金田一耕助ファイル19
悪霊島(下)
[#地から2字上げ]横溝正史
目 次
第十六章 人と犬
第十七章 |噫《ああ》|無《む》|残《ざん》
第十八章 |蓑《みの》と|笠《かさ》
第十九章 もしも|烏《からす》が騒がなかったら
第二十章 |鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]《ぬえ》のなく夜に気をつけろ
第二十一章 |弾《だん》 |劾《がい》
第二十二章 隠された二枚の手紙
第二十三章 シャム双生児の秘密
第二十四章 墓を暴く
第二十五章 |紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》
第二十六章 |女《じょ》|郎《ろう》|蜘《ぐ》|蛛《も》
第二十七章 地底の対決
第二十八章 雲隠れ
エピローグ
第十六章 人と犬
金田一耕助はこの島へきてから、きょうでちょうど一週間になるが、まだいちどもいま吉太郎が眼下に|俯《ふ》|瞰《かん》している、この方面へ足を踏み入れたことがない。
この島におけるかれの行動半径といえば、|新《しん》|在《ざい》|家《け》と|刑部《おさかべ》神社の存在する、|兜山《かぶとやま》を結ぶ一線上に限られていた。すなわち人家のあるところに限定されているのである。人間と人間とのあいだにかもし出される|物凄《ものすさま》じい|軋《あつ》|轢《れき》なり、血で血を洗うような|葛《かっ》|藤《とう》なりだけが、金田一耕助を必要とする。金田一耕助はしぜん人間臭い俗世間にだけ興味をむけることを強いられて、それがいつか習慣となり、大自然の|創《つく》り出す驚異に目をむけることを忘れていた。
いや、この島に生まれて育った人びとは、|隠《おん》|亡《ぼう》|谷《だに》の景観に慣れつくしているので、事新しく、その驚異的な景観を口にして語ったりはしなかった。いまこの島で進行しつつある、この恐ろしい一連の事件とは、まったく無縁のものと思われていたので、だれも金田一耕助に、その谷について注意を促すものがいなかったのである。
しかし、いま吉太郎が立っている丘に身をおいて、その足下に広がる景色を望観したら、いかに俗臭に|揉《も》まれもまれてきた金田一耕助といえども、大自然の描き出すこの驚異に、圧倒されずにはいられないであろう。その谷を見れば、この島全体が|花《か》|崗《こう》|岩《がん》から成立していることがよくわかる。そこはまるで花崗岩の墓場のようであった。
ゆうに貨車一|輛《りょう》はあろうかと思われるほどの花崗岩が、いま吉太郎の立っている丘のはるか|麓《ふもと》から、|累《るい》|々《るい》層々と重なりあい、揉みあい、|絡《から》みあいながら、二キロほど南方までつづいているのである。この島は南へいくほど高いので、谷もむこうへいくほど床が高くなっていて、その谷のいちばん奥は、いま丘のうえに立っている吉太郎が、水平に放った目線とちょうどおなじ水準になっている。それが吉太郎の足下では八〇メートルほど落下している。つまりこの谷は二キロほどのあいだに八〇メートルの傾斜をつくりながら|展《ひろ》がっているのである。幅員は約二〇〇メートルもあるだろうか。そのあいだを奇岩巨石が、何百何千となく累々層々とつながっている。
その巨石と巨石のあいだをつづるものといえば、ところどころに背の高い、ひねくれたかっこうの赤松も点在しているけれど、多くは|矮《わい》|性《せい》の|這《は》い松である。一昨夜すなわち五日の夜|烈《はげ》しい雷雨があり、そのあと真夜中ごろまで降りつづいたので、谷の底には流れというより、|水《みず》|溜《た》まりがところどころにできており、その水かさがますと小川となって、|大《おお》|磯《いそ》と小磯の境界となって海へ注ぐのである。人びとはこの小川を|千《ち》|々《ぢ》|岩《いわ》|川《がわ》と、ゆうにやさしい名でよんでいる。
それは鬼気迫るがごとき荒涼たる展望だが、しかし、吉太郎はこういう景観にはなれている。いたって無感動である。かれの気にしているのはいまその谷のうえを舞っている、おびただしい|烏《からす》の群である。さっきもいったとおり、その数、百羽を超えるであろうが、あるものはひねくれた松の|梢《こずえ》に羽根をやすめて、谷底をうかがっている。まるでそこにある|獲《え》|物《もの》をねらうかのように。それらは谷のいちばん奥あたりに集中していた。
吉太郎は汗をぬぐい、呼吸をととのえながら|瞳《ひとみ》をすぼめて、谷の奥を|凝視《ぎょうし》していたが、やがて猟銃をひっさげたまま丘の尾根づたいに道を右へとった。その丘はいったん千々岩川の岸辺までくだっているが、そこにかかっている板橋をわたると、また|険《けん》|阻《そ》な登り坂となっていて、その頂上がすなわちこの島の西に位する|鋸山《のこぎりやま》である。
吉太郎は鋸山の中腹を走っている|岨《そば》|道《みち》を南へいそいだ。左手の眼下にみえる隠亡谷の景観に注意しながら、いくこと三十分にして鋸山とこの島の南にそびえる、兜山が合流している|狭《はざ》|間《ま》に達する。そこに左へくだる小道があり、花崗岩が風化した小石がゴロゴロと小道を埋めている。歩きにくい道だが、長靴をはいた吉太郎は平気である。
重い猟銃を右手にひっさげた吉太郎は、体をうしろに反らせるようにしながら、調子をとってその坂道をくだっていった。と、まもなく畳百畳も敷けるかと思われるばかりの、大きな花崗岩の一枚板のうえに出た。この一枚板にはあきらかに人間の手がくわえられている。
この一枚板の背後には、|衝《つい》|立《た》てのような部厚い大きな花崗岩が突っ立っているが、その一部が人間ひとり潜れるくらい彫りぬかれていて、その奥に仏像のようなものが安置してある。|薬《やく》|師《し》|如《にょ》|来《らい》なのである。薬師如来は眼病に効くといういいつたえが諸国にのこっている。この島でもおなじ信仰がつたえられていて、以前はここによく目の疾病になやむ善男善女が、お|籠《こも》りにきたものだそうで、花崗岩の衝立てには大きなお籠り堂がくりぬいてある。これは天然にできた|窪《くぼ》みを、人間の手をくわえて彫り抜いたものらしい。そのくりぬいた穴の壁や床には、まえには板が張ってあったらしいのだが、ちかごろは健康保険の普及で、だれでも簡単に医師の診療を受けられるものだから、こういう信仰もおいおいすたれるものらしく、お籠り堂の壁や床の張り板も、いまや見るかげもなく立ちぐされている。
島の人びとはこの岩を薬師岩とよび、その前面の一枚板をお薬師さんの舞台とよんでいる。
吉太郎はお薬師さんの舞台に立って、すかすように北のほうに視線をはなった。
ここはあきらかに谷のどんづまりになっており、いま吉太郎の立っている舞台の足下から、あの荒涼たる谷の景観が長さ二キロ、幅二〇〇メートルにわたって、北へむかって傾斜しながらひろがっているのである。さっき丘のうえから遠望したときにくらべると、目近に見るその谷の風景は、よりいっそう怪奇で驚異的だった。
この薬師岩の背後はすぐ兜山につらなっていて、そのてっぺんに刑部神社がまつられている。刑部神社の石段をくだって、地蔵峠までくる途中に左へおりるわき道があり、そこをくだるとこの薬師岩の東へ出ることになっている。そこからさらに地蔵坂の麓をとおって、大磯と小磯の境を流れる千々岩川のほとりへ出る道が、谷に沿って細くうねりながら|蜿《えん》|々《えん》としてつづいている。
|陽《ひ》はもうだいぶん高く昇っているはずだけれど、東にそびえる地蔵峠や地蔵坂のかげになっているので、谷は片かげりになっている。薬師岩の舞台に立った吉太郎は、眼下にひろがる累々たる巨石のあちこちに目をくばりながら、口に手を当て、
「|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》! 阿修羅! おぬしはどこにいるぞ!」
吉太郎が塩辛声を振りしぼって、大声にわめくと、その声は陰々たる|谺《こだま》となってはねかえってきた。
「阿修羅! 阿修羅! おぬしはどこにいるぞ!……」
阿修羅というのが飼いぬしに置き去りにされて、野生化した猛犬の名である。
いま吉太郎の立っている舞台から、二〇〇メートルほどしもの巨石と巨石のあいだに、ひねくれたかっこうの赤松が一本|亭《てい》|々《てい》として空にそびえている。土地の人がじじいの松とよんでいる老木である。じじいの松というのはかならずしも尊敬の意味ではない。そのひねくれたかっこうが気むつかしくてクソ意地の悪い、じじいに似ているというほどの意味である。
いま吉太郎が塩辛声を振りしぼり、大声で叫んだとき、そのじじいの松の梢から数十羽の烏が飛び立って、ギャーギャーと騒がしい声をあげながら、谷の空を舞いはじめた。その騒ぎに驚いたのか、西側にみえる鋸山の中腹や、背後にそびえる兜山の|崖《がけ》っぷちにとまっていた烏どもも、いっせいに飛び立って、じじいの松から飛び立った烏と合流したからたまらない。いまや谷の上空は|胡《ご》|麻《ま》をまいたように、烏の黒点によっておおわれた。
烏どもはいっとき気が狂ったように空を舞っていたが、しばらくすると、それぞれの位置にかえって鳴りをしずめた。それでもまだ二十羽ぐらいの烏が空を舞っている。
吉太郎は空に舞っている烏や、じじいの松の梢にかえった烏の挙動を、注意深くうかがっている。それらの烏どもはみないちように、谷のある一点を凝視しているようである。
じじいの松からさらに二〇メートルほど下ったところに、貨車一輛の容積はゆうに超えるであろうと思われる、花崗岩の奇岩巨石が五つ六つ、累々として重なりあったところがある。烏どもがねらっているのはその陰なのだ。そこに烏どもの食欲をそそるような、なにものかが横たわっているらしい。
吉太郎は猟銃をいつでも発射できるように|装《そう》|填《てん》すると、また塩辛声をふりしぼって大声にわめいた。
「阿修羅! 出てこい! おまえの隠れているところはわかったぞオ。おまえはいったいなにを|咥《くわ》え込んだんじゃ。いや、なにを咥え出したんじゃ」
吉太郎はわめいたあとで、その反響をたしかめるように、じっときき耳を立てている。しかし、かれの望んでいるような反響はなく、
「阿修羅! 出てこい!……」
と、いう谺が、むなしく陰々としてかえってくるばかりである。まるでかれの|迂《う》|愚《ぐ》を|嘲《あざけ》るかのように。
吉太郎は薬師岩の舞台を左へまわると、三メートルほど下の巨石のひとつに跳びおりた。巨大な容積をもつ花崗岩は、吉太郎がひとりとび乗ったくらいで、ぐらつくような心配はない。吉太郎はあたりに心を配りながら、またつぎの巨石へとびうつった。安定した重量をもつ巨石は累々として重なり合っているので、巨石から巨石へとびうつるのになんの危険もなかった。
それにもかかわらず吉太郎が、極度にまで神経を|尖《とが》らせているのは、いまかれが相手にしようとしている、阿修羅なる猛犬の性質をよくしっているからである。
吉太郎の|唯《ゆい》|一《いつ》の道楽は狩猟である。猟期になると吉太郎は、猟銃をひっさげて近隣近在の島から島へと駆けめぐる。それが吉太郎の唯一つの道楽である。それには猟犬がほしかった。よく訓練すれば阿修羅は、理想的な猟犬になるのではないかと思われた。かれはなんどか阿修羅に接触を試みた。相手の歓心を買い、手なずけて飼い|馴《な》らそうと心を砕いた。しかし、そのつどみごとに失敗した。
いちど飼いぬしから見捨てられ、部落の人びとに手ひどい迫害をうけたあげく、谷へ逃げ込んで野生化した犬は、ひどい人間不信に陥っていた。人間不信というよりは人間憎悪であろう。吉太郎が接触しようとすればするほど、阿修羅は吉太郎を|忌《い》み|嫌《きら》い、かつ憎んだ。元来犬というものは利口な動物である。それが野生化してから、ひどく警戒心が強くなり、用心深くなっていた。つまり悪知恵が発達し、|狡《こう》|猾《かつ》になっているのである。
しかもきょうの吉太郎は、相手を手なずけようなどという好意はみじんも持っていない。大膳の命令どおり、この島のもてあましものを、一発のもとに撃ち殺してもいいという決意を胸に秘めている。こういう悪意がわからぬ相手ではないということを、吉太郎は百も承知である。かれが用心に用心を重ねるゆえんもそこにある。
吉太郎がいつどこから、飛び出してくるともわからぬ猛犬を警戒しながら、巨石から巨石へと跳びうつり、あのひねくれたじじいの松の麓から五、六メートル手前までやってきたときである。じじいの松の梢にいた烏どもがいっせいにギャーギャー騒ぎ出した。それは猛犬に注意をうながしているのか、それとも吉太郎に警戒せよとの信号なのか、吉太郎はいずれともわからぬままに、
「しっ、しっ!」
と、軽く舌打ちしながら、じじいの松の梢を|睨《にら》んだが、その瞬間、背後からとびかかってきた強烈な圧力に、|俯《うつ》|向《む》きざまに巨石のうえに倒れて転んだ。
「し、しまった!」
|肝《はら》のなかで叫んだ吉太郎は、恐怖のために舌がこわばり、全身の筋肉が硬直していた。背後からとびかかってきたのはいうまでもなく阿修羅である。この狡猾な猛犬は、吉太郎の目をかすめて石の陰から陰へと伝い、いつのまにか吉太郎の背後にまわっていたのである。猛犬は吉太郎を巨石のうえに押しころがすと、いったんうしろへとびじさった。その一瞬の余裕が吉太郎に立ち直らせる機会をあたえたのである。
吉太郎が寝ながら体を一回転させて|仰《あお》|向《む》きになったとき、文字どおり|仔《こ》|牛《うし》ほどもあろうかという|獰《どう》|猛《もう》な土佐犬が、吉太郎のノド仏めがけて躍りかかってきた。その目の色といい、|唸《うな》り声といい、決して吉太郎に好意を示すものではない。おそらく吉太郎のノド仏を|咬《か》み裂くつもりだったのだろう。吉太郎の心臓は恐怖のためにノドのところまでふくれあがっていたが、自己防衛の本能がとっさにかれの命を救った。
吉太郎は左手に猟銃を握っていたが、それを両手に持ちかえると、跳びかかってきた猛犬のくわっと開いた口をとっさに防いだ。すなわち阿修羅が咬みついたのは吉太郎のノド仏ではなく、堅固な猟銃の銃身だった。当てがはずれた猛犬は怒り狂って、その猟銃を吉太郎の手からもぎとろうと、首をはげしく左右に振り、|前《まえ》|肢《あし》でバリバリと吉太郎の胸から腹をひっかいた。さいわい吉太郎は|鞣革《なめしがわ》でできた、上下つなぎのオーバーオールを着ているので、そのほうの衝撃は少なかったが、それでもなおかつ吉太郎は、いま目のまえに迫っている猛犬の顔を見たとき、また改めて総毛立つような恐怖を覚えずにはいられなかった。
いままでなにをしゃぶっていたのか、阿修羅の鼻面から口から|顎《あご》から、真っ赤な血に染まっている。|兎《うさぎ》でもしゃぶっていたのだろうか。この不毛の谷にも兎や|鼬《いたち》が|棲《せい》|息《そく》していて、それが阿修羅の|餌《え》|食《じき》になっていることを吉太郎もよくしっている。
阿修羅はいまや|名詮自性《みょうせんじしょう》、文字どおり阿修羅であり、悪鬼であり、鬼神であった。仰向きになった吉太郎の体のうえに馬乗りになり、横に|咥《くわ》えた堅固な銃身をバリバリと咬み、それを吉太郎の手からもぎとろうとして、|怒《ど》|濤《とう》のごとく、全身をうねらせ、くねらせ、猛烈に首を左右に振っている。その鼻息と唸り声が物凄まじい。
しかし、これこそ吉太郎にとっては思う|壺《つぼ》であった。かれは両手に|捧《ささ》げた銃身をいよいよ強く阿修羅の口に押し込むと、まをはかって右手をはなして腰へずらせた。腰に巻いた弾帯には剣袋がぶらさがっている。あいにくその剣袋は倒れたひょうしに|尻《しり》の下になっていたが、阿修羅と格闘しているうちに尻をくねらせ、うねらせて、その剣袋はいま腰の側面にきているのである。吉太郎の右手が剣の|柄《つか》へとどいた。それをしっかと握りしめるとやにわに剣を抜き、下から力いっぱい阿修羅の腹を突き刺した。
まったくそれは文字どおり危機一髪の瞬間だった。吉太郎はそれまで左手だけで銃を支えていた。左|肘《ひじ》を曲げ、それを銃身と平行にして、|手《て》|頸《くび》と肘で阿修羅の口へ、銃身を横に押し込んでいたのだが、それだけではとうてい相手の力にはおよぶべくもなかった。銃はとうとう阿修羅の口にもぎとられた。猛犬ははげしく首を左右に振って、それを口からふりほどくと、改めて吉太郎のノド仏めがけて咬みつこうとしているその瞬間だった。
鋭い犬の悲鳴がこの荒涼たる谷にとどろき渡って、谺となってはねかえってきた。吉太郎は委細かまわずふた突き、三突き、四突き、五つ突き、抜いては刺し、刺しては|抉《えぐ》った。そのつど犬の悲鳴がほとばしったが、さすがにそれはしだいに弱々しいものに変わっていた。
吉太郎の顔にのしかかっていた阿修羅の目も、はじめは凶暴な怒りと敵意にもえていたが、それが驚きにかわり、|呆《あっ》|気《け》にとられたような色となり、さいごは生気なき悲しみと絶望の表情となったかと思うと、やがて|千《せん》|鈞《きん》の重みとなってぐったりと、吉太郎のうえにのしかかってきた。
吉太郎はやれ助かったとばかりにひと呼吸いれると、腹のうえにのしかかっている、その重いものを横に押しのけた。体をずらせるようにして、やっと下から|這《は》い出した。吉太郎のオーバーオールの胸から腹へかけて、ぐっしょりと血で|濡《ぬ》れている。刃物を握った右の手も、真っ赤な液体にヌラヌラ|濡《ぬ》れて気持ちが悪い。しかし、吉太郎はそんなこと意にも介しなかった。鞣革だから洗えば落ちる。あれだけの大格闘にもかかわらず、ふしぎに吉太郎には大したケガはなかった。左肘を咬まれたとみえ、そこがチクチク痛むくらいのものである。
吉太郎がそこを舌で|舐《な》めながら足下を見ると、横倒しになった巨大な犬が、まだ手脚をヒクヒク|痙《けい》|攣《れん》させている。腹部から|臓《ぞう》|腑《ふ》がはみ出し血だらけである。かつては手なずけて飼い犬にしたいと思ったくらいの犬である。吉太郎は|惻《そく》|隠《いん》の情をもよおしたのか、
「おまえもかわいそうなやつじゃのう。おまえを見捨てて島を出ていったやつがいちばん悪い。そうか、そうか。そいじゃ一息に成仏させてやるけんな」
吉太郎は滴り落ちる汗を|拭《ぬぐ》いながら、そこに転がっている銃をとりあげ、銃口を阿修羅の頭部にしっかり当てがうと、呼吸をはかってズドンと一発引き金をひいた。と、そのとたんじじいの松から二〇メートルほどしもの巨石と巨石のあいだから、おびただしい烏が舞いあがるのが吉太郎の注意をひいた。どうせ烏どもはさっきから、阿修羅の|残《ざん》|肴《こう》をねらっているのだということは、吉太郎にもわかっていた。
しかし、それにしてはその数が多すぎる。野兎や鼬の|屍《し》|骸《がい》では、あれだけ多くの烏がその残肴にありつけるわけはない。よほど大きな獲物でなければならぬ。この島にはもう牛も馬もいないはずなのだが……吉太郎がその獲物なるものに不審を抱き、それを確かめてみる気になったのもふしぎではあるまい。
阿修羅の死体をあとに残して、吉太郎はつぎの巨石へ跳びうつった。巨石の表面の長さは四メートルくらいもあるだろうか。吉太郎は三つ四つそれを伝っていくと、さいわいひとつの巨石に大きな|窪《くぼ》みがあり、そこに水がタップリ|溜《た》まっている。吉太郎はそこで手を洗い、|手《て》|拭《ぬぐ》いを水でしめすと、オーバーオールのまえをゴシゴシこすった。水溜まりの水はたちまちにして真っ赤になった。さらにそこから二つほど巨石を渡ると、そこがいま烏の飛び立ったところである。吉太郎がその岩のうえに立ったとき、じじいの松の梢のうえでおびただしい烏が、ギャーギャー鳴いて騒いだ。吉太郎はいまおのれの立っている巨石と、重なり合うように横たわっている巨石の下をのぞいた。
そしてそれがなんであるかがわかったとき、およそ思うことが表情に出ない吉太郎であるにもかかわらず、その顔面には大きな|驚愕《きょうがく》と恐怖の色がひっつった。それはふつうの人間には目もあてられぬ|観《み》|物《もの》のはずだが、吉太郎は目じろぎもせずそのものを凝視していた。
立って見ているだけではあきたらなかったのか、岩のうえにしゃがみこんで、四つん這いになり、巨石と巨石のあいだの下を|覗《のぞ》いた。
なぜこんなことになったのか、回転の鈍い吉太郎の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》では会得できなかったが、たいへんだという意識はあった。すぐみんなに|報《し》らせなければならぬとも思った。かれはそこを離れてもと来た岩から岩へと渡って、急ぎ足に歩きはじめた。しかし、五つ六つ岩を渡ると背後に当たって、バサバサと烏の羽根の音がきこえたので、ふりかえってみるといま見てきたあのものへ、烏が群がってくるようすである。
吉太郎は困った。当惑した。もうこれ以上あのものを、むごたらしゅう烏の|啄《ついば》みにまかせておくには忍びなかった。かれはまたもとの巨石へ引き返した。そして、空にむかって猟銃を一発、二発、三発とつづけさまにぶっ放した。
烏をおっぱらうためではない。いや、それもあったろうけれど、それ以上に人を呼ぶのが目的であった。
刑部神社の社務所の受付けにしつらえられた、急ごしらえの取り調べ室へ、吉太郎の放った最初の銃声が聞こえてきたのは、七月七日の午前七時五十分のことであった。
そのとき聞き取りに応じていたのは三津木五郎であったが、それはまえにもいったとおり、文字どおり辛気臭い応対の連続であった。この聞き取りの一番手は越智竜平だったが、かれがこの惨劇のさいしょの発見者だったから、これは当然の措置というべきであったろう。越智竜平の聞き取りがはじまったのは、七月七日の午前一時をとっくに過ぎて、午前二時になんなんとしていたとまえに書いておいたが、正確にいうと午前一時五十分のことであった。
この聞き取りに直接当たったのは広瀬警部補で、書き取り役は藤田刑事であった。磯川警部はさっき、金田一耕助にむかって|居《い》|丈《たけ》|高《だか》になって、
「さっきわしは岡山の県警と電話で打ち合わせをして、この事件はいっさいわしが一任されたんです。つまり、この事件の責任者はこのわしじゃ」
と、いっていたが、部下を使うことの上手なこの警部は、こまかい手続きはいっさい広瀬警部補に一任することにして、じぶんは後見格としてこの聞き取りの席に臨んでいた。金田一耕助はさしずめオブザーバーというところだろう。しかし、これが単なるオブザーバーでない証拠に、藤田刑事とは別に、かれもまた証人たちの申し立てを、要領よくノートにメモしていた。
午前一時五十分ごろ|神楽《か ぐ ら》|殿《でん》から、イの一番にこの席へ呼び出された越智竜平は、一夜にしてすっかり|憔悴《しょうすい》したようにみえた。両の|頬《ほお》にきざまれたふたつの|縦《たて》|皺《じわ》が、よりいっそう深くなり、目のふちにくろい|隈《くま》さえできているようにみえる。
社務所の受付けにはカウンターがある。聞き取り役の四人はそのカウンターのなかのソファにいて、カウンターの外のたたきの土間に腰掛けをおき、そこが証人の|坐《すわ》るところにもなっている。午前一時五十分そこへきて腰をおろしたとき、越智竜平はじっさい|悄然《しょうぜん》とみえ、これがこの島に大土木工事を興して、いま話題の中心となっている人物とはどうしても思えなかった。なにかしら悔恨に胸をかまれているらしく、この人の持っているべきはずの高揚の気は、ひじょうに影が薄くなっていた。
広瀬警部補はその顔色から、なにか読みとろうとするかのように、鋭く目を光らせながら、夏物の黒紋付きの|羽織袴《はおりはかま》で正装している相手の姿を、頭のてっぺんから足の先まで見回していたが、それでも言葉つきはいたって丁重であった。
「越智竜平さんですね」
「はあ」
「年齢は?」
四十四歳であると竜平は答えた。
「おところは?」
それに対して竜平はアメリカで繁栄している、西部の主要都市の名を挙げ、自分の居住している地区の名を述べた。
「ああ、あなたはアメリカの市民権を持っていらっしゃるんですね」
広瀬警部補も開き直っているので、できるだけお|国《くに》|訛《なま》りをひかえるようにしている。
そうであると竜平も標準語で答えた。
「ところで日本におけるお住まいは?」
それに対して竜平は東京・丸の内にある高名なホテルの名を挙げた。日本人ならだれでもしっているホテルである。
「つまりあなたは日本とアメリカを|股《また》にかけて、活躍していらっしゃるわけですね」
「まあ、そういうことです」
藤田刑事は熱心に筆を走らせていたが、ここいらのことは金田一耕助は熟知の事実なので、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》そうに目をショボショボさせている。
「では、今夜……いや、もう昨夜になりますが、昭和四十二年七月六日の夜、当刑部神社の拝殿で起こった事件についておうかがいいたします」
「さあ、どうぞ」
竜平は腰掛けのうえで居住まいをなおすと、いくらか声がしゃがれていた。かれはまだじぶんがどういう目で、捜査員たちに見られているかしらないのである。
「今夜……じゃなかった、昨夜当神社で起こった殺人事件を、さいしょに発見なさったのはあなたでしたね」
「はあ、そうです」
「では、そこまでいくいきさつと申しますか、手順といいますか、どうしてそんなことになったのか、それからまずお|伺《うかが》いいたしましょうか」
「はあ、それはこうです」
そこでまた竜平は居住まいをなおすと、ちらっと金田一耕助のほうへ視線を走らせて、
「わたしが当神社の祭礼に立ち合うために、地蔵平のわが家を出たのは、たぶん八時半ごろのことだったと思う。いくらか|酩《めい》|酊《てい》していたので、正確には記憶しておりませんが……それから……」
「ああ、ちょっと待って……」
と、警部補がいそいでさえぎると、
「あなたはそのまえに当神社へやってこられた……と、いうようなことはありませんか。昨夜日が暮れてから……?」
「いいえ、そういう事実はありません。昨夜この神社へきたのは、あとにもさきにも一度きりで、そのままここへ足止めをくらっていることは、主任さんもよくご存じのとおりです。そのことは、そこにいらっしゃる金田一先生もよくご存じのはずですが……」
「はあ、よく存じております。ついでに付け加えておきましょう。あなたが地蔵平のお屋敷を、自動車で出られたのは八時半ジャストでした。わたし何気なく時計を見たんです」
金田一耕助がそばからくちばしを入れると、
「越智さんはよい証人を持っておいでんさる」
と、広瀬警部補はついお国言葉を出して皮肉ったが、すぐ、
「いや、失礼しました」
と、軽く頭をさげると、
「地蔵平のお宅を八時半ジャストに、自動車で出られたとすると、当神社へお着きになったのは……?」
「さあ、わたしはいちいち時計を見ながら、行動をしとるわけではありませんけん、正確なところはわかりませんが、たぶん八時三十五分ごろのことじゃないですか。地蔵平からここまでは五分ちゅうところでしょうからな」
「あなたが石段をのぼって、当神社の境内へ足を踏み入れられたのは、八時三十六分でした。わたしが時計を見たんです。顔を出されるのが、少し遅いんじゃないかと思うたもんですけんな」
こんどは磯川警部がくちばしをはさんだ。
「あっはっは、越智さん、あなたはいろいろよい証人を持っておいでんさる。金田一先生といい、警部さんといい……」
広瀬警部補はまたちょっと、皮肉っぽくいって頭をさげたが、すぐきまじめな表情にもどると、
「それで、八時三十六分にこの神社の境内へあがってこられると……? それからどうなさいました」
「はあ、社務所のまえから神楽殿へかけて、水びたしになっているのでびっくりしました。それにみんな神楽殿の下へ集まって、なにやらワイワイ騒いでいる。すぐ火事があったんだと気がつき、急いで社務所のなかへとび込みました」
「そのときこの社務所の戸は開いていましたか」
竜平はちょっと小首をかしげて考えて、
「開いていたんでしょう、じぶんでひらいた記憶がありませんから。いや、たしかに開けっぱなしになっていました」
「それから……? それからどうしましたか」
「それから、まっすぐに宮司の住居のほうへ駆け込みました。わたしはこの神社内の勝手は、わりとよくしってるもんですけんな」
「それはそうでしょう。これはあなたが新しく建て替えて、寄進なさったんじゃそうですけん」
「はあ、まあ、そういうことです」
竜平はいくらか鼻白んで、
「わたしはだれかいたら、何事が起こったのか尋ねてみるつもりでいたんです。だれもいませんでした。そこでそこを出ると……」
「拝殿のほうへいかれたんですか」
「はあ……」
いままで明快に答えていた竜平だのに、そこへくると急に歯切れが悪くなってきた。なにか居心地が悪そうに、腰掛けのうえのお|尻《しり》をもじもじさせている。金田一耕助も磯川警部も、おやというふうに竜平の顔を|視《み》|直《なお》した。藤田刑事もつぎの言葉を待つように、ボールペンを持つ手をやすめている。
広瀬警部補は改めて、するどく相手を視すえながら、語気を強めて、
「どうして拝殿のほうへいかれたんですか。警部さんの話によると、そのとき拝殿のなかは|灯《ひ》が消えていて、暗かったということです。それだのになぜあなたは、そっちのほうへ出向いていかれる気になったんですか」
「それが、そのう……」
竜平はいよいよお尻のすわりがよろしくないふうである。
「越智さん」
広瀬主任はそこでわざと言葉を切って、真正面から竜平の顔を注視しながら、
「拝殿のほうのこと、あれはあなたがおやりになったとまでは申しませんが、あなたはすでにああいうことが、行なわれているということをしっていて、出向いていかれたんではありませんか」
「と、とんでもない!」
「じゃ、なぜあっちのほうへいかれたんですか。|灯《あか》りが消えて、おそらく|人《ひと》|気《け》も感じられなかったであろう、あの拝殿のほうへ……?」
「さあ、それは……」
竜平は窮地に立ったように口ごもったが、そのとき、そばから助け舟を出したのは金田一耕助であった。
「越智さん、あなたそのとき拝殿から、だれかが出てくるのをごらんになったんじゃありませんか。あなたその人物に迷惑をかけたくないというので、それがジレンマになっていらっしゃるのではありませんか」
「はあ、それが……」
金田一耕助の言葉はたしかに急所をついたにちがいない。竜平はほっとしたような表情をうかべると、うっすら浮いた額の汗を、そっとハンケチでおさえている。あきらかに心の重荷から解放されたふうである。
「しかし、ねえ、越智さん」
金田一耕助はちょっと体を乗り出すようにして、
「あなたがひとさまに、迷惑をかけたくないというお気持ちはよくわかります。しかし、あなたが目撃した人物が、必ずしも犯人とは限らない場合だって、ありうるとは考えられませんか。あなたがいい例ですよ。あなたは事件のさいしょの発見者です。しかし、われわれ……いや、少なくともわたしはあなたを犯人とは思っておりません。時間的に不合理ですからね。と、おなじようにあなたよりひと足さきに、あの事件を発見したものがあったとしても、そのものが必ずしも、犯人とは限らないという場合だってありうるわけです。そのものはじぶんに疑いがかかるのを|惧《おそ》れてか、あるいはこういう厄介な事件にかかりあうのを|嫌《いや》がってか、どちらかの理由で無言でいるのかもしれません。ねえ、越智さん、これは殺人事件ですよ、人間が人間を殺害するには、いろいろ|錯《さく》|綜《そう》した動機なり、理由なりがあると考えられます。われわれはその薄皮を一枚一枚、ほぐしていかなければならないのです。ご協力願えませんか」
|諄々《じゅんじゅん》と説く金田一耕助の言葉には説得力があった。その言葉がおだやかであればあるほど、相手を納得させるのである。竜平はいまはもう心の重荷からすっかり解放されたかして、打ちくつろいだ顔色になって、
「いや、ありがとうございました」
竜平は扇子をパチリとひとつ鳴らして、深々とこうべをたれると、
「考えてみればわたしもそのものが、犯人であろうとは思うとらなんだようです」
「それじゃ、やっぱりあなたあの現場から、だれかが出てくるのを見たとでもおっしゃるんですか」
警部補の言葉にはまだたぶんに、疑惑のひびきがこもっていたが、しかし、大いに興味を催したらしいことはたしかであった。
「はあ、それはこういうことです」
いまはもうすっかり落ち着きを取り戻した竜平は、扇子で社務所の奥を示しながら、
「そこに廊下が左右に走っておりましょう。それを左へいくと、七段の階段をあがって拝殿になります。右へいくとこれまた七段の階段をあがって、神楽殿の背後にある会議室になっております。ゆうべはそこが|神楽《か ぐ ら》|太《だ》|夫《ゆう》の楽屋になっていたようですが、社務所の入口からとび込んできたとき、私はまだそこまでは気がついていなかった。会議室が神楽太夫の楽屋になっているということですね。私はこの社務所の式台から上へあがると、すぐ廊下を突っ切って、その半間の|襖《ふすま》からなかへとび込みました。その半間の襖はあけっぱなしになっていました。その奥が宮司の一家の住居になっていることはご存じでしょう。わたしは急いでひと間、ひと間をのぞいてみました。もちろん声をかけながらですよ。越智ですが、なにかあったんですかなどといいながらですね。返事もなく、だれの姿も見えませんでした。わたしはまたその廊下へとってかえすつもりでした。すでにお調べになっているかとも思いますが、その半間の襖のおくは、幅半間、長さ一間の廊下になっています。片側が押し入れ、片側が壁ですね。わたしがその廊下へさしかかったとき、あけっぱなした襖の外……つまりその廊下を風のように通りすぎたものがあったんです。そのときのわたしの位置からすると、右から左へですね」
「と、いうことは拝殿のほうから、会議室……ゆうべの状態でいえば、神楽太夫の楽屋のほうへですね」
広瀬警部補が念を押すと、竜平は無言のまま点頭した。
「それ、だれだったんですか」
広瀬警部補の声はいやに低かった。
竜平はゆっくり首を左右にふると、
「わかりません、顔は見えなかったんですから。でも、服装をいうとどういう種類の人間だか、みなさんにもおわかりになりましょう」
「どういう服装をしていたんですか」
「白い着物に黒っぽい袴をはいていました。着物が白だったから、ほんのちらっと|瞥《べっ》|見《けん》しただけのわたしにも、ハッキリ印象にのこったんです」
「神楽太夫ですね」
広瀬警部補はキラリと目を光らせて、
「顔は見えなかったとおっしゃったが、年かっこうくらいは……?」
「主任さん、わたしにどうして顔が見えなかったかと申しますと、そのものは……まあ、男でしょうな、その男はこういうふうに……」
竜平は|黒《くろ》|絽《ろ》の羽織をぬぐと、それをスッポリ頭からかぶってみせて、
「こういうふうに羽織を頭からかぶっていたんです。だから年かっこうもわかりませんでした」
「そいつがあなたのまえを横切って、拝殿のほうから神楽太夫の楽屋のほうへ……あなたいま風のようにという言葉をお使いになりましたが、風のように走り去っていったとおっしゃるんですね」
「わたしが廊下へ出てきたときには、その男、会議室の階段を駆けのぼっていくところでした。わたしいったんはご不浄へでもいったんではないかと思ったんです。ご承知のようにご不浄は拝殿のすぐ下にあります。しかし、それにしては羽織を頭からかぶっているのがおかしいし、それに拝殿の階段を、駆けおりる足音を聞いたような気もしたんです。それでついそっちのほうへいってみると……あとはそちらにいらっしゃる警部さんもご存じのとおりです」
「つまりあなたには内陣のなかにあるあのものが、なにを意味しているかすぐおわかりんさったんですね」
「すぐにというわけにはいきませんでした。灯が消えて拝殿も内陣も薄暗かったですからね。じゃけえど拝殿の表の格子から差し込む明かりで、真っ暗というわけでもなかったことは、あなたがたももうようご存じです。目が|馴《な》れてくるにしたがって、そこに演出されているのが、なにを意味するのかわかりました。そこで人をよびにとび出したところが、社務所のまえで出会ったのが警部さんです。出会い|頭《がしら》でしたね」
「出会い頭でした」
磯川警部もキッパリ答えた。
ちょっとした沈黙があったのち、口を出したのは金田一耕助である。
「そのう……神楽太夫ですね。あなたのまえを横切っていったという……その男はあなたに姿を見られたということに、気がついていたでしょうかねえ」
「それは……気がついていたと思います。わたし家のなかでそうとう大声で、呼ばわっていましたからね。越智です、越智竜平です、何事が起こったんですかなどと。神社の外は騒がしかったようですが、建物のなかはシーンとしずまりかえっていましたから、わたしの声は聞いたと思いますよ。そうじゃけん、羽織で顔をかくしたんじゃないでしょうかね。そのことについてあちらのほうから、まだなにも申し出はないんですか」
金田一耕助と磯川警部、広瀬警部補の三人はたがいに顔を見合わせた。広瀬警部補は軽く|咳《せき》|払《ばら》いをすると、
「いまのところありません。しかし、みんな足止めはしてありますから、あとで聞き取りのとき尋ねてみましょう。もし隠しているようなら|一《いっ》|喝《かつ》くらわせてやります。いや、よいことを聞かせていただきました」
「しかし、あの羽織の男がだれであったにしろ、犯人ではないんじゃないんですか。神楽太夫が神職を殺害する……考えられないことですからね。だいいち動機がない」
動機……?
それはいまのところだれにもわかっていないのだけれど、必ずしもないとはいえない。いまから二十年ほどまえにこの島で、神楽太夫のひとりが蒸発したと思い込んでいる人間がひとりいる。それが四郎兵衛という老人であるということを、いまでは広瀬警部補もしっている。そこいらになにか隠された動機が、あるのではないかという疑いが、そのときふいと三人の胸に浮かんだことは否定できない。
「ときにあの神楽太夫ですがね、あれも越智さんの寄進によるものですか」
これは金田一耕助の質問である。
「いいえ、あれはわたしではありません。祭礼にお神楽はつきものですから、わたしもなんとかしようと思うていたんですが、それぐらいのことはじぶんに持たせてほしいと、|錨屋《いかりや》のおじさん、つまり刑部大膳氏がおいいんさるもんですけん、その件に関するかぎり、あの人におまかせしたんです。ただし、ここらの応対はわたし直接じゃなく、いまむこうにいる秘書の松本克子がやったんです。あとであの人にお聞きください」
「ああ、そう、広瀬さん、あなたまだお聞きになりたいことが……?」
それはいっぱいあった。若き日の巴御寮人との駆け落ちの一件や、現在あの人にどういう感情を抱いているか、またこの島における土木工事の真の目的は|奈《な》|辺《へん》にありや等々々。しかし、それを聞いたところでほんとのことはいわないだろうし、だいいちそこまでほじくっていたら、この人ひとりで夜が明けてしまうだろうと思うと、広瀬警部補も|諦《あきら》めざるをえなかった。
「いや、けっこうです。わたしとしてはなぜ越智さんが拝殿のほうへいかれたのか、それが|腑《ふ》に落ちなかったもんですけん。それさえわかれば納得です。では、これくらいでお引き取りください。恐れ入りますが秘書のかたをこちらへお伝えねがえませんか」
松本克子と、そのつぎに呼び出された越智|多《た》|年《ね》|子《こ》が聞かれたのは、八時半に地蔵平の家を出るまでの竜平の動静だったが、その点についてはもうなんの疑いの余地はなさそうだった。たとえそのまえに竜平が家を抜け出し、ひそかにこの神社へ来たとしたところで、それでは|守《もり》|衛《え》殺害の時刻と|齟《そ》|齬《ご》を来たすので、その点については問題にならなかった。
松本克子は神楽太夫のことについて聞かれたが、それも竜平の申し立てたとおりであった。こんどの祭礼の準備のうち、神楽太夫の一件だけは、錨屋のご主人がお取り計らいになったのであると克子は答えた。
こうしてこの三人の聞き取りが終わっただけでも、時刻は三時をすぎていた。これでみても聞き取りというものが、いかに時間を食うものか、またいかに辛気臭いものであるかがわかるだろう。
夜が更けるにしたがって、聞きとるほうも聞き取られるほうも、すっかり疲労|困《こん》|憊《ぱい》しているのだけれど、鉄は熱いうちに打たねばならぬ。
越智竜平の一味の三人が終わると、つぎは巴御寮人を筆頭に、刑部の一族の聞き取りだが、このほうは人数が多い。巴御寮人に娘の|真《ま》|帆《ほ》、大膳に村長の|辰《たつ》|馬《ま》、ほかに六人の株内がいるのだから、聞き取りは|蜿《えん》|々《えん》として夜を徹し、ついに東の空が白むまでつづいてなお終わらなかった。この人たちは殺人と同時に火事のことについても聞かれたが、それらの模様はまた機会を見て記録にとどめておくとして、ここでは一足飛びに三津木五郎の聞き取りに移ることにしよう。
五郎が聞き取りの場へ呼び出されたのは、七月七日の午前七時半ごろのことだったが、あいかわらず胸にはカメラをぶら下げている。さすがにタフなこの若者も、殺人という異常事態に直面したあとの徹夜だから、すっかりふやけた顔をしていた。それでも持ちまえの人を食ったような態度はあいかわらずで、笑うと八重歯が魅力的だった。磯川警部はこの八重歯にヨワイのか、かれに笑顔をむけられると、|唇《くちびる》をへの字なりに結んで渋面をつくっていた。
「おはようございます。やっとぼくの番がまわってきたんですね。それにしても金田一先生、警部さん」
と、五郎はふたりに八重歯をむけて、
「これ人権|蹂躪《じゅうりん》もはなはだしいですよ。ぼくたち……ぼくと荒木定吉くんですね。ふたりはここで夜を明かすつもりだったんですよ。あなたがたが坐っていらっしゃるソファと、ぼくがいま腰かけているこの腰掛けを利用してね。それをあなたがたに追っ払われたもんですから、いままで神楽殿の柱にもたれて寝ていたんです。全身がメキメキいうようですよ」
磯川警部がなにもいわなかったので、金田一耕助がかわって答えざるをえなかった。
「それは失敬したな。しかし、事態が事態だからね。きみも立派に教育をうけた青年だ。理解があると思っていたんだが、なまじ教育があるだけに、ひと理屈こねなきゃおさまらないのかね」
「恐れ入りました。金田一先生、皮肉はよしにしましょう。それではなんでもお尋ねください。三津木五郎、包みかくさずありていに申し上げます」
と、ぴょこんとひとつ、人を食ったようなお|辞《じ》|儀《ぎ》をした。
広瀬警部補はいまいましそうに顔をしかめると、ひとゆすり体を乗り出して、
「そう、じゃぼくから聞こう。きみ、三津木五郎くんだね」
「それはいま申し上げました」
「年齢は?」
「二十二歳」
「住所は……?」
と、いいかけて、広瀬警部補は思い出したようにポケットから手帳を取り出し、
「いや、それはおれからいおう。神戸市|垂《たる》|水《み》区|瑞《みず》が|丘《おか》……これがきみの住所だね、それからきみのお父さんが社長をやっていた、三新証券はおなじ神戸の|生《いく》|田《た》区海岸通……警部さん……?」
磯川警部はなにかほかのことを考えていたのか、だしぬけに広瀬警部補に声をかけられると、ギクッとしたように身をふるわせて、
「えっ、いや、なに……」
と、いま目が覚めたばかりのように|相《あい》|槌《づち》を打った。その態度があまりおかしかったので、金田一耕助と広瀬警部補も、いぶかしそうに警部の顔を|視《み》|守《まも》っている。警部はバツが悪そうに、つるりと|頬《ほ》っぺたを|逆《さか》|撫《な》ですると、
「いやあ、これはわたしとしたことがあられもない。目をあけたまま眠っていたらしい。広瀬くん、いまなにかいったかな」
しかし、これはこの人らしくもないことであると、金田一耕助も広瀬警部補も、いよいよいぶかしげな視線を警部にむけたが、そのときである、吉太郎の放った最初の銃声が、この取り調べ室まで聞こえてきたのは。
第十七章 |噫《ああ》|無《む》|残《ざん》
「やっ、あれはなんだ」
予期せざる銃声にギックリ体を起こしたのは磯川警部。ソファからとびあがりそうになったのは、いささかオーバーなジェスチュアーといわざるをえなかったが、それもさっきの放心状態からくる|間《ま》の悪さを、とりつくろおうとしているのかもしれない。しかし、驚いたのは磯川警部ばかりではなかった。そこにいたほかの四人も大なり小なりびっくりしたらしく、銃声のしたほうにむきなおった。
「たしかに銃声でしたね」
広瀬警部補が|呟《つぶや》いた。
「まさか自動車のタイヤがパンクしたんじゃありゃせんでしょうなあ。こんな島ですけん」
筆記係りの藤田刑事が付けくわえた。
「あれ。|隠《おん》|亡《ぼう》|谷《だに》のほうですぜ」
注意をうながしたのは五郎である。金田一耕助はその顔を|視《み》|直《なお》して、
「きみは隠亡谷をしってるのかい」
「ええ、しってますよ」
「だれに聞いたんだい」
「駐在の山崎さんに聞いたんです。天下の奇勝だって」
「いってみたことある?」
「いや、|小《こ》|磯《いそ》の裏の丘のうえから望見しただけです。谷へはいっちゃいけないって、山崎さんに注意されたもんですから」
「なぜ谷へはいっちゃいけないんだ」
「|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》とかいってね、野生化した|獰《どう》|猛《もう》な土佐犬がいるんだそうです。|咬《か》み殺されるのがいやなら、絶対に谷へちかよるなと山崎さんに忠告されたんです。ぼくもまだ命は惜しいですからね」
五郎は例の八重歯を見せて|頬《ほお》|笑《え》んだ。あいかわらずさわやかな笑顔である。
「広瀬さん」
金田一耕助は警部補のほうへむきなおり、
「いまの銃声は吉太郎くん……この神社のじいやさんですね、あの男が阿修羅とやらいう猛犬を、しとめた音じゃありませんか」
と、簡単にきのうの午後の、オチョロ舟のなかでのいきさつを語ってきかせると、広瀬警部補は|眉《まゆ》をひそめて、
「そうすると吉太郎という男、足止めを無視して、ここを抜け出したというわけですか」
「あの男にとっては警察の命令より、|錨屋《いかりや》のご主人のいいつけのほうが大事なんじゃないですか。大膳さんの|股《こ》|肱《こう》をもって任じているようですから」
そのときである、吉太郎の放った銃声が、ふたたび刑部神社の境内にとどろきわたったのは。それも一発ではない、二発、三発……しばらく間をおいて、四発、五発。いままで落ち着いていた金田一耕助も、その銃声を聞いて顔色が変わったが、そこへ社務所の奥からとび出して来たのは大膳と村長の|辰《たつ》|馬《ま》である。
「金田一さん、吉太郎が……吉太郎が……」
大膳じさまは|顎《あご》をガクガクさせている。村長はムッツリとして|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうであった。
「はあ、吉太郎くんが猛犬をしとめたようですね」
「一発のもとにしとめたんなら、あんなにポンポン撃ちゃせん。吉太郎のやつ、危険にさらされてるんじゃないじゃろうか。それでああして助けを求めているのやもしれん。なにせ相手は獰猛なやつですけんな」
そのとき、また二発、三発銃声がきこえ、社務所のガラス障子が外から開くと、松蔵や信ちゃん、謙ちゃん、|一《はじめ》さんたちが肩を押し合うようにしてたむろしている。荒木定吉もそのなかにいる。みんな徹夜でふやけきっていたところを、いまの銃声で目が覚めたという顔色である。
「主任さん、吉やんのやつ気でもちごうたんとちがいますか。あげえにむやみに鉄砲撃ちよって。あのまま放っといてもええんでしょうか」
この島で銃を持っているのは、吉太郎ひとりきりだということはみんなしっている。したがって発砲のぬしが、吉太郎であろうことはだれにもわかるのである。
「金田一先生、どうしたもんでしょうな」
広瀬警部補は思いがけない事態に直面して、苦り切った顔である。なにしろ磯川警部はさきの放心状態から、まだ覚めやらぬ面持ちだから、頼りないことおびただしい。いきおい金田一耕助が相談相手である。
「ここは、このまま聞き取りをつづけることにして、谷のほうへはだれか人をやってみるんですね。この人たちにたのまれたらいかがです」
「そうじゃけえど、猛犬がいるんでしょう」
「ですから、警官をおやりになったら……。警官ならピストルを持っている。警官そうとう大勢きているんでしょう」
「ええ、それは……ですけえど、その阿修羅とかいう猛犬、撃ち殺してもええんですな」
「|旦《だん》|那《な》、いかがですか?」
金田一耕助は社務所の式台に立っている刑部大膳をふりかえった。
「ええ、ええ、撃ち殺してつかあさいよ。島のもてあましもんじゃけんな。村長、ええじゃろう? みんながいくならわしもいく。村長、おまえもいこう」
大膳じさまは錨屋から取り寄せたとみえ、ふだん着の|甚《じん》|平《べい》にずんどうの|股《もも》|引《ひ》き姿に着がえていた。村長もモーニングを脱いで、|開《かい》|襟《きん》シャツにズボンというラフなスタイルである。
さっき銃声を聞いて、奥からとび出し、
「吉太郎が……吉太郎が……」
と、顎をがくがくふるわせていたときの大膳は、たぶんにショボクレてみえていたが、いまこうして|雪《せっ》|駄《た》をはいて、たたきへ下り立ってきたところをみると、やはり威厳にみちていて、一方の将たる風格である。
かくして警官たちによって、吉やんの救援隊が組織された。警官は駐在の山崎さんをいれて四人である。ほかに私服もそうとういる。その警官たちを先頭に立て、島の人たちがひとかたまりになって、刑部神社の境内から出ていくまでには、そうとうの混雑があった。それだけに一同が出払ってしまうと、あとはもとの静けさである。神楽太夫の七人や刑部の一族はどうしているのか、シーンと鳴りを静めていた。
広瀬警部補がやっと落ち着きを取り戻して、時刻を見るともう八時半である。警部補はいまいましそうに舌打ちしながら、
「それじゃ、警部さん、また聞き取りをつづけますか」
「うむ、きみの好きなようにやりたまえ。わしはここで傍聴している」
磯川警部はしいてじぶんに|鞭《むち》を入れるように努力しているが、なんとなくそれが苦労らしく、だれの目にも気の毒に思われてならなかった。警部ももうトシである。それに聞き取りという仕事は、そうでなくともしんがつかれるものである。それともゆうべからの徹夜で腰の|痼《こ》|疾《しつ》が再発したのではないかと、金田一耕助が気遣わしそうに警部の横顔をうかがっている。たしかにきょうの磯川警部は、金田一耕助がまえからしっている、あのタフで仕事熱心なこの人とはちがっていた。
しかし、そういう|労《いた》わりの目で見られるということは、この人にとって、プライドにさわることらしく、警部はわざと声をはげまし、
「広瀬くん、なにをぐずぐずしとおる。さっさと仕事をはじめんかい」
しかし、それもなんとなく取ってつけたような虚勢にひびいた。しかし、広瀬警部補は素直にそれをうけて、
「はっ、ではつづけることにいたします」
と、五郎のほうにむきなおり、
「三津木くん、きみがいつかこの警部さんにいうたふたつの住所、きみの自宅だという神戸市垂水区瑞が丘の家と、三新証券の本社があるというおなじ神戸の海岸通のビル、これはどちらもほんとうらしいな」
「はあ、お調べになったんですか」
五郎はあいかわらず白い歯を出して笑っている。人を食ったような笑いである。
「ふむ、兵庫県の県警に照会して調べてもらうたんだ。むこうの刑事、三新証券の|新田穣一《にったじょういち》氏にも会ったし、きみの家の留守番をしている浅野こうなる婦人にも会ってきたそうだ。それでだいたいきみのいうたこと、間違いはないちゅうことになっとる。つまり、三津木五郎ちゅう、ことし二十二歳になる秀才がこの世に存在していて、両親の|菩《ぼ》|提《だい》を|弔《とむら》うために、四国八十八か所巡りをしてくるちゅうて、先月神戸を出発したちゅうことはたしかなようじゃな。神戸では新田穣一さんも浅野こうさんも、たいそう三津木五郎くんのことを心配して、いったいなにをやらかしたんかしらんが、じぶんが引き取りにいてもええと、新田さんなんかいうておいでんさるそうじゃ。そこまではきみのいうたことに間違いはないようじゃけえど……、しかし……」
広瀬警部補はわざとそこで言葉を切った。そして改めて五郎の顔をジロジロと見まわしながら、
「いまぼくの目のまえにいるきみが、果たしてその三津木五郎なる秀才であるかどうか、これは保証のかぎりではないな」
広瀬警部補がつっぱねるようにいい放つのを、五郎はまだなにも気がつかず、
「主任さん、それならご安心ください。ぼく正真正銘の三津木五郎です。新田のおじさんでも浅野のおばあさんでも、ぼくいつでも会いますよ。あの人たちがぼくを正真正銘の、三津木五郎にちがいないということを証明してくれるでしょう」
「そうかな」
そこで広瀬警部補はまたわざと言葉を切った。相手をじらせるようにタバコを一本抜き取った。カチッとライターを鳴らして火をつけると、うまそうに肺臓いっぱいにタバコの煙を吸いこんだ。
さすがの三津木五郎もちょっと不安そうな目で相手の挙動を|視《み》|守《まも》っている。いや、不安そうなのは、三津木五郎ばかりではない。磯川警部も居心地が悪そうにお|尻《しり》をモゾモゾさせている。広瀬警部補がこういう態度に出るときは、なにかしら重要な切り札を握っているということを、いままでの経験からして警部はよくしっているのである。金田一耕助はふしぎそうな目をショボつかせながら、そういう三人の顔を視くらべている。
広瀬警部補はさんざん相手をじらせるように、タバコをひと吸いふた吸いしていたが、やがて上をむいてふうっとタバコの煙を輪に吹くと、間一髪、たたきつけるように言葉を吐いた。
「それじゃ、きみに聞くがね、きみはいつその髪を短くしたんだ。いやさ、なんのためにヒゲを|剃《そ》ったんだ」
「えっ!」
「新田さんや浅野こうさんの話によると、先月の末四国八十八か所巡りをしてくると神戸を出たとき、きみはヒッピーみたいに、髪を長く伸ばし、顔中ヒゲだらけだったというじゃないか。その髪をいつ、どういう理由で短く切ったんだ。なぜヒゲを剃り落としたんじゃ」
たたきつけるようなこの質問は、たしかに五郎の急所をついたらしかったが、同時に磯川警部の|睡《ねむ》|気《け》も覚ましたらしい。警部は大きく視張った目で、文字通り穴のあくほど五郎の横顔を視詰めている。
金田一耕助は五郎も五郎だが、そういう警部のほうが気になるらしく、開いたノートのうえに鉛筆を持つ手をやすめたまま、警部の顔を視守っていた。
五郎はしかし、すぐ持ちまえのふてぶてしさを取り戻すと、
「そんなことぼくの勝手じゃありませんか。長の道中をするのに長髪やヒゲは、不便だと思ったもんですから……」
「そうかな、ただそれだけの理由かな」
広瀬警部補は意地悪そうに目玉をクリクリさせながら、
「それじゃ別のことを聞くがな。きみは|下《しも》|津《つ》|井《い》をしってるね」
「そりゃしってますよ。そこから船に乗ってこの島へきたんですからね」
「じゃ、その下津井に浅井はるという女が住んでいたのをしってるだろう」
「浅井はる……? それどういう女性ですか」
五郎はわざと首をかしげてみせたが、さすが人を食ったこの若者も、内心の動揺はおおうべくもなく、その態度にも落ち着きがかけてきた。
「しらばっくれるな!」
と、広瀬警部補は|一《いっ》|喝《かつ》くわせると、
「浅井はるというのはな、下津井で|市《いち》|子《こ》をしていた女だ。神降ろしともいうな。きみは先月、すなわち六月十五日午後二時ごろ、その市子浅井はるを訪ねていったろう、どうだ」
頭ごなしの大喝を、まともに受けた三津木五郎は、答えるまえにちょっとまをおいたが、そのあいだに持ちまえのふてぶてしさを取り戻したかして、せせら笑うように、
「ご冗談でしょう、主任さん、ぼくはこれでも現代の教育を受けた人間ですぜ。市子だの神降ろしなどに、関心があるはずがないじゃありませんか。それに……」
と、五郎はそこで開きなおって、
「そのことと、ゆうべの事件とどういう関係があるというんです。ぼくはゆうべの事件について聞きたいことがあるというので、ここにこうして控えているんです。これも市民の義務だと思ったもんですからね。市子だの神降ろしなど、そんな現代ばなれのしたことに、答える義務はありませんよ。だいいちぼくの全然関知せざるところですしね」
五郎はどうやら体勢を立てなおしたらしく、不敵の笑みをうかべている。
広瀬警部補もそれをいわれるとヨワイのである。しかし、そこで|怯《ひる》んではますます相手をつけあがらせるばかりであると、いっそう|居《い》|丈《たけ》|高《だか》になり、
「よし、それじゃ下津井の市子浅井はると、こんどの事件の関係を聞かせてやろうか。きみは六月十五日の午後二時ごろ、ヒッピー姿で浅井はるを訪ねていった。そして五時ごろそこをとび出してきたときは、気も狂乱のていたらくであったという。これにはちゃんと目撃者がいるんだ。そのとききみは浅井はるからなにか重大なことを聞いた。この|刑部《おさかべ》島に関することでな」
「へええ、浅井はるなる女性がそんなことをいっているんですか」
「黙れ!」
広瀬警部補は大喝一声すると、
「きみは浅井はるが六月十九日の晩、殺害されたことをしっているんだ。新聞で読んだんだろう。しかも、ヒッピー姿で浅井はるの家へ出入りするところを、人に見られたということもしっていた。そこで長髪を切り、ヒゲを剃り落として、改めてこの島へ渡ってきた。こういえば浅井はるの殺害事件と、ゆうべの事件が結びついてくるだろう。どうだ!」
五郎はしばらく黙していたが、やがて例のさわやかな微笑を警部補にむけると、
「主任さんはいま浅井はるなる女性は殺害されたとおっしゃいましたね。ところで殺害されるまえに浅井はるさんはだれかに……、そのヒッピー姿の若もんに、この刑部島のことに関して重大な事件を打ち明けたと、だれかに|喋《しゃべ》ったりなんかしたんですか。いや、あなたなりこちらの警部さんなりに申し上げたんですか」
痛いところをつかれて広瀬警部補は、ウームと|唸《うな》って、|唇《くちびる》をへの字に結んだ。それを見ると五郎はえたりとばかりにつけこんできた。
「それみんなあなたがた、あなたとこちらにいらっしゃるこの警部さんの……」
と、憎々しげに、磯川警部のほうへ顎をしゃくった五郎の顔には、露骨なまでの|侮《ぶ》|蔑《べつ》の色がうかんでいた。
「このおふたりの単なる|憶《おく》|測《そく》、いや|妄《もう》|想《そう》の結果じゃないんですか。ぼく憶測だの、妄想からくる質問にはお答えすることはできません」
広瀬警部補の満面は怒りのために朱を注いだが、それに反してふしぎなことに磯川警部はなんとなく不安そうで、ソファの坐り心地がよくないらしい。それが金田一耕助にはふしぎであった。
いずれにしても広瀬警部補が、浅井はる殺害の一件を、あまりはやく切り出したのはまずかった。むしろ相手がそれをしっているかどうか、じっくりと探りを入れていくべきであった。広瀬警部補もおのれの失敗についての自覚があるから、つぎの質問についての接ぎ穂を失ってしまった。当然そこに気まずい沈黙が落ちこんできたが、そこへ助け舟を出したのは金田一耕助である。
「広瀬さん、ちょっとわたしにこの聞き取りをまかせていただけませんか」
五郎にみごとお面一本取られて、すっかり面目失墜していた広瀬警部補は、
「さあ、どうぞ、どうぞ」
と、喜んで聞き取り役を金田一耕助に譲ったが、ただし、このもじゃもじゃ頭の探偵め、いったいどういう切り札を、持っているのであろうかという顔色であった。かえって五郎のほうが腰掛けのうえで居住まいをなおしたのは、それだけ警戒の|鎧《よろい》で身を固めたのだろう。
「じゃ、三津木くんに聞くがね」
「はあ、どういうことでしょうか」
「きみ、昭和二十年の生まれだといつかいっていたが、正確にいうと何月何日生まれ?」
「そのことが今度の事件となにか関係が……?」
「いいよ、いいよ、答えたくなければ答えなくともいい、兵庫県の県警へ照会すれば、すぐ調べがつくことだろうからね」
「あっはっは、いやに兵庫県の県警を持ち出しますね。では、そういう手数を|煩《わずら》わすのもなんですから、正直に申し上げますが、昭和二十年六月二十八日がぼくの誕生日です。これ、このへんにとっては因縁の深い日だとお思いになりませんか」
「それ、どういう意味?」
「すぐこの近くの岡山市が、空襲警報はおろか、警戒警報もなしにアメリカの|焼夷弾《しょういだん》攻撃にさらされて、全市|灰《かい》|燼《じん》に帰したのはその日ですよ」
「あっ、なるほど、それできみどこで生まれたの?」
「兵庫県の山崎です。正確にいうと|宍《し》|粟《そう》|郡《ぐん》山崎。そこがおやじの生まれ故郷ですからね」
「しかし、きみの話によるとお父さんは職業軍人で、長らく前線にいられたあと、終戦後復員してこられたんだということだったね。するとお母さんが|懐《かい》|妊《にん》されたのはいつのことかな」
「なんだ、こんどは母の貞操が疑われるんですか」
五郎はムッとしたような顔をしてみせたが、なぜかその表情には迫真性がなかった。広瀬警部補は話がどういうふうに発展していくのかと、ふしぎそうにふたりの顔を見くらべている。磯川警部は無言のままひかえていた。
「いや、答えたくなければ答えなくてもいいんだよ。じっさい|無躾《ぶしつけ》な質問だからね」
「なにも答えたくないとはいっていませんよ」
と、いったものの五郎もなんとなく薄気味悪そうである。
「それはこういうことです。ぼくのおやじは三津木秀吉といって陸軍中尉でした。その人昭和十九年までは東京の参謀本部に勤務していたんですね。ところが十九年も後半になると戦局とみにわれに不利でしょう。そこで参謀本部でもいろいろ深刻な内紛があって、|派《は》|閥《ばつ》抗争が起こったんだそうです。そのときおやじの属していた派閥がその内紛に負けて、すっかり一掃されたんですね。そこでおやじは前線へおっぱらわれたんですが、それ十九年の九月のことだったそうです。それまではおやじとおふくろ、おふくろの名は貞子というのですが、東京でいっしょに住んでいたんですから、ぼくを身ごもったとしてもふしぎはないでしょう」
「なるほど、しかし、きみはお父さんの四十二歳の子だといったね。しかも、夫婦のあいだに最初に恵まれた子宝だったとか……」
「はあ、それがなにか……?」
「いや、お母さんもずいぶん際どいときに妊娠されたもんだと思ってね」
金田一耕助は|嘲《あざけ》るようにいってのけたが、すぐ白い歯を出して笑うと、
「ごめん、ごめん、しかし、きみにはなぜぼくが、こんな失敬な質問を切り出したかわかってるだろう」
「わかりません、どういうわけです」
五郎はぶっきら棒にいったが、その語調にも迫真性がかけていた。なにかたじたじとしているふうであった。
「だって、きみィ」
金田一耕助は白い歯を見せながらも、わざと意地悪そうにニヤニヤして、
「きのう、いや、もうおとといになるが、越智さんが小磯の船着き場へ着かれたとき、われわれみんなお迎えにあがったね。きみも荒木定吉くんといっしょにきていたじゃないか。あのとき越智さんが自動車に乗って、いままさに|波《は》|止《と》|場《ば》を出発しようとしたとき、きみ自動車のそばへ駆けよって、なにかひと声かけたようだが、きのうの晩越智さんに聞くと、きみ、あの人にむかってお父さんと呼びかけたそうじゃないか」
「金田一先生!」
五郎が答えるまえに磯川警部が、はじけるような声をあげたので、金田一耕助はおもわずそのほうへ振りかえった。どういうわけか警部の目は、張り裂けんばかりに見開かれて、|唖《あ》|然《ぜん》たる顔色であった。しかし、つぎの瞬間、その唇をついて出た言葉は、ささやくように低かった。
「金田一先生、この男、越智さんにむかって、お父さんと呼んだんですって?」
「ご免なさい、警部さん、ゆうべの騒ぎであなたにはまだこのことを、申し上げるひまがなかったんです」
「それについて越智さんは、なんというておいでんさるんです」
「いや、それはまだ聞くひまがなかったんですが、あの人なにか心当たりがあったらしく、地蔵平の家へかえるとさっそく人をやって、この人のことを調査したらしいんですよ。錨屋に泊まっている三津木五郎と、ちゃんと名前までご存じでしたからね。その点について五郎くん、答えてくれないかね」
しかし、五郎にとってはその答えはすでに用意ができていたらしい。落ち着きはらって不敵な微笑をうがべながら、
「あの人そんなことをいっているんですか。幻滅だなあ、あの人少しヤキがまわってるのんとちがいまっか」
「それ、どういう意味?」
「ぼくがいったのは越智さんと……あの人の名を呼んだんですよ」
「しかし、ねえ、三津木くん、われわれもあの情景を見ていたんだが、きみあのときとても激情的だったぜ。越智さんと呼びかけて、そのあとなんというつもりだったんだい」
「だって、あの人英雄でしょう。かつて石もて追われるがごとく、この島を出ていった人でしょう。この島に恨みこそあれ恩はない。それにもかかわらず大金を投じてこのお宮を建てかえたり、ゴルフ場をつくったり、つまりすっかり衰微荒廃したこの島に、もういちど昔の繁栄を取り戻そうと尽力してるんでしょう。ぼくたち若いもんの目から見れば現代の英雄ですよ。ぼくこう見えてもロマンチストですからね。だからあのとき、今後もこの島のために力を貸してあげてくださいと、そういおうとしたんですよ」
しかし、この釈明はどう考えても説得力が弱かった。|牽強付会《けんきょうふかい》としか思えなかった。金田一耕助はすっとぼけた顔をして、もじゃもじゃ頭をゆっくりと|掻《か》きまわしていたが、磯川警部はどういうわけか、満面に怒気を表わして、
「おい、若いの。あんまりひとを|舐《な》めるんじゃない」
つづいてなにかいいかけたが、社務所の表から松蔵があわただしく駆け込んできたのはそのときである。信吉もあとにつづいていた。
「金田一先生!」
大声でわめいてから、すぐ奥のほうに目をやると、急に声をひそめて、
「すぐ谷のほうへきてつかあさい。錨屋の|旦《だん》|那《な》がお呼びですけん。それからこちらのおふたりさんもすぐきてつかあさい。これは警察の旦那がたのおことづけです」
「松蔵くん、どうしたの。吉太郎くんになにか間違いがあったの」
「うんにゃ、吉やんは大丈夫ですけえど、きょうといことができてしもうて……」
「きょうといというのは怖いという意味ですね。どういう怖いことが起こったんですか」
「あの阿修羅ちゅう犬が、人を咬み殺しよったんですらあ」
「人を……? 咬み殺したあ……?」
金田一耕助と磯川警部、広瀬警部補の三人は思わずギョッと顔を見合わせた。五郎もことの意外ななりゆきに、|呆《ぼう》|然《ぜん》として目を見張っている。
「咬み殺されたのはだれ……?」
「ここでは大きな声ではいえませんけえど……」
と、松蔵は奥に気をかねながら、
「とにかくはようきてつかあさい。さいわい木下先生がまだ錨屋においでんさったもんですけん、現場へきていただいて、いま|検《けん》|屍《し》とやらをしていただいておりますん。三人ともはよう、はよう」
松蔵にせきたてられた一同は、|急遽鳩首《きゅうきょきゅうしゅ》協議の結果、聞き取りは一時延期して、隠亡谷の現場へ駆け着けることになった。
「主任さん、この男はどうします」
藤田刑事の質問に、
「いっしょに連れていったらどうです。一度はなんでも見てやろうくん、野次馬根性も|旺《おう》|盛《せい》らしいから、喜んでついてくるでしょう」
金田一耕助が助言した。
「よし、藤さん、逃げようとしたらかまうことはない、遠慮容赦なく手錠をかましてしまえ」
一同は松蔵や信吉のあとにつづいて、刑部神社の階段を駆けおりた。地蔵峠へさしかかる少し手前に左へ下る小道がある。ふだんはめったに人が通らぬ道とみえ、丈高い雑草がいちめんに生い|茂《しげ》っている。金田一耕助はいままでそんなところに、道があるとは気がつかなかった。曲がり角に赤松が一本、亭々として|聳《そび》えているのが目印になっているらしい。土地の人は一本松と呼び、その下に街灯がついている。
左右からおおいかぶさるように生えている雑草をかきわけて、五、六分急な坂を下ると、やっと道らしいところにいきついた。その道は地蔵坂の|麓《ふもと》をぬうてくねくねと、小磯のほうへつづいている道である。さらにその道を二分ほど下ったとき、金田一耕助をはじめとして、磯川警部、広瀬警部補らの口からいっせいに、あっというような驚きの声がつっ走った。かれらのまえに|豁《かつ》|然《ぜん》として、隠亡谷の景観が|展《ひら》けてきたからである。磯川警部はまえにもいちどこの島へきているのだけれど、こちらのほうへ足を踏み入れたことがなかったらしい。
しかし、ここでまた隠亡谷の景観や、それにぶつかった一同の感懐を、くだくだしく述べるのは控えよう。
「はよう、はよう、こっちへきてつかあさい」
先頭に立った松蔵と信吉のすぐ足下に薬師岩の舞台がある。ふたりは滑るようにその舞台へとびおりた。一同もそのあとにつづいたが、しんがりは三津木五郎である。五郎のそばには肩をならべるようにして、藤田刑事が寄りそっている。相手にちょっとでもへんな挙動があれば、手錠をかませるつもりである。
舞台に立って下流のほうを見渡すと、二〇〇メートルほど下の谷底に大勢人が群がっている。そのなかには大膳や村長の姿も見え、どうやらそこが現場らしい。しかし、金田一耕助も磯川警部も、ろくにその景観を楽しんでいるひまはなかった。
薬師岩の舞台を横につっ切ると、松蔵と信吉は西の|端《はず》れから下の岩へとびおりた。一同もそれにならってとびおりた。金田一耕助は|下《げ》|駄《た》ばきだから、こんなときつごうが悪いのだが、いまはそんなこといっている場合ではない。
幾つか岩を渡っていったのち、
「金田一先生、これ……」
松蔵が指さした岩のうえに目をやったとき、金田一耕助はおもわずゾーッと総毛立つような気がして、下駄を鳴らしてとびのいた。血だらけになった岩のうえには巨大な犬が横倒しになっていて、切り裂かれた腹部から|臓《ぞう》|腑《ふ》が真っ赤なボロぎれのようにはみ出している。
「吉やんがやっつけたんです。あいつは虫の好かんやつですけえど、昔から豪胆なやつでした。わしだったらどげえなことになったろうと思うと、ゾーッとしますらあ」
金田一耕助も磯川警部もおもわずその犬から目をそむけたが、それからまもなくかれらはより以上にむごたらしいものに直面しなければならなかった。しかも、今度は目をそむけるわけにはいかなかったのである。
じじいの松にはあいかわらず、|烏《からす》がたくさん群がっていて、ギャーギャーとさかんに鳴き騒いでいるが、それから少し下に巨大な岩と岩とが重なりあって、小さなトンネルのような|窪《くぼ》みを形造っているところがあった。そのへんいったい、あちこちに|水《みず》|溜《た》まりができていたが、トンネルのなかだけは乾いていた。砂利と小石をしきつめた、そのトンネルの床にあのむごたらしいものが横たわっていたのである。
そのものの状態をあまり詳しく描出することはひかえよう。読者諸君の食欲減退をおそれるからである。ただここには犬に|食《は》まれ、烏に|啄《ついば》まれた世にも無残な人間の死体とだけ書いておこう。
「|片《かた》|帆《ほ》ちゃんですね」
金田一耕助はふりかえって、放心したようにそこに立ちつくしている大膳じさまにささやきかけた。大膳は沈痛な色をして、無言のままただうなずいただけである。金田一耕助は改めて村長に尋ねた。
「犬に咬み殺されたってほんとうですか」
「無鉄砲なやつですて。ひとめを避けて、小磯の船着き場までいくつもりだったんでしょうな。あそこの細道……島ではあれを隠れ道とよんどりますけえど……」
と、村長は地蔵坂の|麓《ふもと》をうねっている、細道のある一点を指さすと、
「あそこにこの|鞄《かばん》がころがっとりましたけんな」
と、村長は足下においた、ビニールの大きなバッグを|顎《あご》で示した。
「なるほど、この鞄を持って船着き場へ急いでいるところを、猛犬に襲われたというわけですか」
だが、そのときである、片帆の死体のそばにうずくまっていた木下医師が、きびしい声で呼びかけたのは。
「おい、広瀬くん、またきみの仕事がひとつふえたぜ」
「…………?」
「この娘は、犬に咬み殺されたんじゃありゃせん。そのまえに首を|絞《し》められて死んだんじゃ、なにか|紐《ひも》様のもんでな。これは明らかに絞殺死体じゃよ」
第十八章 |蓑《みの》と|笠《かさ》
|刑部《おさかべ》島はいまや恐怖のどん底に|叩《たた》き込まれている。
昨夜の神主|串《くし》|刺《ざ》し殺人事件につづいて、こんどは神主のふたごの娘のひとりが、絞殺死体となって発見されたのである。しかも、それは単なる絞殺事件としては終わらず、そのあと野犬の|餌《え》|食《じき》となってズタズタに|咬《か》み裂かれたうえ、おびただしい|烏《からす》の群の|啄《ついば》みにゆだねられた、世にも|凄《せい》|惨《さん》な死体となって発見されたのだから、そのとき刑部島にいた人びとが、震えあがって恐れ|戦《おのの》いたのもむりはない。
これらの恐怖は荒涼たる隠亡谷の河原のなかで凍りついていた。死体が発見された岩陰の現場を中心として、そこにはいま何重にも|人《ひと》|垣《がき》ができている。死体にいちばん近い内円にいるのは磯川警部と広瀬警部補、金田一耕助の捜査陣に、木下医師である。
かれらの少し背後には、沈痛な面持ちをした刑部大膳と村長の|辰《たつ》|馬《ま》。大膳の背後には猟銃をひっさげた吉太郎がひかえているが、その顔にはどこか|痴《ち》|呆《ほう》的な虚脱感がうかがわれる。かれが身につけている黒い|鞣革《なめしがわ》のオーバーオールのまえには、ところどころ鋭い|鉤《かぎ》|裂《ざ》きができ、赤黒い血の|飛沫《し ぶ き》がまだいちめんにこびりついている。むこうの巨石のうえにころがっている猛犬の|死《し》|骸《がい》と見くらべるとき、人と犬との格闘が、いかに|熾《し》|烈《れつ》なものだったかが連想され、人びとをまた改めて震えあがらせるのだった。
三津木五郎はさきに来ていた、荒木定吉と合流して、なにかしきりに小声で話し合っている。なにを話しているのかわからないが、定吉の顔には恐怖の色が深かった。三津木五郎はあいかわらず、胸にカメラをぶら下げていて、定吉との話の合間には、カメラのシャッターを切っていた。
このふたりから少し離れた背後には、松蔵や信吉ら、こんどの祭りのために帰島した人びとがたむろしていて、|怯《おび》えた顔を凝縮させている。みんな昨夜とおなじお祭り|衣裳《いしょう》だが、こういう凄惨な事件がつづいたあととあっては、そのお祭りの|印袢天《しるしばんてん》もなんとなく、|虚《むな》しいものに思われてならぬ。もう威勢よく、向こう鉢巻きをしめているものはひとりもいない。
そのほかこの河原のなかに散らばっているのは、制服の警官や私服の捜査員。ほかにゆうべの事件で駆け着けてきた、マスコミの連中がおおぜいいて、いたるところで捜査員と|小《こ》|競《ぜ》り合いを演じている。マスコミにはマスコミの使命がある。かれらは事件が起こるとできるだけ敏速、かつ詳細に報道すべく義務づけられている。それにはいまこの島で起こった、いや、あるいは起こりつつある事件こそ、|恰《かっ》|好《こう》の題材ではないか。かれらはできるだけ刺激的な記事を作成するため、あるいはできるだけ扇情的な写真を撮るため、いたるところで捜査員諸公と渡り合っているのである。
谷の外にもおおぜい人がむらがっていた。
薬師岩の舞台には越智竜平がきていて、|眉《まゆ》をひそめて下流のほうを眺めている。そのそばに松本克子と越智多年子が寄りそっている。かれらはけさはやく聞き取りが終わると、いったん帰宅が許されたので、三人とも平服である。多年子は地味な|浴衣《ゆ か た》であった。ゴルフ場やホテル建設の技師や作業員たちもおおぜいきていたが、この人たちはこの恐ろしい事件に、直接関係のないことだから、ここでは無視することにしよう。
この人たちと少し離れたところに、神楽太夫の七人がひとかたまりになって、現場に当たる下流を視詰めていた。この人たちはひと晩会議室でゴロ寝をしていたので、みんな着物も袴もクシャクシャになっている。四郎兵衛の顔にはあいかわらず苦渋の色が濃かったが、それを取り巻く平作、徳右衛門、嘉六の三人は、ゆうべからハラハラしどおしである。
この四人にくらべるとはるかに若い弥之助は、四郎兵衛の苦悩などわれ関せずえんである。それより犬に|咬《か》み殺された人間なるものに、露骨に好奇心を示し、野次馬根性を発揮して、ともすれば薬師岩の舞台からとび降りそうにしては、長老たちから|叱《しか》られていた。誠と勇の兄弟は、五人から少し離れたところに立って、なにかしきりに目顔で合図をしあっている。
このお薬師さんの舞台から二キロほどへだてた正面に、|小《こ》|磯《いそ》の裏の丘の頂上が望見される。さっき吉太郎が立って、この谷を偵察していた丘である。その丘の小道に、いまいっぱいの人が群がりうごめいているのが、|蟻《あり》の行列のように望まれる。|新《しん》|在《ざい》|家《け》や大磯小磯に住む人びとや、こんどの祭りを当てこんでやってきた、露店商人の群であろう。おそらくこのとき刑部島にいた人びとは、ひとり残らず隠亡谷を展望できる、いずれかの地点へ出てきていたにちがいない。吉太郎の乱射した銃声は島中にとどろき渡り、島中の人びとをこの谷の周辺に呼び集めたのである。
それらの人びとははじめのうち、だれかが犬に咬み殺されたのだそうなと聞かされていた。そのだれかがいつか女の子らしいということになり、さらにそれが昨夜殺害された|神《かん》|主《ぬし》のふたごの娘のひとりである、すなわち|片《かた》|帆《ほ》らしいとわかってきて、人びとはこの奇妙な運命のいたずらに、|戦《せん》|慄《りつ》せずにはいられなかった。
物慣れたはずの磯川警部や広瀬警部補、金田一耕助らでさえ、はじめのうちは犬に咬み殺された死体とばかり思い込んでいた。ことほどさように片帆の死体は、無残に肉が咬み裂かれ、食い荒され、烏どもによって啄まれていたのである。
それだけに木下医師の投げかけた、爆弾の効果は大きかった。
「この娘は、犬に咬み殺されたんじゃありゃせん。そのまえに首を絞められて死んだんじゃ。なにか|紐《ひも》様のもんでな。これはあきらかに絞殺死体じゃよ」
その一言を聞いたとき、金田一耕助はめったやたらともじゃもじゃ頭をひっかきまわした。それがほんとうなのだ、それでこそスジが通るのだという思いが、|肚《はら》の底からこみあげてきたからである。磯川警部もおなじ思いだったらしく、
「ウーム!」
と、|唸《うな》って|唇《くちびる》をつよく|噛《か》みしめた。あいつぐ殺人事件に警部もどうやら、さっきからの虚脱放心状態から目が覚めたらしい。ただひとり広瀬警部補だけは、よほどそれが意外だったらしく、河原のうえでとび上がらんばかりに驚いて、
「先生、そ、それじゃこの娘、犬に咬み殺されたんじゃのうて、そのまえにだれか人間の手によって、絞め殺されていたとおいいんさるんで?」
「そうじゃよ、広瀬くん、ウソじゃと思うんなら、首のまわりをよう調べてみい。紐様のもんで絞められた跡が、くっきり残っとるけんな」
そこで広瀬警部補と磯川警部、金田一耕助の三人は、いやでもこの|凄《せい》|惨《さん》な死体を、正視しなければならなかった。
あいにく片帆は首のまわりをあらかた食い荒らされているので、よくよく注意してみなければわからないのだけれど、わずかに残った肉のうえには、紫色の|索条《さくじょう》のあとが、食い入らんばかりに印されている。それはその気になって調べないかぎり、見落としてしまいそうなほど、ごくわずかの部分であった。
もしこのとき木下医師というひとが、島に居残っていなかったら、片帆の死は猛犬|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》の責任とされ、不幸な事故として片付けられていたかもしれない。
「いずれ、解剖してみればハッキリすることじゃけえど、この娘は窒息死したんじゃな。いや、させられたんじゃ。犬に肉を食われたり、烏に目玉をほじくられたりしたんは、それからあとということになる。そうじゃけえど……」
と、木下医師は|憮《ぶ》|然《ぜん》たる顔色で、
「そのほうがこの娘にとって、どれだけ仕合わせだったかもしれん。犬に咬み殺されるちゅうことは、どげえにきょうとい、そら恐ろしいことかしれんけんな。それよりひと思いに絞め殺されたほうが、苦痛もそれだけ少なかったろう。むごいことをいうようじゃけえど、この娘、どうせ生きてはおれん運命じゃったとしたらな」
木下医師のこの発言はたちまち谷中にひろがって、人びとをまた改めて恐怖のどん底に、|叩《たた》き込んだことはいうまでもない。
「そうすると、先生」
金田一耕助がそばから、遠慮がちにくちばしを入れた。
「被害者が死にいたらしめられた現場は、かならずしもこの岩陰とは限らないわけですね」
「それじゃよ、金田一先生、被害者はどこかほかで絞殺されたんじゃろうな。そして、死体となって横たわっているところを、よき|獲《え》|物《もの》ござんなれとばかりに、いまむこうの岩のうえで死んでいるあの猛犬、阿修羅とかいうたな、あいつが|咥《くわ》えてここまで引きずってきよったんじゃろ。全身いたるところに|擦過傷《さっかしょう》がついとるし、それにここはあの猛犬の、ねぐらになっとったらしいんじゃな。穴の奥を|覗《のぞ》いておみんさい。小動物の骨がいっぱい散らばっとるけん。広瀬くん、殺人のほんとの現場を調査しといたほうがよいのんとちがうか」
木下医師の|示《し》|唆《さ》によって、さっそく広瀬警部補の部下が召集された。かれらは警部補の命をふくんで隠亡谷のなかへ散らばっていったが、その多くが片帆のバッグが落ちていた、隠れ道のほうへ急いだことはいうまでもない。広瀬警部補もそっちのほうへついていった。「それはそうと、先生、その娘、絞殺されたとしたら、それいつごろのことちゅうことになるんでしょうかねえ」
広瀬警部補が離れたので、いきおい磯川警部がその場を担当せざるをえなかったが、金田一耕助もそれをしりたいと思っていたところである。
木下医師は近くの|水《みず》|溜《た》まりで手を洗うと、そのあとアルコール綿で消毒しながら、顔をしかめて、
「死後もだいぶん時間が|経《た》っとるけん、きのうきょうということはないな。少なくともあの|串《くし》|刺《ざ》しにされた仏よりまえのことじゃろう。ごらんのとおり腐敗がだいぶん進んどるけんのう」
腐敗がだいぶん進んでいるということは、だれの目にも、いや、誰の鼻にも明らかであった。見るも無残なその死体は、鼻をつんざくような異臭を放っていて、近まわりにいる人びとは、みんなハンケチ、あるいは|手《て》|拭《ぬぐ》いで鼻をおさえている。もののいちばん腐敗しやすい季節なのである。
「先生、そげえな|曖《あい》|昧《まい》なことおいいんさらんで、もっと正確なとこいうてつかあさい。その仏、死後何時間ぐらい経っとるとおいいんさるんで」
「そうですな」
木下医師は|顎《あご》を|撫《な》でながら、
「この腐乱状態では一昼夜、つまり二十四時間以上はたっとるじゃろうな。と、いうて、真っ昼間こういう開けっぴろげた谷間で、殺人が行なわれようとは思えんけん、おととい、すなわち五日の夜の犯行ということになるんじゃないけ。そうじゃな、死後の推定時間三十五、六時間というとこじゃろうか」
「そうすると、五日の夜九時か十時ごろの犯行ということになりますな」
磯川警部が腕時計に目をやりながら念を押した。腕時計の針はそろそろ九時を指している。
これはまったく驚くべきことであると、金田一耕助はぼんやりと、もじゃもじゃ頭を|掻《か》きまわしながら考えている。
これは明らかに連続殺人事件である。連続殺人事件の場合、第二の犠牲者が血祭りにあげられるのは、第一の犠牲者よりあとなのがふつうである。つまり、第一の殺人事件の動機なり、真相なり、犯人なりをしっているがゆえに、その口を封じるがために、同一犯人によって消されるのである。
ところがこの刑部島の連続殺人事件の場合、第二の犠牲者だとばかり思われていた片帆のほうが、その父守衛より一昼夜もはやく殺害されていたというではないか。このことは医師の診断を待つまでもなく、片帆の死体の腐乱状態からして、どのような|素人《しろうと》の目にも|頷《うなず》けるのである。
すると今度の事件における犯人の主目的は、片帆の殺人ということになるのであろうか。そして片帆の死体が発見された場合、守衛がその真相なり、犯人なりを看破することを|危《き》|惧《ぐ》して、はやいこと串刺しにして、口を封じてしまったのだろうか。それとも守衛殺しと片帆殺人事件とは、全然べつの事件なのだろうか。それぞれ違った動機があり、犯人も別ということになるのか。
しかし、金田一耕助はその説には承服できなかった。むしろ一笑に付したといってもいい。こんな狭い島に殺人本能を持った人間が、そう幾人もいるとは思えないからである。動機にしてからがそうである。ましてやふたりの被害者は父とその娘である。そこになにか共通の動機がなければならぬ。娘とその父を矢継ぎばやに殺してしまう。そこにいったいどういう動機があるのだろうか。
七月七日の太陽は隠亡谷の空高くあがって、|煎《い》りつくような|陽《ひ》|差《ざ》しがジリジリと、この荒涼たる谷全体を照らしている。きょうもまた暑くなりそうである。
その谷の河原には多くの人が散らばって、あるいは声高に、あるいはヒソヒソ語っている。薬師岩の舞台から五〇メートルほど下流の隠れ道のある一点に、広瀬警部補と捜査員が集まって、額を集めてなにやら相談している。絞殺現場が見つかったのだろうか。
金田一耕助はあまりの暑さに息苦しさを覚え、帽子をとってハタハタと風を入れながら、谷全体を見まわしていたが、ふとその目が薬師岩の舞台へいくと、そこに越智竜平と松本克子、竜平の叔母の多年子の三人が、ひとかたまりになって|佇《ちょ》|立《りつ》している。そのとき竜平と金田一耕助のあいだには、そうとう距離があったので、竜平の顔色までは見えなかったが、「動機」という文字がとつぜん竜平の全身とオーバーラップして、金田一耕助の網膜に焼きついた。
それがあまりとつぜんだったので、金田一耕助はめくるめくような気がして、思わず河原の石ころのうえでよろけそうになった。
しかし、その思考はしつこくかれを|捉《とら》えて放さなかった。この男が十九年ぶりに島へ帰ってきたことが、このたびの刑部島の悲劇に結びついているのではないか。しかし、それはどういう意味で……? この男が島へ帰ってくれば、なぜ片帆が絞殺されなければならないのか。なぜまた神職が串刺しにされねばならなかったのか。……
しかし、金田一耕助はその問題を、それ以上追求することはできなかった。そばから磯川警部が声をかけてきたからである。
「金田一先生、この娘……片帆という娘の生きとるとこを、最後に見たもんはだれちゅうことになっとりましたけ。もちろん犯人はべつとしてですけえど……」
「えっ、警部さん、いまなんとおしゃいましたか」
「いやな。この被害者の生きとるとこを、最後に見たもんはだれじゃったかと、木下先生がお尋ねになるもんですけんな。それ、いったいだれじゃったかいな。わしゃもうすっかり頭がこんがらがってしもうて」
磯川警部は悲しそうに首を左右にふった。
たしかにこの事件における磯川警部は、金田一耕助の|識《し》っているいつもの警部とちがっていた。いやに|居《い》|丈《たけ》|高《だか》になるかと思うと、聞き取りの最中に虚脱放心状態におちいったり。この人もおトシのせいでヤキがまわったのではないかと、思わざるをえない場面がしばしばあった。
「警部さん、あなたは疲れていらっしゃるんですよ。昨夜から一睡もしていないんですからね。ときに、いまあなたのおっしゃった問題ですね。それは|錨屋《いかりや》の旦那にお聞きになったらいかがです。旦那のお話によると、それはたしか|真《ま》|帆《ほ》ちゃんということになっていたようですが、真帆ちゃんが生きている片帆ちゃんを最後に見たのは、一昨日……七月五日の何時頃のことだったか……」
しかし、この際大膳は頼りにならなかった。きのうにつづくきょうの惨劇で、さすが|剛《ごう》|毅《き》なこのじさまも、虚脱放心状態で、金田一耕助のその質問も、ろくに耳にはいらないらしかった。おそらくつぎからつぎへと浮かぶ|忌《いま》わしい想念が、頭のなかで目まぐるしく|錯《さく》|綜《そう》して、整理がつきかねているのだろう。
そこで村長がそばから口を出した。
「おじさんは、まあ、堪忍してやってつかあさい。これでは刺激が強過ぎる。わたしでよかったらお答えしてもええけえど」
「もちろんあなたでもけっこうです。真帆ちゃんはどういってるんです。ここにいらっしゃる警部さんにいってあげてください」
「詳しいことはあの|娘《こ》に聞いてみんことにはわからんけえど、なんでも片帆はこの島がいやになったけん、出ていくちゅうて、引き止める真帆の手を振り切るようにして、出ていてしもうたちゅうことでした」
「それが七月五日……おとといのことなんですね」
「そうそう、島を出るにしても、あしたの祭りがすんでからにしたらどうかと、真帆が意見をくわえたそうじゃけえど、その祭りがいやじゃ、虫が好かん、|巫女姿《みこすがた》でおおぜいの人のまえで舞うなんて、考えただけでもゾッとするいうとったそうじゃけん、おとといということになりますな」
「おとといといっても二十四時間ありますが、片帆ちゃんが出ていったのは昼間ですか、それとも夜になってから……?」
「もちろん日が暮れてからのことですじゃ。支度は昼間からしとったんでしょうけえど、なにしろ人目を避けての家出ですけんな。日がとっぷり暮れて、あたりが暗うなってからのことでしょう。そうそう、真帆がいうとったけえど、片帆が出ていってからまものう、大雷雨が襲うてきたので、ずいぶん気を|揉《も》んだちゅうことです」
「そうそう、おとといの晩はひとしきり、激しい雷雨がありましたが、あれ何時ごろのことでした」
「キッチリ八時でしたよ」
「村長さんはいやにハッキリご存じなんですね」
「それはこういうこってすて。おとといの晩、太夫……ゆうべ殺された神主ですな、あの人新在家の錨屋へきとおりました。あしたの祭りの打ち合わせ……と、いうより、あのものを……」
と、薬師岩の舞台にいる越智竜平のほうへ|顎《あご》をしゃくって、
「どういうふうに扱うたらよいじゃろかちゅう相談でした。わたしもその席にいたんですけえどな。さて、相談も終わって、いざお開きにしようというだんになって、とつぜんザーッと激しい雨が落ちてきよりました。雷はそのまえからゴロゴロ鳴っとおりましたけえど、それが急に大きゅうなりよって、ゴロゴロピカピカ……そこで時計を見ると、ちょうど八時じゃったちゅうわけです」
そういいながら村長は|眉《まゆ》をひそめて、片帆の身につけているものに目をやった。
片帆は黒いスラックスに派手なブラウスを着て、そのうえに薄手のカーディガンをはおっていたらしいが、ほとんど原形もとどめぬまでに、ズタズタに咬み裂かれたそれらの衣類は、いったんタップリ水を吸ったとみえ、まだ生ま乾きの状態である。
「そうすると片帆ちゃんはあの大雷雨のさなかを、ひとめを避けようとて、あの隠れ道へおりてきたんですね」
金田一耕助は胸もふさがる思いであった。その隠れ道のすぐ足下には隠亡谷が展開している。その隠亡谷には阿修羅という猛犬がいることを、片帆もしらぬはずはない。そういう危険も|顧《かえり》みず、片帆を家出に駆り立てた動機とは、いったいどのような事情だったろう。
「ときに、宮司さんはいつごろ錨屋さんを出られたんです」
「そうそう、雷を伴うた雨は、いっとき激しゅう降りよりましたけえど、半時間ほどするとさしもの雷もやみ、雨も小降りになってきたもんですけん、わたしといっしょに錨屋を出たんです。わたしの家は新在家で、錨屋のすぐ近くですけえど、太夫はだいぶん距離がありますけん、錨屋で|傘《かさ》を借りていきよりました」
「それ何時頃のことでした?」
「錨屋のまえで別れるとき、時計を見たら八時半でした。よう気イつけておいでんさい、ちゅうて別れたんですけえど……」
「そうすると、神主はどこか途中で被害者と、出会うたかもしれんな、そして……」
磯川警部が横からくちばしを入れたので、村長は眉をひそめて、
「そして……?」
と、オーム返しに聞き返した。
「そして、神主がこの被害者を締め殺した……」
磯川警部のこの発想ほど、その場にいあわせた人びとを驚かせたものはない。金田一耕助も|呆《あき》れたが、村長も頭からバカにしたような口調で、
「あんた、いまなんとおいいんさった?」
「いやな、わしはいま錨屋を出た神主と、家出をしようとして、うえの神社を出た被害者は、当然坂の途中で出会うたにちがいないと思うてな。時間的にいうとそうなるんじゃないですか」
と、磯川警部は|濡《ぬ》れそぼれた片帆の衣類に目をやった。
「ふむ、ふむ、なるほど。それで、太夫がその娘を締め殺したとおいいんさるんで?」
「まあ、そういうことですな」
しかし、そういう磯川警部はいかにも自信がなさそうだから、金田一耕助はかたわらでハラハラしている。いったい捜査の途次で捜査員が、自己の|思《おも》|惑《わく》を他に|洩《も》らすなどということはタブーとされている。それをわきまえぬ磯川警部ではないはずだが、きのうからきょうへかけての警部の言動は、とかく常軌を逸しているので、金田一耕助がそばでハラハラするのもむりはない。
村長は居丈高になって、
「なぜまた太夫がその娘を殺すのです。その娘は太夫の血をわけた娘ですぞ。父がまたなぜおのれの娘に手をかけて、殺したとおいいんさるので?」
「それはそのう……」
村長に詰めよられてタジタジしながら、それでも警部は、ない知恵を絞り出そうとするかのように、|胡麻塩頭《ごましおあたま》を指でひっかきながら、
「それはそのう……被害者はこの島を出たがっていた。なぜ出たがっていたかというと、じぶんの父のなにかよからぬ秘密を|嗅《か》ぎつけて、それでこの島にいるのをいやがっていた……おとといの晩、坂の途中で出会うた父と娘は、いい争うているうちに、それがわかってきたもんじゃけん、父が娘の首をぐっとひと絞め……」
いったい、捜査員がこれというたしかな根拠もないのに、推測でものをいうということもタブーにされている。それにもかかわらず、村長がそれに抗弁できなかったのは、かれもまた守衛という人物に好意を持っていなかったからであろう。そこへ横から助け舟を出したのは、さっきから|呆《ぼう》|然《ぜん》自失していた大膳である。
「警部さん、わたしゃあんたの説には賛成できんな。太夫と片帆が坂の途中で出会うたかもしれんという説には」
「それはまたどうして?」
「片帆はひとめを避けて、小磯の舟着き場までいこうとしていた。そうじゃけん危険も承知で、あの隠れ道におりてきよったんでしょ。太夫はべつに危険をおかしてまで、隠れ道を|辿《たど》らんならん理由はない。太夫はうえの地蔵坂から地蔵峠を通ってかえったにちがいごわせん。それですけん二人はいきちごうたんでしょ。片帆は隠れ道の途中で、だれか悪いやつに出会うて殺されたにちがいない。いまこの島には素性もしれん他国もんが、ぎょうさん入り込んどりますけんな」
大膳は少し離れたところに立っている、三津木五郎と荒木定吉のほうに目をやって、
「そうそう、先生、片帆の死体にはだれか男に、いたずらされたような|痕《こん》|跡《せき》はなかったでしょうか」
「いいえ、それはありません。その点、被害者の体はきれいなもんです」
木下医師はキッパリ答えた。
「いたずらしかけたやつがあったけえど、あまり片帆がはげしゅう抵抗したんで、望みを遂げずに締め殺したかもしれん」
これは村長の意見であったが、いずれにしても大膳と村長、このふたりはあいついで演じられた、このふたつの不祥事件を、すべて外来者の責任に転嫁したいのである。
「そういえば、あそこに立っているあのふたりな」
大膳は三津木五郎と荒木定吉のほうへ目配せしながら、
「あのふたりおとといの晩、|宵《よい》のうちに家を出ていきよりましたが、あの大雷雨がやっとしずまって、村長や太夫がかえっていってからまものう、ビショ|濡《ぬ》れになってかえって来よりました。どこへ行っとったんかと尋ねたところ、あしたの祭りでなにかお手伝いすることはないか思うて、うえの神社までいきかけたけえど、途中で大雷雨に会うたもんじゃけん、ほうほうの態で逃げてかえって来ましたちゅうとりました。あのふたりがなにかしっとるかもしれませんけん、警部さん、尋ねておみんさったら」
大膳の示唆に、磯川警部の顔面に|俄《が》|然《ぜん》緊張の色が表われた。しぜん一同の視線がそっちのほうへいくのを感じたのか、五郎と定吉はしばらくコソコソとなにか話し合っていたが、やがてむこうのほうからこっちへやってきた。定吉のほうは|頬《ほお》が|強《こわ》|張《ば》っているようだが、五郎はあいかわらず、人を食ったような微笑をうかべて、
「どうやらまたぼくらにお鉢がまわってきたようですが、こんどはどういうお疑いですか」
「いや、あの、その……」
磯川警部は|眩《まぶ》しそうに目をパチクリさせて、口ごもった。警部はこの若者の微笑にヨワイのである。いきおい、警部の目配せを受けた金田一耕助が、代わって質問の口火を切らずにはいられなかった。
「いやねえ、三津木くん、荒木くん、錨屋の旦那がおっしゃるのに、おとといの晩、きみたち宵のうち宿を出ていったが、大雷雨ののちズブ濡れになってかえってきたんだそうだね。そのとききみたち旦那にいったそうじゃないか。うえの神社のお手伝いにいきかけたが、雷に|遭《お》うて引きかえしてきたと。……それ間違いないだろうね」
「間違いはありません。そのとおりです」
「そのとき、なにか変わったことに気づかなかったかというのが、警部さんのご質問なんだ。きみたちなにか変わったことに……?」
金田一耕助はかわるがわる、ふたりの顔色をうかがっている。かれらはたしかになにかしっているのである。
「そのことですがねえ、金田一先生、じつはここで片帆ちゃんが犬にかみ殺されているというので、こうしておおぜい人が集まってきたんでしょう。荒木くんなんか野次馬だから、島の人たちといちばんに駆け着けてきたクミです。ぼくはあなたがたといっしょにここへ来たんでしたね」
「うん、それはそうだが、それがなにか……?」
「ところが、はじめのうちは片帆ちゃん、犬に咬み殺されたんだということになっていたでしょう。荒木くんもそう思い、ぼくもそう信じていたんです。ところが、そこにいらっしゃる先生の口から、片帆ちゃんは犬に咬み殺されたんじゃない。そのまえにだれか人間に締め殺されたんだと発表したでしょう。そのとたんぼくたち思い出したことがあるんです。それを申し出るべきかどうしようかと、さっきから荒木くんと相談していたんです」
「それ、どういうことなの」
「ぼくたちが晩飯を食って錨屋を出たのは、七時をだいぶんまわってからのことでしたが、その時分まだあたりは明るかったんです。東京あたりにくらべると、このへん日の入りがだいぶん遅いですからね。うえの神社でなにかお手伝いすることはないかと思って、荒木くんと相談して錨屋を出たんです。御寮人さんがとてもぼくたちを頼りにしてくださいますし、それに、こんな島では時間をもてあましてしまいますからね。ことに夜など……」
五郎のその説明は冗漫でくだくだしく、どこか弁解じみて受け取れた。五郎も定吉も、刑部神社になにか心|惹《ひ》かれる、特殊な事情があるのではないかと、金田一耕助は内心考えている。
しかし、表面はさりげなく、
「ふむ、ふむ、それで……?」
「われわれ、それぞれ懐中電灯を用意していました。地蔵坂から地蔵峠へかけて、ところどころ街灯がついておりますけれど、それだけじゃ心細いですからね。だから暗くなるのはいっこう構いませんが、雨具の用意はしていなかったんです。まさかあのような大雷雨になろうとは、思いもよりませんでしたからね」
「なるほど、なるほど、それで……?」
「地蔵坂の途中まできたとき、日はとっぷりと暮れてしまいました。しかも、遠くのほうでゴロゴロと雷が鳴り出しました。それでもまさかあんなに激しい雨がだしぬけに、落ちて来ようとは思いませんから、荒木くんと冗談口を|叩《たた》きながら、地蔵坂を登りつめ、地蔵峠へさしかかったのです。その時分にはもうあたりは真っ暗になっていました。そして、急に激しい雨が落ちてきました。まるでバケツの水をぶちまけるような雨で、ぼくたち、たちどころにしてズブ濡れになってしまったんです。おまけに雨とともに雷が急に激しくなって、もうゴロゴロなんてなまやさしいもんじゃない。頭のうえでガタピシ、ガタピシ、天地がひっくり返るような|物凄《ものすさま》じい音です。ぼくはそれほど雷|嫌《ぎら》いじゃありませんが、あのときの雷だけは|辟《へき》|易《えき》しました。荒木くんも|蒼《あお》くなっていたようです。ときどき紫色の稲妻が、さっと|暗《くら》|闇《やみ》を裂いて走ります。その稲妻のなかで見たんです。道ばたに人が動くのが……」
「それ、地蔵峠のどのへん……?」
「まあ、ちょっと待ってください」
五郎は緊張の|瞳《ひとみ》をとがらせて、ぐっと|生《なま》|唾《つば》をのむようにひと息入れると、
「なにしろ稲妻の光りで見たんですから、一瞬のできごとでした。つぎの稲妻が走ったときには、もうその姿は見えませんでした。しかし、荒木くんも見たといいます。道ばたにだれか人間の動くのを……そこでふたりでその人影の見えたところへいってみました。そしたら、それまで荒木くんもぼくも、全然気のつかなかった枝道がそこにあり、角に赤松が一本そびえており、街灯もついておりました」
「この隠亡谷へ降りてくる道なんだね」
「そうです、そうです。荒木くんもさっきそれに気がついたといってますし、ぼくもあなたがたについて、ここへ降りてくるとき気がついたんです」
一同はシーンと静まりかえって、五郎の口もとに目をやっている。時刻からいって、片帆が絞殺される直前だと思われるからである。
「それで、問題はその人間だが、それどういう人物だった?」
「それがわからないんです」
「わからないって、それまできみたちが会ったことのない人物だったかもしれないが、男だったか女だったか、それくらいはわかったろうに」
「いいえ、それもわかりませんでした」
「そんなバカな。いかに一瞬のこととはいえ、きみたちそれが人間だとわかったんだろう。それじゃ男女の性別くらい」
と、さすがの金田一耕助もじれったそうに、
「わかりそうなもんじゃないか。荒木くん、きみはどう?」
「それが、金田一先生、ぼくにもようわからなんだんです。それちゅうのが……」
「それちゅうのが……?」
金田一耕助がオーム返しに尋ねると、定吉は唾をのみこむようにノド仏を大きく回転させ、妖しく目をとがらせながら、
「そいつ……たぶん男じゃと思いますけえど、そいつ|菅《すげ》|笠《がさ》をこう目深にかぶり、体には|蓑《みの》を着ていよったんです。そうじゃったなあ、三津木さん」
「そうそう、そのとおりです。おまけに下半身は深い草のなかに埋もれていましたから、これじゃ男か女かわかりようがありません」
隠亡谷にはいま、暑い夏の陽差しがカーッと照りつけている。なにもしないでそこに立っているだけでも汗が流れるのである。それにもかかわらずその瞬間、そこにいる人びとは汗が乾いて、|肌《はだ》に凍りつくような恐怖を覚えずにはいられなかった。
この人たちはみんなしっているのである。刑部神社の社務所の壁に、蓑と菅笠がかかっていることを。それはいまでもそこにかかっている。……
第十九章 もしも|烏《からす》が騒がなかったら
多少なりとも空想力のある人間なら、つぎのような場面を想像することができるだろう。
なにかを|怖《おそ》れて島を出ていく決心をした片帆は、いま村長の足下にころがっている、大きなビニール製のバッグに、着更えや当座の身のまわりのものを詰め、引き止める真帆の手を振り払って、うえの刑部神社の境内を出た。
その時分、あたりはもうすっかり暗くなっていたことだろうから、片帆は懐中電灯を持っていたにちがいない。ひとめを避けて隠れ道をいくつもりなら、なおさらその必要があったろう。地蔵峠や地蔵坂には、適当の間隔をおいて街灯がついているけれど、隠れ道にはそれがないからである。
片帆が家をとび出してからまもなく、あの大雷雨が襲来したというから、片帆もその雨に打たれたにちがいない。彼女は傘を用意していただろうか。たとえ用意していなくても、いまさら取りにかえるわけにはいかなかったろう。
彼女は地蔵峠の頂上にある、あの隠れ道との分岐点までやってきた。そこには目印のようにひねくれた赤松が一本そびえ、電柱には街灯がともっている。片帆はその街灯の光りと、携えてきた懐中電灯の光りで足下を照らしながら、|膝《ひざ》をも没する雑草をわけて進んだにちがいない。
片帆は猛犬|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》のことをしらなかったのだろうか。全然しらなかったとは思えないが、この春倉敷の高校を出て、この島へ送りかえされてきたばかりの彼女は、阿修羅の|獰《どう》|猛《もう》さを、それほど切実には感じとっていなかったのかもしれない。いや、それを感じとっていたとしても、彼女を島から追い立てる、恐怖のほうが大きかったのかもしれぬ。なにがそのように彼女を怖れさせたのか。
それはしばらく|措《お》くとして、片帆が神社をとび出してからまもなく、だれかがそれに気がついた。そのだれかとは男女の性別不明の人物である。そのものは片帆のあとを追って出ようとしたが、そのときは大雷雨がすでに島全体をおおうていた。そいつはとっさの思いつきで、社務所の玄関にかかっている|蓑《みの》を身につけ、|菅《すげ》|笠《がさ》を頭にかぶった。菅笠は顔をかくすにもかっこうの代物である。
かくてそいつは片帆のあとを追って神社を出た。ひっきりなしに紫電ひらめき、雷鳴は刑部島の峰から峰へととどろき渡った。しかし、性別不明のそのものは、稲妻も雷鳴ももののかずではなかったろう。それよりも片帆の口を封じることが、より以上にさしせまった緊急事であったにちがいない。
ひとめを避けて島を出ようとする、片帆の決意をしっているそいつは、人に会う危険性の多い地蔵坂より、隠れ道をえらぶであろうことを、察知していたにちがいない。あるいは隠れ道へおりていく片帆の、うしろ姿を|瞥《べっ》|見《けん》したのかもしれぬ。
蓑と笠に身をやつした性別不明のそのものも、隠れ道との分岐点まで駆け着けた。一歩そっちの道へ足を踏み入れ、雑草が腰まで埋めたところで、紫電ひらめき、そのへんいったい一瞬パッと明るくなった。そこを三津木五郎と荒木定吉に目撃されたのであろう。
性別不明のそのものは、ふたりに見られたことに気がついていただろうか。それはあとでふたりに聞いて見なければならないが、あるいはそいつは片帆を追うに急なあまり、ふたりの存在に気がつかなかったのではないか。
いずれにしても、そいつは膝も没する雑草をかきわけて、坂をかけおり、いま目のまえに見える隠れ道へ|辿《たど》りついたにちがいない。そのあいだも、ひっきりなしに稲妻がひらめいていたことだろうから、まえをいく片帆の姿を認めたにちがいない。
まもなくそいつは片帆に追いついた。そして、その結果はどうであったろうか。
そいつが片帆を|紐《ひも》様のもので絞め殺したのである。どのような紐であったろうか。そんなことはどうでもいい。和服を着ることの多い日本の家庭なら、首を絞めるにかっこうの紐の類ならいくらでもある。ただ、性別不明のそのものが、あらかじめ|手《て》|頃《ごろ》の紐を用意していたとしたら、そいつははじめから、殺意を抱いていたことになる。
金田一耕助はそこまで考えてきて、思わず身ぶるいせずにはいられなかった。
すべてはあの大雷雨のさなかに演じられたのである。紫電はひっきりなしに隠亡谷を掃き、この荒涼たる景観を紫色に浮き上がらせ、雷鳴は間断なく谷から谷へととどろき渡り、|谺《こだま》していたことだろう。片帆は悲鳴をあげ、助けを求めたにちがいないが、それらの悲鳴も助けを呼ぶ声も、すべて雷鳴にかき消されたにちがいない。それを聞いたものがあるとすれば、猛犬阿修羅といまじじいの松に群がっている、烏どもだけだったろう。
烏といえば犯人は、片帆の死体がこんなに早く、発見されるとは思わなかったのではないか。きのうの昼間|鋸山《のこぎりやま》の上空で、あんなに烏が騒がなかったら、大膳も吉太郎にこの谷を調査するように命じなかったであろう。大膳の命令がなかったら、吉太郎もこの谷へ降りてこなかったであろう。吉太郎がここへ降りてこなかったら、片帆の死体はいまだに発見されなかったにちがいない。そして、日が経るままに肉は食らわれ、|啄《ついば》まれ、のこるは骨と衣類の切れ端だけとなったであろう。その時分になってそれらのものが発見されても、すべては猛犬阿修羅の責任に帰せられたのではないか。そして、その間片帆は人しれず、島を抜け出したものと思いなされ、本土のほうで労して益なき捜索がつづけられ、やがて蒸発ということばで片付けられていたかもしれない。
蒸発……?
蒸発ということばで金田一耕助は、夢から覚めたようにわれにかえった。
かれはまず荒木定吉に目をやり、その視線を三津木五郎に移した。と、同時にさっきの質問事項を思い出した。
「荒木くん、三津木くんにも聞くがね。その蓑と笠に身をやつした、正体不明の人物だがね、そいつはきみたちに見られたということに気がついていたろうかね」
「いえ、それについてさっきも三津木さんと話し合うていたんですけえど、むこうでは気イつかなんだんじゃないじゃろうかというとるんです」
「われわれ、懐中電灯を持ってましたが、懐中電灯というものは、はるか前方を照らすもんじゃないでしょう。照準を足下に合わせるでしょう。げんにむこうも懐中電灯を持っていたにちがいないんですが、われわれ全然気がつきませんでしたからね。稲妻の光りでそいつの姿が浮かびあがるまで」
「それで、きみたちどうしたの」
「急いであの一本松の分岐点まで坂をあがってきたんですん。さっきのやつここを降りていったにちがいないちゅうてな。ぼくそのときまで、そげえなとこに道があるとはしらなんだのですけえど、ぐっしりょ雨に|濡《ぬ》れた草がゆれてましたけんな」
「それで、ここを降りたらどこへ行くんだろうと、荒木くんが聞くもんですから、隠亡谷へ出るんじゃないかとぼくがいったんです。ところが荒木くんは隠亡谷のこと、まだしらなかったもんですから、ぼくが説明したんです。猛犬がいてとても危険なところだって。それじゃそんな危険なところへ、このような大雷雨のさなかに降りていくのはだれだろう、よっぽど豪胆な人間にちがいないと……」
「で、それをだれだと思ったの」
三津木五郎と荒木定吉は、しばらく顔を見合わせていたが、やがて荒木定吉がオズオズと吉太郎を指さしながら、
「その人じゃないけと思うんです。その人なら刑部神社へ奉仕するじいやさんじゃそうですし、蓑や菅笠のありかも、ようしっておいでんさるでしょうけんな」
「違う」
と、言下に村長がいきまいた。
「この吉やんならあの晩|錨屋《いかりや》へ来とったわい。なにか用事があるちゅうて、錨屋のおじさんが呼び寄せておいでんさったんじゃ」
大膳も口もとを|綻《ほころ》ばせて、
「それはあんたがたの目違いじゃったな。おとといの晩なら吉太郎はうちにいました。金田一さんをな、オチョロ舟にお乗せして、島のぐるりをご案内しょ思うて、そのことで吉太郎にうちへ来てもろうとったんです。あしたの午前中にオチョロ舟をよう洗うて、乾かしておくようにと吉太郎に頼んでおいたんです。吉太郎は|宵《よい》のうちにうちへ来て、うちを出たのはあの大夕立が納まってからのことでしたぞな」
これでは吉太郎のアリバイは明々白々である。
それにしてもこの吉太郎という男、思うことがおよそ顔色に表われぬ性格だと、まえにも書いておいたが、このときがやっぱりそうだった。定吉に指さされ|弾《だん》|劾《がい》されたときでも、かれの表情は微動だにしなかった。|傲《ごう》|岸《がん》というのでもない。ひょっとするとこの男、思うことがただちに表情となって、外へ表われないように、じぶんでじぶんを訓練してきたのではあるまいか。そして、いまやそれが習い性となっているのではないか。もしそれだとするとこの男、そうとう危険な人物であると、金田一耕助は内心考えている。
「それはそうと、きみたちそれからお宮のほうへいったの」
金田一耕助は五郎と定吉のほうへむきなおった。
「いいえ、お宮へはいきませんでした。こんなに濡れ|鼠《ねずみ》になっていっちゃ、かえってご迷惑じゃないかと、荒木くんがいうもんですから」
五郎がいうのをいちはやく定吉が|遮《さえぎ》って、
「あれ、そういい出したんは、三津木さん、あんたじゃないけ。ぼくはむしろお宮へいって、傘でも借りて来よう思うとったんですけえど」
「あっはっは、そうだったの。でも、きみもすぐぼくの説に賛成したじゃないか。とにかくわれわれはお宮へいかず、一本松からズブ濡れになって引き返したんです。そうそう、|新《しん》|在《ざい》|家《け》のトバッ口まで来た時分、雷もやみ、雨も小降りになっていたんですが、そこで宮司さんに会いましたよ」
三津木五郎がそこでかすかに身震いしたのは、その宮司もすでに亡き人であることを思い出したからであろう。
「きみたち、そのとき宮司さんとなにか話をした?」
「いいえ、別に……宮司さんのほうからこの雨のなかを、どこへいったというような質問がありましたから、お宮へ手伝いにいこうかと思って出かけたんですが、この大雷雨に|辟《へき》|易《えき》して、途中から引き返して来ました……と、ただそれだけの応対だったなあ、荒木くん」
「きみたちに、手伝うてもらうことはなにもあれやせんと、|神《かん》|主《ぬし》さん、だいぶ|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》のようでしたよ」
「そのとききみたち、一本松のところで蓑と笠を着た人物が、隠れ道のほうへ降りていくのを見たと、神主さんにいわなかった?」
「そげえなことはいいませんよ。だって、そのことがこげえに重大な意味を持っているとは、まだ気イついとりませんでしたけんな」
今度は荒木定吉が激しく身震いをした。かれは努めてあのむごたらしい片帆の|残《ざん》|骸《がい》から、目をそむけるようにしているのである。
あの隠れ道のある一点から、広瀬警部補が磯川警部を呼んだのは、ちょうどそのときだった。
そこは薬師岩の舞台から、六〇メートルほど|下《しも》にくだった狭い小道で、幅一メートルあるかなしの道の東側は、雑草の生い茂った傾斜になっており、その傾斜のはるかうえを地蔵坂が走っているのである。
西側も突き落としたような傾斜が、二〇メートルほど足下に落下しており、その落下の底から隠亡谷の巨石が、|累《るい》|々《るい》層々として南北にひろがっている。こちらのほうにも雑草が生い茂っているが、それより岩と岩とを|点《てん》|綴《てい》する|這《は》い松の群落が印象的だった。
道の西にも東にもところどころ、ひねくれたかっこうの赤松がそびえていて、この細道を隠すように枝をさしのべている。そういうところから、隠れ道という名がついたのかもしれない。さっきもいったとおりこの細道はくねくねと、地蔵坂の|麓《ふもと》をうねりながら、|大《おお》|磯《いそ》と小磯をへだてる|千《ち》|々《ぢ》|岩《いわ》|川《がわ》のほとりまで、つづいているのである。
「広瀬くん、なにか見つかったかね」
磯川警部が尋ねると、
「いや、警部さん、こっちもこっちですけえど、そっちのほうにもなにかあったんじゃありませんか。あのふたりの若もんが、身振り手振りで、なにかしきりに説明しとったようですけえど」
と、警部補のほうが逆に反問してきた。
「いや、これはこういうことじゃけえど」
警部が五郎と定吉の話を取り次ぐと、広瀬警部補はたちまち興奮して、
「じゃ、あのふたりおとといの晩、一本松のところで、犯人の姿を目撃したとおいいんさるんで?」
「まだ、犯人とハッキリ断定はできんけえどな」
「そして、そいつ蓑と笠で身をやつしとったもんじゃけん、どこのだれともわからなんだというとるんですね」
「どこのだれだかどころじゃない。男じゃったか、女じゃったか、それさえわからなんだというちょる」
広瀬警部補はいよいよ興奮して、
「なるほど、昔から隠れ蓑いいますけんな。そうすると、犯人は女じゃっという可能性も出てきたわけですね」
「まさか、女がね。だいいちゆうべの神主|串《くし》|刺《ざ》しは、とうてい女の細腕では考えられんこっちゃ。あれは村長もいうとったとおり、よほどの大力でないとやれんこっちゃけんな。もっともあれとこれとは別の事件で、犯人もちごうとると解釈すれば話は別じゃけえど」
「ところで……」
広瀬警部補は、そこで、いやに声を低くして、
「その蓑と笠ちゅうのは、うえの神社の社務所の壁にかかっとる、あの蓑と笠なんでしょうな」
「さあ、それもハッキリ断定できんな。この島には少なくとも、もうふた組蓑と笠があるけんな」
と、磯川警部がきのうの昼間、金田一耕助と錨屋の大膳が、それぞれ蓑と菅笠を着用に及んで、島の周囲を回遊したことを説明して聞かせたが、広瀬警部補は承服せず、
「そうじゃけえど、警部さん、いまうえの社務所にある蓑と笠は、どっちもぐっしょり濡れとおりますけえど」
「いや、あれはそじゃない」
磯川警部は|憶《おぼ》えている。ゆうべ刑部神社でボヤ騒ぎがあったとき、吉太郎がその消火に大活躍したことを。吉太郎は消火活動に取りかかるまえ、蓑と笠をどっぷり用水|桶《おけ》の水の中に浸し、それから着用していたことを、磯川警部は記憶している。
磯川警部がそのことを語って聞かせると、金田一耕助も驚いたように警部のほうを振り返って、
「ゆうべそんなことがあったんですか」
「ああ、これは金田一先生がおいでんさるまえのことじゃけんな。じゃけえど、これがこげえな重大問題と、関連してこようとはわしも思うとらなんだもんじゃけんな。吉太郎が着用するまえ、あの蓑と笠が濡れておったか、乾いておったか……」
「さっきなぜそれをあの男に、聞いてごらんにならなかったんですか」
「いや、聞こうと思うとったところへ、広瀬くんが呼んだもんじゃけん。いや、これはわしの大きな|縮《しく》|尻《じり》じゃ」
「と、おっしゃると……?」
「わしはあのボヤ騒ぎが起こるまえ、|神楽《か ぐ ら》|殿《でん》のうしろの楽屋で、神楽太夫を相手にとぐろを巻いておったんです。それには二度社務所を|通《と》おっとります。はいるときと出るときと。そのときあそこに蓑と笠が、飾りもんのようにかかっていたことにゃ、気がついとったんですけえど、それが濡れとったか、それとも乾いておったか……」
「記憶にないんですか」
「面目ない話ですけえど……」
「色やなんかで思い出せませんか」
「それが……」
警部は面目なさそうに、太い指で|胡麻塩頭《ごましおあたま》をひっかいている。
「警部さん、そげえなこと造作ありませんや。あとで吉太郎を絞め上げてやります。吉太郎が言を左右にシラを切ったら、ほかの連中に聞いてみますよ。あの蓑と笠、ボヤ騒ぎが起こるまえ、濡れておったか、乾いとったか……」
しかし、それを正直にいうものはないのではないかと、金田一耕助には危ぶまれた。気がつかなかったといえばそれですむことである。その気持ちが感染したのか、広瀬警部補もふっと不安な目の色になったが、すぐそれを打ち消すように、
「なあに」
と、舌打ちすると、急にまた声をひそめて、
「そうするとおとといの晩、うえの神社には、だれとだれがいたんです。神主と吉太郎は錨屋にいたとすると、あとだれとだれ……?」
だれもすぐには答えなかった。答えることが怖かったのかもしれない。やっと磯川警部がノドの奥で、|痰《たん》を切るような音をさせながら、
「巴御寮人と真帆と片帆じゃけえど、そのうちの片帆がとび出したとすると……」
警部の語尾はふるえていたが、すぐその忌わしき想念をはふり落とそうとするかのように、頭を強く左右にふると、
「それはそうと、こっちのほうはどげえじゃな。犯行の現場はつかめたかな」
「ああ、それそれ……」
広瀬警部補も急にいきいきとした声になり、
「わたしがいま立っているこの地点から、一〇メートルほど下に突出した岩があるでしょう。あの岩に○印が白墨で書いてございますね。あそこにいまむこうにある、片帆の|鞄《かばん》がころがっていたんじゃそうです」
「そうすると、ここが犯行の現場かな」
「いや、犯行の現場はもう少し下らしいんですけえど、ここで片帆はあと追いかけてきた犯人にとっつかまった。そこで、思わず鞄を取り落としたちゅうわけじゃないでしょうかね」
「なるほど、それじゃもう少し下へいってみよう」
なにしろ、そこは幅一メートルあるかなしかの狭い道である。とうてい二人並んでは歩けない。いきおい広瀬警部補を先頭に、磯川警部、金田一耕助とつづいて歩く、その前後に制服の警官や私服の刑事が、|蟻《あり》の行列のようにつづいていることはいうまでもないが、藤田刑事や駐在の山崎さんの姿は見えなかった。
隠れ道をいきながら金田一耕助が、足下の隠亡谷の河原を見ると、荒涼たるそこにはいっぱい人が散らばっている。犯人の遺留品を物色しているのだろうが、この広大な河原からなにかを探し出そうとするのは、容易なことではなかろうと思われた。
さっき鞄の落ちていた地点から、二〇メートルほど下へさがった地点に刑事がひとり立っていた。刑事はズタズタにこわれた傘を持っている。明らかに若い女性の傘らしく、派手な色合いをしているが、骨は折れ、布はズタズタに裂けている。
「それ、ここに落ちていたんかね」
磯川警部が尋ねると、
「いえ、七、八メートル下の岩と岩とのあいだの小石のうえに、白墨で大きなマルが書いてございましょう。あそこに引っかかるように落ちていたんです。これ、こげえに派手な色合いをしとりますでしょう。それですけん、目についたようなもんの、そうでなかったらだれも気イつかなんだかもしれません」
「この傘そうとう傷んどるけえど、これで見ると被害者は、犯人にむかって、かなり抵抗しよったんじゃろうな」
「いまどきの娘ですけんな。ムザムザ絞め殺されたりはしますまいよ。ことに片帆ちゅう娘は、そうとう気性のはげしい娘じゃったようですけん。たとえ相手がだれじゃったにしろ」
広瀬警部補は歯をむき出してせせら笑った。この警部補の|脳《のう》|裡《り》には、もはや犯人像がくっきりとえがかれているのかもしれない。
「被害者が傘をふりまわして抵抗したとしたら、犯人もどこかにケガをしとるかもしれんな」
「ケガをしとってもしとらいでも、きっと犯人は挙げて見せますよ。あんまり|惨《むご》いやりくちですけんな」
そこからまた一〇メートルほど下へさがったところに、また刑事がひとり立っていた。刑事は手にこわれた懐中電灯と、女物の靴の片っぽをぶら下げている。
「この道のうえを見てつかあさい。ガラスの破片が落ちとるでしょう。それで気がついて下の谷を探したところ、この懐中電灯と女物の靴の片っぽが出てきたんです。被害者の足は両方ともはだしでしょう。それですけん、ここからあの猛犬のねぐらを結ぶ一直線上に、靴のもう片っぽがあると思うんです」
この隠れ道は下へさがるにつれて、隠亡谷に接近している。さいしょ鞄が発見された地点では、道から谷底まで二〇メートルはあったのに、もうこのへんでは三、四メートルの落差で、傾斜もだいぶん緩くなっている。だから、もしここに死体が横たわっていたとしたら、猛犬は容易に傾斜をよじのぼることができたであろう。
「そうすると、犯行のほんとうの現場はここちゅうことになるのけ」
「だいたい、そういうところでしょう。懐中電灯なしには、一歩も歩けなんだでしょうけんな。ここで絞め殺して谷へ突き落としとけば、あの猛犬……阿修羅とかいいましたな、あいつの餌食になることは必至ですけん。犯人はそこまで読んでおったのかもしれません」
金田一耕助はそれを聞いて、内心深い恐怖を覚えずにはいられなかった。
もし、この谷の烏どもが騒がなかったら、どういうことになっていただろう。烏が騒がなかったら、大膳も吉太郎にこの谷の調査を命じはしなかったであろう。吉太郎がこの谷を調査しなかったら、片帆の死体は発見されなかったにちがいない。片帆の死体が発見されなかったら、彼女はひそかに島を脱出し、本土へ渡ったものと信じられたであろう。かくて捜査の手は本土へ伸びたであろうが、この島でひそかに殺されている片帆の消息が、本土でつかめるはずがない。そこで彼女は蒸発したということになるのではあるまいか。
蒸発……?
ちかごろ世間でよく伝えられる、蒸発ということばの裏面には、こういう|凄《せい》|惨《さん》な犯罪事件が、秘められているのであろうか。すべての蒸発事件がそうであるとは思えないが、なかにはこのような凄惨な犯罪事件が、潜在している場合もありうるということを、この事件がなによりも有力に、証言しているのではあるまいか。
そうすると、昭和三十三年の六月に蒸発したという、荒木定吉の父の荒木清吉や、いまから二十年ほどまえに、この島で蒸発したという疑いを持たれている、神楽太夫の場合はどうであろうか。かれらの蒸発事件の背後にも、片帆の事件の場合のように、世にも凄惨な犯罪が伏在しているのであろうか。
もう一度片帆の場合を考えてみよう。もしも烏が騒がなかったら、片帆の死体はこうもはやく発見されなかったであろう。もしも烏が騒がなかったら、片帆の肉は犬にしゃぶられ、烏に啄まれて、骨ばかりがあとに残ったのではないか。いや、犬や烏が存在しなくとも、片帆の肉は腐乱しつくし、やがて骨ばかりになったであろう。腐臭も刑部神社や新在家、大磯小磯にまではとどかなかったであろうから、彼女の死体は人しれず、白骨と化してしまったにちがいない。そこで犯人がやってきて、その白骨をどこかへ埋め、身につけていた衣類や持ちものを、ひそかに処分してしまったら、どういうことになったであろう。人間の死体を人しれず、始末するということは容易ではないが、白骨ならわりに簡単ではないか。女、子どもにでも可能であるかもしれない。そういう場合、片帆は永遠に、蒸発ということばで片付けられたのではないか。
荒木清吉も神楽太夫も、やはりおなじ運命に、おちいったのではないか。白骨として人しれず、どこかに埋められてしまったのではないか。しかも、この島のどこかに。
金田一耕助は卒然として、青木修三が|知《ち》|死《し》|期《ご》の際、あとに|遺《のこ》したことばの一部を思い出していた。
……あの島には悪霊がとりついている、悪霊が……悪霊が……
青木修三はなんらかの形で、荒木清吉や神楽太夫の骨を見たのではないか。それが青木修三に非常に大きなショックを与えた。そこから青木修三は悪霊を連想したのではないか。
骨……? 骨……? 骨……?
金田一耕助は卒然としてまた、青木修三の遺言の一部を思い出していた。
……あいつは体のくっついたふたごなんだ……
……あいつは腰のところで骨と骨とがくっついたふたごなんだ……
金田一耕助はだいぶんまえ、さる産婦人科の先生から、日本でもちょくちょくシャム双生児……すなわち体と体のくっついた双生児が、産まれることがあるんですよと聞かされて、驚いたことがある。しかし、そういう|畸《き》|型《けい》な|嬰《えい》|児《じ》は、育たないのがふつうだそうである。産まれてもすぐ死んでしまうということであった。
いまかりに、この刑部島に体と体のくっついた、シャム双生児が存在するとして、それを青木修三が目撃したとしても、どうして腰のところで骨と骨とがくっついた[#「腰のところで骨と骨とがくっついた」に傍点]……と、いうことがわかったのであろう。青木修三は医者でもなければ人体生理学者でもない。ズブの素人である。それにもかかわらず、腰のところで骨と骨とがくっついたふたごなんだ[#「腰のところで骨と骨とがくっついたふたごなんだ」に傍点]……と、ハッキリ指摘できたのは、そのシャム双生児がすでに死んでおり、白骨と化しているのではあるまいか。青木修三の目撃したのは、シャム双生児そのものではなく、白骨と化したシャム双生児ではなかったか。
しかし、そのことと荒木清吉や神楽太夫の蒸発とは、いったいどういう関係があるのだろう。金田一耕助にもまだそこまではわからなかった。
金田一耕助はこうして|妄《もう》|想《そう》を|逞《たくま》しゅうしながらも、一方ではけっこう、磯川警部と広瀬警部補の会話も耳にしているのである。
「こここういう場所ですけんな、指紋の採集ちゅうようなこと、ちと無理ですね」
「その傘に犯人の指紋が遺っとりゃせんか」
「さあ、あるいは犯人もその傘にさわったかもしれませんけえど、なにしろ大雷雨の最中のことですけんな。雨で流れてしもうとるんじゃないかと思うんです。いちおうやってみることはやってみますけえど」
「この調子では足跡なんかも無理じゃろな」
磯川警部は慨嘆するように、隠れ道の前後を見渡したが、警部が嘆くのもむりはない。隠れ道のいたるところに、土砂崩れが起こっていて、一メートルあるかなしの細道は、あちこちで土砂に埋まっている。それに土質の関係上、足跡が遺りにくい場所とも思われた。
そのとき足下の河原へ、藤田刑事と駐在の山崎巡査が近づいてきた。
「主任さん、やっぱりあの猛犬はこの地点から被害者の死体を、じぶんのねぐらまで|咥《くわ》えて、引きずっていったにちがいありませんぜ。ところどころ血の筋がついとりますし、こげえなもんがあちこちに散らばっとおりましたけん」
藤田刑事は河原から岩をのぼって、隠れ道まであがってきたが、手にしているのは靴の片っぽと、衣類の切れ端の類である。
「ひどいことをしやあがったもんで、これじゃ犬に食われるまえに被害者の体は、滅茶滅茶に傷ついていたにちがいありませんぜ」
しかし、藤田刑事の手にしているものは、かくべつ目新しいものではなく、ただ阿修羅が被害者の死体を咥えて、引きずっていった道程を示すだけのものに過ぎなかった。しかし、刑事の背後から|這《は》いあがってきた、山崎駐在の手にしているものは、ちょっと一同の目をひいた。
それはビーズでできたかわいいハンドバッグで、いかにも片帆のような女の子の、持っていそうな代物である。
「これ、むこうの岩の陰に落ちていたもんですけえど……」
「どれどれ」
広瀬警部補が手にとって、パチッと口金を開くと、なかから出てきたのはコンパクト、棒紅、|眉《まゆ》|墨《ずみ》、ハンケチ、ティッシュ等々々、いかにも若い女の、身につけていそうなものばかりだったが、なかにひとつ小さい|鍵《かぎ》があった。
「警部さん、これむこうにあるあの鞄の鍵じゃありませんか」
「うむ、そうかもしれんな。いや、きっとそうにちがいない」
「山崎くん、いや、これはきみより藤さん、おまえのほうがええ。むこうへいてあの鞄こっちへもってこい。村長のやつがなんかいうかもしれんけえど、そげえなこと構うな」
「おっと、承知」
藤田刑事はすぐビニールの大きな鞄をぶらさげて、隠れ道へ引き返してきた。鍵はやっぱりこの鞄のものだった。
鞄のなかには|着《き》|更《が》えだの洗面道具だの、当座の身のまわりのものだのがいっぱい詰まっていたが、なかにひとつ、手作りの財布のようなものがはいっていた。
広瀬警部補はなにげなく、それを|鷲《わし》|掴《づか》みにして取り上げたが、とたんにハッとしたように、磯川警部と金田一耕助のほうをふりかえった。
「警部さん、金田一先生、これ……」
財布を振ってみせるとチャリン、チャリンと金属性の音がする。磯川警部もハッとしたように目をすぼめて、
「広瀬くん、早くなかみを……」
磯川警部のことばを待つまでもなく、広瀬警部補は財布の口を開いて、なかみを左の|掌《てのひら》にぶちまけたが、まさしくそれは一銭銅貨、二銭銅貨、穴あきの文久銭に五銭白銅、十銭、二十銭の銀貨が数個。
広瀬警部補はふるえる指で、一枚一枚の鋳造年号を調べていたが、
「やっぱりそうです。これみんな明治二十六年よりまえのもんばっかりですぜ」
「そうすると、金田一先生のおいいんさったとおり、やっぱりこの島のどこかに、昔の刑部神社の|賽《さい》|銭《せん》|箱《ばこ》が、|埋《う》まっとるちゅうことになるのか」
「そうそう、警部さん、報告が遅れましたが、荒木定吉の持っておった、おやじの荒木清吉の写真ですけえど、あれ、|下《しも》|津《つ》|井《い》の浅井はるの家に出入りしていた、酒屋や魚屋のもんに見せると、みんな昭和三十三年ごろ、浅井はるの家へ出入りしていた、清さんちゅう男に間違いないいうとおります」
金田一耕助は、そのとたん、胴ぶるいみたようなものを、自制することができなかった。かくてすべてはこの刑部島を指しているのである。
そのとき隠亡谷の河原のほうで、ざわめきのようなものが起こったので、金田一耕助もその視線を|辿《たど》って、薬師岩の舞台のほうへ目をやった。そこにはもう越智竜平一味のものも、神楽太夫の七人もいなかった。
そのかわり四人の女性が立っていた。巴御寮人を中心にその左右にいるのは、倉敷の御寮人の澄子と、玉島の御寮人の玉江であろう。巴御寮人は和服だけれど、あとのふたりは洋装である。玉江がケバケバしい派手な服装をしているのに反して、澄子のほうが黒い喪服を着用しているのは、ふたりの人柄を示しているのであろう。
もうひとりは真帆だけれど、彼女は澄子の胸に顔を埋めて、しきりにいやいやをするように、頭を左右にふっている。木の葉のようにふるえるというのはこのことだろうか、澄子に取り|縋《すが》った真帆の体は、間断なくおののいていた。
巴御寮人は正面切って、|毅《き》|然《ぜん》として、あいかわらず美しかったが、金田一耕助はなぜか胴ぶるいのようなものを禁ずることができなかった。
第二十章 |鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]《ぬえ》のなく夜に気をつけろ
金田一耕助はいま恐ろしい悪魔に襲われている。
そこがどこだかわからないのだけれど、細い道がどこまでも、どこまでもつづいている。まるで天までとどくように。あたりは|漆《しっ》|黒《こく》の|闇《やみ》なのだけれど、その細道だけはふしぎに白く浮きあがっていて、遠くはるかかなたまで、うねうねとつづいていることがわかるのである。
その細道をいま奇妙なものがむこうをむいて走っている。|蓑《みの》と|笠《かさ》である。いや、頭に|菅《すげ》|笠《がさ》をいただいた蓑がひとつ、むこうのほうへ走っていくのである。その蓑には足がなかった。菅笠をかぶった蓑だけが走っているのである。それでいてその逃げ足のはやいこと。
金田一耕助はいくたびか、|右《め》|手《て》をのばしてその蓑の|襟《えり》|髪《がみ》をつかもうとするのだけれど、そのつど相手はするりとすりぬけて、金田一耕助を引き離していく。
天地|晦《かい》|冥《めい》とはまさにそのとき金田一耕助をくるんでいる、周囲の状況をいうのだろう。あたりはすべて漆に塗りつぶされたような闇なのだ。それでいて細いうねうねした道だの、まえを走っていく蓑と笠だのがハッキリ見えるのは、間断なくひらめく紫電、稲妻のせいだった。稲妻は小休みもなくひらめき、雷鳴はあとからあとからとどろき渡った。
雨もひどかった。まるで、天の底がぬけたのではないかと思われるような土砂降りだった。金田一耕助も頭からぐしょ|濡《ぬ》れになっているのだけれど、それでいて冷たいとも寒いとも思わなかった。そのときかれの|脳《のう》|裡《り》にあるものは、蓑と笠のなかにある顔を、一刻もはやく見なければという、|焦《あせ》りの思いだけだった。その顔を見ることが一刻遅れれば遅れるだけ、大変なことが起こるのだという焦りが、金田一耕助を駆り立てるのである。
紫電ひらめき雷鳴はためくなかを、金田一耕助がズブ濡れになりながらも、必死となって走っているゆえんもそこにある。
金田一耕助はなんどか蓑の襟首に手がとどきそうになった。蓑も笠もズブ濡れになっている。紫電ひらめくごとに蓑や笠が濡れて紫色に光るのが、手にとるようにうかがわれるのである。だが、そのつど蓑はひょいと身をかわし、金田一耕助の手からのがれた。
|自《じ》|烈《れっ》|体《たい》、|歯《は》|痒《がゆ》い、もどかしい! 金田一耕助は|切《せっ》|歯《し》|扼《やく》|腕《わん》する思いで、このはてしなき追跡をつづけている。
だが、とつぜん金田一耕助の行く手に当たって幸運が訪れた。逃げいく蓑と笠の前方数メートルのところで、だしぬけに大きな土砂崩れが起こったのだ。それがあまりだしぬけだったので、蓑と笠はその土砂崩れを避けることができなかった。フルスピードで走っていた蓑と笠は、それに突き当たってつんのめって、転んで、|俯《うつ》|伏《ぶ》せに倒れた。
「しめた!」
と、叫んだ金田一耕助は、一瞬ののち蓑と笠を体の下へかかえこんだ。蓑の下にはたしかに人間の体温がある。蓑と笠は金田一耕助の束縛からのがれようとして、さかんに|身《み》|悶《もだ》えをし、首を左右に振っている。ちょっとした格闘ののち、金田一耕助は蓑の体をひっくり返し、すばやくそのうえに馬乗りになると、いやいやをするように、さかんに首を振っているその頭から、やにわに菅笠をひっぺがした。
とたんに紫電がサッと下界を掃いていき、すぐその直後に耳をつんざく雷鳴が鳴りはためいたが、その稲妻の光りのなかに浮きあがった顔を見て、
「あっ、あ、あなたは……」
と、大声で叫んだが、その声で金田一耕助は目を覚ました。
目が覚めると全身流れるような汗である。いまズブ濡れになった夢を見ていたのは、この寝汗のせいだったかもしれないと思いながら、座敷の隅にあるボストンバッグからタオルを取り出し、寝間着の浴衣を|肌《はだ》|脱《ぬ》ぎになって、ゴシゴシ体を|拭《ふ》いていたが、気持ちの悪いことおびただしい。
気持ちの悪いのは肉体的な疲労のせいばかりではない。肉体的な疲労は、ぐっすり寝たおかげでいくらかとれた感じだが、それにもかかわらず、かれは精神的な不快感を|払拭《ふっしょく》することができなかった。
金田一耕助はタオルで顔を|拭《ぬぐ》い、肌脱ぎになった背中をゴシゴシこすりながら、|深《しん》|淵《えん》を|覗《のぞ》くような目をして、シーンと虚空のある一点を|凝視《ぎょうし》している。いま見た夢のあとを追うているのである。
それは金田一耕助のもっとも好まざるところである。かれは論理から飛躍した直感だの、第六感だのを極端に排撃する。いわんや夢のお告げだのは|沙《さ》|汰《た》の限りである。それにもかかわらずかれはいま、夢のなかで蓑と笠の人物の顔を見てしまったのである。
金田一耕助はじぶんでじぶんに腹を立てている。その夢自体が不愉快きわまりなきものだったが、そのことが今後の自分の推理に、偏見だの先入観をもたらせはしないかと、金田一耕助はそれを|危《き》|惧《ぐ》して、腹の底がかたくなるほどの不快感をおぼえるのである。かれはこの理由なき夢の|痕《こん》|跡《せき》をふり落とそうとするかのように、首を激しく左右にふったが、そのとき|襖《ふすま》の外に足音がして、
「目がお覚めんさりましたか」
越智|多《た》|年《ね》|子《こ》の声であった。
金田一耕助はあわてて浴衣の肌を入れると、|蒲《ふ》|団《とん》のうえでキチンと居住まいをなおして、
「はあ、すっかり寝坊してしまいまして……」
「はいってもよろしゅうございますか」
「さあ、さあ、どうぞ」
越智多年子ははいってくると、カチッと音をさせて窓際のスイッチをひねったが、とたんに座敷のなかが明るくなった。
「ああ、もうこんな時刻なんですか」
|枕下《まくらもと》においた腕時計を見ると、六時を少しまわっている。
金田一耕助が地蔵平の越智竜平邸の離れへ引きあげ、朝昼兼帯の食事をご|馳《ち》|走《そう》になったのち、寝床のなかへ身を横たえたのは、七月七日の正午ごろのことだったが、いま六時だとすると六時間眠ったことになる。それでもまだ睡眠が足りないのか、それとも変な夢を見たせいか、頭の一部がチクチク痛むようである。
「ずいふんうなされておいでんさりましたけん、よっぽどお起こししようかと思うたんですけえど……」
「そんなにうなされていましたか。夢を見てうなされるとは、まるで子どもみたいですね」
「いいえ、本家もうなされていたようです。それだけみんな疲れとるんでございましょう」
本家というのは越智竜平のことだが、かれはどんな夢を見たのかと思いながら、
「おかげで寝汗でぐっしょりでした。拝借したこの浴衣台無しにしてしまいました。さっそく|洗《せん》|濯《たく》しておいてくださいよ」
「はれまあ。ほんならさっそくお|風《ふ》|呂《ろ》へおはいりんさったら。いま本家があがったばっかりですけん。そのまにお食事の支度をしておきますけえど」
「はあ、そうお願いしたいんですが、そのまえにこの際、ちょっと|叔《お》|母《ば》さんにお尋ねしたいことがあるんですけれど」
「はあ、どういうことでございましょうか」
多年子は浮かしかけた腰をおろして、寝床のうえにいる金田一耕助の|瞳《ひとみ》を真正面から|視《み》る。ある種の期待からか緊張が、彼女の体の線をかたくしているようである。
「もし、差し障りがあったら、お答えいただかなくてもよろしいんですけれど……」
「いいえ、わたしの存じておりますことなら、できるだけお答えするつもりでおりますけえど……」
「はあ、ありがとうございます」
金田一耕助はペコンとひとつ頭をさげると、
「じつはこちらへくる船のなかで耳にしたのですが、こちらのご主人越智竜平氏は、若いころ、刑部巴さんと駆け落ちなすったことがおありだそうですね」
「はあ、あれは終戦のまえの年でしたけん、昭和十九年のことでした」
多年子の答えはむしろその質問を、待ちかまえていたようである。
「そのとき、あなたはさぞ驚かれたでしょうね」
「はあ、島中は大騒ぎでしたぞな。なにしろ時局が時局でしたし、それにみんな寝耳に水のことでしたけんな。わたしもそれは、駆け落ちちゅう非常手段に訴えたことにはびっくりしましたけえど、うすうすは察しておりましたけんな、ふたりの仲を……」
「ああ、そうですか、越智氏と巴さんがねんごろになってるってことを叔母さんはご存じだったんですね」
「はあ、わたしぐらいのものだったんじゃございませんか、ふたりの仲を知っていたのは。……それですけん、駆け落ちしたあとで、どうしていままで隠していたとおいいんさって、ずいぶん|錨屋《いかりや》のおじいさんにいじめられたもんでございます」
「なるほど、駆け落ちするまえから、そういう仲になっていらしたとして、しかも、それをあなた以外にだれもしらなかったとすると、おふたりはどういうとこで|逢《お》うていらしたんですか」
「それが……」
多年子もさすがに言いよどんだが、それではならじと思いなおしたのか、キッパリとした調子になって、
「金田一先生はご存じですかどうですか、あのお宮の背後に千畳敷きいうのがございますけえど」
「はあ、その千畳敷きならよく存じております。いちめんに|楢《なら》や|櫟《くぬぎ》が生い茂っているなかに、七人塚というのがございますね」
「はあ、あの七人塚のほとりなんですの、ふたりが忍び逢うていたのは」
「あっ、なあるほど。すると、草を|褥《しとね》にというわけですか」
金田一耕助は思わず白い歯をこぼしたが、それも若さの特権であろうと、内心|羨《せん》|望《ぼう》の念を禁じえなかった。熱い血をたぎらせているふたりにとっては、暑さも寒さも苦にならなかったのであろう。多少肌寒いような夜であっても、抱き合ってしまえばお互いの血が、相手の体を温め合い、お互いの息使いや鼻息が、お互いを鼓舞し合い、|鞭《べん》|撻《たつ》し合い、はてはわれを忘れて抱き合ったまま、草を褥に狂ったように転げまわったことだろう。
「なにせ巴さんはいまも昔も、千畳敷きのうえの神社に住んでおいでんさりましょう。越智の本家はその時分|小《こ》|磯《いそ》にございました。いまはもう見るかげものう崩れ落ちてしもうておりますけえど、昔納屋だったところに、いま吉太郎さんが住んでおいでんさります。そうですけん本家は巴さんに|逢《あ》いとうなると、小磯の家を出て、|新《しん》|在《ざい》|家《け》を抜け、地蔵坂から地蔵峠と、一里の山坂を越えて千畳敷きまでお通いんさったわけですわな」
それも若さの特権だろうと、金田一耕助は目で|頷《うなず》いた。一里はおろか|叡《えい》|山《ざん》の僧はその昔、|麓《ふもと》の坂本の遊女屋へ通うのに、|高《たか》|下《げ》|駄《た》はいて七里の山坂を下ったというではないか。
「ところが千畳敷きまで|辿《たど》りつくと、本家が巴さんを呼び出すわけでございますけえど、まさか正面切って呼び出すわけにはゆきませんでしょう。まだだれにも内緒の仲でございますけんな。そこでふたりのあいだに合図がきめてございましたそうですけえど、その合図というのがおかしゅうございますんよ」
「はあ、どういう合図だったんですか」
「金田一先生はトラツグミという鳥をご存じでございましょうか」
金田一耕助は内心ドキッとしたのをおもてにも見せず、
「はあ、存じております。声も聞いたことございます。姿は見たことはありませんけれど」
「あの鳥、夜も鳴くでしょう、平家物語に出てくる|鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]《ぬえ》というのは、あの鳥のことだそうでございますね」
金田一耕助はまたギョッとしそうなのを包み隠して、
「わたしもなにかの|註釈本《ちゅうしゃくぼん》で読んだことがございます。鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]というのはトラツグミだって」
「それにあの鳥の鳴き声、|真《ま》|似《ね》るのにわりに簡単でございますわね。ホーッ、ホーッって」
「あっ、なあるほど。するとトラツグミの嶋き声が|逢《あい》|曳《び》きの合図になっていたというわけですか」
「金田一先生はしっておいでんさるかどうか存じませんけえど、この島は平家に縁の深いところでございましょう。ことに巴さんの家は平家の|公《きん》|達《だち》の|末《まつ》|裔《えい》でございますわね。それですけん、平家物語に出てくる鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]の鳴き声を呼び出しの合図にしようと、そう本家がお決めんさったんじゃそうですん」
「あっはっは、越智さん、なかなかロマンチストでいらっしゃる」
「ほんまになあ。わたしどもみたよな行かず後家には、|羨《うらや》ましい話ですけえどなあ」
「あっ、叔母さんは生涯独身でいらっしゃいますか」
「金田一先生、わたしにだって若い時がございましたんよ。好きな人もおりました。でも、その人、昭和十二年|上海《シャンハイ》事変が起きると、まっさきに兵隊にとられて戦死してしもうて……戦後はそげえなこと、いっさいお構いなしじゃそうですけえど、そのときはすっかり年を取ってしもうて、だあれも|洟《はな》もひっかけてくれませんけんなあ」
あとで聞くとこの多年子と竜平は、叔母|甥《おい》とはいうものの、たった十二しか違わないそうである。
「はれまあ。わたしとしたことが、とんだ愚痴をお聞かせして、お恥ずかしゅうございます。堪忍してつかあさい」
「いや、心からご同情申し上げます。それもこれも戦争のせいで、日本全国いたるところに、叔母さんみたいな気の毒なご婦人が、たくさんいることでしょうからねえ」
金田一耕助は月並みな感懐をのべておいて、
「ときに越智さんと巴さんが、そういう関係になられたのは、昭和十九年の何月ごろ?」
「七月のことじゃったというとりましたけん、ちょうどいまごろのことでございましょう」
なるほど、その季節なら草の|筵《むしろ》でもけっこう事は足りたであろう。
「それで駆け落ちなすったのは」
「八月のなかごろじゃったと|憶《おぼ》えとります」
「それで、どのくらい長く駆け落ちさきで潜伏しておられたんです」
「ちょうどひと月でしたぞなあ。あの人もそうとうの用意しとったんでしょうけえど、座してくらえばなんとやらで、お金に困っていとこの吉太郎さんに調達を頼んできたところが、その吉太郎さんが錨屋のおじいさんにその手紙、見せてしもうたんじゃけんな。あのときもえらい騒ぎでしたぞなあ」
「そうして連れ戻されるとまもなく、赤紙が来たというわけですね」
「それもこれも、錨屋のおじいさんの策略じゃという評判でした。本家という人は、この島の網元の後取り息子に生まれたばっかりか、年は若うてもようできた、働きもんちゅうことになっとりましたけん、島には必要欠くべからざる人間いうわけで、徴兵にはかからんことになっとったやさきでしたけんな」
「それでは越智さんもさぞご無念でしたろうね。あの人としては巴さんとのあいだに、既成事実を作りあげ、それによって錨屋の旦那を、納得させようと思っていたところが、ウラ目もウラ目、大ウラ目に出たわけですからね」
と、金田一耕助はそこで言葉を改めると、
「ときに叔母さん、わたしがなぜ越智さんの昔の秘めごとを、根掘り、葉掘り、こうしてお尋ねしたかと申しますと、じつはその間、巴さんが妊娠なすったというような事実はないか……それをしりたいんですけれどね」
多年子はギョッとしたように、金田一耕助の顔を|視《み》|直《なお》したが、すぐには返事ができかねたのか、無言のまま着物の|膝《ひざ》を|撫《な》でている。
金田一耕助は言葉をついで、
「妊娠なすったとすると、当然出産なすったわけですが、こういう島ですからね、巴さんみたいな立場の人が出産なすったとしたら、すぐ島中にしれ渡ってしまうと思うんです。そういう事実はなかったですか」
「それがねえ、金田一先生」
多年子は膝を撫でるのをやめ、なにか思いつめたような目で、金田一耕助の顔を視やりながら、
「もしかりに巴さんが、駆け落ちさきで妊娠おしんさったとすると、十九年の八月か九月ちゅうことになりますわねえ。もしかりに八月の終わりとすると、九、十、十一、十二、一、二、三……」
と、指折りかぞえながら、
「わたしはお産をしたことはございませんけん、よう存じませんけえど、昔からよく|十《と》|月《つき》十日と申しますでしょう。そうするとお産は昭和二十年の六月か七月ということになりますわなあ」
三津木五郎の生まれたのは、昭和二十年の六月二十八日である。
「はあ、はあ……それで……?」
「ところが、その時分、巴さんはこの島にはおいでんさらなんだんです。疎開しておいでんさったんです」
「疎開を……?」
と、金田一耕助は目を丸くして、
「こんな島にいて……?」
「それというのがその時分、このへんよう敵の飛行機が飛んだもんですん。瀬戸内海には海軍の|要衝《ようしょう》がたくさんございましたでしょう。ここからずうっと西へいくと、どこかの島で毒ガスを製造しているいう|噂《うわさ》もございました。そげえなこと、お|上《かみ》のほうではひた隠しに隠しているつもりでも、すぐしもじもまでしれてしまいますぞなあ。しもじものわたしでさえしっとるぐらいのことですけん、敵も承知じゃったにちがいございません。それでよう偵察機たらいうもんが、このへんの上空を飛んだもんですん。巴さんはそれですっかり|怯《おび》えておいでんさったところへ、三月十日の東京の大空襲からというもの、つぎからつぎへと各都市がやられましたでしょう。あれは神戸がやられてからまものうのことでしたけえど、大膳さまが急に巴さんを連れて疎開おしんさったんですん」
「どこへ……?」
「|播州《ばんしゅう》の山奥じゃということでしたけん、まえに駆け落ちして、隠れとったところとちがいますでしょうか。吉やんなら詳しいことしっとりますけえど」
播州の山奥といえば、三津木五郎の生まれた|宍《し》|粟《そう》郡山崎も、播州の山奥だといっていた。
「吉やんというのは吉太郎くんのことですね。あの人がどうしてしってるんです」
「そうじゃかとて、あの人がお供したんですけん。いまから二十二年まえいうても、錨屋の旦那はもうおトシでしたけんな。吉やんがお名指しでお供したんですん」
吉太郎と巴の縁は思いのほか深いのだと、金田一耕助はいまさらのごとく思いしらされた。もしそのとき巴がお産をしたのだとしたら、吉太郎はそれをしっており、そして、その子がどのように処分されたか、それもかれはしっているはずである。かれはその子が三津木五郎だと気がついていないのだろうか。
「疎開いうてもそげえなこと、だれも信じてはおりませなんだぞな。みんな内緒でお産しにいったんじゃろうと、陰口きいておりましたけんな」
多年子はボツンと|呟《つぶや》いて言葉を切った。
金田一耕助は木の香も新しい湯舟につかって、のびのびと両脚を伸ばしている。
『|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》島の情熱』の志賀恭三もそうだったが、長い海外生活を送った男が、故郷へかえって家を建てるとき、かれらはできるだけ外来ふうを|嫌《きら》うらしい。この地蔵平の越智竜平の家は、志賀恭三が建てた蜃気楼みたいな奇抜さはないが、洋間といったら二十畳敷きくらいの応接室があるだけで、あとは全部和室になっているらしい。
風呂場などもそれで、|総檜《そうひのき》の湯舟はまだ木の香も新しく、ゆったりとふたりははいれるくらいの広さをもったそこは、なみなみとたたえた湯加減もちょうどよろしく、|股《こ》|間《かん》にタオルをおいたまま、のびのびと両脚を伸ばしていると、全身の細胞という細胞から、疲れがドンドン抜けていくような快感を覚えずにはいられなかった。
どこかに|鹿《しし》おどしがしつらえてあるらしく、スコン、スコンというまの抜けた音がきこえるのも、眠気を誘うようである。そういえば、金田一耕助の世話になっている離れなども、どこか茶室ふうにできていた。
こうして、湯舟に身を浸している金田一耕助をはたから見ると、いかにも虚脱と空白の快感に、全身|溺《おぼ》れているようにみえる。じっさいかれはこのままなにも考えずにいたいと思っている。このまま行動を起こさずにすんだら、どんなに仕合わせだろうと考えている。
しかし、そのいっぽうではそんなことは許されない。この島ではこうしているうちにも、なにが起こるかしれないのだという焦燥感が、ジリジリとかれをとろ火にかけるように痛めつける。つまり金田一耕助の心理はいま、|懶《らん》|惰《だ》の快感を希求する欲望と、自己に課せられた任務を、できるだけ完全に遂行したいという責任感との|板《いた》|挟《ばさ》みになって、振り子のように揺れ、かつ動いているのである。
金田一耕助はいま湯舟に身を浸したまま、多年子から聞いた話を、ボンヤリと頭のなかで|反《はん》|芻《すう》している。
大膳と巴と吉太郎の三人が、疎開先からこの島へ引き揚げてきたのは、昭和二十年八月十五日正午、終戦の詔勅がラジオを通じて、全国津々浦々まで流れてから、一週間ほどのちのことだったという。するとそれはおそらく八月二十二、三日ごろのことだったろう。
巴の出産が六月二十八日だったとして、それから約二か月は経過している。二か月あれば産後の肥立ちも十分で、巴の健康状態も|原《もと》に復していたことだろう。
金田一耕助はまた巴が疎開するまえに、産婆らしき女が刑部神社へ、出入りしたふうはなかったかと、いまから二十二年まえの浅井はるの年かっこう|風《ふう》|貌《ぼう》を語ってきかせたが、多年子はそれには気がつかなかったといっている。
しかし、金田一耕助はいま確信めいたものを持っているのだ。
三津木五郎はその父三津木秀吉の、四十二歳のときの子どもだったといっている。そのとき母の貞子はいくつだったか聞き|洩《も》らしたが、かりに三つちがいの夫婦とすると、三十九歳だったわけである。しかも、五郎は夫婦のあいだに恵まれた、はじめての子宝だというから、ずいふん遅い初産だったというべきである。かりに秀吉が二十五歳、貞子が二十二歳のとき結婚したとしても、結婚後十七年目にしてはじめて妊娠したということになる。世の中には結婚後十年以上もたって、妊娠出産する夫婦もなくはないが、それはたいへん珍しいケースである。いわんや十七年目においてをや。
ひょっとすると三津木秀吉夫婦は、自分たち夫婦のあいだに恵まれる子宝について、絶望し、|諦《あきら》めていたのではないか。それにもかかわらずかれらは切実に子どもを欲した。そこで|識《し》り合いの産婆に、どこか要らない子どもがあったら世話してほしいと申し込んでおいた。そのおなじ産婆が刑部神社へ招かれて、巴の体を診察し、てっきり妊娠と断を下した。
刑部神社では巴が出産しては困るのである。その子の父は網元とはいえ漁師ごとき下司下郎である。格式高き刑部神社の一人娘の婿としては言語道断である。もしそれ巴が無事に出産したあとへ、越智竜平が生還してきて、その子をタネに強引に結婚を申し込んできたら、断わるにも骨が折れるだろう。そういう意味でもその子をひそかに消しておく必要があった。と、いって生まれた子を殺すわけにはいかない。たとえ|嬰《えい》|児《じ》といえどもそれを殺せば殺人である。
刑部神社ではさぞ困ったことだろうが、そこへ産婆から持ち出されたのが、三津木夫婦の申し出である。刑部神社では渡りに舟とそれに乗ったことだろう。そこで大膳が巴をつれて、三津木貞子の住む宍粟郡山崎のちかくの温泉宿かなにかに疎開と称してひそかに隠れひそんだ。吉太郎をつれていったのは、屈強の若者を護衛としてほしかったのにちがいない。
すべてはうまくいった。昭和二十年六月二十八日、巴の腹からかわいい男の子が|呱《こ》|々《こ》の声をあげた。その子はその場で待ちもうけていた、三津木貞子に手渡され、五郎と命名されて今日まで無事に成人した。……
そこまでは金田一耕助の推理に矛盾はない。しかし、そのあとに心にひっかかるものがあるのをどうしようもなかった。金田一耕助はその産婆を、下津井で殺害された浅井はると決めてかかっているのだが、それにしては浅井はるから磯川警部に|宛《あ》てた手紙のなかには、|腑《ふ》に落ちかねる節々がある。
「いまから二十二年まえ複雑なる事情のもと犯した罪の恐ろしさ。しかもその秘密を種にしていままで生きてきた|業《ごう》の深さ」
とはどういうことだろう。
たしかに浅井はるのやったことは非合法的なことである。法に触れることだろう。しかし、彼女の|斡《あっ》|旋《せん》がなかったら、巴の腹の子は水にされていたかもしれないのである。浅井はるはそれほど良心にとがめることはないのではないか。
「しかもその秘密を種にしていままで生きてきた業の深さ」
とはこれまたどういう意味だろう。浅井はるがだれかを|強請《ゆす》っていたことはたしかなようだが、ただ嬰児斡旋という事実だけで、あれだけ|莫《ばく》|大《だい》な金額が強請れるものだろうか。
さらに不可思議なのは、
「いまにだれかが|妾《わたし》を殺しにくるのではないかと思えば、生きている空もございません」
と、いう一節である。
いったいだれが彼女を殺しにくるというのであろうか。あやうく水にされかけた不要の子を、他に周旋したという秘密だけで、彼女はなぜ消されなければならないのだろうか。
なにかある!
金田一耕助はおのれの|識《し》りえた事実の底に、さらにもうひとつ、なにかあるのを痛感せずにはいられなかった。いままでに識りえたデータを集めて、もうひと皮むけば、ここにもっともっと空恐ろしい秘密が伏在しているのではないか。
湯舟に身を浸した金田一耕助は、しばらく虚空のある一点を凝視していたが、その空恐ろしい秘密がなんであるかわからぬもどかしさに、首をはげしく左右に振ると、ポチャンと湯を大きく鳴らして身を起こした。
しかし、その金田一耕助にただひとつ分明したことがある。テープに|録《と》られた青木修三の伝言のうち、
「鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]のなく夜に気をつけろ」
と、いう一節である。
若き日の越智竜平は巴と|忍《しの》び逢うとき、トラツグミの鳴き声を、呼び出しの合図にしていたという。しかも、かれは平家物語の鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]の項を巴に教え、それを鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]の|啼《な》き声だと、ロマンチックな少女の感傷に訴えていたらしい。
竜平と巴がいつどういう機会に結ばれたのか、そのことはいまとなってはどうでもよい。いまでも思いこんだらひたむきで、強引で、押しの一手の越智竜平は、血気盛んな若年時代、よりいっそう強引でひたむきだったろう。そのひたむきさと強引さで、かれは若き日の巴を口説き落として関係をつけた。もちろん結婚を前提としての肉体的交渉だったのだろうが、そこに幾多の困難が予想されたので、あらかじめ、抜きさしならぬ既成事実をつくっておいて、改めて結婚を申し込むつもりだったのであろう。
いずれにしても、はじめて異性の味をしった若き日の竜平と巴は、|渇《かつ》するがごとく相手を求め合ったにちがいない。そのとき竜平は二十二、巴は十七であったという。竜平は夜な夜な血の騒ぐのを覚え、やがてはその血の騒ぎに耐えかねて、小磯の家を抜け出し、地蔵坂から地蔵峠と、四キロの山坂を踏破すると、千畳敷きへ駆け着けて、トラツグミの鳴き声で巴を呼び出し、七人塚のほとりの草を褥に、互いにひしと抱き合って、若き日の情熱を|謳《おう》|歌《か》しあったことだろう。十代の五つちがいは大きい。当時お人形のように可愛かったといわれる巴は、五つ年上の男の|逞《たく》ましい情熱に押し流されて、|唯《い》|々《い》|諾《だく》|々《だく》、男のいうままになっていたことだろう。それからひいて駆け落ちという非常手段に発展していくのだが、しかし、それはすべて二十年以上も昔の話である。
しかし、テープに遺された青木修三の、
「鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]のなく夜に気をつけろ」
と、いう警告は現代の出来事を語っているのだとしか思えない。
千畳敷きでトラツグミの鳴き声を発すると、そこにどういう反応が起こるかということを、青木修三はしっていたのではないか。しっていたとするとだれに教えられたのか。
青木修三は色好みの男だったという。写真で見ても|淫《いん》|蕩《とう》|的《てき》な|匂《にお》いが強い。それがことしの五月十九日の晩、パジャマのうえにレーンコートをひっかけて、人知れず錨屋を抜け出し、二キロの山坂を越えて千畳敷きへ出掛けていった。かれもまた血の衝動を抑制しかねたのではないか。と、するとかれの血を騒がせた女性というのはいったいだれか。
金田一耕助はそこでふとさっき夢に見た、蓑と笠の中の人物の顔を思い出し、湯舟のなかではげしく身ぶるいしたが、多年子叔母さんが湯殿の外へきて、
「金田一先生」
と、声をかけたのはそのときである。
「いまお宮から駐在の山崎さんがお見えんさりまして、|神楽《か ぐ ら》|太《だ》|夫《ゆう》さんの聞き取りとやらをはじめますけん、はよう来てつかあさいというておいでんさります」
「あっ、そう、いますぐ出ます」
金田一耕助が思わぬ長湯に赤面していると、
「むこうに夕食のお支度ができておりますけん、召し上がってお出掛けんさったら」
「はあ、ありがとうございます。越智さんは?」
「あのひとはひと足さきに失礼して、いま応接室でゴルフ場のことで係りの人と、打ち合わせをしとおります」
こういう際にも仕事のことが、なおざりにならないところがいかにも竜平らしいと、金田一耕助は苦笑しながら、いっぽうでは安心している。
第二十一章 |弾《だん》 |劾《がい》
聞き取りの場所はけさとおなじで、|刑部《おさかべ》神社の社務所であった。金田一耕助がそこへ顔を出したのは、七月七日の夜も八時を少し過ぎたころだったが、だいたい聞き取りも一段落ついたのか、社務所のソファでは磯川警部と広瀬警部補、藤田刑事らが茶を飲んでくつろいでいた。
「やあ、遅くなって申し訳ございません」
「ああ、金田一さん、ようお眠れんさったかな」
「おかげさまで。どうやら気分もサッパリしました」
「それはけっこうでした」
と、そばから広瀬警部補が言葉を挟んで、
「金田一先生、あなたが寝ておいでんさったあいだにあったことを、かいつまんでお話ししておきましょう」
警部補はメモを見ながら、
「まず岡山からきた職人の手によって、黄金の矢の|矢《や》|尻《じり》のほうが焼き切られました。それであの矢は抜き取られたんですけえど、その遺体をこれまた岡山から出張しておいでんさった岡田博士……このご仁は警部さんもようご存じのかたですけえど、木下先生立ち会いのもとに、岡田博士の執刀で現地解剖が行なわれました。その結果をここにご報告しとおきますと、あの矢はいったん左肺部で止まった形跡があるそうです。つまり犯人の最初の一撃で、矢尻は左肺まで|刺《さ》し貫いたとおみんさい。その一撃で被害者は絶命していたにちがいないのに、犯人はなおもぐいぐい矢を刺し込んで、あのように|串《くし》|刺《ざ》しにしたんじゃそうです」
この報告は金田一耕助にも興味があった。
「そうするとあの黄金の矢は、二段構えで被害者の体内へ刺し込まれたというわけですか」
「いや、二段構えどころか、三段構えぐらいになっとるちゅう話です。いかに被害者が長身|痩《そう》|躯《く》とはいえ、人間の体を串刺しにするというのは、なかなか一気にとはいかんそうです。犯人はすでに絶命している被害者の体内へ、なおもぐいぐい二段構えか三段構えで矢を押し込み、あのように串刺しにしたちゅうんですけん、よっぽど被害者にたいして、根強い|怨《えん》|恨《こん》か憎悪を、たぎらせとるもんの仕業にちがいないちゅうことになっとおります」
「犯行の時刻は……?」
「これはわれわれの推定どおり、六日の夜の七時から九時までの、あいだのことじゃろうということになっとりますけん、あの火事騒ぎのあった前後のことでしょうな」
金田一耕助は物思わしげな目をショボショボさせながら、なにか打ち案じているふうだったが、また思い出したように、
「ときに、|片《かた》|帆《ほ》ちゃんのほうは……?」
「これは木下先生のお見立てどおりでした。死因は窒息でした。むつかしい医学用語は省略しますけえど、犬に|咬《か》み裂かれたのんも、|烏《からす》につつかれたのんも、みんな死後のことじゃそうです。犯行の時刻は五日の夜の八時から十時までのあいだじゃろうといいますけん、これまた三津木五郎と荒木定吉が一本松のところで、|蓑《みの》と|笠《かさ》の人物を目撃した時刻と一致しとります」
「ときに神主さんや片帆ちゃんのご遺体は……?」
「吉太郎が|柩《ひつぎ》を二つくめんしてきよりましてな、いま奥の座敷に安置してあります。今夜はお通夜であしたがお葬式ですけえど、このへんは土葬ですけん、吉太郎が下の墓地で穴を掘ることになるんでしょう。あの男はこの島の便利屋みたいなもんのようです」
吉太郎の名前が出たとたん、金田一耕助はかたわらの壁に目をやった。そこには蓑と笠がかかっている。蓑も笠もまだ生ま乾きである。
「吉太郎くんにあの蓑と笠のことについて、お尋ねになったでしょうね」
「それはもちろんまっさきに尋ねてみました」
「結果はどうでした」
「乾いとったちゅうとりますよ。乾いとったけん、用水桶に浸して水で|濡《ぬ》らしたんじゃっというとります。|嘘《うそ》かほんまかわかりませんけえど」
「ほかの人たちはどうです。|錨屋《いかりや》の|旦《だん》|那《な》はわたしと一緒にきたのですから、なにもご存じないはずですが、村長なんかは早くからこちらへきていたんでしょう。蓑と笠が濡れていたか乾いていたか……どういってるんです」
「それがねえ、金田一先生、気イつかなんだいわれたらどうしようもございません。幸い今夜は神主のお通夜ですけん、大膳や村長のほか、刑部の株内の主だった六人も奥にきとおります。その連中をひとりひとりつかまえて聞いてみたんですけえど、みんな口裏を合わせたように、気イつかなんだ、申し訳ないいうとおります」
「巴御寮人や真帆ちゃんは……?」
「やっぱりおんなじこってすらあ。このふたりはとくにほんまのことはいいますまい」
投げ出すようにいう広瀬警部補の口調には、どこかせせら笑うようなひびきがあった。
「そうじゃけえどなあ、金田一先生、蓑と笠が濡れておったか乾いとったか、だあれも気イつかなんだちゅうのは、いっぽうからいうとほんまかもしれんのですわ」
「と、いうと……?」
「|神楽《か ぐ ら》|太《だ》|夫《ゆう》の連中ですけえどな、あの連中は片帆の事件には全然関係ないわけです。ところがあの連中も蓑と笠が濡れておったか、乾いとったか、全然気イつかなんだちゅうとります。なかにはそんなもんがあそこにぶら下がっとったちゅうことすら、気イつかなんだいうもんさえおりますけんな」
「わしがそうじゃけん」
そばから口を出した磯川警部は、しみじみと、|臍《ほぞ》を|噬《か》むような調子であった。
「わしはゆうべあの殺人事件が起こるまえ、二度ここを通っとるわけじゃけえど、全然気イつかなんだけんな。あのボヤ騒ぎが起こったとき、吉太郎がどこからか現われて、蓑と笠を用水桶にザブザブつけているのんを見たとき、いったいどこからあげえなもん、持ち出してきよったんかと、ふしぎに思うたくらいじゃけんな。この事件に関する限り、わしもつくづく|耄《もう》|碌《ろく》したと思わざるをえんよ」
「ときに、神楽太夫の聞き取りは終わったんですか」
金田一耕助が話題をほかへそらしたのは、磯川警部にたいする|労《いた》わりである。この事件に関する限り、警部の様子はたしかにおかしい。金田一耕助のしっているいままでの磯川警部とちがっている。しかし、それをもってしてただちに耄碌ときめつけるのは、金田一耕助としては忍びがたかった。
広瀬警部補もその意を察したのか、金田一耕助の誘いの水に乗ってきた。
「いや、全部じゃありません。終わったんは四郎兵衛、平作、徳右衛門、嘉六の長老四人です。これからいよいよ若手の三人に取りかかろうとしたところで、ちょっと一服ちゅうところでした。聞き取りちゅうもんは疲れるもんですけんな」
「それで四人の長老から、なにか耳よりな聞き込みがありましたか」
「それがサッパリですん。きゃつらゆうべからきょうへかけて、口裏を合わせよったんですな。ゆうべの神主殺しはじぶんたちの全然あずかりしらぬところである。神主が殺されたと思われる時刻には、じぶんたちはみんな神楽殿の裏側の楽屋にいたけん、手の下しようがないと、みんな判で押したようにいい張るばかりか、あの四郎兵衛というじいさんですな。あのじいです、こっちへくる船の中でわたしをつかまえて、いまから二十年ほどまえ、この島で神楽太夫が蒸発したいう|噂《うわさ》を、聞いたことはないかと聞いてきたんは。ところがそれもこっちから突っ込んで聞くと、いや、あれはわしの思いちがいじゃった。わしの|倅《せがれ》の松若なら井原の在で|亡《の》うなって、ちゃあんと墓までできとりますらあと、逃げを打ちよります。平作、徳右衛門、嘉六なんぞもあのじいさん、一人息子の松若が、年若うして死んだもんじゃけん、ときどき気がおかしゅうなって困ります。一種の精神錯乱ですけん気にせんといてつかあさいと、判で押したようにおなじようなこというとります」
「松若というんですか、その蒸発したとじいさんが、ときどき精神錯乱を起こすのは?」
「そうです、そうです。なんでも終戦後まものう、ここの神社で神楽を舞うたが、それからまものう死んだもんですけん、あのじいさん、ひょんなげな錯覚を起こすんじゃというとります」
「ところで、越智氏に見とがめられた神楽太夫というのは……?」
「いや、そのことはまだ切り出してはおりません。あと三人調べてみてみんなシラを切るようじゃと、もういちど全部呼び集めて、頭から|一《いっ》|喝《かつ》くらわせてやろうと思うとるんです」
「じゃ、そろそろあとの三人の聞き取りを、はじめられたらいかがですか」
「はあ、そうすることにいたします」
そこでイの一番に呼び出されたのは|弥《や》|之《の》|助《すけ》だったが、この男はまえにいったとおり、四人の長老から見ればだいぶん若い、まだ三十代のなかばであろう。かれはみずからじぶんは四郎兵衛の妹の孫である。したがっていまむこうにいる誠、勇の兄弟とは、ふたいとこに当たっていると名乗りをあげて、ゆうべの神主殺しについては、自分の全然|与《あずか》りしらぬところであり、かつまたなんの心当たりもないと、例によって紋切り型の答えであった。また、蓑と笠について質問を受けると、じぶんはなにも気付かなかった。ここにこういう蓑と笠が飾ってあることすら、いままで気がつかなかったと、これまた紋切り型の|挨《あい》|拶《さつ》だった。
この弥之助という男、農業を本業とする神楽太夫としては、どこかひと|筋《すじ》|縄《なわ》ではいかぬ面魂であった。
「なるほど、きみの祖母が四郎兵衛じいさんの妹とすると、きみのおやじさんは四郎兵衛じいさんの一人息子、松若くんのいとこちゅうことになるんかね」
「いいえ、それはちごうとります。わたしのおふくろが松若おじさんのいとこですらあ」
「ああ、そうか。しかし、その松若おじさんの死んだとき、いろいろ取り沙汰のあったんを、きみも聞いちょるじゃろうが」
「いいえ、それはしりません。そげえなおじさんがあって、神楽をえろう上手にお舞いんさったちゅうことは、わたしも聞いとりますけえど、そのおじさんの|亡《の》うなったんは、いまからかれこれ二十年もまえのことですけんな、わたしはなんにも聞いとりません。そげえなことなら誠や勇に聞いておみんさったら。あのふたりならじつのお父つぁんのことですけんな、なにか聞いとるやもしれません」
うまい逃げ口上だったが、広瀬警部補も弥之助よりも、むしろ誠や勇に期待しているところだったから、すぐに誠が呼び寄せられた。ところがやってきたところをみると、誠と勇はいっしょだった。
「おいおい、きみはあとだ。お兄さんがすんでからきみを呼ぶから、それまでむこうで控えていたまえ」
警部補が勇にむかっていうのを、誠が途中で|遮《さえぎ》って、
「いいえ、ぼくら一緒にして下さい。年寄り連中みんな係り合いになるのん|惧《おそ》れて、ほんまのこといわなんだようですけえど、ぼくらしってること、なにもかもいうてしまうつもりですけん」
そういう誠もその背後にひかえている勇も、緊張感に顔面が凝縮していて目が異様にすわっている。
広瀬警部補は興味深げにふたりの顔を見くらべると、警部のほうを振りかえった。警部がコックリ点頭したのは、かれらの希望に添うようにという意味であろう。金田一耕助は無言のまま控えていたが、もちろん警部の処置に賛成であった。この兄弟の思い詰めたような顔色から察すると、なにかよほど重大なことを打ち明ける決心をしているのであろう。鉄は熱いうちに打てという。手続きなどに|拘《こう》|泥《でい》している場合ではない。かたわらで書き取りをしている藤田刑事とは別に、金田一耕助もノートとボールペンを用意した。
広瀬警部補はそれを横目で見ながら、
「ああ、そう、それじゃそこへ掛けたまえ」
ふたりがカウンターのまえの|長《なが》|椅《い》|子《す》に、並んで腰をおろすのを待って、
「きみが|妹《せの》|尾《お》四郎兵衛さんの一人息子、松若くんの長男誠くん、そちらが弟の勇くんだね。年齢は?」
「ぼくが二十五、勇は二十三。それですけん父の松若が蒸発したとき、ぼくは六つ、弟の勇はまだ四つでした」
「蒸発……?」
広瀬警部補はキラリと目を光らせて、
「きみたちのお父さん、松若という人は蒸発したというんかね」
「それについて、おじいちゃんはなんというておいでんさります? いや、おじいちゃんだけやのうて、ほかのおじさんたちどういうておいでんさりました」
「松若なら|故郷《くに》の井原で亡うなって、ちゃんと墓もできとると、みんな口を合わせてそういうとったけえど」
「それは|嘘《うそ》です。みんなこんどの事件に係り合いになるのん惧れて、口裏を合わせることにおしんさったんです。ことにおじいちゃんは、じぶんに疑いがかかりやせんかっと、心配しておいでんさりますけん」
「それやまたどういうこと?」
「おじいちゃんはあの神主がぼくたちの父ちゃんを、殺したと思い込んでおいでんさります。ですけん、今度のことも他人に先を越されたと、とっても|口惜《くや》しがっておいでんさるんです。ぼくじゃかとてやっぱりそう思うとります。うちの父ちゃん殺したん、あの神主にちがいないっと」
「きみ、きみ、そう興奮したらいかん。もっと落ち着いて話してくれたまえ。きみはなんだってあの神主が、きみの父ちゃんを殺したと思い込んどるんかね」
「失礼しました」
誠はペコンと頭を下げると、ソワソワと額の汗を|拭《ぬぐ》いながらひと呼吸入れて、
「ぼくらまだ若いもんですけん、こげえな重大な話になると、どうしても興奮してしまいます。この弟はぼくよりふたつ若いんですけえど、生まれつき肝っ玉が太いもんですけん、こうして落ち着いておりますけえど、ぼくは生まれつき神経質なもんですけんな」
「お兄ちゃん、そげえなこといわんといてつかあさい。ぼくらかてさっきから興奮しとおりますけんな」
「おまえは興奮しても顔に出んから偉い。ぼくらすぐ表に出てしまうけんな」
なるほど|兄《あに》|貴《き》のほうが面長で、神経質そうなのに反して、弟のほうは丸顔で、体つきなども兄貴より|貫《かん》|禄《ろく》がある。しかし、お互いに相手をいたわり立てあうところに、|麗《うる》わしい兄弟愛がうかがわれる。
「まあ、まあ、そういうことはどうでもええとして、誠くんはどうしてここの神主が、きみたちのお父さんを殺したと思うとるんかね」
「それはこうですん。まあ聞いてつかあさい」
誠があるいは|吃《ども》り、あるいはつかえ、あるいはおなじことを重複して、なんども繰り返し、繰り返し述べるところを要約すると、だいたいつぎのとおりになるのである。
昭和二十三年ごろこの島は、ヤミ島として繁栄していたそうである。その年の七月六日、七日の刑部神社の祭礼に、奉納神楽として|招聘《しょうへい》されたのが四郎兵衛の社中であった。一座にはいまむこうにいる平作、徳右衛門、嘉六もいたが、なんといっても花形は松若であった。松若はそのじぶん三十四歳の男盛り、体つきも勇に似てガッチリしており、男振りも悪くなかった。そのとき松若は|素戔嗚尊《すさのおのみこと》を舞い、四郎兵衛が|八《や》|岐《また》の|大蛇《お ろ ち》をつきあったが、これは大成功をおさめ、四郎兵衛も大いに面目をほどこして郷里へかえった。
ところがそれ以来、松若は月に一度くらいのわりあいで、どこへいくともなく姿をくらますようになった。そして、いつも二、三日するとふらりと帰ってくるのだが、そのときはうつけのようになっていて、夫婦の語らいさえままならぬ状態だったという。だから、てっきりどこかにおなごができたのだろうといわれていたが、ついに十月六日に家を出たきり、二度と帰って来なかった。つまり、蒸発してしまったのである。だからてっきり女に縁の濃い男、その女に|亭《てい》|主《しゅ》があったとすると、その亭主の手にかかって、人しれず、どこかへ葬られてしまったのであろうと誠は主張するのである。
「なるほど、きみのいうことは、よくわかった。きみのおやじさんの松若いう人物が、ほかにおなごができ、そのおなごにうつつを抜かしているうちに、蒸発してしまったという話はいちおうわかる。そうじゃけえど、それがこの島に関係あるとはどうしてわかる? なにか証拠でもあるのかね」
誠はちょっと詰まったが、すぐ躍起となって、
「いいえ、証拠はありません。証拠があったらいままで放ってはおきません。証拠がないもんじゃけん、おじいちゃん、きょうまで涙をのんでおいでんさったんです。そうじゃけえど、ぼくは証拠をつかんだんです。こっちへきてから証拠をつかんだんです。おじいちゃんを興奮させると悪いもんじゃけん、まだだれにも……この勇以外にはだれにもいうとりませんけえど……」
誠はまた興奮してきて、目は血走り、|頬《ほお》は上気して、口角|泡《あわ》をとばさんばかりである。勇がそばでハラハラしている。
「ほほう、きみがどういう証拠をつかんだというんかね」
誠は目を|爛《らん》|々《らん》と光らせて、
「主任さんはこのお宮の裏側に、千畳敷きいうとこがあるのん、ご存じじゃありませんか」
「千畳敷きならしっちょるが、それがどうかしたのけ」
「父ちゃんは千畳敷きで、おなごと|逢《お》うていたんです。ぼく父ちゃんがちょくちょく、家出をするようになってから、父ちゃんに抱かれて寝たことがあるんです。そのときどこへいくのけと尋ねたら、千畳敷きへいくんじゃというとりました。そこで鳥が鳴いたらおなごが|逢《あ》いにくるんじゃっと」
「鳥……? 鳥いうてなにけ、|雀《すずめ》け、|烏《からす》け」
「いいえ、そげえな鳥じゃなかったんです。ぼくそれまで聞いたこともない名の鳥じゃったんです。その鳥なら夜でも鳴くんじゃそうですん」
金田一耕助がそばから口を挟んだのはそのときである。妙に低い、ささやくような声だった。
「お父さんはトラツグミといわなかった? 一名|鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]《ぬえ》ともいうがね」
とたんに磯川警部と広瀬警部補が、ドキッとしたように体を起こして、鋭く金田一耕助を見た。
ふたりとも青木修三の|遺《のこ》したテープの一節を、肝に銘じて|憶《おぼ》えている。
「鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]のなく夜に気をつけろ」
「その鳥、トラツグミたらいう鳥、どげえな鳴きかたするんです」
「聞きようによってはいろいろあろうが、ふつうホーッ、ホーッと鳴くというね」
「それじゃ、それじゃ、それですん」
誠は興奮のあまり腰掛けから、ピョコンと腰を浮かせると、|拳《こぶし》を握りしめて激しくカウンターのうえを|叩《たた》いた。
「父ちゃんはいうとおりました。父ちゃんがホーッ、ホーッと鳥の鳴くまねすると、おなごが逢いに出てくるいうんです。その味を忘れかねて父ちゃんは、ついふらふらと家出するんじゃけえど、おまえや勇、また母ちゃんにもすまんと思うとるちゅうて、父ちゃんぼくの体を抱きしめて、せんどお泣きんさったんです。父ちゃんはそのおなごのこと、きつう後悔しておいでんさったんですん」
誠はあわれ声を湿らせたが、広瀬警部補はそういう感傷には無関心である。鋭く金田一耕助の横顔に目をやって、
「金田一先生はなにかこのことについて、お心当たりでも……?」
「はあ、あります。しかし、それはあとでお話しするとして、誠くん、きみはおじいちゃんに話してなかったの、千畳敷きのことや、鳥の鳴き声のこと……?」
「なんせ、そんときぼくまだ六つでしたけんな。そうじゃけえど、それからまものう父ちゃん蒸発しておしまいさったもんじゃけん、それが遺言みたような気イがして、長う深う、ぼくの心の底に残ったんですん。そうじゃけん、ぼく大人になってお神楽の社中に入れてもろて、あちこち旅をするようになったとき、いく先々で千畳敷きのこと聞きました。いままで、どこにもそげえな場所なかったんですけえど、この島へきて駐在のお巡りさんに聞いてみたら、あるちいますでしょう。そいでさっそく勇と二人でいてみたんです。その途中であなたとあなたに会いましたなあ」
誠は金田一耕助と磯川警部を指さした。ふたりは面目なさそうに|頷《うなず》いている。あのとき金田一耕助も磯川警部もこの兄弟を、露店商人かなんかと勘違いしていたのである。
「あれからぼくらまっすぐに、千畳敷きへいてみたんです。ぼくひとめあたりのようすを見ると、すぐここじゃっと思いました。あそこなら鳥が鳴いてもおかしゅうないし、それにすぐそばに見えるお宮の御寮人さん、ぼっこう(たいそう)|綺《き》|麗《れい》なおなごさんじゃっと、おじいちゃんから聞いとりましたけんな」
「すると、きみの父ちゃんあげえな林の中で、|苔《こけ》を|褥《しとね》におなごと乳繰り合うていたというのけ」
誠は少し赤くなって、
「ぼくらまだチョンガーで、おなごいうもんしりませんけえど、男と女が|惚《ほ》れ合うて、体がボッボッと|炎《も》えてくると、どこでもええのんとちがいますか。それに父ちゃんが家出おしんさったんは、八月、九月とまだ暑い時分でしたけんな」
誠はそこまで語ると急に気がついたように、一同の顔を見まわしながら、
「そうじゃけえど、この島で蒸発したんはうちの父ちゃんだけじゃのうて、ほかにも二人いるのんとちがいますか」
「えっ、きみはまたどうしてそげえなことがいえるんじゃ」
そこで誠がおとといの正午頃、千畳敷きで|真《ま》|帆《ほ》と|片《かた》|帆《ほ》の話を立ち聞きしたいきさつを打ち明けると、一同の興奮と緊張は、その極に達したといっても言い過ぎではなかったであろう。
「いや、その荒木定吉ちゅうもんの父親が蒸発したいう話は、こちらの耳にもはいっているけえど、ほかにもうひとり|淡路《あ わ じ》の人形遣いが蒸発したんじゃと……?」
「へえ、いまから七年か八年まえの話じゃっと、片帆いう娘さんがいうとりました。それがきょうとい(恐ろしい)けん、この島から逃げ出すんじゃと、あの娘さん、そういうておいでんさったなあ」
弟に同意を求めると、勇もこっくり頷いて、
「お兄ちゃんのおいいんさるとおりで、あの人ふたりがこの島で、蒸発したんじゃっという、たしかな証拠でも握っていたんとちがいますか」
「それで、そのことについて岡山から、刑事が調べにきたというんじゃね」
「たしかにそういうとりました」
「警部さん、あなたなにかお心当たりは……?」
「さあ、わしにも記憶はないが、岡山から刑事が調査にきたとすると、県警の本部に記録が遺っとるはずじゃろ。その人形遣い、名前はなんというたかな」
「それが……名前は出ませんでした。ただ人形遣い、人形遣いちゅうとりました」
「それが、八年まえのことじゃというんじゃね」
「あのふたごのきょうだいが、小学校の五年か六年のときじゃったそうです」
「そうすると昭和三十四、五年ごろのことということになるな」
荒木定吉の父清吉が蒸発したのは、昭和三十三年の夏だという。
「金田一先生」
磯川警部はふいに金田一耕助のほうを振りかえると、
「この島で一人ならず二人、三人まで蒸発した……それが事実じゃとすると、そこにどげえな意味があるんでしょうな」
「わかりません」
金田一耕助は悲しげに首を左右に振って、
「ぼくにもわかりません。なにかもうひとつデータが欠落しているようです。鎖の|環《わ》のいちばんだいじな部分が、欠けているような気がしてなりません」
しかし、これは恐ろしいことであると、金田一耕助は考えている。
昭和二十三年の秋、神楽太夫がこの島で蒸発した。それからついで三十三年の夏には、置き薬の行商人が蒸発している。さらにそれから一年か二年たって、淡路からきた人形遣いが蒸発した気配があるという。こうして水平線上に頭を出してきただけでも、三人の蒸発者である。まだ水平線下に隠れている蒸発者が、ほかにも沢山いるのではないか。
いや、それは思い過ごしとしても、ここに興味のあるのは蒸発者が、みんな男であるということである。淡路からきた人形遣いというのは、年かっこうがわからないけれど、他のふたり、神楽太夫と置き薬の行商人は、いずれも男盛りの|年《とし》|頃《ごろ》で屈強の壮者である。いや、男盛りの年頃で屈強の壮者といえばもうひとりいる。青木修三である。
金田一耕助は卒然として、青木修三も蒸発する|手《て》|筈《はず》になっていたのではないかと気がついた。それがなにかの手違いで、千畳敷きから|落《おち》|人《うど》の|淵《ふち》へ|顛《てん》|落《らく》したか、させられたか。そしてかれは顛落するかさせられるまえに、この島に悪霊がとりついている、かずかずの|証《あかし》を見たのではないか。
「鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]のなく夜に気をつけろ」
と、いう言葉に根拠ある裏付けができた以上、ほかの言葉もたんなる|囈《うわ》|言《ごと》や、|虚《きょ》|妄《もう》の精神から発せられた|戯《たわ》|言《ごと》ではないことがうかがわれる。あれはやっぱり越智竜平に遺した伝言だったのだ。と、するとかれはどこかで、腰のところで骨と骨とがくっついた、シャム双生児を目撃したことになる。まえに金田一耕助が推理したように、すでに|骸《がい》|骨《こつ》という形態になっているところを。しかし、そのシャム双生児とはどういう素性のものだろうか。そのふたごもこの島で蒸発したのだろうか。
金田一耕助はわれとわが|妄《もう》|想《そう》に|怯《おび》えて、思わずはげしく身震いしたが、それに感染したのか、磯川警部も広瀬警部補もおなじように身を震わせた。このふたりはいったいどういう妄想をえがいていたのか。
広瀬警部補は身震いしたことによって、妄想をふり落としたのか、いくらかテレたようにノドの奥で|咳《しわぶき》をすると、
「いや、誠くん、きみはよいことを聞かせてくれた。これでわれわれの捜査も、いちだんと進展することじゃろうけえど、ことのついでにもうひとつ、われわれの捜査に協力してもらえまいか」
「へえ、どういうことですん」
「いや、あそこの壁にかかっているあの|蓑《みの》と|笠《かさ》じゃけえどな。あれきみたちがきのうの夕方こちらへきたときも、あそこにああしてぶら下がっていたはずなんじゃが、そのときあの蓑と笠、|濡《ぬ》れておったか乾いておったか、きみ、憶えとらんか」
「そうそう、お爺いちゃんらもそういう質問受けたようですけえど、ぼくいっこう憶えとりません。そこにそういうもんが飾ってあるちゅうことさえ、気イつかなんだくらいですけん」
警部補が舌打ちしかけたとき、すかさずそばから口をはさんだのは勇であった。
「お兄ちゃん、そのことならぼくよう憶えとりますけえど」
「なに、勇くん、きみ憶えとるとッ」
警部補はカウンターから身を乗り出して、
「それで、それ濡れておったか乾いとったか」
「生ま乾きの状態でした。うしろの壁にシミができとったくらいですけんな」
「勇、それほんまのこと?」
「お兄ちゃん、ぼくこの手で触ってみたんよ。風流なもんが飾ってある思うたもんですけんな」
「勇くん、それあの火事騒ぎのあったまえのことだろうね」
「もちろんのことですよ。ぼくらがここへついたんは夕方の四時ごろのことでした。その警部さんもご一緒でしたけん、よう憶えておいでんさると思いますけえど、ぼくがそれに触ってみたん、そのときのことですけん」
「そしたら蓑と笠が濡れていたんだね」
「へえ、蓑も笠もうしろの壁も生ま乾きじゃったんです」
広瀬警部補は思わず磯川警部や金田一耕助のほうを振り返った。ここにはじめて確固たる証人が現われたのである。吉太郎の申し立てが真っ赤な偽であるということの。
「ああ、ありがとう。これじゃいよいよわれわれは、きみたちに感謝せにゃいけんな。もうさがってもよろしい。むこうへいったらおじいちゃんにいいたまえ。われわれはだあれもはじめから、きみたちのなかに犯人がいるとは思うとりゃせなんだとな。あとから島を出てもよいいう、許可証を持たせてやるけん」
しかし、誠も勇も動かなかった。
「いえ、主任さん、ぼくたちが一緒にここへきたんは、勇がなにやらみなさんに、お話ししたいことがあるんじゃそうですん。勇は神主を殺した犯人を見たんじゃそうです」
「なに、犯人を見たあ?」
広瀬警部補が思わず大声をあげてからあわてて手で口に|蓋《ふた》をして、素速い視線を廊下のむこうに走らせたのは、そこに|守《もり》|衛《え》や片帆の遺体を囲んで、いま通夜が行なわれているからであろう。そこには大膳もいる、村長の|辰《たつ》|馬《ま》もいる。巴御寮人と真帆もいる。倉敷の御寮人の澄子や玉島の御寮人の玉江もいるはずである。吉太郎も末席に|侍《はべ》っているのではないか。
「勇くん、きみが犯人を見たというのは、どげえなことかね」
警部補は声をひそめたが、その目は緊張にすわっている。磯川警部も金田一耕助も探るように勇の顔を|視《み》|詰《つ》めている。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんからいうて」
「いいや、これはおまえの口からいわないけん。ぼくはまた聞きじゃけん、いい間違いがあったらいけんけんな」
「勇くん、これはやっぱりきみの口から聞こう。なにも怖いことないけん、話してくれたまえ」
「へえ」
勇はまだたぶんに童顔の残っている顔に朱を走らせて、ゴクリと生ま|唾《つば》をのみこむと、
「あれは火事騒ぎがやっと納まったときでしたん。ぼく、火事騒ぎが起こったとき、楽屋にいたんですけえど、すぐ舞台へ飛び出して、この羽織で柱を滅茶滅茶に|叩《たた》いたんです」
そういいながら勇が示す羽織の|片《かた》|袖《そで》には、少し焼け焦げができている。
「うむ、うむ、それで……?」
「そしたら火事はすぐ納まったでしょう。そしたらぼく急にオシッコがはずんだんです。そいで拝殿の下の御不浄へいったんです。そしたらオシッコしているうちに拝殿のほうでガタッいうような音が聞こえたんです。そのときぼくべつになんとも思わなんだんですけえど、そのあとだれかが忍び足で、階段を下りてくるような音が聞こえたんです。そいでぼくおかしい思うて、御不浄の戸を細目に開けて待っとったとおみんさい。そしたらそこに若い男が拝殿のほうからやってきたんです」
「若い男ちゅうてどげえな男?」
「ぼくとおなじ年かっこうの男でした。お祭りの|袢《はん》|天《てん》を着て、むこう鉢巻きをして……そこまではいまこの島にいる若いもんとおなじですけえど、その男だけちょっと|違《ちご》たとこがあったんです」
「違たとこちゅうと?」
「そいつ胸にカメラぶら下げとったんです」
三津木五郎だ!
と、そこにいる四人の者はいっせいに心の中で叫んでいた。
「ふむ、ふむ、それでそいつどうした。胸にカメラぶら下げたやつ」
「そいつがなあ、お兄ちやん、すっごくきょうとい(怖い)顔しとるんです。目元を大きゅう|視《み》|張《は》ってなあ、|頬《ほ》っぺが|歪《ゆが》んで硬直して、おまけにぴくぴく|痙《けい》|攣《れん》しとったようですけん、ぼく、こらただごとやないっと思うたんです。そしたらそいつそこへ脱ぎすてとったズックの靴はくと、そら、そこに鏡がかかっとりましょう」
蓑と笠に並んでかかっている鏡を指さし、
「その鏡に顔を映して、いろいろ表情をつくっとりましたけえど、やがてふつうの顔になったかして、その戸口から外へ出ていきよりました。ぼくその顔があんまりおかしかったんで、拝殿のほうでなにがあったんか思うて、あとからいてみたんです。そしたら……」
「そしたら……? どうしたんじゃ、勇くん、ここがだいじなとこじゃけん、ハッキリいうてくれたまえ。きみそこになにを見たんじゃ」
「拝殿のなかは|灯《ひ》が消えとりましたけえど、夜店の灯やなんかが差し込んどるもんですけん、真っ暗いうわけではなかったんです。ぼく、目えが|馴《な》れてくるにつれてわかってきたんですけえど、内陣のなかに神主が体をななめにするようにして立てっとりました。そして、そして、背中から突き出した矢が内陣の格子にひっかかって、そいで神主、倒れるにも倒れられんのじゃちゅうことに気イつきました。神主はもののみごとに|串《くし》|刺《ざ》しにされて、背中のほうから矢羽根が、胸のほうから|矢《や》|尻《じり》が、それぞれ二十センチほど突き出しておりましたんです」
これを要するに勇がそのとき見たものは、すぐそのあとで、越智竜平や磯川警部が見たものと、そっくりおなじ情景だったらしい。
「それできみはどうしたんだね」
「ぼくもうびっくりしてしもうて……ぼく、お兄ちゃんから話を聞いて、あの神主がてっきり父ちゃんのかたきじゃと思うとりましたけん、こげえなとこ見つかったら、ぼくに疑いがかかるやもしれん思うて、急いで楽屋へ逃げてかえりましたん」
「そのとき、きみは頭から羽織をひっかぶっておりはせなんだか」
「へえ、人に顔を見られたらいけん思うたもんですけんな。そうじゃけえど、ぼく、ふしぎでならんことがひとつあるんです」
「ふしぎでならんことというのは?」
「この警部さん」
と、勇はキッと磯川警部の鼻先へ指を突きつけて、
「なんであのカメラの男つかまえんのか、それがぼくふしぎでならんのです」
広瀬警部補は|眉《まゆ》をひそめて、
「勇くん、それどういう意味かね」
「そうじゃかとて、カメラの男がここからとび出すのんを、この警部さん、外で見ておいでんさったんです」
「勇くん、それほんまかあ!」
「ほんまも、ほんまも、大ほんまですんじゃ。カメラの男がここから出ていったすぐあとで、この警部さん、ふしぎそうな顔をして、ここをのぞいておいでんさりました。ぼく警部さんがむこうへいくのん待って、御不浄から抜け出して、拝殿のほうへいったんです。ぼくが羽織を頭からかぶって顔かくしたんも、この警部さんに見られたらいけん思うたからです。カメラの男はいまでもこのお宮のあたりを、ノサバリ歩いとるようですけえど、警察ちゅうもんは相手によって、えこひいきするもんですか」
まっこうから勇の手きびしい|弾《だん》|劾《がい》を受け、なおかつ、そこにいる人びとの険しい視線を一身に集めて、いまや磯川警部は完全にズッコケていた。
第二十二章 隠された二枚の手紙
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磯川常次郎警部さま
一面識もない|妾《わたし》から突然このようなお手紙差上げる|無躾《ぶしつけ》の段、ひらにお許し下さいませ。……
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と、そこまで読んで金田一耕助は、はてなとばかりに封筒の表を|視《み》|直《なお》した。
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岡山市岡山県警察本部
磯川常次郎警部様
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裏を返すと
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倉敷市|下《しも》|津《つ》|井《い》にて
浅井はる
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と、かなり能筆の女文字で書いてある。日付を見ると六月十六日。
金田一耕助は|呆《あき》れたように、その封筒の表を視詰めていた。
この手紙なら去る六月二十四日の夜、下津井の浅井はるの|祈《き》|祷《とう》|所《しょ》で、磯川警部に読ませてもらったものである。そうだ、この手紙を読んだ直後に台所の|味《み》|噌《そ》|瓶《がめ》から、明治二十六年以前の古銭が発見されたのである。それを警部はなぜもういちど、自分に読めと遺していったのか。なにか自分の読み落としたところか、読み足らぬところがあったのだろうか。
金田一耕助は|呆《ぼう》|然《ぜん》として、いま封筒から抜き取った|便《びん》|箋《せん》に目を落としていたが、あわてて|掌《てのひら》のなかにある、その便箋の枚数をかぞえてみた。便箋にはノンブルが振ってなかったが、枚数は五枚であった。金田一耕助の記憶によると、下津井で読んだときこの手紙の便箋は三枚しかなかった。二枚が脱落していたらしい。それに気がつくと金田一耕助は、急いでその手紙に目を通しはじめた。
読者諸賢には煩わしいかもしれないが、ここに改めて浅井はるが磯川警部に宛てた手紙の全文を、掲載させてもらうことにしよう。直線でかこってあるぶんが脱落していた二枚である。
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磯川常次郎警部さま
一面識もない妾から突然このようなお手紙差上げる無躾の段、ひらにお許し下さいませ。あなたさまのお名前は新聞紙上でだいぶん以前から存じ上げておりましたが、今こうして愚かな妾が思い乱れ、心も狂わんばかりの気持ちにてしたためまするこのお手紙、なにとぞなにとぞ無下にお読み捨てなく、おわりまでとっくりお読み下さいますように切にお願い申し上げます。
妾は悪い女です。いまから二十二年まえ大変悪いことを致しました。その時分妾は産婆をしておりましたが、あなたさまの奥さま糸子さまのお産みになった赤ちゃんを、取りあげたのは妾でございます。赤ちゃんは大変すこやかな坊やでございました。妾はある事情があってその赤ちゃんを盗み、子供をほしがっているほかの女の人に手渡してしまったのでございます。その裏にはもっともっと複雑な事情がございますけれ
ど、それはとても筆には書けませんゆえ、お目にかかってお話し申し上げたいと思っております。ところが昨日突然あなたさまのお子さまが下津井の妾をたずねてこられたのでございます。自分のほんとうの親はだれかと問いつめられたときの妾の驚き、妾はつい嘘をついてその場をのがれましたが、いまになって後悔しております。なぜほんとうのことを打ち明けなかったのかと、いまとなっては悔やまれてなりません。
妾はいま下津井で表向きは薬屋をしておりますけれど、本業は口寄せの|市《いち》|子《こ》でございます。下津井では神降ろしのばばあでとおっているようでございます。そういう職業上ひとさまのいろいろな悩み、秘密にふれることがままあり、空恐ろしゅうなることがありますが、わけてもいまから二十二年まえ複雑なる事情のもとに犯した罪の恐ろしさ。しかもその秘密を種にいままで生きてきた|業《ごう》の深さ。
|何《なに》|卒《とぞ》何卒妾を助けて下さい。妾はどのような罪の償いもいといませんが、命だけは惜しゅうございます。いまにもだれかが妾を殺しにくるのではないかと思えば、生きている空もございません。この手紙ごらんになりしだい下津井までお運び下さいませ。お目にかかって複雑なる事情というのを万々お話し申しあげたいと存じます。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]愚かにして罪深き女
[#地から1字上げ]浅井はる
金田一耕助はこの手紙を読みおわると、しばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》としていたが、気がついて五枚の便箋を机のうえに並べてみた。そして、脱落していた二枚の便箋に書かれた文章を、もういちどていねいに読み返したのち、その二枚を飛び越えて、一枚目から四枚目へと目を移してみた。けっこうなんの抵抗もなく文章はつづくのである。
この五枚の便箋には、ノンブルが振ってないことはまえにもいっておいた。しかも、二枚目と三枚目――そこがいちばん重要な部分なのだが――そこだけは文章がつづいているけれど、一枚目と四枚目、五枚目はそれぞれ文章が途切れていて、一枚一枚それだけでひとつの文章となって独立している。
金田一耕助はまんまと磯川警部の、ペテンにひっかかっていたじぶんに気がついた。これは偶然や過失で脱落していたのではない。警部が故意に抜き取っておいたのだ。
それにしても、金田一耕助は大きなショックを覚えずにはいられなかった。いまのいままでかれは三津木五郎を竜平と、巴御寮人のあいだに生まれた子どもにちがいないと思い込んでいた。ところがここにまた別に、親らしき人物が出現したのである。しかも、それがよりによって、磯川警部であったろうとは。
しかし、これによって磯川警部の五郎に対する、妙に歯切れの悪い態度も了解できるようである。
県警の本部でこの手紙を受け取った磯川警部は、下津井へ駆けつけるまえに、これを上司に示して許可を取りつけたのにちがいない。そのとき警部はすでに、二枚目と三枚目の便箋を抜き取っておいたのではないか。警部の気性としては、公私混同すると思われるのを潔しとしなかったのであろう。じぶんに対してもおなじだったにちがいない。それに突然舞い込んだこの手紙の|信憑性《しんぴょうせい》に、あるていど疑惑を持ったのかもしれぬ。警部は大いに|煩《はん》|悶《もん》し、|懊《おう》|悩《のう》し、かつ迷ったことだろう。
警部がこの手紙を開封したのは、十九日の午後一時頃のことだったといっている。そのときただちにじぶんで駆け着けてくるなり、児島署へ電話をして、保護を加えるなりすればよかったのにと悔んでいたが、そこに警部の煩悶懊悩ぶりがうかがわれるようである。
それにしても、じぶんもうかつ千万だったと、金田一耕助はいまじぶんでじぶんを責めている。警部のペテンもペテンだけれど、なぜそれをある程度看破できなかったのかと、金田一耕助はじぶんを責めるのである。浅井はるの手紙のなかに、
「あなたさまのお名前は新聞紙上でだいぶん以前から存じ上げておりましたが|云《うん》|々《ぬん》」
と、あるが、刑事事件が新聞で報道される場合、捜査当局者の名前が新聞に出ることはまずないことである。ましてや磯川常次郎と、呼び名までしっていることについて警部はこの手紙の信憑性に納得し、ひと晩の懊悩、煩悶ののち、ついに意を決して、下津井へ駆け着けてきたのであろう。そこを察知できなかったことは、なんといってもうかつ千万であったと、金田一耕助はおのれの|迂《う》|愚《ぐ》無能を責めずにはいられなかった。
さて、下津井へ駆け着けてきた磯川警部が、そこに発見したものは手紙のぬしの浅井はるの絞殺死体であった。彼女は手紙のなかで|危《き》|惧《ぐ》し、恐れおののいていたとおり、もののみごとに何者かの手によって、血祭りにあげられていたのである。
「いまにもだれかが妾を殺しにくるのではないかと思えば、生きている空もございません」
と、手紙にあるとおり、ひと足ちがい、いや、ひと晩|躊躇《ちゅうちょ》したばかりに、警部はだいじな生き証人を失い、そしてじぶんの子どもの消息をつかむチャンスを無にしたのである。磯川警部の悔しさはどんなであったろうか。
それにしても、磯川警部に子どもがあったことは、金田一耕助もぜんぜん聞いていなかった。戦後岡山方面で起こった事件で、いくどか行動をともにし、おいおい気心もしりあい、親交が深くなったとき、金田一耕助はいちど聞いてみたことがある。
「戦後奥さんを失われたということですが、お子さんは……?」
「いや、結婚後まもなく妊娠したことはしたんですけえど、不幸流産したもんですけんな」
警部はそれ以上多くは語らなかった。
磯川常次郎|軍《ぐん》|曹《そう》は、太平洋戦争が|勃《ぼっ》|発《ぱつ》した翌年、昭和十七年に応召したと聞いている。そして終戦の翌年復員してきたのだが、金田一耕助はそのかん前線から前線へと、絶えず転戦していたのだとばかり思い込んでいた。しかし昭和二十年糸子が出産したとすると、そのあいだにいちど召集解除になり、復員し、昭和十九年頃のある期間、ふつうの夫婦生活を営んでいたのであろう。そしてそのあいだに糸子は妊娠したのにちがいない。
常次郎軍曹はそれをしってかしらずにか再応召したのだろう。しらずに応召したとしても、前線で受け取った糸子の手紙で、そのことをしったにちがいない。
磯川常次郎はその手紙を読んで、どのように喜んだことだろう。かれはおそらくもう二度と、子宝には恵まれないものと|諦《あきら》めていたにちがいない。しかもかれは生きて故国へ帰還することができたのである。かれははじめて見るわが子に希望を託して、どのように胸をふくらませていたことだろう。
しかし、その結果はどうであったか。糸子は無事に男児を|分《ぶん》|娩《べん》したけれど、その児は産婆とともに姿をくらましたという。常次郎の失望落胆はいかばかりであったろうか。それ以来磯川警部は悲劇の人となってしまったのだ。
かれはまもなく現職に復帰し、そして糸子ははかなく死んだ。糸子の死はおそらく気病みというやつだったろう。せっかく恵まれたわが子を奪われた、母としての悲しみもさることながら、夫にすまぬ、申し訳ないという気病みが|昂《こう》じて、彼女の健康を|蝕《むしば》み、ついに彼女を死に追いやったのにちがいない。おそらく磯川警部は死ぬまえの糸子の口から、産婆の名前や住所、年齢、容姿などを詳しく聞いておいたことだろうが、それ以来、警部の執念はこりかたまって、その憎むべき産婆に巡りぞあわん、であったろう。
磯川警部はさいわいよい役職にあった。警察官という役職は、社会の裏面にひそむ暗黒街からの情報を、キャッチしやすい立場にある。公私混同を極端にいみきらう警部であったが、それでもあらゆる機会を利用して、わが子を奪い、妻を死にいたらしめた産婆なる女性を追跡したにちがいない。
かれが周囲の親切な勧告を|蹴《け》って、二度と|娶《めと》ろうとしなかったのは、腰部の|痼《こ》|疾《しつ》もさることながら、いつかは巡り合えるかもしれないわが子のために、継母をつくっておくことを好まなかったからであろう。いや、腰部の痼疾はたんなる口実だったのかもしれない。
かれは|凄《すさま》じい禁欲生活と闘いながら、ひたすら産婆を捜し求めた。いや、産婆を通じてこの世にただひとり恵まれた、神の|恩寵《おんちょう》なるわが子の行方を追跡した。
しかし、そこには予期せざる障害があまりにも多過ぎた。
その第一はあの空襲というやつである。お|膝《ひざ》|下《もと》の岡山市ですら、六月二十八日の|焼夷弾《しょういだん》攻撃で|潰《かい》|滅《めつ》状態であった。多くの人が家を失い離散してしまった。やがて長い歳月をへて、おいおい復興し、離散したひとびとも戻ってきたが、求める女性はついに帰ってこなかった。
その第二は空襲で焼死した人びとのなかには、|身《み》|許《もと》不明の人物がそうとう多かった。そのなかには男もいたが女もいた。求める女性もそれらの犠牲者のなかにいたのではないか。いや、それはない。糸子の告白によるとわが子の産まれたのは六月二十八日、すなわち岡山市の空襲とおなじ日である。場所は|播州《ばんしゅう》山崎の近くの温泉宿であるという。糸子はお産をするために、そこへ疎開していたのである。おそらく産婆のすすめであったろう。
磯川警部は休日を利用して、たびたびそこへいってみた。しかし、探索は雲をつかむがごとくであった。
赤ん坊を盗まれたといって、|悲《ひ》|歎《たん》にくれた女性があったことを|憶《おぼ》えている人はあっても、産婆のその後の消息をしっているものは皆無であった。なにしろ日頃人口も少なく物静かな温泉宿も、あいつぐ都市の空襲で、そうでなくとも疎開者で|溢《あふ》れていたところへ、岡山市の空襲でまたどっと疎開者が流入してきたのである。みんな浮足立っていた。一人の産婦どころの騒ぎではなかった。
捜査上の困難の第三は求むる女性が故意に身許をくらましている場合である。平和な時代なら困難なことでも、あの大混乱をきわめた終戦前後の時代なら、可能だったと思われる。まえにもいったようにどの都市でも、身許不詳の焼死者がたくさんいた。それらのひとりの身分姓名をおかして、全然別人になりかわっていたとしたら、これはたとえ警部という職権をフルに利用して探索しても、なかなか|痕《こん》|跡《せき》をつかむことは困難であったろう。ことに磯川警部のように公私混同することにたいして、極端なまでに控え目な性格においてはなおさらである。
かくて|荏《じん》|苒《ぜん》として時は流れ、日は移って、ここに二十二年という長い歳月が経過したのちに、警部の受け取ったのが浅井はるなる女性からの手紙である。警部はそこにはじめてわが子の消息の端緒をつかんだ。警部はこの手紙にたいして一点の疑義もさしはさまなかったであろう。だいいち相手は磯川常次郎と呼び名までしっている。それにいまから二十二年まえには産婆だったと打ち明けている。
それにもかかわらず警部はなぜ、即時下津井へ駆け着けなかったのであろう。そこには公私混同を慎みたいという、持ちまえの控え目な性格がブレーキとなったと思われるのだけれど、もっと大きなブレーキは、わが子の消息をハッキリしるのが怖かったのではないか。
だれだって産まれてからいちども会ったこともなく、名前はおろかその消息さえてんでしらなかったわが子が、二十二歳にもなって突然、ぼくはあなたの子どもですと出現したら、親たるものは躊躇|逡巡《しゅんじゅん》、大いに警戒するにちがいない。ましてや磯川警部の場合、警察官という立場からいっても、むやみな子どもであってくれては困るのである。もし、犯罪者的性癖の持ちぬしだったとしたら、警部はおのれの立場を失うことになるかもしれない。
会いたい気持ちと、会うのが怖いという気持ちのジレンマにおちいって、警部はおそらくひと晩|煩《はん》|悶《もん》|懊《おう》|悩《のう》、|輾《てん》|転《てん》|反《はん》|側《そく》したことだろう。
しかし、けっきょく警部は下津井へ出向いていった。血の本能が騒いでやまなかったのであろう。そして、そこに発見したものは思いもよらぬあの惨劇であった。警部はそこにはじめて浅井はるの手紙に|漲《みなぎ》っている恐怖が、彼女の|妄《もう》|想《そう》でも、誇張でもないことを思いしらされたのであろう。
それにしても近所の主婦川島ミヨの目撃した、ヒッピーふうの男が三津木五郎であることを、警部はどうしてしっていたのであろうか。この島へきてからの調査によって、ヒッピー、すなわち三津木五郎であることは、もはやすでに疑いを容れぬようだが、警部ははじめからそれをしっていたようである。それはなぜか。
金田一耕助は磯川警部がはじめて、三津木五郎に会ったときのことを思い出していた。
あれは六月二十四日の午後のこと、場所は|鷲羽《わしゅう》|山《さん》の突端であった。警部は初対面の三津木五郎に、ひどく心をひかれたらしいようすであった。金田一耕助はそのときあの年頃の若者を見ると、警部にはそれがすべてヒッピーに見えるのだと、軽く看過してきたのだけれど、警部はあのときすでに、わが子ではないかと血が騒いだのではないか。あのときの情景を回想してみて、金田一耕助はそう断定せざるをえなかった。
それはなぜか。血の本能だけだろうか。いや、警部はもっと具体的に三津木五郎の肉体的特徴のなかから、わが子の面影を探り当てたのではないか。では、三津木五郎にどういう肉体的特徴があるだろうか。
「八重歯だ!」
突然、金田一耕助は声に出して叫び、それから五本の指でもじゃもじゃ頭を、めったやたらとひっ|掻《か》きまわした。
八重歯こそあの青年のチャーム・ポイントであると同時に、|容《よう》|貌《ぼう》のなかでいちばん大きな特徴である。糸子というひとも八重歯だったのではないか。
「八重歯だ! あの八重歯なんだ!」
金田一耕助がもういちど口に出して叫んだとき、|襖《ふすま》の外で、
「八重歯とは三津木五郎くんのことですか」
と、いう声がして、襖がひらくとそこに越智竜平が立っていた。
「金田一先生、はいってもよろしゅうございますか」
「さあ、さあ、どうぞ。じつはわたしのほうからあなたのところへ、ご相談にあがろうかと思っていたところです」
金田一耕助は立って越智竜平を迎えいれると、机のうえに広げてあった五枚の便箋を取り片付け、じぶんの席とむかいあったところに、|座《ざ》|蒲《ぶ》|団《とん》をかまえて、相手の席をつくった。
そこは越智竜平の邸宅の離れである。金田一耕助が六日の夜から、そこに世話になっていることはまえにもいっておいたが、いまは七月八日の午後五時である。
竜平は金田一耕助の作ってくれた席に、腰を落ち着けると、
「金田一先生、いまあなたは八重歯だと叫んでいらっしゃいましたが、それはあの三津木五郎くんのことですか」
竜平はもういちど念を押して尋ねた。
さすがにタフなこの男も沈痛の色が深く、目のふちに黒い|隈《くま》ができているのは、昨夜よく眠れなかったせいであろう。|惟悴《しょうすい》の色が|濃《こ》いのである。
「はあ、あなたのおっしゃるとおりです」
金田一耕助は竜平のおもてから目を反らして、思わず心のなかで|溜《た》め息をついた。
この人は三津木五郎をじぶんの子だと信じている。だからこそあの若者のことで、心を傷めているのであろう。
「あの青年はゆうべ逮捕されたそうですね」
「いや、まだ逮捕というところまではいっていません。磯川警部さんのはからいで、いちおう身柄拘束というところでしょう」
「どういう容疑なんですか」
「いえね、越智さん」
金田一耕助は居住まいをなおして開き直ると、
「一昨日の晩、あなたが刑部神社のなかで、目撃なすったという神楽太夫ですね、羽織を頭からひっかぶって、あなたのまえを横ぎっていったという……」
「はあ、はあ」
「あの子がじぶんから名乗って出ましてね、|妹尾《せ の お》勇といって、七人の神楽太夫のなかでいちばんの年少者ですが、その勇がなぜ拝殿のほうへいったかというと、三津木五郎が拝殿のほうから出てくるのを見たというんですね」
「あの若者が拝殿のほうから出て来たんですか」
越智竜平の声はいよいよ沈痛そのものである。
「勇はそういっています。しかも、そのときの三津木五郎の形相がただごととは思えなかった。世にも|凄《すさま》じい顔色だったので、何事があったのかと、拝殿のほうへいってみたところがあのていたらく。そこでびっくりして|神楽《か ぐ ら》|殿《でん》の背後にある、楽屋へかえろうとする途中、あなたに見られたわけですね。羽織を頭からひっかぶったのは、人に顔を見られたくなかったからだといっています」
「なるほど」
「そこで勇と五郎を対決させたんですね。するとたしかに拝殿からとび出してきたのはこの男にちがいないと勇はいうんです。そこで三津木五郎に改めて事情聴取をしようとしたところが、あの男、てんで口をきこうとしないんですね。否定もしなければ肯定もしない」
「ふてくされているんですか」
「と、いうよりは、むしろ覚悟を決めていると、受け取ったほうがよいような態度ですね」
「それでこの島の駐在所の留置場へ、身柄を拘束したわけですね」
「そういうことです」
「しかし、金田一先生」
こんどは越智竜平のほうが開きなおって、射るような目なざしで、鋭く金田一耕助のひたいを|視《み》|詰《つ》めながら、
「しかし、あの若者があれをやったとして、動機はなんです。あの若者はなぜここの神主を、殺害しなければならなかったんです」
金田一耕助はしばらく無言のままでいた。無言のまま越智竜平の顔を凝視していた。りっぱな顔である。しかし三津木五郎には似ていない。
金田一耕助は|寂《さび》しげな微笑をうかべると、
「その答えはおとといの晩、あなたのほうから切り出されたじゃありませんか」
「と、おっしゃると……?」
「だってあの男はあなたのことを、お父さんと呼んだそうじゃありませんか」
「…………」
「あの男はおそらくあなたのことを、実の父だと思い込んでいるんですよ。だれかにそう吹き込まれたんですね」
「じゃ、それ……」
越智竜平の呼吸がはずんだ。
「真実じゃないとおっしゃるんですか」
金田一耕助は気の毒そうに相手の顔を視守りながら、
「その問題はもう少しあとへずらせてください。ここでそれをいってると、話がこんがらがりますから」
「承知しました。ここは先生の語りやすいように、お話をすすめてください」
「ありがとうございます。じゃ、そうさせていただきます」
金田一耕助はペコリと頭をひとつ下げて、
「さて、あなたを父だと思い込んでいるとすると、母はだれだということになりますか。いうまでもなく巴御寮人ということになりますね。あなたと巴御寮人との駆け落ち一件は、この島ではしらぬものはないようですし、それにあなたが応召なすったあと、昭和二十年の春から夏へかけて、巴御寮人が疎開としょうして、半年近くこの島を離れていたことも、島のものはみんなしっているでしょう。しかも、その時分島の人たちは、だれも疎開なんてことは信じてはいなかった。ひとにかくれてお産をしにいったんだろうといわれていた……もっとも、このことはきのう、|多《た》|年《ね》|子《こ》叔母さんから聞き出したんですがね」
「叔母がそのことを先生に申し上げたそうですね」
「いけなかったですか。そんなことを聞き出したりして」
「いいえ、いいんです。いずれはわたしの口から打ち明けて、その間の真相を調査していただくよう先生に、ご依頼申し上げるつもりでいたんですから」
「そのつもりでいらしたやさき、この島へ着いたとたんに、あの若者から、お父さんと呼びかけられて、大いに面くらい、戸惑いされたわけですね」
「先生のおっしゃるとおりです。さあ、どんどん話をおつづけください」
「承知しました」
金田一耕助はそこでひと呼吸いれると、
「さて、あの若者があなたを実の父だと思いこんでいるということは、巴御寮人を実の母だと思いこんでいるということでしょう。とすると、|神《かん》|主《ぬし》殺しの動機もいくらかわかってくるんじゃないですか。|守《もり》|衛《え》さんは必ずしも巴さんにとって、よい|旦《だん》|那《な》さんとはいえなかった。あちこちに愛人をつくって、巴さんはすっかりなおざりにされていた。しかも、巴さんはじぶんの母である。そこで守衛さんを亡きものにして、じぶんの母を守衛さんの妻という|桎《しっ》|梏《こく》から、解放してあげようした。そして……」
「そして……?」
「できることなら、あなた……じぶんの父であるところのあなたに、|還《かえ》してあげようと思ったんじゃないですか。一種の自己犠牲ですね。じぶんの身を殺してでも、じぶんの実の父と母を、本来あるべき姿に復原させてあげたいという、まあ、若者の持つロマンチシズムといおうか、ヒロイズムといおうか……と、まあ、こういう推理も成り立つわけです。この推理が万全であるかどうかは、しばらく|措《お》くとして」
「いったいどういう素性の、どういう生い立ちのものなんですか。あの若者は……?」
竜平としては、そこがいちばん気がかりなところにちがいない。
金田一耕助はそこで、三津木五郎から聞いた話を取りつぐと、
「まあ、そうとうの秀才らしいんですね。学校もいいし、剣道も強い、尺八を吹くという趣味も持っている。知情意円満に発達した秀才というべきでしょう。と、いうことはあの男、つい最近まで自分が他から|貰《もら》われてきた子どもとは、しらなかったんじゃないでしょうか。じぶんはあくまで元陸軍中尉、三津木秀吉とその妻貞子のあいだに、産まれた子とばかり信じてきたのでしょう。だから伸び伸びと育ってきた。まあ、ひねくれたところはみじんもないようですからね。では、いつじぶんの出生の秘密をしったのか……三年まえにおやじがガンで亡くなった、そして去年の秋、母がそのあとを追うように、死亡したといってましたから、母の貞子が死ぬまえに、真相を打ち明けたんじゃないでしょうかねえ。人間というものは秘密を守りとおして、死ぬということはなかなかできにくいことのようですから」
金田一耕助はそこまで語ってきて、ふと思い当たったように、
「そうそう、あの男、ごく最近まで髪をながく伸ばし、顔中ひげだらけで、まるでヒッピーみたいな姿をしていたそうですよ。考えてみると大学の剣道部にいるものが、そんな姿で許されるはずがない。だから卒業間際の去年の秋になって、かれの人生観に大変化を来たすような、世にもショッキングな重大事に直面した……と、いうことじゃないでしょうかねえ」
「つまり、その貞子さんという人が、われわれのあいだに産まれた子どもだと、吹きこんだとおっしゃるんですか」
「いいや、それはそうじゃないでしょう。三津木貞子という女性が、産まれたばかりの五郎をひきとるとき、おそらく親知らずということだったんじゃないでしょうか。貞子も五郎のほんとうの両親をしらなかった。それをしっているのは仲にはいった産婆しかいなかった」
「ああ、なるほど。するとその産婆があの若者に、あなたの両親はこれこれこういうものだと、わたしとあの人のことを吹きこんだとおっしゃるんですね」
「いや、もうちょっと待ってください」
金田一耕助はもの悩ましげな目付きになって、
「ところが、その産婆というのが|嬰《えい》|児《じ》|斡《あっ》|旋《せん》をするくらいですから、ほかにもいろいろうしろ暗いことをやっていたんですね。だから三津木貞子に赤ん坊を周旋すると、そのまま姿をくらましてしまったんです。三津木貞子はそれ以来、その産婆に会っていなかったんじゃないでしょうか。ところが……」
「ところが……?」
「これは五郎の話ですが、三年まえに三津木秀吉が死亡したあと、貞子は亡夫の|回《え》|向《こう》をするためによく四国八十八か所巡りをしていたそうです。そのとき、どこかで産婆に巡りあったんじゃないでしょうか。産婆のほうでは気がつかなかったが、貞子のほうで気がついた。そこでひそかにあとをつけてみたところが、産婆は浅井はるという変名で、下津井で口寄せの|市《いち》|子《こ》をやっていた……」
「金田一先生!」
竜平は|弾《はじ》けるような声をあげたが、すぐ気がついてあたりを見まわすと、声をひそめて、
「その女なんですね、最近殺されたというのは……?」
「そうです、そうです」
「そして、三津木五郎がその犯人じゃっと……」
「いいえ、そうは申しておりません。一昨晩ここでその話が出たときも、警部さんの見込みじゃ、その若者は犯人ではあるまいが、なにかその間の事情を、しってるんじゃないかという見通しだと申し上げたはずです。ねえ、越智さん、浅井はるは|讃岐《さ ぬ き》の|金《こん》|比《ぴ》|羅《ら》さんが信仰で、月にいちどは四国へ渡っていたといいますから、八十八か所巡りの三津木貞子と、どこかで巡りあったとしても、それほど偶然とはいえないと思うんです。それに下津井というところは、金比羅参道の起点になっているそうですから、三津木貞子がはるのあとをつけて、とうとう最近の産婆の消息をつきとめたとしても、これまたそれほどの偶然とはいえないと思うんです」
「なるほど、それで……」
「三津木貞子が産婆の最近の消息をしったということが、かえって五郎の運命を狂わせたと、いっていえないことはなさそうです。三津木貞子は五郎のほんとの両親をしらなかった。だから産婆の最近の消息をしらなかったら、秘密を抱いたまま死んでいったかもしれません。ところがゆくりなくも産婆の最近の消息をしってしまった。五郎の両親をしっているただひとりの人物の消息をですね。そこで息をひきとるまえにすべての秘密を打ち明けた。そして、あなたのほんとうの両親をしりたくば、下津井のこれこれこういうところで、口寄せの市子をしている、浅井はるという女を訪ねていってごらんなさい、というようなことをいったんじゃないでしょうか」
「なるほど。産婆のいどころをしっただけにですね」
「そういうことでしょう。そこで五郎はどうしたでしょう。母を見送るとすぐ下津井へすっとんだでしょうか。あなたならどうなさいます」
「さあ、考えるでしょうね。いずれは出向いていくとしてもね」
「五郎がやっぱりそうだったんでしょう。ことに五郎はじつの両親と信じ切っていた、三津木秀吉とその妻貞子を、尊敬もし、誇りともしていたようですからね。そこで、五郎は精神的に非常なショックを受けた。いくらか自暴自棄にもなった」
「そこで髪を伸ばし、ヒゲを生やし、ヒッピーになった」
「いや、スタイルはヒッピーですけれど、根っからのヒッピーにはなりきれなかった。|芯《しん》はしっかりした若者のようですからね。それに、学校のほうもちゃんと出ているようです。学校を出てから、ヒッピーになったのかもしれませんね。こうした半年あまり迷いに迷ったあげく、とうとう堪えられなくなって、この六月十五日の午後、下津井へ浅井はるを訪ねていった、ヒッピー・スタイルのまま。そこを近所の主婦に見られてるんですね」
「そこで浅井はるがわたしとあの人の名前を打ち明けたんですか」
竜平がとかく結論を急ぎたがるのもむりはない。ここがいちばんだいじなところである。
「いや、浅井はるがハッキリ、あなたがたの名前をいったかどうかわかりません。しかし、刑部島へいけばわかる、というようなことをいったんじゃないでしょうか」
「なるほど」
「そこでかれはまっすぐにこの島へやってきたでしょうか。いいえ、かれが浅井はるを訪ねたのは六月十五日の午後です。これはハッキリしています。ところが、六月二十四日の午後われわれ、わたしと磯川警部は鷲羽山の突端で、あの男に会っていますからね。そのときは髪を切り、ヒゲも|剃《そ》り落として、現在のあの若者になっていました。と、いうことは、この島へ渡るまえに、島についての予備知識をつかんでおこうとしたんでしょうね。この島の予備知識ならすぐつかめたでしょう。倉敷あたりへいけばこの島はいま大評判ですからね。アメリカ帰りの大富豪が、ちかごろこの島に|莫《ばく》|大《だい》な投資をして、島の過疎化を防ごうとしてるって。五郎はそうした予備知識を収集しているうちに、新聞で浅井はるの事件をしった。そこで髪を切り、ヒゲを剃り落として、本来あるべきおのれの姿にかえると、六月二十五日にとうとうこの島へ乗り込んできた……と、そういうことになるのではないでしょうかねえ」
第二十三章 シャム双生児の秘密
金田一耕助の話はポツンと切れた。いや、わざとそこで話を切ったのである。
いままでかれの語り来たったところは、すべて推理というよりは|憶《おく》|測《そく》である。しかし、金田一耕助はこの憶測に、それほど大きな|誤謬《ごびゅう》はないという確信を持っている。しかし、これからあとが話しにくいことなのである。三津木五郎をわが子と信じきっているらしい竜平に、どれだけ大きな失望を与えるかもしれないと思うと、金田一耕助はわれながら、その残酷さにたえられない思いがするのである。しかも、これから打ち明けようとすることは、もはや推理や憶測の域を脱して、りっぱな証拠があることなのである。
竜平も急がなかった。おそらくかれは内心ジリジリする思いなのだろうが、いっぽうでは、相手の口からハッキリとした結論を聞くのが怖いのである。三津木五郎はじぶんの子ではないのか。金田一耕助の口ぶりからすると、どうもそこになにか重大なまちがいがあるらしい。もしあの若者がじぶんの子でないとすると、じぶんの子はどうしたのだろうか。金田一耕助はそれもしっているのであろうか。
ふたりの緊迫した沈黙のうちに味の濃い時が流れた。
きょうはこの季節にふさわしい雨である。茶室ふうに造られたこの離れの外には、シトシトと|小《こ》|糠《ぬか》のような雨が落ちている。ときどきスコン、スコンときこえる|鹿《しし》おどしの音も、この沈黙をいっそう味の深いものにしている。
しばらくして金田一耕助はやっとノドの奥で|咳《しわぶき》をした。
「ときに……わたしのほうからお話しをすすめていくまえに、ひとつあなたにお聞きしたいことがあるんですが……」
「はあ、どういうことでしょうか」
竜平はドキリとしたように|瞳《ひとみ》をすえて、金田一耕助のひたいを|視《み》た。かれにはどうやら、相手の質問の内容がわかっているようであった。
「いや、一昨日あなたはこの家のお座敷で、あしたの晩、刑部神社で重大発表があるとおっしゃってましたが、それはどういうことなんですか。ここで打ち明けていただくわけにはいかんでしょうか」
「それは、その……」
竜平は口ごもった。耳たぶがすこし赤くなって、居心地が悪そうであった。二、三度|空《から》|咳《せき》をしたが、言葉はあとにつづかなかった。
「ああ、そう、それではわたしのほうから質問をつづけましょう。あなたはこの島に|莫《ばく》|大《だい》な投資をしていらっしゃる。ゴルフ場なんかはあなたの事業のうちでしょうけれど、刑部神社を建てかえて寄進なすった。その見返りはなんだったんですか」
越智竜平の顔は苦痛にゆがんで、また二、三度空咳をした。金田一耕助は気の毒そうにその顔を|視《み》|守《まも》りながら、しかし、言葉はつづけた。
「先月の末、六月二十八日に神主の|守《もり》|衛《え》さんが上京して、丸の内のホテルヘあなたを訪ねていかれた。そのときあなたはあの高価な黄金の矢を寄進されたんですが、それについてあなたはあの人に、なにか交換条件を持ち出されたんじゃないんですか」
図星だったらしく、竜平の顔面はいよいよゆがみ、ひたいにねっとり汗さえみられた。握りしめた|掌《てのひら》がヌラつくらしく、しきりに|膝《ひざ》でこすっている。
「あなたの口からいいにくければ、わたしのほうから申し上げましょうか。あなたは交換条件として、巴さんを要求されたんじゃないんですか」
竜平は両の|拳《こぶし》を膝におき、いからせた肩に埋めた首をうなだれて、二、三度強くうなずいた。そして|唸《うな》った。
「わたしは……わたしはバカでした」
金田一耕助の目に|惻《そく》|隠《いん》の情が動いた。気の毒そうにノドの奥で笑い声を立てながら、
「そう、あんまりお利口さんとはいえませんね。しかし、ここでお説教をするのはやめましょう。守衛さんはそれを承知したんですね」
「あの人は離婚届の書類を用意していました。そしてその場でじぶんの名を書きこんで|捺《なつ》|印《いん》し、巴にもきっと署名し、捺印させるといったんです。あとはわたしの誠意と情熱にまかせるといって笑っていました」
「しかし、そのことがどんなに巴さんのプライドを傷つけるか、あなたや守衛さんにはわからなかったんですね。これ一種の人身売買でしょう」
竜平は突然、|怯《おび》えたような目で相手の顔を|視《み》|直《なお》すと、
「金田一先生、それ、どういう意味です」
「まあ、いいでしょう、いずれわかることですから。それよりもあなたその翌日、わたしに会われた。そして、このテープをお聴きになった」
と、金田一耕助はボストンバッグのなかから、例のテープレコーダーを取り出すと、カチッと音をさせてそれにスイッチを入れた。
竜平はいよいよ怯えたような目の色をして、テープレコーダーの吐き出す声を|聴《き》いていたが、やがて青木修三の断末魔の声が、
……|鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]《ぬえ》のなく夜に気をつけろ。
と、いう一節に到達すると、思わず両手で耳をおさえた。そのおもてには悔恨の色が濃いのである。
「あのときあなたはわたしに対してシラを切られたが、あとであなたは頭のなかで、なんどもなんどもこの言葉を、反復されたにちがいない。やがてあなたはこの言葉の意味を、了解された。いつかあなたに聞いたところでは、青木氏という人物、人間|到《いた》るところに女ありという主義だったそうですし、わたしの調査したところでも、そうとう色好みのようですからね。そういう人物にとって巴さんは、|猫《ねこ》に|鰹《かつ》|節《ぶし》だったんじゃないですか。あるいは巴さんにとっても、青木氏は猫に鰹節だったかもしれません。青木氏という人物、わたしは写真でしかしらないんですけれど、肉体的特徴がどこかあなたに似てますね。肩幅広く、胸板厚く、胴回りの太いところなど、ただしあなたはストイックな感じですが、青木氏のひとに与える印象は、まるでセンジュアルじゃなかったんですか」
金田一耕助はそこで言葉を切ると、深くこうべを垂れている越智竜平に目をやって、
「失礼しました。すこし|饒舌《じょうぜつ》が過ぎたようです」
ふたりはしばらく雨の音と、間遠うにきこえる、鹿おどしのひびきに耳をすまして無言でいたが、やがて越智竜平が顔をあげると、必死の面持ちで金田一耕助を視詰めながら、
「金田一先生、あなたがもう一日、いや二日はやく、このテープをわたしに|聴《き》かせてくだすっていたら……」
「守衛さんとああいう契約は、しなかったろうとおっしゃるんですね」
竜平は二、三度強くうなずいた。悔いても悔いてもやまぬ悔恨の情が、めらめらと真っ黒な煙となってかれの全身を包んでいる。
「と、いうことはこのテープを聴いて以来、あなた巴さんの貞操になんらかの、疑惑を持たれたということですか」
「わたしは美しい夢を見過ぎていたようです。あの時分から、二十年以上の歳月が流れていますけれど、人間の本質に変わりはないはずと、思い込んでいすぎたのです。それにしても、金田一先生」
竜平はまた怯えたように、金田一耕助のおもてに瞳をすえて、
「守衛さんは六日のうちに巴さんを説き伏せて、あの離婚届に署名捺印させ、わたしに渡すといっていたんです。そこで改めてわたしが巴さんにプロポーズして、その承諾をえたうえで、七日の晩、発表するという段取りになっていたんですけれど……」
「それが重大発表なんですね」
「そうです、そうです」
竜平は首筋まで赤くなりながら、
「したがって、守衛さんはあの離婚届を、どこかに持っていなければならないはずなんですが、それ、発見されておりませんか」
「発見されておりません。もし身につけていたものなら、犯人が持ち去ったんじゃないですか」
「金田一先生! しかし、先生はいま犯人は三津木五郎という、あの若者のようにおっしゃったが……」
「しかし、わたしは付け加えておきましたよ。わたしの推理が万全といえるかどうかは、しばらく|措《お》くとして……と」
「それ、どういう意味なんです?」
「いえね、越智さん、この問題を煮詰めていくのはしばらくお預けとして、いま、三津木五郎の名が出ましたね、だから、ここでは三津木五郎の氏素性について、検討してみようじゃありませんか」
「そうですか。では、万事先生のおよろしいように」
竜平はあきらかにガッカリしたようだったけれど、いっぽうでは怖い話、いやな話はすこしでも、さきに延ばしたいというのが人情である。ガッカリすると同時に、ホッとした顔色であったことも否めない。
「越智さん、あなた秘密は守っていただけるでしょうねえ」
「はあ、わたし、口は固いほうだという自信はあります。どういうことでしょうか」
金田一耕助は無言のまま机にあった封筒を、竜平のほうへ押しやった。それはさっきから竜平も気にしていた封筒である。
「これをわたしに……?」
「手にとって裏を返してみてください」
竜平はいわれるままに封筒の裏を返して、差出人の名前を読んだが、突然、脳天に|鉄《てっ》|槌《つい》でもぶち込まれたように大きく肩をふるわせて、
「これ、さっきお話のあった女が、磯川さんに|宛《あ》てて書いた手紙ですね」
「六月十六日とあるでしょう。ヒッピー姿の三津木五郎が訪ねていったその翌日、浅井はるが警部さんに宛てて書いたんですね。どうぞなかを読んでください」
竜平はふるえる指で、封筒のなかから五枚の|便《びん》|箋《せん》を取り出すと、食い入るように読みはじめた。すぐ名状することもできないような興奮が、がっちりとしたかれの|体《たい》|躯《く》を揺り動かした。竜平はひととおり読み終わると、もういちどはじめから読み直して、やがて|炎《も》えるような目を金田一耕助にむけた。
「金田一先生!」
と、大きく叫んでから、みずからじぶんを落ち着けようと努力しながら、
「こ、これ、どういう意味なんですか」
「お読みになったとおりですよ。浅井はるもこの|期《ご》におよんで、|嘘《うそ》は書かなかったでしょうからね」
「すると、三津木五郎というあの若者は、磯川さんの子どもだということになるんですか」
「越智さん」
金田一耕助は世にもやさしい目で相手を視やりながら、|宥《なだ》め|諭《さと》すように言葉をえらんで、
「このことはあなたにとっても、大きなショックでしょうけれど、わたしにとってはもっともっと、大きなショックだったんですよ。警部さんとわたしは、ずいぶん長いつきあいですが、あの人にこういう大きな悲劇的過去があったろうとは、さっきこの手紙を読むまで、全然しらなかったんですからね」
「あの人はいま……?」
「今日の午後二時頃、岡山のほうへ帰りましたよ。その手紙をわたしに|遺《のこ》して……」
昨夜勇と対決して、拝殿のほうから出てきたのが五郎にちがいないと確認されると、そのあと定吉が呼び出された。
「三津木さんは六日の晩、しじゅうぼくと行動をともにしていたように、いうておいでんさるそうですけえど、必ずしもそうじゃなかったです。あの火事騒ぎのあった前後の十分間ほど、ぼく三津木さんの姿を見失ってしもうたんです。どこへおいでんさったんかと、キョロキョロしていると、社務所のなかからソーッと出ておいでんさりました。そういえばあのときの三津木さんの顔色、ただごとじゃなかったと思います。なにかこう、幽霊でも見たようなきょうとい顔色でしたなあ。そうじゃけえど、そのことならこの警部さんもご存じのはずです。警部さんも三津木さんが社務所から、出てくるのん見ておいでんさりましたけんなあ」
定吉はついで五日の晩のことについて聞かれたが、
「五日の晩ならぼく、三津木さんと終始いっしょでした。|宵《よい》の口から|錨屋《いかりや》へかえって寝床へはいるまで、片時もそばを離れたことはありません。ですけん片帆ちゃんが殺されたんが、あの大雷雨の最中じゃったとしたら、三津木さんにはりっぱなアリバイがあります。ぼくどこへ出ても証人になってあげます」
その結果、守衛を殺したのが三津木五郎だとしても、片帆を殺害したのは別の人物だということになり、はなはだ妙な雲行きになってきた。
しかし、ここまでくると磯川警部は、|俄《が》|然《ぜん》シャッキリしてきた。いままでの煮え切らぬ態度が嘘のように、五郎を取り調べるその態度口調は|峻烈《しゅんれつ》をきわめた。五郎はふてくされているようにはみえなかった。態度はいたって神妙なのだが、なにか心に期するところがあるらしく、ひとことも口をきかなかった。
ここにおいて磯川警部は、断固五郎の身柄拘束という処置に出たのである。五郎は駐在所へ連行されて、留置場へ拘禁されたあとも、磯川警部に呼び出され、夜おそくまで取り調べを受けたが、ついに口を割ろうとはしなかった。
「わたしはそのあと、こちらへ引き揚げてきて、お世話になったんですが、警部さんは広瀬警部補と、錨屋の二階で|枕《まくら》を並べて寝たんです。ところがけさ広瀬さんに聞くと、警部さんゆうべ|輾《てん》|転《てん》|反《はん》|側《そく》して、あれじゃおそらく一睡もできなかったろうと、ふしぎがっていました」
「それで、岡山へかえっていかれたんですね」
「はあ、わたしも二時頃錨屋へいってみたんですが、県警の本部へいっていろいろ調査したいことがあるから、ちょっと帰ってくるといい出しましてね。そこで広瀬さんとふたりで、船着き場まで送っていったんですが、そのとき広瀬さんにかくれて、この手紙をわたしの|袂《たもと》にねじこむと、地蔵平へかえってから読んでほしい、あとは万事よろしく頼むと、連絡船に乗って島を出ていかれたんですが、いまから思えばいかにも寂しそうでしたね」
金田一耕助はシーンとした目の色になり、虚空のかなたを凝視している。竜平はもういちど五枚の便箋に目をやると、それを封筒におさめ、金田一耕助のほうへ押し戻して、
「お気の毒です。長年捜し求めたわが子に、やっと巡りあったかと思うと、その子が殺人事件の容疑者とはね。考えてみればあまりにも悲惨です」
「わたしは警部さんが早まったことをしないかと、それを心配しているんです」
「早まったこととは……?」
「進退|伺《うかが》いを出すとか、辞職願いを提出するとか……それだけはなんとか食いとめなければなりません。いまや事件は解決一歩手前なんですからね。わたしはなんとしてでもこの事件は、あの人の手によって解決してもらいたいと思っているんです」
「電報でも打っておかれたら……住所はご存じなんでしょう」
「ありがとうございます。では電話をちょっと拝借いたします」
電話を外線につないでもらうと、郵便局を呼び出して、しばらく考えていたのちに、金田一耕助は一句一句に力をこめていった。
「スベテノナゾハトケタ ゴロウハハンニンデハナイ スグシマヘカエラレタシ キンダイチ」
それから相手の住所氏名をもういちどいって受話器をおくと、待ちかねていたようにそばから竜平が口をはさんだ。
「それじゃ先生のお見通しでは、あの若者は犯人ではないとおっしゃるんで……?」
竜平の顔にはほっとしたような、|安《あん》|堵《ど》の色が浮かんでいる。かりそめにもわが子と思い、相手もじぶんを親と信じていた仲である。その若者が殺人犯人であるということは、竜平にとっても忍びがたいことであったろう。
「事後共犯、死体損壊の罪は免れないでしょうが、それも弁護の仕方によっては、情状が|酌量《しゃくりょう》されるでしょう」
「では、ほんとうの犯人は……?」
「ねえ、越智さん、一昨晩の刑部一族の聞き取りを、わたしは何度も何度も読み返してみたんです。ところがこれが支離滅裂で、だれでも犯人でありうるという結果が出ているんです。なにしろあの火事騒ぎですからね。しかし、三津木五郎がおのれの身を犠牲にしてでもかばおうとする人物はたった一人しかいない。だれですか」
「巴御寮人……」
竜平の声はふるえている。
「そう、あの青年が母と信じ込んでいる女性ですね。五郎はあの人が拝殿からとび出してくるのを見たんでしょう。その顔色がただごとではなかったので、あとからそっといってみると、守衛さんが黄金の矢で刺し殺されている。そのとき|矢《や》|尻《じり》は左肺部でとまっていたんです。岡山から来られた岡田博士の解剖所見では、その一撃で被害者は絶命していたろうということです。それにもかかわらずなぜ二段構え、三段構えに矢を押し込んで、ああして|串《くし》|刺《ざ》しにまでやってのけたのか、このことがこんどの事件の最大の|謎《なぞ》だったんですが、これはすべて五郎のやってのけたことなんですね」
「つまり、女の力ではやりえない犯行である。したがって犯人は男であるということを、誇示しようとしたんですね」
「そうすることによって、母……と、思いこんでいる婦人をかばおうとしたんでしょうね。あなたは|憶《おぼ》えていらっしゃるでしょうけど、あの晩、|神《かん》|主《ぬし》が串刺しになっているときいて、あの婦人は卒倒しましたね。無理もありません。だれかじぶんの犯行に、手を加えたものがあるらしいとわかっては、だれだって驚かずにはいられないでしょうからね」
「片帆を殺したのもあの婦人ですか」
「もちろんそうでしょう。そうそう、片帆殺しに関するかぎり、五郎には完全にアリバイがあります。だから警部もいっそう迷ったことでしょうねえ」
「なぜまたげんざいのわが子を……?」
「越智さん、その答えはもう少し待ってください。スベテノナゾハトケタ……と、申しましても、それは神主殺しの件だけで、この島には、まだまだ解明しなければならぬ秘密が、たくさん伏在してるようですから」
竜平は身ぶるいしながらかすかにうなずいたが、やがて固い決意を秘めた目を、きっと金田一耕助のおもてにすえて、
「それじゃ、金田一先生、最後にもうひとつ質問をさせてください。あの若者が警部さんの子どもだとすると、わたしの子はどうしたんです。あの婦人が生んだ子はその後どうなったんです」
「その質問なら青木修三さんが、まっさきに答えているでしょう」
「えっ?」
金田一耕助は巻き戻したテープレコーダーに、またスイッチを入れた。
激しい雑音のなかから青木修三は、振りしぼるような声で警告している。
……あいつは体のくっついたふたごなんだ……
竜平の目が大きく見開かれた。いまにも|目《まな》|尻《じり》の張り裂けんばかりの目であった。|瞳《どう》|孔《こう》が大きく開いて、ギラギラと熱をおびた白い目には、血の筋が縦横に走っている。竜平の受けたショックが、いかに大きかったかうかがわれるようである。
「そ、そ、それじゃあの人、シャ、シャ、シャム双生児を産んだとおっしゃるんですか」
「ねえ、越智さん、刑部家はふたごの生まれやすい家系じゃないんですか。大膳さんがふたごの片われだといいますね。真帆ちゃん、片帆ちゃんがふたごですね。たまたまあなたのお子さんの場合、不幸にも体のくっついたふたごだったんじゃないんですか」
「そ、そ、そして、青木はその子を見たんでしょうか」
金田一耕助はいったん|停《と》めてあったテープレコーダーに、またスイッチを入れなおした。
……あいつは腰のところで骨と骨とがくっついたふたごなんだ……
金田一耕助はそこでまたスイッチを切ると、
「わたしははじめからこの一節に、深い疑問を感じていましたよ。青木修三氏は医者でもなければ人体生理学者でもない。たとえ生きてるシャム双生児を見たとしても、腰のところで骨と骨とがくっついているとは、どうしてわかったのでしょう。青木氏の見たものは骨そのものだったんじゃないでしょうか。つまり青木氏は、シャム双生児の|骸《がい》|骨《こつ》を見たんじゃないでしょうか」
必死の面持ちで、金田一耕助の顔を凝視しつづけていた越智竜平は、そこでまた大きく息をのんだ。ノド仏をゴクリと鳴らすと、
「じゃ、シャム双生児はすでに死んでいると……おっしゃるんですか」
「ねえ、越智さん、シャム双生児みたいな|異形《いぎょう》のものが、たとえひと月でもふた月でもこの世に存在していたとしたら、評判にならずにいられないでしょう。それにわたしはまえに、産婦人科の先生から聞いたことがあるんです。日本でもちょくちょくシャム双生児が生まれることがあるんですよと。しかし、その先生はすぐ言葉をついでおっしゃいました。しかし、生まれても育たない、すぐ死んでしまうのがふつうだと……」
両膝に握り拳をおいた竜平は、いまやこうべを深くたれて、金田一耕助の言葉を聴いている。肩で大きく呼吸をし、額にはまたネットリと汗が吹き出していた。竜平にとってこれほどショッキングで、これほど悲惨な真相はなかったであろう。
「しかし、わたしの推理にひとつ抵抗するものがあった。それはこれですけれどね」
金田一耕助はまた停止しておいた、テープレコーダーにスイッチを入れた。青木修三はつづいて語る。
……あいつは歩くとき|蟹《かに》のように横に|這《は》う……
「青木修三氏はシャム双生児の歩くところを、じっさいに見たのでしょうか。見てそう断定したのでしょうか。ところがこの言葉は終わりのほうが非常に|不明瞭《ふめいりょう》で、しかも、雑音のなかに語尾が消えてますね。だから、青木氏はこういおうとしていたんじゃないでしょうか。……あいつは歩くとき蟹のように横に這うんだろうとか、あるいは横に這うにちがいないとか……そのあとの……あいつは平家蟹だ……平家蟹の子孫なんだというのは、これはもう、青木氏の空想の産物から出た言葉ですね。青木氏もこの島が、平家にゆかりの深い島だということは知っていたでしょうから」
「しかし、そうすると、金田一先生、この島のどこかにシャム双生児の遺体の骸骨が、祭ってあるとでもおっしゃるんですか」
「それを申し上げるまえに、あの人がシャム双生児を産んだときの状態を、ここに再現してみようじゃありませんか」
金田一耕助はしばらく打ち案じるように、虚空の一点を凝視していたが、やがて悩ましげな目を竜平にむけて語りはじめた。
「ここに浅井はるなる産婆がいます。浅井はるはもちろん変名ですが、本名がわかっていないので、ここでは浅井はるで話をすすめさせてください。さて、浅井はるは三津木貞子なる女性から、どこかで生まれて困るような子があったら世話をしてほしい。じぶんたち夫婦のあいだに生まれた子として、りっぱに育ててみせるからと頼んでおいた。ゆくりなくもその浅井はるがこの島に招かれて、ひそかに巴さんを診察し、妊娠していると断定した。そこで|困《こう》じ果てた大膳さんから、どこかに子どもを欲しがっている一家はないか、あったら世話してほしいと、これまた頼み込んだ。浅井はるにとってはこれこそ渡りに舟ですね」
竜平は暗い目をして、無言のままうなずいている。これは世にも陰惨な話なのである。
「さて、そのおなじ浅井はるに磯川糸子もかかってきた。ときあたかも戦争末期の、日本中が大混乱におちいっていた時代です。三月十日の東京の大空襲を契機として、つぎからつぎへと大都市が|焼夷弾《しょういだん》攻撃をうけて|壊《かい》|滅《めつ》していった。そこで大膳さんは疎開としょうして巴さんをつれて、|播州《ばんしゅう》の山崎のちかくの温泉宿かなんかに隠れひそんだ。その山崎というのが三津木秀吉の郷里なんですが、そのときあなたのいとこの、吉太郎さんがいっしょだったということは、あなたも聞いていらっしゃるんでしょう」
竜平はまた暗い目をしてうなずいた。
「さて、磯川糸子もおなじ時期に、おなじ場所へ疎開していった。しかし、このほうはほんとうの疎開で、岡山市もいつなんどき、やられるかもしれないという状態でしたからね。ただ疎開地として、巴さんとおなじ場所が選ばれたのは、浅井はるのすすめによるものでしょう。こうして子どもを切望してやまないひとりの婦人と、いまにも産気づきそうなふたりの婦人が、時期をおなじゅうして、おなじ方面に集まった。そのうち巴さんや大膳さんにはまた新しい悩みが持ち上がってきた。胎児が双生児であるということは、九か月目ごろにはわかるらしいですからね」
竜平はあいかわらず暗い目をしてうなずいている。金田一耕助は委細かまわず話をつづけた。
「これには巴さんも大膳さんも弱ったでしょう。一人は引き取り手がきまっているものの、あとの一人はどうしよう……そういう深刻な悩みをよそに、月日は容赦なく経過していきます。そして月満ちて|呱《こ》|々《こ》の声をあげたのは、世にも異形な|双《そう》|生《せい》|児《じ》、シャムふたごであったとは……」
金田一耕助はそこでポツンと言葉を切ると、そのあとへ|怯《おび》えたような声でつけくわえた。
「そこで、巴さんはどうしたでしょう」
「あの人が、ど、どうかしたんですか」
竜平の声も怯えている。怯えて、|吃《ども》って、|捜《さぐ》るような目で金田一耕助の顔をうかがっている。暗い顔が引きつっていた。金田一耕助はそこでまた封筒から、五枚の便箋を取り出すと、最後から二枚目の終わりの二行を指さしながら、
「……わけてもいまから二十二年まえ複雑なる事情のもとに犯した罪の恐ろしさ……と、いうのはわかります。おそらくこれはシャム双生児のかわりに、磯川糸子がおなじ日に生んだ|嬰《えい》|児《じ》を盗んで、三津木貞子に渡したことでしょう。しかし、そのあとが少し大げさだとは思いませんか。……しかしその秘密を種にしていままで生きてきた|業《ごう》の深さ。……浅井はるがだれかを|強請《ゆす》っていたらしいことはたしかです。|莫《ばく》|大《だい》な預金が発見されてますからね。しかし、シャム双生児を生んだという事実だけで、そんなにまで強請れるものでしょうか。巴さんは浅井はるに徹底的に強請られるような何事かを、その際やってのけたのではないでしょうか」
「せ、先生、な、何事かとはどういうこと……?」
「越智さん、巴さんはそのとき悩みに悩んでいたんですよ。しかも、年齢もまだ幼かった。それがじぶんの腹から生まれた子が、世にも異形な、体と体がくっついたふたごであるとしったとき、あの人はきっと逆上したにちがいない。世を|呪《のろ》い、神を呪い、そういう異形のものを|身《み》|籠《ごも》らせたあなた自身を憎んだかもしれない。しかも、巴さんはそういうものは放っておいても、長く育つものではないということは全然しっていなかった。そこで発作的にそのシャム双生児を、殺してしまったのじゃないか。枕かなんかで、窒息死させてしまったのじゃないか」
それは世にも陰惨な話である。|膚《はだ》も|粟《あわ》|立《だ》つほど|凄《せい》|惨《さん》な物語である。しかし、金田一耕助の語りくちは整然としていた。
「浅井はるはこの凄惨な秘密をしっていて不問に付した。しかも、磯川糸子の生んだ子を奪うことによってその場を|糊《こ》|塗《と》した。これなら、いまから二十二年まえ複雑なる事情のもとに犯した罪の恐ろしさ。しかもその秘密を種にいままで生きてきた業の深さという文章も、ヴィヴィッドに生きてくるとは思いませんか」
ガックリと肩を落とした竜平は、力強くうなずいた。二度も三度もうなずいた。巴をそのようなデスペレートな行動に走らせたのは、すべて自分の責任なのだ。|所《しょ》|詮《せん》は実らぬ恋だったのだ。無理としりつつ押し通そうとしたじぶんの横車が、こういう悲惨な破局を招いたのだと、自責の念が胸をかむ。
「浅井はるはおろかにも磯川警部に手紙を書くまえに、刑部島のだれかに、電話でもしたんじゃないでしょうかねえ。磯川糸子の子が訪ねてきたということを。とっさに|嘘《うそ》をついて、その場を糊塗しておいたが、その子がそちらへいくかもしれないから、なにぶんよろしくというようなことを、いったんじゃないでしょうかねえ。相手が大膳さんだったかもしれないし、巴さんだったかもしれない。あるいは吉太郎さんだったかもしれない。しかし、そのあとで急に身の危険を感じ、磯川警部に手紙を書く気になったのでしょう。浅井はるにとっては警部さんこそ、この世でいちばんおっかない人物だったでしょうがねえ。まあ、そう思って読むと便箋の最後の一枚も納得がいくようです」
そのあと長い、長い沈黙がつづいた。
浅井はるを殺したのはだれなのか……。竜平はもうそれを聞く気力さえ失っていた。かれはもうすっかり|意《い》|気《き》|沮《そ》|喪《そう》している。|暗《あん》|澹《たん》たる思いが胸からこみあげてくるばかりである。それでもかれはあえて尋ねた。
「それで、金田一先生、青木修三はこの島で、シャム双生児の骸骨を見たとおっしゃるんですね」
「そうそう、それについて、こちらからお尋ねしたいことがあるんです。おとといの午後わたしは大膳さんに、|水《すい》|蓮《れん》|洞《どう》というのに案内してもらったということは、このあいだ申し上げましたね。土地の人は鬼の岩屋とよんでるそうですが」
「はあ」
「ところが、あの水蓮洞のほかにも、この島に|洞《どう》|窟《くつ》みたいなものがあるんじやないですかね」
「昔はあったそうです。|紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》という大きな洞窟が」
「ぐれん洞とはどういう字を書くんですか」
「紅の|蓮《はす》ですね。金田一先生は紅蓮地獄という言葉をご存じじゃありませんか」
「八寒地獄の第七ですね。そこへ落ちたものは酷寒のために膚が裂けて血がほとばしり、紅の蓮のような惨状を呈する、そこで紅蓮地獄というんだそうですね」
「そうそう、その紅蓮洞ですね。昔はずいぶん広い洞窟で、下の水蓮洞までつづいていたといわれています」
「いまはもうないんですか」
「明治二十六年の秋、このへん一帯猛烈な台風に襲われたんだそうです。そのとき刑部神社なんかも、|崖《がけ》|崩《くず》れと|地《じ》|辷《すべ》りで|埋《う》まってしまったんですが、紅蓮洞もそれ以来姿を消してしまったんです。この島に大きな|地《ち》|殻《かく》の変動があったらしいんですね。いまでは伝説の洞窟になっています。ただし、入口のごく|僅《わず》な部分だけは遺っておりますけえど」
「どこです、その入口というのは……?」
「なんならご案内してもよろしいんですけえど、金田一先生は、それじゃ紅蓮洞がいまでも遺っていて、そこにシャム双生児の骸骨が……」
竜平はじぶんでじぶんの言葉に興奮してきて、終わりのほうは声がふるえた。
藤田刑事が|多《た》|年《ね》|子《こ》の案内で、あわただしく離れ座敷へはいってきたのはそのときである。
「金田一先生、すみません」
刑事は座敷へはいってくるなり、べったりと、そこへ両手をついて平伏した。
「藤田さん、どうしたんですか。なにかまたあったんですか」
藤田刑事の顔色を見て金田一耕助はいちはやく、机上の封筒をふところにしまいながら腰を浮かした。越智竜平も中腰になっている。
「|真《ま》|帆《ほ》の姿が見えなくなったんです。先生の注意をうけて、ぼく、かたときもあの子から目をはなさなんだつもりですけえど、ほんのちょっとした|隙《すき》に、あの子の姿が見えんようになってしもうたんです。これ、ぼくの責任です。あの子にもしものことがあったら……」
藤田刑事の目は血走っている。そうなのだ、この島ではなにが起こるかわからないということを、いま島にいるものはみんなしっているのである。
朝からの雨が急に激しくなってきて、離れ座敷の外の植込みも、幽然として暗くなってきた。
第二十四章 墓を暴く
警察から|埋《まい》|葬《そう》の許可がおりたので、|刑部《おさかべ》|守《もり》|衛《え》と同|片《かた》|帆《ほ》の遺体を収めたふたつの|柩《ひつぎ》が、刑部家先祖代々の墓地へ埋葬されたのは、七月八日の午前中のことであった。
国の方針としては火葬を奨励し、出来るだけ土葬を少なくしようとしているのだが、それでも全国の何パーセントかは、土葬の風習がいまでものこっている地方があるそうである。刑部島なども数少ない風習を固執している島なのである。
まえにもいったとおりその日はこの季節にふさわしく、朝からシトシトと雨が落ちていて、いかにも非業に死んだふたりの|亡《なき》|骸《がら》を葬むるにふさわしいかと思われた。
納棺から出棺まですべての儀式は、その時分まだ島にいた磯川警部や広瀬警部補、その他大勢の刑事や警官たち立ち合いのもとに行なわれたのだが、金田一耕助や越智竜平も会葬者として参列していた。
儀式はもちろんすべて神式で執り行なわれた。倉敷や玉島から迎えられた三人の神職や、二人の|巫女《みこ》たちによって、それはいとも厳粛に執行された。
こんな場合役に立つのは吉太郎である。納棺はいっさい吉太郎の手ひとつによって執り行なわれた。本来ならば妻でもあり、母である|巴《ともえ》御寮人が手伝うべきだが、ふたつの遺体がふたつとも、世にもむごたらしい状態なので、女性の|脆弱《ぜいじゃく》な神経では、耐えうるところにあらずということで、吉太郎が大膳からいっさい|委嘱《いしょく》されたのである。吉太郎は持ちまえの神経の図太さから、黙々として頼まれただけのことはやってのけた。もちろんこの|納《のう》|棺《かん》にも磯川警部や広瀬警部補が立ち合っていた。
ふたつの柩が刑部家の株内のものに担がれて、刑部神社の正面石段を下っていったのは、七月八日の午前十一時であった。ふたつの柩のうえには二つ巴の紋所を、金糸銀糸で|刺繍《ししゅう》した大きな|幟《のぼり》が打ちかけられ、そのうえに赤い大きくて古風な傘がさしかけられていたが、ひとつの柩に四人ずつついている担ぎ手は、みんなズブ|濡《ぬ》れであった。
行列の先頭には正装した主祭神主が立ち、その背後にふたつの柩がつづく。そのあとに二人の助祭神主と二人の巫女、それから巴御寮人。その背後には倉敷の御寮人の澄子と、玉島の御寮人玉江のあいだにはさまって、|真《ま》|帆《ほ》が|蹌《そう》|踉《ろう》として歩いていく。女性はみんな喪服だけれど、真帆にはまだ喪服の用意がなかったので、セーラー服の胸に喪章をつけている。彼女は左右からふたりの御寮人に支えられて、辛うじて歩いているふうである。真帆の顔は異様にねじれ、ひきつれ、目が|尖《とが》り、ときどきもの|凄《すさま》じい|痙《けい》|攣《れん》が、彼女の全身をゆさぶってやまなかった。これは片帆の死体がこのうえもなく、凄惨な状態で発見されたと聞いたときから、彼女を襲う発作なのである。
さて、この三人の背後から大膳と村長の|辰《たつ》|馬《ま》、株内の連中、そして、その後に|神楽《か ぐ ら》|太《だ》|夫《ゆう》の七人が一団となってつづいている。荒木定吉も会葬者のなかにまじっていたが、三津木五郎の姿は見当たらなかった。越智竜平が三津木五郎の逮捕の報を聞いたのは、この葬式が終わったあとだった。
その越智竜平は、金田一耕助と肩をならべて行列のいちばん最後からついていった。そのふたりの背後からついてくる磯川警部や広瀬警部補は会葬というより、この葬式の監視というところであろう。真帆から目を離さないようにと金田一耕助に注意されていた藤田刑事は、それとなく行列のそばにくっついて、まえへいったりあとへさがったりしている。
奇妙なことにはこの葬式は会葬者より、見物のほうが多かった。
越智竜平の要請で帰島した人びとのうち、一部はけさの船便で島を離れていったが、大部分はまだこの土地に残っていた。この事件のなりゆきやいかにという好奇心のために、足止めされた連中も多かったが、なかには松蔵のように、本家の竜平ととっくり相談して、もし島に仕事があるならば、帰島してもよいと考えているものもある。故郷忘れじがたしで、松蔵のほかにもおなじことを考えている連中も少なくなかったが、その人たちは今度の事件で、竜平がこの島に|嫌《いや》|気《け》がさして、やりかけた事業から手を引いてしまうのではないかと、心配しているものもある。松蔵などもそのひとりであった。
いずれにしても、刑部神社の石段下から地蔵平の墓地まで、沿道はギッチリ|人《ひと》|垣《がき》で埋まっていた。その人たちは葬式の行列が通りすぎると、ゾロゾロとあとからついてくる。その人たちのうえから、暗い小雨が容赦なく降りそそいでいた。
刑部神社から墓地までそう遠くはない。地蔵平の墓地にはテントが張られ、その下には祭壇がしつらえられていて、おびただしい|榊《さかき》の枝が用意されていた。祭壇のすぐそばに大きな墓穴がふたつ、黒い口を開いているが、これらの準備すべては、昨夜本土から招かれてきた三人の神主の指示にしたがって、ほとんど吉太郎ひとりの手によってなされていたものである。その吉太郎自身は葬式の行列とはべつに、ひと足さきに墓地へきていた。
葬式の行列がすっかり墓地へのみこまれたとき、その周囲は|十《と》|重《え》|二十《はた》|重《え》と見物の衆に取りかこまれた。なかには墓地の入口にある松の枝に登って、見物している不届きな連中もある。あいかわらずマスコミが大勢詰めかけていて、しきりにカメラのシャッターを切っている。
かくて告別の儀式は型どおり行なわれ、ふたつの柩はふたつの穴の底におろされた。うえから榊の枝が投げ込まれ、そのあとから最初の土が巴御寮人の手によってしゃくい込まれた。そして、それらの柩がすっかり土に覆われてしまうまで、多くの人が目撃していたのである。しかも、ふるえながらもシャベルをとって、棺を覆う土をしゃくい込んでいる真帆の姿も、多くの人によって目撃されていた。
金田一耕助と磯川警部、広瀬警部補の三人は、そのあと一同と別れて山を下り、|新《しん》|在《ざい》|家《け》の裏通りにある駐在所へ|赴《おもむ》いた。三津木五郎を|訊《じん》|問《もん》するためであるが、それに失敗したあと、磯川警部がとつぜんいい出して連絡船で、島を離れていったことはまえにも述べた。そして、その日の夕方になって真帆の|失《しっ》|踪《そう》が、藤田刑事によって金田一耕助のもとにもたらされたのである。
「先生、すみません。先生にあれほど強くあの娘から目を離すなといわれながら、こんなことになってしもうて……あの娘にもしものことがあったら、みんなこのぼくの責任なんです。主任さんからもだいぶんお目玉くろうたんですけえど」
地蔵平の越智家から刑部神社へむかう途中、藤田刑事はくりかえし、くりかえしそれをいっては、いまにも泣き出さんばかりである。
「広瀬さんはいまお宮のほうにいるんですね」
船着き場で磯川警部を見送った金田一耕助は、広瀬警部補といっしょに地蔵坂を登ってきて、あの墓地のふもとで|袂《たもと》をわかち、金田一耕助は地蔵平の越智家へ、広瀬警部補は刑部神社へ赴いたのである。
「へえ、大膳や巴にいろいろ聞いておいでんさりますけえど、いっこうらちがあかんようで……」
「真帆ちゃんの姿が見えないのに、気がついたのは何時ごろ……?」
「いまから二時間ほどまえのことでしたけん、五時ごろのことでしたろうか」
「それじゃ、広瀬さんがお宮へいかれたときはまだいたんですね」
「それがもうひとつハッキリせんのです。主任さんが真帆に会いたいおいいんさるんで、探してみて、はじめてあの娘の姿が見えんことに気がついたんです」
「それで……」
と、金田一耕助がいいかけたとき、藤田刑事が足をとめたので、ふりかえってみるとそこは墓地のすぐそばであった。さきほどとは打ってかわって人影もなく、シーンと静まりかえった墓地の、新しく建ったふたつの墓標のうえに、さきほどからにわかに強くなってきた雨が、しぶきをあげて降りそそいでいる。それを|視《み》|詰《つ》めていた藤田刑事がなに思ったのか、急にはげしく身ぶるいをしたので、金田一耕助はふしぎそうにその韻を見やりながら、
「どうかしましたか」
「いやあ、わたし頭がどうかしとるんです。あんまりきょうといことが、つぎからつぎへと起きるもんですけん、頭がボケてしもたんですん。警察のもんがこげえなこというと、人にバカにされますでしょうけえど……」
藤田刑事は悲しげに、みずからボケたという頭を左右にふると、
「ときに、金田一先生、先生、さっきなにかいいかけておいでんさりましたけえど、それどげえなこってす」
「ああ、そうそう、それで、あなたが最後にあの娘を見られたのはいつごろのこと?」
「それももうひとつハッキリせんのです」
と、藤田刑事はいよいよ悲しげに頭を左右に振りながら、
「埋葬が終わったあと、先生や警部さん、主任さんたちは新在家へ下りておいきんさったでしょ。刑部家のもんはみんな神社へ引き取りました。わたしもそれについていったんですけえど、そのときは真帆もたしかにおりました。お宮へ帰るとちょうど昼過ぎでしたんけん、われわれにまで昼食のお振る舞いがあったんです。こげえなとき役に立つのは倉敷の御寮人の澄子で、あのおなごがいっさい|采《さい》|配《はい》をふるうとったようです。われわれは例の社務所で飯をパクついたんですけえど、そのとき一度か二度真帆が奥から出てきたんを、見たもんがあるちゅうんですん。ですけえどわたしはそれを|憶《おぼ》えとらんのです。わたしは真帆は奥でみんなのもんと、一緒にいるもんじゃとばあ思い込んで、みんなと一緒にいさえすりゃ安全じゃっと、安心しきっていたんですけんな」
「そうすると、それ何時ごろになりましょうか。あの娘が奥から一度か二度出て来たのを、だれかが見たというのは……?」
「二時ごろまでじゃなかったでしょうか。われわれが刑部家の一族のもんのあとにくっついて、お宮へ引き揚げてきたんが、ちょうど一時でしたけんな。刑部家の一族のもんはそのまま奥へはいり込み、われわれはそれを見送って、社務所にたむろしていたんですけえど、そこへ奥から御飯を盛った大きなお|櫃《ひつ》や、|味《み》|噌《そ》|汁《しる》入れた大きなお|鍋《なべ》、|漬《つけ》|物《もの》を山盛りにした大きなお鉢が、刑部家の株内のもんによって担ぎ出されてきたんです。その采配を振っとったんが、さっきもいうたとおり澄子です。そのあとわれわれはてんでに飯を盛り、味噌汁をお|椀《わん》にしゃくい込み、漬物をつついていたんですけん、社務所はちょっとした火事場騒ぎでした。それが終わったんが二時ごろでしたけんな、そのまに真帆が一度か二度、社務所に顔を出したとすると、二時ごろまでじゃろうということになるんですけえど」
「それが五時ごろには、姿が見えなくなっていたとおっしゃるんですね」
「金田一先生は主任さんとご一緒に、新在家からこっちへ登ってこられたんでしょ」
「はあ、墓地の下の|岐《わか》れ道のところでわかれて、わたしは地蔵平のほうへいったんです」
「主任さんはその足でお宮のほうへ来られたんですけえど、あの人も真帆のことが気になっておいでんさったとみえ、来るとすぐあの娘に会いたい、尋ねたいことがあるとおいいんさって、その旨奥へ通じたところが、真帆の姿が見えん、どこにもおらんちゅうところから、騒ぎが大きゅうなって来よったんです」
「とにかく、お宮の周辺には姿が見えんということなんですね」
「そうです、そうです。みんなで手分けして探してみたんですけえど、どこにも姿は見えんのです。奥では押し入れのなかからご不浄まで探してみたというとりますけえどな」
ちょうどそのころ、二人は一本松の街灯の下まで来ていた。街灯にはもう|灯《ひ》がはいっていて、その光りのなかに、斜めに降りしきる大粒の雨が、銀色になって光っている。時刻はもう七時を過ぎていて、さしもに日の長いこの季節でも、あたりはもう幽然として暗くなっている。
一本松の下の小道は、きょうも雨に|濡《ぬ》れた雑草に覆われて、見え隠れになっているが、それを見ると藤田刑事は、また激しく身ぶるいをした。
むりもない。いまから三日まえの五日の晩、真帆のふたごの片割れが、この小道を下って|隠《おん》|亡《ぼう》|谷《だに》へ下りていったのだ。そして、そのあとを追っていったとおぼしい|蓑《みの》と|笠《かさ》の人物が、雑草のなかへ足を踏み入れたところを、いま留置場にいる、三津木五郎と荒木定吉のふたりに見られている。そのふたごの片割れの片帆は、世にも凄惨な死体となって発見された。
一卵性双生児というものは、顔かたちが似ているのみならず、その運命まで共通するのではないか。真帆もきょう片帆のあと追って一本松から、隠亡谷へ下りていったのではなかろうか。
「しかし、あの猛犬はもういないから大丈夫ですね」
「え? 先生、いまなんとおいいんさった」
「あの|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》はもういないから、真帆ちゃんがこの道を通って、隠亡谷へ下りていったとしても、大丈夫だろうといったんですよ」
藤田刑事は|怪《け》|訝《げん》そうな目をいからせて、
「先生にどうしてわたしがいま、考えていたことがおわかりんさったんです」
「いやあ」
金田一耕助はニコニコと、白い歯を出して笑いながら、
「わたしもいま、おなじようなことを考えていたからですよ。しかし、ねえ、藤田さん」
金田一耕助は笑顔をひっこめ、急に厳粛な顔になると、
「一卵性双生児というものは、その運命まで共通しているように思われがちですが、必ずしもそうではなさそうですよ。げんに錨屋の大膳さんなども、天膳さんという一卵性双生児の兄弟がおありだったそうです。その天膳さんというのが巴御寮人の祖父になるんですね。ところがその人は、巴御寮人の母なるひとがうまれてからまもなく、海難事故で死亡したそうです。それに反して大膳さんはあのとおり、元気で長命していらっしゃる。だから一卵性双生児が運命まで共通しているというのは、迷信というよりほかはありませんね」
「そうであってほしいんですけえど……」
藤田刑事は|蚊《か》の泣くような声である。
「それよりも藤田さん、真帆が隠亡谷へ下りていったかどうかは別としても、どういう方法でかあなたがたの目を盗んで、刑部神社を脱出して、新在家から|小《こ》|磯《いそ》へ走り、連絡船で島を離れたという可能性はありませんか」
「いや、それもいちおう考えたんですん。お宮の周辺にはわれわれ警察関係のもんのほかに、マスコミの連中が大勢張りこんでますけんな、その可能性は薄い思うたんですけえど、げんにどこにも姿が見えん以上、そうとしか考えられません。そこでさっそくわたしの同僚が三人、山を下りていったんですん。ところがきょうの二時以後小磯から出る連絡船は、二時半に出る便ですけえど、それには磯川警部が乗っておいでんさって、先生がた船着き場まで、見送っておいでんさったんでしょう」
「そうそう、あの船に真帆ちゃんが、乗っていなかったことはたしかでしょうね」
「そのあと五時に出る便もあるんですけえど、さっきかかってきた電話では、それにも乗っとらなんだそうです。そのあともう一便八時の終便がありますけん、念のために、それまで見張っとるようにということになっとおります」
「新在家や小磯のどこかに、潜伏しているというようなことは……?」
「新在家へいったとすると、|錨屋《いかりや》か村長の家ということになりますけえど、そのどっちへも立ち寄ったふうはなさそうだというとるんです。さっきの電話によりますとな」
「片帆ちゃんの場合ははじめから島を出るつもりでしたから、ああして身のまわりのものをバッグに詰めておりましたが、今度の場合はどうなんです。真帆ちゃんなにか持ち出しているんですか」
「いや、それがないけんおかしいちゅうことになっとりますん。ですけんじぶんの意志で身を隠したんじゃのうて、やっぱりだれかにどこかへ押し込められとおるのか、それとももうすでに殺害されて、死体がどこかに隠されとおるのか……」
藤田刑事はそこでまた激しく身ぶるいをした。
元来、この刑事はそれほど空想力の発達しているほうではない。それにもかかわらず妙に怯えて、顔面を硬直させているのは、この島ではなにが起こるかわからないという、先入観に支配されているからであろう。それに今夜の天候のせいもあったかもしれぬ。雷こそともなっていなかったけれど、さっきからいよいよ激しくなってきた雨足は、片帆の殺された五日の夜を連想させる。その時分この刑事はまだこの島にはきていなかったのだけれど、いろいろ話には聞いているのだろう。
「とにかく急ぎましょう。広瀬さんがお待ちかねでしょうから」
土砂降りのなかを刑部神社の石段を登っていくと、お宮のなかには|煌《こう》|々《こう》と電気がついていた。この事件の関係者にはそれほどの必要はないのだけれど、境内にひしめくマスコミ関係の人びとの便宜を思って、|灯《あか》りを明るくしてあるのだろう。この人たちはみんな錨屋に宿泊しているのである。したがって錨屋から借り出してきた、錨の紋所のついた古風な番傘が、境内いちめんに花開いていた。レーン・コートを用意してきたものはまだよかったが、そうでないものは傘をさしていても、薄いシャツを通して、土砂降りの雨が肌にしみとおるのである。
藤田刑事のあとにつづいて、金田一耕助が境内へ足を踏み入れると、とたんにマスコミに取りかこまれた。
「金田一先生、ふたごの一人がまた|失《しっ》|踪《そう》したそうですけえど、先生のお見込みは?」
「また殺されたんとちがいますか」
「三津木五郎ちゅう男が、駐在所に留置されとるようですけえど、あいつが犯人ちゅう見込みですか」
「磯川警部が岡山へ帰ったようですけえど、あっちにもなにかあるんですか」
「この島で蒸発したもんが|仰山《ぎょうさん》いるそうですけえど、真相はどうなんです」
「そのことと今度の事件と、なにか関係があるんですか、ないんですか」
土砂降りの音にかき消されまいと、口々にわめく声をほどよくあしらいながら、金田一耕助が藤田刑事のお|尻《しり》にくっついて、社務所のなかにとび込むと、カウンターのむこうのソファでは、広瀬警部補がタバコを吹かしながら苦り切っていた。灰皿のなかに|吸《すい》|殻《がら》が山のように盛りあがっているのは、心中のいらだちを示すものだろう。
「いやあ、遅くなってすみません。みちみちこの人から事情を聞いていたもんですから。真帆ちゃんの姿が見えなくなったんだそうですが……」
金田一耕助は着てきた合いの|二重廻《にじゅうまわ》しをぬいで、バタバタと滴を切っている。
「いったいどこまで手を焼かせる気か。これであの娘にもしものことがあっておみんさい。わたしゃこれですぜ」
と、右手で首を切るまねをしながら、苦が笑いをして、
「まさかクビにはなりますまいが、左遷は疑いなしですな。どっか辺地へ飛ばされるんでしょう。やれやれですわい」
「その代わり、これ近年にない大事件でしょう。それをみごと解決なすったら、こんどはそれこそ昇進疑いなしでしょうな」
「え? 金田一先生!」
広瀬警部補は目をかがやかせて、
「それじゃ先生のおツムじゃこの事件、もう解決しとるとおいいんさるんで」
まさにそのとおりである。それもこれも三津木五郎が、口を割るか割らないかにかかっているのだが、金田一耕助は口を割らせる自信は十分に持っていた。切り札は浅井はるから磯川警部にあてた手紙である。それは地蔵平にある越智竜平の屋敷の離れ、|床《とこ》|脇《わき》においてあるボストンバッグのなかにおさまっている。しかし、このことはまだここでは発表すべきではない。
「いや、まあ、お互いに解決しようと努力しているんじゃありませんか。わたしは磯川さんに失敗させたくない。その磯川さんの留守中に事件が解決したとしたら、みんなあなたの功績になるんじゃありませんか」
「うっふっふ、そげえにうまくいきますかな」
半信半疑という顔色ながら、さっきまでの苦が虫を|咬《か》みつぶしたような渋面とはうってかわって、満面笑みくずれんばかりである。この警部補の野心はまず県警の本部に移って、それからさらに腕を|揮《ふる》い、警部から警視へと昇進することである。
それにこの警部補は磯川警部から聞いているのである。金田一耕助という人物は捜査当局に協力してくれても、決してその功を奪ったりはしない。あの人は|縺《もつ》れた|謎《なぞ》の糸を慎重かつ綿密に、ひとつひとつほぐしていくことだけに、人生の|歓《よろこ》びを感じているらしい。だから謎の糸が縺れに縺れているほど、あの人は生きがいというものを覚えるらしいのである。だからわれわれはあの人に協力しても、決して阻害したり、邪魔者扱いにしてはならない。最後は必ず功をわれわれに譲ってくれる人である。ただしなかなか手のうちは見せない人だから、われわれは根気よくあの人に協力しなければならないと。
警部のいうことが真実だとすれば、刑部島のこの事件こそ、小柄で貧相で多少|吃《ども》るくせのある、いたって|風《ふう》|采《さい》のあがらぬこの男にとって、世にも|恰《かっ》|好《こう》の課題ではないか。これほど縺れに縺れた事件はよもあるまい。この|錯《さく》|綜《そう》した事件の謎を、この男はいくらかでもほぐしているのであろうか。磯川警部はこの男を神格化しすぎているのではあるまいか。
そこで、広瀬警部補は|溜《た》め息まじりに|呟《つぶや》いた。
「それにしても警部さんもひどいや。よりによってこんなときに島を離れるなんて。あの人なんの用事があって岡山へかえっておいきんさったんです」
「それは警部さんもいうておられたじゃありませんか。荒木清吉ともう一人、この島で蒸発したと信じられている淡路の人形遣い。その人たちの捜索願いが出ているかどうか、それを調べてくるといってらしたが……」
「しかし、金田一先生、そげえに昔の話がこんどの殺人事件に、関係があるとおいいんさるんですか」
「ないとはいえませんね。すべてはこの島で起こったことですから」
「関係があるとすれば、どういうふうにつながってくるんです。わたしみたいにここの悪いもんにはサッパリわけがわかりませんけえど」
警部補は苦笑しながら自分の頭を指さして、それから意地悪そうに目玉をくりくりさせた。
「金田一先生にはそのことが、わかっておいでんさるんで? 得意の推理というやつで」
「いやあ、推理というほどじゃありませんが、想像はついています。しかし、それを発表するには、もう少し確かめたいことがありますから、ここではご勘弁ください。そうそう、それに警部さんは錨屋の経済状態についても、調査してきたいといってらっしゃいましたね」
経済状態という言葉がこの警部補に、なにかを思いつかせたらしく、急に身を乗り出して、声をひそめ、
「そうそう、その言葉で思い出しましたがね、ゆうべわれわれが三津木五郎をしょっぴいてここを出たあと、奥では|大悶着《だいもんちゃく》があったそうですよ。これ刑部家の株内のもんから聞いたんですけえど」
「大悶着とおっしゃると?」
「いえね、倉敷の御寮人の澄子と、玉島の御寮人の玉江から、遺産の分けまえを要求してきたんですね。これ法的にはなんの権利もないわけですけえど、まあ、これだけ門戸を張っていれゃ、まんざら知らん顔もでけんわけです。ところが|蓋《ふた》を開けてみれば、守衛の財産てえもんはほとんどないんだそうです。みんな巴の名義になっとるんですな」
このことは金田一耕助にとっても初耳だったので、思わず、
「ほほう」
と、目を丸くした。
「せんからこのお宮の財産、全部巴のもんだったんだそうです。あのおなごがここの家つき娘ですけんな。それをこんど建てかえる際、越智氏が法的にはすっかりそれを踏襲したんだそうです。いちばん手っ取りばやく、金に替えられそうなあの黄金の矢にしてからが、受け取ってきたんは守衛ですけえど、法的には巴の財産目録にはいっとるんじゃそうです」
「それで巴御寮人はどういってらっしゃるんです、いくらかでも澄子さんや玉江さんに分配するとでも……」
「それがねえ、あの女もきつい女じゃとおみんさい。ビタ一文出すのはいやじゃ。わたしはあんたがたに|恨《うら》みこそあれ、お金を出さんならんような義理はなんにもない。とっととここを出ていっておくれといきり立つ。倉敷の澄子ちゅうのんは、わりとおとなしやかなおなごじゃそうですけえど、玉島の玉江というのんはひと|筋《すじ》|縄《なわ》ではいかん女で、売り言葉に買い言葉。たがいにいいつのっているうちに、あわやつかみあいにもならんず勢いじゃったそうで、おなごちゅうもんは、ひとつ曲がってくるとほとほと怖いと、その株内のもんも|呆《あき》れ返っておりました」
「まあ、倉敷にしろ玉島にしろ死活問題ですからね。で、結局その納まりはどうなったんです」
「ゆうべは仏がまだこの家におりましたけんな。でまあ、埋葬でもすんだらとっくり話し合おうと、錨屋のじさまが仲裁を買って出て、どうやらその場は納まりがついたんじゃそうです。じゃけえど、その株内もんがいうには、結局、大膳じさまのふところから慰謝料が出て、それで納まりをつけるんじゃろうが、錨屋もちかごろは苦しいらしい、守衛の極道のおかげで、さんざん金を使わされとりますけんなと、株内のもんはいうとりました。それもこれも巴の古傷のせいじゃけん、ほんとに物事ははじめが肝心じゃっと|溜《た》め息まじりでしたな」
錨屋の大膳は倉敷や岡山市内に、地所家作をたくさん持っていて物持ちである。そういううしろ|盾《だて》があるもんだから、守衛も好き勝手なことが出来るんだと、いつか金田一耕助は磯川警部とともに、下津井港の汽船の待合室で、山下亀吉氏なる人物から聞いたことがある。磯川警部はそういう刑部大膳の経済状態を、調査のためもあっていったん岡山へ帰ったのであろう。
しばらく沈黙がつづいたのち、金田一耕助は思い出したように尋ねた。
「それはそうと真帆という娘は、どういう服装をしていたんです。葬式からかえって|着《き》|更《が》えでもしたんですか」
「いや、ところがあのままだそうですよ。あの子はこの春高校を出たばかりだし、それにまさかこげえなこと起こるとは、予想もでけんことですけんな、まだ喪服が作ってなかったんですな。ですけん高校時代の制服のセーラー服に、胸に喪章をつけておりましたろう。いまでもあのままの姿でいるはずだと、巴御寮人はいうとるんです」
「なにも持ち出した気配はないんですね」
「巴御寮人はそういうとります。ですけん、そう遠っ走りはでけんはずじゃと思うたんですけえど、念のために小磯の|波《は》|止《と》|場《ば》へ手をまわしたちゅうことは、ここにいる藤田くんからもお聞きんさったろう」
「はあ、それは|伺《うかが》っています」
「ところがねえ、金田一先生」
広瀬警部補はニヤニヤしながら、
「この藤田くんが妙なことをいうんですよ」
「妙なこととおっしゃると……?」
「あっ、主任さん、それいわんといてつかあさい」
藤田刑事は首筋までまっかになって、あわてて両手で相手を制した。
「わたし頭がボケてしもうて、ついあげえなアホなこというてしもうたんですけえど、いまから考えると、穴があったらはいりたいくらいですけん」
「まあ、いいじゃないか。参考のために聞いておいていただこうじゃないか。この藤田くんの説によると、真帆はけさ埋葬されたふたつの棺の、どちらかのなかにいるんじゃないかというんです」
金田一耕助は|呆《あき》れたように、目を大きく|視《み》|張《は》って、
「しかし、真帆ちゃんはあのとき柩のそばにいたじゃありませんか。わたしはこの目で真帆ちゃんが、ふたつの柩のうえに土をしゃくい込むのを見ていますよ」
「ですけん、そのあとでもう一度墓を掘り起こして、どちらかの棺桶に真帆の死体を隠したんじゃないか。つまりそれまで一時どこかへ隠しておいた死体をですね。いまこの島でいちばん安全な死体の隠し場所は、あそこしかないと藤田くんはいうとるんですけえどな。金田一先生はどうお思いんさる」
「なあるほど」
金田一耕助が目をショボつかせるのを、うわ目使いに視やりながら、
「この島ではなにが起こるか、わかったもんじゃないと思うたもんですけんな。よもやと思うようなことが、つがからつぎへと起こりよります。それですけん、ついそげえなこと考えてみたんですけえど、金田一先生はどうお思いんさる。さぞバカなやつじゃとお思いんさるでしょうなあ」
藤田刑事は背中を丸め、顔をまっかにしながらも、必死の目なざしで相手の顔を視詰めている。金田一耕助はすぐには語らず、歯を食いしばり、|膝《ひざ》においた両手の|拳《こぶし》を握りしめたまま、なにを考えているのか、虚空のある一点を凝視していた。
その夜の十二時過ぎになっても、真帆の消息はつかめなかった。
刑部神社の境内にたむろしている、マスコミの連中はしびれを切らして、しだいにジリジリしてきたが、その時分になって刑事たちの動きがなんとなく、あわただしくなってきたようなのを、敏感なかれらはピーンと感知していた。
「おい、デカさんの出入りがいやに激しくなってきたじゃないけ」
「なにか新しい進展が、あったんじゃないじゃろうか」
「真帆とかいう娘の消息がわかったんじゃないけ」
雨のなかに立ちつくす、かれらがヒソヒソささやきかわしているとき、とつぜんひとりが大声でわめいた。
「おうい、みんなちょっとあれを見い。あそこ墓場じゃないけ。空が真っ昼まみたいに明るくなっとるぞオ」
「そうじゃ、そうじゃ、あれは墓場じゃ。けさふたつの|棺《かん》|桶《おけ》を埋葬した墓場じゃ。墓場にまたなにかあったのけ」
なるほど、刑部神社から指呼の間にある、地蔵平の墓地にはなにか、よほど強烈な投光器でも備えつけてあるとみえ、真っ暗な夜空がそこだけ明るい光りの幅に切り裂かれ、降りそそぐ激しい雨が、銀色に光って走っている。
「だけどよう、あげえな強力な投光器を、どこから工面して来よったんじゃろ」
「ゴルフ場わきのホテルが目下、昼夜兼行で工事を急いどるじゃろうが。あそこから引っ張ってきよったんじゃないけ」
「そうすると、金田一さんが一役買ってるにちがいないぜ。あの人が越智氏と|昵《じっ》|懇《こん》じゃけんな」
「いったいこの真夜中に、墓場でなにをやらかそうというのけ」
報道陣がくちぐちに騒いでいるところへ、さっきいったんそこを出ていった、藤田刑事が足早にかえってきた。
まるで|獲《え》|物《もの》にたかるハイエナのように、わっと群がりよってくるマスコミの連中をかきわけて、藤田刑事は社務所のなかへとびこんだが、そこには広瀬警部補と金田一耕助のほか、奥から出てきた大膳と村長の辰馬、巴と澄子と玉江の三人の御寮人が、それぞれ|怯《おび》えたような顔をひきつらせて立っていた。
この三人の女の三人とも、目がもの凄く尖り、|唇《くちびる》がわなわな|痙《けい》|攣《れん》しているのは、いままで奥で行なわれていた、慰謝料問題が依然難航していることを物語るものだろう。
「なんじゃと……? 墓を暴く……? そ、そ、そげえな無茶な!」
寄る年波のうえあいつぐ事件、さらにそのあとにつづく慰謝料問題の|紛糾《ふんきゅう》で、さすが剛気な大膳もすっかり|惟悴《しょうすい》して、役者のような大きな目のふちに黒い|隈《くま》ができている。
「するとなにけ。真帆がお墓のなかに一緒に埋められているとでもいうのけ」
村長の辰馬は依然として|居《い》|丈《たけ》|高《だか》だが、それを聞くとそばから澄子が、瞼際に朱を走らせて、
「そ、そ、そげえなバカな。真帆ちゃんならふたつのお棺が埋葬されたとき、わたしどものそばにちゃんとおいでんさったんですぞな。そのあと一緒にこっちへ帰ってきたものを……」
「いや、それはわれわれも認めとるんです。ですけえど、島中こげえに探してみても、どこからも見つからんちゅことになると、あそこしかもう探すところがないわけですけん」
防水帽と防水服に身を固めた広瀬警部補は、だれがなんといおうとも決行するつもりらしく、いまにも出発しそうな身構まえでいる。そのそばには、合いの二重廻しを肩から引っかけた金田一耕助が、目をショボショボさせながら、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》そうに立っていた。
「それじゃかとて、墓を暴くなどというこは、まことに由々しき問題じゃ。きみなんの権利があって、いや、どういう資格があってそげえなことをやろうというんじゃ」
村長はあいかわらず居丈高である。
「ごもっともです。責任はいっさいぼくが負います。問題はみなさんに、立ち合っていただけるかどうかということです。この土砂降りのなかをまことに恐縮ですが、出来たら立ち合っていただきたいんですけえど、もしおいやなら、われわれだけでも決行するつもりでおりますけん」
広瀬警部補はのっぴきならぬ顔色を見せて、断固としていい放った。
大膳はまだ戸惑いを隠しおうせぬ顔色で、
「金田一さんはどうじゃな。あんたもこの発掘にご賛成なんかな」
「さあ、わたしにはなんの権限もないんですが、さっき主任さんもおっしゃったとおり、あそこしかもう探す場所がないもんですから」
「それじゃ金田一さんは、真帆があそこで生き埋めにされとるとおいいんさるんで?」
「生き埋めはないでしょうねえ。寂しい場所は寂しい場所ですが、あのとおり道からすぐですからね」
「じゃあ、殺されてから埋められたと……?」
「さあ、とにかく捜査陣としてはあそこよりほかに、調べるところがなくなったもんですから」
金田一耕助はノラリクラリと、当たりさわりのない返事をしながらも、
「とにかく、主任さんの要請ですから、立ち合っておあげになったらどうですか。こちらさんにとっては大事な場所ですから」
と、それだけはかなり熱心に勧誘していた。
そこで結局五人のものが|鳩首《きゅうしゅ》協議の結果、五人が五人とも立ち合うことになった。三人の女としては、三人だけであとに残るのが|憚《はばか》られたのであろう。
「じゃ、われわれはさきにいて、いろいろ準備しときますけん、あなたがたはあとからきてつかあさい。金田一先生、いきましょう。藤田くん、きみも来い」
社務所から出ていこうとすると、
「ああ、ちょっと、ちょっと」
と、あとから村長が呼びとめて、
「墓を掘るとすると、墓掘り人足が必要じゃけえど、巴御寮人、吉やんはいまこのお宮にいるのけ」
「はあ、いつものところにいるはずですけえど」
いつものところとはあの納屋のことだろう。
「いや、村長、そのご心配には及びません。それらのことはホテル建設現場の作業員がやってくれることになっとおりますけん。金田一先生から越智さんをとおしてお願いしてあるんです」
「いや、広瀬さん、これはやっぱり吉太郎さんに|采《さい》|配《はい》をふるっていただこうじゃありませんか。きょうの……」
と、いいかけて金田一耕助が腕時計を見ると、針はもうすでに九日の午前一時を指している。
「きのうの埋葬の責任者ですから、また采配をふるっていただこうじゃありませんか」
「ああ、そう、じゃあの人もつれてきてつかあさい」
三人は社務所を出ると、わっとばかりに報道陣に取りかこまれた。
広瀬警部補は報道陣のてんでにさしている、傘の下に埋まりながら、
「きみたちもおそらく察しているだろうが、われわれはこれから墓地へいく。きみたちの取材を拒否しようとは思わんけん、なんなら一緒についてきたまえ」
かくて三人を取りかこんだおびただしいマスコミの連中が、降りしきる雨のなかをもみあうようにして、地蔵平の墓地へおりていくと、そこにはほどよい位置に、三台の投光器がすえつけてあり、墓地のなかは文字どおり昼間のような明るさである。そのなかに、越智竜平の要請によって派遣されてきた、数名の作業員が防水帽と防水服に身をかため、てんでにシャベルだのスコップだのを手にして待機している。雨は遠慮容赦なく、それらの人びとのうえに降り注いだ。しかし、越智竜平の姿はどうしたのか、それらのなかに見えなかった。
「金田一先生、すぐにはじめますか」
「いや、礼儀としても刑部家の一族の到着を待つべきでしょう。それにやっぱり吉太郎さんに、最初の|鍬《くわ》|入《い》れをしてもらわなきゃ」
金田一耕助はいやに吉太郎にこだわっている。
その吉太郎はまもなく大膳や村長、三人の御寮人と一緒にやってきた。かれは例によって|鞣革《なめしがわ》のオーバーオールを着て、|長《なが》|靴《ぐつ》をはいているから、こういう大土砂降りのなかの|泥《どろ》んこ作業には、うってつけの服装である。大きなシャベルを担いでいて、|怪《け》|訝《げん》そうに渋面をつくっている。
やがてその吉太郎によって二本の墓標がとりのぞかれ、最初の土がしゃくいあげられると、作業員はふた手にわかれて、ふたつの墓を暴きはじめた。ふたつの穴がしだいに大きくなってくるにつれて、その場にいあわせた人びとの興奮も、しだいに大きくなってくる。
カメラマンたちはそれぞれ適当の場所に位置をしめて、この決定的瞬間を撮影しようと、かたずをのんで待機している。もし、それ真帆の死体でも出て来ようものなら、それこそその写真は、世間に一大センセーションをまき起こすだろう。
そのなかにあって、いちばん興奮しているのは、なんといっても藤田刑事であろう。じぶんがいい出したことが実現したのだ。人が悪いようだが、かれは衷心から真帆の死体の現われるのを、祈らずにはいられなかったであろう。いつかかれは服を泥まみれにして、両手で土をしゃくいあげていた。
やがてふたつの穴からふたつの柩が、それぞれ白い肌を現わしはじめた。その場にいあわせた人びとの興奮はその頂点に達し、全神経をそちらのほうへ集中していた。したがっていつのまにか金田一耕助の姿が、この墓地から消えているのに、だれひとりとして気がつかなかった、広瀬警部補以外には。
その金田一耕助はいま、刑部神社を支える|石《いし》|垣《がき》の下の道をとおって、千畳敷きへとはいってきた。かれの携えている懐中電灯の光りを見たのか、むこうのほうでも懐中電灯を振る人物があった。近づいていくと越智竜平である。竜平はぴったり身についた防水服を着て、頭にも黒い革のナイトキャップのようなものをかぶっている。
「こちらへ」
言葉少なにいう竜平のあとについて、刑部神社の石垣の角を曲がると、そこに|苔《こけ》むした狭い石段が石垣沿いについていて、その石垣の|麓《ふもと》に人間ひとり身をかがめて、潜れるくらいの|龕《がん》がくりぬいてあり、そこに下の|水《すい》|蓮《れん》|洞《どう》のなかにおさまっているのとおなじような、五輪の塔がまつってあることはまえにもいっておいた。
越智竜平がまずその龕のなかへもぐりこんだので、金田一耕助も身をかがめ、合いトンビの|裾《すそ》をたくしあげながらあとにつづいた。五輪の塔の背後は空洞になっていて、懐中電灯の光りで見まわすと、そこは四畳半ほどの広さの|洞《どう》|窟《くつ》になっている。天井もふつうの日本家屋くらいある。壁も天井もまた床も、なんの鉱石かしらないが、小さな粒子がいちめんに、星のようにキラキラと輝いている。
「われわれはむかしここを、『星の御殿』とよんでいたんです」
竜平が思わず|洩《も》らす述懐を聞いて、金田一耕助は|暗《くら》|闇《やみ》のなかでニヤリと笑った。
「なるほど。若き日の巴さんを|鵺[#「鵺」は底本では「鵺」の「夜」を「空」にしたもの。Unicode=9D7C]《ぬえ》の声で呼び出して、ここで愛し合っていらしたんですね」
竜平はテレ臭そうな|空《から》|咳《せき》をすると、
「それにしても、金田一先生はお人が悪いですね」
「それ、どういう意味ですか」
「墓地のほうへ島中の注意を集めておいて、人しれず|紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》を探検しようとなさるんだから」
「いや、それというのも藤田刑事の言葉から思いついたんですよ」
「と、おっしゃると……?」
「あの人がね、真帆ちゃんはあの墓場のなかに、いるんじゃないかといい出したんです。しかし、それ、西洋大奇術みたいじゃありませんか。箱の中に美人がはいったり、消えたり。……それからヒントをえて、ぼくも手品師のトリックを使ったらどうかと思いついたんです。墓地のほうへ注目を集めておいて、ほかで仕事をするというのは、これ奇術師のよく使う手ですからね」
「それでは金田一先生は、真帆ちゃんが墓地に埋められているなんて、はじめから信じちゃいられなかった……?」
「はあ、もちろんですけれど、いまは確信をもっていえますね。真帆ちゃんはあそこにいないと」
「どうしてですか」
金田一耕助は懐中電灯の光りを床にむけると、
「あれ……」
そこから身をこごめて小さなものを拾い上げた。黒いリボンでつくった喪章であった。
「これ、真帆ちゃんのものですよ。きょうの葬式、男でも喪章をつけていた人がありましたが、それはみんな腕章でしたよ。女性はみんな喪服でした。真帆ちゃんだけが喪服がなかったので、胸に喪章をつけていたんです」
第二十五章 |紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》
そこはまえにもいったとおり、日本間にして四畳半ほどの容積をもつ|洞《ほら》|穴《あな》なのだが、もちろん正確に直方形をしているわけではない。|花《か》|崗《こう》|岩《がん》の|亀《き》|裂《れつ》から生じた空間だから、わりに直線的ではあるが、それでも四方の壁にも床にも天井にも無数の裂け目が縦横に走っており、壁も床も天井も大きく傾斜している。それらの壁や床や天井に、星のごとくキラキラ光っているのは|雲《うん》|母《ぼ》なのだろうか。
越智竜平は金田一耕助が床から拾い上げた、黒いリボンの喪章に目をやって、
「それじゃ、金田一先生、|真《ま》|帆《ほ》という娘はここへやってきたんですね」
と、あたりを見回しながら息をのみ、
「すると、やっぱり先生のご推察どおり、この『星の御殿』の奥にいまでも紅蓮洞が現存すると……」
竜平の語尾は興奮のためにふるえていて、空間の|闇《やみ》のなかに消えていった。竜平は左|脇《わき》に黒い革の|鞄《かばん》をかかえている。
「そうとしか思えませんねえ。ここに姿が見えない以上。真帆ちゃんはどうやら紅蓮洞のなかにまぎれ込んだものの、|路《みち》に迷って出られなくなったんじゃありませんか」
「そういえば、幼いころ私の聞いた話では、紅蓮洞のなかは昔の伝説にもある、|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》|知《し》らずみたいに複雑な迷路をなしていて、うっかり路に迷うとなかなか出られなかったということです」
「それだ! それですよ。真帆ちゃんはきっと紅蓮洞のなかに閉じ込められてしまったにちがいない。大至急その入口を探し出さなきゃ……」
ふたりはシーンと洞穴の奥に耳をすましたが、聞こえるものといえば雨の音ばかり。五輪の塔の外はあいかわらず大土砂降りで、雨の|飛沫《し ぶ き》がこの洞穴のなかまで|跳《は》ね返ってくる。二人は大急ぎで三方の壁を懐中電灯の光りで|撫《な》でまわした。縦横に亀裂のはいった花崗岩の壁には、ふたりの影法師が屈折した形となって映し出されて、それがかえってこうした細かい探検ごとには邪魔になっている。
「越智さん、あなたの懐中電灯は消してください。とにかく急がなければならないのです。墓掘りの連中がぼくの姿の見えないことに気がついて、いつなんどきこっちへやって来ないものでもありません。それまでになんとしてでも入口を発見しなきゃ……」
越智竜平はただちに懐中電灯のスイッチを切った。
金田一耕助は表面落ち着き払って、一本になった懐中電灯の光りを頼りに、入念に壁の亀裂を調べていたが、内心はワクワク、ドキドキしているのである。もしだれかが自分の挙動に不審を抱いて、こっちのほうを探りにきたら、なにもかも、おしまいになってしまうかもしれないのである。そのだれかは、もう相当デスペレートになっているにちがいない。
「越智さん、ちょっとこの懐中電灯を持って、ここを照らしていてください」
「金田一先生、ど、どうするんですか」
「いえ、ちょっと……」
縦横に入った花崗岩の亀裂には、濃い緑色の|苔《こけ》がビッシリと生えていて、亀裂から生じる|隙《すき》|間《ま》を埋めている。そういえば苔は洞穴のなかをいちめんに埋めつくしているのである。
金田一耕助がここと竜平に指さしたのは、洞穴の奥の壁の腰のあたりである。竜平が命じられたとおりそこを照射していると、金田一耕助は二重回しのポケットから、ライターを取り出して火をつけて、亀裂に添って|這《は》わせていった。ライターの火ははじめはただふつうのまたたきしかみせなかったが、床から五〇センチほどあがった水平の亀裂のところで、急にはげしくまたたきはじめた。
「金田一先生」
越智竜平の握った懐中電灯の光りが、|痙《けい》|攣《れん》するようにピクリと揺れた。
「あきらかに空気が通っていますね。もう少し調べてみましょう」
亀裂に添ってライターの火をすべらせていくと、縦の亀裂と横の亀裂と交錯しながら、それは非常に不規則な形とはいえ、ほぼアーチ形をなしていることがわかった。押してみると少しぐらつくようである。
「金田一先生、これですね、入口は……」
竜平の声はしゃがれている。懐中電灯の光りの反射を受けたその顔面は、緊張のために異様に|強《こわ》|張《ば》り、|瞳《ひとみ》に|炎《ほのお》がもえている。
「そう、ちょっと押してみましょう。真帆ちゃんのようなか弱い娘にでも開けられたとしたら、そう重くはないはずです」
しかし、予想に反してそれはなかなか重かった。
「越智さん、力を貸してください。これはなかなか重い。真帆ちゃん、どうしてこれを開いたのかな」
「なるほど、これは重い」
竜平が肩で、金田一耕助が両手で力一杯押していると、花崗岩の壁は左|把《とっ》|手《て》のドアのようなひらきかたで、徐々に右奥へとひらいていく。呼吸がわかるとあとはわりに簡単だった。まもなく花崗岩のドアはピッタリと垂直に開いて、まっ暗な穴の奥から冷たい風がドッと吹き出してきた。
金田一耕助は思わず二つ、三つ大きくくさめをすると、
「おお、寒い」
と、合いの二重回しの肩をすぼめた。
「金田一先生、大丈夫ですか」
「わたしは大丈夫。ありったけの下着を着込んできましたから。それより越智さん、ここをごらんなさい。ほら」
金田一耕助は越智竜平から取り戻した懐中電灯の光りで、いま開いた穴のすぐ内側を照らしてみせた。そこは「星の御殿」の床より五センチほど下がったところだが、花崗岩の床が水平に張り出していて、その表面に四分の一の円形の|溝《みぞ》が掘られている。それは自然に出来た溝ではなく、あきらかに何者かの手によって、人工的に|抉《えぐ》られたものである。
金田一耕助はいま開いた穴にむかって|腹《はら》|這《ば》いになりながら、花崗岩のドアの下部を|撫《な》でまわしていたが、
「越智さん、あなたも触ってごらんなさい。このドアの下部に金属製の玉のようなものが、ほら、一つ、二つ、三つはめこんでありますよ」
そのドアの下部もこちらの床より三、四センチほど下がっているのだが、なるほど竜平が触ってみると、金田一耕助のいうとおりである。
竜平は深い|驚愕《きょうがく》に瞳を光らせて、
「だれが……こんな細工を……?」
「さあ、だれかがこの壁の一部が動くことに気がついた。そして、その奥にいまでも紅蓮洞が存在していることを発見したんでしょう。しかし、この岩のドアを開くのは容易じゃなかった。そこでよりたやすく、少しでも軽く、開くことができるようにこういう細工をしておいたんでしょうねえ。越智さん、はいってみますか」
「もちろん」
越智竜平は断固といった。
ふたりが懐中電灯の光りで穴の奥を照射してみると、岩のドアのレールになっている水平の岩の奥から、とつぜん洞窟は落下していて、そこに縦穴が出来ているようである。縦穴の深さは二メートルちかくもあるだろうか。大きさは人ひとり|呑《の》み込むのには十分である。
金田一耕助と越智竜平は、まず水平の張り出し岩までもぐり込むと、
「越智さん、このドアはどうしたもんでしょう。このままにしておきますか。それとももとどおり締めておきましょうか」
「それはもちろん締めておくべきでしょう。うっかり開いているところをだれかに見られたら……」
締めるのはわりに楽だった。これなら真帆のような小娘にも、|渾《こん》|身《しん》の力をこめてやれば可能であったろう。しかし、開くのはどうして出来たのであろう。金田一耕助はそれが|腑《ふ》に落ちなかった。
「それじゃ、金田一先生、わたしからさきに下りますよ」
「はあ、どうぞ。気をつけていってくださいよ。わたしがうえから懐中電灯の光りで照らしておりますから」
「お願いします」
越智竜平は左手にかかえていた黒い革のバッグを、まず下に投げ落としておいて、ひと呼吸はかると、岩に武者振りつくようにして下へ滑りおりたが、すぐ、
「おや」
と、いうような声が下から聞こえた。
「越智さん、どうかしましたか」
「いや、ちょっと待ってください」
竜平はいま滑りおりた|崖《がけ》の途中を、懐中電灯の光りで調べていたが、
「金田一先生、あなたもはやく下りていらっしやい。わりに簡単ですよ、ここまでは」
「はあ、いまいきます」
金田一耕助も竜平の|故《こ》|智《ち》に|倣《なら》って、まず身にまとうていた二重回しを、ふわりと縦穴のなかに投げおろすと、崖に武者振りつくようにして下へ滑りおりた。竜平とちがって着物に|袴《はかま》という金田一耕助は、こんな場合まことに不便にできているのだが、さいわい、崖の途中に足がかりになるような、小さな|窪《くぼ》みがあったので、それほど醜態もさらさずに、縦穴の底へ下り立つことができた。そのかわり着物と袴に二、三か所|鉤《かぎ》|裂《ざ》きが出来たようである。
「金田一先生、ちょっとこれ……」
「なんですか、それは?」
「いや、この崖の途中にひっかかっていたんですよ。これ、布の切れ端ですね。セーラー服じゃありませんか」
竜平の声はささやくように低くふるえている。金田一耕助が手にとってみると、あきらかにそれはセーラー服の切れ端だった。
「真帆ちゃんのですね」
金田一耕助の声もノドにひっかかってささやくようである。
ふたりはしばらく懐中電灯の光りのなかで、たがいの顔を|視《み》|詰《つ》め合っていた。ふたり並んで立つとせまい縦穴の底なのである、くっつくように向き合って立ったふたりの顔は、懐中電灯の光りのなかで、奇妙な陰影をつくって無気味であった。
「これでいよいよ真帆という娘が、この洞窟のなかへ潜り込んだということは、たしかなようですね」
「ところが、越智さん、ぼくにはそれがふしぎでしようがないんですよ」
「どうして?」
「いや、ぼくの推理によると真帆という娘は、きょうまでこの洞窟の存在はしらなかったはずなんです。あの『星の御殿』までは島のものならだれでもしっているんでしょう」
「それはしっているでしょう。いや、みんなしっているはずです、島のものなら」
「だから、真帆もあそこまではしっていた。そして、ちかごろ起こったいろんな事件から、あの場所にひとつの疑惑を持ちはじめた。そこできょう……じゃなかった、きのう葬式がえりのドサクサまぎれに、こっそりあの『星の御殿』まで下りてきた。あそこまで|辿《たど》りつくには、表を張っている刑事やマスコミの連中の、目につかずに出来るでしょう」
「それは出来ます。裏へ出て納屋の横の石段を下りれば、五輪の塔を祭ってあるあの龕のそばへ出られますから」
「真帆ちゃんはそうしてあの『星の御殿』へ潜り込んだ。しかし、彼女はどうしてあの岩のドアを発見したのでしょう。いや、非常な|僥倖《ぎょうこう》にめぐまれて、あのドアの秘密を探り当てたとしても、か弱い小娘の力でどうしてあれを開くことができたのでしょう。われわれ大の男がふたりがかりでも、なかなか開かなかったあのドアを。締めるのは彼女ひとりでも出来たかもしれませんけれどね」
「じゃ、金田一先生は真帆という娘に、だれか連れでもあったんじゃないかとおっしゃるんですか」
「いや、その連れとして思い当たる人物がないからふしぎなんです。この島の人間関係からして、真帆のこういう冒険に、協力しそうな人物は思い当たらないですからねえ。だからぼくは不安なんです。いや、不安というより恐ろしいんです。真帆は|罠《わな》にはめられたんじゃないかと……」
「罠とおっしゃいますと……?」
「真帆がここへやってきたとき、岩のドアは開いていたんじゃないか。それで真帆はつい誘い込まれたんじゃないかと思うんです。しかも……」
「しかも……?」
「岩のドアを開いておいた相手が、誘い込もうとした人物は、真帆じゃなくこのぼくじゃなかったか、いや、ひょっとしたらあなただったかもしれない。いずれはあなたとぼくがこの場所へ、目をつけることを相手はしっていた。そこでドアを開いてわれわれを誘い込もうとしたのを、ひと足さきに真帆がひっかかって、誘い込まれたんじゃないでしょうかね。それがぼくには怖いんです。恐ろしいんです」
「それで、金田一先生はどうしようとおっしゃるんですか。ここから引き返そうとでもおっしゃるんですか」
「いいえ、それは出来ません。真帆ちゃんがここにいるとわかった以上、なんとかして救い出さなきゃ……それにわれわれがここへ潜り込んだ、最初の目的も果たさなきゃなりません。こんな機会はめったにないことですから」
どうも金田一耕助のいうことには、矛盾があるようである。それだけ地底のこの洞窟に潜りこんでみて、動揺しているということなのだろう。
竜平は複雑な陰影をつくっている相手の顔を、懐中電灯の光りのなかできっと|視《み》|詰《つ》めて、
「金田一先生、あなたのおっしゃりたいことは、こういうことじゃないんですか。つまりわれわれはこの洞窟のなかで、だれかに襲撃されるかもしれない。その場合、相手はこの洞窟の勝手をよくしっているのに、われわれは全然しっていない。だからわれわれはいま非常に危険な立場に立っている……と、そういうことじゃないんですか」
「そうです。そうです。ぼくのいいたいのはそのことです。それを|予《あらかじ》めわかっていただければと思ったものですから……」
「金田一先生」
竜平は|莞《かん》|爾《じ》としてわらうと、
「わたしはそれほど|臆病者《おくびょうもの》ではありません。それにこういう冒険には危険はつきものだということは、予め覚悟はしております。金田一先生、わたしこういうものを持っているんですよ」
竜平はピッタリ身についた黒い革の服の内ポケットから、小型のピストルを出してみせた。
「ご心配はいりません。ちゃんと届けるべき筋へは届けてありますから。金田一先生は武器の類いはお持ちにならないようですね」
「はあ、ぼくはそういうものにはいっこう無関心なほうで……」
「わかっております。先生の武器はおツムですからね」
竜平はわらって、
「しかし、こういうものを持っているからといって、必ずしも安全というわけにはいきますまい。こういう洞窟へ潜り込んだ以上、敵は必ずしも人間とばかり限りません。落盤という大きな危険もありますからね。しかし、相手が人間ならば、及ばずながらわたしが護って差し上げましょう」
ここに及んで竜平は金田一耕助にとって、非常に頼もしい存在になってきた。
竜平は小型のピストルをもとの内ポケットにしまうと、身をこごめてさきに投げ落としておいたバッグを開いて、なかからなにか取り出している。金田一耕助が懐中電灯の光りで見ていると、なかから取りだされたのは一本の棒である。棒の周囲にはおびただしい量の白い|紐《ひも》が巻きついている。
「なんですか、それは……?」
「いいえね、ここが八幡の藪知らずみたいに、複雑な迷路をなしていると幼いころ聞いた記憶を思い出しましてね、路に迷っちゃいけないと建築現場から借り出してきたんですよ」
竜平はその棒をこれまたバッグのなかから取り出した|金《かな》|鎚《づち》で、いま滑りおりた崖の根元に打ち込むと、巻きついた白い紐の端をとって|手《た》|繰《ぐ》りはじめた。棒はカラカラと音を立てて回転すると、白い紐はすぐ数メートルの長さに延びた。
「さあ、金田一先生、いきましょう。この紐さえ放さなきゃ、帰り路に迷うようなことはありませんよ」
この周到な用意に金田一耕助は、舌を巻いて驚嘆せずにいられなかった。いよいよもって竜平は、金田一耕助にとって頼もしい存在になってくる。
やがて竜平はバッグ片手に、金田一耕助は二重回しを肩にひっかけ、まっ暗な未知の世界にと踏み出していった。
この洞窟は島全体を形成している、花崗岩の断層と断層の食いちがいから出来た|間《かん》|隙《げき》らしく、カーブはすべて鋭角的である。あるところではふたりが並んで、ゆうに立って歩けるくらいの空間が広がっているかと思うと、あるところでは、人ひとり這っていかなければならないような、|隘《せま》い窮屈な場所もある。
またあるところでは路がふたつに分かれているので、ふたり協議の結果、いっぽうの路を選んで歩んでいくと、まもなくそれが|袋小路《ふくろこうじ》になっていることに気がついて、もとの分かれ路まで引き返さねばならぬ場合もあった。そんなときなによりも頼りになるのは、竜平の引っ張ってきた白い紐である。この紐がなければふたりはとっくに迷い子になっていたかもしれない。
「なるほど、これは八幡の藪知らずですね」
金田一耕助が|呟《つぶや》いた。
「私が想像していたよりはるかに複雑なようです。しかし、わたしは希望を持っていますよ」
「と、おっしゃると……?」
「われわれはいま未知の世界に|挑《いど》んでいる。いわばこれわれわれにとって初体験です。しかも、あたりはこのとおり|漆《しっ》|黒《こく》の|闇《やみ》です。だからわれわれは神経質になっている。必要以上に神経質になってるんです。しかし……」
「しかし……?」
「あの入口のドアにコマをつけ、あのレールを掘った人物と、その相棒とがときどきこの洞窟へ出入りしているとすれば、ここ、それほど複雑な地形でもなく、危険な場所でもないんじゃないですか。われわれはまだなにもしらないものだから、袋小路へ突き当たったり、堂々巡りをしたりしては肝を冷やしていますが、そんなこと予めしっていれば、もっと簡単に目的の場所へ、いきつくことが出来るんじゃないんですか」
なるほど、この楽天的根性があるからこそ、無一物同様でアメリカへ渡り、今日の産をなしたのであろうと、金田一耕助は内心深く感心している。と、同時にかれもまた大いに勇気づけられているのである。
「それにしてもずいぶん広い洞窟ですね。われわれが潜り込んでから、もう十分以上もたつんですよ。もっともわれわれ歩くというより這ってるようなものですけれどね」
「金田一先生、わたしはこの洞窟、広ければ広いほどよいと思ってるんですよ。伝説どおり、下の|水《すい》|蓮《れん》|洞《どう》までつづいていると、どんなによかろうと思ってるんです」
「どうしてですか」
「いやあ、いずれ事件が片付いたら、この洞窟、観光地になりはせんかと思うとるんです」
「あなたこの際、そんなことまで考えていらっしゃるんですか」
「ショウバイにかけては、抜け目のない男じゃと思うてつかあさい。わっはっは!」
入口から奥へ進むにつれて竜平は、かえって大胆になってくる。腹をゆすって笑いあげれば、その声は|殷《いん》|々《いん》としてこだまとなってかえってくる。
竜平はさっきからときどき金鎚で、周囲の壁や天井をコツコツ|叩《たた》いてみながら、
「このとおり、全部花崗岩でできておりますから、落盤の危険はないようです。したがって、観光客にも危険はなさそうですからな」
そこまでいってから急に気がついたように、
「金田一先生、あなた寒くはありませんか。だいぶん気温が下がってきたようですが」
「はあ、あの入口の『星の御殿』からくらべると、そうとう地下深く潜りこんでいるんでしょうねえ。ぼくはさっきから寒くてしようがありません」
「八寒地獄の第七地獄、紅蓮地獄の名をとって、紅蓮洞と命名してあるくらいですから、そうとう寒いだろうとは覚悟していましたが、これはこたえますね」
地下深く潜り込むにつれて温度は急降下して、金田一耕助も越智竜平も皮膚がカサカサになり、|唇《くちびる》が紫色に|朽《く》ちている。懐中電灯の光りのなかで、ふたりの吐く息が白く凍っている。
「真帆はどうしてるでしょうねえ。おそらく路に迷ってしまったのでしょうが、まさかこの程度の気温じゃ、凍死はしないでしょうがねえ」
「それでもセーラー服一枚では、そうとう寒がっているでしょう。メシは昼メシまで食べているんですね」
「そのはずです」
「夕食を抜いただけでは|餓《が》|死《し》もしますまい。金田一先生、ひとつ呼んでみましょうか」
「そうしてください。もうここまで来たら、外部へ|洩《も》れるようなことはないでしょうから」
「ようし」
竜平は息を深く吸い込むと、前方の闇にむかって大声で叫んだ。
「真帆ちゃあん」
肺活量の強そうな、深いひびきのある声だったが、返ってきたのはこだまだけ、真帆の返事は聞こえなかった。それでも竜平は|諦《あきら》めずに、前進しながら二度三度、
「真帆ちゃあん、真帆ちゃんはどこにいるんだ。いるなら返事をおし。真帆ちゃあん、やあい」
竜平は寒いのである。せめて大声を振りしぼっていると、寒さを忘れることが出来るのである。だがそれが幸いした。返事もないのに|諦《あきら》めず、真帆の名前を連呼しながら、闇のなかを前進していると、やっと行く手に当たって反応が起こった。
「助けてえ……」
絶え入りそうな声はたしかに若い娘のものである。
「あっ、真帆ちゃんか。きみいまどこにいるんだ」
しかし、これは愚問であろう。真帆もいまじぶんがどこにいるかわからないのにちがいない。
「助けてえ……」
「真帆ちゃん!」
「助けてえ……」
「真帆ちゃん!」
|彼《ひ》|我《が》の声はしだいに接近してその間数メートル。金田一耕助も越智竜平も、懐中電灯を前方にむけて立っている。
「助けてえ……」
「真帆ちゃん!」
声と声の距離はますます接近して、その間二、三メートルと思われるのに、懐中電灯の光りのなかに真帆の姿は現われない。金田一耕助は思わず背筋がゾーッと総毛立った。考えてみると真帆だって、この洞窟へ忍び込む以上、懐中電灯の用意をしているにちがいない。それにもかかわらずその光りが、全然見えないのはどういうわけだ。その|謎《なぞ》はまもなく解明された。
「真帆ちゃん」
「助けて……」
その声はなにかに|怯《おび》えて、シクシク泣いているようである。
「こちら金田一耕助だ。越智竜平さんもここにいる。きみ、いまどこにいるの」
「ここにいるわ」
「ここにってどこ?」
「ここはここよ。洞窟のなかにいるのよ」
真帆の|地《じ》|団《だん》|駄《だ》を踏むような声は、すぐそばに聞こえていながら、それでいてその姿は見えないのである。ここにおいて金田一耕助ははじめてハッと気づいた。真帆のいる洞窟とじぶんたちのいる洞窟がちがっているらしいことに。真帆のいる洞窟とじぶんたちのいる洞窟とのあいだには、なお強固な花崗岩の壁が立ちはだかっているらしいことに。それでいて、声がこんなに間近に聞こえるのはどういうのであろうか。どこかに声を運んでくる空間があるのではないか。
ここにおいて金田一耕助と越智竜平は、懐中電灯の光りで洞窟のなかを撫でまわした。そこは鋭角的に裁断されたような花崗岩からなる空洞だが、天井は意外に高く四、五メートルもあるだろうか。大きなお|椀《わん》を伏せたような|恰《かっ》|好《こう》になっていて、その下に隣の洞窟へ通ずる空間があるらしい。それもかなり大きな空間である。
「真帆ちゃん、きみ、懐中電灯を持ってるウ?」
「ええ、持ってます」
「じゃ、天井を照らしてごらん。声のするほうへ光りをむけるんだよ。越智さん、こちらの懐中電灯は消しておきましょう」
やがてまっ暗な天井に光りが差しはじめ、ふたつの空洞をへだてる岩壁のあいだに、人間ひとり、ゆうに|潜《くぐ》れるくらいの空間があることが判明した。
「金田一先生、この懐中電灯と紐の端を持っていてください。わたしがやってみます。下から懐中電灯を照らしておいてください」
洞窟と洞窟をへだてる岩壁の高さは四メートルくらい。その花崗岩の壁には縦に横に亀裂がいっぱいあるので、手がかり足がかりに不自由はなかった。しかも、その岩壁はいくらかむこうへ傾斜している。竜平はまたたくまにそのてっぺんまで登りつめると、むこうを|覗《のぞ》いて、
「真帆ちゃん、懐中電灯をこちらへ照らしなさい」
真帆がいわれたとおりしたとみえ、竜平の上半身が影となって、お椀を伏せたような天井に映った。竜平はしばらくむこうの洞窟を観察したが、
「金田一先生、こいつはいい」
「どうかしましたか」
「こっちの壁も|裾《すそ》のほうが広がって傾斜してます。だから真帆ちゃんみたいな娘でも、這い登るにはそれほど困難ではないでしょう。少し手伝ってやればね」
竜平の姿は空間のむこうに消えたが、まもなく真帆の顔が岩壁のうえに現われた。彼女の吐く息が金田一耕助の照射する懐中電灯の光りのなかで、白く、せわしげである。
「真帆ちゃん、大丈夫……?」
「ええ、大丈夫、金田一先生、ありがとう」
「真帆ちゃん、そこからひとりで降りられるかい」
真帆の|尻《しり》を押しているらしい竜平の声が、天井の空間から落ちてきた。金田一耕助が懐中電灯でこちらの壁を照らしてやると、真帆はうえから傾斜を目測していたが、
「ええ、大丈夫、これならひとりで降りられます」
まもなく真帆が洞窟の床に降り立ち、それからつづいて竜平も戻ってきた。
このちょっとした冒険に、真帆はいくらか汗ばんでいたが、それが冷えるとガタガタとふるえ出した。
「かわいそうに、さぞ寒かったろう」
金田一耕助が二重回しを着せてやっても、真帆のふるえは止まらなかった。
「腹が減ってるんだろう。だからいっそう寒さがこたえるんだ。さあ、さあ、これでもおあがり」
竜平は用意周到である。黒革の鞄のなかにはサンドウィッチが用意されていた。
「おじさん、ありがとう。でもうちそれほどお腹がすかないの。うちそれより怖くて、怖くて……」
「そうそう、真帆ちゃんにちょっと聞きたいんだが、この洞窟の入口の岩の扉ね、あれ真帆ちゃんじぶんで開いたの。それともはじめから開いていたんじゃないの」
「ええ、はじめから開いていたわ」
「で、締めたのは真帆ちゃん?」
「そうよ。うちが締めたの。こんなとこへはいってきたこと、人にしられると困ると思って締めておいたの、ずいぶん重かったけど、どうやら締まったわ」
金田一耕助と越智竜平は、懐中電灯の光りのなかで、ハッとばかりに顔見合わせた。やっぱり罠だったのか。
しかし、真帆はこともなげに、
「そうじゃけえど、あの岩の扉が開いていてもふしぎはないのよ。だれかうちよりさきへここへはいってきた人があるのンよ。その人いまでもこの奥にいるわ。うちそれが怖うて、怖うて……」
真帆は腹はすいていないといっていたが、いまこうして金田一耕助と越智竜平の保護下におかれると、急に空腹をおぼえたのか、シクシクとすすり泣いたり、はげしく身震いしたりしながら、サンドウィッチをパクついている。しかし、いま真帆の洩らした言葉は聞き捨てにはならなかった。
「なんだって? 真帆ちゃんよりさきにこの洞窟のなかへはいったものがあるんだって」
「ええ」
「だれ、それ……?」
「そんなことわかんないわ。こげえな暗がりのなかですけん。でもうちたしかに足音も聞いたし、話し声も聞いたわ。なに話てんのンか、サッパリわからなかったけえど」
「話し声を聞いたとすると、それ複数の人間なんだね」
「ええ、二人だったようよ」
「男? 女?」
「もちろん男の人です。男の人が二人だったようですん」
金田一耕助と越智竜平はまたハッと顔見合わせた。
「金田一先生、なにかお心当たりがありますか。島のものでこの洞窟へ潜り込みそうな男二人……?」
金田一耕助にも心当たりはなかった。渋面をつくって真帆の顔を覗き込みながら、
「それで、そのふたりの男、真帆ちゃんになにか危害でも加えるようなふうだった」
「そんなことわかりません。うち怖うて、怖うてつかまらんように逃げまわっていたんですけん」
なるほど、それは怖かったろう。この漆黒の闇に包まれた洞窟のなかで、正体不明の男に出会えば、若い娘たるもの恐怖のどん底に叩き込まれて、逃げまわるのもむりはない。それこそ暗闇の鬼ごっこなのだ。生と死を|賭《か》けた鬼ごっこだったのである。
「だけど、真帆ちゃん、あんたさっき助けてえ……と大きな声を挙げて走ってたね。あの声を聞きつけてふたり連れの男、あと追っかけて来ないかしら」
「来るかもしれないわ。でも、もう大丈夫ね。金田一先生やおじさんといっしょですけん」
そのとき金田一耕助が小さな声で、|叱《しっ》|咤《た》するように叫んだ。
「越智さん、真帆ちゃん、懐中電灯を消して……」
三人がいちように懐中電灯の灯を消して、漆黒の闇の底にうずくまり、ピーンと耳をすましていると、果たしてさっき真帆がやってきた方角から、ヒソヒソ話が聞こえてきた。ヒソヒソ話だから話の内容はわからないが、男であることはたしかである。天井を見ていると、あの空間にボーッと明かりがさしてきた。やがて二人の男は洞窟の壁のすぐむこう側までさしかかった。なにやら話をしているのだけれど、声が低いのであいかわらず、話の内容はわからない。しかし、暗闇のなかで息をひそめていた金田一耕助の唇に、とつぜん微笑が|湧《わ》きあがったのは、ヒソヒソ話のなかからただひと言、
「お兄ちゃん」
と、いう言葉が耳をとらえたからである。
誠と勇の兄弟なのだ。そして、あの兄弟ならこの洞窟に関心を持っていてもふしぎではない。かれらは昭和二十三年この島で蒸発したという、父松若の消息を求めてやまないのだ。
「おい、そこにいるのは誠くんと勇くんじゃないか」
壁一重むこうのヒソヒソ話はピッタリやんで、ただひたすら、こちらのようすに耳を傾けているふうである。
「なにも心配することはない。こちら金田一耕助だ。越智竜平さんもここにいる」
「あっ、金田一先生!」
そう叫んだのは誠らしい。歓喜に声がはずんでいた。
「ぼくたち路に迷うて困っているんです。金田一先生はいまどこにいるんですか」
「きみたち、懐中電灯を消したまえ。そしてぼくの声がする天井のほうを見ていたまえ。越智さん、真帆ちゃん」
金田一耕助に促がされて、三人いっせいに懐中電灯の灯をつけて、天井のほうに差しむけると、岩壁のむこうでかすかな歓声があがった。
「金田一先生、この洞窟はつながっているんですね」
「そうだ。さっき真帆ちゃんもその天井の空間をくぐって、こっちの洞窟へやってきたんだ。きみたちもこっちへ来ないか」
「承知しました。勇、いこう」
「うん」
洞窟のむこうで、ふたりの声は|弾《はず》んでいた。まもなく勇を先頭に誠もそのあとにつづいて、ふたりもこちらの洞窟に合流した。ふたりともスポーツ・シャツにズボンという軽装だから、寒さにかじけていることはいうまでもない。くちびるが紫色に朽ちていて哀れであった。それでもこちらの洞窟へとび込んできた勇は、すぐ懐中電灯の光りであちこちを調べていたが、満面に喜色をうかべて、
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、ここさっきぼくたちがとおってきた路だよ。ほら、ここにぼくのつけた矢印が残っとおります」
なるほど花崗岩の壁の腰の高さに、五寸|釘《くぎ》ででも掘ったような矢印がついている。それはよくよく注意しなければわからないような跡だった。
「ああ、きみたち帰り路に困らないように、矢印をつけながら奥へ進んでいったんだね」
「へえ」
「それにもかかわらず、どうして路に迷ってしまったの」
「この人が……」
と、誠は真帆を指さしながら、
「いえ、たぶんこの人じゃと思うんですけえど、だれかの足音や息遣いが聞こえたもんですけん、あちこち隠れまわっとるうちに……」
「つい、ぼくが矢印をつけ忘れてしもうたんです」
「ここいったん迷うときりがないくらい、複雑怪奇な迷路になっとおりますけん」
「それで、きみたち目的のものを発見したの。蒸発したお父さんの|痕《こん》|跡《せき》かなんかを……?」
誠と勇は顔見合わせると、しばらく目顔で話をしていたが、やがて誠が決然として、
「はい、発見しました。勇、金田一先生にあれ見ていただこうじゃないけ」
「お兄ちゃんのええと思うようにしてつかあさい。ぼく父ちゃんが|可《か》|哀《わい》そうで、可哀そうで……」
勇は真っ|蒼《さお》になって声をしめらせている。なにかよほど異状なことがあるにちがいないと、金田一耕助は越智竜平と顔を見合わせながら、
「よし、それじゃそこへ案内してくれたまえ。ここからまだ遠いの」
「遠いのか近いのかぼくら夢中でしたけん、サッパリわからんのですけえど」
「よし、それじゃここで腹ごしらえをしていこう。きみたちきのう昼メシを食ったきりだろう」
ここにおいて越智竜平の用意してきた、サンドウィッチがものをいった。誠と勇はそれに武者振りつくと、
「金田一先生、いま何時ごろです。ぼくの時計は二時半を差してますけえど」
「はあ、ぼくの時計も二時三十五分だよ。ただしいまは七月九日の午前二時三十五分だ。きみたちがここへ潜りこんだのは……?」
「八日の午後二時ごろのことでしたん。ほんならあれから、まだ十二時間しかたっとらんのですか。ぼくなんじゃら、一年くらいもたったような気がしますけえど」
漆黒の闇の迷路を、当てもなく|彷《ほう》|徨《こう》していた十二時間は、なるほどこの若いふたりにとっても、一年間にそうとうする苦患だったにちがいない。それだけ疲労|困《こん》|憊《ぱい》しているということなのだろう。
それでも腹がくちくなるとふたりの|頬《ほお》に血の気がさした。誠はわざと勢い良く席を立つと、
「さあ、いこう、勇、今度は気イつけないかんぞ。矢印を見落とさんようにな」
「へえ、お兄ちゃん、よう気イつけます」
「金田一先生もそちらのおじさんもついてきてつかあさい」
そこから目的地までの距離は案外近いようにも、またひどく遠いようにも受けとれた。懐中電灯だけが頼りの地底の闇では、距離の感覚がつかみにくいのである。
それでも誠が、
「金田一先生、ほら、ここですん」
と、足をとめたとき、金田一耕助が腕時計に目を落とすと、ちょうど三時を示していた。
あまたの怪事件、難事件に直面してきた金田一耕助だけれど、この紅蓮洞の奥の大広間で目にした、世にも怪奇な風景は、|生涯《しょうがい》消えぬべき印象となって長くあとに尾を引くだろう。それはあまりにもグロテスクな光景だった。
五本の懐中電灯の光りで照らし出されたそこは、じっさい大広間といってよかった。天井までは一〇メートルくらいもあったろうか。広さは一辺が二〇メートルくらいのほぼ正方形をなしている。
それはもちろん自然が造り出した奇跡というべきだろうが、後日|仔《し》|細《さい》に点検したところによると、自然が造形したこの奇跡のうえに、人工的な粉飾が加えられていることが明らかになった。それは長い年月を費して、根気よくコツコツと加えられた粉飾で、こういうことが人しれずに行なわれていたということについて、調査官は舌を巻いて驚嘆したという。
この大広間は不規則な形をした三段になっていた。その一番上段には祭壇のように岩が盛りあがっていて、そこに素焼きの皿がおいてあり、皿のなかには|饌《せん》|米《まい》が盛ってある。その饌米はまだごく新しいもので、そこに供えられてから数日とはたっていないだろう。
この饌米の皿の両側には、|蝋《ろう》|燭《そく》|立《た》てが一本ずつおいてあり、蝋燭立てにはまだま新しい蝋燭が立っていたが、もちろん蝋燭の灯は消えていた。しかし、蝋燭の|芯《しん》が黒くなっているところをみると、ちかごろだれかこれに灯をともしたものがあるのだろう。ほかに|榊《さかき》の枝がそなえてあったが、これまたまだみずみずしく新しかった。
さて、その祭壇の奥の岩壁に、小さな|龕《がん》のようなものが彫られているが、これは明らかに人工的手段によるものと思われた。しかし、彫られてからそうとう歳月がたっているとみえて、龕の内部は青く|苔《こけ》|蒸《む》している。その巍の上部には二つ巴の紋所を白抜きにした紫色の幕が張ってあり、そのなかには世にも奇妙なものが祭ってある。
それは小さな、小さな|骸《がい》|骨《こつ》であった。手にとれば|掌《てのひら》のうえにも乗りそうな、可愛い、白い骸骨なのだが、明らかに頭がふたつ、手が四本、足が四本。そして、腰のところで骨と骨とがくっついていることが、懐中電灯の光りのなかでもハッキリと認められた。
このシャム双生児はそれぞれ両手を大きく広げ、両足を躍るように踏ん張って、いまにも龕から空にむかって、|飛翔《ひしょう》しそうなポーズを取っている。そういうふうな恰好で、龕のなかにぶら下げられているのである。
金田一耕助が額をよせて観察すると、放っておけばバラバラになりそうな白骨を、原形を崩さぬように|繋《つな》ぎ止めてあるのは、|釣《つり》につかう堅固なテグスの糸であった。
「吉太郎だな」
金田一耕助は心のなかで呟いたが、それが声となって聞こえたかのごとく、越智竜平がそばから答えた。
「新家は見かけによらず手先が器用ですけんな」
振り返ってみると竜平の顔は沈痛そのものであった。無理もない。金田一耕助の推理によって、あらかじめ覚悟はしていたであろうけれど、いまこうして二十三年以前の、巴御寮人との恋のかたみの成れの果てを、こういう形でまざまざと、目のまえに突きつけられては、だれだって動揺し、動転せずにはいられないだろう。
これこそわが子の成れの果てなのだ! と、さすが豪気な竜平も、懐中電灯を持つ手がふるえ、目には涙さえ持っている。
「金田一先生」
誠と勇がそばへ寄ってきた。
「これいったいだれなんです。これ本物ですか。それともなにかを象徴するために、こげえなもんこさえてあるんでしょうか」
「これ、腰のところで骨と骨とがくっついた、ふたごのようですけえど」
誠と勇にそう見えたとすれば、青木修三にもそれがわかったのであろう。
「いや、この事件が万事解決したとき、きみたちもこれがなにを意味するかしるだろう。きみたちはそれをしる権利があるからね。それよりきみたちのお父さんはどこ……?」
「父はあそこにおります」
誠の声はしめっていたが、弟の持つ懐中電灯の光りと光りが交錯したとき、そこにくっきり浮かびあがったのは、これまた世にも奇怪なものだった。
それは数本の糸で天井から、あやつり人形のようにぶら下げられた大人の骸骨なのだが、その骸骨は顔に古怪な面をかぶっていた。|神楽《か ぐ ら》|太《だ》|夫《ゆう》の面である。
「あれ|素戔嗚尊《すさのおのみこと》の面ですん。これ父が|大蛇《お ろ ち》|退《たい》|治《じ》の場面で、素戔嗚を舞うている場面です」
吉太郎はよっぽどよく人体および骨格の研究をしたにちがいない。これまた放っておけばバラバラになりそうな関節と関節を、|強靱《きょうじん》なテグスの糸で繋ぎとめ、その骸骨はあたかも神楽を舞っているがごとき、身振り、手振り、足の踏んばりである。それに龕のなかのふたごの骸骨もそうだが、松若の骸骨なども、ときどき手入れが施されているのではないかと思われるのは、松若のかぶっている面なども、もうここに収まってから十八、九年もたつというのに、それほど損傷していないことである。
それらの手入れはだれがするのであろうか。もちろん吉太郎以外には考えられない。かれは巴御寮人の歓心を買うためには、どのようなことでもやってのけるにちがいない。その代償はなんであろう。もちろん巴御寮人の肉体以外には考えられない。
「誠くん、きみたちの発見したのはこれだけ?」
「いえ、もうふたつあります。ほら、あれとあれ」
誠と勇が懐中電灯で、示したところに浮かびあがったのは、もう二体の骸骨である。いずれも天井から数本の糸でぶら下げられているのだが、一体は中腰になり、一体は花崗岩の床にひざまずいていた。中腰になった骸骨は膝に人形を抱いているが、それは巡礼お|鶴《つる》の人形であった。そばにおいた背負い箱には、|阿《あ》|波《わ》の|十郎兵衛《じゅうろべえ》と女房お弓の人形が|挿《さ》してある。やはりこの島で蒸発したのではないかといわれている、淡路の人形遣いの骸骨であろう。
もう一体のひざまずいた骸骨は、植物採集に使う胴乱のようなものをまえにおき、龕にむかってなにかを語りかけているようである。その胴乱はいま荒木定吉のもっているものと、同じ種類のものであった。
「金田一先生、いったいこれはなにを意味しているのでしょう」
越智竜平の声はノドにひっかかっている。
「おわかりになりませんか」
金田一耕助は|暗《あん》|澹《たん》たる顔色で、
「不幸だったふたごの若君と三人のお|伽衆《とぎしゅう》じゃないですか。誠くんと勇くんのお父さんは神楽で奉仕し、人形遣いは人形で若君たちを慰め、そして、ここにひざまずいているのは、おそらく荒木定吉くんのお父さん、荒木清吉さんでしょうが、この人は置き薬の行商で、諸国を経巡っていたから話題も豊富で、話術も巧みだったのでしょう。だからこの人はさしずめ、|語《かた》り|部《べ》というところじゃないでしょうかねえ」
「狂気じゃ。これじゃまるで狂気の|沙《さ》|汰《た》じゃ」
竜平は汚いものでも吐き出すような口調である。金田一耕助は悩ましげな目をして、
「そう、まったく狂気の沙汰です。あの人はシャム双生児を産んだ瞬間、気が狂ったのでしょう。さらにあの人の不幸に拍車をかけたのは、守衛さんという人に、満足出来なかったんじゃないでしょうかねえ。そこで出来るだけあなたの体形に似た男を選んで誘惑し、それをさんざん|弄《もてあそ》んだ。しかし、それでは吉太郎さんが満足しないので、二人共謀してこれを殺し、不幸だったふたごの若君の、お伽衆に仕立てることを思いついた。これがこの恐ろしくもおぞましい、事件の真相じゃないでしょうかねえ」
それから金田一耕助は言葉をついで、
「青木修三さんもこれらの骸骨をごらんになった。そして、殺されるまえに巴さんか吉太郎さんに事件の真相を聞かされた。そこで、あの島には悪霊がついている……と、いう言葉をあとにのこされたんじゃないですか。青木修三さんならずとも、この光景を見、かつこういうおぞましい真相をしったら、だれだって悪霊のしわざとしか思えませんからね」
金田一耕助も興奮しているのである。かれがなんども繰りかえす、このおぞましい真相に直面して、思わず興奮してここまで語ってきたが、急に気がついたように闇の洞窟を見まわした。
「誠くん、勇くん、真帆ちゃんは……?」
「真帆ちゃん……?」
四人の持つ懐中電灯が交錯して、まもなくかれらは、岩窟の床に倒れている真帆の姿を発見した。真帆は気を失っているのである。無理もない。この恐ろしい情景を目にし、金田一耕助の口からおぞましい真相を聞かされては、か弱い娘の神経ではよく忍ぶところではなかったのであろう。
真帆は右手になにか握っていた。それは古い一枚の二銭銅貨であった。
金田一耕助はハッと気がついて、改めて真帆の周辺を、懐中電灯で照らしてみた。この地下宮殿が上、中、下の三段になっていることはまえにもいったが、三体の骸骨がいるのは中段の間である。下段の間のいちばん奥に古ぼけた|賽《さい》|銭《せん》|箱《ばこ》がおいてあり、ゆすってみるとまだいくらか、硬貨が残っているとみえ音がした。
真帆はいまじぶんの握っているのとおなじ種類の古銭を、片帆が持っていたことをしっていたのではないか。
第二十六章 |女《じょ》|郎《ろう》|蜘蛛《ぐも》
昭和四十二年七月九日の午前一時半ごろからはじまった、二つの墓の発掘作業が、完全に終了したのは二時を少し過ぎたころだった。
さして広くも大きくもない墓、しかもたったふたつの墓を掘り起こすのに、半時間以上もかかったというのは、その間、間断なく降りそそいだ|篠《しの》つくような雨のせいである。この季節によくある集中豪雨というやつであろう。あとでわかったところでは、この雨のために関西地方、だいぶあちこちに大きな被害が出たそうだが、刑部島でも|鋸山《のこぎりやま》の|麓《ふもと》や|隠《おん》|亡《ぼう》|谷《だに》のほとりに、そうとう数の|崖《がけ》崩れや土砂崩れがあった。
そういう集中豪雨のさなかの墓掘りだから、その作業が難渋をきわめたのもむりはない。掘られた穴はすぐ水びたしになった。その水をかい出すだけでも厄介な作業だのに、掘り起こされて穴の周囲に積み上げられた土砂が、豪雨のためにまたもとの穴のなかに崩れ込み、そいつをまた掘り起こさなければならないのだから、二重手間、三重手間もいいところであった。
それでも半時間ほどかかってふたつの墓穴から、ふたつの|柩《ひつぎ》が取り出されたのはもう二時を過ぎていた。それらの柩の|蓋《ふた》に|釘《くぎ》を打ったのは吉太郎である。吉太郎は釘抜きを用意していた。衆目の|視《み》|守《まも》るなかで吉太郎は、一本一本釘を抜いていった。投光器が|煌《こう》|々《こう》としてその柩を照らしている。
吉太郎がまず暴いたのは守衛の柩であった。釘は全部取り去られた。柩の蓋が取りのぞかれた。真昼をあざむく投光器の明りのなかで、柩を取りまく人びとの熱い視線が、いっせいにそのなかに注ぎこまれた。
べつに変わったことはなさそうであった。
柩の底には白衣にくるまった守衛の遺体が、|仰《あお》|向《む》けに横たわっているだけである。雨に打たれて|汐《しお》|垂《た》れた天神ヒゲがあわれであった。そのうえをおびただしい花が覆うている。花はまだ香ぐわしかった。それらの花々を投げ入れた人びとは、真帆をのぞいて全部いまそこにいるのだが、みないっせいに食い入るような視線を、花に覆われた遺体のうえに投げかけた。
「広瀬くん、べつに変わったことはなさそうじゃないけ。真帆はここにはおらん」
村長が怒ったように鼻を鳴らしていきまいた。広瀬警部補はしかしそれを|歯《し》|牙《が》にもかけぬ顔色で、
「吉太郎くん、きみ、すまんがその遺体をちょっと棺の外に取り出してくれんか。ひょっとするとその遺体の下に……」
「そげえなバカなことが……」
村長の|辰《たつ》|馬《ま》がまたいきまいたが、吉太郎はなにを考えているのか、うわ目づかいに警部補の顔色をうかがっただけで、いわれるままに守衛の遺体を抱き起こし、両手にかかえてそっと柩の外へ運び出した。あとに残ったのはおびただしい花だけで、怪しいものはなにもなかった。
「藤田くん、よく見ておけ。この墓の発掘のいい出しべえはきみじゃけんな」
警部補の背後から、目を皿のようにして|覗《のぞ》き込んでいた藤田刑事は、熱い息をのみくだしながら、
「へえ、ですけえど、まだもうひとつ|棺《かん》|桶《おけ》が残っとおりますけん」
と、あくまでも|執《しつ》|拗《よう》である。
広瀬警部補もすぐそれに同調して、
「そういえばそうじゃな。そいじゃ吉太郎くん、|神《かん》|主《ぬし》さんの棺桶はそれくらいにして、片帆ちゃんの棺桶を開いてみてくれんか」
そういいながら警部補が、人知れず腕時計の針の進行状態に目を走らせているのは、出来るだけここで時を|稼《かせ》ごうとしているのであろう。
吉太郎はまたうわ目づかいに警部補の顔色をうかがいながら、胸に抱いていた白衣の遺体を、柩のなかにそっとおろした。柩のなかにはもうそうとう水が|溜《た》まっており、そのなかに寝かされた遺体のうえにも集中豪雨が|叩《たた》きつけている。
「吉太郎、はよう蓋をしてやってくれ。なんぼ悪いやつでもこれじゃあんまり可哀そうじゃ。死んでも浮かばれんちゅうのはこのこっちゃな」
大膳じさまが鼻をすすったのは、必ずしも守衛に対して|憐《れん》|愍《びん》の情を催したのではなく、雨に|濡《ぬ》れそぼれた体が冷えて、風邪でも引きそうになっているのであろう。この老人が天神ヒゲの神主のことを、悪いやつとはっきりいってのけたのは、このときがはじめてだったが、それはおそらく守衛の生前の行状をさすだけではなく、死後においても|遺《のこ》された厄介な問題に対する|憤《ふん》|懣《まん》の表れであったろう。
その厄介な問題であるところの澄子や玉江は、巴御寮人とともにことのいちぶしじゅうを|視《み》|守《まも》っているのだけれど、この三人の表情にも恐怖の色はあったとしても、|惻《そく》|隠《いん》の情はどこにもなかった。守衛の遺体がまるで荷物のごとく扱われているのを見ても、だれも異議を申し立てるものはいなかった。
やがて守衛の棺に蓋がされ、つぎに片帆の柩におなじようなことが行なわれた。吉太郎によって釘が一本一本引き抜かれ、吉太郎の手によって蓋が取りのぞかれたが、そのとたん三人の女性はいっせいに顔をそむけた。そこから出てくる遺体の、世にも無残な|毀《き》|損《そん》状態をしっているからであろう。
幸い片帆の遺体の顔の部分は花によって覆われていた。しかし、吉太郎は広瀬警部補の命令を待つまでもなく、その花々を払いのけ、柩のなかにたくましい両腕をつっ込むと、かるがると片帆の遺体を抱き上げた。さすがにかれも心得ていて、片帆の顔を強烈な投光器の光線から、そむけるようにしていたけれど、それでもその|惨《むご》たらしさは覆うべくもなかった。守衛の遺体が取り出されたときもそうであったが、こんどもマスコミのカメラマンたちが、鋭い音をさせてシャッターを切っている。
柩のなかにはおびただしい花々が散っているだけで、こんども怪しい|痕《こん》|跡《せき》はなにひとつ認められなかった。
「どうじゃな、広瀬くん、そちらのデカさんも。これで疑いは晴れたじゃろうな。骨折れ損のくたびれ|儲《もう》けとはこのことじゃ。この責任は取ってもらえるじゃろうな」
村長は勝ち誇ったようにうそぶいている。しかし、広瀬警部補は案外平然として、
「もちろん、この責任はぼくがとる。藤田くん、きみは心配せんでもええ。この件の責任者はぼくじゃけんな。いや、吉太郎くん、ご苦労さんでした。では、ふたつの棺桶はもとどおり、埋葬しといてつかあさい」
「そうですけえど、主任さん」
藤田刑事はまだ未練たっぷりで、
「ぼくは必ずしも真帆ちゃんの死体は、棺桶のなかにあるいうたんとちがいます。真帆ちゃん、棺桶といっしょに埋められとるんじゃないけ、そう思うたもんですけん……」
藤田刑事は|喘《あえ》ぎながらも必死となって抗弁している。そして未練たらしく大きく掘られたふたつの墓穴を覗いていたが、そこから死体が出てきそうな可能性はまず考えられなかった。
「デカさんよ。そんじゃあんたはこの穴を、もっともっと掘り広げろというのかい。バカも休み休みにおしんさいよ」
村長の毒舌のあとにつづいて、大膳も口を開いた。
「それはそうと、主任さん、金田一さんはどげえおしんさった。お姿が見えんようじゃけえど」
「いや、あの人は……」
と、広瀬警部補はこともなげに、
「きょうは……いや、もうきのうですな、きのうは|宵《よい》の口から下っ腹がシクシク痛むいうておいでんさったけえど、この雨に打たれてそれが急に激しうなったけん、あとは万事きみに……つまりこのわたしにですな、まかすちゅうて、さっき地蔵平の越智さんとこへお引き取りんさったとおみんさい」
「それはまた無責任な」
鼻を鳴らしていきまいたのは例によって村長の辰馬である。
「あの男にも、今夜のことについちゃ責任とって|貰《もら》わにゃ。こんだけの騒ぎを起こしといて、じぶんは腹が痛いもないもんじゃ」
「いや、あの人には責任はありますまい。金田一さんはあくまで民間人でおいでんさるし、今度のこの発掘にはあたまから消極的でおいでんさったんじゃけんな」
それ以上は問答無用とばかりに警部補は、マスコミの連中のほうを振り返って、
「諸君、諸君もごらんのとおり、今度の試みはどうやら空振りに終わったようじゃ。じゃけえど捜査陣ちゅうもんは、可能性のあるところへは、あらゆる手を尽すもんじゃちゅうことぐらいは諸君もしっとるじゃろ。|無《む》|駄《だ》|骨《ぼね》折らせて申し訳なかったけえど、今夜はこのまま引き取ってくれたまえ。もうこれ以上、なんの進展もないけんな」
マスコミの連中は村長に負けず劣らずブーブーいいながら、それでも|諦《あきら》めて引き揚げにかかっている。かれらはみんな真帆の死体が発見される決定的瞬間を、カメラに収め、記事にしようと張り切っていただけに、その拍子抜けは大きかったが、正確な報道を旨とするだけに、ないものねだりは禁物なのである。
さいわい集中豪雨ももう峠を越したかして、雨もだいぶん小降りになっている。吉太郎と作業員たちの手によって、ふたつの柩がそれぞれの墓穴のなかに下ろされ、そのうえに土がかけられるところまで見とどけると、かれらは傘をすぼめ、カメラをぶらさげ、三々五々墓地を出て地蔵坂を下りはじめた。かれらはみんな新在家の|錨屋《いかりや》に泊まっているのである。
マスコミの連中のほかに、物好きな見物もそうとう多かったが、かれらもてんでに引き揚げていく。
それを見とどけておいて広瀬警部補は、部下の刑事や警官を呼び集めた。全部で六人いたが数が少ないようである。
「諸君、ご苦労であった。今夜のわれらの任務は失敗に終わったけえど、捜査の過程においてはこういうことはしばしばある。落胆することはない。さあ、みんな引き揚げよう。藤田くん、おまえとおれとはもうひと晩刑部神社へ泊めてもらおう」
かくて広瀬警部補が、部下とともに引き揚げていったあとで、
「おじさん、錨屋のおじさん、新在家の兄さんも」
と、巴御寮人が呼びかけたのは大膳と村長の辰馬である。
「あなたがたももう引き取ってつかあさい。このおふたりもご一緒に」
「このふたりをつれていけちゅうて、御寮人、そなたどげえする気じゃ」
「わたしもいろいろ考えました。いま太夫さんのお|亡《なき》|骸《がら》を見ているうちに、つくづくとじぶんの罪の深さを思いしりました。おじさんはさっきこれじゃ死んでも浮かばれんおいいんさったけえど、それもこれもあとに遺った三人、澄子はんや玉江さん、それにわたしの三人が、遺産がどうのこうのと角目だっておるもんじゃけん、太夫さんも神になり切れんのじゃと思いしりました。それについて今晩ひとりでとっくりと、考えとうございますけん、おじさん、このおふたりを新在家まで、つれてかえってつかあさい」
「それじゃ、御寮人は、遺産分けのことについて考えなおすとおいいんさるんで」
村長の辰馬もそばから口を出した。かれも女たちのいざこざにはうんざりしているのである。かれが村長の地位にすわっていられるのも、錨屋という大きなバックがひかえているからである。しかし、その錨屋の財力も、守衛のいままでの極道のおかげで、底をつきかけているということを、かれはうすうすしっている。これ以上錨屋に負担はかけたくないのである。おのれの地位を保存するためにも。
「はい、新在家の兄さん、さっきは気が立っておりましたもんですけん、さんざん悪態をついて、われながら恥ずかしゅうてなりません。いま太夫さんのお亡骸に改めてお目にかかっておりますうちに、澄子はんや玉江さんに、いろいろお世話になったことを思い出しました。なんとかしてあげてほしいと、太夫さんが語りかけておいでんさったような気がしてなりませんでした。それでふっと思いついたんですけえど……」
「御寮人、なにを思いつきんさった」
「あの矢ですわなあ」
「矢ちゅうと、あの黄金の矢のことかな」
大膳がそばから口を挟んだ。
「はい、おじさん、あれいま警察に取り上げられておりますけえど、いずれわたしどもに下げ渡されるんでございましょう」
「それやそうじゃ。あれはそなたの財産じゃけんな」
「あれでなんとか澄子はんや玉江さんの、満足がいくようにしてあげたらどうかと、いま太夫さんのお亡骸を見ているうちに思いつきました。太夫さんの命を奪うたあの矢、わたしは二度と見とうはございませんけん」
黄金の矢のことは澄子も玉江もしっている。三等分してもずいぶん金目になるはずと、欲に目のない玉江はもう胸算用をしている。さっそく玉江がおべんちゃらの百万遍をまくし立てようとするのを、巴御寮人はやんわりおさえて、
「それですけん、今夜は錨屋へいんでゆっくり休んでつかあさい。澄子はんもな」
「はい、ありがとうございます」
「わたしもいろいろ考えて、われとわが身を反省したいと思うとります」
「じゃけえど、御寮人、ひとりで大丈夫かな」
「ひとりいうても真帆がおりますけん。あの子はもう帰っとるやもしれません。それに、刑事さんもおいでんさりますけん。それはそうと、吉やん」
巴御寮人は墓穴に土をかい込んでいる吉太郎に、うえのほうから声をかけた。
「へえ、御寮人さん」
巴御寮人が人前で、吉太郎に声をかけるのは珍しいことである。吉太郎はちょっとドギマギしたようだが、御寮人はいっこう平気で、
「あんた今夜どうおしんさる。お社のほうへ戻っておいでんさるか」
「いえ、わたしは|小《こ》|磯《いそ》のほうへ戻らせていただきとうございます。なんぼわたしが不死身でも、今度ばかりはほとほと疲れてしまいましたけん。錨屋の|旦《だん》|那《な》、新在家までお送りすればよろしいんですけえど、ここにまだ用事が残っとおりますけん」
「ああ、いいとも。わしには村長がついとるけん大丈夫じゃよ。さあ、倉敷も玉島も一緒にいこう。巴御寮人、そなたこそ気イつけておいでんさい」
「はあ、わたしはすぐそこですけん」
かくて一同は三方に別れた。大膳と村長は澄子と玉江をつれて地蔵坂を下っていく。そこで|袂《たもと》をわかった巴御寮人はただひとり、地蔵峠へのぼっていった。吉太郎だけがあとに残って、数人の作業員とともに墓の埋め立てに余念がない。
雨はもうすっかりあがっていて、西のほうから晴れてくる気配だったが、その日はあたかも旧暦の六月二日に当たっていた。|晦日《み そ か》の闇もおなじである。
ふたつの墓の修復が完了したのは、九日の午前三時のことだった。
「ご苦労さん」
「ご苦労さんでした」
「お休み」
「お休みんさい」
三基の投光器が消されて、真っ暗がりになった墓地のなかには、数個の懐中電灯の灯がまたたいている。
墓地を出て少し下ると地蔵平への別れ道である。そこで作業員たちと別れると、なに思ったのか吉太郎は|踵《きびす》を返して、また地蔵坂を登りはじめた。地蔵坂から地蔵峠を登りつめると、右側に一本松の街灯がついている。吉太郎は懐中電灯で足下を照らしながら、隠亡谷のほうへ下りていった。
かれはなぜかたいそう急いでいるようである。地蔵坂を下っていくと、女の足弱づれの大膳や村長に、追いつくかもしれないと思ったのであろう。それでは都合が悪いらしい。まもなく吉太郎は五日の晩、片帆が絞殺された隠れ道へ|辿《たどり》りついた。
いつもは、ほとんど水のない隠亡谷も、きょうはごうごうたる水音である。兜山から鋸山、さては薬師岩から流れ込んだ、さっきの集中豪雨の水量を集めて、いまや隠亡谷は|溢《あふ》れんばかりなのである。
吉太郎はその水音を左に聞きながら、隠れ道を下流にむかってひた走りに走った。その隠れ道にもいたるところに|崖《がけ》崩れや土砂崩れがあるのだけれど、吉太郎は意にも介さずそこを乗り越え、踏み越え下流へ走った。かれがいかにはやく走ったかは、手に持つ懐中電灯の|光《こう》|芒《ぼう》が、|暗《くら》|闇《やみ》のなかに一直線をえがいていることでもうかがわれるのである。
さっき墓掘り作業に従事していたときの吉太郎は、全然無表情で、なにを考えているのか、心のうちはうかがうべくもなかったが、いまや爆発しそうな怒りの色が、まっ黒々とかれの顔をひんまげている。
「本家のやつ! 竜平のやつ!」
歯を食いしばり、熱い息とともに吐き出す言葉のはしばしには、いまにも血が滴りそうなひびきがあった。吉太郎が竜平に対して、これほど露骨に憎悪と反感の情を、たぎらせることはめったになかった。しかし、その思いはつねにかれの心の底に煮えたぎっているのである。
勝利者はどっちか……と、かれはときどき自問自答することがある。それはもちろんおれのほうさとかれは答える。もう二十年以上も巴を抱いて、自由にしてきたんだからなと心にうそぶく。しかし、すぐその下から果たしてそうであろうかと、黒い疑惑が頭をもたげる。おれはただ竜平の代用品ではないのかと、|呪《のろ》わしい|挫《ざ》|折《せつ》|感《かん》におそわれることがある。それは幼時から|培《つちか》われたいとこに対する劣等感からきているのだが、必ずしもそうとばかりいえない場合もあった。
巴とねんごろになってまもなくのころ、彼女と抱き合って|歓《よろこ》びの絶頂をきわめようとする瞬間、彼女の口をついて出る|喘《あえ》ぎや絶叫が、「竜平さまあ……」であったり、「ご本家さまあ……」であることがしばしばあった。そんなとき吉太郎は急速に気力の|萎《な》えを覚えることもあったが、反対にある残忍な歓びにふるい立ち、|炎《も》えあがり、彼女が「吉やん……吉やん……」と、叫ぶまで抱いて離さぬように努めた。
それが功を奏したのか巴の口から「竜平さまあ……」や「ご本家さまあ……」が絶えてから久しくなるが、それがちかごろまたぶり返してきたのは、越智竜平の名が刑部島の救世主として、近隣近在に|喧《けん》|伝《でん》されるようになってからである。
けっきょくおれは本家の代用品でしかなかったのだと、吉太郎はちかごろ敗北感を|噛《か》みしめている。そういえば顔かたちこそ月とすっぽんだが、肩幅の広さ、胸板の厚さ、胴回りの太さ、腰のバネの|強靱《きょうじん》さ、そこいらは本家とおれは酷似している。抱かれて目をつむってしまえば、|摺《す》り合わす|膚《はだ》と膚の感触は、本家もおれもおなじだったのではないか。
あいつが浮気した男たちもみんなおなじだった。顔かたちこそそれぞれちがえ、体つきにはみんな共通したものがあった。あの神楽太夫にしろ、置き薬の行商人にしろ、淡路の人形遣いにしろ、みんな広い肩幅を持っていた。厚い胸板を自慢にしていた。太い胴回りと、強靱な腰のバネを誇りとし、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》の叫びをあげて、乱れに乱れるあの女に恩にきせていたという。
あいつは|女《じょ》|郎《ろう》|蜘蛛《ぐも》のように男たちを食い散らし、あげくのはてにはあの世へ送り込んだ。あの最中に舌を|咬《か》み切られて死んだのは神楽太夫であった。心を許して事後の陶酔境に前後を忘れているところを、ノド笛|咬《か》み裂かれて死んだのは置き薬の行商人であった。淡路の人形遣いはさんざんお役に立てた下腹部を、御用ずみとばかり切り落とされて死んでいった。みんなみんなあの|紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》のなかでのことである。そして、おれが万事後始末をしてやった。あの女郎蜘蛛の歓心をあがなうために。
この春やってきた青木という男もおなじであった。あいつも広い肩幅、厚い胸板、太い胴回りを自慢にしていた。女郎蜘蛛が食指を動かすに、十分すぎるほどの肉体的条件をそなえていた。
女郎蜘蛛は例によってあいつを|貪《むさぼ》り食らった。本家が命名したというあの「星の御殿」でである。そのあと|止《よ》せばよいのにあの女は、神聖な奥の院まであの男をつれていき、過去の罪業のかずかずを誇りがおに語って聞かせた。あの女はもちろんこのおれが、ことのいちぶしじゅうを物陰から、|窺《うかが》っていることを知っていたからである。
青木は恐怖にかられて逃げようとした。それをこのおれが躍り出て、わしづかみにした岩のかけらで後頭部をぶん殴って|昏《こん》|倒《とう》させた。失神しているあいつの体を紅蓮洞から千畳敷きまで引きずり出し、|落《おち》|人《うど》の|淵《ふち》へ投げ落としたのはこのおれだが、よかれと思ってやったこの処置に、あとから|執《しつ》|拗《よう》に抗議が出たのにはおれも弱った。なぜあの男も骨にして、太郎丸様、次郎丸様のお|伽衆《とぎしゅう》にしなかったのかと、あの女に詰め寄られたときには、さすがのこのおれも身の毛がよだつような恐ろしさを、あの女に対して覚えずにはいられなかった。
太郎丸。
次郎丸。
そこだ、万事はあの体のくっついたふたごに端を発しているのだ。
竜平よ、よっく聞け。きさまがあの女に産ました子どもは、世にも|異形《いぎょう》な体と体がくっついたふたごだったのだ。それとわかったときあの女は逆上した。血が頭にのぼってしまったのだ。付き添いのものがつい目を離しているうちに、あの女はふたごの鼻孔に|枕《まくら》を押し当て殺してしまった。それ以来あの女のふるまいには、常軌を逸することが多くなった。
さいわいこの秘密は付き添うていた産婆がうまく立ちまわったので、闇から闇へと葬られたが、やがて女の産後の肥立ちも順調で、終戦後島へかえってきたとき、疎開先で人知れず葬ってきたはずのふたごの遺体を、荷物のなかに隠し持っていたのにはおれも驚いた。
女はそのふたごに太郎丸、次郎丸と命名していた。ふたごの体はもう腐乱しつくして、たいした臭気も放たなかったので、女もそのような大胆なまねができたのだ。その太郎丸、次郎丸をいまある姿に変形して、永遠に保存するように細工したのはもちろんこのおれである。その代償はむろん女の体であった。
それから……? それから……?
吉太郎の頭は混乱して、もうそれ以上のことは考えられなくなっていた。
「本家のやつ! 竜平のやつ!」
かれはただ夢遊病者のように叫びつづけている。そしてただ|闇《やみ》|雲《くも》に走っているのである。
かれも今夜のあの無意味な墓掘り作業が、なんのために決行されたのか気がついている。
かれの胸中は恐怖と怒りが|錯《さく》|綜《そう》して、|沸《ふっ》|騰《とう》するようであった。
「本家のやつ! 竜平のやつ!」
三十分ののち吉太郎は小磯のわが家へかえってきた。しかし、かれは五分とは家のなかにいなかった。まもなく裏口から忍び出した吉太郎の姿を見ると、全身重装備をしている。弾帯を腹に巻きつけ、|剣《けん》|袋《たい》を腰にぶら下げているのみならず、左手に猟銃をかかえている。その猟銃には抜かりなく|装《そう》|填《てん》してあるのである。
かれはその足で七日の朝と同様に小屋の背後にある山によじ登りはじめた。
「本家のやつ! 竜平のやつ!」
と、熱い息とともに吐きすてるようにうめきながら。
一同にわかれた巴御寮人が、ただひとり刑部神社へかえってみると、そこは当然のことながらシーンと静まりかえって、人の気配はさらにない。巴御寮人は社務所からなかへはいっていくと、あたりのようすをうかがうように、式台のうえに立ってしばらく耳を傾けていたが、思い出したように、
「|真《ま》|帆《ほ》……真帆ちゃんはもうかえってるウ……?」
しかし、その声は低くて小さくて、とても返事を期待しているとは受け取れなかった。
巴御寮人はしばらく式台のうえに立ったまま、なにかを打ち案じているらしかったが、なにか目に見えぬものに引きずられるように、ふらふらと廊下を左へいった。そこには拝殿へのぼる七段の階段がある。彼女はよろめくような足どりで、その階段をのぼっていった。
拝殿のなかは真っ暗である。しかし、巴御寮人は懐中電灯を持っている。懐中電灯によって照らし出されたそこにはなにものもなく、ただ森閑と静まりかえっているばかりである。しかし、巴御寮人には見えるのである。内陣をへだてる|粗《あら》い格子に、黄金の矢によって|串《くし》|剌《ざ》しにされたおのれの夫が、もたれかかっている醜い姿が。あのもったいぶった天神ヒゲが、いまではかえって|滑《こっ》|稽《けい》だった。
憎い男であった。八つ裂きにしても飽き足らぬほど憎悪すべき男であった。じぶんの過去のあやまちを口実にして、さんざん浮気をしてじぶんを苦しめたのみならず、神社の財産を|蕩《とう》|尽《じん》したうえ、頼りに思う錨屋の財産まで食いつぶしていった男。じぶんは澄子や玉江の存在に、どれほど自尊心を傷つけられたことか。
さんざん|放《ほう》|蕩《とう》の限りをつくしたうえ、じぶんを越智竜平に売り渡そうとした男。あのときあの男はこういった。
「な、それでおまえもほんとうに仕合わせになれるというもんじゃ。越智の本家はいまじゃ大金持ちじゃ。この矢をよう見ておみんさい。これだけでも何百万円、いや、何千万円するかもしれん。それを惜し気ものう寄進するちゅうのンも、みんなおまえが欲しいばっかりじゃ。おまえにしてからがそうじゃろうが。初恋の人は生涯忘れられんちゅうけえど、おまえいまでもあの男に|惚《ほ》れとるんじゃろ。吉太郎はただあの男の身代わりに過ぎんちゅうことは、わしはまえからようしっとったけんな」
吉太郎の名前が出た瞬間、巴の心中には名状することの出来ない怒りがこみあげてきた。それは一種の|嫌《けん》|悪《お》|感《かん》に通ずる怒りであった。しかし、守衛はこの微妙な女ごころの動揺に気がつかなかった。かれはありとあらゆる|淫《みだ》らな言葉をつかって、彼女と吉太郎の関係をはやし立てた。しかも、それは彼女と吉太郎が抱き合っているところを、じっさいに目撃していたのではないかと思われるほどの正確さであった。巴の心中の怒りはますます|熾《し》|烈《れつ》にもえさかった。
「さ、さ、代用品で我慢している時期はもう終わったんじゃ。今度は本物がおまえを抱いていろいろかわいがってやろうと、舌なめずりをしておいでんさる」
と、守衛はさらに、露骨で|淫《いん》|猥《わい》な言葉の限りをつくして、竜平と巴の|閨《けい》|房《ぼう》における未来図を、えがいてみせて悦に入っていた。
「そうじゃけん、そなたがこの離婚届けに署名|捺《なつ》|印《いん》さえすれば、万事はまるう収まる。そなたもわしも仕合わせになれるというもんじゃ」
守衛は巴がその書類に署名するものと、信じて疑わぬふうであった。それがいっそう巴の怒りをかき立てた。
「そうじゃけえど、太夫さん、その矢をいちどわたしに持たせてつかあさい。どのくれえ重みがあるもんぞな」
「おお、おお、持っておみんさい。これはそなたの身のしろ金じゃけんな。ずっしりと持ち|重《お》もりがするぞな」
じっさいそれはずっしりと持ち|重《お》もりがした。巴はその重みを鑑賞するように、逆手に持って二、三度上下させていたが、
「あ、太夫さん、あれはなんでござりましょう」
「な、な、なんじゃな」
「ほら、あれ、あれ、なにやらひょんなげなもんが……」
「ひょんなげなもん……?」
守衛がうしろを振り返ったとたん、巴の右手がその背後に振りおろされた。守衛は声も立てずに|俯《うつ》|伏《ぶ》せに、内陣の床にどうと倒れた。巴はそのうえに馬乗りになり、両手で黄金の矢の矢羽根を握ると、まるで|錐《きり》を|揉《も》み込むようにして守衛の体内へ打ち込んだ。やがて矢はふかぶかと守衛の体内に突き刺さり、バリバリと、床を|掻《か》いていた守衛の両手の運動がやんだかと思うと、その体がながながと床のうえに伸びていた。血もほんのちょっぴりしか|滲《にじ》んでいなかった。
巴はさすがに満面に朱を注ぎ、呼吸も多少荒くなっていたけれど、それほど取り乱してはいなかった。彼女は冷然として夫の死体を|視《み》|守《まも》りながら、ハンケチを出して黄金の矢を|拭《ふ》き取った。こういう古風な島に生まれて育った女でも、そこは現代人である。指紋の知識くらいあったらしい。それからそこに落ちている離婚届けをふところに|捻《ね》じ込むと、|頬《ほお》の|火《ほ》|照《て》りのおさまるのを待って、平然として内陣から出ていった。外は火事騒ぎのまっ最中であった。
この女はいつもこうなのであろう。神楽太夫の松若の舌を咬み切ったときも、置き薬の行商人、荒木清吉のノド笛を咬み裂いたときも、さては淡路の人形遣いの下腹部を切り取ったときも、この女はいつもこのとおり冷静であったのかもしれぬ。そして、いつの場合でも吉太郎が要領よく、彼女の意に添うように、善後処理をしてくれるのだ。彼女はいつか吉太郎を神格化していた。いや、神格化しているといっても、決して尊敬しているわけではない。むしろ相手を|軽《けい》|蔑《べつ》していた。|奴《ど》|隷《れい》を遇するごとく鼻のさきであしらっていた。相手はなんといっても代用食なのだから。
今度の場合もそうであった。彼女はただ守衛の背中に矢を突っ立てて、相手を死にいたらしめただけなのである。しかし、事件が発見されたとき守衛の体は|串《くし》|刺《ざ》しになっていた。それによってじぶんが容疑者の圏外におかれたとしったとき、彼女は吉太郎がじぶんをかばうために、やったことだと信じて疑わなかった。それでいて、彼女はそれに対してみじんも感謝の気持ちは持たなかった。奴隷として、当然のことをやったまでだと思っている。刑部神社という大家に生まれ、|掌中《しょうちゅう》の|珠《たま》とはぐくまれてきたこの女は、他からほどこされる|恩寵《おんちょう》を、当然のこととして受け止め、それに対して感謝するということを知らなかった。これがこの女のいちばん大きな特質なのである。それはおのれの|美《び》|貌《ぼう》に対する自信からもきているらしい。
昭和四十二年七月九日の午前三時、拝殿を|覗《のぞ》いてみた巴の胸にはさまざまな思いが去来していた。しかし、彼女はそれほど長くそこに|佇《たたず》んでいたわけではない。彼女の胸にもいまジリジリするような、焦燥の思いがくすぶっているのである。
あの無意味な墓の発掘がなんのために行なわれたか、吉太郎にもその真意が読めたくらいだから、彼女に読めぬはずはない。巴は越智竜平よりも金田一耕助が、途中で姿を消したのが気になっていた。
拝殿を滑りおりると巴は社務所のほうへ戻ったが、廊下の正面に見える階段に目をとめると、ふとそこに立ちどまった。廊下の正面には七段の階段があり、そのうえに拝殿とおなじ高さに会議室がある。神楽殿の背後に当たっていて、神楽太夫たちの楽屋になっているところである。
いま階段のうえの|扉《とびら》は細めに開いていて、そこから灯の色が|洩《も》れているが、人の気配はさらにない。そういえばこの人たちはお墓の発掘にも立ち合わなかったが、いったいなにをしているのだろうと巴は耳をすました。神楽太夫は七人いるはずだが、人の話し声は全然聞こえない。しわぶきの音はおろか、|衣《きぬ》|擦《ず》れの音さえきこえなかった。
巴はいまから二十年ほどまえ、松若という神楽太夫と、がっちり四つに取り組んで、のたうちまわっているうちに、むらむらとこみ上げてきた魔性から、相手の舌を咬み切って死にいたらしめたことがある。しかし、そのことに対する罪業感はほとんどなかった。それだけの代償は払ってやったのだ。相手は法悦のうちに昇天したはずだと、じぶんで勝手に決めている。しかし、そのことが露見すればどうなるかという恐怖は、人一倍強烈なのである。
巴は足音を盗んで階段をのぼっていった。細目に開いている扉の|隙《すき》から、そっとなかを|覗《のぞ》いてみた。広い部屋のなかには|煌《こう》|々《こう》と灯りがついている。しかし、だれもそこにはいなかった。いつでも出発できるように、厳重に綱でからげた|葛籠《つ づ ら》が二つ、置きっ放しにしてあるだけで、人影はさらになかった。明るい部屋のシーンとした静けさが、彼女にとってこのうえもなく無気味でもあり、不安でもあった。
ジリジリするような焦燥の思いが、また胸の底からこみあげてくる。
「どうしよう、どうしよう、さてどうしよう」
巴はいてもたってもいられぬ思いで、階段をかけおりると、じぶんの住居へかえってきた。南に面する雨戸は全部締まっているのだけれど、電気は|点《つ》けっぱなしで出掛けたので、そこも煌々として明るい。それでいて無人の家のなかはシーンとしている。そのことがかえって、彼女の不安と恐怖をジリジリと、心の底からかき立てるのである。
「真帆ちゃん、あんたまだ帰っていないの、あんたいったいどこへいったン……?」
巴はお義理のように|呟《つぶや》いたが、そのときふと、どこからか聞こえてくる人の話し声が、|尖《とが》りきった彼女の|耳《じ》|朶《だ》をとらえた。|弾《はじ》かれたように彼女はあたりを見まわしたが、家のなかに人のいるべきはずはない。しかも人の話し声はまだつづいている。なにか声高にののしりあっているようだが、言葉の意味はわからない。
巴はそれが雨戸の外からだと気がついて、そうっと一枚、音のしないように雨戸を開いた。雨戸を開くまえに室内の電灯を消すことも忘れなかった。言葉の意味は依然として分明しなかったが、声はだいぶん高くなってきた。
裏の千畳敷きからだと気がついたとき、巴の全身は|錐《きり》を|揉《も》み込まれたように|痙《けい》|攣《れん》した。あわてて雨戸をしめると、しばらくそれに背をもたらせて、はげしい胸の|動《どう》|悸《き》を両手でおさえていたが、やがて、なにか決心したように社務所のほうへ出ていった。巴が社務所から持ってきたのは|草《ぞう》|履《り》である。
彼女は台所の勝手口から裏庭へ出た。裏庭を右へいくと納屋がある。吉太郎が刑部神社へ泊るとき、いつも詰めるあの納屋である。納屋のすぐそばに、裏の千畳敷きへおりる|隘《せま》い石段があることはまえにもいっておいた。巴は懐中電灯を持っていたが、その石段のうえまできたとき、あわててスイッチを切って灯を消した。
石段にそった左側の石垣のふもとに|龕《がん》が彫ってあって、その龕のなかに、五輪の塔が祭ってあることは読者諸賢もしっている。そしてその五輪の塔の奥に「星の御殿」があることも、諸君はすでにしっていられるはずである。そこから|灯《あか》りが洩れていた。人の話し声もそこから聞こえてくるのである。ここまで来るとだいぶん声も高くなってくる。なにかいい争っているふうであるが、それもふたりや三人ではない。数人の声ががやがやと入りまじって聞こえてくる。
巴は|石《いし》|垣《がき》に背をもたらせたまま、一段二段三段と、|蟹《かに》のように|横《よこ》|這《ば》いに石段をおりていったが、そのとき聞きおぼえのある声が、ハッキリ彼女の耳にとらえた。
「刑事さん、あんたもわからぬおかたじゃな」
それはあきらかに神楽太夫の頭領四郎兵衛老人の声である。太い、よく|鍛《きた》えぬかれた声であるが、それと同時に総入れ歯から|洩《も》れる声でもある。
「わしの孫がふたりもう十二時間、いや、もう十三時間以上もかえってこんのじゃ。ここにいるこの|弥《や》|之《の》|助《すけ》は、兄の誠がこの洞穴から、こっそり出てくるのを見たというとる。この洞穴にはもっと奥があって、誠はそれを探り当て、そこへ潜り込んだにちがいないと、この弥之助はいうちょります。さあ、そこをどいてつかあさい。わしもその入口を捜し当て、孫のところへいかねばならん」
それに対してそれを制止しているらしいのは、見張りに立った刑事であろう。
もし巴がそこを覗いてみたら、|隘《せま》い「星の御殿」のなかで、二人の刑事と五人の神楽太夫が揉みあいながら、押し問答をつづけている場面を見たであろう。
ふたりの刑事は広瀬警部補の密命をうけて、墓掘り作業の現場を抜け出し、そっとそこへやってきて見張りに立っているのである。警部補の命令では、だれもそこへ近づけてはならぬ。場合によっては|拳銃《けんじゅう》を使用するも可ということになっていた。かれらがここへ到着したのは、金田一耕助と越智竜平が、秘密の抜け穴からなかへ潜り込んでからまもなくのことであった。
かれらは忠実に上司の命令を守って、見張りに立っていたのだが、そこへ押し込んできたのが、思いがけなくも神楽太夫の五人である。
かれらはてんでに仲間のふたりが消えてしまった、もう十二時間以上も待ったが帰って来ない、この洞穴にはもっと奥があって、そこへ潜り込んだにちがいない、その入口を捜させてほしいというのである。
ふたりの刑事はもちろんそれを|挑《は》ねつけたが、五人の神楽太夫はなかなかそれに承服しない。
「あんたもわからぬおかたじゃな。この洞穴の奥にもっと深い洞窟があるかどうかは、わしもハッキリしらんのじゃ。そうじゃけえど、仲間がふたり消えてしもうたということはほんとうじゃ。この洞穴をわしらにとっくり調べさせてくれてもええじゃないけ」
平作が辞を低うして懇願し、徳右衛門や嘉六もそれに和した。しかし、ふたりの若い刑事は|頑《がん》としてそれを|肯《き》かなかった。かれらはこの五人にここへ押し込んで来られただけでも、じぶんたちの失策ではなかったかと懸念している。押し問答はだんだん険悪になってきた。ことに孫の身を案ずる四郎兵衛の|激《げっ》|昂《こう》はひどかった。いちばん若い弥之助は、面白がってそれをけしかけているふうである。
「おお、みなの衆、みんなでこのふたりを取りおさえておいてつかあさい。そのまにわしが抜け穴の入口を捜してみるけん」
「ようし」
日頃はおだやかな神楽太夫も、今夜は妙に気が立っている。ひとりの刑事に神楽太夫がふたりずつ躍りかかった。
「おい、無茶すんな。乱暴するとぶっ放すぞ」
と、|脅《おど》してみても警部補が、こととしだいによっては拳銃を使用しても可といった相手が、これらの神楽太夫とは思えなかった。五人が五人ともなぜか非常に興奮しているふうだが、それほど凶暴な人種とは思えなかった。だいいち腕力以外の武器を持っているふうもない。
こうして隘い洞穴のなかで七人の男が、口々にののしり、わめきながら揉み苦茶になっていたのだから、龕の外をひとりの女が、風のごとく通りすぎていったのに、だれひとり気がついたものがなかったのもむりはない。
巴は千畳敷きを抜けると石垣の下をまわって、刑部神社の石段の下へ出た。彼女もよっぽど用心しているのだけれど、さいわいあたりに人影はない。彼女はそこからまっすぐに地蔵平の墓地へむかった。雨はもうとっくにあがっていた。
墓地にはまだ、三基の投光器が置きっぱなしになっていたが、その灯は消えてあたりは真っ暗になっている。だれもそこにいなかったことはもちろんである。巴は絶望的な目なざしで、しばらく墓地のほとりに|佇《たたず》んでいた。呼んでもむだとしりながら、小声で呼ばずにはいられなかった。
「吉やん、吉やん」
むろん答えのあろうはずはない。吉太郎はそれより半時間もまえに、そこを立ち去っているのである。
こういうときの巴はいかにも心細そうに見える。刑部神社の御寮人さんで収まっているときは、神々しいばかりに美しく見え、体の線にも色気があり、ボリュウムもたっぷり感じられるのに、こうして肩の線を落として|悄然《しょうぜん》としているところを見ると、女としての格が一段も二段も下がってみえるというのはどういうことか。
「どうしよう、どうしよう、さてどうしよう」
ジリジリするような焦燥の思いが、また腹の底からこみあげてくる。いても立ってもいられぬような不安感から、巴は墓地のそばを離れ、足ばやに地蔵峠を登りつめると、さっき吉太郎がおりていった一本松の分かれ道から、隠亡谷のほうへおりていった。その道はまもなく隠れ道に合流する。五日の夜の大雷雨のさなかに彼女はその道を、片帆の後を追って走ったのだ。|蓑《みの》と|笠《かさ》に身をかためて。
ふつうの女なら怖くて二度と近よれぬところだけれど、巴はそういうことはいっこう平気らしい。過去の悪業は|刹《せつ》|那《な》の夢として雲散霧消し、心の底になんのかげりも残らないのが、この女のいちばん大きな特質であったろうと、のちになってさる高名な精神医学の権威が分析している。
巴はしかし、隠れ道を下流へはいかなかった。彼女は逆に道を左へとって、お薬師さんの舞台へと|這《は》い上がった。
お薬師さんの舞台の北側には、|衝《つい》|立《た》てのような部厚い大きな|花《か》|崗《こう》|岩《がん》が突っ立っており、その一部が人間ひとり|潜《くぐ》れるくらい彫りぬかれていて、そこに薬師如来の像が安置してあることはまえにもいっておいた。それとは別にこの花崗岩の巨大な衝立てには、大きなお|籠《こも》り堂が、くりぬいてあることもまえに記述しておいた。これは天然にできた岩の|窪《くぼ》みを、人間の手をくわえて彫り抜いたものらしく、そのくりぬいた穴の壁や床には、まえには板が張ってあったのだけれど、ちかごろはお籠りをする人もたえてないままに、壁や床の張り板も、見るかげもなく立ちぐされている。
注意ぶかくあとさきのようすに気を配りながら、巴がまぎれ込んだのはそのお籠り堂である。彼女はそこに散乱している板ぎれを取り片付けていたが、すぐ根気を失ったように、板ぎれの|屑《くず》の山に腰を落とした。
「どうすればええのン、吉やん、どうすればええのン」
巴は泣きはしなかったけれど、両手で肩を抱いたその体は、寒々としてふるえている。気温も降下していたけれど、この|稀《き》|代《だい》の悪女がふるえているのは、寒さのためではない。追いつめられた絶望感と生命に対する恐怖が、彼女の体をゆすぶってやまないのである。
「吉やん、うち死ぬのン、いややわ、いややわ。うち死ぬのン、絶対いや。吉やん、あんたならなんとか出来るでしょ。吉やん、はよ来て。肝心のときに逃げるなんてあんた|卑怯《ひきょう》よ。吉やんの役立たず」
そこで巴ははじめて泣いた。さめざめと泣きながら役立たずの吉やんを|呪《のろ》いに呪った。
しかし、いまは泣いている場合でないと気がついたのか、それとも腹の底からこみあげてくる不安と恐怖に突き上げられたのか、巴は|板《いた》|屑《くず》の山からピョコンと立ち上がった。そして身も世もあらぬ思いに|地《じ》|団《だん》|駄《だ》を踏んでいたが、急に、お籠り堂から外へとび出した。
とたんに、
「あら、吉やん!」
彼女はぶつかりそうになった吉太郎の、たくましい体にしがみついていた。
「やっぱり来てつかあさったンね。やっぱり来て……」
吉太郎は武者振りついてくる巴の腕を、あらあらしく振りほどくと、
「御寮人、あっちの入口はどげえした。見つかったんじゃないけ」
「見つかったわ。おまわりが|視《み》|張《は》っとおるとおみんさい。みんなこの洞穴のなかにいるのンよ」
巴御寮人はそこではじめて吉太郎の武装に気がつくと、
「吉やんもそのつもりでおいでんさったんじゃな。そうじゃ、そうじゃ、みんなみんな殺しておしまいんさい。その鉄砲でどいつもこいつも撃ち殺しておしまいんさい。澄子も玉江もみな殺しにしてつかあさい」
「みんな殺して御寮人はどげえする気じゃ」
吉太郎は陰うつな目で巴の顔を凝視している。巴はしかしそれに気がつかず、
「この島から出ていくのンよ。うちもうこの島いやんなってしもうたけんな。そうじゃ、あそこへいこう。うちが太郎丸や次郎丸を生んだ|播州《ばんしゅう》山崎、あそこの近くの温泉へいこう。吉やん、連れていってつかあさるでしょう」
「それでこの洞穴のなかにいる、太郎丸や次郎丸はどげえおしんさる」
「連れていくのンよ、もちろん連れていくのンよ。この洞穴のなかにいる連中、みんな殺して、太郎丸と次郎丸を連れていくのンよ。吉やんならそれがおできんさる。その代りうちこれから吉やんに、あんじょうサービスしてあげる。好きなようになってあげる」
巴御寮人は持ちまえの|驕慢《きょうまん》さを取り戻していた。その淫らで|奢《おご》りにみちた笑顔には、さすがの吉太郎でさえ、鬼気|膚《はだ》に迫るものを覚えずにはいられなかった。
「よし、じゃ、そうするか」
吉太郎は巴の体を押しのけると、そこに|堆《うず》|高《たか》く盛りあがっている木片の類を取りかたづけた。お籠り堂の奥は堅牢な花崗岩の袋の底である。吉太郎は|渾《こん》|身《しん》の力をこめてこの|堅《けん》|牢《ろう》な袋の底を押したり引いたりしていたが、やがて|手力男命《たじからおのみこと》が天の岩戸を開いたように、そこに真っ暗な、人ひとりやっと潜れるかどうかの穴があき、冷たい風が吹き上げてきた。
第二十七章 地底の対決
金田一耕助の誤算の第一は、|紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》がかくも広大であろうとは、思いもよらぬことであった。
……あいつは体のくっついたふたごなんだ……
……あいつは腰のところで骨と骨とがくっついたふたごなんだ……
青木修三がテープに遺した断末魔のあの言葉から、かれが見たものは生きているシャム双生児ではなく、白骨と化したそれであろうという金田一耕助の推理は当たっていた。
青木修三はそれを目撃した直後に、みずからあやまって転落したのか、あるいはだれかに突き落とされたのか……おそらく後者だろうと思われたが……千畳敷きから|落《おち》|人《うど》の|淵《ふち》へ落ちて致命的な重傷を負うたのだ。とにかく青木修三はこの島のどこかで、腰のところで骨と骨とがくっついた、シャム双生児の遺骨を見たのにちがいない……と、いう金田一耕助の推理も当たっていた。
しかし、青木修三がそうも簡単に目撃できたとしたら、その秘密の場所というのは、落人の淵からそう遠くはないであろうというのが、金田一耕助の大誤算であった。かれは秘密の入口さえ発見できれば、秘密の場所というのもすぐその近くに見つかるだろうと高をくくっていたのである。その秘密の場所を見つけておいて、かれは墓地の発掘が完了するまえに、|洞《どう》|窟《くつ》から出ているつもりだったのだが、いずくんぞ知らん、紅蓮洞と命名されたこの地下洞窟が、かくもスケールが大きく、かくも複雑多岐な形態をなしていようとは。
後日この地下の洞窟は綿密に計測されたが、迷路をなしている|枝《えだ》|路《みち》をも加算すると、延長ゆうに一〇〇〇メートルを超えているという。この地下洞窟はいまでは|刑部《おさかべ》島の、有力な観光資源になっているそうである。
金田一耕助の第二の誤算は、|真《ま》|帆《ほ》がそこに潜入していることは予想できたとしても、|神楽《か ぐ ら》|太《だ》|夫《ゆう》の兄弟が、この洞窟の入口を発見して、ひとあしさきに潜りこんでいたことに、思いいたらぬことであった。洞窟のなかでかれらに遭遇したということで、かなり多くの時間を空費したということも、見過ごすことが出来ないであろう。
第三の、そして金田一耕助の最後の誤算は、なんといってもこの地底の洞窟に、もうひとつの入口があるということに、気がつかなかったことだろう。しかし、これはこの島に生まれ、この島で育った越智竜平でさえしらなかったのだから、金田一耕助ばかりを責めるのは酷だったかもしれない。
真帆が失神したことも、金田一耕助の誤算のひとつだったろう。真帆が意識を取り戻すまでに、そうとう時間がかかったのもやむをえない。金田一耕助と越智竜平の手厚い介抱によって、真帆はようやく意識を取り戻したが、しかし、それはもうついさきほどまでの真帆ではなかった。極度の恐怖とショックが彼女から正常の意識を奪ってしまっていた。そこに息を吹き返した真帆は、魂の抜けがらみたいな少女でしかなかった。彼女の|双《そう》|眸《ぼう》からはもう生の輝きは失われていた。
「真帆ちゃん、しっかりしなさい。金田一耕助だ。わかるかい」
しかし、真帆の反応は陰性だった。彼女はつぶらな|眸《ひとみ》を|視《み》|張《は》っているけれど、そこには感情のひらめきは皆無だった。ときおり示す深い|怯《おび》えの色以外は。
「かわいそうに。この娘はここに祭られている|骸《がい》|骨《こつ》の群が、なにを意味しているのか理解したんでしょうかね」
越智竜平が|呟《つぶや》いた。
「正確には理解できなかったでしょうが、おぼろげにはわかったろうと思いますね。この娘はひょっとするとふたごの妹の|片《かた》|帆《ほ》ちゃんが、|隠《おん》|亡《ぼう》|谷《だに》で絞め殺された五日の晩、じぶんの母がずぶ|濡《ぬ》れになった|蓑《みの》と|笠《かさ》をきて、こっそり家へ帰ってきたのを、|垣《かい》|間《ま》|見《み》したのかもしれませんからね」
その片帆が七日の朝、無残な死体となって発見されたときいらい、彼女はじぶんの母にたいして、世にも恐ろしい疑惑の念を抱きつづけていたのかもしれない。
「かわいそうに。ぼくらじゃかて、これが父ちゃんの成れの果ての姿じゃと気がついたとき、気がちがいそうになりましたけんな」
鼻をつまらせながら、誠が懐中電灯の光りを|漆《しっ》|黒《こく》の|闇《やみ》につつまれた地下宮殿の中段の間に差しむけたとき、|茫《ぼう》|漠《ばく》たる真帆の|瞳《ひとみ》にまたさっと、恐怖の色がほとばしって、全身がわなわなと激しく|痙《けい》|攣《れん》した。
「誠くん、きみたち兄弟の気持ちはよくわかる。しかし、その懐中電灯は消すか、ほかへそらしたまえ。これ以上この娘を怯えさせてはならぬ」
「ああ、失礼しました」
金田一耕助はじぶんの懐中電灯の|灯《ひ》で、腕時計の文字盤を読むと、
「ああ、もうそろそろ三時半だ。越智さん、墓地の発掘はもう終わったでしょうね」
「それはもうとっくの昔に完了しておりましょう。あれが先生のペテンだと気がついたら、あの人たちはどうするでしょうね」
「もちろん、ここへ押しかけてくるでしょう。いや、押しかけてこようとするにちがいありませんね」
「と、おっしゃるのは……?」
「いや、『星の御殿』の入口には、広瀬警部補の部下が、張り番をしているはずです。だれもそこから奥へは通さないようにと、ぼくが警部補に頼んでおいたのです」
「ああ、道理で……」
と、竜平もはじめて合点がいったように|頷《うなず》いて、
「いままで平穏無事でいられると思った。それにしても一刻もはやくここを出ようじゃありませんか。ここはまともな人間の長くいるべき場所じゃない」
竜平が沈痛な声で呟いたとき、とつぜん勇が低い声で警告した。
「あっ、だ、だれかこっちへ来る!」
「え、だれか来る……?」
「足音が……足音がこっちへちかづいてきよりますらあ」
「よし、みんな懐中電灯の灯を消してえ。じっと息をこらしているんだ」
金田一耕助の命令で、いっせいに懐中電灯の灯が消えると、あとは漆黒の闇である。竜平とふたりで左右から、真帆の体を支えている金田一耕助は、じぶんの心臓の|鼓《こ》|動《どう》の音が、耳をつき破るばかりに、大きくひびきわたるのを覚えずにはいられなかった。ほかのみんなもおなじことだったろう。針一本落ちる音もきこえる静寂というのは、おそらくこういう状態をいうのだろう。
その静寂の底からたしかに聞こえる、聞こえる、足音らしきものが。しかも、その足音はしだいにこちらへ近づいてくる。さっき金田一耕助たちが|辿《たど》ってきた道を、追ってくるようすである。だれかがゴクリとノド仏を鳴らして、|唾《つば》をのみこむ音が聞こえた。
もし足音のぬしが、金田一耕助の想像している人物であったとしたら、そいつは恐ろしく凶暴になっているはずである。この洞窟の奥に|秘《ひ》|匿《とく》されたこの世にも奇怪な秘密が暴露したとしったとき、そいつはおそらくデスペレートもよいところであろう。しかもそいつは猟銃という危険な凶器を持っている。ここにいる五人をみな殺しにだって出来るのだ。
金田一耕助は|腋《わき》の下から、冷たい汗のしたたり落ちる思いだったが、突然、おやと聞き耳をたてなおした。
足音はひとりではない。二、三人……いや、それ以上いるのではないか。しかもかれらの何人かは|下《げ》|駄《た》をはいているらしい。それがだれであるかと思い当たって、金田一耕助の緊張がホッとほぐれたとき、
「おおい、|弥《や》|之《の》|助《すけ》、白い糸はまだつづいとるけえ?」
針一本落ちてもきこえる静寂のなかだから、鍛えぬかれたノドから発するその声は、複雑多岐な洞窟の闇から闇を|伝《でん》|播《ぱ》して、誠や勇の耳にもとどいた。
「あっ、おじいちゃんだ。おじいちゃんだ」
「おじいちゃん、こっちだよう」
「その糸をつとうておいでんさい。ここに父ちゃんが……父ちゃんがおいでんさるけん」
金田一耕助が制止するひまもなかった。久しく洞窟のなかに閉じこめられていたものが、懐かしい肉親の声を聞いて、歓喜の思いを爆発させたのもむりはない。さすがに、
「父ちゃんが……父ちゃんがここにおいでんさりますけん」
と、叫ぶ誠の声は涙にしめっていた。
「誠、勇……おまえたち無事かあ」
「ぼくたち元気ですけん、安心してつかあさい。それより早う、早うこっちへ来てえ……」
誠と勇は懐中電灯の灯をともして、狂気のように声するほうへ振りまわしている。
それからまもなく、吉太郎が奥の院と称するこの地下宮殿へ、若い弥之助を先頭として、四郎兵衛、平作、徳右衛門、嘉六と五人の神楽太夫が、|揉《も》み合うようにしてなだれこんできたのだけれど、かれらを包む明りが妙に明滅すると思ったら、みんな百目|蝋《ろう》|燭《そく》に灯をともして、それを頭上に振りかざしているのである。
「星の御殿」に見張りに立った二人の刑事を、よってたかって縛り上げた五人の神楽太夫は、まもなく洞窟の入口を発見すると、刑部神社へとって返し、そこをひっかきまわして、百目蝋燭を洗いざらい持ち出してきたのである。
これが金田一耕助の最後の誤算であった。かれは一刻もはやくこの洞窟を出たいのである。しかし、この人たちを説き伏せて、洞窟から退散させることは容易ではない。金田一耕助が腹の底がかたくなるような思いをしたのもむりはない。
地下宮殿へはいってきた五人の神楽太夫のいでたちは、まことに異様であった。みんな|白《しろ》|無《む》|垢《く》の|小《こ》|袖《そで》に|襷《たすき》がけ、|袴《はかま》の|股《もも》|立《だ》ちを|端《は》|折《しょ》って、弥之助のごときは白鉢巻きさえしている。これで下駄をはいていなかったら、いまにも剣舞でも舞いそうな装束である。
神楽太夫の五人もそこに|佇《たたず》んでいる金田一耕助や越智竜平の姿を見ると、ちょっと虚をつかれたかたちだったが、四郎兵衛はすぐかれらの存在を無視する態度に出た。
「誠、勇、おまえたちさっき、父ちゃんがここにおいでんさるいうたようじゃけえど、松若がほんとうにここにいるのけ……」
「はい、おじいちゃん」
誠はさすがにためらいの色を見せて、
「そうじゃけえど、おじいちゃん、あんまり興奮おしんさってはいけんぞな。気イ静かに持っていてつかあさい」
「マコちゃん、いまになってそげえなこというてもむりぞな。十九年もまえに蒸発した松若どんが、ここにいるちゅうんじゃけん、だれだって興奮するぞな。さ、さ、松若どんはどこにいる」
平作に迫られて、
「あれ、あそこに、勇、おまえも……」
「はい、お兄ちゃん」
勇の声は悲しげであった。
一同は下段の間の|賽《さい》|銭《せん》|箱《ばこ》のそばに立っていたのだけれど、ふたりの懐中電灯の光りが示したのは、中段の間であった。交錯するふたつの懐中電灯の焦点に、おぼろげながらも浮きあがったのは、あの世にもおぞましいものである。一同は|唖《あ》|然《ぜん》としてすぐには言葉も出なかったが、しばらくして吐いた四郎兵衛の声は、あたかも|肺《はい》|腑《ふ》をえぐられるようであった。
「誠、あ、あれは……が、|骸《がい》|骨《こつ》ではないけ」
「おじいちゃん、顔をあんじょう見てあげてつかあさい。父ちゃんは|素戔嗚尊《すさのおのみこと》の面をつけておいでんさります。父ちゃんは|大蛇《お ろ ち》退治の素戔嗚を舞うておいでんさるんですらあ」
|愕《がく》|然《ぜん》として声もなかった一同だが、やっと気を取り直すと、四郎兵衛を先頭に立て、平作、徳右衛門、嘉六の三人があわただしく下駄を鳴らして、中段の間へ|駈《か》けあがっていった。弥之助だけはどこへいったのか、あたりに姿はみえなかった。
数本の糸で天井から、ぶら下げられたそのものを、四方から百目蝋燭のまたたく光りで照らしていたが、やがて平作がうめくように呟いた。
「なるほど、これは素戔嗚の面じゃ」
「この面なら松若が蒸発したとき、うちからのうなったもんじゃ。松若が持ち出しおったのか」
と、四郎兵衛の声も悲痛を極めてうめくようであった。
「それにしても、マコちゃん、これが松若どんの骸骨にしても、なぜまたこげえな|酷《ひど》いことを……」
「そうじゃ、そうじゃ。いったいこれはなんのまねじゃ」
「徳右衛門おじさん。嘉六さんも、骸骨にされてしもうたんは、うちの父ちゃんだけじゃございません。ほら、そこにも……そこにも……」
誠の照らす懐中電灯の光りを追うて、素戔嗚の骸骨を取り巻いていた四人の神楽太夫は、|弾《はじ》かれたように左右を振り返った。そこにあるのはおなじく数本の糸で天井からぶら下げられた、|淡《あわ》|路《じ》の人形遣いと、語り部の荒木清吉の骸骨である。
「なんじゃ、これは……? 誠、いってえこれはどげえなことじゃ」
「みんなこの島で蒸発した人らしいんです。おじいちゃん。ちょっとこっちへ来ておみんさい」
誠が一同を導いたのは、いうまでもなく上段の間の|龕《がん》のまえである。そこに祭られた小さな小さなシャム双生児の骸骨を見たとき、かれらがいかに驚いたか、ここに改めて|喋喋《ちょうちょう》するのは控えよう。
「誠、これはいったいなんのまねじゃ。これほんとうの骸骨か、それともだれかがこげえな人形、作りあげたんか」
四郎兵衛の声は|驚愕《きょうがく》にみちていたが、そのときそばから金田一耕助がいそがしく声をかけた。
「誠くん、誠くん、それらの話はあとでゆっくりするとして、とにかくここを出ようじゃないか。きみたちも寒さに凍えそうになってるんだろう」
「いえ、金田一先生、ちょっと待ってつかあさい」
その龕は大人の目の高さのところに彫られていて、その下は|粗《あら》い|花《か》|崗《こう》|岩《がん》なのだが、
「いま、気がついたんですけえど、ここになにやら白い字で彫り込んであるようですらあ。勇、おまえも懐中電灯をかせ」
ふたりの交錯する懐中電灯の光りのさきに浮かびあがったのは、白い小さな貝殻を花崗岩の肌にちりばめて、|綴《つづ》り合わせた文字らしきものである。
「勇、これなんと読むのけ」
「お兄ちゃん、右側のほうは太郎丸さまじゃないけ」
「そうじゃ、そうじゃ、すると左側のほうは次郎丸さまじゃな」
「これ、腰のところで骨と骨とがくっついた、このふたごの名前じゃないけ」
「どれどれ、ぼくにもちょっと見せてくれたまえ」
ふたりのあいだに割り込んできたのは竜平である。かれもみずからの懐中電灯の光りで、龕の下の岩壁に|鏤《ちりば》められた白い貝殻文字を照らしてみたが、それはあきらかに、
太郎丸さま
次郎丸さま
と、読みとれた。
いま勇がかしこくも指摘したとおり、これこそ不幸に生まれ、不幸に死んだシャム双生児の名前であろう。名付け親はおそらく|巴《ともえ》であろうが、彼女がこの不幸な兄弟をここにこうして、ひそかに祭るという心情はまことに哀れであると、竜平も同情を禁じえない。ことにその責任の一半はおのれにありながら、いままでなにも知らずに過ごしてきたじぶんに対して、竜平は自責の念を禁じえないと同時に、ただ美しい夢だけを追うてきたおのれに対して、はげしい自己嫌悪を感じずにいられなかった。
「太郎丸……次郎丸……か」
竜平は二十年以上もしらずに過ごしたわが子の名を、口のうちで呟きながら愁然として|頭《こうべ》を垂れた。しかし、いまはいたずらなる感傷に、|耽《ふけ》っているべきときではない。中段の間にある三体の骸骨が、なにを意味しているかを思えば、一刻もはやくここから脱出しなければならないのだ。
「誠くん、勇くん、金田一先生のおっしゃるとおりだ。とにかく早くここから脱出しよう。きみたちからおじいさんを説き伏せて、早くここから連れ出すのだ」
竜平の言葉はおもわず早口にならざるをえなかったが、それを打ち消すように、
「いいや、わしはここを動かん」
四郎兵衛が断固といった。
「わしは動かん、わしはここで凍え死んでもええ。松若のそばで死ねれば本望じゃ。だれが松若をこげえなことにしたんか、それがわかるまでわしはここを動かん。それにわしがここを出るときは松若も一緒じゃ。それ、平作どん、徳右衛門も嘉六も手伝うて、松若の体をおろしてつかあさい。弥之助、弥之助はどこにおるんじゃ」
そういえば弥之助の姿はさっきから見えない。
「四郎兵衛さん」
金田一耕助がそばから断固たる声をかけた。
「松若さんのお|亡《なき》|骸《がら》はいつでも持ち出せます。およばずながらわれわれもお手伝いいたしましょう。しかし、いまはともかくここから出ることです。あとは警察にまかせようじゃありませんか」
「警察……?」
四郎兵衛はせせらわらって、
「警察になにができるもんけ。げんに松若がこげえなことで十九年間も、こげえなざまになっとおるのんに、警察はなにもしらなんだじゃないけ。さあ、平作どん、徳やんも、嘉六も……」
「まあ、待ってください。四郎兵衛さんはそれじゃここで、誠くんや勇くんを死なせてもいいとおっしゃるんですか」
「誠や勇が死ぬゥ……? それゃまたなぜにな。金田一先生、あんたすこうし気がおかしうおなりんさったとちがうかな」
四郎兵衛はそのあとへ、わっはっはと豪快な|哄笑《こうしょう》をつけくわえたが、あちらの岩壁、こちらの洞窟へとこだまして、その|余《よ》|韻《いん》がまだ消えさらぬうちに、突然、地下宮殿の奥の闇から、鋭い怒号が聞こえてきた。
「動くな、動くと撃つぞ!」
一瞬シーンとした沈黙が地下宮殿を支配した。
金田一耕助と越智竜平はおもわず両手に汗を握ったが、ほかの連中はまだ事態の切迫に気がついていない。
四郎兵衛は中段の間に突ったったまま、
「だれじゃ、いまなにかいうたようじゃけえど、だれかほかにもこの洞窟のなかにいるのけえ」
と、キョトキョトとあたりを見回している。
「みんな明りを消して身を伏せろ!」
叫んだのは越智竜平だったけれど、つぎの瞬間、また闇のなかで激しい、怒りにみちた声がほえたてた。
「明りを消すな。明りを消すとメチャクチャに撃ちまくるぞ」
「吉太郎くんだね」
金田一耕助が|闇《やみ》にむかって声をかけた。恐怖の段階を超越した妙に静かで落ち着きはらった声だった。
かれはいままでいくたびか、生死の境を乗り超えてきたが、いまこういう状態で、この真っ暗な地下洞窟のなかで、|屍《しかばね》をさらすのかと思うと、なんとなくじぶんというものの存在が、|滑《こっ》|稽《けい》なものに思われた。
「吉太郎くん、そちらへ明りをむけてもいいかね。それでないとここにいる人たちに、あんたのいうことの意味が、よくわからんと思うんだがね。われわれはだれも武器を持ってはいない」
吉太郎は|躊躇《ちゅうちょ》しているらしく、しばらくの沈黙があったのち、
「よし、明りをこっちへむけてみろ」
金田一耕助が懐中電灯の光りを声するほうへさしむけた。越智竜平のあとにつづいて、誠と勇がそれにならった。四つの懐中電灯の集中砲火を浴びて、暗闇のなかに浮かび上がった吉太郎の姿を見て、まっさきに声をあげたのは四郎兵衛である。
「なんじゃ、おまえはここのお社のじいやじゃないけ。なんじゃぞい、おまえのその|服装《なり》は……?」
じいやというのは神社や寺に、献身的な奉仕をするものをいうのであることはまえにもいっておいた。
「黙れ、じじい。それ以上つべこべぬかすとぶっ放すぞ。おめえにはおいらのこの銃がみえねえのけ」
その一言でさすがの四郎兵衛が、いくらか|怯《ひる》んだのもむりはない。
吉太郎はいつものとおり、上下つなぎの|鞣革《なめしがわ》のオーバーオールに身をくるんでいるが、がっしりとしたその腰には幅の広い弾帯を巻きつけ、その弾帯にはいかめしい|剣《けん》|袋《たい》がぶらさがっている。その剣袋には|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》を|抉《えぐ》り殺した両刃の短剣がおさまっているのである。その吉太郎は猟銃をかまえて、いつでも射撃出来る姿勢でいる。
|彼《ひ》|我《が》の距離一五、六メートル。吉太郎がその気になれば、そこにいる一同をみな殺しにすることは、いとも容易であろう。しかし、|頑《がん》|固《こ》一徹でまだこの場の危険性のほんとうの意味をしらない四郎兵衛は、いつまでもひるんでばかりはいなかった。
「なんじゃぞい、いつも平つくばっているじいやのくせに威張りくさって、こけおどしもええ加減にせえやい」
「お黙りなさい、四郎兵衛さん」
たまりかねて金田一耕助がたしなめた。
「ご老人にはあの男の形相がわからないんですか。あの男はほんとうにここにいるわれわれを、みな殺しにするつもりでいるんですぞ」
と、いいながら金田一耕助は、おのれの持っている懐中電灯の焦点を、吉太郎の顔面のまっただなかに集中した。|猿《さる》のように額の狭いその顔は、ふだんは愚鈍にしかみえないのだけれど、いまはかえってそれだけに、凶悪無残にひん曲がっている。両眼が殺気をおびて、烈々と燃えており、あざ笑うようにむき出した歯のあいだから、なまなましい血が滴り落ちそうだ。
四郎兵衛もようやくことの容易ならぬを悟ったのか、
「金田一先生、あの男がなんじゃとて、われわれみんなを殺すとおいいんさるんで」
「われわれがこの場のいちぶしじゅうを見てしまったからですよ。おたくの息子さんの松若さんを殺して、骸骨にしてしまったのも、みんなあの男なんです。みんなあの男が犯人なんです。いいや、松若さんだけじゃない、淡路の人形遣いも、置き薬の行商人を殺したのも、みんなみんなあいつなんです。あいつが殺してこのとおり、骸骨にしてしまったんです」
「へえッー」
と、叫んで、蝋燭を取り落としたのは徳右衛門と嘉六であった。四郎兵衛と平作はさすがに蝋燭は落とさなかったけれど、その手はいちじるしくふるえている。四郎兵衛にもそのときはじめて金田一耕助が、なぜ一刻もはやくこの洞窟から、じぶんたちを連れ出そうとしたのかその意味が、わかってきたらしいのだか、それも後の祭りというべきだろう。
「|嘘《うそ》だ……嘘だ! 金田一耕助、おまえのいうとることはみんな嘘だ。おれはだれも殺しやせん」
吉太郎は一五、六メートル先でほえ立てた。ほえて猟銃をかまえたまま歯ぎしりした。
「へへえ、じゃ、だれが殺したんだ」
金田一耕助はせせら笑うように、
「吉太郎くん、きみもこの|期《ご》におよんで往生際が悪いじゃないか。殺したら殺したとハッキリ|泥《どろ》を吐いたらどうかね。どうせここにいるわれわれは、みんなきみの手にかかって死んでいく身だ。|冥《めい》|途《ど》の土産とやらにほんとうのことをしりたいね」
金田一耕助は時を稼ぎたかったのである。かれはこの凶暴な相手をまえにして、ほとんど希望を失いかけている。わずかに残る|一《いち》|縷《る》の希望は広瀬警部補にあった。警部補はいったいどうしているのであろうか。金田一耕助は警部補に一縷の希望をつなぎ、その出現までの時を稼ごうとしているのである。
吉太郎はまんまとその手に乗ってきた。
「ようし、いってやろう、ほんとうのことを聞かせてやろう。おい、本家、いやさ、竜平、きさまそこにいるか」
「おお、竜平ならここにいるぞ」
竜平は、持っている懐中電灯の明りをおのれの顔に差しむけて、一歩まえへ踏み出した。かれは出来るだけ、相手を刺激しないように努めているつもりだけれど、それでも不敵な微笑をうかべている。
かれはポケットの中に|拳銃《けんじゅう》を忍ばせている。しかし、それで一発のもとに、相手を仕止める自信はなかった。彼我の距離一五、六メートル。かれの所持している小型拳銃にとっては、距離があり過ぎるような気がする。もし一発のもとに仕止めそこなったら、それこそ万事休すであることを、竜平はよくわきまえている。
「本家、きさま笑うとるな」
吉太郎はあいかわらず、猟銃をかまえたままかっとした調子である。
「いやあ、笑うてはおらんぞ。だれがこの期におよんで笑えるものか。おれもそれほど度胸はようない。だけど、吉やん、いやさ、新家の、わしになにか用け」
「おお、おまえもまものう死んでいく身だ。死んでいくまえにほんとうのことをしりたかろうが」
「知りたいな。どうせ死んでいくのなら、そのまえに、ほんとうのことをしっておきたい。吉やん、そこに祭ってある、腰のところで骨と骨とがくっついたふたごは、いったいだれが生んだ子だ」
「もちろん、巴御寮人だ」
「そうそう、巴御寮人といえばいまどこにいる」
竜平も時を稼ぐつもりなのである。
「御寮人ならおれのうしろにいるぞ、御寮人、御寮人、ちょっくらここへ顔を出しておやりんさい」
吉太郎はうしろを振りむかなかった。銃をかまえたまま正面切って呼ばわったが、背後に当たって応答はなかった。吉太郎の背後の闇は深沈として暗く、そこにうごめく人の気配はさらにない。
吉太郎のいま突っ立っているところは、太郎丸、次郎丸と命名されたシャム双生児を、祭ってある龕を抱く岩壁より、少し奥まった地下洞窟の入口である。そこからまだ洞窟は|蜿《えん》|々《えん》としてつづいていて、そのさきに「星の御殿」とはまた別の入口があるらしいことに、人びとははじめて気がついていた。
「新家の、どうした、この期におよんで御寮人に逃げられたか」
「逃げられるもんか。逃げようたってあのあま、おれなしでは一日だって生きてられやあせんけの」
口では豪語しているものの、吉太郎はいくらか自信がぐらついたようである。
「それはそうと、吉やん、あのふたごの|親父《お や じ》はだれなんだい。いやさ、巴御寮人にふたごを生ませた男というのは、いったいどこのだれなんだい。吉やん、おぬしけ」
「バカいえ、バカいえ、バカもええ加減にいえ」
吉太郎はまた歯をむき出して、地団駄を踏んだ。
この地底の暗闇でいま対決している本家と新家、いとこ同士で、年齢もおなじだということだが、器量風格みめかたち、その間あまりにも懸隔がありすぎる。いま竜平の死命を制し、主導権を握っているのは、あくまでも吉太郎なのだけれど、それでいてかれは落ち着きがなく、銃をかまえていながらも、その目は絶えずキョトキョトしている。
それに反して竜平は、銃口の|狙《ねら》いをまともに胸にうけながら、|従容《しょうよう》として動じない。ひょっとするとこの男は、アメリカで成功する過程において、しばしばこういう修羅場をくぐり抜けてきたのではあるまいか。だれがみても気迫において、竜平のほうに軍配があがったろう。そして、そういう自覚を吉太郎も持っており、そこからくる劣等感がかれをいっそう|苛《いら》|立《だ》たせるのである。
「おれがあのいやらしい、おぞましいふたごの親父だと……? バカも休み休みいえ。あの体と体がくっついたふたごの親父はな、竜平、ようく聞け、おまえだ、おぬしだ、きさまなんだぞお」
竜平はしばらく無言でいたのちに、|鯨《くじら》が潮を吹くように、フーッと深い|溜《た》め息を吐き出した。わざとガックリ肩を落として、
「そうか、そうだったのか。ひょっとすると、そうじゃないけと思うたけえど、あんまり浅ましいふたごじゃけん、まさかと思うとった……」
竜平はいよいよ深く肩を落として、
「吉やん、死ぬまえによう聞いときたい。わしの息子たちはいったいどこで生まれたんじゃ。生年月日はいつのことじゃ。吉やん、それだけは知って死にたい」
「そうじゃろう、そうじゃろう、そいじゃ|冥《めい》|途《ど》の土産に聞かせてやろう。おぬしのあのおぞましい息子たちはな、|播州《ばんしゅう》山崎のほどちかく、|生《いぎ》|谷《だに》|川《がわ》の温泉宿で生まれたんじゃ。生年月日は昭和二十年六月二十八日、岡山市が|焼夷弾《しょういだん》爆撃をくろうて、丸焼けになったとおなじ晩に、生谷川で生まれたんじゃ。よう肝に銘じておくがええわ」
「ああ、そうか、そうするとあの体と体がくっついたふたごの息子たちは」
と越智竜平は一句、一句、明確に区切りながら、
「昭和二十年六月二十八日、すなわち岡山市が大空襲をうけた晩、このおれ、越智竜平の子どもとして、巴御寮人の腹からうまれたんじゃの」
越智竜平がかくも一句、一句、句切りながら明確に|復誦《ふくしょう》したのは、どこかにいるであろう、三津木五郎に聞かせてやりたかったからではあるまいか。
しかし、吉太郎はそこまで気がつかず、
「そうじゃ、おぬしのいうとおりじゃ。まだほかに聞きたいことがあるけ」
「おお、ある、ある、あるぞな。わしはまえに高名な産婦人科の先生から聞いたことがあるが、日本でもちょくちょく、体と体のくっついたふたごが生まれることがあるけえど、それらはみんな死んで生まれるか、生きて生まれても長うは育たんいうことじゃったが、わしの子どもはどうじゃった。死んで生まれたのけ、それとも……?」
「うっふふ、竜平、よう聞いときな、おまえのあのあさましい息子たちはな、生まれたときは生きておったよ、呼吸も通うとったぞよ。それを|枕《まくら》をふたごの鼻と口に押し当てて、殺してしもうたんは……」
「おまえけ」
「バカこけ、バカいえ、バカぬかすな」
「じゃ、だれだ」
「巴御寮人よ」
一瞬シーンとした沈黙が、この深沈たる地下宮殿を支配する。
|紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》の地獄のような寒さがさっきから、一同の足下から|這《は》い上がっているのだけど、そこへ持ってきて吉太郎の吐いたさいごの名前が、いっそうそこにいる人たちの、全身をゆすぶりふるえあがらせるのである。
吉太郎はいくらか声をくぐもらせて、
「御寮人もかわいそうに、あのような化物みてえなふたごを産んで、すっかり頭に血がのぼってしもうたんじゃな。そいで産婆や|錨屋《いかりや》の|旦《だん》|那《な》やこのおれが、ちょっと目をはなしているそのすきに……」
「もうええ、もうええ、それ以上は聞かいでもええ、聞きとうもない」
「そうじゃろう、そうじゃろうて。そういう罪をつくったのも、もとはといえばみんな本家、おまえじゃ、おぬしじゃ、きさまじゃぞ」
「ようわかっちょる。いまになって後悔してもはじまらんことじゃけえどな。それでふたごの死体を持ちかえって、あのように神様としてあがめ奉ったんは吉やん、おぬしけ」
「ふたごの死体をこっそり持ちかえったんは御寮人じゃけえど、ああして神様にしてやったんはこのわしじゃ。わしは昔からこの紅蓮洞をしっとったけんな」
そのときそばから口を挟んだのは金田一耕助である。
「吉太郎さんにちょっとおうかがいいたしますけれどね」
金田一耕助の声は落ち着き払っている。しかし、できるだけ相手を苛立たせない配慮は忘れていなかった。
「なんじゃ、なんじゃ、金田一、おぬしおれになにを聞きてえのけ」
吉太郎のほうがどん|栗《ぐり》まなこをいからせて、不安そうにキョトキョトしている。
「ほかでもないんですが、こういうこと……つまりここに太郎丸様、次郎丸様がお祭りしてあるということを、錨屋の旦那はご存じないんですか」
「ああ、そのことけ。あのじさまはなんにも知らね。紅蓮洞の秘密をしっとるんは、おれと御寮人だけじゃけんの」
巴がシャム兄弟を窒息死にいたらしめたことは、おそらく大膳もしっているのだろう。しかし、それはすでに二十二年も以前の出来事で、とっくに時効は過ぎている。
「それじゃもうひとつお尋ねしますが、吉太郎くんはさっき、ここにこうして飾ってある神楽太夫や置き薬の行商人、それから淡路の人形遣いを殺したのはおれじゃないとおっしゃったが、じゃだれが殺したんですか。三人もの男を……」
「御寮人よ。みんな巴御寮人がやったのよ」
「お言葉を返すようですけれどね、吉太郎くん、相手は三人とも屈強の男子でしょう、か弱い女の身で、どうしてそんなことが出来たのでしょう」
「だからさ、抱き合って転げまわっている最中の出来事よ。そんなとき男はみんな夢中になっているから、相手の下心など気がつきやしない。最初は神楽太夫だったな。そうそう、名前は松若というた。抱き合って転げまわっている最中に、舌かみ切られて死んだんだ。あれは可哀そうだったな。おれが駆け着けたときは、口のまわりを血だらけにして、そこら中をのたうちまわっていよった。あまり|惨《むごたら》しいと思うたもんじゃけん、おれがひと思いに首を絞めて殺してやった。おい、四郎兵衛じいさん、ちょうどおまえの立っているあたりの出来事よ。おまえの足下の岩の床は、たっぷりおまえの|倅《せがれ》の血を吸うとるけんな」
四郎兵営は蝋燭持ったまま、おもわず悲鳴をあげてたじろいだ。そのあとを吉太郎の毒々しい|哄笑《こうしょう》が追いかける。|凄《せい》|然《ぜん》たる鬼気が八寒地獄の紅蓮洞のなかにみなぎり渡る。
「そうか、吉やん、それをおまえがあのように、骸骨人形に仕立てたんか」
「そういうこったな。太郎丸、次郎丸が寂しがっておいでんさるけん、なんとかお|伽《とぎ》をさせてほしいと、御寮人がいうもんじゃけんな。みんな殺してから一年以上もかかったかな」
「ほかの置き薬の行商人や淡路の人形遣いもおんなじか」
「そういうこったな。だいたい大膳じさまがまちごうとったな。御寮人はなるほど|疵《きず》|物《もの》じゃった。本家、おまえが疵物にしてしもうたんじゃぞ。それを承知で養子にくるようなもんに|碌《ろく》なやつはおらんが、よりによって|守《もり》|衛《え》のような年のちごうた、ひょろひょろ男を当てごうたんが大間違いじゃ。たとえ格式は落ちてもがっちりとした、たくましい男を当てがうべきじゃった。このおれみたいな男をな」
そのあとへ吉太郎はまた、毒々しい笑い声をつけ加えた。
「おれはもう全身全霊をあげて、御寮人をかわいがってやったよ。御寮人もふだんはそれで満足していたけえど、おれとおんなじようにたくましい体をした若もん、それに口弁のうまい、|垢《あか》|抜《ぬ》けした男が現われると、ついふらふらと浮気の虫が頭をもたげるんじゃな。その第一番が神楽太夫の松若じゃった」
「ああ、ちょっと待った」
竜平はすばやく|遮《さえぎ》って、
「錨屋のおじさんや守衛さんは、おぬしと御寮人の関係をしっておったのか」
「それはもうしっておったとも。そうじゃけん守衛のやつ、倉敷や玉島で好き放題に羽根を伸ばしておったのよ。錨屋のじさまもおれという虫が、御寮人についていることをしっとるもんじゃけん、いやおうなしに守衛のやつに、いたぶられておいでんさった。はれ、まあ、お気の毒に」
吉太郎はそこでまたけたたましく笑い声を立てた。
吉太郎はおのれの話に酔うているのである。酔うて世にも浅ましい物語を口にしているのだが、語っているうちにかれの精神状態が、少しずつ|平《へい》|衡《こう》を逸しつつあることを金田一耕助は感得していた。そのことがこの危険な状態を、いくらかでもよくするのか、それとも危険の速度をよりはやめるのか、そこまではわからなかったけれど。
「それで、吉やん、松若どんのつぎはだれじゃったんだ。淡路の人形遣いか、置き薬の行商人か」
竜平も吉太郎の話をできるだけ、長引かせようと試みている。吉太郎が自己陶酔におちいって、得意になってしゃべっているあいだは、みんなの生命は保証されているのである。
「うんにゃ、淡路の人形遣いより置き薬の行商人のほうがさきじゃった。あいつは御寮人にノド笛かみ裂かれて死んだんじゃった。それから淡路の人形遣いは……」
と、吉太郎はもう免疫になっているのか、血みどろな残虐物語を平然として語っていたが、さすがに途中で気がついたのか、どん栗まなこをかっといからせ、
「やい、やい、やい、ええ加減にせえ。竜平、おぬし命が惜しいばっかりに、おれに長話をさせようというのじゃろうけえど、おれももう話し飽いたわ。さ、さ、ここらで決着をつけようじゃないけ。覚悟はええな。竜平、まずおまえから血祭りにあげてやる。まえへ出え」
「おお。おれの顔をよく見て撃ちな」
と、答えて竜平は潔く二、三歩前へ出て、深呼吸一番大きく胸を張り、懐中電灯の光りをおのれの顔にまともに当てた。
「おお、よい覚悟じゃ、撃つぞ!」
その言葉も終わらぬうちに、銃声が地下宮殿にとどろき渡った。銃声は一発にとどまらず、二発三発四発五発とあとにつづいた。それが地下洞窟にこだまするから、|殷《いん》|々《いん》たる銃声はしばらく耳を|聾《ろう》してとどまらなかった。それにだれかが竜平の立っているあたりの、天井を撃ったらしく、上からバラバラと花崗岩の破片が落ちてくる。
銃声とともに一瞬目を閉じた金田一耕助が、おそるおそる目を開くとこれはいったいどうしたことか、越智竜平はさっきの場所に、凝然として突っ立っており、反対に誠と勇の懐中電灯の交錯する光りのむこうに、吉太郎が|俯《うつ》|伏《ぶ》せになって倒れている。かれが抱いた猟銃の砲先からはブスブスとキナ臭い|硝煙《しょうえん》が吹き出していた。
この事件の一番の功労者は、なんといっても弥之助だったろう。こんど島へ来た七人の神楽太夫のうち、かれは一番のなまけ者で乱暴者で、長老たちから持てあまし者にされていた。
しかし、それだけに野次馬根性も|旺《おう》|盛《せい》で、ほかの神楽太夫たちの足が地下宮殿に|釘《くぎ》|着《づ》けになったとき、かれはさらにその奥の探検に出かけた。そこでかれはあやまって溝に落ちてしまったのである。その溝は幅二メートル、深さ三メートルくらいあったが、溝へ落ちた瞬間弥之助は、腰をしたたか打って動けなくなってしまった。もちろんかれが手にしていた蝋燭は、溝へ落ちたとたん消えていた。こんなことがわかるとまた四郎兵衛はじめ長老たちに、よってたかってつるし上げになることはわかり切っていた。自力で|這《は》い上がるつもりでまごまごしているところへ、頭上から降ってきたのが、
「動くな、動くと撃つぞ!」
と、いう吉太郎の怒号である。
それからまもなく、懐中電灯の照明のなかに浮かび上がった吉太郎の風体形相を見て、動くな、動くと撃つぞという|威《い》|嚇《かく》が、単なるこけおどしではなく、真剣らしいと思い当たって、溝の底に身をすくめていたのである。
吉太郎のほうでは|鹿《しか》を追う猟師山を見ずで、竜平たちに気をとられるあまり、すぐ足下にそういう伏兵が潜んでいるとは気がつかず、それがかれの命取りになってしまった。それにしても弥之助が、どうして|拳銃《けんじゅう》を持っていたのだろうか。
それらのことはあとまわしにするとして、吉太郎倒れるとみるや、誠と勇を先頭に立て、金田一耕助と竜平が駆け着けてきた。神楽太夫の四人もおっかなびっくりで近寄ってくる。
「弥之助兄さん、弥之助兄さん、大丈夫ですか」
「どこにも怪我はありませんか」
みんな弥之助がそこに潜んでいることをしっていたのである。それがあの緊迫した生と死の境界線に立っているあいだ、せめてもの精神的救いになっていたのだ。まさかその弥之助が拳銃を持っていようとは、思いもよらぬことであったが。
弥之助の落ち込んでいた溝はそう長くはなかった。吉太郎の突っ立っていた足下二メートルほどの長さに、突然|窪《くぼ》んでまるで落とし穴のように穴が出来ているのである。
金田一耕助と越智竜平は、弥之助のことは万事神楽太夫たちにまかせておいて、急いで溝をまわっていったが、そこでバッタリ鉢合わせしたのが、洞窟の奥からとび出してきた広瀬警部補である。警部補は右手にピストル、左手に懐中電灯を握っていた。そばには藤田刑事の顔も見え、その背後には山崎巡査と手錠でつながれた、三津木五郎の顔も見える。五郎の顔は青白く引きつっていて、その|瞳《ひとみ》は、名状すべからざる心中の動揺を物語って、|物《もの》|凄《すご》く宙にうわずっている。
その二人を押し退けるようにして、まえへとび出してきたのは荒木定吉である。
「金田一先生、うちの親父は……? うちの親父は……?」
その声は涙にしめってうわずっている。
「ああ、むこうにいらっしゃるよ。きみが見ればすぐどれがきみのお父さんかわかるだろう。きみ、懐中電灯は……? ああ、そう、じゃ、ぼくのを持っていきたまえ。しかし、いっておくがなんにも触っちゃいかんよ。みんな重大な証拠物件だからね」
荒木定吉が落とし穴を|迂《う》|回《かい》して、地下宮殿へはいっていったとき、さっきの金田一耕助たちが通ってきた洞窟から、ふたつの懐中電灯の光りがとび込んできた。
「だれか! そこへきたのは?」
広瀬警部補が鋭い声で|誰《すい》|何《か》した。
「ああ、主任さん、後藤と山野です」
「なんだ、うえの|視《み》|張《は》りはどうしたんだ」
「ちょうどええところへ西村と斎藤がやってきたもんですけん、代わりに視張りを頼んどきました。マスコミが大勢押し寄せています」
「じつは五人の神楽太夫がわれわれを袋|叩《だた》きにして、この洞窟へ潜入したので、あとを追うてきたんです」
「そのなかの一人はぼくの拳銃を持っていきましたけん、気ィつけてつかあさい」
金田一耕助はそのときはじめて弥之助が、拳銃を持っていた理由をしって微笑した。
「その神楽太夫ならみんなここにいるけん大丈夫じゃ。それよりおまえらすぐ引き返して、外の視張りを厳重にしろ。マスコミを絶対になかへ入れちゃいけんぞ」
「じゃけえど、主任さん、いまピストルの音がしたようですけえど、大丈夫ですかあ」
「大丈夫、大丈夫、マスコミにはな、あとでおれから発表するけん、夜明けまで待つようにいっとけ」
「はあ、わかりました」
ふたつの懐中電灯がすごすご引き返していくのを見送って、広瀬警部補ははじめて足下に横たわっている、吉太郎のほうに目を落とした。吉太郎は首を落とし穴に突っ込むようにして|俯《うつ》|伏《ぶ》せになって倒れている。腹に抱いた猟銃の銃口から、まだキナ臭い硝煙が吹き出している。
俯伏せになった背後には三発食らったとみえ、鞣革のオーバーオールの背中に、三か所焼け焦げが出来、血が|滲《にじ》んでいる。あきらかに事切れているようすである。
「ふうちゃん、死体をひっくり返してみい」
言下に藤田刑事が死体を仰向けにひっくり返したが、吉太郎は下腹部と左胸部のほかに|顎《あご》の下から左の耳へ貫通する銃創を帯びており、そうでなくとも醜い顔が、よりいっそう醜く変形していて、さすが物慣れた広瀬警部補や金田一耕助も、一瞬思わず顔をそむけずにはいられなかった。
「これはいったいだれが撃ったんですか」
広瀬警部補の口調にはとがめるような厳しさがある。
「この人……弥之助くんですよ」
金田一耕助は、落とし穴のむこうで恐縮している弥之助を指さしながら、
「この人、さっきの刑事さんからピストルをまきあげてきたらしい。しかし、主任さん、あんまりこの人を責めないでくださいよ。この人のおかげでわれわれ一同助かったんですからね。ほら、ごらんなさい」
金田一耕助は吉太郎の抱いている猟銃を指さしながら、
「この銃、発砲されているでしょう。この男が引き金を引く直前に、弥之助くんの撃った弾丸がこの男のどこかに命中したんですね。吉太郎はそこでよろめきのけぞった。のけぞりながら猟銃の引き金を引いた。あとでむこうの天井を調べてごらんなさい。これ、散弾銃ですからね、何発かの|弾《だん》|痕《こん》が天井にのこっているでしょう。これをまともに食らっていたら、われわれ一同全部おだぶつになっていたでしょう。この人、こんどの事件では殊勲甲ですよ。弥之助くん、もういいからそのピストル、主任さんに返しておきたまえ」
第二十八章 雲隠れ
広瀬警部補は金田一耕助のアドバイスで、墓地発掘の完了後、しつこく吉太郎のあとを尾行していたのである。いっぽう藤田刑事は警部補の命令で、巴御寮人を尾行していた。尾行はこの人たちの特技である。吉太郎や御寮人が全然それに気がつかなかったのもむりはない。
いっぽうこれも金田一耕助の要請で、広瀬警部補は駐在所に留置されている|三《み》|津《つ》|木《き》五郎と、|錨屋《いかりや》に宿泊している荒木定吉を、ひそかに|刑部《おさかべ》神社へ連れ出しておいた。金田一耕助は|紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》内の所見がじぶんの推理どおりであったら、今夜一気に決着をつけるつもりでいたのである。
しかし、これは非常に困難なことであった。警部補の部下の刑事たちは、うまく立ちまわったつもりだったが、ことを絶対に|隠《おん》|密《みつ》|裡《り》に運ぶということは無理だった。第一に大膳がそれを|嗅《か》ぎつけた。これは嗅ぎつけないほうがおかしいだろう。大膳はすぐ近所に住む村長の|辰《たつ》|馬《ま》を|叩《たた》き起こして、刑事と定吉のあとを尾行した。
いっぽう駐在の山崎宇一巡査も、三津木五郎を手錠で手と手をつなぎ合わせて、迎えにきた刑事と一緒に駐在所を出た。山崎巡査は三津木五郎の人柄に、深い親愛の情を感じている。だから絶対に手荒なまねはしなかったが、上司の命令とあらばやむをえない。
刑部神社へ連行された五郎にしても定吉にしても、この深夜になにが起こるのか予測も出来なかったけれど、事件が大詰めに近づいたのではないかと、二人とも神経をピリピリさせていた。ことに五郎は人を食ったような日ごろの|寛《かん》|闊《かつ》さをうしなって、ひどく無口になっていた。
だが、こういう捜査陣の動きを、敏感なマスコミが感知しないはずがない、みんな錨屋に宿泊していたのだから。一人が探知すればすぐそれが感染して、ほかの連中も警戒する。そのうちに留置場に山崎巡査も三津木五郎もいないとわかって、かれらはいよいよ色めき立った。
しかし、さすがにかれらも節度をわきまえていた。ことが隠密裡に運ばれているらしいと覚ったかれらは、決して騒ぎ立てるようなことはしなかった。ただ黙々として地蔵坂を登り、地蔵峠を越えて刑部神社の境内に集合していた。だれひとり五郎や定吉、山崎巡査に話しかけようとするものはなかったし、カメラをむける人物もいなかった。
生き馬の目を抜くというマスコミも、捜査陣の出方によっては協力を惜しまないものである。そういう意味で、その夜の広瀬警部補のとった措置は、まことに時宜をえていたというべきであろう。
藤田刑事は巴御寮人のあとを尾行して、薬師岩へ|辿《たど》りついた。かれは墓掘り作業が失敗におわったのち、はじめて警部補からその作業の真の意味をしらされた。そしてその作業がこの事件解決に、いかに重大な意義を持っているかを説き聞かされた。
じぶんの言い出したことからはじまった墓掘り作業が、まんまと失敗に終わったとき、この正直な刑事はすっかり意気消沈していたが、それが決して|無《む》|駄《だ》な努力でなかったことを、警部補から聞かされて勇気百倍、それだけに改めて仰せつかった巴御寮人の尾行には、間然するところがなかった。
さて、薬師岩のお|籠《こも》り堂まで御寮人を追いつめたものの、さてそれからさきどうしてよいのか、藤田刑事は途方に暮れた。巴御寮人から絶対に、目をはなしてはならぬと仰せつかったものの、それからさきはなにも命令されていなかった。
藤田刑事はお薬師さんの舞台の下の巨石のうえに身を沈めて、これからさきいかにすべきかと|狐疑逡巡《こぎしゅんじゅん》していたが、そのうちにハッと胸をとどろかすような事実を目撃した。
|鋸山《のこぎりやま》の中腹を縫う|岨《そば》|道《みち》を、ひと筋の光が明滅しながら、こちらへ近づいてくるのを認めたからである。
その光りは|点《つ》いたり消えたりしていたが、その進行速度のはやさから、よほどの岨道の案内に詳しいものであることが想像され、しかもその岨道が、薬師岩へ通じていることを知っている藤田刑事は、すわとばかりに巨石のうえで身を固くした。
やがて岨道をつたってだれかが舞台へ降りてきた。そいつの持っている懐中電灯の反射で、それが吉太郎であり、しかも全身武装しているのみならず、猟銃をひっさげているのを目撃して、藤田刑事はあなやとばかり拳銃の柄を握りしめた。吉太郎という男がいっけん無知で愚鈍にみえるけれど、いざとなるといかに凶暴な男であるか、|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》の一件で、藤田刑事はいやというほどしっている。
吉太郎の足音を聞いて、お籠り堂のなかからとび出してきた巴御寮人は、しばらくそこで立ち話をしていたが、まもなくふたりは連れ立って、お籠り堂のなかへはいっていった。お籠り堂のなかでなにをしているのか、しばらくシーンと静まり返っていたが、やがてなにかを取りこわすのか、ひっくり返すのか、ガタガタ音がしていたが、それもいっとき、その物音がやんだかと思うと、あとは真夜中の静寂にもどって、あたりは|闃《げき》として声もない。
三分、五分、七分。……
藤田刑事はしばらく呼吸をはかっていたが、やがて巨石から立ちあがって、舞台のうえに這いあがると、おそるおそるお籠り堂のなかを|覗《のぞ》いた。お籠り堂のなかはそう深くはないのだけれど、そこには人影はさらになかった。巴御寮人はおろか吉太郎の姿もみえなかった。
この刑部島の地下には大きな|洞《どう》|窟《くつ》があり、金田一先生はその入口を発見して、そこへ潜り込んだらしいことは、さっき広瀬警部補から聞かされたばかりだけれど、その入口は千畳敷きのほうにあると聞いている。しかし、いまここへはいっていった巴御寮人と吉太郎の姿が、げんにこうして|忽《こつ》|然《ぜん》と消えているところをみると、ここにも秘密の入口があるのではあるまいか。
藤田刑事は思案にあまった。じぶんでその入口を探ってみようかと思ったが、すぐ思いなおして上司の到着を待つことにした。その広瀬警部補がお薬師さんの舞台へ辿り着いたのは、吉太郎より遅れること十分ほどであった。
この尾行がいかに困難を極めたかは、警部補の服装を見ればすぐわかる。あちこちで滑ったり転んだりしたとみえ、警部補の服はどろまみれになっており、あまつさえ顔や手脚にかすり傷さえおびていた。きのうからきょうへかけての集中豪雨で、鋸山や|兜山《かぶとやま》、さらに|隠《おん》|亡《ぼう》|谷《だに》の隠れ道の、いたるところに|崖《がけ》|崩《くず》れや、土砂崩れが生じていることはまえにもいっておいた。
吉太郎は勝手しった岨道であるうえに、懐中電灯を持っているので、土砂崩れや崖崩れを避けることが出来たであろうが、広瀬警部補はそうはいかなかった。被尾行者に感づかれることを恐れるあまり、懐中電灯を|点《つ》けることさえ出来ないのだ。
おまけにその日は旧暦の六月二日である。集中豪雨はおさまって、空は晴れても月の光りは当てにはならなかった。わずかな星明りと、刑事として訓練されたカンだけが頼りだった。
警部補はてみじかに藤田刑事から話を聞いていたが、
「なに、巴御寮人が吉太郎に、みんなみんな撃ち殺してしまえ、みな殺しにしてしまえといったのか」
「はい、そこだけはあの女、ヒステリックになっていたんで聞きとれたんですけえど」
「そして、このお籠り堂の奥に洞窟への入口があるというんだな」
「そうとしか思えません。はいったきり出て来なかったんですけん」
「よし、探そう」
それとわかって探すぶんには、その発見がわりに容易であることは、「星の御殿」における金田一耕助と同様だった。まもなく天の岩戸らしき岩石を探り当てると、広瀬警部補は急に刑事を振り返り、
「ふうちゃん、きみすまんがひとっ走り、刑部神社までいってきてくれないか」
「刑部神社になにかありますか」
「三津木五郎や荒木定吉が来ているはずだ。ひょっとすると大膳や村長もきとおるかもしれん。みんなここへ連れて来い」
「連れてきてどうおしんさるんで?」
「一緒に洞窟のなかへ連れていくんだ。金田一先生は今夜いっさいがっさい、決着をつけるつもりでおいでんさるようじゃ。おれもそれがええように思う。ただ……」
「ただ……?」
「マスコミが張り込んどると思うけえど、きゃつらと紳士協定を結んでこい」
「紳士協定とおいいんさると……?」
「事件が解決すれば一刻も早く真相を発表する。必要に応じては写真も撮らせる。その代わり、今夜われわれのとろうとしている行動を、絶対に妨害しないように。こちらも信義を守るけん、諸君も信義を守ってほしいと訴えるんじゃ」
「承知しました」
まもなく藤田刑事が一同を連れて引き返してきたとき、天の岩戸は開いていた。案の定警部補が指名した人物のほか、マスコミが大勢ついてきていた。警部補はもう一度マスコミに信義を訴えたのち、二人の刑事に視張りを命じておいて、山崎巡査と手錠でつながれた三津木五郎、荒木定吉のほかに大膳と村長をつれて洞窟のなかに潜入したのである。
あとから思えば警部補のとったこの英断は、非常な劇的効果をもたらせた。
なぜならばあの地下宮殿の入口で、吉太郎のわめいた一言一句は、ことごとく三津木五郎や荒木定吉、さては大膳や辰馬の耳につつ抜けになっていたのだから。それはだれの説明や解説よりも、何倍もの説得力をもって、聞くものの|肺《はい》|腑《ふ》を|抉《えぐ》り、心魂に徹したことだろう。
吉太郎が|斃《たお》れ、さしも残虐を極めたこの一連の殺人事件に終止符が打たれたあと、一同は落とし穴をまわって、地下宮殿へはいることを許された。
数多くの懐中電灯や、百目|蝋《ろう》|燭《そく》の光りに照らし出されて、地下宮殿のなかはいまやすっかり明るくなっている。
金田一耕助の説明で、|異形《いぎょう》のかずかずを見学してまわった広瀬警部補は、肝をつぶして言葉もなかった。むりはない。そこには想像を絶した怪奇と妖異が、まっくろな翼を広げていたのだから。およそ世界犯罪史上でも、これほどグロテスクな事件は、空前絶後であろうと後にいわれたものが|麗《れい》|々《れい》しくそこに展示されているのである。
ひと足さきに地下宮殿へはいることを許された荒木定吉は、変わり果てた父の遺体のそばで泣きくずれていた。誠や勇とてもおなじ思いである。かれらもまた改めて、|素戔嗚《すさのお》を舞っている父の|遺《い》|骸《がい》にむかって泣きむせんだ。
山崎巡査と手錠でつながれた三津木五郎は、まるで放心状態である。
吉太郎の憎悪にみちたわめき声は、洞窟内のあちらの壁、こちらの壁へと反響しながら、|殷《いん》|々《いん》としてかれの耳にもとどいたのである。
昭和二十年六月二十八日、越智竜平を父として、巴御寮人の腹から生まれたのは、そこに|祭《まつ》ってあるあのいまわしきシャム兄弟であるという。するとじぶんを生んだのはどこのどういう女性なのか。そして父はいったいだれなのか。
ここにおいて三津木五郎は、いままで描きつづけてきた美しき楼閣が、音を立ててくずれていくのを覚えずにはいられなかった。しかもいままで母と信じて疑わなかったあの美しきひとが、世にも|忌《いま》わしき殺人鬼、|稀《き》|代《だい》の悪女であったろうとは!
この人たちにもまして強烈なショックを受けたのは、大膳と村長であったろう。じぶんたちのお|膝《ひざ》|下《もと》で、しかも二十年以上の長きにわたって、かくも残虐無類の犯罪が、演じつづけられていようとは。いまにして思いかえせば、いろいろ思い当たるふしもあったろう。それだけに二人のうけた良心の|呵責《かしゃく》も深刻だったにちがいない。
ことに大膳は年が年だけに、受けたショックは甚大だったにちがいない。
「村長、村長、わしをここから連れ出してつかあさい。わしはもうこんなところにはいとうもない。わしはもうあの|娘《こ》の顔を見るのもいやじゃ」
久しきにわたって、刑部島の最高主権者として君臨してきたこの老人も、打ちつづく妖異、怪事のその大団円が、この一大グロテスクである。この老人の持ちつづけてきたプライドは、根底から崩れおちて、立っているさえ困難らしく、わなわな体をふるわせながら、|足《あし》|萎《な》えにも似た状態だった。
村長の肩につかまりながら大膳が、よろよろと地下宮殿から姿を消していったあと、急に話題となって吹きあがってきたのが、巴御寮人のことである。いま大膳が|呟《つぶや》いたあの|娘《こ》とは、巴御寮人のことであろう。その巴御寮人はどこへいったのであろうか。
そこで改めて紅蓮洞の内部は、隅から隅まで捜索された。捜索してみて人々は、いまさらのようにこの地下洞窟のスケールの大きさに、驚嘆せずにはいられなかった。そこにはいたるところに|袋小路《ふくろこうじ》があり、網の目のように交錯した洞窟があり、うっかりするとおなじ場所を、堂々めぐりをするような、危険な場所も何か所かあった。
それでも広瀬警部補指導のもとに、可能な限り大捜索はつづけられたが、ついにその朝は巴御寮人の姿を発見することはできなかった。
藤田刑事は御寮人がお籠り堂のなかへはいったまま、出て来なかったと主張している。吉太郎もあの悪業のかずかずをわめき立てているとき、御寮人が背後にいるものと、信じて疑わぬふうであった。それにもかかわらずその朝の大捜索では、御寮人の姿は発見できずに終わった。
もう夜は明けていた。
千畳敷きと薬師岩にある紅蓮洞のふたつの入口の外では、マスコミの連中がそろそろ騒ぎはじめていた。かれらも聞いているのである。数発の拳銃の音と暴発した散弾銃の|轟《ごう》|音《おん》を。かれらはみんな色めき立って、洞窟のなかへはいりたがったが、|視《み》|張《は》りに立った刑事が|頑《がん》として許さなかった。もしかれらのなかに暴力をふるうものありとせば、発砲も辞せじという面構えであった。ここらは広瀬警部補の訓練が、よくいきとどいているというべきであったろう。
発砲の音がきこえてから三十分ほどして大膳が、村長に抱きかかえられるようにして、お籠り堂のほうへ出てきた。かれらはもちろんマスコミの包囲攻撃をうけたが、ふたりとも口をきく心境ではなかった。
「きょうといことじゃ、恐ろしいことじゃ。この島には悪霊がとりついとるとみえる」
村長が放心したように呟くのを聞き、大膳をいたわりながら立ち去るのを見て、マスコミの好奇心はいよいよ|沸《ふっ》|騰《とう》していた。
広瀬警部補が出てきたのは、それからまた三十分ほどのちのことだったが、背後に金田一耕助に越智竜平、それにふたりに左右から、抱きかかえられるようにして、行方不明を伝えられた|真《ま》|帆《ほ》、さらにその背後から七人の|神楽《か ぐ ら》|太《だ》|夫《ゆう》が出てきたのには、マスコミの連中も目を視張らずにはいられなかった。三津木五郎と荒木定吉が、洞窟のなかへはいっていったことはみんなしっているのである。
広瀬警部補はマスコミの機先を制して発言した。
「いま六時だな。じゃ八時に刑部神社の社務所で記者会見をする。それまでに飯でも食っておきたまえ。洞窟内の写真も撮らせるけえど、それにはわれわれの規制にしたごうてもらわねばならん。抜け駆けは絶対に許さん。この洞窟のなかは|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》|知《し》らずみたいになっとるけん、ひとりでは非常に危険じゃということを、念のためにいうとこう」
約束は履行された。
さすが物に動ぜぬマスコミの諸君も、広瀬警部補の口から、二十年にわたる犯罪のかずかずを聞かされたとき、文字どおり驚倒せずにはいられなかった。質問が矢のように飛び交い、ノートにペンを走らせる音が騒がしかった。
鑑識の手によって入念に、現場写真が撮影されたあと、警察の厳重な規制のもとに地下宮殿が開放された。カメラマンの|焚《た》くフラッシュで、あの真っ暗な地下宮殿が、いちじ真昼のように明るくなったということである。これらの写真の一部はテレビや新聞で報道されて、日本全国の人びとをふるえあがらせると同時に、深い嫌悪感を抱かせたということだが、それは後日の話である。
十一時には磯川警部が帰ってきた。
|新《しん》|在《ざい》|家《け》のほとりにある留置場で、広瀬警部補から昨夜の冒険のいちぶしじゅうを聞かされたとき、さすがに警部も顔色を変えたが、それは金田一耕助たちの生命が九死の危険にさらされたという事実に対してであって、地下宮殿に展示されている白骨死体については、それほどの驚きは示さなかった。おりにふれて、金田一耕助から暗示をうけていたからである。
磯川警部の岡山みやげはふたつあった。そのひとつは刑部大膳の財産調べであったが、以前は岡山市内や倉敷市内に、そこここ広大な地所家作を持っていた大膳だが、この二十年来つぎからつぎへと処分されて、いまやその財政は|危《き》|殆《たい》に|瀕《ひん》しているという事実であった。その原因の一は、浅井はるに|脅迫《きょうはく》されていたらしいのだが、それよりもさらに大きな原因は、|守《もり》|衛《え》の浪費癖によるものらしく、こういう状態がもう一年もつづけば、錨屋は完全に破産したであろうということである。
磯川警部の岡山みやげの第二は、捜査願いを調査した結果、淡路の人形遣いの|身《み》|許《もと》が判明したことである。名前は|山《やま》|城《しろ》|太《た》|市《いち》といって蒸発した昭和三十六年当時三十六歳、身長は一六八センチ、体重は七五キロあり、ちょっとお相撲さんを思わせる体格だったというから、巴御寮人好みであったろう。さいわい警部は住所のほかに電話番号も控えていたので、広瀬警部補の手によって、さっそく連絡がとられたことはいうまでもない。
正午過ぎになって大膳から、金田一耕助のもとへ使いが来た。三津木五郎を連れてきてほしい。言っておきたいことがあるという使者の口上であった。金田一耕助には思い当たるところがあった。五郎にもなにか心当たりがあるらしかった。金田一耕助は磯川警部や広瀬警部補の了解をえて、三津木五郎を錨屋へ連れていった。
大膳は奥のひと間に|臥《ふし》|所《ど》を敷いてそのなかにいた。もういまの大膳はついこのあいだまでのあの尊大な大膳ではない。打ちひしがれて、老いさらばえた哀れな一人の老人でしかなかった。かれはじぶんの無礼を謝しながら、お島さんの手伝いでやっと臥所のうえに起き直ると、金田一耕助と三津木五郎を|枕下《まくらもと》に|坐《すわ》らせ、お島さんをその場から立ち去らせた。
「金田一先生は……」
と、大膳は吐く息さえ苦しそうであった。
「わしがこれからいおうとしていることを、だいたいしっておいでんさるんじゃないけ」
「見当はついております。そのことは三津木五郎くんにとってもおなじだと思います」
「どういうことかな」
「ご老人はここにいる五郎くんの、ほんとのご両親をご存じなんですね。それをいまここでおっしゃろうとしていらっしゃるんでしょう。三津木くんもそれを期待しています」
三津木五郎は口をきっと結んだまま、顔色ひとつ変えなかった。この青年の心はかたく閉ざされて、もう何事も信じまいという決意を、固く胸に抱いているように思われた。
しかし、大膳はそこまでは気がつかず、
「そうかな、ああ、そうじゃろう。三津木さんはこの宿へきた時分、さかんにカマをかけてわしに聞いておいでんさったけんな。あんたの育てのお母さんは、結婚してから十年以上もなるのに子どもがなかった。夫婦ともえろう子どもを欲しがっておいでんさった。そこで|下《しも》|妻《つま》あきちゅう産婆に頼んで、どこかに要らぬ子があったら、世話してほしいということになっとったんじゃな。いっぽうこの島では巴が身ごもったもんじゃけん、ひそかに神戸から産婆を呼んできたところが、それが下妻あきだったというわけじゃな。巴はやはり妊娠じゃという。刑部の一族にとっては生まれては困る子どもじゃった。そこでどこかに子どもを引き取ってくれる夫婦はないかと相談を持ちかけたところ、下妻あきにとっては渡りに舟だったというわけじゃな」
そこで大膳はしばらく枕に顔を伏せていたが、やがて弱々しくそれをあげると、
「子どもを欲しがっとるおなごはんは、|播州《ばんしゅう》山崎に住んでござった。そこですぐその近くの|生《いぎ》|谷《だに》|川《がわ》の温泉宿へ、疎開と称してわしは巴をつれていった。吉太郎をつれていったんは、なにかにつけての用心棒というわけじゃな。ところが月満ちて巴が産気づいたのはええが、産まれた子どもは腰のところで体のくっついたふたごじゃった。わしもおったまげたけえど、それにもまして仰天したのは当の産婦の巴じゃった。血が頭に逆上したんじゃな。わしらの|隙《すき》を見て、あろうことかあろまいことか、|枕《まくら》でふたごを押し殺してしもうた」
そこらの話は三津木五郎も、さっきの吉太郎の告白ですでにしっているところである。五郎のしりたいのはじぶんのほんとうの両親だろうが、かれの顔にはそんなこと、もうどうでもいいといわぬばかりのふてぶてしさがあった。
「ところがあんたの育ての母の三津木貞子さんは、そのときすでに温泉宿へきておいでんさった。赤ん坊の産ぶ声をきいて早く早くとせき立てんさる。困ったのは産婆の下妻あきじゃが、ちょうどさいわい……と、いうては失礼じゃけえど、おなじ宿の離れにもう一人、妊婦がきておいでんさった。名前は磯川糸子さんちゅうて、旦那さんは三津木さんのご主人とおんなじで出征中じゃったそうなが、職業は岡山県警の警部さんじゃったということじゃ」
ここにおいて三津木五郎の目はとつぜん大きく|視《み》|開《ひら》かれたが、すぐその|口《くち》|許《もと》にはあざ笑うような、とげとげしい微笑がひろがった。
「その磯川糸子さんが巴とおなじころに産気づいて、そこで生まれたのが五郎はん、あんたじゃ。それを産婆の下妻あきがドサクサまぎれに三津木貞子さんに渡してしもうたんじゃな。そうじゃった。岡山市が警戒警報も空襲警報もなしに、|完《かん》|膚《ぷ》なきまでにやっつけられた、昭和二十年六月二十八日の夜のことじゃった」
そこまで語ると大膳は疲れ果てたように、縦にした枕に頭を押し当てて、肩で大きく呼吸をしている。金田一耕助はふとこの人も、もうさきは長うないなと、そぞろ|惻《そく》|隠《いん》の情を催した。しかし、聞くべきことは聞いておかねばならぬ。
「お疲れのところを恐縮ですが、巴さんや吉太郎さんは、磯川糸子さんの生んだ赤ん坊が、ふたごの兄弟の身代わりにされたということを、ご存じだったでしょうか」
「いいや、それはしるまい。山崎のほうの話は、ご破算にしてもろうたというといたけんな。あいつらは三津木という|苗字《みょうじ》もしらんはずじゃ。それをしっとるのんは、わしと産婆の下妻あきだけじゃった」
「産婆のその後の消息はご存じじゃありませんか」
「あいつは悪いやつじゃった。戦後浅井はると名前をかえて、|下《しも》|津《つ》|井《い》で|加《か》|持《じ》|祈《き》|祷《とう》のようなことをやっとったけえど、わしはあの女になんぼゆすられたことか……」
「その浅井はるならごく最近、下津井の祈祷所で、絞殺されたということですが……」
「そのことならわしも新聞で読んだ」
「犯人はだれだと思いますか」
「吉太郎じゃ、吉太郎にきまっとる。あいつはおチョロ舟を持っとるし、よう夜釣りをしとったけん、いつでもこっそり下津井へ渡れたにちがいない」
金田一耕助もしごく同感だったけれど、いまとなっては、証拠をあげることはむつかしい。
それからまもなく金田一耕助は、三津木五郎を引き連れて、駐在所へかえってきたが、そこには磯川警部がただ一人、|勃《ぼつ》|然《ぜん》として待っていた。広瀬警部補や山崎巡査は、午後の便で本土から着いた大勢の捜査陣といっしょに、紅蓮洞捜索に出向いていた。
五郎は警部のほうへちらっと目をむけたが、すぐ顔をそむけて留置所のほうへいこうとする。金田一耕助がそれを呼びとめた。
「三津木くん、きみ留置場へいくならいくでいいが、なかでゆっくりこれを読んでみたまえ」
五郎が手渡されたのは一通の封筒である。表を見ると、
「岡山県警察本部磯川常次郎様」
とあり、裏を返すと、
「下津井にて、浅井はる」
五郎はハッとしたらしかったけれど、その封筒を持って無言のまま、奥の留置場へはいっていった。
金田一耕助がポツンといった。
「錨屋の旦那が告白しました。あの若者のほんとうの父はだれかって」
「ああ、うう」
「あなたはどうしてあの青年が、わが子にちがいないという確信を持たれたんですか。なにか|容《よう》|貌《ぼう》体格に特異な特徴でも……?」
「糸子が八重歯でしたけん……それによう似とおります」
警部はただそれだけであとはなにもいおうとしなかった。虚空を|視《み》すえた両眼は、うっすら涙ぐんでいるようである。金田一耕助も気の毒でそれ以上は言葉もなく、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》で控えていたが、そこへおりよく山崎巡査がかえってきた。
そこであとは山崎巡査にまかせておいて、金田一耕助は磯川警部とともに地蔵坂を登って、薬師岩へ出向いていった。お|籠《こも》り堂の周囲には、相変わらずマスコミが大勢群がっている。
広瀬警部補のこんどの洞窟捜索は、じつに大がかりなもので、本土から駆け着けてきた捜査陣は、携帯用の強力投光器をたくさん用意しており、捜査員はみんなめいめい投光器づきのヘルメットをかぶっていた。おかげで紅蓮洞の内部は、真昼のような明るさを示していたが、そのなかに赤、青、黄色、さては白色の糸が縦横に張りめぐらされているのはこの迷路のような複雑多岐な洞窟の、危険度を示すものであった。
この道標のおかげで金田一耕助と磯川警部は、なんの間違いもなく地下宮殿へ到達することが出来た。案内に立ったのは藤田刑事である。
地下宮殿はいまや昼をも|欺《あざむ》く明るさである。磯川警部がそこでなにを見、またどういう感懐を持ったかというようなことは、くだくだしくなるから省略することにしよう。そこで磯川警部は広瀬警部補に|出《で》|遭《あ》った。
「求める女はまだ見つからんそうだね」
「あのあま、どこに潜っていやあがるのか……じゃけえどいまにきっと見つけてみせますよ」
警部補はいかにも悔しそうな口ぶりである。
「どこかわれわれのしらぬ出入口があって、そこからこっそり抜け出したんじゃないか」
「それなら島のもんの目につくはずです。いまやあの女がどういう女か、島中しれわたっとりますけんな、だあれもあの女を、かくまい立てするもんはおらんはずです」
そこへ千畳敷きのほうから越智竜平がやってきた。竜平はけさと同じようにピッタリ身にくいいるような黒い防水服を着て、手にこれまた真っ黒な皮の手袋をはめている。その手袋の左手の薬指のところが、ちょっぴり裂けているので金田一耕助が尋ねると、
「なあに、そこの岩角で引っかけたんですよ」
と、こともなげにいってから、
「やあ、磯川さん、お帰りですか」
竜平は白い歯を出して|挨《あい》|拶《さつ》した。
「いや、肝心のときに留守をして、面目ないと思うとります」
「いや、その代わり広瀬くんがようおやりんさった。持つべきものはよい下僚ですな」
一件落着したせいか竜平はご|機《き》|嫌《げん》であった。
結局その日の捜索は徒労に帰して、巴の消息はついにつかめなかった。
日暮れごろ金田一耕助と磯川警部、広瀬警部補の三人が新在家の駐在所へかえってくると、山崎巡査が待ちかまえていたように出迎えた。
「警部さん、奥の若いもんが警部さんに、なにか申し上げることがあるというて、さっきから待っとおりますけえど」
警部はちらっと金田一耕助のほうに目をやったのち、
「ああ、そう、ではすぐこちらへ連れて来たまえ」
デスクをあいだに挟んで磯川警部と対座したとき、五郎はだれにともなく深々とこうべを垂れた。
「すみませんでした。|神《かん》|主《ぬし》を殺したのはぼくです」
「なに、きみが神主を殺したあ」
爆発するような声をあげたのは、磯川警部ではなくて広瀬警部補であった。
「よし、それじゃ聞こう、そのときの情況を出来るだけ詳しく話してみたまえ」
それについて五郎が語ったところによるとこうである。
あの火事の最中に五郎は社務所の玄関から、巴御寮人がとび出してくるのを目撃した。御寮人はできるだけさりげなく振る舞っているようだったが、息使いの乱れがかえって五郎の疑惑を招いた。そこで社務所のなかへ忍び込み、拝殿のほうへいってみると、内陣のなかに神主が|俯《うつ》|伏《ぶ》せに倒れており、黄金の矢が背中に突っ立っていた。そこで神主の体を抱きおこし、拝殿の格子にもたらせておいて、ひと突き、ふた突き、三突き、黄金の矢を刺し込んで、|串《くし》|刺《ざ》しにしたのはじぶんであると五郎は語った。
「なんのためにきみはそんなバカなまねをしたんだ」
これも広瀬警部補の発言だったが、その声は妙にやさしかった。
「わかりません。ぼくすっかり頭が混乱してたもんですから」
「わからんはずはないでしょう」
と、金田一耕助がそばから言葉を添えた。その声は優しさと|憐《れん》|愍《びん》にみちていた。
「きみはあの婦人をじぶんの母だと信じ込んでいた。だからあのひとを救うために、女では遂行できない犯罪だとカモフラージュするつもりだったんだろう」
「すみません。しかしぼくはそのことについて、あとでとても後悔したんです」
「それ、どういうこと……?」
「五日の晩の大雷雨の最中、ぼくと荒木くんとが一本松のところで、|蓑《みの》と|笠《かさ》の人物が、隠亡谷のほうへ降りていくのを見たと申し上げましたね」
「それは聞いた」
「あのときぼく顔は見なかった、男か女かもわからなかったといいましたが、それは|嘘《うそ》です。荒木くんは見なかったかもしれませんが、ぼくは見たんです。一瞬の稲妻の|光《こう》|芒《ぼう》のなかで……」
「あの婦人だったんだね」
「はい、それも非常に狂暴な表情でした。筆にも言葉にも尽しがたいほど……」
そこで五郎ははげしく身ぶるいをした。
「しかし、そのときはあのひとがなんのために、隠亡谷へ降りていったのかわからなかったので、荒木くんにも黙っていたんです。ところが七日の朝になって、片帆ちゃんが隠亡谷の隠れ道で、絞め殺されているとしったとき、ぼくは内心ふるえあがりました。あのひとがやったんじゃないか。と、するとあのひとがぼくの真実の母としても、じぶんは間違った人格、殺人鬼性を持った人物を、かばい立てしようとしているんじゃないかと、ずいぶん悩みました。たいへん身勝手な悩みですけれど」
五郎は粛然としてこうべを垂れた。
そこにしばらく味の濃い沈黙の時が流れたが、|咳《しわぶき》一番、その沈黙を破ったのは広瀬警部補である。
「三津木くん、きみはいま神主を殺したといったね。しかし、いまの話を聞いてると、きみは殺人の罪を犯したことにはなりやせん。われわれが絶対に信頼をおいている、法医学の先生の解剖所見によると、被害者は最初の一撃で絶命したろうといわれている。法廷でもその先生はそう証言してくださるだろう。きみのやったのは死体損壊というやつだ。きみはその裁きだけは受けねばならんだろう」
「しかし、たぶんに情状は酌量されるでしょうね」
金田一耕助がボツリとそばから補足した。
事実三津木五郎は死体損壊の罪で起訴された。裁判の結果三年の刑が申し渡されたが、執行猶予が二年であった。|身《み》|許《もと》引き受け人は神戸から来た三新証券の|新田穣一《にったじょういち》氏であった。その新田氏に五郎の身柄を、預けてほしいと申し出たのは越智竜平である。越智商事は神戸に支社を作ることになっており、刑部島の事業もそのまま推進、ますます拡大をはかる計画だったので、これらの地方の事情に精通している人物が必要だったのである。
新田氏は磯川警部と相談のうえ、それを了としたが、これはのちの話である。
すべての告白が終わったのち、広瀬警部補や金田一耕助から激励されたので、五郎もいくらか気が軽くなったのか、さっきからみるとよほど晴ればれとした顔で立ちあがったが、ふと思い出したように、
「金田一先生、ありがとうございました。これ……」
ポケットから取り出したのはさっきの封筒である。
「ああ、そう」
金田一耕助はなにげなく手を出しかけたが、すぐ思いなおしたように、
「それはきみからほんとうの所有者に、お返しするほうがいいだろう」
五郎はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》したのちに、
「警部さん、ありがとうございました」
「ああ、そう」
磯川警部は受け取ると、あわててポケットヘねじこんだ。それはまことに|呆《あっ》|気《け》ないシーンであった。
芝居でするとよくこういう場合、
「父上様……」
「|倅《せがれ》であったか」
などという愁嘆場があるものだが、現実にはなかなかそうはいかないものである。父として子として愛情が通い合うまでには、そうとう時日を要することだろう。しかし、五郎の態度にさきほどまでのふてくされや、とげとげしさがなくなっていることは、だれもが認めるところであった。
金田一耕助はほのぼのと心温まるものを覚えていた。
紅蓮洞の大捜索は三日にわたって続行された。この捜索には金田一耕助も連日参加していたが、かれのそばには必ず越智竜平がつきそっていた。捜査陣の科学的な大捜索が|進捗《しんちょく》し、この広大にして複雑怪奇な洞窟の全容がしだいに明るみに出るにつれて、越智竜平はご機嫌だった。大膳倒れ、いまや完全に刑部島の主権者にのしあがった竜平の|脳《のう》|裡《り》には、はやくも紅蓮洞観光協会設立のプランが、芽生えつつあったのかもしれない。
洞窟の外部は外部で、若い者によって組織された消防団員が、警官たちと合流して、島中シラミ|潰《つぶ》しの捜査に従事し、鋸山や兜山の山狩りが徹底的におこなわれた。そういう場合いつも先頭に立っているのが松蔵であった。
越智竜平の要請で帰省していた人びとのうち、大半は七日の午後か、八日の午前の便で島を離れていったが、なかには松蔵のごとく島に踏みとどまっているものも少なくない。だれしも故郷忘じがたしで、生まれ故郷でたつきの途がえられるならば、なにを好んで郷里を捨てよう。ことに中年以上の男女に望郷の思いは強く、松蔵などもその筆頭であったろう。かれは本家からなにか重要ポストを約束されているらしく、村の捜索、山狩りにも、人一倍の熱意をおしまなかった。
しかし、こういう入念な大捜索にもかかわらず、巴御寮人の姿はついに発見できなかった。そのうちになんらかの方法で洞窟を抜け出した御寮人は、絶望のあまり海中に身を投じたのではないかと説をなすものがあり、刑部島周辺の海上は|隈《くま》なく捜索された。
そして、一枚の|櫛《くし》がとうとう発見された。その櫛には二つ巴の|蒔《まき》|絵《え》が施されてあり、巴御寮人のものであることが確認された。その櫛は|落《おち》|人《うど》の|淵《ふち》に漂うており、そこで千畳敷きを調査したところ、あの七人塚のほとりに、たしかに最近だれかが滑り落ちたらしい形跡が認められた。そこは偶然、青木修三の死体が投げ落とされたとおなじ場所であった。
かくて巴御寮人は|入《じゅ》|水《すい》したのであろうと断定され、水上警察の手によって、周辺の海はいまも捜索をつづけられている。しかし、金田一耕助が島を去る前日にいたっても、御寮人の遺体は発見されていなかった。
巴御寮人はどうやら島から蒸発したらしいのだが、蒸発とは雲隠れと同義語である。
エピローグ
二週間の滞在を終えて金田一耕助が、島を離れたのは昭和四十二年七月十四日のことだったが、そのまえの夜かれは越智竜平の招待で会食した。
竜平は島の新しい経営について意気|軒《けん》|昂《こう》だったが、話がたまたまこんどの事件に及ぶと声を落として、
「それにしても、金田一先生、あの火事騒ぎはどうしたんです。失火だったんだすか。放火だったんですか」
金田一耕助はしばらく考えていたのちに、
「あれはどうとも考えられますが、私はどちらかといえば失火説をとりたいですね。ただ火事騒ぎの最中に神主殺しが演じられたので、あの火事が非常に重大なものとして浮かびあがってきたんですが、私はただ犯人が巧みにあの騒ぎを利用しただけで、そこに計画性があったとは思えない。あの晩|神輿《み こ し》を取り巻いて、たいまつをかざした人たちが大勢右往左往してましたからね。そのひとつが|幔《まん》|幕《まく》に燃え移ったんじゃないですか。しかし、もし一歩譲って放火とすると……」
「放火とすると……?」
「犯人は吉太郎くんでしょうね」
「新家がなぜ? 御寮人とあらかじめ示し合わせて……?」
「いや、それはなかったと思いますね。あの|洞《どう》|窟《くつ》の中での吉太郎くんの告白によっても分明するとおり、巴御寮人と吉太郎くんは、幾多の事件で共犯関係にあったことはたしかですけれど、それはあらかじめ示し合わせての共犯関係ではなく、巴御寮人はただ好き勝手なことをやっていた。あのひとの持つ魔性が衝動的に多くの男を惨殺せしめた。それがそのつどうまく|糊《こ》|塗《と》されたのは、吉太郎くんがあとへまわって、巧みに|尻《しり》|拭《ぬぐ》いをしてきたからですね。そこには計画性というものが|微《み》|塵《じん》もない。ですからあの火事騒ぎに限って、あらかじめ打ち合わせがあったとは思えないんです」
「ではなぜ新家が放火を……?」
「吉太郎くんが火をつけたとすると、|嫉《しっ》|妬《と》でしょうねえ、あなたに対する。しかし、それ少し不自然だとは思いませんか。六日の夜のあの時点では、吉太郎くんはあなたに嫉妬する理由はいささかもなかった。あの|紅《ぐ》|蓮《れん》|洞《どう》の秘密が厳存する限り、巴御寮人は絶対にあなたの|許《もと》に走れないわけです。恋の勝利者はむしろ吉太郎くんでした。だから嫉妬による放火説はちと|頷《うなず》けないわけです。ただあの火事騒ぎからふたつの結果が引き出された。それが捜査陣を混乱させたということはたしかでしょうがね」
「ふたつの結果とおっしゃると……?」
「ひとつは神主殺しですけれど、もうひとつはあの|蓑《みの》と|笠《かさ》ですね」
「ああ、あの蓑と笠が|濡《ぬ》れていたか乾いていたかということ……?」
「勇くんの証言によってあのふたつのものが、火事騒ぎの起こるまえにすでに濡れていたことはたしかでしょう。だから吉太郎くんが消火作業に従事しようと、あの蓑と笠を身につけたとき、ふたつのものはぐっしょり濡れていた。しかし、吉太郎くんはそれがなにを意味しているか気がつかなかったし、考えようともしなかった。しかし、七日の朝になって片帆ちゃんの死体があそこで発見され、しかも死因が絞殺とわかったとき、吉太郎くんにもなにもかもわかったでしょう。蓑と笠が濡れていた理由も」
竜平はかすかに身ぶるいをした。
「吉太郎くんはそれよりさき、神主を殺したのはだれか知っていた。いや、察していたでしょう。そこへ持ってきて片帆殺しですからね。その時分から吉太郎くんは少しずつ覚悟を固めはじめていたでしょう。いざとなったら御寮人を殺してじぶんも死のうと」
「いざとなったらとおっしゃるのは、紅蓮洞の秘密が暴露したらということでしょうね」
金田一耕助はしばらく無言でいたが、その全身を細かい|戦《せん》|慄《りつ》がつらぬいて走るのを、越智竜平は見のがさなかった。
金田一耕助は赤面して、
「いや、あの地下宮殿の一幕を思い出したもんですからね。いまこうして無事で生きていられるのがふしぎでなりません。あの際、全員助かったのは奇跡みたいなもんですからね」
「そう、あのとき新家はわれわれ全員を、みな殺しにするつもりだった」
竜平も思い出したように身ぶるいしたが、急に気をかえたように、
「それにしても、金田一先生、事件の複雑怪奇さにしては幕切れはあっけなかったですね。犯人の入水で終わるとは……」
金田一耕助は悲しげに首を左右に振りながら、
「越智さんは巴御寮人は、入水したと信じていらっしゃるんですか」
「えっ、金田一先生はそうじゃないとおっしゃるんですか」
「いや、入水したことはほんとうでしょう。これだけ探しても見つからないんですから。しかし、あのひと自身の意志で入水したのでしょうか、それとも……」
「それとも……?」
「だれか他人の意志で、入水せしめられたんじゃないかとも考えられるんです」
「つまり御寮人は自殺したんじゃなく、だれかに殺害されたとでも……?」
「あのひとの生いたちなどいろいろ聞いてみると、どうしても自ら生命をたつような性格とは思えないんです。あのひとは|驕慢《きょうまん》であると同時に甘ったれでした。幾多の残虐殺人を重ねながら、そのつどだれかの手によって|庇《ひ》|護《ご》されてきた。自我が強そうで自我がないのも同様です。そういう、女性に自らの生命をたつ勇気があるでしょうか」
「なるほど。じゃ御寮人が殺害されたとして、犯人はだれだとお考えですか」
「まず最初に|錨屋《いかりや》の|旦《だん》|那《な》を考えました。あの人なら動機は十分考えられますからね。御寮人が逮捕されたあとの家門の|汚辱《おじょく》、|刑部《おさかべ》一族に対する世間の指弾。それを考え合わせるとひと思いにと、思い立つのもむりはないでしょうね」
「なるほど」
「しかし、あの老人にはもうその気力も体力もなくなっています。あの人はもうすっかり|挫《ざ》|折《せつ》して、廃人同様ですからね」
「すると、ほかにだれ……?」
「そのつぎに村長を考えてみました。あの人なら御寮人を殺害する体力は十分ですからね。しかし、あの人にはそういう綿密な思慮分別があろうとは思えない。あの人なら御寮人を見つけたら、手柄顔に警察へ引き渡したでしょう。そうすると最後に残るのは……?」
「最後に残るのは……?」
「越智竜平氏……あなたです」
シーンとした深い沈黙がふたりのあいだに落ち込んできた。金田一耕助は相変わらず、目をショボショボ、ショボつかせ、もじゃもじゃ頭をひっかきまわしているが、それでも対座した相手の目が、殺気をおびて光るのを見のがさなかった。
しかし、それも一瞬、竜平は口へもっていきかけた|箸《はし》をおくと、|莞《かん》|爾《じ》と笑って、
「これはまた異なことをおっしゃる。わたしがあのひとを殺害したとしても、それはいつのことでしょう」
「九日の夕方あなたは単身、紅蓮洞の地下宮殿へはいって来られた。千畳敷きのほうにある入口からでしたね。ところがその後の調査によって、当時われわれが全然しらなかった洞窟が、薬師岩から千畳敷きへ通じていることがわかりました。御寮人はその道を通って千畳敷きへ抜け出した。幸か不幸か、そのとき『星の御殿』には|視《み》|張《は》りのものがいなかった。このことは視張りのものに確かめてあります。かれらはあなたがいつ洞窟へ潜入したのか、気がつかなかったといっていますからね」
「なるほど、それで……?」
竜平の目はまだ金田一耕助のおもてに、|釘《くぎ》|着《づ》けになったままである。
「『星の御殿』を脱出した巴御寮人は、そこでバッタリあなたに|出《で》|遭《あ》った。御寮人はどうしたでしょう」
「御寮人はどうしたのです」
|反《はん》|噬《ぜい》するような調子である。
「あのひとはおそらくあなたの胸に取り|縋《すが》ったでしょう。持ちまえの甘ったれ根性を発揮して。どこかへ連れていってほしいとか、アメリカへでもどこへでもついていくとか|掻《か》き口説いたでしょう。その口をあなたは|塞《ふさ》いだ。あの手袋をはめた手で」
竜平は箸をおいたまま、ふしぎな動物を|視《み》るような目で、金田一耕助を凝視している。およそ物に動ぜぬ男だが、額にうすく汗の浮かんでいることは被うべくもない。
「そのとき巴御寮人があなたの左手の薬指に|咬《か》みついた。皮手袋のうえから強く咬みついた。越智さん、あなたその左手の薬指の|絆《ばん》|創《そう》|膏《こう》はどうなさいました」
竜平はべつに左手を隠そうとはせず、かえって|灯《ひ》の光りにかざして眺めている。
金田一耕助はかつてこの男のことを、ストイックでシビアな感じのする男だが、それでいてギャンブラーみたいな一面のある人物だといったが、そのとき竜平のおもてに浮かんだ不敵な微笑が、それを証明しているのだろう。
「咬みつかれてあなたはいよいよ強くあのひとの口を|塞《ふさ》いだ。口と同時に鼻も塞いだ。声を立てさせぬつもりだったが、気がつくとあのひとはあなたの胸のなかでぐったりしていた」
金田一耕助はまた悲しげに首を左右に振りながら、
「そのときのあなたの心情は、おそらく愛憎を超越していたでしょう。相手の無知に対する|憐《れん》|愍《びん》の思いしかなかったにちがいない。かくてあなたはあの人を窒息死させたのち千畳敷きから突き落とした。そこがかつてあなたの僚友、青木修三氏が突き落とされたとおなじ場所であるということが、あなたの理性にあったかどうか、そこまでは疑問としてもですね」
しばらく無言でいたのち、竜平がうめくように|呟《つぶや》いた。ノドの奥から|絞《しぼ》り出すような声であった。
「金田一先生、あなたは空想力が強過ぎる」
「わたしはいつも真理を追及する求道者ですからね」
「いま先生のおっしゃったことが、真実であると否とは別として、先生はどうなさるおつもりです。そういう意見を磯川さんに、具申なさるおつもりですか」
「まあ、|止《よ》しましょう」
「止す……? なぜ……?」
「この島にはスキャンダルが多過ぎる。これ以上付け加えることはないでしょう。ただこいねがわくば……」
「ただこいねがわくば……?」
「巴御寮人の遺体が永遠に発見されないことですね」
金田一耕助はその翌日、約束の|報酬《ほうしゅう》を受け取って刑部島を離れたが、神は金田一耕助の希望をご|嘉《か》|能《のう》したもうたのか、巴御寮人の遺体はついに発見されなかった。
かくて|外《げ》|面《めん》|似《じ》|菩《ぼ》|薩《さつ》|内《ない》|心《しん》|如《にょ》|夜《や》|叉《しゃ》を地でいったような巴御寮人は、櫛ひとつこの世に|遺《のこ》して、完全に雲隠れしてしまったのである。「源氏物語」の書かれざる最後の巻のように。
本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月)
金田一耕助ファイル19
|悪霊島《あくりょうとう》(下)
|横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》
平成14年2月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
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(C) Seishi YOKOMIZO 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『悪霊島(下)』昭和56年5月18日初版刊行
平成8年9月25日改版初版発行