金田一耕助ファイル9
女王蜂
[#地から2字上げ]横溝正史
目 次
第一章 月琴島
第二章 開かずの間
第三章 役者は揃った
第四章 第二の死体
第五章 歌舞伎座への招待
第六章 紅いチョコレート
第七章 寸 劇
第八章 伏魔殿の惨劇
第九章 耕助開かずの間へ入る
大団円
第一章 月琴島
月琴島
|伊《い》|豆《ず》の|下《しも》|田《だ》から南方へ海上七里、そこに地図にものっていない小島があり、その名を|月《げっ》|琴《きん》|島《とう》という。
月琴島――
むろん、こうよばれるようになったのは、比較的にあたらしく、むかしは沖の島と、極くありふれた名前でよばれていたものだそうで、いまでも、それがこの島の、ほんとうの名前なのである。
それが月琴島という、たぶんにロマンチックな名前でよばれるようになったのは、おそらく、江戸時代も中期以後のことであろう。いわれはいうまでもなく、島の形状がそのころはやった、月琴という、中国の楽器に似ているからである。
ところで、その月琴だが。……
いまの読者にこのような名前をもちだしたところで、おそらく、知っているひとはあるまいが、これは中国近代の絃楽器で、胴のかたちが満月のように、円形をなしているところからこの名がある。つまり、まるいお盆に三味線の|棹《さお》のようなものを、くっつけたようなかたちだと思えば、まず、まちがいはなかろう。胴の直径は一尺一寸ばかり、棹の長さは四寸五、六分。
月琴が日本に渡来したのは、江戸時代でもかなり早いころらしく、最初はいうまでもなく長崎につたわったものだが、それが全国的に流行したのは、やはり中期以後のことであろう。明治に入ってもなかごろまでは、婦女子のあいだに持てはやされたものだが、それ以後しだいにすたれて、明治の末期から大正の初期にかけては、まれには習うひともあり、また、場末のさかり場などを、ながしの|門《かど》|付《づ》けなどが、|弾《ひ》いてあるくのを見かけたものだが、それも大正のなかごろからは、おいおい見られなくなったようだ。
それにしてもこの島を、月琴島とはいみじくも名づけたものである。
島はだいたい円形をなしており、その直径一里あまり。そして島の|乾《いぬい》、即ち西北のいっかくから、幅五町、長さ十五町にあまる|断《だん》|崖《がい》が、まっすぐ突出しているのだが、その形状が月琴にそっくりである。
その断崖は土地のものから、棹の岬とよばれ、その突端の|鷲《わし》の|嘴《くちばし》は、島ずいいちの難所といわれる。
もし、諸君が春にさきがけて、二月か三月ごろ、この島を訪れるならば、その景観の美なるに、一驚せずにはいられないであろう。それは島の中央にそびえる、|兜山《かぶとやま》のふもとから、棹の岬へかけていちめんに、からにしきの如くつづる|椿《つばき》の花の美観である。
この島も大島同様、椿の栽培と、牧畜と、漁業をもってなりわいとしているのだが、しかし、牧畜はいうまでもなく、椿の栽培も近年にはじまったことで、江戸時代にはあまり盛んではなかった。
それにもかかわらず、この島が現代よりも江戸時代において、はるかに富んでいたといわれるのは、当時、すばらしいなりわいを持っていたからである。それは密貿易、即ち、当時のことばでいえば抜け荷買いである。月琴島は江戸時代の中期より末期へかけての、密貿易の一大根拠地であったといわれる。そしてこの島の密貿易のあいては、主として中国、即ち、当時の|清《しん》|国《こく》であった。
いわゆる唐物として、珍しいものずきの江戸っ子たちに、もてはやされた品々の多くは、この島を中継地として、ひそかに江戸の土地へ、ながれこんだものであるといわれている。
もし、諸君がこの島をおとずれるならば、椿のほかにもうひとつ、眼をうばわれるものがあるだろう。
それは島のずいしょにのこっている、唐風の建物である。島のものもちといわれる家には、たいてい一棟、唐風の建物が付随しているが、おそらくそれは|異《とつ》|国《くに》のまろうどたちを歓待するために、特別に設けられたものであろう。
さらに、|新《しん》|島《しま》|原《ばら》とよばれる船着き場のちかくには、あきらかに|妓《ぎ》|楼《ろう》であったとおぼしい、唐風の建物が二軒のこっている。おそらくそれらの楼上では、清国から渡来した、多感な冒険者たちが、一夜の夢をおうて、歓をつくしたことであろう。この島を月琴島とよびはじめたのも、ひょっとすると、それらの冒険者たちではあるまいか。
こうして島の繁栄はながくつづいたが、|盛者必衰《しょうじゃひっすい》、それに終止符をうったのは明治の新政府であった。
明治の新政府によって、鎖国の制がとかれるとともに、密貿易の価値はなくなり、島の|殷《いん》|賑《しん》は一挙にしてうばわれた。そしてあの唐風の建物も、その存在価値をうしなうとともに、風雨のもと、しだいに荒廃に帰していったが、それでもなおかつ、これらの建物がこの島に、なんともいえぬ異国的な情緒をそえ、島に遊ぶものをして、そぞろ懐旧の情を禁ぜしめないのである。
だが……。
いまにして思えばこの島に、唐風の建物がのこっているということは、ただたんに、観光価値をたかめるばかりではなかったのだ。こういう離れ小島にもかかわらず、窓も扉も厳重に、内部からかけがねのかかる建物があったということが、これからお話しようとする、金田一耕助のこの冒険|譚《たん》に、非常に大きな役目をつとめているのであった。
だが、しかし、ここでは物語の本題に入るまえに、もうひとつこの島につたわる、いささか時代錯誤的な伝説についてお話しておかねばなるまい。
昭和五、六年のころであった。この島の名が中央の新聞紙上を|賑《にぎ》わしたことがある。それはこの島に、みずから右大将源頼朝の|後《こう》|裔《えい》と称する一族の住んでいることが、たまたま、ここに遊んだ学生の口から、中央に報告されたからである。そしてかれらが――それは|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|家《け》といって、島いちばんのものもちだったが――みずから頼朝の子孫であると、主張するいわれというのが面白い。
ここでちょっと歴史をひもといてみよう。
頼朝の死んだのは|正治《しょうじ》元年正月十三日。死の原因となったのは、その前年の十二月、|稲毛入道重成《いなげにゅうどうしげなり》が亡妻の追福のためにいとなんだ、|相模《さ が み》川の橋供養におもむいた帰途、落馬したによるということになっている。
ある史書によると、そのときのことをこう書いてある。「右大将頼朝卿|結《けち》|縁《えん》のために行向ひ、御帰りの道にして、|八《や》|的《まと》|原《はら》にかかりて、義経行家の|怨霊《おんりょう》を見給ふ。稲村崎にして、安徳天皇の御霊|現形《げんぎょう》し給ふ。是を見奉りて、|忽《たちまち》に身心|昏《こん》|倒《とう》し、馬上より落ち給ふ」
それから病気になって、さまざまの|祈《き》|祷《とう》医療も寸効なく、年改まった正月十三日、遂に他界したというのである。
義経行家の怨霊だの、安徳天皇の御霊などとは、いかにも昔の作者のかんがえそうなことだが、頼朝のにわかの死は、昔からいろいろ疑問を持たれ、一説によると、妻政子の謀略ではなかったかといわれている。
そのころ頼朝はねんごろになった女があって、妻の眼をしのんで、おりおりそこへ微行した。
それを|嫉《しっ》|妬《と》した政子が、落馬を機会に、|良《おっ》|人《と》を死にいたらしめたのではないかというのである。真偽のほどは保証しがたいが、骨肉|相《あい》|喰《は》む源氏の一族、さらに政子の性格などからかんがえて、ありえない説ではない。
それはさておき、そのとき頼朝の通っていた女というのが、大道寺家の先祖だというのである。当時、大道寺家は伊豆山に住む豪族だったが、その娘の|多《た》|衣《え》というのが、頼朝のちぎりを結んだ相手だという。多衣もはじめは相手を頼朝とはつゆ知らず、ただたんに、鎌倉方の由緒ある大将だろうぐらいにかんがえて、ちぎりを結んだのだが、のちに右大将頼朝卿と知って、きもをつぶさんばかりに驚き|畏《おそ》れた。それというのが政子の嫉妬ぶかいこと、また、頼朝の手を出した女が、ことごとく終わりを|完《まっと》うしなかったことを聞いていたからである。
ことに多衣はすでに懐妊していたので、後難をおそれることもいっそうはなはだしかった。|戦々兢々《せんせんきょうきょう》と、やすからぬ思いで日をおくっているうちに、そこへ突然きこえてきたのが、右大将急死の報である。さらに鎌倉方の討手の勢が、攻め寄せてくるやの風説がきこえてきたので、もうこれまでと大道寺の一族は、多衣を擁して海上へ走った。そして流れ流れて落ち着いたのが月琴島、即ち、当時の沖の島であったというのである。
多衣はここで月満ちて、無事に女の子を産み落としたが、お|登《と》|茂《も》様とよばれるこの女子こそは、頼朝のタネにちがいなく、現在の大道寺家は、連綿としてお登茂様の血をひいているというのである。
この話は伝説としても面白いし、いくらか史実の裏付けもあるので、これが東京につたわると、歴史家や|好《こう》|事《ず》|家《か》が大いに食指をうごかし、続々として月琴島を訪れた。ひょっとするとそこから、吾妻鏡や北条九代記で、故意に|隠《いん》|蔽《ぺい》してあるのではないかと思われる、鎌倉時代初期の、裏面の史料が発見されるのではないかと思われたからである。
しかし、好事家のそういう期待は裏切られた。大道寺家の主人が頼朝の遺品として出してみせる太刀、|兜《かぶと》、|采《さい》|配《はい》など、いずれもずいぶんいかがわしいもので、わけても采配にいたってはまさに噴飯ものだった。ある考証家の説によると、采配は武田信玄の|創《はじ》めてつくるところということである。それをそれよりはるか古い時代の頼朝が、もっていたというのがおかしい。もっとも「|逆《さか》|櫓《ろ》」の畠山重忠や、「すし屋」の梶原は采配をもって登場するようだが、これは王朝時代の物語であるはずの「寺子屋」の源蔵が、江戸時代の町人の風俗をしているのと同様、いわゆる狂言ごとというやつだろう。
こうしてここを訪れる好事家たちも、大道寺家の宝物には失望したけれど、それらの宝物にもまして、すばらしい宝がこの家に埋もれているのを発見して驚いた。
それは当時の主人、大道寺|鉄《てつ》|馬《ま》のひとり娘|琴《こと》|絵《え》である。琴絵はそのころかぞえ年で十六か七であったろうが、その照りかがやくばかりの美しさは、白椿の朝日に|匂《にお》うよりもまだ|風《ふ》|情《ぜい》があった。客のまえにでるときの琴絵はいつも、唐織の|元《げん》|禄《ろく》|袖《そで》を|裾《すそ》|長《なが》に着ている。帯も江戸時代初期のもののような細いのを三重にまいて、その結び目をかたちよく前横にたらしている。髪はおどろくほど長く黒く、それをふっさりとうしろにたらして、さきのほうを白紙でむすんでいる。
月琴島では昔の遺風か、はなはだ外来者を歓待するふうがある。たしかな筋の紹介があれば、いくにちでも|逗留《とうりゅう》をゆるして|倦《う》むふうがない。ことに当時の主人大道寺鉄馬は、右大将頼朝公の|後《こう》|裔《えい》であることを、非常な誇りとしているふうであったので、その宝物を拝観にきたひとびととあらば、歓待これつとめて下へもおかなかった。
大道寺家にもむろん唐風の建物がある。時代のためにいくらかくすんではいるけれど、まだたぶんにけばけばしい色彩ののこった唐風の一室で、ほのぐらい|蘭《らん》|燈《とう》のもと、琴絵が月琴をいだいてかきならす姿を見たとき、だれしも桃源郷に遊ぶおもいが、しないではいられなかったであろう。
琴絵が頼朝の子孫であるかどうかは明らかではない。あるいはそれが真実であり、その真実性を強めるために、先祖のだれかがあのような、怪しげな宝物をつくりあげ、かえってそれがために後人の、物笑いの種になっているのかも知れない。
だが、事の真偽はさておいて、琴絵が自分を頼朝の末だと、信じていることは事実である。そして、このことがやはり、いくらかこの物語に関係があるのである。
昭和七年、二人の学生がこの島にあそんだ。かれらもあの伝説をききつたえて好奇心を起こし、伊豆めぐりの足をのばして、月琴島へわたってきたのである。かれらはひどくこの島の風物を珍しがり、その逗留は二週間の長きにわたった。大道寺家でもたしかな筋の紹介があったので、歓待いたらざるはなかった。
この逗留中に、琴絵はひそかに学生のひとりと|契《ちぎ》りをむすんだ。そしてふたりが島を立ち去ったのちに、はじめて自分が懐妊していることに気がついたのである。
昭和八年、琴絵は無事に女の子をうみおとしたが、そのまえに、子供の父である学生が、無残の変死をとげたとき、琴絵はいまさらのように、多衣と頼朝とのいきさつを思い出さずにはいられなかったのである。
だが、それらのことについては、もう少しのちに述べることにして、ここでは筆を現代にうつすことにしよう。
怪行者
昭和二十六年五月二十五日をもって、満十八歳になる大道寺|智《とも》|子《こ》の美しさは、ほとんど比べるものがないくらいであった。
母の琴絵も美しかった。しかし、その美しさはあくまで古風で、ひかえめで、なよなよとして頼りなげであった。それにくらべると、智子の美しさには積極性がある。彼女は純日本風にも、また、現代式にもむく顔である。|瓜《うり》|実《ざね》顔といえば瓜実顔だが、いくらかしもぶくれがして、両のえくぼに|愛嬌《あいきょう》がある。それでいて、おすましをしているときの智子は、|神《こう》|々《ごう》しいばかりの気高さと威厳にみちていた。といって、冷たい感じがするというのではない。なんといったらいいのか、智子の美しさにはボリュームがあった。そこに彼女と母との大きなちがいがある。
それに服装なども、母の琴絵があくまで古風に、和服でおしとおしたのに反して、そこは時代の相違で、智子はいつも洋装をしている。その洋装なども、かくべつけばけばしい装飾はないのだけれど、いかにも趣味が高尚で、智子のひとがらを思わせた。頭も母に似て素性のよい髪を、肩のあたりでカットして、さきをゆるくカールしているだけのことだが、それがふっくらとした卵がたの顔をくるんで、まるで貴い宝石をつつんでいる、|艶《つや》のいい黒ビロードのような感じであった。
とにかく諸君があらん限りの空想力をしぼって、智子という女性を、どんなに美しく、どんなに気高く想像してもかまわない。それは決して、思いすぎということはないのだから。
さて、この物語がはじまったころの、大道寺の一家というのを|瞥《べっ》|見《けん》してみよう。それにはそんなに長くはかからないだろう。なぜといって、そこには極くわずかのひとしかいなかったのだから。
智子の母の琴絵は、智子がかぞえ年で五つのときにみまかった。だから智子は母のことを、ごくわずかしかおぼえていないのだが、彼女の記憶にある母は、いつも|淋《さび》しげで、うれいに満ちていた。智子はどんなに頭をしぼってかんがえても、母の笑顔というものを思い出すことができない。母はいちども智子のまえで、笑ったことがないのである。いやいや、母は淋しく、憂いにみちていたのみならず、なにかしら、たえず胸をかむ悔恨と、悲痛の思いがあるらしく、おりおり真夜中などに夢を見て、恐怖にみちた叫びごえをあげ、それから眼がさめると、さめざめと泣きだすのであった。そして、どうかするとその泣き声が、夜明けまでつづくことがあった。
そんなとき、智子は子供ごころにも、なんともいえぬ悲しさと恐ろしさに満たされ、母にしがみついて泣いてしまう。それがまたいっそう母の魂をやぶるらしく、智子を抱きしめて、琴絵はいよいよはげしく泣き出すのであった。
その当時のことを|想《おも》い出すと、智子はいまでも不思議でならない。何があんなに母の心を苦しめたのか、何があんなに母の魂を悩ましたのか……それを考えると、智子はいまでも自分自身が、息切れするほど苦しくなる。それでいて、智子は誰にもそのことについて、|訊《き》きただそうとはしない。何んとなくそれを知ることが、恐ろしいような気がするのである。
さて、琴絵の父、智子にとっては祖父にあたる鉄馬は、智子がまだ母の胎内にいるあいだにみまかった。いや、かれは琴絵が妊娠していることすら、知らずに死んだのである。だからいまではこのひろい大道寺家の屋敷のなかに、智子はただひとりの祖母と住んでいるのである。
祖母の|槙《まき》は今年六十になる。若いころ彼女はからだが弱くて、しじゅう病気がちだったけれど、十九年まえにつれあいを失い、翌年娘が私生児をうんだころから、彼女はめきめき達者になった。それはどうやら意志の力であるらしかった。自分がたえず病気がちで、ろくに家事も見られなかったところから、娘があのような不仕末をおかしたのだという反省が、彼女をむちうち、彼女の心身を鍛錬したらしい。そのひとつの現われとして、智子がうまれる前後から、彼女はいっさい和服をやめて洋装にした。そしていまでは、いかにもしっくり洋装の板についた、小柄ながらも、頑健な老婦人になっている。彼女は孫の智子を眼のなかへいれても痛くないほど愛しているが、さりとて、決して甘い祖母ではなかった。それは琴絵を、あまり甘やかしすぎたという反省からきているらしい。
大道寺家にはこのほかに、奉公人が大勢いるが、それらの奉公人はこの物語に、とくべつの関係はないから、ここでは述べないことにしよう。しかし、ただひとりだけ、どうしても逸することのできぬ人物があるから、そのひとのことだけを紹介しておこう。
それは智子の家庭教師、|神《かみ》|尾《お》秀子女史である。
秀子がこの家へ身をよせるようになったのは、もう二十年以上も昔のことである。彼女はもと、智子の母琴絵の家庭教師としてまねかれたのである。こういう離れ小島に住んでいれば、どうしても子女の教育がおろそかになる。といって、一粒だねの琴絵を手離すにしのびなかった鉄馬は、多額の報酬をもって秀子をむかえたのである。そのとき琴絵は十四、秀子は二十一か二で、専門学校を出たばかりであった。
美しいものには誰でも心をひかれる。秀子は自分の教え子を、ひとめ見たときから好きになった。しかも、その愛情は、日増しにこくなるばかりであった。琴絵は美しいばかりではなく、性質が素直で、おとなしく、どこか頼りなげなところがあるので、男でも女でも、彼女に接すると、保護欲をそそられずにはいられない。秀子は琴絵を掌中の珠と愛した。
だから彼女は、琴絵の教育をひととおりおわっても、島を去ろうとはしなかった。また鉄馬も彼女を手ばなそうとはしなかった。まえにもいったとおり、当時は槙が弱かったので、どうしても家事を見る、しっかりした女手が入用だったのだ。そのころ秀子はまだ若かったが、勝気で、|聡《そう》|明《めい》で、分別と才覚にとんでいるので、家事取り締まりとしてもうってつけだった。秀子はいつか家庭教師から、家政婦のいちにかわっていた。
そうしているうちに鉄馬が死に、琴絵の不仕末から私生児がうまれたが、こうなると、秀子はいよいよ島を去ることができなくなった。こんどは秀子は、家政婦と|保《ほ》|姆《ぼ》をかねなければならなくなった。そして、琴絵が死ぬと、こんどは智子の養育がかりに、そして智子が成長すると、ふたたび家庭教師にかえり、とうとう今日まですごしてきたのである。
秀子はことし、四十四か五になるのだろう。彼女はとうとう生涯を、琴絵|母《おや》|子《こ》のために棒にふったわけだが、彼女はそれについて、少しも悔いるところはない。彼女は琴絵を愛していたと同様に、いやいや、それ以上に智子を愛しているのである。秀子は智子が、母よりも更に美しく、聡明に、そして分別にとんだ女性として成人したことを、このうえもなく満足に思っている。実際、智子があのように美しく、気高く、女王のように威厳にみちた女性となったのは、ひとえに秀子の丹精のおかげなのである。
こうして智子は、ちかく第十八回目の誕生日をむかえようとしているのだが、その日のちかづくのを智子をはじめ、祖母の槙も、家庭教師の神尾秀子も、三人三様のおもいで見まもっているのである。それは三人にとって、期待と不安に胸のふるえる、息づまるようなおもいであった。
なぜならば、その日になると智子をはじめ三人は、東京に住んでいる智子の父、大道寺|欣《きん》|造《ぞう》のもとに、ひきとられることになっているのだから。そして今日かあすにも、東京から父のむかえが来ようとしている。……
さて、誕生日を数日のちにひかえた五月二十日。この日こそは大道寺智子が、これからお話しようとする、世にもおそろしい事件の、最初の足音をきいた日なのだが、いま、そのことからお話をすすめていくことにしよう。
五月二十日。
もし諸君がその日のたそがれごろ、船で|棹《さお》の岬の突端、|鷲《わし》の|嘴《くちばし》のふもとを通ったら、そこに世にも美しいものを見たであろう。
きりたてたような鷲の嘴の絶壁のうえに、女がひとり立っていた。青黒い|椿《つばき》の新緑を背景に、燃ゆるような落日をまともにうけてたたずんでいる彼女のすがたは、さながら一幅の絵だった。ふっさりと肩にたらした黒髪が、さやさやと海からくる微風になびくたびに、きらきらと金色にかがやき、それが白椿のように|蒼《あお》ざめた、女の顔にこのうえもなく微妙な|陰《いん》|翳《えい》をなげかける。
いうまでもなくそれは智子だった。
智子は胸にかぐわしい、数本の山百合の花を抱いている。智子は身動きもしない。うつろの眼を、遠く水平線のかなたに投げかけたまま、|塑《そ》|像《ぞう》のように立っている。彼女はずいぶん長いあいだ、そうして鷲の嘴の突端に立っていた。それはまるで|黙《もく》|祷《とう》でもささげているような|恰《かっ》|好《こう》であった。いや、事実、彼女は黙祷していたのだ。
やがて、だいぶんたってから、智子は黙祷が終わったのか、|瞳《め》を転じて|崖《がけ》の下をのぞきこんだ。しかし、すぐはげしく身ぶるいをすると、息をのみ、眼をとじて、静かに一本の山百合を、崖のうえから海に落とした。
山百合の花は落日にかがやきながら、海のうえに落ちていく。そこには無数の岩が海面から頭を出し、岩と岩とのあいだを黒潮が、白い泡を立てて渦をまいている。山白合の花はすぐにその泡のなかにまきこまれる。
智子はまた山白合のいっぽんを投げおとす。いっぽん、また、いっぽん、智子はそのたびに口のうちで何やらとなえる。やがて最後のいっぽんを投げおわったとき、智子はよろめくようにしゃがんだ。そして、両手で顔をおおうたまま、ずいぶん長いこと身動きをしなかった。やがてかすかな|嗚《お》|咽《えつ》の声が唇をもれ、指のあいだから真珠のような涙があふれてくる。
突然、智子はギョッとしたように嗚咽の声をのみ、両手を顔からはなすと、ハンケチを出してあわてて涙をふいた。そして、すっかり涙をふきおわったところで、立ちあがって、ゆっくりうしろをふりかえったが、そのとたん、彼女は思わずおどろきの眼をみはったのである。
果たしてそこにはひとが立っていたが、それは智子の思いもよらぬ、世にも異様な人物だった。
そのひとは白衣を着て、水色のはかまをはき、うえに黒い羽織を着ている。髪の毛はながくのばして、両の肩にたらしている。顔にはひげを長くのばして、|漆《しっ》|黒《こく》の|顎《あご》ひげが、胸のへんまでたれている。身のたけは五尺八寸くらいもあろうか。たくましい、堂々とした|体《たい》|躯《く》をしていて、|容《よう》|貌《ぼう》もみにくいほうではない。鼻がたかく、|眉《まゆ》がひいで、大きな口はいかにも意志の強さを思わせるようである。としは四十前後だろう。
そのひとは、椿林のほとりに|佇《たたず》んで、くいいるような|眼《まな》|差《ざ》しで、智子の顔を|凝視《ぎょうし》している。|炯《けい》|々《けい》という形容詞は、おそらくこういう目付きにつかうのだろう。しかも、その眼は磁石のような一種の魔力をもっていて、|視《み》つめられると、どうしてもその眼を視かえさずにはいられず、相手がなんとかしてくれないかぎり、どうしても視線をそらすことができなかった。智子はそれが恐ろしかった。
怪行者――智子はそう思ったのだ。行者以外にだれがこのような魔力をもっていよう――は、やっと智子の気持ちに気がついたのか、にわかに凝視をやわらげる。とたんに智子は、脳貧血を起こしたように少しふらついた。
「あんたは大道寺の智子さんだね」
太い、さびのある、よく鍛えられた声だった。無言のまま|会釈《えしゃく》をして、いきすぎようとした智子は、思わずギクリと立ちどまる。
「やっぱり親子は争えんもんじゃ。どこかおっ母さまに似たところがある。おっ母さまもきれいじゃったが、あんたのほうがまだ美しい」
智子はびっくりして、相手の顔を見直そうとしたが、すぐ気がついて視線をそらした。相手の凝視に射すくめられることを|懼《おそ》れたのである。
智子はたゆとうような声で、
「あたしの母を御存じでございますか」
相手はしかし、それにはこたえず、
「智子さん、あんたはここで何をしていなすった。わしはさっきから、あんたの様子を見ていたが、あんたはここから花をなげて、お祈りをしていたようだが……」
こんどは智子がこたえなかった。相手もしばらくだまっていたが、やがて|憐《あわ》れむように、
「世間の口には戸が立てられぬ。おうちのひとはかくしていても、やはり誰かがしゃべったのじゃな。あんたはここが自分にとって、どういう場所だか知っていると見える」
智子ははっと顔をあげた。ある切迫した感情のために、相手の凝視をおそれることも忘れてしまった。声をふるわせて、
「あなたは……あなたはそれを御存じでございますか?」
怪行者はうなずいて、
「知っている。ここはあんたのお父ッつぁまの|終焉《しゅうえん》の場所じゃ。あんたのお父ッつぁまはその崖ぶちの、|羊《し》|歯《だ》を採集しようとして、あやまって下に|顛《てん》|落《らく》して死なれたのじゃな。だが、そのことはあんたも知っていなさるのだろう」
智子ははげしく身ぶるいをした。そしてあえぐように、「いいえ、いいえ、存じません。詳しいことは存じません。ただ、いつか、そんな話をきいたような気がして……でも、……でも、……それでは東京にいる父はどうなるんですの。戸籍を見ると、あたしはあのかたと、母とのあいだにうまれたことになっているのに……」
怪行者はちょっとためらったが、すぐまた思いなおしたように、
「いずれはわかることじゃで……。いや、あんたはもう、うすうす知っているのじゃろう。東京にいるひとが、あんたのほんとのお父ッつぁまではないことを。……あんたのほんとのお父ッつぁまは、あんたがまだうまれぬまえになくなった。しかも、あんたのお父ッつぁまとおっ母さまは、正式には結婚していなかった。だからお父ッつぁまが死なれると、おっ母さまはいそいで東京にいるひとと結婚なすったのじゃ。それでないと、うまれてくる子が私生児ということになるでな」
「ああ、それで……」
智子は少しよろめいた。何かしら頭のなかを、熱いものが火を吹いて、渦巻いているような感じであった。
「それで……それで……あたしのほんとうの父はどういうひとなんですの。どこの、何んというひとですの」
怪行者の眼には、一種異様のかがやきがあった。まじまじと智子の顔を見まもりながら、
「それは知らん。いや、誰もそれを知っているものはない。それを知っているのは、東京にいるいまのあんたのお父ッつぁまだけだ。あんたのほんとのお父ッつぁまというひとは、神秘のひと、――|謎《なぞ》の人物じゃったな」
怪行者はそこまでいうと、肩をすくめ、くるりと向こうへむきなおった。智子はそれに追いすがるようにして、
「あなたはどなたです。お名前をおっしゃって……」
「いまにわかる。あしたまたお眼にかかろう」
怪行者はふりむきもせず、そのまますたすた、椿林のあいだをぬうてあるいていった。紫いろの|夕《ゆう》|靄《もや》が、みるみるそのからだをくるんでいく。……
智子はまためまいを感じて、思わず椿の枝にとりすがった。
第二章 開かずの間
開かずの間
五月二十一日。
朝、寝床のなかで眼をさましたときから、智子は妙に胸騒ぎがして気が重かった。それはなにも今朝にかぎったことではなく、誕生日がちかづいてくるにつれて、ちかごろ毎朝味わうおもいだが、それが今朝はとくにひどかったのは、いろんな理由があったからである。
まず、第一に今日あたり、東京からむかえのひとが来るのじゃないかと思われること。第二に昨日あった怪行者のこと。第三に今日こそは思いきって決行しようと思っていることがあること。……
それらのことについて思い惑い、考え乱れているので、朝の食事のときも、智子はぼんやりとして元気がなかった。やがて食事がすんで、女中がお|膳《ぜん》のうえを片付けていくと、
「智子さま」
秀子が編み物の|籠《かご》をひきよせながら、いたわるように声をかける。時間をむだにすることのきらいな秀子は、ひまさえあると編み物を編んでいる。ひとりでいるときはもちろんのこと、奉公人になにか用をいいつけるときでも、客と応対するときでも、手さえすいていれば、せっせと編み棒を動かしている。彼女のあたまのなかにはどんなときでも、編み物の符号が電光ニュースのように、しずかに、音もなくすべっているのである。
――かけ目、伏せ目、表、表、表、二目一度、表、かけ目、伏せ目、かけめ、表、表、表、二目一度、かけ目、表。……
これで模様編みの一段が出来あがる。もしも彼女から編み物をとりあげたら、盲人が|杖《つえ》をうしなったように、どうしてよいかわからなくなるにちがいない。
「智子さま」
秀子はもうせっせと編み棒をうごかしながら、
「いけませんわ。そんなにおかんがえこみになっちゃ。……もうきまってしまったことなのですし、それに東京のお父さまだって、きっと悪いようにはなさいませんわ」
「ええ……」
智子の調子はおっとりしている。彼女はどんなに思い惑い、考え|煩《わずろ》うているときでも、人前ではめったにせきこんだり、語尾をふるわせたりしない。それは|賤《いや》しいことだとおしえられており、また彼女の気位がゆるさないのである。それにもかかわらず昨日は……
智子はこのときふと、昨日の怪行者のことをきいてみようかと思った。いや、このときのみならず、昨日夕方家へかえって以来、何度そのことをきいてみようと思ったかわからないのである。しかし、そうするには、自分が|鷲《わし》の|嘴《くちばし》へいったことをいわなければならないので、それがうしろめたくて、つい、口に出しかねた。そして、このときもとうとう、いい出しそびれてしまったのである。
智子はたゆとうような微笑をうかべながら、
「あたしって意気地なしなのね。もうちゃんときまってしまったこと、いまさらどう考えたってはじまらないてこと、よく知っていながら……それにあたし、東京に住むのいやじゃないわ。そりゃアあこがれもあるわ。でも、……やっぱり変ね。いままで離れて住んでいたお父さまと、はじめて一緒に住むんですもの」
「でも、それがおなくなりになったお母さまの御遺言ですから。……満十八におなりになったら、東京へお移りになるようにって……」
あいかわらず、いそがしく編み棒をうごかしながら、秀子の声はおちついている。
この婦人について、筆者がいままで述べてきたところから、諸君がもし、意地悪そうな、中性的な婦人を想像したとしたら、大間違いである。
秀子はかなりの美人である。美人というより|垢《あか》|抜《ぬ》けがしている。色が白くて、額がひろく、|瞳《ひとみ》が|聡《そう》|明《めい》さにかがやいている。日本人としては大柄なほうで、洋装がぴったり身についている。琴絵がなくなった日以来、彼女はぜったいに黒以外の洋装をしない。そして、銀鎖で胸につったロケットには、わかき日の琴絵の写真が秘められているのだが、これは彼女だけの秘密である。
「それに……」
と、秀子はあいかわらず落ち着いた声で、
「お父さまと御一緒におすまいになるといっても、別棟になっているのですから。……それはそれはりっぱなお住居。まるで御殿のようですわ」
秀子は四月のおわりに上京して、智子の新しく住むべき家を検分してきたのである。
「お父さまってよほどお金持ちなのね。あたしのためにわざわざお家を建ててくださるなんて……」
「ええ、ええ、それはもう……」
智子はちょっとためらったのち、思いきったように口をひらいて、
「あたしねえ、先生、たいていの決心はついておりますのよ。お母さまの御遺言でもございますし、それに、お父さまもそうおっしゃってくださるのですから。……でもねえ、ただひとつ、心配なことがございますの。それは……文彦さまのことでございますの」
「…………」
「先生、文彦さまってどんなかた? お父さまはときどきこちらへいらっしゃったことがございますけれど、文彦さまにはいちどもおあいしてないでしょう。変ねえ、いちどもあったことのない弟があるなんて」
「智子さま」
秀子はあいかわらず顔をあげずに、
「文彦さまのことについては、あたしの口から申し上げるのはひかえましょう。あなた御自身がおあいになって、御判断なさるのがなによりですから」
智子はちょっとさぐるように、秀子の顔色に眼をやったが、すぐあきらめたように、
「文彦さまはおいくつでしたかしら。かぞえ年で……」
「十七におなりでございます。満でいえば十五歳と何か月……」
「かぞえ年でいえばあたしより二つお下ね」
それからしばらく沈黙がつづいた。秀子はあいかわらず、いそがしく編み棒をうごかしている。智子は無言のままその指先をながめている。どこかで|藪《やぶ》うぐいすの声がきこえた。
しばらくして智子がまた、おっとりとした調子でいった。
「先生、お|祖《ば》|母《あ》さまの御様子はどうかしら」
「大丈夫でございましょう。このあいだからの荷造りやなんかで、ちょっとお疲れになっただけのことですから。御丈夫なようでもやはりお年ですわね」
「あたし、お祖母さまがお気の毒でなりませんわ。あのお年になって、住みなれたところをはなれて、はじめてのところへお移りになるんですもの」
「ええ、でも、あなたと離れておすまいになるよりましでしょう。あなたとお別れになったら、お祖母さま、いちにちだって生きていられない思いをなさいますでしょう」
「ええ、それはもうあたしだってそうよ。あたし、お祖母さまや先生も、御一緒にいってくださるというので、やっと決心がついたのでございますもの」
智子が満十八歳になったら、東京の父のもとへ引きとられるということは、ずっとまえからきまっていたことであった。それが急に祖母の|槙《まき》や、家庭教師の秀子まで、いっしょにいくことになったのは、ほかにいろいろ理由もあるが、大道寺家が以前ほど、さかんでなくなったこともひとつの理由であった。戦後いろいろ不運つづきで、とみにかたむきはじめた大道寺家の家運は、今年に入ってから急激な没落ぶりで、もうどうにもやっていけないところまでせっぱつまってきていた。そこで奉公人にもひまを出し、いちじこの家を閉ざして、みんなで東京へ引きうつろうということになったのである。
智子は秀子の顔色をうかがいながら、急に思い出したように立ち上がって、
「先生、あたしちょっとお祖母さまをお見舞いしてきますわ。それから……」
智子はちょっとためらって、
「あたし、お家のなかをみんな見てまわりたいの。だって、もうすぐお別れですもの。あっちの別館のほうも……」
秀子は眼をあげて智子の顔を見たが、何も気がつかずに、
「ええ、じゃア、そうしていらっしゃい。でも、なるべく早くかえっていらっしゃいね。ひょっとすると今日あたり、お迎えのかたがいらっしゃるのじゃないかと思いますの」
「ええ、すぐかえってきます」
智子は別館の|鍵《かぎ》を取りあげながら、なんとなくうしろめたいものを感じている。だが、それと同時に、渇くような好奇心と冒険心におどっている。彼女は今日、どうしても決行するつもりなのである。
祖母の部屋へきてみると、寝床はもぬけのからで、祖母のすがたは見えなかった。
「あら、お祖母さま、どちらへいらしたのかしら」
何気なく縁側へ出た智子は、そのとたん、胸のいたくなるようなものを見た。
祖母の槙ははるかむこうの|椿林《つばきばやし》を、椿から椿へとあるいている。そしていっぽんいっぽん立ちどまっては、その葉にさわり、枝をなでているのである。ここまではきこえないけれど、おそらくいっぽんいっぽんに話しかけているのだろう。それはきっと、いままでの労をねぎらい、お別れのことばをささやいているにちがいない。
智子は急に、あついものが胸にこみあげ、そのまま祖母のもとにかけつけ、抱きあっていっしょに泣きたかった。しかし、すぐに彼女は思いなおして、いそぎあしでそこを出ると、暗い、長い廊下をぬけて、別館の入り口まできた。この別館には別に門もあり、玄関もあるのだけれど、母屋のほうとも、廊下でもってつながっているのである。
廊下のはしに|観《かん》|音《のん》びらきの扉がついていて、いつも錠がおりている。しかし、この鍵は茶の間の壁にぶらさがっているので、智子はいま、それを持ってきたのである。
その扉をひらくと、諸君は|忽《こつ》|然《ぜん》として、別世界へ招待されたような心地になるだろう。いままでの古風な、因習と、腐朽と、|頽《たい》|廃《はい》の|匂《にお》いのしみこんだ、ひなびた日本家屋は、この扉いちまいで、忽然として、眼もあやな唐風の世界にかわるのである。
こってりとした彫刻と、けばけばしい色彩で装飾された調度類、|色《いろ》|硝子《ガ ラ ス》で唐美人をえがいた窓、金糸銀糸で竜をぬいとった重い|緋《ひ》|色《いろ》のカーテン。いずれも古びてくすんでいるが、それでもなおかつ、昔の栄華をしのばせるに十分である。ああ、これらの部屋でとつくにびとが、どのような歓をつくしたことであろうか。
だが、智子はそんなものには眼もくれなかった。あしばやに二つ三つ部屋をかけぬけると、最後に、壁にかかった重そうな緋色の|帳《とばり》のまえにたちどまった。
智子はあたりを見まわし、遠くのほうに耳をすますと、やがて胸のなかから、大きな、古びた鉄の鍵をとりだした。ああ、この鍵なのだ。智子に今日の冒険を思いたたせたのは。
二、三日まえのことである。智子はお別れのために、裏山にある先祖代々の墓へおまいりした。彼女はそこにならんでいる、お墓のひとつひとつに、ていねいにお別れの|挨《あい》|拶《さつ》をのべたが、とりわけ墓地の隅にあるひとつの墓のまえに、とくべつ長くぬかずいていた。その墓は奇妙な墓で、「昭和七年十月二十一日亡」と、裏面に彫ってあるきりで、ほかには一字の文字もなかった。
しかし、智子は本能的に、これが自分のほんとうの父の墓であることを知っているのだ。幼いころ、母がよくこのお墓のまえで泣いているのを見たし、また智子にくれぐれも、このお墓を大事にするようにと、いいきかせたのをおぼえているのである。
智子はながいこと、このお墓のまえにぬかずいていたが、そのときお墓のすぐそばにある、椿の根元の小さな穴へ、|栗《り》|鼠《す》が出たり入ったりするのが眼についた。
「まあ、あんなところに栗鼠が巣をつくって……」
智子はちょっとほほえましい気持ちで、穴のなかをのぞいたが、そのとき、ふと妙なものが眼についたのである。
おや、なんでしょう。……
智子はふしぎに思って、穴へ手をつっこみ、それを引き出したが、とたんにさっと血の気が|頬《ほお》からひいていくのをおぼえたのである。それは大きな鉄の鍵だった。
「ああ、これなのだわ。これが開かずの間の鍵なのだわ。お母さまがここへ埋めておかれたのだわ」
そういえば、この椿をお植えになったのは、お母さまだということを、いつか誰かにきいたのをおぼえている。このお墓ができたとき、お母さまがこれをお植えになったのだということを。……ああ、その時、お母さまは椿の根元に、この鍵を埋めておかれたのだ。……智子はめまいがする感じだった。
そして、いま智子はその鍵をもって、帳のまえに立っている。
智子はもういちど気息をととのえ、あたりに耳をすましてから、おののく指で帳を排した。と、そのうしろから現われたのは、見事な|鳳《ほう》|凰《おう》を彫刻した、大きな観音開きの扉だった。そして、そこにがっちりした|南京錠《ナンキンじょう》がかかっているのである。
智子は幼いころから、いくどこの扉の内部を空想し夢に見たことであろう。この扉は智子がうまれてから、いちども開かれたことはなかった。いやいや、智子がうまれる数か月まえに閉ざされ、大きな南京錠をかけられたまま、二度とひらかれることはなかったのである。
開かずの間。――
それがどのように幼い智子の好奇心を|刺《し》|戟《げき》し、いくど彼女は、母や、祖母や、秀子に、その部屋のことを聞き、なかを見せてくれるようにねだったことであろう。ほかのことならどんなことでも、きいてくれないことはないこのひとたちも、しかし、ひとたびこの部屋のことになると、絶対に彼女の願いをききいれなかった。決してこの部屋を見たいと思ってはならないし、また、このような部屋のあることを、ひとに|洩《も》らしてもならないといいきかされた。智子はいま、その部屋をひらこうとしているのである。
「この鍵が悪いんだ。この鍵があたしを誘惑するんだわ。この鍵が合ってくれなければ、あたし、悪いことしなくてもすむんだわ……」
だが、鍵は合った。南京錠はひらいた。運命の|賽《さい》は投げられたのである。智子は観音開きの扉をひらいて、こわごわなかをのぞいた。どの窓もあついシェードがおりていると見えて、部屋のなかはまっくらだった。智子は壁をさぐってスイッチをひねる。と、ぱっと天井の|蘭《らん》|燈《とう》に灯がついた。むろん、これらの仕掛けは琴絵の父の鉄馬の代になってつけられたものである。
智子はすばやく、部屋のなかを見まわした。別にかわったことはなさそうだった。ここもこってりとした彫刻と、けばけばしい色彩で飾られた調度類で埋められている。ただ、ここは寝室になっていたらしく、むこうの壁ぎわに大きな寝台がある。部屋の中央には大きな卓、その卓のそばに向かいあって|椅《い》|子《す》が二脚、隅のほうに長い寝椅子のような|榻《とう》が一台、むろん、全部唐風のものである。入り口はいま智子が立っている、観音開きの扉よりほかにはない。窓には全部、こまかい唐草模様の鉄格子がはまっている。
この部屋はこれからお話するこの物語に、非常に重大な意味をもっているので、いずれのちに、もっと詳しくお話しするが、ここではそのとき、智子の眼に入ったものだけを書いておこう。
榻のうえに編み物|籠《かご》と、編みかけの編み物が、編み棒をとおしたまま投げ出してある。
「あら、それじゃ先生、昔、ここで編み物をしていらしたのね……」
智子はほほえましい気持ちになり、それでいくらか気が楽になったので、部屋へ入り、大きな|卓子《テーブル》のそばへちかよった。卓子のうえには月琴がひとつ投げ出してある。むろん、なにもかも、厚い|埃《ほこり》の層におおわれて、五月の温度にあたためられた、しめきった部屋の空気は息苦しいくらい。
智子はしばらくあたりを見まわしていたが、やがて何気なく|棹《さお》をにぎって月琴をとりあげたが、そのとたん、
「あら!」
|狼《ろう》|狽《ばい》したような声が智子の唇をついて出た。絃がはってあるので、つながってはいたけれど、月琴は棹の根元でポッキリ折れて、持ちあげると、ぐらりと胴がかたむいた。智子はびっくりして、それを下へおこうとしたが、そのとたん、胴がくるりと裏向きになって、そこに大きな裂け目があり、しかも、まっくろな|汚《し》|点《み》がしみついているのが眼についた。
「まあ!」
智子は息をのみ、月琴をしたにおくと、もういちど卓子のうえを見まわした。そこには、唐美人が|胡弓《こきゅう》をひいている図を織り出した、唐風の織物が、テーブル・センターみたいにおいてあったが、その織物のうえにも、くろい、おびただしい汚点が、雲のようにしみついている。
「まあ、なんの汚点かしら……」
智子はとほうにくれたような顔をして、月琴と織物をながめていたが、そのうちに、ある恐ろしい考えが稲妻のようにさっと頭にひらめいた。
血!……
そのとたん、祖母や、母や、秀子の顔が、走馬燈のように彼女の頭のなかを走りすぎた。この部屋のことをきくたびに、恐怖におののいていた三人の顔が……
智子は全身の血が、氷のように冷えていくのをおぼえる。彼女は大急ぎで月琴をもとどおりおきなおし、よろめくように部屋を出たが、そのとき遠くのほうで、彼女を呼ぶ声がきこえた。智子は手早く錠をおろし、|鍵《かぎ》を胸にしまうと、|帳《とばり》をもとどおりしめて、あしばやに声のするほうへ急ぐ。
「ああ、お嬢さま、こちらにおいででございましたの。御隠居さまや、神尾先生がお呼びでございます」
別館の入り口のところでバッタリ女中の|静《しず》に出あった。
「ああ、そう、何か御用……」
智子は顔色を見られぬように、わざと珍しそうに扉の彫刻に眼をやっている。心臓がまだ|早《はや》|鐘《がね》をつくようにおどっている。
「あの、お迎えのかたがいらしたのですよ、東京から……」
「ああ、そう、どんなかた」
「それがとてもかわったお方でございまして……行者様のように、髪を長くおのばしになって……」
智子はドキッとしたように、静のほうへふりかえった。
「それから、もうおひとかた。……とてもかわったお名前のかたでございます」
「かわったお名前って……?」
「キンダイチ……ええ、そう、金田一耕助様ってお方でございます」
覆面の依頼人
金田一耕助はいま戸惑いしている。
かれはまだこのロマンチックな伝説の島において、どのような役割を演ずべきか、十分に納得がいっていないのである。なぜじぶんがこの島に必要なのか、なぜこの奇妙な迎えの使者に、じぶんが必要なのか、その点についても、まだよくわかっていなかった。
それはちょっと妙な話であった。
二週間ほどまえのことである。二つ三つたてつづけに、厄介な事件をかたづけたかれは、しばらく休養をとろうと思っていた。久しぶりに温泉へでもいって、ゆっくり静養するつもりだった。ところがそこへ舞いこんだのが、丸ビル四階にオフィスをもっている加納法律事務所からの書面である。
用件は是非とも貴下を|煩《わずら》わしたい件があるから、至急、当事務所まで御足労願えまいかというのである。本文はタイプでうった|杓子定規《しゃくしじょうぎ》のものだったが、差し出し人のところには、加納辰五郎と達筆の署名があった。
金田一耕助はちょっと迷った。依頼に応ずれば休養がフイになるかも知れない。それはたしかに|辛《つら》かった。じっさいかれは疲れていたのだ。しかし一方、加納法律事務所という名前と、加納辰五郎の署名が、かれを誘惑したこともいなめなかった。
加納法律事務所といえば、一流中の一流である。所長の加納辰五郎氏は、日本でも有数の民事弁護士である、ひきうけているのは、一流の大会社や大商店の事件ばかり、個人的にもつぶよりの、一流人物ばかりであることを、金田一耕助も知っている。しかもここには、所長みずからの署名がある。金田一耕助が食指を動かしたのもむりはない。
休養と誘惑、――心中しばらくたたかったのち、結局、誘惑にまけた。電話をかけておいて一時間のちには、丸ビル四階にある加納法律事務所の一室で、かれは高名な民事弁護士とむかいあっていた。
「いや、御多忙中恐縮。御高名はかねがね承っていますが、こんどはぜひとも、お力添えを願いたいと思いましてな」
さすがに練達の士である。耕助の異様な|風《ふう》|采《さい》に動ずるふうもなく、適当の敬意をはらうことをわすれなかった。五十の坂はとっくの昔にこえているのだろう。血色のいい顔色と、雪のような白髪が、いちじるしい対照を示している。
その昔、|白頭宰相《はくとうさいしょう》とうたわれた、人物を思わせるような|風《ふう》|貌《ぼう》である。
そこで耕助が休養の希望をのべ、どこかの温泉で静養したいと思っているとつげると、加納弁護士はおだやかに|眼《め》|尻《じり》に|皺《しわ》をよせて、
「それは好都合です。この件をおひきうけ下されば、あなたの御希望もしぜん、果たせることになると思いますよ」
それから弁護士はこういった。
仕事というのは|伊《い》|豆《ず》の南方にある島へ、さる令嬢を迎えにいくことだが、令嬢はとちゅう|修《しゅ》|善《ぜん》|寺《じ》で、二泊か三泊する予定だから、あなたもいっしょに、ゆっくり温泉につかってくるがよい。そして、その令嬢が無事に東京のさる家へ、到着するまで付き添ってもらえればよいのであると。……
金田一耕助はさぐるように、相手の顔を見直した。
「するとなんですか。誰か途中でその令嬢に、危害を加える懸念があるとおっしゃるんですか」
それならば辞退のほかはない。護衛だの用心棒だのには、いたって不向きな男である。腕力にはてんで自信がない。
「いや、そんなわけじゃありません。そんな単純な事件なら、なにもあなたのようなかたを煩わすまでもない。金田一さん」
「はあ」
「われわれの職業では、依頼人の秘密を尊重せねばならぬということは、わかって下さるでしょうな」
「それはもう……」
「と同時に、あなたも依頼人の秘密を守って下さるでしょうね」
金田一耕助は|眉《まゆ》をあげた。弁護士は微笑しながら、デスクの|抽《ひき》|斗《だし》から二通の書面を取り出して渡した。一通は封筒に入っていたが、一通は四つに折ってむき出しのままだった。金田一耕助は封筒の表をみて、思わず大きく眉をつりあげた。
「世田谷区経堂 大道寺欣造様」
そういう文字が全部、印刷物から切り抜いた活字だった。同じ号数の活字が|揃《そろ》わなかったと見えて、大きい字や小さい字が、不規則にベタベタと|貼《は》ってある。差し出し人の名前はなく、消印をみると神田錦町。日付は四月二十八日。どこでも売っているような、ハトロン紙のありふれた封筒だった。
金田一耕助はいそいで中身をひきだしてみる。これまたありふれた|便《びん》|箋《せん》に、切り抜いた活字の文字が、一面にベタベタと貼りつけてある。
[#ここから1字下げ]
警告。
月琴島からあの娘をよびよせることをやめよ。
あの娘が東京へ来たらロクなことは起こらぬであろう。
あの娘の母の場合を思うてみよ。
十九年まえの惨劇を回想せよ。
あれは果たして過失であったか。
|何《なん》|人《びと》かによって殺されたのではなかったか。
あの娘の母には良人を|剋《こく》する相があった。
あの娘またしかり。
あの娘のまえには多くの男の血が流されるであろう。
彼女は女王蜂である。
慕いよる男どもをかたっぱしから死にいたらしめる運命にある。
再び警告。
月琴島からあの娘をよびよせることをやめよ。
[#ここで字下げ終わり]
|宛《あ》て名も差し出し人の名前もなかった。
金田一耕助は額ににじむ無気味な汗をおぼえる。大きいのや小さいのや、号数そろわぬ活字の|羅《ら》|列《れつ》が、粗悪な紙のうえで踊っている。
耕助はもう一枚の便箋をひらいてみる。これまた切り抜いた活字の羅列で、まえの手紙と一字一句もちがわない。金田一耕助はふたたび額に汗をおぼえ、異様な|戦《せん》|慄《りつ》がムズがゆく、背筋をはいまわるのを禁じえなかった。
「こっちのほうの封筒は……?」
加納弁護士はうすい微笑をきざみながら、
「それをお眼にかけるわけにはいかないので……依頼人の秘密というのはこのことなんです。そのひとはいましばらく、覆面でいたいというんです。しかしいっておきますが、その封筒も全然それと同じでしたよ。同じハトロン紙の封筒に、切り抜いた活字の文字が貼りつけてあったのです。消印も同じ、日付も同じ。つまり同時にふたりの人物にむかって、同じ警告状を送ったんですな」
金田一耕助はもう一度それらのものをあらためる。指紋はないかとすかしてみたが、それらしいものはどこにもなかった。よほど用心ぶかいやつにちがいない。
「ところで、どの程度まで話していただけましょうか。これだけでは雲をつかむような話で、お引きうけいたしかねますがね」
「ごもっとも。どうぞお尋ねください。答えられる範囲でお答えしましょう」
「まずお嬢さんのお名前ですがね。警告状にあるあの娘。……ぼくがいくとしたら、その令嬢をお迎えにいくのでしょう」
加納弁護士はうなずいて、
「|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|智《とも》|子《こ》といいます」
「ははあ、するとこっちの封筒の宛て名にある、大道寺|欣《きん》|造《ぞう》氏の血縁の方で……?」
「いや、血はつづいてはおらんのです。欣造氏はその令嬢の、義理の父になるわけで」
「なるほど。そして覆面の依頼人……その人と令嬢とはどういう関係ですか」
弁護士はちょっとためらって、
「いや、それは申し上げないでおきましょう。依頼人の秘密に関することですから」
「大道寺欣造氏は義理の娘の智子さんと、いままで別に住んでいられたんですか」
弁護士はうなずいた。
「それを今度、|手《て》|許《もと》にひきとろうというんですね」
弁護士はまたうなずいた。
「それは誰の意志なのですか。大道寺氏のですか。それとも覆面の依頼人の……?」
「両方の意志なのです。そして亡くなられた智子さんのお母さんの意志でもあるのです。智子さんはこの五月二十五日で、満十八歳になる。そのときには東京へひきとると、まえから話がきまっていたんです。つまり、配偶者をさがすためですな」
金田一耕助はふっと警告状の一節を思い出す。
あの娘のまえには多くの男の血が流される。……彼女は女王蜂である。……慕いよる男をかたっぱしから死にいたらしめる。……
金田一耕助はあやしい胸騒ぎと、背筋をつらぬく戦慄を、おさえることが出来なかった。
「そして、そのこと、令嬢を東京へむかえることを、誰かが妨げようとしているんですね」
弁護士はくらい眼をしてうなずいた。
「それが誰だかわかりませんか」
「わかりません。全然見当がつかないと、大道寺氏も覆面の依頼人もいっている。しかしねえ、金田一さん、おかしいのは警告状をよこした人物が、智子さんと覆面の依頼人の、関係を知ってるらしいことですよ。でなかったら、こんな警告状をよこすはずがありませんからね。ところでそのことたるや、依頼人と大道寺氏と、このわたし以外には、絶対に知るものはないはずの秘密なんです。そこにこの警告状の、重大な意味があるんじゃないかと思うんですがね」
金田一耕助はしばらく弁護士の顔を|視《み》つめていたが、やがてまた警告状に眼をおとすと、
「ところで、ここのところですがねえ。十九年まえの惨劇を回想せよ。あれは過失ではなく、殺されたのではなかったかという意味の一節がありますね。これについて御説明ねがえませんでしょうか」
加納弁護士はゆったりとうなずくと、
「お話しましょう。|但《ただ》し、差し支えない範囲においてですよ。それをお話すれば欣造氏と、智子さんの関係もハッキリするでしょう」
弁護士はゆっくりと、言葉をえらびながら、
「いまから十九年まえ、即ち、昭和七年の七月、伊豆半島の南方にある、月琴島という島へ、ふたりの学生が旅行にきました。名前は|日《くさ》|下《か》|部《べ》|達《たつ》|哉《や》に|速《はや》|水《み》|欣《きん》|造《ぞう》、あらかじめいっておきますが、日下部達哉というのは偽名ですよ」
「そして、速水欣造というのが、げんざいの大道寺欣造氏ですか」
「ええ、そう。さて、ふたりは二週間ほどその島に滞在していましたが、そのあいだに日下部青年のほうが、島ずいいちの旧家の娘、大道寺琴絵という婦人と、ねんごろになったんですね。ところがふたりが島を去ってからしばらくして、琴絵という婦人が妊娠していることに気がついたのです。そこで、そのことを日下部青年にいい送ったのですが……」
「ああ、ちょっと待ってください。日下部達哉というのは偽名だとおっしゃいましたね。どうしてその婦人は通信したのですか」
「ああ、それはね、友人の速水青年が仲介の労をとっていたのです。大道寺琴絵という婦人が恋人に手紙を送るときには、いつも速水欣造気付にするんですね。このほうは本名だし、住所もしらせてあったのだから」
「なるほど、わかりました」
「さて、大道寺琴絵から妊娠の報をうけとった、日下部青年は大いに驚いた。そこで、さっそく月琴島ヘ出向いていった。それが昭和七年十月中旬のことなんです」
「速水青年もいっしょでしたか」
「いいえ、今度は日下部ひとりでした。さて、月琴島へいった日下部と、大道寺琴絵とのあいだに、どんな話があったのかわからない。とにかく、日下部はそこに二、三日|逗留《とうりゅう》していたが、そのうちに不慮の最期をとげたのです」
金田一耕助はいきをのんで、
「ああ、それが十九年まえの惨事なんですね。いったいどういう死にかたでしたか」
「|崖《がけ》から足をふみすべらせて落ちたんですね。少なくともいままでそういうことになっていたんです。警告状をうけとるまではね」
「それじゃ、そうではなかったかも知れないと、思いあたる節もあるわけですか」
「いや、それはなんともいえない。死体のあの状態じゃね。肉も骨も砕けてしまってね」
加納弁護士は顔をしかめる。金田一耕助はデスクのうえにのりだして、
「それじゃあなたは、死体をごらんになったんですね。島ヘ出向かれたのですか」
「いきました。大道寺家では死体が発見されると、すぐ速水君のところへ電報で知らせてきました。速水君はびっくりして、つまり、その……覆面の依頼人のところへ駆けつけたのですね。しかし、依頼人はとても出向くわけにはいかなかったので、わたしが代わりに、速水君といっしょに急行したわけです。そのころから私は、依頼人の法律顧問のようなことをしていたものですから」
「そのときあなたは死体をごらんになって、他殺ではないかというようなことを、お考えにならなかったのですか」
「いいえ、考えませんでした。考えるひまがなかったのです。速水君はおかしいというようなことをいってましたが、私はそれより、日下部達哉の正体が、暴露することを何よりもおそれたのです」
金田一耕助はまじまじと弁護士の顔を見ながら、
「するとあなたは、死の原因を|糾明《きゅうめい》するよりも、日下部青年の正体|隠《いん》|蔽《ぺい》のほうに、熱中されたわけですね」
と、いくらか|詰《なじ》るようにいった。
「そうです。そういわれても仕方がない。しかし、そのときわたしはほんとうに、他殺だなんてこと考えなかった。そこで、面倒が起こるといけないからと、急いで死体を|荼《だ》|毘《び》に付して、お骨を持ってかえってきたのです」
「日下部青年の秘密は保たれたのですね」
「保たれました。完全に――」
金田一耕助は|油《ゆう》|然《ぜん》と興味のあふれてくるのをおぼえる。速水青年の眼にさえ、怪しくうつった死体の状態を、この|老《ろう》|獪《かい》な弁護士が、見落とすはずはないのである。それにもかかわらず、その重大なことを不問に付してまでも、隠蔽しなければならなかった、神秘の人、日下部青年とはいったい何者だろう。
金田一耕助の|瞳《め》にうかぶ、|猜《さい》|疑《ぎ》のいろに気が付いたのか、弁護士はいくらか|狼《ろう》|狽《ばい》ぎみで、
「いやいや、あの時の状態では、じっさい過失死としか思えなかったのですよ。げんに日下部青年の死後、速水君あての手紙に封入して、覆面の依頼人にあてて日下部青年が島から出した手紙がついたのですが、そのなかに、|鷲《わし》の|嘴《くちばし》――それが日下部青年の墜落した場所ですが、鷲の嘴にはえている、|羊《し》|歯《だ》をとって送るというようなことが書いてあったんです」
「羊歯……」
「そうです。そうです。覆面の依頼人というひとが、生物、つまり動植物に、ひじょうに興味をもっているんですな。だから日下部青年は、旅行をするときっとその土地の、珍しい動植物を採集して送る習慣になっていたんです。だからその羊歯をとりにいって、あやまって足をふみすべらしたのだろうと……」
「その手紙はいまでもありますか」
「もちろん、あります。日下部青年の最後の手紙ですから、大事にとってあるんです。じつはこんど、警告状のことがあったので、取り出して読みなおしてみたんですがね。別になにも……」
「羊歯のことのほかに何か書いてありますか」
「ええ、そう、|蝙《こう》|蝠《もり》のことが書いてあります」
「蝙蝠……?」
「そうです。何かかわった蝙蝠でも発見したんでしょうな。写真にとって送るとあります」
「その写真はとどきましたか」
「いや、写真をとるまえにあの災難にあったのか、それともあの騒ぎにまぎれて、大道寺家で紛失したか……ライカはかえってきましたがね。ところで、そうそう、その蝙蝠の件について、わたしもちょっと妙だと思うことがあるんですよ」
「妙だというと?」
「だいたい、日下部青年というひとは、依頼人にあてて、ひじょうに謹厳な手紙を書いたひとなんです。ことに生物に関して書きおくる場合は、いっそうそうなんです。ところが、この蝙蝠のことを書いたくだりにかぎって、なんだかとてもふざけてるんですね。なにか面白くて、おかしくて、馬鹿馬鹿しくてたまらないという調子なんです。このことは当時も妙だと思ったが、こんど読みなおしてみても変ですね。何をあんなにうかれているのか、いかに変テコな蝙蝠を発見したとしても、あのふざけかたは尋常ではない」
加納弁護士はひどくそのことが気になるらしく、ぼんやりと考えこむのである。金田一耕助はなんとなく胸の騒ぐのをおぼえたが、しかし、まさかこの蝙蝠の一件こそ、あの恐ろしい事件の|謎《なぞ》をとく|鍵《かぎ》であったろうとは、そのとき夢にも気がつかなかったのである。
「ええと、それではこんどは大道寺氏、当時の速水青年ですね、あのひとのことについてお話ねがいましょうか」
「ああ、そう、大道寺氏……」
加納弁護士は夢からさめたように、
「あのひとはこの件について、大きな犠牲をはらいましたよ。もっともまた、それだけの代価はうけとったわけですが……いまもいったとおり、琴絵という婦人が妊娠していた。その子の父は日下部青年です。このことは日下部青年も、覆面の依頼人に書きおくった手紙で、ハッキリ認めているんです。そこで子供の籍をなんとかせねばならぬ。私生児にするわけにはいかない。と、いうわけで覆面の依頼人にくどき落とされて、速水青年が琴絵という婦人と結婚したんです。琴絵はひとり娘ですから、速水君が養子ということになりました。但し、この結婚は子供の籍をつくるのが目的ですから、ほんの名義上だけのことで、わたしはいまでも大道寺君と琴絵夫人とのあいだに、一度だって夫婦のかたらいがあったかどうか、疑わしいと思ってるんですよ」
金田一耕助は眼をまるくして相手の顔を見直した。
「そして、その琴絵というひとは?……」
「死にました。うまれた子、それが智子さんなんですが、智子さんの五つの年に……」
「しかし、それじゃそのあいだ大道寺氏は……」
加納弁護士はしぶい微笑をうかべて、
「いや、大道寺君と琴絵夫人は、ほとんど|同《どう》|棲《せい》したことがないんです。結婚当時、速水君はまだ学生だったし、学校を出るとすぐ就職するし、第一、東大の法科を一番で出たという男が、島ヘ|逼《ひっ》|塞《そく》するわけにゃいきませんや。ところが琴絵という婦人が、どうしても島を離れたがらない。だから夫婦といっても、ほんの名目だけのことだったが、それでも大道寺君はおりおり島へあいにいった。すると夫人が気の毒がって、じぶんの代わりに、|蔦《つた》|代《よ》というわかい女中を、つまり、その、お|伽《とぎ》に出したんですね」
「なるほど」
「ところが大道寺君にはこの女中が気にいって、東京へつれてかえって同棲した。つまり細君公認のお|妾《めかけ》というわけですね。そのうちに蔦代という婦人が懐妊して、うまれたのが男の子、文彦というんですが、この子がまた、大道寺君と琴絵夫人の子として、籍に入っているんです。だから大道寺家にはいま、全然、血のつづいていない姉と弟、しかも、まだ一度もあったことのない二人が、真実の姉弟として籍に入っているわけなんです」
「すると、いまでは蔦代という婦人が、大道寺氏の正妻になっているわけですか」
「いや、ところがそうじゃないので、蔦代というひとがとても昔かたぎの女でしてね、じぶんのような身分の|賤《いや》しいものが由緒ある大道寺家の籍に入るなんて、とんでもないことだと、どうしてもききいれないんだそうです。そして、げんざいじぶんがうんだ子を坊っちゃんと呼び、文彦君はじぶんの母を、蔦、蔦と呼びすてですよ」
「すると大道寺氏はげんざい無妻ですか」
「ええ、そう、琴絵夫人の死後ずっとそうです。むろん、蔦代という婦人以外、|新《しん》|橋《ばし》あたりで相当発展するそうですがね」
「羽振りがいいと見えますね」
「それはもう……五つ六つの会社の社長や重役をかねているでしょう。戦後派の実業家じゃ、まあ出色のほうです。それというのも、当人の腕も腕だが、後援者がよかったんですね。つまり覆面の依頼人というのが、智子さんのことがあるから、あらゆる後援をおしまなかったんです」
「すると覆面の依頼人というひとは、よほど社会的に勢力のある人物なんですね」
金田一耕助はまたふっと、あやしい胸騒ぎをかんじたのであった。
その日、金田一耕助は自宅へかえると、紳士録をくって大道寺欣造の項をしらべてみた。
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◎大道寺欣造(旧姓速水)
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明治四十三年三月十八日生
昭和八年東京帝国大学法学科卒業
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現在の役職
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|武《ぶ》|相《そう》鉄道社長、伊豆相模土地専務、駿河パルプ専務、三信肥料専務、ホテル|松籟荘《しょうらいそう》専務
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「なるほど、これじゃ羽振りがよいはずだ」
それから金田一耕助はペンをとって、つぎのように大道寺家の家系をかきぬいたのである。
消えた|蝙《こう》|蝠《もり》
金田一耕助は酔うている。
このロマンチックな伝説の島の、あやしくも美しい空気に酔うている。
かれの陶酔は、昨日の夕方、船から|棹《さお》の岬の絶壁を望んだときからはじまるのだが、そのとき岬の景観に、ひとしおの美を添えていた婦人を、さっき眼のあたり見るにおよんで、いよいよ魂の|戦《せん》|慄《りつ》を禁じえなかった。
ああ、あの美しさ。気高く、威厳にみちていながら、しかもなお、|麝《じゃ》|香《こう》|猫《ねこ》のように全身から発散する性的魅力。むろん、彼女自身はそれに気がついていない。気がついていないからなお恐ろしいのだ。危険なのだ。
彼女は何気なく男を|視《み》つめる。何気なく|眉《まゆ》をひそめ、何気なく微笑する。そして、無邪気に|頬《ほお》をあからめて|溜《た》め息をつく。だが、|一顰一笑《いちびんいっしょう》に魂のおののきを感じない男があろうか。無邪気な彼女の眼に見すえられ、血の沸騰をおぼえぬ男があるだろうか。しかも、彼女は何も知らないのである。
美しい椿林をさまよいながら、金田一耕助は戦慄する。いくどもいくども戦慄する。かれはいま彼女を女王蜂にたとえた、あの警告状の文句を思い出しているのである。
彼女のまえには多くの男の血が流されるだろう。……ああ、ひとめ彼女を見たものならば、その不吉な文句を否定しさることはできないだろう。そのようなことは絶対に起こらぬと、保証することはできないだろう。
金田一耕助はいまあらためて、自分をこの島へつれてきた、不思議な運命をかえりみる。
結局、加納弁護士の依頼をうけることになった金田一耕助は、五月十七日に東京をたって、ひとあしさきに修善寺へやってきた。
|松籟荘《しょうらいそう》――。それが加納弁護士に指定されたホテルで、そこに泊まっていれば、あとから大道寺家の使者が落ち合うというのである。
紳士録でしらべたところによると、松籟荘というのは、大道寺欣造の関係している事業のひとつで、もとはなにがしの宮の別邸だったのを、戦後、伊豆相模土地会社がかいとって、ホテルに改装したのである。むろん、いちげんの客は泊めない。しかるべき筋の紹介状がいるのだが、金田一耕助は大道寺欣造の紹介状を持っていたので大威張りであった。
金田一耕助はこのホテルがたいへん気にいった。|桂川《かつらがわ》をまえに、|嵐山《あらしやま》をうしろに背負うた松籟荘は、ちかごろとみに俗っぽくなった、修善寺の町から遠くはなれて、|幽《ゆう》|邃《すい》の気につつまれている。ちかくにギリシア正教の教会があるのも好もしく、おりおり|鐘楼《しょうろう》でうち鳴らす鐘の音が、ふるえるように聞こえてくる。朝と晩には修善寺の鐘もきこえるのである。
ホテルはずいぶん広くて、洋室と和室とにわかれているが、金田一耕助はかれの好みで、和室のほうに部屋をとっていた。投宿した晩は、ほかに客はないらしく、広い建物の向こうのほうを、おりおり、女中がしのびやかにいききする足音ばかりで、こんなことで経営がなりたつのかと、ひとごとながら心配になるくらいであった。ところが翌朝、浴場へいってみると先客がひとりいた。そのひとはすでに入浴を終わったらしく、鏡のまえに立ってからだを|拭《ふ》いていたが、ひとめその体を見たとたん、耕助は思わず眼をみはらずにはいられなかった。
金田一耕助も兵隊にとられたくらいだから、多くの男の裸体をみてきた。しかし、これほど見事な肉体に、お眼にかかったのははじめてである。それはまるで、ギリシアの彫刻のように均斉がとれていた。ひろい肩、あつい胸、筋肉の隆々と盛りあがったたくましい腕、きりりとひき締まった腰、|臀《でん》|部《ぶ》から|股《もも》へかけて、男性の誇りと若さに|溢《あふ》れていた。肌がまた素晴らしく、入浴のためにほんのりと上気した小麦色の皮膚は、香油をぬりこめたように、つやつやと精気にあふれている。背は五尺八寸というところであろう。
この素晴らしい肉体をまえにして、金田一耕助は着物をぬぐのがためらわれた。自分の貧弱な肉体をさらして、相手の|憫笑《びんしょう》をかうにしのびなかった。そこで帯をとくのを|躊躇《ちゅうちょ》していると、相手はそれをどう勘違いしたのか、
「失礼しました」
と、こっちを向いて、|皓《しろ》い歯をだしてにっと笑うと、さっさと洋服を着はじめた。彫りのふかい、目鼻立ちのかっきりとした、いかにもああいう素晴らしい肉体の持ち主にふさわしい、男性的な|美《び》|貌《ぼう》であった。としは二十六、七だろう。
朝飯のとき給仕の女中をつかまえて、その客のことをきいてみると、
「ああ、あのかたは洋館のほうのお客さまなんですが、こっちのお|風《ふ》|呂《ろ》のほうが、広くて、気持ちがいいと申し上げたものですから……」
「ずっと長く|逗留《とうりゅう》してるの」
「いいえ。昨夜おそくいらしたんです。あなたさまより一列車あとでしょう」
「東京からだね、ひとりで……」
「ええ、おひとり」
「お|馴《な》|染《じ》みさんなの」
「いいえ、おはじめてです。でも、専務さんの紹介状を持っていらしたものですから」
「専務さんというと……?」
「大道寺さまですわ」
ひょっとするとあれが使者ではないかと思って、
「あのひと、ぼくのことをきいてなかった。金田一耕助って男のことを……」
「いいえ、別に……」
「名前はなんというの」
「多門様、多門連太郎様とおっしゃるんです」
そこで女中は急にわらいだして、
「まあ、お客さま、どうかなさいまして。あのかたのことが、そんなに気におなりになりますの」
「いや、そ、そういうわけじゃないが、ぼくがここで、落ち合うことになっているひとじゃないかと思ってね」
金田一耕助にも、なぜその男のことが気にかかるのかわからなかったが、あとから思えば、それが虫の知らせというやつだろう。
多門連太郎。――ギリシアの神のようなこの男こそ、これからお話しようとするこの物語の、大立者だったのである。
それはさておき、その日はいちにち、寝たり起きたりして暮らしたが、その翌日、十九日の夕方になって、女中が大道寺氏の使いがきたことを|報《し》らせにきた。
「ああ、そう、どちらにいらっしゃるの」
「ホールでお待ちでごいます」
ホールは洋室と和室のあいだにあって、両方の客に使えるようになっている。金田一耕助が身支度をして、――といったところで、例によってよれよれのセルと|袴《はかま》だが――出向いていくと、ホールの隅にあるピンポン台で、二十二、三の色白の|華《きゃ》|奢《しゃ》な青年と、十六、七の|腺病質《せんびょうしつ》らしい少年が、キャッキャッと声を立てながらピンポンをしていた。そばには三十五、六の、地味ながら|凝《こ》ったなりをした小造りの婦人が、|冴《さ》えぬ顔色で額をもんでいた。
それにしても大道寺氏の使いというのは……と、あたりを見まわしていると、向こうのほうで新聞を読んでいた男がつと立ち上がると、
「ああ、あんたが金田一さんですな」
と、ゆっくりそばへよってきたが、それがあの怪行者だったのである。
金田一耕助はびっくりして、
「ええ、ああ、ぼ、ぼく金田一ですが、あなたは……?」
怪行者はふところから紙入れをだすと、そこから一枚の名刺をとってわたした。大道寺欣造の名刺で、名前のうえに、
「|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》氏を御紹介申し上げ候。以後、このひとのお差図に従われたく、草々」
と、万年筆の走り書きである。金田一耕助はおどろいて眼をみはった。
「それじゃあなたが大道寺氏のお使いで」
「ああ、そう。あんたのお名前はかねてから聞いていた。こんどは妙な縁で同行をお願いすることになったが、は、は、は、あんたといい、わしといい、こりゃアよっぽど変わったとりあわせじゃて、あっはっは」
九十九龍馬は長いひげをゆすって笑うと、ピンポン台のほうをふりかえって、
「紹介しておこう。あちらの婦人が大道寺氏の、その、なんじゃ、まあ、なんでもええわ、|蔦《つた》|代《よ》さん、それから令息の文彦君、|遊《ゆ》|佐《さ》三郎君。みなさん、こちらが金田一耕助氏」
一同はかるく頭をさげたが、金田一耕助はいよいよ驚いて、
「すると、皆さんでお迎えに……」
「いや、このひとたちはここまでじゃ。文彦君がいっときも早く、お姉さまにおちかづきになりたいと駄々をこねるのでな。ここまでお迎えにきたわけじゃが、体が弱いで、天城越えや船はちと無理じゃろう」
「おばさん、ぼく、向こうまでいっちゃいけませんか」
遊佐青年が|赧《あか》くなりながら|口《くち》|籠《ご》もった。すると言下に文彦が、金切り声をあげて、
「駄目だよ。駄目だよ。そりゃア|狡《ずる》いよ。遊佐さんはここまで来るんだっていけないんだ。みんな二十五日の晩に、お姉さまにあうことになっているんじゃないか。それを遊佐さんだけが出しぬいて……狡いよ。狡いよ、フェヤーじゃないよ。駒井さんや三宅さんにいいつけてやるから」
「お坊っちゃま」
蔦代がたしなめるのもききいれないで、
「蔦、おまえはだまっておいで。遊佐さんがあんまりずうずうしいんだもの。抜けがけの功名で、お姉さまの歓心を買おうとしてるンだよ。そんなこと駄目の皮さ。お姉さまが君なんか好きになるもンか」
「あっはっは、文彦君、もういい、もういい。遊佐さん、あんなに|真《ま》っ|赧《か》になってるじゃないか。もう堪忍してあげなさい。蔦ちゃん、文彦君はつかれているから|癇《かん》が立つんだ。向こうへつれてって休息させてあげなさい」
なるほど、文彦は額に|蒼《あお》い癇筋を立てている。色の白い、|美《び》|貌《ぼう》の少年なのだが、母に似て、いかにも小造りで顔色も冴えなかった。
蔦代が文彦をなだめながらホールを出ていくと、遊佐三郎もきまり悪げに、こそこそとその場を立ち去った。
「あっはっは、これで邪魔者がいなくなったから、ゆっくり相談できる。金田一さん、あんたはいつでも出発できるでしょうな」
「はあ、ぼくはいつでも……」
「じつはさっき下田へ電話をかけて、|汽艇《ラ ン チ》を一|艘《そう》あつらえておいた。下田からは定期の連絡がないのでな。汽艇は明日の|午《ひる》過ぎ、二時ごろにでるという。だからわれわれは明日朝飯を食うと、すぐ出発せねばならん。かまわんかな」
「ぼくはかまいませんが、すると島へつくのは夕方になりますね」
「うん。だから、明日の晩はうちへ泊まって、大道寺へ出向くのは明後日の朝じゃな」
「お宅へ泊まる……?」
「ああ、そう。何もおどろくことはない。わしはあの村の出身でな。自慢じゃないが九十九家といえば、島では大道寺家につぐ家柄じゃ。わしは当主の弟になる」
金田一耕助はまたあやしい胸騒ぎを覚える。
九十九龍馬。――あうのはこんどがはじめてだが、名前はかねてから聞いていた。戦後メキメキと頭をもたげてきた怪物のひとりで、一種の霊力をもって、政界や財界の上層部で、ふしぎな勢力をもっている。一説によるとかれの勢力はすべて、圧倒的なその肉体の魅力からくるといわれている、どんな婦人でもいちどかれの肉体にふれると、その|擒《とりこ》にならずにはいられず、それらの婦人を通じて、かれは政界や財界の上層部にくいいるのだというのである。ことの真偽はさておいて、かれもまた戦後派的傑物にはちがいないのだ。
「そうでしたか。あなたは月琴島の出身でしたか。ああ、それで……蔦代さんとは昔なじみなんですね」
「ああ、そう、わしが島を出たころは、あれはまだ十六、七の小娘だったな」
「じゃ、智子さんのお母さんなども御存じで」
「うん、よく知ってる」
「あの事件、――智子さんのお父さんの変死事件が起こったころには、あなたは島に……」
九十九龍馬は耕助の顔をギロリと見ると、
「ああ、いたよ。金田一さん、あんたの聞きたいことはようわかっとる。わしが島を出たのはあの事件が原因じゃったよ」
九十九龍馬は急に熱っぽい調子になって、聞かれもしないことまでしゃべり出した。
「金田一さん、わしは琴絵に|惚《ほ》れていたんじゃ。ああ、もうぞっこん首ったけだった。そして、|己《うぬ》|惚《ぼ》れじゃないが、琴絵の亭主になるのは、自分よりほかにないと思うていた。なぜといって、島で大道寺と縁組できるのは、九十九の家よりほかにないし、琴絵はひとり娘でわしは次男じゃ。わしは大道寺家の婿養子になるつもりだった。琴絵のお父ッつぁまもその|肚《はら》だったし、琴絵もまんざらではなかったのだ。わしの名前の龍馬の馬は琴絵のお父ッつぁまの鉄馬の馬をもろうたくらいじゃからな。ところがそこへ現われたのが、あのいまいましい若僧よ。そいつが琴絵とちちくりおうて|孕《はら》ませよった。わしはそのとき気が狂いそうだったが、そのうちにそいつが|崖《がけ》から落ちて死んだので、わしはまた希望をもちはじめた。腹の子ぐるみ、わしは琴絵を|嬶《かか》アにするつもりだったが、どっこい、そうはいかなんだ。琴絵はいまの大道寺の主人と夫婦になったで、わしは絶望のあまり島を出奔したのじゃ。あっはっは、|間貫一《はざまかんいち》は失恋して高利貸しになったが、わしは行者になって女をおもちゃにしとる。あっはっは」
怪行者、九十九龍馬の空虚なわらい声をきいたとき、金田一耕助はまた、何かしらあやしく胸の乱れるのをおぼえたのである。
「ああ、お客様、ここにおいででございましたか」
女中の静に声をかけられて、金田一耕助は椿林のなかで、夢からさめたように立ち止まる。
「皆さま、あちらでお待ちでございます。何もございませんが、お|午《ひる》でございますから……」
「ああ、そう」
座敷へかえってみると、お|膳《ぜん》の支度ができていて、九十九龍馬はゆったりとくつろいでいる。祖母の|槙《まき》、智子、神尾秀子もお膳について、金田一耕助を待っていた。
「失礼しました。あまり景色がよいものですから……伊豆七島、それから三原山の煙がよく見えますね」
お膳について、
「ときにそちらのお話は?」
「ああ、だいたい打ち合わせができた。明日の朝、島をたつことにして、下田から汽艇に迎えにきて|貰《もら》うことにした」
「それは、それは……」
「これでこっちの話はすんだが、金田一さん、これからあんたの話があるのじゃないか」
「いえ、ぼくは別に……」
「あっはっは、かくさんでもええ。誰かがまた、大道寺さんにつまらんことをふきこんだとみえる。あんたは十九年まえのあの一件を、むしかえしに来なすったんじゃろ。おばさん、神尾先生、いままでだまっていたが、金田一さんというのはな、日本でも有名な探偵さんじゃ」
神尾秀子と祖母の槙が、はじかれたように耕助をみる。祖母の槙は|箸《はし》を落とし、わなわなと唇をふるわせた。神尾秀子も一瞬さっと|蒼《あお》ざめたが、すぐ落ち着きをとりもどして、しずかに箸をはこびはじめる。智子までがおびえたような顔をして、反射的に別館のほうへ眼をはしらせた。
「あっはっは、みんな何をそのようにキョトキョトなさる。あんまりうろたえると、何かうしろ暗いことがあるように思われますぞ。金田一さん、とにかく御飯にしよう。話はそれからのことじゃ」
食事はすぐ終わった。だれも食欲がなかったのである。女中の静がお膳をかたづけると、神尾秀子は例によって、編み物をひきよせながら、
「妙でございますわね。|旦《だん》|那《な》様はどういうお考えなのでしょう。あのことなら、十九年まえにかたづいているはずですのに」
落ち着きはらった声である。
「ふむ、それがまた、何かのはずみに蒸しかえしたというわけじゃろう。あのひとはもともと過失説に反対じゃった。金田一さん、大道寺さんはどうしろというのかな」
「ああ、いや」
耕助はギコチなく|咽《の》|喉《ど》にからまる|痰《たん》を切りながら、
「ぼくはまだ、大道寺氏にお眼にかかったことがないので、どういうお考えだかわかりませんが、どうでしょう、一応、当時の事情を話していただけないでしょうか。死体を発見したのは誰でしたか」
九十九龍馬はゆったりと、
「それはわしじゃ。は、は、は、何も驚くことはない。ここにいる神尾先生がな、夜の八時ごろにやってきて、日下部さんが|羊《し》|歯《だ》をとりにいくといって出たきりかえって来ない。何か間違いがあったのじゃないかと琴絵さんが心配している。ひとつ、探してくれないかというので、若いもんを四、五人つれて|鷲《わし》の|嘴《くちばし》へいったところが、たしかに誰かが滑りおちた跡がある。それから大騒ぎになって……」
「ちょっと待って下さい。そのとき崖の上に、変わったことはありませんでしたか。格闘の跡とか、突き落とされた形跡とか……」
「いや、気がつかなかった。そんな跡があったら、誰かが見つけているはずじゃがな、若いもんが大勢いたのだから。それにな、金田一さん、大道寺さんのいうのは、そこから突き落として殺したというのじゃないのじゃ。どこかほかで殺しておいて、死体をそこまで運んできて、崖の上から突き落としたのじゃないかというんじゃよ」
突然、智子がからだをあとへ引いた。開かずの間に飛び散っている、古い血の|痕《あと》を思い出したからである。そして汗をふくように、ハンケチで額をおおうたが、誰ひとり、それに気がついた者はなかった。金田一耕助は眼をまるくして、
「しかし、大道寺さんはどうして……」
「それはな、傷の模様からそういうのじゃ。いまもゆうたとおり、わしらは崖から誰かが滑りおちたらしいということを見つけたが、その晩は舟を出すことができなんだ。何せ、鷲の嘴の下というのは、この島きっての難所でな。夜などとても近よれぬ。それで夜明けを待って舟を出したのじゃが、果たしてあのひとが、海から突き出た岩のうえにのびていた。そこで死体を舟につんで、この家へかえってくると、すぐに大道寺さん、当時は速水とゆうたが、そこへ電報をうった。すると、翌日あのひとが、加納たらいう弁護士といっしょに駆けつけてきたが、死体のうしろ頭に、ひとつ大きな傷がある。医者もそれが致命傷だというのじゃが、大道寺さんはその傷が、崖から落ちたときにできたもんと思えん。何かでぶん殴られたのじゃないか。つまり殴り殺されたんじゃないかというんじゃ」
智子はハンケチで顔を覆うた。しかし、犠牲者の娘としては、当然のショックなので、誰もふかくは怪しまなかった。ああ、もしそのとき大道寺智子が、開かずの間にある、あの血にそまった月琴のことを話したら、この事件はもっと早く解決していたろうし、そしてまた、これからお話しようとする、あのかずかずの惨劇は起こらずにすんだであろうのに!
金田一耕助は考えぶかい眼付きになって、
「それじゃ誰も|日《くさ》|下《か》|部《べ》青年が、|棹《さお》の岬のほうへいくのを見たものはないのですか」
「それがないのじゃ。それも大道寺さんの疑いを強めた理由のひとつじゃが、その日はお|登《と》|茂《も》様のお祭りでな。みんなそっちのほうへ集まっていたで……お登茂様というのはここの御先祖をまつったお宮じゃが、棹の岬とは正反対の方角にあるのでな」
金田一耕助はまたしばらく、だまって考えこんでいたが、やがて秀子のほうに向き直ると、
「日下部青年が死ぬまえに、羊歯のことを東京へ書き送ったが、その手紙に、|蝙《こう》|蝠《もり》のことが書いてあったそうです。何か変わった蝙蝠を発見したとか。……あなたはそのことについて、何か御存じじゃありませんか」
「ああ、あれ」
神尾秀子はハッとしたように、
「おぼえていますわ。いま考えても妙なのです。あの日、あのかたは朝からカメラをもって、外出していられたのですが、お|午《ひる》過ぎに上機嫌でかえっていらっしゃると、ゲラゲラ笑いながら、とても面白いものを発見したよ、蝙蝠だ、蝙蝠だよ。ははは、ほんとにありゃア蝙蝠だ。ぼくはその蝙蝠の写真をとってきた。これを東京へ送って、みんなを驚かしてやるんだ。……そんなことをおっしゃって、それはもう上機嫌だったんです。ところが、それから間もなくああいうことがあったので、琴絵様がせめてものおかたみにと、そのときお写しになった写真を、下田へやって現像焼き付けさせたのです。ところがかえってきた写真をみると、蝙蝠など、どこにも写っていないんです」
「その写真はいまでもありますか」
「はあ、とってございます。持ってまいりましょう」
秀子は古びたアルバムを持ってくると、
「これでございます。この七枚がそのときお写しになった写真で……」
それは小さなライカの写真で、大道寺家の全景が一枚、月琴を抱いた琴絵、編み物をしている神尾秀子、猫を抱いた祖母の槙、あとの三枚は|股《また》|旅《たび》ものの芝居でもあったのか、|衣装《いしょう》かずらをつけた役者の写真で、十二、三人いっしょに写っているのもあれば、立ち|廻《まわ》りの舞台面もあり、また、かずらをとって、ひとりぼんやり楽屋に|坐《すわ》っているところを、スナップしたらしいのもあった。
「この芝居はなんですか。|素《しろ》|人《うと》芝居でもあったのですか」
「いいえ、それはお登茂様のお祭に、うちで呼んだ一座なんです。|嵐三朝《あらしさんちょう》一座といって、その時分、毎年お祭りにはその一座にきてもらっていました」
「なるほど、蝙蝠の写真はありませんね。ひょっとすると写真屋が忘れたのじゃ……」
「いいえ、そんなことはございません。あの方は写真をとると、必ずダイアルをお廻しになるのです。お亡くなりになったあとで見ると、ナンバーは8と出ていましたし、そうそう現像したフィルムも、ちゃんとかえってきましたが、それにも蝙蝠の写真はございませんでした」
金田一耕助はもういちど、七枚の写真に眼をやった。ひょっとするとこのなかに、なにか蝙蝠を暗示するようなものが、写っているのではないかと思ったが、それも発見出来なかった。
蝙蝠はどこへ消えたのか。いやいや、果たして蝙蝠は消えたのであろうか。
佳人南方より来らん
ホテル|松籟荘《しょうらいそう》の浴場で、金田一耕助にギリシアの神と折り紙をつけられた多門連太郎は、昼食を食堂でとると、そのあとしばらく、たばこをくゆらせながら、ホテルの庭を散歩していたが、やがて二階にある自分の部室へかえって来たところを見ると、なんとなく顔色がすぐれなかった。
どういうものか、かれはこのホテルへ投宿して以来、いちども食堂へ顔を出したことがなかった。なるべくひとと顔をあわせたくないらしく、食事なども三度三度、部屋へはこばせていたのだが、どういう風の吹きまわしか、今日、はじめて食堂へ出る気になったのである。ところが、それがやっぱりいけなかったらしい。部屋へかえってきたときのかれの顔色をみると、ギリシアの神のように特徴のある|美《び》|貌《ぼう》が、ひどくくもっているように見えた。
連太郎はしばらく物思いに沈んだ様子で、部屋のなかをいきつもどりつしていたが、やがてフランス窓をひらいて、外のバルコニーをのぞいた。バルコニーには誰もいなかった。
連太郎はフランス窓をしめると、部屋を横切って、こんどは廊下のドアをひらいて、外をのぞいた。廊下にも誰もいなかった。
連太郎はドアをしめ、内側から|鍵《かぎ》をまわすと、部屋のなかへとってかえして、ベッドの下からスーツケースをとりだした。スーツケースには厳重に鍵がかかっている。
連太郎はポケットから鍵を出して、それをひらくと、底をさぐって、一通の封筒をとりだした。連太郎はその封筒をもって立ちあがると、もういちど、部屋のなかを見廻したのち、封筒のおもてに眼をおとす。どこにでも売っているような、白い、四角な横封なのだ。
そしてその表には、
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銀座西四丁目
キャバレー|赤い梟気付《レッド・アウルきつけ》
|日《ひ》|比《び》|野《の》|謙《けん》|太《た》|郎《ろう》殿
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と、明らかに|筆《ひっ》|蹟《せき》をくらますためらしい、くねくねとした、みみずののたくったような字で書いてある。
連太郎はその書体から、何かを透視しようとするかのように、|瞳《め》をこらして、しばらく封筒のおもてを|凝視《ぎょうし》していたが、やがて、かすかに首を横にふると、すでに口の切ってある封筒から、なかみを取り出してひらいた。
これまた、どこにでも売っているような、安っぽい、平凡な|便《びん》|箋《せん》なのである。そして、そこにも、くねくねとした、みみずののたくったような文字が、なすりつけるように書いてある。
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多門連太郎よ。
君はこの手紙を受け取りしだい、伊豆修善寺へおもむいて、ホテル松籟荘に投宿しなければならぬ。
そして、そこに数日滞在するならば、世にも美しき佳人の、南方より来るにめぐりあうであろう。その佳人こそは君が未来の妻である。
|但《ただ》し、心せよ、君には多くの競争者のあることを。
多門連太郎よ。
君にしてまこと男子ならば、堂々とそれらの競争者とたたかい、かれらをやぶり、絶世の佳人を獲得せよ。
多門連太郎よ。
強かれ、退く|勿《なか》れ、進撃せよ。但し君は今後絶対に、日比野謙太郎であってはならぬ。
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差し出し人の名前はなくて、追伸として、
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支度金及び旅費として金十万円、ならびにホテル松籟荘への紹介状を、同じく赤い梟気付の小包として送る。
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何度も何度も読まれたらしいその手紙を、いままた二、三度読みかえすと、多門連太郎はそれをわしづかみにしたまま、しばらくじっと考えこむ。
「とにかく、問題は……」
連太郎はふとい|眉《まゆ》をひそめると、ひとりごとのように|呟《つぶや》いた。ふかいひびきのある声である。
「おれが多門連太郎だということを、誰かが知っているということだ」
それからもう一度、便箋のおもてに眼をおとすと、
「それにしても、おれをいったいどうしようというのか。十万円はなんのための投資なのか。この手紙の差し出し人はどういうやつで、いったい何をたくらんでいるのか」
連太郎は手紙を封筒におさめると、しばらくためらうように考えこんでいたが、やがて決心したように、きっと唇をかみ、マッチをすると封筒のはしに火をつけた。
火はまたたくうちに燃えあがって、めらめらと不思議な手紙をくるんでいく。
連太郎は指がこげつきそうになるまで、封筒の一端をつまんでいたが、やがて手をはなすと、手紙はいちだんの|焔《ほのお》となって床にまいおち、みるみるうちに黒い灰になっていく。
連太郎は注意ぶかく、それを靴の|爪《つま》|先《さき》でふみにじると、スーツケースのなかから、ひとたばの紙幣をとりだした。連太郎はフランス窓のほうへ眼をやったのち、指で紙幣をかぞえはじめる。紙幣は千円札で四十二枚あった。たぶんあとの五十何枚かは、支度金としてつかったのであろう。
連太郎はその紙幣を三つにわけて、あちこちのポケットにねじこんだ。
「とにかく、用心にしくはない。いつなんどき|尻《しり》がわれて、逃げ出さなきゃならんかも知れんからな。それにしても、悪いときに、悪いやつに出会ったもんだ」
紙幣をポケットにしまいこむと、いくらか安心したように、スーツケースの|蓋《ふた》をして、こんどは鍵もかけずに、靴の爪先でベッドの下へおしこんだ。それからもういちど部屋のなかを見廻したのち、腕時計に眼をおとす。
時刻はまさに一時ジャスト。――連太郎の唇が異様にねじれる。
「どれ、それじゃボツボツ出かけるとしようか。待たせちゃよくあるめえ」
ふてぶてしい声である。
鍵穴にさしこんであった鍵をまわすと、ドアをひらき、廊下へ出て、すばやくあたりを見廻す。
廊下には人影もなかった。
連太郎はポケットからたばこを取り出し、口にくわえて火をつける。それから、いかにも所在なさそうに、両手をポケットにつっこんだまま、ぶらぶら廊下をあるいていくと、階段をのぼって三階へ出た。しかし、かれの用事のあるのは、三階ではなかったらしく、そこからさらにまた、屋上ヘ出るせまい階段をのぼっていく。
屋上には男がひとり、|胸壁《きょうへき》にもたれて修善寺の町をながめていた。連太郎は屋上へのぼってくると、足をとめて、その男のうしろすがたに眼をとめたが、かれの期待していた人物ではなかったらしく、ちょっとかすかに舌打ちをする。
その舌打ちがきこえたのか、それとも足音に気がついたのか、胸壁にもたれていたひとは、ふとこちらをふりかえったが、それきり相手は身動きもせず、黒眼鏡のおくから、まじまじと連太郎の顔を|視《み》つめている。
もうかなりの老人である。黒い洋服を身だしなみよく着て、純白のワイシャツに|蝶《ちょう》ネクタイ。まっしろな髪の毛をくびのあたりでなでつけ、そのうえに、ちょこんと山高帽をのっけている。|口《くち》|髭《ひげ》も|顎《あご》ひげもまっしろだが、よく手入れがいきとどいている。
老人の身だしなみのよいのは気持ちのいいものだが、ただ気になるのは黒眼鏡である。しかも、その黒眼鏡のおくから、じろじろと視つめられて、連太郎はなんとなく、からだがこわばる感じであった。
「エヘン」
連太郎が|咳《せき》|払《ばら》いする。
老人はそれに気がついたのか、ちょっと|狼《ろう》|狽《ばい》のいろをうかべ、口のなかで何やらもぐもぐいいながら、胸壁のそばをはなれた。かなり腰がまがっている。
老人はステッキをついて、連太郎のそばをとおりすぎ、階段のほうへいきかけたが、そのとき、何思ったのか連太郎が、
「あっ!」
と、かすかな叫び声をもらしたので、老人はギクッとしたようにふりかえった。
「なにかいったのかね。君……」
「いえ、あの、な、なんでもありません」
黒眼鏡のおくで、老人の眼が異様にひかるのを見て、連太郎はあわてて口ごもった。
老人はジロジロと、連太郎のすがたを見上げ、見下ろしていたが、何思ったのか、急に顔をしかめて、くるりと向こうを向くと、逃げるようにコトコトと、ステッキをついて、階段をおりていった。
連太郎は|茫《ぼう》|然《ぜん》たる|眼《まな》|差《ざ》しである。世にも不思議なものを、見付けたという眼付きであった。
「変装してるんだ。あの老人は……」
連太郎は口のうちで|呟《つぶや》いている。自分自身にいいきかせるように。……
「かずらと……そしてあのひげも、ひょっとすると、つけひげかも知れぬ」
連太郎はふかい思いにしずんでいる。何んとなく不安な思いに、胸がさわぐふぜいである。
「とにかく気をつけなければ……まさかおれをつけて来たんじゃあるまいが……」
「おいおい、謙ちゃん、何をぼんやり考えこんでいるんだい」
ポンと背中をたたかれて、連太郎ははじかれたようにうしろをふりかえった。
「ああ、君か、|三《さ》ぶ」
背中をたたいたのは、蔦代や文彦といっしょに、ここまで智子をむかえに来た、遊佐三郎であった。
遊佐は急に意地悪い眼付きになって、
「止してくれ、三ぶなどと……あまりなれなれしい口は|利《き》いてもらいたくないんだ」
「あっはっは、そうか、よしよし」
連太郎は駄々っ児をあやすように、ホロ苦く笑うと、
「それなら君もおれのことを、謙ちゃんなどと呼ばんほうがよかろう。ここじゃおれは、日比野謙太郎じゃねえんだからな」
「そうそう、多門連太郎てえんだってな。うっふっふ、どっからそんな名前をひろって来たんだい」
連太郎は急にけわしい眼付きになって、
「おい、遊佐君、そんなことはどうでもいい。それよりどういう話があるんだ。一時ジャストに、屋上へ来いというから、おれはこうしてやって来たんだ」
遊佐はあたりを見廻して、
「あっちへいこう。ぼくは君なんかと、話をしているところを、だれにも見られたくないんだ」
遊佐はさきに立ってあるき出した。
ホテル松籟荘には、建物の正面に大きな時計台がそびえている。その時計台は、この屋上の一部についているのである。
遊佐はさきに立って、コンクリートの階段を五段のぼった。そのうえは十畳じきばかりの台地になっていて、そこにコンクリートでかためた時計室がたっており、その背後には青くぬった、|観《かん》|音《のん》びらきの鉄の扉がついていたが、その扉は少しひらいていた。
遊佐はそのすきまに首をつっこんで、なかを|覗《のぞ》いていたが、やがてうしろをふりかえると、
「いいあんばいに、誰もいないようだ。謙ちゃん……じゃなかった、多門君、君もこっちへ来たまえ」
と、|辛《かろ》うじてからだが通るくらい扉をひらくと、そこからなかへすべりこむ。連太郎もそれにつづいてなかへ入ったが、ひとめ室内の様子を見ると、思わず大きく眼を見張った。
稀代のドン・ファン
部屋の広さほ四畳半くらいだろう。正面にはほとんど壁いっぱいに、|真鍮色《しんちゅういろ》の金属板が|貼《は》ってあって、その中央に、これまた真鍮色にぴかぴか光る、大きな振り子がユラリユラリと左右にゆれている。そして、その振り子の左側に、直径一尺五寸くらいの歯車が、二、三枚かみあっているのである。
つまり、そこは振り子時計の内部にあたるわけだが、ただ、ふつうの振り子時計とちがっているのは、正面の金属板よりすこしてまえに、直径三尺ばかりの、金属製の円板が二枚、床と天井のほぼなかほどにささえられており、そこからかまきりの脚のようにながい柄をもった、金属製の|槌《つち》が四本出ている。そして、その槌の頭は、床から二尺ほどの高さのところを、左右に走っている、四本の銀色の棒のうえに、それぞれやすんでいるのである。
「いったい、こりゃアなんだ」
連太郎はあきれたようにあたりを|見《み》|廻《まわ》す。遊佐はいくらか得意そうに、
「なんだといって、時計のからくりじゃないか」
「時計はわかっているが、あのかまきりの脚みたいな長い柄をもった、四本の槌はなんだ」
「ああ、あれ、……あれはチャイム」
「チャイム……?」
「そう、字引きをひいてみたまえ、チャイムとは諧音をなす一組の鐘なり、と書いてあらあ。時間がくると四本の槌が、かまきりの脚みたいに頭をもたげて、あの四本の銀色の棒をたたいて時刻をつげるのさ」
「しかし、ぼくはここへ来てから、まだいちども、この時計の鳴るのをきいたことがないぜ」
「そりゃそうだろう。鳴るのを止めてあるんだもの」
と、遊佐は左手の壁をゆびさし、
「ほらそこに、CHIME―SILENT と書いてあるだろう。そして、弁はいまサイレントのほうへよせてある。だから、時計は鳴らないわけさ。その弁をチャイムのほうへもっていくと鳴りだすはずだ」
「だけど、どうして鳴るのを止めてあるのだ」
連太郎という男は、|腑《ふ》におちぬところがあると、どこまでも追究しなければ、気がすまぬ性分と見える。遊佐はしかし、それをうるさがりもせず、かえっていくらか得意げに、
「それはね、町から苦情が出たからさ。まあ、お聞き。この時計は十五分ごとに鳴るんだ。十五分はファ・ラ・ソ・ド――三十分はファ・ソ・ラ・ファ……ラ・ファ・ソ・ド――四十五分はド・ソ・ラ・ファ……ラ・ソ・ファ・ド……ファ・ラ・ソ・ド――それから、時間時間には、ファ・ソ・ラ・ファ……ラ・ファ・ソ・ド……ド・ソ・ラ・ファ……ラ・ソ・ファ・ド――そういうふうに前奏がついて、そのあとへ時間のかずだけその槌が、四本の銀色の棒をたたく。そりゃア、とても余韻にとんだいい|音《ね》|色《いろ》なんだ。しかし、なにぶんにも、十五分ごとに鳴るもんだから、これじゃ落ち着いて仕事もできないと、町から苦情が出たので、いまじゃ弁をサイレントのほうに寄せたっきりさ。うつれば変わる世のなかで、戦争まえならかりそめにも、そんな苦情は持ち出せたもんじゃないんだが……」
「どうして……? 戦争まえはどうして苦情を持ち出せなかったんだ」
「なんだ、君はなんにも知らないんだね」
遊佐は|軽《けい》|蔑《べつ》するように、わざと眼をまるくして、
「だって、このホテルはもと、宮様の御別邸だったんじゃないか。この時計台なんかも、宮様のお好みで、ウェストミンスター型の置き時計を、そのまま拡大してあるんだ。ウェストミンスター型の置き時計――知ってるかい。ウェストミンスター寺院の鐘の音と、そっくり同じ音階で鳴る時計さ。余韻にとんだ、とてもいい音色なんだが……」
「宮様ってどなた?」
「|衣笠宮《きぬがさのみや》……しかし、いまじゃ宮様でもなんでもなく、単なる一個の衣笠氏でいらっしゃるがね」
「衣笠宮……」
連太郎の顔色に、とつぜん、はげしい動揺のいろがあらわれた。
かれはまるで、相手のすがたを|呑《の》みこもうとするかのように、大きな眼を見張って|凝視《ぎょうし》する。
その権幕があまりおそろしかったので、遊佐は思わず、一歩うしろへさがりながら、
「おい、どうしたんだ。君は衣笠宮を知ってるのかい?」
連太郎ははっと気がついたように、あわてて顔をそむけたが、その|頬《ほ》っぺたには、子供がべソをかくときのような、はげしい|痙《けい》|攣《れん》がなみうっている。連太郎はくるりと遊佐に背をむけると、せまい部屋のなかをいきつもどりつしながら、
「おれが、宮様を……あっはっは」
|咽《の》|喉《ど》のおくに、魚の骨でもひっかかったような笑い声をあげると、
「ばかなことをいっちゃいけない。しかし……宮様はどうしてここをお手離しなすったのだろう。やはりお|手《て》|許《もと》不如意でいらっしゃるのかしら」
ひとこそ知らね、そのとき、連太郎の|瞳《め》のなかには、はげしい悔恨と哀愁と、それと同時に、|恍《こう》|惚《こつ》たる懐しさのいろが、かぎろいのごとくただようているのである。
遊佐は|猜《さい》|疑《ぎ》にみちた眼のいろで、連太郎の様子を見まもっていたが、やがて咽喉のおくで毒々しい笑い声をあげると、
「おい、止せ、そんなにそこらを歩きまわるのは……神経がいらいらしてかなわねえ。宮様がお手許不如意でいらっしゃるかどうか、そんなことをぼくが知るもんか。どうせこちとらと同じ斜陽族でいらっしゃる。まあ、おさかんなことはあるまい。しかし、どうしたんだ、君はほんとに宮様を……」
「ばかなことをいっちゃいかんというのに」
「あっはっは。そうだったな。いかに当世とはいえ、宮様が前科者に、おちかづきなどあろうはずがない。おい、謙ちゃん、君はいつ別荘から出てきたんだ」
連太郎は|弾《はじ》かれたように、遊佐のほうへふりかえる。男らしく、かっきりと彫りのふかい顔がいかりにふるえ、|瞳《ひとみ》が火のようにもえあがる。遊佐はおびえたように、二、三歩あとじさりをした。
連太郎はしかし、すぐに反省したらしい。相手は女のように|華《きゃ》|奢《しゃ》な男である。|逞《たくま》しい連太郎の腕力にかかったらひとたまりもないが、そんなことはおとなげないことだ。
連太郎はホロにがく笑って、
「それはおたがい、いわない約束じゃなかったのか。君がそれをいうなら、おれも君を三ぶちゃんと呼ぶぜ」
遊佐はほっとしたように、手の甲で額の汗をこすりながら、いくらかおもねるような口調で、
「ごめん、ごめん。つい口に出ちゃったんだ。悪く思わないでくれたまえ。だけど、ええ……ああ、多門連太郎か、さっき食堂で君のすがたを見たとき、ぼくはほんとに驚いたぜ。こんなことをいうと、また君がおこるかも知れないが、ここは君などの出入りするホテルじゃないのだ」
「知ってる」
「知っててどうしてやって来たんだ。どうせ君のことだから、ただじゃ来まい。何かもくろみがあるにちがいない。いったい、どういうもくろみだい」
連太郎は無言である。きっと結んだ唇は、何をいわれても、取りあうまいと決心しているようだ。遊佐はまた、しだいにずうずうしくなって、
「さっき女中にきいてみたら、どなたかお連れさんがお見えになるのを、お待ちのようすでございますといやアがった。いったい誰だい、お連れさんというのは。君のその|服装《み な り》といい、大道寺さんの名前をつかった紹介状といい、相当|金《かね》|廻《まわ》りのいい女らしいな。お|羨《うらやま》しいこった。|稀《き》|代《だい》のドン・ファン、女たらしの謙ちゃんの|凄《すご》|腕《うで》にゃ、いまさらながらシャッポをぬぐよ」
「また、それをいう。そのことはいわない約束じゃなかったのか」
「あっはっは、どうもこれがいいたくてねえ。しかし、まったく見直したよ。そうしてパリッとした服装をしていると、アロハを着てるときたア、またいちだんと立ちまさった男振りだ。女がだまされるのも無理はねえ。稀代のドン・ファンとはよくいったもんだ」
「また、それを……」
連太郎はにがにがしげに|眉《まゆ》をひそめて、吐き出すように、
「それをいうなら、こっちにだっていいたいことがあるぜ。さっき食堂にいた|年《とし》|増《ま》や子供、あれはいったいどういうのだ」
「あれアなんでもねえさ。|識《し》り|合《あ》いの二号とその|餓《が》|鬼《き》さ。おい、いやだぜ、なんぼなんでもあんなうば桜と……」
「あっはっは、まさかそんなことは思やアしないさ。あの婦人は君の趣味とはまるで反対だからな。おれのいうのは君の態度さ。キャバレー|赤い梟《レッド・アウル》であの|娘《こ》を相手にしてるときとは、まるでひとがちがってるようだ。君たち斜陽族というやつは、ああもうまく猫がかぶれるものなのかねえ」
遊佐三郎の陰険らしい瞳のなかに、|蒼《あお》|白《じろ》いいかりの|焔《ほのお》がもえあがる。しかし、かれはすぐにそれをもみ消すと、|狡《こう》|猾《かつ》そうな|猫《ねこ》|撫《な》で声になって、
「ねえ、謙ちゃん、じゃなかった、多門君、ぼくの話というのはそのことなんだがねえ」
「そのことって……?」
連太郎はわざとそらとぼけているのである。遊佐はちょっと唇をかんだが、すぐに思いなおしたように、
「まあ、お聞きよ、謙、……いや、多門君、君はいつまでここに滞在するのか知らないけれど、これからさき、ぼくの身辺にどんなことが起こるとしても、いっさい、見て見ぬふりをしていてもらいたいんだ。いや、それよりも遊佐三郎なんて男、全然、知らぬというふうにふるまってもらいたいんだ」
「つまり、赤い梟での君の行状がわかっては、まずいことがあるんだね」
「うん、ま、そうだ」
「いったい、君の身辺にどんなことが起こるというのか。ああ、そうか、遊佐君、君はここで見合いをしようというのじゃないのかね」
遊佐の|頬《ほお》がちょっと|強《こわ》|張《ば》る。連太郎はしぶい微笑をうかべて、
「遊佐君、そのことならば安心したまえ。そういう種類の他人の私事には、ぼくはちょっとも興味がない」
「きっとか」
「きっとだ。もっとも君のような男と見合いをしなければならぬお嬢さんを、気の毒だとは思うが、それはぼくの知ったことじゃない」
遊佐の瞳に、またさっと蒼白いいかりの焔がもえあがったが、すぐそれをもみ消すと、狡猾らしく唇をねじまげて、
「まあ、いいさ、なんとでもいうがいい。しかし、君がその約束を守ってくれるなら、ぼくのほうでも、君のことはいっさい見て見ぬふりをしていてやろうよ」
連太郎は皮肉な微笑をうかべて、
「なるほど、これは一種の取り引きだね」
「そう、取り引きだ。何か異存があるかい」
連太郎はちょっと考えて、
「いや、異存はない」
遊佐はほっとしたように、
「そうか、それで安心した。じゃ、手をうとうよ」
「うん」
連太郎はなぜか煮えきらぬ返事をして、ちょっと考えていたが、やがてさぐるような視線を相手にむけると、
「それにしても、遊佐君、いったいどうしたというのか。ひどく自信がないじゃないか。こんな|贅《ぜい》|沢《たく》なホテルで見合いをしようというからには、相手は相当大家のお嬢さんなんだろ、君くらいの腕があったら、多少赤い梟での御乱行が暴露しても相手を|籠《ろう》|絡《らく》するくらいのことは出来そうなものじゃないか」
遊佐の顔がちょっと強張った。しかし、すぐに唇をねじまげて、|狡《ずる》そうに笑うと、
「そりゃアそうさ。候補者がおれひとりの場合だったらね」
「それじゃ、|競争者《ライバル》があるというのか」
「そう、しかもふたりも。だからぼくはあくまでも品行方正な青年紳士でなければならないんだ」
「相手の娘というのは美人かい」
「どうだかな。写真をみるとちょっと|小《こ》|綺《ぎ》|麗《れい》だが、そんなことあてになるもんか。どうせ|田舎《い な か》者だから。……しかし、ぼくは娘なんかどうでもいいんだ。娘についているバックがほしいんだ。ぼくは……ぼくもぼくの一家も、もうすっかりいきづまっているんだ。だから、相手がどんなひどい容貌であろうと、ぼくはどうしても結婚しなきゃならないんだ」
「田舎者っていったいどこの娘さんだい」
「なあに、|伊《い》|豆《ず》の南方にある離れ小島の娘さ」
「な、な、なんだって!」
連太郎の|瞳《め》が、とつぜん、火のようにもえあがった。そのとき、かれの頭にさっとひらめいたのは、あの奇怪な手紙の一節である。
……そこに数日滞在するならば、世にも美しき佳人の、南方より来るにめぐりあうであろう。
その佳人こそは君が未来の妻である。|但《ただ》し、心せよ、君には多くの競争者のあることを。……
「おい、そ、それじゃその娘というのは、南方より来るというんだな」
「ど、どうしたんだ、謙ちゃん」
相手の権幕におそれをなして、遊佐は一歩後退する。連太郎はそのうえにおっかぶさるようにして、
「そして、多くの競争者があると……」
「け、謙ちゃん、いや、多門君……」
遊佐はまた一歩後退する。連太郎はさらにそのうえにのしかかつて、
「そして、その娘はいったいいつ来るんだ。おい、いえ、その娘はいつこのホテルへやってくるんだ」
連太郎は|猿《えん》|臂《ぴ》をのばして遊佐の肩をつかんだ。遊佐が痛そうに悲鳴をあげた。
「おい、いつ来るんだ、その娘は……」
連太郎にゆすぶられて、遊佐の首が、首振り人形みたいに、ガクンガクンとゆれる。
「今日、夕方、着くはずなんだ。さっき、下田から、電話がかかって来て……あっちで、昼飯を食って、休息して、それから、出発するから、こっちへ、着くのは、四時ごろに、なるって、……おい、はなして、くれ。く、苦しい」
連太郎が手をはなすと、遊佐はよろよろと壁にもたれかかって、はあはあ息をはずませながら、
「ひどい、ことを、しゃアがる。気ちがい。いったい、どうしたと、いうんだ」
ハンケチを出して、額の汗をふいていたが、急にどきっとしたように瞳をすぼめる。玄関ヘ自動車のつく音がきこえたからである。遊佐はあわてて腕時計に眼をおとす。時刻は一時三十分。
「まだ、着くはずはないが……」
それでも遊佐は気になるのか、時計室をとび出すと、台地をまわって、表の胸壁のほうへいくと、そこから下をのぞいていたが、
「や、しまった、畜生!」
いかにも、いまいましげな叫び声をあげて、あたふたとドアのまえへかえってくる。そして、そのままコンクリートの階段をとびおりようとするのを、連太郎がするどくうしろから呼びとめた。
「おい、どうしたんだ。娘が来たのか」
「娘じゃねえんだ。競争者がやってきたんだ。三宅と駒井が、大道寺さんをひっぱって来やアがった。畜生、文彦の|餓《が》|鬼《き》、月足らずのチンピラめ、あいつが|報《し》らせやアがったにちがいねえ。おぼえてやがれ!」
遊佐は酔っぱらったようなあしどりで、あたふたと、屋上からおりていく。
そのあとしばらく連太郎は、ふかい物思いに沈んだようすで、時計室のなかにたたずんでいたが、やがて首をうなだれたまま、コツコツとコンクリートの階段をおりていく。
そして、その足音が屋上から、消えていったころである。正面に|貼《は》ってある、あの金属板のむこうから、ふと、かすかな物音がきこえた。と、思うと、やがて片手と片脚が、そして、それにつづいてものの|怪《け》のように、ほのじろい顔が現われた。
文彦だった。文彦の顔は異様にねじれ、瞳が|嫌《けん》|悪《お》と憎しみにふるえている。
第三章 役者は揃った
役者は揃った
「お嬢様、もうすぐ修善寺ですよ」
運転手に注意をされて、窓の外をみると、道はすでに平地にかかっていて、自動車はいま、せまい麦畑のあいだを走っている。麦畑のむこうは両側とも、|眉《まゆ》にせまるような山である。右側にはひとすじの川の流れが、|街《かい》|道《どう》につかずはなれず、どこまでも自動車を追ってくる。
「ああ、そう、それじゃもう山を越えなくてもいいのね」
「ええ、|天《あま》|城《ぎ》はとうの昔に越えました。これからは道がいいから、もう大丈夫ですよ」
「そう、よかったわ。お|祖《ば》|母《あ》さま、大丈夫?」
「有難う、大丈夫ですよ」
そうはいったものの、|槙《まき》の顔色にはありありと、疲労のいろがふかかった。時計を見ると、五時になんなんとしている。
月琴島を出たのが朝の九時過ぎ。昼前に下田へついて、昼食をとり休息をして、迎えの自動車に乗ったのが正一時。金田一耕助と|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》、それに女中の静は一台の自動車で先発した。|智《とも》|子《こ》と槙と神尾秀子も、それと同時に出発したのだが、槙がつかれるといけないと、出来るだけ徐行することにしたので、さきの自動車にすっかりおくれてしまったのである。
「ねえ、運転手さん、さきの自動車はもう修善寺へついてるわね」
「ええ、そりゃアもうとうに……」
「すみません。わたしがわがままをいったものだから、あんたに手間をとらせて……」
「とんでもない。御老人には天城越えはきつうございますからな。さあ、ここを左へ曲がると修善寺の町ですよ」
しかし、そのへんはまだいちめんの麦畑だった。そこをしばらく走っていくと、ぼつぼつと人家が見えはじめる。さっきまでつかずはなれず流れていた川が、急に間近かにせまって来た。自動車は修善寺の温泉町へ入るてまえで、その川を渡ると、間もなくゆるい坂にさしかかる。道がいままでほど広くないので、自動車はスピードを落として、のろのろと|這《は》うように走っていく。五分ほどいくと、
「ああ、あれ……あれが|松籟荘《しょうらいそう》ですよ」
運転手に注意をされて、窓の外をみると、木の間がくれに時計台のようなものが見える。その時計台がしだいにせりあがってきたかと思うと、自動車はひろい門をくぐっていた。
「あら」
さっきから外をのぞいていた神尾女史が、びっくりしたような声をあげて、
「あれ、|旦《だん》|那《な》様じゃないかしら。二階のバルコニーにいらっしゃるの……」
「え? お父さまが……」
智子も外をのぞいたが、そのときにはもうバルコニーは見えず、自動車は間もなく、ひろい玄関に横着けになっていた。バラバラとホテルの制服を着たボーイや女中、それにさきについた静がかけよってくるうしろから、小柄の婦人が、いそぎあしで近付いてきた。
「いらっしゃいまし。皆さま、おつかれでございましょう」
自動車からおりて、ボーイに荷物のさしずをしていた秀子はふりかえると、
「あら、|蔦《つた》|代《よ》さま。お迎えおそれいります。お祖母さま、蔦代さまが……」
祖母の槙は眼を見はって、
「まあまあ、あんた蔦ちゃんなの。立派におなりなさって……」
大道寺欣造につれられて、十八年まえに島を去って以来、ふたりは会っていないのである。蔦代は|頬《ほお》をそめながら、
「御隠居さまにはずいぶん長いこと、お眼にかかりませんでしたわね。このたびはおつかれでございましょう」
「有難う。これからはいろいろお世話になります。智子さん、蔦代さんですよ」
「はじめまして……ほんとに|綺《き》|麗《れい》におなりあそばして……」
蔦代はまぶしそうに眼をパチクリさせている。智子はなんといって|挨《あい》|拶《さつ》をしてよいのかわからなかった。かつては自分のうちの女中をしていたひとと聞いているが、いまでは|義《ち》|父《ち》の愛人なのである。智子はだまって頭をさげた。
「さあさあ、御挨拶はそれくらいにして、早くなかへ入りましょう。ああ、そうそう、蔦代さま」
「はあ」
「旦那さまがいらっしゃるのではございません? 二階のバルコニーにそれらしいお姿を、お見受けしたんでございますけれど……」
「はあ、お昼過ぎ、とつぜんいらしたのですよ。さっきからお待ちかねでございます」
玄関へ入ると支配人をはじめ従業員が、ずらりと整列していたが、誰もかれも智子の美しさには眼を見張らずにいられなかった。
智子はそのとき、簡単な旅行服をまとうているだけのことだったが、天成の美しさはおおうべくもなく、この|仰山《ぎょうさん》な迎えに対して、いささかも悪びれるところのないのが、身にそなわった女王の気位を示している。
先着した九十九龍馬や金田一耕助も、にこにこと笑顔で迎えるなかに、中年の紳士がにこやかに立っている。
大道寺欣造である。
四十二だというけれど、血色がいいので、二つ三つは若く見える。肌の綺麗な、|口《くち》|髭《ひげ》の美しい、背の高い好男子で、ちょっと|近《この》|衛《え》公に似ている。グレーの洋服をいちぶのすきまもなく着こなして、ゆったりとした人柄である。
「やあ、いらっしゃい。お母さん、おつかれになったでしょう」
「まあまあ、欣造さん、あなたわざわざ……」
「なに、急に思いたってやってきたんですよ。智子さん、くたびれたろう。神尾先生、御苦労さま」
智子はうすく頬をそめながら、だまって頭をさげる。智子はなにも知らないのだけれど、そういう簡単なしぐさにも、無限の魅力があって、それが男の心をときめかすのである。
ホテルの迎えがあまり仰山なので、ロビーやホールにいた客が、ふしぎそうにこちらを見ている。そのなかに、遊佐三郎とかれを追っかけてきた、ふたりの青年がいたことはいうまでもないけれど、さらにもうふたり、|喰《く》い入るような|眼《まな》|差《ざ》しで、遠くから、智子の顔を見守っているものがあった。
多門連太郎と名乗る怪青年と、連太郎に変装を見破られた、あのふしぎな老人である。ひと知れず、ふたりは思い思いの方角から、あくことを知らぬ眼差しで、智子の様子を見守っているのだけれど、誰もそれに気がついたものはなかったのである。
「おつかれだろうから、すぐに部屋へいって休息なさい。いずれあとのことは、蔦代をやって、打ち合わせさせますから。ああ、そうそう、文彦はどこへいった?」
その文彦はひとのうしろにかくれて、しきりに何か、蔦代と|小《こ》|競《ぜり》|合《あ》いをしているところだった。
「まあ、変なお坊っちゃま。あんなにお姉さまを待ちこがれていらっしゃりながら、いまになって、そんなにおはにかみになっちゃ、駄目じゃございませんか」
「文彦、こちらへおいで」
蔦代に押し出されるようにして、文彦はおどおどと父の前ヘ出る。欣造はその頭をなでながら、
「智子さん、文彦です。仲好くしてやって下さい、文彦、お姉さまに|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》をしないか」
さっきから、いくらか固くなっていた智子の頬がそのときはじめてほぐれた。
「文彦さま、はじめまして。……仲好くしてくださいましね」
文彦は上眼づかいに智子の顔をみていたが、急に、燃えるように頬をそめると、くるりと向こうを向いて、蔦代の肩に額をこすりつけ、駄々っ児のようにいやいやをする。
「あっはっは、はにかんでるんですよ。こいつは|蔭《かげ》べんけいでね。じゃ、向こうへいって休息なさい。お母さんがいらっしゃるから、日本間のほうに部屋をとっておきましたよ」
「はあ、では……」
宿の女中に案内されたのは、十畳八畳の二間つづきだった。そこが智子と槙の部屋で、神尾秀子と女中の静には、べつに座敷がとってあった。そこでやっと三人が、くつろいでいるところへ、蔦代が挨拶にやってきて、
「あのおつかれのところを恐れ入りますが、今晩、御一緒にお食事をしていただけないかと、|旦《だん》|那《な》さまのお言葉なのでございますが……」
智子は祖母の顔を見る。自分はどちらでもよいのだけれど、祖母の疲労を思うと、すぐには返事が出なかった。
「ええええ、結構ですよ」
槙が即座に口を出して、
「お食事はほかにどなたか……」
「はあ、|九《つ》|十《く》|九《も》先生と金田一さま、それからもうお三方、若いひとがお出になります」
「若いひとって……?」
「はあ、あの、旦那さまがふだんから、眼をかけていらっしゃるひとたちなんですけれど、智子さまに、ぜひおちかづきになっていただきたいとおっしゃって……」
三人は顔を見合わせた。
「もし、今夜御都合がお悪ければ、明晩でもよろしいそうでございますけれど……」
「いいえ、今晩で結構ですよ。そして、何時に……」
「七時にいたしたいとおっしゃっていらっしゃいます。ああ、そうそう、わたしとしたことが、もう少しで申し忘れるところでした。略式ですけれど、お食事は洋食だそうですから、そのおつもりで……」
「はいはい、承知いたしましたとおつたえください」
じっさい、迷惑でないことはなかった。旅なれない槙は、今日いちにちの旅行で、すっかり疲労しているのである。何をおいても横になりたいのだが、わざわざ、ここまで迎えにきてくれた欣造のことを思えば、そうわがままもいえなかった。
「智子さん、それじゃあなた、大急ぎでお支度をなさい。神尾先生、万事はあなたにおまかせいたしましたよ」
「承知しました。それじゃみんなで、お|風《ふ》|呂《ろ》をいただきましょう」
神尾秀子はどんな場合でも、ものに動ずるということがなかった。言葉かず少なく、それでいて、テキパキと手順がよかった。
だから七時ちょっとまえに、蔦代がようすを見にきたときには、三人はすでに支度ができて、迎えのくるのを待っていた。
「まあまあ、すっかりお支度がおできになって……」
それから智子を見ると眼をまるくして、
「まあ、お嬢さまのお|綺《き》|麗《れい》なこと!」
と、思わず感嘆の声をはなったが、それは決してお世辞ではなかったのだ。イヴニングの仰々しさをさけて、若葉色のアフタヌンに真珠の|頸飾り《ネックレス》と|耳飾り《イヤリング》。ただそれだけの装飾なのだが、智子のその夜の美しさは、たとえようもないほどだった。
神尾秀子は黒のツーピースの胸に、白い|薔《ば》|薇《ら》の一輪。槙は紺地に白いドットのあるアフタヌンに真珠の頸飾り。みんなぴったり板について、いちぶの|隙《すき》もないこしらえだった。和服の蔦代は圧倒されたように、
「まあまあ、みなさま洋装がお似合いになって……それでは御案内いたしましょう。あちら、もうお席におつきでございます」
日本間から洋館へうつるとき、三人はそれぞれ靴をはいた。智子は白いハイヒール。廊下をいくひとが、みな智子をふりかえって見る。
大道寺欣造とその客たちが、智子を待っている食堂は、一般の食堂の隣にあって、十人くらいの会食には、ちょうど手頃の広さである。三人がそこへ入っていくと、食卓についていたひとたちが、いっせいに立って迎えた。
智子はちょっと|頬《ほお》に血ののぼるのをおぼえる。しかし、すぐに顔をあげると、口もとに微笑をうかべながら、欣造のそばへ近付いた。誰かがゴクリと、|生《なま》|唾《つば》をのむ音がする。
欣造もくいいるように智子を見ていたが、やがて満足そうに微笑をうかべると、
「ああ、綺麗におなりでしたね。お母さん、神尾先生、おつかれのところをどうも。智子さん、そこへおかけなさい」
智子の席は中央で、左が文彦、右が欣造、欣造の右が祖母の槙で、文彦の左が神尾先生。
智子のまえには三人の青年がならんでいて、その左に九十九龍馬、右に金田一耕助。龍馬の左が蔦代で、耕助の右には、小柄でちょっとおどけた顔をした、中年の男が|坐《すわ》っていた。むろん智子の知らぬ顔である。
「智子さん、食事をはじめるまえに紹介しておこうね。あなたのまえに坐っている青年を、右からいって、遊佐三郎君、駒井|泰《たい》|次《じ》|郎《ろう》君、|三《み》|宅《やけ》|嘉《よし》|文《ぶみ》君。みんなあなたにおちかづきになりたいといって、わざわざ修善寺まで来てくれたんですよ。ああ、そうそう、それから金田一さんの右にいる人物。あんたははじめてだろうが、あれは蔦代の兄で、うちのまあ、|執《しつ》|事《じ》みたいなことをやってもらっている|伊波良平《いなみりょうへい》君、月琴島の出身者ですよ。それでは諸君、固くならないで、くつろいでやって下さい」
かくして役者は|揃《そろ》ったのである。
いま、この食堂にいるひとびとのほかに、多門連太郎と名乗る怪青年と、連太郎に変装を見やぶられたとも知らぬ、ふしぎな老人をもひっくるめて、ホテル松籟荘は、いまや、眼に見えぬ|妖《よう》|気《き》をはらんでいく。
鏡面の文字
五月二十三日。――智子はおそらく、生涯この日を忘れることが出来ないであろう。
その日こそは、あのまがまがしい警告状が、単なるこけおどかしや嫌がらせでないことを、事実をもって示した最初の日であり、あの恐ろしい予言が現実となって、智子のまえに、最初の男の血が流された日なのである。
そしてそれをきっかけとして、智子の周囲には血の大旋風がまきおこり、それからひいて、十九年まえに起こった密室殺人事件の、あの驚くべき真相が、金田一耕助によって究明されることになったのだが、ここではしかし、あまり先走りをすることは避けて、最初の事件のまえぶれともいうべき、エピソードの断片を、拾いあつめておくことにしよう。
その朝の智子の眼ざめは悪くはなかった。
旅の疲れも境遇の激変も、若くて健康な智子から、睡眠をうばうことは出来なかった。そして、若くて健康な女性にとっては、一夜の眠りこそなにものにもまさる薬なのである。
しかし、さすがにその朝は、智子も少し寝すぎて、眼がさめたのは八時すぎだった。そばを見ると祖母の槙が、まだよく眠っている。起きているときはさほどにも思わないが、眠っているところを見るとやつれが目立って、やっぱりお年を召したと思われる。
智子はちょっと胸の迫るのをおぼえたが、しかし年若く、色美しければ、いつまでもそんな感傷にふけってはいられない。そっと寝床をぬけ出して、身支度をしていると、|襖越《ふすまご》しにひとの気配がしたので、
「どなた?」
と、ひくい声をかけてみる。
「わたし……お眼ざめになりまして?」
落ち着いた声は神尾秀子である。
「あら、先生、すっかり寝坊しちゃって」
「いいえ。お|祖《ば》|母《あ》さまは?」
「よくやすんでいらっしゃいます」
「そう、じゃ、そうっと起きていらっしゃい。お祖母さまはお疲れなんですわ」
「ええ」
智子がつぎの間へ出てみると、秀子は例によって編み物の針をうごかしている。
「先生はお早いのね。静は……」
「静はあちらでお召し物のお支度。智子さま、今朝のお約束は十時でしたね」
「ええ」
さりげなくこたえたものの、智子の耳たぶがほんのり染まる。
「じゃ、大急ぎでお|風《ふ》|呂《ろ》ヘ入っていらっしゃい。あまりお時間がありませんから」
「ええ。先生は……?」
「わたしはおさきに|頂戴《ちょうだい》しました。お風呂場、おわかりになってるでしょう」
「ええ、昨夜のところね」
「そう、家族風呂のほうね。使用中って札がありますから、それを廊下におかけになってね。お供をするといいのですけれど、お祖母さまがお眼ざめになるといけませんから」
「いいえ、あたしひとりで大丈夫ですわ」
秀子からわたされた洗面器をかかえて、障子の外へ出ると、長い廊下に人影もなく、さわやかな五月の朝風をはらんで、空気もしっとりと落ちついている。窓のそとは今日もよい天気で、|嵐山《あらしやま》の緑がしたたるばかり。
つつましく廊下をあるいていくと、ふいに座敷の障子がひらいて、顔を出したのは九十九龍馬である。智子の顔を見ると、
「やあ……」
と、ひげのなかで笑ってすぐ障子をしめた。
智子はちょっと|頬《ほお》に血ののぼるのをおぼえる。べつに見苦しいなりをしているわけではないが、寝起きすがたを見られるのはいやだった。そこで足をはやめて小走りに、廊下の角をまがると、そのとたん、向こうから来たひとと、あやうくぶつかりそうになって、
「あら!」
と、うしろへとびのく拍子に、胸にかかえた洗面器のなかで、七つ道具が、ガチャガチャと、けたたましい音を立てた。
「や、や、こ、これはどうも……」
これまた二、三歩とびのいて、仰山そうに頭をさげているのは、蔦代の兄で、大道寺家の執事をしている伊波良平だった。モーニングのチョッキの胸に、銀鎖がゆれている。
「いいえ、あたしこそ」
智子はもう威厳をとりもどしている。豊かな頬に|愛嬌《あいきょう》のあるえくぼをきざみながら、
「お父さま、お眼ざめになりまして」
「はい、ただいま。御隠居さまの御機嫌を、お伺いしてこいとおっしゃって……」
「お祖母さまはまだお|寝《やす》みになっていらっしゃいます。お疲れになったのでしょう」
「ああ、さようで。それではそうお伝えいたしましょう。では、またのちほど」
年齢にしては|禿《は》げあがった頭をていねいにさげると、伊波良平は|踵《きびす》をかえして、それが執事のあるきかたとでもいうのであろうか、|揉《も》み手をしながら小腰をかがめて、ちょこちょこと小刻みに、向こうのほうへ歩いていった。
その方角に離れがあって、そこに大道寺欣造と|蔦《つた》|代《よ》が、文彦とともに泊まっているのである。そしてそのあいだをつなぐ廊下のかたがわに、家族風呂が三つならんでいる。
浴室は三つとも空いていたので、智子はいちばん手前のにとびこむと、脱衣場にあった使用中の札を、廊下柱にぶらさげた。
脱衣場と浴室とのあいだには、|磨《す》りガラスのはまった戸がついており、それを開くと、大理石でたたまれた浴室はひろく明るく、一坪あまりの浴槽から、豊富な湯が|溢《あふ》れているのも気持ちがよい。
智子は浴槽のなかに身をしずめかけたが、ふと、廊下のドアに内側から、かけがねをかけておくのを忘れたことを思い出した。智子ははんぶん身をしずめたまま、どうしようかと考える。しかし、そのまま、湯のなかに身をしずめてしまった。
廊下に使用中の札がかけてあるのだし、よしまた誰かが入って来たとしても、浴室の戸には内側からかけがねがかけてある……。
智子はだから、すぐにそのことを忘れて、思いきり湯のなかで手脚をのばした。
すんなりと形よくのびた四肢の均斉を、智子はわれながら美しいと思わずにはいられない。日本人としては胴がつまって、脚ののびのびしているのも好もしい。むっちりとボリュームのある肉付きはゆたかで、しかも、|精《せい》|悍《かん》な活力を秘めてひきしまっている。
智子はちょっと湯のなかで、全身をくねらせてみる。と、その拍子に皮膚の表面から、無数の小さい泡がわきあがって、からだのあちこちをくすぐるのである。
智子はくつくつ笑いながら、興にのっていろんなポーズをつくってみる。ゆらゆらゆれる湯のなかで、智子の美しい肉体が、人魚のようにあやしい曲線をえがき出す。智子はしだいに大胆になって、蛇のように全身をくねらせながら、浴槽のなかを泳ぎまわっていたが、そのうちにふっと気がついて、あわててあたりを見まわした。
「いやだわ、あたし……こんなはしたない|真《ま》|似《ね》をして……」
と、ひとりで|赧《あか》くなりながら、
「今日はよっぽどどうかしてるわ」
そうなのだ。今朝の智子はたしかにどうかしているのだ。何かしらむずがゆい官能が身内にたぎっていて、皮膚の|毛《け》|孔《あな》のひとつひとつが、かきむしりたいほどうずくのである。
智子はかるく息をはずませ、両手できゅっと乳房をおさえると、浴槽のふちに頭をよせて眼をとじた。と、|瞼《まぶた》のうらにうかぶのは、昨夜の思い出なのである。
昨夜、食事がすむと一同は、つれだってホールヘ出た。土曜日の晩だったので、ほかにもかなり客があって、ホールではレコードをかけて、五、六組の男女が踊っていた。智子もさそわれるままに遊佐と踊った。それから駒井泰次郎と踊り、最後に三宅嘉文と踊った。
食堂で飲んだ甘いアルコール飲料が、ほどよく血管をあたためていたし、それに欣造がみずからさきに立って、神尾秀子と踊りだしたので、智子はいつか|含《はに》|羞《かみ》をわすれて、三人の青年とかわるがわる何度も踊った。
欣造の注意で、智子は去年東京から、ダンスの教師をよんでお|稽《けい》|古《こ》をしたのだが、運動神経が発達しているうえに、カンがよいので上達はいちじるしかった。秀子もお|相伴《しょうばん》に稽古をしたが、これまた見事な上達ぶりだった。
遊佐や駒井は踊りながら、智子のステップをほめ、それからいろいろ甘い言葉をささやいた。智子は身内がもえるようであった。ただ、三宅だけが、体はでぶのくせに、かたくなってひとこともしゃべらなかったのが、智子にはかえっておかしかった。
智子は眼をとじたまま、あらためて三人の男の映像を、瞼のうらにえがいてみる。
遊佐は|華《きゃ》|奢《しゃ》で色白で、女のように|美《び》|貌《ぼう》だが、なんだか迫力が足りないようだ。駒井はがっちりしているが、常識的で俗っぽい。三宅は|肥《ふと》りすぎているし、それにあまり内気である。
でも、三人ともいい家柄の出身だと、お父さまはおっしゃったし、それにみんなあたしに夢中なんだわ。……
智子ほ満足そうにふっふと笑う。
賢い彼女はあの三人が、なんのために自分のまえに現われたのかよく知っている。彼女はまだ三人のうちの誰にも、特別の感情は持っていなかったが、若い男たちからチヤホヤされるのは悪い気持ちではない。
智子はいまさらのように、美しくうまれたことを|嬉《うれ》しく思い、誇らしげな|溜《た》め息をもらしかけたが、そのときふっと、心をかすめる暗いかげをおぼえた。三人の青年たちをおしのけて、別の男の映像が、大きくくっきり、瞼のうらにうかびあがって来たからである。
それは遊佐たちとさんざん踊ったあとだった。踊りつかれて智子はひとり、ホールの隅の|椅《い》|子《す》に|坐《すわ》っていた。遊佐と駒井は競争で、智子のために冷たい飲み物をとりにいっていたし、でぶのくせにはにかみ屋の三宅は、秀子や蔦代を相手に、退屈な話をしていた。
智子はぼんやりそのほうを見ていたが、そのとき、彼女のまえに立った男があった。
「お相手をねがえませんか」
智子がはっと眼をあげると、|見《み》|識《し》らぬ青年がまえに立って、うえからじっと智子の眼を見つめている。色の浅黒い、彫りのふかい美貌だった。たくましい男の体臭が、圧倒するように智子のうえにのしかかる。
智子は何かしら、息づまるような威圧をかんじて、あわてて眼をそらそうとしたが、かっきりとからみあった相手の視線は、磁石のように智子の瞳をとらえてはなさなかった。
智子は思わずすこし|喘《あえ》いだ。
「お相手をしてくださるでしょうね」
相手は眼でわらいながら、両手を出して、智子のからだを抱き起こそうとする。
「いえ、あの……」
智子はこばむような身振りをして、椅子をうしろへずらせたが、そのときだった。|耳《みみ》|許《もと》で、
「そのひとと、踊ってあげなさい」
と、やさしい声がきこえたのは。――智子はふらふらと立ち上がると、吸いよせられるように、男の胸に抱かれていた。智子はその声を、欣造の声だと思ったのである。
ところが踊っているうちにふと見ると、欣造は向こうのほうで、金田一耕助や九十九龍馬とビールをのんでいる。おやと思って、智子がいま自分の坐っていた席のうしろを見ると、そこには黒眼鏡をかけた白髪の老人が、椅子にもたれて居眠りをしていた。
「まあ!」
智子は思わずつぶやいた。それではいまのささやきは、いったい誰だったのか。見も識らぬあの老人が、あんなことをいうはずはなし、それではあれは|空《そら》|耳《みみ》だったのかしら。
「どうかなさいましたか」
智子のステップが乱れたので、相手がけげんそうにのぞきこんだ。
「いいえ、あの……」
「智子さん、あなた、大道寺智子さんでしょう。ぼく、多門――多門連太郎というんです。これを機会にお友達になってください」
自分の思いちがいから、未知の男と踊っているはしたなさを、腹立たしく思っていた智子は、はじき返すように相手の眼を見返した。
「いいえ、あたし、御紹介もないかたと……」
「友達になれないというんですか」
「ええ」
智子はきっぱりいいきったが、相手はべつに気を悪くしたふうもなく、笑いながら、
「だって、いまこうして踊っているじゃありませんか」
「だって、だって……」
智子は急にくやしさがこみあげて、
「これは間違いです。あたし思いちがいをしたんです。あたし踊るんじゃなかったんです」
「は、は、は!」
連太郎は愉快そうに笑いながら、
「間違いでも結構ですよ。とかく友情というやつは、間違いから起こるもんです。あなたがいやだといっても、ぼくはきっとお友達になってみせますよ」
まあ、なんてずうずうしい男だろうと、智子は相手をにらみかえしたが、彫りのふかい美貌をみると、何かしら、からだがすくむようであった。
そのうちにやっとレコードが終わったので、智子は相手の手をふりきるようにして、自分の席へかえったが、みると欣造をはじめとして、遊佐や駒井や三宅たちが、非難するような|眼《まな》|差《ざ》しで、まじまじと自分のほうを|視《み》つめている。智子は恥ずかしさとくやしさで、身内がもえるようであった。
智子はいま、そのことを思い出しながら、
「ふっふ、気をつけなきゃいけないわ。都会には、あんなずうずうしい男がいるのだから……」
智子はしかし、間もなくその男のことを忘れると、急に思い出したように、
「あら、あたし、こんなにゆっくりしていられないんだわ。十時には三人のかたと、ホールでお眼にかかる約束になっているんだわ」
智子があわてて浴槽から出ようとしたときである。外のドアがしずかにひらいて、誰か脱衣場へ入ってくる気配がした。
「どなた……? 先生……?」
しかし、脱衣場からは返事がなかった。それでいて、誰かそこにいることは間違いなく、浴室との境の|磨《す》りガラスに、黒い影はぼんやりうつっている。黒い影は脱衣場のなかで、しずかに、黙々として動いている。
「誰……? どなた、そこにいるのは……?」
智子はもう一度声をかけたが、あいかわらず返事はなかった。智子は急に気味悪くなり、浴槽のなかに身をしずめると、ひしとタオルを抱きしめる。お湯のなかにつかっているにもかかわらず、全身に寒気をおぼえ、肌いちめんに鳥肌が立つかんじだった。
脱衣場にいるひとは、しばらく何かしていたが、やがてまた、しずかにドアをひらいて出ていった。
智子はほっとすると、浴槽からとび出し、大急ぎでからだを|拭《ふ》いて、こわごわ境の戸をひらいてみた。別に乱れ|籠《かご》にも異常はなさそうである。
「ふっふ、誰かが使用中の札を見落として入って来たのだわ。そして、極りが悪かったものだから、返事もせずに出ていったのよ」
智子は大きなタオルをからだにまきつけ、乱れ籠から下着をとろうとしたが、そのまま凍りついたように動かなくなったのである。
壁いちめんに張られた鏡のうえに、赤い文字が踊るように書きつけてあるではないか。智子の棒紅を使ったのである。
智子はおびえたような眼で、赤い文字を判読する。
[#ここから1字下げ]
智子よ、
島へかえれ。
おまえが東京ヘ出て来てもろくなことはない。
おまえの身辺には血の|匂《にお》いがする。
おまえのおふくろがそうであったように。
智子よ、
島へかえれ。
そして二度とふたたびそこを出てはならぬ。
[#ここで字下げ終わり]
智子は全身が氷のように、冷えていくのをおぼえるのである。
ピンポン・バットの連想
「あの……|旦《だん》|那《な》様」
|林《りん》|檎《ご》の皮をむきながら、蔦代がつつましやかに声をかける。
午前十一時。ひろい離れ座敷には、五月の風がみなぎりわたってさわやかである。
「なに、蔦代」
縁側の|籐《とう》|椅《い》|子《す》によりかかって、新聞を見ていた欣造が、蔦代のほうへ顔をねじむける。蔦代はうつむいて、白い襟足を見せながら、
「智子さま、どうかなすったのじゃないでしょうか」
「智子が……? どうして……?」
「なんだかお顔の色がすぐれませんでしたもの」
「そうかしら。おれは気がつかなかったが……旅の疲れが出たんだろう」
「そうですかしら。でも、なんだかお疲れだけではないように思われましたわ。急に無口におなりになって、ぼんやり考えこんでいらっしゃるんですもの」
「そりゃ、あの|娘《こ》にとっちゃ大きな変化だからね。あの|年《とし》|頃《ごろ》はみんなそうさ。おまえだって、島から出て来た当座は、毎日考えこんでおれを弱らせたじゃないか。はっはっは」
蔦代は林檎を切って皿に盛ると、|象《ぞう》|牙《げ》のフォークをそえて茶卓におきながら、
「それだとよろしいのですけれど。昨夜とあまりちがっていらっしゃるので、つい気になって……何かお気にさわったのじゃないかと心配で……」
「馬鹿だね、おまえは。詰まらないことを気にしすぎる。それで智子、どうしてるの」
「皆さまとピンポンをしていらっしゃいます」
「それごらん、それくらい元気があれば大丈夫さ」
欣造はセルの肌をくつろげて、涼しい風をいれながら、ぼんやり庭を見下ろしている。庭はゆるい傾斜になって、ふかい樹立の木の間がくれに、|桂川《かつらがわ》の|渓流《けいりゅう》がのぞまれる。
「ときに、文彦はどうした?」
「文彦様ですか。文彦様はホールじゃありませんかしら。朝からちっとも見えませんが」
「そう……」
欣造は林檎のひときれを|頬《ほお》|張《ば》りながら、
「ねえ、蔦代、智子のことだが、あれなら大丈夫だね。東京ヘ出しても、恥をかくようなことはなさそうだね」
「とんでもない。恥をおかきになるなんて……東京にだって、あれだけのお嬢さまはございませんわ。|氏《うじ》より育ちといいますけれど、やっぱり血ですわね。女王様みたいで……」
「女王様……?」
欣造はさぐるように蔦代をみたが、蔦代は何も気がつかないで手をふいている。
「女王様か。はっはっは、とにかく、気おくれするほうじゃなさそうだ」
欣造がわらっているところへ、蔦代の兄の伊波良平が、何か用事ありげに入ってきたので、蔦代はそっと座をはずした。良平は妹のうしろ姿を見送っておいて、欣造のほうに向きなおると、
「旦那様、さっきの件ですがねえ。ほら、昨夜、お嬢様と踊っていた|見《み》|識《し》らぬ若者……それがちょっと妙なんですがねえ」
「妙って?……まあ、そこへ掛けたまえ」
「いえ、もう、これで結構で……旦那様は多門連太郎という男を御存じでございますか」
「多門連太郎? 知らないね」
「それじゃ、やっぱり……旦那様、多門連太郎というのがあの若者ですが、あいつ、あなた様の紹介状を持って、ここへ来ているンでございますよ」
「わたしの紹介状?」
欣造の|眉《まゆ》がはじめてピクリと大きく動いた。
「はい、さようで。私、支配人から見せてもらいましたが、旦那様の名刺のうえに、多門連太郎君を紹介申し上げ候、|何《なに》|卒《とぞ》よろしくというようなことが書いてございますンで」
「知らないね。おぼえがないね。わたしの名刺にちがいなかったかい」
「はい。名刺はたしかに旦那様のものでしたが、文字はちがっていたようで……旦那様におぼえがないといたしますと、捨ててはおけませぬ。支配人にそう申し伝えましょうか」
「そうだねえ」
欣造はぼんやり庭を見ながら、
「まあ、もう少し様子を見ていよう。わたしの名刺にちがいないとすると、誰か友人が、利用したのかも知れない。いずれあとでわたしがじかに、支配人にあってみるが、それまで君は何もいわないように。こんなことはなるべく荒立てないほうがいいからね」
「承知しました。それではわたしは多門という男に注意していましょう、無礼なやつですよ。お嬢様にお相手をおさせ申すなんて」
「ふむ、まあ、そうしてくれたまえ」
良平はうやうやしく頭をさげたが、ふと思い出したように、
「ああ、そうそう、金田一耕助という男が、お眼にかかりたいと申しておりますが……」
「金田一氏が……ああ、そう、じゃここへ来るようにいってくれたまえ」
「かしこまりました」
良平が例の執事のあるきかたで、ちょこちょこ離れを出ていくと、欣造はまた、木の間がくれの庭を見ていたが、そこへ金田一耕助がやって来た。例によってもじゃもじゃ頭に、よれよれの|袴《はかま》、あいかわらず|飄々《ひょうひょう》としている。
欣造は急にいきいきとした表情になって、
「やあ、お早う。昨日は御苦労様。お疲れでしたろ。さ、どうぞ、お掛けになって」
そういう|如《じょ》|才《さい》なさには、どこか加納弁護士と共通したものがある。金田一耕助は遠慮なく、すすめられた|椅《い》|子《す》に腰をおろすと、
「いや、もう|一《いっ》|向《こう》お役に立ちませんで……」
「いや、何しろとんだお願いで。……で、島へおいでになって、何か目星が……?」
金田一耕助はにやにやしながら、
「大道寺さん、なんぼなんでも、それはちと無理でしょう。ぼくは二晩とまったきりですよ。いかに名探偵といえども……」
「あっはっは、そうでしたね。いや、それで結構ですよ。智子さえ無事であれば……」
耕助はまじまじと相手の顔を見ながら、
「大道寺さん、そのことについては、いずれあなたからも、ゆっくりお話を伺いたいと思っているのですが、今日の用事はそれではないので……」
耕助は卓上の林檎をかってにつまんで、むしゃむしゃ頬張りながら、
「さしあたってお伺いしたいというのは、昨日から今日へかけてのことですがねえ。大道寺さん、あなたはそうお思いになりませんか。このホテルには役者が|揃《そろ》いすぎている……」
「役者が揃いすぎた……? 金田一さん、それはどういう意味ですか」
「いや、ぼくも今朝、ある意外な出来事から、ふっとそれに気がついたんですが、十九年まえ、月琴島で琴絵さんの周囲にいた主要人物は、いま、全部ここに集まっているじゃありませんか。それのみならず、警告状にある、智子さんに慕いよる人物というのが三人まで……」
欣造はびっくりしたように、大きく眼を見はった。そして、しばらく穴のあくほど、相手の顔を|視《み》つめていたが、やがて|咽《の》|喉《ど》のおくで、かわいた笑い声をあげると、
「金田一さん、それはしかし、神経質に考えすぎゃアしませんか。そういえばなるほどそうだが、しかし、少なくとも私や三人の青年たちが、ここへ来たのは偶然ですよ。別に誰の意志に左右されたわけでもありませんがねえ」
「そうでしょうか。それではあなたがたが、どうしてここへ来るようになったか、それから承りたいのですがねえ」
欣造はまじまじと、耕助の顔を見ていたが、ふいと、不安そうに眉をひそめると、
「金田一さん、何かあったのですか。われわれがここへ集まったのが、何者かの意志によると思われるような節が……」
耕助はあたりを見まわすと、ふところから大きな茶色の封筒を取り出した。そして、その封筒から取り出したのは、あちこちズタズタに切りぬかれた新聞紙。大道寺欣造はそれを見ると、思わず大きく眼をみはった。
「大道寺さん、これらの品から、何か思いあたるところはありませんか」
「まさか……まさか、いつかわれわれが受け取った、警告状の切り抜きかすじゃ……」
「まさかね。しかし、大道寺さん、いまこのホテルで同じようなことが、起こりつつあるんじゃないかと思うんですよ。誰かが新聞の字を切り抜いて、通信文をつくっている……」
「その新聞はどこにあったんですか」
「ホテルの裏のゴミ|溜《た》めですがね。ぼくは今朝、朝食をすますとロビーへ新聞を読みにいったんです。ところが、新聞の|綴《とじ》|込《こ》みのうち、あちこちと破りとられていることに気がついた。しかも破りとられたページというのが、昨夜まではたしかにあったんですよ。昨夜、あなたがダンスをしているあいだ、ぼくは綴込みをあちこちひっくりかえして読んだのですから、ハッキリ|憶《おぼ》えているんです。だから、昨夜の十時ごろから、今朝の九時ごろまでのあいだに、誰かが破りとっていったんですね。ぼくは急に不安になって、ホテル中をさがしまわったあげく、ゴミ溜めのなかにつっこんであるのを発見したわけです」
欣造は|憑《つ》かれたような眼をして、そのまがまがしい新聞を見ていたが、やがて声をふるわせて、
「で、切り抜かれている字はわかりませんか」
「わかりません。一字一字切り抜いてくれるとよかったんですが、面倒だったと見えて、何行かいっしょに切り抜いている。たぶんその中に、必要な文字がいくつかあったんでしょうね。ただわかっているのは、ほら、ここに高島屋の広告が出ているなかに、屋という字だけが切り抜いてある。それから、こっちには映画の広告で『午前零時の出獄』の時という字。わかっているのはそれくらいなもので、あとは見当もつきませんねえ」
「いったい、誰が誰にあてて……」
「それがわかれば造作はないが、大道寺さん、あなたのところへはまだ舞いこみませんか」
「とんでもない。そんな怪文書がまいこんだら、すぐお知らせしますがねえ」
欣造の眼には、しだいに不安のいろが濃くなってくる。二人はだまって顔を見合わせていたが、そこへあわただしい足音がきこえて来たので、耕助はいそいで、新聞の切り抜きをふところにねじこんだ。
「いずれこれは、もっとよく研究してみるつもりですがね」
やって来たのは蔦代だった。蔦代は息をはずませていて、
「旦那様、来てください。遊佐さんと駒井さんが|喧《けん》|嘩《か》をなすって……」
「遊佐と駒井が……?」
「ええ、ピンポンのバットで殴りあいがはじまって、駒井さんは鼻血を出すやら、大騒ぎでございます」
「はっはっは、さっそく|鞘《さや》|当《あ》てがはじまりましたな。騎士道大いに|華《はなや》かなわけで……」
「馬鹿なやつらが……とにかくいってみよう」
欣造と耕助がかけつけたときには、しかし、|殺《た》|陣《て》はもう終わっていて、一種異様な静けさが、しいんとホールの中にみなぎっていた。
遊佐は九十九龍馬に、駒井は伊波良平に、うしろから抱きとめられていたが、抱きとめたものも、抱きとめられたものも、まるで凍りついたように、ある一点を|凝視《ぎょうし》している。かれらの凝視の焦点にいるのは、ほかならぬ智子であった。智子もまた凍りついたように、ピンポン台のうえを|視《み》つめている。彼女の視線のさきにあるのは、ピンポン台のうえにころがっているピンポンのバット。
智子はふるえる指で、バットの柄をつまみあげる。バットは柄のつけ根のところで折れていたが、すっかり折れているのではなく、はんぶんつながっているので、智子が柄をとりあげた拍子に、打球面がぐらりとかたむいて裏が見えた。その裏には駒井泰次郎の鼻血がぐっしょりと。……
半ば折れて血にそまったピンポン・バット……その形状と状態が、智子にある恐ろしい連想を強いる。月琴島の|開《あ》かずの|間《ま》にある、半分折れて血にそまった月琴。……
智子は声なき叫びをあげ、血にそまったバットを投げ出すと、急にくらくらとめまいを感じた。
「あれ、智子さま!」
神尾秀子がかけよるまえに、
「危い!」
うしろへ来て、がっきりと智子のからだを抱きとめたのは多門連太郎だった。
鐘鳴りぬ
「いいえ、先生、大丈夫ですわ。今夜、ひと晩よく寝れば、明日はまた元気になると思います。きっと疲れが出たのね」
「そうですか。何んだかお顔の色がすぐれないので心配ですけど。……あまりくよくよ考えないでね。それはいろいろ、気を使うこともおありでしょうけれど」
「あたし、何も考えやアしませんわ。あたしなんかが考えたところで、どうせどうにもなりませんもの。先生、ほんとに大丈夫ですから、お|風《ふ》|呂《ろ》をおめしになって。あたしもそろそろやすませていただきますから」
「そうですか。ではひと風呂いただいて来ましょう。御用があったら静を呼んでくださいね」
秀子はちょっと隣座敷をのぞいたが、そこにはもう、床がふたつのべてあって、電気をくらくしたなかに、祖母の槙はよく寝ているようすである。
秀子が洗面器をかかえて出ていくと、智子はしばらく、その足音に耳をすましていたが、やがてふっと腕時計に眼を落とす。
時計の針は九時八分を示している。
「まだすこし早いわね」
智子は口のうちでつぶやいて、それからそっと隣座敷に耳をすました。祖母の槙はよく寝ているのか、寝がえりをする音はおろか、寝息ひとつきこえない。
智子はあたりを見まわして、胸のなかから、四つに折ったいちまいの紙片をとり出した。そして、ふるえる手で折り目をひらくと、|憑《つ》かれたような視線をおとす。
そこには、新聞から切り抜いた字を、一字一字|貼《は》りつけて、つぎのような文章がつづられているのである。
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とも子よ。
今夜九時はん、屋上の時計台ヘ来れ。
しからばなんじは、なンじの身の上に関して、重大なる事実を知ることを得ン。タだシ、他言、絶対無用ノこと。
[#ここで字下げ終わり]
活字の大きさも|不《ふ》|揃《ぞろ》いで、ところどころ片仮名がまじったりしているのは、|蒼《そう》|惶《こう》の際として、適当な文字を発見することが出来なかったのであろう。
智子にはそれがかえっていっそう無気味で、何かしら、不思議な現実感をもって身に迫るのである。智子はもえるような眼で、このあやしげな招待状を|視《み》つめていたが、やがて、ぞくりと肩をふるわせた。
ああ、これが昨日までの智子ならば、おそらくこんな手紙など、一笑に付して、問題にもしなかったであろう。しかし、今日の智子は、もう昨日までの智子ではない。
今朝、脱衣場で、鏡にかかれたあのまがまがしい文字を読んだ瞬間、智子の人生観は一変したといってもよかった。
温室のような南方の離れ小島で、祖母の槙と神尾秀子に、掌中の|珠《たま》とはぐくまれてきた智子は、この世に悪意だの、憎悪だのが存在しようとは、およそ信じられないことだった。いやいや、たとえそういうものの存在を知っていたとしても、それはどこか遠い国の問題で、少なくとも、自分の周囲には、そんないやらしいわだかまりはありえないと考えていた。
それがどうだろう。島をはなれた瞬間に、悪意と敵意と|威《い》|嚇《かく》の矢がはなたれたのである。しかも、ほかならぬ自分を|狙《ねら》って。……
智子はいくどもいくども、あのまがまがしい紅文字を読みかえした。すると、いったん氷のように冷えていたからだが、やがて、いかりのために、火のように燃えあがるのをおぼえたのである。
あの紅文字を書いた人物は、智子をよく|識《し》らなかったのだ。智子は情をつくせば説得できる女である。しかし威嚇をもって屈服させることは、絶対に不可能であろう。それは彼女の誇りと気位がゆるさない。
智子は鏡面の文字の書体と文章を、頭のなかに焼き付けるまで読みかえすと、|濡《ぬ》れタオルで消してしまった。
彼女は誰にもそれを語らないであろう。自分を憎んでいるものがある。そして、島ヘ追いかえしたがっている。……そんなことをひとに知られるのはいやだった。自分ひとり知っていればたくさんではないか。
智子はしかし、よい教訓をえたのである。自分の前途にまっているのは、お花畑でも楽園でもない。憎悪と敵意と威嚇が、|瘴気《しょうき》をはなつ泥沼かも知れないのだ。
それにしても……と、智子はゆっくり着物を着ながら考える。いったい誰がこんなことを書いたのか。と、いうことはいったいだれが、いまこの瞬間に、自分がここで入浴していることを、知っているかということになる。
まず、神尾秀子が知っている。そして、祖母の槙が眼をさませば、おそらく彼女も知ったであろう。九十九龍馬も知っている。それから伊波良平だ。そして、良平の口からきいて、大道寺欣造や蔦代、さては文彦も知っているだろう。そうなると、結局、ほとんど全部のひとが知っていることになるが、そのなかのいったい誰が。……
智子はとつぜん、|弾《はじ》かれたようにドアのほうをふりかえった。誰かドアのすきまから、脱衣場をのぞいている。|磨《す》りガラスにくろい影がうつっているのだ。
智子はいかりに|瞼《まぶた》を染めた。|豹《ひょう》のように身を踊らせて、さっとドアをひらいたが、そのとたん、
「まあ、文彦さま!」
と、棒立ちになってしまったのである。
文彦もびっくりして二、三歩うしろへとびのいたが、智子のきびしい視線に射すくめられて、白い|頬《ほお》が火のついたように|真《ま》っ|赧《か》になった。
「文彦さま、あなたこんなところで何をしていらっしゃいますの」
「ぼく……ぼく……」
文彦はおずおずと|口《くち》|籠《ご》もった。それから|憐《あわ》れみをこうような眼をあげて智子を見る。羊のように|可《か》|憐《れん》な眼だ。
智子はいくらか顔色をやわらげて、
「いけませんわ、文彦さま、むやみにこんなところをお|覗《のぞ》きになっちゃ……」
「だって、だって、ぼく、お姉さまにお眼にかかりたかったんだもの。お姉さま、お風呂に入っていらっしゃると、伊波がいうもんだから、さっきからお待ちしてたんだけど、なかなか出ていらっしゃらないし、お風呂のなか、しいんとしてるもんだから、もうお出になったのかと思って、つい‥‥‥」
文彦はどもりどもりそれだけいった。額に汗をかいて、頬がいよいよ|赧《あか》くなった。
「まあ、何かあたしに御用がございましたの」
「ううん、そ、そうじゃないけど、ただ、お姉さまにお眼にかかりたくって……」
智子は不思議そうに文彦の顔を見まもっていたが、いつか自分も頬の赧らむのを覚えた。
「文彦さま」
智子はあまい声になって、
「あなた、さっきからここにいらっしゃったとおっしゃったわね。誰かここへ入るのをごらんになりゃアしなかった? あなたまさか、お入りになりゃアしなかったでしょうね」
「ううん、ぼく、入らない。誰もここへ入るのを見やアしない」
びっくりしたような文彦の眼が、真実を語っていることを示している。
「あなたがここへいらしたとき、誰かこのへんにいなかった?」
「うん、ぼくがあっちから来たとき、向こうのはしのお風呂場へ、誰か入っていくのが見えたよ」
「誰……? それは……?」
「さあ、……遠くだからよくわからなかったけれど、黒眼鏡をかけたお|爺《じい》さんじゃなかったかしら。ほら、白いひげをはやした白髪のお爺さん……」
智子はギョクンと心臓のおどるのをおぼえた。昨夜ホールで、自分のうしろにいた老人……そしてあれが空耳でなかったとしたら、自分に変なことをささやいたひと。……智子はまた、あやしい疑惑の壁につきあたった。
「お姉さま、どうかしたんですか。何かあったんですか」
「ううん、何でもないの。文彦さま、あなた向こうへいってらっしゃい。またのちほどお眼にかかりましょうね」
しかし、とうとうその朝は、智子は二度と文彦のすがたを見なかった。そして、お昼前にあのピンボン・バットの事件が起こったので、智子はそれきり自分の居間に閉じこもってしまったのである。
智子はもういちど、あの怪しい招待状と腕時計に眼を落とす。時刻はまさに九時二十分。そして、招待状の指示する時刻は九時半なのである。
昼中ずっと部屋にとじこもっていた智子は、夕方ごろ欣造から招待をうけた。明日午前中に出発するから、今夜もういちど、みんなで食事をともにしたいというのであった。
智子は気がすすまなかったけれど、断わるわけにはいかなかった。今日の食事は和食だった。
訪問服に着かえて大広間ヘ出向いていくと、みんなもうお|膳《ぜん》についていた。昨夜のメンバーそのままで、遊佐と駒井も、でぶの三宅をなかにはさんで、|気《き》|拙《まず》そうに|坐《すわ》っていた。
智子はお膳について間もなく、本膳の下から、折りたたんだ紙片がのぞいているのに気がついた。それが、いま智子の手にしている奇怪な招待状だったのである。
九時二十三分。
智子のからだがかすかにふるえる。いこうか、いくまいか……智子はまだ決心がつきかねているのである。
九時二十五分。
智子はとうとう立ち上がって廊下へ出た。何かしらやむにやまれぬ衝動が、智子をかって、この無分別な行動に走らさせるのである。
智子は小走りに廊下をぬけてホールヘ出た。ホールには金田一耕助がただひとり、向こうむきに坐って何か読んでいた。週末の客はたいてい今日の夕方までに、ひきあげていったのである。
智子はスリッパをひっかけてホールを駆けぬけると、洋館の正面階段をのぼっていった。金田一耕助は何かに熱中しているらしく、智子のすがたに気がつかなかった。
二階から三階へのぼるとちゅうで、智子はギョッとして立ちどまった。上から誰かおりてくるのである。
智子は壁に身をもたせ、心臓をおさえながら、上からおりてくるひとを待っている。おりてきたのは黒眼鏡の老人だった。
老人は智子のすがたを見ると、びっくりしたように立ちどまり、何か話しかけそうにしたが、智子は顔をそむけてそのそばを駆けぬけた。
屋上ヘ出ると、時計室のドアがすこしひらいて、そこからひと筋の光がもれている。
智子はもう何物もおそれない。コンクリートの階段をかけのぼって、ドアのまえで腕時計をみると九時二十八分。
智子はドアのすき間から、時計室のなかへすべりこんで、ひとめ、部屋のなかを見まわした|刹《せつ》|那《な》、|蝋人形《ろうにんぎょう》のように硬直してしまったのである。
部屋のすみの床のうえに、男がひとり、顔を下にして倒れている。しかもそれが、ふつうの倒れかたでないことは、うつむけになった顔の下から、どすぐろい、ねばねばとした液体が、流れ出しているのでもわかるのである。
智子は総身の毛という毛が、ことごとく逆立つのをおぼえた。何か叫ぼうとしたが、|咽《の》|喉《ど》が凍りついて声が出なかった。
頭のなかを火花が渦をまいて|炸《さく》|裂《れつ》する。その渦のなかから、毒々しい笑い声がきこえた。
おまえの身辺には血の|匂《にお》いがする。……
だが、しかし、あれはなんだろう。死体のそばにおちているものは。……
智子はそれを拾いあげる。彼女は自分がなにをしているのか気がつかないのである。彼女が拾いあげたのは、柄の根元から半分折れたピンポン・バット。しかも、まだま新しい血が、べっとりとついている。
智子はなにか叫んで、そのバットを投げ出した。何をさけんだのか自分でもわからなかったが、そのとき誰かがうしろへ来て、しっかりと彼女の肩を抱きしめた。
智子は|弾《はじ》かれたようにうしろを見て、それが多門連太郎であることを知った。
「ああ、あなたなの、あなたなの、あんな恐ろしいことをしたのは……」
「いいや、ぼくじゃない。ぼくが来たときには、遊佐はすでに死んでいたのだ」
「遊佐……? それじゃ、あれは遊佐さんなの?」
「そう、遊佐……遊佐三郎だ。智子さん、あんたはこんなところにいちゃいけない。早くしたへいきたまえ」
智子の肩を抱いて、ドアの外へ押し出そうとしたところで、今度は多門連太郎が、凍りついたように動かなくなった。
床のうえ二尺ばかりのところに、四本の金属棒が横に走っており、そのうえに、かまきりの脚みたいに長い柄をもった四つの|槌《つち》が、やすんでいることは前にもいった。いまその槌が、かまきりが|斧《おの》をふりあげるように、ふるえながら音もなく、上にもちあがったかと思うと、かわるがわる四本の金属棒をかるく|叩《たた》いて、
ファ・ソ・ラ・ファ……
美しいウェストミンスターの鐘の音が、ながく余韻をのこしながら、修善寺の夜空に鳴りわたるのである。
智子の背筋を、つめたい|戦《せん》|慄《りつ》がつらぬいた。
「しまった!」
多門連太郎は反射的に、昨日、遊佐におしえられた弁のほうを振りかえる。弁はいま、SILENT から CHIME のほうへうつっていた。
……ラ・ファ・ソ・ド……
九時三十分なのである。
「智子さん、ぼくはここにはいられない。調べられると困るんだ。ぼくは逃げ出す。しかし、いつかきっと君のところへかえってくる」
多門連太郎は智子を抱きよせると、あっという間もなかった。智子の唇をはげしく吸って、くるりと背をむけると、逃げるように時計室からとび出していった。
智子は|茫《ぼう》|然《ぜん》として眼をみはっている。
智子の焦燥
悪夢の一夜は明けた。
智子はいまもなお、あのおそろしい時計室の情景を思いだすと、全身の肌に、不快な|粟《あわ》|立《だ》ちをかんじずにはいられない。
遊佐の死体も死体だったが、それよりも、気味がわるかったのは、ほのぐらい時計室のなかで、|自鳴鐘《じめいしょう》の四本の|槌《つち》が、なんのまえぶれもなく、物の|怪《け》のようにうごきだしたあの一瞬である。それから、修善寺の夜空に鳴りわたった、もの悲しげな鐘の音。
ファ・ソ・ラ・ファ……
あとからおもえばあの鐘の音こそ、悪魔が行動を開始したという、合図の進軍ラッパであったのだが、それにおどろいたのは、智子や多門連太郎ばかりではない。
階下のホールでよねんなく、切りぬかれた新聞をしらべていた金田一耕助も、鐘の音の最初の一節をきいたせつな、びっくりして顔をあげた。かれはまだ、屋上の大時計が、時を告げることを知らなかったのである。
……ラ・ファ・ソ・ド……
鐘の音が、ふるえるような余韻をのこして消えていったとき、事務室からとびだしてきた二、三名のボーイと事務員が、大理石の正面階段のふもとまでかけつけると、びっくりしたように上を見ている。
耕助がいそぎあしでそばへ近よっていった。
「ど、どうかしたんですか。あの鐘の音。……」
事務員が耕助のほうをふりかえって、
「屋上の大時計が鳴りだしたんですよ」
「屋上の大時計……? ああ、あの時計は鳴るんですか。ぼくはまだ、いちども聞いたことがないが……」
「そうですよ。だから、みんなびっくりしているんです。あの時計はちかごろ、鳴らないように、止めてあったんですから。……」
「誰かがいたずらをしたんですよ。今井さん、いってみようじゃありませんか」
ボーイのひとりは、もう大理石の階段に足をかけている。今井事務員ともうひとりのボーイも、そのあとからついていく。
耕助もなんとなく胸騒ぎをかんじたので、テーブルのうえにひろげてあった、新聞のきれはしをかき集めると、それをふところへねじこみ、あわてて一同のあとを追った。
一階から二階へあがる階段のとちゅうで、事務員たちは、うえからおりてきた老人に出あった。
黒眼鏡に白いひげをはやした老人で、スーツケースをぶらさげている。
「ああ、お客様、おたちでございますか」
事務員に|訊《たず》ねられて、
「ああ、いや、そういうわけじゃないが……」
老人は顔をそむけるようにして、足早に階段をかけおりていく。一同はふしぎそうに、うしろ姿を見送っていたが、やがてまた、階段をのぼっていった。
おくればせについてきた金田一耕助も、なにげなく老人をやりすごしたが、ああ、もしそのとき耕助が、屋上におこっているあの事実を知っていたら、みすみすこの老人をやりすごしはしなかったであろうし、たとえ、やりすごしたとしても、もっとよく、相手を観察することを忘れなかったであろう。
それはさておき、屋上へかけつけると、今井事務員がいちばんに、コンクリートの階段をかけあがったが、時計室のなかを|一《ひと》|瞥《め》みると、
「…………!」
声なきさけびをあげてあとにたじろぐ。耕助はふたりのボーイをおしのけて、今井の背後から、時計室のなかをのぞいたが、これまた、無言のまま、棒立ちになってしまった。
智子はまだ、時計室のなかに立っていたのだ。いや、立っていたというより、眼に見えぬ、空気の壁によりかかっていたといったほうがよいかも知れぬ。
彼女は何も見なかったし、何もきかなかった。頭もからだも綿のようにつかれはてて、ふらふらとからだの中心をとりかねている。頭のなかを何万匹という|蜂《はち》が、ブンブンと、あれくるっているような気がするのである。
今井事務員とふたりのボーイが、凍りついたように、智子と智子の足下によこたわっている、男の死体を見くらべている。
金田一耕助はしのび足で、男のそばへちかよった。そして、身をかがめて、死体の顔をのぞきこむと、音を立てて息をすいこみ、それから智子のほうを見た。
智子はうつろの眼を見はって、ふらふらと、からだの中心をとりかねている。
金田一耕助は三人のほうをふりかえると、
「だれもここへ入って来ちゃいかん。大急ぎで支配人と大道寺さんに来ていただくように。騒いじゃいかんよ。誰にもまだ、このことを知らせちゃいかんのだ」
言下にボーイのひとりが、時計室からとびだしていったが、そのとたん、
「危い!」
と、さけんで耕助が、智子のからだを抱きとめた。それまで、|辛《かろ》うじて智子のからだをささえていた、自我の根がポッキリ折れると、彼女はそれきり、耕助の腕のなかで、意識をうしなってしまったのである。
智子はいまそのことについて、はげしいいかりに燃えている。それは自分をこのような立場におとしいれた何者かに対するいかりでもあったが、同時に、自分自身のふがいなさに対する、いかりも手伝っているのである。
なぜ、自分はあのとき、意識をうしなったりしないで、大きく眼をひらいて、白分の周囲を観察することができなかったのか。
智子はふっと、多門連太郎の唇を思い出す。すると、何かしら、けがらわしいものにでも触ったような|悪《お》|寒《かん》をおぼえ、はげしい怒りがこみあげてくる。そして、その怒りが彼女の自我をささえるとともに、沸々として、身内に闘志がたぎり立つのをおぼえるのである。
「それじゃ、あなたはこの手紙を受け取ったので、時計台へあがっていかれたんですね」
翌日の午前十時。
智子の意識が|恢《かい》|復《ふく》するのを待って、取り調べが開始されている。広い、明るい、支配人の部屋で、取り調べには署長みずから当たっている。
ホテルの関係者も、智子の身寄りや知人も遠ざけられて、警察関係のひとたちが、ものものしい雰囲気をつくっているなかに、ただひとり、金田一耕助がどうわたりをつけたのか、にこにこと部屋のすみにひかえているのが、智子に一種の気安さをあたえる。
修善寺の署長は|亘《わた》|理《り》といって、ものにこだわらぬおうような人柄だった。かれは金田一耕助の名前を知っていて、耕助が捜査に介入するのを、いやがるどころか、歓迎するふうさえあった。
智子は活字をはった手紙をみると、
「はあ。……」
と、静かにこたえて、表情もかえない。
智子は問われるままに、手紙を受け取ったときの事情、ならびに、手紙のぬしについては、全然心当たりのないことを、落ちついた声で申し立てた.
「それで、あなたが時計室へ入っていかれたのは、だいたい、何時ごろでしたか」
「九時二十八分でした。時計室へ入るまえに、あたし、腕時計を見たのです」
「なるほど、それじゃ、そのときの様子を、もう少し、詳しく話していただけませんか」
智子はうなずいて、ゆっくりと、考えながら、そのときの様子を描写する。
「なるほど、するとあなたは、ピンポン・バットを取りあげたんですね」
「ええ、そんなことをしちゃいけなかったんでしょうが、つい……あまり変だと思ったもんですから……」
「変て、あのピンポン・バットを、どうしてそれほど、変に思われたんですか」
金田一耕助は署長のこの質問にうなずきながら、智子の顔色を注視している。智子は一瞬、|焦躁《しょうそう》のいろをうかべて、
「でも、変ですわ、まさかあんな軽いもので……何することもできませんもの」
「ただ、それだけの理由で?」
「ええ、だって、それ以外に理由など、あろうはずはございませんでしょう」
智子の声がいくらか高くなる。署長は|顎《あご》をなでながら、
「ま、そうおっしゃればそうですが……しかし、ピンポン・バットについちゃ、昨日のおひるに、ちょっと間違いがあったそうじゃありませんか。遊佐氏とそれから……」
署長はまえにおかれた紙片に眼をおとして、
「駒井泰次郎氏とのあいだにいさかいがあって、ピンポン・バットでなぐりあいがはじまった。そのときバットの柄がはんぶん折れて、打球面が駒井氏の鼻血でまっかにそまった。そのときも、あなたはひどく、おどろかれたということだが……」
智子は耕助のほうに眼をやった。それからいかりに|瞼《まぶた》を染めながら、
「ええ、それはもちろん驚きました。だって、いさかいのもとがあたしにあったのですし、それに、満座のなかであんな乱暴なまねをして……誰だって、驚かずにはいられないでしょう」
だが、ただそれだけのことだったろうか。あの異常な、何かに|憑《つ》かれたような|駭《おどろ》きは、ただそれだけの理由によるのか。……金田一耕助には、それが|腑《ふ》に落ちないのである。
しかし、その場に居合わせなかった署長には、それほど強く、疑惑の実感がせまってこなかったのも無理はない。智子のことばを、もっともとうけいれて、
「なるほど。するとあなたは、ピンポン・バットが死体のそばに落ちているのを見たとき、ひょっとすると、駒井氏のしわざではないかと、考えられたのじゃありませんか」
「いいえ、決して」
智子は語気に力をこめてキッパリいった。
事実、彼女はあのとき、駒井のことなど、全然、頭にうかばなかったのである。
「第一、あたしはそのときまだ、あれが遊佐さんだとは、知らなかったんですから」
「では、遊佐氏だと気がついたのはいつ……」
「あのひとが、おしえてくれたものですから」
「あのひと……? あの人って誰ですか」
智子の|瞳《ひとみ》が、また怒りにもえあがる。
「おとといの晩、あたしが間違ってダンスをしたひと……」
そのとたん、金田一耕助がギクッとしたように、|椅《い》|子《す》のなかでからだを起こした。署長に眼くばせをすると、智子のほうに身を乗りだして、
「智子さん、それはもしや、多門連太郎という人物じゃありませんか」
「はあ……そんな名前でございました」
取り調べ室のなかに、さっと緊張の気がみなぎる。金田一耕助はバリバリジャリジャリ、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「そ、それじゃ、あの男もそのとき、時計室のなかにいたんですね」
智子は直接それにはこたえず、いらいらとした早口で、そのときのことを描写する。いかりと屈辱に、彼女の顔は|蒼《そう》|白《はく》になっていた。むろん、彼女はその男に、キスされたことまでは語らなかったけれど。
「なるほど、するとその男は、犯人は自分ではないという意味のことをいったのですね」
智子は無言でうなずいた。
「それから、調べられると困るから、ひとまずここを逃げ出すと……」
智子はまた無言のままうなずいた。署長はしばらく考えていたが、
「ところで、ほかにあなたは誰も見ませんでしたか。遊佐氏の死体を発見する前後に」
「いいえ、誰も……」
と、いいかけて智子ははっと思い出した。
「ああ、そういえば屋上ヘ出る少しまえ、黒眼鏡をかけた御老人にあいました。あのかたも、屋上からおりていらしたようでした」
「黒眼鏡をかけた老人……? ああ、あの白いひげを生やした……?」
金田一耕助のからだが、また椅子のなかで、ギクッと動く。そして、智子がうなずいて、手短かにそのときのことを語るのをきくと、部屋のなかはまた異様な緊張におおわれた。
耕助はしばらくだまって考えていたが、やがて智子の顔をまともに見すえて、
「それでは智子さん、最後にもうひとつお|訊《たず》ねがあるんですが、あなたは時計の弁……左側の壁にあるんですが、それに|触《さわ》りゃしませんでしたか」
「いいえ、あたしは何も……あのピンポン・バット以外には……」
「多門という男はどうでしょう。あの男が弁をいじったのじゃないでしょうか」
「いいえ、そんなことはないと思います。あのひと自身、時計が鳴りだしたとき、とてもびっくりしていましたから」
署長はしばらく、金田一耕助と相談していたが、やがて智子のほうへむきなおると、
「それではこれで……御苦労様でした」
智子はかるく|会釈《えしゃく》をすると、椅子を立って部屋を出ていく。威厳にみちた足どりで。……
半島の逃亡者
昨夜から今朝へかけて、ホテル松籟荘は、|颱《たい》|風《ふう》の中心に|坐《すわ》っているのも同様だった。颱風の眼が、外の暴風雨にひきくらべて、意外なほど平穏であるように、松籟荘も事件の渦の中心にありなから、一種異様な静けさをたもっている。
しかし、それは表面だけのことで、もしひとが、松籟荘のすみずみにまで、注意ぶかい眼をはしらせたら、そこにさまざまな緊張した場面を発見したであろう。
その緊張の中心は、いうまでもなく、捜査本部になった支配人の部屋である。そこでは署長や部長刑事が、ひっきりなしにかかってくる、電話の報告をきき、それぞれ適当の指令をあたえている。|修《しゅ》|善《ぜん》|寺《じ》の警察だけでは手が足りなくて、県の警察本部から応援にきた刑事が、出たり入ったりしていた。
いまかれらの関心の的になっているのは、ふたりの人物のゆくえである。
昨夜、金田一耕助は事件を発見すると、すぐに支配人と大道寺欣造をよびにやった。そのとき支配人は欣造の部屋にいて、多門連太郎なる人物が持参した、欣造の名刺を吟味していたところだったが、ボーイの報告をきくと、驚いて時計台へかけつけてきた。そして支配人から警察へ連絡がとられたのは、それから間もなくのことである。
警察からは当直の刑事がすぐに駆けつけてきたが、署長がくるのは相当おくれた。嘱託医がかけつけてきたのは、さらにそれよりおくれて、必要な捜査陣の顔がそろったのは、もうかれこれ十一時ごろのことだったろう。
医者がかけつけてくると、すぐに死体が検視されたが、その結果、かなり興味のある事実が二、三発見された。
まず、凶器はなにか重い鈍器で、遊佐三郎は真正面から、殴打されたらしいのである.前額部が大きく砕けて、おそらくその一撃で即死したろうといわれている。それでいて、出血は案外少なかったのである。凶行の時間は、だいたい九時から九時半まで。
「ところで、先生、その凶器ですがね、このピンポン・バットじゃなかったかと思われるような、可能性はありませんか」
金田一耕助が柄の折れたピンポン・バットを指さすと、医者は言下に一笑に付して、
「馬鹿な。そんな軽いものでいくら殴ったところで、ひとが殺せるものじゃありませんよ。これはそれよりはるかに重いもの、金属か石器の|類《たぐい》か、そんなふうなもんでしょうねえ」
と、すれば、この柄が折れて、血にそまったピンポン・バットには、いったいどういう意味があるのだろう。このバットがその日の昼前、遊佐と駒井の喧嘩の際に折れたバットと、同じものであるはずがない。なぜといって、そこについている血はまだなまなましく、しかも、量もずっと多いのだから。
もし、金田一耕助が、月琴島の開かずの間にある、あの血にそまった月琴を見ていたら、かれにも、このピンポン・バットの持つ意味が、おぼろげながらもわかったかも知れないのだけれど、それを知らない耕助には、このふしぎなバットの意味が、どうしてものみこめなかったのも無理はない.そして、このことがのちのちまで、かれを苦しめたのである。
それはさておき、医者の|検《けん》|屍《し》がすんだあとで、被害者のポケットをさぐっていた刑事が、だしぬけに妙な声をあげたので、耕助がふりかえると、刑事はかちほこったように、一枚の紙片をふりかざしていた。
「署長さん、わかりましたよ。こいつを殺したのは、たもん連太郎という男です」
「多門連太郎……?」
どこかで聞いたような名前だが……と、首をかしげた耕助は、すぐはっと、いつかのことを思い出していた。いつか浴場であった男、ギリシア神のような|美《び》|貌《ぼう》の青年。……
「ど、どうしたんです。何が書いてあるんですか」
署長が読みおわるのを待ちかねて、その紙片をうけとった耕助は、ひとめそれを見ると、思わず眼を見張らずにはいられなかった。
一字一字、新聞から切りぬいた、活字をはりつけた手紙である。そして、その文面は、
[#ここから1字下げ]
今夜正九時、時計室にて会いたし。もし君がこれに応じなければ、きっと後悔することがあるだろう。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]たもん連太郎
ゆさ三郎どの
「一種の脅迫状ですね」
署長が|眉《まゆ》をひそめた。
「そうです、そうです。そしてぼくは、早晩こういう手紙が現われるだろうと期待していたんです」
金田一耕助がふところから、切りぬかれた新聞を出してみせると、こんどは署長が大きく眼を見張った。
「すると、多門連太郎という男が、被害者をここへおびき出し、殴り殺したということになるのですかな」
もしそうだとすると、多門連太郎はなぜ証拠になるべきこの手紙を、被害者のポケットにのこしていったのだろう。……署長もなんとなく、|腑《ふ》に落ちかねる|風《ふ》|情《ぜい》であった。
もし、このとき智子の意識が平常の状態にあり、連太郎や黒眼鏡の老人のことを陳述することが出来たら、手配はもっと敏活に行なわれ、ふたりを発見することも、それほど困難ではなかったかも知れない。
ところが智子の状態が、まえにもいったとおりだったので、警察の行動がいくぶん敏活をかいた事実はいなめず、多門連太郎と黒眼鏡の老人が、逃亡したらしいときまって、必要な手配りがされたのは、十二時過ぎ、即ちふたりが逃亡してから、二時間以上ものちのことであった。
怪老人はスーツケースをもって逃げたが、連太郎はトランクも部屋へおいたままで、おそらくかれは、時計室からとびだすと、自分の部屋へも立ちよらず、そのまま、外へとび出したらしい。
それにもかかわらず、かれが金田一耕助や、事務員たちに出あわなかったのは、裏階段を利用したからである。
その裏階段というのは、正面階段とは反対側にあり、洋館と日本建てのさかいにある、物置きのそばへ出られるようになっているのだが、|日《ひ》|頃《ごろ》はめったに使用されないものである。連太郎はそこから庭をぬけて、裏木戸から外へ出たらしい形跡がある。
連太郎ののこしていったトランクは、むろんすぐに調べられたが、そこには着更えの服や、下着類が入っているだけで、かくべつ証拠になるようなものは発見されなかった。連太郎が手紙を焼き、札束をポケットへねじこんでおいた用意は、かれのために正しかったのである。
一方、怪老人のほうはスーツケースをぶらさげて、堂々と正面玄関から出ると、そのまま姿を消している。
宿帳をしらべると、老人の名は|九《く》|鬼《き》|能《のり》|成《しげ》、住所は東京都世田谷区若林町とあったが、のちにわかったところによると、当該番地には、むろんそんな人物はいなかった。
ところが、驚いたことにはこの老人も、欣造の名刺に書いた紹介状をもってきているのである。むろん、連太郎の場合も、この老人の場合も、大道寺欣造にはおぼえがなく、そこに書かれた文字も、欣造の筆跡とちがっていた。こうして、事件と同時に逃亡したふたりに、濃い疑惑がなげかけられたことはいうまでもないが、一方、残っている客、わけても大道寺欣造のグループについては、きびしい調査がすすめられた。それは主として、金田一耕助の進言によるものなのである。
「ところで、署長さん、犯行の時刻ですがねえ。先生の見立てによると九時から九時半までということになっていますが、これはもう少し、短い時間に限定することが出来ると思うんですよ」
金田一耕助は主張するのである。
「それはあの鐘の音ですがね。ごらんなさい、時計の弁のついている壁に、いちめんに血がついていますが、これはおそらく被害者が、|殴《なぐ》られて倒れるとき、壁にもたれかかったにちがいありません。そのとき、からだの重みで SILENT のほうへよせてあった弁が、CHIME のほうへ移動したんですね。そして、そのために、何年間かとめられていた、自鳴鐘が活動しはじめたんですよ」
なるほど耕助のいうとおりである。その弁というのは、向かって左の壁の、人間が立って乳のあたりに、水平に、長さ一尺、幅一寸ぐらいのくりぬきがあり、そこから弁が舌を出しているのだが、そのくりぬきの右から左へかけての壁に、ひとはけ、なすったように血がついており、その下に、遊佐三郎の死体が横たわっているのである。
「さて、この弁が凶行のときに移動したとすると、その時刻は、九時十五分以後ということになります。なぜといって、この時計は、十五分ごとに鳴る仕掛けになっているのに、九時十五分には鳴らずに、三十分にはじめて鳴った。したがって、弁が移動したのは、十五分以後三十分までのあいだということになり、だから凶行もそのあいだに行なわれたのだと思うんですよ」
そこで、その十五分間における、関係者一同のアリバイ調べが行なわれたが、その結果は翌日報告された。
それは、智子の取り調べがおわって間もなくのことである。担任刑事が捜査本部へ入ってきて、
「署長さん、アリバイ調べですがねえ。だいたいこんなふうになるんですが……」
と、亘理署長のデスクのうえにおいた一覧表によると、つぎのとおりであった。
[#ここから1字下げ]
◎[#この部分正しくは、1字下げ折り返して2字下げ]大道寺欣造――九時十分頃よりボーイが呼びにくるまで、支配人と連太郎の名刺について吟味中。そばには文彦がひかえていた。
◎蔦代――入浴中。(したがってアリバイの|確《かく》たる証人なし)
◎九十九龍馬――入浴中。(同右)
◎神尾秀子――九時十分頃入浴、二十五分頃部屋へかえる。そのとき槙が起きていた。(したがって十分頃より二十五分頃までのアリバイなし)
◎祖母槙――九時二十五分以後は、秀子の証言によりアリバイがあるが、それ以前は電気を消してねていたというも、智子も秀子も、実際は、その姿を見ていない。
◎駒井泰次郎}駒井の部屋で将棋をさしていた。
◎三宅 嘉文 九時二十分ごろより伊波良平来りて観戦す。
◎伊波良平――九時二十分まで自室で荷造りをしていたというが証人なし。
[#ここで字下げ終わり]
「だいたい以上のようになるんですがね。これを御覧になるとわかりますが、九時十五分から三十分までの一番たしかなアリバイを持っているのは、大道寺欣造と息子の文彦、駒井と三宅の四人です。それから一部たしかだが、一部不明のものが、祖母の槙と神尾秀子、伊波良平の三人、全然、証人のないのが、九十九龍馬と蔦代ということになります」
署長は一覧表に眼をとおすと、
「金田一さん、あんた、これをどう思いますか」
耕助が一覧表に眼をとおしているとき、卓上電話のベルが鳴った。署長は受話器をとって、ふたこと三言話していたが、急に緊張した顔色になって、
「それじゃ、いまその自動車で|熱《あた》|海《み》へ急行しているんだね、結果が出たら熱海から電話することになっている? よし!」
署長は受話器をかけると、耕助のほうをふりかえって、
「金田一さん、ふたりの逃亡者のうち、どうやらひとりは、足跡がつかめそうですよ」
「どちらのほうが……?」
「老人のほう、九鬼というんですかね。いずれ偽名だろうとは思うが、そいつは昨夜、ハイヤーで|伊《い》|東《とう》へとんでいるんです。そこまでは昨夜のうちにわかったが、それからさきがつかめなかった。伊東に潜伏しているのか、それとも伊東線で熱海ヘ出たか、そこのところが不明だったんですが、そいつ、昨夜のうちに伊東から、別のハイヤーで熱海へとんでいるんです。今朝になって、そのハイヤーを発見したので、いま刑事のひとりがその自動車で、熱海へ急行中だそうです。ハイヤーを乗りつけた熱海の家も、運転手がおぼえているそうですから、もう間もなくわかりますよ」
「なるほど、それはお手柄でしたね。ところで多門連太郎のほうはどうです」
「こっちのほうは全然……ひょっとすると、徒歩で|達《だる》|磨《ま》|山《やま》を|迂《う》|廻《かい》して、西海岸の|戸《へ》|田《た》ヘ出るんじゃないかと思うんだが……」
|亘《わた》|理《り》署長はデスクのうえにひろげた、伊豆半島の地図をにらみながら、
「だいたいここは温泉地帯で、電話が非常に発達しているから、逃げるとすれば、出来るだけ早く、半島から脱出しようと考えるにちがいないんです。だから、|下《しも》|田《だ》方面へ南下するとは考えられない。|駿《すん》|豆《ず》鉄道で|三《み》|島《しま》へ出るか、白動車で|沼《ぬま》|津《づ》ヘ出るか、あるいは老人の場合のように、伊東から熱海へ走るか、まあ、この三経路が考えられるんですが、いまのところ、駿豆鉄道に乗った気配もなく、また、ハイヤーをやとった形跡もないんです。それに、ここを九時半に出たとすれば、東海道線の上りをつかまえることは、時間的にちょっと無理がある。汽車にのったとすれば下りだが、いまのところ、沼津でも三島でも、そういう形勢はないんです。だから、やっこさん、まだ半島のなかをまごまごしていて、西海岸から、船で脱出しようとしてるんじゃないかと思うんだが……ああ、安井君、何か御用?」
そそくさと入ってきた安井刑事は|渋面《じゅうめん》をつくって、
「署長さん、駄目です。かいもくゆくえがわからないんです。どうもへんですよ」
「かいもくゆくえがわからん? ああ、君のかかりは姫野東作という老人の捜索だったね」
「姫野東作……?」
金田一耕助がびっくりしたように言葉をはさむのを、亘理署長はおだやかにふりかえって、
「ああ、そうそ、金田一さんはまだ御存じなかったんですな。姫野東作というのはね、このホテルの使用人なんですよ。庭番とでもいうのか、もうよぼよぼの老人で、それに片脚不自由なんだが、それが昨日の夕刻ごろから行く方不明になってるんです。ひょっとすると、何か今度の事件に関係があるんじゃないかと、調査させているんだが、安井君、全然、心当たりなしかい?」
「全然。……第一、仕事着のまンまなんだから、遠くへいくはずはないと思うんですが……」
金田一耕助はふっと怪しい胸騒ぎをおぼえる。姫野東作とは何者なのか。どうして行く方をくらましたのか、何かこの事件に関係があるのだろうか。……
そのとき、卓上電話のベルがけたたましく鳴り出した。署長は受話器をとりあげたが、すぐ、きっと緊張した顔色になって、
「金田一さん、熱海からの報告……」
と、こごえでささやくと、受話器にしがみつくようにして、何か長い報告をきいている。
耕助も立って署長のデスクのまえにきた。亘理署長はかみつくように、何度か電話にむかって念をおしていたが、やがて、ガチャンと受話器をかけると、一種異様なかがやきを、瞳にうかべて、耕助のほうをふりかえった。
「わかりましたよ、金田一さん、怪老人の乗りつけた熱海の家というのが……」
「旅館ですか、それは……」
署長はゆっくり首を左右にふって、
「いや、個人の別荘なんです。加納辰五郎といって、有名な弁護士の別荘だそうですよ」
そのとたん、金田一耕助は、脳天から|焼《や》き|串《ぐし》でもぶちこまれたように|戦《せん》|慄《りつ》した。
加納辰五郎――
そのひとこそ金田一耕助に、こんどの月琴島行きを依頼した、有名な民事弁護士ではないか。
第四章 第二の死体
第二の死体
「金田一耕助さまが、お眼にかかりたいとおっしゃっていらっしゃいますが…‥」
と、女中の取り次ぎをきいて、|蔦《つた》|代《よ》に腰をもましていた|欣《きん》|造《ぞう》は、
「あ、そう、どうぞこちらへといってくれたまえ。蔦、もういいよ」
と、寝床から起きなおって、はだけた胸をつくろいながら、つぎの間の、縁側にある|籐《とう》|椅《い》|子《す》ヘ出ると、文彦が畳のうえに寝そべって、夢中で本を読んでいた。
「|旦《だん》|那《な》様、あたしは御遠慮しましょうね」
「あ、そう、そうだね」
「お坊っちゃま、あなたも向こうへまいりましょう」
しかし、本に夢中になっている文彦は、蔦代のことばを耳にも入れず、うつむきになって、両脚をばたばたさせている。
「いけませんわ。お坊っちゃま。お邪魔になるといけませんから、さ、早く……」
蔦代が肩に手をかけるのを、文彦は|邪《じゃ》|慳《けん》にふりはらって、
「いやだい、ぼく、本を読んでるんだい」
「だって、お坊っちゃま……」
「うるさい、蔦、おまえこそあっちへいけ」
「まあ、あんなことをおっしゃって……」
そこへ廊下づたいに入ってきた金田一耕助は、あいかわらず|飄々《ひょうひょう》として、
「あっはっは、いいですよ、いいですよ。文彦君、御勉強ですな。何を読んでるの、ああ、『トム・ソーヤーの冒険』か。おくさん、ほんとにいいんですよ」
「でも……」
蔦代が顔を見ると、欣造は吐き出すように、
「いいだろ、ほっとけ」
「そうですか」
蔦代は髪をなでつけると、耕助のほうに目礼して、しずかに座敷を出ていった。文彦はあいかわらず、「トム・ソーヤーの冒険」に熱中している。耕助が籐椅子につくと、欣造は茶卓のうえにあるたばこをすすめながら、
「いや、どうも、御苦労様、とんだことが出来ちまって、わたしも面食らってますが、何か手がかりがついたようですか」
「さあ、それについて、ちょっとあなたに、お伺いしたいことがあるんですがね」
「なんなりと、わたしに答えられることなら……」
耕助はまともに欣造の顔を見ながら、
「これは昨日もおたずねしたんですが、あのピンポン騒ぎにまぎれて、そのままになっちまって……つまりこうしてこのホテルに、皆さんが|揃《そろ》ったというのは、誰かの意志がはたらいているんじゃないかということなんですがね」
「ああ、そのこと。……昨日もあなたはそのことをいってたが、これはまったく偶然なんですよ。誰の意志もはたらいてるわけじゃないんです。だいいち、わたしや駒井君、三宅君らは、ここへくるつもりはなかったんですからね」
「それがどうして……?」
「つまりこうなんです。智子が満十八歳になったら、月琴島から東京へよびよせる。これはあなたも御存じでしょう。それで、|九《つ》|十《く》|九《も》氏に頼んで、迎えの使者にたってもらったんだが、何しろ老人もいることだから、途中、ひとまずここへ落ちつく。……と、いうことは、まえまえからきまっていたんです」
「そう、それはぼくも伺ってました」
「ところがそこにいる文彦が、どうしてもお姉さまを迎えにいくといってきかないんです。御承知のとおり、あれはひとりっ子で、兄弟というものを持ったことがない。それが|俄《にわ》かに姉が出来るということになったもんだから、懐しがりましてねえ。ぜひ、迎えにいくというんだが、島までは無理だからと、そこで蔦代をつけて、ここまで迎えによこしたんです」
「ええ、それも伺ってます。そこまではごく自然ですね」
「そうですとも。それからだって自然ですよ。ところが、そのことをどうして|嗅《か》ぎつけたのか、遊佐君が東京駅で待ちぶせしていて、強引に文彦たちと同行したんですね。それが、文彦にカチンと来たというわけです」
金田一耕助はちょっと|眉《まゆ》をあげて文彦を見る。文彦は本から顔をあげてわらっていた。
「と、いうのが、あの三人、|遊《ゆ》|佐《さ》、|駒《こま》|井《い》、|三《み》|宅《やけ》の三君は、智子の誕生日に、東京の家ではじめて智子に紹介することになっていたんです。あなたもだいたいお察しのことと思うが、まあ、あの三人が候補者というわけで……わたしとしては、智子の母への義理もあり、一日も早く、よい配偶者を見つけてやりたいという気があったもんだから……」
「わかりました。それを遊佐君が出しぬこうとしたんですね。ひとあしさきに智子さんにあって、あわよくば、抜けがけの功名をしようという……」
「そうです、そうです。それが文彦の気にさわったんですね。子供らしい正義感から、それじゃフェヤーじゃないと憤慨して、駒井、三宅の両君にあてて、遊佐君がここへ来てるってことを、電報でしらせたんです。そこで憤慨した両君が、それじゃ約束がちがうじゃないかと、わたしのところへ押しかけてきたんです。わたしも遊佐君が出しぬいたってことは初耳で、おどろきましたが、こうなると仕方がない。そこで両君をともなって、ここへやって来た……と、ま、そういうわけなんです」
「なるほど。するとあなたがいらしたのは、文彦君の電報のためなんですね」
「そうですよ」
欣造はしぶい微笑をうかべて、
「金田一さん、あなたはまさか文彦が、事件の糸をあやつってるなどとは、お考えにならないでしょうな」
「とんでもない」
耕助は文彦の顔を見ながら、ちょっと考えていたが、急にまた思い出したように、
「それにしても大道寺さん、迎えの使者に九十九氏をえらんだというのはどういうわけですか。|些《いささ》か変わった使者なので、ぼくもはじめてあったときには、ちょっと面食らいましたがね」
「ああ、あれ、あれもほんの偶然なんです。わたしもはじめはあの男を、使者に頼もうなどとは思ってなかった。御存じでしょう、伊波良平。あれがやっぱり月琴島の出身者なので、あれを差しむけるはずだった。ところが、いざ出発という間際になって、急にさしつかえが出来て、あの男をやれなくなった。ところが、そこへ偶然、|挨《あい》|拶《さつ》にきたのが九十九龍馬で、ちょっと月琴島へかえってくるが、何か用事はないかというので、そこで渡りに舟とばかりに、使者の役目をたのんだのです」
「なるほど、すると九十九氏とは、以前からよほど御懇意なのですね」
「いや、わたしはそれほどでもないが、蔦代がね。同じ島の出身だし、|幼馴染《おさななじ》みでもあるので、ちかごろあの男の信者みたいになって、それでまあ、うちへもちょくちょく出入りするようになったわけです」
金田一耕助はふっと怪しい胸騒ぎをおぼえる。龍馬と蔦代、このふたりだけがアリバイを、全然持っていないではないか。
欣造は耕助の顔色を読みながら、
「金田一さん、これでここへわれわれの集まったのが、ほんの偶然だったということが、おわかりになったと思うが、こんどの事件で何かあなたに、それを疑わせるような要素があるんですか」
「ええ、それなんですがね」
耕助は茶卓のうえから身を乗りだして、
「あなたもすでに、お聞きおよびのことと思いますが、昨夜、犯行と前後して、ふたりの男がホテルから姿を消している。ひとりは多門連太郎という若者だが、あとひとりは老人で、宿帳によると九鬼能成とあります」
「その話ならわたしも聞いてるが、それで……?」
「その老人をあなたは御存じじゃありませんか」
「わたしが……? どうして……? さあ、思い出しませんね。どういうひとだったかしら」
「黒眼鏡に白い|顎《あご》ひげ、白髪の上品な老人なんですがね。そうそう、一昨日の晩、皆さんがダンスをしていらっしゃるときも、たしかに隅のほうにいたようでしたがね」
「うん、ぼく、おぼえてるよ」
突然、横から口を出したのは文彦だった。
「あのお|爺《じい》さん、変装してたよ」
金田一耕助は、はじかれたように文彦を見る。
「文彦さん、そ、そりゃほんとですか」
「ほんとだとも。ぼくはホールで爺さんの、白髪を一本抜いてやったよ。それだのに、爺さん、ちっとも気がつかないんだ。だから、あれはかずらにきまってるんだ。探偵のくせにそんなことに気がつかないなんて……」
「文彦!」
突然、欣造がきびしい声できめつけたが、すぐまた、少し声をやわらげて、
「文彦、おまえはあっちへいっておいで。子供がこんな話をきくもんじゃない」
文彦がすごすごと部屋を出ていくのを、金田一耕助は|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼で見送っている。ああ、なんということだ。おれはなんという|頓《とん》|馬《ま》なんだ。文彦のような子供にさえ、簡単に見破られた変装に、全然気がつかなかったなんて。……
「ああ、いや、金田一さん」
欣造はギゴチなくから|咳《せき》をしながら、
「気にしないでくださいよ。子供のいうことですからね。文彦がいったい何を知って……」
耕助は気をしずめるように、ゴクリと|生《なま》|唾《つば》をのみこむと、
「いや、変装の実否はさておいて、大道寺さん、あなたはほんとに、その老人を御存じじゃありませんか」
「わたしが……? どうして……?」
耕助はきっと欣造の顔を見ながら、
「その老人はね、ここから自動車で逃げだすと、熱海のある家へかけこんだのですが、その家をどこだとお思いになりますか。加納弁護士、加納辰五郎氏の別荘だったんですよ」
「な、な、なんですって!」
とつぜん、欣造の肩が大きくふるえた。茶卓のうえから乗り出すようにして、
「ほ、ほんとうですか。それは……」
「ほんとうですとも。きっき警察のものがつきとめたんです」
欣造はがっくり|籐《とう》|椅《い》|子《す》に身をしずめると、|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼をみはっていたが、金田一耕助の焼けつくような視線に気づくと、あわてて顔をそむけて庭を見た。
まえにもいったように、庭はゆるい傾斜をしていて、うっそうとしげった木の間がくれに、桂川のせせらぎが|隠《いん》|顕《けん》している。
警官のすがたが二つ、三つ、四つ、木の間がくれに動いていた。
「金田一さん」
欣造は何かいいかけたが、そのとき、金川一耕助がそれをとめるような素振りをして、はっと椅子から腰をうかした。
警官の動きが、急に活発になったからである。足にもつれる下草を、|蹴《け》るようにして、警官が庭のおくへ走っていく。何か大声で叫ぶこえがきこえた。
大道寺欣造もそれに気がついて、
「ど、どうしたんだろう。何かあったのかな」
「凶器でも見つかったのじゃありませんか」
ふたりが庭を|視《み》つめていると、|顎《あご》|紐《ひも》をかけた警官がひとり、いそぎあしに坂をのぼってきた。
警官は遠くから、金田一耕助のすがたをみとめると、つかつかと木の枝をくぐって、座敷のまえへやってきて、
「金田一さん、ちょっと来てください。署長がお呼びになっています」
「な、なにかあったんですか」
「庭番の、姫野東作が見つかったんです。しめ殺された死体になって……」
トム・ソーヤーの冒険
パニックとはギリシアの牧羊神、パンにとりつかれた状態をいうのだそうである。古代ギリシア人のかんがえ方によると、パンの神にとりつかれると、|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》なすところを知らず、ひとびとはひどい恐慌状態を呈するのだそうだが、してみると、あの日のホテル|松籟荘《しょうらいそう》には、まさしくパンの神がとりついていたにちがいない。
遊佐三郎の死体についで発見された姫野東作の絞殺死体。――パンの神にとって、これほどうまい乗ずるすきはなかったのであろう。ホテルの従業員や宿泊客は申すにおよばず、警察関係のひとたちさえも、まんまとパンの神の|好《こう》|餌《じ》になって、金田一耕助が|報《し》らせをきいて、大道寺欣造とともに現場へかけつけてきたとき、ひとびとはまさしくパニック状態を呈していた。
そこは欣造の座敷から見下ろせるゆるい傾斜面から、さらに奥へすすんだところで、庭の一部というよりも、ホテル松籟荘をいだく山の|一《いっ》|劃《かく》といったほうが、似つかわしいような草ぶかい|淋《さび》しい場所だった。|楢《なら》、|櫟《くぬぎ》、|欅《けやき》などの雑木が、いちめんに新芽をふいた急傾斜の一部が、そのへんで不規則な三階段をなしているのだが、そのいちばん上の段に、文彦が蔦代にだかれて|蒼《あお》い顔をしてふるえていた。そばには九十九龍馬もいて、一種異常なかがやきを帯びた眼で、木の間がくれに見える下の段を見下ろしている。そこには警官が二、三人、緊張した面持ちで右往左往しているのである。
「蔦、文彦が何かしたのか」
大道寺欣造が声をかけると、文彦はビクッと体をふるわせて、そのまま蔦代の胸に顔を押しつけてしまう。蔦代は無言のまま、蒼い顔をひきつらせている。九十九龍馬はながい|顎《あご》|髭《ひげ》をしごきながら、ギゴチなく|空《から》|咳《せき》をしていた。
「金田一さん、どうぞこちらへ。……ほかのかたはここにいてください」
案内の警官にみちびかれて、金田一耕助がいちばん下の段へおりていくと、
「やあ、金田一さん、どえらいことができました。こいつはちょっと、われわれの手においかねるようだ」
と、亘理署長が顔をしかめて、ふとい|猪《い》|首《くび》をハンケチでゴシゴシとこすっている。
「署長さん、死体というのは?」
「あンなかにあります」
署長が顎で示す方角を、くるりとふりかえってみて、金田一耕助は大きく眼を見はった。
そこはいっぽうが高さ二間ばかりの|崖《がけ》になっていて、崖のうえにはふたかかえもあろうという、欅の大木がからかさをひらいたように枝をひろげているのだが、その欅の根元から、崖に大きな裂け目ができて、そこに天然の|洞《どう》|窟《くつ》が口をひらいているのである。金田一耕助はいきをのんで、
「このなかに……? そしてだれが死体を発見したんです」
「文彦君ですよ」
「文彦君が……?」
金田一耕助はふたたびいきをのんだ。
「そうなんです。あなたも御存じのとおり、遊佐三郎君の事件の凶器がまだ発見されていないでしょう。それで部下に命じて邸内を捜索させていたところが、だしぬけにこの方角から悲鳴がきこえてきた。そこで警官がかけつけてくると、文彦君がまっさおになって、この|洞《ほら》|穴《あな》からとび出してきたというわけです。それまでは、こんなところに洞穴があるなんて、誰も知らなかったんですがね。そこで文彦君をつかまえてたずねると、洞穴のなかに人が殺されているというわけで……」
「しかし、文彦君はなんだって、こんなところをうろうろしていたんでしょう」
「さあ、それはわたしにもわからない。ああ、懐中電気がきたようです。ひとつなかへ入ってみましょう」
警官が懐中電気を持ってきたので、亘理署長がそのいっぽんを受け取って、さきに立って洞窟のなかへ入っていった。金田一耕助もそのあとにつづいた。警官たちは洞窟のそとにのこっていた。
この洞窟ははじめしぜんにできたのを、のちに人が手を加えて掘りひろげたものらしく、なかへ入ると思ったよりもひろかった。
「これは戦時中、防空|壕《ごう》にでも使っていたものなんでしょうね」
「そうかも知れない。これなら相当大きな爆弾が落ちても大丈夫だったんでしょう」
洞窟の壁にはふとい欅の根が網の目のように走っていて、それが壁のくずれるのをささえている。床にはふきよせられた落ち葉がうずたかくもりあがっていた。
「ほら、ここです」
亘理署長が立ちどまって、床のうえを懐中電気でしめしたのは、入り口から五、六間もはいったところで、もうそのへんには、外の光もとどかないので、あたりはまっくらだった。姫野東作の絞殺死体は、そのしめっぽい暗がりのなかに、落ち葉ではんぶん体を埋められているのであった。
「犯人は洞窟のおもてで絞め殺して、ここまで死体をひきずりこんだんですね。ひきずった跡を、たくみに落ち葉でかくしてあります」
金田一耕助は懐中電気の光で、死体をあらためているうちに、思わず大きく眼を見張った。
見たところ、死体のぬしは六十くらい、みじかく刈った髪はほとんど白くなっていて、顔は|陽《ひ》にやけているけれど、昔は相当道楽もしたであろうと思われるような、薄手ながらも、ととのった眼鼻立ちをしている。体は|華《きゃ》|奢《しゃ》で小柄で、いかにも|脾《ひ》|弱《よわ》そうなかんじだから、絞め殺して、洞窟のおくへひっぱりこむのに、それほど力はいらなかっただろう。服装は黒いズボンに巻きゲートル、|地《じ》|下《か》|足《た》|袋《び》、ホテル松籟荘のマークのはいった|印袢天《しるしばんてん》と、いっぱんの庭番とかわりはない。
それにもかかわらず、金田一耕助がその死体をあらためているうちに、思わず眼を見はり、息をのまずにいられなかったというのは、死体の首にまきついているものの異様さに気がついたからである。
はじめそれはまっ赤な|紐《ひも》に見えた。しかし、手をふれてみて、すぐにふつうの紐でないことがわかった。
それは赤い毛糸だった。
ながい並太の毛糸をいくえにも折りまげ、十数本の束にして、それで首をしめているのである。絞められるとき、姫野老人はかなりもがいたと見えて、あまった毛糸がまるで|蜘《く》|蛛《も》の巣のように、からだじゅうにからみつき、そのさきはまだ小さい玉になって、ほおずきのように落ち葉のなかにころがっている。
「金田一さん」
署長も死体のうえに身をかがめて、
「ひょっとすると、これは神尾秀子という婦人の毛糸じゃないかと思うンだが……あのひと、取り調べのときも、しきりに毛糸の編み物をしていたが……」
「そうかも知れません。ぼくもあのひとが、これと同じような毛糸の玉を持っているのを見たことがあります」
金田一耕助は立ちあがって、額の汗をふいた。
「しかし、どうしてこんなもので……まさかあのひとがやったわけじゃ……」
「それは神尾女史にきいてみなければわかりませんね。この毛糸の玉がどうしてこんなところにあるのか、あのひとに聞いてみれば、あるいは説明がつくかも知れません。それより署長さん、この男はどうして殺されたんでしょう。なにかゆうべの遊佐君の事件に、関連があるのでしょうか」
「それはあると思うのが至当でしょうね。おなじ時刻におなじ場所で、ちがった事件がふたつも起こっちゃたまりませんからね。ひょっとするとこいつ、遊佐君殺しの現場を見たかどうかして……」
「そんなことかも知れませんね。しかし、署長さん、あなたのお話によるとこの男は、昨日の夕刻ごろから姿が見えなかったというじゃありませんか。もし犯行の現場を目撃したために殺されたとしたら、その間、どこかにかくれていたのでしょう。いや、どうしてかくれていなければならなかったのでしょう」
「さあてね、厄介な問題ですな。畜生、こいつなんのために殺されたのか……」
亘理署長は帽子をぬいで、ガリガリ頭をかきながら、
「それにね、金田一さん、もうひとつ不思議でならないのは、文彦という少年のことですがね。あの子はどうして洞穴のなかへ入って来たんでしょう。外を通ったくらいでは、この死体は見えっこないんだが……」
「署長さん、ひとつ洞窟のおくを探検してみましょう」
洞窟はそこから二間ほどいったところで袋になっていた。金田一耕助は署長から懐中電気をかりて、袋の壁をしらべていたが、ふいに小さい叫びごえをあげた。
「金田一さん、何かありましたか」
「署長さん、あれをごらんなさい」
署長が懐中電気の焦点をみると、そこは壁が少しくりぬかれて、小さい|龕《がん》のようになっているのだが、その龕の床に点々と|蝋《ろう》の|滴《しずく》がたまっているのである。署長は思わず|眉《まゆ》をつりあげた。
「金田一さん、そ、それは|蝋《ろう》|涙《るい》じゃありませんか」
「そうです。|蝋《ろう》|燭《そく》の滴です。誰かがここで蝋燭をつけて、何かやっていたんですね」
「しかし、こんなところでいったいなにを……」
金田一耕助はそれには答えず、なおも懐中電気の光であたりを見まわしていたが、
「署長さん、何か土を掘るようなものはありませんか。ごらんなさい。ここに土をほじくった跡がある」
署長はすぐに洞穴を出て、部下になにか命じていたが間もなく手ごろの棒切れをもってひきかえしてきた。
「わたしが掘ってみましょう」
最近掘ったばかりと見えて、土はやわらかく、掘りかえすのになんの造作もなかった。署長は穴を掘り、土をかきのけていったが、そのうちに何やらカチリと棒のさきにあたる音、それにつづいてガサガサと紙の音がした。
「署長さん、もう結構です。ぼくが手で掘ってみましょう」
土のなかに手をつっこんだ耕助が、まず第一に取り出したのは、小さな西洋|鋏《ばさみ》であった。まだピカピカと光っているところを見ると、埋められてから、それほど長くたっていないのであろう。それから半分燃えた蝋燭がいっぼん。丸い小さい瓶詰めの|糊《のり》、|便《びん》|箋《せん》のリーフレット。そして、さいごに金田一耕助がとりだしたのは、ところどころ切り抜かれた新聞紙の断片だった。
署長はそれを見ると思わず大きく眼を見はって、
「金田一さん、それじゃ被害者や智子を時計台によびだした手紙というのは……?」
「そうです。ここで制作されたんですね。蝋燭の光をたよりに。……ところで署長さん、ぼくがいま何を考えているか御存じですか。ぼくはね、いま『トム・ソーヤーの冒険』のことをかんがえているんですよ」
「『トム・ソーヤーの冒険』ですって!」
署長はびっくりして、金田一耕助の顔を見直したが、その耕助はいかにもうれしそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「そうです、そうです。『トム・ソーヤーの冒険』……御存じでしょう。子供にとってあれほど面白い小説はありません。あれを読むと子供はだれでも、冒険がやりたくてたまらなくなるんです。秘密というものにつよい興味をかきたてられるんです。そこで地面を掘ってありもしない宝物をさがしてみたり、人相の悪い男を悪漢と仮想してあとをつけてみたり……ところでそういう少年が、このような|洞《どう》|窟《くつ》を発見したとしてごらんなさい。どんなに強く心をひかれるか。……そこでひと知れずもぐりこんでは、蝋燭の光をたよりに新聞を切り抜いて手紙をつくる。……」
「金田一さん」
署長がとまどいしたような声で、
「あなたのいっているのは文彦君のことですか」
「そうですよ。ぼくは文彦君が『トム・ソーヤーの冒険』を愛読してるのを知ってますよ。それからまた、新聞を切り抜いた手紙というやつが、秘密ずきの少年にとっちゃつよい誘惑なんです。文彦君はまえにいちどそういう手紙を見たにちがいない。そこでそれを|模《も》|倣《ほう》して……」
署長の|驚愕《きょうがく》と混乱は絶頂に達した。
「金田一さん、そ、それじゃあなたは文彦君が、犯人だというんですか」
耕助はゆっくり首を左右にふって、
「いいえ、とんでもない。そんなことはいいませんよ。それとこれとは別問題です。ただ、いまいったような場合のほか、文彦君がこの洞窟へ入ってくる理由はかんがえられませんからね。ああ、誰か来たようです。署長さん、それらの品は大事にしておいてください。指紋がついているかも知れませんからね」
金田一耕助はさきに立って洞窟から出ていった。やってきたのは医者だった。
文彦の陰謀
捜査本部になっている支配人室へ呼びつけられて、|鋏《はさみ》や蝋燭や瓶詰めの|糊《のり》、さては切り抜かれた新聞紙などをつきつけられると、文彦は思ったよりも簡単に参ってしまった。
文彦のような少年をあつかうにはコツがいる。あまりおどしつけると、穴のなかへもぐりこんだ亀の子みたいに、いよいよ奥へもぐってしまう。それを穴からおびき出すには、子供らしい正義感にうったえるのがいちばんである。むろんそれにはちょっぴりと、ワサビも|利《き》かさなければならないけれど。
金田一耕助がそこをうまくやったので、文彦は自尊心を傷つけられることなしに、わりにすらすら告白することができたのである。
「文彦君はあそこに|洞《どう》|窟《くつ》があることを、まえから知ってたの?」
「ううん、ぼく、せんにここへ遊びにきたとき、あの洞窟を発見したんです」
「文彦君はそのことをだれかにいった?」
「ううん、ぼく、だれにもいわない。だって、あれ、ぼくひとりの秘密なんだもの」
「なるほど、それでああいう手紙をこさえようと思い立ったとき、あそこを利用しようとしたんだね」
文彦は無言のままうなずいた。
「だけど、文彦君はああいう手紙で、遊佐君や智子さんを時計台へよびだして、いったいどうするつもりだったの。ただ、いっぱいくわして喜んでるつもりだったの?」
「ううん、そうじゃないンです」
文彦は急にねつい調子になって、
「ぼく、遊佐さんの面の皮をひんむいてやるつもりだったンです。遊佐さんはまやかしもンなんです。おもてむきは紳士みたいな顔をしてるけど、かげではへんなことをしてるンです。キャバレーやなんかでへんなことをしてるンです。ぼく、それをお姉さまに知ってもらいたかったンです」
「文彦さん」
そばから署長が口を出した。
「遊佐さんがまやかしものだってことを、君はどうして知ってるの?」
「ぼく、あいつが……遊佐さんが多門連太郎というやつと、いいあいをしてるのを聞いたンです。それで何もかもわかったンです。遊佐のやつ、金のためにお姉さまと、結婚しなきゃならないなんていったンです」
金田一耕助と亘理署長はドキッとしたように顔見合わせた。署長の|背後《う し ろ》にあるカーテンの向こうでは、刑事のひとりがしきりにメモをとっている。署長はからだを乗り出して、
「文彦さん、それはいつのことですか」
「一昨日の昼なんです。ぼく時計台で機械をしらべていたンです。そしたら遊佐とあいつがやってきたんです。ぼく、あわてて文字盤のむこうにかくれたンですが、そんなこと知らないもンだから、ふたりがそこで|喧《けん》|嘩《か》をはじめたンです」
「すると、遊佐君と多門連太郎という男は、まえからの|識《し》り合いなんですね」
「ええ、識り合いなんです。ふたりとも不良なんです。与太者なんです。どこかのキャバレーで識り合ったンです。遊佐はそのキャバレーで悪いことをしてるンです。女のことやなんかで、……だけどそのことをいってくれるなと、多門というやつに頼んだンです。そのかわり、多門のこともだまっていてやろうといったンです」
「すると、多門という男にも、何かうしろぐらいところがあるんですね」
「そうです、そうです。第一、多門連太郎という名前からして|嘘《うそ》なんです。遊佐はあいつのことを|女蕩《おんなたら》しの謙ちゃんていってましたよ。それから|稀《き》|代《だい》のドン・ファンだって。そうそ、多門というやつは別荘から出てきたばかりなんだって。別荘って監獄のことじゃないの」
金田一耕助と亘理署長は、そこでまたギクッとしたように顔見合わせた。メモをとる刑事の筆先はしだいに忙しくなってくる。
署長は緊張した面持ちで、
「遊佐君がそんなことをいったンんですか」
「ええ、いいましたよ。そしたら多門というやつがとてもおこって、もうちょっとで遊佐を絞め殺しそうになったンです」
文彦は調子づいて、そのときの様子を詳しく描写する。署長はメモをとりながら、
「ところで、そのキャバレーだがねえ。ふたりが識り合ったという。……そのキャバレーの名は出なかった?」
「ええ、出ましたよ。キャバレー・レッド・アウルっていうンです。おじさん、レッド・アウルって赤い|梟《ふくろう》という意味じゃないの」
「そうそう、赤い梟だ。すると、そいつはレッド・アウルの客で、稀代のドン・ファン、女蕩しの謙ちゃんというンだね」
文彦は無言のままうなずいた。
「いや、文彦さん、君の話はたいへん参考になりましたよ。だけどねえ、それだからってどうして君はあんな手紙こさえたの。遊佐君や智子さんを時計台ヘ呼び出して、どうしようと思ってたの」
「ぼく……ぼく……」
文彦はいくらかどもりながら、
「遊佐と多門をもういちど、時計台であわせてやろうと思ったンです。そしたらきっと喧嘩になるでしょう。喧嘩になってお互いのアラやなんかいうでしょう。それをお姉さまに聞いてもらったら、遊佐がまやかしもンだってことがわかるだろうと思ったンです」
署長は|怪《け》|訝《げん》そうに|眉《まゆ》をひそめて、
「しかし、それならなにもそんなまわりくどいことをしなくったって、どうしてお姉さまに直接そのことをいわなかったの」
「だって、だって、そんなことをすれば、お姉さまはきっとぼくのことを、告げぐちをするいやな児だと思うでしょう。ぼくお姉さまに、そんなふうに思われたくなかったんです」
それが少年の微妙なデリカシーだった。耕助は署長と眼を見かわしてうなずきながら、
「わかりましたよ、文彦君、君の気持ちよくわかる。それじゃ君は、多門連太郎という男にも、ああいう手紙こさえたんだね」
「ええ、遊佐の名前をつかって、今夜九時に時計台へくるようにって」
「君はその手紙をいつみんなに渡したの」
「ううん、ぼく、誰にも手紙、渡さなかったンです」
「え?」
「ぼく、あんな手紙こさえたけれど、誰にも渡すひまがなかったンです」
「文彦さん、しかし……」
と、署長がびっくりしたようにからだを乗りだして、何かいおうとするのを、金田一耕助があわててさえぎると、
「ああ、いや、文彦君、それよりね、君はいつああいう手紙をこさえたの。それからいってくれませんか」
「昨日の朝なんです。一昨日の晩、どうしてお姉さまに遊佐のことを|報《し》らせようかと思うと、ぼく、寝られなかったンです。それでいろいろ考えて、ああするのが一番いいと思ったンです。そこで昨日の朝起きると、すぐにロビーへいって、新聞を二、三枚切りとってきたンです。そしてお庭で切りぬきをはじめたンですけれど、とてもひまがかかりそうなので、だいたい、|要《い》りそうなところだけ切りとって、あとはゴミ|溜《た》めのなかへ捨て、それからあの|洞《どう》|窟《くつ》へいったンです。手紙を三通こさえるの、とても長くかかりました。|蝋《ろう》|燭《そく》の|灯《ひ》は暗かったし、それに必要な活字がなかなか見つからなかったンです。それでも、やっと三通こさえたかと思うと、お昼のサイレンがきこえたンです。それでぼく、びっくりして洞窟からとびだしたンです」
「手紙を持って?」
「ううん、手紙は洞窟のおくの壁のくりぬきのところへおいてきました。だって、お昼御飯がすむと、|蔦《つた》がいつも|午《ひる》|睡《ね》をさせるンですし、午睡がすむとお風呂へいれるンです。だから、そんなもの持ってて、見つかっちゃ困ると思ってそこへおいて来たンです」
「あとから取りにいくつもりだったンですね」
「ええ、でも、取りにいくひまはなかったンです。一昨日の晩寝なかったでしょう。それでつい、午睡をしすぎたンです。眼がさめたら、お姉さまといっしょに晩御飯たべるンだからと、蔦がそばをはなさないンです。それでとうとう取りにいけなかったンです。そしたら今日、遊佐が殺されたというでしょう。それでぼく、もうあんな手紙はいらないから、破ろうと思って洞窟へいくと……あの死体があったんです」
文彦はそこでいきをのむと、|蒼《あお》い顔をひきつらせて、|痙《けい》|攣《れん》するように身をふるわせた。署長の顔色には、しだいに驚きのいろがふかくなってくる。
「文彦さん。それじゃ君はまだあの洞窟に、手紙があると思っていたンですね」
「ええ、手紙はあったはずです、ぼく、あの死体につまずくと、びっくりして、手紙のことも忘れてとび出したんです。だって、ぼく、マッチをすってみたンですけど、あの|死《し》|骸《がい》、とても|怖《こわ》い顔してるンだもの。署長さんはあの手紙見つけたンでしょう」
署長が口をひらくまえに、金田一耕助がそばから乗りだして、
「文彦君、君は手紙をこさえたあとで、|鋏《はさみ》や蝋燭やなんか土のなかに埋めたの?」
「ううん、ぼく、そんなことしません」
「昨日君が洞窟ヘ入るところか出るところを、誰か見ていやアしなかった?」
「そんなことないと思います。ぼく、ずいぶん気をつけてたンですもの」
金田一耕助の眼くばせによって、署長がデスクの|抽《ひき》|斗《だし》から、取り出したのは二通の手紙だった。遊佐の死体から発見された手紙と智子にあてられたぶんである。
「文彦さん、君のこさえた手紙というのはこれですね」
文彦は|赧《あか》くなってもじもじしながら、二通の手紙を見ていたが、智子へあてたぶんを見ると、おやというふうに眼を見はった。
「これ、ぼくのこさえた手紙ですけどここンところがちがってます。誰がこんなことをしたんだろ」
「どこ? どこがちがってるの」
「ここンとこ。今夜九時はん、屋上の時計台ヘ来れとあるでしょう。ぼくは九時としといたンです。だって三人いっしょに落ち合わなきゃ面白くないでしょう。だから誰の手紙にも九時と指定しておいたンです」
そういえば「はん」という字は行の横にはってあって、万年筆で書き加えの|印《しるし》がしてあった。
署長と金田一耕助は、しばらく顔を見合わせていたが、やがて署長が文彦のほうにむきなおり、
「いや、文彦さん、御苦労でした。君の話はとても参考になりましたよ。それじゃね、向こうへいってやすんでいらっしゃい。御用があればまた来てもらいますから」
文彦が出ていくと、署長はいくらか|昂《こう》|奮《ふん》の面持ちで、
「金田一さん、これはいったいどういうことになるンですか。まさか文彦君が|嘘《うそ》をいってるとは思われませんが」
「いや、あの子のいってることは全部ほんとですよ。つまり犯人が文彦君の子供らしい陰謀を、たくみに利用したんですね。文彦君は洞窟へ出入りするところを、誰にも見られていないと思ってますけれど、きっと誰か見ていたやつがあるんですね。そいつがあとからこっそり洞窟へ入ってみた。そして、この手紙を発見して、自分の計画に利用したンです」
「なるほど、そういえば遊佐君の手紙のことはよくわかる。これで遊佐君をおびき出したんですからね。しかし、智子君をどうして時計台へ呼び出す必要があったんでしょう。しかも時間までかえて……」
「いや、時間をかえた理由はよくわかりますよ。自分は遊佐を殺すつもりだったのだから、そこへ智子が来合わせては困るんです。しかし、そうまでして、なぜ智子を屋上へ呼び出す必要があったのか。……そうしてあの娘に、罪をきせるつもりだったのでしょうか……」
金田一耕助がぼんやり頭をかきまわしているところへ、刑事があわただしく入ってきた。
「署長さん、|検《けん》|屍《し》の結果がわかりました」
「ああ、そう、じゃ簡単にいってくれたまえ。死因と死後の推定時間は?」
「死因は毛糸による絞殺。死後の推定時間は二十一時間乃至二十二時間。いま午後一時ですから、これから逆算していくと、犯行の時刻は昨日の午後、三時から四時までのあいだということになります」
「な、な、なんだって!」
署長も金田一耕助も、思わず椅子から腰をうかした。
「それじゃ姫野東作は、遊佐よりさきに殺されたのか」
蝙蝠を見た
金田一耕助は神尾秀子の様子を見守りながら、いつもの彼女らしくないと思った。そして、どうしてこんなふうに感じられるのだろうと考えているうちに、やっとその理由がわかって、思わずにっと微笑をもらした。
秀子はいま編み物を手にしていないのである。そして、編み物を手にしていない神尾秀子は、|槌《つち》をうしなった大黒様、|琵《び》|琶《わ》を抱いていない弁天様みたいに、妙にかっこうがつかないで、どこか頼りなげに見えるのである。
神尾秀子は自分でもその自覚があるのか、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》らしく、しきりにハンケチをもみながら、デスクのうえにある赤い毛糸と、署長の顔を見くらべている。その毛糸こそは姫野東作の首にまきついていたものだが、検屍もおわったので、重要な証拠物件のひとつとして、捜査本部へとどけられたものである。
「ええと……」
と、署長はギゴチなく|咽《の》|喉《ど》にからまる|痰《たん》を切りながら、
「何か私どもの耳に、入れておきたいことがあるということでしたが……」
「はあ、あの……」
と、秀子は|膝《ひざ》のうえで、ハンケチを|揉《も》みくちゃにしながら、
「このことはもっと早く……遊佐さんがああなったと聞いたとき、すぐにお話すればよかったんですが、遊佐さんの事件のことと、果たして、関係があるのかないのかわからなかったものですから……」
「なるほど、なるほど」
ともすればいいよどむ神尾秀子をはげますように、|亘《わた》|理《り》署長は|相《あい》|槌《づち》をうって、
「ところがいまではこのことというのが、遊佐君の事件と関係があることがハッキリわかったんですね」
「はあ……」
「そして、このことというのは?」
「姫野東作というひとのことと、それから……その毛糸のことでございます」
署長はちょっと体を乗りだして、
「すると、あなたは姫野東作という男を御存じだったのですか」
「いいえ、あの、名前はさっきはじめて知ったのですが、服装やなんか聞くとあのひとにちがいないと思いますし、場所も心当たりがありますし、それに、その赤い毛糸のことといい……」
神尾秀子はそこでゾクリと体をふるわせた。署長はその顔を見守りながら、
「すると、あなたはこの毛糸がどこにあったか御存じなんですね」
「ええ、それは女中さんやなんかから聞きました。あたし、もうびっくりしてしまって、……でも、これではっきりこのことが遊佐さんの事件と関係があることがわかったものですから」
「では、このことというのをお話願いましょうか」
「はあ……」
秀子は|椅《い》|子《す》のなかで少しいずまいをなおすと、真正面から署長の顔を見すえるようにして、
「昨日のお昼ちょっとまえ、ホールのほうでいやなことがございまして……これは金田一さまも御存じですが、遊佐さんと駒井さんが、智子さまのことからいさかいをなさいまして、血まみれ騒ぎになったのでございます。このことが智子さまにショックをあたえたと見えて、ひどく昂奮していらっしゃいますので、あたし心配になって|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》さんに御相談申し上げたのです。御存じでもございましょうが、九十九さんは月琴島の出身者で、智子さまのお母さまとも、|御《ご》|昵《じっ》|懇《こん》のあいだがらだったのですから、あたしどもも何かと頼りにしておりますので……」
金田一耕助がうなずくのを見ながら、神尾秀子はことばをついで、
「九十九さんも御心配くださいまして、それではこれを飲ましたらよかろうと、鎮静剤……眠り薬をくださいましたので……」
「ああ、ちょっと待ってください」
金田一耕助はあわててさえぎると、
「九十九氏はいつも眠り薬を持っているんですか」
「はあ、あの、あのかたも旅などへ出ると、夜眠れなくて困ることがおありだそうで、いつも眠り薬を持っていらっしゃるンだとか……」
しかし、これはいささか妙な話である。九十九龍馬のように、霊力を売りものにしている男が、いかに旅へ出たからとはいえ、薬の力を借りなければ、眠られぬほど神経質とは、ちと受け取れぬ話である。しかし、金田一耕助は、それはそれとして、神尾秀子にあとをうながした。
「さいわい薬が|利《き》いたかして、智子さまの昂奮状態もおさまり、間もなく|睡《ねむ》くなったとおっしゃるので、あたし寝床を敷いてさしあげました。ついでにお|祖《ば》|母《あ》さまにも寝床を敷いてさしあげ、おふたりにいっときおやすみなさいますようにおすすめしたんです。智子さまはすぐすやすやとおやすみになり、お祖母さまも間もなくうとうとなさいました。それで、あたし編み物|籠《かご》を持ってお庭へ出たんです」
秀子はちょっと言葉をきって、いきをのんだが、すぐまた口をひらいて、
「ほんとうをいうと、そのときあたしは自分でも、鎮静剤をのみたいくらい、神経がつかれていたんです。なにやかやと気を使うことが多いものですから……」
金田一耕助が同情するようにうなずいた。
「それであたし、誰にも見られないところで、ひとりで考えごとをしたいと思って、編み物籠をぶらさげて、お庭の奥へ奥へとあるいていったんです。すると坂の途中に段になっているところがあって、|楢《なら》の樹の木陰に、ちょうど腰掛けになるような、|手《て》|頃《ごろ》の石がございました。あたし、そこへ腰をおろして編み物をはじめましたが、その場所というのが、さっき死体の発見された|洞《どう》|窟《くつ》のうえになっているんです」
亘理署長ははじめて大きく眼を見はった。金田一耕助もからだを乗り出して、
「それはいったい、何時ごろのことでしたか。昨日の午後の……」
「あたしがそこへいったのは二時半ごろだったでしょう。それからあたしは編み物と考えごとに夢中になっていたものですから、どれくらい時間がたったのかわかりませんでしたけど、下の段へ誰かきて、ヒソヒソと話をはじめたんです。あたしさっきもういちど、あの場所へいってきましたけれど、あそこは三段になっていますわね。いちばん下に洞窟があって、……あたしのいたのは一番うえの段で、人がきて密談をはじめたのは、中の段なんです」
金田一耕助と亘理署長の顔には、しだいに緊張のいろが濃くなってくる。神尾秀子は指先で無茶苦茶にハンケチをもみながら、
「あたしほんとうに困ってしまいました。下へきたひとたちは、あたしがそこにいることに気がつかないのです。ひとの話をぬすみぎきするのはいやですから、あたしよっぽど逃げ出そうかと思ったんですけれど、そんなことをして相手を驚かすのも、心ないしわざのように思われて、そのままじっとしていたんです。そして、なるべく話をきくまいと思ってたんですけれど、そのうちにふと、月琴島ということばがきこえました。それから十九年まえという言葉がきこえたので、あたしはっとしたんです」
署長と金田一耕助はいよいよまえへ乗りだしてくる。ふたりとも|眼《ま》じろぎもせずに、神尾秀子の|口《くち》|許《もと》を見つめている。
「誰かが十九年まえに月琴島で起こったことを話している。……そう思ったものですから、あたしは急に聞き耳を立てました。すると、しばらくボソボソという声がしたあとで、変装ということばがはっきりきこえました」
「変装……?」
「ええ、そうです。でも、誰が変装してるのかしていたのか、そこまではわかりませんでした。それからまたボソボソという声がつづいていましたが、そのあとで聞きずてならぬ言葉がきこえたのです。それは|蝙《こう》|蝠《もり》という言葉でした」
「蝙蝠……?」
金田一耕助は思わず息をはずませる。事情を知らぬ亘理署長はふしぎそうに|眉《まゆ》をつりあげた。
「ええ、そうです。これがほかの場合だったら、あたしも聞きのがしたかも知れません。しかし、このあいだ金田一さまから、蝙蝠についてお|訊《たず》ねがあったばかりのところですから、そのことばを聞くと、思わずドキッとしてしまいました。すると、そのつぎにはっきりこういうのが聞こえたんです。『わたしゃ蝙蝠を見つけましたよ。はっはっは、あいつは蝙蝠だ、実にへんな蝙蝠だった』……」
金田一耕助は大きく眼を見はって、ゆっくり頭をかきまわしている。亘理署長は|怪《け》|訝《げん》にたえぬ面持ちで、ふたりの顔を見くらべている。神尾秀子は舌でちょっと唇をしめして、
「そのとき、あたし、もっと落ち着いていればよかったんです。落ち着いて話のつづきを聞けばよかったんです。ところがあまりびっくりしたものですから、つい、立ち上がって下を見ようとしたのですが、その拍子に、|膝《ひざ》のうえにおいてあった編み物|籠《かご》がひっくりかえって、毛糸の玉がとび出したんです。しかも、そのなかのひとつ、そこにある赤い毛糸の玉が、中の段から下の段までころげ落ちていきました。あたしあわててそれをつかまえようとして、思わず下をのぞきました。中の段でもだしぬけに、毛糸の玉が落ちてきたので、びっくりして上を見ました。それで、あたし、ふたりの姿をはっきり見たんですが、それが遊佐さんと、ホテルのマークのはいった|印袢天《しるしばんてん》をきた小柄の老人、つまり姫野東作というひとだったんです」
金田一耕助の頭をかきまわす手の運動は、しだいに速度をましてくる。署長は大きく眼を見張って、神尾秀子を|視《み》つめながら、
「すると、何ですか、月琴島のことや蝙蝠の話をしていたのは、姫野東作だということになりますか」
「そうだと思います。遊佐さんの声ではありませんでしたから」
「それで、あなたはどうしたんですか」
「どうもこうもございません。立ち聴きしてたことがわかったもんですから、ちょっとひっこみがつかない感じでした。遊佐さんも顔をまっ|赧《か》にして、もじもじしてらっしゃいましたが、やがて、逃げるように向こうへいってしまいました。それで、あたしもひっくりかえった毛糸の玉をひとまとめにして、こっちのほうへかえって来たんです」
「すると、あとには姫野老人と、この赤い毛糸の玉がのこったということになりますね」
「ええ、そういうことになります」
「あなたはそのとき、あとにのこって姫野老人から、もっと詳しく話をきこうとは思いませんでしたか」
「いまから思えばそうすればよかったと思います。でも、そのときはむやみに|狼《ろう》|狽《ばい》してたものですから……」
「あなたがお部屋へかえってきたのは、何時頃だかおぼえていませんか」
「三時十五分でした。もうそろそろ、智子さまをお起こしする時刻じゃないかと時計を見たんで」
神尾秀子の話はこれだけだった。それについて何かかんがえはないかと署長にきかれたが、それ以上のことは想像になるからおひかえしますと、キッパリ彼女はことわった。秀子が部屋から出ていくと、金田一耕助はすっかり|昂《こう》|奮《ふん》した面持ちで、部屋のなかをいきつもどりつしながら、
「署長さん、署長さん、ぼくたちのいままでのかんがえかたは、すっかり間違っていたんですね。ぼくたちは遊佐君殺しが主で、姫野老人殺しは従だと思っていたんです。つまり、姫野老人は遊佐君殺しの犯人について何か知っていた。そのために殺されたと思っていたが、むしろ、これは逆だったんです。犯人は姫野老人になにか都合の悪いことを知られていた。そこでこれを殺したが、姫野老人が殺されたことがわかると、こんどは遊佐君に疑われるかも知れない。それで姫野老人の死体が発見されるまえに、遊佐君を殺さなければならなかったんですね」
亘理署長はうなずいて、
「時間からいうと、姫野老人が殺されたのは、神尾女史が立ち去って間もなくということになりますね」
「そうです、そうです。そのとききっと犯人は下の段にいたんでしょう、そして、神尾女史と同じように姫野老人と遊佐君の話をきいた。そこで神尾女史が立ち去ったのち、神尾女史の落としていった毛糸で、姫野老人を絞め殺して、|洞《どう》|窟《くつ》のなかへひきずりこんだんでしょう」
「そうなると、姫野老人とは何者か。かれが何を知っていたかということが問題ですね」
「そうです、そうです。だから、署長さん、あの男の前身を洗ってみてください。このホテルヘ住みこむまえ、かれは何をしていたか。十九年まえにはどこで何をしていたか、それをよく調べてみてください」
「承知しました。しかし、金田一さん、神尾女史はさっき妙なことをいいましたね。蝙蝠がどうとか、こうとか、……あれはいったいどういう意味なんです」
「ああ、それ……」
金田一耕助がそれについて説明しようとしたときである。卓上電話のベルがけたたましくなりだしたので、署長が受話器をとりあげた。そして、ふた言三言話をしていたが、すぐに署長の|眉《び》|宇《う》に、さっと緊張の気がみなぎった。
「金田一さん、熱海からの報告……」
署長は早口にそういって、食い入るように受話器にしがみついていたが、みるみるうちに深い驚きと狼狽のいろがその面上にひろがってくる。そして、やがてガチャンと受話器をおいたときには、額にビッショリ汗をかいていた。
「金田一さん、ゆうべ熱海の加納弁護士の別荘へかけこんだ人物の正体がわかりましたよ」
「誰……? 誰だったのですか、それは……」
亘理署長はすぐには答えず、気を落ち着けるように、ゆっくり煙草に火をつけると、
「わたしにも、これはどう判断してよいのかわからない。加納弁護士は昨夜週末の静養で、熱海の別荘へきていたそうです。そして今朝刑事がいきつく少しまえに、汽車で東京へかえったそうですが、そのまえに留守番のものによくいいふくめておいたと見えるんですね。刑事の質問に対しても、なかなかおいそれと答えないんだそうです。留守番のもののいうのに、昨夜おそく、たしかに客がひとりあった。しかし、それは決して怪しいものではなく、主人の古いお|識《し》り合いで、伊東に泊まっていられたのが、急に用事が出来てこちらへ駆け着けてこられたんだが、今朝早く出発されたというんだそうです。そして、どうしてもそのひとの名前をあかそうとしないんですが、刑事が熱海駅やなんかをしらべた結果、今朝早く加納氏の別荘から、熱海駅へひとりの客を送りとどけた自動車を見つけたそうです。さいわい熱海の駅員に、その客というのを知ってるものがいたので、やっとわかったのですが」
「で、どういうひとなんですか。それは……」
金田一耕助はじりじりしたように署長のほうへ詰めよってくる。署長はその顔を真正面から見返しながら、奇妙な表情をうかべて、
「そのひとはね、もとこのお屋敷の持ち主で、現在の呼びかたですれば|衣《きぬ》|笠《がさ》|智《とも》|仁《ひと》氏、昔の呼びかたでいえば衣笠宮智仁王殿下なんです」
加納法律事務所
五月二十八日。
丸ビル四階にある加納法律事務所は、あいかわらず繁忙をきわめている。五、六台ある電話のベルが、ひっきりなしに鳴りひびき、わかい弁護士や見習生が、忙しそうに絶え間なく、デスクからデスクへとびまわっている。
しかし、もし諸君がオフィスのおくにある所長室に、一歩足をふみ入れるならば、うってかわった静けさが、身にしみわたるのをおぼえるだろう。完全に防音装置をほどこされたその部屋は、外部の騒音からまったく遮断されていて、誰でもあの多忙なオフィスをとおって、この所長室へ案内されると、その静けさに|馴《な》れるまで、妙な空虚感におそわれるのである。つまりそこは弁護士の|夢《ゆめ》|殿《どの》なのだ。
加納弁護士はいまその夢殿のなかを、ゆったりと歩きまわりながら、女秘書になにか口述していたが、そのとき卓上電話のベルがけたたましく鳴りだした。女秘書は速記の手をやめて受話器をとりあげると、ふた言三言話していたが、所長のほうをふりかえり、
「金田一様というかたが、御面会だそうです」
いままでゆったりと落ちついていた老弁護士の顔が、そのときちょっと緊張する。しかし、すぐさりげない顔色にもどると、
「ああ、そう。どうぞこちらへといってくれたまえ」
女秘書はそのむねを電話でつたえると、
「あたし、どうしましょう」
「ああ、君はちょっと座をはずしてくれたまえ。それから誰もこの部屋へ来ないように」
「承知いたしました」
デスクのうえのものをひとまとめにして、女秘書が出ていくのと入れちがいに、入ってきたのは金田一耕助である。あいかわらずよれよれの着物によれよれの|袴《はかま》といういでたちで、|飄々《ひょうひょう》として入ってくる。
「やあ」
「やあ」
|会釈《えしゃく》をかわした瞬間、ふたりの|瞳《め》にはちょっと緊張のいろがみなぎったが、すぐ双方から打ち解けた態度になって、
「さあ、どうぞお掛けください。このたびは御苦労さま。いつお帰りでした」
「昨夜帰京いたしました。智子さんはたしかに、|経堂《きょうどう》のお屋敷までお送りいたしました」
「いや、どうも」
相手が腰をおろすのを待って、デスクのうえの高級煙草の入った箱をおしやりながら、
「どうぞ御自由に」
「はあ」
「それにしてもとんだことになって、さぞ御迷惑でしたろう」
「いやあ」
耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「かえって張りあいが出来ましたよ。このほうがわたしにとっちゃ本職ですからね。殺されたひとたちにゃお気の毒だが……」
「なるほど」
加納弁護士は|眼《め》|尻《じり》に|皺《しわ》をよせて微笑する。温かそうな笑顔なのだが、それでいてその底に、ひやりとするものを感じさせるのである。
金田一耕助は遠慮なく、すすめられた高級煙草をいっぽんとって火をつけながら、
「それで今日はとりあえず、御報告かたがたお|訊《たず》ねしたいこともあって参ったのですが、そのまえにちょっとお伺いしたいのですが……」
「はあ、どういうことでしょうか」
「はじめのお約束では、智子さんを島まで迎えにいけばよかったのでしたね。そのお約束はともかく果たしました。そこでお伺いしたいというのは、ぼくはこれでもう、御用済みになったわけですかな」
「金田一さん」
老弁護士はおだやかに微笑しながら、
「そのことについては、依頼人ともよく相談しました。もともとあなたにお願いしたのは、たんなる迎えの使者ではなく、あの警告状が指摘している事実、即ち、十九年まえの事件が、過失であったか他殺であったか、それを吟味していただきたかったのですが、どうでしょう。それについての御感想は……」
金田一耕助は用心ぶかく言葉を選びながら、
「いや、それについては遺憾ながら、まだハッキリと責任あるお答えはいたしかねます。何しろ古い事件であるうえに、ぼくはたったふた晩しか、島にいなかったのですからね」
「いや、ごもっとも」
老弁護士はしぶい微笑をうかべながら、
「しかし、責任のあるお答えでなくてもいいのです。|素《しろ》|人《うと》の下馬評といったようなものでも結構なのですが……」
「そうですね。そうおっしゃれば申し上げますが、これはやっぱりあの警告状のいってることが、正しいのじゃないでしょうか」
加納弁護士はちょっと緊張して、
「すると智子さんの父の|日《くさ》|下《か》|部《べ》|達《たつ》|哉《や》という青年は、過失で死んだのではなく、誰かに殺されたのだとおっしゃるのですね」
「そうだと思いますね。いろいろな情況から判断して……」
「いろいろな情況といいますと?」
「修善寺で起こった二重殺人事件です」
「金田一さん」
加納弁護士は|眉《まゆ》をひそめて、
「修善寺の事件、あれはどうなんです。姫野東作という庭番が殺されていますね。あれもこの事件に関係があるのですか。どの新聞を見ても、そこがよくわからんのですが……」
「それはわからんのが当然でしょう。新聞記者は十九年まえの事件を知らないのだから、要領のつかみようがないのです。いまお話しますが、そのまえにこれを御覧ください。簡単なメモをとっておきましたから」
金田一耕助が作成したメモというのは、つぎのようなものであった。
五月十七日。
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◎[#この部分正しくは2字下げ折り返して3字下げ]金田一耕助ホテル松籟荘へ投宿す。
◎同夜多門連太郎も松籟荘へ投宿。
[#ここで字下げ終わり]
五月十九日。
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◎|九《つ》|十《く》|九《も》龍馬、文彦、|蔦《つた》|代《よ》の三人、松籟荘ヘ到着。
◎遊佐三郎、それと同行す。
[#ここで字下げ終わり]
五月二十日。
[#ここから2字下げ]
◎九十九龍馬と金田一耕助、月琴島へ出発。夕刻頃同島着。
五月二十一日。
◎龍馬と耕助、大道寺家を訪問、翌朝島を出発することを約束する。
◎文彦、駒井泰次郎、三宅嘉文の両名にあて、遊佐の来たれることを打電す。
◎|九《く》|鬼《き》|能《のり》|成《しげ》と名乗る怪老人来り投宿。
[#ここで字下げ終わり]
五月二十二日。
[#ここから2字下げ]
◎遊佐と多門が時計室にていさかいするを、文彦立ちぎきする。
◎大道寺欣造、駒井、三宅の両青年をともない到着。執事伊波良平(蔦代の兄なり)お供。
◎月琴島より一同到着。
[#ここで字下げ終わり]
五月二十三日。
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◎文彦、庭のおくの|洞《どう》|窟《くつ》にて、智子、遊佐、多門の三名にあてた手紙作成。正午頃手紙をそこに残して立ち去る。
◎正午まえ、遊佐と駒井、ピンポン・バットをもって殴りあいをする。駒井鼻血を出す。
◎智子、血にそまったピンポン・バットを見て卒倒。|何《な》|故《ぜ》か。
◎午後三時頃、神尾秀子、庭のおくの洞窟の付近にて、姫野東作と遊佐三郎の密談を立ちぎきする。密談の内容は、十九年まえに起こった、月琴島の事件に関係あるものの如し。
◎三時から四時までのあいだに、姫野東作洞窟の付近にて絞殺さる。凶器は神尾秀子の毛糸なり。
◎|晩《ばん》|餐《さん》の席にて智子、文彦の作成した手紙を発見。誰がそれを洞窟より持ち出したか。
◎九時十五分から三十分までのあいだに遊佐三郎、屋上の時計室において撲殺さる。凶器とはなんの関係もないピンボン・バットが、血にそまって落ちていたのは何故か。
◎九時二十八分、智子、時計室へあがってくる。途中九鬼能成にあう、遊佐の死体発見。
◎多門連太郎時計室に出現。
◎九時三十分、|自鳴鐘《じめいしょう》鳴る。金田一耕助、他の事務員たちとともに屋上へかけつける。途中スーツケースをさげた九鬼老人にあう。時計室にて遊佐の死体と智子を発見。
◎多門連太郎と九鬼能成、ホテル松籟荘より逃亡。
◎十一時頃係り官の顔がそろい、捜査開始。
[#ここで字下げ終わり]
五月二十四日。
[#ここから2字下げ]
◎庭番姫野東作の死体発見さる。
◎松籟荘より逃亡せる九鬼能成、修善寺より伊東へとび、さらに熱海の加納弁護士別荘ヘ逃げこみし旨報告あり。|但《ただ》し加納別荘にては頑強に否定。
◎同日早朝、加納の別荘より熱海駅ヘ自動車を乗りつけし人物あり。駅員の証言により、松籟荘のもとの持ち主、もと宮様の|衣《きぬ》|笠《がさ》氏と判明す。
◎多門連太郎は消息不明。たくみに半島を脱出、逃亡せるものの如し。
[#ここで字下げ終わり]
金田一耕助の作成したメモは、だいたい以上のとおりである。
そのメモを読んでいく、加納弁護士の視線のうごきに注意しながら、金田一耕助は要領よく、そばから註釈をくわえていく。老弁護士はいちいちそれにうなずきながら、静かにメモを読んでいったが、やがて九鬼能成が、じぶんの別荘へ逃げこんだくだりになると、さすがにちょっと血の気が|頬《ほお》にのぼった。
しかし、すぐにそれを|揉《も》み消すと、メモを読みおわった眼をしずかにあげて、
「なるほど、よくわかりました。たいへん要領よく出来たメモで……」
「で……?」
「で……?」
たがいにさぐりあうような視線が、しばらく|虚《こ》|空《くう》でからみあっていたが、やがて加納弁護士はおだやかに微笑すると、
「金田一さん、あなたの御質問なさりたいことはよくわかる、あの晩わたしの別荘へかけこんだのが、九鬼能成という老人であったかどうか、それをお訊ねになりたいのでしょう」
金田一耕助は無言のままうなずく。
「そのことならばいままで何度も、警察のひとたちにお答えしたとおりです。あれは九鬼能成という人物ではありません。わたしは九鬼能成というひとを知りません」
「しかし、加納さん、九鬼能成というのは変名らしいのですよ。宿帳に書きのこした当該番地には、そういう人物は存在しないということがわかっているのです」
「それならなおさらのこと、わたしはそういう怪しげな人物に、ちかづきはありません」
「しかし、あの晩あなたの別荘へ、自動車を乗りつけた人物があったことはたしかですね」
ちょっとためらったのち、加納弁護士はしぶしぶうなずいた。
「そのひとは、もと宮様の衣笠氏だったのではありませんか」
「それはあなたの御想像にまかせましょう」
加納弁護士は否定も肯定もしなかった。
「加納さん、ひょっとすると九鬼能成と変名していたのは、衣笠氏ではありませんか」
「まさか、そんなことはありますまい」
老弁護士は淡々としたおももちで、
「松籟荘というのは、もと衣笠氏の別邸だったのですよ。その当時の使用人で、いまでも残っているものがあるはずです。いかに名前をかえたところで、衣笠氏が乗りこめば、すぐわかってしまうじゃありませんか」
「ところが、九鬼能成という老人は、変装していたらしいんです」
「変装? あなたが見破ったのですか」
「いや、ぼくじゃないのです。面目ない話ですが、ぼくは全然気がつきませんでした」
「じゃ、誰がそんなことをいい出したんです」
「文彦君ですよ。大道寺氏の令息の……」
「ほかにも誰かありますか」
「いや、それに気がついたのは、文彦君ひとりのようです」
加納弁護士はしぶい微笑をうかべて、
「金田一さん、あなたはまさかあんな少年のいうことを、取りあげるんじゃないでしょうね。衣笠氏は|素《しろ》|人《うと》ですよ。役者でもなければ、|冒険家《アドヴエンチュラー》でもありませんよ。かりにあのひとが変装したとしたら、すぐに多くのひとに見破られたろうと思いますよ」
「しかし、文彦君はその老人の髪の毛を抜いてみたが、相手は少しも気がつかなかった。だからあれは|鬘《かずら》だったにちがいないと、いってるんですがね」
加納弁護士はプッと吹き出したが、あわててハンケチで口をおさえると、
「いや、失礼失礼。それにしても愉快な話ですな。なるほど文彦君のやりそうなことだ。あの児はどうもたちが悪い。しんねりむっつりして|悪《いた》|戯《ずら》をやる。ねえ、金田一さん、その老人はきっと|居《い》|睡《ねむ》りをしていたんですよ。それに年寄りの髪の毛というものは、とかく抜けやすいものですからね」
さすがに|老《ろう》|獪《かい》な弁護士だった。ひと筋|縄《なわ》ではいかないのである。金田一耕助は話題をかえて、
「それにしても衣笠氏は、どうしてあんなに夜おそく、お宅へかけこんできたんです。いや、それよりそれまでどこにいたんです」
加納弁護士はギロリと耕助の顔をみると、あいかわらずしぶい微笑をうかべて、
「とうとう衣笠氏にしてしまいましたね。まあいい、それじゃ何もかもいってしまうが、伊東にはもと|伯爵《はくしゃく》の|薬《やく》|王《おう》|寺《じ》さんが住んでいられる。薬王寺さんのおくさんは衣笠氏のいとこになるんで、ちょくちょく出かけて泊まってくる。このあいだも週末を利用して泊まりに出かけたが、何か気にいらんことがあったと見えて、とび出されたんですな。何しろ老人のことで気が短い。|癇《かん》にさわると待てしばしがないんです。薬王寺のおくさんがとめるのを振りきってとび出したものの、さて、ゆくところがないままに、わたしのところへ駆けこんでこられたというわけです。なんなら薬王寺さんに問いあわせてごらんなさい」
これはもういけない。相手はちゃんと打ち合わせが出来ているのである。
「衣笠氏とはよほど|御《ご》|昵《じっ》|懇《こん》ですか」
「はあ、昔からのお得意です」
金田一耕助はさぐるように相手の顔を見ながら、
「加納さん、ひょっとすると今度の事件の依頼人というのは衣笠氏では……」
加納弁護士はギロリと耕助の顔をみると、
「金田一さん、これはあなたの御質問とも思えませんね。依頼人の秘密は絶対に守らなければならぬ。そのことはこのあいだも、よく申し上げておいたはずですがね」
金田一耕助はピシャリと鼻っ柱をなぐられたような感じだったが、しかし、否定も肯定もしない相手のことばのなかに、かれはある|含《がん》|蓄《ちく》をくみとって、無言のままうなずいた。
加納弁護士は両の|眼《め》|尻《じり》に|皺《しわ》をたたえて笑いながら、
「金田一さん、これでだいたいあなたの御質問はおしまいのようですから、今度はわたしのほうからお|訊《たず》ねしましょう。この姫野東作という老人ですがね。いったいこれは何者ですか。十九年前の事件を知っているとすると、月琴島の出身者ですか」
「いや、島のものじゃなさそうです。智子さんのお|祖《ば》|母《あ》さんは、島のものなら知らぬものはないといってるんですが、その男には全然|見《み》|憶《おぼ》えがないそうです。|九《つ》|十《く》|九《も》氏も神尾女史も、|蔦《つた》|代《よ》さんも蔦代さんの兄の伊波良平氏も、誰も絶対に知らぬ顔だというんです」
「すると、いったいどういう人物かな」
「問題はそれですね。修善寺の警察では、いまやっきとなって、その男の過去を洗ってるんですが、いままでにわかったところによるとこうです。その男は戦争中、そこがまだ宮様の御別邸だったじぶんに雇われたんですが、あいにくなことには、その男を雇いいれた宮様の、別当というのですか、家令というのですか、そのひとが亡くなっているので、どういうつてで住みこんだのか、まるきりわからなくなっているんです。それに無口な男で、|朋《ほう》|輩《ばい》ともあまり口をきかなかったので、どういう過去を持った男か、誰も知っているものがいないんです」
「なるほど」
加納弁護士はうなずいて、
「しかし、こいつが十九年前の事件について、何か知っていたとしても、どうしてそれを遊佐に打ちあけようとしたんでしょう。遊佐とはせんから懇意だったんですか」
「そうのようですね。遊佐はまえにも二、三度、松籟荘に|逗留《とうりゅう》したことがあるんですが、内心はともかく、うわべはしごく如才のない男でしてね。それに金の切ればなれがいいものだから、ボーイや女中のあいだにゃ人気があるんです。だから姫野東作なども、まえまえから手なずけてあったんじゃないですか」
「なるほど。しかし姫野東作は十九年前の事件について、どんなことを知っていたろう」
「問題はそれなんですが、それもそいつの前身がわからなきゃ……」
加納弁護士はしばらく無言で、デスクのうえにあるメモに眼を落としていたが、
「ところで、この多門連太郎という男は?」
「さあ、その男です。いまのところそいつがいちばん有力な容疑者なんですが、かいもくゆくえがわからないんで。……しかし、さいわい文彦君が立ちぎきしたことばから、銀座のキャバレー、|赤い梟《レッド・アウル》の御常連らしいということがわかったので、ぼくは昨夜そこへ出向いてみました。そこでわかったところによると、多門連太郎というのは偽名で、ほんとうは日比野謙太郎というらしいんですね。キャバレーでは|女蕩《おんなたら》しの謙ちゃんでとおっている。ぼくもこの男はよく|憶《おぼ》えていますが、まるでギリシアの神のような|美《び》|貌《ぼう》の持ち主なんです。その美貌を資本に、一種のジゴロみたいな生活をしていたんですね。それが去年の秋、仲間と|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》をして、相手をピストルでうったというので、半年ほどくらいこんでいたんですが、五月のはじめごろ出て来たんです」
「すると前科者ですね」
「そうです」
「それがまたどうして松籟荘などへやってきたろう。大道寺氏の名刺を持っていたといいましたね」
「そうです。そうです。大道寺氏は絶対に心当たりがないといって、非常に不思議がっていましたがね。とにかくこれは|謎《なぞ》の人物ですよ。どういう目的で松籟荘へやってきたのか。……ホテルの従業員の話じゃ、誰かを待っているようなようすだったというのですがね」
加納弁護士はそこでまたしばらく黙りこんでいたが、やがてきれいに澄んだ眼をあげると、
「ところで金田一さん、あなたのお考えはどうですか。今度の事件は十九年前の事件とつながっているのでしょうかね」
「と、思いますね。だから今度の事件をとくことによって、はじめて十九年前の謎が解けていくのじゃないかと思うんです」
「わかりました」
加納弁護士は強くうなずくと、おだやかに微笑をふくんで、
「金田一さん、それじゃあなたはまだ御用済みにはなりませんよ.わたしの依頼人もこんどの事件には非常に驚いているんです。そしてもしこれが、十九年前の事件と、なにかつながりがあるのなら、徹底的に調査してほしいといってるんです。失礼ながら、報酬はいくらでも出します」
加納弁護士はポケットから紙入れを取り出すと、そのなかから二つに折った小切手を出して、金田一耕助のほうにおしやりながら、
「これは取りあえず当座の費用ですがね。入費にはかまわず、ひとつ徹底的にやっていただきたいものです」
「承知しました」
金田一耕助は小切手を受け取ると、額面もあらためず、無造作にふところへねじこんで、もじゃもじゃ頭をペコリとさげた。
新日報社
その日、金田一耕助は丸ビルの加納法律事務所を出ると、その足でやってきたのは有楽町の新聞街にある新日報社である。受付で社会部の宇津木慎介君にと通じると、さいわい相手は社にいたと見えて、すぐに三階の応接室へとおされた。宇津木慎介もすぐ出てきた。
「やあ、金田一さん、今日はどんな御用件ですか」
大学時代ラグビーの選手をしていたという宇津木慎介は、いかにも精力家らしい体格をした男で、いつも童顔をにこにこさせている。耕助にとっては同郷の後輩なのだが、かれはちかごろこの男を通じて、大新聞社の調査部という機構を利用しているのである。
その代わり耕助のほうでも、新聞に発表してさしつかえないネタは提供しようということになっており、ちかごろ新日報社が犯罪事件で、しばしばスクープするのはそのおかげで、新聞社でもこの|連《れん》|繋《けい》を歓迎していた。
「今日はある人物について、調査してもらいたいと思ってやってきたんだがね」
「誰ですか、それは……?」
金田一耕助はあたりを見まわすと、卓上にあるメモをいちまいとって、「もと宮様衣笠智仁氏」と、鉛筆で走り書きをすると、すぐにマッチをすってそれを焼きすてた。
宇津木慎介は眼をかがやかせて、
「金田一さん、修善寺の事件ですね」
と、声をひそめて、
「それじゃやっぱりあのひとが、修善寺の事件に関係があるんですか」
「それはまだいえない」
「で、どんなことを調査すればいいんです」
「主として家族関係だね。お子さんがおありかどうか、誰か濃い血族関係のなかに、亡くなられたひとはないか。それから交友関係なども調査してもらいたいんだ」
「承知しました」
「調査しているうちに、ひょっとすると今度の事件に、関係のありそうな事実を発見するかも知れないが、それをいますぐ発表してもらっちゃ困るよ。このひとのことは当分伏せておいてもらいたいんだ」
「そうですか。あなたがそうおっしゃるのなら。……その代わり発表していい時期がきたら、出来るだけ早く|報《し》らせてください」
「それはいうまでもない。それからもうひとつお願いがあるんだが……」
金田一耕助はふところから、白い西洋封筒を取り出すと、
「このなかにライカのネガが七枚ある。これを出来るだけ大きく引き伸ばしてもらいたいんだが。……」
「ええ、よござんす。写真部に頼みましょう」
「どのくらい時日がかかるね。調査のほうと両方でさ」
「そうですね。じゃ明後日来てください。それまでに両方とも仕上げておきますから」
「明後日といえば三十日だね。日曜日だがいいかい」
「新聞社に日曜はありませんよ」
「そう、じゃお願いする」
金田一耕助は立ちかけて、
「念のためにいっておくが、そのライカのネガは大事にしてくれたまえよ。そのなかにこそ、今度の事件の|謎《なぞ》をとく、重要な秘密がかくされているかも知れないのだから」
それから金田一耕助は、|飄々《ひょうひょう》として新日報社を出ていった。
第五章 歌舞伎座への招待
歌舞伎座への招待
五月三十日。
あとから思えばその前後は、芝居でいえばちょうど|幕《まく》|間《あい》のようなものであった。第一幕の修善寺の場はおわって、舞台には幕がしまっていたけれど、見物に見えぬその幕のうらがわでは、着々として第二幕目の舞台装置が進行していたのだ。
こうして悪魔のような舞台監督が、周到な用意で第二幕目の準備をすすめているころ、金田一耕助のほうでもまた、必死となってその舞台監督の|尻尾《し っ ぽ》をつかもうと努力していたのである。
その日、新日報社でたのんでおいた二点の品を受け取ると、金田一耕助はその足で小田急沿線|経堂《きょうどう》にある、大道寺欣造のもとへ出向いていった。
二点の品を金田一耕助にわたすとき、宇津木慎介は童顔に、奇妙な表情をうかべてこういった。
「金田一さん、あなたがどのような事実を握っているのか知りませんが、調査の対象になった人物が、修善寺事件に、なにか関係がありはしないかという公算は非常に大きいですよ。あのひとは修善寺事件の関係者のひとりと、密接なつながりを持っているようです」
金田一耕助は無言のままうなずくと、わたされたふたつの封筒をふところにねじこんで、そのままふらりと新聞社を出たのである。
大道寺|欣《きん》|造《ぞう》のもとへは、あらかじめ電話をかけておいたので、耕助が玄関に立ってベルを押すと、すぐ執事の伊波良平が出てきた。
「ああ、いらっしゃいまし。さっきからおまちかねでございます」
その日は日曜日だったので、欣造も家にいるのである。
金田一耕助が玄関へあがると、
「どうぞこちらへ。今日はみなさま、|智《とも》|子《こ》さまのほうへおいでになっておりますので」
智子の新居は別棟になっており、門も別にあるのだけれど、母屋とはながい渡り廊下でつながれている。伊波良平にみちびかれて、その渡り廊下をあるいていくと、むこうから|賑《にぎ》やかなダンス・レコードの音がきこえ、それにまじって、|弾《はじ》けるようなわかい女の笑い声がきこえてきたので、金田一耕助はびっくりした。
この家でああいうわかわかしい笑い声をたてるのは智子しかいないはずである。しかし、それは月琴島や修善寺で知っている智子とは、あまりにも調子のちがった笑い声であった。男の心をとろかすような、甘い、コケティッシュな笑い声。|蓮《はす》っ|葉《ぱ》で、いくらかみだらな笑い声でさえある。
笑い声はまたきこえた。
こんどはだいぶちかくなっているので、さっきよりよほどはっきりきこえたが、それはたしかに智子の声にちがいなかった。金田一耕助は思わず小首をかしげた。
渡り廊下がつきると、そこは八畳ばかりのホールになっており、そこから廊下を|鍵《かぎ》の手にまがると、南の庭に面して十畳と八畳の座敷がつづいている。ゆるいスロープをした庭には、青い芝生がしきつめてあり、そのあいだに|薔《ば》|薇《ら》とチューリップが色美しく咲きみだれている。
この日本座敷から鍵の手になったところに、洋間がつき出しており、あのダンス・レコードとはなやかな笑い声は、そこからきこえてくるのである。伊波良平は十畳のまえまでくると、縁側に|膝《ひざ》をついて、
「金田一さまがいらっしゃいました」
「さあ、どうぞこちらへお入りください」
座敷のなかを見ると、大きな朱塗りのちゃぶ台をかこんで、大道寺欣造と祖母の|槙《まき》、|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》の三人が|坐《すわ》っており、そばに|蔦《つた》|代《よ》がお|銚子《ちょうし》をもってひかえていた。ちゃぶ台のうえには食いあらされた皿が乱れており、欣造も龍馬もほんのり|頬《ほお》を染めている。
「どうもとんだところへ御案内しましたが、実は今日は蔦代の発案で、九十九氏にこのうちの|御《お》|祓《はら》いをしてもらったんです。それでそのあと、ちょっと心ばかりのお祝いをしているんですが、さ、どうぞ席におつきになって」
「それはそれは」
耕助が席につくと、九十九龍馬が|盃《さかずき》をさして、
「金田一さん、どうです。その後、修善寺のほうから連絡がありますか」
「連絡はあることはありますが、あまり大した発見もないようですね」
「姫野東作という男の素姓はまだわかりませんか。あいつはいったい何者なんです」
「それがわからないんで、警察のほうでも手をやいているようですね」
女中がはこんできた皿小鉢を、蔦代が手ぎわよく、耕助のまえにならべているとき、洋間のほうから、またはなやかな智子の笑い声がきこえてきた。
「あちらのほうにもお客様があるようですね」
「駒井君と三宅君が来ているんですよ。あの連中には九十九氏の御祓いよりも、ダンスのほうが興味があるんでね」
大道寺欣造は苦笑いをしながら盃をふくんでいたが、ふと思い出したように、縁側にひかえている伊波良平のほうをふりかえって、
「ああ、そうそう、伊波君、あれをいまここで、金田一さんにおわたししておいたら……」
「はっ、承知いたしました」
伊波良平はうやうやしく一礼すると、例の執事のあるきかたで、母屋のほうへいったが、すぐ白い、四角い西洋封筒を一通持ってひきかえしてきた。
「金田一様。これを。……」
「なんですか。これは……」
金田一耕助がふしぎそうな顔をするのを、大道寺欣造がおだやかにおさえて、
「いや、実はね、御承知のようないきさつで、智子の誕生日のお祝いがお流れになったでしょう。それで、それをもかねて、智子の|披《ひ》|露《ろう》の宴をはろうと思うのですが、ここにいられるお母さんが、|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》を見たいとおっしゃるものだから、みなさんをそこへ御招待することにしたんです。さっき発送しようとしたところへ、あなたからお電話があったものだから、それだけとっておいたんです。御出席願えるでしょうな」
「それはそれは……有難うございます。いつですか」
「来月の六日、土曜日の夜の部ですが、むこうの食堂で、|一《いっ》|盞《さん》さしあげたいと思っています」
「有難うございます。ぜひ出席させていただきましょう。お客様は大勢いらっしゃるんですか」
「主客あわせて、だいたい三十人くらいになる見当です。わたしの関係している会社の、おもだったひとびとにも、一応智子をひきあわせておこうと思うものですから」
「そうすると、修善寺にあつまったひとびとも、みんな出席することになりますか」
「だいたい、そうなると思いますね。九十九さん、あんたも出席してくれるでしょうな」
「そりゃもう、智子さんのことなら、命にかえても……」
九十九龍馬はおどけていったつもりだったかも知れないけれど、その声があまりに異様にひびいたので、その場にいあわせたひとびとは、思わずはっとかれの顔をふりかえった。九十九龍馬もそれに気がついたのか、片手に盃をもったまま、まじまじと一同の顔を見まわしていたが、急にゆすりあげるように豪傑わらいをすると、
「あっはっは、問うに落ちず語るに落ちるとはこのことだな。とうとう本音を吐いてしもうた。わたしゃね、あの|娘《こ》が可愛くて可愛くてたまらんのです。それというのがわたしゃあの娘のおふくろに|惚《ほ》れとった。そりゃもう死ぬほどこがれておったのです。|充《み》たされざる恋というわけですな。それだけにいっそう、その恋人の忘れがたみが可愛いわけで、わたしゃあの娘が可愛くて可愛くて……ひょっとすると、わたしゃあの娘に惚れとるのかも知れん……」
「龍馬さん、龍馬さん」
うしろから蔦代が|袖《そで》をひっぱったので、龍馬の手にした盃から酒がハラハラとこぼれた。
「蔦ちゃん、なんじゃ、どうしたんじゃ」
「だってそんなこと、……|旦《だん》|那《な》様のまえで……あんまりですわ」
蔦代はハラハラしているのである。龍馬はその顔をみると、また|弾《はじ》けるような豪傑わらいをして、
「あっはっは、ああ、そうか、そうか、ごめんごめん、大道寺さん、勘弁してくださいよ。わしゃ酔うとるもんだから。……神様も酔うとからだらしがないものじゃて」
大道寺欣造はそっぽをむいていやな顔をしている。祖母の槙はおびえたような眼のいろをして、おりおり龍馬の顔をぬすみ|視《み》している。ちょっと白けた沈黙が一座のなかを流れるのを、金田一耕助が救うように口をきった。
「ときに伊波さん、神尾先生は……」
「はあ、神尾先生は智子さまと御一緒で」
「そう、じゃ、恐れいりますが、智子さんと神尾先生を、ここへお呼び願えませんでしょうか。実はちょっと皆さんに、見ていただきたいものがあるんですが……」
大道寺欣造のうなずくのを見て、伊波良平は立ちあがった。そして、すぐに智子と神尾秀子をつれてきたが、そのとき金田一耕助は、ひとめ智子のすがたを見たとたん、なんとも名状することの出来ない|戦《せん》|慄《りつ》が、背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかったのである。
ああ、智子のなんというはげしい変わりよう!
|炎《も》えるような赤いアフタヌーン、|黄《き》|金《ん》のネックレスに黄金のイヤリング、腕にも黄金の腕輪をはめて、長くひいた|眉《まゆ》、|真《まっ》|紅《か》にぬった唇。それはまるで烈日の下に咲きほこる、真紅なダリヤのように強烈な美しさだった。しかも変わったのは服装や化粧の好みばかりではない。耕助の顔をみて、にっこり笑う流し目にも、|妖《よう》|婦《ふ》の|媚《こ》びがあふれている。
金田一耕助はまたはげしい戦慄をおぼえ、思わず|咽《の》|喉《ど》を鳴らして|生《なま》|唾《つば》をのみこんだ。
「いらっしゃいまし。ちっとも存じませんでしたから。……」
神尾秀子が|挨《あい》|拶《さつ》をする。智子は無言のまま、またにっこりと笑った。彼女が|坐《すわ》るとその全身から、何かしら|妖《あや》しい|光《こう》|芒《ぼう》がほとばしって、見るものの眼がくらめくようであった。
「ああ、いや……」
大道寺欣造は咽喉にからまる|痰《たん》を切ると、
「智子さん、神尾先生、金田一さんがね、何かわれわれに見てもらいたいものがあるとおっしゃるんだよ。それでお呼びしたのだが……」
「まあ、なんでございましょうねえ」
智子が首をかしげ|艶《えん》|然《ぜん》とつぶやいたが、ああ、その声……それはまるで、男の心をとろかす甘い|蜜《みつ》のような声だった。
「ああ、いや、神尾先生」
金田一耕助もギゴチなく、咽喉にからまる痰を切ると、
「いつかあなたからお預かりしたライカのネガですね。あれを新日報社にいる友人に頼んで、引き伸ばしてもらったのです。それを今ここへ持ってきたのですが、皆さんにこれを見ていただければ、このなかからなにか|蝙《こう》|蝠《もり》を暗示するようなものが、発見出来はしないかと思いまして……」
「ライカのネガ……?」
大道寺欣造がふしぎそうに眉をよせた。
「ああ、そうそう、大道寺さんはこのことを、まだ御存じじゃなかったのでしたね。実はこういうわけなんですが……」
と、金田一耕助がそのフィルムと蝙蝠のいわれについて説明すると、大道寺欣造も思い出したようにうなずいて、
「そうそう、そういえばそんな話をきいたことがある。それじゃ、その写真のなかに蝙蝠がうつっているわけですか」
「ところが、それが見つからないんで弱っているんです。そこで皆さんにぜひとも、蝙蝠、あるいは蝙蝠を暗示するようなものを、このなかから発見していただきたいのですが……神尾先生、あなたからどうぞ」
金田一耕助が取り出したのは、四つ切りぐらいの大きさに、引き伸ばした七枚の写真だった。……いうまでもなくそれは、月琴島でいつか見た、七枚の写真と同じもので、大道寺家の全景が一枚、月琴を抱いた琴絵、猫を抱いた祖母の槙、編み物をしている神尾秀子、あとの三枚は旅役者の写真で、十二、三人いっしょに写っているのが一枚、かずらをとって、ひとりぼんやり楽屋に坐っている役者を、|斜《なな》めうしろからとったのが一枚、もう一枚は敵討ちの場面らしく、百日かずらの敵役と、まだ前髪の若衆が、刀をかまえてきっと見得を切っているところだった。
神尾秀子は注意ぶかく、一枚一枚見ていったが、やがて見おわると、しずかに首をふって智子にわたした。智子にもなんの発見もなく、やがて蔦代にわたされた。
こうして蔦代から伊波良平、伊波から九十九龍馬、龍馬から祖母の槙と、七枚の写真は順ぐりにわたされていったが、誰もそのなかから、蝙蝠あるいは蝙蝠らしきものを発見することは出来なかった。そして、最後にそれは大道寺欣造にわたされた。
大道寺欣造はふしぎそうに眉をひそめて、一枚一枚見ていったが、べつに何んの発見もできないらしかった。欣造はそこで七枚の写真を、扇のようにひらいて左手に持ち、もう一度順繰りに見ていったが、その視線がある一枚のうえにくると、ふいにおやというふうに眉をひそめた。それから、ちかぢかとそれらの写真を眼のまえに持っていったが、だしぬけにバタンとそれを、ちゃぶ台のうえにおくと、びっくりしたような眼で一同の顔を見まわした。
「大道寺さん、な、なにか見つかりましたか」
金田一耕助は思わずちゃぶ台のうえからからだを乗りだす。欣造はそのほうへちらと眼をやると、
「ああ、いや……」
と、ハンケチを出して眼を|拭《ぬぐ》い、もう一度写真を扇のようにひらいて眼のまえにかざした。欣造の息づかいがしだいに荒くなっていくのを、一同は手に汗握って見まもっている。
欣造はしばらく食いいるように、写真の一枚を見つめていたが、ふと眼をあげると、いつの間にか入ってきていた文彦を見つけて、
「ああ、文彦、おまえ、お父さんの書斎へいって、虫めがねを持ってきておくれ」
文彦が虫めがねを持ってくると、欣造は七枚の写真のなかから、一枚を抜きとって、そのうえに拡大レンズをあてがった。欣造が抜きとったのは、十二、三人いっしょにうつっている旅役者の写真である。
「大道寺さん、そのなかになにか……」
金田一耕助は熱い息をふく。
「金田一さん」
欣造は写真から眼をあげて、金田一耕助のほうをふりかえると、いくらか|昂《こう》|奮《ふん》した声で、
「遺憾ながらわたしの発見したものは、あなたの期待していらっしゃるものではありません。しかし、この発見はきっと修善寺の事件にとって、非常に重要な参考になると思います。ごらんなさい、一同のまんなかに、たったひとり素顔でうつっている男の顔を。……」
金田一耕助は写真と拡大レンズを受け取ると、いわれた男の顔を拡大してみた。その男はゾロリとした和服の着ながしで、ほかのものが全部|衣裳《いしょう》かずらをつけているのに、ただひとり素顔でうつっていた。年ごろは四十前後であろう、薄手ながらもちょっといい顔をしているが、いかにも旅役者らしいすさみと疲れのいろがほの見える。
金田一耕助は|眼《ま》じろぎもせずにその顔を見つめているうちに、突然、ちかごろみたある顔が、オーヴァラップされたように、写真の顔のうえにかぶさってきた。それは修善寺で絞殺された、姫野東作の顔だった。
「あっ、ひ、姫野東作!」
「ああ、やっぱりあなたにもそう見えますか」
大道寺欣造はおだやかにほほえんでいる。金田一耕助のとなりにいた神尾秀子が、びっくりしたように写真をのぞきこんで、
「ああ、このまんなかにいるひとですの。このひとなら一座の|座頭《ざがしら》、|嵐三朝《あらしさんちょう》というひとですわ」
一同は思わずシーンと顔見合わせる。それでは修善寺で殺された、姫野東作という庭番は、旅役者嵐三朝の成れの果てだったのか。……
さて、経堂にある智子の新居で、こういう新しい発見があったころ、東京のべつのある方面では、ひどく暗示的なエピソードが展開されていたのである。
渋谷|道《どう》|玄《げん》|坂《ざか》の付近にある、日東アパートという安直なアパートへ、いま、ひとりの女がちかづいてきた。けばけばしいグリーンのギャバのスーツに、ナイロンのハンドバッグを|小《こ》|脇《わき》にかかえ、ハイ・ヒールをはき、一見してどこかのダンサーと知れるような女である。
女は日東アパートのまえまでくると、すばやくあたりを見まわして、アパートのなかへとびこんだ。そして追われるように二階へかけあがると、いちばん奥にある部屋のドアをノックする。部屋のなかでミシリという音がし、それからドアのすぐむこうで、ひくい、押し殺したような男の声がきこえた。
「誰だ」
「あたしよ、レッド・アウルのカオルよ」
カオルもひくい、押し殺したような声で答える。ドアのうちがわで、ちっと舌を鳴らす音がして、
「おい、そうたびたび来ちゃ困るじゃないか」
「だって、あんたに渡さなきゃならないものがあるんだもの。ここ開けて……」
「誰もつけてきたものはねえだろうな」
「大丈夫よ、そんなヘマしないわ」
|鍵《かぎ》をまわす音がして、ドアがほそめに開いた。カオルがそこからなだれこむように部屋へ入ると、男はすばやく廊下を見まわし、すぐにドアをしめて鍵をかけた。
「なんだ、おれに渡すものというのは……」
「これよ」
女がハンドバッグからとりだしたのは、小さな小包であった。
小包の表には、
銀座西四丁目、キャバレー赤い梟気付、日比野謙太郎殿と、くねくねとした筆跡で書いてある。
男はそれを見ると、ギョッとしたように眼を見張る。いうまでもなくその男こそは修善寺から行く方をくらました多門連太郎なのだ。
「いつ来たのだ、これは……」
「今朝よ。ちょうどさいわい、そのときお店にはあたしひとりしかいなかったの。このごろはたいてい毎日、私服が張っているんだけど、うまいぐあいにそのときはいなかったのよ。だからあたしが受け取ってかくしておいたの」
「そうか、有難う」
連太郎はくるりと女に背をむけると、|紐《ひも》を切って小包をひらいた。少し指先がふるえていた。小包のなかにはもうひとつ、ハトロン紙でくるんで、十文字にしばった包みがあった。手ざわりと大きさで、千円札の束と知られた。厚みからいって五万円はあるだろう。
この包みのうえに、白い、四角い西洋封筒が一通のっかっていた。連太郎は札束を包みのままポケットにねじこみ、封筒をひらいた。封筒には封がしてなく、なかから出てきたのは一枚の紙片だけで、手紙は入っていなかった。
連太郎は眉をひそめて、その紙片に眼をやった。
それは歌舞伎座の一等座席券で、日付は六月六日、土曜日の夜の部であった。連太郎はきっと|瞳《め》をすえ、血が出るほどはげしく唇をかんでいる。
闇夜の|礫《つぶて》
「金田一さん、いかが、お|怪《け》|我《が》のぐあいは?」
「はあ、もう大丈夫です。こうして寝てるぶんには、ほとんど痛みを感じなくなりました」
「そう、それはよござんした。湿布をとりかえておきましょう。もう二時ですから」
「そうですか。恐れいります」
「いいえ」
女は|捻《ねん》|挫《ざ》した耕助の、右の足首の湿布をとりかえながら、
「金田一さん、あなた昨夜、酔っぱらって|崖《がけ》からすべり落ちたというのはほんとなの」
「ほんとですよ。どうしてですか」
「さっき風間から電話がかかってきたのよ。それであなたのことを話したらとても心配してたわ。ほんとに自分のあやまちから滑りおちたのか、それとも誰かに突き落とされたのじゃないかって、とても気にしているんですよ」
「それはそれは……今度風間から電話がかかったらいっておいてください。心配かけてすまなかったが、ほんとにあやまちなんだからって」
「それならよござんすけど」
女は湿布をかえて、|繃《ほう》|帯《たい》をまきながら、
「風間にはふだんからいわれてるんですよ。耕ちゃんはああいう職業をしているんだから、いつどんなやつに|狙《ねら》われないものでもない。よく気をつけてあげなさいって。……だから、昨夜おそく泥まみれになって、かえっていらしたときにはギクッとしましたわ」
「どうもすみません。これにこりて今後どんなにすすめられても過ごさないことにします。ところで、奥さん、新日報社の宇津木君はまだ出ませんか」
「ええ、いまもお電話したんですけれど……社にいらっしゃることはいらっしゃるらしいんですが、どうしても見えないんですって。もう少ししたらまたかけてみます」
繃帯をまきおわると、女は耕助の|枕《まくら》もとにすわって、ふた言三言話をしていたが、
「じゃ、御用があったらいってください。あなた、当分、動かないほうがよくってよ」
「はあ、有難うございます」
女が出ていくと、耕助はいまさらのように、この女と自分との妙な縁をかんがえてみる。
女の名は節子といって、耕助の旧友風間俊六という男の二号であった。
昭和二十一年の秋、南方から復員してきた金田一耕助は、落ち着くさきがなくて弱っているところへ、偶然|出《で》|遭《あ》ったのが風間俊六だった。風間は当時ハマの土建業者として、かなりよい顔になっていたが、耕助の話をきくと、二号に経営させている松月という|割《かっ》|烹《ぽう》旅館の離れへつれてきた。松月というのは|大《おお》|森《もり》の山の手の、ちょっと閑静なところにあるのだが、耕助はそこが気にいって、それきり根を生やしてしまったのである。(「黒猫亭事件」参照)
二号の節子はむろん|玄《くろ》|人《うと》あがりであった。そして、そういう女にありがちな、たいへん世話好きな女であった。
そこへもってきて金田一耕助という男が、事件へ突入すればともかく、ふだんは猫のように無精で、横のものを縦にするのも|億《おっ》|劫《くう》がる性分だし、|風《ふう》|采《さい》はかまわないし、とりわけ銭勘定にいたっては|杜《ず》|撰《さん》をきわめるので、節子のような女にとっては、ひどく面倒の見がいのある相手らしかった。彼女は自分のほうが年少なのにもかかわらず、まるで姉のように耕助の面倒を見た。だから耕助もたいていのことなら、この女に打ちあけて相談するのだが、こと仕事に関するだけに、昨夜のことは話すわけにはいかなかった。
金田一耕助は眼をつむって、昨夜の出来事をかんがえてみる。すると脳天から|錐《きり》でも|揉《も》みこまれるような恐怖が身にせまるのである。
昨日、引き伸ばした七枚の写真をもって、大道寺欣造のもとへ出向いていった耕助は、そこで思いがけなく時間をつぶした。いまから思えば写真のなかから、姫野東作の前身を発見したとき、すぐかえってくればよかったのだ。ところが引きとめられるままに、ついそこに腰をすえてしまったばかりか、好きでもない酒を、思いのほか過ごしてしまったのである。
あのとき……と、金田一耕助は考える。……誰がいちばん自分をひきとめたか。そして、いちばん酒を|強《し》いたのは誰だったか。……
耕助にもしかし、誰がいちばん引きとめたかとはいいかねた。欣造もとめたし蔦代もとめた。祖母の槙や神尾秀子、さては執事の伊波良平までいっしょになってひきとめた。それは月琴島以来の労をねぎらうためにも、ごく自然ななりゆきだった。しかし、その自然ななりゆきの底に、ある恐ろしい意志が流れていたこともたしかなのである。
金田一耕助はそれを思うと、襟もとが寒くなるような恐怖をおぼえずにはいられない。
さて、腰をすえるとむやみに酒をのまされた。あのとき、誰がいちばん酒を強いたか。それはハッキリわかっている。|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》だ。
龍馬は自分自身、べろんべろんに酔うていながら、酔っぱらい特有のしつこさで、むやみやたらと耕助に酒を強いた。だから九時過ぎにやっと腰をあげて、大道寺家を辞したとき、耕助の足もとはかなり危かったのである。
いかにサマー・タイムとはいえ、九時過ぎといえばもう日が暮れている。おまけに昨夜は曇っていて、いまにも降り出しそうな空模様だったから、外はまっくらといってよかった。耕助は用意してきた合いトンビを羽織って、ふらふらしながら暗い夜道をあるいた。
大道寺家はひどく広い。しかも正門が駅と正反対の側についているので、そこを出て駅へいくには、屋敷の三方をぐるりとまわらなければならぬ。耕助はやっとその屋敷の角をはなれて土手のうえへさしかかった。土手の高さは九尺ほどあって下は畠である。
その土手のうえにさしかかったとき、金田一耕助は背後にあたって、ふと人の気配をかんじた。もしかれが酔うていなければ、もっと早く気がついていたのだろうけれど、足音をきいてハッとしたときには、すでに誰かがすぐうしろに迫っていた。
耕助は本能的に身をすくめる。と、そのとたん、何やら耳もとをかすめてとんだものが、ドシンと重い音を立てて畠のなかへ落ちた。
「何をする!」
耕助は立ちなおって振りむこうとした。だがそのまえにうしろからどんと突かれて、かれはたわいもなく下の畠へふっとんだ。そのあいだに土手のうえの足音は、もと来た道をとって返して、すぐ聞こえなくなってしまった。
金田一耕助は畠のなかに|尻《しり》|餅《もち》をついたまま、|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。雲の切れ目からのぞいている星がひとつ、ひどく明るいように思われた。
金田一耕助がやっと気をとりなおして、起きなおろうとしているところへ、土手上の道を反対がわから、いそぎ足にひとが近づいてきた。そのひとは土手のうえから懐中電気の光をさしむけると、
「どうかしましたか」
耕助はどきっとしたが、よく見るとパトロールらしかったので、ほっと胸をなでおろした。
「ああ、いや、足をすべらしちゃって。……少し酔うているものですから」
「誰かいまここにいたんじゃありませんか」
「いいえ、ぼくひとりです」
「そうかな、もうひとりいるように見えたが……」
パトロールは怪しむように、
「あなた、どちらから?」
「ついそこの大道寺さんという家で、いままで|御《ご》|馳《ち》|走《そう》になっていたんです」
「ああ、大道寺さん」
パトロールも大道寺家を知っていると見えて、やっと疑いがとけたらしかった。
「あの……ちょっと恐れいりますが、懐中電気を見せてくれませんか。下駄が片っぽ見えなくなって。……」
パトロールはすぐに土手をおりてきて、懐中電気でさがしてくれた。下駄はすぐ見つかったが、耕助がほんとうにさがしたかったのは下駄ではなかったのだ。かれはすぐにそれを見つけた。それは畠の上に半分めりこんだ、ソフト・ボールくらいの大きさの石だった。耕助はそれを見ると、いまさらのように全身からつめたい汗がふき出すのをおぼえた。
「どうかしましたか」
「いえ、あの、右脚を|捻《ねん》|挫《ざ》したと見えて。……」
耕助は|跛《びっこ》をひきながら下駄をつっかけた。
「これからどちらまで?」
「大森までかえります」
「お名前は?」
「金田一耕助といいます。怪しいものじゃありません。大道寺さんのところで聞いてくださればわかります。あっと。……」
「大丈夫ですか。手をひいてあげましょうか」
「すみません、じゃ、土手のうえまで。……」
パトロールに助けられて、土手のうえへ|這《は》いあがると、ハンケチを出して泥をはらい、
「有難うございました。お世話になって。……」
「では、気をつけていらっしゃい」
パトロールは首をかしげながら、耕助のすがたが見えなくなるまで見送って、それから大道寺家のほうへあるいていった。
耕助はもうすっかり酔いがさめていた。
誰かが自分を殺そうとしたことはたしかである。それはふつうの|追《おい》|剥《はぎ》のたぐいだろうか。いやいや、耕助にはそうは思えぬ。しかし、大道寺家のひとびとの誰かとすると、いささか時と場所を間違ってはいないか。自分を殺そうと思うなら、これからさき、いくらでも機会があるはずだ。それとも今夜、あそこで自分を殺さねばならぬような、何かさしせまった事情でもあったのだろうか。……
そこまで考えて、金田一耕助はハッとあることに気がついた。かれはあわててふところをさぐった。両の|袂《たもと》をさがした。合いトンビのポケットをかきまわしてみた。しかし、あの七枚の写真をいれた封筒はどこにもなかった。
金田一耕助は寝床のうえに腹ばいになって、煙草をいっぽん吸いつけると、いま、あらためてそのことを考えてみる。
七枚の写真は酒のあいだ、ずっとちゃぶ台のうえに放りぱなしになっていた。かえるとき、かれは数をあらためて、封筒にいれ、ふところへねじこんだ。しかし、玄関まできたとき、ふところがかさばるので……というのはもう一封、衣笠氏の|身《み》|許《もと》を調べてもらった書類がうちぶところにあったので……それを出して、合いトンビのポケットへ入れなおした。
自分を襲撃した人物は、それを|覘《ねら》っていたのだろうか。しかし、金田一耕助にはどうしても、あのときとられたとは思えなかった。
耕助が背後にひとの気配をかんじたとき、相手はまだ五、六歩うしろにいたはずである。やがて石ころがとび、耕助は身をすくめた。そしてつぎの瞬間、うしろから突かれたのだが、相手の手が耕助のからだに触れたのは、その一瞬だけだった。とても、そんな早業が出来ようとは思えない。
襲撃者はあの写真をねらっていたのかも知れないけれど、それならば失敗したはずである。たぶんそれはパトロールがやって来たおかげだろう。
しかし、そうなるとあの写真は、いったいどこでなくなったのか。途中どこかで落としたのか。それとももっと以前、たとえば大道寺家の玄関を出るころすでに自分のポケットから消えていたのではあるまいか。
金田一耕助はそこまでかんがえてきて、ふいにドキリと瞳をすぼめた。
大道寺家の玄関で、あの封筒を合いトンビのポケットに突っ込んだことは、まえにもいったが、そのあとで誰かが合いトンビをとって、うしろから着せてくれた。それは誰だったか。
大道寺欣造がそんなことをするはずがない。九十九龍馬は酔いつぶれていて送っても出なかった。祖母の槙はそれよりも早く退いていたし、智子はボーイ・フレンドのほうへいっていた。伊波良平はさきに立って玄関の戸をあけて待っていたし蔦代はたしかに玄関の式台に手をついていたようである。
そうすると、あれは神尾秀子だったのか……。
耕助が猛烈に煙草の煙を吐きだしているときである。母屋のほうから女中がきて、
「あの、お客様なんですけれど。……」
「どなた?」
「御婦人のかたでございます。神尾さんとかおっしゃって。……」
「神尾さん!」
金田一耕助はギクッとして、あわてて寝床のうえに起きなおった。一瞬、ドスぐろいものが腹の底から吹きあげる感じだった。
智子の父
「どうぞ、そのまま、そのまま……お|怪《け》|我《が》をなすったと承ったものですから。……」
神尾秀子のことばを聞いて、金田一耕助はびっくりしたように、相手の顔を見直した。
「神尾先生、ぼくが怪我をしたということを、どうして御存じなんですか」
「おまわりさんから伺いましたの」
神尾秀子は女中の出ていくのを待って、|座《ざ》|蒲《ぶ》|団《とん》のはしに|坐《すわ》りなおすと、
「昨夜はいろいろ……おそくまでお引きとめして申し訳ございませんでした」
「いやあ、こちらこそ、たいそう|御《ご》|馳《ち》|走《そう》になって……すると、あのパトロールがあれからお宅へ立ちよったんですね」
「ええ、いまこちらから金田一さんというかたが、おかえりになったかって。それであなたがお怪我をなすったことを知って、|旦《だん》|那《な》様もひどく御心配なすって。……これ、詰まらないものですけれど、旦那様からお見舞いにってことづかりましたの」
大きな|果《くだ》|物《もの》|籠《かご》をさしだされて、
「いやあ、そんなことをしていただいちゃ恐縮です。自分の|縮《しく》|尻《じり》だったんですから」
秀子はさぐるように耕助の顔を見ながら、
「御自分の縮尻ですって? でも、おまわりさん、変なことをいってましたわ」
「変なことって?」
わざと空とぼける耕助の顔色に、秀子はいよいよ注意ぶかい視線をそそぎながら、
「暗かったからよくわからないが、たしかに誰かがあのひとを、突き落として逃げたように思われる。あのひと自身は否定しているが、こちらでなにかあったのじゃないかって。……」
「あっはっは、それはおまわりさんの幻想ですよ。昨夜もそんなことをいってましたがね。なに、たしかにあれはぼくの過失なんです。なにしろ、暗かったし、酔っていたし。……」
「でも。……」
秀子はなおも|執《しつ》|拗《よう》にくいさがって、
「あたし今日現場を見てきたんですが、あそこはそれほど危い場所でもありませんわ。滑った跡がのこっていたので、すぐわかったんですけれど。……」
耕助は|呆《あき》れたような顔をして、
「神尾先生、どうしたんです。あなたはまるで、ぼくが誰かに突き落とされたことを、望んでいらっしゃるようじゃありませんか」
「あら、そんなわけじゃありませんけれど、実は昨夜、うちにも妙なことがございましたので。……」
「妙なことって?」
「昨夜、真夜中時分のことなんですけれど、智子さまのおやすみになっている、座敷の外へしのびよってきたものがあるんです」
金田一耕助はギョッとしたように、大きく眼を見張って秀子の顔を|視《み》つめている。秀子も|怯《おび》えたような眼の色をして、
「いちばんはじめに、お|祖《ば》|母《あ》さまがそれに気がおつきになって、あたしを起こしにこられたんです。あたしびっくりして耳をすましてみると、なるほど誰かがお庭を歩いているんです。あたし|怖《こわ》かったんですけれど、勇気をふるって雨戸の内側から、誰、そこにいるのは……って声をかけたんです。するとバタバタと向こうへ走っていく足音がきこえて。……」
金田一耕助はいよいよ驚いて、
「それであなたは雨戸をひらいてごらんになったんですか」
「とてもそんな勇気はありませんわ。だって、とびこんで来られると困りますもの。それでお祖母さまや智子さまとも御相談のうえ、母屋へいって伊波さんを起こしたんです。伊波さんもびっくりして、書生を起こしてお庭を調べてくださいました。そこへ旦那さまや|蔦《つた》|代《よ》さま、それから|九《つ》|十《く》|九《も》さんも起きてこられて……」
「ああ、九十九氏は昨夜泊まったんですね」
「ええ、すっかり酔いつぶれていらしたもんですから。それでみんなして家のまわりを調べたところが、お庭のおくに一か所だけ、土を盛って|沈丁花《じんちょうげ》を植えて、生け垣にしたところがあるんですが、たしかにそこから誰か出入りをしたらしい跡があり、靴の跡ものこっているんですって」
「靴の跡……?」
耕助はふっと|眉《まゆ》をひそめた。昨夜、自分を襲撃した人物は、たしかに下駄ばきのようだったが。……秀子は耕助の顔色を、読もうとするかのように見まもりながら、
「ええ、それにそればかりではございません。今朝になって見ると、智子さまのお座敷の外の|沓《くつ》|脱《ぬ》ぎに、変なものがおいてありまして。……」
「変なものって?」
「ネクタイ・ピンなんです。オパールのはまった……ところが智子さまはそのネクタイ・ピンに|見《み》|憶《おぼ》えがあるとおっしゃるんです」
「見憶えがある? いったい誰の……?」
「ほら、修善寺から姿をかくした多門連太郎というひとがありましたわね。あのひとのものなんですって」
「多門連太郎!」
耕助はまた大きく眼を見張った。
「ええ、智子さまは|松籟荘《しょうらいそう》で、間違ってあのひととダンスをしたことがあったでしょう。それでよく憶えているとおっしゃるんです。とても大きなオパールですから」
「それじゃ昨夜あの男が、智子さんの寝室のそとへ忍びよったというんですね」
「ええ、だから気味が悪くてたまらないんですの。それにそのネクタイ・ピンですが、落としていったものとは思えないんです。鳥の子のような紙にさして、ちゃんと沓脱ぎのうえにおいてあったんです。まるで自分が来たことを知らせるためのように」
金田一耕助の胸はいよいよ怪しく乱れてくる。かれにはまだ多門連太郎なる人物が、少しもわかっていないのである。しかし、こうして経堂にいる智子の身辺にあらわれたところを見ると、修善寺における出現も、偶然ではなかったと思われる。かれもまた、何か智子に求めるところがあるにちがいない。
「いったいあの男はどうして、智子さんにつきまとうんです。何か心当たりがありますか」
「全然。だから気味が悪いんですの」
「智子さんも驚かれたでしょうね」
「ええ、はじめはちょっと、でも、すぐ面白そうにお笑いになって、こんな|気《き》|障《ざ》なまねをしなくても、来るなら堂々と表から来ればいいのに。ダンスのお相手ぐらいならしてあげる。……智子さま、すっかりお変わりになって。……」
秀子はほっと|溜《た》め息をついた。
金田一耕助も無言のままうなずいた。智子のあの驚くべき|変《へん》|貌《ぼう》が、本質的なものか|擬《ぎ》|態《たい》かはまだわからないけれど、彼女はきっと、何か心に期するところがあるのだろう。
秀子はまた探るように耕助の顔を見ながら、
「それですから、昨夜あなたを突き落としたのも、その男ではないかと思って。……」
「いや、それは違います。ぼくは誰にも突き落とされたわけじゃありませんからね。そうそう、あなたは今日、ぼくが滑ったところをごらんになったとおっしゃいましたね」
「はあ」
「もしや、そこに封筒が落ちてやしませんでしたか。ほら、昨夜お眼にかけた写真の入った封筒……あれをぼく、なくしましてね」
「まあ!」
神尾秀子はびっくりしたように眼を見はった。耕助はそのとき、ずいぶん注意して、秀子の顔色を読もうとつとめたのだが、それがほんとうの驚きだったか、それとも見せかけだったか、どうにも判断がつかなかった。彼女はそう簡単に、心のなかを見すかされるような女ではなかったのである。
「でも、あれがなくなっちゃお困りでしょう」
「いや、ネガがありますから構わないんですが、せっかく引き伸ばしてもらったもんだから。……」
「いいえ、気がつきませんでしたわ。ああ、そうそう、忘れてました」
秀子はハンドバッグをひらいて、
「これ、蔦代さまからことづかってきたんですの」
「なんですか」
「|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》の切符。お玄関の外に落ちてたんですって。昨夜、お落としになったのね」
「やあ、それはそれは、すっかり忘れてた。これだから酔うとだらしがない」
「土曜日にはおいでになれるでしょうか。そのお|怪《け》|我《が》で」
「大丈夫ですよ。医者も二、三日大事にすれば、歩けるようになるといってますから」
「そう、それでは是非ね」
神尾秀子はなんとなく、まだ話していたいような素振りだったが、そこへ女中がきて、
「あの、新日報社の宇津木さんがいらして、さきほどからお待ちなんですけれど」
と、いう言葉に、あわてて帰り仕度をして、
「あら、あたし、すっかり長居をしてしまって。……それではこれで失礼します、くれぐれもお大事に。どうぞ、そのまま」
神尾秀子がしとやかに出ていくと間もなく、廊下にあわただしい足音がして、新日報社の宇津木慎介がやってきたが、見ると宇津木は童顔をひどく|固《こわ》|張《ば》らせて、
「金田一さん、すみません。たいへんなことをやらかしました」
と、大きなからだを投げ出すように、べったりそこへ|坐《すわ》ったから、耕助は思わずドキッとして眼を見張った。
「宇津木君、ど、どうしたんだ」
「やられました。まんまとペテンにかかったんです。いま向こうで奥さんにきいて、あなたが右手を怪我をして、字が書けんなんてことは、|嘘《うそ》だということをはじめて知ったんです」
「ぼくが、右手を……? 宇津木君、そ、それはどういう意味なんだ」
宇津木はハンケチを出して、子供のようにまるい顔をふきながら、
「さっき社へ小僧が使いに来たんです。あなたの手紙というのを持って。その手紙によると、昨夜、事故があって右手に怪我をしたから、左手でこの手紙を書く。あずけてあるライカのネガ、あれが至急必要になったから、この少年に渡してくれ。ついでに焼付けてあるぶんがあったら、それもいっしょに頼むと。……」
耕助はびっくりして眼をまるくした。
「それで……それで、君は渡したのか」
「すみません」
宇津木は|悄然《しょうぜん》として、
「今日あなたからなんべんも、電話がかかってきたってことを、給仕に聞いたばかりのところだったので、きっとこの用だろうと思って。……」
「ネガをわたしてしまったんだね」
「ええ、もうひと組引き伸ばしてあったんですが、それもいっしょに。……」
しまった! と、金田一耕助は心のなかで叫んだ。地団駄を踏むような失望の思いと同時に、すさまじい怒りが噴きあげてくる。かれはようやく、自分がいま相手にしている人物が、容易ならぬ大敵であることに気がつきはじめたのだ。
宇津木慎介は言葉もなく、悄然として大きなからだをすくめている。それを見ると耕助も気の毒になって、
「いや、宇津木君、出来たことは仕方がない。考えてみればぼくが悪いんだ。昨日君にわたされた封筒には、新日報社の名前が入っていたんだから、あれをなくしたときに、すぐに手を打つべきだったんだ。足を怪我したもんだから、電話で片付けようとしたんだが、それが|拙《まず》かったんだね。自分で出向けなかったとしても、誰か君のところへやるべきだった」
「金田一さん、それじゃ昨日お渡ししたぶんも。……」
「そうなんだよ」
金田一耕助は簡単に、昨夜の出来事を語ってきかせると、
「しかし、これでハッキリしたよ。ぼくはやっぱり落としたんじゃなくて盗まれたんだ。そしてこのことは、あの七枚の写真のなかに、なにか犯人にとって、致命的な証拠がうつっているということを物語っており、しかも、犯人は昨日やっとそれに気がついたんだ」
そのとき金田一耕助の|頭脳《あ た ま》には、昨日、経堂の智子の家のお座敷に、いならんでいた|幾《いく》|人《にん》かの男女の顔が、走馬燈のようにかすめて通った。
「しかし、そうすると、その大事な写真が、もうひと組もないことになるんですね」
「いや、もうひと組あることはあるんだが、それももう当てには出来ないよ」
月琴島で見せてもらったアルバムには、ライカの原型のまま焼きつけられた写真が七枚、|貼《は》ってあるはずである。しかし、昨夜金田一耕助のポケットから、写真を抜きとったのが神尾秀子であったとしたら、アルバムの写真も、もうそのままであるべきはずはない。
宇津木があまり|悄《しょ》|気《げ》きっているので、金田一耕助は慰めるように、
「宇津木君、いいんだよ。そんなに気にしなくてもいいんだ。昨夜の襲撃といい、今日のペテンといい、犯人は非常にデスペレートになっているんだ。そこに乗ずるすきがある。そうそう、忘れてた。衣笠氏の書類、有難う」
「それ、お役に立ちましたか」
「立ったとも。これで事情がハッキリした。思えば衣笠氏というひとも気の毒なひとだね」
宇津木慎介の調査によるとこうなのである。
|衣《きぬ》|笠《がさ》|智《とも》|仁《ひと》氏――もとの衣笠宮智仁王殿下には王子がふたりあった。しかし、第二王子の|智詮《ともあきら》さんというひとは、ずっとまえに若くして亡くなられ、第一王子もこんどの戦争で戦死された。第二王子はまだ独身だったし、第一王子は結婚していられたが子供がなかった。
しかも智仁王殿下は戦争中、妃殿下に先立たれたので、いまでは妻も子も孫もなく、天にも地にも、たったひとりぼっちなのである。
「ぼくはこのことが今度の事件に、非常に大きな意味をもっていると思うんだ。それから衣笠さんと大道寺さんの関係も面白いね」
大道寺欣造――旧姓速水欣造は衣笠宮の第二王子、智詮さんの御学友だった。ところが智詮さんが亡くなられてから、どういうわけか衣笠宮様は、速水青年改め大道寺氏に、非常に|力瘤《ちからこぶ》をいれて後援されるようになった。
大道寺欣造が若年にして財界に名を知られるにいたったのは、もちろん本人の器量もあったろうが、ひとつには、衣笠宮の後援もあずかって大いに力があったといわれている。
ところが、戦後はそれが逆になった。戦後もと宮様たちの多くが、財政的に困窮していられるなかに、衣笠家だけがさのみ変わりのないのは、大道寺欣造の財産処理の方法がよかったからである。欣造は昔の恩義に報いるためであろう、粉骨砕身、衣笠家の財産管理にあたり、それをうまく投資したので、衣笠家はいまでも非常に裕福なのである。その点、大道寺欣造は立派であった。
金田一耕助は無言のまま、もう一度衣笠宮の第二王子に関する事項をひらいてみる。
|智詮《ともあきら》――昭和七年十月二十五日、急性肺炎にて|急逝《きゅうせい》。享年二十四歳。
ところで、智子の父の|日《くさ》|下《か》|部《べ》|達《たつ》|哉《や》と名乗る正体不明の青年が、月琴島で不慮の最期をとげたのは、昭和七年十月二十一日のことである。
ああ、もう間違いはない。衣笠宮の第二王子こそは智子の父であり、智子はじつに衣笠宮のたったひとりの孫なのだ。彼女はうまれながらにして女王であった。
歌舞伎座にて
六月六日。土曜日。夜の部。
一番目がおわると、|幕《まく》|間《あい》二十分。時分どきなので|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》の二階の食堂は、はなやかな色彩にあふれていた。
戦後しばらくは舞台も舞台だが、観客席などもお寒いもので、昔のようにはなやかな色彩など、なかなか見られなかったものだ。何しろ窮屈な|椅《い》|子《す》で、代用食の弁当を使いながら見ようというのだから、役者のよしあしはべつとしても、「勧進帳」だって割引される。
しかし、歌舞伎座の新装成ったころから、諸事おいおい昔にかえって、幕間の廊下でも、うつくしいお嬢さんたちの晴れの|衣裳《いしょう》に、眼の保養ができるようになった。
しかし、その夜歌舞伎座の観客席に、ほかにどのようなうつくしいひとがいたとしても、おそらく智子に立ちならぶものはなかったであろう。純白のりんずの、肩だけに大きな花束を染めと|刺繍《ししゅう》でおいた大胆な訪問着、帯はさび朱の唐織で、模様は|牡《ぼ》|丹《たん》、髪は日本髪を思わせるようなアップスタイルで、ヒラヒラのある銀のかんざしをあしらった智子のすがたは、客席にいても廊下をあるいていても、いまこうしてにこやかに食堂に|坐《すわ》っていても、ひとに眼をみはらさずにはおかなかった。
そのとき食堂にいたひとびとは、世にもうつくしいこのひとを中心とした、三十人ばかりの一団を、いったい何事だろうといぶからずにはいられなかった。
智子はいくらか上気していた。しかしあがってはいなかった。ほんのりと|頬《ほお》を染めながらも、しじゅう微笑をたたえている智子には、身に備わる威厳のなかにも、こぼれるような|愛嬌《あいきょう》があった。
客人のなかのおもだったひとびとが、かわるがわる立って祝辞をのべる。その祝辞のことごとくが、智子のたぐいまれなうつくしさをたたえるものだった。智子はそのたびににっこり笑って|会釈《えしゃく》をする。ちょうど外国の使臣を接見する女王様のように。
客のなかには駒井泰次郎と三宅嘉文もいた。駒井は背がたかくがっしりとし、三宅はデブで童顔である。しかしそういう体質の相違にもかかわらず、ふたりともいちように汗ばみ、ハンケチでしきりにそわそわと額をこすっている。それは、ひょっとすると自分の妻になるかも知れない女性の、あまりの美しさに圧倒されているからである。
智子はときどきかれらのほうへ、|媚《こ》びをたたえた微笑をおくる。そのつど駒井はつとめて|鷹《おう》|揚《よう》に微笑をかえしたが、三宅はいつも|真《ま》っ|赧《か》になってヘドモドした。しかし、ふたりとも心のなかで、その微笑が自分にだけむけられるのだったら、どんなによかったろうと、いまさらのように競争者の存在を、いまいましく思っていることは同じだった。
客のなかには|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》もいる。龍馬は今日も酔うていて、ギラギラと|脂《あぶら》のういたような眼で、ときおり智子の顔を穴のあくほど、|視《み》つめていることがある。そして、智子の視線が駒井や三宅のほうにむけられるたびに、露骨に不愉快そうないろを見せ、酒を|呷《あお》った。
大道寺欣造は幸福そのもののようであった。|近《この》|衛《え》公に似た端麗な|容《よう》|貌《ぼう》をしじゅうにこにことさせ、客人が智子のうつくしさをたたえるたびに、いかにも|嬉《うれ》しそうに頭をさげた。
文彦は智子のとなりに坐っていて、たえず智子とふたりの青年のほうへ視線をくばっている。智子を見るときの文彦の|瞳《め》には、少年らしい|憬《あこが》れのいろがかがやき、駒井や三宅を見るときには、|軽《けい》|蔑《べつ》のために顔がゆがんだ。
祖母の|槙《まき》はいくらか疲れたような顔をしており、神尾秀子はただものしずかに坐っている。しかし、その顔色がなんとなく|冴《さ》えなくて、沈んでいるのはどういうわけだろう。
|蔦《つた》|代《よ》は末席のほうでつつましやかにうつむいており、伊波良平はあいかわらず、テーブルのあいだをちょこまかと、酒をついで歩いたりする。
金田一耕助はさっきから、こういうひとびとの顔を注意ぶかく観察していた。
これらのひとびとのなかにこそ、このあいだ自分を殺そうとした人物、そしてまた、新日報社からたくみにライカのネガをうばいとっていったやつがいるのだ。しかし、それはいったい誰だろう。
そのとき、開幕のベルがけたたましく鳴りひびいたので、大道寺欣造がゆっくり立ちあがって、
「いや、どうもいろいろ有難うございました。智子になりかわって、父のわたくしからあつくお礼を申し上げます。今後とも何分よろしく。では、ゆっくりと芝居を見物していってください」
食堂を出ると金田一耕助は、ちょっとあたりを見まわしたのち、画廊のほうへぶらぶらと歩いていった。
画廊には開幕のベルが鳴ったにもかかわらず、悠然とたばこをくゆらしながら、絵を見ているひとりの青年があった。
金田一耕助はそのほうへちかよっていくと、
「ちょっと火を拝借」
「さあ、どうぞ」
たばこに火をつけている耕助のそばをとおり抜けて、大道寺欣造の一行が、にぎやかに階段をおりていった。そのうしろ姿を見送って、
「宇津木君、何かあったの。さっきから二度も三度も食堂のまえを通っていたじゃないか」
青年は宇津木慎介だった。
「ええ、金田一さん」
宇津木は声をひそめて、
「来てるんですよ」
「来てるって誰が?」
「衣笠さん」
金田一耕助はドキッとしたように相手の顔を見直した。
「ほんと、どこに?」
「そのドアのなかです。二階の最前列の席です」
金田一耕助はそれを聞くと、すぐ灰皿のなかでたばこを|揉《も》み消して、宇津木が|顎《あご》で示したドアのなかへ入っていった。
なるほど最前列の席に老人がひとり、|手《て》|摺《すり》から乗り出すようにして、オペラ・グラスで階下の平土間をながめている。金田一耕助は座席のナンバーをしらべるような顔をして、そのほうへちかよっていった。
そのひとはかなりの老齢と見えたが、髪は白くなかった。いくらか|胡《ご》|麻《ま》|塩《しお》の髪を、身だしなみよく左でわけて、顔もきれいに|剃《そ》っている。眼鏡もかけてはいなかった。
だから、このひとの面影から、修善寺でちらと見たばかりの、|九《く》|鬼《き》|能《のり》|成《しげ》の|風《ふう》|貌《ぼう》をさぐり出そうとするのは困難だった。
しかし、金田一耕助には、もうそんなことはどうでもよかった。かれにはこのひとこそ、九鬼能成であったにちがいないという確信があるのだ。衣笠氏はよそながら、わが子のおとし種を見にいったのだ。変装していったのは、修善寺の町、ことに松籟荘では、顔をよく|識《し》られているからであろう。
ただ、金田一耕助の|腑《ふ》に落ちなかったのは、衣笠氏のような身分のひとが、どうしてあんなにうまく、変装する技術を持っていたかということである。
衣笠氏はオペラ・グラスを眼にあてたまま、食いいるように階下の平土間をながめている。ちょうどそのとき、大道寺欣造の一行が、階下の西の廊下からゾロゾロと入ってきた。それを見ると衣笠氏は、手摺からいっそうからだを乗り出して、ひとびとのなかを双眼鏡でさがしもとめた。
小柄ながらも色の浅黒い、いかにも高貴な面立ちをした老人だったが、その顔色には孤独の|淋《さび》しさがいたいたしいほどしみついている。
オペラ・グラスを眼にあてて、階下をのぞいている衣笠氏のようすには、しだいに|焦《あせ》りのいろが見えてくる。衣笠氏のあせっている理由は、金田一耕助にもよくわかっていた。大道寺氏の一行は、ほとんど全部席についたのに、智子のすがたが見えないからである。
金田一耕助はふっとあやしい胸騒ぎをかんじた。そこで衣笠氏はそのままにしておいて、いそいでドアから外へ出ると、そこに立っている宇津木慎介に、
「君、あのひとによく気をつけていてくれたまえ」
「金田一さん、何かあったんですか」
「いや、べつに。……」
そういいすてて耕助は、いそぎあしに階段をおりていった。
ちょうどその頃、智子はただひとり、化粧室で顔を直していたのである。
うるさくつきまとう駒井と三宅を追っぱらって、化粧室へ入ってくると、鏡のまえは満員だった。しばらく待って、やっと鏡のひとつがあいたので、まえに立って、化粧をなおしていると、同じ鏡へわかい女がきて、ルージュをなおしはじめた。
智子はべつに気にもとめず、小鼻のあぶらをとっていると、ふいにうしろに立っている女がこごえでささやいた。
「あなた、大道寺智子さんでしょう」
智子はびっくりして、自分にならんで鏡にうつっている女の顔を見直した。|眉《まゆ》を長くひいて、唇を|真《まっ》|紅《か》にぬった女であった。一見してどこかのダンサーか、それとももっと下等な種類の女かと思われるような風貌だった。
「あたし、大道寺智子ですけれど、あなたは?」
「あたし、カオルというの、おぼえててね」
智子は女のなれなれしさに、少し腹が立ったけれど、顔には見せず、ただ黙って微笑をふくんでいた。
「あたし、じつはあなたに対して、大いに|敵《てき》|愾《がい》|心《しん》をもやしてたんだけど、こうしてお眼にかかったら、そんな気なくなってしまったわ。だって、あなたはあんまり美しすぎるんですもの」
女の唇が|自嘲《じちょう》するように|痙《けい》|攣《れん》する。智子はふしぎそうにその顔を見直しながら、
「あなた、何かあたしに御用がおありなの」
「ええ、そうなの。このつぎの|幕《まく》|間《あい》にね、三階の廊下へきてくださらない。あなたにぜひ会いたいってひとが待ってるの。内緒でね」
智子は思わず眉をあげた。
「まあ、誰? あたしに会いたいとおっしゃるのは?」
「おいでになればわかるわ。あなたがいらしてくださらなければ、あたし、あとでとても|叱《しか》られるの。ね、後生だから」
女は悲しそうに顔をくもらせた。智子は眉をひそめて女の顔を見ていたが、そこへ入り口から金田一耕助が顔をのぞけた。
「やあ、こんなところにいたんですか。姿が見えないもんですから、皆さんがあちらで心配していますよ」
「すみません。いますぐ」
智子がいきかけると、女がまたこごえでささやいた。
「内緒よ。そしてきっとね」
化粧室を出ると、金田一耕助がふしぎそうな顔をして、
「智子さん、あなたあの女をご存じなんですか」
「いいえ」
「何かいってたようじゃありませんか」
「そうねえ。あたしにはなんだかわかりませんでしたけれど」
智子はすましていた。そこへ神尾秀子がさがしに来たので、それに智子をひきわたして待っていると、カオルが出てきて、つんとすましたまま、金田一耕助のまえをとおっていった。
変だなあ……と、金田一耕助は小首をかしげる。……智子さんがあんな女を|識《し》ってるはずはないんだが。……
耕助が思案をしながら、ぼんやり、自分の席へ入るドアのまえまできたときだった。バタバタと軽い靴音をさせて走ってきたものがあった。文彦だった。
「|叱《し》っ、文彦君、そんな足音をさせると叱られるよ」
「金田一さん、金田一さん」
文彦は眼をかがやかし、息をはずませて、
「来てるんですよ。来てるんです」
「来てるって誰が……?」
「ほら、修善寺へ来てたやつ。多門連太郎ってやつが……」
そのとたん金田一耕助は、思わずギョッと息をのんだ。何かしら不吉な想いが、さっと胸もとからふきあげる。
多門連太郎が来ている……? そして、二階には衣笠氏も来ているではないか。ふたたび役者はそろったのである。何かまた起こるのではあるまいか。……
編み物の符号
文彦が多門連太郎を見たという二階の廊下へ、金田一耕助はもういちどもどってみたが、連太郎のすがたはもうどこにも見えなかった。宇津木慎介でもいれば|訊《き》いてみようと思ったが、その慎介もじぶんの席から、衣笠氏を見張っていると見えて、もう廊下にはいなかった。
金田一耕助は念のために、三階まであがってみたが、連太郎のすがたはどこにも見えない。じぶんの席へかえっているとすれば、このひろい|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》のことである。座席のナンバーでもわかっていないかぎり、探し出すことはちょっとむずかしい。
金田一耕助があきらめて、一階の西の廊下へもどってくると、そこには神尾秀子がただひとり、ソファによって編み物によねんがなかった。
「おや、神尾先生、あなたは芝居をごらんにならないんですか」
「あら、金田一先生」
神尾秀子は編み物から眼をあげると、|眩《まぶ》しそうに耕助の顔を見て、
「そういうあなただって……なにをそんなにソワソワと、廊下とんびをしていらっしゃいますの」
「あっはっは、廊下とんびはひどいですな。吉原じゃあるまいし、しかし、神尾先生」
「はあ」
「わざわざ歌舞伎座までやってきながら、廊下で編み物してるたア、こいつはよっぽど、チョン、|希《け》|有《う》だわえ」
「まあ」
神尾秀子はあきれたように、金田一耕助の顔を見ていたが、急にクスクス笑い出すと、
「いやな金田一さん、それなんですの、芝居の|台詞《せ り ふ》?」
「と、まあ、いうようなもんです。なにしろ安い入場料じゃないんですからね」
「だって、金田一さん、あちらのお席にいると、あたし頭痛がしてなりませんのよ。|馴《な》れないんですね。|田舎《い な か》者だから」
「それだって、なにも編み物をするこたアないでしょう。まるでなにかに、当てつけるみたいですよ」
と、いいながら、金田一耕助も秀子にならんで腰をおろす。神尾秀子はすこしお|尻《しり》をにじらせて、席をゆずりながら、
「そうでしょうか。でも、あたし、これをしてると気分がやすまりますの。精神統一になるんですね。つまらないことを考えなくて」
「じゃ、それをしていないと、つまらないことを、お考えになるってわけですか」
「ええ、いろいろとね」
神尾秀子は編み物から眼もはなさずに、
「ねえ、金田一さん、あたしみたいな|年《とし》|頃《ごろ》になると、どうしても保守的になりますのね。環境のあまりはげしい変化を、よろこばない傾向になるんです。|欣《よろこ》ばないというより、不安になるのですわ。あたし、あのまンま島にいられたら、どんなによかったかと思いますの」
秀子はほっと|溜《た》め息をついて、
「でも、こんなこと、智子さまにはおっしゃらないでね。あのかたはやっぱり出ていらっしゃらなければならなかったのでしょうから」
金田一耕助はそれとなく、神尾秀子の横顔を見る。月琴島を出るころには、それほどとは思わなかった年齢のかげりが、ちかごろ会うたびにふかくなるのが感じられる。金田一耕助はふと、四十をこえるこの|年《と》|齢《し》まで、処女のまますごしてきた女の、もの哀れさが身にせまるのをおぼえた。
「神尾先生」
「はあ」
「あなたはどうして結婚なさらないんですか」
「まあ!」
神尾秀子の横顔は、急に|白《はく》|蝋《ろう》のように|真《ま》っ|蒼《さお》になった。息使いがすこし荒くなり、編み物を持つ手がかすかにふるえた。秀子はしばらく無言のままで、いそがしく編み棒をうごかしていたが、やがてやっと落ち着きをとりもどすと、
「いやな金田一さん、どうしてそんなことをおっしゃいますの。このお婆あちゃんに。……」
「いや、あなたはお若いですよ、現在でも。……それにいままで、結婚なさるチャンスは、たびたびおありだったろうと思いますがね」
秀子は|暫《しば》らく黙っていた後、やがて静かな声音で、
「金田一さん、結婚するには愛情がいりますわね。ところがあたしのひとを愛する情熱は、ずっと昔に燃焼しつくしてしまいましたの。それ以来あたしは燃えかすみたいな人間になってしまいましたのよ」
「失恋なすったというわけですか」
「失恋……? ええ、まあね」
秀子は|曖《あい》|昧《まい》にことばをにごして、しばらく無言のまま編み棒を動かしていたが、やがてクスクスとわざとらしく笑うと、
「金田一さん、あたしの愛してたかたのお写真、見せてあげましょうか」
「ぜひ拝見したいですね。あなたのようなりっぱなかたを、失恋させたという不心得ものは、いったいどんな男ですか」
「このかたですのよ」
神尾秀子は編み物を|膝《ひざ》におくと、この十何年来胸からはなしたことのない、真珠をちりばめたロケットを、鎖ごと|頸《くび》からはずして、耕助の鼻さきに持ってくると、パチッと音をさせてふたをひらいた。
ロケットのなかには、写真がいちまい秘めてある。それはいつかもいったとおり、髪を古風におすべらかしにした、智子の母の写真であった。
「こ、これは。……」
金田一耕助が眼をまるくするのを|尻《しり》|眼《め》にかけながら、神尾秀子はすましてロケットをもとどおり胸にかけると、|悪《いた》|戯《ずら》っぽい微笑をうかべて、
「ほ、ほ、ほ、びっくりなすったでしょ。誰にもこんなことおっしゃらないでね。変に誤解されるのはいやですから」
それから神尾秀子はまた、膝のうえの編み物をとりあげると、静かに編み棒を動かしながら、
「あたしが琴絵さまを愛していたのは、決して同性愛とかなんとか、そんないやらしい気持ちではなかったんです。第一、琴絵さまというかたは、そんないやらしい考えを、起こさせるようなひとではございませんでした。それはそれは|潔《きよ》らかな、神々しいほどのおひとでした。ただ、あまり清らかで、|無《む》|垢《く》でいらっしゃるので、こんなかたが世間の荒浪のなかに放り出されたらどうだろうかと、あやぶまれるような気持ちでした。それがあたしの愛情をそそったのです。あたし、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》にいえば、神に奉仕するような気持ちで、あの方にお仕えしようと決心したのです。わかってくだすって?」
「わかりました」
そうこたえたものの、金田一耕助は|頭脳《あ た ま》のなかに、|一《いち》|抹《まつ》の疑惑の雲が去来するのを、禁じることが出来なかった。
神尾秀子が琴絵に対して、いだいた感情はわかるような気がする。それはいかにも秀子のようなタイプの女には、ありそうなことだ。しかし、わからないのは秀子がなぜ、そんな告白をしてみせるのか、なぜロケットに秘めた写真を、見せる気になったのか。……
金田一耕助はあらためて、どうして話がそんなところへ、落ちてきたのかと考えてみる。するとすぐ、神尾秀子がなぜ結婚しないのかというところから、話がはじまったことに気がついた。なるほど、いまの話を聞けば、秀子がオールド・ミスでとおしてきた理由は、一応も二応もうなずけるような気がする。
しかし、それだけにまた耕助は、あやしい疑惑を感じずにはいられなかった。
結婚をしない理由として、秀子はなにも、そこまで思いきった告白を、する必要はなかったはずである。自分の質問はそれほどつっこんだものではなかったし、この場の雰囲気はそんなに深刻なものではない。笑ってすませばすませるはずだ。
それにもかかわらず、ああいう思いきった告白を、しなければならぬ理由を、秀子が感じたとすれば、それはなぜか。ほかにもっと重大な理由があるのを、秀子はそれによってカモフラージしようとしたのではあるまいか。
そういえば、なぜ結婚しないのかという質問を、だしぬけにうけたときの秀子の|狼《ろう》|狽《ばい》ぶりはただごとではなかったようだ。
「あら、金田一さん、なにを考えこんでいらっしゃいますの」
「いや、べつに。……」
「いまあたしが申し上げたことを、そんなに深刻にかんがえてくだすっちゃいやですわ。あたしやっぱり申し上げなければよかった。忘れてくださいね、あんなこと。……」
「はあ」
金田一耕助はゆっくり頭をかきまわしていたが、急に思い出したように、
「そうそう、写真で思い出しましたが、例のアルバムはまだ見つかりませんか」
「ええ」
神尾秀子は落ち着いて、編み棒を動かしながら、
「あなたからお電話があったので、月琴島から送り出したお荷物を、すっかり整理して調べて見ましたの。しかし、どこにも見当たりませんよ」
「変ですねえ」
「ええ、入れ忘れたはずはないんですけれど」
アルバムというのは、例のライカの写真を|貼《は》りつけてある、あのアルバムのことである。このあいだ宇津木慎介から、ライカのフィルムを|詐《さ》|取《しゅ》されたという報告をきいた日、あとで金田一耕助は秀子に電話をかけて、アルバムのことを聞いてみた。そのときの秀子の返事では、まだお荷物の整理が出来ていないからよくわからないが、たぶんあるはずだということだった。ところがそれから二、三日して、秀子のほうからかかってきた電話によると、荷物をすっかり整理してみたが、アルバムはどこにも見当たらぬということだった。
「でも、金田一さま、あのアルバムはそれほど重要でもないでしょう。あなたのほうにはフィルムがおありのはずなんですから」
そういう秀子の横顔を、さぐるように|凝視《ぎょうし》しながら、耕助はしばらくいおうかいうまいかと迷った後に、とうとう思いきっていってしまった。
「ところがねえ、神尾先生。そのフィルムも盗まれてしまったんですよ」
そのとたん、|弾《はじ》かれたようにふりかえった、神尾秀子の顔にうかんだ、あの大きな驚きの表情を、金田一耕助は射とおすような眼で|視《み》つめていたが、それがはたして真実の驚きであるか、それともわざとそう|装《よそ》おうているのか、金田一耕助にも判断がつけかねた。
「まあ、どうして……?」
秀子は唇をふるわせながら、
「このあいだお宅へおうかがいしたときには、|原《げん》|板《ばん》があるから大丈夫だとおっしゃって……」
「ええ、あのときはそう思っていたんです。ところが……」
と、かいつまんでフィルムを詐取されたいきさつを語ってきかせると、秀子はみるみる|真《ま》っ|蒼《さお》になって、
「まあ、それじゃあの写真はもうどこにもありませんのね。あたしどもの|手《て》|許《もと》には。……」
「ええ、ですからお宅にあるアルバムに期待していたんですが……」
「まあ、それじゃもういちどよく探してみますわ。ないはずはないと思うんですけれど……」
ちょうどそのとき、舞台のほうで、|柝《き》の入る音がしたので、秀子は|俄《にわ》かにソワソワして、
「あら、皆さまが出ていらっしゃるわ。あたし、おおいそぎでお店をしまわなきゃ。……」
編み物を|手《て》|提《さ》げ袋のなかにしまうと、秀子はいそいで立ちあがったが、そのひょうしに、膝からひらひら舞い落ちた紙片があった。金田一耕助は何気なく、それを拾いあげたが、ふいにおやと眉をひそめた。
※[#ここに画像]
それは三寸平方ほどに切った。小さい方眼紙だったが、そこに紫色のインクで、奇妙な符号のようなものが書きつらねてあった。
それは右図のようなものである。
「神尾先生、これはいったいなんですか。なにかの暗号ですか」
秀子は耕助の手にしたものを見て、
「まあ、いやな金田一さん、あなたのような御職業のかたは、なんでもそんなふうにおとりになるのね。これ、模様編みの符号じゃありませんか」
と、秀子はそれを耕助からうけとって、
「読んでみましょうか。いちばん下の段を左から読むと、一目表、一目裏、二目裏一度、|辷《すべ》り目一目増し、一目表、辷り目一目増し、二目裏一度、一目裏……」
読んでいるうちに、秀子はなにかを思いついたらしく、ふいにキラキラ光る眼を耕助のほうにむけると、
「金田一さん」
と、ひくい、押しつぶしたようなしゃがれ声で、
「これ、ほんとに暗号になりますわね。模様編みの符号には、このほかたくさん種類がございますの。あたしそのうちにそれを使って暗号をつくり、あなたのお眼にかけますわ。でも、このこと誰にもおっしゃらないで。……」
金田一耕助があっけにとられて|呆《ぼう》|然《ぜん》としているとき、幕がしまったと見えて、大勢のひとびとがどやどやと出てきたので、秀子は編み物の符号を手提げ袋のなかにつっこみ、すましてそのほうへ歩いていった。
第六章 紅いチョコレート
紅いチョコレート
うつくしい智子は、いまちょっと、戸惑いをしたような気持ちのなかにいる。
自らカオルの名乗りをあげた、さっきの不思議な女のたのみをうけいれるとすれば、彼女はこの|幕《まく》|間《あい》に、三階の廊下へいかなければならないのである。
しかし、彼女にはまだその決心がついていないのだった。
わかい智子はどんな冒険もおそれない。いや、おそれまいとちかごろきめているのである。それに好奇心も大いに働いた。
しかし、見も|識《し》らぬあんな女に、ただあれだけのことばを|囁《ささや》かれただけで、理由もきかず、相手をつきとめもせず、のこのこと出かけていくのは、なんだか見識にかかわるように思われる。いまいましくもあった。だから、彼女はまだどちらとも、決心のつきかねる宙ぶらりんの気持ちで、幕がしまると、しかし、みんなが横のドアから、西の廊下ヘ出ていくのに、彼女はひとりぶらぶらと、正面の廊下ヘ出ていった。ひょっとすると、三階へあがってみたくなるかも知れぬと思って。……
しかし、彼女はすぐに自分ひとりでないことに気がついた。うしろから、駒井泰次郎と三宅嘉文がくっついてくるのである。まるでふたりの忠実な護衛兵のように。
かれらはちょっとでも眼をはなせば、|競争者《ライバル》が智子をさらって、逃げやアしないかとおそれているもののようである。
「智子さん、お茶でものみにいきませんか」
デブで童顔の三宅が、左のほうからおずおずといいよった。この男は大きな図体にもかかわらず、ひどくはにかみ屋で、智子と口をきくときは、いつも|真《ま》っ|赧《か》になるのである。
「そうねえ……」
智子が首をかしげていると、右から駒井が強引に智子の手をとって、
「およしなさい。お茶など、馬鹿らしい。ビールでものもうじゃありませんか」
おっかぶせるような調子である。
「そうねえ。……」
智子はまた首をかしげながら、たゆとうような微笑をうかべて、とられた手をしずかにはなしながら、
「あたしいま、なにもいただきたくはございませんの。ただ、こうしてぶらぶらしていたいんですの」
そして、心のなかで|呟《つぶや》くのである。
(こんなんですもの。内緒で三階へ来いたって無理だわ)
「つまらんじゃないですか。ただぶらぶらしてるなんて。ぼくは|咽《の》|喉《ど》がかわいてたまらんのですよ。ビールを一杯やりたいな」
「じゃ、あなた、おひとりでいってらっしゃるといいわ」
智子はいままでこの青年たちに対して、こんなふうに、つっぱなすようなもののいいかたをしたことはいちどもなかった。
しかし、そのときは必ずしも、三階へいってみたいわけではなかったけれど、つくづくこのふたりに付きまとわれるのを、うるさいと思わずにはいられなかった。
そこでつい、そんな|邪《じゃ》|慳《けん》なことばが口をついて出たのである。
駒井ははたして真っ赧になった。しかし、すぐに血の気がひいていくと、|真《ま》っ|蒼《さお》になった額に、血管がビクビクふるえているのが見えた。自尊心の強い駒井は、ただそれだけのことばでも、ピシャリと平手打ちをくらったような、屈辱をかんじたらしい。くるりと智子に背をむけると、むこうのほうへ歩き出した。智子は二、三歩そのあとを追いながら、
「あら、あなた、お気にさわりまして、御免なさい。あたし、そんなつもりで申し上げたのじゃございませんのよ」
「いや、ぼく、おこっちゃいませんよ。ちょっとたばこを|喫《す》いたくなったものだから」
「そうお」
智子はつめたくいいはなつと、くるりと駒井に背をむけて、三宅の顔を見てにっこり笑う。その調子があまりつめたかったので、駒井はしまったというようにふりかえったが、むこうをむいた智子のうしろ姿には、もうとりつく島もなかった。
駒井はしかたなしに、少しはなれた廊下のすみの、灰皿のところへいって、たばこに火をつける。智子を三宅のそばにのこして、そのまま立ち去る勇気はないのである。
智子は三宅のそばへかえってくると、
「三宅さま、お茶でものみにまいりましょうか」
智子のかがやくばかりの微笑を|真《ま》っ|向《こう》からうけて、三宅はたちまち|茄《ゆで》|蛸《だこ》のように真っ赧になった。
「ええ、でも。……」
と、駒井のほうに眼をやってヘドモドしながら、
「そんなこと、しちゃ、悪いですよ。駒井君に」
「まあ、あなたは気がお弱いのね」
智子はつまらなくなって、いっそこのまま三階へいってやろうかと思ったが、そのとき、|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》が食いいるような眼で、こちらを見ているのに気がついたので、彼女はそのほうへとんでいくと、胸もとにすがりつかんばかりにして、
「まあ、九十九のおじさま」
と、全身に|媚《こび》をたたえながら、
「あたし、あなたにお願いしたいことがございますのよ」
と、いってから龍馬の顔を見なおして、
「まあ、いやなおじさま。また、お酔いになっていらっしゃいますのね」
だしぬけに、甘ったれたような智子の、なんともいえぬ|媚《なまめ》かしい襲撃をうけて、さすがものに動ぜぬ九十九龍馬も、戸惑いしたように、|眩《まぶ》しそうな眼をパチパチと、はげしくまばたきをしながら、
「あっはっは、智子さん、酔っぱらってちゃいかんか」
「いけませんわ、ちかごろみたいに酔ってばかりいらしちゃ、御修行のさまたげになるのじゃございません」
「あっはっは、そういわれると耳が痛い。智子さん、あんたからそんな意見をきこうたア思わなんだが、ちかごろはとんと、修行のほうは|怠《おこた》りじゃて」
「あら、どうしてですの」
「どうしてだかな」
ギラギラと|脂《あぶら》のういたような眼で、龍馬は食いいるように智子を見ながら、
「きっと、寝てはゆめ、起きてはうつつまぼろしの……と、いうやつじゃろうかい。あっはっは。……」
龍馬はむなしい声をあげてわらったが、どういうわけかそのときふいと、酔うた眼に|泪《なみだ》がにじんで白くひかった。
智子はしかし、そんなことには気がつかず、
「あら、おじさま、それ、なんのことですの」
「なんのことかな。智子さん、あんたにゃわかるまい。わからんほうがええのじゃ。ときに、わしに頼みというのは、どんなことかな」
「あたし、いちどおじさまのところへお伺いしたいのよ。おじさまの修行場、|青《お》|梅《うめ》ってところですって?」
「わしの修行場へ、あんたが来たい?」
九十九龍馬は眼をまるくしたが、みるみるその顔はいやらしいほど|笑《え》みくずれて、
「智子さん、そ、そりゃア、ほんとかな」
と、熱い息を吐き出した。
「あら、おじさま、ほんとうよ。どうしてですの。あたしがいっちゃいけなくって?」
「とんでもない。あんたが来てくれたら、こんなうれしいことはないが、なんでまた、そんな気になりなすった」
「あたしも|行《ぎょう》がしてみたいの。うんと荒っぽい行がしてみたいのよ。それにおじさまは、|加《か》|持《じ》だの|御《ご》|祈《き》|祷《とう》だのをなさるんでしょ。あたしもおじさまの、加持だの御祈祷だのをうけてみたいのよ」
「なんじゃ、あんたがわしの加持祈祷をうけたいって?」
まんまるく眼をみはった龍馬の頬が、すうっと|紅《あか》く染まってくる。無理もない。智子はなにも知らないけれど、青梅にある龍馬の修行場で、女が所望する加持祈祷ということばには、あるとくべつの意味が含まれているのである。
龍馬はギゴチなく|空《から》|咳《せき》をしながら、
「あっはっは、よしよし、加持祈祷はさておいて、ぜひいちど、わしのところへ来ておくれ。で、来るとしたらいつごろじゃな」
「二、三日のうちにもお伺いしたいんですけれど」
「でも、お父さんや神尾先生がお許しになるかな」
「お許しがなかったら、抜け出してでもおうかがいするわ。だってあたし、ぜひおじさまとふたりきりで、お話したいんですもの」
危険なのは智子の眼使いである。無意識のうちに発散する、強烈な魅力の|芳《ほう》|香《こう》に酔わされて、龍馬の|瞳《め》がギラギラと、うずくような情欲でぬれてくる。
智子はしかし、なんにも知らず、
「それじゃおじさま、いまのこと、誰にも内緒で。……」
悩殺するような微笑をのこして、智子はつと龍馬のそばをはなれると、おりからそばをとおりかかった女と、肩もすれすれにすれちがいざま、小さな早口で、
「このつぎの|幕《まく》|間《あい》にしてちょうだいね」
女がかるくうなずきながらむこうへいくと、智子は三宅のそばへかえってきた。
「まあ、いやな三宅さま。ネクタイがゆるんでいますわ。あら、じっとしていらっしゃいよ。あたしがなおしてあげますから」
それこそまるで、火がついたように真っ赧になって、身のおきどころもないようにはにかんでいる、三宅のネクタイを結びなおしてやりながら、智子は早口でささやいた。
「お願い。あたしこのつぎの幕間に御用があるの。でも、駒井さんがついていらっしゃるでしょ。あたし困るのよ。あなた、なんとかして駒井さんがついて来ないようにひきとめて。……」
それだけいうと、智子はつと三宅の胸からはなれて、
「ああ、それでよくなったわ」
それから智子はハンドバッグのなかから、五つ六つチョコレートをつかみ出すと、
「いまのこと、おわかりになって?」
相手がうなずくのを見て、
「有難う、これ、|御《ご》|褒《ほう》|美《び》よ。ほ、ほ、ほ」
赤ん坊のようにまるまるした三宅の手をとって、その|掌《てのひら》にひとつひとつのっけたのは、みんな|紅《あか》い紙でくるんだチョコレートだった。
幕間狂言
つぎの幕はつなぎ幕で、|幕《まく》|間《あい》時間もあまりながくなかったので、立つ客もすくなかったが、智子はその幕のしまるのを待ちかねて、つと席を立った。
それを見ると駒井がすぐ席を立ち、三宅もそのあとにつづいた。ほかのひとたちはこのふたりに敬意をはらって、出来るだけ邪魔をしないようにしているのである。
三人は|雁《がん》|行《こう》するように、正面の廊下へ出ていったが、そこで三宅が、
「あ、駒井君、ちょっとちょっと」
と、手をとって廊下の隅のほうへひっぱっていった。
そのすきに智子は身をひるがえして、正面の階段をのぼっていったが、階下に気をとられていたので、うえからおりてくるひとに気がつかず、うっかりどんとつきあたった。
「あら、御免あそばせ」
智子は一歩退いて、下から相手の顔を見上げる。相手は高貴な面立ちをした、色の浅黒い、小柄の老人だった。
「ああ、いや。……」
老人もびっくりしたような眼をして、うえからまじまじと食いいるように、智子の顔を|視《み》つめている。
智子はまぶしそうに眼をそらして、
「あの、ちょっと、失礼。……」
と、階段をあがりかけたが、
「ああ、いや、わたしこそ失礼しました。さあ、どうぞ」
と、はじめて気がついたように老人は道をあけたが、その眼は依然として、智子の顔からはなれなかった。
「恐れ入ります」
智子は顔をそむけるようにして、老人のそばをすりぬけたが、相手の視線が依然として、焼けつくように自分のうえにそそがれているのを感ずると、ふっとあやしい胸騒ぎをおぼえた。
(いつかもこんなことがあったような気がする。階段の途中でバッタリ出会って、うえからまじまじ視つめられて。……)
智子ははっと思い出した。
修善寺の|松籟荘《しょうらいそう》でのことである。遊佐の死体を発見する直前、屋上の時計台へいく途中、階段のなかほどでバッタリ出会って。……
智子がぎょっとしてふりかえると、老人はまだこちらを見ていたが、智子の顔を見るとにっこりわらった。そのとたん、智子はなにかしら、温かいものにふんわりくるまれるようなかんじがして、かるく|会釈《えしゃく》をすると、思わず微笑に顔をほころばせた。
(ちがうわ。あのかたじゃないわ。修善寺のひとは眼鏡をかけていたし、ひげをはやしていたし、それにお|頭《つむ》もまっしろだったわ)
しかし、その老人に出会ったことが、ほのかに智子の心をあたためたらしく、彼女はゆったりとした足どりで三階へあがっていった。
階段のうえにはカオルが待っていて、智子のすがたを見ると、
「こちらよ」
と、さきに立って喫煙室のほうへ案内する。短い幕間なので、喫煙室には二、三人しか客がなく、そのひとたちも、智子が入ってきたとたん、ジリジリと開幕のベルが鳴り出したので、すぐあたふたと出ていった。
そして、あとにはただひとり、黒眼鏡をかけた男が、ソファによって新聞を読んでいたが、誰もいなくなるとその男は、新聞をおいて立ちあがり、智子のほうへやってきて、黒眼鏡をはずしてにっこりわらった。
「やあ、今晩は」
多門連太郎だった。男らしい彫りのふかい眼鼻立ちに、わらうと歯なみがしろくて、いかにも健康そうだ。
智子はちょっと眼をすぼめたが、すぐ皮肉な微笑をうかべると、
「今晩は、なにか御用」
男はちょっとおどろいたように眼を見張ったが、すぐ|嬉《うれ》しそうに声を立ててわらうと、
「あっはっは、君は案外度胸がいいんだね。ぼくの顔を見てびっくりしなかった?」
「びっくりするくらいなら、ここまで来やあしないわ。だいたい察しがついてたわ」
「それじゃ、ぼくだと知ってて来てくれたんだね。有難う。まあ、こっちへ入りませんか。立ったままじゃ話がしにくい」
「あの……あたし、むこうへいってますから」
それまで、わびしげに立っていたカオルが、そのとき、おずおずと口を出した。
「なんだ、おまえまだそこにいたのか。気の|利《き》かねえやつだ。むこうへいって、階段に気をつけていてくれ。智子さん、さあ、どうぞ」
カオルはせめて男が、自分のほうを見てくれるかと待っていたが、ふりむきもしないので、|淋《さび》しそうに肩をすくめて出ていった。
「あたし、あんまりゆっくりも出来ないのよ。あたしの姿があんまりながく見えないと、みんなが騒ぎ出しますから」
智子はゆったりとソファのはしに腰をおろすと、|艶《えん》|然《ぜん》と男の顔を見上げて、
「それから、あらかじめ申し上げておきますけど、あなたがもし失礼な|真《ま》|似《ね》をなさると、あたし容赦なく声を立てますよ。あたしこんななりしてますけど、根が島の娘ですから、外聞なんてあんまり気にしないほうなんですの。おわかりになってくだすって?」
連太郎はまたちょっとどぎもを抜かれたように、智子の顔を見なおしたが、やがて|狡《ずる》そうな微笑をうかべると、
「ちょっとお伺いしますが、失礼な真似っていったいどんなことですか」
「修善寺でなすったようなことよ。時計室のなかで。……あんなことをなすって、あなた、恥ずかしいとはお思いにならなくって? 人殺しにびっくりして、放心しかかっている女から、唇をぬすむなんて、男としてずいぶん|卑怯《ひきょう》なやりかたよ」
「あっはっは。君はまだあのことをおぼえていてくれたのかい。するとあのキスは、君にとってよっぽど印象的だったんだね」
「くやしいからよ。しょわないでください」
智子はいかりに|瞼《まぶた》を染めながら、にべもなくいいはなつと、つめたい声で、
「ときに御用というのをおっしゃってくださいな。あたしゆっくりしてられないんだから」
「それじゃ、第一にきくがね」
連太郎は智子のまえに立ちはだかって、
「あのノッポとデブは何者なんだ。君につきまとっているやつさ。たしか修善寺へもきてたようだが、あいつら君の求婚者なのか」
「ええ、まあ、そうよ」
「よせ、あんなやつ。あいつら君の亭主になる資格はねえ」
「あら、どうしてそんなことおっしゃるの」
智子は|悪《いた》|戯《ずら》っぽい微笑をうかべて、
「あのひとたちはお父さまがおえらびくだすった候補者ですから、いずれあたしはあのひとたちの、どちらかと結婚することになるんだと思ってるのよ」
「よせ、よせ、馬鹿!」
連太郎はまるで駄々っ児のような調子で、
「どこがよくってあんなデクの棒。それとも君はあのどちらかに|惚《ほ》れてるのかい」
「御想像におまかせするわ」
「おい、はっきりいえよ。君はあのデブが好きなのかい。見っともねえぞ。大勢ひとが見てるまえで、ネクタイなど結んでやったりしやがって。……おれはよっぽどあいつをのしてやろうかと思ったぜ」
「あら、あなた、あれを見ていらしたの」
智子は面白そうに声を立ててわらったが、
「しかし、多門さま」
と、急にことばを改めて、
「あなたはどうしてあたしのことに、そう御干渉なさいますの。あたしがなにをしようと、誰が好きになろうとよろしいのじゃございませんか」
「いけねえ、いけねえ。それがいけねえんだ」
「あら、どうして?」
「おれがおまえに惚れてるからさ」
男は|傲《ごう》|然《ぜん》としていいはなった。
智子はさすがに|頬《ほお》をそめて、男の顔を見なおしたが、急に面白そうに声を立ててわらうと、
「有難う。あたし女ですから、そういっていただくとやっぱり|嬉《うれ》しいわ。でも、ずいぶん勝手な議論ね。あたしあなたのことをなんとも思ってないのよ」
「いまに思うようになるさ。いや、げんに思っているのさ。それでなくてここへ来るはずがねえ」
「そうかしら。よく考えてみましょう」
智子はからかうようにそういったが、急にきびしい表情になって、彫りのふかい男の顔を|視《み》まもりながら、
「しかし、ねえ、多門さま。あなたがあたしを好いてくださるの、ほんとに有難いのよ。だけど、それだからといって、真夜中ごろになって、あたしの寝室の外をうろつきまわるのは止していただきたいわ。|世《せ》|間《けん》|態《てい》ってこともございますからねえ」
「真夜中ごろ……君の寝室の外を歩きまわる……? このおれが……? それ、どういう意味だい?」
「まあ、男らしくもない。白ばくれようとなさいますのね。このあいだの晩、……先月の三十日の晩よ。あたしの寝室の外の|沓《くつ》|脱《ぬ》ぎのうえに、ネクタイ・ピンをおいていらしたの、あなたでしょう。あれ、どういう意味?」
「ああ、あのこと」
連太郎はきらきらと底光りをおびた眼で、うえからまともに智子を視おろしながら、
「あれはいささか、お芝居気がすぎたかも知れないね。しかし、おれはああせずにはいられなかったんだ。まあ、お聴き、智子さん」
男の声は急に熱をおびてきて、
「君の身辺にはなにかしら、|妖《あや》しい雲がただようているんだ。君は何も知らずに、|妖《よう》|気《き》の中心に|坐《すわ》っているんだ。このまま放っておけば、君はその妖気につつまれて、窒息してしまうかも知れない。君にはひとりどうしても、力強い、忠実な、保護者が必要なんだ。君のためには生命もいらぬというような。……その保護者はおれよりほかにねえ。そうだ、おれのように、強い、たくましい、何者もおそれぬ男が、君にはぜひとも必要なんだ。おれはそのつもりでいる。君のために、君をくるんでいる妖気とたたかい、妖気の中心から君を救い出すつもりでいるんだ。おれはそのことを、君に|識《し》っておいてもらいたかった。君のそばには、いつでもおれという、忠実な|下《しも》|僕《べ》がついているということを、君にはっきり認識しておいてもらいたかったんだ。だから、ああしてネクタイ・ピンを、名刺がわりにおいて来たんだ。いささか|気《き》|障《ざ》だったかも知れないけれどね」
連太郎の声には真実がこもっている。それは智子に慕いよる、ほかの男たちのように、猫なで声のささやきではなかった。粗野で、乱暴で、まるで駄々っ児みたいな調子だったが、それだけに、砂利が水を吸いこむように、素直に智子の胸にしみとおった。
智子はしかし、容易に男の口車に乗るような女ではない。皮肉な微笑をうかべながら、
「有難う。するとあたしは悩める女王で、あなたは勇敢な|騎士《ナ イ ト》ってわけね。だけど、それだからって真夜中過ぎて、むやみにお庭のなかへ入って来られるのは困るわ」
「智子さん、真夜中、真夜中って、いったい何時ごろのことだい。それ……」
「さあ、二時ごろのことだったでしょうね。騒ぎがおさまってから時計を見たら、三時ちょっとまえでしたもの」
「すると、真夜中の二時過ぎに、君の寝ている座敷の外を、だれか歩きまわっていたものがあるっていうんだね」
「だれかって……それじゃ、多門さま、あれ、あなたじゃなかったんですの」
「智子さん!」
連太郎はきびしい顔をして、
「だから、君には保護者が必要だというんだ。いいや、おれじゃない。なるほど、三十日の晩、おれは|経堂《きょうどう》へ出かけていった。どうしても、ひとめ君のすがたを見ずにはいられなかったからだ。だけど、おれの出かけたのはまだ宵の口だったんだぜ。そうそう、おれは君ンとこへいく途中、金田一耕助という、あのへんてこな探偵さんに出あったよ。おれはだれにも姿を見られたくなかったから、|物《もの》|蔭《かげ》にかくれてやりすごしたけれど、あのひと、なんだか|跛《びっこ》をひいてたようだった。……」
「ああ、金田一先生がおかえりになったの、九時ちょっと過ぎのことよ」
「そうさ。だから、おれが君ンちへいったのもその時分のことさ。九時半にゃなってなかったろう」
「そして、あなた、どこからなかへお入りになったの」
「それが妙なのさ。おれはふらふらっと経堂ヘ出かけていったが、君に会えるという確信はなかった。まさか、正面きって面会を求めるわけにはいかないからね。だけど、この家に君がいると思うと、どうしても、そのままかえる気にはなれないんだ。おれ、なんだか体中がむずかゆくなるような、泣き出したいような|想《おも》いを抱いて、君のうちのまわりを歩いていたんだ。すると、裏手のほうに、土を盛って|沈丁花《じんちょうげ》を生け垣にしたところが見つかったんだが、見るとそれがたったいま、ひとが通りぬけたように、ポッカリすきまが出来ているんだ。そこから、おれ、なかへ忍びこんだんだ」
「まあ。……そして、いつごろまでいらしたの」
「おれが忍びこんだときにゃ、デブとノッポはまだ君ンとこにいたね。レコードをかけて、ダンスかなんかしてたじゃないか。おれ、よっぽどあいつらを、ぶん殴って追いかえしてやろうかと思ったんだ。だけど、じっと我慢してた。すると、十時ごろになってあいつらかえっていったね」
「ええ、ちょうど十時にかえっていただきましたの」
「すると、君は寝室のほうへかえっていった。そのときにゃ、雨戸がしめてなかったので、君のすがたがよく見えたんだ。君は机のまえに坐って、何やらじっと考えこんでいたじゃないか。そのうちに女中がやって来て、雨戸をしめてしまった。それから電気が消えて、君は寝床へ入った様子だったが、しばらくするとしくしくと、絶え入るようなすすり泣きの声がきこえて来た。君、あの晩、泣いてたじゃないか」
「|嘘《うそ》よ! 嘘よ! あたし、泣いてなんかいません。あたし、そんな弱い女じゃありません」
智子は屈辱のために、さっと|頬《ほお》をあからめる。連太郎はしろい歯を出して笑うと、
「あっはっは、そうか、そうか。そんなこと、どっちだっていいや。だけど、おれには君が泣いているように思われたんだ。おれもなんだか泣き出したくなっちゃった。胸がしめつけられるように苦しかったんだ。そこでつい、心配するこたアねえ、おれがちゃんとついている。……と、そういう意味で、名刺がわりのネクタイ・ピンをおいて来たんだ」
「それで、あの、おかえりになったのは何時頃……」
「君ンちを出て、経堂駅へ来ると、ちょうど十一時だったよ。おれはとにかく、君のすがたを見たし、君の声もきいたので、満足して電車に乗ったんだ。ねえ、智子さん、お聴き、おれが真夜中の二時ごろまで、君ンちでうろうろしてたとしたら、その晩はうちへかえれないわけじゃないか。だけど、その晩十二時ごろにゃ、ぼくはちゃんと、いま、ぼくの住んでるところへかえったよ。これにゃ証人もある」
「まあ、それじゃ、あの晩、お庭にいたのは、いったいだれだったのかしら」
智子の語尾がふるえて消える。大きく|視《み》|張《は》った眼に、|怯《おび》えのいろがたゆとうている。連太郎はきっとその眼を視すえながら、一句一句に力をこめて、
「だから、智子さん、君には保護者がいるというんだ。君はいまあやしい|妖《よう》|気《き》のなかに包まれている。君を救うことの出来るのは、このおれよりほかにはねえんだ。君の亭主になる男は、このおれよりねえし、おれのかかあになる女は、おまえよりほかにないんだ。これはおれが勝手にきめてるんじゃなくて、誰かそうしたいと熱望してるひとがあるんだ」
「あら、どうしてそんなことおっしゃるの?」
智子はしだいに引きずりこまれて、|瞳《め》には真剣ないろがうかんでいる。
「まあ、お聞き。ぼくがどうして松籟荘のような、高級ホテルに泊まっていたと思う。ちかごろのぼくはそんな柄じゃねえんだ。ところがある日、誰ともわからぬ無名のひとから、金を送ってきて、修善寺の松籟荘へいって泊まっておれ。そうすれば南のほうから佳人が来るが、その佳人こそおまえの配偶者になるべき婦人だという手紙が添えてあったんだ。おれはむろん半信半疑だった。それに女などにはもうあきあきとしていたところだったんだ。しかし、金はかなり多額だったし、それにいいなりをして、高級ホテルでぶらぶらしてくるのも悪くないと思ったので出かけたのだ。そうしたら君がやってきた。おれはひとめ君を見ると、もう夢中になっちまったんだ。智子さん、わかるかい」
智子はひどく驚いていた。それにいくらか心を動かされていた。しかし、すぐそういう感情をもみ消すように、声を立ててわらうと、
「よしてちょうだい。女がいかにロマンチックだって、そんな小説めいた作り話。……」
「小説じゃないんだ。作り話じゃないんだ」
連太郎はやっきとなって、
「今夜だって、……今夜だってやっぱりそうなんだ。今度のは手紙はついてなかった。しかし、金と|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》の今夜の切符を送ってきたんだ。もしやと思っておれはやってきた。そしたらやっぱり君が来ていた。しかも、おれの席は君のすぐちかくなんだ。誰か……誰かふたりを結びつけようとするひとがいるんだ」
「それ……それ、ほんとのことなの」
智子の顔が急にこわばり、息がはずんだ。彼女は思わず連太郎の腕をつかんでいた。
「ほんとうだ。|嘘《うそ》はつかない」
「そして……そして、それは誰なの。あなたにも見当つかないの?」
「今夜までは全然見当がつかなかった。しかし、今夜、ひょっとするとあのひとじゃないかと思われるひとに、二階の廊下で出会ったんだ。おれはもうこんなにぐれてしまって、あわす顔がないからすぐ逃げ出してしまったが。……」
「誰なの、それはいったいどういうひとなの」
「それは……それは。……」
連太郎が口を切りかけたときである。あわただしい足音が階段をあがってきたかと思うと、
「金田一さん、金田一さん」
と、さけびながら、喫煙室へとびこんできたものがある。宇津木慎介だった。慎介はふたりのようすを見るとはっと鼻白んで、
「や、これは失礼。ひとを探しているものですから。金田一さんはどこへいったのか。……」
「やあ、その金田一ならここにいるよ」
あっと叫んで、|弾《はじ》かれたように振りかえる、智子と連太郎の眼のまえへ、大きな|安楽椅子《アーム・チェアー》のむこうから、にこにこしながら立ちあがったのは金田一耕助。
「まあ、金田一さん!」
智子は大きく息をはずませた。それから激した調子でなにかいおうとしたが、すぐ思いなおしたようにつめたく笑うと、
「それがあなたのお役目なのね。あなたの御職業が御職業でなかったら、あたしうんと|軽《けい》|蔑《べつ》してあげるのに」
「いやあ!」
金田一耕助はいかにもうれしそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「職業が職業でも、うんと軽蔑してください。いまあの安楽椅子にすわって、おふたりの話をうかがいながら、つくづく穴があったら入りたいと思いましたよ。おふたりの応酬の、じつに堂々としているのに反して、それをぬすみ聴く金田一耕助のみじめさ、|浅《あさ》|間《ま》しさ。われながら愛想がつきました。あっはっは」
金田一耕助は慎介のほうへふりかえり、
「宇津木君、なにか用?」
「金田一さん、また、ひ、人殺し……」
宇津木慎介のその一言は、まるでこの場へ爆弾でも投げつけたような効果があった。
耕助も智子も連太郎も、一瞬ギクッとからだを|痙《けい》|攣《れん》させると、まるで馬鹿みたいな顔をして、しばらく慎介の顔を|視《み》つめていたが、やがて耕助が|袴《はかま》のすそをさばいて、ひとっ跳びのはやさで廊下へとび出した。
だが、すぐ気がついたように立ちどまると、
「多門君、紹介しておこう。新日報社の宇津木慎介君。いっておきますがこの男、ラグビーの選手をしていただけあって、腕力は相当のものですよ。宇津木君、こちら松籟荘事件の立て役者、多門連太郎君。つかまえて警察にわたすなり、あるいは伏せておいて君の社のスクープにするなり、そこは君の判断に一任する。智子さん、あなたはぼくといっしょにいらっしゃい」
ひといきにそれだけいうと、耕助は智子の手をとって、喫煙室からとび出した。
殺されたのはデブの三宅嘉文である。
かれは一階の西の洗面所で、ドスぐろい血をはいて死んでいた。白いタイルに、|爪《つめ》を立てんばかりに硬直したかれの右手の|掌《てのひら》のしたには、くちゃくちゃにもまれたチョコレートの包み紙がおちていた。
しかし、それは|紅《あか》ではなく青い包み紙である。
それを取りまいて、凍りついたように立ちすくんでいるひとびとの顔、顔、顔。――奇妙な|幕《まく》|間《あい》狂言なのである。
青いチョコレート
金田一耕助はいま、勝ちほこった犯人の|哄笑《こうしょう》が、|潮《しお》|騒《さい》のように耳の底にとどろきわたるのを感じながら、じっと歯をくいしばっている。
一度ならず二度三度、犯人は悪魔の巧妙さと冷血さをもって、犠牲者を血祭りにあげたのだ。しかもかれの鼻さきで。
金田一耕助はたぎり立つ血潮のいかりを、おさえることが出来なかった。
三宅の死体はただちに事務所へはこびこまれた。そして、場内放送によって医者をもとめると、すぐ三人名乗って出た。さすが日本一の大劇場の観客だけあって、名乗って出たのはいずれも有名な医者ばかりである。
そのひとたちの慎重な検診がおこなわれている隣の部屋では、関係者一同が、一種異様な群像をかたちづくっている。
大道寺欣造は立ったまま、放心したような眼であらぬかたを眺めている。もうもうこんなことはたくさんだといいたげな、物憂い色が|眉《み》|間《けん》をくもらせ、|瞳《め》にも生気がなかった。
神尾秀子は|椅《い》|子《す》に腰をおろして、床から顔もあげなかった。またひとしお|年《と》|齢《し》のかげりが濃くなって、こわばった横顔の線に、どこか|巫女《ウィッチ》を思わせるものがある。金田一耕助はときおり彼女の全身が、反射的に|痙《けい》|攣《れん》するのを見のがさなかった。
|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》は酒くさい息をはきながら、しきりにながい|髯《ひげ》をまさぐっている。何をかんがえているのか、髯におおわれた|口《くち》|許《もと》に、ときおりにやりと奇妙な微笑がうかぶ。
智子は|女豹《めひょう》のようにたけだけしく眼をひからせている。
彼女はかくべつ三宅を愛しているわけではなかったので、かれの死を気の毒だとは思っても、悲しいとは感じなかった。かえって彼女はいま、金田一耕助以上に怒りにふるえているのである。
いつか松籟荘の湯殿の鏡に、書きしるしてあった、あのまがまがしい|威《い》|嚇《かく》の文字が、ひとつひとつ現実となっていくのを|凝視《ぎょうし》しながら、智子は恐怖にうたれるよりも、怒りに血をたぎらせることのほうが大きかった。
いったい誰がこのように、無意味に血を流すのか。これもみな自分を島へ追いかえすための手段なのか、だが、それではなぜ自分を島へ追いかえさねばならないのか。自分が東京にいてはなぜ悪いのか。その理由がわからぬ以上、誰が……誰が島へかえるものか。
智子はきっと血が出るほども、強く唇をかみしめる。
そのような理不尽な命令に屈服するには、智子の気位はたかすぎるのである。かえって彼女は事件の裏に秘められた、|謎《なぞ》の真相をたたかいとるまでは、ほかにどのような理由があろうとも、絶対に島へかえるまいと決心している。
だからもし犯人が智子を島ヘ追いかえすだけの目的で、このように血を流すのだとしたら、それは彼女の性格について、大きな誤算をしているものといわねばならぬ。
智子のそばには祖母の|槙《まき》が、椅子にうずくまって、両手で顔をおおうている。|蔦《つた》|代《よ》はおびえたように眼を|尖《とが》らせて、文彦の肩を抱きすくめ、伊波良平はあいかわらず、落ち着きのない眼でキョトキョトと、ひとびとの顔色をさぐっている。
こうしてすべてのひとが平静をかいているなかでも、とりわけ醜態をきわめたのは駒井泰次郎であった。
見苦しいほどかれは度をうしなって、椅子に腰をおろしたかと思うとまたとびあがり、たばこに火をつけたかと思うとすぐもみ消し、ぶつぶつ|呟《つぶや》き、そわそわ歩きまわり、そしてときおり智子の顔色をうかがう眼には、ふかい疑惑と恐怖のいろがおののいている。
突然、駒井をはじめすべてのひとびとが、ぎくっとしたように振り返った。隣室へのドアがひらいたからである。顔を出したのは三人の医者のうちのひとりだった。
医者は疑わしげな眼で一同の顔を見まわすと、かるく|咳《せき》をして、
「ええ、ちょっと御注意までに申し上げておきますが、これはさっそく警察へ報告しなければならんと思いますよ」
「警察ですって?」
さっきから、この部屋の奇妙な群像を、ふしぎそうに見まもっていた劇場の支配人が、びっくりしたようにききかえした。
「それじゃあのひとは急病人じゃなかったのですか」
医者がうなずくのを見て、支配人の顔にはふっと、|危《き》|懼《ぐ》の色が動揺する。こんなことで、もし今夜の興行にさしつかえたら。……
金田一耕助が来て、支配人の肩をかるくたたいた。
「お騒がせして申し訳ありませんが、なに、大丈夫ですよ。芝居にさしさわるようなことはありますまい。ほかのお客さんには関係のないことです。たとえこれが殺人事件だとしても。……」
「さ、殺人事件ですって?」
支配人は|咽《の》|喉《ど》をしめつけられるような声を立てたが、すぐ気がついて、廊下のほうを気にしながら、
「先生、それ、ほんとうですか」
「そう、もしあのひとに自殺の動機がないとすれば……」
医者がしかつめらしくうなずくのを見て、支配人はあたふたしながら、
「そ、それじゃ、さっそく警察ヘ電話をかけねばならんが……」
「いや、それならさっき電話をかけておきました。もうそろそろ出向いてくる時分だと思うんですが……」
金田一耕助は腕時計から支配人のほうへ眼をうつすと、かすかにほほえんで、
「なに、大丈夫ですよ。出来るだけさわがせないように頼んでおきましたから。あなたも、だから|閉《は》|場《ね》るまでは黙っていらっしゃったほうがいいですよ」
芝居はいまの一幕ですむのである。支配人はくらい顔をしてうなずきながら、
「そう、それじゃわたしは、玄関までいって待っていましょう」
支配人が玄関ヘ出ると、ちょうどそこへ警視庁の自動車が来てとまった。なかから降り立ったのはひとりの警部とふたりの私服だったが、金田一耕助の注意のせいか、出来るだけさりげなくふるまっている。
警部はそばへやってきた支配人と、二言三言|低《こ》|声《ごえ》で打ち合わせをしていたが、ちょうどそのとき、なかから出てきた男がふたり、腕をくんだまま一同のそばを通りすぎていった。
それを見ると警部はふっと|眉《まゆ》をひそめる。かれはそのうちのひとりを知っているのである。それは新日報社の宇津木慎介であった。
警部はなにかいおうとしたが、支配人にうながされて思いなおしたように、おとなしくそのあとからついていった。
警部の一行がはいっていくと、事務所のなかに物憂い群像をつくっていたひとびとも、さすがにさっと緊張する。警部はドアのところに立って、すばやく一同の顔を見わたしたが、金田一耕助と視線があうと、無言のままかるく目礼して、
「で、死体は……?」
「隣の部屋です。御案内しましょう」
金田一耕助に案内されて、隣の部屋へはいっていくと、警部は用心ぶかくうしろのドアをしめた。ふたりの私服は警部の命令で、そとの部屋にのこっていた。
三宅の死体はアーム・チェアーによりかかって、ぐったり首をたれている。上着をぬぎ、はだけたワイシャツのあいだから、女のようにぶよぶよとした胸が見える。かなり毛深いたちと見えて、短い胸毛がいちめんに生えていた。
警部はちょっとその顔を見ると、改めて三人の医者のほうをふりかえった。
「どうも御苦労さまでした。さっそくながら死因は……?」
「さあ、それはね」
いちばん年輩の医者が如才ない調子で、
「解剖してみなければはっきりしたことはいえんが、だいたい、青酸加里による中毒死ということに、意見が一致しとるんだがね」
「なるほど、それでどういうふうにして、青酸加里があたえられたか、おわかりになりませんか」
「それもやっぱり解剖したうえでなければはっきりいえんが、前後の事情や、口腔中にのこっているものから判断すると、チョコレートのなかに、仕込まれていたんじゃないかと思うんだがね」
「チョコレートね」
警部は小指で|小《こ》|鬢《びん》をかきながら、なにか思案をしていたが、やがて|慇《いん》|懃《ぎん》に頭をさげると、
「いや、どうも有難うございました。いまにわたしどものほうの医者が参ると思いますが、お名前をひとつ。……」
三人の医者はうなずいて名刺を出すと、
「御用の節はいつでもいってください。及ばずながら証人になりますよ」
如才ない外交辞令をのこして、三人の医者が出ていくと、警部はまた用心ぶかく、なかからぴったりドアをしめて、金田一耕助のほうへ向きなおった。
「金田一さん」
警部はむつかしい顔をして、
「さっきの電話じゃ、修善寺事件のつづきだということでしたが、ほんとですか」
金田一耕助は無言のままうなずいた。
「すると修善寺事件の犯人が、またひとり犠牲者を血祭りにあげたというわけですか」
金田一耕助はまた物憂げにうなずいた。
「いったいこの被害者はどういう人物なんです。そして、大道寺家とどういう関係があるんですか」
この警部は|等《と》|々《ど》|力《ろき》といって、金田一耕助とは以前より|昵《じっ》|懇《こん》の間柄であり、いままで二、三度事件をともにしたことがあって、たがいに親愛の情を抱いていた。
そこで金田一耕助はこんどの事件の概略を、かいつまんで語ってきかせたが、|但《ただ》し、そのなかでいちばん|肝《かん》|腎《じん》な智子の素姓と、衣笠氏の件に関しては、打ち明けることをひかえたので、それはかなり奥歯にもののはさまったような話であった。
しかし、等々力警部は気がつかず、
「すると修善寺事件の関係者が全部、ここに集まっているというんですね」
金田一耕助はうなずいた。
「そして、そのなかに犯人がいるというわけですか」
「さあ、そこまでは断言出来ませんが。……それよりも警部さん、今夜の事件について、さっそく取り調べを開始されたらいかがですか。ぼくにもまだ、だれがどのようにして被害者に毒入りチョコレートをあたえたか、よくわかっていないんです」
等々力警部はうなずいて、
「じゃ、さっそくはじめることにしますが、誰から|訊《き》いていったらいいですか」
「そうですね。大道寺氏からはじめたらどうですか。今夜の主人役ですから」
そこで大道寺欣造が隣の部屋から呼びいれられた。
欣造はあいかわらず、|生《せい》|気《き》のない眼の色をして、ぐったりと|椅《い》|子《す》に腰をおろすと、警部に問われるままに、つぎのようにそのときの状況を物語るのである。
「あれは何幕目でしたか、なにしろ短い|幕《まく》|間《あい》だったので、わたしどもはたいてい席を立たなかったのですが、智子と駒井君と三宅君。……」
と、欣造は三宅の死体のほうへ|顎《あご》をしゃくると、かすかに身ぶるいをして、
「この三人は正面の廊下のほうへ出ていきました。ところがしばらくすると文彦が……文彦がいつ席を立ったのか知らなかったんですが……あわただしくやってきて、駒井さんと三宅さんが|喧《けん》|嘩《か》をしてるというんです。そこで文彦について出てみると、果たしてふたりがつかみあいをやっている。わたしは|叱《しか》って引きわけましたが、喧嘩の原因というのを聞いてみると、どうやら智子にあるらしい。ところがその智子のすがたが見えないので聞いてみると、ひとりで二階へあがっていったという。そこで二階へあがっていったところが、ばったり知人にあって、そのひとにとっつかまって話しこんでいるところへ、今度は執事の伊波が、三宅さんがたいへんだと|報《し》らせにきたんです。そのときにはわたしはまた、駒井君との喧嘩がぶりかえしたんだろうくらいにかんがえていたんだが。…‥」
大道寺欣造はつかれきったように言葉をきると、ぼんやりと靴の|爪《つま》|先《さき》を|視《み》つめている。
金田一耕助はちょっとからだを乗り出して、
「なるほど。ところで二階でおあいになったお|識《し》り合いですがね。それはどういうひとでした」
大道寺欣造はジロリと耕助の顔を見ると、
「それをお話することが必要でしょうかね。そのひとは絶対にこの事件に関係のないひとなんですがねえ」
「いや、結構です。おっしゃりたくなければ、おっしゃらなくてもいいのです」
金田一耕助はちょっと心の|躍《おど》るのをおぼえるのである。大道寺欣造が二階であった識り合いというのは、衣笠氏ではあるまいか。
さっき立ち聴きした多門連太郎の話によると、誰か智子と連太郎を、結びつけようとしているものがいるらしい。しかも連太郎はそれではないかと思われる人物に、二階であったといっている。ひょっとすると連太郎のいう人物も、衣笠氏のことではあるまいか。そして衣笠氏は智子と連太郎が三階であっていることを知っていて、わざと大道寺欣造をひきとめたのではあるまいか。
金田一耕助は全身がうずくような、はげしい胸のときめきをおぼえる。
かれの調査によると、衣笠氏は智子の祖父にあたるのである。その祖父が愛する孫のためにえらんだ男。それが単なるやくざであるべきはずがない。
ああ、それでは、多門連太郎とは、いったい何者であろうか。
「ああ、いや。……」
金田一耕助は乱れる胸をおさえるように、|咽《の》|喉《ど》にからまる|痰《たん》を切りながら、
「ところで、三宅君は青酸加里入りチョコレートをたべて死んだらしいのですが、そのことについて、なにかお心当たりはありませんか」
「ああ、いや、それについては全然心当たりはありません。ただ。……」
「ただ……?」
「ええと、あれはたしか、そのまえの幕でした。観劇中にあの男が、左のポケットからチョコレートをつかみ出して、ひとつわたしにたべないかとすすめるんです。わたしがいらないというと、智子さんにいただいたんですと、いかにもうれしそうに、むしゃむしゃたべているのがおかしくって。……」
「左のポケットですね」
警部は立ってぬぎすてられた三宅の上着をさぐっていたが、やがて四個のチョコレートをつかみ出した。いずれも|紅《あか》い紙にくるんだチョコレートである。
「すると被害者はそのときたべたチョコレートでやられたのかな」
「いや、そんなはずはないと思いますね。青酸加里というやつは、すぐ効くそうじゃありませんか。三宅君がわたしのまえでチョコレートをたべたのは、幕があいてすぐだったから、そのなかに青酸加里がはいっていたとしたら、つぎの幕間まで保つはずがないと思いますよ」
金田一耕助はちょっとかんがえて、
「いや、そのことはあとで智子さんに|訊《き》いてみましょう。三宅君にいくつチョコレートをあたえたか。……警部さん、ほかになにか。……」
「いや、結構です」
警部は相談するように耕助を見る。耕助はかるくうなずいて、
「いや、有難うございました。大道寺さん、それじゃ恐れ入りますが、駒井君にここへくるようにおっしゃってくださいませんか」
駒井泰次郎はいらいらした足どりではいってくると、
「金田一さん!」
と、うえから|噛《か》みつきそうな調子でいったが、三宅の死体が眼にはいると、思わずぎょっととびのいて、あわてて眼をそらしながら、
「金田一さん」
と、こんどは打ってかわって弱々しい調子になった。
「いったいこれはどういうんです。誰がぼくをおとしいれようというんです。修善寺のときもそうでしたよ。つまらないことからぼくは遊佐と|喧《けん》|嘩《か》をしたんです。そしたらその晩遊佐が殺されて……ぼくはずいぶんいやな思いをしましたよ、ところが今夜もまたそうなんです。ぼくは三宅と喧嘩をしました。するとすぐそのあとで、三宅がぼくの眼のまえで死んじまったんです。金田一さん、誰かが、……誰かがぼくをおとしいれようとしているんです」
駒井はいまにも泣き出しそうな調子であった。
金田一耕助は等々力警部と顔を見合わせながら、
「まあお掛けなさい。立ってちゃ話も出来ない」
駒井はぐったり椅子に腰をおろすと、ハンケチを出してソワソワと額の汗をぬぐっている。耕助はその顔を見まもりながら、
「三宅さんとつかみあいをなすったそうですね。どうしてそんなことになったんですか」
「三宅が……いや、あの幕間にわたしたち三人、智子さんとわれわれですが、いっしょに正面の廊下へ出たんです。ところが智子さんはわれわれをおいて、ひとりで二階へあがろうとする。わたしがそのあとを追おうとすると、三宅がひきとめて話があるというんです。ところがあいつの話ときたら、口のなかでもぐもぐいうばかりで、何をいってるのかさっぱりわかりません。じれったくなってぼくがいこうとすると、三宅が手をとってひきとめる。その手を無理にふりはらった拍子に、ぼくの手が三宅の|頬《ほ》っぺたにあたったんです。すると三宅がムキになって。……あいつは|日《ひ》|頃《ごろ》女みたいにふにゃふにゃしてますが、ほんとはとても凶暴なやつなんです」
そういう場合にもかかわらず、金田一耕助はおかしさがこみあげてくるのを、どうすることも出来なかった。つまり日頃の|競争者《ライバル》意識が、|俄《が》|然《ぜん》頭をもたげたというわけだろう。
金田一耕助はあわててハンケチで口をおさえると、わざと渋面をつくって、
「ところで、ええと……そこへ大道寺さんがいらしたというわけですね」
「ええ、そうです。大道寺さんはそれからすぐに智子さんをさがしに、二階へあがっていきました。ぼくもいこうとしたが、来ちゃいけないというので、そこで待っていたんです。すると三宅がポケットからチョコレートをつかみ出し、にやにやしながら、ひとつ食べないかというんです。ぼくがいらないというと、智子さんにもらったのだよといいながら、紙をむいてむしゃむしゃ食べていましたが、それを食べおわるかおわらないうちに、急に様子が変になって……ぼくがびっくりしていると、|咽《の》|喉《ど》のところをかきむしりながら、洗面所のほうへ走っていくんです。ぼくが驚いてあとからついていくと、くずれるようにそこに倒れて……赤い血を吐いたんです」
駒井はそのときのことを思い出したのか、いまさらのように身ぶるいをし、三宅のほうへ眼をやったが、すぐまたあわてて眼をそらした。
「なるほど、ところでそのとき三宅さんのそばにいたのはあなただけでしたか。ほかにどなたか。……」
「文彦君がいました。文彦君もいっしょに洗面所へついていったんです」
「それじゃ最後に、そのとき三宅さんのたべたチョコレートの包み紙のいろですがね。青だっだか紅だったかおぼえていませんか」
駒井はちょっと考えたのち、
「青だったようです。三宅が食べてるときには気がつきませんでしたが、洗面所で倒れたとき、右手に青いチョコレートの紙を握っていたのをおぼえています」
「これですね」
金田一耕助がふところから取り出してみせたのは、|雛《しわ》|苦《く》|茶《ちゃ》になった青いパラフィン紙。駒井はくらい眼をしてうなずくと、
「これかどうかわかりませんが、これと同じような紙でした」
金田一耕助は満足して、警部のほうを振り返ると、
「警部さん、ほかになにか。……」
「ええ……と、そうですね。駒井さん、あなたは誰が被害者に、毒入りチョコレートをあたえたか御存じじゃありませんか」
「三宅のやつは智子さんにもらったといってましたが、智子さんがまさか。……」
駒井はまたそわそわとしはじめた。
「いや、有難うございました。ではこれくらいで。……恐れ入りますが、智子さんにこちらへ来るようにいってくれませんか」
三宅の死体に最後の|一《いち》|瞥《べつ》をくれて、駒井が逃げるように出ていくと間もなく、智子がはいってきたが、彼女はひとりではなく、文彦がくっつくように寄りそっている。
金田一耕助と等々力警部がとがめるように顔を見ると、智子はかすかにほほえんで、
「あなたがたのお|訊《たず》ねになりたいことはよくわかってますの。あたしが三宅さんに差し上げたチョコレートのことなんでしょう。それをお話するについては、文彦さんがいっしょにいてくださるほうがいいんです」
「ああ、そう、それではどうぞお掛けください。文彦君、君もかけたまえ」
文彦はなるべく三宅の死体を見ないように、智子のかげにかくれてそっと|坐《すわ》った。何やらまるい平たい|鑵《かん》を持っている。
金田一耕助は智子の顔を見まもりながら、
「ところで、あなたが三宅さんにチョコレートを差し上げたというのは。……」
「はあ、あれは事件の起こったまえの|幕《まく》|間《あい》でした。あたし三宅さんにちょっとお願いしたことがございまして、そのお礼にチョコレートを差し上げたのです」
「ああ、ちょっと。……三宅さんにお願いしたこととおっしゃるのは……?」
智子はかすかに|眉《まゆ》をあげると、
「そんなこと必要なんでしょうか。この事件になにも関係のないことなんですけれど。……」
「ああ、いや、それではどうぞ、さきをおつづけになってください」
「あたしが三宅さんに差し上げたのは、みんな|紅《あか》い紙にくるんだチョコレートで、数は五つでございました」
金田一耕助と等々力警部はドキッとしたように顔を見合わせる。それから耕助はさぐるように智子の顔を見て、
「智子さん、あなたはどうしてそのことを、そうはっきりといいきれるんです」
「金田一さま」
智子は真正面から耕助の眼を見返しながら、
「あなたのお考えはよくわかりますわ。あたしたちがお隣の部屋で、打ち合わせでもして来たんだろうと思っていらっしゃるんでしょう。でも、そうではございませんの。刑事さんが見張ってらっしゃるんですもの、とても、そんなこと出来ゃあしませんわ。でも、あたし、三宅さんがおあがりになって、あの、なにしたチョコレートというのは、青い紙にくるんであったってこと、ちゃんとこの眼で見たもんですから。……」
「なるほど、それで一応弁明なさろうというわけですね、でも、どうしてそうはっきりとおぼえていらっしゃるんですか」
「それはこうです。お礼といったところで、むろん冗談ですから、あたし三宅さんの|掌《てのひら》をひらいて、ひとつ、ふたつとかぞえながら差し上げたんです。そのとき、ハンドバッグからつかみ出したのは六個だったんですけれど、それじゃ数が悪いと思って、残ったひとつはもとへもどしたくらいですから」
「それが全部、紅い包み紙のチョコレートだったんですね」
「はあ、どうぞごらんください。このなかにチョコレートがございますから」
智子の差し出したハンドバッグをひらいてみると、女らしい身のまわりの品にまじって、チョコレートが八個、ばらではいっていたが、それらのチョコレートの包み紙は全部紅だった。
智子はかすかにほほえんで、
「チョコレートをばらで持ってるなんて、ずいぶんお行儀の悪い女だとお思いになるでしょう。でも、それはこうですの。あたしども今日|経堂《きょうどう》から自動車でまいったのですけれど、その自動車のなかで文彦さまが、お姉さまにチョコレート差し上げるとおっしゃって、あの|鑵《かん》のなかから。……」
と、智子は文彦の持っている、まるい平たい鑵をゆびさして、
「わけてくだすったのですが、そのときお姉さまは女だから、紅い包み紙のをみんな差し上げると、紅いのばかり選って全部あたしにくだすったんです。それですからこのハンドバッグのなかには、青い包み紙のチョコレートは、ひとつもはいっていなかったんです」
「ちょっとその鑵を拝見」
金田一耕助が文彦から鑵をうけとってひらいてみると、そこには銀紙でくるんだのが少々あるほかは、全部、青い紙でくるんだチョコレートばかりであった。耕助がそのひとつをむいて、三宅の握っていた紙とくらべてみると全然おなじ種類のものである。
警部と金田一耕助は思わず顔を見合わせた。
「なるほど、するとこの鑵には、紅いチョコレートはひとつもなかったわけですな」
「ええ、そうですの」
「ところで、その自動車のなかには、ほかにどういうひとが乗っていました? 文彦君が紅いチョコレートをわけてくれたとき。……」
「あたしたちのほかに、お|祖《ば》|母《あ》さまと|蔦《つた》|代《よ》さま、それから神尾先生。お父さまは会社から直接こちらへいらしたのです」
「なるほど。ところであなたが三宅君に、チョコレートをあげたのを、知ってるひとがありますか」
「はあ、あの、駒井さんは御存じでしょう。見ていらしたんですから。それから|九《つ》|十《く》|九《も》のおじさまも。……」
「ううん、ほかのひともみんな知ってるよ」
突然、そばから口を出したのは文彦である。
「だってぼくがそういったんだもの。デブチン……ううん、あの、三宅さんがお姉さまからチョコレートをもらって、犬みたいにコロコロよろこんでるよって」
「まあ、文彦さまったら!」
智子もさずがにまっかになったが、金田一耕助も一種異様な眼をして、文彦の顔を|視《み》つめている。
ああ、これはなんという少年だろう。修善寺事件をあんなにこんがらがらせたのも、この少年のつくった活字の手紙のせいだった。そしていままたこの少年のチョコレートから、あのような|惨《さん》|劇《げき》がひき起こされたのだ。ひょっとするとこの少年は、悪魔の弟子ともいうべき運命を、背負うているのではあるまいか。……
それはさておき、それから間もなく智子と文彦が出ていくと、警部はいらいらと部屋のなかを歩きまわりながら、
「ねえ、金田一さん、これはいったいどういうことになるんです。犯人は智子が被害者にいくつかのチョコレートをあたえたことを知っていた。そこで文彦の鑵のなかから、チョコレートをひとつぬすみ出し、それに青酸加里をつめて、そっと被害者のポケットにすべりこませておいた。被害者はそれを知らずに食べて死んだ。……と、そういうことになるんですか」
「たぶんそうでしょうな」
「すると犯人は今夜、青酸加里を用意してきていたんですね」
「いや、今夜にかぎらず、犯人はいつもそれを身につけているんじゃないでしょうかねえ。いざという場合のこともありますから。しかし、いまになって身体検査をしたって駄目ですよ。犯人はとっくの昔に始末してしまっているでしょうからね」
警部はまたいらいらと部屋のなかを歩きまわりながら、
「しかし、金田一さん、誰が犯人にしろ、少なくとも今日智子といっしょに自動車でやって来た連中は嫌疑から除外することが出来ますね」
「どうしてですか」
「だって、その連中は智子の持っているチョコレートの包み紙は、全部紅だということを知っている。だから。……」
「警部さん」
金田一耕助はむつかしい顔をして、
「犯人がもし、三宅を殺し、その罪を智子さんにおっかぶせようとしており、しかも、そいつが智子さんの持っているチョコレートの色を知っていたとしたら、それはあなたのおっしゃるとおりです。そいつは当然、紅いチョコレートをえらぶでしょう。しかし、犯人の目的が、ただ三宅を殺すことだけにあり、智子さんのことはどうでもいい、あるいは智子さんに罪をきせたくないという場合には、わざと智子さんの持っているチョコレートとちがった色をえらぶでしょう。
そうなってくると、智子さんの持っているチョコレートの色を知っているひとたち、即ち、智子さんといっしょに自動車でやってきた連中こそ、かえって怪しいということになりますね。そして、このことは智子さん自身にもいえるんです」
金田一耕助はものうげに溜め息をついて、
「とにかくあとで、三宅の席の周囲をしらべてみようじゃありませんか。大道寺さんは観劇中に三宅がひとつ、チョコレートをたべたといっているが、それだとそこに、紅い包み紙が落ちているはずですから。……」
芝居が|閉《は》|場《ね》てから、三毛の席をしらべてみると、果たして紅い包み紙がいちまい落ちていた。
しかし、そのことは嫌疑者の範囲をせばめることには、少しもならないのである。
第七章 寸劇
寸 劇
多門連太郎と宇津木慎介のあいだには、ある種の妥協が成立していた。
それは連太郎をいまただちに、警察署へ引き渡さないかわりに、新日報社の監視のもとにおくというのである。つまり連太郎を警察の逮捕からまもってやるかわりに、一種の軟禁状態におき、時期を見てスクープする(特種にする)特権を獲得しようというのであった。
そう話がきまると慎介はただちに劇場から新日報社へ電話をかけ、事件を報告すると、かわりの記者を派遣するよう要請した。そして、その記者が到着するのを待って、連太郎とともに劇場を出たというわけである。
だから劇場の玄関のところで、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部に出会ったときには、慎介もぎょっとせずにはいられなかった。
新聞記者――ことに宇津木慎介のように、第一線にはたらく記者が、たまたまぶつかった犯罪現場をうっちゃらかして、そのまま立ち去るということは、不自然このうえもないことである。老練な等々力警部がそれに気づかぬはずはない。慎介はいまにも警部の声がかかるか、いまにも刑事が追ってくるかと、|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》から相当はなれるまでは、|腋《わき》の下から冷汗が流れる思いだった。
「あっはっは、|脛《すね》にきず持つ身のうえとは、まったくこのことだね。いまにも、おい、宇津木君、つれの男は何者だいと、来やあしないかと思って、胸がドキドキしたぜ」
|三《み》|原《はら》|橋《ばし》をわたってふりかえって見ると、等々力警部はそのまま劇場のなかへはいっていったらしく、また追っかけてくる刑事もなさそうなので、慎介はほっとして、腕を組んでいる連太郎の顔をふりかえった。
「あの警部、知ってるのかい」
何かかんがえこんでいた連太郎は、沈んだ調子でそう|訊《たず》ねた。
「うん、等々力といって警視庁でも有名な|古狸《ふるだぬき》さ。こちとらとは|碁敵《ごがたき》みたいなものだ。憎さも憎し、|懐《なつか》ししというやつでね。出し抜いたり、出し抜かれたりだ」
その警部を出し抜いて、首尾よく連太郎を連れ出すことの出来た慎介は、いささか浮かれぎみだった。
連太郎は慎介に手をとられたまま、黙々として歩道の暗いがわをよって歩いていたが、やがてふっと慎介のほうをふりかえると、
「宇津木君、今夜殺されたのはデブだといったね」
「うん、殺されたのかどうかまだわからんが、口から血を吐いてお|陀《だ》|仏《ぶつ》さ。青酸加里でものんだんだろうね。まさか歌舞伎座までやってきて、自殺するやつもあるまいから、これはやっぱり他殺と見るのが至当だろう」
「おれは今夜、あいつの首根っ子をヘシ折ってやろうかと思った。……」
連太郎がポツンと、|呟《つぶや》くようにいった。慎介は、ギョッとして相手の顔を見直すと、
「おい、止せよ。冗談じゃない。まさか君がやったんじゃあるまいな」
「おれじゃない」
それから連太郎はしばらく間をおいて、
「しかし、おれのその心持ちはさっき智子さんに話したから、いまごろはもう警部の耳にはいっているかも知れない。しかも……しかもおれの席はデブのすぐうしろだった」
慎介はまたギョッとして相手の顔を見直しながら、
「おい、君、多門君、君はいったいなんのことをいっているんだ」
「おれは……おれは、たいへんな勘違いをしていたのじゃないかと思いはじめているんだ。名をかくして、おれをたびたび呼び出すのは、おれに好意を持ってるからじゃなくて、逆におれに悪意を持ってるやつのしわざじゃないかと。……いつもおれは嫌疑をうける立場におかれている。修善寺事件のときもそうだった。……」
慎介は急に不安になってきて、キョロキョロと前後左右を見まわすと、
「おい、君、多門君、君がそんな馬鹿なこと……あのデブを殺してやりたいなんて意味のことを、ひとにもらしたとしたらぐずぐず出来ない。いつなんどき、刑事が追っかけてくるかも知れないから、とにかく急ごう」
慎介が足をはやめると、連太郎もさからわずに、無言のまま足をはやめたが、そのときだった。
「ちょっと、ちょっと、兄さん」
と、うしろから声をかけて近よってきた女が、慎介の左側からぴったり身をよせると、
「そのひとばかり可愛がらずに、少しはあたしも可愛がってよ」
「なに?」
と、女の顔をふりかえったとたん、慎介はゾーツとするようなものを左の腰部に感じた。
女は緑色のレーンコートを着ている。そしてレーンコートのポケットに右手をつっこんでいるのだが、そのポケット越しに、なにやら固い、ゴツゴツするものが、慎介の左の腰部にぴったりと当てられているのである。
「な、なにをするのだ」
「そのひとを離してあげてもらいたいの」
「なに?」
「ちょっと、兄さん、あたしの顔を見て。あたし冗談をいってるように見えて? あたし、そのひとのためなら、新聞記者のふたりや三人、殺すことなんでもないの。とにかく、そのひとを離してあげて。そのかわり、あたしがあんたといっしょに行くわ。人質になるわ。ちょっと兄さん、あたしの顔をもっとよく見てよ!」
しだいに|甲《かん》|高《だか》くなってくる女の顔を見て、さすがの宇津木慎介も、みぞおちのあたりがキュッと固くなるのを感じずにはいられなかった。
思いつめたカオル――それがカオルだったことはいうまでもない――の顔は、|蒼《あお》ざめて、|歪《ゆが》んで、|強《こわ》|張《ば》って、涙ぐんだ眼が固い決意にギラギラ光っている。
慎介は思わず連太郎と組んだ腕をゆるめた。連太郎はいそぎ足で五、六歩、慎介のそばからはなれると、そこでちょっと立ちどまって、
「宇津木君、約束を破ってすまない。しかし、おれはもうしばらく、自由でいたくなった。つきとめねばならぬことがあるんだ。それがわかったら、おれはきっと新日報社ヘ君をたずねていく。カオル、無鉄砲なまねをするな」
「待て!」
慎介が追っかけようとするのを、
「駄目よ。これがわからないの」
左手でひきもどしたカオルが、右手に握ったものをぐいぐい腰におしつける。
そのあいだに連太郎はまた五、六歩走ったが、そのときである。うしろから自動車が、連太郎の二、三間むこうへ来てとまったかと思うと、なかから顔を出した男が、
「連太郎、これへ乗れ!」
「えっ!」
このことは連太郎にとっても意外だったらしく、びっくりして立ちどまると、すかすように相手の顔を見ていたが、
「あっ、で、殿。……」
なにかしら、しびれるような声だった。慎介もギョッとして、自動車のなかの人を見る。
「馬鹿! 何もいわずに早く乗らんか」
「はっ!」
せぐりあげるような声を吐き出すと、連太郎の足どりが、二、三歩よろよろよろめいた。やっとステップに足をかけて乗りこむと、そのまま自動車は走り去った。
慎介は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、その自動車を見送っている。その慎介の腕をとらえたカオルの眼にも、茫然たる色がうかんでいる。だいぶたってから、慎介はカオルをふりかえった。
「君、いまのひと知ってる? 自動車のなかにいたひと……?」
「知らない。あんなお|爺《じい》さん、いままでいちども見たことない」
「おい、その危い道具こっちへよこせ」
「うん」
カオルは素直に小型のピストルを慎介にわたした。
「君は人質になる約束だったね」
「ええ、どこへでもいくわ」
「あっはっは、いい娘だ、君は。……」
ふたりは恋人同士のように腕を組んで、黙々として|夜《よ》|更《ふ》けの町を歩いていく。
歌舞伎座がはねたのか、ふたりのそばをひとだの車だのが、流れるように追いぬいていく。しかし、誰ひとりとしていまこの街頭で演じられた寸劇を、知っているものはなかった。
しかし、慎介は知っているのである。
いま自動車で多門連太郎を|拉《ら》|致《ち》し去った人物こそ、もとの|衣笠《きぬがさの》|宮《みや》|智《とも》|仁《ひと》王殿下、現在の衣笠智仁氏であることを。……
衣笠智仁氏
「もっと早くお伺いすべきだったのですが、やはりどうも勇気が出なかったのです。今日は智子さんのためにも、腹蔵のないところをお伺いしたいと思って、面をかぶって押しかけてきました。無礼の段はお許しください」
恐縮して、いくらか固くなっている金田一耕助の顔を、おだやかな|瞳《め》で見守りながら、
「私のことは加納君から聞かれたのかな」
と、そういう衣笠氏の面上には、いささかの動揺の色も見られない。いずれはこういうこともあろうかと、覚悟をきめていられたような、落ち着きはらった|風《ふう》|ぼう[#「ぼう」は、「蚌」から「虫」を外したもの。Unicode="#4e30"]《ぼう》である。
「いいえ、加納弁護士はなんにもおっしゃいません。いろいろ調査していくうちに、あなたのお名前につきあたったのです。それに、このあいだの晩、歌舞伎座でお眼にかかりましたし。……」
衣笠氏はちょっと瞳をすぼめたが、それについて、べつになんともいわなかった。
渋谷|松濤《しょうとう》にある衣笠氏の住居なのである。衣笠氏はそこで長年仕える|老《ろう》|婢《ひ》のほかに、少数の召し使いとともに、ごく簡素な生活を営んでいられる。ちかごろの楽しみといえば|蘭《らん》の栽培だけ。いま金田一耕助とむかいあっている応接室から、はるかむこうに見える温室には、さまざまな珍しい蘭の種類が集められているのである。
歌舞伎座の事件からかぞえて三日目のこと。さまざまに思い惑い、疑い悩んだあげく、とうとう思いきって衣笠氏を訪問した金田一耕助だった。どうせ一度や二度では|埒《らち》があくまい。居留守を使われるか玄関払いかと、覚悟をきめてきたにもかかわらず、案外簡単に応接室へとおされていまこうして向かいあっているふたりだった。
「御身分が御身分ですから、出来るだけ表面へ出たくないというお気持ちはよくわかります。しかし、こんなことをいつまでも、続けているわけにはまいりません。一刻も早く犯人に、こんなことをやめさせなければなりません。それについていろいろと、お伺いしたいことがあるのですが。……」
「そう、一刻も早く犯人に、こんなことはやめさせねばならぬ」
衣笠氏も暗い顔をして|相《あい》|槌《づち》をうつと、
「それについて必要ならば、どんなことでもいってあげたい。私の知るかぎりのことならば。ただ、あんたもいわれるとおり、私はあくまでこの事件の表面に出たくない。新聞に名前の出るようなことは避けたいのだが。……」
「その点はよく心得ております。ぼくは決して秘密をもらすようなことはありません」
「有難う」
衣笠氏の|綺《き》|麗《れい》に澄んだ瞳が、じっと耕助を視つめていたが、やがてかすかに|微《ほほ》|笑《え》むと、
「ところで、あんたはどの程度まで御存じかな、私のことについて。……」
「はあ、だいたいは。……あなたが智子さんのお祖父さまにあたられること。その智子さんを大道寺さんとはかって、東京へ|招《よ》び寄せられたこと。しかも、晴れて名乗りの出来ないあなたは、一日も早く智子さんを御覧になりたくて、変装して、ひそかに修善寺ヘ出向いていかれたこと。……」
「なるほど、なるほど。それから。……」
「それから、これはぼくの邪推かも知れないのですが、あなたには大道寺さんのえらばれた、智子さんのお婿さんの候補者が気にいらなくて、別に多門連太郎なる人物をえらんで、それを智子さんと結びつけようと、画策していらっしゃるのじゃないかということ」
最後の言葉を聞いたせつな、衣笠氏はどきっとしたように瞳をすぼめて、金田一耕助の顔を見ていたが、やがて声を落とすと、
「金田一さん。大道寺もそのことに気がついているだろうか」
と、いくらか不安そうである。
「いや、おそらくそこまでは御存じありますまい。むろんあんな|聡《そう》|明《めい》なひとですから、多門連太郎なる人物に、強い疑惑は持っていられるだろうが、まさかそれが、あなたの画策だとは御存じないようです。しかし、衣笠さん、あなたはどうしてあんなことをなさるんです。大道寺さんのえらんだ候補者が気にいらないならいらないと、なぜ明白に主張なさらないのですか」
「それはむろん主張した。しかし、こればかりはどうしても大道寺が|肯《うけ》|入《い》れんのだ。大道寺があくまでも頑張れば、私にはそれをくつがえす権利はない。戸籍からいっても大道寺は、智子の実父ということになっているのだし。……それに戦後はあの男に、いろいろ義理もあるので、そう強いこともいえんのじゃ」
衣笠氏は声をくもらせて、
「しかし、大道寺ほど聡明な男に、どうしてあれがわからんのか。私も可愛い孫の婿になるかも知れぬ連中のことだから、詳しく調査してみたが、どれもこれも|碌《ろく》なやつはおらん。なるほど家柄はいい。智子の婿としても申し分のない名門の出だ。しかし、人間的にいえばみんなコンマ以下の連中ばかりだ。あれほど聡明な大道寺が、どうしてよりによって、あんな連中をえらんだのか。……」
高貴な衣笠氏の面上にはかすかに血の色がさし、怒りに声がふるえていた。
「なるほど、それで多門という青年は……?」
と、金田一耕助が言葉をはさむのを、衣笠氏は耳にもかけず、いくらか激した調子で、
「まあ、金田一君、聞いてくれ。私はこのとおり年老いて身寄りのない身の上だ。そういう私にとって智子がいかに可愛いか。あそこには神尾秀子という家庭教師がいて、毎年五月二十五日の誕生日には、智子の写真をとって大道寺に送ってよこす。その写真をまた大道寺が私のほうへまわしてくれるのだが、年々歳々智子は亡くなった|智詮《ともあきら》に似てくるのだ。智詮は私のペットだった。眼のなかへいれても痛くないほど可愛い子だった。その智詮に年々歳々似てくるにつけ、私はもう矢も|楯《たて》もなく智子にあいたくなった。と、いって私の身分だから、正式に名乗りあうわけにもいかぬ。私は出来るだけ世間の口の|端《は》にのぼりたくないのだ。新聞種になるようなことは避けたいのだ。そこであくまで大道寺を表面に立て、智子を東京ヘ|招《よ》びよせてもらうことにした。せめて身近なところにあれをおき、ときおり|健《すこや》かにそだった姿をかいま見て、それを老いの身の慰めにするつもりだったのだ」
衣笠氏の眼はしっとり涙にぬれてくる。金田一耕助もこの元宮様の|淋《さび》しい御境遇を考えると、胸が熱くならずにはいられなかった。
衣笠氏は言葉をついで、
「それほど智子は私にとって可愛い孫なのだ。その可愛い孫の婿になるべき人物が、コンマ以下とあっては、どうして私が黙っていられよう。と、いってそれ以上大道寺に楯つけぬ事情もある。私は苦しんだ。|煩《はん》|悶《もん》したのだ。このまま捨てておけば、智子はいずれ三人のうちから、配偶者をえらばざるを得なくなるだろう。そこで私は考えたのだが、これはひとつ大道寺にも内緒で、別の候補者をぶっつけよう。智子がそれをえらぶぶんには、大道寺とて苦情はあるまい。そう考えて私のえらんだ意中の人物というのが、多門連太郎なんだ」
多門連太郎という名前には、衣笠氏の心をあたためるものがあるらしく、ほんのりと、|嬉《うれ》しそうな微笑をもらすと、
「あんたはいま、多門連太郎とはどういう人物かと聞かれたが、あれの|祖《じ》|父《い》は昔私のところで別当をしていた。日比野というのが本姓だが、あれは母方をついだから多門と名乗っているんだ。あれの祖父は外国公使もしたことのある人物で、骨のある立派な男だった。私はその男の|薫《くん》|陶《とう》をうけて成人したのだが、そういう関係で連太郎も、幼いときからよく私のもとへ出入りをしていた。私はあれに眼をかけていたのだ。見どころのある若者とにらんでいたのだ。連太郎の父はわかくして死んだから、別に名もなさなかったが、あれは将来祖父に劣らぬ立派な人物になるだろうと、頼もしく思っていたのだ。私が連太郎に最後にあったのは、学徒出陣で出ていくときだった。あれがお別れに来てくれたのだ。その後あれは特攻隊を志願して、あわや|散《さん》|華《げ》という寸前で、終戦ということになったのだそうな。そのことと、戦後のこの世相が、感じやすい若者の心をどのように傷つけたか。一切の感激は空に帰した。あとに残されたのはむなしい魂の|抜《ぬ》け|殻《がら》だけだ。それがあれに、戦後あのような生活をさせたのだ。私はまえからあの男を、智子の配偶者として胸にえがいていたのだが、戦後におけるあれの生活ぶりをつたえ聞くと、いったんは怒った。嘆いた。絶望した。しかし、つらつら考えるのに、あれほど高貴な魂を持った男が、このままむざむざ、泥沼の底に朽ちていくとは思えない。いつかは立ちなおるだろう。いや、立ちなおらせねばならぬ。そう決心した私は、そのチャンスを与えようとしたのだ。智子によってあの男を救うと同時に、あの男によって智子を救ってもらいたいと考えたのだ。しかし、私はあくまでも表ヘ出たくなかった。連太郎にも私が智子の祖父であることを知らせたくなかった。そういうことはなにも知らさず、一切白紙で智子と連太郎をめぐりあわさせ、結びつくものなら、ふたりを結びつけたいというのが、何よりの私の念願だったのだ」
その結果、衣笠氏のとられた方法は、たしかにいささか|奇矯《ききょう》であった。しかし、氏の御身分、あくまで世間の口の端にのぼらぬようにしたいというお気持ち、さらに戦後における連太郎の素行などを考えあわせると、衣笠氏がああいう奇妙な方法をえらんだのも、まことに|已《や》むを得ないことだったかも知れぬ。
「なるほど、わかりました。そこであなたは連太郎君を|松籟荘《しょうらいそう》へいかせると同時に、御自分でもその結果を見にいかれたんですね」
「そう、それもあるが、私は智子の顔を一日も早く見たくて、矢も楯もたまらなかったんだ」
「あなたが、変装していられたのは、松籟荘の従業員や、連太郎君に顔を知られているためと思いますが、ただ私が不思議でならないのは、あなたのような御身分のかたが、どうして変装などということを思いつかれたか。またその|術《すべ》を知っていられたか。……」
衣笠氏は|眼《め》|尻《じり》に|皺《しわ》をたたえて、
「あれは大道寺が教えてくれたんだよ」
「大道寺さんが……?」
金田一耕助は眼を丸くした。
「そう、私が一日も早く智子の顔を見たい。しかし、顔を知られているから松籟荘へ出向くわけにもいかないと嘆くと、大道寺がそれでは変装していかれるがよいと、どこからか|鬘《かずら》や付け|髯《ひげ》をくめんして来て、いろいろ指導してくれたのだ。あの男は学生時代演劇部に籍をおいて、舞台に立ったこともあるので、|扮装術《ふんそうじゅつ》などにもひととおり|造《ぞう》|詣《けい》があるんだね」
金田一耕助はちょっと考えて、
「あなたが松籟荘から逃げ出されたのは、警察の取り調べの結果、御身分が発覚するのを、おそれられたからでしょうね」
「そう、むしろ変装などしていなければよかったのだが……変装しているだけに、警察の取り調べをうけるわけにはいかなかった」
「あなたは遊佐君の死体をごらんになったんですね」
衣笠氏はうなずいた。
「時計室ヘ入っていかれたんですか」
「いや、入ってはいかなかった。私はあそこにいるあいだ、毎晩屋上を散歩することにしていた。あの晩もそれで屋上へあがっていくと、時計室から明かりがもれている。そんなことはいままでなかったことなので、誰かいるのかなと不思議に思って、ドアをひらいてちょっとのぞいて見ただけだ」
「しかし、それじゃあの死体が、遊佐君かどうかわからなかったでしょう」
「いや、わかったよ。だってあの男はこちら向きに、壁にもたれて立っていたんだから」
「な、な、なんですって? た、た、立っていたんですって?」
金田一耕助は突然脳天から、鋭い|楔《くさび》でもぶちこまれたような、大きな驚きにうたれた。眼のまえに火花が散るかんじだった。
「だって、だって、すぐそのあとで智子さんが見つけたときには、遊佐君は床に倒れていたということでしたが。……」
「そう、私があわててドアをしめたとき、その震動であの男は倒れたらしい。私はその音を聞いたから、ドアを細目にひらいてのぞいて見たんだ。そしたらあの男は床に倒れていた」
金田一耕助は全身を、痛いような|戦《せん》|慄《りつ》がつらぬいて走るのをおぼえる。
ああ、これはなんということだろう。衣笠氏の言葉が事実としたら、金田一耕助の推理は根底からくずれてしまうわけではないか。
金田一耕助の考えでは、遊佐が倒れるはずみにからだの重みで、|自鳴鐘《じめいしょう》の弁を動かしたのは、撲殺された瞬間であろうと思っていた。それにもかかわらず九時十五分には自鳴鐘は鳴らず、九時三十分にはじめて鳴ったのだから、したがって自鳴鐘の動いた瞬間、即ち殺人の行なわれた時刻を、九時十五分以後であろうと断定し、その基礎のうえに立って、アリバイ調べを行なったのである。
しかし、いまの衣笠氏の話を聞くと、遊佐の殺された時刻と、自鳴鐘の動いた時刻とは、全然無関係ということになる。ひょっとすると、遊佐は九時十五分以前にすでに殺されていて、そのままそこに立っていたのかも知れないのだ。
金田一耕助はあまり|烈《はげ》しいショックのために、しばらくのあいだ、口を|利《き》くことすら出来なかった。
無理もないのだ。修善寺で作成されたアリバイ表は全然無意味なものであることが、いまや|明瞭《めいりょう》になってきたのである。あの時、九時十五分から三十分までのあいだの、完全なアリバイを持つゆえに、嫌疑の外におかれていた人物のなかに、ひょっとすると犯人がいるかも知れないのだ。
金田一耕助は小ざかしい人間の|智《ち》|慧《え》のはかなさをそこに感じて、すっかりしょげきってしまった。
「ところで。……」
やっとかれが重い口をひらいたのは、それからよほどたってからのことだった。
「連太郎君はどうしていますか」
「連太郎? 連太郎がどうかしたかね」
「いえいえ、おかくしになってもいけません。歌舞伎座のかえりに、あなたが連太郎君を自動車で、連れ去るところを見ていたものがあるんです。連太郎君はいまこの家に……?」
衣笠氏は相手のからだを吸いとるような|瞳《め》で、まじまじと耕助のすがたを見ながら、
「そう、そこまで知っていられるなら仕方がない。私はあれをこの家へつれてきた。そして懇々と説諭を加えた。智子のことも打ちあけたのだ。あの男は非常に驚き、感動していた。私のまえに手をついて|改悛《かいしゅん》をちかったのだ。金田一さん、あの男はこんどの事件には全然無関係だよ」
「それはわかっていますが、今日は。……」
「いないよ。|嘘《うそ》じゃない。出かけたのだ」
「どこへ。……」
「|青《お》|梅《うめ》にある|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》の道場へ。連太郎はあの男が怪しいというんだ。自分で探偵するつもりらしい」
金田一耕助は怪しく胸の躍るのをおぼえた。
その日、衣笠氏のもとを辞して、耕助がうちへかえってみると、神尾秀子から速達がきていた。開いてみるとこのあいだ、歌舞伎座でお約束した、編み物の符号の暗号が出来たからお送りするという手紙であって、別の紙にあの複雑な編み物の符号をいろいろと組みあわせて、アイウエオ五十音がつくってあった。
金田一耕助はなにかしら、ぎょっとしたような気持ちで、食いいるようにその暗号を|視《み》つめていたが、そこへ母屋のほうから、あわただしい足音をひびかせて、女中がかけつけて来た。
「金田一さま。お電話……」
「電話……? どちらから……?」
「等々力さまとおっしゃるかたから。……なんだか、とてもせきこんでいらっしゃいますようで……」
耕助はなにかしら、不吉な|想《おも》いに打たれて、電話室へ入っていった。
「警部さん、ぼく、金田一……何か御用ですか」
「ああ、金田一さん」
と、警部は|昂《こう》|奮《ふん》にふるえる声で、
「あんた、青梅にある九十九龍馬の道場を御存じかね」
「いいえ、あそこに龍馬の道場があることは知っていますが、まだいったことはありません。しかし、警部さん、それがどうかしたのですか」
「ふむ、あそこでまた何かあったらしい。それで、われわれはいま出掛けるところだが、あんたも差し支えがなかったら、いって見たらどうか」
「承知しました。それじゃさっそく出掛けましょう。しかし、警部さん、いったい何が……」
「いや、それはいってみればわかる。われわれは急いでいるから、それじゃこれで……」
ガチャンと警部の受話器をかける音を、いたいほど耳にかんじながら、耕助はなおしばらく、電話室のなかに立ちすくんでいた。
青梅の九十九道場へは、多門連太郎がいっていることを、耕助は衣笠から聞いて、知っているのである。いったい、何事が起こったのか。……
傷ましき母
それより少しまえのこと、青梅にある九十九龍馬の道場の、人眼をさけた奥座敷では、あるじの龍馬がいやらしいほど笑みくずれていた。
|智《とも》|子《こ》が約束を守って、単身訪ねてきてくれたからである。しかも今日の智子の色っぽさ、|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》のときと同じく、眼のさめるような和服姿が、いっそう龍馬の心をそそるのだ。
「あっはっは、よう来てくれたな。ああはゆうても、ほんとに来てくれるかどうかと|危《あやぶ》んでいた。ほんとによう来てくれたな」
白い|行衣《ぎょうい》に、浅黄の|袴《はかま》をはいた|膝《ひざ》をくずして、龍馬は朱塗りの唐机のうえから、眼を細めて、智子の手をとらんばかりである。
「いやなおじさま。あたし来るといったらきっと来るのよ。あたしいったん思い立ったら、誰がなんといっても|肯《き》かないの」
「あっはっは、そうか、そうか、智子さんは強いんだね.おっ母さまとはだいぶちがう。おっ母さまは気が弱すぎて、どうにでもひとのいうとおりになるようなひとじゃった。しかし、そうして着物を着てるところを見ると、やっぱりおっ母さまによう似とる」
「そうかしら。そういわれると|嬉《うれ》しいわ。だって島のひとの話によると、お母さまほど美しいひとはなかったということですもの」
「そりゃおっ母さまも|綺《き》|麗《れい》じゃったが、あんたも美しいな。|眩《まぶ》しいくらいじゃて。ははは」
「まあ、おじさまのお世辞のよいこと」
龍馬の|瞳《め》がしだいに危険な色をおびてくるのを、知っているのかいないのか、智子はことさらに身をくねらせて、甘いとろかすような声である。
「お世辞じゃない。お世辞などいうもんか。わしゃほんとにそう思っとる。智子さん」
龍馬が|俄《にわ》かにせきこんで、唐机のうえから身を乗り出したとき、|襖《ふすま》の外に足音がして、
「先生」
「誰だ.ああ、音丸か」
「はい、お召し上がりものを。……」
「ああ、そうか、そうか。こちらへお入り」
「はい」
しずかに襖をひらいたのは十三、四歳の|小僮《しょうどう》である。|綸《りん》|子《ず》の|小《こ》|袖《そで》に|法眼袴《ほうげんばかま》のようなものをはいて、色白の顔が化粧したように美しい。小僮が唐机のうえに、さまざまな皿小鉢をならべるのを見て、
「あら、こんなに|御《ご》|馳《ち》|走《そう》をしていただいては。……」
「なにもありゃせん。どうせこんな|山《やま》|家《が》だもの。電話でもかけておいてくれたら、もっと仕様があったのじゃが。……」
「お嬢さま、ひとついかがでございますか」
小僮に|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》の徳利をさされて、
「あら、あたし、駄目ですわ」
「まあ、そういわんと飲んでごらん。わしのくふうになる神酒じゃ。薬草をひたしてあるでな。不老長寿の薬になる」
「そう、じゃひとついただいてみようかしら」
ちかごろ求婚者たちのお相手で、智子も多少は飲めるようになっている。とろりとした|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の液体を舌にのせて、
「まあ、おじさま、甘いのね」
「うん、御婦人向きじゃな。音丸、もういっぱい注いでおあげ」
智子は小さいグラスに酒をうけながら、
「おじさま、ここには女のかたはいらっしゃいませんの」
「ここは道場だからな、|女《にょ》|人《にん》|禁《きん》|制《せい》じゃ。そのかわりこういう可愛いのが大勢いて、なんでも用を足してくれる」
「あら、女人禁制だと、あたし来ちゃいけなかったのかしら」
「なに、そんなことはありゃせん。信者はべつじゃ。信者に男女の区別はないでな」
龍馬が眼配せすると、小僮はうやうやしく一礼して、襖の外へ出ていった。智子はそれに、気がついているのかいないのか、上気した|頬《ほお》をハンケチで|煽《あお》ぎながら、
「あたしほんとにびっくりしたわ。ここのお家、あんまり御立派なんですもの。まるで御殿みたい」
智子の言葉は、必ずしも誇張ではなかった。
青梅の|谿《けい》|谷《こく》にそうて建てられた龍馬の道場は、小規模ながらも寝殿づくりで、寝殿を中心として、左右と背後に三つの|対《たい》|屋《のや》、庭の池には|釣《つり》|殿《どの》もあり、|泉殿《いずみどの》もある。
龍馬がこういう道場をたてたのは、信者たちに威容を示すためもあろうが、もうひとつには実際的な必要もあったからである。この道場へは信心に名をかりて、政界や財界の策士たちがよくやってくる。これらの連中にはいろんな派があって、顔を合わせると|拙《まず》い場合もあるので、あちこちに独立した建物を作っておく必要があったのである。そういう意味で付近のものが、この道場を伏魔殿とよんでいるのは当たっていた。
智子がいま龍馬とさしむかいになっているのは、いちばん奥の対屋のひと間で、ここばかりはぐっと砕けて、待合の四畳半という感じ。ここは婦人相手のあるとくべつの目的のために設けられたものだが、むろん智子はそんなことは夢にも知らなかった。
龍馬はだいぶグラスを重ねて、しだいに酔いのふかくなってくる瞳をすえると、
「ときに智子さん、あんたわしに何か用事があるのじゃないかな」
さぐるような眼の色である。
「ええ、ちょっとお伺いしたいことがあって。……」
「|訊《き》きたいことってどんなことじゃな」
「それがねえ、おじさま。あら、もっとおあがりになりません。それから約束してくださらなきゃいやよ。なんでも正直に答えてくださるって」
「あっはっは、なかなか用心ぶかいんじゃな。よしよし。ほかならぬおまえのことじゃ。約束しよ。そのかわり智子さんや」
「はあ」
「わしもおまえに頼みがある。おまえそれをきいてくれるだろうな」
「あら、どんなことですの」
「いや、どんなことでもきいてくれると、約束してくれんことにはめったにいえん。あっはっは」
血走った龍馬の眼の色をみて、智子の背筋を、鋭い|戦《せん》|慄《りつ》がとおりすぎる。しかし智子はここで|尻《しり》ごみしているわけにはいかないのだ。
「あたしがお約束をしなかったら?」
「わしのほうでもさっきの約束取り消しじゃ。あっはっは。智子さん、まあおあがり」
智子は出来るだけひかえるようにしながらも、さっきからもうかなり飲んでいる。
「いいわ。お約束するわ。どんなことでもおじさまのおっしゃるとおりにするわ」
「あっはっは、そうか、そうか。その約束が出来ればわしも安心。智子さん。それでおまえのききたいというのは?」
智子はちらつく瞳をきっとすえて、
「お父さまのことですの。いいえ、大道寺の父のことではございません。十九年まえに島で亡くなられたお父さま。ねえ、おじさま、お父さまが|崖《がけ》から落ちて死んだというのは|嘘《うそ》なのね。お父さまは開かずの間で誰かに殺されたのね。あの月琴で。……」
龍馬はぎょっとしたように、ギラギラする眼を大きく見張っていたが、
「智子さん、おまえそれをどうして。……」
と、|俄《にわ》かに息があらくなる。
「あたし見たのよ、開かずの間を、机のうえのテーブル・センターが血にそまって、こわれた月琴が放り出してあったわ。そのときあたし、それが何を意味するのかわからなかったけれど、あとになって皆さまのお話をきいているうちに、だんだんわかってきたの。おじさま、お父さまはあの部屋で殺されたのね」
智子の瞳が火をふくように燃えている。龍馬は|呪《じゅ》|縛《ばく》にかかったように、その顔を|視《み》つめていたが、やがて深い|溜《た》め息をつくと、
「そうか、あの部屋はまだあのままにしてあるのか。早く仕末をしろといったのに。……」
「ああ、おじさまはやっぱり御存じなのね。誰が……誰がお父さまを殺したの」
ものに狂ったようにたけり立つ智子の顔を、龍馬はあわれむように視ながら、
「智子さん。おまえがそこまで知っているなら、話してあげてもええが、あとで後悔するなよ」
「いいえ、後悔なんかしません。あたし知りたいの。ほんとのことを知りたいんです」
たたみこむように智子に迫られて、龍馬は暗い眼をして、また溜め息をついた。
「おまえにいわれて思い出したが、あれはお|登《と》|茂《も》様のお祭の日じゃった。わしは祭の世話人で、お|社《やしろ》のほうへいっていた。そうそう、旅役者が十二、三人来ていたので、それの世話を焼いていたのじゃ。すると夕方の四時頃、神尾先生がわしを呼びにきた。あのしっかり者の神尾先生が、ひどく取り乱しているので、何事が起こったのかといってみると。……」
龍馬は音を立てて息をすいこみ、
「あの部屋でお父ッつぁまが、血まみれになって机のうえにつっ伏していた。頭が|柘《ざく》|榴《ろ》のように|弾《はじ》けて|無《む》|慚《ざん》なことよ。そしてそばには、おっ母さまとお|祖《ば》|母《あ》さんが、気が狂ったような眼つきをして突っ立っていられた。……」
智子の背筋を痛いような|戦《せん》|慄《りつ》が走る。彼女の全身は木の葉のようにふるえていた。
「わしはもうたまげてしもうてわけを聞いた。琴絵さんは泣くばかりでろくに話も出来なんだが、神尾先生がおどおどしながら話す事情をきいたときのわしの驚き、わしは……わしはね、……この世がまっくらになったような気がした」
「誰が……誰が……お父さまを」
智子の声がふるえて消える。龍馬はまた深い溜め息をついた。
「智子さん。驚いちゃいかんよ。それがな、おまえのおっ母さまなのじゃ」
一瞬、智子は|痴《ち》|呆《ほう》的な眼で、龍馬の顔を|視《み》つめていた。しかし、つぎの瞬間、ふきあげるような怒りにからだをふるわせて、
「おじさま、冗談はよして。あたし真剣にきいているのよ。ほんとうのことをいって頂戴」
「智子さん、気の毒じゃがそれがほんとだよ。おっ母さまとて、殺そうとしてお父ッつぁまを殺したわけじゃない。しかし、おっ母さまには因果な病いがあった。なにかひどく驚いたり、取りのぼせたりすると、|発《ほっ》|作《さ》を起こしてしばらく前後不覚になることがある。そして、そのあいだのことは一切何もおぼえておらんのだ。いってみれば夢遊病みたいなものじゃが、そういう発作のうちにやったのじゃな」
智子の体を二度三度、激しい戦慄がゆりうごかす。母の発作のことは幼いころから、ときどき祖母より聞いたことがある。その遺伝が自分につたわってはいないかと、祖母がどんなに胸をいためていたことか。……
智子は頭のくらくらするのをおぼえる。何かしら|嘔《おう》|吐《と》を催しそうな感じだった。彼女は必死の|想《おも》いでそれとたたかいながら、
「|嘘《うそ》です。嘘です。いいえ間違いです。誰かがお母さまの発作のすきにお父さまを殺して、その罪をお母さまになすりつけようとしたのにちがいないわ」
「智子さん、わしもそれを考えた。そうあって欲しいと思うたのじゃ。しかし事情をきいてるうちに、そうでないことがわかって来た。お父ッつぁまを殺したのは、おっ母さまよりほかにないことがはっきりしたのじゃ」
「ど、どうして……?」
「神尾先生がおっ母さまの悲鳴をきいて、あの部屋へかけつけていったときには、|扉《ドア》はなかから掛け金と|閂《かんぬき》で、二重に締まりがしてあった.おっ母さまにそれを開いてもらってなかへ入ると、そこには殺されたお父ッつぁまとおっ母さまのほかには誰ひとりいなかったのじゃ。しかも、おまえも知ってのとおり、あの部屋には扉以外に、どこにも出入り口はない」
智子の|咽《の》|喉《ど》からはいまにも悲鳴がとび出しそうである。しかし、その悲鳴は咽喉のおくでそのまま凍りついてしまう。龍馬はその顔をいたましげに視つめながら、
「これがおっ母さまの仕業とわかると、そのまま放っておくわけにはいかぬ。何とかしておっ母さまを守らねばならぬ。この人殺しをもみ消さねばならぬ。そこでお祖母さんや神尾先生と額をあつめて相談したが、そのとき神尾先生が思いついたのが、死体を崖から突き落としておくというあのやりかたじゃ。そして、あやまって足を|辷《すべ》らしたように見せかけておくことじゃ。わしもその案に賛成じゃったので、実行はわしが引きうけた。日が暮れるのを待って、わしはお父ッつぁまのからだを|棹《さお》の岬の|突《とっ》|端《ぱな》まで抱いていき、そこから下ヘ突き落としたのじゃ」
龍馬は熱い息を吐き、
「こんなことをいうと、さぞむごい男と思うじゃろうが、そうでもしなければおっ母さまの身を守ることが出来なんだからじゃ。智子さん、悪う思うてくれるなよ。わしゃおまえのおっ母さまに|惚《ほ》れていたのじゃ。首ったけに惚れていたのじゃ」
「でも……でも……お母さまがどうしてお父さまを。……いかに発作とはいえ。……」
「さあ、そこまではわしも知らん。神尾先生ならおっ母さまに聞いて知っているかも知れん。しかし、おおかた、お父ッつぁまが、おっ母さまの取りのぼせるようなことをいうか、するかしたんじゃろ。そのじぶん、おっ母さまはおまえを|妊《みごも》って、そうでなくとも気が立っていたときじゃで。……」
智子は両手で顔を覆うた。覆うた指のあいだから、熱い涙が|溢《あふ》れてながれる。
ああ、何という恐ろしい真実。父を殺した犯人は母だった。世にこれほど恐ろしい事実があろうか。
龍馬が|嘘《うそ》をついているのだろうか。いやいやそうとも思えない。いまの龍馬の話を聞いて、智子にも思いあたる節があった。記憶にのこっている母の、あの絶えいるばかりの悲しみと|懊《おう》|悩《のう》、それは単に愛する|良《おっ》|人《と》に先立たれた、未亡人の悲しみではなかった。母はいつも自分を責めつづけていた。それはまるで苦行僧が自分の肉に針をさし、自分の肌に焼き|鏝《ごて》をあてるような、はげしい心の|呵責《かしゃく》だった。そして、それが若くして、母の生命をうばっていった原因だったのだ。
ああ、可哀そうなお母さま、可哀そうなお父さま。……
智子はいつか畳のうえに泣き伏していた。それからあとのことを智子はあまり詳しく覚えておらぬ。そのときのことを思い出すと、智子はいつも自分にも、ひょっとすると母と同じように、一時前後不覚になるような、遺伝があるのではないかと|懼《おそ》れるのである。
気の遠くなるような悲しみ、魂もついえるばかりの絶望に泣きくずれていた智子は、だしぬけにうしろから、たくましい腕に抱きすくめられて、反射的に身を起こした。
「おじさま、……何を……何をなさるのよ」
龍馬のからだを突きのけて、畳のうえを二、三歩、にじるようにあとじさりすると、|裾《すそ》の乱れを気にしながら、智子は|喘《あえ》ぐように息をつく、
「何を、するって、智子さん!……」
龍馬も息をはずませながら、
「おまえ、さっき約束したじゃないか。わしが何もかも正直に打ちあけたら、おまえのほうでもわしのいうとおりにしてくれると……」
龍馬も畳のうえをにじりよると、智子の裾に手をかける。智子は声なき悲鳴をあげて、またうしろににじりよった。
「いやよ、いやよ、おじさま、そんなことをなすっちゃ。……あたしがお約束したのは、そ、そんなことじゃなかったのよ。もっとほかのことだと思ったのよ。おじさま、堪忍して。……」
「あっはっは、ばかなことをいっちゃいかん、智子さん」
龍馬は|咽《の》|喉《ど》のおくで気味悪くわらうと、
「おまえさんだって、子供じゃあるまいし、女が男のいうとおりになると約束すれば、どんなことになるかたいていわかっていそうなもの。智子さん、おれはおまえに|惚《ほ》れとるんじゃ。おまえに首ったけなんじゃ。おれは……おれは……」
龍馬はいつの間にか|袴《はかま》をぬいでいて、はだけた胸に濃い胸毛がそよいでいる。
「あれ、おじさま!」
智子はとび起きて|襖《ふすま》をあけようとする。しかし、その襖は外から錠がおりているらしく、押せども突けどもびくともしない。しかも、この襖はこちらがわでは襖だが、向こう側では、がんじょうなまいら戸になっているのである。智子のような女の力で、打ちやぶろうなど思いもよらぬ。
「あれ、誰か来てえ……誰か来て……ここを開けて……」
「あっはっは、駄目じゃよ、智子さん、いくら呼んだとて誰も来やあせん。さっきのわっぱが錠をおろしていったのじゃ。何事が起こっても、わしが呼ぶまでこっちへ来てはならぬとゆうてある。さあ、智子さん」
龍馬の力強い腕がうしろへ来て、がっきと智子のからだを|羽《は》|交《が》い|締《じ》めにする。
「いやよ、いやよ、おじさま、離して……」
「あっはっは、何も|怖《こわ》がることはありゃあせん。智子さん、こっちを見てごらん。ほら、こっちを向いてわしの眼を見るのじゃ。これ、わしのいうとおりにせんか」
智子は身をもがいた。男の抱擁からのがれようと、必死に抵抗を試みた。しかし、彼女がもがけばもがくほど、抵抗すればするほど、男の力は強くなる。智子はいつか真正面から、龍馬の腕に抱きすくめられていた。
「ほら、ほら、智子さん、わしの……眼を見るのじゃ。……わしの、眼を、見てごらん。……何も怖いことはありゃあせん。いや、わしの眼を見ていると、悲しいことも、怖いことも忘れてしまう。ほら、ほら、ほら。……」
酒にようて|掻《か》き立てられた、むせっ返るような男の体臭に打たれながら、いや、いや、いやと、智子は心の中でさけびつづける。
龍馬の瞳の持っている、不思議な魔力を、智子はよく知っているのである。月琴島ではじめて龍馬にあったとき、智子はそれを経験した。
この男のことばに乗ってはならぬ。この男の瞳の魔力に打ちまかされてはならぬ。誰が……誰が……こんな男に。……
だが、しかし、智子はじぶんの顔のうえにおしかぶさってくる、龍馬の瞳を見ないわけにはいかなかった。
「あれ、……おじさま。……」
智子はあわてて眼をそらそうとする。しかし、いったん智子の眼をとらえた龍馬の瞳は、磁石のようにそれをとらえてはなさなかった。
赤く、血の筋の走った龍馬の瞳は、母子二代にわたる愛欲の一念が、神秘な魔力になおいっそうの油をそそいで、眼に見えぬ毒血を智子の瞳にそそぎかけてくる。
「いやよ、いやよ。……ああ、おじさま……」
智子は男の腕のなかで、すすり泣くようなうめき声をあげた。
龍馬のいうとおりであった。智子は何もかも忘れてしまった。怖いことも、悲しいことも。……全身の官能がしびれてしまって、ぐったりと男のあつい胸に身をよせる。
「智子さんや」
龍馬の甘ったるい声である。
「はい。……」
「智子さんはわしのいうとおりになるね」
「はい、おじさま。……」
智子は夢見るような声である。
「あっはっは、智子さんはよい子じゃ。さあ、抱っこしてあげようね」
龍馬はまるで、尊い宝石でも抱くように、智子を抱いて畳のうえに仰向きに寝かせた。そして、半分眼を閉じた智子の顔を、厳粛な顔をしてしげしげと|視《み》|詰《つ》めていたが、やがて、ものに狂ったように、その上半身を抱きしめると、めったやたらと顔中に、|接《せっ》|吻《ぷん》の雨をふりそそいだ。智子は夢とうつつの境で、ぼんやりそれを意識していたが、やがて龍馬のふるえる指が、裾にかかろうとしたとき、智子はとうとう気が遠くなってしまった。
だから、智子の裾に手をかけた龍馬が、だしぬけに奇妙なうめき声をあげて、がっくりまえにのめったのを、智子は少しも知らなかったのである。
第八章 伏魔殿の惨劇
伏魔殿の惨劇
それからいったい、どれくらいの時間がたったのか。……
息苦しい|夢《む》|魔《ま》の世界からふっと正気にかえった智子は、見知らぬ部屋のなかで、柔らかい絹夜具にくるまって寝かされているじぶんを発見した。
智子はぼんやりと部屋のなかを見まわしている。すると、見知らぬ部屋ながら、木造りのぐあいやら、|襖《ふすま》の模様からそこが|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》の道場の一室であることに気がついて、思わずはっと寝床のうえに起きなおった。
気が遠くなるまえの、あのいまわしい思い出が、まざまざと|脳《のう》|裡《り》によみがえってくる。九十九龍馬の血走った、情欲にくるったような|瞳《め》のいろ。けだもののように荒っぽい息使い。……
智子は声なき悲鳴をあげて、寝床のうえに起きなおったが、そのとたん、胸もとから、どさりと音を立てて落ちたものがある。
|氷嚢《ひょうのう》だった。それで心臓をひやしていたものらしい。手にとって見るとかなりぬるくなっている。智子はあわてて襟元をなおそうとして、はじめてじぶんが|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》いちまいになっているのに気がついた。
智子はふたたび声なき悲鳴をあげて、両手でひしと胸を抱く。それからしいんと瞳をすえて、じぶんの肉体を透視しようと試みる。
経験のない智子には、気が遠くなっているあいだに、九十九龍馬の情欲の|鞭《むち》が加えられたのか、加えられなかったのか、はっきり知ることは出来なかった。彼女はじぶんの肉体の隅々まで透視してみて、べつに異常があるとは感じなかった。しかし、あの場の情景からして、九十九龍馬が神妙に、手をひいたとは思われない。
じぶんをここへ連れて来て、着物をぬがせて、そしてそれからこの寝床のなかで。……
智子はおののく眼をすえて、寝床のすみからすみまで見まわして見る。わずかなシーツのたるみにも、|憑《つ》かれたような眼を走らせる。そこにも異常があったとは思われなかった。|枕《まくら》はひとつしかなかったし、それにどこにも男の移り香はのこっていない。
しかし、……しかし…‥そんなことがありえようか。じぶんが無事であったなんて。……
智子はまっくらな絶望の|想《おも》いに身をかまれながら、力なく寝床のうえに立ちあがる。そして、そこに脱ぎすてられた着物のほうに手をのばそうとして、よろよろとよろめくと、そのままそこに泣きくずれてしまった。
襖の開く音がする。そして、誰か入って来た。智子はからだを固くしたが、しかし、顔をあげようとはしなかった。柔らかい絹夜具にしがみついたまま、いよいよはげしく泣きむせぶ。
誰かその背後にきて、やさしく背中に手をおいた。
「智子さま。……」
その声を聞いたとたん、智子ははじかれたように顔をあげた。それは神尾秀子であった。秀子もいくらか|強《こわ》|張《ば》った顔をしていたが、それでも|口《くち》|許《もと》には、やさしい微笑がうかんでいる。
「まあ、神尾先生! あなたどうしてここへ……?」
「そんなことはどうでもいいの。あとでゆっくりお話申し上げますわ。それより御免なさいね。あたしあなたの御介抱をお引きうけしながら、ちょっと向こうに御用があったものだから、席を|外《はず》したりして。……」
泣きじゃくっている智子のからだを、秀子はやさしく抱きよせながら、
「智子さま、何もお泣きになることはございませんのよ。あなたはお助かりなさいましたの。あなたが正気にかえられたら、いちばんにそのことをいってあげてくださいと、あたし、あるひとから頼まれていましたの」
「あたしが……助かったって……?」
智子はまた|弾《はじ》かれたように、涙にうるむ眼をあげて、神尾秀子の顔を見る。
秀子もさすがに|頬《ほお》を染めて、
「こういえば、たいていおわかりになるでしょう、龍馬さんの|毒《どく》|牙《が》から、あなたはお助かりなさいましたのよ」
「先生!」
智子は声をふるわせて、
「誰が……そんなことを、いってるんですの」
秀子はちょっとためらったが、すぐ思いきったように、
「多門連太郎ってひと。……御存じでしょう。いつかあなたのお部屋のまえの|沓《くつ》|脱《ぬ》ぎのうえに、ネクタイ・ピンをおいていったひと。……」
智子はまた弾かれたように身をふるわせた。それから|喘《あえ》ぐように、
「先生、あのかたが、ここへ来ていらっしゃいますの」
秀子は無言のままうなずく。
「そして、……あの……九十九の……おじさまは……?」
秀子はまたちょっとためらったが、すぐに心をきめたように、ほっと深い|溜《た》め息をつくと、
「智子さま、こんなこと、かくしていたってすぐ知れることですから、何もかも申し上げてしまいますわ。龍馬さんは死にました。殺されたんです」
智子は大きく眼をみはったが、そのとたん、いつか歌舞伎座の三階で、連太郎がささやいたことばを思い出していた。
……あなたには保護者が必要なんだ。自分のように、強い、たくましい保護者が必要なんだ。……
「神尾先生! それじゃ、あのかたが、九十九のおじさまを……」
秀子はかるく首を横にふると、
「いいえ、あのかたはそうじゃないとおっしゃっています。あのかたが駆けつけてきたとき、龍馬さんはすでに死んでいた……殺されていたというんです。でもその場の情景からして、あなたが……龍馬さんの毒牙に犯されたとは思われない。きっと危い瀬戸際に、誰かが……つまり犯人が、龍馬さんを殺して立ち去ったのにちがいない。そのことを、智子さんによくいってあげてくださいと、あたしくれぐれもあのひとから頼まれましたの」
ああ、それが真実ならば、じぶんはどんなに連太郎に、いや、犯人に感謝してよいかわからない。……
「先生、……でも、あのひとが殺したのでないということは、ほんとうでしょうか」
「さあ、それは……警察の領分ですから。……でも、あたしの見たことや、聞いたところでは、あのひとが殺したのではないように思われますけれど。もっとも、お父さまはあのかたを犯人と信じて、そして、あの……かえって、感謝していらっしゃるようですけれど。……」
「お父さま……?」
智子はまた弾かれたように身を引いて|訊《き》きかえした。
「それじゃ、お父さまも、こちらへ来ていらっしゃいますの?」
「ええ、あたしといっしょに駆けつけていらっしゃいましたのよ」
「まあ、それじゃ、多門さまがお電話でもしたんですの」
「いいえ、そうじゃありません。あたしが会社のほうへお電話しましたの。あなたがこちらへ来ていらっしゃるのじゃないかって……」
「まあ、それじゃ、先生はどうしてあたしがここにいることを、御存じでしたの」
秀子はやさしく智子の手をとりながら、
「それはねえ、智子さま、文彦さまのおかげですのよ。あなたのお姿が見えないので心配してると、文彦さまがひょっとするとこちらじゃないかって、教えてくださいましたの」
「まあ、でも、文彦さまがどうして……?」
「文彦さまはこのあいだ、歌舞伎座の廊下で、あなたと龍馬さんが、お約束していらっしゃるのをお聴きになったんですって。近いうちにあなたがこちらへ訪れるというお約束を……あたし、それを聴いて、びっくりしてしまいました。だって、龍馬さんというひとが、どんなに危険なひとだかということは、まえから知っていましたから。それで、すぐ会社のほうへお電話して、お父さまにそのことをお|報《し》らせしましたの。お父さまもたいそうびっくりなすって、自分もこれから駆けつけるから、あなたもいってほしいとおっしゃって。……それで、あたし電車で|青《お》|梅《うめ》まで来たんですけれど、駅を出ると間もなく、お父さまが御自分で自動車を運転して、駆けつけておいでになるところへぶつかったんです。それで、御一緒にこちらまで駆けつけてくると。……」
秀子はそこでことばを切ると眼を閉じた。智子はおびえたような眼の色をしながら、それでもはげしく秀子の|膝《ひざ》をゆすぶって、
「おっしゃって。先生、そのあとをおっしゃって、先生はきっと、あたしの浅間しい姿をごらんになったのでしょう。でも、あたし、いいの、構わないの。それより、あたし、ほんとうのことを知りたいの」
秀子は眼をひらくと、やさしい微笑で智子を|視《み》ながら、
「いいえ、そんなことはございませんのよ。あたしどもが駆けつけてきたとき、お玄関には誰もいませんでしたの。でも、|旦《だん》|那《な》さまはこちらの御様子をよく御存じとかで、すぐに、あの……あのお部屋へ駆けつけましたの。そしたら、子供たちが……御存じでしょう。こちらには可愛い男の子がたくさんいますわね。あの子たちがびっくりしたような顔をして、お部屋の外に立っていますの。それで、何事が起こったのかとのぞいてみると、多門さまがあなたを抱いて、しきりに名前を呼んでいらっしゃいました。そして、あの……そのそばには……」
と秀子は眼をそらすようにして、
「龍馬さんが背中に短刀を突っ立てられて、畳のうえにうつぶせになっていましたの」
智子は砕けるばかりに秀子の手をにぎりしめる。
「先生! 血が……ずいぶん、たくさん、血が……」
「いいえ、智子さま、血は一滴も流れておりませんでしたのよ。それは不思議なくらい。……だから、あたし、龍馬さんが死んでるとは思われないくらいでした。でも、多門さまのおことばや、旦那さまがお調べになったところが、死んでいる……、殺されているということがはっきりわかったので、すぐに警察へ電話をかけて、警視庁の|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部や、金田一さまを呼んでくださるようにお願いしましたの」
「そして、あの、そのひとたちは……?」
「ええ、さっきお着きになりました。あなたがお眼覚めになったとき、あたしがお|側《そば》にいなかったのは、あのひとたちをお迎えに出ていたからですの。いま、あちらのほうを調べていらっしゃいますけれど、あなたがお眼覚めになったら、お|訊《き》きしたいことがあるとおっしゃって。……ですからね、智子さま、お召し物をお召しになって。……」
智子は素直にうなずいて立ちあがると、秀子に手伝ってもらって帯をしめながら、また、ふっと悲しみがこみあげてくる。
「あら、いけませんわ。智子さま、あなたのことは多門さまが、ちゃんと保証していらっしゃるのですから。……」
「いいえ、先生。……」
智子はせぐりあげる涙をおさえながら、
「あたしが泣いているのはそのことではございませんの。あたし……あたし……九十九のおじさまからうかがいました。お父さまが……ほんとうのお父さまが、どうしてお亡くなりになったかってことを。……」
一瞬、秀子の顔がさつと|蒼《あお》|白《じろ》くこわばった。それから、深い|溜《た》め息をつくと、
「ああ、やっぱり……あなた、そのことでこちらへいらっしゃいましたのね」
「ええ、でも、あたし、気になってたまりませんでしたの。だって、あたし、月琴島の開かずの間を見たんですもの」
「まあ!」
秀子は大きく見張った眼で、おびえたように智子の顔を|視《み》まもっていたが、やがて、やさしく智子の手をとって、
「智子さま、なぜそのことをあたしにおっしゃってくださいませんでしたの。そうすれば、あたし何もかも申し上げましたし、あなたもこんなところへ、おいでになることはなかったんですのに。……」
「すみません」
「いいえ、お|詫《わ》びを申し上げなければならないのは、あたしのほうでございますわ。でも、智子さま、そんなことはお忘れになって。……そして、どなたにもおっしゃらないようにね」
「先生!」
智子は涙ぐんだ眼で秀子を見ながら、
「それじゃ、やっぱりほんとうだったのね。お父さまはあの部屋で、お亡くなりになったのね。しかも……しかも……お母さまのお手にかかって。……」
「いけません、いけません。そんなことをおっしゃっちゃいけません。何もかもお忘れになって。……お母さまはそれはそれは、お父さまを愛していらしたのですわ。それだのに、あんな恐ろしいことになってしまって……何もかも不仕合せなまわりあわせですわ。だから、智子さま、もう、そのことはお忘れになって。……ああ、どなたかお見えになったようですわ」
ひそやかな足音が、|襖《ふすま》の外ヘ来てとまったかと思うと、
「あの……お客さま」
子供の声である。
「はあ、どうぞ、そこお開けになって」
襖を開いて手をつかえたのは、智子の|見《み》|憶《おぼ》えのある|小僮《しょうどう》である。|眩《まぶ》しそうに、智子の顔から眼をそらしながら、
「お嬢さま、御気分がおよろしいようでしたら、ちょっと向こうへ来てくださいと、警部さんのおことばですが……」
智子は秀子と顔を見合わせながら、
「ええ、あの……いま、すぐにまいりますからって、そうおっしゃって。……」
智子はそれから、そこにあったハンドバッグを引きよせると、なかからコンパクトを取り出して、泣きぬれた顔を、しずかに直しはじめた。
密室の剣
金田一耕助と|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部が、智子を待っている部屋というのは、さっきのいまわしい思い出のある部屋のつぎの間にあたっていた。
そこは十畳ばかりのなんのへんてつもない座敷で、二方に打ち|廻《まわ》した縁側、一方に床の間と違い棚、そして残った一方の壁のうち、一間だけが二枚のまいら戸になっていて、そのまいら戸の向こうがわに、|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》があのいまわしい|加《か》|持《じ》|祈《き》|祷《とう》を行なう密房があるのだ。
そのまいら戸はいまぴったりとしまっているが、向こうの部屋には警察のひとたちがいるらしく、|昂《こう》|奮《ふん》した声や足音にまじって、おりおりフラッシュの|閃《せん》|光《こう》がもれてくるのは、現場写真をとっているのだろう。
智子が神尾秀子につれられて、その座敷へ入っていくと、金田一耕助と等々力警部は、大きな唐机をなかにはさんで|坐《すわ》っていた。
「やあ、どうもお疲れのところを、お呼び立てして申し訳ありません。さあ、どうぞそこへお坐りなすって」
警部の如才ない|挨《あい》|拶《さつ》に、智子はかるく|会釈《えしゃく》しながらすばやく座敷のなかを見廻したが、そこには金田一耕助と等々力警部、それから隅のほうに刑事がひとり、小机をひかえているだけで、大道寺欣造や多門連太郎のすがたはどこにも見えなかった。
「あの……お父さまは?」
「ああ、大道寺さんは向こうのお座敷で待っていただいています。お父さんのまえでは、お話しにくいこともあろうかと思いましてね」
「はあ……」
智子はさすがにうすく|頬《ほお》を染めると、もうひとり、多門連太郎のことを聞いてみようかと思ったが、それはどうしてもことばに出なかった。
「あの、神尾先生……」
智子を送ってきた神尾秀子が、そのまま座敷の隅に坐るのを見ると、警部はちょっと当惑したように|眉《まゆ》をひそめて、
「あなたもどうぞ、向こうのほうで……」
「いいえ、あの……」
秀子は微笑をうかべながら、しかし、ことばつきはきっぱりと、
「あたしはここにいさせていただきます。智子さまはお疲れですから、誰かそばにお付きしていなければいけないのです」
|梃《てこ》でも動きそうにない顔色である。
「金田一さん。……」
警部が困ったようにふりかえるのを、金田一耕助はにこにこ受けて、
「あっはっは、いいでしょう。神尾先生のことなら。……それより、どんどん智子さんに質問なすったらどうですか。智子さんもこんなこと、一刻も早く切りあげて|貰《もら》いたいにちがいないのだから」
「ああ、いや、では。……」
と、警部はギゴチなく|空《から》|咳《せき》しながら、
「まったくあなたもたびたびのことで、さぞ御迷惑でしょう。われわれとしても一刻も早く、こういうことは片づけたいと思っているんです。それについてはぜひとも皆さん、とりわけあなたの御協力を得なければならんと思ってるんですが、何もかも正直にお話ねがえるでしょうねえ」
「はあ、あの、あたしの知っているかぎりのことなら。……」
「いや、有難うございます。それではさっそくですが、今日どうしてあなたがここへ来られたのか、その理由からお話願えませんか」
「はあ、あの、それは……」
智子は一語一語、ことばをえらんで、
「行者というものは、どんなことをするものだか、好奇心もございましたし、それにあの……いろいろ、|訊《たず》ねたいことがございましたので」
「訊ねたいこととおっしゃるのは?」
「こんどの、あの、いろんな事件についてでございますわ。ひょっとすると、|九《つ》|十《く》|九《も》のおじさまが、それについて、何か御存じではないかと思って。……」
「それについて九十九氏は、何かいってましたか」
「いえ、あの、べつに取り立てて……」
智子は背後に、神尾秀子の視線をいたいほど感じながら、
「とても、あのかた、あたしなんかに|尻尾《し っ ぽ》をつかまれるようなひとではございません」
「なるほど。それではあの、あなたが九十九氏とあの部屋へ、おこもりになってからのことを、簡単にお話ねがえんでしょうか。なに、これはほんの形式だけのことですから、ごく簡単でいいんです」
「はあ、あの、承知しました」
智子はすでに覚悟をきめているので、なんの悪びれるところもなく、気が遠くなるまでのいきさつを、|掻《か》いつまんで話した。等々力警部はいちいちうなずきながら聞いていたが、
「なるほど、それでそのとき気をうしなったきり、さっき向こうのお座敷で気がつくまで、あとのことはいっさい御存じないとおっしゃるんですね」
「はあ。……」
「ところで、そのあとで九十九氏がどうなったか、御存じでしょうね」
「はあ、それはいま、神尾先生からうかがいました」
「それについて、あなたはどうお考えですか」
「どう考えるって、きっと誰かが、あたしが気をうしなっているあいだに入ってきて、九十九のおじさまを殺して、逃げ去ったのではございませんの。それよりほかに考えようはございませんけれど。……」
「なるほど、そう説明が出来ると簡単なのですが、ここにちょっと妙なことがありましてねえ」
「妙なことと申しますと?」
「つまり、こうなんです。多門連太郎なる人物が……その人物が犯罪の現場を、最初に発見したのだということはあなたも御存じでしょう」
「はあ、あの、それも神尾先生からうかがいました」
「で、その人物があなたの悲鳴をきいて、あちこち探しまわったのち、やっとこの座敷へ駆けつけてきたときには、そのまいら戸には、外から錠がおりていたというんです。多門君はそこであなたの名を呼んだといっていますが、あなたはお気づきではありませんでしたか」
智子はちょっと眼を|視《み》|張《は》って、
「いいえ。あの、存じませんでした。きっと、それはあたしが気をうしなってからのことでございましょう」
「お気づきにならなかったとしたら、たぶんそうでしょう。ところが多門君のいうのに、あなたの御返事はなかったけれど、たしかに誰か、部屋のなかに身動きをする気配が感じられる。げんに多門君はまいら戸のすきまからなかをのぞいたが、すると、誰かがすっと、すきまのまえを横切ったといっているんです。そこで多門君はやっきとなって、まいら戸にからだをぶっつけたが、あの戸はあれでなかなかがんじょうに出来ている。なかなか破れそうにない。だが、ちょうどいいぐあいに、多門君の声をきいて、子供たちがここへ駆けつけてきたんですね。多門君はそれをピストルでおどしつけて、錠をひらかせ、なかへ入ったところが、……九十九氏は背中を刺されて殺されており、そのそばにあなたが気をうしなって倒れていた。しかも……しかもですよ。あの部屋の窓という窓は、全部内側から締まりがしてあったというのです」
警部の最後の一句を聞いたとたん、智子は全身の血が氷のように冷えていくのをおぼえた。眼は大きく視張っていたけれど、そのままに|薄《うす》|靄《もや》のようなものがかかり、警部や金田一耕助の顔が、みるみるその薄靄のなかにぼやけていく。そして、その代わり智子の眼前にはっきりと現われたのは、あのほの暗い月琴島の、開かずの間の光景である。
……神尾先生がおっ母さまの悲鳴をきいて、あの部屋へかけつけたときには、扉はなかから|閂《かんぬき》と掛け金で、二重にしまりがしてあった。おっ母さまにそれを開いてもらってなかへ入ると、そこには殺されたお父ッつぁまとおっ母さまのほかには誰ひとりいなかったのじゃ。しかも、おまえも知ってのとおり、あの部屋には扉以外に、どこにも出入口はない。……
さっき龍馬のささやいた言葉が、耳鳴りのように|脳《のう》|裡《り》によみがえってくる。
それでは十九年まえと同じことが、今日また起こったのであろうか。お母さまが発作中に、お父さまを殺したように、自分も気が遠くなっているあいだに、九十九のおじさまに手をかけたのであろうか。……
突然、神尾秀子がそばへ来て、しっかり智子の手を握った。
「智子さま、しっかりなすって。……」
|蒼《そう》|白《はく》にひきつった神尾秀子の顔を見て、智子は涙が|溢《あふ》れそうになるのをやっとこらえた。
「いいえ、先生、あたしは大丈夫。……あたしもう、気をうしなったりなんかしません。あの、警部さま」
智子はきっと警部のほうへ向きなおって、
「と、いうと、どういうことになるのでございましょうか。あたしが九十九のおじさまを殺したとでも……」
智子の鋭い語気に圧倒されたように、警部はギゴチなく|空《から》|咳《せき》をすると、
「ああ、いや、そういうわけでもないのです。じつは、あの……多門君から話を聞いたときには、正直のところ、そういう考えがうかばんでもなかった。九十九氏にみだらなことをしかけられて、あなたが夢中でやったんじゃないかと、そんな考えがうかばんでもなかったんです。それよりほかに、この奇怪な殺人の|謎《なぞ》を解きようがありませんからね。ところが、それにはひとつ、不都合なこと、……いや、なに、なんだ、あんたにとってはたいへん有利なことだが、……どうもちょっと妙なことがわかって来たんです」
「妙なこととおっしゃいますと……?」
智子に代わって神尾秀子が質問する。秀子はまだしっかりと、智子の手をとらえているのである。
「じつは、これなんですがね。智子さん、あんたこれに|見《み》|憶《おぼ》えがありますかね」
唐机の下から警部が取り出したのは、ハンケチにくるまれた短剣である。
「ああ、それがおじさまを……?」
「ええ、そう、よく見てください。あんた、こういう短剣をまえに見たことがありますか」
ハンケチを解くとなかから現われたのは、三角型にさきのとがった、|鍔《つば》も|柄《つか》も全部金属製の、よく神社などに奉納してある古式の短い剣であった。血はついていなかったけれど、指紋をとるために振りかけたらしい鉛色の粉が、まだギラギラと光っていて、きっさきの冷たい色を、いっそうまがまがしく印象づけている。
智子はかすかに身ぶるいをすると、
「いいえ、あたし、そういう短剣を見たことはいちどもございません。もっとも、お|神楽《か ぐ ら》や何かのとき、それに似た剣を持って舞うのを見たことはございますけれど……」
「いや、わたしがいうのは、あなたが今日、この道場へ来られてから、こういう短剣を見たことはないかというんだが……」
「いいえ、それなら絶対に。……」
等々力警部は金田一耕助と顔を見合わせ、
「じつはこの短剣は御神体として、鏡といっしょに神殿に|祀《まつ》ってあるもんなんだそうですが、あなたは神殿のほうへは……?」
「まいりませんでした。こちらへ参りますとすぐこの座敷へ通されて、ここでしばらくお話をしているうちに、お隣のお部屋にお支度が出来ましたので……あたし、神殿がどちらにあるのか、それも存じません」
等々力警部はうなすいて、
「いや、そのことは音丸……御存じでしょう、あなたのお給仕に出た少年……あの少年もいっているんですが……さらにあの少年の証言によると、もっと奇怪なことがあるんです」
「はあ」
「音丸少年は隣の部屋へ、あんたと九十九氏を閉じこめてから、すぐ神殿のほうへお|燈明《とうみょう》をあげにいったが、そのときにはこの短剣、ちゃんと祭壇のうえに祀ってあったというんです」
「……と、しますと……?」
秀子の声がかすかにふるえる。智子も思わず秀子の手を強く握りかえしていた。
「と、すると、誰かが智子さんや九十九氏が、あの部屋へとじこもったのちに、祭壇から短剣を持ち出し、部屋のなかへ忍びこんだということになるんですが……」
「でも、あの、それはどこから……」
智子は息をはずませる。彼女の|瞳《め》には希望のいろがうかんで来た。それはじぶんが助かるかも知れないという意味ではなく、母の場合にも何かそのようなことが行なわれたのではないかという、新しい希望が彼女の眼前に|展《ひら》けてきたからである。
「出入り口についてはふた通りの|観《み》|方《かた》がありますね。誰かが|合《あ》い|鍵《かぎ》を持っていて、そのまいら戸から入っていったという観方。……しかし、音丸は絶対にこれを否定していますから、このほうは可能性が薄いのですが、そうすると、もうひとつの考えかた、……これは金田一先生の考えなのですが、ひょっとするとあの部屋には、秘密の|抜《ぬ》け|孔《あな》があるのではないかという……」
秘密の抜け孔!……智子は|弾《はじ》かれたように、神尾秀子の顔を見た。ああ、ひょっとすると、月琴島の開かずの間にも、秘密の抜け孔があるのではあるまいか。……神尾秀子はしかし、無言のまま悲しげに、首を横にふっている。
警部と金田一耕助は、怪しむようにふたりの様子を見ていたが、
「あの、どうかしましたか」
と、警部がちょっと身を乗り出した。
「いえ、あの、なんでもございませんが、それで、抜け孔はありそうなのでございますか」
神尾秀子が落ち着きはらった声でたずねた。
「さあ、いまのところなんともいえませんが、土地の警察では、その可能性は十分あるといっていますね。何しろここは名うての伏魔殿だから。……それでいまああして、部屋じゅうくまなく調べてもらっているんですがね」
さっきから刑事たちの|昂《こう》|奮《ふん》した話声や足音がきこえるのは、そのためであった。
「そういたしますと、いまのところ、あたしに対する疑いは、一応晴れているわけでございますね」
「そうですよ、智子さん」
金田一耕助がにこにこしながら、
「抜け孔があるにしろないにしろ、はじめてここへいらしたあなたが、この短剣のありかを御存じのはずはないし、第一、あなたがあのお部屋ヘ閉じこもったあとまで、短剣はちゃんと神殿にあったというのですからね」
「有難うございます」
智子はかるく頭をさげて|会釈《えしゃく》をすると、
「ところで、多門さまというかたはどうなのでございましょうか。いいえ、あのかたはどうしてここへいらしたのでしょう」
「それはね。智子さん」
と、これも金田一耕助が説明を加えた。
「あの男もあなたと同じ目的でやって来たんですよ。修善寺以来の重なる事件に、|九《つ》|十《く》|九《も》氏が何らかの役割をつとめているのじゃないか。……そう思ったものだから、ピストルを持ってやって来たんです。おどしつけてでも白状させようというわけですね。いや、若いから仕方がないが、どうも無鉄砲な話で。そうして、この道場のなかをうろうろしているうちに、あなたの悲鳴を聞いたんですね。それまでは、あなたがここにいらっしゃるとは、夢にも知らなかったそうです。そうそう、智子さん、あなたはあの男のことづけを、神尾先生から聞きましたか」
「はあ、うかがいました」
智子はさすがに|頬《ほお》を染めたが、それでも悪びれるところなく答えた。
「いや。結構でした。あの男のいたおかげで、あなたの純潔が証明出来たんですからね。もっとも、あなたをほんとうに救ったのは、九十九氏を殺した犯人だが……」
「先生、そうすると九十九のおじさまを殺したのは、あのひとでは……?」
「どうもその可能性は薄そうですね。お小姓たちの話を聞いても……もっとも、あの男だってそういう|怪《け》しからん場面にぶつかったら、やりかねなかったでしょうがね」
「それで、あの、……あのかたはいまどちらに……」
「刑事さんの厳重な監視のもとにおかれていますよ。とにかくピストルを持っていたり、ひとの家へ忍びこんだり、一応疑われる材料を持っているんですから、ただではすみませんが、なに、大したことはありませんよ」
こともなげな金田一耕助のことばに、智子はなにかしら、胸のやすまるのをおぼえたが、そのときだった。隣の部屋からわっという歓声がきこえたかと思うと、刑事のひとりが昂奮した面持ちで、がらりとまいら戸をひらいた。
「あっ。警部さん、見つかりましたよ。見つかりましたよ。|抜《ぬ》け|孔《あな》の入り口が……」
「なに、抜け孔の入り口……? そ、それじゃ、やっぱりそんなものがあったのか」
警部はさっと立ちあがったが、すぐ気がついて、唐机のうえにおいてあった短剣を取りあげ、刑事につづいてどやどやとつぎの間へ入っていった。
金田一耕助ものっそりと立ちあがると、智子と神尾秀子の顔を見ながらにっこり笑って、
「やっぱりあったそうですよ、抜け孔が……お目出度う。これで智子さんに対する容疑は完全に晴れることになりましょう」
|袴《はかま》の|裾《すそ》をかるくさばいて、まいら戸のなかへ入ろうとする耕助を、追っかけるように智子も立ち上がった。
「金田一先生!」
「はあ」
耕助は何気なくふりかえって、
「何か御用ですか」
「先生に聞いていただきたいことがございますの。でも、今日はいけません。明日にでも、宅のほうへいらして。……」
耕助はまじまじと智子の顔を見つめていたが、
「承知しました。明日の午後二時頃……智子さん」
「はあ」
「九十九氏に何かお聞きになったと見えますね」
金田一耕助はそういって、智子と秀子の顔を見くらべながら、かるく頭をさげると、それからまいら戸のなかへ入っていった。
振り出しへ
|青《お》|梅《うめ》における|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》の伏魔殿の暴露ほど、当時世間を驚かせた事件はなかった。
|抜《ぬ》け|孔《あな》の入り口は、あのせまい密房の一方にある、半間の押し入れのなかにしつらえられてあった。それはちょうど箱根細工のような仕掛けになっていて、四、五枚の羽目板と床板を、交互にうごかしているうちに、押し入れの床全体が、床の間の下へすべりこむようになっているのである。
そして、そこから階段がついており、その階段の下に、それこそ、ほんとうの密房が存在していたのであった。その密房はひろさ八畳じきくらいもあったろうか、一歩そこへ足を踏みいれた|刹《せつ》|那《な》、警部も、金田一耕助も、それからいっしょについてきた刑事たちも、思わず驚きの声を立てずにはいられなかった。
なぜといって、その|妖《あや》しげな部屋の壁といわず、天井といわず、|襖《ふすま》といわず、いちめんに描かれていたのは、極彩色の男女の|秘《ひ》|戯《ぎ》|図《ず》であった。それから見てもこの部屋が、いったいどのような目的に、使用されていたかわかるであろう。おそらく智子も、九十九龍馬の刺されることが、もう少しおくれたら、このいまわしい部屋へつれこまれていたのにちがいない。
この部屋からはいろんな重要書類が発見された。そして、それらの書類のなかには、のちに大疑獄に発展していった事件の、最初の端緒になったものさえあったのである。そのほか、九十九龍馬は奇妙な趣味を持っていたと見えて、自分の関係した女の微妙な肢態について、かなり露骨なメモを残していたのだが、そのメモに載っている婦人というのが、いずれも社会的に知名なひとたちばかりだったから、そのためにも、九十九龍馬の伏魔殿から暴露された醜事実は、果てしもなく発展していくかと思われた。もし、某方面からの|揉《も》み消し運動さえ起こらなかったならば。……
これは要するに、青梅における九十九龍馬の道場こそは、いわゆる上流と|目《もく》されるひとたちの、戦後の腐敗と堕落の結晶だったのである。
しかし、こういうことがわかるまでには、いささか時日を要したことだし、それに金田一耕助にとっては、この方面のことはあまり興味がなかった。それよりもかれには、この抜け孔のもう一方の出口のほうに、より多くの興味が持たれたのである。
その出口はじつに、宝剣を|祀《まつ》ってあった祭壇の下にもうけられてあったのである。だから九十九龍馬を殺害した犯人は、まず神殿にしのびこみ、そこにあった宝剣を取って、抜け孔のなかへ入っていったのだ。そして、もう一方の出口から出たところで、九十九龍馬のあの怪しからぬふるまいを目撃し、一撃のもとにこれを|斃《たお》し、ふたたび抜け孔を通って、神殿から外ヘ逃げ出したのだろう。
龍馬も敵があのまいら戸からやって来たのであったなら、警戒もし、防ぐすべもあったのだろうが、誰知るものもないはずの、抜け孔を通ってきただけに、油断もあり、また智子に夢中になっていた折柄だけに、なんなく|凶刃《きょうじん》に斃されたのであろう。
さて、そうなると、抜け孔の秘密を知っている人物だが、それはそうたくさんあろうとは思われなかった。第一、あの道場に奉仕しているわらべたちでさえ、そのことは知らなかったそうである。
また、のちに九十九龍馬のメモから、取り調べを受けた婦人たちの告白によっても、彼女たちもあのいまわしい部屋の存在は知っていたが、それがどこにあるのか、また、どこから行けるのかというようなことは、いっさい知らなかったそうである。と、いうのは、彼女たちはいつもそこへいくまえに、あのまいら戸の奥の小座敷で、甘い酒の|饗応《きょうおう》をうけるのだが、すると間もなく、陶然たる|恍惚境《こうこつきょう》に入って、あとしばらくは、前後不覚になってしまうのだということである。そして、あの秘密の部屋で歓楽をつくしたのち、ふたたび甘い酒の饗応をうけ、夢幻境にさまようているうちに、もとの小座敷にかえっているのだというのだ。だから、彼女たちのなかには、ああいう|妖《あや》しい部屋が実在するのか、それともあれは、あの甘い酒がかもし出すひとつの|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》ではないかと、疑っていたものさえあったくらいである。
九十九龍馬と妖しい関係を結んだ女たちでさえそれなのだから、智子や連太郎が、あの秘密の抜け孔を知っているはずはなかった。その点からしても、ふたりは龍馬殺しの嫌疑から、除外されることになったのである。
それはさておき、九十九龍馬の殺された翌日のこと、約束によって金田一耕助は、|経堂《きょうどう》にある智子の住居を訪れた。それにしても、わずかひと月にも|充《み》たぬ時日のあいだに、智子はなんという多くの経験をしたことか。|松籟荘《しょうらいそう》の浴場の、鏡のおもてに書かれていた、あのまがまがしい|威《い》|嚇《かく》の|紅《べに》|文《も》|字《じ》からはじまって、わずか二十日足らずのあいだに四人の男の血が流されたあげく、わかったことといえば、自分の母が|良《おっ》|人《と》殺しという、世にも恐ろしい罪を背負うていたという事実である。智子のような年若い娘にとって、これほど大きな打撃があろうか。さすが勝気な彼女も、いちじは気も狂わんばかりに驚き、嘆き、かつ苦しんだ。
しかし、その年頃の娘としては、智子はいたって行動的なほうだった。いつまでもくよくよと、じぶんひとりで思い悩んでいるような女ではなかった。
金田一耕助の訪問を待って、彼女はまず、鏡の紅文字について打ち明け、さらに龍馬から聞いた十九年まえの事件を語り、その再調査を依頼したのである。
「なんといっても長い歳月がたっていることですから、いまさら御調査をお願いしても無駄かも知れません。また、御調査の結果、母が良人殺しの罪人だったということが、いよいよはっきりするかも知れません。でも、それならそれでいいのです。母は意識して父を殺したわけではないのですから。とにかくあたしはこの事件を、うやむやのうちに葬ってしまうのはいやなんです。さいわい、人殺しがあった現場は、そのまま保存してございますから、もういちど月琴島へおいでを願って、念のために調査していただきたいのです」
金田一耕助にとって、智子のこの告白ほど大きな驚きはなかった。文字どおりかれは|茫《ぼう》|然《ぜん》自失せんばかりであった。だが、これによっていままで奥歯にもののはさまっていたような、あるいは|薄《うす》|靄《もや》に包まれていたような感じが|払拭《ふっしょく》されて、|俄《にわ》かに事件の|全《ぜん》|貌《ぼう》が、はっきりと眼のまえに浮きあがってきたのである。
金田一耕助はいくどもいくども、同じ話を智子に繰りかえさせたのちに、|溜《た》め息まじりにこういった。
「なるほど、鏡に書いてあった威嚇の紅文字。……それによって、犯人の目的が、だいぶんはっきりして来ましたね。そいつは必ずしも、あなたの候補者たちに|嫉《しっ》|妬《と》しているわけじゃなかった。むろん、それもあるのでしょうが。候補者たちを殺すことによってあなたを威嚇し、あなたを島へ追いかえそうとしているのですね」
「ええ、そうなんです。でも、それはいったいどういうわけなんでしょう。あたしが島から出て来ては、どうしていけないのでしょう」
「それにはいろんな場合が考えられますが、さしあたり妥当だと思われる考えかたは、そいつはあなたをいつまでも、処女としておきたいのではないでしょうか。あなたが東京へ出てくるということは、取りも直さず結婚することを意味しているでしょう。犯人はそれを阻止したいと考えているのではないでしょうか」
「でも……でも……あたしが結婚してはなぜいけませんの。先生。月琴島の大道寺家には、もうほとんど財産てございませんのよ。財産でもあれば、あたしが結婚することによって、財産をひとに|奪《と》られるというような場合も考えられます。もっとも、それに相当するような人物は、ひとりもあたしの周囲には見当たりませんけれど」
「この事件は金銭が目的ではありませんね」
「では何が……?」
「熱狂的、狂信的愛情――犯人はあなたに、そういう愛情を持っているのじゃありますまいか」
智子はさすがに|頬《ほお》を|紅《あか》らめながら、
「でも、あたし、そういうひとに心当たりはございませんわ。それほど愚かしい愛情を、あたしに持っているひとなんて……」
だが、そういいかけて、智子は俄かにぎょっとしたように、大きく眼を見張った。そして、吸いこむように耕助の顔を|視《み》|詰《つ》めていたが、やがて低い、しゃがれた声で、
「先生、先生はまさか、神尾先生のことを考えていらっしゃるのではないでしょうね」
「いいえ、ぼくは、だれのことも考えちゃいませんよ」
「先生がもし、神尾先生のことをそんなふうに考えていらっしゃるのだとしたら、それは大きな間違いですわ。神尾先生はあたしを愛していてくださいます。しかし、それは決して間違った、いやらしい愛情ではございません。神尾先生はお母さまに対して責任を感じていらっしゃるのです。その|償《つぐな》いのためにも、いっそう、あたしを愛そうとなすっていらっしゃるのです」
「お母さまに対して責任を感じているというのは……?」
「つまり島ヘ旅行にきた素姓も知れぬ学生と、ああいう|過《あやま》ちをおかしたのも、自分の注意がいきとどかなかったからだ……と、そういうふうに考えていらっしゃるのではないでしょうか」
「なるほど。……」
金田一耕助はしばらく黙って考えていたが、やがてまた溜め息まじりに|呟《つぶや》いた。
「さっきからのお話をうかがっていて、ぼくにもはじめて納得がいきましたよ。松籟荘のホールで、遊佐君や駒井君がピンポン・バットで殴りあいをしたとき、ピンポン・バットの柄が折れて、打球面が血で真赤に染まったときのあなたの驚き……あなたがなぜあんなに大きなショックを受けられたのか、それがいままでぼくを苦しめていたんですが、あなたはあのとき、柄が折れて血に染まったピンポン・バットの形状から、開かずの間にある月琴を連想されたのですね」
「はあ。……すみません。こんなことならもっと早く申し上げればよかったのです。それにあの朝は、さっきも申し上げましたように、鏡のうえにいやな文字を読んだばかりのところでございましょう。あたしも動揺していたのですわね。それだけにあのピンポン・バットの形状が、不吉な連想を呼んだのですわ」
「それはそうでしょう。お察しします。ところで犯人もあのとき、あなたのひとかたならぬ驚きようを見ていたにちがいない。犯人は柄が折れて、血にそまった月琴のことは知っているにちがいないのだから、あなたのあのひとかたならぬ驚きようを見て、あなたもまた、あの月琴のことを知っており、それに似たかたちのものに対して、異常な恐怖を感ずるのだということに気がついたのですね。そこで遊佐君を殺したとき、そのそばに、柄が折れて血に染まったピンポン・バットを残しておいたというわけなんですね」
「ああ、それであそこにピンポン・バットが……?」
「そうです。それよりほかに説明のしようがありません。ぼくもいままで、なぜあんなよけいなものがあったのかと、それが気になってたまらなかったのですが、いまのお話をうかがってわかりました。犯人はあのピンポン・バットによって、あなたに不吉な連想を|強《し》い、それによってあなたを島へ追いかえそうという|肚《はら》だったのですね。つまり犯人の目的は、あなたを島に閉じこめておきたい。……ただ、その一念からすべてが出発しているんですね」
「でも、ああ、それはなぜ……」
智子はかすかに身ぶるいをすると、
「それならば、なぜ正面から理由をあげて、あたしを納得させようとしないのでしょう。正当な理由さえあれば、あたしはいつでも島へかえったのに。……」
「さあ、それはなぜだかわかりませんが……ああ、これはどうやら話が後戻りしたようです。ところで、智子さん」
「はあ。……」
「もう一度月琴島へわたって、調査をしなおすということはぼくも賛成です。開かずの間……そういう重大な証拠物件がのこっているのを、見落としてきたというのは、なんといってもぼくの失態でした。しかし、智子さん、あなたはそこに、|抜《ぬ》け|孔《あな》でもあるのではないかと、期待していらっしゃるのではありませんか」
「はあ、あの……もし、そういうものがあれば、必ずしも母が父を殺したことにならないと思って。……それだけでも、あたし、どんなに気がやすまるかも知れませんわ」
「ごもっともです。しかし、何かそういう話をお聞きになったことがありますか。お宅のどこかに、いいえお宅でなくても、月琴島のどこかに、抜け孔があるというような話を……」
「それが、……そんな話を聞いたことはいちどもございませんの。昨夜、青梅からかえってまいりましてから、神尾先生とも話したのですが、先生もそんな話をきいたことは、いちどもないとおっしゃって。……」
智子は|眉《まゆ》をくもらせる。
金田一耕助はしばらくだまって考えていたが、
「いや、有難うございます。それじゃ、あなたはこれくらいで……恐れ入りますが、神尾先生をお呼びねがえませんでしょうか。いえ、あなたはここにいらっしゃらないほうがいいでしょう。神尾先生にお話しにくいことがあると困りますから」
智子と入れちがいに、神尾秀子が入ってきた。秀子ももうこうなれば、かくしているわけにはいかなかった。
「いいえ、これは、お|祖《ば》|母《あ》さまはなにも御存じないことなんです。お年寄りですし、当時お体が弱かったので、あまり大きなショックは避けたいと、お祖母さまには内緒で、万事はあたしと龍馬さんとふたりで取りはからったのです」
秀子はあらかじめ、こう|槙《まき》をかばっておいて、さてつぎのように当時の模様を物語った。
「あの日、智子さまのお父さま、|日《くさ》|下《か》|部《べ》さんがカメラを持って、朝から外出していらしたことはまえにも申し上げましたわね」
「そうそう、そのときでしたね、|蝙《こう》|蝠《もり》の写真をとってきたといったのは。……」
「ええ、そうなんです」
秀子はなぜかふっとおもてを曇らせて、
「あの蝙蝠の|謎《なぞ》については、あたしいまだにわからないんですけれど。……」
と金田一耕助の顔を見ながら、
「それはさておき、日下部さんはおかえりになると、|晩《おそ》いお|昼《ひ》|食《る》をおすましになって、それから奥のひと間へおひきこもりになりました。たしか二時半ごろのことだったと思います。そのお部屋というのは、こんどおいでになればわかりますが、|観《かん》|音《のん》開きの扉がついておりまして、なかから|閂《かんぬき》と掛け金で、二重に締まりが出来るようになっております。そのほかに窓もございますけれど、全部厳重な鉄格子がはまっておりますので、扉以外には、どこにも入り口はないわけです。さておふたりが、お部屋へおはいりになったあと、あたしは日本建てのほうのお居間で、編み物でもしようと思ったのですけれど、その編み物をおふたりのいらっしゃるお部屋ヘ忘れてきたことを思い出したのです。先生も御存じでしょうが、編み物をしていないと、あたし手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》で困っちまうんです。と、いっておふたりのいらっしゃるところへ、取りにまいるのも|憚《はば》かられます。それであたし、お芝居でも見てこようと思って、お|登《と》|茂《も》様へおまいりしたんです。そのじぶんおふたりは、|睦《むつま》じく語らっていらっしゃったと見えて、奥のお部屋から琴絵さまの、月琴をお|弾《ひ》きになる音がきこえていました。それが……それが……ちょっとの間に、あんな恐ろしいことになろうとは。……」
その当時の模様を思い出したのか、秀子はいまさらのように、さむざむとした顔をして息をのんだ。
「あたし、お芝居を半時間あまりも見ていたんでしょうか。大して面白くもございませんので、詰まらなくなってかえってきたのでございますが、それがちょうど三時半ごろのことでございました。ところが、あたしがお居間へかえって、何か御用をしようとしているところへ、奥のほうから悲鳴がきこえてきたのです。たしかに琴絵さまの悲鳴でございます。しかも、一度ならず二度、三度。……あたし、何事が起こったのかと、驚いて駆けつけてまいりますと、扉にはなかからしっかりと締まりがしてございました。しかも、なかから琴絵さまの気の狂ったような悲鳴が、絶え間なしにきこえてまいります。あたし外から扉をたたきながら、何度も何度も琴絵さまの名をよびました。その声が耳にはいったのか、琴絵さまはやっと扉をひらいてくだすったのですが、そのとき、あたしはたしかに聞いたのでございます。掛け金をはずす音と、閂をひきぬく音とを。……ああ、それさえなかったら。……」
秀子は|蒼《あお》い顔をしてこめかみをおさえた。
金田一耕助も暗然とした眼でうなずく。秀子がいおうとする言葉の意味がよくわかるのである。それあるがゆえに、琴絵は|良《おっ》|人《と》殺しとして、のっぴきならぬ立場におかれているのである。
「それで、あなたが部屋へはいられたとき、そこには智子さんのお父さんの死体と、琴絵さん以外には、誰もいなかったんですね」
「はい、絶対に。このことだけは神かけて、お誓いすることが出来ますわ」
「誰かがどこかに……たとえばベッドのしたなどにかくれていて、あなたがたが死体のほうに気をとられているあいだに、こっそり抜け出したというようなことは。……」
「いいえ、そんなことは絶対にございません。だってあたし、お部屋のようすをひとめ見るとすぐ扉をしめ、掛け金をおろしたのです。どんなにあたしどもが、死体に気をとられていたからって、それを開け立てすれば、気がつかぬというはずはございません」
「なるほど、それではさきをおつづけください。ここは大切なところですから、どんな|些《さ》|細《さい》な事柄でも、そのとき、その部屋でお気づきになったことは、残らず思い出していただきたいのですがね」
「はあ、あたしあのときのことは忘れようたって忘れることが出来ません。智子さまのお父さんの死体を見て、あたしがどのように驚いたかというようなことは、くだくだしくなりますから|省《はぶ》くとして、あたしは琴絵さまにどうしてこんなことになったのかとお|訊《たず》ねしました。それについて琴絵さまのおっしゃるのには、妊娠しているから結婚してくださいという琴絵さまのお願いに対して、智子さまのお父さんが、最後的な御返事をなすったのだそうです。それは結婚出来ないということと、結婚出来ない理由だったらしゅうございます。どういうわけで結婚できないのか、それは琴絵さまもおっしゃいませんでしたが、そのことが琴絵さまを逆上させ、一時的に放心状態におちいるという、いつもの発作をおこさせたのでございます」
智子の父が結婚をこばんだ理由は、おそらく御自分の御身分のせいであったろう。そして、そのことがどんなに琴絵をおどろかせたか、おそらくそれは想像に絶したものがあったろう。それでなくとも|日《ひ》|頃《ごろ》から、そういう病癖を持つ彼女が、一時的に放心状態におちいったのも、まことに無理のない話である。
「ところが、しばらくしてその発作がおさまって、琴絵さまが正気にもどると、眼のまえに智子さまのお父さまが血にそまって……そして、そのそばには柄のおれた月琴が、血にそまって投げ出してあります。しかもあたりを|見《み》|廻《まわ》すと、扉には二重に締まりがしてあり、窓にも異状がございません。ああ、そのときの琴絵さまの驚きと|怖《おそ》れ、それはどんなでございましたろう。あたしもお話をきくとびっくりしましたが、それでも念のために窓をしらべ、それから誰かかくれていないかと、部屋のなかをくまなく調べてみました。しかし、どこにも異状なく、また誰もかくれてはおりません。そのときのあたしの絶望と恐怖……世のなかがいっぺんに、真っ暗になったような気がしました。そこで、何とかして琴絵さまをお救いしなければならぬと、龍馬さんを呼びにいったのでございます。それからあとのことは、龍馬さんが智子さまにおっしゃったとおりでございます」
「ところで、神尾先生、さっき智子さんとも話をしたのですが、その部屋に|抜《ぬ》け|孔《あな》があるというようなことはありませんか」
「ああ、それがあるくらいなら。……いいえ、そんな話はいちども聞いたことはございません。昨日、青梅であんなことがございましたものですから、ひょっとすればあの部屋にも……と、思ってかえってからお|祖《ば》|母《あ》さまに、そっと抜け孔のことをお|訊《たず》ねしてみました。しかし、お祖母さまもそんなものは絶対にないといってらっしゃいます」
「なるほど、それから智子さんのお父さんの死体を、|棹《さお》の岬の|突《とっ》|端《ぱな》から突きおとしておくということは、あなたがお考えになったことだそうですね」
「はあ、あのかたがそこへ|羊《し》|歯《だ》を|採《と》りにいくつもりだと、おっしゃっていらしたのを思い出したものですから。……」
さすがに秀子も|蒼《あお》くなって身ぶるいをした。金田一耕助はしばらく考えて、
「神尾先生、この件について何かもっとほかに思い出すことはございませんか。どんな些細なことでもいいのです。あそこがちょっと変だったとか、ここがすこし妙だったとかいうようなことが、どっかにありませんでしたか」
「さあ、それでございます。これはそのことがあってから一週間ほどのちになって、琴絵さまが思い出されたことなんですが、琴絵さまはあのかたが、せんにお見えになったとき、記念として指輪をいただいていられたのでございます。ところがその日あのかたが、このまえあげた指輪は祖母のかたみで、じぶんのうちにとっては大事なものだから、かえしてほしいとおっしゃったのだそうです。そのことがいっそう琴絵さまを逆上させたのでございますが、……ところがその指輪があとになって見ると、どこにも見えないのでございます」
「その指輪は琴絵さんが指に。……」
「いいえ、そういうわけにはまいりません。あのかたとのことは、あたし以外にはどなたにもかくしてあったのですから。……それでその指輪は小さなガラスのケースに入れて、お居間にある|箪《たん》|笥《す》の袋戸棚にいれてあったのです」
「それが見えなくなったんですね。いつごろ……?」
「さあ、それがよくわかりません。気がついたのはいまもいったとおり、あのことがあってから一週間ほどのちでしたが……でも、あのことが起こるちょっとまえまでは、指輪はたしかにそこにあったんです」
「どうしてそれを御存じですか」
「あたし、この眼で見たのです。おふたりがお部屋へお入りになってから、あたしがお芝居を見にいったことはさっきも申し上げましたわね。その節、出がけに新しいハンケチを出そうと、袋戸棚をあけたのですが、そのときには、たしかにガラスのケースのなかに、指輪が光っていたんです。それがいつからなくなったのか、気がついたのは一週間ほどのちのことでしたが。……」
金田一耕助はだまってそのことを考えた。
こうして事件は全然振り出しへもどってしまった。そして、新しい調査のために、金田一耕助や智子をはじめとして、関係者一同はそれから間もなく月琴島ヘ|赴《おもむ》くことになったのである。
嵐三朝一座
|修《しゅ》|善《ぜん》|寺《じ》で一服した金田一耕助や|智《とも》|子《こ》の一行は、いま三台の自動車をつらねて、|天《あま》|城《ぎ》を越え、|下《しも》|田《だ》へむけて疾走している。
いちばんまえの自動車には、大道寺|欣《きん》|造《ぞう》と|蔦《つた》|代《よ》と文彦。ほかに執事の伊波良平が、スペヤー・シートでかしこまっている。二番目の自動車には智子と|槙《まき》と神尾秀子、スペヤー・シートには女中の静。最後の自動車には金田一耕助と|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部、それに修善寺から一行にくわわった、|亘《わた》|理《り》署長が乗っていた。
この恐ろしい物語の関係者のなかで、ここに顔を見せていないのは、元宮様の|衣《きぬ》|笠《がさ》氏と多門連太郎、それに智子の求婚者の最後のひとり、駒井泰次郎の三人だけ。多門連太郎は|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》殺しの調査が、まだ完全にすまないので、警視庁に抑留されているのである。
それに反して駒井のほうは、|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》事件の容疑がうすらいで、すでに釈放されていたけれど、過日かれは電話できっぱりと、今後智子との交渉を、いっさいうちきると宣言してきた。おそらくそれは、あいつぐ殺人事件に恐れをなしたためであろうが、そのことは智子の心に、なんのかげりも投げかけなかった。かえって彼女は|執《しつ》|拗《よう》な駒井の求愛から、のがれることが出来たのを、よろこんでいるふうである。
こうして一行はいま、十九年の歳月をこえて、開かずの間の秘密を解こうと、運命の島、月琴島へと急いでいるのである。
「ときに、金田一さん」
天城越えの自動車にゆられながら、思い出したように口をひらいたのは、修善寺の亘理署長である。
「今朝がた下田の警察から電話がかかってきましてな、このあいだ|松籟荘《しょうらいそう》で殺された、姫野東作の仲間がひとり、発見されたそうですよ」
「姫野東作の仲間というと、あの男が旅役者をしていたころの……?」
「そうです、そうです。姫野が|嵐三朝《あらしさんちょう》と名乗って、旅をかせいでいたころの一座のものですが、それがいま下田の劇場で、下足番かなんかしているのが発見されたんです。それで、何かまた参考になることが、聞き出せるかも知れないと思って、下田の警察ヘ呼び出しておいて|貰《もら》うように、手配をしておきましたがね」
「それは、それは。……」
なんとなくおりもおりという感じで、金田一耕助も心がおどった。
「その男も昭和七年の秋、つまり智子さんの実父が変死をとげたとき、嵐三朝やなんかといっしょに、月琴島にいたんですね」
「そうです、そうです。その男――田島修三という男なんですが、そいつの話によると、それまで毎年月琴島の祭りといえば、嵐三朝の一座が招かれていたのに、あの事件があって以来、大道寺家でその慣例をやめてしまったので、かれらが月琴島へわたったのは、その年が最後になったそうです。だから田島もあのときのことなら、かなり詳しくおぼえているといってるそうです」
「なるほど、それは好都合ですね」
金田一耕助の心はいよいよ躍った。ひょっとするとその男の口から、十九年あまりの長いあいだ、秘密のヴェールにつつまれていた、|謎《なぞ》の手がかりが引き出せるのではあるまいか。……金田一耕助はなんとなく、明るい予感に胸がふるえるのをおぼえた。
それはさておき、一行が下田へ到着したのは、午後二時ごろのことである。あらかじめ連絡がしてあったので、下田には海上保安庁のランチが一|艘《そう》、いつでも出発できるように用意がしてあった。
しかし、老人や子供もいることとて、一同はすぐにランチに乗りこむことを避けて、旅館でしばらく休息をとることになった。
金田一耕助と等々力警部はそのあいだに、亘理署長の案内で下田の警察ヘ出向いていった。
「やあ、しばらく、さきほどは電話で失礼」
三人が署長室へ入っていくと、下田の署長が愛想よく出迎えた。下田の署長は工藤といって、言語動作のきびきびとした、いかにも歯切れのよさそうな人物だった。
亘理署長が金田一耕助と等々力警部を紹介すると、工藤署長はにこにこと、金田一耕助のほうへ向きなおって、
「いや、お名前はかねてから承っております。今度はまたたいへんですな。さっきも亘理君と電話で話をしたんですが、このあいだの修善寺の事件が、十九年も昔から尾をひいているんだそうで、びっくりしてしまいましたよ。これから島へお渡りになって、何かうまい手がかりがつかめればいいですがね」
「それについて、こちらに田島という人物が来ているそうですが。……」
「ええ、さっきからお待ちしていますよ。おい、誰か田島さんをここへ呼んでこい」
田島というのは六十前後の、すっかり白くなった頭をみじかくかりこんだ、あから顔の大男で、襟に劇場の名を染めぬいた、色のあせた|法《はっ》|被《ぴ》を着ていた。
「田島さん、こちらが東京からいらした有名な探偵さんだが、君に昭和七年の秋の月琴島のことを聞きたいとおっしゃるんだ。出来るだけ詳しく話してあげてくれたまえ」
田島老人はいぶかしそうな顔をして、ちらと耕助のほうを見たが、表情にとんだその眼が、いかにもきれいに澄んでいるので、これなら記憶に間違いはあるまいと、金田一耕助も安心した。
老人はもじもじしながら、
「へえ、あの、どんなことを申し上げればよろしいんで。……」
「田島さん」
金田一耕助はちょっと体を乗りだして、
「お|登《と》|茂《も》様のお祭りは十月二十一日でしたね。あなたがたが月琴島へ渡ったのは……?」
「へえ、その前々日の十九日のことでした。お登茂様のお祭りは二十日、二十一日と二日あるんですが、いつも|宵《よ》|宮《みや》のほうが|賑《にぎ》やかなんで、そのまえの日に出向くことに、毎年きまっておりましたんで」
「それで、月琴島から引きあげたのは……?」
「二十一日の夕方のことでございます。宵宮の日は朝から夜おそくまで、一日いっぱい芝居を打ちますが、二十一日の日はいつも四時頃に芝居を切りあげて、すぐ島をはなれることにきまっておりましたんで」
「なるほど、それじゃあなたがたは、その日、旅の青年が、|崖《がけ》から落ちて死んだという騒ぎが起こるまえに、島を離れたんですね」
「へえ、さようで。そのことなら二、三日のちに、新聞で読んではじめて知りましたんで」
「そのことについて、何かへんだと思われるようなことに、気がつきませんでしたか」
「べつに|一《いっ》|向《こう》……もっとも、その学生さんなら存じあげておりました。わたくしどもの写真をとってくださいましたので。……」
「そうそう、その写真ならぼくも見ましたよ。ところでその青年は、あなたがたの写真をとってかえってから、|蝙《こう》|蝠《もり》の写真をとってきたといったそうですが、何かそのときの芝居に、蝙蝠に関係のあるようなものがありましたか」
「蝙蝠ですって……?」
田島老人は不思議そうに眼を見張って、
「さあ、それは……そんなことはなかったと思います。切られ|与《よ》|三《さ》の芝居も出ていませんでしたし、ほかに蝙蝠に関係のある狂言といえば。……」
「いや、狂言でなくてもいいんです。|衣裳《いしょう》とか小道具に、蝙蝠の模様がついていたとか、あるいはそのへんに蝙蝠が飛んでいたとか。……」
「さあ、それもどうも。……そういう衣裳小道具はございませんでしたし、それにあれは秋の、しかも真っ昼間のことでございましたから、蝙蝠が飛んでいたなどとは。……」
これで頼みの綱はぷっつりと切れてしまった。金田一耕助はせっかく抱きしめてきた明るい予感を、みごとに裏切られて、|怨《うら》めしそうに田島老人の顔を見ていたが、やがて気落ちしたような声でぼんやり|訊《たず》ねた。
「いったい、そのときあなたがたの一座は何人でした」
「はい、全部で十二人でございました」
「十二人……?」
金田一耕助は何気なく|呟《つぶや》いたが、急に|眉《まゆ》をひそめて老人の顔を見直した。
「十二人……それはたしかですか」
「はい、間違いはございません。わたくしはその時分、役者ばかりでなく、マネジャーみたいなこともしておりましたので、よく|憶《おぼ》えております。一座ひっくるめて十二人でございました」
「しかし、ぼくはあなたがた全員の写っている写真を見たんですが、たしか十三人ならんでいましたよ」
「十三人……? そんなはずはございません。わたしどもはずっと十二人でやっておりましたんで。……」
と、いいかけてから老人は、何か思い出したらしく、急に、にこにこ笑い出した。
「ああ、それならきっと、島田さんがいっしょに写っていたんでしょう」
「島田さん? 島田さんていったい誰です」
「月琴島のかたなんですが、とても芝居のお好きなひとで、下田までわざわざわたしどもを迎えにきてくださいまして、島で芝居をしているあいだ、じぶんも|端《は》|役《やく》につかってくれとおっしゃって、まるでもう、すっかり役者気取りでした。わたくしが田島で、むこうさんが島田さんですから、それで、いまでも名前をおぼえておりますんで」
「いったい、いくつぐらいのひとでした」
「さあ。……若いようでもあり、|老《ふ》けてるようでもあり、見当がつきませんでしたが、とても面白いかたで、よく冗談をいってはわたしどもを笑わせていました。わたしどもが島をはなれるときも、同じ船で下田まで送ってくださいましたので。……」
金田一耕助はとつぜん、眼をつむって大きく息を吸いこんだ。何かしら、はげしくかれの心をつきさすものがあり、全身の血が|沸《たぎ》り立つように騒いで脈打つ。じっと閉じた|瞼《まぶた》のうらを、あやしい影像が火花のようにまたたきながら旋回した。
「金田一さん。どうかしましたか」
等々力警部と亘理署長が、ふしぎそうに左右から、耕助の顔をのぞきこむ。
金田一耕助は眼をひらくと、
「いや、な、なんでもありません。どうも有難う。それではこれくらいで。……」
ぺこペことお辞儀をしながら出ていく老人のうしろ姿を、金田一耕助は一種のかがやきをおびた眼で見送っていたが、やがて工藤署長のほうをふりかえると、
「署長さん、お願いがあるんですが。……」
「はあ、どういうことでしょう」
「二、三人ひとを貸していただきたいんですが……なるべくならば、家宅捜索になれてるようなひとがいいんです」
「ああ、いいですとも」
署長はちょっと考えてから、すぐ三人の刑事を呼んで、耕助に同行するように命じた。
一同が宿へかえると、大道寺家のひとたちは、すでに出発の用意ができていた。船着き場へむかう途中で、金田一耕助は神尾秀子をつかまえて、
「神尾先生、月琴島に島田というひとがいますか」
神尾秀子は首をかしげて、
「そういう姓は月琴島にはないようですね」
「いや、現在じゃないんですよ。十九年まえのあの事件の起こったころ。……」
「いいえ、いまも昔もそういう姓は、月琴島にはないようです」
金田一耕助はかすかに|溜《た》め息をついた。
町をはなれて海岸へ出ると、六月の|伊《い》|豆《ず》の海は、真夏のようにまぶしく照りかがやいて、向こうに見える燈台が、絵にかいたようにポッカリと、海面からうかびあがっている。船着き場のちかくには、漁船の帆柱が林のように、ぎっちりとならんでいた。
金田一耕助はまた口をひらいて、
「十九年まえの祭のときですがね。嵐三朝の一座がきていたでしょう。あのとき三朝の一座が何人だったか御記憶じゃありませんか」
神尾秀子はちょっと耕助の顔をふりかえったが、やがてひくい声で、
「さあ、……なにぶんにも古いことですから。……でも、調べようと思えば調べることが出来ると思いますけれど。……」
「どういうふうにして……?」
「御存じのとおり、島には宿屋というものがございませんでしょう。だから、ああして大勢のひとが来た場合、あちこちに分宿してもらうんです。その割り振りをするのが大道寺家の……つまり、あたしの役目でした。だから古い帳面を調べてみれば、あちらに何人、こちらに何人ということがわかりますし、それを合計すれば、全部で何人だったかわかります。でも、金田一さま、それがなにか。……」
秀子の声がなぜかはげしくふるえているのを、金田一耕助はわざと無視して、
「そして、その帳面はいまどこに。……」
「月琴島の大道寺の家にあります」
「ああ、そう、それじゃ島へついたら、さっそく調べていただきたいですね。しかし、このことは誰にもおっしゃらないで」
だまって耕助の顔を見かえした神尾秀子は、なぜか唇まで|真《ま》っ|蒼《さお》になっていた。
遥かなる昔
単調なエンジンのひびきにつれて、月琴島がしだいに海面からうかびあがってくる。快適なランチのスピードに乗って、島はみるみる一同の眼前にせまってきた。
海から見る月琴島は、まるで原色で刷られたお|伽噺《とぎばなし》の挿し絵のようだ。全島をおおうしたたるばかりの緑のなかに、点々として望まれる唐風の屋根、朱塗りの柱。……時代のためにずいぶんくすんではいるけれど、それでも初夏の南方の太陽に照りはえて、ギラギラするような印象である。
それが智子のうまれ故郷なのである。彼女はそこにうまれ、そこに育った。そして、当分ここへかえることはあるまいという固い決心のもとに、そこを離れたにもかかわらず、恐ろしい運命は、わずか二十日余りの時日の後に、再び彼女をここへ連れもどったのである。
この美しいうまれ故郷も、いまの智子の眼には、えたいの知れぬ怪物のようにしか見えぬ。何かしら、|巨《おお》きな、真っ黒な手が、島のうえにおおいかぶさって、陽の光さえさえぎっているように思われるのだ。
ランチのなかでは誰ひとり口をきくものはない。|咳《せき》ばらいひとつきこえなかった。
大道寺欣造は無表情な顔で、ぼんやりと水平線のかなたに眼をやっている。蔦代は顔もあげないで、ともすれば、ちょこちょこと動きまわる、文彦の肩をしっかり抱いている。まるで、その手をはなせば誰かが文彦を、連れ去ってしまいでもするかのように。
|棹《さお》の岬の|尖《せん》|端《たん》を、ランチが大きく|迂《う》|回《かい》するとき、智子は全身をはいのぼる|戦《せん》|慄《りつ》に、思わずからだをふるわせた。誰かがその肩にかるく手をふれたので振り返ってみると神尾秀子だった。秀子の眼がしっとりと涙に|濡《ぬ》れているのを見たけれど、智子はべつに怪しみもしなかった。彼女自身も精いっぱい、声をはりあげて泣き出したいような気持ちだったのだから。祖母の槙はぐったりと眼を閉じて、虚脱したような顔色である。この二十日あまりのうちに、げっそりやつれて、落ちくぼんだ眼のあたり、何かしら不吉な影がただようている。
ランチはしだいにスピードをゆるめ、やがて船着き場の|桟《さん》|橋《ばし》に、ぴったりと横着けになった。
電報が打ってあったので、桟橋には留守番の|爺《じい》やや、島のひとが五、六人迎えに出ていた。それらのひとと槙や神尾秀子との間に、|挨《あい》|拶《さつ》がとりかわされたが、誰も|声《こわ》|高《だか》に話すものはなかった。みんな智子のこんどの帰島が、決して目出度いものではないことを、よく|識《し》っているのである。
|唯《ただ》ひとり伊波良平が、あいかわらずちょこまかと歩きまわりながら、旧知のひとにむかって、|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に挨拶をするのが、かえってその場の空気にそぐわなかった。
智子はひとことも口を|利《き》かなかった。
やがてみんなランチをおりてしまうと、三々五々つれ立って大道寺家へむかう。船着き場から大道寺家までは、だらだら坂で十五分ばかりのみちのりである。
金田一耕助はいつかまた、神尾秀子と肩をならべて歩いていた。
「金田一さま」
秀子はちょっとあとさきを見まわしてから、ひくい声でささやいた。
「いつかお送りしたでしょう。編み物の符号で出来た暗号……あれ、どうなさいまして」
耕助はぎょっとしたように秀子の顔をふりかえった。
「あれなら、手帳にはさんでいまもここに持っていますよ。どうかしましたか」
「いいえ、ちょっとお伺いしてみただけなんですの」
「神尾先生」
耕助も|咽《の》|喉《ど》の奥に、何かひっかかったような声でささやいた。
「あなたは何かあの暗号を、必要とするような事態が、ここで起こると思っていらっしゃるんですか」
「いいえ、そういうわけではございませんけれど。……」
言葉をにごす神尾秀子の横顔を、金田一耕助はさぐるように|視《み》つめていたが、ふと気がついて、
「おや、神尾先生、あなたあれをどうなさいました。ほら、いつか|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》の廊下で見せていただいたロケット。智子さんのお母さんの写真の入っていたあれ。……今日はあれをかけていらっしゃいませんね」
「ああ、あれ。……」
秀子の|頬《ほお》に少し血の気がのぼったが、すぐに彼女はそれを|揉《も》み消すように、かるく首を左右にふって、
「どうしたんですか、なくしてしまいましたの」
「なくしたって……?」
「ええ、きっとどこかへ落としたのね。いつどこで落としたのか、自分でも気がつかないのですけれど。……このごろのあたし、どうかしているんですわ。ぼんやりして……」
そういう秀子の横顔を見ながら、金田一耕助は彼女が|嘘《うそ》をついているのだと思った。しかし、なぜ彼女があのロケットについて、嘘をつかなければならないのか、耕助にも真意がわからず、ちょっと怪しく胸のさわぐのをおぼえた。
しかし、その疑問は疑問としておいて、耕助はまたたずねる。
「そうそう、このあいだ智子さんからうかがったのですが、あなたは今度のこの事件について、ひどく責任を感じていらっしゃるのですってね。こういう事件が起こるというのも、もとはといえば昭和七年の夏、智子さんのお母さんが、|日《くさ》|下《か》|部《べ》という青年と、過ちを犯したのがもとだという意味で……」
「それはそうにちがいございませんもの。あたしの注意がいきとどかなかったものですから。……」
「そうすると、今度の事件の|発《ほっ》|端《たん》は、昭和七年の夏、大道寺さん、当時の速水欣造と、日下部青年が月琴島ヘ旅行にきたときに、|胚《はい》|胎《たい》しているというわけですか」
秀子はちらと耕助の顔を見て、
「ええ。……でも、そういう考えかたを、もっと突きつめていくとすれば、もう一年まえ、昭和六年の秋にまでさかのぼることが出来るのではないでしょうか」
「昭和六年……?」
耕助は思わず秀子の顔を見直した。
「昭和六年の秋に、何かあったのですか」
「大道寺さん、いいえ、当時の速水欣造さんが、ひとりで旅行にいらっしゃいましたの。ちょうどお登茂様のお祭りの頃。……そして、そのとき島の風物がお気に召したものですから、翌年また、今度は日下部さんをお誘いして、島ヘ遊びにお見えになったんですわ。そして、あんなことになったのですから、厳密にいえば、すべての事件の発端は、昭和六年の秋にあるといって、いえないことはないでしょう。むろん、これは誰の責任でもなく、みんな運命なのでしょうけれど。……」
秀子は悲しげに|溜《た》め息をついたが、ふと前方に眼をやって、
「あら、お|祖《ば》|母《あ》さま、どうなすったのかしら」
ちょうどそのとき、前方を歩いていく祖母の槙が、めまいでもしたのか、ふいによろよろよろめいた。もし、いっしょに歩いていた智子が抱きとめなかったら、槙はきっと路上に倒れていたにちがいない。
「あれ、誰か来て……お祖母さまが。……」
その声に、すぐ一同がバラバラとかけよった。
祖母の槙はびっくりするほど|蒼《あお》い顔をして、呼吸があらく、額にはつぶつぶの汗がいっぱい浮かんでいる。金田一耕助が手をとってみると、氷のように冷えきって、脈もあるのかないのかわからないほど弱かった。
耕助は何かしら、ギクリとするものを心中に感じたが、つとめて平静に、
「なに、ちょっと脳貧血を起こされたんですよ。誰かこのかたをおんぶしていってあげてくれませんか」
三人の刑事のうちで、いちばんたくましい体格をしたのが、すぐかけよって背をむけた。ぐったりとそれに負われた祖母の槙は、枯れ草のようにしなびて哀れだった。
「先生、大丈夫ですか」
智子が声をふるわせる。
「大丈夫ですよ。神尾先生、あなたは智子さんとさきにいって、すぐお祖母さまを寝かせてあげるように支度をしてください。出来るだけ脚をあっためるようにしてね。それから、誰か医者を。……」
智子と秀子、それから女中の静の三人が、一団となって駆けていく。伊波良平がそれにつづいた。迎えにきた|爺《じい》やが医者へ走った。そのあとから、槙をおぶった刑事をかこんで、一同はだらだら坂をのぼっていく。
「なにぶんにも、おとしがおとしですから。……」
金田一耕助はいつか大道寺欣造と肩をならべていた。
「そう、それにこのあいだから、いろんなことがありすぎたからね」
欣造の声はしめっていた。しばらくふたりは黙々として歩いていたが、やがて欣造が吐き出すように|呟《つぶや》いた。
「ねえ、金田一さん、結局、われわれはあの警告状に、したがったほうがよかったのかも知れないね。智子はやはり島へおいといたほうがよかったのかも知れぬ」
金田一耕助はそれにはこたえず、かえってこちらから質問を切り出した。
「大道寺さん、あなたはまだあの警告状のぬしに心当たりがありませんか」
大道寺欣造はしばらく黙ってこたえなかったが、やがて低い、しゃがれた声でささやいた。
「金田一さん、それについてわたしはまえから、ひとつの考えを持っているんです。あるいは邪推かも知れないけれど。……」
「邪推でもなんでもかまいません。考えていらっしゃることがおありなら、どんどんおっしゃっていただきたいんですが。……」
大道寺欣造はまたちょっと考えたのち、ボツリボツリと語りだした。
「われわれがあの警告状をうけとったのは、五月はじめのことなんですが、封筒の消印を見ると東京で|投《とう》|函《かん》されている。だから警告状のぬしもその頃、東京にいたことになりますね。ところでいっぽう、あの警告状を見ればわかるとおり、差出人は十九年まえ、この島で起こった事件をよく知っているんです。ということは、そいつはその頃、月琴島にいたことになるんじゃないかと思う。あの事件の起こったころこの島にいて、五月ごろ東京にいた人物……と、こう考えてくると、おのずから限定されてくると思うんですがね.|蔦《つた》|代《よ》がそうだし、伊波君がそうだが、しかし、あのふたりにそんなことをしなければならぬ理由はないから、そうなると、残るところは|唯《ただ》ひとり、|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》ということになる」
「しかし、九十九龍馬にだって、ああいう警告状を書く理由はなさそうですがね。あれはあなた方に智子さんを呼びよせることを、思いとまらせるための警告でしょう。龍馬はなぜ……?」
「金田一さん」
大道寺欣造はいくらかきびしい声で、
「ものには逆手ということもある。げんにわれわれはあの警告状に|刺《し》|戟《げき》されて、いっそう智子を呼びよせる決心を固めたんです。龍馬が琴絵を愛してたことは、あんたも御存じでしょう。龍馬はひとづてに智子の器量をきいて、過去において琴絵にみたされなかった恋を、娘の智子によってみたそうとしたのかも知れない。それにそうそう、いままで過失でとおっていた十九年まえの事件を、他殺ではなかったかと、警告状はほのめかしているが、それをいちばんよく知っていたのは九十九龍馬ですからね。そのほか、あの警告状の文体や性格からおして、九十九龍馬という怪人物が、いちばんふさわしいような気がするんですがね」
「すると、それからのちの一連の殺人事件は、すべて龍馬の犯行ということになりますか。しかし、そうすると、その龍馬もひと手にかかって殺されたのはどういうわけでしょう」
「いや、あれは今度の一連の殺人事件と、切りはなして考えたらどうですかね。たまたま多門連太郎という、向こう見ずの不良がわりこんできたために、その手にかかって殺されたと。……金田一さん、いったい多門連太郎というのはどういう男なんです。どうしてあんなに智子につきまとうんです」
欣造のさぐるような視線をさけながら、
「いや、それはぼくにもよくわからないんですがね。しかし、大道寺さん」
金田一耕助はそっとあとさきを見まわして、
「いま、あなたのおっしゃったような条件、即ち十九年まえにこの島にいて、智子さんのお父さんの死が過失ではなく、他殺であることを知っている人物で、しかも、この五月頃、東京にいたひとが、もうひとりあることを、あなたはお忘れになっていますよ」
欣造はいぶかしそうに|眉《まゆ》をひそめて、
「誰ですか、それは……?」
「神尾先生」
「神尾先生……?」
「そうです。神尾先生は四月の終わりごろ智子さんの新居を検分するために、一度上京したそうじゃありませんか。たとい滞在の日数はみじかくとも、警告状を|投《とう》|函《かん》するくらいのひまはあったんでしょうからね」
大道寺欣造はふいに大きく眼をみはった。それから、このひととしては珍しくいきを|弾《はず》ませて、
「しかし、神尾先生がなんだってそんなことを。……」
「大道寺さん、神尾先生なら九十九龍馬以上に、強い動機がかんがえられますよ。神尾先生は琴絵さんを愛していられた。と、同じように智子さんをも愛しているんです。その智子さんが島を出て、異性と結婚する。……神尾先生にとって、それは耐えがたい苦痛だったんじゃありますまいか」
「金田一さん!」
大道寺欣造は激した調子でなにかいいかけたが、そのままばったり口をとざしてそれきり一言も発しなかった。
ちょうどその頃一同は、大道寺家の表へついていた。
第九章 耕助開かずの間へ入る
耕助開かずの間へ入る
医者が駆けつけてきて、注射を三、四本うったので、祖母の|槙《まき》はいちじ小康をたもっているが、その容態には憂慮すべきものがあり、
「なにぶんにもおとしがおとしですし、それにずいぶん衰弱していらっしゃいますから」
と、医者も暗に警戒するようにとの|口《こう》|吻《ふん》だった。場合が場合だけに、いま祖母にもしものことがあったら、智子は泣くにも泣けなかった。
しかし、祖母のそういう容態にもかかわらず、智子はいっぽうに、どうしても早急に解決を見なければ、おさまらない問題をひかえていた。
そこで医者の、
「まさか、今日明日というようなことはございますまいが……」
と、いうことばを|唯《ゆい》|一《いつ》のたよりとして、|昏《こん》|睡《すい》している祖母を、女中の静にまかせて、神尾秀子とともに客間へくると、そこには東京からいっしょにきたひとびとのほかに、修善寺の亘理署長や、下田から同行した刑事たちが、むつかしい顔をしてひかえていた。
「智子さん、お|祖《ば》|母《あ》さまのお加減はどうかね」
大道寺欣造がやさしくたずねる。
「はあ、あの、あまりよろしいほうではございませんそうで。……でも、いまがいまというわけのものでもございませんから」
智子はいまにも涙がこぼれそうになるのを、やっとこらえてそう答えた。
それを聞くと一同はギクッとしたように顔見あわせる。だれも急に口をきくものはなかった。
この家にのしかかっている、悲劇的な宿命が、一同の胸につよくひびいて、|咳《せき》ひとつすることさえ|憚《はばか》られた。
「そんなに……お悪かったのかね」
大道寺欣造は|憮《ぶ》|然《ぜん》とした|体《てい》である。
「お祖母さま、きっとお苦しいのを我慢していらしたんですわ。それに気がつきませんで、申し訳ございませんでした」
神尾秀子が畳に両手をついて頭をさげた。
欣造はかるくうなずきながら、智子のほうをふりかえって、
「それで智子さんはどうする気かね。せっかくこうして皆さんにきていただいたのだが、お祖母さまがそういう御容態では。……」
「いいえ、お父さま」
智子は言下にそれをさえぎって、
「それとこれとは別問題ですわ。せっかくここまで来ていただいたのですから、開かずの間をよく調べていただかなくては。……」
「いま、すぐ……?」
「ええ、いま、すぐ。……」
「あら、智子さま、それではなんぼなんでもあんまりですわ。ちょうどじぶん時ですから、お夕飯でも召し上がっていただいて。……」
神尾秀子のとりなしは|時《じ》|宜《ぎ》をえていた。下田で手間どったうえに、祖母の病気でごたごたしたので、もうかれこれ六時になっていた。
智子はうすく|頬《ほお》を染めて、
「すみません。あたし勝手なことばかり考えて……先生、それではお食事の支度をして。あたしもお手伝いしますから」
「わたくしもお手伝いさせていただきましょう」
|蔦《つた》|代《よ》もかいがいしく立ち上がった。
食事はすぐすんだ。夏のいちばん日の長い、しかもサマー・タイムのころのこととて、食事がすんでもまだあたりは明るかった。
「それでは智子さん、開かずの間というのを、見せていただきましょうか」
|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》をそこにおくと、金田一耕助はちゃぶ台のはしに両手をついて、うながすように智子を見る。なんとなくさあという気構えで、戦闘開始の号令にもにた緊張の気が、さっと一座のあいだにみなぎった。
「ああ、ちょっとお待ちになって、|鍵《かぎ》をとってまいりますから」
智子は座敷を出ていきかけて、敷居のところで立ちどまると、
「神尾先生、皆さまをむこうへ御案内申し上げて。あたしはすぐあとからまいりますから」
「そうですか。では、皆さま、どうぞ」
「蔦代、おまえは来なくともいい。ここを片づけたらお祖母さまを|看《み》てあげなさい。文彦、おまえは蔦といっしょにおいで」
欣造のことばに、
「はあ」
と、蔦代は|蒼《あお》ざめた顔でうなずくと、
「坊っちゃま、あなたは蔦といっしょにいらっしゃいましね」
「ああ」
珍しく素直に文彦がうなずいたが、これがかれの生きている父を見た最後となった。
「金田一さま」
いちばんさきに耕助と肩をならべて歩いていた神尾秀子が、ささやくような早口で、
「さっきのお|訊《たず》ねね。|嵐三朝《あらしさんちょう》一座の人数のこと。……」
「わかりましたか」
「はあ、十三人でございました」
「十三人……? 間違いはありませんね」
「間違いございません」
神尾秀子はそれだけいうと、さきに駆けぬけて別館の扉をひらいた。
金田一耕助の心は、嵐にもまれる小舟のようにおどっている。
田島という男の話によると、三朝の一座は十二人だったという。それだのに島にのこる記録では十三人となっているのだ。ひとりよけいなその男こそ、島田と名乗る怪人物にちがいない。つまりその男は旅役者の連中には島のものと見え、島のひとたちの眼には、旅役者としてうつったのだ。いやいや、ひょっとするとその男は、双方からそう思われるようにふるまっていたのであるまいか。
突然、金田一耕助は脳天から、するどい|楔《くさび》でも打ちこまれたようなはげしいショックを感じた。
いままでしつこく心の底にわだかまっていた|謎《なぞ》の真相が、そのとき|忽《こつ》|然《ぜん》として、明るい照明のなかにうきあがるのを見たのである。
「金田一さん、ど、どうかしましたか」
|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部がびっくりしたように横から肩をたたいた。
「い、い、いえ、べつに。……」
「顔がまっ|紅《か》ですよ。熱でもあるんじゃありませんか」
|亘《わた》|理《り》署長も心配そうにのぞきこむ。じっさいそのとき金田一耕助は、首からうえが燃えあがるように|火《ほ》|照《て》るのをかんじていた。
「い、い、いや、べつに御心配なさるようなことはありません。ああ、これが開かずの間の扉ですね」
神尾秀子がカーテンをかかげて待つ。|観《かん》|音《のん》びらきの扉のまえに立ちどまると、金田一耕助はあとからきた大道寺欣造をふりかえった。
「大道寺さん、あなたはこの部屋のことを御存じでしたか」
「むろん、知っていましたよ」
欣造はギゴチなく、|咽《の》|喉《ど》にからまる|痰《たん》を切りながら、
「しかし、そこにそんな恐ろしい秘密が封じこまれていようとは、夢にも思いませんでしたよ。わたしは琴絵の感傷から、智子の父の思い出を、いつまでもそこなわないために、そうしているのだとばかり思っていました」
「神尾先生、琴絵さんはどうして犯罪の現場を、いつまでも保存しておこうと考えられたんです」
「それは御自分をお責めになるためでした。琴絵さまはあの事件以来、自分を責めつづけていらっしゃったのです。自分を責めて、責めて、責めつづけて、そのあげくお亡くなりになったんです。それはもうはたの見る眼もいたましいくらいで、琴絵さまがお亡くなりになったのちも、この部屋をこのままにしてございますのも、みんな御遺言からなのです。琴絵さまは死後もなお、自分を責めつづけるつもりでいらしたんでしょう」
「琴絵さんがこの部屋をしめきったのは?」
「あの事件の直後でした。わたしが龍馬さんに頼んで、死体のしまつをしてもらってかえってくると、この部屋は外から|閉《とざ》されて、|鍵《かぎ》がかかっていました。|南京錠《ナンキンじょう》をつけたのは、それから少しのちのことでしたが」
「でも、琴絵さんはときどき、なかへ入られたんでしょう」
「いいえ、一度も。ときどき、扉のまえで泣きくずれていらっしゃることはございましたが。……」
金田一耕助はだまってもじゃもじゃ頭をかきまわしている。その|瞳《め》には何かしら、キラキラとかがやくものが浮いていた。
そこへ智子が|椿《つばき》の根もとに埋めてあった鍵をもってやってきた。
「お待たせしました。少しふかく埋めすぎていたものですから」
なるほど、見ればその鍵にはちょっぴり泥がついている。智子はそれをハンケチでぬぐって、金田一耕助に渡しながら、
「先生」
と、感動に声をつまらせて、
「先生には何か御成算がおありなんでしょうか。この部屋をしらべることによって、母の罪がいくらかでも軽くなるというような。……」
金田一耕助は両手を智子の肩にかけて、
「智子さん、それはお|請《う》け合いするわけにはいきません。しかし、ぼくはこの部屋のなかで、ある品物が発見出来るのじゃないかと思うんです。首尾よくそれが発見出来たら、お父さんを殺したのは、お母さんじゃなかったかも知れないという可能性が出てくるんです。しかし、それはあくまで可能性の問題で、絶対にそうだといい切ることはむつかしい。何しろ|旧《ふる》い事件だから、改めて犯人をさがし出し、それを立証するということは困難ですからね」
「いいえ、可能性だけでも結構ですわ。でも、先生のさがしていらっしゃる品が見つからなかったとしたら……?」
「そのときは、|諦《あきら》めていただくんですな」
金田一耕助は南京錠をはずして、観音びらきの扉をひらく。さっと緊張の気がみなぎって、一同は思わず息をのみ、耕助の背後から部屋のなかをのぞきこむ。
開かずの間はほの暗くて、六月の温度にあたためられた、カビくさい空気の|匂《にお》いが、たえがたいほど一同の鼻をつく。そのカビの匂いのなかにこそ、十九年の秘密がしみついているのではなかろうか。
金田一耕助は、壁ぎわにあるスウィッチをひねって|灯《あかり》をつけると、うしろに立っている智子の顔を振りかえった。
「智子さん、このあいだあなたがごらんになったときと、何か変わりはありませんか」
智子はおののく眼を部屋のなかに走らせる。
閉ざされた窓、壁ぎわにある寝台と|長《なが》|椅《い》|子《す》、長椅子のうえに放り出された編み物|籠《かご》、部屋の中央に唐卓があって、唐卓のうえに血にそまったテーブル・センター、そして、そのうえに投げ出された柄の折れた月琴。……
智子はかすかに身ぶるいをしながら、
「いいえ、あの、べつに……変わったところはないと思いますけれど。……」
「ああ、あたしの編み物籠があんなところに。……」
秀子は泣き笑いをするような声で|呟《つぶや》いた。金田一耕助がその顔をふりかえって、
「ああ、神尾先生は十九年まえの事件のとき、現場を見ていられるんですね。|日《くさ》|下《か》|部《べ》青年が倒れていたのは……?」
「はあ、あの……あのかたはそのテーブルの向こうがわに、腰をおろしていらっしゃいまして……」
と、扉からなかへ入ろうとするのを、金田一耕助はかるく引きとめた。
「神尾先生、なかへお入りにならないでください。いま、あなたがお入りになるとならないとでは、これからの調査に大きな狂いが出て来ますから」
「あら、ごめんなさい。あたし、|昂《こう》|奮《ふん》してたもんですからつい。……」
「いいえ、それで、日下部青年は……?」
「はあ、あの、テーブルの向こうがわに腰をおろして、テーブルのうえに突っ伏していらしたもんですから、この扉がひらくとすぐ、そのお|頭《つむ》が見えたのですけれど、それが、あの、|柘《ざく》|榴《ろ》のように|弾《はじ》けて……テーブルのうえは血だらけになって……そして、そのそばに、柄が折れて、血に染まった月琴が……」
「月琴というのはあれですね」
金田一耕助はこちらから、古びた月琴を指さすと、きっと秀子を振りかえり、
「神尾先生、ぼくもずっと昔、月琴という楽器を見たことがあります。手にとったこともあります。しかし、あれはごく軽い楽器で、あんなもので殴られたからって、頭が柘榴のように弾けるなんて、とても考えられないんですがねえ」
「はあ、あの……」
神尾秀子は|蒼《あお》ざめた顔を、耕助のほうに振りむけると、|喘《あえ》ぎ喘ぎ、
「あたしものちになって、そのことに気がつきました。それで、琴絵さまにもういちど、この部屋へ入れてくださるように、お願いしたのですけれど、どうしてもききいれてくださいませんので。……しかし、そのときは、……あのことが起こった直後は、気が|顛《てん》|倒《とう》していましたし、それに琴絵さまとあのかただけしか、このお部屋にいらっしゃらなかったものですから。……」
「ああ、そう、それからほかに、そのときのことについて、何かお気づきになったことはありませんか」
「はあ、あの……これはいまもって、不思議でならないのでございますけれど、龍馬さんがいらして、あのかた……日下部さんを抱き起こしたとき、はじめてあたし、あのかたのお顔を見たんですが、それが、まるで笑っていらっしゃるようで……」
「日下部青年が笑っていたんですって?」
「ええ、あの……そんな感じがしたんです。いたずらっぽい、子供のような笑顔が、そのまま凍りついたような死顔で……それだけに、おいたわしいような気がいたしまして……」
神尾秀子もさすがに智子の顔を見るにしのびなかった。智子は|蝋《ろう》のように血の気のない顔をして、耕助と秀子を見くらべている。
「日下部青年はいたずらっぽい、子供のような笑顔をしていたというんですね」
金田一耕助はゆっくり頭をかきまわしながら、だまって考えこんでいたが、
「いや、有難うございました。それからほかに何か……」
「さあ、そのほかには何も、……だいたい、先日申し上げたとおりでございますけれど……」
「ああ、そう、それじゃ恐れ入りますが、皆さんは向こうの客間で待っていてくださいませんか。ここへ入るのは警察のかたがただけにしましょう。署長さん、どうぞ」
亘理署長と等々力警部、それから下田から来た三人の刑事がはいると、最後に金田一耕助も部屋へはいり、なかからぴったり扉をしめると、閂をはめ、掛け金をかける。
さあ――と、いう意気込みが|眉《び》|宇《う》にみなぎり、十九年の秘密を解こうという寸前の、昂奮と|戦《せん》|慄《りつ》が背筋をつらぬいて走る。その耕助の顔を、一同はまじまじと|視《み》つめている。
「金田一さん、君はここでいったい、何をしようというのかね」
「はあ、警部さん」
と、耕助はぐっと|唾《つば》を|呑《の》みこみ、
「ぼくは皆さんの手をかりて、この部屋であるものを探そうと思っているんです。そのあるものとは……?」
秀子の編み物袋
開かずの間から締め出されたひとびとは、それから間もなく、ひと間隔てた唐風の客間へ来ると、
「伊波君、スーツケースのなかにウィスキーがあるから持って来ないか」
と、大道寺欣造はどっかと|榻《とう》に腰をおろして、
「それから御婦人がたにも何か飲み物を、……」
「いいえ、あの、それはあたしが持ってまいりましょう」
伊波良平と神尾秀子が、渡り廊下をわたって母屋のほうへいくと、あとは欣造と智子のふたりきりである。
智子はちょっと|気《き》|拙《まず》いためらいを感じる。現在の父のためにも、亡くなった父のことは、あまり口に出さないほうがよいということは、よくわかっているのだけれど、いまの智子にはどうにもならない。
亡くなった父のことが……そして、今度の恐ろしい事件の、かずかずの|謎《なぞ》が片づかないうちは、智子は欣造に対して、素直で従順な気持ちになれないのである。
「智子さん、そこへ掛けたらどうかね」
智子の様子を見まもっている、欣造の顔には、どこか|淋《さび》しそうな影が見える。
「はあ、あの、お父さま」
と、智子は顔をあからめて、
「ごめんなさい。こんなにいらいらして。……でも、あたし、このほうがいいんです。何んだか落ち着きませんから」
智子はドアのそばに立って、ひと間へだてた開かずの間の気配に気をくばっている。欣造の顔には、いよいよ淋しそうな影が濃くなってくる。
「智子さん、おまえ開かずの間で、何か発見されると思っているの」
「はあ、あたしにはよくわかりませんけれど、金田一先生に確信がおありのようですから」
「十九年もまえのことだ。いまになって、いったい何がわかるだろう」
虚脱したような欣造の声の、あまり異様なひびきの淋しさに、智子は思わずふりかえる。ぐったりと椅子に腰をおろして、首うなだれた欣造の横顔に、智子はふと、このひとに似合わぬ老いの影をかんじて、
「お父さま」
|咽《の》|喉《ど》の詰まったような声を立てたが、そこへ母屋のほうから神尾秀子と伊波良平がかえって来た。伊波はウィスキーとウィスキー・グラス、神尾秀子は盆にのせた紅茶のカップのほかに、編み物袋をさげている。
欣造は伊波のつぐウィスキーを、すぐひと息にのみほして、
「神尾先生、あなたお顔の色がすぐれないが、紅茶にこれを入れてあげようか」
ウィスキーの瓶を取りあげるのを、
「いいえ、あたし、いいんですの。それをいただくと、かえって昂奮するものですから。……智子さん、お茶をどうぞ」
「ええ」
智子はしかし、ドアのそばを離れようとしない。秀子はかるい|溜《た》め息をもらして、編み物袋から編み物を取り出した。
「神尾先生はあいかわらず熱心ですね。編み物ってそんなにいいものかな」
たてつづけに二、三杯、ウィスキーを|呷《あお》ったせいか、欣造の顔からは、いくらか淋しい影がぬぐわれている。
「ええ、これは殿方がたばこを召し上がるようなもので、これをしていないと手持ちぶさたで困るんですの」
秀子は紅茶をひとくちすすると、編み棒を動かしはじめる。勤勉な時計が時をきざんでやまないように、彼女もじぶんの生涯を、編み物のひと目ひと目に編みつくすのだろう。
智子はすっかり落ち着きをうしなって、紅茶のカップに手もふれなかった。ドアのところに立ったまま、両手をねじるように握りしめ、向こうで物音がするたびに、ギクッと体をふるわせる。
伊波良平はきょときょとと、さぐるように一同の顔をうかがっている。
欣造はたばこを吸い、ウィスキーを飲み、ウィスキーを飲み、たばこを吸う。
神尾秀子はかけ目、伏せ目、表、表と、模様編みを編みつづける。
こうして、いったいどのくらい時間がたったのか。じっさいは、三十分にも満たぬ時間だったけれど、一同には……とりわけ智子には、何か月も、いや、何年もかかる長い試練と|呵責《かしゃく》のように思われる。
突然、開かずの間のドアがあく音がして、誰かがはや脚でこちらへ近づいてくる。一同は反射的にそのほうをふりかえる。智子はドアから外へとび出し、大道寺欣造は榻の腕木をにぎりしめ、神尾秀子は編み物を胸に抱いて身ぶるいをする。
ドアのまえに現われたのは刑事だった。素速く一同の顔を見まわし、
「皆さん、向こうへおいでくださるようにと。……」
「あの……」
智子は息をはずませて、
「見つかりまして、金田一先生のさがしていらしたものが……」
刑事はしかしそれには答えず、
「どうぞ。あちらでお待ちしていますから」
と、そのままくるりと|踵《きびす》をかえす。智子はすぐそのあとについて部屋を出たが、大道寺欣造と神尾秀子は、ちょっと顔を見合わせたのち、ギゴチなく榻から立ちあがった。
欣造は部屋を出ようとして、
「ああ、伊波君、君は母屋のほうへいって、御隠居さんや、それから……」
と、ちょっといいよどんで、
「文彦を見てやってくれたまえ」
それから一同のあとにつづいて部屋を出た。
開かずの間ヘ入っていくと、金田一耕助が唐卓の向こうに立っており、左右に等々力警部と亘理署長がひかえている。
智子は部屋ヘ入るなり、
「先生、見つかりましたか。お探しになっていらしたものが……」
金田一耕助はにっこり笑って、
「まあまあ、いまにお話しましょう。大道寺さん、神尾先生、どうぞお入りになって」
大道寺欣造と神尾秀子は扉の外で、ちょっとためらいの色を見せたが、それでもなかへ入ってくる。一同がなかへ入ると、刑事が扉をしめ、|閂《かんぬき》をはめ、掛け金をおろす。秀子の顔色がまたちょっと変わる。
「さあ、どうぞお掛けくださいと申し上げたいが、何しろこのとおり、|椅《い》|子《す》もソファも十九年あまりの|埃《ほこり》にうずもれているものですから……でも、どうぞ御自由になすってください」
「金田一さん」
と、大道寺欣造がハンケチで鼻をおさえながら、息のつまりそうな声をあげた。
「窓を開けたらいかがですか。これじゃどうも……」
「ところがこの窓は、全部|釘《くぎ》づけになっていて、一朝一夕には開かないんですよ。息苦しくてもしばらく御辛抱ください。なに、ほんのちょっとの間のことですから」
じっさい、部屋のなかは十九年間、|鑵《かん》|詰《づめ》にされた空気が、死んだように|澱《よど》んでいて、古綿で|鼻《び》|孔《こう》をふさがれたように息苦しい。おまけにはげしいカビの|匂《にお》いと埃の匂い。頭が痛くなりそうだ。
神尾秀子はぼんやりと長椅子のほうへ歩いていくと、十九年まえにおき忘れた編み物を手に取りあげる。しかし、それは完全に虫に食いつくされていて、手にとると同時に、燃えがらのように崩れ落ち、細かい粉がぱっと散る。
「あら!」
神尾秀子はあわててハンケチで鼻を覆うとともに、われにもなく|溢《あふ》れそうになる涙をおさえた。
かつてつやつやと光沢をおびていた毛糸が、燃えがらとなり、灰のような粉となって飛散するように、当時はまだ二十代だった神尾秀子も、このごろはどうかすると、|小《こ》|鬢《びん》に白いものを発見するのである。
大道寺欣造は秀子と反対側の壁へいって、そこにある椅子の背をはらい、軽くそこへ腰をおろした。
智子だけが金田一耕助の真正面に立っている。
「先生、金田一先生。おっしゃってください。先生はここで、このお部屋で、何か発見なすったんですか」
「発見しましたよ。智子さん。さんざん、ほうぼうをさがしまわったあげく、これ……」
と、耕助は眼のまえにある月琴を取りあげる。そのとたん柄の折れた月琴はぐらりと無気味に一|廻《かい》|転《てん》して、大きく裂けて、血に染まった背面を一同のほうへ向ける。
欣造は眼を|視《み》|張《は》り、秀子は顔をそむける。
「この月琴のなかから発見したんです。ほら、この裂け目からすべりこんだんですね。そして、この胴のなかには音をよくするために、金属製の共鳴板が細い針金でつるしてあるんですが、そいつにすっぽりはまりこんでいたので、振ってみたくらいでは気がつかなかったんです」
「そして……そして、その見つかった品というのは……?」
「いや、ちょっと待ってください。そのまえに神尾先生」
「はい……」
「ぼくたちはこの部屋を隅から隅までさがしましたよ。しかし、どこにも凶器になるような品は発見出来ませんでした。しかも、この月琴ではどんな状態のもとにあったにしろ、ひとひとり殴り殺すことは不可能だという結論に達したのです」
「はあ、それで……?」
秀子は|眩《まぶ》しそうに金田一耕助の顔を見ていたが、そのとき智子がたまりかねたように、
「先生、先生、それより先生が発見なすったというものは……この月琴の共鳴板にひっかかっていた品というのは……?」
金田一耕助はおだやかな微笑を智子にむけると、
「あっはっは、智子さんはひどくお急ぎですね。ではお眼にかけましょう。これ……」
ぱっとひろげて見せた耕助の|掌《て》に、のっているのは指輪だった。細いプラチナの台にダイヤをはめた、繊細で、いかにも古雅な感じのする指輪である。
神尾秀子は大きく眼を視張って、吸い寄せられるように唐卓のそばまで来たが、
「金田一さま、それじゃ、これが……この指輪が……月琴のなかにあったのですか」
と、|喘《あえ》ぐように息をはずませる。
「そうです。|見《み》|憶《おぼ》えがおありでしょうね」
「はあ、あの、これは琴絵さまが|日《くさ》|下《か》|部《べ》さんからいただいた、指輪にちがいございません。しかし、これがどうして……?」
「神尾先生、それをひとつ考えてみましょう」
と、耕助は月琴をそこへおくと、秀子の顔をきっと見て、
「あの日、琴絵さんと日下部青年が、この部屋に閉じこもったあとで、あなたがあちらの日本間の、袋戸棚をごらんになったとき、この指輪はたしかにそこにあったとおっしゃいましたね。それから、この開かずの間がしめきられたのは、惨劇の直後のことで、それ以来、いちども開かれたことはないと。……そうすると、この指輪はいったい、いつこの部屋にまぎれこんだか。……」
「いつ……いつのことですの」
神尾秀子は編み物袋を握りしめ、切ないような息づかいである。
「それはね、神尾先生、琴絵さんと日下部青年が、この部屋に閉じこもっているあいだのことですよ」
「金田一さま、そ、それはどういう意味ですの」
「神尾先生!」
金田一耕助は射るように秀子の顔を|視《み》つめながら、
「琴絵さんは日下部青年に、結婚をこばまれ、また結婚出来ない理由もきかされたんでしたね。それのみならず、いったん|貰《もら》った指輪をかえしてくれとまでいわれた。琴絵さんはそこで、驚きと悲しみのあまり、逆上して、一時的な精神錯乱におちいったのだが、さあ、そのときのことを考えてみましょう。その場合、琴絵さんのような婦人が、相手を殴り殺すでしょうか。いかに発作がはげしかったとはいえ。……それよりも、逆上し、悩乱し、前後を忘れながらも、日下部青年にいわれたとおり、指輪をとりにいったと考えるほうが自然ではないでしょうか。そうです。琴絵さんはこの部屋を出て、指輪をとりにいったにちがいない。それでなければこの指輪が、この部屋にあるはずがありませんからね。だから、ある期間、この部屋は密室ではなかった。扉があいていて、そして、部屋のなかには日下部青年がひとりのこっていたんです」
「ああ!」
秀子がうめいてよろめき、よろめくはずみに唐卓のうえの月琴の柄に手がふれたので、月琴は大きくとんで床に落ちた。しかし、誰もそれを拾おうとはせず、耕助と秀子の顔を見くらべている。
「だから、琴絵さんのいないあいだに、誰でもこの部屋ヘ入ることが出来たわけです。そいつは日下部青年のうしろにまわって殴り殺した。……と、いうことは日下部青年がそいつを知っていたことを意味しています。死顔にいたずらっぽい微笑がのこっていたというのもそのためでしょう。さて、その凶器だが、それはたぶん、この月琴じゃなく、もっとほかのものだったでしょう。そして、もう一度この月琴で殴っておいて、琴絵さんがかえってくるまえに、逃げ出したんです。さて、そのあとへ、琴絵さんが何も知らずに、指輪を持ってひきかえして来た。……」
「しかし、……しかし……金田一さま」
神尾秀子は必死となって、編み物袋をにぎりしめ、はげしい苦悩に全身をよじりながら、
「琴絵さまの悲鳴をきいて、あたしが駆けつけてきたときには、この扉はたしかに二重に締まりがしてあったんです。閂と掛け金で。……」
「そうです。そういうこともあったでしょう。琴絵さんはおそらくこの部屋に、日下部青年とふたりきりで閉じこもるときには、反射的に扉に締まりをするくせがあったのでしょう。琴絵さんは自分が母屋へいっているあいだに、あんな恐ろしいことが起こっていようとは知らなかったから、指輪を持って部屋ヘ入ると、無意識のうちにもいつものとおり扉に締まりをし、さて向きなおって日下部青年のほうを見る。様子が少し変だから、テーブルのそばへよって月琴をとりあげる。そのとき、持っていた指輪が裂け目からなかへすべりこんだのでしょう。琴絵さんははじめてすべての様子がわかると、驚きのあまり卒倒された。そして、しばらくして意識を|恢《かい》|復《ふく》したときには、発作中の自分の行動をすっかり忘れてしまっていた。指輪をとりに部屋を出たことも、かえってきて反射的に扉に締まりをしたことも。……そして、いちずに自分が恋人を、殺したものと信じて悲鳴をあげられたんです」
|蝋《ろう》のように|蒼《あお》ざめた秀子の顔は、苦痛のためにはげしくひっつり、額にはびっしょりと|脂汗《あぶらあせ》がういている。金田一耕助のほうをむいたまま、一歩一歩、長椅子のほうへあとじさりする秀子の|瞳《め》には、追いつめられた獣のような、凶暴な光がまたたき、全身が|嵐《あらし》のなかの木の葉のようにふるえている。
やがて、秀子はぴったりと壁に背をつけると、
「そして、……そして、……金田一さま。あなたは犯人をごぞんじですの。日下部さんを殺したほんとうの犯人を……」
左手で編み物袋をわしづかみにし、右手を袋のなかにつっこんだまま、秀子の瞳は火を吹いた。
「はい、知っています。神尾先生」
「そ、それは誰……?」
「それはこのうえもなく琴絵さんを愛していたひと、琴絵さんをなにびとにも、渡したくないと思っていたひと。……」
「ああ!」
神尾秀子はうめいてよろめいた。しかし、すぐ壁に背を押しつけて立ちなおると、ぎらぎらと異常なほど光る眼で、一同の顔を見まわしながら、
「みんな、みんな、あたしがいけなかったんだわ。あたしのよこしまな恋のせいだったんだわ。十九年まえの事件も、このひと月のうちに起こった事件も、みんな、あたしのせいだったんだわ!」
神尾秀子は絶叫したが、そのとたん、手にした編み物袋が、|轟《ごう》|然《ぜん》たる音響とともに火を吹いた。二、三発、立てつづけに火をふいた。と、秀子の正面に、腰をおろしていた大道寺欣造が、ふいにすっくと立ちあがった。
そして、|眦《まなじり》も裂けんばかりに見張った眼で、秀子の顔をにらんでいたが、ふいに、その胸もとから泉のように血が吹き出してきたかと思うと、泳ぐような手つきをして、二、三歩ふらふら歩いたが、やがて|朽《く》ち|木《き》を倒すように、あの、投げ出された月琴のうえに倒れた。
「神尾先生、何をする!」
金田一耕助が叫んだのと、
「あっ、いけない」
と、智子が二、三歩まえへ走り出たのとほとんど同時だった。
「智子さま、堪忍して……」
また、二、三発編み物袋が火をふいて、神尾秀子は骨を抜かれたように、くたくたと床のうえに倒れていった。大道寺欣造の死体のうえに、自分から折り重なるようにして。……
ふたりの血が、十九年まえ智子の父の血を吸った月琴を、また新しく、真っ赤に染めていく。……
まったく一瞬の出来事であった。
一同は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、ふたつの死体に眼をみはっていたが、そこへ聞こえてきたのは、あわただしい伊波良平の声だった。
「|旦《だん》|那《な》様、智子さま、早くおいでくださいまし。御隠居さまが……御隠居さまが御臨終でございます」
それが智子の耐えうる限度であったのだろう。眼のまえがすうっとかげっていったかと思うと、
「あっ、危い」
と、駆けよる刑事の腕のなかへ、くずれるように倒れていった。
赤い毛糸の玉
あわただしい二、三日が過ぎた。
一時は島を埋めつくすかと思われた警察官や新聞記者の往来も、しだいに|間《ま》|遠《どお》になって、月琴島はまた眠ったような静けさを取りもどしていく。
昨日は|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部が引きあげ、今日は|蔦《つた》|代《よ》と文彦、それから伊波良平が、不慮の惨死をとげた大道寺|欣《きん》|造《ぞう》の本葬を、東京で|執《と》り行なうために、|荼《だ》|毘《び》に付されたお骨を抱いて島を去った。
|智《とも》|子《こ》も当然、それと行をともにすべきだったのかも知れないけれど、あまりはげしい心の|傷《いた》|手《で》から、彼女はまだ、それに耐えうるまでに|恢《かい》|復《ふく》していなかった。それに欣造の葬いも葬いだけれど、この家で亡くなった祖母のあとどむらいのこともあった。だから蔦代も伊波良平も、あまり強く彼女に同行をすすめもしなかった。
ただ、ひとり文彦だけがすっかり|悄《しょ》|気《げ》て、
「でも、お姉さまは、きっとあとから来てくださるでしょう。それでないと、ぼく、ぼく……いやだあ」
と、駄々をこねてすすり泣いた。
文彦の性質のなかには、智子をちょっと不安がらせるところもあったが、しかし、これほど慕われると、なんの血のつながりもない弟ながら、やはり|不《ふ》|愍《びん》になって、
「ええ、ええ、それはまいりますとも。智子はもう、どこにもいるところはなくなってしまったんですもの。文彦さま、あたしをおいてくださる?」
「あんなこといってらあ。東京のお家、みんなお姉さまのお家じゃないの」
文彦はいくらか機嫌をなおして、
「じゃ、ぼくさきにかえりますから、お姉さまも出来るだけ早くかえってね」
「ほんとうに、智子さま」
と、蔦代もそばからしみじみと言葉を添えた。
「出来るだけ早くかえってくださいましね。文彦さまはあのとおり、ほんとうにまだ子供でいらっしゃいますから、何かと御相談相手になってあげてくださいましね」
「蔦代さん、有難う。あたし体がよくなって、気分が落ち着いたらきっとまいります。だって、この家にはもうお|祖《ば》|母《あ》さまも、神尾先生もいらっしゃらないんですもの」
智子は出来るだけ涙を見せまいとしていたが、それでも|瞳《め》がきらりと光り、声がふるえる。
「智子さま!」
蔦代は耐えかねたように|袂《たもと》を顔におしあてて、
「そのときには、きっと蔦がお迎えにまいりますから」
と、泣きむせんだ。
蔦代は欣造をうしなってからも、決してはしたなく取乱すようなことはなかった。二十年ちかい長いあいだを、事実上、欣造の妻としてかしずき、文彦という子までなしながら、あくまでも正妻の位置にすわることをひかえてきた蔦代は、欣造の死後も、主従のつながりからくる悲しみ以上のものを、ひとに見せることを避けている。そのいじらしい誠実さに智子もうたれ、また、それだけに悲しみもどのように深かろうと、同情せずにはいられなかった。
「蔦代さん、あたしもあたしですけれど、あなたもお体に気をつけてね」
「有難うございます」
「あたし出来るだけ早く立ちなおりますわ。伊波さん」
「はあ」
「蔦代さんや文彦さまに気をつけてあげてくださいね」
「承知いたしました。及ばずながら……」
こうして一同が島を去ると、ひろい大道寺の家には、召し使いをのぞいては、智子と金田一耕助のふたりきりになった。一時にみんな去っていっては、智子が|淋《さび》しかろうという思いやりから、耕助はいましばらく、ふみとどまることになっていた。
あの|凄《せい》|惨《さん》な出来事があって以来、智子と金田一耕助は、いちども事件について語りあったことはなかった。智子のほうから聞こうともせず、耕助も語るのを避けている。
智子に対してのみならず、耕助は誰にもみずから、事件について語ろうとはしなかった。等々力警部にきかれたときも、
「警部さん、あなたのごらんになり、お聞きになったとおりですよ。それ以上のことはぼくにだってわかりません」
と、暗い眼をして顔をそむけた。
新聞記者にもかれは多くを語らなかった。そして、一日おくれて来る新聞に、|稀《き》|代《だい》の女殺人鬼だの、親子二代にわたる家庭教師の邪恋などと、でかでかと書き立てられているのを見ると、ほっと暗い|溜《た》め息をもらし、その家庭教師にあやまって射殺された、大道寺欣造の死をいたむ記事などを読むと、いくらか皮肉な微笑をもらした。
文彦たちが引きあげた晩、耕助は智子とふたりきりで、淋しい|夕《ゆう》|餉《げ》の食卓についたが、その食事のあとで思い出したように智子に|訊《たず》ねた。
「そうそう、智子さん、あなた、編み物がお出来になるでしょうね」
あまり妙な質問だったので、智子はびっくりしたように顔をあげ、
「ええ。……」
と、さぐるように耕助の瞳を見ている。
「模様編みやなんかも。……符号を見てお編みになれますか」
「ええ。それは神尾先生のお弟子ですもの」
「そう、それじゃここにある符号を編んでみてくださいませんか。なあに、何をこさえようというわけじゃなく、ひととおり模様編みが出来ればいいのですがね」
耕助が手帳のあいだから取り出したのは、方眼紙に|綺《き》|麗《れい》な紫色のインクで書いた模様編みの符号が十四、五枚。智子の表情がはっと崩れた。
「先生、これ、どこにあったんですの」
「そんなことはどうでもいいです。編んでくださいますか」
智子は血の気のひいた顔色で、吸いとるように耕助の顔を|視《み》つめていたが、やがて唇を|噛《か》むようにしながら、
「承知しました。でも、これ、全部編むんですの」
「そうお願いしたいのですがね。全部で十五枚ありますから、なくなさないように。その代わり、ひととおり模様が出来ればいいのです」
智子は方眼紙の一枚一枚に、入念に眼をとおすと、
「それでしたらお|易《やす》い御用ですわ。一時間もしたら編めると思いますから、あとでおとどけいたします」
「そう、それではよろしくお願いします」
夕食がすんでも陽はまだ高かったので、一時間あまり散歩したのち、耕助がかえってくると、智子が茶の間で待っていた。
「お出来になりましたか」
「はあ。……」
と、智子は|膝《ひざ》のまわりに散らばった、小さい編み物をひとつ、ふたつと|掻《か》き集めながら、
「色の御指定がございませんでしたので、みんなグレーで編んだのですけれど……」
「いいです。いいです。色なんかどうでもいいです」
と、金田一耕助は|仔《し》|細《さい》らしく、小さく縮れた編み物を、ひとつひとつ手にとってみる。
「もっと広く編んでいかないと、それだけでは模様もよくわからないのですけれど……それから、先生」
「はあ」
「この符号だけはどうしても編めませんのよ。これ、きっと間違ってるんですわ。この符号のとおり編んでいくと、目がくずれてしまうんですの」
「ああ、これね。そうですか」
金田一耕助は手帳にはさんだ鉛筆をぬくと、編めない符号のうえに三重丸をつける。
「金田一先生! これ、神尾先生のお書きになった符号ですわね。それじゃ、先生、事件はまだ終わったんじゃないんですの」
金田一耕助は|蒼《あお》ざめた智子の顔を、いたわるように|視《み》やりながら、
「いいえ、智子さん、事件はすっかり終わりましたよ。どうしてですか」
「だって、だって、先生!」
智子は息を|弾《はず》ませて、
「あたしは神尾先生が、最後におっしゃったお言葉を、とても信じることは出来ません。先生は……先生は、そんなかたじゃございません。あたしはあのかたと十八年間、いっしょに暮らしてきたんです。いいえ、あたしはあのかたに育てられて来たんですわ。だから、あのかたのことなら、誰よりもいちばんよく存じております。先生は、神尾先生はとても、とても気高いかたです」
大きく見張った智子の|眸《ひとみ》が、みるみるうちに曇ってきたかと思うと、涙が泉のように|溢《あふ》れてくる。智子が今度の事件について意見をのべたのはそれがはじめてだった。
金田一耕助はやさしくその肩に両手をおいて、
「智子さん、あなたが神尾先生を信じていらっしゃるということはよいことです。神尾先生もきっと地下でお喜びでしょう。しかし、そのことはあなたの胸のなかに秘めておいて、むやみにひとに|洩《も》らさないほうがいいですよ」
「でも、先生、それじゃ、ほんとうの犯人は……?」
耕助は涙にうるんだ智子の瞳に微笑をむけて、
「智子さん、ぼくはそのことについてお約束したおぼえはありませんよ。真犯人のことについてはね。ぼくがこんどここへ来たのは、ひょっとしたらお母さまの、無罪が証明出来るのではないかと、ただ、そのことをお約束しただけです。そして、そのお約束は果たしたのだから、まあ、それで満足していただくんですね。それから、もう一言付け加えておきますが、事件はすべて終わったのです。十九年まえの事件もこんどの事件も。……だからあなたは出来るだけ早く、何もかも忘れてしまって、新しい幸福にむかって前進されるんですな」
|聡《そう》|明《めい》な智子はそれだけの言葉によって、何かを感得したのかも知れない。|怯《おび》えたような瞳のなかに、さっと暗い影がさしたかと思うと、急にそこへ泣き伏した。
耕助はいたましげな眼で、智子の大きくゆれる肩を視つめていたが、やがて十四の編み物と、十五枚の方眼紙をかきあつめると、自分の居間へかえってきた。智子には思いきり泣かせたほうがよいのである。
金田一耕助は机のまえに|坐《すわ》って、しばらく放心したような眼をしていたが、やがて、ふところから手帳を取り出した。手帳のあいだには、いつか秀子が送ってくれた、暗号の|符牒《ふちょう》がはさんである。耕助はその符牒と、三重丸のついた編めない編み物の符号をひきくらべながら、いそがしく鉛筆を走らせる。
耕助のほしかったのは十四の模様編みではなく、ただ一枚の編めない編み物の符号だった。それと同時に智子に何か、暗示をあたえておきたかったのかも知れない。
一字一字ひきくらべながら、耕助が手帳のうえに書きとめたのは、
アカイケイトノタマ――赤い毛糸の玉。
耕助の居間には、数発の|弾《だん》|痕《こん》のある秀子の編み物袋がおいてある。あの十五枚の編み物の符号も、そのなかから発見したのである。編み物袋のなかには、ピストルはもうなかったけれど、いろさまざまの毛糸の玉が、十いくつか詰まっている。そのなかで、いちばん大きなのが赤い毛糸の玉だった。
金田一耕助はふるえる指で、赤い毛糸の玉をほぐしにかかる。左手の五本の指にまいていく、毛糸の束が大きくなっていくにしたがって、もとの玉は小さくなっていく。|膝《ひざ》さきにくるくる躍る毛糸の玉が、小さく、小さく、そして、|芯《しん》までほぐされたとき、そこから転がり出したのは、四つに折った婦人用の西洋封筒と、秀子がいつもかけていた、そして、最近なくしたといっていたロケットだった。
耕助がふるえる指で、封筒の折り目を開くと、|水《みず》|茎《くき》の跡もうるわしく、金田一耕助さま。神尾秀子より。……
耕助はいそいで封を切ろうとしたが、また、思い直してロケットを取りあげる。かれにもまだ、このロケットにどんな秘密があるのかわからなかった。
|蓋《ふた》をひらくと、いつか|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》の廊下で見せられた琴絵の写真。しかし、これが秀子の秘密であるはずがない。何かもっと別なものがなければならぬ。
耕助は|蟇《がま》|口《ぐち》から、小さなナイフをとり出すと、それについている|錐《きり》で、琴絵の写真をはぎとった。と、果たしてその下から現われたのは、角帽をかぶった大学生の写真である。
耕助はその写真の顔を見ているうちに、突然、背筋が寒くなるようなはげしいショックを感じた。
まぎれもなく写真のぬしは、若き日の|大《だい》|道《どう》|寺《じ》|欣《きん》|造《ぞう》、当時の|速《はや》|水《み》欣造だった。ああ、それでは神尾秀子が十数年の長きにわたって、胸に秘めていた恋人というのは、大道寺欣造だったのか。そして、琴絵の写真はただ単にそれをカモフラージするために、使われていたのに過ぎなかったのか。
金田一耕助はこのあいだの、あの思いがけない結末を、はじめて理解することが出来た。神尾秀子は恋人を射ち殺し、その|屍《しかばね》のうえに自分も身を投げて死んだのだ。
しかし、……大道寺欣造の写真の下に、まだ何かあるらしいではないか。金田一耕助はあわてて錐のさきで、欣造の写真をはがしてみる。そして、その下から現われたもう一枚の写真を見ると、思わず大きく眼を|視《み》|張《は》った。
それは|経堂《きょうどう》にある大道寺欣造のうちで失った、七枚の写真のうちの一枚だった。旅役者のひとりが楽屋で|憩《いこ》っているところを、スナップしたその写真の、顔のところだけ丸く切り抜いたものだったが、いまはもう金田一耕助にも、|白《おし》|粉《ろい》を塗って|眉《まゆ》をかき、眼張りをいれたその横顔から、写真のぬしの正体を見抜くのには、それほどの苦労はいらなかった。
金田一耕助はすすり泣くような、長い長い|溜《た》め息をもらすと、三枚の写真をもとどおりロケットにおさめ、それからはじめて秀子の遺書の封を切った。
真相(一)
「いや、どうも。思いがけない結果になって、わたしも驚いているんですが、あなたの御苦心もたいへんだったろうとお察ししますよ」
丸ビル四階。厳重に防音装置のほどこされた、加納法律事務所の所長室、例の夢殿である。金田一耕助は、いま、加納弁護士とむかいあっている。
月琴島であの大惨劇があってから一週間あまりのちのこと。金田一耕助はあのあと、智子のただひとりの相談相手として、大道寺欣造の|初《しょ》|七《なの》|日《か》まで手つだって来たのである。欣造の初七日は、即ち、神尾秀子の初七日でもあり、同時にまた、祖母の|槙《まき》の初七日でもあった。
「いやあ、ぼくとしても予想外の結果になって、じっさい、あのときは面食らってしまいました」
金田一耕助がもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、暗い顔をして|呟《つぶや》くのを、加納弁護士は鋭い眼で|視《み》|詰《つ》めていたが、急に声を落とすと、
「金田一さん、あなたのおっしゃる予想外の結果というのはどういう意味ですか。大道寺君が神尾秀子に、あやまって射殺されたという、そのことですか」
金田一耕助は否定も肯定もしなかった。ただ無言のまま、加納弁護士の眼を見かえしている。
|聡《そう》|明《めい》な老弁護士の|瞳《め》のなかに、ふいにかすかな動揺があらわれた。
「金田一さん」
弁護士は少し体を乗り出して、
「それじゃ、この事件の真相にはまだ裏があるんですね。わたしも新聞に、|稀《き》|代《だい》の女殺人鬼だの、親子二代にわたる家庭教師の邪恋などと書き立てられているのを読んで、どうも納得がいかなかった。わたしもあの家庭教師の人柄は、かなりよく|識《し》っているつもりだったんですからね。しかし、あなたが否定もなさらないし、いや、むしろ肯定するような言葉を吐いていらっしゃるので、やっぱりそうかと思ってたんですが……金田一さん」
加納弁護士はそこで言葉を強めると、
「真相を話してくださるでしょうね。わたしはあなたの依頼人だから、真実を知る権利がある。いや、これは|賤《いや》しい好奇心からいっているのではない。わたしも依頼人に真実を報告しなければならん義務があるんでね」
金田一耕助は暗い眼をしてうなずいた。
「むろん。ぼくもそのつもりでお伺いしたんですが、ただひとつ条件があるんです。このことはあなたの依頼人以外に、絶対にもらさないという約束をしていただきたいのです」
加納弁護士はじっと耕助の眼を見て、
「そのほうがわたしの依頼人にとって、利益になるとお考えですか」
「もちろん、それにこの事件の真相を、いまさら洗い立てて見たところで、なんにもならないんです。犯人はすでに罰せられているんですから」
加納弁護士はまたじっと耕助の眼を見ていたが、かすかに身ぶるいをすると、
「よろしい。お約束をしましょう。依頼人以外には、絶対にこのことはもらさないということを。……」
金田一耕助はうなずくと、ふところから取り出したのは、神尾秀子のロケットである。
「神尾先生のロケットです。どうぞ、|蓋《ふた》をひらいてごらんください」
加納弁護士は蓋をひらいて琴絵の写真を発見すると、不思議そうに|眉《まゆ》をひそめて、
「これは、智子さんのお母さんの写真ですね。そうそう、神尾女史が琴絵さんの写真を、いつも胸に秘めているということは、いつかわたしも聞きましたよ。しかし、これが……」
「いいえ、問題はその写真じゃないのです。その写真の下にもう二枚、ほかの写真がありますから、ごらんください」
加納弁護士はまじまじと耕助の顔を見ていたが、やがて卓上のペン皿からナイフを取りあげると、琴絵の写真をはがし、その下から二枚の写真を取り出した。
「あっ、こっちのほうは大道寺の若いころの写真じゃないか」
「そうですよ。その写真を神尾先生は、十数年の長きにわたって、胸のロケットに秘めつづけてきたんですよ。加納さん、その意味がおわかりでしょうねえ」
加納弁護士の顔がさっと曇った。
「それじゃ、神尾女史は大道寺に……」
かすかに声がふるえている.金田一耕助は暗い眼をしてうなずくと、
「そうです。それがすべての事件の、ほんとうの意味での発端なんです。加納さん、もう一枚の写真をごらんください。その写真こそ、あなたやあなたの依頼人を悩まし、ひいてはぼくを苦しめた|蝙《こう》|蝠《もり》の正体なんです」
加納弁護士はちらと耕助に眼をやったのち、急いでもう一枚の写真に眼を落とした。金田一耕助とちがって、若き日の大道寺欣造の面影を知っている弁護士が、その|扮《ふん》|装《そう》した写真の顔から、ほんとうの面影をさぐり出すには、そう長くはかからなかった。
「金田一さん、これも大道寺の写真だと思うが、どうしてこんな、役者みたいな|恰《かっ》|好《こう》をしているんですか」
「加納さん、|日《くさ》|下《か》|部《べ》青年は死の直前、島へきていた旅役者の写真をとったんですが、それもそのとき写した写真の一枚なんです」
「な、な、なんですって!」
さすが老練な弁護士にとっても、この一言は晴天の|霹《へき》|靂《れき》とひびいたのだろう。|椅《い》|子《す》から半分腰をうかして、|睨《にら》みつけるように耕助の顔を|視《み》つめていたが、
「それじゃ……それじゃ……大道寺はあのとき島にわたっていたのか」
「そうです。しかも、旅役者に化けて……」
加納弁護士はどしんと音を立てて椅子に腰を落とすと、火をふくような|眼《まな》|差《ざ》しで、耕助の顔を睨んでいる。額には|粟《あわ》|粒《つぶ》のような汗が吹き出した。
「金田一さん。……」
老弁護士はしゃがれた声で、
「これが蝙蝠の正体だとおっしゃったね、そ、それはどういう意味ですか」
「それはこうです。大道寺氏、いや、当時の速水青年のとった態度を、日下部青年はそう|比《ひ》|喩《ゆ》したのです。じっさい、そのときの速水欣造のやりかたは巧妙きわまるものでした。旅役者の連中には島のものと思わせ、島のひとたちには旅役者のひとりと思いこませるような態度をとっていたのです。|何《な》|故《ぜ》そういう態度をとったかといえば、事件が起こったのちに調べられても、旅役者以外には誰ひとり、島へわたったものはないということにしておきたかったのでしょう。と、いうことは速水欣造は、島へ渡るまえから、ある恐ろしい目的を持っていたことを意味しています」
加納弁護士は細かく身ぶるいをしながら、
「しかし、……しかし……これが蝙蝠だというのは……?」
「それはね、こうして巧みに変装していたにもかかわらず、日下部青年はその正体を|看《み》|破《やぶ》ったんです。ところが日下部青年は、速水欣造のこの怪しい振舞いを、逆に善意に解釈したんですね。つまり、|陰《かげ》ながら自分を護衛に来ているのだろうと。……日下部青年は友人のその忠誠が|嬉《うれ》しかった。と、同時にその振舞いの突飛さが|滑《こっ》|稽《けい》でもあった。そこで、速水欣造のその態度を蝙蝠にたとえたのです。島のひとにむかっては旅役者と思わせ、旅役者にむかっては島のものと思いこませているその態度から、鳥と獣の合戦の際、鳥にむかっては獣であるといい、獣にむかっては鳥であるといって逃げた蝙蝠を、日下部青年は連想したんですね。それが愉快で、滑稽でたまらなかったものだから、お父上にあてた手紙も、いささかふざけた調子になったというわけです」
加納弁護士の額から、じりじりと|脂汗《あぶらあせ》がふき出してくる。大きく見開かれた眼は、一種異様なかがやきをおびて、まるで耕助のからだを吸いこみそうであった。
「しかし……しかし……」
と、弁護士は思い出したように、|咽《の》|喉《ど》の|痰《たん》を切りながら、
「神尾女史は自殺する直前、告白したというではありませんか、何もかも、じぶんのよこしまな恋のせいだったということを……」
金田一耕助は無言のまま、ふところから西洋封筒を取り出した。
「どうぞ、これをごらんください」
加納弁護士はその封筒を手にとって見て、はっと瞳をふるわせる。
「神尾女史からあんたに当てて……遺書ですか」
「そうです。おそらくこんど島へかえってから、一同が開かずの間のある別館へ、はいるまでのあいだ、……お祖母さまの急変で、一同が|狼《ろう》|狽《ばい》しているすきに、書いたものだと思われます」
加納弁護士はいそいで封筒から中身をひき出した。
金田一耕助さま。――と、そういう呼びかけからはじまっているその遺書は、かなり急いで書かれたものと見えて、達者ながらも随所で筆が乱れている。加納弁護士も大急ぎでその遺書に眼をとおした。
[#ここから1字下げ]
金田一耕助様
あなたはこれから、いよいよ琴絵さまの無罪であったことを証明しようとしていらっしゃいます。しかも、そのことについて、あなたには確信がおありのように見受けられます。どうして、琴絵さまの無罪が証明出来るのか、それはあたしにもわかりませんが、でも、ふたつの場合が考えられます。智子さまのお父さまの死が、自殺であった場合。それからもうひとつは、あの部屋が密室ではなく、智子さまの御両親以外にも、忍びこむ余地があったという場合と。……第一の場合はおよそ問題ではありませんから、おそらくあなたの証明なさろうとするのは第二の場合、即ちあの部屋が密室ではなく、余人にも入り得る余地があったということでしょう。ああ、もし、それが証明されたら、そのときこそは、あたしがいままで、よもやよもやと希望をつないで来た、最後の|砦《とりで》が破れるときです。そして、そのときこそは、このあいだから心に固くきめていることを、決行しなければならないのです。
金田一耕助様
さっき船からあがったとき、あなたは今度の事件に関して、あたしがひどく責任を感じていることについてお|訊《たず》ねくださいましたね。そうなのです。今度の事件の|源《みなもと》は、みんなあたしの浅墓な、女の|猿《さる》|智《ぢ》|慧《え》からはじまっているのです。昭和七年の夏、|日《くさ》|下《か》|部《べ》さんと速水さんが、月琴島ヘ遊びに来られたとき、日下部さんと琴絵さまは結ばれました。しかし、そのことはあたしの眼をぬすんで行なわれたのではなく、じつはあたしがおふたりを結びつけたのです。お取り持ちしたのです。琴絵さまを無理矢理に、日下部さんに押しつけたのです。では、|何《な》|故《ぜ》あたしがそんな|不《ふ》|埒《らち》なまねをしたかというと、その前年の秋速水さんが、単身月琴島ヘ来られたときから、あたしがお慕い申し上げているにもかかわらず、速水さん御自身は、琴絵さまに恋していられたからでした。それですから、琴絵さまをいちはやく、ほかの男性とむすびつけてしまえば、速水さんも|諦《あきら》めて、あたしと結婚してくださるかも知れないと思ったからです。ああ、愚かなあたし、浅墓な秀子。……速水さんの琴絵さまに対する恋情が、あんなにも激しく、深刻であろうと知っていたら!
金田一耕助様
こう申し上げれば、十九年にまたがるこの恐ろしい事件の種を|蒔《ま》いたのは、あたしにほかならぬということがおわかりでしょう。琴絵さまはあたしの申し上げることならば、何んでもお聴き入れになるかたでした。あたしが速水さんと琴絵さまを結びつけようと思えば、それはなんでもないことでした。そして、もし、そうしておけば速水さんも、あのように立派なかたですから、おふたりとも幸福になられ、十九年にまたがるあのかずかずの恐ろしい事件も起こらなかったでしょう。速水さんのその幸福を、無残に打ちくだいたのはこのわたしでした。あたしのよこしまな恋からでした。すべての|禍《わざわい》の種を蒔いたのはこのあたし、浅墓な神尾秀子だったのです。蒔いた種は刈りとらねばなりません。
金田一耕助様
あなたの名声、功名心をあたしのために犠牲にしてくださいとお願いするのは、まことに心苦しいことです。しかし、あたしとしては御恩をうけた大道寺家の家名も考えねばなりません。また、智子さまの将来のことにも気を配らねばなりません。たとえ血はつながっておらずとも、戸籍のうえでは智子さまは、あのかたの娘になっているのです。殺人鬼の父を持つ娘……おお、いけません。いけません。それよりは、殺人鬼の家庭教師を持った娘のほうが、いくらかでも幸福ではないでしょうか。
金田一耕助様
お願いです。どうぞ、どうぞ、……あなたの御存じのことはみんなお忘れになってください。そして、すべてはあたしのせいだったということに。……
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]哀れな
[#地から1字上げ]家庭教師より
[#ここから1字下げ]
二伸
すべてを清算するために使用するつもりのピストルは、東京で手に入れました。あのライカの写真に秘められた、秘密に気がついた直後、ある方面から入手したのです。しかし、その出所については何卒お調べにならないで。……そのひとに御迷惑をおかけしたくありませんから。
[#ここで字下げ終わり]
およそものに動じないこの老練な弁護士も、神尾秀子のあわれな遺書を読みおわったときには、深い感動をおもてに現わさずにはいられなかった。遺書をデスクのうえにおいて、しばらく放心したような眼付きをしていたが、
「大道寺が……大道寺が……馬鹿なやつ!」
と、吐き捨てるように|呟《つぶや》くと、はげしく身ぶるいをして、
「神尾女史はよほどまえから、あいつが犯人だということを知っていたんですね」
金田一耕助はうなずいて、
「おそらくそれは、その遺書の追伸にあるとおり、ライカの写真に秘められた秘密を発見したときからでしょうねえ。神尾女史はいままで何度もその写真を見ているんですが、ライカの写真で、あまり小さいものだから、つい最近まで気がつかなかったんです。ところがこのあいだ、ぼくがそれを引き伸ばして、|経堂《きょうどう》へ持っていってみんなに見せたところが、大道寺氏の驚きたるや非常なものでした。そりゃそうでしょう。知らぬ間に罪のあかしになるような写真をとられているんですからね。しかし、そのときは巧みにほかのことにかこつけて誤魔化したんですが、神尾女史だけはそれを怪しんで、写真を見直しているうちに、とうとう秘密を|嗅《か》ぎあてたんですね。そのときの女史の驚きを御想像ください。こうして写真にうつっているからには、大道寺欣造があの日、月琴島にいたことはたしかです。しかも大道寺氏はいままでそのことを、おくびにも出さないのだから、いよいよ怪しい。もしやという疑いがむらむらとこみあげてきたのも無理はない。そこで、何はともあれ証拠の写真を、ぼくのポケットから抜きとったんですが、さすがに焼き捨てるのは良心にとがめたのか、かんじんの部分だけ切りとって、ひと知れず保存していたんですね」
「しかし、神尾女史はなぜそのときすぐに、清算しようとしなかったんでしょう。同じああいう結果になるなら、そのときすぐにやっていたら、それからあとの|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》の事件や、|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》の事件は起こっていなかったろうに。……」
「それはおっしゃるとおりですが、神尾女史にしてみれば、もうひとつよもやの|砦《とりで》があったわけです。即ち、智子さんのお父さんの殺された部屋は密室だった。なかから二重に締まりがしてあったのだから、誰もそこへ入ることは出来なかった。だから、大道寺氏があの日島にいたからといって、ただちにあの殺人を犯したとは断定出来ない。……と、いうのが神尾女史のよもやの最後の砦だったわけです。だから、その砦が打ちやぶられたせつな、神尾女史はすべてを清算したわけですね」
加納弁護士は眼をつむって、しばらく考えこんでいたが、やがてまたその眼を開くと、
「なるほど。それで十九年まえの事件は片づいたとして、最近のあの一連の殺人事件はどういうのです。大道寺は気でも狂っていたのですか」
「加納さん」
金田一耕助は暗い眼をして、
「ある新聞には親子二代にわたる邪恋と書いてありましたね。あれは神尾女史には当てはまらなかったが、大道寺氏にはぴったり当てはまる言葉でした。大道寺氏は成長していく智子さんの、しだいにお母さんに似てきて、しかもお母さん以上に美しくなるのを見るにつけ、しだいに自制心をうしなっていったのです。なるほど、大道寺氏は首尾よく琴絵さんと結婚することが出来た。しかし、それは名義だけのことで、結局、|想《おも》いはとげられなかった。それだけに抑圧された恋情ははげしく火をふいたのです。大道寺氏にもその自覚があったから、ああいう警告状を書いて、智子さんをなるべく島から出すまい。東京ヘ呼びよせることを|妨《さまた》げようと計ったんです」
加納弁護士はギョッとしたように目を|視《み》|張《は》り、
「それじゃ、……あの、警告状を書いたのは、大道寺、自身だったんですか」
「そうです。思えば大道寺氏も気の毒なひとでした。自分をおさえようとして、血みどろの苦闘を心中でつづけてきたにちがいない。大道寺氏の考えでは、智子さんが遠く月琴島にいるぶんには、どうにか自分をおさえることが出来るだろう。しかし、智子さんが日常自分の周囲に起居し、その顔を見、その声を聞き、その体臭を|嗅《か》ぎつづけたら……大道寺氏はそれに対して自信がもてなかった。とはいえ智子さんが満十八歳になったら、東京へ呼び迎えるということは、以前からの約束ですし、|衣《きぬ》|笠《がさ》氏もそれを熱望していられるのだから、それに反対する理由はどこにもない。そこで大道寺氏はああいう警告状を書いて、衣笠氏に智子さんを呼びよせることを思いとまらせようとしたのです」
「そうか、そうだったのか。それじゃあいつは自分で自分に当てて警告状を出したわけだな」
「そうです。これは犯人がよくやる手で、疑いをさけるためですね。大道寺氏は衣笠氏や自分に当てて警告状を書いたのみならず、智子さんが|松籟荘《しょうらいそう》へはじめて泊まったその翌朝、浴場の鏡のうえに、同じような警告を書いて、智子さんに島へかえるように勧告したらしいのですよ」
「なるほど、大道寺はいかに智子さんに|惚《ほ》れていても、かりにも親子である以上、どうにもならない。そこにあの男の深刻な苦悩があったわけですね」
加納弁護士がゆっくりと言葉をはさんだ。いかにも痛ましげな顔色である。
「そうです。しかも大道寺氏は、智子さんが身近にいると、肉体的にも一種の衝動をかんずるらしいのですよ。智子さんが経堂へ来て以来、ときどきあのひとは真夜中に、その衝動をおさえきれず、智子さんの寝室近くへ忍びよったのではないかと思われる節があるんです。いたましい宿命ですね」
真相(二)
加納弁護士と金田一耕助は、しばらく暗然たる面持ちで、めいめいの視線のさきを意味もなく|視《み》つめていたが、やがて、老弁護士が気をかえるように、
「いや、それで今度の事件の動機はだいたいわかりましたが、それではつぎに、どういうふうにして、ああも見事につぎつぎと、ひとが殺せたか。……それについてお話し願いたいですね。第一番は遊佐三郎でしたかね」
「いや、発見されたのは遊佐君のほうがさきでしたが、犯罪の順序からいうと、姫野東作、即ち|嵐三朝《あらしさんちょう》のほうがさきになります」
金田一耕助はふところから手帳を取り出し、それをデスクのうえに開くと、
「それでは、姫野東作の場合からはじめますが、そのまえにこういうことがあるんです。姫野東作の殺された日の午前中、ぼくは大道寺氏とあのひとの部屋で話していたんです。大道寺さんの部屋は離れになっていて、そこから|松籟荘《しょうらいそう》のひろい庭が、|桂川《かつらがわ》まで見下ろせます。しかも、わたしたちは縁側に持ち出した|籐《とう》|椅《い》|子《す》で話をしていたんですが、そのとき大道寺氏が妙に庭のほうを気にしていたのを、あとになって思い出したんです。いまにして思えば、あのとき大道寺氏は文彦君のすがたを見たわけですね」
加納弁護士はちらと眼をあげて、金田一耕助の顔を見る。耕助も相手の顔を見かえして、
「これはあなたにお伺いすればわかるだろうと思うんですが、大道寺さんは以前から、文彦君の性質、あの妙に秘密を好む性質を気にしてやあしませんでしたか」
「金田一さん、あんたのおっしゃるとおりですよ。大道寺はあの子のああいう性癖をとても気に|病《や》んでね。あれはそれほど気にすることはない。兄弟のない、虚弱な少年にありがちの癖なんだが、いまにして思えば、大道寺は過去において、大それた人殺しをやっていたから、そういう性質が子供に伝わっておりはせんかと、それでいっそう気に病んだわけなんですな」
金田一耕助はうなずいて、
「そういうことも手伝っていたかも知れません。とにかく大道寺氏は文彦君が人眼をしのんで庭のおくへいくのを見た。そこで何を|企《たくら》んでいるのかと気になって、みんなが昼寝をしている三時ごろ、文彦君のすがたを見かけたあたりへこっそり行ってみた。ところがそこに|洞《ほら》|穴《あな》があったので入ってみると、あの新聞を切りぬいて作った三通の手紙があったわけです。大道寺氏にとっては、それは非常な驚きだったでしょう。いや、驚きよりも恐れだったかも知れない。|何《な》|故《ぜ》といって、かつて自分もそういう手紙をつくったことがあるんですからね。文彦君はたぶん、|経堂《きょうどう》の家へ配達されてきた、あの警告状の上書きを見ていて、それに興味をそそられて、自分も同じような手紙をつくったのでしょうが、いずくんぞ知らん、文彦君が|真《ま》|似《ね》た警告状というのは、現在の父、大道寺氏がつくったものですからね」
「なるはど、|因《いん》|果《が》はめぐるというわけですね」
加納弁護士は暗い顔になる。
「ええ、まあ、そうです。そこで大道寺さんは非常な|怖《おそ》れを感じて、|糊《のり》だの|鋏《はさみ》だの、新聞の切り抜きかすだのを土に埋め、三通の手紙はふところに入れ、|洞《どう》|窟《くつ》から外へ出ようとした。そこへ上の段から聞こえてきたのが、遊佐君と姫野東作の密談だったわけです」
「ああ、なるほど。段取りがうまくついていますね」
「そうなんです。大道寺さんが文彦君のすがたを見なければ、洞窟へも入らず、また、あの密談も聞かなかったでしょうからね」
加納弁護士はうなずいて、
「しかし、姫野東作……昔の嵐三朝ですがね。その男は、どの程度まで知っていたのでしょうかねえ」
「ぼくはかなりの程度まで知っていた、いや、気がついていたんじゃないかと思うんですがねえ。大道寺さんはあそこの重役だから、ときどき出向くことがあったにちがいない。姫野東作はその顔を見て、どこかで見たことのある顔だくらいに考えていたんでしょう。ところがこんど月琴島の大道寺家から、ひとり娘の智子さんがくる。その智子さんは大道寺氏の義理の娘である。……と、そういう話を聞いてるうちに、姫野東作は昔のことを思い出したにちがいない。智子さんの真実のお父さんが、十九年まえのお|登《と》|茂《も》様の祭りの日に、|崖《がけ》から落ちて死んだことは、同じ一座にいた田島という男も知っているくらいだから、|座頭《ざがしら》だった姫野東作だって知っていたにちがいない。何しろその事件がもとで、それ以来、嵐三朝の一座は月琴島へよばれなくなり、いわば大切なお得意を、一軒うしなう動機になったのですからね。さて、そうして昔のことを思い出しているうちに、姫野東作ははっと大道寺さんの顔を思い出したんでしょう。島のものと名乗って、自分たちを下田まで迎えに来、そしてまた下田まで送ってくれた男。……その男が変死を遂げた智子さんのお父さんの|後《あと》|釜《がま》にすわって、大道寺家の当主になっている。……そこまでわかれば、そこは旅役者でも座頭をつとめるくらいの男だから、頭だってかなり働くにちがいない。げんに姫野東作も|蝙《こう》|蝠《もり》という言葉を使っていたそうですから、十九年ののちになって、大道寺さんの当時の巧妙な|欺《ぎ》|瞞《まん》に、気がついたのにちがいありません。そこでそれを遊佐君に話していたんでしょうね」
「遊佐にそれを話したというのは、いつかあんたもいってたとおり、それによって遊佐君の立場を有利にし、候補者競争に勝利を得させようという|肚《はら》だったんですね」
「そうです、そうです。そして首尾よく遊佐君が大道寺家の婿になったら、たんまり礼を|貰《もら》うつもりだったんでしょう。成功報酬というやつをね」
加納弁護士は暗い|溜《た》め息をもらして、
「いや、ひとつの悪事というやつは、なかなかひとつでとどまってはくれない。いつかそれから芽が出、枝がしげり、多くの悪事を重ねていくことになるんですね。そこでまた大道寺は、姫野東作を殺さねばならぬ破目になったわけですな」
「いや、姫野ばかりではなく、遊佐君も殺さねばならぬことになったわけです。遊佐君はどこまで話を聞いたか知らぬが、姫野が殺されたとわかると、当然、大道寺氏に疑いの眼を向けるでしょう。そこで、どうしても姫野の死体が発見されるまえに、遊佐君を殺してしまう必要があった。そこで利用されたのが、文彦君のつくったあの手紙なんです」
「つまり息子が|悪《いた》|戯《ずら》のために作っておいた手紙を、|親《おや》|爺《じ》が殺人のために利用したというわけですね」
「そうです。そういうことになりますね。考えてみれば恐ろしいことですが、大道寺氏にしてもせっぱつまったあの場合、それよりほかに仕方がなかったわけです」
「金田一さん」
加納弁護士は少しからだを乗り出して、
「大道寺がどういうふうにして遊佐を殺したか、そこのところをもう少しくわしく御説明願えませんか」
「承知しました。といってもこれはぼくの想像なんですがね」
と、金田一耕助は相手の顔を見まもりながら、
「遊佐君殺しの場合、その犯行時刻について、ぼくが非常に大きなミスをしていたことは、あなたもたぶん|衣《きぬ》|笠《がさ》氏から、お聞きおよびのことと思います。いまさらいっても仕方がないが、あれさえなかったら、ぼくはもっと早く犯人を指摘し、あとの犯罪の幾分かでも、阻止することが出来たのにと、われながら口惜しくてなりません」
「いやいや、あれはあなたのミスというわけではない。衣笠さんが逃げかくれしていたのが悪かったのだから。……衣笠さんもその点は、責任を感じていられるようだ」
「それにしても、ぼくがなまなかの|猿《さる》|智《ぢ》|慧《え》から、犯行時刻を細かく限定しすぎたのがいけなかったんです。考えすぎということは、いつの場合でも気をつけなければいけないんですが……しかし、それはそれとしておいて、ぼくの極めた犯行時間に関するかぎり、大道寺さんには完全なアリバイがあった。ところが、その時間以前には何をしていたかというと、入浴していられたということになっているのです。問題はその入浴なんですね。あなたも御存じだろうと思いますが、松籟荘には千人|風《ぶ》|呂《ろ》式の大浴場のほかに、家族風呂というのがあります。その家族風呂は母屋から、大道寺さんのいられた離れへ通ずる廊下の途中に、三つ四つ並んでいるのです。大道寺さんは当然、そのひとつを使用されたことと思うが、この家族風呂というのが、大道寺さんの目的のためには、非常にうまく出来ているんです。廊下に使用中の札をかけておけば誰ものぞくものはない。いや、たとえのぞこうとしても、脱衣場のドアに内側から掛け金をかけておけばのぞくことは出来ません。さらに、浴室のドアも内側から掛け金がかかるようになっている。しかも、この浴室には窓があって、そこから抜け出すと庭へ出られるようになっている。……」
「なるほど」
加納弁護士はおだやかにうなずいて、
「大道寺は浴室を|籠《かご》|抜《ぬ》けの場に利用したんですね」
「そうです。そうです。そして浴室から抜け出すと、それから少しのちに、多門連太郎君が逃走の際に利用した裏階段から屋上へあがっていった。この裏階段はめったに使用されることがなかったから、ひとに見とがめられる危険も少なかったわけです。さて、時計室ヘ入っていくと遊佐君があの|贋《にせ》手紙にだまされて来て待っている。ぼくは思うのだが、大道寺さんのそのときの|風《ふう》|態《てい》は、かなり異様なものだったにちがいない。それにはじめから殺意を抱いているのだから、形相なども|物《もの》|凄《すご》かったことでしょう。そういう大道寺さんがだしぬけに、時計室ヘ入ってきたのだから、遊佐君の驚きと恐れたるや、非常なものだったろうと思われますね。ましてや、姫野東作から、大道寺さんの過去の秘密をきいていたとしたら、その恐怖はいっそう大きかったにちがいない。あまり恐怖が大きかったので、おそらく声も出なかったでしょう。大道寺さんはああいう立派なからだをした偉丈夫、それに反して遊佐君は不良でこそあれ、女のような優さ男、ましてや恐怖のために小鳥のようにふるえているのだから、左手でその|咽《の》|喉《ど》首をつかまえて壁ヘ押しつけ、右手に持った凶器を振りあげ、これを撲殺するというのは、なんの造作もないことだったろうと思われますね」
加納弁護士は顔をしかめ、身をもちぢめ、ぎごちなく|空《から》|咳《せき》をし、溜め息をもらした。金田一耕助の話から、その時の恐ろしい情景が、まざまざと眼のまえにうかんでくる感じである。
「それで凶器は……?」
「いや、それについてはもう少しあとでお話しましょう。さて、こうして遊佐君の息の根をとめてしまうと、大道寺氏は用意してきたピンポン・バットの柄を折り、それに血を塗ったうえ、そこへ投げ出しておいた。……」
「それは、つまり、月琴島の開かずの間にある、月琴を暗示しているんですね」
「そうです。そうです。その朝、大道寺さんは鏡面の文字で|威《い》|嚇《かく》を試み、智子さんを月琴島ヘ追いかえそうとした。しかし、智子さんはそういう威嚇に屈するひとではないので、かえって逆効果になるおそれがあった。そこで威嚇の文字を現実にうつして見せようというわけです。あの文字は|法《ほ》|螺《ら》でもなければ|嘘《うそ》でもない。おまえが東京へくると、絶えずこういう事件が起こるぞという暗示なんです。つまり大道寺さんは遊佐君を殺すことによって、一石二鳥をねらったんですね。遊佐君の口を封じることと、智子さんを威嚇すること。……」
「いや、よくわかりました。それから。……」
「それから大道寺さんは時計室をとび出し、もとの裏階段をつたって庭へおり、窓から浴室へとびこんで、体や凶器の血を洗いおとした。……わたしがさっき、そのときの大道寺さんの風態は、かなり異様なものだったろうと申し上げたのはこのことで、大道寺さんはかえり血をうけても大丈夫なように、ひょっとするとそのとき、パンツ一枚の裸だったのじゃないかと思うんです。もし、パンツのうえにガウンみたいなものを羽織っていたとしても、犯行の瞬間には、|双《もろ》|肌《はだ》ぬいでたんじゃないかと思われるんですがね」
加納弁護士はまた顔をしかめた。この老巧な弁護士にして、やはり恐ろしさが身にせまるのである。
金田一耕助はひと息いれて、
「それから、さっき凶器のことについてお|訊《たず》ねがありましたが、それからのちに起こった殺人未遂の場合から考えても……」
「殺人未遂……?」
加納弁護士は眼をみはって、
「金田一さん、それじゃわれわれの知ってる事件のほかに、まだ未遂事件があったんですか」
金田一耕助はにこにこしながら、無言のままうなずいた。
「誰です。狙われたのは……?」
「ぼく。……金田一耕助です」
加納弁護士はぎょっとしたように大きく眼を見張った。|椅《い》|子《す》から半分腰をうかせて、
「金田一さん、ほんとうですか、それは……? 大道寺があんたを殺そうとしたんですか」
「ほんとうです。しかし、そんなに驚かないでください。こういう商売をしていると、ときどきそういうことがあるもんです。そのことはいずれお話しするとして……」
加納弁護士はどしんと椅子に腰を落とすと、改めて金田一耕助の顔を見直した。この小柄で|風《ふう》|采《さい》のあがらない、風来坊のようなこの男が、いかに危険な仕事にたずさわっているかということを、はじめてはっきり認識したのである。
「さて、凶器のことですが……」
と、金田一耕助はこともなげに、
「ぼくがやられかけたときのことから考えても、大道寺さんはいつも特別の凶器を用意していたわけではないらしい。その場にありあうものを巧みに利用されたようです。で、遊佐君の場合は|文《ぶん》|鎮《ちん》じゃないかと思うんですがね」
「文鎮……?」
「ええ、そう、松籟荘には部屋ごとに、龍のかたちをした|筆《ひっ》|架《か》文鎮が机のうえにおいてある。大きさといい、重さといい、また握りのぐあいといい、ちょうど|手《て》|頃《ごろ》の凶器になります。それに金属製ですから、洗えば血も落ちてしまいます。大道寺さんは浴室へかえると、裸の上半身にあびたかえり血と、凶器の文鎮を洗いおとして、さて、改めて入浴ののち、何食わぬ顔をして座敷へかえったところが、支配人が待っていたというわけです。文鎮はきっとひと知れず、もとのところへおいといたのでしょう」
加納弁護士は|溜《た》め息をもらした。金田一耕助の語りくちが淡々としているだけに、現実の恐ろしさが身にせまる。
「こうお話すると、とても危っかしい芸当のように思われるし、また、じっさい、それにちがいないのですが、機敏に、大胆に、強い決断力をもって事を行なえば、案外成功するんですね。おまけに、大道寺氏が意識してトリックを|弄《ろう》したのか、それとも偶然のいたずらか、あの|自鳴鐘《じめいしょう》の弁が動いたために、ぼくが考え過ぎの失態をやらかし、犯人はいよいよ安全な煙幕のなかに、逃げこむことが出来たというわけです」
加納弁護士はハンケチを出して、しずかに額や|掌《て》を|拭《ぬぐ》うと、
「なるほど、それで松籟荘の事件は、すっかり説明が出来たわけですが、さて、そのつぎが|歌《か》|舞《ぶ》|伎《き》|座《ざ》の事件ですか」
「いや、そのまえに金田一耕助殺人未遂事件があるんです」
と、そこで耕助は簡単に、あの夜のいきさつを語って聞かせると、
「つまり大道寺氏は、神尾先生がぼくのポケットから、写真を抜いたとは知らなかったから、それを奪うために、ぼくを送り出すと、すぐ垣根の|沈丁花《じんちょうげ》の植込みを抜けてあとを追い、ぼくを襲撃したんですね。じっさい、あの石がぼくの後頭部に命中していたら……あるいはあのときパトロールが、向こうからやって来なかったら、ぼくはいまごろ、あの世でメイ探偵になってたかも知れませんね。あっはっは」
「石……? 石ってどのくらいの……?」
「これくらいでした」
金田一耕助が指で大きさを示すと、加納弁護士はまた身ぶるいをした。弁護士自身、その石を投げつけられたような痛みを、後頭部や背筋に感ずるのである。
「それは……ちっとも知りませんでした。でも、御無事で何よりでしたね」
いたわるような|声《こわ》|音《ね》である。
「有難うございます」
金田一耕助はペコリとお辞儀をすると、
「でも、この襲撃によって、ぼくにはふたつのことがはっきりしました。犯人はあの日、大道寺家にいたもののなかにあること。それから、あの写真が犯人にとって、致命的な意味をもっているらしいこと。……」
「その写貞は原板が別にあったのでしょう」
「そうです。だから、ぼくもそれを調べればよいと思っていたんです。ところが向こうのほうが役者が一枚上でしたよ」
と、写真の原板を|詐《さ》|取《しゅ》されたいきさつを物語ると、加納弁護士はうなずいて、
「いや、大道寺ならそれくらいのことはやるでしょう。あいつはとても抜け目のない男だったし、それに自分の命にかかわる問題ですからな。ところで、そのつぎが歌舞伎座の事件ですね」
「そうです。しかし、これは改めて説明申し上げるほどのことはないでしょう。文彦君の|鑵《かん》からチョコレートをひとつ抜きとり、それに青酸加里をまぜて、三宅君のポケットに|放《ほう》りこんでおけばよかったんですからね」
「それはわかっていますが、しかし、あの晩、なぜ三宅を殺さねばならなかったんですか」
「それはねえ、加納さん、当時大道寺氏は血みどろな苦闘を演じていたんですよ。智子さんをおなじ邸内において、ともすれば自制をうしないそうになる欲情と、必死となって闘っていたんです。どうかするとその衝動にうちまけて、深夜、智子さんの寝室に忍びよることさえあったくらいです。とはいえ、あのひとも紳士だから、養女と通ずるというような不倫な行為については、やはり反省も感じていた。つまり、どうにもならぬ欲望と反省との板ばさみになって、大道寺氏はしだいにデスペレートになっていったにちがいない。そういう大道寺氏が救われるみちは、|唯《ただ》ひとつしかない。智子さんに月琴島へかえってもらうことです。大道寺氏はそれを、智子さんを|威《い》|嚇《かく》することによって実現しようとしたんですね。それともうひとつは、やはり|嫉《しっ》|妬《と》もあったんじゃないでしょうか。自分がえらんだ候補者ながら、その男が智子さんとなれなれしくし過ぎると、激しい嫉妬を感じるんでしょう。あの晩、智子さんは目的があってのことですが、少し三宅君に|媚《こ》びを呈し過ぎた。それが大道寺氏を|刺《し》|戟《げき》したんですね。何しろ修善寺の松籟荘で、矢はすでに|弦《つる》をはなれているのですから、あとは|驀《ばく》|進《しん》の一途です。ああなるともう、血に狂った殺人狂となんの変わるところもありませんね」
「しかし、そうすると大道寺は、青酸加里を肌身離さず持っていたというわけですか」
弁護士のその質問を待っていたように、金田一耕助はふところから、昔日の五十銭銀貨ほどの小さな鑵をとり出して、弁護士のほうへ押しやった。
「そうです。そのなかに入っています」
弁護士は息をのんだ。それを手にとって見ようともせず、声をふるわせて、
「いったい、これを、どこで……」
「大道寺さんが射たれたとき、ズボンのポケットから発見して、警察のひとたちからかくしておいたのです。大道寺氏はポケットヘ手をつっこんで、かたくそれを握っていたんですよ。その意味がおわかりでしょうね」
弁護士の|瞳《め》がまたふるえた。
「それじゃ、さすがに、あの男も、覚悟はしていたんですね」
「そうでしょう。あれだけのひとですから。……」
無気味に光る小さい鑵をなかにおいて、しばらくふたりは黙りこんでいたが、やがてまた弁護士は額の汗を拭うと、
「それじゃ最後に|九《つ》|十《く》|九《も》|龍馬《りゅうま》の事件だが、あれもやっぱり大道寺が、神尾女史よりひとあしさきに道場へいってやったんですね」
「そうです。そうしてまたひきかえし、神尾女史が駅から出てくるのを待っていたんでしょう。ただわからないのは、どうしてあのひとが、あの|抜《ぬ》け|孔《あな》を知っていたかということですが……」
「いや、それは何んでもありますまい」
加納弁護士はポッツリと言葉をはさんだ。
「大道寺は以前かなり密接に、九十九龍馬と結びついていたことがあるんです。だから、あの伏魔殿の機密に参画していたとしても、別に不思議なことではない。それについてわたしが忠告したことがあるくらいだから。九十九は危険な人物だから、あまり深入りしないようにと。……その忠告のせいかどうか知らんが、以前ほど深い接触はなくなったようだが、まあ、そういうわけであの男が、抜け孔の存在を知っていたとしても、なんの不思議もありますまい」
それから加納弁護士はおだやかな微笑を耕助のほうに向けて、
「ところで、金田一さん、最後にもうひとつお|訊《たず》ねがあるんですがね。これは答えたくなければ、お答えにならなくてもいいのですが……」
「はあ、どういうことでしょうか」
「あんたはいつごろから大道寺に眼をつけられたんですか。いつごろから、あの男が怪しいと思いはじめましたか」
金田一耕助はちらと弁護士の顔に眼をやると、暗い声でつぶやくように、
「加納さん、こんなことをいうのは心苦しいことです。さんざんひとが殺されたあとで、はじめからあのひとに眼をつけていたなんて義理にもいえたことじゃありませんからね。しかし、じつをいうと、かなりはじめのころから、……姫野東作の死体が発見された直後から、ぼくの眼前には、大道寺さんの姿が大きくうかびあがっていたんです」
「それは、どういうわけで……?」
「それはね。神尾先生が姫野と遊佐君との密談の一部を、立ちぎきしていてくれたからです。姫野は十九年まえの月琴島の事件について、遊佐君に話をしていたらしい。しかも、それによって遊佐君の立場を、有利にしてやろうという心積りがあったのではないか。では、どうすれば遊佐君の立場が有利になるのか。当時、遊佐君は駒井、三宅の両君とともに、智子さんの配偶者としての地位を競争していた。その競争において、遊佐君はどうすれば、いや、何を知っていれば有利な地歩を占められるか。そう考えるとこれはもう明らかなことです。九十九龍馬や神尾先生の弱点を知ったところでなんにもならない。大道寺さんの秘密を握ってこそ、はじめて優位に立つことが出来るわけです」
「なるほど」
「それともうひとつ、犯人はあの|洞《どう》|窟《くつ》に入りこんで、文彦君のつくった手紙を持ち出しているのですが、文彦君のそういう行動に、いちばん深い関心を持つのは、やはり両親でしょう。しかし、|蔦《つた》|代《よ》さんには姫野を絞め殺すほどの体力はありませんから、そういう意味でも大道寺氏の姿が、大きくクローズ・アップされてくるんです。ところが、それにもかかわらず、ぼくが大道寺氏に手をつけようとしなかったのは、故意にそういう考えかたを|払拭《ふっしょく》しようとしたからです。そういう先入観念でものを見るのはいけないことだ。すべて事実に基づいて判断しなければならぬ。……と、いうのがこういう事件の際のぼくのモットーなんですが、さて、あの場合のもっともたしかな事実といえば(じつはそれが間違っていたのですが)、遊佐君の殺された犯行時刻です。それに関する限り、大道寺氏はもっとも完全なアリバイを持っていたんですからね」
金田一耕助はそこでポッツリ言葉を切ると、放心したように|椅《い》|子《す》のなかにめりこんだ。いつもそうだが、事件を解決したあとの|倦《けん》|怠《たい》感が、ものうく全身にのしかかる。しばらくかれはぼんやりと、視線のさきにあるものを、意味もなく|視《み》つめていたが、急に、思い出したように眼をあげて弁護士を見た。
「加納さん、これでぼくの|識《し》ってることは、残らずお話したつもりですが、まだほかに、疑問の点がおありですか」
加納弁護士はちょっと考えて、
「いや、結構です。これでわたしも依頼人にむかって、完全な報告が出来るでしょう」
「それではこんどはぼくのほうから、お願いがあるんですがね」
「はあ、どういうことでしょう」
「あなたの依頼人が身分柄、あくまで表面に出たくないというお気持ちはよくわかるんです。しかし、それにも限度があります。現在の智子さんの立場も考えてあげてください。あのひとは、ああいう恐ろしい経験のあとで、何もかも失ってしまった。祖母も養父も家庭教師も……そして、いまあのだだっぴろい月琴島の家で、ただひとり暮らしているんです。智子さんだからこそ耐えていけるんだが、ほかのお嬢さんなら気が狂ってしまいますよ。依頼人とも御相談のうえ、至急なんとか手を打っていただきたいのですがね」
加納弁護士はしばらく耕助の顔を見ていたが、やがて|眼《め》|尻《じり》におだやかな|皺《しわ》を刻むと、
「金田一さん、よくおっしゃってくださった。じつはわたしは大道寺家の、顧問弁護士をやっているんです。だから、遺産の問題やなんかで、早急に智子さんと打ちあわせしなければならんのだが、それでは取りあえず明日にでも、うちの所員を月琴島へ派遣することにしましょう」
弁護士はそういって、さぐるように耕助の顔を見ていたが、やがて渋い微笑をうかべると、
「あっはっは、所員だけでは御不満のようですな。それでは、その所員の保証人にもいっしょにいってもらいましょう」
「保証人……?」
「ええ、そう、その所員というのは多門連太郎という名前なんですがね。こういえば保証人が誰だかおわかりのことと思うが……」
金田一耕助は眼を見張って、まじまじと老弁護士の顔を視つめていたが、やがてもじゃもじゃ頭をペコリとさげた。何かしら温かいものが、老弁護士の胸にも、金田一耕助の心にも快く満ち|溢《あふ》れるようである。
大団円
すべては終わった。誰もかれも風のようにいってしまった。祖母も、家庭教師も、養父も。……そして、いま月琴島のだだっぴろい家に、|唯《ただ》ひとり|活《い》きている|智《とも》|子《こ》である.|蔦《つた》|代《よ》にも金田一耕助にも、出来るだけ早く立ち直ると約束したが、いったい、何を力に立ち直ろうというのか。
金田一耕助がいてくれるあいだはまだよかったが、かれが島を立ち去ってしまうと、|淋《さび》しさが身にしみる。智子はもう何を考える力もなく、冷えきった灰のような心を抱いて、終日、家のなかを見てまわる。祖母の寝起きしていた座敷、神尾秀子が編み物を編んで、編んで、編みつづけていた居間、それから、最後にはあの恐ろしい思い出のつきまとう開かずの間。……
それはもう開かずの間ではなく、金田一耕助の提案によって、窓も扉もすがすがしく開放され、あの|凄《せい》|惨《さん》な事件の|痕《こん》|跡《せき》も、名残りなく掃除されていたけれど。……
今日も智子はその部屋へやってくる。まるで影なき女のように。そして、うつろの眼を見張って、部屋のなかを見まわすのである。
すべてはこの部屋ではじまり、この部屋でおわったのだ。智子の父と母が恋を語り、智子の生命の最初のいぶきが、母の胎内に芽生えたのもこの部屋だった。父はこの部屋で命をおとし、母はこの部屋を深い悲しみのうちに締めきった。そして、十九年の歳月が流れ、この部屋がふたたび開かれた瞬間、養父と家庭教師がここで命をおとしたのである。
すべてはこの部屋ではじまり、この部屋でおわる。……
智子は一種の|戦《せん》|慄《りつ》とともに、いまはもう|綺《き》|麗《れい》に|埃《ほこり》をはらわれ、|拭《ぬぐ》いをかけられた家具や調度類を|撫《な》でてまわる。そうすることによって、ここで|逝《い》ったひとたちと、接触することが出来るかのように。……
開け放った窓からは、六月の夕陽が斜めにさしこみ、窓の外にしげっている|椿《つばき》の葉陰が、智子の上半身に|斑《ふ》をおとす。
智子はゆっくりと、放心したように部屋のなかを歩きまわっているが、ふと足音をききとがめて立ちどまる。扉のところへ現われたのは女中の静である。
「お嬢さま、お客様でございます」
「お客様……? どういうかた?」
「東京の加納法律事務所のかただそうで……」
加納法律事務所のことは智子もきいていた。きっと後始末のことでやって来たのだろう。
「ああ、そう、それじゃあちらへお通ししておいてください。すぐ参りますから」
「はい」
と、ふりかえった静は、急におびえたような声をあげる。
「あれ、あなた。……」
その声に扉のほうへ眼をやった智子は、大きく|眉《まゆ》をつりあげる。静のからだを押しのけて入ってきたのは多門連太郎である。
「まあ、あなた!」
|蝋《ろう》のように|蒼《あお》ざめた智子の|頬《ほお》に、さっと血の色がのぼった。
「御冗談をなすっちゃいけませんわ。加納法律事務所のものだなんておっしゃって。 ……」
連太郎は吸いとるような|眼《まな》|差《ざ》しで、智子の様子を見まもっていたが、やがて軽く頭をさげると、
「失礼しました。待ち切れないと思ったものだから。……しかし、加納法律事務所のものだといったのは|嘘《うそ》ではありません。これを御覧ください」
ポケットから取り出した封筒の表には、大道寺智子殿と達筆でしたためてあり、裏には加納法律事務所と印刷した横に、加納辰五郎という字が躍っている。加納辰五郎が高名な民事弁護士であることは、智子も聞いて知っている。
「拝見してもいいのでしょうね」
「どうぞ」
智子は封を切ってなかを読みくだすと、それをまた封筒におさめ、それから不安そうに扉のところに立っている静のほうへふりかえった。
「静、あなた、向こうへ行ってもいいわ。べつに心配なかたではないのですから」
「はい」
静が立ち去るのを待って、智子は連太郎のほうへ向きなおった。
「失礼しました。あそこへお入りになったことを知らなかったものですから。……どうぞお掛けください」
智子は唐卓をなかにはさんで連太郎と向かいあったが、そのとき、ふっと怪しい胸騒ぎをおぼえた。父と母も、こうして唐卓をなかにはさんで、|坐《すわ》っていたこともあったのであろう。……
「どうかしましたか」
「いえ、あの……そして、御用件は?」
「実は、大道寺家の遺産のことについて、お伺いしたのですが、ほんとうをいうと、そのほうのことはぼくにもよくわからないんです。何しろ入ったばかりの新米ですから」
「まあ」
智子は大きく眼を見張り、それから、かすかに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「ほっほっほ、それだのに加納先生は、あなたをおよこしになりましたの」
「そうです、ほかにもうひとつ用件があるものですから」
「もうひとつの用件というのは……」
「あなたに御承諾をえたいことがありまして……」
「はあ、どういうことでしょうか」
「ぼくと結婚することについてですがね」
突然、智子の顔が燃えあがった。耳の付け根までまっかになる。すっくと|椅《い》|子《す》から立ちあがると、
「いけません、多門さま、御冗談をおっしゃる場合ではございません」
「いいえ、冗談じゃない。冗談じゃないのです。ぼくはそれを申し込みに来たんです」
連太郎も椅子から腰をうかすと、唐卓のうえに片手をついて、
「智子さん、ぼくは|真《ま》|面《じ》|目《め》になりましたよ。ああいう世界から足を洗ったんです。真面目になれば、ぼくはこれでも相当の男だとうぬぼれているんですが、智子さん、それでもあなたは|良《おっ》|人《と》として、ぼくに不服がありますか」
智子はしばらく|眼《ま》じろぎもせず、連太郎の顔を|視《み》つめていたが、急にベソを|掻《か》くように顔を|歪《ゆが》めた。
「いけません、いけません。あたしはあなたに限らず、どなたとも結婚出来ないんです」
「それは、どうして……?」
「あたしは|凶《わる》い星のもとにうまれたものです。あたしには凶い星がつきまとっているんです。あたしに近づくひとは、みんな凶い星の|妖《よう》|気《き》にうたれて不幸になるんです、多門さま、もうその話はおよしになって……」
「あっはっは!」
連太郎は|咽《の》|喉《ど》のおくで笑うと、
「智子さん、あなたはいつからそんな弱気になったんです。以前はあんなに強いひとだったのに。……そうだ、あなたには凶い星がついているかも知れない。しかし、その星の妖気にうたれて不幸になるというのは、そいつらの星があなたの星より弱いからなんだ。しかし、ぼくはちがう」
連太郎は言葉を強めて、
「ぼくは強いんだ。ぼくの星は強いんです。ぼくはきっと、あなたについている凶い星をまかして見せる。智子さん、ぼくを信頼してください」
連太郎は唐卓をまわって智子を抱こうとする。智子は一歩しりぞくと、苦痛に顔をゆがめながら、
「いけません。いけません、あたしに触っちゃいけません。それに……それに、あたしはあなたのことをよく存じあげないんですもの」
「加納先生の保証だけでは駄目ですか」
「だって、あのかたはただあなたの雇傭主にすぎないのでしょう」
「よろしい、それじゃ、もうひとり保証人を立てましょう」
苦痛にゆがんだ智子の頬に、ふっと微笑の影がさす。
「ほっほっほ、まるで取り引きのようね。でも、いいわ。うかがっておきますわ。その保証人というのはどういうかた?」
「あなたのお|祖《じ》|父《い》さま」
「なんですって!」
「あなたのお祖父さま。……十九年まえにこの島で、亡くなられたあなたのお父さまの、お父さまになられるかた。……」
智子は大きく眼を見張る、|眦《まなじり》も裂けんばかりの大きな眼である。
「多門さま。……それ、ほんとうのことでございますの」
「ほんとうですとも」
「そして……そして、お祖父さまどこにいらっしゃいますの」
「いまこの島にいらっしゃいます。ぼくといっしょにいらっしゃったんです」
智子はまた大きく眼を見張り、瞳をわなわなとふるわせる。
「それで、どうして、ここへ、いらっしゃらないの」
声がしゃがれて、ふるえている。感動のために咽喉がふさがる感じである。智子はいままで、自分に祖父があることを、夢にも知らなかったのである。
「それはね、智子さん、あなたのお父さまの|終焉《しゅうえん》の場所を、まずお|弔《とむら》いにいかれたからです。あなたのお父さまは、お祖父さまにとっては、眼のなかへ入れても痛くないほど可愛いかただったんですからね」
「そして、そして、お祖父さまというのはどういうかたなの。どうしていままで、智子にそのことを知らせてくださらなかったの」
「そのことなら、智子さん、そのかたのお名前を聞けば、あなたにもきっと納得がいくでしょう」
「そして、その、お名前というのは……」
連太郎はすばやく智子のからだを抱きよせると、彼女があらがうすきもあたえず、その耳に祖父の名前をささやいた。智子のからだがはげしくふるえて硬直する、智子は男の腕のなかにあることも忘れて、|茫《ぼう》|然《ぜん》として連太郎の顔を|視《み》つめている。
「多門さま! それ! ほんとうのことなの!」
「ほんとうです。間もなくあなたはそのかたに、お眼にかかることが出来るでしょう」
「それじゃ……それじゃ……あたしのお父さまは……?」
連太郎はまたべつの名前をささやいて、
「智子さん、これでおわかりになったでしょう。あなたのお父さまが、いかにあなたのお母さまを愛していらっしゃっても、正式に結婚出来なかったわけが。……そして、お母さまがその理由を聞いたとき、あれほど大きなショックをお受けになったわけが。……」
突然、智子は連太郎の胸をつきはなした。そして、はげしく身ぶるいをし、長椅子のそばまで走っていくと、崩れるように床にひざまずいて泣き伏した。
そうなのだ。そのことがいままで智子を苦しめていたのだ。自分の父はいやしい女たらしではなかったのか。結婚する意志もなく、母をもてあそんだ色魔ではなかったのか。……それが彼女の自尊心を傷つけ、心の底にいつも|棘《とげ》となって彼女を刺していたのだ。
(お父さま、お父さま。……可哀そうなお母さま。……)
身をもんで泣きつづけながら、智子は心のなかで叫びつづける。連太郎がそのうしろへ来て肩を抱いた。智子はいやいやをするように、|頭《かぶり》を振りながら、しかし、その腕から逃げようとはしなかった。連太郎の腕に、しだいに力がこもっていくのを意識しながら。……
すべてはこの部屋ではじまるのである。
ちょうどその頃、衣笠氏は|棹《さお》の岬の|突《とっ》|端《ぱな》に腰をおろしていた。足下の渦巻く|淵《ふち》には、いま衣笠氏の投げおとした花束が、狂うように波にもまれている。
陽はもう西に沈んで、落日の栄光が衣笠氏の横顔を美しく染めている。衣笠氏はしっとり|濡《ぬ》れた眼で、真紅に焼けた水平線のかなたを、飽くこともなく視つめている。
陽は沈む。……
しかし、衣笠氏は知っているのである。今日の太陽は沈んでも、明日はまた、若々しい太陽が、新しい生命をもっていきいきと昇るであろうことを。
本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月)
金田一耕助ファイル9
|女《じょ》|王《おう》|蜂《ばち》
|横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》
平成13年12月14日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Seishi YOKOMIZO 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『女王蜂』昭和48年10月20日初版発行
平成8年9月25日改版初版発行
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414行
※[#ここに家系図の画像。]
2464行
※[#ここに画像。]