金田一耕助ファイル17
仮面舞踏会
[#地から2字上げ]横溝正史
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――江戸川乱歩に捧ぐ――
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目 次
プロローグ
第 一 章 大貴族の朝の食卓
第 二 章 役者は揃っていた
第 三 章 考古学者
第 四 章 女と考古学
第 五 章 マッチのパズル
第 六 章 蛾の紋章
第 七 章 |楔《せっ》|形《けい》文字
第 八 章 箱根細工
第 九 章 A+Q≠[#巻末注記参照]B+P
第 十 章 祖母と孫
第十一章 師弟関係
第十二章 考古学問答
第十三章 目撃者
第十四章 |青《せい》|酸《さん》|加《か》|里《り》
第十五章 操夫人の推理
第十六章 万山荘の人びと
第十七章 |下《げ》|司《す》のカングリ
第十八章 誰が青酸加里を持っているか
第十九章 佐助という名のピエロ
第二十章 グリーンは知っていた
第二十一章 霧海
第二十二章 ライター
第二十三章 もうひとりの女
第二十四章 操夫人の冒険
第二十五章 尾行
第二十六章 悪夢
第二十七章 崖の上下
第二十八章 |信《しが》|楽《らき》の|茶《ちゃ》|碗《わん》
エピローグ
時 昭和三十五年夏
場所 軽井沢
登場人物
鳳千代子
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過去に四回の結婚歴を持つ映画界の大スター。
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笛小路泰久
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千代子の最初の夫、戦前の映画界の二枚目。
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阿久津謙三
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新劇俳優。千代子の二番目の夫。
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槙恭吾
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洋画家。千代子の三番目の夫。
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津村真二
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作曲家。千代子の四番目の夫。
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飛鳥忠熈
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元公爵の御曹子、戦後財界の大立者、考古学に興味を持つ。目下千代子と恋愛中。
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笛小路美沙
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千代子と最初の夫、笛小路泰久とのあいだに生まれた娘。
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笛小路篤子
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笛小路泰久の継母。美沙を幼児より預かって育てている。
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桜井鉄雄
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飛鳥忠熈の女婿。神門産業のエリート。
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桜井熈子
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忠熈の娘にして鉄雄の妻。
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的場英明
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考古学者。飛鳥忠熈から発掘旅行の費用捻出を狙っている。
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村上一彦
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飛鳥忠熈が眼をかけている青年。現在は的場英明の弟子。
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秋山卓造
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飛鳥忠熈の股肱の部下。忠熈のためなら水火も辞せずという男。
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立花茂樹
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津村真二の弟子に当たる音楽学生。村上一彦の友人。
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田代信吉
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破滅型の音楽学生、心中未遂の前歴あり。茂樹の友人。
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藤村夏江
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鳳千代子の二番目の夫、阿久津謙三に捨てられた女。
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樋口操
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藤村夏江の先輩にして友人、軽井沢に住んでいる。
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日比野警部補
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この事件の捜査担当者。まだ若くして功名心にもえている。
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等々力警部
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警視庁捜査一課所属の警部。金田一耕助の相棒。
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金田一耕助
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みなさん先刻お馴染みの、もじゃもじゃ頭の探偵さん。
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プロローグ
泉の里からゆっくり登って半時間、土地の人がニドアゲとよんでいるあたりを過ぎると、しだいに眺望が広くなる。
よく晴れていた。
ちょうどみやげ物屋の店頭で売っている絵葉書のカラー写真みたいに、一文字山や|鼻曲山《はなまがりやま》が旧軽井沢の町越しに、うすいセピア色となってひとあしごとにせりあがってくる。
「どう、ここらでひとやすみする?」
「浅間はまだ見えないの」
「浅間は頂上までいかなきゃ見えないさ」
「休んでもいいけど、だれかきやアしないかしら」
「きたっていいさ、かまうもんか」
あたりは雑木をまじえた赤松林だ。下草のなかにクズとウドが|大聚落《だいしゅうらく》をなしている。ウドの白い花にまじって、クズの花の紫が眼にしみるように鮮烈である。女は|路《みち》からすこしはいった林のなかにビニールの風呂敷をひろげた。路に背をむけて腰をおろすと、
「やあ、たいへんなひっかき傷をこさえたな」
「着ると暑いし、脱ぐとこれだし、たいへんな路、もっと楽な路なかったのかしら」
「ゼイタクいっちゃいけねえ。天国へ登るのに楽な路なんてあってたまるもんか」
男は投げだすようにいい、ゴロリと仰向けにねころんだ。ビニールの風呂敷のしたで下草がぐしゃっとひしゃげ、男の体はクズの葉のなかにめりこんだ。女は汗をぬぐうと悲しそうに両腕のひっかき傷をいたわっている。
路というものは使わないと荒廃する。以前はこの路も自動車が通れるほどだったが、戦争中から戦後へかけて、まったく手入れがいきとどかないままにすっかり荒れ果ててしまった。ふたり並んでやっと歩けるその路の両側から、いちめんに|灌《かん》|木《ぼく》がはみ出していて、|半《はん》|袖《そで》のブラウスだけだとこんなめにあう。と、いってカーディガンをひっかけていると、まうえから照りつける日の光に容赦はなかった。
路そのものもひどい。二、三日まえに豪雨があったらしく、そうでなくとも浅間の焼け石のゴロゴロした路が葉脈のようにえぐられている。ところどころに露出した、むかしの浅間の大噴火の名残りらしい大きな角石が、けわしい路をいっそう険阻なものにしていた。
女は靴をぬいで、爪先をいたわっている。ナイロンの靴下を、すけてみえる爪先の奇型が、この女の昔の職業を物語っているようだ。
「信ちゃん、水、くんない」
男は寝ころんだまま面倒くさそうに水筒をとって渡した。女はひとくちノドをうるおすと、
「あんた、どうお?」
「おれはいらん」
ニベもなくいってから思いなおしたように、
「じゃ、まあ、いっぱいもらおうか」
男は寝ころんだまま女の差し出す水筒のコップに口をやったが、半分以上はジーパンのうえにこぼしてしまった。
「やだわ。横着するからよ。もう一杯どう?」
「いらん」
男は頭のしたに両手をくんだまま、また草の底に身をしずめた。女にはそれがふてくされているようにみえて辛いのだ。なにかいいたいのだけれど、いうといっそう辛くなりそうなので、だまって水筒の栓をしめている。
男は二十三、四か五、六という年頃である。女より二つ三つ年少らしい。あるいはもっとちがっているのかもしれぬ。女のほうは顔色の悪さに反比例して、唇のふしぜんに赤いのはルージュのせいばかりではないらしい。胸のうすさや息切れのひどさからみて胸部に疾患があるらしく、それだけふけて見える。
小宮ユキも数年まえ歌劇団へはいったころは、だいそれた夢をもっていた。その夢がむざんに砕け散ったときはみじめだった。ちょっと顔が小ぎれいだというくらいでは、とうていこの世界でぬきんでていくことはむつかしい。歌手としても、踊り子としても、また演技者としても、素質にかけているのだという自覚をもたされたとき、ユキは絶望にうちひしがれた。それでも家庭の事情ではたらかねばならないユキは、もっと安直に収入をうる手段に誘惑された。それが露見して歌劇団から放逐されたころ、胸のわずらいはそうとう重いものになっていた。しかも、ユキははたらきつづけなければならなかった。
「信ちゃん、そんなところにねてると風邪ひくわよ。ここ少し涼しすぎるんじゃない?」
まっこうから陽にさらされて坂を登るとき汗が肌をつたうのだが、一歩日蔭へはいると汗がひえて悪寒をおぼえる。はたして男はたてつづけに二、三度くさめをした。
「ほら、いわないこっちゃないわ」
「それがどうしたというんだ」
つっけんどんにいい放ち、男はそのまま、まじまじと|梢《こずえ》越しに空を見ている。赤松の枝ごしにみえる空は抜けるように青くて、魂がすいこまれていくようである。
女は無言のまま男の横顔を見ていたが、ふっさりと|睫《まつ》|毛《げ》をふせると、
「信ちゃん、いやならここで別れてもいいのよ。そのかわりおクスリおいてって」
「だれがいやだといったんだい?」
「でも、なんだか悪くって」
「それがいやなんだ。そういう気のつかいかたが気にくわねえ。なにさ、もうすぐオダブツだというのに風邪ひくもねえもんだ」
「ごめんなさい、じゃ、もういわないわ」
そういうこまかい世話女房じみた気のつかいようが、とかく男にうるさがられるのだとしりながら、つい出てしまう性分なのだ。そういう性分がわざわいして舞台でも成功しなかったし、体を売るしょうばいにおちてからも男からあまりよろこばれなかった。顔はたしかに小ぎれいにととのっているのだが、遊んでみておもしろくないらしい。男に里心をおこさせるなにものかを持っているらしいのである。
田代信吉は芸大作曲科の学生で、おやじは大阪で歯科医をしている。よくはやる歯科医で自宅の診療室のほかに出張所を二軒もっている。その二軒にそれぞれ二号と三号をおいてあり、ふたりとも技工士に養成してあった。|妾《めかけ》をもってもただ遊ばせておかないというのがこのがめついおやじのご自慢で、信吉は子どものころからこの父になじめなかった。
母はもうすこしましな家から嫁にきていて(信吉の眼からみれば)嫁入り道具にピアノをもってきた。アプライトではあるがスタインウェイであった。信吉は三人兄弟の末っ児にうまれたが、かれだけが母の血をひいていたとみえて、幼時から母の嫁入り道具のピアノになじんだ。父の無理解にもかかわらず、作曲家になりたいという信吉の希望がいれられたのは、母のとりなしによるところである。
芸大音楽部のせまき門を現役からパスしたころの信吉はそうとう得意であった。しかし、まもなくカベにつきあたった。絶望のおもいは帰省するたびにふかくなるようだった。母がよわいので精力家の父は毎晩ふたつの出張所のどちらかへいって泊まった。たまに家にいても信吉の相談相手になれる父ではなかった。金のことはあまりいわなかったが、ふたりの兄にくらべるとかかり過ぎると思っているにちがいなかった。
母が生きているうちはまだよかった。その母が去年胃ガンで亡くなるに及んで信吉の運命がくるいはじめた。父は百か日もたたぬうちに後添いを家へいれた。思いがけなくその後添いは、以前から父と関係のあった技工士のどちらでもなく、小金をもった未亡人で小まちゃくれた女の子がいっしょだった。父はこの未亡人との関係をよほどうまくかくしていたらしい。
当然、父とふたりの兄のあいだに争いがたえなかった。父とふたりの愛人とのあいだにも深刻な抗争がつづいているらしかった。東京にいる信吉はこの争いからはのがれられたが、そのかわりいままでどおりの仕送りを期待することは無理だった。
キャバレーやナイト・クラブでピアノをたたく時間がしだいに多くなり、やがて信吉は心身ともに疲れ、かつすさんだ。去年の秋、信吉はバンド仲間にそそのかされて、コール・ガールというのをよんで遊んだ。やってきたのが小宮ユキだった。肉のうすいユキのからだを抱いて信吉は童貞をうしなった。それは自己嫌悪以外のなにものでもなく、その晩、信吉はとつぜん兇暴な発作におそわれた。
信吉は三日にあげずユキとあそんだ。ユキは男になにをされてもイイダクダクであった。信吉は女にたいしてますます兇暴になっていった。信吉はもうほとんど学校へいかなくなった。ユキを抱くためにアルバイトに狂奔しなければならなかった。男はいよいよ兇暴になり、女の胸はいよいよ薄くなっていった。
坂のうえからとつぜんはなやかな男女の声と、|辷《すべ》るようにおりてくる足音がきこえた。ユキはあわててカーディガンをひっかけた。
白い露頭をあらわした|崖《がけ》をまわって三人の男女があらわれた。小鳥のようにはしゃぎながら、せまい路をすべりおりてきた三人は、ユキと信吉に気がつくといっしゅん黙って足音もしずかになった。足音が坂のしたへ消えていくまで、ユキは背筋にいたいほどの視線をかんじていた。
「信ちゃん。もういかない? まただれかくるといやだもん」
信吉は草の底からうごかなかった。眼をとじていた。眼をとじていると|頬《ほお》のこけかげんがいたいたしいばかりである。頭上の木の葉の色をうつして、顔が緑色にみえるのも無気味であった。
「そうそう、おれゆうべ妙な男にあったぜ」
信吉はとつぜん眼をひらいてユキのほうへ首をねじむけた。残忍な笑いをおびた眼つきだった。
「妙な男って?」
「おれ、ゆうべドッグ・ハウスへ泊まってた」
「ドッグ・ハウスってなに?」
「読んで字のごとしさ。犬小屋とそっくりおなじつくりのけっこうなホテルさ。あれでも、男と女が抱きあってねるにゃ不自由はねえだろう。なかは三じょうくらいの広さはあるかな。そんな小屋が林ンなかの空地に三十くらい並んでて、けっこうどの小屋もおれみたいなお客さんで満員だったぜ」
「まあ、あんたの泊まってた白樺キャンプってそんなとこだったの?」
「白樺キャンプ第十八号ハウスといやアごたいそうだが、ま、そんなとこだ。そこで君のくるのを三日待った」
「すみません。くるのがおそくなっちゃって」
「まあ、そりゃいいが、その妙な男だがね」
「ええ」
「ゆうべおれのとなりの第十七号ハウスというのへ泊まりゃがった。おれ眠れねえもんだから、林の隅のちっちゃな丘のうえにつくねんとすわってお星様をながめてた。霧が出てたけど霧のすき間からお星様が見えてたのさ。そしたらそいつがやってきた。ウイスキーの瓶をかかえこんですぐ酔っ払ってやぁがんのさ」
「それで……?」
「そいつおれのようすから、なにか|嗅《か》ぎつけやぁがったのかもしンねえな。くよくよすんな、いっぱい飲めてえンだ。おれ、うるせえから相手にしなかったけどな、そいつ、かってにやンながらクドクドしゃべってやぁがったけど、なんでもその男ヨメさんにマオトコされたらしいんだ」
「まあ」
「しかもよう、そいつ、それにながいこと気がつかなかったてえンだからいい面の皮じゃねえかよ。あっはっは」
「信ちゃん、そんな話よしましょう」
「まあ、いいじゃないか、もうすこし聞きなよ。そいでそいつがな、眼には眼を、歯には歯をということばもある、じぶんはかならずこの|復讐《ふくしゅう》をしてみせる。こんやにでも押しかけてって、きっと眼にもの見せてやると、やに|凄《すご》んでるかと思うと、またつぎのしゅんかんにゃメソメソと泣き出すんだ。なんでもそのヨメさんてえのが凄いくらいのべっぴんでよう、しかも名前をいやぁ日本人ならだれだってしってるくらいの有名な女だってさ」
「いったいだれ? その女のひと?」
ユキもちょっと好奇心をしめした。
「いや、さすがにそりゃいわなかったが、そういやあその男ちょっといい男だったぜ。としは四十くらいかな、貴公子然とした男っぷりだったが、それがすっかり尾羽打ち枯らしたってえかっこうでさ。おれ、ああはなりたくねえと思ったよ。貧すりゃドンするってえ感じでさ、これじゃヨメさんがほかに男をこさえたってむりゃねえと思ったもンな。そうそう、そのマオトコの名前、佐助というらしいんだ」
「それでその奥さんてかた、いま、この軽井沢にいらっしゃるのね」
「うん、そうらしい。情夫ってやつもね。そうそう、そいでそいつ、やに古風なこといってたぜ」
「古風なことって?」
「七人の子をなすとも女に心を許すなってさ」
「信ちゃん!」
ユキは鋭くいい、さぐるように男の横顔をみていたが、急に肩をすぼめると、
「もういきましょう。なんだかお天気がかわりそうよ」
女のいうとおりであった。どこかで遠雷の音がきこえたかと思うと、いままであんなに晴れていた空に、おそろしい勢いで雲がひろがりはじめていた。
男はそれでもまだ寝ころんだまま頭上にひろがりいく速い雲脚を|視《み》つめていたが、急になにかをふり落とすようにピョコンと起きなおると、
「まあ、いいや、おれのしったことか」
「信ちゃん、なにか気になることがあって?」
「ううん、いいんだ、いいんだ。世のなかにゃいろんなことがあるってことさ。そいつ妙な方程式のこといってたけどな。そいつがおれの心にひっかかるんだが……だけど、まあ、いいさ、おれのしったことか。さあ、いこう」
それから半時間ちかく男はおこったように口もきかず、さっさと女のまえに立ってけわしい坂をのぼりつづけた。女もあえぎあえぎ男のあとを追っていった。
遠雷はもうやんでいたけれど、空はすっかり灰色の雲におおわれて、どこから|湧《わ》きだしてくるのか薄白い霧がふたりをくるみはじめた。
|離山《はなれやま》のてっぺんちかくまできたとき、ふたりはうえからおりてくる妙な男に出あった。
その男は白ガスリの|単《ひと》|衣《え》のしたから涼しそうな|薄《うす》|浅《あさ》|葱《ぎ》の|襦《じゅ》|袢《ばん》の|襟《えり》をのぞかせ、蝉の羽根のように光る|褐《かち》|色《いろ》の|袴《はかま》をはいていた。袴の|裾《すそ》にはいっぱい草の実がまぶれついている。頭にのっけたお|釜《かま》|帽《ぼう》の下から、しぜんにカールしたらしい|蓬《ほう》|髪《はつ》が油っ気もなく、雀の巣のようにはみだしていた。|埃《ほこり》をかぶった白い夏足袋に、茶色の鼻緒をすげた|草《ぞう》|履《り》をはいていた。
男はすれちがいざまとがめるように、
「いまから登るんですか」
と、声をかけた。
信吉はさげすむような眼であいてを見たが、返事もせず、肩をゆすって女のほうを振りかえった。
「ユキ、いこう、もうひといきだ」
ユキは妙な男に目礼して信吉のあとを追った。
お釜帽の男はしばらくふたりのうしろ姿を見送っていたが、やがてけわしい路をくだりはじめた。なんとなく重い足どりであった。ときどき気になるように立ちどまっては坂のうえをふりかえった。霧はますますはげしくなり、お釜帽の男の帽子や|襟《えり》|足《あし》をじっとりとぬらした。
五分ほどくだってきてからお釜帽の男は立ちどまって、路傍に露出している大きな石に腰をおろした。|袂《たもと》からタバコをだして火をつけた。お釜帽の男はべつにタバコが吸いたくなったわけではない。なんとなくいま登っていったふたりづれが気になるのだ。坂のうえを注視しているが霧は濃くなるばかりである。離山のてっぺんまで登ったところでなにも見えはしないのだ。
お釜帽の男は一本のタバコを吸いおわると、すぐ二本目に火をつけた。しかし、その二本目を半分も吸いおわらぬうちに、ポイと投げすてると、いまきた路を登りはじめた。
乳灰色の霧がお釜帽の男のまわりに渦をまいて、もう数メートルさきとは見わけかねる。お釜帽の男は、ときどき立ちどまり、息をいれながらうえからおりてくるかもしれない足音に耳をすました。しかし、いっこうその気配がないのをしると、また足をはやめた。
さっきふたりづれとすれちがってから二十分ののち、お釜帽の男は離山のてっぺんの平地へ|辿《たど》りついた。晴れていると浅間の山が指呼のうちに見えるのだが、いまそこには薄白い霧が渦巻き、流れ、たけのひくい赤松林がその霧のおくにじっとりとにじんでいる。|膝《ひざ》も没する灌木におおわれたそこは、真夏とは思えぬほどの荒涼たる眺めであった。
「おうい、さっきのふたりづれ、どこにいるかア!」
しかし、その声は霧のなかに妙にむなしいひびきとなって消えていった。お釜帽の男はそれでも二、三度呼びながら、あたかもじぶんのいくべきところをしっているかのごとく、袴の裾をふみしだいて灌木のなかを歩きはじめた。
この離山には|嶺《みね》が三つか四つある。そのひとつのてっぺんにこんもりと盛りあがった大地の|瘤《こぶ》があり、この瘤のなかは洞穴になっている。入口は人ひとり|這《は》ってはいれるかはいれないかの狭さだが、内部はそうとうひろくてこうもりの|棲《すみ》|家《か》になっている。
よく心中のある場所なのだ。
いまやっと眠りからさめかけたこうもりたちは、じぶんたちがぶらさがっている天井の下に、男と女がよこたわっているのをみて、おもわず眼をそばだてた。
小宮ユキはもうこと切れているらしかった。しかし、田代信吉はまだ幽明の境を|彷《ほう》|徨《こう》しているところであった。信吉は断末魔の苦痛に全身をむしばまれながらも、霧にぬれてきこえる声を聞きわけるだけの力をもっていた。
「さっきのふたりづれ、どこにいるかア……」
信吉はその声をとおく聞きながら、しだいに意識がぼやけていった。
昭和三十四年八月十六日午後四時ごろのことである。
第一章 大貴族の朝の食卓
昭和三十五年八月十四日、日曜日の朝の|飛鳥《あ す か》|忠《ただ》|熈《ひろ》の食卓は、たいへんはなばなしく、かつ壮烈なものになっていた。
べつに忠熈がひとなみはずれた美食家だとか|健《けん》|啖《たん》家だとかいうのではない。むしろかれの食卓はいつだって簡素なものなのだ。その朝のかれの食卓も二枚のトーストにうすい紅茶、ハム・サラダに半熟卵が二個、ミキサーでしぼった果物のジュースが大カップに一杯、ただそれだけである。
夢想家の飛鳥忠熈はいつかまた、かれの未来に訪れてくるかもしれない冒険の日にそなえて、みずからを粗食できたえておこうとしているのかもしれぬ。若いころエジプトとウルで発掘に従事した経験をもつこの元貴族は、ちかごろまた古代オリエントの|楔《せっ》|形《けい》文字や、スメールの粘土板タブレットに、ひそかな情熱をかきたてられているらしい。この夏、軽井沢のこの山荘へこもってからも、トロイヤを発掘したハインリッヒ・シュリーマンや、クレタ島でミノスの宮殿を掘り起こしたアーサー・エヴァンズ卿の伝記などを、こっそりと読みなおしてみる忠熈なのだ。
一昨年の夏までは、いま忠熈のすわっている食卓のむこうに、いつも|聡《そう》|明《めい》な|寧《やす》|子《こ》夫人がひかえていた。
神門財閥の創始者、神門雷蔵の長女にうまれた寧子夫人は賢明で現実家だったから、夫をこのようなくだらない夢想からひきはなしておくすべをしっていた。夢想家としての夫をよくおさえ、現実家としての忠熈に手腕を発揮させるために、寧子夫人は巧妙に立ちまわることができた。
その聡明な夫人が一昨年の秋、狭心症で急死してからというもの、忠熈の心にはいま一種の空虚な断層ができている。表面にはあらわさないが、かれの心情はちかごろとかく動揺しやすいものになっているのである。
娘の|熈《ひろ》|子《こ》は結婚していまこの軽井沢にべつに別荘をもっているし、息子の|熈《ひろ》|寧《やす》はイギリスに留学している。そのうえ妻に先だたれた初老の男の|無聊《ぶりょう》と所在なさが、ちかごろ忠熈の心を不安定なものにしているのだ。
「これは……」
と、忠熈はますます暗くなってゆく部屋のなかを見まわしながら、
「|多《た》|岐《き》、いよいよ本物になってきたな」
「御前様、これはどうしたことでございましょう。ゆうべの気象通報ではこのへんへは来ないはずになっておりましたのに」
「あっはっは、来ないはずだったといっても仕方がない。このとおり来てしまったんだから」
「でも、それならせめてゆうべのうちにわかりそうなものでございますのに。なんてだらしのない予報なんでございましょう」
「そう憤慨したってはじまらん。まさか気象庁が台風をこちらへさしむけたわけではないだろう」
「でも、あたくし何十年もこちらにお世話になっておりますけれど、こんなことはじめてでございます。軽井沢へ台風がやってくるなんて……あれ、あの|巨《おお》きな|落《か》|葉《ら》|松《まつ》が……」
まったくいま忠熈が朝の食卓にむかっている部屋の外では、世にもはなばなしく、かつ壮烈な情景が展開しているのである。
食堂の外はテラスだ。テラスの外は数百坪の芝生をこえて、むこういちめん赤松と落葉松林なのだが、いま目通り一メートルもあろうかと思われる巨大な樹木が、まるで雑草かなにかのように台風にふりまわされている。樹齢百年を越えるそれらの老樹がこの世ではじめて遭遇したこの猛台風に、キーキー悲鳴をあげながら振りまわされているところは、まことに壮烈な眺めであった。老女の多岐があれあれと叫んだとたん、目通り一メートル半ばかりの落葉松がふたりの目前でもののみごとにふたつに折れた。|物《もの》|凄《すさ》まじい地ひびきが古色|蒼《そう》|然《ぜん》たるこの別荘全体をゆさぶった。
台風はいまが峠なのだろう。雨は車軸を流すがごとくという形容詞がそのままで、|猛《たけ》り狂う風の音はまるで天空で巨大な|鞭《むち》をふるうようである。テラスの外には滝のように雨がかかっていた。
この台風は数日まえより予報されていたものである。しかし、速度がおそく進路がハッキリしないので上陸地点がつかめなかった。すくなくともきのうまでの気象通報によると、信州をおそうだろうという予報はいちどもきかれなかった。それが昨夜半関東の一部に上陸すると、あれよあれよというまに速度をはやめて、この朝、軽井沢めがけてまっこうから襲いかかってきたのである。
いったい台風は上陸すると勢力がおとろえるのがふつうである。ことに信州のように高い山が多いところでは、山にぶつかって分散するから、あまり大きな台風の被害をうけることは珍しい。珍しいからこそ樹齢百年をこえる大木がいままで生命をたもってきたのだろう。したがって、その朝軽井沢をおそった台風は異例に属するといえるのである。
マントルピースのうえのトランジスターが、しきりに台風の進路について警告を発している。いまさら警告を発したところで手おくれの感じだが。
「あれ、御前様、また落葉松が、落葉松が……」
ちょっとのま静まっていたかと思われた風が、また勢いをもりかえしてきて、あわれな老樹をかたっぱしから|薙《な》ぎ倒していく。ふとい幹の折れる音がすさまじく、多岐はテラスのガラス戸にへばりついたまま、狂気したように叫んでいる。
「多岐、落ちついていなさい。折れるものは仕方がない。これも寿命というやつだろう」
「でも、もったいのうございます。ご先代様があんなに|賞《め》でていられたあの落葉松が、メチャメチャになってしまって……」
昭和十年、反乱軍によって暗殺された先代公爵のじぶんから仕えているこの多岐にとっては、台風の猛威によってこの山荘が見るもむざんに荒されていくのは、いうを忍びぬ|冒《ぼう》|涜《とく》なのだ。怖いより心外なのにちがいない。
忠熈はいまこの老女の口から出た父の思い出に、ふと大カップをもった手をひかえた。台風のまえに引き裂かれていくあの老樹たちが、あのとき反乱軍によって射殺された父と、その一味のひとたちのように思われた。忠熈はそのとき日本にいなかった。古代オリエントの発掘に夢中になっていたのだ。
「多岐、紅茶を」
「はい、あの、すみません」
多岐はあわてて食卓のそばへ駆け戻ると、
「お砂糖は」
「ひとつでいい」
忠熈は皿のうえのトーストを取りあげると、バター・ナイフでバターを塗りはじめたが、ふと|眉《まゆ》をひそめると、
「多岐、このトーストは?」
「あら、ごめんくださいまし。停電でトースターが使えないものでございますから……もういちど焼いてまいりましょうか」
「ああ、それならこれでいい」
忠熈はトーストをむしりながら、
「ときに、多岐、秋山はどうしてるんだい」
「ああ、秋山さん、あのかたまだおやすみじゃございません? 起こしてまいりましょうか」
「いや、まあ、いい。寝てるもんなら寝かせておおき」
「だって、いくらなんでもあんまりノンキな」
「いい、いい。あいつちかごろすこし疲れてるようだ。台風がおさまったらひと働きしてもらわねばならん。ゆっくり寝かせておけ」
「はい」
「それより熈子はどうしてるだろう。子どもみたいにおびえてるンじゃないか」
「でも、きょうは日曜日でございますから、桜井さまがお見えになっているんでしょう」
「いや、ところがこんどの週末には桜井は来られんことになった。熈子はひとりのはずだ。もっとも女中がいるが……」
「あの子はまだほんの子どもでございますから……電話でもかけてみましょうか」
「電話は通じるのかい」
「さっきまで通じておりましたが……」
「じゃ、嵐でもおさまってから。いまなんとかしてほしいったってどうしようもない」
「はい。それに御前様」
と、多岐は忠熈の顔色をうかがいながら、
「|鳳《おおとり》さまはどうしましょう」
「まあ、あのひとはホテルだからまだいい。でも、あとで掛けてみよう」
そのときまたどっと黒い風が吹きつのってきたかと思うと、家中が大きくゆれて屋根瓦が木の葉のようにとびはじめた。天井からバラバラとこまかいものが落ちてくる。
「あれ、御前様」
多岐は思わず|椅《い》|子《す》の背にしがみついた。
「あっはっは、多岐、大丈夫だよ。いくら古いたってこの家が吹っ飛ぶようなことはあるまい」
忠熈は紅茶をかきまわしていたが、そこに浮いているゴミに気がつくと|諦《あきら》めたように押しやって、
「多岐、おまえいくつになる」
「かぞえでことしちょうどでございます」
「六十か。すると明治三十四年うまれか」
「はい。でも、どうしてでございましょうか」
「いや、そうするとこの万山荘より十年古いことになる。この家は明治四十四年に建ったのだそうで、そのときわたしは四つだったそうだ」
忠熈は椅子をすこしうしろへずらして、あらためてだだっぴろいあたりを見まわした。
それはコロニアルふうともゴシック風とも、またルネサンス式ともつかぬ建築様式で、そのころはこういう折衷主義がはやったらしい。どっしりといやに荘厳なところはゴシック式で父の趣味だろう。そうかと思うと、壁や柱にデリケートな模様があしらわれているのはルネサンス式で、母の趣味であったのかもしれない。それでいて外から見た感じではコロニアル風にもうけとれる。どちらにしても時代がついて古色|蒼《そう》|然《ぜん》たるところは、軽井沢の別荘でも有数のほうである。父元忠はこの別荘を万山荘と名づけた。
「はあ、でも、御前様、それがなにか……?」
「いや、この家はわれわれより若いが、いま嵐に吹き折れていくあの赤松や落葉松は、われわれより年とっているということなのだ」
忠熈の眼にうかんだ感慨の色を見て、ああ、そういう意味だったのかと、多岐がふたたび窓外に眼をやったとき、またしても家全体が大きくきしんで、とつぜん天井のいっかくから滝のように雨が|漏《も》りはじめた。
「あれ、御前様!」
「あっはっは」
忠熈は声をあげて笑うと椅子から立ち上がった。
身長一メートル八十ちかくはあるだろう。スモーキングを着た体はよく均整がとれている。明治四十四年にかぞえで四つだったとすると、ことしかぞえどしで五十三になる勘定だが、|小《こ》|鬢《びん》にちょっぴり白いものがみえるだけで、肌は健康そうな|色《いろ》|艶《つや》をしている。ほどよく陽にやけているのはゴルフのせいだろう。
多岐は大声で女中を呼ぶと、バケツや金ダライをもってこさせて雨漏りの下へうけている。雨漏りは一か所にとどまらず、二か所、三か所とふえていくので多岐も女中も大わらわだ。女中の登代子は興奮して二階からみえる附近の惨状を大声でしゃべっている。
忠熈はマントルピースのうえから葉巻を一本取り出して、|鋏《はさみ》でそのはしを切った。
「多岐、家もこう古くなるとあちこちにガタがくる。人間もおなじことだな」
ゆっくりと葉巻の煙を肺に吸いこみながら、あちこちに雨漏りのシミのできた天井を見ていたが、なにを思ったのかふっと眉をくもらせた。ゆうべはじめてキスをかわした鳳千代子の、若くて健康な体臭を思い出したのだ。
鳳千代子はいま、すぐ近所の高原ホテルへやってきている。
鳳千代子と飛鳥忠熈のなかが世間の|噂《うわさ》にのぼりはじめてから、もう一年以上たつだろう。いままでに四人の夫をもった鳳千代子が、こんどは戦後派の大物、飛鳥忠熈の心をとらえたらしいというゴシップが、芸能関係の新聞や週刊誌に、チラホラ見えはじめてからでももう一年ちかくなる。去年の夏軽井沢で、千代子のさいしょの夫、笛小路泰久が妙な最期をとげていなかったら、ふたりはすでに結婚していたのではないかという声さえある。
飛鳥忠熈は大正から昭和へかけての重臣、飛鳥元忠公爵の次男にうまれた。イギリスで教育をうけたが学校はそっちのけで、登山や旅行にうきみをやつしていたという。昭和十年忠熈はイギリスの探検隊にくわわって、エジプトで発掘事業に従事していた。むろん正式の隊員ではなかった。一種の聴講生みたいな格で参加を許されていたのである。
故国に反乱がおこり父が暗殺されたという報をうけとったとき、かれは王家の谷のほとりで発掘に従事していた。すぐには帰国しなかった。いったんロンドンへかえると、途中メソポタミヤやインダス文明の発掘の跡を見物しながら、半年ほどかけて帰国した。その二年まえに神門雷蔵の長女寧子と結婚している。故国に反乱が起こったとき、寧子はかぞえで二つになる熈子とともに、ロンドンで考古学マニヤの夫を|淋《さび》しく待っていたという。
その後のかれはいたって目立たない存在だった。その当時のかれをしるものは、あのジレッタントが、と、戦後のかれのはなばなしい活躍に、おのれを疑ったというくらいである。おかげで戦後兄は自殺したが、かれはパージにもひっかからなかった。
それに反して、戦後パージにひっかかった岳父神門雷蔵は、神門産業の全事業をあげてこのノラクラ息子にゆだねた。神門雷蔵、さすがにひとを見る眼をもっていたのだといわれている。
忠熈がまず手腕を発揮したのは当時の|熾《し》|烈《れつ》な労働攻勢にたいして、一歩もあとへ退かなかったことである。この元貴族の御曹子はときと場合によっては、およそ冷酷非情になれると同時に、鉄のようにつよい意志をもっているのだということをそのケースでまず示した。かれは世にも|老《ろう》|獪《かい》な手段で労組を切りくずし、けっきょくは屈服させることに成功した。その老獪さや巧妙な権謀術策は、おそらく公卿として千年生きぬいてきた先祖代々の血によるものだろうといわれている。
その後かれはたくみにG・H・Qに喰いいっていった。イギリスで教育をうけたという経歴と|流暢《りゅうちょう》な会話、それにたぐいまれな|美《び》|貌《ぼう》とすぐれた|風《ふう》|采《さい》、さらに元公爵の|御《おん》|曹《ぞう》|子《し》という肩書きを、かれはフルに活用することをわすれなかった。神門産業はいま五十にあまる傍系会社をかかえて繁栄している。戦後の財界にしっかりとその礎石をぶちこんだのは飛鳥忠熈だった。
神門雷蔵はこのよき婿に満足して昭和三十二年永眠した。その翌年妻に先立たれたのを契機として、忠熈は神門産業総帥の|印《いん》|綬《じゅ》を、ようやくそだってきた義弟にゆずって、じぶんは第一線から退いた。政界へ誘うものも多かったが、かれは政治に興味をしめさなかった。夢想家の忠熈はようやく俗事にうみはじめていたらしいのである。
その忠熈がはじめて鳳千代子にあったのは一昨年の秋、妻をうしなってからまもなくのことだったが……。
「やあ、すっかり朝寝坊しっちまって……お多岐さん、すまん、すまん」
寝ぼけまなこをこすりながら、あたふたと食堂へはいってきた秋山は、マントルピースのまえにいる忠熈に眼をとめると、
「やっ、御前もここにいらっしゃいましたか」
と、直立不動の姿勢をとった。
「いままで寝てたのかい、この嵐のなかを」
忠熈はしろい歯をみせてわらった。健康そうでひとを魅了する笑顔である。
「はあ、すみません。なにもしらずに寝ていたんであります。さっきもの凄い地ひびきがしたんで、やっと眼がさめたんであります」
終戦のとき陸軍大尉だった秋山卓造は軍人ことばがぬけきらない。旧幕時代飛鳥家につかえていた小身の|公卿侍《くげざむらい》のすえで、幼時から先代元忠にやしなわれ、戦後は忠熈の運転手をしている。としは忠熈より八つくらいしかちがわないのだが、まだ独身である。真っ赤なセーターを着た体がずんぐりとたくましく、動物的な|獰《どう》|猛《もう》さと単純さを思わせる男だ。
「いまあの木が倒れたんだよ」
テラスのすぐまえにある四、五本の|白《しら》|樺《かば》の木が|将棋《しょうぎ》倒しに倒れて、うち一本はテラスのうえの|廂《ひさし》につきささっている。
「やあ、これは……たいへんな嵐ですなあ」
「なにいってらっしゃるのよう、秋山さん、さっきはもっとひどかったんですよ。これでもだいぶんおさまったほうでございます」
「うへっ、ちっともしらなかった。御前、ほんとうでございますか」
リベラリストを気取っている忠熈は、この御前ということばが気に入らない。たびたび注意するのだがだれも改めようとしなかった。その後うっちゃらかしてあるが、内心では案外このことばが気にいっているのかもしれぬ。
「ほんとうだ。ほら、むこうの林を見てごらん、すっかり坊主になっちまった」
秋山はテラスの外をのぞくと眼をまるくして、
「わっ、こりゃたいへん、御先代様がごらんになったら、さぞお嘆きでございましょう」
「秋山、飯はまだだろう」
「はい、これからいただきます」
「多岐、ここへ運んでおやり」
「いえ、御前、わたしはむこうで」
「いいじゃないか。君にちょっと聞きたいことがある」
「はあ」
「秋山さん、御前様がああおっしゃいますからここで召し上ってください。お台所のほうは雨漏りでたいへんでございますから」
食堂の雨漏りはだいぶん下火になっていた。嵐もおさまりかげんなのである。多岐と登代子が出ていくと、
「秋山、さっき多岐に聞いたんだが、君、ゆうべ一彦に会ったそうだね」
「そうそう、ゆうべすぐこの下の|諏《す》|訪《わ》神社の広場で盆踊りがあったんでありますが、それを見物にいってたら一彦君に肩を|叩《たた》かれたんであります」
「一彦、どうしてここへ顔見せないんだろ」
「今夜は停電でご迷惑だろうから、あしたお伺いするといってました」
「停電でも盆踊りはあったのかい」
「はあ、年にいちどのことでありますから。|篝火《かがりび》たいてかえって風情があってよかったんであります」
「君も踊ったんじゃないのか」
「あっはっは、赤面のいたりであります。そこを一彦君に肩を叩かれたんであります」
「一彦はひとりだった?」
「いいえ、お連れがひとりございました。ほら、考古学者の的場とかいう人物、あの仁がごいっしょで、アルプスからのかえりだと申しておりました。ことによるときょうこちらへ、お伺いするかもしれぬと申されておりました」
「一彦の考古学も病い|膏《こう》|肓《こう》に入ってきたな」
「これひとえに御前の感化じゃないんですか」
「ばかあいえ。ちかごろはこっちのほうがあおられているのさ」
そこへ多岐がお|膳《ぜん》をはこんできたので、忠熈は立ってテラスのほうへいった。
こちらの食事は日本風で|味《み》|噌《そ》|汁《しる》に|佃煮《つくだに》。焼きノリに生卵。秋山が|旺《おう》|盛《せい》な食欲をみたしているあいだ、忠熈は荒された庭をながめていた。嵐はどうやらおさまって、おりおり吹くなごりの風が、あたりをざわめかすていどになっている。雨もほとんどあがっていた。芝生のむこうの|落《か》|葉《ら》|松《まつ》林はもののみごとに|薙《な》ぎ倒されていて、空がにわかにひろくなったようである。
時間は午前十時。
「御前」
食事がおわって多岐がお膳をひいていくと、秋山が思いだしたように声をひそめて、
「鳳さんが……鳳千代子さんがこちらへきていらっしゃるそうですね」
「そうそう、このことについて君に聞きたかったんだ、君、だれにそれを聞いたの?」
「ゆうべ一彦君に聞いたんであります」
「一彦に……? 一彦はどうしてしってたろう」
「はあ、一彦君、自動車に乗ってるあの人を旧道で見かけたんだそうであります。やっぱりあの人いま軽井沢に?」
「ああ、きのうの夕方やってきたんだ。あしたはわたしのゴルフの招待コンペだからね」
ここ二、三年、八月十五日が忠熈主催のゴルフ大会ということになっている。
「高原ホテルですか」
「ああ」
「ゆうべお出掛けになったそうでありますが……」
「ああ、電話をかけてきたんでね」
「すみません。遊びに出掛けちまって……」
「なに、いいよ、すぐちかくだもの。でも、いったことはいったものの、ロビーで話してるうちに停電だろ。すぐかえってきた」
われながら言い訳めいているのに気がついて、忠熈はいささか鼻白んだ。
忠熈のいっているのはほんとうである。わざと部屋へはいることを避けて、ロビーであっているうちに停電になった。忠熈は|蒼《そう》|惶《こう》としてかえってきた。電気が消えたせつな、どちらからともなく抱きあって唇をかさねてしまったのだが……。
秋山はそれとなく探るような視線を立っている忠熈のほうへ走らせ、
「御前はいまこの軽井沢に|槙《まき》|恭吾《きょうご》氏がきてることをご存じでしょう」
「あの男は毎年夏をこちらで過ごすんだろ」
「それに津村真二氏もきてるようであります」
「津村君もきてるの?」
忠熈は反問したがその声音はふしぜんだった。
「去年とおんなじであります。現代音楽祭に招かれて、きのう、きょう、あしたと演奏会があるようであります。町の電柱にポスターが|貼《は》ってありました」
槙恭吾は鳳千代子の三番目の、そして津村真二は四番目の夫である。
「それで……?」
忠熈がわざとおもしろそうに反問したとき、部屋のすみで電話のベルが鳴りだした。
秋山は立っていって卓上電話の受話器を取りあげた。ふたこと三こと話していたが、やがて忠熈のほうをふりかえって、
「御前、笛小路のお嬢さんからですが……」
「笛小路のお嬢さん……?」
「美沙……ちゃんであります」
「ああ、あの美沙……」
と、忠熈は顔をほころばせて、
「その電話、こちらへくれたまえ」
秋山は警戒するような眼で忠熈の顔色をうかがいながら、
「いやになれなれしい口調ですが、御前は、あのお嬢さんとおつきあいが……」
「つきあい? つきあいたって相手はまだほんの子供じゃないか。あれ、かぞえどしで十六とか十七だとかいってたよ。なあに、去年ゴルフ場であったのさ」
「十六や十七やそこいらでゴルフをやるんですか」
「どうしたんだい。いやにセンサクするじゃないか。いいからその電話こちらへくれたまえ。それともこちらからいこうか」
「いや、そちらへもってまいります」
秋山が電話をのっけた小卓を食卓のそばまで押してくると、忠熈は受話器を取りあげた。
「もしもし、美沙……?」
「ああ、飛鳥のおじさま?」
「ああ、そう、どうしたの、美沙?」
「おじさま、怖いのよ、怖いのよ、美沙、怖くって、怖くって……」
と、訴えるような少女の声がキンキン電話のむこうからとびついてくる。
「怖いって、この台風のこと?」
「ええ、そうよ、そうよ。だってお|家《うち》いまにも吹っ飛びそうになるんですもの。お家のまわりの木ずいぶん倒れたのよ。折れたのもたくさんあってよ。それに家中雨もりでしょ。お家のまわりだって水びたしよ」
思っていることが一気にしゃべれぬもどかしさに、電話口にむしゃぶりついて、小鼻をふくらせ、|頬《ほお》をまっ赤に上気させている少女の顔が眼に見えるようである。
「ほんとにひどかったね。でも、もう大丈夫だよ。ほら、こんなに風もおさまったじゃないか。それでお|祖《ば》|母《あ》ちゃまは?」
「お祖母ちゃまはお留守なの」
「お留守ってどこかへお出掛け?」
「さっき東京からのお電話があったのよ」
「東京から?」
「ええ、けさはやくこちらへいらっしゃる予定だったの。そしたら、熊の平のへんで|崖《がけ》くずれがあって、列車が不通になってるんですって。それで、上越線まわりでいくからおとなしくしてるようにって、ついいましがたお電話があったの」
美沙の声は悲しそうである。
「それじゃ美沙はゆうべひとりぼっちだったのかい」
「ひとりじゃないわ。里枝ちゃんがいたわ」
「里枝ちゃんて?」
「うちのお手伝いさんよ。でも……」
「でも……どうかしたの」
「里枝ちゃん、盆踊りにいっちまったでしょ。そしたらそのあとで停電になったでしょ。おまけに風は強くなってくるし、美沙、怖くって、怖くって……」
「里枝ちゃん、いけないね、美沙をひとりでおっぽり出して……」
「でも、仕方ないのよ。あのひと軽井沢のひとだし、それに栄子さんとお約束があったんですもの」
「栄子さんてだアれ」
「あら、おじさま、ご存じないの。桜井さんとこのお手伝いさんよ。あのひとも軽井沢のひとでしょ。だもんだから」
桜井鉄雄は熈子の夫で神門産業の幹部候補生のひとりである。
忠熈はちょっとの間黙っていたのちに、
「そう、それは悪かったね、いいよ、じゃこちらからだれかお見舞いにいってあげよう」
「あら、おじさま、そうじゃないのよ」
「そうじゃないって?」
「ごめんなさい、おじさま。美沙、バカねえ。さっきお祖母ちゃまから電話があって、おじさまンとこへ電話でいいからお見舞い申し上げときなさいって。それでお電話したんだけど、つい、じぶんのことばかりいってしまって」
なアんだ。あのばあさんの差し金だったのかと、忠熈はちょっと|興醒《きょうざ》めする気持ちだった。
「いいよ、いいよ、美沙、あんなひどい台風だったんだから、美沙のような子どもが怖かったのもむりはない。美沙は秋山をしってるだろう」
「秋山さんて?」
「おじさまの自動車を運転してる人さ」
「まあ、あの怖いおじさま?」
「あっはっは、美沙は秋山が怖いのかい?」
「あら、ごめんなさい。怖いなんていってしまって。でも、あのおじさま、いつも美沙をおにらみになるのよ」
「あっはっは、そりゃ美沙があんまりキレイだから、秋山のやつ見とれてるんだろう」
忠熈は|悪《いた》|戯《ずら》っぽく秋山にむかって片眼をつむった。秋山は不平そうに唇を結んでいる。
「でも、秋山のおじさまがどうかして?」
「いやね、なんなら秋山のおじさまにお見舞いにいってもらおうかと思ったのさ」
「あら、いいのよ、いいのよ、おじさま」
美沙は電話のむこうであわてたように、
「美沙、そんなつもりでお電話したんじゃないのよ。ただお祖母ちゃまにいいつかって……」
「うむ、そりゃわかってる。だけど上越線でくるとしたらお祖母ちゃま、なかなか来れないんじゃないかな。秋山のおじさまがいやなら、だれかほかのひとをむけてあげよう」
「おじさま、ほんとによろしいんですの。美沙、どうにもならなくなったら津村のおじさまにお願いしますから」
「津村のおじさまって津村真二さんのこと」
「ええ、そうよ」
「美沙は津村のおじさまの居所しってるの?」
「ええ、すぐこのちかくのバンガローにいらっしゃるようよ。美沙、きのう星野温泉であってご|挨《あい》|拶《さつ》したんですもの」
「ああ、そう」
でも、それはよしたほうがいいんじゃないかといいかけて思いなおした。秋山をはばかったのである。
「おじさま、それじゃ、これで……」
「ああ、そう、じゃ、あとでだれかを差しむけるからね」
忠熈は受話器をおくと秋山をふりかえって、
「秋山、君、いやに美沙にきらわれたもんじゃないか。なにかあったの?」
「いや、べつに……」
秋山は直立不動の姿勢のままで、
「あのお嬢さんより、笛小路のご老母がわたしを毛嫌いなさるんじゃありませんか」
「そりゃまたどうして?」
「わたしが御前の忠実な用心棒だからでありましょう。あのかたわたしを|怖《おそ》れてるようであります」
「君を怖れる? どうしてだろう」
「さあ、どうしてでございましょうか」
上と下から探りあうようにしばらく眼と眼を見交わしていたが、忠熈が負けて視線をそらした。
秋山はにやりと笑うと、
「それより、御前」
「なんだ」
「わたしのことより御前はなぜ笛小路のお嬢さんに、ママさんもいまこちらへきていらっしゃるってこと、いってあげなかったんです」
忠熈はちょっと|眉《まゆ》をあげて不機嫌そうに黙っていたのちに、
「たぶんあの子があんまりベラベラしゃべるんで、話すひまがなかったんだろうよ。秋山、被害のもようを調査しといてくれたまえ」
忠熈が立ちあがったときに電話のベルが鳴り出した。秋山が受話器を取りあげて、
「御前、出張所の川本さんからですが……」
「どうせ、お見舞いだろう。君、よろしく応対しといてくれたまえ。ああ、そうそう、五、六人ひとをよこしてくれるようにって。これじゃとても君と爺いやだけじゃ手に負えない」
神門産業は子会社に神門土地をもっている。神門土地はこの軽井沢にも出張所を持っていて、さかんに土地の分譲をやっている。
電話にむかっている秋山をあとに忠熈は食堂を出ると、じぶんの書斎にはいった。そこは忠熈がデン(洞穴)と称しているところで、神門産業の社長という劇務にあるじぶんでも、ちょくちょくここへ逃避して、賢夫人寧子に気をもませたものである。広い書架にギッチリつまっているのは、おおむね考古学の文献のようである。ガラス張りのキャビネットには、古代オリエントの出土品がいっぱい飾ってある。しかし、いまの忠熈はそれらの本を手に取る気にもなれないらしい。スモーキングをぬいでアロハに着かえた。ふかぶかと|籐《とう》のソファに体を埋めて、放心したように荒された窓のそとを眺めている。
忠熈はいま早急に決断をせまられている問題について、真剣に考えはじめたのである。
第二章 役者は揃っていた
鳳千代子のさいしょの夫笛小路泰久が、軽井沢のプールに死体となって浮かんでいるのが発見されたのは、去年の八月十六日未明のことである。
いまどき笛小路泰久などといったところで、しっている人間はそう多くはなかったであろう。死後かれが有名になったとすれば、鳳千代子のさいしょの夫だったという意味で、改めて再認識されたくらいのものであったろう。そういう意味でかれの死は世間に大きな話題と疑惑を投げかけた。それにはまず、発見された当時のかれの珍妙なスタイルからして、捜査当局の関心を|刺《し》|戟《げき》せずにおかぬものがあった。
笛小路泰久はうすよごれたパンツひとつの赤裸で、プールのなかに浮かんでいたのである。
オールド・ファンならしっていよう。笛小路泰久といえば戦前|華胄《かちゅう》界出身のスターとさわがれ、映画界切っての二枚目とうたわれた人物である。しかし、戦後の苦しいすさんだ生活のためか、あたら貴族的な|美《び》|貌《ぼう》もみるかげもなくうらぶれていた。|痩《や》せこけて、|肋《ろっ》|骨《こつ》の一本一本がかぞえられるような裸体をまるだしにして、骨ばった手足を大の字にふんばり、プールのなかに浮かんでいる図は、赤蛙のひものを連想させて悲惨であった。
それにしてもかつてのスタイリスト笛小路泰久が、なんだってそのような珍妙なスタイルで発見されるようなハメになったのか。
プールのそばの|草《くさ》|叢《むら》のなかには、かれの着ていたもの一切が脱ぎすててあった。脱ぎすてた洋服のうえには腕時計がはずしておいてあった。そのへんいったいを調査しても格闘のあとは見当たらなかった。洋服や靴にしてもむりやりに脱がされた痕跡はなかった。靴のなかには靴下がつめてあった。
笛小路泰久はその前夜、すなわち昭和三十四年八月十五日の夜おそく、みずからそこで身につけたものを脱ぎすて、パンツひとつになってプールのなかへはいっていった。そして死んだ……と、しか思えなかった。
死因は心臓|麻《ま》|痺《ひ》だった。
プールのそばから発見された遺留品のうち、腕時計はさすがに金側のロンジンだったが、上衣のポケットから発見された紙入れのなかには、わずか三千円と少々しかはいっていなかった。笛小路泰久は未決から保釈で出てきたばかりだから、それがかれの全遺産だった。
いや、脱ぎすてた洋服のそばからもうひとつかれの遺留品が発見されている。ほとんどからになったジョニー・ウォーカーの黒の瓶である。その夜かれがウイスキーの瓶を片手に、霧のなかを歩いているのを目撃している人物はいくにんかあった。瓶の表面から泰久の指紋がたくさん検出されている。
泰久の死体はその母、笛小路|篤《あつ》|子《こ》の同意のもとに解剖に附された。死因は心臓麻痺と断定された。胃から多量のアルコールが検出されたが、ほかに他殺と断定されるようななにものも発見されていない。外傷もなかったし、プールの水もほとんど飲んでいなかった。
けっきょくこの事件はつぎのように片附けられた。
多量の飲酒の結果、笛小路泰久は一時的に精神錯乱におちいった。なにか奇妙な幻想にとりつかれたのではないか。そのプールをほかの場所とかんちがいして、みずから着衣を脱してとびこんでいったのではないか。
多年にわたるすさんだ生活のために泰久はそうとう心臓がまいっていた。そこへもってきてその夜の過度の飲酒だ。さらに高原の夜のプールの水の冷たさが拍車をかけて、心臓麻痺をひきおこす条件は十二分にそろっていた。泰久がほとんど水を飲んでいなかったところからみると、かれはプールにとびこんだ瞬間、心臓に|破《は》|綻《たん》を来たしたものと思われる。
泰久がこのような悲惨な幻想にとりつかれた原因のひとつとして、過度の飲酒のほかにもうひとつその夜の霧があげられている。
霧はこの高原の名物だが、ことにその夜の霧はひどかった。とくに神門プールの附近では午後八時以降、懐中電灯をもっていても三メートルさきは見透しがつきにくかった。正常な神経の持ち主でも、なにか異常な錯覚におちいりそうな晩だったという。
さて問題の神門プールだが、いうまでもなく神門土地の経営するところで、冬はスケート・リンク、夏は貸しボートや釣堀として営業している半人造池である。長さ五十メートル、幅三十メートルほどの正確な|矩《く》|形《けい》をなしており、そばに二階建てが建っている。階下は喫茶店兼簡易食堂、二階のたたみじきの大広間は、東京の中華料理店が出張している。冬はここがスケーターたちの宿舎になる。
問題の晩はいまいったような天候だったから、八時ごろには階上にも階下にも客はいなかった。釣堀の客も七時ごろには引き揚げていた。しかし、使用人はそうとうたくさんそこに寝泊まりしているのである。
解剖の結果、泰久の死亡時刻は八月十五日の午後十時から十一時までのあいだと推定されているが、その時刻には神門プールの使用人たちはまだ起きていた。なかには盆踊りを見物にいったものもあるが、大部分は濃霧にヘキエキしてのこっていた。それにもかかわらずかれらのうちのだれひとりとして、ひとの争うような気配を聞かなかった。助けを求めるような声もきこえなかったといっている。
もっとも泰久の衣類が発見されたあたり、したがってかれが入水したと思われるへんは、建物のある地点から対角線をえがいたいちばん遠いところにあたっている。しかし、霧のふかいしずまりかえった夜のことだから、ひとの争う気配があったら気づかぬはずはなかったであろう。
そういう点からも泰久の精神錯乱説が有力視されたのだが、それにたいしてただひとり他殺説を持してゆずらぬ人物があった。軽井沢署の捜査主任日比野警部補である。
日比野警部補はまだ若くて功名心にもえていた。それにしても、かれが泰久の死を他殺とみなした根拠というのは……。
泰久の死体が解剖されたとき、かれの性器や陰毛から性交の痕跡が発見されている。
水に浮かんだ泰久の死体がプールの使用人によって発見されたのは、十六日の未明六時ごろのことである。泰久の入水が前夜の十時から十一時までのあいだとしても、かれの死体は七時間前後水につかっていたことになる。したがって発見された性交の痕跡もごくわずかで、そこから相手の婦人の血液型を鑑定することは不可能だった。
だが、それによって泰久が入水以前の数時間以内に、異性と情交をもったということは、動かしがたい事実として証明されている。
(だが、その女はいったいだれだったのか)
デンのアーム・チェヤに身を埋めた忠熈は、長い指をからませながら考える。額にシワがきざまれて、いきおい表情がけわしくなった。
泰久のために保釈金をつんだのは千代子だった。と、すると……と、忠熈のおもてがますます険悪になったとき電話のベルが鳴り出した。
受話器をとると多岐の声で、
「一彦さまからですが……」
「ああ、そう、つないでくれ」
忠熈の顔はいっしゅん明るくなった。電話のむこうで若い声が、
「もしもし、おじさん? こちら一彦です」
「一彦ですもないもんだ。君、どうしてこちらへ来なかったんだ」
「すみません。ゆうべ停電になったでしょう。ご迷惑をおかけしてもと思ったもんですから」
「そんな遠慮はいらなかったんだ」
一彦が遠慮したのは停電のことより、鳳千代子の姿を見かけたからだろう。
「それでいまどこにいるの?」
「的場先生……的場英明先生のお|識《し》り合いの別荘でお世話になってるんです」
「その別荘どこにあるの」
「南原です」
「それできょうの予定どうなってるんだい」
「|午《ひる》|過《す》ぎ的場先生とお伺いしようと思ってたんですが、そちらいかがですか。たいへんだったんじゃないですか」
「たいへんだったね。そのへんどう?」
「いまお世話になっているおたくはたいしたことないんですが、おむかいの|落《か》|葉《ら》|松《まつ》林がもののみごとにやられてますね。太いやつほどひどいようです」
「こっちもそうだ。ご自慢の落葉松林がきれいさっぱり|薙《な》ぎ倒されて、なんだかあたりが急に広くなったようだぜ」
「そりゃたいへんでしたね」
「あっはっは、お悔みはいいが、それよりこっちへこないか。的場先生にもしばらくぶりでお眼にかかりたいから」
「お伺いしてもいいですか」
「ああ、いいとも。もっともこのていたらくだからロクなおもてなしはできないけど」
「いや、そんなことは……じゃ、一時ごろお伺いします」
「ああ、そうそう、君、こちらへくるんならひとつおれに頼まれてくれないか」
「はあ、どういうことですか。なんでも……」
「君、笛小路の別荘しってたね。桜の沢のとっつきなんだが……」
一彦はちょっと黙っていたのちに、
「はあ、存じております」
「じゃ、ここへくる途中ちょっと見舞ってやってくンないか。美沙という娘がひとりで心細がってるらしい」
「美沙ちゃんひとりなんですか。お|祖《ば》|母《あ》ちゃまはどうしたんです」
「|篤《あつ》|子《こ》|刀《とう》|自《じ》は東京へいってまだかえっていないそうだ。そうそう、君、信越線が不通になってるのしってる?」
「はあ、けさ五時ごろ第何号トンネルでしたか、入口に大きな土砂崩れがあったそうです」
「熊の平のへんらしいな。それですぐにはこちらへかえれないって、東京から電話があったらしい。それで美沙という娘が心細がって、さっき電話をかけてきたんだがね」
一彦はまたちょっと黙っていたが、
「承知しました。じゃ、途中寄ってお見舞いしてきましょう」
「そうしてくれたまえ、じゃ、のちほど」
受話器をおいたあとしばらく忠熈の額はつやつやと輝いていた。楽しそうな生気が秀麗なおもてを若々しいものにしていた。しかし、すぐまたその顔は暗い回想の|淵《ふち》に沈んでいく。
その夜泰久と情交をもったとおぼしい女は、とうとう捜査線上にうかんでこなかった。そして、日比野警部補は敗北したのである。
しかし、日比野警部補がこの事件に、ふかい疑惑をもったのにはもうひとつ重大な理由があった。笛小路泰久と因縁浅からざる人物が、当時ぜんぶ、この軽井沢にあつまっていた。役者が|揃《そろ》っていたのである。
笛小路泰久のかつての妻鳳千代子は、かれと別れたあと、三人の男と結婚して別れた。しかも彼女は目下五人目の男と恋愛中だった。鳳千代子の持った四人の夫のうち、二番目の夫は去年の暮れに死亡していたが、あとの三人は健在で、みんなこの軽井沢へきていた。
もちろん鳳千代子もきていた。千代子が目下恋愛中の五人目の男、飛鳥忠熈もこの万山荘に滞在していた。千代子と泰久のあいだにうまれた娘の美沙も、泰久の継母篤子とともにこの高原の別荘に避暑にきていた。
それらの人びとは、てんでにちがった場所に滞在していたのだが、笛小路泰久が変死をとげた時刻に、この軽井沢にいたことはたしかなのである。このことが日比野警部補の疑惑をかきたてたと同時に、さらにそれに拍車をかけたのは、その前年の暮れに死亡した千代子の二番目の夫を死にいたらしめた犯人が、まだわかっていないということである。
そのときまた、電話のベルが鳴り出して忠熈の瞑想を破った。こんどの電話は熈子だった。
「お父さま、こちら熈子、そちら、たいへんだったんですってね。いま、多岐に聞いたんですけど」
「こちらもこちらだが、そちらどうだった?」
「こちら案外被害が少なかったんですの。木は相当倒れたんですけれど、さいわい大きな木がないものですから」
「川が|氾《はん》|濫《らん》しなかったかね」
「それを心配したんですけれど、どうやらさいわい。……でも、お父さまが植えてくだすった白樺はぜんぶ根こそぎ倒れてしまったわ」
「あっはっは、こっちもおんなじだ。白樺は根が浅いようだね。それはそうと、ゆうべはひとりで心細かったろう」
「ええ、でも、栄子さんがおりますから」
「しかし、その栄子は盆踊りに出かけちまったというじゃないか」
「あら!」
と、鋭い叫びが|耳《じ》|朶《だ》をうって、しばらく黙っていたのちに落ち着いた声がきこえてきた。
「お父さま、どうしてそんなことご存じ?」
「なアに、笛小路の娘からさっき電話があったんだよ。あそこの女中といっしょだったそうじゃないか」
忠熈は気軽にいったつもりだが、ノドのおくに魚の骨がひっかかったような声になっていた。
かえって熈子のほうが快活に、
「そういえば栄子さんを出したあとで停電でしょう。風はだんだんきつくなってくるし、ちょっと心細かったんですけれど、まさかまともにこちらへくるとは思ってなかったもんですから……」
「東京へは連絡したかい?」
「ええ、さっき電話がかかってきました」
よそよそしい声である。
「で、どうなの。すぐ来るって?」
「ええ、上越線まわりで来るっていってましたけれど、相当おそくなるでしょう。そうそう、さっき神門土地の川本さんからお電話でした」
「ああ、そう、こちらへもかかってたようだ」
「川本さんが人を寄越してくださるそうですから、お父さまはご心配なく。そちらこそお大事に」
「ああ、そう、ありがとう。じゃ、また」
受話器をおいた忠熈は放心したように荒れはてた窓外に眼をやっている。娘のいやによそよそしい口調が親としてはなんとなく淋しいらしい。
桜井は活動家である。だいぶん発展しているらしいのはやむをえないとして、せめて週末ぐらいは熈子のもとへかえってきてやってくれればよいのに。……
だが、忠熈は首をつよく左右にふって、また昨年以来の回想にかえっていく。
鳳千代子は明治から大正、昭和の初期へかけて美人画の大家といわれた鳳|千《ち》|景《かげ》の娘にうまれた。母の歌子は新橋の|名《めい》|妓《ぎ》といわれた女で踊りの妙手であった。千景に師事して日本画を習っているうちに恋におちて結婚した。
千代子はこの夫婦のあいだのひとり娘としてうまれた。大正十四年のうまれだから、ことしかぞえで三十六歳になる勘定である。
新橋の名妓という前身をもつ母の腹にうまれた千代子は、|類《たぐ》いまれな|美《び》|貌《ぼう》と才気にめぐまれていた。芸事に興味をもち、すぐれた素質と天分にめぐまれていた。
女学校二年のとき千代子は父をうしなった。母はあらためて踊りの師匠として世に立つことになった。千代子も自活ということを真剣に考えはじめた。
女学校三年のとき彼女は、すすめる人があって東洋キネマへ入社した。東洋キネマのスタジオは京都にあったので、千代子は、うまれてはじめて|親《おや》|許《もと》をはなれて、京都にある母の知人のもとにあずけられた。ときに千代子かぞえで十六、昭和十五年のことである。
これよりさき、東洋キネマには笛小路泰久が入社していた。華族出身という肩書きと貴族的な美貌が売りものになっていた。
笛小路泰久は子爵、笛小路|泰《やす》|為《ため》の|妾腹《しょうふく》の子にうまれたが、泰為の正妻篤子に子がなかったので生後すぐ本宅へひきとられた。
千代子は泰久の相手役として迎えられたのだが、この美男美女のコンビはすぐ東洋キネマのドル箱になった。昭和十五年以来ふたりのコンビ映画はたてつづけに作られたが、泰久がいつまでたっても美男スターの域より出なかったのに反して、千代子は一作ごとに演技力に成長をしめして、後年大女優といわれる基礎をつちかっていた。
しかし、ときあたかも太平洋戦争へ突入する直前である。いつまでも甘ったるい美男美女のコンビ映画の許されるはずはなかった。
笛小路泰久と鳳千代子駆け落ちのニュースが世間をおどろかせたのは、昭和十七年九月、太平洋戦争はすでに|勃《ぼっ》|発《ぱつ》していた。ふたりは世間からきびしい非難をうけ、映画界から追放された。ふたりの仲はだいぶまえから取り|沙《ざ》|汰《た》されていたのだが、駆け落ちという非常手段に訴えなければならなかったのは、泰久の継母篤子がこの結婚を許さなかったからである。
昭和十八年泰久が応召した。その翌年千代子は美沙をうんだ。千代子にとっても、美沙にとっても仕合わせだったことに、事態はいちじるしく変わってきていた。泰久にもしものことがあれば笛小路のあとが絶えるわけである。千代子は入籍を許され、美沙は篤子にひきとられた。
映画界へ復帰が許されなかった千代子は移動劇団に加入した。新劇俳優や歌劇出身の俳優などで組織している一座で、ここで千代子は二番目の夫阿久津謙三と|相《あい》|識《し》った。
|巷《こう》|間《かん》つたうるところによると鳳千代子と阿久津謙三は、この時代、すでに関係があったのではないかといわれているが、千代子は強くそれを否定している。千代子じしんのいうところを信用するならば、彼女は多くの夫をもったが、同時にふたりの男に許したことはなかったという。この移動劇団時代、座長格の阿久津謙三からきびしい指導をうけたことが、戦後映画界へ復帰したとき、大きなプラスになったことはいうまでもない。
昭和二十年三月九日夜の空襲で、麻布市兵衛町にあった笛小路家は焼失した。それよりさきすでに夫をうしなっていた篤子は、岡山の知人のもとへ疎開の荷物を送っていた。多くの困難のすえ孫の美沙とともに岡山へ疎開した篤子は、六月二十八日の夜、警報なしの大空襲に見舞われた。彼女はふたたび作州の津山へ知人をたよって疎開した。二度の戦災で篤子も美沙も終戦のころは着のみ着のままだった。九州の炭鉱都市で終戦を迎えた千代子が、篤子や美沙をたずねて津山へやってきたのは十月も下旬になってからだった。千代子がわが子に会ったのは一年二か月ぶりだった。
その年彼女は実母の歌子をうしなっている。移動劇団は終戦と同時に解散したが、敗戦というきびしい現実がかえって彼女にさいわいした。千代子は映画界に復帰を許された。そのときかぞえどしで二十一歳。それからあとのことは世間がよくしっている。
昭和二十二年の春彼女は吉祥寺に家をかって、篤子と美沙を津山からむかえた。笛小路家はすっかり没落していたので、篤子はかつて排斥した嫁の|旺《おう》|盛《せい》な生活力に依存するよりほかなくなっていた。千代子は、この|姑《しゅうとめ》と|同《どう》|棲《せい》することを好まず、じぶんは女学校時代の友人のもとに同居していた。
昭和二十三年の春、泰久が南方から復員してきた。千代子は成城に家をかって同棲した。しかし、この夫婦生活は一年しかつづかなかった。千代子は成長していたのである。
泰久も映画界に復帰したが、戦後の好みは戦前とがらりとかわっていた。おひらの長芋式の美貌だけでは通用しなくなっていた。演技力でももっていればともかくだが、その点泰久はゼロにちかかった。復員後二、三本映画をとったきりで泰久は映画界から見限られた。
昭和二十四年のはじめにふたりは円満に離婚した。泰久にとってはこの妻が重荷になっていたらしい。家を出たかれは吉祥寺の母のもとへかえったが、ここにもいづらかったらしい。まもなくそこを出た泰久はいろんなことをやったあげく、自動車のブローカーのようなことをやっていたらしいが、昭和三十四年の春、サギ罪に問われた。
終戦後阿久津謙三は新しく「草の実座」を組織し、統率していた。二十五年ごろ「草の実座」もどうやらものになっていた。二十四年いっぱいでフリーになっていた千代子は、二十五年の春阿久津にこわれるままに「草の実座」に客演した。これを契機としてふたりのあいだに急速に恋愛がもえあがった。その年の秋阿久津は|糟《そう》|糠《こう》の妻をすてて千代子と結婚した。千代子はかぞえで二十六、阿久津はおなじく四十八歳。阿久津に捨てられた妻は元新劇女優で藤村夏江といった、当時三十四歳であった。
だが、この夫婦生活も長続きしなかった。二十八年の春ふたりは円満に離婚した。
その翌年千代子は洋画家の槙恭吾と結婚している。ふたりを結ぶきっかけとなったのは、ある週刊誌の依頼で、槙が千代子をモデルとして表紙絵をかいて以来だといわれている。千代子は二十九歳。槙は三十三歳だった。
そのころから千代子の恋愛遍歴がジャーナリズムの話題をにぎわしはじめた。結婚当時、すでにこんどの結婚もながつづきしないのではないかと取り沙汰されていた。
昭和三十一年の春、はたして千代子は三度目の夫とも別れた。離婚成立後彼女はパリに遊んだ。パリへとぶまえ彼女はとうぶん恋愛しないつもりだと宣言したが、その舌の根のかわかぬうちに、パリで勉強中のわかい作曲家、津村真二との恋愛沙汰が海のかなたからきこえてきた。
その年の秋、千代子が帰朝するのを追っかけるように津村がかえってきた。あっというまに結婚してジャーナリズムをにぎわした。千代子三十二歳、津村真二は二十八歳。千代子ははじめて年下の夫をもった。
この四度目の結婚もながつづきしなかった。三十二年の秋にはもう試験別居と称してわかれていたが、三十四年の春にはもう完全に離婚していた。この試験別居中に彼女は飛鳥忠熈と|相《あい》|識《し》ったのである。
以上が鳳千代子の恋愛遍歴の経過だが、ふしぎに彼女にたいするジャーナリズムの風当たりは悪くなかった。おそらく彼女がいつも率直でフランクだったせいだろう。彼女はたびたび夫をかえたが、その|挙《きょ》|措《そ》進退はいつも公明正大で、暗いかげのないのがよかった。
それにしても、最初の夫によってもうけたたったひとりの娘、美沙にたいして千代子はどのような愛情をもっていただろう。戦後彼女は美沙にたいして養育費を送りつづけているのだが、それが愛情よりも責任感により多く、支配されているのではないとしたらさいわいなのだが。
美沙は両親のうちのどちらに似たのか、たいへんきれいな少女に成長した。ただし、千代子の健康的で華麗なうつくしさに反して、美沙はデリケートで、どこかこわれやすい工芸品みたいな美しさをひっそりと育てていた。日蔭に咲いた花のような病的な美しさでもあった。
体があまり丈夫でなかったせいでもあったろう。小さいときから小児|喘《ぜん》|息《そく》の持病があって、発作を起こすと夜中つづくこともあった。そんなとき小さい肉体をむしばむ病苦は、眼もあてられないほど残酷だった。体の発育がおそく学校も一年おくれた。その学校も二年でやめてしまった。そのあとは祖母の篤子が家庭で教育している。
こういう手のかかる子をとにかくここまで育ててきたのは、あきらかに祖母の篤子の丹精の結果であった。その点、千代子はいつも感謝している。
昭和二十八年、美沙の喘息の発作がいちばんひどかったころ、医者のすすめで千代子は、美沙のために、軽井沢に別荘をかってあてがった。それがよかったらしい。それ以来、美沙は毎年夏を祖母とともにこの高原の避暑地で過ごすのだが、ちかごろではめっきり丈夫になっていた。どうやら喘息とも手が切れたらしかった。
さて、まえにもちょっと触れたように、昭和三十三年の暮れも押しせまったころ、鳳千代子の二番目の夫、阿久津謙三が不慮の死をとげているのだが、忠熈の回想はいまそのあたりを|彷《ほう》|徨《こう》している。
阿久津は昭和二十八年に千代子とわかれて以来、もとの妻のもとへもかえらなかった。アパートでやもめ暮しをやっていた。
いちじ中ダルミと非難されていた劇団への情熱が、ものすごくもえはじめたのもそのころからのことであった。
「草の実座」はうまくいっていた。
阿久津以外はほとんど戦後養成された新人ばかりなのだが、そのひとたちの舞台もおいおいものになってきていた。新劇団につきものの経済的な困難もテレビや映画が解決してくれた。
いちじはアルバイトが多過ぎると非難されたくらいであった。
昭和三十三年度において「草の実座」は四回の意欲的な公演をもった。四回ともそうとうの業績をあげたと自負していた阿久津謙三は、その歳末は大いに満足だったはずである。
暮れも押しせまった二十八日の夜、「草の実座」の関係者一同は、築地のさる料亭で忘年会を催した。忘年会はすこぶる盛会で出席者は三百人をこえた。おそらくこのときが阿久津謙三にとって、生涯におけるもっとも輝かしき日であったろうと、のちになって取り沙汰された。
この忘年会の途中で、当時鳳千代子と試験別居中だった四番目の夫、津村真二が阿久津謙三を訪ねてきたということがのちになって問題となった。
そのことについて津村は、たまたまその附近を通りかかったので、ただちょっと敬意を表しに立ち寄っただけだといっている。しかし、その席にいたものの話によると、阿久津は宴会の席をはずして三十分あまり、別室で津村真二と密談している。しかも、その部屋から出てきたときの津村の顔は、毒のトゲにでもさされたように硬直しており、|瞳《ひとみ》もうわずっていたようだといわれている。
なおそのうえに、|蹌《そう》|踉《ろう》たる足どりで出ていく津村のうしろ姿を見送って、阿久津謙三が暗い顔をして、こう|呟《つぶや》いたのを側近のものが耳にしている。
「あの男ももうながいことはないな」
このもうながいことはないといった阿久津のことばが、千代子との関係をさしているのかどうかハッキリしない。しかし年が明けるとともに津村と千代子の離婚が正式に発表されたところをみると、なにかそれに関係があったのではないかと側近のものはもらしている。
阿久津謙三があの|奇《き》|禍《か》にあって落命したのは、そのことがあってからわずか二時間のちのことである。
忘年会のあと阿久津謙三はわかい劇団員や批評家を数名つれて、銀座裏のバーからバーへと飲んであるいた。五十を越えても阿久津は酒が強かった。しかし、その夜の阿久津の酔いかたには、多分に異常なところがあったという。
何軒目かのバーを出たとき阿久津はひどく|酩《めい》|酊《てい》していた。ほかの連中も阿久津に劣らず酔っ払っていた。
一同が一団となってバーを出たとき、トラックがそこを通りかかった。阿久津だけが走りぬけたが、ほかの連中はトラックの通りすぎるのを待っていた。
トラックが通りすぎたとき、一同は一台の自動車がフル・スピードでむこうの角をまがるのを見た。自動車が通りすぎたあとの路上に阿久津謙三が倒れていた。
自動車の方向指示器が阿久津謙三の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》をむざんに粉砕していったのだとわかったとき、問題の自動車はもうどこにも見当たらなかった。
阿久津謙三は不幸にも、神風タクシーの暴走の犠牲になったのだということになっている。しかし、だれもそれがタクシーであったかどうかハッキリ証言できるものはない。なにしろ|咄《とっ》|嗟《さ》の|椿《ちん》|事《じ》だったし、目撃者はみんな泥酔していた。大型車だったということに目撃者の意見は一致しているが、車の種類まではわからなかった。バック・ナンバーの色まで見わけたものもいなかった。
軽井沢署の捜査主任日比野警部補のごときは、白ナンバーだったのではないかという、ふかい疑惑をもっているようだが。
しかも、それから数か月たった去年の夏、こんどは鳳千代子のさいしょの夫、笛小路泰久が軽井沢の神門プールから、世にも珍妙な変死体となって発見されたのである。
みたび卓上電話のベルが鳴り出した。受話器をとると多岐の声で、
「鳳さまからお電話でございますが……」
忠熈はドキッとした。時刻は十二時になんなんとしている。いままで見舞ってやらなかったうしろめたさを感じながら、
「ああ、そう、つないでおくれ」
「でもよろしいんでしょうか。なんだかひどく取り乱していらっしゃるようですけれど」
「いいからおつなぎ。なぁに、台風で興奮してるんだろう」
しかし、あの女にも似合わぬことだと思っていると、まもなくカン走った女の声が電話のむこうで|炸《さく》|裂《れつ》した。
「な、な、なんだって?」
忠熈も思わずおどろきの声を爆発させた。すぐにじぶんをおさえると、落ち着いて、支離滅裂な女の訴えを聞きおわった。
「よし、いますぐいく。いいですか。落ち着いて、しっかりしているんですよ。あなたらしくね」
受話器をおくとしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》としていたが、やがて多岐に命じて外線につながせた。みずからダイヤルをまわすと、
「もしもし、南条さんのおたくでいらっしゃいますか。こちら、飛鳥……飛鳥忠熈というものですが、金田一先生、金田一耕助先生はいらっしゃいますか。ああ、そう、恐れ入りますが、ちょっとお電話口まで」
第三章 考古学者
金田一耕助は南原の入口にある無人踏切りのそばに立って、飛鳥忠熈からのむかえの自動車を待っていた。
台風はもうすっかりおさまっていたが、空はまだ|暗《あん》|澹《たん》とくもっていて、吹きちぎられて飛んでいく雲脚が矢を射るように速かった。すぐ眼のまえに|突《とっ》|兀《こつ》としてそびえている離山は、六合目あたりまで山肌をみせているが、西北方にみえるはずの浅間の山は、すっかり雲におおわれている。
無人踏切りのすぐそばにふとい四角な柱が立っていた。焼け石を組み合わせてセメントでかためた柱で、南原の入口をしめす標柱である。金田一耕助はその柱のそばにたたずんで、|袂《たもと》からとりだしたピースのいっぽんに火をつけた。
おりおり思い出したように吹きつのってくる台風のなごりの風が、金田一耕助のもじゃもじゃ頭をかきまわし、白ガスリの袂や袴の裾をバタバタとはためかせる。ときおりパラパラと大粒の雨が落ちてくるかと思うとすぐやんだりした。
金田一耕助がいまたたずんでいるすぐ眼のまえを、国道第十八号線が東西に走っている。この国道を西へすすむと追分をへて北上し、直江津へ達する。東へいくと|碓《うす》|氷《い》峠から南下して高崎である。
高原野菜を出荷するのでいつもこの国道はめまぐるしいほどの交通量なのだが、きょうはその国道の一部に不通の箇所ができているせいか、いつもほどではないようだ。それでもバスやハイヤーや自家用車、オートバイや自転車などとそうとうのものである。みんな台風でおくれたところを取り戻そうとしているかのようだ。ノンビリそこに立っている金田一耕助の|風《ふう》|采《さい》を、うさん臭そうな眼でジロジロ見ていくものもある。
国道をへだてたすぐむこうがわにだれの屋敷か、古い由緒をおもわせる日本家屋の大きな構えがドッシリとそびえており、これまた古い由緒を物語るようなみごとな土塀がながながとつづいているのだが、大きな屋根をおおうていた瓦はほとんど吹っ飛んでしまっていて、ところどころまだらに禿げた屋根がみじめである。屋根のなかからふとい紅葉の樹がよこだおしに倒れていて、土塀の一部をぶちこわしたうえ、国道のうえまでよく繁った梢をのぞかせている。
気がついて国道のあちこちを見まわすと、道の上いちめんに屋根瓦の破片や、木の葉や枝が散乱しており、国道に沿った電柱という電柱が将棋だおしに倒れていて、そこから垂れた電線が蛇のように地をのたくっている。
それはけさこの土地をおそった台風がいかに猛烈なものであったかを物語っているのだが、それを見守る金田一耕助の眼にはほとんどなんの感動もあらわれていない。旅人の心をもっているからであろう。
腕時計を見ると、一時三分まえ。
もうそろそろ一時一分中軽井沢着の「白山」が、この踏切りを通過する時刻だが……と、新軽井沢のほうへ眼をやってから、金田一耕助は列車が不通になっていることを思い出して苦笑した。
迎えの自動車はまだこない。金田一耕助はもう一本ピースを出して火をつけた。どうやら天気は快方へむかうらしく、あたりが少し明るくなった。離山をおおうていた雲か霧かが少しずつはがされていって、やがて奇妙なかたちをしたこの山の頂きが見えはじめた。この山は一名|兜山《かぶとやま》ともいい、外人はヘルメット・ヒルと呼ぶ。
金田一耕助はゆっくりピースをくゆらしながら、その山の頂きを見ているうちに去年のことを思い出した。
金田一耕助は去年もちょうどいまじぶんに、南原の南条家の別荘に滞在していた。
有名な国際的弁護士南条誠一郎は金田一耕助の郷土の先輩にあたっている。あるじの誠一郎はいそがしい人物だから、ほとんどこの別荘にくることはない。毎年夫人と学校の教師をしている息子夫婦が子どもをつれてやってくるが、その別荘に小ぢんまりとしたバンガローふうの離れがあり、金田一耕助はいつでもそこを自由に使ってよいことになっている。
去年金田一耕助はそのバンガローに滞在中、ふとした気まぐれからひとりで離山へ登っていった。頂上へつくと浅間がよく見えよい景色であった。しかしまもなく霧がやってきそうになったので、あわてて下山しようとする途中で、挙動不審な男女のふたりづれとすれちがった。
妙な胸さわぎをおぼえた金田一耕助は男女のあとを追って頂上へ引きかえした。かれの予感は的中した。金田一耕助は毒をのんで離山の頂上の洞穴のなかに、身をよこたえているふたりの男女を発見した。かれの通報がはやかったので男のほうは生命をとりとめたが、女のほうはまにあわなかった。金田一耕助の通報によって救助隊が駆けつけたとき、女のほうはすでにこと切れていたのである。
あさってがちょうどあのあわれな女の一周忌である。助かった男のほうはそのごどうしただろうか。名前はたしか田代信吉といったとおぼえているが……。
「おや」
と、いう声が身ぢかに聞こえて、
「なアんだ。金田一先生……金田一耕助先生じゃありませんか」
「えっ?」
と、ふりかえった金田一耕助は、そこに立っているふたりづれの男のうち、年かさのほうの顔を見て、
「あっと、的場先生でしたね」
と、思わず口許をほころばせた。
「的場先生でしたねもあったもんじゃない、金田一先生、こんなところでなにをぼんやり考えこんでいらっしゃるんです。時間が時間だからいいようなもんの、こんなところで深刻な顔をしてらっしゃると、飛び込み自殺とまちがえられますぜ」
「まさか」
と、金田一耕助はもじゃもじゃ頭をひっかきまわしながら、
「ぼ、ぼく、そんなに深刻な顔をしてましたか」
と、ちょっとテレて苦笑した。
「深刻もいいとこでしたよ。あっはっは。ああ、紹介しときましょう」
と、かたわらに立っている青年をふりかえって、
「村上君、君、金田一耕助先生をしっとるだろう」
「はあ、お名前は存じあげております」
青年はニコニコしながら丁重に答えた。
「こちらその金田一耕助先生。金田一先生」
「はあ」
「あなた神門産業の飛鳥忠熈氏をご存じでしょう」
「はあ……?」
と、金田一耕助は眼をショボつかせて、
「もちろん存じております」
「こちら昨年の秋まで飛鳥氏の秘書をしていた村上一彦君。飛鳥氏が神門産業の第一線を退いてから、また学校へ舞いもどって目下美学を専攻してるんです。まあ、わたしの弟子みたいなもんですね」
考古学者の的場英明は登山用のヘルメットをぬいで、きれいに髪をわけた額のあたりをハンケチでぬぐった。台風が去ると同時に気温が上昇しはじめているのである。
「あなた、飛鳥氏の秘書をしていたことがあるんですか」
金田一耕助はいささか|吃《ども》り気味で的場のそばにひかえている青年のほうに眼をやった。
「はあ」
と、一彦はあいかわらずニコニコしながら、
「でも、秘書たってたった半年です。学校を出ておじさんの秘書にしてもらったと思ったら、秋におじさん第一線を退いて、ぼくもお払い箱になっちまったんです」
「おじさんとおっしゃると……?」
「ああ、そうそう」
と、的場は国道の中軽井沢方面を気にしながら、
「金田一先生は飛鳥忠熈氏のお父さんの飛鳥元忠公爵が、昭和十年五月に暗殺されたことはもちろんご存じでしょう」
「それはもちろん」
「そのとき身を|挺《てい》して元忠公爵を救おうとして、公爵といっしょに反乱軍に射殺された、村上達哉という書生さんがいたのを|憶《おぼ》えていらっしゃるかな」
「はあ、そういえばそんな人物がいたことは憶えております。名前までは憶えていませんでしたけれど」
「このひと、元忠公爵にとっては忠義なご家来の村上達哉氏のわすれがたみで、飛鳥家でうまれ飛鳥家でそだった人なんです。だから忠熈氏をつかまえておじさんなんて呼んでるんですよ」
そういえばいかにも育ちのよさそうな青年で、しじゅうニコニコとおだやかな微笑をふくんでいるのに好感がもてる。ふたりとも、よく|糊《のり》のきいた純白の|開《かい》|襟《きん》シャツに白麻の半ズボンという軽装で、背中にルック・サックを背負っている。登山用のヘルメットもおそろいで、手に手にピッケルを握っていた。
「あなたがたずっとこの南原に滞在していらしたんですか」
金田一耕助はふたりの姿から眼をそらして、赤松と|落《か》|葉《ら》|松《まつ》におおわれた南原の別荘地帯をふりかえった。ふたりはいまそこから出てきたのである。
「いやあ、われわれは北アルプスからのかえりで、ゆうべひと晩この南原の知人のもとに泊めてもらったんです。金田一先生は?」
「ぼくは二、三日まえから南条……南条誠一郎の別荘に滞在してるんですが……」
「ああ、そう、あっはっは、それじゃわれわれは隣り同士にいたわけです。われわれが世話になってたのは北川晴久のうちですから。あのひと、わたしの学校の先輩なんです」
「それは、それは……で、これからどちらへ?」
「なあに、これから飛鳥氏の別荘へ押しかけてこうという寸法なんですが、あいにくハイヤーもタクシーも出払っちまって」
的場英明がさっきからしきりに中軽井沢のほうを気にしているのは、バスを待っているのであった。
「ああ、そう」
と、金田一耕助はわざと気軽に、
「それじゃごいっしょしましょう。じつはぼく、いまここで飛鳥氏からのお迎えの自動車を待ってるところなんです」
「飛鳥氏からのお迎えを……?」
的場はおどろいたように金田一耕助の顔を|視《み》|直《なお》した。一彦はハッとしたように、
「金田一先生」
と、思わず呼吸をはずませた。
「なにかまたあったんじゃ……」
「そうなんです。村上君、またあったんです。しかし」
と、金田一耕助はするどく一彦を見て、
「君はどうしてそう思うんです。なにかまたあったんじゃないかって」
「それは……それは……」
一彦のおもてに焦燥の色があらわれた。口ごもるそばから的場英明がひきとって、
「いや、金田一先生、その理由はかんたんですよ」
と、探るように金田一耕助の顔を視ながら、
「われわれはゆうべ鳳千代子女史に会ったんです。いや、会ったというわけじゃなく、旧道の附近を自動車を走らせているあの人を見かけたんです。きのう夕方五時ごろでしたかね。われわれがゆうべ飛鳥家訪問を遠慮したのもじつはそのためなんです。それに……」
と、あたりを見まわして、
「あちこちの電柱に津村真二君の演奏会のポスターが貼りつけてあるでしょう。そこへもってきて、飛鳥氏からあなたへお迎えがあったと聞きゃ、村上君ならずとも、なにかあったんじゃないかと、カングリたくもなるだろうじゃありませんか。村上君、そうなんだろう」
「はあ、なにしろ去年のこともありますから。それにしても、金田一先生」
と、一彦は金田一耕助のおもてに|瞳《ひとみ》をすえて、
「いったい、なにがあったんですか。ここでお|訊《き》きしちゃいけませんか」
「いや」
と、金田一耕助はみじかくさえぎって、
「いずれはしれることですから、ここでお耳に入れてもいいですよ。ただし、ぼくもまだくわしい事情はしらないんです。飛鳥氏からたったいま電話で聞いたばかりですから。その飛鳥氏じしんまだくわしいことはご存じないらしい。いま鳳女史から電話で報告があったばかりだといってましたから」
「いったい、なにが……」
「槙恭吾氏……鳳千代子女史の三番目のご主人ですね。その槙恭吾氏がけさ死体となって発見されたそうです」
「殺されたんですか」
一彦の声はしゃがれている。
「いや、自殺か他殺かまだハッキリしないらしい。しかし、警察ではいちおう他殺という見込みで、高原ホテルに滞在中の鳳女史を訪ねていったわけです。そこで鳳女史から飛鳥氏へ救いをもとめる電話があった。そこで飛鳥氏からぼくに事件調査の依頼があったというわけです。じつは……」
「はあ……?」
「このまえお眼にかかったとき、去年の事件について調査してもらえないかという話があったもんですから」
「わかりました」
的場英明は明快に、
「村上君、それじゃさっき君が電話で話をしたあとで、鳳女史から報告があったとみえるね」
「きっとそうでしょう。ぼくが電話で話をしたときには、おじさんとってもごきげんだったんですからね」
「さて、そうなると……」
的場は困ったように首をかしげて、
「おれはどうしたもんかな。こんな場合に押しかけてって、かえってご迷惑かもしれないな」
「でも、先生、顔を出すだけは出しておきましょう。迷惑そうだったらすぐ引き|退《さが》るとしても。どうせ汽車が不通になってるんですから、東京へかえるたってかえれもしないでしょう」
「そうそう、君は飛鳥氏からことづかってることがあったね」
「はあ、こんなことがあったとしたらなおのこと見舞ってあげなきゃ……あの|娘《こ》さぞ怖がることでしょうから」
「じつはね、金田一先生、あっはっは」
「どうかしましたか」
「いや、じつはぼく、この人のいわゆるおじさんのふところを|狙《ねら》ってるんですよ」
「飛鳥氏のふところを狙ってるとおっしゃると……?」
「金田一先生もモヘンジョ・ダロだのハラッパーだのという名前はご存じじゃありませんか」
「インダスの古代文明ですね」
金田一耕助もそのていどの考古学的知識ならもっていた。
「そうです、そうです。われわれじつはそこへいってみたいんです。ぼくとこの村上君ですね。探検隊を組織して。それには莫大な費用がかかるわけですが、飛鳥氏がいまそうとうの色気をみせてくれてるんです。あそこには神門奉公会というのがあって、育英事業につぎこんでるでしょう。その基金の一部をこちらへまわしていただけないかって、まあ、そういう話になってるんですが、こんなことが起こったとなると……いやア、はなはだえて勝手なことをほざいて申し訳ありませんがね。あっはっは」
豪快に笑いとばしながらも的場英明の当惑の色はかくしきれなかった。
考古学者にもふたいろある。いや、厳密にいえば三種類あるといえるかもしれない。
第一のタイプは冒険家的な考古学者で、みずから現地へおもむいて発掘に従事する人たちである。いまから一世紀ほどまえまでは、これらの人たちのなかには学者というより、ヤマ師的な人物が多かった。一八七〇年代にトロイヤを発掘して有名になったハインリッヒ・シュリーマンなどもたぶんにそういう傾向をもっている。シュリーマンのみならず、エジプトのピラミッドに手をつけた前世紀の発掘者たちもおおむねそれだ。そののちフリンダース・ペトリだの、レオナード・ウーリーだのというえらい考古学者があらわれて、現地における発掘者たちにも、学究的素養がつよく要請されるようになったのは結構なことである。どちらにしてもこれらのタイプの考古学者には強い体力が要請され、ウルを発掘したウーリー卿にしろ、クレタ島のミノスの宮殿を再現したアーサー・エヴァンズ卿にしろ、|齢《よわい》九十歳をこえてなお頑健であるという。
第二のタイプの考古学者は純粋に学究的な人たちだが、これにも二種ある。第一はエジプトのアマルナ文書やスメールの粘土板タブレットと取っ組んで、そこに書かれている古代の文字を解読しようという言語学者。第二はそれらを整理し、体系づけ、過去をいまに再現しようという歴史文化学者のタイプである。
的場英明はその三つのタイプを三つとも兼ね備えているとみずから信じ豪語している。かれの専門は古代オリエントなのだが、日本ではその方面の学者があまり多くないうえに、かれの言語学的な素養に太刀打ちできるものは、現在の日本にはひとりもいなかった。この男はおそらく語学の天才なのだろう。齢四十にみたないかれだが数か国語に通じているという。もっとも数か国語に通じているということと、言語学とはおのずからちがっているが、古代オリエントの象形文字や|楔《せっ》|形《けい》文字に通じていること、現在の日本ではこの男の右に出るものはないといわれている。古代インダス文明の絵文字はまだ世界でも解読されていないものだが、的場英明はさいきん解読のいとぐちをつかんだと発表して、世界中の考古学者のあいだで、一大センセーションをまきおこしたことを金田一耕助もしっている。多少ヤマカン的なところがあるにしても、この男が行動力にとんだ少壮の考古学者であることは、金田一耕助も認めるのにやぶさかでなかった。身長は一メートル七十四、五センチ。よくひきしまって均整のとれた|体《たい》|躯《く》をしており、ほどよく陽焼けした肌は赤ん坊のようにつややかである。冒険家としても理想的なタイプであろう。
「金田一先生」
「はあ?」
「おじさんはここへ自動車を迎えによこすといったんですか」
「いや、ぼくのほうからここでお待ちしてると申し上げたんです。家を探すのはやっかいでしょうからね。お迎えのひと南原をご存じないということでしたから」
「それじゃ的場先生」
「なぁに」
「秋山さんが迎えにくるにちがいありません。秋山さんがきたら、秋山さんに相談してみようじゃありませんか。お伺いしていいか悪いかってこと。ああ、むこうへきたキャデラックがそうじゃありませんか」
はたして国道十八号線を新軽井沢のほうからやってきた大型自動車が、そこにいる三人の姿をみると、いちどいきすぎて方向転換をしたのちに三人のまえへきてとまった。運転台からとびおりたのは秋山卓造だったが、さすがに真っ赤なセーターは平凡な開襟シャツと着がえていた。
「金田一先生ですね」
秋山は的場英明と一彦に眼で会釈をしておいて、金田一耕助のほうへむきなおった。
「はあ」
「おそくなって申し訳ございません。いたるところで樹が倒れてて通せんぼうをしてるもんですから、すっかり道草をくっちまいました。さあ、どうぞ、的場先生もどうぞ」
「えっ、われわれもいいんですか」
「おやじさんさっき一彦君に、いどころを聞くのを忘れたって悔んでました。おなじ南原だから、もしわかったらごいっしょにご案内してくるようにって。金田一先生とはお識り合いだったんですね」
「はあ、せんにある事件で、考古学的な知識が必要になったことがあって、的場先生のご教示をあおいだことがあるんです。じゃ、的場先生、おさきに失礼」
「さあ、さあ、どうぞ」
金田一耕助のあとから的場英明と一彦が乗り込むと、すぐ自動車が走り出した。的場英明は満足そうであった。
第四章 女と考古学
「秋山さん、槙さん……槙恭吾さんが殺されたんですって?」
自動車が走りだすとさっそく切り出したのは一彦である。呼吸がはずんでいた。
「ああ、いや、ところが一彦君、ぼくもまだくわしいことはしらないんだよ。金田一先生をお迎えしてくるようにと仰せつかっただけのことでね」
「場所はどこなんですか」
と、一彦がたたみかけた。
「矢ガ崎のアトリエらしいんだ。金田一先生」
「はあ」
「あなたは直接そちらのほうへご案内します。おやじさんもそちらのほうへ出向いておりますから」
「飛鳥氏は現場へいってらしゃるんですか」
的場英明は失望したように|眉《まゆ》をひそめた。
「はあ、でも、的場先生は万山荘……うちの別荘のほうへご案内しとくようにとのことでした。金田一先生がおみえになったらあとをおまかせしておいて、おやじさんはアトリエを引き払って別荘へひきあげるつもりらしいんです」
「秋山さん、鳳千代子さんは……?」
一彦にはそれが気になるのであった。
「鳳女史も現場にいるふうだったよ。ぼくはただアトリエのまえへおやじさんをおろしておいて、すぐこっちへ出向いてきたのでよくはわからないんだが……」
「金田一先生のお話によると自殺か他殺かわからないということですけれど、どういう死にかただったんですか」
「一彦君」
と、ハンドルを握った秋山は眼を前方にすえたまま、
「ぼくはいまもいったとおり、ただ表を素通りしてきただけのことだからね、ほんとになんにもしらないんだ。自殺か他殺かわからないなんてことも、いま聞くのが初耳なんだよ」
「まさか自殺じゃないでしょうな。いままでのいきさつからみて」
的場英明はなにげなくつぶやいたのち、はたと後悔したように口をつぐんだ。秋山もあまりそのことには触れたくないらしいので、話はしぜんとそこでとぎれた。
自動車はいま離山の下の道を旧道へむかって走っている。あたりを見まわすとなるほど|惨《さん》|澹《たん》たるものである。道の両側はいちめんに赤松と|落《か》|葉《ら》|松《まつ》林なのだが、樹齢の多い樹ほど被害が多かった。あるところでは樹齢五十年を越えそうな落葉松の群落が、巨大な|斧《おの》でなぎたおされたように、もののみごとに吹き倒されていた。ごっそり屋根をもっていかれたバンガローもあり、そこの住人らしい二、三人が茫然として自動車を見送っていた。
早大野球部のグラウンドのとなりに、ドッグ・ハウスの林立している空地があった。三つ四つドッグ・ハウスの倒れているのを、そこの経営者らしいのがやっきとなって起こしにかかっていた。
「金田一先生、ここなんですよ。白樺キャンプというのは?」
一彦が窓の外を指さして注意した。
「白樺キャンプというと?」
「笛小路泰久さんが入水するまえに、泊まっていらしたところなんです」
金田一耕助はギョッとしたように一彦の顔をふりかえると、あわてて背後の窓から外をのぞいた。白樺キャンプのドッグ・ハウスの群落はもう十メートルほど後方へとんでいた。
「笛小路さんはあんなところに泊まってたんですか」
「そうだそうです」
「でも、笛小路家にはこちらに別荘があるという話だったが……」
「はあ、でも……」
「でも……と、おっしゃると?」
一彦はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》したのちに、
「じゃ、ここで申し上げときましょう。いずれはお耳にはいる話ですから。笛小路家の別荘は桜の沢にあるんですが、その別荘は鳳千代子さんが、お嬢さんの美沙ちゃんというひとのために建ててあげた別荘で、美沙ちゃんは毎年そこへお|祖《ば》|母《あ》ちゃまとふたりで避暑にくるんです。しかし……」
と、一彦はちょっと口ごもって、
「どういうわけか泰久さんとお祖母ちゃまたちとは、東京にいてもべつべつなんだそうです。それだもんですから……」
一彦にはそれ以上のことはしっていてもいえないらしかった。それだけいったことだけでも後悔していた。
金田一耕助もその方面は遠慮して、
「笛小路さんはあのドッグ・ハウスにながく滞在していらしたんですか」
「さあ、ぼくもくわしいことはしりませんが」
と、慎重にまえおきしておいて、
「笛小路さんが死体となって発見されたのは、たしか去年の八月十六日の朝のことでしたが、その前々日の十四日の夕方、笛小路さんはあそこへやってこられたんだと聞いております。その晩ひと晩ドッグ・ハウスに宿泊された。十五日の晩もそこにお泊まりの予定だったらしいんですが、八時ごろふらふらとそこを出ていかれた。ウイスキーの瓶をかかえこんだままで、とっても泥酔していられたそうです。そして、その翌十六日の朝、不慮の最期をとげられているのが発見されたんですね。しかし、これみんな新聞情報なんですよ。みんな当時新聞からえた知識なんです」
と、一彦は微笑しながら附け加えることを忘れなかった。
笛小路泰久の死体が発見されたのが、去年の八月十六日の朝だったということは、金田一耕助の記憶にもつよくのこっている。
その朝かれは軽井沢のどこかのプールで、男の変死体が発見されたといううわさを聞いていた。そのうわさを聞きながしにしておいて、かれはその午後離山へのぼっていった。男女の情死体にぶつかり、そのひとりを助けた。その夜かれは軽井沢をたって帰京したので、その朝うわさにきいた男の変死体が、重大事件となって発展していきそうになったということをしったのは、東京へかえってから新聞によってえた知識であった。
「笛小路家の別荘は桜の沢にあるとおっしゃいましたね」
「はあ」
「その別荘と笛小路さんの死体が発見された神門プールとはそう遠くないんでしょう」
「はあ、でも、四、五百メートルはあるでしょう」
「ぼくもこれ、新聞でえた知識なんですが、あの晩笛小路さんの姿……生きている笛小路さんの姿をさいごに見たのは、笛小路さんのお嬢さんで美沙さんというかたらしいということを、新聞で読んだ記憶があるんですが……したがって笛小路さんごじぶんの別荘にいらしたことだとばっかり思ってましたが……」
「はあ、ですからあの晩笛小路さんは泥酔してドッグ・ハウスを出てから、桜の沢の別荘を訪ねていかれたんですね。ところがあいにくお祖母ちゃまが東京へいっていられてお留守だった。それであしたまた出直してくるといって、そこをまたふらふらと出ていかれたんだそうです。美沙ちゃんはあぶないから泊まってくようにと、しきりに引き留めたそうですが、それをきかずに振りきって出ていかれたんですね。美沙ちゃんもあとを追って出たそうですが、あの晩はぼくも憶えてますがとってもひどい霧でした。それで美沙ちゃんすぐ見うしなってしまったんですね。笛小路さんがあの災難にあわれたのはそれからまもなくのことらしいんです。死体の浮かんでいた神門プールというのは、桜の沢の別荘からドッグ・ハウスへかえるちょうど途中にあるんですね」
金田一耕助にたくみに誘導されていると意識しながら、一彦はおしゃべりの誘惑をおさえることができなかった。おしゃべりをしてから後悔をして唇をかむのであった。しかし、いっぽうでは金田一耕助にいくらかでも、この事件についての予備知識をあたえておいてやろうという、思いやりがはたらいていたのであろうことを、金田一耕助はのちに思いあたった。村上一彦とはそういう青年なのである。
「金田一先生は」
と、そばから助け舟を出すように的場英明がことばをはさんだ。
「去年のあの事件とこんどの事件と、やはり関係があるとお思いですか」
「いや、ぼくはいまのところまったく白紙なんです。じつは飛鳥さんから去年の事件について、調査してもらえないかというご依頼をうけたのは一昨日のことです。ぼくはそれについてまだ確答は申し上げてなかったんですが、さっきのお電話でついふらふらと飛びだしてきたようなしまつで……これから、まあ、いろいろなことをしらねばならないでしょう」
「金田一先生」
さっきからうしろの会話を聞いていたらしい秋山卓造が、運転台から声をかけた。
「はあ」
「あなたはいますぐ笛小路家の別荘をごらんになることができますよ」
「と、おっしゃると?」
「一彦君、あんた美沙という娘を見舞いにいくことになってるんだろう」
「秋山さん、ぼくを桜の沢まで送ってくれますか」
「ああ、的場先生をまずうちの別荘へご案内して、それから桜の沢へまわる。金田一先生、矢ガ崎の現場がいちばん最後になりますが、どうぞご勘弁ねがいます」
「ええ、いいですとも」
「的場先生」
「はあ」
「別荘にはお多岐さんという老女がいます。なんでもそのばあやに仰せつけください。書斎には先生ご専門の考古学の本がギッチリつまってます。どうぞご自由にごらんになってくださるよう、御前からのおことばです」
「いや、どうも。飛鳥氏の蔵書はわれわれにとっても|垂《すい》|涎《ぜん》の的ですからね。いつかは拝見したいと思ってたところです」
的場英明はクッションに背をもたらせてごきげんだった。
自動車は六本|辻《つじ》から旧道の商店街へ入ったが、ここへ入ってきてけさの台風の惨害をまた改めて思いしらされた。どの店も看板が吹きちぎられ、屋根瓦が吹っとび、なかには二階がペシャンコになっているところもある。舗装された路の両側から|泥《ど》|溝《ぶ》が|氾《はん》|濫《らん》して水びたしになっているところもあり、いたるところで電線が垂れさがっていた。
旧道を突っ切るとまもなく旧軽井沢である。自動車は大きな別荘の表へついた。いや、大きな別荘といったが、奥がふかいのと木立ちが多いので、建物そのものはほとんど見えなかった。門も木製の丈のひくい車止めを三つ|鼎《かなえ》にならべてあるだけで、生地まるだしのその車止めも雨に打たれて黒ずんでいた。ただ、門からなかの浅間砂利をしきつめた道の両側に、|落《か》|葉《ら》|松《まつ》の大木が二列にならんでいるのがみごとだった。風の方向のせいだったのか、この落葉松並木は無傷であった。落葉松並木のしたの、柔かい|毛《もう》|氈《せん》をおもわせる|苔《こけ》の緑もすばらしかった。秋山がさっきからクラクションをはげしく鳴らしつづけていたので、老女の多岐が門のところまで出迎えていた。
「お多岐さん、じゃ、的場先生をお願いするよ。的場先生、じゃのちほど」
自動車はまた走り出した。
飛鳥家の別荘をはなれて二分ほど、狭いまがりくねった坂をくだったところで、
「金田一先生」
と、秋山が運転台から声をかけて、
「左手にみえるのが高原ホテル。鳳女史が軽井沢へくるといつも泊まるホテルです。三年まえから神門土地の経営になってるんですよ。なにしろうちの御前ときたら、一見紳士ふうで、虫も殺さぬ顔をしてますが、事業にかけちゃ鬼より怖い。なんでもこれはと思うと|凄《すご》|腕《うで》を発揮して乗っ取っちまうんです。乗っ取りやさんですよ。あのひとは……」
「秋山さん!」
たまりかねたようにうしろから一彦が鋭い声でたしなめた。
「あっはっは、心配ご無用、一彦君。金田一先生そのていどのことなら百も承知、二百もがてんでいらっしゃるよ。またそういう人だからこそ君にしろぼくにしろ、あの人にゾッコン首ったけなんじゃないか。金田一先生」
「はあ」
「一彦君に気をつけてくださいよ。その人うちのおやじさんの盲目的崇拝者なんです。うっかり一彦君におやじさんの悪口などいおうものなら|噛《か》みつかれちまいますぜ。わっはっは」
「一彦君のお父さんは昭和十年五月の反乱軍事件の際、元忠公爵に|殉死《じゅんし》したんだそうですね」
「金田一先生はだれにそんなことをお聞きになったんです」
「的場先生に。さっき」
「ああ、そう、しかし、さすがの的場先生も、当時この秋山卓造も一彦君のおやじさんといっしょに、飛鳥家の書生をしていたが、ふがいなしやこの秋山、反乱軍の乱入に恐れをなし、いちはやく押し入れのなかへ首をつっこみ、ぶるぶるふるえていたなんてことはご存じなかったでしょうな。わっはっは」
「ウソですよ、金田一先生」
そばから一彦が小声で注意した。
「秋山さんは自分でじぶんを責めすぎるんです」
じじつはこうである。秋山はあの晩泥酔して書生部屋で寝ていたのである。酔いがさめ眼をさましたのは明け方ごろのことであった。重大事はすでにおわっていた。
その翌年かれは千葉船橋の陸軍騎兵学校へ入学した。終戦のときかれは大尉だったが、終戦直前中支で腹部に貫通銃創をうけ、内地に送還されて除隊になった。終戦後しばらく古傷の激痛にたえかねて麻薬にしたしみ、アッパレ麻薬中毒患者になってしまった。忠熈に一喝されて立ちなおることができたものの、あの反乱の一夜をさかいとして、秋山卓造は自己嫌悪から脱却できない男になってしまった。
金田一耕助はまだそうくわしい事情はしらなかったが、それでも興味をもってこの男のふとい|猪《い》|首《くび》や、もりあがった肩の筋肉、丸太ン棒のようにたくましい腕を見守っていた。この男が飛鳥忠熈のボディー・ガードであることは世間周知の事実である。
「金田一先生、右手に見えるのが神門プールです」
金田一耕助は右手の窓から外をみた。しかし、そのへんの樹はすべて高原あたりの樹より、よほど樹齢をかさねているとみえ、太く高く、ことに|樅《もみ》の大木の並木がみごとであった。自動車はあたかも両方からさしのべた、樅の枝のトンネルのなかをいくがごとくで、そうでなくとも晴曇さだかならぬ薄暗い空模様のもと、いっそう薄暗くかんじられた。ほかに、|楢《なら》、|櫟《くぬぎ》、コブシの大木もみごとで、このへんは台風の通り道をはずれていたのか、倒木も少なかった。それらの雑木林のむこうに|蒼《あお》|黒《ぐろ》いプールの水がよどんでいたが、道がすぐ橋をわたって峡谷へさしかかったので、プールは眼界から消えてしまった。
橋をわたると道がすぐふた|股《また》にわかれていて、左へいくと|浅間隠《あさまがくし》、右へいくと桜の沢であると秋山運転手がおしえてくれた。桜の沢という地でもわかるとおり、いま渡ってきた川とはべつに小さな沢が流れており、どちらも水が|溢《あふ》れて路面を浸していた。笛小路家の別荘は沢をわたるとほとんどとっつきの右手にあった。
このへんの別荘は門らしい門をもたない。垣根もなければ隣りの別荘との境界線もない。どの別荘も公道から私道へ入る入り口に、名前とハウス・ナンバーを書いた、白ペンキ塗りの表札が立っているだけである。笛小路家の別荘は道より低いところにあるので、道路から流れこむ水と沢から溢れ出した水とで水びたしになっていた。このへんも大きな樹の多いところで、笛小路家の別荘は楢や櫟の大木におおわれて、小ぢんまりと水のなかに浮かんでいた。別荘への私道の入口に楢の木が倒れかかっているので、自動車はそこからなかへ入れなかった。自動車がとまったとき金田一耕助の眼は林越しに、いきなり美沙の姿をとらえた。あとから考えてもそれはひどく印象的だった。クラクションの音をきいて美沙はなかから走り出してきたにちがいない。白樺を自然木のままで組み合わせてつくったポーチの柱によりかかって、こちらのほうを仰ぐように眺めているのが眼下にみえた。
そこから自動車までまだ十メートルはあるし、木の間がくれのことだから、顔はハッキリわからなかった。しかし、|粗《あら》いプリントのスカートにグリーンのセーターを着たからだは、まだ女になりきらぬ柔軟な繊細さをみせて、いかにも心細そうであった。
金田一耕助はその姿を見ていっしゅん、無人島に漂流した少女を連想した。道からポーチの下までいちめんの水びたしであった。しかも水はまだ|滔《とう》|々《とう》として道のほうから流れこんでいた。楢や櫟や樅の木がその水面に、ななめにかしいだ姿をおとしていた。
「やあ、美沙ちゃん、これはたいへんだったな」
さすがに秋山も同情したのか、自動車のなかから大声でわめいた。美沙はそれをきくといっしゅん逃げ腰になったようだが、つぎのしゅんかん、自動車からおり立った一彦の姿をみて、思いなおしたようにその場にふみとどまった。そのとき美沙の顔にどういう表情が動いたか、そこまでは距離があるので金田一耕助にも読みとれなかった。
一彦もちょっと当惑したようだったが、すぐ意を決したように靴をぬぎ靴下をとり、ピッケルを杖にジャブジャブと水のなかへ踏みこんだ。それをみると美沙がすぐなかへ取ってかえしたのは、雑巾でもとりにいったのだろう。
「一彦君、じゃ頼んだよ」
「承知しました」
むこうむきのまま答える一彦をそこに残して、自動車は方向転換したあとでふたたび走り出した。いよいよ矢ガ崎の現場である。自動車が走り出したとき金田一耕助がふと見ると、ルック・サックを背負ったまま、一彦がポーチの階段の下へ辿りついたところへ、美沙がなかから雑巾バケツにタオルを持ちそえてあらわれた。ほかに人影らしいものはない。
「あのお嬢さんはことしいくつになるんですか」
「美沙ちゃんですか。かぞえで十七だそうですよ」
「あの別荘にひとりでいるんですか」
「いやあ、お祖母ちゃんといっしょですよ。ほら、去年こちらで変死をとげた笛小路さんのご母堂ですよ。ところがそのお祖母ちゃんが東京へいってて留守なもんだから、あの娘が心細がってうちの御前にS・O・Sを求めてきたんです。うちの御前はいたって思いやりのふかい性分ですから、ああして一彦君をお見舞いに派遣したってわけですよ。一彦君というのがまた|気質《き だ て》のやさしい子ですからね」
「お手伝いさんやなんかいないんですか」
「いや、それはいるはずなんですがね、若い娘が……そういえばお手伝いさんの姿がみえませんでしたね」
しかし、秋山はそのことについてはべつに気にもならないらしく、
「金田一先生」
と、ニヤニヤしながら声をかけた。
「はあ」
「あの娘、いまわたしが声をかけたら、とたんに逃げ腰になったでしょう。どういうわけだかあの娘わたしを怖れるんですよ」
「どうしてでしょうか」
「なあに。わたしがうちのおやじさんとあの娘のおふくろさんとの結婚を、妨害しようとしているとでも考えてるんじゃありませんかね。とんでもないことです」
「とんでもないとおっしゃると?」
「わたしにそんな力なんかありっこない。うちの御前はゴーイング・マイウェイでいらっしゃいますからね。それにしても……」
「それにしても……」
「事業にゃ強いが女にゃ弱い。ああ、ああ、なんてこったい!」
金田一耕助はいよいよ興味ふかい眼で、この男の陽焼けしてたくましい猪首を、背後の座席から見守っていた。
「あなたはどうやらおふたりの結婚に反対のようですね」
「わたしが……?」
とんでもないというような調子でいってから、しばらく黙っていたのちに秋山はくすくす笑い出した。
「あのね、金田一先生」
「はあ」
「うちのおやじさんにゃ女のほかに、もうひとつ弱いところがあるんですぜ」
「なんです。それは」
「考古学」
それからしばらくまをおいて、
「うちのおやじさん考古学に凝りだしたら、女も事業も眼中になくなるんです。なんしろ若いころ自分でもエジプトやメソポタミヤで発掘をやった人ですからね。それで亡くなられた寧子奥さんなんかも苦労なすったんだが、いまじゃ鳳女史がその苦労をなめていらっしゃる」
「と、いうと?」
「なにせ一彦君なんてよき後継者があらわれて、さかんに御前をたきつける。ところがまたあの子があのとおり人柄はよいし、おやじさんの昔のことはあるしで、御前さま一彦君ときたら眼がないんでさ。ヤキモチやくわけじゃありませんがね。で、目下うちのおやじさん鳳女史の魅力のとりこになっちまおうか、それとも女なんてメンドクサイことはいっさいやめにして、余生を考古学にささげようかと大いにハンモン中らしいんですね。どっちが勝利をおさめましょうや、ハッケヨイヤというところでさあ。わっはっは」
金田一耕助はのちにしったのだが、秋山卓造のこういうしゃべりかたも、すべて昭和十年のショックからきているのである。それ以来根強くつちかわれた自己嫌悪が、かれにこのようなしゃべりかたをさせるのだということを、金田一耕助はのちにしった。
秋山のこういう|饒舌《じょうぜつ》のあいだじゅうも、自動車は水しぶきをあげて走りつづけた。せまい道路のうえに樹が倒れていたりして、ときどき後戻りをして、大きく|迂《う》|回《かい》したりしなければならなかった。
桜の沢を左にみて南下すると矢ガ崎である。桜の沢からそうとう離れていた。そこが矢ガ崎であると聞いて金田一耕助は、自動車の窓からおもわず大きく眼を視張った。
矢ガ崎川が氾濫したとみえてあたりいちめん水びたしである。点々と散在する別荘はすべて湖水にうかぶ浮き島のようだ。
犯人は……もしこの事件が他殺であるとするならば……なんといううまい時期をえらんだのであろうか。これでは犯人がなんらかの痕跡をのこしていたとしても、台風がのこるくまなく洗い流していったのではないか。
第五章 マッチのパズル
金田一耕助はわりに絵を見るのが好きなようである。大きな展覧会はたいてい見のがさないし、またひまがあり、ついでがあると、よく銀座裏に散在する画廊などをのぞいて歩くことがある。
したがって白鳥会に属する槙恭吾の絵はそうとうたびたび観賞している。槙の絵は具象派に属するのだろうが、金田一耕助にはそのていどまでしかわからない。それより新しくなると、かれの理解を越えることになるらしい。
金田一耕助がこの画家に興味をもったのは、色の使いかたにそうとう強くルノアールの影響をうけていると思われたからである。
ルノアールは金田一耕助の好きな画家のひとりなのだが、槙恭吾の得意とする主調色のラック・ド・ガランスやヴェルミリオンの使いかたは、ルノアールのそれとすこぶる相似たものがうかがわれる。そこは時代の相違で槙のほうが多分に単純化され、ドライになっているにしても、その赤に点じられるジョン・ド・ナーブルのまばゆいばかりの黄金色のかがやき、さらに緑と黒の華麗な調和の美しさは、やはりルノアールの影響だと思わざるをえなかった。
(それにしても)
と、金田一耕助は槙恭吾のアトリエのまえに立ったとき、おもわず唇のほころぶのを禁ずることができなかった。
(このアトリエはいつか美術雑誌の口絵で見たルノアールの、カーニュのアトリエにそっくりではないか。……)
金田一耕助を乗っけた自動車が水しぶきをあげて、矢ガ崎にある槙恭吾の素朴な山荘に着いたのは、もうすでに二時になんなんとしていた。霧は晴れ、いつか雲も切れていて、にぶい日差しがちらつきはじめて、これがいっそう水びたしになったあたりの景色を荒涼たるものにしていた。
このへんは旧軽や桜の沢附近とちがって、あまり大きな樹は見当たらなかった。ひょろひょろとした|落《か》|葉《ら》|松《まつ》や赤松がまばらに生えているていどだが、それらの落葉松や赤松は全部水のなかから生えていた。点々として散在する別荘も浮き島のように各自孤立していて、いかにも心細そうだ。道も下草におおわれた原っぱも、いちめんに氾濫した水のなかにつかっていて、ひとつの大きな湖水を形づくっている。
槙恭吾の素朴なコッテージはそういう湖水の一画に、そのへんとしてはいくらか多い雑木林につつまれて、水のなかに孤立していた。
「やあ、金田一先生、どうもわざわざご苦労さまでした」
自動車がじゃりじゃりと、水にしずんだ浅間砂利の道をきしらせながら入っていくと、コッテージのポーチへ出迎えたのは飛鳥忠熈だ。ゴルフ・パンツに派手な|開《かい》|襟《きん》シャツを着ていて、あいかわらず背が高かった。靴もストッキングもぐっしょり水にぬれていて寒そうだ。そのうしろに寄り添うように姿を見せたのは、金田一耕助もたびたび映画や新聞の芸能欄、週刊誌の口絵でお眼にかかっている鳳千代子である。千代子はほとんど化粧をしておらず、シンプルなワン・ピースにベルトをしめ、目立ったアクセサリーも身につけていなかったが、それでも大柄な容姿のうつくしさは|眩《まばゆ》いばかりにあたりを払った。
金田一耕助が自動車をおりようとすると、
「金田一先生、どうぞそのまま。そのままでいてください」
「えっ?」
「現場はここじゃないんです。うらのアトリエのなかなんです。秋山、君もそのままでいてくれたまえ」
土台の高い下駄ばきコッテージの木の階段をおりてくる忠熈の背後から、
「あなた、あたしはどうしましょう」
千代子のことばのその調子はすでに愛人のものである。忠熈は階段のとちゅうで振り返って、
「あなたはここに残っていらっしゃい。ああいうもの、二度見ることはないでしょう」
「でも……」
「心細いの」
「はあ、いくらか……」
千代子は小首をかしげて甘えるように、うえから肩越しにのぞきこんだが、それが忠熈の堂々たる風采といかにもよく調和してみえた。
「あなたらしくもない。警察の連中がいるじゃないか」
なるほど、コッテージのなかに私服や制服の警官の姿が動いているのがうかがわれた。
「だから、いっそう心細いんです」
「つまらない。|駄《だ》|々《だ》をこねるものじゃありません。あなたはここにいらっしゃい」
|断《だん》|乎《こ》といって忠熈は階段をおりると、自動車のステップに足をかけた。千代子はつまらなさそうに身をくねらせたが、すぐ思いなおしたように、腰をかがめて自動車のなかをのぞきこむと、
「金田一先生、よろしくお願いいたします」
「はっ、いや、どうも」
美しいひとに虚をつかれて金田一耕助はドギマギした。ドギマギしながら頭をさげた。金田一耕助が頭をさげたとき千代子はすでに身を起こして、ポーチの|手《て》|摺《す》りに手をかけた。華麗な美しさが日差しをうけて、この殺風景なコッテージを温かいものにしていた。
忠熈が金田一耕助のそばへ乗り込むと、
「御前、どちらへ?」
と、秋山卓造が運転台からきいた。
「コッテージを左へまわって奥へすすんでくれたまえ。水の底に浅間砂利の道がついているからわかるだろう」
コッテージの背後はすこし小高い雑木林になっており、その雑木林をきりひらいたところに、さっき金田一耕助の微笑を誘ったあのアトリエが、水のうえに影をおとして建っていた。薄褐色の浅間砂利をしきつめた道は、少し|迂《う》|回《かい》しながらそのアトリエまでつづいているのだが、自動車はそこまでいけなかった。道の途中にそうとう大きなコブシの木が根こそぎ倒れているのだが、それがすっかり横倒しになっていないのは、よく|繁《しげ》った|梢《こずえ》の下にヒルマンが一台小さくうずくまっているからだった。ヒルマンはコブシの木に押しひしゃがれてペシャンコになっていた。
「金田一先生、ここでおりていただかねばならないんですが……」
「ああ、そう、結構です」
金田一耕助は|袴《はかま》の|裾《すそ》をたくしあげた。忠熈が靴のまま水のなかにおりていくのをみて、金田一耕助もおしげもなく、白足袋に|草《ぞう》|履《り》のままじゃぶじゃぶと水のなかにおり立った。水はきれいで|清《せい》|冽《れつ》だった。虚栄心だけではない。浅間砂利は粒が大きかったし、このへんの下草のなかには鋭いトゲのある|蔓《つる》|草《くさ》だの、イバラのような|灌《かん》|木《ぼく》があることをしっていたからである。水はクルブシのへんまでしかなかったが、夏足袋をとおしてしみいる冷たさはそうとうのものである。どこかに|湧《ゆう》|水《すい》|口《こう》でもあるかのごとく、水はかなりの勢いでアトリエからコッテージのほうへ流れている。どこかで蝉がなき出した。
自動車の音をきいてアトリエのなかから若い制服の係官が顔を出した。制服を見ると警部補らしい。このへんにはめずらしい色白の青年で度の強そうな眼鏡をかけている。一見秀才タイプだがいくらか|癇《かん》|癖《ぺき》が強そうにみえるのは、それだけファイターだということか。年齢は三十にまだ二、三年まがあるというところだろう。これが去年笛小路泰久の死を、他殺と主張してゆずらなかった日比野警部補であることを、金田一耕助はすぐのちにしった。あらかじめ忠熈からきいていたとみえ、度の強そうな眼鏡のおくからジロジロと金田一耕助を観察している。出目金のようにとび出した眼には、多少敵意と軽侮の色があざわらっていなかったとはいえない。小柄で貧相な金田一耕助はお世辞にも|風《ふう》|采《さい》のよい男とはいえなかった。
「飛鳥さん、あなたの要請で現場はまだそのままにしておきましたが……」
「ああ、そう、ありがとう。こちらが金田一耕助先生、先生、こちらがこの事件を担当している日比野君」
水のなかだから紹介はいたって簡単である。金田一耕助は|蚊《か》|細《ぼそ》い|毛《け》|脛《ずね》を恥じ入りながら、ペコリともじゃもじゃ頭をさげた。
金田一耕助がそのアトリエを、カーニュにあるルノアールのアトリエと、そっくりではないかと感服したのはその直後のことである。
そのアトリエは間口二間、奥行一間半、高さ九尺あまりの小ぢんまりとした建物で、周囲にガラスを多く使っていなかったら、おそらく物置きかなんかとまちがえられたにちがいない。屋根はちょっとしゃれた瓦でふいてあるが、南から北への一方傾斜で、それなどもこの建物を物置き然とみせる要素のひとつになっている。
建物の四隅に土台石がおいてあり、建物の床は地面から十五センチほど浮いているのだが、その床下をすれすれに、清冽な水が渦をまいて洗っている。ガラスもだいぶんあちこちこわれていて、おそらくなかは水びたしであろう。
「金田一先生、さあ、どうぞ」
「かまいませんか。|濡《ぬ》れ草履のままで」
「かまいません。なかははじめっからズブ濡れなんです」
入口のドアは建物の北側についていた。なかにはふたりの私服がいたが、そこへ新しく三人が入っていくと、狭いアトリエのなかは一杯になった。
三坪しかない狭いアトリエのなかは簡粗をきわめていた。周囲はガラスを張られた面をのこして、縦の板ジトミでかこわれているが、板そのものがそうとう古くなっているうえに、けさの台風にゆすぶられたせいか、だいぶんガタがきているようだ。なるほど床は水びたしになっており、隅のほうには|水《みず》|溜《たま》りさえできている。板ジトミにもいたるところに大きなシミができていた。
槙恭吾はちかごろ仕事をサボっていたにちがいない、描きあげたが気にいらないのや、描きかけのや、大小さまざまなカンヴァスが、そこらじゅうに立てかけてあるが、どれも絵具が古そうだ。板ジトミにも小品が二、三|真鍮《しんちゅう》の|鋲《びょう》でとめてあるが、いずれも水でびしょ濡れになっており、なかには絵具の溶けそうになっている水彩画もある。床にも二、三散っているのは風で吹きちぎられたのであろう。
金田一耕助は死体のそばへちかよるまえに溜め息をついた。これらの乱暴|狼《ろう》|藉《ぜき》、すべてけさの台風によってひき起こされたとしたら、犯行ののちにちがいない。もし犯人がこの床に歴然たる足跡をのこしていたとしても、台風の猛威がかれをかばうに役立ったことだろう。
このアトリエの西側の板ジトミに沿って、|籐《とう》の茶卓が一台、それをはさんで簡粗な籐|椅《い》|子《す》が二脚すえてある。槙恭吾の死体は北側に背をむけてすわっており、茶卓のうえに突っ伏していた。
金田一耕助はその死体の頭髪に眼をやったせつな、思わずゾーッと身ぶるいがでるのをおさえることができなかった。
槙恭吾は左腕を斜前方に投げ出しており、右腕の|肱《ひじ》を折りまげて、その手の甲に額をこすりつけるように突っ伏しているのだが、ブラウスの右の袖口と、頭部の右半分の頭髪がふた握りほど焦げている。金田一耕助がいそいで茶卓の反対側にまわってのぞきこむと、右|頬《ほお》から耳へかけてもなまなましいヤケドのあとがただれていた。
「金田一先生」
日比野警部補は被害者の右腕のまえに倒れているふとい西洋|蝋《ろう》|燭《そく》を指さして、うめくように|呟《つぶや》いた。
「もし台風のまえぶれのゆうべの風が、蝋燭の火を吹き消してくれなかったら、この小屋全体がもえていたかもしれません。もしそうなったらこの死体も、おそらくまっ黒焦げになって発見されていたでしょうね」
カン高いキビキビとした調子である。金田一耕助はうなずいた。
茶卓のうえに蝋燭立てはなかった。
茶卓のうえの死体からいって右前方に大きな|蝋《ろう》|涙《るい》がたまっており、蝋燭はその蝋涙のうえに立ててあったらしい。蝋燭のふとさからいっても、それは不安定な立てかただったにちがいない。
風に倒れた。いや、風に吹き倒されたのではなく、小屋全体が風に大きくゆすぶられたとき、不安定な均衡をたもっていた蝋燭が倒れたのであろう。そして、死体の着ているブラウスの右袖をやき、頭髪をやき、顔の右半分をこがしたとき、吹きこんできた風が大事にいたらせずに食いとめてくれたにちがいない。
金田一耕助はふりかえってアトリエの南側へ眼をやった。被害者の左前方のガラスが五、六枚こわれており、その破片が金田一耕助の足下に、こなごなになって散っている。ゆうべからけさへかけての風は南方から吹いてきたのだ。多くの樹は北へむかって倒れていた。そしていまこわれた窓から明るい日差しが差し込んでいる。
(それにしても)
と、金田一耕助はアトリエの天井からぶら下がっている、しゃれた|吊《つ》りランプ風の電灯に眼をやりながら考える。
(ゆうべの停電は八時頃からはじまった。停電になってから被害者はひとりでか、まただれか客があってのことか、とにかくこの籐椅子に坐っていた。停電になったので蝋燭をつけたが燭台がなかった。そこで茶卓の上にじかに蝋涙をたらして蝋燭を立てた。それにしても……)
と、金田一耕助は蝋涙の位置に眼をやった。そしてまたひそかに考えるのである。
(この被害者は左利きなのだろうか。ふつうひとが蝋燭を、いや蝋燭のみならず光源をテーブルのうえに点ずるとき、左前方におくものだが……もし、被害者と相対している客がこの蝋燭を立てたとしても、それは少し客のほうに寄り過ぎている。……)
「金田一先生」
さっきから金田一耕助の眼の動きを追っていた日比野警部補が、ニコリともせず切り口上でいった。
「被害者は左利きではありません。通いのばあやにも聞いてみましたし、鳳千代子さんにもたしかめました。被害者はりっぱに右利きだったそうですよ」
「あっ、そ、そうですか」
金田一耕助は赤面した。赤面しながらあわててあたりを見まわした。あわててあたりを見まわしたひょうしに突っ伏している被害者のちょうど背後、北側の板ジトミから突き出している小さな飾り棚のうえに視線がいった。マッチ箱ほどの長方形の置時計があり、八時四十三分でとまっている。けさとまったのだろうか。もっとまえからとまっていたのだろうか。
置時計のほかにおつにひねった形の|益《まし》|子《こ》焼きの花瓶がひとつおいてあり、ナデシコとワレモコウが插してある。しかし、そのナデシコもワレモコウも、そうとうまえから|萎《しお》れたままのようである。飾り棚のうえもかなり水にぬれているが、乾いたところにはだいぶん|埃《ほこり》がたまっているようだ。
金田一耕助は飾り棚のうえから眼を死体のほうへうつそうとして、また、おやというふうにそちらへ視線をひきもどされた。花瓶と影をかさねるように、なにやら青黒いものが隠見している。金田一耕助はおもわずそのほうへ身を乗り出して|瞳《ひとみ》をすえた。
|燭台《しょくだい》だった。
ブロンズ製のしゃれた形の蝋燭立てが、花瓶のかげにかくれていた。蝋燭立てはうすく埃をかぶっているようだ。
金田一耕助はちらと日比野警部補のほうへ眼をやったが、警部補はなんにもいわずその顔は能面のように無表情だった。飛鳥忠熈もそれに気がついた。大きく|眉《まゆ》を吊りあげて、茶卓のうえの蝋涙に眼をやった。
金田一耕助にはさっきから気になっていることがある。突っ伏した槙恭吾の腕の下にマッチの棒が散乱している。茶卓のうえにあるものといえば、被害者の死体の上半身と、三センチほどの蝋燭の燃えのこりと、大きな蝋涙のあとと、そして散乱しているマッチの棒だけのようである。マッチの棒は二十本くらいありそうである。
「死体を起こしてみましょうか」
「いや、そのまえに……」
と、金田一耕助は手でおさえるようにして、
「死体はだれが発見したんですか」
「通いのばあやの根本ミツ子という女です」
「通いのばあや? じゃ、この別荘には被害者のほかにはだれもいないんですか」
「ええ、そう、なにしろ槙氏はひとりもの……」
と、ちらと忠熈のほうへ眼を走らせて、
「あのひとと別れてからというもの、ずっと独身でいたんですから」
「ああ、そう。通いのひとはどこからくるんです」
「塩沢から」
「塩沢というとここからだいぶん西ですね」
「ええ、そう、根本ミツ子はここ三年毎年槙氏が軽井沢へくると、通いのばあやとして働いているんです。いつもだと八時にこちらへくることになってるんですが、きょうは台風のためにおくれて、こちらへ着いたのが十一時だったそうです。こちらといってもこのアトリエではなくあちらの別荘のほうですね。根本ミツ子は勝手口の|鍵《かぎ》をもっているのでそこからなかへ入ったそうです。主人の姿が見えないのをふしぎに思ったそうですが、台風の被害のもようでも見にいったのだろうと、べつに気にもとめずに家中の雨戸を開けてまわったそうです」
「あのコッテージには雨戸があるんですか」
このへんの別荘には雨戸がないのがふつうである。
「ああ、そうそう、まえにはなかったんだそうですが、いつか冬のあいだに泥棒に押し入られて、ひどくなかを荒されたので、それから雨戸をつけたんだそうです。そうそう、これは鳳千代子さんの話なんですが、あのひとといっしょだったじぶんのことですから、二十九年か三十年のことですね。あのひと二十九年の五月に結婚して三十一年の春に別れたんだそうですから、たぶんあの雨戸をつけたのは三十年のことだろうといってますよ」
日比野警部補はわざと忠熈のほうから視線をそらして、一気にここまでしゃべりおわると、
「かなり厳重な戸締りになっておりますよ。そのかわり外観は悪くなってるようですけれどね」
と、附け加えた。
「その戸締りに異常は?」
「なかったそうです、どっこにも。雨戸がなかったらそうとう台風でやられたでしょうがね」
「それから……?」
「根本ミツ子は家のなかの被害の情況を見てまわったのち、このアトリエを見にきたんですね。そして、あそこに自動車があるのを見てふしぎに思ったそうです」
「あの自動車は槙氏のものですか」
「ええ、そう」
「自動車はいつもどこに……?」
「コッテージのポーチのまえに。いつも雨ざらしなんだそうです。根本ミツ子はいつも夕飯の支度をしておいて、六時ごろにかえるんだそうですが、槙氏はきのう昼間外出していて、六時ちょっとまえに帰ってきたそうです。それで根本ミツ子はここを出たんだそうですが、そのときにはあのヒルマン、いつものところにあったそうです」
「すると、槙氏はゆうべ六時以後また外出したってことになりますね」
「そうです、そうです。そしてだれかをつれてここへかえってきた」
日比野警部補はあきらかに忠熈のほうを見ないように努力していた。忠熈にもそれがわかるのか、唇をきっとむすんだまま|眼《ま》じろぎもせず、警部補の表情の動きを見つめている。冷酷非情で、秋山のいわゆる事業にかけちゃ鬼より怖い忠熈の一面が、そのときハッキリそこにのぞいていた。
「それじゃ、根本ミツ子さんがこの死体を発見したてんまつをどうぞ」
「はあ」
日比野警部補はぐっと|唾《つば》をのみこむと、
「あそこに自動車がある以上、旦那さまはこのアトリエにいるにちがいないと思ったんですね。でも、あのドアに鍵がかかっていたので、根本ミツ子はまたふしぎに思ったそうです」
「あのドアには鍵がかかっていたんですか」
「はあ、しっかりと。犯人がここを出ていくとき、鍵をかけていったんですね」
「それで……?」
「根本ミツ子はふたこと三こと声をかけたそうですが、返事がなかった。そこで南側へまわって、あのこわれたガラスのあいだからなかをのぞいて、この死体を発見したというわけですね」
「なるほど、それで医者の検視は?」
「さきほどすませました」
「死因は?」
「青酸加里じゃないかというんですが……」
金田一耕助はそっと被害者の口に鼻をよせてみた。しかし、青酸加里の匂いはもうそこにはなかった。
青酸加里をのんだ。いや、あるいはのまされたとしても、それはどういう手段によったのであろうか。見わたしたところアトリエのなかには、瓶やコップの類はなにひとつ見当たらなかった。
「犯人が持ち去ったんでしょうね」
日比野警部補は表情もかえずにいった。金田一耕助はまた赤面した。この若い秀才型警部補は、読心術を心得ているのであろうか。
「で、死亡の推定時刻は?」
「ゆうべの九時から九時半までのあいだじゃないかということになっております。もちろんくわしいことは、解剖の結果を見なければわかりませんが」
ゆうべの停電はたしか八時ごろからはじまったのである。九時から九時半までのあいだだとすると蝋燭を必要としたのもむりはない。もっとも地区によって、停電になった時刻がちがっているのかもしれないが、それはこのへんのひとに聞けばわかるだろう。
「それにしても、日比野さん。槙氏は六時以後に外出して、外からだれかを連れてかえってきたとしても、どうしてコッテージのほうへいかなかったんでしょう。このアトリエは……」
と、金田一耕助はすぐ眼のまえにある|籐《とう》|椅《い》|子《す》のあちこちを|撫《な》でてみたのちに、その指先を警部補のほうへ出してみせた。指先がくろく|埃《ほこり》でよごれている。
度の強そうな眼鏡のおくで若い警部補の眼がはじめて笑った。しかし、べつに得意そうな色もみせず、
「金田一先生、それはわれわれもすでに気附いているんですよ。しかも、その理由もだいたい見当がついています」
「と、おっしゃると?」
「われわれはいちおう被害者の身体検査をしたんですが、鍵束がどこにも見当たらないんです」
「被害者は鍵束をもっていたはずだとおっしゃるんですね」
「ええ、そう、根本ミツ子の証言によるとですね。被害者は目下独身で、東京でアパート生活をやっているんだそうです。そのアパートの鍵と別荘の鍵、いっさいがっさい銀色の輪にぶらさがっていたそうです。ですから数種類か、あるいはそれ以上の鍵をいつもじゃらつかせていて、これがおれの財産のすべてだよと、いつか根本ミツ子にいったことがあるそうです」
「その鍵束を被害者はもっていないんですね」
「はあ」
「だけど、その鍵束を犯人が持ち去ったとすると、被害者が身につけていたからでしょう。と、するとコッテージも開くはずだ……」
「いや、ところが、それがそうじゃないんです」
「と、おっしゃると?」
「被害者は出先で、鍵束を紛失したんじゃないかと思うんです」
金田一耕助は|眉《まゆ》をひそめて、
「しかし、それならこのアトリエも開かないはずじゃありませんか。いや、被害者がだれかをつれてここへかえってきたとき、たまたまアトリエのドアが開いていたとしても、犯人が立ち去るとき、ドアに鍵をかけるわけにはいかなかった……」
金田一耕助はとつぜん気がついたようにドアのほうをふりかえった。
「あなたがたはどうしてここへ入ってこられたんですか。合鍵でも……?」
「いいえ、金田一先生、あの鍵を使ったんですよ」
金田一耕助の眼がおもわず大きく見開かれた。つぎのしゅんかん、金田一耕助はめったやたらと五本の指で、もじゃもじゃ頭をかきまわした。これが興奮したときのこの男のくせなのだが、その顔色はいかにもうれしそうで、笑いがいまにもこぼれそうである。
この警部補はあきらかに金田一耕助を試そうとしているのである。茶卓の下、被害者の右の靴の爪先に鍵がひとつころがっている。
「な、な、なるほど、な、なあるほど」
金田一耕助は|吃《ども》りながら|溜《た》め息をついて、
「あれに気がつかぬとは、わたしの眼は節穴も同然ですな。あっはっは」
警部補の眼にうかんでいた|嘲弄《ちょうろう》の色は消えて、警戒の色がふかくなった。
「失礼しました」
と、唇をかんで、
「飛鳥さんができるだけ、発見当時のままにしておいてほしいとおっしゃるもんですから。われわれはあのガラスのこわれたところからのぞいて、あの鍵があそこにあるのを発見したんです。|釣《つり》|竿《ざお》をつくってあの鍵を釣り上げました。あのドアの鍵穴にはめてみるとぴったり合ったので、このアトリエの鍵だとわかったんです」
「そうすると、このアトリエの鍵だけは鍵束とはべつになっていたんですね」
「そういうことになりますね。その理由は根本ミツ子に聞いてもわからないんですが……」
「そうするとこういうことになりますね」
金田一耕助はそれが癖のもじゃもじゃ頭をかきむしりながら、
「被害者は外出先で鍵束をうしなった……いや、外出先で紛失したとはどうしてわかるんですか」
「だって、あのコッテージの玄関の鍵がちゃんとかかっていたんですから。あれは管理人を呼んできてわれわれのまえで開けさせたんです。根本ミツ子は勝手口の鍵しか持っていないんですね」
このへんの別荘はシーズンがおわって閉ざすとき、夜具から諸道具調度類いっさいがっさい置きっぱなしにしていくのである。あとの管理は管理人にまかせておく。したがって管理人はふたつある鍵のひとつをあずかっていて、ときどき見まわってくるのである。たいてい数十軒でひとりの管理人をやとっている。管理人はもちろん土地の人間である。
「なるほど」
金田一耕助は納得して、
「そうすると鍵束を紛失したのはゆうべの六時以降、しかもコッテージを出ていってからだということがハッキリしてくるわけですね」
「そういうことですね」
日比野警部補はあくまで切り口上である。
「ところがこのアトリエの鍵だけどういうわけか、槙氏はべつに持っていた。そこでゆうべ外出先からかえってくると、コッテージへは入れないのでやむなくこのアトリエへ入ってきた」
「しかし、金田一先生、それがやむなくだったかどうかはまだわからないんですよ。あるいはなんらかの理由があって、とくにこのアトリエへくる必要があったのかもしれません。ただ、被害者が鍵束を身につけていないことはたしかですし、またこのアトリエのどこを探しても鍵が見つからないこともたしかです」
「自動車のなかは探しましたか」
「いや、それはまだです。あのとおりのざまでドアが開かないもんですからね」
日比野警部補はほほえんで、
「しかし、自動車のなかにあるとしてもおなじじゃありませんか。それなら被害者はコッテージへ入っていったはずですから」
「なるほど」
こんどは金田一耕助がほほえんで、
「そうすると、あなたのおっしゃることはこうですね。被害者がここへきたのは鍵束がなかったのでやむなくそうしたのか、それとも鍵束があってもなにか特別の理由があってここへきたのか、まだよくわからないとおっしゃるんですね」
「そうです、そうです。さっきそういう意味のことをいったつもりなんですがね」
「ああ、そう、たしかそうおっしゃったようです。ぼくはただちょっと、念を押しておききしてみただけのことで……さてと」
と、金田一耕助はあいかわらずもじゃもじゃ頭をかきむしりながら、
「被害者はふたつの理由のどちらかで、このアトリエへ何者かをつれてきた。そして何者か……即ちX氏にコロリと一服青酸加里を盛られて死んだ。X氏はそのあとでアトリエの鍵をうばいドアに鍵をかけて立ち去った。しかし、その鍵があそこにあるのはどうしたんでしょうか」
「もちろんガラスを破って外から投げ込んだんでしょう」
「なんのために?」
「自殺と見せかけるために」
金田一耕助はあきれたような警部補の顔を見直した。
「しかし、それならコップの類を持ち去ったというのはおかしいと思いませんか。自殺と見せかけたいのなら、現場をできるだけそれらしくしておくべきだと思うのですが」
「たぶんそのコップをおいておくと、足がつくかもしれないということを、ドタン場になって気がついたんでしょう」
「青酸加里が入っていたとおぼしい容器は見つかりましたか」
「いえ、まだ……」
「それなんかも、自殺と見せかけたいんなら、どこかそこらへころがしておくべきだと思いませんか」
「そ、それはそうですが……」
とうとう私服のひとりが、このコンニャク問答にしびれを切らしてそばから口をはさんだ。
「ええ、もし、金田一先生」
「はあ」
「われわれはいまやっと捜査にとりかかったばっかりなんですぜ。そういっぺんになにもかもわかっちゃ、犯罪捜査なんてやさしいもんでさ。それともあんた、なにかわかったというんですかい」
あとでわかったところによると、この刑事は近藤といって軽井沢署きっての古狸だった。渋紙色というのかみごとに陽に染めあげられていて、眼ばかりギロギロさせている。みじかく刈った頭の地肌まで陽に焼けているようだ。|短《たん》|躯《く》で、|猪《い》|首《くび》で、ズングリムックリしているうえに、せかせか歩きまわるところをみると、そうとうのガニ|股《また》である。長年実地できたえあげたこの刑事が、金田一耕助の禅問答に怒りをバクハツさせたのもむりはない。
「いいえ、とんでもない。ぼくもまだ首をつっこんだばかりですからな。あっはっは」
あっはっはだけは余計であろう。
「それならつまらねえこと聞いてねえで、さっさと見るもん見っちまったらどうです。救急車がきたらこの仏さん、運び出さなきゃならねえんだ」
そのことばもおわらぬうちに、遠くのほうから救急車のあわただしいサイレンの音がちかづいてきた。
「ほら、きた」
「いや、どうも失礼いたしました。それじゃ、死体を起こしていただきましょうか」
「おっとしょ。それ、古川君」
声をかけられた古川刑事はまだ若い。二十五、六というところだろう。丸顔の両の|頬《ほ》っぺたに青春のシンボルがあざやかである。さっきから世にも異様な生き物でも見るような眼つきで、金田一耕助の風体を見ているのがおかしかった。近藤刑事と古川刑事が左右から、こわれものにでもさわるように、そっと槙の死体を抱き起こした。その下になっているマッチの棒の排列を、できるだけ乱さぬようにするためである。しかし、それでもなおかつマッチの棒はそうとう動いた。
昭和二十九年槙が千代子と結婚したとき三十三歳だったという。すると、ことし昭和三十五年では三十九歳になる勘定である。まえからそういう体質なのか、中年になって肥えはじめたのか、槙はふっくらとした肉附きで、顔なども童顔といってよいだろう。キメがこまかく、つやつやとした肌をしていて、生前は|愛嬌《あいきょう》のある好男子だったにちがいない。
ただし上背はあまりあるほうではなく、せいぜい一メートル六十四、五センチというところか。さっき会った鳳千代子は女ながらも一メートル六十二、三センチはあるらしいから、ハイ・ヒールをはくと千代子のほうが高かったのではないか。
槙の顔はいびつに|歪《ゆが》んでいた。槙の生命をうばったのが青酸加里だったとすると、それは瞬間の打撃だったにちがいないが、大きく視張ったうつろな眼とねじれた唇が|凄《せい》|惨《さん》だった。唇のはしからちょっぴり垂れた血が、ドスぐろくガリガリにこびりついているのも無気味であった。
なおそのうえに右半面、なまなましく焼けただれているのが、凄惨な印象をいっそう強烈なものにしている。
頭髪の右半分がふた握りほど燃えちぢれているほかに、右の|眉《まゆ》|毛《げ》の外側のはしがちょっぴり焦げてちぢれている。
槙は半袖の|開《かい》|襟《きん》シャツのうえに、だるまチョッキを着て、そのうえに腰のへんまであるブラウスを一着におよんでいた。槙が外出したとすると、レーン・コートがわりに着ていったのではないか。そのブラウスの右の袖口が少し焦げていることは、さっきもいったとおりである。
ズボンは折目のたるんだギャバで、なんどか水をくぐった代物と思われる。靴もそうとう形がくずれていた。槙がゆうべ外出してだれかを訪問したとしても、あまり服装をかまわなくともよい相手だったのではないか。それともこの男は元来みなりをかまわない性分なのだろうか。
ブラウスもズボンも靴もぬれていた。しかし、それはガラスのわれめから降りこんでくる雨にぬれたていどで、土砂降りのなかをぬれてきたとは思えなかった。風はゆうべから強かったのだが、雨はまだ降っていなかったのだから当然といえるだろう。
金田一耕助は槙の顔から茶卓のうえに眼を落とした。そこに散乱しているマッチの棒が、偶然マッチ箱からこぼれ落ちたものではなく、なんらかのために、そこに排列されたものであるらしいことを、金田一耕助はそれが死体の下にあるときから気がついていた。
マッチの軸は二十一本あった。頭が朱色のマッチが七本、頭が緑のマッチが十四本。そのうち朱色のマッチのうちの四本の軸が半分に折れまがっていた。あとの三本は完全な朱色のマッチである。また緑のマッチが半分に折れまがったのが七本あり、完全なのが七本ある。
つまり、そこには四つの符号が使用されているのである。完全な朱色のマッチと半分に折れまがったおなじ色のマッチ。完全な緑色のマッチと半分に折られたおなじ色のマッチ。
犯人か、あるいは被害者じしんかが、四つの符号をつかって、なにかを説明しようとしていたのだろうが、それはいったいなにを物語っているのだろうか。
金田一耕助はもういちど、抱き起こされた槙の顔に眼をやった。歪んだ唇のはしにシニカルな微笑がうかんでいるようなのだが……。
残念ながら被害者がそのうえに倒れたひょうしに、排列が乱れてしまったであろうから、もはやなんの意味もなさないかもしれないけれど、金田一耕助はポケットから手帳を出して、その排列を書きうつした。
それは、だいたい図のようである。
「この男はマッチのパズル狂だったそうですよ。なんでもマッチで説明するくせがあったそうです」
「マッチのパズル狂とおっしゃいますと?」
金田一耕助は卓上に散乱しているマッチの排列を、克明に手帳に写し取ってしまうと、日比野警部補のほうをふりかえった。
「これはむこうにいる根本ミツ子から聞いたんですが、マッチの棒をつかっていろんな遊びがあるでしょう。マッチの棒を十二本ならべておいて、二本ずつとびこえて二本ひと組の六組をつくるとか、マッチの棒をつかって家みたいなものを組立てるとか、よく子どもがやるじゃありませんか。この男、|閑《ひま》さえあるとよくそんな遊戯をしていたそうです」
戦後はパズルやクイズが大流行である。これはラジオやテレビの影響もあるだろう。テレビのどのチャンネルをまわしてみても、クイズ番組のひとつやふたつないところはない。あるテレビのクイズ番組ではこれを頭の訓練と称しているが、じっさいは頭の休養なのである。
社会が物質的に豊かになると、人間は精神的にセチ辛くなり孤独になる。社会が物質的に豊かになったということは、それだけ機械文明が発達したということであり、またその文明を支える人間が、それだけ知的に発達したということだろう。機械文明が発達すればするほど、人間は精神的に孤独になりセチ辛くなる。知的人間が孤独やセチ辛さから逃避するかっこうの手段がクイズであり、パズルなのだろう。だからそれは頭の休養というよりはむしろ逃避なのだろう。
槙恭吾がマッチのパズル狂であったということは、それだけかれが精神的に孤独だったということではないか。鳳千代子との結婚生活がうまくいっている時代でも、かれはマッチのパズル狂だったろうか。
「そうすると、槙恭吾氏はマッチのパズルに打ち興じているうちに、青酸加里をいっぷく盛られたおっしゃるんですか」
「いや、それはそうではなく……」
日比野警部補はもったいらしく|咳《しわぶ》きをして、
「いや、これも根本ミツ子に聞いた話なんですが、ほら、ひとが相手になにかを説明しようという場合、あるいは相手になにかを納得させようという場合、よく小道具を使う人間がいるでしょう。マッチの箱を使ったり、そこらにあるものを手当たりしだいにならべたり……」
「ぼくもちょくちょくそれをやりますがね。いや、失礼。それで……?」
若い警部補はちょっと気をのまれたふうだったが、すぐに姿勢を立てなおして、
「ところがこの被害者の場合、そういうときにはいつもマッチの棒を使ってたというんです」
「なるほど。そうするとゆうべの場合はどっちだったんでしょう。たんにマッチのパズルを|娯《たの》しんでいたのか、それともだれかになにかを説明しようとしていたのか……」
「それはもちろんあとのほうでしょう」
日比野警部補はぶっきら棒に、
「ゆうべはひとりではなく、犯人という相手があったのですから」
金田一耕助はちょっと考えたのちニッコリわらうと、
「しかし、日比野さん、それはあなたが被害者は、犯人といっしょにここへかえってきたと、きめてかかっていられるから、そういことになるんじゃないでしょうか。ひょっとすると被害者はゆうべ外出したとしても、ひとりでここへかえってきたかもしれない。そして、ゆうゆうとマッチのパズルを娯しんでいたのかもしれない。そこへ犯人がやってきた……と、いうふうには考えられませんか」
この若い警部補は、あきらかに虚をつかれたのである。かれは頭から被害者は犯人といっしょに、ここへかえってきたときめてかかっていたらしい。この新しい可能性にぶつかると、当惑したように度の強そうな眼鏡のおくで、出目金のような眼がはげしくまたたいた。
「ヘヘーン」
そばからバカバカしさもいいところだといわぬばかりに、ブーブー鼻を鳴らしたのはガニ股の近藤刑事である。
「そうするとなんですかい。この男停電のさなかに|蝋《ろう》|燭《そく》つけて、ゆうゆうとマッチ遊びをやってたというんですかい。金田一先生、あんたがどんな名探偵か迷探偵かしらねえが、あんまりバカなことをいってこんがらかさないでくださいよ」
じつをいうと勢力家の飛鳥忠熈が県の警察本部に交渉して、金田一耕助がこの事件に介入することに関する許可をとっているのである。しかもこう見たところ金田一耕助、この男のどこに取柄があるのだろうと思われるような、小柄で貧相な人物なのだから、この老練な古狸刑事がブーブー鼻を鳴らすのもむりはない。
「あっはっは」
金田一耕助はほがらかに笑うと、
「いや、じつはね、近藤さん、わたしが首を突っ込むとふしぎにその事件、迷宮入りすることになってるんですね。そこで迷探偵の誉れたかき金田一耕助とはわたしのことでさあね。いやね、それは冗談ですが、近藤さん、それはあなたのおっしゃるのがごもっとも。わたしのいったことは万が一にもありえないことのようですが、わたしはただ被害者は犯人といっしょにここへかえってきたのか、それともべつべつではなかったか、そこのところはまだハッキリしないんじゃないかということを、一言ご注意申し上げておきたかったんですな。それに……」
「それに……? なんですい。どうしたというんですい」
まるで生徒にむかって講義するような金田一耕助の調子が、またこの老練な実地派の刑事のお気にめさない。そこでつい、その口調もつっかかるようにならざるをえないという寸法である。
「もしこのマッチの排列になにか意味があるとして、しかも、その意味というのが犯人に関係があるとすれば、犯人はなぜこのマッチをそのままにしていったんでしょう。多少マッチの排列が乱れているとしても、これをそのまま残していくということは、犯人にとってそうとう危険なことじゃないでしょうかねえ」
いわれてみればごもっともと、これには古狸の近藤刑事もことばがなかった。いまいましそうに目玉をギロギロさせながら、
「なるほど、そういやぁそうだが、それについて金田一先生にゃなにかご意見がおありなんですかい。あるならひとつ伺おうじゃありませんか」
「そうは問屋がおろさない。わたしゃじぶんの手柄を他人に|横《よこ》|奪《ど》りされるのが大嫌いな性分でしてな。えっへっへ」
いやな野郎だ、金田一耕助という男は。
「……と、いいたいところだが、わたしにもまだとんとわけがわからない。ただちょっとこう見たところでも、いろんな疑問符をつけようと思えばつけられぬことはないということを、ご注意申し上げたかったまでのことでして」
と、そこでペコリともじゃもじゃ頭をさげると、あらためてあたりを見まわし、
「ときにマッチの箱が見当たらないようですね」
「そんなこたぁとっくの昔に気がついてますよう。わけのわからねえ犯人が持っていきゃあがったんでしょうよ」
近藤刑事は少なからず中っ腹である。このバカかリコウかわからぬメイ探偵のお相手は、もうコリゴリだといわぬばかりにセカセカと、アトリエのなかを歩きはじめた。セカセカすればするほどガニ股が目立つのがお気の毒さまみたいである。
日比野警部補はすっかり自信を喪失したらしく、口のなかでもぐもぐいった。口のなかでもぐもぐいいながら、さっきから忠熈の挙動に注目している。
忠熈も喰いいるように茶卓のうえに散乱している二十一本のマッチの棒をながめていた。その顔色にはあきらかにある種の疑惑と不安が|揺《よう》|曳《えい》している。
忠熈はあわててあたりを見回した。被害者の背後にある棚に眼をやり、身をかがめて茶卓の下をのぞきこんだ。茶卓の下には網棚があり、網棚のうえにはいささか色のかわった古新聞と、二、三冊の美術雑誌がむぞうさに突っ込んである。
「飛鳥さん、なにかお捜しですか」
日比野警部補の質問を忠熈は冷然と黙殺した。かれはまた喰いいるように茶卓のうえに散乱しているマッチの棒をながめていたが、その手は無意識のうちに|開《かい》|襟《きん》シャツのポケットをさぐっていた。
忠熈はポケットのなかから小さなメモ用紙とシャープ|鉛《ペン》|筆《シル》をとり出した。シャープ鉛筆は青と赤との二色になっている。ゴルフのスコアをつけるために、忠熈のポケットにはいつもこのふた品がおさまっている。忠熈はいちいち茶卓に眼を走らせながら、青と赤との二色をつかって克明にマッチの排列を記入しはじめた。
「飛鳥さん、あなたなにかこのマッチのならべかたに、お心当たりがあるんですか」
しかし、こんどもまた警部補の質問は黙殺された。警部補の|頬《ほお》に血の気がのぼった。
「飛鳥さん、あなたなにかこのマッチの排列に、心当たりがあるのならいってください。かくし立てをなさるということは事件の解決をおくらせるばっかりですよ。あなたこのマッチの排列になにか……」
しかし、飛鳥忠熈はあいかわらず警部補のことばに耳もかさなかった。克明にマッチの排列をうつしとると、メモ用紙と二色鉛筆をポケットにしまいこみ、無言のままアトリエの隅へ退いた。救急車の要員が三人ドヤドヤとアトリエのなかへ入ってきたからである。
「死体を……」
「ああ、いいから運び出してくんな」
日比野警部補が怒りに口もきけなかったので、古狸の近藤刑事がかわって答えた。
日比野警部補は気の毒に耳たぶまで真っ赤に染まっている。若い古川刑事はうさんくさそうな色を露骨にみせて、ジロジロ顔を見ているが、忠熈は|歯《し》|牙《が》にもかけぬようすで自若としている。
救急車の要員が槙の死体を|籐《とう》|椅《い》|子《す》からかつぎ起こしたとき、
「あっ、ちょっと……」
と、金田一耕助が駆け寄った。
薄カーキ色をした槙のブラウスのちょうどお|臀《しり》にあたるところに、べったりと茶褐色のものがついている。金田一耕助がのぞきこんでみると|蛾《が》の|鱗《りん》|粉《ぷん》らしかった。体液らしきものもついている。
「日比野さん、これ」
日比野警部補もそこをのぞきこんだ。動作がギコチないのは怒りのために体がほぐれていないからである。
「蛾……ですね」
声がしゃがれているのも怒りのために、これまた声帯が変調を来たしているせいであろう。
「蛾の死体のうえに、べったり腰をおろしたんじゃないでしょうかねえ。この鱗粉や体液のつきかたじゃ……」
日比野警部補は反射的に籐椅子のうえに眼を走らせた。しかし、そこには蛾の死体は見当たらなかった。いや籐椅子のうえのみならず、このアトリエのなかにはどこにも蛾の死体はなさそうである。
「ようし、そのブラウスはここで脱がせろ。そして、その鱗粉を落とさないように気をつけて鑑識のほうへまわしておけ」
こうして槙恭吾の死体は解剖に附されるために、水びたしの矢ガ崎から救急車で運び出されていった。
第六章 蛾の紋章
「いいですか。よろしいですか。もうすでに男がふたり死んでるんですよ。変死を遂げているんですよ。いや、ふたりじゃない、三人だ。東京で変死をとげた阿久津謙三氏をいれるとこれで三人目だ。それだのにあなたがたはなにかかくしていらっしゃる。少なくともフランクではない。これじゃいつまでたっても事件は解決しないじゃありませんか」
さっきの飛鳥忠熈の態度が日比野警部補をつよく|刺《し》|戟《げき》しているのである。日頃はこれほど強引な男ではないはずなのだが、いまはすっかり冷静さをかいている。いきおいことばも激烈なものにならざるをえなかった。しかも、自分でじぶんのことばに刺戟されて、ますます|激《げっ》|昂《こう》していくのである。日比野警部補はまだ若かったし、こんな大事件ははじめてでもあった。
それにはこの警部補の心奥に根強く巣喰うている、ある種の劣等感も否定できないかもしれない。
かれは生まれも貧しく育ちも苦しかった。アルバイトをしながら地方の国立大学を出て警察官を志した。国家公務員三級職試験に合格すると年若くして警部補である。やがてかれは実地で|叩《たた》きあげた多くの先輩を|尻《しり》|眼《め》にかけ、警部となり、警視に昇進するだろう。警察官としてのかれの前途には洋々たるものがあり、そういう意味ではかれはエリート意識の権化といえるだろう。
しかし、いかんせん、若さからくる経験の浅さはどうしようもなかった。捜査係長として多くの刑事を指揮する立場に身をおきながら、老練な刑事たちからつねに批判的な眼で見られているだろうという意識が、こういう重大事件の捜査の場合、いつもかれの心をするどく刺す。
それがひとつの劣等感となり、ことに相手が有名人の場合、かれの心を|苛《いら》|立《だ》たせるのである。
「まあ、それじゃあのひとたちの死が、みんなあたしに責任があるように聞こえるじゃございません?」
日比野警部補が激昂すればするほど、鳳千代子は落ち着いていた。
軽井沢彫りの椅子に腰をおろして、両の腕木に両手をおいて、体をシャンとおこして、日比野警部補とあいたいしている鳳千代子を、金田一耕助はやはり美しいと思わざるをえなかった。目鼻立ちも目鼻立ちだが、その背後にあるものが美しいのである。うちから発散するものが、ほのぼのとした香気をともなって、|艶《えん》|冶《や》たる美しさをただよわすのである。そして、その美しさがいっそう日比野警部補を面喰らわせ、泡をくわせ、かれの激昂を|煽《せん》|動《どう》するのである。
飛鳥忠熈はこちらに背をみせ、ホールの背後の窓から外をみている。そこからは裏のアトリエがみえ、斜めに倒れたコブシの木がみえる。さっき救急車といっしょに駆けつけてきた係官たちが、滑車をつかってコブシの木を起こしている。コブシの木を起こしてから下からヒルマンを引きずり出そうという寸法である。コブシの木はだいぶん引き起こされて、いまにもヒルマンが引きずり出せそうになっている。
金田一耕助はホールの一隅の古びた籐椅子に腰をおろして、眠そうな眼で日比野警部補と鳳千代子の対決を見学していた。ここは槙恭吾の居間兼書斎兼応接室になっていたらしく、広さは十二畳敷きくらいもあろうか、裏のアトリエとおなじでいたって簡粗な木造建築である。いま忠熈の立っている窓のがわに、その窓を残して壁いっぱいに本棚がしつらえてあるが、本はあまりたくさんはなかった。一種の飾り棚として使っていたらしく、|壺《つぼ》だの皿だのの陶器の類がほどよくあしらってある。本は二十冊くらいもあったろうか、いちばん下の段に乱暴に突っ込んであった。
「いや、いや、そういう意味じゃありません。そういう意味でいったんじゃありませんが、もう少しフランクに率直に、打ち明けていただいてもいいと思うんですが……」
残念ながら日比野警部補は鳳千代子の顔を正視することができない。そして、そのことがいっそうかれをイライラさせている。セカセカと千代子の面前をいききするこの若年の警部補は、気の毒なくらい出目金である。
「あたし万事率直に、フランクにお答え申し上げているつもりなんですけれど……、それではもういちどお答えいたしましょう」
と、チラと金田一耕助のほうに眼を走らせて、
「あたしもう長いこと槙さんにはお眼にかかっておりません。去年のあの事件があったときも、あたしはあのひとに会わなかったのです。だって、あたしたち三十一年の春別れて、あかの他人になったんですから、会う必要がなかったのですわ」
それはあきらかに金田一耕助に聞かせるためのものであった。しかし、この実直な警部補にとっては、顔もあからめずに別れた男のことを、口にできる女の心情を|捕《ほ》|捉《そく》することができない。この道徳的に健康な警部補にとっては、四人も夫をかえてなおかつ平然としているこの女は、ただそれだけで|妖《よう》|婦《ふ》なのだろう。だから筆者はこの警部補君におすすめしたいくらいのものである。もう少しちかごろの週刊誌、ことに芸能週刊誌をお読みなさいと。
「日比野さんにはあたしがこの時期に、こちらへきていることがお気に召さないようですけれど、それもさっき申し上げたとおり、ひとつ仕事があがったので、休養をとりたかったのでございますわ。休養をとるには軽井沢はうってつけの場所だとはお思いになりません? 忠熈さまもいらっしゃることですし」
これまた金田一耕助に聞かせるための|台詞《せ り ふ》であった。この際、飛鳥さまといわないで忠熈さまと発音したのが、金田一耕助の注意をひいた。金田一耕助はちらと飛鳥忠熈のほうへ視線を走らせたが、忠熈はすまして本棚のまえに立っている。本棚から本を取りあげて無造作にページを繰っていた。
「しかし、それならなぜあなたは桜の沢の別荘のほうへいらっしゃらないんです。桜の沢にはお嬢さんもいらっしゃるし、しかも、ゆうべはお嬢さんひとりだったというじゃありませんか」
「日比野さんにはどうしてもあたしども親子の仲を、理解していただけないようでございますけれど、美沙とあたしはぜんぜんべつの生活をしておりますの。美沙のことはすっかり笛小路の母にまかせきって……それは、あたしも遠くのほうから温かく見守ってはおりますけれど、また、大きなことは母から相談もうけておりますけれど、日常の茶飯事はすっかり母にまかせきってございますの。だいいち、あたしのようにたびたび旦那さまをかえる母がそばにいちゃ、かえってあのひとのためにならないとお思いになりません?」
千代子はそこでちらと忠熈のほうへ視線を走らせ、ほんのちょっぴり|頬《ほお》を染めたが、日比野警部補はセカセカそこいらを歩きまわっていたので気がつかなかった。忠熈は平然としてまたべつの本を取りあげた。
「それに日比野さんはゆうべ美沙がひとりだったとおっしゃいますけれど、そんなことあたしにはわからないじゃございませんか。東京を立つときべつに笛小路のほうへは連絡いたしませんでしたから」
こういうやりかたが日比野警部補には理解できないのである。母と娘はもっと緊密であるべきである。
「で、あなた、ゆうべホテルを一歩も出なかったとおっしゃるんですね」
「はあ、それではもういちどゆうべのことを申し上げましょう」
鳳千代子が|椅《い》|子《す》の腕木に両腕をおいたままかるく胸を張ったのは、やはり金田一耕助に聞かせるためであったろう。
「きのうホテルから忠熈さまにお電話したのは、五時十分ごろのことでございました。六時に忠熈さまがホテルへきてくださいました。それからまもなくあたしども食堂へいって食事をしました。食事に一時間半くらいかかったでしょうか。それからロビーへ出てお話をしておりましたら、停電でございましょう。それで忠熈さまはおかえりになったんです。ただそれだけのことでございますのよ」
「飛鳥氏がおかえりになったあとどうしました」
「寝ましたわ。仕方がございませんもの」
千代子は美しく|頬《ほほ》|笑《え》んで、
「もっともそのまえにボーイさんが蝋燭をもってきてくれたので、ベッドのなかでしばらく本を読んでおりましたが、眼が痛くなりそうなので蝋燭を消して寝ることにしました。風がだんだん強くなってまいりましたし、それにどこかで盆踊りがあったらしくて、レコードの音がうるさくてなかなか寝つかれませんでしたけれど」
「そのあいだにお嬢さんに電話をかけてみようとは思いませんでしたか」
「思いませんでした」
千代子はあでやかに微笑して、
「正直に申し上げますとあのひとのことは、すっかり忘れていたんですの。それはこちらにいるあいだに、いちどは会おうと思っておりましたけれど……」
日比野警部補はギロリと千代子をながしめに見た。しかし、千代子の平然たる顔色をみると、また思い惑うたふうでホールのなかをいきつ戻りつしながら、
「それじゃ、ここで去年のことを蒸し返えさせていただきたいんですが……」
「さあ、どうぞ」
千代子は椅子の腕木に両手をおいたまま|眉《まゆ》ひと筋動かさなかった。
金田一耕助はちょっと緊張した。
「おぼえていらっしゃるでしょうねえ、去年のことを」
「おぼえているつもりでございます。あんなことがなければ忘れてしまったかもしれませんけれど」
日比野警部補はまたギロリと千代子の顔をながしめに見て、
「去年あなたがこちらの高原ホテルへいらしたのは、八月十三日の夕方のことでしたね」
「はあ、さようでございます」
「その翌日の十四日の夕方、笛小路泰久さんがこちらへきていらっしゃるんですが、わたしどもの考えでは、笛小路さんはあのときあなたを追っかけてきたんじゃないかと思うんです」
「それはあのときも申し上げましたけれど、あのひとがあたしを追っかけてきたとしても、なんのためだったかあたしにもわかりませんの、いまもって」
「保釈金はあなたが出してあげたんでしょう」
「はあ。笛小路の母に頼まれたもんですから」
「そのお礼をおっしゃりたかったんじゃないんですか」
「そうだったかもしれません。しかし、それなら余計な心使いで、あたしは美沙のために出したんですからね」
千代子のそのことばは冷酷にひびいた。
「とにかく、あなたはとうとうお会いにならなかったんですね」
「はあ」
「でも、電話で会いたいといってきたんでしょう」
「はあ、二度。いいえ、もっとたびたび電話をかけてきたんですけれど、あたしが留守だったりしたもんですから、話したのは二度だけでした」
「十四日の夜と十五日、すなわち亡くなられた日の夜の八時ごろでしたね」
「はあ、あの晩ホテルでパーティがございまして、忠熈さまなんかもお見えになっていらしたんですけれど、八時ちょっと過ぎに電話をかけてきたんです。そうそう、忠熈さま」
「ああ……?」
忠熈は本棚のまえで本を持ったまま振り返った。本に熱中していたらしくいささか虚をつかれたような顔色だった。
「これはちょうどさいわい、金田一先生に聞いておいていただいたほうがよろしいんじゃございません?」
「ああ、そう、君がそう思うんならそうしたまえ」
自分でも少し素っ気ないと思ったのか、
「そのために金田一先生をお願いしたんだからね」
と、忠熈はあとから温かい調子で附け加えた。
「金田一先生」
「はあ、それじゃぼくもここで拝聴いたしましょう」
金田一耕助は日比野警部補のほうを見たが、警部補はべつになんともいわなかった。金田一耕助を無視しているというよりも、この警部補はいまじぶんじしんの考えに熱中しているので、ひとのことなどとやかくいう余裕を失っているといったほうがただしいだろう。
千代子はちょっと上眼づかいに考えをまとめるふうだったが、やがてその眼を、金田一耕助と日比野警部補のほうへ等分にむけて、
「これはあの当時、つまり去年の事件があった当時は、さして気にもとめなかったものですから、日比野さんにも申し上げるのを控えていたことなんですの。でも、こんどこういう事件が起こってみれば、やはりなにか重要な意味があったんじゃないかと、さっき忠熈さまとも話しあったことなんですの」
「なにかわれわれにかくしていたことがあったんですね」
日比野警部補の頬にまた血の気がのぼりかけてきた。千代子を見る眼にとげとげしい色が走っている。
「かくす……? そうですわね。やっぱりかくしていたことになりますわね。忠熈さまもなにもそこまで、申し上げる必要はあるまいとおっしゃったものですから」
「いったいどんなことなんです、そりゃ」
「はあ、それをいま申し上げるところなんですの。そのときあたし高原ホテルのダイニング・ルームにいたんですの。パーティに出席してみなさまのお相手を申し上げていたんですのね。そしたらボーイさんがやってきてあのひと……笛小路からの電話だと申しますでしょう。まえにいちど電話で話して、会う必要はないと断わったんですけれど。その日、夕方外からかえってまいりますと、あのひとからたびたび電話があったということなので……」
「ああ、ちょっと」
と、金田一耕助がさえぎって、
「その日、あなたはどこへいっていらしたんですか」
「忠熈さまとごいっしょに、ゴルフ場でコースをまわっていたんですの。午前十時ごろから。その日は忠熈さま主催のゴルフのコンペがございましたの。クラブ・ハウスで昼食をいただいて、午後からまたコースをまわったものですから、忠熈さまに送っていただいてホテルへかえってきたのは、午後四時半ごろのことでした。忠熈さまはいったんおたくへおかえりになり、七時ごろまた出直していらして、ふたりでホテルのパーティに出たんですの。コンペに出席なすったかたがたを忠熈さまがご招待なすったんですね。そうそう、あたしがかえってからまもなく、いちどあのひとから電話があったんですけれど、ちょうどそのとき入浴中だったものですから断わったんですの」
「ああ、そう、それでパーティの最中に電話がかかってきたときは出られたんですね」
「はあ」
「それが八時ちょっと過ぎだったというんですね」
「はあ。八時半ごろでしたかしら」
「じゃ、あとをどうぞ」
「電話へ出てみるとあの人ひどく酔っぱらってるんですの。そのまえ電話で話したときはシラフでしたから、あたしが会う必要はないんじゃございません、保釈金のことでしたら、美沙のためにしたことですから、どうぞ気におかけにならないで。何かまたご用がございましたら、笛小路のお母さまを通じておっしゃってくださいといったら、あっさりそれで引き退ったんですの」
「それが十四日の晩、即ち笛小路さんがこちらへお着きになった晩のことですね」
「はあ」
「しかし、笛小路さんはなぜあなたに会いたがられたんでしょう。ただたんに、保釈金のお礼をおっしゃるためだったんでしょうか」
「いえ、それはたぶん……」
千代子はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》したのち、
「やはり無心がいいたかったんじゃないでしょうか。それがあのひと、シラフのときは小心なひとですから、ハッキリ切り出せずに引き退ったのではないかと思うんですけれど」
「それが、十五日の晩の八時半ごろに、電話をかけてこられたときには、ひどく|酩《めい》|酊《てい》していらしたというんですね」
「はあ」
「それで……?」
「あたしまた、いま申し上げたとおなじようなことをいって、会うことを断わったんですの。そしたら、なんだかひどく毒々しい声をあげて笑ってましたけれど、おまえはどうしてもおれに会わなきゃいけない、きょう津村真二に会って話をきいたんだぞと、こう申しますの」
「津村真二に会って話を聞いたとそういったんですか」
日比野警部補は立ったままうえから千代子を視すえている。度の強い眼鏡のおくで白眼に血の筋が走っているようである。
「話ってなんの話なんですか」
「それがわかりませんの。いまもって」
鳳千代子の眼は|冴《さ》えていて、そこにはなんのわだかまりもなさそうだった。もちろん不審そうな色はハッキリみえたが。
「それで……? それからどうしました?」
「それがひどく酔っておりますでしょう。酔うとあの人いけなくなるんですの。昔っからそうでした。映画界をしくじったのもそのためなんですの。生活にやぶれて|荒《すさ》んでからはいっそうそうだと、笛小路の母からも聞いておりましたから、よいかげんに電話を切ろうとしました。あのひとはただ津村に会って話を聞いたぞ、聞いたぞと、酔っぱらい特有のくどさで繰りかえすばかりでしょう。あたし腹が立ちました。電話を切りますよとキッパリ申しますと、じゃ、飛鳥忠熈に会ってもいいかと申しますから、どうぞご随意にとそういって、あたし電話を切ったんですの」
「ああ、それでそのあと飛鳥さんに電話をかけてきたんですね」
日比野警部補は|憤《ふん》|懣《まん》をぶっつけるような口調である。
「ええ、そう」
「飛鳥さんはその電話に出られたんですか」
と、金田一耕助が|訊《たず》ねた。
「いいえ、金田一先生、わたしは出ませんでした。出る必要はないと思ったもんですから。しかし、いまにして思えばあのとき電話に出ておけば、もっと取りとめたことが聞けたかもしれないと思ってるんですがね」
「そのことを……津村さんから話を聞いたからぜひ会えと笛小路さんが、おっしゃったってことを、鳳さんは警察へはおっしゃらなかったんですね」
「はあ」
「いや、それはわたしが止めたんです。津村君も取り調べをうけているんですからね。このひとはなにを津村君が笛小路氏に話したのか、その内容はてんでしらないんですし、必要があったら津村君が話すだろうというんで、そこまでは、警察にいう必要はないだろうとわたしが止めたんです」
「その点について津村氏はなにもいわなかったんですね」
金田一耕助は日比野警部補をふりかえった。
「しりませんでした。そんな話いま聞くのが初耳です」
これでは警部補の激昂はますます募るばかりであろう。
「しかし、その日笛小路氏は、津村氏に会ってることは会ってるんですね」
「はあ、午後一時ごろ浅間隠の別荘へ津村氏を訪ねてきたそうです」
「ああ、津村氏の別荘は浅間隠にあるんですか」
浅間隠といえば桜の沢のすぐちかくであることを、金田一耕助はさっき秋山卓造の説明からしっていた。
「別荘ったって貸し別荘ですがね。津村氏は去年もおなじ貸し別荘へきてるんです」
「津村氏はその訪問についてどういってるんです」
「べつにたいしたことはなかった。身の不仕合わせについてくどくど愚痴をこぼしていた。ちょうどそこへ星野温泉の音楽祭から、学生が迎えにきたので別れたが、ジョニー・ウォーカーの黒の手つかずを一本まきあげられたとこぼしていました。去年もちょうどいまじぶん、星野温泉で音楽祭があったんですね」
「そのウイスキーですか。笛小路さんがあの晩かかえて歩いていたというのは?」
「そうです、そうです」
「いったい笛小路さんは津村の別荘にどのくらいいたんです」
「ほんの二、三十分だったそうです。いいぐあいに学生が迎えにきたので別れたといってました」
「二、三十分あればそうとうまとまった話ができる……」
金田一耕助は呟くようにいってから、鳳千代子のほうへむきなおった。
「つまり笛小路氏の電話の意味はこうだったんですね。じぶんはきょう津村氏に会っておまえのことを聞いたぞ。その話は飛鳥さんの耳に入るとつごうの悪い話であるぞよ。だから、おれに会っていくらかよこせ……と、そういう意味だったんじゃないんですか」
「あとから思えばそうとれないことはございません。しかし……」
「しかし……?」
「あたし忠熈さまのお耳に入ってつごうの悪い話って、ぜんぜん心当たりがございませんの。それは、あの当時もいまもおんなじことでございます。こういっちゃなんですけれど、あたしどものような立場におりますと、しじゅうマスコミの注視のまったただなかに立たされておりますでしょう。秘密なんて持てっこございませんわね」
聞きようによってはそれは忠熈に対する訴えとも受け取れないことはなかった。忠熈は本棚に|片《かた》|肱《ひじ》かけて身をもたらせたまま、やさしい眼で千代子を見守っている。
「あなたはそのことについて、津村氏に聞いてみようとは思いませんでしたか」
「思いませんでした」
千代子はキッパリいって、
「津村というひとは……いえ、ひとさまのことをとやかくいうのはよしましょう。それより津村さんはことしもこの軽井沢へきてらっしゃるようですから、直接会ってお聞きになったら」
「もちろんそうしますよ。あなたがたがかくしていたばかりに捜査が一年おくれましたがね」
警部補は|頬《ほお》をヒクヒク|痙《けい》|攣《れん》させながら、皮肉タップリにいったが、忠熈も千代子もとりあわなかった。
「笛小路さんはどこから電話をかけたかわかってるんでしょうね」
金田一耕助が日比野警部補をふりかえった。
「わかっています。あの晩笛小路さんは八時ちょっとまえまで白樺キャンプにいたんです。ひとりでウイスキーを|呷《あお》ってたそうですが、それがふらふらウイスキーの瓶を片手に出かけて、旧道のちかくのミモザという喫茶店へやってきたのが八時ちょっと過ぎ。そこからホテルへ電話をかけているんですが、なにしろ鳳千代子さんという大スターの名前が出たでしょう。だから、そのときミモザにいた連中は、みな笛小路さんのことをおぼえてるんです。笛小路さん、このおふたりに面会を断わられてから九時ごろまで、ミモザにねばって紅茶にウイスキーをたらしこんで飲んでたそうです。それが九時ちょっと過ぎてふらふらそこを出掛けたので、みんなどういう男だろうとうわさしてたそうです」
「それから笛小路さん、桜の沢の別荘へ出向いていかれたわけですね」
「そうです、そうです。桜の沢の別荘へあらわれたのが九時半ごろだったそうです。ところがあいにくご隠居が東京へいって留守だった。それで美沙ちゃんがそんなに酔っ払って危いから、泊まっていきなさいととめるのもきかずにふりきって、ふらふらそこを飛び出して、それからまもなくあの|奇《き》|禍《か》に遇ったというわけですね」
日比野警部補は熱い語気で語りながらも、さぐるように鳳千代子と飛鳥忠熈の顔を見くらべている。目がいまにもとび出しそうになり、白眼のうえを走る血の筋はいよいよ鮮かさをましてくる。千代子と忠熈のふたりは無言のままそれぞれの視線のはしに|瞳《ひとみ》をすえて、|活《かつ》|人《じん》|画《が》のように動かなかった。
金田一耕助もしばらく無言でいたのちに、
「で、パーティはいつごろ終わったんですか」
「はあ、あの……」
千代子はハッと眼が覚めたように、
「九時すぎお開きになりました」
「それからあなたがたはどうなさいましたか」
「はあ、忠熈さまがお引き取りになったのは九時半ごろでした。あたしお玄関までお見送りしましたが、ひどい霧だったのをおぼえております。それからあたしはバスを使ってベッドへ入りましたが。そうそう、そういえば、あの晩もどこかで盆踊りがあったらしく拡声機の音がうるさくて、なかなか寝つかれなかったのを記憶しております」
さすがに鳳千代子もその当時のことを思い出したのか、肩をすぼめて小さく身ぶるいをした。血の気のひいた顔が|蝋《ろう》のように白くケバ立っている。
「飛鳥さんはそれからまっすぐ別荘へおかえりになったんですか」
「ああ、そう」
「自動車で?」
「いいや、歩いて。すぐちかくだからね」
「別荘へおかえりになった時刻を、だれかおぼえているものがあったんでしょうねえ」
「いや、それがね」
と、忠熈は床に眼を落として、
「あんなことがあったとしっていたら、別荘へかえったとき、だれかを呼ぶんだったが、こっちはそんなことはしらないさ。玄関へ入るとだれもいないので、そのまままっすぐ書斎へ入って、しばらく道楽の考古学の本を読んでいたが、眠くなったので寝ようとすると多岐……うちのばあやだが……多岐がやってきて、あら、おかえりになっていらしたんですかというわけさ」
「それ、何時ごろのことでした?」
「かれこれ十時半ごろのことでしたろうかね」
「じゃあ、だれもあなたが別荘へ、おかえりになった時刻をしらないわけですか」
「ああ、まあ、そういうことですね」
忠熈は真正面から金田一耕助の顔を視すえた。まばたきもしないである一点を凝視するとき、忠熈の眼は陶器の皿のようにつややかな光沢をおびて、相手を射すくめるようである。金田一耕助はかすかな戦慄をおぼえずにはいられなかった。そのときすかさず横から口をはさんだのは日比野警部補である。
「つまりあなたがたおふたりには、九時半以後のアリバイが全然なかった。笛小路さんの入水は十時から十一時までということになっているんですが、その時刻におけるアリバイを、このおふたりは証明することができなかった。しかも、笛小路さんは入水以前の数時間のあいだに、だれか女と……」
この若い警部補はさすがに顔をあからめ、いくらか|口《くち》|籠《ごも》りながら、
「情交をもった|痕《こん》|跡《せき》が歴然としている。わたしはその女がだれであるかをしりたいのです」
警部補の声は熱をおびていまにもバクハツしそうである。眼鏡のおくの出目金のような眼がいまにも|眼《がん》|窩《か》からとび出しそうであった。
「あれはふしぎですわねえ。あたしとうてい信じられないんですけれど」
「あのときもあなたはそうおっしゃった。あなたは現代医学を信用なさらないんですか」
「あら、ごめんなさい」
千代子ははぐらかすように、
「日比野さん、あなたはその女があたしだったと申し上げたら、ご満足なさるんでしょうが、おあいにくさま、別れたひととそんな浅ましいこと……それにあたし……」
と、千代子は評判の|靨《えくぼ》をみせて、
「もう十九や二十の小娘じゃございませんのよ。あのひとの暴力に屈したなどと思わないでくださいましね」
「しかし、笛小路さんが津村氏に聞いたという秘密をネタにあなたに迫ったとしたら……」
「ですから、津村さんに直接会って話をきいて頂戴と申し上げているでしょう」
千代子の声がヒステリックになってきたので、警部補も唇をかんで沈黙した。事柄が事柄だけに、これ以上強く押すということは精神的拷問であるという非難を招きかねない。
「もちろん津村氏に会うつもりですよ。会って聞いてやる。こんどこそきっと泥を吐かせてやる」
語気あらくいったものの、警部補の顔は自信がなさそうであった。いまになってこの女、なぜこのような重大なことを打ち明けたのだろう。
「日比野さん」
そばから金田一耕助が言葉をはさんで、
「その女性についてはほかに心当たりがなかったんですか」
「なかったんです。当時軽井沢には笛小路さんと、かかりあいを持つような女性はひとりもいなかったし、あとから笛小路さんを、追っかけてきたのではないかと思われる女性もいなかったんです。鳳千代子さんのほかにはね」
警部補の声はキンキンとカン高く、金属性をおびて部屋中にひびきわたった。
座が白けた。
鳳千代子は軽井沢彫りの|椅《い》|子《す》の腕木をつかんで、キッと正面を切っている。さすがに顔から血の気がひいて、怒れる女王というかたちである。飛鳥忠熈はあいかわらず本棚のそばに立ったまま、われ関せずえんといった顔色であった。
|気《き》|拙《まず》い沈黙が流れたあとで、
「それで……」
と、金田一耕助がボソリとことばを投げ込んだ。
「飛鳥さん、ゆうべはどうでした。鳳さんと別れてホテルを出てから……? 自動車でしたか、徒歩でしたか」
「いや、それは歩いてかえったんですが、ゆうべはしくじりましたな」
「と、おっしゃると……?」
「なにしろホテルから外へ出ると、どこもかしこも停電で真っ暗でしょう。つい道に迷っちまって、うちへかえったのは九時半ごろでしたかね」
「九時半……?」
日比野警部補の眼に、殺気にも似た疑惑の色が走ったのもむりはない。槙恭吾の推定死亡時刻は九時から九時半までのあいだということになっている。
「それじゃ、あなたは一時間以上も、道に迷っていたとおっしゃるんですか」
「ああ、そう、そういうことになるね」
忠熈は渋い微笑をうかべて、
「しかし、それにゃわけがあるんだ。ひどく興奮してたもんだからね」
「興奮……? なんで興奮したんですか。あなたのようなかたが一時間以上も、停電のこの軽井沢を歩きまわるほど。しかも、その時分にはそうとう風が吹きつのっていたはずですが」
「いや、ホテルのロビーでこのひとと話してたろう。とつぜん電気が消えて真っ暗になった。その瞬間、つい……」
「その瞬間、つい……?」
「なにさ、このひとを抱きすくめてキスしてしまったんだ」
「あら!」
千代子の|頬《ほお》がそのしゅんかん火がついたように|炎《も》えあがった。きれいな肌のしたに血の気が散ったところは、鮮かとも美麗ともいいようがなかった。
忠熈はそういう千代子の横顔をやさしく見守りながら、
「ごめん、ごめん、とんだことをバクロしっちまったね。あっはっは」
ノドをひらいて屈託のない笑い声をあげると、
「このひととはもう一年以上のつきあいなんだが、そんなことははじめてだった。だから、つい……若僧のように興奮してしまったんだな。あっはっは」
忠熈はもういちどノドをひらいて笑った。こんどの笑い声はさっきよりさらに高く大きかった。千代子の肌をそめた血の色はまたいっそう鮮かなものになった。
「それで……?」
と、日比野警部補は|猜《さい》|疑《ぎ》にみちた|瞳《ひとみ》を、忠熈のおもてに|釘《くぎ》|附《づ》けにして、
「そうして一時間以上も歩きまわっているうちに、だれかに会いませんでしたか」
「会ったかもしれないが、こっちは憶えがないね。なにしろ心身ともにフアーッとしていたんだからね」
もしそれが事実としても、忠熈はなぜそれをこんな席でいわなければならないのだろうと、金田一耕助は怪しんだ。千代子もおなじ思いとみえて|訝《いぶか》しそうに忠熈の顔を見つめていたが、忠熈はもういちずに幸福そうにニコニコ笑っている。千代子の肌のしたを流れている血が、またいちだんと鮮かさをまして美しかった。
「そうそう、道に迷ってあるきまわっているうちに、ただひとつだけ憶えていることがある」
「どういうことですか」
「途中でタバコを吸おうと思ってライターを取り出した。風が強いのでライターに火がつかず、そのときは諦めたんだ」
「それで……?」
「ところが、それからしばらくしてまたタバコを吸いたくなったので、ポケットのライターをさぐってみたんだがどこにもない。さっきポケットにいれたつもりで落としたんだね。表面にピラミッドのレリーフのあるライターだからすぐわかる。それを捜し出してくれると、ぼくがどのへんを歩いていたかわかるだろうと思うんだがね」
そういう忠熈を視すえる警部補の瞳に、ますます疑惑のいろがつのってきたとき、若い古川刑事がそそくさと入ってきた。
「ああ、ちょっと、主任さん」
「なに?」
「こんなものが被害者のジャンパーのポケットから出てきました。通いのばあやの話によると、きのうの昼間、外出したとき着てったジャンパーだそうですが……」
軽井沢というところは男でも、一日に何回かお召し更えをしなければならない。日中と朝夕の気温がうんとちがうからである。
ジャンパーのポケットから出てきたものというのは、クシャクシャにシワになった印刷物だった。日比野警部補はそれをひらいてみて、おもわず|眉《まゆ》をつりあげた。いま軽井沢で開催されている現代音楽祭のプログラムで、ことしは津村真二の作品発表会である。タクトは津村真二みずから|揮《ふる》うことになっている。
「それじゃ、やっこさん、きのう津村真二の音楽会へいったんだな」
「だから、会場で津村真二に会ってるかもしれませんぜ」
「うん、よし」
日比野警部補が鳳千代子のほうへむきなおって、なにかいおうとしているところへ、近藤刑事がガニ股をセカセカさせながら、あわただしく入ってきた。いくらか興奮しているようである。
「主任さん、ちょっと……」
「ええ、なに?」
「自動車が木の下から出てきたんだが、その自動車のなかに妙なものがあるんです」
「妙なものって?」
「まあ、いいから来てください」
近藤刑事のあとにつづいて日比野警部補が古川刑事とともに、あわただしく出ていくうしろ姿を見送って、金田一耕助もやおら椅子から立ちあがった。
鳳千代子のほうへむきなおって、
「鳳さんにひとつお|訊《たず》ねしたいことがあるんですが」
「はあ、どういうことでございましょうか」
「これは飛鳥さんからお聞きおよびのことと思いますが、槙氏の死体のそばにマッチの棒が並べてあったんですが、それについてなにかお心当たりは……?」
「はあ、それならあたしもさっきちょっと見ました。妙なものが並べてあると思ったんですけれど……」
千代子は気味悪そうに身ぶるいをした。
「それについてお心当たりはないとおっしゃるんですね」
「はあ、いっこうに……」
「あなたあのマッチの並べかたをよくごらんになりましたか」
「いいえ、とてもその勇気は……」
「ああ、それなら飛鳥さんが詳しく写しとっていらっしゃいますから、あとでごらんになって、気がついたところがあったらおっしゃっていただきたいんですが」
「すると、金田一先生はあのマッチの並べかたに、なにか意味があるとおっしゃるんですか」
「と、思わざるをえないんですがね。もっともあの排列はそうとう乱れていると思うんですが……」
「承知いたしました。あなた……」
「ああ、あとで写しを見せてあげよう」
忠熈もさすがに真剣な面持ちになっていた。千代子は金田一耕助のほうへむきなおり、
「金田一先生」
「はあ」
「あたし誓ってお約束いたします。もしそのマッチの並べかたになにか意味があり、その意味があたしにわかったとしたら、かならずそれを先生にご報告申し上げます」
「ありがとうございます」
金田一耕助はかるく顔をさげて、
「それじゃもうひとつお訊ねがあるんですが……」
「はあ、どうぞ」
「これはこちらのばあやさんの、根本ミツ子さんのお話だそうですが、亡くなられた槙さんというかたは、閑なとき、つまり閑をもてあましているときとか、|無聊《ぶりょう》をかこっているときとかには、よくマッチの棒を並べて|娯《たの》しんでいらした、つまりマッチ棒のクイズやパズルを、消閑の楽しみにしていらしたということですが、そういう習癖はむかしから……?」
千代子はちょっと眉をつりあげて、
「いいえ、それはいま初耳でございます。少なくともあたしといっしょの時分には、そういう子どもっぽい習慣はございませんでした」
金田一耕助は悩ましげな眼をして、
「性格としてはどういうかたでいらっしゃいましたか。気さくなひととか、気むずかしい性分とか……?」
「そういうわけかたをするとすれば、いたって気さくなほうでしたわね。しょっちゅう|駄《だ》|洒《じゃ》|落《れ》をとばしているというふうで、ときには駄洒落が皮肉になることもございましたが、根が善良なひとでしたから……」
「いや、立ち入ったことをお訊ねして失礼いたしました。表でなにか見つかったようですから、わたしはちょっといってみます。まもなくここからお帰りになれるようになるでしょう」
金田一耕助は一礼してコッテージから外へ出て裏へまわると、あの大きなコブシの木がとりのけられて、その下にペシャンコになっていたヒルマンが、やっと解放されたところであった。
日比野警部補はなにか物問いたげな眼つきだったが、金田一耕助はとりあわなかった。
「自動車のなかになにか見つかりましたか」
「ほら、あれ……」
近藤刑事の指さすところをみると、運転台のとなりの席に、古びたクッションが投げ出してある。そのクッションの下からのぞいているのは鍵束のようである。コブシの木を引き起こす震動でクッションがずれ、いままでその下にかくれていた鍵束が、姿をあらわしたということなのだろう。
「鍵ですね」
相当の努力のすえに押しひしゃがれたドアがやっとこじあけられた。ドアには鍵がかかっていなかった。自動車の鍵はエンジンの鍵孔に插しこんだままになっている。
日比野警部補はいびつになった自動車のドアから、やっと上半身を突っ込むと、クッションの下から鍵束を取りあげた。金属製の環に数種類の鍵がぶらさげてあって、それが槙恭吾の全財産を管理するものらしい。日比野警部補が取りあげたとき、ジャラジャラと重い金属製の音を立てた。
近藤刑事がその鍵束をひったくるようにして、コッテージのほうへ走っていった。ガニ股がひどく印象的だった。
しばらくすると引き返してきて、鍵束のなかからひとつの鍵を警部補に示した。
「これが表のドアの鍵」
さすがの古狸も興奮しているが、それにもまして当惑しているのは若い秀才型警部補である。
「コッテージの鍵はここにある。それだのに槙恭吾はなぜアトリエへいったのだろう」
金田一耕助は自動車の後部へまわって、なにげなくトランクの|蓋《ふた》をひらいた。トランクには鍵がかかっていなかった。トランクの中にはスペヤーのタイヤだの工具だのが入っていたが、とつぜん金田一耕助は眼をすぼめた。
「日比野さん、ちょっと……」
「ええ、なんですか」
「ちょっとこちらへ来てあれをごらんなさい。面白いものがありますよ」
若い警部補と古狸の刑事と、童顔の古川刑事が目白押しになってトランクのなかをのぞきこんだが、とたんに三人の眉がつりあがった。
スペヤー・タイヤの黒いかたい表面に、大きな茶褐色の蛾の死体が押しつぶされていた。まるで|螺《ら》|鈿《でん》をちりばめた紋章のように。
第七章 |楔《せっ》|形《けい》文字
人間の敵意も反感もあまり異常な事態にぶつかると、一瞬けしとんでしまうものらしい。
トランクの周囲に目白押しになって、黒いかたいタイヤのうえに螺鈿のようにちりばめられた蛾の紋章を発見したとき、それがいまいましい金田一耕助の発見であることも忘れて、そこには率直な|驚《おど》|駭《ろき》の表白があった。と、同時に、天啓のごとく槙恭吾の死体を|囲繞《いにょう》する現場の、さまざまな不可解な矛盾が日比野警部補の|脳《のう》|裡《り》にひらめいたのにちがいない。もちろんその矛盾をいかに解決すべきかということは、まだまだ|曖《あい》|昧《まい》|模《も》|糊《こ》たる煙幕のかなたに閉されていたけれど。
「金田一先生、それじゃ被害者のブラウスについていた蛾の体液や鱗粉は、この蛾からきているとおっしゃるんですか」
あたりを|憚《はばか》るような声音には、さっきまでの居丈高な切り口上の調子はなかった。
蛾の発見は偶然である。金田一耕助の功績というほどのものではないであろう。しかし、それによってさきほどから、金田一耕助が指摘していた現場の矛盾が、なんらかの意味で解明されるのではないか。
「と、考えられないことはありませんね。もっともこの種の蛾はこのへんにゃたくさんいるようですけれどね」
金田一耕助のいま|寄《き》|寓《ぐう》している南原のへんにも、この種の蛾はおおく見かけられた。夜うっかりガラス戸や網戸をしめわすれていると、灯火をしたって家のなかへ舞いこんでくる、この茶褐色の大きな蛾になやまされることが少なくなかった。
「と、いって自動車のトランクに、蛾がまいこむというのはどうでしょうか。それにこの蛾、押しつぶされて体液が出ている」
黒いかたいタイヤの表面には蛾の体液がねばりついていた。
「古川君」
日比野警部補は興奮を抑えたきびしい顔を、若い刑事のほうにむけると、
「君、だれかにこの蛾を鑑識へもっていかせて、よく検査してもらうようにいってくれたまえ。さっきとどけた被害者のブラウスについていた鱗粉、あれとおなじ種類のものかどうか」
「おっと承知」
古川刑事が後生大事に蛾の死体をビニールの袋に採集して、小走りに立ち去るうしろ姿を見送って、近藤刑事は金田一耕助のほうへむきなおった。
「金田一先生」
興奮を押し殺したようなシャガレ声である。
「はあ」
「被害者のブラウスについていた鱗粉や体液が、このトランクのなかに死んでいた蛾からきたものだとしたら、こらいったいどういうことになるんですかな」
その口調にはもはやさっきまでの、突っかかるようなトゲトゲしさはなかった。金田一耕助を見る眼にも、ある驚きと温かさが感じられるようである。
「さあ……近藤さんはそれをどうお考えになりますか」
「ひょっとすると被害者の槙恭吾は、このトランクにつめられて……」
いいかけてあわててあたりを見まわした。それはあまりにも重大な発言である。もしそうだとするとこのことは、事件を根底からひっくりかえすと同時に、この事件の捜査上重大なキメ手になるのではないかと気附いたからであろう。
さいわい町から駆り出してきた植木屋たちがあたりを右往左往しているが、だれも近藤刑事の発言を耳にしたものはなかったようだ。
ここからコッテージの背後が見えており、さっき忠熈が外をのぞいていたホールの窓もすぐ鼻のさきに見えていたが、忠熈の顔はみられなかった。金田一耕助の乗ってきたキャデラックはコッテージの正面に|駐《と》まっているはずである。秋山卓造はそのキャデラックの運転台にいたようだ。
「と、すると近藤さん、それはどういうことになるんでしょうね」
「被害者はどこか出先で殺害されて、犯人のためにここへ運びこまれてきたんじゃ……?」
金田一耕助は悩ましげな眼を、日比野警部補の手にしている|鍵《かぎ》|束《たば》のほうへむけて、
「日比野さん、その鍵束のなかにコッテージの鍵があるんですね」
「はあ、近藤君、そうなんだろう」
日比野警部補の調子はいつかすなおになっている。
「そうですとも。表のドアの鍵が、そんなかにありますよ」
「それじゃ、恐れ入りますが、もういちどお試しねがえませんか。それとことのついでに、飛鳥氏と鳳女史にはいちおうここを引き取っていただいたら……よけいなことをいうようですがね」
日比野警部補も金田一耕助のことばを諒解した。あのふたりがいたらかえって捜査の妨げとなる。
「よし、近藤君、それじゃふたりにそういいたまえ。ただし、ふたりともここ当分軽井沢にご滞在くださるようにとね」
「ああ、それからわたしはいずれあとで、別荘のほうへお伺いいたしますからと、そう申し上げておいてください」
「承知しました」
近藤刑事はまもなく鍵をじゃらつかせながら、コッテージのほうから戻ってきたが、それと同時にキャデラックが水しぶきをあげて、この山荘を出ていくのが見えた。金田一耕助が振り返えると車窓から千代子がかるく会釈した。千代子はあいかわらず美しかったが、忠熈の姿は千代子のかげにかくれてよく見えなかった。
「やっこさん、なにかいってたかい? この自動車のことについて」
「いいえ、べつに……この鍵が自動車のなかからめっかったんだと、ただそれだけいっときました。蛾のことはわざと伏せておきましたがね」
「その鍵は?」
金田一耕助がそばから訊ねた。
「やっぱり槙の鍵束でした。通いのばあやの根本ミツ子にも見てもらいましたよ。槙の鍵束にちがいないといってます」
「すると、その鍵束のなかからただひとつ、アトリエの鍵だけが外されていたということになるんですね」
「そういうこってすね。根本ミツ子にもその理由はわからないといってますが……ああ、そうそう、飛鳥さんが万事よろしくってことでした。別荘のほうでお待ちしてるって」
「ああ、そう、ありがとうございました」
「それで……? 金田一先生……?」
日比野警部補は物問いたげな視線を金田一耕助のほうへむけた。
「あのアトリエへいって話をしようじゃありませんか。あそこは議論をするのにうってつけの場所ですからね」
「ああ、そう、おい、古川君」
と、日比野警部補はわかい刑事を呼びよせて、
「君、このトランクのなかをよく調べておいてくれたまえ。金田一先生、指紋を検出しとく必要があるでしょうね」
「それはもちろんやっておかれるべきでしょう」
「ひょっとすると、被害者の指紋が出るかもしれんな」
近藤刑事がひとりごとのように呟いた。この古狸の刑事にとっては、金田一耕助といっしょに仕事をすることが、しだいに楽しくなってきたようである。
さっきからみると水はもうだいぶん引いていて、網の目のように流れるせせらぎのあいだから露出してくる浅間砂利の地肌が、しだいにその面積をひろげていた。水はけのよいこのへんの地層のこととて、水から露出した部分はもう急速に乾きはじめている。
金田一耕助と日比野警部補、近藤刑事の三人が乾いた部分を飛石づたいに、アトリエのなかへ入っていくと、そこは死体を運び出しただけでまださっきのままだった。|蝋《ろう》|燭《そく》もマッチのパズルもまだそのままになっている。びしょ濡れだった床はもううっすらと乾きはじめていた。
日比野警部補は用心ぶかく、わざとドアを開けっ放しにしたまま、きびしい顔を金田一耕助のほうへ振りむけた。
「で……? 金田一先生のご意見は?」
「いや、わたしより近藤さんのご意見を伺おうじゃありませんか。近藤さん、あなた先輩としてご意見を聞かせてください」
「いやあ、そういわれるとなんだか……」
さすがの古狸の近藤刑事もいささかテレたように、部厚い手で軽井沢焼けに染めあげられた|頬《ほお》をなでながら、
「しかし、まあ、それじゃ|年《とし》|嵩《かさ》からいって、わたしの考えを申し上げてみましょうかな」
と、古狸とアダ名されるゆえんの、大きな目玉をクリクリさせながら、
「あの被害者が自動車のトランクに詰め込まれて、ここへ運びこまれてきたとしたら、さっきからの疑問のかずかずは、全部氷解すると思うんですがな」
「トランクに詰められて運びこまれたというと、むろん死体になってのうえのことだというんだね」
日比野警部補の突っ込みかたは鋭かった。まるで|斬《き》り込むような調子である。
「そりアもちろんそうでしょうよ。生きてのめのめトランク詰めになるようなやつアありますまいからね」
「それで?」
日比野警部補の口調はいよいよきびしい。
「いや、つまり、それはこういうこってすな」
近藤刑事も興奮しているのだ。みじかく|刈《か》った|胡《ご》|麻《ま》|塩《しお》の頭を、ごつい手でゴシゴシひっかきながら、
「金田一先生はさっき、被害者と加害者がいっしょにここへかえってきたか、それともべつべつにかえってきたかもしれん。そこんところに疑問があるとおっしゃったが、それは被害者が生きていた場合のことで、ここへかえってきたとき、被害者がすでに死体となっていたとしたら、そういう疑問は一切氷解すると思うんですな」
「と、いうと、もっと具体的にいってくれたまえ」
「ようがす。それじゃゆうべ被害者のとった行動から、考えてみるとしようじゃありませんか」
近藤刑事はうわめづかいに天井の一角をにらんでいたが、やがて、その眼を金田一耕助と日比野警部補のほうへ戻すと、
「槙恭吾はゆうべ、ヒルマンを駆って外出した。それが何時ごろだったかわかりませんが、根本ミツ子がここを出たのは六時ごろだといってますから、それ以後のことになりますね。そのとき槙恭吾はあのコッテージに厳重に戸締まりをしていった。そして、自動車に乗るとこの鍵束を運転台のクッションの下に突っ込んだ……」
「なぜ? なぜクッションの下に突っ込んだんだい。なぜじぶんの身につけておかなかったんだい」
あいかわらず、日比野警部補の突っ込みかたには鋭いものがある。
「なぜってこの鍵束をごらんなさい。さっきかぞえてみたら、これ、全部で六つ鍵がぶらさがってますぜ」
「それで?」
「どのポケットへ突っ込んでもかさばりまさあ。だからついそばのクッションの下へ突っ込んどいたんでさあね」
「なるほど、じゃ、そういうことにしておいて、それから……?」
「それからどこかへ出向いていって犯人に会った。そうそう、さっき金田一先生はX氏ということばをお使いになりましたが、そのX氏に会ったところが、青酸加里を一服盛られてコロリとおダブツになっちまった」
「なるほど、なるほど、それから……?」
「ところがX氏としては、死体をそのままにしておくわけにゃいきませんや。その場へそのままにしといちゃ、すぐX氏が犯人であるとバレちまう|懼《おそ》れがある。そこで死体をさぐってみたところが鍵がひとつ出てきた。それが即ちこのアトリエの鍵だったんですが、X氏はつい早合点して、それをあのコッテージの玄関の鍵だと思いあやまった……」
「そりゃありそうなこってすね。鍵をひとつきり持ってなかったら、だれだって玄関の鍵だと思うでしょうからね」
金田一耕助が|相《あい》|槌《づち》をうつと、近藤刑事はますます得意になって、
「でしょう。だから犯人はてっきり、あのコッテージへ入れるものだとばかり思い込んでいた。あのコッテージへ入れさえすれば、|湯《ゆ》|呑《の》みでもコップでもなんでも手に入るはずです。そうすりゃ自殺と見せかけることもできましょうし、たとえ他殺と見破られても、犯行はあのコッテージのなかで演じられたと、見せかけることができるかもしれません。そこでX氏は死体をかついで槙の乗ってきたヒルマンのトランクのなかに押し込んだ」
「そのトランクのなかに蛾がいたというのかね。よりによってトランクのなかに蛾が……?」
日比野警部補はまだ釈然としないようである。なるほど自動車のトランクのなかに、蛾がいたというのはいささか奇抜である。生きていたとしたらもちろんだが、たとえ死んでいたとしてもである。これにはさすがの古狸の近藤刑事もちょっとひるんだかにみえたが、そのときすかさずそばから助け舟を出したのは金田一耕助である。
「いや、それは日比野さん、こう考えたらどうでしょう。蛾はトランクのなかにいたのではなく、X氏と相対していたその部屋のなかにいた。槙氏はうっかり蛾の死体のうえに腰をおろした。それに気がつかずにX氏が一服盛った。そして、その死体を抱きあげたとき、蛾の死体はべったりと槙氏のブラウスにこびりついていて、そのままトランクのなかへ運びこまれてしまった……と、考えたらどうでしょう」
「それだ!」
と、近藤刑事は部厚い指をパチンと鳴らして、
「そうすると、槙が殺されたほんとうの現場の椅子か腰掛けにゃ、蛾の鱗粉がのこっているはずだな」
「X氏が気附いて|拭《ふ》きとってしまわない限りはね」
日比野警部補がとつぜん不安そうな眼をしたのは、さっき金田一耕助が、被害者のブラウスについている蛾の鱗粉を指摘したとき、その場に飛鳥忠熈が、居合わせたということを思い出したからであろう。いくらか不服そうに金田一耕助を流し眼にみると、
「それで……? X氏は槙氏の死体をヒルマンのトランクに詰めた。そして、じぶんでそのヒルマンを運転してここまで運んできたというんだね」
「そうです、そうです。だからX氏は夜になるとあのコッテージ、槙ひとりだということをしってたんでしょう」
「だけど、そのときすぐそばのクッションの下に、鍵束があるってことに気がつかなかったのかね」
「気がつかなかったんでしょうな。気がついてたらもっとうまくお|膳《ぜん》|立《だ》てをやったでしょうからね。つまり、この鍵束に気がつかなかった。そして、被害者のポケットにあったアトリエの鍵を、コッテージの玄関の鍵だと思いこんだところに、X氏の重大なミステークの原因があったんじゃないでしょうかね」
「なるほど」
金田一耕助はニコニコしながら、
「それで、近藤さんはほんとうの現場をどういうところだとお考えになりますか」
「そりゃあ……」
と、いってから近藤刑事は声をひそめて、
「そうとう奥のふかい別荘ということになってくるんじゃないですか。門から玄関までそうとう距離のある……そこなら玄関わきに自動車が駐まっていても、通りがかりの人間に、気附かれる心配のないような……」
近藤刑事がいま脳裡にえがいているのは、飛鳥忠熈の別荘ではないか。金田一耕助はさっきちょっと|瞥《べっ》|見《けん》しただけだけれど、あの|宏《こう》|壮《そう》な別荘なら、近藤刑事の指摘する条件に合格しそうである。
「さて、そうなってくるとアトリエの鍵だけが、なぜこの鍵束からはずされていたか、それが問題になってきますね」
「なアに、そりゃたいしたことありませんや。なにかのつごうでべつになっていたんでさあ。とにかくアトリエの鍵だけが鍵束からはずされてべつになっていた……と、いう事実にかわりはないんですからな」
「そりゃ……そうおっしゃれば、まあ、そうですがね」
金田一耕助は苦笑したが、この問題はそれからまもなく解決した。アトリエの鍵だけがなぜ鍵束からはずされていたか、それはすぐこのあとで解明されたのである。
「まあ、そりゃともかくとして……」
と、日比野警部補はまだもうひとつ|腑《ふ》に落ちないらしく、
「被害者のポケットにあった鍵を、X氏はあのコッテージの玄関の鍵だと思いあやまった。そこで被害者の死体をトランクにつめてここまでヒルマンを運転してきた。それから……?」
「ところがおっとどっこい、鍵はコッテージの玄関の鍵じゃなかった。しかも、二十九年か三十年の盗難いらい、あのコッテージにゃ雨戸ができて、外部からの侵入にたいして厳重に防衛されてるときてまさあ。X氏はおそらく途方にくれたにちがいありませんな。と、いって死体を外におっぽり出してくわけにゃいきませんや。それじゃせっかくここまで運んできた意味がなくなりますからな。おそらくX先生、そうとうまごついたにちがいねえが、そのうちに問題の鍵がアトリエの鍵であることに気がついた。そこでやむなくここへ死体をかつぎこんだが、悲しいかな、コッテージとちがって、ここにゃコップもなきゃ湯呑みもない。マッチ箱さえなかった。そこで最初の目算がガラリとはずれて、舞台装置がたいへんお粗末になっちまったというわけじゃありませんか」
「しかし、そうすると、このマッチの棒や|蝋《ろう》|燭《そく》はどうしたのかね。X氏がここへ持ちこんできたというわけかね」
「そりゃそうでしょう。被害者の推定死亡時刻は九時前後ということになってるじゃありませんか。ゆうべの停電は八時三分、これ軽井沢全町いっせいに停電になったんですから、被害者がどこでX氏と相対していたとしても、蝋燭の光りにたよるほかはなかったわけです。金田一先生はもう気附いていられることと思いますが、あの蝋燭のお尻の|孔《あな》を見てください」
その蝋燭はあきらかに、どこかの燭台に立てられていたのである。お尻の孔が鋭い金属製の突起によって削られたように、すこし大きくなっていることに金田一耕助も気がついていた。
「あの蝋燭に指紋は……?」
「それがないんですよ。ハンケチで持ちそえた跡がのこってるんです。と、いうことはこの事件、はじめっからX氏の計画的犯行ということになりますな」
「X氏は死体といっしょに蝋燭を持ってきたが、あの棚のうえの燭台に気がつかなかったので、あそこへ蝋涙をたらしこんで蝋燭を立てていったというんだな」
日比野警部補のことばは一句一句をかみしめるような調子になっている。
「まあ、そういうこってしょうな。じぶんの燭台をもってくりゃ足がつきますからね。それから、あの蝋燭を立てた位置がおかしかったのも、犯人が立てたからですぜ。犯人先生そうとうあわてたにちがいない」
「しかし、あのマッチの軸はどうしたんだろう」
「そりゃおそらくこうでしょう。被害者はX氏と相対してるとき、例のくせでマッチのパズルをやっていたか、それともマッチの排列によってなにかを説明してたんじゃねえのかな。X氏としてはあくまでここが犯行の現場だと思わせたかった。そこでマッチの軸はもってきたが、マッチの箱は持ってくるわけにゃいかなかった」
「どうして?」
金田一耕助が悪戯っぽくニコニコしながら|訊《たず》ねた。
「どうしてって、マッチの箱にゃX氏の指紋が、ついてるかもしれんじゃありませんか」
「なるほど」
「それに、あの朱と緑の二色のマッチですがねえ、金田一先生」
「はあ」
「このへんの別荘、みんなプロパン・ガスを使うんです。そのプロパン・ガスを扱ってる店じゃ、お客さんに景品としてマッチを配るんですが、そのマッチ箱てえのがハガキをちょっと小さくしたくらいの大きさで、まんなかに仕切りがあり、その両方にそれぞれ朱と緑のマッチがおさまってるんです。だから、こういう二色のマッチ、あるいはマッチ箱は軽井沢中の別荘という別荘、どこへいってもあると思わなきゃいけませんな。げんにあちらのコッテージへ入れるもんと思いこんどったX氏は、マッチ箱はむこうへいきゃあると思いこんどったんでしょう。そこいらにX氏の大きな誤算があったてえわけでしょうな」
「金田一先生」
日比野警部補はするどく金田一耕助の顔を視すえて、
「あなたはあの死体をごらんになったとき、すぐこの死体はほかから、運びこまれてきたんじゃないかと気附かれたんですか」
「まさか……」
金田一耕助はニコニコして、
「わたしゃ千里眼でも魔法使いでもありませんよ。だけどそこにいろんな矛盾がある。そういう矛盾を矛盾として放っておけない……これはまあ一種の修練ですね。……そういう修練から疑惑が生ずる。そういう疑惑をなおざりにしないで、大事なデータとしてひとつひとつ積み重ねていく。推理というものは無から有を生ずるものではなく、データの積み重ねですからね。そうしてデータを積み重ねていっても、なおかつ、はて、これはいったいどういうことであろうと思い悩んでいるうちに、運よくトランクのなかの蛾というデータにつきあたったというわけですね」
「その瞬間、死体は外から運びこまれたという推理がなりたたれたんですか」
日比野警部補の態度には、いまや|敬《けい》|虔《けん》なる生徒のごときものがある。
「日比野さん、なにも経験ですね」
と金田一耕助はやさしい眼で、いたわるようにわかい警部補の顔を見ながら、
「わたしはまえにも二、三度、これとおなじように死体をほかに運んで、犯行の現場をこんぐらかそうとした事件にぶつかったことがある。経験からくる知恵というんでしょうか。将棋の名人なども難局にぶつかったとき、過去に経験したいろんな棋譜を思い出して、死地を脱することがあるというじゃありませんか。わたしゃあなたよりだいぶん余計に、鳥居の数をくぐっているようです。それだけ多く経験をつんでいる……ただそれだけのことだと思ってください」
「そうそう、金田一先生、あんたは日本全国股にかけて、探偵武者修業をして歩くんだそうですな」
「まさか」
と、金田一耕助は苦笑して、
「日比野さん、わたしがブラウスについている蛾の鱗粉や体液、あるいはトランクのなかの蛾の死体を発見したからって、わたしを買いかぶらないでくださいよ。あれはまったく偶然だし、わたしが発見しなくても、いずれはあなたがたが発見したでしょう。ここにはいろんなデータが|貪《どん》|欲《よく》なまでに羅列されている。しかし、まだまだわたしの腑に落ちないところがたくさんある」
「たとえば……?」
「このマッチの排列ですね。これはおそらくあなたがたが指摘なすったとおり、槙氏は殺害される直前、マッチのパズルを娯しんでいたか、あるいはだれかにマッチの棒をつかって、なにかを説明しようとしていたのか、おそらくあとのほうでしょう。そして、これまたあなたがたが指摘なすったとおり、犯人はここを犯罪の現場と思わせようとたくらんだのでしょう。そのためには犯人は第一現場の模様をそっくりそのまま、ここに再現しておこうと思ったのでしょうが、犯人はなぜマッチの棒まで持ち込んでくる必要があったのか。それは犯人にとってマイナスにこそなれ、プラスにはならないと思うんですがねえ」
「と、おっしゃると……?」
「槙氏が犯人にむかってマッチの棒で、なにかを説明しようとしていたとしたら、この排列にはなんらかの意味があるにちがいない。そうとう排列が乱れているとしても、少なくとも四つの記号をもちいて説明できる種類のものにちがいない。それをここに再現しておくということは、犯人にとってひじょうに不利なことだと思いませんか」
「金田一先生」
日比野警部補は声をひそめて、
「飛鳥氏はこのマッチの排列に、だいぶんご執心だったようですが、あのひと、これになにか心当たりがあるのじゃ……?」
「さあてね」
金田一耕助の顔に急に悪戯っぽい微笑がうかんだ。おかしそうにニヤニヤしながらなにかいいかけたとき、開けっ放したドアのむこうから、アトリエのほうへやってくる人影がみえた。
さきに立っているのはこの家の通いのばあやらしかったが、うしろからついてくるのはどこかの御用聞きのようである。三河屋と白く染めぬいた紺の前垂れをかけている。
「あの……ちょっと……」
根本ミツ子はドアの前に立ったまま、おどおどとアトリエのなかを見まわしている。けさこの恐ろしい事件を発見したのはこの女なのだが、一見いかにも正直そうな五十くらいの中婆あさんである。
「ああ、根本さん、なにか……?」
「はあ、ここにいるのは旧道の三河屋さんの店員さんで、須藤さんというんですが、なにかこのアトリエの鍵について、お話がございますそうで」
アトリエの鍵ときいて、日比野警部補はおもわずほかのふたりをふりかえった。
「ああ、そう、須藤君、こっちへ入りたまえ、このアトリエの鍵がどうしたって?」
近藤刑事はいたって気さくな調子である。
須藤君はまだ二十二、三というところだろう。長靴のままアトリエのなかへ入ってきたとき、茶卓のほうへ薄気味悪そうな視線を投げかけたのは、おそらくそこに死体があったということを、根本ミツ子から聞いているのであろう。
「はあ、あの、あれはきのうのお昼過ぎの、二時ごろでしたけれど……」
「ふむ、ふむ、きのうのお昼過ぎの二時ごろどうした?」
「はあ、うちのお店旧道にあるんですが、この矢ガ崎方面へ三軒ほど、お届けするものがあってスクーターでうちを出たんです。そしたら、三河屋、三河屋と呼びとめるひとがあるんでふりかえると、こちらの旦那でした。自動車からおりてそばに立っていたんです」
「ああ、なるほど」
日比野警部補は緊張した視線を近藤刑事と見交わした。
「それで……?」
「はあ、それでぼくにむかってこれからどの方面へいくんだというお訊ねなんです。ぼく矢ガ崎のほうへ三軒ほど配達物があっていきますと正直にいったんです。そしたら途中どこかへ寄り道するかとおっしゃるんで、いいえ、配達物をとどけたらすぐかえりますといったんです。そしたら、じゃ半時間もあったらいってこれるねと念を押しておっしゃるんで、そりゃ、半時間あれば大丈夫ですが、なにかご用ですかとお訊ねしたら、じゃ、うちへ寄って取ってきてもらいたいものがあるとおっしゃって、その鍵束から鍵をひとつだけ外してぼくにわたしたんです」
と、須藤君は近藤刑事のぶらさげている鍵束を指さした。
「なるほど、その鍵というのがこのアトリエの鍵だったというんだね」
「はあ」
「それで取ってきてもらいたいものというのは?」
「いま星野温泉で現代音楽祭というのが行なわれてるでしょう。きのう、きょう、あすの三日間……津村真二さんの作曲と指揮で……」
津村真二の名前を口に出すとき、須藤君の眼はさぐるように日比野警部補の顔を見ていた。去年の事件があったので鳳千代子をめぐる五人の男のうわさは、ひろくこのひとたちのあいだにしられているらしい。
「ふむ、ふむ、それで……?」
「はあ、その招待状をアトリエのなかへおいてきたので、ぼくに取ってきてもらえないかとおっしゃるんです」
「それで、君、引き受けたんだね」
「はあ、ちょうどこちらのほうへ配達にくるついででしたから」
「槙氏はそのあいだどこで待ってたんだね」
「ジローです。旧道にジローって喫茶店があるでしょう。そこで待ってるとおっしゃるんです」
「そのとき、槙さんはおひとりだったのかね。だれか連れでも……?」
横から口をはさんだのは金田一耕助である。須藤君はちらとそのほうへ視線を走らせると、また探るような眼を日比野警部補のほうへむけて、
「はあ、お連れさんがひとりいらっしゃいました」
「どういうひと? 男? 女?」
「お嬢さんです。あのひとたしか鳳千代子さんのお嬢さんだとか聞いています。笛小路美沙さんです」
「笛小路美沙……?」
日比野警部補の眼は眼鏡のおくでキラリと光り、金田一耕助もおもわず口笛を吹きそうに、唇を|巾着《きんちゃく》のようにつぼめたが、さすがに口笛を吹くことだけは思いとどまった。
しかし、考えてみると美沙が槙といっしょにいたとしてもふしぎはない。かつては義理の父であり娘であった間柄なのだから。しかし、芸能週刊誌などをあまり読まないこの不勉強な、しかも、道徳的にいたって潔癖にできている日比野警部補にとっては、なんとなく釈然としないものが感じられたのであろう。
「はあ、そのときのおふたりのお話の模様によると……」
と、須藤君がうわめ使いに警部補の顔を見ながら話し出したので、
「ふむ、ふむ、そのときのふたりの会話の模様によると……?」
「はあ、槙さんは音楽祭の招待状をもらったが、べつにいくつもりはなかったらしいんです。それが旧道で笛小路のお嬢さんに会われて、お嬢さんにねだられて、それじゃじぶんもいってみようという気になられたらしいんです」
なんという娘だろうと日比野警部補は心の中で、苦々しそうに舌打ちする。じぶんが美沙の肉親だったら、そんなことこんりんざい許しはしない。
「それで、君、ここのアトリエへきたんだな」
日比野警部補がだまっていたので、近藤刑事がかわって|訊《たず》ねた。
「はあ」
「しかし、それをどうして根本君はしらなかったんだい」
「はあ、あの、それでしたら……」
と、根本ミツ子はひとの好さそうな顔に恐縮の色をうかべて、
「須藤さんのお話では、それちょうど二時半ごろだったということですが、その時刻でしたらわたくし、お隣りの三枝さんとこへ電気アイロンを借りにいってたんだと思います。うちのが故障してたもんですから」
「とにかく、ぼくがきたときおばさんどこにもいなかったんです。それで槙さんをあんまり待たせちゃ悪いと思ったもんだから、ぼく勝手にこのアトリエへ入ってきたんです」
「招待状はどこにあったの」
金田一耕助が訊ねた。
「あの茶卓のうえでした。無造作に放り出してあったんです」
「そのときアトリエには鍵がかかっていたんだね」
「ええ、もちろん」
「ここを出ていくときも、君、鍵をかけていったんだろうね」
「はあ、もちろん」
「それでジローへ招待状をもっていったんだね」
「はあ」
「そのとき、美沙ちゃんという娘もいっしょ?」
「はあ、おなじテーブルにむかいあって腰かけてました。ぼく、なんだか変な気がしたんです」
「変な気がしたとは?」
「だって、ぼく、槙さんと美沙ちゃんというひとの関係……いちどは親子だったという関係を聞いてましたから」
須藤君はあいまいな微笑をうかべて、だれにともなく頭をさげた。
「そのとき君はアトリエの鍵をかえしたわけだが、槙氏はそれをどうしたかね」
「はあ、それをさっきもこのおばさんに聞かれたんですが、ぼく、テーブルのうえに招待状と鍵をおいたら、ああ、ありがとうとうなずかれたんで、そのままジローを出てきたんです。だから、その後、鍵をどうなすったかぼくにはわかりません」
「主任さん、それは美沙という娘に聞けばわかるんじゃないですか」
警部補のうなずくそばから金田一耕助がことばをはさんだ。
「根本さん、きのうの午後ご主人が出掛けられたときの服装と、けさ死体となって発見されたときの服装とでは、どこかちがったところがありましたか」
「はあ、ジャンパーだけがちがっていました。ズボンはおなじでございました。それからもちろんきのうのお昼は、あの仕事着みたいなのは着てはいらっしゃいませんでした」
「帽子は?」
「こちらの旦那さまは帽子がおきらいなんだそうで、戦後いちども帽子をおかぶりになったことはないそうです。よくえかきさんがおかぶりになるベレーというんですか、あれをお召しにならないんですかと、いつかお訊ねしたことがございましたけれど、あんなもの嫌いだと笑ってらしたことがございます」
槙は須藤君から受け取ったアトリエの鍵をズボンのポケット、おそらくウォッチ・ポケットへでも突っ込んでおいたのだろう。これでアトリエの鍵だけが鍵束からはずされていた理由がわかったが、さて、こうなってくるといよいよもって津村真二に会う必要ができてきた。
槙がきのうの午後着ていたジャンパーのポケットから出てきたプログラムによると、演奏会は昼と夜との二部にわかれており、昼の部は午後三時から、これは作曲家と聴衆とのディスカッションになっているらしい。
時計を見るといま三時半である。津村真二はまだ星野温泉にいる時刻だ。
「金田一先生、それじゃわれわれはこれから星野へいってみたいんですが、先生はどうなさいます」
「はあ、よかったら連れてってください。しかし、そのまえにちょっとコッテージのほうを調べてみたいんですが……」
「コッテージになにか……?」
「はあ、あなたがたもごいっしょにどうぞ」
金田一耕助が調べてみたいといったのは、さっき忠熈が本棚から取りあげて見ていた本である。忠熈が見ていた二冊はいずれも考古学の文献書で、一冊は、
The Material Culture of Early Iran
他の一冊は、
History and Monuments of Ur
ともにメソポタミヤ地方の古代文化についての入門書のようなものらしいが、入門書とはいえ同地方からの出土品の写真が満載されており、テラコッタやモザイクが美麗なカラー版となって挿入されている。
「金田一先生、これがなにか……?」
金田一耕助はそれには答えず、巻末を開いてふたりのまえに差し出した。そこには朱肉の色も鮮かに、
「あっ、これは飛鳥氏の本ですね」
「畜生ッ、それじゃやっこさん、ちかごろ被害者に会ってるんですな」
「そうでしょうねえ。まさか去年から貸しっぱなしとは思えませんからね。飛鳥さん、さっきアトリエでしきりになにか捜していたでしょう。おそらくこの本を捜していたんでしょうね」
「しかし、やっこさんなんにもいわなかった」
「いう必要がないと思ったのか、それともいいたくなかったのか、ことに鳳女史のまえではね。でも、この一事からでもわかるとおり、鳳女史のかつての旦那さんだった四人と飛鳥氏とは、案外割り切った交際があったのかもしれませんね」
金田一耕助は「ウルの歴史と遺跡」をとりあげて、あちこちページを繰っていたが、まもなく求めていたものが見つかったらしい。ニッコリしろい歯を出して笑うと、
「日比野さん、これ、どうです」
「え?」
「この|楔《せっ》|形《けい》文字、さっきのマッチの棒の排列とちょっと似ていると思いませんか」
金田一耕助が開いてみせたのは、ウル地方から出土した粘土板タブレットの写真である。そこにはメソポタミヤの古代文字、楔形文字がいちめんに彫りこんであるのだが、それはあのマッチの棒の排列に多少似ているようである。
「金田一先生!」
日比野警部補は大きく眼を見張って、
「それじゃ被害者は死の直前に、楔形文字をつかってなにか書きのこしたとおっしゃるんですか」
「まさかね」
金田一耕助は一笑に附して、
「槙氏がそれほど楔形文字について、|造《ぞう》|詣《けい》がふかかったとは思えませんからね」
「しかし、金田一先生、飛鳥の御前はなぜあのマッチの棒の排列に、あんなにご執心だったんですい」
「それはねえ、近藤さん」
金田一耕助は面白そうに笑いながら、
「御前にはあのマッチの棒の排列が、楔形文字に見えたのかもしれませんよ。あのひといま古代オリエントに熱中してるそうですから、なんでもメソポタミヤの楔形文字に見えたり、エジプトの象形文字に見えたりするんじゃありませんかね。ちょうど将棋に凝ってると天井の節穴まで、角筋に見えたり、王手飛車に見えたりするようなもんでさあ。あっはっは、それに……」
「それに……?」
「いまあのひとの別荘にはそのほうの大家、古代オリエント学の大家が来てるんですよ。だから御前、あれを写しとっていって、その大家のご意見をお伺いしようという魂胆じゃなかったですかね。大家先生、いったいどういう顔をしてるかな、あっはっは」
金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら笑っていたが、日比野警部補と近藤刑事はうさんくさそうに顔を見合わせていた。
第八章 箱根細工
等々力警部はもうすっかりその老婦人と心易くなっていた。パリッと糊のきいた純白の|開《かい》|襟《きん》シャツに、ベージュの麻のズボンをはき、おなじ色のスリッポンをつっかけたこの男を、あいてはまさか警察の人間とは気がつかなかったであろう。しかし、等々力警部のほうではこの老婦人がだれであるかを知っていた。
上野駅のプラット・フォームの雑踏のなかにいるときから、等々力警部はこの婦人に眼をつけているのである。
茶系統色の上布をすこし抜き|襟《えり》にして、|紗《しゃ》のふくろ帯をゆったりとしめ、手に黒っぽい鼻紙袋をさげているこの婦人は、おそらく|齢《よわい》七十になんなんとするのであろう。しかし、小づくりながらも筋金入りのような体をしていて、京おんなとくゆうの卵型の顔はさすがにいくらか|萎《しな》びているが、|老《ろう》|斑《はん》のあともみとめられぬくらいみずみずしく、|眉《まゆ》をかき、薄化粧をしていても、それが少しも不自然とはみられなかった。
笛小路篤子である。
堂上華族の家にうまれ、堂上華族のうちに育った篤子だが、彼女の心はわかい時代から傷つきとおした。継母の手によって育てられた彼女は、娘時代から幸福とはいえなかった。笛小路泰為のもとに嫁してからも、夫の浮気沙汰に悩まされつづけなければならなかった。|揚《あげ》|句《く》の果てには子宝を恵まれなかった彼女は、|妾腹《しょうふく》にうまれた泰久を引きとらざるをえないはめに追いこまれた。
いきおい彼女は持ってうまれた心のみずみずしさを失い、しんねり強い、心のかたくなな女として年をとっていった。いつもじぶんの|殻《から》に閉じこもっていて、めったにひとに本心を見せない女になってしまった。
戦後の境遇がさらに彼女のかたくなさに拍車をかけた。かつては心の底からさげすみ、排斥してやまなかった嫁の生活力に、すべてを依存しなければならなかったとき、彼女の心は屈辱のために氷のように冷えきり、よりいっそう|頑《かたくな》なものになってしまった。いきおい笛小路篤子の表情はいつもけわしく、きびしく、警戒的だった。彼女はめったに笑わないが、笑うときでもその笑顔はどっか借りもののようであった。
昭和三十五年八月十四日午前十時三十分ごろ、上野駅の上越線プラット・フォームで急行「草津いでゆ」の発車を待っているとき、彼女の険しい表情はさらにけわしいものになっていた。いや、ただたんにけわしいだけではすまされぬものがそこに動揺していた。けわしい仮面の底に動揺しているもの、それはなにかしらはげしい不安と焦燥感のようである。眼のこえた観察者なら、そこにのっぴきならぬ恐怖感さえみとめえたかもしれない。
思えば明日は、軽井沢で奇怪な変死をとげた笛小路泰久の命日である。篤子は軽井沢で泰久の一周忌の法要を営むつもりであろうか。あの晩も篤子は軽井沢を留守にしていた。そのことがいま篤子の心を苦しめ、悩まし、そのときの思い出が彼女の心に恐怖を呼ぶのであろうか。
いったい、ふだんはぜったいといっていいほど、心の奥底をのぞかせない篤子なのだが、いまこうして露骨に心中の不安や焦燥や恐怖を表白しているというのは、他人ばかりのなかにいるという安心感から、つい不用意にそれをさらけ出してしまったのであろう。まさかすぐそばの鉄柱に身をよせて、新聞を読むようなふうをしながら、眼のこえた観察者がじぶんの顔色のいちぶしじゅうを、観察していようとはゆめにもしらなかった。
昭和三十三年の暮れ阿久津謙三が不慮の最期をとげたとき、それはたんなる交通事故としてしか取り扱われなかった。ふつごうな自動車について捜査されたもののそれは捜査一課の仕事ではなかった。方向指示器によって人を死にいたらしめるということは、どうかんがえても可能性のうすい殺人方法としか思えない。阿久津謙三の死がひじょうに不幸な偶然によるものとして、片附けられていたのもむりはない。
昭和三十四年の八月、笛小路泰久が軽井沢のプールで奇妙な死をとげるにおよんで、阿久津謙三の一件がまたあらためて脚光を浴びてきた。軽井沢署から近藤というガニ股の刑事が上京してきたとき、その担当主任は等々力警部であった。等々力警部は近藤刑事とともに、かつて鳳千代子の夫だったひとたち、ならびにちかく鳳千代子の五番目の夫になるのではないかと思われている人物の身辺を洗ってみた。そのとき等々力警部は笛小路篤子に会っているのである。ただし相手にこちらを見られない方法で。
急行「草津いでゆ」が到着して乗客が乗車を開始したとき、等々力警部は篤子のすぐうしろにくっついていた。そして、ごくしぜんに篤子とむかいあった座席に席をしめることに成功した。ふたりの席は窓際だった。
「草津いでゆ」は満員だった、それはこの沿線の避暑地へ避暑に出掛ける客もあったろうけれど、等々力警部や笛小路篤子みたいに、信越線も国道十八号線も不通になったので、上越線まわりで軽井沢へいこうとしている客もそうとうあったにちがいない。
列車が上野駅のプラット・フォームをはなれても、等々力警部はかるがるしく、まむかいに坐った老婦人に声をかけるようなヘマはやらなかった。われ関せずえんといった顔色で、しばらく窓外の景色に眼をやっていたが、やがて開襟シャツのポケットから、読みかけの新聞をとりだすと眼のまえにひろげた。
篤子の顔からはさっきの苦渋の色は消えていた。そこはもう他人ばかりの世界でないことを彼女はしっているのであろう。わずか三時間でもいっしょに旅をしたとなると、まんざらあかの他人といえない場合が将来出て来ないでもないということを篤子は本能的にしっているのだ。篤子はもちまえのとっつきの悪いけわしい表情にもどり、それとなく眼のまえにいる男を観察している。
篤子の眼に等々力警部がどううつったかわからない。しかし、まさか警察官……それもかつてじぶんも|捲《ま》きこまれたある事件を調査したことのある……とは気がつかなかったことはたしかであろう。等々力警部は一メートル七十四、男振りも悪くなく、堂々たる|風《ふう》|采《さい》は一見紳士ふうである。ちかごろとみに白さをくわえてきた頭髪も、きちんと左分けにして身だしなみもよく、ちょっとした会社の重役ぐらいにはみえる貫禄である。
大宮駅をはなれたころ、篤子は鼻紙袋のなかからなにかを取り出そうとしたが、そのひょうしに妙なものがとび出して等々力警部の足下にころがり落ちた。警部が身をかがめて拾いあげてみると、それは箱根細工の|小《こ》|筥《ばこ》であった。マッチ箱を八つ重ねたくらいのかわいい小筥で、表面の白、黄、茶、褐、黒の五色の色板で組み合わされた幾何学模様が美しい。あちらの寄木を引き、こちらの寄木を押し、さらにあちこちの寄木を引いたり押したりしているうちに、やっと開くという魔法の玉手箱である。
等々力警部は珍しそうにその小筥を眺めていたが、やがてニコニコしながらまえへ差し出すと、篤子は無言のままかるく頭をさげてそれを受け取り、鼻紙袋のなかにしまいこむと、かわりに一冊の小冊子を取り出した。等々力警部もそれきりその小筥に興味をうしなったかのごとく眼のまえに新聞をひろげた。しかし、等々力警部はとっさのうちに見失わなかった、篤子の顔にいっしゅん浮かんだ|狼《ろう》|狽《ばい》の色を。もちろんそれを受け取るとき、篤子の顔はもちまえのしんねり強い無表情にかえっていたが。
篤子のとり出したのは、著名な女流歌人の主宰している短歌雑誌である。篤子もその雑誌の同人のひとりとなっており、毎月のように彼女の詠草が誌面をかざっている。篤子は巻頭の一ページからたんねんに読みはじめた。そして、これまた鼻紙袋のなかからとりだしたボール・ペンで、これはと思われる秀歌のうえに印をつけはじめた。
しかし、ものなれた観察者であるところの等々力警部はしっているのである。篤子のほんとうの関心はその短歌雑誌にそそがれているのではないということを。
箱根細工を受け取るとき、彼女の表情にはなんの変化もあらわれなかった。篤子の表情はいつもと変わりなくきびしく、けわしく、|毅《き》|然《ぜん》として落ち着きはらっていた。等々力警部のにこやかな微笑にむくいたものといえば、ただ儀礼的なかるい会釈だけだった。
彼女はそれきり箱根細工のことなど忘れたかの如く振る舞おうとしているらしいのだが、おりおりボール・ペンを持つ手を雑誌のうえにおいたまま顔をあげ、|瞳《ひとみ》を虚空にすえているのは、かならずしもいま読んだ歌を口ずさんでいるのではなく、なにか心の底にわだかまっている不安と恐怖を、まぎらわせているのだということが、等々力警部にはわかるのである。
(このばあさん、いったいなにをあのように|怯《おび》え、思い惑うているのであろう)
しかし、等々力警部はあいかわらず無関心な顔色で、ポケットからとりだした三種類の新聞にかわるがわる眼をさらしていた。
高崎で上越線と信越線はわかれている。その高崎で等々力警部は駅弁を買ってたべた。篤子は軽井沢へ着いてからにするつもりか、無言のまま等々力警部が旺盛な食欲をみたしているのをむこうから見ていた。等々力警部は食欲をみたしてしまうと、弁当のからを座席の下へ突っ込み、ゆっくりと茶を飲みほすと、あらためて窓外へ眼をやった。このへんから台風の惨害がしだいに顕著になってくるのが、走馬灯のように窓外に繰りひろげられた。
等々力警部は思い出したように立ちあがって、網棚のうえからチャックひとつの使いかたで、大きくもなり小さくもなる黒い|皮鞄《かわかばん》をとりおろした。鞄のなかからとりだしたのは「軽井沢案内」と、いう小冊子である。ただなんとなくあちこちページを繰っていると、
「あの、失礼でございますけれど……」
と篤子のほうから声をかけてきた。とうとう魚が餌にひっかかってきたのである。
「はあ……?」
しかし、顔をあげて篤子の顔を正視する等々力警部の表情は無心そのものだった。
「あなた、軽井沢へいらっしゃるんでございますか」
「はあ」
「じつはわたくし……」
と、いいかけて篤子の眼にきゅうにもちまえの警戒心がうかんできた。さぐるように眼のまえの男を観察しながら、
「失礼でございますけれど、軽井沢はどのへんでいらっしゃいます」
「はあ、南原でございます」
等々力警部の眼はあいかわらず無心の微笑をたたえている。接するあいてに温かみを感じさせる眼だ。
「南原……? いいところだそうでございますね。えらい学者のかたがおおぜいいらっしゃるんでしょう」
「はあ、がんらい学者がひらいた避暑地ですから」
等々力警部はたちどころにだれもいる、かれもいると高名な学者の名前を二、三あげてみせた。みんな金田一耕助の受け売りなのだが、子供のような単純な誇らしさがこの高慢な女性を微笑させた。いつもの借りもののような微笑とはちょっとちがっていたようである。それでもまだすっかり警戒を解いたわけではないらしく、
「それで南原に別荘をお持ちでいらっしゃいますの」
「とんでもない」
等々力警部はニコニコ笑って、
「わたしはまだ軽井沢に別荘をもつほどの柄じゃありません。ご存じですかどうですか、南原に南条誠一郎の別荘があります。南条誠一郎……ご存じですかどうですか」
「ユネスコに関係していらっしゃるかたでございますね」
こういう女性のつねとして、彼女もまた有名人マニヤのひとりなのである。
「そうそう、その南条の別荘で二、三日骨休めをしてこようと思ってるんです。ちょうど体に|閑《ひま》ができたものですからね」
「でも、南条先生、いまたしかスイスだとか……」
「だから鬼の留守に洗濯というわけです」
「あらま、結構でございますわね。じゃ法律に関係したお仕事をしていらっしゃいますのね」
「はあ」
等々力警部はニコニコしながら胸をそらした。これはうそではない。篤子はそれをどうとったかしらないけれど、等々力警部はみずから法の番人をもって任じている。
篤子はどうやら警戒心をといたらしく、
「じつは、わたくしもこれから軽井沢へまいるところでございますの」
「奥さまはどちらのほうで……?」
「桜の沢でございますけれど、なんだか台風がひどかったらしくって……」
「真正面からやられたようですね」
「はあ。それでけさ孫と電話で話したんですけれど、孫もだいぶん|怯《おび》えているようで」
「ほかにどなたか……」
「お手伝いさんがひとりおりますけれど、まだ若うございますから」
「それじゃ、ご心配でいらっしゃいましょう」
「はあ、それですから一刻もはやくいってやりたいんですけれど、信越線がだめでございましょう」
「国道十八号線もめちゃめちゃのようですね」
「はあ、それでこの線を利用したんですけれど、なにしろこの線ははじめてでございましょう。なんだか心細くって……」
「ああ、なるほど」
等々力警部もやっと相手の真意がのみこめてきてニコニコしながら、しかし、できるだけ控え目に、
「じつはわたしも軽井沢へいくのに、この線を利用するのははじめてなんです。なんでも長野原というところから、軽井沢行きのバスが出るんだそうですね」
「以前は草津から軽井沢まで草軽電鉄という、マッチ箱のような小ちゃな電車が出ていたんでございますのよ。ところがそれも廃止になってしまって……長野原なんて駅はじめてなもんですから……」
「旅なれていらっしゃらないんですね」
「昔ものでございますから」
「まいとし軽井沢へいらして遠出は?」
「ほとんどいたしませんの、せいぜい|碓《うす》|氷《い》峠くらいのもので……そうそう、鬼押し出しへいちどまいったのがいちばんの遠出といえましょうか」
「はっはっは、長野原から出るバスは、上州三原からその鬼押し出しをへて、軽井沢へ通じているようでございますよ」
「あらまあ、それじゃそうとうございますんですのね」
篤子は心細そうな声をあげた。旧い日本婦人によくあるタイプで、決まりきった軌道のうえを行動しているぶんには平気だが、わずかでも軌道を外れると不安をかんじる……篤子もそういうタイプのひとりらしかった。
「それじゃこうなすったらいかがでしょう。わたしは長野原でタクシーを拾うつもりなんですが、なんでしたらごいっしょいたしましょうか。わたしは南原の入口で降ろしてもらえばいいのですから、奥さまはそのまま桜の沢までいらしたらいかがでしょう。南原は中軽からちょっと新軽井沢よりですが、あのへんまでいらっしゃればご安心なんでしょう」
「そうしていただければ……でも、ご迷惑じゃございませんか」
「とんでもない。どうせひとり乗るのもふたり乗るのもおなじことでございますから」
「すみません。見ず|識《し》らずのあなたさまにこのようなご無理をお願いして……でも、あのとおりでございましょう。わたくしなんだか心細くて……」
篤子は窓外に眼を走らせた。そのへんは台風のはずれに|撫《な》でられたていどであるはずだのに、それでも屋根のとんでいる家があり、あちこちにかしいだ電柱も見えている。
「なるほど、これはひどかったらしいですね。なに、大丈夫ですよ。旅はみちづれというじゃありませんか。きっと軽井沢までお送りいたしますよ」
あとから思えば篤子はじぶんでじぶんがふしぎでならなかった。めったにひとに心を許さぬじぶんだのに、なぜあの男にかぎってあの場合、|縋《すが》りつきたいような気持ちになったのかと。等々力警部は等々力警部で内心不審の念を抱いている。さっき上野駅のプラット・フォームでみせたあの不安と焦燥の影は、旅なれぬ女の心細さからきているのであろうか。それにしてはいささか深刻過ぎたようだが。
長野原着午後一時三十五分の予定が数分おくれて、等々力警部と笛小路篤子が|鄙《ひな》びたプラット・フォームへおりたのは、一時四十分ごろのことだった。ここで列車をおりる客が予想をこえてはるかに多いのを見て、等々力警部はちょっとあわてた。
「奥さん、この客の大部分は軽井沢へいくんですぜ。こりゃ急がなければタクシーが出払ってしまうかもしれませんよ」
「あら、どうしましょう」
だが、どんなに急いだところで年寄りの脚である。ふたりが改札口を出たときには駅前広場にバスが一台とまっていたが、タクシーはみんな出払ってしまって、たった一台のこった自動車もいま先客が交渉中だった。
「奥さま、こうなったらしかたがありません。バスになすったら。このバス軽井沢駅までいくようです。なんならわたしもそこまでお供申し上げてもよろしいんですが……」
だが、そのバスも鈴成りの満員だった。途方に暮れたようにあたりを見まわしていた篤子は、いましも一台のこった自動車に乗りこもうとしている男の横顔に眼をとめると、
「あっ、桜井さま、桜井さま」
ひくく叫んで二、三歩そちらのほうへ駆け出しそうになった。
「ご存じのかたでいらっしゃいますか」
「はあ、あの、ちょっと……」
「じゃ、お呼びしてみましょう」
桜井という姓が等々力警部の興味をそそった。警部の調査によると、問題のひと飛鳥忠熈の女婿の名は桜井鉄雄というのである。
呼びとめられてふしぎそうに、自動車のなかから顔を出した男を見て、なんだ、この男だったのかと等々力警部は微笑した。この男なら等々力警部や篤子とおなじ箱に乗っていたのである。
「なにかご用……?」
見識らぬ男に声をかけられた桜井鉄雄は、ふしぎそうに|眉《まゆ》をひそめている。年齢は三十前後のはずだが、まるまるとした顔ははちきれそうで、眉が太くて濃い童顔はだるま大師に似ていて、標準型の好男子とはいえぬまでも、|愛嬌《あいきょう》と魅力をもっていて精力的である。肩も胸もアロハの下から盛り上がるようである。
「はあ、むこうにいらっしゃるご婦人が、なにかご用がおありだそうで」
「ご婦人……?」
桜井鉄雄は窓から顔を出して、ちかづいてくる篤子の姿をみとめると、すぐドアをひらいて自動車の外へとび出した。がっちりと固太りに太っているのはいるなりに、均整のとれた体をしており、身のこなしも|敏捷《びんしょう》である。神門産業のエリートであった。
「笛小路のお|祖《ば》|母《あ》ちゃまじゃありませんか。さあ、どうぞ、どうぞ」
「ごめんなさい、お呼びとめして。じつはこちらさまに軽井沢まで連れてっていただくつもりだったんですけれど、あいにくタクシーが出払ってしまって……」
「いいですよ、いいですよ。ぼくがお送りしましょう。さあ、さあ、どうぞ」
桜井鉄雄はいたって気さくな性分らしい。
「じゃお願いいたします。わたしはバスでいきますから」
と、等々力警部が遠慮するのを、
「あら、それじゃあんまり……」
「いいじゃありませんか。あなたもどうぞ。あなた軽井沢のどちらまで」
「南原までです」
「こちら南原の南条誠一郎さまの別荘まで、いらっしゃるところなんですの」
南条誠一郎の名がどうやら等々力警部にとって、有力な身分証明書になったようである。桜井鉄雄が南条誠一郎の名をしっていたかどうかは疑問だが、もちまえの気さくさを発揮して、
「南原ならどうせ途中です。さあ、さあ、どうぞ」
「そうですか。じゃご|厄《やっ》|介《かい》になりましょうか。いいえ、わたしは運転台でけっこうです。そうそう、わたし等々力と申します。なにぶんよろしく」
運転台へ乗りこむとき等々力警部はふと、さっき見た笛小路篤子の箱根の寄木細工を思い出した。はからずも軽井沢まで自動車をともにする三人は、三つの寄木もおなじことではないか。三つの寄木のあちらを押したりこちらを引いたりで、いったい中からなにがとび出すのであろうか。
第九章 A+Q≠B+P
金田一耕助と日比野警部補、近藤刑事の三人を乗っけた自動車が矢ガ崎を離れたころには、水はあらかた退いていた。さっきはいちめんの湖水に見えていたのが、いまではあちこちに草っ原が頭を出して、複雑な|浮《うき》|洲《す》を形成していた。
その矢ガ崎をはずれたころ金田一耕助は思い出したように、
「そうそう、星野温泉といえば中軽井沢の北のほうでしたね」
「はあ」
「と、すると、去年笛小路さんが泊まってらした白樺キャンプというのは、その途中になるんじゃないですか」
「そういうことになりますが、それがなにか……」
「よかったらそこをちょっと|覗《のぞ》いてみたいと思うんですが、ひどく大回りになりますか」
「いや、たいしたことはありません。よし、それじゃ吉本君、白樺キャンプへちょっと寄ってくれたまえ」
「承知しました」
矢ガ崎から白樺キャンプまで自動車で十二、三分の距離である。
途中旧道の入口のロータリーから六本辻のほうへ曲がるところで、篤子たちを乗せた自動車とすれちがったが、だれもそれに気がつかなかったのは、相手が軽井沢のタクシーだったからである。夏のシーズンもいまや|酣《たけなわ》、シーズンに入るとふだんの人口の十倍ちかくにふくれあがるといわれる軽井沢のことだから、いかに台風のあととはいえタクシーは縦横に走っている。
さっきそこを通りすぎたときには、キャンパーたちがまだてんやわんやの大騒ぎをしていた白樺キャンプも、いまではもうすっかり落ち着きを取り戻している。横倒しになっていたドッグ・ハウスも正常の位置に起こされていた。
犬小屋を大きくしたようなドッグ・ハウスが、三十ほど林立している中間に共同炊事場があり、その隣りにスナック・バーみたいな建物があった。ほかに管理人のつめている管理棟があるが、そこをのぞくと管理人の根津さんはいまバーのほうにいるとのことだった。
三人がバーのほうへ入っていくと、学生らしいキャンパーがふたり、カウンターをへだてて管理人の根津さんと声高に話していた。三人がその敷居をまたいだとたん耳にはいったのは、
「鳳千代子の旦那さん」
と、いう言葉であった。
金田一耕助と日比野警部補、近藤刑事の三人はおもわず顔を見合わせた。
管理人の根津さんは日比野警部補と近藤刑事の顔をみると、バツが悪そうにふたりの学生に眼くばせしながら、
「やあ、いらっしゃい」
と、笑顔をつくって、
「近藤さん、また鳳千代子さんの旦那さんがひとり、殺されたってえじゃありませんか」
「耳がはやいな、おやじ」
近藤刑事はふたりの学生に|顎《あご》をしゃくって、
「だけど、おやじ、なにもそう取りつくろわなくてもいいじゃないか。いまこの連中が話していたのは槙恭吾さんのことじゃないの」
「マスター、このひとたち、なんだい」
学生のひとりに聞かれて、
「警察の旦那がたですよ」
「うへえッ!」
と、ひとりの学生は首をすくめたが、もうひとりのほうはふてくされたように、
「なにもそう恐れ入ることはねえじゃねえか。こちとらべつに悪いことをしたってわけじゃねえしよう」
「と、いうと、君たちなにかこんどの事件について知ってることがあるのかね」
日比野警部補が眼鏡のおくから眼を光らせた。
「いや、こんどの事件じゃありませんよ。去年の事件のことなんですがね」
「じゃ、君たち笛小路さんの事件について、なにか知ってることがあるのかい」
近藤刑事が切り込んだ。
「いや、知ってるってほどのことじゃないんですがね。きのうこの軽井沢で妙な男に会ったもんだから」
「妙な男って?」
「いや、そのまえに自己紹介しときましょう。ここにいるのは藤田|欣《きん》|三《ぞう》、かくいうぼくは松村まさる、ともにQ大生ですが、揃いも揃ってオッチョコチョイですからそのつもりで」
「よせやい、てめえのオッチョコチョイは定評があるが、おれまでご同役はご免|蒙《こうむ》りたいね」
「いや、君たちがオッチョコチョイであろうがなかろうが、それはわれわれの|与《あずか》り知るところではない。われわれの知りたいのは、去年の事件について君たちがなにを知ってるかということなんだがね」
「いや、そのことなんですがね、刑事さん」
と、しかつめらしく切り出したのは、みずからオッチョコチョイに|非《あら》ずと主張する藤田欣三である。さすがにオッチョコチョイを否定するだけあってことばつきも神妙だった。
「じつはわれわれ、きのうこの軽井沢で妙な男に会ったんで、いまその話をしていたところであります」
「妙な男って?」
「いまマスターに聞いて名前を思い出したんですが、田代信吉てえ芸大音楽部の学生なんです」
金田一耕助は思わず学生の顔を見なおした。
「田代信吉……? なんだい、そりゃ……」
「あれ、近藤さんも忘れっぽいね。去年離山で心中があって女は死んだが男のほうは助かった。助かったほうが田代信吉でさあ」
マスターがカウンターを|拭《ふ》きながらいった。
「ああ、そうそう、そういやアそういうことがあったが、その男がどうかしたのかい?」
「ああ、そうか。近藤さんはあのじぶん、笛小路さんの事件に夢中になってたから聞いてなかったんですね。田代信吉が心中をやらかしたのは去年の八月十六日、笛小路さんの死体が発見されたのとおなじ日なんですが、そのまえの晩、田代信吉はここに泊まってたんですよ」
「それじゃ、笛小路さんといっしょだったのか」
近藤刑事の声がおもわず弾んだ。
「そうなんで。しかも、あの晩、笛小路さんがここを出ていくまで、むこうの丘の上で田代信吉とながいこと話し込んでたのを、この学生さんたちが見たといってるんですよ」
「君たち、その田代信吉という青年を、ことしもこの軽井沢で見たというんですね」
これは金田一耕助の質問である。
「ええ」
と、藤田欣三は変なやつが現れやアがったとばかりに、金田一耕助を頭の|天《てっ》|辺《ぺん》から足の爪先までジロジロ見まわしながら、それでもことばだけは神妙に、
「きのう会いましたよ」
「どこで?」
「星野温泉で」
と、これは松村まさるである。
「いまあそこで現代音楽祭というのをやってるでしょう。きのうの昼そのディスカッションに来てましたよ。あいかわらず深刻な顔をして、もういちど心中のやりなおしでもやるんじゃねえかって藤田とも話してたんです」
田代信吉が小宮ユキと心中を企てたのは去年の八月十六日の午後である。小宮ユキは死んだが田代信吉は助かった。あさってが命日であることを金田一耕助も思い出していた。田代信吉がその後どうなったか金田一耕助もしらなかったが、合意のうえの心中であることは小宮ユキの遺書であきらかだった。ふたりの健康状態や境遇からして、ユキのほうから持ちかけたのではないかと思われた。解剖の結果によるとユキの胸の病気はかなり進んでいたそうである。だから生きのこった田代もたいした罪に問われなかったのだろう。田代がどのていどユキを愛していたかわからないが、自分をのこして死んでいった女のあとを弔いに、この地へやってくるというのもしぜんの人情かもしれない。田代は芸大音楽部の学生だったと聞いている。復校できたかどうかはしらないが、津村真二のディスカッションに来ていたとしてもふしぎではない。
金田一耕助は妙なところで、去年じぶんもかかりあった心中の一件が、どうやらこの事件に結びついてきそうになってきたことに興味をおぼえた。
「君たち、田代信吉というその青年が、どこに滞在してるかきかなかった?」
「いえ、べつに。われわれ話もしませんでしたよ。識り合いでもなんでもないんですからね。ただあの男じゃねえか、去年心中をやりそこなったのは? そうだ、そうだというわけです」
「われわれオッチョコチョイですからね。去年離山に心中があると聞いて、それッとばかりに駆け着けたんです。救助隊といっしょにね。そしたら、あれッ、あいつおなじキャンプにいたやつじゃねえかというわけで」
「だからそンときも松村と話しあったんです。あの男キャンプでもいやに考えこんでたが、軽井沢へ心中に来ていやアがったんだなあって」
「しかも、心中のかたわれのその男がまえの晩、笛小路氏とながいこと話し合ってるのを君たちは見たというんだね」
日比野警部補がはじめてそばから口をはさんだ。この若き警部補と学生たちとでは、それほど年齢もちがわないのである。
「いやあ、そンときは笛小路とも鳳の千代ちゃんの旦那さんともしるはずはねえやな」
松村まさるの投げ出すような調子に、若い警部補はいささか気色ばんで、
「しかし、さっきのマスターの話じゃ……」
「いや、いや、それはこうなんです」
松村がまたなにかおひゃらかしそうにするのを、そばから藤田があわてて引き取って、
「あの晩は十五日でお盆でしょう。この軽井沢でもあちこちで盆踊りがありました。そこでここのキャンパーたちもアミダで缶ビールやピーナッツを|奢《おご》って、キャンプ・ファイヤーをやろうということになったんです。マスターもいっしょだったな」
「いっしょだったじゃないよ。あのときはわたしがいちばんのスポンサーさ」
「当たりめえよ。ふだんさんざんボリゃアがって」
「まあちゃん、てめえは黙ってろ。サツの旦那がたは真剣なんだ」
と、たしなめておいて、
「ところがあのふたり、笛小路さんと田代君……ふたりとも名前はまだしらなかったんですが、あのふたりだけが仲間に入ることを断わったんです。それでいて笛小路さん、キャンプ・ファイヤーがおっぱじまるころには、そうとう泥酔してましたよ。それより少しまえ、ぼくが仲間入りをすすめにいったとき、もうすでに酔っ払ってて、ドッグ・ハウスのなかに寝っころがって、なにかブツクサいいながら、折れ釘かなんかで|枕元《まくらもと》の板ジトミに楽書きかなんかしてましたよ。後生大事にウイスキーの瓶をかかえこんで、ドッグ・ハウスのなかは酒気|芬《ふん》|々《ぷん》でしたね。それで……」
「いや、ちょっと待て」
と、近藤刑事がさえぎって、
「笛小路さん、板ジトミに楽書きをしてたって?」
「ええ、どっかで拾ってきたんでしょ、折れ釘みたいなやつでね」
「マスター、笛小路さんの泊まってたのは?」
「第十七号ハウスですよ。ついでにいっときますが、田代信吉って子が泊まってたのは、その隣りの第十八号ハウスです」
言下に答えることが出来たのは、隣り合わせに泊まったふたりがふたりとも妙なことになったのが、根津さんにとって強い印象となってのこっているのだろう。
「それはいまでもあるだろうな」
「ええ、そのまンま。ごらんになりますか」
「あとで見せてもらおう。それじゃ、君」
近藤刑事に促されて、
「はあ、そのうちにキャンプ・ファイヤーがはじまったんですね。みんなだんだん酔っ払って『ひとりの象さん|蜘《く》|蛛《も》の巣に……』なんてやってたんです。ところが仲間はずれのふたりだけが、むこうの隅の丘のうえでなにやら話し込んでるでしょう。あんなとき仲間はずれがいると妙に気になるもんです」
「おせっかい野郎だからな、てめえは」
「おせっかいじゃねえよ、根が親切にできてるのさ」
「有難迷惑というやつでね、そういう親切は」
「いったな、こいつ」
「まあ、いい、まあ、いい、それで……?」
「あの晩はとても霧が深かったんです。霧が深くなってきたのは八時過ぎてからのことでしたが、ぼくが丘の上へあがっていったときにゃまだ星がチラチラ見えてましたね」
「てめえ、なにしにいったんだい?」
「アミダのことは構いませんから、こっちへきて陽気に騒ぎませんかって」
「剣もホロロに断わられたんじゃねえのか」
「まあ、そういうこったな」
藤田欣三は苦笑した。
「笛小路さんはなんといって断わったんだね」
「べつにどうって。ぼくはこのほうがいいって。そしたら田代君もぼくも……って」
「ざまアみろ。いい面の皮だあね」
「ふたりはどんな話をしていたんだね」
「それはぼくにも。ぼくの足音を聞くとふたりとも黙ってしまいましたからね」
「だから、てめえはトンチキだというんだ。なぜ抜き足差し足忍び足といかねえンだ。そしたらサツの旦那がたのおもしろがる話が聞けたかもしれねえ」
「あっはっは、そうだったな」
藤田は明るく笑っている。
「それで? それからまだなにか……?」
「いいえ、ぼくの話はそれだけです。そのあとはキャンプ・ファイヤーの仲間に加わって騒いでたもんですから、笛小路さんがいつここを出てったのか、それさえ気がつかなかったくらいです。田代君とはそれっきり口もききませんでしたから、ぼくの知ってるのはそれくらいのことであります。報告終わり」
藤田欣三はバーの|停《と》まり木からとびおりると、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。
「主任さん、それじゃ第十七号ハウスというのを、覗いてみようじゃありませんか」
ノロノロ台風がどこへ上陸するかわからなかったので、ゆうべはキャンパーの数も多くなく、第十七号ハウスは空いていた。
ドッグ・ハウスとは文字どおり、犬小屋そっくりの板張りの小屋だが、しかし、さすがに地面にじかに据えてあるのではなく、高さ一メートルばかりの、四方を木柱でささえた板のうえに建っている。小屋は四方を横に張られた板で取りかこまれ、入口に木製のドアもついており、なかは三畳敷きくらいもあろうか。
こういう小屋が三十ばかり並んでいるところは偉観であるが、それでもテント村よりは上等というべきか。宿泊人たちは管理棟より夜具蒲団の類を借り出すことができるし、炊事なども共同炊事場でことが足りる。一杯飲みたくなればバーへいけばよいのである。
まことに簡易で安直な宿泊所だが、それだけに元子爵で、かつて二枚目スターとして鳴らした人物が、こういうところに泊まっていたのかと思うとそぞろ哀れである。ことにそれがいま全盛ならぶものなき鳳千代子の最初の夫だと思うと、みじめさはなおさらのことである。笛小路泰久はよっぽど金に窮していたにちがいない。
ドッグ・ハウスの床までには木製の階段がついており、階段は三段あった。その階段をあがって粗末な板張りのドアを開くと、周囲の板ジトミも床もまだじっとりと湿り気をおびていた。板張りの床は節穴だらけで、あちこちの節穴からアキノキリンソウが穂を出しているのも、風流を通り越してみじめである。
内部には電灯などもちろんあろうはずはなく、明かりとりの窓がひとつついているが、|跳《は》ね上げ式の板戸は棒で支えていっぱいに開いても、採光窓としては十分とはいえない。したがって小屋のなかは薄暗かった。
「藤田君、笛小路さんはどっちを頭にして寝ていたのかね」
「むかって左を頭にしていましたよ。むこうむきにねて左を|肘枕《ひじまくら》にして、右手でなにか板のうえになぐり書きしていました」
そこは小屋の隅になっており、しかも明かりとりの窓とは反対側になっているので、薄暗さもまたひとしおだった。金田一耕助がライターを出して渡すと、
「いや、どうも」
日比野警部補はライターをかざして、窮屈そうに身をかがめてしばらくあちこちを調べてたが、
「金田一先生、これじゃありませんか」
「どれどれ……」
「これ、なんだか方程式みたいですね」
楽書きは板ジトミの下から五十センチくらいのところに、左から右へかけてのだんだん上がりに書いてあるが、あの晩笛小路泰久のかいたのはこれにちがいない。酔っ払いが書いたものだとしたら|不明瞭《ふめいりょう》なのもむりはないが、それはだいたいつぎのように読みとれた。
[#ここから2字下げ]
A+Q≠B+P
[#ここで字下げ終わり]
「AプラスQはBプラスPに等しからず……と、そう読むんでしょうね、これ」
「どれどれ……」
金田一耕助も身をこごめてそこをのぞきこんだが、たしかにそれ以外には読めそうになかった。
「近藤さん、あなたどうです。これをなんと読みます」
近藤刑事もそこをのぞきこんだが、
「こりゃ主任さんのおっしゃるとおりですよ。AプラスQはBプラスPに等しからず……いったいなんのこってす、こりゃ……? 金田一先生、あんたは物識りのようですがこんな方程式があるんですか」
「さあ……」
金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「ぼくも浅学にしてこんな方程式はしりません。しかし、日比野さん」
「はあ」
「あなたは去年事件直後に、このドッグ・ハウスをお調べになったんじゃ……」
「いや、調べたことは調べましたが、この楽書きにゃ気がつきませんでした、それに楽書きがあるとはしりませんでしたからね」
若い警部補の|頬《ほお》は屈辱のために|痙《けい》|攣《れん》していたが、その楽書きはかならずしも警部補のその手落ちを、手落ちとして責めるには酷なほど、かすかであり、かつ不明瞭でもあった。それに高さもちょうど発見しにくい位置でもあった。
「AプラスQはBプラスPに等しからずか」
近藤刑事はもういちど口のうちで呟いて、
「笛小路先生、いったいなにを表現しようとしたのかな。あれ、主任さん、ほかにもなにか書いてあるじゃありませんか」
「どれどれ」
日比野警部補がライターの灯をよりいっそうちかづけてみると、なるほど前述の方程式のしたにおなじようなひっかき傷がある。それは方程式よりさらにかすかでかつ不明瞭であったが、偶然できたひっかき傷にしては線に脈絡がありすぎるようだ。二人が額をあつめて、みみずののたくったようなその線から、やっと判読しえたところによると、
[#ここから2字下げ]
Sasuke Sasuke Sasuke
[#ここで字下げ終わり]
と、だんだん文字が小さくなっているようだが、そうとしか読みようがない。
「金田一先生、これ、サスケと読むんでしょうかねえ」
「そうでしょうねえ。三つともそうとしか読めませんね」
「頭文字が大文字になってるところをみると、これ固有名詞なんでしょうな。サスケ……佐助……主任さん、こんどの事件の関係者に、そんな名前の男がいましたか」
しかし、だれにも思いあたるところはなかった。またたくライターの光りのなかで、三人はふっと顔を見合わせた。
自殺にしろ、他殺にしろ、過失死にしろ、笛小路泰久がこの世に名残りをつげる直前にこれを書いたとしたら、とりもなおさず絶筆である。それを泥酔者の無意味な|戯《ざ》れ|書《が》きとして看過ごしてよいものだろうか。
それに……と、金田一耕助はかんがえる。笛小路泰久はこれを書いた日の昼過ぎ、津村真二に会っているのである。その結果が津村真二にきいたぞ、きいたぞ、飛鳥忠熈にそれをいってもよいかという、鳳千代子にたいする脅迫めいた電話となったとすれば、この方程式も佐助という名も、なにかそれに関係があるのではないか。
日比野警部補もおなじことを考えていたとみえ、
「こりゃどうしても津村氏に会う必要がありますね。近藤君、鑑識の連中をよんでこの楽書きを写真にとらせておいてくれたまえ、いや、それよりこの板を一枚ひっぺがして、証拠品として押収するか」
「主任さん、それがいいですよ。なあに、これしきの犬小屋」
ひとのものだと思ってガニ股刑事は気前がいい。
「近藤君」
「はあ」
「ぼくはこれから第十八号ハウスを調べてみる。そのあいだに君はおもてにいる学生に、田代信吉という男の人相風体をよく聞いておいてくれたまえ。金田一先生」
「はあ」
「あさってが心中の片割れの命日だとしたら、田代信吉って男、その命日に離山へ心中の|後弔《あととむら》いにきたんじゃないでしょうかねえ」
「それは大いに考えられるところですね」
「だとしたら、やっこさん、いまこの軽井沢のどこかに泊まっているはずだ。草の根わけてもそいつを探し出さなきゃ……笛小路さんになにか聞いているかもしれない」
「しかし、主任さん、やつ、名前をかえてるかもしれませんぜ。あの事件なら新聞に出ましたからね」
「だから人相風体をくわしく聞き出すんだ。ことしはこのキャンプは避けたらしいな。どうせそんな若僧なら、一流のホテルに泊まる気づかいはない。どこかのキャンプか安ホテルに泊まってるにちがいないが、そいつを大至急探し出すように手配してくれたまえ」
「それじゃ星野温泉のほうは?」
「そっちはぼくひとりで沢山だ。いや、金田一先生がいっしょにいってくださるだろう」
日比野警部補にとって金田一耕助はけむたい存在であると同時に、いっぽう頼もしい存在でもあるらしかった。どちらにしてもそれほどジャマにはならない男である。
去年田代信吉が泊まっていたという第十八号ハウスでは、べつにこれといった発見はなかった。隣りの第十七号ハウス同様、床も周囲も板ジトミもじっとりとけさの台風で濡れていた。
そこから外へ出ると近藤刑事が、管理人の根津さんをつかまえて、板ジトミの板をいちまいひっぺがすことを交渉中だった。根津さんとしては大いに迷惑だったにちがいなかろうが、|否《いや》|応《おう》なしに承服させられたらしい。
さっきのふたりの学生が、好奇心にみちた顔色でふたりの応対をきいていた。
「ああ、ちょっと管理人さん」
金田一耕助が思い出したように、
「この十七号ハウスですがね。これ去年の事件のあとも泊まり客があったんでしょうね」
「それはもちろん。べつにこのなかで人殺しがあったってわけじゃありませんからね」
「そのひとたちの住所姓名は、みんな控えてあるんでしょうね」
「それは取ってあります。しかし……」
「しかし……?」
「いえね、みなさんがみなさん、ほんとうの住所姓名をおっしゃったかどうか、そこまでは保証できませんよ。現にここにいるこのふたりだって……」
「あれ、いやなことをいうぜ、マスター。ぼくはちゃんとほんとの住所氏名をかいといたよ」
「それはどうかな。藤田欣三とは世を忍ぶ仮り名、てめえ、じつは某重大事件の指名手配人じゃねえのか」
「いったな、この野郎」
「日比野さん」
と、金田一耕助は警部補のほうへむきなおり、
「この第十七号ハウスへ去年の夏の事件いらい、泊まっていった客の名簿を、このマスターに提出しておいてもらったらいかがですか」
「金田一先生」
警部補はなにかいいかけたが、すぐ思いなおしたように、
「おやじ、いまこちらの先生のおっしゃったことを聞いたろう。万事そのとおりしといて|貰《もら》おう」
それからまもなく自動車で白樺キャンプを出ると、
「金田一先生」
「はあ」
「先生はあの第十七号ハウスに事件のあと、だれかこの事件の関係者が、泊まったのではないかという疑いをお持ちですか」
「もし泊まったものがあるとすればだれでしょう。この事件の関係者で……」
日比野警部補はしばらく考えていたのちに、|愕《がく》|然《ぜん》としてささやいた。
「津村真二……ですか」
「そこんところをよく調べてごらんになるんですね。いずれにしてもあの楽書きは入念に調査研究する必要があるでしょうね」
「だれかがあとから手を加えたとおっしゃるんですか」
「専門家が調査すればすぐ判明するでしょう。そういう意味であなたがあれを板ごと取り外すように手配なすったのは、まことに|時《じ》|宜《ぎ》をえた措置だと敬服してますよ」
日比野警部補は黙りこんでしまった。
金田一耕助という男がたんにジャマにならない存在であるのみならず、まことに有効適切なアドバイザーであることに、この秀才型警部補もしだいに気がつきはじめている。
「日比野さん」
しばらくの沈黙ののち、こんどは金田一耕助のほうから呼びかけた。
「はあ」
「田代信吉なら会えばわたしもしっていますよ」
「金田一先生が……?」
警部補はギョッとしたように金田一耕助の横顔をふりかえって、
「どうして? お識り合いですか」
「いやあ、あなたのお耳には入っていなかったようですね。わたしはちゃんとお巡りさんに名刺を渡して立ち去ったんですが……去年の田代信吉と小宮ユキの心中を発見したのはこのわたしなんです」
「先生が……?」
日比野警部補は二度びっくりで、また金田一耕助の横顔を見直した。
「はあ、去年もわたしいまじぶんこの軽井沢にいたんです。八月十六日の午後わたしはひとりでブラブラ離山へ登っていきました。頂上へついたときはよく晴れていて、浅間も小浅間もきれいに見えたのです。そのときいつか心中があったという|洞《どう》|窟《くつ》をのぞいてみました。コウモリがたくさん天井からぶらさがってましたね。そのうちに遠雷の音が聞こえ、お天気がかわりそうになったので、大急ぎで泉のほうへ降りはじめたのです。急に霧が出てきてわたしの周囲を包みはじめました。ところが途中で下から登ってくるふたりづれの男女に出会ったのです。わたしはすれちがうとき、いまから登っても霧が深くて、なにも見えやアしないよと注意してやろうと声をかけたんですが。ふたりづれの男女はわたしのことばに耳をかそうともせず、そのまま頂上のほうへ登っていったんです」
「それで……?」
金田一耕助が息をいれるのももどかしそうに、警部補はあとをうながした。
「わたしはそのまま五分くらいも下りましたろうか。霧はますます濃くなるいっぽうなので、わたしは妙にいますれちがった男女のことが気になりました。それでしばらく|路《みち》|傍《ばた》の岩角に腰をおろして、ふたりの男女の降りてくるのを待っていました。頂上へ登ったところで霧がふかくて、なにも見えるはずはないんですからね。ふたりの男女が降りてくる気配はありませんでした。わたしはとうとうたまらなくなって頂上へ引き返していったんです。頂上は案の定深い霧につつまれていましたが、わたしはもしやと思って例の洞窟をのぞいてみました。さっきの男と女がそこによこたわっていました。女はもうこと切れていましたが、男にはまだ脈があったのです」
金田一耕助はそこで口をつぐむと暗然たる眼を窓外にむけた。自動車はいま南原の踏切のそばを通りすぎて、国道十八号線を西へむかって疾走している。
「それで……? 先生はどうなすったんです」
「もちろん大急ぎで下山すると、ちょうどあの白樺キャンプの附近で空車がつかまったんです。それでおたく……警察へとどけて出たんです」
「ああ、じゃ、去年の心中は先生がとどけてくだすったんですか」
「はあ、あとから思えば笛小路さんの事件だったんですね、署内は色めき立っていたようです。わたしはお巡りさんのひとりに委細をつげて、名刺に南原の|寄《き》|寓《ぐう》さき……ご存じですかどうですか、弁護士の南条誠一郎」
「はあ、お名前はよく存じております。有名なかたですから」
「あのひとがわたしの郷土の先輩なのでここ二、三年、毎年軽井沢へくると南条の別荘の離れに世話になってるんです」
「はあ、それは……」
日比野警部補の調子がちょっと改まった。
「わたし名刺の裏に南条のところと電話番号を書いて、お巡りさんに渡しておたくを出ました。四時半ちょっと過ぎのことでしたね。その後警察から連絡があるかと思って南条の別荘で待っていましたが、べつになんのこともなく、夕方七時ごろ南条の別荘へきたどこかの御用聞きが、離山で心中が見つかった、女は死んだが男はまだ息があり、病院へかつぎこまれたそうなという話を、大声でしゃべっているのを聞いて安心して、七時五十四分の『丸池』で帰京したんです。ちょっと急ぎの用事ができたもんですから」
「なるほど」
「だから、助かった男が芸大音楽部の学生で田代信吉、女のほうが元歌劇団の団員で、歌劇団を退団後コール・ガールをやっていた小宮ユキという女であるということなど、東京へかえって新聞でしったのでした」
「それは、それは……先生があの心中事件の発見者でいらしたとは、いまのいままでゆめにも存じませんでした」
「はあ、ぼくものちに南条の奥さんになにか警察から連絡はなかったかと聞いてみたんですが、なにもなかったようですね」
あとでわかったところによると、金田一耕助と応対したおまわりさんが、救助隊を指揮して離山へ登っていったのだが、その途中で名刺を紛失してしまったのであった。
第十章 祖母と孫
そのへんいったいは草津温泉にちかいせいか、いたるところに|硫《い》|黄《おう》分が噴出しているとみえて、どの河もどの渓流もどくどくしい赤褐色の水が奔騰しており、それでなくとも台風直後の荒涼たる風景をいっそう|索《さく》|莫《ばく》たるものにしている。
岩をかむ清流ということばはこのへんでは当たらない。岩をかむ水も川辺のせせらぎもことごとく赤褐色である。長野原の駅のすぐまえにふかい渓谷があり、風景そのものは申し分ないのに、渓谷の底を流れる水が赤褐色をしているのをみたとき、篤子はゾーッとしたように肩をすぼめた。
硫黄をとるためとやらでところどころに、塩田のように長方形のあさい池が切ってあり、濃い赤褐色の水が満々とたたえられていたが、台風のために溢れ出したその水が、どくどくしく附近の田畑を侵しているのをみると、血の池地獄が連想されて無気味であった。
「いやあね」
と、篤子がおもわず|呟《つぶや》くのを聞きとがめて、
「なにが……?」
と、桜井鉄雄が問い返した。
「あら、ごめんなさい。あの水の色のことですの」
「ああ、あれ、お|祖《ば》|母《あ》ちゃまはこのへんは……?」
「はじめてでございますの。まいとし軽井沢へまいりましても、ちっとも遠出をしないといって、さっきも等々力さまに笑われたのでございますの」
「じゃ草津へは?」
「存じません、いったことございませんの」
「どうしてですか。自動車というものがございますから、もう少しお出歩きになったらいかがですか」
「やっぱり年でしょうかしら。|億《おっ》|劫《くう》なんでございますのねえ。それに気持ちのうえでそれだけの余裕がないんでしょうねえ」
「どうしてでしょうか。お祖母ちゃまなんか気楽なご身分じゃありませんか」
若くて、元気で、屈託のなさそうな桜井鉄雄という|伴《はん》|侶《りょ》をえて、いくらか|寛《くつろ》いでみえた篤子の表情が、そのとたんなにかに刺されたようにけわしくなったらしいのを、うしろにも眼のある等々力警部はなんとなく感じていた。
等々力警部は並んですわった運転手と、とりとめもない会話に余念がなさそうだったが、全聴覚は背後の座席に集中しているのである。
篤子の顔色のかわったのに気がついたかどうかは別として、桜井鉄雄もさすがにここで鳳千代子の名を出すほど無神経な男ではないらしく、それきり黙りこんでしまった。
ちょっと気まずい沈黙が流れたが、篤子がそれから|遁《のが》れようとするかのように、
「でも、桜井さまはさすがお若いだけに、はしっこくていらっしゃいますわねえ」
「どういうことでしょうか」
「この車、たった一台しか残っていなかったのを、よくおつかまえになりましたわねえ」
「ああ、これ」
桜井鉄雄はニコニコしながら、
「お祖母ちゃま。これは軽井沢のタクシーですよ」
「あらま」
「いえね、けさがた熈子と電話で話をしたとき、どうせ長野原なんて小っぽけな駅ですからね、タクシーなんかもそう沢山はいないだろうと思ったもんだから、熈子にいって軽井沢から迎えによこすように取り計らっておいたんです」
「あらまあ、やっぱり抜け目がなくていらっしゃいますのね。わたくしもそうすればよろしゅうございましたのね」
「いいじゃありませんか。一台あれば十分ですよ」
「それにしても……」
「はあ……」
「そうすると、奥さまはゆうべおひとりでいらっしゃいましたのね」
「そういうことですね」
「わたくしさっきから気がついていたんでございますけれど、きのうは土曜日でございましょう。どうして来ておあげにならなかったんですの。それはお忙しいことは存じ上げておりますけれど」
「あっはっは、けさも熈子にだいぶボヤかれましたよ。しかし、まさかあの台風が軽井沢を直撃するとは思いませんでしたからね」
夏の軽井沢は女房族にとっては天国かもしれないけれど、東京に勤めをもつ亭主族には大きな犠牲が要求される。会社から休暇をとるにしても一週間が精一杯というところだろう。ウイーク・エンドを利用して女房にサーヴィスにやってくるとしても、そのあいだ男やもめの不自由を味わわなければならない。
しかし、ある種の不都合な亭主族にとっては、そのあいだに男天国の自由が享楽できるのである。午前様のいいわけにいちいち女房のまえで|叩《こう》|頭《とう》しなくとも、思うぞんぶん羽根がのばせるというものである。
桜井鉄雄もそのひとりであろうことは、等々力警部の入手した情報にもはいっている。
鉄雄と熈子が結婚してもうまる五年になる。結婚後まもなく熈子は妊娠した。妊娠六か月にして熈子は不幸な交通事故に遭遇して、そのショックで流産してしまった。夫婦の不幸はただそれだけにとどまらず、熈子はもう二度と妊娠することはないであろうと医者から宣告された。
それ以外熈子の肉体にはどこにも交通事故の後遺症はなかった。夫婦生活を営むうえにおいても、以前といささかも変わりはなかった。しかし、絶対に子どもを持てないと承知のうえで、性行為をもつということに、夫婦とも|虚《むな》しさを感じずにはいられなかった。ことに子ども好きで、子どもを欲してやまなかった鉄雄のほうに、その虚しさがよりいっそうきびしかったのもやむをえない。
鉄雄の浮気がはじまったのはそれからまもなくのことである。いかに子ども好きの鉄雄とて、他の女によって子どもをもうけようと思っているわけではなかった。まだ若い鉄雄にはそういう|煩《はん》|瑣《さ》なトラブルにはたえられなかった。ただおなじ虚しい体を抱くならば、変化が欲しいのだとじぶんでじぶんを弁護している。交通事故の責任がじぶんの不注意による結果だと、ふかく反省している熈子は夫の浮気を黙認するよりほかはなかった。
そういう立ち入った事情まで等々力警部とて知るよしもなかったが、この男が銀座や赤坂のホステスのあいだで、そうとうの発展家としてしられているということは、警部のキャッチした情報のなかにはいっている。
「奥さまがお恨みになるのもごむりじゃございません。ゆうべはおひとりじゃさぞお心細かったことでざいましょう」
「しかし、彼女ももう子どもじゃありません。それにひとりたってお手伝いさんもいることですし」
「でも、その栄子ちゃんもゆうべは盆踊りでございましょう。ですから……」
「あれ、お祖母ちゃまはうちの栄子をご存じですか」
「はあ、あのひとはわたしどもで、お宅さんへお世話申し上げたんでございますよ」
「栄子を……? お祖母ちゃまが……? でも、あの娘は軽井沢出身だと聞いてましたが……」
「はあ、うちの里枝がやっぱりそうですの。わたしどもでもひところお手伝いさんがなくて弱っておりましたの。そしたらお出入りのひとが里枝を世話してくれましたの。その後お宅さまでもお困りだとうかがって、里枝のお友達の栄子ちゃんをお世話申し上げたんでございますの」
「それはそれは……いや、いろいろお世話になります。なにも知らなかったものですから……」
と、鉄雄はそこで頭をさげると、
「その栄子が盆踊りにいったんですって?」
「なにしろ土地のひとでございましょう。年に一度の盆踊りのことでございますからね。うちの里枝と誘いあわせて出掛けたあとで、停電になりましたそうで。ずいぶん心細かったと、けさも電話で美沙にさんざん恨まれたのでございますよ」
「それじゃうちの熈子より、美沙ちゃんこそかわいそうに。よりによってそんな晩にお留守にするなんて、いけないお祖母ちゃまですね」
等々力警部は聖徳太子みたいなものである。聖徳太子は十人の訴えを同時にきいたというが、いまの等々力警部がそれに似ている。ゆうべの台風について運転手からとりとめのない話をききながら、別の耳ではちゃんと背後の会話をきき、そしてそれを記憶にとどめておくのである。
「いえね、お祖母ちゃま、ぼくがこちらへくるのを一日延ばしたのはわけがあるんですよ」
桜井鉄雄が屈託のない調子でいい出した。
「と、おっしゃいますと?」
「じつはあしたがおやじ主催のゴルフ大会なんです。それに出席するために、どうしても一日延ばさなきゃいけなかったんです。ぼくもサラリー・マンですからね。そうそうは休むわけにはいきませんからね。この三年ほど毎年八月十五日ときまってるんですね、おやじ主催のゴルフ大会は……」
鉄雄の話をきいているうちに、篤子の口許にほころびかけていた微笑が、そのまま顔面に凍りついたようである。
思えば去年のそのゴルフ大会の晩である。笛小路泰久が奇怪な変死をとげたのは。鉄雄もそれに気がついたのか、だるまさんのような童顔がしまったというふうに|狼《ろう》|狽《ばい》している。
鉄雄はここで去年のことについて、当然お悔みを申し述べるべきだと思ったが、事件が事件なので切り出しかたに困っていると、よい案配に篤子のほうからさりげなく話題をかえてきた。
「そのゴルフのことについて思い出したんでございますけれど、あの村上一彦さまとおっしゃるかたでございますわね」
「はあ、はあ、あの一彦がどうかしましたか」
話題が意外なほうへ転換したので、鉄雄はほっとしたようでもあり、同時に|怪《け》|訝《げん》そうな顔色でもあった。
「あのかたお宅さまとどういうご関係におなりなんでしょう。飛鳥さまがとても目をかけていらっしゃるようでございますけれど」
「ああ、あの男……あの男にゃぼくも大いに|嫉《や》いてるんですがね」
「あらま、それはまたどういう……?」
「うちの熈子などもあの男にゃ目がないんですよ。一彦さん、一彦さんてね。わたしのいうことなんかロクに|肯《き》かなくても、一彦のいうことならコロリと肯くんですからね。亭主野郎かたなしですよ」
鉄雄はまだ相手の真意を計りかねていながら、わざとはしゃいだ調子になっている。
「まさか、そんな……」
「いえね、お|祖《ば》|母《あ》ちゃま、ありようをいうと、あの一彦こそわれわれにとって結びの神なんです」
「と、おっしゃいますと」
「ぼくが熈子に|惚《ほ》れてさかんにモーションをかけてるじぶんのことですがね、なにしろ競争者おおぜいとくるでしょう。当時はきれいでしたからね、熈子も」
「いまでもおきれいでいらっしゃいますよ」
「どうですかね、|高《たか》|嶺《ね》の花のじぶんとちがってわがものになってしまうとね。あっはっは、こんなことをいっちゃバチが当たりますかね。いや、冗談はさておいて、なにしろ大勢の競争者を|蹴《け》|落《お》として、われこそ勝ち名乗りをあげようというんでしょう。いろいろ策略をめぐらせたものですが、そのうち一彦に目をつけましてね、なにしろ熈子がほんとの弟のように可愛がっておりますでしょう。そこで将を射んとすればまず馬をと、あいつを手なずけにかかったんです。ところがあとでわかったところによると、あの男を手なずけようとかかった競争者は、ほかにも大勢いたらしいんですが、どういうわけか一彦のやつ、ぼくに白羽の矢を立ててくれましてね。いろいろ便宜を計ってくれるばかりか、適切なアドバイスを与えてくれたんですよ。おかげで、あまたの競争者を蹴散らして、このぼくが恋の勝利者となりにけりというわけです。あっはっは。いや、いいやつですよ、一彦というやつは」
バック・ミラーにうつる鉄雄の顔は、いかにも屈託がなさそうで、これが銀座赤坂のホステスのあいだで、プレイ・ボーイの名もたかい男かと、等々力警部もとまどうくらいであった。それにしても一彦とは何者だろうと、聖徳太子先生、いよいよ背後の会話に耳をかたむけている。相変わらず運転手ととりとめのない話をしながら。
「いや、どうも失礼、とんだおノロケをきかしちまって。ところでお祖母ちゃま、一彦のやつがどうかしましたか」
「いえね、美沙がゴルフというものを見たいと申しますでしょう。それでお識り合いのかたにお願いして、クラブ・ハウスまで連れてっていただいたことがあるんですの。去年の夏のことでございますけれどね。そしたら、ちょうど飛鳥さまが一彦さまとごいっしょにきてらっしゃいまして、美沙がまた、コースをまわってみたいなどとダダをこねますでしょう。飛鳥さまがお笑いになって、いいよ、いいよ、いっしょにいらっしゃい、一彦、よく面倒を見てあげなさいって、それでコースをつれて歩いていただいたんですけれど、あとで美沙にきくと一彦さまが、とてもよくいたわってくださいましたそうで」
「あっはっは、一彦ならよいコーチになったでしょう。スポーツマンだしとにかくいいやつですからね」
「はあ、それでボールの打ちかたなどコーチしていただいたそうでございますよ。おまけに桜の沢まで自動車で送ってくださいましてね。もちろん飛鳥さまのおいいつけでございますけれど。ところが……」
「はあ」
「その後、去年の秋でございましたけれど、さる音楽会で飛鳥さまにお眼にかかりましたところ、やっぱり一彦さまがごいっしょでございました。そのときもいまどきの若いひとには珍しい、行儀作法のよくいきとどいたかただと感心申し上げたんでございますけれど、お宅さまとはどういうご関係でいらっしゃるのかと思って……」
鉄雄はしばらく黙っていたのちに、
「いや、失礼いたしました。一彦君の素性についちゃ、べつに隠さなければならない理由はなんにもないんです。お祖母ちゃまは昭和十年の一件はご存じでしょう。熈子の祖父の壮烈な最期を……」
「あら!」
と、篤子は|呼《い》|吸《き》をのむような声である。
等々力警部もギョッとしたが、わざと運転手に話しかけながら、背後の会話にいよいよ利き耳を立てている。
「その時分飛鳥のうちに村上……たしか村上達哉といったとおぼえていますが、そういう書生さんがいたそうです。あの晩、反乱軍が侵入したとき、その村上さんが身を挺してお祖父ちゃまを救おうとして、まずいちばんに血祭りにあげられたんですね。そのあとでお祖父ちゃまもいけなくなったというわけです」
「そうそう、そういうことがございましたわねえ。それじゃあの一彦さまとおっしゃるかたは……?」
「はあ、その村上達哉氏の遺児なんですね。その時分飛鳥のうちにお静さんといって、とてもきれいな女中さんがいたそうです。そのふたりのあいだに生まれたのが一彦君ですが、あの事件のあった翌年にうまれたんですから、じぶんの父を全然知らないわけです」
「まあ、それでお母さまというかたは……?」
「お静さんというひとも、一彦君が五つか六つのときに亡くなったそうです。それで飛鳥の両親が|不《ふ》|憫《びん》がって、熈子やいまイギリスにいる|熈《ひろ》|寧《やす》と兄弟どうように育てたわけです。なにしろお祖父ちゃまに|殉《じゅん》じて死んだひとの|遺児《わすれがたみ》ですからね」
「道理で……いまどきの若いひとには珍しく、よく出来たかただと思っていました。それで、飛鳥さまのことをおじさんと呼んでいらっしゃいますのね」
「おやじの絶対の崇拝者です。かれと運転手をやっている秋山君、このふたりにむかっておやじの悪口でもいってごらんなさい。コテンパンにやっつけられますよ」
「ああ、あの秋山さん」
篤子はその秋山についても聞きたかったらしいが、あまり立ち入るのもどうかと思ったのか、それとも忠熈の話が出たのでちょうどよい潮時だと思ったのか、
「飛鳥さまというかたは、ずいぶん大勢の崇拝者を持っていらっしゃるんだそうですね」
「あっはっは、ぼくなどもそのひとりですがね。おやじというひとは矛盾の多いひとです。それがまたあのひとの魅力なんですね。おやじのいちばんいいところは、だれにたいしても寛容だということですね。ぼくなどその寛容にあまえ過ぎているきらいなきにしもあらずですね。あっはっは」
ノンキらしく笑いとばしながらも、バック・ミラーにうつった顔をちょっぴり悔恨の色が横切ったのを、等々力警部は見のがさなかった。
長野原から軽井沢までの|道《みち》|程《のり》ははるかに遠く長かった。おまけに鬼押し出しを過ぎたころ自動車事故にぶつかって、二十分ほど車止めの|憂《うき》|目《め》にあった。無謀な若者の無謀運転の結果、レンタカーが路傍の大木に激突して、二人は即死、一人は|瀕《ひん》|死《し》の重傷という大事故だった。現場検証のために通行禁止のところへ運悪くいきあわせたわけである。
まあ、いまどきの若いひとというものはと、篤子がくりかえし、くりかえし|呟《つぶや》いたことはいうまでもない。
自動車が中軽井沢へさしかかったのは、三時半を過ぎており、長野原から二時間かかったわけである。
おかげで等々力警部はいろんなことを識ることができた。その後秋山の話も出たので、秋山卓造という男と飛鳥忠熈の関係もわかった。秋山という男は忠熈のためならば、たとえ火の中水の底という忠勤ぶりらしいということもわかった。いっぽう軽井沢署の近藤刑事は、方向指示器によって阿久津謙三を死にいたらしめた自動車を、白ナンバーにちがいないと信じて疑わない。等々力警部はなんとなく心の騒ぐのをおさえることができなかった。
中軽井沢から南原までは自動車だと|須《しゅ》|臾《ゆ》の間である。南原の入口で等々力警部をおろした自動車は、国道十八号線からわかれて、さっき金田一耕助のとおっていった離山の下の道を、六本辻から旧道へとむかって走った。途中に白樺キャンプがあり、ドッグ・ハウスが林立していたが、そのそばを通り過ぎるとき篤子はなぜか顔をそむけた。去年のことを思い出すのに忍びなかったのであろうか。
六本辻から旧道の入口まできたとき、むこうからきた警察の自動車とすれちがった。その自動車に金田一耕助と日比野警部補、近藤刑事の三人が乗っていたのだけれど、おたがいにそれとは気づかずにいきすぎた。
桜井鉄雄の別荘は、旧道の繁華街から東へはいったところにあり、高原ホテルより少してまえの地点にあたっていた。このへんも旧軽井沢に属するのだろうか、|樅《もみ》の並木がみごとであった。しゃれたバンガローふうの建物を林のおくにのぞかせた、別荘の表についたとき、白樺が五、六本ななめにかしいでいるのがみえたが、案外小ザッパリ片附いているのは、神門土地からひとがやってきたのであろう。
篤子はそこで降りて熈子にあいさつしていきたいといったが、あいにく熈子は入浴中だった。ぎゃくに鉄雄が送っていこうというのをしいて断わり、自動車だけもらって桜の沢までかえってくると、水はもうすっかり引いていたが、|楢《なら》の木はまだななめにかしいだままだった。
自動車が沢をわたったとき、ななめにかしいだ楢の繁みの下から、ひょいとひとつの人影があらわれた。男であった。その男はこっちへやってきかけたが、自動車を見るとくるりと|踵《きびす》をかえしてスタスタと、浅間隠のほうへいく坂をのぼると、すぐむこうの崖をまわって姿を消した。なにかしらよろめくような|歩《あし》|調《どり》だった。
とっさのことで顔はよく見えなかったが、妙な形をした鳥打ち帽子をまぶかにかぶり、大きなサン・グラスをかけていた。黒いマフラーのようなものを首にまいていて、それを|顎《あご》のところで|掻《か》きあわせるようにしている右手には、真っ黒な手袋をはめていた。そういえば上から下まで黒ずくめの男だった。
このへんは両方から山がせまっているのでなんとなく薄暗く、それにいったん晴れかけた空がまたくもって、時雨のような雨がバラバラと落ちていた。高い木々の|梢《こずえ》のあいだには薄紫の霧がボヤーッとかかっていた。とっさに現れ、とっさに消えた男の姿はまるで黒いかげろうのようにみえた。
(だれだろう? うちの識り合いにあんなひとはいないはずだが……)
篤子はいま黒いかげろうの出ていった楢の木のてまえで自動車をおりた。水はもうすっかり引いていた。美沙とお手伝いさんの里枝の姿が眼の下のポーチに現れた。里枝の姿をみると篤子はなんとなくホッとした顔色で、運転手にていねいに礼を述べた。
ポーチへの階段は土で固めて三段ある。ポーチのうえの右側に自転車置き場があり、そこに美沙の自転車がびっしょり|濡《ぬ》れていた。
「美沙子さん」
美沙の戸籍名は美沙なのだが、それではあまりお手軽で篤子のお気に召さないのである。篤子だけが子をつけて美沙子とよんでいる。
「いまここから出ていったひとどなた?」
|咎《とが》めるようなねつい調子である。
「お祖母ちゃま、それなんのこと?」
「いまここを出ていったでしょ、黒いお洋服の男のかた。あのかたどなた?」
「いいえ、お祖母ちゃま。だれもここを出ていきやしないわ」
美沙は祖母のあとについてポーチからホールへ入りながら、あどけない眼で祖母を見ている。
ホールのかたわらに台所があり、ホールの奥に八畳と六畳と三畳の女中部屋。どうせ年に使用するのは三十日かせいぜい四十日、軽井沢の別荘とはどれもこの程度の簡粗でお手軽なものである。ただこの別荘には崖下の沢のほとりに、篤子好みの茶室がちんまりとしつらえてある。
「美沙子さん、あなたウソをつくのではないでしょうね。わたしはちゃんと見ましたよ。倒れた楢の木の下をくぐってこのお家から出てきた男のひとを。大きな黒眼鏡をかけていました」
あいかわらず咎めるような調子である。けわしい顔に疑いぶかそうな眼がとがっている。
美沙は慣れているのかべつに気にもしないふうで、
「いいえ、そんなひと美沙は知りません。それともどこかの御用聞きかしら。里枝ちゃん、あなた知ってて?」
「いいえ、あたしも知りません」
かえって美沙より二つ三つ年上らしい里枝のほうがおどおどしている。
「お兄ちゃまなら黒眼鏡なんかかけていらっしゃらなかったし、それにおかえりになってからもう半時間にもなるわ」
美沙が眼をやった壁の鳩時計は三時五十五分をさしている。
「お兄さまってどなた」
「村上のお兄ちゃまです」
「あら、一彦さまのこと?」
「はい」
「一彦さまがここにいらっしゃったの」
「はい」
「どうして?」
篤子のことばはいちいち|猜《さい》|疑《ぎ》にみちている。
「お祖母ちゃまが飛鳥のおじさまのところへ、お電話しておきなさいとおっしゃったでしょ。美沙そうしたのよ。その時分ポーチの下まで水が来ていて心細かったので、そのことをおじさまにいったら……」
「申し上げたというんですよ」
「はい、申し上げたんですの。そしたらおじさまがだれかをお見舞いにやろうとおっしゃったんです。美沙、結構です、ご心配なさらないでくださいっていった……いえ、申し上げたんですけれど、あとからお兄ちゃまがお見舞いにきてくださいましたの」
「一彦さまは何時ごろいらっしたの」
「一時……」
「半でした」
と、里枝があとを補った。
「ああ、そう、里枝ちゃん、あなたはむこうへいってらっしゃい」
里枝が引き退がると、祖母と孫とはテーブルをあいだにはさんでむかい合わせに腰をおろした。
「一彦さまは半時間ほどまえまでここにいらしたのね」
「はい、お|祖《ば》|母《あ》ちゃまは一時三十五分に長野原へ着く汽車でいらっしゃるとおっしゃったでしょ。それではちょうどいま時分お着きになった時分だ。長野原からここまでは自動車でどんなに長くかかっても二時間だから、それまでいてあげようとおっしゃって。その時分まだ水がポーチの下まできていたのよ。お兄ちゃまアルプスのお帰りだとかで半ズボンでリュックを背負っていらしたの」
それではいよいよさっきの男とちがうと思いながら、
「それで一彦さまは三時半ごろまでここにいらしたのね」
「はい」
「そのあいだどんなお話をしていたの」
「アルプスのお話だとか、それからエジプトやアラビヤのお話をしてくださいました。美沙にはよくわからなかったんですけれど……」
ああ、悪い癖だと篤子はひそかに溜め息をつく。あの道楽さえなければあの人ほんとにいい子なんだけれど。
「それで、そのあいだあなたはなにをしていたの。おとなしくお話をうかがっていたんでしょうね」
「はい」
それは祖母と孫の対話というより、きびしい舎監とその舎監の監督下におかれている哀れな生徒の会話のようであった。美沙は慣れているとはいうものの、やはりどこかおどおどした調子になって、
「お兄ちゃまそういうお話をしていらっしゃると、とても楽しそうでいらっしゃいましたわ」
「そのあいだあなたは余計なおしゃべりをしたり、余計なまねをしたりしなかったでしょうね」
「はい、でも……」
「でも……? でもとはなんです。なにか余計なことをいったりしたりしたんですか」
「お祖母ちゃま、ごめんなさい。でも、美沙、手持ち無沙汰だったでしょ。それにお兄ちゃまもそうしていらっしゃいとおっしゃるものですから、美沙、お兄ちゃまのお話をうかがいながらその|刺繍《ししゅう》をしていたんですわ」
いっぽうの壁の飾り棚に|籐《とう》製のかわいいバスケットがおいてある。篤子は立ってそのバスケットをひらくと、なかから方五十センチばかりの正方形の地の|粗《あら》い麻の布が出てきた。美沙はそれでテーブル・センターでも作るつもりなのにちがいない。ひじょうにユニークで、|絢《けん》|爛《らん》たる色彩の配合であった。刺繍が八分どおり出来上がっていた。ものの見事に造形された花のアラベスクである。
「あなたはこんなものをお客さまのまえでしていたの。それで一彦さまはなんとおっしゃって?」
「たいへんきれいだと|賞《ほ》めてくださいました」
「美沙子」
と、篤子は鋭い声で、
「わたしはいつもあなたにいってあるでしょう。淑女というものは、よいお嬢さんというものは、決して殿方のまえで自分勝手な手慰みをするものではありませんと」
「お祖母ちゃま、ごめんなさい」
「そのお祖母ちゃまはおよしなさい。あなたもいつまでもネンネエではないのですからね」
篤子は刺繍された布をくるくると丸めて、バスケットのなかに放りこむと、バタンと音を立てて|蓋《ふた》をした。
一彦はどうやら槙恭吾の一件や、鳳千代子がこちらへきていることを美沙につげずに立ち去ったらしい。
第十一章 師弟関係
星野温泉は中軽井沢からすこし北へのぼったところにあり、軽井沢でも古い由緒あるホテルである。このホテルではちかごろ毎年夏になると音楽会が催されている。
金田一耕助と日比野警部補が到着したとき、会場では|活《かっ》|溌《ぱつ》なディスカッションが行なわれていた。時間はかれこれ五時だったが、夏場のことだからあたりはまだ明るかった。
ふつうの温泉旅館の演芸場を、若干高級にしたような小ホールだが、それでも舞台にはグランド・ピアノがすえてある。四重奏などやるにはお|誂《あつら》えの舞台だった。その小舞台に三人の講師が腰をおろして、観客席のわかい音楽愛好家と、いま熱心な討論がかわされていた。観客席は畳敷きで、そのうえに金属製パイプの折りたたみ式の|椅《い》|子《す》がならんでおり、客は三、四十人もいただろうか。
日比野警部補はひとめ舞台に眼をやると、
「いない」
「いないんですか、津村真二氏は?」
金田一耕助が小声で|訊《たず》ねた。かれはまだ津村真二に会ったことがないのである。
「いないようですね」
観客席にいるのではないかとひとりひとり探してみたが、それらしい姿は見当たらなかった。
「君、君」
日比野警部補もさすがに、ディスカッションを妨げないだけの配慮はもっていた。最後列にいる学生の耳もとで、
「津村真二さんはどこに……?」
「えっ?」
と、ふりかえった学生は、ふしぎそうに日比野警部補と金田一耕助を見くらべていたが、
「津村真二先生はきょうはご欠席だそうです」
「ご欠席……?」
日比野警部補はハッと金田一耕助をふりかえると、また学生の耳もとに身をこごめて、
「どなたか主催者のかたはいらっしゃらないかね。こちら警察のものなんだが……」
学生はまた日比野警部補と金田一耕助を見くらべたが、すぐ右隣りにいる学生になにかささやいた。その学生がさらに右隣りのわかい学生にささやくと、その青年が立ちあがって、ふしぎそうにふたりの姿を見まもりながら、観客席のはしをまわって前方のほうへ小走りに走った。まわりにいた若い男女がじろじろと、日比野警部補と金田一耕助を見くらべている。
観客席のいちばん前方に横向きにデスクをおいて、四十がらみの男が腰をおろしていたが、そこへさっきの学生がちかづいてなにか耳もとでささやいていた。デスクの男はこちらを見ながら学生のささやきを聞いていたが、やおら立ちあがると小腰をかがめて、こちらのほうへやってきた。
「わたし主催者のひとりですが、なにか……?」
かなり横柄な口のききかただが、その顔にはあきらかに不安と|危《き》|懼《く》の色が|揺《よう》|曳《えい》していた。去年もちょうどこの時期にこんなことがあったのではないか。
「わたしはこういうもんですが……」
と、日比野警部補は警察手帳をみせると、
「ちょっと津村氏のことについて聞きたいんですが……」
「ああ、そう、じゃ喫茶室へでもいきましょう」
さきに立っていきかけたがふと思い出したように、案内してきた学生をふりかえって、
「君、立花君に喫茶室へくるようにっていってくれたまえ」
喫茶室には四、五人先客があったが、主催者はいちばん隅っこのテーブルに金田一耕助と日比野警部補を案内した。
「わたし、こういうもんですが……」
金田一耕助も名刺をわたされて、じぶんもあわててふところから名刺を取り出した。わたされた名刺には、新現代音楽協会理事、|篠《しの》|原《はら》|克《かつ》|巳《み》とあった。
篠原克巳は金田一耕助の名刺を見ると、
「あっ」
と、口のうちで|呟《つぶや》いて、
「お名前はかねがね……いちどお眼にかかりたいと思っておりました」
と、ていねいに頭をさげると、
「なにかまた……?」
「いや、それより」
と、そばから日比野警部補が引きとって、
「津村氏のことを伺いたいんですが、津村氏、きょうは欠席だそうですね」
「それが……」
と、篠原理事は渋面をつくって、
「津村君からはなんの連絡もないんですが……いま、立花ってわかい学生がきますからその男に聞いてください。津村君、|鍵《かぎ》をうしなったのでどこかでまごまごしてるんじゃないかっていってるんです」
「鍵を……?」
日比野警部補はまた金田一耕助と顔を見合わせた。ふたたび鍵である。
「鍵ってなんの鍵です?」
「じぶんのバンガローの鍵です」
「じぶんのバンガローの鍵って、津村氏のバンガローは?」
「浅間隠のほうだそうです。ぼくはよくしらんのだが……ああ、あそこへやってきました。立花君、立花君」
テーブルのそばへやってきたのはいかにも育ちのよさそうな、お坊っちゃんお坊っちゃんした青年である。さっきのふたりの学生もそうだったが、この立花青年なども、日比野警部補といくらも年齢はちがっていない。
篠原克巳がふたりを紹介すると、立花青年も名刺を出した。名刺には芸大音楽部作曲科、立花茂樹とある。
「ああ、君は芸大作曲科にいるの?」
「はあ」
立花茂樹が窮屈そうに腰をおろすと、ボーイがそばへやってきた。
「金田一先生はなにを召し上がります?」
「はあ、ぼくはレモン・ティーの冷めたいのを」
「日比野さんは?」
「いや、わたしもおなじで結構です」
「立花君、君もそれでいいね」
「はあ」
「じゃ、冷たいレモン・ティーを四つ」
篠原克巳はあいてのひとりが金田一耕助だとしると、急に如才がなくなったようだ。レモン・ティーを四つ注文すると、立花の耳になにかささやいた。立花が急におどろいたように金田一耕助を見直したのは、金田一耕助の名刺には肩書きがないからである。この青年は金田一耕助の名前をしらなかったらしい。
「いやね、立花君、金田一先生と日比野さんは津村君のことを聞きにこられたんだ。津村君、まだいどころがわからない?」
「ああ、あのひと……」
と、立花茂樹はおかしそうに笑いながら、
「どっかへ雲がくれしちまったんです」
「雲がくれ……」
強度の近眼鏡のおくで、日比野警部補の眼が怪しく光った。
「はあ、ぼくさっき浅間隠のバンガローへいってきたんですが、表のドアには鍵がかかって、窓という窓にはカーテンがかかっていました。ぼく、なんども先生の名前を呼んでみたんですが、なんの返事もありません。先生ひょっとしたら軽井沢をずらかっちまったんじゃないかな。ああいう変わったひとですからね」
立花茂樹はノンキそうに笑っているが、日比野警部補にとっては笑いごとではない。
「ずらかったって? 津村氏にはなにか軽井沢からずらからねばならぬ理由でもあるのかね」
「いやあ、べつに……ただ先生気まぐれ屋さんですからね。気にいらんことがあると約束でもなんでもスッポかしてしまうんです。以前はあんなひとじゃなかったんですがねえ」
立花青年に話しかけられて篠原理事は当惑そうに、
「そうね、ここ一年ばかりのあいだに津村君、すっかり人間が変わっちまったな。だけど、立花君、君、さっきマドロス・パイプがどうのこうのといってたじゃないか。そのことをおふたりさんに申し上げたら……」
「そうそう、ぼくカーテンの端がすこしまくれあがっていたんで、そこからなかを|覗《のぞ》いてみたんです。そしたら先生愛用のパイプがテーブルのうえに投げ出してある。あのパイプきのうここで吹かしてたパイプですからね。だからゆうべいったん、ここへお帰りになったことはなったんだなと思いながら、名前を呼びながら勝手口までいってみたんです。しかし、いくら呼んでも返事がないんで|諦《あきら》めてかえってきました。しかし、ちょっとおかしいですね」
「おかしいとはなにが……?」
「だって表口も裏口も鍵がかかってましたよ。それにもかかわらず、きのうここで吹かしてた先生愛用のパイプがバンガローのなかにある。だから、先生、鍵をどうなすったのかなと思ったんです」
立花青年の話は短絡的で、ひとり合点で、なにがなんだかわけがわからない。日比野警部補が思わずせきこみそうになるのを、金田一耕助がそばからかるくいなすように、
「そうそう、その鍵のことですがね、立花君、津村氏はきのう鍵を紛失したってことだが、それ、どういうこと?」
「そうそう、それでぼく津村先生バンガローへ入れなくって、まごまごしてらっしゃるんじゃないかというんで、さっきお迎えにあがったんですよ。そしたらテーブルのうえにマドロス・パイプが投げ出してあるでしょう。してみると、鍵がどっかで見つかったんでしょうね」
「津村氏が鍵をうしなったというのはどういうことなの。日比野さんもそれを聞きたがっていらっしゃるんだが……」
「ああ、それ……」
と、立花茂樹はおかしそうに笑いながら、
「きのうもここで昼間はディスカッション、夜は演奏会ということになっていたんです。津村先生の作品発表会で、先生自身指揮をとっていらしたんです。ところがゆうべ空模様がだんだん怪しくなってきたでしょう。それに七時半ごろいちど停電があったんです。そのときはすぐ|点《つ》いたんですが、これはほんとうに停電になるんじゃないか、停電になってからあわててもということになり、演奏会を中止することにしたんです。客もひじょうに少なかったもんですから。篠原さん、あれはあなたがお決めになったんですね」
「ああ、そう」
篠原理事はボーイが持ってきたレモン・ティーを受け取りながら、
「停電になってからじゃ、お客さまにご迷惑だと思ったもんだからね」
と、いいながら、探るように金田一耕助と日比野警部補の顔を見くらべている。立花茂樹はまだ気がつかないらしく、
「あれ、七時四十分ごろでしたね。ぼくが先生がた……先生、津村先生もふくめて五人いらっしゃるんですが、そのなかのお三方を自動車で順繰りにお送りすることにしたんです。そのときになって津村先生、バンガローの鍵がないって騒ぎ出したんです」
「その鍵、津村氏どこに入れてたの?」
「|上《うわ》|衣《ぎ》のポケットだそうです」
「その鍵はほんとうになかったの?」
「はあ、そのときはほんとうになかったんです。先生、ポケットというポケットを調べていらっしゃいました。先生、デラクールの楽譜入れをもってらしたんですが、チャックを開いて楽譜入れのなかまでお調べになったんですが、そこにもなかったんです。しかし……」
「しかし……?」
「はあ、ああしてマドロス・パイプがあるところをみると、先生、ドアの鍵穴に鍵をさしわすれていらしたんじゃないでしょうかねえ。津村先生、ちょっとそそっかしいところがあるひとですからね」
立花茂樹は微笑をふくんで篠原理事をふりかえった。篠原理事はそれにはこたえず、あいかわらず、金田一耕助と日比野警部補の顔を見くらべている。
「しかし、津村氏がドアの鍵穴に鍵をさしこんだまま、忘れてきたんじゃなく、ほんとに上衣のポケットに入れてきたのが紛失したとしたら、それはいつごろのことだろう」
「そうだとしたら昼間のことでしょう」
「どうして?」
「夜の演奏会のときは先生ご自身、タクトをお振りになったんです。第一回の停電まで。そのときはちゃんと上衣を着ていらっしゃいましたから」
「昼間は上衣をとってたの?」
「きょうのディスカッションをごらんになってもおわかりのとおり、先生がたみなさん軽装でくつろいでいらっしゃるでしょう。夜の演奏会でも先生がたによっては、そういうラフなスタイルで、指揮をおとりになるかたもいらっしゃいます。しかし、津村先生ってかた、ちかごろ性格がお変わりになったといっても、その点、神経質で|几帳面《きちょうめん》でいらっしゃるんですね。|蝶《ちょう》ネクタイにちゃんと黒い上衣を召していらっしゃいます」
「津村氏の性格がちかごろどう変わったかは、あとでぜひ聞かせていただきたいんですが、すると昼間のディスカッションのときは、さすがに津村氏もワイシャツ一枚だったんですね」
金田一耕助が念を押した。
「そうです、そうです。そのディスカッションのあと、先生ここでひとに会われたんですが、そのときもワイシャツ一枚でした」
「ひと……ってどういうひと?」
するどく突いてきたのは日比野警部補である。
「はあ、ぼくが先生に取り次いだのでしってるんですが、槙恭吾さんてかたです」
立花茂樹はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》したのちに、
「あのひと鳳千代子さんの三番目のご主人なんだそうですね」
さすがに若いだけあって口許には微笑をふくんでいたが、眼は好奇心に|濡《ぬ》れていた。
「ああ、そう、鳳女史にとっては津村氏のまえのご亭主だ。ところでそのとき槙氏はひとりだったかね」
「いいえ、かわいいお嬢さんがごいっしょでした。たしか美沙ちゃんとかいってましたね。まだ十六、七……そんな年かっこうのお嬢さんでした」
日比野警部補は金田一耕助に眼配せした。やっぱりふたりは津村真二にあっているのだ。
「そのとき津村氏は上衣をどうしてたろう」
「さあ……」
立花茂樹が首をかしげるそばから、理事の篠原克巳が口をはさんだ。
「それならわたしが|憶《おぼ》えてますがね。わたしもそのときこの喫茶室にいたんです。わたしはあのへん、津村君はちょうどこの隣りのテーブルでした。津村君、そのとき|椅《い》|子《す》の背に上衣をひろげてかけていたんです。なぜそんなことを憶えているかというと、津村君、お客さんと話をしながら|屁《へ》っぴり腰でうしろに手をまわして、なにやらまごまごやっている。なにをあんなおかしなまねをやっているのかと思ったら、上衣のポケットからタバコを一本取り出したので、わたしは思わず吹き出したんです。津村君ってそういう妙なところのあるひとで、うしろ手に取り出すなら箱ごと出すか、それともちょっと立てばもっと簡単なのにと思うと、おかしくて仕方がなかったので憶えているんです」
「津村先生ってそういうかたです。本人は大まじめなんですが、はたからみてると吹き出したくなるようなことがたびたびあります」
「いや、ちょっと待ちたまえ」
と、日比野警部補がさえぎって、
「津村氏というひとは、マドロス・パイプを愛用してるようにさっき君はいっていたが……」
「いや、失礼しました」
と、立花茂樹はかるく頭をさげて、
「先生はパイプと紙巻きと両方おやりになるんです。紙巻きならホープです。ことにきのうはパイプが詰まってしまったとかで、ブーブーいってらっしゃいましたよ。ヘビー・スモーカーで、かたときもタバコから離れられないふうですね」
「津村氏はパイプを二本お持ちだったということはありませんか」
金田一耕助がおだやかにそばからことばをはさんだ。
「そういうひとじゃありませんね。一本のパイプをとことんまで愛用して、それが駄目にならない限り、新しいものはお|需《もと》めにならない。ケチというんじゃなくて、一種の|偏執狂《へんしゅうきょう》みたいなところがおありのかたですね」
「津村氏が槙恭吾氏や美沙という娘と、ここで会ったのは何時ごろのこと?」
「昼のディスカッションが終わったあとですから、五時すぎでしょう。昼のディスカッションが三時から五時まで、夜の演奏会が七時から九時までということになってますから」
答えたのは篠原理事である。
「ぼくが五時半ごろ電話を取り次いだときも、先生まだお客さまとごいっしょでした」
「電話……?」
と警部補が聞きとがめて、
「だれからの電話……?」
立花茂樹もようやく警部補の顔色のじんじょうでないのに気がついて、
「篠原さん、津村先生がどうかなすったんですか」
篠原理事はそれにはこたえず無言のまま、金田一耕助と日比野警部補の顔を見くらべている。立花茂樹の顔がやや|蒼《あお》ざめた。
「わけはいずれあとで話す。いいからいってくれたまえ。五時半ごろ津村君のところへ電話をかけてきたのはどういうひと? 男? 女?」
「ご婦人でした。津村先生には女性ファンがとても多いんです」
「名前は……? あいては当然名を名乗ったはずだね」
「いえ、ところがあいての婦人は名前をいわなかったんです。ただ取りついでくれればわかるとしか……」
「それで君はあいてのいうままにイイダクダクと取りついだのかい、名前もきかずに……」
警部補は失望のあまりついことばの調子がきつくなる。お坊っちゃんタイプの立花茂樹もさすがにムッとしたらしく、色白の|頬《ほお》に朱を走らせた。
「だって仕方がないでしょう。ぼくはたんなる取り次ぎですもの。電話に出るでないは津村先生のご自由ですからね」
「津村氏は電話に出たんだね」
「もちろん」
もちろんということばにいやに力がこもったのは、あいてのきめつけるような口調が|肚《はら》にすえかねたのだろう。
「ああ、ちょっと」
警部補がつづいてなにかいおうとするのを、金田一耕助がすばやくさえぎって、
「あなたが電話を取りついだとき、津村氏はまだ槙氏や美沙ちゃんというお嬢さんと、いっしょにここにいたんですね」
「はあ、この隣りのテーブルでした」
「そのときの津村氏のようすはどうでした。名前をきかなくても電話のぬしがわかってるってふうでしたか」
「はあ、そういえば津村先生、なんだかバツが悪そうでした。槙さんや美沙ちゃんというお嬢さんに気がねして、ちょっと立ちしぶるというようなかっこうでしたね。だからぼくがどこにもお姿が見当たりませんと、お伝えしましょうかと申し上げたら、いや、それじゃ……と、立っていかれたんです」
「じゃ津村氏にはあいてがだれだか、見当がついていたんだね」
日比野警部補が切り込んだ。
「見当がついていたというよりは、心待ちにしていらしたんじゃないでしょうかねえ。ぼくがご婦人からお電話ですと申し上げたら、すぐああそうと腰をあげかけて、急にふたりに気がついてもじもじなすったんですから」
「そうするとその電話のぬしというのは、槙や美沙、あるいはそのうちのひとりの|識《し》ってる女……と、見ていいわけだな」
「そこまではぼくにはわかりませんが……」
「若い女だったんだろうね」
「おばあちゃんじゃなかったですね。なんだかあたりを|憚《はばか》るような調子でしたよ」
「それが五時半ごろだというんだね」
五時半といえば鳳千代子がもうこの軽井沢にきていたのである。しかし金田一耕助はそのことより鍵のほうに興味があるとみえ、
「そのとき津村氏の上衣は……?」
「はあ、さっき篠原さんがおっしゃったように、椅子の背にかけてあったかどうか記憶がないんです。しかし、電話のほうにいかれるとき、蝶ネクタイのワイシャツひとつで、上衣を持っていらっしゃらなかったことはたしかです。そうそう、ワイシャツのポケットから、マドロス・パイプの|雁《がん》|首《くび》がのぞいてましたよ」
「篠原さん、あなたはいかがです。津村氏の上衣のことは……?」
「いや、ところがわたしはそのまえに、喫茶室を出てますんでね」
「そうすると、あとに槙氏と美沙という娘がのこったんですね」
「はあ」
「ふたりはいつごろ帰ったんでしょう」
「存じません。わたしは津村先生よりひと足さきにここを出てしまって、それきりおふたりの姿を見ていないもんですから」
「篠原さんもそうなんですね」
「はあ、わたしも……」
篠原理事も恐縮そうに頭をさげた。日比野警部補はもどかしそうに、
「金田一先生、そのことなら美沙という娘にきけばわかるでしょう。それより無名女史の電話の内容だが、どういう内容だかわからないかね」
「ところがあいにく、ぼくはひとさまの電話を盗聴するという趣味がないんでしてね」
警部補の頬に血がのぼったが、金田一耕助はさりげなく、
「立花君は芸大の作曲科にいるんですね」
「はあ、それはさっきも申し上げました」
「それじゃ田代信吉って男しりませんか」
「ぼくといっしょでした。きのうもここで会いましたよ」
「ああ、そう、田代君、学校を退校になったの」
「いえ、退校になったというより、自分でやめてしまったかたちになっているんです。やっこさん、去年あんなバカなまねをやってのけましたが、きゃつなかなか優秀なんです。ぼくなんか|嫉《しっ》|妬《と》をかんずるくらい鋭いものを持ってるんです。それだのにきゃつ、どういうわけか劣等感みたいなものを持ってるんですね。そういうところから、われわれからしだいに孤立していって、とうとう去年あんなバカなまねをやってのけたんです。それからいっそう逃避的になり、|閉《へい》|塞《そく》的になり、あれっきり学校へこなくなったんです。ぼくきのうひさしぶりにここで会って、どうだ、学校へかえってこないかっていってやったんですが、なんだかいやに反抗的で……いちどああいうことがあると人間救われないもんですかねえ」
立花茂樹は田代信吉のことになるとガゼン雄弁になってきた。この育ちのよさそうな青年にとっては、田代信吉のような男の悩みは理解できないのだろう。べつに|侮《ぶ》|蔑《べつ》するような口調ではなく、むしろたぶんに同情的なのだが、まったく異なった環境にそだったふたりのあいだには、水と油のように|溶《と》けあえない友情しか育たなかったのだろう。
「田代信吉というその不良は、津村真二氏ともなにか話をしていたかね」
日比野警部補の質問である。不良ときいて立花茂樹はいやな顔をしながら、
「それは師弟のあいだですからね。あれはディスカッションのはじまるまえでしたね。あっちのロビーの隅でしばらく話しこんでいました。あとで津村先生にお聞きすると、先生のちかごろの作曲家としての活動に、痛烈な批判をくだしていったそうです。もとから鋭いものを持っている男ですが、あの一件いらいいっそうトゲトゲしくなってるらしいんです」
「いつごろまでここにいたの?」
「ディスカッションの途中までいたようですが、いつのまにかみえなくなってしまいました。ぼくもゆっくり話し合ってみたかったんですがね」
立花茂樹は残念そうである。
「どこに泊まっているのかいわなかったかね」
「いいえ、それは聞きませんでした。去年のキャンプじゃないんですか」
「服装は……?」
「そうですねえ、黄色のホンコン・シャツでした。ジャンパーはベージュ。ズボンはグレーに薄よごれた白のバスケット・シューズ。グリーンのナップ・ザックを肩にひっかけて、津村先生と立ち話をしていたのを憶えています。髪はボサボサ。要するに|荒《すさ》んで、すべてに|倦《う》みつかれた青年を想像してくださればいいんです」
ひとの好さそうな立花茂樹の表情には、|惻《そく》|隠《いん》の色がくらくうごいた。
「身長はどのくらい?」
「ぼくとチョボチョボですから一メートル六十六、七じゃないですか。ぼくは去年のあの事件いらい会ってなかったんですが、頬がげっそりこけて、眼がギラギラして、なにかこう気味が悪いようでしたね。しかし、田代がなにか……?」
「いや、いいんだ、いいんだ。それじゃゆうべのことを聞かして|貰《もら》おう。君が三人の先生がたを自動車で送っていこうとすると……」
と、いいかけるのを金田一耕助がさえぎって、
「それより日比野さん、津村真二氏のちかごろの変わりようというのを、聞かしてもらおうじゃありませんか。津村氏がちかごろどういうふうに変わったかということ……」
話の腰を折られて日比野警部補はちょっと不服そうだったが、
「ああ、そう、それではその点については金田一先生におまかせしましょう。どうぞ」
と、あっさり質問の座をゆずったのは、じぶんもそのことについて聞きたかったのであろう。
「それじゃ、立花君、君、話してくれる? それより篠原さんにお聞きしましょうか。津村氏、どういうふうに|変《へん》|貌《ぼう》したんですか」
「いやね、金田一先生」
と、篠原理事は|禿《は》げあがった額をなでながら、いくらか当惑そうに、
「めったなことをいって、あとで津村君に恨まれるのも困るんですが、人間の本質というものはそうむやみに変わるもんじゃありません。津村君はいまも昔も変わることなく、お人好しのお坊っちゃんで、神経質なくらい几帳面なひとです。ただちかごろじぶんのお人好しであること、お坊っちゃんであること、物事に几帳面すぎるくらい几帳面であることに、自己嫌悪をかんじはじめたらしいんですね。それでわざと約束をスッポカしたり、練習をサボったりするんですが、そんなときあとでかならず後悔してるんです。だからぼくいつかいってやったんです。そんな附け焼刃はよしたらどうか。いかに悪党がってみたところで、君はしょせん悪党になれるひとではないんだからって」
「津村氏はお酒を召しあがるんですか」
「そうそう、あれなんかも津村君の変貌のひとつの現れで、いぜんから飲めない口じゃなかったのですが、ここ一年ほど急に酒に親しむようになったんですね。そのことについてもたびたび意見をするんですが……」
笛小路泰久が変死をとげた晩、かかえこんでいたジョニー・ウォーカーの黒も、津村真二に恵まれたものである。
「いつごろからそんなふうに変わってきたんですか、津村氏は?」
篠原克巳はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》したのちに、
「やっぱりあの事件、鳳女史との離婚事件いらいですね」
鳳千代子と別れたのちの槙恭吾は、マッチのパズル狂となり、津村真二は飲酒に憂さをまぎらせていたとすれば、なにかしらそこにやりきれないものが感じられる。
「そうそう、その離婚事件ですがねえ。なにか具体的な動機でもあったんですか」
「さあ……|他《ひ》|人《と》|様《さま》のプライバシーに立ち入ることは控えたいと思いますが、ぼくをしていわしむれば、べつにこれといった具体的な動機はなかったんじゃないですか。どちらも個性の強い芸術家ですし、それぞれ仕事をもって、多忙なスケジュールに追われている。これじゃ満足な夫婦生活はむりですね。ことにあいては離婚歴豊富な女性ですから。ここにいる立花君のご両親みたいな例は、ひじょうにまれな存在というべきでしょうね」
「恐れ入ります。しかし、篠原さん、ぼくの両親にだって、しばしばピンチはあったらしいですよ」
「そうそう、君はかすがい息子だからね」
「なんですか、そのかすがい息子というのは?」
金田一耕助が知識欲|旺《おう》|盛《せい》なところを示すと、ふたりは声を立てて笑った。
「金田一先生はご存じじゃありませんか。立花梧郎先生を」
あっという叫びを口のうちで発して、金田一耕助はあらためて立花茂樹の顔を見直した。
「それじゃこちら立花梧郎先生の……」
「ひと粒ダネのお坊っちゃん」
「じゃピアニストの沢村文子さんの……?」
「息子さんでもあるわけです。だから子はかすがいで、かすがい息子。あっはっは」
金田一耕助にもやっとその意味がのみこめた。
立花梧郎といえばさくらフィルハモニーの組織者であると同時に育成者でもある。立花梧郎の育てあげたさくらフィルハモニーは、いまや名実ともに日本でいちばんすぐれた管弦楽団といわれ、立花梧郎は指揮者としても、作曲家としてもまさに当代の第一人者であり、多くの優秀な音楽家がその門下から巣立っている。沢村文子はこれまた、女流ピアニストとしては現代の第一人者である。
「なるほど」
と、金田一耕助が感にたえたように|溜《た》め息をついて、思わずもじゃもじゃ頭をかきまわしたのは、とっさに田代信吉と対比して考えてみたからである。あの破滅型の青年と、この毛並み抜群のお坊っちゃんとでは、しょせん水と油であったろうと思われた。そう思って立花茂樹を見直すと、多少神経質らしいところがあるのはやむをえないとして、|華《きゃ》|奢《しゃ》で繊細で、五本の指をそろえて出すと、ピーンと外へ|反《そ》りそうな、よい意味での箱入り息子らしい人柄がその|風《ふう》|貌《ぼう》ににじみ出ている。
「なにしろこのひとこのとおりいい子でしょう。両親ともこのひとには眼がないわけです。そこで子はかすがいのかすがい息子」
「なるほど」
と、金田一耕助はテレて赤くなっている立花茂樹を見直しながら、
「そうすると津村氏と鳳女史のあいだには、そのかすがいがなかったというわけですな」
「いや、かすがいがあっても別れる夫婦もある」
と、日比野警部補がにがにがしげに呟いたのは、美沙のことをいうのであろう。この言葉はほかの三人にも通じたとみえ、ちょっと|気《き》|拙《まず》い沈黙がおちこんできたが、篠原理事はものに練れた性格とみえ、
「立花先生ははじめから、あのふたりの結婚には反対だったんですがねえ。どうせうまくいくはずがないって」
「ああ、そうすると津村氏は立花先生の……」
「弟子です。そしてこの立花茂樹君は津村君の|愛《まな》|弟《で》|子《し》というわけです」
そして、田代信吉も津村真二の弟子である。
「しかし、あのおふたりは円満な協議離婚ときいていますが、それでも津村氏にはショックだったんですか。人間が変わるほど」
「それはやはりね。そこには微妙なものがあるんじゃないですか。とにかくあれいらい津村君は妙に懐疑的になり、人間不信におちいったようですね」
「人間不信……?」
と、金田一耕助はそのことばを聞きとがめ、
「と、おっしゃると、鳳女史がなにか津村氏を裏切ったとか、欺いたとか……」
「いや、そういうわけではなく、つまり恋愛とか結婚とか、そういう事実に懐疑的になったんじゃないでしょうかねえ」
「金田一先生」
と、そばから立花茂樹がおだやかにことばをはさんで、
「津村先生がお変わりになったということについて、あまり深刻にお考えにならないでください。先生、お変わりになったといってもそれはごく|末梢《まっしょう》的なことです。先生露悪家になり、偽悪家になろうと努力していらっしゃるようですが、しょせんそれは附け焼刃で、いまでも親切で思いやりのふかいかたです。しかも、先生、その偽悪家ぶりが妙なあらわれかたをなさるんで、われわれときどき吹き出してしまうことがあるんですよ」
「妙なあらわれかたというと……?」
「たとえばその|服装《み な り》なんかですね。先生ちかごろどこからか鳥打ち帽を手に入れられたんですが、それがふつうのハンチングじゃなく、シャーロック・ホームズがかぶっているような、いやに仰々しいやつで、しかもこれが真っ黒ときている。先生、それにヒントをえられたのかどうか、上から下まで黒ずくめの服装で、黒い|紗《しゃ》のマフラーを首にまき、手袋まで真っ黒で、おまけにトンボ型のサン・グラスときている。だからぼくいったことがあるんです。先生、およしなさいよ、そんなおかしなまね。それじゃまるでギャング映画に出てくる殺し屋じゃありませんかって。そしたらかえってその言葉がお気に召したかして、そうだ、そうだ、おれは殺し屋だあ、殺し屋だぞオなんて|凄《すご》んでみせたりなさるんですが、それがまじめなのかふざけていらっしゃるのか、とにかく|噴《ふん》|飯《ぱん》ものなんです。津村先生、お変わりになったとはいうものの、そのていどの無邪気な、子どもじみたものなんですよ」
「そうそう、そういえば、ゆうべも帰りは殺し屋スタイルをしてたじゃないか」
「そうなんです。先生、鍵がないなんて騒ぎ出されたでしょ。だからこっちは血眼で探していたら、先生いつのまにやら殺し屋スタイルに変装して、すましていらっしゃるんですから、腹が立つやらおかしいやら、あっはっは」
立花茂樹は|芯《しん》から底からおかしそうな声を立てて笑ったが、話がようやく帰りのことにおよんだので、日比野警部補がシビレを切らしたように身を乗り出して、
「それじゃゆうべのことを聞こう。君、七時四十分ごろ三人の講師を順繰りに自動車で送っていこうとしたら、津村氏が鍵がないと騒ぎ出したんだね」
「そういうことです。しかし、けっきょくどこかへ落としたんだろうということになり、いっしょに自動車に乗られたんです。いまいった殺し屋スタイルで……あっはっは」
立花茂樹はまだ笑っているが、日比野警部補はいさいかまわず、
「鍵がなくてどうしてバンガローへ入るつもりだったんだ?」
「ああ、それは浅間隠へいらっしゃればわかりますが、それ、貸し別荘なんですね。だからいたって簡粗なもので雨戸などなく、ガラス戸にカーテンがしまっているだけですから、窓ガラスのどこかを破って手をつっこめば、内側から|挿《さ》しこんである栓が抜けるわけです。しかし……」
と、立花茂樹は首をかしげて、
「さっきいったとき、ぼく窓ガラスという窓ガラスを調べてみたんですが、どこにも|毀《こわ》れたところはなかったですね。だから、先生、けっきょくドアの鍵穴に鍵を挿しこんだまま、忘れてこられたんじゃないですか。津村先生というひとはそういうそそっかし屋さんなんです。それともすぐお隣りに大家さんが住んでるんですが、そこで鍵を借りられたのかもしれませんね」
「それで、君が順繰りに送っていって……?」
と、日比野警部補はいかにももどかしそうである。
「はあ、ほかのふたりの先生がたを順繰りにおろして……」
「車は君が運転したのかい」
「はあ、ぼくの車ですから」
「立花君はこちらに別荘は……」
金田一耕助がたずねた。
「はあ、ぼくのところは南ガ丘です」
「なるほど、それで順繰りに送っていって……?」
「津村先生がさいごにひとり残ったんです。ところが津村先生、旧道の入口までくると急におろしてほしいとおっしゃるんです。もうそうとう風が強くなっていたので、ぼくも妙に思ったんですが、なにかお買物があるとかでした。ところが六本辻まで引き返してきたところで停電なんです。これじゃ先生困っていらっしゃるだろうと思ったのですが、旧道には懐中電灯を売ってる店もありますから、そのままかえってきたんです。ここにまだ後始末をしなければならぬことがありましたから」
「ところがさっきいってみれば、テーブルのうえにマドロス・パイプがありながら、津村氏のいるけはいはないんですね」
金田一耕助の声には一種のきびしさがあった。
「はあ」
「しかも、どの窓のガラスにも毀れたあとがなかったというんですね。そして、ドアには鍵が……?」
「表も裏もかかっていました。だから、けっきょく鍵はどこかにあったんでしょう」
「なかで昼寝でもしてるんじゃないか」
と、いったものの、それは警部補の気休めにすぎない。
「いいえ、それはちょっと……」
「と、いうと?」
立花茂樹はまた|口《くち》|許《もと》をほころばせて、
「津村先生ってかた、とても蛾がおきらいなんです」
「蛾が……? 蛾がどうしたんだ」
「ああいうのを病的というんでしょうか。蛾が一匹でも迷いこむとまるで子どものように大騒ぎをなさるんです。ですから津村先生のタクトをお振りになる晩は、われわれ窓という窓の網戸に、|深《しん》|甚《じん》の注意を払わなければならないんです」
「それがどうしたんだ。蛾がいったいどうしたというんだ」
と、日比野警部補はせきこんだ。
「さっき、浅間隠へいってみたら、窓ガラスの内側に蛾がいっぱい|貼《は》りついてるんです。まるでプリントされた模様のように」
日比野警部補と金田一耕助はほとんど同時に、|椅《い》|子《す》をきしらせて立ち上がった。
「立花君、君、すまないがそのバンガローというのへ案内してくれないか」
「金田一先生、なにかあったんですか」
篠原理事は及び腰になったまま、金田一耕助と日比野警部補を見くらべている。立花茂樹も|蒼《そう》|白《はく》になった顔が硬直していた。
「日比野さん、いってあげたら……」
金田一耕助に注意されて、
「ああ、そう」
警部補は眼鏡のおくから出目金のような眼をふたりにすえると、一句一句に力をこめて、
「篠原さんも立花君もわたしのいうことをよく聞いて、捜査に協力ねがいましょう。きのうここで津村氏と対談していた槙恭吾氏は、ゆうべ……いや、けさ自分のアトリエのなかで死体となって発見されたのです。さあ、立花君、いこう」
第十二章 考古学問答
「しかし、先生、あそこにはもう発掘の余地はないんじゃないですか」
「そんなことはありません。インダス川流域は広大無辺です。ハラッパーのほうは心ない鉄道建設のために、回復しようもないほど荒廃してしまいましたが、モヘンジョ・ダロのほうはまだ発掘の余地はあります。飛鳥さんはご存じだと思いますが、モヘンジョ・ダロの遺跡は七つの層から成り立っているでしょう。ところがいままでに発掘されているのは上部の三つの層だけなんです。いまだに埋没されている地下の部分を発掘して、古代文明の|全《ぜん》|貌《ぼう》を解明する、それこそ現代の考古学者の責任じゃありませんか。それにわたしの研究ではインダス川の流域には、ハラッパーやモヘンジョ・ダロにつぐ第三の古代都市があるにちがいないんです。わたしにはその見当もついています。世界でまだぜんぜん知られていない古代都市の発掘、これほどすばらしい事業はないじゃありませんか」
「それはそうです。もしそんな都市がじっさいにあるとするならばね」
「ありますとも。わたしの研究にまちがいはありません。それにねえ、飛鳥さん、考古学者というものは、新しい遺跡を発掘するだけが能じゃないんですよ。すでに発掘されている過去の偉大な文明の遺跡を、できるだけ完全な形態で保存することに|尽《じん》|瘁《すい》するのも、考古学者にとって重大な義務なんです」
「そうそう、あそこは荒廃のピンチにさらされているそうですね」
「そうなんです。あのまま|放《ほう》っておいたらもとの土に|還《かえ》ってしまうでしょう。だからいまのうちに保存の手を打たなきゃならないんですが、それにはパキスタン政府の力だけじゃむりなんです」
そこは飛鳥忠熈のいわゆる den' すなわち洞穴である。洞穴とはいうものの畳敷きにして十二畳くらいもあろうか、入口の扉や窓をのぞく周囲の壁には、天井までとどく書架がしつらえられてあり、そこにギッチリ並んでいるのは世界各国の考古学の文献である。なかには日本人の著書もそうとうあり、的場英明の本がならんでいることはいうまでもない。金田一耕助がさっき槙恭吾のコッテージで発見した飛鳥蔵書なども、この書架から持ち出されたものだろう。
忠熈はいっぽうでは冷酷無比な企業家であるが、一方では夢想家であると同時にジレッタントでもある。それが奇妙なバランスを保っている時代でも、かれはときどきこの洞穴へ逃避して、いまは亡き賢婦人寧子の気をもませた。父の横死以後時代の波がかれの夢想を封じこめてしまった。二度と古代オリエントに遊ぶことは許されなかった。戦後は戦後でかれに課せられた使命が、そのような道楽からかれを遠ざけていたことはいうまでもない。しかし、そういう時代でもときどきここへ閉じこもることが、かれにとっては唯一のストレスの解消だったらしい。
ここには忠熈の夢がある。そこには書架にならんだ文献やアルバムのみならず、五つある大きなガラス製のキャビネットには、珍しい古代オリエントの出土品がいっぱい飾られている。エジプトのアマルナ文書もあれば、メソポタミヤの粘土板タブレットもある。エジプトのピラミッドのどれかから発掘されたという黄金や紅玉、|瑠《る》|璃《り》および緑長石よりできたネックレス。子安貝の腰帯や、手鏡、化粧|壺《つぼ》、宝石細工のはいっている象眼手箱等、いずれは古代エジプトの王妃たちの手まわり品だったのだろう。メソポタミヤのウル地方から出土した石器類や粘土製の工芸品、それらの多くは|贋《にせ》|物《もの》か模造品であると忠熈は|謙《けん》|遜《そん》しているが、それでも夢想家の夢を誘うにはじゅうぶんである。それらのなかにはいま話題にのぼっているモヘンジョ・ダロの出土品、泥をこねてつくった兎や猿のかわいい動物たち、滑石製の平板に象やコブ牛などインドの動物を描き、それに独特の象形文字を刻んだもの、すなわちインダス文明の絵文字板などもまじっている。
戦後におけるじぶんの義務はいちおう終了した、それも決して失敗ではなく、輝かしい成功|裡《り》に終止符を打ったのだと自負している忠熈は、企業家としてのじぶんと夢想家としてのおのれとの奇妙なバランスが、音を立ててくずれていくのを自覚せずにはいられなかった。いったんバランスがくずれていくと、企業家としての繁忙な日々が、いかに|虚《むな》しいものであったかを意識せずにはいられなかった。忠熈はそれについて後悔していない。じゅうぶん満足していることはしているのである。しかし、そこに満たされないなにものかがあることを意識しはじめ、その意識が年一年強烈になってくるのはおそらく年齢のせいであろう。忠熈がもしいまのじぶんにいくらかでも後悔しているところがあるとすれば、いつか|齢《よわい》五十を越えてしまったということにあるにちがいない。
忠熈はちかごろあせりを感じている。古代オリエントの文明は忠熈の見果てぬ夢である。その夢がついに見果てぬ夢におわるのかというあせりは、どうかすると忠熈の胸をえぐるがごとく切実なるものがある。その忠熈の耳に語りかける的場英明の雄弁は、メフィストフェレスのささやきのように甘美なものであったかもしれない。
「惜しいもんですね、これがもとの土に還ってしまうなんて。そうならないまえにいちどいってみたいものです」
|溜《た》め|息《いき》をつくようにつぶやく忠熈のまえには、インダス文明に関する部厚な文献がひろげられており、そこにはモヘンジョ・ダロの広大なレンガ文明の遺跡の写真がのっている。それは古代都市の名残りであり、巨大なプールの遺跡らしきものもある。
「あなた、これいつごろ出来たものなんですの」
そばからおだやかに言葉をはさんだのは鳳千代子である。ほんとをいうと彼女はこのメフィストフェレスの誘惑を、内心ひどく|怖《おそ》れているのである。彼女もちかごろ忠熈の弱点に気がつきはじめていた。しかも彼女自身いま忠熈同様にあせりを感じているのである。
あとから思えば昭和三十五年という年は、それまで繁栄をきわめてきた映画界におけるピークであった。その年を境として大衆娯楽の王座の地位は、映画から急速にテレビにとってかわられていったのである。いや、アメリカではすでにそうなっていたし、日本でも|物《もの》|凄《すご》い勢いでテレビの受像機が普及発展しはじめていた。カラーが普及しはじめたのもこの年である。映画の|凋落《ちょうらく》はもうすぐそこまで迫っていた。|聡《そう》|明《めい》な鳳千代子が迫りくるその不吉な足音を感知しないはずはない。それに彼女もまた忠熈どうよう年齢からくるあせりはどうしようもなかった。どちらにしても千代子がこの機会に、忠熈との仲に結着をつけたいと思いこんでいるのもむりはない。
しかし、聡明な千代子はそういうけぶりさえみせず、いま切り出した質問なども、まことにおだやかでもあり、かつまた熱心でさえもあった。
的場英明はそういう彼女の心の|葛《かっ》|藤《とう》に気がついているのかいないのか、その答えはこれまたまことに穏やかでもあり、かつ熱心でもあった。
「これは紀元前二千五百年から千五百年までのあいだに栄えた文明ですから、現在から勘定すると四千五百年から三千五百年昔の文明ということになりますね。ところがねえ、鳳さん」
「はあ」
「このインダス文明がなぜ貴重かというと、それはナイル川の流域に栄えた古代エジプトの文化や、チグリス、ユーフラテスのふたつの川のあいだに繁栄した古代メソポタミヤ文明のように、ひとりの独裁者や主権者の虚栄心によって築かれた文明ではなく、一般庶民の手によって、一般庶民のために築きあげられた文明だということなんですよ」
どうやらこの言葉が飛鳥忠熈の泣きどころをつくらしい。少なくとも忠熈の過去の言動からおして、そうであろうと的場英明はにらんでいる。じっさいは現在の神門王国の繁栄は、忠熈の独裁によって築きあげられたものなのだが。
「だから、そこにはエジプトのピラミッドやメソポタミヤのジッグラトのような、巨大なモニュメント的なものはなく、そこにあるのはいまあなたがごらんになっているような、一般庶民のための整然たる都市計画の遺跡ばかりです。おそらくそれこそ世界最古の都市計画でしょうねえ」
「まあ、これがねえ、こういう都市が四千年もまえにねえ。これ下水じゃございません?」
千代子が眼のまえにある写真に興味を示すのはお座なりでもなく、また忠熈の趣味に|阿《おもね》ろうといういやしい迎合でもなかった。なにごとにもあれ珍しいもの、高貴なものにたいして強い関心を示さずにはいられない、持ちまえのみずみずしい好奇心からなのであり、そのことが的場英明を勇気づけるのである。
「そうです、そうです。ほら、ところどころにマンホールまで用意されているでしょう。そういうところからみてもエジプトやメソポタミヤの遺跡が、王様や神様のための宮殿や墳墓、あるいは神殿であるのとちがって、インダス文明の遺跡は市民生活をいかに豊かにするかという古代都市の名残りなんです。ほら、そちらにあるのが大浴場の遺跡なんですがね」
千代子は整然と設計された大プールの写真に眼をやりながら、
「まあ、素敵」
と、眼をかがやかせているのも、子どものような好奇心をもった彼女の本心なのである。
「でも、これがなぜ荒廃のピンチにさらされているんですの」
「いや、それというのが、インダス文明というのはレンガの文明なんですね」
と、的場英明はいつか講義調になっていた。
「すべての遺跡はレンガの積み重ねから成り立っているんです。その写真にあるすばらしい都市計画の遺構にしろ、大浴場の跡にしてもですね。ところがあのへんいったい塩分の多いところで、地表がいちめんに塩分によっておおわれているんです。いってみるとまるで霜のおりた東京の郊外の朝みたいなもので、あたりいちめん真っ白です。それに陽が当たるとチカチカして目もあけていられないくらいなんですね。この塩分が曲者で、こいつが地表ちかくの地下水に溶けこむと化学作用を起こして、レンガをボロボロに腐蝕してしまうんです。だからこれをこのまま放ったらかしておくと、四千年も地下に眠っていたのちに、ほぼ完全なかたちで発掘された古代文明の遺跡が、発掘されたがためにもとの土に還ってしまうという|虞《おそれ》がたぶんにあるんです。しかも、これを救うということはとてもパキスタン政府ひとりの手におえることじゃない。だから、われわれ考古学者全体の責任ということになり、国際的に大キャンペーンをやらねばならぬだろうということになっているんです」
「パキスタンというのは、たしか昔のインドなんでございましょう」
「そうそう、こんどの第二次世界大戦後、インドから分離独立した新興国家なんですね。東パキスタンと西パキスタンにわかれているんですが、問題の遺跡は西パキスタンにあるわけです」
「先生は最近いって来られたそうですね」
そばから言葉をはさんだのは忠熈である。
「いやあ、いってきたといっても単なる旅行者、観光旅行みたいなもんです。しかし、つくづく惜しいと思いましたね。この巨大な遺跡がもとの土に還元してしまうのかと思うとね。なにしろ地表にちかいレンガを手にとりあげると、あっというまにボロボロになってしまうんですからね。そのときだいぶんあちこち歩いてみたんですが、まだまだ発掘の余地はあると思いましたね。いや、現地でもハッキリそれとわかっていながら、費用がないために差しひかえているんです。なにしろいままでに発掘された遺跡の保存に、精一杯という状態なんですからね」
「昔のインドといえばさぞ暑いのでございましょうね」
「いや、そうでもありません。わたしがいったのは二月でしたが、むこうではもっともよい季節だそうで、ちょうど日本の五月くらいの陽気でしたね」
「どう? 鳳君、いってみるかね」
忠熈は楽しそうな調子である。
「ええ、いってみとうございますわね。あなたが連れてってくださるならばね」
「そりゃご婦人だってぞうさないですよ。探検だとか発掘だとかいえば大冒険のようにきこえますが、それは昔のことでしてね。いまじゃひとつの科学ですよ。そのかわりロマンチックな面白味はなくなりましたけれどね。いらっしゃるならカラチまで飛行機でしょう、そこから北へ三百キロとちょっとですからね。モヘンジョ・ダロの郊外には観光客用の空港まであるくらいですから、いらっしゃろうと思えばご婦人でもぞうさない旅ですよ」
「ところで、モヘンジョ・ダロというのはどういう意味ですの。なにか意味があるんでございましょう」
「死者の丘という意味なんですね。いってごらんになるとよくわかりますが、文字どおりそこは赤褐色の沈黙の世界です。現代の公団住宅をおもわせるような、ダストシュートまでそなえた宏大なレンガの遺跡なのですが、腐蝕はすでに遺構のかなり上部にまでおよんでいて、さながら死者の世界をさまようような感じが、|惻《そく》|々《そく》として身にせまってきますね」
もしこのとき一彦が入ってこなかったら、的場英明の|長広舌《ちょうこうぜつ》はまだまだつづいていたことだろう。一彦はリュックサックやピッケルこそどこかへおいてきたらしいが、半ズボンに純白の|開《かい》|襟《きん》シャツという姿は、なんとなくこの際寒そうにみえた。
一彦の姿をみると忠熈は|眼《め》|尻《じり》にシワをたたえて、|皓《しろ》い歯をみせた。
「やあ、一彦、ご苦労だったね。秋山にきいたんだが、あっちのほう大変だったそうじゃないか」
「はあ、でも、もう大丈夫です。すっかり水も|退《ひ》いてしまいましたから。鳳さん、しばらくでした」
「あら、ごめんなさい」
千代子はまぶしそうに相手を見ながら、あわてて|椅《い》|子《す》から立ちあがって、
「あなた美沙を見舞ってやってくだすったんだそうですね。母のあたしが放ったらかしているのに、ほんとに恐縮でした」
「いやあ、おじさんにいいつかったもんですから。でも、もう大丈夫ですからご安心ください」
「母が留守だったんだそうですね」
「いや、それについてぼく悪いことをしてしまいました」
「悪いことというと……?」
忠熈が言葉をはさんだ。
「いえ、あちらのお|祖《ば》|母《あ》ちゃま、一時半ごろ長野原着の列車でいらっしゃるということでしょう、ぼく桜の沢の別荘へいったのがちょうどそのころでした。長野原からたぶん自動車でいらっしゃるんだろうが、それには二時間みとけばじゅうぶんだろうと思ったんです。ですから三時半までお待ちしていたんですが、お祖母ちゃまおみえにならないんですね」
「上越線のほうにもなにか故障があったのかな」
「いえ、おじさん、お祖母ちゃまおみえになったそうですよ」
「と、おっしゃいますと?」
「ぼく、もう少しお待ちしておればよかったんです。ところが美沙ちゃんがいろいろ気を使ってくれるでしょう。ぼく気の毒になったし、それに水もすっかり退いたもんですから、三時半においとまして、そのあとあちこち台風の被害を見てまわったのち、ふと思いついて桜井のお姉さんのところへお見舞いにいってみたんです」
「ああ、そう」
忠熈の返事はなんとなく素っ気なかった。
「そしたらちょうどいま着いたところだってお兄さんが来てらっしゃいましたよ。ところがお話をうかがうと笛小路のお祖母ちゃまとごいっしょだったそうです」
「あら、まあ」
「鉄雄がきているのかね」
「はあ、あしたのおじさんのゴルフのコンペに参加するために、こちらへくるのを一日のばしたら、えらいことになっちまって……と、恐縮してらっしゃいました。あっはっは、あの兄貴だいぶんお姉さんにシボられたらしいんですね」
屈託がなさそうに笑っている顔がさわやかである。戦後は男の子が女性化したといわれているが、この人はちがっていると、千代子はいつも会うたびに心の中で感心している。身長は一メートル七十四、五センチだが、運動神経が発達しているとみえ動きがリズミカルで小気味がよい。そういえば学生時代サッカーの選手をしていたということである。色は浅黒いほうだが、キメが細かくてきれいな肌をしている。スポーツマンらしい|美《び》|貌《ぼう》である。
「熈子はどうしてたかね。だいぶん木が倒れたとかけさほど電話でいってきたが……」
そういうとき、忠熈はできるだけさりげなく装うているものの、なにかしら発声にかげりがある。
「そうそう、お姉さんあとでお兄さんとごいっしょにこちらへいらっしゃるそうです。晩ご飯をごちそうして|頂戴《ちょうだい》といってらっしゃいました。倒れた木のほうは事務所から二、三人、人がきたとかでもう片附いていました」
「あの……それで母は桜井さまとごいっしょだったんでしょうか」
「そうそう、それについて姉は笛小路のお祖母ちゃまに失礼したと恐縮してましたよ」
「それ、どういうことなんでしょうか」
「いえ、笛小路のお祖母ちゃまと兄貴と汽車でいっしょだったらしいんですね。ところがその汽車すごく|混《こ》んでいたのでふたりとも気がつかなかったそうです。ところが長野原でおりると、なにしろ上越線まわりでこちらへいらっしゃるひとが大勢だったもんだから、タクシーがみんな出払ってしまって、お祖母ちゃま途方にくれていらしたらしいんですね。そこへいくと兄貴は要領がいいもんだから、姉にたのんで軽井沢からタクシーをまわしておいてもらったんだそうです」
「鉄雄は自分のクルマをどうしたんだ」
「いや、それがですね、上越線のほうは道が不案内なもんですから、クルマだとかえって時間がかかると思ったんだそうです」
「そりゃそうですね、こういうときには汽車のほうが正確ですからね」
的場英明がそばから|相《あい》|槌《づち》をうった。
「それで長野原の駅前で迎えにきたタクシーに乗ろうとしているところを、お祖母ちゃまに呼びとめられて、それでこちらまでごいっしょしたんだそうですが、途中大きな自動車事故にぶつかって、しばらく通行止めをくらったりなんかして、すっかり遅くなったんだそうです。ところが順序として桜井の別荘のほうがさきでしょう。だからお祖母ちゃま別荘の表まで送ってくだすったんだそうですが、あいにく姉が入浴中だったもんですから、お祖母ちゃまにご挨拶もできず、たいへん失礼申し上げましたって恐縮してました」
そういう説明のしかたが穏かで要領よく、この人よっぽどオツムがいいのだと感心せずにはいられない。話をしているあいだじゅうニコニコしていて、声もひびきのふかいバリトンである。
「あら、そんなこと……それじゃ祖母も孫もすっかりみなさんのお世話になってるんですのね。あたしはいったいなにをしてるんでしょう」
「あっはっは」
忠熈が急に屈託のない笑い声をあげると、
「さっきも君、それで若い警部補君にだいぶんとっちめられたじゃないか」
「ほんと。ああいう人からみると、あたしずいぶん悪い女にみえるのでしょうねえ」
そういいながら千代子はべつに気にもしていないふうである。こういうところがこの女の身上なのだろう。
「ああ、そうそう、おじさんあちらのほうはどうだったんですか」
千代子に気をかねながらもいちおうは、聞くべきだろうと一彦は思っているのである。あっちのほうとはいうまでもなく矢ガ崎のことである。
「いや、そのことなんだがね、一彦君、君、これをどう思う」
的場英明の指さしたテーブルのうえには、考古学の文献がいっぱいひろげられているかたわらに、マッチの棒が奇妙な排列をなしてならんでいる。一彦もさっきからそれに気がついていた。
「先生、それなんなんですか」
「いやね、被害者のつっぷしていたテーブルのうえに、マッチの棒がこういうふうに並んでいたんだそうだ」
「被害者とおっしゃいますと槙さんは……?」
「青酸加里だそうだよ。槙君はだれかに青酸加里をもられたらしいというんだね」
そばから忠熈がおだやかに説明を加えた。さすがにその顔はいくらか緊張している。
「つまり槙君はゆうべ自分の別荘のアトリエで、だれかとむかい合って話していたんだね。そこを相手の男……いや、男か女かいまのところ不明なんだが……相手に青酸加里をもられたらしいというのが警察の見込みなんだ。そのとき槙君は相手の人物にマッチの棒をつかって、なにかを説明していたんじゃないかというんだ。だから、そのマッチの棒の排列の意味がわかれば、相手がだれだかわかりゃしないかというわけだね」
「飛鳥さんはこれを楔形文字じゃないかというんで、克明にうつしとってこられたんだが、君、これをどう思う?」
「槙さんは楔形文字をご存じなんですか」
そういいながらも一彦は、マッチの棒の排列から眼をはなさなかった。
「いや、二、三日まえに槙氏がここにこられて、メソポタミヤの古代文明に関する本を、二、三冊持っていかれたそうだ」
「槙君ちかごろスランプで絵が描けないんだそうだ。だからなにか刺戟になりゃしないか、つまりインスピレーションでもつかめやあしないかというわけだね。それくらいのことで楔形文字がマスターできるはずもないが、金田一先生なんかもひじょうに熱心にこれをうつしていられたので、わたしもなにかの参考までにと思ってうつしとってきたんだ。まさかとは思うがね」
「一彦さま、あなたなにかこれにお心当たりが……」
「ぼくが……? とんでもない」
喰い入るようにその奇妙なマッチの排列に眼をやっていた一彦は、ちらと千代子のほうに眼を走らせたが、すぐその眼を的場英明のほうにむけると、
「先生はこれについてなにか……」
「わからないね。だいいちこれ楔形文字じゃないんじゃないか」
「そうでしょうねえ。もしかりに槙さんに楔形文字の知識がおありだったとしても、これでなにかを説明しようとしていたとすれば、相手も楔形文字がわかるはずですからね。日本にそう何人も楔形文字のわかる人物がいようとは思えませんね」
「あっはっは、そういえばそうだ。おれはよっぽどどうかしているな」
忠熈はわらったが一彦はわらわなかった。かれはもうマッチの棒を見ようともせず、忠熈の顔を熱心に見つめながら、
「おじさん、それで金田一先生はこれについてなにかおっしゃってましたか」
「いや、べつに……ああいうひと、なにかに気づいてもなかなか口をわらないんじゃないかな。最後の決め手がつかめるまでは……」
「金田一先生はまだ槙さんの別荘に……?」
「いや、いまごろは星野温泉のほうへいってるんじゃないかな。津村真二君に会いに……」
「そうそう、津村先生もいま軽井沢にいらっしゃるんですね」
「一彦はどうして知ってるんだね。電柱のポスターを見たのかね」
「いえ、ぼく東京をたつまえから知ってました」
「あら、どうして? 一彦さんはあのひとをご存じでいらっしゃいますの」
「いや、そういうわけではありません。ぼく津村先生にお眼にかかったこともありません。ただぼくの友人……高校時代の友人に立花茂樹という男がいるんです。そいつ上野の芸大の音楽部へいって作曲の勉強をしてるんですが、毎年軽井沢の音楽祭の世話人みたいなことをしているんです。津村先生の作品発表会だそうですね、ことしの音楽祭は」
そこへ鉄雄と熈子がやってきたので、この話はしぜんそのままになってしまった。
もう五時になっていた。
なるほど熈子もチャーミングである。サイケ調の派手な模様のワンピースのうえに、まっ赤なカーディガンを無造作にひっかけただけなのだが、この女はそれをうまく着こなしているので、それほどケバケバしい印象ではなかった。高貴な美貌のなかに野生が同居しているようなのは、母方の祖父の血をひいているのだろうか。|顎《あご》が少し張っているところは意志が強そうで、いささか反抗的にみえる。忠熈をみる眼にちょっと|眩《まぶ》しそうな色がみえたのは、けさの電話のそっけなかったことに気がさしているのだろうか。夫婦とも千代子とは相識のあいだとみえて挨拶にも如才はなかった。
千代子が|姑《しゅうとめ》のことについて礼をのべると、鉄雄はれいによって屈託のない調子で、
「いやあ、とんでもない。お祖母ちゃまのほうがうまくぼくを見つけてくださいましたのでね。それにお祖母ちゃま連れがおありでしたよ」
「あら、母に連れが? どういうかたでしょう」
「いや、連れといっても汽車のなかで識り合いになられたようですね。そのひとにこちらまで連れてきていただくつもりでいらしたところ、タクシーが出払っていたので弱っていられたようです」
「そのかた桜の沢までごいっしょに……?」
「いや、そのひとは南原の識り合いのところへいらっしゃるところだったそうで……」
「南原……?」
と、聞きとがめたのは忠熈だった。
「南原のどなた?」
「さあ……お祖母ちゃまはご存じだったようですが、ぼくはいっこうに……でも、とてもりっぱな紳士でしたよ」
これを聞いたら等々力警部も、さぞ鼻をたかくすることだろう。
鉄雄も熈子も一彦から矢ガ崎の一件を聞いていないはずはないのだが、だれもそれを切り出そうとしないのは、これがエチケットというものか。
「そうそう、兄さん、姉さん、紹介しておきましょう。こちらが的場英明先生」
「いや、先生のことはさっきも一彦君から聞いたんですが、で、ご収穫は?」
鉄雄はいたって如才がない。
「収穫とおっしゃると……?」
「いやあ、おやじさん陥落しそうですか。ほら、モヘンジョ・ダロとやらへの探検旅行は……?」
「ああ、そのこと?」
と、的場英明も破顔して、
「そう一朝一夕にはね。あとは一彦君の腕しだいというところですね」
「それはそうでしょうねえ。父ときたら一彦さんしだいですのよ。この人には眼がないんですものね」
そういう熈子はむこうむきになって、キャビネットのなかを|覗《のぞ》いていた。
「ところが、奥さん、ここにもうひとりぼくにとっては強力な味方が現れそうになってきましてね。わたしも大いに希望をもっているんですがね」
「あら、それどなたのこと?」
「鳳さん。鳳さんがわたしの話に共鳴してくださいましてね。一彦君も一彦君だが、こりゃ鳳君しだいということになってきてるんですが……」
「あら、まあ!」
さっきからあまり気のないふうでキャビネットのなかの、どこかの王妃の宝冠かなんかを見ていた熈子が、とつぜん顔をあげて千代子のほうを見た。一瞬複雑な表情がうかんでいたが、まもなくそれは温かい笑顔のなかに溶けていった。
「鳳さん、それほんとうですの。父といっしょにいってくださいます?」
「ほっほっほ、冗談ですのよ。でも、こちらがほんとうに連れてってくださるなら、いってみとうございますわね。あたしヤジウマですから」
「それはぜひ。ぜひいってあげてください。的場先生や一彦さんがついていらっしゃるんですから大丈夫ですけれど、あなたがごいっしょだとあたしも安心できますわ。あたしはやっぱり女ですものね」
「そういう熈子はどうだね。いっしょにいかないかね」
それに対して熈子が答えるまえに、すかさず言葉をはさんだのは一彦だった。
「だめですよ。おじさん、そんなことおっしゃっちゃ」
「どうしてだね、一彦」
「だって、この兄貴ときたら一見亭主関白を気取ってますが、姉さんがいないと手も足も出ないんですからね。成城の家へいってごらんなさい。男やもめのみじめさもいいところですからね」
「あっはっは」
とつぜん忠熈が|弾《はじ》けるような笑い声をあげたので、一同はおどろいてそのほうを振りかえった。
「そうそう、鉄雄と熈子のことなら一彦がいちばんよく知ってるはずだったな。よし、熈子をつれていくのはよそう。たとえいくことになったとしてもだね」
忠熈がわざと力強くいいはなつと鉄雄はニヤッと首をすくめ、熈子はキャビネットから取り出した宝冠をささげながら、ふふふというように笑っていたが、そこへ秋山卓造があわただしく入ってきた。こうしてみると秋山はそう背は高くないほうである。しかし、筋肉のかたまりみたいなその体はブルドッグを思わせる。
「秋山、どうしたんだい、なにをキョロキョロしてるんだ」
「いや、御前」
と、秋山はそのほうへちょっと会釈をしておいて、
「一彦君、桜井さんご夫婦も気がつきませんでしたか」
「どういうこと?」
「へんなやつがこのへんをうろうろしてるらしいんです」
「秋山さん、へんなやつってどういうんですか」
「いや、あんたがくるちょっとまえのことなんだがね。へんなやつがむこうの林んなかをうろうろしてるんだ。どこっから入ってきたんですかね。そこでわたしが追っ払ったんだが、あんたその姿を見なかった?」
「さあ、どういう人だったんですか」
「顔は見えなかった。黒っぽい鳥打ち帽みたいなもんをまぶかにかぶって、黒いマフラーで顔をかくしてたからね。そうそう、それに黒いサン・グラスをかけてましたよ」
「秋山、それがなぜへんなやつなんだね」
熈子はそのときむこうをむいていたので、だれもその顔色を見たものはなかったが、いっしゅん背後の線がかたくなったのを忠熈だけが見のがさなかった。しかし、その声は落ち着いていてなんのかげりもなかった。
「いえ、ところが、御前、いま笛小路のご隠居が、やっぱりそれらしい男がこの別荘の横の|繁《しげ》みから、出ていくのを見たとおっしゃるんです。上から下まで黒ずくめの男であります」
「あら、笛小路の母が来てるんですの」
「はあ、美沙ちゃんをつれて……きょうのお見舞いのお礼だそうであります」
秋山のその返事は忠熈にむけられていた。
「ああ、そう、一彦、おまえけさの事件のことについて話したかね」
「いいえ、おじさん、それは申しませんでした。だって美沙ちゃんひとりだったんですから」
「鳳君がこちらへ来ていることは……?」
「いえ、それもいいそびれてしまいました」
「ああ、そう、それじゃ、秋山、応接室へお通ししておきなさい。ああ、ちょっと待て」
と、壁の時計に眼をやって、
「いま五時半だね。それじゃ今夜はいっしょにここでご飯を食べましょうと、そういっておいてくれたまえ、せっかくみんな|揃《そろ》ってるんだから。そのうち電気もつくだろう」
「しかし、御前、へんなやつのことは……?」
「秋山、おまえらしくもない。だれかが迷いこんだんだろう」
「しかし、御前、場合がばあいでありますから」
「じゃ、ひとつ警戒してもらうとするか」
そういいながら忠熈の視線はさりげなく一彦の挙動をとらえている。一彦は的場英明の背後に立っているのだが、その眼は考古学者の肩越しに、デスクのうえのマッチの棒の排列に、喰いいるようにそそがれていた。
第十三章 目撃者
津村真二のバンガローのある浅間隠は、山と山とのあいだにはさまれたせまい峡谷のなかにある。
そのへんは両方から山と山とが迫っており、そのあいだを縫ってせまい峡谷が走っている。その峡谷の底を流れている沢を桜の沢というのであろうか。ふだんは大した流れでもないのだが、きょうは台風の名残りをとどめて、|滔《とう》|々《とう》と岩をかむ音を立てている。
その峡谷にそってまだ舗装もされていない路が、かなりの急坂となって走っており、その路の左右に点々として別荘が散在する。その路を下から登っていって進行方向の右側にあたる別荘は、沢にめんしたかなり|急勾配《きゅうこうばい》の崖のうえに建っており、けさの台風のさいにはさぞ心安からぬ思いをしたことであろう。沢のむこうがわにはウッソウと大木の繁る|山《やま》|裾《すそ》が、急坂となって|眉《まゆ》にせまっている。
もっとも、左側の別荘だっておなじ不安に悩まされたかもしれぬ。山裾のわずかな平地を利用して、ささやかなバンガローが数軒たっているのだが、それらの別荘は背後の山の崖くずれに、肝をひやさねばならなかったであろう。げんにそれらしい跡が二、三か所みうけられた。
もっとも浅間隠とはよく名づけた。軽井沢ではどこからでも望まれる浅間の山が、ここでは西にそびえる山によって完全に|遮《しゃ》|蔽《へい》されている。それだけに山と山とにはさまれたこの峡谷では、風当たりはそう強くはなかったのであろう。倒木は案外少なかった。
このへんの貸しバンガローを持っているのは、|樋口操《ひぐちみさお》という婦人である。
樋口操夫人の夫樋口基一氏は、戦争中有力な軍需会社の重役だった。いぜん夫人は夫とともに田園調布にあるかなり|宏《こう》|壮《そう》な邸宅に住んでいた。夫婦のあいだに子どもがなく、しかも女子美術を出たという操夫人はお世辞にもよい妻とはいえなかった。善良だが愚痴が多く、しばしばヒスの発作を起こして夫を手こずらせた。戦争が緊迫して都会が危険にさらされたとき、夫人は夫を田園調布の家にのこして、ひとりでこの軽井沢へ疎開してきた。
田園調布にのこしてきた夫のめんどうは、夫人が実家からつれてきた房子という女性がみていた。樋口氏はそれまで堅いいっぽうでとおってきた人物だし、房子はあまり美人ではないというより醜婦にちかかった。夫人はこのふたりのあいだに間違いが起ころうなどとは、ゆめにも思っていなかったのに間違いが起こった。
しかも操夫人には子どもがないのに房子は樋口氏の子どもをうんだ。主客はまったく|顛《てん》|倒《とう》してしまった。しかも樋口氏が戦後パージとなり、すっかり意気|沮《そ》|喪《そう》してしまったのに反して、房子は子どもをえて|奸《かん》|婦《ぷ》の権力を示しはじめた。夫人は田園調布へかえるにかえれなくなってしまった。
夫婦はまだ正式に離婚していない。子供は操夫人の子として入籍されている。房子が子どもの入籍をあせるあまり、夫人の子として入籍したのは、なんといっても作戦のあやまりであった。房子がいかに奸婦の権力をふるい、いかに操夫人との離婚をせまっても、そればかりは樋口氏も承知しなかった。
しかし、籍はどうあろうともじじつ上の妻の座を、房子にうばわれてしまった操夫人は、生活の糧をうるために収入のみちを講じなければならなかった。さいわいその峡谷いったいの広大な地所は、操夫人の名義になっていた。夫人はその地所を少しずつ売り払っては、その代金の一部をさいてじぶんの地所に、バンガローふうの小別荘を建てはじめた。貸し別荘はいま六戸ある。これを十二戸にすると、ひと夏一戸の家賃をひと月の生活費とみて、一年間の生活が成り立つわけである。それが操夫人の理想であり、生活の設計でもあった。さいわい売るべき地所はまだそうとうある。
滔々たる流れのうえにかかった橋をわたるとき、金田一耕助はそれが四時間ほどまえに渡った橋であることに気がついた。橋をわたると路がV字型になっており、右へいくと桜の沢のはずである。日比野警部補にきいてみるとそうだった。
ひとくちに軽井沢といっても広い。むかし軽井沢は自転車の町といわれた。ちょっとした買物にいくにも、自転車がなければまにあわない。いまその軽井沢は自動車の町にとってかわりつつある。それにもかかわらず笛小路家の別荘のある桜の沢と、津村真二の貸しバンガローのある浅間隠が、隣り同士の部落であると気がついて、金田一耕助はちょっと心が騒いだ。
V字型の下の頂点を通りすぎるとき、金田一耕助は身をかがめて、自動車の窓から右の路をみた。はたしてななめにかしいだ|楢《なら》の木が、四時間ほどまえに見たときとそのままになっていた。水はすっかり引いていたが、金田一耕助の心はまた騒いだ。
自動車がVの字の左の路へ突進し、坂をのぼってカーブをひとつ曲がったとき、はるか坂のうえに自動車が一台とまっており、自動車のそばに二、三人ひとが立っているのがみえたが、それはすぐ前方をいく立花茂樹の自動車のかげにかくれてみえなくなった。|隘《せま》い路なのである。小型自動車でもすれちがうのがやっとであろう。
日比野警部補は不機嫌であった。さっき星野温泉を出るとき、大急ぎで夕食をしたためると同時に、署へ電話をかけたのだが、そのとき長野の警察本部から、山下警部が出張してきているということをしらされた。山下警部は県でも有数の腕利きである。これだけ大きな事件なのだから、県の警察本部から有力者が出向いてくるのは当然である。
思えば鳳千代子の夫だった人物が、いままでにふたり変死をとげている。しかし、ふたつの事件がふたつとも、他殺であると断定するには決め手がかけていた。あるいは過失死であるかもしれないし、あるいはまた、自殺であるかもしれなかった。三人目の犠牲者においてはじめて青酸加里が使用された。しかも死体が動かされたのではないかという事実からみて、他殺の疑いが濃厚である。この事件からひいてまえのふたつの事件も、急転直下解決にみちびかれるのではないか。と、すればこれはまさに近来まれにみる大事件である。
まだ若い日比野警部補が功名心にもえているのもむりはない。かれはべつに県の警察本部から有力者が派遣されてくるのを忌避するつもりはないが、担当係官としてもう少し目鼻をつけておきたかった。死体が動かされたのではないかという事実を、発見しただけでも捜査上、大きな前進というべきだが、しかし、その事実を指摘したのはじぶんではなく、すぐとなりにすわっているこの小柄で貧相な男なのである。
日比野警部補が唇をかむ思いをしているのは、前方にとまっている自動車のそばに、特徴のあるガニ|股《また》の男が立っているのを認めたからである。山下警部もきているのではないか。それにしても近藤刑事のそばに立っていた、純白の|開《かい》|襟《きん》シャツを着た長身の男は何者なのだろう。
金田一耕助はあいにく座席の反対がわにすわっていたので、自動車はみえたが、自動車のそばに立っている人びとまでは見えなかった。だから前方をいく立花茂樹の自動車がとまり、なかから立花茂樹と篠原克巳がおりたち、じぶんたちも自動車のなかから出たとき、そこに立っている等々力警部の姿をみておもわずおどろきの声を放った。
「あっと、警部さん、あなたどうしてここへ……?」
「どうしてもこうしてもありませんよ。先生をお訪ねして南原へいったら、先生お出掛けだというでしょう。仕方がないからこの人……」
と、近藤刑事の肩を叩いて、
「を訪ねてちょっと署へ顔を出したら、あいにく山下君にとっつかまりましてねえ。先生は山下君をご存じだそうですね」
「ご存じなんてもんじゃありませんよ。いつかさんざんイビられましたからね。や、しばらくでした」
「あっはっは、あんなことおっしゃる。イビられたのはこちらじゃありませんか。いや、しばらくでした。いつもお元気で」
「はあ、ありがとうございます。あなたこそご壮健でなによりです。こんどはまた、へんなやつが飛び出してきやあがったなんて思わないでくださいよ。わたしゃこれがショウバイですからね」
「とんでもない、日比野君、君いいひとをつかまえたね。よろしくご指導をねがうんだね」
「山下さんはこの人……いや、金田一先生をご存じですか」
「だから、主任さん、さっきいったじゃありませんか。金田一先生、日本全国股にかけて、探偵武者修業をしてお歩きになるんだって。そうそう、金田一先生、さきほどは失礼いたしました。先生はこちらとご|昵《じっ》|懇《こん》なんだそうですね」
「はあ、わたしゃいってみればその警部さんの|腰巾着《こしぎんちゃく》みたいなものですな」
「あっはっは、あんなこといってらっしゃる。しかし、金田一先生、あなたも因果な性ですね」
「と、おっしゃると……?」
「軽井沢へ静養にいらしたのかと思ったら、またとんだ事件に巻きこまれたようですね」
「なにをおっしゃる。これこそショウバイ|繁昌《はんじょう》じゃありませんか。そうそう、ショウバイといえば、これが津村氏の……?」
と、金田一耕助がふりかえった坂の左側には、坂の勾配にしたがって、浅間の焼石がたたみあげてあり、くろぐろとした焼石のあいだから、|羊《し》|歯《だ》の類がみずみずしい色をした葉をしげらせていた。津村真二のバンガローはこの崖のうえの平地に、小ぢんまりと建っていた。涼しいことはこのうえもなく涼しく、渓流のせせらぎをのぞいては、静かなことにかけても申し分はなさそうだが、周囲の空気に陰湿のきらいがなくもない。背後の山に崖くずれのあとがみえている。
時刻は六時半、本来ならばまだ明るい時刻なのに、この山と山とにはさまれた峡谷は、もう薄暗くなりかけていた。
「はあ、これが問題のひと津村真二氏の借りているバンガロー、津村氏は去年からことしへかけて、二年連続ここを借りてるんだそうです。むこうが大家さんの家。ただし、大家さんも津村氏も留守のようです」
近藤刑事はひととおり、近所の別荘をたずねてまわったらしい。そういえば津村真二のバンガローのすぐかみてに、ひときわ立派な別荘がみえている。何事が起こったのかと近所の別荘のひとたちが、遠巻きにしてこちらをみていた。
「金田一先生、ここが第一現場だという疑いが濃厚なんですって?」
「いや、山下さん、そういうことは日比野さんにきいてください。日比野さん、どうぞ」
さっきから|茫《ぼう》|然《ぜん》としていた警部補は、やっと眼がさめたようにキョロキョロあたりを見まわした。そして、これまたあっけにとられたような顔をしている立花茂樹に眼をとめると、
「立花君、津村氏の在否をたしかめてくれないか。君なら津村氏が不在でもなかへ入っても構わないだろう」
「立花君なら津村君の|愛《まな》|弟《で》|子《し》だからね。それにわたしも津村君の友人としてなかを調べてみる権利がある。そうだ、日比野さん、金田一先生、あなたがたもわれわれに手をかしてください」
「そのまえに家のまわりを調べてみたいんですが」
「承知しました。さあ、立花君、案内したまえ」
さすがに篠原理事は世なれていた。蒼白になっている立花茂樹をうながして、道路と平行についているゆるい坂をのぼっていった。この坂なら自動車も登れたにちがいない。
ふたりのあとから日比野警部補と近藤刑事、さいごに金田一耕助をなかにはさんで、等々力警部と山下警部。山下警部は柔道六段とかきいている。がっちりとした体格をしているが、それでいてゆったりとしているところがいい。コセコセしたところがみじんもない。部下たちに縦横に腕を発揮させるという人柄である。それでも金田一耕助からかんたんに、話をきくとさすがに緊張していた。
坂をあがると背後にそうとう大きな崖くずれがみとめられ、倒木が二、三本屋根のうえにぶらさがっていたが、バンガローそのものは|屏風《びょうぶ》のようにそそり立つ背後の崖にまもられたのか、これといった台風の被害はみとめられなかった。
バンガローにはコンクリートの階段が三段ある。立花茂樹はまずいちばんに階段をのぼっていくと、玄関のドアを調べていたが、
「|鍵《かぎ》はかかったままです」
「ああ、そう、じゃひとつ呼んでくれたまえ」
「津村先生、津村先生」
声をかけたが返事はなかった。あとからポーチへのぼっていった篠原克巳が、玄関わきの窓からなかをのぞいていたが、
「あ、あそこにパイプが……」
日比野警部補も窓に顔をよせたが、そのとたんおもわず顔をしかめた。
窓ガラスのうちがわに、濃いグリーンのカーテンがしまっているが、そのカーテンを背景として、大小さまざまな蛾が羽根をやすめている。裏からみる蛾のかたちが、一種異様な生物にみえ、ゾーッとするほど薄気味悪い。なかにはヒルマンのトランクから発見された朽葉色の蛾もそうとういる。
「窓をこわしましょうか」
「いや、ちょっと待ってくれたまえ」
カーテンの少しばかりまくれたところから、なかのホールをのぞいていた日比野警部補が、とつぜん|弾《はじ》かれたようにうしろをふりかえった。なにかにおどろいたらしくひどく興奮している。
「金田一先生、ちょっとあれを……」
「はあ、なにか……」
「テーブルのうえにマドロス・パイプがあります。しかし、それよりテーブルの下を……」
金田一耕助も身をかがめて日比野警部補から示されたカーテンのすきまへ眼をやった。窓という窓を濃い緑のカーテンでおおわれた部屋のなかは薄暗かった。その薄暗がりのなかをしいんとした冷気が漂うているようだ。しばらく|瞳《ひとみ》をこらしているうちに、ようやく薄暗がりになれてきて、モウロウとうきあがってきたのは、どこにでもある家具附き貸し別荘の殺風景なたたずまいである。
部屋の中央に長方形のテーブルがあり、そのうえの灰皿のそばにマドロス・パイプが一個投げ出してある。なるほどスタイリスト津村真二が愛用しそうな細身のしゃれたパイプである。金田一耕助の視線はそれからテーブルの下へすべっていったが、そこでハタと|釘《くぎ》|附《づ》けになってしまった。
床のうえにマッチの軸が二本、いや、三本散らばっている。どうやら朱もあり、緑の頭をもったものもあるようだ。日比野警部補を興奮させたのはそのマッチの棒らしい。一本は半分に折れ曲がっている。
「日比野さん」
金田一耕助がからだを起こしたとき、日比野警部補の姿はみえず、そばに近藤刑事が緊張した顔をして立っていた。等々力警部と山下警部は階段のとちゅうに立っている。ポーチのすみでは立花茂樹と篠原克巳が不安そうに顔を見合わせている。
「主任さんならいま裏のほうへまわっていきました。金田一先生、なにかそこに……?」
「じぶんで|覗《のぞ》いてごらんなさい。テーブルのうえのパイプもパイプだが、テーブルの下におもしろいものが散らばっていますよ」
金田一耕助は近藤刑事に席をゆずると、等々力警部と山下警部のあいだに立って、
「あなたがたはこの事件に、マッチの棒が奇妙な役割りをはたしていることをご存じでしょうね」
「はあ、さっき近藤君からきいたが、それがなにか……?」
「ところがここにおもしろいものがあるんですよ。近藤さんのあとから覗いてごらんになって、ひとつ意見をきかせていただきたいものですね」
金田一耕助は階段のとちゅうから下をみた。けさの台風のあととはいえ、ポーチの下の左寄りにハッキリとタイヤの跡がみとめられる。金田一耕助はさっきからそれに気がついていた。日比野警部補も気がついているにちがいない。問題はその跡が槙恭吾のヒルマンのタイヤと一致するかどうかなのだ。
金田一耕助がそれについて立花茂樹になにか聞こうとしたとき、近藤刑事がはじかれたような声をあげた。
「金田一先生、金田一先生、殺人のほんとの現場はやっぱりここなんですぜ。あのタイヤの跡といい……」
近藤刑事もタイヤの跡に気がついていたらしい。ふたりの警部もかわるがわるカーテンの|隙《すき》|間《ま》からなかをのぞいて、それぞれおどろきの表情はかくしきれなかった。
「金田一先生、こりゃどうしてもこのバンガローのなかを、見せていただく必要がありそうですね。それにしても日比野君は……」
山下警部がいいかけたとき、バンガローの右の側面から、
「立花君、立花君、ちょっとこっちへきてくれたまえ」
と、日比野警部補の声が大きく弾んだ。
一同がポーチをおりてそっちへまわると、
「足跡に気をつけてください。そこに点々と靴の跡がついてるでしょう。それを踏まないように」
なるほど湿った土のうえに点々とかるい足跡がつづいている。そこは|廂《ひさし》のかげになっているうえに、崖が少しせり出しているので、あの猛烈な台風にも流されずにすんだらしい。その崖がおくへいったところで大きく崩れているようである。
しかし、日比野警部補が立花茂樹をよんだのは、その足跡のことではなかった。いまみんながのぞいていたホールの側面の窓の外に、妙なものがぶらさがっている。ジョーゼットのスカーフである。四十センチ四方くらいの大きさで、茶色の地に|錆《さび》|朱《しゅ》色の|縞《しま》が入っている。
「あっ、これは……」
立花茂樹がおもわず手を出そうとするのを、
「さわっちゃいけない!」
と、注意すると、きびしい眼で相手をみて、
「立花君はこれに|見《み》|憶《おぼ》えがあるのかい?」
「はあ、あの、それは……」
「立花君、しっているのならいったほうがいいですよ。これはたいへんな事件になりそうだからね」
金田一耕助にさとされて、篠原理事と見合わせていた立花茂樹の顔は蒼白くこわばっていた。ふたりともさっきからこの場の雰囲気に圧倒されているのである。
「はあ、あの……きのう星野温泉で田代君に会ったとき、かれがナップ・ザックをしょってたことはさっきも申し上げたでしょう」
「ああ、きいた。バスケット・シューズをはいてたといってたね」
と、日比野警部補は土のうえについた靴の跡を山下警部に指で示した。山下警部は無言のままうなずいている。このひとはいちいちその場で|詮《せん》|索《さく》はしない。あとでじっくり報告を聞くつもりである。立花茂樹の|頬《ほお》がまた|痙《けい》|攣《れん》した。
「それで……?」
「そのナップ・ザックのしぼった口から、このスカーフが……いや、このスカーフかどうかしりませんが、とにかくこれとおなじ模様のスカーフが少しのぞいていたんです。ぼくおせっかいしをして、みっともないじゃないか、こんなもの……と、いいながら、なかへ押しこんでやろうとしたら、余計なおせっかいをすんなと、きゃつ、せっかくぼくが押しこんでやったスカーフを、わざと引っぱり出して、ダラリとそこから垂らしたんです。ぼく、ひねくれてるなと思ったので、この模様をよくおぼえているんです」
そうすると、田代信吉がゆうべここへやってきたことは間違いないようだ。またかれがここへ現れたとしてもふしぎではない。津村とは師弟のあいだがらなのだし、きのう星野温泉で会って話もしている。立花茂樹はなにも聞いていないというが、ゆうべここへ訪ねてくる約束になっていたのかもしれぬ。
そのジョーゼットのスカーフは、いったんぐっしょり|濡《ぬ》れたのだろう。地がうすいので急速に乾きつつあるが、まだじっとりと湿りけをおびている。
一同はそのスカーフのぶらさがっている針金に眼をとめた。その針金は|廂《ひさし》から垂直にたれていて、|尖《せん》|端《たん》が三つにわかれて|鉤《かぎ》になってまがっている。そこにある窓から手のとどくところにあるところをみると、靴下だのハンケチだのをひっかけて干すために作ってあるのだろう。その針金のちょうど下に漬物石くらいの浅間の焼石がすえてあり、その焼石に泥をなすったような跡がついている。
側面の窓にも濃いグリーンのカーテンがしまっている。この窓ガラスの内側にも二、三匹蛾がとまっているが、あちらの窓ほど多くはなかった。カーテンの下に少し隙間があって、焼石はそのすきまの下にすえてある。
日比野警部補は焼石のうえにあがると、背中をまるめるようにしてカーテンのすきまからなかをのぞいた。そこからだとホールの中央がほとんどひとめで見渡せるのである。警部補は針金の位置をながめていたが、立花茂樹をふりかえると、
「立花君、君はたしか田代信吉と、身長がおなじくらいだといったね」
「はあ……」
「すまないがナップ・ザックをかつぐかっこうをして、ここからなかをのぞいてもらいたいんだが……ナップ・ザックからはみ出したスカーフがこの針金にひっかかるかどうか」
「承知しました」
立花茂樹の声はふるえていた。
この実験は成功したようである。立花茂樹とおなじ身長をもった人物がナップ・ザックを背負ったままそこから覗くと、ナップ・ザックからはみ出したスカーフが、ひっかかりやすい高さに、その針金の鉤はぶらさがっている。
「日比野さん、田代君がここからなかをのぞいたとして、やっこさん、いったいなにを見たんです」
篠原理事の声もうわずっている。
「問題はそこですね。わたしもそれをしりたいですよ」
日比野警部補の声はつめたくきびしかった。
田代信吉はここからなかを覗いたのだ。そしていったいそこになにを見たのか。いや、それより田代信吉はそのごどうなったのであろうか。
第十四章 |青《せい》|酸《さん》|加《か》|里《り》
重っくるしい沈黙が、そこに立ちすくんでいる一同のうえにのしかかってきた。冷めたい、凍りつくような沈黙だった。日はもうすっかり暮れていて、おたがいの顔も見わけがつきかねるほどである。
日比野警部補が思い出したようにいった。
「それにしても立花君、君はさっき家のまわりを見てまわったといっていたが、このスカーフに気がつかなかったのかね」
「いえ、ぼくは……」
と、立花茂樹はかわいた唇をなめながら、
「家のまわりを一周しやあしなかったんです。玄関から左側へまわったんです。そのほうが勝手口にちかいですからね。勝手口のドアもしまっていました。それで裏手へまわろうとしたんですが、|錦木《にしきぎ》の繁みが家にくっついてるところがあるでしょう。それに崖くずれがあったりして、通れなくなってるところがあります。ぼく|蜘《く》|蛛《も》の巣だらけになるのいやですから、そこから引っ返してきたんです。まさかここにこんなものが……」
そういえば日比野警部補の帽子には、蜘蛛の巣がちょっぴりひっかかっている。
「山下さん、こうなるとどうしてもなかへ入ってみたいんですが……」
「いいだろう。立花君にお願いするんだね。立花君にご招待していただこうじゃないか。ただし、なかへ入ったらわれわれのジャマをしないでほしいんだがね」
「承知しました」
一同は表のポーチへとってかえした。ポーチの正面にドアがあってドアには|鍵《かぎ》がかかっていることはまえにもいったが、そのドアの左右にガラス窓がある。右手の窓はガラス戸が二枚引きちがいになっていて、その合わせ目に金属製の栓をさしこむという、戸締まりとしてはいたって原始的なものである。立花茂樹は警部補から折りたたみ式ナイフを受け取ると、栓のある附近のガラスのふちにさしこんだ。
パリッと音がしてガラスの表面に太陽光線みたいな|疵《きず》がついた。さらに力をこめるとガラスの一部がむこうへ落ちた。立花茂樹が腕をつっこんで内側の栓をぬくとガラス戸はなんなく開いた。なかはすでに真っ暗である。
立花茂樹につづいて篠原理事がとびこむと、
「どうぞ」
「主任さん、金田一先生、これ」
近藤刑事は気がきいていた。懐中電灯をそれぞれ一本ずつ用意していた。山下、等々力の両警部が、おなじものを用意していることはいうまでもない。
日比野警部補がまずいちばんにとびこむと、
「みなさん、なかへ入っても動かないでください。なにか|痕《こん》|跡《せき》がのこっているかもしれませんから」
窓のガラス戸を開けたひょうしに飛び立った蛾が、交錯する懐中電灯の五つの|光《こう》|芒《ぼう》のなかに明滅するのが、この際なにかを暗示するようで不吉であった。部屋のなかはもう完全にまっ暗なのである。
日比野警部補は壁のスイッチを見つけてひねってみたが、カチッと音がするだけで電気はつかなかった。停電はまだつづいているのである。
五つの懐中電灯の光芒は、てんでに部屋中をなめまわしていたが、やがてそれは部屋の中央にあるテーブルのうえに集中された。建物全体が矢ガ崎の槙恭吾の別荘より、なおいっそう簡粗で小ぢんまりとしているが、ホールの中央にある椅子テーブルなどの、この簡粗な建物によく調和しているのは、ここが家具つき貸し別荘であることを示しているといえよう。借家人は夜具と世帯道具を自動車につんで、東京からやってくればよいのである。
テーブルのうえにはレース編みのテーブル・センターが敷いてあり、そのうえに灰皿や卓上ライター、花瓶などがおいてあったらしいのだが、それらがみんなテーブルの片隅におしやられていて、テーブルの中央がきれいに片附いているのは、だれかがゆうべそこになにかを並べていたのではないか。
ただし、マドロス・パイプだけが片附いたテーブルの中央に、ちょこなんとおいてあるのはどういうわけか。この家の主人はうちではパイプを吸うが、外では紙巻きタバコを吸い、しかもひじょうなヘビイ・スモーカーだというが灰皿のなかはからっぽだった。
もうひとつ金田一耕助や日比野警部補、近藤刑事たちの眼をつよく引いたものがある。隅に押しやった灰皿や卓上ライター、花瓶などの一群と、少しはなれたところにおいてあるブロンズの|燭台《しょくだい》だ。燭台の皿のなかにはゴミでくろずんだ古い|蝋《ろう》|涙《るい》のうえに、まだ新しいと思われるまっ白な蝋涙の層が重なっている。
ゆうべこのテーブルのうえを片附けた人物にとっては、灰皿や卓上ライターは必要ではなかったのだろう。テーブル・センターや花瓶はむしろジャマっけだったにちがいない。しかし、燭台だけは必要だったのではないか。必要だったのではないかと思われる位置にその燭台はおいてある。だが、このマドロス・パイプはどうしたのだろう。片附いたテーブルの中央にちょこなんとおいてあるマドロス・パイプが妙に暗示的だった。
「立花君」
|暗《くら》|闇《やみ》のなかで声をかけて金田一耕助は、懐中電灯の光りを窓際のほうにむけた。懐中電灯の光芒のなかに、立花茂樹と篠原克巳がよりそうようにして蒼白な顔をこわばらせていた。
「さっきの君の話では、津村氏のパイプは詰まっていて、吸えなかったとかいっていたね」
「はあ。津村先生、それでブスブスいってらしたんです」
「日比野さん、そのパイプ、|験《ため》してごらんになったら」
「おっと、そうだ。近藤君、ひとつやってみてくれたまえ」
「OK」
と、答えて近藤刑事がテーブルのそばへ寄ろうとしたときとなりの部屋で電気がついた。それがあまりだしぬけだったので、一同はおもわずギクッとしたが、金田一耕助がきゅうに笑い出した。
「日比野さん、停電がおわったんですよ。そのスイッチを入れてみてください。あなたはさっきスイッチを入れたんじゃなく切ったんです」
日比野警部補があらためてスイッチをいれ、ホールのなかに蛍光灯が、二、三度またたきながらついたとき、一同の顔にはホッとしたような色があらわれていた。
「いや、どうも」
と、山下警部がニコニコしながら、
「暗闇というやつは事態をいっそう深刻にしますな。正直にいってわたしゃどうなることかと思いましたよ」
「そうするとこの家はゆうべからきょうへかけて、スイッチはいれっぱなしだったということですか」
等々力警部もホッとしたような顔をして、キョロキョロ部屋のなかを見まわしている。白ちゃけた蛍光灯の光りのなかでみるホールのなかは、簡粗を通り越して殺風景でさえある。
「そういうことですね。しかし、停電のために電気がついていなかったので、表を通るひとも、きょう昼間ここへきた立花君なども怪しまなかったんですな」
「そうするとなんですか。停電になるまえに、だれかがここへかえって来たかやってきた。そして、テーブルをかこんでだれかと話をしていたら、きゅうに停電になったので、燭台をどこからか持ち出してきたというわけですか」
テーブルをあいだにはさんで|籐《とう》|椅《い》|子《す》が二脚ならんでいる。その籐椅子と燭台の位置を見くらべながら山下警部がいった。
「そういうことでしょうねえ」
「燭台はどこにあったのだろう」
「燭台ならいつもその棚のうえにおいてありました。一種の飾りになっていたのです」
立花茂樹の指さした壁には、粗朴な飾り棚がついており、そこにハガキ大の卓上カレンダーが立てかけてあった。そして、そのカレンダーの左側に、いまテーブルのうえにあるのとそっくりおなじデザインの、ブロンズ製の燭台がおいてあり、しかもこのほうにはまだま新しい|蝋《ろう》|燭《そく》が立っていた。この燭台は一対になっているのである。
軽井沢というところは雷の多いところで、落雷のために停電することがあるし、雷があまりはげしいと電力会社であらかじめ送電を中止することがある。だから用心のよい家ではこうして蝋燭を用意しておくのである。津村真二は用心のよいくちだったらしい。
「なるほど」
山下警部はふたつの燭台を見くらべながら、
「ところで、テーブルのうえにある燭台の蝋燭はどうしたんだろう」
「その蝋燭なら矢ガ崎の現場にあります。この燭台、対になっているので燭台ごと、持っていくわけにはいかなかったんですね」
日比野警備補も納得がいったようである。
「なるほど、おもしろいな。ときに近藤君、君なにかやらなければならないことがあったんじゃないか」
「おっと、そうそう」
近藤刑事はおそるおそるテーブルのそばへちかよると、ハンケチを出してそっとマドロス・パイプをとりあげると、口にくわえて二、三度強く吸ったり吹いたりしていたが、
「これ、完全につまってますな」
「ようし、そうすると、金田一先生、津村真二氏はゆうべこのバンガローへかえってきたとみえますね。鍵がどこにあったにしろ」
「そういうこってすね」
日比野警部補は金田一耕助のそばへよってきて、あらためて床に散っている三本のマッチに眼をとめた。朱色が一本、緑色が二本、しかも、緑色の一本は半分に折れて曲がっている。どうやら、槙恭吾のアトリエから発見されたものとおなじ箱から出たものらしい。
「槙恭吾氏はこっちの椅子に腰をおろして、マッチを並べていたんですね。燭台の位置がそうなっている。そうすると……」
日比野警部補は籐椅子の座席に眼をおとした。それは背中と座席だけに粗いプリント模様のある木綿のクッションをはりつけたいたって簡粗な籐椅子である。日比野警部補はちかぢかと、そのクッションに顔をよせていたが、やがて座席をこすった指をみせると、
「金田一先生、これ……」
金田一耕助は黙ってうなずいた。警部補の指先には茶褐色の|鱗《りん》|粉《ぷん》らしきものがついている。プリント模様のクッションにも蛾の体液らしいものがねばりついていた。
ここがほんとの現場であることはもう間違いはなさそうだ。槙恭吾はここで殺されたのである。かれはこの籐椅子に腰をおろしてテーブルのうえにマッチを並べて、むかいあってすわった人物になにかの説明をしようとしていたのだろう。そのうちに青酸加里入りの飲物をのまされた。だれに……?
その質問は無用であろう。マドロス・パイプがここにある以上、津村真二はゆうべここにかえっているのである。しかも、槙恭吾が死亡したと推定される午後九時前後には、津村真二はじゅうぶんまにあっているはずである。しかし、その津村真二はどこへいったのだろう。
「立花君、津村氏は自動車の運転ができるの?」
それは金田一耕助もききたいところであった。
「はあ、先生はトヨペット・コロナを持っていらっしゃいます」
「しかし、ここにはないじゃないか」
「それはこうです。先生はこちらへいらしても、しょっちゅう東京へいったりきたりしていらっしゃいます。売れっ児ですからね。このあいだも愛用のトヨペット・コロナを運転して、東京へかえっていらしたんですが、そのときほかのクルマにぶっつけたのか、ぶっつけられたのかしりませんが……」
「ぶっつけたんだよ。津村君のことだから」
篠原理事がニコリともせずにいった。
「そうかもしれません。事故常習者でいらっしゃる。そそっかしいかたですからね。それはともかく、こんどはそうとう大破損をしたらしく、クルマはどっかの修理工場へはいっているらしいんですね。と、いって現代音楽祭をすっぽかすわけにゃいかない。だから、こんどは汽車でいらしたわけです。だいぶんブーブーいってらっしゃいました」
「すると、自動車の運転はできるわけだね」
「はあ、模範的ドライバーとはお世辞にもいえませんが……しかし、津村先生がどうかしたんですか」
立花茂樹はいかにも気づかわしそうに、
「ゆうべ槙さんが殺害されたということは、さっき日比野さんにうかがいましたが、そのことと津村先生となにか関係があるんですか。槙さんが殺害されたということと、このバンガローといったいどういう関係があるんです」
立花茂樹はしだいに激してきたが、だれもすぐには答えなかった。しばらくして日比野警部補が、一句一句ことばをえらぶように、
「もしなにか関係があるとして、津村氏に槙恭吾氏を殺害しなければならぬ、なにかの動機があるかね」
「とんでもない」
立花茂樹と篠原克巳がほとんど同時にさけんだ。立花茂樹がいよいよ激してなにかいおうとするのを、篠原克巳がさえぎって、
「津村君というひとは虫一匹、いや、蛾一匹殺せないひとです。あの男に殺人なんて、そんなバカな」
しかし、|兇暴《きょうぼう》な殺人者で小鳥や小動物を熱愛していたという例はいくらでもある。
「それに津村先生は……」
と、立花茂樹もやっと自分でじぶんを制して、
「槙さんにお会いになるのは、じつに久しぶりだったらしいですよ。ぼくが案内したのでよく知っています。久しぶりに会ったひとをその晩殺すなんて、そんなバカなこと考えられますか。津村先生はバカでもなければ気ちがいでもないんですよ」
「津村氏は青酸加里をもっていましたか」
金田一耕助がそばから|訊《たず》ねた。
「青酸加里……? そんな物騒なものを津村君が、もってるはずがないじゃありませんか。だいいち青酸加里なんてシロモノは、われわれ素人の手に、簡単に入るなんてもんじゃないでしょう」
「ああ、そうすると槙さんは青酸加里で殺害されたんですね。それだといよいよおかしいじゃありませんか。きのう津村先生が槙さんに会われたのは、槙さんのほうから訪ねてこられたんですよ。津村先生は全然予期なさらなかったことのようでした。会ってきゅうに殺意を生じたとしても、青酸加里をどこで手にいれたんです。それとも軽井沢の薬局では、そんな物騒なクスリをかんたんに売ってるんですか。もしそれだと……もしそれだと……」
「もしそれだと、立花君、どうするつもりかね」
山下警部がニコニコしながら訊ねた。
「軽井沢の警察を、いや、長野県の警察を訴えてやる。取り締まり不行き届きで訴えてやる。いや、そのまえにぼくが青酸加里を買ってきて、津村先生を殺人者などというやつを片っぱしから殺してやる。殺してやる!」
そして、立花茂樹は泣き出した。篠原克巳の胸に顔をうずめておいおい泣き出した。はなはだ感動的な場面であった。
「立花君」
山下警部が厳粛な顔をしていった。
「軽井沢のみならず長野県の警察、いや日本全国の警察は、それほど疎略千万じゃないから安心してくれたまえ。日比野君、こりゃよほど慎重にかからんといけんぜ。そうとうこんがらがっているようだな」
「しかし、津村氏が自殺するつもりで、青酸加里を用意していたとしたら……」
「日比野さん、あなたは鳳千代子さんとの離婚を、いささか深刻に考えすぎているようだ。津村君は楽天家なんです。離婚問題について一見悩んでいるふうにみえましたが、それは単なるみせかけなんです。津村君はけっこうその悩みをエンジョイしていたんです」
「篠原さんのおっしゃるとおりです。津村先生が自殺を決意していらしたなんてことは、ぜったいに考えられないことです。もし先生がそういう決意をし、青酸加里まで用意していらしたとしたら、われわれにわからないはずはありません。先生はオッチョコチョイなんです。非常に善良なオッチョコチョイなんです」
「ちょっと、立花君」
そばから|嘴《くちばし》をはさんだのは金田一耕助である。
「これはほんの思いつきの質問だから、そう深刻に考えないでほしいんだが……質問というより君の意見をきいてみたいと思うんだ」
「はあ、どういうことでしょうか」
「いや、いまの日比野さんのことばから思いついたんだが、田代信吉君だがね」
「田代がどうかしましたか」
「田代君は去年心中をやりそこなった。相手の女性だけ死んでじぶんは助かった。明後日が命日のはずだろう。その時期に軽井沢へやってきたというのは、心中の後弔い、いわゆる後追い心中ということも考えられないこともないね」
「ぼくもすぐそれを考えました。だから、もしそんなこと考えてるなら、そんなバカなことよせといってやりたかったんです。しかし、金田一先生、それがなにか……?」
「田代君は去年クスリの不備からじぶんだけ助かって、生き恥をさらしてしまった。ことし後追い心中をやるつもりだったとしたら、もっと完全に死ねるクスリ、つまり青酸加里を用意していたとは思えないかね」
立花茂樹は|愕《がく》|然《ぜん》とした。ちょっとひるんだような色をみせたのち、また猛烈になにかいおうとするのを、すばやく金田一耕助がさえぎって、
「と、いって津村氏が田代君の持っていた青酸加里をつかって、槙氏を殺害したんじゃないかなどといってるんじゃないよ。そんなバカなことってありえないからね。と、いって、田代君に槙さんを殺害しそうな動機がある?」
「そんなことは考えられません。田代はおそらく槙さんをしらなかったでしょう。少なくともきのうまでは……」
「それでいいんだ。さっき山下警部もおっしゃったとおり、そこにこの事件のむずかしさがありそうなんだ。ただこれだけはしっておいてくれたまえ。ここが犯罪の現場であること。そして、津村氏がなんらかのかたちでそれに関係しているらしいこと、パイプがそこにある以上はね。それから田代君があの窓から、なにかを目撃したのではないかということ。しかも、ふたりともこの家にいない」
この家にいまだれもいないことは、近藤刑事がガニ|股《また》の足をはたらかせて、家中を見てまわっての結果の報告である。
「それで立花君にお願いしたいんだ。津村氏と田代君の両方をしってるひとは君しかいない。だから警察のやりかたに偏見を持ったりしないで、君は君なりに、|虚《きょ》|心《しん》|坦《たん》|懐《かい》にわれわれに協力してほしいんだ。つまりふたりについての情報をキャッチしたら、つつみかくさず署のほうへ報告してほしいんだ」
「金田一先生」
立花茂樹はノドをつまらせながら、
「ぼくは津村先生が絶対無実であることを信じるがゆえに、ここにお約束します。ふたりの消息がわかったら、きっと金田一先生に連絡します」
「ありがとう。ところで、立花君、このホールでなにか|紛《な》くなっているものはないかね。きのうまであってきょうなくなっているものは」
「ああ、それならぼくもさっきから気がついていました。その棚のうえのいま卓上カレンダーのおいてあるところに、バルトークの写真が額に入れて立てかけてあったんです。先生はバルトークの崇拝者ですから」
「どのくらいの大きさ?」
「大きなものではありません。ふつうのB6判の雑誌くらいの大きさです」
「そのほかにはなにか……?」
立花茂樹はあたりを見まわして、
「そのほかはこんなものでした。その卓上カレンダーは、いつも棚の隅っこのほうにおいてあったものです」
「ありがとう。日比野さん、あなたなにか?」
日比野警部補は近藤刑事と打ち合わせたのち、
「そう、それじゃ奥のほうを見てもらいましょうか。なにか紛くなっているものはないか。篠原さんもどうぞ」
ホールの奥には八畳の日本座敷と、三畳のお手伝いさんの部屋、ほかに台所と風呂場と水洗便所。そのどこにも津村真二のすがたは認められなかった。
日本座敷には三つに分割されるマットレスが敷いてあり、そのうえに夜具が敷きっぱなしになっている。その|枕下《まくらもと》にアタッシュ・ケースが投げ出してあったが、そのなかには津村真二が昨夜タクトをふったとき、着ていたという純白のワイシャツや|蝶《ちょう》ネクタイ、黒い上衣がはいっていた。これからみても津村真二が、ゆうべいったんこの家にかえってきたことはまちがいない。してみれば津村真二は立花茂樹のいわゆる、殺し屋スタイルのまま姿を消したのであろうか。
台所はわりにきちんと片附いていた。ホールや八畳の座敷がなんとなく、やりっぱなしという印象をあたえるのに、たとえにも|蛆《うじ》がわくという男世帯の台所が、わりに整然としているのが金田一耕助の気になった。
「金田一先生、これ……」
近藤刑事が|配《はい》|膳《ぜん》|棚《だな》のうえから、マッチの箱を取りあげた。指紋を消さぬ用心にそっとハンケチで持ちそえていることはいうまでもない。それは官製ハガキをひとまわりもふたまわりも、小さくしたような大きさで、表と裏にこれを寄贈した雑貨商の名が、図案化して入っているが、その名はさっき槙恭吾の別荘で見つけたマッチ箱とちがっていた。
近藤刑事がマッチの箱のいっぽうのはしを押すと、なかからのぞいた朱色の頭は、たしかにホールに散らかっているマッチ、したがって槙恭吾のアトリエから、発見されたマッチの棒とおなじ種類のものらしかった。近藤刑事が念のために、マッチの箱のべつの端をおしてみせると、そこからのぞいた緑色の頭も、問題のマッチとおなじものらしい。
「近藤君、そのマッチの箱から指紋をとっておいてくれたまえ。被害者の指紋がついているかもしれない」
「あっちのホールにだって指紋が残っているにちがいありませんぜ。被害者は手袋をはめていませんでしたからね」
ところが殺し屋スタイルの津村真二は、黒い手袋をはめていたという。金田一耕助は|悪《お》|寒《かん》が背筋を走るのを禁じえなかった。
「立花君、津村氏はここで自炊をしていたんだろう」
金田一耕助が立花茂樹をふりかえった。
「はあ、先生は東京でも自炊生活です」
「津村氏の台所はいつもこういうふうに|整《せい》|頓《とん》しているの」
「とんでもない。先生は仕事の方面は几帳面なかたですが、私生活の面ではだらしないほうです。なにしろ無器用な人ですし、それに名うてのそそっかし屋さんですからね。それにしてはこの台所、わりに片附いてますね」
と、立花茂樹もふしぎそうだった。
「ここにウイスキー・グラスや水差しが出ているんだが、ウイスキーの|瓶《ボトル》がないのはどういうんだろう。津村氏ウイスキーはなにをのむの」
「津村君、ウイスキーについては|贅《ぜい》|沢《たく》屋さんで、いつも舶来品を用いていましたね。ジョニー・ウォーカーの黒でしたね」
篠原克巳が注釈をいれたが、そういえば去年、笛小路泰久にまきあげられたというウイスキーもジョニー・ウォーカーの黒だった。
「そういえばウイスキーの瓶がありませんね。先生いつも食器棚のここんところへおいとかれたんですが、まさかゆうべにかぎって裏のアイス・ボックスへしまいこまれたんじゃ……」
「裏のアイス・ボックスってなんのこと?」
日比野警部補が聞きとがめた。
「物置きのすぐ裏側に崖が迫ってるでしょう。その崖下にちょっとした洞穴があるんです。先生そこをアイス・ボックスと称して、生鮮食料品やなんか貯蔵していられるんです。いまみると崖崩れで穴がふさがってますけれど……」
「崖崩れで洞穴が……? ちょっといってみようじゃありませんか」
勝手口には鍵がかかっていたので、表からまわらなければならなかった。外はもうすっかり暗くなっていたが、家中の電灯という電灯が全部ついているのでかえってさっきより明るかった。
勝手口の外のすぐ左側に風呂の|焚《た》き口があり、それと相対して小さな物置きが建っているが、その物置きは背後から加えられた圧力で、なかばまえへかしいでいる。この物置きの背後に幅二メートルほどの帯状の空地があるが、それが背後にそびえる崖の崩壊によって、長さ五メートルほど埋まっている。崖崩れによって根こそぎずり落ちた雑木が三本繁った枝をさかさまに崖の下に落としていた。
「洞穴はどのへんにあったんですか」
「あのへん、物置きのすぐうしろでした」
「大きかったのですか。その洞穴は?」
「おとなが身をかがめてはいれるくらいでした。なかは畳二枚敷けるか、もっと広かったかな。天然にできた|洞《どう》|窟《くつ》だそうですが、なかは氷室のようにひんやりしていたので、津村先生は冷蔵庫がわりにつかっていられたんです」
しかし、懐中電灯の光りでみると、そこは崖崩れの倒木のために、ちかよることさえ不可能だった。
時刻はすでに七時をまわっている。津村真二はまだかえってこない。殺し屋スタイルでかれはどこへいったのか。そして、田代信吉は……?
第十五章 操夫人の推理
樋口操夫人はすっかり興奮していた。
興奮するとこの夫人のくせとして、おしゃべりにとめどがなくなり、これには夫の基一氏もよく悩まされたものである。この夫人はまるで幼女のような空想癖をもっていて、お|喋《しゃべ》りをしているうちにつぎからつぎへと子どものような空想がわいてくる。その空想に刺戟されておしゃべりにいよいよ際限がなくなり、そのお喋りに刺戟されてますます空想は絶妙をきわめるのである。
樋口操夫人のたがいに刺戟しあうおしゃべりと空想は、あるときはそれが愚痴であったり、あるときはそれが|嫉《しっ》|妬《と》であったり、あるときはそれが他にたいする怒りからくる興奮に端を発するのだが、とにかくそのおしゃべりたるや文字どおり立板に水で、他の|容《よう》|喙《かい》を許さざるほどアッパレなものである。しかも、この夫人は東北出身ときているのでことばに東北|訛《なま》りがある。さすがに東京の女子美術を出ているくらいだから、ふだんはほとんど目立たないのだが、興奮してくるとズーズー弁が顕著になってくる。基一氏が|辟《へき》|易《えき》したのもむりはない。
「あなた大丈夫? そんなに興奮して……クルマをぶっつけないで|頂戴《ちょうだい》よう」
連れの婦人がハラハラしているにもかかわらず、
「なにいってるのよう。これあなたのためを思っていってるんじゃないの」
と、操夫人は意気|軒《けん》|昂《こう》たるものである。
「よく考えてもごらんなさいよ。これで三人目よ。しかも四人目がいまうちの隣りにいるのよ。その四人目だっていまにどんなことにならないとも限らないわよ。もしそうなってごらんなさい。当然あなたに疑いがかかってくるわよ。四人目の犠牲者のすぐとなりに、二番目の旦那さんに捨てられた妻が、こっそり隠れておりましたなんて、だれも偶然だと思ってくれはしないわよ。あなたしっかりしなきゃダメよ」
「操さん」
相手の婦人の声は悲鳴にもちかかった。その声ははげしい|怯《おび》えのためにふるえているようにも感じられた。
「いやよ、いやよ。あなたがそんなふうにとっているなら、あたしこのまま東京へかえるわよ。クルマを駅までまわして頂戴」
「いいわよ。なんならそうしてもいいわよ。だけどその結果はどうなると思ってるの。あたしはなにもしゃべりゃしないわよ。あなたのためにならないようなことを、むやみにしゃべるようなあたしじゃありませんよ。だけどけっきょく警察は気がつくわよ。いまに調べあげるわよ。あの女の四番目の旦那さんの住んでいる貸しバンガローのとなりに、二番目の旦那さんに捨てられた妻、つまりあなたね、あなたがこっそり隠れておりましたってね」
「あたし……あたしこっそり隠れていたりなんかしやあしないわ」
「だって警察はそう思うわよ。警察なんてそりゃ疑いぶかいんだから。隠れていたと思うわよ。かくれてあの男の動勢をうかがっていたと疑うわよ。そのあなたがこれからすぐに東京へかえってごらんなさい。さては三番目の犠牲者を血祭りにあげて、こっそり軽井沢を逃げだしたんだと疑うわよ。あなたそれでもいいの」
いまの操夫人はじぶんの興奮をたのしんでいるのである。興奮がおしゃべりを引き出し、そのおしゃべりの刺戟によって空想をよび、その空想がまたおしゃべりを刺戟する。その刺戟がまた彼女を興奮させる。一年の大半を人里離れた軽井沢の山峡で、|無聊《ぶりょう》からくるさまざまな思い、それは主として憎悪と|怨《えん》|嗟《さ》と痛恨と、実現しそうもない|復讐心《ふくしゅうしん》であるが、ドスぐろい悪意にみちた空想で、さんざんじぶんをむしばんで暮らしているこの老婦人にとって、これほど快い興奮がまたとあろうか。
「それともあなたこの際名乗って出る? あたしはあの女の二番目の旦那さんだった男に、あの女のために捨てられた女でございますが、去年とことしと二年つづけて、あの女の四番目の旦那さんだった男のとなりに、しばらく滞在しておりましたのは、これまったくの偶然でございまして、決してあの男を監視していたわけではございませんと、じぶんで警察へ名乗って出る勇気がある?」
「いやよ、そんなこと! あたしこんな事件にまきこまれたくないの。それにあたしあのひとを監視してたわけじゃないわ」
「そうかしら。そうかしらねえ」
と、操夫人はことばを強めて、
「あなたがはじめて浅間隠へやってきて、三日ほど泊まっていったのは、もう五、六年もまえのことだったわねえ。そのときあなた人にいったってえじゃないの。あんな|淋《さび》しいところもういちどで|懲《こ》りごりだわ。退屈で退屈で死にそうだったわ。あの人……と、いうのはあたしのことよ、あのひとよくもあんな淋しい不便なところで、一年中暮らせたもんだ、なんて可哀そうな人だろうって。そうよ、どうせあたしは可哀そうな女よ。ほかの女に亭主をとられて、いきどころのない女ですものね。それはいいの、そんなことは構わないの。あなただっておなじことですものね。だけど、いちどで懲りたはずの浅間隠へ、なぜ去年とことしと、二度もつづけてきてくださいましたの。警察はそれをどう思うでしょうねえ。偶然だなんていったところで信用してくれるかしら、あら、危ない!」
十字路を横切ろうとする歩行者を、あやうく跳ねそうになって、それでも操夫人はとっさに急ブレーキをかけた。
「気をつけろ、ばばあ」
跳ねとばされそうになったのは、若い男の子と女の子のアベックだった。手をくんで横断歩道を渡ろうとしているところを、あやうく跳ねとばされそうになり、イナゴのようにふた手にわかれて飛んだかっこうが|滑《こっ》|稽《けい》だった。
「てめえ、信号が赤になってるのに気がつかねえのか」
「なによ、あの子」
しばらくしてクルマが走り出したとき、操夫人がにがにがしげに|呟《つぶや》いた。
「女の子のくせにあの口のききかたはいったいどうなの」
「あら、操さん、あれ女の子じゃないわ。あれでもりっぱに男の子なのよ」
「だって髪を肩までのばしてたじゃないの」
「ちかごろはあんなのが|流《は》|行《や》るのよ。男の子が髪をながくのばすのが」
「あら、いやねえ、世も終わりねえ。だからあんな女にいい男が、なんにんもなんにんもひっかかって、あなたみたいなかわいいひとが、浅間隠みたいな退屈なところへやってくるのね」
「操さん、その話はもうよして」
「いいじゃないの。なにもよすことないじゃないの。あたしはあなたのためを思えばこそこうしてお話してるのよ」
「でも、話に夢中になってまたひとを跳ねるわよ」
「ひとぎきの悪いこといわないで頂戴。あたしいままでいちどだってひとを跳ねたこともないし、ぶっつけたこともないわよ。そうそう、去年のクルマ、ポンコツだったもんだから、浅間隠の坂をあがるとき、途中でエンコしてあなたにわらわれたことがあったわね。でも、こんどのルノーとても性能がいいのよ。それにあたしこれでも模範的ドライバーよ。それはそうとなんの話をしてたんだっけ。おお、そうそう」
操夫人ははなはだもって上機嫌なのである。
きょうは停電でいつ電気がつくかわからないし、お夕食は外でしましょうと、客を誘って中華料理をたべにいったその出先で、耳にしたのが槙恭吾の一件である。
常日頃女の|妖《よう》|婦《ふ》|性《せい》と男の不信に、|瞋《しん》|恚《い》のほむらをもやしている彼女にとって、これほどかっこうの話題がまたとあろうか。いわんや自分もいくらかひとしれず、その事件に関係しているのだという自覚と満足をもっているにおいてをやである。その話題がいかに年少の友を傷つけ、悩ませるかなどということは、操夫人にとっては問題外であるらしい。
「去年の夏ひさしぶりに東京であなたに会ったとき、あたしがついなにげなくあの女の四番目の彼氏が、うちのとなりの貸しバンガローへきているのよといったら、あなた早速やってきたじゃないの。いちどでこりごりしてるはずの浅間隠へさ。あたしちゃんと日記をつけてるんだけど、あなたがひょっこりうちへ訪ねてきたのは十四日の夕方よ。それからなか一日おいた十六日の朝、あの女の最初の彼氏が、妙な死にかたをしているのが発見されてるのよ。あたしあとで日記を見て、まあ、素敵と思ったわよ。あなた笛小路という男といっしょの汽車じゃなかった? それともあの男を追っかけてきたのかしら」
「もうよして。あたしあの人となんの関係もないのよ。偶然汽車でいっしょになっただけのことなのよ」
「そうら、泥を吐いたわね。そういうのを問うに落ちず、語るに落ちるというのよ。だけど、おかしいじゃない? そうそう、あたしちかごろ、探偵小説というのを読んでるのよう。ちかごろじゃ推理小説っていうらしいけど、あたしみたいな年齢のものには、やはり探偵小説っていったほうがピンとくるわね。あたしの読んでるのはおもに外国ものだけどね。でも、あたし探偵小説を読んでても、探偵にはちっとも興味ないの。あたしが共鳴するのはいつも犯人のほうなの。ところがどの探偵小説をよんでも、最後にかならず犯人がとっつかまるでしょう。あたしいつも思うわよ、なんてバカなひとたちでしょう、あたしならもっとうまくやってみせるわって。だからこのごろ毎日ひとりは殺してるの。一日一殺主義よ、あたし。おもしろいわよ。いろんな方法で人を殺すの。ほっほっほ」
操夫人はいよいよますます興に入り、いよいよますます興奮し、いよいよますます物騒なことをいう。しかし、一日一殺主義のこの夫人も、自分のいのちは惜しいとみえ、運転のほうは大丈夫のようである。
「ねえ、あなた、問うに落ちず語るにおちるとあたしいったでしょ。あなたあの男、あの女のさいしょの彼氏をしってたのね。だからおかしいじゃないの。あなたといっしょにこちらへきたそのつぎの日、あの男、こちらで妙な死にかたをしているのよ。あれ、去年のお盆の十五日の晩のことよ。あたしかえったら日記を調べてみるわ。いいえ、日記なんてしらべなくてもよく憶えているの。あたしこれでも記憶力はたしかなのよ。なにしろミス・マープルですからね」
操夫人は|多《た》|々《た》|益《ます》|々《ます》興に入り、多々益々多弁になり、多々益々妙なことをいう。ミス・マープルというのはアガサ・クリスチー女史|創《つく》るところの老嬢のことらしい。ミス・マープルなら探偵役のはずだが、してみると、つねに犯人の共鳴者であることを自認するこの夫人も、機に臨み変に応じ探偵役にも変身するらしい。
「あの晩、あなたは盆踊りを見るってひとりで出ていったわねえ。あの晩はとても霧がふかくて、霧がふかいとあたし神経痛がいたむの。神経痛っていやな病気よ、気分がふさいでね。だからあたしとめたでしょ、こんな晩にたとえ盆踊りがあったところでつまらないわよって。でもあなたはひとりで出ていったわ。そのときからしてあなた妙にソワソワしてたわよ。かえってきたのは何時ごろだったかしら、九時? 十時? 十一時? やっぱり日記を調べてみなくてはダメね。でも、あたしがハッキリ憶えているのは、あなたまっ|蒼《さお》になって、ガタガタふるえてたわよ。霧のなかにあまり長くいたので風邪をひいたらしいなんていって、ご持参のウイスキーをグイグイのんでたわねえ。あなたいつからウイスキーをのむようになったのって、あのときあたし聞いたわねえ」
連れの婦人は黒いヴェールを顔にたらしている。しかし、ヴェール越しにもその顔色が、漂白された布のようにまっ白になっているのがうかがわれた。操夫人もそれをしっている。しっていながら、ある残忍なよろこびにかりたてられて、彼女は自分のおしゃべりを制することができなかった。
「しかも、そのつぎの朝あなた|蒼《そう》|惶《こう》としてかえっていったわね。そのときあたしなにも気附かなかったんだけど、その日の夕方テレビでニュースを見ていたら、あの男のことがでてきたでしょ。そこでハハーと思ったもんだから、そのまえの晩のこと、詳しく、くわしく日記に書いておいたのよ」
「それじゃ……それじゃ、あなたはあのひとを殺したのを、あたしだと思っていらっしゃるの」
「殺したあ……? ああら、まあ、また語るに落ちたわね。じゃやっぱりあの男殺されたのね。新聞には自殺か事故死と出てたけど。いいのよ、いいのよ、あたしはつねに犯人の味方なんだから。心配することなんかないのよ。そういえばゆうべのあなたもおかしかったわよ。あれ、何時ごろのことだったかしら。あたし|年《と》|齢《し》のわりにはよく眠るのよ、良心に|疚《やま》しいところがないせいね」
一日一殺主義を|標榜《ひょうぼう》しながら、良心に疚しいところがないとすれば、この夫人はよっぽど楽天家か、それとも人世のすべてが遊戯なのかもしれない。どうりで探偵小説のファンなのだろう。
「あなただしぬけにあたしのベッドへ潜りこんできたわね。風が出てきて二階じゃ、ガタガタいって眠れないなんていってさあ。あたしのベッドはダブルだからいいようなもんの、それでも窮屈でねられやあしない。あなたは寝返りばかりうつしさ。おまけに夜中にものすごくうなされてたわね。二階のあなたのお部屋からだと、おとなりのバンガローがまるみえね。あなたゆうべ見たんでしょ、なにかを。津村真二さんの貸しバンガローで、なにかがあったのを。そういえば、あたしのベッドへもぐりこんできたとき、あなたのパジャマ湿ってたわよ。あなたあたしの寝てるまに、こっそりうちを出たのね。ああ、くやしい。あたしってなんてネボスケなんでしょ。良心に疚しいことのないのもよしあしね」
それから操夫人はニヤリと笑った。これからいよいよ、最後の一撃を加えるぞよというような、当人としては会心の微笑らしかった。こういうのをホクソ笑みというのであろう。バック・ミラーのなかでそれを見た連れの夫人はゾーッとしたように身をすくめた。
「ねえ、あなた、夏江ちゃん、あなたあれどうなすって?」
操夫人の声はいやに優しかった。
「あれって……?」
「とぼけたってダメよ。ほら、青酸加里よ」
そのとたん連れの婦人のギクリとふるえるのが、肌と肌とにじかに感じられて操夫人はこのうえもなき|愉《ゆ》|悦《えつ》を満喫した。
「あなた青酸加里なんてしらないなんてシラを切っても、このあたしには通用しなくってよ。あれはなんねんまえになるのかしら。あの女に旦那さんを|奪《と》られてさあ。浅間隠へやってきたじゃない。そのときあたしといっしょに死のうなんて、青酸加里を持ち出したじゃないの。あなたとしちゃ亭主に捨てられた同士で、大いに同病|相《あい》|憐《あわ》れんだのかもしれないけれど、おあいにくさま、あたしは捨てられたわけじゃないんですからね。いまだってそうよ。まだ離婚はしてないんですからね、亭主なんてうるさい動物ですからね、ちょっとほかの女にあずけてあるの。まあ、いってみれば亭主にオモチャをあてがってあるだけのことよ。あのひといまにあたしのところへかえってくるわよ。|跪《ひざまず》いて詫びをいれてくるわよ。そうよ、そうよ、きっとそうよ。その点あなたとちがうんですからね」
そう思ってこの夫人はなんねん待ちつづけてきたのであろうか。毎日毎日、電話がかかってくるのを、手紙がくるのを、いや、当人が土下座をしてやってくるのを、どんなに待ちつづけてきたことだろうか。そうして裏切られたが日が暮れて夜になると、亭主と憎い女をアノ手コノ手で殺害することをおぼえ、ついにアッパレ一日一殺主義にまで成長したのであろう。
「あのときのあなたの権幕ったら|凄《すご》かったわよ。気も狂乱のていたらくとはあのときのあなたのことね。死のう、死んで|頂戴《ちょうだい》、いっしょに|冥《めい》|途《ど》とやらへいって頂戴って、あなたったらまるで気ちがいみたいだったわよ。あたしもあなたに同情してさんざん泣いたわね。でも、誤解しないで頂戴。いまもいったとおり、あたしあなたに同情して泣いたのよ。身につまされて泣いたんじゃなくってよ。だってあたし身につまされる必要なんかぜーんぜんなかったんだもの。あなたは旦那さんに捨てられたんだけど、あたしはそうじゃなかったんですものね。でも、よかったわ、あたしの意見をきいて思いなおしてくだすって」
事実はその反対だったかもしれない。自殺の話をもちこんできたのは、連れの婦人だったかもしれない。しかし、それに大いに共鳴して、気も狂乱のていたらくになって、死のう、死んで頂戴、いっしょに冥途とやらへいって頂戴と気ちがいみたいになったのは操夫人のほうだったかもしれない。相手はかえってそれに恐れをなし、おかげで死神がおちてしまって、ほうほうのていで東京へ逃げてかえったのかもしれない。しかし、どっちにしても連れの婦人が青酸加里をもっていたのは事実らしい。
「ねえ、あなた、ゆうべの人は青酸加里でやられたってえじゃない? 素敵だわ、あなた、どういうふうにしてあのひと、つまりゆうべのひとに青酸加里をのませたの? 教えて頂戴。なにも心配することはないのよ、ほら、いったでしょ、あたしはつねに犯人の味方だって」
「操さん」
連れの婦人の声はきびしかった。
「もしかりに……かりによ、いい? よくって、もしかりにあたしがゆうべのかたに、青酸加里をもったとしても、いったい動機はなんなの。なぜ縁もゆかりもないかたに、青酸加里をもらなきゃならないの」
「縁もゆかりもないってことはないでしょう。ゆうべの男はあの女の三番目の亭主じゃない? 大いに縁もゆかりもあってよ」
「そういえばそうね。だけど、それだからってなぜあたしがあの人に青酸加里をもらなきゃならないの」
「だからさ、あなたはあの女の旦那さんだったひとをつぎからつぎへと殺してるのよ。アノ手コノ手を使ってね」
「あら、まあ、じゃあたしは自分の旦那さんだったひとまで殺したの」
「もちろん。だって、あなたにとっていちばん憎いアンチキショでしょ、だからまずいちばんに血祭りにあげたのよ」
「だってあたし自動車なんか持ってやあしなくってよ。だいいち運転もできゃしないわ」
「だから殺し屋をやとったのよ。ちかごろ|流《は》|行《や》ってるじゃないの。よく新聞に出てるわよ」
「殺し屋をねえ。やとってねえ」
連れの婦人はだまってしばらくかんがえていたが、
「だけど、操さん、あたしがなぜあのひとの旦那さんだった人を、つぎからつぎと殺すの。アノ手コノ手を使って。動機はなんなの」
「わかってるじゃないの、あの女に罪をきせるためよ。あの女を殺人鬼に仕立てて、絞首台へ送るためよ。あなたってほんとうに素敵なひとねえ。だからあたしあなたが大好き。あなたならきっとやると思ってたわよ。あなたに青酸加里まで用意させた女ですものね。あの女にとっては当然受けるべき報酬よねえ。あなたってなんて素敵なんでしょうねえ」
「あら、ちょっと待って。おほめにあずかって恐縮ですけれど、あのひとはなぜそんなことするの。あのひとにだって動機は必要よ。その動機はなんなの」
「わかってるじゃないの。あの女はいま五番目の旦那さんになるべき男と大恋愛中だっていうじゃないの。それにはいままでの旦那さんが生きていちゃおかしいわねえ。なにしろこんどの旦那さんになるひとというのが素晴しいんですもの。元公爵の|御《おん》|曹《ぞう》|子《し》で、戦後財界の大立者、それに男振りだって素敵よ、お気の毒ながらあなたの旦那さんだった人なんて、足下にも寄りつけやあしないわよ。だから、あの女が三人や五人の男を殺したって……と、いう気にもなるのもむりないじゃない?」
「そうねえ、あのひとならなにも殺し屋をやとわなくっても、あのひとのためならば水火も辞せずという、アドマイヤーだっているでしょうねえ」
「それよ、それよ、そのことなのよう、あたしがいいたかったのは。それにああいう女ですものね、決断力だって人一倍強いにちがいないわ。だから、アドマイヤーに命じて……」
「だけど、そんなことこんどの旦那さんが許すかしら。そんなに沢山の男の人の血に染まった女性を、ほんとに心の底から愛せるかしら」
「だから、こんどの旦那さんが教唆したのよ。まえの亭主たちが生きていちゃ目障りだって」
「だけど、男の人がほんとに女を愛していたら、愛する女にそんなことさせるかしら。罪に罪を重ねるなんてことを」
「だから、こんどの旦那さんがやったのよ。あの男ときたら凄いんだから。なんでも戦後|潰《つぶ》れかかってた神門産業をたてなおして、こんにちの大企業にもりたてたって男でしょ。いったんこれはと目をつけると、なんでもかんでも乗っ取っちゃうという男なのよう。だからあの女に|惚《ほ》れたってなると、三人や五人、人を殺すなんてあの男としてはヘッチャラよ。邪魔者は|殺《ばら》せってえのが、ばんじあの男の主義なんですって」
操夫人の推理はクルリクルリと猫の目のように変わるから妙である。それにしても興大いに至るのはけっこうとしても、だんだんことばが|野《や》|鄙《ひ》になるのは困りものである。
「あらま、あたしどうしましょう」
ふいに操夫人が|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声をあげた。
「どうかなすって」
「電気がついてるのね」
「電気ならもうだいぶんまえからついているわよ。それにそろそろ浅間隠よ。運転に気をつけて。去年みたいにエンコするのいやあよ」
自動車はそろそろきょう金田一耕助が二度渡ったあの橋へさしかかっていた。橋のむこうは路がV字型になっていて、左の坂をのぼれば浅間隠、右へいけば桜の沢であることはまえにもいった。
操夫人の運転するルノーがその橋へさしかかったとき、浅間隠のほうからすべりおりてきた二台の自動車が、急カーブを切って桜の沢のほうへ入っていった。
「あら、あれ、警察の自動車じゃない? 浅間隠でなにかあったのね」
「操さん」
連れの婦人の声はふるえていた。
「浅間隠になにかあったとして、あなたいまここでいったようなことを、警察のひとたちにいうつもり?」
「そんなこといやあしないわ。あたしはつねに犯人の味方だといったでしょ。それに警察なんて大嫌い。あの連中ときたらロバみたいなもんで、みんな頭が悪くてちっとも当てになりゃしないわ」
夫とトラブルがあったとき、せめて田園調布の家屋敷だけでも取り戻したいと、所轄警察へお百度を踏んだもののついにラチがあかなかった。それいらい操夫人はひどい警察不信におちいっている。しかも、そのときいつも応対に出た警官の耳がいやに大きかったので、警察の連中はみんなロバだときめこんでいる。
浅間隠の坂をのぼっていくと左手に見える津村真二のバンガローに、電灯があかあかとついていてひとが出たり入ったりしている。浅間の焼け石の崖下には自動車が二、三台とまっていた。
「やっぱりなにかあったのね。あなたゆうべなにかを見たのね、ね、そうでしょう」
和製ミス・マープルの好奇心が、ここにおいてガゼンもえあがってきたのもむりはない。
「あなた、後生だからあの人たちになにもいわないで。時期がきたらなにもかも打ち明けるわ。打ち明けるときにはまずいちばんにあなたに打ち明けて相談するわ。お願い、それまではなにもおっしゃらないで」
「いいわよ、わかってるわよ。さっきからたびたびいってるでしょ。あたしはつねに犯人……つまりあなたの味方だってことを」
津村真二のバンガローを通り越して、わが家の別荘のまえへクルマを着けたとき若い私服がよってきた。ニキビ華やかな古川刑事である。
「あ、ちょっとお|訊《たず》ねしますが、あなた樋口操さんじゃありませんか」
「はあ、あたくし樋口操でございますけれど……」
窮屈なルノーの運転台からおりたった操夫人は、キラキラと蝉の羽根のように光る地の、まるで喪服みたいなかんじのする黒いスーツを着ていて、その年頃の日本婦人としては大柄のほうである。
「なにかあったのでございましょうか、おとなりに……」
「はあ、そのことについて、ちょっとお訊ねしたいことがあるんですが……」
「ああ、そう、あなた」
と、まだ自動車のなかで身をかたくしている連れの婦人をふりかえって、
「あなた、おうちへ入って明りをつけておいて頂戴。あたし暗いのは大嫌い」
それから古川刑事のほうをふりかえって、
「どういうことでございましょうか」
と、みずからとなりのほうへ歩をはこぶ姿は、威風堂々としてあたりを払う概がある。女としては面積のひろいその顔は色が白くて上品なのだが、左眼が眼底出血でもやったのか、濁ってにぶく光っているのが気味悪い。
「はあ、それがちょっと……」
古川刑事はチラとクルマのなかにいる婦人に眼を走らせたが、もしこれが等々力警部か、もしくはガニ|股《また》の近藤刑事であったなら、それが鳳千代子の二番目の夫、阿久津謙三に捨てられた藤村夏江であることに気がついたであろう。
藤村夏江は仙台高女から女子美術へかけて樋口操の後輩である。阿久津謙三に捨てられてから、新劇界を退いてこれまた女子美術時代の先輩の経営している、婦人服専門雑誌社につとめていて、ひっそりとこの世を送っているのである。
それにしても、去年笛小路泰久の変死一件があった当時、藤村夏江がこちらへきていたらしいのを、日比野警部補が見落としていたとしたら、これは捜査上の大きなミスだといわれてもしかたがあるまい。犯罪捜査というものはむつかしいもののようである。
第十六章 万山荘の人びと
笛小路篤子はきゅうに落ち着かなくなっていた。ホールのなかになんとなく、よそよそしい|隙《すき》|間《ま》風が吹きこんできたのを、全身の肌をもってかんじとっていた。じぶんだけがほかの人たちと年齢的にかけはなれているせいだろうか。そうではなかった。
げんにさっきむこうの食堂で食事をともにしているとき、そういうギコチない空気はそこになかった。高原ホテルからコックが出張してきたとかで、食事は申し分なかったし、食事中の談笑にもみんなお|祖《ば》|母《あ》ちゃま、お祖母ちゃまと自分をいたわることを忘れなかった。嫁の千代子も過不足なく自分に話しかけていた。食事中いちばん多くおしゃべりをしたのは、なんといっても桜井鉄雄と村上一彦だったが、ふたりはときどき|洒《しゃ》|落《れ》や冗談をとばして一同を笑わせながら、適当にじぶんを話題のなかに引っ張りこんでくれた。的場英明だけが初対面だったが、ほかの人たちはみんな相識の間柄であるという気安さもそこにあった。それに篤子にはこういう席につらなっても、気おくれするような生まれでもなければ育ちでもないという自負もあった。
あのひとたちはあのときなんの話をしていたのだっけ。そうそう、あしたのゴルフ大会のことが話題にのぼっていたのだ。去年もそうだったがことしもあすの十五日に、忠熈主催のゴルフ大会があるということを、きょうこちらへくるクルマのなかで桜井鉄雄からきいたが、その打ち合わせをしていたのだ。みんなそれに出席するらしく、そこにもなんのわだかまりはなかった。美沙がじぶんも出たいといいだしたのを、篤子はちょっと|窘《たしな》めたが、
「いいじゃありませんか、お祖母ちゃま、ぼくがコーチをしてあげますよ。美沙ちゃん、スジがいいですからね」
一彦があかるくいうのにつづいて、となりに坐っている熈子や熈子のまむかいに席をしめていた鉄雄もことばをそえた。桜井鉄雄とはきょう長野原から軽井沢まで自動車でいっしょだったが、この人、極楽トンボというアダ名があるらしい。
「ねえ、いいでしょう、ママさん、美沙ちゃんはぼくがおあずかりしますから」
一彦の調子があくまでも明るかったので、千代子もかるく微笑して、
「あたしはいいんですの。でもこの人はなんといってもお祖母さましだいですから」
|矩《く》|形《けい》のテーブルだった。正面に忠熈が席をしめ、まむかいの位置に千代子がすわっていた。それはホステスがしめる席である。忠熈の席から直角に右にまがって篤子、その右に熈子、一彦の順にすわっていた。篤子のまむかいに的場英明、それから鉄雄、美沙とならんでいたから、千代子は一彦と美沙を左右にひかえて幸福そうであった。
だれの調子もわだかまりはなく、そこにはなんの成心もなさそうだったので、篤子もつい押し切られたかたちになり、美沙はあすのゴルフ大会に参加が許されたかたちになっていた。忠熈はそのことについて一言もはさまなかったが、しじゅう|眼《め》|尻《じり》にシワをたたえてニコニコしていた。給仕は多岐という老女とお手伝いさんの登代子がつとめたが、よくしつけがいきとどいていると篤子も感心していた。秋山は姿をみせなかった。
ほんとうをいうとあすは泰久の命日である。篤子はかれになんの愛情ももっていなかったが、それでも世間ていもあり、泰久の|終焉《しゅうえん》の地であるこの軽井沢で、心ばかりの法要を営むつもりである。しかし、それをここで持ち出すほど篤子は心得のない女ではなかった。この会食の席でなにかひっかかるものがあるとすれば、ただその点だけであろうと篤子は思っていたのである。
それからなんの話が出たのだっけ。そうそう、モヘンジョ・ダロだのハラッパーだのという名まえが出たっけ。その話になると的場英明がガゼン雄弁になってきた。忠熈もその話に興味をもっているらしいので、篤子も神妙にきいていた。的場の話をきいていると、忠熈をそこへひっぱっていきたいらしいのだが、さてそうなると千代子はどうなるのだろうと、篤子にもちょっとその点がひっかかった。的場の話はしだいに熱っぽくなってきたが、その場で結論をひきだそうとするほど性急ではなかった。忠熈もまたそれほど単純ではなかった。熱心に話をきいていることはきいていたが、けっきょく聞いておくという程度にとどまっているうちに会食はおわった。
それから席がこのホールへ移されたのだが、篤子はここらでおいとまをすべきではないかと思った。しかし、食べ立ちはあまり失礼である、もう少しくつろいでからと思っているうちに、その場の空気が急にかわってきたのである。原因はなんだろう。篤子にもうすうすそれはわかっていた。わかっていたからこそさっきから、金田一耕助とは何者だろうと不審に思っているのである。
ホールは二十畳じきくらいもあるだろうか。天井は二階まで吹きぬけになっていて、中央からシャンデリヤがぶらさがっている。壁にも随所に朝顔形の|洋灯《ラ ン プ》がとりつけてあって、広間のなかは昼のように明るかった。ベランダへ出るアーチ型の大きな扉のほかに、矩形の窓が左右相称についているが、扉も窓もおなじデザインの|菱《ひし》|形《がた》と矩形を組み合わせた桟でできている。窓の外にみえているコロニアルふうのベランダの天井も菱組みで、部屋のなかにあるのとおなじデザインの|吊《つ》り|洋灯《ラ ン プ》が、適当の間隔をおいてぶらさがっており、それにもあかあかと灯がついていた。天井が吹き抜けになっているのは、夏向きに設計されているのだろうが、そのかわりホールのいっぽうに、イスラム風の多弁形アーチにとりかこまれた、大きな暖炉が切ってあり、昔恋しい明治調の建築様式が適当にくすんで時代をおびていた。ホールのなかには大きな扇形の背のついた籐製の安楽|椅《い》|子《す》がまくばられていて、籐椅子のそばにはそれぞれ籐製の小卓が配置されており、すべてがうちくつろいだ|雰《ふん》|囲《い》|気《き》である。篤子がすぐに立ち去りかねたのも、この明治調の雰囲気に魅せられたからであった。
ホールへ席をうつしてからも、屈託のない会話がつづいていた。それぞれ話し相手を見つけてはかってなおしゃべりを楽しんでいた。篤子のお相手は熈子がつとめた。熈子はきょうの交通事故のことをきいていた。
そこへ多岐がはいってきて、
「金田一耕助先生からお電話でございます」
その瞬間だった、ホールの空気が凍りついたのは。みないっせいに会話をやめて忠熈をみた。忠熈はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》の色をみせたのち、
「ああ、そう、それじゃむこうへいこう」
このホールにも卓上電話がある。その電話は車輪のついたワゴンのうえにのっかっていて、ホールのなかならどこへでも、移動できるようになっている。それにもかかわらず忠熈は部屋を出ていき、会話はそれきり凍りついたままだった。金田一耕助とは何者なのか、みんなそれを知っているらしいのだが。……
「お兄さま、お客さま?」
敏感な美沙はその場の空気におびえたように、低い声がふるえていた。
「ううん、なんでもないんだ。心配することなんかないんだよ」
一彦は慰めるようにささやいたが、その声はさっきまでの明るさをうしなっていた。
篤子はまっすぐに体をおこしてひとりひとりの顔色をさぐっている。自分以外の……いや、じぶんと美沙以外のすべての人間が金田一耕助という名をしっており、しかもその名はなにか緊迫した連想を、このひとたちに呼ぶものらしい。
十分ほどのちに忠熈がかえってきた。篤子は儀礼的にもここでおいとまをすべきだと思って立ちあがろうとした。しかし、そのまえに忠熈が手をあげてそれを制した。
「いや、奥さん、あなたもうしばらくここにいてください。じつはいまの電話……」
と、忠熈は困惑の色を|眉《まゆ》|根《ね》にきざんで、
「おたくからかかってきたんですよ」
「わたしのたくからとおっしゃいますと……?」
「桜の沢のおたくの別荘からですね」
「うちの別荘から……? それ、どういう意味でございましょう」
「じつはいままでいいそびれていたんですが、奥さんのお耳にまだ入っていないようですね」
「はあ、どういうことでございましょうか」
「槙恭吾氏がけさこの軽井沢で、変死体となって発見されたということ」
篤子はずいぶん長いあいだ黙りこくって忠熈の顔を|視《み》つめていた。篤子はとしに似合わずふだんから姿勢のよい女である。その篤子がいっそう背筋をシャッキリのばして、|禿《はげ》|鷹《たか》を思わせるような眼つきである。表情にはほとんどなんの変化もあらわれなかった。あまりに長いあいだ黙りこくっているので、ほかの連中のほうが息をのんだくらいである。よほどたってからやっと口をひらいた。
「また、あの神門プールでございますか」
「いや、神門プールではありません。槙氏は矢ガ崎にあるじぶんの別荘のなかで、変死体となって発見されたのです」
「変死体とおっしゃいますと?」
「青酸加里ですね」
青酸加里ということは鉄雄や熈子もまだしらないはずである。ふたりは息をのんでいたが、篤子の表情はかわらなかった。けわしい顔色がいっそうけわしくなったことはなったけれど。
「槙さんは自分で青酸加里をのんだのですか。それとも……」
「いや、警察でもそこのところはまだハッキリしないらしい。しかし、他殺ではないかという疑いで活動を開始しているようです」
「しかし、そのこととわたしどもの別荘と、どういう関係があるのでございましょうか」
「そのことですがね、電話ですからもうひとつ事態がハッキリしないんですが、警察ではそのことについて、津村真二君になにかききたいことがあったらしい。津村君、いま星野温泉の音楽祭にきていることをご存じじゃありませんか」
「あの人、去年もそうでしたわね」
篤子はどっちつかずの返事をした。
「それで警察の連中そっちのほうへいったんですね、現場から。ところがそこにも当然いるべきはずの津村君が姿をみせないんだそうです。ところが、一彦」
「はあ」
「君がさっきいってた立花君が星野温泉にいたそうだよ」
「はあ。その立花がどうかしたんですか」
「あの、失礼ですけれど、その立花さんとおっしゃるのは……?」
「立花君というのは、この一彦の高校時代の友人であると同時に、津村君のお弟子さんでもあるんですね。その立花君がこんどの音楽祭の世話役みたいなことをやってるらしい。そういうわけで立花君が津村君の別荘をしっていたんですね。津村君、去年とおなじ浅間隠だそうですね」
「あそこは貸し別荘だそうですね」
篤子はまたどっちつかずの返事をした。彼女の視線は忠熈のうえに|釘《くぎ》|附《づ》けにされており、その表情はかたくななまでに変わらなかった。
「ああ、そうですか。いずれにしても警察の連中は立花君の案内で浅間隠へいってみた。ところがそこにも津村君の姿がみえない。それやこれやで津村君の容疑が、そうとう濃くなっているんじゃないかな。金田一先生のいまの電話の口ぶりでは」
忠熈がいま口にしたさいごの一句は、かるがるしく|洩《も》らすべきではないし、またその|弁《わきま》えのない忠熈とは思えない。それにもかかわらずそれを口にしたというのは、この席にいるだれかにそのことを、聞かせておきたかったのではないか。
「あの、失礼ですけれど、その金田一先生とはどういうかたでいらっしゃいますの」
「あなた金田一先生をご存じじゃありませんか」
「なにしろ世捨てびともどうようでございますから。このひと……美沙子の成長だけを楽しみに、余生を送っているようなものでございますから」
さいごの一句は少しよけいなようである。
「いや、ごもっとも。金田一先生というのはいささか風変わりな人物でして、ひとくちにいうと私立探偵というやつですね。やつは失礼だが……」
それから忠熈がきゅうに熱心になり、
「わたしがある事情から、一昨年から去年とつづいた例の事件の真相を、ハッキリしておきたいと願っているということは、奥さんにもわかっていただけると思いますが、そのことについて金田一先生に調査をご依頼したんですね。二、三日まえにこちらでお眼にかかったもんですから。しかし、そのときは先生も考えておきましょうくらいのご返事だったのですが、けさまた三度めの事件が起こったもんですから、たってご出馬を懇請したら、どうやらお引き受けくだすったらしく、現場へ出張してくださいましてね」
「あなたも現場へお出掛けになったんですか」
「鳳君といっしょにね。まさかこの人ひとりやるわけにゃいきませんから。そこへ金田一先生がやってこられたというわけです」
「一彦さんもいっしょにいかれたんですか。その現場とやらへ」
「とんでもない。ぼくはきょう美沙ちゃんといっしょだったじゃありませんか」
「でも、ご存じはごぞんじだったんですね、こんどのことを」
篤子はなじるようなネツい調子である。
「はあ、秋山さんにきいたんです。秋山さん南原まで金田一先生をお迎えにこられたもんですから。ぼくたちもゆうべ……」
一彦のことばをみなまできかずに篤子が口をはさんだ。鋭いかんだかい声だった。
「金田一先生ってかた南原にいらっしゃるんですか」
「はあ、南原の南条誠一郎先生の別荘に寄寓していらっしゃるそうです。ちょうどその隣りが……お祖母ちゃま、どうかなさいましたか」
めったに心の奥底をのぞかせない篤子でも、このときばかりは顔色が変わらずにはいられなかった。汽車のなかで等々力警部がみたあの鼻紙袋をにぎった細い指に、筋金のような力がこもった。一同の視線が自分にあつまっているのに気がつくと、篤子はやっとつぼめた口によわよわしい微笑をうかべて、
「飛鳥さま、あなた等々力ってかたをご存じじゃございませんか。呼び名のほうは存じあげないんですけれど」
「お祖母ちゃま、等々力ってきょう長野原からこちらまで、自動車でごいっしょした……?」
極楽トンボの桜井鉄雄が籐のアーム・チェアから身を起こした。ことほどさように篤子の顔色が悪かったのである。
「はあ、上野からズーッとごいっしょでした。その方南原の南条誠一郎さまの別荘へおいでになるというお話でしたが……」
「さあ、いっこうに。呼び名のほうはわからないんですか」
「奥さん、その人、上背はぼくとおなじくらいかな。|風《ふう》|采《さい》のよい人物じゃなかったですか」
的場英明がそばから声をかけた。
「はあ、そうおっしゃれば。的場先生はそのかたをご存じでいらっしゃいますか」
「飛鳥さんはその人物をご存じじゃありませんか」
「いっこうに。有名な人物ですか」
「ある意味ではね。金田一先生の名コンビ、警視庁捜査一課の等々力警部じゃありませんか」
その瞬間、篤子の背中が椅子のなかでシャッキリのびた。左手にまきつけた黒い鼻紙袋の緒をにぎりしめ、顔は正面を切っているけれど、そうでなくともけわしい表情がいよいよけわしいものになっていた。
「ぼくもいちど会ったことがありますが、あとできくとなうての腕利きだそうです。金田一先生と等々力警部、おたがいに利用したりされたりで、そういう意味で有名な人物らしいんですね」
忠熈はなにかいおうとしたが、思いなおしたように口をつぐんだ。極楽トンボの鉄雄はそれに気がついているのかいないのか、
「それで、お祖母ちゃま、あのひと汽車のなかでそうとうお祖母ちゃまとお話をしたんでしょう。警視庁のものだと名乗らなかったんですか」
篤子はそれに返事もしなかった。おそらく怒りと屈辱のため口もきけないのだろう。
もしここに樋口操夫人がいあわせたら、もちまえの雄弁をもって立板に水とまくしたてたにちがいない。だから警察の連中なんてみんなイヌみたいなもんよ。なんでもかんでも鼻ヒコつかせて|嗅《か》ぎまわるんだから。だから人民の敵なんていわれるんだわ。etc、etc……。
「おじさん、しかし、津村先生がいらっしゃらないからって、金田一先生はなんだって桜の沢へいらっしゃったんですか」
一彦が機転のきくところを示して、その場の|気《き》|拙《まず》い空気を救いにかかった。
「ああ、そのことだがね、それについて美沙ちゃんになにか|訊《き》きたいことがおありなんだそうだ。だからそのままそちらへお引きとめしておいてほしい。これからすぐに出向いていくが、入れちがいになるといけないからというのが、いまのお電話なんだがね」
みないっせいに美沙をみた。美沙はいちどうの視線の集中砲火を一身にあびて、からだをかたくし、あどけない顔がこわばっていた。篤子だけがそのほうへ見むきもしなかったが、そのことが美沙の気持ちをいっそう切ないものにしているようである。
「美沙、あなたなにか……」
千代子が見るにみかねてなにかいおうとするのを、忠熈がそばから制して、
「鳳君、なにもいわないほうがいいよ。二、三訊きたいことがあるだけで、べつに大したことじゃないということだから」
それきり会話がとだえて三分ほどのちに、多岐がドアのところへ姿をみせて、
「金田一先生がおみえになりました。それから警察のかたがおふたり……」
忠熈が椅子から立ち上がった鼻先へ、
「やあ、さきほどはどうも、せっかくのダンランの席へへんなやつが押しかけてきやアがったと思わんでくださいよ。いや、これは失礼」
金田一耕助はあいかわらず|飄々《ひょうひょう》としている。
このヒダのゆるんだヨレヨレの|袴《はかま》をはいた、もじゃもじゃ頭の貧相な男が、金田一耕助という男であるらしいとわかったとき、篤子の姿勢はいっそう椅子のなかでシャッキリし、その眼は敵意にもえてランランとかがやいた。肩すかしをくらったような気がしたらしい。篤子はいそいで等々力警部を眼でさがしたが、警部のすがたはみえず、日比野警部補とガニ股の近藤刑事がいっしょだった。
「とんでもない、金田一先生、本日はご苦労さまでした。それじゃここでいちおうみなさんをご紹介しておきましょう」
と、忠熈のような人物がインギン、テイチョウをきわめるにおよんで、篤子はますます驚き戸惑うとどうじに、その眼はいっそう敵意をおびてけわしくなった。
「こちらが笛小路の奥さん、美沙ちゃんのお祖母ちゃまでいらっしゃる。それからそちらがおたずねの美沙ちゃん」
美沙は椅子から立ち上がっていた。まぶしそうな眼で金田一耕助のもじゃもじゃ頭をみていたが、忠熈に紹介されるとあわてて頭をさげ、それからうつむいて顔をあかくした。金田一耕助がニコニコしながら声をかけようとしたとき、そばから篤子の鋭い声がわりこんだ。
「先生、美沙がどうしたとおっしゃるんですか。この子はまだ十六でございますよ」
「いやあ、ご心配はいりません。ただ二、三おたずねしたいことがあるだけなんです。美沙ちゃん、それじゃあとでね」
「金田一先生は的場先生をご存じだそうですね」
忠熈は篤子の顔色を問題にもしなかった。
「一昨年でしたかね、お世話になったことがあります。一彦君にはさきほどお眼にかかりました」
「それじゃそちらが娘婿の桜井鉄雄、そのとなりが娘の熈子です」
一彦はそこではじめて気がついた。おじはあらかじめ金田一耕助がここへやってくることをしっていて、わざと関係者一同を集めておいたのではないか。しかし、それだとすると的場先生や自分はべつとして、熈子姉さんや鉄雄の兄貴はどういうわけか。このふたりともこんどの事件に関係があるのだろうか。その鉄雄は安楽椅子にめりこんで、ニヤニヤとものめずらしそうに金田一耕助の風采を見守っており、熈子はていねいに頭をさげると、手持ち無沙汰そうにハンケチをもてあそんでいる。
こんどは金田一耕助がかわって日比野警部補と近藤刑事を紹介した。いままで金田一耕助に心をうばわれていた篤子は、はじめてこのガニ股刑事に気がついて、籐椅子をギチッときしらせた。篤子はこの男をおぼえている。去年の秋吉祥寺のうちへ訪ねてきた男だ。
ガニ股刑事はニヤッと笑って頭をさげた。
「金田一先生、それでどういうふうにおやりになりますか。ひとりひとり別室へ招いて|訊《じん》|問《もん》とやらをなさいますか。むこうに小部屋を用意してありますが」
「それにはおよばないでしょう。せっかくこうして|寛《くつろ》いでいらっしゃるんですから、われわれも仲間に入れていただいて、談笑のうちにといきましょう。日比野さん、いかがです」
「はあ、万事先生におまかせします。ただ鳳さんには内密にお訊ねしたいことがあるんですが」
「あら、あたしならよろしいんですのよ。どんなことでもここでお|訊《たず》ねくだすってけっこうです。ただし、それが捜査上の機密ということになれば話はべつですけれど……」
「じゃ臨機応変といきましょう。さて……と、なにから切りだしたらいいかな」
金田一耕助はふかぶかと籐の安楽椅子に体をうずめて、高い天井を見あげている。典型的な木造|漆《しっ》|喰《くい》塗り仕上げという、明治の建築様式である。漆喰塗りの天井はくすんで時代がついている。周囲に浮き彫りで三重の|額《がく》|縁《ぶち》がほどこしてあり、中央にこれまた浮き彫りされた大きな花の中心から、切り子ガラスのシャンデリヤがぶらさがっている。
「いや、失礼いたしました。それじゃ、日比野さん、美沙ちゃんにおたずねするまえに、浅間隠のあの状態ですね、あれをここでいちおう説明しておかれたらいかがですか。どうせブン屋諸公がおおぜい詰めかけていたことですし、あしたの朝刊に出るであろうと思われる部分だけでもですね」
「承知しました」
若い警部補はじぶんの出番を意識したのか、ちょっと緊張して考えをまとめているふうだったが、やがてその視線を忠熈と千代子にむけると、
「あなたがたはけさ槙氏の死体が、どういう状態で発見されたかご存じですが、ああいう状態ですからわれわれが捜査の初期において、あのアトリエが犯行の現場であると思いこんだのも、やむをえなかったと思ってください」
忠熈も千代子もハッとしたらしかったが、かれらが口をきくまえに警部補が言葉をついで、
「ところが金田一先生のアドバイスやサゼストで、犯行のほんとうの現場はあそこではないのではないか。被害者はヒルマンを持っていました。そのヒルマンをかってゆうべ六時を過ぎてから、どこかへ出掛けたのではないか。そして、その出先で青酸加里をもられて、死体となってからまたあのヒルマンで、矢ガ崎へ運びこまれたのではないかという疑いが、ひじょうに強くなってきたんですね」
だれも口をきこうとするものはなかった。天井の高いこの広間ではいかに盛夏の候とはいえ、この高原の、しかも夜の八時をすぎると急に気温がさがってくる。ひんやりとした冷気が部屋のなかにみなぎりわたった。日比野警部補は度の強い近眼鏡のおくから、忠熈と千代子の顔色をさぐるように読みながら、
「しかし、われわれにはまだほんとの現場がどこだかわからなかった。いっぽう飛鳥さんや鳳さんは、われわれが至急津村氏に会う必要に迫られたということはご存じですね」
忠熈と千代子は無言のままうなずいた。
「そこでわれわれは星野温泉へいってみました。ところがそこにも当然いなければならぬはずの津村氏がいないのです。これには主催者側もふしぎに思っていました。そこで主事の篠原克巳氏と立花茂樹君……そうそう、立花茂樹君はあなたの友人だそうですね」
「はあ。立花がなにかぼくのことをいってましたか」
「いや、立花君からはなにも聞きませんでした。さっき金田一先生が飛鳥さんに電話できいてはじめてあなたとの関係をしったんです」
「ああ、なるほど、それで……?」
一彦は緊迫した一座の空気を尊重して、言葉すくなにあとを促した。
「そこでわれわれは篠原氏と立花君の話をきいているうちに、急に不安におそわれました。なにがなんでも津村氏の別荘へいってみる必要をかんじたのです。さいわい立花君がその別荘をしっていたので、同君の先導で浅間隠へいったんです。ところがそこにも津村氏の姿がみえないのみならず、その別荘こそほんとうの現場ではないかという疑いがガゼン濃厚になってきているんです。金田一先生、これでよろしいですか」
「たいへん要領のよい説明でしたよ。じゃみなさん、質問があったらジャンジャン出してください。日比野さんにしても答えられることと、答えられないこととあるでしょうがね」
「それじゃまずわたしから」
ちょっとした沈黙の時間があったのち、忠熈がきびしい眼をむけて、
「すると、ゆうべ槙氏は浅間隠の別荘へ津村君を訪ねていった。そしてそこで津村君が槙氏に青酸加里をもって殺害したのち、死体となった槙氏を槙氏のクルマで矢ガ崎へはこんでいき、そこがあたかも犯行の現場であるかのごとく、擬装しておいたということになるんですか」
「いまのところそういうことになっています。それには時間的にも合っているんです。槙氏の死亡時刻はあなたもご存じのとおり、九時から九時半までのあいだということになっています。ところが……」
と、そこで日比野警部補は昨夜のいきさつを手短かにはなしたのち、
「立花君が旧道の入口で津村氏をおろしておいて、自動車で六本辻のあたりまでひきかえしてくると停電になったといっている。ゆうべの停電は八時三分からですから、立花君が津村氏をおろしたのは八時ごろでしょう。停電の直後に旧道で懐中電灯を買った人物があることは、うちの調査にも出ていますが、人相風体たしかに津村氏です。と、すると八時三十分ごろまでには浅間隠へかえれたはずです。しかもゆうべ津村氏が浅間隠へかえったにちがいないという証拠もあります」
凍りつくような沈黙が広間のなかへ落ちこんできた。みんなめいめいじぶんの視線のさきを凝視している。ある人にはそれは無意味な凝視だったかもしれない。しかし、あるひとにはその凝視のなかにふかい意味が秘められているのかもしれなかった。日比野警部補の視線はするどく鳳千代子の顔色をとらえてはなさい。
「しかし、そりゃ……そう断定するのは少し早計じゃないかな」
重っ苦しい空気をやぶって、ボヤッと発言したのは意外や意外、極楽トンボの桜井鉄雄だった。
第十七章 |下《げ》|司《す》のカングリ
桜井鉄雄のそのことばは、あきらかにわれにもなく口をついて出たものらしかった。その言葉の意味よりもそのことばの調子が一同を驚かせた。まるで夢遊病者のうわごとみたいにボヤーッとしたつぶやきだった。鉄雄自身それを口にしてから、一同の視線がじぶんに集中しているのに気がつくと、急にあわてて、だるまさんのような童顔が火がついたようにまっ赤になった。
「いや、いや、失礼、ぼくボンヤリ考えごとしてたもんですから」
「いえ、いえ、桜井さん」
金田一耕助はニコニコしながら、
「こんなばあい素人のカンというものは、案外バカにならんもんです。あなたなにかお考えがおありのようですが、あったらいってください。日比野さんのいまのお話になにかふつごうなところがありますか」
「いやだなあ、金田一先生、あんまりからかわないでくださいよ。バカだなあ、ぼくも。つまらんことを口走っちまって」
忠熈も吹き出しそうな眼をむけて、
「鉄雄、金田一先生もああおっしゃるんだから、なにか考えてることがあるならすなおに申し上げたらどうかね」
「いやだなあ、おやじさんまでそんなことおっしゃるんですか。ようし、こうなったらひとつ愚見を申し述べてみますかな」
「あなた、およしなさいよ」
と、そばから熈子が|制《と》めるのもきかず、
「いいよ、いいよ。どうせおれのは下司のカングリ。しかし、物いわぬは腹ふくるるわざなりということばもある。ひとつきいていただくとしようよ」
と、|椅《い》|子《す》のなかで居直ったところをみると、この男、よほど極楽トンボにできているらしい。
「日比野さん、いまのあなたのお説によると、津村氏が旧道からまっすぐに浅間隠へかえったという、仮説のもとにのみ成立するんじゃないんですか」
日比野警部補はハッとしたらしかったが、忠熈は微笑をくずさず、
「なるほど鉄雄は津村君がとちゅう、寄り道をしたかもしれないというのかね」
「お父さん、ぼくはもうひとつ前後の事情がのみこめないんですが、日比野さんのお話をうかがっていると、立花君は旧道までクルマで津村氏を送っていったんですね。じゃなぜ浅間隠まで送っていかなかったんですか」
「ああ、それはね」
金田一耕助はあいかわらずニコニコしながら、
「立花君はそのつもりだったそうです。ところが旧道の入口までくると津村氏が、急にここで降ろしてほしいといい出したんだそうです」
鉄雄はしさいらしく首をひねって、
「それだとますますおかしいじゃありませんか。ぼくはゆうべこちらにいなかったんですが、立花君が六本辻までひきかえしてきたとき、停電になったというんですね」
「はあ」
日比野警部補のからだは硬直していた。
「と、すると、その時分もうそうとう荒れていたんじゃないですか」
日比野警部補とはんたいに、金田一耕助は微笑をふくんで、
「わたしはゆうべこちらにいたんですが、あなたのおっしゃるとおりですよ。だから立花君なども旧道の入口で津村氏がおりたいといい出したとき、ふしぎに思ったそうです」
「だから、津村氏はどこか寄り道をするところがあった……」
「しかし、鉄雄、それじゃ津村君はなぜ目的地まで立花君に送ってもらわなかったんだ」
「それはたぶん……いや、これも下司のカングリですが、津村氏はいきさきを立花君にしられたくなかったんじゃないですか」
「どういう理由で?」
「女性関係かなんかで……」
金田一耕助はニコニコしながら、
「日比野さん、どうやらここで美沙ちゃんの出番がまわってきたようですね」
日比野警部補はだまって唇をかんでいた。
この若い警部補は浅間隠の別荘のあの異常な情況に接した瞬間、電話の女のことを忘れていたのである。忘れていたといわれても仕方がない。そのことはまだ上司にも報告してなかったし、近藤刑事にもいってなかった。
日比野警部補は物問いたげな近藤刑事の視線にぶつかると、自己嫌悪をおぼえずにはいられなかった。そのこと自体はたいしたことではないかもしれない。いま桜井鉄雄のいったことはかれ自身のいうように、下司のカングリかもしれない。津村真二はまっすぐに旧道から浅間隠へかえったのかもしれない。しかし、それだからといって電話の女のことを忘れていたということが、許されてよいということにはならないだろう。まだ若くて良心的な日比野警部補はきゅうに弱気になっていた。
「金田一先生、そのほうは万事先生に……」
「いけませんよ。日比野さん、これはあなたの事件ですからね。ただいっときますが美沙ちゃんは、感じやすい年頃ですからできるだけお手柔かに」
「金田一先生、美沙がどうかしたんですの」
そばから気づかわしそうに声をかけたのは千代子であった。しかし、これはむしろ千代子より、篤子が切りだすべき質問ではないかと金田一耕助には思われた。その篤子の唇がついに開かれないのをみて、金田一耕助はさりげなく笑った。
「なあに、いま桜井さんが思い出させてくださるまで、われわれが忘れかけていたことがあるんです。そのことについて美沙ちゃんが、いくらかしってるんじゃないかと思われるんですね。さあ、日比野さん、どうぞ」
日比野警部補は近藤刑事が、メモをとる用意をしているのを横眼で見ながら、
「はっ、それじゃ……お嬢さん」
と、開きなおって、
「あんたきのう昼過ぎ旧道で槙さんに会いましたね」
千代子がまあと驚き、篤子の|眉《まゆ》がピクリと動いた。美沙はベソをかくような顔をして、
「お|祖《ば》|母《あ》ちゃま、ごめんなさい、ごめんなさい。美沙、さびしかったんですもの」
「泣くことはないんですよ、お嬢さん、だれもあんたを|叱《しか》りゃしない。だけどそれ偶然? それともお約束がしてあったの」
「ううん、約束なんかじゃないわ。約束だなんて。美沙旧道へ本を買いにいったんです。そしたらおじさまが自動車のなかから声をかけておりてきたんです。いえ、あの、おりていらしたんです」
美沙は祖母の顔色をうかがいながらいいなおした。篤子はだまってそっぽをむいている。
「それでふたりで津村さんの音楽祭をききにいこうということになったんですか」
「はい」
「それ、どちらからいい出したの」
「もちろん槙のおじさまです。美沙、そんなことちっともしらなかったんですもの」
「しかし、美沙ちゃんもいってみたい気になったんですね」
「美沙さびしかったんです。津村のおじさまにも会いたい……いえ、お眼にかかりたかったんです。みんなみんな美沙にはとても優しくしてくだすったんですもの」
美沙はシクシク泣き出した。千代子がふかい|溜《た》め|息《いき》をついたのが印象的だった。
「しかし、そのときの槙のおじさんは音楽祭の切符をもっていなかったんでしょう」
「はい」
「おじさまどうしました」
「そうそう、そのときどこかのお兄ちゃま、いえ、小僧さんが通りかかったんです。おじさまその人に切符をとってくるように頼んだ……いえ、あのお頼みになったんです」
美沙のことばの選びかたには|惨《さん》|憺《たん》たるものがあった。目上のものにはいつも敬語を使わなければならないが、ご用聞きふぜいをお兄ちゃまなどと呼んではいけないらしい。
「そのときおじさま鍵を小僧さんにわたしゃしなかった?」
「そうそう、その切符アトリエにあったんです。おじさまアトリエの鍵をおわたしになったんです」
「おじさまその鍵だけしか持っていなかったの」
「いいえ、ほかにもたくさん持っていらっしゃいました。鍵はみんな銀の|環《わ》にぶらさがっていたんです。おじさまそンなかからアトリエの鍵だけはずしてわたし……おわたしになったんです」
「それから美沙ちゃんたちどうしました」
「ジローへいって紅茶をのみながら待っていました。そしたらまもなくお兄ちゃん、いえ、あの、小僧さんが切符を持ってきたんです」
「そのとき小僧さんがかえした鍵をおじさんはどうしました。もとの鍵束にはめましたか」
美沙はふしぎそうな顔をして警部補の顔を見ていた。涙はもうかわいていた。美沙はちょっと考えたのち、
「そうそう、おじさまその鍵をズボンのここのポケットにおしまいになりました」
と、ウォッチ・ポケットのある場所を示した。
これでどうやらアトリエの鍵の問題は解決したようである。美沙よりも警部補のほうが額に汗をかいている。
「それから美沙ちゃんは槙のおじさんと、星野温泉へいったんですね。星野温泉ではそのときなにをしていましたか」
「そうそう、美沙、当てがはずれてガッカリしたんです。音楽がきけると思っていたのに、音楽は夜だけで昼間はお話だけなんですもの、でも、美沙、とっても楽しかったわ」
「なにが楽しかったんですか」
美沙はちらと祖母に眼をやると、|悪《いた》|戯《ずら》っぽく首をすくめて、
「パチンコ」
金田一耕助はおもわず吹き出しそうになった。そういえば星野温泉のロビーには、パチンコが二、三台並んでいた。金田一耕助はやさしい眼を美沙にむけて、
「美沙ちゃんパチンコはじめて?」
「ええ、槙のおじさまがやってみなさいといって玉をくだすったのでやってみたの。おじさまとてもおじょうずよ。いくらでもジャラジャラお出しになるんですもの」
「美沙ちゃんどうだった?」
「美沙はだめ、すってばかりいたわ」
「美沙子!」
きめつけるように篤子がいった。美沙はたちまちベソをかくような顔になったが、それでも挑むような眼をむけて、
「お祖母ちゃま、ごめんなさい。でも、美沙はもう十六よ、人並みのことはしてみたいの」
「パチンコなんて人並みの人間のすることではありません」
「おやおや、これはご挨拶ですね。ぼくなんか学生時代学校をサボって、パチンコ屋に入り浸りになってましたよ」
極楽トンボの鉄雄がいった。
「鉄雄はいまでもやるんじゃないのか」
「パチンコならぼくだってやりますよ」
一彦もニコニコしながら助け舟を出した。
「でも、あなたがたは殿方ですから」
「あら、お祖母ちゃま、パチンコならあたしもやりますのよ。鉄雄さんに仕込まれたんですの。この人ったらデートするとき、いつも待ち合わせの場所としてパチンコ屋を指定するんですもの。でも、あれ、やってみると楽しいわねえ」
金田一耕助たちが一座にくわわってから、熈子が発言したのはこのときがはじめてだった。熈子はいくらかはしゃいだ調子になっていたが、すぐ後悔したように声をおとして、
「美沙ちゃんはお気の毒ね、学校へもいってらっしゃらないんですから」
金田一耕助がそのことばをききとがめて、
「美沙ちゃんは学校へいってないんですか」
篤子がなにかいうかと思って待っていたが、彼女はきびしい顔をしてきっと唇をむすんだままだった。仕方がなしに千代子が答えた。
「その子はからだが弱いものですから。小児|喘《ぜん》|息《そく》なんですの。それで、小学校の二年から三年へあがるとき大幅に出席日数が足りなくて、もういちど二年生をやらなければならなくなったんですの。それをお祖母ちゃまがふびんがられて、それきり学校を辞めさせて、ご自分で家庭教育してくださいましたの。お祖母ちゃまのご苦労はたいへんなんですのよ」
「なるほど、それは……」
金田一耕助はだれにともなく、もじゃもじゃ頭をペコリとさげると、
「それじゃ、日比野さん」
「ああ、そう、それでと……」
と、警部補はじぶんの手帳に眼をおとすと、
「パチンコのあと美沙ちゃんは、津村のおじさんに会ったんですね」
「槙のおじさまが会いたいといったんです」
「だれに……?」
「名まえはしりません。お兄ちゃまでした。こちらのお兄ちゃまくらい」
と、一彦のほうをふりかえった。
「そしたら津村のおじさまが出てこられたんです。美沙の顔をみるとびっくりして……いえ、びっくりなさったんです。でも、すぐニコニコして、よく来たねえ、と美沙の肩をたたいてくださいました。美沙、津村のおじさまにとてもかわいがっていただいたんです。槙のおじさまにも」
「阿久津のおじさまはどうだったの」
金田一耕助がたずねると、美沙はにわかに眼をかがやかせて、
「阿久津のおじさまは美沙の命の恩人なんです」
「それ、どういう意味」
「ああ、それはこうなんですの」
千代子がそばからひきとって、
「あれはあたしがまだ阿久津さんといっしょだった時分ですから、二十五年から二十八年までのあいだのことですけれど、この人白血病で輸血をしなければならなくなったことがあるんです。たまたま阿久津さんとこの人の血液型がおなじだったものですから、あのかたが輸血してやってくださいましたの。そのことをこの人ひどく恩にきているんです」
美談である。当時の阿久津謙三はそれほど美沙を愛していたのであろう。と、いうことは、それほど千代子を愛していたということになるのではないか。
「なるほど、それはよいお話ですね。じゃ、日比野さん、あとをつづけてください」
「ああ、そう、それで美沙ちゃんたちはどこで津村のおじさんに会ったんですか」
「喫茶室です」
「ふたりはどんな話をしていましたか」
「べつに。久しぶりだったとか、元気ですかとか、音楽の話とか絵のお話だとか、そんなお話ばかりでした」
「そのとき津村のおじさん上衣をぬいでいたそうだが、その上衣はどうしてました」
「上衣……? ああ、そうそう、おじさま上衣を椅子の背にかけて、ときどきポケットからタバコを出していらっしゃいました」
「おじさん上衣のポケットに鍵をいれてたそうだが、美沙ちゃんしらない?」
「いいえ、しりません」
「おじさんが上衣のポケットから鍵を落としたのを、だれかが拾ったとか、だれかがそのポケットからこっそり鍵を盗んだなんてこと、美沙ちゃんしらない?」
美沙は眼をまるくして、
「いいえ、しりません」
「それじゃもうひとつ、槙のおじさんと津村のおじさんが、こんやどこかで会おうなんて約束していなかった?」
「いいえ、しりません。そんな約束してなかったと思います」
「美沙ちゃんはズッとそこにいたの。はじめからおわりまで」
美沙はちょっと首をかしげて、
「美沙、いちどおトイレへいきました。それから……」
と、祖母の顔色をうかがいながら、
「ちょっとパチンコしたんです。おじさまにいただいた玉がのこっていたものですから」
日比野警部補は金田一耕助のほうに眼を走らせた。そのあいだに約束ができたのではないか、槙と津村とのあいだに。
「それじゃさいごにもうひとつ。津村のおじさんのところへどこからか、電話がかかって来なかった?」
「ええ、それで美沙たちかえったのです」
「だれがその電話取りついだの」
「さっきのお兄ちゃまです」
「お兄ちゃまどういったの。男の人からだといったの、女のひとだといったの?」
「女のひとだといい……おっしゃいました」
日比野警部補はそこで美沙から眼をはなすと、一同の顔を見まわした。かれはかくべつ千代子の顔に視線をとめたわけではないが、そうしたい誘惑をおさえきれないらしいということは、だれの眼にもあきらかだった。下司のカングリの桜井鉄雄はいかにも居心地が悪そうだった。みんなしばらく黙っていた。
「そのときの津村のおじさんのようすはどうだった? すぐ立っていきましたか」
美沙はまた小首をかしげて考えたのち、
「いいえ、おじさまはしばらくもじもじしていました。そうそう、そのお兄ちゃまがお断りしましょうかといったんです。そしたらおじさまお立ちになったんです。それで美沙たちかえったんです」
「お兄ちゃまは女のひとの名前をいいましたか」
「いいえ」
「ではなぜ津村のおじさんもじもじしたんでしょう。ひょっとするとその女のひと、槙のおじさんもしってる人じゃなかったかしら」
美沙はふしぎそうに警部補の顔をみていたが、ふいにハッとしたように千代子のほうに眼を走らせると、すぐ長い|睫《まつ》|毛《げ》をふせて、
「そんなこと美沙にはわからないわ。お兄ちゃま名前をいわなかったんですもの」
美沙の調子はいくらかヒステリックになっていた。千代子はこわばったような顔をしていたが、だれもそのほうを見ようとするものはなかった。篤子と近藤刑事以外は。
「それから美沙ちゃんはおうちへかえったの」
「いいえ、旧道のジローまで槙のおじさまに自動車で送っても……いただいたんです」
「ジロー? ジローになにかあったの」
「自転車をあずけてあったんです」
「ああ、それで……じゃジローのまえで槙のおじさんと別れたの」
「はい」
「美沙ちゃんが自転車でおうちへかえったのは何時ごろだった?」
「六時ちょっとまえでした。ゆうべ里枝ちゃん……うちのお手伝いさんです。里枝ちゃんが盆踊りにいくことになってたので、美沙大急ぎでかえったんです」
「そうすると女のひとから津村のおじさんに電話がかかってきたの、五時半ごろということになるんじゃない」
美沙はまた千代子のほうに眼を走らせたが、その眼には多分に|怯《おび》えの色がみえていた。
「美沙にはよくわかりません」
と、ヒステリックにいってから、
「でも、たぶんそうだと思います」
と、低い声でこたえた美沙の額が、こんどはぐっしょり汗ばんでいた。日比野警部補は満足そうに金田一耕助をふりかえると、
「先生、あなたなにかご質問は……?」
「いや、たいへん結構でした。あなたのご質問に尽きると思います。ところでどうでしょう。美沙ちゃんも疲れているようだから、ここらでお祖母ちゃまとごいっしょに引きとっていただいたら」
金田一耕助のことばもおわらぬうちに篤子が席を立っていた。
「美沙子、それじゃおいとましましょう」
その瞬間、美沙の|瞳《ひとみ》に恐怖の色がはしった。立ちあがった美沙のからだは、いくらかふらふらしているようである。悲しげに祖母を見て、
「お祖母ちゃま、美沙、あしたのゴルフ大会へ出てはいけないんですの」
「ああ、いらっしゃいよ、美沙ちゃん」
と、忠熈が機先を制するように、
「一彦兄さんがめんどうみてくださるからね」
「でも、午前中はだめですよ、あなたにとって大事なことがありますからね」
大事なこととは泰久のための仏事であろう。
「じゃ、美沙ちゃん、正午頃クラブ・ハウスへいらっしゃい。みんなそこでお昼ご飯をたべることになってるんだ。お昼からお兄ちゃんとコースをまわろう」
一彦はそこでいたずらっぽい眼を金田一耕助にむけると、
「先生、あなたいかがですか、ゴルフは?」
「わたしはだめ、ウンチですから」
「ウンチとはなんですか」
「運動神経音痴、これ即ちウンチでさあ」
いっしゅん虚をつかれたのである。一同はあっけにとられたように金田一耕助を見た。金田一耕助はケロッとしている。きゅうに熈子が吹きだした。速記をおわった近藤刑事が大声をあげて笑いだした。日比野警部補でさえ吹きだしたくらいだから、他はおしてしるべしである。笑わなかったのは篤子と美沙だけであった。忠熈もおかしさをかみころしたような顔色で、
「なるほどねえ。先生のそのお|服装《み な り》を拝見すると、お世辞にも運動神経抜群でいらっしゃるとは思えませんねえ」
「でしょう。にもかかわらずこういう男に、ゴルフをすすめるトンマ、いや、失礼、物好きなごじんもいらっしゃるんですからね」
「おっしゃいましたね。だけど、先生、ぼく推理小説のファンなんですが、推理小説によくあるじゃありませんか。ほら、トランプや碁や将棋によって性格を分析し、そこから犯人を割り出すというやつ。ゴルフをやってるところをごらんになると、案外参考になるんじゃないですか」
金田一耕助は一彦の眼をじっと視つめて、
「なるほど、それじゃくにのおふくろに相談してみましょう。おふくろがいいといえば、ひとつ見学させていただきますかな」
「先生、ご両親はご健在で?」
的場英明がたずねた。
「いやあ、とっくの昔に墓の下。だからこんな浅ましいショウバイしてられるんです」
また一同は笑いころげたが、篤子だけがわらわなかった。かえってますますけわしい顔色になり、切り口上でいった。
「それじゃ、あたしどもはこれでおいとましましょう」
「奥さん、ちょっとお待ちください。秋山に送らせましょう。夜道は物騒ですから」
忠熈がベルをおしたとき熈子も立ちあがって、
「あなた、あたしたちも失礼しましょう」
間一髪、
「熈子、鉄雄ももう少しここにいなさい。そういちどに立っちゃ金田一先生に悪い。それに鉄雄の下司のカングリもなかなかよかったじゃないか。あっはっは」
金田一耕助は無言のまま、正面の壁にかかっている大きな板の額を見ていた。いずれは明治の大家の文字なのだろう。
「万山荘」
と、いう字が浮き彫りにされて黒くおどっていた。
けっきょく篤子と美沙だけが、秋山卓造の運転する自動車で送られていくことになり、ほかの人たちはあとに残った。
第十八章 誰が青酸加里を持っているか
夜もだいぶん更けてきた。万山荘の広間には、高原の冷気がしだいにきびしさをましてくる。ふたり抜けたということは、ふたりぶんの吐く息吸う息がへったということである。たったふたりのことだけれど、急にさむざむとした空気が一同をくるみはじめた。
「金田一先生、あなたご酒は?」
「ありがとうございます。飲めばのめないことはございませんが、今夜は遠慮しときましょう。こう見えてもわたしゃショウバイの最中ですからね。それよりなんでしたら温かいコーヒーでもいただきましょうか」
「承知しました」
まもなく多岐の手によってコーヒーが一同にくばられた。温かいコーヒーの苦味がこころよく神経を|刺《し》|戟《げき》して、みんな身心のやすらぎをおぼえたようである。
「さて……と、日比野さん、これからがあなたにとって本番なんでしょう。そろそろおはじめになったら……」
「はあ、それでは……」
と、日比野警部補もコーヒーのカップをおくと、千代子のほうにひらきなおって、
「鳳さんにおたずねしたいことがあるんですが、なんでしたら別室をお借りして……」
「いいえ、あたしでしたらここで結構ですよ。どうぞおはじめになって」
ノートと鉛筆を用意している近藤刑事を見ながら、千代子は落ち着いていた。昼間みせたような気負いはもうそこにはなかった。警部補のほうでも昼間の|鋭《えい》|鋒《ほう》をおさめて、だいぶんおだやかになっているのを、忠熈は興味ふかく見まもっていた。
「それじゃあもういちどお|訊《たず》ねしますが、あなたがきのう軽井沢へお着きになったのは?」
「それはきょう昼間申し上げたとおり、あたしがきのうこちらへまいりましたのは、軽井沢着四時五十分の列車でございます。それからすぐにタクシーを走らせましたから、ホテルの一室に落ちついたのは、五時五分ごろだったのじゃないのでしょうか」
「あなたそれからどこかへお電話は?」
「これも昼間申し上げたとおり、ホテルの一室に落ち着くと、すぐ忠熈さまにお電話しました」
「それ以外にお電話は?」
「日比野さん、あなたのおっしゃりたいことはよくわかっています。五時半ごろ津村さんに電話したのはあたしじゃないかとおっしゃりたいのでしょう。しかし、それはあたしじゃありません。あたしであるはずがございませんわねえ」
「と、おっしゃいますと……?」
「だって忠熈さまはそれじゃそちらへいって、いっしょに食事をしようといってくださいました。それが五時十分ごろのことでした。あたし大急ぎでバスをつかい、お召しかえもしなければなりませんから、電話が切れたとき時計を見ました。そういう女がほかのかたに電話をするでしょうか」
「そのことだがねえ、日比野君、ここでぼくにちょっと発言させてくれないか」
そばからゆったりと声をかけたのは忠熈である。日比野警部補はおどろいたようにそちらをふりかえったが、
「さあ、どうぞ」
忠熈は微笑をふくんだまま、やおら椅子のなかで身を起こすと、
「このひときのうぼくのところへ電話をかけてきて、一身上の悩みについて相談にのってほしいというんだ。ところがゆうべの停電だろ、ぼくはまだその悩みというのをきいていないんだ。しかし、聞かなくてもわかっているんです」
「と、おっしゃいますと……?」
「日比野君、君、テレビを持っているだろうね」
「はあ、テレビならわたしも……」
忠熈が妙なことをいいだしたので、日比野警部補はけげんそうな顔色である。
「そちらの刑事さんはどうです」
「いやあ、うちの女房ときたひにゃ、ちかごろテレビに夢中でさあ。なんとかいうよろめきドラマにですな」
近藤刑事はわざとおどけてみせたが、金田一耕助は興味ふかげに忠熈の顔を見守っている。かれにもまだ忠熈がなにをいおうとしているのかわからなかった。
「問題はそれなんだ、刑事君、いまのところ日本映画はまださかんだ。去年日本映画が動員した観客数は新記録だそうだ。ことしはさらにそれをうわまわるだろうといわれている。しかし、アメリカじゃ映画はもう下火だそうだ。そちらの刑事さんがいまいったとおり、どの奥さんもテレビのまえに|釘《くぎ》|附《づ》けになって、映画館へ足をはこばなくなったんだね。いまに日本もそうなるよ。いまテレビの受像機の生産はぐんぐんうわむいている、それだけコストも安くなるだろう、ことしからカラーもはじまった。だからいまに日本映画もどんどんテレビに食われていくだろう。そうなったらこのひとなんか、イの一番にお払い箱だろうよ」
「まさか……」
「いや、日比野君、ほんとうだ。このひとおそらくギャラが最高にたかいにちがいない。映画が斜陽化したとき、こういうひとは一番に敬して遠ざけられるだろうね」
「よくご存じですのね、そういうのをあたしどもの世界ではホされると申しますの」
千代子もほほえみながら|相《あい》|槌《づち》をうったものの、その顔色は忠熈の心を計りかねているふうである。
「そう、君なんかいちばんにホされるくちさ。そこへもってきてこのひと、いま重大なジレンマにおちいっているんです」
「重大なジレンマというと……?」
「鳳君、君のところへいま舞台からいい話がきているだろ」
「あら!」
こんどは千代子もおどろきの眼を見張って、忠熈の顔を見なおした。
「あなた、それもご存じでしたの」
「鳳君」
忠熈はちょっと力をこめて、
「ぼくは君の周囲にスパイを放ってるわけじゃないよ。しかし、君もあの方面じゃ大物だし、わたしも世間がひろい。いろんな情報がはいってくる。だけどあの話どうなの。君をシンに一座をくんで大劇場をあけようという話さ」
「なにもかもご存じでしたのね」
千代子は溜め息をついた。しかし、その溜め息はまんざらうれしくはない溜め息ではないように、金田一耕助にはうけとれた。
「それはもちろん光栄のいたりですし、女優|冥利《みょうり》につきるお話だと思っております。でも、率直にいって自信がございませんの」
「そんなことはないだろう。君は舞台女優としてもりっぱに成功するよ、君は芝居でいう花をもっている役者だし、新劇とはいえ舞台経験ももっているんだからね」
「でも、あたしひとりの力で大劇場を二十五日間、一杯にしてみせるという自信はちょっと……失敗するとみじめですわねえ」
「で、その話いつまでに返事をしなければならないことになってるの」
「二十日までにほしいとおっしゃいますの。むこうさまにも来年のスケジュールがございますから。それでもうすっかり迷ってしまって、矢も|楯《たて》もたまらずこちらへとんできたんですの」
忠熈はいたずらっぽい微笑をふくんだ眼で千代子を見ながら、
「しかし、その答えならゆうべ出たんじゃないのかね」
「あら!」
千代子ははじかれたように忠熈を見た。しばらく呼吸をつめて相手のわらっている眼を見ていたが、やがてその顔がほのおを点じたようにもえあがった。やがてふかい溜め息とともに、
「じゃ、なにもかもご存じのうえのことだったんですのね」
「おれ、えろう信用がないんだね」
「あら、すみません」
「その話、あとでゆっくり打ち合わせしようじゃないか」
さすがに一同のてまえ忠熈もうすく頬をそめていたが、やがて警部補のほうへむきなおって、
「と、そういうわけで日比野君、このひと非常にせっぱつまった気持ちでわたしのところへ電話をかけてきたんだ。声の調子でわたしにはすぐわかった。そういうひとがわたしと会う約束ができたあとで、ほかの男に電話をかけるだろうか」
日比野警部補はこまったように金田一耕助をみた。金田一耕助がその視線にこたえてなにかいおうとしているとき、桜井鉄雄がギコチなく籐椅子をきしらせながら口をはさんだ。
「いや、それについて、ぼくはその……ねえ、日比野さん」
さすがの極楽トンボもひどく居心地が悪そうである。
「はあ……?」
「さっきのぼくの|下《げ》|司《す》のカングリですがね、あれはあくまで下司のカングリであってけっきょくあれはその……結論からひきだされた仮説にすぎなかったんです」
「と、おっしゃいますと……?」
「いや、その……津村氏というひとですがね、あのひとの人柄からして殺人……それも青酸加里による殺人といえば、計画的犯罪いうことになるんじゃないですか。金田一先生」
「それはそうでしょうねえ、それで……?」
「あのひと……津村氏にそんなまねができるわけがないと思ったもんですから、つい、その、余計なことをいっちまったんです」
「あなたは津村氏をご存じなんですか」
日比野警部補が疑わしそうに眉をひそめた。
「いちど会ったことがあるんです。熈子もいっしょでしたがね」
「あら、まあ、いつ、どこで……?」
千代子もおどろいたように鉄雄を見た。鉄雄もようやく落ち着いて、
「去年の秋でした。日展の洋画にぼくの友人が入選したんです。それで熈子をひっぱって見にいったんですが、そこへ津村氏も来合わせていたというわけです。津村氏には女性の同伴者がありました。その女性というのが大学時代の熈子の同窓なんです」
「お父さまもご存じでしょう、山崎さんのお嬢さんの智子さん」
熈子もそばからことばを添えたが、忠熈はただ冷淡な調子で、
「ああ、そう、それで……?」
と、鉄雄にあとをうながした。
「その智子さんの紹介で四人でお茶をのんだんです。半時間ほどさしさわりのない話をしましたかね。しかし、ぼくとしちゃ無関心ではいられませんや、津村氏というひとに。いろんな意味でね。しぜんぼくはぼくなりに大いに観察眼をはたらかせたんですが、あのひとお気の毒なくらいウブで善良ですが、また気の毒なくらいオッチョコチョイですね」
「兄さん、するとあなたに似てらっしゃるんですか、津村先生というかたは?」
すかさずそばから一彦がまぜっかえしたので、きびしい忠熈の唇がおもわずほころんだ。
「なにを、この野郎、あっはっは。もっともむこうさまのほうがはるかにスマートでいらっしゃるが、オッチョコチョイはぼく以上だと思ったね。オッチョコチョイで悪ければそそっかし屋さんだ。そうじゃないですか、鳳さん」
「それはもう有名ですの、それに早トチリをするひとですの、善良なことはこのうえもなく善良なひとなんですけれど」
「ですから、あの人に青酸加里殺人なんてやれるはずがない……と、いう結論がさきに立っての下司のカングリですから、ぼくの名論卓説にあまりこだわらないでくださいよ」
極楽トンボ先生大いに恐縮の態である。
「金田一先生、立花はどういってるんですか、その点について?」
一彦がそばから|訊《き》いた。
「そうそう、立花君も桜井さんとおなじ意見でしたね。あのひと気も狂乱のていたらくでしたよ、あっはっは」
「気も狂乱とおっしゃいますと……?」
「いえね、青酸加里というものは、アチャラでも売ってる、コチャラでも売ってるてえ品ではないであろう。それとも軽井沢の薬局では、そういうブッソウなクスリを手放しで売っているのか、もしそれならば取り締まり不行き届きのかどで、長野県の警察を告訴してやると、気も狂乱のていたらく……一見おとなしそうだが、いざとなると激情家なんですね、彼氏」
「しかし、先生、それ一理あるんじゃないですか」
「一理も二理も大ありですね。だから問題はだれが青酸加里をもっているか、あるいは持っていたかということ、もうひとつは津村氏がなぜかくも大勢の理解者をもっているにもかかわらず、姿をくらましたかということですね」
「先生はそれについてなにかお心当たりが、おありなんじゃないんですか」
「わたしが……? とんでもない」
と、一彦の眼を見すえながら、
「わたしゃまだ事件に首をつっこんだばかりじゃありませんか。わたしがいかにメイ探偵たりといえども、そうは問屋がおろしませんや。ローマは一日にしてならずと申しましてな」
金田一耕助、妙なところで妙な警句をもち出した。
「それはそうと、金田一先生、あなたの相棒の等々力警部が、こちらへきてるそうじゃありませんか」
そばからニヤニヤしながら口を出したのは的場英明だった。これには金田一耕助もびっくりしたらしく目玉をクリクリさせながら、
「あれ、的場先生、あなたそれをどうしてご存じなんで」
「あれ、じゃ、警部さん、まだあの話をしてないんですか」
「どんな話……?」
「あなた警部さんに会ったことは会ったんでしょう」
「ええ、それは会いましたよ、あの警部さん、変幻自在でしてね、われわれが浅間隠へかけつけたら、ちゃんと先まわりして待っておいでなすった。しかし、事件がこれまた変幻自在でしょう。まだろくすっぽお話するひまがないんです。しかし、的場先生はどうしてそれを……?」
「その話ならわたしがしましょう。警部さん、罪でしてね、おかげで笛小路のお祖母ちゃま、だいぶんおカンムリでした」
と、極楽トンボの桜井鉄雄がさっきの名誉回復とばかりにおもしろおかしく、しかし、抜け目なく相手の顔色をよみながら、きょうのいきさつを語ってきかせ、かつまた、それがいかにして正体がバクロしたかという|顛《てん》|末《まつ》を披露すると、金田一耕助はいよいよ目をシロクロさせて、
「それは警部さんチャクイですね。そういうのを隠すより|顕《あらわ》るるというんでしょう。しかし、その話まだ聞いておりません。そのひまがなかったんです、あれやこれやでね」
「金田一先生、このあいだわたしがこんどの事件の調査を依頼申し上げたとき、二、三日うちに警視庁から人がくる、そのひとがこんどの事件のことをしってるかもしれないから、その人の意見をきいてからとおっしゃったが、それが等々力警部のことですか」
「そうです、そうです、御前、ただしぼくもあの人がどのていど、こんどの事件に首をつっこんでいるかまだよくしらないんです。ただいちどこういうことを訊かれたことがあるんですね。自動車の方向指示器でひとを死にいたらしめるということが、意識してできるものだろうかと。ぼくはすぐに、ハハア、阿久津謙三さんの事件だなと思ったもんですから、多少はこんどの事件についてかかりあいがあるんじゃないかと思って、ああお答え申し上げたんです。そうですかねえ、警部さんがねえ、笛小路のお祖母ちゃまとねえ」
「しかし、笛小路の奥さんはなぜそれをさっきおっしゃらなかったんです」
日比野警部補はむしろそのほうが心外なようすであった。
「それはねえ、日比野さん、母はひどく心を傷つけられたんです。あのひとは誇り高き人ですから。尾行でもされたんじゃないかと思ったんじゃないでしょうか」
「それはありません、絶対に。だってあの人が週末にくるということは、御前にもいってあるくらいですから。ようし、それじゃこんやどうせ南条の別荘で、枕をならべて寝ることになってるんですから、ひとつとっちめてくれましょう」
「だいぶんご親密のようですね」
的場英明はニコニコしていた。
「助けられたり助けたり、とんとんとんからりの隣組みたいなもんでさあ」
近藤刑事はプッと吹き出したが、それ以上は口をきかなかった。
金田一耕助は急に忠熈のほうへむきなおって、
「御前、こんどはあなた泥を吐いてください」
「泥を吐けとは……?」
「あなたちかごろ槙氏にお会いになりましたね」
忠熈は破顔一笑して、
「ああ、あの考古学の蔵書、日比野君」
「はあ」
「まあ、勘弁したまえ。あのときは君もぼくもいやに戦闘的になっていたからね、ついいわずにすませたんだが、一昨々日、槙君がひょっこりここへ訪ねてきたんだ。用件はあのひと白鳥会の重鎮だろう、ところが去年の秋の展覧会には制作をサボってついに出品しなかったんだそうだ。ことしは名誉|挽《ばん》|回《かい》のためにもぜひ出品したいんだが、どうも感興がわかなくて困る。考古学の本でもみれば、なにかインスピレーションがえられるかもしれない、そういってきたんで、ぼくの乏しいコレクションをお眼にかけたり、本をご|用《よう》|達《だ》てしたりしたんだがね」
「しかし、なにかほかにお話は……?」
「いや、それなんだがね、ぼくもインスピレーション云々はたんなる口実で、なにかほかに話があるんだろうと思っていた。ところがいまになって考えてみても思い当たるふしがない。さっきもこのひとに聞いてみたんだが、そりゃ津村君なんかにくらべると、駆け引きのあったひとだそうだ。と、するとなにかいいたいことがあってやってきたものの、けっきょく、いいそびれてかえったということになるんだろうねえ」
「それはなにかあったんでしょうねえ。槙氏がここへくるということは、そうとう勇気を要することでしょうからねえ」
金田一耕助は悩ましげな眼をしてしばらく考えこんでいたが、急にいたずらっぽい眼になって忠熈をみると、
「ときに、御前、あのマッチの棒の排列はどうでした。あれやっぱり|楔《せっ》|形《けい》文字でしたか」
忠熈はふいに大きく眼をみはった。大きく見張ると忠熈の眼は陶器の皿のような光沢をおび、それが相手を|畏《い》|怖《ふ》せしめるのである。だがそのつぎの瞬間的場英明と顔見合わせて、|弾《はじ》けるような笑い声をあげた。
「これは恐れ入りました。あれこそ下司のカングリもカングリ、大カングリでした」
的場英明も笑いをかみころしながら、
「金田一先生、わたしも浅学にしてああいう楔形文字にお眼にかかったことはありません。しかし、怖いですねえ、先生は」
「なあに、ぼくなんかも麻雀に凝ってたころは、ひとの顔がみんなパイパンにみえましたからね」
「金田一先生」
そばからすかさず一彦が口をはさんで、
「先生はどうなんですか、あのマッチの軸の排列。ぼくもさっきおじさんから意見をきかれたんですが、先生はあれについてなにかお考えは……?」
「さあてね」
金田一耕助は聡明そうな青年の顔をまじまじみながら、
「あれ、なにか意味があることはあるんでしょうねえ。しかし、ああかたちがくずれていちゃ……それにあれほんとの現場からもってきて並べたとしても、果たしてもとどおりならべたかどうか疑問だと思うんですよ。しかし、一彦君になにか意見は……?」
「とんでもない、先生がたにおわかりにならないものが、ぼくなんかにわかりっこありません」
金田一耕助は無言のまま、なんとなくドギマギしている一彦を見ていたが、やがてその視線を千代子にうつすと、
「じゃ、ここで鳳さんにおききしたいことがあるんですが……」
と、いってから急に気がついたように、
「日比野さん、あのことぼくからお訊ねしてもいいでしょうか」
「ええ、どうぞ、どうぞ。万事先生におまかせいたします」
言下に日比野警部補が同意をしめしたのは、こういう連中を相手にするには、金田一耕助のようなノラリクラリ調のほうがよいと思ったのかどうか。近藤刑事はちょっと緊張したような眼を、千代子のおもてにすえている。
「金田一先生、どういうことでございましょうか……」
近藤刑事の緊張が感染したのか、千代子もちょっと改まった口調になっていた。
「いえね、あなたひょっとするとサスケという人物をご存じじゃないでしょうか」
第十九章 佐助という名のピエロ
金田一耕助はその名前をできるだけさりげなく切り出した。相手の反応をたしかめるつもりであった。期待に反してその反応はごく微弱にしかあらわれなかった。
「サスケ……?」
千代子は口のうちで|呟《つぶや》いて、ぼんやり金田一耕助をみていたが、とつぜんなにか思い当たるところがあるらしく、大きく眼を見張って相手の顔を見なおした。
「ご存じなんですね」
「はあ、もしやあのかたのことではないかと思いますけれど、それがいまごろ、どうして……?」
警部補や刑事の視線がくいいるように、自分のうえに注がれているのに気がつくと、千代子はなかば驚き、なかば|呆《あき》れ、なにか戸惑いをかんじているふうである。
「鳳さん、|差《さし》|支《つか》えがなかったらそのことについてお話しねがえませんか。われわれはまだサスケという発音しかしらないんですがね」
「それはいっこう差支えのないかたなんですけれど、金田一先生、そのかたとっくの昔に亡くなっていらっしゃいますのよ。それがいまごろどうして問題になるんでしょうか。こんどの事件に関係がおありだとでも……?」
「いや、ごもっとも。それじゃフェヤー・プレーといきましょう。日比野さん、いや、これはあなたより狸刑事がいい。近藤さん、ひとつサスケ発見の|顛《てん》|末《まつ》を話してあげてくださいませんか」
「承知しました。それじゃご指名により狸刑事が、一席弁じることにいたしますか」
なるほど、こんな場合わかい警部補より、狸刑事のほうが|場《ば》|馴《な》れがしていた。近藤刑事は狸のような眼をギョロつかせて、身振り手振りもあざやかに、サスケ発見のてんまつを弁じおわると、
「金田一先生、これでいいですかな」
「たいへん結構でした。あなたデカをしくじると講釈師になるといい、いや、これは失礼」
近藤刑事の話をきいているあいだ、千代子の表情ははげしく変化した。はじめはただ驚き、呆れ、戸惑っているふうだったが、それがはげしい怒りの炎となって|瞼《まぶた》を染めた。その怒りが鎮静すると、こんどは痛烈な|嘲《あざけ》りとなって唇がねじれた。しかし、近藤刑事の話がおわったころは、その嘲りの色もきえ、千代子は平静をとりもどしていた。
「と、いうわけで、いま狸師匠が一席弁じたとおり、それが笛小路さんの絶筆となると、そこになにか|曰《いわ》くがあるんじゃないかというわけです。そこでまずお訊ねしたいのですが、サスケとはどういう字を書くんですか」
「猿飛佐助の佐助なんですけれど、それ本名ではなくアダ名なんですのよ」
「笛小路さんやあなたとの関係は……?」
「それをいま聞いていただこうと思っているんですけれど、まずさいしょに申し上げておきたいのは、笛小路さんがいまごろなんだって、佐助さんのことを思い出されたのか|腑《ふ》におちません。しかし、いまのお話をうかがっているちに、あのことではないか。あのことを根にもっていらしたのではないかと、つい腹立たしさのあまり見苦しいところをお眼にかけて失礼いたしました。忠熈さま、この話はぜひきいておいてください。わかいころのあたしがいかに生意気で、いかに|驕慢《きょうまん》な女だったかというお話なんですの」
「聞かせてもらおう。面白そうな話じゃないか」
「いいえ、面白いというよりは世にも|哀《かな》しいお話なんですの」
千代子も気持ちの整理がついたらしく、泣き笑いをしそうな表情で語り出した。
「金田一先生はご存じですかどうですか、あたしが映画界へはいったのは昭和十五年、かぞえで十六のとしでした。会社は東洋キネマですから撮影所は京都でございます。それでいまでもさかんにやっておりますが、東山の麓に『|千《ち》|佳《か》』という精進料理がございます」
「『千佳』ならぼくもしってるよ。高松ちか女のうちだろう」
「あら、忠熈さまはあのおばをご存じでいらっしゃいますの」
「それはしっている。京都でも有名な女性だから。しかしあのひとをおばとよぶのは?」
「踊りのほうの関係ですの。昔母が新橋から出ておりましたころ、むこうさまのほうが|姐《ねえ》さん株でいらっしゃいましたの。そういう関係で東洋キネマへはいったとき『千佳』へあずけられましたの。ところが……」
「いや、ちょっと。お話ちゅうですがね、鳳さん、あなたぼくにたいして大変失敬千万なことおっしゃいましたよ」
金田一耕助がヌケヌケといい出したので、千代子もけげんそうに|眉《まゆ》をひそめて、
「はあ……?」
「あなたいま金田一先生はご存じかどうかなどとおっしゃったが、アニハカランヤ、わたしゃあなたのデビュー作品より見てるんですぜ。『坊っちゃん嬢ちゃん』でしたね」
「あら!」
と、千代子は赤くなり、忠熈は吹き出した。
「あっはっは、金田一先生はこのひとのファンなんですか」
「あっはっはたあなんです、失敬な。わたしゃこうみえても鳳千代子後援会の会長さんくらいのネウチのある男ですぜ。第二作の『美しき青春』第三作の『星よりの使者』それから笛小路さんとの一件の起こるまえの映画『天使の誘惑』みんな拝見してますよ」
「あら、まあ、お|羞《はずか》しゅうございます」
どうやらこれは本物らしいと思ったが、千代子はうれしいというよりはむしろ薄気味悪そうである。ほかの連中はこの男、なにをいい出すことやらと、うさんくさそうな眼でジロジロ見ている。しかし、金田一耕助はいっこうお構いなしにイケシャーシャーと、
「いえね、ありようをいうとぼくはあなたのお父さん、千景先生のファンなんです。そのお嬢さんという意味で、しぜんあなたのファンになったというわけです。だからあなたのことが新聞雑誌に出るとしぜん注目してたわけで、それでいろんなことをしってるんですが、新橋の|名《めい》|妓《ぎ》でいらしたお母さんが、千景先生とむすばれたのは絵筆がとりもつご縁だったそうですね」
「はあ、母は父に師事して絵をならっていたものですから」
「絵のほうのお名まえは歌紅さんでしたね」
「よくご存じでいらっしゃいますこと。母は本名が歌子でございますから」
「じつはね、鳳さん、あれは昭和三十年でした。そのとしわたしちょっとした事件をあつかってるので憶えてるんですが、銀座の百貨店で千景先生の遺作展があったでしょう」
「先生、見てやってくださいまして?」
「『蛍』を拝見したのはあのときが三度目でした。あれは明治、大正、昭和三代にわたる名作のひとつだと思うんです。千景先生お得意の朱と|藍《あい》のぼかしがじつにみごとですからね。ところがあのとき、歌紅さんの絵も出品されていたんだそうですね」
「はあ、小品でございますけれど」
千代子は戸惑いながらもさすがにうれしそうである。忠熈は興味ふかそうに金田一耕助を見まもっている。ほかの連中はあっけにとられて言葉もない。
「ところがうかつ千万にもぼくそれを見落としてるんです。あとで新聞でしったんですが、やはり美人画でしょうね」
「はあ、つたないものでございますけれど……」
「鳳君、そのとき出品された歌紅さんの絵、『舞扇』じゃなかった」
「あら、あなたもご存じだったんですの」
「歌紅さんならつたなかあないよ。りっぱなものだ。あのひとはかくれたる昭和の|閨秀《けいしゅう》美人画家だよ、金田一先生」
忠熈はこれが金田一耕助の|罠《わな》だと気附いている。しかし、罠なら罠で、のってやりましょうといわぬばかりにニコニコして、
「歌紅さんの絵をごらんになりたかったら、東京のうちへいらっしゃい。いま話の出た『舞扇』のほかに『昭和風俗・美人十二態』という画帖もあります」
「あら!」
千代子ははじかれたように忠熈をみると、いくらか息をはずませて、
「あの絵、おたくにございますの」
「ちかごろ手に入れたんだ。いま金田一先生にお|誉《ほ》めにあずかった『蛍』もね。あっはっは」
忠熈は愉快そうにわらいながらも、金田一耕助のおもてから眼をはなさない。金田一耕助もいっしゅん気をのまれたかたちだったが、つぎの瞬間、
「こ、こ、これは|凄《すご》い、こ、これは凄い!」
この男、興奮すると|吃《ども》るくせがある。
金田一耕助はさかんに吃りながら、五本の指でもじゃもじゃ頭をめったやたらと|掻《か》きまわしたからたまらない。ふけは飛んで散乱し、|唾《つば》は散って|飛沫《し ぶ き》となった。
「それはぜひ見せていただきたいものですね。『舞扇』のほうは評判にきいてるんですが、色がじつにきれいだそうですね」
「『美人十二態』のほうもね。巷間伝うるところによると歌紅さんの絵には千景先生の手が入ってるんだろうなどといってますが、それはウソですね。画帖のほうは昭和の女の風俗史ですが、耳かくしから断髪、パーマネントから戦争中のモンペ姿まで描いてありますが、パーマネントくらいまでならともかく、モンペ姿など千景先生がご存じであろうはずがない。お|雛妓《し ゃ く》のモンペ姿なんですが、それがじつにきれいな色で仕上げられていますよ」
「そうですか、そうですか。それはぜひ東京へかえったら見せていただきたいものです」
そこで金田一耕助はやっとわれにかえったように、大いにテレて一同の顔を見まわしていたが、
「あれ、一彦君、どうしたの、いやにぼくの顔をジロジロ見るじゃないか」
一彦はいっしゅん|怯《ひる》んだかにみえたが、すぐ白い歯を出してわらうと、
「先生は凄いんですねえ」
「凄いとはなにが……?」
「あまりなんでもかんでも知りすぎていらっしゃる。怖いみたいですねえ」
「一彦君、そういう場合にはこういうもんだ。先生は博覧強記でいらっしゃるとね。いまどきの若い人は日本語をしらなくて困る。いや、失礼」
金田一耕助はそこで千代子のほうへむきなおると、
「鳳さん、それでは話をつづけてください。あなたのお母さんと京都の『千佳』のおかみ、高松ちか女がご|昵《じっ》|懇《こん》でいらした。その縁であなたは『千佳』へあずけられた、というところでぼくが話の腰を折ったのでしたね。どうぞそのあとを」
「はあ、それでは……」
千代子は戸惑いをかんじながらも、促されるままにあとをつづけた。いまたしかに金田一耕助と一彦とのあいだに火花が散ったのである。忠熈もそれに気がついていた。しかし、それがなにを意味するか忠熈もしらず千代子にもわからなかった。
「その高松のおばに鶴吉さんという息子さんがいたんです。としはあたしより五つうえでしたから当時のかぞえで二十一歳。その鶴吉さんが佐助さんなんです」
「はてな、鶴吉君忍術でもつかいましたか」
「いいえ、その佐助じゃなく、金田一先生は谷崎先生の『春琴抄』をお読みじゃございませんか」
「『春琴抄』なら読んでますが……」
「あれが発表されたのが昭和八年だそうです。それが映画になって『お琴と佐助』。その佐助さんなんです」
「あ、なるほど」
と、忠熈は口もとをほころばせて、
「すると、さしずめ君は春琴というわけか」
「ですからさきほども申し上げたでしょう。当時のあたしがいかに生意気で驕慢な娘だったかって」
うすく頬をそめながら、忠熈に|媚《び》|態《たい》をしめす千代子には、少女のようなあどけなさがある。金田一耕助はだまってきいていた。
「その鶴吉さんてかた京都のさる大学の予科の学生さんだったんですが、とても親切にしてくださいまして、いろいろ身のまわりの面倒やなんかみてくださいますの。しまいには学校もおっぽり出してまるで付き人みたいになって、スタジオに入り浸りなんですの。あたし弁解するつもりはございませんけれど、ほんとうはなんにもしらなかったんです。鶴吉さんがなぜ佐助なのかその意味さえしりませんでした。早熟は早熟だったんですけれど、当時はまだ『春琴抄』拝見してませんでしたし『お琴と佐助』が上映されたのは、あたしが映画入りをするよりも、だいぶんまえのことでした。その映画も見てませんでした。だから付き人みたいなひとを映画界で佐助とよぶんだろうくらいに思っていたんです」
「その鶴吉君にむかって、あなたが春琴的暴君ぶりを発揮したわけですか」
「そうなんですの。金田一先生、なにしろひとり娘のわがまま一杯にそだったものですから、気にいらないことがあると当たりちらすといっても、まわりは先輩のかたばかりでしょ。鶴吉さんよりほかに当たりちらすひとはないわけです。それでついすねたり、ふくれたり、どうかするとぶったり、つねったり」
「そうされると、鶴吉君はよろこんでいたんですね」
「はたから見るとそう見えたんですね。あたしにはまだわかりませんでした。あたしはただやさしいお兄さま、なにをされても|憤《おこ》らない人、それくらいに思って、わがまま一杯にふるまっていたんです」
「しかし、鳳さん、立ち入ったことをお|訊《たず》ねするようですが、『春琴抄』のお琴と佐助は通じているでしょう。あなたとあなたの佐助さんは……」
「先生、それはございませんでした」
「しかし、笛小路さんはおふたりの仲に疑いをもっていられたのでは……?」
「いまそれを思い出したものですからくやしいんです。それになんだって、いまごろ鶴吉さんのことを思い出されたのかと、それがふしぎでなりませんの」
「差支えがなかったらそのお話をひとつ」
「いいえ、これはあたしのほうからぜひ聞いていただきとうございます」
千代子はそこでちょっと居ずまいを直すと、
「太平洋戦争が|勃《ぼっ》|発《ぱつ》したのは十六年の十二月でしたわね、その翌年の春、鶴吉さんのところへ赤紙がきたんです。鶴吉さん学校をやめていらしたもんですから、それでごく小人数のひとたちで歓送会をしてさしあげたんですけれど、そのあと四、五人づれで円山公園を散歩したんです。円山の夜桜がきれいでした。ところが鶴吉さんとあたしだけが、ほかのひとたちとはぐれてしまったんです。公園の|隅《すみ》のほの暗いところでした。とつぜん鶴吉さんがキスさせてほしいといいだしたんです」
「これ今生の思い出にというわけですね」
「そういうことだったんでしょうねえ」
「それで、君、キスさせてあげたの」
忠熈の声はやさしかった。
「はあ、鶴吉さんの顔色があまり思いつめていらっしゃいましたし、それにそうそう、そのとき鶴吉さんはこうおっしゃったんです。円山の夜桜もこれが見おさめになるかもしれないって。そのことばが妙に身にしみてつい……そのあとでお兄ちゃん、死んじゃいや、死んじゃいやと泣いたのをおぼえています」
「そこを笛小路さんに見られたんですね」
「そのときは気がつきませんでした。しかし、あとで笛小路がその話をもち出して|嫌《いや》|味《み》をいうもんですから。しかし、笛小路はほんとにやいてはいなかったと思います。鶴吉さんというひと、お世辞にも標準がたの好男子とはいえないひとでしたし、笛小路のほうは自信満々でしたから。ただ、そのまえからあのひととの仲はとかく取り沙汰されていたものですから、男の|面《めん》|子《つ》がたたぬと思ったのかもしれません。笛小路とはまだウワサばかりでキスひとつしてなかったじぶんのことですから」
「笛小路さんとの一件があったのは……?」
「あれは昭和十七年の九月でした。つまりそのことがあってから、笛小路のほうでいろいろ絡んでくる。そこへ時局柄あたしどもの映画は落ちめになる。あたしもクサれば笛小路もクサる。それであんな大胆なまねをしてしまったんですね」
「笛小路さんも応召なすったんでしょう」
「あのひとに召集令状がきたのは十八年の十月でした。そのじぶん美沙を身ごもってもう五か月、それで笛小路の母が入籍を許してくれたんです。しかし、金田一先生」
千代子はそこで急に改まって、
「笛小路はなんだっていまごろ、鶴吉さんのことを思い出したんでしょう。戦後あたし一年ほど笛小路と夫婦としていっしょに暮らしましたが、そのあいだにいちどだって、鶴吉さんの話が出たことはございませんでした。あの人すっかり忘れていたようなんですけれど」
「笛小路さんは亡くなった日、あなたに電話で面会を強要してきたとおっしゃいましたね。津村真二にきいたぞ、きいたぞと。そのことじゃないんですか」
千代子は眼をまるくして、
「そんなはずはございません。津村さんは鶴吉さんのことはしらないはずです。だって鶴吉さんとあたしとの交渉は、ごく短い期間のことですし、ほんのわずかの人しかしらなかったことですから」
「笛小路さんはなぜタカマツとかツルキチとか書かずに、サスケと書いたんでしょうね」
千代子はちょっと考えて、
「本名を忘れていたんじゃないでしょうか。佐助、佐助でとおっていましたし、笛小路さんにとって鶴吉さんはしょせんピエロ的存在でしかなかったのですから。それに『千佳』も当時はまだ小いちゃなお店でございましたから」
「『千佳』とはその後……?」
「ほっほっほ」
千代子は泣き笑いのような顔になって、
「あたしがあんな大胆なまねをしたものですから、おばはすっかり憤ってしまって、いちじ勘当どうようになっていたんですの。鶴吉さんもあたしのために、学校をよしたかたちになっていましたしね。ところがその後前線からよこした鶴吉さんの手紙に、たったいちどだけれど、千代子にお別れのキスをさせてもらった。千代子にお礼をいってほしいということが書いてございまして、その手紙あたしもみせてもらいましたが、そのうちに鶴吉さん戦死でございましょう。おなじ死ぬなら学校を出ても出なくてもおなじことだ、それよりよくキスさせておくれだったと、鶴吉さん、おばにとってはひと粒ダネでしたから、いまではほんとうの娘のようにかわいがってもらっています。お仕事の関係で京都へいくと、おばといっしょによくお墓参りにまいります。それだけに鶴吉さんの名前がこんな事件に、引き合いに出されるのがくやしゅうございますわねえ」
千代子は淡々たる口調のなかにも、怒りとくやしさをおさえかねているふうである。
そのとき急に日比野警部補がのり出して、
「そのひと戦死したんですか」
「はあ、ガダルカナルで」
「戦死したのはたしかでしょうね」
「おばのところへ公報が入ったんです。遺骨はまだかえってまいりませんけれど」
「よく前線で戦死したと信じられている人物が、じっさいは生きていたという話がありますが、そのひとまだ生きていて、こっそり内地へかえっているというようなことは……」
「まさか……」
「いや、そんなことかもしれませんぜ」
と、狸刑事も相槌をうった。
「そいつが笛小路さんをはじめとして、あなたの旦那さんだったひとを、かたっぱしから血祭りにあげている……」
「ほっほっほ、刑事さんはたいそうロマンチストでいらっしゃいますのね」
千代子はわらって取りあわなかったが、そばから極楽トンボが口を出した。
「すると、その佐助さんかな、笛小路さんの別荘やこのうちを狙っているのは……?」
「桜井さん、それどういうことですか」
日比野警部補がキッと開きなおった。
「いえね、日比野さん、笛小路のお|祖《ば》|母《あ》ちゃまが、きょう桜の沢へかえってくると、変なやつが別荘のなかから出てきたというんです。ところが秋山さんもおなじようなやつが、このうちへまぎれこんでいるのを見つけて、追っぱらったというんですね。ところが笛小路のお祖母ちゃまが夕方ここへくると、やっぱりおなじやつらしいのが、よこの垣根から出ていったといってるんですがね」
「それ、どういうやつですか」
「ふたりの話をきくと完全に一致してるんですね、頭のてっぺんから足の爪先まで黒ずくめ、黒い鳥打ちに黒いサン・グラス、黒いマフラーに黒い手袋。これを要するにいま流行の殺し屋スタイル、あっはっは。あれ、どうかしましたか」
桜井鉄雄もそんなこと真にうけていたわけではなかった。真にうけていなかったからこそ、ノンキらしく口に出したのだが、そのとたん日比野警部補と近藤刑事が、|椅《い》|子《す》をきしらせて立ちあがったので、鉄雄はかえって口あんぐり、あっけにとられた顔色である。
「金田一先生、それ津村氏じゃありませんか」
「そうだ、そうだ、津村のやつ美沙ちゃんを狙ってるんですぜ」
狸刑事がいきまいた。
「金田一先生、津村先生がどうかしたんですか」
としのわりには冷静な一彦もいくらか早口になっていた。ことほどさようにふたりの権幕が度をこえていたのである。金田一耕助は大きな椅子にのめりこんだまま、当惑したようにもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「いえね、ゆうべ姿をくらました津村氏のみなりというのが、いま桜井さんのおっしゃったとすっかりおなじ殺し屋スタイル」
「だって金田一先生、津村さんがなぜ美沙を狙うんですの」
千代子もふたりの顔色に圧倒されながらも、なおかつ抗議せずにはいられなかった。それにたいして狸刑事が言下に|吠《ほ》えた。
「あの子はなにかをしってるんだ。美沙ちゃんは気がついていないが、なにか重大な津村の|尻尾《し っ ぽ》をおさえているんだ。それを|喋《しゃべ》られるまえに美沙ちゃんを……」
刑事もさすがに終わりまでいえなかった。熈子が蒼白の顔をこわばらせて、ふるえているのに気がついたからである。
かくて容疑は二転三転、また津村真二にまいもどってきたようである。
忠熈が無言のまま立って卓上電話のほうへいった。多岐をよぶと笛小路の別荘へつなぐように命じた。まもなく笛小路の別荘が出た。
「もしもし、美沙ちゃん、こちら飛鳥のおじさんだ。秋山さんもうかえった? まだそちらにいるの。じゃちょっと電話口まで」
秋山が電話口へ出たらしく、
「秋山? いままでなにをしていたんだい。ご|馳《ち》|走《そう》になっていたって? まあ、いい、まあ、いい。ちょうどよかった。君、もう少しそこにいてくれたまえ。いずれ警察からひとがいくだろうからね。いまのところ理由はいえない。しかし、美沙ちゃんやご隠居をおびえさせないように。じゃ、頼んだよ」
忠熈が電話を切るとすぐそばに日比野警部補がきて待っていた。警部補も警察をよび出すと、桜の沢の笛小路の別荘と万山荘へそれぞれ人を派遣して、厳重に警戒に当たらせるよう指令した。
こうして万山荘の広間のなかは、とつぜん騒然たる空気につつまれたが、しかし、いちはやくとられた警戒態勢のせいか、その夜はなにごともなく過ぎた。
そして、運命の八月十五日の夜が明けたのである。
第二十章 グリーンは知っていた
アウト・コースの六番ホールを打ちあげて、一彦がクラブ・ハウスのほうへ足をむけたのは、正午を三十分ほど過ぎたころである。パートナーは鉄雄と熈子の夫婦であった。
一彦の成績ははなはだかんばしくなかった。八オーバーであった。それに反して鉄雄は上乗のスコアでごきげんだった。熈子の成績は一彦よりもひどかった。ふたりともミス・ショットが多く、しょっちゅうラフのなかを球をさがしまわって鉄雄にからかわれた。ボールをグリーンにのせてからも、つまらないパットをしくじったりした。
ハンディーは一彦が十六、鉄雄が二十四、熈子は三十六であった。熈子は女だからべつとしても、これくらいのハンディーの差だと負ける相手ではないのだが、きょうの一彦はさんざんだった。アウト・コースを打ちあげたとき鉄雄は四オーバー、熈子は十二オーバーだった。
「どうしたんだい、ふたりとも」
あまりミスが多いので鉄雄が|眉《まゆ》をひそめて、
「ゆうべのことがそんなに気になるのかい」
「ぼくは兄さんみたいに極楽トンボじゃありませんからね。根がセンシブルにできている」
「どうだかな、そう調子を狂わせていると金田一先生に怪しまれるぜ。なにか気にかかることがあるのかい」
「よけいなこといわないで、しばらく黙っていてくださいよ。畜生ッ、しまった」
「あっはっは、どこを|覘《ねら》ってショットしてるんだい」
たしかに一彦の調子は狂っていた。ボールが飛ぶことはとぶのだが、とんでもない方角へさよならをした。熈子はなにをいわれても、ふっふっふと笑っているだけで、バンカーのなかで悪戦苦闘をしていることが多かった。
「困ったひとたちだ。君たちがそうサエないと、こっちまで拍手抜けしちまうよ。けっきょくゆうべは何事も起こらなかったじゃないか」
「何事も起こらなかったのは結果論ですよ。ぼくだっておじさんに間違いが起こるとは思わなかったが、夜中に三度も眼が覚めちゃった。秋山さんは一睡もしなかったらしい」
「すまん、すまん、それじゃぼくも万山荘に泊まればよかったね」
「あんなこといってるよ」
一彦はゆうべ的場英明とともに万山荘へ泊まったのである。話のもようによると秋山卓造は|徹宵《てっしょう》警戒に当たっていたらしい。
「だけどおやじは案外平気な顔をしてたじゃないか。熈子、おやじ、なにかいってたかい」
「いいえ。べつに」
きょうの熈子はいつになく言葉数が少なかった。一彦にはそれが気になっていたが、あえて聞こうとはしなかった。
「あの人はかくべつですよ。心臓に毛が生えている。でも、秋山さんや私服の護衛つきじゃゴルフもサエないだろうな」
「スコアはどうでしょうか。あとで聞いてみるといいわね。表向きは平気な顔をしていても、スコアがさんざんだったらおかしいわね」
熈子も心配を冗談にまぎらせているふうである。その忠熈は千代子や的場英明といっしょに、すぐまえのコースをまわっているはずである、用心棒の秋山卓造や私服の護衛つきで。それでないと秋山がコースへ出ることを許さなかったのである。鉄雄たち三人はいちばんしんがりだったから、いかに一彦や熈子がミスを連発しても、あとの組に追いつかれるという心配はなかった。このゴルフ場は十二ホールしかないのだが、そのかわり起伏にとんでおり、難コースが多かった。
「あら、あれ美沙ちゃんじゃない?」
六番ホールを打ちあげて、クラブ・ハウスから五十メートルほどてまえまできたところで、熈子が小さな声を立てた。クラブ・ハウスのテラスに立って、|臆病《おくびょう》そうに手をふっているのは美沙であった。赤地に黄色の|横《よこ》|縞《じま》のあるセーターを着て、ピンクのネッカチーフを頭にまいているのが可愛かった。三人にむかって手をふっているのだが、その手のふりかたのいかにも遠慮がちにみえるのがいじらしかった。
一彦は立ちどまって前方をみると、ちょっと厳粛な顔をしたが、すぐ白い歯を出して笑うと、
「よお、美沙ちゃん、よく来たな」
と、大きく手をふってやると美沙はそれに勢いをえたように、手の振りかたが大きくなった。一彦はすばやくあたりを見まわしたが、どこにも護衛らしき人物の姿はみえなかった。
「かわいそうに、あの子はなんにもしらないんだな」
鉄雄がつぶやくのを聞いて、
「なんにもしらないって津村さんのこと?」
「そう」
「そんなことウソよ。津村さんがあのひとを|狙《ねら》ってるなんて。そんなことみんなあのひとたちの幻想よ」
鉄雄が妙な顔をして自分を見ているのもいっさい構わず、熈子も大きく手をふってやった。
やがてクラブ・ハウスへ着くと、
「美沙ちゃん、よく来たね、お祖母ちゃまなんにもいわなかったかい」
「いいえ。いってらっしゃいとおっしゃったわ」
「そう、よかったわねえ」
そういったものの熈子の声はなんとなくお義理めいていた。すぐにそれを反省したのか、
「美沙ちゃん、ご飯は?」
「いいの。美沙おうちでいただいてきました」
クラブ・ハウスのなかではもうあらかた食事をおわって、てんでにロビーやテラスへ出ていた。メンバーは二十人くらいであった。なかにはもう芝生へおりてクラブを振っているものもあった。私服が三人さりげなくクラブ・ハウスを取りまいている。そのなかのひとりは古川刑事だった。
一彦たちのすぐまえのコースをまわった忠熈の一行だけが、まだテーブルについていた。忠熈のパートナーは千代子と的場英明だった。少しはなれたところで用心棒の秋山が、山盛りのライスカレーをパクついていた。忠熈たちのすぐむかいがわに金田一耕助ともうひとり、がっちりとした体をした人物が坐っていて、コーヒーをのみながらタバコを吹かしているのを見ると、一彦はおもわず眼を見張った。
「なあんだ、金田一先生、あなたもいらしてたんですか」
「なあんだたあなんです。せっかくあなたのご招待だからウンチをもかえりみず……いや、こ、これは失礼」
千代子は眼のまえの皿に顔をつっこみそうになった。忠熈は、たいらげおわった皿をおしやって、
「いや、いいですよ。わたしはもうおわったんだから。的場先生にはお気の毒ですが……」
「わたしは大丈夫、鳳さん、あなた食事をノドにつめないように」
「うっふっふ、大丈夫でございます」
「いや、どうも恐縮。そうそう、桜井さん、この警部さん、きのういろいろお世話になったそうで」
一彦と熈子はハッとしたように、金田一耕助のとなりの椅子にいる男に眼をやった。等々力警部はあいかわらず、パリッと|糊《のり》のきいた純白の|開《かい》|襟《きん》シャツにくつろいでいて、なるほどこの人柄なら警察の人間にはみえない。
「桜井さん、きのうはどうも失礼しました」
「いや、こちらこそ、あなたが警視庁のひととはしらなかったものですから」
「そのことについて、ゆうべ金田一先生にさんざん油をしぼられました。べつにシラばっくれたわけじゃないんですが、つい名乗りそびれてしまって、たいへん失礼いたしました」
「このひと警察の人間だということに、コンプレックスを持ってるんですな。まあ、勘弁してあげてください。ああ、みなさん、どうぞ、どうぞ。これからお食事なんでしょう。われわれは立ちますから」
「いや、金田一先生、いいですよ。われわれはここで食べます。姉さん、こちらへいらっしゃい」
じっさい、あらかたの人は食事をおわって、ロビーやテラスのほうに出ていた。みんな忠熈の招待に応じて|駆《は》せ参じたひとたちだから、きのうの一件はしっているにちがいないが、それを口に出すほど無神経な人間はいなかった。食堂のなかは空席が目立っていた。一彦と熈子はあいた椅子に席をしめると、それぞれ簡単なランチを注文していた。
「美沙ちゃん、こっちへいらっしゃい。紅茶とケーキでもとってあげようか」
「お兄ちゃま、ありがとう」
美沙はいかにもうれしそうである。
鉄雄は等々力警部のとなりに席をしめて、
「ときに、警部さん、なにか収穫がおありでしたか」
「収穫とおっしゃいますと?」
「きのう笛小路のお祖母ちゃまや、ぼくと旅行をなすって、なにかうるところがおありでしたか」
「それがねえ、桜井さん、こちらにこういう事件が起こっているとしっていたら、わたしも職掌柄大いに|飛耳長目《ひじちょうもく》、見る目|嗅《か》ぐ鼻を活用したんですが、あいにくなにもしらなかったもんですからねえ」
「わたしはいいのですが、笛小路のお祖母ちゃまだいぶ気にしてらっしゃいました。尾行してらっしゃったんじゃないかって」
「まさか」
「どっちにしてもわたしはいいです。なにしろアリバイが完全ですからな」
「兄さん、そんなこといってるから、あなた極楽トンボといわれるんですぜ」
むこうのほうから一彦がまぜっかえしたところをみると、かれもランチをパクつきながら、こちらの話に飛耳長目だったとみえる。
「極楽トンボ大いに結構、だけどそれどういう意味だい」
「いえね、事件が起こったばあい、アリバイの完全なやつほどクサいってことになってるんですぜ。ぼくの愛読する推理小説によるとですね」
「だけどぼくは大丈夫。おなじ人間が同時にふたつの空間をしめることは不可能であるという、アインシュタインの法則によるとね。もっとも、ぼくが離魂病ででもあるとすると話はべつだが」
ゆっくり食後のタバコをくゆらせていた忠熈は、それとなく金田一耕助と等々力警部のコンビを観察していたが、いまの鉄雄のことばをきくとおもわず破顔して、
「鉄雄、おまえはまた古い法則をもちだしたものじゃないか。しかし、まあ、おまえが離魂病とはだれも思うまいね」
「だから大丈夫というんです。しかし、ぼくがこのからだで|六条御息所《ろくじょうのみやすんどころ》みたいに|生霊《いきりょう》になって、ヒュードロドロと現れたら、みんなさぞ驚くだろうな」
これには周囲にいるものすべてが吹き出した。千代子は腹をよじって笑っている。熈子はランチの皿をまえへ押しやった。おかしくて食べていられないというふうである。忠熈はだまってそういう熈子を見守っている。美沙だけがキョトンとしていた。
「ときに、警部さん」
と、口を切ったのは的場英明である。
「あなた笛小路のご隠居をご存じでしたか」
「ああ、それは存じておりました」
と、等々力警部はいとも明快に、
「いちどお見受けしたことがあるんです。だから妙なまわりあわせになったもんだと、思ったことは思ったんです。鳳さん」
「はあ」
「お母さんにお会いになったら、くれぐれもお詫び申し上げておいてください」
「承知しました」
「いやだなあ、そうするとわれわれはみんな、いちどお見受けされてるんじゃないのかなあ」
鉄雄がいかにも心配そうな声をあげたので、一同はまた笑いころげたが、一彦だけはわざとまじめくさった顔をして、
「姉さん、あなたもっと手綱を引き締めなきゃいけないじゃありませんか。この兄貴、いわせておけばなにをいい出すかしれたものじゃありませんぜ」
「いいのよ、一彦さん、このひとバカなことをいって、人を笑わせるのがじょうずですけれど、根はバカじゃないわね、ちゃんと計算してものをいってるんだってこと、一彦さんだってご存じのはずでしょう」
いくらかヒステリックではあったが、熈子が急に朗かになってきたのはその頃からである。彼女は一同の視線などお構いなく、
「それはそうと、金田一先生、先生はどうなさるおつもり? コースをおまわりになるつもりでいらっしゃいますの」
「いや、そのことですがね、奥さん、ここにいる警部さんはぼくとちがって、いくらか運動神経があるらしいんです。で、きょうのコンペの話をしたら、ぜひにというのでご無礼をもかえりみず押しかけてきたってわけです。さいわい南条がゴルフをやるもんだから、用具一式そろっていたのでね。どれくらいの腕前かぼくにはわからんのですが……」
「で、金田一先生はどうなさるおつもり?」
「わたしは高見の見物。ひとつみなさんのお手並み拝見といきますかな」
「あら、怖いこと。一彦さん、あなた幹事ですけれど、どの組へはいっていただくおつもり?」
「ああ、そう、じゃわれわれのパートナーになっていただきましょう。いちばんしんがりだからいいでしょう。ぼくはみなさんとスコアをきそいながら、美沙ちゃんにコーチしなければなりませなんからね」
「おや、一彦、金田一先生はわれわれとご一緒じゃないのかね」
忠熈がちょっとふしぎそうな顔をした。
「おじさんには秋山さんがついてらっしゃるからいいでしょう。金田一先生はやはり警部さんとコンビのほうがいいですからね」
「おやおや、そうするとわたしのお手並み拝見といかれるわけか。おお、怖い」
「大丈夫です。兄さんは六条御息所になれるひとじゃありません」
しかし、こんどはだれも笑わなかった。
この組分けはたしかに異常である。忠熈は思うことが顔に出ない性分らしいが、千代子はいくらか顔面が硬直していた。金田一耕助と一彦のふたり、ゆうべから丁々発止と火花が散っているのである、なぜだろう。
もう一時をすぎていて早い組はコースへ出ていた。参加者は午後になって加わった金田一耕助と等々力警部、美沙の三人をのぞいて二十一人。四人の組と三人の組があってつごう六組。忠熈のパートナーは千代子と的場英明、それに用心棒として秋山卓造がついていた。六分間隔でスタートするから、最初の組が出発してから、しんがりの一彦の組が出発するまで三十分である。
一彦はまめやかな性分とみえて、その間いろいろ美沙の面倒をみていた。クラブ・ハウス備えつけの用具のなかから、美沙にあったクラブを選択してやったり、シューズをえらんでやったりした。
「一彦さん、いろいろお世話になります」
千代子もそばへきて美沙の服装をなおしてやったりした。そういうところをみるとやはり母なのである。
「とんでもない。でも、美沙ちゃん育ちざかりなんですね。去年からみるとずいぶんおとなになった」
「うっふっふ」
美沙はうれしそうである。この娘は祖母の手をはなれるとノビノビするらしいが、どこか影みたいなところがあるのは境遇のせいだろうか。
軽井沢の天気は当てにならない。午前中はあんなに晴れていたのに、イン・コースをまわるころには雲がひろがりはじめて、すぐ鼻先にそびえている離山は、もうすっかり霧のなかにつつまれていた。このコースは離山の裏側に当たっている。
「一彦さん、それじゃ美沙をお願いします」
千代子が忠熈や的場英明とスタートしたのは一時半ごろだった。あとから秋山とキャディーがついていった。私服がふたりさりげなくあとを追う。それから六分ののちしんがりの六人が出発した。この組には古川刑事が加わった。
金田一耕助にも一彦の意図はまだよくわかっていない。自分をきょうのコンペへひっぱり出したのは一彦である。それについて一彦はゆうべこういう意味のことをいっていた。
「ゴルフなんかやってるところをみると、人それぞれの性格がよくわかりますよ。そこから犯人をわり出すというのが、よく推理小説にあるじゃありませんか」
一彦は関係者のなかのだれかのプレーを観察させることによって、その人物の性格からひいて、犯人を推理させようというのだろうか。しかし、ゴルフの場合それは不可能である。
トランプや碁や将棋とちがって、ゴルフの場合一堂に会してプレーすることはするのだが、プレーヤーは何組かにわけられる。この事件にいちばんふかい関係をもつと思われる、鳳千代子と飛鳥忠熈は同じ組に編入されているが、かれらは自分より六分もさきにスタートしている。ふたりのプレーを観察するということはまず不可能である。いま自分の周囲でプレーしているのは一彦と鉄雄と熈子である。一彦の意図するところは、このふたりのプレーを観察させることだろうか。
午後のスタートは七番ホールからである。
ここのゴルフ場の案内書によると、七番ホールは三百六十八ヤードあり、二百二十ヤードの左側に林があるから気をつけろ、右のクロスバンカーのやや左へ打つとよろしい。グリーンは急坂のうえにある、二オンしないと谷に落ちるぞ、落ちたときは第二打は坂のしたにとどまるように心掛けろ、オーバーは禁物であるなどと書いてあるが、鉄雄は谷にボールを落としたうえに、そこから打った球がグリーンをオーバーしてしまったので、さっそくOBをとられ、イン・コースへ入ったさいしょから四苦八苦であった。それに反して熈子の調子のあがってきたのはどういうわけか。一彦は美沙のコーチと一人二役でたいへんだが、それでも午前中より成績がよくなった。どうやら午後になって三人の風向きが変わってきたようである。等々力警部はなれないコースのハンディもあるが、もちまえのカンを働かせて、どうやらついていけそうである。
金田一耕助は草履ばきで芝生のうえを歩きながら、しさいらしくかれらのプレーを観察していたが、じっさいはなにもわかっていないのである。ときどき場ちがいの質問を発しては等々力警部を赤面させた。
八番ホールで熈子がティー・ショットをミスしたとき、金田一耕助は卒然として気がついた。一昨日の夕方、星野温泉の津村真二のところへ電話をかけてきた女性というのは、熈子ではなかったか。そう気がついたとき、金田一耕助の脳細胞が急スピードで回転をはじめた。
そういえば、熈子も去年の秋の日展で津村真二に会っている。鉄雄でさえ津村に無関心ではいられなかったといっているが、熈子にとってはなおさらのことだったろう。津村のほうでもおなじだったのではないか。津村はなかなかハンサムらしいし、熈子はこのとおりチャーミングである。その後ふたりのあいだにひそかに交渉が進展していったとしても、かならずしも不自然ななりゆきとはいえないのではないか。
ゆうべからけさへかけて金田一耕助は等々力警部と語りあかした。その警部の説によると桜井鉄雄はひとかどのプレイ・ボーイであるという。妻の熈子がひそかに反逆しているとしてもふしぎではないのではないか。近藤刑事がゆうべもいったとおり、世はまさによろめきドラマ流行の時代なのだ。
こういうふうに|揣《し》|摩《ま》|臆《おく》|測《そく》するということは、犯人捜査上たいへん危険であることは金田一耕助もよくしっている。それでいてなおかつ、かれはその誘惑を退けることができなかった。
そうするとゆうべの鉄雄の|下《げ》|司《す》のカングリは、単なるカングリではなかったのではないか。鉄雄は妻の不貞をしっていて、それとなく当てこすったのであろうか。いや、そうはみえなかった。あの場合、千代子に疑惑の矢がむけられそうになったので、とっさの|義侠心《ぎきょうしん》か|騎士《ナ イ ト》気取りで、下司のカングリを披露したのではないか。それがおのれの妻の墓穴を掘りつつあるということもしらずに。
金田一耕助はいまさらのように、あの席における熈子の顔色に注意を怠っていた自分を責めずにはいられなかった。ただいえることはゆうべの熈子が、できるだけ目立たないように振る舞っていたことはたしかなようだ。いつもそうなのだろうか。そうだ、そういえば一彦はそれに気がついていたのではないか。そして、きょうのこの招待は熈子のプレーに注目しろというのではないか。
八番ホールは百九十六ヤードと距離もみじかく、熈子はティー・ショットをミスしたものの、あとはうまくクラブを使いわけた。ここでも鉄雄の成績はおもわしくなかった。一彦は午前中とうってかわって快調にとばしたが、それでも手間がとれるのは美沙のコーチをかねているからである。等々力警部も大過なく打ち上げた。
八番ホールから九番ホールへ歩いていくみちみち、金田一耕助はしかし……と、考える。
きのう等々力警部がクルマのなかで、聖徳太子ぶりを発揮して、知りえたところによると、鉄雄と熈子を結びつけたのは一彦だったらしい。ゆうべ自分が見た眼でも、ふたりに対する一彦の敬愛の情はあきらかである。それにもかかわらず、熈子を告発するようなまねをするのはなぜだろう。それとも一彦のきょうの招待は熈子には関係なく、もっとほかのことなのだろうか。いや、一彦はべつに自分を招待したわけではなく、招待されたと思ったのは、自分の下司のカングリだったのだろうか。
しかし、断わっておくが、金田一耕助は終始だれとも口をきかず、こういう妄想にふけっていたわけではない。かれもまた等々力警部に優るとも劣らぬ聖徳太子なのである。適当に一彦や鉄雄や熈子と冗談口をたたきながら、コースをついてまわっている。そして、かれらの交わす会話も抜け目なくきいているのである。
かれらの会話から察すると、午前中熈子と一彦は調子が出なかったらしい。しかし、午後のイン・コースへ入ってから、一彦の調子はしだいにあがりつつあるようだ。しかも、かれは自分のプレーばかりに専念していられないのである。この青年はよほどまめやかな性格らしく、面倒がりもせず美沙のせわをよくやいている。熈子も調子が出てきたらしい。それに反して鉄雄が悪戦苦闘しているのはどういうわけか。三人のなかで一番金田一耕助を意識しているのはかれではないか。
九番ホールで等々力警部がすばらしいティー・ショットをきめて、一同から|喝《かっ》|采《さい》を博した。ドライブのかかった球がよく飛んだ。金田一耕助はひとこと|賞讃《しょうさん》のことばを送ったが、頭のなかではべつのことを考えている。
桜井鉄雄が真実をしっていて、妻に当てこすったにしろ、そうでなかったにしろ、かれの下司のカングリが当たっていたとするとどういうことになるのか。
津村真二は旧道で懐中電灯を買ったのち、桜井家の別荘へおもむいたのではないか。桜井家の別荘も旧軽井沢にあるらしいが、津村はそこに何時ごろまでいたのか。槙恭吾の死が他殺にしろ自殺にしろ、青酸加里によって生命をたたれたのは、一昨日の夜の九時前後であろうことは、その後の死体解剖の結果あきらかになっている。津村真二がそのころまで桜井家の別荘にいたとすれば、かれは完全にシロということになる。しかし、それには熈子の証言が必要になってくるが、これは容易なことではなさそうだ。しかし、熈子はしっているはずである、津村のそのときの服装を。立花茂樹と別れたとき津村は殺し屋スタイルだったのである。
金田一耕助はまたしても、自分をはげしく責めずにはいられなかった。殺し屋スタイルの男が、笛小路の別荘と万山荘をねらっているらしいという騒ぎが起こったとき、熈子の顔色はどうであったか。かれはその観察を怠っていた。
だが……と、そこでまた金田一耕助は卒然として眼を見張った。
飛鳥忠熈はそのことをしっているのではないか。かれは一昨夜の停電以後から九時半までの行動を、明示することができなかった。鳳千代子とはじめてキスをかわしたので、興奮状態にあったの、ライターを途中で紛失したのと、愚にもつかぬことをいっていたが、だれが聞いてもヘタな口実としか受け取れない。忠熈が停電の直後千代子にキスしたことはたしからしい。それからまもくホテルをとび出したとしたら八時十分ごろのことだろう。それから桜井の別荘へいったとしたら……? そして、そこにいあわせた津村真二に会ったとしたら……?
金田一耕助はそこで|慄《りつ》|然《ぜん》として身をふるわせた。
飛鳥忠熈が……? まさか……?
しかし、槙恭吾は四、五日まえ忠熈を訪ねていっているのである。制作にいきづまったから、なんらかの意味でインスピレーションをつかむために、考古学の本を借覧したというのは、どう考えてもこれまたヘタな口実としか受け取れない。槙はそのときなんらかの情報を忠熈にもたらせたのではないか。槙のにぎっている情報とは、とりもなおさず千代子に関する秘密にちがいない。
「津村真二にきいたぞ、きいたぞ。飛鳥忠熈にしられてもよいか」
と、いう意味の恐喝めいた電話を、去年笛小路泰久は千代子にかけているのである。と、いうことは、それはよほど千代子にとって致命的な秘密にちがいない。おなじ秘密を槙もしっていたのではないか。そして……そして……忠熈ならば青酸加里なども入手できるのではないか。
忠熈が直接手をくださないにしても、そこには秋山卓造という人物がいる。等々力警部がきのうクルマのなかでキャッチした情報によると、秋山卓造という男は、忠熈のためならば水火も辞せずという人物らしい。しかも、近藤刑事は阿久津謙三を死にいたらしめた自動車を、忠熈のものではないかという、強い疑いをもっているという。もしそうだとすると、その自動車を運転していたのは秋山卓造ではなかったか。しかも、その秋山は一昨日の晩、盆踊りにいっていたのだ。と、いうことはハッキリとしたアリバイがないということではないか。秋山ならば自動車の運転はお手のものである……。
金田一耕助の目下の最大の悩みは、津村真二の行方がわからないということである。笛小路の別荘や、万山荘をうかがっている殺し屋スタイルの男とは、ほんとうに津村真二なのだろうか。金田一耕助には浅間隠の貸し別荘のうらの、あの崖くずれが気になっていた。日比野警部補もおなじ疑惑をもっていた。警部補の命令であの崖くずれは掘り起こされた。その発掘事業はゆうべ夜を徹しておこなわれ、立花茂樹のいわゆる天然の冷蔵庫なども、けさまでに完全に掘り起こされたのである。金田一耕助もそれをきいて、けさの九時ごろ等々力警部とともに駆け着けたが、そこからは何物も発見することはできなかった。ウイスキーのボトルもコップも。
近所の人たちに聞いてみて、犯人がそこへなにかを隠したのではないかということは、愚かしい幻想にすぎないことがわかった。あの崖くずれが起こったのは、きのうの朝八時ごろのことだったそうである。犯人になにか隠したいものがあったにしても、あの崖くずれを予知できるはずはなかったのである。
金田一耕助にはもうひとつ気になっていることがある。田代信吉の存在である。田代信吉の存在は幻想ではない。立花茂樹が会って話もしているのだ。しかも、かれの遺留品が津村真二の別荘のすぐ外で、奇妙なかたちで発見されているのである。田代信吉はその後どこへ消えてしまったのか。軽井沢の警察はいま全力をあげて、このふたりの行方を追究しているのだが……
あのことが起こったのは十番ホールのグリーンのうえのことである。十番ホールはこのゴルフ場では二番目に距離が長く、四百四十三ヤードある。鉄雄のミスが多かったうえに、美沙のコーチにてまどったので、四人のボールがグリーンにのったのはもう三時を過ぎていた。離山からわき出してくるのか、濃い霧がゴルファーたちをくるんでいた。グリーンのうえに立っていると、あたりは霧のなかに埋没して荒涼たる眺めになっていた。フェヤー・ウェイの左右にある白樺や柏の木立ちも、いまや墨絵のような|暈《ぼか》しにしかすぎない。グリーンのうえへ押し寄せては吹き流されていく乳灰色の霧の層が、ハッキリ眼に見えるくらいであった。
金田一耕助はそのとき一彦のそばに立っていた。グリーンにボールをのせた一彦は、ボールをとってそのあとを赤い毛糸でマークした。等々力警部がまず一番パッティングを試みる番だった。警部のボールはホールから十ヤードほど離れていた。警部はボールと孔のあいだを歩いてみたり、しゃがみこんで傾斜をはかったり、芝を読んだりしていた。芝はもうかなり霧にぬれていた。
やがて深呼吸一番、等々力警部はパターを両手にボールの背後に立った。ホールまで距離がそうとうあるので、球をかるく叩くだけではダメである。チップ・ショット気味にうたなければならない。警部は二、三度スウィングをしていたが、やがて思い切ってボールに圧力を加えた。
|奇《き》|蹟《せき》が起こった。ボールは十ヤードの芝のうえを滑っていったかと思うと、ポトンとホールのなかへとびこんだ。拍手と歓声がおこり、
「ナイス・パッティング!」
と、鉄雄が叫んだ。等々力警部もさすがにうれしそうに、パターをたかだかとさしあげてバンザイのまねをした。
「ようし!」
と、一彦が叫んだ。おつぎは一彦の番なのである。一彦はすぐそばに立っている美沙をふりかえった。
「美沙ちゃん、その赤い毛糸をとってくれないか」
「赤い毛糸って?」
「ほら、美沙ちゃんのすぐまえに赤い毛糸があるじゃないか」
金田一耕助はハッとして美沙のほうをふりかえった。美沙はキョロキョロあたりを見まわしている。その美沙のすぐ鼻先に赤い毛糸のきれはしが、芝生の緑を背景として、そっと身をよこたえている。いつのまにか等々力警部もそばへきて、美沙と美沙のすぐ足下にある赤い毛糸を見くらべている。警部の|瞳《ひとみ》には異様なかぎろいが光っている。
「ほら、ほら、美沙ちゃん、すぐそこに赤い毛糸があるじゃないか」
一彦がもういちど、できるだけ気軽な調子でそういった。しかし、さすがにその声はノドにひっかかってかすれていた。
この四人の異様な緊張に気がついたのか、鉄雄と熈子がちかづいてきた。古川刑事も|爪《つま》|先《さき》立つような歩きかたで一同のうしろへきて立っていた。
一彦がまたいった。
「美沙ちゃん、君、すぐ足下にある赤い毛糸が見えないの?」
美沙は芝生から眼をあげると、自分をとりまいている六人の男女の顔を眺めていた。絶望のためにからだの線がかたくなり、ベソをかくときのように顔がゆがんだ。
「なあんだ、美沙ちゃん、君、色盲かあ!」
桜井鉄雄が|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声をあげたとき、美沙は二、三歩うしろへとんでいた。古川刑事が|猿《えん》|臂《ぴ》をのばしてつかまえようとするのを、金田一耕助がそばから強く|肘《ひじ》をおさえた。
美沙は|く[#「く」は「やまいだれ」+「句」Unicode="#75c0"]《く》|瘻《る》病のように背中をまるめ、|顎《あご》をまえにつき出して、ギタギタするような眼で六人の顔を見くらべていた。憎悪の火を吹きそうな眼であった。身構えをするように胸のまえでかまえた両手の指は、|鷲《わし》|掴《づか》みのようなかたちに湾曲していて、ワナワナとふるえていた。唇がおそろしくひんまがり、そのために顔全体がイビツにみえた。病的にねじれた唇から、いまにも泡を吹くのではないかと思われた。
金田一耕助もいままでずいぶんおおくの|兇悪《きょうあく》な男女の兇悪な形相を見てきたが、そのとき美沙がみせたような醜悪な形相をみるのははじめてだった。それがまだ十六歳の少女だけに、その恐ろしさはよりいっそう深刻だった。そこにはあきらかに精神的奇形があらわれていた。精神的奇形は精神的絶望をともなうことによって、より醜怪であり、より破滅的にみえた。
金田一耕助と等々力警部、鉄雄と熈子と一彦の五人は、まるで骨の髄まで凍りついたような顔をして、この醜怪な生き物を凝視していた。
金田一耕助にははじめて一彦の意図するところがのみこめた。一彦はしっていたのだ、美沙が色盲……紅緑色盲であるということを。それこそ笛小路篤子がひた隠しに隠していたであろうことを。
「…………」
古川刑事が口のなかでなにか叫んで一歩まえへ出た。美沙は身構えたまま二歩うしろへとびのいた。霧にぬれた美沙の顔はますます醜怪であり、絶望的であった。
古川刑事がまた一歩まえへ出た。美沙がまた二歩うしろへとびのいた。古川刑事がもう一歩まえへ出ようとしたとき、とつぜん霧のなかの遠くのほうからパーンというような音がきこえてきた。
一同がギョッとしてそのほうをふりかえったとき、またおなじような物音が霧のなかからきこえてきた。
「あっ、あれ、銃声じゃないか」
鉄雄が叫んだ。
「十二番ホールのへんでしたね」
一彦が応じた。
このコースは起伏が多いうえに、いまや濃い霧にとじこめられているので、視界がまったくきかなくなっていた。
「十二番ホールといえば、パパがプレーしているじぶんじゃない」
熈子の声はふるえていた。おそらく彼女の|脳《のう》|裡《り》には殺し屋スタイルの男の姿が、まがまがしく浮かびあがっていたにちがいない。
一彦がパターを握ったまま駆け出したとき、三度目の銃声がきこえてきた。こんどの銃声はさっきの銃声とすこし方角がちがっていた。一彦がスピードをはやめ、鉄雄と熈子がそのあとを追いはじめたとき、第四発目の銃声がきこえてきたかと思うと、霧のなかをだれかがなにかを|喚《わめ》きながら、こちらのほうへ近づいてきた。喚き声の調子からこけつまろびつという感じであった。
「飛鳥さんが……飛鳥さんが……」
霧のなかの声はそう喚いているようである。キャディーの声らしかった。キャディーは息を切らしていた。霧のなかを|喘《あえ》ぎ喘ぎちかづいてくる声は、こう叫んでいるようである。
「飛鳥さんが撃たれたあ……飛鳥さんが撃たれたあ……秋山さんが追いかけている……秋山さんが追いかけている……」
そのときまた第五発目の銃声がきこえてきた。さっきよりだいぶん遠くなっている。
金田一耕助と等々力警部も、一彦たちのあとを追いはじめた。古川刑事が一歩まえを走っていた。グリーンを駆けおりるとき、金田一耕助がふりかえると、むこうへ走っていく美沙のうしろ姿が見えていた。赤地に黄色の|横《よこ》|縞《じま》の入ったセーターを着た姿が、またたくうちに霧のなかへ消えていった。ピンクのネッカチーフがヒラヒラしているのが印象的だった。
第二十一章 霧海
昨日の台風を境として軽井沢の季節はきゅうに夏から秋へ移行したとみえて、夜になっても霧は晴れるどころか、ますます深くなっていくばかりである。ご自慢の|落《か》|葉《ら》|松《まつ》林はもののみごとに|薙《な》ぎ倒されたが、万山荘はまだまだふかい木立ちのなかにあり、木立ちのなかの万山荘にはいま全室にあかあかと灯がついている。しかし、その灯の色も濃い霧にぼやけて、にじんで、かえって|侘《わび》しげである。その霧が|凝《かたま》って滴となり、木々の|梢《こずえ》からおちる音が雨かとひとを驚かせる。
昭和三十五年八月十五日午後八時。
万山荘はいまふかい憂色につつまれていて、灯の色をよこぎってあわただしく出入りする人たちも、みんな息をのみ、足音にも気をくばっているようである。あの明治調ゆたかな広間にもあかあかと電気がついているが、そこには三人の人影しかみえない。
ふたりは籐製の小卓をあいだにはさんで碁を打っている。等々力警部と山下警部である。金田一耕助も碁盤のそばに籐|椅《い》|子《す》をひきよせて観戦中らしいが、ほとんど観戦しているのかいないのか、小卓のうえにある灰皿にはタバコの吸殻が山のように盛りあがっている。三人ともほとんど口をきかず、両警部の打ちおろす碁石の音が間遠にきこえるばかり。このあかるいホールのなかで、それはなにかを祈っている群像のようである。
いや、三人が三人とも心中なにかを祈っているのである。等々力警部と山下警部の打ちおろす黒白の石のひとつひとつに、三人の祈りがこめられているのであろう。
それにしても犯人が|拳銃《けんじゅう》をもっていようとは、金田一耕助にとって大きな誤算であった。
飛鳥忠熈に万一のことがあった場合、金田一耕助の責任は重大である。いや、金田一耕助にとっては犯人が拳銃をもっていたというそのこと自体よりも、犯人がそこまでデスペレートな気持ちに追いつめられて、飛鳥忠熈の生命をねらっているということのほうが、より大きな誤算であった。どこかで歯車がくいちがっている。金田一耕助はもういちどこんどの事件の|全《ぜん》|貌《ぼう》を、改めて組みなおしてみる必要に迫られていた。かれのそばにある灰皿に、タバコの吸殻が山のように盛りあがっているゆえんである。
さいわい、さっき病院からかかってきた一彦の電話によると、忠熈は危機を脱したらしい。弾丸は摘出された。輸血も成功した。忠熈はしゅうし意識はハッキリしており、手術がおわったとき的場英明をかえりみていったそうである。
「これで先生には二重の借りができましたね」
その意味はこうである。
|狙《そ》|撃《げき》されたとき忠熈は十二番ホールのグリーンのうえに立っていたのである。かれは最後のパットに取りかかっていた。ボールからホールまで三ヤードほどしかなかった。忠熈はこの一発できめるつもりだから、いきおい慎重であった。パターを両手にもって少しまえかがみになったポーズは、もっとも狙撃されやすい姿勢だったといえる。
すぐそばにお手並み拝見とばかりに的場英明が立っていた。ホールのそばに千代子とキャディーがいた。秋山卓造はグリーンのはずれに立っていた。ふたりの刑事がグリーンを遠巻きにして立っていた。霧はこのへんがいちばん深かったらしい。グリーンの外は深海の底のように濃い霧が渦をまいて流れていた。
秋山卓造が立っているグリーンのはずれの反対がわに、黒い影がうごくのがみえた。霧が濃かったのと、その動きがいたって落ち着いていたので、だれもその影を怪しむものはなかった。警備にあたっている私服だろうと思っていたのである。
パッティングの瞬間だったのでみんな息をひそめていた。霧は層をなして吹きながれ、あたりは静寂そのものだった。遠くのほうでけたたましく鳴く鳥の声が、かえってあたりの静寂を濃いものにしていた。
ひと呼吸いれた忠熈がいよいよパターを動かそうとしたとき、グリーンのはずれでパーンというような音がし、霧のなかに|蒼《あお》|白《じろ》い|閃《せん》|光《こう》が走った。忠熈の姿勢がぐらりと傾いたがすぐには倒れなかった。忠熈は一瞬、陶器の皿のようなかんじのする眼を大きくひらいて、霧のなかの狙撃者を凝視していた。だからそのときすぐそばに立っていた的場英明が、
「危ない!」
と、小さく叫んで忠熈のからだを突きころがし、自分も芝生のうえに身を伏せなかったら、おそらく第二の弾丸が忠熈の生命をうばっていただろうと思われた。
手術のあと忠熈がいったふたつの借りのひとつとは、このときのことをいうのであろう。
第二の銃声がとどろいたのと、忠熈のからだが転んだのとほとんど同時だったので、犯人はこの狙撃に成功したと思ったのかもしれない。身をひるがえして逃げようとするとき、千代子は反射的に二、三歩そのほうへ走って、そして霧の中にハッキリ見たのである。
妙なかたちをした黒い鳥打ち帽子に黒いサン・グラス、黒いマフラーで顔をつつんで、黒い手袋をはめていた。上から下まで黒ずくめの殺し屋スタイル。……しかし、それが津村真二であったかどうかはわからなかった。それはまるで霧のなかにゆらめいた、一瞬のかげろうのようなものであった。千代子は|四《し》|肢《し》が硬直していた。黒いかげろうはまたたくまに渦巻く乳灰色の霧のなかに溶けこんでいく。
「秋山、よせ……秋山、よせ……」
弱々しいが|断《だん》|乎《こ》とした命令口調の声をきいて、千代子がハッと背後をふりかえったとき、秋山卓造が猛然として千代子のからだを突きとばし、霧の中を駆けぬけていった。一瞬、千代子の眼にうつった秋山の顔は、紅をながしたように血走っていて、霧のなかを走っていくそのうしろ姿は、|猛《たけ》り狂った|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》であった。ふたりの刑事が遅ればせに秋山のあとを追った。
「畜生ッ! チキショウ!」
千代子と衝突したとき秋山が歯ぎしりをするようにうめいているのが、嵐のように千代子の|耳《じ》|朶《だ》をうった。
秋山はわざと千代子を突きとばしたわけではなかったであろう。もののはずみに衝突しただけだったろう。秋山が畜生ッ、チキショウとうめいているのも、千代子に対してではなかったであろう、おのれの主人を狙撃した犯人にたいしてであったろう、いや、それよりも自分というものがついていながら、こういうはめになったことについて、強く自分を責めているのであろう。……しかし、千代子はこみあげてくる悲しみと怒りに、胸がふさがりそうであった。
「千代子……秋山をとめてくれ……相手はピストルを持っている……」
この際、忠熈が千代子とよんでくれたことが、彼女に強い勇気をあたえ、動揺している彼女の心の支柱となった。
「秋山さん、秋山さん、引き返していらっしゃい。御前さまが心配していらっしゃるウ……」
|濡《ぬ》れた芝のうえから起きなおった千代子は、霧のなかにむかって大声でさけんでおいて忠熈のそばへ駆けよった。
的場英明が忠熈の上半身をたすけ起こしてかかえこんでいた。的場の白いハンケチが忠熈の左の|脇《わき》|腹《ばら》をおさえていたが、そのハンケチがまっ赤な血に染まっているのをみたとき、千代子は気が狂いそうであった。
「あなた、あなた、しっかりしてください」
忠熈はしっかり千代子の指を握りしめて、
「千代子、安心しろ……あいつは……あいつは……」
そこまでいって忠熈は的場英明の腕のなかで|昏《こん》|倒《とう》していった。
これらの出来事はほんの一瞬のまのことだった。この際、いちばん落ち着いていたのは的場英明だった。かれは忠熈の出血をできるだけおさえるように、そっとグリーンのうえに寝かしつけると、茫然としてそばに立っているキャディーを叱りつけた。
「なにをしてるんだ。はやく人をよんで来ないか。十一番ホールか十番ホールにいるはずだ」
キャディーが気が狂ったように駆け出していったとき、霧のなかから第三、第四の銃声がきこえ、
「秋山さんが……」
と、叫んだとき、千代子は自分が狙撃されたように肉体的な苦痛をおぼえた。
一彦たちが駆けつけてきたのはその直後のことであった。忠熈にとって仕合わせだったのは、そこには物慣れたひとたちが多かったことである。的場英明にしてからがこういう場合における応急手当ての方法くらいは心得ていた。全然素人の一彦や鉄雄にしてもいたずらに周章|狼《ろう》|狽《ばい》して、その場を混乱におとしいれるようなことはなかった。
等々力警部が的場英明のほどこした応急手当てに、まちがいのないのをたしかめているとき、キャディーの報告によってクラブ・ハウスから、すでに引きあげていたきょうの招待客が駆け付けてきた。そのなかには忠熈の|昵《じっ》|懇《こん》にしている高名な外科医がいた。まもなく救急車と日比野警部補の一行が駆け付けてきて、忠熈は担架で運びこまれた。救急車には高名な外科医のほかに千代子と熈子が同乗することになっていたが、そばから的場英明がオズオズしながら口を出した。
「たいへん失礼ですが、ぼくもその救急車に乗っけてくださいませんか」
「先生が……?」
ふしぎそうに|訊《たず》ねる一彦の顔を、的場英明はいささかテレたようにふりかえって、
「一彦君、飛鳥さんが倒れた瞬間、ぼくは血液型をきいたんだ、飛鳥さんの……飛鳥さんはAB型だそうだ。ところがぼくがやっぱりAB型だということを、一彦君もしってるね。なにかのお役に立てるかもしれない」
「先生!」
一彦は声をつまらせ、金田一耕助はあらためてこの沈着な考古学者に脱帽せざるをえなかった。忠熈のいうふたつの借りのあとのひとつはこのことだった。
「ああ、そう、それじゃあたしが残りましょう」
いったん救急車へ乗り込んでいた千代子が外へ出てきて、
「先生、なにぶんよろしくお願いします。さあ、お急ぎになって。忠熈さまが狙撃されたとき、この場にいあわせたのは先生とあたししかありません、だれかあとに残らなきゃ……熈子さん、なにぶんよろしく」
「熈子、おれもいくよ、じつはおれもAB型なんだ。一彦、君もすぐあとから来てくれたまえ」
極楽トンボの鉄雄もこういうときはテキパキしている。鉄雄が乗り込んだのを最後にして、救急車はグリーンのうえから滑り出していき、またたくまに霧のなかへ消えていった。けたたましいサイレンの音をひびかせながら。
こうしたあわただしい動きのあとで、グリーンのうえに残ったのは金田一耕助と等々力警部、千代子と一彦の四人だけ。その一彦も駆け付けてきた招待客とともに、クラブ・ハウスへ引き揚げていったが、引き揚げていくとき千代子にむかって、
「鳳さん、警察のかたにお話がおわったら、すぐクラブ・ハウスへきてください。ぼくといっしょに病院へ駆け付けましょう。意識を回復したときあなたがそばにいなかったら、おじは淋しがりましょう」
一彦は昏倒しながらも忠熈の手が、千代子の指を握っているのをさっき見たのだ。千代子はふかぶかと頭をさげると、
「ありがとうございます。すぐまいりますから」
一彦が招待客のあとを追っかけていくと、グリーンのうえには千代子と金田一耕助と等々力警部。日比野警部補は部下を督励して、ゴルフ場のどこかへ姿を消していた。霧はますます濃くなっていて、グリーンのうえに立っている三人は、まるで|幽《ゆう》|冥《めい》の海にうかんでいるようであった。その幽冥の海の遠くかなたから、おりおり刑事たちの叫ぶ声がきこえてくる。千代子にはそれが悪夢のなかから追っかけてくる、魔性のものの声のようにきこえたのかもしれない、霧にそぼ濡れた肩をこまかくふるわせていた。
「鳳さん」
しばらくして金田一耕助が声をかけた。できるだけ相手の気持ちをかき乱すまいとするように、落ち着いたしっとりとした声だった。
「あなたいま飛鳥さんの血液型がAB型だとわかると、すぐ救急車からおりていらっしゃいましたね」
「はあ、あたしはA型なもんですから」
おなじ血液型だったなら喜んでおのれの血を提供したであろうという顔色である。
「ゆうべあなたにうかがったのですが、美沙ちゃんが幼いころ輸血する必要に迫られたとき、阿久津謙三さんが血液を提供されたということでしたね」
「はあ」
「あのひとたちの血液型は何型でしたか」
「B型でした」
と、いってから、等々力警部の奇妙な態度に気がついてふしぎそうに|眉《まゆ》をひそめた。
「それがなにか……」
警部は千代子の顔をみるにしのびず、思わずそのほうに背をむけていた。
等々力警部はけさ金田一耕助とともに軽井沢署へおもむいて、去年この地で変死した笛小路泰久の検視に関する、専門家の鑑定書を見てきたのである。
笛小路泰久の血液型はO型であった。
O型の男子とA型の女子とのあいだに、B型の子どもはうまれえないということを等々力警部はしっている。すると美沙の父親はいったいだれなのか。
金田一耕助は悩ましげな眼を、霧のなかからちかづいてくる黒い影にむけながら、
「鳳さんはひょっとすると、笛小路さんの血液型をご存じじゃなかったですか」
「あのひとは……あのひとは……」
千代子もなにか襲いかかるドス黒い爪に気がついたらしく、金田一耕助の悩ましそうな横顔と、等々力警部のはばのひろい背中に眼をやりながら、
「O型でした。ええ、そう、まちがいございません。あのひとはたしかO型でした。しかし……しかし……金田一先生」
と、|喘《あえ》ぐように、
「それがなにか……」
この女はなにも知らないのだ。そして、みずから不貞を告白してはばからないのだ。この女は長いあいだ笛小路泰久を裏切り、欺いてきたのだ。この女は笛小路泰久の妻であるじぶん、だれかほかの男と通じて美沙をもうけたのにちがいない。それでなければ美沙の血液型がB型であるはずがない。しかも、この女はまだ血液型の秘密に気がついていない。そして、たくみに機会をとらえた金田一耕助が、誘導尋問をしているのに気がつかず、みずからの不貞と裏切り行為を、告白してはばからない。
しかし……と、等々力警部は大きく呼吸のはずむのをおぼえた。
そのことと美沙の色盲といったいどういう関係があるのだ。金田一耕助はこの事件に色盲がからんでいることを、最初からしっていたのではないか。ゆうべ南原の南条の別荘へかえると、そこに備えつけてある百科事典で調べていたのは、色盲の項ではなかったか。
「金田一先生!」
千代子の声はふるえていた。
「血液型のことがなにか……?」
等々力警部がふりかえると、金田一耕助は千代子の肩に両手をかけていた。
「鳳さん、そのことについてはこんやゆっくりお話しましょう。わたしにはまだ二、三わからないことがある。しかし、わたしはあなたを信じている。血液型のことはまだだれにもいわないほうがいいですよ。また、あなたもその意味をしろうとなすっちゃいけません。いずれあとで……こんや……ああ、あそこへやってきたのは日比野警部補のようですね。あなたさっきの状況をひととおりお話なすったら、すぐクラブ・ハウスへひきかえして、一彦君といっしょに病院へ駆け付けたほうがいいですよ。飛鳥さんはいまだれよりもあなたを必要としていらっしゃるようです」
金田一耕助がはやくちにそういって、千代子のそばをはなれたとき、霧のなかから日比野警部補があらわれた。
日比野警部補が興奮しているのは当然として、かれはまたすっかり懐疑的になっていた。忠熈が|狙《そ》|撃《げき》されたということは、この若い警部補にとって大失態にちがいなかったが、かれは素直にその事態が受け取れないらしかった。そこになにか大きな|欺《ぎ》|瞞《まん》があるのではないかと疑ってかかっているらしい。
千代子はなんどもそのときの状態を再現してみせた。狙撃者は昨夜からたびたび問題になっている殺し屋スタイルの男であったが、その顔はよくみえなかった。したがってそれが津村真二であるかどうかわからないという申し立てにおよんでは、警部補の疑惑は沸騰点に達し、したがってその質問も冷酷にして|峻厳《しゅんげん》をきわめた。
しかし、千代子はすっかり柔順になっており、おなじ申し立てを辛抱づよくなんどもなんどもくりかえした。的場英明先生がおなじ状況を目撃していられるはずであるから、あのかたにも|訊《たず》ねてほしいと附け加え、被害者の忠熈が相手の顔を見ているのではないかと思う。それについてかれはなにかいいかけたのだが、その途中で|昏《こん》|睡《すい》してしまったのである。だからあの人が昏睡から|醒《さ》めたらきいてほしいといいかけて、千代子ははげしいショックに|眼《め》|暈《まい》をかんじたらしくよろめいた。おそらく忠熈があのまま昏睡から醒めない場合の打撃に思いいたったのであろう。
見るに見かねて金田一耕助がそばから言葉をはさんだ。
「日比野さん、もういいでしょう。鳳さんもいってらっしゃるようにその場には的場先生もいらしたんです。あとであのかたにもお聞きになって、おふたりの申し立てに食いちがいでもあったら、そのときまた追及なすったらいかがですか」
それから千代子のほうへむきなおって、
「鳳さん、一彦君がクラブ・ハウスで待ってるんでしょう。すぐ病院へいってあげたら……」
日比野警部補はそこでやっとそれ以上千代子を追及することを断念したらしく、万一をおもんぱかって若い私服に命じてクラブ・ハウスまで送らせた。
あとは荒涼たる霧のゴルフ場である。どこか遠くのほうでおりおりけたたましい鳥の声がきこえるほか寂莫たる十二番ホール附近は、濃い霧の海にとざされて、もはや数メートルさきさえ弁じがたい。金田一耕助のもじゃもじゃ頭はぐっしょりと霧にぬれていた。金田一耕助と等々力警部は日比野警部補の案内で、そこから百メートルほど離れた林のそばまでいってみた。そのラフのはずれの草のうえに血が流れていて、附近をものものしい顔をした数名の刑事や警官が警戒にあたっていた。そのなかの刑事のひとりはまだ興奮のさめやらぬ面持ちで、
「私と山口君が秋山さんのあとにつづいてここまで犯人を追っかけてきたんです。そのとき犯人のぶっ放した二発の弾丸のひとつが、秋山さんの脚にあたったんです。秋山さんが倒れ、私が介抱しているすきに犯人はその林のなかに逃げ込んだんです。山口君がそのあとを追いかけました」
その林はもちろん霧の海に沈んでいて、林の背後にそびえているはずの離山は、密度の濃い水滴の幕につつまれて、その輪郭さえみせなかった。
「私は秋山さんにこの場から離れないようにいっておいて、犯人や山口君を追って林のなかへとびこんだんです。犯人は見つかりませんでした。それのみならずあっちの方角からピストルの音がきこえてきたので私もそのほうへいってみました。犯人は見つかりませんでしたが、草のうえに血の跡がついていました。私がいそいでここへ引きかえしてみると、秋山さんの姿がみえなかったんです。まもなく山口君もひきかえしてきました」
この私服は木村というのだがさっきも日比野警部補に、おなじことを報告したにちがいない。興奮の色は露骨だったが、どこか|暗誦《あんしょう》口調たるはまぬがれなかった。
金田一耕助がきいてみると、秋山卓造は左脚の|踝《くるぶし》のへんをやられたらしい。弾丸は命中したわけではなく肉をかすっただけで、骨に異常はないから大丈夫だと本人はいっていたというが、そこに溜まっている血の量や、林のなかに点々としてつづいている血の跡からみて、相当の出血だったろうと思われる。それにもかかわらず秋山卓造は犯人を追って林のなかに駆けこんだのだ。しかも、その犯人は拳銃をもっているのみならず、そうとうデスペレートになっているらしい。
金田一耕助はゾーッとばかりに、背筋が寒くなるのをおぼえずにはいられなかった。
日比野警部補としてはとるべき方法はふたつしかない。全町に非常線を張ることと山狩りと。第一の手段はすでにとられているはずだといっていたが、山狩りをするには時刻や気象条件がまことに不都合にできていた。時刻はそろそろ五時である。日の長い夏場のことだから、五時という時刻はたいして問題にならなかったかもしれないが、あいにくのこの霧である。霧は夜とともにますます濃くなりまさっていく気配である。
離山はもとより大きな山ではない。しかし、ときどき熊が出るという山である。そこから人間一匹探し出すとなると話はおのずから別である。しかも、相手は|兇器《きょうき》をもっている。弾丸を何発持っているかしれないのである。おまけに霧が犯人を守っている。|跫《あし》|音《おと》をきいただけでも霧のなかからぶっ放してくるかもしれないのである。そこにいる刑事や警官が緊張しているのもむりはない。
作戦はあらためて練りなおさなければならなかった。
見張りの警官をふたりのこして、一同がクラブ・ハウスへ引き揚げてくると、招待客はいうにおよばず、一彦や千代子の姿もみえなかった。白バイの警官がひとり日比野警部補を待っていて、その報告によると、桜の沢の笛小路の別荘には、篤子やお手伝いさんの里枝はいたが、美沙のすがたは見えなかったそうである。美沙は正午まえゴルフ場へいくといって出かけたきりでまだ帰っていないという。美沙は十番ホールからそのまま姿を消してしまったらしい。
金田一耕助と等々力警部は日比野警部補の自動車に送られて、ゴルフ場から病院へまわった。病院では一彦が応対に当たったが、かれの話によると、忠熈は病院へ着くとまもなく意識を取り戻したそうである。ひどく元気でいま輸血の最中だが安心してほしいということであった。それから連絡場所や今夜の宿泊の場所として万山荘をつかってほしい。そのほうが自分としても安心が出来るからということづけであった。それに対して金田一耕助はつぎのような伝言を託した。
「それでは御前に申し上げておいてください。事件も大詰めに入ってきた。今明日中にも事件を解明して、犯人を指摘してお眼にかける、速やかなるご回復をお祈りいたしますと」
その伝言をきいて忠熈はひどく喜んだそうである。かれの|枕《ちん》|頭《とう》には千代子と熈子が侍しているらしかったが、鳳さんがそばにいることが、おじを勇気づけるらしいと一彦はいっていた。
その一彦の運転するキャデラックで、金田一耕助と等々力警部は万山荘へ送られてきたのだが、等々力警部の要請でとちゅう警察へ立ち寄った自動車は、そこで山下警部をひろいあげてきた。こうして万山荘がすべての連絡場所と定められたのである。
昭和三十五年八月十五日午後八時半。
霧はますます濃くなりこそすれ、いっこう晴れる気配はみえなかった。ガラス戸はピッタリしめてあるのだが、それでもどこから吹きこんでくるのか、古色|蒼《そう》|然《ぜん》たる万山荘の広間は薄紫の霧のために|模《も》|糊《こ》としてけむっていた。
八時半ちょっと過ぎにやってきた、日比野警部補のもたらした報告によると、殺し屋スタイルの狙撃犯人はいうまでもなく、秋山卓造や美沙のゆくえもまだわからないという。秋山はあくまで狙撃犯人を追っているのであろうが、その安否が気づかわれる。美沙はどうしたのであろうか。美沙と狙撃犯人とのあいだになにか連係があるのだろうか。
「山狩りは夜明けまで待たなければならないだろうということになりました」
日比野警部補は窓外をとざす濃霧に眼をやりながら、いまいましそうに呟いた。
「むろんそれまでにもそれらしい人物を見かけたら、即刻逮捕するよう全町に手配はしてあります。それから問題の白樺キャンプ第十七号ハウスの楽書きですが、目下鑑識でやっています。まもなく結果がわかると思いますが、わかりしだいこちらへ報告があることになっています」
「第十七号ハウスの宿泊人名簿のほうは……」
金田一耕助がたずねた。
「ああ、そのほうもいまやってます。さいわい立花茂樹君が津村真二の手紙をもっていたので、去年の事件後津村があそこへ泊まって、みずから宿泊人名簿に記帳したとしたら、これまたまもなく判明するでしょう」
「それは楽しみですね」
と、いったものの金田一耕助はかならずしも楽しそうではなかった。かれは悩ましげな眼をして、盤面でいまや複雑な陣形をつくっている|烏《う》|鷺《ろ》の争いをながめていた。白石を握っているのは山下警部だが、どうやらこのほうが形勢不利とおぼえた。
八時四十五分に電話のベルが鳴り出した。この電話はいま外部から直通になっているのである。熈子からであった。金田一先生へということなので、金田一耕助が出てみると、
「金田一先生ですね。こちら桜井熈子でございます。あたしいま病院にいるんですけれど、そちらにいまどういうかたがたが……?」
「はあ、ぼくのほかに日比野警部補、それから県の警察本部から出張してきている山下警部、ほかにご存じの等々力警部と、それだけですが……」
熈子はちょっと思案をしたのちに、
「結構です。それではあたしすぐそちらへまいりますから、みなさまそのままお待ちくださいますように。ぜひとも聞いていただきたいお話がございますの」
熈子の声は落ち着いていたが、硬質ガラスを思わせるようなその調子には、かたい決意のほどがしのばれて、受話器をおくとき金田一耕助はおもわずふかい|溜《た》め|息《いき》をもらした。
第二十二章 ライター
「金田一先生、あなたこのライターについてなにかお心当たりはございませんか」
挨拶もそこそこに熈子がハンケチのなかから取り出して、金田一耕助のまえへおいたのは金側のライターだった。表面にピラミッドのレリーフがあるところをみると、おそらく特別に造らせたものだろう。金田一耕助は手にとってみて日比野警部補と顔見合わせた。
「これお父さんのライターですね」
「父はそのことについてなんと申し上げてますの。父はまだ多くを語ることができないのですが、眼顔でみるとなにかそのライターのことについて、先生に申し上げているようですわね。なんと申し上げているんでしょうか」
まるでまっこうから|斬《き》り込むような調子である。唇のはしに微笑をきざんでいるのだが、微笑の底には固さがあり、相手に挑みかかるような調子である。|瞳《ひとみ》の色にも不敵な輝きがあるところをみると、この女がなみなみならぬ闘士であることを示している。金田一耕助のほうがかえってそれに圧倒されたように、眠そうな眼をショボショボさせながら、
「そう、お父さんはこれをおとといの晩、霧のなかで落としたようにいってらっしゃいましたね」
「落としたって? それいったいどういうことですの。これ、父の秘蔵のライターですのよ。それに父はそれほどウカツなひとじゃありません。それをどういう状態のもとに落としたといってるんですの」
「そ、それがその……なんですな、お父さんはつまり、おとといの晩八時過ぎ高原ホテルをとび出して……そう、八時ちょっと過ぎに停電があったでしょう、そのときお父さん、鳳千代子さんとふたりでホテルのロビーにいられたんですね。ところがとつぜん停電になった。そこで、つい、その……なんですな、どちらからともなく抱きあって唇をかさねられた。つまり、その……手っ取りばやくいえば、キスというやつをなすったんだそうです。そ、そ、それから、その……」
「それから、その……父はどうしたというんですの」
たたみかけるような熈子のそばから、
「奥さん、それよりあなたはこのライターを、どこで手にいれたんですか」
と、日比野警部補が短兵急にたずねたが、熈子はそのほうへ見向きもせず、
「それから父はどうしたというんです」
あいかわらず斬り込むような調子である。眼に不敵な輝きをうかべ、唇のはしに無気味な微笑が凍りついている。見ようによっては相手を|愚《ぐ》|弄《ろう》するような微笑である。
熈子に無視された警部補は|頬《ほお》に血の気がのぼり、なにかいおうとしたらしかったが、山下警部の視線に気がつくと、そのまま黙りこんでしまった。等々力警部は碁石を指でつまんだまま、未練たらしく盤面をにらんでいるところをみると、形勢逆転、この勝負等々力警部にとって時に利あらずというところだったらしい。
ここに哀れをとどめたのは金田一耕助で、|悍《かん》|馬《ば》のごとき女闘士桜井熈子に真正面から斬り込まれると、まるでキスした当人が自分であるかのごとくテレて、ハニかんで、ヘドモドして、めったやたらともじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「そ、そ、それがですね、つ、つまりそれはこういうことなんですがね、あっはっは」
と、自分で自分の周章|狼《ろう》|狽《ばい》ぶりがおかしくなったのか、バカみたいな笑い声をあげると、ゴクリと|生《なま》|唾《つば》をのみこみ、|臍《せい》|下《か》|丹《たん》|田《でん》に力をこめると、やっと形勢を立てなおして、
「お父さん、そこでホテルをとび出された……つまり、その鳳女史とのキスのあとでですね。ところが外は停電でまっくらである。西も東もわからない。しかも、お父さんは鳳女史の|柔《やわ》|肌《はだ》の熱き血潮にふれたがために、ガゼン青春の血がよみがえってこられた。これをお父さん流に表現するとですね、フアーッとしてしまって、どこをどう歩いたかちっとも憶えていないが、うちへかえってみると九時半か十時であった。つまり、その、なんですな、お父さんは大いに青春の幸福に酔い|痴《し》れて、一時間半か二時間のあいだ旧軽井沢のあのへんを、ヤミクモに歩きまわったが、どこをどう歩いたのかちっとも憶えていないし、また途中でひとに会ったかどうかも弁えがないと……こうおっしゃるんですがね」
哀れ金田一耕助が汗ダクで、これだけのことを説明しおわるのももどかしそうに、
「それでライターは……? ライターのことはなんと申しておりますの」
と、斬り込む熈子のことばに情け容赦もあらばこそであった。
「はあ、そ、そ、そのライターのことですがね」
金田一耕助がまたもや|吃《ども》って、もじゃもじゃ頭に手をやりかけたところをみると、どちらが尋問しているのかされているのかわからない。日比野警部補はそれが不服でしきりに|急《せ》きこみそうになっているが、山下警部は経験ずみとみえ、どうかするとニヤつきそうになるのを抑えるのに必死の形相である。等々力警部は|鹿《しか》|爪《つめ》らしい顔をして、白と黒との碁石を勘定しながら|碁《ご》|桶《け》へしゃくいこんでいるが、金田一耕助にたいする|憐《れん》|憫《びん》の情禁じがたしといわんばかりの顔色である。碁石をしまいこむとやおらタバコに火をつけたのは、触らぬ神に|祟《たた》りなしとでも思っているのであろうか。
かくて悍馬のごとき女闘士を相手に、孤立無援の金田一耕助はもうやけだといわんばかりに、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「つまり、お父さんはまっ暗がりのなかをヤミクモに、歩きまわっているうちにタバコが吸いたくなられた。そこでライターを出して火をつけようとしたが強風のために火がつかない。そのときは諦めたがしばらくしてまたタバコが吸いたくなった。そこでポケットをさぐったがライターがない。さっきポケットへ入れたつもりが落としたのであろう。それがかくかくしかじかの特徴のあるライターである。したがってそのライターの拾いぬしを発見すれば、自分がどのへんを歩きまわっていたかわかるであろうと、こうおっしゃるんですがね」
「ヘタな弁明ですわね」
「仰せのとおり、弁明としては最低ですな」
「金田一先生はそれをどう思っていらしたんです」
「こいつ少々クサイと思いましたね。いや、大いにクサイとにらみましたよ。つまり、お父さんには槙恭吾が一服盛られてオダブツになられた時刻のアリバイがない」
「で、どういうことになるんですの、父は……?」
「つまり、お父さんがフアーッとしてヤミクモに、所かまわず歩きまわっていたと称する時刻に、じっさいには矢ガ崎へおもむいて、槙氏に一服盛られたのではないかと考えたんですな。ところがのちに現場が浅間隠であると判明するにおよんで、所要時間はさらに短縮される。だからてっきり……と、いうわけですね」
「そんな場合動機はなんですの、父はなんだって槙さんを毒殺しなければなりませんの」
「それは所有欲の問題ですな。お父さんは人一倍所有欲が強くていらっしゃる。だからいままさに自己の所有に帰せんとしている女性を、かつてわがもの顔に所有していた男がこの世に存在していては目障りである。しかるによって片っ端から……と、いうわけですね」
「ほっほっほ」
と、悍馬はここでヒステリックないななきをあげて、
「しかし、青酸加里はどういうことになるんですの、父は青酸加里をどこから手に入れたんですの」
「奥さん、あなたはお父さんを過小評価なすっちゃいけませんよ。飛鳥忠熈氏くらいの人物になれば、青酸加里の一トンや二トン、トラックに一台や二台、手に入れようと思えばいつでもはいる。飛鳥忠熈はオール・マイティーである。……と、いうような観念をお父さんは世間に植えつけてこられた。少なくとも金田一耕助はそういう信念をもっておりますんでね」
金田一耕助はあんまり|睨《にら》みのきかない眼をショボショボさせながら、まるで樋口操夫人みたいなことをいう。悍馬熈子もいくらか心細くなったかして、
「まさか……金田一先生ともあろうかたが、ほんとにそんなバカなこと、考えていらしたわけじゃないでしょう」
と、小さな声でいったのは闘志がだいぶんシボんでいった証拠であろう。
「いや、ところがね、奥さん、メイ探偵というヤツは、ありとあらゆるバカなことを考えるもんです。いかにモロモロのバカなことを考えうるかどうかということによって、メイ探偵たりうるかどうか|篩《ふるい》にかけられるんですね。はやい話がここにいる等々力警部ですが、このひとなんか常識なんてくだらん|手《て》|桎《かせ》|足《あし》|桎《かせ》に縛られてますからね、まさか飛鳥忠熈氏ともあろう人物がそんなバカなことを……と、頭から懐疑的になる。だからこのひと十年一日のごとく警部さんで、いっこうウダツがあがらんというわけです。山下さんなんかもチョボチョボのくちらしい。そこへいくとこの金田一耕助ときたひにゃ……いや、名論卓説はこれくらいにしておいて、このライターどこにあったんですか」
「うちの別荘のポーチの|手《て》|摺《すり》のうえに置いてあったそうです」
熈子がさいしょの権幕もどこへやら、案外素直にこたえたのは、あきらかに金田一耕助の毒気に当てられたのである。虚勢を張っても通用しない相手であるということを|覚《さと》ったのであろう。
「置いてあったそうです? そうですとおっしゃるのは?」
気のみじかい日比野警部補がなにかいいそうになるのを、先手をうって金田一耕助がやんわりおさえた。
「これあたしが見つけたんじゃございませんの。神門土地から手伝いにきてくれた職人のかたが見つけてあたしに渡してくれたんです」
「いつ?」
「きのうの朝……いえ、もう昼頃のことでしたわね。手摺のうえにチョコンとおいてあったそうです。これ見よがしに」
「そうするとお父さんはおとといの晩、高原ホテルをとび出してから、おたくの別荘へ立ち寄られたということですか」
「だと思います」
と、いってから熈子は早口に附け加えた。
「念のためにこのライター、さっき病院で鳳さんに見ていただいたんですの。おとといの晩ホテルで鳳さんに会っているとき、父はたしかにこのライターを持っていたそうです」
「しかし、お父さんはなぜこのことをわれわれにおっしゃらなかったんでしょう。おたくの別荘を訪ねていったということを。そして、ライターを手摺のうえにおいてきたということを」
熈子の瞳にまた|兇暴《きょうぼう》なかがやきが戻ってきた。唇のはしに不敵な微笑をうかべながら、
「金田一先生にはその理由がわかっていらっしゃるんでしょ。あたしは全然しらなかったんですのよ。植木屋さんがそのライターを見つけてあたしに渡してくれるまで、おとといの晩父が訪ねてきてくれたということを」
「つまりお父さんはおたくの別荘へいかれたが、なんらかの理由であなたに声をかけないで、そのライターだけをおいてかえられたということですね」
「だからその理由とはなんなんですの。先生にはもうわかっていらっしゃるんでしょう」
|鍔《つば》ぜりあいとはこのことであった。熈子が発止と斬りこんでくるのを受け止める金田一耕助の顔色は、しかしいたってダラシがない。迷惑そうに眼をショボショボさせるばかりである。見るに見かねて日比野警部補が助太刀に乗りだそうと身構えたが、山下警部の|咳《せき》|払《ばら》いにけんせいされて思いなおした。
金田一耕助は悩ましげな眼をしてしばらく黙りこくっていたが、やがてホッと溜め息をつくと、
「奥さん、あなたお人が悪いですね」
「ええ、どうせ飛鳥忠熈の娘でございますからね。あたしだっていざとなったら青酸加里の一トンや二トン、なんとか工面してみせますわ。しかし、先生のおっしゃる意味は?」
「ご自分でいいにくいことはみんなひとにいわせようとなさる。いいですよ、どうせバカなことを考えるのがショウバイのぼくのことですからね。つまりそれはこういうことでしょう」
しかし、金田一耕助はこんどはもじゃもじゃ頭をひっかかなかった。悩ましげな眼を熈子のおもてにすえたまま、
「お父さんは鳳千代子さんにキスなすった。これ即ちプロポーズですかね、しかも鳳女史もこれを快く受け入れられた。と、いうことはここに婚約が成立したということです。お父さんはその喜びをまず一番にあなたに報告しようとなすったか、あるいは|諒解《りょうかい》をもとめようとなすった。それともうひとつ、お父さんはおとといの晩、桜井さんがこちらへ来れないことを知っていられた。しかも、停電であたりは真っ暗、おまけに風は吹きつのってくる。さぞやあなたが心細がっているだろうってんで、それやこれやでおたくの別荘へ出向いていかれた。これ即ち父性愛のあらわれというわけでしょう」
「父性愛だけはよけいでしょう。あたしもう子どもじゃありません」
「そりゃそうでしょう。ご亭主のるすにほかの男をひっぱりこむようなあなたですからね」
熈子の瞳から消えかかっていた兇暴な光りが、とつぜん激しくもえあがり、殺気となって金田一耕助のおもてを鋭く射た。悍馬の本性あらわして、いまにもつかみかからん勢いで腰をうかした。|瞼際《まぶたぎわ》がまっ赤にもえている。あなやとばかり日比野警部補も腰をうかしかけたが、山下警部と等々力警部は泰然自若としてふたりの顔を見くらべている。
熈子はしばらく息をあえがせながら、満身の憎悪を瞳にこめて、うえから金田一耕助をにらんでいたが、相手の悩ましげな眼をみているうちに、しだいに瞳からかがやきがうせて、やがてガックリ椅子に腰をおとした。
「金田一先生」
と、うめくように、
「あたしあなたを見そこなっていたようです」
「どういうふうに?」
「父はとてもあなたをご信頼申し上げているようです。ですからもう少し思いやりのあるかただと思っていました」
「失礼しました」
金田一耕助はすなおに頭をペコリとさげると、
「せっかくあなたがすべてを告白しようとここへ来ていらっしゃるのに、いまの平手打ちは残酷でした。しかし、あなたはお父さんに反感をもっていらっしゃるんですか」
「とんでもございません」
熈子は強く打ち消して急に神妙になった。ションボリと肩を落として、
「あたしあの人を尊敬しています。いえ、尊敬している以上に父が好きです。あんないい父はそうたくさんはいないでしょう。ですからいっそう自分に腹が立ってくるんです。ああいういい父をさぞ苦しめたろうということについて」
「お父さんはどういう情景をごらんになったと思いますか」
「いいえ、父はなにも見なかったと思います。なにしろ真っ暗がりのことでしたから。ただ父は聞いていたにちがいないと思います」
「聞いていた? なにを……?」
「ピアノの音です」
「ピアノの音……? だれがピアノを弾いたんですか」
「もちろん津村さんです」
「津村氏、おたくへきてピアノを弾いたんですかあ」
「だってほかにすることがないじゃございません? ああ真っ暗じゃ……」
真顔で|怨《えん》ずる熈子のことばをきいて、金田一耕助はおもわず吹き出した。等々力、山下の両警部も大きく目玉をひんむいたが、つぎの瞬間ふたりの唇がほころんで、顔面筋肉が急にゆるんだ。ただ若い日比野警部補だけが疑わしそうに出目金をとがらせている。
「熈子さん」
と、思わずいってから金田一耕助はいくらかテレたように、もじゃもじゃ頭に手をやって、
「いや、失礼しました。しかし、熈子さんとよばしてください。わたしはあなたを熈子さんとよびたくなった。いけませんか」
「いいえ、そう呼んでください。そのかわりあたしも先生にあまえさせていただきます」
「ああ、そう、ありがとう。それじゃお|訊《たず》ねいたしますが、熈子さんは津村氏とよろめいたんじゃなかったんですか」
熈子はだまって金田一耕助の顔を見ていたが、やがてはじらいの色を全身にみせて、
「なにもかも正直に申し上げてしまいましょう。土曜日の夕方五時半ごろ星野温泉へ電話をかけた時、あたしはそうするつもりだったんです。だって|癪《しゃく》じゃございません。あの日の昼過ぎ鉄雄さんから電話がかかってきて、よんどころない用事ができてこんやはいけなくなったというんでしょう。そのまえの土曜日にもあたしスッポかされておりますの。でもそのときはほんとになにか用事があったらしく、父からも忙しい体なんだから、まあ堪忍しておやりって慰められておりますの。ところがおとといのはダンゼンクサイでしょう。あら、ごめんなさい。あの人がそうとうあちこちで発展してることご存じなんでしょう」
「はあ、それはこちらの警部さんから伺っております。しかし、あのひとほんとはあなたを愛してらっしゃるんでしょう」
「と、まあウヌボレてはいますの。いえ、いま先生のおっしゃったとおりでしょう。あたしがいけないんです。身重のからだを無謀運転で、交通事故を起こして流産したあげく、不妊症の|烙《らく》|印《いん》を押されてしまって……あのひとが浮気をはじめたのはそれからなんです」
「あなたいけないんですか、妊娠のほう……?」
金田一耕助が深刻そうな表情をするのを、熈子は急に笑い出したあと、
「あら、ごめんなさい、先生、先生がせっかくご心配くださるのを笑ったりして……でも、それがおかしいんですの」
「おかしいとおっしゃると……?」
「交通事故のあとお医者さまから宣告されたところでは、九十パーセント駄目だろうということだったんですの。可能性が十パーセントしかないということは、まず駄目だろうということですわね。それであの人すっかり悲観して浮気をはじめたんですの。ところがその後おいおい回復したらしいんですのね。五十パーセントくらい大丈夫だろうと先生がおっしゃるんですけれど、それをあの人しらないんですの」
「あなたそれをおっしゃってないんですか」
「だっていえないじゃございません。これこれしかじかだから浮気はやめてあたし専門にしてちょうだいなんて。それに先生にそうおっしゃられてから、もうかれこれ半年になるのに駄目でしょう。だから自信もございませんし、それに授かるものなら授かってからうちあけて、あのひとの鼻をあかせてあげたいし、また狂喜乱舞させてあげたいって気もしますの。あのひととても子どもをほしがってますから。はかない希望ですけれど」
「それでお父さんはご存じないんですか、五十パーセント大丈夫だってことを」
「父は九十パーセント駄目だということまでしか知らないでしょう。だからとてもあたしども夫婦のことを心配しておりますの」
「そりゃいけませんよ。それはハッキリ打ちあけて、旦那さんを|叱《しっ》|咤《た》|鞭《べん》|撻《たつ》して、大いに|刻《こっ》|苦《く》|勉《べん》|励《れい》させるべきですよ」
「それじゃ金田一先生いってちょうだい。K大病院の産婦人科の医長先生、吉村先生のところへ聞きにいくようにって」
「承知しました。K大病院の産婦人科の医長先生、吉村先生ですね」
金田一耕助が手帳にかきとめているのを見て、日比野警部補は世にもけげんそうな顔をしている。等々力、山下警部は厳粛な顔を見合わせながらふたりのやりとりを眺めている。
「そうすると熈子さんはうっかり他の男とよろめけないわけですね。妊娠の可能性大いにありとすれば」
「それが怖うございますわね。でも五時半ごろ星野温泉へお電話したとき、あたしハッキリよろめくつもりでいたんですのよ。鉄雄さんてひと、悪いことをするときや、したあとではすぐわかりますの。シドロモドロですからね。土曜日の午後電話をかけてきたときがそれでした。ですからむこうがむこうなら、こちらもこちらという気になったんですの」
「失礼ですが津村氏とはいつごろから……?」
「ああ、それ。ゆうべ鉄雄さんが申し上げたでしょう。去年の秋日展の会場でお眼にかかって、お友達といっしょにお茶をのんだって。ところがそれからひと月もたたないうちに、さる音楽会の廊下でお眼にかかって、そのときはふたりきりでお茶をのんだんですの。そのあとむこうさんから電話をかけてきたり、こちらから電話をしたりで、あちこちの喫茶店や画廊やデパートで会ったりしてたんです」
「そのことご主人にはおっしゃってなかったんですね」
「そのことですけれど、べつに|疚《やま》しいことはなかったんですけれど、好奇心の強い女だと思われるのはいやですわね。むこうさまもおなじような理由でだれにもおっしゃってなかったようです」
「つまりこういうことですね。べつに疚しい関係があったから隠してたわけじゃなく、ただなんとなく隠しているうちに、心情的にだんだん疚しくなってきた……」
「金田一先生」
と、熈子はちょっとことばに力をこめて、
「先生のおっしゃるとおりでございます」
「それではおとといの晩のことをお伺いしましょうか」
「承知しました」
熈子はかるく頭をさげて、
「おとといの五時半ごろ、あのかたにお電話したときのあたしはたしかに疚しかったんです。こんや主人が来れなくなった。お手伝いさんも盆踊りに出向いていくから、おそらく十一時ごろまではかえれないでしょう。あたしひとりで淋しゅうございますから来てくださいと申し上げたとき、あたしの声はうわずっていました。むこうさまはちょっと|躊躇《ちゅうちょ》していらっしゃいましたが、それでは演奏会がおわったらすぐ駆け付ける。九時半までにきっといくとおっしゃったその声が、妙にふるえていて、あたりをはばかるような調子でしたから、ウヌボレかもしれませんけれど、むこうさまもその気でいられたのではないかと思うんです」
「なるほど、それで……」
「ですからあたしどもに許された時間は、九時半から十時半までの一時間ですわね。あたしその一時間を出来るだけ有効に使うつもりで、いろいろ心の準備をしていたんです。そのときのあたしはほんとに悪い女で、鉄雄さん、おぼえていらっしゃい。鉄雄さん、いい気味だわと心のなかで叫びつづけていたんです」
「よっぽどご主人を愛していらっしゃるんですね」
「先生!」
熈子はちょっと鼻をつまらせて、
「けっきょくそういうことになるんでしょうね。でも、おセンチはこのさいご遠慮して、事実だけを申し上げますと、七時ごろ里枝ちゃん……笛小路さんとこのお手伝いさんですわね、里枝ちゃんがお誘いにきてうちの栄子ちゃんといっしょに出掛けていきました。そうそう、盆踊りの会場がうちのすぐちかくなんですの。ですから拡声器の音がきこえているあいだは大丈夫です。あのひとたち盆踊りがすむまで、絶対にかえってきませんから」
「ああ、ちょっと、停電でも拡声器の音はきこえたんですか」
「ああ、それが……」
熈子もちょっとほほえんで、
「あとで栄子ちゃんに聞いたんですけれど、世話人のなかに電気屋さんの息子さんがいて、電池なんか持ち出したりしたんだそうですが、結構大きな音がしてましたわね。もちろん本物とはちがってましたが。そのことは日比野さんなんかもご存じだと思います」
「いや、ぼくも停電で真っ暗ななかを炭鉱節やなんかが聞こえるでしょう。ふしぎに思っていってみたら、電池からうまくコードをつないでやってるんです。おまけに公園においてある金属製の|紙《かみ》|屑《くず》|籠《かご》で三か所ほど、どんどん火をたいて、その明りのなかでみんな踊ってるんです。危ないじゃないかと叱りつけたら、なんと消防の連中が準備万端ととのえて、かわるがわる踊ってるんで笑ってしまいました」
日比野警部補もどうやら|鋭《えい》|鋒《ほう》をおさめたらしく苦笑している。
「なるほど、それはいたれり尽せりですね」
「なにしろ年にいちどのことですからね。それに電気屋のおやじというのがそういうことの好きなやつで、そいつが先頭に立ってやってるんで、ぼくも火の用心だけはきびしくいってかえってきたんです」
「ところでその拡声器の音ですがね、浅間隠のへんまできこえたでしょうかねえ」
一同はハッとしたように金田一耕助の顔を見直した。警部補はたちまち興奮の色をうかべて、
「それは聞こえたでしょうね。あそこはだいぶん高くなっていますし、それに地形がこちらへむいて開いてますからね。しかし、これはいちおうあのへんの住人にきいてたしかめてみましょう。それがなにか……」
と、聞いたとき警部補の声はしゃがれてノドにひっかかっていた。
「はあ、それはぜひ。じゃ、熈子さん、あとをおつづけになってください」
金田一耕助のいまの質問に熈子もちょっと動揺したらしかったが、しいてそれを抑えると、
「七時ごろ栄子ちゃんが里枝ちゃんといっしょに出掛けたってとこまで申し上げましたわね。それからまもなく拡声器の音がきこえはじめました。それからあたしピアノを弾いていたんです。津村さんがいらっしゃるのははやくても九時半ごろとわかっていても、なんとなく気が落ち着かないものですから……そしたら七時半ごろいちど停電になったでしょ。そのときはすぐ|点《つ》いたんですけれど」
「そうそう、その停電で電気屋のおやじが活躍をはじめたんだそうです。会社へ電話をかけて、いつほんものの停電になるかわからないということをたしかめて、八方奔走したんだそうです」
「そうすると、電池の操作で拡声器が鳴りはじめたのは何時ごろのことになりますか」
「あのときの停電は八時三分からです。ですから、電池の操作で拡声器が鳴りはじめたのは八時十五分ごろのことじゃないですか。ぼくがようすを見にいったのは八時半でした」
「ちょうどその時分になりますでしょう。さいしょの停電のあとすぐピアノのうえに、|蝋《ろう》|燭《そく》を二本用意したんです。そしたらほんとの停電になってしまったでしょう。それであたし困ってしまって、これじゃ盆踊りはお流れになるかもしれないと、演奏会のほうもどうだろうかと思案しながら、ほかにすることがございませんわね、真っ暗がりなんですから。それで仕方なしにピアノを弾いてたら津村さんがいらしたんです」
「津村氏、懐中電灯をもっていたでしょう」
「はあ、旧道のお店で買ってきたって。ここで申し上げておきますが、そのときの津村さんのお姿が殺し屋スタイルだったなんてこと、ゆうべみなさんのお話をうかがうまで、全然気がつきませんでした」
「津村氏トンボ型のサン・グラスかけていなかったんですか」
「いいえ、そんなもの……かけていらっしゃいませんでした」
津村真二もさすがに気恥ずかしくなったのか、眼鏡は途中ではずしたらしい。これでは殺し屋気取りも怪しいものである。
「それで……? どうなさいました」
「どうもこうもございませんわ。明りでもついていればともかく、蝋燭二本だけの照明でございましょう。かえってなんだかおかしくって……あまりにもお|誂《あつら》えむきすぎたんですね」
「つまり、あら、あなたとかなんとかいって、いきなり抱き合ってキスするなんてとこまでいってなかったんですね」
「ふたりきりで会うなんてことはじめてでしたから」
「停電がかえってお色事のジャマになったとすると、藤十郎の恋の反対ってわけですか」
「あのかたご自分の芸術のために女をだますなんてこと、とてもお出来になるかたじゃございませんし、あたしもお|梶《かじ》にはなれなかったんです」
「はっはっは、ご愁傷さまと申し上げてよいのかどうか、で、結局どうなすったんです」
「ふたりともすっかり固くなってしまって。……ピアノお上手ですね、あら、お恥ずかしゅうございます、先生、なにか聞かせてくださいません、では……と、おっしゃって弾いてくださいましたのがムーンライト・ソナタ」
「津村先生、ベートーヴェンを気どられたわけですね」
「はあ、弾奏してらっしゃるうちに、その場の雰囲気に陶酔されたんじゃないでしょうか。蝋燭の明りでピアノを弾くってことに。あのかたピアノの演奏家としても、有名なかたですから。ムーンライト・ソナタをたっぷり弾いてくださいました。そうそう、津村さんがピアノを弾きはじめられたとき、拡声器の音がきこえはじめたんですから、ちょうど日比野さんのおっしゃった時刻になると思います」
「ムーンライト・ソナタをたっぷり弾くと、どれくらいかかるんですか。時間は?」
「二十分はかかりましょう、三楽章ぜんぶ弾いてくださいましたから。そのあとあたしのなにか甘美なものをという注文で、ショパンのノクターンを三曲。そのうちに嵐がだんだん激しくなってまいりましたでしょう。それから思いつかれたんでしょうねえ、おなじショパンのエチュード『木枯し』と『革命』とを弾いてくださいました」
「それ、どういう曲なんですか」
「とっても激しい曲です。それから最後がリストの『愛の夢』、それで一時間ほどたってしまいましたの」
熈子は泣き笑いをするような顔色である。
「それじゃろくにお話するひまもなかったわけですか」
「もちろん曲のあいまあいまにお話をしましたが、愛だの恋だのなんてものじゃございません。音楽のお話ばかりでした。そのうちに九時半になったでしょう。ソロソロお手伝いさんがおかえりの時間じゃないですか。ええ、そうですわねえ。じゃ、これで……と、いうわけでおかえりになったんですの」
「九時半……? 九時半という時刻に間違いはありませんか」
日比野警部補が念をおしたが、その調子にはさっきのような疑惑のひびきはなかった。
「はあ、それはまちがいございません。むこうさまから時間を聞かれたので腕時計を見たんです。ですから正確に申し上げますと九時三十五分でした。それからいま申し上げたようなやりとりがあって。いよいよお立ちになるときあたしこういったんです。せっかく来ていただいたのになんのおもてなしも出来ませずといったのは、あたしよっぽどどうかしてたんですのね。主人がウイスキーをのみますでしょう。ですから、水割りに軽いおつまみものぐらい差し上げるつもりで用意してたんですけれどそれさえ出すのを忘れていたんです」
「そうすると津村氏は飲まず食わず一時間ほど、ピアノを弾奏していかれたってわけですか」
「そういうことになりますわねえ。しかも、あのかたお礼をおっしゃったんです、今夜はたいへんよい気持ちでピアノが弾けてありがとうございましたって。あたしもやっぱりおなじような気持ちでしたから、このつぎはぜひ主人に会ってくださいと申し上げたら、ご主人はお仕合わせですね、あなたのようなよい奥さんをお持ちになってとお世辞をいってくださいました」
「つまり、それはこういうことじゃないでしょうか、暗がりの手持ち無沙汰に津村氏がピアノを弾きはじめた。そのうちにおふたりともそれに酔ってしまってオコリが落ちた……と、いうことじゃないですか」
「金田一先生、ありがとうございます。先生のおっしゃるとおりでございます」
「そのとき津村氏、浅間隠のほうへだれかきて待ってるというようなことはいってませんでしたか」
これは日比野警部補の適切な質問である。
「いいえ、そんなこと|気《け》|振《ぶ》りにも……げんにいよいよ玄関をお出になるとき、これからお帰りになってもおひとりではお淋しゅうございましょうと申し上げたら、いやあ、慣れてますからとおっしゃいました」
「あなたが腕時計をごらんになったのが九時三十五分として、それだけのやりとりがあった後、玄関を出ていかれたとしたら、もう九時四十分頃じゃなかったですか」
「はあ。……それにこのお話もう少しつづきがございますの」
「つづきとおっしゃいますと……?」
「あのかたがとてもそそっかし屋さんでいらっしゃるって話、ゆうべも出ましたわね。よく忘れ物なんかなさいますの。それでお立ちになってから調べてみますと、ピアノのうえにデラクールの楽譜入れを忘れていらっしゃいますの。それを持って大急ぎであとを追いかけました。そして浅間隠のほうへまがる曲がり角でやっと追いついたんですけれど、そのまえにまえをいく人のうしろ姿を見つけて、津村先生……と、小声で呼びかけたんです。そしたらそのひとヒョイとうしろを振りかえりかけて、あわてて高原ホテルのほうへ駆け込んだんです。停電のまっ暗がりといっても、鼻をつままれてもわからぬほどの暗さではございません。どこか薄明りがただよっておりました。そのときは全然気がつかなかったんですけれど、いまから考えると父でした」
熈子はうっすら涙ぐみ、ちょっと鼻をつまらせた。しばらくの沈黙があったのち、
「お父さんは相手がだれであるか、たしかめようとなすったんですね」
「父がいつごろ来たのかわかりませんけれど、あのひとわりに耳が肥えてますの。だからピアノを弾いているのがあたしであるかないかぐらい、すぐわかったと思います。それに狭いうちでございますから、話声なんかも聞こえたにちがいありません。先生、暗闇っておかしなものでございますわねえ」
「はあ、どういう意味でしょうか」
「あたしどもなんでもない話をしてたんですのよ。ショパンがどうのリストがどうのってふうな。それでいながらふたりとも妙にあたりを|憚《はばか》るような話しかたになっていましたから、父が気をもんだのもむりはないと思います」
「なるほど。だいぶん親不幸をなすったわけですね。お父さんとしてはあなたに反省をうながす意味でライターをそこへおき、津村氏を尾行されたわけですね」
「だと思います。それをあたしに声をかけられて、あわてて逃げ出したんですね」
「それからまもなく津村氏に追いつかれたわけですね」
「はあ、浅間隠のほうへまがる角でした。津村さんすっかり恐縮していらっしゃいました。あたしちょっとそのうしろ姿を見送ってたんですけれど、人を待たせていらっしゃるって|歩《あし》|調《どり》じゃなかったと思います。アタッシュ・ケースを片手にぶらさげていらっしゃいまして、前かがみになり、ゆっくりゆっくり坂を登っていらっしゃいました。その後ろ姿を見送って……いえ、これはそのまえから気がついていたんですが、津村さんてかた、なにかしら罪の十字架を背負っていらっしゃるって感じでしたわね」
「罪の十字架……?」
金田一耕助はハッとしたように、
「それどういうことですか」
「はあ、なにか心に重い屈託をもっていらっしゃるって感じ……それあたしと会ってるってことに、良心の|呵責《かしゃく》を感じていらっしゃるんだとばかり思っていたんですけれど、いまから考えるとそればかりじゃなかったようです。なにかしらしじゅう重い屈託に圧倒されていらっしゃるって、そんな感じでした」
金田一耕助は日比野警部補と顔見合わせた。軽率にも笛小路泰久になにかの秘密をもらしたことが、重い十字架になってのしかかっていたのではないか。鳳千代子に関係のある人間に会っているとき、十字架はいっそうその重さを加えたのではないか。
「それはそうと津村氏のそのときの歩きかたで浅間隠までかえるのに、何分くらいかかるとお思いですか」
「さあ、あたしは津村さんの別荘を正確にはしらないものですから」
「日比野さん、あなた見当はつきますか」
「さあ、歩きかたにもよりますが、ゆっくりゆっくりとすると二十分、あるいはそれ以上かかるんじゃないんですか」
「そうするとうちへ帰りついたのは十時、あるいはそれ以後ってことになりますね」
その時分には万事は終わっていたはずである。
「そうそう、それからこれは父のことづけなんですけれど……」
「はあ、どういうこと……?」
「きょう父を|狙《そ》|撃《げき》した人ですわね。父はそうとうハッキリ顔を見たらしいんですね。あれは津村さんじゃなかったそうです」
「では、だれ……?」
日比野警部補の声はいやに小さかった。
「それは父にもわからなかったらしいんです。父のぜんぜん知らないひとだったんじゃないでしょうか。それでいて|服装《み な り》が津村さんとおなじだったとすると……」
熈子の声も|瞳《ひとみ》もふるえ、熈子の肌はケバ立ち、熈子の全身は硬直している。
「あのかた、いどころはまだわかりませんの」
「それがまだ……」
山下、等々力両警部や、日比野警部補と顔見合わせた金田一耕助の声もしゃがれていた。
「津村さんというひとは、ピストルを所持しているような人物ですか」
「まさか……鳳さんなんかもその後いかに人が変わったとはいえ、あのひとがピストルを持っていようなどとは絶対に思えないと強調していらっしゃいます」
第二十三章 もうひとりの女
それから熈子はしばらくもじもじしていたが、きゅうに心をきめたような眼を、きっと金田一耕助のほうにむけると、
「金田一先生、あたし一刻もはやく、この事件を解決していただきたいんです。父はまもなく回復するでしょう。回復したらこの秋にでも鳳さんと結婚してほしいんです」
「熈子さんはおふたりの結婚には賛成なんですね」
「父はえらい人です。世間でいわゆるやりてというんでしょう。しかし、いっぽうあのひと夢想家というんでしょうか、糸の切れた|奴凧《やっこだこ》みたいなとこがある人なんですの。いつどこへ飛んでいくかわからないような……亡くなった母なんかも、その糸をはなさないようにするのにずいぶん苦労したんですの。ところでこんどのような事件がございますと、ひとさまの性格、ご気性というものがよくわかりますわね。鳳さんならば父という奴凧の糸を、しっかり握っていてくださると思うんですの」
「なるほど、それで……?」
「はあ、それですからあたしほんとうはこんなこと申し上げたくないんですけれど、いくらかみなさまの捜査上の助けになるんじゃないかと思うもんですから……」
金田一耕助と日比野警部補、山下、等々力両警部の顔にサッと緊張の色がうかんだ。
「奥さん」
と、日比野警部補が|急《せ》きこんで、
「あなたこんどの事件について、なにかご存じのことがおありなんですか」
熈子は|躊躇《ちゅうちょ》の色を露骨にみせ、ちょっとベソをかくような表情になって、
「このことが果たして捜査上のお役に立つかどうかわかりませんし、ひょっとするとそのかたにとんでもないご迷惑をおかけするかもしれないと思って、いままでどなたにも申し上げてなかったんですけれど……それにねえ、金田一先生」
「はあ」
「あたし女|探《たん》|偵《てい》みたいに思われるのいやでしょう。それでいままで自分の胸ひとつにしまっておいたんですけれど、きょうのようなことが起こってみると、やっぱりお耳に入れておいたほうがよいのではないかと思って……」
それでもなおかつ躊躇している熈子の顔を、金田一耕助はやさしい眼で見ながら、
「熈子さん、あなたが躊躇していらっしゃるのは、そのかたなる人物を|誣《ぶ》|告《こく》することになるんじゃないかと、それを|懼《おそ》れていらっしゃるんですね」
「はあ、それなんですの」
熈子は泣き笑いをするような顔である。
「それならわれわれ四人を信頼してください。あなたがどのようなことをご存じなのかしりませんが、お話をうかがってそのかたなる人物がこの事件に、関係があるようなら調査しなければなりませんし、もしたんにあなたの思い過ごしであるような場合は、われわれなにも聞かなかったことにいたしましょう。それならいいんじゃないですか」
「金田一先生、そうしてください。みなさまもどうぞ」
熈子はそれでもまだ気がとがめるのか、指にまいたハンケチで額の生えぎわを|拭《ぬぐ》いながら、
「これ去年のお話なんですの。去年の八月十五日の夜のことなんですの」
「笛小路さんの亡くなられた晩のことですね」
「はあ、その日も父の主催のゴルフのコンペがございまして、そのあと高原ホテルでみなさまと会食したんです。われわれ夫婦も出席しました。しかし……」
と、熈子はわらいながら、
「鳳さんもごいっしょだったでしょう。ですから馬に|蹴《け》られて死なないまえに、引き揚げたほうがいいんじゃないかと鉄雄さんがいうもんですから、八時ちょっと過ぎにホテルを出て、いったんうちへかえったんですけれど、あたしのうちというのが盆踊りの会場のすぐそばでしょう。騒がしくて、とてもいられないもんですから、いっそのこと盆踊りを見物にいこうと鉄雄さんとふたりで出かけたんですの。栄子ちゃんも踊っていることですから」
「ああ、なるほど」
「そこでしばらく盆踊りを見てたんですけれど、それもつまらなくなったもんですから、旧道へ散歩にいこうってことになりましたの。ところがそこから旧道へ抜けるには、ほら、ちかごろ皇太子さまと美智子さまのロマンスで有名になったテニス・コート、そこからとてもゴタゴタした横町を抜けなければなりません。その横町のなかほどまできたところで、むこうから千鳥足でやってこられたかたが、真正面から主人にぶつかったんですの。そして、なにかブツブツおっしゃりながらすぐそばのお店へお入りになったんです。ミモザというお店でした」
「笛小路さんですね」
日比野警部補の声はしゃがれている。
「はあ。でも、そのときは存じませんでした。あとで新聞やテレビでお写真を拝見して、ああ、このかただったわねえと鉄雄さんと話し合ったんです。ですからそこまでは鉄雄さんもしってますけれど、それからあとのことはあたしだけしかしらないことで、それであたしはあたしなりに大いに|煩《はん》|悶《もん》してきたんですの」
熈子は、あいかわらず泣き笑いをするような顔色で、額の汗をぬぐっている。
「それじゃここでなにもかもぶちまけて、煩悶とやらをわれわれに押しつけるんですね」
「そうさせて|頂戴《ちょうだい》、金田一先生」
熈子はいつか甘えるような口調になって、
「笛小路さん……とはそのときは存じ上げなかったんですけれど、酔っぱらいのかたにぶつかってまもなく、旧道へ出るかどに郵便局がございましょう。そこであたしそのかたとすれちがったんです。問題はそのかたなんですけれど」
「だれです、それは……? われわれのしってる男ですか」
と、日比野警部補は身をのり出し、ほかの三人もまじまじと熈子の顔を見まもっている。熈子はまた泣き笑いするような表情をみせ、
「いいえ、男のかたじゃございません。ご婦人なんです。たぶん日比野さんの捜査線上にもうかんでると思うんですけれど……藤村夏江さんなんですの」
熈子がいってからまた額の汗を拭っているのは、よほどそのことを打ち明けるのが、彼女の良心に抵触するらしい。日比野警部補は|唖《あ》|然《ぜん》として熈子を見つめ、等々力警部は口のうちであっというような鋭い驚きの声をはなって、にわかに|膝《ひざ》をのりだした。
「奥さん、じゃあの晩、藤村夏江女史はこの軽井沢へきていたんですか」
「はい」
「警部さん、その藤村夏江女史というのは……」
「金田一先生、申し訳ございません。ついお耳に入れてなくって……」
等々力警部はすっかり恐縮しながら、
「藤村夏江というのは阿久津謙三……鳳千代子さんの二番目の旦那さんだった人物ですね、その人物の妻だった女性、つまり鳳女史のために阿久津謙三氏に捨てられた女性なんです。しかし、奥さん」
と熈子のほうにむきなおり、
「あなたあの女性をご存じなんですか」
「はあ、それはこうなんですの。あのかたいま『装美苑』という婦人服飾専門雑誌の婦人記者をしていらっしゃいます。ところがあたしのお世話になってるお店に、銀座のロンモという婦人服飾店がございますの。あたしお洋服をつくるときなんか、いつもそこのマダムに相談にのっていただいておりますから、よくそのお店へいくんですの。そのお店でちょくちょく藤村さんにお眼にかかりますの。それでいつとはなしに阿久津謙三さんの奥さまでいらしたかただと存じあげておりましたの」
「それであの晩、藤村夏江女史にこの軽井沢でお会いになったんですね」
日比野警部補がすっかりズッコケてしまったので、いきおい等々力警部がとってかわった。藤村夏江があの晩軽井沢にいたことを見落としていたとしたら、日比野警部補のみならず等々力警部にとっても大きなミスである。
「はあ」
「それでなにかお話でも……」
「いいえ、ところが……」
熈子はハンケチをもみながら|焦燥《しょうそう》の色をうかべて、
「あたしのほうから声をかけようとしたんですけれど、あのかたなにか思いつめたようなきついお顔をなすって……いいえ、これあとから思い当たったのではなく、そのときハッと気がついたんですけれど、あのかただれかを監視していらっしゃるか、あるいはだれかを尾行していらっしゃるか……なにか、そんなふうに見えたんです。それでつい言葉をかけそびれてしまって……したがって、むこうさまはそこであたしに会ったってこと、気がついていらっしゃらないと思います。その後も銀座のお店でちょくちょくお眼にかかりますけれど、べつに変わったようすはございませんから」
「それでそのとき藤村夏江女史はだれかを監視しているか、だれかを尾行しているようにみえたとおっしゃるんですね」
「警部さま、人間ていやしい動物でございますわね。日比野さんはこの土地のことをよくご存じでしょうけれど、時刻が時刻でございましょう、その横町そうとう|混《こ》んでおりましたの。そういうなかをあのかた、風のようにというと|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》でございますけれど、足早にあたしのそばを通り抜けていらっしゃいました。きつい顔をなすって瞳を前方にすえたまま。……それであたしつい何気なくあとを見送ってしまったんです。そしたらあのかたミモザのまえまでいくと立ちどまって、ちょっとその表構えや、看板やなんか見ていらっしゃいましたが、まもなくそこを通りすぎると少しむこうに本屋さんがございます。その店頭に立ちどまって雑誌かなんかを手にとりながら、ときどきミモザのほうをふりかえっていらっしゃいました。そこまで見とどけたとき鉄雄さんが呼ぶものですから、そのまま旧道へ出てしまったんです。あたしの知ってることはただそれだけのことなんですけれど……」
ただそれだけのことにはちがいないが、そのことが熈子を苦しめ、悩ましつづけたというのは、ことほどさように、そのときの藤村夏江の表情に、異様なものを感じたからであろう。
ちょっとしたきびしい沈黙の時間があったのち、等々力警部は苦しそうな咳払いをして、
「山下君、そのことについて日比野君を責めないでくれたまえ。これはわれわれ……と、いうよりぼくの責任だ。去年の事件があったのち近藤刑事が上京してきたとき、相談相手になったのはぼくなんだ。そのとき鳳女史に関係のありそうな人物は全部チェックした。藤村夏江という女性にもむこうに見られない方法であっている。近藤君は正面切って会っているはずだ。それでいてあの晩藤村夏江がどこにいたか、そこまでチェックしておかなかったのは、これはぼくのミス以外のなにものでもない。しかし、あの晩あの女がこちらにいたとは……」
等々力警部が慨嘆し、日比野警部補がすっかり自信喪失したように肩をおとしているところをみると、このことは捜査陣にとってよほど大きな打撃だったにちがいない。
「ときに、奥さん」
と、山下警部が身をのりだして、
「その藤村夏江という婦人はミモザという店へ、入ってはいかなかったんですね」
「あたしの見ていたかぎりでは入ってはいかれなかったんです」
「それじゃ仕方がない。その女がミモザという店へ入ってきたんなら、日比野君の捜査線上にうかんできたろうが、ただ表をとおりかかったというんじゃあね。ところで、奥さん」
「はあ」
「その晩あなたはミモザへ入っていった酔っ払いが、笛小路さんだとはご存じなかった。しかし、後日それに気がつかれたとき、藤村夏江という婦人が尾行し、監視していたのは笛小路さんだったとお思いになりませんか」
「それですからあたし、このことを申し上げるのが怖うございましたの」
「つまりあなたの受けた印象では、藤村女史は本屋のまえでミモザを見張っていた。そして笛小路さんがミモザから出てくるのを待って、またそのあとを尾行したか、あるいは接触した……」
「山下さんでいらっしゃいますわね。接触なすったかどうか、そこまではあたしにはわかりません。しかし、あのときの藤村さんのお顔色なり挙動なりからみると、笛小路さんがミモザから出てこられるのを待って、尾行なすったんではないかという気がするんですの」
「そうすると、笛小路さんの奇怪な死について、その婦人がなにか関係があると……?」
「さあ、そこまでは……」
熈子ははげしく身ぶるいをして、
「ただそのことについてあのかたが、なにか知っていらっしゃるんじゃないかと……」
恐ろしい沈黙が万山荘の広間に落ちこんできた。笛小路泰久が入水まえに情交をもった女性とはその女のことではなかったか。このことはだれの頭脳にもひらめいたとみえ、
「等々力君、笛小路さんと藤村夏江という婦人のあいだになにか関係は……」
「いや、それがいっこう出てないんだがね。すこしでもそういう線が出ていれば、われわれももっと綿密に、あの晩の藤村女史の行動をチェックしたろうがね」
「熈子さん」
と、金田一耕助がそばから言葉をはさんで、
「ご主人はこのことをご存じなかったんですね」
「あの人はなにもしりません。ロンモのマダムなら、主人も会ったことございますの。ちょくちょく、うちへいらっしゃるもんですから。しかし、藤村さんは雑誌のお仕事で取材にいらっしゃるだけの関係ですから……」
「その藤村夏江というご婦人、軽井沢へくるとどういうところへ……?」
これは日比野警部補の質問である。この若い警部補もどうやら気力を取り戻したらしい。
「日比野さん、それについてあたし女探偵みたいなことやってみたことがございますの。ロンモのマダムはまいとし軽井沢へいらっしゃいます。しかし、そのかたこちらに別荘をもっていらっしゃるわけじゃなく、旧道の旅館へいらっしゃいますの。しかし、藤村さんそこへいらっしゃるほどの仲じゃございませんのね。ところが『装美苑』の社長さん、このかた婦人服飾界でも有名な女性でいらっしゃいますが……」
「女社長なんですね」
「はあ」
「名前は……?」
「高森安子先生です。あたしも二、三度ロンモでお眼にかかったことございますけれど、そのかた藤村さんの東京女子美術の先輩になっていらっしゃいますのね。ところが高森先生の別荘は軽井沢じゃなく山中湖のほうだそうです。この女探偵の調査ではそこまでしかわかりませんでした」
しかし、そこまで調査したところをみると、藤村夏江という女性にたいして、熈子が強い疑惑をもっているということなのだろう。
「いや、奥さん、ありがとうございました。日比野君、さっそくそのほうの捜査をしてみるんだね。なんなら藤村夏江という婦人に直接当たってみてもいい」
しかし、じっさいはそれから一時間もたたないうちに、日比野警部補は藤村夏江に、ひじょうに劇的な|邂《かい》|逅《こう》をするはめになったのであった。
一同に礼をいわれ、金田一耕助に慰められて、熈子がいくらか心の重荷をおろしたような顔色でかえっていくのといれちがいに、古川刑事がやってきた。ガニ股の近藤刑事は金田一耕助のアドバイスで、べつの任務についている。古川刑事は鑑識の結果をもたらしたのである。
まず第一に問題の蛾だが、被害者槙恭吾のブラウスについていた|鱗《りん》|粉《ぷん》も、浅間隠の津村真二の貸し別荘にのこっていたそれも、おなじ種類のもので、それはあのヒルマンのトランクのなかから発見された、オオシマカラスヨトウという蛾の鱗粉であるということである。第二にヒルマンのトランクのなかから槙恭吾の指紋が検出されたこと。第三に白樺キャンプの第十七号ハウスの板壁から発見された楽書きの奇妙な方程式だが、さまざまな科学検査の結果判明したところによると、あれは元来、A+O≠B なる方程式であったのを、あとからああいうふうに修正が施されたものであるということ。第四に白樺キャンプの管理人根津さんに提出させた宿泊人名簿によると、去年の八月二十八日の夜、三輪浩造なる人物が第十七号ハウスに宿泊しているが、その署名の文字が立花茂樹の所持していた津村真二の手紙の筆蹟に酷似していること。ただし根津さんにはもうひとつ三輪浩造なる人物に記憶がないこと、以上の四点である。
この報告書を読んで日比野警部補はちょっと意気込んだが、金田一耕助はもうなんの感興もしめさなかった。
津村真二は血液型の秘密をしっていたのだ。おそらく美沙に輸血をした阿久津謙三からきいたのだろう。そして軽率にも去年の八月十五日の午後訪ねてきた、笛小路泰久にその秘密をもらしたのであろう。A型の女とO型の男のあいだにB型の子供がうまれえない以上、美沙はほかの男の子だということになる。笛小路泰久はそこで高松鶴吉こと愛すべき佐助君のことを思い出したのだろう。混乱した笛小路泰久のアタマでは佐助君の応召と美沙の誕生とのあいだに、時間的に大きなズレのあることも問題にはならなかったのであろう。笛小路泰久は高松鶴吉という本名さえ思い出せなかったのではないか。さて、ああいうことがあってみると、津村真二はじぶんの軽率がくやまれてくる。そこで問題の十七号ハウスへいってみると、あの方程式があったので、ああして修正をほどこしておいたが、Sasuke に手を加えていないところをみると、それがなにを意味するかしらなかったのであろう。そして、そのことが……笛小路泰久に血液型の秘密をもらしたということが、津村真二にとって重い十字架になっていたのではないか。
「ときに古川さん、津村氏の消息はまだわからないんですね」
「はあ、まだ……飛鳥さんを|狙《そ》|撃《げき》しておいて、そのまま離山へでも逃げ込んだらしいんですが、なにしろこの霧ですから」
霧はますます深くなるばかりである。
「秋山卓造氏は……?」
金田一耕助にとってそれが憂慮のタネだった。秋山卓造は先代公爵が暗殺されたときもしくじっている。そしてこんどもまた。……
金田一耕助は暗い眼をして、
「美沙という|娘《こ》は……?」
「あの娘は近藤さんが桜の沢の別荘のほうを見張ってるはずなんですが、まだ連絡はありませんか」
まだ連絡はなかった。美沙もあれきり消息をたっているのである。
日比野警部補がなにかいいかけるのを、等々力警部がそばから制した。この警部は金田一耕助の習性をよくしっている。金田一耕助がボンヤリ|瞳《ひとみ》を虚空にすえて、もじゃもじゃ頭をユックリ|掻《か》きまわしているとき、かれの脳細胞になにかのひらめきが凝結しつつあるときなのである。いまがそのときだった。
「日比野さん」
しばらくして金田一耕助が口をひらいた。
「ぼくいま妙なことを思いついたんですがね」
「妙なこととおっしゃると……?」
「このへんの別荘ですがね、どこのお宅でもシーズンが終わると夜具蒲団の類はいっさい置きっ放しにして、東京へ引き揚げるでしょう」
「はあ、それがなにか……?」
「その場合土地のひとの土蔵やなんかに預けていく人もありますが、なかには天井裏やなんかに隠し戸棚みたいなものを造って、そこへ押し込んでかえるうちもあるようです。ぼくがいま世話になってる南条のうちなんかそうしてるんですがね」
「はあ、はあ、それで……?」
日比野警部補はなんとなくノドがかわくような声である。金田一耕助のいわんとするところがわかってきたらしい。
「浅間隠の津村氏の別荘はどうでしょう。貸し別荘にはそんなものはないでしょうか」
「金田一先生!」
日比野警部補が腰をうかしそうにして、
「あそこの大家さんの電話番号ならわかっています。ひとつ聞いてみましょうか」
「いや、いや」
と、金田一耕助はあわててそれを制して、
「いまあの貸し別荘に見張りは……?」
「それはつけてあります。いつなんどき津村氏がかえってこないものでもありませんから」
「その見張りをいちおう撤退させてくださいませんか。そうしておいて、あとからこっそりあなたご自身調べてごらんになったら……なんならわれわれもお供してもいいんですが」
「金田一先生」
山下警部もノドがかわいてきたようである。|唾《つば》をのみこむような声で、
「先生の見込みではその隠し戸棚のなかになにか……?」
「いや、いや、これぼくのヤマカンなんです。なにか出てくるかもしれない。ウイスキーの瓶やコップ……それからなにかが……しかし、たんなる空騒ぎになるかもしれない」
しかし、日比野警部補は卒然として立ち上がっていた。蒼白になった顔面はむしゃぶるいをしているようである。
第二十四章 操夫人の冒険
両側を山と山とにはさまれた浅間隠の山峡のあたりはことに霧がふかくて、夜も十時をすぎると|咫《し》|尺《せき》を弁ぜずというのは大袈裟にしても、十メートルさきはもう霧のかなたに閉されていた。かなり急な坂の途中のところどころに街灯がついているのだけれど、その街灯も周囲四、五メートルを薄紫色にそめているだけで、光芒のさきは霧のなかに|滲《にじ》んでぼやけて、闇のなかに溶けこんでいる。
坂の両側に点在する別荘ももうあらかた寝てしまったのか、灯を消している家が多く、門灯だけがひっそりと霧のなかにぼやけている。なかには門灯さえ消している家もあった。まだ起きている家からテレビやラジオの音がきこえるが、さすがにあたりを|憚《はばか》るのかできるだけ音を小さくしているらしい。この山峡全体が呼吸をこらして、霧海の底にかがまっているというかんじであった。坂をのぼって右側の崖下を流れる沢の音だけが、ふだんにくらべるとかまびすしいようだ。
この山峡もゆうべからついさきほどまで、たいそう騒がしかったのである。まず警察の連中がやってきた。新聞記者が駆けつけてきた。野次馬がおおぜい群がってきた。ことにきょうの午後ゴルフ場に狙撃事件があって、狙撃犯人がこの峡谷の住人らしいとあっては、浅間隠全体がふるえあがったのもむりはない。
事態がこうなってくると樋口操夫人はまさに得意の壇上であった。彼女は盆と正月がいっしょにきたように忙しくなった。日頃退屈をもてあまして一日一殺主義によねんのないこの夫人にとって、これほどお|誂《あつら》えむきの事件がまたとあろうか。
自分のうちのすぐ隣り、しかも自分の持ち家に殺人犯人が住んでいたんですって? まあ、素敵! と、口に出してはいわなかったが、彼女はもちまえの雄弁を発揮して、津村真二のひととなりについてぶちまくった。彼女の雄弁をきいていると、津村真二は恐ろしい殺人鬼とも受け取れたし、その反対に恐ろしい殺人事件の犠牲者のようにも考えられた。樋口操夫人とてバカではない。あまりハッキリ断定して、後難のおよぶことを|懼《おそ》れるくらいの配慮はもっていたし、それに第一この夫人はつねに犯人の味方なのだ。
彼女のうちの玄関の呼鈴はゆうべからきょうの夕方まで鳴りつづけた。警察の連中はいうもおろか、報道関係者がやってくる。物好きなご近所の野次馬がやってくる。なんといっても彼女は殺人事件の重大容疑者の大家さんなのだし、また彼女のうちには電話がある。マスコミ連中はその電話を拝借にくるのだが、さあ、さあ、どうぞ、どうぞと彼女は気まえのよいところを発揮すると同時に、日頃のケチンボにも似合わず茶菓を出してもてなし、かれらからしかるべき情報を|蒐集《しゅうしゅう》することも忘れなかった。おそらく樋口操夫人はこの一日で十年分くらいしゃべったであろう。取材にきたマスコミの連中もしまいには、この夫人のまくしたてるズーズー弁にヘキエキして引き|退《さ》がるのがオチだった。
しかし、ありようをいうとさすが精力絶倫のこの夫人も、その日の午後あたりから多少疲労気味だった。と、いうのはそのまえの晩、操夫人はほとんど一睡もしていないのである。警察の連中がうらの崖崩れを発掘にかかったからである。操夫人はその家の持ちぬしとして、この発掘に立ちあう権利があった。彼女はいたずらに自分の家を|毀《き》|損《そん》されることを好まなかった。
彼女はなぜそこを発掘するのか、目的はなんなのかとしつこく食いさがったが、それに対して満足すべき返事はえられなかった。どうやら発掘に従事している連中にも、なぜそこが発掘されなければならないのか、確たる理由はわからないのではないかと思われた。しかし、いまや好奇心の権化と化した操夫人は、一時間おきぐらいに発掘の進行状態を視察におもむき、そしてかえってくるとそのたびに藤村夏江を脅迫することを忘れなかった。
ああ、藤村夏江!
それこそは操夫人の握っているこのうえもなき強力な切札なのだ。この切札をしっかりおさえているがゆえに、操夫人はあの|唾《だ》|棄《き》すべき捜査当局や、オッチョコチョイのマスコミの連中にたいして、優越感を満喫することができるのだ。またそれゆえにこそ操夫人はこの事件に関して熱中し、興奮し、陶酔することができるのである。
「あなた、ちょいと夏江ちゃん、あの調子だと朝までにあの洞穴、キレイサッパリ掘り出されてしまうわよ。あのなかからいったいなにが出てくるのよう。あんたそれをしってるんでしょ。さあ、ここらで泥を吐いてしまいなさいよ」
まえにもいったとおりこの夫人、興奮すると言葉づかいが|下《げ》|司《す》っぽくなるのが困りものである。しかもこの夫人、片眼が眼底出血のために白く濁っているので、こういうときの形相は実質以上に|物《もの》|凄《すさ》まじくみえ、藤村夏江がふるえあがるのもむりはない。
「あんた|昨夜《ゆ う べ》この家の二階からお隣りを見張っていたんでしょ。いったいなにを見たのよう。あんたの見たことと裏の洞穴とどういう関係があるというの。あの洞穴の大きさからみて、小さなものであるはずがないわねえ。ああ、わかった。死体なのね、人間の死体なんでしょ、あの連中の捜しているのは。夏江ちゃん、あんたなんて素敵なひとでしょ。ひとりひとりは面倒と、ゆうべいっぺんにふたり|殺《や》ってしまったのね、槙恭吾さんと津村真二さんと。そして津村真二さんの死体をあの洞穴のなかへかくしたのね。あたしってなんて素晴らしいお友達をもったんでしょ」
|遺《い》|憾《かん》ながらこの文章の筆者は東北弁が不得手である。だから操夫人の語ることばをそのままここに移し取ることができないのは|甚《はなは》だもって残念千万だが、もしそれが可能なひとは、これらの言葉をズーズー弁に翻訳して読んでみたまえ。しかも、火を吐くようなはげしい口調でこれを語る夫人は片眼がしろく濁った老婦人なのである。夏江はべつに黒髪とって|捩《ね》じ伏せられているわけではなかったが、それにもまして|怖《おそ》れ|戦《おのの》き、声をのんで泣きむせんでいるのもむりはない。
「いいわよ、なにも聞かなくってもいまにわかるわよ。あの洞穴がキレイサッパリ掘り起こされたら、なにもかも明るみに出ることなんですからね。それにしても、ああ、なんということでしょう。あたしの虎の子の貸し別荘が|稀《き》|代《だい》の女殺人鬼の稀代の犯罪の現場になるなんて、来年から借り手がつかなくなっちまうわ。チキショウ!」
しかし、来年から借り手がついてもつかなくても、利害打算はいっさい抜きで、操夫人はひたすらその洞穴から死体が……それも出来るだけ血みどろでむごたらしい死体が掘り出されることを信じ、かつ念じて、夜っぴてなんどもなんども発掘現場へ足を運んだかいも情けなや、そこから鼠の死体一匹も出て来なかったときには、操夫人は|茫《ぼう》|然《ぜん》自失というよりは怒り心頭に発した。もっと平たくいえばアタマにきたのである。
こんなはずではなかったがと、彼女はみずから捜査指揮官となり、ここかしこと洞穴のすみまで掘らせてみたが、それでもなおかつ収穫皆無とわかったとき、彼女は捜査員たちにむかって開き直った。
「こんな人騒がせをしておいて、あなたがたはここからなにを掘り出すつもりでいらしたんですの。おかげでゆうべは一睡もできませんでしたわよ」
「すみません。だけどわれわれにもなにが出てくるかわからなかったんです。ただおエラがたの命令ですからね」
「そのおエラがたはなにを掘り出すつもりで、こんな人騒がせをしたんです」
「さあ、それは……いずれおエラがたがやってくるでしょうから、じかに聞いてくださいよ」
やがてそのおエラがたらしい数名の人物が、ぞくぞくとして駆けつけてきたが、さいごにやってきたふたりづれのおエラがたらしい人物のひとりの、世にも異様なふうていの男をみると、操夫人はあらためて闘志をかきたてられ、なにをここに発見するつもりでいられたのか、自分もこの家の持ちぬしとして知る権利があると思うと切り口上で|訊《たず》ねた。
それに対して世にも異様なふうていの男が、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、人を小バカにしたような、ヘラヘラした調子で答えたところによると、
「いや、奥さん、お騒がせして申し訳ありません。いやなに、こんどの事件の犯人がいかに超能力をもっていたにしろ、きのうの朝の台風がこの崖を押しくずして、この洞穴を埋めてしまうだろうということを、おとといの晩予知したはずがないということを、ついわれわれが見落としていたということですね。あっはっは、いや、どうも」
なんという人を食った男だろう、なんという人を小バカにした男だろうと、操夫人は憎々しげに、そのヘラヘラ男のうしろ姿を見送っていたが、そのとたん天啓のようにアタマにひらめいたのは、ヘラヘラ男がいまいった言葉の裏返しである。
「……こんどの事件の犯人がいかに超能力をもっていたにしろ、きのうの朝の台風がこの崖を押しくずして、この洞穴を埋めてしまうだろうということを、おとといの晩予知したはずがない……」
この言葉を裏返せばこんどの事件の犯人が、なにかを隠したのではないかという疑いをあの連中はもっているらしい。しかも、その隠し場所として洞穴に眼をつけたところをみると、それはそうとう大きな物にちがいない。しかも、それがこの洞穴ではなく、以前から存在する場所だとすると……操夫人はおもわずホクソ笑みそうになるのを、あわてて|鹿《しか》|爪《つめ》らしい顔に押しつつんだ。
操夫人がガゼン興奮し、ガゼン唾棄すべきサツの連中や、オッチョコチョイのマスコミの亡者どもに愛想がよくなり、ガゼン東北弁をまる出しにしてまで、まくし立てたユエンのものはじつにここにある。
わたしだけが知っている、その隠し場所を。
ゆうべ一睡もしなかったにもかかわらず、操夫人はその日もいちにち眠らなかった。ネボスケをもって自認するこの夫人としては珍しいことだが、うっかり眠るとその間に、切札に逃亡されるかもしれないと懸念したのと、やがて訪れるであろう驚異的大発見に関するたのしい予想にくらべれば、|睡《ねむ》|気《け》なんかヘッチャラだわと、一日中自分の|太《ふと》|股《もも》をつねりつづけていたのである。
しかし、さすがに夕方ごろゴルフ場で狙撃事件があり、狙撃犯人が津村真二らしいということになって、武装警官がものものしく隣りの別荘へ張り込みにきたときには、操夫人の信念もぐらつきそうになった。
狙撃されたのは飛鳥忠熈だという。生死のほどはさだかではないが、警官たちがああしてものものしく武装しているところをみると重態にちがいない。飛鳥忠熈はあの女にとって五番目の男である。一番目、二番目、三番目の男がそれぞれ不慮の最期をとげ、四番目の男が五番目の男を狙撃したとしたら……ここにおいてさすが一日一殺主義の操夫人もふるえあがった。
ひょっとするといま自分のうちで泣きつづけている|女《ひと》は、津村真二さんと共犯関係にあるのではないか。それでこうしてこの女はあたしの別荘へやってき、この女が軽井沢へやってくるたびに、恐ろしい事件が起こるのではないか。
夜にはいって操夫人は張り込みちゅうの若い武装警官のところへ、こっそり茶菓をはこんでいき、言葉たくみに相手を|籠《ろう》|絡《らく》してきき出したところによると、狙撃犯人はかならずしも津村真二と確定しているわけではないらしいこと、だれもその顔を正視したものはいないらしいことをたしかめて、いくらか意を安んじた。その犯人が夏江でないことは操夫人がいちばんよく知っている。夏江はもと新劇女優だったのだから男装ぐらいは出来るかもしれないけれど、彼女はきょう自分の家から一歩も出なかったのである。
どちらにしても隣りの別荘に警官や私服が張り込んでいては、自分の驚異的発見のジャマになると、夫人がヤキモキしていると、十時ごろになって急に引き揚げることになったと、茶菓の|饗応《きょうおう》にあずかった警官のひとりが|挨《あい》|拶《さつ》にきた。
「いいですか、奥さん、気をつけてくださいよ。われわれはほかに重大な任務ができたので引き揚げますが、今晩はぜったいに外へ出てはいけませんよ。厳重に戸締まりをして、だれがきてもなかへ入れるんじゃありませんよ。あいてはなにしろピストルを持ってるんですからね。それから隣りのうちになにか変わった気配があったら、すぐ署のほうへ電話してください。ではくれぐれも気をつけて」
と、わざわざ張り込みのとけることを報告にきてくれたのは、操夫人にとってはモッケの幸いというべきであった。
操夫人はたくみに臆病な老婦人の役を演じてみせ、出ていく警官の背後からわざと荒々しく|鍵《かぎ》をかける音をきかせた。
操夫人はそのままの姿勢で五分待った。五分たてばあの人たちは坂をくだってカーブを左へ曲がったはずである。どうせあの調子なら急ぎ脚にちがいないのだから。きっちり五分たってから操夫人は奥のひと間へはいっていった。そこは八畳の日本座敷になっているのだが、そこに藤村夏江が座蒲団もしかずにべったり坐っていた。髪もほつれて青黒い顔をしているのは、けさから化粧もしていないのだろう。打ちつづく操夫人の脅迫に精も根もつきはてたという顔色である。
「なにをボンヤリしているのよう。さあ、立ちなさい。立ってあたしといっしょにいくのよう」
「いくってどちらへ……?」
「どちらってわかっているじゃないの。探検にいくのよ」
「探検ってなにを……?」
「なにをってお隣りのことよ。お隣りの別荘を探検にいくのよ。あそこはあたしの別荘なんですからね、あたしの別荘をあたしが探検にいくのになんの遠慮もないでしょう。さあ、これがあなたの懐中電灯。しっかりお持ち、お持ちったら。そしてあたしといっしょに来るのよ。なにを愚図愚図してるんです」
操夫人は|舌《ぜっ》|端《たん》火を吹かんばかりの勢いである。
藤村夏江はいったい幾つになるのだろう。昭和二十五年阿久津謙三と別れたとき、三十四歳だったというからことし四十四歳になる勘定である。しかし、こう見たところ操夫人よりはるかに|老《ふ》けている。むりもない、昨夜からきょうへかけての操夫人の間断なき責め|折《せっ》|檻《かん》に、すっかり|怯《おび》えきっているのと反対に、操夫人はいまや意気|軒《けん》|昂《こう》、あのロバみたいに愚かな警察の連中や、ひとを小バカにしたようなヘラヘラ男の鼻をあかしてやりたくて、闘志が全身にたぎり立っているのだから、ふだんからくらべるとたしかに十歳は若返っている。
「さあ、愚図愚図しないであたしのあとについてくるのよ。逃げようなんてしようものなら大声あげて叫ぶわよ。ヒトゴロシイ……って。あら、ごめんなさい、そんな野暮な声出しゃしないわよ。だってあたしはつねに犯人の味方なんですものね」
しかし、ありようをいうと操夫人は、この年少の友を殺人犯人だなんて思ったことはいちどもない。もしそんなことを信じていたら片時も、この友とおなじ家のなかにいたたまれたものではなかったであろう。ただ夫人は面白いのである。この複雑な人間関係と|錯《さく》|綜《そう》した人世縮図のその|鍵《かぎ》を、自分が握っているのだという自覚がたのしくてたまらないのである。
それにもうひとつありようをいうと、じつは夫人もひとりで隣りの別荘を探検にいくのが怖いのである。そこへいくとすっかり夫人に骨抜きにされた藤村夏江はイイダクダク、まるで幼児のごとく柔順である。だれだって人間を思うままに操れるということは愉快なことではないか。
「それ、足下に気をつけるのよ。ダメ! 懐中電灯をうえへむけちゃ……」
操夫人は勝手口から外へ出た。そこから隣りの別荘へおりるために崖を削って段がついている。その土の階段は|辷《すべ》りやすかったが、懐中電灯のおかげで二人とも、どうやら辷りもせずに下の敷地へおりることができた。さいわい裏の崖崩れはロバみたいにバカな連中が、土をかきのけておいてくれたので、ぶじに津村家の勝手口まで|辿《たど》りつくことができた。操夫人は大家さんだから、その勝手口の鍵をもっていたとしてもふしぎではない。
勝手口のなかはせまい|三《た》|和《た》|土《き》でそこをあがると台所。家のなかはもちろん真っ暗だが、操夫人は勝手知ったるわが家もおなじことだから、まもなく探りあてたのはお手伝いさんの部屋。その部屋は三畳じきの和室になっているのだが、部屋の半分だけ床が高くなっているのは、ベッドがわりという趣向だろう。そうでなくても天井の高くない部屋だから、床へあがると手がとどく。
「あなた懐中電灯の光りを天井へむけて。そっちじゃない、こっちのほうよ」
床へあがると腰をかがめていなければ、立っておれないくらいの高さである。藤村夏江がいわれたほうへ懐中電灯の光りをむけていると、操夫人は両腕をのばしてなにやらゴソゴソやっていたが、やがて一メートル四方ほどの天井が、そっくりそのまま横のほうにずれて、そこにポッカリ黒い大きな穴があいた。
「あら、それなに?」
押しころしたような夏江の声はふるえている。
「隠し戸棚よ。ここ、いまんところ貸し別荘でこんなもの必要ないんだけど、いずれひとさまにお譲りするときがあるかもしれないと思って、こんなもの造っておいたのよ」
操夫人は首だけ天井裏へつっこんでなにやらあたりを探っていたが、やがてズルズル引きずりおろしたのは五段ほどある木製の|梯《はし》|子《ご》で、先端に|鉤《かぎ》がついているのは天井裏へひっかけるためであろう。操夫人はその梯子をななめにかけその安定度をたしかめると、懐中電灯を取りなおし、
「さあ、あなたさきにここを登っていくのよ」
「だって、あたし……」
「なんでもいいから登りなさい。でないとあたし叫ぶわよ、ヒトゴロシイ……って」
「いったいこのうえになにがあるの?」
「だからそれを探検にいくんじゃない。なにかあったらお慰み、なにもなくてももともとじゃないの。さあ、あがったり、あがったり」
懐中電灯の光りに浮きあがった操夫人のその顔は、妙な|陰《いん》|翳《えい》をつくっていて、いかにも|愉《たの》しそうにホクソ笑んでいるようにみえるのがとくにこの際気味悪い。白く濁った片眼の眼底出血がその気味悪さをいっそう強調している。
「だってこのうえ真っ暗じゃない」
「そうそう、そこにぶらさがっている|紐《ひも》をひっぱると、電気がつくことになってるの。だけどそれはよしましょう。外へ光がもれるといけないから。そのためにあなたに懐中電灯が渡してあるでしょう」
「だってあたし怖い……」
「ああ、そう、じゃあなたよしなさい。そのかわりあたし力一杯叫ぶわよ、ヒト……」
「いいわよ、いいわよ、わかったわよ、あがるわよ。そんなに|脅《おどか》さないで」
天井裏は三畳じきくらいの小房になっており、屋根の勾配にそって一方傾斜になっているが、高いところは人間ひとり立って歩けるくらいの余裕をもっている。屋根裏のいちばん低いところに空気抜きの小窓がついている以外は、全部トタン張りになっていてわりに清潔である。軽井沢というところは東京のような都会とちがって|塵《じん》|芥《かい》の少ないところなのだ。それでも小窓から吹きこむのかいちめんに霧が立ちこめていて、懐中電灯をふりまわすと暗闇のなかに紫色の|縞《しま》が交錯する。
天井から裸電球がブラさがっている下に、古い|籐《とう》|椅《い》|子《す》や脚が折れてかたむいた鎌倉彫りの小卓、デッキ・チェヤーなどのガラクタ道具がゴタゴタとひとかたまりに積んであったが、それらの道具はみんな操夫人のものらしく、
「あら、あのデッキ・チェヤーこんなところにあったのね。あれなんかまだ使えるんじゃないかしら」
操夫人は欲張ったことをいいながら、そのデッキ・チェヤーのほうに光りの焦点をあわせたが、とたんにそばにいる夏江の腕を力一杯にぎりしめた。
「ど、どうしたのよう、操さん」
「あ、あれ……人の頭……じゃない……?」
「バカなこといわないでよう。こ、こんなところに人が……いる……はずがないじゃないの」
だが、そういう夏江の声も操夫人に負けず劣らずふるえている。
そのデッキ・チェヤーはむこうむきに|据《す》えてあり、そのうえに一畳じきくらいの古ぼけた|絨毯《じゅうたん》がかぶせてあるが、その絨毯も操夫人にとって見覚えのあるしろものだった。ところがふるえおののくふたりの婦人の懐中電灯の、交錯した光芒の焦点のなかにうかびあがったデッキ・チェヤーの背のうえから、ニョッキリ|覗《のぞ》いているのは人間のうしろ頭ではないか。しかもデッキ・チェヤーにかぶせてある絨毯のふくらみ。……
われわれはここで操夫人の度胸を賞讃すべきだろう。ふつうならばここで逃げ出すべきところを夫人は逃げ出さなかった。ぎゃくに勝ちほこったような歓声をあげ、力一杯握りしめた夏江の腕を引っ張って、デッキ・チェヤーのほうへ突進していった。
「あったわ、あったわ、やっぱりここにあったのね。あなたってまあなんて素敵なひとでしょう。ひと晩にふたりまで血祭りにあげるなんて。……」
「いやよ、いやよ、あたしなんにも知らないのよ。堪忍して、堪忍して……」
「バカおっしゃい。ここにこんなうまい隠し場所があることをしってるの、あなただけじゃないの。あなた去年きたときこの隠し場所に気がついたのね。そしてそれをうまく利用したのね。いったいこれだれなの? どうやら男らしいけど……いいわ、あなたに聞かなくてもいいわ。あたし自分で調べてやるわ。あなたが血祭りにあげたもうひとりの男を」
操夫人はいやがる夏江の腕をわしづかみにしたまま、デッキ・チェヤーの正面へまわった。それはまるで嫁いびりをする昔の姑のような形相であった。まえへまわるとき操夫人が床にひきずっている絨毯のはしに足をひっかけたので、むきだしになったデッキ・チェヤーに身をよこたえているのは、世にも珍妙なスタイルをした男であった。
その男はクレップのシャツにおなじ地のステテコをはき、腹に毛糸の腹巻きをまいていた。デッキ・チェヤーから垂れた蚊細い両の|毛《け》|脛《ずね》のさきには靴下をはいていた。その男の身につけているものといえばただそれだけだった。
操夫人の懐中電灯はその男の下半身から、しだいに上半身へと這いのぼっていった。そしてまるい光りの輪がその顔をとらえたとき、操夫人はたからかに|凱《がい》|歌《か》をあげた。
「ああ、やっぱりそうだったのね。あなたってなんて素敵なひとでしょう。とうとうあの女の五人の亭主を全部その手で葬り去ってしまったのね。素敵よ、素敵よ。夏江ちゃん、あなた素晴らしいわよ」
だが、それが操夫人の耐えうる限界だったのだろう。おそらくこの夫人は長い孤独の生活と、やるかたなき|忿《ふん》|懣《まん》と|怨《えん》|嗟《さ》と痛恨に、みずから心をズタズタに引き裂いたばかりか、推理小説の読みすぎからくる奇怪で不健全な妄想のかずかずに|沈《ちん》|湎《めん》していたところへ、身近かに起こったこんどの事件の強烈な|刺《し》|戟《げき》が、この夫人の神経のたえうる限界のギリギリまで締めあげていたのだろう。しかも、この夫人に決定的な打撃をあたえたのは、とつぜんこの密房に電気がついたことである。
藤村夏江でさえ、
「キャッ?」
と、叫んでとびあがったくらいだから、操夫人の神経がショートして燃えつきたのもむりはない。
「だれだ、そこにいるのは?」
操夫人はしかしもうそれに答えることができない。彼女の魂はもう肉体からとび去っていて、そこにいるのはむなしい操夫人の抜け殻にしかすぎない。
「だれだ、返事をしないと撃つぞ」
「撃たないで」
と、夏江は悲鳴をあげて、
「操さん、操さん、あなたどうしたのよう。……あれえ、だれか来てえ!」
「なんだ、女か……」
|呟《つぶや》きながらそれでも油断なくピストル片手に|揚《あ》げ|蓋《ぶた》から、ヌーッと首を出したのは近藤刑事である。そこにうずくまっているふたりの婦人を|呆《あき》れたように見ていたが、やがて視線がデッキ・チェヤーのほうに引き寄せられると、急いで天井裏へ|這《は》いあがってきた。
「金田一先生、金田一先生、やっぱりここに死体が……津村真二の死体が……」
日比野警部補のあとから這いあがってきた、ヘラヘラ男の金田一耕助の姿をみても、操夫人の顔色にはもうなんの感動もあらわれなかった。
下着一枚でデッキ・チェヤーのうえに横たわっている、津村真二の顔にはどこか槙恭吾と共通したところがあった。顔全体が|歪《ゆが》んでイビツになっていた。唇のはしから黒ずんだ舌が少しのぞいていた。しかもこの死体をここへ運んだ人物は、眼をつむらせておくという才覚がなかったのか、かっと見開いた両眼の|蝋《ろう》|石《せき》のような光沢が|凄《せい》|惨《さん》そのものであった。
「外傷は……?」
日比野警部補が|訊《たず》ねた。
「ありません、どこにもなさそうです。これやっぱり青酸加里ですぜ。奥さん、これはいったい……」
いいかけて近藤刑事が口あんぐり、目玉を大きくひん|剥《む》くのを見て、
「どうしたんだ、近藤君、君この婦人をしってるのか」
「ふ、藤村夏江!」
絞り出すような近藤刑事の声のなかには、|慙《ざん》|愧《き》と忿懣が煮えたぎっていた。声を聞いて等々力警部も揚げ蓋から顔をのぞかせた。等々力警部の背後には山下警部もいた。
第二十五章 尾行
「藤村さん、お話くださるでしょうね」
そう切り出した日比野警部補のものごしは、だいぶんいままでとちがっている。こういう階級の女性を相手とするときは、高飛車だけではいけないのだということを、この二日間の経験で、日比野警部補はいやというほどしらされた。それだけこの若い警部補も成長したということなのだろう。強度の近眼鏡のおくにある眼には、|猜《さい》|疑《ぎ》の色がつつみきれないのだけれど、それも出来るだけおさえるように努力している。
場所は万山荘の明治色ゆたかな広間である。そのほうが殺風景な警察の取り調べ室よりも、相手の気持ちをくつろがせるだろうという、金田一耕助の配慮からである。そばには山下、等々力の両警部のほかに近藤刑事もひかえている。金田一耕助がれいによって眠そうな眼を、ショボつかせていることはいうまでもない。
「さあ、なにから申し上げたらよろしいのでしょうか」
そう答えた藤村夏江はすっかり落ち着いているようである。だれの眼にもこの女、あそこで捜査当局の手で発見されたことによって、ホッとしているのではないかと見受けられた。じっさいそのとおりなのだ。ゆうべからきょうへかけて、操夫人に責め|苛《さいな》まれているよりは、このほうがどれだけましだかしれやしないと、去年からウッ屈している心の重荷からやっと解放された思いなのである。
ここへくる途中樋口家の別荘へ立ち寄って、|着《き》|更《が》えもし、髪もとりあげ、化粧もなおしてきたとみえ、さっき津村真二の別荘の天井裏で発見されたときにくらべると、うんと若返ってみえる。かつて舞台に立っていたほどの女である。いちおう目鼻立ちのととのっていることはいうまでもないが、細面なのが多少ギスギスとしてみえ、万事小造りなところが舞台女優として損をしていたのではないか。しかし、言葉づかいがハキハキとして、歯切れのよいのはさすが新劇育ちとうかがわれた。
「じゃこちらからお訊ねいたしましょう。ひとつわれわれの質問にお答えください」
と、日比野警部補は近藤刑事の提出したメモに眼を落としながら、
「あなたはもと新劇女優で、おなじ新劇俳優だった阿久津謙三氏の奥さんだったかたですね」
「はあ」
「その阿久津謙三氏が昭和二十五年、鳳千代子さんと結婚なさるについて離婚されたんですね」
「はあ、捨てられたのでございます」
夏江の口調はしかし淡々としていた。
「それであなたは舞台を退き、『装美苑』という婦人服飾専門の雑誌社へ入られたんですね」
「はあ、社長の高森安子さまというかたが、東京の女子美術の先輩でいらっしゃいますから」
「樋口操さんとはどういうご関係で?」
「あのかたも女子美術の先輩で、そればかりではなく仙台高女いらいの先輩後輩になっておりますの」
近藤刑事がチッと舌打ちし、山下警部はニヤリと笑った。等々力警部も口もとをほころばせている。どんな綿密な調査でもパーフェクトというわけにはいかないことを、この若い警部補も思いしったことだろう。
「ところであなた去年の八月十五日の晩、すなわち鳳千代子さんの最初のご主人、笛小路泰久さんが奇怪な最期をとげられた晩、この軽井沢へきていらっしゃいましたね。これにはたしかな証人があるんですが」
「はい」
夏江はなんのためらいもなく答えた。
「やはり樋口さんの別荘へ……?」
「はあ」
「ところがあの晩あなたをこの軽井沢で見かけたという証人の言によると、あなた笛小路さんを尾行していられたのではないかというんですが……」
これには夏江もちょっと驚きの色をみせ、しばらく黙っていたのちに、
「はい、おっしゃるとおりでございます。しかし、そのかた……その証人とおっしゃるかた、どのへんであたしを見かけられたのでしょうか」
「問題の店ミモザのへんらしいんですよ。あなた本屋の店頭に立って、雑誌の立ち読みをしながらミモザを監視していらしたとか……」
「それから……?」
「いや、その証人はそこまでしか知らないんです。それもああいう事件があってから思い当たったといってるんですがね」
夏江はふかい|溜《た》め|息《いき》をついて、
「そのかたいっそのことその後もつづけて、あたしを監視してくださればよかったんです。そうすればあたしもこの一年、こんなに悩みつづけなくともよかったんです」
夏江はそこではじめて涙をみせた。さすがにはしたなく取り乱すようなことはなかったが、そっとハンケチを眼に押しあてた顔には疲労の色が濃かった。
「あなた笛小路さんをご存じでしたか」
そばから金田一耕助がいたわるように声をかけた。夏江はハンケチを顔からはなすとそちらのほうに眼をむけた。かるく頭をさげると、
「金田一先生でいらっしゃいますね。お名前はかねてから存じあげておりました。先生がこの事件に関係していらっしゃるとしったら、もっとはやく先生のところへご相談にあがるべきでした」
夏江はそれからもういちど頭をさげると、
「いまの先生のご質問でございますけれど、ほんとうのことを申し上げますと、あのまえの日、つまり去年の八月十四日の夕方こちらへくる汽車で、偶然おなじ箱に乗りあわせるまで、あたしあのかたにお眼にかかったことはいちどもございません」
日比野警部補は疑わしそうな眼をしたが、金田一耕助は委細かまわず、
「しかし、去年偶然おなじ箱に乗りあわせたとき、相手が笛小路さんだと気がおつきになったんですか」
「はあ、それはもちろん、あのかたもかつては有名なかたでいらっしゃいましたし、戦後も映画に出ていらっしゃいましたから。でも、あまりにも変わっていらっしゃいましたので、おなじ箱に乗りあわせた乗客のなかでも、このかたが戦前映画界を|風《ふう》|靡《び》した、華族出身の二枚目スターと気がついたのは、あたしひとりぐらいのものではなかったでしょうか。あたしの場合は阿久津とのいきさつがございますから、なんとなくあのかたのその後のなりゆきも存じあげていたんですのね。こちらの警部補さんのみならず操さんなんかも、まるであたしがあのかたを軽井沢まで、追っかけてきたように思っていらしたようですけれど、それはそうではなくほんとに偶然だったんです。あとから思えばあたしにとってほんとに不幸な偶然でした」
夏江はそこでふかい溜め息をついた。落ち着いた語りくちで多少メリハリをおびていたが、まずは真実を語っているように受け取れた。
「ところであなた列車のなかで、笛小路さんに話しかけられましたか」
「とんでもございません、金田一先生」
「では、笛小路さんのほうでは全然あなたに気がついていらっしゃらなかったわけですね」
「あのかたはあたしというもの、藤村夏江というものの存在さえご存じなかったんじゃないでしょうか」
「しかし、奥さん、去年あなたがこちらへこられたとき、樋口さんの隣りの貸し別荘に津村真二氏、つまり鳳さんの四番目の旦那さんだった人物が、滞在してるってことはご存じでしたか」
夏江はしばらくためらっていたが、それはなにかを隠そうとしているのではなく、なにから切り出してよいか思案しているらしかった。やがて深い溜め息とともに夏江は|堰《せき》を切って落としたように語り出した。
「それを知っていなかったら、あたしはこちらへくるんじゃなかったんです。あの数日まえに操さんが上京してきて会ったとき、あたしそのことを操さんからきいたんです。それで急に浅間隠へきてみたくなったというのは……金田一先生、女というものは罪深いものです、浅ましいものです、執念ぶかいものなんです。ことにあたしのように他のひとに夫をうばわれたような女は……」
夏江はべつに歯ぎしりはしなかった。むしろ淡々とした語りくちのなかには、なにもかも|諦《あきら》めてしまった女の悲しい|諦《てい》|観《かん》のようなものがうかがわれたが、それだけに当時の悲痛、痛恨がしのばれるようであった。
「あたしにだってプライドというものがございます。しかし、金田一先生、誤解なさらないでください。プライドと|己《うぬ》|惚《ぼ》れとはちがいますのよ。あたしプライドというものを持っているがゆえに阿久津ときれいに別れたんです。あのひと……鳳千代子さんとあたしのあいだには、あらゆる点で大きな隔たりがあることは自覚していましたし、それに阿久津の心があたしをはなれて、あのひとのものになってしまっているとハッキリ覚ったとき、あたしのプライドはそれ以上、阿久津に|縋《すが》りついていることを許さなかったんです。しかし、恨みはながく残りました。あのひとにたいして」
夏江はそこでひと息いれると、だれかが余計な|嘴《くちばし》をいれるのを怖れるように言葉をついで、
「それかといってそれ以来、あたしが|虎《こ》|視《し》|眈《たん》|々《たん》としてあのひとを、附けねらっていたように思ってくだすっても困りますけれど。あたしだってそれほどの閑人じゃございませんから。ですからあのとき阿久津があんなことさえいわなければ、あたしもこんなに執念をもやしはしなかったんです」
「阿久津さんがいつどんなことを、あなたにおっしゃったんですか」
いつのまにか金田一耕助が訊き取りがかりになっていた。訊き取りがかりというよりは言葉がたきというべきか、相手も金田一耕助のモッサリした|風《ふう》|貌《ぼう》に接していると、心の安らぎをおぼえるらしかった。等々力警部や山下警部はそれをしっているから万事一任のかたちである。日比野警部補にもそれがわかってきたようである。
「あれは津村さんがあのひとと、華やかなロマンスのすえに結婚なすったその翌年のことでしたから、昭和三十二年の秋ごろのことでした。あたし阿久津のほうから会いたいといってきたので会ったんです。ふたりきりでした。場所はあるレストランのスペシアル・ルームでした。阿久津と別れてから会ったのは、あとにもさきにもそのとき一度だけでした。阿久津の用件というのは新劇へ戻ってこないかということでした。あたしは断わりました。ほんとうをいうと阿久津とわかれ舞台から引退してからも、テレビやなんかからちょくちょくお誘いがあったんですけれど、全部お断わりしてきたんです。理由はあのひとに見返られた女を売りものにしたくないからでした。同じような理由で阿久津の勧誘も断わりました。それにあたしいまの仕事に満足してますの。阿久津もしいて勧めはしませんでした。ただそのとき阿久津のもらしたひとことが、あたしの執念に火をつけたんです」
こういう話をするにしては淡白すぎるほどの調子だったが、さすがに最後の一句を口にするとき、夏江の|瞳《ひとみ》に|灯《ひ》がともった。
「阿久津さんはどんなことおっしゃったんですか」
「別れるときあたしがついいっちまったんです。結局あなたもあのひとに捨てられたのねと。すかさず阿久津が|斬《き》りかえしてきました。バカいっちゃいけない、おれのほうがあの女を捨てたんだ。それだけなら男の負けおしみともとれましょうが、そのあとで槙君だっておそらくそうだろう、われわれは紳士だからあのひとの名誉を守って、円満な協議離婚ということにしてあるが、見ててごらん、いまに津村君もあのひとを捨てるだろうと」
「その理由は……?」
「いいえ、それは申しませんでした。|騎《き》|虎《こ》の勢いそこまでしゃべったものの、あとで後悔してるふうでしたし、それにあたしにもプライドがございますから、あまり|根《ね》|問《ど》いはしませんでした。それに半信半疑でもあったんです」
「ところが果たして津村氏が、三年たつやたたずであのひとと別れたので、あなたの疑惑が再燃してきたというわけなんですね」
「そうなんですの、金田一先生、あれだけチャーミングなひとが……しかも、あのひと結婚するとよい妻になろうとして、非常に努力するひとだと聞いてもいたんです。そういうひとがなぜ男に捨てられるのだろう……? あたしはそれを知りたくなったのです」
「そこへたまたま樋口さんの奥さんから、津村氏がおとなりの貸し別荘へきていることをお聞きになって、軽井沢へやってこられたんですね」
「津村さんはお坊っちゃんのようなご気性でいらっしゃるとうかがっておりましたから、なにか聞きだせはしないかと思ったんです。しかし、誤解なさらないでください。あたしその秘密をしったからってそれをタネにあのひとに|復讐《ふくしゅう》しようの、あのひとを|強《ゆ》|請《す》ろうのという気持ちは毛頭なかったんです。ただかつてあのひとに敗れた女として、あのひとの秘密をしることによって心ひそかに優越感をもちたかったんです。金田一先生、これが女の闘いというものです」
そのときの夏江は|毅《き》|然《ぜん》としてみえ、その気持ちはそこにいるだれにも素直に受け取れた。
「わかりました。ところがこちらへくる汽車のなかで図らずも、笛小路さんに会われたわけですね」
「はあ、妙なまわりあわせだと思いました。しぜんあのかたのすぐうしろにくっついて改札口を出ました。あのかたタクシーを拾ってその行先きをおっしゃいましたが、笛小路さんのおっしゃったその行先が強くあたしの心を|捉《とら》えたのでした」
「白樺キャンプといったんですか」
「はあ、ところがあたし白樺キャンプというのが、どういう種類の宿泊所かしっていたんです。あたしもそうとう世間が広うございますし、そのなかには若い学生さんもいらっしゃいますから」
「それでその翌日、すなわち問題の八月十五日の夜、あなたは白樺キャンプへ訪ねていかれたんですか」
「いいえ、いくつもりではいたんです。げんに旧道のお店でどのへんだか聞いたくらいですから。好奇心の強い女だとお|蔑《さげす》みになって結構です。ところが道順をきいて旧道をくだって、ロータリーのところまできたところで、むこうからくる笛小路さんに会ったんです。すごく泥酔していらっしゃいました」
「それをあなたミモザまでつけていらしたんですね」
「はい」
「その途中なにか変わったことは……?」
「そこまではなにもございませんでした」
「ああ、そう、あなたがミモザの近所にある本屋で、たち読みをするふうをなさりながら、ミモザを監視していらしたってところまではわれわれにもわかってるんです。問題はそれからなんですね」
「はあ」
「ではどうぞ」
「金田一先生」
夏江は急に身ぶるいをすると、|尖《とが》ったような瞳を金田一耕助のおもてにすえて、
「これからあたしが申し上げることだけで、犯人はそのひとだと即断なさらないで。あたしにもそれがなにを意味しているのか、いまだによくわからないんです。それはあまりにも恐ろしいことですから……」
「承知しました。ではあなたはご自分の経験なすったこと、あるいはごらんになったことをありのままお話になってください。判断はわれわれのほうで下しますから」
この女も熈子とおなじなのだ。自分の告白が何者かを|誣《ぶ》|告《こく》することになりはしないかと|懼《おそ》れているのだ。しかも夏江の見たものは熈子のそれよりもさらに恐ろしいものらしい。広間の空気が張りつめた針金のように緊張したのもむりはない。
「申し忘れましたがあの晩はひどい霧でした。それも旧道のような繁華街ではそれほど苦にはなりませんでしたが、それをはずれて淋しい別荘地帯へはいりますと、数メートルさきは見えないくらいでした。ちょうど今夜とおなじような晩でしたわねえ」
「そうそう、そのときあなた盆踊りをやってる広場のそばを通りませんでしたか」
「ああ、そうそう、そのへんまではまだ|賑《にぎや》かだったし明るかったんです。そこを通りすぎてしばらくいくと別荘もまばらになり、あのへん木立ちが大きゅうございましょう。ですから霧のふかさと木立ちの暗さと……ただ頼りになるのはところどころについている街灯だけでした。と、こう申し上げても、あのかたを尾行するのに苦労したと勘ちがいなさらないでください。あのかたときどき酔っ払い特有の|濁《だ》み声をあげて|唸《うな》ったり、アメリカ・インディアンみたいに|喊《かん》|声《せい》をあげたり、それに尾行があるなんてこと考えてもいらっしゃらないふうでしたから、その点楽でしたけれど」
夏江はそこでちょっと息をつぐと、
「ところがそれからまもなく、ちょっと変わったことがございました。道が十字路になってるところまでくると、あのかたそこでちょっと立ち止まって、しばらく思案をしていらっしゃいました。それから五、六歩上手のほうへいらっしゃりかけたのですけれど、また思いなおしてまっすぐの道をいらっしゃったんですけれど、そのとき大声で妙なことを叫ばれたんです」
「妙なこととおっしゃると……?」
「七人の子をなすとも女に心を許すなとは貴様のこった。いまに見ろ、目には目を、歯には歯だ……そうおっしゃってあたり|憚《はばか》らず大声でお笑いになったんです。とても毒々しいゾーッとするような声でした」
一同は|慄《りつ》|然《ぜん》として顔を見合わせた。夏江はまだしらないだろうけれど、それは美沙のことをいったにちがいない。そのとき笛小路泰久は美沙が自分の子でないことに気がついていたのだから。しかも、それをタネに千代子を|強《ゆ》|請《す》ろうとして|撥《は》ねつけられた直後のことである。
「それから……」
と、いいかけるのを日比野警部補がさえぎって、
「ちょっと奥さん、あなた笛小路さんが五、六歩いきかけた、十字路の上手になにがあるかお気づきじゃなかったですか」
「霧のなかに沢山あかりのついた窓らしきものがみえました。高原ホテルですわねえ」
「笛小路さんはそっちのほうへいかなかったんですね」
「いらっしゃいませんでした。いらっしゃりかけたことはたしかですけれど、まもなく思い直されたようです」
「ああ、そう、ではおつづけになってください」
「それからあたしだんだん困ってきたというのは、笛小路さん妙なことを|喚《わめ》かれてから急に静かになってしまわれたので、ただ足音だけがたよりになってしまいまして……霧はますますひどくなるようでした。まもなく道は丁字型になった箇所に突き当たり、そこからかなり急な上り下りの坂がうねうねとつづいていました。笛小路さんはその坂をのぼっていかれたんです。ただあたしの救いは笛小路さんは千鳥足ですから、ほかのひとと取りちがえるようなことはなかったのです。まもなく、坂をのぼりきるとそこに橋があり、そこまできてから、あらまあ、これ浅間隠へいく橋じゃないかしらと、あたりを見まわしているうちに、笛小路さんを見失ってしまったんです。つまり霧のなかをいく足音がきえてしまったんですの」
夏江はとがった瞳で金田一耕助の顔を凝視して、
「先生はあの橋をわたると道がふた股になっていて、上のほうをいくと浅間隠、下をいくと桜の沢になっていて、桜の沢のとっつきに笛小路さんの別荘があることをご存じでいらっしゃいましょう。ところがあたしそんなことは存じませんでした。そのときは無我夢中でしたけれど、あとから考えると桜の沢の道をそうとう奥までつきすすんでいったんですのね。霧はますますひどく、両方から枝をさしのべた大木のために、その道はトンネルみたいでした。ただところどころについている街灯だけがたよりでした。ところがいくらいっても足音はきこえませんし、少し小走りに走ってみたんですけれど、笛小路さんの姿はみえません。それでは笛小路さん、浅間隠のほうへいかれたにちがいないと、あわててもときた道をひっかえしたんです。そして桜の沢のとっつきまで引き返したとき、とつぜん左のほうから女の悲鳴みたいなものがきこえました。あたし反射的にそのほうを見たんですけれど……そのときあたしの見たことの意味がいまだによくわからないんです」
金田一耕助のおもてにすえた夏江の瞳はとがりに|尖《とが》り、胸の高鳴りをおさえるように、固く握りしめた両手は心臓のうえをきつく押えている。五人の男の瞳もまたかたく尖って夏江のおもてを凝視している。
「なにをごらんになったんですか」
金田一耕助がおだやかに|訊《たず》ねた。
「なにもかも打ち明けて、心の重荷をおろしたほうがいいじゃないんですか。そのことに対する判断はわれわれにまかせてください」
「金田一先生、そうさせてください。あたしなにもかもいってしまいとうございます」
夏江の声は悲痛でさえあった。
「その別荘は道よりだいぶん下がったところにありました。ポーチがあってポーチに門灯がついていました。そのポーチの左側に上から下までガラス戸になったお部屋があり、そのお部屋にはなかにカーテンが引いてありました。しかし、そんなことはあとから気がついたことで、悲鳴をきいて反射的にそのほうへ眼をやったとき、そのカーテンに恐ろしい影が映っていたんです」
あとはむしろ淡々と、まるで|暗誦《あんしょう》するような口調になって、
「男が女を抱きすくめていました。女はそうとう抵抗しているようでした。女はパジャマ姿のようでした。とうとう女が仰向けにおしころがされ、男がそのうえにのしかかるように体を伏せていったところで、影絵はカーテンの外へはみ出してしまったんです。カーテンの外へはみ出してしまってからも、低い、短い悲鳴のようなものが二、三度きこえました。それからあとはシーンと静まりかえったのです。明り……どうやらそれは電気スタンドの明りだったようにあとで気がついたのですが……明りは|点《つ》いたきりでした」
シーンと凍りついたような沈黙が広間のなかに落ちこんできた。日比野警部補がはげしく身ぶるいをしたのは、笛小路泰久が入水以前に情交をもった女がだれであったか、はじめて思い当たったからである。
しばらくして金田一耕助がノドにからまる|痰《たん》を切るような音をさせて、
「つまりそのときあなたの受けた印象はこうなんですね。女がパジャマ姿で寝ていた。|枕元《まくらもと》に電気スタンドをつけて。そこへ男が|闖入《ちんにゅう》してきて暴力をもって女を犯した……と、こういうことなんですね」
「金田一先生、最初あたしの受けた印象はたしかにそうでした。ところがそのあととんでもない誤解をしてしまったんです」
「誤解とは……?」
「とんでもないところを見てしまった、いったいどういうひとの別荘だろうとあたりを見まわしますと、ネーム・プレートが立っております。そばへ近よってみますと笛小路。……とたんにいま見た影の男性が、笛小路さんだったことにハッキリ思い当たったんです。ところで、そこであたしがとんでもない誤解をしたと申しますのは、パジャマ姿の女性をあのひと……つまり鳳千代子さんだと思いこんでしまったんです」
「奥さん、あなたはそれが……パジャマ姿の女性が鳳千代子さんでなかったことに、いつどうして気がつかれたんですか」
山下警部だった。さすがの山下警部の声もしゃがれていた。この老練な警部があつかってきた数多い事件のなかでも、これほど|忌《いま》わしい例はなかったのではないか。
「山下さまでいらっしゃいましたね、警部さま、もう少しあたしの話をきいてください。金田一先生、あたしの見たものはそれだけじゃなかったんです。そのあとであたしもっともっと恐ろしいものを見てしまったんです。そして、そのことの意味がいまもってわからないんです」
夏江はまたあらためて身ぶるいしたが、その|戦《せん》|慄《りつ》が男たちにも感染した。ゾーッとするような寒気が広間のなかを急襲した。一同は|愕《がく》|然《ぜん》として夏江の顔を見直したが、
「奥さん、それじゃあなたはもしや……」
若い日比野警部補はまるで舌が|上《うわ》|顎《あご》にくっついたような声だった。それをそばから山下警部がかるく制して、
「日比野君、ここはひとつ奥さんの話しいいように話していただこうじゃないか。そして奥さんのおっしゃる意味がわからないということを、われわれで判断してみようじゃないか。金田一先生、いかがです」
「それがいちばんいい方法のようですね。では、藤村さん、どうぞ。落ち着いて、しっかりと。パジャマ姿の女性を鳳千代子さんと勘ちがいして……それから……?」
金田一耕助にやさしく励まされて、夏江はまた落ち着きを取り戻した。
「はあ、ありがとうございます。先生、そのときあたしが感じたのはあのひと……鳳千代子さんに対する激しい怒りと、このうえもない|蔑《さげす》みでした。そして、阿久津のほのめかしたあのひとの秘密とはこれなのだ。あのひとは笛小路さんと表面離婚しているが、そのじつこういう関係がつづいていたのだ、それゆえにこそ阿久津や槙さんや津村さんに捨てられたのだ……あたしはそう思いこんだんです」
「なるほど、ごもっともですね。それはあなたのモラルからあまりにもかけ離れていた……」
「あたしは|旧《ふる》い女なんでしょうねえ。阿久津に|敝《へい》|履《り》のごとく捨てられても、ほかの男性と結婚する気になれなかった女ですから」
夏江は淋しくほほえんで、
「しかし、金田一先生、あたしがその場に立ちすくんでいたのは、それ以上の卑しい好奇心からではございません。あたし動けなかったんです、足がその場に|釘《くぎ》|附《づ》けにされたように」
「いや、ごもっともです。で……?」
「あたしその場にどれくらいたちすくんでいたでしょうか、五分……? 十分……? あるいはそれ以上だったのか……あたしにはまったく時間の観念がなかったんです、それで……」
「ああ、ちょっと藤村さん」
金田一耕助が素早くさえぎって、
「あなたが立ちすくんでいらっしゃるあいだ、盆踊りの声がきこえていやあしませんでしたか」
夏江は驚いたように金田一耕助の顔を見直して、
「はあ、盆踊りの声はたえずきこえておりました。それがあたしを勇気づけたんです。まだ|宵《よい》の口なんだと……しかし、それがなにか」
「いや、その意味もいずれおわかりになるでしょう。では、さきをどうぞ」
金田一耕助の質問の意味はこうなのだろう。盆踊りの声がきこえているあいだは、お手伝いさんの里枝が留守だということなのだ。しかも、一昨日の晩も蓄電池で拡声器は活動し、その音は浅間隠まできこえたのだ。
「チキショウ!」
と、近藤刑事が腹のなかで|歯《は》|軋《ぎし》りした。
「そのうちにカーテンの部屋で男の影が立ちあがったので、あたしはハッとわれにかえったのです。影は一瞬にして視野の外へ出たのですが、その一瞬の印象では、あのことが終わったあとの身づくろいのようでした。あたしは急に自分が浅ましくなり、恥ずかしくなりました。ですから笛小路さんがポーチからおりてくるのを見ると、そのまま浅間隠へかえろうとしたんです。もしあのときパジャマ姿の少女が、パパ、パパ、忘れもの……と、いいながら、笛小路さんを追っかけて出なければ、あたしはまっすぐに浅間隠へかえったでしょう」
一同は手に汗握った。日比野警部補が眼鏡を外してせわしく|拭《ふ》いているのも汗ばんでいる証拠であろう。
「少女の声はひじょうに低く、あたりを|憚《はばか》っていたようですけれど、あたしの耳にはハッキリときこえたのです。あたしがふりかえったとき笛小路さんはもう傾斜した路をのぼって道路へ出ていました。声のぬしはポーチの階段をおりるところでしたが、門灯の光りにうきあがったパジャマ姿のその女性が、鳳千代子さんではなく、まだ成熟しきらぬ少女であるとしったとき、あたしの全身は驚きのために|麻《ま》|痺《ひ》してしまったのです」
それを語る夏江の顔はいまも麻痺している。|瞳《ひとみ》は宙にうわずり|頬《ほお》の筋肉はかたく硬直している。しかし、彼女は機械的に語りつづける。
「笛小路さんとあのひととのあいだに、美沙ちゃんというお嬢さんがあることはしっていました。しかし、それが美沙ちゃんであるかどうかあたしにはわかりませんでした。あたしは美沙ちゃんに会ったことはなかったし、霧のためにその少女の顔は見えなかったのです。しかし、パパ……と、呼んだところをみると……でも、そうなるとさっき見たカーテンのあの映像は……? 父が自分の娘を……」
そうなのだ。それがこの事件のこのうえもなく恐ろしいところなのだ。山下、等々力両警部のような物馴れたひとたちにまで、ねっとりと汗ばませるほど恐ろしい真相なのだ。そして、そのことが若いが熱心な日比野警部補の捜査を、デッド・ロックに乗りあげさせた原因なのだ。
「笛小路さんにはしかし少女の声はきこえないようでした」
夏江は機械的に語りつづける。
「笛小路さんはまだそうとう|酩《めい》|酊《てい》していらっしゃるようでした。千鳥足で橋を渡っていきました。少女がそのあとをつけはじめました。少女はそのときパジャマの|袖《そで》をかきあわせて、なにか胸にかかえているようでしたが、あとで新聞を見て、それがウイスキーの瓶ではなかったかと思い当たったのです」
日比野警部補が身ぶるいするような|溜《た》め|息《いき》をもらした。あのウイスキーの瓶からは笛小路泰久の指紋しか出なかったのだ。ちかごろは推理小説の普及で、指紋が犯罪捜査上重大な役割りをはたすことが、ひろく世間にしられている。少女はそれをしっていたのか、それともパジャマの両袖でかかえたために、偶然少女の指紋が残らなかったのか。少女はそれをしっていたのではないかと日比野警部補は恐ろしそうな溜め息をもらすのである。
「橋を渡ると笛小路さんはさっき来た坂を下りはじめました。少女がそのあとをつけはじめました。あたしもそのあとをつけたのです。金田一先生、そうしなければいられなかったのです」
夏江は|嗚《お》|咽《えつ》するように|呻《うめ》いて|膝《ひざ》のうえでハンケチを引き裂かんばかりに|揉《も》んでいる。
「ごもっともです。さあ、落ち着いて、しっかりと。それからなにをごらんになったんですか」
「あいかわらず霧はふかかったのです。ですから、笛小路さんの姿も少女の影もほとんど見えませんでした。ただ笛小路さんのよろめきよろめく足音だけが、ときおり遠くかすかに聞こえてきたのです。少女の足音はきこえませんでした。まもなくあたしは道がT字型になっているところまで|辿《たど》りつきました。あたしはてっきり笛小路さんは、さっき来た道をかえっていかれたのだとばかり思って、そっちのほうへいったのです。ところがさきほど笛小路さんが、妙なことを|喚《わめ》かれた十字路まできて、どうやら道をまちがえていたのではないかと気がついたのです。あたしは少女に気づかれてもかまわないつもりで、少し脚を急がせてみました。少女はあたしが尾行していることに、全然気がついていないふうでしたから。少し走ってみてやっぱり道をまちがえたことがハッキリしてきました。あたしは立ちどまって少し思案をしました。あたしは自分をバカだと思い、自分の浅ましい好奇心を|嘲《あざけ》りました。もうこのまま浅間隠へかえろうと思ったのです。しかし、どちらにしても道がT字型になっているところまで引き返さなければなりませんでした。そのほうがいままで知っていた道より、はるかに近いことに気がついたものですから。ところが道がT字型になっているところまできたとき、下のほうからだれかが急ぎ足にのぼってくる足音が聞こえたのです。あたしは発作的にかたわらの|藪《やぶ》のなかに身をかくしました」
第二十六章 悪夢
夏江の麻痺がまた大きくなりかけてきた。頬の筋肉がサボタージュを起こしたように硬直していた。ただ大きく見開かれた眼だけが恐怖に|戦《おのの》いているようだった。
「申し忘れましたがその角には街灯がついておりましたが、その街灯の光りのなかに姿をあらわしたパジャマ姿の少女のその顔ったら!」
夏江は恐ろしい幻を払いのけるように、はげしく両手をふりながら、
「あたしはその後なんどその顔を、夢に見てうなされたかしれません。それはもう人間の顔ではなかったのです。悪魔の顔です。魔女の顔です。いいえ、魔女よりももっともっと恐ろしい顔、|物《もの》|凄《すご》くねじれてひんまがって、しかも笑っているようにもみえたのです。体さえふつうではありませんでした。背中がまがって、|顎《あご》をつきだし、ゴリラのように両手を垂れ……不潔で、|淫《いん》|猥《わい》で……いや! いや! あたしもう二度とあんな顔を夢に見たくありません!」
金田一耕助と等々力警部は|慄《りつ》|然《ぜん》として顔を見合わせた。ふたりがきょうゴルフ場でみた美沙の奇形……夏江もそれとおなじものを見たにちがいない。
「藤村さん、しっかりしてください。それからあなたどうしたのです。その少女が登ってきた道へいってみたのですか」
金田一耕助が声をはげますと、夏江は夢魔からゆすり起こされたような顔をした。額にビッショリと汗をかいていた。
「すみません、先生、つい取り乱してしまって……はい、金田一先生、あたしそうしないではいられなかったのです。それにその少女が手ぶらでいたことが気にもなったのです。笛小路さんになにかが起こったにちがいないということを本能的にしったのです。少女の姿が坂のうえに消えるのを待って、あたしは急いでそっちのほうへいってみました。まもなく前方の霧のなかに薄白く光るものがみえました。近づいてみてそれがプールであることに気がつきました。プールのまわりには鉄条網が張りめぐらせてありましたが、一か所だけそれが切れて破れているところがあるのを発見しました。それは最近破れたのではなく、まえから破れていたもののようでした。その鉄条網の破れめの有刺鉄線に白い布がひっかかっているのに気がつきました。取り外してみてそれが引き裂かれたタオル地のきれはしだということに気がつきました。おそらく少女のパジャマの切れ端だったのでしょう」
日比野警部補がウームと|唸《うな》った。
「日比野さん、それをあたしが持ち去ったことが、あなたの捜査を狂わせたとしたら、あたしどんなにお|詫《わ》び申し上げてよいかわかりません。しかし、そのときにはまだプールのなかにあのような、恐ろしいものが浮いていようとは気がつかなかったのです。それを手にとったまま鉄条網のなかへはいってみて、パンツひとつでプールのなかに浮かんでいる笛小路さんの姿を発見したのです。ひと眼見てもうこときれていらっしゃると思いました。その翌朝あたしは逃げるように軽井沢を立ったのです。金田一先生」
と、夏江は声をはげまして、
「あたしが意味がわからないと申し上げたのはこのことなんです。あたしには笛小路さんの死が自殺か他殺か事故死だかわかりませんでした。しかし、あれが他殺だったとして、そしてまたあの少女が美沙というひとだったとして、美沙ちゃんはなぜ自分の父を殺したのでしょう。いいえ、そのまえに笛小路さんはなぜご自分のお嬢さんを犯したのでしょう。いかに泥酔していらっしたとはいえ」
重っ苦しい沈黙がしばらくつづいたのち、金田一耕助が暗い、悩ましげな眼をむけて、
「そのことについてはいずれあなたはすべてをお知りになるでしょう。そのこと……つまり笛小路さんと美沙という少女が親子であるという考えかたが、われわれのまえに大きく立ちはだかり、それが捜査の妨げとなっていたのです。ありがとうございました。あなたのお話でわれわれは眼のなかの|埃《ほこり》がとれた感じでした。ところで、藤村さん」
と金田一耕助はちょっと|容《かたち》を改めて、
「あなた笛小路さんの死をすぐ他殺だとお感じになりましたか」
「いいえ、あたしにはよくわかりませんでした。頭が混乱してしまって。ただもうむやみに|怖《こわ》かったんです。あのときの少女の顔が、……でも、それからまもなくそこにいらっしゃるかた……近藤さんとおっしゃいましたね、そのかたが阿久津の死について意見をききに来られたとき、警察のほうでは他殺の疑いをもっていらっしゃるんだろうとは思ったんです」
「それはそうと、あなたは阿久津謙三さんの死をどうお思いになります」
「金田一先生、あれはほんとの事故じゃございません? だって他殺としてはあまりにも確率の低い方法ですもの」
「ぼくもその説に同感ですね。しかし、そのあとで笛小路さんの事件が起こったので、われわれは少し深刻に考えすぎた。しかも、そのことが犯人を有利な隠れ|蓑《みの》のなかに追いこんだというわけでしょう」
「近藤さん、お許しいただけるでしょうね。あのとき八月十五日の晩目撃したことを、あなたに申し上げなかったということについて。こういうのを一般人の非協力というのでございましょうけれど」
「いいですよ、いいですよ」
そばから慰めるように声をかけたのは山下警部である。あいかわらずゆったりしている。
「いまお話をうかがってわたしのような海千山千の男でも、ゾーッと総毛立ったくらいですからね。あなたとしてはおっしゃれなかったのもむりはない。いま打ち明けていただけただけでもわれわれは大いに感謝してるんです。ところで、金田一先生」
「ああ、そう」
山下警部の要請をうけて、金田一耕助はまた|傷《いた》ましそうな眼を夏江にむけて、
「藤村さん、お疲れのところを恐縮ですが、あなた一昨日の晩津村氏の別荘で起こったことについて、なにかお気づきになったことは……?」
夏江の|瞳《ひとみ》にまた|怯《おび》えの色がもどってきた。
「金田一先生、一昨日の晩あたし……」
と、鋭く早口にいってから急に思いなおしたように、
「たいへん勝手ですけれど、やっぱりあたしの話しいいように話させていただけません。そのほうが落ちつきますから」
「さあ、さあ、どうぞ。ご自由にどうぞ」
「はあ……」
夏江は気持ちを整理するために、しばらく膝のうえに組んだ手を見つめていたが、やがてうるんだような眼をあげると、また淡々とした調子で語りはじめた。
「ことしもあたしが浅間隠へまいりましたのはお隣りの津村さんのことよりも、笛小路さんのお嬢さんのことのほうがおもでした。あまりにもたびたび恐ろしい夢魔に悩ませられるものですから、あのかたのことについてもっとハッキリしたことを、確かめたいと思ったのです。と、いって津村さんのことについても、全然関心がなかったというわけではございません。津村さんが鳳千代子さんを捨てたとしたら、なにかあのお嬢さんに関係があるんじゃないかって気がしたんです。前置きはこれくらいにして、では一昨日の晩あたしが目撃したことを申し上げましょう」
焦燥の色が夏江のおもてにもどってくるのを見て、一同はまた緊張をあたらしくした。この女はまたなにかを見ているのだ。
「金田一先生、と、いってあたし一昨日の晩あそこでなにが起こったのか、正確には存じておりませんのよ。ですからこれからあたしの申し上げることが、どのていどご参考になりますか……一昨日の晩は八時頃停電になりましたでしょう。そのあと操さんがスタンド型になった懐中電灯をもち出してきて、しばらくお話をしていたんですけれど、そうそうは話のタネもございませんし、テレビもだめでございましょう。それできっちり八時半にお話を切りあげてお二階へあがっていったんです。操さんの貸してくだすったスタンド型になった懐中電灯をもって。そしてお床をとって……そうそう、操さんはベッドですけれどお二階は日本座敷になっております。さて、お床をとって窓の障子を締めようとしてふとお隣りを見ますと……もうお調べになったことと思いますが、あそこの二階から津村さんの別荘がましたにみえます。その別荘のホールにチラチラ明りがみえました。あたしがすぐそれが|蝋《ろう》|燭《そく》の灯らしいと気づいたのは、ひどく明りがゆれていること、しかも、どこか窓が開いていたんですのね、蝋燭の灯がふっと消え、あわてて|点《つ》けなおしたらしいんですね。そのあとであちこちの窓をしめる音が聞こえました。そのときあたしフッとおかしくなったんです。津村さんてなんてそそっかしいかただろう、もうだいぶん風が強くなっておりました。窓をしめてから蝋燭をおつけになればよいのにと」
蛾が舞い込んだのはそのときだろう。
「それが八時半ごろだとおっしゃるんですね」
「はあ、八時三十五、六分ごろじゃないでしょうか」
「そのときホールにいた人物を、津村氏だとお思いになったんですね」
「それはそうとしか思えませんわねえ。町に貼ってあるポスターで演奏会があることはしっていました。しかし、この停電で中止になったんだろうと思ったんです」
「いや、ごもっともです。それから……?」
「あたしお床へ入ってしばらく本を読んでいました。しかし、懐中電灯の光りでは読みづろうございますし、それに電池ももったいのうございますわね。ですから、ちょうど九時十分まえに電気を消して寝ようとするところへお隣りに自動車が着く音がしたんです。あたしの好奇心をお笑いになってくだすって結構です。あたしそっと起き出し障子を細目に開いて下を見たんです。自動車はポーチのすぐしたへこちらをむいて横付けになり、なかから男のかたがおりてきました。外は鼻をつままれてもわからぬくらいというほどではありませんが、まあ、真っ暗でしたわね。ところがそのかたヘッド・ライトをこちらへむけて、しかも点けっぱなしにして降りて来られたので、お姿がハッキリ見えたのです。あたしそのかたを音楽関係のかただろうと思いました。腰のところまであるブラウスを着ていらっしゃいました」
「あなた槙恭吾氏にお会いになったことは?」
「いいえ一度も。但し鳳千代子さんと結婚なすったとき、なにかの雑誌でお写真を拝見したことがございますけれど、まさか……」
「いや、ごもっともです。で、その人物が別荘のなかへ入っていったんですね」
「はい」
「そのときなかにいる人物の姿はごらんになりませんでしたか」
「いいえ、そのときは見ませんでした。ただ……」
「ただ……?」
「あたしそのことについては、それほど好奇心をもったわけではございません。ただ停電のさなかにお客さまがあって、たいへんだわねえくらいに思ったんです。ですからそこに妙なことが起こって、あたしをその場に|釘《くぎ》|附《づ》けにしなければ、そのままお床へ入ってたと思うんです」
「妙なこととおっしゃると……?」
「自動車の客がなかへ入るとすぐでした。建物の裏のほうからひとつの影が忍び出てきて、横の窓からなかをのぞきはじめたのです」
「あっ!」
と、日比野警部補がおどろきの声を放ち、ちょっとしたザワメキがそこに起こった。夏江はそれを勘ちがいしたらしく声を強めて、
「いいえ、これはウソではございませんのよ。ほんとうに妙なひとが出てきたんです」
「藤村さん」
金田一耕助がなだめるようにやさしい声でいった。
「われわれはあなたを疑って騒いでるんじゃないんですよ。そういう人物がいたらしいことは確認されているんです。あなたの証言はまたたいへん重要なものになってきました。そこのところ出来るだけくわしく話してください」
「はあ、承知しました」
夏江がまた波立つ思いを整理するように、ひと呼吸いれているところを見ると、この女またしてもなにか恐ろしいところを目撃しているのではないかと、一同の視線はふたたび|凝《こ》って彼女のおもてに集中する。
「みなさまもご存じのとおりあたしのところから|覗《のぞ》きますと、お隣りの別荘の正面からむかって右側の側面がみえます。そのひとはまえからそのへんをウロウロしていたのが、自動車がやってきたので建物の背後のほうへいったんかくれたのが、客がなかへ入っていったので、またノコノコと|這《は》い出してきた……と、そのときあたしの受けた印象ではそんな感じでした」
「なるほど、なるほど、それから……?」
「そのひとは……いえ、そのまえにほんとうならばそのへんは真っ暗なはずなんです。しかし自動車のヘッド・ライトがこちらをむいて、点けっぱなしになっておりますでしょう。その反射でいくらか明るく見えたんですが、そのひとは窓からなかを覗こうとしているようでした。しかし、窓が少し高かったのでしょう、奥のほうから石かなんかをかかえてきて、それを窓の下におき、そのうえにあがって窓のなかを覗きはじめたのです」
「服装は……?」
「いえ、そこまでは見えませんでした。ヘッド・ライトの反射でいくらか明るかったとはいうものの、逆にヘッド・ライトの光りがジャマになって、かえって見えにくくもあったのです。しかし、ちかごろ流行のナップ・ザックのようなものを|担《かつ》いでいるらしいのだけはハッキリ見えました。あたしそれでまた窓のそばから動けなくなってしまったのです」
「いや、ごもっともです。ことにそこが津村真二氏の別荘であるだけにね。それで……?」
夏江の顔にはまた恐怖と焦燥の色がみえはじめた。彼女は必死にそれとたたかいながら、
「あとで時計を見たのですが、あたし十五分ほどそこに立っていたんですね。急に覗き見していた人影の動きがはげしくなったんです。石のうえからとびおりると建物の正面へむかって身構えするようなかっこうを見せました。と、思うと正面のポーチからだれかがとび出してきたんです。いいえ、ポーチはあたしのところからは見えませんでしたが、そこからとび出してきたとしか思えない人影がサッとヘッド・ライトの前を横切りました。そのとたんあたしはまた|く[#「く」は「やまいだれ」+「句」Unicode="#75c0"]《く》|瘻《る》病の少女を見たのです。いいえ、顔は見えませんでした。こちらのほうがだいぶん高くなっているのですから。しかし、く[#「く」は「やまいだれ」+「句」Unicode="#75c0"]瘻病みたいに背中がまがって、|顎《あご》をつきだし、両手をダラリとまえへ垂れて……しかし、去年はそういう姿でゆっくりあたしのまえを通りすぎていったのですが、一昨日は風のようにヘッド・ライトのまえを通りすぎると、自動車の背後へまわりました。たぶん建物のむこうの側面にかくしてあったのでしょう、自転車に乗って傾斜をくだると坂をまっしぐらに下っていったんです」
ああ、自転車! 美沙は自転車をもっている。それはこの際有力な武器になったにちがいない。一同は慄然として顔を見合わせた。
「ところがそのく[#「く」は「やまいだれ」+「句」Unicode="#75c0"]瘻病の少女が自転車で、自動車の背後からとび出したとき、建物の側面からとび出した影が自転車のまえに立ちふさがりました。ヘッド・ライトのまえをとおりすぎた一瞬の印象では、まだ若い男のひとのようでした。しかし、く[#「く」は「やまいだれ」+「句」Unicode="#75c0"]瘻病の少女はいさいかまわずその人を|跳《は》ねとばしそうにして、坂をくだっていったのです。男の人はなにか|喚《わめ》いたようでしたが、そのじぶんもう風がそうとう強くなっていたので、なにを喚いたのかわかりませんでした。いったん跳ねとばされそうになったその人は、すぐ自転車のあとを追って、全速力で坂を駆けくだっていったんです。その人は懐中電灯をもっていたようです。そうそう、自転車のまえへ立ちふさがったとき、懐中電灯の光りでく[#「く」は「やまいだれ」+「句」Unicode="#75c0"]瘻病の少女の顔を照らしたらしく、少女が悲鳴をあげたようでした。あたしの見たのはそれだけでした」
夏江は疲れ果てたような顔をして、ぐったりと|椅《い》|子《す》に背をもたらせて眼を|瞑《つぶ》った。眼を閉じていると|小《こ》|皺《じわ》が目立ち、この|女《ひと》の苦渋と屈辱にみちた半生が|偲《しの》ばれるようでいたいたしかった。
金田一耕助はいくらか声をはげまして、
「それから……? それからあなたはどうしました」
夏江はかるく首を横にふり、
「いいえ、金田一先生、それがあたしの耐えうる精一杯でした。あたしはお隣りの別荘で何かまたよくない、恐ろしいことがあったにちがいないと思いました。あたしはそっと障子をしめいったん自分の寝床にもぐりこみましたが、怖くてとても寝ていられるものではございません。あたしは懐中電灯をつけるのも怖かったのです。明りが外へもれてあたしが覗いていたのがしれはしないかと。あたしは懐中電灯をもったまま寝床をぬけ出し、階段の途中でそれをつけて腕時計を見たのです。時刻は九時八分でした」
その時分津村真二はまだ桜井家の別荘にいたはずである。
思えばこのひとは去年といいことしといい、世にも恐ろしい事実の目撃者となったものである。それもこれもこのひとの、鳳千代子に対していだく|敵《てき》|愾《がい》|心《しん》と劣等感からくる悲しいあがきの結果なのだろうが、しかし、彼女の目撃したことが、千代子を傷つけることになるのだろうか、それとも……?
「金田一先生、あたしの知っていることはそれがすべてでございます。それからあたしは|階《し》|下《た》へおりて操さんのベッドへもぐり込んだのです。それがいけなかったのです。それがきのうになって操さんの好奇心をかきたて、あのひとの空想力をあふり、そして、とうとうさっきのようなことになったのです」
操夫人は精神錯乱状態でいま病院へかつぎこまれている。それが一時的なものか、今後ながくつづくものなのか、いまのところわからない。猟奇の果てというべきかもしれない。
夏江がよろよろ立ちあがるのを見て、金田一耕助が下から声をかけた。
「あなたこれからどちらへ」
「あたしもうお暇しなければなりません。いいえ、浅間隠ではありません。操さんのところへいってあげなければ……あのひとがああなったのもみんなあたしの責任なのです。あたしはあのひとを|診《み》てあげなければなりません」
「ああ、そう、ではだれかに送ってもらいましょう。しかし、そのまえにもうひとつふたつ」
「はあ、どういうことでしょうか」
「あなたがお隣りを見張っているあいだ、盆踊りの拡声器の声がきこえませんでしたか」
夏江はちょっと小首をかしげていたが、やがてかすかに身ぶるいすると、
「ええ、そうおっしゃれば……風のかげんか遠くなったり、近くなったり……少しかすれていたようですが」
「チクショウ!」
と、近藤刑事が腹のうちで|呟《つぶや》いたのは、それが美沙の安全弁だったことに気がついたからであろう。
「それではもうひとつ。あなたはお隣りの別荘から自動車が出ていく音を聞きませんでしたか」
「ええ、聞きました。しかし、金田一先生、それが何時ごろだったかお聞きになってもムダでございます。操さんをはばかって、あたしは懐中電灯をつけてまで時計を見る勇気はなかったのです。ですからあたしが操さんの寝床へもぐり込んでから半時間のちのことか、一時間もたってからのことだったのか……風はもう猛烈に吹いていたようでした。雨もときどき激しく降っていました」
それから藤村夏江は|蹌《そう》|踉《ろう》たる足どりで広間から出ていった。それを玄関まで送っていった近藤刑事は、すぐ取ってかえすと、
「金田一先生、これで田代信吉と美沙との関係がわかってきたじゃありませんか。田代信吉は美沙をとっつかまえて、それからなにかあったにちがいありませんぜ」
「田代はこんどこちらへくるまえに、美沙のことは知っていたかもしれない。昨年白樺キャンプで笛小路さんに会ってなにか聞いていたとすれば……」
日比野警部補が重っ苦しく呟いたとき、津村真二の別荘へのこしてきた山口刑事があわただしく入ってきた。
「出てきましたよ、あの別荘の隠し戸棚から、これ……」
出してみせたのはウイスキーのボトルとコップである。おそらく水割りにして飲ませたのであろう。
「このウイスキー、青酸の|匂《にお》いがするんですがね。それから、被害者の腹巻きから妙なものが出てきました」
それは四つに折りたたんだ楽譜であった。表はふつうの楽譜でお|玉杓子《たまじゃくし》がならんでいたが、山口刑事が妙なものといったのはその裏面である。そこにはマッチの棒の排列がひじょうに克明丹念に記入してあった。ほかに|空《から》の封筒が一通。宛名は浅間隠の津村真二様になっており、差出人は東京の立花茂樹になっているが中身はなかった。
「なるほど」
金田一耕助は楽譜の裏面に克明丹念に写し取られたマッチの棒の排列を見ると、おもわず口もとを|綻《ほころ》ばせて、
「これでみると槙恭吾氏は青酸加里でやられたとき、まえへ突っ伏さずにうしろへのけぞったんでしょうね。だから津村真二氏が桜井家の別荘からかえってきたとき、マッチの棒の排列は、少しも乱されずにテーブルのうえに残っていた。それを几帳面だがオッチョコチョイで、オッチョコチョイだが几帳面な津村氏が、そっくりそのまま写し取って、それを矢ガ崎の別荘で再現しようとしたんでしょうね」
「金田一先生、なんです、これは……?」
山下警部は眼をまるくしている。
「なあに、色盲家族の家系図の一列ですよ。と、いって山下さん、わたしをいやに物識りだなんて感心なさらなくてもいいですよ。わたしはまえに色盲者の事件を取り扱ったことがあるんで、色盲に関して若干知識を持っていたんです。矢ガ崎のアトリエでマッチの棒の排列を見たとき……あれはそうとう乱れていましたが、そこに四つの符号が使われていることに気がついた。そこで……これは等々力警部さんもご存じですが、南原の南条の別荘にはさいわい百科事典がそろっているので、念のために調べてみたんですが、だいたい間違いはなさそうでした。説明しましょうか」
「どうぞ」
「これ、津村氏がボール・ペンで書いたようですが、マッチの頭を斜線でおおっているのは緑のマッチ、即ち男性を意味しているんで、完全な緑のマッチは健康な男子で、記号で現すと△[#記号画像は巻末注記参照]ということになります。ふたつに折れ曲がった緑のマッチが色盲の男子で、記号で表現すると▲[#記号画像は巻末注記参照]。それから津村氏が頭を黒く塗りつぶしたのが朱のマッチで、女性を意味しているんでしょう。完全な朱のマッチの棒は健康な女子を現し、記号では♀ということになり、ふたつに折れ曲がったのが、自分は色盲ではないが色盲の遺伝質を持った女子ということになり、記号では♀ということになります。ひとつこのマッチの棒の排列に四つの記号をあてはめてごらんなさい。色盲の男子からはこういう子が生まれ、孫にこういうふうに遺伝していくという、これはその一例なんですね。槙恭吾氏はよっぽど詳しく色盲のことを調べたにちがいない」
「しかし、金田一先生」
と、日比野警部補は気色ばんで、
「さっき古川君に聞いたんですが、美沙は色盲なんだそうですね。そうするとあの子はどうなるんです」
「日比野さん、これも百科事典の受け売りなんですから、ぼくをあんまり買いかぶらんでくださいよ。男子の色盲は案外多く全体の約五パーセントを占めるそうです。ところが女子の色盲はうんと少なく、全体の約〇・五パーセントだそうです。ではどういう場合に色盲の女子が生まれるかというと、自分は色盲ではないが色盲の遺伝質をもった女子、即ち記号♀が色盲の男子、即ち記号▲[#記号画像は巻末注記参照]と結婚して、そのあいだに生まれた女の子だけが色盲になるんだそうです。これを美沙の両親……あるいは両親と思われているふたりの男女に当てはめてみましょう。鳳千代子さんはカラー映画の大スターです。あのひとが色盲であるはずがない、しかし、ひょっとすると遺伝質を持っているんじゃないか、これもノーですね。あのひとのお父さんは華麗な色彩を駆使して有名な美人画家です。色盲であるはずがありませんね。ついでにあのひとのお母さんのことも聞いてみたんですが、お母さんもどうやら色盲ではなさそうです」
「チキショウ!」
ほら、また近藤刑事のおハコが出た。このガニ|股《また》刑事は昨夜ここで展開された、金田一耕助の愚にもつかぬ鳳千景夫妻|礼《らい》|讃《さん》には、そういう意味があったのかと、いま改めていまいましさがこみあげてきたらしい。
「ところで美沙の父……あるいは父と思われている笛小路さんはどうでしょう。あのひとは自動車のセールスマンをやっていたという。と、いうことは自動車の運転が出来るということです。自動車の運転免許証を獲得するには色盲の検査があります。したがって笛小路さんも色盲ではなかった……」
「金田一先生、そうすると美沙はどういうことになるんですい」
狸刑事が狸のような眼をギョロつかせて、口から泡を吹かんばかりである。
「ですから、美沙は血液型からいっても笛小路さんの子でないし、色盲の遺伝法則からいうと千代子さんの子でもないわけです」
「金田一先生!」
さすが寛容をもって鳴る山下警部も、このときばかりは興奮したらしく満面に朱を走らせて、
「じゃ、美沙はだれの子だとおっしゃるんですか」
「わかりません」
金田一耕助は悩ましげな眼をして、
「それを知っているのは、笛小路篤子さんだけじゃないんですか」
シーンとした沈黙が広間のなかに落ち込んできた。恐ろしい沈黙だった。ギリギリと|歯《は》|軋《ぎし》りの出るような、あるいは骨の|髄《ずい》まで凍るような沈黙だった。だれもそれ以上聞きたくもなかったし、いいたくもなかった。ただ山口刑事だけが、この沈黙の意味をまだじゅうぶんに諒解していなかった。
「金田一先生、この封筒はどうしたんでしょう。これも被害者の腹巻きから出てきたんですが……」
金田一耕助は悪夢からさめたように身ぶるいをすると、ニッコリ白い歯を刑事にむけて、
「それはねえ、山口さん、津村氏がマッチの棒を入れるために使ったんじゃありませんか。立花君から津村氏へ宛てた手紙ですが、中身は大した事ではなかったので破って捨てて封筒をマッチの軸入れに使ったのでしょう」
金田一耕助は楽譜の表を出すと、
「ごらんなさい、これはまだ印刷されてなくて手書きの楽譜ですね。題は『浅間讃歌』作曲者は津村真二、絃楽四重奏ですね。立花君にきけばすぐわかることですが、これ一昨夜演奏される予定になっていたんじゃないですか。いっぽう桜井熈子さんの話によると、津村氏はデラクールの楽譜入れを持っていたという。おそらくこの楽譜もそのなかに入っていたのでしょう。その楽譜の裏にマッチの棒の排列が写し取ってあるということは、津村氏が浅間隠へかえったときには、もうすべてが終わっていたということでしょうね」
「金田一先生、津村氏にはこのマッチの棒の排列の意味がわかっていたんでしょうかねえ」
等々力警部がポツリと|訊《たず》ねた。
「それはどうでしょうかねえ。ただ津村氏にはこういうことがわかっていた。槙氏がこのマッチの棒の排列で、犯人になにか語りかけようとしていた……そこでこれを矢ガ崎の仮想現場に再現しておくことによって、捜査陣になにか|掴《つか》んでほしかった。自分にはわからないが捜査当局にはわかるかもしれない……それじゃなかったんですか」
事実そのとおりになったのである。
「それにしても金田一先生、美沙のような娘が、どうして青酸加里など持っていたんでしょう」
山下警部はまだ悪夢から覚めやらぬ顔色である。それに対して金田一耕助も|呻《うめ》くように、
「それはねえ、山下さん、笛小路のおばあちゃまが持っていたんじゃないでしょうか。それを美沙がくすねるか、ちょろまかすかして……」
「それだ! あの箱根細工だ!」
等々力警部がとつぜん大声にわめいて|椅《い》|子《す》からとびあがったので、一同はびっくりしてそのほうを振りかえった。
「それだ、それです。あの箱根細工のなかから青酸加里が紛失するか、少し分量が減っていたんだ。それに気がついたもんだからあのばあさん、上野駅のプラット・フォームであんなに恐れ|戦《おのの》いていたんだ」
「警部さん」
金田一耕助がわざと意地悪そうに目玉をクリクリさせながら、
「どうしたもんです、あなたらしくもない、箱根細工がどうしたというんです」
「金田一先生、申し遅れてすみませんでした。じつは……」
と、手短かに等々力警部が箱根細工のいきさつを、語りおわったところへ若い私服がとびこんできた。
「いま笛小路の別荘へ張りこんでいる古川刑事から連絡があったんですが、鳳千代子が笛小路の別荘へ入っていったそうです。なんでも笛小路のばあさんから病院へ電話がかかってきて、美沙のことについて話があるからすぐ来てほしいって」
みなまで聞かずに金田一耕助は、|袴《はかま》の|裾《すそ》をさばいてホールの入口へ突進していた。ほかのひとたちも一団となってそのあとにつづいた。みんな血相がかわっていた。連絡の私服はあっけにとられて、
「ああ、それから美沙はまだかえって来んそうです」
叫びながら一同のあとを追っかけた。
第二十七章 崖の上下
笛小路家の別荘が沢に面している事はいままでにもたびたびいったが、この別荘の母屋から少しはなれたところ、母屋の建っている敷地より三メートルほどさがった、崖下の沢とすれすれのところに、風雅な茶室ふうの建物がちんまりとたっている。この茶室のすぐ下を沢のせせらぎが音を立てて流れている。きのうの朝の台風のときこの茶室はあやうく水に漬りそうになったが、床を二メートルほど高くとってあるので、どうやら床下浸水ていどで食いとめた。水はもうすっかり退いているが、さすがにせせらぎの音はふだんより高いようだ。
この茶室ふうの離れは四畳半に二畳の玄関がついているきりの、ごくてぜまな建物だが、この離れこそ笛小路篤子にとっては|夢《ゆめ》|殿《どの》ともいうべき居間である。美沙の教育に|倦《う》み疲れたり、世間のいやな風評から逃避しようとするとき、篤子はいつもこの夢殿に閉じこもり、ひとりしずかに茶を|点《た》てて、みずからを立て直してきたのである。
思えば戦争このかた篤子にとっては忍苦にみちた日々であった。彼女が高く持してゆずらなかった華族の権威も誇りも地におちてしまった。元子爵という肩書きはいまでは世間の物笑いの種でしかない。笛小路家は由緒格式こそ高かったが、戦前からあまり豊かな家ではなかった。そこへもってきて夫の|放《ほう》|蕩《とう》の結果、夫が|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》でとつぜん世を去った昭和十二、三年ごろ、家の中は火の車も同然だった。
夫の妾腹の子泰久が映画界に身を投じたのも、当人のものずきもさることながら、一家の経済的苦境を救うためでもあった。
しかし、戦前はまだよかった。子爵という肩書きがなにかとものをいってくれた。同族のなかに羽振りのよいものもあり、華族という肩書きゆえになにかと融通のつくばあいも多かった。その点篤子はなかなかの|辣《らつ》|腕《わん》|家《か》といわれていた。彼女は上品にかまえていながら権威に弱い平民どもから、たくみに金を|搾《しぼ》りあげるすべを心得ていた。
しかし、敗戦というきびしい現実が篤子からなにもかも奪ってしまった。戦後のある期間元華族という肩書きが、ある種の階級の人間にはものをいったらしいのだが、それには篤子は年齢をとりすぎていた。さいわい泰久は生きて還ってきたけれど、篤子が泰久になんの愛情ももっていなかったとどうよう、泰久も篤子にたいして冷めたい侮蔑的感情以外のなにものも持っていなかった。もしかりに泰久に多少なりとも愛情らしきものがあったとしても、それがいったいなんの足しになったろう。泰久は徹底的エゴイストであったばかりではなく、自分ひとりを立てすごしかねている男であった。
かくて篤子のもとに残されたのは、たったひとりの美沙だけであった。美沙は幼かったけれど、美沙のバックには鳳千代子という、女ながらも生活力の旺盛な人物がひかえていた。こうして誇りたかき篤子は終戦後、忍苦と屈辱の日々に耐えてこなければならなかった。夢殿を必要とするゆえんであろう。
昭和三十五年八月十五日の夜の十一時過ぎ……と、いうよりはすでに十二時になんなんとしていた。
桜の沢の附近もごたぶんにもれず霧がふかかったが、その霧の底から強烈な光りを放っているのは、沢にせり出すように立っている茶室ふうの離れである。茶室の二方には|葭《よし》|戸《ど》が立てめぐらせてあった。いかに夜更けの峡谷の底とはいえ、障子や|襖《ふすま》をしめきると暑いのである。さりとて開けっぱなしでは蛾が舞いこむおそれがある。
いま涼しげな葭戸のはまった四畳半の天井からは、雅致にとんだ形をした蛍光灯がぶらさがっており、|煌《こう》|々《こう》たるその照明のなかにふたりの女が坐っている。風炉さき屏風のうちがわに坐っているのは篤子である。|小千谷縮《おぢやちぢみ》に博多の帯をしめ左の帯に|袱《ふく》|紗《さ》をはさんであいかわらず姿勢がよかった。篤子のそばの風炉のうえには釜がチンチン鳴っていて、いわゆる松風の音を立てている。
風炉から少しはなれたところに千代子がすわっている。千代子は絹のワンピースをきているが、それでいてキチンと正座した姿勢に、窮屈そうなところがみえないのはさすがである。洋装のままこういう席へ出ることも珍しくないのであろう。
しかし、さすがにその顔はあおじろく硬直していて、姑の一挙手一投足にそそぐ眼にもふかい|危《き》|懼《く》がうかがわれる。
ほんとのところ千代子は心身ともに疲れ果てていた。彼女は忠熈の開腹手術のあいだじゅう、手術室の外で手に汗にぎっていたのである。一連の事件のあとの忠熈のこの奇禍は、さすがの千代子にとっても大きすぎる打撃であった。一彦や熈子がそばにいて、慰め、励ましてくれたとはいうものの、千代子だからこそよく耐えよく忍びえたのである。ぎゃくに彼女は熈子を慰め励ましていた。
忠熈にとってひじょうに幸いだったことには、その道の大家がその場にいあわせたこと、それに肝臓や|膵《すい》|臓《ぞう》、|脾《ひ》|臓《ぞう》などの臓器に異常がなかったことである。腸管裂傷による出血がはなはだしかったけれど、さいわい献血者がふたりまで手近かなところにいたのも、忠熈の運が強かったというべきだろう。
弾丸は摘出された。それは自動式コルト二二口径のピストルから発射されたものとのちに鑑定された。
手術のあと千代子は熈子や一彦とともに忠熈に会った。忠熈が開口一番秋山のことを訊ねたとき、千代子はいくらか|嫉《しっ》|妬《と》めいたものを感じずにはいられなかったが、そういえば秋山卓造はあれきり消息をたっているのである。千代子はあらためて忠熈と秋山のあいだにつながれている、深い愛情を思いしらされて、犯人を追っかけていった秋山にたいして、うしろめたさを覚えずにはいられなかった。
「おじさん、秋山さんなら大丈夫ですよ、きっと。なんならぼくあとで探しにいってもいいです」
忠熈は無言のままうなずいた。
熈子があのライターを出してみせたのはそのあとのことだった。忠熈はニッコリ笑うと、
「金田一先生に……」
と、ただそれだけいったきりだった。しかし、熈子にはそれだけで意味が通じたとみえ、父の手をにぎりしめたあと無言のまま出ていった。
そのあとふたりの献血者がきて会った。献血者はふたりとも元気であった。忠熈が的場英明にむかって、
「先生には二重の借りができましたね」
と、いって笑ったのはそのときであった。
医者の注意でみんな出ていくことになったが、千代子だけは忠熈が手を握ってはなさなかったのであとに残った。忠熈はまもなく眠りにおちたが、眠っても千代子の手をはなさなかったので、千代子は相手の眠りをさまたげることを|懼《おそ》れてそのままの姿勢でいた。
十時ごろ熈子がどこからか帰ってきて、病院の一室で長いこと鉄雄とふたりきりで話しこんでいた。熈子の話をきいているうちにときどき鉄雄が、おひゃらかすような笑い声を立てた。それに対して熈子は|拗《す》ねたりふくれたりしていたが、しまいには自分から吹き出してしまった。結局極楽トンボには勝てないのである。
「で、金田一先生になにを聞いてほしいってんだ」
「なんでもいいの。ただ聞いてくださればいいの」
「だって、それなら君の口からいえばいいじゃないか。それともまだなにか隠していることがあるのかい」
「そうよ、重大なことをね。じゃ、もうあたしいくわ」
「いくってどこへいくんだい」
「鳳さんにかわってあげるのよ。なんぼなんでもこれじゃあのかた体がもたないわ」
笛小路篤子から千代子に電話がかかってきたのはこのときである。熈子は看護婦からそれをきくと、
「ああ、そう、それじゃあたしが取り次ぐわ。ちょうど代わってあげようと思っていたところですから」
熈子からそれをきくと、
「あら、すみません。じゃ、あたしちょっと電話口までいってきますから、あなたここにいてあげてください」
「さあ、どうぞ、どうぞ」
しばらくして千代子がかえってくると、
「笛小路の母がなにか美沙のことで重大な話があるからきてほしいというんです。あたしちょっと出掛けたいと思うんですけれど……」
熈子はなにかしらハッとしたが、さりげなく、
「ええ、いいわ。ここはあたしにまかせておいて|頂戴《ちょうだい》。でも、出来るだけはやくかえってきてくださいね。眼が覚めたときあなたがそばにいらっしゃらないと、父が淋しがりましょうから」
「ありがとうございます。出来るだけはやくかえってまいります」
千代子の後ろ姿を見送ったとき、熈子はふっと胸騒ぎをおぼえた。千代子はまだ美沙のことをしらないのである。病院へついて落ち着いたとき、千代子は熈子や一彦に美沙のことをきいてみたが、ふたりとも言葉を濁してはかばかしく答えなかった。千代子は千代子で手術のことで気もそぞろだったので、ふたりの態度を|怪《け》|訝《げん》に思うよゆうに欠けていた。
千代子は病院を出るといったんホテルへかえって着更えをしたのち、いまこうしてかつての姑と相対してすわっているのである。茶室の床の間にはさる有名歌人の色紙を表装した茶掛けがかかっており、そのまえの宗禅籠にはワレモコウとオミナエシが活けてある。茶室の外にはあやめもわかぬ霧がたてこめて、せせらぎの音がやや高いほかは、シーンと静まりかえった部屋のなかに、松風の音のみさわやかである。
「いま電話でおききしたんですけれど、飛鳥さまは案外軽くておすみになるそうですね」
「はあ、おかげさまで。よい|塩《あん》|梅《ばい》に専門のお医者さまがそばにいてくださいましたものですから」
「ご運の強いかたはやっぱりちがっていらっしゃいますわね。それにしても恐ろしいことがつぎからつぎへとつづきます。いったいどうしたことでしょうねえ」
「お母さま、それより美沙はどうしたのでございます。美沙はもう寝ているのでございますか」
「ああ、美沙子……」
ジロッとながしめに見る篤子の眼つきに、千代子はふっと不安をおぼえた。そういえばさっきの熈子や一彦の態度もおかしかった。
「お母さま、きょうゴルフ場でなにかあったのでございますか。美沙はなにか申しておりまして?」
「いいえ、べつに……」
篤子は言葉を濁すと、まじまじと千代子の顔を見守りながら、
「それより、千代子さん、あなた飛鳥さまとの結婚はどうなりまして? その後お話はすすんでいるのでしょうねえ」
「はあ、おかげさまで」
千代子はさすがに鼻白んだ。|耳《みみ》|朶《たぶ》まで赤く染まるのを篤子は刺すような眼で見ながら、
「お約束はお出来になりまして?」
「はい」
「ハッキリと?」
「はい、正式にお申し込みがあったと思ってくだすって結構です」
「で、もちろんあなたはお受けなすったんでしょうね」
「はい、喜んで」
「それは結構でした。心からお祝い申し上げますよ」
口許にうかんだ篤子の微笑には、なぜか千代子をゾーッとさせるようなものがあり、彼女はすなおに礼もいいかねた。
「それではね、千代子さん、それについて美沙子のことでいろいろ相談したいことがあるのですが、そのまえにあなたもきょうはお疲れでしょうから、一服召しあがって頂戴。つたないあたしのお|点《て》|前《まえ》ですけれどね」
「ありがとうございます」
「それでは夜のことですから、お|薄《うす》にいたしましょうね」
篤子の態度は落ち着きはらっていた。輪島塗りの|棗《なつめ》から薄茶をひと|匙《さじ》|茶《ちゃ》|碗《わん》にとると、備前の水差しから|柄杓《ひしゃく》で茶釜に水をさし、ゆっくり|掻《か》きまわしたのち茶碗にくみこむと、|茶《ちゃ》|筅《せん》さばきもあざやかに薄茶を点てると、そっと千代子のほうへ差し出した。茶碗は|信《しが》|楽《らき》のようである。千代子がひと|膝《ひざ》そのほうへにじりより、茶碗に手を差しのべようとしたとき、思いがけなく葭戸の外から声がかかった。
「いけない、鳳さん、その茶をのんじゃいけない!」
千代子がギョッとして茶碗から手をひいたとたん、篤子が素速くそれを引きよせて、両手でかかえこむようにした。そのとき篤子の顔にうかんだ表情を、千代子は生涯忘れることが出来ないだろう。元来女らしい魅力と|愛嬌《あいきょう》に乏しい篤子の顔が、そのとき|物《もの》|凄《すご》く険悪なものになり、さすがの千代子もおもわず声なき悲鳴をあげて、ふた膝三膝うしろへにじりさがったくらいである。
「鳳さん、ぼくです、桜井鉄雄です。熈子が心配するのでこっそりあなたのあとをつけてきたのです。あなたのところからは見えなかったかもしれないが、ぼくのところからハッキリ見えましたよ。そのばあさん、茶筅でかきたてるまえに、なにか変なものを茶碗のなかへ投げこみましたよ」
鉄雄の声は怒りにふるえ、千代子はまた声にならない悲鳴をあげて、茶室の端までにじり|退《さが》った。
この茶室が母屋のたっている敷地より、三メートルほど落差のある崖下に建っていることはまえにもいったが、二メートルほど床を高くとってあるので、いま鉄雄のうずくまっている崖のうえと茶室の床は、一メートルほどの差しかない。しかも彼我の距離は三メートルほど、おまけに茶室のなかに煌々と蛍光灯がついていたのが篤子の運のつきだった。彼女のあやしい袱紗さばきが霧のなかでもハッキリ見えたのである。
この崖には岩をきざんで階段をつくってあったのだが、そのへん常に湿気をおびているので、|苔《こけ》の発生や成育にはうってつけだった。滑って危ないというところから篤子のとくべつの注文で鉄製の梯子がかけてあり、千代子もさっきその梯子をつたってこの茶室へ案内されたのだが、その梯子はいま取り外されている。篤子はだれにも妨げられずにこの茶室で千代子と対決したかったのであろう。飛びおりるには危険であった。そのへん真っ暗なうえに下になにがあるかわからなかった。霧が茶室をめぐって渦を巻いているのである。
「鳳さん、そのばあさんからはなれていなさい。そのばあさんなにをするかわかりませんよ。ひょっとするとそのばあさん、刃物のようなものを持っちゃいませんか」
篤子の憎悪にみちた形相から、いまや彼女の害意はあきらかだったが、兇器を持っているふうはなかった。おそらくいま両手にかかえこんでいる茶碗こそ、彼女にとって唯一の武器なのだろう。
鉄雄がおりていく場所はないかとまごまごしているところへ、霧のなかから数名の人影がちかづいてきた。
「だれだ、そこにいるのは!」
日比野警部補の鋭い声である。同時に数条の懐中電灯の|光《こう》|芒《ぼう》が鉄雄の全身を霧のなかから浮きあがらせた。
「あっ、あなた桜井さんじゃありませんか。あなたどうしてここに……?」
ちかづいてきたのは金田一耕助である。金田一耕助の周囲には等々力警部もいた。山下警部もいた。日比野警部補と近藤刑事の手に懐中電灯がにぎられている。かれらの背後に古川刑事のほかにふたりの私服がいた。
「金田一先生、よいところへ……じつはいま……」
鉄雄がてみじかに事情を話すと、
「チキショウ!」
と、叫んで、近藤刑事が崖をおりていこうとした。しかし、その瞬間茶室のほうから鋭い声がかかった。
「降りてきちゃいけない、だれも降りてきちゃいけません。だれかが降りてくるとあたしこれを飲みますよ」
篤子の声はいくらかヒステリックだったけれど、その調子は落ち着いていた。愛嬌に乏しい厳しい表情はもちまえだからしかたがないとしても、さっきの殺気にみちた憎悪の色はもうそこにはなかった。
金田一耕助が崖のうえから|覗《のぞ》いてみると、篤子はゆうぜんとして風炉さきに坐って、両手で茶碗をかかえていた。さすがに茶の心得があるだけにその姿勢は優雅である。この期におよんでも態度はあくまでも|毅《き》|然《ぜん》としていた。
「近藤さん、降りていくのはしばらく待ってください。鳳さん、あなた大丈夫ですか」
「金田一先生、あたしは大丈夫ですけれど、これいったいどういうことですの」
千代子も落ち着きをとりもどしている。葭戸を開いてはんぶん濡れ縁に出ていたけれど、その声は疑惑と戸惑いにふるえていた。
「そう、あなたはなにもご存じない。あなたは黙ってわたしがそのひとに……笛小路の奥さんに話しかけるのを聞いていらっしゃい。そしてあとから飛鳥さんに|逐《ちく》|一《いち》そのことを報告するんですよ。いいですか、わかりましたね」
「は、はい……」
千代子の顔は|蒼《あお》ざめ声がふるえた。金田一耕助のことばの調子にいつもとちがった、決定的なものを感じたからだろう。
「笛小路の奥さん」
金田一耕助はいくらか声をはげまして、
「美沙ちゃんはいったいだれの子なんです。いいえ、鳳さん、あなたは黙っていらっしゃい。問題はそこにあるんです。笛小路の奥さん、美沙ちゃんはだれの子なんです」
「あれはもちろん、泰久と千代子のあいだに生まれた娘です。そうじゃないんですか、金田一先生」
茶碗をかかえた篤子の口もとには渋い微笑がうかんでいる。世にも底意地の悪い微笑であった。
「いいや、そうじゃない。鳳さんの血液型はA型で笛小路さんはO型であったという。しかも美沙ちゃんの血液型はB型であった。O型の男性とA型の女性のあいだに、B型の子がうまれるはずがないということは、医学的に立証されているんです」
「金田一先生!」
驚きにみちた千代子の顔を|尻《しり》|眼《め》にかけて、篤子の口許にうかんだ微笑はますます底意地の悪いものになっていた。
「ほっほっほ、金田一先生、あなたのおっしゃることがほんととしたら、きっとこのひとが泰久以外の男に通じて生んだ娘なのね。まあ、悪いひと。あたしちっとも知らなかったわ」
「そ、そ、そんな……そんな……」
かっと|急《せ》きこみそうになる千代子を、
「鳳さん、あなたは黙っていらっしゃい。問題はまだまだこれからなのです」
金田一耕助は鋭く制しておいて、
「笛小路の奥さん、そうです、阿久津謙三さんはあなたとおなじ疑いを持った。美沙ちゃんに輸血したとき血液型の矛盾に気がついたのでしょう。鳳千代子という女性はたびたび旦那さんをかえたけれど、その挙措進退はつねに公明正大であった。フェヤーであった。そのことが鳳千代子なる女優の人気を支えてきた秘密なのです。それにもかかわらず鳳千代子は有夫の身でありながら、ほかの男と通じてその子をうんだ……と、そう信じこんだ阿久津謙三氏は、おそらく裏切られた気持ちも深刻だったにちがいない。そこでなにもいわずに鳳千代子と別れた……」
千代子にとってそれは激しいショックであったろうけれど、同時に彼女は眼のなかの|埃《ほこり》がとれた感じでもあったろう。美沙が笛小路泰久の娘でないとするといったいだれの子なのだろう。千代子は怯えたような眼できびしく篤子の顔を凝視しながら、葭戸につかまって立っている。篤子はあいかわらず泰然として信楽の茶碗をかかえている。
「津村真二氏はおそらく阿久津謙三氏の口から、美沙の出生の秘密をしったのでしょう。そしておなじような理由から鳳千代子と別れたのでしょう。ところが善良だが多少軽率なところのある津村真二氏は、去年の八月十五日の午後、浅間隠へ訪ねてきた笛小路泰久氏に、美沙の出生の秘密を打ち明けてしまった。頭の混乱していた笛小路泰久氏は美沙の父を、鳳千代子のかつての崇拝者高松鶴吉と思いこんでしまった。泥酔していた笛小路泰久氏は高松鶴吉の応召と、美沙の出生とのあいだに時間的に大きなズレのあるのに気がつかなかった。そこでそれをタネに鳳千代子と飛鳥忠熈氏を|強《ゆ》|請《す》ろうとしたが、それを|撥《は》ねつけられると、この別荘へ押しかけてきて、ひとり留守番をしていた美沙を理不尽にも犯してしまった……」
葭戸にすがりついていた千代子は、そのときまた声なき悲鳴をあげて、やっとのことで葭戸で身を支えた。笛小路泰久ならばそれくらいのこと、やりかねまじき男であることに千代子はいまさらのように思い当たったようである。篤子はそのことをしっていたのかいないのか、金田一耕助にそうハッキリ指摘されると、さすがにギクリと体をふるわせ、金田一耕助のほうへ投げた視線には、限りなき憎悪がよみがえってきたようである。
「泥酔と狂気のせいとはいえ、笛小路泰久氏のその所業がどんなに幼い美沙の心を傷つけたか……いままで父だと思いこんでいたひとに自分の子ではないと|罵《ののし》られ、しかも、そのひとに犯された美沙はその瞬間気が狂った。美沙は自分を犯した男のあとを追っていった。そして言葉たくみにプールのほうへ誘導していって、泥酔している笛小路泰久氏に、そこが温泉かなにかであるかのような錯覚をもたせ、相手がパンツひとつになったところをプールのなかに突き落とした……」
ここが金田一耕助の論拠の薄弱なところだったが、かれは一切かまわなかった。ハッタリもときによっては必要なのである。山下警部や等々力警部、日比野警部補や近藤刑事たちの捜査陣は、すでにしっていたところだが、それでもなおかつ金田一耕助に明快に指摘されると、顔色がかわらずにはいられなかった。いわんやはじめてこの恐ろしい事実をきく千代子は、葭戸にとりすがって立っているのがやっとであった。男の桜井鉄雄でさえ霧のなかで身ぶるいしている。金田一耕助はこのことを鉄雄にもきかせておくつもりなのである。
「そのとき美沙に殺意があったかどうかわからない。殺意があったとしても必ずしも不自然ではないでしょう。しかし、笛小路泰久氏と美沙が親子であると思いこまれていたその関係が、美沙の立場をたいへん有利なものにした。かてて加えてそのまえに起こった阿久津謙三氏の災難が、美沙の立場をいっそう有利なものにした。なぜならば二つの事件がともに他から加えられた故意の暴力による死としたら、犯人はおなじ人間であらねばならぬと考えられたからです。阿久津謙三氏の死はおそらく非常に不幸な事故だったのでしょう。以上が去年の事件の真相のすべてです」
金田一耕助はそこでちょっと言葉を切った。そして自分のことばの反応をためすように、眼の下にみえる篤子の顔色をうかがっていた。しかし、またもとの無表情にかえった篤子の姿勢は微動だにしなかった。険しい顔の線はますます険しさを加えていたが。
「笛小路の奥さん、あなたがこの事件の真相をどのていどしっていたかわたしはしらない。美沙がどの程度あなたに打ち明けていたか、それもわたしにはわからない。しかし、奥さん、あなたはある程度気がついていたにちがいない。そして、非常な恐怖と|危《き》|惧《ぐ》の念をもって美沙を見守りつづけていたにちがいない。美沙は美沙でそれ以来、絶望的な思いで自分の出生の秘密について悩みつづけてきたにちがいない。あるいは美沙はそのことについて、あなたに質問したかもしれない。しかし、あなたはそれについて適切な答えをもって、美沙を満足させることができなかった。美沙はそれを千代子にきくことはできなかった。ひょっとすると、自分の犯行が暴露するかもしれないからです。美沙は一年待った。おそらく笛小路泰久氏が美沙を犯すまえ、美沙の出生の秘密を津村真二氏にきいたとでも口走ったのでしょう。美沙は津村真二氏か、あるいはもうひとりの父だった槙恭吾氏に、もっと詳しく自分の出生の秘密をきこうと思ったのでしょう」
夜とともに霧はますます濃くなりまさり、崖上の黒い群像と崖下の茶室を|囲繞《いにょう》して流れた。霧は容赦なく葭戸のすきから茶室のなかへも流れ込んだ。しかし、茶室のなかについている煌々たる蛍光灯の明りのために、篤子の表情を読みそこなう心配はなかった。おそらくその蛍光灯は、いま篤子が両手にもっている茶碗を千代子がのんだとき、どういう反応を示すかとわざと明るくしておいたのだろう。
「一昨夜……いや、もう一昨々夜になる、八月十三日の夜、美沙は槙恭吾氏をあざむいて、浅間隠の津村真二氏の別荘へ呼びよせた。美沙がどういう口実をもちいたのかわたしはしらない。しかし、そのことはこの事件に大した関係はないでしょう。とにかく槇恭吾は停電のさなかをヒルマンを運転して浅間隠へやってきた。そのとき津村真二氏は留守だったが、美沙が蝋燭をともして槙恭吾氏を迎えた。槙恭吾氏はその日の昼過ぎ美沙とふたりで津村氏に会っているので、美沙がそこにいることについて、べつに深くは怪しまなかったのでしょう。槙氏は美沙に問われるままに、美沙の出生の秘密について語ってきかせたが、それはいささか阿久津謙三氏や津村真二氏のしるところとはちがっていた。槙氏は画家だった。色彩というものにとくに敏感な画家だった。だから槙氏はいつのほどよりか、美沙が紅緑色盲であることに気がついていた。笛小路の奥さん、美沙は色盲でしたね」
金田一耕助はそこでとくに声を励ましたわけでもなく、気取ったわけではなかったが、それでもなおかつ葭戸に取り|縋《すが》った千代子のからだがはげしくふるえた。彼女はようやくこの事件の底によこたわる大きな秘密、世にもドスぐろい|欺《ぎ》|瞞《まん》に気がつきはじめたらしく篤子をみる眼にまるで妖怪でも見るような、強烈な恐怖と嫌悪の色がほとばしった。篤子はしかし依然として、渋い微笑を口辺に浮かべたまま泰然としている。
「槙氏はよほど色盲について詳しく調査研究をしたにちがいない。紅緑色盲の場合、あのひとは男子に約五パーセント、女子には約〇・五パーセントしかないことを知っていた。そこで槙氏は緑の頭のついたマッチと、朱の頭のついたマッチをつかい、それで四種類の記号を作って、色盲家族の家系を説明しようとしたのです。色盲というものは色盲の男子から、その女児を通じて男の孫に現われるもので、女子は遺伝質をもちこれをその子に伝えるが、自分自身は色盲を現わさず、ただ色盲の男子と遺伝質を持った女子とのあいだに生まれた女の子だけが色盲となるということを、槙恭吾氏は知っていたにちがいない」
千代子はもうどんなに葭戸に縋っていても立っている事が出来なかった。金田一耕助のいおうとすることの|全《ぜん》|貌《ぼう》が、やっとのみこめてきたにちがいない。ベッタリ濡れ縁のうえに腰を落とすと、大きく肩で呼吸をしながら、しかしその眼は食いいるように篤子にそそがれていた。その瞳はいまや限りなき怒りと憎悪にもえている。
「これを美沙に当てはめてみましょう。鳳千代子は色盲の遺伝質をもった女子ではなかった。なぜならばお父さんの鳳千景先生は、華麗なる色彩の美で有名な美人画家でいられたから、色盲でいらっしゃるはずがない。よしんば鳳千代子さんが遺伝質をもった女子と仮定しても、笛小路泰久さんは自動車のセールスマンだった。と、いうことは自動車の運転もできたということなのです。自動車の運転免許証をとる試験には色盲の検査があります。したがって笛小路さんは色盲ではなかった。それにもかかわらず美沙は色盲であった。と、いうことは美沙は笛小路さんの子でないと同時に、鳳千代子さんの娘でもなかったということになる」
第二十八章 |信《しが》|楽《らき》の|茶《ちゃ》|碗《わん》
千代子の眼に|湧《ゆう》|然《ぜん》と涙がわきいで、その全身がはげしく|痙《けい》|攣《れん》したのもむりはない。じつに長い年月を彼女は|騙《だま》され、欺かれていたのだ。しかも美沙をたねにこの歳月、彼女はどれほど篤子から搾取され、|貪《むさぼ》られ、骨の髄までしゃぶられてきたことか。その悔しさもさることながら、それではわが子はどうなったのかと、と胸をつかれる思いもするのである。
「槙氏はこうして紅緑のマッチをテーブルのうえにならべ、色盲遺伝の原理を説明していた。場所は人里離れた浅間隠、時刻は夜の九時前後、戸外には台風の前触れの嵐が吹きあれていたことでしょう。テーブルをあいだにむかいあって坐った美沙と槙氏のあいだには、一本の|蝋《ろう》|燭《そく》の灯がゆらめいているきり、蝋燭の光りに明滅する槙氏の顔が、美沙の眼には悪魔の化身のように映じたかもしれない。こういうオドロオドロしき雰囲気のなかで、自分の出生の秘密のすべてをしった美沙は、おそらく絶望的に打ちひしがれたにちがいない。しかも美沙はすでにひとり殺している。かつて殺人の罪を犯しながら捜査圏外におかれたということが、美沙を大胆にし、美沙に自信をあたえたのでしょう。美沙はこの重大な秘密をしってる槙氏を青酸加里で殺してしまった」
そよとの風もなかった。そのことが霧の粒子をいっそう重いものにしていた。山下警部も等々力警部も、日比野警部補も近藤刑事も、みんなみんな霧にぬれ、身ぶるいしながら、崖上の金田一耕助と崖下の明るい茶室と、この奇妙な舞台装置を見守っている。金田一耕助のもじゃもじゃ頭もぐっしょりと|濡《ぬ》れ、|袴《はかま》も冷めたく|汐《しお》|垂《た》れていた。
「美沙は津村氏をどうするつもりだったかわたしは知らない。あるいは津村氏のかえりを待って、これまた殺害するつもりだったかもしれない。ところがそこに突発事故が起こった。目撃者があって窓の外からこのいちぶしじゅうを目撃していた。槙氏がたおれた瞬間、目撃者が声を立てるかなんかしたのでしょう。美沙は大いに驚きあわて、別荘からとび出して自転車で逃げ出した。目撃者もそのあとを追っていった。そして、そのあとへ津村真二氏がかえってきた……」
金田一耕助はそこで言葉を切った。ここがまた金田一耕助の論拠の薄弱なところである。田代信吉でもつかまれば、その間の事情がもう少しハッキリするのではないかと思われるが、いまは想像でいくよりほかはなかった。
「自分の別荘で死んでいる槙氏の死体を発見した津村氏が、どのように驚き、|怖《おそ》れたかは、いちいちここで言及するまでもありますまい。津村氏には立派にアリバイがありました。しかし、津村氏はそれを立証することを好まなかった。それは氏自身のプライドと騎士道精神からきているのでしょう。さいわい槙氏の乗ってきたヒルマンはまだそこにあった。窮余の一策として津村氏は槙氏の死体を氏自身の別荘へもっていこうと考え、またそれを実行したのですが、そのとき津村氏がテーブルのうえのマッチ棒の排列を、克明に写しとったということは、あくまでも槙氏の別荘を犯罪の現場と思いこませたかったのと、もうひとつには、津村氏にマッチの棒の排列の意味がわかったかどうかは不明としても、それがなにか犯罪捜査に役立つのではないかと思ったからでしょう。いささかオッチョコチョイで早トチリする津村氏だったが、いっぽう非常に几帳面な一面をもっていた津村氏は、克明にその排列を楽譜の裏に写し取り、ごていねいにマッチを封筒に入れて矢ガ崎の別荘へもっていき、それをそのまま並べておいたのです。そして、そのことがこんどの事件の捜査に重大な手懸かりを提供したのですから、津村氏の努力は決して無駄ではなかったのです」
金田一耕助の説明はますます苦しくなってくる。これからかれの述べるところはいささか|牽強附会《けんきょうふかい》に過ぎるようだが、しかし、金田一耕助はそれ以外に説明するすべをしらなかった。
「こうして矢ガ崎の別荘で舞台装置いっさいをしつらえて、浅間隠へかえってきた津村氏はおそらく疲労|困《こん》|憊《ぱい》の極に達していたでしょう。精神的にもまいっていたにちがいない。そこで気附け薬にウイスキーを|呷《あお》ったのがこの世の別れ、ウイスキーのなかに仕込まれていた青酸加里にやられたのですから、津村氏もまた美沙の|兇手《きょうしゅ》に|斃《たお》れたということになる」
このとき日比野警部補と近藤刑事のあいだに、ちょっとしたザワメキがあったが、だれも異論をさしはさもうとしなかったのは、それよりほかに説明のしようがないと思ったのであろう。
「さて、そのあとへ美沙を追っかけ、美沙をつきとめたと思われる目撃者がひきかえしてきたのでしょう。この目撃者は去年の今月今日この軽井沢で、心中をやりそこなった音楽学校の学生なんですが、その青年は津村氏の弟子であると同時に、去年の八月十五日の夜、白樺キャンプで笛小路さんと話し込んでいる。そのとき笛小路さんからなにか話をきいていたかもしれない。その青年は去年の八月十六日の午後、女と心中を計ったが、女は死んで青年のほうは助かった。おなじ日の朝神門プールに浮かんだ変死体のぬしが、前夜白樺キャンプで話し込んだ当の相手であると同時に、自分の恩師津村真二氏の妻だった鳳千代子さんの、最初の夫だった人物だとしったとき、その青年は非常に奇異の思いにうたれずにはいられなかったにちがいない。ましてや笛小路さんからなにか話をきいていたとしたらなおさらのこと。その青年が去年とおなじこの時期に、軽井沢へやってきたというのは、笛小路さんの事件をもっと掘り下げてみようと思ったのか、それとも心中未遂事件いらい、ますます閉鎖的になり、絶望的になったにちがいない青年が、後追い心中にやってきたのか、そこまではわたしにはわからない。しかし、その青年が二二口径のピストルを所持しているとすると、自殺のためにこちらへやってきたのではないか」
千代子はもうふるえてはいなかった。涙もかわいていた。津村真二も死んでいるということをきいたとき、彼女はまた大きなショックを感じたらしいが、金田一耕助の物語のなかに不思議な目撃者が登場するにおよんで、彼女はもちまえの冷静さを取りもどした。金田一耕助はこれらの事実を、自分を通じて飛鳥忠熈に報告するために語っているのだ。一言半句も聞きもらしてはならない。
篤子は篤子ですべてをしりたかったのにちがいない。ことを決行するのはそれからでも遅くはないのだ。信楽の茶碗を両手にかかえた篤子の姿勢は微動だにせず、|毅《き》|然《ぜん》としてかつ優雅であった。
「さて、目撃者の青年が八月十三日の夜浅間隠へやってきたのは、べつに他意があってのことではないと思われる。その青年はその日の午後星野温泉で津村真二氏に会っている。そのとき訪問の約束ができていたか、あるいは一夜の宿を借りるつもりで、津村氏の別荘へたずねていったのでしょう。かれは星野温泉の演奏会がすむ時刻を見計らって浅間隠へ訪ねていった。ところがそこに見知らぬ先客がふたりいて、蝋燭の光りのなかでなにやら熱心に討議しているのを見ると、奇異の思いをいだいて窓からなかをうかがっているうちに、美沙のおそろしい行為を目撃したのでしょう。かれは美沙を追い、美沙をつきとめた。そこで美沙とどういうふうに話しあいがついたのかしらないが、かれはおそらく去年はからずも白樺キャンプで話し込んだ、笛小路さんの変死事件の真相の一端くらいはつかんだにちがいない。その青年がそのまま事実のすべてを警察へ届けていれば、事件はもっと簡単に片附いていたことでしょう。しかし、美沙はあまりにも幼く|可《か》|憐《れん》にもみえた。それにこの破滅型の青年は、自殺するまえに大芝居を打ってみようと思ったのかもしれない。そこでもういちど浅間隠の現場へひきかえしてきたところが、津村氏の死体がよこたわっている。しかも、槙氏の死体とヒルマンがなくなっている。そこでその青年は津村氏がなにをやったか|覚《さと》ったにちがいない。あるいはその青年は津村氏が槙氏の死体を、ヒルマンのトランクにつめて運び出すところを目撃していたのかもしれない……」
金田一耕助の声もさすがにふるえている。
それらのことすべて嵐の夜更けのしかも停電のさなかに演じられたのである。台風は刻々として軽井沢をめざして接近しつつあった。その異常な事態が、津村真二をして世にもデスペレートな行為に走らせ、破滅型の青年をよりいっそう|奇矯《ききょう》な行動に走らせたのだろう。
「とにかくその青年が津村氏を発見したとき、津村氏はもう手のほどこしようがなくなっていた。そこで青年はどうしたか。この青年は去年もおなじこの時期に三晩ほど白樺キャンプに滞在していた。おなじ時期に津村氏も浅間隠へきている。おそらくこのとき青年は浅間隠を訪問して、津村氏から天井裏の隠し戸棚のことを聞いていたのでしょう。青年は津村氏の死体を青酸加里入りのウイスキーの瓶やコップとともにその隠し戸棚のなかへかくしてしまった。なぜに? 槙氏の死体が発見されたばあい、たとえしばらくのあいだでも、津村氏の犯行と思わせたかったのでしょう。そのために青年は津村氏がいったんその貸し別荘へかえったのち、姿をくらましたのだというふうに、たくみに工作しておきました。なぜそんなことをしたのか。青年はまだ美沙の正体をしらなかったのでしょう。美沙のあの可憐な、こわれやすい工芸品みたいになよなよとした|外《がい》|貌《ぼう》の下に潜む鬼畜性、殺人鬼性をその青年は洞察することが出来なかったのでしょう。かれは妙にヒロイックな気持ちになり、美沙をかばうつもりでいたのでしょう。青年は津村氏の死体をかくしたのみならず、津村氏の着衣をはぎました。お|誂《あつら》えむきに津村氏は特徴のある殺し屋スタイルをしていた。それによって青年は津村氏になりすまし、あちこちに姿を見せることによって、津村氏がまだ生きていて、この軽井沢を|彷《ほう》|徨《こう》しているようにみせかけようとしたのでしょう」
金田一耕助のこの解説が事実としたら、いや、おそらく事実であろうが、はからずもこの事件の渦中にまきこまれた田代信吉は、とてつもなく重大な役割りを果たすことになったものである。人間というものはいちど過ちを犯すと、二度と救われぬものであろうか。
「その青年が飛鳥忠熈氏を狙撃したのは、美沙に頼まれたのであろうか。いいや、わたしはそうは思わない。青年はいまでも美沙を千代子さんの娘だと思いこんでいるにちがいない。浅間隠の立ち聴きではそこまで重大な事実がきこえたとは思えません。青年はたぶんにロマンチックな性情をもっているのでしょう。かれは自分でこういうフィクションを組み立てた。すなわち美沙の母なるひとの夫だったひと、あるいは夫たらんとする人物はすべて|呪《のろ》われ、葬られなければならない。幸か不幸か去年クスリで失敗した青年は、ことしこそはと万全を期してピストルを用意していた。きのうのゴルフ場の一件は、青年が自分で組み立てたフィクションを、より完全なものにしようとしたのと、それによって|惨《みじ》めだったおのれの生涯のせめてもの花道にしたかったのでしょう。いうならば、これこそ破滅型の青年の最後の自己顕示欲の発露だったにちがいない」
金田一耕助はそこでひと息いれると千代子にむかって、
「鳳さん、いまわたしが申し上げたことがこんどの事件のすべてです。飛鳥さんは事件の|全《ぜん》|貌《ぼう》をしりたがっていらっしゃる。わたしの申し上げたところには、多分に|臆《おく》|説《せつ》的なところがありますが、多くは間違っていないつもりです。飛鳥さんがじゅうぶんに回復なすったら、時機をみてよく説明してあげてください」
「金田一先生……」
千代子はちょっと絶句して、
「ありがとうございます」
「いいや、鳳さん、あなたの礼をおっしゃる相手はわたしじゃない。村上一彦君にお礼をおっしゃらなければなりません。一彦君ははやくから美沙の色盲に気がついていた。おそらく去年ゴルフのコーチをしたとき、グリーンのうえにおく赤い毛糸のマークから、美沙の色盲に気がついたのでしょう。慎みぶかい一彦君はだれにもそれを語らなかったが、一彦君は一彦君なりに色盲というものを研究したにちがいない。そして、こんどの事件で飛鳥氏が写し取ってかえったマッチの棒の排列が、色盲系図の図式であることに気がついた。一彦君はまさか美沙がこのような、大それたことをやってのけたとは思わなかったでしょうが、色盲がこの事件に重大な関係をもっていることに気がついた。そこへもってきて一昨日の夜万山荘の広間で、あなたとわたしのあいだに展開された、あなたのご両親の色彩感覚についての押し問答をきいているうちに、一彦君はわたしもあのマッチの棒の排列の意味に気がついていることをしったのです」
日比野警部補と近藤刑事は暗闇のなかで顔見合わせた。あのとき金田一耕助と一彦のあいだに散った火花の意味を|諒解《りょうかい》し、近藤刑事はまたしても、
「チキショウ、チキショウ、チッキショウ!」
「わたしは色盲がこの事件に重大な関係をもっていることに気がついたが、さてだれが色盲であるかわからなかった。ひょっとするとあなたではないかとも思った。カラー映画の大スターであるあなたがまさかとは思いましたがね。しかし、あの押し問答は無駄ではなかった。一彦君はわたしをゴルフ場へ引っ張り出し、美沙のまえのグリーンに赤い毛糸のマークをおくことによって、あの子の色盲をわれわれに立証してみせたのです。そして、笛小路の奥さん、その瞬間あなたはこの勝負に敗れたのです」
いままでわりに淡々と語っていた金田一耕助だが、さすがに最後の一句には力が入った。
しかし、笛小路篤子は泰然としている。彼女が両手にあの茶碗をかかえている限り、だれも崖から降りていけないことを彼女はしっているのである。崖の上にむらがっている人びとのなかには、拳銃を携えているものもあったが、だれも篤子を傷つけることなしに、茶碗を撃ち落とすほど射撃に自信をもっているものはいなかった。
「笛小路の奥さん、あなたは恐ろしいひとだ。悪いひとだ。あなたはほんとうの美沙ちゃんを死なしたんですね。あなたは二度空襲をうけている。東京と岡山とで。きょう警察で調べてもらったんですが、岡山の空襲は昭和二十年六月二十八日の夜ということになっている。しかも、そのとき岡山市は完全にふいをつかれて、警戒警報も、空襲警報も発令されていなかったという。それだけに全市大混乱におちいったという話ですが、そのときあなたは美沙ちゃんを失ったんですか。どちらにしてもあなたは途方に暮れてしまった。大本営がいかにひた隠しにかくしていても、敵はもうすでに沖縄にとりついていた。アメリカ軍の本土上陸は必至という状態であることを、日本人でも一部のひとは知っていた。あなたもそれをしっていた。あなたは二度の空襲でなにもかも失われた揚句、日本が完敗したらどうなるか、|聡《そう》|明《めい》なあなたはそれを予見したのだ。それまであなたがよってもって生きてきた華族というものがどうなるか、華族のもっている恩典や栄典や特権が、塵芥のごとく無価値なものになるかもしれないということを、聡明なあなたは知っていたのだ。泰久さんは生きて還ってくるかもしれない。しかし、あの人が当てにならないことは、あなたはだれよりもよく知っていた。そうなると頼りになるのは千代子さんだけだ。千代子さんの|美《び》|貌《ぼう》と才気とその人柄、それになによりもあなたにとって大きな魅力になったのは、千代子さんの持っている旺盛な生活力……あなたは千代子さんを手離したくなかった。ところがあなたと千代子さんを結ぶ唯一の|絆《きずな》は美沙ちゃんしかなかった。その美沙ちゃんをあなたは失った。死なしてしまった。そこであなたは美沙ちゃんの身替わりを、替え玉をどこかから連れてきたのだ。奥さん、あなたは美沙ちゃんの替え玉をいったいどこから連れてきたんです!」
金田一耕助の声はさすがに怒りにふるえていた。
千代子の眼からまた|滂《ぼう》|沱《だ》として涙が溢れてきた。それはこの陰険な姑を憎むというよりも、長年|騙《だま》されつづけてきたわが身をいとおしむ涙であったろう。
そういえば一年何か月ぶりかに津山の在へ篤子を訪ねていったとき、美沙の成育が思ったよりはるかに悪く、すっかり面変わりしていたことをいまさらのように思い出した。しかし、赤ん坊というものはそういうものなのだといい聞かされ、それを信じていままで疑わなかったのだが、いかに戦争中とはいえ、もっとたびたび美沙を見舞ってやらなかった自分が悔まれ、美沙が長年無縁仏になっているのかと思うと、千代子はいくら泣いても泣ききれなかった。
「奥さん、笛小路の奥さん、あなたはあの子をあの子の両親、あるいは肉親の諒解のもとに引きとったんですか。いいや、そうじゃありますまい。もしそうだったらあの子の両親なり肉親から、なんらかの働きかけがあったはずです。そうしたら泰久さんなり千代子さんなりが気附かぬはずがない。それがなかったところをみると、あなたはあの子をどこからか奪ってきたのだ、盗んできたのだ。当時の日本は打ちつづく都市の空襲で、日本人全体が浮き足立っていた。その混乱に乗じてあなたはあの子を盗んだのだ。あなたは二重の大罪を犯したのだ。あなたの保身のために、あなたの|貪《どん》|婪《らん》のために、あなたの物質的虚栄心を満足させるために……」
金田一耕助の舌は|笞《むち》のように鋭く霧のなかにひびきわたった。
金田一耕助とていま自分のいっていることに絶対の自信をもっているわけではない。篤子からなんらかの|反《はん》|駁《ばく》のあることを期待していた。自分のいうことにまちがいがあれば、その点に関するかぎり素直に謝るつもりだった。反駁はなかった。篤子はきっと正面を切ったきり、きびしい顔の線はみじんも崩れなかった。
「奥さん、笛小路の奥さん、あなたはこうして二重の大罪を犯したが、やがてあなたの罪の報われるときがやってきた。あなたは選りによって色盲の子をつれてきていたのだ。あの子が色盲であると気がついたときのあなたの驚き! いまさら|喋々《ちょうちょう》するのはひかえましょう。あなたはあなたなりに色盲について研究なすったにちがいない。そして、あの子の色盲が暴露したときこそ、あなたの|欺《ぎ》|瞞《まん》のすべてが終わるときだとあなたは知った。それ以来あなたの|惨《さん》|澹《たん》たる苦労がはじまった。あなたはあの子を学校へさえやらなかった。あなたはそれを逆に利用して献身的な祖母を気どっていた。あの子は自分で自分が色盲という、女の子としては非常に珍しい特異体質であることを、最近まで知らなかったのではないか、あなたはあの子にまでひた隠しにかくしていたのだ。おそらくあなたはあの子に|微《み》|塵《じん》たりとも、愛情はもっていなかったのでしょう」
金田一耕助はそこで息をつぐと、すぐまた茶室にむかって語りかけた。
「しかし、奥さん、あなたはあなたがいかに苦心しても、色盲という事実がいつまでも|被《おお》い隠せるものでないことを知っていた。それが暴露したときの屈辱……あなたは罪を怖れてはいない、悔いてもいない。あなたはただ華族の末裔としての誇りが傷つくことを恐れて、もっと手っ取りばやくいえば、世間からうしろ指をさされる場合にそなえて、青酸加里を用意していたのだ。そして、その青酸加里の容器を箱根の寄木細工のなかに隠しておいた……」
金田一耕助は相手の反応をためすように言葉を切った。手応えはあった。篤子ははじかれたようにこちらをむいて、だれかを捜すような眼つきになった。金田一耕助に|肘《ひじ》をつつかれて等々力警部が顔を出した。警部の顔を近藤刑事の懐中電灯が照らした。その瞬間篤子の瞳にドスぐろい怒りの炎がもえあがった。
「あなたはこんどこちらへ来る直前、箱根細工のなかから青酸加里が若干減っているのに気がついた。去年のことがあるだけにあなたの疑いはすぐあの子にむけられた。しかも、こちらへ来てみると槙恭吾氏が殺害されている。しかも、死因が青酸加里中毒であるときいて、あなたはおそらく胸をつかれる思いだったでしょう。あなたはあの子を怖れた。しかし、あなたはまだタカをくくっていた。あの子の色盲が暴露しないかぎり大丈夫……と。しかし、あなたはさっきここにいる古川刑事にカマをかけて聞き出した。きょうゴルフ場であの子の色盲が暴露したということを。しかも、その場に金田一耕助と等々力警部がいあわせたということを。あなたは万事がおわったことを知ったのだ。しかし、あなたはひとりで死ぬことを好まなかった。千代子さんを道連れにしようとしたのだ。あくまで心|拗《ねじけ》たあなたは千代子さんの幸福を|妬《ねた》んだのだ、|嫉《ねた》んだのだ。さあ、これがわたしの知っているすべてだが、笛小路の奥さん、さいごにもう一度聞く。あの子はいったいどこから連れてきたんです」
篤子はそのときゆっくりこちらへ首をねじむけた。険しい顔のその口許にはこのうえもない邪悪な微笑がうかんでいた。
「金田一さん、あんたは奇特なおかたじゃ。あんたのその|賢《さか》しらぶったお|喋《しゃ》|舌《べり》のおかげで、あたしも安心して死ねるというもんです。あたしだって事件の真相をハッキリ知らずに死ぬのはいやだった。あんたの知ったかぶりのおかげで、なにもかもよくわかりました。あの子がなにをしようとわたしの知ったことですか。あれはわたしどもの一族とは縁もゆかりもない子ですからね。金田一さん、さっきあんたはこの勝負はわたしの負けだとおっしゃいましたね。しかし、わたしはそうは思わない。あの子がだれの子だかわからない以上、あんたはこの事件を完全に解決したとはいえますまい。あんたはそれを永久に知ることはできないでしょう。おお、おお、あの時分はたくさんの人が死んだ。東京でも横浜でも名古屋でも、大阪、神戸、岡山、広島……どこへいっても死びとの山だった。そしてたくさんの|孤《みな》|児《しご》があとに残った。さあ、ならば手柄にそのなかからあの子のふた親を捜してごらん、ほっほっほ」
それから篤子は憎悪と|嫉《しっ》|妬《と》にとがった眼を千代子にむけた。
「千代子さん、あんたは運の強い人じゃ。わたしはいままでさんざんあんたの運の強さを利用してきたが、こんどはそうはいかなかったようですね。しかし、あんたは果たして仕合わせになれるだろうか。さあ、あたしの死に顔をよく見ておおき。生涯それが悪夢となって、あんたにつきまとわねばよいがな」
それがこの稀代の悪女の最後の言葉だった。だれも彼女の手をとめることは出来なかった。
霧が茶室をめぐって、いよいよますます濃くなりまさっていった。……
エピローグ
「あんた仮面舞踏会ってことば知ってる?」
「なんだい、それ、オペラかい」
「オペラってなあに」
「歌劇さ」
「あら、歌劇にそんなのあって?」
「うん、ヴェルディの傑作だ。だけどそれがどうかしたのかい」
「ううん、あたしのいうのそれじゃない。あたしいつかなにかで読んだんだけど、人世は仮面舞踏会みたいなもんだ、男も女もみんな仮面をかぶって生きているって、あちらのえらい人がいったんだって。あたしいまつくづくその言葉に感心してんのよ」
「ふふん、おまええらい哲学持ってんだな」
「ふっふっふ、そういうの哲学ってのかしら。だけどあたしべつに哲学者ぶってるわけじゃないのよ。あたしはいったいだれなのよう」
「おまえ笛小路美沙じゃねえのか」
「そうじゃないわね。去年あの男……いいえ、笛小路泰久さまにあんな無茶なことされたとき、あたしあの男……いいえ、あのかたの娘じゃないことを知ったのよ。あのかたハッキリおっしゃったわ、おまえはマオトコの子だって」
「そう、おれもキャンプでそれを聞いた。だから目には目を、歯には歯をで、きっと復讐してやるんだって、あの酔っ払い先生だいぶんイキまいてたぜ。それでおまえのとこへ押しかけて、おまえに乱暴はたらいたんで、おまえカッとしてあの酔っ払いを殺しちまったんだな」
「あたし殺すつもりじゃなかったのよ。ただあのプールのそばへ連れてって、パパ、お体がよごれていらっしゃいますから、ここでお風呂にお入りになったらといったのよ。そしたらあの人、そうか、そうかと洋服ぬいで自分でプールのなかへ入っていったわ。そしたらそれっきりになっちゃった。うっふっふ」
「新聞には過度の飲酒とあの夜の霧が笛小路泰久氏に、あらぬ幻想をいだかせたのだろうとあったぜ。完全犯罪というやつか。おまえも怖い娘だぜ。いかにオヤジに乱暴されたとはいえな」
「その話はよしましょう。あたしが仮面舞踏会の話を持ち出したのはそのことじゃないのよ。あの人にあんなことされたもんだから、あたしがあの男……いいえ、笛小路泰久元子爵さまのご令嬢でないことはハッキリしたわねえ。だけど、それでもあたし生まれたときから笛小路美沙だと思いこんでたの。そしたらそうじゃないってことがこないだの晩わかったの」
「じゃ、おまえはだれなんだい」
「どこかの馬の骨か牛の骨……あの人……槙恭吾さまがそうおっしゃいましたわ。あたし長いこと笛小路美沙の仮面をかぶせられて、笛小路美沙の役割りを演じさされてきたんだって。だから、あたしこそ仮面舞踏会の女王さまみたいなもんよ。そう思わない?」
「だけど、だれがそんなことしたんだい」
「あのおばあちゃん、いえ、あの、笛小路篤子さまよ。あの人……槙恭吾さまのおっしゃるのに、笛小路美沙って子赤ん坊の時分に死んだらしいの。それでは笛小路篤子さまいろいろいお困りになるんですって。そいで、どっかからあたしという馬の骨か牛の骨を拾ってきて、笛小路美沙の代役を勤めさせ、ご自分は孫思いのお情け深いおばあちゃまに成りすましていた……いえ、あの、いらっしゃったんですって。ふっふっふ、だから考えてみるとあのかた……笛小路篤子さまこそ仮面舞踏会の演出者かもしれないわね。あのおばあちゃん、ちっともあたしを愛してなんかいなかったもん」
少女も相手の男もさめた声だった。ふたりとも全然感動のない話しっぷりである。
「それに男のひとってみんな仮面をかぶるのがお上手なのね。阿久津謙三さまも槙恭吾さまも津村真二さまも、みんなあのひとには未練たっぷりだったんですって。でも、みなさまあたしってどこの馬の骨か牛の骨かわからない娘の存在が薄気味悪くなって、あのひとを捨てたんですって。触らぬ神に祟りなしというわけね。だけどそれじゃあのひと|可《か》|哀《わい》そうでしょ、しょっちゅう男に捨てられる女じゃ、大スターのコケンにかかわるわね。だからみんな捨てられた男の仮面かぶって、捨てられた男の役を演じてたんですって。槙恭吾さまがそうおっしゃったわ。おまえみたいな馬の骨、死んじまえといわぬばかりに」
「それでおまえが逆に死んでいただいたのかい」
「うっふっふ、だってあたしまだ若いんだもん」
「笛小路泰久はどうなんだい、あいつも仮面舞踏会の登場人物かい」
「あのひとは仮面舞踏会の大王さまよ。げんざい自分の娘のあたしにいきなり挑みかかって乱暴するんだもん。ケダモノよ、あいつ。でも世間へ出るとあのかた元子爵さまよ。またそれにひっかかるバカな女が、結構世間にはたくさんいるらしいの。だけどちかごろじゃ元子爵さまの仮面のネウチがだんだん下落したらしいの。そいであいつだいぶん困ってたらしいわ」
「鳳千代子はどうなんだい。あのひともなにか仮面をかぶってたのかい」
「ああ、あのひと。……あのひとは仮面舞踏会のヒロインよ。あのひとさしずめ悲劇の女王さま。世間ではあのひとのことをとっても|聡《そう》|明《めい》な女……いえ、女性でいらっしゃるようにいってたし、ご当人もそのつもりでいたらしいけど、じっさいはバカなのね、トンマなのよ、あのひと。長いことあのおばあちゃんに|騙《だま》されて搾られてたんだもん。それはもうみごとに搾られてたわね、あのおばあちゃんときたら、そりゃ|凄《すご》いんだから。あたししょっちゅう仮病を使わされてたわ。どこが悪い、かしこが悪いって。そのたんびにあのひと血の出るような金貢いでたわ。女優さんて入る金も大きいけど、出る金も大きいんでしょ。それだのに……」
「鳳千代子は少しはおまえを愛してたのかい」
「わかんないわ、そんなこと……だけど、あたしのことがいつも気になってることはなってたふうね。あたしをとってもオシトヤカなお嬢さんだと思いこみ、これもひとえにおばあちゃんのおかげと感謝してたわね。ふっふっふ。とんだ仮面舞踏会」
「じゃ、おめえオシトヤカじゃなかったのかい」
「さあ、どうだか……あたしいろんな言葉しってるわよ、あんた聞いてよ」
と、少女はたちどころにしてありとあらゆる露骨でワイセツな言葉をならべ立てた。それは男の子でさえ口に出しかねるていのもので、相手を|辟《へき》|易《えき》させるにじゅうぶんだった。
「おまえどこでそんな言葉覚えたんだ」
「貸し本屋から借りてくるのよ、いろんな本を、里枝ちゃんに頼んでね。ふつうの本屋では売ってない本よ。だってあたしもうお年頃でしょ。いろんなこと知ってなきゃ……だから去年あの男、笛小路泰久さまに愛していただいたとき、あたし陶然としちゃった」
「それでいて相手を殺しちまったのかい」
「だって、あたし弱点を知られちまったんだもん。まだ当分オシトヤカな子でいたかったのよ。もっといろいろなことを知るまではね、うっふっふ」
「怖いやつだ、おまえというやつは。悪魔の申し子みたいなやつだ。ゾーッとすらあ、おれ」
「うっふっふ、そういうあんたこそなんなのさ。あんたいったいだれなのさ」
「おれか、おれはごらんのとおり悪党さ。まあ、チンピラというところかな」
「うそ、あんた悪党なんかじゃないわ。あんた悪党の仮面をかぶったお人好しのお坊っちゃんよ。あんたこそ仮面舞踏会の道化役者の三枚目よ」
「なにょ!」
「だって、あんたあたしを抱けないじゃないか。ゆうべからさんざん誘惑してんのに、あんたおっかながってあたしを抱けないじゃないか。意気地なし」
「…………」
「だけどさあ、あんたなんだって飛鳥忠熈を撃ったりなんかしたの。なんであんなバカなまねをしたのさあ」
「わかんねえ、おれにもわからねえ。だけど、なにかハナバナしいことをやってみたかったんだろうよ。おれはどうせ三枚目だからさあ」
「そして死に花を咲かせたかったんでしょ。田代信吉さん」
「なにょ」
「隠したって知ってるわよ。あんたがここへあたしを連れてきたときおやッと思ったわよ。あんた去年ここで心中しそこなった田代信吉でしょ。笛小路泰久の変死体が発見されたという記事といっしょに、おなじ新聞に出てたわよ。あたしそういう記事にすごく興味もってんのよ。絶望せる音楽学生、破滅型の田代信吉……さっき歌劇のことをいい出したとき、あたしにはハッキリそれがわかったわよ。あんたあたしをどうするつもり? 心中の道連れにするつもり?」
「まっぴらだ、おめえみてえなおっかないやつ。おめえこそおれを道連れにするつもりか。ゆうべおれの買ってやったパンに、青酸加里をもりやあがって。すんでのことにおれ殺されるところだった」
「うっふっふ、あれは冗談」
「おまえは冗談に人を殺すのかい、恐ろしいやつだ」
「だけど、信ちゃん、あんたどう思う?」
「どう思うってなにさ」
「あたしポリにつかまるとどうなると思う。死刑になると思う?」
「おまえは死刑にゃならないさ。未成年者だもんな。その代わり感化院みたいなとこへ入れられるさ」
「あたしもそう思ってるの。そういうところへ入れられたら、あたしとても神妙にしてるわ。オシトヤカには馴れてるもんね。悔い改めたる笛小路美沙……じゃなかった、悔い改めたる馬の骨、名なしの権子……うっふっふ、そして、出来るだけ早く世の中へ出られるようにするわ」
「駄目だよ、おまえみたいなやつ。世の中へ出たところでだれが相手にするもんか」
「大丈夫。あたしにはスポンサーがついてるもん」
「誰だい、スポンサーって?」
「鳳千代子さま。あたしのお母さまよ」
「おまえ……こんどはおまえがあのひとを|強《ゆ》|請《す》る気かあ!」
たいがいのことには驚かぬほど、度胸のついてきている田代信吉だが、そのときばかりは恐怖に声をうわずらせた。少女はすまして、
「いいじゃないの。かりにも親子の縁を結んだなかですものね。あのひとには……あら!」
「ど、どうしたい?」
「だれかが呼んでるわ。ほら、ほら、タシロ……って。あれ、ポリよ、ポリよ、あんた出ちゃ駄目よ。あたしポリにつかまるのいや、あんたなんとかしてえ。あんた、ピストル、持ってるでしょ」
少女はとつぜん恐怖の発作におそわれたかのごとく、|遮《しゃ》|二《に》|無《む》|二《に》、田代信吉の胸にむしゃぶりついてきた。暗い洞穴のなかだった。天井にはたくさん|蝙《こう》|蝠《もり》がブラ下がっている。
それより少しまえ。
離山の八合目あたりを登ってきた、村山一彦と立花茂樹はふと坂の途中で足をとめた。霧はまだ深かったが、暁の薄明がもうあたりにただよいはじめていた。
「立花、君もきいた?」
「うん、この小屋の中じゃない」
坂の途中になにに使う小屋なのか、粗末な掘っ立て小屋が立ちぐされどうようになっているが、ふたりはそのなかから聞こえる|呻《うめ》き声のようなものを、ほとんど同時に耳にしたのである。
ふたりはちょっと顔を見合わせたが、一彦が用心ぶかくそのまえへ近よって、
「おい、だれかそこにいるのか」
その声に応ずるかのように呻き声はたかくなって、ドスン、ドスンと床や壁を|叩《たた》くような音がきこえた。
「村上……田代じゃない?」
茂樹の声は少ししゃがれてふるえている。一彦はだまって小屋の中からきこえる呻き声や、床や壁をたたく音に耳をすましていたが、なにかひらめくものがあったとみえ、ガタッと音をさせて破れかかった扉をひらくと、懐中電灯の光りをなかにさしむけた。外には薄明がただよいはじめていたが、小屋の中は暗かったのである。
万一にそなえて一彦も身構えじゅうぶんだったが、しばらく懐中電灯の光りで小屋のなかを|撫《な》でまわしているうちに、緊張した顔が|微《かす》かにゆるんだ。白い歯を出して笑うと、
「なあんだ。秋山さんじゃありませんか。なんとまあ、あなたもだらしがない」
「村上、君のしってるひと……?」
「秋山卓造さんだよ。飛鳥のおじの|股《こ》|肱《こう》の臣ともいうべきひと」
秋山卓造はまったくだらしがなかった。おそらくこの小屋のなかにあったのだろう、ロープでがんじがらめに縛られて、床のうえに投げ出されたうえ、口には厳重にサルグツワをはめられている。
一彦はまずサルグツワを解いてやってから、おもわずキラリと眼を光らせた。一彦はそのサルグツワに見憶えがあった。ゴルフ場で美沙が頭にまいていたネッカチーフである。
「秋山さん、美沙がいっしょなんですね」
「凄いやつだ、あの阿魔っ子は。おれをひと思いに撃ち殺してしまえって、さかんに男を|嗾《けしか》けてたぜ。あの子は嫌いだ、昔っから。だけど、一彦君、御前は……? 御前は……?」
「あの人は大丈夫、手術も無事に終わりました。ぎゃくにあなたのことをしきりに心配してましたよ。あっ、秋山さん、あなた脚をやられたんですね」
「なあに、それくらいの傷……それより一彦君、早くそのロープを解いてください。あん畜生……あの悪党め!」
一彦は急にロープを解く手をやめて、暗がりのなかで秋山卓造の顔を鋭く見詰めた。
「秋山さん、ロープを解いたらあなたどうするんです」
「いうまでもない、あの悪党をとっちめてやる」
秋山は歯をギリギリいわせて、
「さっきの話のもようでは、離山のてっぺんに洞穴があるらしい。あいつらそこに隠れているんだ。あの悪党の首の骨をヘシ折ってやらなきゃ御前に対してあいすまない」
「立花、ロープを解くのはやめろ。もういちどもとどおり結び直すんだ」
「一彦君、そ、そんな殺生な!」
「殺生でもなんでもいい。立花、まえよりもっと強く結んでおくんだ。ぼくはこのひとを犬死にさせたくない」
茂樹にもその意味がわかったらしく、ロープはさっきよりいっそう頑丈に縛りなおされた。
「一彦君、なんでそんな……なんでそんな……」
秋山は|牡《お》|牛《うし》のような力をふりしぼったが、ふたりの青年の力にはかなわなかった。立花茂樹はいっけん腺病質で|脾《ひ》|弱《よわ》そうだが、どっか強い意志を秘めているらしい。芋虫のように縛りあげられた秋山をそこに残して、小屋を出ていくふたりの背後から、秋山が悲痛な声をふりしぼった。
「一彦君、いっちゃいけない、いっちゃいけない、相手は手負い|猪《じし》みたいなやつだ。あんたを死なしちゃご先代にすまない。あんたは村上達哉のせがれじゃない。あんたはご先代の……ご先代のわすれがたみだ」
坂を登って五、六歩いったところでふたりはピタッと足をとめた。驚いてさぐるように見ている茂樹に、一彦はニコッと微笑をむけると、
「立花、おまえはここにいてくれ」
と、もとの小屋へとってかえすと、床にころがっている秋山のうえから|覗《のぞ》き込んだ。
「秋山さん、人間危急存亡の機にのぞむと、本音を吐かずにいられないとみえますね。だけど、秋山さん、それをぼくがいままで知らずにいたと思うんですか」
「一彦君はしっていたのか」
「秋山さん、ぼくは飛鳥のうちで育ったんですよ。しかも母はぼくが六つの年まで生きていたんです。そんな重大なことを語らずに死んだと思いますか。さいわい周囲が温かくぼくをはぐくんでくれたので、ぼくは自己嫌悪にもおちいらず、劣等感ももたずにすんだんです。母は父の暴力に屈したのです。あの時代ですし、とくに母は古風なひとでしたから、そのままその境遇に忍従して、父の|枕《ちん》|席《せき》に侍しているうちに、ぼくを身籠り生んだのです。母は古風で慎みぶかいひとでしたから、自分の戸籍上の夫となった村上達哉の、年忌年忌をげんじゅうに勤めていました。村上達哉の年忌はぼくの父の年忌でもあるわけですからね。しかし、秋山さん、母のほんとうの想われ人はいったいだれだったと思うんです。秋山さん、あなただったんですよ」
秋山はギョッとしたように眼を見張って一彦の顔を見詰めた。その一彦はさわやかに笑っている。
「あなたはあの事件のあとすぐ習志野へいってしまった。そしてそこを出るとすぐ前線へ配属されてしまったので、なにもご存じなかったんですが、母がつねに陰膳すえて武運長久を祈っていた写真のぬしは、秋山さん、あなただったんですよ。このことは忠熈の兄もしっているらしい。あのひとは父の母にたいする所業にたいして強い罪業感をもっているようです。だから母のほんとうの想われ人だったあなたに対して、あんなに深い愛情をもっているんじゃありませんか」
秋山卓造の眼からとうとう涙が|滲《にじ》み出てきた。一彦はそのほうから眼をそらすと、
「秋山さん、あなたも古風なひとですね。いつまでも母を想いつづけていてくださる志はありがたいんですが、それはおそらく母の本意ではないと思う。いいかげんによいひとを見つけて結婚してください。秋山さん、ぼくはかぞえ年六つの年に母を失ったのですよ。母が恋しいのです。ひと一倍母が恋しいのです。その母の想われ人だったあなたを犬死にさせるわけにはいかないのです。わかりましたか。あっはっは、とうとうぼくも本音を吐いたようですね」
どうやらここでも仮面舞踏会が演じられていたようである。しかし、これはまあ、なんという古風な仮面舞踏会であることよ。
一彦が出ていこうとする背後から、
「一彦さん、しかし、あいつは……」
「大丈夫、ぼくは……いや、われわれはあの男を……あの気の毒な男を説得する自信があります。われわれは警官隊よりさきにいかねばならないのです。そうだ、いまに警官隊がここへくるかもしれません。あなた生き恥をさらしたくなかったら、黙ってやりすごしてください。いずれわれわれが引き返してきて、その|縛《いまし》めを解いてあげます」
そして一彦は出ていった。秋山はもうなにもいわなかった。
「立花、おまえなにか聞いたかい」
「いや、その……なに……」
「あっはっは、なにか聞いたとしても聞かなかったことにしてくれよ。あんまり古風な話だからな」
「ああ、いいよ、わかったよ」
ふたりは黙々として霧の坂道を登っていった。まもなく去年金田一耕助が|辿《たど》りついた、あの荒涼たる頂きへ出た。むこうにこんもり盛りあがった大地の|瘤《こぶ》がみえてきた。立花茂樹は田代信吉の名をよんだ。まもなく大地の瘤のうえにひとつの影が|這《は》い出してきた。殺し屋スタイルの田代信吉であった。右手にピストルをかまえていた。
「だれだ、そこへきたのは。近よるとぶっ放すぞ」
「ぼくだ、立花だ、立花茂樹だ」
「立花……? 立花がなにしにここへやってきた? おまえにこんな勇気があるとは思わなかった」
「おやじの伝言を持ってきたんだ」
「おやじ……? おやじってだれのおやじだ」
「ぼくのおやじだよ。立花梧郎だ」
田代信吉は黙っていた。霧の中でちょっとたじろいだようにみえた。
「そのおやじからおれになんの|伝《こと》|言《づけ》があるんだ」
「君、おやじに|楽譜《ス コ ア》を送っておいたろう。『墓碑銘』という題の交響曲のスコアだ」
田代信吉は無言でいた。
「あれおやじがすっかり気に入って、この秋の演奏会にぜひ演奏したいといってるんだ。田代、君は作曲者としてその演奏をきく義務がある」
田代信吉はまたちょっとたじろいだ。たじろいだまま黙っていた。一彦がかわって声をかけた。
「田代君、ぼくにもひとこといわせてくれたまえ」
「おまえはだれだ」
「村上一彦。立花の高校時代の同窓だ。と、同時に飛鳥忠熈の身内のものだ」
田代信吉はまた黙りこんだ。黙ってつぎの言葉を待っているようだった。
「飛鳥忠熈は死にはしなかったんだ。重傷は重傷だけど手術はうまくいったんだ。あの人は助かった。さあ、われわれといっしょに山を降りようじゃないか」
一彦が一歩大地の瘤にちかよった。茂樹もそれにつづいて一歩踏み出した。陽はまだ登っていなかったけれど、明るさは急速にましていた。大地の瘤のうえにいる田代信吉の顔がようやくハッキリ見えてきた。
「田代、降りようよ。われわれといっしょに山を降りようよ」
ふたりはまた一歩二歩踏み出した。田代信吉の顔がゆがんでみえた。
「寄るな、寄るな、それ以上近寄るとほんとうにぶっ放すぞ」
しかし、一彦はかまわず二、三歩踏み出した。茂樹もそれに歩調を合わせた。とつぜんピストルが火を吹いて、ふたりの頭上を弾丸がとんでいった。さすがに一彦も茂樹も立ちすくんだ。
「立花、ありがとうよ。村上さん、ありがとう。茂樹、おまえいいものを書けよ」
田代信吉は大地の瘤を駆けおりると、その下にある洞窟のなかへ潜りこんだ。
少女の悲鳴がきこえ、銃声が陰にこもった音をたてた。また少女の悲鳴がきこえ、銃声が二発つづいた。しばらくまをおいてもう一発銃声がきこえると、あとはシーンと静まりかえり、洞穴のなかから|蝙《こう》|蝠《もり》が二、三匹とまどったように飛び出した。
一彦と茂樹がそのほうへ駆け出したとき、霧は速いスピードで晴れはじめ、浅間の山が|裾《すそ》のほうから見えてきた。
本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月)
金田一耕助ファイル17
|仮《か》|面《めん》|舞《ぶ》|踏《とう》|会《かい》
|横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》
平成14年2月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Seishi YOKOMIZO 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『仮面舞踏会』昭和51年8月30日初版発行
平成13年6月20日改版4版発行
===== 注記 =====
作中に出てくる、
A+Q≠B+P
の「≠」ですが、電子書籍版で縦書きで使われているこの記号は「≠」を左右反転させた形になっています(/と\の違い)。しかし電子書籍の柱部分(ページ上に表示される見出し)は「≠」がそのまま使われています。
ここでは文中にある、
「AプラスQはBプラスPに等しからず……」
から、「≠」を縦書きする時点で間違えたものと判断して「≠」をそのまま使いました。
5022行
△で置き換えた元の記号は、
▲で置き換えた元の記号は、