声をかけ、おいとましようかとキヨシの背中を叩いた。
愛子がつと顔をあげた。
「よかったら線香をあげてやってください」
そして、どうぞと門扉を大きく開け、先に立って飛び石の上を渡り歩いていく。左手には花束を持っている。鮮やかで爽やかな大輪を咲かせたヒマワリの花束。
「菊だよ……」
キヨシが泣きそうな顔でつぶやいた。俺も胸が苦しくなった。
どうぞと招かれたはいいが、さてどうしたものか。キヨシはハワイ土産のアロハ、俺は迷彩柄のTシャツである。足下は二人とも素足にスポーツサンダル。
互いの間抜け面を眺めながら門の前で突っ立っていると、愛子が家の中に向かって声をかけた。
「おかあさん、お客様をお通しします。冷たいものをお願いします」
不躾な装いだが、故人に許してもらうしかない。香典も後払いということで。
場違いな二人は、久高隆一郎の霊前に手を合わせると、出された麦茶とスイカに手をつけることもなく、逃げるように久高家を辞去した。
「六本木で一杯やっていくか」
俺はキヨシを誘った。今日は何もなかったことにしてしまいたかった。
ところが南部坂を地下鉄の広尾駅に向かって下っていると、ドイツ大使館を過ぎ、南部坂教会にさしかかったあたりで突然、やはり今日は飲む気分じゃないと、キヨシが一人でさっさと先に行ってしまったのである。
俺は彼を追うことなくとぼとぼ坂を下り、一人で切符を買い、一人で電車を待つことになった。
それが八月二日の四時四十分のことであり、そして俺は麻宮さくらと出会うのである。
3
自動改札を抜けて地下に潜り、ホームの最後尾近くで上り列車の到着を待った。ちょうどそのあたりにクーラーの吹き出し口があったからだ。
勤め人の帰宅時間には早いからなのか、学校が夏休みだからなのか、構内は閑散としていた。俺が立つ2番ホームに五、六人、向かいの1番ホームに立っているのもそんなものだ。加えて地下鉄日比谷線の広尾駅は昭和三十九年開業のレトロな駅で、ホームは狭く、タイルの壁は煤け、照明も暗く、なんだか巨大な防空壕にでも閉じ込められたような陰気な雰囲気だった。
「間もなく2番線に東武動物公園行きがまいります」
そう男声のアナウンスが流れた直後のことだった。
視界の片隅を黒い影が横切った。ホームの端から何かが落ちたように見えた。
人だと思った。
そう思った瞬間、俺は反射的に線路に飛び降りていた。
確かに人だった。スカートを穿《は》いている。女だ。女がレールとレールの間にうずくまっていた。
右手の闇の奥に明かりが見えた。
「立て!」
そう命じるが、女は立とうとしない。顔も上げない。
闇の奥の光がみるみる明るくなる。レールが振動する。
俺は背後から彼女の両脇に腕を差し入れ、大根を引き抜くように引きずり起こした。女は足を突っ張るようにして抵抗する。
ホームに目をやる。段差は一メートルちょっとある。誰もこの事態に気づいていないのか、手を貸してくれそうな者はいない。
警笛が鳴った。光の輪がトンネル全体に広がっている。
隣の線路に目をやる。列車は停まっていない。しかしこちらの線路との境には太い柱が等間隔で立ち並んでおり、移動の際の障害になる。
もう一度警笛が鳴った。連続してもう一度、二度。ヘッドライトはすぐそこだ。まぶしくて目を開けていられない。
俺は女の体を突き飛ばした。柱と柱の間に入ってくれ! そう祈りつつ、俺も隣の隙間に飛び込んだ。
耳を聾する警笛、甲高いブレーキの音、軋むレール。
あらゆる音がやんだ。銀色の列車が停まっている。俺は柱の間で生存している。
1番線の側に這い出ると、隣の柱の陰を窺った。うつぶせで倒れた女が頭を抱えて固まっている。
「だいじょうぶか?」
おそるおそる声をかけ、彼女を抱え起こす。
「ごめんなさい」
彼女はそう返してきたように聞こえた。とにかく無事だった。
俺より若い女だ。キヨシよりは少し上、うちの妹と同い歳くらいか。ホッとして、そんなことを考える余裕ができた。
1番線のホーム、ちょうど俺たちの正面に、事態に気づいたギャラリーが集まってきた。ピリピリとホイッスルが鳴り、鴬色の制服を着た駅員が駆けてくる。
「どうしました! だいじょうぶですか!?」
俺は女の手を引いて1番線の線路を横切った。最前と違い、彼女はもう抵抗しなかった。
「怪我は!?」
大声で尋ねながら駅員が手を差し出してくる。彼女は首を左右に振り、駅員に腕を預ける。俺は彼女の尻を押してやり、彼女がホームに登りきったところで自分もホームにあがった。日々のトレーニングが人助けに役立ったかと思うと、少し嬉しく、誇らしい気分になった。
「怪我はありませんか?」
少しホッとした様子で駅員が再確認した。
「はい」
女はか細い声で答え、右目に手を持っていった。指の腹を瞼に当てたり離したりする。
「ぶつけたのか?」
俺は腰を沈めて女の顔を覗き込む。彼女は右の瞼を押さえたまま首を左右に振って、
「コンタクトが……」
「線路に落としてきたのか?」
「たぶん」
「あきらめな。身代わりになってくれたんだよ」
2番線の列車が、何ごともなかったかのように発進する。
「いったいどうして線路に降りたのです」
駅員が少し厳しい調子で問い質した。女は右目から手を離さず、うつむきかげんに答える。
「ごめんなさい。貧血気味で」
嘘をつくな、と口を挟みかけて、すんでのところで思いとどまった。
貧血で足下がふらつき、線路に落ちた? 真っ赤な嘘だ。俺は彼女が落ちる様子を目と鼻の先で目撃した。その落ち方は、アクシデントという感じでは決してなかった。勢いよくホームを横切り、力強く踏み切っていたではないか。彼女は自殺を図ったのだ。
百歩譲って自殺でないとしても、意識的に飛び降りたことは間違いない。線路に落としたバッグを拾おうとした、という説明ならまだ納得の余地があるが、貧血では絶対に納得できない。体の変調によるものだったら、動きがもっと緩やかだったはずだ。それこそ、コンタクトが線路に落ちたようなので探しに降りた、と言い訳すればよかったものを、機転のきかないやつだ。
いや、コンタクトを持ち出されても納得できないな。この女は、救出に向かった俺に抵抗を示したではないか。線路の上にそのままとどまっていたかったのだ。すなわち列車に轢かれたいという意志が強くあった。自殺を図ったことに疑いの余地はない。
しかし俺は言葉をぐっと呑み込んだ。事実はどうあれ、自殺未遂の直後にそれを責めるような物言いは考えものだ。
「お連れさん?」
駅員が俺に尋ねる。
「たまたま居合わせただけです」
「こちらが落ちるところを見ましたか?」
黙ってかぶりを振る。
「どうもありがとうございました」
嘘を指摘されなかったことでホッとしたのだろうか、彼女はやや表情をやわらかくして、命の恩人に向かって深々と頭を下げた。続いて駅員に向き直り、やはり深く頭を下げて詫びを入れる。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「じゃあ事務所のほうに」
駅員は彼女の肩に手をかけ、ホームの反対の端を指さした。え? と目をしばたたく彼女。
「ここでは乗降のじゃまになるので、話は駅務室で伺います」
「でも、あたしは、ただ、その……」
「ご苦労さまでした」
駅員は俺に向かって少々ずれた台詞と敬礼をくれる。
「ですから、あたしは、ただ、貧血でくらっと――」
そう訴える女に耳を貸そうとせず、駅員は彼女を連れて歩き始めた。腕を取り、まるで連行するような感じである。もしかすると彼女の言葉に作為を感じているのかもしれない。職業柄、多くの自殺志願者と接してきたことだろう。
女は引きずられるように従いながら、しきりにこちらを振り返る。その目が助けを求めているように感じられるのは自意識過剰か。
まあ、およそ自殺しようなどと考える人間は心に闇を抱えているわけで、何も語りたくないに決まっている。本当は飛び込んだのではないかと根掘り葉掘り訊かれたくないのはもちろんのこと、名前や住所を明かすことさえ非常な抵抗があるだろう。
「間もなく1番線に中目黒行きがまいります」
女声のアナウンスが流れ、轟々とした音が近づいてくる。俺の乗るべき列車は下りではない。
向かいの2番線に戻ろうと階段を降りようとしたところで、なんとはなしに例の女の方に目を向けた。
ちょうどそのタイミングで女が振り返った。
俺に自殺を阻止され、彼女はわれに返ったと思われる。現在の彼女に、死ぬ気持ちは、おそらくない。しかしここであれこれ責められると、ふたたび暗い気分が押し寄せてくるかもしれない。
銀色の車輛が入線してくる。停止する。ドアが開く。
駅員の背中が遠ざかる。女がまた振り返る。
俺は階段を離れ、ホームを駆けだした。
「すいません、ちょっと」
駅員に声をかける。駅員が足を止め、振り返る。
「この人が落ちるところを見ました。しばらく前後にふらついたあと、すーっと静かに倒れていきました」
彼女が驚いたような目を見せた。
「さっきは見ていないと」
駅員が困惑する。
「実は見ていました」
「どうして嘘を」
「かかわりになったらめんどうかなと。いろいろ」
と頭を掻いてみせて、
「飛び込みではありませんよ。そういう感じではまったくなかった」
「そうですか。しかし、理由はどうあれ、線路に立ち入った場合、詳しく話を伺う必要があります。報告書を作成しなければなりませんし」
駅員も譲らない。俺はなんだか腹が立ってきた。自分が信用されていないような気分になったのだ。一種の屈辱感だ。嘘をついておいて信用もクソもないのだが、人間とはかくも身勝手な生き物なのである。
「じゃあ私も詳しく話します。第三者の証言があったほうが事実を客観的に捉えられていいでしょう?」
ついそんなことを口走ったのは、彼女のためというより、この駅員に対する敵愾心《てきがいしん》からだ。
結局、俺は彼女と並んで事情聴取を受けることになった。
駅員の質問に彼女がしどろもどろに答え、そこに俺が割って入って嘘の補強をする。そんな調子で二十分が過ぎ、拘束が解かれた。
「どうもありがとうございました」
駅務室を出ると、麻宮さくらが頭を下げてきた。麻宮さくらというのが、線路に飛び込んだお騒がせ女である。調書に書き込んでいたのを盗み見た。
「どういたしまして」
俺はそっけなく応じて2番ホームへの階段を降り始める。
「それで、あの……」
麻宮さくらも同じ階段を降りてくる。
「何?」
俺は足を止めずに応じる。
「いえ、その、お騒がせしました。どうもありがとうございました」
「どういたしまして」
麻宮さくらが言おうとしていることには察しがついたし、こちらから言いたいこともあるのだが、この場で説教めいたことを口にすると、彼女がどんな行動に走るかわかったものではない。
ホームに降りると、中程まで進んで電車の到着を待った。四時四十分の電車に乗るはずだったのに、とうに五時を回っていた。さっきよりいくぶん混雑している。
電車待ちの人々は、服や頭をしきりにはたいている。雨に濡れているようだ。夕立なのか? おいおい、傘なんて持ってないぞ。帰宅したらまず妹に文句を言ってやる。あいつが車を持っていかなければ降られても問題なかった。そしてこの駅でトラブルに巻き込まれることも。
トラブルメーカーは三メートル向こうに立っている。
身長は百五十センチ足らず、体重は四十キロ程度か。髪は明るめの茶色、左胸と右腰に赤いハイビスカスがプリントされたノースリーブの白いワンピースを着て、ヒールの低いミュールを履いている。
麻宮さくらは堅い表情で唇を結び、足下にじっと目を落としている。
顔は小ぶりな卵形、色は小麦色、額は広く、眉は細くきりっとしている。茶色の描き眉だ。髪にはきつめのパーマがかかり、それが茶色に染められていることや、服が花柄であることは、華やかな雰囲気を演出しているが、実際には存在感が希薄である。それは彼女の沈んだ気持ちがマイナスのオーラとして発散されているからだろうか。
二の腕とワンピースの裾が黒く汚れているのは、線路に飛び込んだ際にそうなったのだろう。左肘からはわずかに出血している。バッグは持っていない。まさか線路に置き忘れてきたということはあるまいが。
端からそう観察していると、突然、さくらがその場にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆い、小さな肩を上下にふるわせる。近くにいたカップルが、何事かと彼女に注目する。
やがて電車が入ってきた。降りてきた客がギョッと足を止める。しかし結局誰一人として彼女に声をかけることはなく、電車が出ていくと、さくらは緩慢に立ちあがった。瞼をこすり、はあと大きな溜め息を繰り返す。
「間もなく2番線に北千住行きがまいります」
次のアナウンスを合図に、俺はさくらのそばに寄っていった。小さく咳払いをくれる。
さくらはぼんやりとこちらを向いた。目が充血していた。けれどもう涙は乾いていた。
「一つだけ約束してくれ」
さくらは小首をかしげた。目が小さく、睫が短く、顔の凹凸が乏しいという、典型的な日本人顔をしている。不美人ということではない。パーツの配置は整っているし、左目の下の泣きぼくろは官能的だ。けれど、こうして意識して見ないことには特長が伝わってこない。
「今日これから自殺するのだけはやめてくれ」
さくらはびくりと反応した。そして数秒の間を置き、血相を変えて反論する。
「自殺だなんて、あれはくらっときて落ちただけです」
「明日ならいいが、今日はかんべんしてくれ」
「ですから、薬の副作用でときどき貧血が――」
「今日、誕生日なんだよ」
「え?」
「俺の誕生日。苦い思い出を刻み込みたくない」
さくらは沈黙した。彼女の印象が薄い理由がわかった。顔立ちが和風なテイストなのに、髪を茶色に染め、服も派手。素材の地味さを補おうとそうしているのだろうが、逆に素顔のいい部分を打ち消す結果となっている。
「それから、これは助言。肘を消毒したほうがいい。もう遅いかもしれないが、何もしないよりましだろう。この季節に化膿すると往生するぞ。ではごきげんよう」
俺は一方的に話を打ち切ると、彼女に背を向けてホームを前の方に歩いていき、ちょうど入ってきた上り電車の、ちょうど目の前で開いたドアから中に乗り込んだ。さくらが同じ列車に乗ったかどうか、それは俺の知るところではない。
この時点で俺は麻宮さくらに特段の興味はなかったし、二度と会うこともあるまいと思っていた。
4
俺の一日は五時に始まる。
ストレッチをたっぷり三十分してから五キロのジョギング、グレープフルーツジュースを飲みながら新聞を斜め読みし、インターネットのニュースサイトを巡回し終えたころ朝食のお呼びがかかるので妹と二人でワイドショーに突っ込みを入れながら食し、しかるのち警備の仕事に出ていく。
おっと、仕事は警備とはかぎらないか。ある時は片目の運転手、ある時は手品好きのイキな紳士、ある時は外国航路の船員、ある時は流れの無法者――と多羅尾伴内(古い!)を気取るわけではないけれど、俺も七つとはいかないまでも三つ四つの顔を持っている。ある時は六本木でガードマン、またある時はパソコン教室の講師、たまにはテレビドラマのエキストラ。自称、「何でも屋」ならぬ「何でもやってやろう屋」である。人の一生なんて短い。やれる時にやりたいことをやってしまわなかったら、かならずあとで後悔する。
欲求のおもむくがままセックスに励むのも、今この時を楽しみたいからだ。酒も毎日のように飲む。仕事が出来る人間は遊びも上手だといわれるが、それは俺のためにある言葉といえよう。
遊び上手とは節度をわきまえていることである。午前零時を回る前にグラスを置くし、女と夜明けのコーヒーを飲むようなこともしない。そして毎朝五時に目覚ましを鳴らす。
十時十一時まで起きている幼稚園児が珍しくないこのご時世だが、そもそも人間の頭や体は太陽が出ている時間帯に最高のパフォーマンスを発揮するようにできている。夜型を選択する人間は、自分の能力をみすみすスポイルしていることになる。限りある能力を無駄にするなど、俺はまっぴらごめんだ。
雲が切れて丸い月が覗く。雲が流れて月が隠れる。空は最前からずっとそんな調子で、白んだり深い灰色になったりと、落ち着きがない。
あたりはしんとしている。雲はあんなに動いているのに木立の葉が風に騒ぐことはない。鳥や虫の声も絶えてない。
闇の中に懐中電灯の光の輪が浮かんでいる。
静けさの中に、ザクッ、ザクッ、と土を噛む音が響く。
土をすくって後方に撒くと、時折その中にキラリと光るものがまぎれている。五円玉、十円玉、百円玉――さらに目を凝らすと、百円札や千円札も確認できる。しかし男はそんなものには目もくれず、一心不乱に土を掻く。
やがてシャベルの先に硬いものが当たった。位置を少しずらしてシャベルを入れたが、またカツンと抵抗があった。
男はその場にしゃがみ込み、柔らかな土を両手で掻いた。大きな石かと思って無造作に拾い上げるとそれは、肉も髪の毛もすっかり落ちたしゃれこうべだった。
ギャッと声をあげ、男は尻餅をついた。
しゃれこうべの眼窩からバラバラとこぼれ落ちる、十銭玉、五十銭玉、一円玉、五円玉、十円玉、五十円玉、百円玉――。
男はしゃれこうべを放り出し、四つん這いで振り返る。
雲が切れて丸い月が覗く。白い月が男の顔を照らす。
八月十日の土曜日も五時に起きた。仕事が休みだからといって昼まで寝るような愚はおかさない。
悪い寝覚めを振り払うように、ストレッチから始まる日課を精力的にこなすと、午前の大半を読書に費やし、昼が近づくと鏡の前で剃刀をあてはじめた。なぜ真っ昼間に髭を剃っているのか、その理由を語るにはまず、前々日夜の電話について語らなければなるまい。
八月八日の夜、三越湯から戻ってテレビのナイター中継を見ていたらケータイが鳴った。
三越湯というのは、三越デパートとは何の関係もない、部屋の近くにある銭湯である。
部屋というのは、白金のわが城、ひかり荘三号室のことである。
白金というのは港区の白金、その名から察せられるように、フィットネスクラブがある白金台の隣町である。が、ハリウッドとビバリーヒルズが通り一本隔ててがらりと違う雰囲気を醸しているように、白金と白金台の間にも歴然とした差が存在している。
陥りやすい間違いを一つ正しておく。白金の読みは「しろかね」である。白金台は「しろかねだい」。いずれも濁らない。したがって本来的には、シロガネーゼではなくシロカネーゼと表記すべきであろう。まあ造語なのでとやかく言ってもはじまらないが。
白金の中でも、白金台に境を接する南西の一角は高台にあり、そのあたりは白金台同様、山の手の上品な住宅街の趣を漂わせている。緑は多く、鳥や虫が鳴き、一歩横道に入れば車の音も届かず、これで家並みの間に六本木ヒルズや東京タワーが見えなければ、東京都港区であるとは誰も思うまい。久高愛子の聖心女子学院も高台の四丁目にある。
しかし白金の大部分は丘の麓に広がっており、そこで聞こえるのは野鳥の声ではなく、トラックのクラクションであり、CNC旋盤の金属音である。本日のお買い得を連呼する魚屋と、藍染めの暖簾《のれん》をかけた蕎麦屋と、色褪せた食品サンプルをショーケースに収めた洋食屋が軒を連ね、その前の狭い歩道を歩行者と自転車が肩をぶつけながらすれ違う。小さな商店と小さな町工場と小さな住宅が雑然と集まった、路地裏でも人の息遣いが感じられる、そう、下町の風情漂う町なのである。
高台が金持ち、低地が庶民、との住み分けが世の常だ。低い場所は水害の心配があるので、金持ちはさっさと高台を確保し、庶民は低地に取り残されたのだろう。白金にも古川という川が流れている。以上、にわか歴史学者を気取ってみた。
ひかり荘の部屋もしもた屋の二階にある。一階部分は、バブル期までは、名刺や商品ラベルを手がける印刷所だったらしい。ひかり荘は六畳一間で便所と靴箱は共同、BS・CSどころか地上波の共同アンテナもなく、窓は木枠で鍵はスクリュー錠、雨戸はトタン張りという、二十世紀の遺物的木造アパートである。雨漏りはするし隣の音も筒抜けだ。しかし山手線の内側で三万円ポッキリという家賃は魅力的で、明日を夢見る学生やフリーターなどで四部屋とも埋まっている。専有面積はそこらのワンルームマンションより広いのだから、見栄さえ捨てることができれば、こっちのほうが断然お得だ。質実剛健というやつだ。
当然、風呂はなく、銭湯を利用することになる。それが三越湯。最近の銭湯は、サウナやジャグジーで近代武装して生き残りを図っているが、三越湯は築七十年になろうかという建物の、昔ながらのいさぎよい銭湯である。白金には銭湯がもう一軒あり、半年前まではさらにもう二軒あったのだから、ここがいかに庶民の町であるかわかろうかと思う。ちなみに白金台に銭湯は一つもない。
さて八月八日のこと。
その三越湯から戻ってビールを飲みながらベイスターズ―ジャイアンツ戦を見ていると、ケータイ2号が鳴った。俺はオンとオフを区別するために携帯電話を二台持っているのだが、F6なんとかとかN50なんとかiなんとかといった機種名を憶えるのが面倒なので、古くから持っているのを1号、新しく手に入れたのを2号と呼んでいる。しかし英数字の羅列で機種名もないもんだ。携帯端末にも車のように、アルテッツァとかオデッセイとかいうカッコいい名前をつけてやってくれと、各キャリアに文句を言っておく。
ケータイ2号のディスプレイには「非通知」と表示されていた。こういう場合はたいてい間違いかセールスの類だ。そう思い、投げやりな調子で出てみたところ、なんと麻宮さくらだったのである。
「どうしてこの番号を?」
俺は驚き、まず尋ねた。
「駅で教えてもらいました」
「あ、なるほどね」
広尾駅で事情聴取を受けた際、名前と連絡先を訊かれていた。
「今日電話したのは、あらためてお礼を申しあげたくて」
「そりゃどうも、わざわざ」
「先日はどうもありがとうございました」
「どういたしまして」
「それで、一度お礼に伺いたいのですが」
「うちに?」
「はい」
「いや、それは、ちょっと……」
と狭くて汚い部屋を見渡す。
「ご都合はいかがでしょうか。今週末はどうでしょう?」
「お礼なんて、別にいいよ。こうしてわざわざ電話してきてくれたんだから、それで充分」
「いえ、それではあたしの気がおさまりません。正直に言います。あたし、あのとき死ぬつもりでした」
「…………」
「ですが死ねなかった。あたし、あなたを恨みました。本当に死にたかったのです。つらいことばかりの毎日で、死ぬよりほか楽になる道はなかったのです。それをじゃまされてしまった。また生き地獄が待っているのかと思うと、絶望的で、じゃまをした人間が恨めしかった。でも時間が経つうちに冷静になりました。やり直してみようという気持ちが芽生えてきた。一度捨てた命です。もう何も怖くありません。がむしゃらに生きてみます。今はそんな気持ちでいっぱいなのです。そういう前向きなあたしがあるのも、あなたが助けてくださったから。あなたはあたしにチャンスを与えてくださったのです。ですから、どうしても、会って、直にお礼を申しあげたいのです」
さくらはうわずった調子でまくしたてた。
「じゃあこうしよう。都ホテル、わかるかな? 白金台の都ホテル東京」
「ごめんなさい。行ったことありません」
「大きいホテルだからすぐにわかるよ。地下鉄の白金台駅から歩いて五分くらい。そこの一階のラウンジで会うというのはどう?」
十日土曜日の午後一時で待ち合わせが成立し、通話を終えた。
ケータイを握ったまま、俺は目を閉じた。しばらくそうしていたが、ついに麻宮さくらの顔を思い出せなかった。伝統的な日本人顔だったという印象は残っているが、さて具体的にはどんな目鼻立ちだっただろう。確実に憶えているのはパーマのかかった茶髪だったことだけである。つまりこの時点では、麻宮さくらに対する興味はその程度でしかなかったわけだ。ただ、相手が誰であれ、感謝されて悪い気はしない。だから会ってみようかという気になったのだ。
で、約束の日がやってきて、出かける前に髭を剃っていたと、つまりそういうわけなのである。
鏡の奥では妹がちょこまか動いている。朝方はTシャツ一枚だったのに、いつの間にかワンピースに着替えている。
綾乃は俺とは二つ違い、都立三田高校を出たあと丸の内のOLになるが、現在は無職。朝っぱらから映画を観にいったかと思うと行列のできる店でケーキを食べ、踊りにカラオケにスイミングに昼寝にコンサートに合コンと、実にいい身分である。
俺たちきょうだいは都会の片隅で肩寄せ合って暮らしている。妹が言うには、ろくに料理もできない人間を放っておけないとのことだが、俺に言わせれば、女の独り暮らしはさせられない。両親は先年、相次いで他界した。上の兄はもっと早くに、俺が高校に入学する以前に亡くなっている。東大在学中の夭逝だった。
鏡の中の綾乃は、髪は金色、ちりちりにパーマがかかり、サイドに赤のメッシュまで入っている。ワンピースは、赤地に白で蔓草模様を描いたもの。肩の部分はシースルーになっている。
たまにはもう少しおとなしい恰好をしてみろ。人間が軽く見えるぞ。着てみたいと思うことと着て似合うことは別物だ。お袋も天国で嘆いているぞ。
そう頭の中で説教を垂れていたら、テレパシーで届いてしまったのか、鏡の中の彼女がだんだんズームアップしていき、ついに俺の顔と並んだ。
「借ります」
綾乃は俺の耳元で何やらぶらぶらさせた。
「だめだ。これから使う」
俺は振り返り、泡だらけの手で車のキーを奪い取った。
「えー。トラちゃんはどうせ都内なんでしょう?」
トラちゃんとは、誰あろう俺のことである。成瀬将虎で、トラちゃん。ちなみに亡くなった上の兄は竜悟といい、綾乃も俺もリュウちゃんと呼んでいた。竜に虎――そういう名前をつけたくなる気持ちがわからないでもないが、見た目のいい名前を背負わされた当人になみなみならぬプレッシャーがかかると、うちの親は想像がつかなかったのだろうか。
「そうだけど、じゃあおまえはどこに行くんだよ」
「八重のところ。車でないと行けない」
「またかよ」
八重というのは房総で療養している友人である。
「なに、その言い方。まるでお見舞いに行くのが悪いみたいじゃない」
俺は少し疑っているのだ。友達の見舞いというのは口実で、実は男と会おうとしているのではないか。そう思うと気が気でない。そのくせ自分は妹と同じような歳の女を怪しげなホテルに連れ込むのだから、俺という男はまったく処置なしだ。
「洋子と一緒か?」
父親のような口調で追及する。
「そうよ」
「だったら今日は洋子の車で行け」
洋子というのは綾乃の音楽仲間である。八重も具合が悪くなる前は一緒に演奏していた。
「軽はイヤ」
「ミニだってたいして変わらないだろう。それに、今の軽のほうが居住性が高いぞ」
「洋子は運転が下手。怖くて乗ってられない」
「俺もおまえの横には怖くて乗ってられないが」
「うるさい」
綾乃は俺を鏡の前から押し出すと、棚からデオドラントスプレーを取りあげ、胸元に吹きかけた。次に左腕を大きく上げ、腋にもひと吹きする。
「だったらおまえが運転すればいい」
「人の車は運転したくない」
「ミニだって人の車だろう」
「細かいこと言わないの。ガソリン代は出してるでしょ」
そう言い合っている最中に電話が鳴った。ケータイでなく、NTT東日本の加入電話である。
「出ろよ」
俺はシェービングクリームで汚れた両手を肩の前に立てた。綾乃はぶすっとした表情で立ち去る。
「あらー、お久しぶり。お元気ぃ? 受験勉強ははかどってる? ごめんなさいねー、愚兄がいつもご迷惑をおかけして」
異常に愛想のいい声が届いてくる。俺は手早く手と顔をすすいだ。
「芹澤さん」
綾乃が戻ってきて、ふてくされた調子で子機を差し出した。
「愚兄ですが、何か?」
俺も不機嫌な口調で電話に出た。
「先輩、助けてくれ」
裏返った声が耳に突き刺さった。俺は受話器を少し離して、
「どうした、エロビデオがデッキにからまったか?」
冗談めかしてキヨシに応じた。
「助けてくれ。愛ちゃんが大変だ」
「久高さん?」
「そう、一大事だ。助けてくれ。頼む」
「落ち着け。久高さんがどうした? 何がどう大変なんだ?」
「落ち着いていられるかよ。コロシだ。殺されたんだよ」
5
有栖川宮記念公園の前で二人を拾うと、車を外苑西通に向けた。
「先輩、無理言ってすまない」
芹澤清が手を拝み合わせた。
「で、どこに行けばいい?」
バックミラーにちらと目をやる。顔中に玉の汗を浮かべたキヨシと並んで、バーバリーチェックの帽子をかぶった久高愛子が身を固くしている。
「適当に走ってもらえるかな。車の中で話すのが一番いいと思う」
「すみません。本当なら、うちにお呼びしてお話しするところなのですけど、家族には内緒なもので。喫茶店でお話しできるような内容でもないし……」
愛子は帽子の鍔に手をかけて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「それで、殺されたとは、どういうこと? 先日おじゃました際には、車の事故で亡くなったと」
キヨシの電話での話しぶりが要領を得なかったため、てっきり愛子本人が殺されたのだと思い泡を食ったが、よく聞いてみると、主語は久高隆一郎だった。
「表向きは事故ということになっていますが、実はおじいさんは轢き逃げされたのです」
おっとりとした中にも、強い怒りが込められていた。
「轢き逃げ……、それはひどいですね」
と相槌を打ったものの、力が抜ける思いだった。轢き逃げは確かに殺人である。誤って轢いたにしても、病院に搬送するなど適切な処置を施さずに死亡させてしまったら、作為義務を怠ったことになり、殺人罪が適用される。しかしそれは刑法上の問題だ。俺が抱いている殺人のイメージとは微妙にずれている。通り魔に刺されたとか、口封じのために脳天を撃ち抜かれたとか、俺的にはそういうのが殺人なのだ。
いやいや、人の話は最後まで聞くものである。
「轢き殺されたのです。保険をかけられて」
「え?」
「保険金殺人です」
「犯人は?」
「誤解なさらないで。身内の人間がやったのではありません」
「そんなこと思ってないよ。いったいどこのどいつがそんなひどいことを」
「ホウライクラブ」
「は?」
「たぶんホウライクラブがからんでいます」
愛子は運転席の背に両手をかけて伸びあがる。
「はいはい、危ないから立たないでね。たぶんということは、まだ捕まってない?」
「警察はのんびりしています。捜査にあたっているのは二、三人ではないかしら。それもほかの事件とのかけ持ちで」
「たった二、三人?」
「警察は、ただの轢き逃げと考えています。だから人を割いていないのです」
「さっきは保険金殺人だと」
「ええ、たぶん保険金殺人です。ですが警察は保険金殺人としては捜査していません」
「そんなバカな」
「第三者により複数の傷害保険をかけられていたことを警察は知らないのです」
「そんな――」
「本当です。なぜなら、その事実をうちが黙っているから」
「え?」
「まだ疑惑の段階なのです、保険金殺人のような感じがするという。勘違いで騒ぎを大きくしたくありません。これは家族の総意です。『謹言慎行』が久高家の家訓です」
久高隆一郎は、さる有名企業の元役員だと聞いたことがある。息子はそこの重役。久高家としては週刊誌沙汰になることを恐れているのかもしれない。
「ええと、さっきから出てくるホウライクラブというのは何?」
天現寺橋の交差点を左折して明治通に入る。
「ご存じありません? 全部漢字で蓬莱倶楽部」
「知らない。ゴルフ場?」
バックミラーにちらと目をやる。キヨシが首を左右に振った。
「俺も聞いたことがなかったんだけど、健康食品とか羽根布団とかを売っている会社らしい」
「売りつける会社」
愛子が険のある声で訂正した。俺はああとうなずいた。
「よくあるあれか、『健康』とか『長生き』とかを殺し文句に、高齢者の貯金や年金を騙し取ろうという」
「はい。お恥ずかしい話、うちのおじいさんがそれに引っかかりました。でも、若者も結構騙されているんですよ。ほら、最近はアトピーとか食物アレルギーとかで、若い時から健康を気にする人が多いでしょう。それとダイエット」
発言の後半は、家族を弁護したいという気持ちの表われか。
「それは災難だった」
「そもそもああいういんちきに引っかかる人ではないのです。法科出身で、現役当時は『総会屋殺し』とまで渾名《あだな》されていたのに、先年前立腺肥大の手術をしてから弱気になってしまって。そこをつけ込まれたとしか思えません」
「どのくらい被害に遭ったの?」
「ざっと見積もっても五千万は」
「五千万!」
「百万の羽根布団と磁気マットレスを――」
「百万!? 布団が!?」
「そうですよ、一組百万円。寝相の悪さが矯正されるとか、鼾《いびき》が止まるとか、遠赤外線とマイナスイオンが出るとか、そういう効能があるにしても、一組百万というのはあんまりだと思いません? それを何組掴まされたと思います? 最初は自分用に買ってきて、その時は、法外な値段だと思ったけれど、それで本人が気持ちよく眠れるのなら悪くないと、家族はみんな黙っていました。するとしばらくして、妻用にともう一組買ってきました。続いて、息子夫婦用、孫用と、どんどん増えていき、とうとう十組です。うちは五人家族ですよ。客用とか、かわいい孫娘の嫁入り道具とか、おじいさんはそう言い訳しましたが、さすがにみんな許しませんでした」
許すも許さないも、折り詰めの寿司を買って帰るがごとく一千万もの大金を動かせるとは、俺とは住む世界が違う。
「布団のほかにも、血の流れがよくなるというふれこみのネックレスやブレスレットを家族のぶんだけ、古雑巾のような臭いのする瓶詰めとか飲み物とかを段ボール箱に何十箱も買い込んでいて、あの段階ですでに千五百万くらいは使っていたと思います。なにしろアルカリなんとか水というのが、ペットボトル一本二万円ですから」
「水が二万!?」
「洗顔もうがいも入れ歯を浸けておくのにもその水を使っていたんですよ。盆栽にもやっていた。いったい何ダースかかったかしら」
笑うしかない。
「家族全員の非難を浴び、おじいさんは、わかったもう買わないと誓いました。ええ、それからはもう布団は増えませんでした。たまに宅配便で健康食品が届くことがありましたが、たいした量ではなかったので、そのくらいは大目に見てあげていました。ところが、です。亡くなったあと書斎を整理していたら、出てくるわ出てくるわ。黄金の観音様とか、象牙の印鑑とか、紫の袱紗《ふくさ》に包まれた水晶玉とか、七福神が浮き彫りになった壺とかが、押入の中、本棚の裏、机の引き出しの奥などから見つかったのです」
「それら怪しげな物の総額が五千万?」
「はい。通帳を調べてみると、幾度となく、十万、百万単位でお金が引き出されていました」
「よく奥さんにバレなかったものだ」
「うちはおとうさんが財産管理しているのですが、寝かせてあるだけの口座なので気づかなかったのです」
やはり違う世界の住人だ。
「書斎に隠されていた品々を蓬莱倶楽部から買ったという証拠はありません。一つ一つに蓬莱倶楽部のシールが貼ってあるわけではありませんから。領収証も見つかりませんでした。けれど、どれも以前はなかったものばかりです、少なくとも三年前に書斎を改築した時には。通帳からの引き出しも、蓬莱倶楽部と関わりを持つ以前には行なわれていません。それで、おじいさんも困ったことをしてくれたものよねと、家族みんなで嘆き合っていたのですが――」
「待った。どこかに落ち着こう」
運転しながら聞き流すような話ではない。俺はしばし考え、針路を南へと定めた。古川橋の交差点を右折し、清正公前から目黒通に入り、間もなく左手に見えてきた象牙色の建物に車を寄せた。都ホテル東京である。ただし、人前で話せるような話ではないので、中には入れない。車は駐車場に入れ、エンジンをかけたまま、冷房全開でサイドブレーキを引いた。地球環境には悪いが、この際仕方がない。
「遺品を整理していたら、正体不明の物品が見つかり、多額の使途不明金が明らかになったと。それで?」
俺は運転席に胡座《あぐら》をかき、背もたれを抱きかかえるようにして後部座席の方を向いた。
「困ったおじいさんだ、無駄遣いにもほどがある、でも亡くなってしまったのだから今さら責めるのはよそう、おじいさんは五千万円で晩年の幸福を買ったのだと思おうじゃないか、などと話していたら、ある日、損保会社から一本の電話がかかってきました」
それは奇妙な問い合わせだった。
――久高隆一郎さんは羽田倉庫管理という会社の社員でしたか?
死亡当時の久高隆一郎は隠居の身である。現役当時の勤務先は慶長産業。
電話に出た隆一郎の妻がそう説明すると、保険会社の人間はまた奇妙なことを口にした。
――大田区にある羽田倉庫管理という会社と当社との間で本年の七月三日に法人契約が結ばれています。被保険者は同社の社員である久高隆一郎さん、死亡保険金額は八百万円、保険金受取人は同社。四日前、同社より支払いの申請が出されました。
人違いではないかと未亡人が問い返すと向こうは、久高隆一郎の住所と生年月日を告げてきた。たしかに先日亡くなった自分の夫である。しかし羽田倉庫管理なる会社とは無関係である。
一つの可能性として、昔の取引先との関係で名義貸しを行なったことが考えられた。だが息子に尋ねても、そのような会社に心憶えはないという。
さらに保険会社から不可解な事実が明かされる。羽田倉庫管理というのは架空の会社だというのだ。法人登記されておらず、保険契約書に記載の住所は私書箱だった。
時を置かずして、別の損保会社二社からも同じような問い合わせがある。いずれも被保険者は羽田倉庫管理の社員である久高隆一郎で、保険金の受取人は会社、死亡保険金の額は数百万円程度。
「架空の会社を作る、適当な人物を無断で社員に仕立てあげる、その社員に会社を受取人とした保険をかける、社員が死んだら保険金を受け取り、ドロン」
キヨシが指を折りながらまとめた。会社が従業員に保険をかけるのは、万が一事故が起きた場合、従業員の遺族への補償金に充てるという意図によるものだ。本来は。
「ですが、昨今保険金詐欺事件が多いでしょう。ですから保険会社の警戒も厳しくなり、うちに確認を取ったわけです」
愛子がつけ加えた。
「隆一郎氏は実際は社員でなかったと判明したのなら、その謎の会社に保険金は支払われないのでは?」
俺は素朴な疑問を口にした。
「はい。支払われていません。保険金詐欺は未遂に終わっています。けれど、うちのおじいさんが死んだのは事実です。どこかの誰かに勝手に保険をかけられ、殺されたのです」
愛子は目頭を押さえる。
「どこかの誰かというのが蓬莱倶楽部だと」
「わたしはそんな気がしてなりません」
「しかし蓬莱倶楽部の立場に立って考えてみると、隆一郎氏を殺すというのはどうだろう。死亡保険金を騙し取るより、生かしておいて物を売りつけ続けたほうが得だぞ。もし死亡保険金が支払われたとしても、総額で二千万円程度。しかし生かしておけばその何倍もの金を引っ張り出せるんじゃないかな。現実に、やすやすと五千万も騙し取っているんだし」
「ですが、ほかに心あたりがないのです」
「まあ、真相はいずれ警察が引き出してくれるか」
「第三者に保険をかけられていたことは警察には話していません。最初に申しませんでしたかしら、疑惑の段階で事を荒立てたくないと」
「ああ、そうだったか。いや、でも、愛ちゃん、疑惑というのは、蓬莱倶楽部に対する疑惑だろう。羽田倉庫管理の正体が蓬莱倶楽部であるにしろないにしろ、隆一郎氏はおかしな保険をかけられた直後に亡くなっている。これはまぎれもない事実なのだから、保険金殺人として警察に捜査してもらわないと」
「先輩」
キヨシが口を挟んだ。
「保険金詐欺をもくろんだ人間と轢き逃げ犯が同じであるとはかぎらないよね」
「ああ、計画犯と実行犯が別ということは往々にしてある」
「そうでなくて、Aという人間が保険金詐欺をもくろんだ。保険契約がすみ、さて被保険者をどう殺そうかと考えていたら、被保険者が勝手に死んでくれた。Bという赤の他人に轢き殺されて」
「独立した二つの事件だと?」
「可能性がないとはいえないよね。交通事故は日常茶飯事、ましてや被害者は高齢者」
「そりゃまあそうだが、同一犯によるものと考えるより、ずっと低い可能性だろう」
「低くても、無視できるほどではないでしょう。そしてもしただの轢き逃げだとしたら、その犯人を捕まえるために、蓬莱倶楽部の話を持ち出す必要はまったくないよね。かつて切れ者として通っていた人間がいんちき会社にいいようにカモられたと公にせずにすむ」
キヨシが句点を打つたびに愛子はうなずいている。
「しかし、未遂にしろ、保険金詐欺が計画されていたことに疑いの余地はない。それを見過ごすのか?」
「いいんです」
そう言ったのは愛子である。
「もし保険金詐欺と轢き逃げが別の人間によるものであったら、保険金詐欺のほうは不問に付します。たとえ蓬莱倶楽部が計画したことであっても。詐欺同然に持っていかれた五千万についても、訴訟を起こすようなことはしません。おじいさんの名誉や久高の家のことを考えると、それが一番だと思います。おじいさんもきっと、そっとしておいてもらえることを望んでいるでしょう」
「遺族がそう望むのなら俺はとやかく言わない。市民の務めを説くつもりもない。しかし現実には、保険金詐欺と轢き逃げが同一犯によるものである可能性のほうが高いよ、きっと。それでも放置しておくの?」
「放置ではありません。警察に積極的に協力するのは控えたいということです」
「同じことだと思うが」
「違います。おじいさんを殺した犯人は憎い。絶対に捕まえてもらわなければなりません。けれど、蓬莱倶楽部が犯人だとはかぎらないわけです。なのに蓬莱倶楽部蓬莱倶楽部と世間に聞こえるほど騒ぎ立て、実は無関係だったとなったら、いったいおじいさんにどう詫びればいいでしょう。ただ恥をかくために私生活を明かす人間がどこの世界にいます」
背筋を伸ばし、両膝に手を当て、愛子は挑むような目を送ってくる。
「しかし君は最初からずっと、蓬莱倶楽部が怪しいと言っている」
「言いました。ただし、それはわたしたち家族がなんとなくそう思っているだけです。最近のおじいさんの身辺を見渡したところ、おかしなことをしそうなのは蓬莱倶楽部しか思い浮かばないから。けれど、たとえばこういうことも考えられます。おじいさんは現役当時、総会屋と激しくやり合っていました。その時の恨みを晴らされたのかもしれません」
「なるほど。で、どうせ殺すなら、昔会社を強請《ゆす》るのをじゃまされた見返りとして保険金もいただいておこうと」
「もちろん、警察の捜査の結果、蓬莱倶楽部が関与していたとなれば、おじいさんの私事が世間に出ていっても、それはいたしかたありません。だからここはひとまず黙って成り行きを見守っていよう、というのが家族の総意なのです」
名誉、誇り、家――言葉では理解できても、心から納得することはできない。地位も金も家柄もない俺に、その全部が備わった人間の心模様を理解できるべくもない。
「それで何? 俺は何でここにいるの? 警察に非協力的な態度を肯定してもらいたいの? さっきも言ったように、他家のやり方に口を挟むつもりはない。好きにやってください」
ただ今、十二時五十五分。待ち合わせの時間が迫っており、俺は少々いらついていた。
「蓬莱倶楽部を内偵していただきたいのです」
「は?」
「成瀬さん、蓬莱倶楽部を調べてください。お願いします」
愛子は膝の上で手を重ね合わせ、深く頭を下げた。
「調べる?」
俺は自分の顔に人差し指の先を向けた。
「わたしたちは決して、事をうやむやにしてしまおうと考えているのではありません。轢き逃げ犯は絶対に許しません。一日も早く捕まえてもらいたい。そして極刑に処してもらわないと」
ただの轢き逃げで極刑は無理だよと口を挟みそうになったが、遺族の気持ちを汲んで喉元でこらえた。
「そのためには捜査にも協力します。ただ、言わなくてもいいことは極力黙っておきたいということなのです」
「それはわかってる」
「そこで、それが本当に言わなくてもいいことなのか、きちんと確かめる必要があると思いました。確かめた結果、蓬莱倶楽部は無関係となれば、今までどおり沈黙を守る。逆に関与が決定的であれば、覚悟を決めて、包み隠さず警察に報告します。その調査を成瀬さんにお願いしたいのです」
「そういう意図で内偵したいというのはわかるけど、でもどうして俺が?」
「俺の推薦」
キヨシが挙手した。
「どうして俺なんだよ」
「だって、先輩、元探偵だろう」
「あ?」
「探偵事務所の分室を一つ任されていたんだよね?」
「あ、ああ……」
俺はかつて新橋の探偵事務所に勤めていた。十八の春、青山高校を卒業するなり門を叩いた。「何でもやってやろう屋」、記念すべき最初の仕事は探偵だったのである。それは事実だ。けれど分室を任されたことはない。なにしろ勤務期間はわずか二年足らず、一人前どころか半人前にもならないうちにケツを割ってしまったのだから。
そのことをキヨシに吹かしてしまったというわけだ。カッコいい先輩像を見せたく思ったのか、たんなる酔った勢いか。
「本物の、いや現役の人間に頼んだほうがいい。そう、俺は元だ。テクニックも錆びついている」
俺は苦笑いでごまかした。今はしがないガードマンであり、パソコン教室の講師でしかない。
「町の探偵には頼めないのです」
愛子がかぶりを振った。
「どうして」
「一つは、信用の置ける探偵さんを知りません。探偵事務所の中には、秘密厳守を謳《うた》いながら、依頼人の秘密を横流ししたり、脅迫まがいのことをしたりしてくるところがあると聞きます」
「たしかに、それは気をつけたほうがいい」
「それと、蓬莱倶楽部を調べようというのは、わたしの独断によるものです。おとうさんとは相談していません。話しても、きっと許してくれないだろうから。うちで一番保守的なのがおとうさん。さっきから家族の総意と繰り返していますが、実はあれはおとうさん一人の考えです。久高家では家長の意見は絶対なので、みな従わざるをえないのです。だから、蓬莱倶楽部の調査もこっそり行なわなければなりません。外部に依頼すると、間違っておとうさんに連絡がいってしまうかもしれない。それが怖いのです」
おぼろげな想像が脳裏に浮かんだ。隆一郎の息子は、蓬莱倶楽部の件で父親の身辺が探られると、ほかのスキャンダルが芋蔓式にあばかれるおそれがあると心配しているのではないか。多額の追徴課税が予想される隠し資産、会社の存続に関わるような不正――隆一郎は企業の元役員だ、叩けば埃の一つや二つ出てきておかしくない。
「先輩、頼むよ、このとおり。一生のお願いだ」
小学生のような台詞を吐いてキヨシが手を拝み合わせる。
後日知った話であるが、キヨシは一週間前の久高邸訪問以降、毎日愛子に電話をかけていたという。やましい気持ちからではなく、純粋に力づけようとした。そうするうちに彼女のほうから、実は轢き逃げであったことや、不可解な保険契約や、蓬莱倶楽部について話し始めたという。何とか助けられないかとキヨシは考え、俺の出まかせを思い出し、成瀬に相談してはどうかと持ちかけた。
「何も掴めなくても恨まないでくれよ」
俺は溜め息混じりに首をすくめた。次の予定があるので、とりあえずこの場はお開きにしたかった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
愛子が頭を下げ、
「先輩、恩に着る」
キヨシが握手を求めてくる。
「調査を行なうにあたってはもう少し話を詰める必要があるが、悪いな、これから人と会う約束がある。今晩にでも電話するから、そのとき聞かせて。家の電話にはかけないほうがいいよね?」
俺は彼女とケータイの番号を交換した。
「ごめんなさい、お忙しいところをお呼び立てしてしまって」
愛子がまた頭を下げる。この礼儀正しさ、十分の一でいいからうちの綾乃に分けてやってほしいものだ。とても同い歳の女とは思えない。
「いや、いいんだ。ただ、これから自宅まで送っていくのは……、ちょっとキツいな。白金台の駅までで我慢してくれ」
オメガのスピードマスターに目を落とすと、時刻は一時十五分であった。
「いいえ、ここで結構です。タクシーで帰ります」
「そうしてくれると助かる」
俺は体を前に向け、エンジンを切った。
「俺は? 駅まで送ってよ」
キヨシが助手席の背の上から首を突き出した。
「歩け。いい陽気だ」
ドアを開け、今日も灼熱地獄の外に出る。
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古屋節子が築いた屍
古屋節子は昔から何でも買ってしまう女だった。物が好きなのではなく、その場の雰囲気でつい買ってしまう。
たとえば、カーキ色の軍服を着た男が脚を引きずりながら訪ねてきて、五年前にシベリアから引き揚げてきたのだがいまだに仕事に就けずに困っていると溜め息をつくと、風呂敷包みの中の反物を言い値で買ってしまう。それがひどい虫食いであると気づくのは、男が立ち去って一時間もあとのことである。
たとえば、駅前の広場で万能野菜カッターの実演販売が行なわれていて、周りを囲んだ主婦がわれ先にと買い求めていると、自分も輪の中に飛び込んで千円札を差し出してしまう。二時間後ふたたびそこを通りかかると、さきほど先を争って買ってどこかに立ち去ったはずの顔が人垣の中にいくつかあって、私にも私にもと声を張りあげている。
たとえば、新聞の折り込みちらしでイギリス製ティーカップの頒布会を目にし、いま申し込めばもれなくティーポットとスプーン五本を進呈とあれば、午後にはもうはがきを投函している。食器棚にはすでにティーカップのセットが五組もあるというのに。
たとえば、スーパーマーケットのタイムサービスで、お一人様一パック限りの卵が七十八円で出ていたら、五回も六回も並んで買い込み、使いきる前に腐らせてしまう。
夫は怒った。離縁するぞと怒鳴られたことも一度や二度ではない。しまいにはスーパーで買いだめしただけで口をきいてもらえなくなった。
子供たちにもあきれられた。成長した彼らは、押入の肥やしと化した品々を勝手に持ち出し、フリーマーケットやリサイクルショップで処分して小遣いに充てた。
そんな性分であったから、節子が蓬莱倶楽部の餌食になっても何の不思議もなかった。
その当時、節子は足立区内の都営住宅に住んでいた。夫には先立たれ、二人の息子はとうに独立し、三匹の捨て猫を相手にのんびりと年金暮らしをしていた。ある日ポストを覗いたら一枚のちらしが入っていて、それが彼女の残り少ない人生を大きく狂わすことになる。
健康に関する講演会と健康関連商品の無料体験会が近所のホールで行なわれるという。来場者にはもれなく一本二万円のアルカリイオン水がプレゼントされるという。
節子は六十代半ばにしては体がしっかりしており、この年代の人間にしては珍しく健康には無関心だった。けれど、「無料」「もれなく」「二万円」という惹句に激しく反応し、無料体験会なるものに散歩がてら出かけていった。
無料体験会から二、三日して、次々と荷物が届いた。羽根布団に磁気マットレスに健康食品にアルカリイオン水に――。そして無料の催しに行ったはずなのに、なぜだか手元にはローンの申込用紙の控えが何枚もある。
半月ほど経ち、アフターサービスということで、蓬莱倶楽部の社員の訪問を受けた。アルカリイオン水と健康食品を追加で何箱か頼み、風水的に健康を呼ぶという象牙の印鑑も購入した。
さらに半月後、アルカリイオン水と健康食品と新開発のドリンク剤と開運の多宝塔が届いた。
その繰り返しで、気づいたら節子は五百万からのローンを抱えていた。
節子の収入は年金だけである。もともと物を買う性分なので、貯金などほとんどない。夫の生命保険金もとうに尽きた。ローン会社からの請求書はいつしか督促状へと変わった。
それでもまだセールスにやってくる蓬莱倶楽部の社員に、もう支払い能力を超えていますと節子がこぼすと、金融業者を紹介された。そこがトイチの高利貸しであり、しかも蓬莱倶楽部の息がかかった会社であることなど、節子は知るよしもなかった。
トイチとは、融資の条件が十日で一割の利息ということである。百万円を借りると、十日後に返済するにしても百十万円。年利に換算すると三〇〇パーセント超。法定金利の上限は約四〇パーセントである。
このような超高利貸しを利用すれば結果は目に見えている。利子さえ払えず、借金はみるみる膨らみ、ますます返済が難しくなる。すると、別の金融業者から金を借りてくることで、最初の金融業者への借金を見かけ上返済するよう強要される。この新しい金融業者が輪をかけての悪徳で、トイチならぬ、トニ、トサンで貸し付ける。十日で二割、三割の利息を取るのだ。節子が一千万単位の借金を背負うのにそう時間はかからなかった。
自宅のポストには督促状があふれかえった。玄関のドアは張り紙で埋めつくされた。「金返せ!」「この家は泥棒です!」「平成の鬼婆!」――。
昼夜を問わず電話もかかってきた。
「なめんな、こら! 金借りといて返さんとはどういう了見じゃ! 殺すぞ! 貯金通帳をよこさんかい! 目ん玉くりぬくぞ! 家の権利書を出さんかい! 火ぃ点けるぞ! 火災保険掛けとけよ! この泥棒ババア! 子供に金借りてこいや! 体で払わせたろか!? 腎臓売るか!? それとも保険かけて轢いたろか!?」
家を売ろうにも、ここは借家である。
そして節子は、子供たちには絶対に頼りたくなかった。一つは、恥をさらしたくなかった。子供たちにはすでに無節操な買物癖を知られているとはいえ、今回の失態は過去の買物とは較べものにならない。
彼女が子供に頼りたくなかったもう一つの理由は、二人の息子は親に似ず、折り目正しい社会生活を送っており、のみならずその歳にしては大きな成功を収めていたからだ。親の借財のことで子供に迷惑をかけ、それが彼らの地位を脅かすことになるのは避けたかった。一緒に暮らしていた時期にはいい母親でいてやれなかっただけに、最後くらいはきちんとしておきたかった。
彼女は第三者機関にも相談しなかった。取り立て人の「弁護士に泣きついたら殺す!」の恫喝《どうかつ》を真に受けた。自己破産という選択肢は考えつかなかった。
節子が日々恐怖にうち震えていると、蓬莱倶楽部の村越という男がやってきて、うちの仕事を手伝ってくれたら借金を善処しましょうと持ちかけてきた。このところ朝に晩に恫喝され続け、節子の神経はボロボロになっていた。そんなところにやさしく声をかけられたものだから、節子は地獄に仏を見たような錯覚に陥ってしまった。何でもやります、やらせてくださいと、ついそう応えてしまったのである。
節子に与えられた仕事は仕込みの客であった。地方での無料体験会の会場に客として来場し、商品説明に感嘆の声をあげ、盛大な拍手をし、買います買いますと真っ先に食らいつく。最初は恥ずかしくて拍手すら満足にできなかった節子であるが、どうせ知り合いはいないのだと開き直ると、この布団に換えてから十五年来のリウマチが治ったなどと、出まかせの体験談を涙ながらに語ることもできるようになった。そして自分に釣られて客が商品を買ってくれると実に気分が良く、もっと売ってやろうという気になった。
客紹介もさせられた。知人友人に片っ端から電話を入れ、とっても体にいい商品があるの、たまたま今近くに来ているのよと訪ねていき、同行の蓬莱倶楽部の営業部員がセールスを始める。つまり知人を蓬莱倶楽部に売ったのだ。おかげで多くの知り合いに愛想をつかされたが、それも借金返済のためだと節子は割り切った。
ただし、この程度の手伝いで何千万もの借金が完済できるべくもない。
節子は次に、蓬莱倶楽部とは関係のない仕事もさせられた。小料理屋の雇われ女将《おかみ》、パチンコ屋の景品交換所員、ストリップ劇場のもぎり――。高齢者を対象とした結婚相談所ではサクラの女性会員を務め、見合いの席で押し倒されるという屈辱も味わった。
恥ずかしい思い出はかぎりない。誇りを失い、人としての尊厳も傷ついた。だが、言われた仕事をこなしていれば、あの恐ろしい借金取りからの電話もかかってこないので、節子はおとなしく従っていた。
旅行に行ってきてくれと古屋節子が言われたのは、木々の葉が色づきはじめたころだった。
武田信玄の隠し湯との伝説がある、山梨のとある温泉への一泊二日のバスツアーである。だが、蓬莱倶楽部という組織は、日頃のねぎらいに温泉旅行をプレゼントしてくれるほど慈悲深くはない。
節子にはある指令が下っていた。同じツアーに参加している吉田周作という老人に、旅館の部屋で酒を飲ませ、酩酊したら指定の場所まで連れてこいというのだ。なぜそういうことをさせるのか、説明はいっさいなかったが、それを行なったら借金を三百万帳消しにしてやるというので、節子は喜びいさんで引き受けた。
蓬莱倶楽部が仕込んだのだろう、吉田とはバスの席が隣同士だった。同年代ということもあり、二人はすぐに打ち解けた。途中ブドウ園やワイン工場の見学を経て、夕方宿に到着した時には、二人はすっかり夫婦のようであった。
温泉に入り、宴会場での夕食があり、カラオケ大会があり、また温泉に入り、そして節子は吉田の部屋を訪ねた。このツアーは通常、三、四人で一部屋なのだが、吉田と節子はそれぞれ一人部屋となっていた。蓬莱倶楽部が追加料金を払ったのだろう。
節子は吉田の横に座って酒を勧めた。吉田は酔うにしたがって饒舌になり、身の上話を始めた。鹿児島から集団就職で出てきたこと、二十二で結婚したこと、二女をもうけたがいずれにも先立たれてしまったこと、妻は五年来寝たり起きたりであること、回復を願って蓬莱倶楽部の布団や健康食品を買ったこと――。
蓬莱倶楽部の名前が出てきたことで、節子はドキリとした。吉田はさらに、老後の資金として貯めていたものを残らずつぎ込んだが効果が見られず、もうやめようと思っている、とも言った。
「うちには、まだ開けていない健康食品や水なんかがたくさんあって、それを返品したいんだよ。買った値段の八掛けでもいいからさ、返金してほしいの。この際半値でもいいや。そこまで生活が苦しいんだよ。なのに蓬莱倶楽部はまったく応じようとしない。だから近々消費者センターにでも相談しようかと思っている。連中にそう言ったら、『まあまあ、落ち着いて。奥様の介護でお疲れなのですよ』とこの温泉旅行に招待されたわけだが、こんなもんじゃごまかされないよ。あなたとこうして飲めて楽しい思いはしてるけど」
吉田は、愚痴のような怒りのようなことをまくしたて、杯を一気にあおった。
節子は何度か、自分も蓬莱倶楽部で大変なことになっていると口にしかけたが、なんとなくためらわれ、相槌を打つだけで酌を続けた。
やがて吉田の顔は赤から青へと変わり、呂律《ろれつ》が回らなくなった。
「酔い醒ましに散歩しましょうよ」
節子は彼を連れて外に出た。吉田の部屋は一階で、外へは掃き出し窓から出た。そうせよと蓬莱倶楽部の指示が出ていた。
熱海や白浜のような温泉リゾートではない。宿が三、四軒きりの山間の湯の里である。歓楽施設もなく、夜も十時を過ぎれば道行く人もない。月は出ていたものの、街灯のない道は五メートル先も判然とせず、今にも横の藪から変な動物が奇声をあげて飛び出してきそうな雰囲気であった。節子は吉田と腕を組み、集落のはずれの方に歩いていった。
途中、車にも人にもすれ違うことなく、二人は神社に行き着いた。節子は吉田を石段に腰かけさせ、缶ビールでも買ってきますねと、そのまま彼を置き去りにして宿に戻った。
妙な胸騒ぎがした。なぜ夜中にあんな寂しい場所に連れていく必要があるのだろう。蓬莱倶楽部の誰かが会いにくるのだろうか。どうして昼間ではないのだ。どうして飲んだあとなのだ。
しかし節子は何も考えないようにして床に就いた。たまたま旅先で知り合った人と酒を酌み交わし、おしゃべりをし、時間が来たから別れた――ただそれだけなのだ。
翌日、目が覚めると、宿の中があわただしかった。朝食のため宴会場に行ってみると、宿の人間も客も口々にささやいていた。
「死んだってよ」
「お亡くなりになられたそうですよ」
「マジ死んだのかよ」
吉田周作が亡くなったという。早朝、神社の前を通りかかった地元の人間が、その死体を発見した。石段の下に、手や足を奇妙な方向にねじ曲げて倒れていたという。頭はぱっくり割れていた。
警察の調べによると、上の方の石段の角に毛髪が付着しており、死体の頭部の傷には細かく砕けた石が入り込んでいた。また、死体はひどく酒臭く、前夜酔って散歩に出た被害者が、過って石段から転落したとの見方がなされているようだった。
朝食後、ツアーの参加者全員が事情聴取を受けた。節子は、バスの中や夕食時に吉田としゃべったことは明かしたが、自分が酒を飲ませたり、神社に連れていったことは黙っていた。節子の胸は張り裂けそうだった。それは吉田に対する哀悼と謝罪の気持ちではなく、自分の責任が追及されるのではないかという恐怖だった。
警察の事情聴取は通り一遍で、節子の嘘はそのまま受け入れられた。帰京後、あらためて警察の訪問を受けることもなかった。吉田周作の死は事故として片づけられた。
節子は安堵した。しかし心の底からは喜べない。あの晩自分は何をしたのだろう。このまま黙っていて本当によいのだろうか。
節子は耐えきれず、あのあと吉田との間に何があったのか、蓬莱倶楽部の村越に尋ねてみた。何もない、会ってもいないとの答が返ってきた。
節子は食いさがった。なぜあんな時間に外に連れ出させたのか、その前に酒を飲ませたのかと。
「妙な想像はよすことだ」
そう睨みつけられても節子は言った。あの晩あったことを警察に言ってもいいですかと。
「いいか。何かあったら、おまえも同罪だぞ」
節子は口をつぐんだ。
思えば、ここが一つの分岐点だった。ここで毅然とした態度を取っておけば、邪悪の底なし沼にはまることもなかったのだ。
社会正義とわが身の安全を天秤にかけるような態度を見せたことで、蓬莱倶楽部は古屋節子という人間を見切ったのだろう。彼女を徹底的に脅し、震えあがらせたあと、一転やさしい声で、借金をもう二百万帳消しにしてやってもいいがと話を持ちかけた。
第二の指令は、吉田周作の家に行けということだった。照子という彼の妻は半分寝たきりで、身寄りがない。夫が亡くなって大変困っているだろうから、その世話をしてこいというのである。
「市役所のほうからお世話しに来ました」などと消火器の悪徳セールスのような口上で、節子は吉田の家にあがりこんだ。未亡人の体を清拭し、着替えを手伝い、洗濯をし、布団を干し、部屋の掃除をし、近所のスーパーに買い出しに行き、食事を作り、食べさせるのだ。
吉田の家は栃木の今市にあった。節子はそこに、足立区の自宅から一日おきに通った。一週間もすると、照子はすっかり節子のことを信用するようになった。唯一の存在である夫を亡くした寂しさをまぎらすように、数奇な生い立ち、子供たちの不幸、自分の病気と、あけすけに節子に語って聞かせた。
蓬莱倶楽部のことも話題にのぼった。しかし亡夫とは違い、その商品の効能に疑いを抱いているようではなかった。今も百万円の布団を使い、二万円の水を飲んでいる。夫の死に犯罪性を感じている様子もなかった。
寝室の箪笥《たんす》の上には吉田周作の遺影が飾ってあった。隣人の助けにより、自宅でささやかな葬儀を行なったのだという。写真の笑顔が目に入るたびに節子は、胸に錐《きり》を突き立てられるような思いをした。ごめんなさいと、何度土下座しそうになったことか。
「いいわねえ、あなたはお元気で」
それが照子の口癖だった。彼女と節子は同じ昭和七年生まれだった。照子は日々の買物もままならなかったが、節子は三十分でも一時間でもてくてく歩く。低気圧が近づくと膝に痛みが出る程度で、ステーキや中華に胸焼けを起こすこともない。
「体だけは昔から丈夫で。でもあとは……」
節子は謙遜しているわけではなかった。寝たきりで金を騙し取られるのと、健康だが借金のカタに犯罪に手を染めているのでは、どちらが幸福だろうか。
そう、あの蓬莱倶楽部が、仏心から未亡人の世話をさせるわけがない。節子に与えられた真の使命は保険金の盗み出しであった。吉田周作には蓬莱倶楽部によって旅行保険がかけられていた。死亡保険金額は四千万円。ただし保険金の支払いは法定相続人に対して行なわれるので、それを照子から奪うために節子は派遣されたのである。
節子は照子の健康保険証を持ち出し、吉田照子名義で新しい銀行口座を開き、旅行保険の死亡保険金の振込先としてその口座を指定した。そして通帳とカードは蓬莱倶楽部に渡す。
その一方で、故人にもともとかかっていた保険については、体が不自由な未亡人に代わって支払いの申請は行なうが、支払われたものには手をつけない。すると照子は節子に感謝こそすれ、その陰で保険金殺人が行なわれたとは露ほども疑わないという寸法である。
以上は蓬莱倶楽部の人間から教えられたわけではない。彼らはただ、未亡人の世話をし、銀行口座を開設し、保険金の支払い手続きをしろと命じただけである。だがその裏に何が隠されているのか、節子にも容易に察しがついた。
察しがついたのに、節子は黙って従った。従わざるをえなかった。恫喝されたかと思えばやさしい声をかけられ、時には豪華な食事もご馳走になり、ところがその席で激しく罵られ――その繰り返しにより節子はすっかり蓬莱倶楽部に心を握られてしまっていた。
新しい口座の通帳とカードが吉田家に届いたところで、節子はそれを持って照子の前から姿を消した。
その後しばらくして、節子は下村姓になった。下村勇という六十五歳の男と入籍したのだ。
入籍はしたが、結婚したとは言いがたかった。式や披露宴を行なわなかったのはもちろん、一緒に暮らすこともなかったのだから。そもそも相手の男性は、節子を籍に入れた憶えはない。蓬莱倶楽部が勝手に行なった偽装結婚である。
だが、節子と下村との間にまったく接点がなかったわけではない。節子は週に何度か神奈川の相模原にある彼の家に足を運び、食事を作った。蓬莱倶楽部がそうせよと命じた。
話を聞いてみると、下村も蓬莱倶楽部の顧客であった。彼は癌で親兄弟を失っており、自分も遺伝的にそうなのではないかという不安が蓬莱倶楽部に走らせたらしい。株も退職金もすべてつぎ込んでいた。
下村は早くに妻と死別し、子供もおらず、将来に不安を抱えていた。なので、節子がよくしてくれることを非常に喜び、すでに籍が入っているとも知らず、結婚しようとしつこく言い寄ってきた。手を握られ、首筋に荒い息を吐きかけられたことも一度や二度ではない。彼は節子のことを、蓬莱倶楽部が派遣してくれた家政婦と思っているようだった。
好きでもない男に肉体をさわられるのはたまらなく嫌だったが、作った食事においしいおいしいと舌鼓を打たれると、節子の胸は激しく痛んだ。
節子が下村に作って与える食事には、かならずある粉が入っていた。無味無臭の白い粉だ。何の粉だか節子は知らなかった。それをひと匙料理に混ぜろという指令に従っていただけだ。
三ヵ月後、下村は死んだ。
下村の死を知らされた晩、節子は極度の緊張により嘔吐した。気持ちを落ち着かせようと慣れないタバコを喫い、続けざまに喫い、そしてまた嘔吐した。
しかし節子はついに警察に話を聞かれることはなかった。医師は心臓麻痺という診断をくだし、それが右から左へと処理された。
火葬等の事後処理は蓬莱倶楽部が行なった。
財産は妻である節子が相続した。貯金や有価証券はほとんどなかったが、家があった。節子は相模原の土地と建物を売却し、そのあがりを蓬莱倶楽部に納めた。それと引き替えに自分の借金を五百万円棒引きしてもらった。
節子は古屋姓に戻った。
節子はもうどうしようもないほど邪悪の泥沼にはまりこんでいた。
ほかに何をやっただろう。
貯金も家もない者と偽装結婚させられたところ、旦那となった男が車の自損事故を起こして死んでしまったということがあった。
例の結婚相談所で知り合った男を蓬莱倶楽部の販売会に連れていき、あれ買ってこれ買ってとねだったすえにドロンということもやった。
商品代金を未払いのまま消えてしまった老人の年金を勝手に引き出して蓬莱倶楽部に上納した。
自分と同じように多額の借金を背負った男性に「仕事」を持ちかける蓬莱倶楽部の村越の横で、「誰にでもできる簡単な仕事ですよ」とほほえみかけた。
それから、それから――。
思い出すと絶叫しそうになるので、節子は思い出さないようにしている。
それだけ悪事に手を染めても、節子の借金はまだ残っていた。いや、実はとうに返し終えていたのかもしれないが、途中で計算するのをやめた。何のために悪の手先を務めているのか、節子にもよくわからない。よくわからないのに、蓬莱倶楽部の命令に応じてしまう自分がいる。
罪悪感はある。あると思う。ただ、それを直視するのが恐ろしく、頭にいつも霞をかけている。昨日見たテレビとか今晩の献立とか明日の天気とか、頭の中はそういうことで満たしておいて、体では悪事を働いている。
たまにどこからか風が吹いてきて、頭の霞が晴れる時がある。そんな時には蓬莱倶楽部の人間に対してためらうような素振りを見せる。しかし次の一言が節子の頭にふたたび霞をかける。
「いいのか、警察に捕まっても? ああ、好きにしな。残り短い人生を刑務所で送るのも一興だ。牢屋の中でぽっくり逝かないよう、せいぜい気をつけることだ。さて、どのツラ下げて子供と面会するかね」
操り人形の日々は、一年、一年半と続いた。
そして平成十四年の七月、古屋節子は久高隆一郎と出会うのである。
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再会
6
「くれぐれも他言は無用でお願いしますね」
「心配するな。じゃあ、俺はここで。気をつけて」
久高愛子と一緒に都ホテルの正面玄関まで歩いていき、彼女はそこでタクシーに、俺は建物の方へと別れた。
二人のドアボーイの挨拶を受けて中に入ると、入れ違いに出てくる女がいた。そして俺はすれ違いざま、「あのう」と声をかけられるのだが、それが彼女だと気づくまでに数秒要したのは、顔を忘れていたこともあるが、唯一記憶に残っていた髪の具合が変わっていたからだ。
「麻宮さん?」
俺はサングラスをはずし、きょとんと彼女の顔を指さした。パーマが緩くなり、色も漆黒になっている。
「ああ、よかった」
麻宮さくらは胸に手を当て、にこっとほほえんだ。
「何? 帰るの? 急いでるの?」
俺はあわてて繰り返した。
「いいえ。なかなかいらっしゃらないので、場所を間違えたのかと心配になって、出たり入ったりしていました」
「それは悪かった。出がけに面倒があって」
ふうと息をつき、額の汗を拭う。
「いらしてだいじょうぶだったのですか?」
「ああ。とりあえずかたがついた。じゃあ、立ち話もなんだから」
俺は先に立って奥に進み、ラウンジの適当な席に腰を降ろした。
ラウンジは光に満ちていた。南側が一面ガラス張りになっており、真夏の陽射しをたっぷり取り込んでいる。だがまぶしいということはない。茶系統で統一されている椅子やテーブルやカーペットが適度に光をやわらげてくれているのだろう。窓の外には緑深い日本庭園が広がっており、これも目にやさしい。
「先日はどうもありがとうございました」
さくらは俺の横に立ち、うやうやしく頭を下げた。
「どういたしまして。まあ座ってよ。こっち、アイスコーヒーね」
手を挙げ、白い制服を着たウエイトレスを呼び寄せる。さくらは、「二つ」と指を立て、テーブルのあちら側に腰を降ろした。
髪に合わせてか、彼女の描き眉も茶色から黒に変わっていた。服装も、先日のハイビスカス柄とはうって変わり、粗い格子縞のシャツに茶色のズボンと、シックである。
「何か?」
視線を感じたのか、さくらは不安そうに頬を押さえた。
「いや、髪を変えたよね」
「やっぱりおかしいですか?」
「とんでもない。髪は黒にかぎる。見ていて心が落ち着く。日本人は黒髪が一番似合うんだよ。金髪が似合うのなら、生まれつきそうなっているはずだ」
茶髪の俺が言っても説得力ゼロである。が、髪を黒くしたことで、彼女の和風な顔立ちが引き立ったのは事実である。泣きぼくろも、茶髪より黒髪に映えるというものだ。
「おかしくないですか? ずっと茶色に染めていたから、自分ではしっくりこなくて」
さくらは小さく首を振りながら細身のメンソールタバコに火を点けた。タバコは似合わないからやめたほうがいいと、あとで忠告するとしよう。
「これ、つまらないものですけど」
さくらは口紅のついたタバコを灰皿に置き、紙の手提げ袋を両手で差し出してきた。
「困るなあ、こういうことをされると」
とりあえず社交辞令を口にしてから袋に手を伸ばす。代官山の有名な洋菓子店の名前がプリントされている。
「それから、これも」
今度はデパートの紙包みが差し出された。片手に少し余る程度の大きさで、赤いリボンが十字にかけられている。
「そんなに気をつかわないでよ」
「これはお礼でなく、プレゼントです」
そう言ってさくらは目を伏せ、泣きぼくろに小指の先を当てた。
「何の?」
「誕生プレゼント」
「俺の?」
「もちろんです。お誕生日、おめでとうございます」
さくらはやわらかく笑い、リボンの包みを前に押し出す。
「祝ってくれるのは嬉しいが、ちょっと早すぎる」
「皮肉ですか?」
さくらは眉を寄せた。
「皮肉?」
「誕生日に間に合わなかったことへの」
「間に合わない? 俺の誕生日は十二月だが」
「十二月?」
さくらは首を突き出した。
「皮肉はそっちだろう。そんなに早く歳を取らせて死なせたいか」
「でも、この間、誕生日だと……」
「ああ、あれ。あれは出まかせ」
俺はふっと笑い、タバコに火を点けた。
「嘘?」
さくらは目を剥いた。
「嘘も方便というだろう」
「ひどい……。あたしは本当だと思って、あたしのせいでせっかくの誕生日に嫌な思いをさせてしまったと後悔して、それで何とかお詫びしようと、せめて誕生プレゼントでもと……」
さくらは顔をゆがめ、テーブルの上で拳を握りしめた。
「だから方便と言ってるだろう。意味を知らないのか?」
「都合のいいことを言わないで」
「あんたを死なせないためにはああ言っておくのが一番だと思ったんだよ。二度と自殺を考えるなと説教するのは逆効果だと思った。といって、何も言わずに帰したら、一人になった時、またどういう気分に襲われるかわかったもんじゃない。だから一晩寝かせようと思った。半日でも時間を置けば、冷静な気持ちがいくぶん回復するのではと考えた。バカはバカなりに頭を使ったつもりだったんだが、どうやらお気に召さなかったようだな」
さくらは徐々に頭を垂れ、下四十五度を向いて固まってしまった。
ウエイトレスがアイスコーヒーを運んでくる。俺はデパートの包みを手元に引き寄せ、空いたスペースにグラスを置かせた。リボンをほどいて包装紙を開けると、中身はブランドもののハンドタオルだった。
「遠慮なくちょうだいするよ。イタリア製はさぞ汗の吸いがいいんだろうな」
「ごめんなさい」
さくらは白い腕をさすりながら、上目づかいに俺を見る。飼い主にはぐれた子犬のようだと思った。
「勘違いしないでくれよ。俺はあんたのことを思ったんじゃない。自分のために自殺を止めたんだ」
「自分のため?」
「俺は自殺が嫌いなんだよ。まあ、好きなやつはそういないと思うが、以前、知り合いが自殺してね。それも二人だよ。勘弁してほしいよ、まったく」
「…………」
「他人が死のうが生きようがかまわない。俺は自分の人生にしか興味がない。だが、自殺はだめだ。自殺するやつは、赤の他人であっても許さない。残された人間のことを考えない大馬鹿者だ」
俺はストローの吸い口をぎりりと噛みしめた。先立っていった二人の顔が頭の中に交互に浮かんだ。
「だからかばってくれたのね」
「かばう?」
「駅員に嘘をついてくれたでしょう。本当は、あたしが線路に飛び込むところを見たのでしょう? なのに、貧血で倒れたというあたしの嘘を、そのとおりだと証言してくれた」
「なんだ、貧血は嘘だったのか」
ここは怒りどころなのだが、さくらは挑発に乗らずに、
「どうして見ず知らずのあたしのために嘘をついたのか、いや、ついてくれたのか不思議に思っていた。今やっと謎が解けた。自殺に失敗したあたしを精神的に追い込まないよう、気をつかってくださったのですね」
「色香に惑わされたとでも思ってた?」
俺はニッと歯をこぼし、アイスコーヒーをすすった。ここは笑いどころなのだが、さくらは真顔を崩さずに、
「電話でも話したように、二度と変な考えは起こしません。生まれ変わったつもりでがんばります。その決意を形にしたくて、髪も変えました。本当にどうもありがとうございました。あなたに助けていただいたおかげです」
俺をまっすぐ見つめながら一語一語噛みしめるように話し、頭を下げたあと、また俺のことをじっと見つめた。
「がんばってちょうだい」
こそばゆくなり、俺は視線をそらした。右隣の席では、スーツ姿の男がソファーの肘掛けを抱くようにして寝息を立てている。左に目を転ずると、サリーをまとった女性がペーパーバックに読み耽っている。
向かいから、からからと氷をかき回す音がする。急に意識してしまい、話しづらくなってしまった。
ラウンジにはジャズのスタンダードナンバーが流れている。ブルージーなベースに跳ねるようなピアノが乗り、それにファンキーなトランペットがからむ。
「この曲、何だっけ?」
アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの演奏だと知っているが、間を持たせようと尋ねてみる。
さくらは首をかしげ、ストローの先でグラスの底の氷をかき回す。
「思い出した。『モーニン』だ」
間抜けである。
「あのさ――」
沈黙を嫌い、続けて口を開いた。とはいえ話題を用意していたわけではなく、だから思わず無遠慮な質問をぶつけてしまった。
「何がそんなにつらかったの? 死にたくなるほど」
しまったと思ったが、もう遅い。さくらは上体を縮こませ、視線を宙にさまよわせている。
「すまない」
俺はあわてて顔の前で手を振りたてた。
「お金のことです」
彼女はぽつりと言って顔を伏せた。
「いいんだ、話さなくて」
「でも、もう逃げません。新しい仕事も見つかりそうだし」
「悪かった。忘れてくれ」
俺は重ねて謝り、顔を横に向けてタバコをくわえた。
ラウンジの中央には神社の手水舎《ちようずや》を思わせる石造りの水槽があり、縁すれすれまで水をたたえている。子供が飛び込んだりしないのだろうかと、仕様もない心配をしてみる。
「あのう、一ついいですか?」
その声に、顔を正面に戻した。さくらは左目の下に指先を当てて首を少し傾けている。泣きぼくろをさわるのが癖なのだろうか。悪い癖ではない。
「全然違う話なんですけど」
「どうぞ」
安堵の気持ちを抑えつけ、そっけなく応じる。
「さっき、女の人と一緒にいましたよね」
「女?」
「ここの玄関先で。タクシーに乗っていった女の人」
「ああ、あれ。見てたの」
「奥さん、ですか?」
「妻帯者に見える?」
俺は笑った。
「独身?」
「そうだよ」
と左手の薬指を見せる。
「じゃあ、いい人ですか?」
「彼女とは違うよ。そんな感じに見えた?」
「ゆうべ一緒にここに泊まって、その帰りなのかなと」
「無理無理。良家のお嬢様は外泊禁止だ。あれはただの知り合い。あ!」
俺は指を鳴らして、
「ねえ麻宮さん、蓬莱倶楽部って知ってる?」
「え?」
「蓬莱倶楽部。健康食品や羽根布団を売っている会社」
早速仕事開始だ。情報収集は探偵の第一歩である。
しかしさくらは黙ってかぶりを振った。
「名前を聞いたこともない? 蓬莱倶楽部」
「あの……」
「聞いたことある?」
「あのう、どうしてそんなことを尋ねるのですか?」
さくらは不愉快そうな表情で尋ね返してきた。
「どうしてって、最近そういう会社があると小耳に挟んで、どんな会社なのかと興味を持って」
「それだけ?」
「それだけ」
するとさくらは唇を尖らせて、
「オオダイクラブとかがあたしと関係ありますか?」
「蓬莱倶楽部。いや、ないけど」
「じゃあ、いま話さなくてもいいじゃないですか」
「まあそうだけど」
「どうでもいい話題を持ち出して、あたしと一緒にいてそんなにつまらないですか?」
「そんなことはない」
「助けていただいたのも何かの縁、こうして再会できたのも縁があってのことだと思います。なのにとくに話すこともないのなら――」
さくらは伝票を手元に引き寄せた。
おや、と思った。彼女は俺に対して好意を持っているのだろうか。遠回しに気持ちを伝えているのだろうか。だから、久高愛子のことを気にしていたのか?
「女に払わせるわけにはいかない」
俺は伝票を奪い取った。
「いいんです」
奪い返そうと、さくらが手を伸ばす。俺は伝票を高く差しあげて、
「そういうあなたは?」
「何がです」
「結婚」
「あたしは独りです」
「いい人は?」
「いません」
「俺はわがままな男だよ」
「はい?」
「タバコを喫う女は嫌いだし。で、趣味は何なの?」
麻宮さくらのことが微妙に気になりはじめている俺がいた。
7
恰好をつけてみたものの、さてどうすればいい。
麻宮さくらではなく、久高愛子のほうのことである。
保険金殺人の内偵? どういう手順で進めればいい? 証拠として何を掴めばいい?
こんなことなら、せめて半人前になるまで新橋の探偵事務所で世話になっておくべきだった。
とりあえず愛子に電話して、蓬莱倶楽部に関して知っていることをすべて話させた。隆一郎の遺品をあらためて調べさせ、調査資料になりそうなものをこちらに送ってよこさせた。
土曜日の夕方は三越湯の脱衣場で聞き込みを行なった。夜は知人に片っ端から電話して、蓬莱倶楽部を知らないかと尋ねてみた。
日曜日の午前中、フィットネスクラブで話を聞いて回った。午後は西麻布の美容室に髪を染めにいき、自称カリスマ美容師の山ちゃんに探りを入れた。美容師は毎日多くの人間と接しているので情報通である。夜は前日つかまらなかった知人へ電話。
月曜日は仕事先で、昼休みにはアパートの家賃を振込んだついでに銀行のロビーで、夜は出会い系で知り合った女に尋ねてみた。インターネットでの検索も行なった。
そうして数日が経過し、蓬莱倶楽部の輪郭が徐々にはっきりしてきた。
有限会社蓬莱倶楽部、設立・平成九年五月、資本金・三百万円、代表取締役・呉田勉、所在地・東京都渋谷区笹塚三丁目×番×号、事業内容・衣料品、寝具、家具、美術品、装身具、玩具、家電、コンピューターソフト、食品、飲料、の企画および販売、印刷物の製作および頒布、不動産取引および管理。
手広く事業展開しているように見えるが、これはいつでも商売の形態を変えられるよう、登記上そうしているのだろう。現時点で実際に行なっているのは、「健康」を謳った羽根布団や加工食品の訪問販売。訪問販売といっても、一軒一軒を回るセールスではない。貸しホールや体育館に客を集め、商品説明と販売勧誘を行なう。営業範囲は関東一円。
客を集めるのはポストへの投げ込みちらしである。ちらしには健康商品の無料体験会を催すとあり、布団やマッサージ器や食品の写真がちりばめられている。ただし、価格はいっさい出ていない。ちらし持参の方にはアルカリイオン水二リットルをもれなく無料進呈とある。
この無料体験会がいつの間にか販売会に鞍替えするという寸法らしい。そして一つでも商品を買った人間には後日直接接触し、別の商品の紹介を行なう。そこで何かを買った人間には後日また接触を図り、その繰り返しで際限なく商品を売りつける。久高隆一郎はこの無限連鎖にはまってしまったわけだ。
無料体験会は一日限り、翌日には別の土地で開催される。それも、今回は港区、次回は品川区、次々回は大田区というふうに隣接した地区に移動していくのではなく、今回が港区なら次回は栃木の黒磯、次々回は神奈川の秦野といった具合に動くらしい。投げ込みちらしによる客集めといい、不規則な移動といい、ゲリラ的な手法である。今どきの会社にしては珍しく、自社のホームページを開設していないのも、こそこそ商売したいからだろう。
強引な販売方法に対するクレームは各地で発生しているようだ。ただし、大がかりな訴訟に発展したケースがないからなのか、マスメディアはまだ取りあげていない。
一方、久高隆一郎の轢き逃げに関しても、愛子からあらためて話を聞いた。
事故(事件?)発生は七月十四日。その日の午後、隆一郎は散歩をしてくると息子の嫁に言って南麻布の自宅を出るが、夕方になっても戻ってこず、夜になって神奈川県警から電話があり、車に轢かれて死亡したと告げられる。事故現場は川崎市麻生区の市道。多摩丘陵の、雑木林の間を縫って走る寂しい道で、事故の目撃者は初動捜査段階では見つかっていない。
事故現場近くに隆一郎の知り合いが住んでいるという話は、家族の誰も知らない。散歩に出たあと、そちら方面に行くという電話も入っていない。たんなる轢き逃げではなく、裏に何かがあると思わせる、おかしな状況ではある。
とはいえ、久高隆一郎、保険金殺人、蓬莱倶楽部、この三つを結びつける何かはまったく見えない。
となると次は自分の足を使う番か。
旧盆が明けた十六日の金曜日、六本木での警備の仕事を午前中で打ち切り、愛車を笹塚に向けた。
適当なコインパーキングに車を置き、住居表示を確認しながら水道道路を西へと歩き、やがて五階建ての小さなビルに行き着いた。林田ビルとの看板だけで、テナント名は外には出ていない。警備員も受付嬢もいないので勝手に中に入ると、エレベーターの横に集合郵便受け箱が設けられていた。設計事務所、学習塾、出力屋――蓬莱倶楽部の名前はない。だが、一つだけ、何の名前も入っていないポストがあった。それは五つ並んだ箱の真ん中に位置しており、三階のテナントであると推察された。
階段を使って三階に行ってみる。ドアが一つだけあった。表札は出ていない。ドアのそばで耳をすますと中で男の声がした。
一階に戻り、再度郵便受け箱の前に立った。名なしの箱には鍵がかかっている。ポストのドアにはスリットが入っており、目を凝らすと、中にいくつか郵便物が入っていることがわかった。
ポスト上部の隙間に手を差し入れるが、指の付け根でつかえてしまい、郵便物までは届かない。手を抜き、しばし考える。携帯電話のアンテナをめいっぱい延ばしてスリットに差し入れ、郵便物の下に潜り込ませる。そうしておいてケータイをそろそろと持ちあげる。上の隙間からは手を差し入れる。十何度目かの挑戦で、薄っぺらな封筒の釣り上げに成功。宛名には蓬莱倶楽部とあった。
これで蓬莱倶楽部の所在が確定した。しかしこのまま敵陣に乗り込んでも攻撃のしようがない。あなたがたは保険金殺人を企てましたかと尋ねるわけには、まさかいくまい。この場は外堀を固めることに徹したほうが無難だろう。俺は一階に入っている鍼灸院のドアを開けた。
「ごめんください。ちょっとお尋ねしたいのですが」
いわゆる聞き込みというやつだ。
「はいはい」
受付の小窓から白髪を紫に染めた女性が顔を突き出した。
「ここの三階のことなのですが、あそこは何をしている会社かご存じですか?」
「いやー、知りませんねえ」
「三階の部屋を覗いたことは?」
「いやー、ないですねえ」
「社員を見かけたことは?」
「ありますよ」
「どういう感じでした?」
「今風の若い子。茶髪でピアスをしていて」
「男は見ていませんか?」
「やだ、男よ」
「男が? 茶髪にピアス?」
今どき茶髪にピアスの男は少しも珍しくないが、しかし会社員となると話は別である。女と違い、許されない場合が多いのではないか。
「そうよ、Tシャツにジーパンに運動靴」
「全員が?」
「全員かどうかは知らないけど、あたしが見た子は」
アルバイトの学生、あるいはフリーターなのだろうか。
「話をしたことはありますか?」
「挨拶程度ね。恰好はああだけど、結構礼儀正しいわよ。はきはきしてるし、明るいし」
「何か売りつけられたことはありませんか?」
「何かって何よ」
「布団とか」
「はあ?」
「食べ物とか飲み物とか」
「ないわよ」
「三階の社員との間でトラブルが発生したことは?」
「ないわよ」
三階を除いてすべてのテナントを回ったが、いずれもこんな調子だった。羽田倉庫管理という名前にも心あたりがないという。
今日のところはこれで終了か。仕事を早退してやってきたのにすごすご引き返すのも癪にさわる。などと思いながら外に出たところ、水道道路を挟んで斜向かいに喫茶店があることに気づいた。
俺は喫茶店に入り、窓際の席に腰を降ろした。注文を取りにきた店員に蓬莱倶楽部のことを尋ねてみるが、有効な答は得られない。俺は窓ガラスに顔を寄せ、通りの向こうの林田ビルを窺った。
――とにかく観察しろ。意味は考えなくていい。見たことをそのまま頭に叩き込んでおけ。そうすればおまえの頭がそのまま貴重な資料となる。
探偵修業時代、ボスから繰り返し頂戴したお言葉。
林田ビルを見る。目を上げる。三階の窓は閉じている。視線を落とす。入口を塞ぐように大型のバンが停まっている。ボディーには運送会社の名前が記されている。
建物から段ボール箱を抱えた男が出てきた。茶髪でタンクトップ、歳は二十歳そこそこ――蓬莱倶楽部の社員か? 右手に歩いていく。追いかけるか? しかしこいつを捕まえて何をどう尋ねればよい。
俺はコーヒーとタバコを交互にやりながら観察を続けた。
やがて一つのことに気づいた。
林田ビルの前には時折運送会社のトラックやバンが停まり、荷物の積み卸しを行なう。その中に蓬莱倶楽部の荷物を扱う業者がいるのではないか?
俺は喫茶店を出て通りを渡った。待つこと三十分、飛脚のマークをつけた銀のトラックが林田ビルの前で停まった。横縞のシャツを着た運転手が降りてきて、段ボール箱を載せた台車を押してビルの中に入っていく。
俺は少し遅れてビルに入った。運転手がエレベーターに乗り込むと、閉まった扉の前まで行って顔を上げ、階数表示の明かりに注目した。
ビンゴ! エレベーターは三階で停まった。
俺は外に出て運転手を待った。そして空の台車を押して戻ってきた彼に尋ねた。
「今、三階に行かれました?」
「ええ」
「三階は蓬莱倶楽部という会社ですよね?」
念のため確認する。運転手、伝票を見てうなずく。
「あそこの会社、何人くらい働いていますか? いえね、私はこの近所で弁当屋をやっているのですが、この不況で売り上げが落ちる一方なもので、今度、会社向けの仕出し弁当をはじめようと思っているのですよ」
そのうち乗り込むことになるかもしれないから、敵陣の様子は把握しておいたほうがいい。
「あそこはだめだよ」
運転手は手を振った。
「ほかの業者が入っています?」
「人がいないもん」
「は?」
「いつも二人くらいしかいない」
そうか、地方営業で出払っているのだ。しかし事務職が二人というのは少なすぎないか。そう思っていたら運転手がこうつけ加えた。
「いつもトランプしててね、倉庫番は楽でいいよね」
「倉庫?」
「そんな感じ。部屋中に荷物が積みあげられている。机も入口のところに一つあるだけだし」
「ここは本社ではない?」
配達の兄ちゃんに尋ねても仕方ないか。
俺はコインパーキングに戻りながらケータイを使った。ダイヤルした先は、蓬莱倶楽部の代表番号である。久高隆一郎が遺した健康食品のパッケージに、笹塚の住所と併記されていた。
留守番電話になっていた。何度かけ直しても機械による応答メッセージしか出てこなかった。
現在、午後四時を回ったところである。平日のこの時間に事務所を空にしている会社があるだろうか。
クレーム対策だと俺は感じた。二十四時間留守電にしておき、クレームをつけてきた人間を門前払いする。もちろん、手をつくせば社員と直接話せる電話番号を調べ出すことは可能だろう。しかし労力を厭う人間は珍しくない。高齢者はとくにそうだろう。留守電だけで相当数のクレームをフィルター処理できるのではなかろうか。
本部と見えた住所が実は倉庫でしかないというのも同じことだ。クレームをつけに押しかけた人間を倉庫番が、自分はアルバイトなので何も知らないと追い返す。実際、倉庫番はただのアルバイトで、業務内容についてはいっさい知らされていないのかもしれない。
腹の奥の方に熱いものがこみあげてくるのを俺は感じた。ふざけるなと憤った。久高愛子の依頼は抜きにしても、このいんちき会社の化けの皮を剥がないことには気がすまなくなった。
だが、公表された住所はダミーであった。本当の巣窟はどこにあるのか。その場所をどうやって探し当てればよいのか。
8
十八日の日曜日、銀座五丁目の古川でランチを食べたのち、有楽町のマリオンで映画を観た。
眠ってしまったのはストーリーが退屈だったからではない。食事と映画の順番が逆だったのだ。ビーフシチューを消化するため、血液が胃に集まり、脳の働きがおろそかになってしまった。
「鼾かいてましたよ。恥ずかしかった」
スタッフロールの最中に背伸びをしていたら、横からそうささやかれた。俺は麻宮さくらとデートしていた。
探偵をさぼっているわけではない。一昨日笹塚から帰宅したあと、俺はあらためて関東圏に住む知人に電話を入れた。今度蓬莱倶楽部のちらしが入ったら即座に連絡してくれと頼んだのだ。無料体験会に出向けば本拠を探り出せるかもしれない。社員のあとを尾《つ》けるという手もある。
人頼みの消極的な方法だが、素人の俺にはこれしか思いつかなかったのだ。とりあえず今は誰かからの連絡を待つしかない。
「眠気覚ましにコーヒー飲みましょうか」
エレベーターで一階まで降りてくると、さくらが言った。
「しつこいと友達なくすよ」
俺はムッと応じた。
「違いますよ。あたしも眠かったの。あくびをこらえるのに必死で、話に入り込めなかった」
と、さくらは口に手を当てるが、表情にあてこすりが感じられる。
「よし。眠気が一気に吹き飛ぶゲームをしよう」
俺は指を鳴らした。
「ゲーム?」
「『伊東家の食卓』ごっこ」
「は?」
「知らない? 『伊東家の食卓』というテレビ番組」
「いいえ」
「お金がなくてもコーヒーが飲める裏ワザを教えてやろう」
「そんなの、わざわざ教えてもらわなくても知ってますよ」
さくらが笑った。
「ほう、どうする?」
「デパ地下で試飲する」
「だめだめ。試飲はほんの一口でおしまいじゃないか。そんなんじゃ眠気は飛ばない」
俺はサングラスをかけて銀座方面に足を向けた。日曜日の人波を泳ぐように数寄屋橋の交差点を渡る。波に呑まれてあっぷあっぷしながらさくらがついてくる。
ここは横に並んで手を取るべきか。実質的初デートで手を握るのは早すぎるか。
迷ううちに目的地に到着してしまった。米国シアトルを発祥とするチェーン店のカフェである。
休日の午後である。テーブル席もカウンター席も満杯で、二つあるレジには長蛇の列ができている。俺はさくらを店の隅に誘導し、とある席を指さしつつ彼女の耳元に口を寄せた。
「ああやって席取りするやつがいるんだよ、結構。とくに若い女」
その席に人の姿はなく、代わりに携帯電話が置かれている。
「信じられない。危ないわ」
「ケータイのほかにも、システム手帳とかバッグとか、ヴィトンの財布を裸で、というのも見たことあるな」
「盗まれないの?」
「そう、不思議なのがそれ。よく見かけるということは、たいして盗まれないという事実があってのことだと思う。いやあ、日本というのは実に治安のいい国だね。こんなことだから、日本人はちょろいと外国人になめられ、外国人による押し込みや車泥棒があとを絶たないんだよ。ついでに、この国で生まれ育った人間が海外でも同じようにふるまって貴重品を置き引きされる」
ふんと笑い、鼻の頭を掻く。
「でも、絶対に盗まれないわけではないし。注意してあげましょうよ」
「無駄無駄。ああいうことを平気でできる神経の持ち主は人の助言なんか聞きやしない。喧嘩売ってるのかと逆ギレされるのがオチだ。だからもしあんたがあの席の彼女のことを思うのなら、注意するのではなく、盗んでやれ。一度痛い目に遭うのが一番の薬だ。やってみる?」
さくらはめっそうもないとばかりに首を振った。
「俺が灸を据えてやってもいいのだが、あいにくケータイはすでに二つ持っている。三つ目はいいや。それより、いま欲しいのはコーヒーだ。まあ待ってな」
俺はサングラスをかけ直して店の奥に向かった。
「アイスコーヒーとアイスラテの方?」
カウンターの中で店員《バリスタ》が声をあげた。
「はい」
俺は元気よく手を挙げ、差し出された二つのカップを受け取ると、回れ右をしてそのまま店の外に出た。
「泥棒じゃないですか」
さくらが血相を変えてついてくる。
「裏ワザ」
俺はアイスラテのカップを差し出す。
この手のカフェは、先に料金を支払い、あとで商品を受け取るシステムになっているのだが、支払いと商品の受け取りが別窓口になっている。飲み物ができたら商品名が告げられ、自己申告で受け取るのだ。番号札が渡されることはない。そのため混雑時には、現在呼びあげられている商品が自分が頼んだものかどうかわからなくなるという事態が発生する。この混乱を衝けば、他人が頼んだ商品を自分のものにしてしまうことが可能なのだ。
「泥棒ですって」
さくらは腰の左右に手を当てて、ぐいと胸を張る。ノースリーブから出た白い腕がやけにまぶしい。
「ギブ・アンド・テイクだよ。オレはコーヒーをもらい、注文したやつには教訓を与えた。都会で気を抜いたら命取りだとね。席取りのケータイを盗んでやるのと同じことさ」
「違います。このコーヒーを注文した人は、席取りの子と違って、何一つ非はありません。悪いのは、番号札を渡していないお店のほうです」
「トレビの泉の前でひったくりに遭ってもそんな暢気《のんき》なことを言うわけだ。ぼんやり待っているほうにも大きな問題があるんだよ。俺はそのことを五百円ぽっちで教えてやった。安い授業料だ」
「詭弁《きべん》です」
「あ、そう。じゃあいらないね」
俺はアイスラテのカップを引っ込めた。
「飲みます」
さくらはカップを奪い取り、ストローに口をつけた。
「そうそう、大切なことを忘れていた。はいよ」
小脇に抱えたデパートの袋をさくらに差し出す。
「何?」
「就職祝い」
「就職? ああ」
「だめだなあ、気合いが入ってないぞ。そんなことではやっていけないぞ」
「たいした仕事じゃないし、なんか悪いです」
彼女はおにぎり屋に勤めることになったという。おにぎりの製造工場ではなく、一つ一つ手で握ったおにぎりを売る店だ。
「これもたいしたものじゃないよ。気に入らなかったらリサイクルショップに持っていってちょうだい」
俺は包みを無理やり押しつけて、
「この裏ワザの欠点は、店内で飲めないことだよなあ。店内でくつろいでいたらバレるおそれがある」
時刻は三時半。八月の太陽は依然として勢力を保っている。俺は木陰を求めて外堀通を横断する。たしか泰明小学校の方に小さな公園があったはずだ。
「あのう……」
後ろでさくらの声がした。
「何?」
「ええと、そのう……」
「まだ文句があるのか?」
足を止め、眉を寄せて振り返る。
「そうでなくって、この間会った時に、その……」
もじもじと、小指の先で泣きぼくろを掻き、さくらは徐々に顔を伏せていく。
「何だよ?」
「知り合いが自殺して悲しい思いをしたことがあると言ってましたよね?」
「え? ああ、まあ」
「もしよかったら、その時のことを詳しく聞かせてもらえませんか?」
さくらは顔を上げた。今度は俺が目を伏せた。
「なぜ聞きたい」
「あたしも真剣に自殺を考えていました。二度と間違いを犯さないためにも、似たような境遇の人の話を聞いておきたいのです。教訓として」
「…………」
「だめですか?」
イエスともノーとも答えず、俺はストローを強く吸い込んだ。
「ごめんなさい。嫌なことを思い出させてしまって。忘れてください」
「嫌ということはないよ。ただの思い出さ」
体を戻し、公園に向かって歩きはじめる。
[#改ページ]
ヤクザ探偵成瀬将虎
ときめくような出会いもなく、十九の夏が終わろうとしていた。
前年、都立青山高校を卒業した俺は、新橋の明智探偵事務所で働いていた。
かの明智小五郎の探偵事務所というわけでは、もちろんない。希代の名探偵にあやかろうと、そう命名されたのでもない。主宰者の本名が明智だったのだ。明智光雄、自称明智光秀の末裔である。
探偵になるのが俺の小さい頃からの夢だった。きっかけは実に単純だ。家にあった探偵小説に読み耽るうちに、自分も知的でスマートな正義の味方になりたいと思うようになった。
掃いて捨てるほどある探偵事務所の中からここを選んだ理由は、恥ずかしながら名前である。明智小五郎や小林少年がいるとはさすがに思わなかったが、明智という名前に、風格というか威厳というか実績というか、そういうものを感じたのだ。
恥をしのんでもう一つ告白すれば、探偵という人間は、警察の向こうを張って犯罪事件に挑むものだと思っていた。富豪の屋敷から忽然と消えた黄金のティアラを追いかけ、土蔵の中で発見された首なし死体の謎を解く。大馬鹿者である。
就職するにあたり、両親は猛反対した。当然である。現実世界の探偵の仕事はというと、身元調査に家出人の捜索、浮気の証拠集めと、日陰でこそこそ動き回っている印象である。部外秘扱いの資料の盗み出しに協力するなど、非合法な依頼に手を染めることも少なくない。悪と対決するどころか、悪そのものである。
頭ごなしに反対され、それでも俺が折れないと、勘当するぞと脅された。そう、あれはたんなる脅しだったのだ。しかし俺も頭に血が昇っていた。勘当上等とばかりに、着の身着のままで実家を飛び出し、新橋の探偵事務所での居候生活が始まった。先年兄の竜悟が亡くなったことで俺に対する親の期待が過剰になっており、そこから逃れたいという気持ちも多分にあったかと思う。
数日の勤務で、華麗なる探偵の幻想が破れた。だが、啖呵を切って家出した手前、どのツラ下げて実家の敷居をまたぐ。負けん気が強く見栄っぱりなのは生まれつきだ。もうやるしかない。沈んだ気分を酒でまぎらせ、先輩の励ましを素直に受け入れ、俺は真の探偵を目指して一歩一歩前進を始めた。
といっても、いきなり現場に出してもらえるわけではない。最初は掃除とお茶汲み、続いて留守番に電話番、半年経っても書類整理に速記、である。俺は新聞社のアルバイト学生かよと、何度辞めそうになったことか。
年が明けてようやく、尾行や張り込みを任されるようになった。その時に明智所長にいただいた言葉が、
「とにかく観察しろ。意味は考えなくていい。見たことをそのまま頭に叩き込んでおけ。そうすればおまえの頭がそのまま貴重な資料となる」
なのである。
けれど最初は、池袋の雑踏で相手を見失ったり、鮨詰めの山手線の中で痴漢に間違われたり、番犬に腕を噛まれたりと、ただ観察することもままならなかった。それでも、他人の秘密を探るという行為は、なんとも甘美な味わいがあり、慣れてくるにしたがって、俺はこの仕事におもしろさを感じるようになった。
そして夏が終わり、ついに大きな仕事を任されるのである。
わがジャイアンツのセ・リーグ制覇も秒読みに入り、毎日のニュースに心がそわそわしていた九月半ばのある日のこと。国会図書館での調べものを終えて事務所に戻るなり、俺を呼ぶ声がした。はいと元気よく返事をし、応接コーナーに行ってみると、所長の明智光雄が山岸正武と向き合って座っていた。
「こんにちは」
俺は両腕を体の脇にぴたりとつけ、ふんぞり返っている山岸正武に向かって、兵隊のようにきびきびと腰を折った。
「おう、坊主、少しは探偵らしくなったか?」
山岸はしゃがれた声で笑った。
「いえ、まだまだです」
俺は直立不動である。
「日々精進しろよ」
「日々精進します」
「まあ座れ」
「はい、座らせていただきます」
俺は所長の横に腰を降ろした。山岸は身を乗り出し、俺の顔を舐めるように眺める。ざらざらした指先で頬をさわったりもする。俺は身を固くして、されるにまかせている。
山岸正武はヤクザである。明智探偵事務所と同じビルに入っている八尋組の若頭補佐で、坊主頭に漆黒のサングラス、目尻と顎に刃物の傷跡、左手の小指の第一関節から先がなく、襟幅の広いシャツにだぶだぶのズボン、尖った革靴と、見るからにおっかない。白い背広には、甘いような苦いような葉巻きの匂いが染みついている。
「あらためて見てみると、ずいぶん童顔だな」
山岸は腰を落ち着け、タバコをくわえた。すかさず明智がライターの火を差し出す。
「すみません」
俺は頭を掻く。
「髭を伸ばせ」
「はあ」
「今日から伸ばせ」
「はあ」
「生え揃ったら、戸島会に行ってこい」
「は?」
「坊主、戸島会の組員になれ」
「え?」
戸島会というのは、新橋の烏森口方面一帯を仕切っているヤクザ組織である。銀座方面を仕切っている八尋組とは敵対関係にあるはずだった。
「戸島会の内偵だ。はじめての大仕事だぞ」
所長が言った。それでも俺はわけがわからない。
「うちの本間は知っているか? ひょろっとして、手と足が猿のように長い」
山岸が言う。
「はい。ちょっと茨城の訛りのある方」
「そう。その本間が三日前に死んだ」
「ご愁傷さまです」
俺はぴょこんと立ちあがると、両腕を体の脇にぴたりとつけて頭を下げた。
「お義理はいいから、まあ聞け。本間は殺されたんだ。それはよくあることさ。だが、その殺され方が、俺たちから見ても、目を覆いたくなるようなありさまでね。おい、いいかげん座れよ。話は長いぞ」
そして山岸が語ったところによると、本間善行は入谷のアパートに、同じ組の松崎大祐と一緒に住んでいた。九月十日の朝のこと、松崎が千住の女の家から帰宅すると、部屋の中で本間が死んでいたという。本間は全裸で、腹が縦横に切り裂かれ、内臓がぐちゃぐちゃに飛び出していた。室内の様子も尋常ではなかった。卓袱台《ちやぶだい》がひっくり返り、箪笥が引き倒され、布団が破れ、壁のカレンダーが落ちと、修羅場の跡が生々しく残っていた。
「腕がもげたのやら、耳が落ちたのやら、俺もいろんな死体を見てきたが、本間ほどひどいのははじめてだった。メッタ刺しの死体はそう珍しくないよ。だが、胃や腸まで引きずり出されてるのはな……。若い連中はみんなゲーゲー吐いていた」
聞いているだけで酸っぱいものが込みあげてきた。
「さて、一つテストしてみるか。誰が本間を殺ったんだろうね、未来の名探偵さんよ」
「そんなあ。あれだけの話では考えようがありません」
俺は顔の前で手を振った。
「なさけないこと言うな。わかることもあるだろうが」
サングラス越しに睨みつけられ、俺は必死に考える。
「ええと、殺され方から判断して、押し込みや単純ないざこざとはとても思えません。犯人は本間さんに相当な恨みを抱いていたと考えられます。あるいは、重度の狂人の仕業」
「そのとおり。しかし、本間の周辺を調べてみたが、やつを恨んでいるような人間は見あたらない。もちろん、こういう稼業だから、知らず知らずのうちに誰かに恨まれているかもしれない。けれど、やつはまだ駆け出しだ。あそこまでの恨みを買うようなことはしてないはずだ。それから、通りすがりの狂人に襲われたということも考えにくい。こういう稼業をしていると用心深くなってな、普通、見ず知らずの人間の来訪に、玄関を開けるようなことはしない。ことに、昼間襲われたばかりだったから、より警戒していたはずだ」
「襲われた?」
「戸島会のニワ場で一悶着あってな。で、昼間そういうことがあって、その晩、本間は惨殺された。となると、昼と夜の事件を関連づけて考えたくなるのが人情というものだろう。だが二つを結びつける証拠がない。さあ、これで話が戻った」
ニワ場とは縄張りのことである。
「本間さんの殺害に戸島会が関与しているか否かを確かめたい。その内偵を僕に?」
「察しがいいボクちゃんだな。将来有望だ」
山岸はニッと笑ってタバコを灰皿に押しつける。
「でも、内偵って、どうやって?」
困惑し、所長に目を送った。こっちは探偵のイロハもろくに知らないのだ。おまけに相手はヤクザである。
「読んで字のごとしだよ。戸島会の組員になる。組員になって、中から調べる。要するにスパイだ」
「組員になる? バカな」
「バカな?」
山岸がサングラスをはずした。笑いはなく、目をぎょろりと剥いている。
「あ、いえ、すみません。でも、どうやって組員になるのです。入りたいと言えば誰でも入れてくれるのですか?」
「心配するな。お膳立てはしてやる」
「どうやって?」
「いいから任せておけ」
「はあ、でも……、どうして僕に……」
「白羽の矢が立ったのか? それはトラが一番自由が利く立場にあるからだよ」
所長が言った。要するに、ほかの所員は忙しく、現在抱えている仕事を放り出させるわけにはいかないということか。いや、ほかの所員は有能なので、万が一のことを考えると、生命を危うくするような仕事はさせられないということなのだろう。
と頭では理解できても、はいそうですかとは返事できない。体格はいいほうだが、殴ったり蹴ったりするのは好きではない。一時的とはいえ、極道の世界に足を踏み入れたとなると、親に申し訳が立たない。内偵終了後、足を洗える保証はあるのかという疑問もある。それ以前に、スパイであることが発覚したら、指の一本や二本、いや命さえも覚悟しなければならない。
うつむいてもじもじしていると、山岸がテーブルの下から蹴りつけてきた。
「金玉ないのか?」
「ありますよ!」
と顔を真っ赤にしてみるものの、すぐまた、「でも……」とうつむいてしまう。
「坊主、『でも』が多いぞ」
「でも……、犯人はいずれ警察が捜し出してくれるのでは」
何気なく素朴な疑問を口にした。すると恫喝が待っていた。
「バカたれ! ヤクザがサツを頼ってどうする」
俺は身を縮こませながらも、小声で反論する。
「でも、向こうは大人数で調べているのだから、僕一人が戸島会に潜入したところで……」
「サツは調べてない」
「え? でも――」
「二度と『でも』を使うな」
「あ、はい」
「本間のことはサツに知らせていない。いいか、憶えておけ。この稼業に身を置く者は、降りかかった火の粉は自分で振り払う。だから本間の死体を発見した松崎も、サツなんかに届けず、組に連絡してきた」
「で――、いえ、現場のアパートは八尋組の貸し切りですか?」
顔をあげ、尋ねる。
「いいや。早稲田の学生もいるし、亭主と死に別れたおばちゃんもいる」
「その人たちも警察に知らせていないのですか? というのもですね、本間さんの部屋はめちゃめちゃに荒らされていたのですよね?」
「そうだ。大震災でも起きたようなありさまだった」
「だったら、アパートのほかの部屋の人たちも、本間さんの部屋の争いを耳にしているはずです。すると、松崎さんが隠していても、ほかの住人によって警察に通報されてしまうような気がするのですが」
「ほう、探偵らしいことを言うじゃないか」
山岸は明智に笑いかけて、
「あの部屋にはヤクザが住んでいると、アパートの人間はみな知っている。部屋で花札や麻雀をやって、いかさまだ、金払え、ぶっ殺す、の騒ぎは日常茶飯事だ。だから、またくだらないことで喧嘩しているのだろうと思い、放っておいてくれた」
ああそうですかと俺は納得する。
「そういうことだから、髭が生え揃うまでの間に準備を整えておくように」
所長に肩を叩かれる。何の準備をしろというのだ。着替えを用意しろというのか。それとも遺書を書いておけ?
「いくつか質問していいですか?」
おずおずと、上目づかいに尋ねる。おうと山岸はタバコをくわえる。
「本間さんの事件についてもう少し情報をください。でないと内偵のしようがありません」
「やる気になったか」
山岸がニッと黄色い歯をこぼす。やる気も何も、断わったらどのような事態が待っているかわからない。
「本間さんの部屋での争いはアパートの住人が聞いているのですよね」
「ああ」
「争いがあったのは何時ですか?」
「夜の十一時頃だ」
「どのくらい続いたのでしょうか」
「四、五分だったらしい。突然ぴたりとやんだというから、そのとき殺られたと考えていいだろう」
「争っていた相手の声の特徴は?」
「とくには。バカでかかったというだけで」
「どういう文句を言っていたかは?」
「『殺せ』とか『やめろ』とか、あとは意味不明の、咆哮《ほうこう》のような罵声、怒声」
それでも警察に通報しなかったのだから、普段からそんな物騒な言葉が飛びかっていたのだろう。自分はこれからそんな世界に飛び込まなければならないのかと思うと、そら恐ろしくなる。
「相手は何人くらいいたのでしょうか」
「わからない。仕方ないさ、荒っぽい声は聞き分けがつかないものだ。ただ、女の声はしなかったらしい」
「松崎さんが帰宅してきたのは何時です?」
「朝の九時」
「部屋から盗まれたものは?」
「ない。明智さんよ、なかなか頼もしいじゃないか」
山岸が所長に笑いかける。俺はえへへと表情を崩して頭を掻く。しかし所長は、
「メモを取らないと二度手間になるぞ」
俺はあわてて席を立ち、筆記用具を取って戻ってきて、引き続き山岸に質問をした。
「部屋への出入りを見かけた人はいないのですね?」
「いない」
「アパートの外で不審な人物を見かけたという話も」
「ない」
「それから、話は変わりますが、殺された日の昼間に起きた悶着とは、具体的にはどういうことなのでしょうか」
「おう、それなんだが――」
山岸は足を組み直して、
「うちのしのぎの一つにクスリがあることは知っているよな? クスリといっても風邪薬や頭痛薬とは違うぞ。専門的に言えばメタンフェタミン、お上は覚醒剤と呼んで目の敵にしている」
「あ、はい」
「九日の日中、本間は、松崎と、もう一人久保田というやつの三人で、都内のあちこちにクスリを運んで回っていた。そしてその途中、戸島会の連中の襲撃に遭い、クスリを大量に奪われた。段ボール箱半箱分だ」
「本間さんは、襲撃してきた人間の顔を見ていなかったのですか?」
「見ていたら内偵など頼まない。後ろからガツンとやられたので、特徴すらわからない」
「でしたら、お言葉を返すようですが、戸島会の人間であると断定はできないかと思いますが」
「あのな、襲撃に遭ったところが戸島会のニワ場だったんだよ。つまりうちの組が領土を侵して商売していたわけだ。そういうのはこの世界ではよくある話なのだが、ただし、見つかったらただではすまない。だから、断定こそできないが、戸島会の連中にやられたと考えるのが妥当だ」
「クスリの配達先に話は聞きました? もしこの襲撃が本当に戸島会によるものなら、よその組と取引したということで、配達先にも制裁がくだされるのではないでしょうか」
「問い詰めた。戸島会など知らないの一点張りだ。だが額面どおりには受け取れない。戸島会に脅され、口止めされているとも考えられる」
しかし疑問は残る。
「本間さんを襲撃してクスリを奪ったことで、戸島会は目的を達したのではないですか。殴り足りないと感じたとしても、部屋まで行って追い討ちをかけることもないように思うのですが。普通、逆じゃないですか? 昼間の恨みを晴らそうと、夜になって、本間さんが戸島会の者を襲う」
「二度とニワ場を荒らすなという警告で殺したと考えることはできる。見せしめだな。ただ、わざわざドヤまで押しかけるというのは、俺も少々釈然としない。昼間殺っちまえばよかったんだしな。だから、関連をはっきりさせるため、戸島会の内偵を頼んでいる」
「見せしめとはいえ、内臓が出るほどメッタ刺しにするでしょうか」
「いや、それは説明がつく。坊主は人を刺したことはあるか?」
俺はぶるぶる首を振る。
「ドスを使い慣れているやつは急所をひと突きして仕留めるが、慣れてないやつは闇雲に刺すのよ。相手がとうに絶命していても、まだ生きていると思い、刺し続ける。反撃が怖くて手を休められないんだよ。本間を殺ってこいと送られたのが戸島会の下っ端なら、ああいうめちゃくちゃな刺し方をしても何の不思議もない。概して、直接手を汚す役は三下にやらせるしな」
これには納得がいった。だが、それと代わって、実に根元的な疑問が芽生えた。
「ヤクザなのに、どうして折り目正しいのですか? あ、すみません」
思った先からつい口走ってしまい、あわてて手を振りたてた。
「どういう意味だ?」
山岸が顔を突き出した。眉間には縦皺が寄っている。
「ごめんなさい。何でもないです」
テーブルに額がつかんばかりに頭を下げる。
「男なら、一度口にしたら最後まで言え」
「どうでもいいことなんですけど……」
「はっきり言え」
「じゃあ、言います。あの、その、お話を伺っていると、絶対ではないけれど、かなりの確率で戸島会が殺ったと睨んでいらっしゃるように思えます」
「そうだ」
「でしたら、さっさと戸島会に殴り込みをかければいいじゃないですか。証拠とか、昼間の襲撃との関連性とか、どうしてそんなまどろっこしいことを気にしているのです」
「トラ、やめないか」
所長が止めに入ったが、俺の舌は止まらなかった。
「証拠にこだわるのはヤクザでなく警察ですよ。いや、警察だって昔は、印象だけで逮捕して、無理やり自白を引き出していた。今もそうかもしれない。なのにどうしてヤクザがきちんと手続きを踏むのです。とりあえず殴り込み、適当な人間を掴まえて、実行犯を吐かせればいい。ついでに、昼間の襲撃を行なった連中も血祭りにあげる。本間さんの殺害を命じた上の人間もぶち殺す。いや、どうせだから、これを機会に戸島会ごとぶっ潰せばいい。そしたら新橋一帯は全部八尋組のものになる」
ここまで言って息が切れ、俺は咳き込みながらわれに返った。しゃべるうちに自分の言葉に興奮してしまったそのさまは、さながらドスの扱いを知らない三下ヤクザであった。横では所長が山岸に詫びている。腕が伸びてきて、おまえも謝れと俺の後頭部を小突く。
だが意外なことに、目の前からは笑い声が返ってきた。
「坊主、ヤクザは狂犬病に罹った野良犬じゃないぞ」
「すみません」
俺は身を縮こませる。
「こんな街中でドンパチやれば、一般人も多く巻き添えになる。ヤクザというのはな、堅気あってのヤクザなんだよ。堅気さんに金を落としてもらうことで俺たちの生活が成り立っているんだよ。ギブ・アンド・テイクさ。それを忘れちゃならねえ。だから、世間さんに煙たがられるのは仕方ないとして、世の中全体を敵に回すようなことをしてはだめだ。それが真の任侠《にんきよう》というものだろうが」
「はい」
「社会の目も昔と違って厳しい。そういうことを考えず、勢いだけで切った張ったするヤクザは、これからの時代、絶対に生き残っていけない。その点うちは社長の方針で、近代的民主的平和的な組織を標榜している。そうよ、親分でも組長でもなく、社長なんだよ、うちは。若頭は専務で、俺も若頭補佐でなく常務だ。法務局に登記済みのれっきとした株式会社は良識ある行動を取らなければならないのだよ。
もちろん、本間のことはかならず落とし前をつけさす。殺ったやつはぶっ殺す。ただ、今の段階では戸島会が殺ったという証拠がないから、ここで戸島会に出向いたところで、殺った殺らないの押し問答のすえ、ドンパチするしかない。それは新橋一帯を血の海に染めることになるから避けたいと言っているんだよ。わかるか?」
「はい」
「だから証拠が欲しい。それを持って戸島会に乗り込み、実行犯や指図した人間の引き渡しを要求する。あのな、世間は誤解しているが、ヤクザほど話がわかる人種はいないぞ。ヤクザというのは筋を重んじる。きちんと筋を通して話をすれば、かならず筋の通った答が返ってくる。政治家や役人とは違うんだよ。本間の件についても、筋の通った証拠を見せれば、向こうの親分は、関係した連中を差し出してくれるはずだ。それで手打ちだ。向こうも騒ぎを大きくはしたくないだろうし、抗争が長引いてお互い疲弊すれば共倒れのおそれが出てくるから、手打ちの盃は受けるだろう。敗戦直後、この新橋と渋谷を股にかけた大抗争があったのを知っているか?」
「いいえ」
「敗戦の翌年のことだ。闇市のマーケットを仕切っていた組と台湾華僑が対立して、組長を暗殺するわ、通りで機関銃をぶっ放すわで、やって、やり返してを、日々繰り返していた。そのうち、芝浦、巣鴨、新宿、浅草と、東京中から助っ人ヤクザが集まってくる。まさに戦争よ。買い物客の足は遠のき、露天商もよそに移っていった。で、結果はどうなったかというと、抗争は警察によって鎮圧され、両組織は骨抜きにされちまった。そうやって弱体化してくれたことで、うちが新橋に入ってこられたわけだ。戸島会もな。しかし、せっかく漁夫の利をかすめ、長い時間をかけて現在の繁栄を築くにいたったというのに、ここで抗争を始めたら、今度はうちらがどこかの組に追い出されてしまうぞ。それは戸島会もわかっているだろう。過去から学ばない人間は、猿以下の動物と一緒だ」
俺はのちに、山岸が大学出のインテリだと知る。だがこの時の俺は、山岸の蘊蓄《うんちく》に感心する余裕はなかった。
「向こうの親分が、本間さんを殺せと指令していたらどうするのですか。全面戦争するしかないのでは……」
そんなのに巻き込まれたくないという思いからの質問である。
「三下風情を殺るのに組長自ら指令を出すことは絶対にありえない」
少し安心する。
「もう一つ勘違いを正しておく。俺は戸島会が怪しいと踏んでいるが、決め打ちではない。やつらが犯人でないのなら、それでいい。しかし戸島会が犯人でないとしても、本間の敵討ちはかならず行なう。だから、戸島会と離れたところでも犯人を捜す手筈は整えてある。ドヤの近所の聞き込みをしたり、本間と接点のあった人間を虱潰《しらみつぶ》しにあたったりという、普通の探偵活動だな」
「三岡と林に任せた」
と明智。どうしてそっちの担当にしてくれなかったのかと泣きたくなる。
「ほかに質問は? 何かあったら、いつでも聞きに来い。髭が生え揃うまでにはまだ時間があるからな」
山岸は金の腕時計に目をやり、タバコの火を消す。
「お疲れさまでした」
俺はさっと立ちあがり、両腕を体の脇にぴたりとつけ、兵隊のように腰を折った。こうなったら腹をくくるしかない。
ジャイアンツがリーグ優勝を決めた翌日、銀座で妹と会った。
四丁目交差点の三越前で待ち合わせたところ、案の定、綾乃は俺の存在に気づかず、こちらから声をかけると、二、三歩退かれた。
角刈りにハンチング、レイバンのサングラスをかけ、鼻の下にはまばらに生えた髭、白地に赤のアロハを着て、だぶだぶのズボンを穿き、靴は先の尖った白いエナメル――どう見てもチンピラである。俺も泣きたい。
この日は月曜日だったが、秋分の日でもあった。つばめグリルのハンブルグステーキにありつくまでに一時間待たされ、数寄屋橋近くのカフェに入るのにも行列に並ばされた。隣の喫茶店は半分も席が空いていたというのに、こっちのカフェが今一番おしゃれなのだと言って譲らないわがまま娘のせいだ。
三十分経ってようやく席を確保できた。しかし少しも落ち着けない。混雑しているからでなく、周囲の視線が妙に気になる。
この時、わが妹は都立三田高校の二年生。現在の彼女とはまるで違い、髪は日本人形のような漆黒のストレート、服装も白いブラウスに紺のスカートで、化粧気もピアスの穴もなく、いたって地味なたたずまいをしていた。そんな、お嬢様とまではいかないが、清楚な出で立ちの少女が、チンピラ然とした男と向き合って座っている。二人はどういう関係なのだろうかと、周囲の興味を惹いて当然だった。
だが、綾乃はたいして気にしてない様子で、黙々とパフェのスプーンを動かしている。俺は人の目をさえぎるように背中を丸め、ストローをかじるようにしてアイスコーヒーをすすっている。
ジャイアンツは優勝した。次はホークスを倒して日本一だ。なのにシリーズに思いを馳せる気分にならない。この沈んだ気分はどうしたことだ。
「ふーん、喫うの」
綾乃が顔をあげ、軽蔑したような目をよこしてきた。
「悪いか」
俺は彼女を睨み返し、火を点けたばかりのタバコを勢いよく吸い込み、そして激しくむせ返った。まだ喫い方がよくわからない。これも山岸に命じられてはじめたものなのだ。
「最近知ったんだけど、未成年者喫煙禁止法って、明治三十三年にできたんだって。日本国憲法より古いんだよ」
綾乃は鼻先を大仰にあおぎ、パフェに戻った。
「親父やお袋には言うなよ」
「怖いの?」
「怖いかよ。怖かないけど、余計な心配をかけたくない」
「心配かけたくないのなら、帰ってきなさい」
「うるさい」
俺は正面に向かってめいっぱい煙を吐き出して、
「こんな恰好をしていることも内緒だぞ。これはあくまでも仕事着なんだから」
「へー」
「本当だ。探偵はな、いろいろ変装しなければならないんだよ」
「大変だこと」
綾乃はまったく気のない様子でウエハースをかじる。
こうやって外で妹と会うのは、今日にはじまったことではない。ひと月おきに呼び出し、食事やコンサートに連れていってやっている。いや、妹思いというのは大義名分で、要するに俺は実家の情報を知りたく思っているのだ。
俺と会うとき妹は、決まって何かを持ってくる。シャツ、ズボン、タオル、石鹸、食品――綾乃が用意したとはとうてい思えない。母親が持たせているのだ。つまり俺の行状は実家に筒抜けなのである。恥ずかしくて確かめてはいないが、そうに決まっている。靴下の中に折り畳んだ紙幣が入っているのを見つけた時には、嬉しさと情けなさで涙が出たものだ。まったく、これでは家出ではなく、ただの独り暮らしである。
だが、今日妹を呼び出したのは、いつもとは意味が違っていた。そもそも前回会ってから半月しか経っていない。
「預かってくれ」
綾乃がパフェを食べ終えるのを見計らい、俺は一通の封筒を差し出した。
「何?」
上書きはない。封も糊付けされている。
「いいから」
「お金、のわけないよね」
綾乃は封筒を受け取り、窓にかざす。
「中は見るな」
「こんなことしても透けないよ」
「封を切るなということだ。絶対に中は見るな」
「そんなこと言われると、かえって見たくなる」
綾乃はくすりと笑い、封筒の端を指でつまんだ。
「開けるな!」
その手を指さし、俺は怒鳴った。客の目がいっせいに集まる。
「帰ってお母さんに渡せばいいの?」
綾乃は顔の半分をしかめ、怒ったように言う。
「渡すな。おまえが持っていろ」
「持っててどうするのよ。お守り?」
「何も聞くな。そして俺に何かあったら、親父とお袋に渡してくれ」
「何か?」
「何かがあったら、何かがあったとわかる」
「はあ?」
「わからなかったら、何もなかったということだ。その場合は渡さず、おまえがそのまま預かっておいてくれ。そのうち返してもらうから」
「禅問答みたい」
「とにかく、おまえは中を覗くな。絶対だぞ」
「わかりました」
綾乃は封筒をバッグの中に収めた。
「読んだら殺すぞ」
チンピラのように凄んでみせ、俺は席を立つ。
封筒の中身は遺書である。万が一の場合に備え、両親に宛てておいた。
結局俺は、山の手育ちの坊ちゃんなのである。そう自覚しているだけまだましだと、愚にもつかぬ自己分析に酔いしれている甘ちゃんなのである。
そして俺は戸島会の一員となった。綾乃に遺書を託した翌晩のことだ。
銀座の裏通りを一人で歩いていた戸島会の田辺賢太は、突然首筋に手刀を落とされ、羽交い締めにされ、ビルとビルの間の狭い通路に連れ込まれた。相手は二人、しかもいずれもプロレスラーのような体格をしており、田辺はまったく抵抗できない。そこに颯爽と現われたのが俺。覆面の二人組を、殴る、蹴る、絞める、投げるで、二人組は、憶えてやがれと捨て台詞を残して逃げ去っていった。
クサい芝居だ。しかし田辺が俺を見る目はきらきら輝いていた。そして俺が、地方から家出してきて食事にも寝床にも困っている、仕事を世話してもらえないかと言ってみたところ、二つ返事で「兄貴」の元に連れていってくれた。で、戸島会に世話になることになった次第。盃は受けていないので見習い扱いなのだろうが、ともかく戸島会の末席に名を連ねることに成功した。
田辺賢太は俺と同じ十九歳で、戸島会の中では三下中の三下、兄貴たちからケンタと呼び捨てにされている。こいつとは早々に兄弟の盃を交わした。四分六の兄弟だ。ケンタが盃を六分空け、残りの四分を俺が飲んだ。つまり俺の方が二分格下ということで、俺はケンタのことを兄貴と呼ばなければならない。助けてやったほうが弟分とは納得がいかないが、本当に助けたわけではないので、よしとしよう。
口利きをしてくれた兄貴は松永力という。歳は二十代後半で、ヒラの組員の頂点に立っている。幹部連の会合にも呼ばれているので、早晩若衆に取り立てられるのだろう。
そして俺に寝床を提供してくれたのが世羅元輝である。松永の兄貴の許可を得て、戸島会のトラックの荷台で寝起きしていると、哀れに思ったのか、世話をしてやると彼のドヤに連れていってくれた。
世羅は、階級的には松永とケンタのちょうど中間あたりで、歳のころは二十三、四、細面に切れ長の目、高く尖った鼻に薄くめくれた唇、額に垂れた一筋の前髪と、ヤクザというより俳優を思わせる面立ちの、男も惚れそうないい男なのだが、言葉数が少なく、めったに笑わないため、人間の底が見えず、薄気味悪い印象を与えてくる。いや、恐ろしささえ感じる。二人きりの時に、間が持たないからといって駄洒落でも飛ばそうものなら、黙ってブスッと刺されそうな、そんな恐ろしさだ。八尋組の山岸とは違った意味で俺の苦手なタイプであった。
ドヤに連れていかれて、世羅という男がますますわからなくなった。目黒不動尊に近い木造平屋の古い借家なのだが、部屋には女がいた。いわゆる情婦《イロ》である。そこは狭いながらも三間ある家だったので、着の身着のままの人間一人を置いてやる空間はあった。しかし普通、女と二人で暮らしているところに若い男を同居させようとするだろうか。二人が老夫婦なら話は別だが。
しかも、居候をはじめてしばらくしてわかったことなのだが、その家は実は世羅のものではなかった。情婦が借りている部屋なのだ。女のところに転がり込んだ世羅が、部屋の主とは縁もゆかりもない人間を、部屋の主に相談もせず、住まわせることにしたのである。連れてくる感覚も、それを許す感覚も、俺の常識ではまったく理解できなかった。
情婦は、名を江幡京といった。歳は世羅より五つ六つ上に見えた。だが、姐御肌《あねごはだ》で世話好きというような感じの人ではなかった。声は小さく、俺にも丁寧語を使い、態度も控えめで、猪口《ちよこ》一杯の酒で顔を真っ赤にする。化粧は薄めで、服も淡色のものを好んで着ている。仕事も夜の商売でなく、渋谷で事務員と、まったくもって堅気である。そんな女性がヤクザの言いなりになっているのだから、もしかして借金のカタに言うことを聞かされているのではと、妙な想像もしてしまう。
驚きはそれにとどまらない。俺が襖一枚向こうで寝ているにもかかわらず、ことを行なうのである。ちょっと散歩でもしてこいと追い出されることもない。京が声を押し殺す様子もない。
もしかすると彼らは、俺を人と思っていないのかもしれない。犬か猫でも飼っているつもりなのではないか。人間とは違う生き物なので、横でセックスしてもまったく気にならない。
しかしこっちは大いに気になる。ことがはじまってしまってから外に出ていくのは余計に気恥ずかしく、結局、寝たふりをして悶々とするしかない。吉原に行ってすっきりしてくるだけの財力もない。こんなことならトラックの荷台のほうが熟睡できたのではと思う俺であった。
戸島会での俺の仕事は、事務所の掃除、親分の車の洗車、トラックの荷物の積み卸し、神棚へのお供え、お茶汲み、タバコの買い出しと、明智探偵事務所の雑用係を卒業したばかりなのに、また一から出直しである。こと掃除に関しては異常にうるさく、爪の先ほどの綿埃が残っていようものなら、容赦なく鉄拳が飛んできた。だが俺は歯を食いしばって理不尽に耐えた。
俺は立派なヤクザになるために戸島会に入ったのではない。本来の目的は片時も忘れていない。聞き込みは魚と同じで鮮度が命である。時間が経ったら記憶が薄れ、証言が不正確になる。
けれど何ごとにもタイミングというものがある。まずは上の者からの信用をかち得ることが大切だろう。九月九日の午後十一時頃どこにいたか、八尋組の本間善行を知っているか――顔も名前も憶えられていないうちからそのような質問をぶつけたのでは、逆に詰問されること必至である。山岸からも、一週間やそこらで結果が出るとは期待していない、年内を目標に内偵を行なえ、と言われていた。
俺は毎朝七時に目黒のドヤを出、夜の八時九時まで新橋の事務所に詰め、やる気のあるところをアピールしていった。客分として出入りしている者や、友好関係にあるよその組からの使いにも、積極的に顔を売っていった。その結果、俺はみなから「トラ、トラ」と猫のように呼ばれてかわいがられるようになった。
十月に入り、ジャイアンツが見事日本一に輝いた頃には、戸島会の組織図が頭の中に叩き込まれ、組員の性格や癖もかなり把握できてきた。一部の人間に関しては九月九日のアリバイも確かめられた。
そんな中、相変わらずわからないのが世羅元輝である。口数の少なさも、質問を寄せつけない雰囲気も、出会った時のままで、掴みどころがない。
戸島会に入ってわかったのだが、ヤクザという人種は自己顕示欲の塊である。不幸な生い立ち、はじめて人を刺した時のこと、刑務所での苦労――一を訊いたら十も二十も返ってくる。初対面の幹部連であっても、うまくヨイショすれば、よく訊いてくれたとばかりに武勇伝の二つや三つ開陳してくれる。ところが世羅にかぎってはそういう気安さがまったくない。心にいくつもの鍵がかかっているような感じなのだ。
もちろん、昼も夜も顔を合わせているわけだから、見えてきたことはいろいろある。たとえば、江幡京のほかにも女がいるらしいということ。夜も更けてからふらっと出ていって、朝まで帰ってこないことが、週に一度はある。酒や麻雀とも考えられるが、しかし京の様子を見ていると、ただの遊びではないような感じがする。世羅が出ていくと決まって、彼女はまずふさぎ込み、しばらくののち急に饒舌になり、トランプをしようか、夜食でも作ろうか、などと言い出す。悲しさや不愉快さをまぎらすためにペットに話しかけているのだ、たぶん。
世羅の凶暴性もかいま見た。彼は普段、無口なだけでなく、手のほうもおとなしい。ほかの兄貴たちは何かというと、態度がなっていないと弟分の頭に拳骨を落とし、肩が触れたと通行人に因縁をつけるのだが、世羅は絶対にそのようなまねはしない。だが、夜になると、彼はしばしば牙を剥く。情婦の顔に平手を飛ばし、足の裏で肩口を蹴りつけ、手の甲にタバコの火を押しつけるのだ。俺がいてもおかまいなしだ。
理由は、味噌汁がしょっぱいとか、着替えが用意されていないとか、たぶんそんなところなのだろう。たぶん、と前置きがつくのは、何も言わずに唐突に手を出すからだ。事後の説明もいっさいない。暴力をふるったあとは、いつもの無表情に戻り、黙々と箸を動かす。凄んだり怒鳴ったりするよりも、感情を見せないことのほうが恐ろしいのだと、俺ははじめて知った。一方殴られたほうはというと、しばらくうずくまったあと、ごめんなさいと頭を下げ、それで終わりである。
江戸川乱歩の小説にしばしば、マルキ・ド・サドの流れをくんだ残虐色情者というのが出てくる。傷や痣《あざ》ができるほど肉体を痛めつけられることに悦びを感じている被虐色情者というのも出てくる。世羅元輝と江幡京はSMのカップルなのだろうか。他人の前で夜の営みを行なうというのも、どこか変態じみている。しかし、襖一枚向こうから漏れてくる音を聞くかぎりでは、京が叩かれたり縛られたりしている様子は窺えない。すると世羅が京に行なっているのはただの虐待ということになる。
世羅がまたぞろ黙って出かけてしまったある晩、兄貴も少しやりすぎですよねと、京にそれとなく言ったことがある。ただで住まわせ、飯も食わせ、洗濯もし、なのに浮気をされ、暴力をふるわれる。こんな理不尽があっていいのだろうか。京はおまけに、金もむしり取られている。世羅はしょっちゅう、当然の顔をして、京の財布から札を抜いている。彼はその金で、どこかの女に食事をおごり、服でも買ってやっているのだろう。傍観している俺がそう思うくらいだから、当事者である京はもっと心が掻きむしられるような想像をしているはずだ。
ところが京は、いいのよ、あの人はまだ子供だからとほほえむだけであった。
歳上の彼女は、世羅の壊れたようなところに母性本能をくすぐられているのか。そう直截に尋ねるわけにはいかないので、二人のなれそめはと訊いてみると、京はうふふと笑い、横浜で出会ったと答えただけで多くを語ろうとしない。ただ、その時のうっとりとした表情を見ていると、ヤクザな男を拒んでいるようにはとても思えなかった。
愛の形は様々である。男と女の関係は理屈では説明がつかないものなのだ。ただ、十九歳の小僧には、それを理解できるだけの頭がなかった。
十月も終わりになると、少しはヤクザらしい仕事をさせてもらえるようになった。
ニワ場にある飲食店を回り、みかじめ料の徴収を行なうのだ。といっても俺は金魚の糞であり、兄貴の取り立てを後ろから見ているだけだ。ただし、支払いを渋る店主がいた時には、睨みつけたり、怒鳴ったり、ごみ箱を蹴飛ばしたりする。
そしてもう一つ、覚醒剤の運搬も行なうようになった。芝浦や横浜のブローカーから散剤のブツを仕入れ、都内各所の得意先に配達する。これも俺一人に任されたのではなく、兄貴たちの手伝いである。
戸島会も八尋組同様、覚醒剤の密売に力を入れていた。なぜなら覚醒剤の密売は利幅が大きい。いったんクスリ漬けになった人間は、際限なくクスリを求める。価格を釣りあげても買ってくれる。みかじめ料をしこしこ集めるより、はるかに効率よく儲けることができるのだ。そのため、八尋組がそうだったように、戸島会も自分のニワ場を越えてブツをさばこうとしていた。そして事件はよその組の縄張りにおいて起きた。十一月五日のことである。
その日俺は世羅の兄貴とケンタにくっついて、組のトラックでクスリを配達して回っていた。トラックといっても小型のもので、座席に三人かけることができないため、一人は荷台に乗って移動していた。当然、下っ端の俺が荷台である。納品先に到着したら、二人がクスリを持っていき、一人は車に残る。車を空っぽにしたら、それまでに集めた金と残りの荷物を盗まれるおそれがあるからだ。居残りは、三人が代わる代わる務めた。
事件は赤坂の路地で起きた。Sというクラブへの配達のため、外堀通に車を停め、世羅とケンタが歩いて店に向かった。Sはビルの一階から三階までを使った都内有数のクラブで、客を相手にクスリの小売りを行なっている。戸島会にとっては五本の指に入る得意先だ。
兄貴たちが車を出ていったのち、俺は荷台から運転席へと移動し、シフトレバーを握ったり、アクセルペダルを踏み込んでみたりと、見よう見まねで憶えた車の操作をシミュレートしていた。クスリの配達を手伝うようになってから、自分も運転してみたいという欲求が日に日に高まっていた。暇ができたら免許を取りにいくぞと心に決めていた。そのためには、一日も早く内偵をやり終えなければならないのだが。
前方から白い光が近づいてきて、このおんぼろトラックの横を通り過ぎ、溜池方面に走り去る。後方からやってくる車はテールランプの赤い光の帯を曳きながら見附の交差点の方に消えていく。横の歩道では、背広姿の男たちがせかせかと足を動かし、地下鉄の赤坂見附駅に吸い込まれていく。帰宅を急ぐ彼らを誘うように、通りに面した建物の壁では、赤や青のネオンが明滅している。そういう時刻である。
「ちくしょう!」
不意に助手席のドアが開いた。ケンタだった。俺はあわててエンジンを切った。クラッチをつなぐ練習をしていたところだった。
「どうしたのです?」
そう俺が尋ねたのは、己の不始末を取り繕おうとしたからではない。ケンタが右目を押さえていたからだ。左手は胃のあたりを押さえ、苦しそうに前かがみになっている。
「ちくしょう!」
ケンタは俺を無視してダッシュボードを開けた。そして中を引っかき回すと、奥の方から黒光りするものを取り出し、それを上着の懐に突っ込んで助手席を飛び降りた。人波に逆行して歩道を進み、路地に姿を消す。
俺もあわてて車を降り、ケンタのあとを追った。彼が持って出たのはピストルだった。
路地に入って最初の曲がり角の先にケンタと世羅がいた。
「連中は?」
上着の懐に片手を突っ込んだまま、ケンタが言った。
「逃げられた」
世羅はかぶりを振った。
「兄貴、どうしたのです?」
俺は小声で声をかけた。なぜか世羅も背中を折り、腹を押さえている。もう一方の手は、まるでひどい頭痛がするように額に当てられている。
「おい、何してる」
俺を見て世羅が目を剥いた。世羅の額に三センチくらいの瘤《こぶ》ができていた。
「田辺の兄貴の様子がただごとではなかったので、何があったのかと……」
「戻れ!」
一喝され、俺はビクッと身をすくめた。
「車を空けるバカがいるか」
ケンタは血相を変えて路地を大通りの方に駆けていく。わけがわからないが、俺もあとをついて走る。
トラックまで戻ると、ケンタは幌を掻き分け、荷台に飛び乗った。俺はようやく異状に気づいた。荷台の段ボール箱の山が崩れ、中には蓋が開いているものもある。ケンタは箱の一つ一つを覗いていたが、やがて「ちくしょう!」と一声叫ぶと、荷台を降り、俺の胸倉を掴んだ。
「貴様が車を離れたから、クスリを奪われたじゃないか」
「え!?」
理解できたようでもあり、依然としてわからないようでもあった。俺はケンタにされるがまま、前に後ろにと首を揺らした。ケンタの右目は青黒く腫れあがっていた。
「どうだ?」
世羅の声がして、俺の体が自由になった。
「全部やられました」
ケンタは俺の胸を突き、俺は荷台の縁に腰をしたたか打ちつけた。
「金は?」
「トラ、金は?」
ケンタがまた胸倉を掴む。俺はうめきながらジャンパーの内側に手を突っ込み、茶色の巾着を取り出した。
「無事か。戻るぞ」
世羅は巾着を奪い、助手席に乗り込む。ケンタも俺を放して運転席に乗り込み、そしてエンジンがかかったかと思うと車が走り出した。俺はあわてて荷台に飛び乗った。
車はまっすぐ新橋の戸島会に戻った。駐車場から事務所まで歩いている間、世羅とケンタはずっと無言で、それぞれ顔を押さえていた。
若い者たちの詰め所に入ると、世羅はいきなり頭を下げた。
「兄貴、申し訳ありません」
三下たちとチンチロリンをしていた松永力が賽を振る手を止めた。
「申し訳ありません。へたを打ちました」
世羅はもう一度詫びると、その場に正座をし、床に額を押しつけた。遅れてケンタも土下座をする。俺も、わけがわからなかったが、二人にならった。
「どうした?」
松永の兄貴が近づいてくる。
「ブツを奪われました」
世羅が答える。
「なんだと? どういうことだ?」
「何者かに襲われ、クスリを奪われました。申し訳ありません」
「襲われた? どういうことだ? おい、顔を上げろ。あ? どうした、おまえら?」
世羅とケンタの顔の傷を見て、松永が驚きの声をあげた。
「赤坂のSにブツを運んでいたのですが――」
そして二人が説明したところによると、Sの裏口に向かって路地を歩いていたところ、左右の物陰から三、四人が飛び出してきて、世羅はバットのようなもので頭を殴られ、ケンタは顔面に拳を入れられ、ひるんだすきに段ボール箱ごと覚醒剤を奪われた。すでに日が暮れていたため、襲撃してきた者たちの顔はわからない。無言で襲ってきたので、声や言葉づかいの特徴もわからない。応戦しようと、ケンタは車からピストルを取ってくるが、とうに賊は消え失せていた。
話を聞いている途中、俺はハッとした。八尋組の本間が襲われた時と状況が酷似していると思った。
「トラは見ていないのか?」
松永は俺に尋ねた。
「路地から通りに出てきた者はいませんでした」
と答えたものの、運転の練習に熱中していて、路地の出入りは注意していなかった。
「こいつ、車を離れやがって、その隙に、荷台に積んであった残りのクスリも奪われてしまいました」
ケンタに後頭部を小突かれ、俺はすみませんと床に額をこすりつける。
「塩田組じゃないですか」
周囲を取り囲んだ若い者たちの中から、そんな声があがった。塩田組というのは、赤坂のあのあたりを治めているヤクザである。
「シメに行くぞ」
誰か一人が言い出すと、血の気の多い者たちは、口々に物騒な言葉を並べ立てたり、懐から匕首《あいくち》を抜いたりする。
「騒ぐな」
松永は手を挙げて制した。
「早まったまねはするな」
「ですが松永の兄貴、世羅の兄貴がこんな目に――」
「塩田がやったと決まったわけじゃねえだろう」
「塩田組に決まってます」
「へたなことして戦争にまで発展したら、うちはサツに潰されるぞ」
「ですが――」
「いいか、俺がいいと言うまで絶対に動くな。勝手に出入りしようものなら、そいつは破門、いや絶縁だ。わかったな?」
若い者はみな残念がり、幹部と相談するために松永が出ていくと、あからさまな不満を口にする者もいたが、俺はホッと胸をなでおろした。出入りには当然俺もついていかなければならない。二十歳を前に命の花びらを散らすなど、まっぴらごめんだ。
若頭や若衆の意見も慎重なものが大半を占め、結局、塩田組の動きをしばらく見守るということになった。戸島会も八尋組同様、近代的なヤクザを目指しているらしい。
俺は世羅の兄貴と一緒に目黒のドヤに帰った。山手線の中でも、東急線の駅から家まで歩いている間も、世羅は一言も口をきかなかった。それは毎度のことなのだが、場合が場合だけに、この日はとりわけ息が詰まる思いだった。
玄関に出迎えに出てきた京は、情夫の額に大きな湿布が貼ってあるのを見て、まあと口に手を当てた。
「喧嘩?」
世羅は京を無視して部屋にあがった。
「痛いの?」
世羅は上着を脱ぎ捨てる。
「血が出ているの?」
世羅はシャツのボタンをはずす。
「横になる? お布団敷きましょうか?」
世羅はズボンを脱ぎ、つぶやいた。
「出ていけ」
「お食事はどうします?」
「出ていけ!」
カッと目を見開いたかと思うと、世羅は京の胸を突いた。京はよろめき、敷居に尻餅をついた。世羅は大股で彼女に歩み寄り、手を差し出した。しかし助けようというのではなかった。
「出ていけよ! この家から出ていくんだよ! おらっ!」
世羅は京を引きずり起こし、玄関の方に突き飛ばした。京は戸口まで吹っ飛んでいき、建て付けの悪い窓がビリビリ震えた。
「帰ってくるな!」
世羅は力まかせに襖を閉め、またも家全体が地震に遭ったように震えた。
京はよろよろと起きあがると、着の身着のまま、サンダルをつっかけて外に出ていった。俺は廊下に立ちつくし、開けっ放しの玄関と閉じた襖をおたおたと見較べる。
「トラ」
襖の向こうで声がした。世羅はそれだけしか言わなかったが、俺は彼の要求を察し、靴を履いて外に出ていった。
京は路地の出口にたたずんでいた。電柱に背中をもたせかけ、片足を少し上げ、サンダルをぶらぶらさせていた。
「自分も追い出されました」
俺は頭を掻いた。京はうなずき、反対のサンダルをぶらぶらさせる。何か声をかけるべきか、それとも立ち去るべきか、俺はどうしてよいかわからず、足下に石ころを探してはあちこちに蹴り飛ばした。
しばらくして、京が思い出したように言った。
「おなかすいたでしょう」
「あ、はい」
「あの人も、ご飯のあとにああなってくれたらよかったのに」
「兄貴、今日はかなりまいってるから」
「どうしたの?」
俺はややためらったが、赤坂での一件を話して聞かせた。
「そう。やられっぱなしだった自分に腹を立てているのね」
京は納得したようにうなずいた。
「けど、姐さんにあたることはないと思います」
まるで女のヒステリーだと続けそうになり、あわてて言葉を呑み込んだ。
「あたしにあたることで気が晴れるのなら、いいことじゃない。外で暴れたら命がいくつあっても足りない」
「でも――」
「こんなあたしでも誰かの役に立っているんだって実感すると、この世に生まれてきてよかったって思える」
京は胸の前で手を組み合わせて夜空を見上げる。相変わらず俺の理解を超えたことを言う。
「でも困ったわね。あの調子ではご飯を食べに戻れないわ。外食しようにも、お財布も家だし」
京は俺に向き直り、首をすくめた。
「金なら自分が持っています」
俺はズボンのポケットから財布を取り出し、十何枚かの紙幣を京に見せた。一昨日、親分の伯父貴の車を磨いた際、気前よく小遣いをもらっていた。
「じゃあ貸しといてもらおうかしら」
「自分がおごります」
「子供がナマ言うんじゃないよ」
京ははすっぱな調子で言い、俺にパンチをくれるまねをする。
俺たちは目黒駅近くの傾きかけた居酒屋に入った。安酒のせいか、疲れているのか、それとも情夫のことが気になってか、京は途中から呂律が回らなくなり、横の客を叩いたり大声で笑ったり嗚咽したりと、狭い店内の注目を一身に浴びることになった。といって、兄貴が起きているうちには帰れないので、俺は周りにぺこぺこ頭を下げ、看板になるまで店に居続けた。
店を出たのは十一時過ぎである。京は足下がおぼつかず、俺は彼女に肩を貸して、明かりの落ちた商店街を歩いていった。
「トラはやさしいのね」
京は商店街中に響き渡るような声で言った。
「そんなことないっす」
俺は小声で応えた。
「世羅は一度もこんなことしてくれたことないよ」
「兄貴は漢《おとこ》ですから」
「世羅なんかやめて、トラと一緒になろうかしら」
京は不意に体の向きを変え、俺に抱きついてきた。酒と石鹸と女の体の匂いが入り交じった、なんとも甘い香りが鼻孔いっぱいに広がった。
「姐さん、いけません」
俺は京の体を向こうに押した。京はきゃっと声をあげ、その場に横倒しになった。
「だいじょうぶですか?」
あわてて助け起こす。
「トラも世羅と一緒ね。乱暴なんだから」
「すみません」
京は頬を膨らませ、服をはたきながら立ちあがる。と、いたたと声をあげ、かがみ込んで足首を押さえた。
「くじきましたか?」
俺はさらにあわてて彼女のそばにかがみ込んだ。
「歩けない」
「すみません」
「歩けない」
「病院探しますか?」
立ちあがり、首を左右に動かした。
「おんぶして」
と聞こえたかと思うと、背中にずしりと重みを感じた。
頭がくらくらした。耳元に熱い息がかかり、背中に胸のふくらみがあたる。そうしないと落ちるので、手は尻を支えている。
「病院行きますか?」
俺は頭の中を空っぽにしようとする。兄貴の女に手を出したら断指《エンコヅメ》というのが掟である。
「平気」
「そこ、薬局ですけど、叩き起こしましょうか」
「もっと飲める店ないの?」
「酒はもうよしましょう。水飲みますか?」
「トラって、背中が広いのね」
「兄貴、もう寝てますかね」
「あの人のことなんて知らない」
と京は俺の頬をつねる。
「自分が様子を見てきますから、そこの公園で待っていてください」
「寒い」
「すみません。気がつきませんで」
俺は京を背中から降ろし、自分のジャンパーを脱いで彼女に与えた。
「あんなうちに帰らなくていいよ」
京はジャンパーを放り捨て、裸足で駆け出した。俺は服とサンダルを拾って彼女を追いかけた。京は一本目の路地を曲がり、次の角の板塀の中に飛び込んでいった。俺はギョッと足を止めた。
京が入っていったのは和風の連れ込み旅館だったのだ。
だが、幸か不幸か、心配していたようなことは起きなかった。走ったことで酔いが回ったのだろう、京は部屋に入るなり布団に倒れ込み、軽い寝息を立てはじめた。俺は彼女に布団を掛けてやり、自分は壁際に座布団を並べて横になった。
頭の中にいろんなことが渦巻き、とても寝つけない。京を置いて別の場所で寝ようかと思うが、行くあてがない。実家には帰れない。明智探偵事務所にも戻れない。同じビルの中に八尋組が入っているからだ。出入りするのを戸島会の関係者に見られたら、怪しまれること必至である。この時はまだ知り合っていなかったので、芹澤清や久高愛子を頼るわけにもいかない。ここの払いがあるので、別の宿に泊まる金はない。秋も深まったこの季節、外で寝るのはちょっと厳しい。
どこか行くところはないだろうかと考えをめぐらす一方、先程感じた匂いや手触り肌触りを思い出して悶々としていると、トラ、トラと俺を呼ぶ声が聞こえた。見ると、京が布団から起きあがっていた。変な気が起きないようにと、明かりはつけっぱなしにしてある。
「お水あるかしら」
俺はコップに水道水を汲んで京に与えた。彼女はそれを一気に飲み干すと、ばたんと布団に倒れ込んだ。俺も座布団の上に横になり、京に背を向けてエビのように丸まった。
しばらくして声がした。
「トラ、起きてる?」
「はい」
と答えるが、それに対して何も返ってこない。
「電気消したほうがいいですか?」
背中を向けたまま、小声で尋ねる。
「ごめんね」
「はい?」
「迷惑かけて」
「いえ、そんな」
京は何も言わず、会話が途絶えた。
しばらくして、また声がした。
「あたしのこと、どう思ってる?」
俺は跳ね起きんばかりにドキリとし、全身がカーッと熱くなった。だがそういう意味ではなかった。
「世羅みたいな男と一緒にいて、おかしな女だと思ってるでしょう」
「いえ、そんな」
「あたし、前は横浜にいたんだ。夜の仕事をやってた。軽蔑した?」
「いえ、そんな」
水商売の女だとは思っていた。しかし次の一言は予想外だった。
「横浜の黄金町」
「え?」
思わず声が出た。黄金町は横浜一のピンクゾーンである。男が女を買う場所だ。最近クスリの買い付けで横浜に行くようになり、そういう街であると知った。
「世羅はそこに客として来た。最初はあたしのことなんか眼中になかったのよ。目当ての子が休みで、たまたまあたしが相手することになっただけ。でも初対面で気に入ってくれて、それからは週に二度は来てくれたかな。布団には入らず、ただ酒を飲んで帰ることもあった」
「姐さん、もう寝ましょう」
しかし京は話をやめない。
「半年くらい経ったある日、世羅が言うの。こんな仕事は辞めろって。そりゃ、あたしだってあんな仕事は嫌だったけど、お金は必要だし、店との約束もあるし、急に言われてもどうしようもないわよね。それで、考えとくわと笑って受け流したら、今日辞めろとむちゃくちゃなことを言う。ううん、言っただけじゃない、あたしの荷物を勝手にまとめはじめた。で、あれよあれよといううちに、手を引っ張られ、店の裏口から逃げた。見つかったらどうなるのだろうとドキドキする反面、明日からは違った人生が始まるのだというワクワクした気持ちもあって、ちょっとした冒険だったわ。彼がヤクザということは知ってたわよ。背中に刺青が入ってたしね。でも、この人についていけば何かが変わると信じて、ついていっちゃった。
たしかに変わったわ。見当違いの方向にね。有無を言わさず連れていくものだから、あたしはてっきり世羅が養ってくれるのかと思ってた。ところが彼はほとんど無一文なのね。家もなくて、兄貴や舎弟のところを泊まり歩いているんだって。こんなことならついてくるんじゃなかったと後悔したけど、もう遅い。あたしが家を借りて、彼を置いてあげることになった。無駄遣いせずに貯めていたからどうにかなったけど、なんかおかしいよね。おまけに彼は普通の勤め人じゃないから、お給料が出ないでしょう。上の人から小遣いもらうだけで。だから生活費もろくに入れてくれなくて、逆にあたしの財布からお金を持っていく。貯金なんてすぐに底をつくわよ。
仕方がないから働きに出ようとすると、自分を大切にしろと怒る。体を売ろうというのではないのよ。キャバレーとか割烹とかで働くつもりだったの。なのにダメだと言って、あたしが反論しようものなら叩く。二言目には『今に楽にしてやる』だけど、空手形じゃおなかは膨れないわよね。結局、昼間の仕事なら許してくれて、今の事務職に就いたのだけど、でもさ、自分を大切にしろって、殴ったり蹴ったりする人が言う台詞じゃないよね。ホント、あの人はどこか狂ってる。そんな男と離れない女も狂ってる?」
「いえ、そんな」
「世羅はね、誰かがついていないと、もっとダメになってしまう。壊れちゃう。あたしにあたることで、壊れずに、いて、くれ、たら――」
突然声が乱れ、嗚咽に変わった。俺は、振り返りたいという気持ちをぐっとこらえた。振り返ると、彼女のそばに吸い寄せられ、抱きしめてしまうと思った。
「ごめんね、泣いちゃって」
「いえ、そんな」
「世羅はああ見えて、芯はいい人なのよ。トラを連れてきたのも、寝場所がなくて困っているあなたを見かねてのこと。ただ、自分を表現するのが下手で――」
声は寝息に変わった。
それからひと月は何事もなく過ぎ去った。
塩田組の動きに不穏なところはなく、戸島会の若い者が勝手に殴り込みに行くこともなかった。Sの者を問い詰めたが、塩田組からの圧力はかかっていないと頑として言う。
赤坂での一件については明智探偵事務所に報告の電話を入れた。八尋組の本間が襲われたケースと酷似しており、二つの事件がどこかでつながっている可能性が多分にあるからだ。明智からも、赤坂の事件の経過についても逐一報告するようにとの指示が出た。そして、本間の事件の証拠を早いとこ見つけ出せとハッパをかけられた。三岡と林による本間の周辺調査では怪しい人物が浮かびあがっておらず、戸島会による犯行の線がますます濃くなっているらしい。
しかし、十一月が終わり、ついに期限の十二月に突入しても、俺は証拠のかけらさえ見つけられずにいた。
そのように何事もなくひと月が過ぎたのだが、俺の心の中は上を下への大騒ぎだった。
京のことを妙に意識してしまい、彼女とまともに顔を合わせられない。あの晩、京とは何もなかった。彼女は朝までぐっすりだったし、俺は朝まで座布団の上でエビになり、罅《ひび》だらけの壁を見続けていた。そして別々に宿を出て、彼女は家に帰り、俺は新橋の事務所に直行した。世羅はもう彼女を追い出そうとはせず、俺に疑いの目を向けることもなかった。
けれどあの晩を境に、俺にとって江幡京は、兄貴の情婦でも、居候先のおかみさんでもなくなってしまった。組事務所の掃除をしたり、みかじめ料の取り立てを行なったりしている時にも、彼女のやわらかな感触や甘い香りを思い出そうとしている自分がいた。要するに俺は江幡京を好きになってしまったのだ。そうと気づくと、世羅の兄貴のことも妙に意識してしまう。実際にはやましいことは何もしていないのに、目を合わせられなくなる。そして夜の営みを耳にするたびに、それまでは、やれやれまたかとあきれていただけなのに、嫉妬のようなものを感じるのであった。
何かが起きたのは十二月七日のことである。
ふたたび世羅とケンタが襲撃を受け、運んでいたクスリを奪われた。
今度は赤坂でなく浅草でだった。Wというキャバレーに歩いて向かっている時のことだった。世羅は頬と手の甲を刃物で切られ、ケンタは顔に何発もパンチを受けていた。後ろから襲われたため、相手の顔はわからない。仕事の速さから考えて、数人はいたようだという。
俺は花やしきの裏に停めた車に残っていたので難を逃れた。だが、またも荷台のクスリを奪われるという失態を演じてしまった。今回は車を離れなかったのだが、幌の横腹が切り裂かれたのにも、段ボール箱の中身を残らず抜き取られたのにも気づかなかった。何のための居残りだと、ケンタに罵声を浴びせかけられ、往復ビンタを食らった。またも車の運転ごっこをしていたので、言い訳はまったくきかなかった。
二度目なので、戸島会の面々のいきり立ちようは尋常ではなかった。だが、報復の殴り込みは回避された。というのも、襲撃を受けた浅草のその界隈を仕切っている金子組は東京で五指に入る大きな組織で、勢いだけで乗り込んでいったところで全滅の憂き目に遭うのが関の山である。幹部会が出した結論も、今後はもう二、三人車に乗せるという消極的なものだった。
目黒のドヤに帰ると、世羅はまた荒れた。京に物を投げつけ、俺を足蹴にし、そして二人はまた追い出された。しかしその後は前回とは違い、俺は一人で飯を食いにいった。今日彼女と一緒に泊まったら、絶対に間違いを起こすと思った。
明智探偵事務所に報告を入れたのち、山谷の簡易宿泊所に足を運び、蚕棚のようなベッドに寝転がって、襲撃事件について考えをめぐらせた。
本当に金子組の仕業なのだろうか。金子組ほどの組織が、ニワ場を侵したよその組の者を闇討ちのような形で追い払おうとするだろうか。戸島会程度が相手なら、正面きって乗り込み、二度と荒らすなと凄んだほうが効果的ではないのか。では金子組以外に誰が襲う? Wから覚醒剤を買っている末端の客ということはないだろうか。金を惜しんだ何人かが結託し、クスリの強奪を図った。とすると、ひと月前の事件も同じグループによるもの? しかし納品のスケジュールを知らないことには襲撃できない。犯人が塩田組や金子組であれば、SやWの店員をシメて吐かせればよいが、末端の客はそんなことはできないだろう。いや、SやWの中に内通者がいれば問題ないぞ。あるいは――戸島会の中に内通者が?
そんなことを考えながら、饐《す》えた臭いのする毛布にくるまって一夜を明かした。
そして翌朝目黒のドヤに戻ったところ、世羅が死んでいたのである。
世羅は風呂場で死んでいた。素っ裸で、洗い場に仰向けに倒れていた。片目は眼球がこぼれ落ちるほどに見開かれ、片目は半分閉じ、唇が輪ゴムのようにゆがみ、頬が引きつり、苦しいような怒ったような、なんとも形容しがたいすさまじい形相をしていた。生前の端正さは微塵も感じられない。それもそのはず、世羅の腹部は縦横に切り裂かれ、脂肪も肉も骨も丸見えで、腸がずるずると、まるで大蛇のようにタイルの上をのたうち回っていた。
風呂場の入口には京がいた。板張りの床に足を投げ出して座っていた。首はがくりと前に折れ、両腕はだらりと垂れ下がり、呼びかけても反応がなかった。だが彼女は死んでいるわけではなかった。顔を覗き込んでみると、虚ろな双眸が思い出したように瞬きする。
京は右手に庖丁を握っていた。刃には赤黒い血がべっとりとこびりついていた。彼女が世羅を? いや、そうではなかった。何度も何度も京に呼びかけ、ようやく言葉を引き出したところ、明け方帰宅したらすでにこの惨状だったという。庖丁は、足下に落ちていたのを拾っただけらしい。
俺は京に庖丁を放させると、横にさせようと彼女を部屋に連れていった。すると第二の異状が待ちかまえていた。
寝室の六畳間が台風の直撃に遭ったようにめちゃめちゃに荒らされていたのだ。箪笥が横倒しになり、上に飾ってあった人形のケースがこなごなに砕け、鏡台にも蜘蛛の巣のような亀裂が入り、襖は下張りまで破れ、押入からは布団が引きずり落とされていた。
荒らされた室内、切り裂かれた死体――八尋組の本間が殺された時と瓜二つの状況である。さらにもう一つ、警察を呼ばなかったことも。俺にもすっかりヤクザの心構えができてきた。京を布団に寝かせると、戸島会の事務所に連絡を入れ、状況を説明するとともに善後策の指示を仰いだ。今から人をやるのでドヤを見張っていろとの命令が下った。
ただ待っているのも能がないので、京が落ち着いていることを確認すると、風呂場に戻り、現場検証をはじめた。俺はそもそも探偵なのだ。
先程は驚きのあまり気がつかなかったが、風呂場には血の臭いが充満していた。いや、たんなる血の臭いではなく、体の中に閉じ込められていた肉や脂肪や体液や消化物が好き放題に自己主張をしている、かつて体感したことのない濃厚な臭いで、息をするのもままならない。だが窓を開けることは許されない。こんな臭いが外に流れ出したら、町内中の人を呼び寄せてしまう。俺は口元にタオルを巻いて世羅の死体を観察した。といってもやはり、内臓の飛び出た腹部はとても正視できない。
死体は全裸である。脱衣場には服が脱ぎ捨てられている。脱衣籠があるのに、床に散乱している。シャツもパンツも靴下も、まったく汚れていない。脱いだあと刺されたことを意味している。入浴中を襲われたということか。
息苦しさが限界に達し、俺は風呂場を離れた。京は寝室の布団の中でおとなしくしている。水を持ってこようかと尋ねると、目を閉じたまま首を横に振った。俺は寝室の掃き出し窓をわずかに開け、隙間に額を押しつけた。初冬の肌を刺すような空気が妙に心地よい。
そうして新鮮な空気を取り込んでいると、ふとした疑問が芽生えた。世羅が腹だけを刺されているというのはどういうことだろう。屋外なら、腹だけ刺されるということはありうると思う。向こうからやってきた人間にすれ違いざま刃物を抜かれたら防御のしようがない。けれど現場が風呂場だと、襲われる前に、風呂の戸を開けるという予備行動がある。その段階で世羅は身構えるはずで、致命傷以外にも、体のあちこちに防御の傷ができるのではないだろうか。それとも、洗髪しているところを狙われたのだろうか。
俺は風呂場に戻り、あらためて死体を観察してみた。手の甲や指先は傷ついているが、ほかの部分はやはり無傷である。防御の姿勢を取った場合、腕や腿のほうが傷つきそうに思えるのだが。
と、もう一つおかしなことに気づいた。浴槽が空なのだ。水が一滴も入っていない。世羅は風呂に入っていたのではないのか?
そうか、寝込みを襲われ、その後風呂場まで運ばれたのだ。寝室の荒れた状況を考えると、犯行現場はあちらであるとするのが妥当だ。寝込みを襲われたので、防御がかなわず腹だけ刺された。
ところがあらためて寝室を覗いてみると、流血の跡は見られない。血で汚れた寝具が押入に隠されていることもなかった。茶の間、俺が使わせてもらっている三畳間、台所、便所と回ってみるが、血痕は見つからない。あれだけ腹を刺せば出血量は相当なものだ。それが見あたらないということは、やはり犯行現場は風呂場と考えるしかない。風呂場なら、どれだけの出血があろうと、水で流してしまうことができる。
では、入浴中に襲われたにもかかわらず、どうして浴槽に水が張っていない。襲われたその時には張ってあり、犯行後、犯人が抜いた? 何のために? 血で汚れた自分の体を洗うのに使ったのか? しかし栓が抜いてあり、一滴も残っていないというのはどういうわけだ。犯人は律儀にも、浴槽を掃除して出ていったのか? 水が残っていると、身元を示す何かも残ってしまうからなのか? 何かとは何?
考えに行き詰まり、俺は今一度風呂場に足を運んだ。現場百遍である。
風呂の入口には京が握っていた庖丁が落ちている。刃も柄もどろどろに汚れているが、形には見憶えがある。この家のものだ。
ということは、犯人は凶器を持たずにこの家にやってきたことになる。言い換えれば、犯人は世羅を殺すつもりでこの家を訪ねたのではない。家にあがったあと、急遽殺す必要に迫られ、凶器を探した。ではどういう場合に、突発的に殺人を犯す? 空き巣狙いが顔を見られたのか、酔っぱらってカッとしたのか――。しかし突発的に刃物を抜き、ここまでメッタ刺しにするものなのか。まるで、先祖三代の恨みを晴らしたようなありさまなのだ。八尋組の山岸が言ったように、逆上した素人によるものなのだろうか。
いや待てよと思い直す。この家の庖丁を使ったのは、実は突発的なことではなく、最初から計画されていたのかもしれない。自前の凶器を使うと、そこから足がつく可能性があるが、人の所有物を拝借すれば、その危険性がなくなる。
答はすぐに出てきそうにないので、頭を切り換える。浴室の中に目を転じ、何か見落としはないか、犯人の遺留品はないかと、ゆっくりと目を動かす。空っぽの浴槽があり、洗い桶があり、石鹸があり、血の海があり、死体があり、コンドームがあり――コンドーム?
俺はきょとんとしながら血の海の中に足を踏み入れた。死体の腰骨のあたりにそういう形状のものがくっついているのだ。半透明で、筒状に長細く、先端が丸く、中央に小さな突起があり――手に取ってみると、やはりコンドームであった。先程は腹部の惨状から顔をそむけていたので目にとまらなかったのだ。
コンドームがあるということは、世羅は風呂場で情事を行なっていたのか? そこを犯人に襲われた。女の上に乗っていたのなら、風呂の戸を開けるという予備行動があっても、気づくのがやっとで、防御の間もなく腹だけを刺されておかしくない。
おかしくはないが、すると世羅は、京を追い出し、ほかの女を連れ込んでいたことになる。しばしば別の女の家に泊まってくるような男なのだから、情婦のいない自宅に女を呼んでも別段おかしくない。おかしくはないが、俺は非常に不愉快な気分になった。
いや、今は感情的になっている場合ではない。そうだ、女はどうした?
世羅は死んでいるが、女の死体がない。世羅が襲われている間に逃げたのか? それとも女が犯人なのか?
混乱していると、戸島会の一行が到着した。若衆の大石武史を筆頭に、松永の兄貴、ケンタ、そして南部征二というケンタと同格のチンピラ、の四人である。近所の目を考えて人数は控えたのだろう。さすがの強者《つわもの》たちも風呂場の惨状には凍りつき、ケンタは便所に直行、南部はその場で戻してしまった。
予想されたことではあるが、死体をその目で確認しても、大石は警察を呼ぼうとしなかった。世羅の遺体は戸島会で処理するという。そして俺たち三下に近所の聞き込みを命じた。そう、戸島会も八尋組同様、自分たちの手で落とし前をつけようと考えていた。前日昼間の一件があるため、金子組の影を感じずにはいられないが、相手は大きな組織だけに迂闊には手を出せない。まずは足元を固めようというわけである。
聞き込みは、ケンタと南部と俺が手分けして行なった。その結果、犯行時刻がおおよそ見えてきた。午前零時前後である。その頃、江幡家で激しく争うような音がしていたと、両隣を含む複数の家の人間が証言した。なのに様子を窺ったり警察に通報したりしようとしなかったのは、世羅が京に対して日常的に暴力をふるっていたと知っていたからだ。また始まったかと聞き流された。実際、前夜の早い時間にも、世羅は京と俺を激しく怒鳴りつけている。
争いの声は聞かれていたが、その特徴は、荒っぽかったということ以外わからない。台詞の内容も不明である。江幡家への人の出入り、通りを歩く不審な人物の目撃談も得られなかった。町内をひととおり回ったあと、道端に目を凝らし、ゴミ捨て場をあさってみたが、犯人の遺留品らしきものは発見できなかった。
犯行時刻は絞り込めたものの、犯人を特定する材料は一つもない。その報告を聞き、大石は雷を落とした。
「殺った野郎を見つけるまで帰ってくるな!」
三人のチンピラは身を縮め、ははっと土下座をする。
「お言葉を返すようですが――」
俺は畳に額をつけたまま、おずおずと切り出した。
「もしかしたら、野郎の仕業ではないかもしれません」
「何だと?」
「女を探したほうが得策かと思います」
「女? どういうことだ? 顔を上げろ」
「風呂場に、その、あの、コ、コン、コン――」
「狐が出たのか? ふざけてると痛い目に遭うぞ」
大石は拳を撫でさすった。
「コンドームが落ちています!」
俺は背筋をピンと伸ばし、大声で言った。言ってから、隣で寝ている京に聞かれてしまったかと悔やんだ。
「コンドーム?」
大石が眉をひそめた。
「はい、コンドーム」
「トラ」
松永が咳払いをくれた。
「貴様、コンドームが何であるか、知って言ってるんだろうな?」
「もちろんです。つまり世羅の兄貴は、女と情を交わしているところを襲われたと考えられるわけです」
大石と松永は顔を見合わせた。
「適当なこと言うな。コンドームなんてなかったぞ」
ケンタが肘で小突いてきた。
「ありましたよ。世羅の兄貴の腰のところに」
こいつもいちおう兄貴なので敬語を使わなければならない。
「なかった」
「ありました」
「見間違いじゃないのか? どうせ、気持ち悪くて、ろくに見てもいないんだろう」
「いいえ。自分は手に取って確かめました。田辺の兄貴こそ、薄目でちらっとやっただけなのではないですか」
「何だとぉ!?」
ケンタが腕を掴んできた。
「くだらねえことで喧嘩するな」
大石が一喝した。
「女といっても、アレじゃないんだよな」
松永が、立てた親指で背後の襖を示した。
「はい。姐さんは外に出ていました。ですから、ほかの女です。そして、ここからが重要なのですが、世羅の兄貴の死体があるのに、女の死体はありません」
俺は京を気にして声をひそめた。
「ということは、三つの場合が考えられます。一つは、賊が兄貴を襲っている隙を衝いて女は外に逃げた。二つ目が、女が兄貴を刺した。あらかじめ庖丁を風呂場の中に持ち込んで隠しておき、情交の最中に刺したわけです。三つ目が、女は囮《おとり》だった。兄貴を油断させるために何者かによって派遣されたのです。女は、兄貴を情事に持ち込んだところで合図を送り、本当の殺人犯である何者かを風呂場に呼び寄せた」
「何者か……」
「それが金子組という証拠はまったくありません」
「まあそうだな。しかし囮を使ったということは、計画的な殺人であるといえるわな」
「ちょっと待ってくださいよ。どうしてトラの与太につきあうんです」
ケンタが膝を乗り出した。
「コンドームなんてなかったと言ってるでしょう。コンドームがなかったら、女が来たとはいえないじゃないですか」
「ありました」
俺はケンタを睨みつける。
「なかったって。ねえ兄貴、俺とこいつと、どっちを信じるんです」
ケンタはいじけた女のようなことを口にした。
「南部、調べてこい」
大石が言った。南部はギョッと身を引いたが、上の命令は絶対である。のろのろと立ちあがり、背中を丸めて風呂場に向かった。俺は自説を続けた。
「いま挙げた三つの場合、いずれにしても、女はただの来客ではありません。兄貴と情交をしているのです」
ケンタは仏頂面をしているものの、口は挟んでこない。
「ということは、兄貴と顔見知りだったと考えられます。普通、突然訪ねてきた見ず知らずの女を家にあげるようなことはしません」
「とびきりいい女が、腹が痛いから便所を貸してくれとやってきたら、俺は大歓迎するぞ。そのあと酒でも飲ませて布団に押し倒すぞ」
松永が笑った。
「もちろん、そういうことはあるでしょう。けれど、どちらの可能性が高いかといえば、やはり面識があったほうではないでしょうか」
「まあそうだな」
「となると、世羅の兄貴の女関係をあたるのが得策かと思われます」
「なるほど」
「実際、世羅の兄貴には、姐さんのほかにもこれがいたようなのです。どこの誰であるのかは、自分は知りませんが」
俺はさらに声をひそめて小指を立てる。遠くから嘔吐する音が届いてくる。
「ああ、そういや……」
松永は薄く目を閉じ、こめかみに指先を当てた。
「ご存じなのですか?」
「一度、女を連れた世羅と出くわしたことがある。で、せっかくだからと、一緒にコーヒーを飲んだんだが、あれは何て女だったっけ……。そういや、あの時、おまえもいたよな。池袋だ、池袋」
「え? ああ、なんか、そんなことがありましたね」
ケンタはぼんやりと応えた。
「名前は……、そう、明里ちゃん! 木暮明里」
松永は手を叩いた。
「ああ、なんか、そんな女、いましたね」
「明里ちゃんとはいうが、これが三十過ぎの年増でな、世羅もずいぶんな趣味だと思ったよ」
江幡京、木暮明里と、世羅が歳上の女に惹かれるのは、一回り離れた姉に対する屈折した感情からなのだと後にわかるのだが、それは事件とは無関係なので、ここでは詳しく語らない。
「その女の家はわかります?」
俺は尋ねた。
「立教大学のすぐ裏だとしか聞いていないが、名前がわかっているので捜し出すのはそう難しくないだろう」
「既婚者なのでしょうか」
「さあ」
歳を考えると、結婚していておかしくない。
「その女の夫が乗り込んできたとも考えられますね。妻の不貞に気づき、間男を殺した」
「そういう理由なら、ああいっためちゃめちゃな殺し方をするかもしれないな」
「案外、女一人でやったのかもしれんぞ。別れ話がこじれて」
そう言ったのは大石である。
「意外とこういう無茶なことは、女のほうが得意なんだよ。逆上すると歯止めが利かなくなる」
過去にそういう経験でもしたのか、大石は顎をさすりながら自分の言葉にうなずいた。
襖が開いた。南部が戻ってきた。蒼白な顔で、口元に手を当てている。
「ありませんでした」
南部はうめくように言った。
「ほら、俺が正しかった」
ケンタが胸を張った。
「ちゃんと見てないでしょう」
俺は南部を睨みつけた。
「見た。兄貴の死体もさわった」
「ないわけないです」
俺は正座を崩し、痺れの切れた足で風呂場に向かった。
コンドームは――なかった。死体の腰から剥がしたあと、元あった場所の近くに置いたはずなのだ。それが消えていた。死体の上にも、血の海にも、浴槽の中にも見あたらなかった。
「ないようだな」
後ろで松永が言った。
「さっきはあったんです」
俺は靴下を脱いで風呂場に降り、タイルに両膝をつくと、血の海を掌でなぞった。
「もういい」
「あったんですよ、そこに」
死体の腿の裏を覗き、腸や肉を掻き分ける。
「もういい。やめるんだ」
「嘘はついていません」
膝をついたまま振り返り、涙目で訴える。
「いいから手を洗え」
風呂場を出て、脱衣場の洗面台で皮が擦り剥けるほど手をこすったのち、あらためて松永に訴える。
「この目で見たし、この手でさわりました。本当です。信じてください」
「今ふと思ったんだが――」
松永は風呂の戸を閉めて、
「一つだけ説明をつける道がある。トラはさっき、女が関係している場合について三つ挙げたよな」
「はい」
「もう一つあるだろう。四つ目の可能性」
俺は小首をかしげた。
「世羅の情婦」
俺は目を剥いた。
「姐さんは関係ありません。兄貴に追い出されて朝まで外にいたのですよ」
「十二時前に帰ってきたんだよ」
「バカな」
「バカ?」
「すみません。言葉の綾です。許してください」
俺はその場に正座する。
「夜のうちに帰宅しなかった証拠はないだろう」
「そうですが……、帰ってきたという証拠もありません」
「あのな、俺はたんなる思いつきで言ってるんじゃないぞ。トラがコンドームを見た見たと言って譲らないからだ」
「本当に見ました」
「ああ、信じてやろう。その一方、いま風呂場にはコンドームなどない。どっちも本当だとすると、考えられることは一つしかない。トラが見たあと、誰かが処分した。そしてこの家の女なら処分することができる」
「そんな……」
「処分した理由は、女が犯人だとなったら、真っ先に疑われるのが自分だからだ。コンドームが放置してあったことにあとで気づき、あわてて処分した」
俺は沈黙した。襖一枚向こうでコンドームコンドームと騒いでいるのを耳にし、布団をこっそり抜けて風呂場に足を運んだのか? いやそんなことはないと、必死に頭を働かせて抵抗する。
「ゆうべ姐さんは兄貴に叩き出されたのですよ。たとえ夜のうちに帰ってきて、それが兄貴に許されたとしても、セックスはしないでしょう。兄貴が抱きませんよ。自分が叩き出したんですよ」
「むしゃくしゃしている時には女を抱きたくなるものだ。それも荒々しく、普通でない場所で。公園や、車の中や、台所や、そして風呂場で」
「姐さんが兄貴を殺す理由がありません」
いや、ある。日常的に理不尽な扱いを受けていたのだ。肉体的な虐待も。そうして溜まりに溜まっていたものが何かのはずみで爆発してしまった――。
「それは本人を問い質せばわかることだ」
「姐さんに話を訊くのですか?」
「当然だ」
「ですが……、ですが兄貴、今日だけはそっとしておいてあげてもらえませんか」
両膝に手を置き、松永を見上げて訴える。兄貴は俺を見おろし、目をじっと覗き込んで、
「惚れてるのか?」
「そんなんじゃありません。ずっと世話になってるから。それだけです、それだけ……」
俺はさっと顔を伏せ、むきになって否定した。
「誰が殺ったのであろうと敵は討つ」
松永は決然と言って風呂場をあとにする。世羅は、彼が一番目をかけていた舎弟なのだ。
だが、ヤクザにも人の心はあった。松永はすぐに京への聴取を行なったが、とりあえず今朝方帰宅してからの状況説明を求めるにとどめ、前夜の行動を根掘り葉掘り尋ねるようなことはしなかった。その結果新たにわかったことは、家の中から金品は盗まれていない、彼女が帰宅した際玄関の鍵はかかっていなかった、の二点であった。
松永が京と話している間、大石は戸島会の事務所に電話を入れ、木暮明里を捜し出すよう指示を出した。俺とケンタと南部は、今一度近所の聞き込みをさせられたが、成果はあがらなかった。
暗くなるのを待って世羅の遺体を運び出した。行き先は、高輪にある真宗の小さな寺である。ここは戸島会の会長、戸島修身の菩提寺で、変死体を持ち込んでも警察に通報される心配はなかった。遺体の到着が遅くなったため、通夜は明日執り行なうことになった。葬儀は明後日で、そして横浜の火葬場に持っていくという手筈である。その火葬場は戸島会御用達のところで、役所の火葬許可書なしに焼いてくれるらしい。
世羅の遺体は本堂隣の小部屋に安置され、ケンタと南部と俺とが交代で寝ずの番を務めることになった。もっとも、京が棺の前を片時も離れなかったので、俺たちは必要なかったのかもしれない。
ケンタと南部は時折、世羅との思い出をぽつぽつと口にしあい、洟《はな》をすすったり目頭を押さえたりしていたが、正直なところ、俺は少しも悲しくなかった。
それは、彼らと較べて世羅とのつきあいが短かったから――ではないと思う。わずかふた月のつきあいではあったが、世羅元輝とは起居をともにしていた。けれど、いつも近くにいたわりにはまるで心が通い合っていなかった。理由は、世羅の人を寄せつけない態度にあった――だけではないと思う。俺もどこか心に壁を作っていた。探偵の仕事で潜入しただけなのだから、親しくなっても仕方がないと、割り切ったつきあいに徹していた。
いや、本当に割り切っていたのだろうか。なぜなら京のことが非常に気にかかっている。
これから彼女はどうするのだろうか。京は、自分は世羅のそばにいてやらなければならないのだと言っていた。その世羅が亡くなった今、俺が京のそばについていてやらなければならないのではないか。世羅のようにヒモとしてではなく、俺が彼女を養ってやるのだ。
祭壇の前で悄然とする京にちらちら目をやりながら、そんな、思いついたそばから赤面してしまうようなことまで考えている俺がいる。
俺は彼女に背を向けて、今の俺はかりそめにすぎないのだと自分に言い聞かせる。俺は戸島会の組員でも世羅の舎弟でもない。俺は明智探偵事務所の探偵だ。探偵である自分が本物なのだ。
事件のことを考える。
京は犯人でないと確信する。個人的な感情からそう思うのではない。
世羅が殺されただけなら、京は最も有力な容疑者である。日常的に受けていた虐待は、動機として充分すぎる。
けれど俺は、八尋組の本間の事件を知っている。本間の事件と世羅の事件は合わせ鏡だ。二人とも腹を刺された。二人とも内臓が飛び出るほどのメッタ刺しだ。いずれの家の中もめちゃめちゃに荒らされていた。そして二人とも、殺された日の昼間に、よその組のニワ場で襲撃を受けている。
何から何まで一緒である。これは、同一犯によるものと考えるのが自然ではないだろうか。世羅を殺したのが京なら、八尋会の本間を殺したのも京となる。そんなバカな話があるだろうか。京には世羅を殺す理由はあっても、本間を殺す理由はない。京と本間のどこに接点があるというのだ。
これは個人の犯罪ではないような気がする。組織、それもかなり大きな力が働いているとしか思えない。もしかすると、世羅と本間のほかにも、同じように殺されたヤクザがいるかもしれない。
翌日の昼頃、眠気覚ましに散歩してくると言って外に出て、明智探偵事務所に電話を入れた。
世羅の事件の報告、ならびに、過去に類似した事件が起きていないか調べるようにと、ささやかな助言をして寺に戻ってみると、松永の兄貴がケンタと南部を連れて出ていこうとしていた。聞くと、木暮明里の所在が掴めたので、今から彼女を問い質しにいくという。三人で押しかけるのは、代わる代わる同じことを訊くためである。そして答に矛盾が生じるようなら厳しく突っ込むのだ。警察が尋問で使うようなテクニックである。
三人は通夜が始まる直前に戻ってきた。木暮明里というのは、池袋の小さな飲み屋のママだった。別れた男との間にもうけた子を田舎に預け、東京で独り暮らしをしている。
明里は、世羅の家になど行っていないと主張したらしい。そもそも彼がどこに住んでいるのかも知らないとも。嘘をついているようには見えなかったと松永は言った。そして、こうも言った。
「これで、世羅の情婦がますます疑わしくなったわけだ。葬儀が終わったら、容赦なく質問するぞ」
そうですかとしか俺は応えられなかった。
松永の考えをあらためさせることができないわけではない。本間の事件について明かし、世羅の事件との類似性を説けば、京への疑惑はなくなるだろう。けれどそれをやってしまうと、俺が八尋組のスパイであると明かすことになり、その結果――恐ろしくて想像もできない。
といって、このまま黙っていたら、京は容赦のない質問攻めにさらされる。苦しさに耐えかねて、やってもいないことを口にしてしまうかもしれない。そう想像すると、まるで自分が窮地に立たされたかのように、胃がキリキリ痛んだ。
だが、問題はあまりに意外な形で解決した。
木暮明里が犯行を告白して自殺したのである。
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交際
9
地方巡業の情報が掴めたのは、殺人的な暑さが一段落した八月二十四日のことである。朝五時からの日課をこなし、食後に一服つけていたら電話が鳴った。
「埼玉の知り合いから電話があって、蓬莱倶楽部のちらしがポストに入っていたって」
情報をもたらしたのは意外なことにキヨシだった。やつも知人に片っ端から電話を入れて無料体験会の情報を求めていたのだった。
「埼玉のどこ?」
「本庄」
「開催日は?」
「今日」
「俺より探偵の素質があるんじゃないのー、キヨシ先輩」
軽口を叩きながら、少なからず嫉妬する俺であった。そして嫉妬しながら、大切なことを思い出した。
「今日だって?」
「そう。午後一時から」
「今日はまずいな」
仕事のない土曜日である。しかし麻宮さくらとランチ&ドライブの約束をしていた。
「でも先輩、今日を逃したら、今度いつどこでやるかわからないよ」
たしかにそうである。
「まったく、もっと早く教えてくれよ。せめて昨晩のうちに連絡してくれれば」
溜め息をつき、小さな舌打ちを繰り返す。
「俺のところに電話があったのもさっきなんだよ」
「了解。今日行ってみよう」
デートは明日にでもできる。
「頼むよ」
「頼むじゃないだろう。おまえも一緒だ」
「えー? 俺はだめだよ。俺は押しに弱いから、ああいうところに行ったら恰好の餌食だ。百万の羽根布団を掴まされたらどーするの」
「二人で行くことで、互いの危機を監視できるというものだ。それに、いま考えている作戦は、二人でないとうまくいかない」
「でも、男二人で健康関係の催し? 変だよ。女同士ならおかしくないけど、男が男を誘ってああいう会場に行くとは思えないな。どうしても二人で行く必要があるのなら、野郎でなく、女を連れていったほうがいい。夫婦を装えば絶対に怪しまれない」
さくらに頼むか? デートがてらの探偵で一石二鳥だ。しかし、五年も十年もつきあっている彼女なら新味を感じて喜んでくれそうだが、知り合って間もない女性はどうだろう。味も素っ気もない健康食品より赤坂しろたえのチーズケーキを食べたいとむくれることは目に見えている。そうそう、都ホテルで会った際にもさくらは、無粋な話題に機嫌を損ねていたではないか。
そう思いをめぐらしているとキヨシが言った。
「綾乃さんは暇じゃないの?」
10
目指す建物は畑の真ん中にあった。なだらかなスレート屋根の、やたらと横に長い建物である。壁の部分にはシャッターがたくさんついており、倉庫か選果場のように見える。横手には建物と同程度の更地があり、すでに多くの車が停まっていた。
綾乃は怒ったような表情で唇を結んでいる。俺もさっきから一言も発していない。兄妹喧嘩をしているのではない。しゃべるのが億劫なのだ。涼しくなったとはいえ、それは朝晩に限ったことだ。真っ昼間に十五分も歩けば不機嫌にもなる。
車は国道十七号線沿いのファミレスに置いてきた。ガス欠したのではない。熊谷ナンバーのメッカに品川ナンバーの車で乗り込むのはおかしいと判断したのだ。
綾乃に詳しいことは話していない。商品の信頼性を確かめてくれと知人に頼まれた、とだけ言った。久高愛子の名前は出していない。たとえ相手が妹であってもそれが仁義だと思った。兄の教育の賜《たまもの》か、妹は根掘り葉掘り尋ねてくるようなことはなかった。ただし交換条件として、洋子とのハワイ旅行の際、成田空港へ車で送っていくことを約束させられた。向こうで暮らしている友人宅に三週間も転がり込むので荷物がハンパでないのだ。
建物のシャッターは、道路から一番離れた一つだけが開いている。その前にはスーツ姿の男が二人立っている。
「待て待て」
入口にまっすぐ向かおうとする綾乃の腕を引き、俺は駐車場を見渡した。読みどおり、並ぶ車のほとんどが熊谷ナンバーで、あとは大宮と群馬ナンバーがちらほら見られるだけである。そんな中、一台だけ品川ナンバーの車があった。大型のワゴンである。
予感が的中した。近づいて中を覗いてみると、手提げバッグに入った羽根布団や段ボール箱が積まれていた。蓬莱倶楽部の社用車に違いない。本部の所在を示すものがないだろうかと、ウインドウに顔を押しつけて目を凝らす。
「何か?」
突然、背後から声がかかった。驚いて振り返ると、スーツ姿の若い男が立っていた。胸に「日高」という名札をつけている。蓬莱倶楽部の人間か。
「ああ、いや、べつに、その……」
言い訳が思いつかず、俺はまごついた。
「ごめんなさい。くらっときちゃって、寄りかからせてもらってたの。だいじょうぶ?」
綾乃が顔を覗き込んできた。
「ああ、だいぶん楽になった。軽い熱中症かな。ずっと歩いてたから」
俺は額に手を当て、はあはあと荒い息を吐く。言ってるそばから眩暈《めまい》がするような大根ぶりだ。
「それはいけませんね。早く中にお入りください。冷たい水もご用意してありますよ」
日高は俺たちを入口に誘導する。
「助かったよ」
俺は綾乃にささやいた。
「帰国の出迎えもよろしく」
「了解」
「ようこそおいでくださいました!」
入口に立つ二人が威勢よく声をかけてきた。いずれも茶髪の若者で、スーツなのにスニーカーという奇妙な出で立ちをしていた。
「はーい、履き物はこれに入れてくださいねー」
ポリエチレンの袋を渡され、靴を脱いで粗末な茣蓙《ござ》の上にあがる。
会場内に入ってみると、意外なことに、羽根布団もマッサージ器も見あたらなかった。ホワイトボードがあり、その前に長机が十脚ほど並べられている。ホワイトボードには「人生八十年時代の健康設計 医学博士野口英雄先生」とある。
席はすでにほぼ埋まっていた。冷房はなく、扇風機が数台首を振っている。用意のいい者は扇子で顔をあおいでいる。俺たちは後ろの方の席に案内された。
「お水をどうぞ。当社オリジナルのアルカリイオン水『蓬莱身命の水』です。生き返りますよ」
日高が紙コップを持ってやってきた。
「それからこちらはお持ち帰りください。来場記念のプレゼントです」
とペットボトルを二本机の上に置く。
「『蓬莱身命の水』は普段二万円で頒布している世界最高級の水、まさに究極の水なのですが、今日は特別に無料で差しあげます。この炎天下お越しいただいたことへの感謝のしるしです」
おお、これが久高隆一郎が入れ歯を浸けていたという、かの水か。
ラベルには「蓬莱身命の水」とあるだけで、採水地も成分表示も販売者も記されていない。市販のミネラルウォーターのラベルをつけ替えたのか、でなければ水道水を詰めたに決まっている――と確信的に思ってしまうのは、最初から疑ってかかっているからなのだろうか。
ほどなくしてホワイトボードの前に三十半ばの小柄な男が現われた。
「ようこそおいでくださいました! 汗かいてますかー? どんどんかいてくださいねー。汗をかけば体の中の悪いものが出ていきます。汗をかいたらこの『蓬莱身命の水』を飲む。どんどん飲んでどんどん汗をかく。ひと月続けてごらんなさい、朝の目覚めが変わります。半年続けてごらんなさい、夜のお勤めが変わります」
笑った。冷房がないことをこう言い訳するか。どうせ社員が医学博士を騙《かた》っているのだろう。白衣で講演というのがわざとらしいし、名前も作りものめいている。だが、野口英雄先生の話術はなかなかのものであった。
フランスにルルドの水がある。聖母マリアの導きによって湧き出た万病を癒やす水だ。ドイツにノルデナウの水がある。盲目の少女に光を与えた神秘の水だ。インドにナダーナの水がある。浴びればたちまち皮膚病が治るという。メキシコにテラコテの水がある。不老長寿の誉れが高い。だが、世界中のどんな奇跡の水も「蓬莱身命の水」にはかなうまい。ゲルマニウムと活性水素の含有量は他を圧している。ゲルマニウムには抗癌作用があり、免疫力を向上させる。活性水素は悪玉の活性酸素を駆逐する。加えてこの水はダイオキシンをも無害に分解する。
と、自社の水の宣伝を行なったのち、話をいったん抽象化させる。
現代社会は汚れきっている。空気も土も水も汚染され、野菜は農薬にまみれ、魚には環境ホルモンが蓄積し、家畜は抗生物質漬け、知らない間にあなた方の体は蝕まれている。人生八十年時代だが、不健康な体で苦しみながら長生きして何の意味があるだろう。
で、最終的に、蓬莱倶楽部の商品を使えば健康を取り戻すことができる、と話を持っていくわけなのだが、頻繁にジョークを飛ばし、下ネタを振り、客に質問を投げかけ、答えられなかったら小馬鹿にし、直後に持ちあげと、その客のいじり方たるや、みのもんたや毒蝮三太夫級であった。会場には笑い声や感嘆の溜め息が満ちあふれ、まるでテレビショッピングの客席状態だ。
まともにつきあって洗脳されてしまっては元も子もないので、途中からは聞き流しながら室内を観察した。
集まった客は四、五十人。大半は高齢者だが、久高愛子から聞かされていたように、若い世代も少なからず見受けられる。中には、アトピーで顔半分が真っ赤に腫れたセーラー服姿の子もいて、こんな子まで食い物にするのかと思うと、このいんちき組織に対する怒りが新たにこみあげてくる。
社員は壁際に立っている。見える範囲で十二人、壁を背に等間隔で並んでおり、なんだか取り囲まれているような圧迫感がある。
最初に確認したように、商品は見あたらない。段ボール箱も置かれていない。来場プレゼントとして配られたペットボトルがあるだけだ。場内の一部がパーティションで仕切られているので、商品はその向こうに隠されているのか。
もう一度社員に目をやる。何人かはシステム手帳を手に持っている。あの中が覗ければ本部の所在がわかるのだろうが、はたしてそのチャンスはあるだろうか。
やがて盛大な拍手で講演が終わった。横を見ると、綾乃も激しく手を叩き合わせていた。顔は満足げで、拍手を終えても手を胸の前で組み合わせている。
「おい、だいじょうぶか?」
洗脳されてしまったのではと心配になり、俺は小声で尋ねた。
「トラちゃんも拍手しないと怪しまれるよ」
綾乃は気持ちの悪い笑顔を崩さずに答えた。俺はうなずき、遅ればせながら手を叩いた。
「ではこれから当社商品の無料体験会を行ないます。どうぞこちらへ」
突然、七〇年代ディスコ調の音楽が鳴り響いた。そしてパーティションが取り払われる。
予想どおりだった。床に寝具が広げられていた。その横には長机があり、健康食品が並べられている。
「まずはこちらをお試しください。さあご遠慮なく。無料ですよ。お好きなだけどうぞ」
社員が言い終わらないうちから健康食品のコーナーに客がどっと押し寄せる。配っている社員が二人しかいないため、たちまち行列ができる。わざと待たせて飢餓感を煽っているのだ。
驚いたことに、試食したそばから、買いたいと申し出ている者がいる。一人が手を挙げると、わたしもわたしもと声があがり、さながら巨人軍優勝セール時のパニック状態である。何人かは仕込みの客だと思われるが、何人かは確実に催眠状態に陥っている。景気のいいBGMもイケイケ状態に拍車をかけているようだ。
ようやく俺たちの番になり、黒い仁丹のようなものが何粒か渡された。海藻と高麗人参とプロポリスを海洋深層水で練りあげたとかいう逸品だが、鼻を近づけると軽い刺激臭がする。
「元気が出てきたみたい」
綾乃は一粒飲み込んだそばからそんなことを言って社員を喜ばせている。
続いて、七色のタブレット、ビーフジャーキーのような食品、瓶詰めの飲料と渡されたが、どれも変な臭いを発していて、気のせいか、食べたあと体が火照ってきた。
もちろん本来の目的も忘れていない。社員の説明を熱心に聞くふりをして四方に目を配る。
寝具にマッサージ器に調理器具に装身具に衣料品に食品と、雑多な品々がフロアーを埋めている。いずれも聞いたことのないブランドで、パッケージからして安っぽい。ディズニーやサンリオのキャラクターをあしらった、明らかに違法コピーの商品もある。バッタ屋の倒産セールのような状態だ。
アップテンポの曲が流れる。九割引だ、一つの値段で三セット、残りあと一組限り、の掛け声に、客のほうも負けじと叫びながらわれ先にと飛びつく。百円の抗菌靴下や二百円の健康サンダルだけでなく、一万円の足温器や二万円の低周波治療器も結構さばけている。
社員に目を転ずる。商品を説明する際、システム手帳を横に置くことがある。一度置けば二、三分そのままということもある。だがあまりに社員の体に近すぎる。ギャラリーの目もあり、盗み見るのは困難だ。
「今日はとっておきのものをご紹介しているんですよ」
日高が揉み手ですり寄ってきた。まあ何かしらと、綾乃がわざとらしく応じる。
「奥さんは腰痛持ちじゃない?」
「やだー、奥さんだって、奥さん」
綾乃はケラケラ笑い、日高の腕をバシバシ叩く。
「カレシ? お熱いですねー。それでオネーサン、腰とか肩とか痛くない?」
「今はいいけど、寒くなったらね」
「冷え性は?」
「ある」
「オネーサン、ついてる! 今日はそういう人にぴったりのものを持ってきた」
そして連れていかれたのが茣蓙の上に広げられた布団の前である。日高は掛け布団をめくって、
「どうぞ、寝てみて寝てみて。遠慮しない遠慮しない、試せるのは今だけだよ」
綾乃は俺に目配せをし、マットレスの上に横になった。なるほど、こうして布団に寝かせるために、あらかじめ靴を脱がせておいたのか。
「どうです? 体が引き締まるでしょう」
「ちょっと固いわ」
「オネーサン、今いいこと言った。そう、固いよね。でもそれが体にいいの。柔らかい敷き布団は腰に悪いよ。それとこのマットレスは表面がでこぼこになっているよね。この凹凸が背中のツボを刺激して、寝ているだけでマッサージしてくれるんだよ。おまけに出っ張りの一つ一つには永久磁石が入っていて、二千ガウスの強力な磁気で血液の流れを良くしてくれる。それからカバーの素材にも注目ね。ラドンを練り込んだ繊維で織っているんだよ。ラドンってったって、ゴジラにやっつけられた阿蘇山出身の怪獣じゃないよ。ほら、聞いたことあるでしょう、ラドン温泉。あのラドンだ。元素記号はRn。これはね、天然マイナスイオンを発生して体をリフレッシュさせるんだよ。どう? いま横になっているだけで体が軽くなったでしょう。なにしろこのマットレスは病気も治すからね。リウマチで十五年間寝たきりだったおばあさんが、このマットレスを半年使って歩けるようになったからね――」
しゃべるほどに日高のテンションはあがっていく。説明には身振りや手振りも混じり、彼のシステム手帳は今、携帯電話とともに茣蓙の上に放置されている。
周囲を窺う。布団のセットはフロアーのあちこちに広げられており、それぞれで激しいセールストークが展開されている。健康食品や雑貨の叩き売りコーナーにも人垣ができている。俺たちのほうには誰も注目していないと思われた。
日高の動きを視界の隅にとらえつつ、そろそろと手を伸ばす。システム手帳の表紙を開ける。全開にはせず、六十度程度で止めて中を覗き見る。ところどころに乱暴な字で書き込みがある。付箋も貼ってある。体は日高の方に向けたまま、首をわずかに傾けて、細かな字に目を送る。苦労して解読したところ、この見開きに有用な情報はなさそうだった。リフィルをめくってみる。
「彼氏、彼氏」
突然声がかかり、ビクッと手を引いた。
「今度は彼氏が寝てみようか」
「あ、ああ。そうね。試してみよう」
俺はぎこちなく笑いながら綾乃と交代した。布団に入り際ちらと振り返ると、システム手帳は閉じていた。表紙を鋭角に開けていたおかげで自然に閉じてくれたのだ。
「どう? 軽いでしょう、掛け布団。軽いどころか、全然重さがないよね。まるで天女の羽衣だ。なにしろブルガリア産の最高級羽毛を使っているからね。あのね、一口に羽根布団というけれど、本物の羽根布団は羽を使うのではないの。羽ではなく綿毛、ガチョウの胸の部分の柔らかな毛ね、ここをダウンといって、本物の羽根布団はダウンしか使わない。もちろんうちの布団もダウン百パーセント。一羽からほんのちょっとしか取れない胸の綿毛を贅沢に使っている。それも、ガチョウの中でも最高級のホワイトグースのダウン百パーセントだよ。手摘みで選別しているから混じりっけはいっさいなし。そのへんで売ってる羽根布団はフェザーだよ。ニワトリの羽なんか使ってるからね。ニワトリの羽、さわったことあるでしょう。硬いよね。それで布団を作ったらどうなるよ。ごわごわしてるし、保温力はないし、重たいよ。重い布団はだめだ。肩凝りを起こすし、呼吸も苦しくなる。それに引き替え、うちのは軽いでしょう? 防ダニ加工してあるから、アレルギーがある人でも安心して使えるよ。それから、カバーにも注目。セラミックスを特殊配合したプラチナ繊維でできているよ。遠赤外線がどんどん出るから、冬は芯から暖まるよ。あのね、遠赤外線と一口に言っても、魚を焼く時の遠赤外線と体にいい遠赤外線とは違うの。体にいいのは波長が十ミクロン前後の――」
「すいません。家族会議していいですか」
俺は布団を這い出した。
「今日は特別に羽根枕をサービスするよ。換えの布団カバーとシーツもおまけしちゃう」
「タオルケットは?」
「彼氏、うまいねえ。よし、二つつけちゃう」
俺は綾乃の手を引いて日高から離れる。そして耳打ちする。
「一組買うと言え」
「なに言ってんの。値段聞いたの? 一組百万よ」
綾乃が目を剥いた。
「いいから。そしたらたぶんローンを組まされる」
「ローンでもイヤよ。いくら体にいいといっても、百万はないわよ。そんなお金があったら新車買って。今度はもっとおっきな車にしようよ」
「いいから。そしたらローンの申込用紙にでたらめな名前と住所を書き込め」
「バレたらどうするの」
「ああ、絶対にバレる。だからバレる前にトンズラする」
「逃げられる?」
「おそらく一度チャンスがある」
ローンを組むには信販会社の審査が必要だ。日高がその電話をかけている隙に逃げればよい。
「トラちゃん、いったい何をたくらんでいるの?」
「いいから手伝ってくれ。ローンの申込用紙を書く時には、あれこれ質問して、あいつの注意を引きつけてくれ」
「そんな大変なことまでさせられるのなら、旅行の餞別ももらわなきゃ合わない」
綾乃は首をすくめる。
「走れるか?」
「高三の時、八百メートルで都大会に出ましたけど。今も水泳で鍛えてるし」
「頼むぞ」
綾乃の肩を叩き、日高の元に送り込む。
「一組? 一組じゃ困るでしょう」
日高はあくまで貪欲だ。
「使ってみて、よかったらまたお願いするよ」
俺は笑ってみせる。
「このお値段でご奉仕できるのは今日だけだよ。いつもは三百万だよ。それを今日だけ特別に消費税込みで百万円」
「いつも一緒に寝てるから、とりあえず一組あればいいの」
綾乃がにっこりほほえんだ。
「妬けちゃうねえ。うん、これはセミダブルだから、激しい夜のお勤めをしてもだいじょうぶ」
日高が下卑た笑いを漏らす。もうやだわぁと綾乃。
「じゃあ一組お買いあげということで、こちらへどうぞ」
日高は手帳を持って立ちあがった。
移動した先は、野口先生の講演を聞いた机である。すでに何人かが席に着き、ローンの申込書を書かされている。
「ええと、今日は何日? 平成十三年の――、あら? 今年は十四年だった?」
綾乃が早速演技をはじめた。日高は中腰で机に身を乗り出し、アドバイスを送る。
システム手帳は携帯電話と一緒に彼から二十センチほど離れた位置にほったらかされており、中を覗くことは可能である。しかし先程挑戦してみてわかったように、全部のページはとてもチェックしきれない。
俺はズボンのポケットに右手を突っ込み、最終兵器を握りしめた。日高と、そしてほかの社員たちの目にも注意しながら左手を机上に伸ばす。手をかけたのは手帳ではなく携帯電話のほうである。
「ふりがなはカタカナ? ひらがな?」
綾乃は演技を続けている。日高も丁寧に応じている。
俺はポケットから右手を抜くと、日高の携帯電話の外部接続端子に秘密兵器を差し込んだ。外部接続端子というのは充電器のコネクターを差し込む部分である。
「あらー、住所が長すぎたわね。欄外でいいかしら。こっち? それともこっち?」
綾乃は休まず口を動かし続け、日高の注意を引きつけている。俺は五百円玉大の秘密兵器を隠すように携帯電話の尻の部分を掌で包み、作業終了の合図を待つ。
秘密兵器とは、英国MI6諜報部に頼んで手に入れた特殊グッズ、ではなく、そのへんのディスカウントショップで売っている携帯電話のバックアップツールである。自分の携帯電話のメモリダイヤルをこれに保存しておけば、万が一携帯電話を紛失したり壊したりしても、メモリダイヤルを新しい端末に移し替えることができる。それが本来の使い方。
が、これは非常に危険なツールでもある。もし他人の携帯電話に対して使えば、他人の携帯電話のメモリダイヤルをすっかり読み取れてしまうのだ。そして今、俺はその禁断の裏ワザを使っている。
難点は一瞬で吸い出せないことだ。一秒間に吸い出せるデータはせいぜい二、三件である。登録されているメモリダイヤルの総数が多ければそれだけ時間を食うことになり、その間に見つかったら腕の一本や二本は覚悟しなければならない。心臓はバクバク、こんなに蒸し暑いのに汗も引っ込んだ。どうか日高が振り向きませんように、ほかの社員も気づきませんようにと、ひたすら祈り続ける。
「はーい、ご苦労さまです。ちょっと待っててくださいねー」
日高が体を起こし、こちらを向いた。システム手帳と携帯電話を掴み取り、ローンの申請書をひらひらさせながらフロアーの奥の方に歩いていく。読んだとおりの展開だ。
俺はふうと大きく息を吐き出し、掌の中のツールをポケットに収めた。
「あんな感じでよかった?」
綾乃が首を上げた。
「ああ、上出来。行くぞ」
周囲に充分気を配りながら後ろ向きに壁まで下がり、そこからはカニ歩きで、しかし適度に急いで出口を目指す。
「待って。靴を忘れた」
綾乃がさっきまでいた机の下を指さした。
「ほっとけ」
「だめよ」
「戻ったら捕まるぞ。帰りにフェラガモでもグッチでも買ってやる」
「ファミレスまでどれだけあると思ってるの。裸足で走りきれるわけない。アスファルトは焼けてるし」
たしかにそうだ。
「俺が取ってくる。おまえは先に出て、少しでも進んでおけ。そのくらいの時間、裸足で我慢しろ」
「わかった。気をつけてね」
俺は机に戻った。そっと上体をかがめ、足下に手を伸ばす。二万円の水も置き忘れていたが、こいつは放っておこう。靴の入った袋だけ取りあげ、中腰のまま、そろそろと後退する。
突然、肩を叩かれた。
「どうされました?」
ビクッと背筋を伸ばして振り返ると、見憶えのある白衣の男が立っていた。野口英雄先生だ。
「いや、べつに」
「おや、まだ何も買われてない?」
野口は眼鏡のブリッジをちょいと持ちあげ、俺の顔と両手を見較べる。
「ええ、まあ」
「いいものばかりで目移りしちゃうでしょう。どれ、私が説明してさしあげましょう」
野口は俺の腕を取る。
「いや、そうでなくて……」
俺は下っ腹を押さえる。
「ああそうですか。お手洗いはこちらですよ」
野口はフロアーの奥に足を向ける。腕を取られているので従わざるをえない。
衝立の陰に日高の姿が見えた。ローンの申請書を片手に電話をかけている。笑顔が見えるので、綾乃の出まかせはまだ発覚していないようだ。しかしあとどれだけ猶予があるのだろう。冗談でなく、腹が痛くなってきた。
「先生、そんなに急がないで。腹に響きます」
そう抵抗するのが精いっぱいである。
その時、救いの女神が降臨した。
俺のズボンのポケットの中で「新必殺仕置人・出陣のテーマ」が鳴り出した。
「先生、ちょっと待った。電話だ、電話」
俺は野口の手を振りほどくと、着メロを奏でるケータイ2号を取り出し、耳に当てた。
「どうしたんですか?」
不安そうな女の声が出てきた。
「あ」
「具合が悪いのですか?」
「うっかりしてた」
「忘れてたんですか?」
「すまない。つい」
「つい?」
一転、声が不快な色を帯びる。
麻宮さくらだった。ここに来る途中でデートの中止を申し入れるつもりだったのだが、会場での立ち回りのシミュレーションに忙しく、電話するのを失念していた。
「つい、ですって? 一時間も待っているのよ。信じられない」
さくらは声のトーンをあげる。
と、俺は閃いた。
ケータイを耳から離し、野口の方を向く。
「すいません、うちの店で揉め事が起きまして。ここだと聞こえにくいので外で話してきます」
片手を拝むように立て、半身の体勢で出口に向かう。
「だから、あれがさ、うん、そうなんだ」
ケータイを耳に当て、ぺこぺこ頭を下げながら出口に向かう。野口はついてこない。
「何言ってるんですか」
さくらの声がますます険しくなる。
「ごめん。大切な用事が入ってさ」
俺は小声で応じる。
「あたしとの約束は大切ではないのですね」
「この埋め合わせはかならずする。今は手が離せないから、夜にでも電話する。そうそう、素晴らしいタイミングで電話をくれてありがとう」
開いたシャッターのところまで達した。俺は頭を掻きながら外に出ると、携帯電話をポケットに収め、ポリエチレンの袋を逆さにし、さっと身をかがめ、靴を履き、綾乃を追って一目散に駆けだした。
11
追っ手に捕まることなくファミレスまで逃げ延び、暗くなる前に東京に戻ってきた。被害は綾乃が足の裏を擦りむいただけである。会場が土足禁止だった裏には、外に出にくくするという意図が隠されていたのかもしれない。
帰宅すると早速、日高から盗んだメモリダイヤルを俺のケータイ2号に転送し、内容を確認した。
運が良かった。
携帯電話には暗証番号が設定されている。たとえば、第三者による無断使用を防ぐためにボタンをロックしたい場合、そのロックを解除する場合、暗証番号の入力が必要である。その他、メモリダイヤルの全削除、シークレットメモリという内緒の電話番号の登録と呼び出し、暗証番号の変更等、重要な操作をする場合には暗証番号の入力が求められる。暗証番号は四桁の数字で、出荷時はどの端末も0000になっており、購入後、自由に変えられるようになっている。
一方、例のバックアップツールを使ってメモリダイヤルを吸い出すには、コピー元の端末の暗証番号が0000になっている必要がある。つまり、買ったあと暗証番号を変更した端末からは、メモリダイヤルを盗み出すことはできないのである。暗証番号を0000に戻してやれば吸い出せるが、暗証番号の変更には正しい暗証番号の入力が必要で、その暗証番号は任意のものに変えられてしまっているため、そう簡単には破れない。
では、暗証番号を0000のままで使い続ける人間がどれほどいるだろうか。そんな不用心な者は――実は相当数いるのである。マニュアルを読まないのか、めんどうに思うのか、うっかり忘れただけなのか。どんなに注意を喚起されてもキャッシュカードの暗証番号に生年月日を使う人間があとを絶たないように、カフェでの席取りがそうであるように、この国には、自分だけは安全だと高をくくっている人間がいくらでもいるのだ。
蓬莱倶楽部の日高もその一人だったということだ。一発一中だったのはたしかに幸運ではあったが、確率的には宝くじの末等が当たる程度の期待値はあったかと思う。
ともかく俺は蓬莱倶楽部関係者の電話帳の入手に成功した。
なぜ電話帳が欲しかったのかというと、電話番号から住所を探り当てようと考えているからだ。はたして日高のメモリダイヤルの中には、「蓬莱(本部)」という名前での登録番号があった。パンフレット等に記されている代表番号とは違う。
さてここからが問題だ。相手はぺてん師である。電話をかけ、住所を教えろと言っても素直には応じないだろう。そこで俺は電話帳のデータベースソフトを使ってみた。
デジタルデータのいいところは検索の柔軟性と容易さだ。紙の電話帳の場合、屋号から電話番号を調べることはできても、電話番号から住所を調べることはできない。不可能ではないが、昇順でも降順でもない数字の並びの中から目的の番号を見つけ出すのは絶望的な作業である。しかしパソコンのソフトならそれが可能だ。電話番号を入力してリターンキーを叩けば、一秒とかからず調べ出してくれる。
理論的にはそうなのだが、現実には常に例外というものがつきまとう。
電話帳ソフトはNTTの電話帳を元に作られている。したがって、当該番号がNTTの電話帳への掲載を拒否している加入者のものであったら、検索しても何も出てこない。そして「蓬莱(本部)」の番号からの住所検索も不能だった。相手は詐欺師である。電話帳に載せてなくて当然か。
では次の手は?
と、その前に、片づけておかなければならないことがある。
麻宮さくらだ。約束をすっぽかしたことをきちんと詫びなければならない。俺はその晩のうちに彼女のケータイに電話を入れた。
「お忙しいんですね」
彼女は明らかに機嫌が悪そうだった。
「今日はすまなかった。明日とかどう? 昼でも夜でもいいよ」
「無理なさらないでください。お忙しいさなか、わざわざ時間を割くのは大変でしょうから」
「そう言うなよ。何食おうか。寿司? フレンチ?」
「結構です。ダイエット中ですので」
「じゃあ軽く蕎麦かうどんでも」
「昼は毎食麺類ですから」
「じゃあお茶しながら話でも」
「とりたてて話すこともありませんけど」
「俺はある」
「どういう話です?」
「それはまあ会った時に――」
「話なら電話でもいいじゃないですか。いま話してくださいよ。何の用です?」
「新しい仕事はどうかとか」
「べつにどうもないです」
取りつく島もない。本当の事情を一から説明すれば納得してくれるかもしれないが、他人の秘密をべらべらしゃべるのは気がひける。そもそも他言はしないと愛子と約束した。俺は嘘もぺてんも平気で使う人間だが、義だけは重んじる。
さくらとはしばらく冷却期間を置いたほうがいいかもしれない。とはいえこのまま電話を切ったのでは後味が悪い。
「じゃあ会うのはまた今度ということで、ただ、ちょっと訊きたいことがあるんだよね」
「だから何です?」
「それはまあ、ええと、なんだ、たいしたことではないのだけれど、ちょっとわからないことがあって、どう説明したらいいか――」
もちろん訊きたいことなどありゃしない。穏やかな雰囲気で別れられるようなあたりさわりのない話題はないものかと、通話を引き延ばしているだけだ。だが適当に言葉をつないでいるうちにピンときた。
「そう、知恵を貸してほしい」
「知恵?」
「そう、さくらさんの知恵を」
「あたし、バカですけど」
「ちょっとしたゲームだよ。どうしたら電話番号から住所を調べられるだろう」
「その番号に電話をかけて住所を教えてもらう」
「相手が不親切で教えてくれなかったら?」
「相手の名前はわかるのですか?」
少しは話に興味を惹かれたらしい。
「わかる」
「じゃあ歩いて探す」
「バカか。住所がわからないのに探しようがないだろう」
「だからあたしはバカだと言ったでしょう」
しくじった。
「いや、バカは俺だ。歩いて探すとはどういうこと? 俺、バカでわからない」
あわててフォローする。
「市内局番から、だいたいの場所がわかるんじゃないですか。何番と何番は何電話局だと決まっているのでしょう?」
「なるほど」
これは思いつかなかった。蓬莱倶楽部の本部の電話番号は03―3444―5×××。3444を管轄する電話局を突き止め、そのエリア内を歩いて蓬莱倶楽部の表札を探せばいいわけだ。しかしいったい一つの局がどれほどの面積をカバーしているのだろう。
「千人で手分けするのならそれもいい手だが」
「番号順に掲載されている電話帳というのはないのですか?」
「パソコンのソフトを使えば逆引きできるけど、知りたいと思っている番号は登録されていなかった」
「『伊東家の食卓』ではやってなかったのですか? 電話番号から住所を調べる裏ワザ」
「やってないよ」
俺は吹き出した。電話の向こうでもくすりと声がした。これで気持ちよく電話を切れると思った。
「あ!」
向こうで短く声があがった。
「ゴキブリか?」
「閃きました。電話をかけて住所を教えてもらう」
「だから、それはだめだって、さっき言っただろう」
「不親切だから?」
「そう」
「不親切でも教えてくれる裏ワザです」
「どうするんだよ」
「宅配便を装うのです。『お宅宛の荷物があるのだが、送り状の文字が薄くて住所がわからない』」
俺はおおと声をあげた。
「頭いいよ」
「たまには」
「恩に着る。お礼に今度ごちそうするよ。何が食べたいか考えておいて。今日のお詫びもあるから、思いきり高いのでもかまわないぞ」
12
八月二十六日月曜日、俺は敵の本陣の前に立った。
渋谷区恵比寿二丁目×番×号ヒラキ第三ビル四階――昼飯時に宅配便を装って住所を探り出し、警備の仕事を終えたのち、ミニでかっ飛んできた。
先年医療ミスで新聞をにぎわせた都立広尾病院にほど近い、渋谷川沿いの五階建てのビルである。笹塚のビルも五階建てだったが、こちらのほうが幅も奥行きもかなりある。
念のため、一階の集合郵便受けを確認した。各階に一つずつテナントが入っていたが、四階のポストにだけ名前が入っていなかった。スリットから中を覗くが郵便物は入っていない。階段で四階にあがってみるが、ドアにネームプレートはない。だが、四階の廊下に、潰して紐で縛った段ボール箱が放置されていた。油性マジックで「蓬莱身命の水」と殴り書きされていた。
調査開始から二週間余、ようやく本拠にたどり着いた。胸の中は達成感で一杯だ。聞き込みをした、張り込みをした、イーサン・ハントばりの綱渡りも演じた。拳を握りしめた両手を天にさしあげ、快哉《かいさい》を叫びたいような気分である。
いやいや、思い出にひたるのはまだ早い。今はまだ一つの峠を征服したにすぎない。頂上にいたる道はまだまだ険しい。行く手は霧に包まれ、ルートすら見えていない。
俺の任務は、久高隆一郎の死に蓬莱倶楽部が関与しているか否かを確かめることである。最低でも、羽田倉庫管理というダミー会社の正体が蓬莱倶楽部であるか否かを見極める必要がある。そのためには蓬莱倶楽部の家捜しを行なわなければならないのだが、しかしどうやって中に入る?
ピッキングできれば深夜に侵入するところだが、あいにく俺にその技術はないし、オフィス荒らしで生計を立てている友人もいない。窓ガラスを割って入ろうにも四階だし、だいいちビルの入口に警備会社のステッカーが貼ってあった。
スマートなやり方としては、社員かアルバイトとして潜り込み、業務の合間合間に調べを進めるというのが考えられる。しかしいきなり訪ねてきた人間を、じゃあ明日からと採用する会社もないだろう。
いや、採用されなくても、中に入れさえすれば道が開けるかもしれない。
昨今、金庫泥棒が横行している。深夜、事務所や店舗に侵入し、金庫ごと持ち去るのだ。被害に遭ったところの多くは警備会社と契約していた。しかし警備会社の連絡で警察が駆けつけた時には、賊は金庫とともに姿を消している。
仕事が速いのには理由がある。ドアや窓を破ったら、まっすぐ金庫に向かい、まっすぐ運び去るからだ。金庫の場所がわからずまごつくことはない。金庫が重すぎて立ち往生することもない。事前にターゲットとした会社のアルバイト面接を受け、その際に金庫の場所や大きさをチェックするのだそうだ。窃盗団の元一味が、ワイドショーの中で語っていた。
しからば俺も、仕事はないかと蓬莱倶楽部に押しかけ、雇え雇えないの押し問答の間に室内レイアウトを確認、夜中に再訪してドアをバールでこじ開け、日中目をつけておいたキャビネットに直行、サンタクロースが使うような袋に手当たりしだい書類をぶち込み、警察が到着するまでにとんずら――できるだろうか?
そんなことを階段の踊り場にたたずんで考えていたら、不意に肩を叩かれた。
「どうしました?」
俺はハッと身を固くした。つい先日も同じようなことがあり、肝を冷やした気がする。
「具合が悪いのですか?」
おそるおそる顔を上げると、白髪頭の痩せた男が立っていた。ライトグリーンの作業服を着て、手にはモップを持っている。
「いえ、だいじょうぶです」
俺は彼に道を譲り、階段を降りはじめた。
三段降りたところで頭の中に光を感じた。振り返り、男の背中に声をかける。
「掃除の方ですか?」
男はこちらを一瞥し、見りゃわかるだろうとばかりにモップの先で二度三度と床を突いた。
彼の名前は渡辺庸一。五年前に準大手電機メーカーを定年退職したのち、会社の再雇用プログラムにより、昨秋まで系列企業で働いていた。上場企業だけに退職金はまずまず出た。年金も、女房と二人で生活するには充分な額が支給されている。体も健康そのもので、まさに悠々自適の老後である。ところが彼は四十年間を社畜として生きてきたため趣味がない。盆栽やゲートボールを始めてみるが長続きせず、結局時代劇の再放送を見るくらいしかすることがない。すると、古女房と一日中顔を合わせることになり、これが不愉快でならない。加えて、このままゴロゴロ過ごしていたら早々にボケてしまうのではとの危機感が芽生える。そこで彼は、タバコ銭稼ぎも兼ねて清掃の仕事を始めたのだった。以上、俺の勝手な想像。
「お仕事は毎日ですか?」
俺は笑顔で渡辺(仮名)に尋ねる。
「そうです」
「土日は休み?」
「そうですけど」
渡辺は大儀そうに答えて階段を一段昇った。
「勤務時間は?」
返答がない。
「朝は何時からです?」
やはり無視された。俺は階段を駆け昇り、渡辺の前に回り込む。
「帰りにこれで一杯やってよ」
千円札を三枚押しつけると渡辺は、表情こそぶすっとしていたが、札を掴んでポケットにねじ込み、
「仕事は午後からですよ」
と答えた。
「はあ、午後から。普通、掃除は朝するものじゃないんですか?」
「前は午前中にやってたらしいですよ。けれど朝はどの会社も忙しいでしょう。じゃまになるから午後のほうがいいと変更になったようです」
「じゃまになるということは、階段や廊下だけでなく、オフィスの中まで掃除しているのですか?」
俺は心の中で指を鳴らした。
「そうですよ。エレベーターやトイレや外のゴミ置き場も」
「四階の会社の中も掃除するのですね?」
「してますよ。一階から五階まで全部」
「フロアーの中はいくつかの部屋に分かれています?」
「いや、一つですよ。衝立で仕切っているだけで」
「四階の会社、何人くらい働いてますかね」
「日によって違うけど、いる時は十何人、いない時は二、三人」
俺がまた心の中で指を鳴らしたその時、上の方から声がした。
「何してるの? こっちを手伝ってよ」
階段の手摺り越しに女がこちらを見おろしている。五十前後の、ふくふくした顔の女だ。渡辺と同じ作業服を着ている。
「掃除は二人で?」
俺は彼女と渡辺とを見較べた。
「ええ、二人」
「あと何人かいるということは?」
「いいえ、いつも彼女と二人です」
俺は、今度は実際に指を鳴らした。渡辺の耳元に口を寄せ、弾んだ小声で話しかける。
「アルバイトしませんか?」
13
明くる晩、さくらと会った。
「生きててよかった」
ごくごくわずかに桜色に色づいた透明な切片を口に含み、俺は溜め息をついた。噛むほどに甘味がにじみ出てきて、知らぬうちにまた溜め息が漏れる。
「あ。また破れちゃった……」
さくらの手は心なし震えている。
「こわごわ動かすからだよ。はじめてなのか?」
「違いますよ。でも、うまくいかない」
「まあ落ち着け」
俺は笑い、彼女の猪口に冷たい日本酒を注いだ。
赤坂の料亭である。桧の柱は黒光りし、山水画のかかった床の間があり、欄間には松竹梅が透かし彫りされ、漆仕上げの座卓を挟んでさくらと俺がいる。もちろん個室である。たった二人なのに十二畳という贅沢さだ。
卓上に並ぶのはフグである。小鉢の中は湯引きした皮の千切り。角皿の上は狐色の唐揚げ。しかし圧巻は何といっても薄造りだ。削ぐように切られた透明な身が、一尺七寸の青磁の大皿に、菊の花びらのように盛られている。
「くっついて、うまく離れてくれないんですよ」
さくらは箸を皿に近づけるが、うまく身を剥がすことができず、箸の先をぷるぷる震わせている。
「粘りが強いのは新鮮な証拠。もっと力を入れないと取れないぞ」
俺は皿の端から箸を斜めに入れ、ドリルのように押し込み、十枚ほどをまとめて引き剥がす。
「そんな子供みたいなやり方は反則です。一枚ずつ取ってみてくださいよ、難しいから。だいたい、もったいないじゃないですか」
「豪快に食うのが粋というものだ」
扇のように折り重なった身の上に、小口に刻んだ浅葱《あさつき》と紅葉おろしを載せて巻き、ポン酢につけて口に運ぶ。酸味の中に甘味がじわじわと湧き出てきて、またまた溜め息が漏れる。
「フグは何度か食べたことあるけど、こんな時期ははじめて」
さくらもようやく刺身にありついた。
「まあ、夏のフグといったら、普通はオコゼだよね」
「オコゼ?」
「目が突き出て、口がひん曲がり、背中に山のような棘がある、グロテスクな魚」
「オコゼはわかりますよ。でもそれとフグがどうして?」
「オコゼは外見こそああだけど、中はとびきり美しい白身で、もちもちした食感や淡泊な味わいがフグに似ている。で、旬が夏だから、夏のフグ」
「へー、それは初耳」
「毒のある魚はおいしいんだよ。女もね」
しくじった。意味がわからなかったのか、軽蔑したのか、さくらはくすりともせずに大皿に箸を伸ばす。俺は背中を丸めて猪口に口をつける。
「あら? フグの旬は冬よ」
さくらが首をかしげた。
「だからオコゼのことを夏のフグと呼ぶんじゃないか。フグの旬が夏だったら、別の魚にわざわざフグの称号は与えない」
「じゃあ何であたしたちは八月なのにフグを食べてるの? 冷凍?」
「まずいか?」
「ううん。とても冷凍ものとは思えない」
「じゃあ自分の舌を信じろ。夏にもフグは獲れるんだよ。ただ、体が小さくて高値がつかないのであまり出荷されない。冬のように脂は乗っていないが、その代わり身が引き締まっていて、噛めば噛むほど旨味が出てくる。肉でも、若いのと成熟したのとでは味が違うだろう。それと一緒」
小鉢の皮を少しつまみ、返す刀で唐揚げを頬張る。いずれも旨いが、やはり刺身にはかなわない。
「食通でもないのにこんな珍味をいただいていいのかしら。しかもこんな格式のあるところでごちそうになって恐縮しちゃう。あ、ごちそうになるって勝手に決めてるけど」
さくらが口に手を当てた。
「約束どおり、今日はおごりだよ。スポンサーもついてるし」
「スポンサー?」
「さるお金持ち」
経費として久高愛子に請求しよう。
「嘘ばっかり」
「バレたか」
「ホント、どれが本当でどれが冗談かわからない人だわ」
さくらは肩をすくめる。
「そう、俺は嘘つき。ついでに泥棒。嘘つきは泥棒のはじまりとは、よく言ったものだ」
「なに子供みたいなことを」
「本当に泥棒だよ。一例を挙げるなら、銀座でコーヒーをパクった」
「あれは泥棒でなくて教育だったのでしょう」
「そんなこと言ったっけ」
「ほら、また嘘ついてる」
さくらは唇を尖らせて、
「誰の住所を知りたかったのですか?」
「え?」
「電話番号から住所を調べる方法」
「ああ、あれ」
俺は手酌で酒を注いだ。
「裏ワザとして『伊東家の食卓』に応募するとか」
「正解」
「本当は?」
「人に頼まれてね」
「ふーん」
さくらは値踏みするような目で見つめる。俺は視線を欄間の方に飛ばして、
「キヨシという舎弟がいてね、実の弟でなく、弟のようにかわいがっているやつ。高校の後輩なんだけど、そいつがえらく奥手でね、ある歳上のお嬢様に一目惚れしたのだが、告白どころか声をかけることもできない。苦労して彼女の自宅の電話番号を手に入れても電話をかけられない。で、せめてその姿を拝む機会を増やそうと、彼女の家の前に張り込むことにした。ところが訪ねようにも住所がわからない。それで、先輩助けてくださいと俺に泣きついてきたわけだ」
「それってストーカーじゃないですか」
「に近いかな」
「近いじゃなくてストーカーそのものです」
「俺もちょっとヤバいかなと思って、例の方法はまだキヨシに教えてない」
「今後も絶対に教えちゃだめ」
さくらはきつく口を結び、首を左右に振った。
「はい、わかりました。ところで、新しい仕事のほうはどう?」
口から出まかせがうまく機能したようなので、俺は話題を変えた。
「どうということも」
「だいぶん慣れた?」
「ええ、まあ」
さくらは溜め息をつく。
「キツい仕事なの?」
「キツくはないけど、ちっとも楽しくないし、だいたいあんな仕事ではたいして稼げないから」
また溜め息をつく。
「いったいいくら借金を抱えて――、あ、ごめん。今の発言は撤回」
俺はあわてて手を振り、銚子を差し出した。古傷に塩を塗るようなことをして、また自殺を図られたらたまったものじゃない。
「手に職があればいいんですけどね。洋裁、着付け、英語、ピアノ――そういうのができれば稼ぎもずいぶん違うでしょう。でもあたしには何の特技もない。だから給料の安いおにぎり屋にしか勤められない」
さくらはみたび溜め息をつき、人差し指の先で猪口についた口紅をぬぐった。
「そう卑下するものじゃないよ。ふっくらとしたおにぎりを握れるのも特殊技能だ。誰でもできることではない。少なくとも俺は握れな――ん?」
俺は不意に口をつぐみ、天井に顔を向けた。
「どうしました?」
「デジャビュだ」
「デジャビュ?」
「今の台詞、どこかで言ったような」
こめかみをつつく。
「何言いましたっけ」
「ふっくらとしたおにぎりを握れるのも特殊技能だ。誰でもできることではない」
そう遠くない過去に、誰かを相手に同じことを言ったような気がする。
「わかった」
さくらが手を叩いた。
「そういう台詞でいつも女を口説いている。飲み屋とかで」
「口説かない口説かない」
俺は笑って酒をあおった。
「どうだか」
疑わしそうな視線が飛んでくる。
「本当です」
「誰かさん、嘘つきだし」
「見えすいた嘘はつかないよ」
俺は平静を装って髪を縛り直す。
「失礼します」
襖の向こうから声がかかった。どうぞと答えると、音もなく襖が開き、仲居さんが入ってきた。
座卓の中央にコンロを据え、昆布だしを張った土鍋を置き、フグのあらを入れ、あくをすくい、野菜を入れ、火が通ったはしから二人の碗に取り分け、食べ具合に応じて具を追加し、火加減を調節する。仲居さんはつきっきりで世話してくれたため、いきおい彼女をまじえてのあたりさわりのない話に終始した。この仲居さんを今回の救いの神に認定しよう。
鍋にご飯と卵を入れて雑炊にし、それで締めとなった。
「ごちそうさまでした」
さくらは行儀よく手を合わせ、白磁の湯呑みを手に取った。
「どういたしまして」
俺も満腹だ。タバコに火を点ける。
「今度はあたしがごちそうしますね」
「そりゃ楽しみだ」
「何が食べたいですか?」
「うーん、腹いっぱいの時に訊かれてもなあ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「そうだ、あたしが作ります」
「え?」
「素人の手料理は嫌ですか?」
「そんなことはないけど」
「お宅に作りにいきます」
「うちは……、うちねえ」
綾乃の顔が脳裏に浮かぶ。
「いつ行きましょうか」
「そうだなあ、考えておくよ」
俺は曖昧に笑い、タバコを灰皿に置いた。
「あ、なんかヘン」
さくらが首を突き出した。俺は無視して湯呑みに口をつけた。
「実は、おうちに誰かが待っているんじゃないですか?」
「待ってるもんか」
はんと笑ってみせる。
「本当に?」
「本当」
「じゃあ、これからちょっと寄らせてもらおうかしら」
俺は一瞬返答に窮して、
「また今度ね」
「あー、やっぱり誰かいるんだ」
さくらはもう一段首を突き出す。
「とっ散らかってるんだよ」
「男の人は、よくそういう言い訳しますよね」
「流しを埋めた食器や脱ぎ捨てたパンツは見せられない」
「あたしはちっとも気にしませんけど」
さくらはあらぬ方に目をやってほうじ茶をすする。俺はタバコを消しておもむろに立ちあがる。
「じゃあ連れてってやる」
外は満天の星だった――おそらくは。この料亭を訪ねた時にはきれいな夕焼けが出ていた。しかしすっかり暮れてしまった今は、ビルの明かりやネオンにじゃまされ、空は一面無彩色に濁っている。
青山通まで歩き、タクシーを拾った。今日は酒を飲むとわかっていたのでミニには乗ってきていない。
「白金。古川橋から明治通を四ノ橋の方に」
そう運転手に伝えると、むすっと腕組みをしてカーラジオに聞き入った。
ラジオからはカープ―ジャイアンツ戦が流れてくる。七回の裏を終わって9対8。明治通に入るまでの間に、二岡が2ランを打ち、江藤も2ランを放ち、前田がソロを返すという派手な展開である。ジャイアンツがリードしているので文句はつけないが、こういう大味な試合は好みじゃない。
新古川橋を左折して白金地内に入ると、右だ左だと運転手に指示を与え、ひかり荘の前で車を停めさせた。ちょっと待っててと運転手に言い置き、さくらを連れて車を降りる。
「すごいだろう」
首をすくめ、タバコをくわえた。
「いえ、そんな」
さくらは小さく手を振った。
「気をつかわなくてもいいよ。ごらんのように、とてつもないおんぼろアパートなわけ。だから見せたくなかった。中はもっと悲惨だ。今度までに体裁を整えておくから、今日はここまでで勘弁してくれ。ちなみに俺の部屋はあそこ。女なんていないよ」
と明かりの消えた三号室の窓を指さす。現物を見て気分がなえたのだろう、さくらは素直にうなずいた。
「行こうか」
俺は彼女をタクシーの後部座席に押し込み、自分も隣に乗り込んだ。そして尋ねる。
「家は?」
「え?」
「家はどこなの?」
「あたしの?」
さくらはきょとんと自分の顔を指さした。
「ほかに誰がいる。運転手さんの家を訊いてもしょうがないだろう。ねえ」
俺は運転手に笑いかける。
「どうしてそんなことを尋ねるのですか」
「家を尋ねるのがそんなにおかしいか?」
「べつにそういうことじゃ……。世田谷の方ですけど」
さくらはぼそっと答え、目の下をこする。
「じゃあ、世田谷」
ドアが閉まり、車が走り出す。
「世田谷のどこ?」
運転手が尋ねてくる。さくらは答えない。
「世田谷のどこ?」
俺が尋ねる。か細い答が返ってくる。
「三軒茶屋」
「三軒茶屋でお願いします」
通訳し、運転手に伝える。
「でも、どうしてあなたが一緒に?」
さくらは俺から離れるようにドアにもたれかかった。男の部屋に行きたいと積極的であったかと思えば、今は男を避けているような感じである。よくわからない女だ。
「酔った女を一人で帰すわけにはいかない」
「タクシーに乗っていれば一人でも安全です。だいいち酔うほど飲んでません」
「家まで送り届けるのが紳士のたしなみだ」
「紳士は夜遅くに女性の家を訪ねません」
「お嬢さん、自意識過剰ではないですか。家の前まで送るだけですよ」
「ま!」
「おごってくれた人間の言うことは聞くものだ」
俺が高飛車に出ると、前からも声がかかった。
「彼氏の言うことは聞くものだよ」
ものわかりのいい運ちゃんだ。さくらはそれで口をつぐんだ。
12対9の乱打戦が幕を閉じるころ、車は三軒茶屋に到着した。住居表示にのっとって正確に言うと、三軒茶屋に隣接する太子堂である。タクシーには待ってもらい、俺も車を降りる。
「幻滅したでしょう」
門の前に立ち、さくらは顔を伏せた。
二階建てのアパートである。白金のひかり荘よりは少しましとはいえ、時代錯誤な木造モルタルの、風呂もついてなさそうなアパートである。
「なんだ、仲間じゃないか」
俺は笑って彼女の肩を叩いた。
「さっきあなたのアパートを見て、実はホッとしました。庭に池があるようなお屋敷だったり三十階建てのマンションだったりしたら気後れしちゃうと心配に思っていました」
さくらは胸に手を当て、大きく息を吐き出した。
「ひどい取り越し苦労だな」
「だって、いつもいいものを着ているし」
「家ではジャージだよ」
とアルマーニのシャツの袖をつまむ。
少し風がある。空気はむっと全身にまとわりつくが、家並みの間から渡ってくる風はどこか肌にやさしい。季節は一週間前とは確実に変わっている。
「お茶飲んでいきます? 狭いですけど」
さくらが恥ずかしげに顔を上げた。
「そうだな、いや、今日は遠慮しておくよ。さっき、あがらないと啖呵を切った」
「いいですよ、あんなの気にしないで」
「いや、やっぱり遠慮しておく。明日は朝が早いんだ」
じゃあまたと手を挙げ、俺はタクシーに乗り込んだ。
朝が早いのは毎度のことである。
麻宮さくらのことは憎からず思っている。二人きりで食事をしたり映画を観たりするのだから、たんなる知人友人とは違う。
だが、彼女とは一線を画しておきたいという気持ちがどこかにある。それは知り合ってから日が浅いから――いや、違う。普段の俺は出会ったその日にセックスしてしまう男だ。
彼女のことはほかの女とは区別して扱っているのだろうか。まあたしかに出会い系あたりで捕まえた女とは違い、さくらとは会話ははずむし、一緒にいて心はなごむし、二万五千円のフグをおごっても損をしたという気分にはならない。そういう女とはあえて肉体関係を結ぶ必要はない、いわゆる交際を楽しんでいればそれで充分ではないか、と考えているのだろうか。それとも――。
さくらが自殺を図るような女だから、本能的に避けているのだろうか。
俺に助けられて心を入れ替えたと彼女は言ったが、人間の心というものは長年の積み重ねによってできている。今日と明日で中身をすっかり変えてしまうことは不可能だ。彼女を自殺にまで追い詰めた原因は、根元的には《たぶん》取り除かれていないのだろうし、するといずれまたそういう気分に襲われるに違いない。自殺は癖だということを聞いたこともある。
そのとき俺はどう思う。親しくなってしまうと、死なれた時の悲しみが深くなる。
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千絵ちゃん
話は二年ばかりさかのぼる。
当時、俺は西麻布の古い焼鳥屋に出没していた。横には決まって白金の安さんがいた。
「成瀬先生は故郷《くに》はどこなの?」
安さんは俺のことを先生と呼ぶ。
「東京です」
「ほう、江戸っ子かい。粋だねぇ」
「江戸っ子と自称するにはいささか抵抗がありますね。下町で生まれ育ったわけではないから。東京っ子ですよ。あるいは東京者」
「先生はいつも理屈が多いよ。しかしいいよなあ、いつも故郷にいられて」
安さんは御歳七十二。人生の先輩から先生と呼ばれるのはなんとも居心地が悪い。
「俺は逆に地方出身者にあこがれてますよ。帰るところがあるから」
「なに言ってんだよ。東京にいれば、帰る必要もない。会いたいと思った時に幼なじみに会える。床屋も酒屋も蕎麦屋も、みんな昔から知ってる顔なんだろう? 最高だ」
「いや、故郷というのは、遠く離れているから懐かしく思うのだし、たまにしか帰れないからありがたみを感じるのだし、何時間もかけて往復するから気持ちの切り替えができるのですよ。その点俺なんかは生活圏が故郷と完全に一致していて、オンもオフもあったもんじゃない」
「また理屈っぽいこと言って。なんだかよくわからないが、先生よぉ、贅沢言うもんじゃないよ。俺なんかよ、故郷に帰りたくても帰れないんだから。寂しいもんだよ」
安さんはやるせなさそうに猪口を口に運んだ。
俺とこの老人とのつきあいは、みなとふれあい館でのパソコン教室に端を発する。港区が高齢者を対象に開いているパソコン教室だ。俺はそこで講師を務め、安さんは教え子の一人であった。
俺はかれこれ二年ほどその教室で高齢者を相手にしているが、安さんほど覚えの悪い生徒はとんと記憶にない。彼にマウスの左クリックと右クリックの違いを理解させるのにふた月もかかったほどだ。いや、実はいまだに理解していないのかもしれない。
けれど安さんは誰よりも人なつっこく、講習が終わったあとも、先生教えてくれと、しきりと質問してきたものだ。そしてたっぷり一時間補習したあとにはかならず、先生お礼におごるよと、西麻布のこの焼鳥屋に連れていかれた。そのつきあいが、講座が修了した今でもこうして続いている。
「安さんの田舎はどこなんです?」
銚子を差し出し、俺は尋ねた。
「茨城。筑波山の裏の方の小さな村だ」
「なんだ、帰りたくても帰れないというから、どんな遠くかと思ったら。日帰りもできるじゃないですか。なんなら今度の週末にでも車に乗っけてってあげましょうか」
俺は笑う。
「近いとか遠いとか、そういう問題じゃないんだよ。なあ、大将」
安さんは猪口を置き、意味もなく焼鳥屋のオヤジに声をかけた。オヤジは調子よく、そうですよなどと応える。
「ははあ、田舎で指名手配になってるんだ。銀行を襲って」
俺はレベルの低い冗談を飛ばした。
「先生、惜しいよ、惜しい。そう、俺は村でかっぱらいを働いたんだよ。それは合ってる。だが、うちの村に銀行なんてない」
「じゃあ農協だ」
俺はまだまともに取り合っていない。
「俺、四男だろう」
安さんは脈絡のないことを言った。
「へー、そうなんですか」
「へー、じゃないよ、へー、じゃ。名前でわかるだろう」
「わかりませんよ」
安さんの本名は安藤士郎である。
「わかるだろう。四男坊だから『しろう』」
「字が違うじゃないですか」
「先生、だめだなあ。四は縁起が悪いから武士の士を使ったんだよ」
「ああなるほど」
「まったく、先生のくせに鈍いよ」
わからないふりをしてみせるのも、円滑なコミュニケーションを図るうえでは重要である。
「それで? 四男がどうしました?」
「俺は四男だから東京に出てきたんだよ」
「はあ」
「だからさあ、四男だから親にも親戚にもまったく期待されていなかったの。畑も猫の額ほどしか分けてもらえないでさ、それを細々と耕して暮らしていた。縁談も全然回ってこなかった。ところがある日ふと思ってしまったのよ。安藤士郎という人間はこのまま自分の食い扶持だけ稼いで一生を終えるのだろうなと。そしたらむしょうに悲しくなっちゃってさ、その日がまたえらく夕焼けがきれいだったものだから、よけいに涙が止まらなくなってさ。このまま終わるのは嫌だと思い、それで上京を決意した。今に見ていろ都で一旗揚げてやると、村中に吹いて回ったさ。親は何も言わなかったね。出ていけるものなら出ていけと笑われた。俺にはそんな器量はないと思ったんだろうな。または、四男坊なんかいてもいなくても一緒と思われていたのかもしれない。いずれにしても、俺はそれで火がついた。絶対に出ていってやると決意した」
「いつのことです?」
「昭和二十五年。夕焼けを見たのは五月の十四日」
「すごい記憶力ですね」
「誕生日だったから。まあそれで上京を決めたわけだけど、そのことを吹いて回ったところで誰も餞別をくれやしない。親もだ。これじゃあ当座の生活ができないばかりか汽車にも乗れない。貯金もなかったしね。となると、盗みを働くしかないだろう」
なるほど、話はそう戻ってくるか。
「それで墓を掘り返したのよ」
安さんはぺろりと舌を出した。
「へ?」
「墓を掘り返しておぜぜを掻き集めた。それでなんとか上京することができた。ご先祖様には感謝感謝だ」
安さんは乾杯するように猪口をあげる。
「何です、そりゃ。安さんの田舎にはピラミッドでも建っているのですか? 金銀財宝が一緒に埋葬してある」
もちろん冗談である。ところがこれが正解だったのである。
「うちの田舎では、棺桶の中に現金や生米や人形を入れてたのよ。仏様がおなかがすかないように、寂しくないように、いざとなったら買物できるようにという意味でそうしていたのだろうね。金は三途の川の渡し賃かもな。それで、今はどうだか知らないが、当時は土葬だったから、墓を掘り返せば現金を手に入れられたのよ。ほとんどがジャリ銭だけど、中には札も混じっていて、墓を三つ四つとあばいていくと、それなりの額が集まった。で、村からドロンよ。あと、昔々に埋葬された仏様の棺桶には珍しい古銭が入っていて、それは東京で結構な値で売れたっけ」
「賽銭《さいせん》泥棒みたいなものですか」
俺は妙に感心してしまった。
「そうだな。罰当たりもいいとこだ」
「夜中に掘り返したのですよね?」
「そりゃ、昼日中には無理だ」
「怖かったでしょう」
「ああ、おっかないぞ。土葬だから、骨が人の形のまま出てくる。しゃれこうべもな。まるで怪奇映画の中に入り込んでしまったかのような恐ろしさだ。なにより、自分はいけないことをしているという気持ちが恐怖をあおる。罰が当たって死ぬんじゃないかとね。東京に来て、後楽園や花やしきのお化け屋敷に行ったが、あんなの目じゃない」
安さんはぶるっと肩を震わせ、きゅっと酒をやった。
「なるほど、墓泥棒を働いたから田舎には帰れないと。でもそれ、いつの話です。とっくに時効だし、みんな忘れてますよ」
俺は安さんの猪口に酒を注ぎ、もう一本くれとオヤジに声をかける。
「墓泥棒のことはもう気にしてないよ。毎日、田舎の方を向いて、ご先祖様申し訳ありませんでしたって手を合わせていたし。帰れない理由は、俺が何者にもなっていないからだよ。一旗揚げてやると啖呵を切って東京に出てきたはいいが、結局何も成さぬままこんな老いぼれになってしまった。揚げたのは、一旗ならぬ白旗だ。親兄弟や親戚、幼なじみに、どのツラ下げて、ただいまを言えばいい」
「それこそ今さら気にすることではないでしょう」
「気にするさ」
「充分がんばったじゃないですか」
「人間、結果がすべてだ」
「まさか、上京以来一度も帰郷していないのですか?」
「あたりまえだ」
「驚いた。上京して何年です。半世紀じゃないですか。みんな心配していますよ」
今年は西暦二〇〇〇年である。
「とっくに忘れられてるよ、四男坊は」
「そんなことありませんって。親兄弟に元気な姿を見せてあげないと。ご先祖様もきちんと供養して」
「わかってるよ。わかってるけど帰っちゃだめなんだ。それが男なんだ」
安さんはぐっと酒をあおり、叩きつけるように猪口を置いた。
「男はね、痩せ我慢の生き物なんだよ」
焼鳥屋のオヤジが知ったような口を利いて新しい銚子をよこした。
「我慢はできるんだけど、このごろやたらと故郷のことが思い出されてさ。歳を取るって嫌だねえ」
安さんはしんみりつぶやいた。
(バカだねえ)
その言葉は胸の中だけにとどめ、俺はすっかり冷めてしまったモツ煮込みに箸をつけた。
「先生、子供は?」
安さんが言った。そんなのいませんよと俺は手を振る。
「奥さんは?」
「独身ですよ、まだ」
俺は笑って首をすくめる。
「親御さんは?」
「もういません」
「じゃあ独り暮らしかい」
「いいえ。妹と二人で」
「ああ、妹さんと。そりゃいいね。俺なんか独りだからね。寂しくてたまんないや。こんな秋の夜はとくに。だから先生を飲みに誘っちゃったわけだけど。結局さ、田舎が恋しくなるのは独り暮らしだからなんだよね。一緒に暮らす家族がいれば里心もつかないだろう」
妻子はどうしているのだろう、奥さんには先立たれたのだろうか、子供はどこに住んでいるのだろう、それとも安さんはずっと独り身なのだろうか――などと勝手な想像をしながら黙ってちびちびやっていると、向こうから答をよこしてきた。
「俺さ、子供が一人いるんだよ」
「ああそうなんですか」
「女の子」
「ええ」
「今年十七になったのかな」
「高校生のギャルですか」
などと俗っぽいことを口にしてから変な気分になった。安さんは七十二歳である。それで娘が十七? 七十二引く十七を計算していたら、安さんが言った。
「五十五の時の子供。いい歳して恥ずかしい」
「そんなことないですよ。男はいくつになっても女を愛しく思うものです」
俺は穏やかに笑った。
「結婚したのが五十四の時でね、これまた恥ずかしい話、相手は日暮里のスナックのおねえちゃん」
「恥じることはないですよ。接客は特殊技能です。人をもてなし、いい気分にさせるなんて、誰でもできることではありません」
「そうかい。そう言ってくれると嬉しいよ。あいつはたしかに、そこにいるだけでみんなをなごませるような雰囲気を持っていた。目が大きくて、睫が長くて、背もすらーっとしたいい子だったよ。けど、やっぱり歳がアレだろう。向こうは二十三だったからね。ふた回り以上離れていちゃあうまくいかないよ。あっという間にだめになってね。娘は向こうが連れていった。仕方ないよね。五十過ぎのオヤジに育児は無理だ」
安さんはふうと溜め息をこぼし、猪口の縁を指先でなぞった。
「離婚された時、娘さんはいくつだったのです?」
「一歳と九ヵ月」
「その後お子さんとは?」
安さんは首を左右に振り、上着のポケットをごそごそ探った。札入れを取り出し、開き、中から何やら引き出して俺に差し出した。写真だ。色褪せ、無数の皺が寄っている。
「別れる直前に撮ったものだよ」
くまのプーさんのカバーオールを着た子が畳の上にちょこんと座っている。柔らかそうな髪にはくりんくりんとウエーブがかかり、頬はリンゴのように赤い。目は、何かに驚いているかのようにまん丸に見開かれている。安さんの目は笑おうが怒ろうがペンで引いたように細いので、これは母親譲りなのだろう。
「千絵というんだ」
安さんは糸のような目をさらに細めた。
「元気に育っているといいですね」
俺は写真を返す。安さんは写真の娘の頭をいとおしそうに撫で、札入れの中にしまった。
「そうだ。先生、一つ頼まれてくれないかな」
突如として安さんが背筋を伸ばした。
「何でしょう」
「娘に会って、どんな様子だか見てきちゃくれないかな」
「俺が?」
「忙しい?」
「べつに忙しいというほどではないですけど……。安さんが行けばいいじゃないですか」
「俺はだめだ、俺は。女房と別れる時に二度と会わないという約束をしたし、千絵も父親のことなどまるで憶えていない。突然名乗り出たらパニックになっちまう」
安さんは顔の前で手を振りたてた。
「遠くから見るぶんはかまわないでしょう」
「だめだめ。怖くて見られるもんか。想像するだけでこんなにドキドキしてるのに」
安さんは顔をゆがめ、胸に手を当てた。
「娘さんは今どこに?」
「見てきてくれるか? 頼むよ。今度一杯おごるからさ。先払いで今日おごってもいいや」
安さんは早速酒と焼き鳥を追加する。
「石垣島までは行けませんよ」
俺は笑った。
「川崎だよ」
「なんだ、そんなに近いのなら安さんが――」
「だから、俺はだめなんだって。心臓止まるって」
安さんは胸を鷲掴みする。
「いいでしょう。一肌脱ぎましょう」
俺は親指を立てた。ありがとうありがとうと安さんは俺の手を取る。
「父親に頼まれたなんて言っちゃだめだよ」
「わかってますよ」
「それと、先生はパソコンのカメラを持っているんだろう?」
「デジカメ?」
「そう、それ。それで千絵の写真を撮ってきちゃくれないかい。パパッーと何枚か」
「じゃあ、今度の休みに撮ってきますよ。パパッーと」
そう、パパッと終わるはずの仕事だったのだ。
三日後の日曜日、俺は多摩川を越えた。
川崎は不慣れな土地だったので、車は使わず電車に乗った。品川からわずか十分の乗車だが、湘南電車の四人がけの座席に座り、多摩川の長い鉄橋をガタゴト渡るのは、ちょっとした旅行気分だった。
川崎市幸区中幸町一―×―× ハイツ大倉二〇一――ここが安さんに教えられた住所である。安さんは離婚後、別れた奥さんから一度だけ手紙をもらったことがあり、それでこの住所を知ったという。ちなみにその手紙というのは、三宅某という男性と再婚したという簡単な報告だった。
地図によると、当該住所は、JR川崎駅の西口から歩いていける距離にあった。俺は駅構内のカフェでテイクアウトしたアイスコーヒーを片手に、区画整理された駅前広場を横切り、川崎の街に足を踏み出した。空はわずかに筋雲が出ているだけの秋晴れで、まだ朝の八時だというのに、上着を着ていると汗ばむほどだった。
高層の再開発ビル、アーケードのある古い商店街、大手電機メーカーの工場跡地、中層のマンションと雑居ビル――街は交差点ごとに姿を変え、やがて、低層マンションと庭付き一戸建てと木造の商店とトタン屋根のアパートと青空駐車場が渾然一体となった地区に入り込んだ。道は細く、車も入ってこず、百二十万都市のターミナル駅からわずか十分の距離にこのような住宅地が存在しているとはかなりの驚きだった。なんとなく白金と同じ匂いのする土地である。
ハイツ大倉は、マンションともアパートともとれる、三階建ての集合住宅だった。二〇一号室には表札が出ておらず、一階の集合郵便受けにも名前が入っていなかったが、都会の集合住宅ではよくあることである。二〇一号室のベランダにはスキー板や段ボール箱が置かれており、人の気配はある。
ここからは忍の一字である。写真を撮らせろと部屋を訪ねるわけにはいかないので、千絵ちゃんが出てくるのをひたすら待ち続けなければならない。出てきたらあとを追い、駅などの雑踏にまぎれてパパッーと写真を撮る。さいわい、ハイツ大倉は全戸の玄関が通りの方を向いているため、見張りはやりやすい。
退屈をまぎらすため、携帯ラジオと競馬新聞を用意してきた。張り込んだはいいが、すでに千絵ちゃんは外出していた、という間抜けな事態に陥らないよう、朝早くに出てきた。俺も一度は探偵を志した男だ。そのくらいの頭は働く。
しかし、半人前にもならないうちにケツを割ってしまった男は、今もその程度の男であった。
十一時近くになって二〇一号室のドアが開いた。出てきたのはワカメのような髪の男である。男は革のスタジアムジャンパーに袖を通しながら階段を降りてくると、建物の横に路上駐車してあったスクーターにまたがり、ノーヘルで駅の方に走り去っていった。
妙な気分になった。今の男、どう見ても二十代前半である。千絵ちゃんの新しい父親にしては若すぎる。部屋から出てくる際に鍵をかけていたので、遊びにきていた他人とも違う。父親の連れ子か? そのケースがないとはいえないが――。
俺は待機していた電柱の横を離れ、ハイツ大倉の階段を昇った。二〇一号室の前に立って目を凝らすが、名前を示す何かは見つからない。
俺はチャイムを鳴らした。町内会の役員でも装って名前を訊き出そうと考えたのだ。三宅であると確認できたらまた張り込みを続ければよい。
三度鳴らしたが応答はなかった。
俺は二〇二号室の前に移動した。チャイムを鳴らすと、だるそうな男の声が応じた。
「お隣の二〇一号室のことでお尋ねしたいのですが」
「何?」
こちらを訝しがるような声だ。ドアは開かない。
「お隣は三宅さんという方ですよね?」
答はない。
「お隣は三宅さんですよね?」
もう一度尋ねる。
「考えてるんだよ」
そうムッとした声が返ってきたあと、
「違う。何度か荷物を預かったことあるけど、平井だか平田だか、そういう名前だった」
俺はがくりと首を垂れた。いちおうだめを押す。
「高校生の女の子が住んでいませんか?」
「見たことないね」
「ヒライさんの前にはどういう方が住んでいました?」
「隣のほうが俺より前から住んでるし」
二階のほかの世帯にも尋ねてみた。二〇一号室に少女が住んでいたことを知る者はいなかった。
しかし俺は転んでもただでは起きない。最後に訪問した二〇五号室でこのマンションの管理者を聞き出した。近くの不動産屋が管理しているとのことだった。
さかえ商事という不動産屋は、ハイツ大倉から歩いて十分ほどの南河原銀座という商店街の中にあった。今どきの不動産屋らしく、入ってすぐの丸テーブルにはパソコンが何台か置かれていて、客が物件を自由に検索できるようになっている。また、社員も今風で、働いている三人はいずれも二十代の女性である。客を気後れさせないためか、いらっしゃいませと言ったきり声はかけてこない。
「ハイツ大倉、あそこはおたくが管理していますよね?」
俺はカウンターに近づきながら一番手前の女性に声をかけた。
「はい?」
紺の制服を着た彼女は小首をかしげながら立ちあがった。
「中幸町一丁目のハイツ大倉です。煉瓦《れんが》色をした三階建てのマンション」
「はいはい、中幸町の。あそこは現在満室ですね」
「いや、以前入居していた人のことで伺いたいことがあるのですが」
椅子を勧められたが、俺は立ったまま尋ねた。
「はあ」
「二〇一号室に住んでいた三宅さんです」
「少々お待ちください」
女子社員は会釈をして俺の前を離れ、奥のドアの向こうに消えた。
やがてゴルフシャツを着た六十年配の男を連れて戻ってきた。昔の不動産屋の面影を残す、いかにも狡猾そうなオヤジだ。
「何でしょう」
オヤジはカウンターに両手を突き、鼈甲縁《べつこうぶち》の眼鏡越しに怪しむような目を送ってきた。
「以前、ハイツ大倉の二〇一号室に三宅さんという方が住んでいたと思うのですが、どちらに越されたかおわかりになりますか?」
「お宅様は?」
「私は幸町小学校のほうからまいりました。ハイツ大倉に住んでいた三宅千絵ちゃんはうちの卒業生です。現在同窓会名簿を作成しているのですが、彼女の現住所がわからず困っています」
ハイツ大倉からここに来る間に見かけた小学校をだしに使った。
「ああ、学校の。ですがうちも引越し先の住所を聞いておくことはあまりありませんよ」
と言いながらもオヤジはキャビネットを開ける。
「どのアパートでしたっけ?」
「ハイツ大倉です。そこの二〇一号室」
「ハイツ大倉、ハイツ大倉――、ああこれだ」
オヤジは赤いバインダーを取り出し、カウンターまで持ってくる。
「二〇一号室の三宅さんです。かわいい女の子が住んでいたはずです」
形容詞は俺の願望だ。
「二〇一号室の三宅、三宅、二〇一号室――、ああ、フィリピンさんか」
「フィリピンさん?」
俺は聞きとがめた。
「そうそう、かわいい女の子がいたいた」
オヤジは目を細める。
「フィリピンさんって?」
俺はカウンターから身を乗り出し、重ねて尋ねる。
「三宅さんとこでしょう? 奥さんがフィリピンさんの」
オヤジは眼鏡の縁に指を当てて、ファイルと俺の顔とを見較べた。
「ああ、そうでした。千絵ちゃんのお母さんは外国人でしたね」
俺はそうごまかして、
「で、三宅さんはどちらに越されたかおわかりになりますか?」
「んー、やはりそういう記録はないみたいだね」
オヤジはファイルをめくったり戻したりする。
「三宅さんが口頭で、どちら方面に越すというようなことを漏らしていませんでした?」
「んー、聞いた憶えはないねえ。あ?」
「思い出しました?」
俺はさらに身を乗り出す。
「店をやめて遠くに行くようなことを言っていたような」
「遠く?」
「どこだか言ってたっけなあ。言ってなかったと思うがなあ」
オヤジは右に左に首をかしげる。
「千絵ちゃんのお母さんはあれですか、水商売をされていた?」
俺は質問の矛先を換えた。
「うん。フィリピンパブだって話だったね」
「何という店だかご存じありませんか? その店で引越し先を尋ねてみます」
「店の名前はわからないな。堀之内だって話だったけど。ん? 小学校卒業? あそこが越した時、子供はもうそんなに大きかったか?」
オヤジはファイルに目を落として指を折る。
「お手数をおかけしました」
俺はあわてて退散した。
不動産屋から充分離れ、追っ手の姿がないことを確認すると、歩く速度を緩め、携帯電話を取り出した。しかし、電源を切っているのか地下にいるのか、安さんのケータイにはつながらなかった。
安さんの別れた奥さんが外国人であるとは、まったくの想定外だった。彼もどうしてあらかじめ明かしてくれなかったのか。いま思えば、娘の話ばかりして奥さんについてはほとんどしゃべらなかった。フィリピン人妻は恥ずかしいと思ったのだろうか。しかし、不動産屋にフィリピン人妻と聞かされて驚いた俺にも、差別の意識が根深くあるのだろう。
堀之内町は、今いる場所とはJRの線路を挟んで真反対にある。川崎駅構内のカフェで軽い昼食をとり、足の疲れを癒やしてから、午後の部の活動を始めた。今から行く方が川崎の中心である。
JR川崎駅を東口に出てまっすぐ歩いていき、京浜急行の川崎駅を越えると、旧東海道に行き当たる。片側一車線の狭い道だ。これを北に折れ、多摩川までの数百メートルが、かつての川崎宿である。日本橋にはじまる東海道五十三次の、品川の次の宿場である。
宿場は旅人の癒やしの場である。旅人はここでたんに寝泊まりするだけでなく、飯を食い、酒を飲み、土産物を求め、博打を打ち、そして女を買う。川崎の堀之内というところは、川崎宿の遊郭の名残と考えてよい。街道から一歩入った裏通りに風俗店がひしめきあっている。
そんな界隈に真っ昼間から足を踏み入れた俺である。しかるべき用事があってやってきたのだが、そんなことは誰もわかっちゃくれない。各店舗の前に立った黒服の呼び込みが、「社長!」だの「全部で三万円」だのと声をかけてくる。秋の爽やかな青空の下、ソープランドの呼び込みの声。シュールだ。
堀之内は首都圏有数のソープランド街であるのと同時に小料理屋のメッカでもある。小料理屋といっても酒と肴を楽しむ店ではない。看板には小料理と出ているが、どの店も一様に戸が開けっ放しになっており、中に目をやってみると、テーブルも椅子も止まり木もない。化粧の濃い女が二、三人、土間に立っていたり、框《かまち》にちょこんと腰かけてタバコを喫っていたりする。服装はというと、シースルーのブラウスにミニスカート、網タイツにハイヒールと、フェロモン大放出状態だ。目が合おうものなら、「遊んでいく?」と色っぽい声をかけられる。そう、彼女たちは娼婦なのだ。堀之内の小料理屋はいわゆる「ちょんの間」で、奥や二階の狭い部屋にあがってことを行なう。「ちょんの間」は「ちょっとの間」が転訛《てんか》したもので、短時間での情交を提供する昔ながらの風俗店である。風俗店のファーストフードのようなものだ。
横浜の黄金町もこんな感じのところだ。俺は江幡京を思い出し、ちょっとばかり胸がうずいた。だが今はセンチメンタルな気分にひたっている余裕はない。
俺はただの通行人ではない。フィリピンパブを探すという目的があるので、周囲を注意深く窺わなければならない。しかし右も左もソープに小料理屋である。ゆっくりとした足取りで左右に目を配っていると、いい女を物色しているように思われ、ますます声をかけられる。まだ日が高いので通りは閑散としており、いきおい俺一人に注目が集まる。女遊びは大好きだが、こういうプレッシャーは別物である。
小さな四つ辻にさしかかり、左手に目をやると、カラオケスナックの看板が見えた。南北に走るメインストリートはソープと小料理屋ばかりだが、それと交差する路地には性風俗とは関係のない店も存在している。
顔を右に転ずると、椰子の木の絵が目に飛び込んできた。その看板にはほかに、夕日やハイビスカスや熱帯魚やホネガイが描かれている。フィリピンなのかハワイなのか判断がつかなかったが、周りの目から逃れるためにも、とりあえず俺は角を右に折れ、その「マブティ」という店のドアを開けた。
店内は薄暗く、しんとしている。会計のブースも空だ。正面にはお化け屋敷の入口のようにビロードの黒いカーテンが下がっている。それを掻き分け、目を凝らしていると、奥から声がした。
「四時からだよ」
モップを押しながら黒服の男が現われた。
「こちらは外国人のホステスさんと遊べるお店ですか?」
俺は快活に尋ねた。
「そうだよ。うちはフィリピンパブ。一時間三千円ポッキリね」
「つかぬことを伺いますが、こちらで以前、三宅という名字のフィリピン人女性が働いていませんでした?」
「あんた誰?」
男の声と目つきが一変した。
「私は、その女性の前の旦那の親戚筋にあたる者です。先頃、元旦那の父親が亡くなりまして、遺言を開封したところ、遺産の一部を孫娘に相続させるとありました。孫娘というのは、そのフィリピン人女性と元旦那の間にできた子です。千絵といいます。ただ一人の孫だったため、そのような遺言を遺したのでしょう。ところが千絵ちゃんの居所がわからない。そこで私がこうして探しているしだいなのです。あ、みなさんでどうぞ」
道々考えてきた嘘をつき、プチケーキの詰め合わせを差し出す。
「ややこしいな。要は、そのフィリピーナの居所を知りたいのだな」
「はい。日本人と結婚して、名字は三宅になっていたはずです」
「三宅……、シンディか?」
男はこめかみをつつく。
「娘がいます。名前は千絵」
「ああ、シンディぽいな」
「三宅シンディさんはこちらをやめてどちらに行かれました?」
俺は勢い込んで尋ねる。
「シンディは源氏名だよ。本名は――」
「ウィラーヤ」
カーテンの陰から女が現われた。小顔にエキゾチックな目鼻立ち、つやつやした黒髪と小麦色の肌、すらりと伸びた手足と、典型的な南方系美女である。
「よう、サブリナ、早いな」
「おはようございます、井口さん。病院でピルもらってそのまま来たよ」
そしてサブリナと呼ばれた女は俺の方を向き、
「シンディの本名はウィラーヤ。それと、シンディはフィリピン違うよ、タイランド」
「ああ、タイでしたか」
不動産屋のオヤジにしてみれば、フィリピンもタイもベトナムも一緒なのだろう。
「シンディには女の子いたよ」
「名前は千絵?」
「そうよ、千絵ちゃん。シンディ、いつも写真持ってた。かわいい子」
「シンディさんがここをやめたのはいつのことです?」
人物が確定し、俺はますます勢い込む。
「ずっと前。五年か六年」
「シンディさんはこの店をやめたあとどこに行きました?」
俺はサブリナを見上げた。ヒールのない靴を履いているのに、俺より背が高いのだ。
「名古屋」
「引っ越し先の住所を教えてもらっていませんか?」
「わからない。名古屋のほうとだけ言ってた」
井口に目をやると、彼も首を横に振った。
「名古屋での勤め先は聞いていませんか? 店の名前」
「シンディ、お店することになったのよ」
「自分の店を持ったということ?」
「そう、新しいパパさんができて、お金出してくれるって。パパさん名古屋の人で、それであっちに行った」
「パパ? 三宅さんと別れて、別の男性と再婚したのですか?」
「結婚はまだ。女はね、離婚して六ヵ月は再婚できない決まりだよ」
よく知っているものだ。
「その男の人の名前は?」
「知らない」
井口も首を振る。
「店の名前は?」
「聞いてない。落合さんが知ってるかも」
「落合さん?」
「カサブランカのマネージャー」
「そこの角のソープ」
井口が注釈を加えた。
「落合さん、シンディと川崎の駅で会ったと言ってた」
「いつです?」
「シンディがいなくなる日」
名古屋に旅立った当日という意味だろうか。
「どうもありがとう」
俺はサブリナにほほえみかけ、井口に向かって、
「お忙しいところありがとうございました。おかげで調査が前進しました。ついでといってはなんですが、もう一つお願いがあるのですが」
「おお、何だよ」
「これからカサブランカのマネージャーさんを訪ねようと思うのですが、一本電話を入れておいていただけませんかね。マブティのシンディのことで話を聞きたいという者が行くと。事前に話を通しておいたほうがスムーズにいくと思うので」
俺は頭を掻いた。
「べつにアポなしでかまわないだろ」
井口が露骨に嫌な顔をした。
「わたしヒマだよ。ついてってあげる。井口さん、ケーキ全部食べちゃダメよ」
サブリナは先に立って外に出ていく。俺は井口に尋ねる。
「シンディの写真はありませんかね」
「ないよ」
井口は探そうともせずに即答した。俺はサブリナのあとを追って店の外に出る。
カサブランカは、中世ヨーロッパの城を模した石壁を持つ、この界隈にしては洒落た感じの店だった。
「お? うちに転職?」
客引きがにやけた顔でサブリナに声をかける。
「落合さん、いる?」
「いるよ。やあ、お兄さん! ただ今サービスタイム中、入浴料五千円引き!」
二人は連れだとは見えなかったらしく、客引きは俺に威勢よく声をかけてきた。俺はサブリナと自分を交互に指さし、彼女にくっついて店の中に入った。
サブリナは受付の前を顔パスで通り過ぎ、赤い絨毯敷きの廊下を右に折れ左に折れ、一番奥のドアをノックもせずに開けた。中は六畳ほどの部屋で、金髪の角刈り男がソファーにふんぞり返って競馬中継を見ていた。
「これはこれは。元気?」
男は座ったまま腕を伸ばし、サブリナの形のよいヒップをさわる。彼女は彼の手をぴしゃりと払って、
「エッチ。奥さんに言いつけるよ」
「店ではさわらせてくれるだろう」
「お店に来ないとダメよ」
「ちゃっかりしてるなあ。そっちは?」
男は俺の存在に気づき、体を起こした。
「シンディの親戚の人。彼女を探してる。落合さん、話してあげて」
俺はドアの横でよろしくお願いしますと頭を下げた。
「シンディ?」
落合が小首をかしげた。
「うちのお店にいたシンディよ。もう忘れたの? ひどい人」
サブリナが頬を膨らます。
「ああ、名古屋に行ったシンちゃん。憶えてるよ」
「やはり名古屋ですか」
俺は思わず落合の方に寄っていった。
「じゃあわたしは帰るね。今度はお客さんで来てくださいね。今日でもいいよ」
サブリナは俺に名刺を押しつけ、手を振って部屋を出ていった。
「ドア閉めて」
落合はテレビの音量を絞り、俺を手招いた。
「遺産相続の件でシンディさんの娘を探していまして――」
俺は例の嘘っぱちを口にしながら落合の向かいに腰を降ろした。
「川崎駅でばったり会ったんだよ。彼女は大きなトランクを転がしていて、子供も連れていた。旅行かと尋ねたら、名古屋に引越すのだと言われて驚いたよ。まったくの初耳だった」
聞き終え、落合が言った。
「名古屋での住所は聞きました?」
「いいや」
「たとえば、名古屋城の近くとか、海のほうだとか、そういうことは?」
「聞いてないな。最後に食事でもどうかと誘ったのだが、電車の時間がないとかで、二言三言話しただけで別れた」
「その二言三言を憶えています?」
「新横浜から新幹線に乗ると言ってたな」
「ほかには?」
「お世話になりましたと丁寧に頭を下げられたよ。娘も、なんだかわからない様子で俺に頭を下げてきたっけ」
「名古屋には男についていくということでしたが」
「そうらしいな。しかし駅で会った時には彼女と娘だけだった」
「男の人の名前は?」
「聞いていない」
「向こうでは店を出すということでしたが」
「らしいな」
「店の名前とか場所とかは聞いていません?」
「聞いてない――、いや、聞いたぞ、聞いた。ちょっと待ってろ」
落合はさっと腰をあげ、ソファーをまたぎ越して執務机に向かった。引き出しを大きく開け、立ったまま引っかき回す。
「そこのタバコでも喫っててくれ」
俺は遠慮なく、クリスタルのシガレットボックスから洋モクを頂戴した。やや辛口の味をゆっくり堪能していると、おおこれだと落合が声をあげ、ソファーに戻ってきた。
「『山下』という店だ」
落合はテーブルの上に名刺のような紙片を置く。角張った字で、縦に「山下」と書かれている。
「別れ際、その場で書いてくれたんだ。こういう名前の店だって」
マブティの名刺の裏に走り書きしたものだった。俺は首をかしげた。
「和風スナックですか?」
「名前からはそんな雰囲気はするな」
「タイ人が? 店の名前ではなく、新しい旦那の名字なのではないですか?」
「いいや、店の名前だ。名古屋に来たら寄ってよねと言って書いてくれた」
旦那の名字をそのまま店の名前としたのだろうか。
「これは?」
俺は名刺の隅を指さした。小さな文字で「市場」とある。「山下」とは別の筆跡だ。
「俺の字だな。うん、思い出した。場所はどこだと尋ねたんだよ、俺が。そしたら彼女が名古屋のほうの市場と言ったので、あとでメモしておいた」
「市場?」
俺はきょとんとした。飲み屋でなく、海産物問屋でもはじめたのか? 山下というのは魚の卸売り業者の屋号としてはぴったりくるが。
「ほら、市場といってもあれだよ、大きな商店街のことを市場というだろう。大阪の黒門市場とか。そういうところには飲み屋もある」
落合も困惑顔だ。
「聞き違いということはありませんか?」
「聞き間違ったのかもしれないが、今となっては思い出しようがない」
落合は首をゆっくり左右に振った。
「どうもありがとうございました。おかげで、彼女にだいぶん近づくことができました」
名刺を返すと、落合は手を振った。
「持ってけよ」
「いいんですか? では遠慮なく」
俺は名刺をポケットに収めて、
「ああそうだ。もう一つお願いなのですが、シンディの写真はお持ちじゃないですか?」
「そんなのないぞ」
と言いつつも、落合は腰をあげる。机を引っかき回し、やがてニヤニヤしながら戻ってきた。
「こんなのしかないぞ。同伴した時に撮ったんだよなあ」
プリクラだった。ハート形のフレームの中に、落合と、黒髪で目のぱっちりした女性が、頬を寄せて収まっている。小さいし、ピントは甘いが、顔の感じは充分掴める。
「これ、一枚いただいていっていいですか?」
「おお、持ってけ持ってけ。さっきのを貸してみな」
落合は台紙から一枚剥がし、シンディの名刺の裏に貼りつけた。
「それでよ、もしシンディが見つかったら、ディズニーランドに遊びにきたら川崎にも寄っていけと伝えといてくれ」
「はい。かならず伝えます」
ヤクザな世界に生きる人間は、見た目は悪いが義理堅く、俺は嫌いではない。
東京に戻ると、その足で安さんを訪ねた。
「奥さんが外国人だと、どうして黙っていたのです」
俺は詰問するように尋ねた。
「隠すつもりはなかったんだけどさ、俺が捜しているのは千絵であって、ウィラーヤはべつにどうでもいいから……。いや、やっぱり隠したかったのかな。恥ずかしかったんだよ」
安さんは徐々にうなだれていき、最後にごめんよとつぶやいた。
「いいんですよ。こっちこそすみません」
言いたいことを言ったので、俺も感情が鎮まった。
「先生、ここだけの話にしてくれよ」
安さんはうつむいたまま、小さな声で言った。
「ウィラーヤとは偽装結婚だったんだよ」
「え?」
「日暮里のスナックで出会った当時、あいつ、不法滞在だったんだよ。で、さる筋から、籍を入れてくれないかと頼まれた。さる筋というのは詳しくは明かせないが、外国人女性の夜の仕事を仕切っているヤクザ関係と考えてくれ」
日本で水商売を行なっている外国人女性の多くは観光ビザによる来日である。スナックやソープランドで働きたいからと申請しても、就労ビザはおりない。
観光ビザで許される滞在期間は最長で九十日。つまり観光ビザで来日しても三ヵ月しか働けず、これでは小遣い稼ぎに終わってしまう。日本よりも貨幣価値が低い国からやってくる彼女たちは、長期にわたって本国に仕送りしたいと望んでいるのだ。長く働くには、観光ビザが切れたらいったん本国に戻り、ビザを再発給してもらってまた日本に入国すればいいのだが、それを繰り返していては当局に目をつけられること必至である。目くらましのため、再来日までに数ヵ月の間を置くというテクニックもあるが、それでは連続して働けないというデメリットが生じる。
だから不法滞在が発生する。あれこれ手をつくすのが面倒になり、ビザが切れてもそのまま滞在を続けてしまう。しかし不法滞在が発覚したら本国に強制送還であるから、常に当局の目に怯えていなければならない。
そこで偽装結婚が行なわれる。日本人と結婚すると、配偶者ビザが発給され、長期の就労が可能になるのだ。とはいえ、異国の地で結婚相手を見つけるのは容易なことではないから、結婚相手を金で雇う。金に困っていそうな独身男性に声をかけ、籍に入れてもらう。もちろん自分で声をかける必要はなく、実際に男を探してくるのはブローカーである。借金のカタに偽装結婚の相手役をさせたり、ホームレスを引っ張ってきたりする。結婚の目的は日本人の籍に入ることだけなので、一緒に住む必要はなく、したがって相手の男の容姿や年齢は不問である。婚姻年齢に達していることと、独身であること、この二点さえ満たしていれば誰でもよいわけだ。
日本人男性に支払われる報酬の相場は、契約金として数十万から百数十万円、入籍後は月々数万から十数万円。さらに、間にブローカーが入っているので、外国人女性はそれプラス仲介料も負担しなければならない。しかしそれだけ支払っても、彼女らにとっては、日本という国で働くメリットがあるということだ。東証株価指数が一万円を割り、失業率が五パーセントを超えていても、この国がまだまだ豊かであることは間違いない。
「ただ、俺の場合、ちょっと事情が違ったんだよ」
安さんは言う。
「金は一円もいらないと言ったの。その代わり、一緒に住んでくれと頼んだ。ほら、俺はあの歳になるまで一度も結婚したことがなかったから、金よりも、そういう雰囲気を味わいたかったんだ。ウィラーヤはオッケーしてくれた。契約金も毎月の報酬もいっさい払わずにすむというのは大きいよ。おまけに家賃も光熱費も食費も俺持ちだから、稼いだものがまるまる自分のものになる。ブローカーにはなにがしか入れなければならないにしても、普通の偽装結婚に較べれば相当お得だ。
俺はね、ただ一緒に住みたかっただけなの。女と一緒に住んで、一緒にテレビを見たり、一緒に食卓を囲んだりしたかった。結婚生活の気分を味わいたかっただけなのよ。彼女にメシを作らせようとか、洗濯をさせようとか、そんな見返りは求めなかった。あっちのほうもね。もちろんできれば嬉しいよ。でもそれを強要したら、金を受け取るのと同じことになってしまう。
けど、しばらく経って、彼女のほうから誘ってきた。一緒に住んで情が移った――、いや、哀れに思ってくれたのだろうね。それで子供ができた。俺は当然堕ろすものと思っていたのだけど、彼女は敬虔なクリスチャンだった。
千絵が生まれて半年くらいはしあわせだったなあ。彼女はすぐに仕事に復帰したいというから、俺が本と首っ引きで育児をやったさ。仕事から帰ってきたら彼女は、どんなに遅くても千絵をだっこし、俺は彼女のためにラーメンやうどんを作ってやった。休みの日には、二人でミルクや紙オムツを買いにいった。本当の夫婦、本当の家族みたいだった。
でも、しあわせはいくらも続かなかった。ウィラーヤが別れると言い出した。具体的に何が原因ということではないんだ。ある日突然、どうしてこんな男と家庭を築いているのだろうとわれに返ったのだと思う。そもそも愛のない結婚だったのだから、そう思って当然さ。娘の名前は俺がつけたのだけど、ああいう日本の名前にしてしまったことも後悔したと思うよ。これで俺が、もう少し若いとか、いい男であるとか、金持ちであったのなら、話はまた変わってきたのだろうがね。
ウィラーヤは俺と正式に別れる前から三宅という男とつきあっていた。でもね、彼が現われたから俺を捨てたということではないと思う。彼が出現しようがしまいが、結局俺とは別れる運命だったはずさ。と、それは負け惜しみかな。一度、三宅というのをちらっと見たけど、俺よりずっと若いし、頼りがいがありそうで、彼女のしあわせを考えたら、あっちとくっついてよかったと思うよ。なんでも大田の町工場の二代目とかで、月々の手当も出してくれるんだってよ。要するにパトロンさ。いい男を捕まえたよね。千絵ともども、しあわせになってほしいよ」
長い独白を終え、安さんは畳に大の字になった。
「ごめん。話しづらいことを話させちゃって」
俺は言った。
「なーに言ってんだよ。謝るのはこっちのほうだ。へんてこな頼みでせっかくの休みを潰させちゃって。あちこち訪ねて疲れただろう。ありがとな。どれ、飲みにいくか」
安さんはぴょこんと起きあがる。
「いや、打ち上げは、千絵ちゃんが見つかってからですよ」
俺は安さんを手で制す。
「だめだったじゃないか」
「だめなもんですか。名古屋に行けば会える」
「行ってくれるのか?」
安さんの目の輝きが変わった。
「行きますよ。名古屋なんてすぐそこじゃないですか。のぞみで一時間四十分」
俺は途中下車が嫌いな性格なのだ。
「しかし先生、住所がわからなくちゃあ、捜しようがないだろう」
「いいえ、捜し出してみせます。元小林少年ですからね」
「小林?」
「俺ね、前に探偵事務所で働いていたんですよ」
「へー、そうなの。先生、何でもやるんだね。よし、とにかく飲みにいこう」
安さんが立ちあがる。
「だから、打ち上げはまだ――」
「成功を期して乾杯だよ」
恰好をつけるのはいくらでもできる。問題は、現実にどうやって捜すかだ。
帰宅後、夕食の席で綾乃に尋ねた。
「名古屋に詳しい?」
「全然」
「うちの親戚で名古屋のほうに住んでいる者はいなかったっけ?」
「いませんが」
「名古屋の友達はいない?」
「トラちゃん、旅行に行くの?」
「旅行じゃないけど、行く。たぶん」
「御園座の最中アイス買ってきて」
「は?」
「御園座よ、劇場の。そこの特製アイスクリーム。最中の皮に入れて食べるの」
「そんなことより、友達は?」
「いるよ」
「それを先に言えよ。ちょっと訊きたいことがあるから電話してもらえないかな」
「あさって会うけど」
「え?」
「東京に住んでいる名古屋人じゃだめなの?」
「いいよ、いい」
「サークルで一緒の人よ」
「ああ、そうなんだ」
「あさって練習があるから、そのあとに会う?」
「ぜひ」
「彼、洋子の彼氏でもあるのよね」
「へー」
「いつの間にかくっついちゃって、びっくりよ」
「ふーん」
「好きになっちゃったのだから仕方ないけど、サークルの中でくっつくと、人間関係がぎくしゃくするからヤよねえ。加賀見さんはほかの女性にも人気があったから、なおさらよね」
「おまえはどうなの?」
「何が?」
「おまえは誰かとつきあっているのか?」
「だから、サークルの中でつきあうのは感心しないと言ってるじゃない」
「外では?」
「彼ねぇ」
綾乃は宙をぼんやりと見つめたのち、
「どっちだと思う?」
と意味ありげな笑みをよこしてきた。
翌々日の午後、白金台プラチナストリートのオープンカフェで加賀見幸雄と対面した。
小顔ですらっとした体型、切れ長の目にイギリス人のような高い鼻筋、髪は嫌味がない程度に長く、両サイドにメッシュを入れ、襟元にはワインレッドのスカーフと、たしかに人の目を惹きつける男である。これで、ギターも踊りもうまいというのだから、女が放っておくわけがない。
互いの紹介がすむと、うるさい綾乃と洋子は別の席に追いやり、加賀見とサシで話した。
「名古屋で、東京の築地に相当する市場といったらどこ?」
歳下に見えたからではなく、容姿で負けているのが悔しく、つい横柄な口を利いた。
「中央卸売市場ですか?」
「場所はどこ?」
「金山の方です」
「金山?」
俺は名古屋のポケット地図を出した。
「名古屋駅のずっと南です。失礼」
加賀見は地図を取りあげ、ページをめくり、中央卸売市場の場所を指で示した。ナゴヤ球場と熱田神宮のちょうど中間あたりだ。
「そこが本場ですが、支店のようなものも二つあります。東京でいうなら大田市場にあたるところです」
高畑市場、北部市場の場所が示される。前者は名古屋の西部に、後者は名古屋空港の近くにあった。後者は行政上は名古屋市ではなかったが、隣接しているので名古屋とくくっても問題ない。
「あと、市場は市場でも、一般の人間が買物できる市場で規模が大きいところはある? 東京だとアメ横、大阪なら黒門市場みたいな」
「柳橋中央市場ですか」
加賀見は地図のページをめくり、その場所を示した。名古屋駅のすぐ近く、歩いて五分で行けそうな場所だった。
「この辺に飲み屋はあるかな」
「市場の中はどうですかね。周りにはたくさんありますけど」
「外国人が働いているような店もある?」
「あるんじゃないですか」
卸売市場ではなく、こちらの柳橋市場ではないかという気持ちが強くなった。卸売市場というのはどうもイメージに合わない。卸売市場には、卸売業者や仲買人、仕入れ客を相手にした飲食店が入っているし、中には酒を提供する店もあるだろう。しかし、それまでフィリピンパブで働いていた女性が新しく店を開くような場所だろうか。立ち飲みの店で割烹着を着て皿を洗っている姿は、どうもピンとこない。
そんなことを考えていると、加賀見が言った。
「名古屋で仕入れでも?」
「いや、人捜し。東南アジアの女性で、名古屋の市場で水商売をやっているんだ。ただ、どこの市場なのかがわからない」
俺はそうとだけ説明した。
「水商売だったら柳橋近辺じゃないですか」
「やっぱりそう思う?」
この優男に少し好感を覚えた。
「卸売市場は変でしょう。あと、名古屋には市場というところがありますけど、それは関係ないですかね」
「いま教えてくれたとこ以外の市場?」
「いえ、そうでなくて、地名です」
「え?」
「あれはたしか守山だったな」
加賀見は地図のページを繰り、ナゴヤドームの北の方を指先でぐるりと示した。水色に色分けされたエリアの真ん中に、太いゴシックで「市場」とあった。
「町名?」
「はい。名古屋市守山区市場」
「そうか、地名か。うん、市場は市場でも、こっちの可能性もあるな」
俺は顎を撫で、しきりにうなずいた。千葉の船橋にも市場という町名があったことを思い出した。
「でも成瀬さん、言い出しておきながらあれですけど――」
加賀見は首をかしげた。
「このあたりは郊外の住宅地ですよ。もちろん飲み屋の一軒くらいあるでしょうが、外国人の女性がサービスしてくれるような店はないように思います」
「いや、店の形態は限定しなくていい」
そう、一つ忘れていた。店の名前は山下なのだ。響きは地味なスナックである。それに、個人で店を持つのなら、経済面から考えて、繁華街より郊外だろう。
「それと、市場木町というところもありますが、それはいいですか?」
「まだあるの?」
「西区市場木町。ただしここも繁華街ではありませんよ。守山区の市場よりいくらかにぎやかですが」
名古屋市の北のはずれの方だ。
「ありがとう。君に話を聞いてよかったよ。で、洋子さんとはどうなの?」
加賀見幸雄、なかなかいいやつじゃないか。
次の日曜日、東京駅七時三分発のひかりに乗った。のぞみを使わなかったのは予算の関係だ。名古屋行きは自分から言い出したことなので、安さんに経費を請求するわけにはいかないだろう。
火曜から土曜までの五日間で、東京でできることはやりつくした。
まず、インターネット上のタウンページで、山下という名のスナックが名古屋市守山区市場にあるか調べた。一件の掲載もなかった。パブ、割烹、料亭、小料理店、居酒屋、喫茶店にも山下というところはなかった。それどころか、名古屋市守山区市場には、飲食関連の店がたった二軒しかなかったのだ。どうやらこの町は相当環境のいい住宅地らしい。西区市場木町についても同じように調べたが、山下という飲食店はなかった。
次に、柳橋中央市場のある中村区名駅に山下という飲食店があるか調べたのだが、こちらもゼロ。それならばと、思いきって範囲を名古屋市全体に広げたところ、いったい何百件出てくるかと思いきや、わずか八件見つかったにとどまった。とんかつ山下や山下寿司も含めて八件である。その八件には東京から電話をかけた。ウィラーヤらしき女性は勤めていなかった。
さらに、有栖川公園の都立中央図書館に足を運んだ。ここには日本全国の電話帳が揃っている。守山区が載っている名古屋北東部版のハローページを開いたところ、市場の山下さんは二件あった。西区が載っている西部版には、市場木町の山下さんは一件出ていた。カサブランカの落合は否定したが、山下は店名でなく、新しいパトロンの名字である可能性は捨てきれない。名字をそのまま店名にしたとも考えられる。しかし市場と市場木町の三人の山下さんに電話したところ、ウィラーヤらしき女性は住んでいなかった。
ここまでやったのなら、名古屋市全域の山下さんをチェックするしかない。さすが二百万都市だけあり、名古屋北東部版に三百七十二件、西部版に三百七十四件、中南部版に五百十一件と、電話帳から書き写すだけでも気の遠くなるような作業だったが、五日がかりで電話をかけまくった。しかし、電話がつながらなかった数件を除き、すべてがはずれ。
疲労がどっと押し寄せた。しかしこれしきでへこたれる俺ではない。およそ探偵活動というもの、百のうち九十九は無駄足に終わるものなのだ。今の世の中、電話帳への掲載を拒否することは珍しくないではないか。
ということで、自分の足で名古屋の街を回る決意をしたしだい。
八時五十六分、ひかり113号は名古屋駅に着いた。そこから東海道本線の上りに乗り換え、二つ目の金山で降りる。まずは中央卸売市場を目指す。
金山は、JRと名鉄と地下鉄が乗り入れているターミナルだけあって、駅前には高層ホテルが建つなどにぎやかだったが、伏見通を越え、堀川に沿って南に下っていくとやがて、倉庫と住宅が入り交じった寂しい街区に入り込んだ。少し先には卸売市場らしきコンクリートの建物が見える。
ところが、そのコンクリートの建物のすぐ裏手まで達して、妙な気分に襲われた。相変わらず雰囲気が寂しいのだ。市場独特の熱気がまるで伝わってこない。不審に思い、低い塀の向こうをひょいと覗いてみると、がらんとして人気がない。俺はそして大変なことに気づいた。
今日は日曜日だった。卸売市場は日曜は休みだと相場が決まっているではないか。事前にそこまで気が回らなかった自分はもうボケ始めているのかと、鬱な気分になる。
だが俺は気持ちを立て直すのが早い。敷地に沿ってぼんやり歩くうちに、市場の中は完全な無人でないことに気づいた。フォークリフトを使って荷物の出し入れをしている人間が少しばかりいる。俺は裏口のようなところから勝手に中に入り、彼らの一人に近づいていって質問をぶつけた。
中央卸売市場の中には、酒を提供する寿司屋や焼肉屋や食堂が何軒か入っていた。だがその中に山下という店はなかった。卸の店の名前も調べてもらったが、山下という屋号のところはなかった。さらに、複数の人間にウィラーヤのプリクラを見てもらったが、みな彼女に見憶えはなかった。
男たちに礼を言った後、市場の周辺も調べてみた。市場は片側三車線の大通りに面していたが、問屋や倉庫が目立つばかりで飲み屋がある雰囲気ではない。喫茶店とコンビニでプリクラを見せてみるが、反応は得られなかった。
俺は名古屋駅に戻った。嫌な予感を胸に秘めつつ、桜通口を出て柳橋中央市場に急いだ。市場は駅から歩いて十分ほどのところにあり、迷わず見つけることができた。市場の入口には横浜の中華街のようなアーチが設けられており、通りの左右には小さな店舗がぎっしりと建ち並び、かなり大規模な市場と見て取れた。しかし、どの店舗も見事なまでにシャッターが降り、残飯をあさるネコもカラスもおらず、まさにゴーストタウンのようなありさまだった。シャッターの一つをよく見ると、日曜と水曜が休みとあった。昨日来ておけば開いていたのにと後悔してももう遅い。
それでも俺は、路地をめぐり、がらんとしたビルの中に入り、仕事熱心な何人かを発見すると、質問をぶつけ、プリクラを見せた。成果はなかった。市場の周辺にも、飲み屋はたくさんあったが、いずれも雑居ビルの中に入った大きな店舗で、個人でやっているようなスナックは見あたらなかった。
早いもので、もう昼になろうとしていた。足もずいぶんくたびれている。しかし俺はきしめんの暖簾を横目に次に向かった。
地下鉄と名鉄を乗り継ぎ、矢田という駅に降りた。守山区市場の最寄り駅である。
ホームに降り立つと、手が届きそうなところにナゴヤドームの銀屋根が見えた。ところが、改札を出ようとすると、自動改札機もなければ駅員も立っていない。名古屋から三十分と電車に揺られておらず、かつ、すぐそこに近代的な球場があったので、無人駅であることにはたいそう驚かされた。
矢田駅を出て道なりに歩いていくと、やがて大きな川が見えてきた。矢田川というらしい。広い河川敷では、ジョギングをしたり、土手で寝転がったり、老若男女が思い思いに休日の午後を過ごしている。強い風にあおられながら百メートルほどの石橋を渡りきると、そこが守山区市場である。地図によれば、一丁目も二丁目もない、周囲一キロほどの狭い町である。
大通りに面して美容室があった。捜しているのが女性なので、有力な情報が得られるのではと少なからず期待した。だが、プリクラの女性を見たことはないという。また、屋号にかかわらず、町内にはスナックのような飲み屋はないとのことだった。パチンコ屋とコンビニで尋ねた結果も一緒であった。
自分の目で確かめようと町の奥に入ってみて、すぐに納得がいった。ここは鎮守の森を中心としたきわめて古い住宅地なのだ。家の多くが築数十年と思しき一戸建てで、集合住宅は皆無に近く、外国人が住むような町ではないと感じた。集落が形成されて以来、基本的には何も変わっていないような、そんな静謐《せいひつ》さが漂っている。
守山区の市場には結構期待していただけに落胆が大きかったが、まだ西区の市場木町が残っている。こうなるともう、母を訪ねて三千里のマルコ少年の心境である。
矢田駅まで戻り、名鉄と地下鉄を使って市場木町を訪ねた。ここも住宅地であったが、守山区の市場よりも拓けたのが新しい印象で、マンションが目についた。飲食店もそれなりに存在している。
しかし結果は変わらなかった。山下という店がなければ、ウィラーヤの写真に反応を示す者もいない。
俺は缶コーヒーを片手にコンビニの駐車場にへたり込んだ。可能性としてはまだ、卸売市場の高畑市場と北部市場が残されていたが、体力も気力も相当萎えていた。時刻は午後四時。十一月の冷たい風が体温を奪う。
コーヒーを飲み終えると地図を開いた。高畑市場や北部市場の場所を確認するためではなく、名古屋駅に戻るルートを調べるためだった。そう、ギブアップして帰京するつもりだった。
そこに突然光が射した。地図をめくっている最中、頭の芯がピリリと痺れた。
「何なんだ?」
思わず声が出た。
地図のそのページには「一場」の文字があった。隣には「一場弓町」「一場福島」ともある。さらに「西市場」「北市場町」の文字も目にとまった。
清洲町のページだった。西春日井郡清洲町――行政上は名古屋市ではないが、名古屋市と隣接した町であり、一般的な概念としては名古屋圏の中に取り込める。北市場町は稲沢市だが、清洲町と境を接しており、JR清洲駅もここにある。
旅先で見つけたのも何かの縁かもしれない。俺は最後の望みを託して清洲に向かった。
清洲には、名古屋駅から東海道線の普通列車でわずか六分で到着した。間に駅は一つしかなかった。やはり名古屋とくくって問題ない。
しかし名古屋とそんなに近いのに、名古屋とは雰囲気ががらりと異なっていた。線路の片側には田畑が広がっており、もう一方の側の町並みもひっそりと静まりかえっている。人家はそれなりに密集していて、なおかつ大手電機メーカーの工場もあるというのに、店というものがほとんどなく、人の往来が絶えている。駅前につきものの、不動産屋やラーメン屋、バス停にタクシー乗り場も見あたらない。ずいぶん遠くの町まで飛ばされてきた印象である。
かなり面食らいながらも、少し歩いて美容室を見つけた。中に入り、長椅子にふんぞり返ってテレビを見ていたおばさんに、このへんに東南アジア系の女性がやっている飲み屋はないかと尋ねてみた。
「あるよ」
まったく期待していなかっただけに、しばしぽかんとしてしまった。あわてて名刺を取り出し、プリクラを見せる。
「そうそう、この人」
今度もあっさり肯定された。
「店の名前は山下ですか?」
まだ狐につままれた思いで尋ねると、
「いいや」
と否定されたが、次に彼女が発した言葉に、俺は思わず声をあげてしまった。
「チエというスナックだよ」
「千絵!?」
「そう、チエ」
「場所を教えてください」
勢い込んで地図を広げ、それに印をつけてもらうと、礼もそこそこに美容室を飛び出した。
現金なもので、気分が高揚した今は、町の寂しいたたずまいが好ましく思える。この町の多くの家は、昔ながらの黒い板壁や櫺子《れんじ》窓を持っており、玄関先の松の枝ぶりもよく、そういう宿場町のような家並みの間を歩いていると遠い昔が偲ばれ、今なお伝統とともにあるこの地の人たちをうらやましく思う。
しかしノスタルジックな気分はそう長く続かず、やがて無粋な信号機が現われ、車やトラックが行き交う街道にぶつかった。これを南に下っていく。
目指す建物は、人家と自動車整備工場の間に唐突に現われた。粗末なプレハブの建物で、入口の上にペンキで描かれた看板が出ている。そこにあった文字は、「チエ」でも「千絵」でもなく、「TIE」であった。デザイン的な処理のため、右上がりの文字になっている。
それを見た瞬間、俺はすべてを悟った。笑いが出てきた。
そうだ、ウィラーヤは外国人なのだ。漢字を書くより英語を使うさ。
ウィラーヤは名刺の裏に「※[#横書きの「TIE」]」と書いたのだ。アルファベットなので横書きである。落合は、そして俺も、それを九十度横にして、縦に読んでしまった。
あれを書いた時、ウィラーヤは急いでいた。「T」と「I」の間隔が詰まり、かつ「I」が長くなり、「E」の横棒のバランスも崩れてしまった。それを九十度左に回転させた結果、「※[#横書きの「TIE」]」が「山下」と読めてしまった。
俺が悟ったのはそれだけではない。
「TIE」は娘の名前、千絵から取ったと考えていいだろう。ではどうしてヘボン式で「CHIE」と綴らず、日本式に「TIE」としたのか。おそらく――これは掛け詞であり、韻を踏んでいるのだ。
「TIE」は英語読みもできる。[tai]――ネクタイのことだ。動詞としては「結ぶ」という意味を持つ。しかしここでは意味は必要ない。必要なのは音である。
タイ――それはウィラーヤの母国である。英語の綴りはTHAIであるが、発音はTIEとまったく同じで、[tai]。
つまりウィラーヤは「TIE」という店名に、娘と母国、愛する二つの名前を託しているのだ。
笑いのあとには感激で涙が出てきた。とうとう見つけた。疲れなど吹き飛んだ。
時刻は五時を少し回っていた。ドアには準備中の札が下がっている。しかし店の前には移動式の看板が出ており、それには明かりが灯っている。開いているのかまだなのか微妙なところだが、とりあえず覗いてみることにする。この店で決まりなのだ。躊躇する理由はない。
「いらっしゃいませー」
ドアを開けると、やたらと明るい声が出迎えた。赤いドレスを着た女がカウンターにダスターをかけている。一目見て、ウィラーヤではないとわかった。日本人で、もっと若い。
「もうやってる?」
と尋ねると、
「はーい。こちらへどうぞ」
女はカウンター席の一つを手前に引いた。
「表には準備中と出てるけど」
「あ、いけない」
女はぺろりと舌を出し、フロアーを横切って外に出ていく。俺は安定の悪い椅子に腰を降ろし、左に右に、ゆっくりと首を回す。
カウンター席が十いくつか、六人がけのソファーセットが一つ、それと小さなカラオケのステージ。狭い店だ。客は一人もいない。店員も、さっきの女だけのようだ。
「お客さん、見かけない顔ですねー」
女が戻ってきてカウンターの中に入った。壁のスイッチを操作して有線をつける。演歌という予想を裏切り、Jポップが流れてきた。
「うん、はじめて。清洲もはじめてなんだよ」
「へー。パッとしないでしょう」
「清洲城があるじゃないか」
天守閣に朱の欄干がついた城が車窓から見えた。織田信長はここから桶狭間《おけはざま》に出陣し、今川勢を撃破したのだ。
「城じゃあねえ。買物するとことか遊ぶとことか欲しいですよ」
「買物や遊びは名古屋でできるだろう。中心からこのくらい離れているところが一番暮らしやすいんだよ。東京でいうなら荻窪とか自由が丘とかね。ビールちょうだい」
相手が地方の人間だと思い、俺も適当なことを言うものである。たしかに、都心からの距離は、自由が丘も清洲も同じようなものだが、町の雰囲気が全然違う。清洲の風景を東京で見ようとしたら、青梅や成田あたりまで足を伸ばさなければならないだろう。
女は冷蔵庫から瓶ビールを出し、カウンターに覆いかぶさるようにして俺のグラスに注ぐ。ドレスの胸元がぐっと開いており、目のやり場に困る。
「お客さん、東京の人?」
「そう。お近づきのしるしに」
俺はビールの瓶を取りあげる。女はにっこり笑い、小さなグラスをこちらに差し出す。
「いただきまーす」
大小のグラスがカチリと音を立てる。
「ところで、ママさんは今日は?」
俺は首を左右に動かして尋ねた。
「うん、ちょっと。あとで顔を出すかもしれないけど」
奥歯に物が挟まったような言い方だ。
「ここのママさん、タイの人なんだよね?」
「そう――、あれ? はじめてなのにどうしてママのこと知ってるの?」
「うん、まあ、近くで噂を聞いて。俺、東南アジアの女の人がいる店で飲むのが好きなんだよ」
「フィリピンパブとか?」
「ああいう派手なところは苦手かな。こういう小さなところのほうがいい。でも、ママがいないのなら、出直しだな」
「チーママじゃだめなの」
女は自分の顔を指さして笑った。
「チーママはチーママでいいけど、外人も好きなんだよ」
「あたし、ハーフだけど」
「え?」
「ママの娘。正真正銘のチーママよん」
「え!?」
「そんなに驚く? そうよねえ、あたしの顔、ちっとも濃くないよね。信じてくれない人多いんだ。いっけない、お通し出してなかった。おしぼりもだ」
女は柿の種の袋を開け、ひとつまみ、ふたつまみと、木の小皿に盛る。
この彼女が千絵ちゃん? ちょっと待て、安さんの話では、千絵ちゃんは十七だぞ。いま目の前にいる彼女はというと、胸元を露出させたサテンの服を着て、わずかに覗いたブラジャーは黒く、唇は毒々しいほど赤く、長い睫はおそらくつけ睫で、そこに目やにのようにぼってりとマスカラを載せ、爪は長く伸ばし、パールの入った赤いマニキュアを塗り――いや、最近の子は概して大人っぽく見えるものだ。二の腕の肌は張りつめ、手の甲や指の線は頼りなげで、しゃべり方は幼く、十七といわれればそう見えないこともない。しかし十七歳がこんなところで働いていいのか? それとも安さんがボケて年齢を勘違いしているのか?
「おつまみのメニューは黒板を見てください。うちの名物は焼きうどん」
チーママは俺の前におしぼりと柿の種の皿を置き、グラスにビールを注ぎ足した。
「こっちの訛りがないみたいだけど、よそから来たの?」
おしぼりで顔をぬぐいながら、さりげない調子で探りを入れてみる。
「あたし? そーかなぁ。結構地元の言葉出るけど。でもまあ東京の方にいたから」
「東京のどこ?」
「てゆーか、川崎」
やはり彼女なのか? 思い切って核心を衝いてみる。
「チーママは何て名前?」
「千絵でーす。なのでチエママでも可」
覚悟はできていたのに、横っ面をはたかれたような気分だった。べつに自分の娘でも恋人でもないのに、どうしてこんな気分になるのだろう。
未成年がどうして水商売をしているのか、母親はどうしたのだ、新しい父親は何者なのだ――尋ねたいことは山ほどある。しかしそれらを畳みかけて彼女を困らせることは安さんの本意ではないだろう。
「あ、いらっしゃい」
新しい客が入ってきて、千絵ちゃんは俺の前を離れた。彼女とどういうふうに接していいかわからなくなっていたので、助かった。
その後は水割りを一杯だけもらって店を出た。酔っていい気分になったふりをして、千絵ちゃんの写真を何枚か撮った。
店は出たが、駅には向かわない。時刻は六時半。最終の新幹線までまだ四時間近くある。俺はスナックの前で張り込みを行なう。といっても十一月の風はさすがに冷たい。ブルゾンのファスナーを上まであげ、ポケットに両手を突っ込み、時には缶コーヒーで暖を取りながら、店の前の岐阜街道を行ったり来たり、百メートルの範囲で振幅を繰り返した。
八時になり、中年の男が一人、店から出てきた。すっかりできあがっているようで、足を踏み出すたびに体が左右に大きく振れる。街道には車がひっきりなしに通っているので、危なっかしいことこのうえない。
「だいじょうぶですか?」
俺はそう声をかけながら男に近づいていった。
「平気平気。だいじょうぶ」
酔っぱらいという人種はたいてい、うまく回らない舌でそう答えるものだ。
「俺、わかります? さっきチエにいたんですけど」
「おおそうかい」
男は握手を求めてくる。
「ずいぶんご機嫌ですね」
「いやいや、そうでもないよ」
「もう一軒行きましょうか」
「小遣いなくなっちゃったよぉ。かあちゃんに怒られるよぉ」
「いいじゃないですか、先輩。俺がおごりますよ」
「おお、行こう行こう」
男は俺の背中を叩き、肩を組んでくる。
酔っぱらっても計算する頭はあるらしく、新開というこのオヤジが誘導した先は、街道沿いの小さな寿司屋だった。
しばらくは支離滅裂な話に適当に相槌を打ち、頃合いを見計らって尋ねた。
「ママさん、今日は店に出ていませんでしたね」
「今日も会えなかったなあ」
新開は酒臭い溜め息をつく。
「ママさん、店にはあまり出てこないのですか?」
「最近はとんとお目にかからないねえ。閉店前にちらっと顔を出すようなんだが、俺はほら、かあちゃんがうるさくて、あんまり遅い時間はだめなんだよ。大将、こっち、ウニね、手巻きで」
まだ食うのか。
「どこか具合が悪いのですか?」
「肝臓だったかな、腎臓だったかな」
病気であるような予感はしていた。
「入院は?」
「してないんじゃないの。ああ、してないよ。してたら店に顔も出せないだろう」
「ママが出てこられないから娘が手伝っているのですか?」
「そう。ちーちゃん、かわいいねぇ」
「彼女はいつ頃から店に出ているのです」
「半年くらいになるかなあ」
「毎日?」
「そう」
「高校にはちゃんと行ってるんでしょうかね」
「高校?」
新開がぎょろりと目を剥いた。
「彼女、十七でしょう。まだ学校があるのに――」
「とっくに卒業してるよ」
「は?」
「ちーちゃんは二十一だよ」
と言ったのち、新開は唇に人差し指を立て、声をひそめて、
「二十一、ということになっている」
「児童福祉法違反だから?」
「そうよ。バレたらママは罰せられるし店も潰される。それじゃあママもちーちゃんも困るだろう。俺たちだって、このあたりには飲むところがあまりないから、チエがなくなってもらっちゃあ困るんだよ」
新開はウニの手巻きにかぶりつく。
「ほかに店員は雇っていないのですか?」
ビールを注いでやりながら尋ねる。
「いないよ。あそこはずっとママ一人でやってた」
「今から誰か人を雇うわけにはいかないんですかね」
「金がないからちーちゃんが助けてるんじゃないか。けなげだよねぇ」
「店を閉めることは考えなかったんですかね。あるいは休むとか」
「だから、それができないからちーちゃんががんばってるんじゃないか」
「ママのご主人は何の仕事を?」
「だからぁ、旦那がいなくなったから、店を閉めるわけにはいかないんだよ」
「別れた、のですか」
「逃げたんだよ」
「逃げた?」
「借金をうんとここさえて、どろんと消えちまったんだと」
「いつの話です?」
「一年くらい前かな。ママはそれでいろいろ苦労が重なったのだろうよ。旦那が残した借金の返済もある。俺もなんとか助けてやりたいけど、しがないサラリーマンだからさ、せいぜい店に通って売り上げに貢献するくらいしかできないや」
新開は溜め息をつき、ビールをぐっとあおった。
われわれは子供の頃、決して嘘をついてはいけませんと、家庭や学校で耳に胼胝《たこ》ができるほど聞かされるわけだが、その教えを大人になっても律儀に守っている人間がいたとしたら、そいつは正直者とは呼ばれない。ただのバカである。
たとえば、明日のクリスマスを楽しみにしている四歳の娘に、サンタクロースとはアメリカ商業主義の権化であると説くことが、人として正しいといえるだろうか。
俺の悩みはそこにあった。安さんに娘の現状をありのまま伝えてよいものか。架空の現在を作りあげ、安心させてやるべきなのではないか。帰りの新幹線の中、帰宅後布団にくるまって、警備の仕事の最中にも、俺は悩み続けた。
そして出した結論が、ありのままを伝えるということだった。
私立のお嬢様学校に通い、校則が厳しいので髪は黒く化粧もしておらず、成績は学年で二十番前後で、テニス部の副キャプテンを務め、彼氏はいないがラブレターはよくもらい――そういう美化した嘘をつくことは、安さんを愚弄することになるような気がした。成瀬将虎は安藤士郎より高い立場にあるという意識が前提としてあり、じゃあ弱者たるあいつに情けをかけないとな、上から下に無償でほどこしを与えるのが大人のふるまいだろう、と考えているとでもいおうか。あるいはこうたとえてみるか。ケーキを買ってきてくれと頼まれて、とくに店の指定もされなかったので、おまえは年寄りだしどうせ味などわかるまいと、スーパーで安売りされていた工場で製造されたデコレーションケーキを買って帰るようなものだ。
安さんのことは友達だと思っている。歳は違うが、友達だ。パソコン教室の先生と生徒の関係でつきあいが始まったのだが、しかし友達だ。そして友達とは、対等の関係にあることではないのか。
俺は覚悟を決め、安さんを訪ねた。デジカメの写真を見せつつ、真実を語って聞かせた。
予想されたとおり、安さんはひどくショックを受けた様子だった。話を聞き終えたあと、いつものように飲みにいこうとも言ってこなかった。
安さんのショックはこの日一日にとどまらなかった。それまでは、週に一度はうちに電話をかけてきて、月に二度は飲んでいたのに、まったく連絡をよこさなくなった。心配になってこちらから誘いをかけてみると、飲みに出てくることは出てくるのだが、以前のような人なつっこい笑顔はなく、近況を尋ねても質問以外のことは語ろうとせず、まったく人が変わってしまったように思えた。
その原因がわかっているだけに、俺は安さんを見るのが忍びなく、といって彼にどう声をかけ何をすればよいのかもわからず、バカ正直であった自分が間違っていたのだろうかと思うようにもなり、自然と彼との距離を置くようになってしまった。
俺は安さんのことを友達だと思っている、しかし友達は安さんだけではない、仕事も複数持っている、安さんにばかりかまっているわけにはいかないのだ――自分に対する言い訳としてはそんなところか。
安さんは俺を誘ってこず、俺も彼を誘うことなく、そして一年が過ぎた。
[#改ページ]
蜜月
14
前夜の豪華な食事は出陣の前祝いと考えてもよい。
八月二十八日水曜日の午後三時、俺は恵比寿のヒラキ第三ビルの入口に立っていた。
俺の横にはキヨシがいる。二人ともライトグリーンの作業服を着ている。
前々日、俺は渡辺(仮名)に、仕事を代わってくれないかと話を持ちかけた。
職を奪おうというのではない。俺は掃除がしたいだけなのだ。金は一円もいらない。賃金は今までどおり、すべてあなたの懐に入る。俺が働いている間、あなたは適当に時間を潰していればいい。お茶を飲むにしてもパチンコをするにしても金が必要だろうから、いくらか小遣いもくれてやろうじゃないか。
働かずに給料がもらえ、なおかつ別途小遣いも支給される。こんなおいしい話に乗らない人間がいるはずがない。渡辺の了解を取りつけると、彼のパートナーであるおばさんにも声をかけた。
掃除夫として蓬莱倶楽部に出入りし、機会を窺って書類を盗み見てやろうという作戦である。一人で敢行してもよかったが、二人のほうが心強い。スパイのチャンスが二倍増しにもなる。
ただし、俺にも警備やパソコン教室の仕事がある。休みや遅刻早退に寛容な職場ではあるが、そう甘えていたら馘《くび》になってしまう。キヨシはキヨシで間もなく新学期が始まる。来年は大学受験なので、そろそろ本腰を入れて勉強に取り組む必要がある。そこでスパイ活動は週に三日、月水金に限定した。
そして今日が記念すべき活動初日である。近くの喫茶店で遅いランチを食べながら、二人の本職から清掃作業についてのレクチャーを受け、さていよいよ出陣とあいなったしだいである。
「|ごっこ《ヽヽヽ》じゃないスパイをやる日が来ようとはね」
キヨシが感慨深げにタバコをくゆらす。
「高校生は喫っちゃいかん」
俺はタバコを奪い取る。
「緊張してるんだよ。先輩は慣れてるから平気だろうけど、俺はド素人なんだから。ほら」
と差し出された手は小刻みに震えている。しかし俺はそれをぴしゃりと払って、
「くわえタバコで掃除するやつがあるか。優秀なスパイは演技に手を抜かないものだ。本職に負けないよう床を磨きあげるぞ」
掃除は便所からスタートする。ここをブラシとクリーナーで清め、紙の補充を行なったら、次に階段と廊下にモップをかけ、最後に各フロアー内の清掃作業を行なう。
一つの懸念として、このビルで働く人々に、いつもの掃除人と違うと言われやしないかということがあった。それに備えて、なにがしかの言い訳を用意し、本職の二人とも口裏を合わせておいた。しかし実際には誰からも指摘を受けなかった。清掃作業員の顔など気にも留めていないということか。
もう一つの懸念として、蓬莱倶楽部のオフィスに本庄の無料体験会で働いていた者がいやしないかということがあった。俺はあの会場からぺてんを使って逃亡した、ある意味お尋ね者である。ことに日高と野口とは間近でしゃべっており、彼らと顔を合わせたらかなりの確度でまずい事態が発生すると予想された。いちおう眼鏡とマスクと頭に巻くためのタオルは用意してきたが、素人の変装がどこまで通用するか、はなはだ心配であった。
しかしそれも杞憂に終わった。四階の部屋に見たような顔は一つもなかった。彼らは地方を転々とすることに忙しく、本部にはめったに顔を出さないのだろう。
さて、蓬莱倶楽部のオフィスである。社員総出で水道水をペットボトルに詰めているとか、庶民から騙し取った札束が無造作に転がっているとか、いかにも気の弱そうな老婆を取り囲んで黄金の壺を売りつけているとか、そういう異様さはまったくない。スチールの事務机が二十ほど並び、キャビネットがありロッカーがあり応接セットがありコピー機がありコーヒーサーバーがありの、ごくありきたりなオフィスである。社員たちは冗談を飛ばし合い、真剣な表情でパソコンのキーを叩いている。
フロアーはパーティションで三つに分かれており、一つが事務机の島があるメインスペース。一つが、ホワイトボードと長机があるので、おそらく会議用のスペース。最後が、木製の両袖机と革張りの椅子と据え置き型の金庫が置いてある、おそらく社長級の人間の執務スペース。
活動初日はフロアー内の配置確認だけで終わった。掃除も手を抜かずにやるのだから、それもいたしかたない。
翌々日の金曜日に二度目の活動を、次の週の月水金も掃除夫に化けた。
掃除は基本的にはモップがけだけである。モップをかけながら机の上やパソコンの画面を覗くことはできるが、机上の書類を手に取ったり引き出しを掻き回したりすることは無理だった。
渡辺が言っていたように、社員が二、三人きりしかいないことがあった。いやむしろがらんとしている時のほうが多い。男は営業に出ていくのだ。一度買った人間に対する第二弾第三弾の押し売りである。社員同士の会話や電話の内容からそう判断できた。
オフィスに残る二、三人は決まっていて、経理担当の四十過ぎのおばさん、そのおばさんの部下の堀場嬢、コピーを取っていない時はいつもマニキュアを塗っているユウちゃんと、いずれも女である。時には、二人が郵便局に行き、一人きりになってしまうこともある。
とはいえ、まったくの無人にならないかぎり、書類を調べるのは難しい。いくら掃除夫が社員の眼中にない存在だとはいえ、引き出しの中をあさっていたらとがめられる。ここまで来ての失敗は絶対に許されない。
四階の廊下にはロッカーが並んでおり、その中は調べた。社員の服とがらくたが入っているだけだった。
となると期待はゴミである。各オフィスから出される事業用ゴミ袋を下のゴミ置き場まで運ぶのも掃除人の仕事である。俺とキヨシは蓬莱倶楽部のゴミ袋を手分けして自宅に持ち帰り、中身を徹底的にチェックした。
九月六日現在、何の収穫もない。
だがまだ始めたばかりではないか。チャンスはかならずやってくると信じ、週三回の清掃作業を続けた。
15
今日が十三日の金曜日だからといって、何か悪いことが起きるのではと胸を痛めるほどうぶな俺ではない。実際、生まれてこの方、もう何十度となく十三日の金曜日を経験しているが、ジェイソンに襲われるような不幸には一度として遭遇していない。
九月十三日の金曜日も、前日や前々日と変わらぬ一日だった。
今日もまた収穫なくヒラキ第三ビルの清掃作業を終えた。しかしそれはいいことがなかっただけで、悪いことが起きたわけではない。
だが、夜になって、ジェイソンとはいかないまでも、ちょっとした災厄に見舞われた。
「最近疎遠な麻宮ですが」
ケータイ2号に出るなり、不機嫌そうな声が飛び出してきた。
「ああ、どうした?」
「特別な用事がなければ電話してはいけないのですか?」
「いや、そういうことはないよ」
ビル掃除を始めてからというもの、さくらとは一度も会っていない。電話やメールもなおざりになっている。明日から三連休だというのに、その間の約束もしていない。それだけ体にこたえていたのだ。帰宅後もゴミ袋の点検を行なわなければならない。さくらはそれを、俺が避けているように感じ、怒っているのだろう。
「ところで、つかぬことを伺いますが」
「何?」
「ゆうべはどうされていたのでしょう」
「べつにどうもしてないけど」
彼女の機嫌を損ねるようなことをしたかしらと俺は記憶を探る。
「どちらにお出かけだったのですか?」
「どこにも行ってないよ」
デートの約束をしていただろうかと考える。
「ウソ」
「嘘じゃない」
「そこにいなかった」
「は?」
「ゆうべ、その部屋を、訪ねました」
一語一語噛みしめるようにさくらは言う。
「えっ? 来たのか?」
「そうです。晩ご飯を作ってあげようと思って。買物もしてきて。なのにあなたはいませんでした」
「なんだ、前もって言ってくれればよかったのに」
俺は笑うように応じた。
「びっくりさせようと思ったの」
「そうか、せっかくの企画をだいなしにして悪かった。ああ、ちょっと出ていた時間があったかな」
また笑う。
「それで?」
さくらはくすりともしない。
「何が?」
「どこに行っていたのです?」
「風呂」
「ウソ」
「嘘じゃないよ、銭湯だって」
「わざわざ横浜あたりまで入りにいったのですか?」
「はあ?」
「それともあなたは、お風呂に三時間も入る人なのですか?」
「え?」
「そこのアパートの前で帰りを待っていました」
驚いた。
「三時間も?」
「八時から十一時まで」
「十一時? そんなに遅くまで、危ないじゃないか」
「誰かさんがいれば夜露に濡れることもなかったのですけど」
台本を棒読みするような調子だ。
「わかった。本当のことを言う」
俺は溜め息をついた。
「人と会っていた」
「あら、デート? うらやましい」
「勘違いするな。ほら、前に話したことがあっただろう、キヨシという弟分、あいつとだ」
「ストーカーの手伝いですか?」
「おいおい、勘弁してくれ。六本木で飲んでた」
「それで午前様ですか? いいご身分で」
「いや、うっかり遅くなって」
「時間を忘れるほど楽しかったのですね。さぞいいお店なんでしょうね。今度連れてってほしいわ」
今日は虫の居所が相当悪いらしい。
「悪かった。あしたあさっての予定は? お詫びに――」
「どうして怒っているかわかります?」
「夜遊びしていたからだろう」
「二日連続だからです」
「え?」
「おとといの晩も遊んでいましたよね」
これには血の気が退く思いだった。
「おとといも来たのか?」
「二日連続でお肉もお刺身もパーです」
「それはすまないことをしたが……、前もって言ってくれよ。今、ちょっとゴタゴタしていて、部屋を空けてることが多いんだ」
「ゴタゴタしていてお酒を飲みに行くんですか。へー」
「おとといは酒じゃない」
「あーら、じゃあ何をなさっていたのかしら。どなたとお会いしてたのかしら」
「誤解だ」
俺は見えない相手に向かって手を振った。
「あら、あたしは質問しただけですけど」
「もう少し待ってくれ」
「何をです」
「もうすぐひと仕事終わる。そしたら部屋に招待するから、手料理をごちそうになるのはそれまでおあずけにさせといてくれ」
頭を下げる。
「仕事?」
「そう、仕事だな、これは」
「夜に?」
「夜というか、まあ、夜もだな」
「いかがわしい仕事じゃないでしょうね」
「正義の味方」
「は?」
「今はそうとしか言えない。カタがついたら教えてあげるよ。とにかく――」
もうしばらく待ってくれ、と続けようとした時だった。
「コーヒー入ったよ」
背後で綾乃の声がした。
「一日も早くごちそうにありつけるよう、がんばって仕事に取り組むよ。じゃあ、おやすみ」
俺はあわてて通話を終了させた。
「トラちゃん、コーヒーだって」
綾乃が言う。
「急に声をかけるな」
俺は撫然と振り返った。
「声をかけると予告して声をかける人がいるの? すると、声をかけるという予告の声にも予告が必要になるけど、その予告にも予告が必要で――ああ、目が回る」
綾乃が笑いながらマグカップを差し出す。俺は舌打ちをくれる。
「なに、それ。コーヒーを淹れてくれた人に取る態度?」
「うるさい」
「あ、そう。いらないのね」
マグカップが引っ込む。
「油を売ってないで旅行の準備をしろよ」
俺はカップを奪い取り、喉が焼けるのもかまわずひと息に流し込む。
綾乃の声はさくらに届いただろうか。届いてしまったとして、さくらはそれを、テレビの音声だと思ってくれただろうか。
そんな心配をする自分を不思議に思う俺であった。
16
というのが十三日の金曜日に起きた小さな災難だったのだが、それと比較にならないほど大きな、まさにジェイソン級の災厄が十八日の水曜日に発生した。五日遅れの十三日の金曜日といってもよい。
水曜日であるから、いつものように午後からヒラキ第三ビルに行って掃除夫に化けた。
いつもと違っていたのは、キヨシが鼻をぐずぐずいわせ、俺はしきりと痰を切っていたことだ。二人とも風邪をひいていた。このところ、長袖が必要なほど涼しい日が続いたと思ったら、三十度を超える残暑が戻ってくるといったあんばいで、体調管理が難しかった。七月八月の記録的猛暑による疲労も蓄積していたのだろう。
今日は休もうとキヨシは提案してきた。しかし俺は、もし今日四階のガードが緩かったらどうするんだよと却下した。無根拠に言ったのではない。気候は誰の体にも平等に影響を与える。蓬莱倶楽部にも体調を崩した人間がいるかもしれず、その中の何人かは欠勤したかもしれない。
俺が間違っていた。体調が悪いと五感が鈍る。その結果、とんでもない災厄を招いてしまった。
だが、狙い自体は当たっていたのだ。
四階のフロアーはいつもと様子が違っていた。経理のおばさんとユウちゃんの姿がなかった。いずれの机の上もきれいに片づいていたので、中座しているのではなく、出勤していないのだと思われた。堀場という女性も顔色が悪く、時折こほこほと咳をしている。
男で残っているのは三人。こいつらがいなくなればチャンスなのだが、具合の悪い堀場嬢はこちらの行動に注意を払うどころではないだろう、などと思いながらモップをかけていたところ、突然堀場嬢が立ちあがり、小走りにフロアーを出ていった。トイレだろうか。
「先輩」
キヨシが小声で言い、モップの柄を左右に大きく動かした。いつの間にか男性社員の姿も消えていた。
会議室を覗いてみる。誰もいない。社長室を覗いた。空っぽだった。
「ほらみろ。休まないでよかっただろう。俺はここをやる。おまえは社員の机を調べろ」
俺は社長の椅子に座り、机の引き出しを開けた。書類の一つ一つを読む時間はないので、束になったものをぱらぱらめくりながら、「羽田倉庫管理」と「久高隆一郎」の二つの単語だけを探す。
「先輩」
キヨシが小さく呼んだ。
「ざっと、手広くな」
請求書の綴りを開いてみる。
「先輩」
「机がすんだらキャビネットな。今日のところはパソコンはさわるな。フリーズが怖い」
次の引き出しを開ける。名刺ホルダーをチェックする。
「先輩」
「うるさいぞ。口じゃなくて手を動かせ――あ? 何か見つかったのか?」
俺はハッと顔を上げた。
目が合った。
「何をお探しで?」
キヨシが言ったのではない。グレーの背広を着た――蓬莱倶楽部の社員が目の前に立っている。
「先輩……」
キヨシはその横で泣きそうな顔をしている。男に右手首を取られ、腕を逆関節にねじりあげられている。
「動くなよ。動くとこいつの肩が外れるぞ」
男はキヨシの腕を取ったまま、もう一方の手を机の横に伸ばし、俺が立てかけておいたモップを奪った。オールバックにリムレス眼鏡のこいつは、そう、たしか村越とかいう男だ。まだ二十代半ばのように見えるが、もっと若い連中からは部長と呼ばれている。
「このこそ泥どもが」
そう吐き捨て、村越はキヨシの背中を強く押した。キヨシはたたらを踏んで俺の胸に飛び込んできた。
「そこでおとなしくしてろ。一歩でもこっちに出てきたらぶっ殺すぞ」
村越はヤクザのように凄み、俺たちをモップで威嚇しながらパーティションの向こうに姿を消した。
「あっと思う間もなく腕を取られちゃったんだよ」
キヨシがうめきながら右肩をさする。
俺も、人が戻ってきたのをまったく気づかなかった。作業に集中していたこともあるが、風邪で聴覚が鈍っていたことも影響したのだろう。
俺は椅子から腰を上げ、背後に目をやった。大きな窓がある。嵌め殺しではない。
「動くな。それとも飛び降りてみるか?」
村越が戻ってきた。ここは四階である。
「おい、さっきのバンダナ、後ろ向きにこっちに来い。マスクのおまえは座ってろ」
俺は椅子に腰を降ろす。キヨシはへっぴり腰で後退する。村越はガムテープを使ってキヨシを後ろ手に縛りあげ、両足首も拘束し、乱暴にその場に転がした。予想どおり俺も体の自由を奪われた。
「何を探してた?」
村越はモップを錫杖のように突き、床を舐める二人を見おろした。
「お金です」
俺が答えた。腰に回った両手首を動かしてみるが、びくともしない。
「何回目だ?」
「はじめてです」
「嘘つけ」
「本当です。みなさん出ていかれたから、つい魔が差して。いつもは誰か一人は残っていて、こんなことできません」
一部は真実である。
「何回目だ?」
「だからはじめてです。本当です」
「おまえじゃない。こっちに訊いてるんだよ」
ギャッと声があがった。首を上げてみると、キヨシの尻にモップの柄が当たっていた。
「答えろ。何回目だ?」
「はじめてです」
「何回目だ?」
またギャッと声があがった。そしてキヨシはつぶやくように言った。
「人殺し」
「ちょっとつついただけだろう」
村越は笑い、ゴルフのパッティングの要領でキヨシの尻を打つ。
「人殺し」
「よく言うわ、泥棒のくせに」
「この人殺し!」
キヨシは首を斜めに起こして叫んだ。
「いい気になるな!」
村越はアイアンショットのようにモップを振りおろした。キヨシは必死の形相で歯を食いしばり、そして機関銃のようにわめき散らした。
「おまえら、いんちきな物を売りつけるだけでなく、人も殺してるんだってな。南麻布の久高隆一郎、知らないとは言わせないぞ。保険をかけて、車で轢き殺しただろう。こっちはすべてお見通しなんだよっ」
「キヨシ!」
俺はあわてて止めたが手遅れだった。
「おまえら、ただのこそ泥じゃねえな。どこの人間だ?」
村越がぎょろりと目を剥いた。
「外苑クリーンサービスです」
というのが渡辺(仮名)らの派遣元なのだが、そんなことを言ったところでもはや通用しない。
「誰に頼まれた?」
「いいえ、誰にも」
「何を探している?」
「金が欲しかっただけです」
「てめえは黙っとけ!」
息が詰まった。トーキックが肝臓《レバー》を直撃した。
「そういやおまえ、いつもマスクしてないか? この暑いのにどういうことだ」
村越が俺の顔の前にかがみ込んだ。「埃アレルギーで」などと出まかせを口にしてみるが、言い終わらぬうちにマスクをむしり取られた。村越は首をかしげる。こいつは本庄の会場にはいなかったので、素性がバレる心配はひとまずない。
「ま、少し時間をやるから思い出せや。素直にゲロったほうが身のためだぞ」
村越は立ちあがると、机の端に尻を乗せてタバコをくわえた。
俺は蓬莱倶楽部の違法性を確信した。事務所荒らしを現行犯で取り押さえたのにどうして警察に突き出さない。実害がなかったため温情をかけている、とはとても思えない扱いだ。要するに、この会社は違法なことをやっているので警察と関わりたくないのだ。
だが、この状況下においてそんなことがわかってどうなるものでもない。さっきからずっと両手首をねじるように動かしているが、ガムテープが切れる気配はまったくない。むしろ手首に深く食い込み、皮膚が切れたような感覚がある。
もう四、五発蹴りを食らったら口を割ってしまうかもしれない。自分や家族のことなら気絶しても我慢するが、久高愛子は他人だ。しかもキヨシのような思い入れもなく、義理を通すにも限度がある。
そんな弱気がじわじわ勢力を拡大しはじめた折であった。
耳をつんざくような音がフロアー全体に鳴り渡った。非常ベルだ。
村越は一瞬ビクッとし、すぐまた悠然とタバコをくゆらした。非常ベルは多くの場合が誤作動で、慣れている人間は逃げようとしないものだ。
ところが、である。
「誰かいます!? 逃げて! 火事よ、火事!」
けたたましい音の中に女の声が聞こえた。堀場嬢のようだ。
「ホントなのかよ!?」
村越が机を降り、パーティションの向こうに出ていく。
「ああ、部長。火事です。逃げて」
「火元は?」
「ゴミ置き場らしいです。ほかの階も避難してます。ほら、見て」
窓が開く音がした。
「うわっ、ヤバいじゃん、この煙……」
「うちはほかに誰か?」
「いない」
それきり会話は聞こえなくなった。非常ベルは鳴り続ける。
「火事だって」
キヨシがつぶやいた。
「らしいな」
「ひどいのかな」
「さあ」
「キナ臭くない?」
「臭いな」
「俺たち、どうなるの?」
「黙って体を動かせ」
俺は体全体を芋虫のように蠕動《ぜんどう》させてパーティションの間を目指す。
五十センチも進まないうちに動けなくなった。脱出を阻むように何かがのしかかってきたのだ。
「待ってて。すぐだから」
なじみのある声だった。驚き、顔をねじる。
「動かないで。怪我するわよ」
さくらだった。
これは夢か? 幻覚か? そうぽかんとしていると、手首の抵抗がなくなった。
「足は自分で外して」
さくらは俺から離れ、キヨシの背後についた。
「どうして、ここに?」
俺はやっと言葉を取り戻した。
「説明はあと。早く逃げないと」
さくらはカッターナイフを使ってキヨシのいましめを切断する。俺はあわてて自分の足首に巻かれたガムテープを外す。
何が何やらさっぱりわからない展開だが、一つだけはっきりしていることがある。いま目の前にいる麻宮さくらは、チャーリーズ・エンジェルのジル・モンローのように頼もしい。
17
それで俺たちはヒラキ第三ビルから脱出したのである。さくらの誘導により、非常階段を避け、あえて普通の階段で下に降りると、途中村越や堀場嬢と出くわすこともなく、野次馬の中にまぎれることができた。
「ジル、そろそろ種明かしをしてくれ」
傷の手当てが終わると、俺はかたわらの彼女に尋ねた。
「ジル?」
「いやいや、こっちの話。どうして俺があそこに捕らえられているとわかったんだ」
「手品は種を知らないほうがしあわせかと思うけど」
俺はさくらと一緒に部屋にいる。部屋というのはひかり荘の部屋である。キヨシはいない。先に上大崎の自宅に送り届けた。綾乃もいない。あいつは今ごろ、マイタイでも飲みながらフラダンスを踊っている。俺とさくら、二人きりだ。
「種がわからないと不眠症になる。勤務先のおにぎり屋はあの近所にあるのか?」
「いいえ」
「まるで様子をずっと見ていたかのような絶妙なタイミングだったが」
「ええそうよ。あたしはあなたのことを尾けていた」
三秒の間を置き、俺はすっとんきょうな声をあげた。
「尾けていたぁ?」
「あたしは運転できないので、タクシーであなたの車を尾けました。駐車場からは歩いて。そして、あそこのビルに入るのを目撃しました」
「おいおい、タクシーまで使ったのか。なんでまたそんなことを。まるで――」
「ストーカーですか?」
さくらが首を突き出した。俺は頭を掻いて、
「最近はそういう言葉もあるな」
「あたしだって、そんな気持ち悪いまねはしたくありません。お金もかかるし、仕事は休まなければならないし」
「じゃあ尾けるなよ」
「悪いのはあなたなのですよ」
「どうして?」
「約束はすっぽかす、夜は出歩いている――そんなことが続くものだから、きっとほかにつきあっている女の人がいるに違いないと思って、それで現場を押さえてやろうと」
さくらは顔を伏せ、横に投げ出した膝頭をぎゅっと掴んだ。
「女! とんだ妄想だ」
俺は笑った。笑うと腹が痛む。村越に蹴りを入れられた箇所だ。
「笑いごとじゃありません」
さくらはぷいと横を向いた。たしかに俺の言い訳は曖昧で、女の影を感じさせてしまったかもしれない。
「悪かった。女なんていないよ」
ご覧のとおりとばかりに、室内を舐めるように腕を大きく動かす。
「今はいないみたいですね」
キツい女だ。
「俺がビルに入ったあとはどうしたの?」
俺は話の続きをうながす。
「外で待っていました。でも、いつまで経っても出てこない。それで、何階に行ったのだろうかと中に入りました。階段を昇り、廊下を窺い、それを繰り返していると、四階のドアが開いていました。そして聞き憶えのある声が漏れてきたのです」
「俺の声か」
「はい。言い争っているような感じでした。それで、おっかなびっくり部屋の中を覗いてみたのですね。するとがらんとして誰もいない。でも声は聞こえる。それで、部屋の中に入り、声の方にそっと近づいていったのです」
「こいつは驚いた。見かけによらず度胸あるな」
「あんなことになっているとは思いもしなかったから」
さくらは顔を左右に振った。
「衝立の奥に、縛られ、床に転がされた俺とキヨシがいたと」
「そうです。事情はさっぱりわからないけど、捕まっているということは理解できました。立っている男の言葉づかいがひどかったので、そいつが悪いやつだともわかりました。助けなければと思いました。でも、のこのこ出ていっても片手でひねられるだけです。とにかく、まずはこの男をどこかに追いやる必要があります。それで、火災報知器を鳴らしました」
「なるほど。あれは君だったのか」
と、いったんうなずいてから、
「本当にキナ臭かったが。それに村越が、窓から外を覗いて煙が出ていると言っていた」
「あたしが火を点けました」
「い!?」
「非常ベルが鳴っても、間違いだと思って逃げない人もいますよね。あの男がそうだったら困るので、本当に火を点けて、それをビルにいた人に見せて、それから火災報知器を鳴らしました」
「よくもまあそんな危険なことを」
俺は溜め息をつく。
「あたしもそう思います。いま考えたら怖い」
さくらは自分の肩を抱いた。
「怖いというか、放火したんだぞ。犯罪だぞ」
「そうですけど」
「放火は重罪だぞ。人を殺しても三年以下の懲役ですむことがあるが、放火はたしか最低でも五年だ」
バンと音がして安普請の建物が揺れた。
「警察に突き出します?」
さくらはもう一度両手で畳を叩いた。そして緩く目を閉じてつぶやくように言う。
「じゃあどうすればよかったの。ああでもしないと助けられなかった」
俺は口をつぐんだ。へたしたら殺されるところだったのだ。それを忘れてはならない。
「助けてくれてありがとう。本当にありがとう」
俺は神妙な調子で繰り返した。感謝の気持ちは本物だ。
間を取ったほうがいいと判断し、トイレに立つ。
歩くと左足が少し痛い。床に引きずり倒された際、腰骨の出っ張っている部分を打撲した。その他の怪我は、頬と肘の擦過傷。手首は皮が剥けているだけでなく、内出血も起こしている。が、この程度ですんだのは奇跡かもしれない。あのまま拘束されていたら、ほかの社員も寄ってたかって拷問にかけられたに違いない。やつらは保険金殺人を行なう集団だ。俺やキヨシのような、いかにも弱そうな人間をなぶり殺しにすることなど何とも思わないだろう。
それを思うとさくらには感謝してもしきれない。彼女はやはり救いの女神だ。
部屋に戻ると、さくらは卓袱台に頬杖を突いていた。
「コンビニで何か買ってくればよかったな。あいにく、お茶っ葉もコーヒーも切らしていて。水でも飲む? とびきり新鮮な、蛇口から出たての」
さくらは笑ってかぶりを振った。少しは気分を持ち直したようだ。
「じゃあ外に行くか。腹も減ったし。ああ、もう七時じゃないか」
「先に話を終わらせましょうよ」
「終わったじゃない。どうもありがとう。君は命の恩人だ」
俺はあらためて頭を下げる。
「今度はあたしが聞く番です。あなたはどうしてあんな目に遭っていたのですか?」
さくらは居住まいを正して俺を見上げた。
「それは……」
俺は返答に窮した。しかしやがてうなずき、彼女の横に胡座をかいた。
「とても一言では説明できないが」
「朝まででもつきあいますよ」
もはや隠してはおけない。俺は久高愛子の依頼を説明して聞かせた。
さくらは驚きの声をあげ、顔をゆがめ、途中からは相槌も忘れて一心に聞き入っていた。
「不思議なものだな」
話し終え、俺はほほえんだ。
「俺がもし最初から今の話を君に打ち明けていたら、君は俺を疑うことはなく、俺を尾行することもなかった。すると俺は君に助けてもらえず、今もあそこの四階でのたうち回っているわけだ。あるいは簀巻きにされて東京湾の底か。しかし俺は今、こうして自分の部屋にいる。ほら、手足も自由だ。それはまさに君のおかげなのだが、ちょっとした誤解がなければ君はやってこなかった。人生、何が幸いするかわからないね。国語の授業で習っただろう、『禍福はあざなえる縄のごとし』。俺は今日、その意味を身をもって教えられた。まったく不思議だよなあ」
さくらは両膝に手を置いて身を固くしている。もう一度「なあ?」と声をかけると、こくんとうなずいた。
「どうした?」
俺は彼女の顔を覗き込んだ。さくらは表情を崩さずにぽつりと言った。
「見つけた?」
「何を?」
「保険金殺人に関係する何か」
「いや。見つける前にあのざまだ」
さくらはじっと俺を見つめている。
「どうした?」
「怖い……」
さくらは頬に手を当てた。
「そうか、今ごろ怖くなったか。やつらはヤクザも同然だからな。それがわかっていたら、あんな大それたことできやしなかったよな」
俺は笑って彼女の肩を叩く。さくらはかぶりを振る。
「違う。仕返しされる」
「その心配か。だいじょうぶ。やつらはキヨシと俺が何者なのか知らない。この大都会の中でどうやって探すのさ。不可能だ。俺たちの身体検査をしなかったのは村越の失策だな」
渡辺(仮名)にも正体は明かしていない。
「でもまたあそこに行くのでしょう?」
さくらは上目づかいに尋ねる。
「行かなきゃな」
「危ないよ」
「もちろん、ほとぼりが冷めるまでは近づかない」
「でも結局行くということじゃない」
「そりゃ行くさ。まだ何一つ見つけてないから」
「やめてよ、あんな危ないこと」
「今日はたまたまへまをしただけさ。体調が悪かった」
そういうことにしておかないと俺のプライドが許さない。
「でも、あなたは顔を見られてしまった。もうあの事務所には近づけないわ。掃除夫に化けても入れない」
「もちろん別の方法でやるさ」
「どうやって?」
「さあ、どうしようか。怪我を治しつつ考えるよ。のんびりしていれば、案外ものすごい閃きが降りてくるものだ」
さくらは唇を噛みしめ、そのまま黙り込んだ。
俺はタバコをくわえた。頬の内側を切っているのか、煙がしみる気がする。
タバコが半分灰になったころ、さくらが顔を上げた。
「行かないと約束して。二度とあんな危ないことはしないと」
「それはできない。いったん引き受けた以上、最後までやり通すのが男だ」
俺自身の意地もある。ここで終了したのでは、エベレストの頂上に五百メートルと迫りながら下山するようなものだ。「引き返す勇気」など糞食らえだ。それに、痛めつけてくれたお礼もしなければならない。
「あなたはあたしに何て言ったか忘れたの?」
さくらは挑むような目つきをしていた。
「何のことだよ」
「自殺するなと言いませんでした? 自分は自殺が大嫌いだと」
「ああ、自殺は最低最悪だ」
「じゃああなたも最低最悪ね。あなたがやっていることは自殺行為よ。相手は人殺しを何とも思っていないのよ。そこにのこのこ出かけていくなんて、自殺しにいくようなものじゃない」
「それは詭弁だ。自殺と自殺行為とでは本質が違う」
「違わないわ! 命を粗末にすることは一緒じゃない!」
さくらは声を荒げ、卓袱台を叩いた。そしてしばし俺をじっと見つめ、はあと溜め息を漏らして、
「だから約束して。もうあそこには行かないと。危険な仕事からおりると」
目を閉じ、瞼に指先を当てる。
「泣いているのか?」
「コンタクトがずれただけ」
「わかった。もう行かない」
俺はうなずいてみせた。
「本当よ。約束よ」
さくらは目を開け、俺の手を取る。
「ああ、約束する。死に急がない」
俺はさくらの肩を軽く叩き、その手を少し上に持っていって髪をなで、そして頭を抱きかかえて自分の方に引き寄せた。自然と体がそう動いた。彼女は「あ」と小さく声をあげたが、拒否はしなかった。
俺はさくらの頬に口づけし、続いて薄赤色のルージュを引いた唇に唇を軽く触れた。いったん唇を離し、彼女の閉じた瞼を見てから、もう一度、今度は強く押し当てる。
やがて唇を離した。額に額を押しつけたまま、つぶやくように言う。
「送っていくよ」
俺は彼女の体を向こうに押しやった。
「体、だいじょうぶ?」
さくらは髪の乱れを整えながらぎこちなく笑った。
「平気平気」
「看病しなくてだいじょうぶ?」
それはここに泊まりたいという意思表示なのか。
「こんなの怪我のうちに入らない。さ、送っていくよ。途中、どこかでメシを食おう」
しかし俺はキーを持って立ちあがった。
「ご飯ならあたしが作るけど」
「それはまたの機会に頼むよ。こういう体調の日にせっかくの手料理をごちそうになるのはもったいない。しかし、これも日々のトレーニングの賜だな。腹筋を鍛えてなかったら内臓がやられていたぞ」
どうしたのだろう、この妙な饒舌は。
俺の中の何かが彼女をまだ拒絶している。
[#改ページ]
久高隆一郎殺し、それから
七月十四日の昼下がり、古屋節子は有栖川宮記念公園の緑陰にたたずんでいた。
有栖川公園は盛岡藩主南部美濃守の下屋敷跡で、鬱蒼とした樹林があり、白鷺の棲む池があり、滝から始まる渓谷がありと、現在でも江戸の昔をしのばせる都内有数の自然公園である。
節子の数メートル先には白いポロシャツを着た男が立っている。橋の欄干に両手を突き、眼下の渓谷で水遊びをしている子供たちを眺めている。かたわらには杖が立てかけてある。
ゆっくりとタバコを喫い、緊張が解けたところで、節子は男に近づいていった。
「久高さん」
男はベージュのアルペンハットに手を当てて振り返った。
「久高さん、とおっしゃるのですよね? 久高隆一郎さん」
男はきょとんとした顔で小さくうなずいた。
「久高さんは、おととい、広尾駅近くの喫茶店にいらっしゃいましたよね?」
久高隆一郎は不審そうに眼鏡のフレームに指をかけた。
「パピヨンという喫茶店です。久高さんはそこで、蓬莱倶楽部の社員二人とお話をしていらっしゃいましたよね?」
「あんたは?」
久高は杖を手に取り、黒いゴムのついた先端を節子に向けた。
「わたくしも蓬莱倶楽部にいいようにもてあそばれました」
「え?」
「久高さんも蓬莱倶楽部にひどい目に遭わされたのでしょう? 実はわたくし、おとといパピヨンにいて、三人のやりとりを耳にしました」
節子はぺこりと頭を下げた。
「あなたも? 蓬莱倶楽部の?」
久高は杖を地面に突き、一歩前に出た。節子は大きくうなずき、彼の横に並んだ。久高は、おおそうでしたかと表情を緩めた。
「老後に蓄えておいたものも、年金も、ボロボロです」
節子は溜め息をついた。
「まったく、あそこはハイエナだ。ハゲタカだ。今の今までそれに気づかなかった自分にも腹が立つ」
久高は杖の先で地面を打つ。
「安井曾太郎の絵も手放さざるをえませんでした」
「ああ、それは痛い」
「ジュモーの人形もガレのランプも、全部失いました。五千万からの借金を返すには売るしかなかったのです。亡くなった主人に申し訳が立ちません」
節子は頬に手を当て溜め息をつく。
「それはお気の毒に……。私はまだましなほうかもしれないな」
「でも、わたくしよりもっと悲惨な方もいらっしゃいます。高井さんは、お子さんの会社にまで取り立てに来られています。藤本さんは家を売り、アパートに越しました。六十を過ぎたご夫婦が四畳半一間のアパート住まいですよ。自分がそうなることを想像しただけで気が遠くなります」
「あなた、ほかにも蓬莱倶楽部の被害者を知っているのか?」
久高が驚いたような顔をした。節子はうなずいて、
「今日はそのことでお話があり、お声をかけさせてもらいました」
久高は怪訝そうに眉をひそめる。
「このたび、加藤長一郎さんという、やはり蓬莱倶楽部に痛い目に遭った方が呼びかけ人となって、被害者の会を結成しようということになったのです」
「おお、そうでしたか」
久高の目の色がパッと明るくなった。
「現在、わたくしも含めて七人が参加を表明しているのですが、加藤さんがおっしゃるには、こういう会は一人でも人数が多いほうがいいと」
「うん、そうだね」
「それで久高さんにもぜひ参加していただきたいと思いまして。わたくし、加藤さんから会の勧誘係に任命されまして、暇を見てはパピヨンで張り込み、被害に遭った方を探しておりました。あの喫茶店は蓬莱倶楽部の社員がよく利用します。というか、蓬莱倶楽部の息がかかっている店なのです。そしておととい久高さんを見つけまして、今日こうしてお誘いしているしだいなのです」
「あの喫茶店はぐるなのか。なるほど、だからよくあそこに呼び出されて物を売りつけられたのか」
積年の謎が解けたように、久高は何度もうなずく。
「参加していただけますよね?」
節子は上目づかいに久高を見つめる。
「あ、ああ、そうだな」
久高の表情はどこか浮かない。
「何か不都合でも?」
「急に言われても、気持ちの整理がつかないよ」
「今さら何の整理が必要なのです。あんなにお金を使わされて悔しくないのですか?」
「そりゃ悔しいさ。けど……」
「けど? まさか、泣き寝入りを考えているのですか?」
節子は顔をゆがめた。
「そんなことはない」
久高はばたばたと手を振った。
「じゃあ何の問題もないじゃないですか。一緒に蓬莱倶楽部と闘いましょうよ。ね?」
杖を握る老人の手に節子は手を重ねる。久高の手がびくりと反応した。
「あ、ああ」
「よかったー。嬉しいわー」
節子は女学生のように胸の前で手を組み合わせ、久高の顔をまぶしそうに見つめた。そして言う。
「じゃあ行きましょうか」
「行く?」
「被害者の会の会合です」
「今日?」
「はい、これから」
にっこりほほえむ。
「いやしかし、急に言われても」
久高は唸った。
「今日がはじめての会合なのです。結団式を兼ねているので、ぜひご参加ください」
節子は久高の腕を取った。久高はまたびくりと反応した。
「あー、わかったわかった。じゃあ家に電話を入れるよ」
久高は照れ笑いしながら、首から提げている携帯電話を手に取った。節子はその手をさっと押さえた。
「いけません。この会のことは、まだ内緒にしておいてください。ご家族にもです」
「帰りが遅くなると言うだけだよ」
「そんなの、着いてからでいいじゃないですか。さ、行きましょう。車を待たせています。早く行かないと駐車違反で警察に怒られちゃう」
節子は久高を階段の方に引っ張っていく。
車は広尾門の近くに停まっていた。国産のグレーのセダンである。運転席には銀髪をオールバックに固めた男が座っている。
後部座席に乗り込み、車が発進すると、節子は久高に運転手を紹介した。
「こちら、高木さんとおっしゃって、わたくしたちの仲間です。申し遅れましたが、わたくしは下村と申します」
道中、節子はずっとしゃべりっぱなしだった。久高に電話をかけるタイミングを与えないためである。節子が話題に詰まった時には運転手が間をつないだ。この運転手は節子と同じ境遇の男である。つまり、多額の借金のカタに蓬莱倶楽部の「仕事」を行なっている。本名が高木であるかどうかはさだかではない。
二匹の「犬」の連携により久高に電話をかけるタイミングは与えなかったものの、途中一度、久高は車を降りると言い出し、節子を大いに焦らせた。
「迷っているんだよ」
どうして降りるのだと節子が問うと、久高はぽつりと漏らした。
「今さら何を迷うのです」
「蓬莱倶楽部にははらわたが煮えくりかえっている。私もかれこれ五千万くらい持っていかれたからね。最近になってようやく目が覚めた。布団も水も壺も、どれもこれもまやかしじゃないか。あいつらは詐欺師集団だ。私怨は抜きにしても、ああいういんちきな商売をする輩を社会にのさばらせておいてはいかんと思う」
「じゃあ躊躇することはないじゃありませんか」
「理屈ではそうなんだが、人間というのは竹を割ったようにはいかないのだよ。いま私はやつらに、金を返せと文句を言っている。全額返せとはいわないが、商品に見合った額しか払えないとね。おとといパピヨンで話していたのもそれについてだ。ところがやつらときたら、いつもヘラヘラ笑って、のらりくらりと話をはぐらかす。これは話し合っても埒が明かないと悟ったよ。もはや裁判に訴えるしかない」
「そうですよ、裁判しかありませんよ。ですが、一人で訴訟を起こすより、大勢でやったほうが効果が大きいでしょう。マスコミにも取りあげられやすい。だからわたくしたちは会を作って集団訴訟を起こそうとしているのです」
「まあ聞きなさい。裁判をするには、事を公にする必要がある。事を公にするとはつまり、自分らがどのような手口にひっかかり、どれだけの被害を被ったか、ということを包み隠さず明かすことだ。しかしそれを明かすことはすなわち、自分の愚かさを明かすことでもある。私にもいろいろ立場というものがあってね、そうやって世間に恥をさらすのは非常にためらわれるのだよ」
久高は頭を抱えて溜め息をついた。
「そんなつまらない見栄で……」
「いや、地位とか立場とかができればできるほど、そういう見栄に縛られるものなのだよ。あなたは女だからわからないかな。ああ、こんなこと言ったらセクハラで訴えられるな」
久高は力なく笑った。
「では泣き寝入りですか」
「それも悔しいのだよ。金については、まああきらめてもいい。だが――」
「あきらめる? あんた、本気でそんなこと言ってるの?」
不意に運転手が口を挟んだ。
「授業料と考えればあきらめもつく」
「授業料って、五千万だぞ」
「あきらめてもいいと言ってるだけだ。そりゃ返ってくるに越したことはない。そんなことより、断じて許せんのがやつらの腐った性根だ。蓬莱倶楽部の所行を満天下に知らしめてやらないことには、この胸のつかえがどうにもならん」
「金が『そんなこと』かよ。お大尽は言うことが違いますな。ああ、どうぞあきらめてください。どうせあんたの人生も――」
「高木さん」
節子はあわてて運転手をたしなめた。そして間を置かずに久高に向き直り、彼の手を握って、
「蓬莱倶楽部の実体を白日の下にさらしましょうよ。一人では力が及ばなくても、みんなで力を合わせればきっとうまくいきます」
「ああ。だから迷っている。蓬莱倶楽部は憎い。このまま野放しにしておくのは悔しい。しかし私には立場がある。体面は捨てられない。だから迷っている。私はどうすればよいのだ。蓬莱倶楽部のやつらには、弁護士を呼ぶから首を洗って待っていろと息巻いてみせているが、実際のところはまだ何も相談できないでいる。それから――」
久高はまた深い溜め息をつく。
「それから?」
なかなか続きが出てこないので、節子はうながした。
「それから、私を躊躇させる理由がもう一つあって、それは家族だ。私以外の家族は最初から、蓬莱倶楽部のことを疑っていた。学校を出たての孫娘でさえ、『蓬莱身命の水』のペットボトルを見ただけで、こんなのいんちきに決まっていると私を諌めた。ところが私はそれに耳を貸さずに深入りし、現在の状況を招いてしまった。五千万もの大金をどぶに捨ててしまったのだよ。今さらどの面下げて、自分が間違っていましたと言える。二十歳そこそこの孫に頭を下げられるか?」
「それこそつまらない見栄じゃないですか」
「いや。家の上に立つ者としては威厳を損なうわけにはいかない。たとえ自分が間違っていたと悟っても、自分から非を認めるわけにはいかない。うちはそういう家なのだよ。まったく、自分に腹が立つ。最初のちらしに釣られていなければ、こんなことにならずにすんだのに。先年入院して気が弱くなっていたとしか思えないよ。今さらそんな繰り言を言ってもはじまらないが」
久高は何度目かの溜め息をつき、自分の腿に拳を落とした。
「ごめんなさい。そちらの事情も考えずに追い立てるようなことをして」
節子は神妙な面持ちで詫びた。
「いや、いいんだ。ともかく今日はまだ決断がつかないから、会への参加は見合わせるよ。適当なところで降ろしてくれ」
「ではこうしましょうよ。今日のところは話を聞くだけということで。ですから、帰るなんておっしゃらないで」
節子は久高の腿を撫で回しながらほほえみを投げかけた。
「まあ、話を聞くだけなら。オブザーバーとして出席させてもらうよ」
危機は去り、そして車が行き着いた先は川崎である。川崎といってもコンビナートや歓楽街のある湾岸ではなく、内陸の丘陵地帯である。高度成長期以降、東京のベッドタウンとして急速に開発が進んだ地域だ。ただし、二十一世紀になった今も、手つかずの、昼なお寂しい場所がそこここに残っている。
節子は久高と高木を残して車を出た。車は雑木林に頭を突っ込んで停まっている。クヌギやケヤキが鬱蒼と茂っており、また薄暮の頃でもあったため、すぐには気づかなかったが、五十メートルほど先にも車が停まっている。
節子がそちらに近づいていくと、黒いベンツのドアが開き、黒ずくめの男が二人降りてきた。
「ご苦労さん。しばらく中で待ってな」
一人は節子の肩をぽんと叩き、もう一人はサングラスの具合を直しながら、グレーのセダンに向かった。蓬莱倶楽部の社員、赤田と村越である。
節子はベンツの後部座席に乗り込み、ドアを閉めると、サイドウインドウに顔を押しつけた。赤田と村越が久高の横に乗り込むところだった。
節子は何も聞かされていない。あのじいさんを連れてこいと言われただけだ。だが想像は容易につく。
蓬莱倶楽部は久高隆一郎を人気のないところに連れ出したかった。だが今の久高は蓬莱倶楽部に対して強い警戒心を抱いており、のこのこついてくるとは思えない。かといって都心で拉致するのは人の目にとまる。そこで一見素人の節子を使って連れ出しを図った。
では蓬莱倶楽部は何のために久高をこんな寂しい場所まで連れてきたのか。そんなの決まっている。
このあと久高隆一郎は殺される。
小一時間ほどして、向こうの車のドアが開いた。赤田と村越が降りてくる。二人の間には、がくりと頭を垂れた久高隆一郎がいる。二人は久高に肩を貸すようにして通りの方に歩いていく。運転手の高木は出てこず、しばらくして車がゆっくりとバックを始めた。
節子もベンツを降りた。待っていろと言われていたのに出てしまったのは、反発や裏切りの気持ちからではない。何が起きるのかを自分の目で確かめてみたかった。
節子はいつも何も聞かされない。吉田周作を連れ出せと命じられるが、何のために連れ出すのかは教えられない。吉田照子名義の新規口座を開設せよと命じられるが、何のための口座かは教えられない。下村勇の食事に粉を混ぜろと命じられるが、その粉が何であるかは教えられない。ただ、命令に従ったあと、かならず不幸が起きる。
自分の行動が不幸を招くのだとは察しがつく。けれど、自分の行動がどのように作用して不幸が発生したのか、節子は実際には見ていないし、蓬莱倶楽部の人間から聞かされてもいない。だから、もしかしたら自分の行動と不幸との間には何の因果関係もないのかもしれないと、心のどこかで一パーセントくらい思っている。人は誰しも自分の非を認めたくないものなのだ。
今が、その一パーセントを確かめられるかもしれない絶好のチャンスだった。もしもこの目で不幸の瞬間を目撃したなら、一パーセントの逃げ道もなくなる。だったら余計なものは見ようとせず、今までどおりわずかな希望にすがっていたほうがいいのではないか。
ベンツの中での一時間、節子の気持ちは振幅を繰り返した。蓬莱倶楽部の二人が久高を連れて外に出てきても、まだどちらとも決めかねていた。しかし体が勝手に動いた。事実を確かめたいと、本能が願っていた。
赤田と村越は雑木林の横の道に出た。久高は二人にサンドイッチにされている。すでに息絶えているのか? いや、そうではない。脚は動いている。上半身をあずけながらも、脚は地面を蹴っている。抵抗する気力がないだけのようだ。
高木の運転する車は先に雑木林を出ていた。久高ら三人から二十メートル離れたところをバックで移動している。三十メートル、五十メートルとバックを続け、車はそのままカーブの向こうに消えた。
車線のない舗装道路である。節子があとを尾けはじめてから一台の車も通っていない。行き交う人もない。見える範囲には人家らしきものもない。何かの気配といえば、遠くでカラスの鳴き声がするくらいだ。太陽はすでに西の地平に落ち、老いた節子の目には、空と林との境界が判然としない。
と、車のエンジン音がわずかに聞こえた。カーブの出口に白い明かりが射した。
そこからはあっという間だった。
エンジンの音が大きくなる。ヘッドライトの明かりがまぶしさを増す。白い明かりの輪の中に人のシルエットが飛び出してきた。ドンと鈍い音がした。人型の影が宙に浮いた。影は手足をばたつかせることもなく、夕焼け空を背景に放物線を描き、二十メートルも先の道路に落ちた。まるで衝突実験のマネキン人形のようだと節子は思った。
赤田と村越がすぐそこに立っている。その先に人が倒れている。もっと先に車のテールランプが見える。赤田と村越が倒れている人影に近づく。車もバックで戻ってくる。
倒れている久高の横に村越がしゃがみ込んだ。体のあちこちに手を当てている様子だ。その横で赤田は杖をくるくる回している。
「オッケー」
村越が手を挙げた。車から高木が降りてくる。
「じゃあこれ、切符」
赤田が高木に封筒のようなものを手渡す。村越は車の前に回って中腰になる。車のへこみを確かめているように見える。
「大洗ですよね?」
封筒の中を覗き、高木が尋ねる。
「そう。二十三時五十九分発。時間はまだ充分あるから安全運転で行けよ」
「それで、そのう、私の借金は?」
「心配するな。約束どおり、一千万ちゃらにしてやる。ただし、北海道での仕事をきちんと終えてからな」
「おい、ここ拭いとけ」
村越が言った。高木が車の中に入り、タオルを持って村越の元に参ずる。バンパーかボンネットに血が付いていたのか。
「よし。撤収」
村越が立ちあがる。赤田は久高の横に杖を投げ捨てる。節子はあわててベンツに戻った。
赤田がハンドルを握り、村越が助手席に座り、ベンツは発進した。雑木林から出て左に折れる際、右手に人が倒れているのがちらと見えた。
村越はタバコをふかし、赤田はカーステレオから流れる音楽に鼻歌を合わせる。節子の心臓は高鳴ったままいっこうにおさまらない。
「あの……。高木さんは?」
節子は耐えきれず尋ねた。
「小樽でおいしいお寿司です」
赤田が歌うように答えた。
「小樽に行ったのですか? 北海道まで何をしに行ったのですか?」
「何か見たのか?」
村越がむすっとした表情で振り返った。節子はぶるぶると首を振り、もう何も訊かなかった。
後日知った話である。
高木が小樽に行ったのは証拠隠滅のためであった。証拠とは、久高隆一郎を轢いた車である。茨城の大洗から出ている苫小牧行きのフェリーを使い、高木は車と一緒に北海道に渡った。
小樽にはロシア人を相手にした中古車のブローカーがいるのだそうだ。要するに蓬莱倶楽部は、犯行に使った車をロシアに流してしまおうと画策したのである。
赤田と村越が久高隆一郎を突き飛ばし、高木が轢いたのだ――節子は自分にそう言い聞かせる。
けれど彼女はそうでないとよくわかっている。自分が久高を連れ出し、赤田と村越が突き飛ばし、高木が轢いたのだ。
節子は逃げ場を失った。最後の一パーセントをこの目で確かめたことで、己の犯罪への関与は決定的となった。
高木は実際に人を轢き殺したが、自分は手引きをしただけ――せいぜいその程度の慰めをするのが関の山だが、そのような慰めが少しの救いにもならないことを節子はよくわかっている。
古屋節子は底なしの絶望に沈んでいく。
しかしどれだけ絶望的な気分になろうと、節子は蓬莱倶楽部という蜘蛛の巣から抜け出すことができない。
今度のターゲットは安藤士郎という七十半ばの老人。独身で身寄りがなく、保険をかけて殺すにはもってこいの条件を備えていた。
節子はふたたび感情を麻痺させ、邪悪の僕《しもべ》に身を堕とす。
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破局、そして復縁
18
探偵活動はもうやめるとさくらに誓ったのは、あの場を収めるための方便だ。
俺は自己愛が強い男だ。プライドを傷つけられたまま尻尾を巻いて逃げるなんてまっぴらごめんだ。
それだけではない。蓬莱倶楽部の悪行を満天下に知らしめてやりたいという気持ちが、日を追うごとに俺の中で大きくなっていた。
と言えば聞こえはいいが、社会正義に目覚めたというよりはむしろ、自分の虚栄心を満たしたかった。ドラマのエキストラは数えきれないほど経験している俺であるが、主役を張ったことなど一度としてない。蓬莱倶楽部の悪行を暴くことができたら、俺は正義の味方と崇め奉られる。そう、主役だ。人生で一度くらい主役を張りたいじゃないか。
だから俺は怪我が治りしだい、探偵活動を再開するつもりだった。
ところが三日と経たないうちに気分がしぼんでしまった。
一つは、蓬莱倶楽部への新たな侵入方法を思いつかなかった。
掃除夫はもう通用しない。偽の電気工事、架空の消防検査等、オフィスに入り込む方法はいくつか考えついた。しかしどれをやるにも俺は不適格だった。顔を見られてしまったことは致命的である。天知茂版明智小五郎張りの変装術は持っていない。ハリウッドの特殊メイクアップアーティストを雇うだけの金もない。
すでに室内の様子は熟知しているので、夜中にドアをこじ開けて押し入り、警備会社が飛んでくる前にある程度の書類を持ち出すことはできる。狙い目は社長の机と金庫だろう。あの程度の大きさの金庫であれば、キヨシと二人で運び出せると思う。問題は、身の縮む思いをしたばかりのキヨシが乗ってくれるかどうかである。それから、盗み出した書類の中にめぼしいものがなかったとしても再挑戦は不可である。警備が格段に強化され、もはや素人の手には負えなくなるだろう。
では、あそこの事務所は切り捨て、ほかの方法で久高隆一郎殺しに迫れないかと考えるが、こちらはもっと何も思いつかない。
俺をへこませたもう一つの理由は骨折していたことだ。
腰骨の痛みが引かず、むしろ時間が経過するにつれて痛くなるような感じだったので病院に行ったところ、腸骨を亀裂骨折していたのである。
普段あれだけ体を鍛えていたというのに、椅子から床に転がされただけで骨折するなんて。ショックだった。骨そのものを鍛えていたわけではないし、打ち所が悪かっただけだし、骨折の程度もたいしたことはない、松葉杖なしに歩けるのだ。そう慰めても心は晴れない。俺はその程度の人間だったのかと力が抜けてしまう。
意気消沈し、探偵などどうでもよくなった。
ぼんやりと過ごしていたら、瞬く間に二週間が過ぎた。
そして俺は街に出た。十月五日、土曜日の午後のことである。
麻宮さくらと出会って以来、俺は女遊びを自重していた。彼女に悪いと思ったのではない。探偵活動が忙しくてほかにエネルギーが回らなかったというのが正直なところだ。すると探偵活動をやめてしまった今、ふたたび女が恋しくなるのは必然である。最近は、さくらと肉体関係を結ぶことを意識的に制御しているストレスもあり、その反動もあったのだろう。
今日は心のつながりはまったく求めていなかった。そちら方面はさくらによって満たされている。今はただ体だけが欲しかった。だったら扱いが面倒な素人でなく、勝手にリードしてくれるプロのほうがいい。
渋谷の駅前からデートクラブに電話をかけた。指定された喫茶店で待っていると、クラブ所属の女がやってきて、気に入ったらホテルに行き(遊園地やデパートでもいいのだが)、気に入らなければ別の人間をよこさせるというシステムになっている。
やってきたのは松本早苗という女である。当然偽名だ。俺も遊びで女と接する時には適当な名を名乗る。本名を名乗ってめんどうに巻き込まれたのではたまらない。
早苗は丸ぽちゃで、顔立ちも俺のストライクゾーンからやや外れていたが、めんどくさいのでチェンジはせずにホテルに行くことにした。
さくらとの関係はいたって良好だ。あの救出劇を境に親密度が二段階くらい増したように思う。週に三回は会っている。しかし肉体関係はない。キスも、あの時アパートの部屋でしたきりだ。俺が望んで一線を踏み越えないようにしている。
そうしておいてほかの女で性欲を満たそうというわけだ。都合のいい男である。
さくらとは明日会うことになっている。夕方、麻布十番で待ち合わせている。一緒に買物をしてひかり荘に行き、差し向かいで食事をすることになっている。まるで新婚カップルのようなアツアツぶりである。
なのにその前日、ほかの女とセックスしようとしている。俺は間違いを犯しているのだろうか。
少し前にはこんなことで考え込むことはなかった。昨日と今日の女が違っていても、それは昨日と今日とで食事のメニューが違うような感覚だった。明日女を抱く時には、今日抱いた女の顔は忘れていた。
セックスはしたい。けれどさくらを抱くことには抵抗がある。さくらを抱かないのなら、ひたすら禁欲を押し通すべきなのか。それともさくらと別れて性欲を満たすべきなのか。気軽にセックスできる女とさくらとでは人間の種類が違うのだろうか。違うのなら具体的にどこが違うのか。
答は出せない。だからとりあえず今までどおりふるまっている。
答は出せない。だが、一つだけ、麻宮さくらという女の出現で、俺の中で何かが変化しはじめたことだけは確かだった。
道玄坂を右に折れ、百軒店の商店街に入る。猥雑な路地を縫って行くと、向こうから一組のカップルが歩いてきた。もう間もなくラブホテル街である。
「あ」
俺は小さく叫び、素早く身を翻した。いま来た道の左手に清涼飲料水の自動販売機が見えた。俺は早苗の手を引いて自販機の陰に身を隠した。
「な、なによぉ」
早苗がキッと睨みつけてきた。
「何か買え」
「はあ?」
「飲み物だよ」
「ジュース買いたいくらいであんなに引っ張らなくてもいいじゃないの。あー、骨が折れるかと思った」
「いいから買え」
俺は通りに背を向け、後ろ手に小銭を差し出す。
「何がいいの?」
「おまえの好きなものでいい」
チャリンチャリンと、コインが落ちる音がする。
「向こうからカップルが来てるよな?」
俺は尋ねる。
「来てる」
「通り過ぎたら背中を叩いてくれ」
俺はタバコをくわえた。鼓動が異常に激しくなっている。
「知り合い?」
「いいから、通り過ぎたら黙って背中を叩け」
ガコンと商品の落ちる音がする。
「飲まないの?」
「おまえにやる」
タバコが瞬く間に灰になっていく。心臓が痛い。今にも大胸筋を破って飛び出してきそうだ。
背中が二度叩かれた。俺はそのままの体勢で尋ねる。
「二人が十メートル離れたら、また背中を叩いてくれ。いや、二十メートルだ」
俺は二本目のタバコに火を点ける。まるで味がしない。どんなに吸い込んでも肺が苦しくならない。
「あ」
「どうした?」
「二十メートル行かないうちに角を曲がったけど」
「早く言え、バカ」
俺はさっと振り返り、早苗を置いてカップルを追った。
最初の角を左に曲がると、十メートルほど先に最前のカップルの背中が見えた。二人は腕を組んで歩いている。
男はポロシャツにゴルフスラックス、頭にはハンチングをかぶっている。女はピンストライプのワンピースを着て、無帽。
俺は急ぎ足で、しかし足音を立てぬよう注意して、二人の背後五メートルにまで迫った。
女のワンピースのベルトにはアクセントとしてスカーフが挟んである。
さらに思いきって二メートル間を詰める。
スカーフは茶色を基調とした光沢のあるもので、黄金の馬具をまとった馬や天蓋付きの四輪馬車が、西洋風のこてこてしたタッチで描かれている。
俺は路地の真ん中に立ちつくした。
さくらだ。
麻宮さくらが男と腕を組んで歩いている。
さっき正面から歩いてくるのを見てピンときた。この後ろ姿にも親しみがある。百五十センチ足らずの背丈、細い体、緩くパーマのかかった黒い髪。人違いであるものか。二日前に会ったばかりなのだ。
ピンストライプのワンピースにも見憶えがある。そしてベルトに挟んであるスカーフ。おにぎり屋への就職祝いとして俺がプレゼントしたものだ。消費税込み二万一千円で買ったエルメスのスカーフ。
さくらと男は、徐々にその背中を小さくしていき、向こうからやってくる人の中にまぎれ込み、ついに消えた。
どうしてさくらが男と腕を組んでいる?
俺は動けない。
さくらはラブホテルのほうから男と一緒にやってきた。
俺は激しく頭を振る。
勘違いするな。ラブホテルから出てくる場面を目撃したのか? ノーだ。ホテルがある方角から歩いてくるのを見ただけではないか。ホテル街のさらに先は瀟洒な住宅街で、公園や美術館もある。渋谷駅への近道として利用しただけなのかもしれないではないか。横の男も肉親とは考えられないか。兄か弟。だが、腕を組むというのはどういうことだ。子供じゃあるまいし、きょうだいで腕を組むか?
背中を叩かれていることに気づいた。振り返ると早苗が立っていた。
「まだいたのか」
俺はぼんやりと応えた。
「うわっ、ひどい」
「今日は帰ってくれ」
力なく手を振る。
「ふざけないでちょうだい」
「そういう気分じゃなくなった」
「いいわ。じゃあ、お金を置いてって」
早苗が手を差し出す。俺はズボンのポケットから財布を取り出し、一万円札に指をかける。
一万円札にくっついていたレシートが足下に落ちた。一昨日ガソリンを入れた時のものだ。さくらを太子堂のアパートに送った帰りに。さっきの男はあの部屋にも来るような関係なのだろうか。
ああ、そういうことだったのか。フグを食べた帰り、送っていこうとする俺を拒絶したのは、部屋に男の痕跡があり、それを見せたくなかった。
急に気が変わった。俺は財布をポケットに収め、早苗の腕を取った。
「やるぞ」
早苗が痛がるのもかまわず、彼女を引きずるようにして大股で歩く。
一番近いラブホテルに入った。
部屋に入るなり、早苗の服をむしった。ボタンを引きちぎるようにブラウスを脱がせ、ブラジャーはホックをはずさず無理やりカップを引き下げた。
「ちょ、ちょっと、シャワ――」
唇で唇を塞いだ。そのまま両手首を握ってベッドに組み敷き、唇を噛んだり舌を吸ったりした。
スカートをめくりあげ、ストッキングとショーツを一緒に引きずりおろした。ストッキングは音を立てて伝線した。
舌を這わせ、指を使い、噛み、吸い、撫で、こすりつけ、豊満な体を汗だくでむさぼった。
早苗が醒めた声で言う。
「もうすぐ時間なんだけど。延長する?」
「ちくしょう!」
俺は叫び、ベッドに拳を打ちおろした。
どうして勃起しないのだ。
19
白金台のフィットネスクラブに行った。
八十キロのバーベルを挙げ、プレートを二キロ、五キロと増やした。ダンベルで上腕二頭筋を鍛え、百五十ワットの負荷をかけてエアロバイクを漕いだ。怪我をして以来トレーニングをさぼっていたので、すぐに息があがり、筋肉が悲鳴をあげた。
へとへとになるまで体をいじめたが、彼女のことを頭の中から排除することはできなかった。帰宅すると早々と布団にもぐり込んだが、寝返りを打ち続けて一時間が過ぎた。
眠るのはあきらめ、携帯電話を手に取った。メモリダイヤルの中から麻宮さくらの名前を呼び出した。だが発信ボタンは押さず、畳の上に置いた。しばらくして手に取った。また置いた。
そんなことを繰り返したあと、ついに発信ボタンを押した。だが、呼び出し音が鳴る前に終了ボタンを押した。発信ボタンを押す。すぐに終了ボタンを押す。
ようやく決断し、発信ボタンを長押しした。こうすると、相手の電話番号の前に184をつけてダイヤルされる。つまりこちらの番号が向こうの端末に表示されない。
七回目の呼び出しでさくらが出た。
「はい」
俺は息をひそめた。
「もしもし?」
耳をそばだてる。男の声はしない。
「もしもし? どちら様?」
俺は電話を切った。
数分後、ふたたびケータイの発信ボタンを長押しした。呼び出し五回でさくらが出た。
「はい」
俺は息をひそめた。
「もしもし?」
耳をそばだてる。男の声はしない。
「もしもし? どちら様?」
俺は電話を切った。
何度かそうするうちにさくらは呼び出しに応じなくなった。
俺はストーカーか。
そうだ、ストーカーだ。
気がついたら小山荘の前に立っていた。太子堂の、さくらのアパートだ。一階に四世帯、二階に四世帯、一階の向かって右から二つ目がさくらの部屋である。
時刻は午後八時。二号室の明かりは消えている。
俺は電柱にもたれてタバコをくわえた。茶沢通からだいぶん奥に入った住宅街だ。人も車も思い出したようにしか通らない。
八時半になった。二号室の明かりは点かない。
俺はケータイを取り出した。発信ボタンを長押しする。
「もしもし?」
さくらが出た。俺は電話を切った。二号室に目をやる。暗いままだ。
九時になった。二号室に変化はない。自転車がやってきた。通り過ぎたあと、こちらをちらと振り返った。俺はいったんその場を離れ、タバコの自販機を探した。
コンビニで三十分時間を潰し、小山荘に戻った。二号室は相変わらず暗い。
俺はアパートの敷地に足を踏み入れた。二号室の前に立つ。「麻宮」とマジックで書かれた紙が画鋲で留められている。耳をすます。ドアに耳を押し当てる。人の気配はない。
拳を握った。目を閉じ、深呼吸をする。目を開け、拳をドアに当てた。二度、三度とノックする。反応はない。ノブに手をかけ、回してみる。鍵がかかっている。
ポストの中を覗く。プランターの下、電力メーターの上、ガスメーターの裏を探る。鍵は見つからなかった。
いったい俺は何をしているのだろう。わからない。わからないが、勝手に体が動く。何かを確かめたがっている。
アパートの反対側に回ってみる。足音をしのばせ、ブロック塀と建物の間の狭いスペースを抜ける。二号室の窓には鍵がかかっていた。カーテンが引かれているため、中の様子も窺えない。
表に戻り、今一度ポストを覗く。水道料金の納入通知書、郵便局からのダイレクトメール、宅配ピザ屋の投げ込みちらし――男の影は感じられない。
溜め息ともうめきともつかぬ声が幾度も漏れた。
俺はアパートを離れて車に戻った。しかしエンジンはかけない。ハンドルを抱きかかえるようにしてタバコをふかす。一本喫い終わるごとに車を出ては小山荘の前まで行ってみる。
十一時になった。
十二時を回り、十月六日になった。
俺はまだ路駐した車の中にいる。五分に一本タバコを喫い、五分おきに小山荘との間を往復する。
頭の中ではずっと何かを考えている。何かを。何を? 何かを考えているが、何を考えているのかよくわからない。
雲が切れて丸い月が覗く。雲が流れて月が隠れる。空は最前からずっとそんな調子で、白んだり深い灰色になったりと、落ち着きがない。
あたりはしんとしている。雲はあんなに動いているのに、木立の葉が風に騒ぐことはない。鳥や虫の声も絶えてない。
闇の中に懐中電灯の光の輪が浮かんでいる。
それを頼りに、男が一歩一歩土を踏みしめる。男は包みを抱えている。両腕からこぼれ落ちそうなほど大きな毛布の包みだ。
男の行く手の地面にはぽっかりと穴が開けている。彼が一時間かけて掘り広げた穴だ。
穴まで達した男はその場にしゃがみ込み、しずしずと毛布の包みを降ろした。そして両手で向こうに押す。包みは斜面に沿ってごろんと一回転し、穴の底に安置された。
男はなお穴の縁にかがみ込んでいる。穴の底に顔を向け、目は固く閉じ、両手を胸の前で合わせている。男はいつまでもそうしている。彼の頬には涙が伝う。
長い合掌ののち、男はシャベルを手に立ちあがった。掘り返した土をすくい、穴の底めがけて放り投げる。
サクッ、サクッ、サクッ。
機械仕掛けの人形のように、規則正しく腕を引き、腰を入れ、腕を斜めに振りおろす。
頬の涙はすっかり乾いている。男の目には決意のようなものがみなぎっている。
雲が切れて丸い月が覗く。白い月が男の顔を照らす。
電子音が聞こえた。
ハッと顔を上げる。
俺は――ミニの中にいる。
電子音が聞こえる。ズボンのポケットの中で鳴っている。
ケータイ1号を取り出し、ぼやけた目を画面に送る。相手の番号は出ていない。通話ボタンを押し、ケータイを耳に当てる。
「アロハー!」
この能天気な声は綾乃だ。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「ああ……」
タバコのやりすぎで声が嗄れている。
「外でばかり食べてると塩分取りすぎになるわよ」
「何くだらないこと言ってんだ」
「ところで、鬼の居ぬ間に遊び回っているようね」
「べつに」
「ゆうべ家に電話したけど出なかった。今も。どちらにお泊まりなんでしょうねえ」
ウインドウの外に目をやる。新聞配達のバイクが通り過ぎた。
「夜警だ」
痰を切り、懲りずにタバコをくわえる。
「もう少しましな嘘をつこうね」
「小言を言うために国際電話か」
「チョー心配したのよ。倒れているんじゃないかと」
「だから何の用だ?」
「確認よ。あさって帰ります」
「憶えてる」
「十五時十分着の071便よ」
「わかってる」
「お迎えよろしく。そうそう、それと、美波から電話あった?」
「ない」
「ジャニーズの運動会のことで」
「ないって」
「おかしいわねえ、もう来週なのに。本当に行けるのかしら。トラちゃん、確認してみてくれない?」
「俺は忙しい」
「夜遊びで?」
「うるさい。こんな長電話する余裕があるのなら、そっから自分でかけろ」
ついにこらえきれなくなり、怒鳴りつけて電話を切った。
腕時計を見ると六時四十分だった。いつの間にか眠ってしまったようだ。何か恐ろしい夢を見た気がする。
車を出し、環七のファミレスに入った。昨日の昼から何も食べていないというのに食欲がまるでなく、ホットコーヒーだけを注文した。
無料のおかわり五杯で十時まで粘り、小山荘に戻った。
二号室のドアをノックする。応答はない。
一号室のドアをノックする。
「何でしょう?」
気の弱そうな男の声が応じた。ドアは開かない。
「お隣のことでお尋ねしたいのですが」
「はあ」
「女性が住んでいますよね?」
「はあ」
「男は同居していませんか?」
「さあ」
「お隣はどんな人ですかね」
「どんなとは?」
「社交的とか、遊び好きとか」
「さあ。挨拶しかしたことないし」
「男が出入りするのを見たことは?」
「いえ」
「一度も?」
「見た憶えないです」
「男の話し声を聞いたことは?」
「ないと思いますけど」
「昨日からずっと留守のようなのですが、よく留守にしてます?」
「さあ。でも、静かなことが多いかも」
続いて三号室の住人にも尋ねた。男の影は感じられなかった。
20
家に戻ってぼんやりしていたら「新必殺仕置人・出陣のテーマ」が鳴った。さくらからの電話だ。
俺は無視を決め込んだ。すると二十回ほど鳴って切れたが、すぐまた鳴りはじめた。
「どうしたの?」
出ると、不安そうな声が届いてきた。
「待ち合わせは四時だったわよね?」
「…………」
「違った?」
「…………」
「もしもし?」
「…………」
「もしもし? 切れてないわよね。電波の状態が悪いのかしら。こっちは三本立ってるけど。どうしたの?」
「自分の胸に訊いてみろ」
俺は電話を切った。
ケータイが鳴る。
「何よ、藪から棒に」
さくらは怒っていた。
「ひどい女だな」
俺は抑揚のない声で言った。
「何ですって?」
「とんだバカを見たよ」
「何のこと?」
「人の心をもてあそんで」
「わけわからない。それに、あなたのような人に言われたくないわ。人の心をもてあそぶのはそっちじゃない。いつも嘘ついてばかり」
「探偵のために仕方なかったと説明した」
「誕生日は?」
「誕生日?」
「嘘を教えられるなんて、あたしも嫌われたものね」
「あれは、おまえを助けるための方便だと説明した」
こんなことなら自殺させておけばよかった。
「もういいわ。話にならない。さようなら」
それで通話が切れた。さよならはこっちの台詞だ、バカ。
恋愛なんてもう懲り懲りだ。相手の行動の一つ一つに理由づけを求めるなんて馬鹿げているし疲れる。肉体だけの関係のほうがよっぽど気楽だ。
今度は俺からかけた。
「今さら謝っても遅いわよ」
さくらは怒っている。
「きのう何をしていた」
俺は感情を殺して尋ねる。
「他人に語る義務はございません」
「午後一時ごろ、どこで何をしていた」
「え?」
声の調子が変化した。
「渋谷、道玄坂、ピンストライプのワンピース、腰にスカーフ」
「な、何よ……」
明らかに動揺している。
「誰かがラブホテルから出てくるのを見た」
否定してくれという気持ちを込めて鎌をかけた。
「どうして……」
「あれはおまえなんだな?」
「待って。わけがあるの。説明する」
淡い願望は打ち砕かれ、俺は電話を切った。
ケータイが鳴った。
「言い訳はいらない」
本当は聞きたくてたまらない。
「お願い。説明させて。今、おうち? すぐにそっちに行くから」
「来るな」
「電話ではとても話せない」
「来るな」
いま顔を合わせたら、何をしてしまうか自分でもわからない。
「本当に深いわけがあるの。お願いです。説明させてください」
「明日だ」
「ありがとう。何時に行けばいい?」
「部屋には来るな」
「でも、喫茶店なんかじゃ話せない」
「来るな」
明日、心が穏やかになっている保証はない。密室の中での一対一は危険だ。
「広尾の有栖川公園で待っている。図書館の玄関で五時」
「わかりました。それと、一つ訊いてもいい?」
「何だ」
「あなたはどうして渋谷のあんなところにいたの?」
「鍋島松涛公園で映画の撮影があった。それで通りかかった」
この期に及んでそんな作り話をしてしまう卑怯者である。
21
翌日、約束どおり、都立中央図書館の入口で落ち合った。一年ぶりの再会のような気分だった。
さくらは挨拶の言葉を口にしたが、俺は目も合わせずにアプローチの階段を降りた。
行った先は、図書館の向かいの小さな人工池である。俺はその縁に腰を降ろし、隣に座れと平らな石組みを叩いた。
杖を頼りに歩いている老人がいる。インラインスケートで通り過ぎる若者がいる。隣の芝生では子供たちが駆け回っている。ちょうどそういう時間なので犬の散歩も目立つ。
さくらは、こんなところではとても話せないと尻込みした。意外とこういうところのほうが内緒話に適していると俺は突っぱねた。公園であれば、人の目を気にして感情も行動も抑制できる。結局さくらは折れ、俺の横に腰を降ろした。
「ごめんなさい」
さくらはまず頭を下げた。
「何が?」
「隠し事をしていて。そういうつもりはなかったのだけれど、結果的にあなたを騙すことになってしまいました。本当にごめんなさい」
「謝罪はいいから、言い訳してみろ」
俺は突き放す。
「あたし、借金があります」
「前に聞いた」
「二千万円くらい」
「ふーん」
驚きを隠して素っ気なく応じる。
「もしかしたら三千万くらいかもしれません。自分でもよくわかっていません。とにかく、気が遠くなるような額です。時給七百二十円でおにぎりを握っても全然追いつきません。それで、その、男の人と……」
さくらはそこで言いよどみ、小指の先を泣きぼくろに当てた。
「売春か」
露骨に言ってやった。さくらは黙ってうなずいた。
「一度や二度ではないのだな?」
「はい」
「いつからやってる?」
「一年くらいになります。でも、それだけやっても、せいぜい利子分にしかならなくて、出口がまるで見えなくて、身も心もボロボロで、こんな生活を一生続けるのなら今すぐ死んでしまったほうがましだと思って……」
それで電車に飛び込んだのか。
「自殺を止められ、あなたを恨みました。生き地獄に引き戻すなんて、なんて残酷な人なのだろう、この人は悪魔かと思いました。けど、しばらくすると心が落ち着いてきて、もう一度がんばってみよう、もう少し耐えたら事態が好転するかもしれない、と思えるようになりました。だからあなたには感謝しています。それは本当です。でも、あたしがどんなに心を入れ替えたところで、現実が変わってくれるわけではありません。生きるということは、借金を返さなければならないということで、そのためにはまとまったお金を作らなければならず、まっとうな仕事をやっていたのでは間に合いません。結局、前と同じように、男の人を頼るしかなかった。はい、おにぎり屋に就職したというのは嘘です。おにぎりを握っている時間があるのなら、援助してくれる男の人を探したほうがいい」
さくらは大きく溜め息をつき、がくりと頭を垂れた。
芝生に人が集まっている。ある者は大型犬の綱を握り、ある者はリボンで飾った犬を抱いている。愛犬を自慢し合っているのか、みな楽しげな顔をしている。高級住宅街に接しているだけあり、どの犬も毛並みがよく、利発そうだ。そこから十メートルばかり離れた場所では、借金だの売春だの自殺だのと話している。現実とはつまりそういうことだ。
「何の借金なんだ」
俺はつぶやくように尋ねた。
「隠していましたが、あたし、十九の時に一度結婚しています。ごめんなさい」
「謝ることはないと思うが」
「子供もいます。女の子です」
「結婚すればできて当然だ」
「結婚生活はやがて破綻しました。原因は――、この場では、ありがちなこととだけ言っておきます。子供は彼が引き取りました。というか、向こうの実家に奪われました」
「そういう恨み言はみのもんたに言え」
俺はタバコをくわえた。
「一年半前のことです。その別れた子供がある難病にかかっているとわかり、あと二年の命だと宣告されました。ただ一つ助かる道は最新の化学療法を受けることでした。ところがその治療は日本の医学界では承認されておらず、オーストラリアまで行く必要がありました。保険はきかない、治療は半年にわたる、その後のリハビリもある――費用は計り知れません。それで、あたしのところにも、援助の要請が届いたのです。離婚して以来一度も会っていないとはいえ、血のつながった子です。断わる道理はありません。あたしは少ない貯金を掻き集め、方々で借金して回り、全部で三百万ちょっと集めました。それがどれだけの足しになったのかはわかりませんが、娘はメルボルンの病院に入院することができました。あたしはホッと胸をなでおろしました。けれどそれは生き地獄の始まりでもありました。借金をしたはいいけれど、返すあてがあったわけではありません。娘を救いたい一心で、後先考えずに借りられるだけ借りたのです。そして借りた先に、闇金と呼ばれている高利貸しがありました。請求書が届くたびに返済額がものすごい勢いで増えていきます。利子が利子を生んで、五百万、一千万、一千五百万と、もうどうにも手がつけられないほどに膨らんでいき、それが現在の状況なのです。これ以上増えないようにするため、ああいう恥ずかしいことをして食い止めるしかないのです」
長い話を終え、さくらは激しく咳き込んだ。
俺は両膝に肘をあずけ、図書館の上を流れる雲を見るともなしに眺めていた。雲はうっすら赤く色づいている。芝生で語らう飼い主たちの顔も判然としなくなった。彼岸を過ぎると、みるみる日暮れが早くなる。そのくせまだ半袖で充分である。年々、衣替えの時期が後ろにずれていっているような気がする。地球の環境は確実に変化している。しかし不思議なことに、日暮れの時刻は昔とまったく変わらない。
ずいぶん経ってから俺は尋ねた。
「子供は助かったのか?」
「おかげさまで、治療はうまくいきました。予後も安定しているようです」
「この先どうするんだ?」
「利子が膨らむのを抑えつつ、一万円ずつでもいいから減らしていくしかないでしょうね。あと、ジャンボ宝くじは毎回買っています」
さくらは自嘲気味に笑った。
「もう体は売るな」
俺は言った。
「でも、ほかにまとまったお金を作る方法がありません」
「俺がどうにかする。だからもう体は売るな」
俺は顔を上げる。
「でも、どうにかするって……」
「どうにかするんだ、どうにか」
俺は体をよじり、さくらを直視する。
「でも――」
「『でも』はもう言うな。これ以上自分を傷つけるな。傷つけないでくれ」
俺はさくらの肩を抱き寄せた。
目の前を人が通り過ぎる。横の芝生にも人がいる。図書館からもぞろぞろ出てくる。だが俺はかまわず彼女の体を強く抱きしめた。
この女を愛してしまったのだと、今はっきりと認識した。
22
俺はミニのハンドルを握っている。横には久高愛子が座っている。車は有栖川宮記念公園の横を走っている。有栖川公園通と木下坂と南部坂が作る三角形を、さっきからぐるぐる周回している。
人気女性歌手の十九歳での入籍、一年四ヵ月ぶりに土俵に帰ってきた横綱、あとを絶たない食肉の不正表示と、しばらく世間話をしたあと、俺は本題を切り出した。
「電話でもよかったのかもしれないが、こういうことは直接話すのが礼儀だと思って」
「なんですか、おおげさな」
愛子は口に手を当てた。
「例の件、数日のうちにカタがつく」
「本当ですか? やっぱり蓬莱倶楽部が?」
愛子の表情が引き締まった。
「いや、今はまだどちらとも言えない。けれど数日のうちに何もかもが明らかになる。明らかにしてみせる」
「ありがとうございます。よい知らせを待っています」
愛子は運転席の方に体をよじり、頭を下げた。そんな不自由な体勢でも膝に手を置くという礼儀正しさだ。
「それで、今さらこんなことを言うのも心苦しいのだけど、俺たちは大切なことを決め忘れているよね」
「大切なこと?」
「俺ってボランティア?」
「ああ、お金のことですね。ボランティアだなんてとんでもない。もちろんお礼はいたします。交通費とか電話代とかも、おっしゃってくだされば、別にお渡しします」
俺はうなずき、そして咳払いをくれて、
「謝礼はどの程度を考えているのかな」
「そうですねえ、わたしは相場というのを知らないから、成瀬さんのほうからこのくらいと請求していただければ」
「言い値でいいということ?」
「はい。一億と言われたら、それは応じかねますが」
愛子はくすりとして口に手を当てる。
「俺のいいようにしていいのなら、謝礼なし、というのもありだ」
「え?」
「必要経費もいらない。いちいちつけてなかったし」
「でも、それでは成瀬さんが……」
「いいんだ、謝礼は。その代わり、金を貸してほしい」
「貸す?」
愛子は首をかしげる。
「十万二十万じゃない。五百万か六百万か、いや、おそらく一千万単位になる」
「一千万……」
「無理かな」
俺は助手席を横目で窺う。愛子はしきりと首をひねっている。
「無理というか、急に言われても、そんな大きなお金、わたしの一存ではお貸しできません」
「そうだろうな。だから、愛ちゃん個人でなく、久高家に貸してほしいということだ。調査終了後、お宅に伺って正式に借金を申し込みたい。その時に、愛ちゃん、君の力添えがほしい。俺に貸すよう押してくれ」
「はあ、まあ、そういうことであれば」
愛子はまだ首をひねっている。
「かならず返す。借用証も書く。担保も入れる」
「信用はしています」
「俺には五千万の生命保険がかかっている。受取人は妹だが、もし俺の身に何かあるようなら、保険金がそっちに行くよう遺言を書いておく」
「そんな……」
「なんなら新たに保険に入ってもいい。とにかく俺の命に代えてでも返す。だからよろしく頼む」
俺はハンドルに額がつくほど頭を下げた。
「なんだか、怖い」
愛子が肩をすぼめた。
「そうだろうな、いきなり金貸せだもんな。それも一千万も」
「いったい何に必要なのです?」
愛子がじっと見つめてくる。
「それはまあ、ちょっと恥ずかしい話でね」
と鼻の下を掻く。
「おっしゃられなくて結構です。ただ、心配で」
「何が?」
「成瀬さん、なんだか悲壮で、死ぬんじゃないかって」
愛子の声も震えている。
「死ぬ?」
そう復唱したのち、俺はぷっと吹き出した。
「死なないよ。金を貸してと頼んでいるんだぜ。死んだら借金できないじゃないか」
「そうだけど……」
愛子はなお不安そうに頬に手を当てている。
「とにかく、あと少しで終わるから。あと少しで」
それは自分に言い聞かせているようでもあった。
あとは無言でハンドルを握り、南麻布の久高邸の前に車をつけた。
別れ際、俺は言った。
「そっちこそ、早まったことはやめろよ」
「早まったこと?」
「とんでもないことを考えているんじゃないのか? 俺の思い過ごしならいいが」
「いったい何のことでしょう」
愛子の目が宙を泳いだ。
「自分の情念に溺れていると周りを不幸にするぞ」
「何のことかさっぱりわかりませんが、こんなわたしに何ができます」
「俺は愛ちゃんの味方だ。しかし君のいいなりになるわけではない。味方だからこそ、君を悪いほうには行かせられない」
「おかしいですよ。わけのわからないことばかり言って」
愛子の笑みは引きつっている。
「わからないのなら、いま記憶に留めておいてくれ。ともかく、お互い、死に急ぐのはよそう。そう、『謹言慎行』だ。それが久高家の家訓なんだろう。じゃあまた」
時は十月十三日日曜日。
俺はいよいよ決戦の舞台に出陣する。
23
久高愛子と別れた数時間の後、俺は五本木にいた。六本木ではなく五本木、目黒区の真ん中あたりに位置する住宅地である。
東横線の祐天寺と学芸大学のちょうど中間あたり、駒沢通から少し北に入ると、フローレンス五本木という、名づけた意図がよくわからないワンルームマンションがあり、俺はそこの三階にいる。三〇三号室の前だ。
インターホンを鳴らしてしばらくすると、「はい」と女の声が応じた。
「夜分おそれいります。先程電話した――」
俺は某宅配便業者の名を口にした。
「はーい、いま開けます」
インターホンがぶつりと切れ、間もなく黒い玄関ドアが開いた。
二十代半ばの細面の女だ。目と鼻と口が、顔の真ん中で小さくまとまっている。黒と茶色が混じった髪はアップにして、白いカチューシャで留めている。昼間はあれを背中までおろしているのだ。
「堀場香織さんですね?」
俺は尋ねた。
「はい」
「ヒラキ第三ビル四階の蓬莱倶楽部にお勤めの堀場香織さん」
「え? はあ」
彼女の顔にとまどいの色が浮かんだ。
「夜分押しかけて申し訳ない。こんなことは二度としないから許してくれ」
俺は頭を下げた。
「あの、荷物は?」
堀場嬢は印鑑を持つ右手を所在なげに動かす。
「荷物なんてない」
「え?」
「俺は宅配便の配達員ではない。この顔に見憶えがないか」
首を突き出し、己の顔を指さしてみせる。堀場嬢は眉をひそめた。
「そうだな、いつもは、この顔に眼鏡とマスクをかけ、頭に海賊のようにタオルを巻いていたからな」
「あ? え?」
彼女は小さな目を精いっぱい広げ、口に手を当てた。
「今日はあなたにお願いがあって来た」
「ひ、人を呼びますよ」
堀場嬢は一歩退いた。
「待て。騒がないで。聞いてくれ。頼む」
俺は彼女を掴むように左腕を前に伸ばした。
「さわらないで!」
彼女はさらに退いた。
「静かに。何もしない。誓う。頼むから聞いてくれ。一分ですむ」
俺は両手を顔の横に掲げた。
「このまましゃべるから」
「何です? 早く」
堀場嬢は冷蔵庫の脇まで後退した。だが話を聞く気にはなったようだ。
「あなたの勤め先に入れてもらいたい」
「はい?」
「今から入りたい。鍵を貸してもらえないか」
社員に頼んで夜のオフィスに入れてもらう――これは賭だった。入れてください、はいどうぞとは、普通ならない。しかし何とか社員を口説き落として鍵を借りるよりほかに方法がなかった。
ドアを破壊し、警備員がやってくるまでの間にいくらかの書類を持ち去るという荒っぽい手はある。しかしそれで成功しても見られない書類のほうが多く、また作業を行なううえで時間的なリスクが大きい。それに対して鍵を使って開けるというこの平和的な方法は、警報機が鳴らないので、時間を気にせず、書類の一つ一つをじっくりと調べることができる。
ではどうやって社員を口説くのか。忘れ物を取りにいきたいとか、休みの間にワックスがけしたいとかいう嘘は通用しないだろう。
正直に話すしかないと思った。蓬莱倶楽部の不当性、しかも人殺しにまで手を染めている疑いもあり、それを暴きたいので協力してくれと、相手の正義心に訴えるのだ。
では社員の誰を説得するのか。
男はだめだと思った。男は営業活動を行なっている。つまりその手を実際に悪事に染めている。そういう人間に正義を説いても無駄だろう。男の中には保険金殺人に関わった者もいるはずだし。その点、内勤の女性社員は社の実情をきちんと理解していない可能性が多分にある。情に訴えかけ、こちらの思想に染めてしまうことも可能なのではないか。
では女性社員にどうやって接触するのか。俺はお尋ね者なので、蓬莱倶楽部の事務所には近づけない。
しかし俺は電話帳を持っている。日高の携帯電話から吸い取ったメモリダイヤルだ。そして掃除夫として九日出入りしたことで社員の名前もだいたいわかっていた。メモリダイヤルをチェックするとはたして堀場香織の名前があった。
あとは例の方法だ。宅配便を装い、送り状の文字が判読できないので住所を教えてくれと電話をかけた。
そして俺は今、心を込めて堀場香織をかき口説いている。一分ですむと言ったが、たったそれだけで説明しきれはしない。しかし堀場嬢は真剣な表情で耳を傾けている。
「――ということで、鍵を貸してもらいたい。このとおり」
最後にそう頭を下げると、
「わかりました」
つぶやくような声だったが、たしかにそう聞こえた。
「そうか、貸してくれるか」
俺はホッと肩の力を抜いた。
「ただ、鍵を渡すのは抵抗があります。貸して戻ってこなかったら困ります」
「かならず今晩中に返す」
「あたしが一緒についていくというのではだめですか?」
堀場嬢は鍵を回す仕種をした。
「めんどうでなければそれでもいいよ」
「それから、一人ではちょっと……。ユウちゃんも一緒でいいですか? 一緒に働いている子です」
たしかに、夜のこの時間、見ず知らずの男についていくのは不安だろう。
「ユウちゃんの家はどこ?」
「下目黒です」
「なんだ、近くじゃない。了解」
「じゃあ、いま家にいるかどうか電話してみます。それから着替えもしたいので、ちょっと待っていてください」
堀場嬢はいったん引っ込んだ。俺はあらためてホッと息をついた。
林試の森公園の近くでユウちゃんを拾い、彼女にも事情を説明しつつ恵比寿のヒラキ第三ビルに到着したのは午後九時である。
平日であればまだ社員が残っているかもしれない時間帯であるが、今日は日曜日。ヒラキ第三ビルの明かりはすべて消えていた。もちろんそれを見越して今日という日を選んだ。
明日十四日は十月の第二月曜日、すなわち体育の日で、今日は三連休の中日にあたる。したがって若い堀場嬢が遊びに出かけている可能性は多分にあったのだが、その場合は明日またチャレンジすればよいと考えていた。結果として、計画は延期せずにすみ、それは今回の作戦がうまくいくことを暗示しているのだろう。
明かりは消えていたが、ビルの玄関は開いており、エレベーターも動いていた。
四階にあがると堀場嬢は、ドアの横の、警備会社のロゴがついたボックスにカードを差した。
「監視を解除します」
ボックスから機械的な女性の声が流れた。
「最初にこうしておかないと、鍵を開けただけで警備会社に連絡がいってしまいます」
堀場嬢はそう説明し、続いてドアの鍵穴に銀色のキーを差し込んだ。カチリとロックがはずれる。
「どうもありがとう。なるべく早く終わらせるから待っていて。明治通ならまだ喫茶店が開いているだろう」
俺は財布を開く。
「カラオケ行きまーす」
ユウちゃんは一万円札を奪い、ねー、と堀場嬢に笑いかけた。
「終わったらケータイにかける。遅くとも十一時までには終わらせる」
彼女らに待ってもらうのは、作業終了後に施錠と警備システムの再起動を行なってもらうためである。侵入の形跡は残したくない。
俺は深呼吸を一つしてドアを開けた。
右の壁に電灯のスイッチがあるとわかっている。しかしそこには手を伸ばさず、用意の懐中電灯を点けた。ミニマグライトAAAという十センチちょっとの代物だが、軍隊や警察でも使われているだけあって明るさは折り紙つきだ。
まずは社長室を調べる。革張りの椅子に腰を降ろし、机の引き出しをあさる。スパイ映画の主人公がそうするように、マグライトは口にくわえ、両手を使って書類をチェックする。
しばらくそうやって調べていると、懐中電灯の光の輪の中に、ほんの一瞬、心に訴えかける何かが浮かびあがった。現在手にしている書類ではない。それを掴む前に見た気がする。
そう思って行動を巻き戻していくと、机上のトレイが目にとまった。よくエグゼクティブの机の上にあって、「未決」「既決」とラベルが貼ってあるあれだ。
トレイの中には大きな茶封筒が入っている。その左肩に覚え書きのような感じで何かが書かれている。細いペンでの走り書きだ。
「え?」
思わず声が出た。
人の名前が書いてあったのだ。それも、俺がよく知っている人物の名前が。
安藤士郎と読めた。
驚き、封筒を手に取ってみた。どんなに目を近づけても安藤士郎としか読めない。安藤士郎!?
俺は封筒の中に手を突っ込んだ。紙が入っていた。生命保険の証書だ。被保険者の欄に安藤士郎とあった。
「バカな」
うなるようにつぶやき、住所欄に目をやった。東京都港区白金――あの安さんに違いない。生年月日の欄を見る。昭和三年五月十四日。間違いない。あの安さんである。
「バカな……」
俺は呆然とするしかない。
[#改ページ]
安藤士郎という生き方
安さんから電話があったのは、昨年の十一月の終わりのことだった。
「先生、ごぶさた」
「やあ、元気?」
初対面の人間と話すのは何ともないのに、久しぶりの人間に対しては、胸がドキドキし、言葉がうわずってしまうのはなぜだろう。
「うん、ぼちぼち」
あまり元気そうな声ではなかった。
「それで先生、突然で悪いんだけど、ひとつ相談に乗ってくれるかな」
「はいはい、何でしょう」
「うん、それなんだけど、電話では説明しづらいので、うちに来てもらえるかな」
「いいですよ。いつ行きましょう」
「なるべく早いほうがいいんだけど」
「じゃあ明日」
「何時ごろになるかな」
「明日は夕方からパソコン教室なんですよね。その前と後、どっちがいいかな?」
「後、かな」
「九時には行けると思います。講義が終わってからしつこく質問してくる、誰かさんみたいな生徒がいなければ」
しかし安さんは笑ってくれない。
「もしかしたら、その頃ちょっと外に出てるかもしれない。いなかったら中で待ってて。鍵は電力メーターの上に隠してある」
「だったら、教室の前に行きましょうか」
「いや、その頃も留守にしてる」
「あさってでもいいですけど」
「いや、早いほうがいいんだ。じゃあ明日」
安さんは逃げるように電話を切った。俺とは対照的に、一年ぶりの声を懐かしんでいる感じは少しもしなかった。
翌日、俺は安さんの部屋を訪ねた。
着いたのは八時五十分だった。予告されていたように、ノックしても応答がなかった。アパートの外でタバコを喫いながら待ってみたが、九時半になっても安さんは戻ってこない。冷え込んできたこともあり、彼の言葉に甘えて、勝手に入って待つことにした。
合鍵を使ってドアを開けると、右の壁を探った。安さんの部屋には何度かじゃましたことがあり、そこに台所の電灯のスイッチがあるとわかっていた。
スイッチを入れると、天井の白熱灯が半畳の台所を照らした。黄みがかった光は奥の部屋まで這い入り、六畳間の様子をぼんやりと浮かびあがらせた。
驚いた。
驚いたら声も出ないのだとわかった。
それともう一つ、足が接地していても首吊りができるということもわかった。
奥の部屋で安さんが死んでいた。
長押《なげし》に物干し竿を渡し、その真ん中にロープをかけ、その輪の中に頭を突っ込み、安さんはがくりと首を折っていた。両腕はだらりと垂れ下がり、両脚はわずかにくの字に曲がり、足の裏が畳についている。
声なんか出ないのだ。叫び声も呼びかけも。俺は荒い息を吐きながら部屋の中に飛び込んでいくと、安さんの体を降ろしにかかった。
しかし首に食い込んだロープの輪を緩めようとしても、安さんの体重がかかってうまくいかない。悪戦苦闘し、爪の先が欠けてしまってから、自分はなんてバカなのだろうと気づく。物干し竿の片方の端を持ちあげて長押からはずし、そのままゆっくりと下に降ろした。そうして安さんの体が畳に横たわった状態でロープの結び目を指で探るが、爪を入れる隙間がないほどきつく締まっている。欠けた爪に亀裂が入り、血がにじみ出てきてから、ようやく刃物を使えばいいと気づいた。台所から庖丁を持ち出し、ロープを切断する。
安さんの顔は冷たく、肩を激しく揺すっても目は開かない。左右の手首を指で探るが脈は感じられない。心臓に耳を当てるが鼓動は聞こえてこない。
俺は呆然とするしかなかった。かつてこんな場面に出くわしたことがなかったので、どう対処していいかわからなかった。一一九番や一一〇番は思いつかなかったし、隣人を呼ぶことすらできなかった。
変死体に遭遇したのははじめてではない。世羅元輝の死体のほうが十倍も二十倍もものすごかった。だがあれはむごたらしさが極限を超え、気持ち悪さはあったものの、リアリティーが欠如していた。そう、小説か映画の中に迷い込んだようであった。だから意外と醒めた感じで、なすべきことを一つ一つこなすことができたのだ。
けれど、いま目の前にある死体は現実感に満ちている。しかも世羅の兄貴とは心が通っていなかったが、安さんとは酒も酌み交わしたし、彼の娘のために一肌も二肌も脱いだ。そんな人の突然の死をどう受け止めればよい。
畳の上にへたり込み、口を半分開け、意味もなく目をあちこちに動かしていると、デコラ張りの卓袱台の上に封筒がいくつか並べられていることに気づいた。うち一つには「成瀬将虎様」と書かれていた。俺はそれに手を伸ばし、封を引きちぎり、中の便箋を引き出した。
先生、ごめんよ。ごらんのとおりだ。
ひと月前のことだ。ずっと変な咳が出るものだから病院に行った。すると検査で入院させられて、肺ガンだって言われた。
だから首吊ったんじゃないよ。治るとか治らないとか、そういう問題じゃないんだ。
俺、千絵に仕送りしていたんだよ。先生の話を聞いてから、あの子を助けてやらなければならないと思った。母親があんな状態で、父親はいなくなってしまい、じゃあ誰があの子を助けてやれるんだよ。二十歳過ぎてりゃ放っておくけど、あいつはまだ十七だ。なのに水商売をして、母親の世話をして、学校に行けず、友達とも遊べず、酒臭く脂ぎったオヤジの相手をする毎日で、そんな理不尽があるかい。
ではどう助ける。引き取るか? 今さらそんなの無理だ。こんな老いぼれが、お父さんだよと突然現われても、あの子にしてみればいい迷惑さ。事実を受け入れられないだろうし、葛藤でパニックに陥ってしまう。絶対に名乗り出られないよ。じゃあどう助けよう。一緒に暮らすことができないのなら、だったら金を送るしかない。
少しばかりあった蓄えは、すぐに全額引き出した。ひと月おきに振り込まれる年金も、シルバー人材センターでの報酬も、ほとんどを千絵に送った。もちろん、匿名でね。足長おじさん気取りだね。一円でも多く送りたいから、更新料を惜しんで運転免許を返納した。食事は一日二食にした。酒もタバコもやめた。だから先生とも飲めなくなった。ごめんな。
けれど俺の年金と稼ぎなんてたかが知れてる。あれっぽっち仕送りしたところで、母子二人、食うのがやっとだろう。結局、千絵は今も働いていると思う。今の時代の人間は、衣食住が足りているだけでは満足できないからね。あの子はきっと、今日もオヤジに酌をしている。すると、俺がやっていることはいったい何なんだろうね。
いいんだ。親として何かをしたいんだ。せめて成人するまではできるかぎりのことはやってやりたい。でないと気がすまない。娘のために力になっていると思いたい。こんな俺でも、生きている価値があると思いたい。ああそうか、俺は娘のためを思っているのでなく、自分を満足させるために、娘をだしとして使っているのかもしれないな。それでもいいよ。俺は娘のために死ぬよ。
先生、そうなんだ、俺は千絵のために死のうと決心したんだ。
まいったよ。俺はガンに冒されてしまった。まいったというのは、怖いということじゃない。ガンは治療が大変だ。時間も金もかかる。年寄りだからって、ただで治療を受けられるような病気じゃない。じゃあ千絵への仕送りはどうなる?
俺は一生あの子に仕送りしようなんて考えちゃいない。手助けするのは子供の間、つまり未成年のうちだけだ。大人になったら、余計な手出しはしない。
だが、ここで俺が入院したら仕送りは停止だ。そしてもし生きて退院できたとしても、その時にはもうあの子は成人してしまう。それでは意味がないんだよ。いま援助しなければ。治る治らないは関係ないというのは、つまりそういうことなんだ。
先生、迷惑ついでに、もう一つ頼まれちゃくれないかな。
この手紙と一緒にいくつか封筒が置いてあるだろう。それらの中には生命保険の証書が入っている。急遽、医師の診査がいらない保険に入った。受取人は千絵になっている。全部合わせてもせいぜい一千万程度だが、何もないよりましだろう。その支払い手続きを先生にお願いしたいんだ。金が間違いなく千絵に渡るよう、はからってください。勝手を言って申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いします。
俺のことは放っておいていいから。人材センターの仕事は、きちんと辞めてきた。あとは、身寄りがないということで、区がどうにかしてくれるさ。いちおう火葬の費用として二十万円ばかし封筒に入れておくけど、もし使わずにすんだら、それも千絵に送ってやってください。
先生、人生は皮肉だね。焼鳥屋での何気ない一言が、人生の最後の部分を大きく書き換えてしまった。千絵がどうしているか見てきてくれと言い出さなければ、こんなことにならずにすんだのにね。これも運命だな。神様が決めたことだ。
この一年間は、娘のために、それこそ身を粉にして生活を切りつめた。たったそれだけのことだけど、確かな目的を持って生きてきたこの一年はとても充実していた。上京して五十年、結局一旗揚げられなかったわけだけど、今は大きな仕事をやり遂げた気分だ。今だったら胸を張って故郷に帰れそうな気がする。先生が千絵を見つけてきてくれたから、いま俺はそういう気分を味わっている。人生は不思議なめぐりあわせだね。
先生、短い間だったけど、いいつきあいをありがとう。
「バカだよ、安さん。あんた、バカだよ……」
俺は便箋を握り潰し、いつまでもそう繰り返した。
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大破局
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「バカな……、そんなバカな……、バカな……、ありえない……」
俺は壊れた機械人形のように繰り返す。
どうしてこんな保険証書があるのだ。安さんこと安藤士郎はもうこの世の人でない。亡くなって一年が経とうとしている。
封筒の中にまだ何かが入っていた。それも紙だった。しかもやはり保険の証書だった。生命保険のものがあり、傷害保険のものもあり、全部で証書は四部あった。
激しく混乱した。安さんは自宅アパートの部屋で首を吊ったのだ。それを発見したのはこの俺だ。安さんは死んでいた。安藤士郎は死んだのだ。彼にはもう保険など必要ない。
昔の証書なのか? いやしかし、安さんは俺に事後の処理を託して死んだのである。死亡保険金が娘に行くよう事務手続きをしてくれと。安さんの自殺の理由はまさにそれだったのだ。経済的に困っている娘を助けたくて自殺したのだ。したがって、遺書と一緒にあった保険以外にも加入していたものがあったのなら、同時にその処理も俺に託したはずではないか。
大昔に加入したもので、本人も忘れていたのか? そう思い、手元の証書の契約日を確かめてみるが、いずれも最近の契約である。最近も最近、今年の十月に行なわれている。今月だ。
死んだ人間に保険をかけてどうなる。というより、そもそも死者に保険はかけられない。混乱に拍車がかかる。
と、俺は大切なことを思い出した。ここはどこだ?
蓬莱倶楽部だ。死亡保険金目当てに久高隆一郎を殺したとされる蓬莱倶楽部。その事務所に安藤士郎の保険証書がある。
一年前の安さんの死にも蓬莱倶楽部が関与しているのか? あれは実は自殺ではなかったのか?
蓬莱倶楽部
[#地付き]保険金詐欺
久高隆一郎
東京都港区白金
[#地付き]安藤士郎
保険証書
[#地付き]平成十四年十月
羽田倉庫管理
――思考の断片が脳裏に浮かんでは消える。
羽田倉庫管理!?
俺は死亡保険金の受取人欄を探す。安藤士郎にかけられたこれらの保険も法人契約で、受取人は羽田倉庫管理になっているのか? もしそうだったら、久高隆一郎の保険金殺人を間接的に証明できる――。
「あ!?」
この時の衝撃をどう表現すればいいだろう。
驚き、混乱、困惑、放心、恐慌、眩暈――すべてのものが津波となって俺を呑み込んだ。
頭の整理を図る間もなく、第二波の衝撃が襲ってきた。
「泥棒は静かにやるものだぞ」
闇の向こうから声が響いた。
頭上に閃光が走った。二、三度稲妻のように瞬き、部屋全体がまばゆい白光に包まれた。
額に手をかざして目を凝らす。天井の蛍光灯が点灯している。
「自分から死にに来るとはおめでたいやつだ」
衝立と肩を組むようにして村越が立っていた。
25
「ようこそ、と言いたいところだが、せっかくの休日をだいなしにされて、私はかなり怒っているよ」
村越の後ろから男が出てきた。歳は村越よりだいぶん上、三十半ばくらいで、その年代にしては小柄な体つきをしている。怒っていると言ったものの、村越のような狂犬じみたところはなく、表情も柔らかい。その目元に見憶えがある気がするが、このフロアーのどの席に座っていた誰なのかは思い出せない。
「おら、立てよ。そこはおまえの座るところじゃない」
村越が吠えた。
「まあいいじゃないか。思い出に座らせてやろう」
隣の男が言った。するとこいつが社長の呉田勉なのか? この椅子に座っていたのを見た憶えはないのだが。
「あのう」
女の声がした。
「ああ、君たちはもういいよ。ご苦労さま。気をつけてお帰り」
謎の男は首を横に向け、やさしく声をかけた。彼の向く方には堀場嬢とユウちゃんがいた。堀場嬢はうつむいて、ユウちゃんはバイバイと俺に手を振って退場した。
「まだわからないのか。おまえは騙されたんだよ」
村越がくくっと笑った。
「きさまが彼女らに何をどう吹き込んだのかは知らないが、どこの馬の骨かわからない人間の言うことを鵜呑みにすると思ったのか? 思ったんだろうな。だからここにいる。おめでたいやつだぜ、まったく」
堀場香織は俺に説得されたふりをして上司に報告を入れたのだ。着替えると言って部屋に引っ込んだ際に。
「愛社精神の強い社員を持って私はしあわせだよ。彼女たちには金一封を検討しなければならないな」
隣の男は満足げに尖った顎をなでた。この口振りから判断すると、やはり社長の呉田勉のようだ。
「そうか、先生役か」
俺は気づいた。
「今日は眼鏡と白衣がないからわからなかったよ」
そう、こいつは医学博士野口英雄を名乗っていた男だ。あれがイコール社長の呉田だったのだ。
「ほう、野口先生を見たことある?」
呉田は前髪を掻きあげた。
「本庄の会場で、ネギをしょってきたはずのカモが俎板《まないた》の上から逃げ出すという事件があっただろう。カップルで」
「さて。毎日あちこち飛び回っているからいちいち憶えてないよ。本庄ねえ」
呉田は首をかしげて鼻の下を掻いた。こっちにとっては映画さながらの大冒険だったのに、こいつにとってはその程度のことなのかと、俺はかなり屈辱的な気分になった。
「社長」
村越がいらだった様子で声をかけた。
「うん、挨拶はこのくらいにしておこうか。さて、いったいおまえは何を目的としているのだ? 二度もおかしなまねをして」
「おかしいのはそっちだろう」
俺は吐き捨てる。
「きさま!」
村越が上着のポケットから手を抜いた。ナイフを握っていた。一時期社会問題になったバタフライナイフだ。呉田はそれを手で制して、
「おまえ、何者? というか、誰に雇われた?」
「神」
「は?」
「神様が俺に言うんだよ、人の世の生き血をすすって不埒な悪行三昧を繰り返す醜い浮世の鬼を退治してこいと」
「桃太郎侍かよっ」
村越がナイフを振りおろした。レターケースの端が大きくえぐれた。
「部長、だめじゃないか、備品を壊しちゃ」
呉田は眉をひそめて、
「久高隆一郎の関係者か?」
「ほう、やっぱりよくご存じのようだな、久高隆一郎を」
俺は呉田を睨みつけた。
「知らないよ、そんなやつ。この間村越に口走っていたらしいから、そう尋ねたまでだ。誰だよ、久高隆一郎って」
「この期に及んでしらを切るとは、一国一城の主のくせに玉の小さな男だな」
「てめえ、自分の立場がわかっていないようだな」
村越がバタフライナイフを閉じたり開いたりする。
「会場に来たことがあるのならわかるだろう。私は毎日ああやってたくさんの人間と会っているわけ。いちいち名前や顔を憶えていられない」
呉田は首をすくめると、上着のポケットからヤスリを取り出して爪を磨きはじめた。
「憶えられないほどたくさん殺しているのか」
「そういうことを言うと、つけが多くなるぞ」
「どうせ俺のことは帰すつもりはないんだろう。だったら話せよ。久高隆一郎をどうした? 南麻布の久高隆一郎だ。思い出せよ」
「殺すぞ!」
ナイフの切っ先が俺の鼻先をかすめた。
「いい度胸してるじゃないか。気に入った。どれ、思い出してみるか」
呉田はニヤリと笑い、爪の先に息を吹きかけた。俺も笑い返した。だが、机に隠れて見えないが、膝から下はさっきからずっとガクガク震えている。
「でも社長、なにもこいつにつきあってやることはないでしょう。質問があるのはこっちのほうなんだから」
村越は俺を睨みつける。
「まあそう焦るな。夜は長い。それに、死刑囚も最後の日には、牧師や坊主のありがたい話を聞かせてもらえる。慈悲の心は大切だ」
「さすが社長、懐が広い」
こうでもしゃべっていないことには恐怖で卒倒しそうだ。さすがに今日はチャーリーズ・エンジェルも助けにきてはくれないだろう。
「久高隆一郎――ああ、あのじいさんか。南麻布の、金持ちの。あれは最高のお得意さまだった。紹介したそばから何でも買ってくれてね。一人で布団を十セットも買ってくれたのは、後にも先にもあいつだけだ。あんまり気前がいいもので、あのじいさんにだけ金の観音様を頒布してやったよ。特注だぞ。ただなあ、こっちは、活性酸素を殺すパワーストーンとか、観音様とお対で据えれば運気が十割増しになる黄金仏とか、魅力的な新商品をいろいろ開発して、末永いつきあいを考えていたのに、あっちが一方的に縁切りを申し立ててきてね。どうやらうちの商品の効能を疑いはじめたようで、それだけならまだ許せるが、訴えるのどうのと物騒なことをぬかしやがった。そう、脅しだよ。じゃあ売られた喧嘩は買うしかないだろう。喧嘩して、お別れだ。で、どうせ別れるなら、手切れ金をいただいておこうかと」
「残念だったな、実際には受け取れなくて」
「今回は仕方ない。今は法人契約しても、以前とは違い、会社が簡単に保険金を受け取れない仕組みになっている。原則として被保険者の法定相続人に支払われるんだな。だから保険金を頂戴したいのなら、法定相続人とつるむ必要があるのだが、今回はそういう細かな仕込みをする時間がなかった。久高のじいさん、今日明日にでも弁護士を呼びそうな勢いだったから。だから今回は、逝ってもらうことを最優先とし、もし審査が甘くて保険金が支払われたらラッキーということにしておいた」
「久高隆一郎を殺したんだな」
俺は確認した。
「久高のじいさんは事故死のはずだが。うちは保険をかけただけ」
呉田が唇の端で笑った。村越は苦虫を潰した顔でナイフを回している。
「『今回』ということは、過去にも同様のことをやったわけだ」
「本当はやりたくないのだけどね。年寄りには高額の保険金をかけられないだろう。効率がたいそう悪いんだよ。そこにある安藤とかいうじいさんの保険も、死亡保険金はたったの四、五百万なんだよなあ」
「じゃあやるな」
「向こうが紳士であれば、こっちも紳士として接するさ。ところがある日突然豹変して、つけを払わなくなったり、金を返せとのたまったり、訴えるぞとぬかしたりする輩がいる。困るんだよねえ、そういうルール違反は。あんた、うちの体験会に来たようだからわかるだろう。うちがいつ押し売りをした。会場はなごやかなものだっただろう。みんな合意のうえで買っているんだよ。大喜びで、ありがとうありがとうと涙まで流して。なのにあとになって文句を言うのは筋違いだ。しかしこっちが正しいことを主張しても向こうさんは聞きやしない。しかも今の世の中はおかしなもので、裁判所もマスコミも、無条件におバカな消費者の味方をしやがる。ちっとはあいつらの責任を問えよ。と文句を言ってもはじまらないので、こちとら自己防衛してるわけ。事が大きくならないうちにお仕置きするしかないでしょう。保険金は迷惑料でもあるのよ」
むしょうに胸が悪くなってきた。
「それに私は社会のことも考えているのだよ」
「社会?」
「年寄りは社会のお荷物なんだよ。最近の年寄りは長生きしすぎ。八十、九十まで生きやがる。社会の役に立つのなら、ヨーダのように九百年生きてもかまわないが、ほとんどのジジババはただの穀潰《ごくつぶ》しだ。国家の財政は逼迫しているというのに、三千万人ものジジババが、お国から年金という名の小遣いを頂戴している。三千万!? おいおい、全人口の四分の一がただメシ食ってんのかよ。すごい国だな、ここは。迷惑なのは若い衆だ。国の金庫がピンチだからといって保険料を引き上げられる。そのくせ将来自分が受け取れる保証もない。だから滞納するやつが増え、ますます保険料が上がる。その一方で、医学は発達し、食生活が向上するものだから、年寄りはますます長生きしやがる。年金受給者が膨れあがり、保険料の引き上げにつながる。ふざけんなってーの。年金だけじゃないぞ。医療費は優遇されている、公共交通機関も無料だったり大幅な割引があったりだ。そうやって何くれとなく補助してやり、それが結果的にこの国を食い潰すんだよ。ジジババの意識にも問題がある。優遇されて当然と思ってやがるからな。シルバーシートの真ん中にふんぞり返り、両脇に荷物を置いているバカもいる。まさに老害だな。与えられるだけ与えられておいて感謝の気持ちを表わさない人間はクソだ。少しは社会貢献を考えろよ。じゃあ年寄りにとっての社会貢献というのは何かというと、そりゃ、とっととあの世に行くことさ。だいたい『余生』なんていうが、余りというからにはなくてもいいものなんだよ。だったら潔く捨てちまえ。だろ?」
こめかみがビリビリうずく。
「そうそう、社会貢献といえば、一つ心暖まる話をしてやろう。わが国の一千四百兆円の個人資産のうち、半分は六十歳以上が保有している。しかもその半分以上が現金と預金だ。どういう意味かわかるか? 老人は、ガッチリ金を抱え込んで使わないんだよ。それが何を意味するかわかるか? 金が回転しなければ景気は絶対に良くなりっこないのよ。逆に言えば、ジジババどもの財布の紐が緩くなれば、こんな不況なんてすぐに解消される。おう、そうとも、うちは景気回復のために一肌脱いでるのよ。ジジババに死に金を使わせ、市場を活性化させている。ああ、なんて社会にやさしい企業なのだろうね、蓬莱倶楽部」
「おまえもいつか年寄りになるんだぞ」
こらえきれず、俺は低く吐き捨てた。
「なるさ。まだまだ先だがな」
「せいぜい暢気に構えていることだ」
「おまえ、アタマ悪いなあ」
呉田は笑って爪を研ぐ。
「どこが暢気だよ。若い今のうちにこうしていっしょうけんめい働いて、コツコツ蓄えを作ってるんじゃないか。で、こんな沈没寸前の国とはおさらばだ。おまえ、知ってるか? 二〇二五年にはな、男の平均寿命は八十四、女はなんと、九十になるんだってよ。そしてその時には、介護や年金の社会保障費は百七十兆円にものぼり、国民負担率は五〇パーセント近くになる。日本は間違いなく沈没するよ。私は沈む前に脱出するけどね。老後は、そうさな、南の島かオーストラリアで、釣りでもしながらのんびり暮らすよ。最近人気急上昇中のスペインでもいい」
と左右の耳の横で手を叩き合わせる。フラメンコのまねをしているのか。
下っ腹から熱いものが込みあげてくる。
俺は大きく息を吸い込んだ。爆発しそうな感情を抑えつけ、息をゆっくりと吐き出しながら言う。
「おまえたちは一つミスを犯している。たった一つだが、致命的なミスだ。先日、おまえは俺を縛りあげたよな」
と村越を顎で示す。
「いいかげんにしとけよ。社長と違って俺は短気だぞ」
村越がナイフを回した。
「あのときおまえが俺を縛った理由は、そっちが一人でこっちが二人と、人数で負けていたからだ。ところが今日は、そっちは二人、こっちは一人。最初は女子社員もいたから四人対一人だった。だから拘束するまでもないと高をくくっていたのだろう。いや、今も高をくくっている。ナイフもあるしな。だが、おまえたちはとんでもない勘違いをしている。俺のことを外見で判断してるだろう。こんなやつ、赤子の手をひねるようなものだと。何もわかっていない。おまえらはまだ人を見る目のない未熟者だ。もう少し人生を重ねたほうがいい。今日は長袖を着ているからわかりづらいかもしれないが、俺はこう見えても、いわゆる『脱いだらすごいんです』というやつだ」
俺は言葉を止め、呉田と村越を交互に見た。足の震えはとっくに止まっている。
「じゃあ脱いでみろよ」
村越がナイフを突き出したその時。
「つまり、こういうことだ」
俺は椅子を後ろに蹴って立ちあがった。腰は伸ばさず、膝を九十度に折り、両手は肩幅よりやや広く構え、掌を机の縁に押し当てる。そして渾身の力を込める。相撲の筈押しの要領で机を前に押す。電車道で一気に押し出す。
机は前方に立つ二人の男をなぎ倒した。彼らは奇妙な声をあげ、腰が砕け、その場に崩れ落ちた。
なお力を緩めず前進を続けると、机はくるりと向こう側に回転し、呉田と村越の上にひっくり返った。男どもはうめき声をあげる。
俺は机の腹を踏み越し、フロアーを横切って出口に向かった。
そうだ、俺は脱いだらすごいのだ。セックスのためだけに鍛えていると思ったら大間違いだ。
FUCK YOU!
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廊下に出ると、ドアを閉め、向かいに並んだロッカーの端に指をかけ、全体重を乗せて引きずり倒した。つっかい棒のようにしてドアを封鎖する。これで少しは時間を稼げるだろう。
エレベーターに乗り込むなり携帯電話を取り出した。
まずは久高愛子にかける。出てくるまでに二十回の呼び出しを要し、その間に一階まで到着した。
「寝てた? すまない」
「ああ、うん……」
「俺だ。わかるか? 成瀬だ」
ビルを出てコインパーキングに急ぐ。
「ああ、成瀬さん」
「遅くにすまない。だが、緊急事態なんだ」
「緊急事態?」
「そっちに蓬莱倶楽部の人間が押しかけるかもしれない」
「え?」
目が覚めたようだ。
「電話の可能性もある。で、俺らしき人間のことをあれこれ尋ねてくる。しかし知らないふりをとおしてもらいたい。とくにうちの住所は絶対に明かさないでほしい。相手は、蓬莱倶楽部の名前は伏せ、警察や役所を騙るかもしれないから注意して」
「いったいどういうことなのです?」
「それから、へたしたら、力ずくで聞き出そうと、愛ちゃんや君の家族を危険な目に遭わせるかもしれない」
「え!?」
「だから誰が訪ねてきても中に入れるな。今すぐ戸締まりをチェックしろ。二階だからといって窓を開けとくな」
「どういうことなんです? どういうこと?」
愛子はパニックに陥っている。
「詳しく説明している時間がない。とにかく今晩は充分注意して。お宅は警備会社と契約しているようだからだいじょうぶだとは思うが、決して気は抜かないで」
「成瀬さんは? 成瀬さんはだいじょうぶなの?」
「俺はぴんぴんしてる。ただ、やつらに住所を知られたら厄介なことになるから、それだけは食い止めたくて、それで電話した。あと少しだけ時間が欲しいんだ。明日になったらすべてが終わる。何もかも」
俺はぎりりと歯を噛みしめた。
「すると、調べがついたのですね?」
「ああ」
「うちのおじいさんは蓬莱倶楽部に?」
俺はしばし言いよどんだのち、
「そうだ」
と伝えた。
「やはりそうでしたか……」
「あらためて言っておく。くれぐれも軽はずみな行動は慎むんだぞ。とにかく今晩は気をつけて」
通話を終えたらちょうどコインパーキングに到着した。赤いミニが一台置いてあるきりだ。人の気配も感じられない。呉田もここまでは手を回していなかったようだ。
精算機にチケットとコインを投入し、車を出す。ハンドルを切り終えると、道路交通法違反を承知で携帯電話をかけた。
「はーい」
能天気な少女が出た。
「美波か?」
「美波だ」
「綾乃は?」
「綾乃は風呂だ」
「じゃあ、今から言うことをよく聞いて」
「おう」
「戸締まりを確認してくれ」
「押忍《オス》」
「玄関にはチェーンもかけるんだぞ」
「はいよ」
「誰かが訪ねてきても絶対にドアを開けるな」
「まかしとき」
「綾乃には、お客さんを連れていくと伝えといてくれ」
「了解」
電話を切り、また違う番号にかける。
「はい、こんばんは」
さくらはすぐに出た。
「今どこだ?」
「うちよ」
「電話線を抜け」
「え?」
「いいから電話線を抜け」
「どうして?」
「説明はあとだ。早く抜け」
二十秒ほど間を置いて、さくらの声が戻ってきた。
「抜いたわ。どういうことなの?」
「じゃあ出てこい」
「は?」
「今からデートだ」
「え? いま何時だと思ってるのよ」
「十時半。電車はまだある」
「冗談よね?」
さくらは笑っている。
「本気だ。早く。そのまま靴を履いて出ろよ」
「パジャマで出られるわけないでしょう」
「じゃあすぐに着替えろ。そうだな、待ち合わせは渋谷あたりにするか。109の前で落ち合おう。俺は車で行く。なんなら、そっちもタクシーで来い。金は出してやる」
「急に言われても……。それに、まず電話線の説明をしてちょうだい」
「そんなのあとだ」
「さっきは、あとで説明すると言ったじゃない」
「もっとあとだ。会ったら話す」
「いったい何なの!? あなたはいつもそう! 唐突に――」
「言うことを聞け!」
俺は村越のように吠えて女の癇癪《かんしやく》をさえぎった。
「出てきたら、一から十まで説明する。二十でも百でも話してやる」
「わかったわよ」
さくらはぶすっとした調子で応じた。
「それから、この通話が終わったらすぐにケータイの電源を落とせ。マナーモードにするんじゃないぞ。電源を切るんだ。絶対だぞ」
「もー、何なのよー」
「返事は? ケータイの電源を切れ」
「わかりました」
さくらは長い溜め息をついた。
27
車は大通りを離れ、静かな住宅街を行く。角を折れるごとに道は細くなり、街灯もまばらになる。
車はやがて減速し、いったん停まったあと、一軒の家の車庫にバックで入った。
「お疲れさま」
俺はエンジンを切り、キーを抜いた。
「どこ?」
さくらは窓の外に目を凝らす。俺は答えず、車を降りる。
「まただんまりなのね」
さくらは唇を尖らせて外に出てくる。
俺は敷石づたいにその家の玄関に向かう。といっても、五、六歩で達してしまうほど短いアプローチだ。庭も、どうにか物干し台を置ける程度の広さしかない。
その狭い庭に面して窓が二ヵ所ある。いずれにも雨戸が立てられているが、奥の方の雨戸の隙間からは明かりが漏れている。
俺は玄関ドアの横のチャイムを押した。
「誰?」
中から若い女の声がした。
「俺だ」
「名を名乗れ」
「成瀬将虎」
「誕生日は?」
「十二月十六日」
「血液型」
「O」
「最終学歴」
「東京都立青山高校卒」
「オーケー。認識終了。ピピーッ」
シリンダー錠が回る音がし、チェーンが外れる音がし、ドアがこちら側に開いた。
「ちゃんと用心してたな」
俺は中に入り、美波の頭を撫でた。
「歳上ぶらないでくれる?」
美波は顔の片側をしかめた。
「ジャニーズの運動会はどうだった?」
俺は靴を脱ぐ。
「すばる最高」
「キムタクは?」
「SMAPなんて出っこないじゃん」
「ジャニーズ事務所を辞めたのか?」
「違うよ。大物すぎて出ないんだよ」
「ふーん、そんなものか。ああ、これは、親戚の時田美波」
美波をさくらに紹介する。
「はじめまして」
美波は膝の前で手を重ねて頭を下げる。見かけによらず礼儀正しい。
「こっちは麻宮さくらさん」
「こ、こんばんは」
さくらは面食らった様子で会釈する。
「どうぞ、おあがりください」
美波がスリッパを出す。俺は玄関脇の部屋に入り、電気を点けた。
「綾乃は?」
「コンビニ」
「だめじゃないか、外に出しちゃ。戸締まりをしっかりしろと言っただろう」
「出かけるなとは言わなかったよ」
「いやまあそうだけど……」
「お客さんが来るというから、買い物に行ったんだよ」
美波はぷいと顔をそむけてドアを閉めた。俺は溜め息をついて、
「座って」
と、さくらを手招く。さくらは部屋の中をきょろきょろ見回しながらソファーに腰を降ろした。座ったあとも、六号の油彩、マイセンのイヤープレート、古い文学全集が詰まった本棚と、視線をめまぐるしく動かす。
「訊きたいことがあれば、どうぞ。今日は何でも答えるぞ」
俺はタバコをくわえた。
「ええと、それは……」
さくらは非常に混乱している様子である。
「じゃあまず、電話線を抜けと命令した理由でも話すか」
「そんなことより、さっき変なことを言いませんでした?」
「いつ?」
「ついさっき。玄関の外で」
「べつに当たり前のことしか言っていないが」
「成瀬なんとかと言わなかった?」
「言ったよ。成瀬将虎」
「それって……」
「俺の名前だけど、それが?」
「俺の名前って、成瀬って……。あなたは安藤でしょう、安藤士郎」
28
「違うよ。俺は成瀬。成瀬将虎」
さくらの目はこぼれ落ちそうなほど見開かれている。
「あなたは、安藤士郎、ではない?」
「違うよ。俺は成瀬将虎」
「でも、あなたは、あたしに、安藤だと……」
「いつ言った? そっちが勝手に安藤士郎だと思い込んだだけだろう。広尾の駅員に聞いて」
「そ――」
とだけ言って、さくらの口の動きが止まった。何か言いたいことがあるようなのだが、下唇がぴくぴくと痙攣《けいれん》するだけで言葉にならない。
俺はためしに、黙って推移を見守ることにした。タバコを喫い終わっても、さくらは固まったまま動かない。
チャイムが鳴った。廊下を駆ける音がして、続いて玄関が開く音がした。綾乃が帰ってきたらしい。
「戸締まりがどうのって、いったい何なの?」
応接間のドアが乱暴に開いた。
「不審者に注意しろということだ」
「きちんと説明してくれないとわからないでしょう」
綾乃は頬を膨らませる。
「そのくらい察しろよ。なのに出かけやがって」
「お客さんを連れてくるというからよ。お出しするものが何もなかったの」
「べつにかまわなくていい」
「トラちゃんはかまわなくても、わたしがかまうのよ。あらー、いらっしゃい。むさくるしいところですけど、どうぞごゆっくり」
綾乃は客人に愛嬌を振りまくと、ドアを閉めて出ていく。
「妹」
俺は説明するが、さくらは無反応である。死んだ魚のような目をしている。
「一緒に住んでいるとは言ってなかったよな。隠していたわけではないのだが、なりゆきで話しそびれた」
「ひかり荘は?」
さくらはぼんやりと言った。
「あそこは安藤士郎の部屋。家賃は俺が出しているので俺の部屋ともいえるわけだが。しかし俺の本当の家はここ、港区白金台三―×―×」
「あなたは、安藤士郎、ではない?」
「そうだとさっきから言ってるだろう。俺は成瀬将虎。生まれた時からそうだし、安藤家の入り婿や養子になったおぼえもない。そう、俺はこの家で生まれ、育った。高校を卒業したあと二年ばかり家出していたが、それ以外はずっとここに住んでいる」
「でも、あなたは、あたしに、安藤だと……」
「それもさっき言っただろう。俺は駅員には安藤と名乗ったが、君には一度もそう言ってないぞ。もっとも成瀬とも言っていないが」
「ど――」
とだけ言って、さくらの口の動きが止まった。またそのまま固まってしまうのかと思いきや、数秒の間を置いて、
「どうして嘘をついたの!」
さくらは机を叩いて立ちあがった。顔は蒼ざめ、目と唇の端が般若《はんにや》のように吊りあがっている。
「おいおい、お門違いもはなはだしい。怒るのは俺のほうだろうが。俺は誰かさんに暗殺されかけたんだぞ」
俺は感情を抑えに抑え、にっこり笑ってみせた。さくらはハッと身を引き、視線を俺から外す。
「ゲームは終わったということだ。俺も正体を明かすことだし、そっちも洗いざらいぶちまけてはどうだい、安藤さくらさん。まあ座れよ」
しかしさくらは立ったまま動こうとしない。俺は新しいタバコに火を点けた。
さらにもう一本喫い終えても、依然としてさくらは立ちつくしている。
沈黙を破るきっかけは、今度も綾乃だった。
「どうしたの?」
部屋に入ってくると、突っ立っている客を見て、目を丸くした。
「痔がひどくて座れないらしい」
「トラちゃん、言っていい冗談と悪い冗談があるでしょう。ごめんなさいねー」
綾乃は愛想よく笑いかけるが、さくらは魂の抜けたような表情を崩さない。綾乃は気味が悪くなったのか、やや及び腰でテーブルの上に紅茶とサンドイッチを並べる。
俺はさくらの腕を引いた。
「あらためて紹介しよう。妹の時田綾乃」
「はじめまして。兄がお世話になっています」
綾乃は盆を胸の前に抱いたまま軽く頭を下げる。
「さっきの元気のいいのはこいつの孫だ。連休で長野から遊びにきている」
さくらはぼんやりとうなずいた。
「子供は独立したし、おじいさん、いえ、主人も亡くなったので、実家に戻ってきたんです。年寄りを一人で置いておくのは心配だし」
綾乃は俺を横目で見てくすりと笑った。
「実家というか、今や俺の家だがな」
この家は両親が亡くなったあと俺のものになっている。本来相続するはずだった竜悟は、学徒出陣で出征したまま帰らぬ人となり、繰り上がりで俺が長男になっていた。
「で、こっちは麻宮さくらさん」
と綾乃に紹介して、
「おっと、麻宮は旧姓だな。現在は安藤さくらさん」
「安藤?」
「安さんの奥さん」
「え? 白金の安藤さん? トラちゃんがしょっちゅう飲んでた、あの?」
「そう」
「まあ、いつ結婚なさったの?」
と綾乃が尋ねても、さくらは凍りついたまま答えない。
「ごく最近らしいよ。俺もついさっき知ってびっくり仰天だよ」
蓬莱倶楽部の本部で発見した安藤士郎の生命保険に傷害保険、その死亡保険金の受取人はすべて配偶者である安藤さくらとなっていた。
「それはそれはおめでとうございます。それで、今日は安藤さんは?」
「うん、それなんだが、いい機会だからおまえにも打ち明けておこう」
俺は綾乃を隣の席に招いた。そしてさくらも無理やり座らせると、安さんとの出会いから彼が自殺するまでのことをかいつまんで説明した。
「それ、作り話じゃないわよね」
綾乃は呆然とつぶやいた。安さんの死については今日まで彼女にも黙っていた。
「まぎれもない事実だよ。で、保険の手続きを託されたわけなのだけど、俺はすぐに気づいたよ。保険契約してすぐに自殺したところで死亡保険金はおりないんだよ。契約後一年が経過しないと」
「じゃあ……」
「そうだよ、なんてこった、これでは犬死にじゃないか。俺は呆然として動けなかったよ。死そのものを驚いたり悲しんだりするよりも、命がけの賭が失敗に終わったことがやりきれなくてたまらなかった」
綾乃はうなずき、指先で目尻をぬぐった。一方さくらはというと、幽霊のような表情はいつしか消え、吸い殻が山となった灰皿をじっと睨み据え、唇を噛みしめている。
「ずんぶん長い間、安さんの亡骸《なきがら》と向かい合ってぼんやりしていた。そうするうちに体が熱くなってきてね、怒りというか悔しさというか、頭の中はそんな感情で一杯だ。こんな自殺はなしだよ。もし最初から、ここで首くくったところで一円にもなりゃしないとわかっていたら、安さんは早まったまねはしなかったはずだ。なあ、安さんよ、そうだろう? よし、こうなったら一からやり直しだ。安さんを生き返らせ、千絵ちゃんのために別の選択肢をとってもらおう。今風に言えばリセットだな。しかし生き返らせるとはいっても、今さら救急車を呼んでも手遅れなのは明らかだった。死体呪術師《ネクロマンサー》の知り合いもいない。だから俺が安藤士郎になった。俺が安さんとしてふるまい、彼はまだ生きているように見せかける。すると今までどおり安藤士郎の年金が国から支給されるわけだから、それを俺が千絵ちゃんに仕送りする」
「何ですって!?」
綾乃が目を剥いた。
「要するに年金の不正受給だ」
「要するにじゃないわよ。犯罪じゃないの」
「そんなこと承知のうえさ。だが、そうするしかなかった。でないと安さんは浮かばれない。犬死にさせてたまるかってんだ。何か、こう、臍下丹田《せいかたんでん》から熱いものが湧き出てくるような感じでさ、俺は安さんの代わりを務めることを強く決意した」
「決意しただけでなく、まさか実行したんじゃないでしょうね。いや、トラちゃんならやるわ、ヤクザに入門するような人なんだし……」
綾乃はああと溜め息をつき、額に手を当てた。
「決意は熱かったが、そこからは冷静に頭を働かせた。他人になりすますと言うは易いが、実際に行なうにあたってはいくつもの障害がある。一番の問題が死体だ。山に埋めたり海に沈めたりするのは、安さんをないがしろにするようで気が引ける。役所に死亡届を出せないので火葬場には持っていけない。ひかり荘の部屋に放置しておくわけには、もちろんいかない。となると結局、気が引けるにしても、人目のつかないどこかに棄てるしかないのか。
と、俺は安さんの言葉を思い出した。彼の田舎は土葬だったではないか。もしも今なおその風習が残っていたら、彼の亡骸は故郷の墓地に埋葬してやればいい。早速調べてみたところはたして、安さんの生まれ故郷である茨城のその地域では、現在でも土葬が行なわれていた」
誤解している現代人が多いが、日本では火葬が義務づけられているわけではない。都市部では土葬が条例で禁じられていることが多い。しかし禁止条例がない自治体においては、墓地管理者が納得した場合、あるいは私有地に墓地がある場合、土葬をしてもかまわないのだ。地方に行けば、まだいくらか見かけることができる。
「俺は車で安さんの死体を茨城の山の中まで運び、墓場を掘り起こして埋葬した。正式な手続きは踏んでいないし、坊主も呼んでいないのだから、罰当たりには変わりない。ただ、適当な場所に棄てるのでなく、墓に埋めることができ、罪悪感がかなり薄らいだ。しかもそこは故人の生まれ故郷だったわけだしね。安さんも許してくれたと思うよ。だって、彼の望みは、自分が手厚く弔われることではなく、娘のしあわせだもの。そのために自殺したのだから、普通とは少々違った形で送られても文句は言わないよ」
それは強がりだ。あれから一年が経った今でも、安さんを埋葬した時のことを夢の中で回想している。俺には罪の意識が強くある。法を犯したことを気に病んでいるのが二割、きちんと弔ってやれず、安さんに申し訳ないと思う気持ちが八割。
「死体の処理の次に考えなければならないのが対人関係だ。安さんの知り合いに対して、死んだことをどう隠す? 親兄弟や親戚とは何十年も音信不通だったので、そのまま放っておけばいい。シルバー人材センターの仕事は、自殺を前にきちんと辞めてくれていたので、これも気にする必要はなさそうだ。娘に仕送りをすると決めて以来、人づきあいをなくし、なじみの飲み屋からも遠ざかっていたので、この先友人知人を避け続けても不自然には思われないのではないか。つまり、とくに何もしなくてもバレそうにないのだね。
ただ、アパートについては配慮が必要だと思った。隣人とのつきあいはなかったと思うよ。そういうご時世でもあるし、安さんとほかの住人とでは歳が全然違うからね。でも、三号室は高齢者の独り暮らしだとは、みな知っていただろう。その部屋に何日も何週間も人の気配がないようだと、じいさん死んでいるのではと思われてしまう。
そこで、俺が安藤士郎としてあの部屋に住むことにした。週に何度か通って、テレビの音や笑い声を隣人に聞かせ、部屋の明かりが灯っているのを見せるわけだ。するとたまに玄関や廊下で隣人と出くわすことがあるかもしれないが、まったく気にすることはない。われわれ年寄りが若者の顔の見分けがつかないように、若者の目には、年寄りなんてみんな同じ顔に映るものさ。
大家については心配ない。家賃は振込だから、顔を合わせずにすむ。年金の受け取りも振込だ。顔写真つきの身分証明書も存在しないので、実物と写真の違いを疑わしく思われることもない。パスポートはそもそも持っていなかったようだし、免許証は自主返納している。身分の証明が必要な場合は、顔写真がついていない健康保険証を使えばいい。
問題はほかに? ないだろう。十年も二十年も安さんのふりをしようというのではないんだ。期間は、千絵ちゃんが成人するまでのおよそ二年。その程度なら世間を騙しおおせると思った。実際、この一年間、誰にも怪しまれなかった。安藤士郎は今も存命しており、ふた月に一度振り込まれる年金を娘に仕送りし続けている」
家賃の三万円と光熱費は引いているが、残りはすべて千絵ちゃんに送っている。手間賃を取るようなケチなまねはしていない。三越湯の入浴料四百円も風呂あがりにアパートで飲む缶ビールも自腹だ。光熱費はほとんど基本料金ですんでいるので、ひと月あたり十万円は確実に仕送りできている。
手間賃は取っていないが、その代わりとして、安藤士郎の名前を利用させてもらっている。ソープランドに予約を入れる時、アダルトビデオを借りる時には、本名は名乗りたくないものだ。成瀬将虎という名前は目立ちすぎる。
もひとつおまけに、安さんの携帯電話も解約せずに使っている。女遊びをするなら複数のケータイがあった方が便利である。怪しそうな女には本当の電話番号を教えたくない。料金は自腹なので、安さんも文句は言うまい。こうしてケータイ2号が生まれた。
「まいったわ」
綾乃は熱に冒されたような顔を緩慢に振った。
「今日まで黙っていて悪かった」
「告白されても困るわよ。悪いことはやめなさいと説教すればいいの? それともわたしにも手伝わそうというの?」
「覚悟はできている。だから告白する気になった」
「覚悟?」
「そろそろ潮時だ。警察に出頭するよ」
さくらの肩がぴくりと動いた。
「刑務所行きじゃない」
「どうだろう。執行猶予ですむかも」
「そういう問題でなくて……、ああ、なんてこと。明日は発表会だというのに……」
綾乃は盆を持って立ちあがった。心なしか足がふらついている。
「おまえには関係ない。捕まるのは俺だ」
「関係あるわよ」
「兄は留置場、妹はフラメンコ。すごいな、絵になるぞ」
「こんな話を聞かされちゃあ踊れないわよ」
綾乃は引きずるような足取りでソファーを離れていったが、ドアノブに手をかけたところで振り返ると、
「ねえ、安藤さんは最近結婚したと言わなかった?」
「入籍したよ、彼女と」
と、さくらを指さす。
「じゃあ、安藤さんが自殺して、そのあとトラちゃんがなりすましているというのは作り話?」
「それも真実」
「それじゃあ……、え? トラちゃんがさくらさんと結婚したの!?」
綾乃は盆を取り落とした。
「それは誤解。どういうことかは後日ゆっくり説明する。悪いが、ここからは二人で話をさせてくれ」
「トラちゃんが結婚したんじゃないのね?」
綾乃はだめを押し、俺がそれにうなずくと、
「ああ、もうダメ。頭が……。ああ、衣装も縫ってしまわないと……。ああ……」
ぶつぶつ繰り返しながら、盆をほったらかして部屋を出ていった。
29
俺は髪を縛り直し、さくらに向き直った。
「だから出会った頃に言っただろう、俺は嘘つきだって。泥棒だとも言ったはずだ。まさにそのとおりだったじゃないか。ん? ということは俺は嘘つきでなくなるな。ワケワカメだな。わけがわからないということを、最近の連中はそう言うよな。美波に言わせればもう死語だそうだが」
と笑ってみせるが、さくらはくすりともしない。
「年金の不正受給に死体遺棄に変死者密葬。そう、俺は犯罪者だ。われながら、ひどいと思うよ。けれど世の中には、俺に輪をかけてひどい人間がいるんだな」
と皮肉を言ってやるが、さくらは怒りもしない。
「俺はさ、あんたを騙すつもりはこれっぽっちもなかったんだよ。広尾駅の駅員は騙すつもりだったよ。本名を教えてあとでめんどうなことになると嫌だと思い、安さんの名前とケータイの番号を教えた。駅員にね。あんたは駅員からそれを聞き出し、俺を安藤士郎だと思い込んだ。俺が意図してあんたに嘘をついたのではないのだよ。あんたが勝手に思い込んだだけさ。その後、訂正しなかったことについては謝る。どう説明していいかわからなかったんだよ。安さんの説明をすれば自然と、犯罪者であることを明かすことになる。普通、そんな告白をされたら引くだろう。警察に駆け込まれても困る。フグを食べたあと、この自宅に連れてこなかったのも、名前を偽ったことを明かす勇気がなかったからだ。だがまあ、今日まで隠していて悪かった。ところがそっちはどうだ。最初から意図して俺を騙した」
「違う」
さくらはうめくようにつぶやいた。
「犯罪に優劣はないと思うが、しかし俺は少なくとも、人の命を奪おうとは考えていない。正義のために法律を犯したという自負もある。対してあんたはどうだ。殺すことを目的として俺に近づいた」
「違う」
さくらは顔をあげ、血の気の退いた唇を震わせる。
「何が違う」
俺は睨み返す。
「最初は違うの。お礼を言いたかっただけで……」
苦しげにかぶりを振る。
「じゃあ、いつ殺意が芽生えたんだよ」
答は返ってこない。俺はふんと鼻を鳴らして、
「あんたにはすっかり騙されたよ。さっき蓬莱倶楽部に行かなければ、今も騙され続けていて、そして明日にはあの世に送られている」
「本部にまた行ったのですか?」
さくらは目をしばたたかせた。
「行ったよ、性懲りもなく。そして性懲りもなく捕まった」
「え?」
「呉田と村越にね。今回はチャーリーズ・エンジェルも来てくれないし、もうだめかと思ったよ」
「だいじょうぶだったのですか?」
「だめだったら、今こんなところにいない」
「…………」
「やつらが俺のことを外見で判断してくれたおかげで九死に一生を得た。年寄りだと思ってなめてかかられるのも、時にはいいものだな」
「無事でよかった……」
さくらは胸に手を当て、長い溜め息を漏らす。
「よかった、だと? よく言うぜ」
俺は片目を閉じてさくらを睨《ね》めつけて、
「ここまで言えば、どうして電話線を抜けと命じたのかわかるだろう。あの二人があんたと連絡を取れないようにするためだ。今晩の本部での出来事をあんたに伝えられたんじゃあ、こうして二人きりで会うこともかなわないからな。ケータイの電源を切れと言ったのも同じことだ。
まあそんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは、悪の総本山でとんでもないものを発見したということだ。どうして蓬莱倶楽部の事務所に、とっくに死んだ安藤士郎の保険証書があるんだよ。昔の証書ならともかく、契約日は今月だ。さらにおかしなことに、保険金の受取人が妻となっている。安さんは独身だぞ。さらに驚いたことに、妻の名前は安藤さくら。さくら? 俺は呆気にとられ、混乱し、そして悟った。バラバラだったジグソーパズルのピースがみるみるはまっていく感じだった。そうか、麻宮さくらは蓬莱倶楽部の手先だったのか」
さくらは肯定も否定もしない。頭を垂れ、ズボンの腿をぎゅっと握りしめている。
俺は灰皿を取りあげ、ゴミ箱の上でひっくり返す。ゴミ箱の縁に何度も叩きつけ、こびりついた灰を力ずくで落とす。
「聞いてください」
さくらが顔をあげた。
「何を」
素っ気なく応じ、タバコに火を点ける。
「本当のことを話します」
「どうぞ」
「かなり長くなりますけど」
「秋の夜は長い」
「あたしの本当の名前は古屋節子です」
彼女はそして、蓬莱倶楽部のせいで多額の借金を抱えてしまったこと、そのカタとして蓬莱倶楽部の手先になったことを告白した。
「麻宮さくらというのは実在の人物です。太子堂の小山荘に住んでいました。今はこの世にいません。蓬莱倶楽部の被害者の一人で、借金を苦に自殺しました」
「どうせまた、自殺に見せかけての保険金殺人なんだろう」
階段からの突き落とし、死亡保険金の横取り、偽装結婚、毒殺――俺はいいかげん胸が悪くなっていた。
「いいえ、本当の自殺です。たしかに蓬莱倶楽部は彼女の保険金殺人を考えていました。ところが保険をかける前に、彼女が自ら首を吊ってしまったのです。蓬莱倶楽部はあてがはずれました。でも、彼らはただでは起きません。麻宮さくらさんは、あんなボロアパートに住んでいましたけど、元公務員で、結構な額の恩給をもらっていたのです」
「今は恩給とは言わない。共済年金」
「さくらさんが生きていた時には蓬莱倶楽部がその年金をかすめ取っていたのですが、死後も継続して頂戴できないかと考えたのです。それであたしに、麻宮さくらさんの代わりを務めろと命じてきました。週に何度か小山荘の二号室に行き、生きている印象をお隣さんに与えたり郵便物を回収したりする。年金が振り込まれたら、引き出して蓬莱倶楽部に持っていく。さくらさんは身寄りのない方だったので、死んだ事実は隠しておけると考えたようです。死体は村越たちが処分しました」
「おい、それって、まるで――」
「はい、あなたと同じです。でも、全然違うともいえます。見た目は似ているけれど、本質がまるで違うから」
たしかに、不正受給の目的がまったく異なっている。
「それにあたし、麻宮さくらであるのと同時に、山内千鶴子であり、小柳邦子でもあります。三人かけ持ちで年金の不正受給をさせられているのです」
これで一つ合点がいった。フグを食べた帰りに家まで送ろうとしたところ、異常なまでに遠慮したのは、本当の自宅に来られたのでは麻宮さくらが偽名であると知れてしまうからだ。そこで、たまにしか行かない小山荘に連れていった。
「骨までしゃぶって、さらに骨を砕いて髄まですするのが蓬莱倶楽部のやり方で、あたしはそんなハイエナの手先をもう二年も務めているのです。最低ですね」
古屋節子は頬に手を当て、溜め息をついた。はじめて見せる疲れたような表情だった。だが、彼女に同情している場合ではなかった。彼女の告白はさらに続き、それは俺を打ちのめした。
「――ついに犯行現場を目撃してしまいました。もはや逃避することはできません。あたしはまぎれもなく悪事に手を貸していたのです」
久高隆一郎の轢き逃げにもかかわったというのだ。なんとなく予感めいたものはあったのだが、本人の口から聞かされると、全身に重しがのしかかってくるようであった。
「久高さんの事件のあと地下鉄に飛び込んだのは、罪悪感からではありません。自分に絶望したのです。あの日あたしは、不正受給した三人分の年金を上納するために本部に行き、そこで、この前の仕事は無効だと告げられました。久高さんの死亡保険金が支払われそうにないので、今回は借金は棒引きできないと言われたのです。これでは本当に、ただ人殺しの手伝いをしただけです。自分はいったい何をしているのだろうと思いました。こんな調子では、一生蓬莱倶楽部にいいように使われることでしょう。それが悲しく、情けなく、やるせなく、もう何もかも終わりにしたいと、帰りの地下鉄に飛び込んだのです。ええ、久高さんやご家族に申し訳ないという気持ちからではありません。あたしはそういう身勝手な女なのです」
ヒラキ第三ビルの住所は恵比寿二丁目だが、最寄りの駅は営団地下鉄の広尾である。
「というのは表向きで、実はカモを引っかけるために飛び込んだんじゃないのか? 助けてくれたやつに近づき、金をむしり取ろうという。で、まさに俺というお人好しが食いついてきた」
「まさか。飛び込んだあと誰かに助けられる保証なんてないじゃないですか」
そんなことはわかっている。しかし皮肉の一つでも言ってやらないことには気がすまない。
「しかし、とんだ女を助けてしまったものだな」
俺はソファーの背もたれに両腕を回し、ふんぞり返った。
「やっぱり、あの時に死んでおくべきでしたね。ごめんなさい」
節子は頭を垂れる。
「今さら遅いよ。それで? 死にそこなったから、この好色そうなジジイをカモろうと、気持ちを切り替えたわけだ」
「違います。さっきも言ったように、最初はお礼を言いたかっただけです。本当です」
「最初は」
「……はい」
「騙すつもりはなかった」
「ありませんでした」
「なのに麻宮さくらを騙ったわけだ」
「あれは行きがかり上……、駅での事情聴取で本名を名乗ったらあとでめんどうになると思い、とっさに麻宮さくらの名前を使いました。そのあと訂正する機会を失って、そうするうちに……」
「ほう、俺と一緒か。不正受給の件といい、妙に気が合うな」
俺はふんぞり返ったまま脚を組み直す。
「で? いつから俺のことをカモとして見るようになった。都ホテルで会ってからか? そういやあの時、結婚しているのかとか、玄関先で別れた女は誰かとか、しつこく尋ねてきたな。独身であることがカモの条件だから、それを確かめていたわけだ」
「それは誤解です。あれは、会話が途絶えて気まずい雰囲気だったので、ふと思いついたことを口にしただけです」
節子は胸の前で小さく手を振る。
「俺が蓬莱倶楽部の話を持ち出した時、えらく怒っていたが」
「びっくりしただけで、他意はありません。あの時は本当に純粋な気持ちでお礼が言いたかっただけだし、お礼を言ったら、二度と会うつもりはありませんでした」
思い返せば、交際を始めるよう仕向けたのは、実は俺なのである。
「じゃあ、いつ、何をきっかけに、保険をかけて殺そうと決めた」
「具体的に、いつとも、何がきっかけになったとも言えないのですが……、あなたに助けられてしばらくは、やっぱり死ぬのは怖いと、生きているしあわせを噛みしめていました。けれど時間が経つにつれて、生き続けることの苦しさや無意味さをふたたび実感するようになり、あの安藤という男に自殺を止められなければとあなたを恨めしく思いもし、そんな時、この人を騙してはどうだろうという考えが頭をよぎったのです。それまでは蓬莱倶楽部から与えられた仕事をこなしていただけでした。今度はそうでなく、安藤士郎という男をどうやって騙すか、どうやってお金を奪うかを自分で一から考え、実行する。つまり自分から蓬莱倶楽部に企画を持っていくのです。その代わりに、これを最後に関係を切らせてもらえないかと交渉する」
「立派な悪人になったもんだ」
苦笑すると、節子も力なく笑った。
「なるほど、だから、俺の部屋に来たい来たいと繰り返していたのだな。部屋で殺すために。手料理に毒を盛って、コロリか」
「いいえ。大福を喉に詰まらせて窒息死です。高齢者はよく餅を喉に詰まらせて亡くなるので、そうして死なせればまず疑われないだろうと思いました」
「あんたが考えたのか?」
「はい」
「おそれいったな」
俺は首をすくめる。
「ただ、無理やり食べさせなければならないので、実行はあたし一人では無理です。頃合いを見計らって蓬莱倶楽部の者を呼び寄せる手筈となっていました」
「ところが俺がなかなか部屋にあげてくれなかったと」
「はい」
「しかし、そうやって殺すつもりだったのなら、どうして蓬莱倶楽部の本部で捕まった俺を助けた。あのまま放っておけば、俺は殺されたんじゃないか?」
「それは、その……」
節子はしばし言いよどんで、
「前に、嫉妬して尾行したと言いましたが、それは嘘で、あの日あたしが蓬莱倶楽部に行ったのは、村越との打ち合わせのためです」
「ああ」
「心臓が止まるかと思いました。どうしてあなたがいるんです。しかも縛られている。村越はひどく怒っていて、放っておいたらただならぬ事態になると直感しました」
「だから、どうして放っておかなかったのかと尋ねているんだよ。ただならぬ事態になったらもっけの幸いじゃないか。あらためて殺す手間が省ける」
要領の得ない説明に、俺はややいらついた。
「それは……」
節子はまた言いよどんで、
「あの時点ではまだ保険契約がすんでいませんでした」
「なるほど。なのに殺されてしまったのでは死亡保険金が手に入らず、手柄にはならない」
「それと……、いえ、そういうことです」
節子は首を振る。
「何だよ、さっきから。はっきり言えよ」
「たいしたことじゃないので……」
「この期に及んで隠してもしょうがないだろう」
そううながしても、節子はうつむいて泣きぼくろを掻くばかりだ。
だが、せっつくのをやめて待っていると、やがてぽつりと漏らした。
「あなたのことを好きになってしまった」
「はい?」
よく聞こえず、俺は眉をひそめた。すると節子は顔を上げて、
「ただのカモだったはずなのに、気がついたらあなたのことを好きだと思う自分もいて、だから、死んだら悲しいから、助けなければならないと……」
そこまで早口でまくしたてると、言葉尻を濁して顔を伏せた。
「好きだ? 助けたあと、保険をかけたのに?」
「だから、自分で自分がわからない」
節子は両耳を覆い、激しくかぶりを振った。
俺は沈黙した。似ていると思った。俺も、この女に殺されかけて憤っている一方、心のどこかで、こいつのことを気にかけている。
しばらくして、節子が口を開いた。
「本部から脱出したあと、ひかり荘の部屋に行きましたよね」
「行ったね」
「そこであなたに打ち明けられ、全身の血が退きました」
「何を言ったっけ」
「蓬莱倶楽部の内偵をしていると。それも、あの久高さんの奥さんに頼まれて」
「ああ」
「それを聞き、この男を二度と本部に行かせてはならないと思いました。また行って書類をあさられたらどうなります。いいえ、口で止めるだけでは不充分、この男はとっとと始末しなければならないと思いました。いま殺しておかないと、蓬莱倶楽部とあたしの関係を嗅ぎつけられてしまう」
抑揚のない声に背筋が冷えた。
「だから、盗み出した保険証を使って、早速準備に取りかかりました」
「保険証?」
「実は探偵をしているのだと打ち明ける前、あなたはトイレに立ちました」
「そうだったっけ」
「その隙に健康保険証を探し出し、家に持ち帰りました。正確には安藤士郎さんのですけど」
「気づかなかった」
安藤士郎の健康保険証は普段使うことはない。腰骨を亀裂骨折した時も成瀬将虎の保険証で病院にかかった。
「あなたの部屋に行きたかったのは、最終的には殺すためでしたが、それ以前に保険証をいただきたかった。健康保険証を盗んだのは保険契約のためです。健康保険証があれば正確な住所と生年月日がわかるので、まずは区役所に行って住民票を取ります。住民票には本籍が記載されているので、これを婚姻届に書き込み、麻宮さくらさんと入籍させます。その後、安藤さくらを死亡保険金の受取人とした生命保険や傷害保険をかける」
先日この女が、嘘の誕生日を教えただろうと憤慨したのは、安さんの保険証を見たからなのだ。都ホテルで会ったとき俺は、十二月が誕生日だと漏らした。それはまぎれもない真実なのだが、しかし保険証には五月十四日生まれとある。どちらが正しいか判断を迫られれば、普通、保険証を信じるだろう。
「保険証を盗んだのにはもう一つ理由があって、住所と生年月日が知りたいだけなら、部屋でメモしていけばいい。あえて盗み出したのは借金をしてもらうためです。サラ金をはしごし、借りられるだけ借りました。もうそろそろ、白金のアパートに山のように督促状が届くと思います」
「そこまでしたか。まさにハイエナだな」
怒りを通り越し、あきれた。
「蓬莱倶楽部のやり方を、知らず知らずのうちに身につけてしまいました。ところが……」
節子はそこで言葉を噛み、でも、でも、と何度も繰り返したのち、
「でも、やっぱりあなたのことが気になる。一人でいる時には、そうやって着々と計画を進行させているというのに、会ったり電話したりしている時には、もうじき殺す人であることなどすっかり忘れている。他愛もないおしゃべりなんかしていると、とても楽しい。でも、好意を寄せている場合ではないのです。一日も早く殺してしまわなければ、こっちの命取りとなる。けれど、あなたの声を聞いてしまうと、踏ん切りがつかない。もう一度デートしてからにしようと、決行を一日延ばしにする毎日。その一方で蓬莱倶楽部の村越には、これで準備万端ですなどと笑って保険証書を渡している。いったいあたしという人間はどうなっているのでしょう。いいですか、あたしは本当にあなたを殺そうとしたのですよ。いえ、事実上、もう決行したのです。たまたまめぐりあわせがよかっただけで、先週の日曜日、あなたは大福を喉に詰まらせて死んだはずなのです。あたしに殺されたのです。それなのにあなたって人は、借金のことはまかせろなんて言うし、あたし、もう、どうしていいかわからない……」
節子は頭を抱え、いつまでも首を振り続ける。
30
息苦しいのはタバコの煙が充満しているからではない。目の前の女が黙り込んでしまったからだ。どうしていいかわからないとは、こっちの台詞だ。
二階から低いモーター音が聞こえる。何秒か鳴り続け、しばらくやみ、また鳴り、それを繰り返す。綾乃はまだミシンを踏んでいるらしい。
長い沈黙ののち、節子がぽつりと言った。
「それで?」
「それで?」
俺は復唱した。
「これからどうするの?」
「寝る」
いつの間にやら午前三時である。
「起きたら?」
「高輪署に行く」
「逮捕されるわよ、あなたも」
「前科者にはなりたかないが、仕方ない。これ以上蓬莱倶楽部を野放しにしておけないし、愛ちゃんの暴走も止めなきゃ。ま、ブタ箱に入れられるのも人生経験と、前向きに考えるよ」
「愛ちゃん?」
「久高隆一郎未亡人」
「…………」
「彼女は自爆テロを計画している」
「え?」
「呉田や村越と刺し違えようとしている」
隆一郎殺しへの蓬莱倶楽部の関与が決定的となったら警察に全面協力する――愛子のその言葉は真っ赤な嘘である。
隆一郎殺しへの蓬莱倶楽部の関与が決定的となったら、隆一郎殺しにかかわった蓬莱倶楽部の人間を、自分の手で殺す――真実はこっちだ。
隆一郎の息子は、家や会社を守るために、父親の失態を公にしたくないのだという。だからとりあえず、蓬莱倶楽部や怪しい保険契約については警察に黙っている。これは事実なのだろう。
しかし愛子の思惑は別のところにあった。警察に先んじて真相をあばき、夫の敵を討とうとしているのだ。自ら犯人を殺すことで。
ではなぜ当局に裁きを任せないのかというと、それは愛子が高齢者だからだ。
蓬莱倶楽部は保険金殺人を実行するような集団だ。逮捕されれば余罪も多く出てくるだろう。すると裁判は長引き、はたして高齢である自分が生きている間に判決が出るか不安である。控訴や上告が行なわれればなおさらである。また、最高裁で刑が確定するまで命が持ったとしても、被告が極刑に処されるとはかぎらない。
愛子はだから、自分で処刑を実行しようと考えた。十代、二十代であれば、そんな無謀は決して考えなかったことだろう。自分の将来はもういらないと思えるような年齢だからこそ、大胆な行動に打って出たのだ。
激情にかられたのではない。冷静な復讐である。激情によるものなら、とっくに庖丁を片手に笹塚の林田ビルに乗り込んでいる。乗り込んでみたものの、そこはただの倉庫でしかなく、敵討ちは失敗に終わっている。
蓬莱倶楽部は疑わしいが、犯人であるとはとても言い切れない。犯人でない者を殺しても敵討ちにはならないし、誤爆を受けた人間に申し訳が立たない。愛子はだから俺に内偵を依頼したのだ。蓬莱倶楽部の正体を見極めて、そのうえで行動に出ようと思った。いや、今も思っており、俺の報告を待ちこがれている。
俺はそんな気がしてならない。
愛子はそれだけ夫を愛していたのだ。残念ながら、キヨシが入り込む余地はないかもしれない。
「だが俺は愛ちゃんにそんなまねはさせないよ。本懐を遂げられれば、あとはどうなろうと彼女はかまわないのかもしれないが、しかし呉田にかすり傷一つ負わせられず、返り討ちに遭ってしまう可能性のほうが高い。聖心出のお嬢さま、お屋敷住まいの奥さまに何ができる。炊事もお手伝いさんにまかせきりで、庖丁だってろくに握ったことがないんだぞ。無意味な血を流させないためには、蓬莱倶楽部のやつらを警察に渡すしかないだろう」
「じゃあ、どうしても警察に行くのね」
節子は溜め息をつく。
「行く。犬死には安さん一人で充分だ」
「正義感が強いのね」
「それは誉め言葉と受け取っていいのかな」
「警察に行けば、あなたも逮捕されることになるけど」
「覚悟しているとさっき言っただろう。妹にも宣言した」
「そう……。まああなたは軽い罪だからいいわよね。年金の不正受給と死体遺棄。あたしとは重さが全然違う」
節子は力なくかぶりを振る。
「わが身がかわいいのか。自分が捕まりたくないから、俺を警察に行かせたくない」
「あたりまえでしょう。刑務所に入りたい人間がどこにいるのよ。ましてこんな歳になってから」
節子は顔をゆがめる。
「警察に出頭するのはあんたのためでもあるのだがね」
「更生させようっていうの? 今さらなによ」
「違うよ。このままだと殺されるから、警察に保護を求めるんだ」
「殺される?」
節子はきょとんと自分の顔を指さした。
「そろそろ用済みだ」
「何言ってるの。あたしが手伝ったことで、蓬莱倶楽部にどれだけの大金が落ちたと思ってるの。あたしがいなくなって困るのは彼らよ」
「あんたの代わりなんていくらでもいる。それにあんたは知りすぎた。案外、もう生命保険をかけられているかもしれないぞ」
俺は軽く笑ってみせた。
「嘘」
「そういうことを平気で行なうのが悪の組織だ。仲間だから安全だなどとはゆめゆめ思わないことだ」
「嘘よ……」
「いいかげん、羽を休めたらどうだ。他人の意志で動かされるのは疲れるだろう。顔を二つも三つも使い分けるのも。俺もこの一年、一人二役をやってへとへとだ。楽になろうぜ、お互い」
前に腕を伸ばし、女の肩をやさしく叩く。
「だから、あなたは罪が軽いからいいけど……。この歳で刑務所なんかに入ったら、人生、もうおしまいだわ。こんなことなら、あのとき死んでおけばよかった。やっぱりあなたを恨もうかしら」
節子は頭を抱える。
「ご自由に」
「恨んでも浮かばれないわよね。だったら死んだほうがましだわ」
「泣き言が通用しなかったら、今度は脅しか」
手のかかる女だ。
「脅しじゃないわ。あなたはやったことがないからわからないでしょうけど、自殺なんてね、その気になれば簡単なの。なんなら、ここでやってみせましょうか」
節子は自分の首を両手で掴む。
「二人の息子が悲しむぞ」
「悲しむもんですか。もう母親なんか、いてもいなくてもどうでもいい歳よ。むしろ、こんな厄介者はいなくなったほうがせいせいするわ。子孝行のためにも、あたしなんて死んだほうがいいのよ。そうよ、いま死んでおけば、この先二度と迷惑をかけずにすむ」
首を掴んだまま、頭を左右に振る。
「俺はせいせいしないが」
「あなたは関係ないでしょう」
「あんたが死ぬと俺が悲しむ」
節子は頭の動きを止め、首から手を放した。
「好きなやつが死んじまうと、胸がズタズタに張り裂け、その穴は一年やそこらじゃ塞がらない。それが愛した女だとなおさらだ」
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成瀬将虎、二十歳の挫折
葬儀当日の朝のことである。池袋の自宅を南部が訪ねたところ、中で木暮明里が首を吊っていた。
南部が明里の家を訪ねたのは、高輪の寺に連れてくるためだ。葬儀に参列させ、棺の中も覗かせ、その時の反応によって白黒を判断しようとしたのだ。きわめて前近代的な方法ではあるが、近代的な警察も案外印象に頼って犯人を探すものである。
ところがリトマス試験紙にかける前に容疑者が死んでしまった。かたわらには「ごめんなさい」という走り書きの遺書があったという。良心の呵責《かしやく》に耐えかねて自ら命を絶ったということか。
しかし――あまりに出来すぎだと思った。疑いがかかったとたんに自殺とは、まるで彼女を監視していた何者かに抹殺されたようではないか。やはりこの事件は組織による犯行なのではないか。
戸島会の連中も、この急展開をどう受け止めていいのか戸惑っていたが、ともかく葬儀は予定どおり執り行なわれた。世羅の親兄弟には彼の死を知らせていないため、葬儀に参列したのは戸島会関係者だけである。喪主は戸島修身が務めた。世羅は戸島と親子盃を取り交わしていたので、親が子を送り出した形だ。
僧侶の読経が終わり、最後のお別れの際、京がわっと泣き出し、棺桶の中に上半身を入れて世羅の死体にしがみついた。それは多くの極道の涙をも誘い、嫌疑をまぬがれるための演技だとは、とても思えなかった。
横浜の火葬場へは十台ほど車を連ねて行った。乗用車が足りなかったので、俺のような三下はトラックの荷台である。
京の気がすむまで最後の別れをさせてやったため、出棺が遅れ、火葬場には約束の時間を三十分も回って到着した。ところが前の火葬がまだすんでいなかった。ヤクザは気が短いので、早くしろ早くしろとうるさい。大石に命じられ、俺とケンタが現場の担当者をどやしつけにいかされた。
炉の前には喪服を着た人々の輪ができていた。その間には鉄板が見え、上には白っぽいものがこんもりと載っている。ケンタは、輪からはずれて立っていた一人の男を呼び寄せた。
「もう焼きあがってるじゃないかよ。さっさと骨壺に詰めて交代しろ」
「すみません。骨を食べたいとおっしゃるもので」
グレーの制服を着た職員がぺこぺこ頭を下げた。
「骨?」
「食べる?」
ケンタと俺は顔を見合わせた。
「故人と一緒に生きるということで、焼いた骨を砕いて粉にし、みなさんで食べるのだとか」
「気持ち悪いやつらだな」
「お亡くなりになったのが大変若いお嬢さまだったので、それが無念でならないのでしょう」
「ああして全部食っちまうつもりなのかよ」
「いえ、ほんのひとつまみずつです」
「だったら、とっとと終わらせろ」
「それが、なにしろ、ものがものですから、水を使っても喉を通らない方が何人もいらっしゃいまして、オブラートに包んで飲み込もうと、いま探しにいっているところなのです。なので、今しばらくお待ちください」
「ふざけんなよ。わざわざ買いに行ったのかよ」
「いえ、事務所の救急箱の中にあったかと思うので」
「おまえ、誰を待たせてるのかわかってんのか?」
職員とやりあうケンタを置いて、俺は皆のもとに戻った。そして松永の兄貴を見つけると、そばに寄っていき、耳元でささやいた。
「焼くのは一時中止してもらえないでしょうか」
「何をもめてる?」
「いえ、あちらのことは関係ありません。世羅の兄貴の体を詳しく調べる必要があります」
「体を調べる?」
「知り合いの医者を呼んでください」
「藪から棒に何だよ」
「詳しく説明している時間がありません。まず火葬を止めて、それから医者をここに呼んでください」
俺は小刻みに震えていた。兄貴に意見することに畏縮しているのではない。木枯らしのせいでもない。事件の真相についての、ある恐ろしい想像が芽生えてしまったのだ。
「俺にはそんな権限ねえよ。まず理由を話せ。納得できる理由であれば、上に取り次いでやる」
「ですから、一言では説明できないのです。話している間に火葬が始まってしまいます」
「理由がないことには無理だ。オヤジさんたちが納得しない」
「わかりました」
俺は少しふてくされた調子で言って松永から離れた。そして大股で黒塗りの外車のそばまで寄っていくと、後部座席横の地面に正座をし、声を張りあげた。
「オヤジさん! お願いがあります!」
そのあとのことは憶えていない。気がついたら部屋の中にいた。頬がジンジンするのでさわってみると、掌が血で汚れた。唇の端が切れていた。口の中もひどくしみる。親分に理不尽な要求をし、周りの者から二、三発殴られたのだろう。
しかし必死の訴えは実ったらしい。世羅の棺はいったん会葬者の控室に回され、やがて東京から駆けつけてきた戸島会お抱えの医者によって検死が行なわれた。医師の見立ては、俺が想像したとおりだった。
「死因は覚醒剤の急性中毒による循環器不全です」
「大変残念なことですが、世羅の兄貴はうちの会を裏切りました。クスリの横流しを画策していたのです。クスリの運搬中、何者かに襲われたふりをして大量のクスリを自分の懐にしまい込み、後日それを個人でさばいて一儲けしようとたくらんだのです」
どよめきが部屋に満ちた。
火葬場の控室で、俺は十数人を前にしゃべっている。上座に戸島修身会長が座り、俺はその横に立って、戸島会のおもだった人間に対して謎解きを始めたところだ。さっきとは違った意味で手足が震えている。
「ですが襲撃を受けた時、兄貴は独りでクスリを運んでいたのではありません。今回も、ひと月前も、田辺の兄貴と一緒でした。はい、ですから、二人が一致協力して狂言を行なったのです。互いに殴ったりナイフで傷つけ合ったりして、何者かに襲われたように見せかけた」
「ふざけたことをぬかすな!」
後ろの方でケンタが血相を変えて立ちあがった。
「黙れ」
戸島が低くつぶやいた。
「座れ」
横にいた松永がケンタの腕を強く引く。ケンタは頬を膨らませたりしぼませたりしながら腰を降ろした。どんな話が出てこようと、異議は話がすべて終わってから、という約束で俺はこの場に立たせてもらっている。
「今、盗んだクスリは懐にしまったと言いましたが、服の中に隠したのでは、ちょっとしたはずみで見つかってしまいます。そこで兄貴たちは体の中に隠すことにしました。本当の意味での体の中です。クスリを飲み込み、内臓の中に収めてしまったのです。こうすれば、激しく動いてもぽろりと落ちるようなことがないのはもちろん、身体検査をされても絶対に見つかりっこありません」
組員たちは、事実が一枚めくられていくたびに、唸り声や溜め息を漏らしながら、ちらちらとケンタの方を見やる。ケンタは、誰かと目が合うたびに、ぶるぶると首を横に振る。
部屋には京もいる。隅っこで背中を丸めている。この話を聞いて彼女がどう思うかなど、俺は少しも考えていなかった。俺はただ探偵としての虚栄心を満たしたかった。
「ただし、クスリをそのまま飲み込んだのでは溶けてなくなってしまいます。そこで二人は、クスリをコンドームの中に詰め込んで口を縛り、その腸詰め状のものを丸飲みしたのです」
ボディーパッカーである。世羅の事件が起きた一九五一年当時にはそのような言葉は存在していなかったが、二十一世紀の今日においてはそう称される。海外から禁止薬物を国内に持ち込むためのポピュラーな手口だ。
「三日前も、先月の五日も、クスリは自分を含めた三人で配達していましたが、車を降りて納品先に向かうのは二人で、一人は車に残って金の番をしていました。居残りは交代交代です。この留守役が回ってきた際、世羅と田辺の兄貴は、荷台に移ってクスリをコンドームに詰め、それを何本も飲み込んだのです。したがって、浅草のWや赤坂のSに二人が運んでいった段ボール箱の中は、最初から空っぽだったのです。そして二人は路地の物陰で互いを傷つけ合った。荷台に積んであった段ボール箱についても、すでに中身が抜かれて二人の胃の中に収められていました。ですから、自分が車を離れなくても、荷台の前で立ち番していても、クスリは忽然と消えていたのです」
赤坂の事件の折、世羅が腹を押さえていたのは殴られたからだと解釈していたのだが、あれは多量に飲み込んだ覚醒剤のコンドーム詰めが胃にもたれていたのだろう。浅草の時には、Wに向かう前に幌を切り裂いておいた。
「飲み込んだブツを取り出すのは帰宅してからです。おそらく下剤でも飲んで、強制的に排出したのでしょう」
当時の便所は水洗でないため、普通に排便したのでは、ブツは便壺に落ちてしまう。それでは元も子もないので、床に広げたシートの上、あるいは風呂場で排便する必要があり、だから世羅は京と俺を家から追い出したのだ。そのような大がかりな作業を家人に気づかれずに行なうのは不可能である。
一方、京と俺が出ていった目黒のドヤにはケンタがやってきた。ブツの回収は非常に汚れる作業なので、一ヵ所でやった方が手間が省ける。世羅にしてみれば、後片づけを自分でせず、舎弟に押しつけることもできる。また、ケンタに「預けておいた」クスリもその場で受け取れる。たとえ二人が同量を飲み込んでいたとしても、実際の取り分は半々ではなかったはずだ。身分関係を考えると、世羅が七、八割だったのではないか。
「先月はそれでうまく回収できました。ところが今回は、排出する前に不慮の事故が発生しました。世羅の兄貴の体の中でコンドームが破れてしまったのです。その結果、中の散剤が体の中に大量に溶け出し、内臓から吸収され、急性中毒を引き起こしました」
当時のコンドームは品質が高くなく、穴が空きやすかった。
「先程医者の先生に確認したところ、覚醒剤の急性中毒の症状として、錯乱というのがあるそうです。つまり、ドヤの近所で聞かれた声は、兄貴と誰かの争いではなく、兄貴が一人で苦しみ悶えていたものなのです。部屋の中がめちゃめちゃになっていたのも、兄貴が一人で暴れた結果です」
手の甲や指の小さな傷は暴れた時にできたものだ。
「じゃあなんだ、世羅は錯乱したあげく、自分で腹を刺したのか?」
大石が言った。
「いいえ。死因は心臓です。覚醒剤を多量に取り込むと、心臓の鼓動が異常に速くなり、ついに機能を停止してしまうのです」
「じゃあ腹は……」
「死後刺されたのです。切り開かれたと言ったほうが適切でしょうね」
と俺はケンタのほうに顔を向ける。それに合わせて一同の視線も動く。ケンタは激しくかぶりを振る。
「世羅の兄貴が中毒症状を起こして死んだあと、田辺の兄貴が目黒のドヤにやってきます。田辺の兄貴は驚きますが、こういう稼業なので、警察や救急車を呼ぶようなことはしません。また、うちの事務所にも助けを求めません。なぜといって、世羅の兄貴の体内にはクスリが入っている。このまま死体を処理されてしまったのでは、ブツは灰と化してしまいます。せっかくのお宝をみすみす手放してしまうのはあまりにもったいない。田辺の兄貴はそこで、死体を風呂場に運び、庖丁で腹を切り裂き、腸を破り、中にとどまっていたクスリ詰めのコンドームをすべて取り出しました。そして自分のドヤに帰り、翌日、死体発見の報を受けると、松永の兄貴と一緒に何食わぬ顔をしてやってきたのです」
「ふざけるな! いいかげんなこと言うな! 殺すぞ! 証拠を出せ、証拠を!」
ついにこらえきれなくなったようで、ケンタがわめき散らした。俺はひるまず笑ってみせる。
「そうやってあわてふためくことが証拠です」
「なにをぅ!?」
「いいでしょう、目に見える証拠を出してさしあげましょう」
さらに余裕の態度を見せると、ケンタはビクリと身を引いた。
「松永の兄貴たちと目黒のドヤにやってきた田辺の兄貴は、風呂場の惨状を見て、さもはじめて衝撃を受けたようなふりをするのですが、その際、ある重要な落ち度に気づきました。コンドームです。クスリを取り出したあとのコンドーム。その一つを捨て忘れていたのです。これを見られたら、クスリ泥棒に気づかれてしまうかもしれない。だから田辺の兄貴は証拠隠滅を図りました。気持ちが悪くなったふりをして風呂場にかがみ込み、コンドームを拾いあげると、もうこらえきれないとばかりに便所に走り、証拠の品を便壺に落とした。あれから汲み取りは来ていないので、いま便壺をさらったらコンドームが見つかるはずです。しかるべき方法で調べれば指紋が検出されることでしょう。しかしそこまで手間をかけさせますか? 男の価値は引き際で決まりますよ」
木暮明里を殺したのもケンタである。夜中に寺を抜け出して彼女の家に押しかけ、自殺に見せかけて殺した。殺害に先立って湯呑みを倒し、おまえが倒した火傷したなどと因縁をつけ、明里に「ごめんなさい」と一筆書かせ、それを遺書に見せかけた。
ケンタは安心を得ようと図ったのだ。世羅殺しの犯人が判明すれば、戸島会は犯人探しをやめ、自分もクスリ泥棒が発覚するのではとビクビクせずにすむ。折しも木暮明里に疑いがかかったところなので、こいつを利用してやれと短絡的に犯行に走った。
クスリ泥棒は世羅のほうから持ちかけてきたという。世羅は何も語らなかったそうなのだが、まとまった金を作り、京に楽をさせてやろうとしたのではないか。今となっては真偽の確かめようはないが、俺はそう推測するし、そうであったと信じたい。
ケンタはいっさいを白状し、指を二本ばかり詰められ、死なない程度に殴られたのち、戸島会から絶縁された。同時に戸島会は、関東一円の暴力団組織に、田辺賢太と絶縁した旨の回章を送った。これによりケンタは、ほかの組でヤクザをやっていくこともできなくなった。
八尋組の本間の事件も同じである。本間は松崎と組んで覚醒剤の横流しを図ったのだが、体内でコンドームが破れたため、覚醒剤の急性中毒で死亡した。死体を発見した松崎が、覚醒剤を回収するために本間の腹を切り裂いた。
このような覚醒剤窃盗事件が発生した背景には、この年に制定された覚せい剤取締法が大きくかかわっている。
それ以前、覚醒剤は合法ドラッグであった。それどころか、戦時中は国家が強制的に国民にやらせていた。戦闘意欲と集中力を高めるために航空機搭乗員に配給し、軍需工場では眠気覚ましとして用いられた。新聞雑誌で広告が打たれ、町の薬局で簡単に手に入った。終戦後は軍関係や製薬会社から大量に放出され、ますます民間に浸透する。当時はヒロポンという商品名で呼ばれていたこの薬が、わが国のめざましい復興の一翼を担ったことは間違いない。かつて覚醒剤は、今でいう栄養ドリンク、あるいはサプリメントのような感覚で使われていたのだ。濫用しなければ幻覚や妄想が出ることもない。
ところが覚醒剤は一九四八年に劇薬指定され、一九五〇年には販売や広告や製造が制限され、そして一九五一年六月、覚せい剤取締法が施行。これを境に覚醒剤の闇取引が行なわれるようになり、暴力団組織が流通を握るようになる。法施行当初は販売者に対する規制しかなく、末端での所持や使用を取り締まることができなかったため、依然として多くの民間需要があった。しかし表では手に入れることができないため、自然と価格が釣りあがる。
そのように覚醒剤の価値が高まったことで、世羅や本間の中に、ちょろまかして一儲けしてやろうという気持ちが芽生えたのである。
ヒロポンは散剤のほか、錠剤や注射剤《アンプル》もあった。もし戸島会が扱っていたのがガラス瓶入りの注射剤であったなら、はたして世羅はそれを飲み込んでちょろまかそうとしただろうか。運命とはそういうものだ。
本来の目的を達成したことで、俺は晴れてヤクザから足を洗うことになった。戸島会には、八尋組の組長が直々に事情説明を行なった。スパイを送り込まれたということで戸島会の憤りようはただごとではなかったが、そのスパイが組織の膿《うみ》を取り除いてくれたのだから、八尋組を相手に戦争を仕掛けるようなことはなかった。戸島会と八尋組は手打ちをして一件落着となり、俺も自由の身となった。正式な組員にならないかと、どちらの組からも誘いを受けたが、長男で家を継がなければならないのでと丁重に断わった。
表面上は一件落着したものの、俺の中には小さなわだかまりが残った。世羅はどうして、パートナーとしてケンタを選んだのか。どうして俺を誘わなかったのか。ケンタのほうが長いつきあいで気心が知れていたから? そうである気もするし、そうでない気もする。世羅は俺という人間を、どこか信用できなかったのではないか。実際のところは、パートナーに指名されなくて命拾いしたのだが、なぜだかケンタに対して嫉妬のようなものを感じてしまう俺であった。
そしてもう一つ、事件は俺に大きな傷を残した。
戸島会と八尋組の手打ちの式が行なわれていたまさにその時、江幡京がひっそりとこの世を去った。死因は循環器不全、覚醒剤を大量に服用しての自殺である。世羅のあとを追ったのだ。
ヤクザな男から解放され、これで自由に生きられるようになったというのに、どうして死ななければならないのだ。世羅はヤクザであっただけでなく、ヤクザの道にも悖《もと》っていた最低の男だったというのに。
世羅の何が京をそこまで惹きつけたのか。俺はまったく理解がいかなかった。そう、あの時の俺はまだ人生の経験が足りなかった。
江幡京が自殺したのは一九五一年の十二月十五日で、その翌日、俺はやっと二十歳になった。
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約束
31
「またそうやって口から出まかせを」
節子は首をすくめた。
「今は本気モードだ」
俺は彼女から目を離さない。
「誰よ、愛した女って」
「本人を前に言えるか」
「笑わせないで。だいたい、こんな人間を誰が好きになるというの。見境なく買物をして、バカみたいに借金を抱えて、こんな皺くちゃになってまで体を売って、人殺しの手伝いもして。人間のクズだわ」
節子は自分の頬を軽くはたいた。
「好きになった時には、そんな人間だとは思ってもいなかった」
「今は、そんな人間だとわかったでしょう」
「一度好きになった人間は、そう簡単に嫌いになれない。自分の過去の恋愛を思い出してみな」
「いま正体を知ったばかりだから、そんな暢気なことが言えるのよ。明日になったら、この顔を思い出したくもなくなってる」
節子は顔の前に両手でカーテンを作る。
「正体を知って、なおさら好きになったよ」
「いいかげんにして」
「俺はバイタリティーのある人間が好きで、君はバイタリティーの塊だ」
「ふざけないで」
「まあ聞け」
俺は手で制して、
「君は何かというと、死にたいとか、人生はもう終わりだとか、ネガティブなことを口にするが、君は実は生に対して非常な執着を持っている。死にたくないという気持ちが強いから、犯罪の片棒をかつぐようなことをしてでも生きる道を選択した。息子に迷惑をかけたくないというのもしかりだ。人生を投げているような人間は、息子に対する迷惑など考えないだろう。つまり君はまだ人生をあきらめていない。あきらめきれないのだ。多額の借金があり、蓬莱倶楽部に自由を奪われ、生活はめちゃめちゃだ。しかし君という人は望みを捨てていない。生きていればいつか事態が好転するのではと思っている。だからまだ生きている。君自身は気づいていないのかもしれないが、そういう気持ちが間違いなく、それも強く存在している。
俺は君のそういうところ、何が何でも生きてやるぞというバイタリティーに惹かれるものを感じているんだよ。やむない事情があるとはいえ、蓬莱倶楽部に手を貸したというのは許しがたい。絶対に見過ごしてやるもんか。警察に連れていく前に二、三発殴ってやりたいくらいだ。しかし、君が犯したあやまちと、君がバイタリティーを持って生きているということは話が別だ。人はよく、『好き/嫌い』と『良い/悪い』を混同して評価してしまうが、俺はきちんと区別するよ。ピート・ローズに野球賭博の疑惑がかかろうと、それが原因で永久追放の処分が下されようと、俺は彼の四千二百五十六本安打は断固として評価するし、日米野球で見せてくれたヘッド・スライディングは決して忘れない。ああ忘れるもんか、昭和五十三年十一月五日の第七戦、所は後楽園球場、四回表――それはともかく、要するに、君が人殺しの片棒をかついだからといって、俺は君の人格を全否定するようなことはしないということだ」
「うまいこと言いくるめられてるみたい」
節子は首を左に倒し、右に倒す。
「信じる信じないは自由だ」
俺はタバコをくわえる。
「力づけてくれているのは感謝するわ。けれど、結局ただのなぐさめよね。現実的に考えて、ここで警察に捕まったら人生はおしまいだわ。刑務所から出られるのはいつ? だいたい、生きているうちに出られるの?」
節子は首を突き出し、挑発するように言う。
「刑務所刑務所と言うが、弁護のしようによっては執行猶予付きになるかもしれないぞ。情状酌量の余地は充分ある」
「変な期待を持たせないでちょうだい」
「たとえ収監されても、今までのようなバイタリティーがあれば、人生はまだ終わらない」
「綺麗事を言うのは簡単よ」
何ごとも否定したくなる気持ちがわからないでもない。
「キヨシを憶えているよな、芹澤清」
俺はあえて話をそらした。
「あなたと一緒に縛られていた?」
「そう、禿げ頭の。あいつはああ見えて、現役の高校生なんだよ。あいつな、中学しか出てなくて、それがずっとコンプレックスだったらしく、六十で会社を早期退職したあと、青山高校の定時制に入った。まあそこまでならよくある話だが、あの野郎ときたら、大学にも行くと息巻いている。笑っちゃうだろう。まかり間違って東大に合格したとしても、今さら外務官僚にはなれやしない。テレビ局や銀行が新卒で採用してくれるか? 医者や弁護士には定年がないから、そっちを目指すかね。事実上、卒業証書をもらったとしても、何の利用価値もないわけだ。じゃあ何のための大学進学だ。教養を高めるため? それって言い換えれば道楽だよな。おいおい、遊びなら、もっと楽で愉快なものがいくらでもあるだろう。盆栽とかカラオケとか釣りとか。何を好きこのんで、ねじり鉢巻きで微分積分をやらなきゃならないのよ。バカだねぇ。だが俺はキヨシを応援してやりたい。非生産的な挑戦ってカッコいいよ。それが本当の文化だよ」
節子はうなずく。
「綾乃――うちの妹も、映画にカラオケに水泳に海外旅行にフラメンコに大正琴と、毎日忙しく遊び回っている。昨日は独身高齢者の合コンに出たかと思ったら、今日は孫と一緒にジャニーズの運動会だ。六十八でジャニーズもないだろう、ほかの客に迷惑だぞと言いたくもなるが、好きなのだから仕方がないよな。のど自慢で演歌を歌う小中学生もいるのだから、ジャニーズの追っかけをするばあさんがいたっていいさ。若い時分は、社会も自分も貧しく、一日一日を生き延びていくことに手いっぱいで、趣味にのめり込むどころではなかったんだよ。時間と金に余裕が生まれた今、あの時にやり残してきたものを補完するように、興味があることには遠慮なく首を突っ込んでいる。今度はシンクロをやりたいなんて言い出した、シンクロナイズドスイミング。なんでも横浜には七十歳のチアリーダーがいるらしく、それに対抗意識を燃やしているんだ。調子に乗りすぎ。だが俺は、バレエもやってみろとあおっている」
「発表会を見にいかなきゃ」
節子はやっと笑った。
「かく言う俺も、映画のエキストラにパソコン教室の講師に駐輪場のガードマンにと、毎日忙しい。べつに働く必要はないんだよ。会社を定年で辞めた時に退職金をたくさんもらった。ずっと独身だったので、蓄えも結構ある。住む家もこうしてある。にもかかわらず、シルバー人材センターに登録していろんな仕事をやっているのは、いろんな世界を覗いてみたいからだ。讀賣巨人軍の監督や代議士もやってみたいし、宇宙開発事業団に入って国際宇宙ステーションの常駐乗組員にもなってみたい。いま笑ったな? 俺は冗談を飛ばしてるんじゃないぞ。実現可能か不可能かは、やってみてはじめてわかることだ。頭で考えただけで結論を出してしまうやつは、結局その程度の人間でしかない。俺は生きているかぎり挑戦するよ。弁当代だけでエキストラをやってるのも、ハリウッド進出を狙ってのことだ。ジョン・グレン上院議員がスペースシャトルに搭乗したのは七十七歳の時なんだぞ。俺なんかまだまだ小僧だ。あとはそうだな、やってみたいと思ったからロン毛にもしてみたし――」
新しい出会いにときめいてみたいし、いい女をもっともっと抱きたい――と続けそうになったが、それは心の中だけにとどめておいて、
「つまり何が言いたいのかというと、気持ちひとつなんだよ。やる気があれば年齢なんて関係ない。君はもともとバイタリティーのある人間なわけだし、その気持ちを失わなければ、この先どういう境遇に置かれようと、悲観することはないんじゃないか。だいたい君は、歳だ歳だと嘆いているが、君は自分がいくつなのかわかっているのか? 六十九だろう」
「七十になりました」
「現在の日本人女性の平均寿命を知らないのか? 八十五歳なんだぞ。それまであと何年ある。十五年だぞ。なのにもう人生を投げてしまうのか? そんなに長い間、人生はもう終わったと、抜け殻のように暮らすのか? あるいは、これ以上生きていてもしょうがないと、自殺するのか? 十五年だぞ。十五年といえば、生まれてから高校に入学するくらいの長さだ。それを捨てる? もったいない! たとえ刑務所に入らなければならない事態になったとしても、まだ充分お釣りはくるじゃないか」
「でも……」
「『でも』が多いぞ」
「言ってることはよくわかるし、ありがたいとも思うけど、警察に捕まったら、何もかも失ってしまう。そこから立て直す元気は……、やっぱりない」
節子は肩を落とした。
彼女の気持ちは理解できないでもない。歳を取って一番衰えるのは、体力や知力でなく、気力である。
だが俺は言う。
「鈍い女だな。どうしてこんな話を長々としたのか、少しは察しろ。手伝ってやると言ってるんじゃないか」
節子は首をかしげる。
「最後まで言わせる気か。立ち直る気があるのなら手助けしてやる。誰が? 俺がだ」
取り返しのつかない台詞を口走ってしまったような気がしないでもないが、今の気持ちがそうなのだから仕方がない。
節子はきょとんとし、しばし俺を見つめて、何か言いたいような、躊躇するような感じで口をもごもごさせた。
「『でも』は言うなよ」
指さし、釘を刺す。
「それに俺はまだ約束をはたしていない」
「約束?」
「借金はまかせろと言った」
「あれは、でっちあげた話に対してでしょう。借金の本当の理由はちっとも美しくない」
「理由は関係ない。借金があるのは事実」
また恰好をつけてしまった。
「あたしなんかにかまってる暇はないでしょう。ハリウッドや宇宙に行かなければならない人なのだから」
否定的な台詞だが、節子の表情は晴れ晴れとしている。
「楽しみは先に取っておくよ」
「悠長なこと言ってられる歳じゃないでしょう」
「おいおい、まだ七十だぞ」
俺はタバコを消しておもむろに立ちあがる。
「あとふた月で七十一。あたしの相手なんかしてたら、人生終わっちゃうわ。男性の平均寿命は八十もないのだから」
「七十八」
「あと七年しかない。あたしの半分」
「平均の意味を知らないのか? その下もあれば上もある。俺はあと七年ぽっちで死ぬつもりはないよ。こういうデータもある。六十五歳まで生存していた日本人男性の平均余命は約十八年。六十五まで無事に生きていられた者は、あと十八年、つまり八十三歳まで生きられることが期待できるってわけ。ジョン・グレンに負けてたまるか」
俺は椅子とテーブルの隙間を横這いで抜け出る。
「あの人は特別でしょう」
「じゃあ俺も特別だ。十年先、二十年先も元気で生きてるよ。そのくらい生きないことには、やりたいことを消化しきれないからな。そういう欲深い人間はそう簡単にくたばらないようにできている」
節子は、まあと口を開け、
「あなたってつくづく、自分の都合のいいようにいいように物事を解釈する人よね」
「そういうネガティブな考えのほうがおかしいぞ。どうして俺が特別であってはいけないんだ。誰が決めた。特別か特別でないかは生きてみないとわからないじゃないか。優秀な人間を見て、自分は敵わないと思ったら、その時点でもう負けだ。自分の可能性を信じる人間だけが、その可能性を現実化できる資格を持つ。俺は生きているかぎり『何でもやってやろう屋』を続けるよ。明日死ぬと決まっていても、今日のうちは、やることはやる。だから君も、そう簡単に人生を放棄するな。あきらめるのは俺が死んでからでも遅くないだろう。それまでは俺と楽しくやっていこうぜ」
そうしゃべりながらテーブルを回り込み、節子の横に腰を降ろし、彼女の背中に腕を回す。どうやら俺は決定的に取り返しのつかないことを口走ってしまったようだ。
節子は俺を拒まず、肩に頭をもたせかけてくる。俺はもう一方の手で彼女の手を探り寄せ、指と指をからませる。石鹸と化粧品と、そして彼女自身の匂いが一つとなって、鼻をくすぐる。
「最近、桜の木を見たことがあるか?」
俺はぽつりと尋ねた。
「いいえ」
彼女の声が俺の体に振動として伝わり、生きていることを実感する。
「そうなんだよな、花が散った桜は世間からお払い箱なんだよ。せいぜい、葉っぱが若い五月くらいまでかな、見てもらえるのは。だがそのあとも桜は生きている。今も濃い緑の葉を茂らせている。そして、あともう少しすると紅葉だ」
「紅葉?」
「そうなんだよな、みんな、桜が紅葉すると知らないんだよ」
「赤いの?」
「赤もあれば黄色もある。楓や銀杏ほど鮮やかではなく、沈んだような色をしている。だから目に映えず、みんな見逃しているのかもしれないが、しかし花見の頃を思い出してみろ。日本に桜の木がどれだけある。どれだけ見て、どれだけ誉め称えた。なのに花が散ったら完全に無視だ。色が汚いとけなすならまだしも、紅葉している事実すら知らない。ちょっとひどくないか。君も桜にそんな仕打ちをしている一人だ。名前が同じなのに」
「節子ですけど」
そうだったかと俺は笑って、
「七十年生きていても、知らないことはたくさんある。知らないことの中には、自分の適性や趣味に合ったことが隠れているかもしれない。それを知らないまま死んでいっていいのか? 俺はやだね」
節子は俺の腕の中で黙ってうなずいた。
探偵修業をしていた頃の俺は満開の桜だった。清濁の区別なく、世の中のあらゆることを見てやろうと目がぎらついていた。そういう意欲に充ち満ちていたからこそ、後先考えずに任侠の世界に身を投じることもできた。
江幡京が死に、俺は明智探偵事務所を辞めた。激しい自己嫌悪からだった。人の心が理解できなくて、何が探偵だと思った。俺は白金台の実家に戻り、いわゆるサラリーマンになった。
技術畑一筋で、数えきれないほどの商品を企画、開発し、高卒にしてはかなりの地位まで昇りつめたが、しかし会社に尽くしたことと引き替えに、何でもやってやりたくてもやれなくなり、そのうち何をやりたいとも思わなくなった。世間はそれを「大人になる」と称する。
けれど俺は、情熱を失ったわけでは、決してなかった。一時封印していただけだ。定年を迎え、残りの人生、何をして生きていこうかと考えた時、俺はたまらなく愉快になった。会社という縛りがなくなった今、一日二十四時間一年三百六十五日を自分の好きなようにコントロールしてかまわないのだ。俺は二十歳の頃の自分を取り戻した。やりたいことがあまりに多すぎて眩暈がするほどだった。
二十歳の俺と七十歳の俺とで何が違うのかと、ときどき考える。
肉体的には明らかに変わった。顔も手も皺だらけで、みずみずしさを失い、皮膚が重力に負けて垂れ下がっている。髪はぱさつき、腰を失い、まだらな白髪は染めないことにはみっともない。眼鏡がないと新聞を読めず、テレビのボリュームも大きくしがち、物忘れもひどくなった。日々体を鍛えているものの、先日は簡単に骨折してしまい、否応なく年齢を実感させられた。
けれど、二十歳の俺も七十歳の俺も、ジャイアンツの勝ち負けに一喜一憂している。相変わらず負けず嫌いで見栄っぱり、車が好きで、つらい時には酒に頼る。女をくどく前にはドキドキし、二人きりになると抱きしめキスをしたくなるのも、二十歳の頃と何も変わっていない。勃起不全治療剤に頼らなければならないのはご愛敬だ。
二十歳のとき俺は探偵で、七十の俺も探偵である。フットワークは軽いし、新事実を掴むたびに感情の高ぶりをおぼえた。しかも幾多の障害を乗り越えてきちんと結果を出したのだから、実は自分は探偵に向いているのではないかと、さっきから沈黙が訪れるたびに、警察の向こうを張って活躍する己を想像し、心の中でニマニマしている俺である。
桜の花は本当に散ったのか? 俺の中ではまだ満開だ。丈夫に産んでくれた両親に感謝しよう。
「女もだ」
「は?」
「二十歳の頃は、恋愛は若者だけに与えられた特権だと思っていた」
「そうそう。せいぜい三十くらいまで」
「今もそう思ってるか?」
俺は節子から体を離し、顔を覗き込んで尋ねる。彼女は小首をかしげ、はにかみ、目を伏せて、小さく首を振った。
「ううん」
俺は彼女の髪をなで、そしてしっかりと抱き寄せる。
花が見たいやつは花を見て愉快に騒げばいい。一生のうちにはそういう季節もある。
葉を見る気がないのなら見なくていい。
しかし今も桜は生きていると俺は知っている。赤や黄に色づいた桜の葉は、木枯らしが吹いても、そう簡単に散りはしない。
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人生の黄金時代は老いて行く将来にあり、過ぎ去った若年無知の時代にあるにあらず。――林語堂
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補遺
【高齢者】
一般には六十五歳以上の者を指す。
【セックス】
札幌医大泌尿器科学教室が日本人男性約八千人を対象に実施した性生活の実態調査によると、八十歳代の前半では「まったくなし」が半数を超えるが、月に一回程度の人も七人に一人の割合でいる。また、性交頻度と「生活の潤い度」の関係では、男女とも頻度が高いほど、性生活によってもたらされる暮らしの潤いも大きいと感じる傾向が強かった。年齢が高くなってもこの傾向には変わりがなかった。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/renai/19961109sr11.htm
【染髪】
ヘアカラー・メーカーが一九九九年に行なった調査によると、六十五歳から六十九歳の女性の七三パーセントが髪を染めた経験を持ち、それは七〇パーセントである二十五歳から二十九歳の年齢層を上回る。
http://www.colorist.co.jp/color/index2.html
【出会い系】
二十五日午後十一時四十五分ごろ、愛知県碧南市浅間町のマンションで「男を刺した」と、住人の美容院経営A容疑者(55)から一一〇番通報があった。刺された男性は東京都西東京市谷戸町、建築業Bさん(62)で、約一時間半後に死亡した。碧南署はA容疑者を殺人未遂容疑で現行犯逮捕し、殺人の疑いで調べている。「別れ話がもつれた」と供述しているという。調べでは、二人は今年四月に携帯電話の出会い系サイトで知り合い、これまでに十数回会っていた。(二〇〇二年十二月二十六日付朝日新聞)
http://www.asahi.com/tech/asahinews/K2002122600659.html
【運転】
自分で自動車を運転する高齢者の運転頻度は、「ほとんど毎日運転する」が六四・八パーセント、「週二、三回は運転する」が二五・〇パーセントと、非常に高い。(平成十三年度 高齢化の状況及び高齢社会対策の実施の状況に関する年次報告(高齢社会白書))
高齢者の運転免許保有者数は,平成八年では五百二十五万人と平成三年の一・七倍(三百十六万人)に増加している。(平成九年版 交通安全白書)
【携帯電話】
平成十年の段階ですでに、六十代以上の一九・二パーセントが携帯電話/PHSを保有していた。(平成十一年版 通信白書)
【フィットネス】
高齢者のスポーツといえばゲートボール、というのは過去の話。一九九〇年代前半に三百万を超えた競技人口は今や半減し、競技場も閉鎖が相次いでいるという。代わって台頭してきたのがウエイトトレーニング。歳を取っても筋肉は成長するため、高齢者でも軽いスポーツを重ねることで四十代近くまで体力を回復できる。(NHK「クローズアップ現代」二〇〇一年十一月五日放送)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku2001/0111-2.html
【東京都立青山高校】
一九四〇(昭和十五)年に東京府立第十五中学校として誕生、一九四八(昭和二十三)年に東京都立青山新制高等学校となり、一九五〇(昭和二十五)年に東京都立青山高等学校と校名改称、一九五九(昭和三十四)年に定時制課程を設置。
【聖心女子学院】
一九一〇(明治四十三)年開校。
【おじいさん】
結婚し、子供ができると、自分の配偶者を「おとうさん」「おかあさん」と呼ぶようになり、孫ができると「おじいさん」「おばあさん」と呼び、息子や娘のことを「おとうさん」「おかあさん」と呼ぶのはなぜだろうか。
【遠近両用コンタクトレンズ】
バイフォーカル(ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社)、フォーカスプログレッシブ(チバビジョン)など。
【パソコン教室】
東京都港区では、社団法人港区シルバー人材センター会員が講師となり、高齢者や一般区民を対象にカルチャー講座やパソコン教室を年間通じて行なっている。
【F671i、F671iS】
表示文字やボタンを大きくし、音声ガイダンス、メールの読みあげ機能を搭載した、シニア層をターゲットとしたiモード対応携帯電話。愛称「らくらくホン」。
【東京都立三田高校】
一九二三(大正十二)年に東京府立第六高等女学校として誕生、一九五〇(昭和二十五)年に東京都立三田高等学校と校名改称。
【加齢臭《エイジングノート》】
四十代を過ぎると、皮脂中の過酸化脂質が増加し、脂肪酸組成が変化し、この脂肪酸が酸化や皮膚常在菌によって分解されると、特有の体臭成分であるノネナールが発生する。年輩者特有の臭いの正体がこれである。その対策として、デオドラントスプレー等、多くの加齢臭ケア商品が出回っている。
http://www.beau-tech.co.jp/index.html
【健康状態】
自分の健康状態について、「良い」、「まあ良い」、「普通」と思っている高齢者は、男性で七〇・七パーセント、女性で六六・九パーセントにものぼる。(平成十三年度 高齢社会白書)
【プロ野球日本シリーズ】
一九四九(昭和二十四)年の二リーグ分裂を受け、翌年より日本一を決める選手権が開催されるようになる。一九五一年は、巨人が四勝一敗で南海ホークスを下し、初の日本一に。
【つばめグリル】
老舗の洋食屋。一九三〇(昭和五)年新橋で開業、一九四六年銀座一丁目に移転。
【赤坂見附駅】
一九三八(昭和十三)年十一月十八日開業。
【海外旅行】
二〇〇〇年に海外旅行をした六十歳以上の日本人は約二百五十万人で、これは全年齢層の一四パーセントにあたる。(法務省 出入国管理統計)
【海外移住】
JTBのベテラン添乗員へのアンケートによると、「老後に住んでみたい国」の一位はハワイ。
http://www.jtb.co.jp/koho/00/news28.html
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歌野晶午著作リスト
[#地付き](2003年3月末日現在)
1 長い家の殺人
88年9月 講談社ノベルス
92年3月 講談社文庫
2 白い家の殺人
89年2月 講談社ノベルス
92年9月 講談社文庫
3 動く家の殺人
89年8月 講談社ノベルス
93年5月 講談社文庫
4 ガラス張りの誘拐
90年8月 カドカワ・ノベルズ
95年6月 講談社文庫
02年5月 角川文庫
5 死体を買う男
91年5月 光文社カッパ・ノベルス
95年2月 光文社文庫
01年11月 講談社文庫
6 さらわれたい女
92年1月 カドカワ・ノベルズ
97年11月 講談社文庫
7 ROMMY
95年7月 講談社ノベルス
98年5月 講談社文庫
8 正月十一日、鏡殺し
96年9月 講談社ノベルス
00年1月 講談社文庫
9 ブードゥー・チャイルド
98年7月 角川書店
01年8月 角川文庫
10 放浪探偵と七つの殺人
99年6月 講談社ノベルス
02年8月 講談社文庫
11 安達ヶ原の鬼密室
00年1月 講談社ノベルス
03年3月 講談社文庫
12 生存者、一名
00年11月 祥伝社400円文庫
13 世界の終わり、あるいは始まり
02年2月 角川書店
14 館という名の楽園で
02年6月 祥伝社400円文庫
15 葉桜の季節に君を想うということ
03年3月 文藝春秋
単行本 二〇〇三年三月 文藝春秋刊
〈底 本〉文藝春秋 平成十五年三月三十日刊