金田一耕助ファイル12
悪魔の手毬唄
[#地から2字上げ]横溝正史
目 次
プロローグ |鬼《おに》|首《こべ》|村《むら》|手《て》|毬《まり》|唄《うた》考
第一部 一羽のすずめのいうことにゃ
第二部 二番目のすずめのいうことにゃ
第三部 三番目のすずめのいうことにゃ
エピローグ ちょっと一貫貸しました
プロローグ |鬼《おに》|首《こべ》|村《むら》|手《て》|毬《まり》|唄《うた》考
私の友人のやっている雑誌に「民間承伝」という小冊子がある。これは会員組織になっていて、発行部数もたくさんはなく、菊判六十四ページの文字どおり片々たる小冊子にすぎないのだが、読んでみるとなかなかどうして面白い。
「民間承伝」という表題のしたに「郷土と民俗」というサブタイトルがついているところからでもうかがえるとおり、日本各地にのこっている奇習、|口《こう》|碑《ひ》、民話などをあつめたもので、執筆者も少数の知名人のほかは、あらかた、投書かと思われる無名のひとたちによって占められている。
それだけに、たとえ文章は幼稚にしても、事実の珍しさ、面白さからくる新鮮な興味があふれており、また、教えられるところも少なくないのである。
私はこれを保存合本していて、|閑《ひま》なとき、|無聊《ぶりょう》のおりなど引っ張りだして、あちこちと、とりとめもなく引っくりかえすのをたのしみとしているのだが、最近そこにかつて見落としていた非常に興味ある一文を発見した。
それは昭和二十八年九月号の誌上に掲載された一文で、題して「鬼首村手毬唄考」といい、いまではその地方でもほとんど忘れられている手毬唄についての興味ある考証的文章である。筆者は|多《た》|々《た》|羅《ら》|放《ほう》|庵《あん》という名になっているが、この雑誌だけでは多々羅放庵氏というのがいかなる人物なのかわかっていない。おそらく投書かなんかだったのだろう。
|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》の許可のもとに、私がこれからお話ししようとするこの恐ろしい物語には、鬼首村の手毬唄が非常に重要な役目をなしているのだから、いまここに多々羅放庵氏の一文を発見したのをさいわいに、それをここに再録させていただくと同時に、放庵氏の考証にいささか私見をも加えて、あらかじめ読者諸賢のお眼にかけておくのもむだではあるまいと思う。
ちなみに鬼首村の読みかただが、オニコウベ村と読むのがほんとうだそうだが、ふつうはなまってオニコベ村と呼んでいるようである。
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鬼首村手毬唄
うちの裏のせんざいに
すずめが三匹とまって
一羽のすずめのいうことにゃ
おらが在所の陣屋の|殿《との》|様《さん》
狩り好き酒好き女好き
わけて好きなが女でござる
女たれがよい|枡《ます》|屋《や》の娘
枡屋器量よしじゃがうわばみ娘
枡ではかって|漏斗《じょうご》で飲んで
日がないちにち酒浸り
それでも足らぬとて返された
返された
二番目のすずめのいうことにゃ
おらが在所の陣屋の殿様
狩り好き酒好き女好き
わけて好きなが女でござる
女たれがよい|秤屋《はかりや》の娘
秤屋器量よしじゃが|爪《つめ》|長《なが》娘
大判小判を秤にかけて
日なし勘定に夜も日もくらし
寝るまもないとて返された
返された
三番目のすずめのいうことにゃ
おらが在所の陣屋の殿様
狩り好き酒好き女好き
わけて好きなが女でござる
女たれがよい錠前屋の娘
錠前屋器量よしじゃが小町でござる
小町娘の錠前が狂うた
錠前狂えば|鍵《かぎ》あわぬ
鍵があわぬとて返された
返された
ちょっと一貫貸しました
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鬼首村の手毬唄にはほかにもいろいろあるようだが、多々羅放庵のあげているのは以上の三節であった。
いったい手毬唄というものは――と多々羅放庵氏はいうのである――その唄の性質上、一つとやあ式のかぞえ唄の形式のものがいちばん多く、それにつづいて多いのが|尻《しり》|取《と》り文句として発展していく形式のものだが、どちらにしても総じて一貫した内容や構想のものは少なく、連想にしたがってそれからそれへと発展していくのがふつうである。
それにくらべると鬼首村の手毬唄には、どこか一貫した内容らしきものがかんじられるが、それはおそらく旧幕時代、この地方の農民たちが、じぶんたちを支配する領主の政道を、この手毬唄によってそれとなく|諷《ふう》したのであろう――と、いうのが、多々羅放庵氏の意見であった。
ここに鬼首村というのを地図のうえで調べてみよう。
そこは兵庫県と岡山県の県境にあたっており、瀬戸内海の海岸線からわずか七里たらずの距離だけれど、四方を山にかこまれて、あらゆる重要交通網から見はなされた、文字どおりの山間の盆地である。地図のうえでみると、地形からいっても、交通の関係からいっても、当然、兵庫県に編入されてしかるべきもののように思われるのに、旧幕時代の支配地の関係からか岡山県に編入されているのが不思議である。
そして、このことが犯罪などの起こった場合、捜査上に重大な支障をきたすゆえんであった。地元の岡山県の警察からは、地形その他の関係で|継《まま》|子《こ》扱いをされるし、交通の便のよい兵庫県がわからは、管轄外として見て見ぬふりですまされるという傾向がなきにしもあらずで、それがこれからお話ししようとする事件の捜査の場合にも、大きく影響しなかったとはいえないのである。
それはさておき、旧幕時代この地方は伊東信濃守の領地になっていた。いま、明治元年の|武《ぶ》|鑑《かん》で見ると、伊東信濃守、柳間、朝散大夫、一万三百四十三石とおそろしく切りきざんだ|禄《ろく》|高《だか》が出ている。在所は鬼首とあるから、すなわちこの村に屋敷があったのだが、一万三百四十三石といえば大名としては最低にあたっている。したがってその屋敷も城という柄ではなく、そんな場合、ふつう陣屋と呼んだものらしい。
だから、鬼首村の手毬唄にある「おらが在所の陣屋の殿様」というのは、伊東家の先祖のひとりをさすことになり、多々羅放庵氏の考証によると、天明時代の領主に伊東|佑《すけ》|之《ゆき》なる人物があったが、これが好色|荒《こう》|淫《いん》の暴君で、狩猟にことよせて領地を巡視し、|眉《み》|目《め》よき女があれば娘であろうが人妻であろうが容赦なく|拉《ら》|致《ち》し、寝所の|伽《とぎ》を申しつけた。そして、あきるとわずかな過失をいいたててこれを殺したという。この佑之は天明から寛政と年号を改める前後に急死しているが、おそらくこれは周囲から一服盛られたのであろうと多々羅放庵氏はいっている。
さて、鬼首村の手毬唄はこの伊東佑之の非行を唄ったものだから、したがって手毬唄の各節の末尾についている「返された、返された」と、いうリフレーンは、ほんとうは「殺された、殺された」と、いう言葉の繰り返しを意味しているというのが多々羅放庵氏の意見であった。
なお、手毬唄のなかに歌われている枡屋だの秤屋だの錠前屋だのというのは、かならずしも職業を意味しているのではなくて、旧幕時代名字を名乗ることを許されなかった一般庶民は、そういう屋号をもって他と区別していたもので、正式に名字を名乗ることを許されるようになった明治以降、現代にいたっても古いひとたちのあいだではまれには屋号をもって呼ぶことが行なわれているそうである。
さて、以上が「民間承伝」から発見した鬼首村手毬唄由来の一節だが、これだけの予備知識をもっていただいて、それではいよいよこの恐ろしい鬼首村手毬唄殺人事件の幕を切って落とすことにしよう。
第一部 一羽のすずめのいうことにゃ
村の詐欺師
金田一耕助が|磯《いそ》|川《かわ》警部の紹介状をたずさえて、珍しくこの地方にのこっている人力車で仙人峠をこえ、鬼首村にはじめて足を踏みいれたのは、昭和三十年七月下旬のことで、そのじぶんかれはむろん、そこにのこる手毬唄のことなど夢にもしらなかった。
金田一耕助がこの村へやってきたのは、必ずしもそこに事件が発生したからというわけではない。金田一耕助とてそういつも、がつがつと事件を追っかけているわけではない。かれとても機械ではなく人間なのである。たまには何ものにもわずらわされぬ孤独と休養がほしくなるのは当然だろうではないか。
金田一耕助はその静養地としてあれこれと思いなやんだすえ、結局、岡山県のどこかを選ぶことに決心した。かれのデビュー事件ともいうべき「本陣殺人事件」以来、「獄門島」「八つ墓村」と、どういうものかかれは岡山県に縁があり、いつかかれはこの地方の人情風俗に好意をかんじているらしい。いったいに客あしらいのいいこの地方の|人《じん》|気《き》が、かれにはなんとなく温かくかんじられるらしいのである。
そこで思いたったが吉日と、独身の身の気もかるく、ボストン・バッグひとつをぶらさげて、東京から西下すると、訪ねていったのが岡山県の警察本部に勤務している磯川警部のもとである。
例によって手紙もハガキも出しておかなかったので、殺風景な応接室に金田一耕助をむかえた磯川警部は眼をまるくして、
「どうしたんです。金田一さん、いつおいでんさったんです」
と、懐しさあまって、のっけから浴びせかけるような調子であった。
「いまやって来たんでさあ。ああ、眠い、眠い、どうも汽車じゃ眠れん性分でね」
と、金田一耕助がわざと眼をショボつかせて、夜汽車で眠れなかった事実を表現してみせると、
「じゃ、いま着いたばかりですか。それでなにか変わった事件でも……?」
「いやだなあ、警部さん、ぼくの顔を見たからって事件、事件って、事件の亡者じゃあるまいし。……ありようは久しぶりにあなたのご尊顔を仰ぎたくなったというわけじゃありませんか」
「わっはっは、ほんとですか、それ」
「ほんともなにも……」
「そ、そいつは光栄の至りですな、あっはっは」
大きな掌でつるりと顔をなでながら、満面笑みくずれている磯川警部も、ずいぶん年をとったものである。
みじかく|刈《か》った頭髪はもうほとんど真っ白で、しかもかなり薄くなっているので、黒い地肌が|透《す》けてみえる。まゆも白くなり、額にもしわがふえたが、しかし、ずんぐりむっくりしたその|体《たい》|躯《く》には、いまもうちに|精《せい》|悍《かん》の気をやどしており、赤銅色にやけた顔が真っ白な頭やまゆと好対照をなしているのもたのもしい。ところでかれは十年一日のごとく警部なのである。それに数年まえ妻をなくして男やもめだ。
「ときに、金田一さん、ご予定は?」
「いや、じつはそれなんですがね」
と、金田一耕助はどこか閑静なところで、何ものにもわずらわされることなく、一か月ばかりゆっくり静養したい旨をのべ、
「どっかこのへんに、いいところはありませんか。うんと不便なところがいいんです。外界との交渉がいっさい遮断されているというような、人里離れた奥山住まいというような田舎がね」
「そうですな。そりゃないことはないが……しかし……」
と、磯川警部は例によって例のごとく、着くたびれたような|白絣《しろがすり》に、よれよれの|夏袴《なつばかま》という金田一耕助のいでたちを見まもりながら、
「あいかわらずですな、あっはっは」
と、眼尻にあたたかいしわをきざんで、
「まあ、よござんす。そういう話はいずれ今夜ゆっくりおうかがいすることにして、とにかく夜汽車でいらしたんじゃ大変だ。涼しい宿を紹介しますから風呂へでも入って、晩までゆっくり寝ていらっしゃい。お役所が|退《ひ》けたらさっそく駆けつけますから」
と、市内の宿を紹介してくれた。
その晩、ふたりでビールを二、三本平らげたのち、磯川警部が|浴衣《ゆかた》のふところから取り出したのが一通の紹介状だった。
「ご注文によって紹介状をもってきましたが、ただあらかじめお断わりしておきますが、絶対に外界から遮断されてるというのはちょっと無理ですよ。この村にだってやはり|娑《しゃ》|婆《ば》の風は吹いてますからな」
「いやあ、それは結構ですがね。これ、なんと読むんですか。珍しい名前ですね」
紹介状のおもてには、
「鬼首村、青池リカ殿」
と、あった。
「オニコウベ村と読むんですがね。ふつう詰まってオニコベ村と呼ぶんです」
「なるほど、珍しい読みかたですね。それでこの青池リカさんというのは……? ご婦人の名のようですが」
「そうです、そうです。それがまた気の毒なご婦人でしてね」
と、磯川警部はなにかしら感慨ぶかそうな顔を、大きな掌でつるりとなでて、
「旦那さんというひとが殺されましてな、しかも犯人がいまだにわからんのです」
金田一耕助は紹介状を手にしたまま、まじまじと警部の顔を見て、
「いけませんよ、警部さん、ぼくはきょう昼間もいったとおり、なにものにもわずらわされずに、ただひたすら休養を……」
「いや、わかってます、わかってます」
と、磯川警部は相手をおさえつけるような手つきをしながら、
「殺されたって、きのうきょうの話じゃなく、もう二十年以上もまえの事件なんですからな、その点は、まあ、ご安心ください。ただわたしの申し上げたいのは、それだから外界からいっさい遮断されてる世界というのは、ちと無理な注文だということですな。いまから二十三、四年まえの鬼首村は、いまよりはるかに不便な土地でしたよ。それにもかかわらず、迷宮入りをするような事件がもちあがったんですからな」
磯川警部はどうやらその話を聞いてもらいたいらしいのである。しかし、金田一耕助の希望というのが何ものにもわずらわされぬ、ひたすらなる休養を……と、いうところにあるので、このような話をもちだしてよいものかどうかとためらっているのだった。
しかし、金田一耕助としても、もしこの青池リカなる婦人の世話になるとしたら、いちおうそのひとの身の上をしっておくのも悪くない。いや、悪くないどころか、しっておく必要があるのではないかと思ったので、ひざの上の紹介状から眼をあげると、
「なんだか面白そうな話ですね」
と、|皓《しろ》い歯を出してにっこりと笑った。ひとなつっこい、相手を誘いこむような笑顔である。
「ええ、はあ、ちょっとな」
と、磯川警部はなぜかはにかみを感じるらしく、子供がものねだりをするような眼つきになって、
「聞いてくれますか」
「ええ、大いに聞かせていただきましょう。二十何年間、迷宮入りをしてる事件と聞いちゃこたえられませんからな、あっはっは、これがぼくの悪い癖で……」
「いや、どうもありがとう。それじゃ、まあ、ひとつ念のために聞いておいてください」
磯川警部は相手のあたたかい思いやりをしみじみうれしく思いながら、急にうちくつろいだ気持ちになって、話しぶりにも熱をおびてきた。
「金田一さんは田舎の農村のことをわりによくご存じですが、どこの村へいってもその土地でずば抜けて勢力をもってるものがあるんです。ところがその勢力家にはいつも対抗馬があるというわけで……まあ、いってみれば獄門島の|本《ほん》|鬼《き》|頭《とう》と|分《わけ》|鬼《き》|頭《とう》、八つ墓村の|東屋《ひがしや》と|西《にし》|屋《や》というようなもんですな」
「なるほど、すると、鬼首村にも二大勢力家がいるというわけですかね」
と、金田一耕助が誘いの水をむけると、
「そうです、そうです」
と、磯川警部はうれしそうにその誘いの水に乗って、ひとひざふたひざゆすり出すと、
「いや、二大勢力家がいた……と、いうことにしておきましょう。ちかごろじゃ鬼首村の勢力分野もだいぶ地図が塗りかえられたようですからな。この事件の起こったのは昭和七年のことですが、昭和七年といやあ満州事変のおっぱじまった翌年で、その当時、農村がいかに不況のどん底にあえいでいたかということは、金田一さんも覚えていらっしゃるでしょう」
「ええ、それは……そもそも満州事変が起こったというのも、ひとつには農村の不況が大きな原因だったんですからね」
「さよう、さよう、農村の二、三男問題、これがひとつの原因になっていたんですね。いや、それはともかくとして、その当時、鬼首村の勢力を二分していたのが|由《ゆ》|良《ら》家と|仁《に》|礼《れ》家、このふたつなんです。そのほかに多々羅家というのがあって、これが旧幕時代庄屋の家筋で、本来ならばこの家がいちばん勢力がなければならんはずのところ、先代と当時の主人と二代そろって道楽もんですから、すっかり|微《び》|禄《ろく》しておった。そこへ台頭してきたのが由良家と仁礼家というわけです。だから、およそ鬼首村に縁のあるもんなら、おれは由良派である、あるいは吾輩は仁礼派であると|旗《き》|幟《し》を鮮明にしなきゃならん。中立なんてえものは絶対に許されなかった」
「現代における米ソ両陣営のごときもんですな」
「そうです、そうです。ところで、この二大勢力家のうちで、古くから物持ちとしてしられていたのは由良家のほうで、こっちは鬼首村のみならず、近在いったいに広い田畑をもっていたんですな。その中には多々羅家二代の主人の道楽の結果、転げこんできた土地も相当あったと思ってください。ところがそれに反して仁礼家のほうは、当時にあっては新興勢力で、このほうはおもに山をもっておった。ところがその当時は山は大して金にならなかったから、山をもってるというだけじゃ、とても由良家にゃ対抗できなかったんでしょうが、当時の主人の仁礼仁平という人物が、なかなか先見の明のある男だったとみえて、大正の末年か昭和のはじめごろ、じぶんの持ち山……と、いってもこの辺のこってすから丘みたいなもんですが、そこへぶどうを栽培することをはじめたんですな。それが昭和六、七年ごろにはそろそろものになってきたもんですから、仁礼派の勢い当たるべからざるものになってきたというわけです」
「そのぶどうはいまでもやってるんですか」
「もちろん、これがいまじゃ鬼首村の一大資源になってるんです」
「なるほど、それじゃ仁礼派の勢力台頭もまたうべなりですね。村へ新しい産業を興したわけですから」
「ええ、まあ、そういうこってすな。仁礼仁平というのはたしかにえらいもんで、鬼首村というのが四方を山にかこまれた盆地になってるんですが、その盆地というのがぶどうの産地として有名な甲州盆地と、気温なり、湿度なり、日照時間なりが酷似してる……と、いうことをいちいち詳しく調査したんですな。それで大正の末年に手をつけたところが、数年たってその努力が実ってきた。こうなると利につくのが人間のつねで、仁平爺さんのまわりには甘きにつどうありのごとくひとが集まってくる。仁平爺さん、たちまちにして|旦《だん》|那《な》にのしあがる。こうなると村にたいする発言権も大きくなるし、つまり、鼻息あたるべからざる勢いになってきたというわけです」
「なるほど、なるほど。さて、そうなると面白くないのが由良家のほうで、こっちのほうでも、なにか対抗策を講じなければならんところですね」
「あっはっは、金田一さんはお察しがいい。それなんですよ。由良家のほうでも自衛上、対抗策を講じて乗りだした……と、いうところに、これからお話ししようという悲劇の|胚《はい》|種《しゅ》が芽生えたというわけですな」
金田一耕助が乗り気になってくれるので、磯川警部も張り合いがあるのか、話に熱をおびてきたのはよいが、柄にもなく気取ったいいまわしかたをやったので、金田一耕助も思わずにやにや笑った。
「それじゃ、ひとつ悲劇の胚種となったところの、由良家の対抗策というのを聞かせてください」
「はあ、承知しました」
と、さすがに警部もてれたのか、大きな掌でつるりと顔をなでると、
「当時の由良家の主人は|卯《う》|太《た》|郎《ろう》といって、年は四十前後でしたろうか。仁平爺さんのような、|古《ふる》|強《つわ》|者《もの》からみれば、まだひよっ子みたいなもんでしたな。つまりまだ若かった。しかも、幼いときからのおんば|日《ひ》|傘《がさ》で世間しらずだった。そのうえに仁礼の爺さんに負けまいというあせりも手伝っていた。そこをたくみに乗じられたんです」
「乗じられたってだれに……?」
「|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》にですな。農村の不況につけこむ詐欺師……それにつけこまれたもんだから、由良家のみならず鬼首村ぜんたいが、てんやわんやということにあいなった」
「詐欺師……? 詐欺師が登場するんですか」
話が意外な方面へ発展していったので、金田一耕助も案外な顔色だった。
「そうなんです。しかも、そいつが人殺しをして姿をくらましたんですから、村じゅう大騒ぎということになったわけです」
と、磯川警部もちょっと顔色をくもらせて、
「詐欺師、みずから|恩《おん》|田《だ》|幾《いく》|三《ぞう》と名乗ってましたが、むろんそれは偽名でしょう。そいつが昭和六年のおわりごろ、だれかの紹介状をもって由良の旦那のところへやってきた。年は三十五、六で、金縁眼鏡をかけ、鼻下にちょび|髭《ひげ》を生やした、ちょっとした好男子だったそうです。さて、用件というのは村に副業をもちこもうというわけですな。副業というのはモール作り。モール……ご存じでしょうか。クリスマスやなんかのとき、じゃかじゃか飾る、薄い木にいろいろ着色したやつ……あれですね。むろん輸出用なんです」
「なるほど、なるほど」
話がたんなる農村の勢力争いでなくなったので、金田一耕助もにわかに興味を倍加した。思わずひとひざのりだした。
こうなると磯川警部も舌に油が乗ってきて、
「話を聞いてみると、なるほど面白そうだというわけで、卯太郎旦那が乗りだした。農家に副業をあたえてやる。と、いうことは不況のどん底にあえいでいる農民たちに恩を売ることができるわけです。農民たちも卯太郎旦那から話を聞いてとびついた。仕事というのはこうなんです。恩田のほうから機械……と、いっても簡単なものですが……を希望農家に貸与する。そして材料を提供する。それによって農民たちはモールを作る。それを恩田が適当な労銀を支払って引き受ける。そして、ゆくゆくは農民に機械を|購《か》わせる……と、いう仕組みで、農民が機械を購う資力ができるまで、機械代を由良の旦那が恩田に支払ったわけです。仕事は面白く発展しました。思いがけない収入にうるおうことになった農民たちにとっては、由良の旦那さまさまというわけで、卯太郎旦那も大いに面目をほどこしたんです。こうして一年ちかくたって、昭和七年の秋ごろには農民たちもあらかた、金を払って機械をじぶんのものにしていました。ところがそのころになって、ここにひとり恩田のやりくちについて疑惑の眼をむけはじめたものが現れた。それがこんどご紹介しようという、青池リカの亭主で源治郎という人物なんです」
と、警部の話はまだつづくのである。
グラマー・ガール
「ここで青池のうちのことをお話ししておきましょう」
と、磯川警部はゆっくりたばこをくゆらしながら、
「青池というのは鬼首村の部落からちょっと離れたところにある湯治場、亀の湯というのを先祖代々経営してるうちなんです」
「ああ、温泉が出るんですか」
と、金田一耕助はひざを乗りだした。
「いや、温泉とはいえないでしょう。亀の湯のは摂氏二十度くらいだから冷泉というところで、それを沸かして入るのだが、農閑期になると近在から農民たちが湯治にくる。ところが農民というやつは奇妙なもんで、米を作る百姓だけが尊敬され、それ以外の職業のものは一段さがったものとして軽蔑される傾きがあるんですな。極端なことをいえば、おなじ百姓でも米以外のものを作る百姓、野菜を作って生活しているような百姓は、|下百姓《げびゃくしょう》といって軽蔑するんです。仁礼の仁平爺さんなんかも、ぶどうを作って大いに景気はよかったが、そういう意味では由良の卯太郎旦那に頭があがらなかったわけです。おっと、|閑話休題《かんわきゅうだい》」
と、磯川警部はホロリとたばこの灰を落として、
「それですから、亀の湯の青池のごときも、たかが湯治場の亭主じゃないかと、水呑み百姓のような連中からも一段さがったものとして扱われてきた。その青池の次男に源治郎というものがあって、当時二十八歳でした。この源治郎、わかいじぶんから神戸大阪へ出て、まあ、いろいろやってきた男で、それだけに世間もしっているわけです。それが昭和七年の秋のなかばごろ、おかみさんのリカと男の子をひとりつれて村へ……と、いうことは亀の湯ですな、そこへかえっていたんですが、そいつが恩田のやりくちをみて疑いを抱いた。疑いを抱いたのみならずこのことを仁平爺さんに話したんですね。詐欺じゃないかと……よろこんだのは仁平爺さんで、源治郎に金をやって調査させたらしい。仁平爺さんはむろんそれを否定してましたがね。まあ、それはとにかく、とうとう源治郎が恩田の|尻尾《し っ ぽ》をおさえた。そして恩田の家……といっても村における仮りの宿ですが、そこへ単身乗りこんで、相手をとっちめようとしたところが……」
「逆に殺されたというわけですか」
「ええ、そう」
「どういう殺されかた……? 絞め殺すとか刺し殺すとか……?」
「殴り殺されたんです。秋もふかかったんですな。|囲《い》|炉《ろ》|裏《り》がきってあって、囲炉裏のそばに|薪《まき》だの薪割りだのがおいてあった。その薪割りで後頭部を一撃のもとに……」
と、磯川警部はまゆをひそめて、
「それが昭和七年十一月二十五日のことなんです」
「だれかその現場を見ていたものが……?」
「いや、それはなかったのです。あったらとめたはずですから」
「では、どういうふうにして、その死体は発見されたんですか」
「それはこうです。源治郎の細君のリカは、|良人《お っ と》が恩田をとっちめに出かけたことをしっていた。げんに良人が家を出るとき、そんな余計なまねはおよしなさいといってとめたそうです。ところが一時間たっても二時間たっても良人がかえってこない。そうそう、源治郎が家を出たのは夕食後の六時過ぎだったそうですが、それが九時になってもかえって来ないので、リカも心配になってきて、恩田の宿をのぞきにいったというわけです」
「恩田の宿というのは……?」
「ああ、それを申し上げておかなくちゃいけませんな。恩田はいつも鬼首村にいたわけじゃない。月に一度か三か月に二度くらいのわりでやってきて、二、三日泊まって用事をすますとひきあげていったんです。で、はじめのうちは由良のうちに泊まっていたんですが、それじゃ窮屈だというので、のちには多々羅放庵のうちの離れを借りて、そこに寝泊まりをしていたんです」
「多々羅というと庄屋の家筋とか……」
「そうです、そうです。庄屋の|末《まつ》|裔《えい》で|一《かず》|義《よし》というしかつめらしい名がついてるんですが、みずから放庵と号してしたい|三《ざん》|昧《まい》をやってきた人物です。なにしろ親子二代の道楽で、そのころから左前だったんですが、でもまだそのじぶんは先祖から伝わった家をもっていて、そこに、おりんという五番目のおかみとふたりきりで、細々ながら暮らしていたんですよ」
「五番目のおかみさんですって?」
と、金田一耕助は眼をまるくする。警部はいたずらっぽい眼をくりくりさせながら、
「いや、五番目におどろいちゃいけません。放庵さん、いまでも元気で生きてるんですが、その後も細君をとっかえひっかえ、つごう八人のおかみさんをもったという男です」
「そいつは……そうすると、鬼首村へいくと、そういう愉快な……かどうかしりませんが、いっぷう変わった人物にお眼にかかれるわけですな」
「いや、なかなか愉快な爺さんですよ。わかいときからしたい三昧やってきた男ですからな。それに鬼首村へいらっしゃれば、もうひとりすばらしい人物にお会いになれますよ」
「もうひとりすばらしい人物とは……?」
「いや、それはもう少しおあずけ。おあとの楽しみということにしておきましょう」
と、磯川警部はまた金田一耕助の好奇心を挑発するように、眼玉をくりくりさせると、
「それよりもさっきの話のつづきをしましょう。九時になっても亭主がかえってこないので、リカが恩田の宿をのぞきにいった。つまり放庵さんとこへようすを聞きにいったんですな。ところが、その晩、放庵さんのほうでもひと騒動あった。五番目のおかみさんと夫婦げんかのあげく、おりんさんがとび出してしもうた。放庵さん、血眼になって宵からあちこち捜したがどこにもいない。てっきり他国へ駆け落ちしたにちがいないと、やけ酒をのんでるところへリカが訪ねてきたというわけです。そこで離れをのぞいてみると」
「|殺《や》られていたというわけですね」
「そうです、そうです。囲炉裏のなかに顔を突っこむようにして……」
「囲炉裏のなかに頭を突っこんで……?」
金田一耕助はギョッとして警部の顔を見直したが、急に声を立てて笑い出した。
「警部さん、恐れ入りました。すっかり警部さんの|薬籠中《やくろうちゅう》のものにされちまいましたよ」
「いや、いや、いや! 金田一さん」
と、磯川警部は大きな手で、相手をおさえるようにしながら、
「そういう意味じゃありません。ただ、話の順序がそうなってるんで……」
「いや、いいですよ。それでその死体、相好の識別もつきにくくなってたというわけで……?」
「全然識別がつかぬほどじゃありませんが、まあ、相当|毀《き》|損《そん》されてましたな」
「でも、源治郎にゃちがいなかったんで?」
「そりゃもちろん、おかみさんのリカのみならず、両親も兄夫婦も源治郎と認めたんですからな」
金田一耕助はしかしそこに、奥歯にもののはさまったようなもどかしさを感じずにはいられなかった。
「それで、格闘の跡は……?」
「いや、格闘のあとは見られなかったが、大急ぎでそこらをひっかきまわしていったらしい跡は歴然としてましたね」
「それっきり犯人のゆくえはわからないんですね」
「ええ、そう、恩田幾三という人物、それきり完全に姿をくらましてしまったんです」
「それで、そいつはやっぱり詐欺……?」
「それがねえ、金田一先生、調べてみてもようわからんのです。もちろん結果からいうとあきらかに詐欺です。農民にとっちゃかなり高価な機械を売りつけられて、しかも仕事はそれっきりなんですからな。しかし、そこへくるまでの一年の仕事ぶりを検討すると、必ずしも詐欺とは思えない。製品にたいしてちゃんと労銀を払ってるんですからね。恩田が代理人をやったモール会社もわかりました。神戸にあったんですが、それがその殺人の起こる少しまえにつぶれてるんですね。ほら、アメリカの大恐慌、ルーズヴェルトがニュー・ディールで男をあげた一九三〇年代の大パニック、あのあおりをくらったんですね」
「それで、会社のほうでも恩田のことはわからなかったんですか」
「わからなかったんです。会社のほうじゃ保証金さえいれれば……と、いうわけで身許調査もろくにやらなかったんですな。だから恩田幾三という男、はじめから詐欺が目的で身許をかくしていたのか、それともアメリカの大パニックのために、事志とちがって事業が|頓《とん》|挫《ざ》し、はからずも詐欺という結果を招来しそうになったところへ、殺人まで犯す羽目になったので、姿をくらますことになったのか。……おりあたかも満州事変の直後でしたから、姿をくらますにゃ|究竟《くっきょう》の時節でした。だから農民たちからかきあつめた金をひっさらって、大陸へでも飛んだんだろうということになってるんですが……」
磯川警部の声にはかくべつこれという感慨はあらわれていなかった。しかし、金田一耕助はしっているのである。星を逃がしたときの担当係官の悔しさを。……
「それで、そのあと村はどうなりました」
「さあ、それですよ。いちばん面目を失墜したのは卯太郎旦那で、元来このひと、|肚《はら》のあるひとでもなきゃ、分別にとんだ人物でもなかった。まあ、農民の損害の幾パーセントかは自腹をきって補償したようですが、百姓からは恨まれる。物笑いの種にはされる。それやこれやで|怏《おう》|々《おう》として楽しまずという状態でしたが、それから三年ほどたって昭和十年に亡くなりましたよ」
「由良家というのは大地主だったとおっしゃいましたね。戦後は……?」
「お定まりの農地改革、あれですっかりいかれちまいましたが、さいわい山は解放の対象にならなかったでしょう。それに卯太郎の後家の|敦《あつ》|子《こ》というのがしっかりもんで、亭主の死後、意地も張りもすてたのか、仁平爺さんに教えを乞うて、ぶどう作りをはじめたんですな。それで戦後も助かったんですが、昔日の勢いさらになし、いまじゃ鬼首村は仁礼家の天下です」
「仁平という爺さんはまだ生きてるんですか」
「いや仁平爺さんは死にました。しかし、跡取りの|嘉《か》|平《へい》というのが親爺に輪をかけたようなやり手でしてな。卯太郎が死亡したじぶん、後家の敦子ととかくのうわさがあったもんです。その嘉平がいま鬼首村の主権者です」
「殺された源治郎は次男だという話でしたが、リカという婦人はその後ずっと鬼首村にいるんですか」
「ああ、リカ……かわいそうなのはリカでしたな。亭主がああいうことになったとき、リカは身重だったんです。それがむごたらしい亭主の死にざまを見たもんだから……」
「流産でも……?」
「いや、無事に産んだことは産んだんです。女の子なんですが、その女の子というのが……」
と、磯川警部は顔をしかめて、
「まあ、いってごらんなさい。おわかりになりますから。……その点、リカは不幸でしたが、いっぽう仕合わせだったともいえるのは、兄夫婦に子供がなかったんですな。そこで源治郎とリカとのあいだにうまれた|歌《か》|名《な》|雄《お》というのが、亀の湯の跡をとってるんですが、これがおふくろを助けてよくやってるようです」
金田一耕助はさぐるように相手の顔を見ながら、
「それで、警部さんはちょくちょく鬼首村へいらっしゃるんですか」
「ええ、ときどき亀の湯へ湯治にね。それにリカというのが筆マメな女でしてな、盆と正月には|挨《あい》|拶《さつ》状をよこす。それで村のようすはだいたいわかるんです」
そこでしばらく会話がとぎれたあとで、金田一耕助が思いだしたように切りだした。
「警部さん、あなたはずいぶんぼくの好奇心を刺激なさいましたが、それじゃことのついでに、取っておきの話もしてください。鬼首村へいくと、もうひとりすばらしい人物に会えるとおっしゃったが、それはどういう……?」
「ああ、そのこと……」
と、磯川警部はまるで相手を吸いこむようなまなざしで、まじまじと金田一耕助のもじゃもじゃ頭を見ていたが、とつぜん妙なことをいいだした。
「金田一さん、あなたたまにゃ映画をごらんになることもおありでしょうな。それからラジオやテレビで流行歌をお聞きになるなんてことも……」
警部の質問があまりとっぴだったので、金田一耕助はびっくりして眼をパチクリさせた。
「そりゃ、たまにゃ……しかし、それが……?」
「いや、失礼しました。それはこうなんで。恩田幾三という男が村に滞在中、|鍛《か》|冶《じ》|屋《や》の娘で|別《べっ》|所《しょ》|春《はる》|江《え》というのが身のまわりの世話をやいていたんですね。ところがその春江が、昭和八年、|父《てて》なし子……娘でしたが……を、産んだんです。父親はいうまでもなく恩田ですな。そうでなくとも私生児を産んだとあっちゃうしろ指をさされますが、そこへもってきて、村の連中にとっちゃ恨み骨髄の、詐欺師で殺人犯人の子を産んだとあっちゃ風当たりはきついです。ところが、この春江というのがなかなかしっかりもんで、娘……|千《ち》|恵《え》|子《こ》というんですが、これを自分の親父の|蓼太《りょうた》というもんにあずけて、むろん、千恵子はその蓼太夫婦の娘として入籍されてるわけですが、そこへ千恵子をあずけて、じぶんは村を出て神戸で女給かなんかしてたんですね。のちには千恵子もじぶんの手もとへ引きとりましたが、戦争中はしかたがなく、親娘で蓼太夫婦のところへかえっておったんです。それが昭和二十三年ごろ、ふたたび石もて追われるごとく、鬼首村を立ち去ったんですが、そのとき、千恵子はかぞえ年十六になっていました。その千恵子なんですよ。どえらいもんになっちまって……」
「どえらいもんとは……?」
「大空ゆかりといえば、いま飛ぶ鳥落とす人気者、舞台で|唄《うた》を歌うと、ワン・ステージ何十万がとこ転げこむ。……映画に出るとグラマー・ガールとやらで、男を悩殺してやまぬ神秘の女……」
金田一耕助は思わず両こぶしを握りしめた。
「そ、それじゃ大空ゆかりが鬼首村へかえっていると……?」
「去年、|祖《じ》|父《い》さん|祖《ば》|母《あ》さん……といってもゆかりにとっちゃ戸籍上の両親ですがね。その両親のためにゆかり御殿といわれるようなりっぱな家を建ててやって、ちかくそこへかえってくるというので、鬼首村はいうにおよばず、県下の新聞はこのあいだから大騒ぎをしているんですよ」
パナマ帽に相当くたびれた白絣、よれよれの夏袴といういでたちの金田一耕助が、人力車にゆられゆられて仙人峠を越えたとき、鬼首村はこういう状態のもとにあったのである。
亀の湯の人々
金田一耕助が鬼首村の村はずれにある湯治場、亀の湯へ旅装をといてから、もうかれこれ十日あまり、暦はあらたまって八月に入っている。
田舎の湯治場によくあるように、亀の湯の建物というのも、古ぼけた木造の二階建てで、旅館というよりは寮か寄宿舎といったふうな殺風景な構えであった。
ここいらの湯治場を箱根や伊豆の温泉旅館と同日にかんがえてはいけない。
農閑期を見はからって、近在からここへ湯治にくるひとびとは、おおむね、|鍋《なべ》、|釜《かま》から米、塩、|味《み》|噌《そ》、|醤油《しょうゆ》までもちこんで、自炊生活をやっていくのである。なかには夜具までもちこんでくるのもあった。それらのひとびとは三人、五人と誘いあわせて、組をつくって共同生活をやっていくので、とんと合宿のようなものだ。亀の湯はただかれらに宿舎と浴場を提供するだけにとどまるというのが、こういうひなびた湯治場におけるいっぱんのならわしのようである。
しかし、たまには金田一耕助のようなふつうの客もないことはない。そういう客のためにはべつに平家建てが建っていて、ひなびてはいるが一応旅館としての形態もととのえている。客間も五つ六つは用意してあるらしく、内風呂もついていて亀の湯の家族も日常そのほうに起居している。家族といってもいまのところ、女あるじの青池リカと息子の歌名雄、娘の里子に女中のお|幹《みき》と四人きりだが……農閑期で客がたてこむときには、臨時に女中を雇うのである。
女あるじのリカは五十前後であろう。昭和七年に殺害された亭主の源治郎は、当時二十八歳であったと磯川警部はいっていた。かりに三つちがいの夫婦だったとしたら、昭和三十年のことしでは、かぞえどしで四十八歳になる勘定である。
しかし、見たところはいくらか年よりは|老《ふ》けていて、どう見ても五十より下には見えない。と、いって、よぼよぼしているというのではなく、どうしてどうして、細作りで、いっけん|華《きゃ》|奢《しゃ》には見えているけれども、背もたかく、いかにもしっかりものといったかんじである。
夏のことだからふだんは簡単服を着ているが、それもけっしてだらしない格好ではなく、髪などもいつもきちんとなであげている。おまけに金田一耕助の座敷へ顔を出すときには、いつもきものに着かえてでるというだけのたしなみももっている。|上《かみ》|方《がた》ふうというよりは、どちらかというと|京女《きょうおんな》といったふうな、きめの細かい、うりざね顔の、昔はそうとうの美人だったろうと思われるような女だ。
ただ、なんといってもわかいころ、大きな悲劇に直面した女だけあって、どこか暗い、さびしい|翳《かげ》があり、言葉かずも少なかった。それが年よりも老けてみせるゆえんであろうが、万事に考えぶかそうで、実意のあるとりなしが、なまじ言葉かずばかり多くて、軽薄なのより好感がもてた。
息子の歌名雄はことしかぞえどしで二十六歳である。ちかくの町の旧制中学校へかよっているうちに、学制が六、三、三制にきりかわった。当時ここいらの農村の子弟は、たとえ中学校へかよっていたのがあったとしても、六、三、三制にきりかわると、六年ではかなわないとばかりに、新制中学の三年きりでやめたのが多かったなかに、リカは息子を高校までやった。
金田一耕助はこの歌名雄という青年に興味をもっている。
高校時代、野球の選手でピッチャーをやっていたというだけあって、五尺七寸の体格はりっぱである。母に似てきめの細かい肌をもっており、彫りのふかい目鼻立ちはかっきりとして、なかなかの好男子である。家業のかたわら田も作り、うしろの山にはぶどうも作っているが、労働のためにほどよく陽焼けした顔色も健康そうでたのもしかった。ぶどう畑にいるときは、いつも陽気に歌謡曲を歌っているが、甘い柔かなのどをもっていて、歌いっぷりもまずくはない。
さしずめ歌名雄は村のロメオというところで、娘たちに人気があってさわがれるのが、母のリカにとっては苦労の種らしい。
もっとも村から大空ゆかりという人気者をだしているので、この村のみならず近在一帯、青年男女のあいだではジャズや歌謡曲が大流行らしい。このへんのお盆は東京とちがってひとつきおくれだが、お盆には大空ゆかりにも出てもらって、のどじまんを盛大に挙行しようと、村の青年部では目下よりより協議中だそうな。ただし、大空ゆかりはまだ来ていない。
歌名雄の妹の里子というのは、父が殺された翌年、すなわち昭和八年うまれだということだから、かぞえどしでことし二十三になるはずだが、金田一耕助はまだいちどもその娘にあったことがない。亀の湯の平家建ての家族の住んでいる|翼《よく》のおくに、廊下つづきの土蔵があるが、里子はいつもその土蔵のなかに垂れこめているらしい。
ある夕方、金田一耕助は散歩のかえりに、表門から入らずに、なにげなく裏木戸からなかへ入っていったが、そのとき庭にいたわかい娘の、逃げるように土蔵のなかへとびこむうしろ姿をちらと見て、思わずごくりと|生《なま》|唾《つば》をのみこんだ。
磯川警部はその娘の話にふれたとき、顔をしかめて多くを語ることをこのまなかったが、ああして極端に人眼を避けるところをみると、なにかよくよくのことがあるにちがいないと、母の胎内にいるあいだに起こった恐ろしい惨事の影響を、金田一耕助はあれやこれやと想像してみた。
その晩、金田一耕助は夕食のお給仕にでた女中のお幹さんに、そのことについてそっとさぐりを入れてみた。
「きょう夕方、庭でわかい娘さんのうしろ姿を見かけたが、あれがここのお嬢さんの里子さんかい」
「そうそう、里ちゃんにお会いんさりましたそうですなあ」
「いや、会ったといっても、ちらとうしろ姿を見かけただけだが、あのひとはいつも土蔵のなかで暮らしてるの」
「はあ」
と、お幹さんは簡単服のひざのうえで、くるくるお盆をまわすだけで、はかばかしくは答えない。
お幹さん、としは二十七、八というところであろう。いちど近在の農家へお嫁にいったが、|姑《しゅうとめ》との折り合いが悪くて逃げてかえった女である。しかし、|実《さ》|家《と》には実家であによめがひかえており、そこもいたたまれなくなって、こうしてリカの情にすがり、亀の湯へ女中奉公に入っているのである。リカのきびしいしつけにもかかわらず、もうひとつしまりのよくない、しかも性来多弁な女なのだが、きょうはどういうものかはかばかしい返事がない。おそらくこの話題は主婦からかたく禁じられているのであろう。
「しかし、わかい娘さんがちっとも外へ出ずに、よくああして、土蔵のなかに閉じこもっておられるねえ」
「里ちゃんは、体が弱うござんすけんなあ」
と、あいかわらずお幹さんの口はおもいのである。
このへんの言葉は純粋の岡山言葉ともちがっていて、たぶんに|播州《ばんしゅう》なまりがまじっている。播州なまりは兵庫神戸あたりの言葉に似ている。
「体が弱いってどこが悪いの?」
「心臓がなあ。ちょっと歩いても息切れがするおいいんさって」
それでは心臓弁膜症とでもいうのであろうか。妊娠中の母体の過労や精神的なショックが、胎児の心臓に影響するということは、医学的にもいわれている。しかし、ただそれだけで、人に会うのをあのように恐れるというのはおかしい。
「それで、里ちゃん、土蔵のなかでいちにちなにをしているの?」
「さあ……」
と、お幹さんはあいかわらずひざのうえのお盆をくるくるまわしながら、うすぼんやりと小首をかしげて、
「たいていは本を読んでおいでんさります。とても本を読むことがお好きな子じゃけんなあ」
「本って、どんな本、読んでるの?」
「さあ……」
と、お幹さんはしまりのない口許に、あいまいな微笑をうかべただけで要領をえなかった。
これはこの女にきいてもむだだと金田一耕助はあきらめる。この女はおそらく他人の読む本などに、なんの興味も関心ももたないのだろう。
金田一耕助がなおそのうえ、なにか質問を切り出そうとしたとき、こんどはお幹さんのほうから逆襲してきた。
「お客さんは里ちゃんのことを、そねえに心配おしんさりますけえど、お客さんこそ、このような田舎へおいでんさって、よくまあ、毎日退屈おしんさりませんなあ」
「いや、ぼくはここへ退屈しにきたんだよ。退屈してると寿命がのびるというからな」
「あれまあ、あねえなのんきなことを。……やっぱりお金のあるかたはちごうておいでんさる」
いや、お金があったらこんなへんぴなとこへは来ない。……と、いいかけて金田一耕助はよした。それをいってはこの亀の湯を侮辱することになる。
里子のことはこれ以上いくらきいても、この女から引き出せそうにないとあきらめた金田一耕助は、そこで話題を転換して、
「それはそうと、大空ゆかりはまだ来ないのかね。村じゅうだいぶん前評判がたかいようだが……」
と、むしろ相手をよろこばせるつもりで切りだしてみたところ、とたんにお幹さんの|形相《ぎょうそう》ががらりと一変したのにおどろいた。
粉を吹いたもちのように|白《おし》|粉《ろい》をぬたくった、小っちゃな鼻のまるまっちい、ぽちゃぽちゃと|愛嬌《あいきょう》のあるお幹さんのおかめづらが、とたんに|般《はん》|若《にゃ》の形相と化したかと思うと、
「あげえなひと!」
と、きたないものでも吐きだすような鋭い調子で、
「どこがようてあのような女に、みんなして大騒ぎをおしんさるんか、わたしにはとんとわけがわかりませんなあ」
と、まるまっちい鼻をつうんとさせてそらうそぶいたから、ただごとではない。お幹さんはだいぶん大空ゆかりに反感をもっているらしい。
「お幹さんは大空ゆかりに会うたことがあるのかね」
と、そこで金田一耕助はおそるおそるおうかがいを立ててみると、
「ずうっとせん、ここへ疎開してきたじぶん、……色の黒いうすぎたない|娘《こ》でしたんよ」
と、お幹さんはいかにもうすぎたなそうにまゆをひそめる。
「じゃ、ああして売り出してからは会ったことがないんだね」
「だって、いちどもこっちゃへかえってきやしませんけん。……でも、雑誌やなんかに出てる写真、おっぱいやおしりまる出しにして……女だてらにようまあ、あげえなまねできるおもて……わたしなんか恥ずかしゅうてひとのことでも顔があこなりますわ。でもまあ、たかが錠前屋の娘のうんだ父なし児ですけんな」
「錠前屋の娘……」
と、金田一耕助は聞きとがめて、
「ゆかりのおふくろさんは鍛冶屋の娘だとか聞いていたが……」
「いいえ、錠前屋いうのんは屋号ですのん。ここらのうち、昔からみんな屋号もってますのんよ。わたしのうち|笊《ざる》|屋《や》いうてましたん」
むろん、金田一耕助はゆかりの生家の屋号が錠前屋であろうがなかろうが、そのじぶんはまだ意にもとめていなかった。そして、その屋号に世にも重大な意味があることを発見したときには、すでに三人の人間がこの世から抹殺されていたのである。
「でも、お客さんはどないに思うておいでんさりますん?」
「どう思うって?」
「やっぱり、あねえなおなご、ええお思いんさりますんかなあ。はんぶん裸の、あないな女を……」
「そりゃ、まんざら悪くはないよ。これでも男だからな、あっはっは」
金田一耕助が消極的ながらもグラマー・ガールを讃美してみせると、
「まあ、きょうと[#「きょうと」に傍点](こわい)!」
と、お幹さんは眼をいからせて腹立たしげにいきまいたが、なに思ったのか急にしゅんとなって、
「でも、男いうたらみんなそうしたもんですんなあ。歌名雄さんみたいなおひとまで、あねえなおなごに夢中におなりんさって、やれ、歓迎会やの、やれ、のどじまんやのいうて騒いでおいでんさる。ほんまにまあ、きょうとや、きょうとや」
お幹さんは金田一耕助の食べおわったお|膳《ぜん》をかたづけると、
「それでは、お客さん、用がおありんさったらベルをお押しんさりませえ」
と、肩を落として力なく座敷から出ていった。
金田一耕助はなぜかはっとした気持ちになり、それ以上、お幹さんをからかう気もうせて、だまってうしろ姿を見送っていた。
いま、この亀の湯に|逗留《とうりゅう》しているのは金田一耕助ただひとりである。だから、かれは文字どおり何者にもわずらわされることなくねこのように|懶《らん》|惰《だ》を楽しんでいるのである。
この亀の湯はまえにもいったとおり、鬼首村の村はずれにあり、いちばんちかい人家からも半里ちかくも離れている。うしろにはすぐ丘がせまっていて、丘はいちめんのぶどう棚である。ぶどう棚にはもういっぱい、|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》をしたぶどうの房がぶらさがっていて、開けっぱなした座敷のなかに寝ころんでいると、新鮮な果実のにおいがそこはかとなくながれてくるのが快かった。睡気を誘うようなかっこうの声をあきるほど聞けるのも久しぶりである。
金田一耕助はべつにここへ二十数年以前の事件をむしかえしにきたわけではない。磯川警部にもそれほどの義理はないのである。だから、しぜんに耳に入れば心にとめておく程度で、由良の家がそのごどうなっているか、仁礼家がいまどのように繁栄しているかなどと、いちいち調べてみる気はないのである。かれはほとんど亀の湯へ閉じこもったきりで、たまに本を読むとか、じぶんの扱った事件のメモを整理するとか、それ以外は終日うとうとしていることが多かった。ほんとにかれはねこのような退屈をエンジョイしているのである。
だから、朝夕の散歩にしても、村のほうへいくようなことはほとんどなかった。たいていは裏山のぶどう畑のあいだをぶらつくぐらいが関の山だった。それにもかかわらず、かれはこちらへきてから相当多くの人に会っており、そのなかのひとりとはかなり|昵《じっ》|懇《こん》になっていた。
それというのがここが湯治場であり、おまけに眼のまえに建っている、いまはがらんとしてひとけもない、あの二階建ての共同宿舎の娯楽室が、村の青年たちの集会所みたいになっているからである。
ここへきてから金田一耕助が、亀の湯の住人以外に最初に挨拶をしたのは多々羅放庵さんだった。それもべつに会いたくて会ったわけではない。ここへついた翌日、内風呂よりもひろびろとした共同浴場へ入ってみたくなっていったところが、そこに放庵さんがきていたというわけである。
共同浴場は二階建ての共同宿舎から廊下でつながっているが、庭からも直接入れるようになっており、切り妻造りのだだっぴろい木造建築で、それでも男湯と女湯にわかれている。なかへ入ると板の間には|笊《ざる》がいっぱい積んであり、壁には鏡もはめてあるが、水銀がはげてほとんどものの役にはたたなかった。その板の間のおくにガラス戸があり、ガラス戸をひらくと|漆《しっ》|喰《くい》の洗い場になっていて、その洗い場のおくに二十畳じきくらいのひろい浴槽から湯があふれていた。その湯のなかに放庵さんの坊主頭が、ただひとつ浮かんでいたというわけである。
金田一耕助はちょっとそのひとに目礼をかわしただけで、すぐに湯のなかへとびこんだが、ひょっとするとこのひとが放庵さんではないかと思った。坊主頭のたるんだ顔に、どこかあか抜けしたものをかんじたからである。
冬になるとこの湯も薪をつかってわかすのだろうが、夏場は客も少ないので冷泉のままである。|日《ひ》|向《なた》|水《みず》の少しあたたかいくらいの温度が、そのかわり入浴料もロハらしいとあとでしった。のんきに体をうかせているには格好の温度である。
「失礼じゃが、あんたかな。磯川警部さんの紹介でおいでんさった先生ちゅうのは……?」
金田一耕助がじゃぶじゃぶ湯をつかっていると、放庵さんのほうから話しかけてきた。磯川警部は紹介状のなかで、先生という言葉をつかっておいたものと見える。
「はあ、ぼく、金田一耕助というもんですが、どうぞよろしく」
「ああ、いや、わしは多々羅放庵ちゅうてな、まあ、世捨て人みたいなもんじゃが、あんた、磯川はんとはどういう……?」
「いや、ちょっとしたしり合いで」
と、金田一耕助は言葉をにごしたが、相手はべつに気を悪くしたふうもなく、どこか悪いのかとか、いつまで逗留するのかなどと、だれでも|訊《き》きそうなことを尋ねたあげく、
「それで、ご商売は?」
「はあ、ちょっとものを書くもんですから」
金田一耕助は言下にこたえた。これはかれがこういうさいに、いつも用意している答えである。
「ああ、それで、先生……」
と、放庵さんは金田一耕助の言葉をあっさりうのみにして、どういうものを書くのかなどと、よけいなことは訊かなかったのは、道楽をしただけの人間のさびというものだろうか。
それからしばらくとりとめのない話をしたのち、
「それでは、おさきに……ごゆるりと」
と、挨拶をして放庵さんは湯からあがった。
放庵さんはいったいいくつになるのだろうか。おそらく七十は越えているのだろうと思われるが、それにしても元気であった。小作りながらも筋金のとおったような体である。ただ、右手が不自由で無器用に手ぬぐいをつかっていた。
放庵さんは毎日、午後、この亀の湯へくるらしく、そのごも二、三度金田一耕助と共同浴場で落ち合った。だんだん話もうちとけて、
「こういう田舎じゃけん、あんたもさぞご退屈じゃろ。たまにはわしのとこへも遊びにおいでんさい。それこそ掛け値なしのあばら家じゃが、そのかわり独りもんじゃけに気がねはいらん」
などと金田一耕助を誘うたあげく、道筋なども教えてくれた。
女あるじのリカは他人のことを語るのを好まぬほうだが、多弁なお幹さんの話によると、八人の妻をもった放庵さんは、去年とうとうその八人目のおかみさんにも逃げられたということである。
|青《あお》|髯《ひげ》の五番目の妻
金田一耕助がそのつぎに会ったこの物語の主要人物は、いま鬼首村を支配しているといわれる仁礼の主人の|嘉《か》|平《へい》であった。
ここへきたつぎの夜の八時ごろのことである。金田一耕助の座敷から|鍵《かぎ》の手に折れまがった離れの小座敷から、意外な三味線の音が聞こえてきたので、耕助は思わずおやと聞き耳を立てた。それは騒々しいというのではなく、本調子というのか忍びやかなつま弾きで、それが近くを流れる渓流の音にまじって、雨垂れのようにポツンポツンと聞こえてくるのが、かえって心憎かった。
金田一耕助は立って縁側へ出てみたが、庭の植え込みのむこうの丸窓に、灯の影がさしているのがみえるだけで、ひとの姿は見えなかった。三味線にあわせて唄を歌っているのかいないのか、それも聞こえなかった。歌っているとすればよほどひくい調子だろう。
そのじぶん金田一耕助はまだ、里子が土蔵に閉じこもったきりだということをしらなかったから、娘が弾いているのかなとも思ってみたが、それにしてもそこは亀の湯の家族の住んでいる翼ではなかった。いまは農繁期だから、村のものが遊んでいるとは思えない。遠くから芸者でもつれこんだ客があるのかなと思っていると、いいあんばいにお幹さんがお茶をいれてきた。
「だれかお客さん?」
「はあ」
と、お幹さんはにやにやしている。
「どういうひと? よそからきたひと?」
「いいえ、仁礼の旦那はん」
仁礼の旦那はん……と、聞いて金田一耕助は思わず眼をまるくした。
仁礼の主人といえばたしかに名前を嘉平と聞いたが、この忙しい時期に嘉平はいったいだれと遊んでいるのであろうか。
「お客さんは仁礼の旦那はんをご存じですん?」
お幹さんは金田一耕助の顔色をみて、ちょっとさぐるような眼つきになる。
「いや、べつに。……この村でいちばんのお金持ちだと聞いてるが……で、三味線を弾いてるのはだれ? 芸者でもきてるの?」
「いいえ、おかみさんですん」
「おかみさん?」
と、金田一耕助はまた眼をまるくして、
「おかみさんがお相手をしてるの?」
「へえ」
「だれかほかにもいるの?」
「いいえふたりきりですのん」
「それで、仁礼の旦那さん、ちょくちょくここへやってくるの?」
「へえ、ちょくちょく」
「そして、仁礼の旦那さんがお見えになると、おかみさんが三味線を弾いてお相手をするの?」
「へえ、仁礼の旦那はん、去年おかみさんが亡くおなりんさったんで、お寂しんでござんしょう。うっふっふ」
お幹さんは意味ありげなふくみ笑いをあとに残して立ち去った。彼女はそれをいいたくて、茶をいれてきたものらしかった。
嘉平はそのごも三日に一度くらいのわりあいでやってきた。くるといつも離れの小座敷で、リカに三味線をひかせて、酒をのんでいくらしかった。
まえにリカはとしよりも老けて見えるといったが、それは金田一耕助のような外来者にたいするときの、よくいえば|慇懃鄭重《いんぎんていちょう》な、わるくいえば警戒的でよそよそしい態度が、そう印象づけるだけで、うちとけた村の連中のあいだでは、リカは残りの色香をもてはやされているのかもしれない。そういえば、やはり嘉平がきている晩に、金田一耕助は廊下で彼女と会ったことがあるが、|微《び》|醺《くん》をおびたリカの顔はつやつやとかがやいていて、いつもよりうんと若やいで見えるのに驚いた。
金田一耕助がはじめて嘉平と口をきいたのは、やはり風呂のなかである。ただし、このほうは共同浴場ではなくて内風呂のなかでだった。
ここへきてから八日目の晩あたりだったろう。夕食後、金田一耕助が内風呂につかって、ちかくに聞こえる渓流の音に耳をかたむけていると、脱衣場の戸をひらいて、入ってきた男があった。金田一耕助はガラス戸越しにひとめその男を見て、すぐに嘉平だと思った。嘉平は家でひと風呂浴びてきたのだろう、小ざっぱりとした浴衣をきていたが、それをくるくる脱ぎすてると、のっしのっしと風呂場のなかへ入ってきた。
「こんばんは」
嘉平はここに金田一耕助がいることを予期していたらしく、きれいな眼でわらいながら愛想よくむこうから声をかけた。
年は六十前後だろう。骨太のがっしりとした体つきだが、百姓とは思えぬくらい柔かな肉付きがみずみずしく、身の丈もゆうに七寸はあるだろう。ごま塩の頭をみじかく刈っているが、なるほど、旦那とよばれるにふさわしい、ゆったりとした人柄である。
「こ、こんばんは……」
金田一耕助はあわてて湯のなかから挨拶をかえした。
嘉平も風呂のなかへからだをつけると、じゃぶじゃぶと湯をつかいながら、しばらくあたりさわりのない話をしていたが、急にいたずらっぽい眼を金田一耕助のほうへむけると、
「ときに、金田一先生」
と、にやにやしながら、
「わたしゃ今夜はじめてここのおかみから聞いたんじゃが、あんた、磯川警部さんのご紹介でここへおいでんさったんじゃそうなな」
「はあ」
「それで思い出したんじゃが、わたしゃ先生のお名前をカネダイチと読むんじゃとばあ思うとりました。じゃけに、ここのおかみがキンダイチ先生というても、どなたのことだかわからなんだが、今夜、磯川警部さんのご紹介じゃときいて、はっと思いあたりよりましてな。あっはっは、先生はものをお書きんさるちゅうふれこみでおいでんさったそうなが……」
「いや、じ、じっさい書くことも書くんですよ」
金田一耕助は思わずどぎまぎして湯をじゃぶつかせた。嘉平は金田一耕助をしっているのである。
「はっはっは、|探《たん》|偵《てい》|譚《たん》ちゅうやつですかいな。いや、失礼、失礼」
と、嘉平はあいかわらず眼で笑いながら、
「しかし、あの磯川さんちゅうひとも執念ぶかいおかたですなあ。もっともそれだけ職務に忠実でおいでんさるというわけじゃろが……」
「それはどういう意味ですか」
「いやなあ、金田一先生、あんた二十三年まえの詐欺師の一件を警部さんからお聞きんさったろうなあ」
「はあ、ひととおりは……?」
「そのとき、警部さんはひとつの疑問をおもちなさったんじゃな。先生はそのときここのおかみのご亭主で、源治郎ちゅうもんが殺されたちゅうこともお聞きんさったろうな」
「はあ、それも聞かせてもらいました」
「ところが、その源治郎の|死《し》|骸《がい》ちゅうのんが、囲炉裏のなかへ首をつっこんどりましたんじゃそうな。それじゃけん、顔の見分けがはっきりつかなんだちゅうのが、磯川さんにはがてんがおいきんさらんらしい。つまり、殺されたんが果たしてここのご亭主の源治郎じゃったかどうかということですな。もし、そうでのうて、殺されたんが詐欺師のほうじゃったとしたら……なんしろ、相好のみわけもつきにくかったもんですけん、そういう可能性もあるわけですて。それじゃけん、もし殺されたんが詐欺師のほうじゃったとしたら、当然ここのご亭主はどこかで生きておらねばならん。生きておるとすれば、いつかここへもどってくるんじゃなかろうかちゅうのが、あのかたのお見込みのようじゃ。それで、いまもって執念ぶかくこの亀の湯へ眼をつけておいでんさるようじゃが……」
と、嘉平はそこでひと呼吸いれると、まじまじと金田一耕助の顔を見まもりながら、
「それじゃけん、ひょっとすると先生がこんどこっちゃへ、おいでんさったというのんも……」
「と、とんでもない……」
と、金田一耕助はあわててさえぎると、
「それは|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》ですよ。旦那、ぼくはただここへ静養に……」
「旦那……? それそれ、先生はわたしがだれだかちゃんとしっておいでんさる。それに放庵さんともおちかづきになっとりんさるちゅう話も聞いたが……」
「あっはっは、それじゃまるでぼくが、二十数年まえの事件を解決に乗りこんできて、あっちこっち、ほっつき歩いているように聞こえるじゃありませんか」
「ほんとうにそうじゃおありんさらんのかな」
「ぼくとしてはほんとうに単なる静養なんです。そりゃ警部さんとしては一応、昔こういうことがあったとは話はしてくれましたが……」
「そうかな」
嘉平はぼそりとつぶやいたが、そのときかれの面上をかすめた失望の色を見て、金田一耕助はおもわずおやと思わずにはいられなかった。ひょっとするとこのひとは、あの事件の再調査を希望しているのではあるまいか。もしそうだとすればなぜだろう。……
「いやなあ。金田一先生、わたしゃ、おりもおり、詐欺師がうませた父なし児ももどってくることじゃけん、なにかそのほうからでも手がかりを捜しにおいでんさったんかと思うてな」
「いや、それはほんの偶然なんです。しかし、なんでしたらそのうちに、当時の模様をきかせていただきたいですね」
「ええ、そりゃいつでも……」
「あの事件をまきおこした由良家というのは、そのごどうしてるんですか」
「ああ、あそこもあれがもとで卯太郎はんが、昭和十年に亡くおなりんさって、なにやかやとわやでしたな。それに戦後はなあ、いろいろと。……でも、ぶどう作りでどうにかやっておいでんさる」
「敦子さんという未亡人もお元気ですか」
「ああ、あのひとももうすっかりお婆さんになってしもうとりますわい。そうそう、先生」
と、嘉平はまたもいたずらっぽい眼つきになって、
「警部さんにお聞きんさったろう。あのひととあたしといちじ……あっはっは」
「はあ。……事実だったんですか」
「いやなあ、面目しだいもない話じゃけんど、むこうから、体を投げだしてきよりましたけんな、|据《す》え|膳《ぜん》食わぬは男の恥と、つい……もっとも、亡くなった親父にしれて大目玉を食らいましたけん、すぐ手は切りましたがな。あっはっは、若気のいたり……ともいえんな、わたしが四十一、あのひとが三十八のとしでしたけんな」
嘉平はてれくさそうに湯をじゃぶつかせながら、腹をゆすって笑いあげたが、すぐまたまじめな顔色にもどって、
「とにかく、そのうち、うちへもおいでんさって。いろいろ当時の模様をお話ししましょ。先生のことはだれにもいわんことにしておきますけんな」
その晩も嘉平はリカを相手に一杯飲んでかえったようだが、いつもよりよほどはやく切りあげていったようである。
金田一耕助はそのごも昼の共同浴場で、放庵さんに会うことがあったが、かれのほうからはじめて放庵さんの住まいを訪れたのは、八月七日の夕方のこと、ここへ来てからちょうど二週目のことである。
あとから思えば、これから金田一耕助が遭遇するであろうあのむごたらしい事件の最初の糸口に、その日、かれはそれとしらずにタッチしているのである。
放庵さんの|侘《わ》び住まいは、亀の湯から歩いて半時間ほどの距離にあり、したがって亀の湯にいちばんちかい人家というのが放庵さんの住まいであった。そして、そこからまた十五分ほど歩いていったあたりから、鬼首村の部落が点々として|展《ひら》けているのである。
放庵さんの侘び住まいは、山陰のかなり大きな沼のほとりにちんまりと建っている。金田一耕助が訪れたとき、沼のなかには白いひしの花がいちめんに咲いており、屋根のうえにからかさをひろげたように枝を張った松のどこかで、ひぐらしがあわただしい音を立てていた。
それは文字どおりの侘び住まいで、囲炉裏をきった茶の間兼台所のほかに、四畳半がひと部屋あるだけで、屋根には瓦もおいてなく、壁も荒壁のままで、天井も天井板のかわりに張った細かい竹を編んだのが、時代をおびて赤茶けた色にくすんでいる。風雅といえば風雅だけれど、心細いといえば心細いことこのうえもない。
しかし、さいわいきれいずきなひととみえて、掃除がよくいきとどいているので、みかん箱に|反《ほ》|古《ご》を貼って作った机をあいだに、放庵さんと向かいあって|坐《すわ》っている金田一耕助にも、不潔なかんじは抱かせなかった。
「どうじゃな、金田一先生、よい住まいじゃろうがな」
放庵さんはなぜかきょうは、ひどく上きげんで元気がよかった。
「こうして、水のうえをわたってくる風は天下一品、この村でもこれだけの家をかまえているやつはほかにあるまいて。わっはっは」
なるほど、沼のうえを吹いてくる風はひんやりと肌に快かったが、そこはかとなくにおうてくる古沼の臭気は閉口である。しかし、慣れればそんなことも気にならないのだろう。
「金田一先生、あんた、ほんとによいところへ来てつかあさった」
「はあ、なにか……?」
「いやなあ、じつはだれかに頼みにいこうかと思うとったところじゃが、またばかにされるのも|業《ごう》|腹《はら》じゃ思うてな、迷うとりましたところでした。ちょっとこれを見てつかあさい」
放庵さんがなぜかほおをうすくそめながら取り出したのは、柄にもなくなまめかしい桃色の封筒である。
放庵さんはてれたような微笑をうかべて、
「先生もこっちゃへおいでんさってから、もう十日以上にもおなりんさるけん、わしのことも聞いておいでんさると思うが、わしという人間は、わかいときから八人家内を取りかえましてな。聞いておいでんさろうな」
「はあ、それは……」
と、金田一耕助は相手の顔を見直した。
八人の妻を|娶《めと》ってつぎつぎと殺していった西洋の|青《あお》|髯《ひげ》はおそらく凶悪無残な面構えをしていたであろうのに、いま眼のまえにいるこの青髯さんは、ひどくおだやかで上品でさえある。しかも相当|荒《こう》|淫《いん》な生活を送ってきたであろうのに、それもさほどこたえなかったのか、年に似合わぬみずみずしさをたもっている。老醜のかげもそれほど濃くはなかった。
「八人の家内のうち、こっちゃから気にいらないで追いだしたのもあるし、むこうから愛想をつかして逃げていきよったのもおります。若いうちは追い出したほう、五十を過ぎると逃げだされよったほうじゃな。あっはっは」
と、放庵さんはつるりとほっぺをなでると、
「そいで、ここへ手紙をよこしよったのは、わしが五人目にもった家内で名前をおりんといいますのじゃが、それがわしのところへもどってきたいというてよこしよりましてなあ」
金田一耕助は思わずどきりと|瞳《ひとみ》をすえた。青髯さんの五番目の妻のおりんといえば、昭和七年の事件の当時の妻ではないか。
放庵さんはしかし、金田一耕助の顔色に気がつかぬようすで、
「ちょっとこれを読んでみてつかあさらんか。べつにいやらしいことは書いてないでな」
と、子供のようにうれしそうである。
金田一耕助はしかたなしに、放庵さんにつきつけられた婦人用の|便《びん》|箋《せん》に眼を落とした。
そこにはわりに|暢達《ちょうたつ》な女文字で、じぶんも寄る年波でだんだん心細い身のうえである。風の便りに聞けば、そちらもいまおひとりだということだが、なんならそちらへ戻っていっしょに暮らしたいがどうであろう。おたがいに昔のことは水に流して、老いさきみじかい身のうえを、仲よくいっしょに送ろうじゃないかというような意味のことを、老いの繰り言のように綿々と繰りかえしてあった。
「なるほど」
と、金田一耕助はちょっと胸をうたれて、
「これは結構なことですね」
と、便箋をかえすと、放庵さんは眼をかがやかせて、
「先生もそう思うてつかあさるかな。わしもな、当時は憎いやつじゃと思うたが、こうしてわび|言《ごと》いれてくるとまたかわいい、そいでさっそく返事を出してやろうと思うんじゃけえど、なにせこれじゃろ」
と、放庵さんはぶるぶるふるえる右手を出してみせた。その手はながく使わぬと見えて、左手にくらべるとよほど退化しているようである。
「それじゃけん、だれかに代筆を頼まんならん思うとりましたところへ、先生がきてつかあさったというわけじゃ。すまんけえど、ひとつわしのいうとおり書いてやってつかあさらんか」
「承知しました。おやすいことです。わたしでお役にたつことなら……」
と、金田一耕助が快諾すると、
「そうか、そうか、それはありがたいことじゃ。それじゃさっそく……」
放庵さんはうれしそうにいそいそしながら、みかん箱の机のうえに便箋や封筒に万年筆までとりそろえて出し、
「それじゃ、こういうふうに書いてやってつかあさい」
と、放庵さんの口写しで、金田一耕助が書きあげたのは、そういうわけならいつでもかえってこい、こちらもひとりで不自由しているところだから、こんごは仲よく暮らしていこう、じぶんも寄る年波で気も練れて、昔のようなむちゃはしなくなったから、けっして粗末にはしない、この手紙見しだいかえってくるように……と、だいたいそういう意味のことを、放庵さんとしてはできるだけ威厳をたもって述べたかったのであろうけれど、うれしさがさきに立つのか、つい|下《した》|手《て》から出そうになるのを、金田一耕助が適当にひきしめた。
放庵さんはそれを読みかえしてみて、
「先生、これはありがとうござんした。おかげで助かりましたがなあ」
「ついでに上書きも書いてあげましょう」
と、おりんさんの手紙の封筒を裏返して、
「神戸市兵庫区西柳原町二ノ三六、町田様方栗林りん殿……」
と、書きながら、
「放庵さん、これはなかなかうまい字ですが、おりんさんの筆跡ですか」
「なんの、なんの、あれがなんでこねえに上手に書きよりますもんかいな。わしとおんなじで、だれかに代筆してもらいよりましたんじゃろ」
五番目の妻がかえってくるというので、放庵さんが子供のようにころころよろこんでいるこのさいだけに、金田一耕助も、あの事件の話をもち出すことがはばかられた。だから、結局、その日の訪問は、放庵さんの代筆をしにいったような結果におわったのもやむをえない。
鬼首村の興奮は日を追ってたかまってくるようである。それは大空ゆかりが十一日にこちらへ着くという報告が、正式に入ったためらしい。亀の湯の共同宿舎の娯楽室には毎晩のように村の青年男女が集まって、歓迎会の相談によねんがなかった。
大空ゆかりがかえってくるというまえの日、すなわち八月十日は昭和十年に死亡した由良の卯太郎旦那の|祥月命日《しょうつきめいにち》とやらで、亀の湯のリカは昼過ぎから法事の手つだいに出向いていったが、その夕方、金田一耕助は用事があって仙人峠をむこうへ越えた。峠を越えると兵庫県で、そこに|総《そう》|社《じゃ》という小さな町がある。金田一耕助はその町にちょっとした用事をひかえていて、もしおそくなったらむこうへ泊まるつもりだった。亀の湯にもそういいおいて出てきたのである。
金田一耕助が峠へさしかかったころには、あたりはもうすずめ色にたそがれて、峠のこちらにもむこうにも、そろそろ灯の色がまたたきはじめていた。
ちょうど峠のてっぺんあたりで、金田一耕助はひとりの老婆とすれちがった。
老婆は手ぬぐいを姉さまかぶりにして、背中に大きな風呂敷包みを背負っていた。そのために上体をふたえに折りまげるような姿勢で歩いてくるので、顔はまるで見えなかった。手ぬぐいの下から白髪がほおけ出ていたのと、こまかい|縞《しま》のもんぺをはいているのが印象に残ったくらいである。足にはねずみ色によごれた白足袋をはき、|尻《しり》切れ草履をつっかけていたようだ。陽焼けを防ぐためか、脚に脚半をまき、手に|手《てっ》|甲《こう》をはめていたような気がする。……
と、それものちになって思いあわせただけのことで、そのときはそれほどふかく気にとめたわけではない。
すれちがうとき、老婆はいっそうふかく|頭《こうべ》を垂れて、口のうちでもぐもぐつぶやいた。それを聞いて金田一耕助は思わずはっと立ちどまったのである。
「ごめんくださりませ。おりんでござりやす。お庄屋さんのところへもどってまいりました。なにぶんかわいがってやってつかあさい」
辛うじてききとれるていどの声でそれだけいうと、老婆はぴたぴたと尻切れ草履をならしながら、鬼首村のほうへ峠をくだっていった。
あとになってそのときの情景を思いうかべるたびに、金田一耕助はいつも肌に|粟《あわ》を生じるのを禁じることができないのである。
この老婆にはほかにも五、六人いきちがったものがある。老婆はそのたびにおなじような口上を繰りかえしていったというがそれでいて、まえかがみのあの姿勢と、おりからの薄暗がりのために、だれも彼女の顔をはっきり見たものはなかったのである。
昭和三十年八月十日の|逢《おう》|魔《ま》が|時《とき》を、みずからおりんと名乗る老婆が、それこそ通り魔のように仙人峠をこえてこの鬼首村へやってきたのだ。血も凍るような恐怖と|戦《せん》|慄《りつ》と、不可解な|謎《なぞ》のかずかずを、あのまがまがしい風呂敷にくるんで。……
しかし、その夕方、金田一耕助はそんなこととは夢にも気がつかなかった。
「ああ、あれが青髯さんの五番目のおかみさんのおりんさんか」
金田一耕助はそのときむしろほのあたたかいものを胸に抱いて、そのままくるりと|踵《きびす》をかえすと、すたすたと仙人峠をむこうへくだっていったのであった。
グラマー・ガール故郷へ帰る
なるべくならばその夜のうちに亀の湯へかえるつもりで、懐中電灯の用意までしてきた金田一耕助だったが、けっきょくその晩、総社で一泊しなければならなくなったというのは、九時ごろになってとつぜんこの地方一帯をおそった大雷雨のせいである。
山国の気象の変化のはげしさは、金田一耕助もよくしっているが、それにしてもその夜の大雷雨のものすごさは、かれにとってもひさしぶりの経験であった。山から山へと鳴りはためく雷鳴のすさまじさは、文字どおり大地をゆさぶるようであった。たとえにも車軸をながすという大夕立ちが、二時間にわたって降りつづいた。
さいわい金田一耕助は、まんいち総社の町に泊まらなければならぬ場合のことをかんがえて、亀の湯のリカからきいてきていたので、井筒というひなびた|旅《はた》|籠《ご》へかけこんだ。井筒のおかみのおいとさんというのが、鬼首村から嫁にきているのである。
そのおいとさんがおおあわてで雨戸をしめはじめた離れ座敷の縁側に立って、仙人峠のほうへ眼をむけると、まっくらな空をひきさき、ひきちぎり、眼もくらむような稲妻である。間断なく鳴りはためく雷鳴のさなかに、おりおりずしいんと|肚《はら》の底までひびきわたるような音がするのは、あちこちに落雷でもしているのか、滝のように降りそそぐ雨のなかに、火柱のようなものが望見されたりした。
それにしても――と、金田一耕助はかんがえるのだ――こんやは放庵さんと放庵さんの五番目のおかみさんとのたえて久しい交歓の夜なのだが、これはまたたいへんな荒れ模様になったものだと、おかしいようでもあり、また、気のどくのようでもあった。
だが、しかし……
もしそのとき金田一耕助が、ちょうどそのころ、あの古沼のほとりにある放庵さんの草庵のなかで、いったいなにが演じられたか、いやいや、げんにいまどのようなことが進行しつつあるかということをしっていたら、こうのんきには構えていられなかったであろう。
それはさておき、さしもの大雷雨も十二時ごろには|鉾《ほこ》をおさめて、一夜明ければゆうべのことは忘れたような上天気だった。
十時ごろ停電になったり、あちこちに雨漏りがするというさわぎで、なかなか寝つかれなかった金田一耕助が、その翌朝、井筒の離れ座敷でぼんやり眼をさましたのは九時すぎのことである。かれが眼をさましたのは遠く聞こえる花火の音のせいらしい。ねぐるしい寝床のなかでうつらうつらと花火の音を聞きながら、ああ、そうか、きょうはグラマー・ガールがかえってくる日であったなどと、金田一耕助はまだゆめうつつの境である。
大空ゆかりが故郷へ錦をかざる日には、朝から花火を打ちあげようではないかと、村の青年たちが相談していたのを、金田一耕助はぼんやり思いだしたりしていたが、そのうちに雨戸のすきからさしこんでくるかがやかしい陽の光にきがつくと、しまった! とばかりに、はじめてはっきり眼がさめた。
金田一耕助は寝床のうえに起き直ると、あわてて枕もとの腕時計をとりあげる。時計の針は九時三十分をしめしている。いそいで雨戸をいちまいくってみると、外はまぶしいばかりの日ざしである。
金田一耕助はがっかりしたように眼をしょぼつかせた。かれはけさできるだけはやく起きて、涼しいうちに鬼首村へかえるつもりで、おかみにもそういっておいたのである。総社から鬼首村まで一里半、約一時間半の行程だが、夏の日盛りに峠をこすのはうんざりである。たとえ人力車を利用するとしても、日除けの|幌《ほろ》のむし暑さを、かれは二度と経験する気にはなれない。
「ごめんさりませ。いちど起こしにまいりましたんじゃけえど、あんまりよう寝ておいでんさりましたもんじゃけん……」
金田一耕助が朝とも昼ともつかぬ食事の膳についたのは、もう十時をまわっていたが、みずから給仕にでたおかみのおいとさんが、恐縮そうに肩をすくめた。
「いやあ、いいですよ。べつに用事があるというわけじゃなし、ついでのことにきょうはいちにちこちらにいて、涼風が立ってからかえることにしましょう」
「ほんにそうおしんさりませ。ゆうべの夕立ちで少しは涼しなると思うとりましたのに、このまあ、暑いこというたらなあ」
おいとさんはいかにも暑そうに、|小千谷縮《おぢやちぢみ》の袖口で小鼻の汗をおさえている。ポンポンと炎天下に打ちあげる花火の音が、いっそう暑さをかきたてるようだ。
「それにしても、ゆうべの夕立ちはひどかったね。どこにも被害はなかったかしら」
「鬼首の裏山にふたつ三つおさがりがあったいうとりますけえど、あないににぎやかに花火を打ち揚げてるところをみると、べつにたいしたことはなかったんでしょうなあ」
おいとさんはそこでまじまじと、金田一耕助の顔を見まもりながら、
「それはそうとお客さんは亀の湯へご逗留じゃそうですけど、大空ゆかりというひととなんか関係でもおありんさるんで……?」
「いやあ、べつに……とんだところへきあわせたもんだと思ってるんだが、なにしろたいした人気だね。おかみさんはあの娘を……?」
「いいえ、千恵ちゃんのほうはようしりません。お母さんの春江さんのほうやったら……」
おいとさんの年はもうかれこれ五十だろう。昭和三十年のことしで五十前後とすると、あの事件の起こった昭和七年ごろは、すでに結婚しているはずだが……。
しかし、金田一耕助はきいてみた。
「おかみさんは昭和七年ごろには、もうこちらへお嫁にきていたんだろうねえ」
「へえ、もうこっちへきて子供もできとおりました。そうじゃけんどなあ。お客さん、春江さんというひと、ちょくちょくこの家へきたんですぞな、男といっしょになあ」
と、おいとさんは妙な笑いかたをする。金田一耕助は思わずはっとした。
「男というと、詐欺師の恩田という男?」
「あれまあ、お客さんもあの話しっておいでんさるんかなあ」
「そりゃもう二週間も逗留してるんだし、それに大空ゆかりのことがあるから、しぜんあのじぶんの話がでるんでね。それじゃおかみさんは恩田という男をしってるんだね」
「はあ、さいしょお庄屋さんが紹介しておよこしんさりましたん。ご存じかなあ。お庄屋さんを……」
「よくしってる。多々羅放庵さんだろう。おたくへあそびにいったこともある」
「あれまあ、そうですん? うれしいことをなあ。わたしはなあ、お客さん、お庄屋さんにはわかいじぶんからずいぶんかわいがってもろうたんですぞな。いろいろお世話になりましたん。この家へ世話あしてつかあさったもお庄屋さんですん。ほんまに世話ずきなええかたじゃけんど、あんまりおひとが好すぎるもんじゃけん、|狡《こす》いやつにだまされんさって、ほんまにおいとしいと思うとりますん」
放庵さんをしっているということで、がぜん信用をはくしたらしく、おいとさんの話しぶりには熱をおびてきた。
「そうそう、そういえば恩田という男、放庵さんのうちの離れを借りてたんでしたね」
「そうですん。そうじゃけんどなあ、そこじゃしんみり話もできにくいいうわけじゃろう、ここでこっそり会うとりましたん。そのじぶん春江ちゃん、まだやっと十七やったと覚えとおります。こっちは商売じゃけんど、十七じゃはやすぎる、いまどきの娘はゆだんがならんなどと、|亡《の》うなった父さんとも話しとおりましたん。お庄屋さんはあねえな|捌《さば》けたおかたじゃけん、ほっとけ、ほっとけ、ひとの恋路の|邪《じゃ》|魔《ま》あすると、馬に蹴られて死んじまうよ、などと笑うておいでんさりましたけんどなあ」
「それじゃ、あの事件が起こったときには、さぞびっくりしたろうねえ」
「それはもう……」
「それで、警察ではしってたの? 恩田がここを|逢《あ》い引きの場所につかってたってこと?」
「それがなあ、お客さん、こうですん」
おいとさんはいくらかひざをのりだすようにして、
「亡うなった父さんいうひとが、とても気の小さいひとでなあ、そのことを苦に病んどおりましたん。それでお庄屋さんに相談したところが、お庄屋さんのおいいんさるには、ほっとけ、ほっとけ、そら、むこうから……というのは警察ですわなあ、警察のほうから調べにおいでんさったら、なにもかも正直にいわないかんが、逢い引きの宿をしたぐらいのこと、いちいちいうて出ることはない、ほっとけ、ほっとけ、と、こうおいいんさるもんじゃけんな。そしたら警察でも気がつかなんだかして、そのままになってしまいましたん。お庄屋さんというひとは、警察なんか眼中にないおかたじゃし、それに、ほっとけ、ほっとけいうのがあのかたの口癖でしてなあ。もっとも、なにもかもほっとかれたもんじゃけん、あないなことになっておしまいんさったんじゃけんどなあ。ほっほっほっ」
お庄屋さんの話をするとき、おいとさんの眼のなかにはいかにも懐しそうな色が|揺《よう》|曳《えい》する。それはけっして悪いかんじではなかった。
「ところで、恩田という男は、けっきょく身許もわからずじまいだったということだが、おかみさんもしらなかったの、あの男の身許を……」
「それがなあ、お客さん、わたしなんか、あのひとがどこの馬の骨であろうが牛の骨であろうが、かもうたことはなかったんじゃけんど、いとおしかったのは春江ちゃんでしたなあ。あのあとなにか便りはないかと、さいさいここへおいでんさっては、せんどお泣きんさったもんじゃけえど、そのときうまれた赤ん坊が、あないにりっぱにおなりんさって……人間の運いうもんは、わからんもんですいなあ」
おいとさんにとってはもっともな感慨だったが、金田一耕助にとってはもっと気になることがべつにあった。
「ひょっとするとお庄屋さんは、なにかしっていたんじゃないかな」
「さあ、それはわかりません。あのかたのことじゃけんなあ。あのかた、昔からどっか超越したようなところのあるかたじゃったけんなあ。それになあ、お客さん、わたしにはどうしても恩田というひとが、あげえな悪いことをするひととは思えませんのん。亡うなった父さんなんかもそういうとりましたんよ。それはまあ、年もわかかったしするもんじゃけに、いろいろ罪つくりなことはしておいでんさりましたけんどなあ」
「罪つくりなこと……?」
おいとさんの言葉を聞きとがめて、金田一耕助は思わずあいての顔を見なおした。
「そうすると恩田という男は、ゆかりのおふくろさんのほかにも女を……?」
「あれまあ、わたしとしたことが……」
おいとさんはあきらかに口をすべらせたのである。金田一耕助につっこまれると、はっとしたように|狼《ろう》|狽《ばい》の色をみせて、
「いいえなあ、お客さん、それもこれも遠い遠い昔の話ですぞなあ。それではごゆるりと……お昼はお抜きんさるんでしたなあ」
年がいもなくしゃべりすぎたのを悔むかのように、おいとさんはお膳をかたづけると、そうそうにして引きあげた。
そのうしろすがたを見送りながら、金田一耕助の頭脳は忙しく回転している。
いまのおいとさんの言葉によると、恩田には春江のほかにも女があったらしい。しかしそれがだれであったにしろ、磯川警部の口にのぼらなかったところをみると、その醜聞はヤミからヤミへと|隠《いん》|蔽《ぺい》されて、おいとさんのような稼業のものにしか気づかれずにすんだのであろう。いずれにしてもあの当時、井筒の存在を見落としていたというのは、捜査当局の大きな手抜かりだったのではないか。
だが、しかし、それもこれも、いまおいとさんがいったように遠い昔の話なのである。
金田一耕助は気をかえて、さっきおいとさんがもってきてくれた新聞をとりあげた。社会面をひらいてみると、大空ゆかりの記事でいっぱいである。
そこにはゆかりの写真のほかに、彼女が蓼太夫婦のために建ててやったいわゆるゆかり御殿の写真などもでている。おなじ村に十日あまりも滞在しながら、亀の湯とは方角がちがうので、金田一耕助はまだその家を見たことがなかったが、写真で見るとなるほどりっぱだ。建築様式は主として蓼太夫婦の希望によるものだそうだが、東京から大工がきて建てたというだけあって、山の手のお屋敷というかんじである。
それはさておき、金田一耕助はなにげなくこの記事を読んでいくうちに、おやと思うような名をふたつ発見した。
昭和二十年三月、神戸の大空襲にあって母とともに疎開してきたゆかりの千恵子は、かぞえ年で十三だった。当然、彼女は鬼首村の小学校で一年すごしているのだが、当時の同級生由良|泰《やす》|子《こ》と仁礼|文《ふみ》|子《こ》というふたりの娘が、ゆかりについて懐旧談をしているのである。その懐旧談はべつとして、仁礼といい由良という姓が金田一耕助の注意を引いた。
ゆかりの同級生といえばことし二十三である。年格好からいって、泰子というのは卯太郎旦那の、そしてまた、文子というのは仁礼嘉平の娘なのではあるまいか。さらにまた、二十三といえば、亀の湯の里子も、同年であり、当然、同級生だったはずである。
この発見は金田一耕助に一種異様な感慨を催させた。
仁礼家のほうはそれほどではないにしても、由良家と青池家とはゆかりの父とふかい因縁にむすばれているはずである。げんに里子の父はゆかりの父に殺されており、泰子の父もゆかりの父のことがもとでこの世を去ったのだ。古風ないいかたをすれば、ゆかりは泰子や里子にとって父のかたきの娘なのだ。しかもいちばん悪いことをしたはずの詐欺師で殺人犯人の娘が、いま故郷へ錦をかざろうとするのを、敵どうしであるはずの由良の娘が、たとえ外交辞令にもせよ、歓迎の辞をのべているのである。
鬼首村の花火はその後もつづいていたが、正午過ぎになると総社の町でも打ち揚げ花火がはじまった。金田一耕助がおどろいていると、おいとさんがガラス鉢に山盛にした水蜜桃をもってはいってきた。彼女もやっぱりなにかと話をしたいらしいのである。
「桃がひえておりますけんおあがんせえ」
「いや、それはありがとう。ときにおかみさん、この町でも花火がはじまりましたな」
「ほんまにぎょうさんなことですえなあ、まるでお天子さまのお越しのようで……」
と、おいとさんも水蜜桃の皮をむきながら苦笑している。
戦争中、軍が神戸から作州へ通ずる軍用道路をつくったが、それがこの町のはずれをとおっており、いまではバスが走っている。大空ゆかりはその道を自動車でやってくるのである。
念のために耕助が由良泰子と仁礼文子のことをきいてみると、やっぱりかれの想像したとおりであった。ついでにおいとさんの語るところを聞くと、由良家はいま五人家族だが、その一家を支配しているのは、ことし八十三になる|五《い》|百《お》|子《こ》という隠居さんで、さすが|八《はち》|幡《まん》さんの敦子もこの姑には頭があがらぬという。ちなみに八幡さんというのは|神《じん》|功《ぐう》皇后のことで、すなわち男まさりという意味だそうな。
「あっはっは、すると敦子さんという人はそんなに男まさりなのかね」
「それはもう昔からの評判ですん。そうじゃけんどなあ、お客さん、たとえにも女さかしゅうして牛売りそこなうというとおり、女のあんまり利口ぶるのんも困りもんで、あの恩田さんにひっかかりんさったちゅうのんも、もとはといえば敦子奥さんが旦那におすすめんさったんじゃいう話ですん」
「つまり|雌《めん》|鳥《どり》が勧めて、|雄《おん》|鳥《どり》が時を作ったというわけかね」
「そうそう、それですん。旦那はどちらかいうとおっとりしたかたじゃったけんど、敦子奥さんいうかたが負けん気いっぽうのかたでしてなあ、仁礼の家に負けまいちゅうところから、あがいなことになったんですよ。そうじゃけん、それからのちというもんは、お姑の五百子ご隠居にねっからあたまがおあがりんさらんちゅう話ですん」
さて、ほかの三人というのは跡取り息子の|敏《とし》|郎《お》と嫁の|栄《えい》|子《こ》、それから新聞に名前のでている泰子である。敏郎と泰子のあいだに男と女がひとりずつあったが、男のほうは戦争でとられ、女のほうはお嫁にいっているので、いま由良の家にいるのは以上五人である。敏郎はもうかぞえ年で三十五になっているが、一昨年シベリヤから復員してきて、去年結婚したばかりなのでまだ子供はない。
「敏郎さんもお気のどくに、ひさしくシベリヤへとめおかれて、やっとのことでかえっておいでんさったら、|田《たん》|圃《ぼ》も畑もとられてしもうて……やっぱり悪いことして殖やした|身《しん》|上《しょ》じゃけん、長持ちせなんだんじゃろうとみんなでいうとりますん」
「ああ、そう、お庄屋さんをだました|狡《ずる》いやつというのは由良家のことなの?」
「卯太郎さんはさっきもいうたとおり、三代目型の、おっとりしたおかたじゃったけんど、そのまえ二代つづいてなあ、評判の|因《いん》|業《ごう》なかたじゃったという話ですん」
ついでに仁礼家のことをきいてみると、こちらはいま八人家族、すなわち去年やもめになった嘉平を筆頭に、跡取り息子の|直《なお》|平《へい》と嫁の|路《みち》|子《こ》。直平はことし三十六だけれど、終戦後いちはやく満州からかえってくると、すぐ結婚して子供が三人あるという。ほかにことし二十六になる次男の|勝《かつ》|平《へい》と末の娘の文子とつごう八人。嘉平にはほかに娘がふたりあるが、これはむろん嫁にいっている。
「ところがねえ、おかみさん」
と、おいとさんの話がきれるのを待って、こんどは金田一耕助が口をひらいた。
「わたしいまこの新聞をよんで妙な気がしたんですよ。恩田の娘と由良、仁礼両家のお嬢さん、それに亀の湯の娘と、四人みんなおないどしで、おなじクラスにいたというのはねえ」
おいとさんはすぐに返事をしなかった。うつむいて水蜜桃をむいているので表情はわからなかったが、しばらくして口をきいたとき、なぜか声がかすれているようであった。
「それですん、お客さん、そうじゃけんな、お庄屋さんなんかも心配おしんさって」
「お庄屋さんはどう心配しているの?」
「いいえなあ、春江のやつ、札びらきって家を建てるのはかってじゃけんど、なんにも千恵子をこがいな田舎へつれてこいでもええじゃないかと、そういうておいでんさった。なにかまた、ひょんなことが起こらなええがと……」
「おかみさんはなにかへんなことが起こりそうな気がするの?」
「いいえ、それはお庄屋さんですん。もっとも、あのかたのことじゃけん、面白がってもおいでんさる。お客さん、桃がむけましたけんおあがんさい」
おいとさんはなぜかまぶしそうな顔をして、金田一耕助の視線をさけるようにしている。
「いや、どうもありがとう」
つめたく冷えた桃のひときれを口にいれながら、金田一耕助は考える。
このひとたち……お庄屋さんとこのひとは、なにかしっているのである。昭和七年の事件の背後にかくされている、なにかしら重大な事実を。……しかし、それはいまさらきいてもいうまい。
「ときに……」
と、金田一耕助は水蜜桃をほおばりながら、思いだしたように切りだした。
「おかみさんはおりんさんというひとをしってるだろうね。お庄屋さんの五番目のおかみさんだったってひと……」
「はあ、ようしっとりましたけんど……?」
おいとさんは、いぶかしそうな眼つきである。
「あのひとがね、こんどお庄屋さんのところへかえってきたんだよ。あっはっは」
金田一耕助の胸にはそのとき、ある温かいものが去来していたのだが、それに反しておいとさんはあきれたように眼をみはり、
「お客さん、そ、それ、どういう意味ですん?」
と、たたみかけるような調子であった。
「どういう意味って、おたがいに寄る年波だから、仲直りをしようじゃないかって、おりんさんのほうからいってきたのさ。それでぼくが、返事の代筆をしてあげたんだがね」
と、金田一耕助がこのあいだのいきさつから、ゆうべ峠でおりんさんと名のる老婆にあったことなど語ってきかせると、おいとさんの顔色はみるみる|藍《あい》をなすったように青くなった。
金田一耕助はびっくりして、
「おかみさん、ど、どうかしたの? おりんさんがかえってきちゃいけないのかい?」
「いえ、あの、それで、お客さん」
と、おいとさんは呼吸もきれぎれの調子で、
「お庄屋さんはなんというておいでんさりましたん? おりんさんの手紙のことで……?」
「そりゃもう大よろこびだったよ。子供のようにころころよろこんでいられた。だけど、おかみさん、あっ、ど、どうしたんだ」
おいとさんの顔色があまり悪く、いかにも気が遠くなりそうな眼つきをするので、金田一耕助がびっくりして、思わず腰をうかしかけたとき、表からわっと|喊《かん》|声《せい》をあげて、わかい男女が乱入してきた。
|新《にい》 |盆《ぼん》
こういう旅人宿ではどこでも共通した構造だが、表から裏まで通り庭になっている。その通り庭を威勢よく、どやどやと入りこんできたのは鬼首村の青年男女である。男が三人、女がふたりいるなかに、亀の湯の歌名雄もまじっていて、男はみんなうきうきしていた。
「あれまあ、みなさん、おそろいで……どないおしんさりました?」
あやうく失神しそうになっていたおいとさんにとっては、五人の青年男女の出現はよい気付けぐすりになったらしい。あわてて袖口で涙をぬぐうと、
「なにか急なご用でも……?」
「お母ちゃん、お母ちゃん」
青年たちのなかにまじって、ほっぺたをすもものように真っ赤に興奮させているのは、井筒のわかい嫁のお照さんである。
「えらいこってすん。いま勝平さんから聞いたんじゃけんど、大空ゆかりちゃんが、ここへおいでんさるんじゃっと」
「あれまあ、千恵子ちゃんがここへ……? そらまたどげえなことぞいな」
「どげえもこげえもありゃせんがな」
と、縁側のはしにどっかと腰をおろして、
「ありゃ、ええもんがあるぜ」
と、遠慮なく水蜜桃に手をのばした青年がわざと眼玉をくるくるさせながら、
「おばさん、びっくりしたらあかんぜ。千恵ちゃん、村へかえってくるまえに、ここへ寄ってひとやすみしてくちゅうて、さっき神戸から役場へ電話がかかってきよったんじゃがな」
と、話しながらむしゃむしゃ桃をかじっている。
金田一耕助もこの青年をしっていた。亀の湯の共同宿舎の娯楽室で、村の青年男女の集会があるとき、いつも歌名雄といっしょに音頭をとっているのがこの青年で、みんなから勝っちゃんとよばれているが、さっきのおいとさんの話によると、これが嘉平旦那の次男勝平であるらしい。口をきくとき、いたずらっぽく眼玉をくりくりさせるところが、嘉平旦那によく似ている。男振りや体の大きさはおやじさんよりも落ちるようだが、それでもきょうは髪などきちんと左わけにして、開襟シャツながら小ざっぱりと、大いに男振りをあげているのである。
「あれまあ、歌名雄さん、そらほんまのことですん?」
「ああ、おばさん、ほんまのことじゃ」
と、歌名雄は落ち着いてにこにこしている。もっともこの青年はいつも落ち着いてにこにこしているのである。
「それで、あんまりだしぬけにおしかけていて、おばさんがあわてんさったらいかんけん、あらかじめしらせておいてほしいちゅうて、千恵ちゃんのお母さんから電話でことづけがあったんじゃそうな。それでぼくら助役さんにたのまれてしらせにきたんじゃ」
「はれまあ、はれまあ、春江ちゃんたら、ほんならわたしのことを覚えていてつかあさったんかいな」
おいとさんはおろおろしながら大感激である。
もし、仮においとさんに多少なりとも、ゆかり親子にたいする反感があったとしても、おそらくそれはこの瞬間に雲散霧消したことであろう。
「そら、覚えとったからこそ、ここへ寄るいいよるんじゃろう。いやいや、おいいんさるんじゃろう。おばさん、しっかりせなあかんぜ。|国《こく》|賓《ひん》待遇じゃけんな」
「いやな兄ちゃん、国賓待遇やなんて」
「文子、国賓待遇いうたらいかんか」
「いかんわ、あんまり大げさやもん。なあ、泰子さん」
「うっふっふ」
「そら、勝っちゃん、いうならば村賓待遇じゃ。なあ、五郎やん、そうじゃないか」
「さあ、ぼくはノーコメントとしとこ。叔母さんのこっちゃけんな」
「五郎やん、その叔母さんはやめとけ。千恵ちゃんがかわいそうじゃけん」
歌名雄が例によって落ち着きはらって注意する。
五郎やんというのはどうやら別所蓼太の孫らしい。もしそうだとすると血筋のうえではゆかりの千恵子といとこどうしだけれど、戸籍のうえでは千恵子のほうが五郎の叔母になっている。五郎やんは二十二、三であろう。
「あっはっは。村賓待遇か、えろう下落しよったな。おっと|歌《か》あさんも五郎やんも、桃、よばれえな。よう冷えとるぜ。おばさん、ええじゃろう」
「ええ、ええ、どうぞ、どうぞ。照ちゃん、なにをぼんやりしておいでんさる。桃、もっともっておいでんせえ。それで勝平さん、春江ちゃんや千恵ちゃん、何時ごろこっちゃへお着きんさるん?」
「おっと、それそれ、四時ごろこっちへお着きあそばすちゅう話じゃ。いま二時ちょっとまえじゃけに、もう二時間ばあある」
「まあまあ、それでみなさん、わざわざそれをしらせにきてつかあさったんかいな」
「いや、それもあるけんど、ついでのことに、ここまで迎えにきよったんじゃがな。なにせ国賓待遇の女性じゃけんな」
「まあまあ、それで文子さんや由良の|嬢《と》うさんまで……」
おいとさんはなぜかのどのつまったような声である。
「いやなあ、おばさん、この連中、あんまり冷淡にかまえとると、いかにもゆかりちゃんの立身出世をけなれる[#「けなれる」に傍点](ねたむ)がっとるように思われるじゃろ。そで節を屈して迎えにきよったんじゃがな」
「あれ、まあ、憎らしい、兄ちゃんたら! そないなことをおいいんさるなら、わたしらさっさとかえってしまうわ、なあ、泰子さん」
「うっふっふ」
「あっはっは、ごめん、ごめん、いまのは取り消し。ありようをいうとな、おばさん、|歌《か》あさんが誘いよったんじゃ。そうしたらもう、一も二もないんじゃよ。村の女子青年の連中、歌あさんのいうことならなんでも聞きよる」
勝平は憎まれぐちをたたきながら、むしゃむしゃと水蜜桃をかじっている。しかし、その憎まれぐちには毒はなかった。
「歌あさんは村のロメオじゃけんな」
五郎やんも水蜜桃にかじりつきながらケロリといった。五郎やんはさしずめ三枚目という役どころらしい。
「勝っちゃんもつまらんことをいうのはやめとけ」
さすがに歌名雄は陽やけした顔に朱をはしらせて、
「それよりおばさん、なんぞ支度があるのんとちがうか。なんなら手伝うてあげてもええぜ」
「あれまあ、わたしとしたことが、ぼんやりしてしもうて、照ちゃん、さっそく裏のおばさん呼んできてつかあさい。座敷の掃除でもしとかんことには。……みなさんはここで千恵ちゃんたちを……」
「はあ、待たせてもらおおもうとります」
「ああ、そうそう、歌名雄さんはこっちゃのお客さんをしっておいでんさろう。おたくのお客さんじゃけん」
「はい、よう存じております。金田一先生、失礼しました」
「いやあ、歌名雄君、たいへんだね」
「あっはっは。おからかいんさってはいけません。これも郷土の名誉ですけんな。おばさん、こっちゃはええけん、さっさと用事をおすましんさい」
「はいはい、それじゃみなさん、ごゆるりと……」
なんということなく、おいとさんが袖口を眼におしあてて出ていったあとで、歌名雄は金田一耕助のほうへむき直った。
「先生、ご紹介しときましょ。こっちゃ仁礼勝平君、青年団の団長です。それからそっちゃが別所五郎君、ゆかりちゃんの親戚ですんじゃ。それからむこうが由良泰子さん、となりにいるのが勝平君の妹さんの文子さん」
金田一耕助はひとりひとりに頭をさげると、
「泰子さんと文子さんのお名前は、さっき新聞で拝見しましたよ。大空ゆかり君とクラス・メートだったそうですね」
「はあ」
と、泰子は口のうちでこたえると、文子と顔を見合わせて、くすぐったそうに笑っている。
金田一耕助はさっきから感心しているのである。いったい、このへんの女性はおおむね|顴《かん》|骨《こつ》が出ばっていて、いわゆるおかめ型の婦人が多く、亀の湯のお幹さんなどその典型的な部類にぞくするのだが、泰子と文子はすこしタイプがちがっている。と、いうことはふたりともなかなか美人なのである。
おないどしだというけれど、泰子のほうがいくらか年上にみえる。それに言語動作にどこかおたかくとまっているところがあるせいかもしれない。面長で、鼻がたかく、眼がパッチリしていて……と、こういえば美人の標準型を意味しているが、じじつ泰子はそういった純日本式の美人である。欲をいえば、一点の非のうちどころもないといっていいほどにも、顔の造作がととのいすぎているので、つまりあまりにもととのいすぎているので、かえって、うるおいやうまみに欠けるうらみが、なきにしもあらずである。いってみれば、美しいことはこのうえもなく美しいけれど、現代の標準から律すればあまりにも古風で、個性にかけるというところであろう。しかし、泰子じしんは、じぶんは美人であるという意識をたぶんにもっているようだ。
泰子にくらべると文子ははるかに無邪気である。だいいち顔の造作からくる印象からして、ひとにくつろぎをあたえる。つまり、美人としての規格からはずれているところが多いのである。しもぶくれの顔にうけ口で……うけ口ということは、ひとによっては意地悪そうな印象をあたえるものだが、彼女の場合はそれがいかにもお茶目さんらしい魅力になっている。それにかなり眼につく八重歯である。八重歯はおそらく美人規格からはずれているのだろうが、文子の場合はそれがまた大きな魅力なのである。それに勝平とおなじように、くりくりといたずらっぽくうごく瞳は親譲りとでもいうのであろうか。こうして、ひとつひとつ顔の造作を吟味してみると、美人としての規格外のところが多いのだが、それでいて、その顔はいきいきとして美しい。
「ときに歌名雄君」
しばらくふたりの顔を見くらべていた金田一耕助は、あまりじろじろ見ては失礼だと気がついて、思いだしたように歌名雄のほうをふりかえった。
「おたくの里子さんなども、このひとたちとクラス・メートじゃなかったの?」
「はあ、でも、あれは学校へいったりいかなんだりでしたけん」
「心臓が悪いんだって?」
「はあ」
「でも、小学校へいったことはいったんだね」
「はあ」
と、言葉をにごす歌名雄のそばから、
「あのじぶんは里ちゃん、まだ子供で色気づいとらなんだけんな」
と、水蜜桃の皮をむきながら、五郎やんがなにげなくつぶやいて、それから一同の視線に気がつくと、はっとしたように首をちぢめた。
「それ、どういう意味なの?」
と、金田一耕助はききかけたが、その言葉は口の中で凍りついてしまった。
それほどその場の空気は緊迫して、ことに五郎やんを見つめる文子の瞳には、はげしい|譴《けん》|責《せき》の色がうかんでいる。その視線に射すくめられて、五郎やんは亀の子のように首をちぢめて恐縮していた。当然、そこには気まずい沈黙が落ちかけてきたが、そのとき歌名雄が、
「おっ、そうそう」
と、思いだしたように口をひらいた。
「金田一先生、忘れとおりました。先生にお眼にかかったら、いちばんに申し上げんならん思うとりましたのんに……先生のとこへお客さんがお見えんさっとります」
「ぼくのところへ客が……?」
「磯川警部さんですん。休暇がとれたからやってきたとおいいんさって、きょう昼まえにお着きんさりました」
「ああ、そうなの」
と、金田一耕助の面にはおのずと微笑がうかんでくる。
休暇も休暇だけれど、じぶんがここへきてからはや二週間、すこしは手がかりでもついたかと、それをさぐりにきたのであろう。そうは問屋がおろさないといってやりたかったが、しかし、金田一耕助じしん、いつか事件の興味のとりこになっていることに気がついて、苦笑せずにはいられなかった。
「それで、先生、どうおしんさります。おふくろがいいますのんに、なんならぼくらとごいっしょしたら、……というとりますけんど。ぼくたちは、ゆかりちゃんがこっちゃへきたら、自動車をつらねてかえるつもりでおりますんじゃが」
「いや、ありがとう。だけど、ぼくはひとりでかえろう。日が暮れてからぶらぶら峠をこえていくよ。警部さん、当分ご逗留なんだろ?」
「へえ、一週間ぐらいのんびりしていくいうておいでんさりました」
「ああ、そう、どうも、ありがとう」
鬼首村の青年団諸兄姉はそれからおいおい忙しくなってきた。
お照さんがしゃべってあるいたのだろう。大空ゆかりが立ち寄るときいて、総社の町の青年男女がわっとばかりに井筒の表へおしよせてきた。むろん、そのうちの大部分は弥次馬なのだろうけれど、なかに当町の青年団の幹部もまじっていて、大空ゆかり歓迎会の準備について、なにかと打ち合わせがあったらしい。
しぜん、金田一耕助は離れにひとりとり残されて、てんやわんやの騒ぎを傍観する結果になったが、そのうちに待望の四時、さかんに打ち揚げられる花火のなかを、いよいよ大空ゆかりがその母とともに、井筒の表へ自動車を乗りつけたけはいであった。その瞬間、井筒を中心として総社の町は、わっと|痙《けい》|攣《れん》したといってもいいすぎではない。
しかし、台風の眼というものはいつもしずかなものである。この時の井筒の周囲の大騒ぎは、後日新聞でしったくらいのもので、金田一耕助はそのとき表の|喧《けん》|騒《そう》を|潮《しお》|騒《さい》のように聞きながら、うつらうつらと物思いにふけっていたのである。
金田一耕助にとって気になるのは、大空ゆかりのことよりも、さっきのおいとさんの態度である。放庵さんの五番目の妻おりんさんが帰ってきたときいたときの、おいとさんのおどろきようは、おどろきというよりも恐怖にちかかったようである。なぜだろう?
大空ゆかりがくるというので、おおいそぎで打ち水をした庭のむこうでは、いま、けんらんたる世界がひろげられている。そこには、いまをときめくグラマー・ガールを中心として、青年男女のはなやかな交歓がおこなわれているはずである。それにくらべると放庵さんの五人目のおかみさんとのいきさつは、別世界のできごとのようである。しかし、それは別世界のできごとではないのだ。ふたつの世界は眼にみえぬ、つよい|絆《きずな》でむすばれているのだ。なにかしら黒いまがまがしい絆で……
鼻のあたまにいっぱい汗をかいたお照さんが、いそがしそうにとおりかかったので、金田一耕助がよびとめた。
「お照さん、ゆかりがついたようだね」
「はあ、いま一服しておいでんさります」
「ゆかりはおふくろさんとふたりきりなの?」
「いいえ、マネージャーみてえなひとが、ごいっしょですん。なんでもゆかりちゃんを発見して育てたとかいうおひとで……」
「それで、あのひとたち、いつ、ここを出発するの?」
「さっき風呂からおあがりんさったけん、もうまもなくのことでござんしょう。お客さん、なにかご用でも……?」
「いやあ、あのひとたちが出発してくれんことには、この家を出られそうもないからね。おもて、ひとでいっぱいなんだろう」
「へえ、そらもう、|十《と》|重《え》|二《は》|十《た》|重《え》ですんよ」
お照さんはそれがまるでこのうえもない光栄のように上気し、興奮しているのである。それからしばらくして歌名雄がやってきた。
「先生、ごいっしょにおいでんさりませんか。ぼくらこれから出発するんですけんど」
「いやあ、わたしはこの騒ぎがおさまってからにしよう。たいへんだね、歌名雄君」
「あっはっは、もうまるでもみくちゃですわ」
歌名雄が立ち去っていくとまもなく、表のほうでわっと|喊《かん》|声《せい》があがった。押しよせた群集のために自動車がなかなかうごかぬらしい。ひとしきり怒号と|喧《けん》|騒《そう》がひしめきあっていたが、それでもやっとエンジンの音が遠ざかっていったときには、金田一耕助はひとごとながらもほっと胸をなでおろした。
「まあまあ、どうも失礼しましたえなあ。騒ぎにとりまぎれておかまいもしませえで」
おいとさんがまだ興奮のさめやらぬ面持ちで顔を出したのは、それからまたしばらくたってからのことだった。
「いや、とんだ騒ぎだったね。おかみさん、くたびれやあしないか」
「ほんまになあ。じゃけんど、あないに昔を覚えていておくれんさって、おばさん、おばさんいうてつかあさると、やっぱりうれしゅうてなあ。それに結構なおみやげをなあ」
おいとさんはまだ感激のさめやらぬ面持ちで、しきりに涙をふいている。
「いや、なににしても結構でした。それじゃ、おかみさん、日もかげったようだから、ぼくもぼつぼつかえりましょう。お会計をどうぞ」
「あれまあ、もうおかえりでございますか」
おいとさんはなにか、ものいいたげであったが、すぐ思い直したように立ちあがった。
それから一時間ののち、金田一耕助は仙人峠へさしかかっていた。ちょうどきのうとおなじ時刻で、あたりはすずめ色にたそがれかけている。さすがに鬼首村の花火もやんで、喧騒のあとのしずけさというようなものが、峠から見はるかす村の天地をつつんでいた。
金田一耕助は、ふと、あとから追っかけてくるような足音に気がついて立ちどまった。そして、追っかけてきたのがおいとさんだと気がつくと、おもわずぎょっとした。
「おかみさん、どちらへ……?」
「はい、お庄屋さんのところへお中元に……」
と、おいとさんは耕助のほうへすり寄ってくる。金田一耕助はまたぎょっと胸さわぎを覚えた。この時刻にお中元にいくというのはおかしい。
「そうそう、おかみさん、さっきの話のつづきだけど、おりんさんというのが帰ってきちゃ、いけないことでもあるんですか」
「お客さん」
と、おいとさんは妙にしずんだ調子で、
「あなた、返事の代筆をおしんさったという話でしたけど、返事はどこへお出しんさりましたん?」
「さあ、番地まで覚えているかどうか、神戸の西柳原というところで、宛名はたしか町田様方と書いたと覚えているが……」
おいとさんの肩がびくりとふるえて、いっそう金田一耕助のほうへすり寄ってくる。
「それでお客さんはゆうべこの峠で、おりんさんというひとに、お会いんさりましたんでございますか」
「ああ、もう少しいったところだ。むこうから、おりんでございます、庄屋さんのところへかえってまいりました、と挨拶したが……」
「お客さん!」
と、おいとさんはそそけだったような顔をして、しっかと金田一耕助の袖をにぎった。
「おかみさん、いったい、ど、どうしたんだ。おりんさんというひとがなにか……?」
「はい、そのおりんさんなら、お庄屋さんの五人目のおかみさんのおりんさんじゃったら、この春お亡くなりんさったんですん。そうじゃけん、この十五日がおりんさんの|新《にい》|盆《ぼん》ですんよ」
おいとさんは袖口を眼におしあてて、子供のようにしくしく泣きだした。
お庄屋ごろし
たそがれていく仙人峠のてっぺんで、金田一耕助はおもわずぎょっと立ちすくんだ。
みずからおりんと名乗る老婆に出会ったのは、もうすこし先へいったところだった。時刻はちょうどいまじぶん、やはりいまとおなじように、あたりはすずめ色にたそがれていた。大きな風呂敷包みをしょいこんで、上体はふたえに折れまがるようだった。そのために顔はまるでみえなかったけれど、姉様かぶりの手ぬぐいのしたから、白髪がもしゃもしゃとほおけ出ていたのが、はっきりと印象に残っている。
「ごめんくださりませ。おりんでござりやす。お庄屋さんのところへもどってまいりました。なにぶんかわいがってやってつかあさい」
辛うじて聞きとれるくらいの声で、もぐもぐ口のうちでつぶやくと、鬼首村のほうへくだっていったが。……金田一耕助の耳にはその老婆のぴたぴたという尻切れ草履のいんきな音が、まだありありと残っているのである。
「おかみさん!」
と、金田一耕助は思わずあたりをはばかるような、しかし、しんに力のこもった強い声で、
「それはほんとうですか。おりんさんというひと……放庵さんの五番目のおかみさんのおりんさんというひとが亡くなったというのは……?」
「はい、ほんまですよん。げんにわたしは神戸までお葬式にいきましたんよ」
「おかみさん!」
と、金田一耕助は強い声でいいかけたが、すぐ思い直したようにあたりを見まわし、
「とにかく歩きましょう。歩きながら話をききましょう」
「はい……」
おいとさんは素直にうなずいて、|襦《じゅ》|袢《ばん》の袖口で涙をぬぐうと、金田一耕助に寄り添うようにしてついてくる。
「すると、おかみさんはおりんさんというひとと、なにか血族関係でも……?」
「はい、おりんさんというのは、亡うなったうちの父さんの遠縁にあたるひとで、もと芸者をしていたひとですん。それを父さんがお庄屋さんにお世話したんですんぞな。それから、いま先生がおいいんさった神戸の町田いいます人は、父さんのいとこのひとがお嫁にいってるうちで、西柳原で料理屋をしているんですん。おりんさんはお庄屋さんとわかれてあと、いろいろ苦労をおしんさったが、終戦後町田の店で、下働きみたいなことをしておいでんさったん。それが去年の暮れからわずらいついて、とうとうこの春……四月のおわりにいけのうおなりんさったんですん」
おいとさんはまた襦袢の袖口をひっぱりだして眼におしあてる。おいとさんが亡くなった悲しみよりも、死んだはずのおりんさんが、お庄屋さんを訪ねてきたという事実からくるショックが、おいとさんを子供のようにおびえさせているのである。
「おりんさんというのはおいくつでした」
「はい、ことし五十八でしたん」
きのうおりんと名乗った老婆も、その年格好だったと思われる。
「それで、お庄屋さんはそのことを……つまり、おりんさんが亡くなったということを、ご存じなかったんでしょうか」
「さあ、それがわたしには不思議でなりませんのんよ。お客さん、お客さんが手紙の代筆をしておあげんさったとき、お庄屋さんはほんまにおしりんさらなんだふうじゃったんかいなあ、おりんさんの亡くおなりんさったということを……」
「ああ、ぜんぜん。……とてもうれしそうでしたよ」
「まあ!」
と、おいとさんは|呼《い》|吸《き》をのむように、
「ほんなら、やっぱりおしりんさらなんだんかいなあ」
「おかみさん、あなた、そのことを……おりんさんの亡くなったことを、お庄屋さんにいったことがあるの?」
「いいえ、あたしはもうしませなんだけんど……あのじぶん、たいそうなご立腹じゃったけんな。そのために、わたしども夫婦まで、いちじ、ごきげんを損じていたくらいじゃったけんなあ……」
「それでも、おかみさんは、お庄屋さんがそのことをしっていなければならぬはずだ、と思ってるんですね」
「はい、町田のほうからお庄屋さんにも、通知を出したいうとりましたけん」
「死亡通知ですね」
「はい」
「でも、お庄屋さんは神戸へ来られなかったんですね」
「はい。ほかのことでは万事義理がたいお庄屋さんですんよ。それが顔もお出しんさらんうえに、悔み状もこんところをみると、いまもって立腹がおとけんさらんのじゃろかと、それでわたしもつい、お庄屋さんのまえでおりんさんの名前を口に出すのをはばかっておりましたん」
ちょうどそのとき金田一耕助は、きのうおりんと名乗る老婆とすれちがったあたりへさしかかった。
「おかみさん、このへんでしたよ。きのう、おりんと名乗る婆あさんとすれちがったのは……」
「あれえ!」
と、おいとさんはおびえたような声をあげて金田一耕助の|袂《たもと》にしがみつく。眼がうわずって、ほおがしらじらそそけだっている。
金田一耕助もそれに感染したのか、総毛立つようなものを覚えて、思わず|逢《おう》|魔《ま》が|時《とき》のうすくらがりを見まわした。
杉の大木の根もとに小さな|祠《ほこら》があって、祠のまえの花筒に、赤い|百日草《ひゃくにちそう》がしおれている。峠から下を見おろすと、ひっそりたそがれの|靄《もや》のなかにしずんだ鬼首村のあちこちから、しずかに|炊《すい》|爨《さん》の煙が立ちのぼっている。一見なんのへんてつもない平和な村の風景だが、その平和なたたずまいの裏側で、なにかまがまがしいことでも企まれているのではあるまいか……
「それじゃ、とにかく、わたしもいっしょにお庄屋さんのところへよってみましょう。なんだか心配になってきましたよ」
「はい、お客さん、ぜひそうしてつかあさりませ。わたし、なんじゃやら、気味が悪うて……悪うて……」
「あっはっはっは、それじゃおかみさんはおりんさんの幽霊が、お庄屋さんに会いにきたとでも思っているの?」
金田一耕助は足をいそがせながら笑ったが、その笑い声はかわいて、のどにひっかかっている。幽霊ならばまだよいのだが、そこになにかたくらみがあるのだとすると……と、なにやらえたいのしれぬ不安がこみあげてきて、それが金田一耕助の足をいそがせるのである。
「さあ、それは……わたしらみたいなもんにはようわかりませんけど、ちょうど新盆ですけんなあ」
と、おいとさんはため息をついて、
「それとも、だれかがいたずらしたんですじゃろうか」
「だれかいたずらをしそうなひとの心当たりでもありますか」
おいとさんはなにを考えているのか、しばらく足もとを見ながらだまって歩いていたが、なんだかきらきら光るような眼を金田一耕助のほうへむけて、
「お庄屋さんにいたずらをしたところで、三文のとくにもなりませんわなあ」
と、さびしそうにほほえんだ。
「いたずらかどうかはさておいて、この村か近在のもののなかに、おりんさんが亡くなったことを、しってるだろうと思われるひとがありますか」
「さあ」
と、おいとさんは首をかしげて、
「お庄屋さんがお話しなさらんかぎりは、しってるひとがあろうとは思えませんけど」
金田一耕助のみるところでは、お庄屋さんの放庵さんというひとは、かなり気位のたかいひとのように思われる。おりんさんのほうからわびをいれてきたからこそ、あのようにうきうきとしていたけれど、そうでなかったら、おりんさんにたいする怒りはとけなかったにちがいない。いや、怒りがとけなかったからこそ葬式にもいかず、悔み状も出さなかったのではないか。おそらく放庵さんは、逃げた妻の名を口に出すさえいまいましく感じていたことだろう。そういうひとがおりんさんの死んだことを、みだりにひとにしゃべるだろうか。……
いや!
と、ここまで考えてきた金田一耕助は、とつぜん、おのれの愚かさに思いあたって、ぎょっとしたように立ちどまった。
「お客さん、ど、どうかおしんさりましたん?」
おいとさんがおびえたように金田一耕助をふりかえる。
「いや、いや、いや……べつに……」
金田一耕助は帽子をとって、額にふきだした汗をぬぐうと、
「とにかく、おかみさん、いそぎましょう」
「はあ……」
おいとさんはおびえのいろをいよいよふかくして、金田一耕助の顔色をさぐるようにうかがいながら、ちょこちょこ歩きでついてくる。
これはいったいどうしたことだ。と、――金田一耕助は考える。神戸のほうでは放庵さんに、死亡通知を出したというのだ。それを受け取ったとしたら、放庵さんはおりんさんの、すでにこの世のひとでないことをしっていなければならぬはずである。おりんさんがすでにこの世のひとでないとしたら、当然、このあいだの手紙はにせ手紙ということになる。しかも、放庵さんが、おりんさんのすでにこの世のひとでないことをしっていたら、これまた当然、それがにせ手紙であることに気がつかねばならぬはずである。
しかし、それではあのときの放庵さんのよろこびようは……? あの手放しのよろこびようは……? 金田一耕助は放庵さんのことをまだよくしらない。しかし、きょう井筒でおいとさんから聞いた話によると、放庵さんというひとは、かなりしたたかものらしい。おいとさんもいったではないか。
「お庄屋さんというひとは、昔からどこか超越したようなところのあるかたじゃったけんなあ」
そうすると、じぶんはまんまとあの爺さんに、いっぱい食わされたということになるのだろうか。しかし、もし、そうだとしても、そいつはいったいなんのためだろう。
だが、この件については、ここにもうひとつ別の考えかたがある。放庵さんがぜんぜんおりんさんの死亡をしらなかった場合である。そして、その場合にいたる原因として、また三つの場合が考えられる。すなわち、神戸のほうで放庵さんに死亡通知を出したといっているが、じっさいは出していない場合。第二に配達洩れになった場合。そしてさいごに考えられるのは、配達されたがそれが放庵さんの眼にふれなかった場合。つまり故意にか偶然にか、だれかに横奪りされた場合である。
しかし、いずれの場合にしても、すなわち、放庵さんがいっぱい食わせたか食わせなかったかは別問題としても、とにかくこのあいだの手紙がにせ手紙であったことはたしかである。しかもにせ手紙のぬしと思われる人物が、きのうの夕方峠をこえて鬼首村へやってきたこともたしかである。
金田一耕助はまたゾーッと、総身に水をあびせられたような、薄気味悪いものをかんじずにはいられなかった。
おいとさんはいまいった。
「お庄屋さんにいたずらしたところで、三文のとくにもなりませんわなあ」
そうだ、それだからこそ、いっそう薄気味悪いのだ。三文のとくにでもなるような原因がそこにつかめれば、それほど薄気味悪くはないであろう。おいとさんの言葉をまつまでもなく、あの世捨てびとのような放庵さんをだましたところで、かついだところでなんのとくにもなりそうにない。しかし、それは|形《けい》|而《じ》|下《か》的な問題についてである。|形而上《けいじじょう》的な問題……たとえば、放庵さんが昭和七年の事件について、なにか重大な機密をにぎっているとしたら……? 話はおのずからちがってくるはずであり、金田一耕助がおそれるのもその点なのである。
「ときに……」
と、金田一耕助はなにかしら息苦しいようなものをかんじながら、あとについてくるおいとさんをふりかえった。
「昭和七年の事件ですがね。いまの亀の湯のおかみさんの亭主が殺されたという事件……」
「はあ」
だしぬけに恐ろしい殺人事件の話をもちだされたので、おいとさんはぎょっとしたように眼をすぼめながら、
「それがなにか……?」
「あの晩、つまり、源治郎という人物が殺された晩、おりんさんはお庄屋さんとけんかしてうちをとびだしていたという話だが……」
「はあ、あの晩、おりんさんはうちへおいでんさったんですん……」
「おたくへ……?」
「はあ、そうですん。そうじゃけんなあ。うちの父さんが意見して、夜が明けたらお庄屋さんところへお連れするつもりでしたん。お庄屋さんのほうでも夜が明けたら、うちへたずねてくるつもりじゃったというておいでんさりました。ところがあの事件じゃろうがな。お庄屋さんはこれなくおなりんさる。こっちゃはこっちゃでそんなとこへ、おりんさんをお連れするのんもどげえなもんじゃろうと、いちにちふつか、ためろうているうちに、おりんさんがまたうちから逃げだしておしまいさったん。もっとも、のちに警察の手でさがしだされたんじゃけんど、そのときにはもう男がついておりましたんよ。それをお庄屋さんはその当座、わたしども夫婦がわざと逃がしたんじゃろうと、えろうごきげんが悪うてなあ」
「夫婦げんかの原因はなんだったんです」
おいとさんはちょっと黙っていたのちに、
「お庄屋さんというかたは、小さいときからわがままいっぱいにお育ちんさったかたじゃけんなあ。いっぽうでは、とてももの分かりのええとこがおありんさるかと思うと、また、いっぽうでは、手に負えんとこもおありんさってなあ。そら、よく申しますじゃろうがなあ、|外《そと》|面《づら》のよいひとはうちでは気むつかしゅうてなあ。それに、おいおい不如意におなりんさるにつけ、|癇《かん》|癖《ぺき》のほうもおつのりんさるというわけですん。たびたび、手荒なまねをなさるもんじゃけに、おりんさんもいたたまれなくおなりんさったん」
峠をふもとまでくだったころには、もうすっかり日が暮れていた。さいわい、金田一耕助もおいとさんも懐中電灯の用意をしていたので、夜道に困るようなことはなかった。村役場のまえまでくると、なかからどやどや若い連中がとびだしてきた。
「ああ、金田一先生、いまおかえりんさったか」
声をかけたのは歌名雄である。あいかわらず陽焼けした顔から白い歯をのぞかせて、にこにこと屈託のなさそうな顔色である。
「やあ、おそろいで……ゆかり女史はどうしたね」
「これから押しかけていくとこですんじゃ」
と、横から口を出したのは五郎やんである。
「五郎やん、押しかけていくなんてひとぎきの悪いこというのはやめとけ」
と、そばからたしなめたのは勝平である。
「ありようはなあ、先生、故郷へ錦をかざらはったグラマー・ガールが、幼なじみの青年男女、すなわちわれわれをご招待くださったというわけじゃ。その光栄に浴してわれわれ村の青年紳士は……」
「勝っちゃん、おまえそれでも紳士か」
「五郎やんのばか。われわれというてやってあるやないか。おまえそないいうなら訂正しよ。五郎やんをのけてわれわれ青年紳士は……ありゃ、井筒のおばさん、あんたもいっしょかいな。いまじぶんどこいいくね」
「はあ、ちょっと、お庄屋さんとこまで……」
「ああ、おばさん、かえったら重吉つぁんやお照ちゃんにいうといてください」
と、そばから口を出したのは歌名雄である。
「こまかいことは今夜これからいて打ち合わせするんじゃが、千恵ちゃん、だいたい承知してつかあさったけん、あさっての十三日から十六日の晩まで、お陣屋跡で盛大に盆踊りを挙行しますけんな」
伊東信濃守のお陣屋の跡は、いま小学校になっているのだけれど、ふつう学校とはいわず、お陣屋跡でとおっている。
「はい、おおきに[#「おおきに」に傍点](ありがとう)」
「さあ、いこいこ」
威勢のいい若者ばかり五、六人、どやどやと立ち去っていくのと反対がわの方角へ、金田一耕助とおいとさんは足をはやめた。
村役場から放庵さんの草庵まで、約二十五、六分の距離である。そのあいだにはいくつかの|山《やま》|襞《ひだ》が、平地に脚をのばしており、その山裾をめぐって路が走っているのだから、直線距離はわずかでも、時間にするとかかるのである。
放庵さんの草庵は村道からすこし丘へ入ったところにあり、まえにもいったとおり背後に大きな古沼をひかえている。村のひとはその古沼を人食い沼とよんでいる。そこへ落ちたがさいご出られないという意味らしい。つまり泥のふかいことをいうのである。
鬼首村のさいごの部落をはなれてから、きゅうに闇がふかくなったような気がしたが、放庵さんの草庵は、ビロードのようにねっとりと濃い闇のなかにつつましやかにひかえている。灯がついていないのである。そしてそのことがまずふたりの心をおびえさせた。放庵さんは夜歩きをするひとではないし、しかも、まだ寝るにははやい時刻だ。
「お庄屋さん、もし、お庄屋さま。井筒のおいとでござります。お庄屋さんはおいでんさりませんか」
まずおいとさんが|訪《おとの》うたが、その声ははじめからふるえていた。
「放庵さん、放庵さん、金田一耕助です。もうおやすみですか」
金田一耕助とおいとさんは、かわるがわる二、三度訪うたが、なかからなんの返事もなかった。ふうっと見かわすふたりの顔は、どちらも血の気をうしなってこわばっていた。
「どこかへおでかけでも……」
と、いうのはおいとさんの気休めにすぎないことが、その声のいちじるしいふるえからでもうかがわれるのである。
「とにかくなかへ入ってみましょう」
戸じまりはしてなかった。金田一耕助が先へ入ると、おいとさんもおずおずしながらあとからつづいた。懐中電灯のひとなでで見きわめのつく草庵である。いつか金田一耕助が放庵さんと対座した四畳半には人影もなかった。金田一耕助がそこをつっきって、囲炉裏をきってある茶の間兼台所をのぞいているとき、うしろで、カチッという音がして、あたりがきゅうに明るくなった。おいとさんが天井からぶらさがっている電灯のスイッチをひねったのだが、そのとたん、
「あれえ!」
と、金切り声をあげて、おいとさんはその場に立ちすくんだ。
その声に金田一耕助はどきっとして、四畳半をふりかえったが、思わず|眉《まゆ》が大きくつりあがった。
みかん箱に|反《ほ》|古《ご》を貼ってつくった机のうえに、お|銚子《ちょうし》が一本、湯呑み茶碗がふたつ、川魚の付け焼き、|豆《ご》|汁《じる》のあとのこびりついた朱塗りのお椀がふたつ、わらびと油揚げの煮付け、ほかにいなりずしを一杯盛った皿。それに百目ろうそくがふとい|蝋《ろう》|涙《るい》をたらしたまま、机のうえに立っているところをみると、あきらかにゆうべ停電のさなかに酒盛りがあったのを示している。
しかし、おいとさんに金切り声をあげさせたのは、そういう情緒てんめんたる情景ではない。机のうえからうすい夏座布団のうえ、さらに机のまわりの畳へかけて、|斑《はん》|々《ぱん》としていろどっているのは血の塊である。それはどうやら吐血の跡らしかった。しかし人影はどこにもない。
金田一耕助はもういちどせまい台所をのぞいてみる。と、ふと眼にうつったのは土間のすみにすえてある|水《みず》|瓶《がめ》である。いや、水瓶が眼をひいたわけではなく、水瓶の|蓋《ふた》のうえにちらかっている五、六本の草花である。それはききょうの花のようである。
金田一耕助は台所へ入りこむと、不思議そうにその草花を手にとったが、そのとき、またうしろからおいとさんの金切り声が聞こえた。
「あっ、いけません。お客さん、それは毒です。毒草ですけんおさわりんさってはいけません」
「毒草……?」
と、金田一耕助はあわててそれを土間へすてると、
「なんという草なの、これ……?」
「はあ、あの……はあ、あの……」
と、おいとさんは恐怖に顔をひきつらせて、あえぐように呼吸をはずませながら、
「よそではなんちゅうておりますかしりませんけんど、このへんではお庄屋ごろしと……」
|山椒魚《さんしょううお》
鬼首村は、いま二重の意味でわきたっている。故郷へ錦をかざったグラマー・ガールのうわさと、死人の名をかたって、仙人峠をこえてやってきた奇怪な老婆の風説とで。……
しかし、おりんと名乗った奇怪な老婆の風説に関心をもつのは、おおく中年以上のひとたちで、わかい青年団の連中は、そんなことは問題にもしなかった。それほど放庵さんはかれらにとって、忘れられた存在になっていたのだ。放庵さんはみずから世捨てびとと称していたように、じぶんのほうからも世を捨てたのかもしれないが、あるいは、そのまえにすでに世間から捨てられていたのではあるまいか。ことにわかい世代のひとたちからは。
それに、その朝は、村の青年男女のあいだではあまりにも話題が豊富であり、それに大至急に着手しなければならないことも多かった。話題というのはゆうべのゆかりのパーティーである。わかいひとたちは男も女もおしなべて、すっかりゆかりの魅力のとりこになっているのである。
「グラマー・ガールいいよるけん、もっとえげつないエロ発散するかと思うとったけんど、案外そがいでもなかったのう」
「ただ、男の子みたいに、ぶっきらぼうにものいいよるんじゃが、あれがええのう」
「あの、低い、しゃがれたみたいな声が魅力じゃてなあ」
女の子はまた女の子で、
「わたし、もっとたかぶっとるんかと思うとったんやけんど、案外そねえでもなかったなあ」
「ズケズケ、男の子みたいに口きいているけんど、ちゃんとこっちゃをおこらさんように、気いつこうとったなあ」
「そら、まあ、わたしらを手玉にとるのん、朝飯前やあらへんのん」
「そうかもしらんなあ、うっふっふ」
それから髪のかたちがどうの、衣装がどうの、アクセサリーがどうのと、よるとさわるとその品定めに熱中しすぎて、年とった父兄からしかりとばされた。
「そらそうと、歌あさん」
お陣屋跡の小学校の校庭では、団長の勝平の陣頭指揮のもとに青年団の連中が、盆踊りのやぐらを組むのにおおわらわである。ことしのやぐらはふだんの年のやぐらではない。大空ゆかりという日本一の人気者が、そのうえで歌う光栄をになっているのである。マイクの調節にも気をくばらねばならぬ。
「ゆうべ、けったいな婆あさんがこの村へきよって、お庄屋さんの放庵さんが、どないかしたという話じゃが、あら、どないしよってん」
「さあて。わたしにもようわからんのじゃが、なんでもお庄屋さんのすがたが見えんらしい」
やぐらつくりに熱中している歌名雄も、さすがにまゆをひそめている。
「お庄屋さん、よる年波に世をはかなんで、裏の古沼へどんぶらこんとやったとちがうか」
五郎やんである。
「あの古沼へ身投げしよったらことじゃな。青年団の連中へ手をかせなんていうてきよったら、やっかいなことになりよるぜ」
さすがに勝平は団長だけあって、思慮綿密なところをみせる。
「勝っちゃん、そないなこというてきよったら断わってや。こっちゃ、年にいちどの盆踊りや。そねえなあほらしいことにかかずろうておられるかいな」
「そうじゃ、そうじゃ、団長、よう心得といてや」
「日本一のグラマー・ガールと、あないな脂っ気のぬけた爺さんと、いっしょくたにされてたまるか!」
だれかが吐きだすようにいったので、青年団のあいだでは、わっと|哄笑《こうしょう》の渦がまいた。
しかし、かれらは間違っていたのである。
あとにして思えば、グラマー・ガールの大空ゆかりが故郷に錦をかざったことと、多々羅放庵さんのこの一件とのあいだには、密接にしてかつ重大な因果関係がよこたわっていたのである。
「金田一さん。それにしても妙ですな」
開襟シャツに半ズボン、古ぼけたヘルメットという磯川警部のいでたちは、どうみても警部とは思えない。さしずめ土建業者の現場監督、もっと悪くいえば土方の親方である。
「いかに二十年以上も会わなんだとはいえ、かたりの女……おりんでもないおなごと、ああして仲よう酒酌みかわしていたちゅうのは、いったいどうしたこってしょうなあ。放庵さん、すっかりだまされて見ちがえたのかなあ」
「いや、見ちがえるといったところで……」
と、金田一耕助は眼の前の古沼をのぞきこみながら、例によって例のごとく、五本の指ですずめの巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしている。
「わずか五分か十分のことならともかく……わたしとすれちがってここへ着いたのが七時半ごろとしても、このへんいったい停電になったのは総社とおなじで九時半ごろだという話です。その間二時間、しかも停電になってからも、ああしてろうそくをつけて話しこんでいるんですからな」
「と、いうことは、それがおりんでないにしても……おりんでないことはわかりきっていますが、放庵さんのしってるおなごじゃということになりますな」
「まあ、そういうことでしょうかね」
金田一耕助はあいまいに言葉をにごした。それよりもまずかれがだいいちにしりたいのは、放庵さんがおりんさんの死んだことを、しっていたかどうかということである。
古沼のそばに建っているせまい放庵さんの草庵には、いま町からかけつけてきた私服が三人、それにこの村の木村巡査が、気のない顔色でうろうろしている。それがすでに七十を越えた世捨てびとであるうえに、まだそこで、殺人が行なわれたとはっきり断言できないのだから、たれしも熱がこもらないのもむりはない。しかし、熱のあるなしにかかわらず、大の男の四人もうそうそしていると、せまい草庵はいっぱいである。そこで、はみだした金田一耕助と磯川警部は、古沼のほとりにたたずんで、捜査のすむのを待っているのである。草庵のむこうがわには、それでも相当弥次馬がむらがっているらしい。
金田一耕助はもういちど、あたまのなかで昨夜のことを繰り返してみる。
そこでなにかまがまがしいことが演じられたらしいことをかぎつけると、かれの態度はにわかにいきいきと活発になった。金田一耕助はまずおいとさんに、何物にもさわってはならぬと命じ、それからあらためて草庵のなかをくまなく調べた。まず、かれのだいいちに気づいたことは、おりんと名乗ってすれちがっていった老婆の、背中にしょっていた風呂敷包みが影も形もないことである。しかし、あの老婆がここへやってきたことはたしかなようだ。入り口の土間にべったり残っている、尻切れ草履の泥の跡がそのことを示している。しかし、あいにくなことにはゆうべのあの大雷雨のおかげで、草庵の外部における|痕《こん》|跡《せき》は残りなく洗い流されているらしい。
おりんと名乗る老婆はゆうべここへやってきた。大きな風呂敷包みを背に負うて。そして、二時間以上にわたって放庵さんとここで語りあった。いや、語りあったらしい。そして、そのあげく、お庄屋ごろしで放庵さんを毒殺した。放庵さんはお庄屋ごろしの毒にあたって、血を吐きちらして死んでしまった。……
と、前後の事情はだいたいそのような事実をしめしているようである。しかし、そのあとで、奇怪な老婆は放庵さんの死骸をどうしまつしたのか。まずだいいちに考えられるのは、すぐ手近にある古沼に投げこんだのではないかということである。いいつたえによるとこの古沼は、いったんひとをくわえこんだがさいご、ぜったいに吐きださぬということである。それゆえにこそ、人食い沼と村のひとたちから恐れられているのだが、しかし、奇怪な老婆はなぜそんなことをしなければならなかったのか。もし、死体をかくすつもりなら、なぜ座敷のあの血の痕跡もぬぐいとっておかなかったのか。いったい死体をかくすということは、殺人の事実を隠蔽したいがためにほかならぬ。それだとすればあの奇怪な老婆は、なぜじぶんにおりんでござりやすと、みずから名乗りをあげていったのか。いったい放庵さんは生きているのか死んでいるのか。そしてあの老婆は大風呂敷きの包みを背負って、ここからどこへ出ていったのか。……
もういちど台所へ出て、お庄屋ごろしという毒草を、うえからのぞきこんでいた金田一耕助は、ふと水瓶のなかでぴちゃりと水をはねるような物音のするのに気がついた。それはごくかすかな、ひそやかな音だったけれど、場合が場合だけに、金田一耕助の耳には|雷《らい》のようにとどろいた。金田一耕助がぎょっとして、水瓶のおもてを見ていると、また瓶のなかでぴちゃりと水を跳ねる音がした。金田一耕助は、注意ぶかく水瓶のふたに手をやった。そして、そのうえにちらかっているお庄屋ごろしをふるい落とすと、そっと水瓶のうえから取りのけた。それから、懐中電灯の光を水瓶のなかへむけてのぞきこんだが、そのとたん、ゾーッと全身に鳥肌の立つような薄気味悪さを覚えた。
水瓶の水の底には世にも醜怪な動物がうごめいていた。やもり[#「やもり」に傍点]かいもり[#「いもり」に傍点]を拡大したような生物が、瓶いっぱいにのらりくらりとうごめいている。黒褐色の全身のところどころに黒い斑点があり、それに体いちめんにいやらしいいぼである。頭がいやに大きくて、|扁《へん》|平《ぺい》で、しかも、四本の手足が生えている。
「まあ!」
と、金田一耕助のようすにおどろいて、そばへきて瓶の中をのぞいたおいとさんも、その醜怪な動物をひとめ見ると呼吸をのんだ。
「|山椒魚《さんしょううお》ですわなあ」
金田一耕助もそれが山椒魚であることをしっていた。しかし、そこになぜ山椒魚がいなければならないのか、それがかれをおどろかせたのである。
「お庄屋さん、まえから山椒魚を飼っていたんですか」
「いいえ、あの、わたしがこのまえここへきたときには、こんなもん、おりませなんだぞいな」
「おかみさんがこのまえここへきたのは……?」
「この月の五日でござりましたん」
「なんの用事で……?」
金田一耕助は思わず詰問するような調子になる。
「はい、お中元に……」
ああ、そうなのか。さっき峠で追いついたとき、お庄屋さんのところへお中元にといったのは、むろん口実だったのである。
「そのとき、ここに山椒魚がいなかったということを、おかみさんはどうしてそうはっきりと……?」
「それは……そのときわたしがじぶんでこの水瓶から、水を汲んでお庄屋さんに、湯をわかしてあげたんじゃけに」
なるほど、それではたしかである。そして五日といえば金田一耕助が、お庄屋さんのために代筆をしてあげた日の、ふつかまえにあたっている。
「このへんには山椒魚がたくさんいるんですか」
「たくさんでもございませんけんど、ちょくちょく。……それにお庄屋さんは漁の名人でおいでんさったけんな」
おいとさんの指さすところを見ると、なるほど大小さまざまの川魚の干したのが、竹の串にさして、ずらりと茶の間のかもいにならんでいる。
金田一耕助はもういちど瓶の中に眼をおとした。そしてそこにのらりくらりとうごめいているこの醜怪な動物が、なんだかこのえたいのしれぬ事件を象徴しているような気がして、もういちどゾーッと総毛立つのを覚えずにはいられなかった。それにしても、ゆうべのあの大雷雨のさなかに、いったいどのようなことがこの草庵のなかで演じられたのか。
金田一耕助はそれからまもなく、おいとさんをうながしてそこを出ると、いっしょに亀の湯へかえってきた。そして、そこに待っていた磯川警部にこのむねを報告したのである。もしそのとき、磯川警部がこの村へきていなかったら、金田一耕助やおいとさんの報告は、村のおまわりさんから一笑に付せられたことであったろう。……
「それにしても金田一さん」
と、磯川警部は古沼のおもてにいちめんに開いた白いひしの花に眼をやりながら、
「この事件と二十三年まえの事件とのあいだに、なにか関係があるんでしょうかな」
と、わざとのろのろとした口調でつぶやく。しかし、そののろのろとした口調は、いま警部の胸にもえさかっている希望と興奮を、カムフラージュするためにすぎないということを、金田一耕助がしらぬはずがなかった。磯川警部はいま希望にもえているのだ。この新しくもちあがった事件から尾をひいて、二十三年まえの迷宮の謎が、しだいにほぐれていくのではないかと。……
「それはそうでしょうなあ。それ以外に放庵さんみたいな世捨てびとの身辺に、このような手のこんだ事件がたくまれようとは思えませんからね」
と、金田一耕助はじぶんの言葉に気をつけながら、
「それはそうと警部さん、放庵さんはいったいどこから生活費をえていたんでしょうねえ。井筒のおかみ……あのひとは相当、お庄屋さんと縁の濃いひとらしいんですが、そのおかみさんでさえ、しらぬといってるんですよ」
磯川警部はとつぜんぎょっとしたように、かみつきそうな視線で、金田一耕助の横顔をにらむと、
「しかし……しかし……」
と、あえぐようにいいかけたが、しかしぐっと調子をおさえつけて、
「いつか亀の湯のおかみがいうとりましたが、神戸かどこかに親戚のものがあって、そこから仕送りがくるんじゃっと……」
「ええ、以前はそうだったそうです。三年まえまでは……しかし、その親戚というのが昭和二十八年かに死亡して、そこからの仕送りならもう絶えているはずだ。だからじぶんも不思議に思うていた。もっともお庄屋さんの生活費は、それほどかかりもしないだろうから、以前仕送りがあったじぶんに、ためておかれたのであろう……と、井筒のおかみはそういうのですが、放庵さんというひとは、将来にそなえて金をためこんでおくようなひとだったんですか」
「金田一さん!」
と、とうとう磯川警部は雷をばくはつさせた。
「それじゃ……それじゃ……この村のだれかが、こっそり内緒で放庵さんに、みついでいたのではないかとおいいんさるのか」
磯川警部は思わずお国言葉を吐きだした。
金田一耕助がそれにこたえるまえにむこうから私服のひとりが、きょろきょろとしながらやってきたが、磯川警部のすがたを見ると、すぐつかつかとこっちのほうへやってきた。
「警部さん、村の豆腐屋で聞いたんですが、きのう放庵さんに油揚げを売ったことは売ったが、たった二枚だけじゃった、というとりますんじゃが……」
警察でいま調べているのは草庵に残っていたいなりずしの出所なのである。すしのできぐあいからみて、すし屋で買ったものではなく自家製らしいと思われるのだが、それならそれで放庵さんは油揚げをどこかから手に入れたはずである。
しかし、いま刑事が調べてきたところによると、放庵さんは村の豆腐屋から、油揚げを二枚しか買わなかったという。その二枚がわらびとの煮付けにつかわれたとすると、あのいなりずしは……?
「あっはっは」
と、金田一耕助は思わずおかしそうに吹きだした。
「警部さん、やっと奇怪な老婆の遺留品が見つかりましたね。あのいなりずし。……ああ、どうやら捜査がおわったようです」
草庵のなかから出てきた私服が手にもっているものをみて、金田一耕助は思わずぎょっとしたように、大きく眼をみはって相手の近づくのを待った。それはおそらく奇怪な老婆が、もち去ったであろうとかれがあきらめていたかの一通の手紙らしい。
「警部さん、ありましたよ。神戸からの手紙が……なかの文章もさっき警部さんがおいいんさったとおりですん」
磯川警部はそれを手にとって封筒からなかを抜きとりひととおり眼をとおすと、だまって金田一耕助のほうにさしだした。金田一耕助はひったくるようにそれを手にすると、むさぼるように便箋のうえに眼を落とす。しかし、二度眼を走らすまでもなく、それはまぎれもなく七日の午後、金田一耕助が草庵を訪れたとき、放庵さんに見せられた、あのおりんさんからの手紙にちがいなかった。
だが、これはいったいどうしたことだろう。奇怪な老婆にとっては、これはこのうえもなく重大な証拠でなければならぬはずである。なにをおいてもこの手紙はもち去ったであろうと思っていたのに……。
「け、刑事さん、こ、これ、どこにありました。よっぽどわかりにくいところに……?」
「いいやあ、べつに……|文《ふ》|筥《ばこ》のなかにほかの手紙やハガキといっしょにあったんじゃけんど」
金田一耕助はわけのわからぬ惑乱を感じて、心のうちでたじろいだ。かれはこの事件をかなり手のこんだ計画的なものと思っていたのだ。しかし、それにもかかわらず、この重大なにせ手紙をあとに残しておくというのは……?
「け、警部さん、ちょ、ちょっとその封筒を……」
その封筒もこのあいだ、金田一耕助の見たものにちがいなかった。金田一耕助はその差し出し人の所書きによって、宛名を書いたのである。
金田一耕助は、無言のまま食いいるように、見おぼえのある筆跡をにらんでいたが、なにげなく表をかえしてみた。そして、思わずううむとうめいたのである。
「き、金田一さん、ど、どうかしましたかな」
「け、警部さん!」
と金田一耕助は思わず激した調子になるのを、じぶんでじぶんをおさえると、
「ぼくはこのあいだ代筆をしてあげたとき、表書きには必要がなかったので、すぐ裏をかえしたんですが、ほら、この消印……」
磯川警部もその消印に眼をやると、思わず眉をつりあげて、ううむとばかりに唇をかみしめた。
その消印はうすくかすれているうえに、指でこすったようにぼやけていて、はっきり日付はわからなかったが、ただいちばん最初にある数字、当然3とあるべきところが、2となっているのである。すなわちその手紙はことし昭和三十年に投函されたのではなくて、昭和二十年代のいつかの日に投函されたものであった。
生きているのか 死んでいるのか
まえにもいったとおり、もしこのとき磯川警部がこの村へきていなかったら、金田一耕助がいかにやっきになったところで、多々羅放庵さんのこの事件は、たんなる世捨て人の失踪事件として、かるく世間から葬り去られたにちがいない。たとえ草庵に吐血の跡が残っていたとしても。
ところが、昭和七年の事件に異常な関心をもつ磯川警部が、たまたま鬼首村へ来合わせていたがために、当時の重大な証人であった放庵さんのこの奇怪な失踪と、その失踪事件の背後によこたわる異様な事情が、つよく捜査当局の注目をひいたのである。
磯川警部の要請によって、亀の湯の共同宿舎の娯楽室が、捜査本部ときめられたのは八月十二日の午後のことだった。そして、夕方ごろまでには県の警察本部や所轄警察から、続々として係官が駆け付けてきた。
磯川警部にとって、これはひとつの賭けだった。ひょっとすると、これはなんでもない事件なのかもしれない。泰山鳴動してねずみ一匹も出てこないのかもしれなかった。さんざん人騒がせをしたあげく、放庵さんはひょっこりどこからか出てくるのかもしれない。
そうなったら、磯川警部にとっては重大な責任問題だが、しかし、それならそれでもよいと警部は覚悟をきめている。警部ももうよい年である。責任問題が起こったら、その責任を負うて引退してもよいではないか。そのかわり、もしこれが昭和七年の事件の延長だったら……? あたかもよし金田一耕助という|斯《し》|道《どう》の天才が来合わせているのである。しかも、その金田一耕助もこの事件に、かなりふかい興味と関心をよせているらしい。いまかりにこの事件の捜査に成功して、それからひいて、昭和七年の事件の迷宮のとびらが同時に開かれるとしたら……?
それを考えるとこの事件は、磯川警部にとって十分職を賭けるだけの価値があったのだ。そして、そのときの磯川警部の決断が、結局、あとになってものをいったといえるのである。
それはさておき、この事件の捜査主任は立花警部補といって、鬼首村から十里ほどはなれた江見という町の警察からやってきた。係官たちはもちろん自動車だろうけれど、ふつうのひとが江見から鬼首村へやってくるには、姫津線、すなわち姫路から津山へ通ずる支線にのって、いったん姫路へ出、そこからバスで総社へおもむき、そこから仙人峠をこえねばならない。
そんなことをしなくとも、総社の町にも警察があるのだけれど、あいにく総社は兵庫県に属している。そういうところにもこの事件の捜査のやっかいさがあった。
それはさておき、捜査本部の陣容がととのったのは、だいたい八月十二日の午後五時ごろのことである。
亀の湯の娯楽室では、女あるじのリカの手になる夕食がおわったあと、立花警部補を中心として、あらためてこの事件の検討がはじまった。
「そうすると……」
と、磯川警部や金田一耕助から、この事件の概要を聞きおわった立花警部補は、俊敏そうなまゆをひそめて、
「金田一先生のお見込みでは、一昨日、すなわち十日の晩の大雷雨のさいちゅうに、あの放庵のなかで殺人が行なわれたのではないかと、おいいんさるんですな」
「いやあ」
と、金田一耕助はぶしょうったらしく、いすからずり落ちそうな格好で腰をおろして、両手でかわるがわるいすの腕木をたたきながら、
「いまのところ、そうはっきりとは断言申し上げかねるんですがね。そこをあなたがたに調査していただいたらと……」
「金田一さん」
と、そのときそばからくちばしをはさんだのは磯川警部である。
「こういう場合ですからな、ひとつ|腹《ふく》|蔵《ぞう》のないところをいってやっていただきたいんじゃがな」
「腹蔵のないところとおっしゃいますと……?」
「いや、あんたはわれわれより一歩はやくこの事件に到達された。したがって、こういう点から捜査に着手したらよいのではないかというご意見が、すでにおありんさるんじゃないかと思うとるんですわ。ひとつ、参考までにそのご意見を、立花君に聞かしてやってつかあさらんか」
「そうそう、先生、ぜひ!」
と、立花警部補も言葉に力をこめると、テストするような視線で金田一耕助を見まもっている。
立花警部補というのは四十前後の背のたかい、肉の厚い、がっちりと|精《せい》|悍《かん》そうな、つまり上方の言葉でいうところの、いかにもバリキの強そうな人物である。
かれも磯川警部の紹介によって、おなじ県下に戦後起こった「獄門島」や「八つ墓村」さては「|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》島」の事件などを思い出していた。そして、これがあの難事件、怪事件のかずかずをみごとさばいていった人物かと思えば、もちろん畏敬の念もいだいたであろうけれど、それと同時にあいてのあまりにももっさりとした|風《ふう》|采《さい》に、なにを! というようなファイトをもやしたであろうこともいなめない。そしてまた、それが警部補という地位にあるこのひととしても当然のことであろう。
「いやあ」
と、金田一耕助は例によって例のごとく、眠そうな眼をしょぼしょぼさせながら、ぼんやりとすずめの巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしていたが、にっこり笑うときゅうにいすのなかで体を起こした。そして、ふところから手帳を取り出すとそのあいだから、四つに折った二、三枚の便箋を抜きとった。
「おせっかいかもしれませんが、いままでにじぶんの思いついたままのことを、箇条書きにしておきましたが、なんならお眼にかけましょうか」
と、いささかてれくさそうである。
「ええ、どうぞ、どうぞ」
と、警部補が精悍の気を|眉《び》|宇《う》にみなぎらせて身を乗り出すと、
「いやあ、思いついたままをただでたらめに並べただけですから、支離滅裂ではありますがね、こんなことでもいささか参考になるかもしれませんな」
「いや、もう、そりゃ先生のご意見ですから……」
と、金田一耕助の手からひったくるようにして受け取った便箋をひらいてみると、ぶしょうたらしいこの男の外見には似合わない、活字のようなきちょうめんな字で、つぎのようなことが箇条書きにならべてある。
[#ここから1字下げ]
一、[#この部分は正しくは1字下げ折り返して2字下げ]放庵さんは生きているのか死んでいるのか。生きているとすればどこにいるのか。死んでいるとすれば犯人は死体をどこにかくしたのか。またなぜかくしたのか。
二、おりんさんは生きているのか死んでいるのか。
三、以下はおりんさんが死んでいるとして。……おりんさんが死んでいるとして、放庵さんがそれをしっていたか、いなかったか。
四、神戸の町田家では放庵さんに、おりんさんの死亡通知を出したか。
五、復縁を懇願するおりんさんの手紙は、昭和二十年代のいつごろ神戸から発送されたか。
六、右の手紙をさいしょに読んだのはいったいだれか。
七、八月十日の夜、おりんと名乗って仙人峠をこえてやってきたのはいったいだれか。
八、放庵さんは二時間以上もにせのおりんと対座していて、それに気がつかなかったのであろうか。気がつかなかったとすればそれはなぜか。
九、昭和二十八年以来、放庵さんの生活費はどこから出ていたか。
十、放庵さんは山椒魚をいつ入手したか、またなんのために。
[#ここで字下げ終わり]
金田一耕助があげているのは以上の十か条だったが、さいごの第十か条目に眼をやったとき、さすがに立花警部補もおもわずぎょっと眼をみはった。そして、なにかしら不安そうな視線を金田一耕助のもじゃもじゃ頭のほうへ走らせたが、すぐ唇をきっとむすんで、|臍《せい》|下《か》|丹《たん》|田《でん》に大きく息を吸いこんだ。
「なるほど、こうして箇条書きにしてつかあさると一目|瞭然《りょうぜん》ですな。どこからわれわれが手をつけるべきかということですな」
立花警部補はにやりと笑って、
「それじゃ、金田一先生、この箇条書きの一項ずつを、ここでみんなで検討してみようじゃありませんか。警部さん、ああたも手伝うてつかあさい」
この警部補はあなたというべきところを、ああたと発音する習癖があるらしい。
「ふむ、ふむ、なかなかおもしろい項目が入っとりますな」
と、磯川警部が破顔したのも第十か条目であったろう。破顔しながらも、いっぽう不思議そうに眼をそばだてていたことはいうまでもない。
「それじゃ、第一項からいきましょう。放庵さんは生きているのか死んでいるのか。……しかし、これを証明するにはまだいくたの努力を必要としますな」
「そう、まずだいいちに死体を発見なさらなきゃいけませんね」
「そうそう、あのていどの吐血や汚物のあとだけじゃ、殺人が演じられたとはっきり断言するには不十分ですからな」
磯川警部もそばから相づちをうった。
「しかし、金田一先生」
「はあ」
「こういう疑問を第一項目にもってこられたところをみると、かならずしもああたは、放庵さんが殺害されたとばあ思うておられんのですな」
「いやあ、だから、そこが疑問の疑問たるゆえんでしてね。あっはっは」
金田一耕助のけろりとした横顔を、立花警部補はいくらかいまいましげな眼でにらんでいたが、やがてまた便箋に眼を落として、
「生きているとすればどこにいるのか、……なるほど、これもごもっともな疑問ですな。それから、死んでいるとすれば犯人は死体をどこにかくしたか、それはまたなぜか――と、いうのは?」
「いやな、立花君」
と、磯川警部はまるでやさしい小父さんが、いきまく駄々っ児をあやすようなおだやかな調子で、
「これがこのかたのやりかたなんだ、いつものな。あらゆる可能性を追究していく……と、いうのが金田一先生のいつものご流儀でな。だから、こんどの事件の場合でも、放庵さんの死体が発見されて、はっきりと殺人が証明されるまでは、いちおう放庵さんが生きている場合も考慮にいれて、そのほうへも抜かりなく捜査の手をのばしておいたほうがよかろうというのが、金田一先生のお考えなんだ、と、わしは思うな」
「なるほど、しかし……」
と、立花警部補はつよく下唇をかんで、
「多々羅放庵が生きているとすれば、現場のあの状態は……?」
「あのていどの状態なら、擬装しようと思えば擬装でけんこともないでな」
「擬装……?」
立花警部補のたくましいまゆがびくりと大きく|痙《けい》|攣《れん》した。
しばらくかれはまじろぎもせず、だまって磯川警部と金田一耕助の顔を見くらべていたが、ようやくかれの|脳《のう》|裡《り》にも、この事件をいろどる謎の複雑な可能性のいろいろが諒解されてきたらしい。眼を皿のようにしてもういちど、十項目にわたる箇条書きを熟読|玩《がん》|味《み》していたが、
「いや、それでは……」
と、なにかしら息苦しいものでも吹っきるようにのどを鳴らせて、
「第二項目へすすみましょう。おりんさんは生きているのか死んでいるのか……と、いうのは……?」
「いや、まあ、それは書くだけ書いてみたんです。その項と第四項目は神戸の町田というひとに照会してみればわかるでしょう」
「なるほど、そうすると、この第三か条のおりんさんが死んでいるとして、放庵さんがそれをしっていたか、いなかったか。……と、いうのは……?」
「立花さん」
と、金田一耕助はいともげんしゅくな顔をして、
「この十か条のなかでいちばん問題になるのはその項目なんですよ。おりんさんはだいたい死んでいるとみて間違いないらしい。げんに井筒のおかみのおいとさんというひとが葬式にもつらなっているんですからね。ただし、それも念のために神戸のほうを捜査していただかねばなりませんが。……ところが、ここにこういうことがあったんです」
と、金田一耕助は放庵さんのために代筆したいきさつを語って聞かせ、そのときの放庵さんの子供のようなよろこびようを繰り返すと、
「そこで問題になるのは第五条と第六条なんです」
「復縁を懇願するおりんさんの手紙は、昭和二十年代のいつごろ神戸から発送されたか。……と、いうことはこの手紙はこんど新しくきた手紙じゃないんですな」
と、立花警部補は卓上にある例の手紙を手にとって、改めて封筒の消印を調べてみる。しかし、まえにもいったようにその消印はひどくぼやけていて、昭和二十年代のいつかの日に投函されたということ以外、かいもく見当がつかなかった。しかも差し出し人は日付を記入することを忘れている。
「しかし、これは神戸の町田家へ照会してみればわかることでしょう」
「そうそう、だからな、立花君、金田一先生が問題になさるのはむしろそのつぎの項、すなわち第六条なんだろうよ」
「右の手紙をさいしょに読んだのはいったいだれか。……これはどういう意味?」
「立花君、その封筒の封じ目をよくみてごらん」
と、磯川警部がそばから金田一耕助の拡大鏡をとってわたした。
立花警部補はぎょっとしたように、眼のまえにある封筒を手にとって裏返した。それは女物の封筒は封筒だが、横封ではなく縦封である。そして、封筒のあたまはきれいにはさみで切られているが、封じ目に書いてあるのは〆という字ではなく、Seal という気取った横文字がつかわれている。
立花警部補が拡大鏡でのぞいてみると、Seal という横文字の紫インキが、いくらかぼやけてにじんでいるのは、あきらかに湯気に当てられたせいらしい。しかも Seal という封印文字のあわせ目が、ほんのわずかずつだがずれているのである。
立花警部補はくじらが潮を吹くように、大きく息を吐き出した。
「なるほど、これでみるとこの手紙は多々羅放庵の手に入るまえに、だれかが横どりをしてぬすみ読みをしよった。そして、最近まで保管してあったのを、封をもとどおりにして、何食わぬ顔であの放庵へ放りこんでおきよった。それを、放庵はなにもしらずに、こんど新しくきたのじゃと思うてよろこんで……」
「いや、それなら話はかんたんじゃがな」
「えっ?」
と、立花警部補はぎょっとしたように、磯川警部のほうをふりかえる。
「いや、金田一さんはこうおっしゃるんじゃよ。つぎのような場合も考えられると。つまり、放庵さんは去年この手紙を受け取って、はさみで封を切ってなかみを読んだ。しかし、復縁する気もないのでそのままにしておいた。それをこんど役だてようと、つまりあの擬装に役だてようと、わざと湯気に当てて封をひらいて、封じ直しておいたのではないか。そうして、いま君がいうたような方向へ捜査当局の目をくらまそうとしたんじゃないかと……」
「しかし、……しかし……」
と、立花警部補はギラギラと血走ったような眼を光らせて、
「このはさみの目は……? これはごく最近切られた跡ですぜ」
「ところが、金田一先生はこうおっしゃるんだ。はさみはいつでも使える、去年切った封をもういちど切って、はさみの目を新しくしておくことだってなんでもないと……」
「畜生ッ!」
「しかし、立花さん、これはただ可能性の問題を申し上げているんですよ」
「そうじゃ、金田一先生はそういう場合もありうるということを、考慮に入れておかねばならんとおっしゃるんだな。少なくとも死体が発見されるまでは……だが、さきへ進んだらどうかな」
立花警部補の息づかいは少なからずあらくなっている。額にはねっとりと汗が吹きだしている。それを手の甲でぬぐいながら、警部補はいそいで便箋を一枚めくった。
「第七、八月十日の夜、おりんと名乗って仙人峠をこえてやってきたのはいったいだれか……」
「それだってふたように考えられる。金田一先生はおっしゃるんだ。放庵さんがあのにせ手紙にだまされておいでんさったとしたら、それは放庵さんの思いもよらぬ人物が、おりんに化けてやってきたのじゃろう。しかし、すべてが放庵さんのたくらみから出てるとしたら、それは放庵さんのお仲間か、あるいは放庵さんじしんじゃったかもしれんとおっしゃるんじゃ。だれも顔を見たものはなく、声だってひくいボソボソ声だったそうじゃけんな。金田一先生が、それとなく、井筒のおかみにお聞きんさったところによると、放庵さん、わかいじぶん素人芝居にこりなさって、なかなか芝居気があったそうな」
立花警部補はいよいよ眼をまるくして、すっかり煙に巻かれた顔色である。金田一耕助は気の毒そうに眼をしょぼつかせながら、
「いやねえ、立花さん、ぼくはなにもわざと事件を複雑にしようというわけではありませんが、なにかしら、そういうふうに思わせるような、怪しい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がこの事件の底に流れているんじゃないかということを、警部さんに申し上げたんです」
「はあ、はあ、ふうむ」
「いや、まあ、それはそれとして、それじゃ立花君、さきへ進むことにしようじゃないか」
「はあ、第八は放庵さんは二時間以上もにせのおりんと対座していて、それに気がつかなかったのであろうか。気がつかなかったとすればそれはなぜか……、というんですけんど」
「さあ、その場合じゃな。もしにせのおりんが放庵さんのお仲間、あるいはおりんが放庵さんの一人二役だったとしたら答えはかんたんじゃな。だが、そうでなかった場合、それはなぜかという疑問が出てくる」
「それはなぜ……? 金田一先生にはそれについて、なにか考えがおありんさるんで?」
「いや、ぼくにもまだ。……しかし、その点についてもふたつの場合が考えられますね。第一は放庵さんがじっさいぜんぜん気がつかなかった場合、第二は気がついたが、なんらかの理由であいてを許したか大目に見たという場合」
「許して大目に見て酒酌みかわしているうちに、あいてに毒を盛られてくたばったとおいいんさるんで?」
「あっはっは、理屈からいうとそういうことになりますね」
「そ、そんな馬鹿な!」
と、立花警部補は吐きだすように強い調子である。こうなると可能性一点張り論者のいうことも、あんまり当てになるものじゃないと、警部補はあらためていまいましさが|昂《こう》じてくる。
「まあ、まあ、立花君、それよりそのつぎに進もうじゃないか」
「はあ、第九条は昭和二十八年以来、放庵さんの生活費は、どこから出ていたか……と、いうんですが……」
それについて磯川警部が説明を付け加えると、警部補のおもてにはふたたびおどろきの色と同時に真剣さがもどってきた。声を落として、
「そうすると、警部さん、昭和七年の事件をタネに、多々羅放庵がだれかをゆすっていたんじゃないかとおいいんさるんで?」
「いや、放庵さんのほうでゆすったかどうかしらんが、いたい尻を握られてるだれかが、口止め料として生活費を支給しとったのかもしれん。もしそうだとすると、この第九条こそ、こんどの事件と昭和七年の事件を結ぶ重大な鎖の|環《わ》になるわけじゃけんな」
「承知しました。こいつはひとつげんじゅうに調査してみましょう」
と、警部補はその項のうえに三重丸をつけると、
「ところで、金田一先生、この最後の項はどういうんです。放庵さんは山椒魚をいつ入手したか。またなんのためかちゅうのは?」
「いやあ」
と、金田一耕助は例によって例のごとく、五本指で、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「ただ、ちょっと書きそえてみたんです。九か条じゃ半端だと思ったもんですからね」
「な、なんですって?」
警部と警部補が異口同音に口走った。ふたりともあきれたような顔色である。
「いや、それにね、あの醜怪な山椒魚のすがたにこそ、こんどの事件が象徴されてるみたいな気がしたもんですからな」
「なあんだ」
と、立花警部補はいまいましそうに鼻をならして、金田一耕助をにらみすえたが、すぐまた思い直したように頭をさげると、
「いや、しかし、ありがとうございました。おかげでじぶんの進むべきみちがわかりましたけんな。要するに多々羅放庵の死体を発見すればいうことはないんでがしょう」
「そうそう、それが第一ですね。放庵さんは生きているのか死んでいるのか……」
金田一耕助は暗い眼をしてつぶやくと、|竦然《しょうぜん》として肩をすぼめたが、立花警部補はもうそういう耕助にとりあわなかった。
「加藤君、加藤君」
と、いかにも肺活量の強そうな警部補の声が、つぎの部屋にひかえた部下の名を呼んでいる。こうして、立花警部補の精力的な捜査活動の幕が切って落とされたのである。
|枡《ます》ではかって|漏斗《じょうご》で飲んで
とうとう青年団の団員諸君の、かねておそれていたような事態がもちあがった。
翌八月十三日。――
その日の夕方から大空ゆかりの義侠的リサイタル兼盆踊り兼のどじまんが、連夜にわたって開催されることになっているのだが、その日の夕方までの時間を警察の捜査に協力するよう、立花警部補から要請されたのである、放庵さんの消息は、十三日の朝にいたるも不明のままで、したがって、死体となって人食い沼の底にしずんでいるのではないかという疑いが、しだいに濃厚になってきたからである。
人食い沼は約六百坪ほどあり、沼底に多くの湧水池をもっているとみえて、どんな|旱《かん》|天《てん》つづきの年でも干あがったためしがないという、鬼首村にとってはこのうえもなくありがたい貯水池なのだが、いっぽう池がふかくて、うっかり足をとられると、二度と|這《は》いあがれぬという恐ろしい魔の古沼でもあった。それにこれだけの広さをもちながら、おりおり山椒魚が無気味な肌をのたくらせているのを見る以外に魚が住まぬというのも不思議であった。
その日、いちにちこの気味悪い古沼は、警察隊や青年団の手によって、その水底がさぐられた。いちめんに咲きみだれるひしの花をかきわけて田舟が|遊《ゆう》|弋《よく》し、田舟のうえから網が投げられ、ながい|竹《たけ》|竿《ざお》で水のなかがつつきまわされた。しかし、その日はとうとうなんらの成果もあげることができなかった。
もっともそれは協力者であるところの青年団員諸君の、熱意の不足にもよるところが大であったが。……考えてみるとそれも無理はなかった。生きのいい青年団諸君にとっては、放庵さんごとき|老《おい》|耄《ぼれ》の生死などどうでもよかったのだ。それに第一、放庵の死体がそこに投げこまれたという証拠はどこにもなかったのである。
思えば十日の夜の大雷雨は犯人にとって――もし、そこに犯人なるものが存在するならば、――このうえもなきよき協力者だったようだ。草庵の外部におけるあらゆる痕跡は、あの猛烈な大雷雨がきれいさっぱり洗い落としてしまっていたから。
こうして、さしあたっての死体発見はみごとに失敗におわったが、しかし、いっぽう立花警部補の精力的な捜査活動は着々として効果をおさめつつあった。
まず第一に、草庵に残っていた汚物を県の鑑識課におくりとどけて、調査を依頼しておいたところが、その結果報告が十三日の夕方ごろまでにとどいたのである。それによると汚物のなかからロベリン(C22H27NO3)なる猛毒アルカロイドが発見されており、このロベリンなるアルカロイドは|沢《さわ》ぎきょうというキキョウ科の植物の全草中に含有されているという。
沢ぎきょう。――
すなわちこのへんではお庄屋ごろしとよばれている植物で、げんに人食い沼の周辺にもあちこちに群生している。それではやはり放庵さんはお庄屋ごろしの猛毒で毒殺されたのであろうか。
第二の成果は、昨夜神戸へ派遣した加藤刑事が、十三日の夕方かえってきてもたらした報告である。
それによると、栗林りんはたしかに死亡しているのである。ことしの四月二十七日に神戸市兵庫区西柳原町二ノ三六、紅屋料理店こと町田幸太郎かたで、最期の息をひきとっている。加藤刑事は死亡診断書をかいた医者にもあってきているが、病気は腎臓ガンだったという。
さらに町田幸太郎氏は放庵さんあてに、たしかに死亡通知を出したという。そのハガキは井筒のおかみのおいとさんに書いたハガキといっしょに出したのだから、井筒のほうがついているのに放庵さんのほうがつかぬはずはないと町田幸太郎氏はいきまいたそうな。
それから、復縁をせまるおりんさんの手紙だが、それは幸太郎氏のお嬢さん、達子嬢が代筆したものだった。加藤刑事の持参した手紙を見ると、達子嬢は即座にじぶんが代筆したものにちがいないと断言したが、正確な日付けについては記憶がなかった。ただ、去年、すなわち昭和二十九年の暑いじぶん、八月か九月ごろだったように覚えている。いずれにしてもそのじぶん、鬼首村から返事がくるのを、おりんさんが首をながくして待っているのがあわれでならなかった。そして、結局、なしのつぶてで、鬼首村からなんの音沙汰もないとあきらめて以来、おりんさんはきゅうに老いこんでいったのであると、達子嬢は眼をうるませて語ったという。
それにしても、おりんさんを失望のどん底にたたきこんだこの手紙は、一年の歳月を経たこんにち、|忽《こつ》|然《ぜん》として出現したかと思うと、世にも奇怪な謎の妖気をまきちらしているのである。
おりんさんの手紙と死亡通知のハガキと、二通が二通とも放庵さんの手に入らなかったのか。それとも手に入ったにもかかわらず、なんらかの理由があって放庵さんが握りつぶしたのであろうか。
さらに、立花警部補の捜査の一歩前進というべきは、放庵さんの生活費の謎である。
「わたしのしっておりますところでは……」
と、十二日の夕方、捜査本部へ呼び出された亀の湯のおかみの青池リカは、少なからず固くなった切り口上で、つぎのように申し立てた。
「お庄屋さんには神戸に|甥《おい》ごさんがおいでんさりまして……お名前はたしか吉田順吉さんとおいいんさって、お庄屋さんの妹さんのお子さんじゃそうにござりますけんど、そのかたから戦後ずうっとお仕送りがございましたようで。……ところが、昭和二十七年だか八年だったかに、その順吉さんいうかたがお亡くなりんさって。……そのとき、お庄屋さんは神戸までおいでんさりまして、その後の仕送りについていろいろ交渉なさったらしいんですけんど、うまくいかなんだかして、かえってきてから困った、困ったいうておいでんさりましたが……」
「困った、困ったいうておいでんさりましたが……?」
「はあ、あの、その後べつにお困りのもようもございませんけん、なにかのときにお尋ねしたところが、順吉さんの弟さんいうかたが、ひきつづいて仕送りしてくれることになったいうて、よろこんでおいでんさりましたん」
「その弟というのはなんという名前?」
「さあ、そこまでは……」
「それじゃ吉田順吉という男の住所は……?」
「ああ、主任さん、それならここに手紙があります。吉田順吉という署名の手紙が……」
そばから声をかけたのは|乾《いぬい》刑事である。放庵から押収してきた文筥のなかから、乾刑事はひとたばの手紙を取り出したが、このなかに吉田順吉の署名のある手紙が数通まじっている。住所は神戸市須磨寺町二丁目とあり、電話もついている。
「ああ、そう、そんならそのほうへもひとをやって調べてみてくれたまえ。弟のいどころもそこへいけばわかるだろう」
「承知しました。なんならぼくがいてきてもいいです」
だが、その乾刑事は十三日の夕方までにはまだ神戸からかえっていなかった。しかし、放庵さんがリカに語った話というのが、たぶんに|眉《まゆ》|唾《つば》ものであったらしいことは、乾刑事のかえりを待つまでもなくわかっていた。
この村を配達区域にもつ近在の郵便局を調べたところ、昭和二十八年十二月以降、どこからも多々羅放庵あての送金があった形跡はなかった。銀行とすれば総社の町にMとSとふたつの銀行があったが、そのほうへも放庵さんあての入金があった事実はなかった。また放庵さんが預金をもっていたというような形跡もなかった。
これを要するに放庵さんがどこから生活費を手に入れていたにしろ、それは村の外部からではなく、内部であったらしいことはたしかである。しかも、そのことについて放庵さんは青池リカにうそをついていた。……
「金田一先生」
立花警部補もかなり興奮して、この点に関するかぎり金田一耕助のサゼストにたいして感謝の念を捧げるのにやぶさかでなかった。
「おかげで放庵の暗い面が思いのほかはやくわかりました。やっぱしなにかありよったんでしょうな」
「あとは、じゃあ、村のだれが|貢《みつ》いでおったか、それを発見することじゃな」
磯川警部の興奮も大きかった。昭和七年の事件との結びつきが、しだいに強くなっていくのをかんずるからである。
「それじゃ、もういちどここのおかみを呼んでお聞きになったらいかがですか。村でだれがいちばん放庵さんと接触がふかかったか……」
金田一耕助の提案に、
「あっ、そうだ、そうだ。君、木村君、おかみさんにな、もういちどこっちゃへくるようにいうてきてくれんか」
「はっ!」
木村巡査に呼ばれてそれからまもなく、捜査本部へやってきたリカは、立花警部補から質問の要旨をきくと、
「さあ、だれがいちばんお庄屋さんと仲良しやったかとおっしゃったかて。……なにせ、あないにさばけた、欲のない、それでいて世間の広い、話のおもしろいかたですけんな、暇なときにはみんな遊びにおいでんさったようですけんど、それでいて、ほんまの仲良しはひとりもおいでんさらなんだんとちがいますじゃろうか」
「つまりひととおりつきおうてはいたけんど、腹を打ちわってつきあうような人間はなかったいうわけじゃな」
「はあ、そう申してもよろしいかと……」
「仁礼の旦那はどうじゃね。嘉平さん、あのひとも話のおもしろいひとのようじゃが……」
と、磯川警部がくちばしをはさんだ。
「はあ、そうおっしゃれば、会えばおもしろそうに話をしておいでんさります。そうじゃけんど、お互いにじぶんのほうから訪ねていくようなことはめったに……」
「なかったというんやな」
「はあ、仁礼さんのほうより|枡《ます》|屋《や》のご隠居さんのほうがむしろ……」
「枡屋のご隠居というと……」
と、金田一耕助がききかえすと、
「はあ、あの、失礼しました。由良さんのことですん。このへんのおうち、みんな屋号もっとりますんよ」
「ああ、そう、由良家のご隠居というと、五百子さんとかいって、ことし八十三歳とかのご高齢でいらっしゃるという……?」
「金田一先生、いやに詳しいじゃありませんか」
と、磯川警部がにやっと笑った。
「いや、こないだ井筒のおかみに聞いたんですよ。それじゃ放庵さんのほうからちょくちょく由良家へ出向いていくんですか」
「はあ、ご隠居さんのお招きで。……なにせ、お庄屋さんは村一番の家柄のかたですし、それに年もちこうておいでんさるけに、話おあいんさるんでしょう。それですけん、由良さんのほうでなんぞ珍しいもんや、おいしいごちそうがでけたときには、いつも敦子奥さんが、お庄屋さんとこへとどけてあげておいでんさります。それはわたしどものほうでも、できるだけお庄屋さんには気いつけておりますけんど……」
その敦子の亡夫の卯太郎こそ昭和七年の事件をひきおこした発頭人なのである。そこになにかまだ世間にしられていない秘密の|綾《あや》があるのではないかと、だれの頭脳にもまずいちばんに思いうかぶことである。
「そのご隠居さんちゅうのは八十三やいうことやが、体はどうなんだ。身動きもでけんいうほど弱っとるの」
「いえ、もういたってお元気なかたで、ちょくちょくわたしどものほうへも入湯においでんさるくらいですけん。それは腰は弓のようにまがっておいでんさりますけんど、眼も耳も八十三とは思えんほどお達者で……」
しかし、なぜそんなことをきくのかといわぬばかりに、リカは三人の顔を見くらべている。京女によく見るようにつめたい美しさのなかに、思慮ふかい落ち着きをもつ女である。
「いや、どうも。またなにか尋ねることがあるかもしれんが、なにぶんよろしくたのむ」
磯川警部があたたかく労をねぎらうと、
「はあ。……それでは……」
と、リカはつつましく頭をさげて出ていった。
「警部さん、こりゃ多々羅放庵と由良家の線を、もういちど洗うてみる必要がありますな」
「ひとつやってみるんじゃな」
と、磯川警部もうなずいた。
こうして捜査は順調に進展していったが、ただひとつ|暗礁《あんしょう》にのりあげたというのは、問題のいなりずしの出所がいまだにつかめないことである。あのいなりずしこそは奇怪な老婆の唯一の遺留品と見なされているのだけれど、その出所がいまのところまだつかめない。
すしそのものは自家製らしいが、それにしても油揚げを買った人物があるはずである。いなりずしは十個残っていたから、少なくとも五枚以上の油揚げが使われているはずである。しかし、この村はいうにおよばず、近在の村から町まで豆腐屋はかたっぱしから調べられたが、油揚げを五枚以上買った人物はあっても、その買い主はわかっており、そしてそのなかに怪老婆にひってきするような人物は見当たりそうもなかった。
「まあ、ええわ。とにかく油揚げを五枚以上買ったやつはメモしとけ。ひとりひとり順繰りに洗っていくんだ」
こうして、多々羅放庵失踪事件を中心として、警察の捜査活動は着々として進行していったが、それと並行して村の青年男女の盆踊り準備も抜かりなく進められていたのである。そして、あとから思えばそのふたつの活動の|間《かん》|隙《げき》をぬうて、あの世にもまがまがしい悪魔の殺人計画も、入念に、陰険にすすめられていたのであった。
「どうです、警部さん、捜査のほうは立花さんにまかせておいて、われわれは盆踊りでも見にいこうじゃありませんか」
警部とさしむかいでビールを二本かたづけたあと、夕食をすますともう八時、拡声機をとおして聞こえてくる音頭調のレコードの音が、風のかげんかまぢかに聞こえて騒々しい。
「あっはっは、金田一先生でもグラマー・ガールに興味がおありですか」
「でもとはなんです。でもとは……失敬な。それにだいいち、グラマー・ガールを|餌《えさ》にして、ぼくをここへおびきよせたのはいったいだれです」
「あっはっは、そういえばそうですな。それじゃちょっくらグラマーさんのお顔でもおがんでくるかな」
「……とは警部さんも古いな」
「それ、どういう意味……?」
「グラマーさんの場合、顔とはいわないんじゃないですか。ヒップがどうとか、バストが何インチとか書いてあるじゃありませんか」
「あっはっは、それじゃおしりをおがみにいくことになるんですか。そいつはどうも……」
冗談をいいながら浴衣がけのふたりが、亀の湯を出たのは八時すぎである。まえにもいったように亀の湯から村の中心部までは小一時間の距離である。だからふたりが近在の町々からおしよせてきた客のために、ごったがえしているお陣屋跡のちかくまでたどりついたときはもう九時ちかかった。
「やっ、こりゃたいへんな人出ですね」
「金田一さん、ちかまわりしましょう」
鬼首村へきてからまだいちどもこの方角へ足をふみいれたことのない金田一耕助より、磯川警部のほうが案内をしっていた。丘と林にとりかこまれた|淋《さび》しい路をしばらくいくとむこうにあかあかと灯のともったやぐらが見え、やぐらの下はありのような人のうごめきである。
「ああ、警部さん、いいところへきました。いま歌ってるのゆかりじゃありませんか」
金田一耕助が思わず足を早めようとするのを、ふいに警部がたもとをとらえてひきとめると、
「ああ、ちょっと金田一さん」
と、小声でささやいて意味ありげに、五、六メートルほど前方をあごで示した。
ええ、なに……?
と、金田一耕助が思わず胸をどきつかせながら、警部の示したほうへ眼をやると、このへん特有の赤松の大木の根元に、ひとめをさけるようにたたずんでいる、ふたりの女のうしろ姿が見える。ふたりとも浴衣をきているが、ひとりのほうは頭からすっぽりお|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》のようなものをかぶって、頭巾の裾は肩のうえまでたれている。
「警部さん、だれ……?」
と、金田一耕助はぎょっとしたように眼をすぼめた。
「亀の湯の里子ですよ。まだお会いんさったことありませんか」
「いえ、まだいちども……ああ、ひとりは女中のお幹ちゃんですね。だけど、里子はなぜあんな頭巾を……?」
「頭から体へかけていちめんの|赤《あか》|痣《あざ》なんです。それさえなきゃかわいい|娘《こ》なんだが……金田一さん、しらん顔していきすぎてやりましょう。かわいそうだから……」
だが、ふたりが歩き出すまえに、お陣屋跡のほうからだしぬけに、四人の男女がどやどやとやってきた。里子はかれらの姿をみると、あわてて林のなかへかくれようとしたが、しかしそのまえにもう見つかっていた。
「なんや、里ちゃんやないか。なんにもかくれえでもええやないか」
そういう声は勝平である。ほかの三人は歌名雄に五郎やんに仁礼文子のようである。
「ああ、里子、おまえも来とったんか」
と、さすがに歌名雄はすまなそうな声で、
「それはそうとお幹、泰子さん、しらんか。このあと泰子さんと文子さんの出番やのに、泰子さんどこかいいてしまいよって」
それにたいしてお幹さんが林のおくを指さしてなにか答えると、
「なんやて!」
と、素っ頓狂な声をあげたのは五郎やんだ。
「おばんとどこかへいきよったって? おばんていったいどないなおばんや」
それにたいしてお幹がまたなにか答えると、こんどは勝平がぎょっとしたように、
「おい、|歌《か》あさん、それ、お庄屋さんとこへきよったおばんとちがうか」
つぎの瞬間、磯川警部と金田一耕助は一同のまえに立っていた。
「ああ、お幹ちゃん」
と磯川警部はできるだけあいてをおどろかさないように、言葉の調子に気をつけながら、
「それ、どういう話かな。だれかおばあさんが、泰子さんをどこかへつれていったのかな」
それにたいしてお幹が答えたところによると、彼女と里子はここへくる途中、泰子と出会ってすれちがったというのである。そのとき、泰子は弓のように腰のまがった老婆といっしょで、老婆は手ぬぐいを姉様かぶりにして、もんぺをつけ、尻切れ草履をはいていた。……
「それで、お幹ちゃんは声をかけなかったの」
と、金田一耕助がたずねると、
「いえ、里ちゃんがかくれよおいいんさるもんじゃけん、木の陰へかくれてやりすごしたんですん」
里子は無言のまま顔をそむけているが、彼女のかぶった頭巾には、眼のところにだけ穴があいている。
「それじゃ、向こうは気がつかなかったんだね」
「へえ」
「それで、泰子さんはどういう顔色だった? おびえているとかなんとか……?」
「いえ、あの、おびえておいでんさったかどうかしりませんけんど、なんやらひどうびっくりしたような顔もとでしたん」
「歌名雄君」
と、磯川警部は依然として、言葉の調子に気をつけている。
「君たちすまんが手わけして、泰子さんをさがしてくれんか。由良のほうへいて泰子さんがもどっとるかどうか。……もし、泰子さんがまだもどっとらんようじゃったら、駐在所や亀の湯へひとを走らせて、警察のもんを呼んできてくれんか」
警部の声はふるえていた。
騒ぎはしだいに大きくなって、盆踊りがすんだあと、村じゅう総出で捜索されたが、その晩とうとう泰子のすがたは見つからなかった。
彼女が死体となって発見されたのはその翌日の朝まだきのことであったが、枡屋の娘の由良泰子は、あの手毬唄にあるように、|枡《ます》ではかって|漏斗《じょうご》でのまされていたのである。
第二部 二番目のすずめのいうことにゃ
炉辺物語
放庵さんの草庵から人食い沼にそって半丁ほどだらだら坂をのぼったところに、ひとながれの滝がかかっている。滝というとおおげさだが、ちょうどそのへんで、地層に一間ほどの落差ができており、その露出した崖の肌をつたって、清水がしたたり落ちているのである。 土地のひとはこの清水を腰かけの滝とよんでいる。
それというのが、この滝のちょうどなかほどに、腰かけのような格好の岩が突出しているからである。したたり落ちる清水はいったんこの腰かけ岩のくぼみに落下し、そこからあふれてまたあらためて、したの滝壺へむかって落ちているのである。
滝壺は直径一間あまりの不規則な半円型をなしており、ふかさは二尺もあろうか。清水はそこからさらに小さな流れとなって、人食い沼にそそいでいるのだが、放庵さんはいつもこの滝まで水を汲みにくるのである。
枡屋の娘の由良泰子が死体となって発見されたのは、じつにこの滝壺のなかだった。彼女の死体はこのあさい滝壺のなかに、石をまくらに、天をあおいでよこたわっているのだが、それがまた、なんともいえないほどへんてこな構図をえがいているのである。
あおむけによこたわった泰子の口には、直径七寸ばかりの大きなガラス製の|漏斗《じょうご》がさしこんであり、いっぽう腰かけ岩のうえに三升|枡《ます》がすえてあって、それが落下する清水をうけとめている。つまり、滝の水はいったん三升枡をいっぱいにみたしたのち、すこしかたむけておかれた枡のすみからあふれおち、それが泰子の口にさしこまれた漏斗にむかって、そそぎこまれているのである。
鬼首村につたわる|手《て》|毬《まり》|唄《うた》をしらないものにとっては、……いや、いや、手毬唄をしっているものにとってもおそらく同様だったろうが、……この発見は電撃的なショックだった。犯人はいったいなんのためにこのような奇妙な構図をえがいたのか、これによって犯人はいったいなにを暗示し、なにを誇示しようとしているのか、はじめのうち、だれにもその意味がつかめず、その意味がつかめないだけに、この事件の底によこたわる異常なほどの薄気味悪さ、どすぐろいまがまがしさが、ひとびとのはらわたをえぐらずにはおかなかった。
犯人は手毬唄にあるとおり、枡屋の娘に滝の水を、枡ではかって漏斗でのませている。しかし、さりとて泰子は溺死したのではなかった。絞殺されてしかるのち、このような奇妙な構図のもとにおかれているのである。
それはさておき、この死体を発見したのは亀の湯の歌名雄と五郎やんであった。
|徹宵《てっしょう》、泰子のゆくえをさがしてわからず、ひょっとすると彼女もまた殺されて、人食い沼にしずめられているのではないかと、青年団が手わけをして沼の周囲をさがしもとめているうちに、五郎やんがこの死体に気がついたのである。
そのときのことについて五郎やんは、立花捜査主任にむかって、つぎのように申し立てている。
「勝っちゃん、いえ、あの青年団の団長、仁礼勝平君の発案で、こないまちまちに捜しててもきりがないけん、ふたりずつ組になって、もっと組織的に捜索しようやないかちゅうことになって、みんなが役場を出発したんは、もうかれこれ五時でした。ぼくは歌あさん……亀の湯の歌名雄君と組になって、人食い沼の西側のへりを捜すようにいわれたもんじゃけん、ふたりでここんところを通りかかったんですが、滝壺のなかになにやらキラキラ光るもんがある。なんじゃろうとおもうて見なおすと、それがあの漏斗だったんです。ちょうどむこうの山にお日いさんが昇りかけたところで、その日の光をうけてキラキラ光っとったんですわ。そいで、ぼくがなにげなく滝壺のなかを見ると……」
と、五郎やんはいまさらのように肩をすくめて|唾《つば》をのむと、
「あれでっしゃろ。ぼくもはじめのうちは、なにがなんやら分からなんだんですけんど、よくよく見たら|泰《や》っちゃんじゃ。さあ、もうぼく、びっくりしてしもて、……歌あさんを呼ぼおもても、舌が上あごへひっついてしもて、しばらくは声も出なんだくらいです」
「歌名雄君はそのときこれに気がつかなかったのかね」
と、いう立花捜査主任の質問にたいして、
「はあ、ぼくは沼のほうばっかり気をとられてたもんですけん。……だいぶん向こうのほうへいきすぎてから、五郎やん……五郎くんがいないもんですけん、なにげなく振りかえってみたら、五郎君がここのところで、片手で滝壺のなかを指さしながら、気が狂ったみたいにおいでおいでをしてたんです」
と、きょうの歌名雄はさすがにほおをこわばらせて、いつもの微笑を忘れている。きめのこまかい肌がさむざむとけばだって、寝不足の眼が真っ赤に充血してつりあがっているのもむりはない。
この歌名雄の変事をつげるさけび声が、丘から丘へとこだまして、ひとびとを呼びあつめると同時に、そこに日本中をさわがせた、あの鬼首村手毬唄殺人事件の幕がきって落とされたのである。
死体が発見されたとき、金田一耕助は磯川警部とともに、捜査本部にあてられた亀の湯の共同宿舎の娯楽室で、いすにもたれてうとうととうたた寝していたのだが、報告を聞いてすわとばかりに、ねぼけまなこをこすりながら、警部とともにかけつけたときには、現場付近は、もういっぱい、黒山のようなひとだかりだった。
そのひとだかりをかきわけて、小さい滝壺のまえへ立ったせつな、金田一耕助は思わずぞうっと、背筋をつらぬいてはしる戦慄をおさえることができなかった。ただひとこと、ううむとばかりに、怒りにみちたうなり声をあげたきり、金田一耕助は磯川警部とともに糊づけされたようにその場に立ちすくんでしまったのである。
いや、立ちすくんでしまったのは金田一耕助や磯川警部だけではない。すでに先着していた捜査主任の立花警部補をはじめとして、捜査陣の一行から、滝壺をとりまいている村のひとびとにいたるまで、みないちようにおしだまって、|魅《み》|入《い》られたようにこのまがまがしい悪魔の構図にみとれている。
それはこのうえもなく恐ろしいことにはちがいなかったが、またいっぽう、妙にうつくしい|蠱《こ》|惑《わく》|的《てき》なながめでもあった。
泰子のからだはほとんどすっかり、滝壺のなかにしずんでいる。滝壺の水のうごきにつれて、彼女のからだをくるんでいる浴衣の袖や裾がひらひらゆれている。|清《せい》|冽《れつ》な水の底で浴衣をそめたはでな模様の朱と藍が、いろあざやかにおどっているのが、妙に強烈な印象となってひとびとの網膜にやきついた。
泰子の顔は大きな漏斗のためにほとんど見えない。その漏斗からあふれる水が、幾筋もの流れとなってガラスのふちをつたったのち、泰子の顔にふりそそぐ。しかも、その漏斗の上方、腰かけ岩のうえには、あのまがまがしい古ぼけた三升枡だ。
三升枡に落下する滝の水は、そこでこまかい水滴となってみだれとび、それがおりからの朝日をななめにうけて、くらい洞窟のような滝壺のおくに、うつくしい七色の虹をつくっている。……
まるで童話めいた情景なのだが、しかし、これはやっぱり、おそろしい殺人事件なのである。
「いったい、犯人は……」
と、立花捜査主任がのどのかたまりを飲みくだすような調子で、やっと口をひらいた。
「いったい、犯人はなんだってこんないたずらをやりおったんです。この枡だの漏斗だのはいったいなんのまじないだというんです」
それは憤りにみちた声音で、まるで金田一耕助に食ってかかるみたいな調子である。
金田一耕助はそれにたいして、ただもの悲しげに首を左右にふるだけだったが、立花警部補のその声に、磯川警部が夢からさめたように口をひらいた。
「ああ、いや、立花君、そのことはおいおい調査するとして、とりあえずこの現場、写真にとっておいたらどうじゃな。写真班、きてるんじゃろう」
さいわい、放庵さんの事件のために、きのう写真班が呼びよせられて、げんにその場にも来あわせていた。その写真班の活躍を契機として、滝壺のまわりのうごきはにわかに活発になってくる。
そのひとたちのじゃまにならぬように、金田一耕助は磯川警部とともに、滝壺のほとりに身をよけながら、それでもまだその視線は、あの奇妙な悪魔の構図に食いいったままはなれない。
金田一耕助はかつて瀬戸内海の一孤島、獄門島という島で、これとおなじような経験をあじわったことがある。
そこでは三人の娘が殺されて、その死体がそれぞれ奇妙な構図をえがいていた。しかも獄門島の場合には、それらの構図に悪魔のような意味が秘められていたのだけれど、こんどの場合はどうなのか。
磯川警部もそのとき金田一耕助と、冒険をともにした人物である。したがって警部の脳裡にもおなじ記憶がよみがえっているにちがいないが、そのことがこの事件にたいして、いっそうふたりの興奮をかきたてると同時に、またいっぽう、一種名状することのできない不安な思いにおとしいれるのである。
「金田一さん」
と、警部も耕助の視線を追いながら、のどのつまったようなかわいた声で、
「泰子という娘はまさかああして、溺死させられたんじゃないでしょうなあ」
「まさか。……人間いっぴき、溺死させるというのは容易なことじゃないでしょうからねえ。海や河のなかならともかく……」
「それじゃ、あの枡と漏斗は……?」
「警部さん」
と磯川警部をふりかえった金田一耕助の瞳には、鬼火のようなぶきみな光がもえている。
「獄門島の事件をおもいだしますなあ。あっはっは」
のどのおくでひくく笑うと、金田一耕助は警部の返事も待たずに、むこうにたむろしている歌名雄を呼んだ。歌名雄は勝平や五郎やんといっしょにそばへやってくる。この三人はいつもいっしょなのである。
「先生、なにか……?」
歌名雄はすっかりいつもの落ち着きと愛嬌をうしなっている。底に憤りをひめた声の調子は、まるで金田一耕助にむかってつっかかるようである。
金田一耕助はふしぎそうにあいての顔を見まもりながら、
「いやねえ、歌名雄君、あの枡や漏斗には妙なマークがはいっているね、|入《いり》|山《やま》|形《がた》の下に。あれ、分銅じゃないかね」
金田一耕助の指摘したことは、磯川警部も気がついていた。ガラス製の漏斗の表面にエナメルみたいな塗料で、次のようなマークがかいてあり、古ぼけた枡の側面にも、おなじマークの焼印がおしてある。
「はあ、あの……」
と、歌名雄はちょっとどぎまぎして、たすけ舟をもとめるように五郎やんのほうをふりかえる。しかし、きょうの五郎やんはいつになく慎重で、わざとそっぽをむいていた。
「あのマークに、歌名雄君、見覚えない?」
「いや、それなら……」
と、そばからたいぎそうに口を出したのは勝平である。徹夜のあとのこの惨事で、勝平もげっそり|憔悴《しょうすい》している。
「あのマークじゃったら、うちのマークです」
「おたくの……?」
「へえ、そうです。うちは昔から屋号を秤屋いうて、あれが秤屋のマークです。なんでも|曲尺《かねじゃく》と分銅を組み合わせてあるんじゃそうですけんど、うちの道具にはかたっぱしからあのマークがついとります」
「そうじゃけんどなあ、警部さん」
と、そばから勝平をかばうように口を出したのは歌名雄である。
「あの枡や漏斗やったら、だれでも持ちだそおもたら持ちだせるんです。なあ、五郎やん」
「と、いうのは……?」
「勝っちゃん、それ、おまえからいうといたらどうや。こげえなこと警察のひとにちゃんというとかなあかんぜ」
「うん」
と勝平もつよくうなずいて、
「それはこうですんじゃ。戦争中うちでぶどう酒作っとったことがあるんです。ここからは見えんけど、この丘をむこうへこえたところに工場をたてて、ぶどう酒……ちゅうたかてほんもののぶどう酒やおまへんけど、まあ、ぶどうをしぼって|蒸溜《じょうりゅう》して、それを瓶詰めにして軍やなんかにおさめとったんです。戦後もしばらくは羽根がはえたように売れとったんですけんど、もういまみたいに酒が豊富になってしもたら、だれもそない酸っぱいもん、飲むもんあらへん、そいでも、すっかり閉鎖してしまうわけにもいかんけん、ほそぼそながら作っとるんですけんど、工場も、はんぶんほったらかしみたいなもんですわ。その枡や漏斗、工場にそなえつけのもんやけん、いま歌あさんがいうたとおり、だれでも持ちだそおもたら持ちだせるんです」
「それにだいいち、工場長ちゅうのんがうちのおやじですけんな」
と、五郎やんは首をすくめて舌をだした。
磯川警部は思わず金田一耕助と顔見あわせると、
「それどういう意味かね」
「ううん、うちのおやじときたらこの村でも名物男ですんじゃ。その酸っぱいぶどうザケに食らい酔いよって、いつも鼻の頭を真っ赤にしてふらふらしとりますわ。そげえな枡や漏斗、工場にはぎょうさん[#「ぎょうさん」に傍点](たくさん)ありますけんな、ひとつやふたつ、のうなったかて、そげえなことに気のつくようなおやじやあらへん。ああ、うわさをすればかげとやらで、むこうからおやじがやってきよった」
五郎やんの声にふりかえると、むこうの崖のかどをまがって、三人の男がいそぎあしにこっちのほうへやってくる。そのなかのひとりは金田一耕助もしっている勝平の父の嘉平どんだった。
嘉平どんも起きぬけにうわさを聞いたとみえて、麦わら帽子をあみだにかぶり、浴衣の尻をはしょって、すたこらこっちへやってくる。
嘉平どんのうしろにつきそうように、ちょこちょこ走りでやってくるのが、五郎やんのおやじであろう。年ごろは四十五、六、小柄ながらもがっちりとした体に、作業服を一着におよんで、なるほど鼻のあたまが真っ赤である。あとでわかったところによると、名前は|辰《たつ》|蔵《ぞう》という、むろん春江の兄である。
もうひとり自転車をおしながらやってくるのが、医者の本多先生であった。本多先生も辰蔵とおなじ年ごろだ。
三人がちかづいてくると、滝壺をとりまいていたひとびとは、しぜん左右に席をひらいた。嘉平どんも滝壺のまえに立って、ひとめそこをみると、大きな目玉をひんむいて、しばらく息をはずませていたが、やがて額の汗をぬぐいながら、金田一耕助のほうへやってきた。
「金田一先生、これはいったいどげえしたことぞな。|泰《や》っちゃんを殺したやつは、なんじゃとて、こげえな妙ちきりんなことをやりよったんじゃろ」
「それはこちらからお尋ねしたいことですがね、旦那」
「えっ?」
「いえね、このへんには昔、こういう|拷《ごう》|問《もん》のしかたでもあったんですか」
「拷問……?」
と、磯川警部もいぶかしそうに眉をひそめた。
「いやあ、ぼくはいま外国の小説を思い出していたんですがね。あっはっは」
そのとき、金田一耕助が思い出していたという外国の小説は、おそらくコナン・ドイルの|炉《ろ》|辺《へん》物語であろう。その巻頭に収録されている『革の漏斗』という小説によると、ルイ十四世時代のフランスには、罪人をしばりあげて仰向けにねかせ、その口に漏斗をおしこんで、うえから水をそそぎかけ、自白を強要するという拷問法があったそうである。
いま滝壺のなかにえがかれている悪魔の構図が、金田一耕助にその拷問法を思い出させたのである。
「このへんは昔、小大名のおひざもとだったという話ですから、ひょっとすると、こういう拷問のやりかたでもあったのかと思うて……」
「さあてね」
と、嘉平どんも首をかしげて、
「わたしゃそういう話聞いたことがないが……そうそう、そういう話なら放庵さんがよう研究しとりなさるが……」
と、いいかけてこれはしたりというように、嘉平どんは、大きな目玉をくりくりさせて、
「そうそう、そういえば、放庵さんもどげえかしたちゅう話じゃけんど、金田一先生、こりゃいったいどうしたことじゃ」
と、嘉平どんがふとい吐息をはいたとき、そばから辰蔵が赤い鼻のあたまをこすりながら、しさいらしく首をひねった。
「それについて、旦那、ここにちょっとおかしな話がありますんじゃが……」
「おかしな話というと……」
「きのう夕方のことですんじゃが、野良のかえりにわたしゃこの路を通って、工場へちょっと寄りましたんじゃが、そのとき、のどがかわいたもんですけに、ここで水をのんでいったんですん。そのときにゃ、ここに枡だの漏斗だのは、たしかになかったんですじゃ。ところが……」
「ところが……」
「工場へよって酸っぱいやつを一杯ちくとやって、またこっちの路をくだってくると……そうそう、あっちの路、こないだの大夕立で崖くずれがして、通れんようになってしもとることご存じですじゃろ。それでまたこっちの路をくだってここまでくると、またぞろのどがかわきよった。それで、水をのもうとちかづいてくると、腰かけの岩のうえに妙なものがのっかとります。なんじゃろうとさわってみると、それが枡と漏斗ですんじゃ」
「ああ、ちょっと」
と、立花捜査主任がするどくさえぎって、
「それは何時ごろのことだね。枡と漏斗を見つけたのは……?」
「さあてね。うちへかえりついたんが九時じゃったけんな。ここを通ったんは八時半ごろのことですじゃろう。もう真っ暗になっとりましたけんな」
「君はその枡や漏斗をそのままここへおいていったのかね」
「いやあ、もってかえりましたよ」
と、辰蔵はけろりというのであるが、そのとき、むこうから被害者の母と兄がかけつけてきたので、その場には、さっと緊張の気がみなぎった。
婿あらそい
衆人環視のうちにちかづいてくる由良卯太郎の未亡人敦子は、もう六十前後だろう。
井筒のおかみのおいとさんの説によると、八幡さまだということだが、なるほど、その年ごろの日本の女としては大柄なほうで、五尺二寸くらいもあろうか、ちょっとボリュームをかんじさせる体つきである。頭髪はもう半分どおり白くなっているが、それをきちんとなでつけて、おくれ毛ひと筋みだれていないのは、治にいて乱を忘れぬだけの用意のある婦人らしい。ねずみ色の小千谷縮に、細目の博多をきちんとしめているが、青池リカとちがって、どこか着物のきこなしにだらしないところがうかがわれる。
器量はそれほど娘の泰子に似ているとは思えないが、造化のふしぎはあまり美男美女でもない夫婦のあいだに、ときとしてすばらしい美人が生まれることがあるものである。卯太郎夫婦と泰子の関係もそうであろうかと思われるのは、泰子の兄の敏郎というのがこれまたおよそ泰子に似ていない。青んぶくれしたようなその|風《ふう》|貌《ぼう》は、戦後しばらく都会でみられた栄養失調者をおもわせる。母に似て体はがっちりしているが、背のたかさは母とおっつかっつである。のろのろとしたその挙動は顔色同様冴えないことおびただしく、鈍牛を思わせるようである。
敦子は衆人環視のうちを、とりみだした様子もみせず、しっかりした足どりで、滝壺のまえまであゆみよったが、さすがにその眼は針のようにするどくとがりきっている。敦子はしばらくまじろぎもせず、滝壺のなかに沈められたじぶんの娘の、ふしぎな姿態を見つめていたが、やがて、大きく呼吸をうちへ吸いこむと、くるりと嘉平どんのほうをふりかえった。彼女は、さっきからいちども嘉平のほうを見なかったが、それにもかかわらず嘉平がそこにいることを、ちゃんとしっていたのである。
「嘉平さん」
と彼女は滝壺のなかをゆびさしながら、妙にひくい、それだけにいっそうあいてを|威《い》|嚇《かく》するような調子であった。
「これは、あんたがおやりんさったことかな」
さすがの嘉平どんも一瞬あいてのいうことがのみこめなかったらしく、きょとんと敦子の顔をみていたが、すると、敦子はさっきより、いくらか声をたかくして調子をつよめた。
「いいええなあ、嘉平さん、これはあんたがおやりんさったことじゃないかと、お聞きしとおりますんですぞな」
「な、なにをおいいんさる」
嘉平どんはあきらかに虚をつかれたのである。|狼《ろう》|狽《ばい》の色をおもてにはしらせると、あきれたように相手の顔を見かえしながら、
「わしが、なんで|泰《や》っちゃんを……ばかなことは休み休みおいいんさい!」
「いいえ、嘉平さん」
と、敦子は相手を押えつけるような切り口上で、
「あんたが|泰《やす》をじゃまにおしんとりんさったんは、わたしもようしっとおりましたん。嘉平さん、もういちどおたずねいたしますけえど、これはあんたが、おやりんさったんじゃないのかな」
嘉平どんはようやく態勢をたてなおした。きっとあいてを見くだした眼のなかには、怒りのいろより、|憐《れん》|憫《びん》のいろが濃かったようだ。
「いんや、敦子さん、これはわしのやったことじゃないて」
「ああ、そう」
敦子がきゅうに顔をそむけたのは、嘉平どんの眼にうかんだ憐憫の色に、自尊心をきずつけられたせいではあるまいか。思えばこのふたりは、かつて村じゅうに浮き名をながしたなかなのだ。そして、いつか風呂場で嘉平どんが、金田一耕助に話したことが事実とすれば、敦子は、嘉平どんに捨てられた女なのである。
「ああ、そう」
と、敦子はもういちど放心したようにつぶやくと、
「そんならようござります。たいそう失礼なことを申しました。堪忍してやってつかあさい。これ、敏ちゃん」
と、鈍牛のような息子をふりかえると、
「村の衆にたのんでな、泰をはやくここから助けだして、家へつれてかえってつかあさい。わたしは一足さきにもどって、なにかと支度をしておくけんな」
「あっ、奥さん」
と、立花警部補が呼びかけるのを耳にもかけず、敦子はいうだけのことをいってしまうと、すたすたともときた路をくだっていった。しゃっきりと姿勢をただして、正面きっていくうしろ姿は、およそ弱味をみせるのがきらいな性分と思われた。だが、しかし、それだけに金田一耕助は、いっそう悲壮なものをかんじずにはいられなかった。おそらく彼女は娘をうしなった悲しみをありのままに表白することさえ、いさぎよしとしないのであろう。少なくともむかしじぶんを裏切った、嘉平どんというひとがそこにひかえているかぎりは。
このみじかい|幕間狂言《まくあいきょうげん》がおわると、滝壺のまわりはきゅうに活発になってきた。あっけにとられて眼ひき袖ひきしていた村のひとびとも、敦子のすがたがみえなくなると、
「とにかく泰っちゃんの死骸をひきあげにゃいかんのじゃないかな。いつまでも水びたしにしといちゃかわいそうじゃ」
そうだ、そうだということになり、さいわい現場写真の撮影もおわったので、
「それじゃ、青年団の諸君、すまんがひとつ死骸を滝壺のなかからひきあげてくれんかね」
と、立花警部補の要請に、|言《げん》|下《か》にじゃぶじゃぶ滝壺のなかへはいっていったのは、亀の湯の歌名雄であった。口からあのいまわしい漏斗をとると、それをたたきつけるように三升枡のなかへつっこんで、それからぐっしょり|濡《ぬ》れた泰子のからだをだきあげた。そして、勝平君や五郎やんが手伝おうとするのをつきのけるようにして、滝壺のなかからあがってくると、
「やい、みんな、泰っちゃんのからだを土のうえへねかせろというんか」
と、あたりを見まわす歌名雄の眼つきは尋常ではない。
金田一耕助は思わずはっと、磯川警部と顔見合わせたが、言下に青年団の連中が二、三人ばらばらと走っていくと、しばらくして放庵さんの草庵から、戸板をいちまいはずしてもってきた。
そのあいだ、作業服のまえがずぶぬれになるのもいっさいかまわず、泰子のからだをだきしめている歌名雄のすがたは、金田一耕助にとって、はなはだ印象的だった。
作業服のまえからボタボタと滝のようにしずくを落としながら、歌名雄はギラギラと怒りにふるえる眼をとがらせて、あたりをとりまいているひとびとを、ひとりひとり見まわしていたが、その視線が嘉平どんの顔に落ちると、ぴたりとそこで動かなくなった。
あまりにつよいその凝視に、嘉平どんも思わずひるんだようだが、それでも負けずにあいての視線をはじきかえしている。
このからみあった四つの瞳は、しだいに熱がくわわって、なにかしら、そこに爆発的な出来事でも起こるのではないかと、あたりをとり巻いたひとびとは、思わず手に汗を握ったが、ちょうどさいわい、そこへ青年団の連中が戸板をかついできたのである。
立花警部補や本多先生の要請で、歌名雄がしぶしぶ泰子のからだを、戸板のうえにおろしたとき、ざわざわとあしのうえを吹きわたる風のようなざわめきが、戸板をとりまくひとびとの間からわき起こった。なまなましく泰子ののどのまわりに残っている、細引きかなにかの跡が強烈に、ひとびとの視線にうったえてきたのである。
「泰! ひどいことをしよったなあ」
兄の敏郎がすがりつこうとするのを、警官のひとりが抱きとめると、本多先生がやおら|検《けん》|屍《し》にとりかかった。
死骸のようすをひとめみると、検屍の結果をまつまでもなく、絞殺ということはわかっている。
そこで金田一耕助は、辰蔵のほうへふりかえった。
「辰蔵さんとおっしゃいましたね。さっきのお話のつづきをおうかがいしたいんですが……」
「えっ」
と、ふりかえった辰蔵の、
「へえ、あの、どげえな……?」
と、いぶかしそうにまゆをひそめて、金田一耕助のもじゃもじゃ頭をみている瞳には、あきらかに|猜《さい》|疑《ぎ》のいろが濃いのである。
「ああ、いや、辰蔵君」
と、そこをすかさず割ってはいったのは磯川警部だ。
「こちらはな、金田一耕助先生いうて、有名な私立探偵のかたでな。じゃけんひとつ、先生のご質問には、なんでも正直にこたえてあげてほしいんじゃが」
磯川警部はべつにそれを宣伝するつもりはなかったのだろうが、なにしろ|上《かみ》|方《がた》|人《じん》特有の調子のたかい声である。亀の湯の歌名雄をはじめとして、その場にいあわせたひとびとは、いっせいにぎょっとしてふりかえった。みんなちょっとあきれたような顔色である。
「へえ、へえ、そりゃまた……」
と、辰蔵もどぎまぎしながら、左手の甲で赤くなった鼻の頭をこすりながら、
「それで、わたしにお尋ねとおいいんさるんは……?」
「あなたいま、枡と漏斗を家へもってかえったとおっしゃいましたが、それはいまでもおうちにありますか」
「さあて。ゆんべ台所へおっぽりだしたまんまですけん。……たぶんあることはあるじゃろうおもうとりますけんど、五郎、おまえ気いつかなんだか」
「さあてな、ぼく、べつに気がつかなんだが……」
と、五郎やんは額の汗をふいている。じりじりと夏の陽ざしがしだいに強くなってくるのである。
「もしおたくにまだ枡と漏斗があるとしたら、これは犯人がまた工場からもちだしてきたもの、ということになりますね」
「へえ、そりゃそういうこってすやろ。なんしろ、どれもこれも、おんなじようなしろもんですけんな」
「さっきのお話ではこの路をくだってきて、ここで枡と漏斗をみつけたのは、八時半ごろだとおっしゃいましたが、ここをのぼっていったのは何時ごろでしたか」
「さあてね」
と、辰蔵は小首をかしげて、
「はっきりした時間は覚えとりませんけえど、七時から七時十五分くらいまでのあいだじゃなかったか、もう|小《お》|暗《ぐろ》うなっとりましたけん」
このへんの日没時間は東京へんとくらべると、半時間くらいはおそいのである。したがって、いちばん日のながいつじ[#「つじ」に傍点](頂点)は、野良仕事をおわってうちへかえると、八時をすぎていることもある。しかし、八月もなかばになると、眼にみえて日がちぢまって、七時になるともう小暗くなっている。
「それで、そのときもここで水をのんだが、そのじぶんにはまだここに、枡だの漏斗だのはなかったというんですね」
「へえ、それはさっきもいうたとおりですけんど……あっ!」
と、なに思い出したのか辰蔵は、きゅうに大きく眼をみはって、反射的に路の上手をふりかえった。
「辰蔵君、どうかしたかね」
と、これは立花警部補である。こちらの話がおもしろそうなので、戸板のそばをはなれてやってきたのである。
「へえ、いえ、あの、どうも……」
と、辰蔵はびっくりしたような眼で、きょときょと一同の顔を見まわしながら、
「この沼をはずれたところに、|六《ろく》|道《どう》の|辻《つじ》ちゅうて路が十文字になっとるとこがございますんで……わたしがそこまでのぼっていくと、たれやらあわててそばのぶどう畑のなかへもぐりこみよりましたんで……そのときにゃ、しかし、わたしもべつにおかしいなんて気いもつかなんだんじゃが……おおかた畑のなかにわすれもんでもしょったんじゃろうくらいに思うとりましたんじゃけんど、いまから考えると、そいつ、なにやらきらりと光るもん、つまり、あのガラスの漏斗みたいなもんをもっとおりましたようで……」
「それは男かね、女かね」
と、立花警部補がたたみかけるようにたずねるのである。
「それがその……もうすっかり小暗うなっとおりましたもんじゃけん、男とも女とも……まるで影みてえなもんで……」
と、辰蔵は興奮したのか、しきりに手の甲でひたいの汗をこすっている。
「しかし、辰蔵さん、その影みたいなもんがもっていたのは、たしかにガラスの漏斗のようでしたか」
「へえ、それがあの……そんときにゃ気いつきませなんだけんど、いまから思いますのんにゃ、やっぱりそうじゃなかったかと……」
と、辰蔵はいまさらのように肩をすぼめて身ぶるいをする。
「警部さん、それじゃひとつ辰蔵さんに案内してもらって、そのへんまでいってみようじゃありませんか」
「ああ、そう、それじゃ辰蔵君、ひとつ案内してくれんかな」
「へえ、そりゃおやすいご用で……」
立花警部補がそのときちょっと不安のいろをうかべたのは、まだ金田一耕助という男をよくしらないせいであろう。いまいましそうにまゆをひそめて、三人のうしろ姿からすぐ眼をそらした。
しばらくいくと路は沼のほとりからはなれて、いままでよりは急な坂路にさしかかる。右側は坂のしたに人食い沼がひろがっているが、左側はいちめんのぶどう畑で、かぐわしいにおいがこころよい。
「ときに辰蔵さん」
「へえ」
「さっきの由良さんの奥さんのお言葉ですがね。あのひとなんだか仁礼家の旦那の嘉平さんが、こんどの事件に関係があるようにいっておりましたね」
「へえ、へえ、とんでもねえこんで……」
「しかし、泰子さんが嘉平さんの邪魔になるというようなことを口走ったようでしたが、なにかそんな事実があるんですか」
都会とちがって田舎では、なかなか秘密というものが守られにくい。敦子があの言葉を口走ったとき、そこにいあわせたひとびとの大部分が、その言葉の裏にある意味を了解したらしいことを金田一耕助はみてとったのである。
「へえ、あの、そりゃおおかた歌名雄のことですじゃろ」
「歌名雄というと亀の湯の歌名雄君ですね」
「へえ、さよさよ。さっき滝壺から泰っちゃんの死骸をだきあげた若い衆で……」
「しかし、歌名雄君がどうしたと……?」
「いえ、それはこうですんじゃ。歌名雄いうのんがなかなかの|甲斐性《かいしょう》もんで、それにあのとおり男振りもわるうないもんじゃけに、村の娘たちがみんな|惚《ほ》れとおりますんじゃな。ところで村の娘でピカ一ちゅうたら、なんちゅうてもあの泰っちゃんですじゃ。それで歌名雄も泰っちゃんを、まんざら憎うは思うとらなんだらしい。さっきのようすをごろうじてもおわかりじゃろうが……」
「それでも、由良の奥さんも、泰子を歌名雄の嫁にやるつもりじゃったとでもいうんかな」
と、磯川警部はまゆをひそめる。
「へえ、へえ、亀の湯のおかみとのあいだでも、だいたい話がきまっとったんじゃないかちゅう話で……」
「しかし、このへんではああいう湯治場の筋のもんなんか、|軽《けい》|蔑《べつ》する風習があるちゅうじゃないか」
「へえ、もう、旦那、それは昔のはなしで……戦後はもうもっぱら人物本位ちゅうことですんじゃ。家柄なんてもんのねうちは、もうさっぱりわやくそ[#「わやくそ」に傍点]で……。それに、枡屋にしてからが|昔《せき》|日《じつ》の勢いさらになし、跡取り息子の敏郎はんにしてからが、さっきごろうじたとおりのしろもんですけん」
「なるほど、なるほど」
と、金田一耕助は相づちをうって、
「それで、亀の湯のおかみさんとのあいだにだいたい話がきまっていたところが……?」
「秤屋の旦那から|横《よこ》|槍《やり》がでたちゅうわけですんじゃ」
「横槍がでたとおっしゃると……?」
「いや、つまり秤屋にも文子ちゅうて、泰子とおないどしのちょっときれいな娘がおりますんじゃ。そいつをもろうてくれんかちゅうて、旦那がおかみをくどきはじめたんですんじゃな」
「それで、亀の湯のおかみさんがねがえりをうったちゅうのかな」
「いや、まだ、そこまではいっとらんようじゃちゅう話ですけんど、まあ、おかみの心がぐらつきはじめたちゅうことはたしからしいんで。そりゃまあむりもない話で、枡屋のほうはもうさっぱり。そこにいくと秤屋はりゅうりゅうたる勢いですけんな」
それでは、嘉平どんがああしてちょくちょく、亀の湯へあそびにやってきて、おかみに三味線を弾かせたりするのは、ごじぶんのお色気のせいではなくて、娘の縁談のためだったかと、金田一耕助はちょっとあてがはずれたような気持ちであった。
「ああ、旦那、ここですんじゃが……」
と、辰蔵が足をとめたのは、なるほどぶどう畑のあいだのせまい十字路で、下を見ると、人食い沼のちょうどどんづまりにあたっており、金田一耕助はまえにいちどその路をあるいたことがあるが、その十字路を右へいくと亀の湯の裏門へつきあたるのである。しかし、この十字路に六道の辻という名があることはいままでしらなかった。
「どのぶどう畑へとびこんだんかね」
「へえ、そこんとこで……」
と、辰蔵がゆびさしたのは左側のぶどう畑で、ぶどうの房がもう相当ながくのびて、いちめんに|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の宝玉をつらねている。なるほど、この下へもぐりこんでしまえば、ちょっとすがたは見当たるまい。ましてや七時すぎの小暗がりでは。……
「その影のような人物は、どの方角からやってきたとお思いですか」
「それはもちろん、上からおりてきよったんじゃろうと思うとりますけんど……」
「しかし、はっきりはしないんですね」
「そらあ、下あむいて歩いとおりましたもんじゃけんな。足音に気いついてひょいと上をみると、その影みてえなもんが、なにやらキラリと光るもんをもって、この畑んなかへもぐりこみよりましたんで」
「この路を左へいくとどこへ出ますか」
「桜へ出ますんで」
「桜というと?」
「部落の名まえですんじゃ。桜のお大師さんちゅうのんがあるもんじゃけに。そうそう、そういや、秤屋さんのちょうど裏手をとおりますんけんど」
と、辰蔵はとつぜん興奮にとりつかれたように、かえって声をひくめると、
「それに、このへんのぶどう畑はみんな仁礼のうちのもんですけんど……」
と、おびえたような眼のいろで、金田一耕助と磯川警部を見くらべている。
金田一耕助はすずめの巣のようなもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、ぼんやり左の路をながめていたが、
「ときにぶどう酒の工場はこのうえにあるんですね」
「へえへえ、さよです。そこの丘のかどを左へまがって坂をおりたところですんじゃ」
「警部さん、それじゃついでに工場というのをみせてもらおうじゃありませんか」
|活《かつ》|弁《べん》|青《あお》|柳《やぎ》|史《し》|郎《ろう》
ハカリ屋ぶどう酒醸造工場は、六道の辻と呼ばれるその十字路を半丁ほどのぼって、大きく丘を左へまがるとすぐ眼の下の山峡にたっていた。むろん、バラックに毛のはえたような建物だが、それでも電気だけはきているらしく、ところどころに電柱がたっている。その電柱の一本がひどくななめにかしいでいるのは、このあいだの夕立で大きく崖がくずれているせいである。
いま、山峡といったけれど、それは人食い沼のほうからあがってきたかんじで、ここまできてみると、すぐ眼の下に鬼首村の部落が点々と|俯《ふ》|瞰《かん》され、こっちのほうがむしろ村の中心部にちかいことがわかった。
辰蔵はかなり急な坂を先頭にたって駆けおりると、
「ほら、左に見えとるんが桜のお大師さんで、そのねき[#「ねき」に傍点](そば)にひときわ大きな家が見えますじゃろ。あれが仁礼の旦那のおうちなんで、このへんいったい、みんな仁礼のうちの山ですんじゃ」
桜のお大師さんというのはその部落のいちばん奥まったところにあり、二十段ばかりの石段のうえに、ちんまりとしたお堂と堂守りの住居らしい家の屋根が、二、三本の|椎《しい》の大木の葉がくれに、ひっそりとすわっているのがすぐ眼の下に望見される。そのお大師さんの|境《けい》|内《だい》とおなじたかさのところに、大きく複雑な|勾《こう》|配《ばい》をみせているのが、嘉平どんの家の屋根だとしれた。なるほど、相当大きなかまえで、付近にそれと匹敵する家は見あたらない。
「由良家はここからみえないの」
金田一耕助がたずねると、
「ああ、由良のおうちならあっちですん。ほら、むこうにちょっと大きな溜め池がみえますじゃろ。あの溜め池の左がわに見えとるのんがお陣屋跡で、学校が見えますじゃろうが。あの学校のむこうですけに、ここからは見えませんけんどな」
「そうすると、むこうのほうが村の中心部になるんですね」
そこからここまでさしわたしにして、十五丁(約一六五〇メートル)くらいもあろうか。
「さよです、さよです。なんちゅうても枡屋のほうが秤屋よりは、ずうっと古いうちですけんな。わしらの子供のじぶんにゃ、秤屋もわしらのうちとおんなじくらい小ちゃな家でしたん、それを先代の仁平さんといまの旦那と、二代つづいてえらもんが出よったもんじゃけん、あないに大きゅうおなりんさったんじゃな」
「ついでに、放庵さんのもとのおうちというのはどのへんなの」
「ああ、お庄屋さんのもとのおうちなら、そっちにおいでんさる旦那はご存じじゃが、いまの役場がそうですん。ほら、学校のすぐ左に見えてますじゃろうがな」
「ああ、そう、じゃ、昭和七年の事件の起こった当時の家は、もう跡形もないんだね」
「はあ、さよさよ。あれはいつごろじゃったかいな。お庄屋さんがいよいよいけのうおなりんさって、家屋敷をお売りんさったんは?」
と、辰蔵はぎゃくに磯川警部にといかける。
「ありゃたしか二・二六事件のあった年じゃけん、昭和十一年じゃなかったかな」
「ああ、さよさよ、|支《し》|那《な》|事《じ》|変《へん》の起こるまえの年じゃったなあ」
「それで、お庄屋さんはすぐいまのうちへ引っ越してきたの」
「いや、それはそうじゃのうて、お売りんさったじぶんの家の、小ちゃなひと棟をあの溜め池のすぐねきへもっていてお建てんさって、戦後までそこい住んでおいでんさったん。そのじぶんはまだ八番目のおかみさんの、お冬さんちゅうのんがいっしょじゃったけんど、去年そのお冬さんにも逃げられてしもて、しょうことなしにお移りんさったんがいまのおうちですん。いまのうち、あれもと尼さんが住んどったんですけんどな。まあ、あのくらいふしあわせなかたもおありんさるまいなあ」
辰蔵はちょっと感慨ぶかげなおももちである。磯川警部も無言のまま張り子の虎のように首をふっている。
「さいごにもうひとつ、辰蔵さん、おたくはどのへんなんです。おしえてください」
「なあに、わしらのうちはごくこまかあいもんですけんな」
「だって、あなたの|姪《めい》ごさんが豪勢な家をたてたというじゃありませんか」
と、いってから金田一耕助はしまったというように、
「いや、これは失礼、あなたの妹さんでしたな」
と、あわてて取りつくろったが、しかし、辰蔵は、そういうことは気にかけていないらしく、
「なあに、あれは千恵子のやつがじいさんばあさんに建ててやったもんじゃけん、わしらあがいなもんに関係なんかございませんわい」
と、吐きすてるようにいってから、
「それより、旦那、工場んなかお見んさるかな」
と、いささか腹立たしげな口ぶりに、金田一耕助は思わず磯川警部と顔見合わせた。
どうやら辰蔵は姪にたいして、一種の劣等感をもっているらしい。
工場のなかはがらんとして人の気配はさらにない。中央に大きな蒸溜|釜《がま》のようなものがすえてあり、そこからタコの樹のように数本のパイプが四方八方にのびている。むこうのすみには何|石《こく》入るのかしらないが酒のしこみに使うような巨大な|桶《おけ》がころがっており、こちらのすみにはビール|樽《だる》のような樽が三角型につんである。それからまた壁のいっぽうには何千本という空き瓶が、これまたいくつかの三角型をつくっている。そして、その工場の内部いちめんにただようているのは、つうんと鼻をつくような強烈な|酸《す》のにおいである。
辰蔵は工場からちょっと出ていくと、コップを三つお盆にのっけてもってきた。そして、樽の|栓《せん》をひねると、ゴボゴボと音をたてて出てきたのは、どくどくしいばかりの紫赤色をした液体である。辰蔵はそれを三つのコップにうけると、
「どうじゃな、旦那、金田一さん、ひとくち飲んでおみんさらんかな」
金田一耕助と磯川警部はすすめられるままにコップをとって、ちょっとひとくちなめてみたが、すぐに顔をしかめてそこへおいた。
「あっはっは、いま時こんなもん飲むもんは、まあ、わしらくらいのもんじゃろか。そいでもけっこう酔いますけんな」
それでもさすがの辰蔵も、ぐっとひといきには飲めないらしく、ちびりちびりとコップのふちをなめている。
「いま、工場はやすみなんですか」
「さよさよ。開店休業というところですんじゃ。また、この秋からはじめよちゅうことになっとおりますけんど、このまんまじゃあかんけん、こんどは本腰いれてほんもののぶどう酒つくろやないかと、目下甲州から技師よぶ交渉中ですんじゃ。なんせ嘉平旦那も嘉平旦那じゃけんど、跡取り息子の直平さんちゅうのんが、これまたえらもんじゃけんなあ」
と、辰蔵はやっと一杯のコップを飲みほすと、こんどは磯川警部のおいたコップをとりあげて、
「そうなったらおもしろなる思うとりますんじゃけんど、なんせ、くそったれめ、春江のやつがちゃっかりしてけつかるけんな」
話がちょっと飛躍したので、金田一耕助は思わずわらいながら、
「辰蔵さん、それ、どういう意味です」
「なあに、千恵子のやつに金を出させて、わしらもひとつ共同出資者ちゅうことになったろ思うとりますんじゃけんど、くそったれめが財布の紐をしめくさって、ふたことめには税金がどないやこないやぬかしくさって、そいでいて、あげえなつまらん家おっ建てくさって、こらもうええ|業《ごう》さらしですわい」
「あっはっは」
と、金田一耕助は思わずふきだした。
「辰蔵さん、あなたもなかなか野心家ですね」
「そらそうですぞな、金田一さん」
と、辰蔵は金田一耕助のコップをとりあげると、
「人間だれでも野心もたんことにゃいけませんがな。それにだいいち、グラマーたらなんたらいいますけんど、あがいなこと、長つづきせんことわかりきっとおりますやないか。いまんちにすこしでも有利な事業に投資しといたらええちゅうて、口が酸っぽうなるほどいうてきかせてやるんじゃけんど、くそったれめが……あのヒモにすっかり丸めこまれとるんとちがうかいな」
「ヒモたあなんですか」
「|日《くさ》|下《か》|部《べ》|是《これ》|哉《や》ちゅうて、千恵子のマネージャーみたいなことやっとる男ですん」
「ああ、そのひとですね。ゆかりちゃんを発見して育てたというのは……」
「発見しよったんか、育てよったんかしりませんけど、親子ともすっかり丸めこまれてしもてけつかる。どうせ満州がえりじゃちゅう話じゃけん、どこの馬の骨だか牛の骨だか……」
「満州がえり……?」
と磯川警部がききとがめて、
「それ、いくつぐらいの男かな」
「さあてな。五十から五十二、三、五、六というとこですじゃろかな。ロマンス・グレーちゅうやつやそうで、なかなかええ男ですけん、春江のやつ、いかれとんのんとちがうかいな」
「満州でなにをしとった男かな」
さりげなく切りだしたものの、磯川警部のその声は、のどのおくでちょっとひっかかったようだった。
「なんでも満映たらちゅう映画会社にいた男じゃそうですん。映画会社でなにしとったんか、そこまではきいとおりませんけんど、満州で活動屋やっとった男ちゅうたら、たいてい相場がきまっとおりますやないか」
磯川警部はきらりとするどい|一《いち》|瞥《べつ》を、金田一耕助のほうへはしらせた。
この警部はひとつの大きな疑惑をもっているのである。
昭和七年の秋、放庵さんのうちの離れで殺されたのは、はたして亀の湯の次男源治郎であったろうか。いやいや、あの|相《そう》|好《ごう》のみわけもつきにくくなっていた被害者は、源治郎ではなくて、ぎゃくに加害者と目されている詐欺師の恩田幾三ではなかったか。そして、しんの犯人は青池源治郎ではなかったのか。すなわち、源治郎が詐欺師を殺して、詐欺師のあつめた金をさらって|逐《ちく》|電《でん》したのではあるまいか。亀の湯の一族はそれをしりながら、源治郎をかばうために、あの死骸を源治郎だと申し立てたのではないか。……
これが二十数年間、磯川警部をなやましつづけてきた疑惑なのである。もしこの疑惑があたっているとすれば、いつか源治郎はこの村へ、どういうかたちでか、かえってくるのではないかというのが、磯川警部のもっている|唯《ゆい》|一《いつ》の希望であった。
そして、いま正体不明の男がひとり、この村へやってきているのだ。しかも、その男は五十前後であるという。青池源治郎は昭和七年当時で二十八歳であったから、現存すれば五十一歳になる勘定だ。当時犯人は満州へとんだのではないかといわれているが、いまこの村へやってきている正体不明のその男も、満州からの引き揚げ者なのだ。しかも……しかも。
「辰蔵君」
と、磯川警部は興奮にはやる心をおさえて、
「あんたは昭和七年に、亀の湯の次男の源治郎ちゅうのが殺されたのを覚えとるかの」
「へえ、そら、旦那、覚えとおりますとも。そのおかげで千恵子のやつがうまれよったんじゃけんな。あっはっは」
と、みずからなんども栓をひねって、樽から酸っぱい酒をくんだ辰蔵は、もうかなり酔うていて、赤い鼻のあたまをいよいよ赤く充血させている。
「そら、そうと、旦那、こんどの事件は昭和七年の事件のつづきやないかちゅうとるんですけんど、そらほんまですんかいな」
「だれがそんなこというとるんじゃな」
「いや、秤屋の旦那がな、あそこの滝壺へかけつけるみちみち、本多先生とそないな話をしておいでんさったんで」
「なるほど」
と、磯川警部は金田一耕助の顔をながしめに見て、
「ところで辰蔵君、あんたそのときいくつじゃったな」
「あれは徴兵検査のつぎの年じゃったけん、二十二でしたかな」
「あんた、それで青池源治郎ちゅう男覚えとらんかな」
「へえ?」
と、辰蔵は不思議そうな眼の色で、磯川警部の顔を見ながら、
「ところが、旦那、源治郎さんとわしらとはちょうど六つちがいですけん、わしが小学校へ入ったとしに、あのひとは学校を出た勘定になりますんじゃ。しかも、あのひと小学校を出るとすぐ神戸へおいでんさったもんじゃけん、ほとんど覚えとおりませんな」
「でも、こっちゃへかえってきてからは……?」
「いや、それが、旦那、あんたもようご存じのとおりこっちゃへかえっておいでんさってから、ひと月とたたんまの事件じゃったけんな。なにせ、わしらのうちと亀の湯とじゃ、村のはしっことはしっこですけん、顔をあわせたこともありませんのじゃ。おかみさんと子供をつれてもどっておいでんさるちゅうことは聞いとったんじゃけんどな」
「その青池源治郎というひとは……」
と、そばから金田一耕助が口をはさんだ。
「こちらへもどってくるまで、神戸でなにをしていたひとです」
「あっ」
と、磯川警部は、ちょっとびっくりしたように、
「金田一先生、それを先生にお話ししませんでしたかな」
「はあ、神戸、大阪でいろいろやってきた男だというふうにしか……」
「ああ、それは、それは……。辰蔵君、君は聞いてはおらんかな。源治郎が都会でなにをやっとったか」
「ええ、そら聞いとります。なんでも神戸で活ベンをやっとんたんじゃが、トーキーにおされてクビにおなりんさったんじゃと……」
「活ベン……?」
と、金田一耕助は思わず眼をみはった。
そういえば、トーキー攻勢におされて全国の映画館から、ぞくぞくと映画解説者や楽士らが、失業していったのはちょうどそのころのことである。
「へえ、さよさよ、名前は忘れましたけんど、なんたらいうていかにも色男みたいな名前で、女こどもにはなかなか人気がおありんさったちゅう話ですん」
「|青《あお》|柳《やぎ》|史《し》|郎《ろう》ちゅうてな、神戸の新開地でもひところは、飛ぶ鳥おとす人気弁士じゃったちゅう話じゃ」
「そうそう、青柳史郎、青柳史郎、思い出した、思い出した」
と、すっかり|酩《めい》|酊《てい》した辰蔵は、なんでもないことにも悦に入っている。
(なるほど、それで……)
と、金田一耕助はうなずくのである。
これで磯川警部の興奮の意味がようやくわかったような気がしたのだ。青池源治郎は活ベンであった。すなわち、映画に関係のある人物であった。しかも、いま、この村へやってきている正体不明の日下部是哉という人物も、満州がえりで、しかも映画の関係者である。そこで警部のあたまのなかでは、いま日下部是哉と青池源治郎が、ひとつになってむすびついているのであろうが、しかし、それにしてはちと妙ではないか。
警部の疑惑があたっているとすれば、青池源治郎は|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》の恩田幾三を殺して逐電したのである。その源治郎がおのれの村へかえってくるのに、かつてじぶんが手にかけた男の情婦と、その娘といっしょであるというのでは、いささか話がとっぴすぎはしないか。かりに春江が源治郎という男をしらなかったとしても、いや、いや、これは辰蔵ですら源治郎をしらなかったのだから、妹の春江は当然、源治郎という人物をしらなかったにちがいないが、それにしても、源治郎が春江にめぐりあうというのは、いや、いや、めぐりあったばかりではなく、春江と恩田のあいだにうまれた娘を、当代の人気者にそだてあげるというのは、いささか因縁話めきすぎはしないか。……
「ときに、辰蔵さん」
「へえ、へえ……」
また樽の栓をひねって、紫赤色の液体を、コップになみなみとうけていた辰蔵は、金田一耕助に声をかけられると、両手にコップをひとつずつささげたまま、ひょろひょろこっちへもどってきた。もう相当足もとが危なくなっている。
「あなた、恩田幾三という男にあったことがありますか」
「そら、もうたびたび……とっても口のうまいやつで、うちのおとっつぁんも、まんまと口ぐるまにのせられたひとりですんじゃ。そうじゃけん詐欺にひっかかったとわかったときにゃ、わしらもおとっつぁんの尻にくっついて枡屋へどなりこんだもんじゃけんど、そんときの由良の旦那のあわてようちゅうたらなかったな。ちょうどさっきおあいんさった敏郎はんそっくりの、青んぶくれしたような旦那が、いよいよ青うおなりんさって……」
と、もう酸っぱいのにも|麻《ま》|痺《ひ》したのか、どくどくしい紫赤色の液体を、がぶがぶコップからあおりながら、
「それにしても、金田一先生、警部さん、世の中ちゅうたらおかしなもんじゃな。あんとき春江のやつが詐欺師で人殺しのタネをやどしとおるちゅうことがわかったときにゃ、おやじはかんかんにいきりたちよるし、おふくろはおふくろでわあわあ泣きわめきよったが、いまじゃその不義の子のおかげで左うちわじゃ。因果はめぐる小車の、これぞ世にも不思議な物語、以上をもって全篇のおわりとござあい」
さすがは、三枚目五郎やんのおやじである。
両手にコップをささげたまま、活ベン口調で一席弁じおわると、両手のコップをかわるがわる、ぐっとひといきに飲みほしたまではよかったが、うやうやしくおじぎをしたひょうしに、体の平衡をうしなって、どしんとそこにしりもちつくと、それをよいことにしてそのままぐうぐうねてしまった。
そのあとで金田一耕助と磯川警部は、工場のなかを見てまわったが、すぐとなりに付属している倉庫の棚に、さっきみてきた枡と漏斗とそっくりおなじしろものが、いっぱいならんでいるのを見つけた。しかも、その倉庫のすぐそばの窓ガラスが一枚たたきこわされて、内側のかけがねがはずれている。
これで、だれでも枡と漏斗を、容易にもちだせることははっきりしたが、問題は犯人がなぜ枡と漏斗にこだわったかということである。
辰蔵をそこに残して工場を出ると、金田一耕助と磯川警部は、もういちどそこに立って桜部落を見おろした。なるほど、ここからではよく見えないが、崖の出っ張りをめぐったところに電柱が大きくななめにかしいでいるのは、そこに崖くずれができているのであろう。
したがって、ゆうべここで酒をくらった辰蔵が、人食い沼のほうへひきかえしたのは当然だが、しかし、それではなぜ六道の辻から、桜の大師のうらへ通ずる間道を利用しなかったのか。その間道は椎の葉がくれに隠見しているのだが、そのほうがよっぽどちかそうに思われる。
それからまもなく金田一耕助と磯川警部が、腰かけの滝へもどってくると、そこにはまだ村の連中が十五、六人、がやがやわやわやとむらがっていたが、死骸はもうそこにはなく、立花警部補のすがたも見えない。
それから半時間ののち、ふたりが亀の湯へかえってくると、あの共同宿舎の娯楽室にもうけられた捜査本部で、いままさに立花警部補が里子と女中のお幹さんをあいてに、聞き取りを開始しようとするところであった。
|痣《あざ》 娘
「ああ、警部さん、よいところへおかえりんさった。これからこのふたりにゆうべのこと、もういちど詳しゅう聞かせてもらお思うとるとこですけん、ああたも立ち会うてつかあさい」
方言まるだしの立花警部補の要請に、
「ああ、そう、それじゃ、金田一先生、あなたもどうぞ」
磯川警部がこの村へきているのは、休暇を利用してのたんなる保養にすぎなかったのだが、こういう事件が起こってみれば、いずれ県の警察本部からだれか出張しなければならぬ。その役をじぶんで買って出ようと磯川警部は決心しているのである。そしてじじつその日のうちに岡山の警察本部と電話で打ち合わせて磯川警部が正式にこの事件を担当することになったのであった。
さて、この聞き取りの場のもようを脚本のト書き流に書いてみると、
時  昭和三十年八月十四日午前十時。[#この部分正しくは折り返して4字下げ]
場所 亀の湯の共同宿舎の娯楽室。十二畳くらいの板の間に殺風景ないすテーブル。朝日がななめにさしこんでいる。
人物 里子(二十三歳)。お幹さん(二十八歳)。
[#ここから4字下げ]
立花警部補。磯川警部。金田一耕助。
ほかに刑事ふたり。ひとりはメモの用意をしている。
[#ここで字下げ終わり]
さて、聞き取りに入るまえに金田一耕助は、はじめて里子という娘を正視したのだが、ひとめその顔を見たとたん、あまりの無残さに思わず眼をそむけずにはいられなかった。
目鼻立ちからいうと、里子はなかなかの美人である。ふつうならば泰子や文子におとらぬ器量よしとの評判に、村の若者たちの血をわかせたであろう。それだのに、なんという神様のいたずらであろうか。よくととのった里子の目鼻立ちの顔はんぶんを、地図のようにおおうているのは見るもどくどくしい|赤《あか》|痣《あざ》なのである。その赤痣は顔面のみならず、首筋から全身におよんでいるらしく、浴衣の袖口からのぞいている左右の手の甲まで、どくどくしい地図でいろどられている。
根が色白のきめこまかな肌をもつ娘なのである。それだけに赤痣との明暗がくっきりときわだっていて、わかい娘であるだけに、いっそう無残さと哀れさが身にしみて、だれでも眼をそむけずにはいられないだろう。
この地方のいいつたえのひとつに、妊娠中の母親があまり強い火の|気《け》、たとえば火事のようなものをみると、生まれる子に赤痣がつたわるというのがあるが、里子の母のリカは里子を腹にもっているあいだに、囲炉裏に首をつっこんで死んでいる良人の、相好のみわけもつきにくいほど、無残に焼けただれた顔をみているのである。
そのときの強いショックが胎児に影響して、里子の赤痣となったのであろうと、村のひとたちのよい語り草になっている。
里子はそれを極端に恥じて、ふだんは土蔵のなかに垂れこめているのだけれど、どうしてもひとまえに出なければならぬ場合は、いつもじぶんでくふうしたお高祖頭巾のようなものでおもてをつつみ、夏でも手袋をはめることを忘れない。
それにもかかわらずけさの里子は、お高祖頭巾も手袋もかなぐりすてて、みずから無残な赤痣をさらしものにしているのである。おそらく彼女はこういう立場にじぶんを追いこんだ残酷な運命にたいして、|悲《ひ》|愴《そう》な抵抗をこころみているのであろう。立花警部補の視線を真正面にうけながら、|恬《てん》|然《ぜん》としているつよい瞳がそれを物語っている。
「里ちゃん、なんにも心配することありゃせんで、主任さんの質問にたいして、ありのまんまお答えすればええのじゃけんな」
磯川警部がいたわるように声をかけると、
「はい、おおけに[#「おおけに」に傍点](ありがと)。ようわかっとおります」
と、警部のほうへ一礼して、さてきっと立花警部補のほうへむき直ったのは、いつでも答弁の用意のあることを示すものだろう。
「ああ、そう、それじゃ……」
と、警部補のほうがかえってまぶしそうに眼をパチクリさせながら、
「まずいちばんに聞かせてもらいたいんじゃが、君たち、ゆうべ何時ごろここを出たんかね」
「八時ちょっとまえやったと思います。そうやったなあ、お幹」
「は、はい……」
と、お幹のほうが里子よりおびえていて、おろおろしながら、
「そこにおいでんさるお客さんのお膳をさげて、後かたづけをしてからですけん、八時より十分か十五分まえのことやないかと……」
そういえば金田一耕助と磯川警部がここを出たのは、八時五分ごろのことだったが、そのとき玄関まで送って出たのはリカだけだった。
立花警部補はふたたび里子のほうにむき直ると、
「それで、君たちが泰子や変なばあさんと出会ったのはどのへん……?」
「桜のお大師さんからちょっとむこうへいたとこでしたん。平やんとこの|竹《たけ》|藪《やぶ》のすぐねき[#「ねき」に傍点]ですん」
「それじゃ、そのときの様子をもうすこし詳しゅう話してくれんかね」
「はい……」
と、さすがに里子は身ぶるいをしたが、それでも警部補を真正面に見ながら、
「平やんとこの竹藪のねきまでくると、むこうからたれやらこっちへくるもんですけんに、お幹とふたりで竹藪のなかへかくれたんですん。そしたら……」
「ああ、ちょっと。どうして竹藪のなかへかくれたりしたんかね」
「はい、それは……あんまりひとに会いとうなかったもんですけに」
里子は悪びれもせず、あいかわらず警部補の顔を真正面から見すえている。かえって立花警部補のほうが鼻白んで、
「ああ、そう、それで……? お幹とふたりで竹藪のなかへかくれていると……」
「|泰《や》っちゃんとけったいなおばあさんが、急ぎ足で通りすぎていったんですん」
「どっちゃからどっちゃの方角へ……?」
「はい、それは……お陣屋跡のほうからきて、桜の大師さんのほうへおいでんさったんですん」
「そのとき、そのけったいなおばあさんの顔ちゅうのを見なんだかね」
「いいえ、それがまるで弓みたいに腰がまがっとおりましたし、頭から手ぬぐいをかぶっておいでんさりましたけんなあ」
「お幹さん、君はどうかね。そのけったいなばあさんの顔は……?」
「いいえ、わたしも里ちゃんとおなじでござります」
と、お幹は言葉すくなに里子の申し立てに同意を示した。
「ところでそのときの泰子のようすはどうだった? おびえあがって、びくびくしてるちゅうようなふうはなかったかね」
「いいえ、ちっともそないなふうはなかったんですんよ。かえって泰っちゃんのほうが、おばあさんをせきたてておいでんさるみたいやったんですけんど……そうそう、なんやらお庄屋さんのことをいうておいでんさりました」
「お庄屋さんのこと……?」
と、立花警部補はいうにおよばず、金田一耕助も磯川警部もおもわずさっと緊張する。そばでメモをとっていた刑事も、はっとしたように顔をあげて里子をみた。
「お庄屋さんのことちゅうて、どがいなこと?」
「いいえ、それがあんじょう[#「あんじょう」に傍点](よく)は聞きとれなんだんですけんど、ただ、泰っちゃんが、お庄屋さんが……とかなんとかいうておいでんさったんだけはよう覚えとりますの」
一同はまた緊張した顔を見合わせたが、そばから磯川警部もからだをのりだし、
「お幹、おまえはどうじゃ。泰子がなにかお庄屋さんのこというとるのを聞きやせなんだか」
「はい、あの、それが……」
お幹はすっかり逆上気味で、おどおどと緊張した一同の顔をみまわしながら、
「そうおいいんさったら、たしかにそうでござりましたん。そのとき、泰っちゃんのおいいんさったんは、お庄屋さんはどこで待っておいでんさりますのん……と、たしかそないなお言葉やったと思いますけんど……」
「お幹君!」
と、そばからくちばしをはさんだ立花警部補の語気は、当然のこととはいえ、すくなからずあらっぽかった。
「君は、お庄屋さんとこいへんなばあさんがやってきおって、それ以来、お庄屋さんがゆくえ不明になっとるちゅう話、聞いとらなんだのか」
「はい、あの、すみません。それは聞いとりましたけんど、まさかあのおばあさんがそうじゃとは……」
と、肩をすくめてうなだれたお幹の顔は、火がついたように真っ赤になっている。だれかがもうひと押しすればきっと泣きだすにちがいない。
立花警部補はいまいましそうに、お幹さんの横顔を見すえていたが、しかし、これはお幹さんを責めるのは酷である。
おそらくそのときお幹さんの心境は、一刻もはやくお陣屋跡へおもむいて、|歌《か》あさんみたいなひとでも夢中になっておいでんさる、にっくいグラマー・ガールの大空ゆかりとは、どのような女であるかを見とどけたくて、うずうずしていたにちがいない。ことにみちみち里子がひとに出会うたびに、かくれん坊をしていたとしたら、お幹さんのいらだちはいっそう強かったことであろう。お庄屋さんや変な老婆のうわさが、とっさに脳裡にひらめかなかったとしても、それを責めるのはかわいそうである。
「里ちゃん、あんたはどうじゃね、いまの話、しっとったかな」
ちょっと気まずくなったその場の空気をとりつくろうように、磯川警部が尋ねると、
「いいえ、警部さん、わたしはあとから兄ちゃんに聞くまでその話、ちっともしらなんだんですのよ。それでもうびっくりしてしもて……その話しっとりましたら、あのまま泰っちゃんをやるんやなかったのんにと……そない思うと兄ちゃんにすまなくて……」
と、里子はまたはげしく身ぶるいをすると、長い|睫《まつ》|毛《げ》のさきがしっとりと涙に濡れていた。
「里子さん、その兄ちゃんにすまないというのは、どういう意味なんです?」
と、これは金田一耕助の質問だったが、里子はちらりとそのほうへ視線をはしらせると、すぐまた長い睫毛をふせて、
「兄ちゃんは泰子さんが好きだったんです。泰っちゃんも兄ちゃんが好きで、泰っちゃんとこのおばさんなんかも、兄ちゃんにお嫁にもろうてほしいいうておいでんさったんですよ。それに……それに……」
「それに……?」
「うちのかあちゃんかて、泰っちゃんならええお嫁におなりんさるやろいうて、とてもよろこんでおりましたのに、こないなことになってしもうて……」
里子はとうとうこらえきれなくなったか、浴衣の袖を眼におしあてて声をしのんで泣きだした。
すると、それに誘われたように、お幹さんまで、それというのもわたしが悪いからでございます。わたしがぼんやりしていたばっかりに……と、|俄《が》|然《ぜん》、こんどの事件の全責任は、すべてじぶんにあるようなことをいいだして、はでにわあわあやりだしたから、聞き取りもいちじ中絶ということになったのもやむをえない。
立花警部補はすっかりにがりきっていたが、それでも若い娘が泣くときは、潮時を待つよりしかたがないということをしっているのか、|憮《ぶ》|然《ぜん》としてひかえている。
やがてふたりが泣きやむのを待って、金田一耕助がきりだした。
「ところで、お幹さん、それ、だいたい何時ごろのことだったの? 泰子さんや変なばあさんに出会ったというのは?」
「何時ごろやとおいいんさっても……」
と、お幹さんはまだ泣きじゃくりながら、
「わたしらまっすぐにお陣屋跡へいったんですけんど、五分もたたんまに歌名雄さんやなんかに見つかってしもうて……」
ふたりが歌名雄たちに見つかって、ああいう騒ぎになったのは九時十五分ごろのことである。それより五分まえに到着したとすると、九時十分ごろということになる。ふたりが亀の湯を出たのが八時十分まえだとしても、お陣屋跡へつくまでに一時間二十分かかっているわけである。いかに女の足とはいえ、少し時間がかかりすぎるようだが、それも里子がひとに会うのをいやがって、ときどきかくれん坊をしていたとすればむりもないかもしれぬ。
金田一耕助は、磯川警部はふたりより十五分ないし二十分おくれて亀の湯を出発しているのだが、とちゅうで泰子や怪しい老婆に会っていないところをみると、老婆は桜の大師のうちがわを走っている間道から、六道の辻をへて泰子をあの滝壺までつれていったのであろう。
それにしてもお陣屋跡へついた時間で、五分の差にまでちぢめているのだから、金田一耕助と磯川警部がもう少し足をはやめていたら、泰子と老婆に出会っていたかもしれない。と、いうことは老婆が泰子を間道のほうへつれこんだのと、金田一耕助と磯川警部が桜の大師にさしかかったのと間一髪の差ではなかったか。
それを思うと金田一耕助は、全身|粟《あわ》だつような|戦《せん》|慄《りつ》を禁ずることができなかった。
「それじゃ、里ちゃん、そのけったいなばあさんちゅうのは、お庄屋さんにたのまれて、泰子を迎えにきたのじゃないかと、そう考えてもよいかな」
磯川警部の質問に、
「はい、わたしはそのとき、てっきりそうやと思うとりましたん」
と、里子は涙をふきおさめると、思い出したようにはげしく身ぶるいをする。
「お幹、おまえはどうじゃ」
「はい、わたしも……」
と、お幹さんは蚊のなくような返事をして、しょんぼり肩を落としている。はでに泣いたあとだけに、まだ泣きじゃくりの余波がつづいている。
一同は思わずシーンと顔見合わせた。
放庵さんは生きているのか死んでいるのか。――おとつい金田一耕助の提出した疑問が、俄然、重大な課題となって一同のまえにのしあがってきたのである。なにかしら、つめたい手で首筋をなでられるような薄気味悪いものが、ひしひしと一同に迫ってくる。……
「畜生ッ!」
と、立花警部補は鋭い舌打ちをしたのち、
「いや、いや、君たちのことじゃないんだ」
と、あわてて、里子とお幹さんをなだめると、そのほかにまだ気づいたことはないかと、相当しつこく突っこんだが、それ以上これといった収穫をふたりからひきだすことはできなかった。
やがて、ふたりをひきとらせると、立花警部補は金田一耕助のほうへ挑戦するような眼をむけて、
「金田一先生、こらいったいどういう事件です。わたしにはさっぱりわけがわからんようになってしまいよりました」
「いや、いや、さっぱりわけがわからんのは、ぼくだっておんなじことです。まあ、根気よく調べていくより手がありませんね」
「根気よく調べていくちゅうたかて、いったいどこから手をつけたらええのんか、それさえわからんようになってしまいよった」
「ですから、これはあくまで放庵さんのゆくえを追及するんですね。生きているにしろ死んでいるにしろ……」
金田一耕助の声はひどく沈んでいる。
それから磯川警部がハカリ屋ぶどう酒醸造工場における、枡と漏斗についての発見を語ってきかせると、立花警部補の惑乱はいっそう救いがたいものになってしまった。
「警部さん、そらいったいどがいなこってすん? 犯人はあらかじめ滝壺のとこへ枡と漏斗を用意しといたが、それを辰蔵がなんにもしらずにもってかえりよったんで、またぞろ工場へ枡と漏斗をとりにいた……と、そういうことになるんですか、金田一先生」
「辰蔵さんところの台所に、ゆうべ持ってかえった枡と漏斗がそのままあるとすれば、そういうことになるんでしょうねえ」
「しかし、金田一先生、犯人はなんじゃかて、そがいなあほなことしよったんです」
「まあまあ、立花君、そないにいきり立ったところでしょうがない。金田一先生じゃとてなにもかもお見通しというわけにはいかんけんな。それより辰蔵のとこへたれかやって、枡と漏斗がまだあるかたしかめてみたら……」
警部のもっともな忠告に、すぐさま刑事のひとりがとび出したが、ついでにその結果をここで述べておくと、辰蔵のもってかえった枡と漏斗は、そのまま台所の棚のうえにのっかっていたのである。そして、あとから思えばこのことが犯人にとって致命的なエラーとなったのであった。
それはさておき、刑事がとび出すのと入れちがいに、お幹さんがまた顔を出して、
「あの……警部さんと金田一先生」
「ああ、お幹さん、なにか用かな」
「おかみさんが心配しておいでんさります。朝ご飯がまだですけんど、こっちゃへもって参じましょうか。それともお座敷へおかえりんさりますかと……」
考えてみるとふたりとも、まだ朝食をとっていないのである。時計をみるともう十時半。金田一耕助も急に空腹をおぼえてきた。
「警部さん、やっぱり座敷でゆっくり頂戴しようじゃありませんか。そのまえに風呂へもゆっくり入りたいし……」
「じゃ、そしてもらお。飯のほうは朝昼兼帯ということにしといてくれんか」
「はい、それならお支度がでけたらお迎えに参じますけん」
お幹さんがひきさがるのと入れちがいに、自転車でやってきたのは本多先生である。
「立花さん、検屍調書をもってきました。詳しいことはいずれ解剖があるじゃろけん、まあ、こんなところでええじゃろとおやじがいうんですけんど……」
「いや、さっそくどうも……」
立花警部補は検屍調書に眼をおとし、
「死因はやっぱり絞殺ですな。|紐状《ひもじょう》のものによる絞殺と……十四日午前九時の検屍で死後の推定時間が約十二時間とすると、犯行はやっぱりゆうべの九時前後ということになりますな」
「だいたい、間違いはないと思うとります。念のためおやじにも立ち会うてもらいましたけんな。ところで、解剖やるんでしょう」
「ええ、現地解剖やろうと思うとります。さっき県の警察本部とも打ち合わせたんですけんど、医大の緒方先生が急行してつかあさることになっとおります。そうそう、警部さんにはまだ申し上げてなかったんですけんど……」
「あや、いや、そら早手回しじゃったな。ときに本多先生、お父さんはお元気じゃろな」
「ええ、もうぴんぴんしてますわ。磯川警部さんがおみえんさっとるちゅう話をしたら、えろう懐しがっとりますけん、いっぺん顔見せてやってつかあさい」
「ええ、そら、もちろん……昭和七年の事件のときには、あんたのお父さんに調書かいてもろたもんじゃが……」
「そうやそうですね。この村で殺人事件の検屍調書かくのあのとき以来やいうとります」
「そら、そうじゃろうなあ」
金田一耕助はそういう会話を、たいそう興味ふかくきいていたが、そこへお幹さんが風呂の支度のできたことをしらせてきた。
恨みの『モロッコ』
風呂からあがって金田一耕助と磯川警部が、朝昼兼帯の膳についたのは、もう十一時をまわっていた。
なめこの|味《み》|噌《そ》|汁《しる》にあゆの塩焼き、わらびと油揚げの煮付けに生卵が一個と、はなはだ素朴な献立だけれど、味噌汁のうまさが空腹の胃の|腑《ふ》にしみわたった。
食事の給仕にはお幹さんがあたったけれど、お幹さんが、お膳をさげるのといれちがいに、
「ゆうべはご苦労さんでございました。さぞお疲れんさったでございましょうに」
と、水蜜桃を盛った鉢をもってあらわれたのは、女あるじのリカである。薄化粧をして服装もあらたまっているが、顔色はもとよりすぐれない。
「やあ、おかみ。えらいことが持ちあがりよったなあ。あんた、これからお悔みか」
「はい、さっきもちょっと顔出ししてきましたんですけんど、これからまたあらためて……」
「歌名雄君は……?」
と、これは金田一耕助の質問である。
「はい、歌名雄はむこうへいききりで……」
と、リカはちょっと鼻をつまらせる。
「そうそう、歌あさんは泰っちゃんというあの娘と、縁談があったんじゃてなあ」
「はあ、まだはっきりきまってたわけやございませんけんど……」
「でも、由良のほうでは乗り気じゃったというじゃないか」
「はあ、戦後はもう本人しだいじゃけんと、由良の奥さんもそういうてつかあさってたんですけんど……」
「それに、歌あさんもまんざらじゃなかったんじゃろ」
「どうもそうらしゅうて、……あれもえろう力を落としているようで、それがかわいそうでなりません」
と、リカはとうとうハンカチを眼におしあてる。
「ほんまにえらいことが持ちあがりよったもんじゃが、……それについて、おかみ、さっき滝壺のまえで、由良の奥さんが、仁礼の旦那にどえらいことをいいなさったんを、あんた、聞いてはおらんか」
「それはもう、村じゅうの評判になっとりますようじゃけん。……でも、そればっかりは奥さんの思いすごしでございましょう。なんぼなんでもあの旦那さんが、あないなむごいことを……」
「いや、そら、わしもそう思うが、それにしても、聞きずてにならんことばじゃけんな。それで、まあ、いろいろな村の衆にたずねてみたんじゃが、するとなんじゃてなあ、仁礼のほうでも文子というのを、歌あさんにもろうてほしいちゅうてたんじゃてなあ」
「はい……」
と、リカは肩をすぼめて、消え入りそうなふぜいである。
「それで、どういう話になっとったんじゃな。立ちいったことを聞くようですまんけんど、かりそめにもそういう疑いがあるとしたら、はっきりしとかないかんけんな」
「旦那さん、面目しだいもございません」
「面目しだいもないちゅうと……?」
「そら、親としては迷いますぞなあ。泰子はんと文子さん、娘としてはどっちゃも甲乙なしの器量よしでおいでんさる。それじゃったら、やっぱり親の身としては、バックちゅうもんを考えますけんなあ。こどもの将来のことを思いますとなあ」
「そらまあ当然じゃが、それでどっちゃの話がさきだったんじゃな」
「はい、それはもう由良さんのほうが……十中八、九話がまとまってるところへ、仁礼の旦那さんがおいでんさって……」
「それで、あんたが迷いだしたちゅうわけか」
「はい、それというのもなあ、旦那さん、もうひとつわけがございますんよ」
「もうひとつわけちゅうと……?」
「旦那さんもご存じのとおり、里子があのとおりでございましょう。いかに親のひいき目でも、あれではとてもお嫁にもらいてございませんわなあ。それがわたしにとって苦労の種でございますけんど、仁礼の旦那さんがおいいんさるには、文子を嫁にもろてくれたら、里子もかわいい婿の妹じゃ。いわばわしの娘もおんなじことじゃけん、けっして放っときはせん。きっとええとこへお嫁に世話してやると、そういうてつかあさります。それでわたしも迷いはじめたんですん。仁礼の旦那さんならそれくらいの約束、きっとまもってつかあさりましょう。それにくらべて由良さんのほうでは、里子の面倒まではちとごむりのような気がしましてなあ」
と、くどくどうったえるリカの話を聞いていると、金田一耕助も身につまされる。磯川警部も張り子の虎のように、いちいち首をふりながら、しんみり話を聞いている。
「それに、歌名雄も妹思いの子ですけんな、里子の約束まであることを打ち明けたら、承知してくれやせんかと、それでいろいろ迷うてしもうたんでございますんよ」
「それで、歌あさんにはまだ、仁礼のほうにはそういう条件がついてるちゅうことを、打ち明けてはなかったんじゃな」
「はあ、あんまりはっきりいうのんも、なんやら里子がかわいそうでなあ。里子は里子であれなりに、気位いうもんをもっとりますけんなあ」
リカはため息まじりに鼻をすすって、
「どっちゃにしても、わたしの態度が煮えきらなんだんが悪うございますけんど、そうじゃかとて、仁礼の旦那さんがあないなことおしんさったなんて、それこそ、とんでもない話でございます」
「そりゃそうじゃ。仁礼の旦那くらいのひとになれば、あんたの心がぐらついてるちゅうことくらいは、ちゃんと見抜いておいでんさったじゃろけんな」
「それに、仁礼の旦那はまさか枡と漏斗をもちだして、死骸にあんないたずらはなさりますまいからね」
金田一耕助がそばからさりげなくくちばしをいれると、リカも思い出したように、
「そうそう、金田一先生、あれはいったい、なんのおまじないでございまっしゃろなあ。先生はいままでずいぶん、ぎょうさん事件にぶつかっておいでんさるかたじゃっと、けさがた歌名雄に聞かせてもらいましたけんど、いままであないなことお聞きんさったことがございまっしゃろか」
「いや、いや、ぼくもはじめてですが、この地方になにかあれに類した伝説かなんかあるんじゃないでしょうかね、昔々その昔に……」
「さあ、わたしは他国もんですけん、ようしりませんが、そういうお話じゃったらお庄屋さんでございますけんど……」
そこまでいってから、リカは急におびえたような眼の色になり、
「そうそう、さっきお幹にきいたんですけんど、泰っちゃんをつれていたおばあさん、お庄屋さんのお使いじゃっと……?」
「いや、そらまだようわからんのじゃが、おかみ、あんたの考えばどうじゃな。お庄屋さんは生きているのか死んでいるのか……」
リカはあきれたような顔をして、磯川警部と金田一耕助の顔をみていたが、やがてなにを思ったのか、ゾクリと肩をふるわせて、
「さあ、そないにおいいんさったかて、あなたがたにもお分かりんさらんようなことが、わたしらみたいなもんに分かる気づかいはございませんけんど……」
「ございませんけんど……」
と、磯川警部がひと押しすると、
「はい、あの、それが……」
と、リカはいおうかいうまいかと、しばらくためらっていたのちに、
「こないなこと、お庄屋さんが生きておいでんさっても、おいいんさったらいけませんぞな。ひとくちに申しますと、わたしはいつもお庄屋さんいうひとが、なんじゃら怖いような気がしてなりませなんだんですん」
「怖いちゅうのはどういう意味で……?」
「さあ、それ、どう申し上げたらよろしいんやら……あのかた、決して悪いかたじゃというのんやございませんのん。ただ、ああして世を捨てておいでんさって、世間をこう、白い眼でみておいでんさったかたじゃけに、しぜん人を食ったとこがおありんさるいうのんか、なんでも腹にためておいでんさるちゅうふうでしたん。普通のひとならなんでものう、べらべらしゃべっておしまいんさるような話でも、あのかたは、いちおう腹の底へためておかれて、ひとしれずせせら笑うておいでんさる……と、そういうおかたでしたん。つまり腹黒いちゅうかたではございませんけれど、いつも腹に一物あるいうようなふうでしたん。そうじゃけん、昭和七年の事件でも……」
「ふうむ、昭和七年の事件でも……?」
「はい、あの……金田一先生もあの話、しっておいでんさるんでしょうなあ」
「ひととおり、聞いていることは聞いておりますが……」
「はあ、それで……あの時分は、わたしもあのかたとお近づきになったばっかりでしたけん、よう分からなんだんですけんど、あのかた、あの事件……と、いうよりは恩田幾三というひとについて、もっともっといろいろなこと、しっておいでんさったんやないかと、あとになればなるほど、そんな気が強うしてなりませなんだんです」
「たとえばどのようなこと……?」
「どのようなこととおいいんさってもわたしらみたいなもんに、|覚《さと》られるようなおかたじゃございませんけんど、たったいっぺんだけ、こないなことおいいんさったことがございますのん。そうそう、それも恩田幾三いうひとの話をしていたときでしたん。いま村で大きな顔をしてるやつでも、じぶんがひとこと口をすべらしたら、面目のうて村におれんようになるのがいよる……と、そないなことおっしゃって、笑うておいでんさったことがございますのん」
「それ、男かね、女かね」
「いいえ、それはわたしも尋ねてみたんですけえど、そこまではおいいんさりませんでしたん」
「おかみさん、それいつごろのことです」
「こっちゃへ……つまりいまのとこへ、宿替えしておいでんさってからですわなあ。あそこへ移ってこられてから、再々ここへ|入湯《にゅうとう》においでんさるもんじゃけに、わりにようお話するようになりましたん。それまではおなじ村いうても、小一里もはなれておりましたもんじゃけに、めったにお会いすることはなかったんですけんどなあ」
「お庄屋さんはいつごろ、いまのところへ引っ越してこられたんですか」
「あれは去年の五月のおわりやったように覚えとります。まだ梅雨まえでしたけんな」
「あそこにはもと尼さんがいたそうですね」
「はあ、その尼さんが昭和二十三年かにお亡くなりなさって、そのあと立ちぐされみたいになっとりましたんを、お庄屋さんがごじぶんで……と、いうてもうちの歌名雄やなんかが、手つどうてあげて、わりに小ぎれいにおしんさって、お移りなさったんですん。そのまえに、お冬さんちゅうおかみさんとお別れんさったもんじゃけに、いよいよ世をすねておしまいんさったんですわなあ。そうそう、さっきお話ししたとこですけんど、じぶんが口をすべらせたら、村におれんようになるのがいよる、とおっしゃったときのことですけんど……」
「ふむ、ふむ、それがなにか……?」
「そのとき、とっても、きょうとい[#「きょうとい」に傍点](こわい)ことをおいいんさったんですん」
「きょうといって、どういうこと?」
「ことと次第によったら、そのうち、なにもかもばらしてしもて、村じゅう大騒ぎをさせてやるかもしれんと、そうおっしゃって、それはそれはすごいお顔をおしんさったんを、いまでもよう覚えとります」
「それで、その内容はいわなんだんじゃね」
「はい、それでもあの、恩田ちゅうひとがうちの主人を殺したこととは関係ないことじゃ、というておいでんさりましたけんど」
昭和七年の事件に関して、お庄屋さんがもっといろいろしっているということは、井筒のおかみのおいとさんもいっていた。いったいそれはいかなる秘密なのかと、金田一耕助と磯川警部は、それぞれちょっと思いに沈む。
当然、そこにしっとりとした沈黙が落ちこんできたが、なに思ったのか、とつぜん金田一耕助がにこにこしながら、
「それはそうと、おかみさん、ぼく、きょうまでしらなかったんですが、お亡くなりなすったあなたのご主人、ちょっと変わった職業でいらしたそうですねえ」
「あれ、まあ」
ふいをつかれたのかリカは、さっとおもてに朱を走らせる。
磯川警部がそれをとりなすように、
「いや、じつはな、金田一先生はさっきまでそれをご存じなかったんじゃ。あんたの旦那さんが弁士じゃったちゅうことをな」
「はあ……」
と、リカはあきらかにその問題にふれたくないらしいのだが、金田一耕助は委細かまわず、いかにも楽しそうににこにこしながら、
「いやね、おかみさん、さっき、警部さんからそのお話を聞いて思いだしたんですが、昭和七年といえば、ぼくは|二十《はたち》で、そのまえの年にいなかの中学を卒業して、上京してきてさる私立大学に籍だけおいて、神田の下宿にごろごろしてたじぶんなんです。ちょうどそのころでしたなあ、トーキーがさかんになってきて、弁士という職業のひとが失職していたのは……」
金田一耕助があまり楽しそうに話をするので、リカもついつりこまれたのか、
「それじゃ、金田一先生も覚えておいでんさりましょう、『モロッコ』という映画を……」
「ええ、ええ、覚えてますとも、スタンバーグの監督で、ゲーリー・クーパーとデートリッヒの……」
「はあ、あの映画が神戸で封切られたのが昭和六年ですけんど、あれを見たとき、うちの主人もわたしも、もうこれで完全にあかんと思いましたなあ」
「トーキー初期の名作でしたからなあ」
「名作も名作でしたけんど、パラマウントさんがあれではじめて、スーパー・インポーズちゅうのんをおやりになったんですん。それまではトーキーはトーキーでも、音を小そうしておいて、やっぱり弁士が説明しとおりましたんよ。それがあの『モロッコ』の大当たりでございまっしゃろう。パラマウントさんはいうにおよばず、ほかの会社もぞくぞくとスーパー・インポーズをお作りんさる。それで弁士ちゅう職業が完全にあがったりになってしまいましたん」
「と、すると、おかみさんにとっては、思えばにっくき『モロッコ』めというところですね」
「いえ、もう、ほんまにそのとおりですんやわ。そうですけん、戦後スタンバーグが日本へきて、アナタハン島を舞台にして、けったいな映画おつくりんさったけんど、ちっとも評判にならなんだいう話を新聞で読んだとき、ええ気味やわと、ひとりで溜飲さげたもんですん」
「あっはっは、おかみさんはなかなかファイターですね」
「先生はそういうて笑うておいでんさりますけんど、あのときのわたしのつらさ、悲しさ。歌名雄が生まれた年にやっと主任弁士になって、やれうれしやと思うやさきに、トーキー攻勢でございまっしゃろう。トーキーちゅうもんさえなかったら、こないな田舎へかえってけえしませんし、この田舎へさえかえってこなんだら、うちのひとも、あないなむごい死にかたせんでもすんだのんにと、そう思うと、トーキーいうやつが憎らしゅうてなあ」
リカが眼に涙をためているのをみると、金田一耕助はちょっと胸を打たれて、
「いや、どうも失礼しました。しかし、ご主人はこちらで、なにをなさるおつもりだったんです。やはりぶどう作りでも……」
「いえ、それが……こちらの生まれは生まれですけんど、いちど白い手でご飯をいただいてたひとですけんなあ。百姓仕事はむりですわねえ。それでじつは、わたしをこちらへ預ける相談にかえってまいりましたん」
「リカさん、あんたを預けて源治郎さんはどうするつもりだったんじゃね」
その話は磯川警部も初耳だったとみえて、おどろいたようにリカの顔を見直した。
「はあ、それが……」
と、当時を思いだしたのか、リカはいよいよ涙ぐんで、
「あのひと、満州へわたるつもりでしたんよ」
「満州へ……?」
と、磯川警部はちらりと金田一耕助のほうへ視線を送ると、
「しかし、リカさん、あの時分はあんたはそないな話、せなんだようじゃが……」
「そうでしたかしらん。それやったら、旦那さんのほうから、お尋ねがなかったんとちがいまっしゃろうか。べつにそのこと、かくさんならん話やなかったんですけんど」
「ああ、なるほど、それで……?」
と金田一耕助が眼顔で磯川警部をおさえ、リカにあとをうながすと、
「はあ、ところが、その時分、わたしがみごもっておりましたもんですけん、じぶんだけひと足さきに満州へいて、身のふりかたをつけてから、わたしを呼ぼうちゅう話になって、それでわたしを預けるために、ここへ連れてきてくれたんですん。主人の生まれたうちとはいえ、わたしとしては、はじめてでしたけん、ずいぶん気ずつない思いでございましたん」
「ああ、そのときが、はじめてだったんですか」
「はい。……そうでのうても、わたしら自由結婚でしたけん、ものがたいこちらの両親が、たいそう気い悪うしておいでんさるちゅうことが、まえから、耳に入っとりましたけんなあ」
「失礼ですが、ご主人と結婚なすったじぶん、なにをしておいでになったんです?」
リカはしばらく、無言のまま、金田一耕助の顔を見すえていたが、
「|寄《よ》|席《せ》へ出ておりましたん」
「寄席……?」
「はい、|色《いろ》|物《もの》|席《せき》ですわなあ。関東ではなんといいますか存じませんけんど、こちらでは|女道楽《おんなどうらく》いいましてなあ、わかい子が五、六人いっしょに出て、ジャカジャカ三味線をひきながら、博多節やの、さのさ節やの、かわりばんこに歌いますのん。わたし高等二年を出た十六の年から、そないなしょうばいしておりましたんよ」
金田一耕助を見つめるリカの眼には、もう涙はなかったけれど、その瞳には、このうえもない哀愁がちりばめられている。金田一耕助はまた胸を打たれずにはいられなかった。
「まあ、そういう女ですけん、両親が気にいらなんだんもむりはございませんけんど、そこはようしたもんで、歌名雄がそのときかぞえ年で三つでしたん。かぞえ年で三つといえば、あの子にかぎらずどなたでもかわいいさかりですわなあ。おまけに兄夫婦にこどもがなかったもんですけん、孫の愛にひかされて、両親の心もとけてまいりまして、それではわたしが身ふたつになるまで預かってやろいうてつかあさったんですん。ですけん、そう話がきまったとき、主人がすぐ満州へ出発してたら、あないなことにならずにすんだと思うんですけんど、それがそうもいけませず……」
「そうもいかなかったとおっしゃるのは……」
「しらぬ他国ですけんなあ。まんざら、から手ではいけませんわ。そら、青柳史郎いうたらひところは鳴らしたもんで、ちょくちょく大阪へも応援にまいりましたけんど、そのじぶん大阪で人気ずいいつの、里見|義《ぎ》|郎《ろ》はんとどっちゃがどっちゃや、といわれたくらい人気があったんですん。それですけん、収入も相当ございましたけんど、ああいうしょうばい、|出《で》|銭《せん》が多うございますけんなあ。こっちゃへ頼ってまいりましたときには、それこそすかんぴんでしたん。わたしども親子を預けるうえに、満州いきの資本まで出してほしいとはいえませんわねえ。それで、ぐずぐずしているうちに、あないなことになってしもうて……」
かいこが糸をくりだすように、リカの話はなめらかな舌にのって、|醇々《じゅんじゅん》と展開される。話す当人にとっては身を切られるほどつらい、悲しい思い出なのであろうけれど、細い、よくとおる声で、しかも適当な抑揚をもって、リカの口から話されるとき、聞くものにとってはそれは一種の快感だった。
そこで金田一耕助が惨劇の夜のことを、ついでにきいてみようかと、口をひらきかけたとき、あいにくお幹さんが入ってきて、
「あの……おかみさん、さっきから歌名雄さんが待っておいでんさりますけんど……」
それを聞くと、リカはびくっとしたように急に腰をうかせて、
「あら、まあ、わたしとしたことが……どないしましょう。えらい長話をしてしもて……」
話を聞くと歌名雄がリカを自転車の尻にのっけて、由良のうちへつれていくことになっており、そのために迎えにかえってきたのである。時計をみるともう十二時半だった。
リカはあわてて半分腰をうかしていたが、また思い出したように、
「それはそうと、旦那さんや金田一先生は、ゆうべ、ゆかりさんにお会いんさりましたか」
「いや、まだ、……ゆうべはそれどころじゃなかったんじゃが、ゆかりがなにか……?」
「いえ、あのゆかりさんより、ゆかりさんのマネージャーいうひと、なんたらいうお名前でしたけんど……」
「日下部是哉という男のことかね」
と、磯川警部はするどくリカの顔を見ている。
「そうそう、その日下部さんちゅうかたにも、それじゃまだ会うてはおいでんさらんのじゃなあ」
「ああ、まだ会うてはおらんが、日下部という男がどうかしましたかな」
「いえ、あの歌名雄に聞くと、そのかた満州がえりやいう話ですけん」
と、なにか思いこんだ眼の色で、リカはしばらく磯川警部と金田一耕助の顔を見くらべていたが、急にその眼をほかへそらすと、
「いえ、あの、わたしとしたことが、たいへん失礼いたしました。それじゃちょっといて参じますけん」
と、物問いたげなふたりの視線から逃げるように、リカはこそこそと縁側へ出ていった。
父の死の秘密
リカを送りだしたあと、お幹さんに床をとってもらって、ぐっすりと睡眠をとった金田一耕助が、泥のようにふかい眠りからさめたのは、|青簾《あおすだれ》のそとのきりの木で、ひぐらしがすずしげな声をたてているころおいだった。
そばをみると、枕をならべてねていたはずの磯川警部のすがたがみえない。枕もとにおいた腕時計をみると、もう五時をすぎている。金田一耕助はゆっくりとめざめたばこの一本をくゆらしたのち、腹ばいになったまま手を鳴らした。
やがて縁側に足音がして、
「いま、眼がおさめんさりましたか。ようねておいでんさりましたなあ」
と、敷居ぎわに手をつかえたお幹さんは、簡単服のまえにかけたサロン・エプロンで、額の汗をおさえている。
「ああ、おかげでよう眠れたよ。ときに警部さんは?」
「はあ、さっき駐在所の木村さんがむかえにおいでんさりまして、いっしょにおいでんさりました。なんでも岡山のほうからえらいお医者さんがおいでんさったそうで」
「ああ、そう。それ何時ごろのこと?」
「二時ごろのことでしたん」
二時といえば磯川警部はほとんど眠るひまがなかったわけである。
「そのとき先生もお起こししたんですけんど、あんまりよう寝ておいでんさりましたけん、そのままにしておくようにとおいいんさって、眼がおさめんさったら、すぐきてくださるようにと。自転車もございますけんど、先生、自転車は……?」
「あっはっは、自転車くらいは乗れるよ。それで解剖はどこでやることになってるの」
「本多先生のおたくの手術室やそうですん。でも、先生」
と、お幹さんはべったり横坐りになったまま、ちょっと呼吸をのむような眼つきをして、
「解剖ちゅうて、いったい、どねえなことをするんですん」
「いや、お幹さん、それはきかないほうがいいよ、ご飯がたべられなくなるといけないからね。どれ、それじゃ、おれも起きていってみよう」
と、寝床からとび起きて、相当くたびれた|白絣《しろがすり》にきかえながら、
「ときにおかみさんや歌名雄君は……?」
「はい、昼過ぎごいっしょに、由良さんのほうへおいでんさったきりですん」
「ああ、そう。こんやは、おおかたお通夜ということになるんだろうねえ」
「そうじゃけんど、泰っちゃんの体を解剖するといいますと……」
「なあに、それまでにはおわるよ。死因は絞殺とはっきりしてるんだからね。まあ、いわば形式だけのことだろうよ。ときに、里ちゃんはいるんだろうね」
「はあ、土蔵のほうにおいでんさりますけんど、いっぺん泰っちゃんのことで、あっちのほうへいかないかんやろかというておいでんさりますん。じゃけんど、そうなるとわたしひとりになってしもうて……」
と、お幹さんはいまにも泣きだしそうな顔色である。
「なあに、大丈夫だよ。なにも怖いことありゃしない」
と、金田一耕助はなぐさめ顔でいったものの、ああいう事件のあった直後だけに、人里離れた、しかも相当だだっぴろいこの家のなかに、女ひとりでは心細いのもむりはないと、お幹さんに同情せずにはいられなかった。しかもここは放庵さんの草庵と、いちばんちかいのである。
金田一耕助がつめたい水で顔を洗ってもどってくると、お幹さんが心細そうに寝床をあげていた。金田一耕助は白絣のうえに|袴《はかま》をはきながら、
「お幹さん、裏から出たほうがはやそうだ。すまないが裏木戸をあけてくれないか」
「はい、自転車も裏の土間にございますけん」
裏の土間には農具一式がそろっている。歌名雄はきれいずきとみえ、いろんな道具が整然と、それぞれの位置に配置されていて、ごたごたとしたかんじのないのが好ましい。自転車が二台。男用の自転車のほかに、女乗りのが一台あるのはおおかた里子のものだろう。自転車のほかに|猫車《ねこぐるま》が三台あって、それが土間のなかで場所をとっている。
近代建築業者の使用する機械のなかにも、猫車というのがあるようだが、このへんでいう猫車はそれとはちがって、木製手押しの一輪車だから、どんなせまい|畦《あぜ》|道《みち》でも通用するし、操作になれると女子供にでも、相当の重量のものが運搬できるのである。
金田一耕助がお幹さんに手つだってもらって、猫車のおくから自転車をひっぱりだしてそとへ出ると、土蔵の窓から里子がこちらをのぞいていた。彼女はもう顔をかくすようなこともなく、金田一耕助が笑顔をむけると、里子もだまって頭をさげた。
裏木戸からそとへ出るとき、
「先生、今夜のご飯はどないおしんさりますん?」
とお幹さんにきかれたが、
「さあ、どうなるかわからないが、こっちへかえってたべるとしても、茶漬けでいいから心配はいらんよ」
金田一耕助が亀の湯の裏木戸を出たのは、ちょうど五時半である。
そこから六道の辻まではのぼり坂だが、六道の辻から桜の大師のうらがわまでは、適当の勾配をもったくだり坂だから、自転車だと|一《いっ》|瀉《しゃ》|千《せん》|里《り》で、山裾の村道をいくよりもはるかにちかいことがわかった。
ゆうべこの路を奇怪な老婆とあわれな犠牲者の泰子とふたりで、ぎゃくにのぼっていったのだと思うと、金田一耕助はおもわず肌に|粟《あわ》だつのをおぼえたが、それにしてもそれよりすこしまえ、辰蔵はどうしてこの近道をとらなかったのであろう……。
桜の大師のうらがわへ出るまでに、どっしりとした土塀が二十間ほどつづいていて、その土塀のなかにあけられた裏木戸のよこに、金網をはったあんどんふうのしゃれた門灯がかかっており、そのそばに、
「仁礼家通用門」
と、書いた木札がかかっている。
なるほど、うえに瓦をふいた土塀のかまえもどっしりとして、仁礼家のゆたかさと権勢をものがたっているようである。
しいの葉影におおわれた桜の大師のうらがわから村道へ出ると、お大師さんの崖とせまい村道をひとつへだてたところに、ちょっとした|竹《たけ》|藪《やぶ》がある。里子がかくれた藪である。
つまり、ここで路は四つにわかれており、ひとつはいま金田一耕助がたどってきた間道、もうひとつはハカリ屋ぶどう酒醸造工場へのぼる路、それからあとのふたつが村の中心部と亀の湯をむすぶ村道である。その交差点に立って丘のほうをみると、崖くずれのために路が交通不能になっているのがはっきりわかる。村道のかたがわは地面がすこしさがって、いちめんに|田《たん》|圃《ぼ》がひろがっている。田圃のなかにはいかにも豊作を思わせるように、稲の株がはっていた。
本多医院は村役場やお陣屋跡のすぐそばにあった。表には村の弥次馬がおおぜいむらがっており、私服や警官が出たり入ったりしている。村のひとたちはお幹さん同様に、解剖とはどういうことをするのであろうと、大いに好奇心をもやしているのであろう。
金田一耕助が加藤刑事に案内されて、患者の控え室へはいっていくと、磯川警部が緊張のおももちで、被害者の兄の敏郎となにか話をしているところであった。
「やあ、警部さん、おそくなりまして」
「ああ、金田一先生、ちょうどよいところへ……」
「はあ、解剖はもうすみましたか」
「いや、そのほうはいまむこうの手術室で……」
と、磯川警部は診察室のおくへあごをしゃくった。
田舎の医者のことだから外科も内科もやるのである。
「先生もお立ちあいんさりますか」
「やあ、どうも。そのほうは願いさげにしていただきたいですね。|臆病《おくびょう》なことをいうようですが……」
「いやあ、われわれじゃがとて、おんなじこってす。ああいうことはな。あっはっは」
と、地のうすくなった頭をなでながら、ちょっと照れたように笑ったが、すぐむつかしい顔にもどると、あたりをはばかるように声を落として、
「ところで、金田一さん、ここにひとつ重大な証拠が手にはいりましてな」
「重大な証拠というと……?」
と、金田一耕助もついつりこまれて声を落とした。
「いや、先生はこの人をご存じじゃろうな。被害者の兄さんの敏郎さん」
「はあ、けさがた滝壺のそばでお眼にかかりましたね。このたびはどうも……」
金田一耕助が頭をさげると、敏郎は口のなかでなにやらもぐもぐ、不得要領なことをいいながら、鈍牛のようにのっそりと頭をさげた。まだ作業服をきたままだが、おそろしく|猪《い》|首《くび》であることに気がついた。
「いまな、この敏郎さんがこのようなものを見つけたというて、とどけてつかあさったんじゃが……」
と、磯川警部が開襟シャツのポケットからとりだしたのは、一枚の半紙である。かなりくちゃくちゃになっているが、八つに折ったその半紙を、ひざのうえでひらいてみて金田一耕助は、思わずぎょっと呼吸をのんだ。
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あなたのお父さんのお亡くなりになったときの秘密について知りたいと思ったら、今夜九時、桜のお大師さんの裏側へおいで下さい。重大な秘密を教えてあげます。
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[#地から2字上げ]放 庵
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泰子さんへ
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「敏郎さんはこれをどこで……?」
「いや、このかたのおいいんさるには、なにかこんどの事件について証拠はないかと、泰子さんの部屋を調べておみんさったんじゃそうな。そうしたら、机のうえにおいてあった映画雑誌のあいだに、これが八つ折りになってはさまっていたとおいいんさるんで……」
「この半紙だけですか。それとも封筒のようなものは……?」
「はあ、あの……それが、その半紙だけですんじゃが……」
と、敏郎はまるで牛が|反《はん》|芻《すう》するように、口をもぐもぐさせながら、のろのろとひくい声でつぶやいた。
金田一耕助はもういちど半紙の上に眼を落とす。日本紙のことだから、むろん文字も毛筆だが、まるでアル中患者の手で書かれたように、ブルブルとひどくふるえているうえに、線のやけに太いところがあるかと思うと、また糸のように細くなっているところもあり、判読するにもかなり骨のおれるような悪筆であった。
磯川警部と眼を見かわした金田一耕助のあたまに、そのときまざまざとうかんだのは、左手にくらべていちじるしく退化して、いつもぶるぶるふるえている放庵さんの右手である。
「敏郎さん、あなたのお父さんはたしか、昭和十年にお亡くなりになったとうかがっておりますが、ご病気はなんでしたか」
「|脚気衝心《かっけしょうしん》……心臓脚気で……」
「で、お医者さんは……?」
「こちらの先生……いまの大先生で……」
「脚気衝心だとすると、 お亡くなりになるとき、 ずいぶんお苦しみになったでしょうねえ」
「へえ、そらもう……畳をひっかいて……こっちゃの大先生に、何本注射をうってもろても……」
この敏郎という男はことばを語尾まではっきりいわぬ男である。口をもぐもぐさせながら、のろのろと語尾をにごすと、うわめづかいに相手をみるくせがある。それがなんとなく鈍牛のような|風《ふう》|貌《ぼう》の底に、ゆだんのならぬものをかんじさせた。
「警部さん、敏郎さんが大先生とおっしゃるのは、さっき本多先生からあなたにおことづけのあったかたですか」
「ええ、そうですんじゃ。そうですけん、解剖がすんだら大先生に尋ねてみよう思うとるところじゃけんど、敏郎さん、あなたどう思うとりんさる? あんたのお父さんの死にかたに、なにか秘密があるようにお思いんさるんかな」
敏郎はのろのろと首を左右にふりながら、
「そげえなこと……わしゃ考えてみたこともごぜえませんけんど……なにせ、ぎょうさんな苦しみようで……」
と、敏郎もその当時のことを思いだして、いくらか疑惑をかんじているらしく、例によってもぐもぐと語尾をにごしながらも、気になるように金田一耕助のひざにある半紙のほうへ眼を走らせた。
「お亡くなりになったのは昭和十年のいつごろ……?」
「へえ、この十日が命日で……」
「ああ、暑いさかりですね……」
「へえ、ああいう病気は暑いときがいけんちゅう話で……」
それから敏郎は、しばらくもじもじしていたが、
「あのう……警部さん」
「はあ」
「泰子の死骸はどないなことになりますんで……? じつはこんや、うちでお通夜をしてやりたい思うとりますんじゃけんど……」
「いや、それならまもなく解剖もおわるじゃろけん、解剖がすんだらそちらのほうへ引きわたすちゅうことになるじゃろう」
「はあ、はあ……」
と、敏郎は例によってのろのろとふとい|猪《い》|首《くび》をふっていたが、
「あのう……それについてうちのおふくろから、警部さんにことづけを頼まれてきておりますんじゃけんど……」
「はあ、どげえなことな」
「はあ、あのう……」
と、敏郎はうわめづかいに金田一耕助の顔をみながら、
「亀の湯のおばさんから、こっちゃの先生の話を聞いて……こんやふたりでうちへきてほしいちゅうて……なんにもござりませんけんど、ご飯をさしあげたいちゅうて……それになんじゃら、聞いてもらいたい話があるちゅうてますんじゃが……」
磯川警部は金田一耕助とすばやい眼くばせをかわすと、
「ああ、そう。それはどうも……それじゃ、こっちゃの用がすんだら、さっそくお宅へ参上しましょ。こないななりで失礼じゃが……」
「はあ、あのう……それは旅先ですけん……そいじゃこれからいんで[#「いんで」に傍点](かえって)、おふくろにそういうときますけん……解剖がすんだら使いをつかあさい。すぐ迎えにまいりますけん」
ずんぐりむっくりした敏郎が、のろのろと本多医院の玄関を出ていくうしろすがたを見送って、金田一耕助と磯川警部は思わず顔を見合わせた。加藤刑事もそばからひざをのりだして、
「警部さん、こらまた、えらいことになってきよりましたなあ。どこまで事件がひろがるこっちゃら……」
と、興奮にほおを紅潮させている。
金田一耕助は半紙の手紙をもういちど、仔細にあらためてみながら、
「この半紙の折りかたじゃ、郵便できたんじゃないんでしょうねえ。もっとも横封を使えばべつだが……」
「加藤君、さっそく放庵の草庵をしらべて、これとおんなじ半紙があるかないか、さがしてみてくれんか」
「はあ、承知しました。たしか、これとおんなじような半紙が一帖あまり、あったように覚えとおりますけんど……」
加藤刑事が出ていったあとで、
「警部さん、立花さんは……?」
「あれは解剖に立ちおうとるんじゃが……わかいだけに元気なもんじゃな」
うわさをすれば影とやらで、そこへおくの手術室から立花警部補があらわれた。さすがに蒼白の顔をしかめて、いそいでご不浄へかけこんだのは、おそらく|嘔《おう》|吐《と》を催しそうな|悪《お》|寒《かん》におそわれたのであろう。
時刻はちょうど六時半、泰子の解剖がおわったのである。
この解剖の結果についてはべつにいうことはない。死因が絞殺であることをたしかめたにすぎなかった。緒方博士は助手とともにすぐその足で岡山へ去り、泰子の死体のはこびだしに、ちょっとごたごたがあったのち、金田一耕助ははじめて大先生に紹介された。
大先生は七十あまり、白髪をながくのばして、うしろへなでつけているところは、ちょっと横山大観に似ている。
大先生はしきりに磯川警部をなつかしがっていたが、警部に半紙の手紙をみせられるとギロリと大きな目玉をひからせた。
立花警部補もおどろいて、|猜《さい》|疑《ぎ》にみちた眼で磯川警部と金田一耕助を見くらべながら、どうしてこんな手紙が手にはいったの、だれがもってきたのと、しつこく警部に食いさがっていた。この捜査主任は金田一耕助の人柄を誤解しているようである。
「ところで、大先生、あなたこの手紙をどげえにお思いんさるな」
磯川警部がいいかげんに立花警部補をあしらって、大先生のほうへむき直ると、
「どげえに思うちゅうて、磯川さん、卯太郎はんの死因のことかな」
「ええ、それ……。さっきの息子さんの話じゃ、脚気衝心じゃったちゅうことじゃけんど、それに間違いはございますまいな」
「磯川さん、そないなこというと、なんぼ昔なじみじゃとて気いわるうするぞな。脚気衝心、間違いなし。もともと、あそこんうちは代々心臓がようないらしい。敏郎ちゅうあの男の青んぶくれしたような顔色も、心臓がようない証拠じゃ。それにしても、この手紙、ほんまに放庵の筆跡かな」
「大先生はどうお思いになります。放庵さんのあの右手で筆をもつことができるでしょうか」
「さあてな。でけんこともないじゃろが、それには左手でもちそえてやらんならんじゃろうなあ。そないなことするよりはいっそ、左手で書いたほうがてっとりばやいかもしれん」
大先生はその手紙を立花警部補にかえすと、
「どっちゃにしても、磯川さん、卯太郎はんの死因は脚気衝心、そればっかりは間違いなし。なんせあんたもしってのとおり、昭和七年の大失態があったろうがな。あの一件の心痛でいっそう心臓がよわったんじゃな」
「大先生は放庵さんちゅうひとを、どげえにお思いんさりますな」
「そうじゃな」
と、大先生は困ったように顔をしかめて、
「ひとのことはあんまりいいとうはないが、正直いうてわしは虫が好かんな。年はわしより五つうえで、いやに達観したような顔はしているが、なんじゃやら、こう、ひとのあらばっかりを横眼でにらんどるような気がしてな。昔を思えば世をすねるのもむりはないかもしらんが、それじゃとてじぶんの心がらじゃけんな」
本多大先生の見解もだいたい、井筒のおかみのおいとさんや、亀の湯のおかみのリカと似たりよったりであった。
これを要するに放庵さんというひとは、ひと癖もふた癖もある人物らしい。
八十三|媼《おう》
金田一耕助と磯川警部が由良家の門をくぐったのは、八時ごろのことであったが、そのじぶんには由良の座敷はお通夜の客でごったがえしていた。
このへんの家の建てかたは三|間《ま》ながれといって、南側に十畳、六畳、六畳、すぐ、その北側に|襖《ふすま》あるいは木戸をへだてて、八畳、六畳、六畳と三間ずつつづいており、三間ながれの家に住むというのが、このへんのひとたちの理想である。
したがって、ふだん家人の起居する北側の部屋は、昼もまっくらなのがふつうであるが、そのかわりなにかことがあったさい、襖や木戸をとりはらうと、四十畳以上の大広間としてつかえるという利点がある。
由良家にはこの三間ながれのほかに、北側の八畳からわたり廊下でつづいた離れがあり、そこに隠居の|五《い》|百《お》|子《こ》が住んでいるのである。
こんやの由良家は南側の三間だけぶちぬいて、十畳の床の間のまえにお壇がしつらえてあり、そのそばに泰子の遺骸が北枕によこたえられている。そして、その下座に三々五々お通夜の客がたむろしていて、本人たちはしめやかに話しているつもりなのだろうが、このへんの人間特有の調子の高い話しかただから、いきおい、|喧《けん》|々《けん》|囂《ごう》|々《ごう》という感じになる。
お通夜の客のあいだには、要所要所にいなりずしをもった大皿と、きゅうりもみをきざみこんだ大鉢がくばられていて、客たちはかってに飲み食いできるようになっており、さすがに旧家だけあって、器具調度の類はそろっている。
由良家も斜陽族のひとりだけれど、都会の斜陽族とちがって、戦後の食料難や住宅難を経験せずにすんだだけに、器具調度まで売りはらう憂き目はみずにすんだのである。お|銚子《ちょうし》や杯、あちこちに|間《ま》|配《くば》られた会席膳やたばこ盆などにも、よいものがそろっている。
娯楽のすくないいなかでは、他人の不幸もよいなぐさめになる。あつまって、飲んだり食うたりすることのすきな村のひとたちのなかに住んでいると、祝儀も不祝儀もひと散財である。
金田一耕助と磯川警部が顔をだした八時ごろには、ちょうどお経もおわって、これからそろそろ酒になろうとしているところだったが、さすがにふたりの姿を見たしゅんかん、一同はぎょっとしたようにだまりこんで、たがいに顔をみあわせていた。
磯川警部と金田一耕助のふたりは、敏郎の嫁の栄子に案内されて、玄関から縁側づたいにかみの十畳へとおされると、まずお壇にむかって線香をそなえ、それからふたりで連名でつつんできた香典を、磯川警部がさしだすと敦子が恐縮したように礼をのべた。
泰子の|枕《ちん》|頭《とう》にひかえているのは、三人の真言宗のお坊さんのほかに、敦子と敏郎夫婦、それから敏郎の妹らしい夫婦とその子がふたり、そのほかにしなびて、しぼんだような|老《ろう》|媼《おう》がひとり、|数《じゅ》|珠《ず》をつまぐりながらひかえているのが、金田一耕助の眼をひいた。これがいま由良家を支配しているという八十三媼、敦子の|姑《しゅうとめ》の五百子であろう。雪のようにまっしろな切り髪を小さくむすんで、顔にしわこそ多かったけれど、それでも浅黒い肌のきれいな老婆である。むろん男は紋付き、女はいずれも喪服であった。
「金田一先生と磯川警部さんには、別室でお膳をさしあげるつもりでございますけんど、いまお支度をしておりますけん、少々待ってつかあさい」
と、敦子が切り口上でのべた。
こうして喪服のあいだから白襟をのぞかせているところをみると、からだがあるだけに、敦子もあっぱれご大家のご寮人さんである。
「はあ、いや、どうも恐縮で……」
と、磯川警部はきゅうくつそうに、半ズボンのひざをそろえて、しきりにバタバタと扇をつかっている。これでも本多家で風呂をつかって、汗だけは落としてきたのである。
金田一耕助は、かんたんに悔みをのべたのち、それとなく二十二畳の広間のなかを見わたして、顔見しりのひとたちと目礼をかわした。
さすがにけさのことがあったので、嘉平どんはきていなかったが、本多若先生や辰蔵といっしょに酒をくみかわしているのが、嘉平旦那の跡取り息子、えらもんという評判の直平ではあるまいか。嘉平によく似てからだの大きな、三十六というとしにしては、どこかゆったりとした人柄である。
頭をきれいに左わけにして、白絣のうえに、白絣がすけてみえるような黒のひとえ羽織をはおっている。辰蔵がなにかその耳にささやくと、白扇をつかう手をやめて、にっこり笑って金田一耕助のほうへ会釈をしたので、金田一耕助もあわてて会釈をかえした。やっぱり直平なのである。
その直平の弟の勝平は、歌名雄や五郎やんなどといっしょに、いちばん|下《しも》|座《ざ》にひかえているが、この連中はしじゅう出たり入ったり、その座に落ち着いていることもすくないのは、いろいろ雑用があるせいだろう。
ただ歌名雄だけはいちどもその席をうごかなかった。いつ着かえてきたのか作業服を脱いで、小ざっぱりとした開襟シャツに折り目のきちんとついたギャバジンのズボンをはいているが、なるほど五尺七寸の均斉のとれたその体躯といい、眼鼻立ちのかっきりとして、彫りのふかいその顔立ちといい、一座のなかでは群をぬいた男振りだが、どことなく放心したようにみえるのは、泰子をうしなった傷心の思いがふかいのであろう。
「警部さんも先生もようお見えんさりました」
とつぜん声をかけられて、磯川警部と金田一耕助がふりかえると、歌名雄の母のリカがお銚子を両手にかかえてにっこり笑っている。
「ああ、おかみさん、ご苦労さんじゃな」
「いえ、もう、いっこう行きとどきませんのですけれど……先生や警部さんにはいま奥さんが、あっちゃでお支度をしておいでんさりますけんど、ちょっとお口よごしに……敏郎さん、おふたりに杯をあげてつかあさい……」
「ああ、そう、どうも失礼を……」
敏郎が会席膳のうえにふせてあった杯をふたりにわたすと、嫁の栄子がきゅうりの酢もみを小皿にとりわけてくれた。
リカはふたりに|酌《しゃく》をして、銚子を会席膳のうえにおくと、
「それでは敏郎さん、あなたここでしばらくおあいてしてあげてつかあさい。先生も警部さんもごゆるりと……」
十六のとしから寄席へでていたというリカは、こういう席ではさすがにあか抜けしたものをもっている。
「いや、どうも……」
と、磯川警部は杯をそこへおいて、
「ご隠居さん、しばらく。あんたいつまでもお元気でけっこうですな」
と、とつぜん五百子に声をかけると、さすがに八十三媼はきょとんとしたように警部の顔を見かえした。
「失礼ですけんど、あんたどなたじゃったぞいな」
「あっはっは、お忘れんさったもむりはごわせん。もう二十三年も昔のはなしじゃけんな。ほら、昭和七年の事件のときにお眼にかかった、磯川というもんじゃがな。当時はまだ警部補じゃったけんどな」
「はれまあ、はれまあ」
と、さすがに八十三歳になっても、いまだに由良家を支配しているというだけあって、五百子の記憶力はたしかである。
「そうそう、そうおいいんさったらあのときの……そういえばあんたちょくちょく、亀の湯へおいでんさるちゅう話は聞いとおりました。これはまあ、これはまあ、おなつかしい、あんたもお元気でなによりですぞいなあ」
「いや、それがなあ、ご隠居さん、じぶんでは元気なつもりでも、あちこち不自由なとこができよりましてなあ。もうすっかりガタピシですわい」
「ほっほっほ」
と、五百子は|巾着《きんちゃく》のような口をすぼめて笑うと、
「そないな情けないこと、おいいんさったらいけませんぞな。わたしらからくらべたら、あんたなんかまだまだですわ。ことしいくつにおなりんさった?」
「いや、ご隠居さん、おたがいに年のことはいわんことにしましょ。そら百までいきるつもりじゃったらまだまだですけんな」
「ほんまになあ。わたしらそのつもりですぞな」
と、五百子隠居は大いに元気なところをみせて、
「そらそうと、磯川はん、そこにおいでんさるお若いかたは、どなたぞいな」
お若いかたときいて金田一耕助は、思わず微苦笑せずにはいられなかった。なるほど八十三媼の五百子の眼からみれば、金田一耕助のごときはまだまだ若輩の部類にぞくするのであろう。
「ああ、このかたかな、このかたはなあ、ご隠居さん、金田一耕助先生ちゅうて有名な私立探偵ですんじゃ。ご隠居さんは新聞でお読みんさらなんだかな、このおなじ岡山県の獄門島や八つ墓村で、終戦後もちあがった連続殺人事件、それをみごとに解決なさった名探偵でおいでんさる。金田一先生、こちらが五百子ご隠居さんじゃ」
「はあ、いや、どうも……」
金田一耕助は満座の注視を一身にあびて、てれくさそうに赤面しながら、ペコリと五百子のまえに頭をさげた。
五百子は耳もたしかなようだが、それでも老人あいての話だから、おのずと磯川警部の声もたかくなる。一座のひとたちにはつつぬけだった。
「はれまあ、はれまあ」
あきれたように五百子はまじまじと、金田一耕助の顔を見まもりながら、
「その話なら敦子に聞かせてもろうたことがございますけんど、きょうとい(こわい)事件じゃったそうなが、そんならそのときこのかたが……」
「そうそう、この先生が解決おしんさったんじゃ。こうみえても、ひとめでぴたり、犯人をいいあてんさるちゅう、それこそ日本一の名探偵でおいでんさる。それじゃけんなあ、ご隠居さん」
と、磯川警部がさりげなく、一座のあいだを見わたしているのは、おのれの言葉のおよぼす心理的効果をたしかめているのであろう、わざと声をたかくして、
「いまにお孫さんをころした犯人も、この先生がとっつかまえてつかあさる。ご隠居さんも大舟にのったつもりでおいでんさい」
金田一耕助はてれくさそうに、五本の指で頭のうえのすずめの巣をかきまわしながら、それでも気になるように一座を見わたしている。かれが気にしているのは磯川警部の言葉がおよぼす心理的効果ではない。座敷のあちこちに間配られた大皿である。いや、その大皿にもられたおびただしいいなりずしなのである。
十日の晩おりんさんの名まえをかたって、怪しい老婆がやってきて以来、放庵さんはゆくえ不明になっている。そして、あとに残していったのは十個のいなりずしである。そのいなりずしの出所がわからないところから、怪老婆がみやげとして持参したのではないかと推測されているのだが、さっき敏郎にきいたところでは、十日は先代卯太郎旦那の命日だったそうである。命日だったとすれば当然法事が行なわれたにちがいない。しかもこんやのこのお通夜に、おびただしいいなりずしがでているところをみると、十日の法事の席にもいなりずしがでたのではないか。
「あの、ちょっと奥さん」
と、金田一耕助は嫁の栄子をつかまえて、
「つかぬことをお尋ねいたしますが、このいなりずしはお宅でお作りになったんですか」
「はあ、あの、そうですけんど……」
嫁の栄子はけげんそうな顔色である。
「いや、まったく失礼な質問ですけれど、このたくさんの油揚げはどこかへご注文なすったんで?」
「いえ、あの……」
と、栄子はいよいよあきれたように、
「それもうちで作りましたの。そこにおいでんさるおばあさんが、そういうことおじょうずですけん」
磯川警部も金田一耕助の質問の意味に気がついて、はっとしたように大皿のうえに眼をやった。
「いや、じつはねえ、奥さんこんなことをお尋ね申し上げて、さぞ妙なやつだとお思いになるでしょうが……」
と、放庵さんの草庵に残っていた、十個のいなりずしに関する疑問についてうちあけると、
「あれまあ、どないしましょ」
と、栄子はけたたましいさけび声をたてて、
「そのおきつねさんなら、あの日お庄屋さんがこのうちから、じぶんで持っておかえりんさったんやわ」
「お庄屋さんがこのうちから……?」
と、磯川警部も緊張した眼を栄子のおもてにきっとすえる。
「はあ、そうですん。十日はお亡くなりんさったお父さんの命日ですん。それで法事のお客さんのために、おきつねさんをぎょうさんこしらえたんですけんど、お庄屋さんも法事にきてつかあさって、こんや神戸から泊まりがけのお客さんがあるおいいんさって、にこにこしておいでんさりましたもんですけに、おばあさんのおいいつけで、お母さんとわたしとで、おきつねさんを竹の皮づつみにしてさしあげたんですの。お庄屋さんはそれを持っておかえりんさったんですけんど……」
「失礼ですが奥さん、おきつねさん、いくつさしあげたんですか」
「おばあさんがひとりに六つずつくらいとおいいんさったもんですけん、お母さんが六つ、わたしが六つとふたつつみにしてさしあげたんですの。ねえ、おばあさん、そうでしたわなあ」
「ええ、ええ、嫁のいうとおりでございますけんど、そのおきつねさんがなにか……」
「いや、いいです、いいです」
と、金田一耕助はうれしそうに、五本の指でもじゃもじゃ頭をかきまわしているが、磯川警部の瞳には猜疑のいろがふかかった。
放庵さんの草庵に残っていたいなりずしは十個であった。したがって二個のいなりずしは放庵さんや怪老婆の胃の腑へおさまった勘定である。しかも草庵に残っていた嘔吐物のなかから検出されたロベリンなる毒物は、このへんいったいに群生している、沢ぎきょう、俗名お庄屋ごろしという草花の全草中に含有されているという。しかも放庵さんはこの村のだれからか秘密裡に生活費を提供されていたのではないか、これをもっとはっきりいえば、だれかを|恐喝《きょうかつ》していたのではないかという疑惑をもたれているのである。被恐喝者が恐喝者にたいして、殺意をもつにいたるということは、ごく自然のなりゆきである。
「奥さん、そのいなりずしは、あんたとお母さんのおふたりで、竹の皮づつみにしておあげんさったんじゃな」
「はい、おばあさんがひとつずつ|箸《はし》でつまんで、お母さんとわたしに渡してつかあさったもんですけに」
「ご隠居さん」
と、磯川警部はこのちんまりとした八十三媼にたいして、かくしきれない好奇心を瞳にのぞかせながら、
「あんた、お庄屋さんとは仲良しでおいでんさったそうじゃな」
「それはなあ、磯川さん、こうして年をとると、だんだん昔をしっとおりんさるひとが、すけのうなりますじゃろう。そこへいくとお庄屋さんとわたしとでは、わりに年もちかいもんじゃけに、はなしも合うというわけですわなあ。あのひとも世をすねておいでんさったけんど、わたしとはわりかたうまが合うたかして、ようここへ話しにきてつかあさってなあ。それはそうと磯川さん、お庄屋さんはいったいどうおしんさったんぞな」
「さあ、それがさっぱりわからんので……」
磯川警部はまじまじと五百子の顔を見まもりながら、放庵さんは生きているのか死んでいるのかと、いまさらのようにこのことが、いかに重大な意義をもっているかを認識せずにはいられなかった。
「ご隠居さん、ちょっとお尋ねいたしますが……」
と、そのときそばから口をはさんだのは金田一耕助である。
「このへんにお庄屋ごろしという草花がございますね」
「はあ」
と、金田一耕助のほうをふりかえった五百子の瞳は、なぜかきらりと光っていた。
「お庄屋ごろしとはまた妙な名まえですが、あれにはなにかいわれでもあるんですか」
「ああ、それですぞなあ」
と、五百子はなにを思ったのか小さなひざをのりだして、
「そういうお話がでけるもんですけん、お庄屋さんとわたしとは、うまが合うておりましたんぞな。なんでもなあ、金田一先生、お庄屋さんのご先祖に、たいそうおしゃべりのかたがおいでんさって、そのためにお殿さんからきらわれて、一服もられてお死にんさったかたがおいでんさるんやそうですん。そのときお殿さんのお使いんさった毒ちゅうのがあの草からとったもんやそうで、それ以来お庄屋ごろしという名前がついたんじゃと、いつかお庄屋さんが話しておいでんさりましたん。ところがなあ、金田一先生」
と、五百子はいよいよひざをすすめて、
「わたしらの子どものじぶんには、このへんにこないな手毬唄がございましたんぞな」
と、五百子はきっと射すくめるように、金田一耕助の瞳をみつめながら、細いふるえるような声で歌いはじめた。
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うウちのうウらのせんざいにイ
すずめが三匹とオまってエ
一羽のすずめのいうことにゃア
おらが在所の庄屋の甚兵衛
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「おばあちゃん、おばあちゃん」
そのとき五百子隠居のひい孫のひとりがかけこんできて、いきなり曾祖母の肩にとっつかまった。
「おばあちゃん、ちょっと、ちょっと、きたよ、きたよ、大空ゆかりが……」
「あれまあ、ゆかりちゃんがおいでんさったと……」
せっかく祖母の手毬唄を聞いていた嫁の栄子も敏郎の妹も、いっせいに腰をうかせたので、五百子の唄は中絶のやむなきにいたったが、あとから思えばそれこそ千載の恨事であった。このとき金田一耕助が五百子隠居の手毬唄を、おわりまですっかり聞いていたら……
それはさておき、満場のざわめきのうちに、玄関から縁側へすがたをあらわしたのは、ゆかりの千恵子と文子と里子。三人の同窓生が千恵子の母の春江とともに、泰子のお通夜にやってきたのである。
|父《てて》なし児
「あら、まあ、里子!」
じっさい金田一耕助も新聞雑誌の写真版や、テレビや映画でしっている大空ゆかりとともに、文子と里子が縁側へすがたをあらわしたとき、なんとも名状することのできないスリルを心中にあじわったが、青池リカにとっては、そのスリルはいっそう悲壮なものだったにちがいない。金田一耕助のすぐ背後に立っていたリカは、お銚子を両手にかかえたまま凝然として立ちすくんでいた。
あとから考えてみるとこの三人は、それぞれちがった意味で問題の女性だったにちがいない。ゆかりの千恵子はいうまでもないとして、泰子が殺害されたいまとなっては、文子が俄然ひとびとの、疑惑と興味の中心としてうかびあがってきているのも当然である。彼女じしんは、はたして歌名雄にどのていどに思いをよせているのかしらないが、歌名雄は村のロメオである。文子もまんざらきらいでないらしいことは、村のひとびとにもわかっている。してみるとこんやの仏の泰子は、文子にとって恋敵だったはずである。
里子は里子でまたべつの意味で、村のひとびとにとって問題の女性なのだ。彼女は二十三年まえの事件の被害者の娘である。いや二十三年まえの事件の被害者の娘であるのみならず、彼女じしんがその事件の被害者であると信じられている娘なのである。あたら里子の|美《び》|貌《ぼう》を|毀《き》|損《そん》するあの|赤《あか》|痣《あざ》は、彼女をみごもっていた母が、むざんにやけただれた良人の顔をみたときの、強いショックによるものだと、村のひとびとに信じられている。しかも、ふだんはその赤痣を恥として、ぜったいにひとに顔を見せない里子が、こんやはそれをさらしものにして、|恬《てん》|然《ぜん》として恥ずるけしきもない。
「あら、まあ、里子!」
と、母のリカが悲痛な声をふりしぼったのもむりはない。
それはさておき満場の注視をあびて縁側から、かみの十畳へ案内された四人のうち、まず別所春江が、お壇にむかって線香をそなえ、それから敏郎と栄子にむかって、ひくい声でお悔みの言葉をのべた。
昭和七年当時かぞえ年で十七歳であったという春江は、ことし四十歳になるはずである。しかし、どうみても三十五歳よりうえとは思えないのは、もって生まれた麗質にもよるだろうけれども、もうひとつは彼女が目下住んでいる世界の、わかやいだ雰囲気が彼女に年をとらせないのかもしれない。
どちらかというと春江は小柄のほうである。しかしふっくらとした肉付きが、ほどよく全身をくるんでいて、さして小柄とは思えない印象をひとにあたえる。ほおにもあごにも、にくにくしくならないていどのほどのよさに肉がついて、眼はさえざえと冴えており、美人というより愛嬌のある顔立ちである。
この愛嬌を娘の千恵子はすっかりそのままうけついでいる。美人ということが、ととのった目鼻立ちを意味するのならば、こんやの仏の泰子のほうがうえかもしれない。しかし、ぱっとひとめをひく愛嬌の点では泰子も文子も千恵子の足もとにおよばないであろう。
小柄の母の腹から生まれたにもかかわらず、千恵子は五尺四寸はあろうという大柄である。肉付きもそれにふさわしく均斉がとれており、ステージで着なれているせいもあって、黒のイヴニングも板についている。グラマー・ガールとさわがれるだけあって、立居振舞い、ちょっとした眼のつかいかたにも、どこか大胆であけすけなところをもっているが、根は母に似て庶民的な娘であることを、金田一耕助はひとめで見抜いた。
「千恵子さん、ほんまにようきてつかあさったなあ」
母のあとから焼香をおわって大空ゆかりが、敏郎たちのまえにきて挨拶をすると、嫁の栄子はなんのゆえとはしらず感動に声をうるませ、
「さあ、さあ、こっちへきてつかあさりませ。春江さんもどうぞ、どうぞ」
と、上方人特有の|大形《おおぎょう》さでそこらじゅうをかたづけはじめる。金田一耕助と磯川警部は、いきおい、うしろへにじりさがらざるをえなかった。
「いえ、あの、若奥さま、わたし、しもてでおつとめさせてもらいます」
春江もさすがに喪服の用意まではしてこなかったとみえ、黒のちぢみに地味な帯をしめているが、それが気になるふうである。
「まあ、まあ、そないにおっしゃらんと、千恵子さんといっしょに、ここにいてあげてつかあさい。そのほうが仏さんも、どないにおよろこびかもしれませんけんな」
と、あいかわらずぎょうさんなもののいいようで、栄子は座をつくるのによねんがなかったが、縁側の敷居ぎわで中腰になっている文子と里子に気がつくと、
「あれ、まあ、文子さんも里子さんも、はようこっちゃへきて、焼香してあげてつかあさい。そして、千恵子さんと三人でここにいてあげてつかあさりませ。みんな泰子さんと仲良しじゃったということですけんな」
文子と里子は顔見合わせて、たがいにさきをゆずりあっていたが、文子がやっと納得してお壇のまえへきてすわった。お壇のうえには引き伸ばしが間にあわなかったのであろう、泰子の小さな写真がかざってあるが、それに眼をとめたとき、文子の肩がこまかくふるえたのを、金田一耕助は見のがさなかった。
「文子、おまえはこっちゃへきてすわらんか」
焼香をおわった文子が敏郎たちにむかって頭をさげると、下座のほうから兄の直平が言葉をかけた。いたわりをこめた温かさである。
「あれ、まあ、直平さん、そないにおっしゃらんと、ここへおいてあげてつかあさい。せっかく三人そろうておいでんさったのんに……」
「ああ、そうかな。そんなら文子、おまえそこへおいてもらえ。それにしても、おまえようきてあげたなあ」
「ええ、あの、里ちゃんがいっしょにいこういうて、誘いにきてつかあさったもんじゃけに……」
文子としてはひとめにつかぬ下座のほうへいきたかったにちがいない。身をすくめるようにして千恵子のそばへきてすわると、消えいりそうな声でつぶやいた。
「そいで、文子、千恵子ちゃんや姉さんもいっしょに誘うてきたんか」
と、いちばんしもての六畳から、中腰になって声をかけたのは勝平である。
「いえ、あの、勝平さん、わたしら門のところで|出《で》|会《お》うたんですのん。三人そろうてほんまにようございました」
と、文子にかわって答えたのは春江である。
文子のあとから焼香をおわった里子も、敏郎たちに黙礼すると、文子のとなりへきてすわった。文子がうなだれがちなのに反して、里子がむざんな赤痣をさらしものにして、きっと正面きっているのが満場の眼をそばだたせた。
こうしてかみの十畳には、お壇を中心として不規則ながらむかいあった二列ができた。縁側よりのいちばんかみてに三人の僧侶、それから春江に千恵子に文子に里子、それとむかいあって敏郎に五百子隠居、嫁の栄子に敏郎の妹夫婦、金田一耕助と磯川警部はすこしさがって襖ぎわにひかえていた。青池リカはどこへいったのか姿がみえない。おそらく娘の赤痣をみるにしのびなかったのであろう。
「どうじゃい、千恵子、おまえそこで唄でもうたわんかい」
辰蔵はもうそうとう酩酊しているようである。姪にして妹なる大空ゆかりにむかって、からむような調子である。それにたいしてゆかりの千恵子は、
「うっふっふ」
と、笑ったきりでとりあわない。
「なにがうっふっふじゃい。あんまり気取るない。わざわざ総社までむかえにいてつかあさった泰っちゃんのお通夜じゃがな。冥福をいのってなんぞ歌うてあげんかい」
「そないにいうたかて、こんやはあきませんわ」
「なんであかんのじゃ」
「そうじゃかって、あんまりびっくりしてしもて、声出えしませんもの」
「なんじゃっと」
と、辰蔵はわざとおおげさにけしきばんだが、すぐ|濁《だ》み声を爆発させて笑うと、
「みんなお聞きんさったか、春江のお仕込みがええもんじゃけに、なにかにつけて逃げ口上がじょうずですんじゃ。わしゃもうかなわんよ」
そのおどけた調子に一座はどっと沸いたが、それがしずまるのを待って、
「ゆかりちゃん」
と、下座のほうから声をかけたのは歌名雄である。その異様な声の調子に一同がはっとそのほうをふりかえると、歌名雄は沈痛の色をおもてにみなぎらせて、
「いま、辰蔵のおじさんがいいんさったことなあ」
「はあ」
と、こんどは千恵子も真剣である。
「あれ、まじめに聞いてあげてくださらんか。泰っちゃんもあんたのファンのひとりじゃったんじゃけに」
千恵子がなんと返事をするかと一同がそのほうをふりかえると、
「たいへん失礼いたしました」
と、にっこりと|双頬《そうきょう》にえくぼをきざんで、
「それではあとで歌わせていただきますわ。でももうすこしやすませて……すこしいそいできたもんですけん、まだ落ち着かなくって……」
「いえ、そらもうおかえりまでで結構ですけん」
金田一耕助はこのときゆかりという娘を、りこうな女だと思わずにはいられなかった。
映画にでるゆかりは標準語のなかになまりのまじらぬようにと、げんじゅうな訓練をうけてきたにちがいない。しかし、あまりあざやかな標準語をあやつることが、村のひとたちの反感をまねくであろうということを彼女はよくわきまえているのである。だから歌名雄にむかってつかっている標準語のなかにも、ちょっぴり方言をまじえることを忘れない。
「そら、ええなあ、そら、ええなあ。泰っちゃん、さぞ冥途でよろこぶぜ」
「よろこぶのは冥途の泰っちゃんより、五郎やん、おまえのほうじゃろう」
さっきから歌名雄のふきげんに気がねをしていたらしい勝平も、ちょっとうきうきした調子になる。
「そうじゃけんどなあ、おばあさん」
と、ゆかりは五百子に気をかねるように、小首をかしげて呼びかける。前髪を切ってそろえてひたいにたらし、髪はむすばずに肩のうえへひろげている。その黒髪をバックにして、京マチ子に似た顔がさえざえしている。
「わたし、ほんまにここで歌うてもええんでしょうか」
「ええ、ええ、歌うてやってつかあさいよ。お通夜ちゅうたかって、めそめそしてるばっかりが能じゃありませんけんなあ、どんどん歌うてやってつかあさいよ」
五百子隠居は気がわかい。
「はい、ありがとうございます」
「それにしても、千恵子さんや」
「はあ」
「あんた、ほんまにきれいやな」
「あら、おばあさんたらあんなこと……」
「いや、いや、ほんまのことじゃぞな。わしらのわかいじぶんには、器量のええもんは声がようない、声のええもんは器量よしはおらんいうたもんじゃが、あんたは両方かねそなえておいでんさる。ほんまにええ果報にお生まれんさったな」
「ああら、おばあさん。うち、もうよういわんわ」
およそものに動じないはずの大空ゆかりも、この思いがけない老婆の襲撃に、思わず満面に朱をはしらせたので、一座はどっと沸きに沸いたが、ちょうどそこへ青池リカが入ってきて、磯川警部に耳打ちした。
「ああ、そう、金田一先生。あっちにお支度ができたそうですけん」
ひとめにつかぬように金田一耕助と磯川警部が、そっと襖のうしろへ消えると、そこは八畳になっている。その八畳にも北側にかなりひろい縁側がついているが、その縁側からわたり廊下が北へはしって、そこに五百子隠居のすむ離れがある。離れは三間になっていて、八畳に六畳に四畳半。
青池リカはその八畳へふたりを案内すると、
「それでは奥さん、ご用がおありんさったら手を鳴らしてつかあさいよ」
「はあ、ほんまにご苦労さんでした。さあ、さあ、警部さんも金田一先生も、こっちゃへどうぞ」
床の間のまえに本膳がふたつならんで、|夏《なつ》|座《ざ》|蒲《ぶ》|団《とん》が客待ちがおにしかれている。
「いや、どうも、奥さん、恐縮ですな」
「いえ、もう、ほんまに、なにもございませんのよ。お招きしてかえってありがためいわくでしょうに。さ、さ、おひとつどうぞ」
金田一耕助と磯川警部が席につくと、さっそく敦子が銚子をとりあげる。
縁側の障子もさかいの襖をあけっぴろげてあるのは、涼を入れるためというよりも、立ち聞きされるのを恐れるためらしい。八畳と六畳と四畳半の三間ぶちぬきになっていて、どの部屋にも電気があかあかとついているのは、ひとの忍ぶのをふせぐためだろうか。
青簾のそとに風鈴がチロチロ鳴って、蚊やりの煙がしずかに立ちのぼっている。
「いや、やっぱりご大家ですなあ。あっちゃの座敷でも感心したんですが、この本膳なんぞも立派なもんですなあ」
と、警部はさっそくあゆの塩焼きに箸をつける。正直の話、磯川警部も金田一耕助も、きょうはまだ一食きりなので、空腹をきわめているのである。
「いえ、もう、お恥ずかしいような品ばっかりで……ああ、そうそう、きょうは亀の湯さんのほうでもあゆじゃったそうで……」
「あっはっは、こないにうまいあゆなら三度三度でもけっこう」
「あら、まあ、警部さんのおじょうずなこと……さ、さ、金田一先生もどうぞ」
「はあ、いや、どうも」
「ときに、奥さん、わたしらに話したいことがあるちゅうことづけじゃったが、どがいなことです?」
「はあ、それがなあ」
と、敦子は磯川警部に酌をしながら、
「ほんまにいいにくいお話ですけんど」
と、わざとためらってみせるのは、いちおう女のたしなみを示すのであろう。
「そら、まあ、奥さん、こがいな事件の場合には、いいにくいことがぎょうさんある。そうじゃけんど、それをいうてもらわんことにゃ、こっちも仕事ができにくい。仕事ができんことには、泰っちゃんを殺した犯人も、いつまでたってもつかまらんわけじゃ。それで話ちゅうのは……?」
「はあ、わたしもそう思うたもんですけん……」
と、敦子はあたりをはばかるように見まわしながら、声をひそめて、
「警部さんも金田一先生も、けさわたしが腰かけの滝で、嘉平さんにいうた言葉をお聞きんさったでしょうなあ」
「ああ、そら、聞いたが……」
「おふたりともさぞこのわたしを、はしたない女じゃっと、おさげすみでございましょうけんど、あれには深いわけがございますんよ」
「はあ、そのわけというのを聞かせてつかあさい」
「はあ、それはこうですん」
と、敦子は磯川警部と、金田一耕助にかわるがわる酌をしながら、
「じつは、うちの泰子と亀の湯の歌名雄さんと、九分九厘まで縁談がまとまっておりましたん」
「ああ、その話なら聞いた。そこへ仁礼のほうから横槍がでて、文子をもろてもらいたいというてきたとか……?」
「はあ、はあ、それで……?」
「それで、亀の湯のおかみが迷いはじめたという話じゃが……」
「警部さん、それではあのおかみさん、なんでお迷いんさったんでしょうなあ」
意味ありげなその言葉に金田一耕助と磯川警部が、はっと顔を見直すと、敦子の唇のはしには世にも邪悪な微笑がきざまれている。
「奥さん、それどういう意味ですぞな」
「はあ、それは」
と、いいかけたが、敦子はきゅうに気がついたように、
「あれ、お銚子がおつもりになってしもうて……ちょっとお待ちんさって、いま熱いのんもってまいりますけん」
敦子がきゅうに話をきって立ったのは、やはり気持ちを整理するためと、もうひとつには、あたりのようすをたしかめる必要があったのだろう。
さっきから六畳をへだてた四畳半の襖のかげで、しきりにシュンシュン湯のたぎる音がしていたが、どうやらそこで|燗《かん》ができるしくみになっているらしく、敦子はまもなく二合はたっぷり入りそうな、大きなお銚子をもってかえってくると、
「さあ、さあ、どんどんおあがりんさって、お酒でものみながら話を聞いてつかあさい」
「ああ、酒も酒じゃがさっきの話は……?」
「はあ、あのなあ、もし、金田一先生……?」
「はあ」
「秤屋さんとうちとじゃ、いまじゃ雲泥のちがいですん」
「雲泥のちがいといいますと……?」
「いいええ、|身上《しんしょう》のことですけんどなあ。こないなこと、いいとうはございませんけんど、うちはもうじり貧ですんよ。そこいいくと秤屋さんとこはますます日の出のいきおいですわなあ。そないなええところから、あんなきれいな娘もろてほしいと、頭をさげてこられたのんに、亀の湯のおかみさんはなんで迷うておいでんさるんでしょうなあ」
「そら、奥さん、やっぱりこっちゃへ義理をたてて……」
「警部さん、そないなこと、いまどきはやらしませんぞな」
敦子は唇をねじまげて、せせら笑うような調子である。
「それも、結納でもとりかわしたあとというならともかくも、ほんの口先の約束ですけんなあ」
「それじゃ、奥さん、亀の湯のおかみが迷うとるには、なにか、ほかにわけがあると……?」
「それですん。そら、文子はんおもらいんさったら経済的にはええじゃろう。持参金もぎょうさんもっておいでんさりますじゃろう。そのかわり、村じゅうの笑いもんになりますじゃろうなあ」
「と、いうのは……?」
「あの娘……文子はんちゅう娘、|父《てて》なし児ですんよ」
「父なし児……?」
磯川警部は思わず杯にむせそうになる。煮しめの|椎《しい》|茸《たけ》をかじっていた金田一耕助も、椎茸をはんぶん口にくわえたまま|唖《あ》|然《ぜん》として敦子の顔を見直した。
「そうですん。村のひとに聞いておみんさい。だれでもしってることですの。ただ秤屋さんのいきおいに恐れて、おもてだってはいいませんけど。みんな陰ではいうとりますんよ」
「すると、文子というのは嘉平さんの娘じゃない、とおっしゃるんですか」
「そうですん。金田一先生、文子はんちゅうのんは……」
と、話しかけて敦子が思わずとちゅうで言葉をきったのは、大空ゆかりの歌声がゆるやかに流れてきたからである。
[#ここから2字下げ]
いろづく枯葉は野末にまいちる
過ぎにし夏の日なごりとどめぬ
[#ここで字下げ終わり]
シャンソンの「枯葉」のようである。
暴露の第一夜
「あれ……?」
と、思わず話をとちゅうできった敦子は、呼吸をのむような格好で、ゆるやかに流れてくるその歌声に、しばらく耳をかたむけていたが、
「あの唄、ひょっとすると千恵子さんとちがいますじゃろか」
と、ものいいたげな眼で、金田一耕助と磯川警部を見くらべている。
「ゆかりじゃろうなあ。あの歌いかたは、しろうとじゃない」
「そんなら、ゆかりちゃんもお見えんさっとるんですかなあ」
「ああ、さっき仁礼の文子と亀の湯の里子と三人そろうて、お悔みにやってきたんじゃ。おふくろの春江もいっしょにな」
「あれ、まあ!」
と、あきれたようにふたりの顔を見くらべたのち、あらためてしいんとその歌声にききいる敦子の瞳に、そのときなぜか、ものにつかれたようなつよいかげろいが燃えあがったのを、金田一耕助は見のがさなかった。
低音のいくらかしゃがれた声に魅力があって、お通夜の席で歌うのには、まずうってつけの唄だろう。
ゆかりはそれを日本語でうたったあとで、またあらためてフランス語でうたったが、それがおわって、しいんと鳴りをしずめていた大広間から、嵐のような拍手とどよめきが聞こえてきたとき、敦子はなぜかとつぜんはげしく肩をふるわせた。
「ほんまになあ、ほんまになあ」
と、喪服の袖口から|襦《じゅ》|袢《ばん》の袖をひっぱりだして、しきりに眼がしらをおさえているところをみると、いまの大空ゆかりの唄が、よほど敦子の感動を呼んだものとみえる。
「わたし、ちっともしりませんでしたんよ、ゆかりちゃんや文子はん、それに里ちゃんまでお見えんさっとるちゅうことを……」
と、敦子は鼻をつまらせている。
「亀の湯のおかみはいわなんだんかな。三人がきてるちゅうことを……」
「はい、しりませんでしたん、わたし……」
「歌名雄君がたのんだんじゃな。ゆかりに唄を一曲たむけてほしいちゅうてな」
それを聞いて敦子がきゅうに、襦袢の袖口をかんだまま、はげしくむせび泣きをはじめたので、金田一耕助と磯川警部は思わず眼と眼を見かわした。
さっきまで涙の跡ひとすじ見せなかった、この女傑の心を、こうもとつぜんゆすぶったのは、いったいなんであろうか。大空ゆかりの唄がそれほどまでに、この八幡さまの感傷をさそうたのか、それとも……
「あないにして、おさな友達のおかたがみんな元気でおいでんさるいうのに、うちの泰子だけが、なんであないなことになってしもうたのかと思うと、わたしゃもう、くやしゅうて、くやしゅうて……」
と、むせび泣きの|嗚《お》|咽《えつ》の底からきれぎれにもらす敦子の言葉を、そのままうのみに信用すべきであろうか。
どちらにしても、あまりとつぜんの激変に、金田一耕助と磯川警部は、いくらかあきれたような顔色で、はげしくふるえる敦子の肩を見まもっていた。もちろん、ひとの母としてはこのほうが自然にはちがいないのだけれど……
敦子はひと泣きしたあとで、やっと涙をぬぐいおさめると、
「たいへん失礼申し上げましたよ。よい年をして未練なやつじゃと、さぞおさげすみでございましょうなあ」
「とんでもない。そりゃ奥さんとしては当然のお嘆きで、泣かんほうが不思議なくらいのもんですわ。ところで、なあ、奥さん」
「はあ」
「こうして、いろいろ気持ちが動揺しておいでんさるところを、こがいなことを切り出すのもどうかと思うが、さっきおっしゃったことなあ、仁礼の娘の文子のこと、……あの話、もう少しくわしゅう、話してつかあさらんかな」
「はあ」
と、さすがに敦子はためらいの色をみせ、
「げんに文子はんがむこうへきておいでんさるいうのに、こないな話お耳に入れるいうのは、むごいことでございますけんど、やっぱりいわんなりませんでしょうなあ」
「そら、やっぱり聞かせてもらいましょ。あんたもせっかくいいかけたことじゃけん。このままじゃ気色がお悪いじゃろ」
「はあ……と、いうて、いったいなにからお話ししてよろしいやら……」
「ああ、そう、じゃ、警部さん、こうなすったらいかがです」
と、そばから口をはさんだのは金田一耕助である。
「警部さんのほうから箇条書的に質問を切り出される。それにたいして奥さんがお答えになるという形式はいかがですか」
「はあ、あの、いま金田一先生のおっしゃったようにしていただけたら……」
「ああ、そう、そんならそないしましょ。金田一先生、あなたも質問のほう手伝うてつかあさい」
「はい、承知しました」
「ええ……と、そんなら奥さん、まずだいいちにお尋ねしますがな、文子が嘉平さんの娘でないちゅうのは、嘉平さんのおかみさんが不義をはたらいた、つまり、ほかに|情夫《おとこ》をこさえた……と、そういう意味に解釈してもよろしいかな」
「いえ、あの、それはそうではございませんのん」
と、敦子はいくらかあわてたように打ち消すと、
「わたしの申し上げましたんは、文子はんいうひとは嘉平さん夫婦のあいだに生まれたお子さんやない、いうことですん」
「すると、いったい、だれの娘……?」
「はあ、それが……父親はもうひとつはっきりしませんのん。しかし、お母さんのほうはわかっとおります。嘉平さんの妹に咲枝さんというひとがおいでんさって……つまり先代仁平さんの末っ子ですわなあ。そのかた、いま鳥取のほうへお嫁にいておいでんさりますけん、文子はんはそのひとのお腹にお生まれんさったんじゃっと、村のひとならみんなようしっておいでんさります」
「なるほど」
と、磯川警部は金田一耕助の顔を見ながら、
「それで、父親というのが、ぜんぜん見当がつかんのかな」
「はあ、それがなあ……どうもけったいなお話でして……」
「けったいな話ちゅうと……?」
「それはこうですん。仁平おじさんには子供が六人おありんさって、いちばんうえが嘉平さんですわなあ。それから咲枝さんいうのはいまもいいましたとおり、いちばん末っ子でございましょう。六人きょうだいのいちばんうえといちばん末ですけん、きょうだいいうても年が二十ちかくもちごておいでんさりましたん。さて、その咲枝さんいうひと総社の女学校をお出んさると、神戸へ預けられて、J学院の専門部へおいでんさったん。つまり神戸に嘉平さんのすぐしたの妹さんがとついでおいでんさったもんじゃけん、そこいさして預けられておいでんさったんですわなあ。ところが、そのうちにだれのタネやら、みごもりんさったちゅうわけですわなあ」
「なるほど、なるほど、それで……」
「はあ、それで……」
と、敦子はためらいがちながらも、しだいにおもてを紅潮させて、
「出来た場所が村とちごて神戸ですじゃろう、それですけん、咲枝さんのあいての男ちゅうのも、ようはわからんのですけんど、いつかお庄屋さんがおいいんさったんは……」
「ふむ、ふむ、お庄屋さんがおいいんさったんは……?」
「あいては恩田じゃないかっと……」
「恩田あ……?」
と、おうむがえしに思わずもらした磯川警部の声は、|雷《らい》のごとく離れの三間にとどろきわたった。警部はわれとわが声におどろいたようにあわててあたりを見まわすと、こんどは不必要に声を落として、
「恩田って、あの詐欺師で、亀の湯の源治郎を殺して逃げた……?」
「はあ、その男ですん」
と、真正面切ってこたえた敦子の眼はもう涙もかわいて、鋼鉄のようにつよい意志がかたく凝結している。
いまの敦子はさっきひた泣きにむせび泣いていたときの、あのしおらしい敦子ではない。文子を傷つけるどんな残酷なことでも、平気で口にできる敦子である。研ぎすましたように、とがりきった彼女の瞳がそれを証明している。
「失礼ですが……」
キーンと張りつめて、しかもおもっくるしい沈黙のひとときがながれたのち、金田一耕助がのどのおくの|痰《たん》をふっきるような音をさせて切りだした。
「放庵さんがそうおっしゃったのは、たんなる憶測なんですか。それともなんらかの根拠があってのことなんですか」
「それはこうですん。お庄屋さんにも神戸に親戚がおいでんさるんです。あるとき、そこい、いこおもて姫路から汽車にのったら、おんなじ箱に恩田と咲枝さんが乗っておいでんさったそうな。そのときは、むろんふたりとも、しらん顔しておいでんさったそうなが、それからのち、もういちど神戸で、こんどは、ふたりならんで歩いてるところを、みかけたことがあるいうておいでんさりました。そうじゃけん、お庄屋さんのおいいんさるには、咲枝さんがこっちゃへ帰省しておいでんさって、神戸へかえる汽車のなかで、恩田といっしょになったかなんかして、それからねんごろになったんじゃないじゃろうか。なにしろ口弁のうまいやつじゃったけん、咲枝さんみたいな娘をたらしこむのは朝飯前じゃったろう、と、そういうてお庄屋さんはわろておいでんさりました」
「その恩田という男は、奥さんもようしっておいでんさるはずじゃな。いちじお宅を宿にしていたことがあったそうなが……」
「はあ……ほんのちょっとの間でしたけんど……ほんまに口弁のうまい男で、みんなころりとだまされてしもうて……」
「そうすると、嘉平さんも文子さんの父が、恩田幾三であることをご存じなんでしょうね」
「はあ、それはたぶん……」
いまにして金田一耕助は思いあたるのである。はじめて亀の湯の浴場で嘉平さんに会ったとき、嘉平さんの口ぶりでは、なんとなく昭和七年の事件をむしかえしてほしそうであったのを……
おそらく嘉平さんにとっても、恩田幾三という男の正体が気になるのであろう。その男のタネをじぶんの娘として育てているだけに、嘉平さんが恩田幾三なる人物の正体素性をしりたがるのもむりはない。
それにしても恩田幾三というのは、いったいいかなる人物か。昭和六年の秋、忽然としてこの村へ現われ幾多の話題をまきちらしたのち、翌年の秋、血なまぐさい犯罪をあとに残して、忽然として消えていったかれは、その身分素性をしるにたる、なんの証拠もあとに残していない。それでいて、別所春江の腹に千恵子というタネを、そしてまたいっぽうに、仁礼咲枝の腹に文子というタネを|播《ま》いていったとは……
金田一耕助はまた思い出す。総社の旅人宿井筒のおかみのおいとさんがいっていたのを。
「わたしはどうにも恩田というひとが、あげえな悪いことをするひととは思えませんのん。それはまあ、年も若かったしするもんじゃけに、いろいろ罪つくりなことは、しておいでんさりましたけんどなあ」
そうすると、おいとさんも、このことをしっているのにちがいない。あるいは恩田と春江がそこであいびきしていたように、咲枝も井筒で恩田と会うたことがあるのではないか。そして、その線からしても、お庄屋さんは恩田と咲枝の関係をしっていたのではないか。これはぜひとももういちど、おいとさんにききただしてみる必要がある……
「そうすると、奥さん」
と、磯川警部はあまり意外な事実のばくろに、|茫《ぼう》|然《ぜん》たる顔色で、
「いま、むこうへきてる大空ゆかりと文子とは、腹ちがいのきょうだいじゃちゅうことになるんですな」
「はあ、そういうことになりますわなあ」
と、切り口上で答えた敦子は、あいかわらず正面を切ったまま、こわばったその表情をみじんもくずさない。
「それで、当人たちや村の連中は、そのことをしってるんじゃろうか」
「それは、たぶん、おしりんさるまい。文子はんが嘉平さんの娘じゃのうて、姪じゃっということは、みんなしっとおりますけんど、まさか恩田のタネとはなあ。嘉平さんもそないなこと、文子はんにいうて聞かす気づかいはございませんわなあ」
「それで、どういうふうに処理したんです。いちおう世間態はとりつくろったんでしょう」
「はあ、それはこうですん。去年お亡くなりんさった嘉平さんの奥さんの秀子さんいうひと、このひと兵庫県の城崎から嫁にきておいでんさったんじゃけんど、そっちゃへお産においでんさったちゅうことにして、そこへ咲枝さんもいっしょにお預けんさったんですん。むろん、学校は中退ですわなあ。それで、ややこが生まれると、秀子さんがじぶんの娘にしてこっちゃへつれておかえりんさる。咲枝ちゃんはそのまんま神戸へお預けんさって、それからまもなく鳥取のほうへ嫁におやりんさったんですん。そうじゃけんど、そないなこと、すぐわかりますわなあ。なんば小刀細工をおしんさったところで……」
こういう残酷なばくろをしながら、敦子は依然としてつめたくこわばった表情をかえないのである。ちょっとお能の面を思わせるような冷酷な非情がそこにある。
「それで、奥さん」
と、磯川警部もぎこちなく|空《から》|咳《せき》をしながら、
「そのことが、こんどの殺人事件となにか関係があるとおいいんさるかな」
「いえ、あの、それは……」
と、敦子もさすがに|双頬《そうきょう》にちょっと朱をはしらせたが、すぐまた冷然たる落ち着きをとりもどすと、
「そうは申しませんのんよ。ただ、縁談のような場合、文子はんにはうちの泰子にくらべて、それだけひけめがおありんさるちゅうことを、嘉平さんがだれより、かれより、いちばんよう知っておいでんさるはずじゃっということを、申し上げたまでのことでございますのん」
「なるほど」
と、金田一耕助はうなずいて、
「それでけさ滝壺のまえで、思わずそれが口にお出になったわけですね」
「はあ、まことにはしたないことじゃったと、あとから思えば冷や汗が出るようでございますけんど、ほかにあの娘にあないなむごいこと、おしんさるようなおかたも、思いあたりませなんだもんじゃけんな、つい口に出してしもうて……」
「いや、それはごもっともで……しかし、それについて、奥さんにおうかがいしたいんですが……」
と、金田一耕助は枡と漏斗のことについて尋ねてみたが、敦子もただ不思議がるだけで、なんの心当たりもないという返事であった。このへんに、なにかそういう伝説や口碑のたぐいはないかという質問にたいしても、じぶんは他国から嫁にきたものであるから、ふるいことはしらない、そういう話ならお庄屋さんか、うちのお母さんに限るという答えであった。
それから話題はしぜん放庵さんにうつっていったが、彼女もまた放庵さんというひとを、なんとなく油断のならぬ、きょうとい(こわい)おひとのように思えてならなんだと強調する点では、亀の湯のリカと意見が一致していた。しかし、さる十日の卯太郎旦那の法事の日に、放庵さんにことづけたいなりずしが問題になっていたことは、敦子も初耳だったらしく眼を丸くしておどろいた。
「あのおきつねさんのなかに、お庄屋ごろしの汁が入っていたなんて、そないなあほなことが……そないなあほなことが……」
と、いきり立ったが、
「そうじゃけんど、もしそれがほんとうなら、あとからだれかがお入れんさったんでしょうなあ。お庄屋ごろしならお庄屋さんの|庵《いおり》のねきに、ぎょうさん生えてますけんなあ」
と、敦子はしいんと考えこんで、
「どっちゃにしても、わたしらには関係のないことですわなあ。はあ、そら、栄子が申し上げたとおり、お母さんがひとつひとつ箸でつまんでつかあさったけん、栄子とわたしで六つずつ、竹の皮づつみにしてさしあげたんですの。お母さんにしろ、わたしにしろ、栄子はまたなおさらのこと、お庄屋さんに毒を盛らんならんような、うしろ暗いことはしておりませんけんなあ。おっほっほ」
しかし、さいごに付け加えた、はじけるような笑い声には、どこか取ってつけたような不自然さがあり、磯川警部と、金田一耕助はかえって眼を見かわさずにはいられなかった。
話題が放庵さんに移行したとき、敦子の心理状態には、あきらかにひとつの微妙な抵抗がみえはじめていた。そこへ、話が放庵さんが生きているのか死んでいるのか、死んでいるとすれば、このうちから持ちかえったいなりずしのなかに、お庄屋ごろしがしこまれていたのではないかという疑問にふれるにおよんで、とつじょとして敦子のヒステリーが爆発したらしいのである。それはなぜであろう。
けらけらと、小山のようなひざをゆすって笑いころげていた敦子が、やっと笑いおさめるのを待って、磯川警部が切り出した。
「それはそうと、奥さん、さっきはありがとうございました」
「はあ、なんのことでっしゃろう」
「いや、あの泰子さんをおびき出した手紙のこと。……お亡くなりになったあなたのご主人の臨終の秘密をおしえるというあの手紙……」
さぐりを入れるような磯川警部の視線にたいして、
「ああ、あれ……」
と、敦子はすでに持ちまえの、しんねり強い態度を立てなおしていて、ねちねちとした切り口上であった。
「泰子がなんでまた、あないな手紙にだまされたんか、……あの|娘《こ》の父の臨終については、なんの秘密もございませんのんよ。そのことなら、本多の大先生にようく聞いてみてつかあさい」
「ああ、いや、奥さん」
と、磯川警部がなにかいおうとするのを、いちはやくそばから金田一耕助がひきとって、
「いや、そのことなら、さっき大先生にうかがってきました。そこには一点の疑惑もなさそうですが、問題はいまも奥さんが、おっしゃったように、泰子さんがなぜあの手紙に誘い出されたか……そこにあると思うんです。奥さんはそれについてどうお考えになりますか」
敦子は例によって鋼鉄のようなかたさとつめたさをもった眼で、まじまじと金田一耕助の視線をはじきかえしながら、
「金田一先生、あの年ごろの娘ちゅうもんは、世の中、……つまり人生をとかく複雑に考えたがるもんじゃございませんでしょうか。おまえの父の臨終にはなんじゃやら秘密があったいわれたら、つい好奇心にかられて、うかうか出かけていくのんとちがいますじゃろうか。もちろん、じぶんの命をねろうている悪者がいようとは、あの娘もゆめにも知らなんだんでしょうからねえ」
鋼鉄のような敦子の瞳に、ふっと淡い影がさしたかと思うと、その影が霧のようにひろがって、ふたたび彼女の眼が濡れてくるのをみて、
「なるほど、そうでしょうねえ」
と、金田一耕助はすなおにうなずいた。
|日《くさ》|下《か》|部《べ》|是《これ》|哉《や》
これはあとからわかったことだけれど、その晩、由良家ではちょっと妙なことがあったそうである。
夜の九時ごろというから、金田一耕助と磯川警部が、離れ座敷で敦子と対座していたじぶんのことであろう。お通夜の手つだいにきていた近所の娘のマサ子というのが、|薪《まき》が足りなくなって裏の木小屋へとりにいった。その木小屋へいくのには、土蔵のそばを通らなければならないのである。
枡屋の土蔵といえば昔はそうとうなもので、金銀財宝がぎっちりつまっているようにいわれたものだが、戦後十年、なかみはだいぶん|変《へん》|貌《ぼう》しているはずである。外見からいっても戦争中から戦後へかけて、十年以上も手をいれないのでかなりいたんで、文字どおりペンペン草が二、三本、土蔵の屋根にそよいでいるのが、おりからの月光ではっきりみえた。
マサ子は台所から押してきた猫車に、薪の束を五つほどのっけると、もとの母屋へかえってこようとしたが、なにげなくむこうにある土蔵の壁をみて、思わずぎくっと立ちすくんだ。
土蔵の壁にくっきりとうつっているのは、大きなものの影である。ほとんど土蔵の壁いっぱいといっていいほど、大きく影がひろがっているので、はじめのうちはマサ子にも、かえって、全体の形がつかみにくかったのだが、そのうちにそれがなんであるかに気がついて、彼女の心臓はいっぺんに凍りついてしまった。弓のように腰のまがった老婆の影らしいと気がついたからである。
マサ子はひざがしらをがくがくふるわせながら、影の本体を見きわめようとしてあたりを見まわした。しかし、老婆のすがたそのものは、土蔵とむかいあって建ってる、|部《ひ》|屋《や》のかげになって見えなかった。|部《ひ》|屋《や》というのは作男などのたむろする、奉公人のための建物である。むろん、いまの枡屋には作男などひとりもいないのだが……
マサ子はきゅうに恐ろしさがこみあげてきた。老婆の姿勢からわかることは、彼女が部屋のかげに立って、母屋のほうをうかがっているらしいことである。
マサ子は猫車をおいたまま、そっとその場からはなれた。ひざがしらががくがくふるえて、いまにもそこへくずおれそうになるのを、やっとこらえて母屋の台所までかえってきた。開けっぴろげた腰高障子の敷居をまたいで、土間へ踏みこむのが彼女として精いっぱいであった。
「けったいなおばあさんが……けったいなおばあさんが……」
と、それだけ叫ぶと、マサ子は板の間のはしっこに腰をおとして、そのままそこへうつぶせになってしまった。
「マアちゃん、あんたどうおしんさったん。薪とってつかあさったんじゃないのん?」
かまどの下を|焚《た》きつけていたお兼さんという近所のおかみさんが、煙を眼にいれて|瞼《まぶた》をしわしわさせながら、あきれたようにマサ子のすがたを見つめていた。
「いややわ、いややわ。けったいなおばあさんがきてるんよ。|部《ひ》|屋《や》のかげからこっちゃをのぞいてるんよ。わたし、いややわ、いややわ、いややわ」
「けったいなおばあさん……?」
ちょうどそこへお銚子をとりにきた青池リカが、ぎょっとしたようにききかえした。
「マアちゃん、それ、なんのこと……?」
「ああ亀の湯のおばさん、むこうにけったいなおばあさんがきてるんよ。|部《ひ》|屋《や》のかげにかくれとるんよ。土蔵の壁に大きな影がうつってたわ。きっとまただれかを|狙《ねら》いにきたんよ。わたし、いややわ、いややわ」
リカは無言のまま土間へおりると、そこにあっただれかの草履をつっかけた。
「マアちゃん、土蔵のとこやな」
「あら、おばさん、だめよ、だめよ。ひとりじゃだめよ」
だが、マサ子の声をあとにして、青池リカがとび出していったあとへ、またふたり台所へ出てきた。ふたりはマサ子の口から怪老婆の話を聞くと、みんなでいってみようということになり、かまどの下を焚きつけていたお兼さんをまじえて、四人で土蔵のそばまでくると、青池リカが猫車からころげ落ちた薪をつみなおしていた。
「マアちゃん、あんたのみたけったいなばあさんの影いうのん、いったい、どこい、うつってたのん」
「そっちゃよ。そっちゃの壁よ。壁いっぱいに、まるで大入道みたいにうつってたんよ」
マサ子の指さす壁をみて、四人の女は顔見合わせた。そこは月にそむいたかげりになっていて、たとい|部《ひ》|屋《や》のかげにだれかが立っていたとしても、壁いっぱいの影になってうつりようがないのである。
「マアちゃん、あんた怖い怖いで夢でも見たんとちがうのん。それとも、部屋のなかに灯でもついてたんかしらん」
「夢やないんよ、夢やないんよ。わたしほんまに見たんよ。その壁いっぱいに大入道みたいに影がうつってたんを……」
マサ子が地だんだ踏むようにして、ほんとうにけったいな老婆の影を見たと主張しても、もうだれも信用するものはいなかった。それでも念のために一同は土蔵のまわりから部屋のうちそとを調べてみたが、べつにこれはと思われるふしも見当たらなかった。
結局、マサ子が怖い、怖いで怪しい幻覚をみたのであろうということになり、彼女じしんもそういわれればそうかしらんと首をかしげる自信のなさで、したがってこの小さなエピソードは、もうひとつの事件が起こったのちまで、この五人の女にしかしられていなかったのである。
それにしても、金田一耕助と磯川警部にとって、それはなんという眼まぐるしいいちにちだったろうか。由良敦子から思いがけない文子出生の秘密をきいてから半時間ののち、ふたりはふたたび席をかえて、大空ゆかりが戸籍上の両親のために建ててやったという新しい家、すなわち、いわゆるゆかり御殿の応接間で、ゆかりや春江と問題のひと、日下部是哉とむかいあって|坐《すわ》っていた。
時刻はもうとっくに十時を過ぎている。
日下部是哉というのは五十前後、血色のいい、たくましい肉付きをした男で、ロマンス・グレーの頭髪を、ふさふさとオール・バックになでつけている。満州がえりだということで、ちょっと野性味をかんじさせる好男子だが、夜だというのに紫色のサングラスをかけているのがうさんくさい印象をひとにあたえる。派手なアロハに半ズボンをはいているが、アロハの袖からのぞいた腕はたくましく、左の|手《て》|頸《くび》には腕時計のふとい黄金のバンドがまきついている。
「いやあ、どうも、金田一先生、おうわさはまえまえからうかがっておりましたが、とんだところでお眼にかかりましたね」
金田一耕助と磯川警部は由良家のお通夜の席からゆかりと春江についてきたのである。文子と里子に由良家の門のまえで別れたのだが……
「いやあ、どうも」
と、これが金田一耕助のてれたときのくせで、すずめの巣のようなもじゃもじゃ頭を五本の指でかきまわしながら、ペコリとひとつ頭をさげると、
「夜おそく押しかけてまいりまして……」
「いやあ」
と、日下部是哉はマントルピースのうえにある、しゃれた置き時計に眼をはしらせると、
「まだ十時十分、東京なら宵の口ですよ。どうぞごゆっくり。ママさん」
「はあ」
「おふたりにウィスキーでも差し上げたら……」
「いや、もう酒ならたくさん」
と、磯川警部はしんじつ酒にあいたようにフーフーとくるしそうな息を吐きながら、
「こんやはもうすでに二軒でごちそうになってきましたからな。奥さん、それよりおひやをいっぱい……」
「お母ちゃん、ジュースを出してあげたらええわ」
と、ゆかりはイヴニングのまま日下部是哉のそばへきて、いすの腕に腰をおろすと、甘ったれるようにその首に腕をまきつけて、
「先生、あたしこんやのお通夜の席で、唄を歌ってきたのよ」
「なんだ、ゆかりちゃん、お通夜の席で歌ってきたのかい」
「ええ、だって泰子さんの婚約者のひとから注文が出たんですもの。なにか一曲たむけてあげてほしいって……」
「ああ、そう、あのひと婚約者があったの?」
「ええ、ほら、ゆうべ先生がほめてたひと、なかなかいい声してるって……」
「ああ、歌名雄とかいう青年……」
「ええ、あのひと、とっても悲しそうな顔してたわ。歌いながらあのひとの顔見てたら、こっちまで泣けそうになってきちゃった。だってあのひとったら、ポロポロ泣きながら涙をふこうともしないんですもの」
「なにを歌ってあげたの?」
「枯葉」
「ああ、そう、それはよかったね」
そこへ春江が銀盆にジュースのコップをのっけてきたので、ゆかりはいすの腕からとびおりて、金田一耕助と磯川警部にそれぞれすすめる。なかなかまめやかな性質とみてとれた。
春江は、日下部是哉にジュースをすすめると、自分はそのままひきさがろうとするのを、
「ああ、ママさん、あんたここにいらっしゃい。金田一先生や磯川警部さんは、あんたにききたいことがあるんでしょう。警部さん、金田一先生」
「はあ……」
「なんならわたしは座をはずしましょうか」
と、日下部是哉が腰をうかしそうにするのを、
「いや、いや」
と、警部はあわてて両手でおさえるように、
「あなたもここにいてください。あなた昭和七年の事件のことはしっておいでんさるでしょう?」
「はあ、それはもちろん」
と、日下部是哉はうかしかけた腰を落ち着けると、
「そのために、われわれはこうしてここへやってきたんですから」
「と、おっしゃると……?」
磯川警部はさぐるような眼で、日下部是哉のサングラスのおくを見つめている。金田一耕助も興味ふかげなまなざしで、このロマンス・グレーの好男子を見まもっていた。
磯川警部の空想があたっているとすると、この男は亀の湯の源治郎ということになり、リカもどうやらそうではないかと疑惑をもちはじめたらしいとうかがわれるふしもあるのだが……
しかし、日下部是哉はいたって無造作な調子で、
「いや、それがね、あっはっは、ママさん、話してもいいかね」
春江はなぜかほおを染めて、ひざのうえでもじもじとハンケチをよじっていたが、そばからゆかりが、あけすけな調子で言葉をはさんだ。
「いいわよ、先生、話してしまいなさい。お庄屋さんがゆくえ不明になったのは困るが、磯川警部さんがいらっしゃったのがちょうどさいわいだと、いってらしたじゃない?」
「ああ、そう、ゆかりちゃん、ありがと。ママさん、いいねえ」
「はあ、それでは申し上げてください」
と、ひくい声ながらも、春江も覚悟をきめたのかキッパリこたえる。いったん、紅く染まっていたほおが、そのしゅんかん、血の気がひいて蒼くこわばるのを金田一耕助は見のがさなかった。
「ああ、そう、じつはね、警部さん、金田一先生」
「はあ」
「わたしはこのひとと結婚したいんです。ゆかりちゃんも、それをすすめてくれるんですね。しかも、法律上われわれの結婚にはなんの支障もないわけです。戸籍のうえではこのひと、ずうっと独身でとおしたことになってるんですからね。ただひとつ、ママさんの心中に残っているしこりをのぞいては……」
「ママさんの心中に残っているしこりとおっしゃると……?」
と、日下部是哉のサングラスのおくをのぞいている警部の瞳は、底にもえあがる炎を秘めてするどくかがやいている。金田一耕助もなにかしら、のどがひりつくような渇きをおぼえた。
「つまり、その、なんですな」
と、さすがに日下部もちょっといいよどんで、
「ゆかりちゃんのパパのことですな」
「ああ、なるほど、恩田幾三という人物のことですな。しかし、その人物なら春江さんにたいして法的には、なんの要求権もないはずですがな」
「ええ、そう、ですから法的にはわれわれの結婚にはなんの障害もないと、さっきも申し上げたでしょう。ただ、このひとのしこりというのは、ゆかりちゃんのパパさんが生きていて、われわれの面前へあらわれた場合の、このひとのわたしにたいするすまなさ……問題はそこにあるわけです」
「しかし、そんなことは、こんりんざいありえないでしょう。ああして殺人という重罪を犯してるんですからね」
「ええ、そう、常識からいってね。しかし、人間の心理ってものは常識だけでは解決できない場合がありますね。つまり、このひとのしこりというのは、もっと根本的なもので、ゆかりちゃんのパパさんが生きているか、それともすでに死亡しているかというところにあるんです。つまり、そのひとが死んでいるのなら、かまわないからわたしと結婚してもいい。しかし、どこかの空の下で生きているとしたら、いつまでもそのひとを思いつづけて、ひとりで暮らしていきたいと……つまりはなはだ前世代的なんでして、そこにまたわたしが惚れとるというわけで、金田一先生、ひとつご同情ねがいたいですね。はなはだ問題がやっかいなんでしてね。あっはっは」
「ああ、なるほど」
と、金田一耕助がうなずきながら、ちらと横眼でうかがうと、磯川警部のひとみからしだいにかがやきがうすれていくのがみてとれた。警部もどうやらおのれのかんちがいに気がついてきたらしいのである。
「しかし、さっきおっしゃった昭和七年の事件のために、ここへやってきたというのは……?」
「ああ、そのこと……」
と、日下部是哉はゆっくりパイプをくゆらしながら、
「このひとのいうのに、恩田幾三という人物、すなわち、ゆかりちゃんのパパさんですね、そのひとをどうしてもそんな悪い人間とは思えない。詐欺だって結果的には詐欺ということになったけれど、はじめから計画的に詐欺をはたらくようなひととは思えなかった。ましてや、ひとを殺して逐電するとは……いや、なんかのはずみで殺人を犯すはめになったとしても、それならそれで、じぶんに打ち明け、じぶんもいっしょにつれていってくれたはずだというんです。つまり、たとえあいてが殺人犯人でも、じぶんはいっしょについていったであろう。そしてまたゆかりちゃんのパパさんのほうでも、このひとがそれほどふかく惚れてたってことを、しってたはずだというんですね」
「ああ、なるほど、それで……?」
「しかし、その当時はこのひともわかかった。それにすっかり動揺し、|狼《ろう》|狽《ばい》し、|動《どう》|顛《てん》していたものだから、警察のひとたちの質問にたいしても、そう筋道たててお話しする分別や才覚に欠けていたんですね。ところが戦争中から戦後へかけて、このひと、この村へ疎開してかえってきていたんです。そのとき、お庄屋さんなる人物が、このひとに思いがけない事実をかたって聞かせた。すなわち、当時の事件担当係り員のうちのひとり、つまり、警部さん、あなたのことですね、あなたがひとつの疑惑をもっておいでになった。すなわち、殺されたのは亀の湯の源治郎という人物ではなくて、ぎゃくにゆかりちゃんのパパさんじゃなかったかと……この新しい事実は、このひとにとってつらい、悲しいことにはちがいなかったでしょう。しかし、ゆかりちゃんの将来にとっては、ひとつの大きな光明ですね。殺人犯人の娘じゃなかったということになるわけですから。そのことを最近になって、やっとわたしに打ち明けてくれたんです。そこで、そんならそれで、お庄屋さんというひとがまだ生きているうちに、もう少しくわしく話を聞かせてもらおうじゃないか、ということになって、こうしてこの村へかえってきたというわけです」
あわれ、磯川警部の希望はこれでみじんとくだけたらしい。少しも関西なまりのないこの男は、あきらかに亀の湯の源治郎、すなわち活弁青柳史郎ではなさそうだ。
「ところで、奥さん」
あまりの失望に磯川警部が、口をきく元気さえうしなってしまったらしいので、いきおい金田一耕助がきき役にまわらざるをえないはめに立ちいたった。
「ゆかりさんのパパさんは、あなたが妊娠してるってことをご存じでしたか」
「はあ、それはもちろん」
「それで、あなたをどうしようと思ってたんでしょう。ゆかりさんのパパさんは……?」
「どうせ打ち明けたところで、うちの両親、わたしの両親でございますわね、その両親が許してはくれないだろうから、いっそ仕事が一段落ついたら、ふたりで満州へいこう。そして、子供でもうまれたら許しを乞おうと、そういう約束になっておりましたの」
「それですからこのひとは……」
と、そばから日下部是哉が注釈をいれる。
「人を殺して高飛びするなら、じぶんもいっしょにつれていってくれたはずじゃなかったかと、疎開してきてお庄屋さんから、さっきのような話を聞かされたとき、はじめて思いあたったというんですね」
「すると、あなたはお庄屋さんたくの離れで殺されていた人物を、ごらんにならなかったんですか」
「はあ、見ませんでした。当時は源治郎さんだということになっておりましたから」
金田一耕助はそれからなおも、当時のもようを春江から聞いていたが、十二時ごろになってとつぜん勝平君と五郎やんがあわただしく駆けこんできた。
「ゆかりちゃん、こっちゃに文子はきておりませんか」
「いいえ、文子さんなら二時間ほどまえに由良さんの門のまえで別れましたけれど……里ちゃんといっしょじゃったけんど……」
「勝平君、文子さんが見えんのかね」
金田一耕助と磯川警部はそのとたん、なんとなく総毛立ったような顔をして、すっくといすから立ちあがった。
「はあ、里ちゃんの話によると、うちのまえでわかれた。文子さんはたしかにおうちのなかへ入っていったいうんですけんど、文子のやつどこにもおりませんのじゃ。ひょっとするとまたあのおばんが……」
勝平はとがりきった眼の色をして、がたがたと胴ぶるいをみせていた。
またしてもその晩、懐中電灯とたいまつをかざして、鬼首村では村じゅう総出の大捜索が行なわれたが、文子の死体が発見されたのは、その翌日の未明のことである。
第三部 三番目のすずめのいうことにゃ
大判小判を|秤《はかり》にかけて
鬼首村はいまや文字どおり鬼に|憑《つ》かれたようなものである。村じゅうわっと|痙《けい》|攣《れん》し、それから完全にマヒ状態におちいってしまった。
「なんちゅうお盆じゃろう。まあ、なんちゅうお盆じゃろう」
と、としより連中はくちぐちに愚痴をこぼし、
「いったい、あのおばん、どこにかくれとるんじゃろ」
と、わかいものも眼の色を変えた。
文子の死体を発見したのは、のんだくれの辰蔵である。
ゆうべとこんやとふた晩つづけての徹夜の捜索に、いささかグロッキーになった辰蔵は、気つけぐすりにいっぱいと、明け方ごろ、捜索隊からひとりわかれて、ハカリ屋ぶどう酒醸造工場へ、酸っぱいやつをちっくといっぱいやりにきた。
ぶどう酒|樽《だる》の栓をひねって、あのどくどくしい紫赤色の液体を、ゴボゴボと|縁《ふち》|太《ぶと》のコップにうけていると、むこうになにやらキラキラ光るものがある。ちょうど東の空がしらみかけたところで、工場のなかにもさわやかな朝の薄明がながれていたのである。その薄明の床のうえに、なにやら金色にひかるものが、ふたひら三ひらこぼれている。
「なんじゃい、あらあ」
酸っぱいやつをちっくとひとくちやってから、コップをおいて辰蔵は、そっちのほうへいってみた。すると、山とつんだぶどう酒樽のかげ、ほこりまみれの床のうえに、喪服すがたの仁礼文子が、むざんにくびられてよこたわっていたというわけである。
辰蔵のおどろきはとりもなおさず村じゅうのおどろきである。
仁礼文子、死体となって発見さるの報は、電流のように村じゅうをつらぬいて、立花警部補をせんとうに、金田一耕助や磯川警部の一団が、六道の辻をのぼってかけつけたときには、山峡はいっぱいのひとに埋まって、ハカリ屋ぶどう酒醸造工場の内部も、心得のない村のひとたちによって、相当踏みあらされたあとだった。
立花警部補はいまや怒りの|化《け》|身《しん》である。辰蔵をひとり残して、あとの連中を口ぎたなくののしり、怒鳴りつけ、工場のそとへ追いだすと、あらためてぶどう酒樽のかげへ怒りにもえる眼をむけた。怒りにもえる眼をむけて、それから凝然として呼吸をのんだのである。
一瞬、二瞬、だれも口をきくものはない。金田一耕助も磯川警部も刑事も巡査もみな茫然として立ちすくんでいる。
とつぜん立花警部補が睡眠不足と怒りのために、ギラギラと血の筋のはしる眼を辰蔵にむけて、
「辰蔵、おまえがあんないたずらしたんか」
と、かみつきそうな調子である。
「と、とんでもない。わしらがここへきたときにゃ、もう冷とうなっとおりましたんで」
「そ、そうじゃない!」
と、立花警部補はまるで地だんだをふむような調子で、
「わしの聞いとるのんはそれじゃない。帯のあいだへあないなへんてこなもんばさしたんは、おまえかときいとるんじゃ」
「と、とんでもない! わしらがこの死体めつけたときにゃ、もうちゃんとあげえになっとおりましたんじゃ」
立花警部補はまた怒りに狂った眼の色で、まじまじと床によこたわる死体をみていたが、こんどは金田一耕助のほうへ憤然たる顔をふりむけた。
「金田一先生、こら、いったい、なんのまねですんじゃ。犯人はなんでまた、こないないたずらをしよりますんじゃ」
と、きめつけるようなその調子は、まるでそれが金田一耕助の責任ででもあるかのような口ぶりである。
「さあ、なにか意味があるんでしょうなあ。犯人にとっては重大な意味があるんでしょうなあ」
「重大な意味ちゅうて……」
「きのうは枡と漏斗じゃったな。そしてきょうは秤とマユ玉か」
と、これは磯川警部の嘆息するようなつぶやきである。それからまた一同はシーンと床のうえの死体に眼をおとした。
立花警部補が憤激し、磯川警部が嘆息するのもむりはない。悪魔はまた文子の死体に妙ないたずらをやってのけた。
うつぶせに倒れた文子の帯にさしこんであるのは|竿秤《さおばかり》である。そして、その竿秤の皿にのっかっているのは縁起もののマユ玉なのである。さっき辰蔵の眼をひいた光りものというのは、そのマユ玉に結わえつけられた、つくりものの大判小判であった。つくりものとはいえ、それは紙ではなく薄い金属でできており、それが夏の朝の薄明のなかで、キラキラ光っていたのであった。
「辰蔵さん」
と、金田一耕助は寝不足の眼をショボショボさせながら、
「きのう殺された泰子の家は枡屋で、この被害者の文子の家は秤屋でしたね」
「そうです、そうです。そうですけんハカリ屋ぶどう酒ちいますんで」
「金田一先生、そこになにか意味があるんでしょうなあ」
「と、みるべきでしょうねえ。しかし、漏斗やこのマユ玉はなにを意味するのか……」
つぶやきながら金田一耕助は身をかがめて、文子の顔をのぞきこんだ。みんな悪魔の奇妙ないたずらに気をうばわれて、文子の死因をたしかめてみようとする才覚もわすれていたのである。
文子はほこりまみれの床に顔をおしつけ、|衣《え》|紋《もん》が少しみだれているが、絞殺であることは一目瞭然であった。のどのまわりに細引きかなにかの跡がいたいたしく残っていて、泰子殺しとおなじ手口である。
それから金田一耕助は竿秤のうえのマユ玉に眼をやったが、ふいとまゆをひそめると、身を起こして辰蔵のほうをふりかえった。
「辰蔵さん、あんたこの死体にさわりましたか」
「はあ、そら、あの、ちょっとだき起こしてみましたけんど……」
「このマユ玉には……?」
「いえ、そっちゃのほうにはさわりゃしませなんだ。なんじゃらまた、けったいなことしよったとは思いましたが……」
「このへんには、こういうマユ玉がどこにでもあるんでしょうねえ」
金田一耕助は、亀の湯の帳場のうえの神棚にも、これに似たマユ玉があったのを思い出していた。
「へえ、総社に|国《くに》|士《しん》さんちゅうお宮がございまして、毎年お正月にはみんなそこいいて、こげなマユ玉さずかってまいりますんで」
「東京へんではふつう大判小判のほかに、サイコロだの当たり矢だのがついていますが、このマユ玉には大判と小判よりありませんね」
「へえ、そらこっちゃもおんなじこってす。大判小判にサイコロ、当たり矢、大福帳やお多福の面と、ごちゃごちゃとぶらさがとおりますんじゃが……」
「そうすると、大判と小判以外はだれかがむしりとったんですね」
マユ玉には大判が一枚、小判が三枚ぶらさがっているだけである。
磯川警部もそばからのぞきこんで、
「金田一先生、こら、最近むしりとりよったんですぞな、そら、お見んさい。むしりとった跡がまだ新しい……」
金田一耕助もそれに気がついていた。正月から神棚にさらしものになっていたマユ玉は、もう相当陽にやけて古色蒼然としているが、ほかの縁起ものをむしりとった跡だけはまだ真新しかった。
「そうすると、犯人が必要だったものは、大判と小判だけだったということになりますな」
「こら、またえらい判じもんじゃが、金田一先生」
「はあ」
「こうなるといよいよ獄門島の事件を思い出しますなあ」
磯川警部は|憮《ぶ》|然《ぜん》たる顔をしかめたが、そばから立花警部補が仏頂面をつきだして、
「判じもんかなんかしらんが、こうなったらもうこっちゃのもんですぜ。こうして秤とマユ玉ちゅう、れっきとした証拠を残していきよったんじゃ。村じゅう家捜ししてでも、きっとこのふた品の持ち主をさがしだしてみせますわ。くそったれめが! いつまでもこんなことさせておくもんか」
立花警部補は怒気満面だったが、いずくんぞしらん、その警部補の希望も意気込みも、それから|須《しゅ》|臾《ゆ》にしてシャボン玉のごとく、跡形もなく砕けて散ってしまおうとは……
ちょうどそこへ本多先生や写真班、鑑識の連中などが駆けつけてきたので、金田一耕助と磯川警部が辰蔵をつれて表へ出ると、
「|歌《か》あさん、あんたまさか|泰《や》っちゃんがやられた腹いせに、文子をあないにむごいことしよったんじゃないじゃろうなあ」
と、聞こえよがしの大声は勝平である。
金田一耕助がぎょっとしてそのほうへ眼をやると、ハカリ屋ぶどう酒醸造工場のまえの広場には、いま不穏の空気がみなぎっている。
青年団の団長と副団長が対立して、にらみあいをつづけていて、いま勝平の吐いた言葉は、あきらかに金田一耕助や磯川警部に聞かせるためであったらしい。
「なによ!」
「あんたは泰っちゃんに|惚《ほ》れとった。その泰っちゃんが殺されて、しかも枡屋のおばはんが、うちのおやじにけったいなこといいよった。歌あさん、あんたそれをまにうけて、文子をやりよったんやないんか」
「ばかこけ!」
「なにがばかじゃ、なにがばかじゃいうてみい! だいたいおまえがゆんべから、ようすがちょっとおかしかったぞ。いや、ちょっとやない、ぎょうさんおかしかったわい。いい若いもんがいやにめそめそしやがって、おい、いうてみい、おまえが文子をあげえにむごいことしやがったじゃろ!」
「ばかこけ、ばかこけ、おまえんちのおやじこそ、泰っちゃんをあげえにむごいことしょったんじゃ」
「なんじゃっと! うちのおやじがなぜまた泰っちゃんを殺さんならんねん。いうてみい、いうてみい、うちのおやじがなぜ泰っちゃんを殺さんならんねん」
「いうたらあ、いうたらあ。いうてもええか。おめえのおやじはな、ててなし児をおれに押しつけよ思いくさって、そいでじゃまになる泰っちゃんを殺しよったんじゃ」
「なんじゃっと?」
と、勝平は絶叫した。
「ててなし児たあだれのことなら、いうてみい、いうてみい!」
「いうたらあ、いうたらあ! ててなし児ちゅうのんはな、おまえの妹の文子のことじゃわい。あの工場んなかで殺されてる文子のことじゃい。ざまあみくされ!」
「なによ! なによ! 放せ、放せ、殺したる! 殺したる! 歌名雄のやつを殺したるんじゃ」
「まあ、まあ、ええがな、勝っちゃん、そら、誤解やがな。日ごろおとなしい歌あさんが、そないなあほなことするはずがあらへんがな」
「歌あさんも歌あさんや。そないなえげつないこといわいでもええやないか。なんじゃい、日ごろ仲良しのふたりが……」
五郎やんはじめ青年団の連中が、やっきとなって団長と副団長をひきわけている。勝平は満面に朱をそそぎ、|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》のごとくあばれまわりながら、
「はなせ! はなせ! 歌名雄のやつを殺したる! 歌名雄のやつを……」
「勝平、ひかえい!」
青年団の団長と副団長のこのいさかいを、遠巻きに見物していた村のひとたちの背後から、大喝一声、とつじょ雷が落ちてきた。
それから見物のあいだを押しわけて、つかつかとふたりのあいだに割ってはいったのは嘉平どんである。嘉平どんはけさもゆかたの|尻《しり》をはしょって、真白なクレップのステテコをのぞかせている。その背後から直平も自転車をおして坂をおりてきた。桜部落へおりる路は、まだ崖くずれの修理ができていないのである。
「歌あさん、かんべんしてやってつかあさい。こいつ気が立ってるんでな。だけど、歌あさん、あんたもちっくと口がすぎるぞよ」
さすがに村一番の旦那である。やんわり歌名雄をたしなめておいて、
「なんじゃい、勝平、そのざまは……村にこげえな不幸がつづいとるちゅうのんに、けんかするちゅうばかがあるか。やあ、金田一先生も磯川はんも……」
と、さすがにけさは顔をくもらせて、
「いまふたりの口走ったこと、気にさえんでつかあさいよ。ふた晩ろくに寝なんだもんじゃけん、わかい衆連中、みんな気が立っとりますんじゃ」
と、ものに激せぬおだやかな口ぶりは、さすがに村一番の貫禄とうかがわれた。
「いや、どうも、こんどはまたおたくのほうにひょんなことがもちあがりよりまして……」
磯川警部が|挨《あい》|拶《さつ》をすると、
「ほんまになあ。この村には悪魔が魅入りよったらしい。そいで、文子のなきがら、おがましてもろてもよろしいかな」
工場のなかではどうやら写真の撮影もおわったらしいので、
「さあ、どうぞ、いま本多先生がおみえんさっとります」
「ああ、さよで、直平、おまえもおいで」
おやじとちがって、直平はまだ年もわかく、この新しい凶変に動揺の色はかくしきれない。ギロリと歌名雄にするどい一瞥をくれると、自転車をとめておやじのあとについて工場のなかへはいっていった。が、すぐまた顔をのぞかせると、
「警部さんも金田一先生も……」
「はあ、なにか……?」
「あとでちょっとお耳にいれたいことがございますけん、事務所のほうででもお待ちんさってつかあさらんか」
と、そういう直平の眼はなにか意味ありげである。
「ああ、そう、それでは金田一先生」
「お供しましょう」
さいわい嘉平どんの一喝にあって、勝平と歌名雄のいさかいもおさまったらしいので、金田一耕助が磯川警部のあとにつづいて、工場内の事務所にはいると、ここもほこりだらけである。腰をおろすところもないままに、窓のそばに立って桜部落からお陣屋跡のほうをぼんやり見ていると、
「金田一先生」
と、磯川警部がそばへきて声をひそめた。
「文子のこと、やっぱり村じゅうしれわたってるようですな」
「都会とちがってこういう村では、そういうこと、なかなか、かくし通せないでしょうね」
「そうじゃけんど、それがなにかこんどの事件に関係がありよるんじゃろうか」
「さあ……」
と、金田一耕助はあいまいに言葉を濁して、
「なんだかえたいのしれぬ事件ですね」
と、それきり黙って考えこんでしまった。
嘉平どんと直平が立花警部補とつれだってはいってきたのは、よほど待たせてからのことである。
「本多先生は……?」
と、磯川警部が尋ねると、
「おかえんさりました。死因は絞殺、きのうとまったくおんなじ手口じゃそうです」
仏頂面をした立花警部補が、がちゃりとほこりだらけのデスクのうえに投げだしたのは、問題の秤とマユ玉である。
「警部さん、またお手上げになりそうですわ」
「どうかしたんかな」
「これ見てつかあさい」
と、立花警部補が苦虫をかみつぶしたような顔で、ふたりのまえへつきつけたのは竿秤の竿の根元である。みるとそこにありありとおされているのは、入山形に分銅の焼印、すなわち秤屋のマークである。
金田一耕助はそのとたん、犯人の|哄笑《こうしょう》が耳底でとどろきわたるのを意識して、おもわず慄然たらざるをえなかった。これはいよいよひと筋縄でいく犯人ではない。
磯川警部も呼吸をはずませて、
「あっ、それじゃこら、おたくの竿秤で……?」
だまってうなずく嘉平どんは眼に涙をにじませている。
「この焼印がはいっとりますからには、うちの秤にちがいないが、いったいどこのどいつが持ち出しよったやら……」
直平の眼はものに|憑《つ》かれたようにするどくとがっている。
「この秤、この工場にあったんじゃ……?」
「いいえ、工場にはござりません。工場ではカンカンや台秤をつこうておりましたけん」
「そうすると、おたくから持ち出したということになりますね」
「はあ、そうですけん、どこのどいつが持ち出しよったんかっと……」
「だけど、まだ、こいつがある……」
と、立花警部補は意気込んでマユ玉をとりあげると、
「村じゅうシラミつぶしに調べても、このマユ玉の持ちぬしを捜し出さにゃ……」
「いえ、ところが主任さん」
怒ったような声で立花警部補をさえぎると、
「ひとつ、これを見てつかあさい」
と、直平がデスクのうえにつかみだしたものをみて、金田一耕助と磯川警部、それから立花警部補も思わず大きく眼をみはった。
それはあきらかにマユ玉からむしりとられた縁起もののかずかず、おかめの面に当たり矢もある。千両箱に大福帳、サイコロのほかに宝船もある。
「い、いったい、これ、どこにあったんです?」
と、立花警部補の語気はするどかった。
「うちの庭に、散らばっとおりましたんです」
「おたくの庭に……?」
「へえ、勝平のしらせをきいて裏口から外へとび出そうとすると、こいつが庭に散らばっとりました。勝平のしらせによると文子の帯に、マユ玉がさしてあるちゅう話でしたけん、もしや思うて神棚をしらべてみたら、マユ玉がのうなっておりました」
「そ、それじゃこのマユ玉もおたくのもんじゃというんかね」
立花警部補の顔色はまるでかみつきそうである。
「へえ、どうやらそうらしいんで、……いったいどこのどいつが持ち出しよったもんじゃやら……」
茫然として磯川警部と顔見合わせる金田一耕助の耳底には、ふたたび、みたび、津波のように、どくどくしい犯人の哄笑がとどろきわたる。
お庄屋ごろしで寝かされた
本多先生の検屍によると、文子が殺害されたのは、昨夜の十二時前後だろうという。
文子が由良家を出たのは十時ごろであった。金田一耕助や磯川警部、大空ゆかりや母の春江、亀の湯の里子もいっしょだったのである。金田一耕助と磯川警部、大空ゆかりと母の春江は、由良家の門のまえでわかれたが、里子は仁礼家の門のまえまでいっしょだった。
「文子はんは、たしかにおうちんなかへ、おはいりんさりました。おやすみいうて別れたんですの。べつになんにも変わったようすはございませんでした」
と、立花警部補の質問にたいして、里子はなんどもおなじ答えをくりかえした。彼女はもうお|高《こ》|祖《そ》|頭《ず》|巾《きん》のことを忘れたかのように、だれのまえでも|赤《あか》|痣《あざ》まる出しである。
思えば里子はいちどならず二度までも、おのれの友達の生ける姿を目撃した、最後の人物になったわけだが、それに気がついているのかいないのか、彼女の顔は醜い赤痣をさらしものにして、ただかたくこわばっているだけである。
仁礼の家では、文子のかえってきたのに気がついたものは、ひとりもいなかった。嘉平は金田一耕助や磯川警部といれちがいに、本多の大先生のところへ碁を打ちにいっていたし、直平と勝平はまだお通夜からかえっていなかった。直平の嫁の路子は末の乳飲み子を寝かせつけているうちに、ついうとうとしていたらしい。由良家とちがって、こちらのほうには奉公人が三人いるが、これは別棟になっている。文子の死体がちゃんと草履をはいてるところをみると、彼女はうちへはいるとみせて、またこっそり出かけたらしいが、それはいったいなぜだろう。泰子の場合とおなじように、呼び出し状はないかと彼女の部屋はくまなく捜索されたが、それらしいものは出てこなかった。
由良家のお通夜がおひらきになったのは、十時半ごろのことである。勝平はそのあとかたづけを手つだって、うちへかえったのは十一時ちょっとすぎだった。直平はひとあしさきにかえっていたが、おやじの嘉平はまだかえっていなかった。
嘉平がかえってくるちょっとまえ、すなわち十一時半ごろに、嫁の路子が文子のすがたのみえないことに気がついた。家じゅうさがしているところへ嘉平がかえってきて、履き物をしらべさせると、お通夜にはいていった草履がなかった。
直平や勝平は文子が里子たちといっしょに由良家を出ていることをしっているから、勝平が亀の湯へ自転車を走らせると、里子が出てきて文子はんならたしかに門のなかへはいったという。そのとき、歌名雄がまだかえっていなかったのが臭い、と勝平は主張するのである。
歌名雄は勝平たちよりもひとあしさきに由良家を出ている。と、いうことは文子たちがかえるとすぐに由良家を出ているのである。本来ならば歌名雄のほうが勝平たちよりもあとへ残るのが本当ではないかと、勝平はかさねて主張するのである。
それを歌名雄にいわせると、ゆかりの歌う「枯葉」を聞いているうちに、はらわたのよじれるような悲しみをおぼえた。そこでゆかりがかえるとまもなく由良家を出て、ふらふらと自転車でかえる途中、腰掛けの滝へよってみた。そこで放心したようにうずくまっているところへ、母親のリカがさがしにきたというのである。
リカは十一時半ごろ亀の湯へかえってみると、だいぶまえに由良家を出たはずの、しかも自転車をもっている歌名雄が、まだかえっていないというので、もしやと思って泰子|終焉《しゅうえん》の地へいってみると、はたしてそこに歌名雄が頭をかかえこんでいたのである。歌名雄はなかなかそこを動こうとしなかったが、リカがなだめすかして、やっとうちへつれてかえると、勝平が文子のことを聞きにきたというのを聞いた。歌名雄はそのままふて寝をするように、寝床のなかへもぐりこんだが、それからまもなく青年団の連中がやってきて、捜索隊にかりだされたのである。
これらの話がすべて真実だとすると、こういうことになりそうである。
里子は仁礼家の門のまえで文子とわかれると、そのまま亀の湯への路をいそいだ。その路の途中には腰掛けの滝へのぼる路がある。里子がそこを通りすぎたあとへ歌名雄がやってきて、腰掛けの滝へのぼっていった。
いっぽう文子は里子とわかれていったん門のなかへはいったが、どういう理由でか、また裏門から出ていっている。裏門から出ていったらしいことは、むしりとられて捨てられた縁起ものといっしょに、彼女の扇子が落ちていたことから察しられるのである。そうすると彼女は桜の大師の裏側から、六道の辻へ通ずる間道をとおったことになるが、そのころ歌名雄がすでに腰掛けの滝にいたにしても、そこから六道の辻まではかなりあるし、それに崖が出っぱっているので、歌名雄が気づかなかったとしてもむりはない。
だが、犯人は……?
歌名雄はそこに一時間ちかくもいたことになるが、リカがさがしにくるまで、だれのすがたもみなかったといっている。
さて、秤屋から持ち出された竿秤とマユ玉だが、ふたつながら毎日用のあるものではないから、いつごろ紛失したのか、だれも気づいたものはなかった。しかし、その日の夕方まで裏門へ出る庭に、縁起ものが散らばっていなかったことだけはたしかなので、ひょっとすると文子じしんが持ち出したのではないか。と、すればそれはなぜであろう。彼女はなぜまたそのようなものを持ち出したのか。
「どうもいやな事件ですなあ、金田一先生、わしゃなんだかゾーッとするような気持がしてならん」
捜査本部になっている亀の湯の共同宿舎の娯楽室へ、ひとりひとり呼びいれて、だいたい以上のような事実が判明したのは、午前九時ごろのことである。ひととおり聞き取りもおわって小休止にはいったとき、磯川警部は眠そうな眼をショボショボさせながら、しんじつゾーッとしたように肩をすくめた。
金田一耕助は無言のままうなずいてみせただけで、なにかぼんやり考えている。いや、ぼんやり考えているのではなく、鋭く脳細胞をはたらかせて、論理のつじつまをあわせようとするのだけれど、なにぶんにも三日二晩ほとんど寝ていないので、頭のなかに鉛でもつまっているようである。
「警部さん、とにかく寝ましょう。これでは体がつづかない」
「ああ、そうしよう。立花君、あとは君にまかしたけんな。君も寝とらんのにすまんが……」
「いえ、わしらまだ若いですけん大丈夫です」
立花警部補はあいかわらず仏頂面をゆるめない。この警部補には金田一耕助の存在がよほど眼ざわりになるらしい。
由良家の出棺は午後の四時である。なにしろ猛暑のころとてお|葬《とむら》いもあまりのばせないのである。それに間にあう時間までに、起こしてくれるようにお幹さんにたのんでおいて、ふたりが寝床へはいったのは九時半ごろのこと。枕に頭をつけると同時に、ふたりとも、泥のような眠りに落ちこんだ。
二時半ごろお幹さんに起こされて眼がさめると、亀の湯ではリカも歌名雄も里子もいなかった。由良家のお葬いにいったのである。
「旦那さん、きょうまた文子はんの解剖があるんやそうですなあ」
と、昼飯とも晩飯ともつかぬ膳にむかうと、お幹さんが顔をしかめてため息をついた。
「そら、しかたがない。変死じゃけんな」
「それにしてもいやですいなあ。二日もつづけて……それにきょうは枡屋さんのお葬式のあとが秤屋さんのお通夜じゃっと、こんやまたひとりおいてけぼりじゃと思うと、もうきょうとうて、きょうとうて」
と、お幹さんはいかにも心細そうである。
「そら、気いつけなあかんぜ。けったいなおばんは、べっぴんをねらうちゅう話じゃけんな」
「あら、もういや! そないなことおいいんさったら!」
と、お幹さんはお盆で警部をぶつまねをしながら、しかしまんざらでもなさそうである。
「そらそうと、お幹さん、自転車あるかね。歩いていくのはかなわんが」
「はあ、でも、一台しかござりませんけん、合い乗りでいてつかあさい」
「ああ、結構結構」
亀の湯を出発するまえに共同宿舎をのぞいてみると、神戸へ出張していた|乾《いぬい》刑事がかえっていて、立花警部補と話をしていた。
「ああ、警部さん」
と、磯川警部の顔をみると、乾刑事が立ちあがって、
「放庵のやつがここのおかみにいうたことは、やっぱりうそでした」
「ああ、|甥《おい》から仕送りがあるちゅう話じゃな」
「そうです、そうです。吉田順吉ちゅう甥が死んだあと、その弟の吉田良吉……神戸で回船業をやっとる男ですが、そこへ放庵のやつがしつこくねだりにきよったそうですけんど、とうとうさいごまでつっぱねたちゅう話です。あの伯父が野たれ死にするのんは自業自得じゃ。だいたい兄貴がひとがよすぎた。あの伯父が死んだとはっきりわかっても、お葬いにもいてやらんちゅうて、えらいけんまくでしたわ」
「だいぶん評判が悪いんじゃな」
「はあ、もうボロクソですわ。吉田順吉の後家さんも、ほんまにあの伯父さんには手をやきましたちゅうて、これまた愚痴だらだらでした」
「なるほど、これで放庵がおのれの生活費の出所について、うそをついてたちゅうことがはっきりしたな」
「と、いうことはその生活費の出所に、うしろぐらいことがあるちゅうこってしゃろうなあ」
「そういうことになるな。ときに立花君、現場からなにか……?」
「はあ、工場のなかに尻切れ草履のあとがふたつ三つ、ただそれだけです。なにせ村の連中がめちゃめちゃに踏みあらしよったもんですけんな」
立花警部補はあいかわらずきげんがわるい。|精《せい》|悍《かん》そうなまゆのあいだにきざまれたしわが、ますますふかくなるばかりである。
「工場の外はちとむりじゃな」
「はあ、もう日照りつづきですけん、かちんかちんです。足跡なんてとってもとっても……」
十日の晩に大夕立があって以来、一滴の雨も降らないのだから、立花警部補の眉間のしわが、いよいよふかくなるのもむりはない。このへんは土質が花崗岩質でできているので、夏場になると一日照っても、|砥《と》|石《いし》のようにかたくなるのである。
「それじゃ、またあとを頼むよ。わしら由良家の葬式へいてくるけんな」
「さあ、さあ、どうぞ」
「金田一先生、あんたはお尻へお乗りんさい。わしゃ洋服じゃけん」
「やあ、これは恐れいりますな。ご老体を酷使して……」
「なんじゃっと? ご老体とはなんじゃ、ご老体とは……? 力ずくじゃ、わしゃまだあんたごときに負けんぞな。これでも柔道三段じゃけんな」
「あっはっは、としよりの冷や水をお出しなさいましたな。それじゃひとつ尻馬に乗せていただきましょう」
ふたりともぐっすり睡眠をとったせいか気がかるい。気がかるいから口もかるいというわけで、憎まれ口をたたきあいながら、自転車の合い乗りで出かけていくのを、見送る立花警部補の顔色は、はなはだもってにがにがしげであった。
ふたりが由良家へ着いたときは、ちょうど出棺のまぎわで、たからかにお経があげられているところだった。このへんは真言宗のさかんなところで、由良家もご多分にもれずその宗派だから、したがってお経もいたってながったらしい。ゆうべとちがってきょうは全座敷ぶちぬきだから、四十二畳の大広間にぎっちり会葬者がつまっている。
金田一耕助と磯川警部が末座に坐って見わたすと、さすがにきょうは嘉平もきていて、ひとえ紋付きの羽織袴でしずかに白扇をつかっている。きょうはお盆の十五日、しかもこのところ日照りつづきで、うだるような暑さだから神妙にお経を聞いているひとたちは、だれもかれも流れる汗で、大広間のなかは白扇の波である。
金田一耕助もにじみでる汗をぬぐっていると、そこへ亀の湯のリカが人波をわけてやってきた。
「あの、先生、警部さん」
と、あたりをはばかる小声である。
「はあ……?」
「ちょっとお耳にいれたいことがございまして……けさはあんまりお疲れのごようすでしたけん、ひかえておりましたんですけんど……」
「ああ、そう」
なにかしら意味ありげなリカの顔色に金田一耕助は磯川警部と眼くばせすると席をたった。リカの案内でうらへまわると、マサ子を中心に四人の女が土蔵のそばに立っていた。
「さあ、マアちゃん、先生と警部さんがきてつかあさったけん、ゆんべのお話おしんさい」
「はい」
マサ子はおびえたようにおどおどしながら、ゆうべ土蔵の壁にうつっていた奇怪な老婆の話をする。
「わたし、そのけったいなばあさんの姿を直接見たわけやございませんけんど、土蔵にうつった格好から考えると、お座敷のほうを、こうのぞいているような格好でしたん」
と、マサ子はみずからその格好をしてみせると、いまさらのようにゾクリと肩をふるわせた。
「土蔵のこっちゃがわの壁かね」
と、磯川警部は土蔵と部屋の位置を見くらべる。
「はい、ほとんどその土蔵の壁いっぱいでしたん。あんまり大きな影やもんですけん、はじめのうちは、かえってなんの影やわからなんだんですけんど、それが腰のまがったおばあさんの影やとわかったときのきょうとかったこと……」
マサ子はいまさらのように呼吸をのみ、目玉をくるくるまわして、いかにその恐怖が深刻だったかということを表現してみせる。
「それがなあ、金田一先生」
と、リカがあとをひきうけて、
「マアちゃんの話をきいて、わたしがいちばんに駆けつけたんですん。そうですけんど、そのときにはどこにもそんなおばあさん、見えやしませんでしょう。ただマアちゃんがひっくりかえした猫車があるだけですん。わたしがそれをかたづけてるとこへさして、このひとたちがマアちゃんといっしょにきてくれたんですの。それでマアちゃんにいろいろ話をきいてみると、そっちゃがわの壁やいいますでしょう。お月さんはこっちゃがわに出てましたの。それですけん、そっちゃがわの壁に影なんてうつりようがない、こら、マアちゃんが怖い怖いで枯れ尾花を幽霊とみたたぐいじゃろうと、笑い話ですましましたん。そうじゃけんど、いまから考えると、そのおばあさん、提灯かなんかぶらさげていて、それでその影が壁いっぱいにうつったんとちがいますじゃろうか」
「そうよ、そうよ、そのとおりよ、亀の湯のおばさんのおいいんさるとおりよ。きっと文子はんのようすをみにきたんよ。それやのんに、みんなわたしをばかにして、わたしのいうことを信用してつかあさらんもんじゃけに、あないなことになったんよ。わたし、しらんわ。わたしの責任やないことよ」
マサ子はきゅうにシクシク泣きだした。この年ごろの娘はなにかにつけて|涙《るい》|腺《せん》が刺激されやすくできているのであろう。そのマサ子を中心に四人の女はいかにもすまなそうに顔を見合わせている。
「そう、それはマアちゃんの責任じゃないね。それで、それ何時ごろのこと?」
「何時ごろやとおいいんさっても……そうそう、先生や警部さんがまだ離れにおいでんさったじぶんですん。そうですけん、ひとくち、そのことをお耳にいれとけばよかったものを、ついこの子をばかにしてしもうて……」
と、リカもいまさらのように恐縮している。
金田一耕助も|部《ひ》|屋《や》と土蔵の距離をはかったり、部屋のそばへ立って提灯をもつ格好をしてみたり、いろいろ考えているふうだったが、そのうちきゅうに座敷のほうがざわついてきた。気がつくといつのまにやら読経の声もやんでいる。
「ああ、警部さん、どうやら出棺のようです。それじゃおかみさん、このことはあとでまたよく考えてみることにしましょう。マアちゃん、君泣かなくてもいいんだよ。ほんとにあんたの責任じゃないんだからね」
まだ泣いているマサ子をなぐさめて、金田一耕助と磯川警部が座敷のほうへもどってくると、客はもう総立ちになっていて、はんぶんくらいは庭や玄関におりていた。
金田一耕助と磯川警部もそのなかにまじって縁先に立っていると、敏郎の嫁の栄子が縁側へやってきて、
「あの先生も警部さんも……」
「はあ」
「うちのおばあちゃんがなんじゃやら、あなたがたに聞いていただきたいことがあるいうておいでんさりますけん、ちょっとこっちへおあがりんさって……」
「ああ、そう」
金田一耕助と磯川警部が、眼くばせしながら座敷へあがると、お棺のまえに八十三媼の|五《い》|百《お》|子《こ》がちんまり坐っていて、|巾着《きんちゃく》の口のような唇のはしになにやら|謎《なぞ》めいた微笑をうかべている。そばには敦子や敏郎たち、それから仁礼家の一族も不思議そうにひかえている。立ちあがった会葬者たちも、なにごとがはじまるのかとばかりに、まじまじと、うえから五百子を見おろしている。そのなかには歌名雄や勝平のすがたもみえた。
「金田一先生、磯川さんもよう来てつかあさりました」
「はあ、なにかわれわれにお話がおありだとか……」
「はあ、これはなあ、金田一先生、ゆんべお話ししようと思うていたところが、つい、ひ孫たちにじゃまされてしもて……なあ、嘉平どん」
「はあ」
と、嘉平も不思議そうに眼をすぼめて、白扇をつかうことも忘れている。
「あんたや敦子の時代には、もうすたれてしもうとりましたけん、たぶんご存じないじゃろうと思うけんどな、わたしらの娘じぶんにはこないな手毬唄がはやっとおりましたんよ」
と、五百子が袂からさぐり出したものをみて、一同はおもわず眼をみはった。それはきれいな毛糸でかがった手毬である。
「さあ、金田一先生、よう聞いてつかあさいよ」
と、五百子はちょっと腰をうかして、左手で右の袖口をつまむと、畳のうえでとんとん毬をつきながら、細いながらもよくとおる声で歌いはじめた。
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うウちのうウらのせんざいにイ
すずめが三匹とオまってエ
一羽のすずめのいうことにゃア
おらが在所の庄屋の甚兵衛
陣屋の殿さんにたのまれてエ
娘さがしに願かけたア
伊勢へななたび熊野へみたび
|吉《き》|備《び》|津《つ》様へは月まいり
娘よったがおしゃべり庄屋
あっちこっちでおしゃべり過ぎて
お庄屋ごろしで寝かされたア
寝かされたア
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民間承伝
満座のなかで不思議な手毬唄の一曲をつきおわると、五百子は両手で毬をかかえて、
「どげえぞな」
と、いわんばかりの顔をして、金田一耕助をにこにこみている。
その顔には童女のようなあどけなさと同時に、八十何年というながい歳月をいきてきた、老女の邪智と意地悪さが|混《こん》|淆《こう》しているようである。げんに|巾着《きんちゃく》の口のようにすぼめた唇のはしにうかべた薄ら笑いが、ひそかに金田一耕助をはじめ一同の無知をあざわらっているのである。
しかし、金田一耕助にはまだその手毬唄の重要性にたいする、はっきりとした認識が欠けていた。五百子をとりまくほかのひとたちがそうであったように、かれもまたあきれたような顔をして、ただまじまじと五百子の顔を見まもるばかりである。
ただひとり、嘉平どんだけが遠いはるかな記憶の夢をゆり起こされたのか、
「ご隠居さん」
と、おもわずつよく白扇を鳴らして、
「そういえば、たしか枡と漏斗がなんとかしたというのがあったようですけんど……」
と、ひとひざふたひざまえへゆすり出るのを、五百子はわが意をえたりといわんばかりに、にこにこ見かえりながら、
「嘉平どん、思い出してつかあさったかな。それはこないな唄ですのん。金田一先生」
「はあ」
「磯川さんも」
「はあ、はあ」
「あんたがたもいっしょによう聞いてつかあさりませ」
五百子はふたたび腰をうかすと、また左手で右の袖口をちょっとたくしあげ、畳のうえでとんとん手毬をつきながら、きれいな声で歌いはじめた。
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うウちのうウらのせんざいにイ
すずめが三匹とオまってエ
二番目のすずめのいうことにゃア
おらが在所の陣屋の殿さん
狩り好き酒好き女好きイ
わけて好きなが女でごオざる
女たれがよい枡屋のむウすめ
枡屋器量よしじゃがうわばみむウすめ
枡ではかって漏斗で飲オんで
日がないちにちさアけエびイたり
それでも足らぬとて返されたア
返された
[#ここで字下げ終わり]
「あっ!」
と、いうような叫びが満座のあちこちからわき起こり、金田一耕助も思わず腰をうかしかけたが、五百子はしかしそういう騒ぎをしり目にかけて、わきめもふらずとんとん手毬をつきながら、
「それからなあ、金田一先生」
「はあ、はあ」
と、金田一耕助は中腰のまま、まじろぎもせず八十三媼を見まもりながら、かすれたような声をのどのおくからしぼりだした。
「こないな唄もございましたんよ。嘉平どん、あんたもよう聞いてつかあさい」
と、五百子はとんとん手毬をつきながら、細いながらもよくとおる声で歌いつづけるのである。
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うウちのうウらのせんざいにイ
すずめが三匹とオまってエ
三番目のすずめのいうことにゃア
おらが在所の陣屋の殿さん
狩り好き酒好き女好きイ
わけて好きなが女でごオざる
女たれがよい秤屋のむウすめ
秤屋器量よしじゃが爪長むウすめ
大判小判を秤にかアけて
日なし勘定に夜も日もくウらし
寝るまもないとて返されたア
返された
ちょっと一貫貸しまアしイたア
[#ここで字下げ終わり]
歌いおわった八十三媼の五百子|刀《と》|自《じ》が、毛糸でかがった手毬をかかえて童女のようなあどけなさで、にこにこあたりを見まわしたとき、一座はしいんと凍りついたようにしずまりかえった。
由良家のひとびとはいうにおよばず、嘉平も直平も直平の家内の路子も、いや、いや、その場にいあわせたひとびとのすべてが、まるで|物《もの》の|怪《け》にでも憑かれたような眼つきをして、ただまじまじと五百子の顔をながめている。さすが沈着な嘉平どんも、この思いがけない|暴《ばく》|露《ろ》にはどぎもをぬかれたのか、白扇をにぎりしめた手が、夏袴のうえでしきりにわなわなふるえている。
金田一耕助の興奮も大きかった。かれは二度三度、背筋をつらぬいて走る異様な戦慄をかんじながら、むやみやたらと貧乏ゆすりをしていたが、とつぜん、
「ご、ご隠居さん」
と、のどのつまったような声を立て、
「す、すみませんが、もういちど、いまの手毬唄、お聞かせねがえませんでしょうか」
「ええ、ようござりますとも、ご所望ならなんべんでもお聞かせしましょ」
五百子はやおら腰をうかして、右の袖口をちょいとたくしあげ、とんとん手毬をつきながら、
「うウちのうウらのせんざいにイ」
と、さっきとおなじ手毬唄を歌い始める。細いながらもよくとおる五百子の声が、水をうったようにしずまりかえった座敷のなかに|縷《る》|々《る》とつづいて、やがてその恐ろしい手毬唄が、
「ちょっと一貫貸しまアしイたア」
と、おわったとき、こんどは四十二畳の大広間が、まるで蜂の巣をつついたように騒然たる空気につつまれた。くちぐちにおのれの感想をのべ、また五百子刀自に質問の雨を降らせるのを、
「ああ、ちょっと、ちょっと、ちょっと」
と、中腰になって大きな両のてのひらで、おさえるように一座を制したのは磯川警部である。
「そないにてんで勝手にしゃべったらどもならんぞな。それにだいいち、ご隠居さんがのぼせあがっておしまいんさる。それより金田一先生がなにやらご質問がおありんさるようじゃけん。こらひとつ、金田一先生におまかせしようじゃないか。秤屋の旦那はどうですな」
「ああ、それがいちばん名案ですじゃろ。金田一先生、あなたからひとつどうぞ」
「はあ」
金田一耕助は満座の視線がいっせいに、自分に集中される晴れがましさをかんじたが、いまは照れているべき場合ではない。
「それでは、ご隠居さん」
「あいな」
「あなたはこんどのこの殺人事件は、いまの手毬唄にのっとって演じられたとおっしゃるんですか」
「いいえなあ。あたしゃそないなことは申しませんぞな。いまの手毬唄がこんどの事件に関係があるかないか、そないなことを判断おしんさるのは、金田一先生や磯川警部さんのお役目柄でございましょう。わたしはただ、昔この村にこのような手毬唄があったということを、あなたがたにお聞かせ申しただけのことで……」
「はあ、ありがとうございます」
金田一耕助はちょっと頭をさげると、
「ところで、いまあなたはおっしゃったが、いまはもうすたれてしまっているというその手毬唄、それをご存じなのはいくつぐらいの年輩のかたまででしょうか」
「さいな、あの、嘉平どん」
「はあ」
「あんたはうろ覚えながらも、覚えておいでんさったようじゃな」
「ああ、そういえばなあ、ご隠居さん、あんたは覚えておいでんさろうが、小いちゃいときに亡くなったわたしの姉の富貴子、あのひとがそがいな唄を歌うて手毬をついとおりましたよ。それをいまご隠居さんがお庄屋さんごろしで寝かされたア、寝かされたアちゅうてお歌いんさったんで、ふと思い出しましたけんど、ずいぶん古い話ですなあ」
「敦子おくさん」
と、金田一耕助は、敦子のほうへむき直ると、
「あなたはいまのような手毬唄ご存じでしたか」
「いえねえ、金田一先生、敦子はほかから嫁にきたもんじゃけに、たぶんしりませんじゃろ。敦子、あんたどうじゃぞいな」
「はあ、わたくしはいまお母さんから聞いたのがはじめてでございます。わたしらがお嫁にきたじぶんには、手毬唄いいましたら、|西条山《さいじょうざん》は霧深し、|千《ち》|曲《くま》の河は波あらしいうて、あら、川中島の唄でしたかしらん。みなさん、あれ歌うておいでんさりましたなあ」
「そうそう、それそれ」
と、嘉平どんも白扇を鳴らして、
「わしらの末の妹のじぶんがもうそれでしたなあ、西条山は霧深し、千曲の河は波あらし、はるかに聞こえる物音は……いうて、立ったまんま手毬をつくのはまだええとしても、かわるがわる脚をあげよって、股のしたくぐらせたりするもんじゃけに、女だてらにえろうまあ、行儀のわるい毬突きがはやってきよったちゅうて、うちのおふくろなんどが嘆いとったんをよう覚えとおりますな」
「そうしますと、いまのご隠居さんのお歌いになった手毬唄を、はっきりしっておいでになるのは、この村でも、もうそうたくさんはいないわけですか」
「まあ、そうですじゃろうなあ。そうそう、辰やん」
「えっ、へえ、へえ」
だしぬけに声をかけられて、下座にきょとんと立っていた辰蔵が、びっくりしたようにあわててそこへひざをついた。また酸っぱいやつをちっくとひっかけてきたのか、鼻の頭をてらてら赤くひからせている。
「おたくのお母はんの松子はんなあ、あのひとはわたしより三つ下じゃけん、あのひとならきっと覚えておいでんさりましょ」
「そら、あきまへんぞな、ご隠居さん」
「どうしてぞな」
「どうしてちゅうたかて、うちのおふくろときたひにゃ、ご隠居さんなんぞとちごうて、もうすっかりぼけてしもうてけつかるけんな」
「あれ、まあ、ほっほっほっほ」
五百子刀自は巾着の口のような唇をすぼめて、お上品な笑いかたをすると、
「辰やんはそうおいいんさるけんどな、そらわたしらだっておんなじことぞな。わたしなんかももうすっかり忘れてしもうとりましたん」
「そうおいいんさるけんど、いまじょうずにお歌いんさったじゃござりませんか」
「いいえなあ。それいうのんが、おととしじゃったかいなあ、お庄屋さんに根掘り葉掘り尋ねられて、それでやっと思い出したんぞな」
「お庄屋さんに……?」
金田一耕助ははっとして、すばやい視線を磯川警部のほうへ送ると、
「お庄屋さんがご隠居さんに、いまの手毬唄のことで聞きにおいでになったことがあるんですか」
「ええ、そうですん。たしかおととしのことでしたなあ」
「ご隠居さん」
と、磯川警部も異様に瞳をかがやかせて、ひとひざまえにゆすりでると、
「お庄屋さんはなんでまた、そないなこと聞きにおいでんさったんです」
「ああ、そうそう、それはこうですん」
と、五百子隠居はたのしそうににこにこしながら、
「金田一先生も聞いてあげてつかあさい」
「はい、ここでうかがっております」
と、金田一耕助は神妙にこたえた。
神妙にこたえたものの金田一耕助の胸は、怪しく騒ぎ、波立っているのである。それは磯川警部とておなじことであったろう。
「さいなあ」
と五百子刀自は数珠をつまぐりながら一座を見まわして、
「ここにおいでんさるみなさんは、だいたいご承知じゃけんどな、お庄屋さんいうひとは、ちょっと風流人みたいなとこがおありんさったんです。それで|身上《しんしょう》をおしまいんさったかたですけんな。ところがおととしのことでしたわなあ。なんたら名前は忘れましたけんど、薄っぺらな雑誌で、田舎のいいつたえじゃとか、変わった習慣じゃとか、そないなことばっかりのせてる雑誌がござりましたん。いまでもあるのんかもしれませんけんどな。そこいさして、鬼首村の手毬唄のことを書いて送ったろ思うおいいんさって、それでわたしのところへ聞きにおいでんさりましたん。そうじゃけんどなあ、辰やん」
「へえ、へえ」
「あんた、いまあないにいうてつかあさったけんどな、わたしらだってあんじょうぼけとおりますのんよ」
「ご隠居さんはそないなことは……」
「いや、いや、ほんまのことですん。なにせ、ずいぶん昔のこってすじゃろ。それに近年とんと聞いたこともない唄ですけんな、お庄屋さんに尋ねられても、根っから葉っから思い出せませんのん。かえってお庄屋さんのほうがよう覚えておいでんさって、ああじゃったかいな、こうじゃったんじゃかいなあと、お庄屋さんのうろ覚えと、わたしのうろ覚えとつなぎあわせているうちに、だんだん思い出してきたんですわなあ。それがなかったら、わたしじゃとって、とっくの昔に忘れてしもうとりますわなあ」
「それで、ご隠居さん」
と、磯川警部ものどのつまったような声で、
「お庄屋さんはそのことを、なんたらいう薄っぺらな雑誌にお送りんさったんですかいな」
「そうそう、それがなあ、磯川さん」
と、五百子刀自は子供のようににこにこして、
「なんとお庄屋さんのお書きんさったんがそのまんま、雑誌にのったとおみんさい。お庄屋さん、それこそ鬼の首でもとったように、お喜びんさってなあ、これ見てつかあさい、隠居、これ読んでみてつかあさいおいいんさって、一番にうちへもっておいでんさったんです。読んでみてつかあさいおいいんさっても、あないなこまかな活字、わたしらみたいな年寄りには読めやしませんわなあ。そない申し上げたら、それではじぶんが読んであげるけん、聞いておいでんさいおいいんさって、おんなじことをなんべんもなんべんも読んできかせてつかあさったん。ほんまになあ、あないなときのお庄屋さんは、ほんまにええおかたじゃったのんになあ」
お庄屋さんとはよっぽどうまがあっていたとみえて、五百子刀自はうっとりと、往時を追懐するような眼つきである。
「そうじゃけんどなあ、磯川はん」
「はあ、はあ」
「お庄屋さんはまだはっきりと、お亡くなりんさったとは、きまっとおりませんのじゃそうですなあ」
「はあ、それがいま問題になっとりますんじゃけんど、ご隠居さんはどうお考えになります? お庄屋さんは生きておいでんさるのか、それとも死んでおいでんさるのか……」
「そうですわなあ。手毬唄ではお庄屋ごろしでころされることになっとおりますけんど、あの放庵さんいうおかたは、なかなかひと筋縄でいくおかたじゃございませんけんなあ、そうやすやすとひとの手にかかって、お死にんさるとは思えませんわなあ。嘉平どん、あんた、どう思うておいでんさる?」
「はあ、わたしもご隠居さんに同感ですなあ。ことに、こちらの|泰《や》っちゃんや、うちの文子があないな殺されかたをして、それがこの村で昔はやった手毬唄のとおりじゃったとすると……」
「そないなとっぴもないこと思いつくのんは、あのお庄屋さんよりほかになさそうですわなあ」
と敦子も感にたえたように同感の意を表わすと、われもわれもと賛成者があらわれて、
「こら、警部さん、こらどないしてもいっぺん、大仕掛けに山狩りでもせんといきませんなあ」
と、直平も意気込めば、
「そうじゃ、そうじゃ、おい、歌あさん」
と、勢いづいたのは勝平である。
「こら、あんたとけんかしてる場合じゃあらへんで。ひとつ仲直りして、われわれ青年団の手で|鷹《たか》|取《とり》|山《さん》から|姥《うば》が|岳《だけ》へかけて、しらみつぶしに大捜索やろうじゃないか」
「勝っちゃん、よういうてくれた。こら、えらいことになってきよったなあ」
と、歌名雄もにわかに生色をとりもどし、ここに鬼首村の青年団の団長と副団長とのあいだに、和解が成立したのはなによりのことである。
「ときに、ご隠居さん」
山狩りじゃ、山狩りじゃと勇みたつ青年団の勢いが、すこししずまるのを待って、金田一耕助がまたひとひざゆすりだして、
「あなたはいま手毬唄では、お庄屋ごろしで殺されることになってるがとおっしゃいましたが、するとお庄屋ごろしで寝かされたアというのは、お庄屋ごろしで殺されたアという意味になるんですか」
「そうそう、それですんよ、金田一先生」
と五百子刀自もいそいそひざを乗りだして、
「これはみんなお庄屋さんの受け売りですけんどな、ゆんべもお話ししたとおり、お庄屋さんのご先祖のお庄屋さんのなかにひとりお殿さんに一服盛られて、寝かされた……つまり殺されたかたがおありんさるんじゃそうですん。ところがそのお殿さんいうかたがえらい暴君で、狩りにことよせてご領内を巡回なさっては、見目よい女がみつかったら、娘でござれ、人妻でござれ、かたっぱしからお陣屋へひっぱっておいでんさって、さんざんおもちゃにしたあげく、飽きがくると殺してしもて、お陣屋のなかの井戸へ埋めたちゅう話がござりますんじゃそうですの。つまり、さっきの手毬唄いうのんは、それを|諷《ふう》して歌ったもんじゃそうでして、そうじゃけんなあ、金田一先生」
「はあ、はあ」
「唄のおしまいにみんな、なになにしたとて返されたア、返されたアちゅうのんがついておりますじゃろう。あれはみんな、なになにしたとて殺されたア、殺されたアいう意味やそうですん。つまり、そういうことをお庄屋さんが書いて雑誌にお出しんさったん」
「そして、その雑誌の名まえ覚えておいでになりませんか」
「そうですわなあ。名まえはつい……『家の光』いう雑誌ご存じですじゃろう、ちょうど、あれとおんなじくらいの大きさで、ページにして五、六十ページもござりましたろうか。そうそう、それでしたら、なあ、金田一先生」
「はあ、はあ」
「神戸へお聞き合わせんさったら、おわかりになりますでしょう」
「神戸のどちらへですか」
「神戸に順吉さんちゅうて、お庄屋さんの甥ごさんがおいでんさったんですん。お庄屋さんの妹さんの嫁ぎ先の跡取りさんですわなあ」
「吉田順吉さんですね」
「そうそう、その吉田家ちゅうのんが神戸の須磨のほうの大地主ですん。それですけん、ものもちですわな。ところが順吉さんちゅうひとが早稲田を出ておいでんさるんですの。ところが順吉さんの早稲田時代の親友のかたが、戦後、民俗学たらいうもんにおこりんさって、その民俗学になんたらいうおえらい先生がおいでんさるそうですなあ」
「柳田国男先生ですか」
「そうそう、お庄屋さんは柳田先生の愛読者でしたわなあ」
と、相づちをうったのは敦子である。
「そうそう、その柳田先生、つまり順吉さんの親友のかたが、その先生をうしろ|楯《だて》にして、そういう雑誌を会員組織かなんかでおつくりんさったんですの。そのとき、順吉さんも親友のことですけん、いくらかもとでを出しておあげんさったんじゃそうですん。それですけん、順吉さんとこへは毎月、東京からその雑誌送ってくるわけですわなあ。それを神戸へおいでんさったとき、お庄屋さんがみておいでんさって、じぶんもひとつ鬼首村の手毬唄のこと書いたちゅうわけですん。そうそう、思い出した。題は『鬼首村手毬唄考』……こう[#「こう」に傍点]は考えるちゅう字ですわなあ。そういう題でお出しんさったところが、それが雑誌にのって、お庄屋さんのんがのったぶんだけ、その雑誌、お庄屋さんとこへ送っておいでんさったん。お庄屋さんはそれを虎の子みたいにだいじにしておいでんさったけんど、嘉平どんなんか見せておもらいんさったことござりませんかいなあ」
「いや、わたしはそういうこと、いま初耳ですけんどなあ」
「ほんまになあ。あのかたも片意地なとこがおありんさって、なにせ、ごじぶんのお書きんさったんが、そのまんま活字になったもんじゃけん、もう自慢たらたらですん。そうですけん、村の衆にもみせておあげんさいいうて、わたしがおすすめしたんですけんど、村のもんに、こないなもんみせても、わかるやつありゃせんとかおいいんさって……敦子はそのことしらなんだかいな」
「いいえ、わたしも初耳でございます」
「ああ、そうそう、あのときあんたはさとのお|重《しげ》さんの初産でいんでおいでんさったなあ」
「そうしますと、おととしの八月のことですわなあ。お重のお産は八月の二十七日でしたけん」
「そうそう、なんでも、暑いじぶんでしたなあ」
「いや、ご隠居さん、いろいろとありがとうございました。それではあんまりみなさんをお待たせするのもなんですから」
おかげで由良家の出棺は予定よりも一時間近くもおくれたが、それについて、だれも不平をいうものはなかった。
ここにはじめて、このえたいのしれぬ連続殺人事件の意味について、ひとつのメドというかよりどころというか、そういうものを発見したからである。
文子の母
亀の湯をでるときお幹さんもいったとおり、きょうは由良家のお葬いのあとが仁礼家のお通夜なのである。
金田一耕助と磯川警部は、嘉平どんからお通夜への招待をうけているのだけれど、それまでの時間を利用して、合い乗りの自転車を人食い沼のほとりにある、放庵さんの草庵へはしらせた。
放庵さんの草庵は放庵さんの失踪以来、いくたびとなく捜索されているのだけれど、一小冊子のなかにそのような重大な秘密がかくされていようとは、いったいだれが思いおよぼう。もういちどその雑誌をさがしてみようということになり、合い乗りの自転車をのりつけたふたりだったが、畳をひんめくってまで捜してみても、ついにそれらしい雑誌は見あたらなかった。
「由良の隠居の話では、放庵め、虎の子みたいにだいじにしとったちゅうことじゃけんど……」
「おととしというと放庵さんが、まだ溜め池のそばに住んでたじぶんのことですねえ」
「そうそう、それじゃ引っ越しのときに紛失したとでも……?」
「いや、警部さん、それはちと、うなずけませんねえ。たんなる一小冊子ならともかく、じぶんの書いたものが掲載されているのですから、これはご隠居さんのお話のとおり、虎の子みたいにだいじにしていたにちがいありませんよ」
「しかし、それがここにないというのは……?」
「もし、その雑誌がこの草庵にないとしたら、それは紛失したのではなく、だれかが意識的にもちだしたんでしょうねえ」
「金田一先生はそれを放庵だとお思いですか?」
「警部さん、その問題の決定はもうすこしさきにのばしましょう。放庵さんが生きているのか死んでいるのか、ぼくにもまだはっきりわからないんですから」
「しかし、ねえ、金田一先生」
「はあ」
「わたしゃいまさらのように、あんたの直感というか、|慧《けい》|眼《がん》というか、それにつくづく敬服いたしましたよ」
「あっはっは、それはどういうことですか」
「いやねえ、あんたは泰子の死骸を見たときから、この地方になにか枡や漏斗についての伝説か口碑はないかちゅうて、会うひとごとに尋ねておいでんさったけんなあ」
「ああ、そのこと……しかし、それが手毬唄であったろうとは、ゆめにも思いませんでしたからねえ」
「そら、しょうがありませんぞなあ。だれじゃかとて、あないなけったいな手毬唄があろうとはねえ、そら思いおよばんのんもしかたがございませんわい。しかし、なあ、金田一先生!」
「はあ」
「由良の隠居はなんでゆんべのまに、あれを聞かせてくれなんだんでっしゃろな。ゆんべあれを聞いていたら、こんど|狙《ねら》われるのん、文子やないかと気がついてたかもしれませんけんな」
「ひ孫たちにじゃまされたとかいっていましたね」
「なんぼひ孫たちにじゃまされたちゅうたかとて、わしら、そうとう長うあの家にいたんじゃけんな。だいいち、あないな重大な話じゃったら、ひとづてにもせよ、わざわざ知らせてくれてもよさそうに思うんですけんど、それをきょうまで伏せといたちゅうのんは、悪くとると、まるで文子が殺されるのん、待っとったようなもんじゃありませんか」
「そう。悪くとるとね」
と、金田一耕助は放庵さんの草庵の丸窓のそばに立って、人食い沼のおもていちめんに咲きみだれた、白いひしの花に眼をやって、ぼんやりそうつぶやいたが、なに思ったのかきゅうにはげしく身ぶるいをすると、
「ねえ、警部さん」
「はあ、はあ」
「これは大至急村じゅうに手をまわして、村のとしより連中に、もっとほかにああいう手毬唄はないか、お調べになることですね」
「金田一先生!」
磯川警部はまるであいての姿を吸いこんでしまいそうなほど、大きく目玉をひんむいて、
「それじゃ、先生のお考えでは、まだほかにもああいう怪しげな手毬唄があるとおいいんさるんで?」
「だって、警部さん、さっき由良の隠居が歌ってくれた手毬唄、ちょっとおかしいとお思いになりませんか」
「おかしいとおっしゃると……?」
「いいえ、ねえ、警部さん。ああいう手毬唄というものは、たいてい、三、五、七になっていて、なになにづくしになっているのが普通なんです。ぼくのしっている手毬唄にこういうのがありますよ」
と、金田一耕助はちょっと呼吸をうちへ吸ってから、
「一でよいのは糸屋のむウすめ」
と、かるく節をつけて、
「二イでよいのが人形屋のむウすめ、三でよいのが酒屋のむウすめ、四イでよいのが塩屋のむウすめ、五オでよいのが呉服屋のむウすめ、呉服かたげてえっさっさア、えっさっさ……つまり、一から五まで娘づくしになっておりましょう。これがふつうの手毬唄の形式なんです。ところが、さっきのご隠居さんの手毬唄では三羽のすずめが語るんですが、一羽のすずめというのはお庄屋さんのことですね。そして、二番目と三番目とが娘でしょう。これ、こういう手毬唄の形式としてはおかしいと思うんです。三羽のすずめが語るときには、三羽とも娘のことを語るべきです」
「なるほど、なるほど、それで……」
「ですから、この鬼首村には昔から、お庄屋さんの手毬唄と、娘の系列にぞくする手毬唄とふたとおりあるんじゃないかと思うんです。と、するともうひとり、なになにしたとて返された娘があるべきはずです。しかもこの村のひとたち、たいてい屋号をもっているらしく、お幹さんのうちはたしか|笊《ざる》|屋《や》で、ゆかりの生まれたうちは錠前屋だとか聞いております。ですからここにもうひとり、娘たれがよいなになに屋の娘というのがあって、それが、なになにしたとて返されたア、返されたという唄があるべきだと思うんです」
「き、金田一先生!」
磯川警部は身うちがすくむような|戦《せん》|慄《りつ》をおぼえて、おもわず声がうわずっていた。
「そ、それじゃ先生のお考えでは、ここにもうひとりねらわれている娘があるとおいいんさるんで」
「いや、いや、いや!」
と金田一耕助はつよく頭を左右にふって、
「ねらわれている、いないはこの場合さておいて、やっぱり、いちおうしっておく必要があるとお思いになりませんか」
「そ、そ、そりゃそうです。そりゃそうですとも」
と、磯川警部は語気をつよめて、
「それに、こういう犯人というやつは、えてして|几帳面《きちょうめん》にやりたがるもんです。とりわけ枡屋の娘と秤屋の娘でまんまと成功しとおりますけんな」
「そうです、そうです。それだけにこの犯人の危険性は倍加しているわけですからね」
「ようし!」
と、磯川警部はこぶしをにぎりしめて、
「こら金田一先生、よいことおしえてつかあさった。そうです、そうです。こら先生のおっしゃるとおりじゃ。三羽のすずめが語るのんに、お庄屋さんと娘のとりあわせはたしかにおかしい。もうひとり娘があるべきですて。あっ!」
「どうかなさいましたか」
「金田一先生!」
と、この正直者でひとのよい老警部は、老眼をちょっとうるませて、
「わたしゃあらためて先生に脱帽せにゃあなりませんわい。さっき先生のおっしゃった、この家に雑誌がないとすれば、それは紛失したんじゃのうて、だれかが意識的にもちだしたんじゃろうと、おっしゃったお言葉の意味がはじめてようわかりました。その雑誌に放庵の書いた鬼首村手毬唄考たらいう一文にゃ、ちゃんと三番目の娘のことも出てるんでしょうなあ」
「ぼくも、そうあるべきだと思いますね」
「と、すると、由良の隠居もそれをしってるはずじゃということになる。しかもほかの手毬唄をあないにはっきり覚えていながら、いちばんかんじんな、ひょっとすると、これからさき殺されるかもしれんちゅう娘のことだけ、忘れてたちゅうのはこらまたおかしい」
「ですから、しきりに自分もぼけてるってえことを強調しましたね」
「畜生ッ、あのくそったればばあ!」
と、磯川警部は思わず大声で悪たれを吐いたが、すぐ気がついたようにあわててあたりを見まわすと、きゅうに声をひくくおとして、
「それじゃ、金田一先生、あの隠居がこんどの事件になにか関係があるとはお思いんさるかな」
「いいえ、それはないでしょうねえ」
と、金田一耕助はゆっくり首を左右にふって、
「げんに、ゆうべあのひとはたしかにわれわれにあの手毬唄の話をしようとしてましたよ。それをこちらがうかつにも大空ゆかりに気をとられて、チャンスを逸してしまったんでしたね。しかし、警部さんもおっしゃったとおり、これほど重大なことなんですから、ひとづてにもせよ、われわれに知らせてくれるべきでしたね。それをしなかったというのは、人間も、あれくらい生きのびると、そうとう人が悪くなってるんじゃないでしょうか。人が悪いというよりも是非善悪から超越してるとでも申しましょうか、お庄屋さんとじぶんの孫娘とふたり、手毬唄のとおり殺されている。ひょっとするとこんどは秤屋の娘のばんじゃないか。よしよし、それならじぶんのほうでも痛い目をしたのだから、秤屋にもおなじ痛い目をさせてやろう……それくらいの気持ちじゃないでしょうか」
「なるほど、なるほど」
と、磯川警部は大きくうなずき、
「ところがはたして秤屋の娘も手毬唄どおりに殺されよった。と、すると、もうひとりねらわれてるのがあるはずじゃけんど、そいつはおあとのお楽しみにとっとこうと……」
「そうそう。あの隠居、ちょっと妖怪味をかんじさせるところが、なきにしもあらずですからね」
「妖怪ばばあか。あの年で一家の経済を敦子にまかせず、財布の|紐《ひも》をちゃっかりおさえとるちゅうばばあですけんな。だけど、そうすると金田一先生、手毬唄にあるもうひとつのなになに屋にも、としごろの娘があるちゅうことになりますね」
「そうです、そうです。それがなかったらあの婆さん、三番目の娘もあそこで発表したんじゃないでしょうか」
「しめた!」
と、磯川警部はポンと大きくかしわ手をうって、
「そいつがわかったら、そこへ網を張るちゅう手もできてくる。金田一先生、こらまた貴重なことをおしえてつかあさった」
大感激の磯川警部は、肉のあついてのひらで、金田一耕助の手を握って大きくふった。
「なるほど」
と、金田一耕助は首をかしげて、
「そういう手があるとしたら、……さきほど申し上げた村じゅうに手をまわして、という言葉はとりけしましょう。これは辰蔵さんのおふくろさんにでも、こっそり相談してごらんになるんですね」
「承知しました。それじゃ、こんや秤屋のお通夜をはやめに切りあげて、もういっぺんゆかりのところへいこうじゃありませんか。それともお通夜をすっぽかしてもええが……」
「ところがわたしは、秤屋のお通夜へも出てみたいんですよ」
「と、おっしゃると……?」
「ひょっとすると、鳥取のほうから文子の生母の咲枝というひとがきてるんじゃないかと思うんです」
「あっ!」
と、警部はするどく舌打ちして、
「そら、そうです! そら、そうです! 午前中に電報打っとけば、こんやのお通夜に十分まにあいますけんな。こら先生のおいいんさるとおりじゃ。それじゃ金田一先生、そろそろ秤屋のお通夜へいてみようじゃありませんか」
「ああ、警部さん、ちょっと待って」
「金田一先生、なにか……?」
「いや、あの山椒魚はまだいるかどうか……」
台所へ出て|水《みず》|瓶《がめ》のなかをのぞいてみると、そこにはまだあの醜怪な動物がぶきみな肌に底光りをみせて、まるで冬眠でもしているかのようにぴたりと静止してうごかなかった。
「こういう動物は|餌《えさ》がなくとも案外生きているもんですね」
「そうそう、金田一先生」
と、磯川警部はさぐるように金田一耕助の横顔を見ながら、声をひそめて、
「あんたはこの動物にひどく興味をもっておいでんさるようじゃが、こいつがなにかこんどの事件に関係があるとでも……」
金田一耕助はゆっくり首を左右にふって、
「いや、いまのぼくにはまだわかりません。しかし、放庵さんがこの動物をつかまえてきたのは、ちょうど事件が起ころうとしていたやさきのことなんです。と、すればなにかこいつも事件に一役かっているんじゃないかと……」
ふたりはしばらく無言のまま、水瓶の底で身動きもしないでいるぶきみな動物を見つめていたが、
「こいつを食うとひどく精力がつくということだが……」
と、つぶやく警部の言葉をききながら、金田一耕助は水瓶に蓋をして、
「さあ、それじゃ、警部さん、まいりましょう」
金田一耕助の予想はやっぱり的中していたのである。
仁礼家のお通夜はゆうべの由良家のお通夜にもまして盛大なもので、金田一耕助と磯川警部が合い乗りの自転車をのりつけた七時ごろには、さしもにひろい仁礼家の玄関も、脱ぎすてた履き物でうずまって、足の踏み場もないくらいであった。
ふたりがなかへ入っていくと、玄関の受付にいた歌名雄が、
「あ、金田一先生も警部さんも、どこへいておいでんさりました。さっきからここのおじさんが捜しておいでんさりましたよ」
「ああ、そう。それじゃ歌名雄君、わしらがきたこと取り次いでつかあさい」
「承知しました」
ここもおさだまりの三間ながれだが、由良家とちがってお通夜の晩から、全座敷ぶちぬきの大広間に、ぎっちり客がつまっていて、玄関わきから縁側へあがったとたん、むっとするようなひといきれと、うだるような暑さであった。
ふたりが縁側をとおって上の十畳へはいると、ここのお壇の立派さははるかにゆうべの由良家をこえ、お供えものの数も多く、かつ豪勢をきわめていた。
磯川警部がふたり連名でつつんできた香典をさしだし、金田一耕助とならんで線香をあげていると、そこへ直平が羽織袴でやってきて、
「金田一先生も磯川警部さんも、よう線香を供えてやってつかあさりました。おやじに代わってあつくおん礼申し上げます」
「ああ、いや、……いま歌名雄君に聞いたんじゃが、お父さんがわれわれを捜しておいでんさったと……」
「はあ、さっきからお待ち申しております。お|斎《とき》もべつに用意してござりますけん……路子、おまえご案内申し上げなさい」
「はい、それじゃおふたりとも、こうおいでなされませ」
ぎっちりつまったお通夜の客に、ひざくりあわせてもらって大広間をぬけると、由良家とおなじく渡り廊下があり、それをわたるとそこに離れ座敷が三間あった。こちらの離れ座敷は由良家とはまたいちだん立派で、十畳に八畳|二《ふた》|間《ま》という手広さだし、それが全部|襖《ふすま》をとりはらってあるので、うだるような大広間からこちらへくると、ほっと大きな息がつける思いである。
その十畳の座敷に二の膳つきの本膳が四つでており、金田一耕助と磯川警部が、床の間をせおうたふたつの膳にむかって|坐《すわ》らされたところへ、奥からあるじの嘉平が四十四、五とも思われるきれいな婦人といっしょにあらわれた。この離れ座敷のおくに、まだまだ部屋があるらしい。
「ああ、こりゃ金田一先生も磯川警部さんもようおいでんさりました。さあ、さあ、そのまんま、そのまんま」
と、嘉平は如才なく|挨《あい》|拶《さつ》をすると、
「路子や、おまえはむこへいておいで。ただしお|燗《かん》のほうはよろしくたのむぞな。このお客さんでは手を鳴らしても聞こえんじゃろけんな」
「はい承知しました。それでは、金田一先生も磯川警部さんも」
「はあ」
「ごゆるりとしてつかあさりませ」
と、路子が三つ指ついて立ち去ると、
「それじゃあなあ、先生も警部さんもこんやは仏のためにもゆっくり飲んでやっていただきたいんじゃけんど、そのまえにひとつこれに会うてやってつかあさい」
と、連れの婦人をふりかえると、
「これは咲枝ちゅうてな、わたしにとってはいちばん末の妹ですんじゃ。咲枝、こちらがいま話して聞かせた金田一先生と磯川警部さんじゃ。おまえからもようご挨拶をしておきなさい」
「はい」
と、喪服すがたの咲枝はそこへ手をつかえると、
「はじめてお眼にかかります。わたしがこんやの仏の母の咲枝でございます」
いいもおわらず咲枝はわっとその場に泣き伏した。
暴露の第二夜
咲枝はひと泣きしたあとで涙をぬぐいおさめると、
「たいへん失礼いたしました。お眼にかかるとそうそう、見ぐるしいところをお眼にかけておはずかしゅうございます。もう泣きませんけん、ふびんなあの娘のかたきをうってやってつかあさりませ」
もう泣かぬという口のしたから、またしてもせぐりあげてくる|嗚《お》|咽《えつ》を、咲枝はやっとかみころしている。
「いや、なあ、金田一先生と磯川警部さんも……」
「はあ」
「これがこがいに泣くのも、むりはございませんのです」
と、嘉平がそばから取りなすように、
「ふびんといやあ死んだ文子もふびんですけんど、後に遺されたこれがふびんでしてなあ。とうとう親子の名のりもせんうちに、こがいなことになってしもうて。……わたしとしてもそればかりが心残りでなりませんのです」
と、嘉平も鼻をつまらせて、眼をしばたたいていたが、きゅうに気がついたように、
「いや、まあこれはしたり、わたしとしたことが……わけもお話しせんうちからこないな愚痴をお耳にいれて、おふたりともさぞやお困りでございましょう。さあさあ、どうぞおひとつ、ゆっくりめしあがりながらこれの話を聞いてやってつかあさい」
と、|銚子《ちょうし》をとってふたりにかわるがわる|酌《しゃく》をすると、
「なんにもございませんけんど、ほんのお口よごしのおつもりで、どうぞご遠慮なく|箸《はし》をおつけんさって……咲枝、ほら、警部さんにお酌を……」
「ああ、いや、これは恐縮……」
と、磯川警部はなみなみとつがれた杯に、ちょっと口をつけてそこへおくと、
「そうすると、なんですか、こんどあないなことにおなりんさった文子はんちゅうのんは、やっぱり世間の評判どおり、嘉平さんのお子さんやのうて、この妹ごの……?」
「はあ、さようでござりますんじゃ。こうなったらなあ、金田一先生」
「はあ、はあ」
「恥じゃの外聞じゃのというとる場合じゃございません。これも覚悟をきめとるちゅうとおりますけん、なにもかも洗いざらい申し上げます。金田一先生もひとつよう聞いてやってつかあさい」
「はっ、それでは聞かせていただきましょう……」
と、金田一耕助が酌をしてやると、嘉平は両手で杯をいただき、ぐっとひと息に飲みほしたのち、ひとひざまえにゆすりだした。
「これをまえにおいて、兄の口からいうのもおかしな話ですけんど、この咲枝ちゅうのんはきょうだいじゅうでいちばん頭がようてな。わたしら七人きょうだいに生まれたんですけんど、さっき由良家のおとむらいの席でも申し上げたように、わたしのうえの姉の富貴子、この姉が幼いときにのうなりましたもんじゃけに、そだったのは六人でした。その六人きょうだいのなかでも、末っ児のこれがとくべつ頭がようて、学校もようできましたんじゃ。それですけん、総社の女学校を出ましたとき、これもたってと希望しますし、学校の先生なんかも、こないにようできる子、女学校だけではもったいないなどと、けしかけなさるもんですけん、ついおやじもその気になって神戸へ預けたんですん。さいわい神戸にわたしのすぐしたの妹の|次《つぎ》|子《こ》いうのんがお嫁にいておりましたもんじゃけに、そこへ預けてJ学院の専門部へいれたんです。あとから思えばそれが大間違いのもとで、いかに頭がええちゅうたところで十九やはたちの世間しらず、都会へいけばそういうおぼこ娘を|鵜《う》の眼、|鷹《たか》の眼で物色している色魔みたいなもんがおるちゅうことは、百も承知、二百もがってんでいながら、親ちゅうもんはばかなもんで、うちの子にかぎってちゅうことになりますんじゃ。それでこれが神戸へ預けられたんが、昭和六年の春でした」
と、嘉平どんは長話のとちゅうでひと息いれると、かわるがわる金田一耕助と磯川警部に酌をし、ついでにじぶんも置き注ぎをすると、
「ところがその翌年、昭和七年の暮れでしたな。こっちへ帰省してくるとき、これの姉の次子がいっしょについてきよって、監督不行きとどきでまことに申しわけないが、咲枝ちゃんがどうやら妊娠しとおるらしいと、打ち明けられたときのおやじやおふくろのびっくりちゅうたらなあ、警部さん」
「ふむ、まあ、そら、そうでしょうなあ」
「なにせ末っ児だけに両親にとっては、眼のなかへいれても痛くないちゅうのんがこれでしたんじゃ。おまけに女の身で女学校よりうえの学校へいてるもん、ここらあたりにゃひとりもおりゃしません。器量じゃかとてまんざらではなしちゅうわけで、おやじもおふくろもこれのこととなると鼻たかだかでしたんじゃ。それがあろうことかあるまいことか、どこの馬の骨とも牛の骨ともわからんもんのタネやどしてかえってきよったもんじゃけん、ふたりとも腹めいで[#「腹めいで」に傍点](落胆する)しまいましてなあ」
「ふむ、ふむ、そら、まあなあ」
と、磯川警部は両親に腹をめがした当の本人、咲枝の酌でのみながら要領よくどっちつかずの相づちをうっている。
「ところがわたしですがなあ、金田一先生」
「はあ、はあ」
「これとわたしとでは十七も年がちがいますんじゃ。きょうだいも十七も年がちがうと、妹ちゅうより娘みたいなもんで、これが生まれたときにゃ、わたしが負うたり抱いたり、どうかすると、おしめかえてやったりしたこともありますんじゃ。それだけにわたしにとってもいちばんかわいい妹ですじゃろう、それがそないな不始末をしてかえってきよったもんじゃけに、そらもう腹が立って腹が立ってなあ、磯川はん」
「いや、まあ、そら、ごもっとも」
「と、いうて、腹に子をもってるもんをむごたらしゅう|折《せっ》|檻《かん》するわけにもいきませず、それにもう子供までできてしもたもんしょがない。そないに|惚《ほ》れ|合《お》うた仲なら夫婦にしてやるけんと、みんなでよってたかってあいての男の名まえを聞いたんですけんど、そればっかりは絶対いえんちいますんじゃ。それいうくらいじゃったら舌かみきって死んじまうちゅうてなあ、そらまあ、あないにてこずったことありゃしませんでした」
「ふむふむ、なるほど、それで……?」
と、磯川警部がふりむくと、金田一耕助はうつむいて、無言のまま|鯛《たい》の焼き物をつついている。たぶん咲枝を直視することを避けようという配慮であろう。
「それで、なにせこれが口をわらんもんですけんな、こんどは|鋒《ほこ》|先《さき》をかえてこれの姉の次子を責めてみたんですけんど、これがまたぜんぜん心当たりがないちいますじゃろう。これじゃもうお話にもなんにもなりゃしません。と、いうて放ったらかしとくわけにもいきませず、結局、子供が生まれたらわたしの子にして育てよちゅうわけで、さいわい昨年のうなったわたしの家内の里ちゅうのんが、城崎で温泉旅館をしておりますもんじゃけん、そこへ家内とこれを預けまして、さて生まれたのんがあの文子で、昭和八年五月四日のことでした。まあ、そうしていちおう世間態はとりつくろうたもんの、都会とちごうて田舎は世間がせもうございますけんな、いつのまにやら文子は嘉平の娘じゃない。あれは咲枝の腹に生まれた|父《てて》なし児じゃちゅうことが、村のもんにしれわたってしもうて、文子もおいおい年ごろになるにつけ、いつもそれを苦に病んで、肩身のせまい思いをしていたのが、いま思い出してもふびんでしてなあ」
と嘉平が鼻をつまらせれば、咲枝もまたハンケチをかんで嗚咽をかみころす。
あとで聞いたところによると、咲枝はそういう前科も承知のうえで鳥取のほうへ嫁にもらわれていったが、そこでは良人に愛されて、子供もげんざい三人あるという。しかし、咲枝にとって|夢《む》|寐《び》にも忘れることのできないのは、不幸に生まれた文子のことであったろう。私生児としてうまれ、肩身のせまい思いをしつづけてきたあげく、女としての開花の時機をも待たで、むざんに散った薄幸の娘のことを思えば、断腸のおもいに胸がついえるのもむりはないであろう。
「さいわい兄さん姉さんが、ほんとのわが子のようにかわいがってつかあさったし、直さんにしろ勝っちゃんにしろ、みんなよう出来ておいでんさるし、それに近ごろはまた兄さんから、ちかいうちにええ婿もたせるから安心せえというてきてつかあさったので、わたしはなんべんこっちゃのほうへ、手を合わせて拝んだかしれませなんだんですよ。それがこないにきょうといことになってしもうて……」
咲枝が嗚咽の声をのみながら、またしても愚痴になるのもむりはない。
「まあええ、まあええ。おまえにそないに泣かれると、わしゃもつろうてかなわんわ。それにお客さんじゃかとて、せっかくの酒がまずうおなりんさる。さあ、もう泣くのはそれくらいにしときんさい」
「すみません。わたしなんにも兄さんに、当てつけていうとるんやございませんのんよ。あんまり悲しゅうございますけん、金田一先生や磯川警部さんに、ようくかたきを討っていただこうと思うてなあ」
「ああ、いや、それについてお尋ね申し上げたいんじゃが……」
当然のこととは同情しながらも、咲枝の愚痴と涙をさっきから、いささかもてあましぎみだった磯川警部は、その機会にひざをのりだすと、
「いまのお話で文子はんの誕生のいきさつはだいたいわかりましたけんど、それで文子さんの|父《てて》ごというのは……?」
「さあ、それですんじゃ、警部さん」
と、嘉平は大きな眼でまじまじと金田一耕助と磯川警部の顔を見くらべながら、
「聞けばゆうべ由良家のお通夜で、敦子さんからおふたかたに、なにか|密《みつ》|々《みつ》のお話があったらしいちゅう話ですけんど、金田一先生、なにかそないな話は出ませんでしたか」
「はあ、いや、それはうかがいました」
「文子の|父《てて》|親《おや》についても……?」
「はあ」
「敦子さんはそれについて、どないいうておいでんさりました」
「さあ、あの、詐欺師の恩田幾三じゃないかと……」
嘉平はちらと咲枝のほうへ眼くばせすると、
「ああ、やっぱし、あのひとは知っておいでんさったな。しかし、あのひとはいったいだれにそないなこと、聞いておいでんさったんです?」
「ああ、それはな、嘉平さん」
金田一耕助の返事がいかにも苦しそうなので、そばから磯川警部がひきとって、
「お庄屋さんに聞いたちゅうとりましたな」
「ああ、さよで」
と、嘉平はにっこりうなずくと、唇のはしにしぶい微笑をうかべて、
「金田一先生」
「はあ」
「あの手毬唄な、さっき由良のご隠居が歌うてつかあさったあの手毬唄ですな」
「はあ、さあ」
「あれ、ほんまにようでけとるとおみんさい。娘よったがおしゃべり庄屋、あっちこっちでおしゃべり過ぎて、お庄屋ごろしで寝かされたア、寝かされたア……あっはっは」
と、嘉平はのどのおくで皮肉な笑いかたをすると、
「いやなあ、金田一先生」
「はあ」
「磯川警部さんもよう聞いてつかあさい。わたしゃずうっとせんに、やっぱしお庄屋さんから聞いた話ですけんど、こんど殺された泰子ちゅう娘ですなあ。あれがやっぱし恩田のタネじゃっと……」
「あれ、兄さん、そないなこと……」
と、咲枝がさっと恐怖の色をうかべたのと、金田一耕助と磯川警部がぎょっとして、はじかれたように嘉平の顔を見直したのとほとんど同時であった。
嘉平はしぶい微笑をうかべたまま、いくらかいたずらっぽい眼つきをして、しばらく金田一耕助と磯川警部の顔を見くらべていたが、やがて咲枝のほうをふりかえると、
「咲枝、安心せえ。わしゃなんにもあのひとに、おまえのことをいわれたくやしまぎれに、そのしっぺえ返しとして、こないなこといいだしたんじゃないんじゃ。わしゃそれほどの子供でもないぞな。そうじゃけんど、ここにこがいなうわさもあるちゅうことを、おふたりさんのお耳にいれておいたほうが、なにかのご参考になりゃせんかと思うもんじゃけに、こうしてここで切り出したんじゃ。おまえはなんにも心配せえでもええ」
「そうです、そうです。嘉平さん」
と、磯川警部はまだおどろきのさめやらぬ面持ちで、ひとひざふたひざまえへゆすり出ると、
「そうすると……いまあんたがおいいんさったことがほんまとすると、泰子という娘とこちらの文子はんは、腹ちがいのきょうだいということに……」
「いや、いや、警部さん」
と、金田一耕助もひざをガタガタ、はげしく貧乏ゆすりをしながら、
「泰子さんと文子さんばかりじゃありませんね。大空ゆかりという娘も……」
「ああっ!」
と、磯川警部は口のうちでするどく叫び、まなじりも裂けんばかりの顔色で、金田一耕助から嘉平どん、さらに咲枝の顔と順繰りに見すえている。咲枝は唇のいろまであおざめて、あきれたようにしいんと黙りこんでいる。ほおがザラザラにそそけだって、肩がこまかくふるえているところをみると、咲枝にとってもこの話は初耳だったらしい。
「じゃけんど、嘉平さん、それなにか根拠のある話ですじゃろうなあ」
と、さすがに磯川警部のまなざしにも、きらりと鋭いものが光っている。
「お庄屋さんにとっては、なにかたしかな根拠がおありんさったんでしょうな。もっとも子供の父親をはっきりだれとしってるのんは、母親しかないいいますけん、お庄屋さんも泰っちゃんという娘が、たしかに恩田のタネじゃというような根拠はもっておいでんさったかどうか、そら疑問ですけんど、ただ、お庄屋さんは恩田という男と敦子さんとのあいだに、醜関係があったちゅう、そのほうの根拠はもっておいでんさったらしい。そうなると、あそこは四人きょうだいですけんど、いちばんうえの敏郎はんがかぞえ年でことし三十五、それから戦死した次郎はんちゅうのんが、生きていたらことし三十三、それから姫路へ嫁にいておいでんさる房子さんちゅうのんが三十一と、一年おきに三人生まれたあとプッツリあいだがとだえて、八年目に生まれたのがあの泰っちゃんですんじゃ。きょう文子のことで役場へいたついでに、由良家の戸籍を調べてみたら、房子さんの生まれたんが大正十三年の三月七日、それから七年おいて八年目の昭和八年四月十六日ちゅうのんが泰っちゃんの誕生日ですんじゃ。そらなあ、金田一先生」
「はあ」
「世間には八年目はおろか、十何年目にかひょっこりあとが生まれるちゅうことも、まんざらない例ではごわせん。わしらの親戚にもそういうのんがありますけんど、八年目にひょっこり生まれた泰っちゃんがあの器量じゃ。親きょうだいのだれにも似ておらず、しかも、恩田と関係があったとすると、恩田のタネじゃないかとお庄屋さんがお疑いんさったんも、むりはないような気がするもんですけんな」
「そうすると、恩田と関係があったちゅうことについては、お庄屋さんはなにか根拠をもっていたらしいとおいいんさるんですな」
と、磯川警部がするどく突っ込むと、
「そうです、そうです。それをまたお庄屋さんがいつ、どういう機会にわたしに話してつかあさったかちいますと……」
と嘉平はてれくさそうににやにやしながら、大きな掌でつるりとおのれの顔をなでると、
「こら、また、咲枝のまえでどえらい話になってきよりましたが、罪ほろぼしになにもかもお話ししましょ。金田一先生にはこないだお話し申し上げましたけんど、いちじわたしと敦子さんがええ仲になっとおりましたんじゃ。卯太郎はんが亡うおなりんさって一年ほどのち、昭和十一年ごろのことでしたけんどな。そのとき、むこうもむこうじゃが、わたしも熱うなりましてな、村の評判もものかはと、あのひとと忍び|会《お》うておりましたんです。これにはおやじもおふくろも気をもんで、いろいろ意見をしますけんど、両親にしてみると文子というもんをわたしの子にしてある。こがいなことをいうと咲枝がかわいそうですけんど、両親にしてみると、やっぱし、それだけわたしにひけめがありますんじゃ。いいたいことの半分もよういわぬ。それをええことにしたわけじゃございませんけんど、わたしがまあ、あのひとに、のぼせあがっとおったとおみんさい。そのさい、おふくろの嘆きをきいてお庄屋さんが、よし、そんならわしにまかせとけというわけですじゃろう、わたしのところへ意見にきてつかあさったんですんじゃが、そのとき、これはこの場かぎりの話で、たとえあいてがおまえの両親でも、絶対にしゃべってはならんぞというまえおきで、聞かせてつかあさったんがいま申し上げたお話ですんじゃ。いや、それを聞いたときのわたしのおどろき……こがいなことをいうと|目《め》|糞《くそ》|鼻《はな》|糞《くそ》を笑うのたぐいじゃっと、おさげすみんさるかもしれませんけんど、わたしの場合はむこうが後家になってからのことじゃ。それに反してお庄屋さんの話がほんまとすると、あのひと|良人《お っ と》ある身で姦通しとったちゅうことになる。それだけでもむねくそが悪いのんに、こっちにも恩田という男のタネを娘にしてある。むこうも恩田のタネを生みおとしたとすると、このままふたりが乳繰りおうていて、もしそのあいだに子供でもでけたら、こらまた、どがいにややこしいことになりよるんじゃっと、そう思うとむねくそが悪いやら、けったいくそが悪いやらで、百年の恋もいっぺんにさめはてたちゅうわけですんじゃ」
と、長広舌をおわった嘉平はさすがにうすくほおをそめて、
「なあ、金田一先生」
「はあ」
「このようなことを洗い立てるちゅうのんは、むこうさんがご婦人だけにむごいことじゃっちゅうことは、わしらだってようわきまえとおります。そうじゃけんど、恩田のおとしダネがふたりまで殺されたちゅうところに、こんどの事件の|謎《なぞ》があるんじゃないかと思いましたもんじゃけん、こうして心を鬼にしてお耳にいれたしだいです。それですけん、もしそのことがべつに関係がないようじゃったら、いまの話は聞かなんだことにしてつかあさい。咲枝、おまえもそのつもりでな」
と、さすがに嘉平はいきとどいた心遣いをみせて念を押した。
金田一耕助神戸へいく
「いや、お気持ちはよくわかっております」
と、金田一耕助はあらたまって、
「それでそのときお庄屋さんは、恩田と敦子奥さんとの関係について、なにか具体的な話を……?」
「いや、おっしゃりかけたんですんじゃ。ところがこっちゃはむねくそが悪いやら、けったいくそが悪いやらで、かあーッとしてしもて、そんないやらしい話聞く耳もたんちゅうわけで、お庄屋さんを追いかえしてしまいましたもんじゃけんな。そうじゃけんど、いまになって思いあたるのんに……」
「いまになって思いあたるのんに……?」
と、磯川警部があとをうながすと、嘉平はうすくほおをそめて苦笑しながら、
「いや、それはこうですんじゃ、えらいけんまくでお庄屋さんを追いかえしはしたもんの、あとでつらつら考えると、恩田のことの真偽はともかく、こら、やっぱし、きれいさっぱり手を切ったほうがええかもしれんと、そこでまあ別れる決心をしたわけです、決心はしたもんのさてそれをどがいに切りだしたもんかと、わたしにとってはそれがひと苦労じゃったんですん。なにせこっちものぼせとおりましたけんど、むこうの熱も高かったもんですけんな。と、いうて男の口からうそかほんまかわかりもせんことを、いちいちいいたてるわけにもいきませずなあ。ところが案ずるよりも産むが易いとはあのことで、おっかなびっくりで切り出してみたところが敦子さんのほうでもすぐ賛成おしんさったんです。男ちゅうもんは勝手なもんで、そうなると拍子抜けしたような、いまいましいような、おかしな気がしたんをいまでもよう覚えとおります。わたしとしてはやっぱし胸倉のひとつもとって、やいのやいのといわれたかったんでしょうな。あっはっは、いや、冗談はさておいて、敦子さんが文子の父親をしっておいでんさったとすると、やっぱしそのときお庄屋さんにお聞きんさったんじゃないかと、いま思いあたったんですんじゃ。お庄屋さんがいかにおしゃべりでも……いや、ほんまのところあのかたは、それほどおしゃべりなかたじゃなかったんですけんど、かりに手毬唄のようにおしゃべりなかたじゃったとしても、なんのきっかけもないのんに、そがいなえげつない告げ口をおしんさるかたとは思えませんけんなあ」
「そうすると、あなたに敦子さんを思いきらせるために泰子さんの素性について……あるいは素性に関する疑惑をうちあけ、いっぽう敦子さんには敦子さんで、文子さんの素性を話して、あのひとにあなたをあきらめさせたんじゃないかとおっしゃるんですね」
「そうです、そうです、そのとおりです。お庄屋さんちゃうひとは、ひとつまがると手におえんかたでしたけんど、根は親切で世話好きなおかたでしたけんな。なんちゅうても、わたしと敦子さんがそげえな関係つづけてるちゅうことは、村の若いもんにもしめしがつきませんけに、それを心配してつかあさって、そういう非常手段をおとりんさったんじゃないかっと、いまにして思いあたるわけですんじゃ」
「なるほど、ようわかりました」
と、磯川警部は張子の虎のように首をふりながら、
「そうすると、泰っちゃんのほうにはいくらか疑問があるとしても、文子はんが恩田のタネじゃったということには、もう間違いはないんですな」
「はあ、そらもう文子を産みおとしたこれがいうことですけんな。それをいつ打ち明けたかといいますと、あの子をわしら夫婦の子として入籍するとき、もう怒りもせんし、しかりもせんけに、せめて父親の名前くらいきかせてほしいちゅうてこれをくどいたら、やっと打ち明けてくれましたんじゃ。いや、もう、そのときもびっくりしましたが、なんでも話を聞くと、こっちゃから神戸へいく汽車のなかで話しかけられ、それからまあ、だんだん誘惑されよったんですな。なにせそのじぶんはあの男、こっちゃへくると由良はんのうちへ泊まっとおりましたでしょう。それに当人も敦子さんの親戚じゃいうとったそうです。敦子さんの親戚なら、家柄からいうても申し分ないし、それに学校も神戸の高商出てるなんどと……つまり、まんまと口車にのせられよったんですな」
それから誘惑にのっていった手順を、嘉平がかわって話すのを、さすがに咲枝も面目なさそうに聞いていたが、もう顔をあからめたり、涙をみせたりするようなこともなかったのは、娘のかたきをうってもらいたいいっしんから、覚悟をきめているのだろう。
「なるほど、ところでねえ、奥さん」
「はあ」
「それは兄さんから聞いていらっしゃるかもしれませんけれど、ここにいられる磯川警部さんですね、このかたはかねてから昭和七年の事件について、強い疑惑をもっていらっしゃるんです。つまり殺されたのは亀の湯の源治郎さんじゃなくて、恩田のほうじゃないかって」
「はあ、そのことならさっきも兄さんからうかがいましたけんど……」
「あなた、それについてどうお思いになりますか」
「そないにおいいんさっても、わたしらみたいなもんにはようわかりませんけんど、あないに完全にゆくえがわからんようになってしもうたいうのんは、いまから考えてみるとおかしゅうございますわねえ」
と、咲枝はおびえたようにしいんとした眼つきになる。嘉平はひとひざゆすり出て、
「そうですけんどなあ、警部さん、そらおんなじことじゃごわせんか」
「おんなじことちゅうと……?」
「いえ、殺されたんが恩田で、殺して逃げたんが亀の湯の源治郎じゃったとしても、源治郎があない完全にすがたをくらましたちゅうのんは、やっぱし不思議じゃありませんかな」
「いや、それは、旦那、ちがいましょう」
そばから金田一耕助がおだやかに言葉をはさんだ。
「ちがうとおいいんさると……?」
「あの場合、恩田を犯人として全国に手配してございましょう。ですから源治郎が犯人だったとしたら、全国にくばられた人相書きや、写真とちがっているわけですね。ですから犯人が源治郎の場合のほうが、恩田より逃げやすいというわけです」
「あ、なるほど」
と、嘉平は大きくうなずいて、
「そうすると、警部さんが犯人は源治郎のほうじゃないかちゅうお疑いをもたれたんは、いつごろからのことなんです?」
「いや、それはあまりにも完全に恩田がすがたをくらましよった。それですけん、ひょっとしたら、あのとき殺されとったんが恩田のほうじゃなかったかと思いはじめたんで。そうですけん、事件よりも三か月も四か月もあとのことでしたなあ」
「なるほど、しかし、警部さんはそのときあらためて、源治郎のゆくえ捜索について手配はおしんさらなんだんで……?」
「それがなあ、当時はわたしもまだ若うて下っ端でしたけんな。捜査会議の席でいちおう主張したことはしたんですけんど、お取りあげにならなんだちゅうわけです。それに源治郎の写真が一枚でものことおったら、わたしもなんとか手を打ったんですけんど、それがあいにく一枚もなかったもんですけんな」
「あっ」
と、金田一耕助はおどろいたように磯川警部をふりかえって、
「源治郎の写真が一枚もなかったんですか」
「はあ」
「しかし、それはおかしいじゃありませんか。源治郎というのは神戸でも、飛ぶ鳥落とすくらいの人気弁士だったというんでしょう。その写真が一枚もないというのは……?」
「いや、いや、それじゃからこそ写真が一枚もないわけです。源治郎の両親ちゅうのんがとっても物堅い人間でな、せがれが活弁やっとったちゅうについて外聞を悪がっとおったんですな。それですけん、こっちゃへ引き揚げてくるとき、みんな写真焼きすててきたちゅう話です」
「なるほど」
と、金田一耕助はしばらくだまって考えこんでいたが、きゅうに咲枝のほうへ視線をむけると、
「奥さん」
「はあ」
「あなた神戸で源治郎にお会いになったことありませんか」
「いいえ、いちども……」
「いや、いや、直接お会いにならないまでも、同郷のよしみで映画の説明を聞きにいくとか?」
「いや、ところが金田一先生、それがそうじゃごわせんので……」
「そうじゃないとおっしゃると……?」
「亀の湯のせがれが活弁やっとったちゅうことは、源治郎が殺されてからはじめて村のもんにわかったんですんじゃ。いま磯川はんもおいいんさったとおり、亀の湯の先代ちゅうのんがひどく物堅い人間でしたけんな、外聞を悪がって、せがれが映画の弁士しとおるちゅうことは、ひたかくしにかくしておりましたんじゃ。それですけん、源治郎が殺されてから、神戸で人気弁士じゃったちゅうことがわかったときには、みんな二度びっくりしたくらいですけん、これなんどがしろうはずはごわせんな」
「ああ、そうですか。そうですか」
と、金田一耕助は袴のひざをたたいて苦笑した。
きのう酸っぱいやつを一杯ひっかけた辰蔵が、調子にのってべらべらと、活弁のまねなどしてみせたので、てっきりそのことは源治郎の生前から、村じゅうにしれわたっていたこととばかり、勘ちがいしていたじぶんに気がついたからである。
「こがいなことをいいますとなあ、金田一先生」
「はあ、はあ」
「封建的じゃとお笑いんさるかもしれませんけんどな、昔……つまり終戦前まではああいう商売、つまり亀の湯のような湯治宿ですな、ああいう湯治宿などしとおるもんを、いちだん階級がさがったもんと、ここらの百姓は|軽《けい》|蔑《べつ》したもんですんじゃ。ところが亀の湯の先代というのが、えろうまた気位のたかい男でしてな、弱味をみせまいみせまいと、いつも気張っとったもんです。それだけにいっそう、せがれが活動弁士になっとるちゅうことを、ひたかくしに、かくしとおったんですな。じっさい青柳史郎たらいうて、関西でも指折りの人気弁士じゃったとわかったときにゃ、わたしなんかも開いた口がふさがらんくらい、びっくりしたもんです」
「その源治郎というひとは、小学校を出るとすぐ村を出ていったという話ですが、旦那なんかそのひとを覚えておいでになりましたか」
「いや、それがとんとなあ。ああいう事件があったので、はじめて亀の湯にそがいなせがれがあったかいなちゅうくらいのもんで、まるっきり忘れてしもうとりましたな。小ちゃいときは陰気な、学校でもひとめにつかん子じゃったそうです。それですけん、そういう子がいつのまにやら人気弁士になっとったちゅうんで、いっそう、みんなびっくりしたちゅうわけですんじゃ」
「しかし、旦那」
と、金田一耕助は嘉平と磯川警部の顔を見くらべながら、
「亀の湯の源治郎が恩田のところへ乗りこんでいったのは、おたくのご先代がけしかけたせいだというじゃありませんか」
「へへえ?」
と、嘉平は眼をまるくして、
「だれがそがいなこと、いうとるんです?」
「いや、ここにいらっしゃる警部さんからおうかがいしたんですけれどね」
「ああ、警部さん、そら|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》です」
と、嘉平は言下に打ち消して、
「なるほど、つまり由良はんのほうで村のもんにおすすめんさった、モールの内職がうまくいっとるんで、うちのおやじがヤキモチやいて、源治郎はんをたきつけたとおいいんさるんで……?」
「ああ、いや、あの当時そういう風評をきいたもんですけんな」
「それじゃったら、警部さん、そらだれかの創作でしょうなあ。うちのおやじというひとは、そら、仕事のでけるひとでしたけん、ふつうの人間よりは強引なとこのあるひとでした。しかし、いっぽうまがったことは大きらいという頑固おやじで、およそひとさまのお仕事に水をさそう、茶々いれようなんどということは、はたからすすめられても、でけるひとじゃごわせんでした。論より証拠、あの事件の起こったさい、亀の湯にそがいなせがれがおったんかと、おやじなんどもびっくりしとったひとりですけんな」
「ああ、いや、こら失礼しました」
と、磯川警部がいささかてれると、
「いや、いや」
嘉平は|虚《きょ》|心《しん》|坦《たん》|懐《かい》に手をふって、
「そういえばあのじぶん、なにかというと、由良はんとうちとが|角《つの》|目《め》|立《だ》っとるように思われとったんですけんど、由良はんのほうはともかく、おやじはもう仕事いっぽうのひとでしたけんな。だけど、おやじの弁解はまあ、これくらいにしときましょ。金田一先生、なにかほかにご質問は……?」
「ああ、そう、それじゃ奥さんにもうひとつお尋ね申し上げたいんですが……」
「はあ」
「たいへん失礼なことをお尋ねするようですけれど、その恩田という人物ですがね。そのひとに、なにか肉体的な大きな特徴……と、いうようなものはなかったですかね。たとえば、外見からではわからないが、人一倍毛深かったとか、右手が左手よりながかったとか……」
金田一耕助の質問に、さすがに咲枝はほんのりまぶたを染めたが、それでも悪びれた色はみせずに、
「それがなあ、金田一先生」
「はあ」
「ほんまにきまりが悪いお話ですけんど、そのひととわたしのあいだに、子供ができるような交渉があったんは、たった三べんだけですのん。たった三べんでみごもったなんて、まるで弁慶さんみたいですけんど、これほんまの話ですんよ。それですから、まだしみじみと打ち解けるというとこまでは、いてなかったわけですわねえ。ですから、先生にそうおっしゃられても、わたしにはあんじょう返事を申し上げかねますんですけんど、そないなお話やったらわたしより、ゆかりちゃんのお母さんのほうが、ようご存じやありませんでしょうか」
「ああ、そう、いや、よくわかりました。それじゃあとで、ゆかりさんのお母さんにお尋ねしてみましょう」
うわさをすれば影とやらで、ちょうどそのとき広間のほうから「枯葉」を歌う声が聞こえてきたので、金田一耕助と磯川警部は思わずぎょっと顔見合わせた。
「まあ、あれは……?」
期せずして一同は、しいんとその歌声に耳をすましていたが、やがてそう尋ねた咲枝の声はおびえたようにふるえていた。
「大空ゆかりじゃろう。そういえば、ゆうべも由良家のお通夜であの娘が歌うたそうなが……」
「やっぱりあの唄でしたな」
「まあ!」
と咲枝は瞳をうわずらせたまま、呼吸をのんでその歌声に耳をすましていたが、やがてたまりかねたようにハンケチを眼におしあてて、
「ゆかりちゃんは、あのかたは……なんにもご存じないんでしょうなあ。三人とも腹ちがいのきょうだいじゃっということを……」
と、身をふるわせて泣きだした。
金田一耕助はそこでまた、磯川警部と顔見合わせる。
ふたりとも、いまにして思いあたるのである。ゆうべ泰子のお通夜の席で、ゆかりが歌う声を聞いたとき、敦子の瞳にうかんだ、まるでものに|憑《つ》かれたような強いあのかぎろいを……そして、それまで涙ひとすじみせなかった|八《はち》|幡《まん》さんが、ゆかりの唄を契機として、うってかわって、きゅうに涙っぽくなった理由を。……
「ああ、いや、警部さん」
大空ゆかりが「枯葉」のひとくさりを歌いおわって、広間のほうから嵐のような拍手の音が聞こえてきたとき、金田一耕助は眼がさめたように磯川警部をふりかえった。
「せっかくですから、ここでご飯をごちそうになって、そろそろおいとましようじゃありませんか。あなたもいろいろお忙しいのでしょうから」
「ああ、それはそれは……ろくにお酌もいたしませんで。……咲枝、それじゃ路子をお呼び」
「はい」
咲枝はあわてて涙をふいて立ちあがった。
それから四十分ののち金田一耕助と磯川警部は、ゆうべとおなじように、ゆかり御殿の応接室で、春江や日下部是哉とむかいあって坐っていた。ゆかりはまだお通夜からかえっていないのである。
しかし、ここを訪れたふたりのいちばん大切な目的は、もののみごとに外れてしまった。辰蔵のおふくろの松子はもう完全にぼけていて、ただ生きているというだけだった。まだしも亭主の蓼太のほうがしっかりしていたが、これは男のことだから、そんな古い手毬唄など、記憶がないのもむりはない。それに蓼太は他国から流れてきた養子の身分だそうで、覚えているとすればやはり松子のほうだった。
「金田一先生。手毬唄がなにかこんどの事件に関係があるんだそうですね」
応接室でむかいあったとき、日下部是哉も大いに好奇心をもやしていた。
「ほんまに、きょうといことですわなあ」
と、春江も瞳をとがらせている。
「そうです、そうです。それですけんな、奥さん、こちらさんなんども、ゆかりちゃんによう気いつけてあげてつかあさいよ」
「まあ、千恵子に……?」
「それじゃ、ゆかりちゃんも犯人にねらわれてるとおっしゃるんですか」
と、春江も日下部もぎょっとしたようにいすのなかで体をかたくした。
「ああ、いや、なにしろえたいのしれぬ事件ですからね。ゆかりちゃんのようにきれいで年ごろのお嬢さんは、いちおう身辺を警戒したほうがいいと思うんです。ただし……」
「ただし……」
「ゆかりちゃんの身辺が警戒されているということは、犯人にわからせないようにしていただきたいのですが……」
「あら、まあ、わたしどないしましょ」
と、春江は真っ青になって、おろおろ立ちあがると、
「わたしそんならひと走り、あの|娘《こ》をむかえにいってきますわ」
「ああ、いや、ところが奥さん、あなたにはちょっとお尋ね申し上げたいことがあるんですが……」
「ああ、そう」
と、言下に日下部是哉が立ちあがって、
「それじゃ、ぼくが迎えにいってきましょう。ママさん、大丈夫、まだ八時まえじゃないか」
さすがに日下部も真剣なおももちで、
「なんとか口実をもうけて、ゆかりちゃんを連れもどしてきますから、先生がたはごゆっくりと……」
「先生、おねがい申し上げます」
と、極度におびえた春江は眼をうわずらせて、ハンケチをもつ手もわなわなとふるえている。やがて日下部是哉が出ていくと、
「金田一先生、それでわたしにお尋ねとおっしゃるのは……?」
「はあ、たいへん立ち入ったことをお尋ねするようですが……?」
と、金田一耕助が恩田幾三の肉体的特徴について質問すると、春江はだまってしばらく考えこんでいたが、きゅうにはっと顔をあげると、
「そうそう、そうおっしゃればあのひと、足の指がちょっと変わっておりましたわねえ」
「足の指が変わっていたちゅうと?」
と、磯川警部はなにか思いあたるところがあるらしく、ぎょっとしたように身をのりだすと、
「ど、どんなふうに……?」
「はあ、足の中指が両方ともふつうのひとより長いんですの。それですから靴下でも|足《た》|袋《び》でも、すぐそこから破れるって、こぼしていたのを覚えておりますけれど……」
だしぬけに磯川警部がぎょくんといすから立ちあがったので、ふたりは、はっとそのほうへふりかえった。
「け、警部さん、な、なにかお心当たりが……?」
「いや、いや、いや」
と磯川警部はつよく首を左右にふって、
「ここでははっきりしたことはいえんが、そういえばあの死体……昭和七年の秋、放庵さんの離れ座敷で殺されとおった死体の足が、たしかにそんなんじゃなかったかと……金田一先生、こらひとつ本多の大先生に聞いてみましょう。あのひとが検屍調書をお書きんさったんじゃけん、覚えておいでんさるかもしれん」
さすが老練なこの老警部も、この思いがけない発見に、満面を紅潮させて、額にいっぱい汗をうかべている。
「警部さん、しかし、その死体はどうなってるんです。奥さん、このへんは土葬じゃないんですか」
「はあ、あの、みんなそうですけんど……」
と、春江はおびえきって、ハンケチを八つ裂きにせんばかりにもみくちゃにしている。
「いや、いや、それがなあ、金田一先生。それなんかもわたしの疑惑をまねいた種のひとつなんですけんど、源治郎の死体にかぎって解剖がおわって下げ渡されると、亀の湯ではいちはやく火葬に付してしまいよったんです。変死体なんて|忌《いま》わしいとかなんとか口実をつけよって……」
「それじゃ、警部様、あのとき殺されたのはやっぱり恩田やと……?」
「ああ、いや、奥さん」
と、金田一耕助も立ちあがると、
「いまただちに、そう決めてしまうのは早計でしょう。しかし、いずれいろいろびっくりするようなことを、お聞きになりましょうから、そのおつもりで。……警部さん、それじゃ、おいとましようじゃありませんか」
おびえきっている春江を残して外へ出ると、
「警部さん、すみませんがその自転車、ぼくに貸してくださいませんか」
「先生、自転車でどちらへ……?」
「はあ、仙人峠をひとっ走りして、総社から神戸へいってきたいと思うんです。まだ最終バスに間にあうようですから」
「神戸って吉田順吉のところへですか」
「それもありますが、そのほかいろいろと……この事件の|源《みなもと》はすべて神戸にあるような気がするもんですから」
磯川警部はじっと金田一耕助の顔を見つめて、
「先生、そんなら、わしもいっしょに……」
「いえ、いえ、警部さんはこちらに残っていてください。そして、あくまで大空ゆかりの身辺を警戒してください」
「先生、それじゃやっぱり大空ゆかりがねらわれていると……?」
「警部さん、これはほんの憶測ですけれどね、三番目のすずめのいうことにゃ、女たれがよい錠前屋の娘……だったんじゃないかと思うんです」
磯川警部はしばらくしいんと、暗闇のなかに立ちつくしていたが、
「承知しました」
と、のどのつまったような声で、
「それじゃいっていらっしゃい。あとは引き受けました」
「はあ、ぼくも本多先生のところへいってみたいんですが、そうしていると終バスに間にあわなくなりますから――それから、ぼくが神戸へいったということは、どなたにもおっしゃらないでくださいませんか」
「はっ、それまた承知いたしました」
「じゃ、いってきます。自転車は井筒へ預けときますから……」
こうして金田一耕助は袴の裾をたくしあげ、自転車にまたがると、おりからの星明かりの仙人峠をこえて、まっしぐらに総社へと走っていった。いよいよ最後の証拠固めに……。
テル・テール・アルバム
仙人峠をひた走りに走っていく金田一耕助を見送った磯川警部が、すぐその足で本多医院を訪れると、若先生のほうは仁礼家のお通夜へ出むいていったきり、まだかえっていなかったが、磯川警部にとっては、かえってそのほうが都合がよかった。
大先生は磯川警部の来訪を聞くとなつかしがって、警部はすぐにすずしげな|葭《よし》の障子をあけっぴろげた、うらの離れ座敷へ案内された。ここは妻に先立たれた大先生の隠居所として建てられたものらしいが、仁礼家のようにぎょうぎょうしくないのが、かえって客に落ち着きとくつろぎをあたえる。
|風《ふう》|貌《ぼう》からして横山大観に似ている大先生は、酒のほうもなかなか剛のもので、いつもあいて欲しやというくちである。
座がきまって挨拶がおわると、大先生はにこにこ警部の顔を見なおしながら、
「なんじゃ、磯川さん。あんたいま仁礼家のお通夜へいておいでんさったちゅう話じゃが、いっこうお|神《み》|酒《き》がまわっておらんようじゃないか」
「あっはっは。大先生はふたことめには酒、酒とおいいんさるけんど、わたしらいま酒どころのさわぎじゃごわせんからな。こう矢つぎばやに人が殺されよっては、いやもう七里こっぱい[#「こっぱい」に傍点]ですわい」
「まあ、ええ、まあ、ええ。酒でも飲んで元気をおつけんさい。|一《かず》|子《こ》や、さっそく支度をしておくれ。警部さんはおいけんさる口ですけんな」
「いえ、もう、大先生も若奥さんも、ほんまにおかまいなく。わしらいま仁礼さんのほうでご飯よばれてきたばっかりですけん」
「まあ、警部さん、そうおっしゃらずに。ひとつお相手をしてあげてつかあさい。お父さん、さっきからあいて欲しやで困っておいでんさったんですけん」
一子というのは若先生の奥さんで、さすがに器量といい、客あしらいといいあか抜けがしている。なんでも若先生が阪大に学んでいるじぶん恋仲になった恋女房で、|船《せん》|場《ば》あたりのそうとうの|老舗《しにせ》のいとはんだったと、いつか亀の湯のリカから聞いたことがあるが、郷に入っては郷にしたがえという心意気か、いまはこのへんの方言がすっかり板についている。
一子が酒の支度に立つと、大先生は磯川警部のほうへむき直って、
「ときに、磯川さん、金田一先生はどうおしんさった?」
「はあ、あのかたはちょっとほかへお回りんさりました。こうなると猫の手もかりたいくらい忙しいもんですけんな」
「そら、そうじゃろうが、それでいったい、どがいな調子じゃな。すこしは犯人の目星がつきよるようですかな」
「さあ、それがなあ」
と、磯川警部は言葉をにごして、
「金田一先生はいざしらず、わたしはなかなかいっこうに……目下のところとんと五里霧中ちゅうところでしてなあ」
「だけど、あんたあのひとといっしょに仕事しておいでんさるんでしょうが……」
「ところがあの先生ときたら、ひと筋縄でいくひとじゃごわせんからな。ぎりぎり決着のとこまでこんと、ぜったいに口をわらんひとですんじゃ。あのひとにゃなにかまた、考えがおありんさるようですけんど、わたしにゃさっぱり……」
「それにしてもけったいな事件ですなあ。なんじゃやら手毬唄が関係があるらしいちゅう話じゃが」
「そうそう、それについて大先生、あがいな手毬唄について、もっとほかにご存じじゃございませんか。女たれがよい、なになに屋の娘ちゅうのんを……?」
「いや、それがなあ、警部さん、わしも思い出してみようと思うたんじゃが、どうももうひとつ記憶がないんじゃな。たしかにそがいな手毬唄がむかしこの村に、はやっとおったちゅうことは、さっきせがれから話を聞いて思い出したんじゃけんど、なにせわしは子供のじぶんごんたくそ[#「ごんたくそ」に傍点](腕白)で、女の子となんか遊ばんもんじゃったけんな。死んだばあさんでも生きていたら、あるいは覚えとったかもしれんけんどな」
「失礼ですけんど、先生はことしおいくつで?」
「去年|古《こ》|稀《き》の祝いじゃっけん、かぞえでことし七十一じゃがな」
「そうすると、由良の隠居とひとまわりちがいですなあ。どうもこの村にはあの隠居とおなじ年ごろのばあさんが、ほかにおらんもんですけんな、とんと弱ってしもうとります」
「そういえばばあさん連中、この二、三年でばたばたとのうなりよったな。別所のおばあさんにきいておみんさったか」
「それがなあ、あのとおりのざまですじゃろう。あれじゃまるで生ける|屍《しかばね》もおんなじこってすけんな」
「あっはっは、そういえばそうじゃな。そうじゃけんど……」
と、本多大先生はさぐるように磯川警部の顔を見ながら、
「そうすると、もっとほかにもあがいな手毬唄があって、それをしることが必要じゃっとおいいんさるんかな」
「はあ、金田一先生はそうおいいんさるんですけんどな」
そこへ一子が|酒《しゅ》|肴《こう》の用意をととのえてきたので、
「いや、もうこうなると獄門島の事件を思い出しますなあ」
磯川警部がきゅうに話をほかへそらしたので、大先生は大きな目玉で、ギロリと警部の顔を見直したが、
「一子や、そこへ肴の用意ができたら、おまえはむこうへいておいで。用事があったら手をたたくけんな」
「はい、そんなら警部さん、なにものうてお恥ずかしゅうございますけんど、どうぞごゆるりとお父さんのお相手してあげてつかあさい」
なんにものうてと、一子は|謙《けん》|遜《そん》していったが、一子が去ったあとのちゃぶ台のうえには、うに、このわた、からすみ、のりの|佃煮《つくだに》、きゅうりの酢もみと、酒客のよろこびそうな皿があんばいよくならんでいる。
「さあ、さあ、ごらんのとおりの到来もんばかりで失礼じゃけんど、ひとつ杯をおあげんさい」
「いや、どうも、これは恐縮、思いもよらぬごちそうで……」
大先生は磯川警部に酌をすると、
「いや、いや、わしはじぶんで酌をしよう」
と、手酌で置き注ぎをしながら、警部の顔を見直して、
「ときに、磯川さん、あんたなにかわたしに用事があって、おいでんさったんじゃないのかな」
「いや、大先生、お察しのとおりで……こがいなことをいうとまた先生に笑われるかもしれませんが、わたしゃいまだに昭和七年の事件について、あきらめがつけきれませんのじゃ」
「そりゃ、まあ、あんたとしては当然のことじゃが、それで……?」
と、大先生は要領よくあいてに酌もし、じぶんの杯も、満たしながら、さぐるように警部の顔色を読んでいる。
「さあ、それですがなあ。あのじぶんも先生にいうて笑われよったもんじゃが、わたしゃどうも亀の湯で、いちはやくあの|死《し》|骸《がい》を火葬に付しよったんが|解《げ》せんのじゃ」
「そうそう、あのじぶんからあんたは、あの死体を亀の湯の源治郎やのうて、かえって犯人と目されとった恩田のほうじゃないかちゅうご意見でしたな」
「そうです、そうです。それですけんな、大先生」
と、磯川警部は杯をおいて本多大先生の顔を見すえながら、
「こうしておうかがいしたんですけんど、先生はあのとき検屍調書をお書きんさった方じゃけん、なにかあの死体について覚えておいでんさりゃせんかと思うてな」
本多先生はまじまじと、しばらく磯川警部の顔を見ていたが、やがてホロ苦い微笑をうかべると、
「いや、なあ、磯川さん、それについてわたしゃあんたに、おわびせんならんことがあるんじゃがな」
「わたしにおわびとおいいんさるんは?」
「いや、それはな、あのじぶんはわしもまだ若かった。それに殺人事件の検屍調書をかくなんちゅうことは、あとにもさきにもあのときがはじめてじゃった。そうじゃけんな、あとになってあんたがあがいなこと、つまり、あの死体は源治郎やのうて恩田じゃなかったか、ちゅうようなことをいい出しんさったとき、なんじゃやら、じぶんが|侮辱《ぶじょく》されたような気がしたもんじゃ。ようよう考えてみると、あの死体が源治郎であろうがなかろうが、わたしにゃなんの責任もないことじゃ。わたしはただ死因と死亡時刻と推定凶器を書いただけのことじゃけんな。それにもかかわらずあとになって、あんたがあがいなこといい出しんさったとき、なんじゃやら、じぶんの手落ちを指摘されたように誤解したんじゃな。当然ええ気持ちがせんもんじゃけに、あんたの質問にたいしてもけんもホロロの挨拶をしたもんじゃ。そして、あくまであれを源治郎の死体であったように主張したもんじゃ。あとになってよう考えてみるのんに、わしがあれを源治郎の死体と主張するについては、なんの根拠もなかったことに気がついたんじゃな。亀の湯の当時の主人夫婦と、源治郎の兄夫婦、それから源治郎の家内のいまの亀の湯のおかみの申し立て以外には、どこにもあれが源治郎であったちゅう証拠は、なかったということに、あとになって気がついたんじゃ。べつに指紋をとって照らしあわせたちゅうわけでもなし、顔はあのとおりじゃったけんな。それにもかかわらずあのじぶん、あんたの説を一笑に付してしもうたちゅうのんは、なんというても、あんたの考えかたがあんまりとっぴじゃっと思われたんと、もうひとつはじぶんの自尊心をきずつけられたような誤解をもって、つまり、あんたに対する悪感情からじゃったと、このごろになって気がついたんじゃ。つまりあんたにおわびせんならんちゅうのんはそのことじゃがな」
「そうすると、大先生は」
と磯川警部はひざをのりだして、
「いまになってどう考えんさるな。あの死体について……」
本多先生はまじまじと、磯川警部の顔を見まもりながら、
「いや、あれが源治郎の死体じゃったろうというわしの考えには、いまもかわりはありません。亀の湯の先代夫婦のあのときの嘆きやなんかからしてな。それにあんたの考え方がいささかとっぴすぎる、探偵小説めいていすぎるちゅう考えにも変わりはない。しかし、これは常識論であって、常識論ちゅうもんをぜんぜん無視してしまえば、そして、ものごとを理屈一点張りにして考えれば、あれが源治郎の死体でのうても、いっこう差し支えはなかったちゅうことに、このごろになって気がついたんじゃな」
「と、いうことは、あれが恩田の死体であったかもしれぬとおいいんさるんで?」
「いや、いや。わしのいうのは、理屈のうえからいえば、あれが源治郎の死体であったちゅう科学的根拠はなんにもなかったちゅうことじゃな。というて、あのときの亀の湯の家族のものの嘆きや顔色を思いだしてみて、あれがやっぱり亀の湯の源治郎の死体であったろうというわしの考えには、さっきもいうたとおり、いまもむかしも変わりはないわけじゃな」
「いや、ようわかりました」
磯川警部はつよくうなずいて、大先生の酌を杯にうけながら、
「それじゃ、あの死体が源治郎であったかなかったかちゅうような議論はしばらくお預けとしておいて、先生はあの死体になにか変わった肉体的特徴があったんを、覚えておいでんさりませんか」
「変わった肉体的特徴ちゅうと……」
「たとえば、外から見ただけではわからんが、裸にしてみると人一倍毛深かったとか、右手が左手よりすこし長かったとか、あるいはまた指の格好がおかしかったとか……」
本多先生はだまって磯川警部の顔を見ていたが、
「あのときの検屍調書は……?」
「戦災で焼けてしもうとります」
大先生は磯川警部に酌をしようとして、それがからからになっていることに気がつくと、手を鳴らして一子を呼んだ。一子がお銚子をもってあらわれると、
「一子、ちょっと警部さんのお相手をしていておくれ、わしはちょっとむこへいてくるでな。磯川さん、すぐもどってまいりますけん」
本多先生のおもてに現れた動揺の色をみてとって、磯川警部はやる心をおさえながら、
「さあ、さあ、どうぞ」
本多大先生はなかなかもとの席へもどってこなかったが、ちょうどそのころ、総社の旅人宿井筒のひとめをさけた離れ座敷では、金田一耕助が終バスの時間を気にしながら、おかみのおいとさんと向かいあって坐っていた。
「そらなあ、金田一先生」
と、おいとさんはおびえの色をふかくして、肩をこまかくふるわせながら、
「こないな客商売ですけんな、どなたとどなたがここであいびきをおしんさったと、こっちゃの口からはいえんわけです。そら、警察のほうからお尋ねがございましたら、そのときは話はべつですけんどなあ。このことはたしかこのまえ先生がお見えんさったときも、申し上げたと思いますけんど……」
「そうそう、春江さんのことで亡くなられたご主人が気をもんでいられたら、お庄屋さんが放っとけ、放っとけとおっしゃったとか」
「ええ、そうそう、それでも春江さんのことは……春江さんと恩田さんのことは、あの当時もう世間にしれとおりましたけん、まだしも気が軽うございましたけんど、こっちゃのほうは全然だれもしらんことでっしゃろ。それですけんいっそう、わたしらの口からいえなんだわけですの、|商売冥利《しょうばいみょうり》にかけましてもなあ」
「こっちゃのほう、とおっしゃるのは……?」
と、金田一耕助はするどくあいてを見すえながら、
「それじゃ、恩田と由良の奥さんがここであいびきしていたと……?」
「はあ、そうですの。それですけん、その話、お庄屋さんがわたしに話してつかあさったんやのうて、わたしのほうからお庄屋さんのお耳に入れたんですの。そのときお庄屋さんにえろう|叱《しか》られたんを、いまでもよう覚えとおります。そないこと、絶対にひとにしゃべるもんやないいうて……」
金田一耕助は思わず高鳴る胸をおさえることができなかった。かれもまさかあの敦子が、村と眼と鼻のあいだにあるこんなところで、男とあいびきしていたとは、ゆめにも思いよらなかったのだ。ただ、このあいだのおいとさんの口ぶりからおして、敦子と恩田のことについて、なにかお庄屋さんから聞いているのではないかと、神戸へ立つまえにちょっと寄ってみたのだが。……
「それで、そうとうたびたび、ここで会うていたの?」
「たびたびちゅうて、五へんか六ペんくらいやったんやないでっしゃろか」
「それで、春江さんが先だったの、敦子さんが先だったの?」
「そら、春江さんが先でした。春江さんで味をしめなさって、それから由良さんの奥さんを連れこまれるようになったんやろうと思います」
「由良さんの奥さんはいつも素顔で……?」
「まさか……」
と、おいとさんはおびえたように肩を落として、
「いつもふかぶかとお高祖頭巾で顔かくしておいでんさりました。そうですけん、わたしもはじめは由良さんの奥さんとは気いつきませんでしたの。わたしらのまえでは口もおききんさりませんでしたけんな。ところがあるとき、ご不浄へかけこみなさる横顔をちらっと見てしもて、そのときのわたしのびっくりしようたらなかったんですの。さいわい、むこうさんではわたしに見られたということに、気がおつきなさらなんだようですけんどな。それにしても、人妻のまあ大胆なとあきれてしもうて、なんやらこう、そら恐ろしゅうなりましたけんな、父さんにもいえませなんだん。それでその後も気いつけとりますと、いかにお高祖頭巾で顔をかくしておいでんさっても、すがたかたちが由良さんの奥さんでしょう。それで、|姦《かん》|通《つう》の|中《なか》|宿《やど》しとったいうことになって、こちらに迷惑がかかりゃせんかと、それが心配になってきてお庄屋さんに相談してみたんですの」
「それはいつごろのことですか。お庄屋さんに相談なすったのは……? あの事件の起こるまえですか。あとですか」
「いいえ、起こるまえでした。そしたらお庄屋さんに叱られてしもて、そないなことだれにもいうたらいかん。これがばれてもおまえは由良の奥さんとは気いつかなんだということにしとけば、なんにも迷惑かかることはない。父さんは気が小さいけん、絶対にいうたらいかんとおいいんさって、それでまあ、いくらか気が落ち着いたところへ、そのうち別れ話でもできたんか、奥さんがお見えにならんようになったもんですけに、やっと安心したんですの」
「ああ、そう。いや、おかみさん、ありがとう。それじゃね、この話、当分内緒にしておいてください」
「それはもちろんですわ。こないなけがらわしい話、めったに口にしとうはござりませんけんな」
それからもまもなく金田一耕助は、終バスに乗って神戸へむかったのだが……
鬼首村では本多の大先生が、およそ三十分も待たせたのち、古びたアルバムを一冊小脇にかかえて、やっともとの離れ座敷へもどってきた。
「いや、どうもお待たせしましたな。一子、ご苦労じゃった。おまえ、もうええけん、むこうへいておいで」
「はい、それではここへお銚子をおいてまいりますけん。また用があったら手をたたいてつかあさい」
一子のすがたが見えなくなるのを待って、磯川警部はひざをすすめた。
「大先生、そのアルバムはなんです?」
「いやな、磯川さん。あの検屍調書は、たしかにうつしが取ってあったはずじゃがと、さっきからさんざん捜してみたんじゃが、どうしても見つからんとこをみると、どうも、のうなってしもうたらしい。そのかわり、こがいなものを思い出したんじゃが……」
「写真ですな」
磯川警部は好奇心にみちた眼を見張って、ちゃぶ台のうえに上体を乗り出した。
「ああ、そう。ちょうど写真に凝っとったじぶんじゃったし、それにあがいな事件を扱うのはじめてじゃったもんじゃけん、記念に撮影しといたんじゃが……岡山からあんたがたの到着するまえじゃったな」
「それで、死体の写真もありますか」
「ああ、ある。そうじゃけんど、いわゆる現場写真とはちがうぞな。こっちゃの警察で現場写真やなんかとってしもうて、あんたがたがくるのんを待ってるあいだに撮影したもんじゃけんな」
大先生がもういちどアルバムのほこりをはらって、ちゃぶ台のむこうからさしだすのを、磯川警部はもぎとるように受け取ると、興奮にわななく指で表紙をひらいた。
第一ページには見覚えのある、放庵さんの離れ座敷を外からとった全景が出ている。しかし磯川警部はそれに眼もくれず、第二ページをひらいたが、そのとたん思わずぎょっと息をのみこんだ。
その写真は|囲《い》|炉《ろ》|裏《り》へ首をつっこんで死んでいたのを、だき起こして布団のうえに仰向きに寝かせたところを、足のほうのななめうえから撮影したものであった。さすがに顔面には白布がかぶせてあったが、両の袖口が焼けこげて、そこから露出している両の|手《て》|頸《くび》から指へかけて、むざんに焼けただれているすがたは、何年たっても磯川警部の|脳《のう》|裡《り》から、消えるべくもないつよい印象となって残っている映像を、まざまざとそのまま二十三年のちのこんにちになって再現したものである。
磯川警部はその両足にするどく光る瞳をこらした。その死体は|袷《あわせ》のきものに|兵《へ》|児《こ》|帯《おび》すがたなので、両足はきものの裾から露出している。さいわい足袋をはいておらず、しかも足のほうから撮影されているので、両足が裏をこちらへみせて大きく浮かびあがっている。しかも、その両足ともふつうの人間より中指が関節の半分ほど長いのである。
磯川警部は思わず音を立てて呼吸を大きくうちへ吸った。
「磯川さん、なにか……?」
「先生」
と、磯川警部は脂がういたようにギラギラ光る眼を大先生のほうへむけて、
「この死体の足の中指、ふつうの人間より長いとお思いんさらんかな」
「ああ、そのことなら気がついとったが」
「気がついておいでんさったと……?」
「ああ、気がついとったのみならず亀の湯の家族のもんにもきいてみた。あんたがあがいな疑いをおもちんさったときにな。そうしたら亀の湯の両親も兄夫婦も、それからいまのおかみも口をそろえて、源治郎は足の中指が両方とも、ふつうの人間より長かったちゅうとったな。こっちがそのことをいわんさきにじゃよ」
しかし、亀の湯の一族は死体を見ているのであるから、足の中指の長かったのも、死体を見たとき気づいたのかもしれない。それではほんとうの証言とはいえないのではないか。
「しかし、大先生、源治郎の足の中指が長かったちゅうことを、ほかにも証言したものがありましたか。それとも、なにかそういう証拠でもありましたか」
「いや、そこまでは確かめなんだんじゃ。あんたほど疑いぶかくなかったちゅうか、空想力が発達しとらなんだちゅうか、その証言で満足してしもうたもんじゃけんな。そうじゃけん、さっきもいうたとおり、ちかごろになってあれが源治郎の死体じゃったちゅう証拠は、なんにもなかったんじゃちゅうことに気がついたんじゃな」
亀の湯の一族はあきらかに|嘘《うそ》をついたのである。このように特徴のある足をもった人間が、そうざらにあるべき道理がない。たとえ珍しくあったとしても、それが被害者と加害者に共通していたというのは、あまりにも偶然がすぎ、暗合がすぎるのではないか。あの死体はやっぱり恩田だったのだ。したがって昭和七年の事件の犯人は、やっぱりじぶんが考えていたとおり、亀の湯の源治郎だったのだ。それだからこそ亀の湯ではあの死体をいそいで火葬に付したのだ。
警部はおのれの明察につよい誇りと興奮をおぼえずにはいられなかったが、そこへ若先生がかえってきたので、時計をみると、もう十時をとっくにまわっている。
若先生がかえってきたのでまた話がはずんで、磯川警部は思わず酒をすごした。若先生は自重してあまり飲まなかったけれど、隠居の身分の大先生は、あいてがあるといくらでものめるらしい。
「磯川さん、あんた、こんやここに泊まっておいでんさい。金田一先生に自転車とられてしもうたいうておいでんさったが、それじゃ、とっても亀の湯までかえれやせん。なんならこんや飲みあかしてもええが……」
このへんのひとはいったいに客あしらいがよく、大先生はのんきなことをいい出した。けっきょくそれが事実となって、磯川警部は十二時ごろ、|母《おも》|屋《や》の座敷にのべられた寝床のうえに、くらい酔った体をよこたえたが、それから半時間もたたぬうちに若先生にたたき起こされた。
「警部さん、警部さん、起きてください。またひとりゆくえ不明やそうです」
「なんじゃっと?」
と、寝床のうえにはね起きた磯川警部は、とつぜん悔恨と|慚《ざん》|愧《き》の念に体がかあっと火のようにほてった。
「そ、それじゃ、そ、それじゃ大空ゆかりが……?」
「いいえ、ゆかりじゃありません。亀の湯の里子がまだうちへかえらんそうです」
錠前狂えば|鍵《かぎ》あわぬ
磯川警部は昨夜酒がすぎたうえに、ほとんど眠るひまがなかったので、熟睡によって発散すべきはずのアルコール分が、そのまま体じゅうの細胞に沈潜しており、わけても脳細胞がかあっと充血しているのが、じぶんでもはっきり意識されるようであった。
警部はものかなしげに首をふりながら、それでも被害者がゆかりでなくて、亀の湯の里子であったということが、せめてものなぐさめであったと考える。だがそう考えるしたから、被害者が予想とちがっていたということが、せめてものなぐさめとなろうとは、なんという恐ろしい事件であろうと思いなおし、そういう恐ろしい事件の進行中に、酒にくらい酔っていたじぶんの怠慢に、慚愧と憤激をおさえることができなかった。じっさい、かれは昨夜迎えにきた青年団の自転車のお尻に、ふらふらする体をのっけて、村の駐在所につれていかれ、立花警部補にあったとき、面目なくて顔もあげられなかったのである。
たとえ警部が酒に酔っておらず、大いに精励|恪《かっ》|勤《きん》していたとしても、こんどの事件は防ぎきれなかったかもしれない。金田一耕助でさえが、里子がねらわれていようとは、予想していなかったようである。しかし、それだからといって、じぶんがくらい酔っていたということの弁解にはすこしもならないと、警部は苦汁をのむような思いで、立花警部補の聞き取りを、ぼんやり夢のような気もちで聞いている。
そこは村の駐在所のおくの粗末な畳敷きの六畳である。ところどころ漆のはげた|一《いっ》|閑《かん》|張《ばり》の机をあいだにはさんで、立花警部補とむかいあっているのは亀の湯の歌名雄である。そばには乾刑事がべつの机にむかって、ふたりの一問一答を筆記している。
昭和三十年八月十六日午前十時過ぎのこと。
里子の死体はその朝の六時ごろ、勝平と五郎やんによって発見された。場所は桜の大師のうらがわから、六道の辻へ出るとちゅうである。桜の大師のとなりに仁礼家があって、その裏木戸が間道へむかっていることはまえにものべたが、その間道に沿うて建っている仁礼家のうらを通りすぎるあたりから、しだいに道がのぼり坂になっていて、両側はいちめんのぶどうのだんだん畑である。そのぶどう畑の棚をのぞいて犬が一匹、しきりに土をかきながらほえているのを、勝平と五郎やんの捜索コンビが発見した。そこでふたりがそのぶどう棚のなかをのぞくと、裸身の女のすがたがみえた。それが里子の死体だったのである。
里子の死因はいままでのふたりとちがっていた。泰子も文子も絞殺されていたのに反して里子は鈍器ようのもので後頭部を強打されているのである。おそらくその一撃で里子の生命の灯がふき消されたであろうことは、彼女の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》に大きくひびが入っていることでもうなずけるのである。
さらに、こんどの殺しがまえの二件とおもむきを異にしているのは、まえのふたつの殺人事件の場合には、いずれも死体が殺人の現場に遺棄されていたのに、こんどは死体が現場からすこし移動させられていることである。
里子の死体が発見されたぶどう棚のすぐうえが六道の辻で、その四つ辻には等身大のお地蔵様が立っていることはまえにもいっておいた。犯人はそのお地蔵様の背後にかくれていたらしく、お地蔵様の台座のうえから、お地蔵様に背をむけて立っている里子の頭上に、鈍器をふりおろしたものらしい。赤い|涎掛《よだれか》けをかけたお地蔵様の胸から腹へかけて、すさまじい血がはねかえっている。なるほど、これだと犯人はかえり血を浴びずにすんだわけだが、それにしても里子はなぜまた夜おそく、そんなところに立っていたのであろうか。
里子を一撃のもとにたおした鈍器というのも発見された。それはハカリ屋ぶどう酒の空き瓶に砂をいっぱい詰めたもので、握りのところに手がすべらぬように包帯がまきつけてある。犯人はそれを逆さにもって一撃のもとに里子を殴殺したのち、お地蔵様の背後の|草《くさ》|叢《むら》のなかへそれを捨てていったのである。瓶にはすこしひびが入っているが、砂がこぼれるほどまでにはいたっていない。瓶の表面に|血《けっ》|痕《こん》が付着していたことはいうまでもない。
それにしても犯人はなぜ、こんどの場合にかぎって里子の死体をかくそうとしたのであろう。いや、いや、それよりまえに犯人はなぜ、里子の死体にかぎってその着衣をはぎとっていったのであろうか。
里子の死体が発見されたときいて現場のぶどう畑へかけつけたとき、磯川警部はその死体のあまりの無残さに、いっしゅん思わず顔をそむけずにはいられなかったくらいである。
無残といったのは、ざくろのようにはじけた傷口のことだけをさすのではない。里子はズロースをはいただけの赤裸であった。だから、全身の三分の一ばかりを、まるで不規則な地図のようにおおうているむごたらしい赤痣があくどく、なまなましくむきだしにされているのである。それは着物を着ているときの里子をみただけでは、想像もつかぬほどむごたらしく、かつ|凄《せい》|惨《さん》な露出風景であった。
おそらく里子は生涯それをだれにも見られたくなかったであろうのに、なんだって犯人はこのような残酷な侮辱を里子にあたえたのであろうか。里子はきっとその赤痣を生涯だれにも見られたくなかったであろうのみならず、死んでのちもそれをひとに見られることを恥としたであろうのに。
「それじゃ、君は妹を自転車の尻にのっけて、うちの近所まで送っていったというんだね」
赤く混濁した磯川警部の耳に、立花警部補の声がするどく入ってきたので、警部もはっと|弛《し》|緩《かん》した神経をひきしめる。いま聞き取りが行なわれている部屋の一隅で、磯川警部は壁にもたれてひざっ小僧をかかえているのである。体内に酒気の充満している磯川警部は、体がだるく苦しいのだが、それでいて神経のどこか一部分がぴいんととがって不自然にとげとげしく緊張している。
「はっ」
「だけど、そのとき君はどうしてうちまで妹を送っていかなかったのかね。どうせ近所まで送っていったんなら、どうして、いっそ、うちの玄関まで送っていってやらんかったのかね」
「はっ、ぼくもそうすればよかったと思うとります」
歌名雄は作業服の腕で涙をこすって鼻をすすった。
この事件でいちばん大きな試練に立たされているのはこの歌名雄ではあるまいか。かれは一昨日愛人をうしない、きょうはまた妹を殺されたのである。かれはこのふびんな妹を、ふびんであるがゆえにいっそうふかく愛していた。けさのかれはあいついで襲うこの手ひどい打撃に、涙もかれたかのように茫然自失していたのだが、いま警部補にそれを指摘されると、いまさらのようにちょっとしたおのれの油断と怠慢が、このような一大事をひき起こしたことに思いいたって、|忽《こつ》|然《ぜん》としてはふり落ちる涙をおさえることができなかった。
「だけど、あのとき妹のやつが、ここまでくると大丈夫やと、ひつこくいいはるもんですし、それにぼくも心がせいていたもんですけに」
「心がせいていたちゅうのは……?」
「はあ、主任さんもご存じのとおり、ぼくら青年団の手で、山狩りしようということになっておりまして、その相談や準備のために、ゆうべ九時までに役場へ集合いうことに話がきまっとりましたもんじゃけに」
「ああ、そうか。それで君たち……君と妹が仁礼家を出たのは何時ごろじゃった」
「たぶん八時十五分ごろやった思います。日下部さんが……ゆかりちゃんのマネージャーのひとですね。そのひとが迎えにおいでんさって、ゆかりちゃんがかえっていったもんですけに、里子もきゅうに|淋《さび》しゅうなってきたかして、母ちゃんのとこへ、じぶんもかえるいいにいったんですわ。そこでぼくがおふくろに呼ばれて、里子を自転車の尻にのせて送っていくようにたのまれたんです。里子は、そないな心配せんでもええいうとりましたけんど」
「そのときの妹さんの服装は……?」
「そら、もちろん喪服ですわ」
「それから、君は妹をうちの近所へおろしておいて、役場へとってかえしたんだね」
「はあ、その途中で、仁礼のうちへもういっぺんよってみたら、勝っちゃん、勝平君や五郎君がまだいたもんですけん、みんなでいっしょに役場へいったんです」
「君が、ほんとうにうちへかえったのは……?」
「十二時ちょっと過ぎでした。ちょうどひと足先におふくろがかえっとおりまして、里子がまだかえっておらんが、どないしたいいますじゃろう。ぼくびっくりしてしもて、そないなはずはないがちゅうたんですけんど、お幹に聞いてみたら、やっぱりかえってこなんだいいますのんで、それからまた村の駐在所へ自転車を走らせて、こないな騒ぎになってしもうたんです」
歌名雄はまた作業服の腕で眼をこすって、はげしく鼻をすすりあげ、それから手ぬぐいを取り出してはふり落ちる涙をぬぐうた。ぬぐえどもぬぐえども、熱涙はあとからあとからとはふり落ちる。
「そうすると、君の妹は君には家へかえるとみせかけておいて、また六道の辻へひきかえしたちゅうことになるね」
「はあ。そないことになりますんじゃろ」
「なんのために六道の辻へひきかえしたと思うかね」
「ぼくにはわかりません。ぼく、ぼく……」
と、歌名雄はそこでせぐりあげると、
「ぼくのあたま、すっかりあほになってしもうとりますけんな」
そういって歌名雄は日本手ぬぐいを眼におしあてて、はげしく、|腸《はらわた》をひきさくような嗚咽をあげた。
むりもないと磯川警部はうなずきながら、こういうおれのあたまだってすっかりあほになってしもうとるわいと、淋しくじぶんを|嘲《あざけ》った。
聞き取りがおわって歌名雄が出ていくのと入れちがいに、山本刑事が入ってきた。
「主任さん、こがいなもん現場の近所で拾うたんですけんど、これ、こんどの事件になんか関係があるんとちがいますじゃろうか」
「なんじゃ、見せてみい」
立花警部補が手を出すと、
「|鍵《かぎ》と|南京錠《なんきんじょう》ですけんど、この鍵、|鍵《かぎ》|孔《あな》にあいよらん」
刑事が手にしているのは小さい南京錠と鍵である。山本刑事がいくらガチャつかせても、鍵孔に鍵がはまらないのもむりはない。鍵のほうが鍵孔よりだいぶ大きいのである。
「なんじゃ、へんなもん拾うてきよったなあ。ちょっとこっちへ貸してみい」
そばから乾刑事がひったくって、鍵をガチャガチャいわせていたが、
「こら、錠前の鍵やないがな。ほら、この鍵のほうがよっぽど大きいわい」
「錠前……?」
さっきから眼をつむって充血した頭の重さと、おのれの怠慢にたいする自責の念に、心を苦しめていた磯川警部は、とつぜんぎょっとしたように眼をひらいて、乾刑事のもっている鍵と錠前をふりかえった。
「乾君、そ、その錠前はどうしたんじゃ」
磯川警部の声は、あまり高くはなかったが、そこにこもっている異様な熱と鋭さに、三人ははっとそのほうをふりかえった。
「いえ、これ、いま山本が拾うてきたんですけんど」
「山本が拾うてきた……?」
と、立ってそばへやってきた磯川警部は、乾刑事の手からその錠前と鍵をむしりとるように手にとると、
「山本君、これ、どこで拾うてきたんじゃ」
「はあ、あの六道の辻のお地蔵さんのうしろの草叢のなかですけんど、警部さん、これなんぞこんどの事件に関係があるんですじゃろか」
磯川警部はそれに返事もせず、てのひらにのっかっている錠前と鍵を凝視しているのだが、その眼は、いまにもまなじりが、裂けんばかりに血走っている。
「警部さん、警部さん」
と、立花警部補がまゆをひそめて気づかわしそうに声をかけた。
「警部さんはなにかその鍵と南京錠に、心当たりがおありんさるんですか」
磯川警部は依然としてそれには答えず、ただつよく歯をくいしばって、くいいるように南京錠を見つめている。
そのとき、磯川警部の耳底にけたたましくなりわたっているのは、ゆうべわかれるとき金田一耕助がささやいた言葉である。
「警部さん、これほんの憶測ですけれどね、三番目のすずめのいうことにゃ、女たれがよい錠前屋の娘……だったんじゃないかと思うんです」
だが、その錠前屋の娘はゆかりであって里子ではない。里子の生まれたうちには亀の湯という名前があるので、べつに屋号はついていなかったという。それではこの鍵と南京錠はたんなる暗合にすぎなくて、里子を裸にしておいたところになんらかの|寓《ぐう》|意《い》があるのだろうか。
その夜、六時ごろ神戸の金田一耕助からつぎのような電報が、鬼首村駐在所内磯川警部あてにまいこんだ。
「ユウカンミタ レイノムスメケイカイサレタシ スグカエル コウスケ」
送り火
鬼首村はいまやすっかり悪魔に魅入られたようなものである。
八月十日の晩、仙人峠をこえてきたひとりの老婆が、
「ごめんくださりませ。おりんでござりやす。お庄屋さんのところへもどってまいりました。なにぶんかわいがってやってつかあさい」
と、金田一耕助をはじめ数名のひとたちに|挨《あい》|拶《さつ》をして、おりからの|逢《おう》|魔《ま》が時の薄闇を、いずくともなく消えていって以来、やつぎばやの連続殺人事件である。
お庄屋さんの放庵さんはまだ生死不明としても、泰子と文子と亀の湯の里子とじゅんぐりに、三晩つづけてもののみごとに血祭りにあげられ、しかも、これらの事件の背後には、昔このへんではやった|手《て》|毬《まり》|唄《うた》がからんでいるらしいとあっては、村のひとたちがなにかしら、えたいのしれぬ魔物にでも、みこまれたような恐慌をおこしているのもむりはない。
こんやはお盆の十六日。家々の門口では送り火がたかれて、乗り物にかたどったなすやきゅうりが、おがらやはすの葉っぱとともに散乱しているが、送り火をたいたひとびとも、すぐさま家のなかへ逃げこんで、村ぜんたいがいましいんと|固《かた》|唾《ず》をのんでいるかたちである。
亀の湯の奥座敷からはしめやかな鐘の音が聞こえ、こんやが里子のお通夜である。なにしろここは村の中心部から小一時間の距離にあり、それに戦前ほどではないにしても、戦後の混乱期から秩序が回復してくるにしたがって、いわゆる逆コースというやつで、昔の格式主義がだいぶん頭をもたげはじめているところだから、こんやのお通夜の客種は、前二夜にくらべるとだいぶん質が落ちるようである。
しかし、なにしろリカは村の祝儀不祝儀によくつとめる。なにかあるとまずい[#「い」に傍点]の一番に駆けつけて、かいがいしく立ちはたらくのがリカなので、客のかずは案外多かった。そのなかに仁礼家からはあるじの嘉平が、由良家からはこれまた当主の敏郎が顔をみせているのは、歌名雄との縁談があったてまえと、もうひとつには同病あいあわれむというような気持ちもてつだって、しらぬ顔もできなかったのであろう。
お通夜の席の話題は当然こんどの連続殺人事件に集中されるが、それについてだれもこれという意見をもっているものはなく、結局、山狩りの結果をまたなければなんともいえぬというところへ落ち着いたのは、いわずかたらずのうちに、目下失踪中の放庵さんにたいする深い疑惑が、ひとびとの心の奥底ふかく、根強くしみついているのであろう。じっさい、このえたいのしれぬ事件と結びあわせて考えるとき、村の人たちの脳裡にうかぶ映像は、放庵さんよりほかにないのである。
「それにしても泰っちゃんや文子さんの場合は、あないな手毬唄があったちゅう話じゃが、こんどの里子ちゃんの場合はどういうんじゃろうなあ。やっぱりなにかけったいな手毬唄があるんじゃろうか」
と、いう本多先生の疑問にたいして、
「そら、先生、やっぱりあるんやないですじゃろうか。娘たれがよい亀の湯の娘ちゅうのんがあって、それがとどのつまり裸にされて寝かされてしまうのんとちがいますじゃろうか」
と、辰蔵は例によって鼻のあたまを赤くしている。
祝儀不祝儀があるといの一番に駆けつけるのは、リカと同断だが、このほうは振る舞い酒がおめあてだからあさましい。
「おかみさん、あんたそがいな手毬唄があったちゅう話、聞いておいでんさらんかな」
嘉平のおだやかな質問にたいして、
「はあ、わたしはいっこうに……なにせわたしはみなさんもご存じのとおり他国もんですけん」
リカは真っ赤に泣きつぶしたまぶたを、おしろいでぬりつぶしているものの、やせぎすの肩をしょんぼりおとした喪服すがたが、権高な敦子などとちがってひとの哀れをさそった。
「いや、わしゃどうも亀の湯の娘は手毬唄になかったと思うけんどな」
「そら、どうしてぞな。敏郎はん」
嘉平はめずらしくじぶんの意見らしいものを吐こうとする、この鈍牛のような男を興味ふかげに見まもっている。敏郎がこういう席でみずから発言するというようなことはめったにないのである。
「どうしてちゅうて、おじさん、亀の湯のようなこがいな商売、昔はいちばんさがったもんじゃっと、さげすまれていたちゅう話ですけんな。そがいな素性の娘をなんぼ殿さんが女好きじゃかとて……」
「あっはっは、敏郎はん、そがいなことおいいんさると、おかみさんにたいして失礼ぞな。ひょっとするとあんたの妹婿になったかもしれん、歌あさんの生まれたうちのことじゃけんな」
嘉平にやんわりたしなめられて、
「ああ、いや、おじさん、わしのいうのんは、昔のこっちゃ。いまはもうそがいなことは……」
と、あわてて打ち消しはしたものの、敏郎は|茄《ゆで》|蛸《だこ》のように真っ赤になっている。
それをよこあいから救うように、本多若先生がため息をついて、
「それにしても仁礼のおじさん、こがいなことが、いったい、いつまで続くんでしょうなあ。三晩続けてのお通夜に、三日続きのお葬式、いかにひとさまの不幸があいてのわたしの商売じゃちゅうても、これではたまりませんがな」
「ほんまに先生にもいろいろご迷惑をおかけいたしまして……」
と、リカはしょんぼりと肩をおとして、
「うちもあしたのお葬式のことがございますけん、こんやのお通夜はせいぜい十時ごろまででお開きにしたいと思うとりますんですけんど……」
「ああ、それがええなあ」
と、嘉平はそくざに賛成して、
「うちもお葬いはすましたちゅうもんの、あとのとりこみがまだぎょうさん残っとおるけんな。敏郎はん、おたくなんぞも、そうじゃろうがな」
「へえ、そら、まあ、いろいろと……」
「ときにおかみさん」
と、いちばんあとから顔を出した本多若先生は、座敷のなかを見まわしながら、
「歌名雄君の姿が見えんようじゃが、どうおしんさったな」
「はあ、あれは警察のかたがたや青年団のひとたちといっしょに、山狩りにまいりました。お通夜よりも犯人をつかまえたほうが、仏にたいして|回《え》|向《こう》になると申しまして……」
「ああ、そうですか。そらまた大変じゃなあ」
本多若先生は|憮《ぶ》|然《ぜん》たる顔色だったが、そばから辰蔵が、もうそろそろ酒のまわった舌のすべりようで、
「ほんまに警察の連中ときたひにゃ、いったいなにをしてけつかんねん。いまごろになって山狩りじゃなんぞと騒いでみたところで、あとの祭りちゅうことが分からんのかい、あほんだらめが」
「あっはっは、辰やんはえらいけんまくじゃが、警察の衆にしても手をこまねいておいでんさるわけでもあるまい。犯人のほうが役者が一枚うわてちゅうわけじゃろうなあ」
「旦那はそがいにおいいんさるけんど、そんなら、あのひとはどうですん? 金田一耕助たらいう私立探偵は……?」
「どうですんとは、辰やん、なんのことじゃな」
「いいえさあ、あがいなもんがウロチョロしとるもんじゃけに、かえって捜査のさまたげになるんとちがいますかいな。立花さんなんぞ、だいぶんにがりきっておいでんさるようじゃけんど」
「しかし、磯川警部さんはぜったいご信頼のようじゃな。辰やんはそういうけれどな、ああいうかたが案外くせもんかもしれん。俗に|啼《な》かぬねこがねずみとるちゅうて……」
「いかに啼かぬねこがねずみとるちゅうたかて、あがいなもっさりした男が……」
「そうそう、その金田一先生といえば、どうおしんさりましたん? きょうはいちんちお姿が見えんようですけんど」
と、そういうリカの質問にたいして答えたのは本多若先生である。
「ああ、おかみさん、金田一先生ならゆうべ岡山へおたちんさったちゅう話じゃが」
「へへえ? 岡山へなにしに……?」
と、嘉平どんはまゆをひそめて若先生をふりかえる。
「いや、なんでも昭和七年の事件がやっぱりこんどの事件に尾をひいとるんじゃないかという見込みで、あの当時の一件書類やなんかを調査においでんさったんじゃっと、これはきょうひるま、磯川警部さんから聞いた話じゃけんどな」
「昭和七年の事件じゃっと……?」
と、思わず一同の視線は青ざめたリカのおもてに集中されたが、うわさをすれば影とやらで、ちょうどそこへお幹さんが警部の来訪をつげてきた。磯川警部はひとりではなく、とちゅうで出会ったとかで春江とゆかりの親娘といっしょだった。
三人がリカに挨拶をしたのち、焼香をおわるのを待って、
「磯川警部さん、金田一先生はゆんべ岡山へお立ちんさったちゅう話ですな」
と、嘉平はまじまじと磯川警部の顔を見ている。
「はあ、きゅうに思い立たれてな」
「それで、いつこっちへおかえりで……」
「さあ、ゆんべお立ちになったばっかりじゃけんな。二、三日はかかるんじゃごわせんか。なにせ、ここは岡山とはほんに連絡の悪い土地じゃけんな」
「それでは金田一先生は、ゆんべの里子のことはまだご存じじゃないんでしょうか」
と、リカはなんとはなしに眼をうるませている。
「いや、そらたぶん夕刊でみておいでんさるじゃろうが、こっちゃのほうへまだなんの連絡ものうてな」
と、磯川警部は顔をしかめて、|地頭《じあたま》のすけてみえる短い白髪をなでながら、
「それはそうと、ここでいちおうみなさんにご注意をしときたいんじゃが、こんやこれから警察の連中と村の青年団が合体して、山狩りを決行することになっとおりますんじゃ。それだけに、いきおい村の警備が手うすになるじゃろ思いますけん、そこは各自の注意と責任において身辺を警戒してつかあさい」
「そんなら、警部さん」
と、さすがに鈍牛のような敏郎も眼をうわずらせて、ひざをのりだすと、
「こがい、きょうといことが、まだまだ続くとおいいんさるんで」
「なんともいえませんぞな、犯人をつかまえてしまわんことにはな。さしずめそこにいるお幹さんなんかも、よう気いつけないかんぞな。こんどの事件の犯人はおまえみたいなべっぴんばかりねろうとるようじゃけんな」
「いや、そないなきょうといことおいいんさったら!」
ちょうどお銚子をはこんできたお幹は、下座のほうでゾーッとしたように立ちすくんでしまう。
「あっはっは、いや、これは冗談じゃない。春江さん、あんたなんかも、ゆかりちゃんに気いつけてあげてつかあさいよ」
「はい」
と、春江は総毛立つような顔をして、さむざむと肩をすぼめると、
「わたしもあんまりきょうといことが続きますもんじゃけに、あした里子さんの葬式をすませたら、さっそく東京へかえろ思うとりますのん」
「なんじゃ、春江、おまえそんなら村から逃げだす気か」
と、むこうのほうからいきまくようにわめいたのは辰蔵である。
この妹に財布の|紐《ひも》をゆるめさせようと思っていた魂胆が、すっかりはずれたらしい辰蔵は、なにかというと眼にかどがたって、いまも春江をにらみすえた白眼にはギラギラと血の筋が立っている。
「べつに逃げだすいうわけでもございませんけど、お墓参りもすましたし、それに東京のほうからいろいろいうてまいりますけんな」
「なんぼ東京のほうからいろいろいうてくるちゅうたかて、こないな騒ぎのさいちゅうに逃げだしてみい。てっきり犯人はおまえたちじゃったと疑われよるわい。おまえそれでもええのんか」
「兄さん、そないなむちゃなこと……」
「なにがむちゃじゃ、だいたい日下部是哉ちゅう男が怪しい。この村には正体不明の男がはいりこむと人殺しが起こりよるんじゃ。昭和七年のときもそうじゃった。そうじゃけん、こんども日下部是哉ちゅう男が……」
「まあええがな、まあええがな」
と、いきりたつ辰蔵を両手でおさえつけるように制した嘉平どんは、
「おまえたち、顔さえみればいがみあいよる。ほんまにけったいな兄妹じゃ。日下部さんちゅうかたが怪しいなら怪しいで、警察の手でなんとかしてつかあさる。おまえなんかのつべこべ口出しするとこじゃないわ。それにしても、ゆかりちゃん!」
と、ゆかりのほうへおだやかな笑顔をむける。
「はあ」
「おまえもとんだところへ帰ってきたもんじゃな。まるでお通夜の席で、歌うためにかえってきたような結果になってしもうたが、こんやもここでお歌いんさるんかな」
こんやこの席にいる村の連中のなかで嘉平どんだけがしっているのである。一昨夜と昨夜とふた晩つづけて、ゆかりがお通夜をつとめた仏たちが、彼女の腹ちがいの姉妹であることを。しかし、こんやの仏はちがっている。こんやの仏にとってはゆかりは父のかたきの娘である。磯川警部はそれとはべつの考えをもっているようだけれど、すくなくとも表面上はそうなっている。だから、リカが彼女に歌うことを許すだろうかというのが、いまの嘉平の興味と好奇心の中心なのである。
「はあ、それは……」
と、ゆかりは一同の視線をあびて、さすがに体をかたくしているが、
「それはおばさんしだいでございます。おばさんが歌うてほしいおいいんさったら、わたし歌わせてもらいます。しかし、わたしの歌がいややとおいいんさるなら、このままひきさがらせてもらいますけんど……」
と、その返事はなかなか立派だったが、言下にまた酔っぱらい特有のだみ声をはりあげて、我鳴りだしたのは辰蔵である。
「あほらしい、ええかげんにせんかい。こんやは青年団の連中もおりゃせんし、あがいなけったいな唄聞いたところで、だれもよろこぶもんおりゃせんわい」
「あら、辰蔵さん」
と、そばからリカがおさえるように、
「そないな失礼なこと、おいいんさるもんじゃございませんわ」
と、袖口で眼をおさえて、
「ええ、ええ、ゆかりちゃん、歌うてやってつかあさいよ。里子だけのけもんにおしんさったらいけませんぞな」
「はい、おばさん。そんならもう少しやすませてもろて、それからあとで里子ちゃんに、唄をたむけさせてもらいます」
こうしてゆかりは三晩続けて「枯葉」を歌うことになったのだが、磯川警部はそこで思いだしたように腕時計をみて、
「おっといけない。もうそろそろ八時半じゃ、それじゃおかみさん、わしゃこれで失礼するでな」
「あれ、まあ、警部さん、そないにお急ぎになさりませんで、里子のためにもうすこしいてやってつかあさい」
「いや、そうしたいのはやまやまじゃけんどな、山狩りの件もあるので、こんやはこれで」
「そうすると警部さんも、山狩りにおいでんさるんで?」
と、嘉平どんはちょっと眼をまるくする。
「いや、山狩りちゅうたかとて、わしはこのとおりの年寄りじゃけん、若いもんみたいに駆けずりまわるわけにはいかんけんど、と、いうてここでのうのう酒くろうているわけにもいきませんがな。ことにゆんべ本多先生のとこで大しくじりをやらかしたばかりのとこじゃけんな」
「本多先生のとこで、大しくじりとおいいんさると……?」
「いや、いや、それは若先生にきいてつかあさい。それじゃちょっと失礼して……」
と、磯川警部はもういちど仏のまえに線香をあげると、
「それじゃ、みなさん、おさきに失礼を……」
と、亀の湯を辞して出たのが八時半。
十日の夜の大雷雨以来しばらくつづいた上天気も、ここらでそろそろ下り坂になるらしく、こんやの空はどんよりくもって星影ひとつ見当たらない。かんかんにかわいた路に砂ぼこりをあげながら、磯川警部が自転車を走らせていくと、ほおをなでる風もなまぬるい。
放庵さんの草庵へのぼる路を通りすぎて山裾を大きく|迂《う》|回《かい》すると、鬼首村を取りまく丘の闇をぬって、点々と灯がゆれている。もうすでに山狩り部隊は出発したらしく、ゆっくりと行進する灯の色がおりからのくもり空のもとに明滅して、それがまるで|非《ひ》|業《ごう》に死んだ三人娘たちにたいする送り火のように見えるのである。
磯川警部も何となく胸がときめく思いで、村の駐在所へかえってくると、ほの暗いおくの|一《ひと》|間《ま》で思いがけなく、金田一耕助が立花警部補や乾刑事と顔をつきあわせて、なにやらひそひそ話をしているところだった。
「あっ、金田一先生!」
と、磯川警部がさけぶのと、
「あっ、警部さん、大空ゆかりは……?」
と、さけんでさっと立花警部補と乾刑事が立ちあがるのとほとんど同時であった。
「いや、大空ゆかりはわざと亀の湯へおいてきたが……」
「だ、大丈夫ですか。け、警部さん、大空ゆかりは……?」
と、乾刑事はガチガチと歯を鳴らしている。
「それは大丈夫、私服がひとり見張っているのを見たし、それに日下部是哉という男も亀の湯の付近の闇のなかにひそんでいたようじゃけん……しかし、金田一先生、神戸でなにか収穫が……?」
「警部さん、これ……」
と立花警部補がおこったような声でつきつけたのは、この物語の冒頭にかかげておいた会員組織の小冊子、「民間承伝」の合本である。放庵さんの|甥《おい》の吉田順吉氏はさいわいこの小冊子を合本にしてとっておいてくれたらしいが、立花警部補がわななく指でゆびさすところを読んでみて、磯川警部も思わず両のこぶしを握りしめた。
[#ここから2字下げ]
三番目のすずめのいうことにゃ
おらが在所の陣屋の殿様
狩り好き酒好き女好き
わけて好きなが女でござる
女たれがよい錠前屋の娘
錠前屋器量よしじゃが小町でござる
小町娘の錠前が狂うた
錠前狂えば鍵あわぬ
鍵があわぬとて返された
返された
[#ここで字下げ終わり]
火と水と
八月十七日午前十時。金田一耕助と磯川警部は、いま|茫《ぼう》|然《ぜん》として焼土のなかに立っている。
近郷近在をうらやましがらせた大空ゆかりのゆかり御殿も、いまはあとかたもなき|廃《はい》|墟《きょ》と化して、焼跡からはまだぶすぶすと紫色の煙が立ちのぼっている。そのどくどくしい煙のいろが睡眠不足の警部の眼にしみいるようである。明け方ごろ襲ったはげしい雷雨は去ったものの、そのまま天気はくずれるらしく、ゆかり御殿の廃墟のうえに、こまかな雨がだれかの涙雨のように降りそそぐ。
その焼跡のなかに茫然として立ちすくむ金田一耕助の胸のなかを、いまわびしい木枯らしが音を立ててふきぬけていく。それははげしい肉体的活動と精神的ショックとともにたたかったのち、すべてがおわったとしったとき、だれしもが感ずる一種の虚無感である。それは勝利にたいする陶酔でもなければ、栄光にたいする自負でもない。げんざいの金田一耕助にとってはいっさいが空の空なのである。
「金田一先生」
と、雨のなかを黙々として廃墟の発掘作業にあたっている村の青年団のすがたをぼんやり見ながらつぶやく磯川警部の声は、どこか|臍《ほぞ》をかむような調子である。
「ゆうべわたしのとった作戦は間違っていたんでしょうか」
「いいえ、警部さん」
と、金田一耕助はおどろいたように|憔悴《しょうすい》した警部の顔をふりかえると、すこし語気をつよめて、
「あなたのなすったことはすべて正しかったのです。あなたの根気と執念が二十三年まえの事件まで一挙に解決したんですから。このことは……」
と、金田一耕助は焦土と化したゆかり御殿の跡を見わたしながら、
「なにびとといえども阻止することはできなかったでしょう。これは警部さんの責任ではありません」
「あんたにそういわれるとわしもいくらか元気がでるが……」
と、そういいながらも警部はあいかわらずものかなしげな眼で、さぐるように金田一耕助の横顔を見ながら、
「それにしても先生はいま、二十三年まえの事件まで一挙に解決したとおいいんさったが、そうすると昭和七年の事件の犯人も、やっぱりあのひとだったんで……?」
金田一耕助が無言のままうなずくのを見て磯川警部はおどろきの色を眼にはしらせた。
「しかし、それはどういう……?」
「警部さん、そのことについてはあとでゆっくりお話ししましょう。ああ、むこうへ本多の若奥様がいらっしゃいましたよ」
と、金田一耕助はいたわるように警部の腕をとって、
「きっと風呂がわいたのでお迎えにきてくだすったのでしょう。警部さんにとってもぼくにとっても、いまいちばん必要なことは、風呂へ入って、あとぐっすり眠ることです。ひとつ本多の大先生のご好意にあまえさせていただこうじゃありませんか」
金田一耕助は磯川警部の腕をとったまま、小雨そぼふるゆかり御殿の廃墟を出て、傘をもってむかえにきた一子のほうへ歩いていった。
いま、磯川警部が苦にやんでいるゆうべの作戦というのはこうである。
十五日の晩、こんどねらわれるのは、錠前屋の娘であろうという示唆を、金田一耕助からうけていた磯川警部は、案に相違して血祭りにあげられたのが亀の湯の娘であったので、いちじはおどろきもし、当惑もした。ところがそののち山本刑事が現場付近から、狂った錠前を発見するにおよんで、犯人のねらっていたのはやはり錠前屋の娘ではなかったか、それがなにかの手ちがいで、あやまって亀の湯の娘を殺したのではないかと想像されるにいたった。
この想像にしてあやまりがなければ、犯人はあらためて錠前屋の娘をおそおうとするのではないか。……磯川警部はそこに希望をつなぎ、そういう想定のもとに作戦がねられたのである。
警部の作戦というのはこうである。村の警官や青年団の連中はすべて山狩りにおいたてられる。そうすることによって村はいちじ無警備の状態に放置されているかのごとき印象を犯人にあたえる。しかも、ゆかり親娘は十七日の午後、村を立って東京へかえってしまうかのごとく春江に発言させる。
磯川警部はしっていたのだ。文子も里子もお通夜の直後に殺害されているのだから、犯人もおなじ席にいたにちがいないということを。したがって、当然、里子のお通夜にも出席するにちがいないということを。たとえ本人は出席しなくとも、お通夜の状態をすぐしりうる近親者のだれかが出席するであろうということを。
さいわい春江はうまく芝居をうってくれた。じっさいこういう状態では春江親子がおそれをなして、いっこくもはやく村を逃げだしたいと考えるであろうことに、疑いをさしはさむものはなかったであろう。と、すれば犯人に残された唯一のチャンスは十六日の夜だけである。しかも、その夜は村全体が無警察状態におかれているのである。
以上が磯川警部のねった秘策で、この謀議にあずかったのは立花警部補と警部補の腹心の部下、乾刑事のふたりだけであった。このふたりさえ山狩り部隊が出発するときには、なにくわぬ顔をして一行のなかにくわわっており、とちゅうからひそかに村の駐在所へひきかえしてきたのである。ふたりが駐在所へひきかえしてきて、磯川警部を待っているところへ、ひと足さきに神戸から、金田一耕助がかえってきたという寸法であった。
金田一耕助もこの作戦に賛成したし、それまでいささか懐疑的であった立花警部補も、「民間承伝」の放庵さんの一文を読むにおよんで、|俄《が》|然《ぜん》この計画に乗り気になってきた。
それからあとのことを磯川警部は生涯忘れることができないであろう。
十時ごろゆかりを尾行していた刑事のひとりがかえってきて、ゆかり親娘が日下部是哉とともに無事に帰宅したという報告があった。ゆかり親娘が亀の湯を出たときには、里子のお通夜はまだお開きにはなっていなかったらしいのだが、磯川警部はその報告を聞くと大事をとって、ただちにゆかり御殿を警戒下におくよう指令した。
ゆかりが戸籍上の両親別所蓼太夫婦のためにあたらしく建てた家は、鬼首村をとりまく丘をちょっと登ったところにあり、すぐ眼の下にいま辰蔵の一家が住んでいるあばら家がある以外、五十メートル以内には一軒の人家もなく、周囲はすべてぶどう畑である。
金田一耕助が磯川警部とともに、ゆかり御殿を眼下に見おろすぶどう畑のなかの部署についたのは、十時十五分ごろのことだったが、そこに立って下を見ると、三百メートルほどむこうに鈍く光っているのが、いつかハカリ屋ぶどう酒醸造工場のまえから望見した溜め池であろう。溜め池の周囲には土手がめぐらしてあり、そのへんには一軒の人家もなかった。
十時半ごろになると桜部落の方角から自転車の灯や、懐中電灯の光が見えはじめたが、おそらくそれは里子の通夜がお開きになったので、客がかえってきたのであろう。それらの灯や光はゆかり御殿の近所へくるまでもなく、とちゅうでそれぞれの横町や門のなかへ消えていった。それらの客のいちばんしんがりをつとめてかえってきたのが辰蔵である。
辰蔵の乗った自転車の灯は、あっちへふらふら、こっちへよろよろ、暗い村道をのたくってくるうえに、ときどき|濁《だ》み|声《ごえ》を張りあげたり、音階のくるった調子で唄をうたったりするのですぐわかった。辰蔵はじぶんの家のまえまでくると、口ぎたなく女房をたたき起こして自転車を預けると、ふらふらと坂をのぼってくる。そして、ぶどう畑の下をくぐりぬけてゆかりの家の裏庭へ出てくると、
「おい、春江、ちょっと起きろ、話があるからちょっと起きんかい」
と、二、三度家の周囲をあるきまわっていたが、なかから返事のないことはいうまでもない。じつはそのすこし以前までゆかり御殿には灯がついていたのだが、遠くのほうから辰蔵の調子っぱずれの唄が聞こえてくると、にわかに家中の灯が消えてしまったのである。辰蔵はよほど敬遠されているらしい。
「ちっ、|阿《あ》|魔《ま》、たぬき寝入りをしてけつかるな。さっきまで電気がついとおったのをちゃんとしっているんやぞ。起きねえかよ。起きなきゃ火をぶっぱなしてたぬきをいぶり出してくれるぞ」
「あんた、あんた!」
ぶどう畑の下のほうから辰蔵の妻女であろう、いまにも泣き出しそうな声が聞こえて、
「みっともないからおやめんさいよう。話があるならあしたにおしんさい。ほら、赤ん坊がびっくりして眼をさましたじゃないか」
なるほど坂下のあばら家から、火のつくような赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。これには辰蔵も|辟《へき》|易《えき》したのか、
「ちっ、それじゃこんやはこれで勘弁してやらあ。そのかわりあした東京へかえろうちゅうたかてかえすもんか。そんなことしてみやあがれ。おまえたちが犯人じゃっと訴えでてこますぞ」
ぶつくさと悪態をつきながら、よろよろと坂下のあばら家へとってかえすと、そこでまた妻女あいてにひとしきりわめきちらしていたが、それがおさまるとまもなく赤ん坊も泣きやんで、灯が消えたところをみると辰蔵も前後不覚に眠りこけてしまったのであろう。
金田一耕助が腕の夜光時計に眼をやると、時計はまさに十一時半。
犯人が行動を起こすとすれば、これから半時間か一時間ほどのあいだであろうと予測された。山狩りの連中とても徹宵当てもない捜索をつづけようとはしないだろう。十二時ごろともなれば切りあげて、ぼつぼつ山をくだってくるにちがいない。犯人はそれ以前にことを決行しようとするにちがいない。
そういう予想のもとに警戒しながら、しかも五人の監視員が五人とも、まんまと犯人に出しぬかれたというのは、あとから思えば犯人は、辰蔵が悪態を吐きちらしている最中に、まんまとゆかり御殿の軒下へしのびよっていたのではないかと思われるのである。
そのとき、金田一耕助と磯川警部が、ゆかり御殿を眼下に見おろすぶどう畑のなかにひそんでいたことはまえにもいったが、立花警部補と山本刑事は門のうちがわの左右の植え込みのなかに忍んでいたのである。門といっても田舎のことだから、ただ格好だけのもので扉もなく、したがってそこがいちばん危険視されていたのだ。乾刑事は辰蔵がのぼってきたぶどう畑のへんを警戒していたはずである。
だから、ここにひとつの死角が生じたのもやむをえない。
そこは金田一耕助と磯川警部のひそんでいる場所のすぐ足の下である。そこにかなり大きな納屋が建っており、納屋の|廂《ひさし》は|母《おも》|屋《や》の軒とすれすれに接触しているから、金田一耕助や磯川警部には、その屋根の下のけはいはわからなかったのである。おそらく犯人は一同が辰蔵のほうへ気をとられているすきに、うしろのぶどう畑をぬけて、納屋のかげへしのびこみ、そこで待機していたらしい。
辰蔵の家の灯が消えてちょうど半時間、時刻はまさに深夜の十二時、ゆかり御殿も寝入りばなだったのである。とつぜんパチパチという物音とともに、ゆかり御殿の側面がにわかにパッと明るくなったかと思うと、納屋からさっと火をふいたのだ。
犯人がはじめから放火をたくらんでいたのか、それともさっきの辰蔵の悪態が犯人にそれを思いつかせたのか、いまとなってはしるよしもないが、いずれにしても放火とは監視員一同の予測せざるところであった。
しかし、犯人のほうでもこの家がげんじゅうな監視のもとにおかれていたとは気がつかなかったらしい。あちこちから起こるわめき声に|狼《ろう》|狽《ばい》して、坂下のぶどう畑へかけこむうしろすがたを|瞥《べっ》|見《けん》したとき、金田一耕助はすぐそれが十日の夕刻、仙人峠ですれちがった老婆であるらしいことに気がついた。
消火作業と犯人追跡。――金田一耕助は即座に後者をえらぶことにした。
「警部さん、あなたはあとに残ってうちのものを起こしてください。ぼくは犯人を……」
火事だ、火事だ、起きろ、起きろとみずからも連呼しながら、金田一耕助は袴の裾をたくしあげ、ぶどう畑のなかへもぐりこんだ。それと行をともにしたのは乾刑事で、立花警部補がそれにならおうとはせず、磯川警部や山本刑事とともにあとに残って、家人救出にあたったのには、金田一耕助ものちになって敬意を|表《ひょう》した。
犯人はぶどう畑のなかをくぐりぬけ、もぐりぬけ、とうとう坂下の村道へとびだした。犯人の腰はもう弓のようにまがってはいない。しかし駆けていくスピードからいえば、とうていこちらのふたりにはかなわなかった。犯人の眼のまえにはまもなく溜め池を取りまく土手があらわれた。それをはいのぼるのが犯人にとって精いっぱいの努力だったらしい。
そのじぶんには火はすでに母屋にもえうつって、ゆかり御殿はいまや一団の|焔《ほのお》と化しあたりは昼もあざむくあかるさである。姉様かぶりに|縞《しま》のもんぺをはいた犯人のすがたが、いっしゅんくっきりと土手のうえにうかびあがったかと思うと、つぎのしゅんかん枯れ木を倒すように土手のむこうがわへころげ落ちていった。ひと足おくれて金田一耕助と乾刑事が、土手のうえへはいあがってみると、犯人の体は減水した溜め池のふかい泥のなかに頭のほうからめりこんで、もう身動きもしなかった。
その犯人の引き揚げ作業が開始されたのは、それから一時間ほどのちのことである。なにしろ周囲の泥がふかいのでうっかりちかよることもできず、結局、青年団の連中が山狩りからかえるのを待つよりほかはなかったのだが、そのじぶんにはゆかり御殿は完全に|烏《う》|有《ゆう》に帰していた。
なにしろ連日の|旱《かん》|天《てん》つづきで、なにもかも枯れきっていて、火のめぐりが意外にはやかったのと、消防団の連中がぜんぶ山狩りにかりだされていたので、消火作業に手が足りなかったのである。そして、そのことが磯川警部の自責の種になっているらしいのだが、ただ不幸中のさいわいともいうべきは、人畜に被害がなかったことと、火事をゆかり御殿一軒にくいとめることができたことである。そのかわりゆかりをはじめ一同は、ぜんぶ着のみ着のままで、裸も同様で焼けだされた。なにしろ松子という生ける屍もおなじ老婆をかかえているので、そのほうへ気をとられるのあまり、ものをもち出そうなどという分別や才覚は、ぜんぜん思いうかばなかったのである。
犯人の引き揚げ作業が開始されたのは、火事がゆかり御殿一軒にくいとめられそうだという見きわめがついてからである。
引き揚げ作業に駆けつけてきた数名の青年団のなかには、亀の湯の歌名雄もまじっていたが、そのすがたをみると金田一耕助の顔色が変わった。
「ああ、歌名雄君」
と、金田一耕助はまるでのどのおくに魚の骨でもひっかかったような声で、
「君はむこうへいっていたまえ。ここは三、四人もいれば大丈夫だろう」
「どうしてですか、金田一先生」
「どうしてって、ここより火事場のほうがだいじだからね。なにしろああして水の便の悪いところだから、ひとりでも手の多いほうがよいにきまっている。いつまた燃えあがらないものでもないから……」
「いいえ、先生、ぼくはやっぱりここにおります。あっちへひとをやるならだれかほかのもんにしてつかあさい。ぼくはいちばんに見たいんです。泰っちゃん文ちゃんや、それから里子を殺したやつの顔を……」
金田一耕助は無言のまま歌名雄の顔を見すえていたが、やがてかすかにため息をつくと、
「ああ、そう、それじゃ君のすきなようにしたまえ」
金田一耕助はその言葉のあとへなにか付け加えようとして唇を動かしかけたが、思い直したように顔をそむけて、磯川警部の背後にまわった。磯川警部は無言のままふたりの一問一答を聞いていたが、金田一耕助の顔にうかんだふかい苦悩のいろをみると、とつぜん大きな呼吸をうちへ吸い、てのひらに爪がくいいらんばかりに両のこぶしを握りしめた。
磯川警部は生涯に二度とああいう情景をみることを好まないだろう。
土手のうえにはあかあかと|篝火《かがりび》がたかれていた。そして、そのそばに手早くやぐらが組み立てられて、そこから滑車で犯人の死体を引き揚げようというのである。そうでもしなければ泥の底ふかくめりこんでいる死体に、とても危険でちかよれないのである。
やがて滑車からおろされた綱のさきが、歌名雄の手によって犯人の腰のまわりにまきつけられることになった。土手の下から泥の上にながく体をのばした歌名雄の両足を左右からおさえているのは勝平と五郎やんである。
「歌あさん、大丈夫かいな」
「大丈夫、大丈夫、勝っちゃんも五郎やんもしっかり足をおさえていてくれ」
「よっしゃ」
長身の歌名雄がさらにながい|猿《えん》|臂《ぴ》をのばして、泥の下へ綱をくぐらせ犯人の腰をふたえにしっかりゆわえると、その結び目をためしたのち、
「ようし、勝っちゃん、五郎やん、おれの体を起こしてくれ」
「よし、おれも手伝おう」
と、立花警部補も土手をおりて作業服をきた歌名雄の腰にだきついた。
「それ、いいか、一イ、二イ、三!」
三人にだき起こされて歌名雄がやっと土手の下に立ち直ったとき、額から滝のような汗がしたたり落ちていた。
「ようし、それじゃ滑車係り、頼むぞう」
「オーライ」
土手のうえから声がして、滑車が回転をはじめると、泥のなかから犯人の体がすこしずつあげられてくる。
「そら、もうひと息じゃ。しっかりせんかい」
五郎やんの|叱《しっ》|咤《た》をあびて、
「なにくそ!」
と、土手のうえでも青年団が呼吸をはあはあいわせている。
やがて、ズボッと大きな音をさせて、犯人の体はがっくりふたえに折れまがったまま、泥の中からごぼう抜きに抜きあげられ、一メートルほど宙に吊りあげられた。
「ああ、ちょっと待てえ」
と、ロープに手をかけたのは勝平である。
「おい、歌あさん、おれもおまえもこいつのためにかわいい妹を殺されたんじゃ。まずいちばんに顔をみせてもらおやないか。五郎やん、どこかで手ぬぐいを水で濡らしてこんかい」
「おっとがてんじゃ。こういうおれかてこいつのために、いとこの家を焼かれたんじゃけんな」
泥のなかから吊りあげられた犯人は、顔中泥におおわれて、どこのだれとも見当もつかない。歌名雄は一種異様な眼差しで泥のなかの顔を凝視していたが、やがてそこへずぶ濡れの手ぬぐいをもってきたのは五郎やんである。
「歌あさん、これ……あれ、歌あさん、おまえどないしたんじゃ。いまになってガタガタふるえよって……」
「ご、五郎やん、お、おれにその手ぬぐいかせ」
そういう勝平もガチガチと歯を鳴らしている。勝平のわななく手で犯人の顔から泥が半分ぬぐいおとされたとき、
「ああ! 母ちゃん! 母ちゃん!」
絶叫する歌名雄の声に磯川警部は、はっと夢をやぶられた。
「ああ、警部さん、だいぶんうなされていらっしゃいましたね」
そばから声をかけられてふりかえると、となりの寝床から金田一耕助が気づかわしそうにはんぶん体をのりだしていた。
そこは本多先生宅の奥座敷で、金田一耕助とふたり風呂からあがって、ぐっすり寝込んだ磯川警部は、はからずもゆうべのあの恐ろしい出来事を夢にみてうなされていたのであった。
「ああ、夢だったのか」
磯川警部はほっとしたように|浴衣《ゆかた》の袖で額の汗をぬぐいながら、
「いや、どうも……」
と、苦笑いをして、
「あの滑車で吊り上げられた亀の湯のおかみの泥まみれの顔と、歌名雄という青年の悲痛な叫び声は、生涯忘れることができんでしょうな」
と、ふかいため息である。
「いや、まったくですねえ」
と、金田一耕助も暗い顔をしてうなずいたが、すぐあいてを元気づけるようににっこり笑って、
「それにしても、警部さん、よく寝たもんですねえ。もう夕方の七時ですぜ。そろそろ起きることにしようじゃありませんか」
ふたりが寝床からぬけだして、ごそごそ蒲団をたたんでいるところへ、縁側へすがたを見せたのは本多の若奥様である。
「あら、お眼覚めでございまっか。そこはそのままにしておいてつかあさい。それより、金田一先生」
「はあ」
「むこうへ神戸から吉田譲治さんいうかたがお見えになっとおります。なんでも先生のご注文の品が見つかったけん、とどけにきたとおいいんさって」
「ああ、そう、それはそれは……」
うれしそうな金田一耕助の横顔を磯川警部はさぐるようにみて、
「だれです。吉田譲治ちゅうのんは……?」
「吉田順吉さんの弟さん、吉田良吉さんのご長男ですよ。さあ、警部さん、おたがいに、もうひとふんばり、元気を出そうじゃありませんか」
最後の|驚愕《きょうがく》
昭和三十年八月十七日八時。本多医院の奥座敷にはいま関係者があつまって、こんどのこの連続殺人事件の真相を聞こうと、|固《かた》|唾《ず》をのんでひかえている。
参集するもの警察がわからは磯川警部に立花警部補、乾、加藤の両刑事。関係者としては仁礼嘉平に妹の咲枝、別所春江に娘の千恵子、オブザーバー格の日下部是哉。この三人はゆうべ着のみ着のままで焼けだされたので、とりあえず本多の若奥様の好意による借り着の浴衣すがたである。ほかに大先生と金田一耕助がいることはいうまでもないが、若先生は亀の湯である。
座敷にはビールにつまみもの、ジュースに水蜜桃の鉢などが出ているが、いまのところあんまり売れる模様はない。いまかれらが渇しているのは胃の|腑《ふ》ではない。みんな話に渇しているのだ。金田一耕助の口から真相が語られるのを固唾をのんで待っているのだ。
「おそいなあ、山本は……?」
さっきからしきりに腕時計に眼をやっていた立花警部補が、いらいらしたように舌打ちをするのを聞きとがめて本多の大先生が、
「山本……? ああ、そうそう、さっき由良家を迎えにいった刑事さんじゃな。それじゃったら立花君、むだじゃろうよ」
「むだとおいいんさると……?」
「いや、あの泰子が恩田のタネじゃったちゅうことは、もう村じゅうにしれわたっとおるそうなけんな。面目のうて由良家のもん、当分は表もあるけんじゃろ。金田一先生、そろそろおはじめんさったら……?」
「はあ、でも、敏郎さんにちょっとお願いしてあることがございますから、その結果をうかがってから……しかし、なんでしたらどんどん質問してくだすってもけっこうですよ」
「あっはっは、なるほど慎重でおいでんさる」
と、大先生は磯川警部に微笑をむけて、
「それはそうと磯川さん、これはせがれに聞いたんじゃが、亀の湯のおかみは溜め池へ投身するまえに、農薬をしたたかのんどったそうなな」
「はあ、そうですけん、まえからいちおう覚悟はきめとったんですな」
「あの亀の湯のおかみがなあ……愛想のええ女じゃったが……」
これはおそらく大先生の感慨にとどまらず、ここにいる一同からひいては鬼首村全体の驚愕でもあり、感慨でもあったろう。
「それはそうと金田一先生」
どうやら話のいとぐちがほぐれてきそうになったので、嘉平旦那もひざをすすめて、
「これは勝平の話ですけんど、金田一先生はまえから犯人は、亀の湯のおかみじゃとしっておいでんさったらしいちゅうのんですが、先生はいつごろから気がおつきんさったんです?」
「はあ、それは……」
と、金田一耕助はいささかてれくさそうに、頭のうえのすずめの巣をひっかきながら、
「こういう事件の場合漠然たる疑惑というやつは、どなたにでもあると思うんです。ひょっとするとあいつじゃないかってふうなね。問題はそれがいつ確信に結びついてくるかということですが、こんどの場合漠然たる疑惑という点からいえば、泰子さん殺しの直後からぼくはもっていたんです。あのおかみにたいしてですね」
金田一耕助の言葉に一座はちょっとざわめいたが、なかでも立花警部補がさっとおもてに朱を走らせてなにかいおうとすると、
「ああ、しかし、金田一先生」
と、磯川警部が機先を制して、
「あなたはいま漠然たる疑惑とおいいんさったが、先生のことですけん、それには相当の根拠がおありんさったんでしょうなあ」
「はあ、それはそれなりにね」
「それじゃひとつそれからお聞かせ願おうじゃごわせんか。われわれがいったいなにを見落としとったかちゅうこってすな」
「いや、そうおっしゃられると恐縮ですが」
と、金田一耕助は苦笑して、
「ひとつは辰蔵さんの話からですね。泰子さんの殺された十三日の晩のことについて、辰蔵さんはこういってましたね。あのひと七時ごろ野良のかえりに腰かけの滝のまえをとおってハカリ屋ぶどう酒醸造工場へ、酸っぱいやつをちっくと一杯ひっかけにいった。そして八時ごろふたたび滝のまえへさしかかったところが、まえにはなかった枡と漏斗がそこにあり、しかもあとから思いだしたところによると、工場へのぼっていくとちゅう、たしかに漏斗らしいものをもった人影が、六道の辻の付近のぶどう畑へかけこむのを見たと……」
「その話ならわしらも聞いたが……」
「はあ、ところでこの話を犯人のがわから考えてみましょう。犯人はその夜の殺人の準備として、工場から枡と漏斗をぬすみだし、六道の辻までおりてきたところで辰蔵さんの姿をみた。そこでぶどう畑へ逃げこんだんですが、そのとき犯人はそれが辰蔵さんであることに気がついたにちがいないと思うんです。それにもかかわらず犯人はなぜ枡と漏斗を滝壺に残しておいて、辰蔵さんにもち去られるようなヘマをやらかしたか。犯人の考えでは辰蔵さんは工場から桜部落のほうへおりていくものとばかり思っていたのではないか、と、いうことは犯人は工場から桜へおりる路が崖くずれのために、不通になっているということをしらなかったのではないか。……ところがあの崖くずれは桜の大師のまえの村道からまる見えです。したがって犯人は桜部落からこちらのほうの住人ではない。しかも桜部落はこの村でもいちばんはしになっているのですから、それよりさきの住人といえば、放庵さんと亀の湯しかないわけです」
一同はしいんと聞いている。本多大先生は張り子の虎のように首をふっていたが、
「なるほど、そういえばそいじゃが、ふたりのなかのひとり、亀の湯のリカに|目《め》|串《ぐし》をおさしんさったちゅうのには、なにかとくべつの理由がおありんさるのかな」
「はあ、それは里子の態度からですね」
「里子の態度とおいいんさると……?」
「いや、ご承知のとおり里子はそれまで、絶対にひとまえで肌をみせることをしなかった。それが事件の翌日から敢然として|頭《ず》|巾《きん》も手袋も捨ててしまいました。あの年ごろの娘にかくも重大な決心をさせるには、よほど深刻な理由がなければならぬはずと、それを前夜の殺人と結びつけて考えてみたんですね」
「そうすると、金田一先生」
と、そばからせきこんだのは立花主任で、
「里子は泰子殺しの犯人をしっていたとおいいんさるんで?」
「……だと思いますね。それを里子は里子なりにこう解釈したんじゃないでしょうか。つまりじぶんが醜く生まれつき、しかもそれを気にしすぎる。その結果母がうつくしい泰子にたいして憎悪をもつにいたったのではないか。それだったらじぶんはもう醜さを気にしないことにしよう。じぶんは醜くとも幸福であるから、お母さんも不心得を起こさないでください。……と、いうのが哀れな里子のせめてもの抵抗だったんじゃないでしょうか」
「そうすると、金田一先生」
と、磯川警部も身をのりだして、
「あの晩、里子とお幹は泰子とリカにすれちごうとりますけんど、そのとき里子はあの婆さんが、じぶんのおふくろじゃっと気がついとったとおいいんさるんで……?」
「いいえ、警部さん、そのとき気がついたら里子はお陣屋跡へはいかなかったでしょうね」
「と、するといつ……」
「いや、あの崖くずれをしらなかったということは、犯人にとって致命的なエラーだったと思うんです。おかげで用意しておいた枡と漏斗を辰蔵さんにもち去られた。そこで犯人は泰子さんを殺したのちもういちど工場へ枡と漏斗をとりにいかねばならなかった。そこに犯人の計算にはいってなかった時間的ロスが生じたのと、もうひとつは泰子さんの失踪があまりはやく問題になりすぎた結果、里子の帰宅が予定よりはやく、したがって里子のほうが犯人よりひと足さきにかえっていたんじゃないでしょうか。そして土蔵のなかから怪しげな|扮《ふん》|装《そう》をした母が、裏門から自転車でこっそりかえるのを目撃したのじゃないか」
里子はしかしそのとき、それがなにを意味するのかしらなかったのであろう。そして、その翌朝それをしったとき、里子は頭巾も手袋もかなぐりすてる決意をかためたにちがいないと、金田一耕助は説明するのである。
「わたしがさっき申し上げた漠然たる疑惑とは以上のふたつで、亀の湯のおかみになにかあるのではないかということは、はやくから考えていたんですが、動機がてんでわからない。まさか文子さんを嫁にほしさに泰子さんを殺したとはねえ。それでつい申し上げかねているうちに、こんな大事になってしまって……その点まことに申し訳なく思っております」
金田一耕助が愁然として頭をさげるとき、立花警部補がよこからひざをのりだして、
「いや、それは先生の責任ちゅうわけじゃありません。しかし、先生、いったいこの事件の動機はなんです? リカのねらった泰子さんと文子さんとゆかりちゃん、この三人が三人とも恩田のタネじゃったとすると、リカにとっては亭主を殺したかたきの娘ですな。そのかたきの娘がそろいもそろうて美人じゃのんに、じぶんの娘はあのように因果な器量である。それで日ごろから|妬《ねた》ましゅう思うとるところへさして、由良家からも仁礼家からも、それとしってかしらいでか、げんざいかたきの娘をせがれの嫁にと押しつけてきなさった。それやこれやでカーッとしたとでもおいいんさるんで」
と、立花警部補の口ぶりはつっかからんばかりで、はなはだもって穏やかでない。
金田一耕助は困ったように、
「ああ、いや、そのこと……いま立花さんのおっしゃったリカの動機のことなんですが……」
と、話をつづけようとするところへかえってきたのは山本刑事である。
「たいへんおそくなりました。由良家のほうで都合が悪うて、だれも出席できんそうです。それから金田一先生」
「由良の主人から先生にこれをと……」
と、山本刑事が封筒を出してわたすのを見て、立花警部補はうさんくさそうに眼をひからせた。
「山本君、それなに?」
「いえ、金田一先生からお手紙をことづかったんですけんど、いまのはその返事で……」
金田一耕助は封をきって読んでいたが、すぐもとどおり封筒におさめると、
「立花さん、この手紙についてはあとでお話ししましょう。じつはねえ、大先生」
「はあ」
「わたしとしては、できたら由良の奥さんにもここへ出席していただきたかったんです。そして、咲枝奥さんや春江奥さんとごいっしょに、鑑定していただきたいものを、じつはわたしここにもっているんです。そして三人の奥さんにその品をよく見ていただいて、さて、それからこんどの事件についてみなさんと討論したいと思っていたんです。その順序が逆になったもんですから、立花さんにももうひとつ、リカの動機について納得がおいきにならないようです。そこで、大先生」
「はあ」
「ひとつあなたも咲枝奥さんや春江奥さんとごいっしょに、鑑定人になってください」
「鑑定ってなんの鑑定ですか」
「いや、写真なんですがね。ちょうど三枚ございますから」
金田一耕助がかたわらにおいた紙挟みから取りだしたのはハトロン紙の封筒である。そのなかからハガキ大の写真を三枚とりだして、三人に一枚ずつわたすと、
「さあ、ひとつその写真のぬしをよく見てください。この三枚の写真ではまだ|髭《ひげ》をはやしておりませんが、鼻下に髭があるものとして鑑定していただきたいんですが……」
三人はふしぎそうに写真のうえに眼を落としたが、つぎの瞬間咲枝はのどのおくからこわれた笛のような悲鳴をあげ、春江は春江でその顔からみるみる血の気がひいていった。
「咲枝、ど、ど、どうしたんじゃい」
「ママさん、ママさん、君、その写真のぬしをしっているの?」
嘉平と日下部是哉がびっくりしたように、横から写真をのぞきこんだが、ふたりともあまり大きなおどろきに返事も出ない。ふたりにかわって答えた大先生の声も、興奮のためにふるえていた。
「き、金田一先生! あんたどこでこがいなもんを手に入れておいでんさった? こら、恩田幾三の写真じゃないか」
恩田幾三! たとえその場でダイナマイトが爆発したとしても、これ以上のショックを投げつけることはできなかったであろう。嘉平は咲枝の手から写真をひったくり、日下部是哉と大空ゆかりは弾かれたように春江の手にある写真をのぞきこむ。磯川警部をはじめとして、警察関係の連中はすわとばかり腰をうかした。まるでそこに恩田幾三そのひとが出現でもしたかのように。
いまそこにある三枚の写真はいずれも胸からうえの半身像で、したがって顔などもはっきりしている。一枚は洋服、一枚は紋付、一枚は浴衣すがた、鼻下に髭はないけれど、ふちなし眼鏡をかけた顔はくっきりと彫りがふかく、多少にやけたところがあるにしても、なかなかよい男振りである。
「き、金田一先生!」
「いや、いや、警部さん、ちょっと待ってください。みなさんによく確かめてからにしようじゃありませんか。咲枝奥さん、あなたその写真のぬしをだれだとお思いですか」
「はい、たしかにいま大先生がおいいんさったひとじゃっと……」
そこまでいって咲枝はその場に泣き伏した。
「春江奥さん、あなたのご意見は……?」
「はい、たしかにここにいる千恵子の父でございます。けっして間違いございません」
春江は泣きはしなかったが、その眼は宙にうわずって、唇がはげしくふるえている。
「金田一先生。金田一先生」
と、警部の額には血管が二本、まるで角のように怒張している。
「そ、その写真はいったいどこに……?」
「神戸のM新聞社の調査部にあったのを、さっき吉田順吉さんの弟さん、良吉さんのご長男、譲治君がわざわざ神戸からとどけてくだすったんです」
「恩田の写真が新聞社にあったんですって?」
立花警部補はまだ半信半疑の顔色である。
「はあ、ただし恩田幾三の写真としてではなく、昭和初頭における神戸の人気弁士、青柳史郎の写真として保存されていたんです」
金田一耕助憶測す
強烈な興奮とショックのあとには、むなしい虚脱と精神的|弛《し》|緩《かん》がつづくものだが、いま本多医院の奥座敷を支配しているのは、ちょうどそういう空気である。
そこには一同を|震《しん》|撼《かん》させた三枚の写真がある。金田一耕助の説によるとそれは昭和初年における関西の人気弁士青柳史郎なのだが、青柳史郎はすなわち亀の湯の源治郎である。源治郎が殺害されたのはかぞえ年で二十八だが、それらの写真はいずれも主任弁士の貫禄をみせて、じっさいの年齢よりは老成してみえる。これで鼻下に髭をはやしたとしたら、三十四、五にみえたとしてもふしぎではない。
この三枚の写真を中心として、はちの巣をつついたような騒ぎがそこにもちあがったことはいうまでもない。だれもかれも興奮し、熱狂し、しばらくはケンケンゴウゴウたるありさまだったが、そのうちにふと会話のいとぐちがとぎれると、そこに落ちこんできたのは放心したような沈黙である。
恩田幾三とは亀の湯の源治郎であった。それはもうこの三枚の写真によって動かすべからざる事実のようである。いまから二十三年以前において、亀の湯の源治郎が一人二役を演じていたのだ。したがって亀の湯の源治郎がこの世から消えると同時に、恩田幾三が完全に消滅したのも当然であった。ああ、なんという驚くべき事実であろう。
しいんとしずまりかえった座敷のなかを、扇風機のまわる音にまじって断続しているのは、咲枝と春江とゆかりのすすり泣きの声である。ここにはじめて眼のなかのほこりがとれた。眼のなかのほこりがとれてみればいままで疑問だった節々も一目|瞭然《りょうぜん》となってくる。さてはあのときはこうであったか、またあの出来事にはこういう意味があったのかと、咲枝と春江には思いあたる節も多く、それだけにまた感慨もひとしおなのであろう。
「えらいこってすなあ、こらまた、えらいこってすなあ」
と、しきりにえらいこってすなあを連発しているのはかえってきたばかりの若先生である。
「いや、金田一先生、恐れいりました」
しばらくして金田一耕助のまえに男らしく|兜《かぶと》をぬいだのは立花警部補であった。
「これで恩田幾三ちゅうのんが源治郎の一人二役じゃったちゅうことは、もう間違いはなさそうですけんど、そうすると昭和七年の事件の犯人はいったいだれです」
「そりゃ、立花君、きまっとるがな、リカよりほかにありゃせん」
と、そういう磯川警部の声はうめくようだ。
「そうそう、しかも、それを放庵さんがしっとったんじゃごわせんか」
と、ひざをのりだすのは嘉平である。
「そうじゃないかと思いますね。そこであの|手《て》|毬《まり》|唄《うた》の文句が生きてくる」
「手毬唄の文句が生きてくるとおいいんさると……?」
「いや、娘よったがおしゃべり庄屋、あっちこっちでおしゃべりすぎて、お庄屋ごろしで寝かされたア……」
「そうすると、金田一先生、放庵はやっぱり殺されてるとおいいんさるんで」
「立花さん、申し訳ございませんでした。ぼくがよけいな疑問を提出したばかりに、捜査方針を混乱させたようです。と、いうことはリカの設けておいた|罠《わな》へまずいちばんに落ちこんだのは、かくいう金田一耕助でしたね」
「犯人の設けといた罠とおいいんさると……?」
「まあ、まあ、立花君」
と、そのとき両手で一座を制したのは大先生で、
「そないにてんでんばらばらに話をしてたらきりがないぞな。警部さん、ここはいちばん金田一先生に、まず昭和七年の事件から筋道立てて聞かせてもらおうじゃごわせんか」
だれも大先生の提案に反対するものはなかった。
「それではお話しすることにいたしますが、いまとなっては憶測よりほかはないのですが、それでもよろしかったら……」
それでけっこうということになり、
「それじゃ、ひとつ憶測をたくましゅうしてみますが、わたしにばかりしゃべらせないで、みなさんもどんどん発言してください。ひとつ討論会といこうじゃありませんか」
それも承知ということで、
「それじゃ……」
と、金田一耕助はいくらかどもりぎみで話しはじめた。
「そもそも恩田幾三と名のる人物がはじめてこの村に現れたのは、昭和六年末ということになっておりますが、この昭和六年という年を映画のほうでみますと、そうとう重要な年になってるようです。つまりトーキーがおいおい軌道にのってきて、弁士という職業のひとたちが前途に不安をおぼえはじめたのがそのころなんです。これはおそらく日下部さんなどもよくご存じでしょうが……」
「そうそう」
と、日下部是哉も思いだしたように、
「東京で弁士諸君がさいごの息の根をとめられたのは、昭和八年春だったとおぼえておりますから、昭和六年から七年へかけては活弁諸君の動揺時代でしたろうな」
「はあ、そういうわけで源治郎の青柳史郎も前途に不安をおぼえ、将来にそなえて転職の必要にせまられていた。そこでどういうきっかけからか手をつけたのがモールの仲介業というわけですが、それをいちばんにおのれの生まれ故郷へもちこんできたのはよいとして、そのさい源治郎がじぶんの身分をひたかくしにかくしていたということについて、大先生や仁礼の旦那はどうお考えになりますか」
「それは当然かもしれんな。亀の湯のせがれじゃ村のもんが信用せんけんな。嘉平どん、あんた、どがいにお思いんさる」
「そら大先生のおいいんさるとおりじゃ。村のもんも村のもんじゃが、だいいち由良はんのほうであいてにおしんさらなんだでしょうな、亀の湯のせがれじゃ……」
「それにだいいち、こげえなええ|風《ふう》|采《さい》になっとるのんに、亀の湯のせがれじゃなんぞと打ち明けて、みずから|箔《はく》を落とすことはあるまい。金田一先生、田舎ちゅうもんはそげえなもんです。ことに戦前はひどかった」
「しかし、いかに当人がかくしたとはいえ」
と、そばから乾刑事が、
「村のもんがだれひとり気づかなんだちゅうのんは、ちょっと信じられんこってすなあ」
「いや、ところが、乾君、その信じられんことがげんに行なわれたんじゃ」
と、磯川警部がひきとって、
「いまにして思えば源治郎ならそれができたんじゃ。小学校を出るとすぐ村を出た源治郎、それから十四年たってかえってくるまで、村のもんはみんな源治郎の存在を忘れてしもうとった。しかも、かつては無口で目立たぬ存在だった小せがれが、こがいな紳士みたいになり、うまい口弁をひっさげてかえってきよったもんじゃけに、だれもそれが亀の湯のせがれとは気がつかなんだんじゃな。げんに大先生もさっきこの写真をみるなり恩田幾三じゃっとおいいんさったが、その大先生にしてからが当時は恩田幾三を、亀の湯の次男とは気がおつきんさらなんだんじゃけんな。こら若先生もおいいんさったとおり、どえらいこってすなあ」
と、磯川警部は感無量の顔色だったが、
「いや、金田一先生、話の腰をおって失礼しました。それではあとをおつづけんさって」
「はあ、それじゃ……とにかく源治郎は恩田幾三の仮名のもとにこの村へやってきました。そして村一番の分限者由良の旦那と奥さんにとりいりました。このときどういうつてで源治郎が由良家へきたか、そのことは大して問題ではないでしょう。とにかく夫婦ともまんまと源治郎の口車にのりましたが、ここでいちおうゆかりちゃんのために弁じておきたいのは、源治郎もはじめからペテンにかけるつもりはなかったと思うんです。警部さんなどもいっていらっしゃるんですが、当初はほんとうに農村の副業として有利な事業としてもちこんできたのであろうと思うんです。それにもかかわらず偽名を名のっていたというのは、いま大先生や仁礼の旦那が指摘なすったとおりで、源治郎は一種の下民意識というか、劣等感というようなものをもっていて、それがひいては敦子奥さんや咲枝奥さん……当時の仁礼家のお嬢さんとの関係へまで発展していったのではないかと思うんです」
「金田一先生、それはまたどういう意味で?」
と、嘉平どんがおどろいたように、
「源治郎の劣等感が敦子さんや咲枝との関係へ発展していったちゅうのんは……?」
「いや、金田一先生のおいいんさるのは……」
と、金田一耕助が|躊躇《ちゅうちょ》するのを見て、そばから言葉をはさんだのは大先生である。
「源治郎は幼時から下民あつかいをうけて根強い劣等感をもっておった。ところが恩田の仮名で村へやってくると、そうとはしらぬ由良家でいやにちやほやもてはやしよる。そこでちょいと誘惑してみると敦子がころりとまいりよった。あいては村一番の勢力家の家内じゃ。そいつをものにした源治郎は、もう一軒の勢力家仁礼家の|愛娘《まなむすめ》も誘惑してこまそというわけで、咲枝さんにも手をのばした……つまり金田一先生のおっしゃりたいのは、由良家の家内や仁礼家の娘と関係つけたんは、一種の|復讐《ふくしゅう》心じゃなかったか……と金田一先生、そうじゃごわせんか」
「いや、恐れいりました、大先生。こんなことを申し上げるのは、咲枝奥さんにたいしてたいへん失礼なんですが……」
「いいえ、先生、そのご遠慮には及びませんのよ。この機会になにもかもハッキリしりとうございます。それですけん、どうぞご遠慮なさらないで、なんでもほんまのことを教えてやってつかあさい」
さすがに咲枝はハンケチを眼におしあてたが、それは悪びれたふうではなく、むしろなにか肩の荷をおろしたような顔色であった。
「そうすると、こら二軒だけへの復讐じゃのうて、村全体への復讐の槍玉にあがったのがたまたま敦子さんや咲枝だったちゅうわけですな」
「いや、それは復讐ばかりではなく、もちろんお色気も大いにあったんでしょう。ここに青柳史郎に関する新聞社の調査資料がありますが、相当のドン・ファンで女出入りが絶えなかったようです。だから好きごころも大いにあったんでしょうがその心底には……」
「村でも勢力家でとおしている由良の家内仁礼の娘をひっかけて、おもちゃにしたろちゅう復讐心も手伝うとったんじゃないかとおいいんさるんで。いや、それはそうかもしれん。昔は差別待遇がひどうごわしたけんなあ」
「いや、それはそれとして……」
と、そのとき日下部是哉がよこあいから、
「ここにいる春江さんはどうなんです。このひとも復讐の犠牲になったひとりですか」
「いや、ところが春江さんにたいする愛情だけがほんものだったんじゃないでしょうか。そしてそのことが昭和七年の事件の原因じゃないかと思うんですが、警部さん、あなたのお考えはいかがです?」
「ああ、そう、そういえばそうじゃな」
と、磯川警部は放心したようにつぶやいた。
「金田一先生、それはどういう……?」
「いや、それは警部さんから話していただきましょう。警部さん、あなたからどうぞ」
「ああ、そう、いやな、日下部さん」
磯川警部はちょっと威儀をつくろって、
「リカの話によると源治郎は女房子供を亀の湯へ預けて、ひとまずじぶんひとりで満州へわたることになっとったというんじゃ。ところが春江さんの話によると、恩田は春江さんといっしょに満州へ駆け落ちしようちゅう約束になっとったちゅうことでしたな。春江さん」
「はあ」
春江は話題がじぶんのことになってきたので、血の気をうしなったほおをこわばらせている。ゆかりはキラキラ眼をかがやかせていた。
「このふたりの言葉をくらべてみると、源治郎はリカと歌名雄を亀の湯へおしつけといて、じぶんは春江さんといっしょに満州へ飛ぶつもりじゃったんじゃないか。それをなにかのはずみにリカがかぎつけて……と、いうことになるんでしょうなあ、金田一先生」
「はあ」
「そうしますと、先生」
と、そばからひざをすすめたのは若先生で、
「源治郎さんは妻子をつれて亀の湯へひきあげてきてからも、まだ一人二役をつづけていたとおいいんさるんで?」
「いや、そのことについては春江奥さんにお尋ねしたいんですが、なにか思いあたるふしはございませんか」
「そうおっしゃられるといろいろ……たとえば髭なども事件のひと月ほどまえに落としてしもて……満州で新規|蒔《ま》きなおしでやるのんに、髭などはやして威張っとるように思われたらいかんさかいにと……」
「いやな、若先生」
と、嘉平どんも感慨ふかげに、
「恩田が殺されたんは放庵さんのおうちの離れじゃ。その放庵さんのおうちの跡がいまの役場じゃけん、亀の湯から小一里も離れとおりましょう。そうじゃけん源治郎が恩田と源治郎の二役やろ思たら、やれんことはなかったわけじゃ。恩田はたまにしかこの村へ姿を現さんのじゃし、源治郎は源治郎で満州いきでいそがしいといえば、ひと晩やふた晩亀の湯をあける口実は、いくらでもあったろうけんな。それになあ、金田一先生」
「はあ」
「いまにして思いあたるんですけんど、恩田は桜のほうへはいっぺんもこなんだんです。それをそのじぶんはうちをはばかっとるじゃろとば思うとったんですけんど、いまにして思えば生家にちかいもんじゃけに、桜からむこへは足踏みできなんだんでしょうなあ」
眼のほこりがとれてみればこうして思いあたるところもいちいち多いのである。大先生も当時の惨状を思い出したのか顔をしかめて、
「そうすると、金田一先生、源治郎が恩田になりすまして、放庵さんの離れにいるところへリカが乗りこんできて……」
と、思わず呼吸をのむのである。
「そういうことになるんでしょうね。源治郎もはじめから詐欺をはたらく気はなかったが、アメリカのパニックのあおりをくらって事志とちがった。しかも弁士のほうはいよいよいけない。そこで半分やけも手伝って、女房子供を生家に預けて、じぶんは新しい愛人とともに満州の新天地へ……と、いうことになったんでしょう。ですからその際、恩田のほうを消してしまえば無難だったが、再出発をひかえて少しでもよけいに金をかきあつめようとしたのがいけなかったんじゃないでしょうか」
「それをリカがかぎつけた……」
「いや、仁礼の旦那、これはあくまでぼくの憶測なんですが、ひょっとするとお庄屋さんが、リカに注意したんじゃないでしょうか」
あっというようなさけびが一同の唇からもれ、
「そうじゃ、そうじゃ、きっとそれにちがいごわせんな。お庄屋さんは恩田幾三に離れをかしておいでんさったんじゃけん、恩田の秘密もしっておいでんさったにちがいない。ふむ、ふむ、それで……?」
「はあ……ここでみなさんに思い出していただきたいんですが、あの事件はおよそ計画的犯行というのからは遠かったですね。凶器はその場にあった薪割りですから。そこでリカのためにあえて弁じたいんですが、リカは当時妊娠中であった。しかも、しらぬ他国ではじめてあった舅姑のもとで厄介にならねばならぬという心細い身のうえでした。当然、彼女の心理状態はひじょうに不安定だったと思うんです。それに以前から良人の女出入りに頭脳を悩ましていたことでしょうから、それがあの際爆発し、彼女を逆上させたとしても、たぶん同情の余地はあると思うんですよ。ああ、いや、春江奥さん」
と、そこで金田一耕助はあわてたように、
「こういったからってあなたをせめるんじゃないんですよ。ぼくの申し上げたいのは、昭和七年の事件が激情による犯罪であったろうということです。したがっていちじの激情にかられて良人を殺したリカに、いかに彼女が賢明な女であったとしても、あのようなトリックで捜査陣を|瞞着《まんちゃく》しようというような知恵は出なかったであろうと思うんです」
「わかりました、金田一先生」
と、警部は張子の虎のように首をふりふり、
「と、いうことはああして被害者の相好のみわけもつかんようにして、源治郎の演じとった一人二役をたくみに利用して、われわれを瞞着したんは、みんなお庄屋さんの入れ知恵じゃったろうとおいいんさるんですな」
「なるほど、そういう秘密を握っとったもんじゃけん、放庵め、亀の湯のおかみをゆすっとったんですな」
立花警部補がいきまくのを、大先生が聞きとがめてまゆをひそめると、
「ゆする……? 磯川さん、なにかそないな事実があったのかな」
そこで磯川警部が出所不明の放庵さんの生活費の秘密について語って聞かせると、大先生もおどろいて、
「しかし、なあ、立花君、だいたいわしは放庵ちゅうひとをあんまり好かなんだほうじゃけんど、やせても枯れても多々羅家の末孫、腐っても|鯛《たい》のプライドはもっとった人です。他人の弱味につけこんで恐喝なんてできるひとでは絶対なかったはずじゃが、嘉平どん、あんたどがいお思いんさる」
「これは大先生のおいいんさるとおりじゃ。かりにお庄屋さんの生活費が亀の湯から出とったとしても、そらお庄屋さんがゆすったんじゃのうて、リカのほうからもちかけよったんでしょ。お庄屋さんのご気性としては亀の湯ごときの恩恵をうけるちゅうことは、さぞ心苦しいことじゃったろうと思いますな」
「それよ、立花君、結果からいうとおんなじことかもしれんけんどな」
「いや、ようわかりました」
と、磯川警部もうなずいて、
「それじゃみなさん、昭和七年の事件についてはだいたいこれで納得がいきましたけん、それではこんどは最近の事件について、金田一先生のお話をうかがおうじゃごわせんか」
だれもそれに異議をとなえるものはなく、
「金田一先生、おひとつどうぞ」
「はあ、いや、どうも」
金田一耕助は若先生のついでくれるビールをなみなみとうけながら、
「それじゃこれまたみなさんのご意見もうかがって、討論会といきましょう。それについては立花さん」
「はあ」
「あなたももう恩田と源治郎が同一人物であったということをお知りになったんですから、こんどはその事実にもとづいて、もういちどリカの動機を考えていただきたいんですが」
「いや、どうも、金田一先生、面目しだいもございません」
と、立花警部補は頭をかきながら、それでもうれしそうにひざをすすめて、
「それじゃこういうことになるんですな。恩田幾三なる人物があとになんにも残さなんだらこんどの事件は起こらなかった。ところが幸か不幸か恩田は三人の婦人の腹にそれぞれ子種をおろしていきよった。いっぽう正妻であるリカの腹にも子種がやっぱりやどっとった。そして事件の翌年四人の婦人がいっせいに子供を産んだが、それがそろいもそろうて女の子であったというところに、こんどの事件の遠因があったちゅうわけですな」
「そうじゃ、そうじゃ、そうじゃて」
と、大先生も強くうなずいて、
「立花君はさっきリカの動機を、じぶんの娘があがいな因果な器量じゃのんに、亭主を殺したかたきの娘がそろいもそろうて衆にすぐれた美人じゃったというとったが、事実はもっと深刻だったわけじゃな。リカとしては正妻であるじぶんの娘があがいな器量じゃのんに、じぶんから亭主をねとったかくし女の腹に生まれた娘たちがみんなべっぴんである。ということがしじゅうリカの神経をいらだたせておった。……と、いうことも金田一先生、リカの動機のひとつじゃごわせんか」
「いや、大先生、動機のひとつどころか、万事はそこから端を発しているのではないでしょうかね。これはちょっと比喩が穏当でないかもしれませんが、交尾期の雄ねこがなんびきかで一匹の雌ねこを追っかける。ところが雌ねこから毛嫌いされてぜったいに許してもらえない雄ねこがありますね。そんな場合雌ねこが出産すると拒絶された雄ねこが子ねこをかみ殺しにいくという話がありますが、リカの心理にはそういう場合の雄ねこと共通したものがあるような気がするのです。だからこれは心理的にいって避けがたい衝動であったのではないかと思うんです」
「なるほど。そういうふうに解釈すると、リカはあわれな女であったということになりますな」
と、いう磯川警部の言葉にたいして、
「はあ、ぼくはそう思っております」
金田一耕助がしんみりいったので一同はちょっと鳴りをしずめたが、立花警部補はいまそんな感傷になどかかずらってはいられないのである。
「そうするとリカは、泰子さんや文子さんやゆかりちゃんが、源治郎の娘であるちゅうことをしっとったわけですな」
「はあ、それはねえ、立花さん、お庄屋さんはその三人が恩田のタネだということをご存じだったんです。しかもお庄屋さんとリカはかつて重大な秘密をわかちあった同志みたいなもんです。だからいつごろ打ち明けたかは不明としても、いちおうリカに注意はしてあったと思うんです。ことにリカには歌名雄というせがれがあるだけにね」
「立花さん」
と、嘉平ははげしく身ぶるいをすると、
「あんたはさっきわれわれが、かたきの娘を歌名雄に押しつけようとしたとおいいんさったが、じっさいはそれよりも深刻じゃったんですなあ。しらぬこととはいえわれわれは、腹ちがいの妹を歌名雄におしつけようとしとったんですなあ」
「そうじゃ、そういうことになるなあ」
と、大先生はふかい嘆息をもらして、
「しかも、リカにはそれを指摘することができなんだ。それを指摘するには昭和七年の秘密にふれねばならず、それにふれるということは、とりもなおさずおのれの首に綱をまきつけることじゃけんな」
「リカは進退きわまったわけですな」
と、若先生がつぶやいたとき、とつぜんはげしい|嗚《お》|咽《えつ》の声が座敷の一隅から起こった。
ハンケチを眼におしあてた咲枝である。もし、なんにもしらずに歌名雄と結婚していたときの母子の立場の無残さを思うと、いまさらのように不幸に生まれた娘のあわれさが身にしみるのだろう。
「そうですねえ。ですからリカのほんとの動機は雄ねこの心理だと思うんですが、それに火をつけたのがふたつの縁談と、ゆかりちゃんのすばらしい人気だったと思うんです」
「ゆかりの人気とおっしゃいますと……?」
と、春江はおびえたように瞳をふるわせている。
「いえね、奥さん、リカも若いころ寄席に出ていたことがあるんですよ。だから芸能人の人気にたいする憧れは人一倍強かったと思うんです。しかも死んだ旦那さんがやっぱりそうでしょう。ところがじぶんの腹に生まれた娘はあのとおりである。それに反してかくし女の腹に生まれた娘がいちばん父の血を多分にうけついでいる。……それがリカの神経をいらだたせたんじゃないでしょうか」
「ああ、そうですか、そうですか」
とつぜん素っ頓狂な声をあげて一同をおどろかせたのは日下部是哉である。
「そういうことになりますね。しかもそのためにかつてじぶんは愛する亭主を殺さねばならぬはめに追いこまれている……」
「いや、よくわかりました、金田一先生」
と、立花警部補はすわり直して、
「これでリカの動機もようわかりました。それでこんどは犯行について、もっと具体的な話を聞かせていただきたいんですけんど」
「いや、立花さん、それもみんなで検討していこうじゃありませんか。いちおうわたしが口火を切ることは切りますが……」
と、金田一耕助はビールでのどをうるおすと、
「リカがいつごろ決意をかためたか、それはしるよしもありませんが、ゆかりちゃんがこの村にああいう立派なうちを建てる。いっぽう仁礼、由良の両家から縁談をもちこまれる……それらが同時になったところに、リカの堅い決意が生まれたんじゃないでしょうか」
「そう、そういえばみんな同時じゃったな」
と、嘉平どんは眼をしばたたいている。リカのあわれさが身にしみるのだろう。
「はあ、ところがいっぽうリカはお庄屋さんにたいして、つねに警戒していたにちがいありませんね。お庄屋さんはリカの死命を握っている。大先生や仁礼の旦那の説によると、お庄屋さんというひとはそんな卑劣なひとじゃなかったようですが、といってリカが安心できなかったのもむりはありませんね。だからリカは絶えずお庄屋さんを警戒し、お庄屋さんの言動に注目していたにちがいありませんね。だから、リカは『民間承伝』という小冊子のことも『鬼首村手毬唄考』のこともしっていたと思うんです。そして、その手毬唄にうたわれている三人の娘というのが、たまたまじぶんの亭主をうばった三人の婦人の腹に生まれた娘たちと一致するとしったとき、リカは非常な感銘をうけたにちがいないと思うんです。おそらくそのじぶんからリカは潜在意識的にしろ、こんどの事件の計画をあたためはじめたのではないでしょうか」
「それはありうることでしょうな」
と、磯川警部はうめくように、
「しかも、そういう場合まずいちばんにお庄屋さんを血祭りにあげ、その死体をかくしてもうて、万事の罪をお庄屋さんに転嫁しようという計画が芽生えてきたちゅうわけですよ」
「そうです、そうです。そのリカの設けた罠にまずいちばんに落ちこんだのがわたしなんですが、じっさいリカはお庄屋さんというひとをよく読んでおりましたね」
「と、おいいんさると……?」
「いや、さっき大先生と旦那はお庄屋さんが恐喝していたという疑いにたいしては、まっこうから反対なさいましたね。それでいてこんどの殺人が手毬唄にのっとって演じられているということがわかったとき、みなさん犯人はお庄屋さんであろうという態度をお示しなさいましたよ。つまり、お庄屋さんというひとは恐喝というような卑劣なことはやるひとじゃないが、手毬唄殺人みたいなとほうもないことなら、やりかねまじきひとであった。そこがリカのねらいだったわけでしょう。だけど……」
と、金田一耕助は気がついたように、
「こういう抽象的な話しぶりではきりがありませんから、それではひとつリカがやったことを具体的にお話してみましょうか」
「は、ぜひひとつ……」
と、これは立花警部補のみならず一同の希望であったことはいうまでもない。
「それでは……まずだいいちにお庄屋さんは去年の五月ごろ人食い沼のそばへ引っ越してこられた。これなんかもお庄屋さんを監視下においとこうというリカの差しがねだったろうと思うんです。その結果、去年の夏ごろこんどの殺人についての準備行動ともいうべきことをリカはひとつやってのけている……」
「と、おいいんさると……?」
と、大先生は思わず大きく眼をみはる。
「いや、去年の夏ごろおりんさんからお庄屋さんに、復縁を迫る手紙がきたんです。この手紙はたぶんお庄屋さんの留守中に投げこまれたのを、たまたまいきあわせたリカがよこどりしてかくしたんですね。リカはまさかこの手紙を後日利用しようとは思わなかったでしょうが、おりんさんはあの事件のあった当時のお庄屋さんの奥さんですね。それだけにリカとしてはそういうひとが、お庄屋さんのそばへかえってくることを好まなかったんでしょうねえ。そして、その手紙をかくした以上、この春またもやお庄屋さんの留守中に、おりんさんの死亡通知が配達されたとき、これまたかくさざるを得なかったわけでしょう」
「つまりお庄屋さんがうっかり葬式にいって、だれかまえの手紙をかくしたもんがあるちゅうことをしったら、都合が悪いというわけですね」
「そうです、そうです」
「しかも、リカは去年握りつぶした手紙を大切に保存していて、それをこんど新しく封をしなおして、なにくわぬ顔であの草庵へ投げこんでおいたのを、お庄屋さんは最近きたもんだとばかり思いこんでいたんですね」
「ええ、そう、立花さん、だれだって手紙を受け取ったとき、いちいち消印の日付まで調べやしませんからね」
金田一耕助はあらためて、あのときの放庵さんの手放しのよろこびようを思いうかべて、胸が熱くなるのをおぼえるのである。
「しかし、先生、先生のお書きになった代筆の返事はその後どうなったんでしょう」
「いや、それについてはいまにして思いあたるんですが、その日……代筆をしてあげた日、亀の湯へかえってぼくはお幹さんにその話をしたんですよ。おりんさんがかえってくるということ。また、ぼくが返事の代筆をしてあげたということを。……リカはお幹さんからそれを聞き、さっそく草庵へ出向いていって、口実をもうけてその返事をまきあげてしまったんじゃないでしょうか」
「これから村へいくついでがあるから、わたしが投函してきてあげましょうとかなんとかね。そら口実はいくらでもありますな」
「しかし、先生」
と、そばから若先生がひざをのりだして、
「リカはなぜおりんを引っ張りだす必要があったんです? ここにひとり怪しげな人物を登場させとこうという寸法ですか」
「はあ、それと同時にそれが放庵さんの一人二役じゃないかという疑いを、みんなに持たせたかったんじゃないでしょうか」
「そうじゃ、そうじゃ。リカは二十三年まえの事件で一人二役で味をしめとるけんな」
大先生が感にたえたように首をふっているそばから、嘉平どんもひざをすすめて、
「それともうひとつ、リカは先生に挑戦しよったんじゃごわせんか。わしでさえ先生の名前をしっとったくらいですけん、ましてや過去にそういう経歴をもった身ですもん、はじめから先生が何者でおいでんさるか、ちゃんとしっとったにちがいごわせんな」
「ああ、これ仁礼の旦那のおいいんさるとおりじゃ、その証拠にゃリカがおりんになりすまして、十日の夕刻この村へやってきたとき、最初に言葉をかけたのんが先生ですけんな」
「十日といえば由良家の法事で、亀の湯のおかみも手伝いにきとったが、それじゃあれから仙人峠へまわって、金田一先生を待ち伏せしとったんですな」
嘉平の言葉に金田一耕助はいうまでもなく、みないちように|慄《りつ》|然《ぜん》たる顔色だった。当然そこにちょっとした沈黙がながれたが、そのとき立花警部補が思いだしたように取りだしたのは、いつか金田一耕助が書いてわたした十か条の疑問である。
「金田一先生、先生はこの十か条の箇条書きのうち第八項目に、放庵さんは二時間以上もにせのおりんと対座していて、それに気がつかなかったのであろうか。気がつかなかったとすればそれはなぜか……と、こう書いておいでんさりますが、これについてはなにか……?」
「立花さん」
と、金田一耕助は|皓《しろ》い歯を出して笑うと、
「その十か条のさいごに山椒魚のことを書いておきましたね。あの薄気味悪い動物が、その疑問にたいする解答でしたよ」
「と、おいいんさると……?」
「いや、これは神戸の吉田順吉さんの未亡人のお話でわかったんですが、放庵さん近来夏になると、いつも視力が衰えて夜盲症、つまりとり目だったんですね」
「あっ」
と、いうおどろきの声が一同の唇をついて出たのもむりはない。一生を気随気ままに暮らしてきた|蕩《とう》|児《じ》のなれのはてとしても、それはあまりにも痛ましい事実である。
「ねえ、立花さん、この一事をもってしても、放庵さんにはゆすりがましいことはできなかったということがわかりますね。リカの乏しい当てがい|扶《ぶ》|持《ち》に満足して、それ以上の要求はできなかったんでしょう。そこで毎年夏になるととり目で困るという手紙が吉田未亡人のところへいってるんです。それでいてしゃれものの放庵さん、村のひとにはそれをひたかくしにかくしていたんですね」
「それをリカだけがしっていた!」
立花警部補のきびしい声に一同は慄然と顔見合わせる。磯川警部もため息をついて、
「わかりました、金田一先生、放庵さんはおりんと旧交をあたためるつもりで、山椒魚で精力をつけておこうと……」
放庵さんのその痛ましい努力にたいして、だれも笑うものはなかった。あの大雷雨のさなかに人里はなれた人食い沼のほとりで、とり目の老人と老婆に扮したリカのあいだに演じられたであろう世にも凄惨な場面をおもいうかべると、一同は慄然として声をのまずにいられなかったのだ。しかも、思えばその惨劇こそ手毬唄殺人事件の発端だったのである。
「金田一先生、それにしてもリカはその死体をどう始末したとお思いんさる?」
「いや、それですがね、女の身としてそう遠くへ死体を運ぶことは不可能だから、当然、あの沼のなかへ沈めたんだろうとはじめはぼくもそう思っていたんですが、この土地には猫車という便利な道具がありますね。あれを利用するとそうとう遠くまで運搬も可能だと思いますから、人食い沼は人食い沼として、ほかの場所も捜してください。しかし、これはわたしなどよりこの村の事情に精通していらっしゃるみなさんのほうが頼りになりましょう」
「いや、立花さん、それはあとで相談しよ。先生にああおっしゃられてわしにもちょっと思いあたる場所がありますけんな。それにしてもお庄屋さんがなあ、とり目でおいでんさったとはなあ」
嘉平どんはいまさらのように眼をしばたたいていたが、急に思い直したように、
「それでお庄屋さんのことはわかりましたが、それじゃこんどは泰っちゃんのことを聞かせてつかあさい。泰っちゃんはなんでまた、ああやすやすとつれだされたんです」
「ああ、そうそう、立花さん、あなたそこに泰子をおびきだした手紙を……?」
「はあ、ここにもっております」
「そう、それじゃそれをみなさんに見せてあげてください」
立花警部補が取りだしたのは半紙のうえに毛筆で書いた、あのひどく文字がふるえている手紙である。念のためにその手紙をもういちどここに掲げておくことにしよう。
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あなたのお父さんのお亡くなりになったときの秘密について知りたいと思ったら、今夜九時、桜のお大師さんの裏側へおいで下さい。重大な秘密を教えてあげます。
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[#地から2字上げ]放 庵
[#ここから3字下げ]
泰子さんへ
[#ここで字下げ終わり]
「立花さん、ぼくもさいしょこの手紙を見たときには、ここにあるお父さんとは当然卯太郎さんのことだと思ったんです。しかし、その卯太郎さんのご最期になんの秘密もなかったという話を大先生からうかがい、しかもその翌晩、仁礼の旦那から泰子さんは恩田のタネじゃないかという話を聞いたときは、はっと思いあたったのは、このお父さんというのは卯太郎さんではなく、恩田のことではないか。したがってこの手紙にはもう一枚なり二枚なりまえがきがあったんじゃないかと思ったんです。ですからさっき山本さんにお願いしてこの手紙の発見者である敏郎さんのところへ、そういう意味をもっていっていただいたんです。もし、この手紙にまえがあったら正直にうちあけてほしいって」
「ああ、その返事なんですね。いま山本君がことづかってきたのは……?」
「はあ、さすがに敏郎さんも現物は破りすてたそうですが、さいわい文句を覚えていたのでここへ書いてよこしてくれました。立花さん、これあなた読んでみてくさい」
立花警部補はその手紙に眼を走らすと、うむ、とひと声うめいたのち、朗々とそこで読みあげた。
「拝啓、あなたもうすうすしっていると思いますが、あなたは卯太郎さんの娘ではありません。あなたのお父さんは昭和七年以来行方不明になっている恩田幾三というひとです。あなたのお母さんはその人と|姦《かん》|通《つう》して、そのあいだに生まれたのがあなたです。あなたのお父さんは行方不明ということになっておりますが、ほんとうは死んでいるのです。それですから……」
と、立花警部補はそこまで読みあげて、
「ああ、このあとへあなたのお父さん……とつづくわけですね。それをさすがに敏郎は、家名を恥じていちばん大事なところをかくしとったわけですな」
「そうすると、大先生」
と、磯川警部が|猪《い》|首《くび》をふって、
「泰子が卯太郎のタネでないちゅうことは、由良家のもんはしっとったんでしょうなあ。これで泰子がうまうまとひっぱりだされたところをみると……」
「いや」
と、大先生も顔をくもらせて、
「これはな、磯川君、他人のうちの秘密じゃけん、わしもいままでだれにもいわなんだが、卯太郎さんはそれで憤死なすったんもおんなじなんじゃ。わしも卯太郎さんから聞いたことがある。そのじぶんは半信半疑じゃったが、のちにあの後家さん、嘉平どんといちじねんごろじゃったろう。嘉平どん、金田一先生や警部さんはその話を……」
「はあ、それはこないだ|懺悔話《ざんげばなし》を聞いてもらいました。それで思いあたるんですけんど、卯太郎さんちゅうひと、ひょっとあのほうが不能だったんじゃないかっと。……いちど敦子さんがそないなこと、ちょっと口をすべらしたことがごわしたけんな」
と、嘉平も顔をしめらせたが、
「そうすると、この手紙はリカの筆跡なんですな」
「ああ、そのことは大先生、あなたがいちはやくいい当てなさいましたよ」
「えっ、わたしが……?」
「はあ、あなたはいつか放庵さんがあの右手でこういう手紙を書くことができるだろうかというぼくの質問にたいして、右手で書くより左手で書いたほうが早いだろうとおっしゃいましたね。おそらくリカが左手で書いた文字だと思うんです。左で書いてごらんなさい。このとおりふるえますから」
「ああ、なるほど」
一同はあらためてそのぶるぶるふるえた文字をみていたが、
「いや、先生、これで泰子ちゃんのことはわかりましたが、うちの文子はどうしたんでしょう、どういう口実であないにうまうま文子を引っ張りだしたんでしょうなあ」
「あれは旦那、泰子さんのお通夜のあとでしたねえ。ひょっとすると歌名雄君の名前がつかわれたんじゃないでしょうか。歌名雄と夫婦にするとか、歌名雄があの工場で待っているとか」
「いや、わかりました。あれがなあ、口にこそ出さね歌名雄に|惚《ほ》れとおりましたけんな、それがふびんさに横車も承知で縁談を押しつけたんですんじゃ。それじゃ秤やマユ玉をもってこいちゅうたんもリカでしょうなあ」
「おそらくそうでしょう。文子さんもふしぎに思ったでしょうが、なまじそういう注文がついているだけに、なにかわけがあるのだろうと真にうけたんじゃないでしょうか」
「それはそうとその晩でしたなあ。由良家の土蔵に婆さんの影がうつっとおったちゅうのんは……」
「あっはっは、あれはリカの芝居でしょう。懐中電灯と影絵をつかえば|臆病《おくびょう》な小娘をだますくらいわけはありませんからね」
「なるほど」
と、磯川警部はまた猪首をふって、
「それじゃ、最後に里子のことですけんど……」
「いや、それについてはゆかりちゃんにお尋ねしたいんですが……」
金田一耕助がふりかえると、
「先生!」
と、ゆかりはおびえたような眼の色で、ハンケチをひき裂かんばかりにもみながら、
「ひょっとすると里ちゃんはあたしの身替わりにおなりんさったんじゃ……」
「千恵子!」
と、春江ははっとしたように、
「なにかそんなことが……?」
「はい」
ゆかりがとつぜん|堰《せき》をきったように泣きだしたので、一同はぎょっと顔を見合わせる。その|嗚《お》|咽《えつ》の声がしずまるのを待って、金田一耕助がのどのつまったような声をかけた。
「ゆかりちゃん、その話をしてください。なにか思いあたる節があるんですね」
「はい、すみません」
ゆかりは涙をぬぐいおさめると、
「文子さんのお通夜の晩でした。里ちゃんとふたりでちょっと座を外したことがあるんです。そのときふたりともお座敷へハンド・バッグをおいといたんです。しばらくしてもとの座へかえってなにげなくハンド・バッグをひらくと、なかから封じ文というんですの、半紙になにか書いて結んだのが入っておりましたの。ふしぎに思って、里ちゃんにそれを見せると、里ちゃんがとてもあわてて、ちがう、ちがう、それわたしに来たんや、おんなじハンド・バッグやけん、間違えて千恵ちゃんのほうへ入れたんやわ。……と、そういって里ちゃんがその手紙、ひったくっておしまいんさったんです。そのハンド・バッグというのが、東京からお土産にもってきたおそろいの品でしたし、それにあたしそんな手紙もらうおぼえはございませんから、里ちゃんの言葉をそのまま信用してしまったんですけんど……」
「その手紙のなかに六道の辻へくるようにと書いてあったにちがいないというんですね」
「はい」
と、ゆかりは泰子をおびきだした手紙のほうへ、涙に濡れた眼をむけると、
「やっぱりそれとおんなじような半紙に、筆で書いてございましたの。あたしはんぶんそれをひらきかけていたんですけれど……」
「ゆかりちゃん、もしそのなかにあなたのお父さん、恩田幾三というひとのことについて教えてあげるというようなことが書いてあったら、あなたどうしたでしょうねえ」
「もしそんなことが書いてあったら、あたしいかずにはいられなかったでしょう。たとえそれが|罠《わな》ではないかと気がついても……」
「お父さんのことをしりたかったんですね」
「はい、死んでもいいから父のことをしりたいと思ったことが、小さいときからなんどあったかわかりません」
ふたたびはげしくなるゆかりの嗚咽を、一同はしいんと聞いていたが、やがて大先生が慨嘆するようにつぶやいた。
「それが娘心というもんじゃろう。泰子なんどもその心理でおびきだされたんじゃなあ」
一同は無言のままうなずいたが、ゆかりがまた嗚咽の声をのみながら、
「いま聞けば里ちゃんは恐ろしい人殺しの犯人が、じぶんのお母さんやということをしっておいでんさったそうですが、もしそれやったら里ちゃんにとっては、どんなに恐ろしい悲しいことやったかしれませんわねえ。それやこれやで里ちゃんは死ぬ覚悟で……あたしの身替わりになる覚悟で、六道の辻へおいきんさったにちがいございません。あのひとはそういうひとやったんです」
「そういうひととは?……」
「いいえ、とっても気質のやさしい、犠牲心の強いひとで、終戦後あたしがこちらの小学校にいるじぶんでも、里ちゃんだけがあたしの同情者だったんです。あたしたちいつもお互いになぐさめあっていたんです」
ゆかりはまたそこでひた泣きに泣いたが、たれもそれを制するものはなかった。こういう場合泣かせるだけ泣かせたほうが、本人のためであるということを、苦労人であるみんながしっていたのである。そのゆかりの嗚咽の声がすこし下火になるのを待って、
「わかりました、金田一先生、これでリカが里子を裸にした理由が……」
「立花君、それ、どういう意味?」
「いいえ、大先生、里子はあの晩喪服やったんです。ところがゆかり君はイヴニングでした。だから里子がゆかりちゃんの身替わりをつとめるためには、喪服をぬいで洋装にきかえなければなりません。だから里子はいったんひそかに亀の湯へかえり、洋装にきかえて六道の辻へ出向いていったにちがいありません。だから、殺してみてそれが里子であったとしったとき、リカはもちろん驚いたでしょう。しかし、そのときリカは里子がゆかりちゃんの身替わりをつとめたということを、かりそめにもしられたくなかったので、洋装をはいでいったんでしょう。金田一先生、あなたのお考えはいかがです」
「はあ、ぼくもその説に賛成です」
「と、すると、里子の喪服はどうなっとるでしょうかねえ」
「まだ亀の湯のタンスの底にかくしてあるのではないでしょうか。リカの考えではあとから喪服をもっていって、里子にきせておくつもりだったんでしょうが、おそらくそのひまはなかったでしょうからねえ」
「金田一先生、ありがとうございました」
立花警部補は男らしく金田一耕助のまえに両手をついて頭をさげた。
そこに味の濃い沈黙がしいんと一同のうえにおりてきた。みな黙りこくってそれぞれの思いにふけっている。そこにはまだ疑問のふしもあり、聞きたいことも残っていたが、みんなこの味の濃い沈黙を破るのをおそれるかのようである。それは恐ろしい事件でもあり、凄惨な思い出でもある。しかし、最後にしった亀の湯の里子のいたましい犠牲的行為が、いくらかでも一同の心をあたためているのである。
とつぜん、その沈黙を破ったのは立花警部補であった。
「金田一先生」
「はあ」
「最後にもうひとつ先生にお尋ね申し上げたいことがございますんですけんど……」
「はあ、どういうことでしょうか」
「先生はいつごろから恩田幾三と青池源治郎が、おんなじ人間であるということに気がおつきんさったんですか」
それはよい質問であった。一同は……嗚咽していたゆかりまで、はっとハンケチを眼からはなして金田一耕助の顔を見直した。
金田一耕助はちょっと無言でいたのちに、
「それはねえ、立花さん」
「はあ」
「警部さんはじめみなさんのお話をうかがっているうちに、わたしの|頭脳《あたま》にいつか恩田幾三なる人間のイメージができあがっていたんですよ。金縁眼鏡に髭をはやしたいい男で、口弁のうまい人物、結果的には詐欺ということになったが、計画的にそれをやるほどの悪い人間でもなかった男、しかし、婦人関係に関するかぎりそうとう無軌道だった人物……と、そういう男のイメージがわたしの|脳《のう》|裡《り》にあったわけです。ところがいっぽうこの村へきて、被害者の源治郎さんがかつて活弁であった、しかも飛ぶ鳥落とすほどの人気弁士であったということをしり、しかも歌名雄君の男っぷりや里ちゃんの器量……里ちゃんはあの痣さえなかったらそうとう|凄《すご》い美人だったとはお思いになりませんか」
「それはもう先生のおいいなさるとおりです。それだけにみんないっそうあのひとをお気の毒にも、ふびんにも思うていたんですの」
と、いつのまにか一座に加わっていた本多の若奥様の一子もつよく肯定する。
「はあ、したがってこの兄妹の父なるひとは、これまたそうとうの好男子だったにちがいないなどと考えているうちに、いつか恩田幾三のイメージと活弁青柳史郎君のイメージがだんだん接近してきたんですね。昔の映画説明者、ひとくちに弁士といわれたひとたちのなかには、ままドン・ファン的人物がいたということはしっておりましたし、またリカの口ぶりからしても、その方面であのおかみがそうとう苦労したことも察しられたのです。これは警部さんなどもお感じになったでしょう」
「はあ、それはもちろん」
と、磯川警部は猪首をちぢめて恐縮している。
「ところがこのふたつのイメージの接近にたいしてひとつ強く抵抗するものがございました。それはなぜ村のひとたちがそれに気づかなかったかということですね。しかし、その抵抗も十五日の晩仁礼の旦那から、源治郎さんが殺害されるまでだれも村のひとたちは、神戸でそんな人気弁士になっていたということをしらなかったとうかがったとき、いちおう解消したわけです。そこでこころみに春江奥さんに恩田幾三なる人物の肉体的特徴をうかがってみると、それがどうやら昭和七年の被害者と一致するらしいとわかって、そこで神戸へいってみる気になったわけです」
「それじゃ、先生が神戸へおいでんさったんは、『民間承伝』よりむしろ青柳史郎の写真のほうがおもな目的でおいでんさったんですな」
「はあ『民間承伝』だけなら、吉田家には電話もございますし……それにしても青柳史郎の写真が残っていたのはなによりでした」
金田一耕助がペコリとひとつ頭をさげたあと、またしてもしいんと味の濃い沈黙が一同のうえにおりてきた。それを破ったのは、磯川警部のけたたましい笑い声であった。
「先生、先生、本多の先生」
と、まるで酔っぱらいのような声で、
「われわれはいったいなんちゅうあほじゃったんです。先生は終始一貫あの死体を源治郎じゃっと主張しつづけておいでんさった。わたしはわたしであれは恩田じゃないかと疑いつづけてきたんです。大先生はなぜひとこと、磯川、おまえのいうことももっともじゃが、さりとてわしも主張をまげるにはまいらぬ。しかるによって恩田すなわち源治郎であるちゅうことにして、手をうとうじゃないかっと、なぜひとこというてつかあさらなんだんです?」
「磯川さん、あんたそがいにおいいんさるけんどな」
と、大先生は大きな目玉をギロつかせて、
「そないな知恵のまわるわしじゃったら、あほらしい、なんでこないな草深い田舎で、しんきくさい医者なんかしとおるもんか」
「とっくの昔に東京へいて、本多探偵事務所をお開きんさったか」
すかさず嘉平どんがまぜっかえしたので、どっと|哄笑《こうしょう》の渦がまき、咲枝や春江やゆかりまで、つい釣りこまれて泣き笑いであった。
いったんやんでいた雨がいつかまたしとしと降りはじめていて、時刻はいつか十二時を過ぎている。……
エピローグ ちょっと一貫貸しました
金田一耕助氏の出現によって、岡山県のみならず日本全国を|震《しん》|撼《かん》させた、鬼首村の手毬唄殺人事件が解決されたのみならず、じぶんにとっては終生忘じがたき昭和七年の事件まで、一挙に解決をみたのは自他ともにまことに大慶のいたりともいうべきであった。よってここにその後のことどもを書きとめておくしだいである。
昭和三十年八月十八日正午ごろ、われわれは放庵こと多々羅一義氏の死体を発見した。それは秤屋の主人仁礼嘉平氏の示唆によるものであって、村の共同墓地から掘り出されたものである。
それよりさき八月七日に村の百姓の老婆村崎きんなるものが死亡し、八月九日午後三時ごろ葬式がとり行なわれた。このへんは他国者以外は土葬がふつうであるから、村崎きんも共同墓地のなかにある先祖代々の墓のなかに葬られたのである。
この葬式には例によって亀の湯のリカがいちばんに駆けつけており、彼女は墓地までおもむいているから、最近掘り起こされた墓地のその部分の土がまだ柔らかであること、またそこをもういちど掘り起こしたところで、他の疑いを招くことはあるまじきことをしっていたのであろう。しかもその墓地は人食い沼のほとりにあり、多々羅放庵氏の草庵から約百メートルほどの距離であった。
案ずるにこれは金田一耕助氏も指摘していたとおり、リカはそこまで放庵氏の死体を猫車で運んだのであろう。
村崎家ではお盆の十五日に墓参りをしており、そのとき墓地が多少荒されているのに気がついたが、なにしろ十日の晩の大雷雨であちこち崖くずれがあったくらいであるから、たぶんそのせいであろうと深くも気にとめなかったという。それにしても墓地のその部分に泥をこねくりかえしたような形跡のないところをみると、放庵氏の埋葬はあの大雷雨が襲来する以前、すなわち九時ごろまでにおわっていたのではないかというのが金田一耕助氏の意見である。したがってあの大雷雨は掘りかえした土をしずめる点においても、猫車の跡を消す意味においても、犯人にとって二重の味方をしたわけである。なおそうなると問題になるのは、草庵に残っていた百目|蝋《ろう》|燭《そく》だが、これはおそらく大雷雨の襲来したとき、放庵氏がまだ生きていたということをよそおうための、リカのトリックであったろうと思われる。
さて、掘り出された放庵氏の死体であるが、それは村崎きんの寝棺のなかで、裸体のままきんとだきあうような位置で寝かされていたのである。放庵氏はもとより小兵のひとである。しかしそれでもなおかつふたつの死体をおさめるには、その寝棺はいささかきゅうくつであり、したがって土を掘り起こしたとき、寝棺の|蓋《ふた》はすこし浮いていた。しかし、時日が経過し、死体から肉が腐敗していったあかつきには、ふたつの遺骨は寝棺のなかで快適にだきあったかもしれないのである。思えば生涯に八人の妻をもった放庵は、死後においても村崎きんと結婚したことになるのではないかといえば、村崎家の遺族の怒りを買うであろうか。
それはさておき、放庵氏の遺体は案外きれいであったが、それにもかかわらずわれわれの眼をそむけざるをえなかったのは、その細い首のまわりに歴然と残っている|紐《ひも》の跡を認めたからである。放庵氏は毒殺されたのではなかった。絞殺されたのである。しかし、その後の解剖の結果判明したところによると、放庵氏はロベリンなる猛アルカロイドを多量に服用しており、絞殺のことがなくとも毒死していただろうということである。
案ずるに放庵氏が苦しみだしたとき、ことの長びくのをおそれたリカがひと思いに絞殺したのであろう。一生を気随気ままに送った一代の|蕩《とう》|児《じ》の最期としては、まことに無残であったというべきである。
なおおなじ日に立花警部補の一行は亀の湯の長持ちの底から、里子の喪服を発見した。それはあきらかに里子が殺害された夜着用していたものでありながら、しかも一滴の|血《けっ》|痕《こん》も一抹の泥の跡も認められないところをみると、里子はやはりいちど帰宅したのち、洋装にあらためて外出したのだろう。女中お幹の説によると、里子はちょっとイヴニングに見まがうばかりのスタイルのワンピースをもっていたということだが、そのワンピースはついに発見するにいたらなかった。
このワンピースのみならず、放庵氏が着ていたと思われる着衣などもいまだ発見されていないが、これらはリカの手によってひそかに焼却されたものであろうと思われる。
この事件においてもっとも深刻な打撃をうけたのは、いうまでもなく歌名雄であった。歌名雄は従来好青年として村のだれからも愛されていた。しかし、その母がいかなる動機があるにせよ、五人の男女をあやめた犯人とあっては歌名雄が三界に身のおきどころなき思いに責められたのもむりはないであろう。
わたしがこの記録を書きとめている現在においては、歌名雄の身のふりかたはまだはっきりと決まっていないが、この青年の美声に属目した日下部是哉が、歌手として仕立てようという議がもちあがっていることを、ちょっとここに書きとめておこう。
それにしても八月二十四日の午後、金田一耕助氏の仲介で歌名雄とゆかりがはじめて異母兄弟として対面したとき、ゆかりのいった言葉をわたしは忘れることができないであろう。
「兄さん、あえてあたしは兄さんと呼ばせてもらいます。兄さんもご存じのとおり、あたしはものごころついたじぶんから、詐欺師で殺人犯人の娘として、ずいぶん肩身のせまい思いをしてきたのですよ。そのあいだになんべん死のうかと思ったことがあるかしれないくらいです。しかし、あたしは死にませんでした。歯をくいしばって世間の迫害に耐えてきたのです。兄さん、女のあたしでさえその辛抱ができたのですから、ましてや立派な男子である兄さんにその辛抱ができないはずはありません。強くなってください。あくまでも強く生きていってください」
ゆかりの一言によって歌名雄も亀の湯を親戚にゆずり、上京する決心がついたのではないかと思われる。
この事件のあとしまつがおわったのち、わたしはあらためて休暇をとった。そして八月末から九月中旬へかけて三週間ほど金田一耕助氏とともに京阪ならびに大和、奈良にあそんだ。そして、さいごに袂をわかったのは九月二十日、京都駅頭でのことであった。
西と東に袂をわかつまえにわたしは金田一耕助氏にあつく礼をのべるとともに、手を握ってこういう意味のことをいったのである。
「金田一先生、わたしはこのとおりの老骨ですが、まだまだ余生をながらえて、またいつか先生とお仕事をいっしょにさせていただきたいと思いますが、こんどのようなのはまっぴらですね。このように悲惨な思いがあとあとまでながく尾をひくような事件は」
金田一耕助氏はだまってわたしの眼のなかをのぞきこんでいたが、卒然としてわたしの耳に口をよせてささやいたのである。
「失礼しました。警部さん、あなたはリカを愛していられたのですね」
あっ! と、口のうちでさけんでわたしがたじろいだとき、金田一耕助氏はすでに動きだした車中のひとだったのである。
昭和三十年九月二十一日
[#地から2字上げ]磯川常次郎誌是
本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月)
金田一耕助ファイル12
|悪《あく》|魔《ま》の|手《て》|毬《まり》|唄《うた》
|横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》
平成13年12月14日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C)Seishi YOKOMIZO 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『悪魔の手毬唄』
昭和46年7月10日初版発行
平成11年4月20日改版5版発行