金田一耕助ファイル8
迷路荘の惨劇
[#地から2字上げ]横溝正史
目 次
発 端
第一章 醜聞
第二章 抜け穴から消えた男
第三章 華麗なる殺人
第四章 譲治とタマ子
第五章 フルート問答
第六章 人間文化財
第七章 能面の女
第八章 抜け穴の冒険
第九章 現場不在証明
第十章 浴槽の貴族
第十一章 密室の鍵
第十二章 鬼の岩屋
第十三章 ああ無残
第十四章 密室を開く
第十五章 大崩壊
第十六章 殺人リハーサル
大団円
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登場人物
古館 種人 明治の元老。名琅荘の創始者。
一人 古館種人伯爵の二代目。
加奈子 一人伯の後妻となった美貌の女性。
尾形 静馬 加奈子の遠縁にあたる青年。
糸女 先々代種人伯の妾。名琅荘をとりしきっている老女。
古館 辰人 一人伯の嫡子。先妻のひとり息子。
篠崎 慎吾 実業家。辰人から名琅荘を譲りうけホテル経営に乗りだす。
倭文子 慎吾の妻。辰人と離別した華族の末裔。
陽 子 慎吾の先妻の娘。
速水 譲治 名琅荘の従業員。混血の戦災孤児。
天坊 邦武 元子爵。辰人の生みの母の弟。
柳町 善衛 元子爵。加奈子の実弟。
戸田タマ子 名琅荘の女中。
奥村  弘 慎吾の秘書。
田原警部補 事件の捜査主任。
井川 刑事 静岡県警の古参老刑事。
小山 刑事 富士署の若い刑事。
金田一耕助 雀の巣の頭にくたびれた着物袴。ご存知名探偵。
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発  端
|名《めい》|琅《ろう》|荘《そう》というのは東海道線の富士駅から東北約一里強というところにあり、最初これをつくったのは、明治の権臣|古《ふる》|館《だて》|種《たね》|人《んど》伯爵だということである。
このへんは北に富士山を仰ぎ、南に田子の浦を|臨《のぞ》み、風光|明《めい》|媚《び》なことはいうまでもないが、付近に|歌枕《うたまくら》や史跡の多いところである。旧幕時代はここよりひとつ東の駅にあたる、吉原が|宿場町《しゅくばまち》になっていて、大名の泊まる本陣もそこにあり、街道誌によると江戸ヘ三十四里半とあるから、明治になってからも東京からの交通の便も悪くなかったのであろう。
伝説によると維新東征の際、官軍の一指揮官としてこのあたりを通りすぎた古館種人伯爵、すなわち当時の古館|庫《くら》|之《の》|助《すけ》は、朝夕富士を望むこのあたりの山水をいたく|賞《め》でて、おのれもし功成り、名遂げ、顕職にのぼることあらば、必ずこのあたりに広大なる屋敷を建ててみせんと、はやくから、風光明媚なこの地を|卜《ぼく》していたということである。
後日|位《くらい》人臣をきわめるにおよんで、古館伯爵は初志を貫徹して、ここ何十万坪かの敷地のなかに広大な名琅荘を建てたのだが、この名琅荘の建築様式ほど明治の権臣たちの趣味や|嗜《し》|好《こう》や、また、実質的な要求を端的にしめしている建築物はめずらしいといわれる。
明治の権臣たちのおおくは|卑《ひ》|賤《せん》から身を起こした、いわば成り上がりものである。おそらくかれらは若年のみぎり、当時の支配階級の生活ぶりに、ふかい|羨《せん》|望《ぼう》と|憧《どう》|憬《けい》の念をいだいていたことだろう。幕末から維新の変動期にあたって、おのれもし風雲に乗じて天下になすところあらば、あのような生活をしてみせようと、かねてから野心をみがいていたにちがいない。しかもかれらの|憧《あこが》れていた当時の支配階級といえばおおくは大名である。
だから明治の権臣たちの生活ぶりが、大なり小なり旧大名を模して、いたずらに仰々しさをほこっていたのはいわれなきにあらずなのだが、名琅荘の建築様式にいたっては、それがもっとも端的にあらわれているといわれている。
一例をとってみれば応接間である。
むろん応接間などという|下《げ》|賤《せん》な名称はなく、対面の間というのだが、そこは上段の間と下段の間とにわかれていて、客を引見するとき主人公はその上段の間へ、|出御《しゅつぎょ》あそばしますのである。客はおそらく下段の間で、|平《ひら》|蜘《ぐ》|蛛《も》のごとくヘイツクバッタことだろう。
しかし、かんがえてみると、これもむりではないかもしれない。|位《くらい》人臣をきわめた古館伯爵には、対等もしくは尊敬の礼をもって遇さねばならぬ客は、日本国内にそうたくさんはいなかったことであろう。
ところで、ここに興味のあるのはこの対面の間の構造である。すなわち下段の間の側面には武者かくしがあり、上段の間の背後の床の間の壁は、どんでん返しになっている。武者かくしというのはちょっと押し入れみたいな構造になっていて、そこに忍びの武者をかくしておくのである。そして、客にして異心ありとみてとれば、|躍《おど》りだして取っておさえるいっぽう、主人公は|倉《そう》|皇《こう》として、上段の間の背後にあるどんでん返しより、のがれ出るという寸法になっているのである。
これはおそらく人心の|向《こう》|背《はい》常ならずとみられた、戦国時代以来の建築様式なのだろうが、古館伯爵はただいたずらに、古きを模しておのれに|箔《はく》をつけようとしたのではない。伯爵にはじっさいそれだけの警戒が必要だったのだ。
革命に粛清と暗殺はつきものである。古く鎌倉幕府の例をひくまでもなく、ちかくはソ連の革命が、いやというほどそのようなケースを示してくれた。明治維新もご多分にもれず、古館伯爵もおおくの先輩や同輩が、つぎからつぎへと血の粛清や、|刺《し》|客《かく》の手によって、たおされていくのをみるにおよんで、身辺の警戒は厳重をきわめていた。
名琅荘はそのような必要に応じて設計されたもので、邸内にはいたるところにどんでん返しや抜け穴があるといわれ、庭の植え込みの一本一本にも、忍びこんだ刺客の|狙《そ》|撃《げき》にたいして、死角がつくられるように配慮されている。すなわち主人公の庭のそぞろあるきに際して、どの角度からも望見されないように、たくみに植え込みが|間《ま》|配《くば》られているのである。
この極度の警戒からくる秘密設計のうえに、もうひとつ、この名琅荘の建築様式に、複雑怪奇の趣をそえているものがある。それは古館伯爵がこれまた旧大名を模した漁色生活上、必要かくべからざる建築様式である。
古館伯爵の本邸は品川の御殿山にあった。
旧大名がその奥におおくの女を蓄えていたように、古館伯爵も品川の邸宅にたくさんの女を蓄えていた。伯爵のもっとも盛んなときには、そこに十数名の女があり、その大半にお手がついていたという。それらの女たちは|長局《ながつぼね》に部屋をたまわり、その夜、その夜の伯爵の好きごころの赴くままに、お召し出しに相成ったり、たまにはお成りになったりするのを待ちわびていたものである。これらの長局は|廊《ろう》|下《か》から廊下へとつながっていて、大げさにいえば、ひとつの市街をかたちづくっているようなものである。
富士の|裾《すそ》|野《の》にちかい名琅荘は、品川の本邸ほど大げさではなかったが、それでも日露戦争のあとまもなく、政界から隠退した伯爵は、それ以後名琅荘に住むことが多く、ついにここが|終焉《しゅうえん》の地となったのだが、死ぬまぎわまで数名の|寵姫《ちょうき》をもっていたという伯爵のことだから、名琅荘の|後宮《こうきゅう》もそうとうのものであったようだ。
さて、まえにいったどんでん返しや、抜け穴などというたくさんの秘密設計に、かててくわえてこの長局の構造である。そこで名琅荘はいつのころからか、迷路荘と|訛《なま》ってよばれるようになっていた。
むろんそれは陰口でもあり、悪口でもあるのだが、しかしいまにして思えば、伯爵には先見の明があったというべきである。なぜならば、秘密設計のほうはともかくとして、長局の構造は後年旅館として転身するのに、まことにお|誂《あつら》え向きにできていたからである。
さて、この名琅荘にはひとつの血なまぐさいエピソードがある。そして、そのことがこれからお話ししようとする、金田一耕助の|探《たん》|偵《てい》|譚《たん》に深い関係を持っているので、まずそのことから簡単に記述していくことにしよう。
古館種人伯爵は、まえに述べたような極度の警戒のかいあってか、血の粛清にあうこともなく、また、刺客の手からもぶじにのがれて、明治四十五年、天寿をまっとうして永眠した。明治に栄えたこのひとは、明治の最後の年に世を去ったのである。享年六十八歳。
そして、そのあとをおそうたのが、二代目の|一《かず》|人《んど》伯爵である。
このひとは初代にくらべると凡庸のうつわであった。かれは親の七光りでいろんな職にありついたが、いずれも長つづきはしなかった。それでいて|娑《しゃ》|婆《ば》っけだけはつよく、いろんな事業に手を出しては失敗した。また、ひとにだまされてはかつぎあげられ、そのとばっちりを食らったりした。そのうえ、若いときから|放《ほう》|蕩《とう》がはげしく、浪費家でかつ見え坊であった。
だから、大正年代に入ると、もう品川の家屋敷を維持することができなくなっていた。そこへもってきて、昭和二年の金融恐慌のあおりをくらって破産の一歩手前まで追いやられた。そこで、親類中よってたかって財産整理をしたあげく、一人伯爵の手にのこされたのは、名琅荘だけになってしまった。親類がなぜ名琅荘だけを一人伯の手にのこしたかといえば、ほかの家屋敷が消費専門むきにできているのに、名琅荘はいくらかでも生産むきにできていたからである。
父種人伯爵のとおいおもんぱかりか、それとも革命でも起こったら、そこに閉じこもるつもりだったのか、名琅荘の敷地のなかには水田もゆたかに、それに大きな|蜜《み》|柑《かん》|山《やま》があった。その蜜柑山からあがる収益だけでもそうとうなもので、|贅《ぜい》|沢《たく》さえのぞまなければ、かなりゆたかな生活ができるはずだった。むろんそのほかにも月々銀行から、生活費が支給されるようになっていたが、これではまるで禁治産の宣告をうけたも同様である。
したがって、一人伯にとってはこの処置はすくなからず不平だった。かれは親類たちがよってたかって、じぶんを島流し同様の目にあわせたのだと邪推した。
一人伯は父にならって表面、豪放|磊《らい》|落《らく》をてらっていたが、そのじつ女のように小心な男だった。
一人伯の写真はいまでものこっているが、やせぎすで、細面の、どこか女性的なおもざしのなかに、太い|八《はち》|字《じ》|髭《ひげ》をピーンとおおきくはねあげているのが、|滑《こっ》|稽《けい》なほど不似合いである。いったい、昆虫などでも弱い存在ほど、いかめしい触角を、こけおどかしに振り立てているものだが、一人伯の髭からうける印象がちょうどそれと同様だった。
ことに事業に失敗し、破産のうきめにひんしたり、富士の裾野へおっぱらわれたり、いろいろ不自由なめにあって以来、かれの女々しい性格はいっそう陰性となり、おそろしく邪推ぶかくなり、かつまた、|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》が猛烈につよくなっていた。その邪推と猜疑心がこうじたあげく、昭和五年の秋、一人伯はとうとう、富士の裾野を|震《しん》|撼《かん》させるような大惨劇を演じてしまったのである。
その当時の一人伯の妻、加奈子というのは後妻だった。一人伯の最初の妻は|辰《たつ》|人《んど》という一子をのこして早世したので、一人伯は加奈子を後添いにむかえたのである。再婚だから、初婚の夫婦より年齢のひらきの大きいのは当然かもしれないが、それにしても一人伯夫婦の年齢の差は、世間の口のはにのぼるに十分だった。一人伯は当時五十五歳、妻の加奈子は二十八歳、じつに二十七ちがいの夫婦だった。
おまけに、器量ごのみの一人伯が、周囲の反対をおしきって結婚しただけあって、加奈子はたぐいまれな|美《び》|貌《ぼう》のもちぬしだった。彼女はその日のくらしにも困るような貧乏華族の娘であったが、その美貌を見染められて、一人伯の後妻になったのである。そのとき加奈子は二十一歳。むろん初婚であった。この夫婦の間にもし子供のひとりでもあったら、あのような大惨劇は起こらなかったのではないかといわれている。結婚して七年、みごもらなかったのが彼女の不幸であり、一人伯の不幸でもあった。
それも、一人伯の羽振りのよいうちはまだよかった。かれはおのれの妻を貧窮のどん底から救ってやったのだという、たぶんに恩恵的な気持ちで、この美貌の妻にのぞむことができた。
ところが事業の|蹉《さ》|跌《てつ》やら、金融恐慌の余波やらで、たとえ御殿のようなうちとはいえ、この草深い|田舎《い な か》に起居しなければならなくなって以来というもの、かれはしだいに、この若くして、しかもこのうえもなく美しい妻にたいして、劣等感をいだくようになったらしい。かれはまず、加奈子を冷たい女だと思いはじめた。それから彼女は自分に満足していない、自分を|軽《けい》|蔑《べつ》しているのだと信じはじめた。そして、だからこそ彼女は子供ができないのだときめてしまった。妻が自分を軽蔑していると一人伯が思いはじめたのは、故なきことではなかったのである。加奈子自身夫を軽蔑していたかどうかは不明だけれど、ここにひとり一人伯を猛烈に軽蔑していた人物があった。
それは名琅荘のヌシともいうべき糸女という老婦人である。
糸女はもと先代種人伯爵の|妾《めかけ》だったのだけれど、三十をこえてお|褥《しとね》を辞退すべき年ごろになると、数多い伯爵の妾の世話係に転身していた。彼女は目から鼻へぬけるような利口な女で、一人伯に似て女性的で、陰性で、しかも老来ますます、気むずかしくなる傾向にあった先代種人伯爵のご|機《き》|嫌《げん》をとりむすぶのに、彼女ほど|上手《じょうず》に立ちまわれるものはなかった。ノミといえばツチというか、かゆいところへ手がとどくというか、御前様のご気性のすみからすみまでのみこんでいて、口に出していわれないまえに、さきからさきへと立ちまわって働いた。ことに伯爵の女にたいする好みをよくしっていて、その取り持ちに妙をえていた。それにはさすがの伯爵も、
「糸めにはかなわぬ」
と、いつも苦笑していたそうである。
明治四十五年、伯爵が他界したとき、糸女は四十にちかい年ごろだったが、おおくの妾にお暇が出たなかに、彼女だけは|生涯《しょうがい》御前様をおしのびして、名琅荘のお守りをして暮らしとうございますという願いがとどけられ、そのままそこに住んでいた。
継嗣一人伯も後年そこがおのれの本宅になろうとはゆめにも思わなかったので、別荘番かなにかのつもりで、うっかりそれを差し許したのが後日の悔恨のタネだった。
昭和三年、東京を追われるようにして、一人伯夫婦が名琅荘へうつり住んだとき、糸女はすでに六十歳になんなんとしていたが、奉公人どもから御後室様とよばれて、隠然たる勢力をもっていた。
利口な彼女はけっしてこの不遇な主人にたいして盾つくようなことはなかった。表面はあくまで臣事の礼をとっていた。しかし、一人伯の眼からみればそれはいわゆる|慇《いん》|懃《ぎん》無礼とかんじられ、彼女の一言一動が、一人伯の神経をかきみだすタネにならざるはなしというていたらくだった。
こちらへひきうつってから間もなく、いったいこの家の主権はだれにあるのだろうと、疑わずにはいられないような場面に、一人伯はいっさいならず遭遇した。一人伯はなるほど御前様だった。しかし、この御前様はたんなる床の間の置き物にすぎず、いっさいの|采《さい》|配《はい》は御後室様とよばれる糸女から出るのであった。
御後室様――というこの呼びかたからして一人伯の気にくわなかった。なにが御後室様だ、たんなる父の妾ではないか。父のタネでもうみおとしていればまだしものこと、終生父の|玩《がん》|弄《ろう》|物《ぶつ》、性的玩具にすぎなかった女ではないか。それが御後室様などとは|僭上《せんじょう》の|沙《さ》|汰《た》もはなはだしい。
しかも、さらに一人伯の気にくわぬことは、妻の加奈子がおいおい糸女にまるめこまれていくらしいことである。彼女はいつか糸女のことをおばあ様と呼ぶようになっていた。
「おばあ様などと呼んではいけない。はっきり糸と呼びすてにしなさい」
一人伯がにがりきって命令すると、加奈子は素直に夫のまえでこそ、糸と呼びすてにしていたが、かげにまわるとやはりおばあ様と呼んでいるらしいのが、夫をないがしろにするもほどがあると、いよいよ一人伯の|癇《かん》にさわった。
それにはもうひとつの理由があるのだ。
一人伯はすっかり度忘れしていたのだが、加奈子と結婚してからまもなく、彼女のたのみで彼女の遠縁にあたる、尾形静馬という青年をこの名琅荘に世話してあった。
静馬は果樹園に興味をもち、その実地修業のために数年来ここの農園に働いているのだが、いまでは有数の働きてとして、糸女の一番のお気にいりになっていることを、一人伯はこちらへきてから発見した。静馬は加奈子より三つ四つ年下で、むろんまだ独身だったが、骨組のがっちりとしたよい体格をしており、男振りも悪くなく、ことにアノ方もさぞ強かろうと思わせるような肉づきだった。
ああ、アノ方。……
思えば一人伯の猜疑も邪推も|嫉《しっ》|妬《と》も、万事はそこから出発しているのである。十六の|年《と》|齢《し》に、女中を手ごめにしたという経歴をもつ一人伯のそれからの生涯は、ものすさまじい漁色と|荒《こう》|淫《いん》の歴史だった。それでいて一人伯は、
「死ぬまぎわまで五、六人の妾をもっていたおやじにくらべると、おれなんざ罪のかるいほうだよ」
と、うそぶいていたが、しかし、一人伯はまちがっている。
なるほど、一人伯の父の種人伯爵も、ひとなみはずれた漁色家だったが、かれは若年から壮時へかけて、鍛えに鍛えた体をもっていたのだ。ふところ児としてそだった一人伯が、はじめて女の肌をしり、学業もよそに女|漁《あさ》りをはじめた年ごろには、種人伯爵はまだ女の味もしらずに、武術修業に余念がなかったことだろう。
それはともかく一人伯はこの一、二年、急激にアノ方の欲望におとろえをかんじはじめているのに気がついていた。それは長年の漁色生活のうえに、若く美しい妻をめとって、たぶんにムリを重ねてきた結果も手伝っているのだろう。
慎みぶかい加奈子は色にこそ出さね、夫婦として|同《どう》|衾《きん》する以上、妻の肉体が不満にのたうちまわっていることを、夫としてしらぬはずはない。ことに加奈子はひと一倍、アノ方の欲望の強い体質にうまれついているのだ。
一人伯が妻にたいして劣等感をおぼえ、妻が自分を軽蔑しているときめてかかったのは、すなわちそこに端を発するのである。そこへもってきて、いかにもアノ方の強そうな若い男が、おなじ邸内に起居しているのだ。しかもその男は糸女のお気にいりであり、その糸女を妻の加奈子は、かげではおばあさまと呼んでご機嫌をとっている。糸女は糸女でじぶんをばかにし、鼻を明かすことばかりかんがえている。……と、一人伯はかってにそうきめていたのである。
一人伯はいつか奇妙な幻想をいだきはじめた。
尾形静馬をここへ呼びよせたのも、早晩、自分たちが|落《らく》|魄《はく》して、ここへ住むようになるであろうことを予想したうえ、糸女が画策したのではないか。妻の加奈子がこのさびしい|山《やま》|家《が》|住《ずま》|居《い》に、案外不平もいわずに住んでいるのは、尾形静馬がいるせいではないか。すなわち加奈子は静馬と不義をはたらいており、それは糸女の取りもちである。……
おそらく一人伯は嫉妬にのたうちまわっていたのだろう。それでいて見え坊の一人伯は、そういう気持ちをひとにしられるのを極端に恥じ、表面は|洒《しゃ》|々《しゃ》|落《らく》|々《らく》とふるまっていたので、だれもかれがそのような恐ろしい猜疑になやまされているとは気がつかなかった。だから、抑圧されたその猜疑が、あのような凶暴さで爆発したときには、さすがの糸女も仰天して、つい善後策をあやまり、その結果、いまもってこの事件に|一《いち》|抹《まつ》の疑惑をのこすはめになったのである。
それは昭和五年の秋、十月二十日の夕方のことだった。名琅荘の奥庭の|東屋《あずまや》からとつぜん、ただならぬ怒号と悲鳴がきこえてきた。その怒号をいちばんまぢかに聞いた庭番のじいやが、のちに警官のまえで証言したところによると、
「それはたしかに御前様のお声で、不義者! 不義者! と、二、三度お叫びになったようでございました。それにつづいて、奥様の……たぶん奥様でございましょう。きゃっというような叫びがきこえましたので……」
それはともかく、ただならぬ怒号と悲鳴に奉公人が駆けつけたときには、すでに万事終わったのちだった。そこには加奈子夫人と一人伯が斬り殺されて、おそろしい血だまりのなかに倒れていた。
それだけでも、全身の血を凍らせるような恐ろしい光景だのに、そこにはさらに恐ろしいものがころがっていた。それは肩の付け根からプッツリ斬り落とされた左の腕である。その左の腕がつけている作業衣の|片《かた》|袖《そで》から、それが尾形静馬の片腕であることはあきらかだった。しかし、かんじんの尾形静馬の姿はどこにも発見されなかった。
だが、その場の情景から、つぎのような事情が想像されるのである。
その東屋でたまたま尾形静馬と加奈子夫人が、話をしているところをみた一人伯は、嫉妬の思いにたえかねて、日本刀をふるって斬り込み、一刀のもとに加奈子夫人を斬り殺し、また静馬の左腕をも斬って落としたが、そのとき刀を取りおとすかなにかしたのだろう。それを静馬がひろいあげ、あべこべに一人伯を一刀のもとに斬りおとしたにちがいない。
凶器として使われた日本刀は、のちに東屋のすこし奥の植え込みのなかから発見されたが、それははたして一人伯爵の秘蔵の銘刀だった。
それにしてもかんじんの尾形静馬はどこへいったのか。
問題はそこにあるのだ。
東屋からつづいている血の跡をたどっていくと、それは名琅荘の背後をささえる|崖《がけ》のふもとの、|洞《ほら》|穴《あな》の入り口までつづいていた。この洞穴ばかりは種人伯爵が掘らせたものではなく、天然の|洞《どう》|窟《くつ》で、鬼の岩屋とよばれていた。しかも、いまだその奥底をきわめたものはなく、たぶん富士の人穴までつづいているのだろうというものさえある。富士の人穴は大げさとしても、そうとうふかい洞窟であることはたしかで、ふだんは入り口に|柵《さく》をめぐらせ|注《し》|連《め》|縄《なわ》が張ってあるのだが、その柵がやぶられているところをみると、静馬はこの洞窟のなかへ逃げ込んだのにちがいない。
このときすぐに一同が、この洞窟のなかへ踏み込んでいれば、案外たやすく静馬をとらえることができたかもしれない。なにしろ相手は重傷を負うているのだから。しかし、みんな気味悪がってだれひとりとして鬼の岩屋のなかへ踏み込んでみようというものはなかった。それも無理はないのであって、あの日本刀が植え込みのなかから発見されたのは、それよりよほど後のことだった。だから、その時分にはまだ尾形静馬は、血刀を引っさげているものだとばかり思われていた。これでは、洞窟のなかへ踏み込んでみようという、勇気が出なかったのも無理はない。
おまけにさっきもいったとおり、さすが気丈者の糸女も、この恐ろしい突発事件には動揺したとみえ、すぐに警察にしらせるという才覚が出なかった。そこには家名にたいする考慮もあったのだろう。東京の|親《しん》|戚《せき》たちと電話でいろいろ評議をしたのち、やっと警察へとどけて出たのはその翌日の正午過ぎのことだった。
そこで警察では改めて、警官隊が決死隊を組織して、洞窟のなかへ潜り込んだが、尾形静馬の姿はついに発見できなかったのである。ただこの捜索でわかったところでは、この洞窟の奥には、|冥《めい》|途《ど》の井戸とも、地獄の井戸ともよばれる底しれぬ深い井戸があり、そこから悪いガスが吹き出しているということである。|血《けっ》|痕《こん》はこの井戸のそばまで点々とつづいており、だから、おそらく尾形静馬はその井戸へ身を投じて、自決したのだろうといわれている。
ここに哀れをとどめたのは加奈子夫人で、医師の検視の際、彼女が妊娠三か月の身であることがわかり、これには涙に袖をぬらさぬものはなかった。妻の貞操を疑った一人伯は、はたしてこの事実を知っていただろうか。あるいはそれを知っていて、それをもし静馬のタネと疑ったのではあるまいか。
しかし、およそ加奈子をしるほどの人物なら、あたまから不義うんぬんを否定した。静馬の人柄をしるひとびとも同様だった。
「御前様は気がふれていられたのだ。あんなに気高い、おやさしい奥様が不義などとは……」
と、一人伯の不義者! 不義者! という怒号を聞いたという庭番のじいやは、そういっておんおん泣いたという。
じっさい、また問題の東屋というのが、なるほど庭の奥に位置しており、先代種人伯爵の例の用心ぶかさから、よほどそばまでいかぬと、そこに東屋があることさえわからぬように設計されていたが、さりとて、あまり遠からぬところに庭番のじいやが|鋏《はさみ》を働かせており、時刻もたそがれまえのこととて、不義の男女が忍びあうには、あまりうまい場所とはいえなかった。
さて、この事件の際、一人伯のひとり|息《むす》|子《こ》の辰人はどうしていたのか。かれは品川の本宅が、親戚中の共同管理のもとにおかれ、父と継母が名琅荘へひきうつると同時に、実母の里方、天坊子爵家へひきとられ、そこから学習院の高等科へかよっていた。継母加奈子より七つ年少だったという。
それにしても、尾形静馬はほんとうにあの洞窟の奥で自決したのであろうか。ひょっとするとかれはまだ、どこかに生きているのではなかろうか。ひとの口には戸が立てられぬというが、当時、その地方ではつぎのような風説が、まことしやかに口から口へと伝えられていた。
尾形静馬は死んだのではない。静馬は御後室様の秘蔵っ児だったから、ひそかに御後室様が助け出し、傷の手当てをしたのちに逃がしたのだ。なんでもアメリカがえりのひとが、むこうで片腕のない、尾形静馬にそっくりの男に出会ったということだ。……
さて、以上述べたところがこれからお話ししようとする、金田一耕助探偵譚の前奏曲ともいうべき事件である。
第一章 醜聞
終戦から五年たった昭和二十五年の秋、十月十八日、日曜日の午後二時三十五分。
東海道線の富士駅からふらりと降りたったひとりの男がある。
|年《と》|齢《し》のころは三十五、六、|鼠色《ねずみいろ》のうすよごれた合トンビを左腕にかかえ、右手に粗末なボストン・バッグをぶらさげている。着ているものはかなりくたびれたセルの着物にセルの|袴《はかま》、頭にはくちゃくちゃに形のくずれたお|釜《かま》|帽《ぼう》をのっけている。
その男はあたりを見まわすような眼つきできょろきょろしながら、田舎駅の素朴なプラットフォームから改札口を出ると、そこの売店のまえへ立ちよって、なにかたずねようとしたが、そのとき、小走りにそばへちかよってきて、声をかけたものがある。
「ああ、先生、金田一耕助先生ではありませんか」
金田一耕助がふりかえると、相手はニッカーに|長《なが》|靴《ぐつ》をはき、手にふとい革の|鞭《むち》をもっている。金ボタンのたくさんついた、燃えるような|臙《えん》|脂《じ》|色《いろ》の制服をきちんと着て、頭にのっけたふちなし帽子には、横に金文字で『ホテル名琅荘』と、|刺繍《ししゅう》がしてある。年ごろ二十歳前後の、こういうホテルのボーイなどにはうってつけの、色白の美貌の青年がにこにこしていた。
「ああ、わざわざ迎えにきてくれたの。それはご苦労様……? それで車は……?」
「はあ、むこうにございます」
制服の男にゆびさされて、金田一耕助はおもわず眼を見張った。そこには大きな金の定紋のついた黒塗り|無《む》|蓋《がい》の一頭立ての馬車がとまっていて、その周囲をめずらしそうに野次馬がとりまいている。
「あっはっは、これは驚いた。いまどき馬車とはめずらしいね」
「はあ、このほうがきっと、金田一先生のお気に召すにちがいないとおっしゃって……」
「だれが……? |篠《しの》|崎《ざき》さんが?」
「はあ」
「なるほど、こいつにゃのっけから一本とられた形だね。いかにもあのひとのやりそうなことだ」
荷車に駄馬をくっつけたようなにわか馬車なら、金田一耕助も乗ったことはあるが、このような本物の馬車にのるのははじめてだった。馬も|栗《くり》|毛《げ》の|逸《いち》|物《もつ》である。
「こいつはなんだか晴れがましいね」
金田一耕助が照れくさそうに無蓋の馬車にのると、座席にはふかぶかとした|猩々緋《しょうじょうひ》の|毛《もう》|氈《せん》がしいてあった。美貌の|御《ぎょ》|者《しゃ》が鞭をくれると、馬車はポカポカと小気味のよい|蹄《ひづめ》の音をひびかせながら、ひなびた町を走っていく。
「それにしても篠崎さんも物好きだな。どこからこんな馬車を手にいれたんだろ」
「いえ。これはずうっとせんから、名琅荘にあったものだそうです。なんでも明治時分、伯爵様がお召しになったものを、ちかごろ手をいれて塗りかえましたので……」
「あっはっは。なんだ、明治の遺物か。さりとは篠崎さんも物好きな」
馬車の音をききつけて両側の家のなかから、女や子供がとび出してきて、車上の金田一耕助の異様な姿に眼を見張る。自動車とちがって馬車にのると、またいちだんと偉くなったような気がするが、それにしてもあのひとたちの眼には、自分がなにに見えるだろうと、金田一耕助はくすぐったかった。
「ときに、御者君、ホテル名琅荘はもう開業しているのかね」
「いえ、まだ……来年からとうかがっております」
「それではいまどういうご連中が……奥さんもいらっしゃるの」
「はあ」
篠崎夫人のことについてはあまりいいたくないらしく、御者は低い声で言葉を濁した。
「そのほかにどういうひと? だれかお客さんがいらっしゃるの」
「はあ、お嬢さんもいらっしゃいます。それから古館元伯爵様も……」
「古館元伯爵……?」
と、聞きかえして、金田一耕助はギクリと胸をふるわせた。
古館元伯爵の辰人に、金田一耕助はまだいちども会ったことはないが、あの醜聞事件の起こった際、新聞に大きく写真が出たのでかれも顔をおぼえている。年格好は金田一耕助より三つ四つうえだったが、旧華族のなかでも有名な美貌のもちぬしだった。
古館辰人といえば、金田一耕助がこれから訪問しようとしている、名琅荘のいまの主人、篠崎慎吾のげんざいの妻、|倭《し》|文《ず》|子《こ》夫人にとっては去年まで夫だった人物である。これをもっとはっきりいうと、古館辰人は自分の妻倭文子を戦後の新興財閥、篠崎慎吾に奪われたのだ。いや、奪われたことは奪われたのだけれど、のちにはきっぱり倭文子夫人を篠崎慎吾に譲渡したのだ。売り渡したのである。
この物語を進めていくにあたって、このことはどうしても必要だから、この間の事情をもう少しくわしく説明しておこう。
篠崎慎吾は時代の変動期にまま出現する一種の傑物である。終戦のときかれは陸軍大尉だったということだが、そのかれが最初に産をなしたのは、終戦直後、軍需物資を格安に払い下げを受けたことからはじまるといわれる。いや、終戦のどさくさまぎれに、軍の物資を盗み出したのだという説をなすものもある。
それからのちのかれはとんとん拍子で、雪だるま式に産をふとらせた。その間にはもちろん相当悪どいこともやったろう。法の裏もくぐったにちがいない。しかし、インフレもいちおう終結し、戦後の混乱した世相にも、どうやら目鼻がつきかけた昭和二十五年ごろには、かれはすでに篠崎産業という健全な一流会社をつくりあげていた。
篠崎産業といえば、銀行方面でも絶大な信用があるといわれるのだから、この新興成金は、戦後雨後のタケノコのごとく現れ、たちまちにして消滅していった、そんじょそこらのヤミ屋さんとは、ちょっとちがったところがあったようである。
この新興成金と古館夫妻のむすびつきはこうだったらしい。
古館家も一人伯の横死後、親戚の財産整理が効を奏して、品川の本邸なども嫡子辰人のものになっていたが、それも戦争のためにもとのモクアミになってしまった。もとのモクアミどころか、名琅荘の敷地などもいくつにも分割されて、財産税でとられてしまった。
そして、名琅荘を中心とする八千坪ほどの土地が、さる銀行の抵当流れになっていたのを、昭和二十三年ごろ手に入れたのが篠崎慎吾だった。もちろん欲に目のない慎吾のことだから、行く行くは旅館にでもする|肚《はら》だったが、その当座は週末の静養地として使っていた。
この名琅荘を手に入れたことから、慎吾ともとの持ち主、古館夫妻と接触ができ、何事にも抜け目のない慎吾は、古館夫人倭文子の美貌と肩書に眼をつけた。|公《く》|卿《げ》華族の|末《まつ》|裔《えい》である倭文子は、繊細ですき透るような美人であった。年齢はすでに三十代のなかばを過ぎているはずなのだが、いちども子供をうまなかった彼女は、まだ二十代にしかみえなかった。しかも彼女は才知もあり、機略にもとんだ婦人だった。もっともこれは彼女自身戦後気づいた性格で、そういう性格を引き出し、発揮させたのは篠崎慎吾であったらしい。
由来、アメリカは民主国だが、それだけに、貴族という肩書に少なからず魅力を感じるらしい。これに眼をつけた慎吾は、アメリカのバイヤーの接待や|饗応《きょうおう》に、倭文子を利用することを思いついた。倭文子もよろこんで利用された。およそゴルフよりほかになんの能もないかにみえる夫と面つきあわせて、日に日にちぢまっていく運命に、身のすくむような思いをしているより、そのほうが彼女にとっても、どれほど張りあいがあったかしれない。
それに慎吾は金ばなれがよかった。しぜん彼女はうちを外に出歩く日がおおくなり、慎吾とともにバイヤーたちを案内して、京大阪方面まで旅行することも珍しくなかった。しかも、慎吾は戦争中に|糟《そう》|糠《こう》の妻をうしない、陽子という娘がひとりあるきりで、当時は男やもめだった。
慎吾と倭文子の|噂《うわさ》はしだいに知人のあいだに|喧《けん》|伝《でん》され、それが夫の耳に入らぬはずはなかったのだけれど、辰人は|恬《てん》|然《ぜん》として妻の収入で生活し、また彼女にせびった小遣いで適当に享楽していた。こういう関係が半年ほどつづいたのち、さすが恥しらずの辰人も、いやがおうでも、最後の断をくださねばならぬ羽目に追いこまれてしまった。
ある夜、かれは品川の邸宅(その時分はまだその邸宅のごく一部分が辰人のものになっていた。むろん何重かの抵当にはいっていたけれど)の応接間で、慎吾と自分の妻が抱きあっているのを目撃したのだ。
そのとき、さすがに倭文子はまっさおになり、あわてて裾の乱れをなおしたが、慎吾はゆうゆうとして倭文子の体をはなすと、辰人の面前でズボンをたくしあげ、ボタンをかけたという。
篠崎慎吾という男のひととなりをよくしっているひとたちは、それについてこういっている。
おそらくかれは、いつまでたっても煮え切らぬ辰人の態度に|業《ごう》を煮やして、わざとギリギリのキワどい場面を見せつけたのであろうと。そこで三者談合のすえ、倭文子は正式に辰人と離別し慎吾と結婚した。それには慎吾から辰人へ、目の玉もとび出るほどの莫大な代償が払われたということである。
このスキャンダルが大きく新聞に報道されたのは、去年の九月のことだったが、そのとき、金田一耕助を慎吾に紹介した耕助のパトロン風間俊六という土建屋(「黒猫亭事件」参照)は、小首をかしげてこうつぶやいた。
「篠崎という男は無鉄砲なやつにはちがいないが、他人のかかあに手を出すような男とは思えない」
と、暗に倭文子のほうから水をむけたのではないかという|口《こう》|吻《ふん》だった。
それにしても、その辰人がいま名琅荘へきているとは……? 金田一耕助はなんとなく、不安に面をくもらせずにはいられなかった。
前にもいったとおり、名琅荘は駅から一里強の距離である。馬車だと三十分とはかからない。
いま金田一耕助を乗せた馬車はひなびた町を通りぬけ、小高い丘に建っている名琅荘をすぐ眼のうえに望む、裾野の疎林のほとりを走っていた。名琅荘のすぐむこうには、真っ白に雪をいただいた富士の峰がくっきりと空にうかびあがっている。
金田一耕助はこんなにちかぢかと、富士山を仰いだことはない。晩秋の空は抜けるように晴れていて、その|紺青《こんじょう》の空をバックに、|突《とっ》|兀《こつ》としてそびえ立つ富士の姿は、左右にながく裾をひいて、頂上はすでに雪をかぶっていた。
金田一耕助はその姿のあまりの美しさにしばし見とれて、さっきふっときざした不安の思いを忘れていたが、そのとき、金田一耕助の座っている座席より、一段高くなっている、まえの御者台にいる美貌の御者が、なかばこちらに顔をふりむけながら、
「金田一先生、先生はぼくをお忘れですか」
「え?」
と、どぎもを抜かれたように金田一耕助は視線を富士山からまえの御者台にうつした。美貌の御者はなかば前方を、なかば金田一耕助のほうを見ながらにこにこと笑っている。
「ええと、君はぼくを知ってるの」
「いやだなあ、金田一先生たら。譲治ですよ。ほら、風間先生のところでお世話になってた混血児の譲治ですよ」
「あっ、ああ、あの戦災孤児の……」
「そうです、そうです。風間先生に救っていただいた混血児の戦災孤児でさあ」
「ああ、そうだったのか。これは失敬。|苗字《みょうじ》はたしか|速《はや》|水《み》君だったね」
「おや、先生、こんどはいやに物覚えがいいじゃありませんか。ふっふっふ」
と、譲治はうれしそうに笑って、
「ぼくなんかだアれも苗字でよんでくれるひとはありませんや。譲治、譲治はまだいいほうで、なかにゃジョーというやつもいますよ」
「そりゃ君の愛称だから。……しかし、そうだったの。君、篠崎さんのところにいたの」
「風間先生が篠崎さんに預けてくだすったんです。こちとらどうせ土建業なんかむきませんや。現場はむりだし、と、いって、デスクにむかって帳面付けなんて柄じゃありませんからね」
「なるほど。それで風間から篠崎さんに頼んだんだね。ぼくはちっとも知らなかった」
「篠崎さんがホテルを開業なさるってんで、それじゃこいつにむいた仕事があるんじゃないかって、風間先生が口をきいてくだすったんです」
「なるほど。それでこの仕事どう?」
「先生、ぼくこうみえても東京のTホテルで、一年ほど見習い修業をさせてもらったんですぜ。成績優秀って折り紙がついてるんでさあ」
「そう、それはよかった。じゃ、この仕事に満足してるんだね」
「この仕事、ぼくにむいてると思うんですよ。おやじさんなんかもぼくのことを、ボーイ長になるつもりでやってみろといってくれるんです」
おやじさんというのは篠崎慎吾のことらしい。
「ボーイさんは何人いるの」
「ぼくをいれて四人ですがまだだれも来ていないんです。まもなくやって来るでしょうがね」
「それじゃ譲治君の責任重大ってわけだね。君、いくつになったの」
「かぞえで|二十《は た ち》ですよ」
「そう。そういえばあの時分からみれば、ずいぶんたくましくなったねえ」
「たくましくなったあ……? 先生、ぼくほんとうにたくましくみえますか」
「ああ、見えるとも。人間だれしも年をとると、それだけ|大人《お と な》になるのは当然だが、譲治君の場合、大人になったと同時にたくましくなったよ。だからぼくも見違えちまったんだ」
「先生、ありがとうございます。ぼく、たくましくなったなんていわれたのははじめてです。そうだ、ぼくたくましくならなきゃ……」
譲治はうれしそうに、ヒューッとひと声口笛を鳴らすと、いま金田一耕助からたくましいとほめられた右腕をあげて、馬の|尻《しり》にひと鞭くれた。いままで徐行していた馬車が、そこで急にパカパカ速度をはやめた。
ここでちょっと断っておくが、いま譲治が先生と呼んでいる風間というのは、風間俊六という土建屋である。金田一耕助とは東北地方の旧制中学の同窓で、中学校を出るとふたりとも、東京へ出てきてそれぞれちがった道を歩み、戦前はつかず離れずという仲だったが、昭和二十一年の秋ごろはからずも巡りあって、それいらい金田一耕助が風間俊六の二号さんだか、三号さんだかの経営している大森の山の手にある|割《かっ》|烹《ぽう》旅館、松月というのに居候の|権《ごん》|八《ぱち》をきめこんでいるということは、「黒猫亭事件」のなかで書いておいた。
風間俊六というのはこれまた戦後派の傑物のひとりで、終戦直後はそうとう悪どいこともやったらしいが、いまでは風間土建といえば一流とまではいかないまでも、二流の上くらいの土建会社にのしあがっている。金田一耕助のように特異な脳組織をもっていながら、妙に生活力にとぼしい男にとっては、たのもしいパトロンのひとりだった。
金田一耕助がこれから訪ねていこうとしている篠崎慎吾とは、ヤミ商売をやっていた時代からの盟友らしく、いわばおなじ穴の|狢《むじな》というやつである。
速水譲治は横浜でうまれた日米の混血児である。父はアメリカ人のマドロスだったが、母はべつにいかがわしい|稼業《かぎょう》の女ではなく、ふつうの堅気の娘で、昭和の初年横浜の某デパートへ勤めていた。マドロスが一年ほど横浜に滞在中恋におち、|同《どう》|棲《せい》しているうちに譲治をうんだ。昭和六年のことである。
譲治がうまれるまえにマドロスはアメリカへかえって、二度と日本へやってこなかった。つまりピンカートンと蝶々夫人を地でいったわけで、港町ではよくあるドラマである。
譲治の母は譲治の父と同棲するにおよんで、親から勘当され、親戚中から見放されていたので、譲治は混血児であると同時に私生児でもあった。そこからこの青年の屈辱と迫害の人生がはじまった。
昭和二十年の春、横浜の大空襲で母をうしなった譲治は、よりいっそうの屈辱と迫害に耐えなければならなかった。
昭和二十一年ごろ譲治は宿もなく、職もなく、友人もなく、空腹に悩まされながらヤミ市で、コソ泥なんかやりながら、かろうじて露命をつないでいるところを、風間俊六にめぐりあってひきとられた。なんでも横浜駅で風間の|鞄《かばん》をかっぱらおうとして、逆にとっつかまったのが縁だということである。
金田一耕助がはじめて譲治に会ったのは、松月で世話になるようになってからで、譲治はちょくちょく本宅から、大森の|妾宅《しょうたく》へ風間の使いでやってきていた。
はじめて会ったとき金田一耕助は、その愛らしい美貌におどろいたが、混血児とは気がつかなかった。譲治は父の血より母の血をより多くうけついでうまれたのだろう。色の白いのは父譲りだろうが、きめの細かい|肌《はだ》は日本人のものだった。髪も|瞳《ひとみ》も黒かった。アメリカ人と日本人が混血すると、こういうラテン系みたいな美貌を創造するのかと思ったことがあるが、いま会ってみるとその骨格のたくましさは、やはりアングロ・サクソンのものだろうか。身長も五尺六寸くらいある。
昭和二十一年ごろの譲治は、まだ骨組みもできておらず、|華《きゃ》|奢《しゃ》で、どこか|脆弱《ぜいじゃく》な感じがあり、とくにチラッ、チラッとよく動く瞳が、つねに相手の気色をうかがっており、相手が|拳《こぶし》をふりあげようものなら、すぐにも|尻《し》っ|尾《ぽ》をまいて逃げ出そうという姿勢を示しているようで哀れであった。
その瞳もいまではしっかり落ち着いている。
人間の人格を形成するについて大事なことは、他からあたえられる恩恵だけではなく、他からうける信頼だということを、いまの譲治が示していないだろうか。たかが成り上がりものの土建屋をつかまえて、先生とよぶゆえんのものは、そこにあるのだろうと金田一耕助は考えた。
「ときに譲治君はいつごろからこちらへ来てるんだね」
「はあ、そろそろ三月になります。しかし、先生は風間先生から聞いていらっしゃらなかったんですか。ぼくのことを……」
「ああ、ここんところしばらく風間には会っていないんでね」
「じゃ、どういう……?」
と、いいかけて譲治は急に気がついたように、
「失礼しました。ぼくなんか、お客さんとあんまりなれなれしく話しちゃいけないんです」
|唇《くちびる》をかむような調子だった。
「なあに、いいさ、君とぼくとの仲ならね。あれ、譲治君、どうしたのさ」
馬車はいつか名琅荘とおなじ水平面へのぼっていて、むこうに|宏《こう》|壮《そう》な建築がみえていた。名琅荘の西欧風な建物は、疎林のなかにうかぶ浮城のようにみえ、その背後には|饅頭《まんじゅう》を伏せたような小高い丘が、こんもりと盛りあがっているが、その丘の|麓《ふもと》から名琅荘の周辺へかけて、疎林が一面にひろがっている。譲治が|手《た》|綱《づな》をひきしめたとみえ、馬車はいつか左にまばらな林をのぞむ|径《みち》の途中にとまっていた。
譲治の視線を追って、金田一耕助がそのほうに視線をやると、疎林のなかを駆けぬけていく、ひとりの男の後ろ姿が見えた。黒っぽい洋服をきた男だったが、後ろ姿だから顔は見えない。背中を丸めるようにしているうえに、|蓬《ほう》|々《ほう》と生い茂った雑草に下半身を埋めているので、背の高さなどもわからなかった。
男の姿はすぐに疎林をぬけて、建物の背後に見えなくなったが、その姿がなんとなく、金田一耕助の印象にのこったのは、雑草のなかを駆けぬけていく、男の洋服の左の袖が、妙にヒラヒラしているように思えたからである。まるで風に吹かれるように。……
「どうしたの、譲治君、君、あのひとを知ってるの」
「ああ、いや……」
あとから思えばそのときの譲治の声は、妙に|咽《の》|喉《ど》にひっかかっているようであった。
「誰があんな林のなかを、歩いているのかと思ったものですから……ハーイ!」
と、譲治が声をはりあげて鞭をふるったので、馬車はまたパカパカと歩きはじめ、それからまもなく壮麗な名琅荘の正面玄関に横着けになった。
数段の石段のうえに太い二本の円柱をもった、いかにも明治の遺物らしい、威風堂々たる西欧風の建物だった。
金田一耕助が腕時計をみると、時刻はまさに三時。駅から二十五分かかったわけである。
第二章 抜け穴から消えた男
名琅荘も種人伯爵の時代からみると、だいぶん趣が変わっている。まずあの非生産的な長局がだいぶん縮小されて、それが日本式の客室に改造されていた。金田一耕助が案内されたのは、十畳に八畳のつぎの間つきの豪勢な日本座敷だった。縁側へ出てみるとすぐ|眉《まゆ》のうえに富士山がそびえている。
ボストン・バッグをぶら下げて、客室までついてきた譲治が、五分ほど話しこんだあと引きあげていくのといれちがいに、中年の女中が着替えの|褞袍《ど て ら》と、|浴衣《ゆ か た》をいれた乱れ箱を持ってはいってきた。女中の名はお杉さんという。
「お|風《ふ》|呂《ろ》をお召しなさいまし。旦那様は四時にお眼にかかるといってらっしゃいます」
このホテルでは洋室はボーイが受け持つらしいが、和室は女中が御用をうけたまわることになっているらしい。
「ああ、そう、それはありがたいですな」
金田一耕助は信玄袋のような手さげ袋のなかから、化粧道具をとりだした。
新橋から汽車で約四時間。終戦当時ほどではないが、汽車は相変わらず混んでいた。それに風向きの関係か、|煤《ばい》|煙《えん》をもろにかぶって気持ちが悪かった。朝急いだので髭もろくにそらずにいる。
手さげ袋のなかに手帳がひとつある。手帳のなかに電報が一通はさんであった。ひらいてみると、
「ジ ケンアリ スグ メイロウソウヘオイデ オコウ スヘン シノザ キシンゴ」
居候の権八をきめこんでいる、大森の割烹旅館松月で、金田一耕助がこの電報をうけとったのは、けさの九時ごろのことだった。十時ごろ、やっと風間の居所を突きとめて電話をすると、いってやってほしいとのことだった。ただし、風間にも何事が起こったのかわからなかったし、だいいち、篠崎慎吾が名琅荘へいっていることすら知らなかった。風間にそう頼まれるといやとはいえなかった。すぐに返電をうっておいて、午前十時三十二分新橋駅発の東海道線下り列車にとびのるまでには、かつかつの時間しかなかった。
広いタイル張りの|浴《よく》|槽《そう》のなかに身を浸していると、けだるい|倦《けん》|怠《たい》の気が手脚の|爪《つま》|先《さき》までしみわたる。髭をそるのも|億《おっ》|劫《くう》な気がして、澄みきった温湯のなかにながながと体を伸ばしていると、どこからかフルートの|音《ね》が聞こえてきた。
金田一耕助はおやというふうに浴槽のなかで身を起こした。
そういえばさっきあちらの座敷へ落ち着いたときも、フルートの音らしきものが聞こえたが、遠くはるかにはなれていたし、それにそのときはすぐ鳴りやんだので、べつに気にもとめなかったが、こんどはだいぶんまぢかに聞こえるうえに、長々とつづいているので、金田一耕助はおもわず耳をかたむけた。
曲はドップラーの「ハンガリヤ田園幻想曲」のようである。その音に耳をすましているうちに、金田一耕助はそこが温かな浴槽のなかであるにもかかわらず、思わずゾクリと身をふるわせた。
いったいフルートの音というものは、それがはなやかなメロディーであっても、妙にメランコリックで、哀感を誘うものだが、しかし、金田一耕助が浴槽のなかで身ぶるいしたのは、ただそれだけの理由ではない。
昭和二十二年|椿《つばき》元子爵家に起こった、あの|凄《せい》|惨《さん》な連続殺人事件を思い出したからである。あのときは事件の背後につねにフルートの音が流れていたし、しかも、それが事件の|謎《なぞ》を解く重要なキイになっていることに、最後まで気がつかなかったことに、金田一耕助の悔いはあとあとまで残った(「悪魔が来たりて笛を吹く」参照)。
金田一耕助はけだるそうに浴槽の底に身を沈めたまま、そのフルートの音に耳を傾けていた。フルートの音は洋館のほうから聞こえてくるらしい。
あとでわかったところによると、洋室のほうにはひとつひとつバスとトイレがついているのだが、和室のほうにはそれがなく、いま金田一耕助が身を浸している共同浴場のほかに、内部から|鍵《かぎ》をかけてアベックで入れるような小さな浴場が、適当に間配られているらしい。
いま金田一耕助の身を浸している共同浴場は、日本家屋と洋風建築のちょうど中間にあたっているらしく、さっき座敷にいたときには、遠くはるかに聞こえていたものが、ここへくると急に身ぢかにせまってきたのもそのせいらしい。
あたりは|闃《げき》として静まりかえっている。おりおりけたたましい|鵙《もず》の鳴く音が、あたりの静寂をひきさくばかりで、どこに人間が住んでいるのかと疑われるばかりである。その静寂をつんざいて、あるときは|惻《そく》|々《そく》として嘆くがごとく、あるときは|堰《せき》を切られた奔流の怒り|猛《たけ》り狂うがごとく、聞こえてくるそのフルートの音は、椿元子爵家のあの不倫と背徳にみちみちた事件の思い出がなくとも、たしかに一種異様な|音《ね》|色《いろ》をおびているように思われる。
それにしても……と、金田一耕助はひろい浴槽に身を浸したまま考える。あのフルートの奏者はいったいだれなのか。このホテルはまだ開業していないはずなのだ。したがっていまこの建物のなかにいるのは、建物の持ち主篠崎慎吾とその近親者か、従業員しかいないはずである。従業員のなかにあのように巧妙に、フルートを奏しうる人間がいようとは思われない。いま金田一耕助が耳を傾けているフルートの奏者はあきらかにプロである。
金田一耕助はふとさっき聞いた速水譲治の言葉を思い出した。古館元伯爵もきていらっしゃると。しかし、古館元伯爵の辰人という人物が、フルートをよくするとは聞いていなかったが。……
フルートの音はそうとう長くつづいていた。わりに緩やかなテンポをえがいていたメロディーが、とつぜんまた、急速にたかまりいく怒気と|怨《おん》|念《ねん》をたたきつけるように、はげしい旋律を刻んだかと思うと、フーッとそのまま消えてしまって、あとは|黄《たそ》|昏《がれ》どきの高原の闃とした静寂である。
金田一耕助は浴槽のなかでおなじ姿勢をたもったまま、その静けさの中からなにかを探り出そうとするかのように、しばらく耳をすましていた。しかし、人の気配はどこにもなかった。
金田一耕助はもういちど湯舟のなかで、ぶるッと身ぶるいをしたが、すぐ首を左右にふって、自分で自分にいってきかせるようにつぶやいた。
なんでもないんだ。なんにもありゃアしないんだ。だいいち自分はきょうここで、何事が起こったのか、いや、何事が起こりつつあるのか、それすら知っちゃいないじゃないか。それにさっきの譲治の態度や顔色からすると、まだなにも起こったようでもない。しかし、と、すると篠崎慎吾のいう事件とはなにごとだろう。
金田一耕助はもういちど頭を左右にふって、大きく浴槽の表面を波立たせながら、タイル張りの洗い場へ出た。そして古ぼけた安全カミソリで、薄い、まばらな髭をそりはじめた。浴場を出ようとするとき、またフルートの音が聞こえてきた。
脱衣場にはお杉さんの持ってきてくれた、|粗《あら》い模様の浴衣と、まだ真新しい褞袍がそろえておいてあったが、金田一耕助はわざとそれを避けて、くたびれたセルの着物によれよれの袴を身につけ、もとの座敷へかえってしずかに|煙草《た ば こ》をくゆらせているところへ、お杉さんが迎えにきた。
「旦那様がお眼にかかるそうでございます」
「ああ、そう」
腕時計をはめながら文字盤に眼をやると、きっちり四時だった。
ひとりでおっぽり出されたら、路に迷いそうな廊下から廊下へと、女中の案内についていくと、やがて女中がお入側に手をつかえた。お入側というのは縁側のもうひとつ内側についている、畳敷きの廊下のことである。
「あの、お客様をご案内いたしましたが……」
「ああ、そう、金田一先生、さあ、どうぞ、どうぞ」
と、なかからずっしりと重みのある、幅のひろい男の声が弾んできこえた。
「いやあ、どうも……お招きにあずかりまして……」
と、金田一耕助は一歩|襖《ふすま》のなかへ踏みこんだせつな、思わず大きく眼を見張った。
そこはこの邸内にいくつかある対面の間のひとつだった。まえにもいったとおり、上段の間と下段の間とにわかれており、どの間も二十畳敷きばかり。そして、その上段の間の床の間を背におうて、篠崎慎吾が|脇息《きょうそく》にもたれ、ゆったりと洋酒のグラスをあげている。
「あっはっは、金田一先生、どうです。わたしもこうしていると、ちょっとした殿様でしょうが」
慎吾は節くれだった大きなてのひらに、小さなグラスをまるめこむように握ったまま、|眼《め》|尻《じり》に|皺《しわ》をたたえてわらっている。
大きな岩のかたまりといったようなかんじの男で、金田一耕助のようなやぼな男には見当もつかぬ凝った着物を着ているのはよいが、胸がはだけて濃い胸毛がむしゃむしゃとのぞいているのは行儀がわるい。|腕《わん》|白《ぱく》小僧のようにラフで、野性まるだしの男である。年齢は四十五、六だろう。事業欲にもえている男盛りの精力が、ギラギラするほど肌にも胸毛にも浮いている。さっきから飲んでいるのか、白眼に赤い血の筋が走っていた。
「いや、どうも、なにしろたいしたお屋敷ですな」
金田一耕助が座るところに困ったようにあたりを見まわしていると、
「金田一先生、どうぞこちらへ」
と、慎吾のうしろにちんまりひかえた老婆が、年齢に似合わぬ若々しい声で、慎吾のまえの|座《ざ》|蒲《ぶ》|団《とん》をゆびさした。
慎吾のすぐそばには倭文子がひかえているが、彼女はちょっと頭をさげただけで口もきかない。つめたく取りすましているところがこの女の身上なのである。
「なあるほど」
と、金田一耕助も上段の間に座って、下段の間を見おろしながら、
「昔はここから、近う近うなどとやったもんでしょうな」
「あっはっは、このひとなどはそれをやられた口なんですよ。御前様にはまずまずいらせられましょうなあんてね。お糸さん、そうなんだろう」
金田一耕助がふしぎそうに老婆を見返ると、慎吾も気がついたように、
「ああ、金田一先生はご存じなかったかな。このひと初代伯爵、つまり明治の元老だったひとですね。そのひとのご愛妾だったひとで、いってみれば生ける文化財みたいな存在ですな。この、名琅荘にとっちゃヌシみたいなひとです」
老婆は|巾着《きんちゃく》のような口をすぼめて、ほ、ほ、ほとひくくわらった。
いったい糸女はいくつになるのだろうか。指折りかぞえてみればもうかれこれ八十ちかい年ごろだが、柳に雪折れなしというのか、骨の細い華奢な体質ながら、|色《いろ》|艶《つや》もよく、いまだに昔日の|婀《あ》|娜《だ》たる面影をとどめている。着物の着こなしにも、種人伯爵の寵姫だった昔がしのばれた。
ただし切り髪にした頭髪はさすがに真っ白で、まえかがみに、ちんまり座っているところは、両の|掌《てのひら》にでも乗りそうな感じで、床の間の置き物のような小作りな老婆である。
「金田一先生はたしか倭文子はご存じでしたな」
「はあ、奥さんにはせんにいちど、お眼にかかったことがありましたね」
「はあ」
と、倭文子はまぶしそうな眼でちらッとわらうと、ほんのりと|頬《ほお》を染めて瞳を他に転じた。倭文子としてはその当時のことには、触れてもらいたくないというのが本音であろう。
金田一耕助がせんにといったのは、このひとがまだ篠崎慎吾の片腕となって、アメリカ人のバイヤーたちの接待係として、腕をふるっていた時代のことである。当時はまだ元伯爵の古館辰人夫人だったが、いまから思えば、その時分すでに慎吾と関係があったのだろう。いずれにしても、いつ見ても美しいと感心せずにはいられない。
公卿華族の血をひいている倭文子は、一見ほっそりとしてたおやかで、まるで繊細な美術工芸品を見るような美しさである。とても慎吾のような野性的な男の抱擁に、耐えられそうにもない感じだが、こういう女にかぎって、絡みつく|蔓《つる》|草《くさ》のような、粘っこい|強靭《きょうじん》さをもっているのかもしれないと、金田一耕助は失礼なことを考える。
このまえ会ったときは洋装だったが、いまは|結城紬《ゆうきつむぎ》の着物がよく似合う女である。とにかく京女特有の負けて勝つという、順応性にとんだ|芯《しん》の強さが、一本通っているというタイプの女なのである。
「いま来たばかりですが、このへんじつに|景《け》|色《しき》のよいところですねえ。ぼく富士山をこんなにまぢかに見たのははじめてですよ」
金田一耕助がお世辞をいうと、
「そりゃなんといっても、古館種人閣下がお気に召して、これだけの別荘をおつくりになった場所ですからね。それにきょうは天気がよくってよござんしたね」
「たしか平家の軍勢が水鳥の羽音におどろいて、敗走したというのはこの近所じゃなかったですか」
「ああ、富士沼でございますか。あれはもう少し西になりますが、沼といってもいまはもう形ばかりになってるんでございますよ」
糸女は巾着のような口をすぼめて説明すると、にこにこ笑いながら、
「金田一先生は歴史に興味をお持ちでいらっしゃいますか」
「いやあ、そ、そういうわけでもないんですが、ちょ、ちょっと思い出したもんですから」
金田一耕助はわれながら、柄にもないことを言いだしたものだと大いにてれて、てれるとこの男のくせで、どもって、口ごもりながら、五本の指でモジャモジャ頭を、めったやたらとかきまわす。かねてから金田一耕助のこのくせを知っているとみえて、倭文子はまあというふうに眼もとでわらっている。いや、メイ探偵と名のつく男のやることではない。
「このへんは史跡や歌枕の多いところでしてな。それもわたしがこの別荘に眼をつけたゆえんなんですが……金田一先生は馬車でいらしたわけですが、馬車で駅からここまで何分かかりましたか」
「そうそう、お礼があとになって失礼しました。あの馬車には驚きましたな。正式の馬車に乗るのははじめてですが、いや、もう、晴れがましいような、てれくさいような……時間を計ってみたんですが、ちょうど二十五分かかりましたよ」
「すると、自動車だとその半分でこれますな」
「東京からの交通の便もいいようですね」
「いまに汽車の時間ももっと短縮されましょうからね。わたしゃこの近所にゴルフ場でも作ってみようかと思ってるんですよ」
「ああ、それで……」
金田一耕助は事業のことなどいっこうわからぬ男だが、それでも好奇心も手伝って、
「いまこのお屋敷、部屋数はいくつくらい……?」
「いまのところ大したことはありません。洋間が十、和室が八つくらい、当分はまあ道楽半分ですが、いずれ拡張するときにゃ、風間君にもひとくち乗ってもらわにゃと思うとるんですが……」
「そりゃあいつのことだから喜んで乗るでしょう。ときに、いまお客さんがいらっしゃるようですが……」
「ああ、三人ほどね」
と、篠崎慎吾はさりげなく、
「じつはこの家もいよいよ近く、営業を開始することになったので、そのまえにこの家と|由縁《ゆ か り》の深いかたがたに集まっていただき、ひとつ|名《な》|残《ご》りを惜しんでいただこうというわけですね。それからもうひとつ、打ち合わせしたいことがあるんです」
「由縁の深いかたがたとおっしゃいますと……?」
「つまりこの家のもとの持ち主、古館家のご親戚のかたがた……と、いってもたくさんじゃありません。辰人さんに辰人さんの母方の|叔《お》|父《じ》さんにあたる|天《てん》|坊《ぼう》さん、つまり辰人さんのうみのお母さんの弟さんに当たるひとで、元子爵だったかたですね。それからもうひとり辰人さんの|生《な》さぬ仲の母だったひとの弟さんで、|柳町善衛《やなぎまちよしえ》さん、やっぱり元子爵さんですな。金田一先生、わたしもこのひとと結婚したおかげで、いろいろとおつきあいができましてな」
慎吾は大きな掌で、つるりと顔をなであげると、目玉をくりくりさせながらにやっとわらった。そんなことを平気でいう男とは思えないが、さりとて、皮肉や当てこすりらしい、いやな響きのないのはさすがであった。
倭文子はあいかわらずつめたく取りすましている。金田一耕助はその顔からふとお能の面の|小面《こおもて》というのを思い出していた。美しく取りすましたなかに、どこか皮肉な微笑を底にひめている。……
糸女はきょとんとした顔で、そのふたりを見くらべている。人間もこれくらい|年《と》|齢《し》をとると、どこか|妖《よう》|怪《かい》|味《み》をおびていて、なかなか心の奥底をのぞかせないものらしい。
金田一耕助はギコチなく、咽喉にからまる|痰《たん》をふっきるような音をさせながら、
「ときにさっきどなたかこのお屋敷のなかで、フルートを吹いていらしたようですが……」
「ああ、それなら柳町さんでしょう。辰人さんの義理のお母さんの弟さんにあたるかた……柳町善衛さんといって、フルート奏者としてはそうとう有名だそうですが、金田一先生はご存じじゃございませんか」
「さあ、いっこうに……」
金田一耕助はゆっくりと、頭のうえの|雀《すずめ》の巣をかきまわしながら、たゆとうように答えた。
「悪魔が来たりて笛を吹く」の事件の主人公、椿|英《えい》|輔《すけ》元子爵もフルート奏者であった。こんなことはもちろん暗合であろう。しかし、斜陽といわれる元貴族のなかに、音楽の愛好者が多いということは、必ずしも偶然とはいえないかもしれない。
金田一耕助はそのとき漠然とそんなことを考えていたが、あとから思えば金田一耕助があのとき、フルートの音をきいたということが、それからまもなく発見された、世にも変てこな殺人事件の犯人をしぼっていくうえにおいて、ひとつの重要な決め手となったのである。
「ところで……と、わたしに御用とおっしゃるのは……?」
金田一耕助がやっと核心にふれると、
「さあ、そのことですがな」
篠崎慎吾も待っていたように上体をのりだし、
「ここにちょっと妙なことが起こりましてね、お糸さんが気味悪がって、むやみに気をもむもんですから、朝っぱらから失礼だとは思ったのですが、電報を差し上げたようなわけで……」
「電報にあった事件というのは、その妙なことというやつですか」
「そういうことですね」
「さっそくですが、その妙なことというのを聞かせていただきましょうか」
「承知しました」
慎吾は|手酌《てじゃく》でペロリとひと息に洋酒をあおると、
「金田一先生、あなたは……?」
「いや、ぼくはもう結構です」
金田一耕助のまえには、さっき倭文子がついでくれた|黄《こ》|金《がね》|色《いろ》の液体が、まだグラスに半分以上ものこっている。
「ああ、そう」
と、慎吾は無器用な手つきで、自分のグラスに置きつぎをしながら、
「わたしたちがここへ集まるということは、一週間ほどまえからわかっていたんです。きのうの土曜日からゆっくりここで週末を楽しもうというわけですな。ところがここに妙なことが起こったというのは、一昨日、すなわち金曜日の朝方、このひと……ここにいるお糸さんに東京のわたしから、電話がかかってきたそうです」
「そうですとおっしゃるのは、あなたに|憶《おぼ》えがないんですか」
「そうです、そうです。だれかがわたしの名前をかたったんですな。ところがその内容というのが……」
「ああ、ちょっと」
と、金田一耕助がさえぎって、
「そうするとお糸さんはひと足さき、つまり、金曜日にはもうここへきていられたんですか」
慎吾はちょっと|唖《あ》|然《ぜん》とした顔色で、金田一耕助の顔を見直したが、かるく頭をさげると、
「いや、これは失礼しました。言葉が足らんで……。それじゃ、このひとのことからお話ししましょう。このひとはここの家つき娘なんです。わたしゃこのひとぐるみこの家を買ったんですよ」
と、慎吾は眼尻に皺をたたえてわらっている。糸女は品のいい顔をほんのり染めると、
「あたし、ここを追い出されると、どこにもいく所がございませんの。それで旦那様にお願い申し上げて身ぐるみ買っていただきましたの。なんのお役にも立たぬこんな厄介ばばあをね。ほ、ほ、ほ」
と、巾着のような口をすぼめて低くわらう。さすがの金田一耕助も、これには思わず眼を見張って倭文子を見たが、倭文子はあいかわらずつめたく取りすましている。
「いや、ところがこのばあさん……いや、失礼、お糸さん、これでこの家にとってはなくてはかなわぬひとなんですね。と、いうのは、金田一先生、あなた、この家のことをお聞きじゃありませんか。いろいろ、からくりがあるってこと」
「はあ、その話なら風間に聞きましたよ。どんでん返しや、抜け穴がたくさんあるって話でしたが……」
「そうです、そうです。ところがそういう仕掛けのうち、わからなくなってる部分がそうとうあるんですね。最初これを建てた種人閣下は、家ができると設計図を焼きすててしまった。そして、そういう仕掛けを隅から隅までしっているのは閣下のほかにはこのひとしかいなかったそうです。だから、先代の一人伯爵の時代で、もうだいぶんわからなくなってたそうです。いわんや、いまの辰人さんなんか、長くこの家を所持しながら、どこにどういう仕掛けがあるのかほとんどしっていらっしゃらない。なにしろ、このひと口がかたくて、だれにも教えないものですからね」
「だって、旦那様、それが、あたしの財産でござんすもの。……ほ、ほ、ほ」
金田一耕助はさっきから気がついているのだが、慎吾に話しかけるとき糸女はとても色っぽくなり、小娘のように頬をあからめたりする。そのたび倭文子の繊細な表情がつめたく取りすました。
「そうそう、だからね、金田一先生、わたしゃこのひとを飼いごろしにして、おいおい泥を吐かせるつもりなんですがね。いや、まあ、冗談はさておいて、このホテルの経営なども、さしあたりこのひとに頼むことにしてるんです。なんしろ、このとおり元気なばあさんですからな」
「なるほど、それで金曜日の朝、電話がかってきたというのは……?」
「いや、どうも失礼しました。話が横道へそれちまって……。それはこうです。わたしの名前できょうの夕方、真野信也というお客さんがいらっしゃるから、ダリヤの間へお通しして、ていねいにお取り扱いするようにって、そういってきたというんですね」
「なるほど。それでお糸さん、その電話の声を篠崎さんとちがうとは……」
「いえ、ところがなんしろ東京とこちらでござんすでしょう。電話がとおくて……」
「なるほど、それで、その真野信也という人物は、金曜日の夕方やってきたんですか」
「ええ、それがやってきたんです。倭文子、ちょっとその名刺を……」
倭文子が床の間からとりあげて、無言のまま金田一耕助にわたしたのは、いくつかの肩書きをならべた篠崎慎吾の名刺だったが、その余白に、
「さきほど電話した真野信也氏をご紹介申し上げ候。なにぶんよろしく。糸どの」
と、太い万年筆の走り書きで書いてある。金田一耕助も慎吾の筆跡をしっているが、それはかなり似ているようでもあり、また、ちがっているようなところもあった。
「むろん、あなたはご存じないんですね」
「存じません」
「それで、真野信也というひとがなにか……」
「いや、ちょっと待ってください。そのまえにぜひ聞いておいていただかねばならんことがあるんですが、あなたは昭和五年にこの家で、血みどろの大惨劇があったのを、お聞きになってはいらっしゃいませんか」
金田一耕助はギクリとして慎吾の顔を見直した。慎吾はだまって耕助の顔を見返している。ちょっとした沈黙のなかに、倭文子がかすかに身ぶるいをするのが感じられた。
「聞いてらっしゃるんですね」
「はあ。あなたがこの名琅荘をお買いになったじぶん、風間から聞きました。そのころ図書館へいって、当時の新聞もひっくりかえしてみましたよ。余計なことかもしれませんが、ちょっと興味をかんじたものですからね」
慎吾はちらと糸女と眼を見かわせたのち、
「いや、余計なことどころか、それをしっていていただけると、たいへん話がしやすいんですが、それじゃ、あなたはあの事件の際、人間ひとり消えてしまったということをご存じですね」
「はあ、しってます。左腕を斬りおとされた尾形静馬という人物ですね。だけど、あのひとは鬼の岩屋とやらいう洞窟のおくの古井戸のなかへ投身して……」
「いや」
と、慎吾はするどくさえぎって、
「ところが、あの古井戸はのちに……辰人さんの代になって、いちど底のほうまでさらってみたことがあるそうです。しかし、そこには人間の遺体らしいものは、なにひとつなかった。そのことはここにいるお糸さんはいうまでもなく、倭文子などもよくしってるんです。倭文子と結婚してからのちのことだったそうですからね」
倭文子はこわばった顔をして機械的にうなずいた。
「すると、尾形静馬氏はあのとき死ななかった。まだ生きているとおっしゃるんですか」
「いや、それはあなたのご判断におまかせするとして、金曜日の夕方のことをお話ししましょう。真野信也という人物がここへやってきたとき、お糸さんが玄関ヘ出ればよかったんです。ところがお糸さんにかわって、タマ子というわかい女中が出て、この名刺をお糸さんに取りついだ。そこでお糸さんはダリヤの間へご案内するようにとタマ子に命じた。お断りしておきますが、西洋の草花の名のついているのは洋館なんです。さて、しばらくしてお糸さんがダリヤの間へご|挨《あい》|拶《さつ》にあがると、ドアには中から鍵がかかっていて、いくらノックをしても返事がない。それではどっか散歩にでもでられたんだろうと、そのときは気にもとめなかったが、夕食時分になってもなんの|音《おと》|沙《さ》|汰《た》もない。しかも、だれもその人物をこの家のなかで見かけたものはない。そこでお糸さんが不安をかんじて、合鍵でドアをあけると、なかはもぬけのからで、鍵だけがマントルピースのうえにおいてあったそうです」
慎吾がプッツリ言葉をきると、しいんとした沈黙が一同のうえに落ちてきた。
どこか遠くのほうで鵙の鳴く声が、いっそうこの沈黙の味のふかさを際立たせる。金田一耕助はやっと咽喉にからまる痰をふっきると、
「お糸さん、その部屋にはたしかに鍵がかかっていたんですね」
「はあ、かかっておりました」
「窓は……?」
「窓も全部なかから掛け金がしてござんしたの」
「すると、その部屋にもしや抜け穴が……?」
「そうです、そうです。金田一先生、ダリヤの間に抜け穴があることはわたしもしっていたんです。倭文子におしえられて、おもしろ半分抜けてみたこともあるんです。だから真野信也なる人物が、ダリヤの間から消失したということ、そのこと自体はべつに神秘でもなんでもない。ただ、問題は真野信也とは何者か、どうしてその抜け穴をしっていたか。……」
「いったい、それはどういう|風《ふう》|態《てい》の人物……?」
「さあ、それなんです。お糸さんは女中たちを怖がらせちゃあと思ったもんだから、さりげなく、急に用事でも思いつかれて、外出されたんだろうと取りつくろっておいたそうですが、タマ子の話によると、真野信也なる人物、肩の付け根から左の腕がなかったそうです」
金田一耕助はそのとき、さっき馬車のなかから遠望した、雑木林のなかの男のうしろ姿を、はっきり|脳《のう》|裡《り》に思いうかべていた。あの男の洋服の左の袖も、妙にヒラヒラしていたではないか。
「タマ子が名刺を取りついだとき、たったひとこと、左腕のないお客さんだといってくれるとよござんしたんですけれど……」
と、糸女がくやむように、巾着のような口をもぐもぐさせる。
「それで、その男の人品骨柄は……?」
「それがタマ子にもはっきりいえないんですね。ただ、大きな|黒《くろ》|眼鏡《め が ね》をかけ、感冒よけのマスクをかけていたこと。黒い背広を着ていたこと。右手にスプリングをかかえ、スーツ・ケースをぶらさげていたこと。黒い鳥打ち帽をかぶっていたこと。口はほとんどきかず、|年《と》|齢《し》格好もわからなかったということ。……」
「それで、スプリングやスーツ・ケースは?」
「それがなんにものこっておりませんの。いったい、なんのためにやってきたのか、ひょっとすると、まだこの家の中に隠れているのではないかと思うと、なんだか気味がわるうござんして……」
「尾形静馬という人物は、生きていればことしいくつ……?」
「かぞえ年でちょうど四十五になるそうです。ねえ、金田一先生、辰人君が井戸をさらって、そこに人間の遺体らしいものが、なにひとつないとわかっていらい、古館家にとって片腕の男はひとつの悪夢になっているようです。いつかそいつがかえってくるのじゃないか、血みどろの白刃をふるって、いつか躍りこんでくるのじゃないかと。……」
金田一耕助はあきれたような顔色で、慎吾と糸女の顔を見くらべながら、
「しかし、だれがそんなことを怖れてるんですか。古館家のひとびとのなかで……」
「それはやっぱり辰人さんでございますわねえ。あのひと、それが気になるもんですけん、井戸の底をさらってみたりなさいましたの。そして、そこに人間の名残りらしいものがなんにもないとわかっていらい、あのひと、いつもそれを苦に病んでおいでなさいます」
倭文子のほうに気をかねながら、糸女は沈んだ調子でしんみりという。
「しかし、お糸さん……ああ、いや、お糸さんとお呼びしてよろしいですか」
「ええ、ええ、そうお呼びになってくださいよ。あたしはこの旦那様に、身ぐるみ買っていただいた女でございますけんなあ。ほ、ほ、ほ」
と、糸女は巾着の口のような唇をほころばせた。
「それじゃ、お糸さんにおたずねしますが、辰人さんはなんだって、尾形静馬なる人物を怖れなければならないんです。なるほど、尾形静馬なる人物は一人伯爵から不義の汚名をきせられて、左腕を斬り落とされた。しかし、その返報として、もののみごとに一人伯爵を斬り殺しているじゃありませんか。なにもその伯爵の遺族のかたがた、たとえ継嗣とはいえ辰人さんになんの|怨《うら》みもないはずだと思いますがねえ」
もっともな金田一耕助の意見だったが、だれもそれにたいして答えるものはなかった。金田一耕助は妙にだまりこくった三人の顔を順繰りにみていたが、
「奥さん、あなた、その点についてどうお考えですか」
と、だしぬけに名前をさされて、倭文子ははっと冷たい顔に動揺の色をうかべて、
「はあ、……それはやっぱり……あのひと、根が神経質にうまれついておいでなさいますから……」
「それに、金田一先生」
と、慎吾がこの美しい妻をかばうように、いわおのような|膝《ひざ》をゆすりだして、
「一家の中に、そういう血なまぐさいエピソードが過去にあったとすると、遺族のひとたちにとっちゃ、長く悪夢となって尾をひくのは、当然じゃないですか。理屈を超越して……」
「なるほど、なるほど、そういえばそんなもんでしょうなあ」
と、金田一耕助はわかったような、わからぬような顔色で、まじまじと三人の顔を見くらべていたが、そのとき、慎吾がいちだんと語気を強めて、
「ところがねえ、金田一先生、ちかくあのとき横死した一人伯爵や加奈子さん、すなわち、辰人さんにとっては実父と継母の二十一回忌がめぐってくるんですよ。明後二十日がその日に当たっているんです。その法要についての打ち合わせもと思っているやさきですから、このばあさんが気にするのもむりはないんです」
と、そういう慎吾の言葉のなかには、なにかしら血のしたたるようなひびきがあるので、一同ははっとしてかれの顔を見なおした。とりわけ夫の顔をぬすみ見る倭文子のおもてを、一瞬かすめた恐怖の影が、金田一耕助にとっては印象的だった。
当然、そこに重っくるしい沈黙が、一同のあいだにしいんと落ちこんできたが、静まりかえったこの広い屋敷のどこからか、ふたたび三たび悲鳴のようなものが聞こえてきたのはそのときである。それがだんだんちかくなるので、一同がおもわず顔を見合わせていると、やがて、その悲鳴はバタバタとお入側をふむ足音となり、
「パパ!……パパ!……」
と、若い娘の金切り声となって近づいてきた。
「あら、あれ、陽子お嬢さまじゃございませんか」
と、糸女が叫び、場合が場合だけに一同がギクッと腰を浮かしかけたところへ、
「パパ!」
と、ころげるように入ってきたのは、はたして慎吾の先妻の娘陽子である。スポーティな洋装がこの場の空気をパッと明るくした。しかし、なにに|怯《おび》えたのかその陽子は、恐怖に顔面を硬直させている。
「陽子、どうしたんだ。なにをそんなに仰々しい……」
「だって、パパ! 人殺しよ、人が殺されてるのよう。早くきてえ」
「ひ、人殺しだって……?」
「そうよ、そうよ、人が殺されてるのよう」
「殺されてるって、いったいだれが……?」
「古館のおじさまよ。古館のおじさまが殺されてるのよう!」
慎吾は唖然とした顔色でがっくり|顎《あご》がさがったが、その|刹《せつ》|那《な》さぐるように夫の顔をふりかえった倭文子の視線が、ふたたびひどく印象的だったのを、金田一耕助は長く忘れることができなかった。
時刻はちょうど四時二十分。
第三章 華麗なる殺人
この古館辰人元伯爵の殺害事件には、いろいろ妙なところがあって、警察当局ではいまもって、事件の真相をしっていないのである。それをしっているのは金田一耕助のほか、ごく少数の人物だけしかいないのだが、そのことについてはおいおい筆をすすめていくとして、ここでは表面にあらわれた事実だけを、順次拾っていくことにしよう。
そこは名琅荘の本建築からいったん|内《うち》|塀《べい》を外へ出て、そうとういったところにある大きなスレートぶきの倉庫のなかだった。この倉庫は内塀からはそうとう遠くはなれているが、外塀のすぐ内側になっていた。種人伯爵のふかい|慮《おもんばか》りか、それともこの目ざわりな建物をかくすためか、あたり一面生い茂った|樅《もみ》の林に目隠しされていて、その倉庫などもすぐそばまで近寄らなければ、その存在さえ気がつかないように心が配られていた。
昔は|蜜《み》|柑《かん》を貯蔵するために使用されていた倉庫なのである。蜜柑山のほうは戦後名琅荘ときりはなして、財産税として物納してしまったが、倉庫のうちのひとつだけが、地所の関係で、名琅荘の敷地の|隅《すみ》っこにのこった。
したがって、倉庫のなかにはいまなんの貯蔵品もなく隅っこのほうに山と積まれたガラクタ道具や、昔のなごりの蜜柑の古箱や、|堆《うずたか》く盛りあがったロープの束や、大きな台秤のほかに、この倉庫をもうひとつ印象づけているのは、高いところに太い鉄骨が縦横に渡してあり、その鉄骨のひとつから、大きな滑車がぶらさがっているのも、ここがかつて、蜜柑の貯蔵庫だったことを物語っているのであろう。
さて、がらんとして、いたずらにだだっ広いこの倉庫の中に、あたりに不似合いなものがひとつ鎮座ましましている。金田一耕助がさっき運ばれてきた黒塗り無蓋の馬車である。
馬車は倉庫の入り口にむかってすこし左側に、入り口と平行におかれているが、馬は|頸《くび》|木《き》から外されてそこには見えなかった。したがって一段高くなっている、御者台の下の車の|轅《ながえ》はむかって右側のほうに突き出しており、その轅のしたの床のうえになにやら妙なものがころがっている。マドロス・パイプのようである。マドロス・パイプはまっぷたつに折れていた。
さてむかって左側に、さっき金田一耕助の乗ってきた馬車の座席があるのだが、猩々緋の毛氈をしいたその座席には、いまひとりの男が端然として座っている。
その男はむかって右のほうを正視しているので、倉庫の入り口からみると右の横顔しか見えないのだが、なにに怯えたのかその横顔は、恐ろしいほどひんまがっている。|眼《がん》|窩《か》からいまにもとび出しそうなほど、大きく見開かれたその目玉は、眼のまえにある|得《え》|体《たい》のしれぬ何物かの正体を、|把《は》|握《あく》しようとするかのように、執念ぶかい凝視をつづけている。しかし、いまやその眼が何物をも凝視しえない、たんなるガラス体にすぎないことは、だれの眼にもすぐわかった。
古館辰人伯爵といえば、かつては|華冑界《かちゅうかい》きっての好男子といわれ、文字どおり|銀《ぎん》|鞍《あん》白馬の貴公子でもあり、また有名な|伊達男《だておとこ》でもあった。その気取り屋の伊達男の最期としては、これはまた、なんというふさわしい情景であろうか。いついかなる場合でも、人間の死を茶化すということは慎まなければならぬ。しかし、それにもかかわらず、だれかがなんとかいってみたくなるようなほど、それはいっぷう変わった最期であった。
古館元伯爵の辰人は、その昔自分の祖父の乗り回した馬車にのって、|颯《さっ》|爽《そう》として|三《さん》|途《ず》の川とやらを渡ったらしい。
辰人はいったいいくつになるのだろうか。昭和五年、かれの父の一人伯と継母加奈子がこの家で、惨死をとげたとき、加奈子は二十八歳、辰人は加奈子より七つ年少だったというから、当時二十一歳だったはずである。それからちょうど二十年、ことし四十一歳になるはずだが、いかさま、いま馬車の座席に端然とすわって、もはや何物をも見ることのできぬ水晶体を、ただいたずらに大きく見張っているそのひとは、昔でいう前厄という年ごろにうけとれた。
いまは恐ろしくひんまがっているけれど、端麗そのもののその|容《よう》|貌《ぼう》は、尊大という言葉を絵にかいたようである。柄は大きなほうではない。身長は五尺四寸ぐらい。|痩《そう》|身《しん》というほどではないが、華奢で、貴公子然としたその|風《ふう》|ぼう[#「ぼう」は、「蚌」から「虫」を外したもの。Unicode="#4e30"]《ぼう》は、いかにも他から奪うことをしっていても、ひとに施すことをしらぬ旧貴族のエゴそのもののように思われた。しかし、これ以上この旧貴族のことをあげつらうのは控えよう。辰人はいまや冷たい|骸《むくろ》となっているのだから。
さて、この恐ろしい見世物を、|凍《い》てつくような表情で見つめているのは、つぎのような十人の男女である。
この名琅荘のあたらしい主人であると同時に、いま眼前にいる車上の騎士から、|美《び》|貌《ぼう》の妻を強奪した篠崎慎吾と、奪われた妻の倭文子。慎吾の先妻の娘陽子と、名琅荘のヌシといわれる老いたる糸女。それから慎吾の招待で、いま名琅荘に滞在中の天坊|邦《くに》|武《たけ》元子爵、すなわち辰人にとっては母方の叔父である。さらに辰人の継母だった加奈子の実弟柳町善衛。ほかにこれはあとでわかったのだが、慎吾の秘書の奥村弘という青年と金田一耕助のつごう八人。
もうふたり男と女がいたが、男のほうはもちろん金田一耕助は知っていた。さっきかれをここへ運んできた、もと浮浪児の混血児速水譲治と、譲治によりそうようにしてふるえているのは、おそらくここの女中だろう。ただし、さっき金田一耕助を案内したお杉さんとはちがっていて、まだ十七、八の小娘である。出目金のような眼をしているが、それがかえって目元の涼しさとなっており、ちょっと|垢《あか》|抜《ぬ》けのした器量だが、着物の着こなしのどこかにまだぴったりしないところのあるのは、目下仕込み中というところだろう。
金田一耕助はそのとき、九人のひとびとの顔にうかんだそれぞれちがった表情を、たいへん興味ぶかいものに思ったが、とつぜん、
「あっ、倭文子!」
と、叫ぶ慎吾の声にふりかえると、脳貧血でも起こしたのか、くらくらとよろめく倭文子の体を、慎吾ががっきり、たくましい腕で抱きとめていた。
「あなた……」
と、夫の腕のなかで息もたえだえの倭文子の|小面《こおもて》のような顔が、|白《はく》|蝋《ろう》を思わせるような白さなのは無理もないと思われる。
「むこうへつれてって……」
「ああ、いいよ。しかし、もう少しお待ち。おれはこの家の主人なんだからな。こんな事件が持ち上がったのを、ほったらかしとくわけにはいかない。おまえあれを……いや、なにも見ないほうがいいよ」
「ええ……」
たくましい腕に抱かれて、夫の胸に顔をふせたとき、倭文子の体がひどくふるえているのが、当然なことながら、金田一耕助にとってはまた印象的だった。
「金田一先生、どうしたものでしょうか。あの|死《し》|骸《がい》、あのままにしておくべきでしょうか。それともおろしてあげたほうが……」
「ああ、いや」
と、金田一耕助は馬車の上に眼を走らせながら、
「あれはあのままにしておいたほうがよろしいでしょう。あわてておろしたところで古館氏は、もうだめのようですからね。それより一刻もはやく警察へこのことを……それからいうまでもなく、お医者さんへも……」
「承知しました。奥村君、ひとつ頼む」
「はっ、承知しました」
事務的なことになると慎吾も秘書もてきぱきしている。奥村弘があたふたと出ていこうとするうしろから、
「奥村さん、あたしもいっしょにいくわ」
と、陽子があとを追おうとすると、
「あなた」
と、倭文子が夫の腕のなかで、
「あたしも奥村さんといっしょにむこうへいっちゃいけません? あたしこんなところにいるのいやあよ」
倭文子の声がふるえているのは、自分の捨てたまえの夫が、上からにらんでいるような気でもするのであろうか。
「ああ、そう、それじゃそういうことにおし。奥村君、すまないが奥さんをむこうへつれていってくれたまえ」
「承知しました。それじゃ、奥さん」
「ママ、いっしょにいきましょう」
「はあ……」
陽子とこのわかい継母とは、十五くらいはちがっているはずなのだが、ふたり並んでいるところをみると、五つか六つのちがいにしか見えない。
それは倭文子が若くみえるところへ、陽子が年齢よりいくらか老けて見えるせいでもある。倭文子があくまで華奢で、繊細で、磨きあげた京おんなの美しさを誇っているのに反して、陽子という娘は父に似て、がっちりとした体格をしており、骨盤などもひろかった。容貌は十人並みというところで、倭文子などとはくらべようもなかったけれど、それでも若さからくる自然の魅力にあふれており、どちらかといえば人工的な倭文子の美しさとはよい対照である。
「陽子、それじゃママを頼んだよ」
「いいわ、あたしが介抱してあげる」
「陽子さま、すみません」
奥村と陽子が左右から、倭文子をかかえるようにして出ていくうしろから、譲治と小娘が怯えたように、そそくさと立ち去っていくのを見送ってから、慎吾は金田一耕助のほうへむきなおった。
「金田一先生、ここでご紹介しておきましょう。こちら天坊邦武さん、辰人さんにとっては母方の叔父君にあたるかたですね。それからこちらが柳町善衛さん、辰人さんの継母でいらした加奈子さんの実弟でいらっしゃる。天坊さん、柳町さん」
「はあ」
「こちらが有名な金田一耕助先生」
「いや、どうも……はじめまして……」
金田一耕助がペコリとモジャモジャ頭をさげると、
「有名な……と、いうと?」
と、天坊元子爵はうさん臭そうに、金田一耕助をジロジロ見ながら眉をひそめた。
「ああ、天坊さんはご存じじゃありませんか。こちら、いろいろ調査ごとをなさるかた。手っとりばやくいえば私立探偵。……」
「私立探偵……?」
と、天坊元子爵はまた眼を見張った。
「それじゃ、篠崎君、君はこういう不祥事が起こるであろうということを、あらかじめしっていたのかね」
天坊邦武はもうかれこれ六十くらいであろう。身長は五尺あるかなし、侏儒を連想させる|短《たん》|躯《く》肥満型のタイプで、もののみごとにはげあがって、つるつる光っている卵型の頭と、鼻下にピンとはねあげた太い、いかめしい八字ひげが滑稽である。尊大な口のききかたも、べつに威張っているわけではなく、長年の習慣がそうさせるのであろう。
「とんでもない。金田一先生にきていただいたのは、ゆうべもみなさんにお話しした、真野信也なる人物。……あのどこかへ消えてしまったという人物について、調査していただこうと思ったんですが、おりもおり、とんでもないことが持ち上がってしまって‥…」
慎吾がかるく頭をさげたのは、そこにいる死者の親戚にたいして弔意を表したのであろう。
どこかへ消えた真野信也の名前が出たとき、天坊邦武はするどく糸女の姿を見つめていたが、慎吾に弔意をのべられると、
「ああ、いや、どうも……」
と、あわてて八字ひげをひねりながら、
「辰人もさんざんしたい|三《ざん》|昧《まい》のことをしてきたんだから、ここいらが年貢のおさめどきかもしれんな。あっはっは、いや、これはしたり。仏をまえにおいて、こんなこといっちゃいかんかな」
言葉つきは尊大だが、その調子にはどこか慎吾におもねるようなところがあり、そこいらに落魄した旧貴族の、卑屈さがかんじられないものでもない。
「篠崎さん」
と、しばらくしてから声をかけたのは、非業に死んだ加奈子の実弟柳町善衛である。天坊さんとちがって落ち着いた声である。
「はあ」
「あなた、金田一先生に真野信也という人物のことをお話しになりましたか」
「はあ、ひととおり……」
「金田一先生」
と、善衛はこんどは金田一耕助のほうへむきなおった。
「はあ」
と、金田一耕助がふりかえると、善衛は大きなべっ甲ぶちの眼鏡のおくから、やさしいが、どこかシニカルな眼をしてわらっている。ルパシカふうのデザインの上着をゆったり着こなして、|襞《ひだ》のゆるんだコールテンのズボンはだぶだぶである。ベレー帽をおいた頭の髪は、金田一耕助にまけず劣らずくしゃくしゃで、年齢も金田一耕助とおっつかっつというところであろう。金田一耕助はあとでしったのだが、柳町善衛といえばフルートの演奏者としてそうとう有名であった。
「いかがでしょうか、金田一先生、あなたのお考えでは、これ、やっぱり真野信也という片腕の男のやったことだと……?」
「さあ。……」
と、金田一耕助は困ったように、眼をショボショボさせながら、
「そうおっしゃられても、ぼくにはまだなんともいえませんね。だいいち、真野信也なる人物が実在の人物だかどうだか、それすらわからないのですから……」
「あら、金田一先生」
とつぜん、下のほうから抗議するように声をかけたのは糸女である。
金田一耕助は大柄ではない。いや、いつもいうとおり小柄で貧相な男である。それでも立ったまま話をするとき、八十になんなんとして、前屈みのくせのついた糸女の声は、ひどく下のほうから出るのである。
「それでは、金田一先生はタマ子が|嘘《うそ》をついているとでもおっしゃるのでございましょうか」
「いや、いや、お糸さん、けっしてそういう意味ではありません。しかし、かりに真野信也なる人物がここへやってきたとしても、いったいそれは何者なのか、それがわからないあいだは軽々に、その人物の手による犯行と断ずるわけにはいかないでしょう。そうそう、それで思い出したがお糸さん、その男、黒眼鏡をかけ、大きな感冒よけのマスクをつけていたということですが、それはあきらかに顔をかくしていたんでしょうね」
「はあ、でも、その話なら念のため、タマ子に直接きいて下さいな」
と、糸女はあたりを見まわして、
「いまここにいた、若い娘がタマ子なんですけれど‥…」
「ああ、そう。それではあとで聞いてみることにしましょう」
と、金田一耕助はさぐるように糸女の横顔を見守りながら、
「しかし、ねえ、柳町さん、その男が……真野信也と名乗ってきた男がかりに尾形静馬だったとしても、なにも古館さんを殺害する理由はなさそうに思いますがねえ」
「いいえ、金田一先生」
と、糸女の声は薄気味悪いほど落ち着いていた。
「そんなことはございませんのよ。静馬さんが生きていたら、だれよりも辰人さん……いまあの馬車のなかにいる男を憎んだことでござんしょうよ。八つ裂きにしても飽き足りぬくらい憎んだことでございましょうよ」
「お糸さん。そ、そりゃまたどういうわけかね」
と、くいいるように糸女の横顔を見つめているのは慎吾である。下からその顔をふり仰いだ糸女の眼には、かぎりない憎しみの色がもえている。
「旦那様も金田一先生も……」
「はあ」
「さっきも金田一先生からそういう疑問が出ましたわねえ。なぜ辰人さんがそんなに静馬さんを怖れるのかと。……しかし、あの男が……」
と、糸女は|憎《ぞう》|悪《お》にふるえる指で、馬車のなかの男を指さすと、
「あの男が生きているあいだは、さすがにわたしも申し上げかねたのでございます。しかし、いまとなったらなにもかも申し上げてしまいましょう。これはおそらくここにいらっしゃる、天坊さんや柳町さんもご承知のことと思いますけれど、あの男は加奈子奥さまにいどんだのでございますよ。いかに生さぬ仲とはいえ、げんざい母と名のつくひとを|手《て》|籠《ご》めにしようとしたんですの。そして、それが失敗すると、こんどはその腹いせに、加奈子奥さまにたいして悪声をはなちはじめたのでございますの。つまり加奈子奥さまと静馬さんが怪しいと、先代様に中傷したんでございますの。そうでなくとも|嫉《しっ》|妬《と》に眼のくらんでいられた先代様は、それでくゎっと逆上あそばしたんでございますの」
「天坊さん!」
金田一耕助の耳のそばで爆発した慎吾の声は、おさえかねる怒りにふるえていて、
「それはほんとうの話なんですか。いまお糸さんの話したことは…‥?」
天坊邦武は困ったように、八字ひげのさきをひねりながら、
「いや、その……いまお糸さんのいった、加奈さんにいどんだってこと、……そりゃ、わたしもしらなかった。いま聞くのが初耳じゃが、加奈さんと静馬という男の仲が怪しいってことは、いろいろ親戚中にふれまわっていたようじゃな。しかし……」
「しかし……?」
と、なじるような慎吾の語気には、鋭く、かつきびしいものがあった。
「ああ、いや」
と、天坊元子爵はギコチなく|空《から》|咳《ぜき》をすると、
「そのことをわたしゃ単なるヤキモチ……すなわち、辰人の加奈さんにたいするヤキモチだろうというふうに、とっていたんじゃが……」
「ヤキモチとおっしゃると……?」
と、金田一耕助の声もそうとうきびしいものがある。
「つまり、そのなんだ。あんまり一人さんが加奈さんを可愛がるもんだから、もし、加奈さんに子供でもうまれたら、そのほうへ|寵愛《ちょうあい》がうつってしまって、財産なんかもとられてしまやあせんかと、それを取り越し苦労していたんだあね」
「それはあの当時、有名な話でしたね」
と、そばからひややかに言葉をはさんだのは柳町善衛である。この男は音楽家というより、どこか哲学者みたいなところがあり、態度も言葉もひややかだった。
「ああ、そう、あなたも当時の辰人さんをご存じだったわけですね」
金田一耕助はくるりとそのほうへふりかえった。
「はあ、ぼく、学習院時代、辰人君より二級下だったんですがね。姉が辰人君のお父さんのところへお嫁にいっていらい、辰人君はぼくのことをまともに名前を呼ばないんです。|穀《ごく》つぶし、穀つぶしっていうんですね。あっはっは、柳町の家が姉の縁故で、辰人君のお父さんから、財政的に援助をうけていたもんだから、辰人君にそういわれても一言もなかったわけですが、しかし、弱ったことは弱りましたね」
善衛は眼鏡の奥で笑っているが、しかし、その声には苦いものでものみくだすような調子があった。
「柳町さん」
と、慎吾は落ち着きを取りもどして、
「あなたはひょっとすると、わたしの家内の娘時分をご存じじゃありませんか」
「はあ、あの、それはもちろん……おなじ学習院でしたし、それになにしろ、あのとおりきれいなかたですから」
「そうそう、柳町君」
と、天坊邦武がひとのよさそうな顔色で、
「倭文子……いや、こちらの倭文子さんははじめ、君んとこへお嫁にいくはずだったんじゃなかったのかね」
柳町善衛はしばらく言葉をかみころしていたのち、
「天坊さん、つまらないことおっしゃるものじゃありませんよ。だれがうちみたいな穀つぶしのところへ、来たがるやつがあるもんですか」
「そりゃあそうだな。誰だって穀つぶしの家よりも、まだしも食いつぶされる穀をもってるとこへいきたいのは人情だあね。あっはっは」
金田一耕助はそのとき、よほど注意ぶかく篠崎慎吾のようすを観察していたのだが、かれはまず、この男の意志のつよさに舌をまいて驚嘆せずにはいられなかった。いま、話題にのぼっているのは慎吾の妻のことである。しかも、その評判はあんまりかんばしいものとはいえないのだが、かれはそれを聞いても眉ひとつ動かすのではなかった。
さっきからかれはまじまじと、馬車のうえにいる辰人の死体をながめていたが、やがてふしぎそうに金田一耕助のほうをふりかえった。
「金田一先生、辰人さんは左の腕をどうしたんでしょうねえ。洋服の左の袖が、いやにヒラヒラしているようだが……」
金田一耕助はそれをきくと、にっこりわらって頭をさげた。
「やあ、とうとうおっしゃってくださいましたね。ぼくさっきから、だれかがそれをいってくださるのをお待ちしていたんですよ。どうも少し……」
そこへやっと警官たちが駆けつけてきたので、金田一耕助はそれきり言葉をのみこんだ。
この事件の捜査主任、田原警部補というのはさいわい金田一耕助をしっていた。金田一耕助はかつて、静岡県に属する月琴島という孤島を中心として起こった事件(「女王蜂」参照)で活躍したことがあるので、静岡県の警察界では、かなり名前をしられているらしい。
「やあ、これは、これは……金田一先生とごいっしょに仕事ができるなんて、はなはだもって光栄のいたりですな」
慎吾から紹介をうけたとき、田原警部補は白い歯をだしてわらったが、それはまんざらお世辞とも思えなかった。まだ若い田原警部補はせいぜい五尺三寸くらいの短躯で、色白の柔和な顔に縁なし眼鏡をかけ、一見温厚な人柄にみえたが、がっちりとしたその体格は|精《せい》|悍《かん》の気があふれており、また功名心に燃えているようにもみえた。
「先生、まだ詳しい話はきいていないんですが、なんだかだいぶんむつかしい事件のようですね。ひとつよろしくご協力願います」
と、如才なく付け加えることも忘れなかった。
そういうわけで、金田一耕助は係官の現場捜査に立ち会うことができたが、そのまえに、
「篠崎さん、それじゃあとで主任さんからみなさんにたいして、|訊《き》き取りがございましょうから、ここはいちおうお引き取りになってください。だいたいの事情はわたしから、主任さんにお話ししておきますから」
「ああ、そう、それじゃ、金田一先生、万事よろしくお願い申し上げます」
慎吾が糸女をひきつれて、天坊邦武や柳町善衛とともに立ち去ると、さっそく捜査陣の活躍がはじまった。まず、現場の模様や馬車のなかの死体の状態があらゆる角度から撮影されたが、その間、なんども田原警部補は、嘆声とも|喊《かん》|声《せい》ともつかぬうめき声を発していた。
「なるほど、これは妙な事件ですな、金田一先生。犯人はなんだって被害者の首をしめたんでしょうな。ああして被害者が後頭部をわられているところをみると、犯人はそれだけで殺害の目的を達することができたでしょうのにねえ。それにまた、なんだって馬車のなかへ乗っけたんでしょう」
この若い警部補はいささか|饒舌《じょうぜつ》がすぎるようだが、必ずしもそれがむりとはいえないのは、どう見てもこの殺人事件には奇妙なところが多過ぎた。
このことは金田一耕助のみならず、この死体を目撃した、九人の男女もみないちように感じとったにちがいない。古館辰人は馬車のうえで殺されたのではない。そのことは、馬車の背後にまわってみるとすぐわかった。辰人は後頭部に致命的な一撃をうけているのである。皮膚が裂けて少し血が流れている。|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》に異常があるかないかは不明だけれど、この一撃がそうとうのダメージを与えたであろうことは、馬車の背後へまわるとすぐわかる。
馬車の座席にすわっている辰人の後頭部に、そういう強烈な打撃をあたえるということは、犯人がだれにもせよ、凶器がどのような種類のものであるにせよ、ほとんど不可能であると思われる。いや、もしそれが可能にしろ、その瞬間、辰人の姿勢は崩れたはずである。
さらによりいっそう不可解なのは、辰人にとって後頭部の一撃が、致命傷となったのであろうかという疑問である。辰人の|咽《いん》|喉《こう》|部《ぶ》から|頸《けい》|部《ぶ》へかけて、ドス黒くもなまなましい索条の跡が、くいいるように印せられているのである。犯人は被害者の後頭部にまず一撃をくわえた。おそらく被害者はその一撃で|昏《こん》|倒《とう》したことであろう。犯人はしかしその一撃だけでは、被害者が息を吹きかえすかもしれないことをおそれて、昏倒している被害者の首を、なにか索条ようのもので絞め殺したのであろう。
いずれにしても、辰人は馬車の上で殺されたのではない。ほかの場所で殺されてから、ここへ運びこまれたか、この倉庫のなかで殺されたにしろ、それは馬車の上ではなかったと思われる。そういえばこの倉庫のなかには、被害者の首を絞めるには、おあつらえむきのロープがふんだんにある。犯人はどうやら被害者を殺害したのちに、馬車の上へ運びあげたらしいのである。しかし、それにはなにか深い意味があるのだろうか。それともこれはたんなる|戯画《カリカチユア》なのか。
戯画といえば、辰人の服装そのものがすでにおかしかった。美貌を売りものの、スタイリストの伊達男としては、たいへん粗末な服を着ている。背広は背広だがひどく古びていて、下に鼠色のこれまた古ぼけたトックリ・セーターを一着におよんでいる。銀鞍白馬の貴公子としては、あるまじき服装である。おまけにかれの左腕は背広のしたで、ベルトで強くセーターを着た胴に緊縛されていた。殺されるまえ辰人は、このようなラフな姿で、いったいなにをしていたのであろうか。
その馬車のまわりではいま係官が大勢、忙しそうに立ちまわっている。現場写真の撮影や指紋の検出がおわるのを、警察医が待っているのである。
田原警部補は、精力的にくるくる動きまわりながら、それらにいちいち指令をあたえていたが、やがて金田一耕助のそばへもどってくると、
「ねえ、金田一先生、この名琅荘というのはずうっと昔、昭和の初期にも|凄《すご》い事件があったって話ですが、先生はその話きいておいでになりますか」
「ああ、その話、主任さんもご存じですか」
「ええ、そりゃもう。……こっちへ赴任してきてから、耳にたこができるほど聞かされてますからね。もっともいまじゃ伝説的に|尾《お》|鰭《ひれ》がついて、多少|眉《まゆ》|唾《つば》もんだと思われる節がなきにしもあらずですが……」
「たとえば、どういう点が……?」
「いや、その事件の大立て者に尾形静馬という男がいるんです。先生、ご存じですか」
「ええ、聞いております。左腕を斬り落とされたまま、いまだに|行《ゆく》|方《え》不明になってる人物ですね」
「そうそう、それそれ、その男がね、ときどき幽霊みたいにこの別荘の周辺にあらわれるっていうんです。つまり、左腕のない男が怨めしそうに、悲しそうに、名琅荘の周囲の林のなかを|徘《はい》|徊《かい》しているのを目撃したってえ人物が、このへんにゃ相当たくさんいるんですよ。その目撃者のなかにゃ町の歯医者だの、中学の先生だのっていう、相当のインテリがいるんだからあきれるじゃありませんか」
金田一耕助はちょっと考えたのち、
「主任さん、それいつごろの話なんですか。最近のことなんですか」
「いや、いつって特別にきまっちゃいないんです。あの事件があっていらい現在にいたるまで、思い出したようにちょくちょく現れるというんです。だから、ここに両説があって町でも|対《たい》|峙《じ》してるんですよ。いっぽうはごく平凡な幽霊説なんですが、もういっぽうというのが……」
と、田原主任はにわかにあたりを見まわすと、声をひそめて、
「ほら、いまここにお糸ってばあさんがいたでしょう」
「はあ……」
「あのばあさんがその尾形って男を、ひどく可愛がっていたんだそうです。しかも、この名琅荘ときたひにゃ、やたらに抜け穴やどんでん返しがあって、それを隅から隅までしってるのは、あのばあさんだけだというんですね。だから片腕男の尾形静馬は、いまだにこの名琅荘のどこかにかくまわれていて、それがときどき退屈して、散歩に出るんだろうっていうんです」
「なるほど、それはうがった説ですね。しかし、だれかその片腕男をまぢかにたしかめたひとがあるんですか」
「いや、それがねえ、金田一先生、みんなうまいこといってますよ。とっても相手が|敏捷《びんしょう》だとか、魔性のものだからとてもひとを寄せつけないとか、合理派は合理派で、名琅荘の邸内のみならず、この周辺いったいに、秘密の抜け穴があるんじゃないかってね。しかし、これを要するに、みんなそばへ寄ってたしかめるのが怖いんですね」
「なるほど」
と、金田一耕助はいまの話をかみしめるように聞いていたが、
「いや、主任さん、たいへんおもしろいお話を、聞かせていただいてありがとうございました。ところがねえ、主任さん、その話がこんどの事件にも尾をひいてるようですから、ひとつ、それをよく念頭にとめておいてください」
「ああ、そうですか。わたしもなんだかそんな気がして……あの馬車のなかの死体、ありゃたしか名琅荘のせんの主人、古館辰人さんのようですが、あのひとなんだか、左腕がおかしいようじゃありませんか」
「ああ、そう、それじゃあなたは辰人氏をご存じだったんですな」
「そりゃ、先生、わたしゃここの警察の捜査主任ですからな」
「ああ、そう、それは失礼しました」
「いや、いや、先生、べつに威張るわけじゃありませんが、終戦の翌年ここへ赴任してきましてね。なんといっても、当署の管轄区内で起こった事件のなかではいちばんの大物でしょう。しかも、いまだに幾多の疑問を残してるんですから、わたしはわたしなりに、いろいろ臆測をたくましゅうしてきたってわけです」
「ああ、そう、それじゃ、ひょっとすると、いまここにいた|禿《とく》|頭《とう》のご老体とルパシカの人物もご存じじゃありませんか」
「禿頭のほうはしってます。この被害者の叔父にあたる元子爵の天坊さんですね。しかし、ルパシカのほうは……?」
金田一耕助がひとこと名前をいっただけで、この功名心にもえているわかい警部補には、それがどういう人物であるかわかったらしく、ヒューッとひと声口笛を吹き鳴らすと、
「|呉《ご》|越《えつ》同舟というか、そら、また、珍しい人物が落ちあったもんですな」
そういう警部補の口吻から察すると、かれは一人伯爵が逆上にいたるまでの裏面の事情にも、かなり精通しているのではないかと思われた。もし、それならば金田一耕助も、説明の労がはぶけて助かるのである。
そのうちに、現場写真の撮影や指紋の検出もおわって、いよいよ死体が馬車から取りおろされ、待機していた森本医師の検証という段取りになったが、つめたいコンクリートの床のうえに横たえられた死体を見たとき、並居る係官一同は、思わず奇異の声を放たずにはいられなかった。
さっきもいったように辰人の死体は左の腕を、ベルトでしっかり胴にしばりつけていて、したがって、背広のうえからみると左腕が肩の付け根から、うしなわれているようにみえるのである。
「主任さん、主任さん」
と、この地方の警察に、ながく勤めるという井川老刑事は眼をかがやかせて、
「それじゃ、名琅荘にあらわれる片腕の幽霊というのは、古館辰人そのひとだったんですかい」
「まさか……金田一先生、あなたのご意見はいかがです?」
「そうですねえ。古館氏自身が自分の別荘にケチをつけるようなまねをしていたとは思えませんねえ」
「しかし、それじゃこの男、なんだって片腕男のまねなんかしてるのかな。それとも、森本先生、殺されてから、犯人がこんなややこしいことをやったんですかい?」
「そんなこと、おれに聞いたってわかりゃせんよ。おい、田原君、この腕、ほどいてもいいかね」
「あっ、ちょっと。そのまえに一応写真を撮っとこう」
腕をしばった局部の写真が撮影されたのち、はじめて左腕の緊縛が解かれて、森本医師の検証がはじまった。
「森本先生」
と、そばから金田一耕助が|敬《けい》|虔《けん》な口調で、
「こんなことは申し上げるまでもないことですが、被害者の生命をうばったのは、後頭部の|疵《きず》であったのか、それとも咽喉部を絞めつけられたせいだったのか、それをひとつ入念に……」
「いや、金田一先生」
ながらく警察医をしている森本医師も、金田一耕助の名前はしっていたのである。
「先生のような経験豊富なかたなら、もうだいたいおわかりになっておりましょうが、これはあきらかに撲殺ではなく絞殺ですよ。顔面のウッ血状態がそれを示しています。もちろん、もっと正確なことは解剖のうえご報告しますがね」
「はっ、ありがとうございます。それでは後頭部をぶん殴られて、昏倒してるところをロープかなんかで、絞殺されたとみてよろしいでしょうねえ」
「医学的見地からみるとそういうことになりましょう」
「だけど、先生、犯人はなんだって、そんなややこしいことをやりおったんですい。ぶん殴って相手が気絶しちまったんなら、これさいわいと、そのまんま殴り殺しゃいいじゃありませんか。あとで絞め殺したり、殺した死体を馬車に乗っけたり、なんだってまた、そんなややこしいことをやりおったんですい」
「おい、おい、井川のおっさん、そんなこたあ犯人をつかまえてから聞いてみるんだあね。このおれにぼやいたところでしったことか。おれは検死調書を書けばそれでお役目はすむんだからな。死因は索条ようの物の圧迫より生じた呼吸器|閉《へい》|塞《そく》による窒息死。撲殺にあらずとな、そう書いとくから、せいぜい被害者をぶん殴った凶器でもさがしておくこった」
「へん、余計なお世話だ、ヤブ医者め。その凶器ならちゃんとここに押収してございまさあね」
「えっ!」
てきぱきと検証をすすめていた森本医師は、井川老刑事の毒舌におもわずひょいと顔をあげた。見ると老刑事は握りぶとのステッキの、地面につくほうの端を二本の指でつまんで、これみよがしにぶらんぶらんと一同の鼻先に突きつけた。
「おや、おやじさん」
と、田原警部補も眼を見張って、
「おまえさん、そんなもんどこで見つけたんだ」
「なあに、このロープの下敷きになってたんでさあ」
と、井川老刑事が足でけってみせたのは、天井の鉄骨からぶらさがっている滑車から、ななめに直線をひいて壁のボルトにとめてある綱の一端が、まだまだあまって、壁ぎわの床のうえに大きくとぐろを巻いている、その綱の束だった。
「いま、やっこさんの首を絞めたのは、このロープじゃねえかと調べていると、この束の下から妙なものがツラあ出したと思ったら、このステッキの握りだったてえわけでさあ。ちょっとヤブ小路タケノコ庵先生、このステッキを見てくださいよ」
「なんだ」
と、この老刑事の毒舌にはなれているとみえて、森本医師も苦笑している。
「ほら、ごらん、この握り。これ、ちゃんと鉛がつめてあるんですぜ。しかも、ほら見な。血と髪の毛が一本、二本、三本までこびりついてまさあ。だから犯人はこいつを逆手にもってぐゎんとひとつ、古館の御前にお見舞いしたんだあね。そこで古館の御前様は一撃のもとに眼がおくらみあそばした。さて、問題はそのあとでさあ。犯人はこんな結構な凶器をもっていたんですぜ。こいつで|撲《なぐ》り殺して血がとぶのがいやとあらば、こういう手だってありまさあ」
と、井川老刑事は逆手にぶらさげていたステッキを持ち直すと、握りのところをいじっていたが、やがてずらりと抜きはなったところをみると、なんとこれが仕込み杖である。
「ほうら、ごろうじろ、お立ち会い、抜けば玉散る氷の|刃《やいば》、こいつでぐさりと|止《とど》めを刺しゃ、話はいたって簡単でさあね。それをまたなにを苦しんでごたいそうもない、ロープで絞めあげたりしやあがったんです。タケノコ庵ヤブノ|守《かみ》先生、この謎をなんとお解きになりやすね」
「わかった、わかった、おやじさん、その仕込み杖はちゃんとしまって、鑑識の連中にわたしてくれ。金田一先生」
「はあ」
「こりゃ、このおやじのいうとおり、どうも変てこな事件ですね」
「はあ……」
と、ぼんやり答えてから、金田一耕助は井川老刑事の持っている仕込み杖から眼をそらして、おもわずゾクリと|襟《えり》|元《もと》をちぢめた。金田一耕助はまえにいちど、いま井川老刑事の持っているのとおなじような仕込み杖を、篠崎慎吾が愛蔵しているのを見たことがある。
まったく、これは変な事件であった。
だれかがここで辰人と争って、その後頭部へ強烈な一撃をくわえた。正確なことは解剖の結果を待たなければならないが、金田一耕助の見るところでも、また森本医師の証言によっても、辰人はその一撃で即死したわけではなく、ただ昏倒しただけらしい。
倉庫のなかを子細に調査点検することによって、ちょうど馬車がおいてある下のあたりのコンクリートの床に、格闘のあとらしき|埃《ほこり》の乱れが発見された。
ほかにも足跡は残っていないかと調査されたが、これは捜すほうがむりだった。なにしろ陽子の報告によって、いっときに十人の人間が駆けつけてきて、この馬車を取り巻いたのだから、犯人の足跡がのこっていたとしても、踏みあらされてしまっていたのはやむをえない。
むしろ、格闘のあとらしきものがのこっているだけでも、見つけものというべきだろう。しかも、それは馬車によって保護されているのである。と、いうことは犯行のあったのは、馬車がここへ帰ってくるまえということになる。
犯人は仕込み杖の握りの部分で、辰人に致命的ともいうべき一撃をくわえて相手を昏倒させた。さて、そのあとでありあうロープで首を絞め、被害者を絶息にいたらしめた。……このことは被害者の|咽《の》|喉《ど》のまわりにのこる索条のあとと、ロープの太さがぴったりと一致するところから、ほぼ間違いのないことと確認された。
しかし、ここでさっき井川老刑事がもちだした、疑問が生ずるのである。
では、なぜ犯人は被害者を死にいたらしめるのに、仕込み杖の握りをより効果的に使用しなかったのか。いや、それよりももっと簡単な方法として、これまたさっき井川老刑事が指摘したように、仕込み杖をぬいて被害者にトドメを刺さなかったのか。犯人は血を見ることを恐れたのであろうか。この疑問はまだ単純なほうである。犯人はなぜ辰人の死体を、馬車の座席に座らせておかねばならなかったのか。
ここで、こういうことが想像されるのである。
犯人は格闘のすえ辰人を昏倒させておいて、そのあとでロープを使用して、相手を死にいたらしめた。そこへ馬車がかえってきた。犯人は死体とともに、一時どこかへ身を隠していたのだろう。隠れる場所はいくらでもあった。この倉庫はいま、物置きがわりに使用されているにちがいない。隅のほうに蜜柑の古箱のほかに、ガラクタ道具がいっぱい積みあげてあることはまえにもいっておいた。
御者はここへ馬車をひきこむと、なにも気づかずに馬を頸木から解放し、|厩舎《きゅうしゃ》のほうへつれていった。これはあとでわかったことだが、厩舎はここからかなり離れたところにあり、そこからではこの倉庫は見えなかった。
さて、御者と馬とが出ていったあとで、犯人は物陰から死体を抱いて忍び出てきた。そして、死体を馬車の座席へすわらせておいて立ち去った。……と、これはたいへん変てこなことだが、そうとでも解釈しなければ、この奇怪な情景に説明のつけようがない。まさかあの譲治が共犯者であろうとは、金田一耕助には思えなかった。
しかし……と、金田一耕助はモジャモジャ頭をかきまわしながら、悩ましげな眼をしてかんがえる。
馬車が帰って来なければ、犯人は死体をどうするつもりだったのだろう。それとも馬車が帰ってくることを、計算に入れての犯行だったのだろうか。まさか。……
犯人が死体とともに、隠れていたらしい場所はすぐわかった。しかし、犯人の足跡まではわからなかった。この犯人はよほど|狡《こう》|猾《かつ》なやつとみえて、床の埃をわざとかき回すことによって、自分の足跡を消している。その場所から馬車までは三間くらいのものだろう。しかも、床の埃に死体をひきずったらしい跡がみえないところをみると、犯人が抱いていったにちがいない。被害者は五尺四寸、体重は十四貫くらいのものだろう。三間くらいの距離を抱いて歩くということは、大した重労働ではなかったにちがいない。
そのときとつぜん倉庫のなかが明るくなったので、金田一耕助はびっくりしたように、眼をショボショボさせながら、天井のほうに眼をやった。この倉庫には入口にそって平行に、五つの電球がぶら下がっている。だれかがそれに気がついてスウィッチを入れたらしく、あたりがにわかに明るくなった。腕時計をみると時刻はすでに六時になんなんとしている。西に小高い丘を抱いたこの倉庫は、すっかり暗くなっていた。
金田一耕助は天井の電球にやった眼を、もういちどそっちのほうにふりむけた。まえにもいったとおり、この天井には縦横に鉄骨が走っているが、ちょうど馬車の上あたりに、入口と平行に走っている鉄骨の、むかって左の端に滑車がぶら下がっている。滑車にはロープが巻きついており、ロープの先端は輪になって天井からぶらさがっている。
滑車に巻きついたロープの他の端は、斜直線をえがいて床へおりているが、そこにもうひとつの滑車が、入り口からむかって左の壁の中央の、ちょうど人間の腰の高さに取りつけてあり、その滑車は鉤の手にまがった鉄の|把《とっ》|手《て》で、回転させるようになっている。ロープはその滑車にまきついたのち、壁に打ちつけたボルトでとめてあり、さらにあまったロープが、床のうえに正確な円をえがいて積んであるのだが、そのロープの上層部が大きく崩れて、床のうえに不規則な輪となって、幾重にも垂れさがっているのである。
「刑事さん」
と、金田一耕助はぎょっとしたような眼を刑事にむけて、
「あなたが仕込み杖を発見なすったのは、そこにとぐろを巻いている、ロープの下だったんですか」
「そうです、そうです」
「と、すると、仕込み杖がそこにおかれてから、だれかこの滑車を使ったものがあるのでしょうか」
「さあ、それですよ、金田一先生。わたしもいまそれを考えていたところですがね。それにもうひとつ、ここに妙なものがあるんです」
短く刈った髪に白いものが混じっているが、|陽《ひ》に焼けて、痩身ながら、見るからに|頑《がん》|健《けん》そうな体格をした老刑事は、いまいましそうに舌打ちしながら、床にこぼれたロープの下のものをけっていた。それは砂袋であった。ちょうど拳闘選手が練習用に使用する、サンド・バッグみたいなものだが、さいわいそこに台秤があったので測ってみると重さは約二十貫である。
「それから金田一先生、このマドロス・パイプはだれのものなんです? これ被害者のものなんですかね」
井川老刑事がハンカチのうえにのっけてみせたのは、柄のところでまっぷたつに折れたマドロス・パイプである。
「こいつあきらかに馬車の車輪に踏みにじられて、これ、このとおり、まっぷたつに折れたにちがいねえ。と、すると、馬車がここへ帰ってくるまえから、落ちていたものにちがいありませんが、被害者のものでないとすると犯人のものか。……しかし、こんなややこしい殺しをするやつが、こんな大事な証拠の品をおいていくはずがありませんしな」
さすが老練なこの|古狸《ふるだぬき》も、馬車を見上げ、滑車を仰ぎ、いささか途方にくれた面持ちだった。
「それにしても金田一先生」
と、田原警部補もがらんとした倉庫のなかを見まわしながら、ため息まじりにつぶやいた。
「古館氏はなんだって、左の腕を胴のまわりに縛りつけて、片腕男のまねをしていたんでしょうね」
死体はもう解剖のために運び出されていて、鑑識の連中も引きあげてしまい、あとには数名の捜査員が黙々として、倉庫の内外を調べている。
「いや、そのことですがねえ」
金田一耕助は悩ましげな眼をして、
「これはいままで申し上げるひまがなかったのですが、ここにひとつ妙な話があるんですがねえ」
と、さっき名琅荘の外の雑木林のなかで見た、片腕男の話をすると、田原警部補は大きく眼をみはった。井川老刑事もそばへ寄ってきて、
「金田一先生、それじゃそれがあの被害者だったとおっしゃるんで?」
「いや、そうはっきりとは申せません。かなり距離があったし、それに後ろ姿を見ただけでしたからな。ただ左の腕が妙にヒラヒラしているのが印象に残ったんです。しかし、……」
「しかし……?」
「はあ、そういえば黒っぽい背広のしたから、トックリ・セーターの首らしきものが、のぞいているのが見えましたよ」
「じゃ、やっぱり被害者だったとおっしゃるんで?」
「そのことについちゃ、御者にも聞いてごらんなさい。御者もその姿を見ているんです」
そうだ、そういえば譲治はあのとき、なんだかひじょうに驚いたふうだったが、あれはどういうわけだろう。金田一耕助はふっと怪しい胸騒ぎを感じたが、しかし、ここではわざとその点には触れなかった。
「ところで、金田一先生がその男の姿をごらんになってから、馬車がこの名琅荘へ到着するまでにどのくらいかかりましたか」
「さあ、五分くらいはかかったんじゃないでしょうかね。その人物を見たところから、この家の正面玄関へ着くまでには、この広大なお屋敷の塀に沿って、角をひとつ|迂《う》|回《かい》しますからね」
「金田一先生、馬車は先生を正面玄関の前でおろすと、すぐここへ引き返したようでしたか」
「ええ……と、ちょっと待ってください。馬車が正面玄関へ着いたとき、わたしは時計を見たんです。駅から何分かかったかと思ったもんですからね。ちょうど三時でした」
「と、すると、先生が古館氏らしき人物をごらんになったのは、三時五分くらいまえということになりますね」
「そういうことになります。ところが馬車ですが、すぐにそこから引き返さなかった。と、いうのは……」
金田一耕助は速水譲治との関係をかんたんに話して、
「つまり、そういうわけでまえから|識《し》り合ってた仲ですから、心安立てというんですか。譲治君は馬車を正面玄関のまえにおいたまま、ぼくの荷物……と、いってもボストン・バッグひとつですが、それをもって座敷まではいってきたんです。そこでふたこと三こと話して立ち去ったんですが、そういうことで、五分くらいかかったんじゃないでしょうか。正面玄関からこの倉庫までどれくらいかかるか、それはぼくにはわかりません」
「なあに、そりゃあとで|験《ため》してみりゃわかりまさあ」
と、井川老刑事はメモを見ながら、
「そうするてえと、馬車が正面玄関からこの倉庫へ、引きかえすまでの時間を五分と見て、しめて十五分、こうなると犯行の時刻が大いに限定されてきますな。十五分あれば人間ひとり殺すにゃじゅうぶんだ」
「しかし、そりゃ金田一先生がごらんになった片腕男が、古館氏であったと仮定してだね」
「それにきまってるじゃありませんか。片腕男がそうあちらにもいる、こちらにもいるというわけのもんじゃないでしょう。それにこの倉庫の外はすぐに裏口になってるんです。その裏口から右手へかけては蜜柑山になってますが、丘の麓から左手へかけては、さっき金田一先生が通って来られた径まで、いちめんの雑木林でさあ。それにしてもやっこさん、片腕男のまねをして、いったいなにをやらかそうとしていたのかな」
問題はそこにあった。古館辰人は片腕男に扮装して、いったいなにをやっていたのか、いや、なにをやらかそうとしていたのか。
「ところがねえ、刑事さん」
金田一耕助は悩ましげな眼で、天井の滑車からぶら下がっている、ロープのさきの輪を見ながら、
「あなたいま、片腕男がそうあちらにもいる、こちらにもいるというわけのもんじゃないとおっしゃいましたが、ここにもうひとり片腕男が、いまこの名琅荘のどこかに潜んでるんじゃないかって疑いがあるんですよ」
と、金田一耕助が金曜日の夕方やってきて、そのまま消えてしまった真野信也と名乗る、片腕男の話を語ってきかせると、若い警部補と老刑事は、それこそ足下から爆弾でも破裂したように驚いた。
「金田一先生」
と、若い警部補は、まなじりも裂けんばかりに眼を見張って、
「それじゃ、いよいよ、尾形静馬が帰ってきたとおっしゃるんですか」
「いや、それが尾形静馬であったかどうかは疑問としても、とにかく、片腕……あるいは片腕をよそおうた男が、一昨日の夕方ここへやってきて、そのまま、抜け穴を通って消えてしまったことはたしかなようです」
「先生はその抜け穴を調べてごらんになりましたか」
「いや、まだ…‥そんな話をしているところへ、陽子さん……現在の名琅荘の主人のお嬢さんですね。そのひとが人殺しだって駆けこんできたもんですから、そのままになってしまったんです。主任さん、|訊《き》き取りがおわったら、あとでその抜け穴を見せてもらおうじゃありませんか」
「先生はここのご主人とどういう関係ですか」
と、井川老刑事もさぐるような眼つきになる。
「ああ、それ、さっきいった、わたしの中学時代以来の親友の風間俊六、浮浪児の譲治を拾ってきた男ですね、その男土建屋として、まあ、中位の成功をしてるんですが、その男と篠崎さん、篠崎慎吾氏とが、同気相求めるというのか、眼のよるところに玉がよるというのか、|昵《じっ》|懇《こん》になったわけです。そういう関係でわたしもまえに、二、三度会ったことがあるんですね」
「なるほど、でも、先生がここへいらしてるというのは……? 先生だって、まさか、こんな事件が起ころうとは予測なさらなかったでしょう」
「それはもちろん。わたしがここへ来ているのは、金曜日の晩消えちまった男のことがございましょう。篠崎さんがそれに不安を感じて、わたしを呼びよせたというわけです。場合が場合だけにね」
「場合が場合だけにとおっしゃると……?」
「ほら、土曜日には古館辰人氏や天坊邦武氏、柳町善衛さんがいらっしゃることになってただけにねえ」
「ああ、そうそう」
井川老刑事は疑いぶかそうな眼つきをして、
「そのこってすがねえ。金田一先生、あの連中はどうしてここへやってきたんですい。ことに古館辰人なんどはここへ来られた義理じゃありませんぜ。自分を捨てた女房が、その女房を自分から奪った男とよろしくやっているところへ、われわれならばなんの面目あって、あいまみえんやというところですがねえ」
「いや、あれは篠崎さんが招待したんだそうですよ。理由はここもいよいよ、ホテルとして再出発することになったについて、そのまえに名琅荘に縁の深いかたがたに、ゆっくり名残りを惜しんでいただこうというんだそうです。それともうひとつ、昭和五年の事件で亡くなられたひとたちの二十一回忌が明後日だそうで、その法事の打ち合わせもやろうというわけですね」
田原警部補はまじまじと金田一耕助の顔を見つめて、
「金田一先生はまさかそれを、額面通りに受け取っていられるんじゃないでしょうねえ」
「額面通りに受け取っちゃいけませんかな」
「そ、そんなばかな! 自分が女房を奪った男と、その女房の娘時分に首ったけにほれてた男を、一堂に集めるなんて悪趣味ですぜ。それとも篠崎慎吾という人物には、そんなおセンチなところがあるというんですかい」
井川老刑事は昭和五年の事件について、よっぽど詳しい調査をしているらしい。倭文子と柳町善衛の関係など、金田一耕助よりはるかに|通暁《つうぎょう》しているようである。
「そうおっしゃれば、篠崎氏の性格としてはいささか妙ですね。しかし、刑事さん。いまあなたのおっしゃった、女房の娘時分に首ったけだった男というのは、柳町善衛さんのことですか」
「もちろん、そうですとも。金田一先生はあの男とげんざいのここの女主人と、九分九厘まで縁談がまとまってたってこと、ご存じなかったんですかい」
「いいえ、知りませんでした。わたしゃ現在のご主人が名琅荘を手に入れたとき、風間からこの家にまつわる昔話を聞いて、ちょっと好奇心をもよおしましてね、図書館へいったとき、ざっと当時の新聞記事をひっくりかえしてみた……と、その程度の知識しかないんです。そこへいくと、刑事さんはずいぶん詳しく調査してらっしゃるようですね」
「そりゃもう……。なんたって、わが署の管轄区内に起こった、最大の事件だったんですが、当時のこってすから、捜査上いろいろ上のほうから圧迫がありましてな。こっちはまだ血の気の多い年ごろでしたから、なにをってハリキッたんですが、けっきょく泣く子と地頭にゃ勝てねえ時代で、捜査打ち切りを申し渡されたときの悔しさったらありませんでしたね」
なるほど、昭和五年といえばそういう時代だったかもしれぬと金田一耕助はうなずいた。
「だから、その後も古館家のことといえば、遠くのほうから眼を光らせているんでさあ。さいわいこっちにこういう別荘があるもんだから、本宅になにかことがあるてえと、しぜんこちとらの耳にはいるんですな。非番のときやなんか、手弁当で東京までいって、本宅のあった品川のあたりを、いろいろ|訊《き》き込みにまわったもんです」
なるほど、こういうのを真相をつかみそこなった、担当刑事の執念というのだろう。
「金田一先生」
と、そばから田原警部補が言葉をはさんで、
「わたしが昭和五年の一件に興味をもち、またかなりの知識をもっているのも、みんなこのおやじさんの執念の影響なんですよ。このオッサンときたひにゃ、いつかは当時の真相を、やわか|暴《あば》かでおこうかという、執念の凝りかたまりみたいな男です。老いの一徹というんですかね」
「老いの一徹はひでえですよ。これでも当時はまだ若かったんですからな」
と、井川老刑事はまた目玉をくりくりさせると、急にホロにがい表情になり、
「それにしても、こちらの奥さん、いま生きてるひとをこういっちゃなんだが、たしかに|別《べっ》|嬪《ぴん》ではある。また頭脳もすごくよくて、いわゆる|才《さい》|媛《えん》にゃちがいない。しかし、その性情たるや風のなかの羽根のごときもんですな。古館辰人のほうから縁談の申し込みがあると、さっさと牛を馬に乗りかえたってえんですから、当時あんまり評判はよろしくなかったようで。だから、あのひとこんどで二度目ですせ。牛を馬に乗りかえたのは……」
と、いってから気がついたように、
「いや、これは失礼。先生の親友の奥さんを中傷するようなこといっちまって……」
「いや、べつに親友というのではありませんが……」
と、金田一耕助は考えぶかい眼つきをして、まじまじと相手の顔を見守りながら、
「それにもし、篠崎氏がわたしの親友だとしたら、なおのことそのひとの新しい奥さんのことをしっておかなきゃなりませんからね。善きにつけ悪しきにつけ……ですから、そういうことご遠慮なく話してください」
「はあ。そういっていただくとあっしもうれしいですね」
「それであなたいま、首ったけという言葉をお使いになりましたが、柳町氏は単に倭文子さんの縁談の相手だっただけにとどまらず、倭文子さんにほれてたってわけですか」
「そりゃもちろん、あのとおりの別嬪ですからな。ですからあの男がいまだに独身でいるのは、その当時の失恋の痛手が、いまもって|癒《い》えねえんだろうちゅう話ですぜ」
「ところが、その話は……」
と、金田一耕助はいそがしく頭脳のなかで知識を整理しながら、
「柳町氏の姉さんの加奈子さんが、辰人氏のお父さんの手にかかって、非業の最期をとげてから、だいぶんのちのことになるわけですね」
「そうです、そうです。あの惨事があったときは、辰人氏は旧制高等学校の三年生、善衛さんは一年生だったそうで。だから、約五年のちの話ですね」
「なるほど、これはちと妙な|因《いん》|縁《ねん》ですな」
「ほんとにそうです、金田一先生。第一、あの大惨劇というのも主として、辰人氏に責任があったということをご存じじゃありませんか」
「はあ、それはさっきちょっと……」
「つまり、辰人という男は、イヤゴーみたいな性格を持ってた人物なんでさあ。生意気なこというようですがね。言葉たくみに嫉妬に狂ったおやじをけしかけ、ああいう大惨劇に火をつけた。ところが、それから約五年ののちには、こんどはおなじその口で、言葉たくみに倭文子さんをたらしこんで、柳町さんから奪ってしまいやあがった。柳町さんにしては辰人という男にたいして、二重の|怨《えん》|恨《こん》があるわけですな。ですから、そういうふたりをここへ招待するというのは、ちょっと……」
「しかし、ねえ、刑事さん、わたしはなにも篠崎氏のために弁解するんじゃありませんが、あの大惨劇の場合、辰人氏がイヤゴー的役割りをはたしたってこと、篠崎氏はついさっきまで全然しらなかったようですよ。それから恋の|鞘《さや》|当《あ》てのいきさつ……こっちはどうですかね」
と、金田一耕助はさっきの慎吾の顔色を脳裡に思いうかべてみたが、しっていたともしらなかったとも、どっちにでもとれそうな印象だった。
「しかし、どちらにしてもあのふたりを、ここへいっしょに呼ぶというのはおかしいですね」
「金田一先生はそれをどう解釈なさいます」
「さあ……」
と、金田一耕助は言葉をにごして、
「それより、刑事さん、辰人氏というひとについてもう少し聞かせてください。あのひと、戦前まではこの名琅荘のお殿様だったわけですが、このへんでの評判はどうだったんです?」
「総スカンというところでしたな。とにかく、むかしのある種の華族のもっていたいちばんいやらしい面、つまりばかに特権意識がつよくて、また、極端にそれをふりまわしたひとでしたな。それでいていっぽう、金のことになると、これがまた極端にこまかかったらしい。なにしろ、ああして自分の妻を金で売るような男ですからな。ただし、自分の享楽のためとあらば、その限りにあらずといったひとだったようで」
「つまりエゴイストなんですね」
「ええ、もう、エゴイストもいいとこで。だから、あのひと、あの後ずうっと独身でとおしてたようだが、おそらくああなったら、もうあの男の女房になるような女はいねえんじゃねえですか」
歯に|衣《きぬ》着せぬ老刑事の話を聞きおわると、
「いや、ありがとうございます。それじゃ、主任さん、みなさんがあちらでお待ちでしょうから、ひとつ|訊《き》き取りをさせていただこうじゃありませんか」
「ああ、そう、しかし、金田一先生」
と、田原警部補は真正面から金田一耕助の瞳のなかをのぞきこむようにして、
「先生はひょっとすると、あの仕込み杖のもちぬしをご存じなんじゃありませんか」
「ああ、そのこと……なあに、ありゃ篠崎氏のものですよ。絶対間違いなし」
と、金田一耕助は、こともなげにいってのけた。
第四章 譲治とタマ子
訊き取りが開始されたのはその夜も七時を過ぎていた。お糸さんの計らいで捜査員一同は、名琅荘の広い台所で遅い夕食にありついた。
金田一耕助はわざと名琅荘の関係者と、いっしょに食事をすることを避け、捜査員と行動をともにした。田原警部補から訊き取りに立ち会ってほしいという要請が出ていたし、かれもそうしたいと思っていた。それには関係者と必要以上に接触することによって、誤った偏見や先入観を持ちたくなかったのである。捜査員一同とともに食事をしたといっても、みんなそろってご|馳《ち》|走《そう》になったわけではない。捜査員たちはみんな忙しそうに立ち回っていて、食事をする閑さえ惜しそうであった。
ことに井川老刑事は、こんどの一件から一挙昭和五年の事件まで、解決にもっていきたい肚があるらしく、そのハリキリかたにはひとかたならぬものがあった。興奮するとこのひとは、まんまるい眼のしたの酒焼けが、いっそう黒ずんでみえ、その斑紋が黒ずんでくると、なんとなく狸然としてくるのであった。
訊き取りは名琅荘のフロントの一室でとりおこなわれたが、それに立ち会ったのは田原警部補と井川老刑事。この古狸の老刑事は、昭和五年以来の執念をこめて、関係者のいかなる虚言をも許すまじと、|虎《こ》|視《し》|眈《たん》|々《たん》と眼を光らせ、おりおり鋭い質問をそばから放った。
それらの一問一答は、小山という若い屈強の刑事によって丹念に記録され、田原警部補や井川老刑事も、とくに重要と思われる部分は、めいめいメモを取っていた。金田一耕助はさしずめオブザーバーという格で、かれもメモを取ることを怠らなかった。
一同が|鳩首《きゅうしゅ》協議の結果、まず御者の速水譲治から、訊き取りを開始することにしたが、それは当然の措置というべきであったろう。
速水譲治はきょう昼間、富士駅へ金田一耕助を迎えにきたときと、そっくりおなじ服装をしていた。金ボタンのたくさんついた、燃えるような|臙《えん》|脂《じ》|色《いろ》の制服に長靴をはき、頭に名琅荘ホテルの名前がはいった縁無しの制帽をいただいている。あのときとちがっているのは、手に|鞭《むち》をもっていないことぐらいだろう。さっき倉庫で見かけたときは上着をぬぎ、制帽もかぶっていなかったのに、こうして正装をこらしているところをみると、呼び出しのあることをあらかじめ覚悟していたのだろう。
この訊き取りには主として、田原警部補がみずから当たった。
「速水譲治君だね」
「はい」
「年齢は?」
「二十歳であります」
「君の境遇やこちらのご主人との関係は、いま金田一先生から聞かせていただいたが、君はきょう昼間、金田一先生を富士駅まで、馬車でお迎えにいったね」
「はい、社長のご命令でしたから」
ここでは従業員は篠崎慎吾のことを社長とよぶらしい。
「そのかえりに君はなにか妙なことを見なかったかね。この別荘のすぐ近くで」
「はい、見ました」
と、譲治はその質問を待ちうけていたように、
「ぼく驚いたんです。金田一先生、あれ、片腕の男みたいでしたね」
と、なれなれしく声をかけたが、金田一耕助がショボショボとした眼で、無言のまま自分の顔を見つめているのに気がつくと、すぐ相手と自分の立場を自覚したのか、視線を田原警部補のほうへもどして、
「たしかに片腕の男でしたよ。そいつが雑木林のなかを走っていたんです。すぐ見えなくなりましたが……。そう、この別荘の裏口のほうへ消えてしまいましたよ」
「しかし、君はどうしてその男が片腕しかないとわかったんだね」
「だって、そいつの片腕……そう、たしかに洋服の左の腕が妙にヒラヒラしてたんです」
「君はその男の顔を見たかね」
「いいえ、見ませんでした。むこうむきに背中をまるくして走ってたもんですから」
「服装は……?」
「さあ……黒い洋服を着てたとしかおぼえていませんが……そうそう、洋服の首筋から鼠色の、トックリ・セーターの襟みたいなもんがのぞいていました」
「ところで、君はいまその男の姿を見て驚いたといったね。なぜ……?」
「だって、片腕の男がそんなところを走ってるんですもの。……」
「だけどねえ、譲治君、昔とちがってこの大戦争のあとだろう。片腕の男ってそう珍しくないんじゃないかな」
「ええ、でも……」
と、譲治はあどけなくほほえんで、
「ぼく、片腕の男のことについてタマッペ、いえ、あの……タマ子ちゃんから聞いてたもんですから。タマ子ちゃん、その男のことでひどく御隠居さんに叱られたって。……」
戦後糸女はこの家で、御隠居さんとよばれているらしい。なるほど、御後室様では封建的とでもいうのであろうか。
「タマ子君というのは……?」
「出目金みたいな眼をした、ちょっと可愛い女中でさあ。御隠居さんのお気に入りですよ」
「タマ子君がなぜ片腕の男について、御隠居さんから叱られたんだね」
「ああ、ちょっと、主任さん」
と、金田一耕助がそばからさえぎって、
「そのことについちゃ、タマ子君から直接おききになったらいかがです」
「ああ、そう。ではそうしましょう」
「ただ……譲治君、タマ子君はそのことを君に話したんだね。片腕の男について、御隠居さんに叱られたってこと」
「ええ、ぼくたち仲好しだもんですから」
譲治はまたあどけなくほほえんだ。この男は若い娘だとだれとでも、すぐ仲好しになるのではないか。
「ところで……と」
田原警部補は自分のメモに眼をおとして、
「その男を見てからこの別荘の正面玄関まで、馬車が着くまで何分くらいかかったかね」
「さあ、……五分か六分くらいじゃないでしょうか。金田一先生はよくご存じのはずです」
「それから君はどうした。すぐあの倉庫へ引き返していったのかい」
「いいえ、ぼく、金田一先生のお荷物をもってお座敷までお供して、しばらくお話ししていたんです。金田一先生はぼくの恩人の、風間先生の親友ですから、ぼくも懐しかったんです」
「君は何分くらい、金田一先生のお座敷にいたと思うかね」
「さあ、五分か六分ってとこじゃないでしょうか」
その点、金田一耕助の記憶と一致していた。
「それから君はどうしたんだね」
「馬車をひいて倉庫へかえりました」
「その間、どのくらい時間がかかったと思うかね」
「五分はかかったでしょう」
「そうすると、君が雑木林のなかを走っていく、片腕の男を目撃してから、あの倉庫へ馬車をひいていくまで、しめて十五、六分はかかったということになるね」
「はあ、たぶんそうだと思います」
譲治の顔にはさすがに緊張の色が濃くなってきた。いよいよ質問が核心にふれてきたことを知っているのであろう。
「そのとき倉庫のなかにあのひと……つまり古館さんがいて、そいつを君が殺して、あんな|悪《いた》|戯《ずら》をしたのかね」
この残酷な質問に、譲治はおもわず椅子からとびあがりそうになった。顔が恐怖にひきつった。
「そんなばかな……ぼく、あのひとに会ったこと、いままでいちどもなかったんです。それは……|噂《うわさ》はいろいろ聞いてましたけどね」
「よし、それじゃ、そのときのことを詳しく話してみたまえ。君が馬車をひいて倉庫までかえっていくと……? そこになにがあったんだね」
「なにもありゃしませんでしたよ。いやだなあ、主任さんたら。あんまりひとを脅かさないでくださいよ。ぼく、いっぺんに汗が出ちゃった」
じっさい譲治の額には、いっぱい汗が吹き出している。警部補の|一《いっ》|喝《かつ》をくらったとたん、汗腺がつよく刺激されて、急激な発汗作用が起こったらしいのである。この男が犯人であろうという可能性は、ひじょうに薄いと思われる。警部補はただハッタリをきかせたまでである。それにもかかわらず、その一言が急速に発汗作用を促進したとすると、そこになにかあるのではないか。
しかし、金田一耕助の眼はただ眠そうでショボショボしている。
「それで、どうしたんだね。君が馬車をひいて倉庫へかえってきたとき、そこにだれもいなかった。そこで……?」
「ああ、そうそう、それで思い出したんですが、ぼくが馬車をひいて帰ってくると、倉庫の中から出てきたひとがありましたよ」
「だれだね、それは……?」
田原警部補の声が急に鋭くなった。
「お嬢さんの陽子さんと秘書の奥村さん、それから、あれ、お客さんなんでしょう。ルパシカ……と、いうんですか、変てこな上着をきて、ベレー帽をかぶってましたよ。大きなべっ甲ぶちの眼鏡をかけて……さっきもあの倉庫にいらっしゃいましたよ。金田一先生やなんかといっしょに……」
柳町善衛である。
「三人だけかね」
「はあ……」
「三人はそんなところでなにをしてたんだね」
「さあ……なんとなく通りがかりに、倉庫の中をのぞいてみた。……と、そういうことじゃないんですか。そんなふうに見えましたよ」
「君はそのうちのだれかと話したかね」
「はあ。お嬢さんがお客さまがいらしたのねとおっしゃいましたから、ええ、いま日本座敷のほうでくつろいでいらっしゃいますと申し上げたんです。そしたら……」
「そしたら……?」
「いえ、それだけですよ。お嬢さん、ああ、そう、ご苦労様とかおっしゃって、そのまンまほかのおふたりといっしょに、内塀のなかへ入っていかれたんです」
この名琅荘には外塀のほかにもうひとつ内塀があって、問題の倉庫は内塀の外にあることはまえにもいった。
「それで、倉庫のなかへ入っていくと、だれもいなかったというんだね」
「そりゃ、がらくたの陰にだれか隠れていたかもしれません。だけど、ぼく、そんなこと考えてもみませんでしたよ。はい、ぼくの見たとこじゃだれもおりませんでした」
「それで、君はどうしたんだね」
「ぼく、馬車を倉庫のなかに引っ張りこむと、フジノオー……と、いうのがあの馬の名前なんです。フジノオーを|頸《くび》|木《き》からはずして|厩《うま》|舎《や》へつれていったんです。厩舎はあの倉庫からそうとう離れたところにあります」
「そりゃおれも知っている。それから……」
と、井川老刑事のたたみかけるような質問に、
「それから、フジノオーの汗を拭いてやったりなんかして、一服してから|鞍《くら》をおいてひと鞍責めたんです」
「ああ、君は乗馬ができるんだね」
「はあ、こっちへきてから、すっかりあの馬と仲好しになっちゃって。……それに一日にいちどは運動させてやらないと、厩舎につなぎっ放しじゃ可哀そうですからね。それがぼくの仕事でもあるんです」
「君はどのへんまで馬を走らせたんだね」
「あの倉庫のすぐちかくに、裏へ出る出口があります。裏口を出ると右側はいちめんに蜜柑山、左側は雑木林です。そのあいだを|径《みち》が一本走っていて、途中でふたまたにわかれています。左へいくとさっき金田一先生を、ご案内してきた径へ出るんですが、ぼくそっちへいかずに右へとって、身延線の|竪《たて》|堀《ぼり》の途中までいってひきかえしてきました。きょうは富士山がきれいに晴れていて、とっても気持ちがよかったんです」
そんな話をするとき譲治の顔は、さえざえとして、なんの邪念もなさそうだった。
「譲治君」
そのとき、金田一耕助がボソリとそばから言葉をはさんだ。
「君はひょっとすると、片腕の男を捜しに出たんじゃないのかね」
「金田一先生」
あどけなくほほえむ譲治の表情にも音声にも、なんの抵抗もなさそうだった。
「はじめはぼくもそのつもりでした。だって、ダリヤの間へ入ったきり消えてしまったなんておかしいじゃありませんか。だからそこいらにいたら、とっつかまえてやろうと思ったんですが、すぐ忘れちまいましたよ。ぼくいつまでもひとつことに、こだわっていられない性分なんです」
金田一耕助は眼をショボつかせながら、しばらくまじまじと譲治の顔を見ていたが、
「あ、そう、主任さん、どうぞ」
「ああ、そう。それで譲治君、君、何分くらい馬を走らせていたんだね」
「ちょうど三十分です」
「時間を計っていたのかね」
「ええ、ぼくこの腕時計で……」
譲治は誇らしげに、左の手頸にはめた腕時計を見せびらかしながら、
「これ、オメガですぜ。オメガの夜光時計です。社長にいただいたんです。ぼく裏口から出るとトロットで馬をやりながら、林のなかを見まわしたが、どこにも片腕の男なんか見えなかったので、ギャロップに移ったんです。そのとき腕時計に眼をやったら……」
「何時だったい」
「三時二十分でした」
金田一耕助が譲治とともに、正面玄関へ馬車を乗りつけたのが三時ジャスト。それから耕助の座敷までついていって、五分ほどそこで話しこんだあと、倉庫までかえってくるのに五分かかったとして三時十分。それから馬を頸木からはずして厩舎へつれていき、そこでひと息いれて鞍をおき、馬を乗り出ししばらくトロットで歩いたのち、ギャロップへ移ったとすれば、ちょうどその時間になったであろう。
「それじゃ、君が厩舎へかえってきたのほ、五十分ということになるね」
「ええ、ぼく時間を計りながら馬を駆ってましたからね、厩舎へかえって時計を見たら、四時十分まえでした」
「金田一先生」
と、田原警部補は金田一耕助をふりかえり、
「先生があの事件のことを聞かれたのは……?」
「四時二十分でしたよ。陽子さんが変事をしらせてきたとき、わたし本能的に時計を見たんです」
「それから、先生はすぐにあの倉庫へ駆けつけられたんですね」
「ええ、篠崎さんご夫婦やお糸さんといっしょにね。途中で天坊さんといっしょになりました。陽子さんの案内で倉庫へきてみると、柳町さんと奥村君がいました」
「そのときこの男は……?」
「そのときはいませんでした。しかし、しばらくして気がつくと、タマ子君とふたり来ていたんです。上着は着ていなくって、上半身はメリヤスのシャツ一枚でしたね」
「譲治君」
と、警部補は譲治にむきなおり、
「三時五十分から四時二十分まで、君はどこでなにをしていたのかね」
「ええ、だから、そのことをいまいおうとしていたんです」
譲治はなぜかもじもじしながら、
「厩舎へかえってフジノオーの世話をしていると、そこへタマッペ……じゃなかったタマ子ちゃんが、ビールのジョッキを持ってきてくれたんです」
「へへえ、そりゃまたどえらいサービスじゃないか。ここのうちのひと、そんなこと知ってるのかい」
からかい顔に声をかけたのは井川老刑事である。狸のような顔が意地悪くわらっている。
「そ、そ、そんなこと、どうでもいいじゃありませんか。ジョッキの一杯やそこらで、破産するようなうちじゃありませんからね」
「さよう、さよう、親方日の丸じゃなかった、親方篠崎産業さんだからな。おうらやましいご身分だ。さて、それからどうしたい」
「それから……それから……タマッペといろいろ話をしてると、倉庫のほうがなにやらガチャガチヤしてるんで、タマッペといっしょにきてみたんです。そしたら……」
「ちょい待ち。タマッペ嬢といったいどんな話をしていたんだい」
「そ、そんなこと、どうでもいいじゃありませんか。こんどの事件にべつに関係ないことだし……」
「ところが、坊や、ちょっとお聞き」
と、井川老刑事は狸のような顔に、いよいよ意地悪そうな微笑をうかべて、
「おれさっきあの厩舎のなかを調べてきたんだが、あそこうまくできてるね」
「うまくできてるってなにが……?」
譲治はなんとなく不安そうである。井川老刑事の意地悪そうなニヤニヤ笑いは、いよいよ深刻になってきた。狸のような目玉をくりくりさせながら、
「ほら、壁際に棚があって、棚のうえに乾草がいっぱい積んであるだろ。おあつらえ向きの二段ベッドさあね。デカなんてやつはどうせ根性がいやしいから、おれ二段ベッドのうえへあがってみたのさ。そしたらちかごろだれかがそこに寝てたように、乾草にくぼみができてらあな。あれッ、だれがこんなところにおネンネあそばしたのかと、クンクンそこいらを嗅ぎまわってるてえと、ほら、乾草のなかからこんなものが出て来たぜ」
老刑事がパッとひろげてみせた|掌《てのひら》のなかには、この老刑事に不似合いなしろものがのっかっている。ピンク色の光沢をもった、薄い円型のしろものである。コンパクトであった。
「あ、そ、それは……」
譲治の全身はもののみごとにまっかに染まった。あわててとびつこうとするのを、
「おっと、どっこい!」
と、すばやく握り拳をひっこめた老刑事は、自分の鼻先でパッと掌をひらくと、わざと感にたえたようにしげしげながめながら、
「なかなかしゃれたコンパクトだが、これタマ子のものかい」
譲治はいまや窮地におちいった。七面鳥のように赤くなったり青くなったり、眼を白黒させているのを尻眼にかけ、
「二段ベッドの上の段の、乾草がほどようくぼんでいて、しかも、乾草のなかにこんな色っぽいものが落ちているなんて、おい、坊や、この|謎《なぞ》をなんと解く」
金田一耕助はさっきから、吹き出しそうになるのをこらえていたが、ここにいたって、田原警部補と速記係の若い屈強の小山刑事は、やっとその謎が解けたらしく、場所がらをもわきまえず、ゲラゲラ笑い出した。
「なるほど、そうか。そいつはお安くないね」
「主任さん、デカなんて因果なショウバイですぜ。ひとの|濡《ぬ》れ場のあとを嗅ぎつけると、ごていねいにも、乾草の|匂《にお》いのほかに、もうひとつちがった匂いも残ってやしねえかと、鼻くっつけて、クンクンそこいらを嗅ぎまわるんですからな」
「それでおやじさん、ほかの匂いも残ってましたか」
若い小山刑事がおもしろそうに口を出すのに、井川老刑事は怒った狸のような眼をむけて、
「てめえは黙ってすっこんでろ。てめえはな、前代未聞の恐ろしき殺人が演じられた現場から、ほど遠からぬところにおいて、おなじころ、|眉《み》|目《め》うるわしき男と女のあいだに、世にも情緒|纏《てん》|綿《めん》たる濡れ場が演じられていたのであアると、そう書いときゃいいんだ。な、坊や、そうだろう」
「なんとでもおっしゃいよ」
譲治もすっかり度胸をきめたらしく、ふてくされたような態度を露骨にみせて、
「だって、仕方がないじゃありませんか。こっちへきてからまもなく、あの娘を一人前の女にしてやったんでさあ。そしたらあいつ、すっかり味をおぼえやアがって、ぼくの顔さえみりゃアせがむんでさあ。だからちょっとね。うっふっふ。だけど、刑事さん、そんなこたあこんどの人殺しと、なんの関係もないじゃありませんか」
まさにそのとおりであった。見ようによってはこの古狸の老刑事は、譲治のために無罪を証明しているようなものである。この変てこな殺人をやってのけたすぐそのあとで、女と情事を遂行するほどのくそ度胸は、この坊や坊やした青年にはないであろう。
「だからよ。倉庫のほうであの騒ぎが起こったとき、てめえたちがどういう状態だったか、主任さんにご説明申し上げたまでのことさ。ときにことはもう終わってたのかい」
「やだなあ。ええ、ええ、もうすんでましたよ。ふたりでうっとりしてたんでさあ。そしたら倉庫のほうがなにやら物騒がしいでしょ。それで、タマッペとふたりで来てみたらあれでしょう。ぼく、すっかりおったまげちゃって。……」
「ところで、譲治君」
狸刑事のとんでもないスッパ抜きに、抱腹絶倒していた田原警部補も、やっと平静をとりもどすと、
「馬車のうえにいた被害者、すなわち古館辰人氏だが、それ、雑木林のなかを走っていた片腕の男と、おなじ人間だと思うかね」
「ぼくはおなじ人間だと思います。洋服の色といい、襟からのぞいていたトックリ・セーターの首といい……」
「なるほど」
そうだとすると犯行の時刻が、非常に限定されてくるわけである。
「ときに、坊や、おめえこれに見憶えはねえかい」
この狸刑事は手品師みたいである。こんどパッとひろげてみせた、掌のうえにのっかっているのは、ハンカチにくるんだマドロス・パイプ、パイプは柄のところでまっぷたつに折れている。
「ああ、それ! ぼくもそれに気がついていたんです。馬車を倉庫へ引き込んだとき、車輪がなにかを踏んだとみえ、ガリガリと音がしました。見ると、そのパイプが落ちていたんです。倉庫から馬車をひきだすまえ、そんなものはなかったんですから、あとでだれか……さっきそこから出ていった三人のひとり、たぶんあのベレー帽のひとが、落としていったんだろうと思っていました。拾っておいてあげるつもりだったんですが、馬を頸木からはずしたりなんかしているうちに、忘れちまったんです」
「ときに、譲治君」
そばから眼をショボつかせながら、声をかけたのは金田一耕助である。
「あの馬車だがね、あれは君が置いていったとおりの場所にあったかね。それともだれかが動かしたような形跡はなかったかね」
「いいえ、あれはぼくが置いていったときのまンまでした。だれも動かしたような形跡はありません」
「それじゃ、もうひとつ聞くが、君はきょうぼくがここへくることをしっていたのかね」
「いいえ、知りませんでした」
「篠崎さんはなんといって君に命令したんだね」
「二時三十五分着の汽車で、お客様がひとりいらっしゃるから、お迎えにいくようにって。だから、そのときぼく、お客様が先生だとはしらなかったんです」
「ああ、そう、では、主任さん、どうぞ」
「ああ、いや、それじゃこれは……」
田原警部補はテーブルの下から、仕込み杖を取り出すと、
「こういうしろものがあの倉庫のなかに落ちていたのだが、君はこれに気がつかなかったかね」
ズラリと抜き身を抜いてみせると、譲治はびっくりしたように体をギクッとうしろへずらせた。
「そ、そんなものがどこに……?」
「いや、どこでもいいが、金田一先生のお話によると、これは篠崎さんの仕込み杖だというんだが、君、こんなものをまえに見たことはないかね」
「いいえ、知りません。見たこともありません。しかし、まさか社長が……?」
「さあ、なんともいえんな。被害者は篠崎氏の奥さんの、まえの旦那さんだからな。篠崎さんが握りのところで、があんと一発くらわしたんじゃないかな」
わざと意地悪そうに、目玉をくりくりさせる狸刑事の術中におちいったのか、譲治は唇までまっさおになって、額にはいったん引いた汗が、またぐっしょり浮かんできた。
「そ、そんなばかな! うちの社長はそんなひとじゃありません。そんなばかな! そ、そんなばかな!」
あどけない美貌が、苦痛にもひとしい憂慮の色にゆがむのを、田原警部補はきびしい眼で見つめながら、
「まあいい、まあいい。いずれ調べていけばわかることだ。じゃ、君は引きとってよろしい」
譲治は無言のまま立ちあがると、おびえたような眼の色で、一同の顔を見まわしていたが、やがて|踵《きびす》をかえして出ていくとき、バランスを失ったようなその足どりが、一同にはひどく印象的だった。
「やっこさん、ひどくショックを受けたらしいが、よっぽど社長思いなのかな。それともほかに原因があるのか……」
古狸の井川老刑事がつぶやいた。
「ああ、君が戸田タマ子君だね」
「はあ」
譲治のつぎに呼び出された戸田タマ子は、不安そうな額にはや汗をにじませている。
さっき井川老刑事があばき立てた情事については、必要のないかぎり当分不問に付しておいてやろうじゃないかという、田原警部補の思いやりのある提言を、一同は了解していたが、それでもまだ若い小山刑事は好奇心にみちた視線で、タマ子のからだをなめまわしている。
「年齢は……?」
「十八歳でございます」
「君、このうちでは古いの?」
「はい、もうかれこれ半年。……以前はご本宅のほうにいたんですけれど、ここがホテルになるにつき、こちらのほうへ回されましたので……」
「本宅のほうはどういう縁で……?」
「旦那様……いえ、あの、社長さんのお知り合いのかたのお世話で……」
タマ子はなぜかそれ以上のことはいいたくないらしかった。どうせヤミ商売の仲間の世話かなんかであろう。
「ここへ回されたのは旦那様の希望で……?」
「いえ、そうじゃなく、御隠居さまがご本宅へおみえになりまして、あたしを選んでくださいましたので……」
器量も悪くない。十八歳という若さが、着物のしたから盛りあがっているような娘である。いまどきの娘としては口のききかたもしっているのは、糸女の仕込みのせいだろうが、語尾が口のうちで消えていくのと、出目金のようにはれぼったい眼をすぼめて、たゆとうように相手を見るしぐさに、どこか頼りなげなところがあって、いかにも譲治のような不良に、ひっかかりそうな危険性のある娘だと思われた。
「以前本宅にいたとすると、いままでここにいた速水譲治君と、まえから知り合いだったのかね」
「いいえ、本宅にいるじぶん、あのひとはまもなくTホテルヘ住み込みになりましたし、あたしは奥勤めでしたから……それはたまには顔を合わせることもございましたけれど……」
「それじゃ、こちらへきてから親しくなったんだね」
「あの……そのことについて譲治さん、なにかいってましたか」
「いやあ、べつに……ただあの騒ぎが起こったとき、君といっしょだったようだからね」
「はあ、譲治さんが乗馬からかえってくると、いつもジョッキを一杯持っていってあげるようにとの、御隠居さまのおいいつけでございますから……」
「なんだ、それ、あのばあさんの差し金か」
「はあ。譲治さんは御隠居さまのお気に入りですから……」
「君も御隠居さんのお気に入りなんだろ?」
「さあ、あたしはどうだか……」
譲治の名前が出ていらい、タマ子はさすがに赤くなってモジモジしている。
「ときに、タマ子君」
そばから金田一耕助が口をはさんだ。
「本宅にいるとき、君は奥さま付きの女中さんだったのかね」
「とんでもない!」
タマ子は意外なほど強い言葉で打ち消して、
「あたしは台所付きの女中でした。奥さまはとても身分の高いおかたですから、あたしみたいなもん、おそばへ寄れるはずはございません」
「ああ、そう、では、主任さん、どうぞ」
「そう、それじゃ、タマ子君、君にここへ来てもらったのは、一昨日、すなわち金曜日の夕方のことを聞かせてもらいたいのだが……ほら、一昨日の夕方、真野信也と名乗って片腕の男がここへきたろう。その男についてききたいんだがね」
「ああ、あのかた……あのかたいったいどうなさいましたんでしょうねえ。御隠居さまは急に気がかわって、ほかへ移られたんだろうとおっしゃいますけれど……」
「いや、そのことについてね、もっと詳しいことを、聞かせてもらいたいんだが……」
「はあ、でも、そのときはべつに変わったこともございませんで……あれ、ちょうど夕方の四時半ごろのことでございました。そのまえに御隠居さまから四時半か五時ごろに、旦那様のご懇意のかたがいらっしゃるはずになっているから、ご丁寧にお扱いするようにとのご注意がございまして……ですから、そのかたが旦那様のお名刺をもっていらっしゃると、すぐ御隠居さまのところへもってまいりましたところ、ダリヤの間へご案内するようにとのことでございましたから、仰せつかったとおりにいたしましただけのことなんですけれど……」
そこにはなにもしくじりはないはずだと、タマ子の眼は主張している。
「そのとき、君はその男の左腕がないことに気がついていたんだね」
「はあ、それはもちろん」
「そのことを、御隠居さんに名刺を取り次いだときいわなかったのかね」
「だって、そんな失礼なことを……、そのかた旦那様のご懇意なかたでいらっしゃるというお話でございますし……」
「ああ、いや、タマ子さん」
と、そばから金田一耕助がとりなすように、
「主任さんはそのことについて、君をとがめてるんじゃないんだよ。ただ、御隠居さんにいったかいわなかったかってことをたずねていらっしゃるんだ」
「はあ、あの、それは申し上げませんでした。あとになって……そのかたのお姿が見えなくなってから、どういうかただったとおたずねがございましたので、はじめて片腕のないかたでいらっしゃったと申し上げたのでございます」
「そのときの御隠居さんのようすはどうだった? びっくりしてた?」
「はあ、なんだかとっても。このことは絶対に他言してはならぬと、固くお口止めがございました」
「しかし、君はそのことを譲治君にしゃべったんだね」
「ええ……いけなかったんでしょうか」
「いや、いいんだ。いいんだ。それでは主任さん、あなたからどうぞ」
「はあ、それでタマ子君、君、その男の人相|憶《おぼ》えているだろうね」
「はあ、でも、ほんのちょっとお眼にかかっただけですから……でも憶えてるだけのことを申し上げますと、黒い鳥打ち帽子に、大きな黒眼鏡をかけ、感冒よけの黒いマスクをかけていらっしゃいました。それですからお言葉がハッキリしませんで……お年ごろももうひとつ……」
「ああ、そう、それではもうひとつ聞くが、君、きょうここで殺された古館辰人というひとに会ったろう」
「はあ、さっき死骸……いえ、あのお|亡《なき》|骸《がら》を運びだすとき、お巡りさんの命令で顔を拝見いたしましたけれど……あれなにか……?」
そのときのことを思い出したのか、タマ子の眼に恐怖の色が走った。
「いや、ひょっとすると、そのひとじゃなかったかと思ってね。その片腕の男というのが……」
「まあ!」
と、タマ子は眼をすぼめて警部補の顔を凝視していたが、やがて頭を強く左右にふると、
「いいえ、そんなことは絶対に! 古館様ならば、きのうお見えになりましたときもお眼にかかりましたが、あのかたはほんとうに|華《きゃ》|奢《しゃ》なかたでいらっしゃいますわね。お|身《み》|丈《たけ》も五尺四寸くらいじゃございません? ところが金曜日の夕方いらしたかたは、もう少しがっちりとしたおからだで、お身丈なんかも、五尺六寸くらいはおありのようにお見受けしたんですけれど……」
「ああ、そう、それじゃ絶対だね。だけど、そうするといまこの家にいるひとで、片腕の男に相当するような人物に思いあたらないかね。いまこの家にいる男子といえば、旦那様に天坊さん、柳町さんに、秘書の奥村君の四人だが、四人とも会ってることは会ってるんだろう」
「さあ、いっこうに……天坊様でないことだけは確かですけれど……」
「ああ、そう、それでは金田一先生、あなたなにか……」
「それじゃ、タマ子君にたいへん失礼なことをきくようだけどね。君、近視何度なの?」
「あら!」
とつぜん、タマ子は全身に火がついたようにまっかになるとともに、顔面筋肉が収縮して、いまにもベソをかきそうな顔色になった。
「ああ、ごめん、ごめん、いいんだよ、いいんだよ、タマ子君。御隠居さんはそれも承知のうえで君を選んだんだろうからね。それじゃ、すまないけどむこうへいったら、陽子お嬢さまにこちらへくるようにいってくれませんか」
両手で顔をおおうて、逃げるように出ていくタマ子のうしろ姿を見送っていた田原警部補は、その強い視線を金田一耕助のほうへもどすと、
「金田一先生、それじゃお糸ばあさんは、タマ子を近眼としっていて、片腕の男がやってきたとき、玄関へ出るように命じたとおっしゃるんですか」
「あるいはしからんですね。あの娘の近視、そうとう度が強そうじゃありませんか」
「そうすると、先生」
と、そばから体を乗りだしたのはタマ子の供述を速記していた若い屈強の小山刑事である。
「お糸ばあさんはその片腕の男をしってるとおっしゃるんですか」
「それまた、あるいはしからんですね」
「そうです、そうです、主任さん、全然しらぬ人間を抜け穴のある部屋へ通すというのはおかしい。こいつはよっぽど気いつけておらんと、あのくそったればばあに一杯食わされますぜ」
と、そういきまいたのは井川老刑事である。それについて田原警部補が、金田一耕助の意見を聞こうとしているところへ入ってきたのは陽子である。
第五章 フルート問答
「ああ、陽子さん、いらっしゃい。主任さんがあなたにおききになりたいことがおありだそうです。主任さん、こちらが篠崎さんのお嬢さんの陽子さん、このかたがあの事件の発見者なんです」
「ああ、そう、お嬢さん、どうぞそこへお掛けになってください」
「はあ」
タマ子ほどではないにしても陽子ももちろん固くなっている。警部補に指さされた椅子に腰をおろすとき、タイト・スカートがいかにも窮屈そうであった。それでも、両脚を組んでさあとばかりにこちらへむきなおったとき、金田一耕助はおやじ譲りのファイトをそこに感じずにはいられなかった。
陽子はけっして美人ではない。|鰓《えら》の張っているところは父親そっくりで、意志の強さを思わせる。体もがっしりとしてたくましく、いささか出っ尻でさえある。それでいて、この娘と相対していると、ほのぼのとした温かさがかんじられるのは、これが青春というものか。それとも、この娘の屈託のない性格からきているのだろうか。
年齢はタマ子より二つ三つうえだろう。
「失礼ですが、あなたが、あの……死体を発見なすったんですね」
「はあ、でも……金田一先生はご存じないんですけれど、あれを発見いたしましたのは、厳密に申しますと、あたしひとりではございませんの。ほかにふたり連れがございましたの」
「連れとおっしゃいますと……?」
「柳町さまと奥村さん……奥村弘さんでございます」
「ああ、なるほど、それじゃお嬢さん、いっそのこと、きょうのお昼からの出来事を詳しくお話しねがえませんか」
「はあ、承知いたしました」
と、陽子はうるさそうに頭を左右にふって、短く切った髪をさばくと、
「お昼食がおわったのはちょうど午後一時でした。ついでにここで食卓をともにしたかたがたを申し上げますと、天坊さまに古館さま、柳町さまのお三人さまに父、あたし、奥村さんの六人でございました。食事の指図はなにかとお糸さんがしたんですの。それから……」
「ああ、ちょっと……そのとき、お母さんは……?」
「母はちょっと加減が悪いといって、食堂へは出ませんでした」
「ああ、なるほど、それから……?」
「それから、あたしたち……奥村さんとあたしとはピンポン・ルームへいきました。なおついでに申し上げますが、あたしたちが食堂を出るときには、まだみなさんそこにいらしたのです。ですから、それが生きていらっしゃる古館さんをみた最後でした」
「なるほど、それでピンポン・ルームへいらして、それから……?」
「二時ごろまで奥村さんとピンポンをしておりました。そのうちに二時になったものですから、そっとお糸さんの様子をみにいきました。二度様子を見にいったのです」
「なぜ……? なぜ二度もお糸さんの様子を見にいったんですか」
「はあ、あのひと年寄りだもんですから、毎日二時から三時までお昼寝をいたしますの。そこで、お糸さんの寝てるまにちょっと冒険をしてみようと、奥村さんとお約束をしていたものですから」
「冒険とおっしゃると……?」
「ダリヤの間から抜ける抜け穴の探検でございますの」
「あっ!」
と、いうような叫びが一同の唇からもれ、田原主任はテーブルのうえへ乗りだしてきた。
「それじゃ、金曜日の夕方、ダリヤの間から消えた男のことをご存じなんですね」
「はあ、だって、ゆうべのお夕食のときそれが話題にのぼったんですもの」
「陽子さん」
と、そばから言葉をかけたのは金田一耕助である。
「だれがそれをいいだしたんです? パパですか」
「いいえ、パパじゃなくお糸さんでした」
「ああ、そう。ゆうべのお夕食のときにはママもいっしょ?」
「はあ」
「けさは?」
「朝はみなさんべつべつですから……」
「ああ、そう、それでは主任さん、どうぞ」
「はあ……それで、お嬢さんはその冒険を決行なすったんですか」
「ほっほっほ、冒険と申し上げたのはお糸さんの眼を盗むことなんですの、あのひとちょっとうるそうございますから。あの抜け穴はまえにも抜けたことございますから、べつに冒険でもなんでもないんですけれど……」
「それ、何時ごろのことでした。あなたが抜け穴へもぐりこまれたのは……?」
「二時四十分ごろでしたかしら。むこうの出口へ出たのが三時ちょっとすぎでしたから……」
「いったい、その出口というのはどこにあるんですか」
「事件のございました倉庫がございますわね。あの倉庫のすぐ北側に丘が迫っていて断層をつくっているのにお気づきでしょう。その丘の下に|祠《ほこら》みたいなものがつくってございますけれど、その祠というのが、むこうの出口のカモフラージでございますのね。その祠のなかへ出るんですの。祠には仁天堂という額がかかってます」
「しかし、それ、二十分もかかる道程なんですか」
「いえ、それほどでもございませんけれど、ふつうの往来を歩くようなわけにはまいりませんわねえ。いちど入ってごらんになることをお|奨《すす》めいたします。ちょっと大変な抜け穴なんですの。ことにきょうは、片腕の男の痕跡はなきやと、|鵜《う》の目|鷹《たか》の目でございましたから……」
そこで陽子が意味ありげにわらったので、金田一耕助が気がついて、
「ああ、それで陽子さんはなにかその抜け穴で見つけたんですね」
「ええ、金田一先生、拾ったんですのよ。とってもすばらしい証拠を……」
「な、なにを……?」
と、田原警部補が乗り出すのを、陽子はあら、ごめんなさいといわぬばかりに首をちぢめて、
「それがねえ、主任さま、捕えてみればわが子なりの反対で、どうやらこれ、パパのライターらしいんですのよ」
と、陽子がスカートのポケットから取り出したのは、洋銀製のがっちりとした、いかにも慎吾そのひとを思わせるようなライターである。田原警部補はそれを手にとると、いささか緊張の面持ちで、縁なしの眼鏡のおくの眼が光った。
「そうすると、お父さんも最近、その抜け穴をお通りになったわけですね」
「あのひとねえ、金田一先生。片腕の怪人なんか、歯牙にもかけんというような顔をしてますけれど、こうして金田一先生をお願いしたくらいですから、やっぱり気にしてるんですわねえ。それに、あのひときのう午前中にこちらへきたんですの。そのときお糸さんからあの話、聞いたにちがいございませんわねえ。それで自分も探検してみたんだと思うんですの。あたしどもには申しませんけれどねえ。でも、それ、この家の主人として当然の行動だとはお思いになりません?」
「それはそうですね。ことに、片腕の男に縁の濃いお客様がいらっしゃる直前とあらばね」
「はあ。ですから、これパパに返してあげようと思いながら、あの騒ぎにとりまぎれて、つい忘れておりましたの」
「なるほど、それじゃ、お嬢さん、まことに恐れ入りますが、このライター、しばらくわれわれにお預けねがえませんか」
「ええ、どうぞ。でも、主任さま、そのことパパにいってもよろしいんでしょう。主任さまに重大な証拠物件をおさえられたってことを……」
「いや、べつに重大な証拠物件というわけじゃありませんが、それはおっしゃってくだすっても結構ですよ」
「あら、そう、それじゃ申しておきましょう。警察のかたに重大証拠物件をおさえられてしまったから、パパ、身におぼえのあることなら、大至急防衛態勢をととのえなきゃだめよって」
と、陽子は|挑戦《ちょうせん》するような眼つきである。
「ああ、いや、お嬢さん、まさかそんなことは……」
と、田原警部補はそばでメモをとっている、小山刑事や井川老刑事と眼を見交わせながら、
「それより、それからあとの話を聞かせてください。抜け穴を抜けたのが三時ちょっと過ぎだとおっしゃいましたね。それから……?」
「あら、ごめんなさい。話が横道へそれてしまって……さて、抜け穴を抜けるとそこが問題の倉庫……倉庫のすぐそばでございますわね。ところがあの倉庫のすぐそばに、蜜柑山や雑木林へつづく裏門があるのを、みなさんもお気づきになっていらっしゃると思いますけれど、片腕の男はきっとこの抜け穴をぬけて、裏門から出ていったにちがいないと、奥村さんとふたりで、裏門の締まりをみにいったんですの。そしたら……」
「そしたら……?」
「はあ、戸締まりはおろか裏門はあけっぱなしになっておりまして、向こうからぶらぶらと柳町さまが、マドロス・パイプを吹かせながら帰っていらっしゃいましたの」
「柳町さんが……? 柳町さんはなんだって、そんなところを歩いていたんでしょう」
「ほっほっほ、そんなことあのかたのお勝手……と、申し上げてもよろしいんですけれど、じつは柳町さまがどうしてそこにいらしたのか、われわれには|一目瞭然《いちもくりょうぜん》だったんですの」
「と、おっしゃるのは……?」
「柳町さまのズボンの|裾《すそ》がぬれていて、ルパシカのあちこちに、|蜘《く》|蛛《も》の巣やなんかがひっかかっていたものですから」
「あっ!」
と、いいたい叫び声を田原警部補はかみ殺して、
「それじゃ、柳町さんもその抜け穴をぬけて……」
「はあ、あのかたにとっても気になる人物ですわねえ、片腕の怪人というのは……」
「そうすると、柳町さんもその抜け穴というのをご存じなんですな」
と、たまりかねたようにそばから|嘴《くちばし》をさしはさんだのは井川老刑事である。老刑事の古狸のような眼に奇妙な輝きがもえている。
「それは……だって、あのかたのお姉さまがこの家の女主人でいらしたんですもの。ちょうどあのかたが中学生時分で、よくお友だちをつれてきて、抜け穴ごっこやなんかして、お糸さんに叱られなすったそうです」
「なるほど、すると柳町さんのほうが、陽子さんなんかより一足さきに、その抜け穴を通ったというわけですか」
「ええ、そういうことになるんですのね。お互いに体にくっついた蜘蛛の巣を笑いあったんですの」
「なるほど、なるほど、それから……?」
「はあ、それから、倉庫のなかをちょっとのぞいて、こちらへ帰ってきました」
「なぜ倉庫の中をのぞいたんですか」
「はあ、それはこういうわけでした。柳町さまにとっては、ここは懐しい思い出に包まれているところなんですわね。あのかたは財産税やなんかで寸断されるまえの名琅荘をしってらっしゃるわけです。ですから、昔はもう今時分になると、この倉庫なんかも蜜柑の箱がぎっちり詰まっていたもんだとおっしゃって、三人ともちょっとなかへ入ってみたんです」
「そのとき、倉庫のなかに変わったことは……?」
「いえ、べつに……?」
「陽子さん、正確にいってそれ何時ごろのことかわかりませんか」
金田一耕助の声が、妙に|咽《の》|喉《ど》にひっかかっているようなのに気がついて、陽子はそのほうへ視線をむけると、
「じつはあたし祠を抜け出したとき、思わず腕時計を見たんですの。抜け穴を抜けるのに、何分かかったかと思ったもんですからね。三時六分でした」
「と、すると倉庫の中へ入っていかれたのは……?」
「三時八分か九分ということになるのではないでしょうか。そうそう、そのことなら速水さんにお聞きになったら……? あたしたちが倉庫から出てきたとき、あの人が馬車を引いて帰ってきましたから」
田原警部補と井川老刑事は、いそいで自分たちのメモに眼を落とし、小山刑事は速記録を引っ繰り返していた。だいたい譲治の供述と一致するようである。
「あたしそれで、お客様がお着きになったことをしったのです。それにしても、先生、あの馬車の乗り心地、いかがでした?」
「ああ、もう大変面目をほどこしましてな。ああいうものに乗ると、なんだか急に、偉くなったような気がするんだから不思議ですな」
「うっふっふ。金田一先生は変わっていらっしゃいますのね。父の貴族趣味もいいところですわ」
「それはそれとして、陽子さん、あなたきょうここへ、金田一耕助というメイ探偵がやってくるってこと、ご存じでしたか」
「いいえ、それはしりませんでした。ただ速水さんがお客様を、馬車でお迎えにいったって聞いてたもんですから」
「ああ、なるほど。ときに、陽子さん、あなたがたが倉庫のなかにいられたとき、ガラクタ道具のかげにだれか隠れていたとしても、気がつかなかったでしょうな」
「あたしそんなこと、考えてもみませんでしたわ」
陽子はそこで急に身ぶるいをすると、
「なにかそんな気配がございますの。あのとき、殺人犯人が倉庫のどこかに隠れていて、あたしたちの挙動をうかがっていたとでもおっしゃいますの」
「いや、そこのところが、はなはだ微妙になってきてるんですがね。それから……? 三人そろってこちらへ帰っていらしたんですね。それから……?」
「あたしたちはまずバス・ルームへとびこんでシャワーを浴びました。じつはこちらへ帰ってくる途中、柳町さんにおねだりして、フルートを聴かせていただくお約束になっていたんです。それで、こちらへ着くと三人ともシャワーを浴び、それからこのむこうの娯楽室へ集まって、フルートを聴かせていただいたんですの。あのかたのフルートとってもすてき」
そのフルートの音なら金田一耕助も風呂場で聞いている。
「それから……? それからまたあの倉庫へ出向いていかれたのですか」
「ええ、それというのが、フルートが終わってから柳町さまが、なんとなく、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》そうにしていらっしゃいますでしょう。どうなすったのかとおたずね申し上げたら、パイプをどこかへ落としてきたらしいとおっしゃいますの。そのパイプならたしか裏門のところでお眼にかかったとき、口にくわえていらっしゃいましたから、それではあのへんでお落としになったにちがいないって、それで三人で捜しにまいりましたの」
「それで、倉庫の中じゃないかってことになったわけですか」
「はあ、裏門のへんを捜してみても見つからないでしょう。それで、倉庫の中じゃないかって、いい出したのはあたしでした」
「それで、あの死体に最初に気がつかれたのは……?」
「それは奥村さんでした。いえ、ひょっとすると柳町さまだったかもしれませんわね」
「と、おっしゃると……?」
「あたしはオッチョコチョイですし、だいいちパイプが、馬車の上などにあるわけがないでしょう。あたし地面ばかり見てましたわ。パイプはすぐに見つかりました。あら、お気の毒に。まっぷたつに折れてしまって……なんていってたら、とつぜん奥村さんがすごい力であたしの腕をつかんで、外へ引っ張り出そうとするんです。あのときの奥村さん、気が狂ったみたいだった。あたしびっくりして柳町さまのほうをみると、あのかた唖然としたような顔色で、馬車の上を見てらっしゃるでしょう。それでひょいとそっちを見ると……もうこれでよろしいのじゃございません」
「いや、もうちょっと……お心苦しいところを恐縮ですが、あなたそれが死体だということに、すぐ気がおつきでしたか」
「ああ、そのこと。……正直いってはじめはあたし腹が立ちました。つまらない悪戯をなさると思ったんですの。でも、奥村さんや柳町さまが、あまり深刻な顔をしていらっしゃるものですから……奥村さんが馬車の上へあがって、ちょっとお体を触ってみて、まっさおになってあわてて降りてこられたんです。それでやっと死んでらっしゃることに気がついたんです。その瞬間、今度はあたしのほうが気が狂いそうになりました。それからあとは、金田一先生のほうがよくご存じでいらっしゃいます」
「いや、ありがとうございました。それじゃ、主任さん、あなたなにか……」
「ああ、そう、それではお嬢さん、あなた東京の本宅のほうでご両親と、ごいっしょにお住まいなんでしょうね」
「ええ、それはもちろん」
陽子はふっとからかうような表情をして、
「あたし母ととっても仲好しなのよウ……と、いったら|嘘《うそ》になるかもしれませんわね。でも、べつに仲が悪いってほうでもありませんの。母とあたしとでは生まれも育ちも、ものの考えかたもまるでちがいますでしょう。だから、おたがいに干渉しあわないことになってますの。母に対するあたしの考えかたを率直に申しますと、いつまでも若くて、美しくて、父を大事にしてくだすったら……と、ただそれだけ。あたしこれでも父親思いなのよ」
「お父さんとお母さんの仲はどうですか」
さすがに陽子はちょっと緊張した顔色で、
「父は大きな赤ちゃんですの。それは仕事はできるのかもしれませんが、人間としては子供のようなひとです。所有欲が強いのね。欲しいものを手に入れると、それでもう安心してるってふうです。だから近ごろの父は満足でしょうし、父が満足ならばあたしも満足してますの」
「近ごろ……お父さんとお母さんのあいだにですな、なにかこう、気まずいことでもあったんじゃ……?」
「それ、どういう意味ですの。あたしいっこう気がつきませんけれど、なにかそういう気配でもあったんですか」
「じつは……こんなものが現場、すなわちあの倉庫の中から発見されたんですがね」
田原警部補がデスクの下から、とつぜん例の仕込み杖を出して突きつけると、陽子の顔にさっと恐怖の色が走った。大きく見開かれた眼が、仕込み杖に|釘《くぎ》づけになったまま、おびえたようにふるえている。
「見憶えがおありのようですね」
「ええ、知ってます」
陽子はしぼり出すような声で、
「ずうっとせんに父が持っていたものです。そんなみっともないものおよしなさいって、父にとめたことがございます。しかし、父が……まさか!」
「まさか……と、おっしゃいますと?」
「だって、父は勝利者ではございませんか。恨まれるとしたら、むしろ父のほうではございません?」
「なにかちかごろ、古館さんとのあいだにトラブルでも……」
「存じません。そうそう、古館さまがちかごろ、ゴルフ場の建設を企画していらして、父が経済的に援助申し上げるとか……そんな話を奥村さんからうかがったように思いますが、お仕事のほうは、あたしあまり興味がないものですから……」
仕込み杖を突きつけられて以来、陽子の態度はあきらかにちがってきた。心の動揺は覆うべくもなく、言葉とはべつになにかほかのことを考えているふうでもあり、疲労の色が急に濃くなってきた。
「じゃ、きょうはこれくらいで。……金田一先生、あなたまだなにか……?」
「はあ、それでは……」
田原警部補に促されて、金田一耕助はもういちど、椅子のなかで体を起こすと、
「それじゃ、陽子さん、妙なことをおたずねするようですが、お父さん、現在、どのくらい体重がおありでしょうかねえ」
「まあ!」
「陽子さんはお父さんの体重を、ご存じじゃありませんか」
「はあ、あの……」
と、陽子は|怪《け》|訝《げん》そうな顔をしながら、
「あのひと身長が五尺七寸ちかくございますの。ですから父のいちばんいい体重は二十貫だそうで、それ以上太らないようにと、つねづねお医者さまから注意をうけておりますの。ところがあのひと、なにもしないで……と、いうことは運動もしないで汗を出さないでおりますと、すぐ二十二貫三貫と太る体質なんでございますのね。それで最近も二十三貫ちかくまで体重がふえたもんですから、たいそう母に叱られまして……ところが、父は父でそういう体質であることが自慢なんですのね。あのひと野人だもんですから……それで、つい、母をからかったりしているうちに、お里が出たというんでしょうか、母……ああいうお上品な階級にうまれて、育った母などの聞くに耐えないような、つまり、その……」
と、陽子は|瞼《まぶた》をうすく染めながらも、妙なうすわらいをして、
「オゲレツなことを口走ってしまったんですのね。しかも、それが娘のあたしの面前でしたから、母がほんとうに怒ってしまいまして……ほっほっほ、でも、それ以来、父も気をつけて、閑があったら道場通いをして、汗を出しているようですから、現在ではせいぜい二十一貫というところじゃございませんかしら」
「道場通いとおっしゃると……?」
「父は剣道五段でございますから」
「いや、どうもありがとうございました。それではこれくらいで……」
「金田一先生」
陽子の後ろ姿を見送ってから、田原警部補は探るように金田一耕助を振り返った。
「いまの質問はどういう意味です。ここの主人の体重がなにかこの事件に関係があるんですか」
「先生」
と、そばから膝を乗りだしたのは井川老刑事である。
「先生のおっしゃるのはあの砂袋のことじゃありませんか。あれが約二十貫ありましたから……」
「あっはっは、刑事さん、ヤマカンみたいですけれどね、この家で二十貫をオーヴァしてる体重をもってるのは、篠崎さんしかなさそうですから、なにかそこに意味があるんじゃないかと思ってね」
「意味とおっしゃると……?」
「いや、それはまだわたしにもわからない。だからヤマカンだと申し上げたんです」
「金田一先生」
と、井川老刑事は目玉をくりくりさせながら、
「それじゃ、それがはっきりわかったら、われわれに教えてくださいよ。かげでこそこそ出し抜こうなんてえのはいけませんぜ」
「あっはっは、承知しました」
「金田一先生、それじゃ今度はだれを……?」
「柳町さんをお願いしたら……?」
柳町善衛はあいかわらず落ち着きはらって、静かなものごしだった。年齢は四十前後だろう。ルパシカという服装はひとによっては|気《き》|障《ざ》にみえるものだが、善衛は長年着なれているとみえて、大きなべっ甲ぶちの眼鏡とともに板についていて、このひとに一種の風格をあたえている。
身長は五尺六寸くらいだろう。色は浅黒いほうで、オール・バックに刈った長目の髪は、くしゃくしゃにカールしており、ベレー帽をかぶった顔の、|削《そ》ぎおとしたような頬のあたりに、思いなしか、孤独のきびしさがしのばれる。
田原警部補はまずこんどの事件について意見をたずねたが、かれはむろん首を左右にふって、なにもわからない、犯人については見当もつかない旨を申し述べた。
「ところで、あなたはきのうの土曜日にこちらへ着かれたのですね」
「はあ、きのうの午後四時着の汽車できました」
「天坊さんや古館さんは……? ご主人はきのうの午前中にこられたそうですが……」
「天坊さんとは新橋でいっしょになりました。古館さんはひと汽車はやく、二時半着の汽車でこられたそうです」
「あなたは天坊さんや古館さんもいらっしゃることをご存じでしたか」
「はあ、それはもちろん、それがこんどの集まりの主旨ですから」
「こんどの集まりの主旨と申しますと……?」
「いや、じつは明後日がこの家で死亡した、わたしの姉、加奈子の二十一回忌になるんですが、わたしの姉の二十一回忌は同時に古館氏の先考の二十一回忌になるわけです。そこで故人のごく近しい者だけが集まって、この名琅荘で法要をいとなみたいが、それについて下相談をしたいから、週末の休養をかねてお集まり願えないかというのが、こんどの招待の主旨で、奥村君がわれわれの間を奔走してくれたんです。それともうひとつ、この家も来年からホテルとしてスタートするから、この機会に名残りを惜しんでほしいと、そういう意味もあったのです」
「なるほど。しかし、その招待をあなたは突飛とも、唐突ともお思いになりませんでしたか。こちらの奥さんと古館さんとの関係から照らしあわせて……」
「世間体からいえばそうでしょうねえ」
と、善衛はおだやかな微笑をふくんで、
「しかし、あの三人はああいう問題ののちも|昵《じっ》|懇《こん》につきあっていて……そりゃ奥さんのほうには多少なにかおありでしょうが、篠崎さんと古館さんのあいだは、しごく円満にいってるってことを耳にしてましたからね。それほど気にもなりませんでしたよ」
「すると、こちらの主人と被害者は、あの事件……つまり細君譲渡事件ののちも付き合っていたんですか」
と、これは田原警部補のもっともな質問だった。
「はあ、なんでも古館氏の企画した事業に篠崎さんが賛成なすって、バック・アップしてあげるとか……これはきのう汽車のなかで天坊さんにうかがったのですが……」
「なるほど。しかし、あなたご自身はいかがですか。古館さんやこちらの奥さんと顔をあわせるということは」
「どうしてでしょうか」
「いや、なに、気まずいところがおありじゃないかと……」
「あっはっは」
と、善衛はわだかまりのない笑い声をあげると、
「いやに取り越し苦労をなさいますね。だけど、わたし、戦後はともかく、終戦まではちょくちょくあのひとたちに会ってましたよ」
「どういう機会に……?」
「だって、さきほども申し上げたとおり、古館家の先代とわたしの姉の忌日がおなじでしょう。古館家で毎年先考の年忌を営むときには、当然、姉の法要も行われるわけです。わたしは姉のさとの相続人ですから、いつも招待されてましたよ。ただし、戦後はあのひとにもそれだけの力がなくなり、また、世間一般もそういうことになおざりになってきたので、しぜんご無沙汰になっておりましたがね」
善衛の調子はあいかわらず淡々としている。
このひとは若いときから、苦汁をのむことに慣らされてきたにちがいない。姉がとつげば穀つぶしとののしられ、その姉が夫の|寵《ちょう》をうければ、夫の子供から中傷されて死にいたらしめられ、しかも自分を侮辱し、姉を|誹《ひ》|謗《ぼう》した男に愛人を奪われながら、なおかつ年に一回は、姉の年忌に招待されて、その男とかつての愛人と、顔をあわさなければならなかったのだ。それはふつうの神経では耐えうるところではなく、それに耐えてきたということは、世にも残酷な試練に耐えてきたということを意味する。こんどの招待に応ずるくらいは平気だったかもしれない。
「いや、よくわかりました」
納得したのかしなかったのか、田原警部補はうなずいて、
「それではこちらへお着きになってからのことをお聞かせください。四時着の汽車でこちらへお着きになって……? それから……?」
「はあ、こちらへ落ちついたのが四時二十分か二十五分くらいでしたろうか。天坊さんとべつべつに部屋をあてがわれて、入浴したりなんかしているうちに夕食です。女中の案内で食堂へいって、そこではじめて篠崎さんにお眼にかかったわけです」
「古館さんや奥さんとは……?」
「戦後ははじめてでした」
「お糸というばあさんとはどうです?」
と、横から|嘴《くちばし》をいれたのは井川老刑事。
「姉さんがこちらにいた時分、あんたもちょくちょく遊びにきていたとか……」
「いや、それをいま申し上げようとしていたところです。いまこの家にいるひとたちのなかで、いちばん心おきなく話せるのはあのばあさんで、終戦まえはあのひとも、東京へくるとわたしのところへ寄ってくれましたし、わたしもちょくちょくここへ遊びにきていたんです」
「あなた、姉さんの死後もひきつづきここへ来ていたんですか」
と、田原警部補はちょっと気色ばんだ。
「はあ、ばあさんが可愛がってくれますし、わたしにとってはたったひとりの姉の|終焉《しゅうえん》の地ですからね。古館氏の眼を忍んでちょくちょく……どうせ穀つぶしの汚名にはなれていましたからね」
「いま、終戦まえとおっしゃったが、終戦後はいかがですか」
「終戦後はこんどで二度目です」
「まえにはいつごろ……」
「はあ、わたし昭和十七年の暮れに兵隊にとられて、二十二年の秋復員してきたんです。そのとき、ばあさんがまだ生きているというので、ここへ訪ねてきたことがありますが、それから間もなく篠崎さんの手にうつったので、それっきり……だから、篠崎さんのこんどの招待は、そういう意味でもうれしかったわけですね」
「失礼ですが、あなた金曜日の晩にはどこにいましたか」
「金曜日の晩……?」
と、善衛はふしぎそうに眉をひそめて、
「金曜日の晩はもちろん東京にいましたよ」
「それを証明することができますか」
「証明……?」
と、善衛はおどろいて警部補の顔をみていたが、急に気がついたように唇をほころばせて、
「ああ、金曜日の夕方、ここへやってきて消えた、片腕の男のことをいっていらっしゃるんですね。それならわたしではありません。わたしは民間放送局の専属管絃楽団のメンバーですから、毎週、金曜日の夜の八時から金曜コンサートを放送いたします。現在のわたしにとっては、これがいちばんだいじな仕事ですからね」
善衛はわらいながら放送局の名前と、一昨日の夜の八時から放送した曲目を話した。
「ああ、そう、それは失礼しました。それでは話をもとへもどして、ゆうべのことを聞かせてください」
「承知しました」
と、善衛はちょっと言葉をきって、
「ゆうべいっしょに食事をしたのは、篠崎さんご夫婦にお嬢さん、秘書の奥村君、それからわれわれ三人の客と、つごう七人でした。お糸さんは接待係というかっこうでしたが、食事がおわって法事の話になると、お糸さんがいちばん大事なひとになってくるわけです。そういうことにかけては、あのひとなかなか権威者ですからね。さて、そういう打ち合わせが終わったあとで、片腕の男の話が出たわけです。その話でわたしはダリヤの間……昔はそんな名前はついていませんでしたが、そこから裏の祠へぬける抜け穴が、まだそのまま残ってるってことをしったわけです」
「失礼ですが、あなたはその片腕の男について、そのときどうお考えでしたか」
「主任さん」
と、善衛はちょっと威儀をただして、
「こんなことが……このような恐ろしい殺人事件が起こるだろうとは、だれも……いや、少なくともわたしには予測できないことですね。ですからそのときのわたしの感じでは、冗談か悪戯か、まあ、そんなふうにしか思えなかったんです。したがってたいして気にもとめずに、八時半ごろ座をはずして当てがわれた自分の部屋へかえって寝たわけです。ひょっとすると、あした抜け穴を抜けてやろうかなどと考えながら。……ですから……」
「ああ、ちょっと……」
と、金田一耕助がすばやく言葉をはさんで、
「座をはずして……と、おっしゃいましたが、すると、ほかのひとたちはまだ食堂に残っていたんですか」
「失礼しました。食事がおわって法事の話になったと申し上げましたが、そのとき、すでに日本座敷へ席をうつしていたんです。それでわたしが中座したというのは、古館氏も天坊さんもそれぞれ、なにか篠崎さんに話がおありのようでしたから……」
「なるほど。いや、わかりました。それでは、ひとつきょうの午後のことをお話し願えませんか」
「承知しました」
と、善衛は眉毛ひと筋うごかさず、相変わらず淡々と語りつづけるのである。
「さっき、陽子さんに話をお聞きのようでしたから、きょうの|昼餐《ちゅうさん》のもようはご存じだろうと思います。わたし、法事の打ち合わせもあらかたおわったので、きょうの午後五時発の汽車でこちらを立つつもりでした。明後日また出直してくるつもりだったのです。だから、そのまえにもういちど名琅荘をよく見せてもらうつもりで、一時過ぎ、陽子さんと奥村君が出ていったすぐあとから食堂を出ました。そして、あちこち見てまわったあと、急に思いついてダリヤの間から抜け穴へもぐりこんだのです」
「それ、何時ごろのことでした?」
「はあ、二時二十分でした。汽車の時間があるものですから、しじゅう時計に気をつけていたんです。さて、抜け穴を抜けて時計をみると二時四十分でした。それから……」
「ああ、ちょっと。……あなた、懐中電灯かなにか……?」
「いや、わたしはこれを持っておりますから……」
と、善衛はライターを出してみせて、
「こちらのご主人もライターをご使用ですから、お昼御飯のあとで燃料をわけてもらったのです」
「なるほど、なるほど、それで……?」
「さて、あの倉庫の裏側の仁天堂へ出ると、そこから裏門のほうへまわってみました。さいわい裏門があいていたので、そこから外へ出て、腕時計とにらみっこをしながら、ぶらぶら雑木林のなかをあるいていたんです。おセンチなことをいうようですが、そのときはちょっと感慨無量でした。昔は、その雑木林から裏の蜜柑山へかけて、名琅荘に付属していたんですからね。さて、そのうちにそろそろ三時になったので、ぶらぶらと裏門のほうへひきかえしたところで、陽子さんと奥村君に出会ったのです。それからあとのことは、陽子さんにお聞きになったと思いますが……」
「そのとき、倉庫のなかへ入っていかれたそうですね」
「はあ、名琅荘が盛んなころには、あの倉庫の中はいつも蜜柑の山でしたからね」
「そのとき、パイブを落とされたんですね、あそこへ……」
「だと思います。もちろんそのときは気がつかなかったんですが……」
この柳町善衛というひとは、おそろしくヘビー・スモーカーとみえる。田原警部補とのこの応答のあいだ、つぎからつぎへ紙巻き煙草の火をつけかえて、ひっきりなしに煙を吐きつづけていた。またたくまにコールテンのズボンは、煙草の灰だらけになってしまった。
「それからこちらへかえって来られて、フルートを吹いていられたそうですね」
「はあ、陽子さんと奥村君にねだられたものですから」
「フルートはいつも御持参ですか」
「あれはわたしの商売道具ですからね。つねに|稽《けい》|古《こ》していなければ、指が動かなくなります」
「柳町さん」
と、金田一耕助がそばからニコニコしながら声をかけた。
「たいへん失礼な話なんですけれどね、わたしあなたのフルートを、風呂場のなかで聞かせていただきましたよ」
「ああ、それは、それは……」
「最初のはたしかドップラーの『ハンガリヤ田園幻想曲』でしたね」
「よくご存じですね」
「二番目に吹奏なすった、あのはげしいメロディーのは……?」
「ああ。あれは『|熊《くま》ん|蜂《ばち》は飛ぶ』です」
「ああ、そうそう、リムスキー・コルサコフですね。あれは何分くらいかかります」
「せいぜい一分とちょっとというところじゃありませんか」
「そうでしょうねえ。最後のあれはグルックの『精霊の踊り』じゃなかったですか」
「はっはっは、金田一先生はなかなかの通でいらっしゃいますね」
「いやあ、じつはぼく……」
と、金田一耕助は例のくせで、テレくさそうに五本の指で、モジャモジャ頭をかきまわしながら、
「いつかフルートのことについて、にわか勉強したことがあるもんですから……」
「椿家の事件ですね」
「ご存じでしたか」
「われわれの同族の家に起こった事件ですからね。恐ろしい事件でした」(「悪魔が来たりて笛を吹く」参照)
「ときに柳町先生、『精霊の踊り』は五、六分の曲だと思いますが、ドップラーの『ハンガリヤ田園幻想曲』は何分ぐらいかかります?」
「十一、二分というところでしょうね」
と、柳町善衛はべっ甲ぶちの眼鏡のおくで、おだやかな眼に微笑をふくんで、
「ですから、『ハンガリヤ田園幻想曲』が十一分。『熊ん蜂は飛ぶ』が一分と少々。最後の『精霊の踊り』が五分として、しめて十七分と少々。しかし、金田一先生、そのあいだには陽子さんや奥村君との雑談がはいりましたから、演奏がおわるまでには、二十五、六分か、あるいは三十分くらいかかったんじゃないでしょうか」
さっきから怪訝そうに、金田一耕助と柳町善衛の、フルート問答をきいていた三人は、ここにいたって思わずふたりの顔を見直した。
柳町善衛が削ぎ落としたようなきびしい頬に、おだやかな微笑をふくんでいるのに反して、金田一耕助は赤面して、
「いや、こ、こ、これは失礼しました。遠回しに探りを入れるようなことをして……それじゃ率直におたずねいたしましょう。あなたがたが最初に倉庫へはいっていかれたのは、三時八分ごろだろうと陽子さんはいってるんですが……」
「だいたいそんなところだったでしょう」
「それから……?」
「倉庫を出たところで、馬車がかえってくるのに会いました。むろん馬車は|空《から》でしたよ。陽子さんが声をかけたようですが、わたしはちょっと離れていたので、なにをいったのか聞こえませんでした。それから三人でこちらへかえってきて、娯楽室へ入っていったんです。そうそう、そのまえに三人ともシャワーを浴びるというので、そこでいったん別れたんです」
「それからフルートの演奏がはじまったんですね」
「みちみちおふたりからねだられていたもんですから。わたしがいちばんにシャワーをすませて娯楽室へきて、小手調べに吹いているところへ奥村君、つづいて陽子さんが入って来られたんです」
「それから、本式に演奏がはじまったわけですか。それ、何時ごろから……?」
「金田一先生」
と、善衛は眼鏡のおくから金田一耕助の顔を見ながら、
「わたしは五時ジャストの汽車で富士駅を立つつもりでした。だから絶えず時間を気にしていたんですが、正式に演奏がはじまったのは三時二十分ごろでした」
金田一耕助がフルートの音をきいたのは、それより少しはやかったように思うが、あれは小手調べの演奏だったのだろう。
「それからたてつづけに……いや、そのかん雑談もまじえて、三曲演奏なすったわけですね。ところでパイプの紛失に気がつかれたのは……?」
「パイプを落としてきたことには、ここへ帰ってきてからまもなく気がついたのです。わたしはあれがないと落ち着かないほうで……」
「ずいぶんヘビー・スモーカーでいらっしゃいますね」
「いや、お恥ずかしい話で……わたしもなんとかよしたいと思うんですが、結局、意志が弱いんですね」
「人間にはだれしも弱点というものがあるもんです。ときに、パイプのことは……?」
「はあ、三曲演奏したあと、いろいろ雑談をしていたんですが、わたしがなんとなくソワソワしてるもんですから、陽子さんがきいてくれたんです。それでパイプの話をしたら、そのパイプならたしかに裏門のところではくわえていた。それではあのあとで落としたんだろうから、いっしょに捜しにいきましょうって……」
「陽子さんがいったんですか」
「パイプはぼくの生きがいだなんて、大げさなこといっちまったもんですからね」
「それで三人で捜しにいかれたんですか」
「はあ、奥村君もつきあってくれることになったんです。奥村君はぼくよりも、陽子さんにつきあいたかったのかもしれません。そうそう、娯楽室を出るとき時計を見たら、ちょうど四時でした。わたしが汽車の時間を気にしていたら、奥村君が自動車で送ってあげるというもんですから。自動車なら駅まで十分というところでしょう」
「それで、まっすぐに倉庫へ入っていかれたんですか」
「とんでもない。倉庫はいちばん最後でした。裏門のあたりをまず捜してみたんですが、どこにもないので、それじゃあの倉庫のなかじゃないかということになり、のぞいてみたら……」
一瞬シーンと静まりかえり、一同の視線は善衛のおもてに注がれたが、善衛の表情は淡々として、そこにはこれという感慨もあらわれていなかった。
「そのときのあんたの気持ちはどうでしたな。ざまアみろと思ったんじゃねえんですかい」
毒々しい口のききかたをしたのは、むろん井川老刑事である。
「それはどういう意味ですか」
「あんたの姉さんはあの男に殺されたようなもんだ。おまけにあんたは婚約者を、あの男に奪われている」
善衛はきびしい凝視を老刑事にむけて、
「ああ、あなたを思い出しましたよ。昭和五年の事件のあとと、あのひとがわたしを裏切って古館氏と結婚した当座、あなたはたびたびわたしに面会を強要なさいましたね。尾形静馬なる人物のゆくえを知らないかって……」
「思い出していただいて光栄ですな」
「いや、あの当時あなたの熱心さ、一種の執念ともいうべき熱心さには、つくづく敬服いたしました。もちろんわたしとしては迷惑でもあり、うるさかったことも否定しませんがね」
狸刑事の狸のような眼のふちの|隈《くま》が、サッと血の気で濃くなった。しかし、さすがに発言はつつしんだ。
「さて、こんどああいう事件が起こってみると、古館氏殺害について、いちばん強い動機をもっているのはわたしである。それにもかかわらずわたしには、動かしがたいアリバイがある。そこであなたは焦れていらっしゃるんでしょうね」
「まさにそのとおり」
「しかし、ええ……と、たしか井川さんとおっしゃいましたね」
「名前まで憶えていただいてたとは光栄千万ですな」
「しかし、ねえ、井川さん、わたしがあのひとを恨んでなんかいなかった、あのひとなんか問題にしていなかったといえば嘘になります。あの当時の苦い思い出……憎しみ、憤りはいまも|滓《おり》のように、わたしの心の底に沈澱しています。しかし、それならばいままで待つ必要はなかったんじゃありませんか。やろうと思えば戦前いくらでもチャンスがあった。しかも……」
「しかも……?」
「いまとなっちゃあのひとを死なせたくはありませんよ。いつまでも、いつまでも生かしておきたいですよ」
「はてな、そりゃまたどういうわけで?」
「死なしてしまっちゃなんにもならないじゃありませんか。それよりも、いつまでもいつまでも生かしておいて、さっきあなたのおっしゃったように、絶えず心のなかで、ざまアみろ、ざまアみろ、ざまアみろと、叫びつづけているほうが、はるかに愉快じゃありませんか。あっはっは!」
善衛ははじめて本心を吐露したが、淡々たるその口ぶりのなかに、それが淡々たる語りくちであればあるだけ、聞くひとをして、よりいっそう|慄《りつ》|然《ぜん》とさせるような悲痛な叫びが、強く一同の心を打った。
「いや、失礼しました」
田原警部補はおだやかに頭をさげると、
「このひとの無礼を許してやってください。このおやじさんときたら、昭和五年の一件となると、まるで執念の鬼ですからね。ときに、柳町さん、古館氏は左腕をベルトで胴に緊縛していましたが、あれについてあなたはどうお思いですか」
「わかりません」
善衛はニベもなくいってから、そのあとで言葉を選ぶように付け加えた。
「古館氏はいつも他人の意表に出るようなことばかり、考えていたひとでしたね」
田原警部補は探るように相手の顔を見ていたが、やがて金田一耕助のほうをふりかえると、
「金田一先生、あなたまだなにか……?」
「ああ、そう、それじゃもうひとことおたずねしたいんですが……」
「さあ、どうぞ」
「あなたはさっき二時四十分ごろ抜け穴を出られて、三時過ぎまで裏門の外の林のなかを歩いていたとおっしゃいましたが、そのあいだにだれかにお会いになりませんでしたか」
「いいえ、べつに。わたしは裏門から相当遠くまでぶらついたんです。陽子さんと奥村君に会うまで、だれにも会いませんでした」
「ああ、そう」
と、金田一耕助は表情もかえずに、
「それじゃ、最後にもうひとつ……」
「はあ、どうぞ」
「きのうの夕食のあとで片腕の男の話が出たときですね。そのとき、金田一耕助という男を|招《よ》ぶつもりだというような話が出ましたか」
「いいえ、そういう話は出ませんでした。ですから、さっき現場へ先生が駆け着けてこられたとき、失礼ながらどういうかただろうと思っていたんです。ご高名はかねてから耳にしていたんですが……」
さいごに田原警部補が仕込み杖を出してみせて、それがどのように使われたかを説明して聞かせると、善衛はいちおうおどろきの色をみせたが、それがほんとうのおどろきなのか、それとも演技だったのかよくわからなかった。しかし、それがだれのものであるかをしったときの善衛のおどろきはほんとうらしく思われた。
かれは急に口数が少なくなり、黙ってシーンと考えこんだ。
第六章 人間文化財
柳町善衛のつぎに呼ばれたのは秘書の奥村弘である。奥村は二十七、八というところだろう。身長は五尺六寸くらい、いかにもスポーツマンらしい、均整のとれたよい体格をしており、男振りも悪くなかった。自分から名乗りをあげるところを聞くと、一昨年の昭和二十三年旧制の大学を出て、慎吾がこの名琅荘を手にいれる前後から、秘書をしているとのことだった。
「で、君もきのうの午前、篠崎さんといっしょにこっちへやってきたんだろうねえ」
と、まず最初に切り出した田原警部補の質問にたいして、
「はあ、でもぼくは一昨日もこちらへきたんです。奥さんとお嬢さんのお供をして……」
と、いう奥村の返事に、一同はおもわず顔を見合わせた。田原警部補は|膝《ひざ》を乗り出して、
「一昨日の何時の汽車で……?」
「いいえ、汽車ではなく自動車ですが、こちらへついたのは昼過ぎでしたろうか」
「それから、君はずうっとこちらにいるの」
「いえ、そうではなく、ぼくは奥さんとお嬢さんを、こちらへ送ってくるのが役目ですから、ひと休みして、夕飯を頂戴してからまた自動車で東京へかえり、おなじ自動車できのうの朝、あらためて社長のお供をして、ここへやってきたわけです」
「すると、君が自動車の運転をするの」
「はあ。運転手はべつにいますけれど、ぼくも運転ができるので、まあ、護衛の意味と、それに東京との連絡の意味もかねて、奥さんとお嬢さんのお供を仰せつかったんです」
「それで、君は金曜日の何時ごろここを出発したの?」
「五時ごろだったでしょうか。なんしろ十時半までに、社長をあるところまでお迎えにあがらなければならなかったので大多忙でした」
「奥村君」
と、田原警部補はするどく相手をみすえて、
「ちょうどそのじぶん……金曜日の夕方、君がここにいるころ、片腕の男がここへやってきて消えたって話、聞いてるだろうねえ」
「はあ、ゆうべ聞きました」
「君はそのころここでなにをしてたの?」
「さあ、なにをしてたでしょうか。奥さんに東京へのことづけを伺ったり、お嬢さんから忘れものをしたから、あしたくるとき持ってきて頂戴って頼まれたり、風呂へも入ったり、ままも食べたり……」
奥村はべつに茶化すつもりはないのだろうが、根が屈託のない性分にできているとみえて、のんきらしいその応答ぶりが面憎いようにも受け取れる。
「君はそのとき、お糸ばあさんには会わなかったかね」
「会いましたよ。奥さんがおみえになったので、ばあさん……じゃなかった、御隠居様のほうから|挨《あい》|拶《さつ》にきたんです。そのとき、五時にこちらを出発しなきゃならんからって、早目に夕食の用意をしてくれるように頼んだのです」
「なるほど。それじゃ、きょうのことを聞かせてもらおう。昼食後のことでいいがね」
「はあ、それはさっき陽子さんからお聞きになったようですが、それじゃ念のためにぼくからもお話ししましょう」
と、奥村もそこでひとくさり話をしたが、それはさっき陽子から聞いた話とかわりはなかった。
「抜け穴のなかで社長のライターを拾ったそうじゃないか」
「ああ、そうそう、だからぼく陽子さんにいったんです。おやじさんあんなに平気そうな顔をしてるけど、やっぱり気にしてるんですぜ、ここをこっそり、探検したらしいところをみるとってね」
「社長がそこを抜けたのはいつのことだろうねえ」
「いつのこととおっしゃると……?」
「いや、ひょっとすると、金曜日の夕方のことじゃないかというんだが……」
「金曜日の夕方……?」
奥村は眼をまるくして警部補の顔をみていたが、急にプッと吹きだして、
「それじゃ、片腕の男は社長じゃなかったかとおっしゃるんですか。とんでもない。うちのおやじさんというひとは、そりゃ多少|洒《しゃ》|落《れ》っ|気《け》もありますが、そんなお芝居っ気のあるひとじゃありませんよ。それに、そうそう、われわれがめっけたライター、きのうの朝、こちらへくる自動車のなかで社長が使ってたのを憶えてますよ。だから、おそらくこっちへきて、お糸さんに話をきいて、念のために調査してみたんじゃないでしょうかねえ」
「ああ、なるほど、それじゃ、最後にもうひとつたずねるけどね、篠崎さんはなにか古館氏の企画した仕事を援助しようとしてるって話だが、それどういう仕事なの?」
「ああ、それ、それはちょっと……いまのところまだ申し上げかねるんです。事業上のことですからね」
「ああ、いや、奥村君、事業の内容をきこうというんじゃないんだ。それ、うまくいってたんだろうねえ。篠崎さんと古館氏とのあいだは……」
「ええ、そりゃ……おやじさんも大乗り気だったんですよ。あのひととしては奥さんのことがございましょう。ですから、その償いに古館さんをなんとかしてあげよう。つまり男にしてあげようという|肚《はら》なんですね。うちのおやじさんてひと、世間ではいろいろいいますけどね、あれでなかなか義理人情にあついひとですよ」
奥村弘も問題の仕込み杖をしっていた。かれが秘書になった時分、社長はその仕込み杖を持っていたが、一昨年の暮れにピストルを手に入れてから、手放してしまったようだが、どこへどう始末をしたのかしらぬという答えだった。その仕込み杖が現場にあったと聞いてから、かれも急に口が重くなったようである。
「金田一先生、あなたなにか……?」
「はあ、それじゃ奥村君、あんたタマ子という女中を憶えてない?」
それはごくさりげない切り出しかただったけれど、一同ははっとしたように奥村の顔をみなおした。そして、
「タマ子とおっしゃると……?」
と、聞きかえした奥村の顔色の底から、なにかの真実を探りだそうとするかのように、みないっせいに奥村のおもてに|瞳《ひとみ》をこらした。
「ほら、まえに篠崎家の本宅にいたが、お糸さんの懇望で、こちらへ引きとられている娘さん、もうひとついうならば、そうとうひどい近眼のくせに、眼鏡をかけるのをいやがってる娘なんですがね」
「ああ、あの娘……ぼちゃぼちゃっと可愛い、ちょっと出目金みたいに目玉のとびだした、しかし、そこがまたいっそう可愛いって娘じゃありませんか」
「ええ、ええ、その娘……」
「ああ、そうですか。あの娘、近眼なんですか。それでいて眼鏡をかけると生意気にみえやあしないかって、不自由を辛抱してるんですね。あっはっは、そうおっしゃれば……」
「ご存じですか」
「はあ、その娘なら一昨日の夕方、ぼくに給仕をしてくれましたよ」
けろっといいきった奥村の顔を、金田一耕助はまじまじと凝視していたが、やがてモジャモジャ頭をペコリとさげると、
「いや、どうもありがとうございました。それじゃこれくらいで……」
奥村秘書のつぎに呼びだされたのは、天坊元子爵であるが、卵型の頭に大きな八字ひげをはやした、侏儒のようなこの元老貴族からも、ほとんどなんのうるところもなかった。
きのう四時着の汽車で当地へついたこと、柳町善衛といっしょであったこと、ゆうべ夕食のあとでお糸ばあさんから片腕の男のことをきいたが、べつに気にもとめていなかったこと、それからきょうの昼食のことなどについて話したが、これがこのひとの性格なのか、それともわざとそれをてらっているのか、すべてにつけて無頓着で投げやりな調子が係官をいらいらさせた。
「あなたはゆうべ片腕の男のことをきいても、べつに気にもとめなかったとおっしゃいましたが、昭和五年の秋の事件のことはご存じなんでしょう」
「ああ、それはもちろん」
「それじゃ、そのとき片腕を斬り落とされた人物が、それっきり行方不明になってるということも、しっていらっしゃるはずですね」
「ああ、それはもちろんしってるよ」
「それでもなおかつ、片腕の男がやってきて、そのまま消えたという話をお聞きになっても、べつに気にならなかったんですか」
「だって、君、ありゃもうずいぶん古い話で、いわば、まあ、伝説みたいなもんだからね」
「伝説だとおっしゃるんですか」
「いや、そりゃじじつあった話は話だが、……なにしろ二十年も昔の話だろ? だから……」
「だから?」
「いやさ、あのとき片腕を斬り落とされた尾形静馬という男が生きていて、しんじつ辰人に|復讐《ふくしゅう》を誓っているのだとしたら、二十年も待つことはないじゃないか。いままでにいくらだってチャンスはあったはずだ。と、まあ、ゆうべはそう思ってたもんだから、べつに気にもとめなかったというわけさ」
「しかし、現実にこういうことが起こってみれば、いかにあなただって気にとめないわけにはいかないでしょう」
「そりゃ、まあね。しかし、べつにわたしに関係があることとも思えないが……」
この卵型のあたまと、キューピー人形みたいな体をもった侏儒のような旧貴族は、旧貴族特有の尊大さと、|狡《こう》|猾《かつ》さを身につけていて、のらりくらりとしたその応答が、いっそう係官の神経をいらだたせるのである。
「いや、それじゃきょう午後のことを聞かせていただきましょうか」
「ああ、そう」
と、天坊元子爵は卵型のあたまでこっくりうなずくと、
「食事がおわったのは一時ちょっと過ぎだったかな。そのあとで陽子という娘と秘書の奥村がまず食堂を出ていき、それからまもなく柳町が出ていって、結局、あとにわたしと辰人、それから主人の篠崎君と三人残ったわけだ。ところがわたしも篠崎君に話したいことがあったし、辰人にもなにか話があったらしい。そこでまあ、辰人に優先権を譲って、わたしが食堂を出たのが一時半ごろのことだったろう。そのとき篠崎君にふたりきりで話したいことがあるといったら、それじゃ二時半にここへきてほしいというんで、一時間ほどそこいらをぶらぶらして、きっちり二時半に食堂へかえってきたら、篠崎君がひとりで待っていた」
例によっていかにも無頓着らしい調子だが、話にちゃんと筋道がとおっているところをみると、このひとはあらかじめ応弁の内容を、頭のなかで組み立ててきたにちがいない。
「なるほど、するとそのときにはもう古館氏はそこにいなかったんですね」
「ああ、五分ほどまえに話がおわったので、だれかあんたを捜しにやろうと思ってたところだとか、篠崎君がいってたからね」
「それで、何時ごろまで篠崎さんと話していたんですか」
「ちょうど三時まで。三時になると話を切りあげて別れたんだ」
「それから……? どこにいました?」
「ああ、それから自分の部屋へかえって、ベッドのうえに横になっていたよ。わたしのあてがわれた部屋は二階のヒヤシンスの間というんだが、そこでうとうとしていたら、けたたましい女の悲鳴がきこえたので、なにごとだろうととび出したら、それが陽子という娘の叫び声だったわけさ。四時二十分くらいのことだったかね」
「すると、三時から四時まではひとりっきりで、ご自分の部屋にいられたわけですね」
「ああ」
「そのことについてだれか証明できるひとがありますか。あなたがヒヤシンスの間に閉じこもっていられたということについて……」
「さあねえ、わたしはいちいち奉公人たちに、これから部屋へさがってやすむからなんて断りはしなかったからねえ。しかし……」
と、天坊氏はわざと大げさに眉をひそめて、
「まさか君たちはこのわたしに、疑いをかけているんじゃあるまいねえ。わたしは辰人という男になんのふくむところもないし、あの男を殺したところで、わたしにとっては、一文のとくにもならないことだからな」
「いや、それはそれとして、あなたと篠崎さんとの話はどういうことでした」
「それはこの事件とは関係のないことだよ。辰人とはまったく別の話だ」
「しかし、もしおさしつかえがなかったら聞かせていただきたいんですがね。どういう種類の話であったかというその輪郭だけでも……」
このときはじめてこの旧華族は不愉快そうな色を露骨にうかべて、
「取り引きの話だよ、ある種のね」
「ある種の……と、おっしゃいますと?」
「ある|骨《こっ》|董《とう》のコレクションについてだ」
吐き捨てるようなその言葉が|唇《くちびる》から出るとき、天坊氏の頬にさっと屈辱の色が走るのをみて、田原警部補は気がついたように、
「いや、これは失礼いたしました」
と、あわててデスクのうえに頭をさげた。
思うに|落《らく》|魄《はく》したこの旧老貴族は、羽振りのいい新興財閥相手に、骨董のブローカーかなんかやって、身すぎ世すぎをしているのだろう。しかも露骨にそのことをセンサクされるのは、やはり昔のプライドをうずかせることになるのにちがいない。
「それじゃ、もうひとつおたずねいたしますが、古館氏と篠崎さんのお話というのは、どういうことだったかご存じじゃございませんか」
「その話なら篠崎君に直接きいたらどうだね」
「はあ、それはもちろんそのつもりですが、念のためにお聞かせ願えたら……と。なんでも古館氏の企画した事業を、篠崎さんがバック・アップされるとか……」
「ああ、そんな話だったな。詳しい内容はわたしもしらんのだが……」
「しかし、篠崎氏ご夫婦と古館氏のなかは、その後うまくいってたんですね」
「そりゃそうだろう、事業の後援をしようというくらいだからな」
「しかし、男同士はそうして割りきっていても、奥さんのほうはどうでしょうか。あんまりいい気はしないんじゃないでしょうか」
「そりゃそうだろうが、わたしには倭文子のような女はわからんな。あの女は昔っからわたしにとっては謎だった」
「昔っからとおっしゃると……?」
「いや、あれはな、元来柳町と結婚する約束になっていたんだ。ところが、どたん場になって柳町を裏切り辰人と結婚したんだ。ふつうなら自分の裏切った男にあうのは、多少後ろめたかったり、|面《おも》|映《は》ゆかったりするのがほんとうだと思うんだが、あの女は平気なんだ。法事やなんかで柳町と顔あわせても、眉ひとすじ動かすことじゃない。柳町なんて人間、これまで、全然存在すらしらなかったかのごとき態度なんだ。気が強いというのか、冷たいというのか……」
「それじゃ、柳町さんのほうはどうです。倭文子さんに対していまでもなんらかの感情を抱いていらっしゃるというようなことは……?」
「さあね」
と、天坊氏は太い八字ひげをひねりながら、
「まさかとは思うが、あの男もわたしの理解をこえた存在だな。きのう汽車のなかで聞いてみたら、まだ独身だということだったが、それが倭文子にたいする失恋からきているのかどうか。……まあ、わたしのしったことじゃないね」
天坊氏の態度や|口《こう》|吻《ふん》は、またもとの無関心で投げやりな調子にかえっていく。大きな腹をつきだして、だらりと椅子のなかに身を投げだしているところは、ちょっと奇型的だが、いかにも退屈でつまらなそうである。いや、わざとそれを強調しているようにもみえるのである。
「ああ、そう、いや、ありがとうございました。金田一先生、あなたなにか……?」
「はあ、それじゃ天坊さんにもうひとつおたずねしたいことがあるんですが、あなた一時半ごろ食堂を出られて、二時半かっきりにかえってこられたとおっしゃいましたが、その間の一時間をどういうふうにお過ごしでしたか、それを伺いたいんですが……」
天坊元子爵はジロリと金田一耕助のモジャモジャ頭をみると、
「しかし、なあ、金田一先生、あんたとしちゃその間の、アリバイ調べをしたいんだろうが、残念ながらハッキリとそれを立証できるかどうか……まさか、こんなことが起こるとはしらなかったもんだからね。わたしはただこの屋敷のなかをぶらぶらと、ほっつきまわっていただけなんだから……ひょっとすると、奉公人がわたしの姿をみているかもしれん。ただ……」
「ただ……?」
「うん、ほんの三分か五分、倭文子……いや、倭文さんとちょっと話をしたことはしたがね」
「奥さんと……?」
と、一同ははっと眼を見かわせて、
「それ、何時ごろのこと……?」
「さあ、何時ごろだかわからんよ。あちこち、家のなかを見てまわっているうちに庭ヘ出たんだね。それで庭の中をほっつき歩いていたら、たまたま倭文さんの部屋のまえへ出たんだ。君は知ってるかどうかしらんが、ここは迷路荘と異名があるくらいで、庭の植え込みなども迷路みたいになっている。その迷路の中をあちこち歩いているうちに、ひょっこり倭文さんの部屋のまえへ出たんだ。これはわたしの責任じゃない。迷路のせいだよ。そのとき倭文さん、ベランダへ椅子をもちだして、フランス|刺繍《ししゅう》かなんかしていたので、ちょっと声をかけたんだ」
「それ、三分か五分とおっしゃいましたが、どんな話をなさいました」
「べつにこれといって……ほんの立ち話だったからね。気分が悪いってどんな調子だねというようなことだ。倭文さんのほうではあがれといったけど、あがるほどの用事もないのでね。立ち話だけでわかれたんだ」
思えばこのひとと倭文子はかつて、|叔《お》|父《じ》|姪《めい》の間柄だったのだから、ここで会って話をしたとしても、べつに不思議はないわけだが。……
「そのとき、そばに女中やなんかは……?」
「いや、だれもいなかったよ」
「ああ、そう、そのほかにもだれかに……?」
「そうねえ」
と、天坊氏はちょっと首をかしげていたが、
「そうそう、倭文さんとわかれて引き返してくる途中、また路に迷ってしまったんだね。そしたら日本座敷のガラス戸の奥に、だれか寝ているのがみえたんだ。障子があけたままだったんで見えたんだね。で、倉皇としてそこを逃げだしたんだが、あとで篠崎君にきいたらそれお糸というばあさんだったらしい」
お糸が二時から三時まで昼寝をするということは、さっき陽子もいっていたが、それでは天坊氏が奥庭へ迷いこんだのは、二時を過ぎてからのことにちがいない。
「ああ、なるほど」
と、金田一耕助はうなずいて、
「それじゃもうひとつ。あなたその一時間のあいだに、あの倉庫のほうへはおいでになりませんでしたか」
「いや、いかなかったよ。わたしはおもに建物のなかと庭園を見てまわっていたので、裏のほうへはまわらなかったんだ。あの倉庫は内塀の外にあるが、わたしは内塀から外へは出なかったからね」
「あの抜け穴のことはご存じでしたか」
「いや、それだがね、金田一君、わたしも、この建物が抜け穴だらけであるということはしっておった。しかし、わたしの考えかたをもってすれば、そんなことは児戯に類することで、ぜんぜん興味はもてなかった。興味がないくらいだから好奇心もなく、抜け穴についてしろうという気はもうとうなかったのでな」
「いや、どうもありがとうございました。主任さん、ほかになにか……?」
「いや、結構です。つぎはだれを……?」
「お糸さんをお願いしたらいかがですか」
「そう、じゃわたしからそう伝えておこう」
天坊氏は太い|髭《ひげ》をつまぐりながら威風堂々と出ていったが、その後ろ姿を見送って、一同はうさんくさそうに顔を見かわした。
「主任さん」
と、井川老刑事が声をひそめて、
「やっこさん、なにか隠してることがあるんですぜ。あっしの長年のカンにして誤りがなきゃ、やっこさん、なにか後ろ暗いところを持っていやあがるにちがいねえな」
「しかし、そりゃ骨董の才取りやなんかで、悪どいことをしてるんじゃないかな」
「いえ、そんなもんじゃありませんや。こんどの事件についてなにかしってるんです。それも一時半から二時半までのあいだに、きっとなにかあったんですぜ。金田一先生、あんたどうお思いになります?」
「はあ、ぼくも井川さんの説に賛成ですね。ただしそれがどの程度にこんどの殺人事件に結びついているか……」
「そうそう、殺人は三時から四時二十分までのあいだに演じられているんですからね」
田原警部補がつぶやいたとき、たどたどしい足音が聞こえてきて、そこへ現れたのは、お糸さんのちんまりとした姿であった。
お糸さんは猿がとまり木にとまるように、椅子の上にちょこなんと座ると、巾着のような口をすぼめて、にこにこと一同を見まわしながら、
「さあ、さあ、わたしになにかたずねることがおありなさるそうなが、なんなりと……年寄りじゃというて遠慮はいらんぞな。わたしは耳もよう聞こえるし、眼も見えるでな」
人間もこれくらい生きのびると|妖《よう》|怪《かい》じみてくる。一同はちょっと毒気を抜かれたかたちで、この人間文化財のような老婆を見ていたが、やがて警部補が身をのりだし、
「ばあさん、あんたいつまでも元気でいいな。いったいことしいくつになる?」
世の中まったく民主的になったものである。戦前こんな口のききようをしようものなら、たちまち、この御後室様から一喝くらったことだろう。
お糸さんのほうでも心得たもので、
「年齢のことは聞かんもんじゃ。これでも百までにはまだあいだがあるぞや。ほっほっほ。金田一先生、なんでも聞いてくださいよ」
と、いたって民主的である。
「ああ、そう、それじゃ主任さん、さっそくおはじめになったら……」
「承知しました。それじゃ、お糸さん、まずだいいちに聞きたいのは金曜日の夕方のことだが、片腕の男がやってきて、消えたとか……」
「そうそう、金田一先生」
と、お糸さんは椅子の上で、くるりと金田一耕助のほうへ向き直り、
「そのことについて、タマ子にお聞きなさったでしょうな」
「はあ」
「やっぱりほんとうだったでしょうがな」
「はあ、ほんとうでした」
「いえねえ、みなさん、タマ子がひとこと片腕の男じゃというてくれたら、わたしが自分で出たんですけれどなあ。それとわかったときはもうあとの祭りでございましてねえ」
「しかし、お糸さん、ダリヤの間に抜け穴があるということは、あんたもしってのはずですな。それだのに、そんな部屋へなんだって、身許不詳の男を案内するように命令しといたんです」
「お言葉ですけれどなあ、主任さん。そのときわたしはそのひとを、身許不詳の男とは思いませんでしたぞな。げんにその朝旦那様からのお電話があり、また旦那様の名刺を持ってきたんですけんな」
「それにしても抜け穴のある部屋へ通すとは……」
「それだって旦那様の命令でございますからね。いえ、そう思いこんでいたんでござんすぞな」
「なるほど」
と、金田一耕助が横合いから、
「それでお糸さんがご挨拶にいったとき、ダリヤの間には中から鍵が掛かっていたんですね」
「いいえ、鍵は中から掛けたか外から掛けたかわかりませんぞな。どちらからでも掛かるようになっておりますけんな」
「でも、部屋の中に鍵がおいてあったそうじゃありませんか」
「ああ、そうそう」
と、お糸さんはいくらかあわてたように、
「ほんとうに。それだからこそ、抜け穴を通って逃げたんじゃないかという疑いが出たんでしたわねえ。|年《と》|齢《し》をとると、つい、ぼけてしもうて……」
そういうお糸さんのとぼけた顔を、金田一耕助はまじまじと見ながら、
「お糸さんはそのあとで、抜け穴を通ってごらんになりましたか」
「とんでもない。元気というてもこの年齢ですからねえ。ふつうの道でも危なっかしいのに、抜け穴なんかとってもとっても。……」
「お糸さんはそのことを、奥さんにおっしゃいましたか。片腕の男のことを……」
「いいえ、申しませんでしたよ。このことは奥さんとは関係のないことですし、旦那様もおいでにならないのに、むやみに驚かせるのもお気の毒と思うたもんですけんなあ」
「でも、きのうの朝、旦那がお着きになったときは……?」
「それはもちろん申し上げましたよ」
「そのときの旦那のお顔色はどうでした」
「もちろんびっくりしていらっしゃいましたぞな。そうそう、そのときそばに奥様がいらして、たいそうびっくりなさいましただけになあ。さっそくタマ子を呼んでそれとなく、そのときの様子を、お聞きになっていらっしゃったくらいでござんすから」
「それで旦那は抜け穴へお入りになったようですか」
「わたしどもにはなんともおっしゃいませんけれど、お入りになったのではございませんでしょうか。お客様をお迎えする直前だけになあ」
「それで、ぼくを招ぶことに話がきまったのはいつ?」
「ゆうべ遅く、……それでけさ起き抜けにわたしが、電話で電報を申し込んだんですぞな。こんなことひとまかせにはできませんけんなあ。あの電報、何時ごろ先生のお手許ヘ……?」
「けさ、九時ごろ頂戴しました。風間と相談のうえお伺いすることにきめて、十時ごろその旨、新橋駅から電報を差し上げたんですが、何時ごろこちらへ着きましたか」
「十二時ごろ。ちょうどお昼ご飯のまえでござんしたよ」
「ぼくは二時半着の汽車で、こちらへくるってことを申し上げといたんですが、お糸さんはだれかにそのことを……」
「いいえ、旦那様と奥様以外はどなたにも……」
「それじゃお客さんたちは、ぼくがここへくることはご存じなかったわけですね」
「はあ、旦那様なり奥様なりがおっしゃらないかぎりはなあ」
「ああ、そう、いや、ありがとうございました。それじゃ、主任さん、あなたからどうぞ」
田原警部補はふたりの一問一答を注意ぶかく聞いていたが、金田一耕助にそう促されると、はっと眼がさめたように、
「それじゃ、お糸さん、きょうの午後のことを聞かせてください。あんた二時から三時まで昼寝をするそうだが……」
「はい、はい、なんというても年齢でございますけんなあ。どうしても一日にいちど横になりませんと、夜まで持たないのでございますよ。意気地がないようですけれどなあ」
「それで、きょうも昼寝をしたの」
「しましたよ。それですからこうして、みなさんのお相手ができるわけでございますわねえ」
「お糸さんが昼寝をしているあいだに天坊さんが、お糸さんの座敷のまえの庭を通ったというんだが、お糸さんは気がつかなかった?」
「あら、まあ!」
と、老婆は眼を見張って、
「あら、いやだ、わたしちっとも存じませんでしたわ。わたしお昼寝をするときには、障子をあけとくくせがございますのよ。それですから、だれも庭を通っちゃいけないととめてあるんですけれど、じゃ、天坊さん、わたしの寝姿をごらんなさったんですかなあ、まあ、いやなこと……でも、天坊さんはなんだってあんなところへ……」
「なんでも、お庭拝見をしているうちに路に迷ったといってたがね。まあ、それはともかく三時まで寝ていたんだね」
「はい、長年の習慣でだいたいきっちり一時間で眼がさめるんでございますよ。それからお風呂を頂戴しているところへ、お杉という女中が金田一先生がお見えになっているから、対面の間へくるようにって、旦那様のおことづけをもってまいりましたので、そうそうにお風呂からあがって対面の間へまいりましたら、しばらくして先生がお見えになりましたの。先生、あれ、四時ちょっと過ぎでございましたわねえ」
「はあ、ぼくのところへは、きっちり四時にお迎えがありました」
「はい、はい、それからあとのことは、先生もよくご存じのとおりでございますぞな」
お糸さんはじっさい耳もよく聞こえ、年寄りとしては声もたかくてよくとおり、訊き取りにはなんの不自由もなかった。こういう年寄りにはえてして、自分の都合の悪いことになると、耳の遠いことに託して、とぼけたりするのがあるものだが、お糸さんにはそういうところもなく、天坊氏とは反対に係官一同に好感をもたれた。
しかし、さすがに話が辰人を殺した犯人のことにおよぶと、しらぬ、存ぜぬ、見当もつかぬで押しとおして、ぜったいに言葉尻をおさえられるようなヘマはやらなかった。
「それはそうと、お糸さん、この家の付近にちょくちょく、片腕の男の幽霊みたいなものが現れるというが、お糸さんなんどもその話を聞いてるだろうねえ」
「そりゃもう、……ずいぶん久しいことでございますからね」
「あんたはそれについてどう思ってるの?」
「それがなあ、主任さん、ちょくちょくそういうことを聞くもんですけんなあ。いっぺんこの眼で見とどけたいと思うんですけれど、ふしぎにわたしの眼には触れないんでございますよ。それですから、主任さんにそういうお|訊《たず》ねをうけましても、なんとご返事申し上げてよいやら。……でも、いちおう、警戒はしなければならんと思うてはいたんです。それだけにおとといの晩、タマ子がたったひとこと、片腕のお客さんじゃというてくれたらと、それが残念でならんのですぞなあ」
お糸さんは真顔になって、いかにも残念そうに話すのだが、それが本心なのかどうか、お糸さんのその顔色からだけでは、金田一耕助にも判断がつきかねるのである。
「お糸さんは尾形静馬という男を、生きてるものと思うか、それとも死んでるものと……?」
「いいえなあ、主任さん、その質問ならあれからこっち、耳にタコができるほど聞いてるんでございますよ。ここにおいでになるこの刑事さん……なんとおっしゃいましたかな、あなた……?」
「井川と申しますよ、おばあちゃん」
「そうそう、井川さん、井川さん、年齢をとると、忘れっぽうなってしもうてな。この井川さんなんかにも、さんざん疑われましてな。このかたなんか、わたしが尾形さんをどこかに、かくもうているようにおっしゃるんですけれど、それはもう、とんでもないことでございますわねえ」
「ばあさん、もうそろそろ泥を吐いたらどうかね。時代も変わったんだし、それにもうあの事件なら、時効にかかってるんだからな」
井川老刑事が古狸の執念をのぞかせても、
「ほっほっほ。まだあんなことおっしゃって……わたしゃ泥を吐こうにも、吐かぬにも、なんにもしりませんけんなあ」
と、お糸さんは歯牙にもかけなかった。
「それじゃお糸さんにも、尾形静馬という男の生死はわからんというんだね」
「はいはい、なんべん、どなたがお聞きなさっても、答えはただひとつでございますわなあ。わたくしにはなにもわかりませんと……」
それが嘘なのか真実なのか、そういう点にかけては|老《ろう》|獪《かい》である。ちょこなんと椅子のうえに座ったまんま、まんじまんじと、一同の顔を見まわしているお糸さんは、絶対に心の|隙《すき》を見せなかった。
田原警部補も|匙《さじ》を投げたように、その問題を|放《ほう》|擲《てき》すると、
「それはそうと、こちらのご主人と奥さん、もちろん仲がいいんだろうねえ」
「そりゃもう」
と、お糸さんはいうもおろかといわぬばかりに口をつぼめて笑うと、
「旦那様はもとよりのこと、奥様のほうでも生まれてはじめて、男らしい男というものにお触れになったわけでございましょうからねえ。そうそう、金田一先生」
「はあ」
「先生やなんかの眼からごらんになると、奥様のごようすが、すこし物足りないようにお思いになるかもしれませんけれど、ああいうかた、ひとまえでは愛情の表現をできるだけひかえめになさる……と、そういう習慣が、お若いときからしみこんでおいでなさって、なかなか抜けないのですわねえ。しかし、ああいうかたにかぎっておふたりきりになると、情のふかい、こまやかなもので……」
お糸さんが年がいもなく、そこでボーッと頬を染めたところをみると、その情のふかいこまやかなところを、ときどき見ているのかもしれない。
「お糸さんはあのひとが、古館さんの奥さんだった時分からしってるんだね」
「はあ、でもここへいらしたことはほとんどございませんでしたのよ。なにしろ辰人さんがここをおきらいになりましたからねえ。戦争中なんかも、ほら、|遠州灘《えんしゅうなだ》あたりへアメリカ軍が、上陸するかもしれないって噂がございましたでしょう。ですからここはかえって物騒だからって、軽井沢へ疎開していなさったくらいですから」
「それに反して柳町さんは、ちょくちょくここへきていたというじゃないか」
「はい、あのかたもほんとうにお気の毒なかたで……とても姉|想《おも》いのかたでございましたけんなあ」
「柳町さんとこちらの奥さんとのことも、お糸さんはしってるんだろうねえ」
お糸さんは無言のまままじまじと田原警部補の顔をみていたが、やがて皮肉な薄らわらいを、巾着のような口のはしにうかべると、
「主任さん、まさか二十年も昔のことを根にもって、柳町さんがあんなことをなすったなんて、お考えにならないでしょうねえ。柳町さんはそういうかたではありません」
「ああ、いや、べつにそういうわけじゃないんだが……金田一先生、あなたなにかほかにご質問は?」
「ああ、そう、それじゃお糸さんにもうひとつおたずねしたいんだが……あの犯行の現場になった倉庫のなかに、大きな砂袋がひとつあるんですがねえ。ご存じじゃございませんか」
「砂袋と申しますと……?」
「はあ、米俵ほどではありませんが、ちょっとこれくらいの大きさの……」
と、金田一耕助が手で大きさを示して説明すると、
「あら、まあ、それじゃあの砂袋がまだ残っておりましたか」
「あっと、それじゃお糸さんはあの砂袋をご存じなんですね。あれ、なにに使うもんですか」
「いえ、あれは、ほら、先月台風がまいりましたでしょう。そのとき、この上の川が切れると危険だからって、農家に|土《ど》|嚢《のう》がいくつずつか割りあてられたんでございますわなあ。そのときこちらへも六つほど土嚢をつくってほしいというてまいりましたの。ところがこちらには農家とちがって、米俵なんてございませんでしょう。ところがさいわい、昔、蜜柑山をもっておりましたじぶんに使った、ああいう袋がございましたもんですけん、それで土嚢を六つつくったのでございますのよ。それがまだ残っておりましたか」
「はあ、ひ、ひとつだけ……」
金田一耕助はにやにや笑っている井川老刑事の、意地の悪い視線を横顔に意識しながら、思わずどもって口ごもった。
「あら、まあ、それで、それがなにか……?」
「いや、いいです、いいです。ただちょっとおたずねしただけで……」
さすがに田原警部補は笑わなかったが、井川老刑事と小山刑事がにやにや笑っているのを、お糸さんは|狐《きつね》につままれたような顔をして見くらべていた。
第七章 能面の女
「いや、どうもお待たせいたしました。家内のところへ医者が来てるもんですから……」
と、言い訳をしながら篠崎慎吾が部屋のなかへはいってきたのは、もう九時もとっくに過ぎて、そろそろ十時というころおいだった。
「ああ、奥さん、どこかお悪いので……?」
「やっぱりびっくりしたんでしょうなあ。一種のヒステリーというやつでしょうか、興奮して熱を出しているものですから……だから、家内もあとで訊き取りとやらがあるんでしょうが、なるべくお手柔らかに願いたいですね」
「じゃ、奥さんも訊き取りに、応じてくださるんですね」
「それはもちろん。あれも関係者のひとりですからね」
「ああ、そうですか。それはありがたいですね。とにかく、篠崎さん、そこへお掛けください」
「はあ、それでは……」
さすが戦後派の傑物といわれたこの男も、こんどの事件ばかりはよほど大きな打撃だったにちがいない。落ち着こうとつとめてはいるものの、どこか放心したような色がそこにある。渋い大島の着物に、ふとい|兵《へ》|児《こ》|帯《おび》をまいた、五尺七寸、二十貫という体躯も、いくらかしぼんだようにみえる。
「それじゃいろいろおたずね申し上げたいんですが、まず時間的に順序を追ってきかせてください。一昨日の夕方、あなたはどこに……?」
「ああ、なるほど、あなたがたはおとといの晩、ここへ現れて消えた片腕の男を、わたしじゃないかという疑いをお持ちなんですね」
「いや、いや、疑いというようなもんじゃないんで。ただ、多少なりとも、その可能性のありそうなかたのアリバイをうかがって、ひとりひとり消していくと、なにかについて調査に便利なもんですから……もし、おいやでしたら無理にとは申しませんが……」
「いや、べつにお答えを拒否するわけじゃありませんが、あまり突飛なお考えだと思ったもんですからな」
と、慎吾はにこりともせずに、一昨日金曜日の午後四時から五時までS氏といっしょだったと、ある有名な実業家の名前をあげ、それから、奥村が自動車で迎えにくるまでの行動をかんたんに述べたが、その過ごした場所にしろ会った人物にしろ、いずれも有名な家なり人物なりだったから、調べようと思えば、ぞうさなく調べられるていのものだった。
「いや、どうもありがとうございました。これはほんの形式だけのことですからお気になさらないで。……では、つぎにきのうのことをおたずね申し上げましょう。きのうこちらへお着きになったのは……?」
「朝の九時ごろでした」
「奥村君もいっしょだったわけですね」
「ええ、そう」
「それで、片腕の男のことをお聞きになったのはいつごろ」
「着くとすぐでした。ばあさんも倭文子や陽子をおびえさせちゃいけないと思って、おとといの晩はかくしていたんですね。それだけにわたしの到着を待ちかねて打ちあけたわけです」
「そのとき、その場にいられたのは……?」
「われわれ夫婦とばあさんだけでした」
「奥さんはたいそう驚かれたそうですねえ」
「そりゃ、驚くでしょう。たとえそれが誰かの悪戯としても、場合が場合ですからね」
「それで、あなた抜け穴へ入られたんですね。それで、それ何時ごろでした。穴へ潜りこまれたのは?」
「はあ、こっちへ着くとさっそく風呂へ入るつもりだったんですが、そのまえによごれておこうと思ったもんですから……十時ごろでした。そこを調べてみてから、金田一先生に電報を打つ気になったんです」
「ああ、ちょっと」
と、金田一耕助がさえぎって、
「あなたそのこと、金田一耕助を呼んであること、また、わたしがきょうの二時半の汽車でこちらへくるということを、どなたかにおっしゃいましたか」
「はあ、それは倭文子とお糸さんにはいいました」
「ほかに、どなたかご存じのかたは……?」
「それはないはずです」
「ああ、そう、それでは、主任さん、どうぞ」
「はあ、それで、篠崎さん、抜け穴でなにか……?」
「いや、なんにも。……なんにもなかったから、金田一先生にご相談する気になったんですね」
「でも、最近だれかそこを通ったのではないかというような痕跡は……?」
「それもよくわからんのです。蜘蛛というやつはまたたくまに巣を張りますからな」
と、いうところをみると、慎吾もそうとう蜘蛛の巣をひっかぶったにちがいない。
「そのとき、このライターを落とされたわけですね」
田原警部補がライターを出してみせると、
「そうそう、陽子が拾っておいてくれたんだそうですね。じつはわたし懐中電灯をもってたんです。ところがそれが途中で怪しくなったものですから、ライターをともして調べてみたんですね。すると、ちょっと電池の接触が悪かっただけのことで、すぐもとどおりになったので、ライターをポケットへしまったつもりのところ、落としたとみえるんですね」
「お嬢さんにお聞きになるまで気がおつきになりませんでしたか」
「いや、もちろん気がついてましたよ。だけどあの抜け穴、二度と入りたくありませんからね。いまにあなたがたも、入ってごらんになるのでしょうがねえ」
「ああ、そう。それでけさ金田一先生に、電報をお打ちになったんですね」
「そうです、そうです。金田一先生に電報を打つということは、ずいぶん迷ったのですが、やはりきょうの集まりのことがありますから、それでゆうべ遅くお糸さんに頼んだのです」
「ああ、それを奥さんがそばで、聞いていらしたのですね」
そばから、金田一耕助が念を押した。
「そういうことですね」
「それでは、昨日のことですが、二時半着の汽車でまず古館さんが、四時着の汽車で、天坊さんと柳町さんがおみえになったというわけですね」
「そうです、そうです」
「それで、ゆうべ|晩《ばん》|餐《さん》のあとで、片腕の男がやってきたということを、お糸さんがおっしゃったんですね」
「はあ、ばあさん、口をすべらせたんですね。もっとも、わたしが口止めをしておかなかったのが不覚でしたけれど……」
「みなさん、びっくりされたでしょうねえ」
「それはいちおうはねえ。しかし、びっくりしたというよりもむしろ疑わしそうな顔色で、だれも意見を吐くひとはなかったんです。ひょっとすると、わたしが悪戯をしたとでも思ったのかもしれませんね。あっはっは」
慎吾はそこではじめて笑ったが、その笑い声はかわいて咽喉にひっかかっていた。
「それじゃ、こんどはきょうの午後のことを聞かせてください」
「承知しました。昼食のあと、古館さんとわたしとだけが食堂にのこりました。そのまえに天坊さんもわたしとふたりきりで、話したいことがあるとおっしゃるので、それじゃ二時半にこちらへいらっしゃるようにと申し上げておいたんです。古館さんとは二時二十五分ごろまで話していました。古館さんがお立ち去りになってから、五分ほどして天坊さんがお見えになったんです」
「古館さんとのお話は、なにか事業上のことだったと伺ってるんですが、そのお話は円満な了解点に到達したんですか」
「いや、なかなかそこまでは……」
「しかし、それじゃおかしいじゃありませんか」
「おかしいとおっしゃると……?」
「そのお話、古館さんにとっては重大問題だったんじゃありませんか」
「ええ、そう、そうおっしゃればね」
「そういう重大問題を了解点にも達しないのに、途中で切り上げていかれるというのは……天坊さんがやってこられて、邪魔が入ったというならばともかくもね」
「ああ、そのこと……」
と、慎吾は渋い微笑をうかべて、
「それはたぶんこうでしょう。あのひと……古館さんですね。あのひとなんといってもお坊っちゃんなんですね。企画はたしかにおもしろいのです。この近所にゴルフ・リンクをつくろうという計画なんですがね。それはわたしの希望でもあるわけです。ところがあのひとの計算たるやめちゃなんですね。こっちは商売人ですから、その計算の|杜《ず》|撰《さん》さがすぐ眼につきます。そこをつっこんであげると、古館さんしどろもどろになられたわけです。そこでついわたしも渋い顔になる。と、いうようなところを叔父さん……つまり天坊さんに見られたくなかったわけです。あのひと、もうわがことなれりとばかりに、得意になって天坊さんに吹聴しておかれたらしい。それだけに、そういう醜態をみられたくなかったんじゃないでしょうか。いずれにしても、それじゃもういちど考えなおしてみるとかおっしゃって、倉皇としてここを出ていかれたわけです」
「ああ、なるほど、それで古館さんがお立ち去りになったあと、五分ほどして天坊さんがこられたんですね。なんでも骨董のコレクションについてのお話だったとか」
「ええ、そう」
「その話はどうです。円満な了解点に到達したんですか」
「いやあ。このほうも物別れでしてね。なかなかあのひとたちのご希望に添うことはむつかしい」
と、慎吾は苦笑をうかべている。
「その会談は三時に切り上げたとか……」
「わたしのほうから切り上げてもらったんです。そろそろ金田一先生がいらっしゃる時分だし、倭文子のことも気になったもんですからね」
「ああ、そう、それで、すぐ奥さんのほうへいらしたんですか」
「はあ、ところが、倭文子の部屋……と、いうことはわれわれ夫婦の部屋ということですね、その部屋のまえまでいくと、ドアに張り紙がしてあって、しばらく横になりたいから妨げないでほしい、お客様がいらしたら起きだしますから……と、そんなことが書いてあったので、わたしはそのままとなりの書斎にひきこもったんです。そしたら四時ちょっとまえ女中がやってきて、お客様が湯からおあがりになったというので、対面の間のほうへいったんです。ひと足おくれて倭文子がやってき、それからお糸ばあさんもやってきたので、金田一先生のところへお迎えをさしむけたというわけで……」
そして、金田一耕助が対面の間へやってきたのが、四時五分ごろだったわけである。
「そうすると、三時以後におけるあなたのアリバイはないわけですか」
慎吾はきびしい視線を田原警部補のほうへむけた。ギラギラ光る大きな眼であった。
「そうすると、古館さんが殺害されたのは、三時以降と限定されているんですか」
「いや、まだハッキリしているわけではないんですが、だいたいまあ、その見当じゃないかということになってるんですが……」
慎吾はちょっと放心したような眼で、あらぬかたをながめながら、なにか打ち案じているふうだったが、
「ちょっと無理なようですね、わたしのアリバイを証明するのは。わたしはむろんそのあいだ、書斎のなかに閉じこもりきりじゃなかった。むしろ書斎のまえの庭の散策に、より多くの時間を費やしたように思う。しかし、金田一先生」
「はあ……?」
「あなたは聞いておいでにならんかな。この建物を建てた古館種人伯の設計で、この家の庭の植え込みというのが、まるで迷路みたいになっていて、どこからもひとに見られんように、たくみに造庭されているということを……」
「はあ、それはたびたび聞いております」
「わたしがいま書斎や居間や寝室にしている一画が、昔種人伯爵が起居していられたところだそうで、そのへんの庭はとくに入念に設計されているので、わたしのそぞろ歩きを見たものは、おそらくだれひとりないと思う」
「そうすると、三時から四時までのアリバイは、おありでないということですね」
田原警部補はおだやかな口調ながら、単刀直入に突っ込んだ。
「ああ、そういうことになりますな。三時に天坊さんがお引き取りになると、わたしはすぐに女中を呼んで、そろそろお客様がおみえになる時分だが、お見えになったらお風呂へご案内するように。四時にお眼にかかるからと、そう申しつけておきました。それからあと四時ちょっとまえに、女中がお客様がむこうでお待ちでいらっしゃいますと、いってきたときまでだれにも会っておらず、したがってその間のアリバイなしということですね」
田原警部補を真正面から見る慎吾の眼は、あいかわらず表情がなく、その語りくちは淡々として抑揚もない。
「こういうことをおたずねするのは失礼ですが、奥さんの古館さんにたいする感情はその後どうだったんです」
「ああ、それね」
と、慎吾はちょっと放心したような眼つきになり、
「男同士は割り切ってるんだから、おまえも割り切るようにとはいってあるんです。そして本人もそのつもりなんですが、やっぱり顔をあわせたりするとね。ことに周囲からなにかいわれたりすると、やはり心がうずくんじゃないですかな」
そのあとで古館辰人がかつて、自分の継母と尾形静馬の仲を中傷したということをしっていたかという質問にたいして、慎吾はきょうまで全然しらなかったと答え、また倭文子と柳町善衛が婚約の間柄であったということも、さっきまでしらなかったと答えたが、さすがにそれらの事実にたいして批判がましいことはいわなかった。
この訊き取りもここまではわりに淡々と運んだのである。だが、最後の瞬間において慎吾の気持ちを大きく動揺させるようなことがもちあがった。
「それじゃ、篠崎さん、さいごにひとつ、あなたに見ていただきたいものがあるんですが……」
と、だしぬけに田原警部補にデスクの下から取りだした、あの仕込み杖を鼻のさきへつきつけられたとき、慎吾は反射的に椅子から腰をうかし、くゎっと大きく眼を見張った。しばらくまじまじとその仕込み杖を見つめていたが、やがて大きく|呼《い》|吸《き》をうちへ吸いこむと、
「そ、それはわたしのものらしいが、そ、それがどこに……?」
「現場のロープの下にあったんですよ。ほら、この握りのところに血痕がついてるでしょう。だから、古館さんはこいつで後頭部をぶちわられて、|昏《こん》|倒《とう》したんじゃないかということになってるんですがね」
慎吾はどしんと音を立てて椅子に腰をおとすと、にわかにふきだしてくる額の汗をぬぐいながら、その眼はいまにも飛び出しそうである。どうやら陽子もこの仕込み杖のことはいっておかなかったらしい。
「金田一先生、それ、ほんとうですか」
「篠崎さん、主任さんのおっしゃることはほんとなんですが、あなたこの仕込み杖をどこにおいていらっしゃいました」
慎吾は無言のままきびしい、おびえたような眼で仕込み杖をながめていたが、やがてひとりごとをいうようにつぶやきはじめた。
「わたしはもう長いあいだ、この仕込み杖を見たことはなかった。これはもと軍刀だったのだが、戦争直後の物騒な時代に、護身用としてこんなものに作りかえたのだが、その後ピストルを手に入れたので、こんなものに用はなくなった。そう、この仕込み杖はこの別荘を手に入れた、昭和二十三年ごろにはまだ持っていた。そして、いつかここへきたとき忘れてかえって、それきりわたしはこれを手にしなくなったんだ。これはこの家の|納《なん》|戸《ど》の中にあったはずだが……」
「すると、あなたがこういう仕込み杖を持っているということを、お糸さんはご存じですね」
「ああ、しっている。それから陽子も……」
「奥さんや奥村君は……?」
「そうそう、奥村君もしっていた。倭文子はどうだか。……あれとつきあいがはじまったころ、わたしもちょくちょくこの仕込み杖を持っていた。が、しかし、それが仕込み杖であることを、あれがしっていたかどうか……」
「そうすると、古館さんもご存じだったわけですね」
慎吾ははっとしたように金田一耕助を見て、
「そう、古館さんはしっていた。いちどあのひとのまえで抜いてみせたことがある。もちろんあのひとのご希望で……」
どういうわけかこの仕込み杖の一件から、慎吾は急に士気が阻喪したかんじで、放心の色がいよいよふかく、言葉つきなどものろのろと、なにか悪い酒にでも酔っているような顔色だった。その仕込み杖が現場にあり、凶器として使われたということが、かれにとってはなぜかひどいショックだったらしいのである。
倭文子はじっさい美しい。金田一耕助はまえにこのひとを、東劇のロビーでかいま見たことがある。篠崎慎吾の助手として活躍していたころのことで、表面的には元伯爵古館辰人夫人だったが、当時もうすでに慎吾ととかくの噂が流れていた。
「あれだよ、篠崎と妙なうわさの立っている、古館倭文子というのは……」
と、金田一耕助の|耳《みみ》|許《もと》で、苦々しげにささやいたのは風間俊六だった。
そのとき慎吾はいっしょではなかった。バイヤーらしい外人とふたりきりで、おそらく慎吾の要請で、観劇の案内役を仰せつかっていたのだろう。ロビーに立って外人と話しているところを聞くと、|流暢《りゅうちょう》な英語をあやつっていた。そのときの倭文子も和服だったが、はでな花模様の訪問着をあでやかに着こなしていて、才気|煥《かん》|発《ぱつ》というかんじであった。あたりにいる日本人の視線や思惑も、いっこう気にならぬふうなのに、金田一耕助も感服した。
いまの倭文子も和服だが、あのじぶんからくらべるとぐっと渋好みである。茶色っぽい|結城紬《ゆうきつむぎ》。あらい|格《こう》|子《し》|縞《じま》にはピンクやブルーの糸も織りこまれているようだが、一見それとは気づかぬほどの渋さである。それをぐっと引き立てているのが|疋《ひっ》|田《た》の帯、ブルーと白のしぼりに、金や銀や朱の糸で、大きく源氏車がちらしてある。|衣《え》|紋《もん》をぬかずに着た着こなしと、|皺《しわ》ひとつない|白《しろ》|足《た》|袋《び》とが、見た眼にもすがすがしい。
「いや、どうも。お加減のわるいところをお呼び立てして恐縮です」
この美しいひとをまえにおいて、まだ若い田原警部補が、しきりに|空《から》|咳《ぜき》をしているのは、多分にかたくなっているせいであろう。
「はあ、でも、これもお勤めですから」
「さぞお驚きになったでしょう」
「それはもちろん……のことでございます」
「それについて、いろいろおたずねしたいことがあるんですが……」
「どうぞ、ご遠慮なく」
「順序として、こちらへおいでになったときのことから、おたずねしたいのですが、奥さんは金曜日の午前中に、こちらへ着かれたそうですね」
「はあ……きょうのお集まりのために、いろいろ準備をしておくために」
「お嬢さんがご一緒なすったのは……?」
「あのひとは奥村さんが、車の運転をしてくださることになったものですから……ドライブかなんかのおつもりでございましょう。こちらへお着きになってからも、お昼ご飯を召し上がると、さっそくおふたりでドライブにお出掛けになったようでした」
「そのかん奥さんはお屋敷のなかを、あちこちお歩きになったんでしょうな」
そばから切り込むように質問の矢を放ったのは、狸の井川老刑事である。|猜《さい》|疑《ぎ》の色を露骨に瞳にうかべているが、もっともこの狸にかかると、だれもかれも疑わしく映じるらしい。
「はあ、なにしろ久しぶりでございますから……」
「久しぶりとおっしゃって、いつごろから久しぶりなんで」
さすがに倭文子はいやな顔を見せかけたが、すぐ冷静に立ちかえると、
「正直に申し上げますと、ここが篠崎の名義になってから二度めでございます。篠崎と結婚してから、いちどここへ連れてこられて、週末を過ごしたことがございますが、あたくしこの家をあまり好まないものですから」
「それでどうです。一昨日こちらへきてあちこちお歩きになって、なにか変わったことにお気づきでも……」
「いいえ、べつに。……主人の申しますのに、以前とはだいぶん変わっているよということなので、そのつもりでいたんですが、外から見たところではそれほどたいして……それは、ひとつひとつのお部屋のなかは、ホテルむきに改造されておりますけれど……」
「おや、奥さんはひとつひとつ部屋を見てまわられたんですか」
「だってあたしの役向きのひとつは、お客様がたのお部屋の割りふりでございましょう。お糸さんに相談にのってもらって、みなさまのお部屋の割りふりがきまると、ひとつひとつ検分して歩いたのでございますの」
「その際奥さんは、裏の倉庫へはおいでになりませんでしたか」
「いいえ、まいりませんでした」
「でも、あそこにああいう倉庫があることはご存じでしたか」
「はあ、うろ覚えに覚えているようです」
「ああ、そう、では、主任さん、どうぞ」
「いや、ちょっとそのまえに、わたしからおたずねしたいことがあるんですが……」
そばからどもりながら声をかけたのは金田一耕助である。この美しいひとをまえにおいて、探偵の役回りをつとめるのは、いささか面映いのか、かれはいくらかテレ気味である。
「さあ、さあ、どうぞ……」
「では、失礼ながら……奥さん、あなたもこの家にいろいろ、抜け穴やどんでん返しみたいなものがあることは、お聞きになっていらっしゃるでしょうねえ」
「はあ、それはもちろん」
「それについてあなたは、どのていどの知識をお持ちでしょうか。じっさいにどの部屋からどういうふうに、抜け穴が通じているかというふうな知識ですね」
倭文子はかすかにほほえんで、
「金田一先生、わたしはそのことについて、とやかく申し上げるつもりはございません。そういう仕掛けたくさんのお家をお造りになったかたには、それそうとうの理由がおありだったと伺っております。しかし、あたしは女でございましょう。小さいときからそういうことに、好奇心をもつことは卑しいことだというふうに、しつけられてきたんですの」
「じゃ、じっさいにはなにもご存じないわけですね」
「はあ、ぜんぜん。あたしが以前からこの家をきらってましたのも、ひとつはそれがあるからでございました。あたしはあまりロマンチストじゃないんでしょうねえ」
「いや、ありがとうございました。それでは、主任さん、どうぞ……」
「はあ、いや、それでは……奥さんは金曜日の夕方五時ごろに、真野信也と名乗る片腕の男が、ここへやってきて消えたということを、はじめてお聞きになったのはいつ……?」
「はあ、あれはきのうの朝主人がこちらへまいりますとすぐでした。お糸さんがとつぜんそんなことをいい出しまして、あたしもたいそう驚きましたが、でも、そのときは、それがそんなに重大なことだとは気がつきませんでした」
「しかし、きのうの夜おそく、御主人がそのことでお糸さんに、金田一先生に打電するよう命じていられるのを、あなたはそばで聞いていられたそうですが、そのときはどうお思いでしたか」
「正直に申し上げますと、ハッとするような思いでございました。それではそんなに重大なことなのだろうかと、改めて自問自答する思いでございました」
「奥さんはそのことをどなたかにお話しになりましたか。金田一先生をお招きするということを」
「いいえ、どなたにも」
「奥さん。あんたはその男を……金曜日の夕方やってきて消えた男を、あんたの|先《せん》のご主人……いや、失礼、古館辰人氏だとは思いませんか」
まあ……と、いうような視線を、倭文子は無言のままこの古狸の刑事にむけた。
彼女は気がついているはずである。この老刑事が自分にたいして、なみなみならぬ敵意と、|侮《ぶ》|蔑《べつ》の念を抱いているらしいということを。しかし、彼女の顔色はかわらなかった。能面のように取りすました冷たさを、彼女はうまれながらにして身につけているらしい。
「それ、どういう意味でございますの。あのかたおとついの晩、こちらへいらしたとおっしゃるんでございますか」
「だって奥さんはさっきあの男……いや、失礼、古館さんの死体を見たでしょうが」
「はあ……それがなにか……?」
「これは驚いた。それじゃ奥さんはあの男、いや、被害者が左の腕を上着のしたで、ベルトで胴へゆわえつけ、片腕男のまねをしていたということに、気がつかなんだとおっしゃるんですかい」
倭文子の顔にはじめて動揺の色が現れた。彼女はハッと金田一耕助のほうへ視線をむけると、
「金田一先生、こちらのおっしゃること、ほんとうでございますか」
「ほんとうです、奥さん。奥さんは気がおつきなさいませんでしたか」
「いいえ、気がつきませんでした。しかし、あのかたがなんでそんなまねを……?」
「それはこっちから聞きたいもんですな。あんたの先のご亭主が、なんで片腕男のまねなんかしてたかってことを」
井川老刑事はあいかわらず、挑戦するような調子である。
「金田一先生。それ、だれかがあのかたを殺害してから、そんなふうに擬装しておいたのじゃございません」
だが、金田一耕助がこたえるよりも、井川老刑事の|嘴《くちばし》を入れるほうがはやかった。
「じゃだれがそんなことをしたというんです。犯人はなぜおまえさんのせんの亭主を殺しておいて、さてそのあとでご丁寧にも、片腕男に仕立てておいたというんですい。ひとつそこのところのご意見を承ろうじゃありませんか」
おそらく井川老刑事にとっては、二十年来の執念がここに凝った思いだったのであろう。捜査の途上さんざん貴族階級のひとたちに愚弄され、翻弄された積年の遺恨が、戦後のいまになって爆発したというべきか。
能面のような倭文子のおもてにも、さすがに困惑の色がうかぶのを見て、そばから金田一耕助が、助け舟を出すように口をはさんだ。
「いえね、奥さん。古館さんが片腕男のまねをしているところを、だれかに殺害されたのか、殺害されたあとで犯人が、古館さんを片腕男に仕立てたのか、いまのところもうひとつハッキリしていないんです。しかし、前後の模様からして前者の疑いのほうが濃いんです。したがって金曜日の晩ここへやってきて、消えてしまった片腕男も、古館さんじゃなかったかという疑問を、こちらの刑事さんが持たれたのも、無理はないと思ってあげてください」
金田一耕助の説明に、倭文子もやっと納得がいったのか、だれにともなく頭をさげると、
「わかりました。金曜日の晩のひとがあのかただったとすると、あたしどもとおなじ時刻に、この家にいたということになるんですのね。しかし、あたしは存じませんでした。さっきも申し上げたとおりそのひとのことは、きのうの朝お糸さんに聞くまでは、ぜんぜん存じませんでした。……それに……」
「それに……?」
と、井川刑事は切り込むような調子である。
「はあ、金曜日の夕方ここへきて消えたひとが、あのかただったかどうか、それ、調べてごらんになったらすぐわかるんじゃございません。あのかたも相当世間の広いかたですから、金曜日の夕方、どこでなにをしていらしたか、調べるとわかるんじゃございませんか」
「ああ、それいいですね」
井川刑事がなにかいおうとするまえに、金田一耕助が口をはさんだ。
「アリバイ調べというやつですね。主任さん、東京のほうへ手を回して、いちおう調べておかれたら……」
「はあ、ではさっそくやってみましょう」
「では、主任さん、おあとをどうぞ」
金田一耕助は井川刑事に、嘴をいれさせぬつもりなのである。じっさいかれはこの老刑事の、露骨すぎる敵意や反感に、うんざりしているところだった。そんなことは捜査の妨げにこそなれ、プラスにはならないのである。井川老刑事もそれがわかったのか、それきり黙り込んでしまった。
「それではきょうのことに話をすすめさせてください。きょうのお昼御飯には、あなた食堂へお出にならなかったそうですね」
「はあ……ちょっと気分が悪かったものですから」
「そうすると、きょうは古館さんに……?」
「いちどもお眼にかかっておりません。お|亡《なき》|骸《がら》にお眼にかかったのは別として」
「そうすると、こんどこちらへ来られてから、古館さんにお会いになったのは……?」
「ゆうべのお食事のときだけでした」
「なるほど。ゆうべのご会食では、天坊さんや柳町さんにもお会いになったわけですね」
「はあ」
「その後おふたかたには……」
「どなたにもお眼にかかっておりません。いえ、あの、そうそう、天坊さまにはきょうお昼過ぎ、ちょっとお眼にかかりました」
「そのことですがね。それじゃきょうの午後のことについて、おたずねしたいのですが」
「どうぞ」
「あなたは食堂へお出にならずに、お部屋へ閉じこもられたんですね」
「はあ。そのとき、お部屋のドアに張り紙をしておきました。どなたにもお会いしたくなかったものですから。そうそう、主人が食堂へ出ようとあたしを誘ってくれたとき、あたしがお断りしますと、それでは金田一先生が三時ごろお着きになるはずだが、お風呂へでもはいっていただいて、四時ごろお眼にかかることにしよう、そのときは、おまえもご一緒するようにといってくれましたので、あたしも承知いたしました。そのあとでタマ子が食事を運んでくれたので、お部屋でひとりでいただきました」
「それからドアに張り紙をなすったんですね」
「はあ」
「三時ごろご主人が、お部屋のまえまでいかれたそうですが、気がおつきなさいませんでしたか」
「あら、そうですの。あたしいっこうに。……きっとうたたねをしていたんでしょうね」
井川老刑事の眼が、また猜疑にみちて輝いたのはいうまでもない。
「しかし、天坊さんがお部屋のまえを通りかかられたとき、ベランダヘ出てフランス刺繍かなんかしておられたとか……」
「そうそう、あれは何時ごろのことだったかしら」
田原警部補はメモに眼を落とすと、
「天坊さんは一時半ごろ、こちらのご主人や古館さんと別れて、二時半ごろご主人のところへかえっていらっしゃいます。その間一時間ほど、邸内やお庭をぶらついていたとおっしゃいますが、あなたとお会いしたのは、そのあいだのことですから……」
「じゃ、二時ごろのことだったのでしょうね。それについて天坊さまはなんとおっしゃってますの」
「いや、ただちょっと、お加減はどうかねとかなんとか、ほんのふたこと三こと、話したきりで別れたといってらっしゃいますが」
倭文子の顔がふっと曇った。ほとんど感情をおもてに出さない彼女だが、どういうものかこのときは、かすかなため息をもらすと、
「金田一先生」
「はあ……?」
「われわれ没落貴族というものは、ほんとに哀れなものでございますわね。あたしきょうつくづくそれを思いました」
「と、おっしゃいますと……?」
「天坊さまのことですけれど、昔はあのかたあんなかたではなかったはずです。もっと気位のたかい、|毅《き》|然《ぜん》としたところのあるかたでございました。それがどうでしょう。きょうはあたしに泣きつくやら、哀訴嘆願なさるやら、はては脅しにかかってこられて……」
「どういうことでしょうか、それ……」
金田一耕助の声は落ち着き払っている。
「はあ、なんでも骨董のコレクションのことらしいんですの」
「そうそう、そういう話、ご主人もしていらっしゃいましたね」
「はあ、主人はなんと申しましたか存じませんが、それがあまり思わしくないらしいんでございます。まえにもいちど、天坊さまのお世話で手に入れた書画のなかに、いかがわしい品がございましたそうで、主人はもうあのかたのお言葉を信用していないらしいんですのね。ところが天坊さまにとってはこんどの取り引きが、とっても大事なことらしいんです。ですからあたしに取りなしてくれるよう、泣きついていらっしゃるうちはよかったんですが、あたしがよい加減にあしらっておりますと、急に居直ってこられて。……」
「居直るってどういうふうに……?」
「なんでも主人のやっている事業に、後ろ暗いところがある。自分はその秘密を握っている。主人を生かすも殺すも自分の掌中にあるなどと、すごいことをおっしゃいますの」
「その秘密というのはどういうことですか」
「いいえ、それはおっしゃいませんでした。おっしゃってもあたしにはわかりっこございませんわね。あたしもううんざりいたしまして、そんなことはあたしにおっしゃっても無駄でございましょう。直接主人におっしゃってくださいと逃げたのでございますが、それがもうしつこくって……」
「それじゃ天坊さんはそうとう長く、あなたのところにいらしたんですか」
「はあ、半時間くらいはいらしたんじゃないでしょうか」
「それで、奥さんはどうなさいました?」
「どうするって、結局、逃げの一手よりほかはございませんわね。そのうち主人との会見の時間が迫ってきたとおっしゃって、お引き取りになったんですの」
そうすると天坊さんは二時半ちかくまで、倭文子のところで粘っていたことになる。ここにひとつ食い違いが出てきた。天坊さんの話によると、ほんのふたこと三こと話したきりだといっていたが、そういうふうに時間を短縮したのは、脅迫がましい言辞を弄したことを、隠蔽しておきたかったのだろうか。
「それで天坊さんが立ち去られると……?」
「はあ、あたしすっかり気分が悪くなってしまいました。もうなにをするのもいやになって、お部屋へかえってアーム・チェヤーに腰をおろして、いろいろ考えごとをしているうちに、ついうとうとしてしまって。……やっぱり疲れていたのでございましょうね。なにやかやとございますもんですから」
能面の女として珍しく多弁なのを、金田一耕助は気の毒そうに見守っていた。こういう種類の女が多弁になるということは、それだけ心理的にまいっているということだろう。
「それで……?」
「はあ、それから金田一先生がいらしたについて、対面の間へくるようにと、主人がタマ子を使いによこすまで、そこにいたのでございますの。それからあとのことは、金田一先生もよくご存じでいらっしゃいます」
「では最後にもうひとこと。あなた古館さんのああいうご最期についてなにかご意見は……」
倭文子の顔にはあきらかに、苦痛の色があらわれた。しかし、それが激情となって爆発しなかったのは、それがこの女の天性なのか、それとも極度の疲労から、いまや虚脱状態に一歩踏みこんでいるせいであろうか。
彼女の声にはなんの抑揚もなく、まるでなにかを暗誦するかのように、
「あれは恐ろしいことです。奇妙なことですわね。しかし、あたしにはなにもわかりません。あたしに申し上げられることは、ただそれだけでございます」
「ああ、そう、それじゃもうひとつ、これがほんとの最後ですから……」
と、田原警部補はデスクの下から仕込み杖を取り出すと、いきなり相手のまえにつきつけて、
「これに見憶えがおありでしょうねえ」
倭文子の眼が急に大きく見開かれて、
「それは主人の……いえ、あの、せんに主人が持っていたものに似ておりますが、それどこにございましたのでしょうか」
「現場から発見されたんですよ。古館さんは最初鉛のつまったこの握りで後頭部を強打され、昏倒してるところをロープで絞められたんですね」
「しかし、まさか……しかし、まさか……主人がそんなこと……」
「いいえ、ご主人がおやりになったといってるんではないんですよ。ご主人はこれをここの納戸の中に、置き忘れたままだったとおっしゃってますが、あなたそれをご存じでしたか」
「いいえ、存じません」
倭文子は恐怖の眼を大きく見張って、
「あたしが主人と付き合いをはじめた時分、それを……いえ、それに似たようなものを持っていました。あたしあまり野蛮ですからおよしなさいとたびたび忠告したんです。ですからあたしと結婚した時分には、もうそんなもの持ってはおりませんでした。しかし、主人がそれをどう始末したのか、主人もいわず、あたしも聞きませんでした」
「奥さんはこれを仕込み杖とはご存じでしたかい」
田原警部補の手から仕込み杖をひったくるようにした井川老刑事が、ズラリとそれを抜いてみせ、
「抜けば玉散る氷の刃とご存じでしたかい」
倭文子はそれに対してしっていたとも、いなかったとも答えなかったが、はげしい戦慄が彼女を襲い、そしてこの能面の女をくるんで、なにかしら黒い霧のようなものが一面に立てこめたかと思われた。……
第八章 抜け穴の冒険
問題の抜け穴の探検が行われたのは、その夜も十一時を過ぎてからのことだった。その探検に参加したのは田原警部補に井川、小山の両刑事、金田一耕助の四人である。
そのまえに一同は納戸というのを調べてみたが、そこは日本座敷になっており、鍵もかからず、したがってだれでも入ろうと思えば自由に入れた。しかし、そこに仕込み杖があるということを、いったいだれがしっていただろうか。篠崎慎吾のほかに。……
お糸さんの案内してくれたダリヤの間は二階にあった。この二階は廊下がT字型になっており、階段をあがってきて廊下をまっすぐに進んでいくと、Tの字の縦の棒の廊下の右側に部屋が四つあった。その廊下の左側は広い屋上テラスになっていて、夏場などそこをビヤ・ガーデンに使うつもりだそうだが、いくいくはそこにも四つの部屋を造る計画があるとお糸さんはいった。
※[#ここに画像。建物の見取り図?]
さてT字型の横の棒の廊下の上部に部屋が二つならんでいて、ダリヤの間はその右側に位置していた。
廊下に面したドアを入ると、十二畳敷きくらいの広い居間になっており、その居間の右側のドアの隣は十畳敷きくらいの寝室になっている。寝室には|豪《ごう》|奢《しゃ》なダブル・ベッドがすえてあり、ダブル・ベッドの枕下、すなわち廊下に面した壁の中央には、造りつけのこれまた豪勢な洋服|箪《だん》|笥《す》がデンとかまえている。その寝室からさらに右側のドアを入るとトイレと浴室になっているが、この三つの続き部屋は東北東にむかって窓がひらいており、大きくとった窓ガラスをとおして、はるかむこうにそびえている富士の高根が、どの部屋からも望めるように設計されているのだが、いまは夜だからどの窓にも、厚い|鎧扉《よろいど》とカーテンがしまっている。
さて問題の抜け穴だが、それは居間の壁付き暖炉の奥になっていた。ここでそこに並んでいる二つの|続き部屋《フラット》の略図を紹介しておこう。
すなわち二つの続き部屋は左右相称になっているのだが、この二つの続き部屋を隔てる壁は三尺以上もあろうか、この壁の厚さと、奥行き三尺はたっぷりあろうという暖炉の深さがくせものなのである。
この壁付き暖炉のうえには床から高さ四尺くらい、奥行き三尺、長さ六尺くらいの大理石のマントルピースがついているが、真野信也なる片腕の怪人が消えたあと、このマントルピースのうえに鍵がおいてあったそうである。
さてお糸さんがマントルピースの下についている隠しボタンをおすと、暖炉の|火《ひ》|床《どこ》が床へしずむと同時に、暖炉のおくの|煉《れん》|瓦《が》の壁が左の壁のなかへ移動する仕掛けになっており、これはあきらかに明治時代にできたものではない。いや、抜け穴そのものは明治時代にできたものだろうが、この入り口の仕掛けはだれかがあとから手をくわえ、工夫をこらしたものにちがいない。おそらくそれは一人伯爵だったろう。
陰険で邪知ぶかく、猜疑心が強かったという一人伯は、先考種人伯の造っておいたこの秘密めいた抜け穴に、ふかい興味をもったにちがいない。そして、それを保存したばかりか修理をくわえ、電気仕掛けなどによりいっそうの、近代的工夫をこらしたのであろう。
「そうするとこの抜け穴は、明治時代にできたもんより、いっそう精巧になっちょるちゅうわけですかい」
狸刑事が舌を巻いた。
「お糸さん、あなたはご存じないんですか。一人伯が抜け穴をいじったということを」
「そういえばあのひとは、しょっちゅうこそこそと屋敷の中を、いじくりまわしておいでなさいましたえなあ。普請道楽じゃとかなんとかおいいなさって」
一人伯が抜け穴をいじったとすると、それはたんにこういう秘密めいた構造に、子供っぽい好奇心を持ったからだろうか。それともほかに、なにか目的があったのではなかろうか。一同が抜け穴へ潜り込むまえ、あらためて古館家三代にわたる奇妙な性癖に思いをめぐらせているとき、開けっ放したダリヤの間のドアの外にひとが立った。
「おや、それが問題の抜け穴の入り口かな」
声をかけてはいってきたのは侏儒の天坊邦武である。
天坊さんは粗い竪縞のパジャマのうえに、茶色のウールのドレッシング・ガウンをはおっており、手にタオルと|石《せっ》|鹸《けん》|函《ばこ》を持っているところをみると、これからバスを使おうとしていたところらしいが、どうしてもこのひとを見ていると奇型児としか思えない。
「おや、天坊さん、あなたのお部屋はこの近くですか」
金田一耕助が声をかけると、
「ああ、わしの部屋はすぐこの隣じゃが、こっちでごちゃごちゃ人声がするもんでな。なるほど、なるほど。抜け穴の入り口というのはこれかな」
このひとは遠慮とか、ひとの思惑とかいうことを知らないらしい。マントルピースのまえにいる、井川老刑事や小山刑事を押しのけると、隠しドアの仕掛けや、ドアの奥にひらいた暗い抜け穴をのぞいていたが、やがて金田一耕助のほうへふりむけた顔には、なにやら不安そうな|翳《かげ》りがあった。
「金田一君」
「はあ」
「この隣のわしの部屋はヒヤシンスの間というんじゃが、そこにもこれとそっくりのマントルピースが壁にとりつけてある。まさかあそこにもこのような抜け穴が……?」
「あっはっは」
と、吹き出したのは井川老刑事である。
「お糸さん、天坊の旦那がああおっしゃる。あんたこの旦那にも抜け穴のある部屋を当てがったのかい」
「まさか。……天坊さん、そんなに抜け穴があちらにもこちらにもあったら、このお屋敷、それこそ蜂の巣みたいになってしまいますぞな」
「それとも、天坊さん、あなた抜け穴からやってくる、何者かに襲われるかもしれないという、ご心配でもおありなんですか」
若い小山刑事がそばからからかった。
「そうだ、そうだ、あんたひょっとしたら、片腕の怪人というのをご存じじゃないのかな。まさかあんたが片腕の怪人とは思えんが……」
「おやじさん、そんなこというと片腕の怪人に失礼ですせ。片腕の怪人は、もっとスマートだったようですからね」
このふたりの刑事の|揶揄嘲弄《やゆちょうろう》は、いたく天坊さんの心を傷つけたらしい。怒りのために、キューピー人形のような体をふるわせながら、ギロリとふたりをにらんだが、無言のままチョコチョコと、ドアのほうへ歩いていく後ろから、田原警部補が気の毒そうに、
「天坊さん、なんならお供をして、部屋の中を調査してみましょうか」
「いや、それには及ばん」
「天坊さん、念のためにマントルピースのあたりを、いちおう調査しておかれたら……」
金田一耕助が声をかけると、
「ふむ、わしもそうするつもりじゃ」
天坊さんの姿はそのままドアの外へ消えていったが、あとから思えば生きている天坊さんの姿を見たのは、これが最後になったのである。
「ところでお糸さん、この部屋の下はどうなっているんですか」
金田一耕助がたずねると、お糸さんはちょっとドギマギとした顔色になり、
「はい、この部屋の真下は旦那さまのお部屋になっております。いまも旦那さまはそこにいらっしゃるはずでございますけれど……」
「えっ!」
と、井川老刑事と顔を見合わせた田原警部補は、なんとなく声をひそめて、
「それじゃ、その部屋にもこれとおなじような抜け穴が……?」
「それはそうでござんすぞな。そこが昔、先々代さまの居間になっていたところでございますけんなあ。地下が危ないとみれば上へあがってこの部屋から、外へ抜け出せるようになっておりますんぞな」
「それじゃ、この真下にもこれとおなじような暖炉があるわけですね」
金田一耕助が念を押した。
「そういうことでございますわなあ。それですから気をつけて降りてごろうじませ。途中にそれとそっくりの煉瓦の壁がございますぞな。しかし、それは外からは絶対に開かぬ仕掛けになっておりますけん、どうぞそのおつもりでな」
金田一耕助はなんとなく、わき起こる不安をおさえることができなかったが、それはともかく、天坊邦武というおもわぬ邪魔が入ったので、一同が抜け穴へ潜り込んだのは十一時二十分のことである。いよいよ抜け穴から中ヘ潜り込むまえ、金田一耕助はお糸さんを振り返って、
「お糸さん、たしか午前九時十五分富士駅発の上りがございましたね」
「はあ、それがなにか……?」
「ぼくあすの朝その汽車で、東京へ帰りたいと思うのですが、ひとつそういうふうにご配慮ねがえませんか」
「なんですって?」
井川老刑事が聞きとがめて、
「金田一先生はこういう事件をおっぽり出して、東京へかえるんですかい」
「はあ、まさかこんな事件が起ころうとは思いませんでしたから、あちらにちょっとした仕事が残ってるんです」
「金田一先生」
そばから田原警部補がおだやかに言葉をはさんで、
「先生はこのままこの事件から、手を引いてしまわれるんじゃないでしょうねえ」
「いや、よかったらこののちともに、お手伝いさせていただきたいとは思ってるんですが……篠崎さんもそれを希望してらっしゃるようですから」
「それでいつこちらへお帰りになります」
「明後日の夕方までには、帰ってきたいと思いますが……もっとも、それまでに事件が解決してるかもしれませんね」
「金田一先生」
井川老刑事が例によって狸のような目玉をくりくりさせながら、
「抜け駆けの功名はいけませんぜ。あんた東京でなにか調べてくるつもりでしょうが、わかったことがあったら、われわれにも報らせてくださいよ」
「はっはっは。井川さん、こんどの事件の根底は、そうとう深いと思わなきゃなりませんね。ぼくがいちにちやそこいら、駆けずりまわったところで、真相が判明するなんてものじゃないでしょう。では、お糸さん、いまいったことお願いします。篠崎さんには了解を求めておきましたから」
「承知いたしました」
こうして一同が抜け穴の中へ潜り込んだのが、さっきもいったとおり十一時二十分。
まず先頭は一番若い小山刑事、それにつづいて井川老刑事、田原警部補のあとから金田一耕助がつづいたが、みんなてんでに懐中電灯をふりかざし、手拭いで頬かぶりをしたり、ハンカチや風呂敷きで鼻孔をおおうことを忘れなかったのは、主として篠崎慎吾の注意によるものである。
マントルピースの裏側には三尺四方の縦孔が垂直に落下しており、そこにさびついた鉄の|梯《はし》|子《ご》が取りつけてある。それはどうやら暖炉の煙突の側面に取りつけてあるらしい。
「気をつけてくださいよ。旦那様のお話では、ずいぶん危なっかしくなっているそうでございますけんな」
マントルピースから下をのぞきこみながら、お糸さんが四人の頭上から声援を送った。
一番|殿《しんがり》に立った金田一耕助が、何気なく上を振り仰ぐと、お糸さんの顔がすぐ眼の上にあった。彼女はあわてて顔をそむけたが、その瞬間金田一耕助は、なにかしらハッとするようなものを感じずにはいられなかった。巾着のようにすぼめたお糸さんの口許に、奇妙な微笑がうかんでいるのを、一瞬見てとったからである。
「お糸さん」
「は、はあ……なにか御用でも……?」
お糸さんはバツが悪そうに、眼をシワシワさせながら、そらとぼけるのはうまいものである。
「天坊さんのことですがね」
「はあ、天坊さんがなにか……?」
「ちょっといって様子を見てあげてくださいませんか。なにか気になりますから」
あとから思えばこういうのを、虫が知らせるというのであろうか。
「承知いたしました。あのかたもすっかり神経質におなりなさって。……はい、はい、よろしゅうございますぞな。これからいって、なんならいっしょに抜け穴を捜してみましょう」
「そうしてください。それじゃ頼みましたよ」
三尺平方あれば人間ひとり、鉄梯子にとっつかまって昇り降りするには不自由はない。しかしなにしろ抜け穴の内部は底知れぬ|闇《やみ》である。最近そこを五人の男女、すなわち真野信也と名乗る正体不明の怪人と、その怪人のあとをもとめて篠崎慎吾と柳町善衛、陽子と奥村弘の四人が潜り込んだということを知っていなければ、いかに職業柄とはいえ、小山刑事も先頭に立つことを|躊躇《ちゅうちょ》したかもしれない。
こういう冒険を決行するとき、金田一耕助の服装はまことに不便にできている。|袴《はかま》の|裾《すそ》を踏まねばならぬ。|袂《たもと》はあちこちにひっかかる。それにもかかわらずかれがあくまで、この服装を固執しているところをみると、この男よっぽど頑固な性格にちがいない。
その金田一耕助が袴の|股《もも》|立《だ》ちをたかだかとって、抜け穴へ潜り込んでからまもなく、下のほうで押し殺したような声がした。声のぬしは小山刑事である。
「ほら、ここが|階《し》|下《た》の部屋の抜け穴の入り口ですぜ。上のとそっくりおなじかっこうの煉瓦の壁がある」
小山刑事はそれから息をころして、壁のむこうの様子に耳を傾けているらしかったが、そこからはなんの気配も感じられなかったらしく、
「ちっ、やっこさんいま部屋をあけているのかな。われわれがここを通ることは知っているはずだが」
それからドンドン壁をたたいたり、押したり引いたりしているふうだったが、
「おい、いい加減にして下へ降りろ。その壁は外からではぜったいに開かぬようになってるって、さっきあのばあさんもいってたじゃないか」
上から叱りつけているのは井川老刑事らしい。小山刑事もあきらめたらしく、かれの携えている懐中電灯の光が下方をむいたまま闇の底を降りはじめた。
金田一耕助もまもなく問題の壁のところまで降りてきた。懐中電灯の光で照らしてみると、縦三尺横五尺ばかりの煉瓦で固めた壁が、側面の溝へすべりこむようになっている。この壁は内部からしか開かぬ仕掛けになっていると、お糸さんもいっていたから、こちらがわからでは手のほどこしようがない。かれもまたその壁のむこうに耳をすましたが、人の気配はさらになかった。慎吾はいま部屋にいないのだろうか。慎吾はともかく倭文子はどうしたのか。それともふたりとも眠ってしまったのだろうか。
「金田一先生、気をつけてくださいよ。そこから鉄梯子で二十段ほど降りるとこのトンネルになりますから」
三本の懐中電灯の|光《こう》|芒《ぼう》が下から縦穴を照らしあげ、そういう声は田原警部補らしいが、その声がわんわんあたりに鳴りはためくようなのは、そこがもうトンネルの入り口だからだろう。
「いまいきます」
金田一耕助が鉄梯子の段を勘定しながら降りていくと二十三段あった。ダリヤの間の入り口から慎吾の部屋の外まで十二段あったから、全部で三十五段である。段と段との間隔が約一尺だから、三十五尺、約三丈五尺降りてきたことになる。
金田一耕助が鉄梯子からはなれると、そこから一方にむかって暗いトンネルがひらけている。トンネルも煉瓦とセメントで固めてあるらしいが、大人が立って歩くにはじゅうぶんの高さをもっており、幅は四尺あまり、辛うじてふたり並んで歩けるくらいの余裕はある。
「それにしてもこのトンネル、いままでよく持ったもんですね」
「いや、金田一先生、これは初代が造ったものを、二代目が修復し、さらにちかごろ篠崎氏が、応急修理をほどこしたもんですぜ。ほら、ここんところ修理のあとが二重になってまさあ」
井川老刑事の説明に、金田一耕助が注意深く調べてみると、まさにそのとおりであった。修理のあとにごく古いのと、最近手をくわえたのであろうと思われる、新しいセメントのあとが観察された。金田一耕助は口許をほころばせて、
「篠崎さんも物好きな。しかし、考えてみると抜け穴だとかどんでん返しなどには、だれでも好奇心をもつんじゃありませんかねえ。自分で造ろうとまでは思わなくとも、そういうもののある建築物を手に入れたら、それを保存しておきたいという欲望は、だれでも持つんじゃないでしょうか」
「篠崎氏というひとはそういうひとなんですか。そういう子供っぽい好奇心をもつような……?」
「そうですね。多少そういう稚気というか、|洒《しゃ》|落《れ》っ|気《け》というか、そういうものをもってるひとのようですね」
金田一耕助はゆくての闇に、懐中電灯の光をむけて、
「それにしても、こいつをいくのはちょっと勇気を要しますね。最近なんにんかの人間が、ここを通りぬけたというからいいようなものの……」
「あっはっは、金田一先生は案外臆病なんですね。それじゃわたしがおさきに……」
だが、そういう小山刑事の足取りも、あまり勇敢とはいいにくく、なるほどさっき陽子もいったとおり、ふつうの往来を歩くようなわけにはいかなかった。小山刑事のすぐ後ろから井川老刑事。金田一耕助と田原警部補は、肩をならべてふたりのあとにつづいた。
そうとう広い抜け穴とはいえ、やはり空気がこもって息苦しく、しかも、その空気は死んで、|澱《よど》んで、濁っている。闇がその空気を、いっそう重っ苦しいものにしていた。なるほど、近年修理を加えたあとが随所にみられるが、それはあくまで応急的なものらしく、いたるところに煉瓦がくずれているところがあり、漏水もかなりひどかった。また場所によっては、ちょっとした震動でも、煉瓦がボロボロくずれるところがあり、よほど慎重に歩を運ばないと危険である。
「いったい、このトンネルは一本道なんでしょうかねえ」
「だれもわき道があるようにはいわなかったですね」
「わき道があったとしても、それはお糸ばあさんしかしらないんじゃないですか」
「金田一先生、なにかわき道があるような話でしたか」
「ああ、いや、これをつくった古館種人というひとですがね。種人閣下はいつも洋間で寝たというわけではないでしょう。むしろ当時の風習としては、日本間でおやすみになる晩のほうが多かったと思うんです。だから、日本間のほうからも抜け道が通じていると思うんですが、そういくつもトンネルをつくるのは厄介ですから、当然、このトンネルヘ合流してるんじゃないかと思うんですがね」
「なるほど、そういえばそうだ。そうするとこの煉瓦の一部分が、どんでん返しになるという仕掛けかな。小山君、ちょっと煉瓦をたたいてみたまえ」
「おっとしょ」
小山刑事がおどけながら、右側の壁をたたくとそのとたん、頭のうえからがらがらと、五、六枚の煉瓦が落下してきて、一同はおもわず悲鳴をあげてとびのいた。するとこんどはその震動で、また二、三枚の煉瓦がくずれ落ちてきたから、一同はいよいよ肝を冷やした。
「こいつはいけませんや、主任さん、うっかり壁も……わあッ!」
またしても二、三枚、うえから煉瓦が落下してきたので、井川老刑事は両手で頭をかかえてとびのいた。
「畜生ッ、なんにもしねえのに、煉瓦がくずれ落ちるとは……?」
「しっ、井川さん!」
と、金田一耕助はあわてて老刑事をたしなめると、
「あんまり大きな声を出しちゃいけません。いまのはあなたの声の反響で、煉瓦がくずれ落ちたらしい……」
「へへえ、声の反響で……?」
一同はその場に立ちすくむと、気味悪そうに懐中電灯の光のなかで顔見合わせた。
「まさか。それじゃまるで、|腫《はれ》|物《もの》にさわるようなものじゃありませんか。わっはっは!」
井川刑事がわざと蛮声を張りあげたかとおもうと、そのとたん、一メートルほどさきの煉瓦の壁が、がらがらとくずれ落ちてきたので、一同はおもわずぎょっと息をのんだ。
「なあるほど!」
くずれ落ちた数枚の煉瓦の山を、一同はしばらく無言のままみつめていたが、そのときとつぜん妙なことが起こった。
「わっはっは……」
陰にこもったような声が、語尾に陰々たるバイブレーションをともなって、はるか遠くのほうからかえってきた。一同がまたぎょっと息をのんでいると、
「わっはっは……」
またしばらくまをおいて、
「わっはっは……」
陰々たるその声はだんだん弱く、かすかになっていく。
「なあんだ、|谺《こだま》か……」
さすがに井川老刑事の声もしゃがれていて、額につめたい汗が吹き出しているようである。
じっさい地底の闇のトンネルの、こもった空気をふるわせて、あちこちの壁に反響しながら、屈折してかえってくるその谺は、世にも陰気で気味の悪いものであった。
一同はシーンと耳をすまして、最後の谺の音を追うていたが、暗闇のなかで田原警部補が、
「うっふっふ」
と、軽くふくみ笑いをしながら、
「さすがの井川のオッサンも、これには肝をひやし……」
だが、田原警部補のその言葉は、そのまま口のなかで凍りついてしまった。
「わっはっは……」
とつぜんはるか遠くのほうから、新しい谺がきこえてきた。いや、谺であるはずがない。谺はもう消えてしまったのだ。だれかが抜け穴のはるか遠くでわらっている。
「わっはっは……」
「わっはっは……」
「わっはっは……」
その笑い声は適当な間隔をおいて、屈曲した谺をともないながら、陰々として真っ暗な空気のなかに消えていった。
だれかいる。このおなじトンネルのなかに。……
四人のものがいっせいに、手にした懐中電灯を前方にさしむけた。しかし、そこに何者かの姿を発見しようとしたのなら、それはかれらの|妄《もう》|想《そう》というべきだったろう。四つの懐中電灯の光芒は、二、三間さきの白っぽく風化して、粗いセメントの修理をほどこされた、古い煉瓦の壁を照らし出したに過ぎなかった。トンネルはそこでくの字型に屈曲しているらしい。
「だれかいるんですね。このトンネルのなかに……」
わかい小山刑事が声をふるわせたのもむりはない。だれか自分たち以外の人間が、このトンネルのなかに潜んでいるという連想ほど、このさい無気味なものはなかった。しかも、そいつは自分たちに挑戦してきているのだ。さっきの笑い声の|物《もの》|真《ま》|似《ね》は、おのれの存在を誇示しようとしているとしか思えない。
「だれだ! そこにいるのは!」
とつぜん井川刑事が、割れ鐘のような蛮声を張りあげた。とたんに煉瓦が四、五枚くずれ落ちてきたことはいうまでもないが、だれもそれをとがめようとするものはいなかった。しばらくあいだをおいて、
「だれだ! そこにいるのは!」
「だれだ! そこにいるのは!」
「だれだ! そこにいるのは!」
あちこちの壁に反響しながら、谺は陰々として闇のなかに消えていったが、最後の谺が消えるとまもなく、
「だれだ! そこにいるのは!」
井川老刑事に負けず劣らず、むこうのほうから割れ鐘のような蛮声がきこえてきた。
声の質からあいての正体をわりだすのは困難だった。男であることはたしかであるが、ただそれだけしかわからない。年齢や人柄を判断することはむつかしかった。声ははじめから澱んで圧迫された空気のなかで、陰にこもっているのである。
「だれだ! そこにいるのは!」
「だれだ! そこにいるのは!」
「だれだ! そこにいるのは!」
例によって適当のまをおいて、きこえてくる谺の消えるのを、井川刑事は待っていなかった。
「畜生!」
だが、性急な追跡はしょせんむりであることがすぐわかった。井川老刑事が五、六歩駆けだしたとたん、左右の壁から煉瓦が五、六枚、物凄い音をたてて落下してきた。さすが温厚な田原警部補も、思わず声をはげまして、
「おい、おやじさん、君はわれわれを生き埋めにするつもりかい」
「だからといって、主任さん」
「いいですよ、いいですよ。井川さん、ここはそろりそろりといこうじゃありませんか」
「金田一先生、それはどういう意味です」
「いえね、井川さん、テキさんはみずから自分の存在を誇示してきてるんです。それにどういう意味があるのか、つぎの出かたを見るんですね」
「じゃ、どうすればいいんです」
「この抜け穴をこのままゆっくり、進んでいくよりしかたがなさそうですね」
「そうするとあいてがなにか、仕掛けてくるというんですかい」
「それはわかりません。しかし、いま主任さんのおっしゃったとおり、おたがいに生き埋めになるのはいやですからね。ときに、われわれはいままでにどのくらい歩いたかな」
「せいぜい十五、六間じゃないですか」
小山刑事が心細そうな声を出した。
金田一耕助は懐中電灯で腕時計を照らしてみて、
「いま十一時三十二分ですね。ぼくが最後に抜け穴へもぐりこむとき見たら、十一時二十二分でしたよ。するとあれから十分たっていますが、じっさいに歩いたのはその半分くらいのものでしょう」
「それがどうしたというんです」
「いや、この抜け穴を通りぬけるには、二十分くらいかかるらしい。こんな暗闇のトンネルですから、昼でも夜でもおなじことでしょう。そうするとここを抜けだすには、あと十五分かかるということです。そろりそろりと急ごうじゃありませんか」
「先生、だけどさっきの声の男、われわれに危害をくわえるつもりじゃ……」
小山刑事は武者ぶるいするような声である。
「それだったら、黙っていたほうがよさそうなもんです。いちいち井川さんの物真似をして、自分の存在をしらせてよこす必要はないと思いますね」
「よし、それじゃ金田一先生のお言葉にしたがって、そろりそろりと急ごうじゃないか」
暗闇はどんな場合でもひとを臆病にする。おまけに、いつ崩壊するともしれぬトンネルのなか、かててくわえて|得《え》|体《たい》のしれぬ人物が、このトンネルのなかに潜んでいて、さっきから二度までこちらへ挑戦してきているのだ。そいつがなにをねらっているのかわからないだけに、気味が悪いのもむりはない。
田原警部補の指示にしたがって、一同はそろりそろりと急ぎはじめた。小山刑事は懐中電灯の光が、敵の目標になるのではないかとおそれたが、さりとて明かりなしには一歩も歩けないのである。壁も壁だが、床の腐朽崩壊はもっといちじるしかった。天井より間断なく落下する、漏水の点滴によって床の煉瓦に大きな穴があいているかと思うと、あちこちに水たまりができ、水たまりのなかを|鼠《ねずみ》が泳いで走ったりした。
そのたびに、先頭をいく小山刑事は肝を冷やしたが、さりとて悲鳴をあげたり、とびあがったりするわけにはいかなかった。震動によっていつなんどき、天井や壁が崩壊するかもしれないからである。鼠はいたるところに出没した。
まったくそれはそろりそろりの行進である。空気はいよいよ重っくるしく澱んで、漏水はますますはげしく、ところによっては、煉瓦の壁から滝のように水の滴りおちている個所があり、水たまりは|踵《かかと》にまでおよんだ。田原警部補がふと立ちどまって、
「金田一先生、いま十一時三十七分です。してみると十分歩いた勘定になります」
「ああ、そう、じゃ、約半分来たわけですね」
「そういうことになりますが、さっきのくせものはどうしたのでしょうねえ」
「いや、ぼくもいまそれを考えていたところですが、井川さん、小山さん。なにかひとの気配はありませんか」
一同は立ちどまって、かなたにひろがる闇にむかって耳をすましたが、聞こえるものといっては漏水の滴りおちる音と、煉瓦の壁からサラサラとこぼれ落ちるぬれた砂の音ばかり。ときどき水をはねるような音がするのは、鼠が|跳梁《ちょうりょう》するのだろう。ひとの気配はさらになかった。
「どうです、主任さん。また怒鳴ってみましょうか」
「いいでしょう。ひとつやってもらおうじゃありませんか」
金田一耕助が即座に賛成すると、
「いいだろう、おやじ、やってみろ」
「ようし」
井川老刑事は|臍《せい》|下《か》|丹《たん》|田《でん》に力をこめ、大きく息を吸い込むと、やがてひと声蛮声を張りあげた。
「おうい、だれかいるかあ!」
かたわらの壁から、二、三枚の煉瓦がくずれ落ちたが、さいわい崩壊はすぐやんだ。
一同が耳をすましていると、まもなく谺がかえってきた。
「おうい、だれかいるかあ!……」
「おうい、だれかいるかあ!……」
「おうい、だれかいるかあ!……」
最後の谺が語尾をふるわせて消えていくとき、緊張が一同を支配する。|固《かた》|唾《ず》をのむ思いで待っていると、はたして陰々たる声が返ってきた。
「おうい、だれかいるかあ!……」
しばらくして、
「おうい、だれかいるかあ!……」
「おうい、だれかいるかあ!……」
「畜生ッ」
「やっぱり待ち伏せしてるんですね」
小山刑事が声をふるわせるのもむりはない。
「主任さん、いまの声ですがね」
「はあ……?」
「こういう|洞《どう》|窟《くつ》のなかですから、もうひとつ距離感がつかめないんですが、さっき聞こえた声の彼我の距離と、いまの声の彼我の距離と、そうかわらないと思うんですがどうでしょう」
「と、おっしゃると……?」
「あちらさんもわれわれとおなじ速度で、このトンネルのなかを、むこうへむかって歩いているんじゃないでしょうかねえ」
「金田一先生、それ、どういう意味ですか」
「わかりません。とにかく、このまま進んでいくよりほかはなさそうです。いずれは尻っ尾を出すでしょう」
「よし、こんどはおれが先頭に立とう」
井川老刑事が小山刑事といれかわって、先頭切って歩きはじめた。
金田一耕助はさっきから、左右の壁にわき道へのかくし|扉《ど》はなきやと、丹念に模索しているのだが、いままでのところそれらしいものは発見できなかった。もしそういうものがあるとすれば、それはよほどうまくカモフラージされているのだろう。あるいは腐朽と崩壊が、それらの偽装をいっそう援護しているのかもしれない。壁にはいちめんに|苔《こけ》だの隠花植物が密生している。
抜け穴へもぐりこんでから約十五分。とつぜん先頭をいく井川刑事が、
「だ、だれだ! そこにいるのは!」
叫ぶとともに懐中電灯の光で前方を照射したが、そのとたん、いちばんしんがりにいる金田一耕助でさえ、ひとびとの肩越しにはっきりとその男を見たのである。
そいつは黒っぽいハンチングをまぶかにかぶり、大きな黒眼鏡をかけていた。感冒よけの大きなマスクが、そいつの顔半分をかくしていた。マスクの色も黒かった。黒いトックリ・セーターのうえに、黒い背広を着ているが、その背広の左の腕はひらひらとして|虚《むな》しかった。
そいつは先頭に立つ井川老刑事から三間ほど前方にいるのである。トンネルの床にうずくまって、片腕でなにかやっていたらしいのだが、井川老刑事に声をかけられてひょいと顔をあげた瞬間、まともに懐中電灯の照射を浴びたわけである。
したがってそいつがいまいるところは、こちらの四人の立っている場所より、いくらか高くなっているらしいのだが、井川老刑事には、そこまで考慮するひまはなかった。
「畜生ッ!」
|脱《だっ》|兎《と》のごとき勢いというのは、そのときの井川老刑事の行動をいうのだろう。その瞬間この老刑事は、崩壊しやすいトンネルの環境を忘れていたらしい。
|遮《しゃ》|二《に》|無《む》|二《に》そのほうへ突進していった老刑事は、片腕の怪人の一間ほど前方まで迫ったが、そのとたん世にも奇妙な悲鳴をあげて、姿は一同の眼前から消えていた。大きな震動がそこに起こり、左右の壁から煉瓦が音をたててくずれ落ち、その震動がさらにまたつぎの崩壊を招いた。三つの懐中電灯の光芒のなかを、こまかい|塵《ちり》がまいくるう。
片腕の男はゆっくりと立ちあがると、くるりと|踵《きびす》をかえして、足早にむこうのほうへ立ち去っていく。背をまるくしているので、身長はわからなかったが、洋服の左の腕がひらひらしているのが印象的だった。
「待て!」
田原警部補の声は、|咽《の》|喉《ど》にひっかかってしゃがれている。
井川老刑事になにごとが起こったかわからないので、うっかりそちらへ近よれないのだ。三人の照射する懐中電灯の光芒のなかに、一瞬うしろ姿をみせたその男は、またたくまに照射距離のそとへ出て、あとは|漆《しっ》|黒《こく》の闇のなかをいく足音だけがしだいに遠ざかって、やがて消えた。
「おやじ、おやじ、ど、どうしたんだ」
田原警部補の呼びかけに応じて、一間ほどむこうの地底から、かすかな|呻《うめ》き声がきこえてきた。用心ぶかくちかづいていくと、トンネルの道幅一杯に、一間ほどの陥没ができていて、井川老刑事はその陥没のなかへ転落しているのである。
穴の深さは四、五尺だし、おまけに底に水がたまっているので、転落のショックそのものはたいしたことはなかったらしいが、その震動で崩壊してきた|瓦《が》|礫《れき》の|堆《たい》|積《せき》のなかになかば埋没し、後頭部を強く打たれて、一時的|脳《のう》|震《しん》|盪《とう》を起こしたらしい。
「おやじ、大丈夫か」
「で、で、|大丈夫《でえじょうぶ》。ひでえめに合わせやアがった。こんなところに|陥穽《おとしあな》を作りやがって。……」
まさかあの男がこの陥穽を作ったわけではあるまい。ここにこういう陥穽があることを知っていて、そこへこの気のみじかい老刑事を、たくみに誘い込んだのであろう。
しかし、それはなんのためであろうか。単なる悪戯に過ぎないのだろうか。片腕の男、あるいは片腕の男らしき人物は、なにを目的としてこの地底のトンネルの闇のなかを、|彷《ほう》|徨《こう》しているのであろうか。
金田一耕助は懐中電灯をふりかざして、この陥没の前後左右を調べてみた。一間にわたるこの陥没のむこう岸は、こちらよりやや高くなっていて、そこからこちらへ渡してあったらしい、幅三尺ほどの歩み板が外されて、むこう岸から陥没のなかへ斜に落下している。
さっきの男がしゃがみこんでいたのは、この歩み板の端に手をかけていたにちがいない。井川刑事が遮二無二突進してきたとたん、相手はこの歩み板を引いたのだろう。
井川老刑事が下から手伝って、歩み板が正常の位置に復すると、
「主任さん、ぼくちょっといってみます。さっきの男のあとを追っかけてみます」
「ふむ、よし、頼む。気をつけていけよ」
「なあに、大丈夫です。腕力なら自信があります」
先輩のこの災難にわかい小山刑事は俄然奮い立ったらしい。小山刑事が歩み板をわたって、むこう岸の闇に姿を消したあとで、やっと井川老刑事がはいあがってきた。
「畜生ッ、ひでえめに遭わしゃアがった。こんなところでくたばってごらんなせえ。鼠の|餌《え》|食《じき》になって|髑髏《しゃれこうべ》だけになってしまいますぜ」
金田一耕助は大げさなことをいうとおもったが、老刑事のあがってきたあとの穴のなかをのぞいてみると、黒く濁った水たまりのなかを、鼠が十匹以上もチョロチョロしている。崩れ落ちた瓦礫の下から尻っ尾が一本のぞいているのは、圧死したやつがあるのだろう。金田一耕助はあらためてゾーッとした。
さいわい井川刑事のけがはたいしたことはなかった。後頭部にちょっと大きな|瘤《こぶ》ができているだけで、全身数か所のかすり傷など、若いときから鍛えぬいたこの老刑事にとって、ものの数ではなかったらしい。ただ下半身ぬれ鼠になっているのが、いかにも気持ち悪そうで気の毒だった。
「主任さん、小山のやつはどうしました」
「さっきの男のあとを追っかけて、ひと足さきにいったよ」
「大丈夫かな」
「大丈夫でしょう。こっちに危害をくわえるつもりはなさそうですからね。井川さん、あいつあなたになにかいいましたか」
「いいえ、べつに。あっしがここへ転がり落ちたとき、あいつはうえからあっしの顔を見てましたがね。べつになんにもいいませんでしたよ。そのすぐあと、あっしゃフーッと気が遠くなっちまったんで」
「顔を見たかね」
「ええ、だけどあの黒眼鏡にばかでかいマスクでしょう、鳥打ち帽をまぶかにかぶっていたし、まあ、見なかったもおんなじですね。畜生ッ、懐中電灯がいかれちまやアがった」
井川刑事の身づくろいができるのを待って、一同は歩み板を渡って出発した。こんどは田原警部補がさきに立ち、井川刑事をなかにはさんで、金田一耕助がまたしんがりを勤めた。
いい忘れたがこの抜け穴は、一直線についているのではない。羊腸というほどではないとしても、あちこちで湾曲し、屈折していた。思うに地層の関係で、掘りやすいところを掘りすすめていったのだろう。
歩み板を渡ったあたりでは、あいかわらず漏水や落盤がはげしかったが、進むにしたがって空気が乾燥し、漏水も少なくなってきた。気がつくと道はゆるやかな傾斜をつくって、少しずつ登り調子になっている。そろそろ出口が近いのだろう。
「それにしても、金田一先生、さっきのやつ、ここでなにをしてたんでしょうねえ」
先頭に立った田原警部補がたずねた。
「ぼくもさっきからそれを考えてるんですが、どうもわかりませんね。このトンネルのなかになにがあるのか……」
「主任さん、こりゃむこうへかえったら、さっそくみんなを点呼してみる必要がありますぜ。われわれがこのトンネルへ潜りこんでいたあいだ、どこでなにをしていたか……」
「じゃ、君はさっきの男を、いま名琅荘にいるだれかだというのかい」
「確信はありませんがね。いちおう疑ってみてもいいんじゃありませんか。金田一先生はどうです」
「いちおう、やってごらんになるんですね。しかし……」
「しかし……?」
「全部アリバイなしか、全部アリバイありってことになるんじゃありませんか」
「あっはっは、大きにそうかもしれませんな」
そこへ小山刑事がかえってきて、
「だめです。怪しいやつの姿はどこにも見えません」
「あたりまえよ。てめえみてえなドジにとっつかまるような、チョロッコイやつじゃねえ。いや、ドジはこのおれかな。あっはっは」
「小山君、出口はまだ遠いのかい」
「いえ、もうすぐです。そこのカーブを曲がると階段が見えてきます」
その階段のあたりまでくると、空気はいよいよ乾燥していて、煉瓦もボロボロに風化している。その階段には手すりがついていたらしいが、いまは跡形もない。
階段をのぼっていくと、二畳敷きくらいの踊り場になっているが、まっさきにそれを登っていった田原警部補は、ギョッとして思わずうしろにたじろいだ。小山刑事が背後からつっかい棒をしなければ、階段から仰向けに転落していたかもしれない。
懐中電灯の光芒のなかに、だれかそこに立っている。しかもそいつは|身《み》|動《じろ》ぎもせず、うえからこちらをにらんでいるのだ。
「だ、だれだ! おまえは!」
そのとたんうしろからつっかい棒をしていた小山刑事が、クックッと咽喉のおくで笑った。
「やあ、御免なさい、主任さん、仁王ですよ。仁王の片割れですよ。木彫りの仁王さんですよ」
「なに、仁王……?」
田原警部補がもういちど、懐中電灯の光でなでまわすと、なるほどそれは等身大の木彫りの仁王だった。眼をいからせ、くわっと口を開いたところが|凄《すさ》まじい。
井川老刑事と金田一耕助もあとからあがってきて、
「なアるほど、これは|凄《すげ》えや。暗闇のなかでだしぬけに、こんなやつにぶつかっちゃ、だれだって肝をつぶさあ」
金田一耕助もそばへよってきて、懐中電灯の光でその仁王像をあらためながら、
「これは金剛像のほうですね。もうひとつの口を閉じた力士像はどこにあるんです」
「ちょっと待ってください。この仁王がこの出口の番人になってるんですがね。ほら、その仁王の立っている床を見てください」
小山刑事が懐中電灯の光で示すところを見ると、この仁王は高さ八寸くらいのところにある。半径半間くらいの半円型の板のうえに立っているのだが、その板のうえにぬれたゴム靴の跡がふたつついている。そのゴム靴の爪先はふたつとも仁王のほうをむいているが、少しずれているところを見ると、後にむきをかえたらしい。
「ほら、これ!」
小山刑事がかたわらのボタンを押すと、仁王をのっけた半円型の床が、背後の羽目板ごと回転をはじめて、やがてそこにもうひとつの仁王が現れてきた。床は百八十度回転すると、そこでぴったり静止したが、そこに口を閉じた仁王が眼をいからせている。しかし、こちらの床には足跡はなかった。
「なあるほど」
と、田原警部補も感心して、
「金田一先生、それじゃさっきの口を開いたやつが金剛像で、この口を閉じたやつが力士像というんですか。わたしゃまた金剛力士とはひとつのことかと思ってましたよ」
「なんでも口を開いたやつが|阿《あ》形で、閉じたのを|吽[#「吽」は底本では「伝」の「にんべん」を「くちへん」にしたもの。Unicode=544d, DFパブリ外字=F39F]《うん》形というんだそうです」
金田一耕助がしったかぶりを披露すると、
「なるほど、それで阿吽[#「吽」は底本では「伝」の「にんべん」を「くちへん」にしたもの。Unicode=544d, DFパブリ外字=F39F]の呼吸というんですな。それじゃわれわれも阿吽[#「吽」は底本では「伝」の「にんべん」を「くちへん」にしたもの。Unicode=544d, DFパブリ外字=F39F]の呼吸で、ここを脱出しようじゃありませんか」
「おやじさん、ちょっと待ってください」阿吽の呼吸
小山刑事が引きとめると、
「こっちのほうの床には足跡がないでしょう。だから……」
と、ボタンを押して回り舞台を半回転させると、
「さっきのくせものがここへ逃げてきたとき、この口を開けたやつがこっちをむいてたわけです。やっこさん、こうして舞台へあがると、……」
と、足跡を消さないように舞台へあがり、
「このボタンを押したんでしょうな」
と、壁のボタンを押すと、舞台は金剛像と小山刑事をのせたまま、いくらかきしみながらも百八十度回転して、若い刑事の姿はトンネルのむこうへ消えていった。
「さあ、みなさん、順繰りに出てください。ただしその足跡は消さないでくださいよ」
田原警部補、井川刑事の順で抜け出すと、金田一耕助のまえにはまた金剛像がまわってきた。金田一耕助がくせものののこした足跡を、消さぬように注意しながら、壁のボタンを押すと、まもなくかれは回り舞台にのってトンネルの外ヘ脱出した。
そこは四畳半ばかりの祠のなかになっていて、正面の古朽ちてなかばこわれた|狐格子《きつねごうし》のあいだから、月の光がさしこんでいる。
この狐格子と木像とのあいだには、腰の高さほどの半円型の柵がめぐらせてあり、昔はこの柵によって床の|亀《き》|裂《れつ》をカモフラージしてあったらしいのだが、いまはその柵もなかばこわれてそのむこうに、田原警部補たち三人がたたずんでいた。
金田一耕助はあらためて、懐中電灯の光で仁王像を調べながら、
「主任さん、初代の種人閣下はこの像を、どっかから持ってきたんでしょうねえ。これそうとう古い作ですよ。ときに、小山さん。こっちがわからこの回り舞台を、回転させる仕掛けがありますか」
「それがどうしても見つからないんです。ぼくもさっきさんざん捜してみたんですが……」
「金田一先生、そんなもんありっこありませんや。そんなもんがあっちゃ、外部からの侵入者に、いつなんどき、襲われるかもしれねえじゃありませんか」
「しかし、井川さん、それじゃさっきのくせものは、どこからトンネルヘ潜りこんできたんでしょう。ダリヤの間にははやくから、見張りがついていたんでしょう」
「金田一先生。それじゃ、やっぱりあの地下道にはほかにも入り口があるとおっしゃるんですか」
「だけど、先生、それじゃさっきのくせものは、なぜそっちから逃げ出さなかったんです」
「それはねえ、井川さん。その入り口はあの鼠の陥穽より、むこうがわにあるんですよ、きっと。だからあいつは引きかえすわけにはいかなかった。……」
だが、その瞬間、金田一耕助は悲鳴をあげてとびのいた。蜘蛛の巣をまともに顔にひっかぶったからである。
「あっと、失礼しました。いま注意しようと思ってたところですが、先生の名論卓説に耳を傾けていたもんですからね」
田原警部補は笑いをかみころしている。井川、小山の両刑事もにやにや笑っているが、みんな蜘蛛の巣をひっかぶったらしく、鼻の頭をくろくしている。
「ひでえなあ。覚えてらっしゃい」
金田一耕助はハンカチで鼻の頭をこすりながら、
「しかし、これでわかりました。陽子さんが蜘蛛の巣を、ひっかぶったといった言葉が……」
「ああ、みんなここでやられたんですね」
祠のなかは埃っぽく、そこらじゅういちめんに蜘蛛の巣が張っている。この小さな生き物の生のいとなみはたくましく、破られても破られても、巣を張ることを忘れないのだろう。
狐格子の外へ出て振りかえると、祠の軒に一枚の額がかかっており、仁天堂という文字が消えかかっていた。
狐格子の外側や、仁王像の背後の羽目板には、古びた|草鞋《わ ら じ》が十足ぐらいかけてあり、千社札がベタベタはってあるのは、あくまでここが抜け穴の出口であることを、カモフラージするための苦肉の策と思われる。
外にはいちめんに霧がおりていて、霧のなかにそそり立つ雑木林の梢のうえに、半弦の月が|錆《さび》|朱《しゅ》|色《いろ》にかがやいている。|樅《もみ》の木の植え込みのむこうに問題の倉庫が見えており、この仁天堂と倉庫の中間に裏へ出る門がしまっていた。
時計を見ると十一時五十五分、抜け穴へ潜り込んだのが二十分だったから、三十五分かかったわけである。陽子たちが約二十分かかったというのも真実だったろうと思われる。
それにしても……と、金田一耕助はおもわず身ぶるいをした。
権力というものの恐ろしさをまざまざと見せつけられた感じである。権力の座にしがみつき、それを保持していきながら、なおかつおのれの生命を守ろうとするその|妄執《もうしゅう》が、ああいう大げさな抜け穴を造らせるのである。
権力とはなんであろうと、金田一耕助は改めて考えてみずにはいられなかった。
第九章 現場不在証明
その夜、金田一耕助が寝床についたのは一時半を過ぎていた。
抜け穴の冒険をおわって洋館のロビーへかえってくると、お糸さんが寝ずに待っていた。|惨《さん》|憺《たん》たる井川老刑事のようすを見ると、お糸さんはびっくりして眼をまるくした。
「まあ! 抜け穴の中になにか変わったことでもございましたか」
お糸さんの驚きようには、少し仰山過ぎるところがあるように思われたが、さすがの|古狸《ふるだぬき》の老刑事も、気がつかなかったか、
「なあに、滑って転んで穴ぼこへ落ちただけのことさ。それよりばあさん、あんたにひとつ頼みたいことがあるんだ」
|裾《すそ》|野《の》の秋もなかばをすぎ、しかも深夜の十二時過ぎともなれば肌寒さが身にしみる。おまけに漏水のはげしい抜け穴をくぐってきた一同にとっては、なによりも温かい風呂と気楽なベッドが望ましかったが、いっぽう鉄は熱いうちに打てという言葉もある。そこで井川刑事の要請で男子だけがひとりずつ、正面玄関の横にあるフロントへ呼び出されたが、金田一耕助の予言したとおり、はたしてだれにもアリバイはなかった。
まずイの一番に呼び出されたのは篠崎慎吾だが、十一時二十分から十二時まで、すなわち一同が抜け穴の中にいるあいだ、寝室の中に閉じこもっていたというのだが、それにはだれも証人はいなかった。きのうああいうことがあったので、妻と寝室をわかっているというのである。
「しかし、篠崎さん」
と、田原警部補が急に疑いぶかい眼つきになり、
「われわれは十一時二十分ごろ、あなたの居間の暖炉の裏っ側をとおって、地下のトンネルへ降りていったんですよ。そのときあなたの居間にはだれもいなかったような気がするんですが……」
「ああ、それならばわたしは日本間のほうへいっていたんでしょう。家内が受けたショックが大きかったということは、あなたがたにも想像がおできになるでしょう。当分日本間でひとりで寝たいといい出したんです。わたしもそれに同意しました。お糸さんはあなたがたのほうに用事があったので、タマ子がめんどうみてくれました。倭文子も|芯《しん》は強いほうですが、やっぱり神経質なところがあります。ことに今夜のような晩にはねえ。そんなときの用意に主治医先生が、睡眠薬をあれにあてがってあるんですね。それをのむから眠りにつくまでここにいてほしいというので、わたしはそのとおりにしてやりました。|枕《ちん》|頭《とう》に座ってあれの眠りにつくのを待っていてやったんです。なかなか眠れぬようでしたが、それでもやっと眠りに落ちたのらしいで、腕時計を見ると……」
「何時でした」
「十一時二十分でした」
慎吾はニコリともせず答えたが、それを聞くと田原警部補と井川老刑事の顔に急に|猜《さい》|疑《ぎ》の色が濃くなった。
「へへえ、するとわれわれがダリヤの間から、抜け穴へ潜り込んだとおなじ時刻になるんですかい」
井川刑事が疑わしそうに鼻を鳴らしたが、慎吾は表情もかえずに、
「そういうことになるようだね」
「そんなバカな! それじゃ|平仄《ひょうそく》が合いすぎるよ。そりゃでたらめにきまってる」
「まあ、まあ、井川君、待ちたまえ」
田原警部補は温厚な性格なのである。縁なし眼鏡の奥から、探るような眼で慎吾を見ながら、
「篠崎さん、それについてだれか証人がありますか」
「まあ、ないでしょうな。家内が薬をのんだのが十時五十分、これはあれも|憶《おぼ》えてるでしょうが、眠りに落ちるまで何分かかったか……そこまではあれも憶えておらんでしょう。……しかし……」
慎吾がふいと|眉《まゆ》をひそめるのを見て、
「しかし……? 篠崎さん、どうかなさいましたか」
「いえね、金田一先生、倭文子が眠りにつくの待って、わたしがお入側まで出てくると、そこにタマ子が待っていたんです。ひょっとするとあの子が……」
と、いいかけて慎吾は物憂そうに首を左右にふった。これは五分か十分の問題なのである。それをタマ子が正確に証言しうるかどうか、おぼつかないとあきらめたのであろう。
倭文子が眠りについたのは十一時十分だったかもしれない。それから慎吾は大急ぎで自分のフラットへとって返し、黒いトックリ・セーターに黒い洋服、黒いハンチングに黒眼鏡、黒い大きなマスクをかけて、左腕をセーターに縛りつけ、片腕男になりすまし、われわれよりひと足さきに、あの抜け穴へ潜り込んだのかもしれない。そうだ、そういえばさっき金田一耕助も指摘したではないか。あの怪人が潜り込んだ入り口は、鼠の|陥穽《おとしあな》よりむこうだろうと。それは慎吾の居間という意味ではないか。……
「ところで篠崎さん、タマ子君がお入側で待っていたというのは……? なにか特別の用事でもあったのですか」
金田一耕助がそばからたずねた。
「そうそう、あの子なにかわたしに重大な話があるということだったが……」
「重大な話とおっしゃると……?」
「いや、わたしは聞かなかった。なんとなく気分的に疲れていたんだね。話があるならお糸さんにいっとくようにといっておいたが……しかし、あの子が正確な時間を憶えていようとは思えませんからなあ」
慎吾は乾いたような声をあげて笑った。
「でも、念のためにあとでタマ子君にきいてみましょう。ついでに重大な話というのもね」
「じゃ、そうしてください」
慎吾はベッドにはいっていたとみえ、パジャマのうえにガウンを羽織っているが、まだ眠っていたのでない証拠に、眼が赤く充血していて、宵の|訊《き》き取りのときよりみると、またいちだんと|憔悴《しょうすい》の色が濃くなっている。これほどの男でもこんどの事件は、よほど大きなショックだったらしく、言葉の調子にも熱がなく、このアリバイ調べの意味をきこうとさえしなかった。抜け穴の中で片腕の怪人を発見したのだと、田原警部補が説明しても、ただびくりと眉をふるわせただけで、別に意見を吐こうともしなかった。すべてにおいて物憂そうで投げやりにみえた。
篠崎慎吾についで呼び出されたのは柳町善衛だが、一同はそのようすを見るとおもわず眼を見張らずにはいられなかった。この男はあきらかにいままで外を歩いていたのである。ルパシカのうえに引っかけたジャンパーも、コールテンのズボンもじっとりと夜露にぬれている。靴の爪先には赤い泥さえついている。
「柳町さん、あなたご外出ですか」
疑わしそうな田原警部補の質問を、善衛はべつに気にもとめぬふうで、
「はあ、ちょっとね。散歩してきました」
「しかし、柳町さん、散歩というには夜が更けすぎている。霧もふかい。それに見れば靴に泥がついてるようだが、あんたいったいどこをほっつき歩いていたんです」
井川刑事の鋭い詰問にもかかわらず、善衛は椅子にのけぞってながながと両の脚を投げだすと、
「ちょっと洞窟探検としゃれこんだんですよ」
「柳町さん、それじゃさっきあのトンネルの中にいた……」
「いや、ちょっと主任さん、待ってください。柳町さん、あなたの探検なすった洞窟というのは……?」
「もちろんいまから二十年まえ、尾形静馬という人物がとび込んだきり、ゆくえをくらましたというあの鬼の岩屋ですね」
あっ……と、いうように一同は顔見合わせた。金田一耕助は身を乗りだして、
「柳町さん、じゃあの洞窟はいまでもあるんですか」
「ありますよ。こちらにいる刑事さんなんかよくご存じのはずです。いえねえ、金田一先生」
善衛はあいかわらずタバコを指からはなさず、
「これはわたしの悪い癖で、|機《き》|嫌《げん》|買《か》いというのか、サービス精神|旺《おう》|盛《せい》というのか、こんどの事件の捜査にも、及ばずながらお役にたって、みなさんに喜んでいただきたいという、そういう気持ちだったんですね」
「それはどうだか。……しかし、まあまあ、ようがす。それでどうしたというんですい」
「いや、刑事さんに疑われても仕方がないが、それであなたがたがダリヤの間から、抜け穴へ潜り込まれたと聞いたものだから、わたしはわたしで、あの鬼の岩屋へ潜り込んでみたんです。それというのが……」
「それというのが……?」
「はあ、わたしはまえからあのトンネルと洞窟と、どこかで結びついているんじゃないかという疑いをもってるもんですからね」
「そりゃまたどういうわけで……?」
「金田一先生はきょうはじめて、あの地下道を抜けられたわけですが、たぶんもう気づいていられると思うんです。あのトンネル、全部が全部人工的に掘られたものではなく、まえからあった天然の洞窟がそうとうの部分、たくみに利用されているということに。……」
「いや、わたしゃ不敏ながらきょうのところ、まだそこまでは気づきませんでした。ただ人工的に造ったものとしちゃ、ずいぶん大げさなことをやったものだと、思ったことは思ったんですが……」
「じゃ、もっと入念に調査してごらんになるんですね。そうしたらわたしの申し上げたことが、|妄《もう》|想《そう》でもなんでもないことに気づかれるでしょう。そういうわけでわたしはまえから、ふたつの洞窟の結びつきを考えていたもんですから、ちょっとさっき鬼の岩屋のほうへ潜り込んでみたんです」
「それでなにか発見なさいましたか」
「明かりがこれじゃアねえ」
と、善衛はライターをカチッと鳴らせて苦笑しながら、
「それに、わたしのちょっとした探検で発見されるくらいなら、とっくの昔に発見されているでしょう。昭和五年の事件のとき、刑事さんたちはずいぶんあそこを入念に、調査なすったんでしょうからね。ただ……」
「ただ……?」
「はあ」
と、そこで善衛はいままで長々と伸ばしていた両脚を引っ込めると、椅子のなかで急に居住まいを直して、
「さっきどなたかトンネルのなかで、大声でわめいていらっしゃりゃしませんでしたか」
一同はギョッとしたように善衛のおもてを凝視する。善衛もさすがに緊張して、そうでなくともそぎおとしたような|頬《ほお》が、いっそうきびしい線をつくっていた。
田原警部補がなにかいおうとするのを、井川老刑事がさえぎって、
「柳町さん、それなんとわめいていたんです。あんたそれを聞いたのなら……」
「いや、言葉の意味まではわかりませんでした。ただわんわんと、遠くかすかにひびくような声で……わたしも空耳かと疑ったくらいですから」
「あんたそんなこといって、その声を、トンネルの中で聞いたんじゃねえんですかい?」
「お疑いならためしてごらんになるんですね。わたしが空耳じゃないかと疑った地点へ、いつでもご案内いたしますから」
「柳町さん、あなたその声をどのへんでお聞きになったんですか」
「問題の井戸……|冥《めい》|途《ど》の井戸とか、地獄の井戸とかいわれている底なしの井戸のちかくですよ。わたしゃ井戸の底からきこえるんじゃないかと、急いでそばへ駆けよったくらいですからね」
「ああ、あの井戸はいまでもあるんですか」
「金田一先生、あの井戸はとても埋めきれるものではありません。ずいぶん深い井戸ですから。井戸というよりクレバス、大地の裂け目ですね」
「そうすると、あなたのお聞きになった声というのは、地底から聞こえてきたというわけですね」
田原警部補がそばから口をはさんだ。
「そういうことです。ただし、すぐ足の下からではなかったようです。遠く、はるかに……つまりこの建物の方角からですね」
「なるほど。そうするとあなたの潜り込んだ洞窟と、われわれがいま探検してきたトンネルとは、二段式になっているというわけですか」
「と、わたしも考えましたね」
「いや、ありがとうございました。ときに、柳町さん、あなた洞窟を出られたところで、だれかの姿を見かけませんでしたか。たとえばあの|祠《ほこら》から、出て来たのじゃないかと思われるような人物を……」
「いや、ところが主任さん、あの仁天堂は|内《うち》|塀《べい》の外にあるでしょう。問題の洞窟の入り口は内塀のなかにあるんです。わたしこんやはいちども、内塀から外へは出ませんでした」
柳町善衛はそこで椅子から立ち上がったが、ちょっと|躊躇《ちゅうちょ》の色をみせたのちに、
「金田一先生、これはわたしの妄想かもしれませんけれど……」
「はあ、どういうことでしょうか」
「今夜あなたがたが探検されたあのトンネルですがね、あれは外見よりはるかに、複雑多岐にわたっているんじゃないかと思われるんですが……」
「なにか根拠でもおありですか」
「いやね、姉……つまり昭和五年この家で、不慮の最期をとげた姉の言葉を思い出したからです。あの災難にあうまえ、姉はいちどこんなことをいったことがあるんです。自分にはこの家が気味が悪くてしかたがない。いつどこにいても、だれかに監視されているような気がしてならないと。……そのじぶん、姉は一種のノイローゼ気味でしたから、わたしもたいして気にもとめなかったのですが、いまにして思えば……」
「いまにして思えば……?」
「いや、あとは想像におまかせしましょう」
柳町善衛はかるく一同に|会釈《えしゃく》して出ていった。さっき会った片腕の男に似ているといえば、この男がいちばん似ているように思えるのだが。……
つぎは天坊さんが呼びにやられたが、呼びにいったお糸さんは手をつかねてかえってきた。
「天坊さんはいくらお呼びしてもご返事がございません」
「おやすみになっていらっしゃるのかね」
「いえ、起きていらっしゃることは、起きていらっしゃるようです。シャワーを使っていらっしゃるようですから。そのシャワーの音で、いくらドアをたたいても聞こえないらしいんでございますよ」
時計を見ると十二時半である。いまごろシャワーを使うとは……と、金田一耕助はふと不安をかんじたが、井川老刑事はこともなげに、
「主任さん、あのじいさんはいいじゃありませんか。さっきの片腕の男がだれにしろ、あのビリケンさんでないことだけはたしかですからな。あっはっは」
老刑事のこの一言で、天坊邦武はオミットされることになって、最後に呼び出されたのは奥村秘書である。
奥村弘はあきらかに寝入りばなをたたき起こされたとみえ、眼をショボショボさせながら、パジャマのうえにズボンをはき、背広の上着をひっかけて、妙ちきりんなかっこうをしている。
この男にもアリバイはなかった。
かれの供述によると、十時過ぎ社長に呼ばれてその部屋へいった。社長はちょうど第一回目の訊き取りをおわって、自分の部屋へかえったばかりのところだったらしい。社長の用件はかんたんなもので、明朝東京のさる方面へ二、三電話をかけておくようにとのことだったが、それはみんなビジネス上の用件で今度の事件に関係はない。自分はその大要を速記して、事業上のことについていろいろ命令を聞いているところへ奥さんが訊き取りをおえてかえって来られた。しばらくお相手をしていたが、奥さんなにか社長に御用がおありらしいので、遠慮してこちらへかえってきたのが十時四十分ごろのことであった。自分はそれから隣の娯楽室で玉を突いていたが、それからまもなくあなたがたが二階へあがっていく姿が見えた。いよいよこれから抜け穴の探検がはじまるのだなと思いながら玉を突いていたが、ひとりではつまらないので部屋へさがってバスを使い、ベッドへ潜りこんだのが十一時十分ごろのことであった|云《うん》|々《ぬん》。したがってかんじんの時間にはアリバイがないわけである。
こうして天坊さんはべつとして、取り調べをうけた三人のうち、柳町善衛にだけはアリバイらしきものがあったが、それもかれのいっていることが、真実であると立証されるまでは確実とはいえない。
だが、ほんとうをいうとアリバイなどどうでもよいのである。あの片腕の男がだれであるにせよ、あの時刻にあの場所で、いったいなにをしていたのか、問題はそれであると金田一耕助は考えるのだが、そこへ小山刑事がほかの刑事とふたりで、スーツ・ケースをぶら下げて入ってきた。相棒の江藤刑事は、ハンガーにぶらさがったかなり|贅《ぜい》|沢《たく》なラクダのオーヴァと、紺のダブルの三つぞろい、ほかにワイシャツやネクタイなどを両手にさげている。
「主任さん、被害者の荷物というのは、結局、このスーツ・ケースひとつらしいんですがね」
「開けてみたかい」
井川老刑事がそばからたずねた。
「へえ、そりゃ開けてみましたよ。ほら、被害者が身につけていた背広のポケットから、さっきこの鍵が出てきたでしょ。これ、スーツ・ケースの鍵なんですね。それで開けてみたんですが、中はほらこのとおり……」
小山刑事が開いてみせると、中から出てきたのはパジャマにガウンに化粧道具。紺のダブルの上着のポケットには、三千円ほど入った紙入れのほかに名刺入れ、腕時計に部屋の鍵。すぐにお糸さんが呼び寄せられて、それらの衣類が見せられたが、お糸さんは言下にいった。
「ええ、ええ、古館さんはそのお洋服にそのオーヴァをお召しになって、きのう……いいえ、もうおとといになりますわなあ、おとといこちらへおみえになったのでございますよ。ええ、もう間違いございません。そのスーツ・ケースをぶら下げて。なんでしたら旦那さまにでも奥さまにでも、お聞きになってくださいまし。げんにきのうのお昼、みなさんとお食事なさるときも、その紺のダブルをお召しになっていらっしゃったんですよ」
一同は思わず顔を見合わせた。
そうすると古館辰人が一昨日こちらへやってきたとき、このスーツ・ケースにはなにが入っていたのであろうか。パジャマとガウンと化粧道具だけだったのか。ひょっとすると馬車の上に死体となって発見されたとき着ていた、黒い洋服や鼠色のトックリ・セーターが入っていたのではないか。
「井川さん、この名琅荘の周辺にときどき出没するという片腕の怪人は、いつもどういう|服装《み な り》をしているんですか。ひょっとすると黒い洋服に、こういうトックリ・セーターを着ているんじゃないんですか」
金田一耕助の質問に、
「そうです、そうです、そういえば……」
井川刑事は途中で言葉を切ると、気味悪そうにほかの一同と顔見合わせた。
この地方在住のひとびとの説を総合すると、黒い洋服と黒っぽいトックリ・セーターは、伝説化された片腕の怪人のユニフォームみたいなものらしい。古館辰人もそれをしっていたにちがいない。しかも、かれがそのユニフォームに酷似した衣類を、スーツ・ケースのなかに秘めて、この名琅荘へやってきたとしたら、
「やっこさん、いったいなにを|企《たくら》んでいやあがったんだろう」
と、井川老刑事が気味悪そうにつぶやくのもむりはない。
金田一耕助は思い出したように、お糸さんにタマ子のことを聞いてみたが、
「それが先生、おかしいんですよ。さっき奥さまが日本座敷のほうでお|寝《やす》みになるとおっしゃるでしょう。それでタマ子を差し向けたんですが、それっきり姿が見えないんでございますよ」
「それっきり姿が見えないとおっしゃると……?」
「いいえ、また譲治とよろしくやってるんでございましょうよ。あの子ときたら譲治にもう夢中なんでございますけんなあ。ほっほっほ、無理もございませんわね。どちらも戦災孤児でございましょう。相寄る魂とでもいうんでしょうか、すっかり仲好しになってしまいましてねえ」
お糸さんが味な言葉を吐きながら、こともなげに笑ったので、金田一耕助もつい釣り込まれて彼女のことを閑却してしまったのが、のちにいたって大きく|臍《ほぞ》をかむ原因になったのである。
金田一耕助はとつぜん廊下の途中で立ちどまった。
女中のお杉さんの案内で迷路のような長いながい廊下を通って、自分に当てがわれた日本座敷へ帰ってきて、
「昼間のお湯があのまま立ててございますから、ひと風呂お浴びになったら……」
と、いうお杉さんの挨拶をきいたとき、金田一耕助は心の底から感謝せずにはいられなかった。あの崩壊一歩てまえの地底の闇を彷徨してきたあとでは、温かい風呂はなによりのご馳走といわずばなるまい。
お杉さんが立ち去ったあと、金田一耕助はタオルと石鹸函をわしづかみにして、浴室のほうへ出向いていったが、そこでドキッと立ち止まったのである。
浴室にあかあかと電気がついているのは当然として、だれかが湯をつかう音がしている。時刻はまさに深夜の一時。いまこの建物のこの翼には、自分以外に客はいないはずである。だれだろう。いや、それがだれであるにしろ、そいつは湯を使うのに少しもあたりをはばかるふぜいがない。
金田一耕助がガラス戸をひらくと、広い脱衣場のザルのなかに、白と黒とのあらいチェックのセーターにズボン、下着類などが乱雑に脱ぎすててある。若い男らしい。
「だれ……? そこにいるのは……?」
「金田一先生、ぼくですよ、譲治ですよ」
「ああ、君か……」
金田一耕助は思わず眼をすぼめた。そうだ、この男が残っていた。この男だってさっき地下道にいた片腕の男でないという保証はどこにもない。
金田一耕助も裸になって浴場の曇りガラスの戸をひらくと、譲治が首まで浴槽につかって、にやにやと|悪《いた》|戯《ずら》っぽく笑っている。
「君はいつでもこの浴場を使うのかい」
「ご冗談でしょう。いつもはここの湯わいてやあしませんよ。今夜は先生への特別サービス」
「それを君がお先に失敬とやってきたのかい」
金田一耕助はまぶしそうに相手の視線をよけながら、譲治とはなるべく離れたところへ身を浸した。並ぶといまさらのように、貧弱な自分の肉体に気がひけるのである。
「と、まあ、そういうわけですね。だけどこのこと、御隠居さんにゃ内緒にしてください。わかるとお目玉ですからな」
「じゃなぜやってきたんだい。君たちの風呂場はべつにあるんだろ」
「そりゃあります。だけど今夜は先生に、ちょっと様子を聞きたかったんでね」
「様子って、なんの様子だい?」
「白ばっくれてもいけませんよ。抜け穴の中でなにかあったんでしょ」
「譲治君にゃどうしてそれがわかるんだい」
緩い半円型をえがいている大理石の浴槽の中で、二間ほどへだててふたりは相対しているのだが、湯が綺麗なので、浴槽のふちに身をもたらせて、長々と脚をのばしている相手の体が、手にとるように透けてみえる。さすがに|股《こ》|間《かん》には手拭いをおいているが、五尺六寸の体はよく均整がとれていて、腕の筋肉なども隆々としている。あちらさんの血をひいているわりには毛深くなく、ほんのりと上気した白いつややかな肌はまぶしいくらい青春そのものだ。
金田一耕助の凝視にこたえて、譲治は湯のなかで屈伸運動をしてみながら、
「先生、天二物を与えずとはこのことですね」
「なんのこったい、それは……?」
「いえね。神様は先生のここ……」
と、おツムを指さしながら、
「を作るのに入念だったが、体のほうは手を抜いたんでしょうね。お気の毒みたい」
「なにを。バカにするな。これでも歴戦の勇士だぞ」
「そうそう、先生、その体で兵隊にとられたんですってね」
「そうさ、男子とあるからは生きとし生けるもの、これすべて戦場だ。君たちがおふくろさんのおっぱいに、武者ぶりついているあいだにな」
「そうそう、女は女で敵さんが上陸してきたら、こころよく|強《ごう》|姦《かん》させて、|睾《きん》|丸《たま》をにぎって殺してしまえって教育されたそうですぜ。あっはっは」
はじけるような笑い声をきいて、金田一耕助はおもわず相手の顔を見なおした。
「おい、さっきの返事はどうしたんだい?」
「さっきの返事とおっしゃると……?」
「とぼけるな、こんや抜け穴の中でなにかあったってこと、どうして君はしってるんだい」
「そりゃわかりまさあ。先生がた抜け穴を抜け出すと、社長をはじめひとりずつ呼び出して、なにか調べていたじゃありませんか。先生、抜け穴の中にだれかいたんですか」
「そうそう、譲治君、われわれが抜け穴の中にいるあいだ、君はいったいどこにいたんだ。十一時二十分から十二時までだ」
「先生、それじゃやっぱり抜け穴の中にだれかいたんですね」
「いいからぼくの質問にこたえたまえ。十一時二十分から十二時まで、君はどこでなにをしていたんだ」
「自分の部屋にいましたよ」
「だれかといっしょかい?」
「いいえ、ぼくひとりでしたよ。まもなくあと三人ボーイがやってくるんですが、いまのところぼくひとりですからね」
「だれか証人があるかい。君が部屋にいたってことについて……」
「いやだなあ、それじゃぼく疑われてるんですかい。しまったッ、それじゃタマッペでも引っ張りこんでいちゃついてりゃよかった」
「そうそう、そのタマ子君といっしょじゃなかったのかい」
「いいえ、タマ子とはきょう……いや、きのうの夕方現場を出て、すぐ別れてそれっきりでさあ」
「そのタマ子君、いまどこにいるか知らないかい」
「知りませんねえ。タマッペがどうしたというんです。まさかあいつが怪しいなんていうんじゃないでしょうねえ」
「冗談はよせ。それじゃ十一時二十分から十二時まで、君が自分の部屋にいたという証人はだれもいないわけだな」
「アリバイ調べですか。ええ、なさそうですね。金田一先生、そうするとやっぱり抜け穴の中にだれかいたんですね。しかし、先生がたはそいつを逃がしちまったんで、それがだれだかわからなかった。そこで、アリバイ調べというわけですか」
金田一耕助はちょっと妙な気がした。
自分が子供のころにはアリバイなんて言葉はしらなかった。そういえば少年時代読んだ翻訳探偵小説では、現場不在証明とかいてアリバイと振り仮名がふってあった。いまではこういう小僧っ子でも、アリバイという言葉をしっている。探偵小説の影響もまた甚大であるというべきである。
金田一耕助はわざと疑わしそうな眼をショボショボさせて、
「おい、譲治君、君は黒い鳥打ち帽に大きな黒眼鏡、感冒よけの黒いマスクに黒手袋、それから黒いトックリ・セーター、そういうものを持っているかい」
「黒い鳥打ち帽に大きな黒眼鏡、感冒よけの黒いマスクに黒い手袋、黒いトックリ・セーター? 金田一先生、そ、それじゃ抜け穴の中にいたのは、金曜日の夕方ここへやってきて、ダリヤの間から消えた片腕の男だというんですか。そいじゃあいつはまだ、この屋敷のどこかに隠れているというんですね」
「そんなことはどうでもいい。それよりぼくの質問に答えたまえ。黒い鳥打ち帽に大きな黒眼鏡、感冒よけの黒いマスクに黒手袋、黒いトックリ・セーター、そういうものを君は持っているかと聞いているんだ」
「冗談じゃありませんよ。ぼくがそんなもん、持ってるわけがないじゃありませんか」
「じゃ、だれが持ってるんだ」
「そんなことぼくの知ったこってすか」
「ねえ、譲治君、ひょっとすると篠崎さんがそんなもの、持っているのを見かけやしなかったかい」
「うちの大将が……?」
湯の音を大きく立てて混血児の譲治は、浴槽のなかでいずまいをなおすと、|顎《あご》を突き出すようにして、金田一耕助の顔をのぞき込み、
「じゃ、金田一先生は片腕の男を、うちの大将だと思ってらっしゃるんですか」
「かもしれないじゃないか。金曜日の夕方の篠崎さんのアリバイは不正確だし、犯行のあったきょう……いや、もうきのうになるが、きのうの午後三時前後のアリバイもない。それに凶器として使われた仕込み杖も篠崎さんの持ち物だ。動機の点がハッキリしないが、それだっていろいろあるだろうからね。ああいういきさつの夫婦だから……」
「だって、だって……」
と、譲治はあえぐように、
「今夜……いや、ゆうべのアリバイはあるんでしょう。十一時二十分から十二時までの……」
「ところが、譲治君、それがないんだ」
「だって、おやじさん奥さんといっしょじゃなかったんですか」
「いっしょじゃなかった。ああいうことがあったあとだからね。寝室を別にしようというわけだ。仏さんに遠慮したんだろうな。篠崎さん、自分の部屋に閉じこもっていたというが、それにはだれひとり証人がないんだ」
「金田一先生」
譲治はすっくと浴槽のなかで立ちあがった。さすがに手拭いを腰にまいているが、全身は怒りにふるえている。うえから金田一耕助をにらみすえながら、
「先生はおやじさんの敵か味方か」
「ぼく……? そうだな。ぼくはいうならば正義の味方、いや、つねに真理の味方というところかな」
「なにをこの|気《き》|障《ざ》野郎! てめえが風間先生の友人でなかったら、ここで絞め殺してやるんだ。てめえをひねりつぶしてやる!」
一歩まえへ踏み出して、金田一耕助のうえにのしかかるようにしながら、突き出した譲治の両手は、しんじつ金田一耕助の細っ首をねじ切りそうにモガモガしている。この凄まじい|形相《ぎょうそう》をみて、恐怖をかんじなかったといえば嘘になる。しかし、それ以上に金田一耕助は、もと浮浪児のこの混血児に深い興味をおぼえずにはいられなかった。
金田一耕助はわざと相手を挑発するようにせせら笑って、
「なるほど、君がそんなに興奮するところをみると、やはり犯人は篠崎さんなんだな。君はそれを知っているから……」
「嘘つけ! 嘘つけ! この恩知らずめ! 風間先生のところにお世話になりながら、先生の親友のことをよくもそんなことがいえたもんだ。ああ、わかった、てめえそんな細っこい体で、さんざん戦争で痛めつけられたもんだから、職業軍人を憎んでるんだろ。それでうちのおやじさんを犯人に仕立てたがってんだろ」
金田一耕助は吹き出した。
「なるほど。近ごろそういう考えかたがはやってるんだね。くたばれ、職業軍人ってやつが……あっはっは!」
湯から首だけ出して笑っている、金田一耕助の人懐っこい表情に、譲治は気勢をそがれたのか、だらりと両腕をさげると、
「犯人はおやじさんじゃねえ。よしんばおやじさんがかっとして、あんなことをやったとしても、おやじさんならあんな小刀細工はやらねえよ。おやじさんなら……おやじさんなら……」
「どうするだろうね」
「いさぎよく自首して出らあな」
「なるほどねえ。しかし、譲治君、篠崎さんはあのひとに対して、なにかかっとならなきゃならぬ理由でもあるのかね」
譲治はギョッとしたように、うえから金田一耕助をにらみすえていたが、急にベソをかくような顔になり、
「知るもんか、知るもんか。おれはなにも知らねえ。おやじはバカだ。おやじはバカだ!」
譲治はそこまでいうと浴槽からとび出し、曇りガラスの戸を音を立てて開閉すると、身支度もそこそこに脱衣場から出ていった。金田一耕助は遠ざかりいく、その足音に耳をすましながら、浴槽のなかで身じろぎもしないで考えている。
なにがあの若者をかくも動揺させたのか、譲治はなにを知っているのか、おやじはバカだとはなにを意味するのか。篠崎慎吾はなにをどのようにバカなのか……。
それからまもなく金田一耕助は、自分の座敷へかえってくると、持参したタオルの寝間着に着かえ、女中がしいていってくれた|蒲《ふ》|団《とん》のうえにすわって、なにか考えながらしずかに一服くゆらしていたが、急に思い立ったように、乱れ箱のなかから|褞袍《ど て ら》を引っ張り出してはおると、隅のほうによせてある|卓《ちゃ》|袱《ぶ》|台《だい》にむかってすわった。
ノートを開くと金田一耕助はまず、
現場不在証明
と、書いた。
さっき譲治のいった言葉から、犯行時における各人のアリバイを調べてみようと思ったのである。ただし、犯行の時刻を金田一耕助と譲治が、雑木林のなかで古館辰人らしき人物を目撃した、三時五、六分まえから、陽子たち三人によって死体が発見された、四時十五分ごろまでとみたうえのことである。
○篠崎慎吾。
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昼食後二時二十五分ごろまで古館辰人と会談。二時三十分より三時五分前まで天坊邦武と会談。そのあと四時までアリバイなし。
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○篠崎倭文子。
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昼食後四時少しまえまで自室に閉じこもっていた。ただしこの間二、三十分天坊邦武と話している。それはおそらく一時三十分から二時三十分までのあいだであろう。その他の時間のアリバイはいかが? 考うべし。
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○篠崎陽子/○奥村 弘
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昼食後二時四十分までピンポン・ルーム。その間ときどきお糸さんのようすを見にいっている。二時四十分より三時六分まで抜け穴のなか。抜け穴を出て柳町善衛に出会い、三時十分ごろ、三人で倉庫のなかをのぞいたが死体はなかった。以後二人は娯楽室で柳町善衛のフルートを|聴《き》いている。四時十五分ごろ三人で死体を発見。
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○柳町善衛。
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昼食後二時二十分までひとり。二時二十分より四十分過ぎまで抜け穴の中。三時過ぎ陽子と奥村に出会い、以後死体を発見するまで行動をともにしている。
[#ここで字下げ終わり]
○天坊邦武。
[#ここから3字下げ]
昼食後一時半より二時半までひとり。ただし、その間二、三十分間倭文子と会って話をしている。二時半より三時五分前まで篠崎氏と会談。それ以後はアリバイなし。
[#ここで字下げ終わり]
○お糸さん。
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二時から三時まで昼寝。二時四十分ごろまでのあいだに、陽子がときどき様子を見にいっている。天坊邦武もそれらしき姿を見ているが、それは何時ごろのことか不明。それ以外の時間はアリバイなし。
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金田一耕助は自分のとっておいたメモや記憶をたどって、右のような現場不在証明表を作成してみたが、犯行を馬車が帰ってきたあととみて、各人のアリバイ表を調べてみると、
○篠崎慎吾。 アリバイなし。
○篠崎倭文子。アリバイなし。
○篠崎陽子  アリバイ完全。
○奥村 弘  アリバイ完全。
○柳町善衛  アリバイ完全。
○天坊邦武。 アリバイなし。
○お糸さん。 アリバイなし。
と、以上のようになる。
ただし、犯行を馬車が帰ってくるまえとみると、柳町善衛も怪しくなってくる。かれは抜け穴を出てから、陽子や奥村と出会うまで、二十分以上も犯罪現場の付近にただひとりでいた。しかも、かれは動機に関するかぎり、もっとも強いものを持っている人物である。しかしかれには死体を馬車の上におく時間は絶対になかった[#「しかしかれには死体を馬車の上におく時間は絶対になかった」に傍点]。
問題はそこにある。
犯人はなぜ死体を馬車の上におかなければならなかったのか。いや、それよりまえに、被害者はあそこでなにをしていたのか。犯人が被害者の片腕を緊縛したのでなかったとしたら……そんなことはとうてい考えられないことだが……古館辰人はおのれの片腕をベルトでとめて、いったいなにをしていたのか。疑問は堂々めぐりで振り出しにもどるばかりである。
さらに……と、金田一耕助は考えつづける……片腕の男がいまこの家に滞在しているか、あるいは傭われている人物の仮装にはあらずして、実在する人物とした場合、そいつはいったいこの建物のどこに潜んでいるのだろうか。そして、金曜日の夕方から現在にいたるまで、どこから食料その他の補給を仰いでいるのか。さらにそいつはさっき抜け穴の中で、いったいなにをやっていたのか。
金田一耕助は考えあぐむということのない性分だが、ここで考えをまとめてしまうには、あまりにもデータが不足である。とにかくいちおう東京へ帰ってみようと思った。東京へ帰ったところで、これという当てがあるわけではない。
しかし、さいわい金田一耕助は、警視庁の有力者に知り合いをもっている。そこへいけば昭和五年の事件に関する、調査資料がそろっているだろう。
さらにかれは風間俊六に会ってみたかった。風間ならば倭文子を中心とした、篠崎慎吾と古館辰人との三角関係のいくたてを、だれよりもよく知っているのではないか。
金田一耕助はだいたい以上のよう方針をたて、その夜は|寝《しん》についたのだが、いずくんぞ知らん、じっさいにはその翌日、かれは東京へ立つことができなかったのである。
第十章 浴槽の貴族
終戦後五年たった現在でも、汽車の混雑は相当のものである。
金田一耕助と小山刑事は、午前九時十五分富士駅発の鈍行にやっと乗り込んだものの、座席を見つけることはとうてい不可能だった。終戦直後ほどではないにしても、いまでも買い出し部隊は相当横行しているらしい。関西方面から引き揚げてくる疎開者の一家もいた。外地からの引き揚げ者もいた。それやこれやでごったがえしている車両にやっと割り込んだものの、座席を見つけだすなどということは、とんでもないことである。
「これじゃ東京まで立ちん棒ですな」
若い刑事が鼻のあたまに汗をかきながらグチるのを、金田一耕助はなぐさめがおに、
「仕方がありませんね。これも時節柄ですからな」
小山刑事は署の命令で東京へ派遣されていくのである。用件はいうまでもなく、金曜日の夕方における関係者一同のアリバイ調べと、事件の背後関係の調査が目的であった。ほんとうならば昭和五年以来のいきさつから、井川刑事が出張すべきなのだが、井川刑事は井川刑事でこちらに重要な任務が残っているので、小山刑事が代行することになったのだが、こういうことには不慣れとみえ、この若い刑事はなんとなく不安そうである。
被害者が被害者、関係者が関係者だけに、静岡県の警察本部が乗り出してくるのはいうまでもないとして、東京の警視庁が介入してくるであろうことも必至であった。しかし所轄の富士署としては、昭和五年の事件のこともあり、なんとかして自分たちの手で解決したいという意向をもっており、田原警部補もそのつもりだし、井川老刑事の張り切りようたるや大変なものであった。それだけに小山刑事の責任たるや重大である。
「大丈夫ですよ。本庁でいろいろ協力してくれますし、それにぼくの差し上げた紹介状、お持ちでしょうね」
「ええ、もちろん」
と、小山刑事は上着のポケットをおさえた。金田一耕助の書いた紹介状とは、いうまでもなく等々力警部へあてたものである。
「ぼくも閑があったら、警部さんに会ってみてもいいんです。とにかく東京へいったらそこを連絡所にしましょう」
「先生、なにぶんよろしくお願いいたします」
こうしてごったがえす列車に、やっと割り込んだふたりなのだが、金田一耕助はいどころがきまると、すぐ窓から顔を出して、自動車で送ってくれた奥村秘書に声をかけた。
「奥村君、御苦労様、もう引き取ってくだすってけっこうですよ」
「金田一先生、ちょ、ちょっと待ってください。むこうからやってきたのは、名琅荘のボーイじゃありませんか」
「えっ?」
金田一耕助と小山刑事が振り返ると、いましも駅前広場で愛馬フジノオーからとび下りたのは、混血児の速水譲治である、ひなびたあたりの風景のなかで、|臙《えん》|脂《じ》|色《いろ》の制服がもえるようである。
譲治は列車がまだ|停《と》まっているのを見ると、いそいで馬の|手《た》|綱《づな》をありあう柱に結びつけ、改札口へ突進してきた。
「金田一先生! 金田一先生!」
譲治は窓から顔を出している、金田一耕助のモジャモジャ頭に目をとめると、気が狂ったように手を振ってわめいた。
「下りてください! すぐ汽車から下りて引き返してください。おやじさんからの要請です。大事件発生! 大事件突発!」
プラットフォームにいる人たちはいうにおよばず、窓という窓からのぞいた顔が、いっせいに譲治のほうを振り返る。それほど譲治の服装は異様であり、その態度や口調には激しいものがあった。
金田一耕助はいっしゅん躊躇した。だが、つぎのしゅんかん、譲治のはなった言葉がかれの決意をうながした。
「天坊さんが……天坊さんが……」
「小山さん、あなたはこのままいってください。ぼくはここで下ります」
汽車はまさに発車しようとしている。箱の中は|鮨《すし》|詰《づ》めの満員なのだ。しかも、こういうときの金田一耕助の服装たるや、まことにふつごうにできている。袂のついた着物や袴などというシロモノは、当節の旅行者の着用すべきものではない。悪戦苦闘のすえ金田一耕助がやっと芋を洗うような混雑の中から、外部への脱出に成功したとき列車はすでに動き出していた。
金田一耕助は列車の進行方向に沿って走りながら、手帳のなかにはさんであった名刺を一枚取り出して、窓越しに小山刑事ににぎらせた。風間俊六の名刺である。
「その男に会ってみてください。こんどの事件について意見をきいてみてください」
それだけいうのがやっとだった。つぎの瞬間、列車はプラットフォームから出外れて、しだいにスピードを増していた。
「いったい、どうしたんだ。天坊さんがどうかしたのか」
あちこちにできた|綻《ほころ》びを気にしながら、金田一耕助が改札口へかえっていくと、奥村秘書と譲治が並んで立っていた。
「ぼく……ぼくにはまだよくわからないんです。ただおやじさんがひどく興奮していて……ぼくおやじさんがあんなに興奮してるの見たことねえな」
「篠崎さんが興奮しててどうしたというんだ」
「とにかく金田一先生を呼びもどして来いというんです。天坊さんが大変だからって、ぼくただそれだけしか聞いてないんです」
「それで、君、あの馬を走らせてきたのかい」
「ええ、おやじさんがそうしろというもんだから。アメリカの西部劇みたい。あっはっは」
この際、あっはっはだけは余計だが、さすがに譲治もテレたのであろう。そうでなくとも名琅荘に殺人事件があったということは、この辺いったいに知れわたっているはずだし、新聞記者などもぞくぞくと押し寄せているところで、あたりは一杯のひとだかりである。
「金田一先生、御案内しましょう」
「よろしくお願いします」
「じゃ、先生は自動車で急いでください。ぼくは馬であとからゆっくりかえります。あまり走らせると馬が可哀そうですから」
昨夜のけんまくはどこへやら、譲治はあどけない顔でにこにこしている。
それから十分ののち、金田一耕助を乗せた自動車が、名琅荘の正面玄関に横着けになると、詰めかけていた新聞記者が、バラバラとそばへ寄ってきた。それらの記者の相当数は、東京から駆けつけてきていて、なかには金田一耕助の顔を知っているものもあり、
「金田一先生、あなたもこの事件に関係していらっしゃるんですか」
「先生、古館元伯爵が殺害されたそうですが、例の三角関係のもつれからですか」
「この名琅荘にはいろいろ|曰《いわ》く|因《いん》|縁《ねん》があるそうですが、なにかそういうことがこんどの事件にも尾をひいてるんですか」
|執《しつ》|拗《よう》に食い下がってくる記者連中を適当にあしらいながら、逃げるように正面階段を駆けのぼり、玄関のロビーへはいっていくと出会い頭にぶつかったのは、忙しそうに奥から出てきた江藤刑事だ。
「金田一先生、現場はヒヤシンスの間です。すぐいってください。ここの主人の要請で、現場はそのままにしてあります」
江藤刑事はそれだけいうと、足早に玄関から外へとび出していった。
この名琅荘は富士山を背景にしてV字型に建っており、下方の頂点が正面玄関になっている。そして、玄関から右翼の建物が日本家屋になっていて、そのほうは平家建てになっているが、左翼の西洋建築は二階建てになっている。ヒヤシンスの間というのは、左翼の建物の二階の突き当たりで、ダリヤの間の隣であることを金田一耕助も知っている。
玄関のロビーを左へ走ると、まっかな|絨毯《じゅうたん》をしきつめたひろい大理石の階段があり、その階段をあがって廊下をまっすぐに走ると、T字型になった廊下の横の棒に突き当たり、その廊下を左へまがったところにヒヤシンスの間のドアがあるが、開け放ったドアの外に警官がひとり立っていた。金田一耕助の姿をみると無言のまま道をゆずったが、その警官の緊張した面持ちからしても、その部屋のなかで容易ならぬ事態が、持ちあがっているのであろうことが想像された。
ドアを入るとそこは隣のダリヤの間と、まったく左右相称になっており、十二畳ばかりの居間の右側に広い壁付き暖炉があり、大理石のマントルピースがついているのも、隣のダリヤの間とそっくりおなじである。しかし、そこにはだれも人影はみえず、左のほうからシャワーのほとばしる音がきこえ、その音にまじって押し殺したような人の話し声が断続していた。
その居間の左側が寝室になっていることも、ダリヤの間と左右相称になっているが、そこに大きなダブル・ベッドがゆたかな面積をしめている。そのベッドの横に、いまちょこなんと腰をおろしているのはお糸さんである。八十になんなんとするお糸さんの身長では、脚が床までとどかないのである。|白《しろ》|足《た》|袋《び》につっかけたスリッパが宙にブランと浮いていた。
ベッドの頭のほうに、電気スタンドをおいた書き物机があり、その書き物机と|対《つい》をなす回転椅子は、いまこちらをむいているが、そこには倭文子が腰をおろして、両手をかたく膝のうえで握りしめている。
倭文子はけさも和服だが、着物はきのうと違っていた。渋い大島に臙脂色の帯がよく似合って、膝のうえで結んだ両手の左の薬指の、ダイヤの大きさが眼をひいた。倭文子は上体をシャンと起こして、顔は正面切っているが、相変わらず能面のようなその顔からは、なんの表情もうかがえない。心なしか皮膚がケバ立っているようだ。
ベッドの裾の窓のそばに篠崎慎吾が立っていた。慎吾は妻に背をむけて、窓越しに富士山を見ているが、ほんとにかれは富士山を見ているのだろうか。ガッチリとした肩の線がなんとなく憔悴してみえ、むぞうさに結んだ|兵《へ》|児《こ》|帯《おび》の結び目が、大きなお尻のうえにだらんと垂れているのが、この際こっけいでしおたれている。
金田一耕助がその寝室へはいっていったとき、三人はこうして奇妙な三角形をえがいていたが、かれの姿を見たせつな、三人三様の表情がはげしく動いた。
「金田一先生……」
と、あえぐようにいったきり、絶句してしまった慎吾の眼はギラギラと血走って無気味にみえた。倭文子はかるく会釈したきり、ただまじまじと金田一耕助のモジャモジャ頭を凝視している。能面のような冷たさがなければ、それはこの際、あどけなくさえみえたかもしれない。いちばん大げさだったのはお糸さんである。ピョコンとベッドからとびおりると、
「あれまあ、金田一先生、よく間におうてくださいましたなあ」
「なにかまた……? 天坊さんがどうかなすったんですか」
「はい、それがなあ……」
と、いいながら、お糸さんは締め切った、バス・ルームのすりガラスのドアへ歩みよった。バス・ルームのなかからは、あいかわらず激しくほとばしるシャワーの音がしている。
お糸さんはそのドアをたたきながら、
「あの、もし、警察のおひとさんえ。金田一先生がもどっておいでなさいましたぞな」
中からドアを開いた井川老刑事はにこりともせず、黙って体をひらいて金田一耕助をなかへとおした。ドアの中は脱衣場になっており、正面に大きく深い洗面台が取りつけてある。しかし、問題は脱衣場ではなく、右側のドアの奥の浴室らしかった。
浴室は三畳敷きくらい。エナメル塗りの大きな楕円形の浴槽のそばに、田原警部補が立っており、書部補の縁無し眼鏡をかけた眼は、|眼《ま》じろぎもせず浴槽のなかに注がれている。金田一耕助のほうへチラッと光ったその眼鏡は、すぐ浴槽のなかへ視線をかえした。
「金田一先生、篠崎氏の要請でこの場はまだなにひとつ手をつけてありません。いまに鑑識の連中や医者が駆けつけてきます。そのまえにこの場の様子を、とっくり見ておいてください」
浴槽のなかには満々と湯が張られている。その湯はうすく緑色を呈していて、芳香をはなっているように思われた。その湯の底に足の|爪《つま》|先《さき》を浴槽のふちにあげるようにして、侏儒の天坊邦武がしずんでいた。仰向けに寝そべったこの旧貴族の裸身はひどく無格好にみえる。腹だけがいやに出ばっていて、手脚が不釣り合いなほど貧弱なのは栄養失調児のようである。両眼はかっと見開いて天井をにらんでいるが、かつて威厳をほこっていたあの|八《はち》|字《じ》|髭《ひげ》が、みるも無残にしおたれていて、残り少なになったビリケンあたまの頭髪が、モシャモシャと湯の底でゆれているのとともに、いかにも虚勢の仮面をはぎおとされた、敗残の老貴族の成れの果てらしくみじめであった。
タイル張りの壁のいっぽうから、シャワーが滝のような音を立ててほとばしっている。
事件発見の|顛《てん》|末《まつ》はこうである。
老女のお糸さんはけさは朝から不機嫌であった。女中のタマ子がどこへいったのか姿をみせない。しかも、朝はみなさんお部屋でお食事をとられることになっている。下働きの女中がいることはいるが、そんなのひとまえへ出せる柄ではない。
しかたなしにお糸さんは|老《ろう》|躯《く》をかって、みずからお|膳《ぜん》をはこばなければならなかった。彼女はまず敬老の意味からも、イの一番にヒヤシンスの間へお膳をはこんだ。糸女はドアをノックしたが、中から返事はなくて、シャワーのほとばしる音がかすかにきこえた。たぶん朝の入浴ののち、シャワーを浴びているのであろうと思って、できるだけ大きな声でよんでみたが返事はなかった。
糸女は困ってあたりを見まわしたが、さいわいドアのわきに|花《か》|瓶《びん》|台《だい》があった。中国風の|頑丈《がんじょう》な黒檀の台に、ゴタゴタとした中国風の模様が彫りこんであり、これまた中国焼きの大きな|壷《つぼ》がおいてあったが花は|活《い》けてなかった。
糸女はやっこらさとその壷を廊下におろすと、そのうえにお盆をおいて、できるだけ大きな声を張りあげて、ドア越しにそのむねを告げておいて立ち去った。シャワーの音がはげしくほとばしっていたので、こちらの声がきこえたかどうか心細かったが、そんなことしったことかとお糸さんは中っ腹であった。
時刻はちょうど八時だったという。
お糸さんはそれから柳町善衛、篠崎慎吾と順繰りにお膳をはこんで、さいごに日本座敷のほうへ移った倭文子にお膳をもっていったとき、タマ子のことを聞いてみたが、いいえと素っ気ない返事であった。その点、陽子や奥村や金田一耕助は世話がやけなかった。かれらはみんな食堂へ出てきてお糸さんの労をはぶいた。九時十分まえ金田一耕助は、奥村の運転する車で名琅荘を出発した。その時分もうそうとう新聞記者がつめかけていたが、金田一耕助はたくみにそれをまいて名琅荘を脱出した。
金田一耕助を送り出しておいて、お糸さんはその足でヒヤシンスの間のまえまできたが、そこでおもわずおやと眼をそばだてた。黒檀の花瓶台のうえにあるお盆はまだ手つかずで、しかも、シャワーの音は依然としてはげしく奔流している。お糸さんは卒然として思い出した。昨夜十二時過ぎ、田原警部補の要請で、天坊さんを呼びにきたときも、シャワーの音がきこえていたことを。
明治の元老古館種人閣下に仕えてきたお糸さんは、ひとをひと臭いとも思わぬ気丈な女性だったが、さすがにきのうのきょうだけに、はっとと[#「と」に傍点]胸をつかれる思いであった。|把《とっ》|手《て》に手をかけてみたが、ドアには鍵がかかっていた。お糸さんは天坊さんの名をよびながら、はげしくドアをたたいたが、返事はなくて答えるのはシャワーのほとばしる音ばかり。
お糸さんは花瓶台からお膳をおろした。花瓶台をドアのまえにもってくると、やっこらさとそのうえによじのぼった。がんじょうな黒檀の台はお糸さんの重量を支えるのに十分だった。ドアのうえにはステンド・グラスの回転窓がついている。それを半開きにしたところで、人間ひとり潜り込めるものではないが、内部のようすをうかがうには事足りた。
十二畳の居間にはひとけがなく、斜め右前方に暖炉がみえ、マントルピースのうえの小さな鎌倉彫りのお盆のうえに、銀色のものが光っている。このドアの|鍵《かぎ》らしい。左側に寝室へつうじるドアが見えているが、そのドアは締まっており、その奥からシャワーの音がきこえてくる。半開きとはいえ回転窓が開いたので、シャワーの音はさっきより大きくなった。お糸さんはそこからまた二、三度、天坊さんの名をよんだが、依然として返事はなく、きこえるものといってはシャワーの音ばかり。
ここにおいてさすが気丈者のお糸さんも、|膝頭《ひざがしら》がガクガクふるえた。
ドアに鍵がかかっており、その鍵がこの室内にある以上、鍵のもちぬしも当然この部屋の中にいるはずである。それにもかかわらず、これだけよんでも返事がないとはどういうことか。シャワーの音はもう一時間もつづいている。もしそれゆうべ聞いたシャワーの音が、あのままいままで続いているのだとしたら……?
お糸さんのふるえはすぐとまった。彼女はゆっくり花瓶台から廊下へおりた。
まえにもいったとおり、この部屋のまえの廊下はT字型になっており、縦の棒の下方から、正面玄関へおりる階段につうじているのだが、横の棒の左右の端から、裏階段が下りており、そこを下りると正面玄関をとおらずに、調理場や奉公人のたまり場、さらに右翼の建物の日本家屋へ通うようになっている。
お糸さんはその裏階段の右のほうをおりていった。天坊さんのとなりの部屋の真下が篠崎慎吾の部屋になっていることはまえにもいっておいた。ドアをノックすると、すぐ中からひらいて慎吾が顔を出したが、お糸さんの顔色をみるとふしんそうに眉をひそめて、
「お糸さん、どうかしたのか」
いかに沈着なお糸さんでも、このときばかりは心の動揺をおおうべくもなかったらしい。
「旦那様……」
と、いってからお糸はついほかのことをたずねた。
「タマ子をご存じじゃございませんか。けさから、姿が見えないんでございますけれど……」
「タマ子……? いいや、知らないね。あの子がどうかしたのか」
「けさからさっぱり姿が見えないんでございますの。それから……」
「それから……?」
「このうえのヒヤシンスの間でございますけれど‥…」
「ヒヤシンスの間……? ああ、天坊さんのお部屋だね。それがなにか……?」
「シャワーが出しっぱなしなんですの。ひょっとすると……」
「ひょっとすると……?」
「ゆうべから出しっぱなしじゃないかと思うんですけれど」
お糸さんはそこでやっと落ち着きをとりもどした。自分がいま不安をかんじているゆえんを申しのべると、慎吾の眼がみるみる大きく見開かれた。
ものもいわずにお糸さんのからだを押しのけると、おおまたに裏階段をのぼっていった。セルの着物に兵児帯をしめたその結び目が、猫じゃらしみたいにゆれて、大きなお尻が躍動していた。
ヒヤシンスの間の外に立つと、はげしくドアをたたきながら、天坊さんの名をよびつづけたが、あいかわらず返事はなかった。ドアをたたくのをやめ、耳をすますと、たしかにきこえてくるのはほとばしるシャワーの音である。
お糸さんの話を思い出し、黒檀の花瓶台の上へあがって、半開きになった回転窓からなかをのぞくと、斜め右前方にみえるマントルピースのうえにあるのはたしかに銀色の鍵である。花瓶台からおりて、ドアをガチャガチャいわせているところへ、ひと足おくれて、駆けつけてきたお糸さんが、
「旦那様。鍵を……」
合鍵を鍵穴へさしこみそれをまわすまえ、慎吾はもういちど大声で天坊さんの名前をよんだ。返事のないのをたしかめてから鍵をまわした。そして、お糸さんとともに寝室を抜け、浴場へ入り、浴槽のなかのものを見たのである。
それからあとの慎吾は、事務家としての本領を遺憾なく発揮した。かれはお糸さんの手を引くと、爪先立つようにして浴室をあとにした。
「旦那様、シャワーは……?」
「あのままにしておく。なにもかもあのままにしておくんだ」
慎吾は窓という窓を調べてみたが、全部掛け金がなかからしまっており、異状はなかった。寝室から居間をぬけて、ドアの外へ出るとき、お糸さんはなにかを捜し求めるように、きょろきょろあたりを見回していた。寝室をとおるとき、彼女はベッドの下までのぞいてみた。そして、そこに求めるものを発見できなかったとき、彼女はいっぽうでは安心し、いっぽうではさらに不安がつのるふぜいであった。
廊下へ出ると慎吾はドアに鍵をかけ、お糸さんとともに階段をおり、正面玄関の横にあるフロントへはいっていった。
時刻はまさに九時である。
「警察の連中はまだいるんだろうね」
「はい、田原さんという主任のかたと、井川さんという刑事さんが。……おまわりさんも二、三人いるようでございますよ。おしらせしましょうか」
「いや、ちょっと待て。譲治をここへ呼んでください」
「あの子がなにか……?」
「なんでもいいから呼ぶんだ」
お糸さんはちらと慎吾の顔を見たがすぐ裏へ走った。まもなくお糸さんに連れられてきた譲治は、すでに制服に身をかためていた。
「譲治、ここからフジノオーを走らせると、富士駅まで何分かかるかね」
譲治はちょっと面くらったようだが、主人の気性をよくしっているので、余計なことはいわなかった。
「は、二十分あればいけると思います」
「十五分でいくんだ。九時十五分発の列車に金田一先生がお乗りになる。なにがなんでもそれまでに駆けつけて先生を呼びもどしてくる。いいな、わかったな」
「はっ、承知しました。しかし、用件は?」
「天坊さんが大変だといえ。それだけで十分だ」
譲治はギョッとしたように、慎吾の顔を見直したが、直立不動の姿勢のまま、
「承知しました。譲治はこれからフジノオーを走らせて、富士駅まで駆けつけ、金田一先生をお連れしてまいります」
くるりと|踵《きびす》をかえすと、小鹿のようなしなやかなからだが、赤いつむじ風となって走り去った。
慎吾はフロントのなかを、行きつもどりつしていたが、ふと立ち止まってお糸さんのほうを振り返ると、
「お糸さん、倭文子は起きているだろうね」
「はい、さっきお食事もおすみになりました」
「ここへ呼んでください」
「はあ。でも、警察のほうはどうしましょう」
「それより倭文子のほうがさきだ」
強くいってから、
「警察はそのあとにしましょう。金田一先生がいらっしゃるまで、あんまりいじくりまわされたくありません」
お糸さんはふっと怪しく心が乱れた。金田一耕助という男、小柄で貧相でモジャモジャ頭で、おまけに多少どもりでもある。いっこう|風《ふう》|采《さい》のあがらぬ男だが、あれで篠崎慎吾ほどの人物に、これほど信頼される価値があるのだろうか。しかし、お糸さんは無言のまま頭をさげて出ていった。
多少てまどらせたのち、倭文子がお糸さんをあとに従えてやってきた。
「お早うございます。昨夜はわがままを申し上げまして……いま御挨拶にうかがおうと思っていたところでございました」
慎吾はまぶしそうに二、三度眼をパチパチさせた。とくに入念に化粧しているわけでもないのだが、けさの倭文子はひときわ美しいと思わざるをえなかった。
「倭文子、ちょっとわたしといっしょに来てくれたまえ」
「はあ……どちらへ……?」
|怪《け》|訝《げん》そうに首をかしげるとき、この|女《ひと》はひどくあどけなくみえることがある。
「なんでもいいから、わたしといっしょに来てもらいたいんだ」
みずからさきに立って部屋を出ると、そこでお糸さんを振り返り腕時計を見ながら、
「いまから十分たったら警察の連中にあのことを報告してください。そしてあんたもいっしょに来る。わかりましたね」
「承知しました。旦那様」
「では、倭文子……」
きびしい夫の気迫に圧倒されたのか、倭文子は無言のまま慎吾のあとについていった。慎吾は正面玄関から二階へあがり、まっすぐにヒヤシンスの間へいき、鍵をまわしてドアを開いて、倭文子のほうを振り返った。
「天坊さまがなにか……?」
たゆとうようにつぶやきながら、夫の顔を凝視するとき、この能面の女もさすがに緊張のせいか、|肌《き》|理《め》のこまかな頬の筋肉が、かすかに|痙《けい》|攣《れん》しているのがうかがわれた。
慎吾はしかしそれには答えず、居間を抜け、寝室をとおり、脱衣場と浴室のあいだのドアのまえに立ち止まると、そこでまた倭文子のほうを振りかえった。相変わらずシャワーがはげしい音を立ててほとばしっている。
「バス・タンクのなかをのぞいてごらん」
夫が体をひらいたので、倭文子は背伸びをするようにして、浴槽のなかをのぞきこんだが、ひとめそこを見た瞬間、おそろしい痙攣が倭文子の全身をおそった。
倭文子は体をこまかくふるわせながら、まじろぎもしないで、浴槽のなかのものをみつめていたが、つぎの瞬間、身をひるがえして脱衣場をとび出し、寝室までくると、やっとのことでベッドの頭の鉄柵で身を支えた。肩で大きな息をしている。額から脂汗が吹き出していた。慎吾はわざと浴室のドアも、脱衣場の扉も開けっ放しにしたまま、寝室へとってかえすと、無言のまま倭文子の荒い息使いを見守っている。
「あなた!」
だいぶんたってから倭文子はあえぐような声をかけた。
「天坊さまは……天坊さまは死んでいらっしゃるのですか」
「ああ、御覧のとおりだね」
慎吾の声は乾いていて、そこには鋼鉄のような堅さと冷たさがあった。
「けさこの部屋にはドアに鍵がかかっていた。しかも、鍵はむこうのマントルピースのうえにある。われわれはお糸さんの保管している、合鍵でここへはいってきてあれを発見したんだ。窓という窓にはごらんのとおり、全部なかから掛け金がかかっている。それについて君はどう思う」
「どう思うとおっしゃいますと……?」
倭文子はまだベッドの鉄柵につかまり、慎吾に背をむけたまま肩で息をしている。
「天坊さんには心臓発作の持病でも、おありだったようかね」
倭文子はちょっと考えたのち、
「いいえ、そんな話、うかがったことございません。健康があのかたのなによりの御自慢でいらっしゃいました」
「そう、わたしもそう聞いていた。と、すると、これはどういうことになるのかな。いや、取り越し苦労はよそう。死因はいずれ解剖の結果、判明するだろうからね」
「解剖……?」
倭文子の全身はまた細かく痙攣したが、やがてくるッと夫のほうを振り返ると、
「それじゃ、あなたはあれを他殺だとおっしゃるんですか」
「だから、解剖の結果が、それを教えてくれるだろうといってるんだ」
慎吾は窓のそばへよって妻に背をむけた。斜め右方にきょうも富士山がよく晴れている。
倭文子はベッドの鉄柵から身をはなして、かたわらの回転椅子に腰をおとすと、ゆっくりと夫のほうにむきなおった。たくましい慎吾の背中に眼をやりながら、
「でも、あなたはいまおっしゃいました。ドアには鍵がかかっており、鍵はこの部屋のなかにあったと。では、だれがどうして……?」
「だからさ、この部屋にもどこかに抜け穴があるんじゃないか」
「あなた!」
倭文子はヒステリックな調子で叫んだ。
「あなた、本気でそんなこと考えていらっしゃるんですか」
「どうだかな。なにしろ辰人さんのお|祖《じ》|父《い》さんが造った、|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》|知《し》らずみたいな建物だからな。あっはっは」
慎吾はくるりとこちらを振り返ると、
「まあ、お聞き。ゆうべ金田一先生たちはあの抜け穴のなかで、片腕の男とおぼしい人物を発見なすったそうだ」
このことは初耳だったとみえ、倭文子の美しい眉が大きくつりあがった。
「それ、いったいだれですの」
「だれだかわからない。取り逃がしてしまったそうだからね。だからそいつはわたしかもしれないし、柳町さんかもしれないし、奥村君かもしれないんだ」
「そんなバカな!」
「そう、わたしもそう思う。しかし、そいつがわたしたちでないとすると、ここにひとり、正体不明の片腕の男というのが実在することになる。しかもそいつは変幻自在、抜け穴から抜け穴へと出没するらしい。だからそいつにとっては、鍵のかかった密室であろうがなかろうが、問題ないんじゃないのかな。あっはっは!」
さいごの笑い声には聞くものをして、ゾーッとさせるような薄気味悪いものがあった。
「あなた、そんな気味の悪いことおっしゃらないで……それよりあなた!」
倭文子は回転椅子から腰をうかした。そのとき表のドアが開いて、だれかがはいってこなかったら、おそらく倭文子は夫の胸にむしゃぶりついていたであろう。
お糸さんはきっちり十分おくれて、田原警部補と井川老刑事を案内してきた。
それから約十五分のちに、金田一耕助が富士駅から、奥村秘書の運転する自動車で|急遽《きゅうきょ》引き返してきたというわけである。
第十一章 密室の鍵
「天坊さん、御家族は……?」
浴槽に沈んだそのものから眼を反らすと、金田一耕助はだれにともなくたずねた。
「それがひとりもいないんだそうです。去年奥さんと離婚したばかりだと、これは篠崎さん御夫婦からいま聞いたばかりですがね」
「手っ取りばやくいえばかかあに逃げられたんですな。ちかごろ華族の離婚がはやってるちゅう話じゃありませんか」
「お子さんは……?」
「なかったそうです」
「だからかみさんも見切りをつけやすかったんでしょうよ」
華族の恩典が失われたとき、天坊さんのビリケン頭も、昆虫の触角を思わせる八字髭も、すべて権威を失墜したのであろう。
「それにしてもこの湯いい匂いがしますね。それに色がついている」
「なあに、あれですよ」
井川刑事が顎をしゃくってみせた壁には、髭そり用の鏡がはめこんであり、その下の|棚《たな》のうえに直径三寸、高さ五寸ばかりの円筒形のブリキの|鑵《かん》がおいてある。つやつやとした|深《しん》|紅《く》の鑵の側面には、白抜きで横文字がギッチリと並んでいる。
金田一耕助がシャワーの|飛沫《し ぶ き》をよけながら、ちかぢかと眼をよせると、
Bathclinic
と、商品名が大きく白抜きになっており、その下にギッチリ並んだ横文字は、効能書きや用法みたいなものであろう。円筒形の鑵の|蓋《ふた》がとってあるので中をのぞくと、きめのこまかい淡緑色の粉末がつまっており、|茶《ちゃ》|匙《さじ》の|柄《え》をはんぶん折ったくらいのブリキの匙がついていた。棚のうえにも淡緑色の粉末がこぼれている。
「なんですか、これは?」
「なあに、日本でいえば湯の花のごときもんですな。体が温まるとか、筋肉を柔らかくするとか……アメリカさんが持ち込んだもんでしょうな」
「あ、なあるほど。しかし、天坊さんはこういうものをわざわざご持参だったんですか」
「いや、それはゆうべお糸ばあさんが提供したもんだそうです。それについてばあさん、なにか話があるちゅうこってすが、それより、金田一先生、ちょっとこっちへ来てごらんなさい。この仏さん、妙なものをしてますぜ」
「妙なものって?」
「仏さんの左の腕をごろうじろ」
湯の底に沈んだ天坊さんは、左の腕に西洋手拭いをまきつけている。まえはかくさずに腕にタオルをまいているのを、金田一耕助もさっきから妙に思っていたところだ。
「あのタオルがなにか……?」
「開けてびっくり。ちょっとこれを……」
井川老刑事が腕まくりをして湯の中へ手を突っ込み、タオルをずらせてみせたとたん、金田一耕助はおもわず大きく眼を見張った。
なんと天坊さんは左の腕に腕時計をはめているではないか。腕時計のバンドは金属製で伸縮自在になっており、天坊さんのはめている腕時計は、ふつう腕時計をはめる手首よりだいぶん|肘《ひじ》のほうへずれている。
時計の針は十一時四十五分を示しているようだが、いまは九時四十分である。するとこれはあきらかに昨夜の十一時四十五分にちがいない。昨夜の十一時四十五分といえば、金田一耕助たちが抜け穴の中にいた時刻だが、これが天坊さんの終焉の時刻を意味しているのであろうか。
金田一耕助がそれについてなにかきこうとしているところへ、寝室のほうからドヤドヤと数名のひとびとが乱入してきた。そのなかにはきのう会った森本医師の顔もみえる。
「なんだ、なんだ、また仏さんが出現したんだって。これじゃこちとらろくに朝寝もできやアしねえ」
「へん、おまはんはそんなに朝寝をしたがる|年《と》|齢《し》かい」
「そうさ、井川のオッサンとちがって、こちとら食べざかり、育ちざかりだからな。あ、これかあ、仏さんというのは……」
「森本先生、仏の左腕をごらんください」
田原警部補に注意されて、森本医師も天坊さんの左腕に眼をやったが、
「なアるほど」
と、奇妙なうめき声をあげ、だれかがひと声、ヒューッと鋭く口笛を吹いた。
「専門家にむかってこんなことをいうのは、野暮の骨頂かもしれませんが、死因を綿密に調査してください。仏は|溺《でき》|死《し》したのか、それとも……」
「いや、よくわかったよ。腕時計をはめたまま、入浴するばかもないもんだ」
「金田一先生、ここはこのひとたちにまかせておいて、むこうへいこうじゃありませんか。お糸さんがわれわれに話したいことがあるらしい。井川のオッサン、君も来ないか」
「いや、あたしゃあの腕時計に未練がありますんでね。写真撮影がすんでからいきまさあ」
「写真といえば表の居間のマントルピースのお盆のうえに、この部屋の鍵がおいてある。そいつも忘れずに|撮《と》っておいてくれたまえ。写真をとったらもうそのシャワーをとめてもいいだろう。金田一先生、どうぞ」
田原警部補にうながされて金田一耕助は浴室を出ると、そこはまえにもいったとおり脱衣場である。寝室からドアを入るとその正面に、大きくて深いエナメル塗りの洗面台が、とりつけてあることはまえにいっておいたが、その洗面台のうえの壁に大きな鏡がはめこんであり、鏡のしたには大理石の棚が壁から突出している。棚のうえには石鹸函と髭ブラシ、西洋|剃《かみ》|刀《そり》とセルロイド製の|櫛《くし》とクリームが並んでいる。いずれも最近使用されたもののごとく、じっとりぬれて生乾きである。
洗面台には|蛇《じゃ》|口《ぐち》がふたつ取りつけてあり、いっぽうは冷水、いっぽうは温水が出る仕組みになっている。
金田一耕助は洗面台のまえに立って、その深さや大きさを測定するように見ていたが、ふと大理右の棚に眼をやると、おやというふうに眉をひそめた。その棚をうえからよこからと角度をかえて、観察しているのを見て、
「金田一先生、そこになにか……?」
「主任さん、ちょっとこの棚のうえをみてください。石鹸函のすぐそばです。この棚いまは乾いていますが、ある時期にはぬれていたか、生乾きだったにちがいない。そこへだれかがなにかをおいた。その|痕《あと》がいまもうっすらのこっているんですが、それなにをおいた痕でしょうねえ」
警部補がのぞいてみると、複雑な|縞《しま》|目《め》をつくっている大理石の表面に、なるほど小さな環のような痕跡がうすじろくのこっている。
「金田一先生、これ、腕時計の痕じゃ……」
「あちらの写真撮影がおわったら、腕時計をはずしてここへおいてみるんですね。はたしてこの痕とピッタリ合うか」
田原警部補の要請で、すぐ井川老刑事が腕時計をはずして浴室から出てきた。腕時計とその痕跡はピッタリ合った。
「そうするとビリケンさん、いったん腕時計をはずしたことははずしたんですね」
「そうだ、腕時計をはずしてこの棚のうえにおいたんだ。そのあとでバスを使った。バスを使ったことはバス・タンクの湯が石鹸で濁っていることでもわかるし、この石鹸も生乾きだ。バスからあがってここで髭をそった。髭をそったことは仏さんの顔を見ればわかるだろ。それから仏さんは腕時計をはめ、さてそのあとで洗面台で顔を洗おうとした。ところがそれには腕時計が邪魔になるので、うんと肘のほうへたくしあげておいた……」
田原警部補の言葉は一句一句、木の枝でも折るようにポキポキしている。警部補は深くて大きな洗面台へ眼をやった。井川老刑事もそこを見た。洗面台はいま空っぽだが、井川老刑事が底に栓をかって、ふたつある蛇口のうちのひとつをひねると、|清《せい》|冽《れつ》な水がほとばしって、みるみるうちに洗面台をいっぱいにした。なみなみと|湛《たた》えられた洗面台の水をみて、三人は|慄《りつ》|然《ぜん》として顔見合わせた。それはひとひとり溺死させるに十分の量である。
天坊さんがここで顔を洗っているとき、だれかが背後から忍びより、後頭部をおさえて洗面台のなかへ押し込んだら……?
「わかった、わかりましたよ。そのとき仏さんは左の腕にタオルを巻きつけていたんだ。それで犯人のやつ腕時計に気がつかず、そのままバス・タンクの中へ漬けやアがったんだ」
「いや、あまり結論を急がないほうがいいでしょうが、主任さんや井川さんがおっしゃるとおりだとすると、いずれ解剖の結果が証明してくれましょう。肺臓を満たしている水に、あの湯の花みたいなものが含まれているかどうかによって……」
金田一耕助は暗い眼をしてつぶやいたが、そのことはその日の夕方までに判明した。天坊さんの肺臓を満たしている水には、Bathclinic は含有されていなかったのである。この報告を受け取ったとき、金田一耕助は改めてこの事件の犯人の持っている世にも残忍な鬼畜性に、慄然とせざるをえなかった。
「それはそうと主任さん、古館さんの死因はわかりましたか」
金田一耕助がたずねた。
「そうそう、さっき先生がお出掛けのあと、署から連絡があったんですが、死因はやっぱり絞殺のほうだそうです」
「つまり、あの仕込み杖の握りのほうで後頭部をぐゎんと一撃、元伯爵先生が昏倒してるところを、ありあうロープでぐっとひと絞め。それでなにもかも符節が合うようですが、それにしても犯人はよっぽど残忍なやつか、それとも古館さんに対して、よほど深い憎しみを抱いてるやつにちがいないってことになってるんですがね」
井川老刑事が補足するあとから、
「それにしても犯人は非常な大力のやつだろうというんです。古館さんすんでのことに、首の骨が折れそうになってたそうですからね」
ふたりの説明をききながら、金田一耕助は悩ましそうな眼をして、脱衣場にある脚つきの乱れ箱の中を見ていた。その乱れ箱には天坊さんの脱ぎ捨てたパジャマやパンツ、ドレッシング・ガウンの類が散乱しており、乱れ箱のしたにスリッパが一足脱ぎ捨ててある。
「この乱れ箱さわってもかまいませんか」
「ええ、どうぞ、どうぞ。さっきわたしがかきまわしましたからな」
乱れ箱のなかにあるのはパンツに粗い縦縞のパジャマの上下、それから柔らかい茶色のウール地のドレッシング・ガウンとただそれだけ。パンツ以外はいずれも見憶えのある品だったが、金田一耕助はそのガウンを両手にとってひろげてみたとき、おやというふうに眉をひそめた。
「金田一先生、なにか……」
そのガウンにはボタンがなくて、|共《とも》|布《ぎれ》で作った細い帯状のバンドで締めるようになっている。げんに昨夜ダリヤの間へ顔を出したとき、天坊さんは共布のバンドをまえで結んでいたし、そのガウンにもバンドを通すこれまた共布で作った細い紐のバンド通しが、両脇と背筋の三か所についているのだが、|肝《かん》|腎《じん》のバンドがどこにも見えない。
井川老刑事もはじめてそれに気がついたらしく、キョロキョロあたりを見回したが、バンドはどこにも見当たらなかった。のちに寝室から居間と捜してみたが、バンドはついにこのフラットのどこからも発見されなかったのである。
このガウンについて金田一耕助がもうひとつ眼をとめたのは、腰のあたりの両脇と左の胸と、共布で作ったポケットが三つついているのだが、左腰についているポケットがひとつ裏返しになっていることである。
「井川さん、これあなたがひっくり返されたんですか」
「とんでもない。わたしゃ乱れ箱の中のものの点数を調べただけですがね」
「田原さん、天坊さんがゆうべダリヤの間へやって来られたとき、このガウンを着ていらっしゃったが、ポケットはこんなふうにひっくり返っていましたか」
「いいえ、そんなみっともない格好になっていたら、わたしも気がついたはずですがね」
「わかった。犯人のやつなにかビリケンさんのもちものを、ねらっていやアがったにちがいねえ」
井川老刑事は脱衣場から外へとび出した。脱衣場のそとは寝室だが、そこには慎吾たち三人の姿はみえなくて、見張りに立った警官の話によると、階下のロビーで待っているとのことである。
寝室のベッドのそばにこれまた脚つきの乱れ箱があり、そこに天坊さんのパンツ以外の下着類や靴下が、きちんとたたんでおいてあり、ベッドの頭部にある備えつけの洋服|箪《だん》|笥《す》をひらくと、見憶えのあるスコッチの三つぞろえやワイシャツが、ネクタイとともにハンガーにかけてぶらさがっている。洋服箪笥の床にはボストン・バッグがおいてあったが、そのボストン・バッグには K.T. と天坊さんの|頭文字《イニシアル》がおしてあり、そうとう年代物らしい。
ボストン・バッグをひらくと着更えのワイシャツが二枚とネクタイが三本、パジャマがひとそろえと化粧道具が入れてあったとおぼしい信玄袋がひとつ、靴下が二足に、タオル、ハンカチ、鼻紙の類。いずれもキチンとたたんで整理してある。天坊さんはこの名琅荘に何泊するつもりでいたのかしらぬが、そうとうお|洒《しゃ》|落《れ》で、しかも綺麗好きで整理癖があったらしい。
洋服の上着の内ポケットから、二つ折りになる模造革の紙入れが出てきたが、なかには若干の紙幣と名刺、天坊さんは鎌倉に住んでいたらしく、鎌倉から東京までの定期券。ほかに電車の回数券。旧貴族の天坊さんも戦後は電車を利用していたらしい。
「ところで、井川さん、あなたこれをごらんになって、なにかお感じになることはございませんか」
「金田一先生、こりゃあっしのカンですが、だれかがこれを引っかきまわしていきゃアがったにちがいありませんぜ。ほら、洋服の上着のポケットがはんぶんひっくり返ってまさあ」
「そうですね。天坊さんは|几帳面《きちょうめん》なかただったらしいが、それにしては妙ですね」
「ボストン・バッグの中のしろものなんかも、いったん引っかきまわしたあとで、また整理しなおしたんじゃないかって匂いがしますぜ」
洋服箪笥の下部には引き出しが四つ付いているが、そのひとつなんかだれかがいったん開いて締めるとき、急いだとみえいびつに入っていて、なかなか開かないのがあった。引き出しのなかはもちろんみんなからである。
「金田一先生、そうすると犯人はたんに天坊さんの生命をねらっただけじゃなく、天坊さんの所持品をねらったんですか」
「そうだ、きっとそれにちがいねえ。犯人のやつビリケンさんの顔を洗面台ヘ押し込んで溺死させ、湯舟ヘ漬けて|溺《おぼ》れ死んだように見せかけておいて、さてそのあとで|獲《え》|物《もの》はなきやと持ち物一切、ひっかきまわしていきゃアがったにちがいねえ」
「しかし、おやじ、その獲物とはなんだね」
「さあてと。金田一先生、あなたにゃなにかわかってるんですかい」
「とんでもない。わたしにもさっぱりわからない。見当もつきません。しかし、ポケットの中まで捜していったとすると、目的のものはあまり大きな品じゃなさそうですね」
「わかった!」
井川老刑事が大きな声をあげたので、金田一耕助と田原警部補は思わずそのほうを振り返った。老刑事は眼のふちに朱を走らせて、
「それ、あのガウンのバンドに縫い込んであったんですぜ。あの紐、幅が一寸五分くらいあったじゃありませんか。そうとうのシロモノが縫い込めまさあ。犯人はそれに気がついたもんだから、バンドごと持っていきゃアがったにちがいねえ」
金田一耕助は微笑した。若いころ読んだ外国の探偵小説に、それと似たような話があったのを思い出したからである。その小説で隠されていたシロモノとはたしか宝石であったとおぼえている。書画|骨《こっ》|董《とう》の才取りをして生計をたてているような、|落《らく》|魄《はく》貴族の天坊さんがそんな貴重な品を持っていようとは思えなかったが、現実にバンドが紛失している以上、むげに井川刑事の説を笑殺するわけにはいかなかった。
そこはそのままにして三人が居間のほうへ出てきたとき、浴室から森本医師や鑑識の連中がドヤドヤとあとを追ってきた。
「田原君、仏さんは例のところへ運んでおいてもらいましょう。夕方までにはらちをあけてみせるからね」
「ヤブ小路先生、よろしく頼みまっせ」
「よし来た。細工は流々というところだ」
森本医師がセカセカと出ていったあとで、若い鑑識課員が井川老刑事に、
「おやじさん、写真を撮っとけというのはこのブロンズ像のことですか」
「そうだな、そのブロンズ像も撮っておいてもらおうか。しかし、問題はブロンズ像の脚下に、鍵が置いてあるだろ。その鍵の位置をしっかり撮っておいてもらおうじゃないか」
あらゆる角度からブロンズ像と鍵の撮影が行われたあとで、金田一耕助もマントルピースのそばへよってみた。
マントルピースは大理石でできている。高さは金田一耕助の胸くらい、その大理石のうえに身の丈一尺二寸くらいのブロンズ像がおいてある。ブロンズ像は裸婦で、「|沐《もく》|浴《よく》する女」とでもいうのであろう、裸の女が両膝を立てて腰をおろしているところである。髪をうしろに垂らし、両手で膝をかかえている。その裸婦の足のつまさきに、長さ二寸くらいの銀色の鍵がおいてある。
「刑事さん、このブロンズ像と鍵とになにか因果関係でもあるんですか」
金田一耕助がたずねると、そばから田原警部補が引きとって、
「金田一先生、これちょっとおかしいんです」
「おかしいとおっしゃると?」
「いえね、けさお糸ばあさんがここへやってきたとき、ドアにはちゃんと鍵がかかっているのに、いくら呼んでも返事がない。しかも、シャワーの音がきこえている。そのうちにばあさんあのシャワーの音はゆうべから、あのままつづいているんじゃないかと気がついたんですね。そこで廊下にある花瓶台をドアのまえに持ってきて、そのうえにあがって、あのドアのうえの回転窓を半分開いてなかをのぞいてみたところが、そこにある鍵が見えたというんですね」
「な、な、なんですって。じゃドアには鍵がかかっていたんですって?」
「そうだそうです」
「しかも、鍵はここにあったんですね」
「そうだそうですよ。ばあさんそれでおかしいと思ったんですね。ドアに鍵がかかっていて鍵がここにある以上、天坊さんは部屋のなかにいるはずです。にもかかわらずいくら呼んでも返事がない。しかも、シャワーの音はゆうべからつづいているんじゃないかという疑惑が、ふっとばあさんの脳裡をかすめたんですね。そこでばあさん急に不安になり、階下にいる篠崎氏にそのむねを報告し、自分はフロントから合鍵をもってきて、篠崎氏とふたりで部屋へ入ってくると、ああいうことになっていたというんですね。そこで篠崎さんが窓という窓をしらべたところが、掛け金は全部なかから掛かっていたというんです」
「しかも、犯人の姿はどこにも見えなかった……?」
「そうそう、金田一先生、そのときばあさんベッドの下までのぞいてみたというんですぜ。しかも、犯人、あるいは犯人らしき人物はどこにも見えなかったといってるんです。先生、あんたこの謎をなんと解く」
井川老刑事は狸のような目玉をクリクリさせて、挑戦するような調子である。見ようによってはこの老刑事、この事件をたのしんでいるようにもみえるのである。
「しかし、この部屋にも抜け穴が……?」
「いや、ところが金田一先生、この部屋にゃ抜け穴は絶対にないとばあさんは主張するんでさあ。もっともあのばばあのいうことだから当てにゃなりませんがね。あとでわれわれの手で厳重に調査してみようと思ってるんですが、もしここに抜け穴がなかったとしたら、先生、おまはんこの謎をなんとお解きあそばす」
「なあるほど」
古狸刑事の挑戦をうけて金田一耕助はうれしそうに、ガリガリバリバリ、モジャモジャ頭をかきまわしながら、
「そ、そ、そうすると、こ、こ、これ、密室の殺人ということになるんですかあ」
と、大いにどもり、かつ大いに眼を丸くした。
「そういうことになりそうなんですが、金田一先生、なにぶんよろしくお願いします」
と、古狸刑事とは反対に田原警部補のほうは一見低姿勢だが、なあに内心では大いに闘志をもやしているのである。
「なるほど、すると問題はこの鍵ということになりますな」
金田一耕助はもういちどマントルピースのうえの鍵に眼をやった。
その鍵は長さ二寸くらいのふつうの鍵で、頭のほうは輪になっており、ドアへさし込むほうは複雑な形態をなしている。しかし、その鍵は大理石のマントルピースのうえにじかに置かれているのではなく、縦一尺五寸、幅一尺くらいの浅い|漆塗《うるしぬ》りのお盆のようなもののなかに置いてあり、「沐浴する女」のブロンズ像もそのお盆のなかで腰をおろし、両手で膝をかかえているのである。お盆の材質は柔らかいホウの木らしく、いちめんに鎌倉彫りのような彫刻がほどこしてあり、模様は二匹の竜が|珠《たま》をとりあっているところである。
「わたしゃさっきから思っていたんですが、このブロンズ像、妙なところにおいてありますね。いつもこうしてお盆のなかに置いてあるんですか」
「いや、お糸さんもそれをふしぎがっているんですがね。いつもは大理石のうえに直接置いてあるんだそうです。お盆のほうは寝室のベッドのわきのサイド・テーブルのうえにおいてあり、小物入れなんですね。時計や財布、あるいは眼鏡などを入れておく……だれがこのお盆をこんなところへ持ってきたんだろうと、お糸さんもふしぎがっていましたよ」
「なるほど」
金田一耕助はしかつめらしい顔をして、ブロンズ像を持ち上げようとしたが、ずっしりとしたその像は形こそ小さいがずいぶん重かった。
「この鍵、合鍵は……?」
「もちろんひとつだけあります。どの部屋にも鍵は二つずつあるんですが、ひとつはお客さんに渡し、あとの一つはお糸さんがフロントで保管しているんですね」
「金田一先生、そいつをこっそり犯人に、借用されたんだろうなどといおうものなら、あのばあさんにかみつかれますぜ」
どうやら井川老刑事もかみつかれたくちらしい。
「じゃだれかがこっそり|蝋《ろう》かなんかで型をとり、あらかじめ合鍵を作っておいた……」
「あっはっは、あちらの探偵小説にゃよくそういうのがあるようだが、そうするとそいつよくよく先見のめいがあるやつですぜ。この部屋へビリケンさんが泊まるということを、あらかじめ知ってたってことになりますからね」
井川刑事は|憐《れん》|憫《びん》の情禁じがたしという顔色で、金田一耕助のモジャモジャ頭を見下ろしている。老刑事は筋金入りの体をしているが長身|痩《そう》|躯《く》というやつである。
「しかし、刑事さん、それこう考えてみたらどうでしょう。そいつはこのヒヤシンスの間のみならず、名琅荘のありとあらゆる部屋の合鍵を、こっそり作っておいたというのはどうでしょう」
「なんのために……?」
「つまり、その、なんですな。将来殺人の発作に襲われるであろう場合に備えてですな。あっはっは、刑事さん、そんな顔なさらなくても結構ですよ。ぼく気はたしかですから。しかし、可能性からいえばなきにしもあらずですが、実際にはありそうにもないことですね。よろしい、そうするとお糸さんが保管しているフロントの鍵以外には、ぜったいに合鍵はなかったということにしましょう。そうするとこれ密室の殺人ということに……」
と、いいかけて金田一耕助は、ドアのうえに半開きになっている回転窓に眼をつけると、
「いや、いや、この部屋かならずしも密室とはいえないんじゃないでしょうかね」
「金田一先生、あんたのいうのはあの回転窓のことですかい。ようがす、それじゃ|賭《か》けをしようじゃありませんか。金田一先生、あんた男としちゃ小柄のほうだが、あの回転窓から抜けられたらお慰み。わたしゃ首を賭けまさあ」
老刑事はせせら笑ったが、このとき金田一耕助少しも騒がず、
「刑事さん、ご芳志はまことにかたじけないが、まあ、ご辞退しましょうよ。そんな首頂戴したところで、刻んで味噌漬けにするわけにもいかない。へっへっへ」
金田一耕助っていやな野郎なのである。
「いや、しかし、刑事さん、犯人はなにもあの回転窓から抜け出すことはありませんよ」
「じゃ、どうするてえんです」
「堂々と鍵を持ってドアからそとへ出る。そして、そとからドアに鍵をかけると、エイヤッとばかりに回転窓からマントルピースめがけて鍵を投げつける。つまりあのブロンズの像はその標的だったというわけですな」
「へへえ、すると先生のいわゆる犯人てえのは投げ銭の名人なんですかい」
「ひょっとすると銭形平次の子孫かもしれませんね。いや、冗談はさておいてわたしのいいたいのは、これ、必ずしも密室の殺人とはいいがたいということですな。じゃ、|階《し》|下《た》へいってお糸|刀《と》|自《じ》のお話をうかがおうじゃありませんか」
天坊さんの腕時計は十一時四十五分のところで止まっている。それが天坊さんの最期の時刻を示しているとすれば、関係者一同だれにもアリバイのないことは、昨夜の十二時以降に行われたアリバイ調べでもハッキリしている。いや、ここにただひとり、正確なアリバイを立証しうる人物があった。ほかならぬ抜け穴の怪人である。あの怪人が何者にしろ、あいつだけはアリバイを立証しうる唯一の人物なのだが、さりとてわれこそは抜け穴の中にいたあの怪人にて候と、名乗りをあげてくる人物があるかどうか、はなはだもっておぼつかない話といわねばならぬ。
フロントへ呼び出されたお糸さんはすっかりまいっていた。さすがひとをひと臭いとも思わぬお糸さんだが、こんどの事件ばかりはおのれの責任のように恐縮しているのである。
「ゆうべ十二時過ぎでしたわなあ。みなさんの申しつけで天坊さんをお呼びにまいりましたとき、シャワーの音が聞こえていて、天坊さんのご返事がないと申し上げましたでしょ。あのとき変だと思わなきゃいけなかったんですわなあ」
「お糸さん、それはあなただけの過失ではない。われわれも変に思わなきゃいけなかったんです。時刻が時刻でしたからねえ」
金田一耕助になぐさめられても、
「でも、あなたがたはあのかたがまえにお風呂へお入りになったことご存じなかったんですけんな。あたしはちゃんと知っておりましたのになあ」
「ところで、その……天坊さんは何時ごろ風呂に入ったんだね」
井川刑事は|咽《の》|喉《ど》に魚の骨でもひっかかったような声である。あのとき抜け穴の怪人がビリケンさんであるはずがないから、あのひとは呼び出す必要なしと主張したのはこの老刑事である。さすがに|忸《じく》|怩《じ》たるものがあるらしい。
「それはかようで。あなたがたが抜け穴へお入りなさったのは十一時……」
「二十分でした」
金田一耕助がいと明快に答えた。
「さようで。あのとき金田一先生のご注意で、あなたがたが抜け穴へお入りになると、あたしはすぐお隣のヒヤシンスの間へ、天坊さんのお見舞いにまいりましたんです」
「ああ、ちょっと」
と、金田一耕助がさえぎって、
「そのときあなた抜け穴の入り口や、ダリヤの間のドアはどうなさいました」
「それはそのままにしておきました。だってあなたがたがいつなんどき、引き返して来られないものでもないと思ったもんですけんなあ。あら、まあ!」
と、お糸さんは|頓狂《とんきょう》な声をあげて、
「それじゃあの抜け穴もダリヤの間も、まだ開けっ放しになってるんでございますわなあ」
金田一耕助と田原警部補、井川刑事の三人はおもわずドキリと顔見合わせた。
ダリヤの間のすぐ下は篠崎慎吾の部屋である。ダリヤの間の抜け穴の入り口が開けっ放しになっていたとすると、慎吾は抜け穴をとおってダリヤの間へいけたわけである。いや、いや、あの抜け穴の煉瓦の扉は、抜け穴の側からも開く仕掛けになっているのだから、慎吾はいつでも好きなときに、ダリヤの間へいけるわけである。そして、ダリヤの間のドアに鍵がかかっていなかったとすると、そこから隣のヒヤシンスの間へもいけたわけである、だれの眼にもふれないで。
お糸さんにもすぐ三人の疑惑がピンと来たらしく、いくらかあわてて早口になり、
「ところが天坊さんたらすっかり神経質におなりなさって、あたしが隣の間へまいりますと、中から鍵をかけていなさって、あたしが何度も何度も声をかけ、あたしだということをハッキリ確かめてから、やっとドアを開いてくださいましたのよ。そのとき天坊さん暖炉の中を調べておいでなさったとみえ、鼻の頭に|煤《すす》がついておりましたぞな。おっほっほ」
お糸さんは巾着のような口をすぼめて笑ったが、すぐきまじめな顔になり、
「あらま、あたしとしたことが、笑いごとではございませんわなあ。ほんまにまあ、どうしたことでござんしょうなあ。古館さんはともかくとして天坊さんまでがなあ、まさか……」
お糸さんは詠嘆詞たくさんである。
|年《と》|齢《し》をとっていくらか|妖《よう》|怪《かい》|味《み》さえおびているこの女性は、天坊さんの死について驚いていることはたしかだが、それが|哀《あい》|悼《とう》の情からきているのか、あるいは内心|快《かい》|哉《さい》を叫んでいるのではないか、そらっとぼけたお糸さんの顔色から、真意を|捕《ほ》|捉《そく》することはむつかしい。
「天坊さんの鼻のあたまに煤がついていたので、それでお糸さんはどうなすったんです」
「それがなあ、金田一先生、天坊さんがお気の毒になりましたもんですけん、この部屋にはぜったいに抜け穴はございませんから、どうぞご安心なさいますようにって、何度も何度も、あの、その、そうそう、力説したんですぞな。力説をなあ、そうそう、力説、力説……」
お糸さんは力説という言葉を思いついたのが満足らしく、たいへんご機嫌である。
「なるほど、あなたが力説なすったら、天坊さんもご安心なすったんですか」
「あのかたそうとう疑い深いかたですからね。すっかりというわけではなかったようですが、いちおうはまあ納得はなさったようでした。それであたしが鼻の頭に煤がついていることを申し上げると、これから風呂へ入るつもりだからいいとおっしゃいますでしょう。それならいいものを持ってきてあげましょうと、お帳場へとってかえして、あのバス・クリニックとやらいうお薬を持ってきて差し上げたんでございますぞな。そしたら天坊さんたらまたドアに鍵をかけていらっしゃるんでございますよ」
「なるほど、なるほど。天坊さんよほど神経質になっていられたんですね」
「そうなんでございますよ。こんどもまたあたしだということがわかると開けてくださいました。それであたしお薬を渡し、その効能や使いかたなどについて、いろいろ説明申し上げたんでございますよ」
「天坊さん、さぞお喜びだったでしょう」
「ところがねえ、金田一先生、ああいうかた疑いぶかいというのか、まあ、昔のかたですから、新しいものにたいして懐疑的というか、そうそう、懐疑的、懐疑的……」
お糸さんはまた懐疑的という言葉を思いついたのが得意らしく、二、三度その言葉をくりかえしたのち、
「なかなか信用なさらないんですよ。かえってありがた迷惑みたいな顔なさいましてねえ、あたし腹が立ったくらいでございますよ」
「しかし、ああして使用していらっしゃるところをみると、内心やっぱり喜んでいらっしゃったんじゃないでしょうか」
「ほんと。しかし、ああいうかたなかなか思うことを、素直にお顔にお出しにならないものですからなあ」
「お糸さん、あなたはどうです。思うことがあると素直に顔色に出るほうですか」
「それはもう、金田一先生、あたしなど人間が正直にできておりますけんな、思うことがあればすぐ色に現れるほうなんでございますよ。それでございますから先々代様にも、お糸は人間が正直でいいと、お糸、お糸と眼をかけていただいたんでございますよ」
「ほんとうか、ばあさん」
「ああらま、こちらの刑事さんの疑いぶかいこと。どうせそうでございましょうね。デカなんて商売を長くやっていると、ひとのいうこといちいち裏があるんじゃないかと、疑ってかかるんでございましょうなあ。まあ、すかん」
「いいよ、いいよ。ばあさんにすかれなくてもな。これでもあなたじゃなきゃ夜も日も明けぬという|女《おな》|子《ご》もいるんだから」
「それはそうでございましょうとも。|蓼《たで》食う虫もすきずきと申しましてな。ほっほっほ」
「いったな、ばばあ」
「まあ、いいですよ、いいですよ」
金田一耕助はおかしさをかみ殺しながら仲裁に入った。
「それで、お糸さんはあの鑵を渡して部屋を出られたんですね」
「とんでもない。部屋を出たなんてもんじゃござんせんのよ。それは最初のときは部屋へ入れてくださいました。ところが二度目のときなどドアのところの立ち話でしょう。あたしの手から鑵を受け取ると、わかった、わかったとおっしゃりながら、あたしを外へ押し出すと、なかからガチャリでございましたよ」
「ああ、天坊さんまた中から鍵をかけられたんですね」
「そうなんですのよ、金田一先生、いかに神経質になっていらっしゃったとはいえ、それではあんまりでございますわなあ。あたしもう腹が立って、腹が立って……」
「それ何時ごろのことでしょう。正確にはおわかりにならんでしょうねえ」
「いいえ、ちゃんと存じておりますよ。十一時三十分でございました。あなたがたがお帰りになるまで起きておらねばと思ったもんですけん、時計を見たんでございますよ。お帳場の時計は毎朝ラジオに合わせておりますけん、そう間違いはないはずですぞな」
それから十五分ののち天坊さんの時計はとまっているのである。十五分という時間は使いかたによっては有効に利用できるだろう。それにしても犯人はどこから入り、どこから出たのか。あの部屋に抜け穴がないとすると、犯人はドアから入ったにちがいないが、お糸さんの話によると天坊さんはおそろしく神経質になっていたという。ドアに破られた痕がないとすると、天坊さんが招じいれたにちがいないが、それほど神経質になっていた天坊さんが、なんの|危《き》|懼《ぐ》もいだかずに部屋へいれたとすると、あいてはよほど親しい人間にちがいない。
金田一耕助はまた身ぶるいが出る気持ちだった。
「ところでお糸さん、こちらの刑事さんのお話によると、あなた篠崎さんとごいっしょにあの死体を発見なすったとき、ベッドの下までのぞかれたそうですが、犯人がまだあの部屋に潜んでいるのではないかと思われたのですか」
「とんでもない、そんな恐ろしいこと……ではあのじぶん犯人はまだあのお部屋にいたとでも……」
「じゃ、ばあさん、あんたなぜベッドの下までのぞいたんだ。あんたの捜してたのが犯人でなかったとすると、いったいなにを捜してたんだい」
「タマ子ですよ、刑事さん。タマ子はいったいどこへいったんでしょう」
いままで空っとぼけていたお糸さんの顔に、急に深くなった|怯《おび》えの色はどうやら本物らしかった。
「お糸さん、あの子がどうかしたというのかね」
と、田原警部補が膝を乗り出した。
「いいえなあ、主任さん、タマ子がけさから姿が見えないんでございますよ。それにゆうべちょっとおかしなことがございましてなあ」
「おかしなことというと?」
「ゆうべ、ほら、せんぐりせんぐりここへ呼ばれて、お取り調べを受けましたでしょうが。あの子はわりに早うございましたわなあ。そのあとであたしのところへまいりまして、こんどのことでなにか話があると、こう申しますんでございますよ」
「こんどのことで……と、いったのかい?」
と、井川刑事も乗り出してきた。
「はい、いまから考えると顔色なんかも、なにかこう、思いつめたようでございましたわね。しかし、こちらはなにせ気が転倒しておりましたし、まあ、いろいろ気ぜわしいさいちゅうでございましょう。話があるならまたあとでと、追っ払っちまったんでございますよ。それがけさから姿が見えませんでしょ。なんとなく気になりましてなあ」
「それで、お糸さんはベッドの下までのぞいてみたんですか」
「金田一先生、お笑いにならないでくださいよ。こういうのを年寄りの取り越し苦労というのでございましょうか。天坊さんがああいうことになっておいでなさいましたでしょ。それでハッとしまして、あの子ももしやと……ああ、いやだ、いやだ。鶴亀鶴亀」
「ばあさん、そりゃおまはんの取り越し苦労だ。あの子また混血児のとこへしけこんでるんじゃねえのか。だいぶんご親密のようだから」
「ところが、刑事さん、ついいましがた譲治が帰ってきたんで、さっそくとっつかまえて聞いてみたんですが、あの子も知らんというんでございますよ。きのうの夕方倉庫のまえで別れたきりだって」
そうだ、ゆうべ風呂場のなかでも譲治はそういっていた。金田一耕助はこみあげてくる不安をおさえて、
「そうすると、お糸さん、あの子はきのうここで主任さんに申し上げたことのほかに、なにか知ってることがあったらしいとおっしゃるんですか」
「そ、そ、それなんでございますよ。あのとき親身になってきいてやればよかったのに……」
「それで、お糸さん、あんたがタマ子を最後に見たのは……?」
「それなんでございますよ、主任さん、さっきからいろいろ考えてみますと、あれ十時半ごろのことでございましたわなあ。奥様が当分旦那様と寝所をわかちたい、それについて日本座敷のほうへお寝間をしつらえてほしいと、これ旦那様がいうておいでになったんでございますよ。そのとき本来ならあたしがいくべきところ、ちょうどあなたがたが抜け穴へ、入ろうかどうしようかというお話がございましたときですけん、タマ子に一切まかせたのでございますわなあ。それっきりなんでございますよ、あの子の姿を見たのは」
そうだ、篠崎慎吾が倭文子の眠りにつくのを待って、お入側へ出てくると、そこにタマ子が待っていたという。そのときタマ子は慎吾にむかって、なにか重大な話があるといったという。それが十一時二十分だったというのだから、時間的にも符節があう。それ以後だれもタマ子の姿を見たものはないのではないか。
「田原さん」
「承知しました。おい、だれかいないか」
警部補が呼ぶと言下に顔を出したのは江藤刑事である。警部補がかんたんに事情を説明して、屋敷中くまなく捜索するように命じたとき、一同の顔は土色になっていた。井川刑事も出ていこうとするのを金田一耕助が呼び止めて、
「井川さん、あなたはもう少しここにいてください。あなたまだお糸さんにきくことがあるんじゃないんですか」
「きくことって?」
「ほら、天坊さんが犯人にねらわれるような、貴重品を持っていらっしゃったのではないかという……」
「そうそう、それじゃばあさんにきくが……」
と、天坊さんの持ち物にかきまわされたらしい痕があるということを話すと、お糸さんは眼をまるくして、
「そして貴重なものとおっしゃると……?」
「小っぽけなもんらしいんだ。小っぽけで貴重というと、まあ、宝石のたぐいかな」
「とんでもございません。戦前ならともかく、戦後のあのかたはタケノコ生活のタマネギ生活、これは天坊さんに限ったことではございませんが、あのかたほんとうにお困りのご様子で、それがもとで奥さんともお別れになったちゅう話でございますけんなあ」
このことはお糸さんのあとで呼び出された、慎吾や倭文子もおなじ意見であった。と、すると犯人はなにをねらっていたのだろうか。いや、それよりもそいつはねらっていたものを、首尾よく手に入れたのであろうか。
慎吾と倭文子はべつべつに呼び出されたのだが、慎吾はきのう夕食のとき天坊さんと会ったのが最後だといった。そのときは柳町善衛や奥村秘書、陽子もいっしょだったが、ああいう事件があったあとなので、だれもろくに口もきかなかった。夕食のあと自分は書斎へ退り、それからまもなく訊き取りがはじまったのだが、その|間《かん》会ったのは陽子だけで、陽子は抜け穴の中で発見したライターのことを告げにきたのであるといった。天坊さんの死が他殺だとしても、だれが犯人だか見当もつかないし、天坊さんを殺さねばならぬという、動機も原因もぜんぜん思い当たるところがないと言明した。また天坊さんがひとからねらわれるような貴重品を、持っていようとは思えないと強くいいきった。
倭文子は倭文子で、自分は夕食も自分の部屋でとったので、天坊さんに会ったのは二時ごろ自分がベランダへ、フランス|刺繍《ししゅう》を持ち出しているときだけで、そのことについてはゆうべもいったとおりである。そのごはいちども天坊さんに会っていないし、もしあのひとが殺されたのだとしても、犯人にはぜんぜん心当たりがないと言明した。またあのひとはちかごろその日の生活にも困るほどだとひとからきいているから、あのひとを殺害してまで手に入れなければならないような貴重な品を、所持していようとはぜったいに思えないと、これまた慎吾やお糸さんとおなじ意見であった。
慎吾も倭文子もタマ子の姿が朝からみえないときいて|愕《がく》|然《ぜん》としていた。場合が場合だけにふたりとも、不吉な予感に衝撃をうけたにちがいない。ことに倭文子は女だけに受けたショックは大きく、
「タマ子が……? だってあのひとは単なる奉公人じゃありませんか。それは本宅にいたことはいました。しかし、それはほんのみじかい期間でしたし、下働きだったでしょう。あたしなんか顔もろくにしらないくらいでした。そういうひとがなぜまた……」
倭文子はできるだけ控えめに表現するのだが、それでもなおかつ特権意識が露骨に出ていて、井川刑事の反感をかうには十分だった。
「ところがねえ、奥さん、下働きの女中でもあの子はやっぱり人間なんですぜ。犬や猫じゃなかったてえことです」
「それ、どういう意味ですの」
「あの子はこんどの事件についてなにかしってたらしいんですな。犬や猫ならしっててもニャンにもいえねえわけだが、あの子は人間だから口がきける。だから犯人にねらわれる価値は十分ありまさあ。だからわれわれ気をもんでるてえわけです」
「じゃ、あのひとなにかいったんですか」
「いや、それがねえ、奥さん」
井川刑事があまりズケズケいうので、さすがに田原警部補が気の毒になったとみえ、
「あの子はたしかに今度の事件について、なにかしっていたらしいんですね。それをお糸さんと篠崎さんにいおうとした。ところがなにしろ相手は下働きの女中だし」
と、田原警部補もちょっぴり皮肉をこめて、
「それにあのとおり|年《と》|齢《し》も若い。あの子がなにをしっているものかと、ふたりとも忙しいのにかまけて、ろくに話も聞いてやらなかったんですね」
「それじゃ主人はゆうべあの子に会ってるんですの」
「あなたを寝かしつけて廊下へ出てきたら、あの子が待っていて、なにか重大な話があると持ちかけてきたというんですね。しかし、ご主人は気分的にとても疲れていたので、話があるならお糸さんにいいなさいといって、タマ子をそこへ置きざりにして、そのままご自分の部屋へかえったと、こういってらっしゃる。それがゆうべの十一時二十分。ところがいま名琅荘にいるひとたちをひとりずつここへ呼んで聞いてみたところ、その十一時二十分というのが、だれかがタマ子を見た最後らしいんですね。それについて奥さんなにかお心当たりは?」
「それでしたらあたしがしってるはずはございませんわね。あの子はゆうべお寝間をしつらえに来てくれました。そのときあたしふた言三言口をききました。まあ、労をねぎらったんですわね。それからあたし精神安定剤をのみ、主人に見守られながら眠りに落ちたんです。薬をのんだのは十時五十分でした。薬はよく効きました。あたしけさまでなにもしらずにぐっすり眠っていましたから」
「そうすると、奥さん、タマ子に会った最後のひとは、あなたのご主人ということになるんですが、それについて奥さんはどういうふうにお考えになりますか」
倭文子は黙って警部補の顔をみていたが、その顔にはみるみる恐怖の色がひろがってきた。
「それじゃ、あなたは……あなたがたは……主人があの子をなんとかしたとおっしゃるんですの。主人はあの子からなにも聞かなかったといっているが、じっさいはなにか聞いていて、それで……それで……このままにしてはおけないというので、あの子をなんとかしたとおっしゃるんですの」
それは恐るべき|示《し》|唆《さ》だった。聞きようによっては捜査当局にむかって、妻が夫を|誣《ぶ》|告《こく》しているようにも受け取れた。
井川老刑事が憤然とした面持ちで、
「それじゃ奥さんはタマ子の身になにか間違いがあった場合、その責任は旦那さんにあるとおっしゃるんですかい」
「と、とんでもない!」
と倭文子は精一杯の声を振り絞って、
「あなたがたがそうおっしゃるんです。なるほどあのひとはどうせもとはヤミ屋のボスです、いろいろ悪どいこともしてきたでしょう。いまもやってるかもしれません。しかし、タマ子のようなたかがしれた戦災孤児に、秘密を握られるようなヘマをやるひとじゃありません。あたしはあのひとを信じます。はい、信じておりますとも」
聞きようによっては、どっちにでも取れる言葉をあとに残して、倭文子は|蹌《そう》|踉《ろう》たるあしどりで部屋を出ていった。|呆《あっ》|気《け》にとられている、一同をあとに残して。
ただ彼女の申し立てでここにひとつハッキリしたことがある。
天坊さんというひとは若いときそうとうひどい肺結核を患ったことがあるそうである。当時はまだマイシンなどという調法な薬がなかった時代で、新鮮な空気と栄養と安静によって克服するよりほかに療養の|途《みち》はなかった。天坊さんは信州の高原療養所に三年閉じこもって、規則正しい生活と非常に強い意志をもって、その病気を克服したというのが御自慢のタネであったということである。そこではなにもかもが時間によって縛られていた。いや天坊さん自身がきびしい日課を作成し、ばんじその日課によって行動することを自分に課した。それ以来天坊さんは入浴時以外、腕時計をぜったいに手放さないという習慣が身についていたそうである。就寝時ですら天坊さんは腕時計を左の手首にはめたままだったという。
この事実から割り出すと、ゆうべの天坊さんの行動はこういうことになるのではないか。
お糸さんが立ち去るとまもなく天坊さんはバスをつかった。バスから上がってからだを拭くと、長年の習慣でまずいちばんに腕時計をとって、左腕にはめた。それから鏡にむかって髭をそり、そのあとで洗面台で顔を洗おうとした。腕時計がじゃまになるので、肘のほうへたくしあげた。たまたまその肘のところへタオルをひっかけていた。天坊さんは顔を洗おうとして、洗面台のほうにむかって身をかがめた。その背後から忍びよった犯人にとっては、それは絶好のチャンスであった。犯人は天坊さんの後頭部に手をかけて、無理無体にその顔を洗面台の中に押し込んだのであろう。
侏儒のような天坊さんはもとより非力であった。おそらく満身の力をふりしぼって、犯人の暴力に抵抗したことだろうが、ついにそれをはね返すことはできなかった。深い大きな洗面台にたたえられた水は、天坊さんを溺死させるに十分であった。
天坊さんはおそらくそのとき左手を、洗面台の底につっぱったのだろう。天坊さんの腕は短かった。水中深くつっこまれた腕時計は、その瞬間とまったか、あるいは数秒数分ののちに動きを停止したことだろう。天坊さんは時間について神経質だったという。したがってその時計はつねに正確な時刻を示していたにちがいない。天坊さんの時計は十一時四十五分のところで停止している。するとこの世にも残忍な殺人行為が行使されたのは、ゆうべの十一時四十分前後ということになり、その時分金田一耕助たちは抜け穴のなかにいたとはいえ、この名琅荘の内外には、まだ相当数の刑事や警官が張り込んでいたはずである。
それは犯人にとって非常に危険な行動といわねばならぬ。しかも、犯人があえてその危険を冒したということは、よくよくデスペレートな心境に追い込まれていたのではないか。
さて、犯人は天坊さんを死にいたらしめたのち、その死体をバス・タンクのなかにつけていったのだが、そのとき犯人はあの時計に気がつかなかったのであろうか。まさか……気がつきながらなおかつ気がつかないふうをして、あのまま放置していったのだとすると、不自然にとまったあの時刻は犯人にとって問題にならなかったか、それとも他に考えるところがあって、そのままにしていったのではないか。犯人がシャワーを出しっ放しにしておいたのは、もちろん事件の発見をできるだけ遅らせようという意図だったのだろう。ゆうべ十二時過ぎお糸さんが天坊さんを迎えにいったとき、犯人の意図はまんまと成功している。
金田一耕助はそこにこの事件の犯人の、なみなみならぬ|狡《こう》|知《ち》のようなものが感じられて、ゾーッとおそわれたように身ぶるいをせざるをえなかった。
さて、さいごに柳町善衛が呼び出されたが、かれはきのうの夕食のとき天坊さんに会ったのが最後であると断言した。また天坊さんのような毒にも薬にもならないような人物が、生命をねらわれるとはふしぎであると首をかしげた。また天坊さんはそうとう生活に窮していられるということを耳にしている。そういうひとが生命を賭してまで守らねばならぬほど、貴重なものを所持していたとは思えないと、このことに関しても首をかしげた。
タマ子にいたってはぜんぜん記憶にもないと、柳町善衛は|怪《け》|訝《げん》そうであった。それに天坊さんの奇禍にあったのが、腕時計の示す時刻だったとして、かつまた柳町善衛の鬼の岩屋探検が事実だとすると、かれはりっぱにアリバイを持っており、タマ子についてもおなじことがいえるのではないか。
こうしてその日の午前中はタマ子の行方捜索についやされたが、ついにうるところなく、かくてその日の午後はいよいよ鬼の岩屋と抜け穴の大げさな探検が行われることになった。それ以外にタマ子の居所が考えられないということになったからである。
第十二章 鬼の岩屋
鬼の岩屋と地下の抜け穴の探検のまえに、ひとつの実験が行われた。
片腕の男が消えたというダリヤの間と、天坊さんの殺されたヒヤシンスの間が、隣同士になっていて、厚さ三尺をこえる|煉《れん》|瓦《が》の壁を中心として、左右相称になっていることはまえにもいった。
しかも、その真下におなじ作りの部屋がふたつならんでいて、これまた二階のふたつの部屋とおなじように左右相称になっているのである。しかし、階下のふたつの部屋のさかいは、背中合わせになっている暖炉の部分はべつとして、あとは装飾されたうすい羽目板になっている。したがって必要におうじてその羽目板をとりはずすと、二十四畳の広間がえられることになっている。しかし、この事件の場合装飾された羽目板ははめられており、ダリヤの間の真下が篠崎夫婦の部屋になっていることは、まえにもいったとおりである。
ところが、きのうの午後、篠崎慎吾が天坊さんとの会見をおえて自分の部屋へかえってくると、扉のうえに倭文子の張り紙がしてあったので、自分の書斎へとじこもったというのは、すなわち隣の部屋のことである。
このふたつの部屋にはそれぞれ独立したベランダがあるが、用心ぶかい種人閣下の設計で、ベランダとベランダとのあいだには目隠しが施されており、どちらのベランダからもむこうをうかがえない仕組みになっている。しかも、ふたつのベランダから同時にふたりの人間が庭へおりたとしても、バッタリ顔を合わせるなんてことのないように、植え込みや庭石が配置されているのである。そして、そこからふたつの迷路が、いずれどこかで合流しているとしても、ながながとこの名琅荘の庭園を|迂《う》|回《かい》しており、この庭園の散歩者はどこをそぞろ歩きをしていても、どこからもだれからもうかがわれないように、死角を形づくっているということもまえにいっておいたとおりである。
ところが、ゆうべは倭文子が日本座敷のほうで寝たいといいだしたので、慎吾はダリヤの間の真下の部屋でひとりで寝たのだが、問題はその部屋の居間や寝室にいて、ヒヤシンスの間の浴室でシャワーがほとばしっているのが、聞こえないかどうかということである。
実験の結果、その点に関するかぎり慎吾はシロだった。明治出来のこの建造物は優雅とか|瀟洒《しょうしゃ》とかいう点にかんしては、大いに欠けるところがあるかもしれないけれど、そのかわりおよそ|堅《けん》|牢《ろう》無比にできていて、シャワーの音はおろか、そこでちょっとした格闘が演じられたとしても、慎吾の耳にとどく可能性はまずなさそうであった。また慎吾が寝室にいたとすると、抜け穴の中をひとりやふたり上り下りしたところで、わからなかったであろうほど、すべては堅牢にできていた。
この実験がおわったころ、警察から田原警部補に連絡があった。
当地の電話局を調査したところ、金曜日の午前十時十分、たしかに東京から名琅荘に電話がかかってきたそうである。ただしそれが真実慎吾からかかってきたものかどうか、電話局でもたしかめようがなかった。電話は慎吾の自宅でもなく、事務所でもなく、さる公共の建物からかかっているのである。そこならだれでも出入りができるのだが、さてだれがその建物の電話を利用したかということになると、調査は容易なことではなかった。だれかが慎吾の名をかたったのか、あるいは意地の悪い見方をすれば、慎吾自身であるかもしれなかった。どちらにしても金曜日の朝、東京から電話がかかってきたという、お糸さんの言葉に|嘘《うそ》はなかったということが立証されたわけである。
つぎに慎吾の名刺だが、その線から片腕の男を|手《た》|繰《ぐ》っていくというのも難しいようだ。慎吾は顔のひろい男である。かれの名刺を手に入れるということはそうたいした難事ではない。名刺に書かれた文字も専門家によって鑑定されたが、それは慎吾の筆跡によく似ているが、かならずしも慎吾自身の筆跡であると、いまのところ断定しがたいというのである。しかし、これなども意地悪い見方をすれば、慎吾自身がわざと紛らわしい字をかいたのではないかと、いっていえないこともなさそうである。
かくてダリヤの間から消えた、真野信也なる片腕の怪人物の正体については、事件がすっかりかたづいた現在においても、ごく一部のひとびとをのぞいては、不明のままになっている。
さて、鬼の岩屋と地下の抜け穴の探検に着手されたのは、その日の午後二時ジャストのことである。金田一耕助は田原警部補とともに、柳町善衛の案内で、岩屋のほうから潜入することになった。ほかに私服がふたり参加したのは当然として、混血児の速水譲治が一行のなかにくわわっているのが注目された。
タマ子の|行《ゆく》|方《え》がわからなくなってからの譲治の興奮は大きかった。彫りのふかい顔がまっかに紅潮し、眼はギラギラと血走って、気が狂うのではないかと思われるばかりであった。かれはこの探検に参加することを熱望してやまなかったが、それが許されたのは金田一耕助のとりなしによるところである。
金田一耕助は譲治にたいしてある種の強い疑惑をもっている。この青年はかれが装うているよりも、もっといろいろなことをしっているのではないか。また鬼の岩屋や地下の抜け穴の内部についても、ひとびとが考えている以上に精通しているのではないかと。
さて、問題の鬼の岩屋の入り口というのは、名琅荘の建物から小一丁ほど離れたところにあり、名琅荘の西北につらなる小高い丘の一部が、|岬《みさき》のように突出しているのだが、その岬の突端が高さ五丈ほどある|断《だん》|崖《がい》となって落下している。その断崖のふもとにポッカリ口をひらいた|洞《どう》|門《もん》がある。それが富士の人穴までつづくといわれる鬼の岩屋の入り口である。
その洞門は名琅荘の建物からいえば、西の側面にあたっており、その昔、種人伯爵が日常起居したであろうとおもわれる、日本家屋の翼にいちばん近かった。
昭和五年のあの惨劇があった当時は、この日本家屋と洞門の中間に|東屋《あずまや》があったそうだが、それはもうあとかたもなくなっている。それでも家屋にちかいほうはちかごろ慎吾の配慮から、迷路を形成している植え込みや|袖《そで》|垣《がき》、庭石などがよく手入れされているが、洞門のほとりは|鬱《うっ》|蒼《そう》とおいしげる|雑《ぞう》|木《き》が枝をひろげて、荒廃の跡がいちじるしかった。
さて、問題の洞門だが、これはそうとう大きなもので、高さは一丈五尺くらいもあるだろうか、いびつになったアーチ型をなしており、縦に裂けた岩の亀裂が、ながながと奥深くつづいているのである。それは鍾乳洞ではなかった。金田一耕助は地質学者ではないから、どうしてこういう|洞《どう》|窟《くつ》ができたのか知るよしもない。だが、それが人工的なものでないことだけはあきらかなようだ。洞門は|崖《がけ》のうえから垂れさがったタコの脚のような大木の根や、付近に生いしげる雑木の枝にはんぶん覆いかくされていて、そうでなくともおりからの曇り空のもと、陰森として無気味であった。
昭和五年の事件のころこの洞門には|注《し》|連《め》|縄《なわ》が張られ、げんじゅうに柵でかこわれていたものだが、いまはもう跡形もなくくずれ、陰湿の気があたりをおおうている。
さて、さっきもいったとおり、いまこの洞門のまえには金田一耕助と田原警部補、柳町善衛に速水譲治、ほかに私服がふたりと六人の男が待機している。田原警部補がさっきから、しきりに時計を気にしているのは、時を同じゅうしてダリヤの間の入り口から、井川刑事の一行が抜け穴へ潜り込むことになっているからである。タマ子の行方も捜索するが、柳町善衛のいうように、この洞窟と抜け穴がどこかで接触あるいは交流しているかどうか、探検してみようというのがこの試みの目的のひとつであった。
やがてジャスト二時。
「金田一先生」
田原警部補が時計を見ながら合図をした。
譲治は|逸《はや》りきった|競《けい》|馬《ば》|馬《うま》のようなものである。号砲一発洞門のなかへ突撃しようとするのを、金田一耕助が制止した。
「譲治君、ちょっと待った。ここは一番柳町さんにご案内ねがうとしようじゃないか。それとも君は柳町さんより自分のほうが、この洞窟の内部に精通しているという自信でもあるのかね」
譲治はひるんで足をとめた。それから金田一耕助にむかって反抗するように肩をそびやかしたが、それでも素直にからだを開いて柳町善衛に道をゆずった。
「柳町さん、さあ、どうぞ。田原さん、あなたは柳町さんとご一緒してください。ぼくは譲治君と肩をならべていきます。刑事さん、あなたがたおふたりはしんがりをつとめてください」
「うっふっふ」
譲治はふてくされたような笑いを発すると、
「先生はあくまでもこのぼくを、監視しようという了見なんですね」
「そりゃそうさ、君は要注意人物なんだからね。あくまでもぼくの厳重な監視下においとくんだ。ちょっとでも変なまねをすると、このふたりの刑事さんにお願いして、とりおさえていただくからそのつもりでいろ。いっとくがおふたりとも歴戦の勇士で、しかもおふたりとも柔道三段の免状をもっていらっしゃるそうだ」
そういえばふたりの私服がふたりとも、タイプこそちがえ|獰《どう》|猛《もう》な面構えをしている。
「おどかしっこなしにしてくださいよ、金田一先生、おれなにも変なまねをしようというんじゃねえんだ。おれはただタマッペのことが気になってたまらねえんだから」
「わかってる、わかってる。それじゃおとなしくぼくと一緒にいくんだ。刑事さん、ひとつあとからついてきてください」
こういう小競り合いがあって金田一耕助と譲治が、肩をならべて洞門のなかへ潜り込んだとき、柳町善衛と田原警部補はすでにひと足さきんじていた。さいごにふたりの私服が警戒の眼を光らせながらついてくる。めいめい懐中電灯をふりかざしていることはいうまでもない。
さっき筆者は譲治のことを、洞門にむかって突撃しようとしたという意味のことをかいたが、それを読んだ読者諸君が、譲治が洞門のなかへ駆け込もうとしたと解釈されたとしたら、筆者の描写が拙劣だったということになる。
その洞門はとても勢いよく駆け込めるなどという、なまやさしいしろものではなかった。ゆうべ金田一耕助たちがぬけた抜け穴のほうは、人工的に床が平板化されているが、こちらのほうは岩また岩の累積である。しかも重なりあった岩たちは、みんな適当に丸味をおびているうえに、このへんいったいの陰湿な空気のためか、いちめんに|苔《こけ》がむしているので、うっかり勢いよく駆け込もうとでもしようものなら、滑って転んで岩と岩とのあいだにはさまれて、大骨折でもするのが関の山だろう。
それはまるで岩と岩とのあいだを、千番に一番のかねあいで綱渡りをして歩くも同然の、危険このうえもない通路であった。
しかも洞窟をささえている壁そのものが、ゆうべの抜け穴のように平板ではない。途中に|瘤《こぶ》のような巨大な岩の突起があって、その下をくぐりぬけていかねばならぬような個所があるかと思うと、数十匹の大蛇がからみあってはいのぼっているような、複雑な|襞《ひだ》をなした壁があり、しかもその壁いちめんにヌラヌラとした苔がむしているので、うっかりその壁に身をささえようとして手をつくと、ツルリと手をすべらせる危険があった。
しかも、こういう危険な通路は、洞門から直角についているのではない。洞門をはいって五、六間もいかぬうちに急カーブをなしており、そこからさきは懐中電灯なしでは一歩もすすめなかった。こういう|紆《う》|余《よ》曲折がまっくらがりのなかを、どこまでつづいているのかわからないのである。
「なるほど、田原さん」
「はあ」
「これでは昭和五年の事件のさい、尾形静馬という人物が、ここへとび込んだとわかっていながら、警官隊があとを追うのに|躊躇《ちゅうちょ》したのもむりはありませんね」
「金田一先生、よくいってくださいました。おまけにはじめのうち尾形静馬は、日本刀を持っているものだとばかり思いこまれていたのですからね」
なるほど日本刀をひっさげた手負い|猪《じし》のような犯人が、こういう危険な洞窟のどこに潜んでいるかわからぬとあっては、いかに当時の勇猛果敢な日本の警官隊も、あとを追うのに|逡巡《しゅんじゅん》せざるをえなかったであろう。しかし、その尾形静馬はその後どうしたのであろうか。
「金田一先生、ぼくは洞窟のこの部分を、|蟻《あり》の|門《と》|渡《わた》りとよんでるんですが、先生はこの洞窟をどうお思いになりますか」
まえをいく柳町善衛が声をかけた。
「どう思うとおっしゃいますと……?」
「いや、この洞窟の発生というか起源についてですね」
「ああ、そのこと。……柳町さんはそのことについて、なにかお考えがおありですか」
「いやあ、これはまったくの|素《しろ》|人《うと》考えなんですがね。この洞窟は昔……それも何万年か何十万年かの昔、せまい峡谷かなんかだったんじゃないかと思うんです。左右をこのとおり|峨《が》|々《が》たる岩石にさえぎられた……」
「なるほど、なるほど、それで……?」
「そこへ富士山の大爆発があった。そして、このへんいったいを熔岩や灰でおおいつくしたが、この峡谷はあまりせまかったのと、左右を支える岩石があまり強固だったので、ここだけは埋めのこされたのではないかと思うんですがね。あっはっは、いや、これはまったくの素人考えですがね」
「いや、いや、それはなかなかの名論卓説ですね。そうするとゆうべわれわれが抜けた抜け穴ですが、あれはやっぱりあなたがゆうべ指摘なすったとおり、感じからいうといまわれわれの歩いているこの洞窟より低い位置にあると思われるんですが、あれなんかも太古の峡谷の|名《な》|残《ご》りなんでしょうかねえ」
「はあ、このへんいったい小ちゃな峡谷が縦横無尽にいっぱいあった。それが大爆発のつど埋められていったが、部分的にはあとにのこった。水源地が爆発のために埋められるか移転するかしたので、こういう洞窟というかたちになったんじゃないんですかねえ。それを先々代の古館伯爵がつなぎあわせ、補修して、ああいう抜け穴として完成なすったんじゃないでしょうか」
「いや、それはますますもって名論卓説ですが、さて、現実の問題としてこの洞窟、どこまでもこういう岩また岩の綱渡りのみちがつづくんですか」
金田一耕助が心細い声を出したのもむりはない。時計はいま二時五分を示している。あの洞門から潜り込んですでに五分を経過するのに、いまだに足場の悪い岩また岩の蟻の門渡りである。
「ああ、いや、もう間もなくわりに平坦な砂利道へ出ます。ぼくがかりに夢の雪渓と命名してるとこですがね。ああ、そうそう、田原さん」
「はあ……?」
「そこまでいくとゆうべわたしが、この洞窟へ潜り込んだという証拠が遺ってるんじゃないかと思うんですよ」
「と、おっしゃると……?」
「いや、わたしはさっきから岩のうえを注意してるんですが、これじゃ足跡ものこりませんね。たまに足跡らしきものはあっても、だれの足跡だとハッキリ指摘するのは困難でしょう。しかし、もう少しいくとわりに平坦な砂利道へ出ます。その砂利というのがまるで川砂利みたいなんです。金田一先生」
「はあ」
「わたしがここを昔の峡谷のあとだろうと推理したのも、その砂利からきているんですがね」
「ああ、なるほど、それで……?」
「ですからそこまでいくとわたしの足跡……この靴の跡がのこってるんじゃないかと思うんです」
「なるほど、そうすると、ゆうべあなたがこの洞窟のなかにいたということが立証されるわけですね」
「はあ、なにしろこのへんいったいがジケジケしてるでしょう。奥へいってもおなじことです。砂利はジットリぬれてますからね。きっと足跡がのこっていると思うんですよ」
柳町善衛のいうとおり、そのへんいったい漏水がはげしく、壁をつたっていたるところに滴々として水がしたたりおちており、それが苔や|羊《し》|歯《だ》などの隠花植物の成育をうながすらしく、そうでなくとも足場のわるい岩また岩の通い路に、うっかり壁へもとりすがれないのである。
「しかし、柳町さん」
と、そばから田原警部補が声をかけた。
「あなたこういう危ない岩だらけの路を、よくもライターの|灯《ひ》で通り抜けられましたね」
「ところがね、田原さん、わたしはこの路にはわりになれているんですよ。はじめは尾形静馬氏のことで興味をもったんですが、のちにはいまもいったとおり、この洞窟の起源がわたしの好奇心を刺激したんですね。ここへくるとかならずこの洞窟ヘ潜り込んでみる。こんな場所ですから、何年たっても変わりやしません。わたしは岩のひとつひとつを憶えているくらいですからね。ほら、どうやらいちばん危険な個所はとおりすぎたようです」
先頭に立った柳町善衛が、懐中電灯の光で前方をなでまわしたとき、あとにつづいた一同は、おもわず驚きの声をはなたずにはいられなかった。
いままでだって天井はそう低くはなかったのである。ただ累々たる岩また岩のうえを歩かなければならないものだから、どうかすると身をかがめなければならなかったのだけれど、いま六人の男がたずさえた、懐中電灯の光で照らし出されたそこは、|豁《かつ》|然《ぜん》として視界がひらけて、さながら雪渓のような路が、十間くらいむこうまで、多少の曲折をみせながら、ゆるやかな傾斜をもってつづいている。
雪渓の幅は五、六間というところだろうか。うえをあおぐと天井は、雪渓をおもわせる路から二、三丈の高さとなって、固い岩の亀裂をみせながら、懐中電灯の光のとどかぬかなたまでつづいている。雪渓はかならずしも平坦とばかりはいえなかった。あちこちに巨岩がにょきにょきと顔を出している。しかし、その巨岩と巨岩のあいだを埋めつくしているものは、まさに川砂をおもわせるような粒子の細かな砂利である。懐中電灯の光のなかでそれが白くかがやいて、雪渓を連想させるのもむりはないと思われる。いままでくぐってきた通路が通路だけに、一同の眼にはそれがどこかの大広場のようにもみえ、おもわず感嘆の声を放たずにはいられなかった。
柳町善衛はそこを夢の雪渓と名づけたというが、あの危険な蟻の門渡りをくぐってきたあとでは、それは文字どおり夢のような光景である。
「金田一先生、急ぎましょう。井川のおやじとの約束もありますから」
しばらくして、田原警部補が夢からさめたような声を出した。興奮と興奮を抑制しようとする努力で、その声はひどくしわがれて低かった。
金田一耕助もやっと正気にもどって、
「そうだ、われわれは神の摂理に感心ばかりしていられない。柳町さん、これ、どう降りるんですか。ここから飛びおりるんですか」
しかし、金田一耕助はそのとき、かならずしも神の摂理に感心ばかりしていたわけではない。かれはひそかに譲治の顔色をよんでいたのだ。そしてかれはハッキリと確信をもつことができるのである。譲治にとってはこの驚くべき神の摂理も、けっして未知の世界ではないにちがいないということを。
「ああ、そう、じゃこう来てください」
いま一同の立っているところは、四畳半ばかりの広さをもった一枚岩のうえなのだが、雪渓はそこから一丈ばかり眼下に|展《ひら》けている。その一枚岩と大蛇のねじれたような壁とのあいだに、幅一尺ほどの|桟《さん》|道《どう》ができている。おそらくそこは太古からここを訪れた多くの探検家たちによって、自然に踏みならされたものだろう。
「滑りますから気をつけてください。それに頭に気をつけてくださいよ。岩がとび出してますからぶっつけないでくださいよ」
なるほど大蛇のねじれたような壁から、大きな岩の|瘤《こぶ》が突出している。一同は一枚岩にとりすがりながら身をすくめて、やっと滑りやすいその桟道を降りていった。
ここまで降りてくると神の摂理の見事さに、いよいよ驚かされるばかりである。金田一耕助は地質学者ではないから、なめらかな河床を形成しているその砂が、どういう種類のものであるかわからなかったが、六本の懐中電灯が回転するとき、真っ白な砂の光沢が、眼にチカチカするほどかがやいた。砂はじっとりとぬれている。そのぬれた砂のなかにニョキニョキと、あちこちに岩が顔を出しているのが、|竜安寺《りょうあんじ》の石庭をおもわせて見事に造形されていた。
一同はしばらく唖然として、このすばらしい景観に眼をうばわれていたが、そのとき柳町善衛が金田一耕助の袖をひいた。
「金田一先生、ごらんください。そこにふた筋ぼくの足跡がついています。こちらから奥へ進んでいるのと、奥からこちらへ帰ってきたのと」
金田一耕助もすでにそれに気がついていた。その足跡は一枚岩のうえからではわからなかったが、いまこうして河床とおなじ平面に立つと、ハッキリと観察ができるのである。ぬれた砂のうえにクッキリと、|二《ふた》|条《すじ》の足跡がついている。爪先がむこうをむいているのと、こちらへむかって歩いているのと。
柳町善衛はゆうべとおなじ靴をはいている。その靴跡はいまはいている善衛の靴跡と、ピッタリ一致するようだ。しかも、この砂はたえずどこからかわき出でる水に洗われて、多少なりともつねに移動しているらしい。したがってそこに印せられた靴跡が、ごく最近できたものであろうことは想像にかたくない。
どうやらこれで昨夜の抜け穴の怪人に関するかぎり、善衛のアリバイは成立したようである。
金田一耕助はそこにもうひとつの足跡はないかとさがしてみたが、その結果は失望におわった。しかし、この白砂の河床も壁際までいくと、|粗《あら》い、ゴツゴツとした熔岩のような|礫《こいし》に縁どられているので、壁づたいに用心ぶかく、そこを歩いていったとすれば足跡ものこらなかったのではないか。
金田一耕助はさりげなく譲治の顔色をうかがっているのだが、そこにはなんの反応も現れていなかった。
「柳町さん、ときに|冥《めい》|途《ど》の井戸とか、地獄の井戸とかいうのは……?」
「いってみましょう。ただし、この足跡は念のためにとっておいたほうがよさそうですね」
そこにのこされた二条の足跡をさけながら、柳町善衛が先頭に立って歩きはじめ、他の五人もそれにつづいた。砂をぬらしている水は思いのほかふかくて、|草《ぞう》|履《り》ばきの金田一耕助は、|踝《くるぶし》のへんまでのめりこむことがあり、|足《た》|袋《び》をとおしてしみいる地底の水のつめたさは、骨を刺すばかりである。
懐中電灯の照射距離がのびるにしたがって、白砂の河床は奥へおくへとひろがっているように思われた。だれも口をきくものはなく、ただサクサクとぬれた砂を踏む音ばかりが、この際さわやかというより無気味であった。
「気をつけてください。ゆうべも申し上げたとおり、井戸というよりクレバス……岩の亀裂ですからね。|枠《わく》もなにもないのですから」
ものの十間も歩いたじぶん、柳町善衛が一同に注意したが、その声はさっきにくらべると陰にこもっているようだ。気がつくと左右の壁はうんとせばまってきていて、この洞窟の入り口ほどではないにしても、|嶮《けん》|岨《そ》なトンネルがゆくてにつづいているらしい。あの見事な雪渓はそこで終わろうとしているのである。
「ほら、これ……」
先頭に立った柳町善衛がとつぜん立ちどまって、懐中電灯の光を足もとにむけた。
雪渓はそれより少しまえにおわっていて、そこから|爪《つま》|先《さき》のぼりの固い岩床になっている。金田一耕助はそれが巨大なひとつの岩であることに気がついていた。その岩床と右側の壁が|癒着《ゆちゃく》しているところに、奥にむかって大きな亀裂ができていて、それが底なしの井戸となって、真っ逆様に落下しているのである。亀裂のはばは広いところで二間くらい、縦は七、八間にもおよんでいて、大きな弓型をなしている。
この危なっかしいクレバスの周囲に立って、六本の懐中電灯の|光《こう》|芒《ぼう》が、いっせいに井戸のなかへむけられたとき、一同は|眩《くら》むように体の平衡感をうしなった。懐中電灯の光芒は数丈の遠くにまでおよんだのに、まだそのさきはるかに、亀裂の|深《しん》|淵《えん》がつづいているらしい。冥途の井戸とも地獄の井戸ともいわれるのもむりはないと思われた。
「これだから昭和五年の事件のあと、辰人さんが、このクレバスの底をさぐろうとして失敗なすったんですね。しかもこの亀裂の深部には有毒ガスがたまっているらしい」
このえたいのしれぬ深さをもつ|闇《やみ》の地底に、尾形静馬の死体が片腕のない白骨となってよこたわっているのであろうか。……それを思うと金田一耕助は、|鳩《みぞ》|尾《おち》がいたくなるような恐怖をおぼえずにはいられなかった。
「ところでここから奥はどうなってるんですか」
金田一耕助はこの無気味な井戸をこえて、さらに奥のほうへ懐中電灯の光をむけた。
そこはいまとおってきた、雪渓のようなみごとな景観とうってかわって、天井の低い洞窟がゴツゴツとした岩の層をみせて、深く暗くつづいている。
「私のしっているかぎり、この洞窟の奥をきわめたひとはないようです。ぼくはそうとう奥まで探検しましたが、この地底のトンネルは果てしなく奥へおくへとつづいているようです。しかも奥へすすめばすすむほど、|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》|知《し》らずみたいに路が分岐しているので、いつも怖くなって、途中でひきかえしてくるのです。ところで、金田一先生」
「はあ」
「これからさきのこの洞窟、名琅荘にある抜け穴と似ているとはお思いになりませんか」
「なるほど、そうおっしゃればそうですね」
「ぼくが思うにあちらの抜け穴も、もとはこういう天然の洞窟だったんじゃないでしょうか。それを発見なすった初代種人伯爵が、あとから人工的に手をくわえて、ああいうふうに抜け穴に利用なすったんじゃないかと思うんです」
さっきからこの驚嘆すべき神の摂理に、心をうばわれていた田原警部補も、話がたまたま名琅荘の抜け穴におよぶと、卒然として思い出したように、
「そういえば井川のおやじはどうしたんだ。柳町さん、あなたがゆうべ地の底からの声をきいたのは、このへんだったとおっしゃいましたね」
「ええ、そうです、そうです。たしかこの井戸のなかから聞こえてきたような気がしたんですが……」
「おい、みんな、耳をすませて聞いてみろ。井川のおやじさんが抜け穴のなかで怒鳴ることになってるんだ」
田原警部補の命令を待つまでもなく、一同はクレバスのふちに身をかがめて、全神経を井戸のなかの暗闇に集中していた。なかには岩のうえに腹ばいになっているものもある。速水譲治もそうしていた。
一瞬……二瞬……
と、とつぜん地底の遠くはるかのかなたから聞こえてきたのは、はたして人間の叫び声のようである。たしかに井戸のなかからだ。しかし、それは男の声ではなかった。甲高い女の声が……女の悲鳴らしきものが、あるいは遠く、あるいは近く、気が狂ったように。……
「タマ子だ! タマ子がだれかに殺されかけている! チキショウ!」
クレバスのそばからとびあがったのは、混血児の譲治である。
金田一耕助のさしむけた光芒のなかで、その顔は紅を流したように充血していた。眼は怒りにもえているようだ。
「速水君、どこへいく」
田原警部補の声に耳もかさず、岩のうえからとびあがった譲治は、からだの泥を落とすまもなく、いまきた|径《みち》へとまっしぐらに駆けていく。
「速水君、どこへいくんだ。君は気でもちがったのか」
「主任さん、あいつのあとを追っかけましょう。あいつめ、この洞窟から抜け穴への通路をしってるんですぜ」
金田一耕助がまっさきに立って速水譲治を追いはじめた。ほかのひとたちもそれにつづいた。柳町善衛だけがためらいの色をみせていたが、それでも思いなおしたようにあとを追いはじめた。
雪渓をおもわせるみごとな白砂をけちらして、先頭を走っていた譲治の影が、とつぜんさっき一同がくだってきた、あの巨大な一枚岩の下までくると消えてしまった。
つぎの瞬間、その場へかけつけてきた金田一耕助は、そこにやっとひとひとり潜り込めるくらいの穴があいているのに気がついた。桟道のふもとにころがっている岩のひとつがとりのぞかれて、その穴のなかをはっていく譲治のうしろ姿がすぐ眼のまえにあった。金田一耕助も躊躇なく身を伏せてそのあとにつづいた。田原警部補とふたりの私服もついてくる。
岩と岩とのあいだにできたモグラの穴のようなその路は、あきらかに下方にむかってすすんでいる。金田一耕助はたちまち着物も|袴《はかま》も泥だらけになったが、そのとき卒然として気がついたのは、ゆうべ抜け穴の探検からかえってきて、はじめて譲治にあったのが、浴槽のなかだったということである。
譲治はゆうべもこうしてモグラの穴から、下の地下道へ抜けたのではないか。黒い鳥打ち帽に黒眼鏡、感冒よけの大きなマスクをかけ、黒いトックリ・セーターに黒い背広をひっかけて、片腕をセーターに緊縛して。……
もしそうだとすると衣類はすべて、泥だらけになっていたにちがいない。それをぬぎすて、自分のふだん着をたずさえて、あの日本家屋の風呂へとびこみ、自分を待ちぶせしていたのではないか。もしそうだとすると譲治はなぜそんなまねをするのだろうか。この男いったいなにをしっているのか。
いや、待てよ、と、金田一耕助はまた考える。ゆうべの片腕の怪人が譲治だったとすると、金曜日の夕方ダリヤの間から消えた片腕の怪人も、この譲治ではなかったか。真野信也と名乗ってこの名琅荘へあらわれ、そのままダリヤの間から消えてしまった正体不明の人物に、たったひとり会って応待しているのはタマ子である。ところがそのタマ子はひどい近眼ではないか。おまけに真野信也なる人物は、鳥打ち帽子と黒眼鏡と黒い大きな感冒よけのマスクで、顔の大部分はおおわれていたという。戸田タマ子はまんまとそれに|瞞着《まんちゃく》されたのではないか。
だが、譲治がなぜそんな怪しげな行動をとったのだろう。金田一耕助の脳裡にはそのときしぜんとお糸さんの面影が、譲治の背後にオーバー・ラップされてきた。
お糸さんだ。お糸さんが陰で糸をひいているのだ。譲治はお糸さんの秘蔵っ児だというではないか。しかも、土曜日に古館辰人がこの名琅荘へやってくることをしっていたのは、おそらくお糸さんだけだったろう。だが、それにしてもお糸さんはそれによって、いったいなにを企んでいるのだろうか。……
そのときまた地の底から女の悲鳴がきこえてきた。いや、その悲鳴はさっきから、とぎれとぎれにきこえているのだが、それがしだいにまぢかに迫ってくるというのは、いま一同が|匍《ほ》|匐《ふく》前進しているモグラの穴と、下の地下道がしだいに接近しているという証拠ではないか。
「チキショウ、チキショウ! タマ子、タマ子、いまいくぞ!」
まえをいく譲治の声が、モグラの穴に鳴りはためいた。顔面に朱をそそいでいる譲治のあせりが眼に見えるようである。
それにしても井川刑事はなにをしているのであろうか。
第十三章 ああ無残
井川刑事は約束の午後二時ジャストに、ダリヤの間から抜け穴へもぐり込んだのである。一行は江藤刑事と県の警察本部から応援にきた私服とつごう三人である。
例によって暖炉の入り口までお糸さんが送ってきた。篠崎慎吾と倭文子の姿はみえなかった。倭文子の先夫古館辰人の奇妙な最期と、その後の事件の意外な推移進展は、夫婦のあいだに微妙な亀裂を生じたらしく、かれらはたがいに相手を避けているようである。ことに倭文子の態度にはあきらかに、思いつめたらなにをやりだすかわからない、この夫にたいする怖れがうかがわれた。
「それにしても刑事さん、タマ子がこの抜け穴のなかにいるとすれば、生きているんでございましょうか。それとも……」
お糸さんの顔にはもう、あのひとを食ったような空っとぼけの色はみえなかった。彼女は小さいからだをよじるようにして、タマ子の身を案じているのである。それにたいする老刑事の口調にも、いままでのような|嘲弄《ちょうろう》のひびきはもうなかった。
「まあ、そうキナキナしなさんな。タマ子がこの抜け穴のなかにいるという保証はどこにもないんだ。あの子あんまり怖いことがつづくので、名琅荘から逃げ出したのかもしれねえな」
「そんなはずはございません。あの子はどこにもいくところのない娘ですし、譲治をおいて逃げ出すはずがございません。あの子は譲治に首ったけなんでございますけんな」
「まあ、いいや。いまにわかることだ。だけどお糸さんにいっとくがな。われわれがこの抜け穴を探検するのは、かならずしもタマ子のことだけじゃないんだ。柳町さんの言葉がほんとかどうか、それを|験《ため》してみるのがもうひとつの目的なんだ。なあに、タマ子はいまにどっかから、パーッととび出してくるだろうぜ。あっはっは」
しかし、そういう井川老刑事も自信がなかった。
「ほんとにそれならよろしいんですけれど……」
「じゃいってくるぜ」
これだけの押し問答だけでも約束の時間より数分おくれた。
しかも、この三人のなかで抜け穴の内部をしっているのは、井川刑事だけである。いきおいこの老刑事が先頭にたったのが、それ以後の計画をくるわせてしまったのである。
「じゃいくよ。みんなあとからついて来い。あんまり口をきくんじゃねえぞ」
老刑事は片手に懐中電灯をふりかざし、片手と片脚で|鉄《てつ》|梯《ばし》|子《ご》にとりすがりながら、垂直に落下しているまっ暗な縦穴を、一歩一歩降りていった。まもなく井川刑事は慎吾の部屋の外まできた。ちょっと立ちどまって壁のむこうに耳をすましたが、部屋のなかにはひとの気配はかんじられなかった。
「やっこさん、なにをしているのかな」
つぶやきながら井川刑事はまた降りはじめた。すぐうえから降りてきた江藤刑事の足が、鉄梯子にとっつかまった老刑事の手を、踏んづけそうになったからである。
「やあ、失敬失敬。ぐずぐずしていてすまなかった。この壁のむこうがこの家のご亭主の部屋なんで、ちょっとようすをうかがっていたんだ。おまえたちはそんなことにはかまわねえで、ドンドン降りてこい」
井川刑事はそれから三段ほど降りていったが、そのとき信じられないようなことがそこに起こった。
老刑事の右手は横にわたされた鉄梯子の鉄棒をしっかり握っており、老刑事の片脚はおなじく鉄棒を踏まえているにもかかわらず、そのからだは急速にまっ暗な縦穴の底ヘ落下していった。そこから縦穴の底まではまだ三間ちかくもある。|漆《うるし》のような|闇《やみ》の底から、悲鳴と、おもい地響きと、金属のふれあい、激突し、砕けちる音をきいて、江藤刑事は鉄梯子のとちゅうで立ちすくんだ。
「おやじさん、ど、ど、どうしたんだ。だ、大丈夫かあ」
縦穴の底はまっ暗で返事もなかった。
「江藤さん、ど、どうしたんです。いまの物音はなんです。井川のおやじさん、どうかしたんですか」
うえから応援の刑事の声がきこえる。
「おやじさん、足を踏みはずして落ちたらしい。君はそこにいろ。おれはちょっといってみる」
だが、つぎの瞬間、江藤刑事はギョッとして暗闇のなかで息をのんだ。
ないのである。鉄梯子の横の段が。いくら足で探ってみても、その足は宙を踏むばかりである。懐中電灯でさぐってみて、江藤刑事は鉄梯子がすぐ足下から消失していることに気がついた。
「たいへんだ。鉄梯子が折れている」
それから足下の暗闇にむかって、
「おやじさん、おやじさん。大丈夫ですかあ」
二、三度大声で呼んでいるうちに、やっと暗闇の底から反応があった。かすかな|呻《うめ》き声と、モゾモゾと闇のなかに身動きをする気配がきこえてきた。
「おやじさん、大丈夫ですかあ。こっちは江藤です」
「うむ、うむ、おれは大丈夫……」
だが、そういう声は日ごろの井川刑事らしくなく、闇のなかでうつろにひびいた。
「おやじさん、鉄梯子が折れたんです。それであんたもろに転落したんだ」
「そ、それはわかってる。おれ長いこと気を失ってたふうか」
「なあに、ちょっとのまです。でもすぐに返事がなかったんで、こっちは胆を冷やしましたぜ。どっかけがをしましたかあ」
「ああ、うむ、なあに、大したことじゃねえ。それよりおまえたち大丈夫かあ」
「ぼく……いや、われわれは大丈夫です。おやじさん、われわれはどうしたらいいんですかあ」
「ちょっと待て待て」
暗闇の底で身動きをする気配がし、マッチをする|閃《せん》|光《こう》がまたたいた。二、三本マッチがすられたのちに、
「ちっ、懐中電灯がいかれちまやあがった。江藤、おまえそこにいるかあ」
「ええ、ぼくはここにいます。なにか……?」
江藤刑事は懐中電灯の光を真下にむけた。井川刑事が暗闇の底にうずくまっているのがかすかに見える。
「だれかうえへ引き返して、お糸ばあさんにロープを借りてきてくれ。できるだけ頑丈なやつをな。裏の倉庫へいきゃロープはいくらでもある。それから懐中電灯をひとつもらってきてくれ。こっちのは木っ葉みじんになっちまやあがった」
「おっと承知。久保田君、いってくれるウ?」
久保田というのが応援の刑事らしい。
「ああ、いいです。だけどロープはどのくらい?」
「さあて、三丈もありゃいいだろう。そうはいらねえが、大は小をかねるというからな。ああ、それから久保ちゃん」
「はあ……?」
「このことだれにもいうな、お糸さんにも。ちょっと地下の抜け穴でロープが必要になったんだといっとけ。おれちょっと腑に落ちねえことがある」
「腑に落ちないことというと……?」
「まあ、いい。久保ちゃん、早くいって来い。あんまり人騒がせすんな」
井川刑事もだいぶん元気回復したようである。
そうとう待たせたのちに久保田刑事が、ロープと懐中電灯をたずさえて引っ返してきた。
「ようし、それじゃ、江藤、ロープのさきに懐中電灯をぶらさげて降ろしてくれ。懐中電灯はつけっぱなしにしておく。うむ、よしよし。久保ちゃん、ばばあ、いろいろ聞いてたろう」
「ええ、もう、しつこいたらありゃしない。ロープをどうするんだの、懐中電灯をどうしたんだのと、食いさがって離れないんで」
「あのばばあ、自分はしらばっくれてるくせに、好奇心はひと一倍強いんだ。あのばばあ|狐《ぎつね》め、なにかしっていながら隠してやアがるんだ。いまに|尻《し》っ|尾《ぽ》をおさえてやる」
こういう悪たれ口が出るところをみると、井川刑事ももう大丈夫である。刑事はロープのさきから懐中電灯をとりほぐすと、
「ようし、それじゃそっちのはしを、鉄梯子の桟に結びつけろ。だが、よく気をつけろ。鉄梯子に|鑢《やすり》の目がはいってねえか、よおく確かめてからにしろ」
「お、おやじさん、だれか鉄梯子に鑢をいれたやつがあるんですかあ」
江藤刑事は息をのむような声である。
「まだよくわからん。それをこれから調べてみるんだ。マッチだけではどうにもならん。ロープを結えつけたか」
「いま……」
「早くしろ。ロープを結えつけたらな、懐中電灯をポケットへしまう。こうなったら懐中電灯だけがたよりだかんな。それから両手でロープにすがっておりて来い。なあに、大丈夫だ。どうせこういうせまい縦穴だ。両脚を壁にふんばりゃ|掌《てのひら》をすりむくこともあるまいよ。おれが下から懐中電灯を照らしてやるから、それを目標に降りて来い。久保ちゃん、おまえもわかったろうな」
「はい、ぼくは大丈夫です」
応援の久保田刑事は年齢もわかく威勢がいい。
やがてふたりの刑事が縦穴の底へおり立つのを待って、井川刑事は鉄梯子の縦の棒のはしを懐中電灯で調べはじめた。
「それみろ、やっぱり鑢の目がはいってらあ。しかし、待てよ」
「おやじさん、どうかしたのかい」
「いや、ここから折れただけじゃ鉄梯子はまだそうとう長い。こんなせまい縦穴だからどっちかの壁にぶつかって、斜めにゃなるが真下へ落っこちるはずがねえ」
井川刑事はそこいらを懐中電灯でさがしていたが、
「そおら見ろ。そこにちょん切られた梯子がおいてあらあ」
その地下道の側壁に切りとられた鉄梯子がよこたわっている。それは長さ一丈五尺くらいあり、あきらかに鑢でこすり切られたものである。
「おやじさん、こ、これどういう」
「なんだ、江藤、まだわからねえのか。おれといっしょに落っこちて来たのは、ほら、こっちのほうの鉄梯子だ」
ふたりの刑事が降りてきたとき、井川老刑事が調べていたのは、長さ八尺ばかりの鉄梯子である。
「おやじさん、それじゃこの鉄梯子、二重にこすり切られているんですか」
江藤刑事の声はふるえている。若くて威勢のいい久保田刑事も顔面筋肉が硬直していた。
「だからさっきいったろう。うえのほうでこすり切っただけじゃ、梯子はななめになるだけだ。だからまず下のほうを切りとっておいて、それからうえのほうへ鑢をいれやあがったんだ。あるいは手順は逆だったかもしれねえがな。だからわれわれがこの縦穴へもぐりこんだとき、梯子の下のほうはもうすでになかったんだ。そんなことはしらねえもんだから、おれはこの短い鉄梯子までおりてきた。おれの全身の体重がかかったとたん、鑢の目がものをいって、おれは梯子ごと下へ落っこちたんだ」
「しかし、だれがこんな|悪《いた》|戯《ずら》を……悪くすると命がなくなるところじゃありませんか」
「まさか。それほどの高さじゃねえからな。だけど悪くすると大けがはまぬがれねえところだったな。おれは最後まで鉄梯子をはなさなかったからよかったんだ。ほおら、みろ」
井川刑事は自分といっしょに落下してきた、鉄梯子をななめに立ててみせた。まえにもいったようにいま三人が立っているところから、抜け穴の地下道がひらいているのである。鉄梯子は縦穴と地下道の天井と接触する、すれすれのところで斜めに支えられたとみえ、そこに鋭いきずがついていた。
「これでおれは助かったんだが、途中どっかでいやというほど背中をぶっつけたとみえ、しばらく呼吸ができなかったんだ。ショックでアタマのほうもしぼらくボーッとしてたかな」
老刑事の懐中電灯の光のなかに、レンズのこわれた懐中電灯がころがっている。
「しかし、だれがこんな……?」
「なあに、この迷路荘にはチミモウリョウがウジャウジャするほどいるんだ。そいつが複数か単数かまだわからねえけどな。だからみんな気をつけなきゃいけねえぜ」
「しかし、いつやったんです、こんなことを。おやじさんはゆうべもこの鉄梯子を降りてきたんでしょう」
「だから、それからあとのことだな。おそらくゆうべからけさまでのあいだに、だれかがこんな細工をしやアがったんだ。ゆうべこの鉄梯子を降りたのは主任と金田一先生、小山とおれの四人だ。主任や金田一先生は体重もおれとチョボチョボだが、小山は牡牛のようなからだをしていて、体重もうんと重い。それでもなんともなかったんだから、そのあとだれかがこの抜け穴へもぐりこんできて……おそらくゆうべの真夜中のことだろうが……」
語っているうちに井川刑事はあらためて、ことの恐ろしさに気がついたかのごとく、おもわず激しく身ぶるいをした。暗闇はひとを臆病にするものだが、三本の懐中電灯の光芒の外は、窒息しそうな闇のひろがりである。ほかのふたりも井川刑事の|戦《せん》|慄《りつ》に感染したのか、|蒼《そう》|白《はく》に硬直した顔を見合わせながら、闇のなかでふるえあがった。
それが何者にしろ|烏《う》|羽《ば》|玉《たま》の夜の地下道をうごめく影。しかもこの名琅荘はゆうべから、警官隊によって包囲されているのもおなじことなのだ。その監視の眼をかいくぐり、闇から闇へとさまよう人物。しかも、そいつが鉄梯子にもああいう細工をしたとしたら、そいつはよっぽど思いつめ、デスペレートになっているにちがいない。そこに思い当たると、この屈強の三人の刑事がふるえあがったのもむりはない。
「おやじさん、それここの亭主の篠崎慎吾じゃねえんですか。この鉄梯子のすぐうえにゃ篠崎慎吾の部屋の抜け穴がある……」
「そう、あの男なら地理的条件はいちばん|適《かな》っている」
しかし、条件が適いすぎているということが、この経験派の刑事にも気に入らなくなってきている。すべての条件が篠崎慎吾をクロと指さしているようにみえている。そういうときには慎重にことを運ばなければならないのだということくらいは、この老巧な刑事はみずからの経験によってしっている。
「まあ、いいさ、いずれはこの抜け穴の暗闇にうごめくチミモウリョウが、だれであるか首っ根っこをおさえてやる」
老刑事はそこで急に気がついたように、
「おっ、そうだ。こんなところでぐずぐずしている場合じゃねえ。さあ、いこう」
「おやじさん、この暗闇のなかをいくんですか」
底しれぬ闇に懐中電灯の光をむけながら、江藤刑事が心細そうな声をあげたのもむりはない。乏しい光のなかに浮かびあがった光景は、だれの眼にも快適な行楽地とはみえなかった。ことにいまのような変事があったあとでは。
「なんだ、てめえ臆病風にふかれやアがったのか。じゃおれについて来い。約束の時間にだいぶん遅れてるんだ。急がなきゃ……」
井川刑事はせかせかとさきに立っていきかけたが、とつぜん、
「痛ッ、タ、タ、タ、畜生ッ」
と、からだをねじ曲げてその場につくばった。
「お、おやじさん、ど、どうしたんです」
「なあに、さっき鉄梯子ごとここへぶっつけられたとき、右脚首を|捻《ねん》|挫《ざ》したらしい」
「だ、大丈夫ですか、おやじさん」
「大丈夫、大丈夫、なあに、これしきの捻挫、あとで湿布すればすぐ治らあ」
しかし、やっこらさと立ち上がって、|跛《びっこ》ひきひきいくすがたはだれの眼にもいたいたしかった。
「おやじさん、先頭はぼくにかわらせてください。あんたはすぐぼくのあとからついてきて、いろいろさしずしてくださればいいんです」
「ああ、そうか、久保田てめえ、なかなか威勢がいいじゃねえか。じゃ、そうしろ。江藤、てめえはしんがりを勤めろ。しんがりはおっかねえぞ。いつなんどき、うしろから、チミモウリョウがとびかかってくるかもしんねえかんな。うっふっふ」
井川刑事もゆうべのことがあるから、できるだけ声をおさえるようにしているのである。それが暗闇のなかで妙な迫真性をもって迫ってくるのだが、江藤刑事は動じなかった。
「からかわないでくださいよ。わたしはなにもそれほど怖がっているわけじゃねえんですからね。だけど、おやじさんはくせものがまだこの地下道のなかにいると思ってるんですかあ」
「まさか。そうそう、久保ちゃん、おまえに注意しておく」
「はあ、どういうことですか」
「チミモウリョウはおそらくもう退散しているだろうが、この抜け穴すっかりガタがきていて、ちょっとした震動でも煉瓦がくずれてくる。だから大声を出してもいけねえし、とび上がったりするのは禁物だぜ」
「へえ、この地下道そんなにヤバいんですか」
「足下に気をつけていってみろ。いたるところに煉瓦がくずれ落ちている。じつはゆうべおれがやぼな声を出したんだからな」
「あっはっは、おやじさん、おっかながって悲鳴をあげたんですかい」
「ばかあいえ! てめえじゃあるめえし……」
井川刑事はおもわず一喝したが、その語尾は口のなかで消えてしまった。そのとたん二、三枚の煉瓦がガラガラとくずれ落ちてきたからである。一同はおもわずシーンと立ちすくんだが、やがて井川刑事が舌打ちして、
「そおれみろ。これがいい実物教育だ。だけどおれの声は大きくていけねえな」
「いまごろ気がついてりゃ世話はねえ。だけど久保ちゃん、おれ生き埋めになるのはいやだから、ひとつ静粛にご行進ねがいますだ」
「承知しました。じゃ|鞭《べん》|声《せい》粛々夜河を渡るといきますか」
「うっふ、お若いの。おめえなかなか落ちついてるじゃねえか」
「こんなこと前線でたびたび経験してますからね。よく|斥《せっ》|候《こう》につかわれたもんです」
「なあんだ、おまはん兵隊くずれか」
「くずれはないでしょう。これでも久保田一等兵、勇敢な帝国軍人だったんであります。あれ」
「ど、どうした、どうした」
「ほら、ここにおやじさんが蛮声を張り上げた遺跡がありますぜ」
懐中電灯に照らしだされた足下には、なるほどうずたかい煉瓦の堆積である。
「おいおい、お若いの、年寄りに恥をかかせるもんじゃねえ。さあ、いったり、いったり」
「うっふっふ、さてはおやじさん、だいぶん主任さんにカス食ったな」
「なあに、あのひとは穏やかなひとだから大したこたあねえが、金田一耕助という野郎がたしなめやアがった。あの野郎、あれで名探偵なのかよう」
しばらくいくとまた久保田刑事が足をとめて、足下を調べている。こんどは念入りに腰をかがめて、地下道の床を調べているから、
「おい、お若いの、てめえまたおれに恥をかかせる気か」
「いや、先輩、そうじゃありません。これなにか引きずった跡じゃありませんか」
「なに……?」
この地下道の床はところによってさまざまな変化をみせているが、そこはちょうど床にしいた煉瓦が摩滅して、一部浅い水たまりになっており、水たまりの底にはくろい泥がよどんでいる。その泥のなかにふた筋の跡がくっきりとついている。
「お、おやじさん、ゆうべはこんなもんなかったんですか」
「いいや、気がつかなかった。だけどこれだけハッキリついていりゃ、だれかが気がつかなきゃいけねえはずだ。みんな足下ばかり見て歩いていたんだからな」
「先輩、これはあの縦穴のほうから引きずってきたんですぜ。ほら水たまりのこっちのほうにはついてませんが、むこうのほうに泥の跡がふた筋つづいてますから……」
「だけどこれなにを引きずった跡だろう」
「先輩、こういうことをいうと、空想力が発達しすぎると叱られるかもしれませんが、これ人間の体を引きずったんじゃありませんか。このふた筋のはばは二本の脚の跡じゃ……」
しかし、だれも久保田刑事の空想力を叱るものはなかった。泥のうえに身をかがめたまま、三人はしばらく黙って顔見合わせていたが、
「おい、どっかに血の跡はねえか」
血の跡はどこにもなかった。
「ようし、この跡をつけてみろ。いや、ちょっと待て。ここいらで怒鳴ることになっていたんだが、鬼の岩屋へはいっていった連中はどうしたんだろう」
「先輩、ぼくが怒鳴ってみましょうか」
「うん、頼まあ」
「なんといえばいいんですか」
「主任さあん、われわれ抜け穴のなかにいますよう。聞こえますかあ……とでも怒鳴ってみろ。しかし、気をつけろ。トンネルが崩壊するかもしれねえかんな」
「あんまり脅かさんでくださいよ。じゃ、やってみますか」
両手で口にかこいをして深呼吸一番、いままさに発声しようとして、久保田刑事はおやというふうに首をかしげた。
「お若いの、どうしたい、なぜ……」
井川刑事がいいかけるのを、しっと制止した久保田刑事は、
「先輩、聞こえませんか。だれかが叫んでますぜ。あれ、女の声じゃありませんか」
「ばかあいえ。あっちの探検隊にも女ははいってねえ……」
「しっ、おやじさん黙りなさい。久保ちゃんのいうとおり、あれたしかに女の声だ」
そうだ。たしかに女の声である。絹を裂くようなという形容は月並みだが、鋭く甲高い女の悲鳴のようなものが、あちこちの壁に反響しながら、陰々として闇の底からきこえてくる。さいごの|谺《こだま》が語尾をふるわせて消えていったとき、また新しい悲鳴が起こった。
「おやじさん、あれ助けを求めているんじゃないですか」
「タマ子だ! タマ子が生きているんだ!」
だが、井川刑事は急ぐことができなかった。二、三歩歩いてよろめきつまずき、自分の脚を|呪《のろ》っているとき、江藤刑事が風のようにすり抜けていった。
「おやじさん、あんたあとからゆっくり来てください。ぼくはあの若僧といっしょにいってみます」
そのとき三たび悲鳴がきこえ、久保田刑事はものをもいわずはや前進を開始していた。この際、この若い刑事の行動力がひどくたのもしく思われたが、しかし、ふたりとも駆け出すわけにはいかなかった。懐中電灯の光芒以外はすべて塗りつぶされた闇である。しかも、あとから追ってくる井川刑事にしてからが、この地下道がどういうふうに曲折しているかを教えることができなかった。ゆうべいっぺん通り抜けたくらいで、その|全《ぜん》|貌《ぼう》がわかるほど単純な地下道ではなかったのである。
きれぎれの女の悲鳴はむこうにむかって走っているらしい。その声の出どころからして、こけつまろびつというかんじである。
「だれだ! 女! 止まれ! 止まらぬと撃つぞ!」
たまりかねて久保田刑事が大声をはりあげてわめいたが、そのとたんさすが勇猛果敢なこの刑事も、おもわずその場に立ちすくんだ。言下に崩壊が起こって数個の煉瓦がくずれ落ちてきて、その一個は刑事の肩をつよく打って足下にころがった。
「どうした。大丈夫か」
あとから近づいてきた江藤刑事と見合わせた、久保田刑事の顔はさすがに|蒼《あお》|白《じろ》んで硬直している。声をふるわせて、
「先輩のいったのはこれなんですね」
「そうだ。このトンネルはいまや崩壊一歩手前らしい。とにかく急ごう。だけど駆け出すな。地響きで天井が落っこってくるかもしれんぜ」
「おっかないですね」
「うん、おっかない。悪くすると生き埋めだぜ」
「先輩は……?」
「おやじさんはいい。あとから追っかけてくるだろう。だけどさっきの悲鳴は……?」
悲鳴はもうきこえなかった。そのことが地下道のなかの暗闇と静寂を、いっそう重っ苦しいものにしている。
だれかがこのトンネルのなかを死体を……それは死体としか考えようがないではないか……引きずっていったのだ。二本の筋はいまもなおところどころにのこっている。しかも、さっきの女の悲鳴は……?
ふたりは一歩一歩に注意しながら、たゆみなく歩みつづける。全身の神経が針となって緊張している。
腕時計の針はかれこれ二時三十分を示していた。鉄梯子の落下という事故があったにしろ、もうトンネルの半ばまできているはずだ。別動隊はどうしたのだろうか。むこうにもなにか事故があったのか。それとも鬼の岩屋とこの地下道がどこかで交錯しているというのは、柳町善衛のあらぬ幻想だったのだろうか。
とつぜん久保田刑事が立ちどまって、ギョッとしたようにあとからやってきた江藤刑事の腕をつかんだ。
「ど、どうしたんだ、なにか……?」
久保田刑事は無言のまま、懐中電灯の光を二間ほど前方の壁の下部にさしむけた。そこは地下道の右側の壁で、トンネルはそこから六十度ほどの角度をえがいて左のほうに曲折しているのだが、その下部の煉瓦が二、三個ずつセメントづけにされたまま、むこうがわからつきくずされていく。
「だ、だれだ!」
久保田刑事が叫びそうになるのを、江藤刑事があわててそばから口に蓋をした。
「だ、黙ってろ。ひょっとすると別動隊の連中かもしれねえぞ」
煉瓦の壁は二尺四角ほどにつきくずされて、そこから黒い男の頭がヌーッとのぞいた。男はまだ腹ばいになっているようである。
「だれだ! なんとかいえ。答えないと撃つぞ!」
こんどは江藤刑事がピストルを身構えながらわめいた。
「撃つな、主任さんもあとからくる」
全身泥だらけになった譲治はモグラの穴からはい出してくると、|物《もの》|凄《すご》いけんまくで、
「刑事さん、タマ子は……? タマ子は……?」
「タマ子……? おお、さっき叫んでいた女か。その女ならこっちのほうへは来なかった。むこうへ逃げていったらしい」
江藤刑事がカーブした前方の闇に懐中電灯の光をむけると、譲治は全身の泥をはらいもあえず、ポケットから懐中電灯をとりだすと、まっしぐらにカーブのむこうへ駆けこんだ。
譲治のあとから金田一耕助、田原警部補、応援のふたりの刑事の背後から、柳町善衛がはい出してくるまでにはだいぶん時間がかかった。みんな衣服はいうまでもなく、顔も手足も泥だらけになっているが、だれも笑うものはなかった。
「やあ、久保田君、ご苦労。江藤君、井川のおやじさんは……」
「おやじさんはあとから来ます。詳しい報告はあとでおやじさんがするでしょう」
「江藤さん、譲治はどうしました」
金田一耕助がたずねた。
「あの混血児ならむこうへ駆け出しましたよ。さっき悲鳴をあげていった女のあとを追っかけていったんです」
「主任さん、いってみましょう」
金田一耕助が田原警部補をうながしていきかけるのを、
「ああ、ちょっと……」
と、呼びとめたのは応援の久保田刑事だ。
「ここに死体……としか思えないんですが、人間のからだを引きずっていったんじゃないかと思われる跡がついてるんです」
「死体を……?」
「ほら、ここに二本の筋がついてるでしょう。これ二本の脚の跡じゃないかと、井川先輩や江藤さんなんかもいってるんですが……」
一同は身をかがめて、久保田刑事の懐中電灯の光芒のさきに眼をやった。このへんはまた煉瓦がはがれてじめじめしているのだが、ふた筋の痕は泥に食いこむようにくっきりと、カーブのむこうまでつづいている。二本の筋のあいだを大きなドタ靴の跡らしきものが交錯していた。ドタ靴の跡がふかく泥に食いこんでいるところをみると、なにか重いものを持っていたか、引きずっていたにちがいない。
「この跡、どのへんからついていたんだ」
「ずうっとむこうからですよ。われわれは途中から気がついたんです。久保田が見つけたんですね」
「よし、いってみよう」
一同はもみあうようにして暗いカーブへ突進した。二本の筋と大きなゴム長の跡とは、この地下道の乾きぐあいによって、濃くなったり薄くなったりしているが、どこまでもつづいているようである。
しばらくいくとむこうのほうから、男の怒号がきこえてきた。タマ子……タマッペと叫んでいる声は譲治のものらしい。
「混血児だ。あいつがなにか見つけたらしい」
一同はまた足を急がせた。タマ子の名を呼ぶ譲治の声はまだつづいている。その声の悲痛なひびきに気がついたとき、金田一耕助は肉体的にはげしい痛みをかんじずにはいられなかった。
譲治はゆうべ井川刑事が転落していったあの鼠の陥穽のなかに突っ立っていた。そばにおいた懐中電灯の光でみると、なにかを抱いているようである。一同が駆けつけたとき、おびただしい鼠がその陥穽の周囲を逃げまどうていた。
「金田一先生!」
譲治は怒りに狂ったような眼をむけて、
「ひと足ちがいだったんです。だれかがこの紐でタマ子を絞め殺していきゃアがったんだ。タマッペ、しっかりしろい、しっかりしろよう」
投げわたされた紐様のものを、懐中電灯の光のなかでみて、金田一耕助はギョッと息をのんだ。急いでそれをしごいてみて、
「田原さん、これ! このバンドに見憶えはありませんか」
「バンド……?」
田原警部補もそれを手にとってみて、ハッとしたように顔色を動かした。
「金田一先生、これ、天坊さんのガウンのバンドじゃありませんか」
いかさまそれは天坊さんのドレッシング・ガウンと共布でつくった、幅一寸五分ばかりのウールのバンドである。一部黒い汚点がついているところをみると、絞め殺されたときタマ子が血を吐いたのだろうが、どこにも解きほぐされた部分のないのを見ると、そのなかに貴重品が隠されていたのではないかという、井川刑事の推理はたんなる幻想だったらしい。それにもかかわらず金田一耕助は、あの際、犯人がなにかを捜していたのではないかという想定を捨て去ることができなかった。
「譲治君、とにかくタマちゃんをこっちへお渡し」
「いやだ、いやだ、おれ、だれにも渡さねえ。タマッペ、だれにも渡さねえ」
「金田一先生」
そのときそばから耳打ちしたのは柳町善衛である。
「その少女、鼠にそうとうかじられているんじゃ……」
柳町善衛の声は低くしゃがれていたが、それでも譲治はききのがさなかった。
「そうなんだ。おれそこの歩み板を渡ろうとしていたんだ。そしたら下で鼠の騒ぐ音がしたんで、ひょいと見ると鼠がいっぱいたかってなにやらかじっている。それがタマッペだったんだ。金田一先生、タマッペの顔をみてやってください」
譲治はおいおい泣きながら、はじめてタマ子の顔を一同のほうにさしむけたが、そのとたん金田一耕助はおもわず顔をそむけずにはいられなかった。
そのときのタマ子の顔をくわしく描写することは控えたほうがよいだろう。それは読者諸賢に|悪《お》|寒《かん》を催させるだけのことだろうから。
ああ無残!
とはこういう場合に用意されている言葉ではないか。タマ子は顔といわず手脚といわず、全身くまなく食い荒らされていて、もうしばらくこのままに放置されていたら、骨だけとなって残ったであろう。タマ子の肉体を食い荒らしたおびただしい鼠どもは、いまも陥没のなかをウロウロしているのである。
柳町善衛は芸術家だけに、神経がデリケートにできているのであろうか。全身を木の葉のようにそよがせて、べっ甲ぶちの眼鏡のおくで、その眼は血走っているようにみえた。
譲治は気が転倒しているので、そこまで思いおよばないようだが、こうまで鼠に食いあらされているところをみると、タマ子の死体はそうとうながくそこに放置されていたことと思われる。と、するとさっきの悲鳴は?
この際、いちばん行動的だったのは応援の久保田刑事である。かれはひとめタマ子の顔に眼をやると、歩み板をわたってはやつぎのカーブの闇のなかに消えていた。
「譲治君、とにかくこっちへあがってきたまえ。まごまごしてると君まで鼠の餌食にされてしまうぞ」
「金田一先生、だれがタマ子をこんなことにしやあがったんです。だれがタマ子を鼠の餌にしやあがったんです。金田一先生、カタキを討ってください。タマ子のカタキを討ってください」
「ああ、いいよ、わかったよ。とにかくこっちへあがってきたまえ。タマちゃんを手厚く葬ってあげなきゃ……」
「はい」
譲治はポロポロ涙を落としながら、まだ凶暴な眼つきをしていたが、それでもタマ子を抱いてすなおにあがってきた。金田一耕助と柳町善衛が左右から手をかしてやったが、そのときふと陥没の底に眼をやると、おびただしい数の鼠がはい出してきて、そこらじゅうをはいまわっているのがみえ、金田一耕助はミゾオチのへんが固くなるほどの恐怖をおぼえた。柳町善衛もおなじものを見たとみえ、哲学者じみたその顔が蒼白になり、細いからだがはげしくふるえている。
久保田刑事が小走りにひきかえしてきたのはそのときである。
「主任さん、主任さん、早くきてください。こっちにもひとり、こっちにもひとり女のひとが……」
地下道のむこうから聞こえる刑事の声は、ひどく興奮していて、こもった空気のなかでとどろきわたった。
「女のひとってだれだ」
歩み板をわたりながら田原警部補が怒鳴りかえした。
「主任さんは奥村という秘書をご存じですか」
「ふむ、知っている。その奥村君がどうしたんだ」
「その奥村君のいうのに、こっちのお嬢さんの陽子さんというひとだそうです」
「陽子さんも死んでいるのか」
「いや、死んじゃいません。しかし、後頭部をひどくぶん殴られて、虫の息というところです」
ちょうどそこへ遅ればせながら、井川老刑事が駆けつけてくるのを見ると、金田一耕助は眼を見張って、
「井川さん、あなたその脚をどうしたんです」
「なあに、ちょっくらしくじりをやらかしましてな。年がいもなくお恥ずかしい。おお、坊や、タマ子が見つかったんだってな」
そばへよってタマ子の顔をひとめ見るなり、さすが千軍万馬の老刑事も悲鳴をあげてとびのいた。
「ひでえことを!」
「井川さん、ちょうどよいところでした。あなた譲治君といっしょにあとからきてください。むこうのほうでもなにかあったらしい」
田原警部補の一隊は、もう|雪崩《な だ れ》をうってまっ暗なカーブのむこうに消えていた。
仁天堂の回り舞台は地下堂のほうからしか、開かない仕掛けになっている。それをだれかが背中合わせに立っている金剛像と力士像の背後の羽目板をぶち破ったらしく、お堂のなかに大きな|薪《まき》|割《わ》りがころがっていた。
秘書の奥村弘が駆けつけてきたとき、陽子はその羽目板の割れ目から、半分からだをお堂のほうへ乗り出すようにして倒れていたそうである。陽子はその後頭部をなにか堅い、たとえば|金《かな》|鎚《づち》のようなもので強打されたらしく、そこから流れた血が、彼女の着ているカーディガンの背後を斑々として染めている。
傷が骨まで達しているかどうかわからなかったが、彼女は死んではいなかった。ただ意識を失っているだけなのだが、さっき久保田刑事も指摘したとおり、虫の息であることだけはたしかである。
「やれやれ、だからいわんこっちゃない。この迷路荘にはチミモウリョウがとりついているんじゃよ」
だれかと思えば井川刑事である。跛をひいているせいか、禅坊主のようなことを口走る、この老刑事の顔はひどく年寄りじみていた。
第十四章 密室を開く
迷路荘にはいま|妖《よう》|雲《うん》が深く、暗くたれこめている。
この事件はそのへん一帯のみならず、日本全国を|震《しん》|撼《かん》させたのだけれど、その中心にある迷路荘にはいま重っ苦しい空気がたれこめて、だれもかるがるしく口をきくものはなかった。捜査係官や新聞記者たちの出入りはますます激しくなっているが、だれも大声を出すものはなく、たまにだれかがわめき立てでもしようものなら、周囲からよってたかって非難の視線を浴びせられて、あわてて口をつぐみ、ひそひそ声になるのであった。
だれもかれもが言わず語らずのうちにしっているのだ。事件はこれで終わったのではないということを。まだまだ血なまぐさい事件が起こるのではないかということを。
警察の自動車で森本医師が看護婦をつれて駆けつけてきたのは、午後四時を過ぎたころである。みちみち迎えにきた江藤刑事からだいたいの事情をきいたとみえ、さすがにその顔は緊張しており、口は堅くむすばれていた。看護婦は三十をとっくの昔にすぎた年ごろで、お世辞にも美人とはいいかねるが、それだけにがっちりとした体格がたのもしそうにみえた。
ふたりは奥村秘書の案内で陽子の部屋へとおされた。陽子の部屋は建物の左翼をしめている洋館の階下のほうで、そこに四つ並んでいる部屋のいちばん奥になっている。ついでにいっておくが、フロントからとっつきの部屋が奥村秘書で、そのつぎが柳町善衛。したがって善衛と陽子の部屋のあいだは空き部屋になっていた。
いっぽう死亡した古館辰人と天坊邦武の部屋だけが二階になっているのは、辰人と善衛とのあいだに、トラブルが起こらないようにという、倭文子やお糸さんの配慮によるものであろう。
陽子はまだ意識不明のままベッドのうえに横たわっている。ベッドの枕下には慎吾と倭文子がひかえていた。慎吾のおもてには沈痛の色がふかかったが、いっぽうどこか虚脱したようにもみられた。戦後ヤミからたたきあげたこの|強《したた》か|者《もの》の|脳《のう》|裡《り》に、いまなにが去来しているのか、外部からうかがいしる由もない。能面のような倭文子もさすがにいまは|怯《おび》えの色のみふかくて、ときどき思い出したように戦慄が、波状的に彼女の全身をつらぬいて走った。ふたりとも世にも|凄《せい》|惨《さん》なタマ子の死体を見せられたばかりである。
この部屋に田原警部補がいるのはお役目がらとしても、金田一耕助がひかえているのは慎吾の要請によるところである。
田原警部補は町から取りよせたとみえ、小ザッパリとした平服に着更えているが、金田一耕助はひどく珍妙なかっこうをしている。さすがにかれも下着類は着更えをもってきていたらしいが、着物や|袴《はかま》の用意まではいきとどかなかった。その一張羅の着物や袴はさっきモグラの穴を抜けるとき、泥まみれになってしまったので、いまかれの身につけている|浴衣《ゆ か た》や|褞袍《ど て ら》は、お糸さんの好意によるとしても、はいている袴のひどく立派で上等なのは慎吾から借りたものらしい。
慎吾は身長五尺七寸、体重二十貫をこえるのに反して、金田一耕助は五尺四寸あるかなし、体重も十四貫をわるであろう。どうたくしあげたところでダブダブたるはまぬがれないが、この男、下半身に袴なるものをはいていないと、からだが締まらないらしい。さすがに足袋のはきかえは持参していたようである。
医師と看護婦を案内してきて、そのまま部屋のすみにひかえている奥村弘の顔色には|懊《おう》|悩《のう》の色が濃かった。
かれの語るところによると、陽子はけさ天坊さんが浴槽で溺死しており、あまつさえタマ子のいどころがわからないと聞いて以来、ひどく考えこんでいたそうである。彼女はなにか思い惑い、かつなにかにおびえているふうであったという。奥村が話しかけてもろくろく返事をしないばかりか、
「黙っててちょうだい。静かにしててちょうだい。あたしいま考えごとをしてるんだから」
それから陽子はきつい顔をしてこうもいったという。
「奥村さん、あたしこの家でいまにもっともっと重大なことが起こるんじゃないかと思う。いままで起こったことよりも、もっともっと恐ろしいことが……あたしはそれを防がなきゃならない」
奥村が|執《しつ》|拗《よう》にその重大なることについて追究したが、陽子は|頑《がん》として口をわらなかったのみならず、昼食のあと、
「あたしひとりでじっくり考えてみたいことがあるの。しばらくそっとしておいてね」
と、自分の部屋へ閉じこもってしまった。
二時ジャスト、予定どおり警官隊がふた手にわかれて、ダリヤの間と鬼の岩屋から潜入していったということを確かめてから、そのことを報告かたがた奥村は陽子の部屋のドアをたたいた。返事はなかった。
そのときは奥村もあきらめて、ひとりでビリヤード・ルームへいって玉を突いていたが、やはり気になるので二時半ごろ陽子の部屋へいってドアをたたいた。いくらたたいても返事がないので、二、三度大声で陽子の名前を呼んでみた。それにも応答がなかったので、|把《とっ》|手《て》に手をかけてみると鍵がかかっていなかった。
奥村は陽子の怒りをかうのも覚悟のうえで、思いきってドアを開いてなかへはいってみたが、陽子の姿はどこにもなかった。奥村は部屋をとび出すと、この広大な名琅荘のすみからすみまで捜してみたが、陽子のすがたはどこにも見当たらなかった。
奥村はひょっとすると陽子もまた、地下の抜け穴へもぐり込んだのではないかと、ダリヤの間のまえまでいってみた。ダリヤの間のドアのまえには警官がひとり立っていたが、陽子のことはしらぬという。それらしいお嬢さんの姿も見なかったという返事である。
奥村はあの抜け穴が仁天堂へ抜けていることをしっている。しかし、あちらのほうは地下道の内部からしか開かなくて、仁天堂の側からでは入れぬ仕組みになっていることを奥村はしっている。奥村はしかし気になるので、念のためにそっちのほうへいってみると、金剛、力士ふたつの像の背後の羽目板が破られており、その割れ目から上半身はい出した陽子が、そのままの姿勢で倒れているのを発見したのである。
と、いうのが奥村の申し立てだったが、そのおわりのほうの供述がやや|曖《あい》|昧《まい》なところへ、あの勇猛果敢な久保田刑事に突っこまれて、たちまちしどろもどろになってしまった。
「嘘だ! この男は嘘をついている!」
「嘘?」
田原警部補が鋭くいってふりかえると、闘志満々の久保田刑事は、金太郎さんみたいな顔を紅潮させて、
「そうですとも、ぼくがあの回り舞台のこちらがわまで駆けつけたとき、あのお嬢さんまだ意識があったんです。この男にむかってなにかひとことふたこといって、それきり|昏《こん》|倒《とう》したんです。低いきれぎれな声だったので、ぼくにはなにをいったのかわかりませんでしたが、この男にはわかったはずです。そのときぼくが君はだれかと聞くと、ここのご主人の秘書だというので、ぼくも安心してあとをまかせて、主任さんを呼びにいったんです」
久保田刑事の糾弾に容赦はなかった。一同の視線を全身にあびて、奥村秘書の顔にはビッショリ脂汗が吹き出している。
「奥村君」
田原警部補はきびしい眼をむけて、
「陽子さんはいったいなにをいったんですか。君はこの事件がどんなものかしっているはずだ。さっき君は譲治に抱かれたタマ子の死体を見たはずでしょう。陽子さんはタマ子が鼠に食い荒らされていた、おなじ抜け穴から出てきたんですぞ。陽子さんはいったい君になにをいったんです」
あの凄惨なタマ子の死体を思い出したのか、奥村は全身をもってふるえあがったが、それでもなおかつ躊躇しているのをみて、金田一耕助がそばからおだやかに言葉をかけた。
「奥村君、ここはひとつ正直に答えたらどうですか。君はだれかに迷惑がかかりゃしないかと、それをおそれて躊躇しているらしいが、そういうことはこちらの判断にまかせてください。陽子さんはなんとおっしゃったんですか」
そのとき金田一耕助はまだよれよれのセルによれよれの袴をはいていた。セルも袴も泥だらけになっており、顔や手足も泥まみれであった。しかしこのモジャモジャ頭で、しかもいくらかどもるくせのあるその|風《ふう》|采《さい》は、妙にあいてに親近感をもたせ、人懐っこいその言葉はかえって説得力をもっているらしく、
「はあ、ぼくにも陽子さんのいった言葉の意味がよくわからないんですが……」
奥村もどうやら打ち明ける気になったようである。
「その意味はこちらで考えてみましょう。陽子さんはなんといったの」
「パパが……パパが……と、ただそれだけいって、気を失ってしまったんです」
「パパ……? 陽子さんがパパというのは篠崎さんのことだね」
田原警部補が切り込んだ。
「そうとしか考えられません。だからぼくにはわけがわからないんです」
「そうするとあなたには陽子さんを襲撃したのは、篠崎さんだというふうに聞こえたんですね」
「はあ、だけどそんなばかなことがあるはずがないんです。社長は陽子さんを目のなかへ入れても痛くないほど可愛がっているんです。その可愛いお嬢さんにあんな手ひどいことを……」
「しかし、ひと違いということもある」
「田原さん、あなたのおっしゃる意味は……? 陽子さんがだれかほかの人物を、篠崎さんだと勘違いしたとでも……」
「いや、わたしのいうのはその反対です。篠崎氏がほかの人物……あるいはほかの女性と勘違いした……なにしろあの地下道の暗闇ですからね」
いまこの名琅荘で陽子とひと違いをされるような女性といえば倭文子しかない。それに思いいたったとき、奥村秘書は蒼白になり、唇をかんでたじろいだ。
金田一耕助はモジャモジャ頭をかきまわしながら、|虚《こ》|空《くう》をにらんでぼんやり考えこんでいたが、
「いや、その問題についてはゆっくり考えてみようじゃありませんか。いまにお医者さんがくるでしょうが、そのまえにわれわれが鬼の洞窟や地下の抜け穴にもぐり込んでいたあいだ、あのご夫婦がどこでなにをしていたか、調べてごらんになったら」
慎吾と倭文子はべつべつにおなじような質問をうけた。それに対して慎吾は自分の部屋にいたといい、あるいは前庭をそぞろ歩きしていたとも答えた。打ちつづく凶事に自分も動揺しており落ち着かなかったのだと付け加えた。倭文子は倭文子で日本座敷に閉じこもっていて、一歩も外ヘ出なかったと答えた。彼女もまたあまり恐ろしいことがつづくので、居ても立ってもいられないような気持ちで、フランス|刺繍《ししゅう》を取りあげたが、いっこう手につかなかったと付け加えた。
その時分ふたりはもう陽子の奇禍をしっており、あのむごたらしいタマ子の死体も見せられたあとだったので、ふたりともすっかり意気消沈しており、答える言葉も機械的で、なぜそんなことをきかれるのかと反問さえもしなかった。
しかし、ふたりの言葉の裏付けはなにもなかった。自分の部屋にいる慎吾や、迷路のような前庭を、そぞろ歩きしているかれを見たものはひとりもいなかった。また日本座敷に閉じこもっている倭文子を目撃したという証人もいなかった。
もしかりに田原警部補の推理が当たっているとすると、慎吾と倭文子のどちらかが、あるいはふたりがふたりとも嘘をついているのかもしれなかった。
そういう状態のもとに森本医師がついたのだから、陽子の寝室に重っ苦しい空気がたれこめているのもむりはなかったし、奥村秘書が悔恨と懊悩に自分を責めて、責めて、責めぬいているのも当然であったろう。
「で……?」
森本医師の診察のおわるのを待って、慎吾がささやくような声でたずねた。さすがに憂色はふかかった。
「頭蓋骨折を起こしていらっしゃるかどうか、これはレントゲンで調べてみなければ、正確なことは申し上げられませんが、こう見たところその心配はなさそうですね。しかし、そうとうひどい打撃は打撃だったらしく、|脳《のう》|震《しん》|盪《とう》を起こしていらっしゃるんですね」
「先生、入院なすったほうがよろしいんじゃございません」
倭文子が気づかわしそうに口を出した。
「それはいけません。いまのところできるだけ安静に。動かすことは禁物です。自宅でも治療はできるように準備はしてきました」
それから警部補のほうへむきなおって、
「田原君、患者は多量に出血していたふうかね。江藤君の話によると、そのほうは大したことはなさそうだということだったが……」
「はあ、現場と思われる付近を綿密に捜査してみたんですが、血痕らしきものはどこにも見当たらないんです。ただ患者の衣服を染めているていどでした」
「そう、それほど貧血はしておられんようですな。とにかくリンゲルをやっときましょう。深尾君、準備を」
深尾看護婦が準備をととのえているあいだに、森本医師はつぎのように説明した。
陽子はひと一倍髪が多くて長かった。彼女はそれを三つ組みにして後頭部に束ねているが、それが打撃のショックをいくらかでも緩和したのであろうと。
「しかし、先生、重態なんでしょうな」
「それはもちろん。しかし、江藤君に聞いたところによると、患者は日ごろいたってご壮健だったそうですね。神経のほうも女性としては強かったとか」
「それは江藤さんのいうとおりです」
「そこに希望がもてると思うんですがね」
「先生、意識を回復するのはいつごろ……?」
「田原君、そこまではぼくにも保証できない。それは患者の健康しだい、つまり患者のもっている抵抗力しだいだろうね」
あるいはこのまま意識を回復しないかもしれないとは、医師としても口に出しかねた。
やがてイルリガートルの準備がされ、リンゲルの点滴の操作が開始されると、森本医師はしばらくようすを見守っていたが、やがて警部補をふりかえって、
「田原君、もうひとりぼくの見なければならぬ患者があったんじゃないかな」
「先生、こちらのほうは大丈夫ですか」
「大丈夫、深尾君にまかせとけばいい。このひとは看護婦としてはベテランだからね。ご両親もご心配でしょうけれど、お引きとりになったほうがいいですよ。安静であることがひとつの勝負ですからね。もちろんときどきわたしが見回ってきます」
陽子のそばに看護婦と奥村秘書をのこして、一同が寝室を出るとそこは居間である。この部屋は天坊さんの部屋にくらべると、少し規模は小さいけれど、だいたいおなじ間取りになっていて、寝室の奥にバス、トイレ、寝室の外が居間になっている。
金田一耕助はいちばんさいごに寝室を出たが、そのまえにかれはバスとトイレのドアを開いて、そこにだれもかくれているもののないことを、確かめることを忘れなかった。居間にはお糸さんとお杉さんがひかえていたが、ふたりとも凍りついたような顔をして黙り込んでいた。
結局、深尾看護婦にお手伝いさんが必要な場合にそなえて、お杉さんひとりをそこに残して一同は廊下へ出た。廊下へ出ると慎吾はだれにともなく黙礼して、自分の部屋のほうへ立ち去った。倭文子はしばらくそのうしろ姿を見送っていたが、これまた一同に黙礼をすると慎吾のあとを追っていった。
それを見送るお糸さんの眼に、奇妙なかぎろいが浮かんでいたが、金田一耕助の視線に気がつくと、あわてて顔をそむけて、
「では、こちらへ……」
「こりゃまた広いうちですな。これじゃ迷路荘といわれるのもむりはない」
「わたしなんぞきのうから、なんど家中を調べてまわったかわからないんですが、それでもいまだに方角さえわからない」
森本医師に|相《あい》|槌《づち》を打っておいて、田原警部補は金田一耕助のほうをふりかえった。
「金田一先生はさっきあの部屋で、バスやトイレをのぞいていらっしゃいましたが、だれか被害者を襲撃するかもしれないという、|懸《け》|念《ねん》でもお持ちですか」
「ああ、そのことについてさっきから申し上げようと思っていたんですが、犯人は最初の襲撃で失敗している。しかも、陽子さんはいつなんどき意識を回復するかもしれない。そのまえにもういちど、今度は決定的な打撃を与ようとして……」
「わかりました。じゃあの部屋へだれか張り込ませましょう」
さいわいゆくての廊下に私服がふたり立ち話をしていた。いまやこの名琅荘の内外には警官や私服が充満しているのだ。田原警部補はふたりの私服に命令をつたえた。
「だけど、いいか。ぜったいに静粛を守るんだよ。患者は絶対安静を必要とする状態なんだからな」
それからまもなく一同がいきついたのは、この建物の右翼にあたる日本家屋の最先端にあたっており、四畳半の日本間になっていた。障子の外には久保田刑事が緊張した顔をして立っている。
「ここがタマ子の部屋でございます」
お糸さんが障子をひらくと四畳半の中央に寝床が敷いてあり、仰向けに寝かされたタマ子の顔は白い布で覆うてあった。小さな二月堂の経机のうえに、線香の煙がたゆとうているのは、お糸さんのせめてもの心尽くしであろう。
仏の枕下には譲治が、足のほうには井川刑事が包帯をまいた左脚を投げだすようにして座っているが、ふたりともすっかり意気阻喪したような顔色で、一同の姿を見ても言葉も出なかった。
江藤刑事からきいていたであろうにもかかわらず、白布を取ったとき森本医師の顔にうかんだ恐怖と|驚愕《きょうがく》には異常なものがあった。無理もない。いままで場数をふんできた金田一耕助ですら、これほど凄惨な仏を見たことはいちどもない。
「先生、死因は絞殺だということはわかってるんです。それを医師としての立場から、たしかめていただきたいんです。それと死後どれくらい経過しているかということを……」
田原警部補の声は沈痛そのものである。
森本医師は無言のままうなずいて、そういう場合医者としてとるべき手順をふんでいたが、
「そう、死因はやっぱり窒息死のようですな。それから死後の経過時間ですが、十二時間ははるかにオーバーしているようです。これはむろん解剖の結果をみなければ、正確なことはいえんが……」
「先生!」
譲治はおびえたような声をあげて、
「タマ子は解剖されるんですか」
「譲治君」
金田一耕助がそばからなだめるように声をかけた。
「そうしなければならないんだよ、こんな場合にはね。そのほうがカタキを討ちやすいんだ。譲治君はタマちゃんのカタキを討ちたいんだろ」
「タマ子! タマ子!」
譲治がワーッと声をあげて泣きだしたので、一同はもらい泣きをせずにはいられなかった。わけても井川刑事は肺腑をえぐられるような気持ちだったにちがいない。鼻をつまらせて、
「むりはねえやな。可哀そうに。こんなことならゆうべのうちに、あの抜け穴を捜査すべきだったんだ。そうしていたらたとえ手遅れになっていたとしても、こんな|酷《むご》たらしい姿にゃならずにすんだにちがいねえ」
それをいっては愚痴になると思ったのか、
「譲治君、辛抱おし。タマちゃんの|亡《なき》|骸《がら》はきれいに縫い合わされて、またこちらへかえってくるからね」
それから金田一耕助は森本医師のほうへむきなおって、
「ときに、先生、けさの仏さんはどうでした」
「ああ、そうそう、田原君、それについてここに検案書を持ってきたがね。あれは浴槽のなかで溺死したのではありません。肺臓から採集された水分のなかには、バス・クリニックとやらは検出されなかった。あれは真水によって溺死したんだね。その時刻はだいたい仏さんのはめていた腕時計の示す時刻と、大差はないものと思ってよろしい。それ以上のことは君たちの領分だから、|嘴《くちばし》をはさむのは遠慮しとくがね」
ちょうどそこへ遺体引きとりのため、自動車が到着したという報告があり、譲治と遺体とのあいだに劇的シーンが展開されたが、ここでは省略しておこう。たいへん感動的な場面だったことはいうまでもない。
「金田一さん、いやさ、金田一先生、これはいったいどうしたというんですい。あんたの眼のまえでつぎからつぎへと事件が起こってるんですぜ。それにもかかわらずあんたただウロチョロするばかりで、なんにもしようたあしねえじゃありませんか。あんたそれでも名探偵ですかい」
「あっはっは、これはご挨拶ですね。わたしゃべつにどなたにも、|吾《わが》|輩《はい》は名探偵でござあいなんて、|見《み》|得《え》を切ったおぼえはないつもりなんですがね」
「ヘン、口は調法なもんだ。あんたがそもそもここへやってきたなあ、あのヤミ屋のボスの招待でしょう」
「はあ、それが……」
「あの男なんだってあんたを呼びよせたんですい。あんたが名探偵でもなんでもなく、その反対にヘボだから呼んだんじゃねえんですか」
「あっはっは、これはますますご挨拶ですが、それはどういう意味ですか」
「正直いってあんたわれわれの目ざわりですぜ。あんたもっともらしいことはいうが、ただウロチョロするばかりで、われわれの捜査の妨害ばかりやってるじゃありませんか」
「井川君。控えたまえ」
「いや、いいですよ、いいですよ。田原さん。つまりこちらのおっしゃりたいのは、篠崎さんはわたしがヘボであることをご存じだったがゆえに呼びよせた。と、いうことはわたしをウロチョロさせることによって、捜査を混乱におとしいれようという魂胆であったと、こういうことなんですね」
「そうとしか思えねえじゃありませんか。おまはんがモジャモジャ頭をかきまわし、へんてこな袴の裾をヘラヘラさせているあいだに、つぎからつぎへとおっかないことが起こりゃあがる。あのヤミ屋のボスはそれを承知のうえで……」
八つ当たりとはまさにこのことである。無理はない。この老刑事はおのれをもってこの警察の古狸をもって任じている。あるいはヌシくらいにウヌボレているのかもしれぬ。そこへ持ちあがったのが古館辰人の殺人事件。
ようし、この機会に昭和五年の事件も一挙解決とハリキッているところへ、矢継ぎばやに起こったふたつの殺人事件とひとつの傷害事件、まったく応接にいとまあらずとはこのことである。そこへもってきてこのモジャモジャ頭のさえない男が、袴の裾をヘラヘラさせながら、ウロチョロするのだから、老いの一徹にかてて加えて、捻挫の痛みも手伝ってついにアタマにきたらしい。
時刻はまさに深夜の十二時。場所は名琅荘のフロントである。そこに|鼎《かなえ》になって座をしめているのは田原警部補と井川刑事、それからモジャモジャ男の金田一耕助。
十月ももう下旬になると裾野の夜はぐっと冷えこむ。しかしそこはお糸さんの心使いで、暖房がよくいきとどいているので室内の気温は快適だが、さすがに三人とも疲労|困《こん》|憊《ぱい》の色がふかかった。三人ともゆうべはほとんど一睡もしていないところへ、きょうのこのうちつづく惨事である。ことに井川刑事はおトシのせいで疲労の色がだれよりも顕著だったが、そこへもってきてこの老刑事の神経に決定的な打撃をあたえたのは、ついいましがたはいってきた森本医師の報告である。
タマ子の絞殺されたのは、天坊さんが溺死したのとほとんど同時刻であろうと。
ああ、タマ子!
あのむごたらしいタマ子の死体は、この一徹な老刑事の自責の念をつよくゆさぶり、つい愚痴まじりの憎まれぐちになるのである。
しかし、金田一耕助はそのとき少しも騒がず、
「なるほど、そうすると篠崎さんはこういう事件が、矢継ぎばやに起こることをあらかじめ想定して、このヘラヘラ男を呼びよせた。そして、事件が起こるたびにヘラヘラ男をウロチョロさせ、それによってあなたがたの捜査を混乱させようと計画なすった……と、こうおっしゃるんですね」
「そうとしか思えねえじゃありませんか。あの男ならこの三つの殺人事件にぜんぶ動機をもちあわせている。まず古館辰人殺しだが、あの男にとっちゃ古館辰人とは憎さも憎き男だったにちがいねえかんな」
「と、おっしゃると……?」
「だって、自分のほれてる女をまえに女房にしてた男ですからな。しかも、いまでもあのとおりの好男子である。ひょっとするとその後も倭文子という女と関係がつづいていたのかもしれねえ」
「あっ、なあるほど」
と、金田一耕助は厳粛な顔をして、
「しかるによって|嫉《しっ》|妬《と》にたえかね、おのれ憎っくき|姦《かん》|夫《ぷ》めとぶっ殺したとおっしゃるんですね」
「だってあの抜き身はあの男のものだし、あの男にゃアリバイがねえ」
「アリバイのない人物はほかにもおおぜいいるんですが、それはそれとして天坊さん殺しの動機は……?」
「しれてるじゃありませんか。あのビリケンさんは大将の弱身をしっていたんだ。ひょっとすると、辰人と倭文子がマオトコしてることもしってたかもしれねえ」
「なるほど、篠崎さんに古館さん殺しの動機があることをしっていた。そこでこいつ生かしておいちゃ後日のさまたげと、洗面台のなかに首をつっこんで溺死させた……」
「それよ。あれはそうとう大力の人間でねえとやれねえこってさ。そこをタマ子に見られたもんだから、これまたありあうバンドでぐっと絞め……」
「そういえばタマ子をさいごに目撃したのは篠崎さんでしたね」
「そうよ。タマ子はその足でボスのあとを尾行したにちがいねえ。そこでいちぶしじゅうを見られたもんだから、絞め殺しておいて抜け穴の入り口からほうりこんでおいたんだ。それをあとから鼠の穴ヘ引きずっていきゃあがった」
「お言葉ですがね、刑事さん、いまあなたの指摘なすったとおり、篠崎さんは大力のひとですよ。なぜタマ子を引きずっていったんです。なぜ抱いていかなかったんです」
井川刑事の顔にふいと嘲笑の影がうかんだ。邪悪にみちた影である。
「主任さん、これでこの男がいかにヘボだかおわかりでしょうが。おい、金田一先生、いやさ、金田一さん、抜け穴のなかはまっ暗なんですぜ。両手でタマ子の死体を抱いてちゃ懐中電灯はどうするんだよう。それともおまはんのパトロンは猫みてえに、暗闇のなかでも眼が見えるというんですかい」
金田一耕助が唖然としたのはまだよかったが、がっくり|顎《あご》がおちたのはだらしがない。思わずモジャモジャ頭に手をやりかけたが、井川刑事の凶暴な眼つきに気がつくと、あわててその手を引っ込めて、
「いや、恐れ入りました。なるほどこれじゃ名探偵の名を返上しなければなりませんな。じゃ刑事さんにもうひとつご質問をお許しねがうならば、あの密室の謎はどうお解きになりますな。ドアには鍵がかかっていて、その鍵は部屋のなかにあった。しかも窓という窓にはなかからぜんぶ掛け金がかかってましたね。そういう部屋ヘ篠崎さんはどうして出たり入ったりできたんですか」
「そんなことあ造作ねえ」
井川刑事はせせら笑った。いよいよ邪悪にみちたせせら笑いである。
「造作ねえとおっしゃいますと……?」
「あの部屋にも抜け穴があるんだ。ダリヤの間とヒヤシンスの間は、あのストーブで往来できるようになってんだ。あしたはあの部屋をぶっこわしてでもその抜け穴を捜し出してやる。おお、捜し出してみせるとも」
井川刑事はいきまいたが、温厚な田原警部補はハラハラしながら、
「金田一先生、このひとを|堪《かん》|忍《にん》してやってください。このひとだってまさか本気であんなこといってるんじゃないんです。しかし、これじゃなにがなんでも刺激が強すぎる」
「主任さん、ご安心下さい。わたしだってまさかこのご老体が……」
「ご老体たあなんだ。ご老体たあ。失敬な」
「あっはっは、これは失礼。じゃ訂正します。わたしだってまさかまだうら若く意気さかんなこの刑事さんが、本気であんなこといってらっしゃるんじゃないことくらいはわかってます。その証拠にはこのひとさっきからしきりにわたしの顔色を読んでらっしゃる。かってな|妄《もう》|想《そう》を吐きながら、わたしの反応をたしかめようとしていらっしゃる。ところがあいにくわたしゃポーカー・フェースときてましてね」
それから金田一耕助は椅子から立ち上がると、
「井川さん、あのヒヤシンスの間はぶっこわす必要はありませんよ。もしお望みならわたしゃ抜け穴なんかなくっても、鍵のかかったあの部屋から、まんまと首尾よく抜け出してごらんにいれますよ」
「あんたがあ……?」
井川刑事は疑わしそうな眼をいからせて、ブルドッグのようにほえたてた。
「お疑いならわたしといっしょにいらっしゃい。さいわいみんな寝しずまったころあいです。わたしのつたない実験をお眼にかけるには打ってつけの時刻のようです。主任さんもぜひ」
金田一耕助は部屋を出ると、廊下のあとさきを見回しながら、
「わたしはこの実験を家人のだれにも知られたくないんです。ですからできるだけ静粛にねがいます」
赤い|絨毯《じゅうたん》を敷きつめた大理石の階段を、足音に気をつけながら登っていくと、階下の陽子の部屋から|灯《ひ》がもれているのが見えた。
夜にはいって陽子は危機を脱して、意識の回復も時間の問題といわれている。彼女の寝室には森本医師と深尾看護婦が詰めているはずである。柳町善衛の部屋の灯は消えているらしい。かれはもう寝ているのであろうか。廊下のところどころに警官が立っているだけで、いま広大な名琅荘は深沈たる夜気にとざされて、深い眠りに落ちているようだ。時刻は深夜の十二時十五分。
ヒヤシンスの間とダリヤの間の中間の廊下に、警官がひとり立っていた。どちらの部屋にも異状のなかったことをたしかめて、田原警部補がヒヤシンスの間のドアを開いた。それはお糸さんから預かっている控えの鍵である。井川刑事が壁際のスイッチをひねると、この部屋本来の鍵がマントルピースのうえにおいてあるのが眼にはいった。この部屋はまだけさ事件が発見されたときのまま、手つかずで保存されているのである。
「さあて、金田一先生、あんたこの部屋からどうして脱出してみせてくださるんですな。抜け穴もなく、ドアには鍵がかかっており、しかも鍵はあのマントルピースのうえにある。おまけに窓という窓は内部から掛け金がかかっている。ひとつおまはんのお手並み拝見といきましょうかな」
井川刑事のその調子は、まるで松の廊下で浅野|内《たく》|匠《みの》|頭《かみ》をいびる、|吉《き》|良《ら》|上《こう》|野介《ずけのすけ》の口跡のようである。しかし、じっさいは金田一耕助がこれから行ってみせるという実験にたいして、期待と好奇心に燃えているのである。
「いやね、この密室のトリックの種明かしをするまえに、もうひとつ種明かしをしてお眼にかけたいものがあるんです。どうぞこちらへ」
金田一耕助はふたりを案内して、隣の寝室を抜けるとバス・ルームへはいっていった。バス・ルームの棚のうえには、あのバス・クリニックの鑵がのっかっている。
「主任さん、あの鑵の表面から指紋は……?」
「はあ、お糸さんと天坊さんの指紋が出たそうですが」
「ほかには……?」
「いや、指紋はそれだけだったんですが、それがなにか……?」
「しかも、この部屋には事件が発見されて以来、ああしてお巡りさんが立っていて、だれも入ってこれなかったんですね」
「金田一先生、それがどうしたというんですい」
「井川さん、あなたこれを妙だとは思いませんか」
金田一耕助が指さした浴槽のなかには、けさがた天坊さんの漬かっていた湯が、そのまま|湛《たた》えられている。湯はもちろん冷えきっているが、それは淡い緑色をていしている。
「お糸さんはなんといってました。彼女がドアのところでバス・クリニックを渡したとき、天坊さんはいかにも気のない態度で、むしろ迷惑そうだったといってたじゃありませんか。それにもかかわらず天坊さんはバス・クリニックを使っている。それはどういうわけでしょう」
「金田一先生、それはどういうわけ……?」
「天坊さんはどうしても、それを使わねばならぬ必要に迫られたからじゃないんですか」
「その必要とは……?」
「いや、ちょっと待ってください、その説明は。いっぽう、井川さん」
「はあ」
「われわれは犯人が天坊さんの持ち物を、ひっかきまわしていったことを知っている。しかも、それは上着のポケットへはいるような、小さなものだったということも知っている。われわれはそれが紛失した天坊さんのガウンのバンドに、縫いこめられているのではないかと思っていたが、実際はそうではなかったことがわかりましたね。すると……」
「金田一先生! そ、それじゃ犯人の捜していたものがその鑵のなかに……」
井川刑事の声は驚きにみちていたが、さすがに外部へもれるほど大きくはなかった。
「天坊さんはなんらかの理由で危険を察知していられた。なにかを隠したいと思っていられた。そこへお糸さんがその鑵を持ってきた。ふしょうぶしょうに受け取ったあとで、これこそ究竟の隠し場所だと気がついた。そこでこのバス・ルームへやってきて、問題のしろものを鑵のなかの粉末の奥深く押しこんだ。そのとき粉末がこぼれたので、それをカモフラージするために、バス・クリニックを使わざるをえなかった……」
老刑事はそのときすでに、赤色の鑵にとびついていた。刑事はそれをバス・タンクのうえにもってきて、指を粉末のなかへ突っ込んだ。粉末がバラバラとタンクの湯のなかへこぼれ落ちたが、つぎの瞬間、
「あった!」
と、ひくく叫んで親指と人差し指でつまみ出したのは、粉末にまみれた小さなニッケルの鑵である。それは注射をするときアルコールに浸した綿をつめておく容器のようである。開くとはたしてアルコール綿がつまっていた。そのアルコール綿をつまみ出すとそのしたから、パラフィン紙につつんだものが現れた。
そのパラフィン紙をひらくとき、粉末にまみれた井川刑事の指がいちじるしくふるえていたのは、それだけ興奮している証拠だろう。
パラフィン紙のなかから出てきたのは三枚のネガ・フィルムである。それがネガであるうえにあまりにも小さかったので、透かしてみても映像のぬしがだれであるかはわからなかった。しかし、三枚とも男と女のふたりであることが想像された。
田原警部補も井川刑事も感動のためひどくふるえているようである。
「田原さん」
「はあ」
「鑑識課にも宿直はいるんでしょう。すぐこれを持たせて現像し、引き伸ばしてください。少なくとも顔がハッキリする程度に。これは早ければ早いほどいいのです」
「金田一先生!」
井川刑事は鼻をつまらせて、
「ありがとうございます」
「井川さん、いうまでもないことですが、絶対内密に。それからあなた用事をすませたら、表の居間へ引きかえしてください。これからいよいよ、密室のトリックの種明かしといきますから」
「承知しました」
足早に出ていく井川刑事のあとから、金田一耕助と田原警部補も居間へ出た。井川刑事はすぐ引き返してきて、
「いいあんばいに江藤が起きていたので署へ走らせました。一時間……いや往復の時間もふくめて、二時間もすればかえってくるでしょう」
「金田一先生、天坊さんはあの写真をタネにだれかを|脅《ゆ》|請《す》っていたんでしょうね」
田原警部補はまだ感動がさめやらぬ調子である。
「人間も落ちぶれると浅ましくなるという、これはひとつの実例でしょうね。しかも、|脅喝者《きょうかつしゃ》はつねに被脅喝者に生命をねらわれるという、もうひとつの実例でもあるわけです。では密室のトリックの種明かしといきましょうか」
「はあ、どうぞ」
「お願いします」
田原警部補も井川刑事もひどく|敬《けい》|虔《けん》な態度になっている。金田一耕助は大いにテレて、テレたときこの男のくせで、めったやたらとモジャモジャ頭をかきまわしながら、いくらかどもりぎみで、
「おふたりとも笑わないでくださいよ。こ、これ、まるで子供だましみたいなトリックですからね。しかも、これ、わたしが考え出したことじゃなく、若いころこういうトリックを使った、外国の探偵小説を読んだような気がするんです。主任さん、この鍵はこうして鎌倉彫りのお盆のうえにのっかってます。しかも、このお盆のうえにはブロンズの像がおいてある。ところがお糸さんの話によると、このブロンズ像はいつも大理石のマントルピースのうえにじかにおいてあり、このお盆はふだん小物入れとして、寝室のサイド・テーブルのうえにおいてあったということでしたね」
「はあ、それがなにか……?」
「犯人はなぜこのお盆を必要としたのでしょう。この大理石じゃ針が立たなかったからではないでしょうか」
「針……?」
「はあ、これ……」
と、金田一耕助が大テレにテレながら、|袂《たもと》のなかから取り出したのは、白木綿の糸をとおした一本の縫い針である。糸はふたえになっていてそうとうの長さをもっている。田原警部補と井川刑事はおもわず大きく眼を見張った。
「この糸と針、お杉さんの針箱からチョロまかしてきたんです。ぼくが糸と針とに関心をもってるってこと、だれにもしられたくなかったものですからね」
金田一耕助はその針をしっかり鎌倉彫りのお盆に突っ立てると、
「このお盆にはゴタゴタと二匹の竜が浮き彫りにされている。だから針の痕があっても気づかれなかったわけですね。あとで精密に検査してください。どこかに針の痕があるはずですから」
金田一耕助は針の安定度をたしかめてから、鍵をとりあげ、糸をたぐりながらドアのほうへいった。そして、半開きになっているドアのうえの回転窓から、糸のさきを廊下のほうへ投げ出しておいて、自分もドアから外へ出ていった。カチッとドアに鍵をかける音がする。ドアの外にはおあつらえむきの支那製の頑丈な花瓶台がある。金田一耕助はその台のうえへあがって、回転窓からなかをのぞくと、
「さあ、これが密室のトリックの種明かしですよ」
糸はいまマントルピースのうえのお盆から、回転窓までピーンと一直線に張られている。まもなく糸にぶら下がった鍵がスルスルと、回転窓から部屋のなかへ侵入してきた。
金田一耕助が外から操作しているのであろう、問題の鍵がななめに張られた糸をつたって滑降してきたかと思うと、やがてカタリと音を立て、お盆に突っ立てられた針を中心として、ぶじに身をよこたえるのを見たとき、ふたりの捜査員の唇からいっせいにふかいため息がもれた。
つぎに金田一耕助が強く外からひいたのであろう、針はプッツリ鎌倉彫りの盆からはなれて、糸ごと回転窓の外へ消えていった。盆のうえには鍵だけがよこたわっている。
田原警部補も井川刑事もふかい感動のために身動きもできなかった。|呼《い》|吸《き》をのんで銀色の鍵を見つめている。
なるほどさっき金田一耕助も指摘したとおり、子供だましのようなトリックだったかもしれないが、どんな奇抜な手品でも、種を明かすとこのとおりたあいないものなのである。しかし、とっさの場合……おそらくとっさの場合だったろう、こういうことを思いついた犯人の|狡《こう》|知《ち》というか、|奸《かん》|知《ち》に思いいたると、やはり慄然たらざるをえないのである。
やがて廊下から呼ぶ金田一耕助の声に、あわてて控えの鍵でドアをひらいた刑事の態度は、いまや敬虔そのものである。
「金田一先生、お見事でした」
それに対して金田一耕助が大テレにテレてはにかんでいるのはいつものとおりである。まるで自分がこのトリックの考案者であるかのごとくに。
田原警部補も直立不動の姿勢で、
「金田一先生、わかりました。このブロンズ像はおもしの役目を果たしているんですね。針を抜くために糸を強く引いたとき、この鎌倉彫りの盆がマントルピースから落っこちやしないかと、犯人はそれをおそれたんですね」
「おっしゃるとおりだと思います。犯人はこれ見よがしに鍵をマントルピースのうえにおいときたかったのでしょうね。おそらく鍵の頭が輪になっているところから思いついたんでしょうが、こういうトリックを弄すると、銭形平次の子孫でなくても、いとも簡単に鍵を部屋のなかへ返しておくことができたわけです」
「いや、先生、恐れ入りました」
「いや、いや、それからねえ、主任さん、犯人がもうひとつおそれたであろうと思われるのは、糸が途中で切れやあしないかということです。しかし、いまごらんになったとおり、木綿糸でもふたえにしとくと大丈夫でしたね。ましてやフランス刺繍の糸なら絶対大丈夫だという確信が、犯人にあったのではないでしょうか」
あっという鋭い叫びがほとんど同時に、ふたりの捜査員の口からほとばしった。
「先生、それじゃ犯人はあの……」
「いや、いや、いや。そうきめてかかるのは早計でしょう。フランス刺繍の糸と針は、ほかの人物でも持ちだせたでしょうからね」
金田一耕助は悩ましげな眼をして、
「しかし、どちらにしても、犯人は天坊さんとよほど親しい人間だったにちがいありません。お糸さんの話によると天坊さんはひどく神経質になっていて、いちいちドアに鍵をかけていたという。それをみずから開いてなかへ招じ入れたんですからね」
恐ろしい沈黙が部屋のなかへ落ちこんできた。
そのとき天坊さんは入浴をおわって、鏡のまえで|髭《ひげ》をそりおわったところなのだ。パンツくらいははいていただろうが、ほとんど裸だったにちがいない。そのときドアをノックする音がきこえたので、天坊さんはこの居間へ出てきたにちがいない。そして相手をだれとたしかめておいて、鍵をまわしてドアをひらき相手を招じいれたのだろう。
哀れな天坊さんは相手の恐ろしい決意に気がつかなかったにちがいない。客をこの居間へ待たせておいて天坊さんは、洗面所へひきかえし、洗面台に身をかがめて顔を洗おうとしていたのだろう。その姿勢が犯人を誘惑したのにちがいない。千載一遇の好機とばかり、犯人は猫のように音もなく天坊さんの背後に忍びよった。
洗面台のうえには鏡がかかっているのだけれど、哀れな天坊さんは洗面台に身をかがめていたので気がつかなかった。
犯人は天坊さんの後頭部に両手をかけ、全身の力をこめて、天坊さんの顔を満々とたたえられた洗面台のなかに突っ込んだ。天坊さんはむろんもがいたにちがいない。必死になって抵抗したであろうが、侏儒のような天坊さんは非力であった。こうして老いたる元貴族は、世にも残忍な方法で死にいたらしめられたのであろう。
この際、犯人としてだれがいちばん適任かという事実に思いいたったとき、田原警部補も井川刑事も全身をつらぬいて走る戦慄をおさえることができなかった。
「しかし、先生……」
井川刑事の声は咽喉にひっかかってふるえている。凍りついたような部屋の空気が、この海千山千の老刑事をも、ふるえあがらせずにはおかなかった。
「タマ子は……? タマ子は……?」
金田一耕助の顔が急にきびしく引き締まった。自責の念がかれの表情を凶暴なものにするのである。しかし、その顔はすぐ重っ苦しい沈痛の色の底に沈んでいくと、
「あの娘は|不《ふ》|憫《びん》でした。おそらくあの娘はひそかに犯人のあとをつけてこの部屋まできたのでしょう。そのときドアに鍵はかかっていなかった。タマ子はしばらく廊下で待っていたでしょうが、犯人がなかなか出てこないので、ドアを開いてなかへ入ってきたのでしょう。あの娘もまさか部屋のおくで、このような惨劇が演じられていようとは気がつかなかったので、二、三度犯人の名を呼んだにちがいない。その声によって犯人は相手がだれであるかに気がついた。犯人にとっては自分がこの部屋にいたことを、ひとに知られること自体が致命的なエラーですね。犯人はとっさのうちに天坊さんのガウンのバンドを外し、なにくわぬ顔でこの居間へ出てきた。タマ子もおくになにがあるかを知っていたら、もっと警戒したでしょうが、不憫なタマ子はそれを知らなかった。だから犯人にはいくらでも乗ずる|隙《すき》があったにちがいありませんね」
ふたたび三たび田原警部補と井川刑事の全身を、もの凄まじい戦慄がつらぬいて走った。部屋の空気が氷のようにつめたいと思い出したのも、心理的なものだったろう。
「それを犯人が絞め殺し……それからどうしたんです」
「ゆうべ……いや、もうおとといになりますが、あの晩隣のダリヤの間はあけっぱなしになっていました。だから抜け穴の口から投げ込むか、あるいは|吊《つ》るしておいたのでしょう。女というものは和服を着るとき、ずいぶんたくさんの紐をしめているものです。それらの紐やガウンのバンドをつなぎあわせると、そうとうの長さになるでしょうからね」
事実タマ子の着物はひどく乱れていたのである。紐類をいったん解かれてまた結ばれたのではないかという疑問を、金田一耕助がもったとしてもうなずけないことはない状態だった。
「それから……?それからどうしたんです」
「それからまたこの部屋へとってかえして、天坊さんを浴槽につけ、シャワーを出しっぱなしにしておいて、そこらじゅうを引っかきまわしたが、目的のものはえられなかった。犯人はあまりぐずぐずはできなかった。第二のタマ子がやってくるかもしれませんから。そこで針と糸をつかって密室を構成しておいて、ここから逃げ出していったということでしょうね。それはおそらくわれわれが抜け穴のなかにいる時分だったでしょう。なぜならばわれわれが抜け穴から出て来て、お糸さんをこの部屋へよこしたとき、すでにシャワーの音がきこえていたそうですから」
それはまた、天坊さんの腕時計のとまっていた時刻とも一致するのである。
「犯人が糸と針とを用意していたとすると、そいつはこの部屋へやってきたとき、すでに殺意をもっていたということでしょうね」
「犯人はひじょうに追いつめられた、切羽づまった気持ちだったでしょうからね。それに凶行後糸と針をとりに走るという度胸は、いかに残忍なこの事件の犯人にもなかったでしょうよ」
「金田一先生、犯人はなぜこの部屋を密室に仕立てておいたのでしょう」
「そこがこの事件の興味あるところですね。犯人はあくまで捜査を混乱させるつもりだったのじゃないでしょうか。あるいはまずこうすれば密室の殺人が構成されると思いついた。そこでそれを実演してみせておのれの知恵をほこり、混乱する捜査陣をひそかに嘲笑してやろうという、いわば小ざかしきエリート意識の現れではなかったでしょうか。じっさいは天坊さん殺しの場合、密室にしておく必要はすこしもなかったんですがね」
「しかし、金田一先生、犯人は抜け穴の底から鼠の|巣《そう》|窟《くつ》まで、タマ子の死体を引きずっていくのに、どこからあの地下道へ潜りこみゃあがったんでしょうな」
それは田原警部補も知りたい問題である。金田一耕助はその眼を腕時計に落とすと、
「井川さん、あの写真ができてくるまでには、まだそうとう余裕があるでしょうね」
「はあ、往復に時間をくいますからな」
「それと井川さん、あなた足のほうはどうですか。捻挫のほうは?」
「そのほうはもう大丈夫。お糸さんに湿布してもらったら、こんなに|脹《は》れもひいちゃいました。金田一先生、なにか……?」
「いまは絶好のチャンスだと思うんです。家人が寝てるまにこっそり探検したいところがあるんですが」
「金田一先生、探検したいところとおっしゃると……?」
「鬼の岩屋のおくなんですが……」
「鬼の岩屋のおくになにか……?」
「田原さん、あなたきのう気がおつきになりませんでしたか。柳町さんはあの|冥《めい》|途《ど》の井戸までわれわれを案内しましたが、それからさきへはわれわれを連れていきたくなかったようです。譲治にしてもおなじ素振りがみえていました。けっきょくああいうことが起こったので、われわれはあのふたりの思う壷にはまったのですが、この機会にあのひとたちが、なにを隠しているのか探検してやろうと思うんですがね」
「先生はそこでなにが発見されるとお思いですか」
「塚か墓のようなものですね」
「塚か墓とおっしゃると……?」
「昭和五年の秋、あそこで非業の最期をとげたであろうと思われる尾形静馬氏のですね。施主はもちろんお糸さんでしょう」
「チキショウ! あのクソッたればばあ」
舌打ちして二、三歩いきかけて、
「あっ、痛ッ、タ、タ、タ!」
井川刑事が|跛《びっこ》の脚をかかえこんだのはだらしがなかった。
「井川さん、大丈夫ですか、その脚で……なんならあなたお残りになってもいいんですよ」
「でえじょうぶ、でえじょうぶ、金田一先生、この機会になにもかもハッキリさせておいてくださいよ。それでねえとわたしゃ|黄泉《よ み じ》のさわりになりまさあ」
「あっはっは、金田一先生、このおやじさんときたら、昭和五年の一件に執念をもやしつづけてきたひとですからね。いっしょに連れてってやってください」
「いいですとも。べつに急ぐことはないんですからね」
それからまもなく三人が、鬼の岩屋に潜入したのは、まさに深夜の一時であった。
第十五章 大
金田一耕助たちが尾形静馬の墓とおぼしい塚を発見するまでのいきさつを、詳述するのは控えよう。筆者は筆を惜しむものではないが、そうでなくても、いささか長くなりすぎたこの恐ろしい物語を、いくらかでも短縮したほうがよいと思うからである。
金田一耕助たちがその塚を発見するまでには、たっぷり一時間はかかっていた。冥途の井戸とよばれるあのクレバスのあたりから、洞窟がうんと狭くなっていることはまえにもいっておいたが、それは行くほどに進むほどに、網の目のように|岐《わか》れわかれて、世にも複雑な迷路をかたちづくっていた。
網の目はあるいは分岐し、あるいは交錯しながら、果てしなく奥へおくへとひろがっている。それはさながらいったん迷いこむと、ふたたび出ることができないといわれる、|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》|知《し》らずのようなものであった。それにもかかわらず三人が無事に出て来られたのは、金田一耕助の指導よろしきをえて、三人がたくみに連繋をたもってきたからである。
問題の塚はそういう網の目になった洞窟のおくに、こんもりと盛りあがっていた。そこは袋になった洞窟のいきどまりで、天井も低く、しかも洞窟のおくの岩壁がさらにえぐられたようになっていて、天然の|龕《がん》を形成しており、それが塚を守っているような形になっていた。
そこには墓石もなければ墓標もない。しかし、それが何者かの墓にちがいないということは、塚のまえの岩のくぼみに土が盛ってあり、土のなかに線香の灰らしきものが、多量にまじっていることからでもうかがい知ることができるのである。それのみならず岩のたいらなところに|蝋《ろう》|涙《るい》のあとが二か所あり、二本立っている竹筒には、|樒《しきみ》の枝が立ててあり、半分皮をむいた|蜜《み》|柑《かん》が三つならべてあったが、樒といい蜜柑といい、あまりしなびていないところを見ると、さいきんだれかがお参りしたのにちがいない。
これこそはいまから二十年まえこの洞窟のおくで、ひとしれず非業の最期をとげた尾形静馬の墓にちがいない。あわれ尾形静馬は二十年間というものを、|永《えい》|劫《ごう》日の目をみることもないこの洞窟のおくで、だれにもしられずに眠っていたのだ。
三人は身のすくむような厳粛な思いにうたれて、おもわず塚にむかって合掌した。わけても昭和五年の一件に、執念をもやしつづけてきた井川刑事にとっては、感慨無量なものがあったであろう。
「金田一先生、そうするとこの塚の底には、左腕のない男の白骨がよこたわっているということになるのですね」
「そうです、そうです。それによって尾形静馬氏の遺体にちがいないということが、認定されるのではないでしょうか」
「じゃ金田一先生はこの塚を、あばいたほうがよいとおっしゃるんですか」
井川刑事は鼻をすするような声である。あまりにも痛ましい尾形静馬の運命に思いをはせると、その事件に執念をもやしつづけてきただけに、この老刑事の胸はうずくのである。
「それはそうなさるべきでしょうねえ。これじゃ無縁仏もおんなじで、あまりにもお気の毒です。どこかへ改葬して手厚く|供《く》|養《よう》してあげるべきだし、警察もそれによってあの一件に終止符をうたれるんですね」
「金田一先生、ありがとうございました」
井川刑事はふかぶかと頭をさげた。
それからまもなく三人は黙々として塚をあとにしたが、あのクレバスまでたどりつくのに、たっぷり十五分はかかったのである。そこまでくると洞窟は|豁《かつ》|然《ぜん》とひらけて、夢の雪渓の白砂がうつくしく懐中電灯の光のなかで照り輝いた。
「金田一先生」
田原警部補は大きく息を吸いこむと、
「さっき……と、いってももう昨夜になりますが、昨夜の九時ごろ東京の小山刑事からかかってきた電話によると、金曜日の夕方から夜へかけての、篠崎氏や柳町さん、それから殺害された古館氏のアリバイは完全だというんですがね」
小山刑事は金田一耕助の紹介によって、警視庁の等々力警部に面会し、その協力を仰いだのである。そして警視庁と手分けをして調査した結果、金曜日の午後の三人のアリバイは完全であることが判明した。だれも真野信也と名乗ってこの名琅荘に現れた人物に、匹敵する人間はいなかったのである。
「はあ、はあ、それで……?」
「そうすると金曜日の夕方こちらへ現れて、ダリヤの間から消えた片腕の男とは、いったいだれだったんでしょうねえ」
「それはもちろん譲治でしょう」
金田一耕助はこともなげに、
「むろんそれはお糸さんの差し金だったでしょうがねえ」
「あの混血児が……?」
井川刑事が目玉をひんむくのを見て、
「井川さん、タマ子はひどい近眼だったし、それに真野信也なる人物は、ほとんど口をきかなかったという。譲治にはそういう|悪《いた》|戯《ずら》がおもしろかったんじゃないでしょうか」
「それじゃこの名琅荘の周辺に、ときどき姿を現すという片腕の怪人というのも……?」
「それもやっぱり譲治でしょう。少なくともあの男がここへ引き取られてからの片腕の怪人はね」
「つまりあのばあさんはそうすることによって古館氏に、精神的拷問を加えようとしていたということですか」
「おそらくそうでしょう。お糸さんの古館氏にたいする憎しみや|復讐心《ふくしゅうしん》は、井川さんのあの一件にたいする執念より、さらにさらに深刻なものがあったでしょうからね」
あの哀れな無縁塚を思いうかべると、ふたりとも金田一耕助の説に賛成せざるをえなかった。
「しかし、金曜日の夕方片腕の怪人らしき人物を点出しておいて、あのばあさんいったいなにを|企《たくら》んでいたんでしょうねえ」
「土曜日に辰人氏がやってくる。ひとつハッタリをかけておいてやろうというわけですか」
「まあ、その程度だったんでしょうね。まさかそれからひいてこのような、大惨劇が起ころうとまでは予測しなかったろうと思いますよ」
「それじゃきのう、いやもうおとといになるが、われわれが抜け穴を探検したとき現れた、あの片腕の怪人というのも……?」
「もちろん譲治でしょう。あの男はここからあの地下道へ抜ける道をしっていた。しかもモグラの穴から地下道ヘ抜ける出口は、|鼠《ねずみ》の|陥穽《おとしあな》よりダリヤの間のほうによったところにあったじゃありませんか」
「しかし、譲治のやつなんだって、われわれを愚弄するようなまねをやりやあがったんです」
金田一耕助は微笑して、
「それはおふたりさん、いや、主として井川さん、あなたのせいじゃないんですか」
「と、おっしゃると……?」
「あなたはあの仕込み杖がだれのものであるかを知られてから、篠崎さんにたいして深い疑惑を示された。譲治にとってはすわ親分の一大事とばかりに、片腕の怪人なる人物が実在するのであるぞよということを、われわれに見せつけておこうとしたんでしょうな。ところがあにはからんや」
「あにはからんやとおっしゃると……?」
金田一耕助はそこで浴場の一件を語ってきかせると、
「われわれがあの地下道にいるあいだの、篠崎さんのアリバイがなかった。そこであの怪人は篠崎さんだったかもしれないとほのめかしてやると、さあ、譲治め、おこったのなんのって。わたしはそのとき譲治の篠崎さんにたいする傾倒ぶりをしったんですが、あのお糸さんなんかもそうですね。あのばあさんもう少し若ければ篠崎さんを|口《く》|説《ど》いてますぜ。あっはっは。篠崎さんというひとはああいういっぷう変わった連中には、ひどく魅力があるとみえますね」
跛をひいている井川刑事をいたわって、金田一耕助と田原警部補はゆっくりと夢の雪渓を歩いていく。三人はいまやっと|蟻《あり》の|門《と》|渡《わた》りまでたどりついていた。
田原警部補はその|麓《ふもと》にある、モグラの穴に眼をやりながら、思い出したように、
「金田一先生、さっきおたずねしたことですが、あのダリヤの間の抜け穴から鼠の陥穽まで、タマ子の死体を引きずっていった怪人ですがね。そいつどこから地下道へ潜りこんだのか、ひょっとするとこのモグラの穴ではなかったでしょうか」
「そのことですがねえ、田原さん」
金田一耕助は悩ましそうな眼をして、
「あの仁天堂の羽目板をぶち割った|薪《まき》|割《わ》りには、陽子さんの指紋がついていたんですね」
「はあ、それがなにか……?」
「そうすると陽子さんはみずから薪割りをふるって、地下道へ潜入したということになりますが、それはなぜ……」
「金田一先生、あれはタマ子を捜しにいったんじゃないんですか」
この老刑事も金田一耕助の、こういう口のききかたに慣れてきたとみえて、ひどく神妙になっている。
「いや、それならばあなたがたに任せておいてもよいはずです。よしんば自分も捜査当局とはべつに、タマ子を捜そうと思ったのなら、奥村君を誘ったでしょう。ところが奥村君の眼をかすめて、女だてらに薪割りをふるってまで、あの地下道へ潜入したとすると、奥村君にしられたくないなんらかの秘密を、探りにいったんじゃないでしょうか」
「と、おっしゃると……?」
「わたしはまえにも申し上げたと思いますが、この名琅荘を建てた種人閣下の時代では、寝所としてはおもに日本家屋が使われていたのではないでしょうか。しかも柳町さんもいってましたね。あのひとのお姉さんの加奈子さんが、よくいってたそうじゃありませんか。自分はこのうちが気味が悪くてしかたがない。どこにいてもだれかに監視されているような気がしてならないと。と、いうことは日本座敷のほうにも抜け穴の入り口があり、そこから|嫉《しっ》|妬《と》に狂った一人伯が、妻を監視していたのではないでしょうか」
「金田一先生!」
田原警部補と井川刑事がほとんど同時に口走った。ふたりともひどく興奮しているらしいのだが、金田一耕助にはふたりの興奮の意味がまだよくわかっていなかった。
「陽子さんはそれに気がつくか、なにか思い当たるところがあったんじゃないでしょうか。しかし、建物の内部から調べるわけにはいかなかった。そこにいまだれが起居しているかしってましたからね。そこで外部からたしかめてみようとしたんじゃないでしょうか。そこを犯人に襲われたが、犯人は陽子さんを追跡するわけにはいかなかった。なぜならばおりあだかもわれわれが、潜入してることをしってましたからね。それが陽子さんを救ったんですが、こうして命からがら仁天堂から脱出して、奥村君に会って|昏《こん》|倒《とう》するまえ、あのひとがパパが……パパが……と、いったのは、パパがやったという意味ではなく、パパが危ないという意味じゃなかったのでしょうか」
そこで金田一耕助もはじめて気がついたらしく、凍りついたように立ちすくんでいる、ふたりの顔に懐中電灯の光をむけると、
「田原さん、井川さん、ど、どうかなすったんですか」
「金田一先生、すみませんでした。そうだ、先生はご存じなかったんだ」
「知らなかったとはなにを?」
「そうだ、あのとき先生はいらっしゃらなかった。さっき陽子さんの部屋に詰めているとき、東京の小山君から電話がかかってきたので、わたしはフロントへいきました。小山君のあとから風間氏が出られて先生になにかお話があるという。わたしの取り次ぎをきいて先生は入れちがいに部屋を出ていかれたが、その直後に篠崎さん夫婦が入ってこられたんです」
金田一耕助もハッとしたように、
「はあ、はあ、それで……?」
「森本先生から陽子さんが危機を脱したということをきいて、安心して出ていかれたんですが、そのとき篠崎さんのおっしゃるのに、今夜は家内といっしょに日本座敷のほうで寝ることになったからと……」
「しまった!」
金田一耕助が袴の裾をみだしてとびあがるのを見て、
「だって、せ、せ、先生、まさか今夜……まさか今夜……」
井川刑事が歯をガチガチ鳴らしているのは、タマ子の死体を思い出したからなのだ。あれこそは残忍無類のこの事件の犯人の性情の、このうえもなき表白ではないか。この犯人ならなにをやらかすかしれたものではない!
「いいや、いいや、今夜こそ犯人にとっては絶好のチャンスなんだ。犯人はまだ糸と針のトリックが暴露したことをしってはいない。陽子さんも地下道での襲撃者のすがたを、ハッキリ見ていないのではないか。しかも、片腕の怪人が地下道をうろうろしてると、われわれが信じていると思いこんでいる。だから犯人はまだ逃げられると思っているんだ。ところでそのときの篠崎さんのようすはどうだったんです?」
「ひどく泥酔していて、そ、そういえばなんとなく自嘲的で、万事に投げやりな態度でした」
日ごろ冷静な田原警部補も、そのときばかりは顔面が硬直して、懐中電灯を持つ手がふるえている。
「金田一先生、このモグラの穴へ潜り込むのが、いちばん早いんじゃねえんですか」
「おやじ、よせ、それはおれがやる!」
「いいですよ、脚の一本や二本……おんや」
モグラの穴へ潜りかけて、井川刑事はなにやら拾いあげると、懐中電灯で調べている。
「おやじ、どうした」
「これ、あの笛吹きの先生が口にくわえていた洋モクじゃねえか。先生、あの音楽家の先生、ゆうべこの鬼の岩屋のなかでタバコ吸ってたんですか。いんや、そうじゃねえな、この吸い|殻《がら》、ちっとも湿っちゃいねえ」
井川刑事が拾いあげた吸い殻を中心に、三人は無言のまま顔を見合わせた。それはたしかにあのヘビー・スモーカーの柳町善衛が、かたときも口からはなさぬ外国タバコの吸い殻で、湿りけもなくまだ新しかった。
「田原さん、柳町さんもあのとき陽子さんの寝室にいましたね。篠崎さんが今夜奥さんと、日本座敷のほうで寝るということを……?」
「そうだ、あの男もきいていました。じゃあの男もこんや日本座敷のほうで、なにか起こるということを……?」
その柳町善衛の部屋も廊下のほうから監視されているのだけれど、もし窓から脱出したとすれば、張り込みの刑事も気がつかなかったであろう。事態は切迫しているようである。
「とにかくここへ潜り込んでみるのがいちばんだ。ひとつやっつけべえか」
改めてモグラの穴へ潜りかけて、井川刑事がギョッとそこで立ちすくんだのは、当時この|裾《すそ》|野《の》のみならず、日本中を震撼させたあの最初の一発がきこえてきたからである。
ズドン!
鈍い、陰にこもった物音が、地下の遠くからひびいてきたかと思うと、
ズドン!
ズドン!
と、二度ほどおなじ物音があとにつづいて、
「金田一先生、あれ銃声じゃありませんか」
井川刑事が口走ったとき、金田一耕助はおもわず懐中電灯の光のなかに腕時計をかざしてみた。
時刻はまさに午前二時半。昔のひとが草木も眠るといった|丑《うし》|三《み》つ|時《どき》だ。
金田一耕助は|膝頭《ひざがしら》がガクガクふるえた。これはかれの大きな誤算である。犯人がいかに思いあがっているとはいえ、最後の凶行にひとの注意をひきやすい、ピストルを用いようなどとは夢にも思い及ばなかった。それともピストルをぶっ放したのは、被害者のほうであろうか。
一瞬三人はでくの棒のように立ちすくんでいたが、つぎの瞬間、
「チキショウ!」
と、井川刑事が歯ぎしりをして、モグラの穴へ潜り込もうとするのを、
「おやじ、おまえはいけない!」
肩をとって引きもどすと、
「おれがいってみる」
満面に朱を走らせた田原警部補が、モグラの穴にむかって身をかがめたとき、
ズドン!
と、第四発目がさっきよりだいぶんまぢかに聞こえ、ほんのしばらくおいたのち、鋭い女の悲鳴が地底の|闇《やみ》をつんざいたかと思うと、
ズドン!
ズドン!
と、銃声が二発つづいたが、それがあの腐朽荒廃の極に達した地下道の耐えうる限界だったにちがいない。もの|凄《すさ》まじい地響きを立てて地下道の崩壊する音が、あとからあとからとモグラの穴から伝わってきた。
「危ない!」
金田一耕助が足をとって引きもどしたので、田原警部補も潜入をあきらめて、|惘《もう》|然《ぜん》として立ちすくんでいる。
崩壊の音はつぎからつぎへと押しよせてきて、まもなくモグラの穴から土臭い|匂《にお》いが立ちのぼってきた。このようすではモグラの穴のむこうの出口も、落磐で埋まってしまったにちがいない。
「出ましょう。とにかくここを出ましょう」
この鬼の岩屋はよほど頑丈にできているにちがいない。地下の大崩壊にもかかわらず、蟻の門渡りは小ゆるぎもしてなかったのが、三人にとっては仕合わせだった。跛の井川刑事をしんがりに、鬼の岩屋から脱出すると、
「おやじ、君は仁天堂のほうへまわれ。あとからだれか派遣するからな。だけどおれが許可するまでは絶対になかへ入るな。テキはピストルを持っているし、落磐はまだつづいているようだ。金田一先生、われわれは日本座敷のほうへいってみましょう」
日ごろ温厚なこの警部補も、こういう場合はテキパキとして能率的である。途中出会った私服のふたりのひとりを仁天堂へ、ひとりを鬼の岩屋のほうへむかわせると、自分はひたすら走りに走った。金田一耕助も借りものの袴の裾をヒラヒラさせながら、警部補のあとを追って走った。
篠崎夫婦の寝所はすなわちそのかみの種人閣下の寝所である。十二畳の日本座敷に十畳のつぎの間がついており、奥のふかい大きな床の間に|床《とこ》|脇《わき》がついていて、床脇の下部は地袋になっているが、その地袋がくせものなのである。その背後の壁が床ごとくるりと回転するようになっているのは、あの仁天堂とおなじ仕掛けである。
寝所には寝床がふたつならべて敷いてあるが、ひとつが|蛻《もぬけ》の|殻《から》なのはそこに倭文子が寝ていたのだろう。寝床はそうとう乱れている。
もうひとつの寝床のうえに慎吾が仰向きに寝かされていて、お糸さんのお手伝いで、深尾看護婦がかいがいしく手当てをしていた。森本医師はもう引き揚げていたけれど、看護婦がおなじ屋敷内にいたということは、慎吾の運が強かったというべきだろう。老練な看護婦というものは、ときにとっては若い駆け出しの医者よりもたよりになるものなのである。
金田一耕助と田原警部補が入っていくと、慎吾が枕から頭をもたげてニヤッと笑ったが、その笑顔はどこか|悪《いた》|戯《ずら》を見つかった悪戯小僧のように、きまりが悪そうではんぶんベソをかいていた。だが、それは金田一耕助や警部補を安心させるに十分だった。
金田一耕助がそばへよって手を握ってやると、それを握りかえした慎吾の掌は温かく、力がこもっていた。
「看護婦さん、傷は……?」
「大丈夫でございます。一発はただかすっただけ、一発は腹部に命中してますが急所を外れています。もう少しうえだったら心臓をやられていたでしょうがねえ」
看護婦の声はそっけなかったが、この際、かえってそのほうが頼もしかった。
「大丈夫でございますぞな。旦那様は根がお丈夫にできていらっしゃいますけんなあ」
お糸さんの甘いとろけるような声をきいたとき、警部補は卒然として、さっき金田一耕助からきいた言葉を思い出していた。
あのばあさんもう少し若ければ、篠崎さんを口説いていたであろうと。
そのとき床脇の地袋から譲治につづいて、久保田刑事がはい出してきた。刑事はピストル片手にひどく興奮している。田原警部補がそのほうへ近寄って小声でたずねた。
「やっぱり片腕の男らしいですね。そいつがご主人を|狙《そ》|撃《げき》しておいて、奥さんをこの抜け穴からひっさらっていったんです」
「君はどうしてそれを知っているんだ。片腕の男を見たのか」
「だって御隠居さんやこの青年にきいたんです。このひとたち今夜このちかくの座敷に寝ていたんだそうです。銃声がきこえたのでとび込んでくると、ご主人がここに倒れており、この壁のむこうで、助けてえ、助けてえ、片腕の男が……片腕の男が……と、奥さんの叫ぶ声がきこえたそうです」
なるほど、そういうご趣向になっていたのかと、金田一耕助と田原警部補は顔見合わせてうなずいた。
譲治は眼を血走らせているがなにもいわず、お糸さんは深尾看護婦のお手伝いに余念がない。慎吾は無言のまま眼を閉じていた。
「それで君はあとを追っていったのか」
「ぼくがここへ駆けつけてきたとき、この青年が抜け穴へ潜り込もうとしていたんです。犯人がピストルを持っているらしいので、ぼくがさきに立って潜り込みました。ほら、犯人はここからピストルをぶっ放したんですぜ。少し壁が焦げてます」
床脇の地袋のうえの壁にお能の面がひとつかかっている。それは金田一耕助が倭文子の顔からつねに連想していた|小面《こおもて》である。
「この面ひじょうに巧妙にできていて、むこうから操作すると両眼が開くようになっているんです。この左の眼から狙撃したらしく、壁のうらがわが焦げています」
「それで、君、犯人を追っかけていったのかい」
「いこうとしたんです。この壁のすぐむこうに下へ降りる階段がついてます。その踊り場までくると、下のほうでズドンという銃声がして、女の悲鳴が聞こえました。いや、女の悲鳴がさきだったかな。それからつづいて二、三発銃声がしたかと思うと、グヮラグヮラグヮラ。その青年がうしろから抱きとめてくれなきゃ、こっちも生き埋めになるところでした。お気の毒にこちらの奥さん、おそらくだめでしょう。そのかわり犯人のやつも……」
久保田刑事は若くてハリキリ型だけれど、まだなにも知ってはいないのである。そういえばこの座敷もなんとなく|埃《ほこり》っぽい匂いがしている。
なるほど金田一耕助という男がいて、種明かしをしてくれなければ、われわれも犯人のために振りまわされ、まんまと思う|壷《つぼ》にはまっていたかもしれないと、田原警部補もため息をつかずにいられない。
そこへ奥村秘書の自動車で森本医師が駆けつけてきた。奥村秘書は平服のまま、陽子の寝室のそばちかく詰めていたのだが、それがまたこの際ものをいったのである。
森本医師はちょっと患者を診察すると、
「なあんだ、案外しっかりしてるじゃないか。秘書君が大げさなことをいうもんだから、こっちはどんな重態かと肝を冷やしたぜ」
と、携えてきた|鞄《かばん》のなかから必要な器具を取り出すと、
「じゃ、|弾《た》|丸《ま》を抜くからさあみんなどいた、どいた」
「じゃ、またのちほど」
金田一耕助が慎吾に挨拶をして寝所を出ると、みんなそれに習ったが、お糸さんだけは|梃《てこ》でも動きそうになかった。
「いいえ、わたしはここにいますぞな。わたしはこのうちのヌシですけんな」
寝所から外へ出ると鑑識のものが待っていた。
「主任さん、これ」
渡されたのは西洋封筒である。
「ああ、そう、ご苦労様」
田原警部補がそれをポケットに突っ込んで、金田一耕助とともに表のフロントへかえってくると、おおぜいの私服や警官が待機している。警部補はそのひとたちに適当な指令をあたえて立ち去らせると、ポケットから封筒を取り出して封を切った。なかから出てきたのはハガキ大に引き伸ばされた三枚の写真である。警部補はひととおりそれに眼を通すと、だまって金田一耕助のほうへ差し出した。
それはどこかの旅館の奥座敷だろう。乱れた夜具のうえにふたりの男女がいるが、あきらかにそれは辰人と倭文子であった。ふたりとも裸ではなかったが、それにちかい姿である。なかに一枚そのものズバリの写真があるが、それではふたりとも顔がハッキリしていない。それをハッキリさせるために、前後の情景にむかってシャッターが切られたのであろう。
むろん盗み撮りされたものにちがいないが、それを撮影したのが天坊さんだと思うと、そういう写真を撮られたふたりもふたりだが、天坊さんのそういう浅ましい行為にたいして、心が寒くならざるをえなかった。
「これで見ると、井川さんの推理は正しかったようですね」
「はあ、しかし、われわれはそれを逆に考えようとしていたんですね。だからこそ篠崎さんが……と。先生というかたがいらっしゃらなければ、たいへんな過ちを犯すところでした」
田原警部補はふかぶかと頭をたれた。
地下道の大崩壊はいちおうおさまったかにみえたが、小さな落磐は明方までつづいた。その後倭文子と柳町善衛の姿がみえないので、地下の落磐の底に埋まっているのではないかと憂慮されたが、落磐がその後もつづいているので手のつけようがなかった。
慎吾の手術はうまくいった。弾丸が急所をはずれていたので、その後の経過は思ったより良好だった。正午ごろかんたんな|訊《き》き取りならばという許可が医師からおりたので、金田一耕助が田原警部補とともに寝室へはいっていくと、慎吾は寝床のうえに仰臥したまま眼をつむっていた。あたりにはだれもいなかった。
ふたりは左右から枕下にすりよると、
「金田一先生、あなたからどうぞ」
田原警部補はばんじ金田一耕助に下駄をあずけるつもりらしいが、それを聞くと慎吾は駄々っ児のように首をふって、
「そいつはまずい。警部補君、そいつはまずいよ」
「まずいとおっしゃると……?」
「おれこの先生にゃヨワいんだ。この先生なにもかもお見通しだからな。嘘をつくわけにゃいけねえ」
「あっはっは、恐れ入ります。そこがこの主任さんのつけめなんでしょう。さあ、泥を吐いてください。昨夜のことだけでいいんです。あとはもうだいたいわかっています。証拠もあがっているんです」
証拠があがっているといったのはハッタリではない。
あの鎌倉彫りのお盆を精密検査したところ、からみ合った二匹の竜のひとつの眼に、小さな穴が発見されたのみならず、その穴のおくから折れた針の先端が掘り出された。犯人は鍵がお盆のうえにもどるまでのあいだに、針が抜けることをおそれて強く突っ立てすぎたのである。そして、最後に強く糸をひいたとき、針の先端が折れてお盆のなかにのこったのだが、それがあまりにも微細な折れめだったので、犯人も気がつかなかったらしく、彼女の持ち物を調べたところ、先端の折れたフランス|刺繍《ししゅう》の針が発見された。彼女がいちどでもその針を使っていたら、そのことに気がついたであろうが、そのひまがなかったのはやむをえまい。その針とお盆のなかから摘出された先端は一致した。
「金田一先生、たったひとことお聞きしたい。天坊さんやタマ子を殺したのは……?」
「やっぱりあのひとだったのです。いま証拠があがっているといったのもそのことなのです。古館さん殺しについてはまたあとでゆっくり話してあげましょう。で、昨夜のことは……?」
「ゆうべわたしは泥酔していた。よく眠りこけていたんだ」
慎吾はうつろの眼を天井にむけたまま、淡々として語りはじめた。まるで暗誦するような語りくちである。
「だから何時ごろだったかと聞かれてもわたしには返事ができない。とつぜん倭文子の悲鳴に眼をさましたら、この部屋にはあかあかと電気がついており、倭文子の姿は見えなかった。ふと見ると床脇の地袋の|襖《ふすま》がひらいており、わたしははじめてそこに抜け穴があることをしったのです。おやと思ってそのほうへむかって起きなおったとき、ズドンと一発ここへくらいました」
と、腹にまいた包帯を指さし、
「わたしはとっさに掛け|蒲《ぶ》|団《とん》をひっかぶって、畳のうえへころがり出たんだが、そのとき二発目が左の肩をかすめたのです」
あとで壁の背後へまわって、お能の面の左の眼を調べたところ、慎吾が畳の外へころがり出ると、ピストルの射程から死角に入ることになっていた。とっさの間にそれだけの機転がきいたということは、慎吾にはなんらかの襲撃があることが予想され、あらかじめ覚悟ができていたのではないか。しかし、いまそれを聞いてもこの男は口を割るまい。
「そこへお糸さんと譲治君がとびこんできたんですね」
「ええ、そう、あの連中がどうしてあんなに早く、やってきたのかわたしにはわからない。ふたりとも頭から蒲団をひっかぶっていたようだったな」
「そのとき奥さんなにかいってませんでしたか。だれかに襲われたとか……」
「そうそう、片腕の男がどうとかしたといってたようだな」
しかし、慎吾の口調にはなんの感動もなく、その声はむしろ機械的だった。
「結構です。このうえはいちにちも早いご回復をお祈りいたします」
そのあとでお糸さんと譲治が取り調べられたが、お糸さんはケロリとして、
「わたしはただ旦那様のおそばにいたかっただけのことですぞな。でも、ひとりでは怖うございましたので、このひとに付き合うてもろうただけのことでございますがな」
それ以上は口を割らなかった。
地下道の発掘が着手されたのは午前八時ごろのことである。町から消防団員や|鳶職《とびしょく》のひとたちが駆けつけてきて警官隊に協力した。発掘は仁天堂のがわから行われた。ダリヤの間の側からでは崩れた|瓦《が》|礫《れき》を運び出しようがなかったからである。
もちろんそれまでにいくどか倭文子や善衛の名が呼ばれたが、応答らしきものはいちどもなく、その生存ははじめから危ぶまれていた。
発掘は遅々として進まなかった。なにしろ狭い地下道のことだし、ちょっとした衝撃によってでも、いつなんどきつぎの大崩壊をまねきかねまじき状態だったからである。
午後二時ごろまず柳町善衛が発掘された。かれの倒れていたところは鼠の陥穽より少し手前だったそうである。かれは右手にピストルを握っていながら、左肩に銃創をおうていた。かれはまだ死んでいなかったので、ただちに名琅荘の一室に運びこまれて、森本医師の手当てをうけたが、それから二時間ののち息を引きとった。息を引き取るまえかれは|枕《ちん》|頭《とう》に詰めかけている金田一耕助や田原警部補にむかって、つぎのような告白をしていった。
古館辰人を殺害したのは自分である。自分はあの仕込み杖で辰人を殴打し、昏倒させ、そのあとでロープで絞め殺したのである。そこへ仁天堂のほうからひとの話し声がきこえたので、いったん死体をガラクタ道具のかげに隠しておいて、裏門から外へとび出した。そしてなに食わぬ顔で散歩しているところへ、陽子と奥村秘書がやってきたので、さりげなくふたりを倉庫に導いたのは、そこになにもないことを見せておきたかったのである。そこへ譲治が馬車をひいてかえってきたので、それから急に思いついて、いったん名琅荘へかえったのち、陽子や奥村がバスを使っているあいだに、大急ぎで倉庫ヘ引き返し、ああいう工作をしておいたのは、アリバイをより完全にするためであった……と。
天坊さんやタマ子殺しについても質問されたが、かれはもうそれに答えることができなかった。以上の告白をするのが精一杯だったらしく、それが終わると意識が混濁しはじめて、まもなく息を引き取ったのである。
思えばこの男にとって人生とは、苦渋にみちたものだったろう。
倭文子が死体となって発掘されたのは、それからさらに二時間おくれて、午後六時ごろのことだった。
その報をきいて田原警部補とともに駆けつけた金田一耕助は、ひとめその死体を見ると、あまりの|凄《せい》|惨《さん》さに、|慄《りつ》|然《ぜん》としてその場に立ちすくんでしまわずにはいられなかった。
倭文子の死体は鼠の陥穽のなかによこたわっているのだが、その周囲には逃げおくれたおびただしい数のドブ鼠どもが、うえから左右から照らす数条の懐中電灯の光のなかで、泥水をはねあげながら駆けずりまわっていた。
これを発掘したのはあの執念のひと井川刑事であったが、さすが老練なこの老刑事も、あまりにも凄惨たるこの|亡《なき》|骸《がら》に、|茫《ぼう》|然《ぜん》自失しながらも眼に涙をいっぱい浮かべていた。おそらくあの哀れなタマ子の遺体を思い出しているのだろう。
これを思うに鼠の陥穽は、ひと思いに埋没したものではなかったらしい。なにかがつっかえ棒になってその下は空洞になっていたのであろう。あの誇り高き倭文子の|美《び》|貌《ぼう》はもうそこにはなかった。そこにあるのはおびただしいドブ鼠どもにかじられ、かみ裂かれた肉と血の塊だけだった。ある部分ではもう骨さえのぞいていた。彼女は|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》一枚だったが、はだけた胸にはもう乳房さえなかった。
さすが屈強な発掘隊のひとびとが、声を失って立ちすくんでいたのもむりはない。
田原警部補の督励によって、彼女の死体はただちに名琅荘の日本座敷ヘ移されて、からだのいろいろな特徴から、それが倭文子にちがいないと確認されたのち、森本医師の検証をうけた。
森本医師の検死検案書は世にも恐ろしいものであった。彼女は腕と股に二発の弾丸をうけていたが、その生命をうばったものはそれらの|弾《だん》|痕《こん》でもなく、また崩壊のための打撃でもなかったであろう。彼女の生命をうばったものは、おそらくあのおびただしい鼠の群れであったろうと聞いたとき、金田一耕助は二度三度、全身をつらぬいて走る|戦《せん》|慄《りつ》をおさえることができなかった。
あの誇り高き女性は生きながらにして、鼠の餌食にされてしまったのである。
思えばきょうは十月二十日、いまから二十年のその昔、この名琅荘で大惨劇が演じられた日である。金田一耕助はそれほど古い人間ではなかったが、それでもなおかつ、古くからこの国に伝わる言葉を思い出さずにはいられなかった。
因果応報。
金田一耕助はふかいため息とともに、それでもなおかついっぽうでは、|安《あん》|堵《ど》の胸をなでおろさずにはいられなかった。これでもって、さしも世間を騒がせた迷路荘の惨劇も、終止符を打つであろうと。
第十六章 殺人リハーサル
「譲治君、これで君も安心したろう。君の親愛なる親分はシロだった。いや、シロであったのみならず、あやうく犯人に血祭りにあげられようとなすった。君とお糸さんというひとがいなかったら、犯人は目的をとげていたかもしれない。で、なにもかも打ち明けてもらえるだろうね」
「先生、それで犯人というのは……?」
「もちろんあの女さ。鼠にかみ殺されたあの女さ」
鼠にかみ殺されたあの女……と、口にするとき、金田一耕助の口調には、きたないものでも吐き捨てるような|嫌《けん》|悪《お》のひびきがきびしかった。それは譲治のみならず、そこに居合わせた田原警部補や井川刑事、速記に当たっている小山刑事たちさえ、おもわず顔を見直さずにいられないほど、嫌悪と|侮《ぶ》|蔑《べつ》にみちていた。
時刻はすべてが終わった火曜日の夜の八時ごろ、場所は名琅荘のフロント、登場人物は日曜日の夜の第一回訊き取りとすっかりおなじ顔触れである。小山刑事は東京での任務をおえて、きょうの午後かえってきたのである。
「なあ、譲治君、タマちゃんは気の毒だった。しかし、タマちゃんが鼠にかじられたとき、あの娘はもう死んでいたんだ。ところがタマちゃんをそういう目にあわせたあの女は、生きながらにして鼠にかみ殺されたんだ。君もこれで満足するんだね」
「先生、ありがとうございます」
譲治は|悄然《しょうぜん》と肩を落として、タマ子の死体を発見したときのあの凶暴さはもうなかった。
「そう、それでは率直に打ち明けてくれるね。金曜日の夕方ダリヤの間から消えた、片腕の男は君だったんだろうね」
小山刑事は驚いたように譲治の顔を見直したが、相手はすなおにうなずいて、
「先生、すみませんでした」
「いや、ぼくに謝ることはないが、それお糸さんの差し金だろうね」
「はい」
「お糸さんはなんといって君をけしかけたの」
「あしたあいつがやってくる。ひとつ脅かしてやるんだって。御隠居さんはすごくあの男を憎んでたんです」
「それでタマちゃんは君に気がつかなかったんだね」
「あいつ|近《ちか》|眼《め》だもんだから。ぼくひとつにはタマッペをからかってやるのが、おもしろかったので引き受けたんです」
「ついでに聞くが、近ごろこのあたりに現れる、片腕の男というのも君だったんだろうね」
「すみません、ぼくあの御隠居さんにヨワいんです」
「なぜ? タマちゃんのことがあるから?」
「ううん、そのまえからです。あのひとぼくが混血児の戦災孤児だということをしっていながら、そんなこと問題じゃないって、とてもぼくを可愛がってくれるんです」
一同はおもわず顔を見合わせた。こういう種類の人間は、つねに人の情けに飢えているのだろう。
「なるほど、それではもうひとつ聞くが、日曜日の晩、われわれがダリヤの間から抜け穴へ潜り込んだとき、途中で待ち伏せしていた男も君だったんだね」
「はい」
「なぜあんなまねをしたの」
「それは……それは……」
譲治は焦燥の色をうかべ、
「みんなおやじさんを疑っていると思ったからです」
「そればかりじゃないだろう。君はあいつとあの女とのあいだに、その後も関係がつづいていることを知ってたんじゃないの」
「せ、先生、先生もそのことを知ってたんですかあ」
「まあね。しかし君はどうして知ってたの」
「タマ子に聞いたんです」
一同はハッと顔を見合わせた。
「いつ?」
「それはこうです。タマ子はまえに本宅にいたもんだから、あの女をよく知ってるんです。その時分あの女が怪しげなホテルから、男といっしょに出てくるのを見かけたことがあるそうです。ふたりともタマ子には気がつかなかったんです。タマ子はびっくりしたが、そのときはその男がだれであるかわからなかったんです。あいつも利口なやつだから、だれにもいわずにそのことを、自分の胸ひとつにおさめておいたんです」
「なるほど、それで……?」
「ところが土曜日の昼過ぎ古館辰人と名乗って、その男がこの家へやってきたでしょ。それではじめてタマ子にも、あの女が密会しているあいてがだれであるかわかったんです。それでもタマ子はだれにもそれをいわなかったんですが、そしたらそのあとであんなことがあったでしょ。あんとき倉庫を出てぼくの部屋へいっしょにかえってくると、タマ子がひどくおびえているのでぼくが問いつめたら、とうとうほんとのことを打ち明けてくれたんです」
これでみるとタマ子はどっちへ転んでも、生きていることはできなかったかもしれない。
「それで、君、どうしたの?」
「タマ子には固く口止めしておきました。ところがそのあとで現場から、おやじさんの仕込み杖が出てきたでしょ。だから……だから……」
「君自身、おやじさんがやったんじゃないかと思ったんだね」
「まさかとは思いました。おやじさんならなにかのはずみであんなことやったとしても、いさぎよく自首して出ると思ったんです。あんな変な小刀細工をするひとじゃありません。しかし、万一ってことがありますから」
「それでわれわれを|瞞着《まんちゃく》し、片腕の男が実在するがごとく擬装し、捜査を混乱させることによって、篠崎さんを救おうとしたんだね」
「すみません」
譲治は身をちぢめて恐縮している。
「あっはっは、君のその|旺《おう》|盛《せい》な忠誠心はいちおう篠崎さんのお耳に入れておくよ。だけどその結果はしらないぜ。おほめにあずかるか、お叱りをうけるか」
「せ、先生、そんなことしねえでくだせえよ。ぼく叱られるにきまってるんです。おやじさん、そんな小刀細工をするのが大きらいなんです」
「まあいいさ。ときに君があんなまねするってえこと、御隠居さんは知ってたのかい」
「いちおう相談はしました。だけど御隠居さんはなんにもいわなかったんです、好いとも悪いとも。だからあれはぼくの一存でやったもおんなじなんです」
「ああ、そう、いいよ、わかったよ。それじゃ最後にひとつ、譲治君に教えてもらいたいことがあるんだがね」
「はあ、どんなことですか」
「金曜日の朝、御隠居さんのところへ東京の篠崎さんから電話がかかってきたことになってるだろ。いや、電話局を調べてみてもほんとにかかってきてるんだが、あれはだれがかけてきたの」
「ああ、あれ」
譲治は口をほころばせて、
「あれは今度の事件になんの関係もないんです」
「じゃ、だれがかけてきたんだ」
「それはこうです。ぼく東京のTホテルで一年修業してきたってことまえにいったでしょ。その時分ぼくをとっても可愛がってくれたボーイ頭のひと、山岡さんというひとですが、そのひと今度アメリカのホテル業を視察見学にいくことになったからって、水曜日にここへ挨拶にきたんです。そのひとまえにもここへやってきて、御隠居さんととても仲好しになってるもんですから。そのひと水曜日の晩ひと晩ここへ泊まって、木曜日の昼ごろここを立って東京へかえり、金曜日の正午ごろ羽田からアメリカヘ立つことになってたんです。御隠居さんそのひとにちょっとした用事を頼んだんです、東京のほうで。そしてその結果を羽田を立つまえ、これこれこういうところから、電話をかけて知らせてほしいと頼んどいたんです。山岡さんその約束を守って金曜日の朝、御隠居さんのところへ電話をかけてきたんです」
「それをあのばばあが篠崎さんからだと、みんなをだましやがったんだな」
狸刑事は狸のような目玉をくりくりさせているが、しかし、その|声《こわ》|音《ね》には、もう不愉快そうなひびきはなかった。
「そうです、そうです。敵を欺かんと欲すればまず味方よりって、おやじさんまでだまされてたんです」
「つまりそれを篠崎さんからの電話だということにして、きょうの夕方真野信也なる人物が、自分の名刺をもってそちらへいくから、ばんじよろしくってことにしたんだね」
田原警部補も笑いをかみ殺している。
「そうです、そうです。あの御隠居さん、すっごおくアタマがいいもんだから、みんなひっかかったんです」
「それであの名刺もばばあが書いたのかい」
「もちろんそうです。おやじさんの名刺ならいくらでもあります。それにおやじさん特別肉太の万年筆使うでしょ。だからまねがしやすかったんです」
「その名刺をもって坊やがあっぱれ、真野信也なる片腕紳士になりすまし、ここへやってきてタマッペをだましたというわけか」
「そういうこってすね」
「ばばあ、なかなかやるじゃないか」
「だからいったでしょ。御隠居さんすごくアタマがいいって」
「そうすると、譲治君、こちらにこういう騒ぎが持ち上がってる時分、山岡さんはもうアメリカへ飛んでたわけか」
「そうです、そうです。だから山岡さんこちらにこんな騒ぎが持ち上がってるなんてことまだしらんでしょ。よしんば知ってても自分のかけた電話が原因だなんて気がつかんでしょ。だって山岡さんのかけてきた電話、まじめな話だったんですからね」
ひとしきり快い|哄笑《こうしょう》の|渦《うず》が一座を支配した。ペテンもこれくらいみごとにひっかかると、かえって腹が立たぬものらしい。
金田一耕助も涙を拭きながら、
「わかったよ。譲治君、さすがのこのぼくもこればっかりはまんまとひっかかったと、御隠居さんにいっといてくれたまえ。それじゃ君はもう退ってもいいよ。いずれここにいる主任さんからブン屋諸公に発表がある。そうすれば君にもだれがなぜあの男を殺したかわかるだろうよ。さあ、君はもう退ってタマちゃんに線香でもあげておやり」
「金田一先生」
譲治は椅子から立ち上がると、直立不動の姿勢で、
「ありがとうございます」
ふかぶかと頭をさげて出ていったあと、井川刑事が待ちかねたように、
「金田一先生、あなたはいまだれがなぜあの男を殺したかとおっしゃったが、殺したのは柳町善衛とわかっている。しかし、あの男がなぜ古館辰人を殺したかご存じですか」
「ああ、そう」
金田一耕助もその質問を待っていたかのごとく、袴の裾をさばいて立ち上がると、
「それじゃこれからあの倉庫へいって、犯行の現場を再演してみようじゃありませんか」
時刻は八時半を過ぎていた。
しかし、まえにもいったとおり倉庫には、五個の電球がぶらさがっているので、それを全部点灯すると、これから金田一耕助が実演してみせようという、犯行の現場を再現するのに十分な照明といえたろう。
そこにいるのは金田一耕助のほかに田原警部補と井川、小山の両刑事。この事件に因縁浅からざるひとびとである。金田一耕助がいったいなにを演じてみせるのかと、一同は期待と緊張に|固《かた》|唾《ず》をのんでいる。
金田一耕助はがらんとした倉庫のなかを見回したのち、
「ええと、それじゃ井川さん、あなた古館氏の役を演じてください」
「古館氏の役というと……?」
「左腕を縛る必要はありませんが、左腕は絶対に使えないものと思ってください」
「それで……?」
「それじゃ壁際の滑車をまわして、天井からぶらさがっているロープの端を床までおろしてください」
井川刑事がいわれたとおりにすると、ロープの先端がおりてきた。ロープの先端は輪になっている。
「じゃその先端をそこにある砂袋のところへ持っていって、その輪で砂袋の胴をしっかり結わえつけるようにしてください。左腕を使っちゃいけませんよ」
一同は砂袋ときいておもわず顔を見合わせたが、しかし、まだ金田一耕助の意図するところはわかっていない。井川刑事はふしぎそうな顔をしながらも、金田一耕助にいわれたとおりした。左腕を使わなくてもわりに造作なくやれた。
「では今度は滑車を逆に回転させて、砂袋をたかだかと吊るしあげてみてください」
井川刑事がいわれたとおりに行うと、二十貫あるといわれる砂袋が、やすやすと天井高く吊るしあげられていき、一同の唇からふかい驚きの声がほとばしった。
「井川さん、あの砂袋はあのままにしておいて、いちおうロープをその壁際の止め金でとめておいてください」
この老刑事にもどうやら金田一耕助のいわんとするところがわかってきたらしく、興奮にふるえる指でロープをとめると、
「で……?」
と、いどむような眼を金田一耕助のほうへむける。しかしそこにはもう以前のような敵意はなく、むしろ相手を扇動しているようである。田原警部補と小山刑事も、天井からぶらさがった砂袋に眼をやりながら、緊張に顔面筋肉を硬直させている。
金田一耕助は多少テレたように、モジャモジャ頭をかきまわしながら、
「みなさんはこの砂袋の重量と篠崎さんの体重が、ほぼおなじだということはご存じですね。つまり古館さんの考えでは、たとえ片腕しかない非力の男でも、滑車の原理を利用すると、篠崎さんのような大兵肥満の人物を、吊るし首にすることができるのであるぞ、あらかじめ仕込み杖の握りで殴打|昏《こん》|倒《とう》させておけばという、いわばこれは片腕の男、篠崎さんを殺害するという事件の予行演習……つまりリハーサルだったんですね」
一同は天井高くぶらさがっている砂袋に眼をやり、さらにそれを篠崎慎吾のからだにおきかえてみて、改めてある恐ろしい戦慄が、足下からはいあがってくるのを禁ずることができなかった。
「そうすると金田一先生、古館氏はこちらへくるまえから、金曜日の夕方、片腕の男がこちらへ現れ、そして消えたということを、あらかじめしっていたんですね」
「主任さん、譲治の馬車で、わたしがこちらへ到着する直前、雑木林のなかを駆け抜けていく、片腕の男を目撃したということは、いままでたびたび申し上げてきましたね。ところがあれが古館氏だったとすると、いや、古館氏以外に考えられないのですが、そうすると古館氏はなぜあの時刻に林のなかを|彷《ほう》|徨《こう》していたのか、ひょっとするとこのわたし、金田一耕助に片腕の男の存在を印象づけておく必要があったのではないか。と、するとわたしがあの時刻に、こちらへ到着するということをしっていたことになります。ところがそれをしっていたのは篠崎さんご夫婦とお糸さんだけです。したがってそのなかのだれかが古館さんに通報したのではないか。と、すると金曜日の夕方の片腕男の出現も通報することができたはずです。げんに古館さんは片腕男のユニフォームを、あらかじめご持参だったんですからね」
「そうすると、金田一先生、あのふたりは金曜日の夕方こちらへ現れて消えた、正体不明の片腕の男を利用して篠崎さんを殺し、その罪を片腕の男に転嫁しようとしたんですね」
井川刑事はいまや敬虔なる生徒のごときものである。
「そういうこってすね」
「その予行演習の現場を、柳町さんに見られたってことですか」
田原警部補も熱心な聴講生のひとりである。
「そうです、そうです。古館さんとしては、名琅荘から遠くはなれた倉庫のなか、だれもやってくるはずがないとタカをくくっていたんでしょうが、あにはからんや、ついちかくに抜け穴の出口の仁天堂があった。それを見落としていたのが|一《いち》|期《ご》の不覚、そこを抜けてきた柳町さんは、倉庫のなかでひとの気配がするのでのぞきにこられた。これは古館氏としては致命的な障害ですね」
「それはそうです、そうです。リハーサルの現場を見られちゃ、本番を演出することができない。リハーサルから本番の意図が察知されたかもしれませんしね」
「柳町さんがそのときとっさに、そこまで洞察されたかどうか疑問ですが、ふたりは以前から|深讐《しんしゅう》綿々の間柄だし、また柳町さんは古館氏の性格をよく知っているはずです。陰険で|狡《こう》|猾《かつ》なエゴイストであるということを。だからまた、好からぬことを企んでいるなということくらいはわかったでしょう。いっぽう古館氏としては致命的な場面を見られてしまった。しかも、よりによって仇敵柳町さんに。おそらく古館氏のほうが逆上して、仕込み杖をふるって襲いかかったのでしょう。そこでふたりのあいだで深刻な闘争が起こったが、悲しいかな、古館氏は左腕が自由にならなかった。結局柳町さんに凶器をうばわれ、あべこべに後頭部をぶん殴られて昏倒した……」
「柳町善衛としちゃ積年の|怨《うら》みがこって爆発したでしょうからなあ」
と、井川刑事も慨嘆するように、
「つい力が入ったんでしょうな。それにいま金田一先生がおっしゃったように、柳町さんにはとっさに辰人のやつの計画が、わかったかどうかは疑問としても、|佞《ねい》|奸《かん》邪知のその性格はよくしっている。なにかまた好からぬことを企んでいるにちがいないと、そこでぐっとひと絞め、ありあうロープで絞め殺した……」
「柳町さんとしては|疫《えき》|癘《れい》みたいなその男を、この世から葬り去ろうとしたんでしょうね。個人的遺恨もあったでしょうし、毒食わば皿というような|棄《す》て|鉢《ばち》な気持ちも手伝ったのでしょうねえ」
だが、そういう金田一耕助の声は悩ましそうで、かつまたひどく悲しそうであった。
「そこへ仁天堂のほうから、ひとの気配がきこえてきたというわけですか」
「おそらく陽子さんと奥村君は、キャッキャッと笑いさんざめいていたことでしょうからね」
「そこで大急ぎで死体をガラクタ道具のかげにかくし、砂袋をおろして仕込み杖とともにロープの束のしたに押し込んでおいて、自分はここをとび出し、なにくわぬ顔で裏門の外でふたりに出会って、またここへふたりを引っ張ってきたというのは、ここになにもないということを、ふたりに見せておきたかったんでしょうな」
「井川さんのおっしゃるとおりだと思います」
「そのときパイプを落としていったのは、あとからそれを探しにくる口実を作っておいたんですね」
「そうだ、それにちがいねえ。そうしておいていったん本館へとってかえしたが、ほかのふたりがシャワーを使っているあいだに、ひそかにここへ引き返してきて、死体を馬車のうえにおいたんだな。それでアリバイが完全に出来上がったというわけか」
「金田一先生、そのとき柳町さんはあの滑車を使ったんじゃないでしょうかねえ」
「そ、そうですよ、そうですよ」
金田一耕助はいかにもうれしそうに、頭のうえの雀の巣をかきまわしながら、
「もし柳町さんがそうなすったとしたら、そのじぶんにはもう古館氏があの砂袋をつかって、なんの予行演習をしていたか、わかっていたんじゃないですか。したがってあの滑車をつかって古館氏を吊るし上げた人物は、なんの良心の|呵責《かしゃく》もなく実行できたと思うんです」
「しかし、その柳町善衛がゆうべまた、なんだってあの地下道へ潜りこんだんです」
これは井川刑事のもっともな疑問である。
「それはおそらくタマ子の死体を見たからでしょうね。あの見るもむごたらしいタマ子の死体を見たとき、柳町さんのうけたショックは非常なものだったようです。あの女はそうすることによって、犯人は男であると思わせたかったのでしょうが、男ならばたとえタマ子を殺しても、その死体を鼠の餌食にしようというほど残酷にはなれませんよ。それができるのはむしろある種の女性でしょう。柳町さんはあの女の性格のなかに、そういう残忍性があることに、気づいていらしたんじゃないでしょうかねえ」
あの女と発音するとき金田一耕助の声帯は、つつみきれない嫌悪の情ではげしくふるえた。かれが扱ってきたどの事件の犯人のなかにも、これほど嫌悪すべき性格はなかったのではないか。
「柳町さんに犯人がだれだかわかったとすると、つぎの犠牲者も予想できたわけですね」
「と、いうことでしょうね。しかも、柳町さんにはその犯人を告発することができなかった。かつて婚約者だった女……あるいはたんなる婚約者ではなく、ひそかに愛していた女だったかもしれない。しかも、同族意識もあったでしょう。その女が世にも残忍な殺人鬼であるとしったとき、柳町さんは絶望の思いにうちひしがれたんじゃないでしょうか」
「その殺人鬼がこんや亭主といっしょに寝るとしって、そいつを食いとめようと思ったのかな」
「だと思いますね。柳町さんはもうすでにひとひとり殺しています。いかにきっかけが正当防衛とはいえね。だからあの女を殺して、自分も死のうというくらいの覚悟はできていたかもしれませんね」
「すると、柳町さんは日本座敷ヘ通ずる抜け穴を知っていたんですね」
「陽子さんですら見当がついたくらいですからね。ましてやしょっちゅうのぞかれていた、お姉さんから話をきいていらしたんですからね。知らないほうがおかしなくらいのもんでしょう」
「するとこういうことですね。柳町さんはさいごの犯罪を阻止するか、こととしだいによってはあの女を殺し、自分も自殺するつもりで地下道へ潜り込もうとしたが、ダリヤの間にも仁天堂のほうにも警官が張り込んでいる。そこでその前夜、譲治のおかげではじめてしったモグラの穴から地下道へ抜けた。いっぽう女のほうでは篠崎さんの寝込みを見すかし、床脇の入り口からそとへ抜け出し、あたかも片腕の男に襲われたかのごとく悲鳴をあげ、篠崎さんが目を覚まして起きなおったところを狙撃した。結局は失敗したが、篠崎さんを射殺しておいて、自分はあくまで片腕の男に|拉《ら》|致《ち》されようとしたのであると、こう見せかけるつもりだったんですね」
「おっしゃるとおりだと思います。いずれピストルはどこかへ隠しておいて、自分は適当なところで失神しているところを、捜査当局に発見され、救助される……と、こういう筋書きになっていたんじゃないでしょうか」
「そこへ柳町さんが割り込んできたので、すっかりグレハマになっちまった。ああして柳町さんも一発くらってるところを見るてえと、犯人はやけのやん八、柳町さんもぶっ殺すつもりのところ、あべこべにピストルをもぎとられ、二発くらったというわけですな」
「しかも、その衝撃で大落磐が起こったんですから、結局は柳町さんの希望どおりになったというわけでしょう」
金田一耕助はしばらく無言でいたのちに、
「あのピストルは篠崎さん秘蔵のものではなかった。古館氏がどこかから手に入れて当てがったものか、あの女自身が直接入手したものか、いちおう出所を調査しておかれることですね」
「それにしても、金田一先生」
田原警部補は|怪《け》|訝《げん》にたえぬ面持ちで、
「ゆうべ寝所をともにしようといい出したのは、女のほうにちがいないが、篠崎さんがやすやすその手に乗ったのはどういうわけです。篠崎さんはぜんぜん気がついていなかったのでしょうか、あの女のことに」
金田一耕助は一同の視線が自分に集まっていることを意識して、深刻な顔をしていたが、やがてニッコリ白い歯を出してわらうと、
「こればっかりはあのやんちゃ坊主先生も泥を吐きますまいよ。プライドに抵触することですからね。しかし、半信半疑どころか、強い疑惑はもっていたにちがいない。だけどそういう女を妻にえらんだという自己の不明にたいして、大きな挫折感はもっていたにちがいありませんね。そこからくるどうにでもなれという棄て鉢な気持ちと、もうひとつは相手がどういう出方をするか、お手並み拝見という、あのひと一流のアドヴェンチュラスな気持ちと、その両方からだったんじゃないでしょうか。しかし、どっちにしても人騒がせな話でした」
そこでふっと話題がとぎれて、味の濃い沈黙が四人のあいだに落ち込んできた。がらんとした暖房のない倉庫のなかにいると、晩秋の夜の冷気が足下からはいのぼってくるようである。小山刑事はそこにぶらさがっている砂袋と、古館辰人が威風堂々と乗り込んでいた馬車を見くらべていたが、やがてかすかに身ぶるいをすると、
「それにしても、金田一先生、あの連中はなんだって篠崎さんを殺害しようとしたんです。もちろん財産目当てでしょうが、なにもよりによってこんな場所でやらなくても、いくらでもほかに機会があったでしょうが」
いかにもそれは理にかなった疑問だったが、それを聞くと金田一耕助、とつぜんガリガリバリバリ、雀の巣のようなモジャモジャ頭をひっかきまわしながら、
「そ、そ、それですよ、それですよ。こ、こ、この事件の興味のあるところは!」
かれの雀の巣ひっかきまわし運動があまり猛烈だったので、フケはとんで散乱し、そのどもりかたがあまり激越だったので、|唾《つば》は|飛沫《し ぶ き》となって|虹《にじ》をえがいた。一同はかつ驚き、かつあきれ、かつ|辟《へき》|易《えき》しながら、
「金田一先生、と、おっしゃるのは?」
「いや、こ、これは失礼」
と、やっと雀の巣ひっかき運動を停止し、唾をのみこみ、|臍《せい》|下《か》丹田に力をこめると、
「それにしても、小山さん、ゆうべあなたのあとから風間が電話に出たでしょう。あなた風間の電話をきいていらっしゃらなかったんですか」
「はあ、わたしは座を外しました。なにか内密の話がおありのようでしたから」
「ああ、なるほど。道理で……いや、ゆうべ風間からかかってきた電話ですが、問題はその内容なんです。小山さんやぼくの要請で、あの男はあの男なりに手をまわして、最近の篠崎さんの動静を調査してくれたんですね。それによると篠崎さん、あちこちから金をかき集めて、風間の調査線上にうかんだだけでも、千万円の現ナマを用意して、こちらへきてるはずだというんです」
「あっ!」
三人の唇から期せずして、鋭いさけび声がほとばしった。
「篠崎さんはなんのためにそんな大金を……?」
「わたしもそれについて風間の意見をきいてみました。風間もいくらか|躊躇《ちゅうちょ》していましたが、これは耕ちゃん、すなわちわたしですね、耕ちゃんだから打ち明けるんだがと前置きして、こういうことをいってました。篠崎君、千万円というノシをつけて、あの女を古館氏に返上するつもりじゃないかと。そのとたん、篠崎さんがあのふたりに縁の濃い天坊さんと柳町さんを、同時にここへご招待なすった意味が、わたしにもわかったような気がしたんです。きょうが昭和五年この家で、非業な最期をとげたひとたちの命日ですね。その法要の席で篠崎さん、それを発表なさるつもりじゃなかったか、天坊さんや柳町さんの面前で。ところがもしあのふたりがそれに勘づいたとしたら、ことを急がなければならなかったでしょうねえ」
深いふかい沈黙がまた一同のあいだに落ちこんできた。三人の体をチリチリと戦慄がはいのぼってくるのも、足下から忍びよる晩秋の夜の冷気のせいばかりではないであろう。
「なアるほどねえ」
小山刑事はため息をつくように、
「わたしなどが考えると、千万円もらってほれた同士がもとの|鞘《さや》におさまれたら、こんなうまい話はなさそうに思いますがねえ」
「ばかアいえ!」
言下に井川刑事の大雷が落下した。
「それはてめえみてえな平民野郎のいうこった。むこう様は華族様でいらっしゃる。華族の恩典になれ、特権意識のなかでうまれ、育ったエリートさんだ。千万円なんて眼くされ金なんかにゃ眼もくれねえ。それより旦那さんに死んでいただきゃ、新憲法によってあのあま、遺産の三分の一にありつけらあ。なおそのうえにあのお嬢さんにも死んでいただきゃ、全財産がころがりこむという寸法さ。さてそのあとでほとぼりの冷めるのを待って、もとの鞘におさまろうという魂胆なんですね」
「なアるほど」
田原警部補も感にたえたように、
「そうすると、篠崎さんが意志表示をするまえに、ことを決行する必要があったわけですね」
「つまり巧遅より拙速をえらんだんですね。いや、選ばざるをえなかったんじゃないでしょうか。以前からそういう計画が練られていたにしても、篠崎さんの最近の気持ちに気がつくのが、遅過ぎたんじゃないでしょうか」
「ひょっとするとあのあま、こっちへ来てから気がつきやがったのかもしれねえ。そこで|急遽《きゅうきょ》そのむねを男のほうへ伝達したのかもしれませんな。そうするとどうしてもきょうの法要のまえに、決行しなきゃならねえことになってきた。そこでその際話に出た片腕男を利用しようと、こういうわけなんですね」
「だからふたりのあいだにもうひとつ、綿密な打ち合わせができていなかったというよりは、綿密な打ち合わせをするひまがなかったんじゃないでしょうか。ことはあまりにも急を要した………」
「金田一先生、あの女は自分の情夫を殺した男を、柳町さんだと気がついていたんでしょうか」
「まさかねえ。ああいう不幸な偶然が割り込んでこようとは、だれだって思いおよばぬところですからねえ」
「あのあま、自分の亭主を疑ってたんじゃねえんですか」
「それは当然そうあるべきですね。あの女も古館氏が片腕男の扮装をしていることには気がついたはずですからね。古館氏が片腕男に扮して、なにかやろうとしていたところを、逆に篠崎さんにしてやられた……と、こう思い込んでいたんじゃないですか。だから、篠崎さんの命をねらったのも、財産も財産だが、一種の復讐心……|外《げ》|道《どう》の逆恨み的復讐心も手伝っていたんじゃないですか」
「なるほど、それであのビリケンさんが|殺《や》られたわけもわかりますな。亭主をやっつけるまえに、ビリケンさんを殺っておかなきゃ、あとでああいう写真を持ち出されちゃ、元も子もなくなりますからな。その巻き添えをくらったのが、あの可哀そうなタマ子というわけですか。やれやれ」
この老巧な刑事にして、はげしく身ぶるいをせずにはいられないほど、これは恐ろしい事件であった。いかにここが迷路のような建物とはいえ、うば玉の闇の衣を身につけて、廊下から廊下へ、地下の抜け穴から抜け穴へと、徘徊する殺人鬼、それが高貴な面差しをもった誇り高き女性であるだけに、一同の恐怖の思いはいやましにつのるのである。
金田一耕助も思い出したようにはげしく身をふるわせると、
「あのとっぴな殺人の予行演習といい、子供だましの密室のトリックといい、みんなエリート意識の強い、自分だけが利口であると思いあがった、そのじつ猿の浅知恵みたいな男と女が企んだ、それだけに世にも恐ろしい事件でしたね、これは」
それから三人をふりかえって、
「さあ、これでだいたい討論もおわったようです。これからむこうへいって篠崎さんに泥を吐いてもらおうじゃありませんか。あのふたりの関係に気がついていたことを。そして一千万円のノシをつけて、あの女をあの男に返上するつもりであったということを」
篠崎慎吾はいさぎよく泥を吐いた。
そして、その夜のうちに田原警部補の口から発表された事件の真相が、新聞やラジオで報道されたとき、いかに世間が驚倒したか、いまさらここに申し述べるまでもあるまい。
大団円
故尾形静馬氏の新しい墓ができたにつき、来たる十一月二十八日、その除幕式を挙行するから、ぜひ御列席下さるようにという意味の手紙を、金田一耕助が受け取ったのは、事件がすっかり解決してから、四週間ほどのちのことである。
差し出し人はいうまでもなく篠崎慎吾、慎吾の住所は名琅荘になっていた。
さすが剛腹をもってなる慎吾もあの事件のあと、名琅荘に閉じこもったきり動かなかった。金田一耕助や土地の警察の尽力で、事件の真相は解明され、慎吾はあらゆる疑惑から解放されたが、かれの失墜した名誉や面目は大きかった。
昭和二十四年の醜聞が大きければ大きかっただけに、かれの器量のさげかたは深刻で、なんの面目あって中央の業界へあいまみえんやというわけらしい。かててくわえてかれの負傷もそうとう重かった。弾丸はぶじに摘出されたものの、当分過激な活動はさけたがよかろうという森本医師の忠告もあり、かたがたかれは名琅荘で静養をつづけているのである。
。 どうせこの男のことだから、このまま|逼《ひっ》|塞《そく》してしまうわけではなかろう。いずれは|捲《けん》|土《ど》重来を期しているのであろうが、いまはそれにそなえての雌伏期間であろう。活動家の慎吾にとってそれはたえがたい|無聊《ぶりょう》の期間だったにちがいないが、かれはこの無聊の期間を利用して、尾形静馬の墓づくりに熱中した。
鬼の洞窟の奥ふかく、お糸さんの手によってひとしれず、葬られていた尾形静馬の墓は二十年ぶりに発掘された。塚の底から出てきたのは、左腕を失った以外は五体そろった人間の骨格だった。むろん長の歳月、土中に埋もれていたその骨格は、バラバラにはなっていたけれど、左腕以外完全にそろっているのが、発掘者たちの涙をさそった。
思えば尾形静馬ほど薄幸のひとがまたとあろうか。佞奸邪知の古館辰人におとしいれられ、あらぬ|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》をきせられたうえ、嫉妬に眼のくらんだ一人伯に、一刀のもとに片腕を斬り落とされたばかりか、主殺しの汚名のもとにあの洞窟の奥ふかく、無念の涙をのみながら|蛆《うじ》|虫《むし》のように死んでいったのである。
こんどの事件もすべて尾形静馬の|怨《おん》|念《ねん》のなすわざだろうと、当時世間に|喧《けん》|伝《でん》されたが、これはいささか|牽強付会《けんきょうふかい》に過ぎるようだ。
慎吾は鬼の岩屋の崖のうえを|伐《き》りひらいて、そこに三百坪ほどの平地を造成し、その中央に黒御影の墓を|建立《こんりゅう》した。墓の高さは一丈にあまり、表面には、
「尾形静馬殉難碑」
裏面には慎吾自身の撰文による碑のゆらいが、こまごまと彫り込んであり、碑の左右には古雅な|石《いし》|灯《どう》|籠《ろう》が二基立っているが、商売に抜け目のない慎吾のことだから、将来これを名琅荘名物のひとつにするつもりかもしれぬ。
除幕式の執り行われた十一月二十八日は絶好の|秋《あき》|日《び》|和《より》であった。いや、海抜のそうとうたかいこの高原では、晩秋というよりはもう初冬というべきかもしれない。明け方は霜と氷がきびしかったが、除幕式の執り行われた午後一時ごろはうららかに晴れわたって、風はいささか冷たかったが、|陽《ひ》は暖かく、東方の空にそびえる富士の|高《たか》|嶺《ね》は冬化粧がうつくしかった。
この除幕式に出席したのは施主の篠崎慎吾にお糸さん、陽子に秘書の奥村弘。陽子は強打されたのが後頭部だから、後遺症が|懸《け》|念《ねん》されたが、さいわいその心配もなく、その後東京の本宅へかえって元気に学校へ通っている。
意識を回復してまもなく、彼女が告白したところによるとこうである。
陽子はあの抜け穴から日本座敷へ通ずる間道をしっていたのだ。いや、はっきりしっていたわけではないが、あそこがそうではないかという心当たりがあったのだ。そこは鼠の陥穽とダリヤの間の中間より、やや鼠の陥穽にちかい地点に当たっていた。
日曜日の午後奥村弘とあの地下道を抜けたとき、途中で彼女はものにつまずき、よろめいて、おもわず壁に手をついたのである。壁がぐらっと揺れたような気がしたが、とたんに地下道の天井から、煉瓦が四、五枚落ちてきたので、彼女は悲鳴をあげてとびのいた。奥村にたしなめられ、彼女は笑いさんざめきながらそこを通りすぎ、間もなく鼠の陥穽にいきついたのである。
あの壁の感触を陽子は思い出していた。ゆうべ天坊さんが殺害され、タマ子がゆくえ不明だという。しかも、天坊さんの殺害された部屋は密室になっており、タマ子は地下道のどこかに幽閉されているのではないかという疑いが濃厚だという。ここにもうひとつだれにもしられぬ地下道への入り口があり、だれかがそれをしっているとすると、そいつは非常に有利な立場をしめるわけである。
陽子はそのことを奥村に打ち明けるのが怖かったのである。と、いうことはそのじぶん彼女がすでにある人物に、強い疑惑をいだいていたということになるのかもしれない。
彼女は奥村を遠ざけ自分の部屋に閉じこもると、まず名琅荘の見取り図を書いてみた。その見取り図にはダリヤの間と仁天堂が入っており、彼女はダリヤの間と仁天堂を一直線でつないでみた。あの地下道は直線ではなく幾多のカーブを持っているのだが、結局は一直線とみてよいのではないかと考えたのである。
陽子はその一直線のうえに、鼠の陥穽のところへ×印をつけてみた。鼠の陥穽から仁天堂までそう遠くないのだから、この×印のついた地点はまず妥当だと思われる。それからうろおぼえながらも、彼女がいま疑惑をいだいている地点へ、もうひとつの×印をつけてみた。そして、それが日本家屋の翼のすぐ下を通っているのに気がついたとき、|愕《がく》|然《ぜん》とせずにはいられなかった。
彼女もまた名琅荘のゆらいをしっている。これを建てた古館種人というひとが、当時の習慣としてより多く、日本家屋のほうを利用したであろうことは想像にかたくなかった。しかもいま日本家屋のほうに起居しているのは、金田一耕助と継母であることに思いいたったとき、陽子はさらに慄然とせざるをえなかった。
この際、金田一耕助はいちおう除外してもよさそうに思えたし、それにおなじ日本家屋の翼とはいえ、耕助がいまいるところと、継母の起居しているところとはそうとうかけはなれている。しかもいま陽子が一直線上に第二の×印をつけた地点は、継母がいま使用している寝室のすぐ下に当たっている。
これに気がつくと、陽子は波状的におそってくる戦慄を禁ずることができなかった。彼女は長いこと自分のえがいた見取り図とにらめっこをしたのちに、どうしてもいちど、第二の×点のあたりを調査してみようという気にならずにはいられなかった。しかし、こうなると陽子はいよいよ奥村に打ち明けるわけにはいかなくなった。彼女は自分のはしたない疑いを、ひとにしられることをおそれたのである。
彼女は単身この探検を決行してみようと思い立った。さりげなくダリヤの間のほうへいってみたが、そこには警官の見張りがついているのであきらめざるをえなかった。彼女はとってかえして仁天堂のほうへいってみたが、さいわいそこには見張りはいない。しかし、その入り口が外部からでは開かないことをしっている陽子は、物置きへいっててごろの薪割りを物色してきた。
陽子がこうまで思い切った行動をとったのは、継母にたいして強い疑惑をもっていたということなのだろう。仁天堂の羽目板は固くて堅牢だった。しかし、陽子の決意はそれ以上に固かった。人間ひとりやっとはい込める亀裂ができたとき、彼女はなんの躊躇もなくその|隙《すき》|間《ま》からはいこんだ。
暗闇のなかを懐中電灯の光をたよりに歩くとき、ひとはだれでも足下に神経を集中するものである。鼠の陥穽の歩み板をわたるとき、彼女はそこに、おびただしい鼠の群れがうごめいているのに気がついた。しかも、そのおびただしい鼠の群れが、なにに群がっているかということを知ったとき、そして、その哀れな犠牲者がだれであるかを確認したとき、陽子は骨の髄まで凍るような恐怖に打たれずにはいられなかった。
ふつうの女性ならばここで悲鳴をあげて、もときた道へ逃げてかえったことだろう。陽子はしかしそうしなかった。血も凍るような恐怖とともに、|勃《ぼつ》|然《ぜん》としてこみあげてくる激しい怒りをおさえることができなかった。だれがこのような残虐をあえてしたか、彼女にはわかるような気がしたのだ。それはこの地下道の第三の入り口を、しっている人物以外には考えられない。
彼女も慎吾の娘なのである。と、いうことはなみなみならぬファイターだということなのだ。陽子は眼をつむってひと息にその歩み板を踏みこえた。心の中であの気の毒なタマ子の|冥《めい》|福《ふく》を祈り、それゆえにこそなおいっそうの復讐心にもえながら、陽子は恐れずに前進した。
あの揺らめく壁に手をついたのは、左手であったことを彼女は憶えている。したがってこちらからいくと右側になるわけだ。しかも、そこからまもなくカーブがあり、カーブをまがるとしばらくして鼠の陥穽にいきあたったのだ。
まもなくカーブにやってきた。そこをまがると陽子の歩調はにわかに慎重になってくる。右側の壁に懐中電灯の照射を浴びせながら、一歩一歩壁をなで、反響をためすようにたたいてみる。ときどき強く押してもみた。
五歩、十歩、二十歩と、彼女はまるで患者の胸に聴診器を当てる医者のように、注意ぶかく右側の壁を診察してあるいた。彼女は以前からしっていたのだが、この地下道は昔からある天然の洞窟と、煉瓦とセメントで補修した部分とで成り立っているのである。
いまこうして点検して歩いていくと、天然の洞窟の部分と補修した部分とが、半々ぐらいになっていることに気がついた。そして、補修した部分こそクサいのだ。まもなく彼女は煉瓦とセメントで補修された部分がながながと、五、六間にわたって右側につづいているところにいきあたった。そして、そのさきはまた緩やかなカーブをなしている。
そうだ、あのとき自分はむこうから歩いてきて、カーブをひとつまがったのだ。それからまもなくなにかにつまずきよろめいて、左手を強く壁についたのだ。そしたら壁がぐらついたと思った瞬間、天井から煉瓦が降ってきたのである。
あった!
と、陽子は口のうちで小さく叫んだ。
煉瓦が四、五枚落ちて散乱している。しかもその少しむこうに煉瓦でかためた床の煉瓦が一枚うきあがっていて、鋭い突起のようなものを形造っている。そして、そのむこうはすぐカーブになっている。
そうだ、あのとき自分はカーブをまがったばかりだったので、この煉瓦の突起に気がつかなかったのだ。身をかがめて調べてみると、一枚うきあがった煉瓦の角にすこし欠けたところが発見された。
陽子はそこをいきすぎるとカーブをまがった。そこでくるりと回れ右をすると、改めてもときた道へ引き返し、カーブをまがると煉瓦の突起につまずいたところで、はげしく左の肩を壁にぶっつけた。
手ごたえはあった。
煉瓦の壁がぐらりと揺らめいたかとおもうと、天井から二、三枚の煉瓦が落ちてきて、その一枚が大きくバウンドして転がると、その震動でまた二、三枚煉瓦が落ちてきた。大きな音を立て、その反響があちこちの壁に|谺《こだま》した。
だが、その反響よりも陽子の心臓の鼓動のほうが大きかった。
陽子は立ちすくんだまま谺のおさまるのを待っている。いや、陽子の待っているのは、谺の消えるときではない。自分の心臓の高鳴りのやむのを待っていたのだ。やがて心臓の鼓動がやや下火になるのを待って、陽子は懐中電灯を持ちなおし、左側の壁を調べはじめた。
植物というものは太陽光線がなくとも、空気と水分さえあれば育つものらしい。この地下道には空気も水も十分ある。その壁にはさまざまな|苔《こけ》と、ひょろひょろとしてまっ白な隠花植物が、ところまだらに生えている。しかし、陽子の眼はそういう植物群にだまされなかった。いや、むしろ植物群が彼女のかくされた扉発見に協力したのだ。ある部分でひょろひょろとしてまっ白な隠花植物が、むしられたり、押しつぶされたり、壁と壁のあいだの隙間に挟まれたりしているところがあった。
陽子は懐中電灯の光で、そういう部分をつないでいくことによって、そこにアーチ型の扉があるらしいことを発見した。しかも、苔や隠花植物がむしられたり、押しつぶされたりしているところをみると、だれかちかごろこの扉を開いて、また閉じたものがあるにちがいない。
陽子は身をかがめてその扉と床との接触面を調べてみた。そこにほんのわずかだが隙間があり、扉の中心部に太い鉄の棒がとおしてあるらしく、それが床のなかふかくくいこんでいるらしい。
わかった、わかった。この扉は鉄の棒を中心に回転するのであろう。扉の幅は四尺にあまるから、半回転したとしても、ひとひとりはゆうに通れるはずである。
陽子はその扉を押してみたり、体ごとぶっつけてみたりしたが、彼女の試みはかたくなに拒絶された。扉はいくらか揺らめくのだけれど、開くまでにはいたらなかった。おそらくこの扉も、内部からだけしか開閉できないような仕掛けになっているのだろう。
しかし、陽子は満足だった。ここに捜査当局もまだ気づかぬ第三の入り口があり、しかもさいきんだれかがこれを開いて、また締めたのだ。と、いうことはだれかこの第三の入り口から、地下道へ潜入したものがあるにちがいないということなのだ。
陽子は満足した。かえってさっそくその旨を捜査陣に報告するつもりだった。彼女はその位置を脳裡につよくチェックしておいて、|踵《きびす》をかえしてその場を立ち去ろうとした。ところがそのとき、とつぜん彼女の足を釘づけにするようなことがそこに起こったのである。
扉のむこうでなにやらガタゴトと、かすかな物音がきこえたのである。陽子はギョッとして一歩さがると、扉のおもてを懐中電灯の光で照射しながら、つぎに起こる事態を待ちかまえていた。はじめは空耳ではないかと疑ったが、空耳ではなかった。扉のむこうでたしかにガチャガチャと、金属の触れあうような物音がするのである。
陽子はまた一歩さがって、いちめんに苔や隠花植物の密生している煉瓦の壁を凝視していたが、なんとその壁がそろそろと動きはじめたではないか。
幻覚ではないかと思ったが幻覚ではなかった。
陽子の想像したとおり、その扉は中央をつらぬいている太い鉄の棒を中心として、徐々に、しずかに回転しはじめたのである。重い、きしむような音を立てながら。
陽子の心臓は高鳴っていた。しかし、ふしぎに恐怖をおぼえなかった。
扉がかってに開くはずがない。だれか壁のむこうにいて操作しているにちがいない。それがだれであるかを想像したとき、ふしぎに陽子は怖くなかった。彼女がいま想定している人物と自分を比較してみたとき、力ずくでは負けないという自信があった。相手が凶器をもっているかもしれないなどと、思いもおよばなかったところに、陽子の若さと甘さがあったのかもしれない。
重い煉瓦の扉はきしむような音を立てながら回転していたが、やがて壁と直角の位置になったところで静止した。陽子の手にした懐中電灯はすかさずいっぽうの空間を照射した。扉のなかがわにもこちらとおなじような地下道があるらしい。懐中電灯の焦点が移動するにつれて、二間ほどむこうでその地下道が階段につながっているらしいことがうかがわれた。
陽子は懐中電灯の光をぐるぐるまわしてみた。しかし、それは回転扉の裏側と、そのおくにある地下道と、地下道のおくにある階段らしきものを浮きあがらせたにすぎなかった。彼女の想像している人物の影らしきものを捕らえることはできなかった。彼女は一歩左ヘ位置をずらして、直角に開いて静止している、煉瓦の扉の反対がわの空間を照射してみたが、そこに浮かびあがったものもさっきと同様であった。湿ってジケジケとした地下道とそのおくにみえる階段だけ。階段も煉瓦でたたんであるようにみえ、そこにもいちめんに苔や隠花植物が密生しているらしい。
末広がりの懐中電灯の光の幅以外は、これすべて|漆《しっ》|黒《こく》の闇である。そのことがさすが大胆な陽子をも息苦しくさせた。
「だれ……? そこにいるのは……?」
陽子は手にした懐中電灯を、くるくる回転させながら金切り声をあげた。悔しいけれどその声はふるえていた。
「黙っていてもわかってるわよ。あなたがそこにいるということは……いいわよ、このままにらめっこをつづけていましょうよ。いまにダリヤの間から潜り込んだ刑事さんたちが、こっちへやってくるんだから」
陽子はその反応を待つように、懐中電灯の光の位置を少し動かしてみた、反応はなく、人間の形らしいものはどこにも現れなかった。
そこにだれかがいることはたしかなのである。しかも、そのだれかは陽子にも想像される人物である。それでいてこうして無言の行を続けているということは、たしかに圧迫でもあり、苦痛でもあった。陽子はその圧迫に負けたわけではない。むしろ、この際は反対に、彼女の大胆さが|禍《わざわ》いしたともいえるのである。陽子は体力的にその人物より優れているという自信があった。
陽子は少しからだを動かしてみた。半開きになっている回転扉のほうへ前進してみた。反応はなかった。彼女はまた一歩前進してみた。この際、彼女の手にしている懐中電灯の光によって、自分の動きがいちいち敵に読まれているということを、計算に入れてなかったのは、なんといっても彼女の不覚であった。
とうとう陽子は直角にひらいている回転扉の、右の空間のすぐそばまでやってきた。彼女はちょっと呼吸をととのえたのち、その空間へ一歩足を踏みこんだ。こういう場合、人間の本能として前かがみになり、だれでも首をまえへつき出すものである。
金田一耕助は後に、それをピストルの台尻ではなかったかと指摘しているのだが、陽子は後頭部に、強い金属製のものによる打撃をうけて、はげしいショックに眼がくらんだ。そのとき彼女がまえのめりになって、回転扉のなかへ倒れていたら、彼女もまた一巻の終わりになっていたのではないかといわれている。しばらく行方不明ののち、彼女もまた鼠の餌食にされていたかもしれない。
しかし、人間の警戒体勢というものは恐ろしいもので、陽子はいつでもうしろへ退ける体形をとっていたらしく、一瞬まえのめりになりかけたが、つぎの瞬間うしろへたたらを踏んで、地下道の反対側の壁につよく背中をぶっつけた。とたんに四、五枚の煉瓦が落下してきて、彼女が悲鳴をあげたとしたらそのときだろうといわれている。
後頭部につよいショックをうけたとき、懐中電灯を取り落としたらしく、それはまだ灯がついたまま回転扉のむこうにころがっていた。しかし、つぎの瞬間扉がしずかに動きはじめて、懐中電灯をそのまま抱きこんでしまい、あたりは漆黒の闇にとざされてしまった。そのとき陽子ははっきり悲鳴をあげたのを憶えている。
彼女はとうとう人の影も見なかったし、匂いさえ、嗅がなかった。しかし、そこにだれかいて、自分に害意を抱いていることはたしかなのである。それからあとの陽子は無我夢中であった。懐中電灯をうしなった彼女は、はらばうようにしてうろ憶えの道を、仁天堂のほうへとってかえしたのである。
それにしても敵はピストルという強力な武器を持っていながら、なぜそれを有効に行使しなかったのか、また最初の一撃ですっかり体のバランスを失っている陽子に、なぜ襲いかからなかったのか……それはやはり彼女の|威《い》|嚇《かく》がきいたのだろうといわれている。
「いまにダリヤの間から潜りこんだ刑事さんたちが、こっちへやってくるんだから」
陽子が三度めの悲鳴をあげたのは、鼠の陥穽を渡るときである。少し気をつけていると鼠の陥穽のありかはすぐわかった。忙がしく動きまわるこの小動物のざわめきと、ザワザワとものを|食《は》む音が、まっ暗がりの静寂のなかだけに、二、三間てまえからハッキリと聞きとることができたのである。陽子はかれらの餌食になっているものが、なんであるかを思いうかべたとき、全身に|粟《あわ》|立《だ》つような恐怖をおぼえずにはいられなかった。
と、同時に自分がその二の舞いを演じてはならぬという警戒心から、左右の脚でかわるがわる、そこにかかっている歩み板をさぐりながら前進した。やっと片っぽの足がそれをさぐり当てた。それを渡る陽子は綱渡りの芸人もおなじことなのだ。あたりは|漆《うるし》の闇なのだし、しかも後頭部にうけた強いショックから、彼女はからだのバランスを失っていた。
陽子は左右に両手を大きくひろげて、体の平衡をたもちながら、一歩一歩狭い板をわたっていった。とつぜん彼女の唇から、恐ろしい悲鳴がほとばしったのは、鼠の一匹が彼女の左脚からスカートの下へはいあがってきそうになったからである。
「キャーッ!」
と、叫んで彼女がまえに体を倒したとき、突いた両手はさいわいむこう岸に達していた。左の脚をはげしくふって鼠をふり落とすと、あとはいっそう無我夢中である。やっと仁天堂へたどりつき、自分の破った羽目板の隙間から上半身はい出したとき、そこに奥村弘の顔がのぞきこんでいた。
「パパが……パパが……」
と、叫んだのも、もちろんパパが危ないという意味だったのだが、それだけいって昏倒したのもむりではなかったろう。それが彼女のたえうる限界だったのである。
除幕式に参列したのは名琅荘の一族のほかに、この事件と因縁浅からざる所轄警察のひとたちが大勢。田原警部補や井川、小山の両刑事の顔が見えたことはいうまでもない。ほかにこの町の有力者ややじ馬がおおぜい詰めかけているのは、今度の事件がいかにこの|界《かい》|隈《わい》のひとたちを、驚かせたかということなのだろう。
金田一耕助が吹き渡る高原の風に、ヨレヨレの袴の裾をヒラヒラさせながら、参列していることはいうまでもないが、かれはときどき末席につらなっている譲治のほうへ、意味ありげな視線を送っていた。譲治のそばに十七、八のかわいい少女がいるからである。少女の名は恵美子といって、御隠居さんがちかごろ東京からつれてきたのだそうだが、えくぼのあどけない少女であった。むろんタマ子のあとがまである。
譲治はもっと恵美子に親切にしてやりたいらしいのだが、金田一耕助の皮肉な視線が追っかけているのでそうもならず、わざと無関心をよそおうて不機嫌らしかった。
除幕式は陽子の手によって執り行われた。そのあと慎吾にまねかれた数名の|僧《そう》|侶《りょ》によって盛大な|読経《どきょう》が行われ、尾形静馬の霊もここにはじめて鎮まったことだろう。
そのあと名琅荘の日本座敷で|精進落《しょうじんお》としの|宴《うたげ》が開かれたが、四時ごろには僧侶たちもひきあげ、警察の連中もかえっていったので、あとに残ったのは篠崎慎吾と金田一耕助、陽子と奥村秘書、ほかにお糸さんがあいかわらず、ちんまりと背中をまるくして座っていた。
慎吾はひとつの役割りを果たして、肩の荷をおろしたとでもいうのであろうか、大島の|対《つい》にくつろいでいるのはよいとして、あいかわらずはだけた|襟《えり》|元《もと》から、胸毛がモジャモジャのぞいているのは行儀が悪い。
金田一耕助はニヤニヤしながら、
「それにしても、篠崎さん、すっかり元気そうになられて結構です。あなたちょっとおやせになったうえ、色が白くなられたので、男振りがだいぶんよくなられたですね」
「なんですって!」
慎吾が不平そうに鼻を鳴らしたので、陽子が吹き出し、お糸さんと奥村君もおかしそうに口をおさえた。
「まあ、失礼ねえ、金田一先生は……すると、うちのパパ、いままで男振りが悪かったとでもおっしゃるんですの」
「とんでもない。もとよりよい男振りのパパさんが、多々益々|磨《みが》きがかかって来られたという意味ですよ」
「あら、そう、そんなら|堪《かん》|忍《にん》してあげますわ」
「ありがとうございます」
と、金田一耕助はペコリと頭をさげると、
「ときに、お嬢さん、奥村君も。きょうはひとつ。パパと談合したいことがあるんですが、失礼ながら座を外していただけませんか」
「あら、どうして?」
陽子は父と金田一耕助の顔を見くらべながら、なんとなく不安そうである。
慎吾はさぐるような眼で金田一耕助の顔をみながら、
「ああ、そう、陽子、先生のおっしゃるとおりむこうへいってらっしゃい、奥村君も」
「はあ」
「そうお、それじゃ……」
と、陽子はふしょうぶしょう立ち上がると、
「それじゃ、奥村さん、いきましょう。金田一先生、あんまりパパをいじめちゃいやよ」
「それではわたしも……」
と、陽子と奥村君が出ていくあとから、お糸さんも腰をうかしかけるのを、
「いや、お糸さん、あなたはここにいてください」
「はあ……?」
お糸さんは慎吾の顔をみる。慎吾はいよいよさぐるような眼を金田一耕助にむけて、
「万事金田一先生のお言葉にしたがうんだな。このひとに魅込まれたらのがれっこない」
と、強いかぎろいのある|瞳《ひとみ》を耕助にむけて、
「と、すると、金田一先生、事件はまだすっかり片づいたわけじゃないとおっしゃるんで?」
「さすがは篠崎さんでいらっしゃる。と、まあ、そういうわけですな」
「おお、怖い。先生、ひとつお手柔らかに願いたいですね」
「いや、ところがそうはいかないんで。きょうはひとつぜひとも泥を吐いていただきたいんで。ただし、これは篠崎さん、あなたに対して申し上げる|台詞《せ り ふ》じゃなく、お糸さんにいってるんですがね」
「お糸さんに泥を……? お糸さん、おまえさんなにかまだこちらの先生に、隠していることがあるのかね」
「ほっほっほ、怖いこと」
お糸さんはしかし|蛙《かえる》のツラに水のような顔をして、巾着のようにつぼめた唇は、童女のようにあどけなく笑っている。
金田一耕助は悩ましげな眼をして、しばらくモジャモジャ頭をかきまわしていたが、やがて|訥《とつ》|々《とつ》として口をひらくと、
「篠崎さん、探偵というものは|賤《いや》しいものです。浅ましいショウバイです。なんでも腑に落ちないところがあると、まるで重箱の隅をほじくるようにしてでも、徹底的に究明しなければ気がすまないものです。そういう因果なショウバイなんです」
「いや、しかし、それは当然のことでしょう。しかし、そうすると、この事件の真相に、まだ先生の腑に落ちないところがおありとでも?」
「はあ、それがたったひとつだけあるんです」
「と、おっしゃると……?」
「柳町さんの告白の一部なんですがね」
金田一耕助はいよいよ悩ましげな眼を、慎吾とお糸さんのほうにむけて、
「柳町さんの告白をあとでわれわれが推理、実験してみると、こういうことになるんですね。すなわち柳町さんは地下道を抜けて仁天堂から外へ出られた。ところがあの倉庫のなかでひとのけはいがする。ふしぎに思ってのぞいてみると、天井には|土《ど》|嚢《のう》がぶらさがっており、古館氏が滑車をまわしておられた。しかも、その古館氏は左腕を胴に緊縛して、片腕男をよそおうていた。そこで柳町さんがとがめると、いきなり古館氏が仕込み杖を逆手にもって殴りかかってきた。そこで二、三合渡りあっているうちに、柳町さんが仕込み杖をもぎとり、殴り返したところが、はずみで古館氏の後頭部を強打し、昏倒せしめた。柳町さんはしばし茫然としていられたが、そのうちに古館氏が、そこでなにをしていたのかおぼろげながらわかってきた。すなわち片腕しかない非力な男でも滑車の原理を利用すると、大兵肥満の人物、つまりあなたですね、あなたのような人物を殺害して、宙にぶらさげうるという事件の、リハーサルをやっていたのではないかと気がついた……」
「ふむ、ふむ、それで……?」
そのことは慎吾もあらかじめ聞かされていたことだけれど、いま現実に金田一耕助からこうも明白に指摘されると、額に脂汗をおぼえずにはいられなかった。お糸さんはなにを考えているのか、あいかわらず童女のようにあどけない。
金田一耕助は言葉をついで、
「さて、柳町さんが茫然自失しているところへ、仁天堂のほうからひとの話し声がきこえてきました。すなわち陽子さんと奥村君が笑いさんざめきながら、地下道を抜けてきたんですね。そこで柳町さんは大急ぎで砂袋をおろし、仕込み杖とともにロープの束の下にかくし、昏倒している古館さんをロープで絞め殺し、死体をガラクタ道具のかげに引きずりこんでおいて、自分は倉庫をとび出し、なにくわぬ顔で裏門の外を歩いているところへ、陽子さんと奥村君がやってきた。そこでさりげなくふたりを倉庫へみちびいて、そこになにも怪しげなものがないことを示しておいて、三人いっしょに名琅荘の本館のほうへかえってきた。……そうそう三人が倉庫を出ようとするところへ、譲治君が馬車をひいてかえってきたというのでしたね」
「なるほど、その話はわたしも聞いているが、そこになにか腑に落ちないところがありますか」
「いや、そこまではまあまあです。まあまあですというのは、その話だってずいぶん|眉《まゆ》|唾《つば》ものだと思えば思えないことはありませんが、まあ、やろうと思えばやれぬことはなかったかもしれません、時間的にいってですね。ところがどうしても腑に落ちないというのは、それからあとの柳町さんの告白なんです」
「と、おっしゃると……」
「柳町さんはこういってるんです。本館へかえるみちみち陽子さんと奥村君から、フルートを聞かせてほしいという希望が出た。そこで本館へかえってくると、ふたりはまずめいめいの部屋へかえってシャワーを浴びたが、その間数分を必要とした。自分もいったん部屋へ退ったが顔と手を洗うだけですませてすぐ倉庫へひきかえし、ガラクタ道具のかげに押し込んであった古館氏の首に、ロープのさきの輪をひっかけ、滑車をまわして古館氏の死体を吊るし上げ、ああして馬車の座席に座らせておいて、大急ぎで本館へ引き返してきて、フルートをいじっているところへ、陽子さんと奥村君がシャワーを浴びて出て来たのであると。そして、おふたりのご希望によってまずドップラーの『ハンガリヤ田園幻想曲』を吹奏したのであると、柳町さんはそういってらっしゃるんですがね」
「それが、金田一先生、なにかおかしなことでもあるんですか」
慎吾の声はささやくようである。かれにはまだ金田一耕助のいわんとするところがわかっていない。さぐるような眼が鋭くあいての顔をみつめている。お糸さんもまたふしぎそうに金田一耕助を見守っている。その顔は観音様のように柔和である。
「いや、こちらの警察のひとたちはその告白で満足したようです。しかし、わたしがそれに満足できない、……その告白では腑に落ちないというのは……」
「腑に落ちないとおっしゃるのは……?」
「わたしはあのとき風呂場のなかで、ドップラーの『ハンガリヤ田園幻想曲』を二度きいているんですよ」
「と、おっしゃると………?」
そこで金田一耕助はあの日こちらへ着くと、すぐ浴場へ案内され、そこでフルートの音をきいたいきさつを語ってきかせると、
「そのときわたしのところへ聞こえてきたフルートの曲というのが、『ハンガリヤ田園幻想曲』だったわけです。しかし、それは完全な吹奏ではなく、小手調べというんですか、おなじところをいきつもどりつ吹奏していたんです。それからちょっと間をおいて、完全な吹奏がはじまったわけです。ところがあとで柳町さんに聞くと、『ハンガリヤ田園幻想曲』を完全に吹奏すると、十一、二分はかかるということでした。と、するとわたしの聞いた最初のそれは、少なくとも数分はかかっていたと思うんです」
慎吾の瞳がふいに大きく見開かれた。かれにもようやく金田一耕助のいわんとするところがのみこめてきたらしい。
「金田一先生!」
大きく息をはずませて、
「先生のおっしゃりたいのは、その間、柳町さんは倉庫へいくひまはなかったと……?」
「そうです、そうです。なるほど柳町さんはシャワーを使わず、顔と手を洗っただけで娯楽室へ出て来られたのかもしれない。しかし、柳町さんは倉庫のほうへはいかれずに、娯楽室にいて『ハンガリヤ田園幻想曲』の小手調べをしていられたんです。少なくとも数分間にわたって……」
「じゃ、この事件には共犯者がある……と、おっしゃりたいんですか」
金田一耕助は悩ましげな眼をして、しばらく無言のままモジャモジャ頭をかきまわしていたが、やがてお糸さんのほうにむきなおると、
「お糸さん、ここでひとつ泥を吐いてください」
「泥を吐けとおっしゃいますと……?」
「わたしの質問に正直に答えていただきたいんですが」
「さいなあ、わたしゃいつでも正直にお答えしておりますぞな。わたしゃうまれつき嘘をつくのが大きらいでございますけんなあ」
「それはどうだか。あっはっは、まあ、いいです、いいです。それじゃおたずねいたしますが、あの日、古館氏が殺害された日ですね。あの午後あなたはいつものとおり昼寝をしておられた。ところがそこへ陽子さんと奥村君が二度まで偵察にいかれたといいますが、お糸さんはそれに気がつかなかったんですか」
「ああ、そのこと……」
お糸さんは口をすぼめて、童女のようにあどけなく笑うと、
「それにお答えするまえに、いちおう金田一先生に申し上げておきますけれどな、わたしはなにせ種人閣下のお|躾《しつけ》がきびしかったもんですけんなあ、おたずねのないことは申し上げない|性《さが》、必要のないことは語らない癖が身についておりますんぞな。で、いまのご質問でございますけれど、そうしておたずねいただくと、いつでも正直にお答えいたしましたものを。ええ、ええ、年寄りというものは目ざといものですけんなあ。おふたりが二度もようすを見に来られたもんじゃけん、わたしゃちゃんと気がついておりましたぞな」
「それで、お糸さんはどうしました」
「どうもこうもありゃしません。さてはあの|悪《いた》|戯《ずら》小僧みたいな陽子お嬢さま、奥村さんを仲間にかたらい、あの抜け穴へもぐり込むつもりじゃなと気がついたもんですけんな、ひとつ出て来たところをとっつかまえてあげましょうと、仁天堂のほうで待ち伏せするつもりで、えっちらおっちら、そっちのほうへまわったんですぞな」
「ああっ!」
慎吾の声は|腸《はらわた》の底からほとばしり出たもののようである。まるで化け物でも見るような眼をして、お糸さんを|凝《み》|視《つ》めているが、お糸さんはケロリとして、
「それそれ、旦那様、糸はさっきも申し上げたではございませんか。おたずねさえあれば何事でも、正直に申し上げましたものをと。いままでどなたもそのことを、たずねてくださらなんだもんですけんなあ」
「わかった、わかった、お糸さん、それでそのときあなたは倉庫のなかをのぞきませんでしたか。いや、のぞいたんでしょうねえ」
「そら、のぞきましたぞな、金田一先生、だってえらい声がしたもんですけんなあ。いったい、だれがいまごろこんなところでと、えっちらおっちらいってみたところが……」
「どんな状態だったんです、そのとき倉庫のなかは……?」
「まず砂袋が宙にぶらさがってましたえなあ。それから辰人さんが床にぶっ倒れておいでなさいまして、そのそばに柳町さんが旦那様の仕込み杖を逆手に握って、茫然として突っ立っておいでなさいましたわなあ」
「それで、お糸さんはどうなすったんです」
「どうって、手短かに柳町さんからお話をきいて、すぐに辰人さんの企みがわかりましたぞな。わたしは年をとってもおツムの回転のはやいほうですし、また辰人さんの気性もようく存じておりますけんなあ。その辰人さんが片腕を縛って、旦那様とほぼおなじ目方の砂袋を、滑車で宙に吊り上げていたということを聞いただけで、わたしにはなにもかもわかりましたぞな。怒り心頭に発するというのは、あのときのわたしの気持ちをいうのでござんしょうなあ。と、同時に二十年まえにここで非業の最期をとげられた、加奈子奥様や尾形静馬さんの敵を討つのは、このときしかないと思うたんですぞな。しかし、それには柳町さんをまきぞえにしてはならぬと考えました。それにはちょうどさいわい、まもなく仁天堂から出て来られる陽子お嬢さまと奥村さんを、うまく利用させてもらいましょうというわけで、まごまごしている柳町さんを叱りつけ、まず辰人さんの体……いっときますけれど、そのとき辰人さんはまだ死んではおいでんさらなんだのじゃ、ただ後ろ頭をぶん殴られて、気を失うておいでんさっただけじゃったんだが、それをガラクタ道具のうしろにかくさせ、砂袋をおろして仕込み杖といっしょにロープの束の下にかくさせ、そうしておいて、柳町さんを倉庫の外に追い出してしもうたんですぞな。あのとき柳町さんもまさかこのわたしが、辰人さんを殺そうと考えているなどとは、ゆめにもご存じなかったでしょうなあ」
糸女はあどけない顔に無邪気な微笑をうかべながら、世にも恐ろしいことをいうのである。その語りくちは淡々としているが、それだけに覚悟のほども忍ばれて、慎吾の眼にはふかい|危《き》|惧《ぐ》の色がかぎろうていた。
「なるほど、それであなたも物陰に身をひそませているところへ、柳町さんが陽子さんと奥村君をつれてきたんですね」
「そうそう、みんなわたしがそうするように、柳町さんを説きふせてやったことです」
「そこへ譲治君が馬車をひいてかえってきたんですね」
「そうそう、柳町さんは馬車のことはご存じなかったでしょうが、わたしの計算にはちゃんと入っとりましたけんな。あそこに死体なんかなかったという証人は、多ければ多いに越したことはございませんけんなあ」
「それで譲治君が馬を|頸《くび》|木《き》からはずして立ち去るのを待って、あなたが行動を開始されたんですね」
「そうですぞな、金田一先生」
お糸さんはニコニコしながら、
「なにせあの男がわたしみたいな年寄りにでも、滑車を使えば死体を宙にぶらさげるなんてこと、いと簡単にできるちゅうことを、砂袋をつかって教えてくれたんですけんなあ。わたしゃ教えられたとおりやったまでのこと。滑車からぶらさがっているロープの輪を、ガラクタ道具のかげまで引っ張っていって、あの男の|咽《の》|喉《ど》|首《くび》にひっかけてやりましたぞな。しっかりと、体がずり落ちぬようにな。いっときますが、そのときあの男はまだ死んではおりませなんだぞな。|呼《い》|吸《き》もかようておりましたし、からだに|温《ぬく》もりも残っておりましたけんな。それからわたしは物陰から出てきて、滑車をまわしてやりました。二十年来の怨みをこめて……加奈子奥様と尾形静馬さんの怨みをこめて、わたしは滑車をまわしましたぞな。ええ、ええ、腕も折れよと回しに、回してやりましたぞな」
さすがにその声には烈々たる|気《き》|魄《はく》がみなぎり、その瞳から殺気がほとばしるかと思われた。しかし、その語りくちはあいかわらず淡々としたものである。
「宙にぶらさげられたとき、あいつは手脚をバタバタさせ、くゎっと眼をひらいてうえからわたしをにらみましたぞな。どうやらあいつ、自分がいまなにをされているか気がついたらしく、咽喉の奥でなにやらグウグウいいながら、|物《もの》|凄《すご》く手脚をバタつかせましたけんな。わたしは下からいうてやったんです。死ね! 死ね! おまえみたいな|疫病神《やくびょうがみ》は、死んでしもうたほうが世のため人のためじゃ。おまえを生かしておいたら、いずれおまえはこのやりくちで、旦那様を吊るし首にするつもりじゃろう。さあ、死ね、死ね、死におれい。……わたしは滑車をまわしにまわしてやりましたが、この|年《と》|齢《し》になるまで、あんなに|溜飲《りゅういん》のさがる思いをしたことはございませんでしたぞな、ほっほっほ」
それが童女のようなあどけない唇から、淡々として語られるだけ、鬼気|肌《はだ》えに迫る思いは篠崎慎吾も金田一耕助もおなじだったろう。広い日本座敷にはそろそろ暮れなずんできた晩秋の冷気がみなぎりわたった。
「あいつは宙にぶらさげられたまま、咽喉をゴロゴロいわせながら、手脚をバタつかせ、なにやらしきりに悪態をついておりました。ずいぶん往生際の悪いやつで。わたしはあいつをたかだかと吊り上げたり、また低く吊り下ろしたり、さんざんおもちゃにしてやりましたが、そのうちにぐったり伸びてしまいましたぞな。それでも念のためあと二、三度、吊り上げたり吊り下ろしたりして、もうこんりんざい息を吹きかえす気づかいはないということをたしかめてから、そっと馬車のうえに吊り下ろしてやりました。この馬車のうえへ吊り下ろすということはとっさに思いついたことで、はじめは|棒《ぼう》|鱈《だら》みたいに宙に吊るしておくつもりじゃったんですけんど、それじゃなんぼなんでも可哀そうな気がしたのと、祖父さんがハイカラがって乗りまわした馬車にのって、孫が|三《さん》|途《ず》の川を渡るというのも、あの気取り屋の最期としては、似つかわしいのではないかと、あれはせめてものわたしの情けだったのでございますぞえ」
語りおわったお糸さんは、膝のうえにかたく両手を握りしめたまま、観念の|臍《ほぞ》をかためたようにニコニコしている。その告白のあまりにも凄惨なるにもかかわらず、お糸さんの顔はあくまでも明るかった。
長い沈黙が日本座敷を支配した。その沈黙をやぶったのは慎吾だった。
「金田一先生、それで、あなたこのばあさんをどうなさるおつもりですか」
金田一耕助はまじまじと糸女の顔を見つめていたが、やがてニッコリ笑うと彼女のほうへ手をさしだした。
「お糸さん、そのてのひらのなかにあるものを、こちらへ頂戴いたしましょうか」
「えっ?」
糸女ははっとしたように両手をつよく握り合わせ、金田一耕助の顔を見なおした。
「いいからそれをぼくにください。あなたにはそんなもの必要ないんです。さあ、こちらへください」
糸女のからだはかすかにふるえた。それから悪戯を見つかった悪戯小僧のように、バツの悪そうな顔をしながら、てのひらのなかにあるものを、おずおずと金田一耕助のほうへ差し出した。小さな|瓶《びん》だった。
「青酸加里ですね」
さっきからふしぎそうにふたりの応答を見まもっていた慎吾は、ハッとしたように、
「金田一先生!」
と、おもわず体を乗り出すのを、金田一耕助は見むきもせず、
「お糸さん」
「はあ」
「あなたはこのぼくを誤解していらっしゃる」
「誤解とおっしゃいますと?」
「ぼくは警察の人間ではないのですよ。ぼくはここにいらっしゃる篠崎さんのご依頼をうけて、この事件の調査に乗り出したものです。謝礼は過分に頂戴しました。そういう男にしては、警察にも十分協力したとお思いになりませんか。これ以上重箱の隅をほじくって、なにを知りえたからって、いちいち警察に報告する義務はない男です。これはわたしが頂戴しときましょう」
と、小瓶を|袂《たもと》にほうりこむと、
「そのかわりお糸さんにひとつお願いがあるのです」
「はあ、どういうことでございましょうか」
「この篠崎さんというひとは事業にかけては豪のものです。よく目先のきくひとです。しかし、ご婦人の鑑定にかけては残念ながら落第といわざるをえませんね。しかも、篠崎さんはまだお若い。当然、後添いが必要でしょう。だからこんど篠崎さんが奥さんをお持ちになるときは、あなたひとつよく鑑定してあげてください」
「金田一先生!」
「それじゃぼくはこれで失礼を……」
金田一耕助は感動にからだを固くしている篠崎慎吾と、涙ぐんでふるえているお糸さんをあとに残して、|飄々《ひょうひょう》として席から立ち上がった。
金田一耕助の注文で譲治の馬車で富士駅まで送られていく途中、御者台にいる譲治がむこうをむいたまま声をかけた。
「金田一先生、あなたってふしぎなかたですね」
「なにが……?」
「だってこの馬車、気味が悪くないんですか」
「どうして? ああ、そうか。この馬車に死体がのっかってたから……? ところがぼくはそんなこと、いっこう苦にならない性分でねえ。それに自動車ならいつでも乗れるチャンスはあるが、こんなりっぱな馬車に乗れるなんてことはめったにないことだからな。いわんや君みたいなハンサムな御者をしたがえてると、いっそう晴れがましい気がするぜ」
「あんなこといってるよ」
「それより、譲治君、またかわいい女の子がきてるじゃないか。恵美ちゃんてえんだってね。君もうあの子をものにしてるんじゃないの」
「いやだなあ、金田一先生たら」
むこうむきになった譲治の耳がまっかになって、
「だって、まだ、タマ子の四十九日が来ないじゃありませんか」
「あれ、君みたいな若いひとにしちゃ、いやに古風なことをいうじゃないか」
「それにぼく、こないだおやじさんに注意されたんです」
「注意ってどんな注意だい」
「まだ若いからしかたがないが、女に泣かされても、女を泣かせるようなことしちゃいけないって」
「篠崎さんがそうおっしゃったのかい」
「おやじさんそれを金科玉条にしてるらしいんです」
「君もそれに共鳴したってわけか」
「と、まあ、そういうわけです。だから恵美子にしたって……あの子もぼくやタマ子とおなじ戦災孤児なんですが、あの子を仕合わせにしてやれるって自信ができるまで、ぼく絶対に手を出さんことにしてるんです」
「そりゃいい心掛けだ。その日のいちにちも早からんことを祈っとくよ」
「ありがと。ぼくもそのつもりで努力してるんです。ハオー」
譲治が鞭をならしたので、フジノオーはにわかに速度を速めて、パカパカと快い|蹄《ひづめ》の音がさわやかな秋の空にこだました。金田一耕助がふりかえってみると、夕映えを真正面にうけた富士の高嶺は、どんな画家がかいた、どんな絵よりも美しいと思わざるをえなかった。
本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月)
金田一耕助ファイル8
|迷《めい》|路《ろ》|荘《そう》の|惨《さん》|劇《げき》
|横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》
平成13年11月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C)  Seishi YOKOMIZO 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『迷路荘の惨劇』昭和51年6月10日初版発行
平成 8年9月25日改版初版発行
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※[#ここに画像。建物の見取り図?]