金田一耕助ファイル4
悪魔が来たりて笛を吹く
[#地から2字上げ]横溝正史
目 次
第一章 悪魔が来りて笛を吹く
第二章 椿子爵の遺言
第三章 椿子爵謎の旅行
第四章 砂占い
第五章 |火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》
第六章 笛鳴りぬ
第七章 血と砂
第八章 風神雷神
第九章 黄金のフルート
第十章 タイプライター
第十一章 肌の紋章
第十二章 YとZ
第十三章 金田一耕助西へ行く
第十四章 |須《す》|磨《ま》|明《あか》|石《し》
第十五章 玉虫伯爵の別荘
第十六章 悪魔ここに誕生す
第十七章 妙海尼
第十八章 不倫問答
第十九章 淡路島山
第二十章 刺客
第二十一章 風神出現
第二十二章 指輪
第二十三章 指
第二十四章 a=x,b=x ∴ a=b
第二十五章 アクセントの問題
第二十六章 |秋《あき》|子《こ》は何に驚いたか
第二十七章 密室の再現
第二十八章 火焔太鼓の出現
第二十九章 悪魔の記録
第三十章 悪魔笛を吹きて終わる
[#ここから3字下げ]
以下三十章にわたって諸君が読まれるところのものは、全部作者の空想によるものである。たまたまこれを読まれる諸君のうちに、これと似た事件を連想されるひとがあったとしても、それはこの小説となんの関係もないことをあらかじめ明記しておく。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]作者
第一章 悪魔が来りて笛を吹く
いま筆をとってこの恐ろしい物語の、最初の章を書きおこそうとするにあたって、私はいささか良心の|呵責《かしゃく》なきを得ない。
ほんとうをいうと、私はこの物語を書きたくないのだ。この恐ろしい事件を文字にして発表するのは、気がすすまないのだ。なぜならば、これはあまりにも陰惨な事件であり、あまりにも|呪《のろ》いと憎しみにみちみちていて、読むひとの心を明るくするところが、|微《み》|塵《じん》もないからである。
この物語の最後の行が、どのような文章をもって結ばれるか、それは筆者である私自身にも、まだ予測することは出来ないけれど、おそらく諸君は巻をおおうた|刹《せつ》|那《な》、なんともいいようのないドスぐろさ、救いがたいほどの|暗《あん》|澹《たん》たる思いに、重っくるしく胸をおしつぶされることだろう。由来、犯罪と推理の物語に後味のよいのは少ないのが当然かも知れないけれど、この事件はあまりにも後味の悪さにおいて、極端であろうことを私はおそれるのである。その点金田一耕助も私とおなじ考えだったらしい。この材料を私に提供するにあたって、かれは少なからず|躊躇逡巡《ちゅうちょしゅんじゅん》していたようだ。
ほんとうをいうと、この事件は、私がここ二、三年書きつづけてきた金田一耕助の冒険|譚《たん》の二、三より、以前に書かれるべき性質のものである。年代からいうと、これは「黒猫亭事件」と、「夜歩く」の事件のあいだにはいるべきもののように思われる。それをいままで私に秘めて、容易に明かそうとしなかったのは、金田一耕助もやはり、この事件全体をおおうている救いのない暗さ、呪わしい人間関係、さてはまた、憎悪と|怨《おん》|念《ねん》のすさまじさが、読むひとの心を不快にすることをおそれたからであろう。
しかし、いま|書《しょ》|肆《し》の追究急なるあまり、私はとうとう意を決して、金田一耕助の同意をえたうえ、この事件の|全《ぜん》|貌《ぼう》を発表しようとしている。むろん、書きたくない、気がすすまぬといいながら、いったん筆をとった以上、全精力をかたむけて、この事件と取っ組もうとしていることはいうまでもない。
さて、いまこうして筆をとっている私の机の周囲には、金田一耕助から提供された、いろんな参考資料が散乱しているのだが、そのなかでも、もっとも強く私が心をひかれるのは、一枚の写真と、それから一枚のレコードの片面である。
写真というのは、ハガキ大の大きさで、そこに写っているのは、中年の紳士の半身像である。この写真が撮影されたとき、写真のぬしは数え年で四十二歳。(ついでにここでお断わりしておくが、以下この物語に出てくる年齢は、すべて数え年である。なぜならば、この事件が起こった当時は、まだ満でかぞえる制度はなかったのだから)いわゆる男の厄年である。そう思ってみるせいか、それとも、これからお話ししようとする、あの恐ろしい事件の連想がはたらくせいか、このひとの容貌のうえから感得されるものは救いがたいほどの暗いかげである。
色は浅黒いほうだろう。額がひろく、髪をきれいに左でわけている。鼻がたかく、|眉《まゆ》がけわしく、|瞳《め》のいろが沈んでいるのは、うちにはげしい感情を蔵しながら、それがつねに|内《ない》|訌《こう》し、沈潜しているといった感じである。口は小さく、唇はうすいほうだが、それも残忍酷薄という印象ではなく、むしろどこか女性的な気の弱さを示しているようだ。それでいて、|顎《あご》がかなり張っているところは、女性的な気の弱さの底に、いざとなれば、いつ爆発するかも知れぬ、強い意志を示しているのであろう。
服装は地味な背広だが、胸にさがった|紐《ひも》ネクタイのひとすじが、このひとの芸術家気質を、遠慮がちにのぞかせているようだ。
さて、この写真全体からうける印象を、もっと大ざっぱにいうならば、なかなかの、貴族的な、なかなかの好男子なのだが、このひとこそ誰あろう、あの恐ろしい事件のなかで、もっとも重要な役割をしめている元|子爵《ししゃく》、|椿英輔《つばきひですけ》氏なのである。椿英輔はこの写真を撮影してから半年のちに、あの運命的な|失《しっ》|踪《そう》をしたのであった。
さて、この写真のほかにもうひとつ、私が強く心をひかれるレコードというのは、終戦後Gレコード会社から発表された、十|吋《インチ》盤のフルートのソロで、題して、
「悪魔が来りて笛を吹く」
作曲ならびにフルートの演奏者というのが、いまいった椿英輔氏なのである。しかもこれは英輔氏が失踪する一か月ほどまえに作曲を完成、レコードに吹きこんだものであった。
私はこの稿を起こすまえに、なんどこのレコードをかけてみたかわからない。そしてなんど聞いても私はそのつど、|凄《せい》|然《ぜん》たる鬼気にうたれずにはいられなかった。それは必ずしも、これからお話ししようとする物語からくる連想のせいばかりではなく、このフルートのメロディーのなかには、たしかに一種異様なところがあった。それは音階のヒズミともいうべきもので、どこか調子の狂ったところがあった。そしてそのことが、この|呪《のろ》いと憎しみの気にみちみちたメロディーを、いっそうもの狂わしく恐ろしいものにしているのである。
私はこと音楽に関しては全然門外漢なのだけれど、この曲はどこかドプラーのフルート曲「ハンガリアン田園幻想曲」に似たところがあるように思われてならぬ。しかし、ドプラーの曲にはまだしも陽気な一面もあるのだけれど、椿英輔氏の「悪魔が来りて笛を吹く」は、徹頭徹尾、冷酷悲痛そのものである。ことにクレッシェンド(次第に強く)の部分のもの狂わしさにいたっては、さながら、|闇《やみ》の夜空をかけめぐる、死霊の|怨《うら》みと呪いにみちみちた|雄《お》|叫《たけ》びをきくが思いで、いかに音痴の私でも、|竦然《しょうぜん》として、肌に|粟《あわ》立つのをおぼえずにはいられない。「悪魔が来りて笛を吹く」――
この題はおそらく木下|杢《もく》|太《た》|郎《ろう》の名詩「|玻《は》|璃《り》問屋」の一節、「盲目が来りて笛を吹く」から転用したものだろう。しかし、この曲には杢太郎の詩にある|情緒《さんちまん》など|微《み》|塵《じん》もなく、それは文字どおり悪魔の笛の雄叫びである。ドスぐろい血のにじみ出るような、|呪《じゅ》|咀《そ》と憎悪のメロディーなのだ。
私のような門外漢がきいてさえ、それほど強く、鬼気をかんずるくらいだから、いわんやこの事件の関係者たちが、英輔氏の失踪後において、突如としてこの曲の吹奏されるのをきいたとき、どのような大きなショックとおそれを感じたことだろうか。……察するにあまりありというものである。
「悪魔が来りて笛を吹く」――いまにして思えば、いくらか調子の狂ったこの曲のなかにこそ、これからお話ししようとする、あの恐ろしい事件の|謎《なぞ》をとくキイが秘められていたのだ。
思えばこの事件の起こった昭和二十二年という年は、新聞の社会面がたいへん|賑《にぎ》やかな年だった。われわれは少なくとも三つの、天下の耳目を|聳動《しょうどう》させた、大事件の記憶を持っている。そして、そのうちの二つの事件が、あい関連しているらしいことは、当時すでに世間のひとも気がついていたことだが、不思議なことには、もうひとつのまったく別な事件と思われていたあの大事件が、やっぱりあとのふたつの事件に、微妙なつながりを持っていたのである。
その事件とはほかでもない。一世を|震《しん》|撼《かん》させたあの天銀堂事件である。
天銀堂事件――と、こう書いただけでも、諸君はおそらくドキッとされることだろう。それほどこの事件の記憶はなまなましく、いまにいたるも世の人の|脳《のう》|裡《り》にこびりついている。
この前代未聞といわれ、世界犯罪史上にも類例がないと、海外の新聞にまで宣伝された事件を、いまさらここに詳述するまでもあるまいと思うが、それでも念のために、簡単に紹介しておこう。
それはその年の一月十五日、午前十時ごろのことであった。銀座でも有名な宝石商、天銀堂の店先へ、ひとりの男がはいってきた。
その男というのは年配四十前後の色の浅黒い、ちょっと貴族的な印象をひとにあたえる好男子だったが、腕に都の衛生係の腕章をまきつけ、片手に医者の持つような|鞄《かばん》をかかえていた。
その男は店のすぐ奥にある支配人室で支配人に面会すると、東京都衛生局の肩書きのはいった、井口一郎という名刺を出して見せ、この付近に伝染病が発生したから、客に接する店員たちは、全部予防薬を飲まなければならぬと力説した。
後になって、このときの支配人や店員たちの行動を、あまりにも役人の肩書きに盲従する、非民主的なものとして非難するひともあったが、実際において井口一郎と名乗る人物の人柄があまりにもすぐれており、態度も平静で自信にみちていたので、誰ひとり、疑惑をさしはさむ余地がなかったのである。
そこで支配人はただちに店員たちを、支配人室に呼びあつめた。まだ朝のことで、そう客がつめかけてくるはずはなかったし、店員たちも陳列棚の飾りつけをおわったばかりのところで、手がすいていたので、支配人に呼ばれると、ひとり残らずやってきた。表の店員のみならず、奥働きの掃除婦までがかりあつめられた。その人数は支配人をもふくめて、十三人だった。
さて、井口一郎と名乗る怪人物は、そのとき店内にいたものが全部あつまったと見ると、おもむろに鞄のなかから、二種類の瓶をとりだし、それを人数のかずだけ|湯《ゆ》|呑《の》みについだ。そしてみずからそれの飲みかたを指導したのである。
数秒ののち、あのような|凄《せい》|惨《さん》な運命が、自分たちを待っていようとは、夢にも知らぬこの善良なひとたちは指導されるままに二種の薬液をのみほした。そしてそれから数瞬のうちに、あの恐ろしい地獄絵巻きがくりひろげられたのである。
飲まされたのは青酸加里だった。店員たちは将棋倒しにその場に倒れた。倒れるとすぐに呼吸をひきとったものもあるが、なかには断末魔の|呻《うめ》き声をあげながら、のたうちまわるものもあった。
井口一郎と名乗る怪人物は、それを見ると自分の持ち物一切を鞄へねじこみ、支配人室からとび出すと、店に飾ってあった宝石類をひっつかみ、銀座街頭を逃亡していったのである。後になって厳密に調査されたところによると、このとき犯人のうばっていった宝石類は案外少なく、時価にして三十万円ぐらいのものであろうといわれている。
さて、この凄惨な事件が発見されたのは、犯人が逃亡してから十分ほどのちのことであった。たまたま店へはいってきた客のひとりが、ドアの奥からきこえる異様なうめき声と、救いを求めるかすかな悲鳴におどろいて、ドアの内側をのぞいてみたところから、この前代未聞の大騒動の幕が切って落とされたのである。
このときの犠牲者十三人のうち、三人だけはあやうく命をとりとめたが、あとの十人は医者や警察官がかけつけてくるまえに、気の毒にもこと切れていた。これが世にいう天銀堂事件である。
この事件は計画としては案外単純なもので、智能犯の部類にも入りかねるような性質のものだが、犯人の残忍さ、冷血さ、その鬼畜性には、まったく眼をおおわしめるものがあり、いかにすさんだ戦後の世相とはいえ、これほど世人に、大きなショックをあたえた事件はかつてなかった。
しかも、事件の性質上、案外かんたんにつかまるのではないかと思われた犯人が、なかなかつかまらなかったことによって、この事件はいよいよ問題を大きくしたのである。
むろん、警視庁はけっしてなまけていたわけではない。犯人の足どりから宝石類のゆくえ、さてはまた井口一郎なる名刺の出所など、あらゆる線から必死となって、犯人を追究する一方、さいわいにして生きのこった三人の被害者、それから、犯人が天銀堂をとび出すところを目撃した、二、三の証人の記憶によって、犯人のモンタージュ写真なるものが作成され、これによってひろく世人の協力をもとめた。犯人捜査にモンタージュ写真が登場したのは、おそらくこの事件が最初だったろう。
このモンタージュ写真は五度にわたって修正され、そのつど全国の新聞紙上にかかげられたが、そのために、さまざまな悲喜劇の起こったことはまだ世人の記憶に新しいことと思う。
モンタージュ写真がひきおこした投書や密告状は、警視庁に殺到してひきもきらなかった。どこそこの誰それがあの写真に似ているとか、何町の何某こそあのモンタージュ写真に生きうつしであるというような投書のために、警視庁はてんやわんやであった。|騙《だま》されるとは知りながら、そのつど刑事が出向いたり、また、写真に似ているといわれる本人の出頭をもとめたりした。
また、たまたまその写真にいくらか似ていたために、街頭でおまわりさんにとっつかまって、迷惑したというようなひとも少なくはなかった。しかも、こういう騒ぎは東京のみならず、全国的にくりかえされたのである。
そして、このことが私がこれからお話ししようとするこの物語に、奇妙なつながりを持っていたのであった。
まえにもいったように、天銀堂事件が起こったのは一月十五日のことだったが、それから約五十日をへた三月五日の朝刊は、またわれわれの耳目を|聳動《しょうどう》させるような事件を報道した。そして、この事件こそ、これから私がお話ししようとする、あの恐ろしい三重殺人事件の前奏曲をなすものであった。
当時は、まだ太宰治の「斜陽」は書かれておらず、したがって斜陽族とか斜陽階級などということばは、この事件のばあい使われていなかったが、もし「斜陽」がすでに書かれていたとしたら、おそらくこれは、斜陽階級ということばが使われた、第一号の事件となったであろう。
三月五日の朝刊は、椿|子爵《ししゃく》の|失《しっ》|踪《そう》を大々的に報道した。それはこの事件こそ、崩壊しゆく貴族階級が、はじめて示した悲劇の露頭だったので、世もおのずから興味を持ったからである。
椿子爵の失踪事件が、はじめて新聞にあらわれたのは、いまいったとおり、三月五日の朝刊だったが、子爵が実際に失踪したのは、それより四日まえの三月一日のことだった。子爵はその朝十時ごろ、どこへ行くとも家人につげず、ぶらりと家を出たきり、ついにかえらなかったのである。
家を出るときの服装は、地味なグレーの背広のうえに、おなじく地味なグレーのオーヴァを着て、古いステットソンの中折れ帽をかぶっていた。
家人はまさか失踪とは思わず、……と、いうよりも思いたくなかったので、二日待ち、三日待ち、むろんそのあいだあらゆる知人|親《しん》|戚《せき》に手をまわして、子爵の行く方をもとめたが、なんら得るところがなかったので、ついに四日の午後、警視庁へ保護願いを出し、ここにはじめて悲劇の露頭が顔を出したのである。
遺書はなかった。
しかし、当時の子爵の様子から、自殺の公算が大きかったので、警視庁では近県各地にわたって手配をすると同時に、翌五日の朝刊には、いっせいに子爵の写真がかかげられた。それがいま私の手もとにある、あのハガキ大の写真である。
遺書がなかったので、子爵の失踪が自殺行としても、その動機は|明瞭《めいりょう》ではなかった。しかし、だいたいのことは誰にも想像することが出来た。
子爵は激動するこの社会のなかに身を処するには、あまりにも生活力がかけていたのである。子爵は善良で、むしろ女性的ともいうべきほど、温厚な紳士だったそうだが、それだけに生活的には無能にちかい人物だったらしい。終戦までは宮内省につとめていたが、宮内省が廃止されて、その機構が縮小されると同時に免官になった。宮内省における地位なども、あまり|芳《かん》ばしいものではなかったらしい。
それにその当時の家庭の環境も、子爵の失踪の動機のひとつとなっていたようだといわれている。
|麻《あざ》|布《ぶ》|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》にある子爵の邸宅は焼けなかった。しかし、焼けなかったがために、子爵は多くの不幸を背負わねばならなかった。終戦後同じ邸内に、焼け出された夫人の兄、新宮子爵の一家と、同じく焼け出された夫人の|伯《お》|父《じ》、玉虫|伯爵《はくしゃく》の一家が同居することになった。このことがセンシブルな椿子爵の神経には、耐えられなかったのであろうといわれている。
麻布六本木の家はたしかに椿子爵の邸宅である。しかし、実際は夫人|秋《あき》[#「秋」は底本では「秩vを「火へん」にしたもの。秋の古字。Unicode="#79cc"]|子《こ》の名義になっていた。
椿家というのは堂上華族で、|公卿《くぎょう》としてもかなりたかい家柄だそうだが、維新以来傑物があらわれなかったと見えて、爵位はもらったものの、年々微禄していく一方であった。ことに英輔氏の青年時代は窮乏のどん底にあり、ほとんど子爵の体面も保ちかねるくらいであった。そこを新宮秋子との結婚によって救われたのである。
秋子の里方新宮家は、大名華族だが、代々の主人が貨殖のみちにたけていたと見えて、華族間でも有名なものもちだった。そのうえ新宮家には玉虫伯爵という大きなバックがあった。玉虫伯爵は秋子の母の兄にあたるが、戦前は研究会を牛耳って、貴族院のボスであった。いちども大臣になったことはないが、政界には隠然たる勢力をもっていた。
椿英輔氏はよく、自分のようなものになぜ玉虫伯爵が、可愛い|姪《めい》をくれたのだろうと述懐していたというが、伯爵のほうでもこの結婚には後悔していたのか、英輔氏のことを笛ばかり吹いている無能者と、ののしっていたそうである。
伯爵のような|脂《あぶら》っこい人物には、社会的な勢力に、未練も執着も持たぬ英輔氏のような人物は、ことごとく無能者に見えたのであろう。それでいて、自分の|甥《おい》の新宮利彦の、人生におよそ酒と女とゴルフしかないみたいな生活振りを見ても、あいつはさすがにお殿様らしいと|褒《ほ》めていたというのだから、玉虫伯爵という人物が、いかに脂っこい人物であるかわかるだろう。
そういうわがままな伯爵と、道楽者の義兄が乗りこんできて、わがものがおに振舞い、二言目には子爵のことを、無能者とののしっていたというのだから、いかに温厚な英輔氏といえども、やりきれなくなったのも無理はないと、消息通のあいだではいわれていた。
それはさておき、椿子爵の失踪が生死不明のまま、新聞で騒がれていたころ、機を見るに敏なレコード会社によって売り出されたのがあの「悪魔が来りて笛を吹く」のレコードであった。そして、まえにもいったように、このレコードのなかにこそ、多くの意味がふくまれていたのだが、当時はまだ誰もそれに気がつかなかったし、また歌謡曲などとちがって、洋楽器のなかでもことに渋いフルートのソロのことだから、これはあまり大して評判にならなかったようだ。
椿英輔の消息は、二か月ちかくもわからなかった。しかし、多くのひとはもうその自殺を信じて疑わなかった。英輔氏は終戦後、おりにふれて死について語っていたし、同じ死ぬなら、誰にも死体の見つからないような場所で、ひとり静かに死んでいきたいといっていたから、どこかの山の中ででも死んでいるのだろうといわれていた。そして、その予想はみごと的中したのである。
英輔氏が家を出てから、四十五日たった四月十四日、信州|霧《きり》|ケ《が》|峰《みね》の林のなかで、男の死体が発見された。服装持ち物その他から、かねて手配中の椿英輔氏と判断されたので、すぐそのむねが六本木の屋敷へ報告された。
このとき六本木のうちでは、誰が死体を引きとりにいくかということについて、ひと|悶着《もんちゃく》あったそうである。夫人の秋子は良人失踪のショックで、からだを悪くしていたし、それに元来この婦人は、そういうことには不向きな人柄なので、令嬢|美《み》|禰《ね》|子《こ》が代わりにいくことになった。そうきまると、いとこの|一《かず》|彦《ひこ》が同伴を申し出た。一彦は英輔の甥であると同時に、フルートの弟子ででもあったのである。
しかし、この二人だけでは|心許《こころもと》なかった。一彦は二十一歳、美禰子は十九歳、どちらも年が若過ぎるから、誰か世故にたけたものがついていく必要があった。それには一彦の父の利彦こそ、もっとも適任と思われたが、利彦は、なかなかうんといわなかった。かれは義弟の死体など引きとりにいくより、妹をいたぶって高級パンパンを買いにいくか、それとも誰かにたかってゴルフでもしていたかったのである。
しかし結局妹に泣きつかれ、その代わりあとでたんまり遊びの軍資金をもらう約束で、一彦と美禰子をつれて出かけた。お供には、戦後英輔氏がひきとって面倒を見ていた友人の遺児、|三《み》|島《しま》|東《とう》|太《た》|郎《ろう》という青年がついていったが、結局現地でいっさいの手続きを、テキパキと片付けていったのは、この三島東太郎という青年だった。
死体は|上《かみ》|諏《す》|訪《わ》で解剖されたのち、|荼《だ》|毘《び》に付されたが、ただここに驚くべきことには、周囲の状態や医者の|検《けん》|屍《し》によると、英輔氏は三月一日家を出ると、すぐその足でその場所へやってきて、青酸加里を服用したらしく思えるのに、死体はまだほとんど腐敗していなかったのである。むろん、生きているときから見ると、いくらか|相《そう》|好《ごう》はかわっていたものの、げんざいの娘や義兄や甥たちが、ひと目見て、英輔氏と識別されるだけの|容《よう》|貌《ぼう》はたもっていたのである。おそらくそれは寒冷な、その土地の気温のせいだったろうといわれている。
こうして椿英輔氏は、みずからこの世からその存在を抹殺した。三月一日に死んだとしたら、かれはまだ、子爵であったはずである。おそらく椿英輔氏は、貴族であるうちに、貴族として死にたかったのであろう。
こうして椿英輔子爵の失踪事件は、一応ケリがついたかのように思われた。しかし、実際はそうではなかったのだ。
それから半年ののち、悪魔が高らかに|呪《のろ》いの笛を吹きはじめるに及んで、英輔氏の失踪事件は、もう一度新しい角度から、見直されることになったのである。
第二章 椿子爵の遺言
「黒猫亭事件」をお読みくださればわかるが、昭和二十二年ごろの金田一耕助の生活というのは、まことに奇妙なものであった。
その前年の秋、復員してきたばかりの耕助は、家がなくて、|大《おお》|森《もり》の山の手にある松月という|割《かっ》|烹《ぽう》旅館のはなれにころげこんでいた。その割烹旅館というのは、金田一耕助の旧友で、戦後ハマの土建屋として、かなりはばをきかしている風間俊六という男が、二号に経営させているうちなのだが、耕助はそこへころげこんだまま、根が生えたように動かなかった。
さいわい友人の二号というのがよい女で、金田一耕助をまるでじぶんの弟(その実、彼女のほうが年下なのだが)のように面倒を見てくれる。金田一耕助という男は、事件に突入すると、いくらか英気サッソウとしてくるが、ふだんは猫のように無精である。だから居候としてはかなり世話のやけるほうだが、二号さんはいやな顔ひとつせず、小遣い銭などにも心をくばってくれる。
それをよいことにして、耕助はそこにすっかりお|神《み》|輿《こし》をおろしてしまったわけだが、かれはそれでよいとしても、ここにときおり困ることがあった。
というのは、かれの名前がおいおい世間に知られていくにしたがって、ボツボツと、調査を依頼してくる客がふえてきたことである。それらの依頼人のなかには、男もいるが女も少なくなかった。男でもそういう場所へ出入りするということは、かなりためらわれるところだが、とりわけ相手が妙齢の婦人の場合など、単身割烹旅館の門をくぐるということは、かなり勇気のいる仕事らしかった。しかもやっと勇気をふるって門をくぐったところが、金田一耕助とさしむかいになるのが、いきな離れの四畳半ときては、はなはだもってバツが悪いのも当然である。
昭和二十二年九月二十八日。
耕助はいま、そういうバツの悪そうな婦人客と、離れの四畳半でさしむかいになっている。相手は二十前後のわかい婦人で、黒いスカートにデシンのブラウス、ピンクのカーディガンに髪をショート・カットにしていて、ちかごろのその|年《とし》|頃《ごろ》の婦人としては、かなり地味なほうである。
|容《よう》|貌《ぼう》はお世辞にも美人とはいいにくい。かなりのおでこである。それに眼が大きすぎるところへ、|頬《ほお》から|顎《あご》へかけてこけているので、顔全体の釣り合いがとれない。ちょっとおどけた感じもあるが、それでいて、ひどく気位の高そうなところも見える。なんとなくいらいらした様子が見えるのは、こういうところへ来る依頼人の常だが、身にしみついたこの暗いかげはどういうわけだろう。……
金田一耕助はそれとなく相手を観察しながら、しかし、そばから見るといかにも悠然として煙草をくゆらしているように見える。ちょっと取りつく島がないといった感じで、女は居心地悪そうに、しきりに|膝《ひざ》をもじもじさせている。初対面の|挨《あい》|拶《さつ》をかわしたきり言葉がとぎれて、耕助は相手が口をきるのを待っているし、相手は相手で耕助が、話をひきだしてくれるのを待っているのである。こんなときの耕助ははなはだ要領がよろしくない。
ふいに耕助の指先から、長くなった煙草の灰がポロリと落ちた。女はまあと眼を見はって、机のうえに落ちた灰を見ながら、
「あの……」
と、何かいいかけたが、そのとき耕助がふっと灰を吹いたので、
「あら!」
と、女はあわててハンケチで眼をおさえた。
「やあ、こ、こ、これは失礼。灰、眼へ入りましたか」
耕助もあわてて机のうえに身を乗りだした。
「いえ、あの……」
女は二、三度強く眼をこすったが、すぐハンケチをはなし、ひどいわというように耕助を見ながらにっこり笑う。笑うとみそっ歯がちょっと可愛い。少なくともその瞬間だけは、身にしみついている暗いかげがうすれたようだ。
耕助はガリガリ頭をかきまわしながら、
「ど、どうもすみません。ぼくは行儀が悪くていかんです。眼、なんともありませんか」
「はあ、大丈夫でございます」
女はもう持ちまえの気位の高さを取りもどして、つめたく取りすましていたが、しかし、これでやっと口がほぐれた。
「警視庁の|等々力《とどろき》警部さんところへいらしたんですね」
「はあ」
「すると等々力警部さんが、ぼくのところへいくようにいったんですね」
「はあ」
「どういう御用件でしょうか」
「はあ、あの……」
と、女は少し口ごもったのち、
「あたくし、|椿《つばき》|美《み》|禰《ね》|子《こ》と申します」
「はあ、それはさっき承りましたが……」
「いえ、こう申しただけではお気付きでないのはごもっともですが、あたくし、この春、|失《しっ》|踪《そう》事件をひきおこした、椿英輔の娘でございます」
「この春失踪事件をひきおこした……」
金田一耕助は口のうちで|呟《つぶや》いてから、ふいに大きく眼をみはった。
「それじゃあの椿|子爵《ししゃく》の……」
「はあ、もう子爵でもなんでもございませんけれど……」
美禰子は|自嘲《じちょう》するように、つめたくいいはなって、大きな眼で、真正面から耕助を見る。耕助はまたガリガリと頭をかいた。
「それはそれは……その節はどうもとんだことで……」
耕助は相手の顔を見直しながら、
「それで、わたしに御用件というのは……」
「はあ、それが、あの……」
美禰子のからだをくるんでいる暗い影と、|焦躁《しょうそう》のいろがしだいに大きくうきあがってくる。彼女はいらいらと指先で、ハンケチを|揉《も》み苦茶にしながら、
「まことに取りとめのない話なんですけど、あたしどもにしてみれば真剣な問題でございまして……」
美禰子は大きな眼で、金田一耕助のからだを吸いこんでしまいそうに|視《み》つめながら、
「あたしの父は、ほんとうに亡くなったのでございましょうか」
金田一耕助はびっくりしたように相手の顔を見直した。はげしいショックがかれのからだを突きあげそうにした。耕助はやっと机のはしに両手をかけてそれをおさえると、
「ど、ど、どうしてですか」
美禰子は膝にキチンと両手をおいて、無言のまま、金田一耕助を視つめている。女をくるむ暗い影が、ゆらゆらと|陽《かげ》|炎《ろう》のように立ちのぼる。金田一耕助は|湯《ゆ》|呑《の》みにのこったつめたい茶をのみほすと、やっといくらか落ちついた。
「ぼくはあの事件を新聞で読んだきりなので、詳しいことは知らないのですが、お父さんの|亡《なき》|骸《がら》は、たしか信州かどこかの山の中で、発見されたんでしたね」
「はあ、霧ケ峰でした」
「あれは家を出てから何日目でしたかしら」
「四十五日目でした」
「なるほど、すると死体が腐敗していて、相好の|識別《み わ け》がつかなかったとか……新聞ではしかし、椿子爵とハッキリわかったというようなことが、書いてあったと思いますが……」
「いいえ、死体はまだほとんど腐敗してはいませんでした。それは気味悪いくらいでございました」
「それじゃあなたは亡骸をごらんになったんですね」
「ええ、あたし死体をひきとりにいったんです。母がいやがるものですから。……」
母という言葉のひびきに、かすかなかげりがあったので、金田一耕助はおやと相手の顔を見直した。美禰子もそれに気がついたのか、耳たぶをちょっと染めてうつむいたが、すぐまたきっと顔をあげる。耳たぶの火はすぐにひいて依然として暗い影が、女のからだをくるんでいる。
「そのときあなたはその死体を、たしかにお父さんだと認められたんですね」
「はあ」
美禰子はうなずいてから、
「いまでもそう信じています」
金田一耕助は不思議そうに相手の顔を見まもりながら、何かいおうとしたが、すぐ思いなおしたように、
「そのときあなたはおひとりでしたか。ほかにどなたもいっしょに行かなかったのですか」
「|伯《お》|父《じ》といとこがいっしょに行ってくれました。それから三島さんというかたも……」
「そのひとたちもお父さんをよく御存じなのでしょう」
「はあ」
「そのひとたちもその死体を、お父さんだと認めたんではなかったのですか」
「認めました」
金田一耕助はいよいよ|眉《まゆ》をひそめて、
「それなのに、どうしていまになって、お父さんが生きているのではないか、というような疑問が起こったんです」
「先生」
美禰子は急にねつい調子になって、
「あたしはそれを父だと信じます。いまでもそう信じています。しかし、腐敗していなかったとはいえ、顔かたちは、やっぱり生前とはだいぶちがっていたんです。それは自殺するまでの苦悩や|煩《はん》|悶《もん》、薬をのんだあとの苦痛のためだと思いますが、そのときも、誰かがひとが違ってるようだと|呟《つぶや》いたのをおぼえています。あたし自身もそう思ったのです。だからあとになってその死体を、父じゃなかったのではないかと、あまりしつこくいわれると、そんなことは絶対ないと信じながら、いくらか動揺を感じずにはいられなくなるのです。げんざいの娘、しかも死体をいちばんよく見たあたしがそれですから、ほかのひとたちがしだいに不安を感じてきたのも無理はございません。伯父なんか気味悪がって、ろくすっぽ顔も見なかったくらいですから。……」
伯父という言葉が口を出るとき、美禰子の声はまたいくらかかげってかすれた。
「伯父さんというと……」
「母の兄にあたるひとです。新宮利彦といって、やっぱり以前は子爵でした」
「いとこさんというのはそのひとの……」
「ええ、ひとりっ子です」
「お父さんのお体には、これといって特徴はなかったのですか」
「それがあったら、こんな問題は起こらなかったと思います」
金田一耕助はうなずいて、
「しかし、いったい誰がそんなことをいい出したんです。その死体がお父さんじゃなかったのじゃないかなどと……」
「母です」
美禰子は言下につめたくいいはなった。その声は金田一耕助が思わず顔を見なおさずにはいられなかったほど鋭く、冷酷なひびきをおびていた。
「お母さんがどうして……?」
「母ははじめから父の自殺を信じなかったのです。父の生死がまだわからなかったころも、母は絶対に父が自殺するとは信じませんでした。生きてどこかに姿をかくしているのだというのが、母の主張だったのです。父の死体が発見されてから、母もいくらか納得しましたが、それもほんのしばらくのあいだで、時が|経《た》つにつれて、またまた、父の死を信じなくなりました。おまえたちはだまされているのだ。あの死体は父ではなかった。父が誰かを替え玉につかって、自分はどこかに姿をかくしているのだといい出したんです」
金田一耕助は眼を見はって、相手の顔を見まもっている。何かしら、えたいの知れぬどすぐろい思いが、腹の底から吹きあげてくる。しかし、口ではわざとさりげなくお座なりをいった。
「それは、しかし、お母さんとしては、夫婦の情として……」
「いいえ、いいえ、そうではございません」
美禰子はまるで、何かをひき裂くような調子で、
「母は父をおそれているのです。父が生きていて、いつか|復讐《ふくしゅう》にかえってくるのではないかと……」
金田一耕助はギョッとしたように眼をすぼめる。美禰子もさすがにいい過ぎたと気がついたのか、|頬《ほお》からさっと血の気がひいたが、しかし、顔をそむけたり、うつむいたりするようなことはなく、真正面から耕助の視線をはじきかえすように視つめている。黒い陽炎が、また彼女のからだをくるんで立ちのぼる。
問題が夫婦間の機微にふれてきたので、相手のほうから切り出さないかぎり、こちらから追究するわけにはいかなかった。美禰子もさすがにそのあとをつづけることは、|躊躇《ちゅうちょ》するらしかった。
金田一耕助はそこで話題をかえて、
「そうそう、そういえばお父さんには遺書がなかったんですね。そういうところからお母さんは……」
「いいえ、遺書はございました」
美禰子はキッパリさえぎった。金田一耕助は驚いて、
「しかし、新聞にはたしか遺書がないというように書いてあったと思いますが……」
「ずっとのちに発見されたのです。その時分には、父の事件もすっかりほとぼりがさめていたので、いまさらこれを発表して、また世間の|噂《うわさ》の種にすることもあるまいと、一家の秘密として、外へは|洩《も》らさずにおいたのです」
美禰子はハンドバッグから、一通の封筒をとりだして、耕助のほうへ押しやった。手にとってみると、表には美禰子へ、裏には椿英輔と、いくらか女性的なきれいな字で書いてあった。むろん封は切ってある。
「どこにあったんですか。これは……」
「あたしの本のあいだにはさんであったのです。そんなこととは知らなかったものですから、この春、机のまわりを整理したとき、いらない本や、読んでしまった本などを、みんなお蔵の書庫のなかへしまったんです。それをこの夏、虫干ししようとすると、本のあいだからそれが落ちてきたのです」
「拝見してもいいですか」
「どうぞ」
遺書はつぎのようなものであった。
[#ここから1字下げ]
美禰子よ。
父を責めないでくれ。父はこれ以上の屈辱、不名誉に耐えていくことは出来ないのだ。由緒ある椿の家名も、これが暴露されると、泥沼のなかへ落ちてしまう。ああ、悪魔が来りて笛を吹く。父はとてもその日まで生きていることは出来ない。
美禰子よ、父を許せ。
[#ここで字下げ終わり]
署名はなかった。
「お父さんの|筆《ひっ》|蹟《せき》にちがいないのでしょうね」
「ちがいございません」
「しかし、この屈辱だの、不名誉だのというのはどういう意味ですか。爵位を失うということだったら、なにもお宅にかぎったことではなく、あなたがた階級全部の問題ですから、何も家名にさわるというような……」
「いいえ、そうではございません」
美禰子はまるで何かをかみ切るような調子で、
「その問題も父を悩ましていたことはたしかですけれど、そこにいっているのはそれではないのです」
「と、すると……」
「父は……父は……」
美禰子の額にはギラギラと気味悪い汗がにじみ出してくる。彼女はまるで何かにとりつかれたように、熱い息をふきながら、
「この春、天銀堂事件の犯人の容疑で、警察からきびしい取り調べをうけたことがあるんです」
金田一耕助はギョッとして両手で机のはじをつかんだ。文字どおり|鉄《てっ》|鎚《つい》で、頭をぶん殴られたような感じだった。耕助は|喘《あえ》ぎ、|咽《の》|喉《ど》の|痰《たん》をきり、あわてて何かいおうとした。
しかし、そのまえに美禰子の唇から、鋭い、|呪《のろ》わしい言葉がほとばしり出た。
「実際、第何回目かに修正された、天銀堂事件の犯人のモンタージュ写真は、父に生きうつしでございました。それは、不幸なことでした。しかし、……しかし……警察が父に眼をつけたきっかけは、そのためではなかったのです。誰か父を警察へ、密告したものがあるのです。それは、誰だかわかりません。しかし、ただわかっていることは、そのひとは、うちの者にちがいないということです。同じ邸内に住んでいる、椿、新宮、玉虫の三家族のうちの、誰かにちがいないということです」
その瞬間、耕助の眼には|美《み》|禰《ね》|子《こ》の顔が、気味悪いウィッチのように見え、彼女をくるむ暗い影が、黒い炎となってもえあがるかと思われた。
第三章 椿子爵謎の旅行
椿|子爵《ししゃく》が天銀堂事件の容疑者として、その筋から厳重な取り調べをうけた。と、いうこの事実ほど、金田一耕助にとって大きな驚きはなかった。
かりにも貴族の身として、あの惨鼻をきわめた大事件の、容疑者と目されようとは!
かれはそこに没落してゆく階級の、残酷な運命を|脳《のう》|裡《り》にえがいて、腹の底が鉛をのんだように重くなるのを感じずにいられなかった。
「いや、そ、それは……」
金田一耕助はゴクリと|生《なま》|唾《つば》をのみこむと、
「それは初耳でしたな。あの当時のことなら、ぼくはよく|憶《おぼ》えておりますが、新聞にはそんなこと、一行も出ませんでしたね」
「はい、それはさすがにその筋でも、父の身分をはばかって、秘密にことをはこんでくれたからです。父は二度も三度も警視庁へ呼び出されました。そして、天銀堂事件の被害者で、生きのこったひとたちに突きあわされたりしたのです。いいえ、そればかりではございません。天銀堂事件が起こった当日、即ち一月十五日の父の行動について、あたしたちまで厳重に取り調べをうけたのです」
「なるほど、アリバイ調べですね。しかし、それはいつごろのことなんですか」
「父がはじめてひっぱられたのは、二月二十日のことでした」
「お父さんが|失《しっ》|踪《そう》なさる十日まえですね。むろんアリバイはすぐ立証できたのでしょう」
「それがいけなかったのです。一月十五日に、父がどこにいて、何をしていたか、あたしたち誰にもわからなかったのです。いえ、いまでもわからないのです」
金田一耕助はギョッとして美禰子の顔を見直した。美禰子は怒りに声をふるわせて、
「警視庁からひとがきて、そのことについて|訊《たず》ねられたとき、あたしはすぐに自分の日記を出してみました。すると、父は一月十四日の朝、|箱《はこ》|根《ね》の|蘆《あし》の湯へいくといって家を出ているんです。その時分、父はフルートの作曲に、とりかかっていたんですが、二、三日蘆の湯へとまって、想をねってくるといって家を出ました。そして十七日の晩にかえっているんですが、あたしたちはむろん、蘆の湯に泊まっているのだとばかり思っていました。ところが警視庁で調べたところが、父は全然、蘆の湯へはいっていなかったのです」
美禰子はハンケチを|揉《も》み苦茶にしながら、
「しかも父ははじめのうち、その間の行動を語ることを、頑強に拒んだらしいのです。そのことが係官の心証を悪くして、一時、父の立場は非常に危険だったようです」
「でも、結局、疑いは晴れたのでしょう」
「はい、嫌疑がのっぴきならなくなったので、父も驚いて、はじめて十四日から十五日までの行動を打ちあけたらしいんです。それでアリバイが成立したようですが、それまでに、一週間かかったのです」
「いったいどこにいられたんですか、お父さんは?」
「存じません。父はそのことについて、家人の誰にも、ひとことも申しませんでしたから」
金田一耕助はふと怪しい胸騒ぎをおぼえた。
天銀堂事件のような大事件の容疑者と目されながら、なおかつアリバイの立証に|逡巡《しゅんじゅん》しなければならぬというのは、いったい、どのような深い事情があったのだろう。
「お父さんには、何かこう、秘密にしなければならぬような事情がおありでしたか」
「そんなことは絶対にないと思います」
美禰子はいくらか憤りをこめた声で、
「父はごく気の弱い、と、いうよりは気の小さいひとでした。子供のあたしから見ましても、歯がゆいくらい小心翼々として生きてきたひとでした。道楽といえばフルートをたしなむくらい。そういうひとですから、かくしごとがあろうなどとは、とても考えられません。もっとも……」
と、美禰子はふっと声をくもらせて、
「一月のなかばごろ、いまいった|謎《なぞ》の旅行をする前後から、少し変ではございましたが、……」
「変というと……?」
「はあ、あの、ひどく思い悩んでいるふうで、それにどうかすると、ものに|怯《おび》えたようなところがございました」
「ものに怯えて……?」
「はあ、でも、それは終戦後ずうっとそうなので……それで今年になってから、|俄《にわ》かに|昂《こう》じてきたのだと、そのときはそう思っていたんですが、いまになって考えると、それにしても少し変だったと思われるんです」
「そうすると今年のはじめに、何かお父さんの心をかきみだすようなことが起こったということになりますね。それについて、何かお心当たりはありませんか」
「べつに……ただ……」
「ただ……? ただ、どうしたんですか」
「はあ、あの、去年の暮から玉虫の|大《おお》|伯《お》|父《じ》が、同じ邸内に住むことになったものですから」
「玉虫の大伯父といいますと……?」
「母のお母さんの兄にあたるひとです。|玉《たま》|虫《むし》|公《きみ》|丸《まる》といってこの春まで|伯爵《はくしゃく》でした」
「なるほど」
金田一耕助は机のうえのメモと万年筆をひきよせると、美禰子の顔をきっと見て、
「あなたはさっき、お父さんを密告したものは、同じ邸内に住むものだとおっしゃいましたね。それはどういうわけですか」
「それは……それは……」
美禰子をくるむくらい影が、またドスぐろい|焔《ほのお》となって、炎々ともえあがる。
「父がそういったのです。あたしいまでもそのときのことを、ハッキリ思い出すことが出来ます。それは二月二十六日、あの恐ろしい嫌疑が晴れて、父がかえってきた日のことでした。嫌疑が晴れても、うちのものは恐ろしがって、誰も父のそばへよりつこうとはいたしません。あたしひとり父を慰めにいったのです。そのとき父は二階の書斎で、日が暮れているのに|灯《あかり》もつけず、放心したように|椅《い》|子《す》によりかかっていました。そのときの父の|淋《さび》しそうな姿は、いまでもあたしの眼のまえにちらついています。あたしもう慰めようにもことばが出ず、父の|膝《ひざ》にとりすがって、わっと泣き伏してしまったのでした」
美禰子の顔は異様にねじれ、いまにも泣き出すかと思われた。
しかし、彼女は泣かなかった。かえって彼女は大きく眼を見張り、
「そのとき父があたしの髪を|撫《な》でながら、こんなことをいったのでした。美禰子や、このうちには悪魔が|棲《す》んでいる。そいつがわたしを密告したのだと。……」
美禰子をくるむ暗いかげはいよいよ濃くなりまさっていく。しかし金田一耕助はもう驚きも怪しみもしなかった。彼女の身にしみついた暗いかげの秘密が、かれにもしだいにわかってきたから。
「あたしびっくりして父の顔を見直しました。そしてその言葉の意味をたずねました。父は多くを語りませんでしたが、でも、とぎれとぎれにいったことばを総合すると、こういうことになるのです。父を密告した密告状には、天銀堂事件の起こった前後における、父の言動をこと細かに書きしるしてあるのですが、それには同じ邸内に住むものでなければ、知るはずのないことまで書いてあったらしいのです」
金田一耕助は膝もとから、つめたいものが|這《は》いのぼってくるような|悪《お》|寒《かん》をおぼえる。
「お父さんはそれを誰だかおっしゃいませんでしたか」
美禰子は暗い|瞳《め》をしてうなずいた。
「お父さんはただ漠然と、そういう疑いを持っていられたのですか。それとも密告者が誰だか、ハッキリ御存じのようでしたか」
「父はハッキリ知っていたと思います」
「あなたはどうですか、そういう残酷ないたずらをする人物に心当たりがありますか」
美禰子の唇が異様にねじれた。瞳が残忍な熱っぽさをおびてかがやいた。
「あたし、よくわかりません。でも、疑おうと思えばいくらでも疑えるひとはあります。母をはじめとして……」
「お母さんをはじめとして……」
金田一耕助は息をのんで相手の顔を見直した。膝もとからまたむずかゆい|戦《せん》|慄《りつ》が這いのぼる。美禰子はだまって耕助の顔を見ている。
金田一耕助は万年筆をとりなおして、
「それでは当時、同じ邸内に住んでいられたひとたちのことを承りましょう。たしか三家族ごいっしょでしたね」
「はあ」
「では、お宅から伺いましょう。お父さんは|椿英輔《つばきひですけ》とおっしゃいましたね。おいくつでしたか」
「四十三でした」
「それから?」
「母|秋《あき》|子《こ》、秋は火扁にノギ、四十になります。でも……」
「でも……? 何んですか」
美禰子は憤ったように|頬《ほお》を|強《こわ》|張《ば》らせて、
「もし、先生が母にお会いになったら、あたしが|嘘《うそ》をついたとお思いになるでしょう。母は若くてとても|綺《き》|麗《れい》なんです。若いころ|華胄界《かちゅうかい》きっての美人と|謳《うた》われたそうですが、いまでも三十そこそこにしか見えないのです。ですから、母にとってはあたしのように醜い娘があるということは、とても心外なんです。あたし、母に気の毒だと思っています」
金田一耕助は相手の顔を見直して、何かいおうとした。がすぐ思いなおした。軽薄なお世辞などうけつけるような娘ではない。
「それからあなたですね。お年は?」
「十九」
「ほかに御兄弟は?」
「ありません」
「そうすると御家族は三人ですね。ほかに執事だとか家令だとかいうひとは?」
「以前はそういうひともいましたが、いまはそんな時代ではありませんから……でも、ほかに三人いることはいます」
「どういうひとたちですか」
「ひとりは|信《し》|乃《の》といって、母が新宮家からうちへお嫁にくるとき、いっしょについてきて、そのままいついた婆あやで、年は六十二、三でしょうか、いまではこのひとがお家の切りもりをしています」
「しっかり者と見えますね」
「はあ、とても。いまでも母を子供のように思っていて、決して奥様とは呼ばないんです。秋子さまとかお嬢さまとか呼ぶんですが、母にはまたそれがとても|嬉《うれ》しいらしいんです」
美禰子のことばに皮肉なひびきがこもっているのを、耕助はわざと聞き流して、
「で、あとのふたりというのは?」
「ひとりは三島東太郎といって、年齢は二十三、四でしょうか。なんでも父の独身時代の友人の子供さんだそうで、去年の秋復員してきて、いくところがないので父を頼ってきたんですが、とても重宝なひとですから。……」
「重宝というのは……?」
美禰子はちょっと顔をあからめて、
「先生はあたしたちがいまどうして生活しているか御存じでしょう。みんな売り食いですわ。ところがそういうことになると、あたしたち全然だめなんです。悪い商人に|足《あし》|下《もと》を見られたりして……ところが三島さんが出入りをするようになってから、それがうまくいくようになったんです。このひと、そんなことが、とても上手なんですわ。それに食糧の買い出し……そういうことがございますので、とうとう家へきていただくことにしたんです」
「若いのに感心ですな。で、もうひとりは?」
「女中で|種《たね》といいます。二十三か四ですが、あたしよりは綺麗です」
金田一耕助はそういう皮肉を黙殺して、
「すると以上六人が椿家のひとたちですね。で、あとの二家族というのは?」
「別棟のほうに新宮の一家がいます。五月の大空襲に焼け出されてから、ずっとうちにいるんです。|伯《お》|父《じ》の利彦は父とおないどしの四十三、家族は|伯《お》|母《ば》の|華《はな》|子《こ》、ひとり息子の一彦、伯母の年齢は存じませんがいとこは二十一です」
「三人きりですか。女中さんは……?」
「女中など使える身分ではございません」
美禰子はせせら笑うようにいったが、すぐ、自分のはしたなさに気がついたのか、うすく頬をそめてうつむいた。しかしまた顔をあげると、挑むような眼で耕助を見ながら、
「先生、こうなったら何もかもさらけ出した方がよいと思います。伯父は焼け出される前からとても生活に困っていて、始終母のところへ無心にきていたんです。伯父というひとはおそらくいままで自分で働いてお金を|儲《もう》けたということは一度もないでしょう。なまけ者のくせにとても|贅《ぜい》|沢《たく》で道楽者なんです。伯父の考えかたによると、世間のひとは誰でも伯父に貢ぐ義務があり、自分は働かずに贅沢をする特権があると思っているらしいんです」
金田一耕助はほほえんで、
「貴族のなかには、まま、そういう考えかたを持っているひとがあるんじゃないですか」
「ええ、そうかも知れません。伯父は、その典型なんですね。でも、伯父が母のところへ無心にくるには、理由がないこともないのです。母の父は母が十五のときに亡くなったんですが、とても母を可愛がっていて、伯父にいくぶんよりたくさん母に遺したんです。母はそのほかにも、母方の祖父から沢山のこされたので、とてもお金持ちだったんです。母は綺麗ですから、誰からも愛されるんですわ。そういう大きな財産をもって、母は椿のうちへお嫁にきたんですが、伯父にしてみればそれが不平で、自分のものを|費《つか》い果たすと、当然の権利のように母のものに眼をつけはじめたんです。またそういうことがありますから、伯父の一家や玉虫の大伯父が乗りこんできても、父は何もいえなかったんです。父はいつも養子のように権力がなく孤独でした」
美禰子の声はまた怒りにたかぶってくる。金田一耕助はしかしそれを黙殺して、
「玉虫もと伯爵はおひとりですか」
「いいえ、|菊《きく》|江《え》さんという二十三、四の、とても綺麗な小間使いがついています。むろん、ただの小間使いではございません」
金田一耕助は、すぐその意味を|諒解《りょうかい》した。
「大伯父さんはいくつですか」
「かれこれ七十になるんじゃないでしょうか」
「その人にはほかにいくところがないのですか」
「いいえ、玉虫家には立派な跡取りがあります。跡取りのほかにもたくさん子供があるんですけれど、大伯父というのがとても我の強い、わがままなひとですから、子供たちの誰ともあわないんです。それに反して母はこのひとをとても尊敬しているものですから」
金田一耕助はメモのうえに眼を落とす。そこにはつぎの十一人の名が書きしるしてあるのだった。
椿   英 輔  四十三歳
妻  秋 子  四十歳
女  美禰子  十九歳
老女 信 乃  六十二、三歳
三島東太郎    二十三、四歳
女中   種  二十三、四歳
新 宮 利 彦  四十三歳
妻  華 子  四十歳前後
男  一 彦  二十一歳
玉 虫 公 丸  七十歳前後
妾  菊 江  二十三、四歳
金田一耕助はそのメモを美禰子に見せて、
「あなたはこのひとたち全部に、お父さんを密告する可能性があるというんですか」
美禰子はメモに眼をとおすと、
「いいえ、全部とはいいません。三島さんや女中の種、それから菊江さんなどに、そんなことをしなければならぬ理由はありませんし、新宮の伯母さまや一彦さんがまさか。……新宮の伯母さまというひとは、とてもいいかたです。でも、ほかの四人、母をはじめ信乃にしろ、新宮の伯父や玉虫の大伯父にしても、そんなことをしかねないひとたちなんです」
「つまり、そのひとたちは、それほどお父さんを憎んでいたというのですね」
美禰子の顔にはまたドスぐろい怒りの炎がもえあがる。
「いいえ、あのひとたちは父を憎んではいませんでした。それよりもっと悪かったんです。あのひとたちは父を|軽《けい》|蔑《べつ》していたんです」
美禰子はギリギリと歯ぎしりをするような調子になって、
「新宮家のひとたちには、父がとても無能に見えたんです。そしておとなしい父が、何をされても、何をいわれても、少しも反抗しないのをよいことにして、あらゆるいやがらせをして、父をいじめ、困らせ、なぶりものにすることをもって、無上のよろこびとしていたんです。新宮の伯父がことにそうでした。御自分がなんの取り柄もないひとですから」
キッパリと云いきった美禰子のことばの調子には、まるで歯のあいだから血でもしたたりそうな|辛《しん》|辣《らつ》さがあった。金田一耕助は興味ふかくその顔を見まもりながら、
「お母さんもそうだったというんですか」
「いいえ、母は少しちがっていました」
美禰子は急にものうげな声になって、
「母は無邪気なひとなんです。赤ん坊みたいなものです。しかし、その母に非常に大きな影響力をもっているのが玉虫の大伯父なんです。大伯父のすることなすことはすぐ母にひびきます。その大伯父が父を犬か猫なみにしか扱わないものですから、母もつい、父を無視する習慣がついてしまって。……母はいま、それを後悔しています。いいえ、後悔というよりも恐れているんです。父が|復讐《ふくしゅう》にかえって来やあしないかと、子供のように|怖《おそ》れおののいているんです」
「なるほど、それでお父さんが生きていらっしゃるという幻想を、抱きはじめたんですね」
「ええ、でも、それが幻想であるうちはまだよかったんです。ところが、……先生、母はつい最近、父にあったというんです」
「お父さんにあったって? いつ、どこで?」
金田一耕助は驚いて、美禰子の顔を見直した。美禰子の顔がまたウィッチに見えてくる。
「いまから三日まえ、二十五日の日でした。母は菊江さんと女中の種をつれて東劇へいったんです。母たちの席は平土間のまえのほうでしたが、|幕《まく》|間《あい》に何気なくふりかえると、二階の最前列の席に、父が|坐《すわ》っていたというんです。それ以来母は気がふれたみたいになっています。菊江さんや種もすっかり|怯《おび》えて……」
「それじゃほかのひとたちも、それをお父さんだと認めたんですね」
「ええ、第一、いちばん最初にそれに気付いたのは、菊江さんなんです。菊江さんが母や種にそれを|報《し》らせたというんです」
「そのときそのひとがほんとにお父さんかどうか、たしかめようとしなかったんですか」
「ええ、それがあまり気味が悪くて、ちょっとその勇気が出なかったと、菊江さんや種はいってます。それにそのひと、三人に見られていることに気がつくと、つと体をひっこめて、あとで菊江さんと種がやっと勇気をふるい起こして、たしかめにいったときには、もうどこにも姿が見えなかったそうです」
美禰子はそこで言葉を切ると、まるで反応をためすような|眼《まな》|差《ざ》しで、まじまじと金田一耕助の顔を|視《み》つめている。耕助の胸の底に、まるで薄墨がひろがるように、不安がはびこっていくのをおぼえる。
「それで……?」
「それで、明晩うちで占いをしていただこうということになっているんです」
「占い?」
話が突然、とっぴな方向へむかったので、金田一耕助は思わず大きく眼を見張った。美禰子はしかし顔色もかえずに、
「ええ、父がほんとに生きているかどうか、占ってもらおうというんですわ。ええ、そうそう、忘れてました。先生、そのメモへもうひとりお書き加え願えませんか」
「どういうひとですか」
「|目賀重亮《めがじゅうすけ》。おとしは五十二、三でしょうか。医学博士で、母がまだ新宮家にいるころからの主治医ですの。いいえ、母はかくべつどこが悪いというわけじゃないのですけれど、いつもどこか悪いと思っていたいひとなんですの。だから目賀先生はしじゅううちへ来ていらして、うちのひとも同様なんです。ところで、その目賀先生が占いをなさるんです」
金田一耕助はまた眼を見張った。美禰子はしかし、かくべつ気にとめるふうもなく、
「ちかごろ、そんなことがとても|流《は》|行《や》るんですわ。うちでもしじゅう奥さまがたが集まって、目賀先生を中心に、そんなことをやっています。ところで、今日こうしてお伺いしたというのは、明晩、先生にもその席へ出ていただけないでしょうかと思って……」
話が急に、現実の問題にふれてきたので、金田一耕助はドキリとして、美禰子の顔を見直した。それから少しからだを乗り出すようにして、
「それじゃ、その席でなにか起こるかも知れないとおっしゃるんですか」
「いいえ、そうではありませんの。あたし占いなんかはじめから問題にしちゃいません。でもその席へ出ていただけば、メモにあるひとたちを、みんないっときに見ることが出来ますから、先生によく観察していただきたいんです。ねえ、先生」
美禰子は急にねつい調子になって、
「あたしちかごろ、なんだか不安でたまらなくなってきたんです。父が生きているという幻想を、母だけが描いているぶんには辛抱出来ました。母は元来そういうひとなんですから。しかし、その母が父にそっくり似たひとに|出《で》|遭《あ》ったということになると、話は又ちがってくるんです。世のなかには他人の空似ということもありますから、それは偶然かも知れません。しかし、また考えてみると、父が生きているという幻想を、描きつづけている母が、その父とそっくりなひとに出遭ったということになると、何かしら偶然とは思えなくなってきたんです。誰かのまがまがしい意図が、そこに働いているんじゃないかと、それがあたしには|怖《こわ》くなってきたんです。そういうふうに考えてくると、父が生きているという幻想を、母がいだきはじめたことからして、何んだか|腑《ふ》に落ちなくなってくるんです。母はとても感じやすいひとです。すぐ暗示にひっかかるんです。だから誰かがそういうふうに、母にふきこんだんじゃないか、……と、そんなふうに考えられてくるんです。では、そのひとは、父が生きていると母に信じこませておいて、いったい何をしようとするのか。……先生、あたしにはそれが怖いんです」
|美《み》|禰《ね》|子《こ》はなにかに|取《とり》|憑《つ》かれたような|瞳《め》の色をして、
「それで、今日思いあまって、父が天銀堂事件の容疑者になったとき、御懇意になった警視庁の等々力警部さんのところへ御相談にあがったのですが、そういうことならこちらの先生のほうが適任だからとおっしゃって……」
美禰子の用件というのは、つまりそのことだったのである。
第四章 砂占い
もと|子爵《ししゃく》椿英輔氏の邸宅は、麻布六本木にあり、六本木の|交《こう》|叉《さ》|点《てん》から|霞町《かすみちょう》のほうへくだる坂の右側に、千二百坪ばかりの地所をしめている。このへんいったい戦災をうけたのだけれど、|椿家《つばきけ》だけはふしぎに焼けのこって、復興のまだはかどらなかった二十二年ごろには、邸内にうっそうとしげっている|檜《ひのき》や|柏《かしわ》の大木が、ひどく周囲から眼についた。
戦災をうけるまえこのへんには、なにがし伯爵とか、かにがし子爵とかいった古い家柄の古い家が、根が生えたように塀をつらねていたものだが、椿英輔氏の家などもそのひとつで、この屋敷はもと|秋《あき》|子《こ》の母方の祖父のものだったのを、秋子に譲られたのである。
建物は古めかしい明治式二階建ての洋館に、平家建ての日本家屋がついているが、この日本家屋のほかにもうひとつ、日本家屋の平家建てが、廊下つづきの離れのようについているのは、秋子が結婚したとき、彼女の母をひきとるために新しく建てたのである。
椿英輔氏が新宮秋子と結婚したとき、英輔氏の両親はまだ生きていたのだけれど、そのひとたちは英輔氏といっしょに住むことを許されず、かえって秋子の母がいっしょに住むことになったのである。だから、秋子は戸籍のうえでは、椿家へ嫁したことになっているが、事実上は英輔氏を、養子にとったもほとんどかわりはなかった。
秋子の母は、戦争まえになくなったけれど、いまそのあとへ、玉虫もと伯爵が、|愛妾《あいしょう》の菊江とともに乗りこんできている。
椿家にはもうひと棟、屋敷のすみに粗末な和洋折衷の建物が建っている。そこはもと執事夫妻の住居であると同時に、地主であり、家主であった秋子の事務所にもなっていたのだが、いまそのあとへ、新宮もと子爵の一家がうつってきているのである。
さて、昭和二十二年九月二十九日、即ち美禰子が金田一耕助を訪問した翌日の、夜の八時ごろのことだった。
金田一耕助はこの椿邸のだだっぴろい古風な応接室で、奇妙な人物とむかいあっていた。
そのひと、年齢は五十二、三であろう、古ぼけたモーニングをだらしなく着て、ネクタイがひんまがっている。そして、|平《へい》|家《け》|蟹《がに》のように平たい顔に、もじゃもじゃと無精ひげを生やしているのが、|爺《じじ》むさいというよりも、かえってひどく精力的なかんじである。それに、この|年《とし》|頃《ごろ》の老人としては、|固《かた》|肥《ぶと》りした全身が、てらてらと|脂《あぶら》ぎっているのが、なんとなく肉体的でいやらしかった。
これが今夜の立て役者、目賀重亮博士なのである。
「いや、ぼくはべつにこういう種類のことに、|造《ぞう》|詣《けい》があるというわけではありませんが、ちょっと興味を持っておりますのでね。それに砂占いというのははじめてですから……」
金田一耕助はあいかわらず、くたびれた着物にくたびれた|袴《はかま》をはいて、手にくちゃくちゃに形のくずれたお|釜《かま》|帽《ぼう》をもっている。つい玄関でかけわすれた帽子を、さっきからかれは両手で持てあつかっているのである。
「いや、これはな、なにもわしが発明したというわけじゃありませんのじゃ。古くからシナにつたわっている占いを、わしがいくらか改良したものじゃが、ふしぎによう当たりよる」
「よほど長く御研究ですか」
「そう、もう十年以上になるな。日支事変のはじめごろ、一年あまり|北《ペ》|京《キン》にいたことがあるのじゃが、そのとき|憶《おぼ》えてきたのを、その後まあ、いろいろ研究しましてな」
「向こうでも砂占いというのですか」
「いや、あっちでは|けい[#「けい」は「札」の「きへん」を「占」にしたもの Unicode=4e69]《けい》|卜《ぼく》とか|扶《ふ》|けい[#「けい」は「札」の「きへん」を「占」にしたもの Unicode=4e69]《けい》とかいうとるようじゃな。まあ、日本のコックリさんみたいなものじゃと思えば間違いはないが、コックリさんよりは、あらたかじゃ。ところであんた、一彦君の先輩じゃというがほんとかな」
大きなよく光る目賀博士の眼でジロリと見られて、金田一耕助はあわてて、
「ええ、そ、そうです、そうです」
それから、急いで話題をかえるために、
「ときに、その占いはいつはじまるんですか」
目賀博士はつめたく眼の奥でわらいながら、
「停電になったら、はじめようということになっとるが」
「停電になったら……?」
「そう、秋子さんの神秘主義じゃな。家中がまっくらなほうがええちゅうてな。もっとも、くらがりでは占いは出来んから、ホーム・ライトをつけることになっとるが……今夜の緊急停電は八時半から三十分間じゃから、もう間もなくのことじゃな」
昭和二十二年ごろの|逼《ひっ》|迫《ぱく》した電力事情を御記憶のかたは、地区ごとに時間をきめて、電気をきられるやりきれなさをいまも憶えていられることだろうと思う。占いはその停電の時間を利用して行なわれようというのだ。
目賀博士が大きな懐中時計を出してみているところへ、廊下から若い男が顔を出して、
「先生、だいたい準備が出来ましたが、ちょっと、御検分願えませんか」
「ああ、そうか、よしよし」
目賀博士は気軽に立ちあがったが、すぐ気がついたように、
「金田一さん、ちょっと失礼しますで」
「さあ、どうぞ」
「三島君、ホーム・ライトの用意はええかな」
「ええ、それはお種さんに頼んでおきました」
三島君ときいて、金田一耕助は思わず青年の顔を見直した。背の高い、がっちりとした体格の、色の白い、|美《び》|貌《ぼう》というのではないが、にこにこと笑顔のいい、|愛嬌《あいきょう》のある青年だった。金田一耕助に目礼すると、そのまま目賀博士といっしょにいってしまったが、後ろ姿を見ると目賀博士はひどいガニ|股《また》だった。
金田一耕助は時計を出してみる。時刻はちょうど八時二十分。
それでは、もうそろそろ緊急停電のはじまる時刻だが、美禰子はいったいどうしたのか。さっき耕助が訪れてくると、すぐ玄関へとんで出て、この応接室で、目賀博士を紹介すると、母にそういってくるからと出ていったまま、いまだにやって来ないのである。
金田一耕助はハンケチを出して額を|拭《ぬぐ》うと、お釜帽を両手にもってバタバタ|煽《あお》いだ。ひどく蒸し暑い晩で、じっとしていても汗がにじみ出る。また雨になるのか知らん。……
金田一耕助がぼんやりそんなことを考えているところへ、廊下に軽い足音がきこえて、中年の男がふらりと入ってきたが、耕助の姿を見ると、びっくりしたように立ち止まった。
新宮利彦であろう……と、金田一耕助はすぐそう思った。背のひょろ高い、白いけれど|冴《さ》えない顔色をした男で、ひどく尊大そうに構えているいっぽう、また、ひどく|臆病《おくびょう》そうなところも見える。鼻の下がながいのと、|口《くち》|許《もと》にしまりがないのとで、ちょっと間の抜けた感じである。
利彦はしばらく疑いぶかそうな眼付きで、ジロジロと金田一耕助の顔を見ていたが、耕助が立ち上がって|挨《あい》|拶《さつ》をしかけると、ギクッと|怯《おび》えたようにあとじさりして、そのままプイと部屋から出ていった。
おやおや、やっこさん、ひどくひとみしりをする性分と見える。……
金田一耕助がちょっと|呆《あっ》|気《け》にとられていると、向こうから利彦のしゃべる声がきこえた。
「おい、美禰子、応接間にいる変なやつは、いったい誰だい?」
ひどい|濁《だ》み声である。それに対して美禰子がなんと答えたのかきこえなかったが、
「なんだ一彦、おまえの先輩というのはあの男か。あんまり変なやつをつれてくるのは止したほうがいい。用心が悪いから」
おやおや、ひどく信用がないな。おれはよっぽど人相が悪いと見える。……
金田一耕助がにやにやしているところへ、美禰子が同じ年頃の青年といっしょに入ってきた。美禰子は憤ったような顔色で、
「失礼しました。先生、こちらがいとこの一彦さんです」
と、ぶっきら棒に紹介した。
金田一耕助がこのときちょっと意外に思ったのは、一彦がちっとも父に似ていないことである。そして、父に似ていなくて仕合わせだと思ったのは、
「先生、何か父が失礼なことを申し上げやあしませんでしたか」
と、そういう一彦の顔色に、坊っちゃんらしい誠実さが|溢《あふ》れていたからである。背は父ほど高くはないが、均整のとれた肉付きをしていて、父よりよほど上品な顔をしている。しかし、どこか青年らしい|覇《は》|気《き》にかけて、暗いかげがしみついているのは、椿子爵の事件以来、この家にまつわる悲劇のせいだろうか。
「いやあ!」
金田一耕助はにこにこしながら、
「べつに。……御挨拶申し上げようと思ったら、びっくりしたように出ていかれましたよ。きっと変なやつが来てると思われたんでしょう、あっはっは!」
一彦は切なそうに|頬《ほお》をあからめる。美禰子はいかつい顔をして、肩をゆすりながら、
「|伯《お》|父《じ》さまは、いつだってそうなんです。影弁慶よ。あの|年《と》|齢《し》になって、はじめてのかたにはとてもひとみしりをなさるんです」
そのとき、ドアのところで軽い|衣《きぬ》ずれの音がしたので、美禰子はギクッとふりかえって、
「あら、お母さまがいらした」
だが、そういう美禰子の声の調子に、どこか消え入りそうなところがあるのを、金田一耕助はあやしみながら、|椅《い》|子《す》に腰をおろしたまま、ドアのほうをふりかえった。
そして、はじめて美禰子の母、もと子爵椿英輔氏の未亡人を見たのだが、そのときのなんともいえぬへんてこな印象を、金田一耕助はその後長く|払拭《ふっしょく》することができなかった。
母に関する美禰子の話は決して誇張ではなかった。そこに立って満面に笑みをたたえているその婦人は、とても美禰子のような大きな娘を持つ女とは思えないほど、若く、かつ美しかった。少し|肥《ふと》り|肉《じし》ながら、それがかえって下ぶくれの、いちま人形のようなかっきりとした美しさにふさわしかった。豊かな両の頬にえくぼがくっきり刻まれているのも若々しく、こまよりの派手なお召に、粗い金糸のぬいのある帯をしめているところは、まるで娘といってもよかった。
しかし、それにも|拘《かかわ》らず、金田一耕助は、この婦人をひとめ見た|刹《せつ》|那《な》、何かしら、体中がムズムズするような不健全なものを感じずにはいられなかったのである。
秋子はたしかに美しい。しかし、それは造花の美しさである。絵にかいた美人のようにむなしいものであった。秋子は満面に笑みをたたえている。その笑顔はかがやくばかり美しい。しかし、それはそうしろと教えられたような笑いかただった。秋子の|瞳《め》は耕助のほうへ向けられている。しかし、その瞳はもっと遠いところを見ているような眼つきだった。
「美禰子さん」
秋子は小娘のように首をかしげていった。その声を聞いたとたん、金田一耕助はふたたび体中がムズムズするのを感じた。それは小娘よりもまだ甘ったるい声だった。
「あなたや一彦さんのお客さまというのはこのかたですの。どうしてあなたはお母さまに、御紹介してくださらないの」
「ぼく、ちょっと失礼します」
一彦はその場にいたたまらぬように、秋子のそばをすりぬけて部屋から出ていった。美禰子は暗い、おこったような眼でその後ろ姿を見送っていたが、やがて、つと母のそばへよると、その手をとって金田一耕助のまえにつれて来た。耕助はあわてて椅子から立ち上がった。
「お母さま、御紹介しますわ。こちらは金田一耕助先生、一彦さまの御先輩で、とても占いに興味をもっていらっしゃるので来ていただきましたの。先生、母です。あの、あたし、ちょっと向こうに御用がありますから」
美禰子は早口にそれだけいうと、顔をそむけて、|大《おお》|股《また》に部屋を出ていった。
「まあ、あの|娘《こ》ったら!」
秋子はわざとらしく|眉《まゆ》をひそめて、
「まるで男の子のような歩きかたをして。……ほんとうにいまどきの娘ったら、お行儀が悪くて仕方がございませんのよ、いくらいいきかせても直りませんの」
それから秋子は|艶《えん》|然《ぜん》と、耕助のほうへふりかえると、
「先生、そこへおかけになりません?」
金田一耕助は大いに当惑せざるを得なかった。時計を見ると八時半になんなんとしているのである。八時半になると電気が消える。まっくらがりのなかに、この婦人とふたりきりで取りのこされたら。……それを考えると金田一耕助は、|背《そびら》に流れるつめたい汗を禁じえなかった。
「ああ、いや、ぼくはこのほうが勝手がいいです。それより奥さん、もうそろそろ占いがはじまる時刻じゃありませんか」
「占い……? ええ、そうそう、あなたはそのためにいらしてくださいましたのね。ねえ、先生」
秋子は急に顔をくもらせて、
「先生はどうお思いでございますか。主人はほんとうに死んだのでございましょうか。いいえ、いいえ、そんなこと|嘘《うそ》でございますわね。主人はきっとどこかに生きているんですわ。げんにあたしは、このあいだ、主人に|遭《あ》ったのでございますもの。ねえ、先生」
秋子はそこで子供のように身ぶるいをすると、
「あたし、|怖《こわ》くて怖くてたまりませんのよ。主人はきっと、あたしたちに|復讐《ふくしゅう》する機会をねらっているのでございますわ」
秋子の恐怖は決して見せかけや誇張ではなかった。彼女はほんとうにそれを信じ、|怯《おび》えているらしかった。
しかし、それにも拘らず、そういう話をする秋子の、全身から発散するものは、一種名状することの出来ない強烈な色気であった。それはとてもふつうの常識では判断することの出来ぬ、いやらしい、おぞましいものだった。
金田一耕助はしかし、だんだんこの狂い咲きの|妖《よう》|花《か》の放つ強烈な芳香になれてくると、それをうとましいと思うよりも、相手の無智があわれになってきた。
「奥さん、あなたはしかし、どうしてそんなふうにお考えになるのですか。御主人が復讐にかえっていらっしゃるなんて……」
「それは、……それはあたしが悪かったのでございますわ。主人がおとなしいのをよいことにして、つい、粗末にしたものですから。……ねえ、先生、|日《ひ》|頃《ごろ》おとなしいひとほどいったん決心すると、恐ろしいというじゃございませんか。あの、天銀堂事件の犯人だって、やっぱり主人だったのじゃございますまいか」
「奥さん!」
金田一耕助がびっくりして、思わず息をはずませたときである。
「あら、奥さま、こちらにいらっしゃいましたの?」
と、|真《まっ》|紅《か》なイヴニングに真珠のネックレスをかけた、若い美しい女が入ってきた。|痩《や》せぎすの、背の高い、姿のよい女である。
「ああ、菊江さん、なにか御用?」
話の腰を折られたので秋子はいくらか不平らしかった。
「ええ、そろそろ占いがはじまりますから、あちらへいらしてくださいましって」
「ええ、すぐ参りますわ。菊江さん、あたしいまね、金田一先生に主人のことをきいていただいてましたのよ。主人がやっぱり天銀堂事件の犯人じゃないかって」
菊江はちらっと耕助のほうへ眼配せすると、
「ええ、ええ、そのことなら、あとでいくらでも聞いていただくことが出来ますわ。でも、いま占いのはじまる時刻ですから、……さあ、向こうへ参りましょうね」
と、やさしく秋子の背中に手をかけて、
「金田一先生、あなたもどうぞ」
「はあ」
金田一耕助は菊江というこの女を、もっとよく観察したいと思ったが、そのとたん、電気が消えてまっくらになってしまった。
「あら、困ったわ。こんなことなら懐中電気を持ってくればよかった」
「菊江さん、菊江さん、あたし、怖い」
「奥さま、大丈夫でございますわ。あたしがついているんですもの。それに金田一先生もいてくださいますわ」
「金田一先生、どこへもいかないで、……そばにいて……あたし……あたし……」
「奥さん、ぼくはここにいますから大丈夫ですよ」
鼻をつままれてもわからぬような、|暗《くら》|闇《やみ》のなかに突っ立ったまま、金田一耕助はなんともいえぬ怪しい胸騒ぎをかんじずにはいられなかった。
美禰子の|怖《おそ》れるのは無理はない。この美しい|徒《あだ》|花《ばな》の狂気めいた幻想を利用すれば、どんな恐ろしい犯罪だって計画されないことはない。そして、その計画はいまこの暗がりのなかで、着々として進められているのではあるまいか。……
「あれえ!」
突然また秋子が悲鳴をあげて、ざわざわと衣ずれの音がきこえた。
「奥さま、奥さま、どうかなさいまして」
「誰か、……誰か、……二階を歩いているわ。主人の書斎を……」
菊江はちょっと黙っていたのち、
「奥さま、|空《そら》|耳《みみ》ですわ。いまごろ誰が二階へいくもんですか。金田一先生、何かお聞きになりまして?」
「いいえ、何も聞こえませんよ」
「いいえ、いいえ、たしかに誰か主人の書斎から出てきましたのよ。ドアのしまる音がきこえましたわ。それから足音も……」
だが、ちょうどそこへ女中のお種が懐中電気を持ってやって来たので、金田一耕助はそれきり二階の足音のことは忘れてしまった。
「すみません。だしぬけに電気が消えたので遅くなりまして。……おうちの時計、おくれていたのでございますね」
灯がきたので秋子もいくらか落ち着いたらしかった。
「お種さん、御苦労さま、さ、奥さま、参りましょう。金田一先生もどうぞ」
まっくらなので家の様子はよくわからなかったが、占いをするという部屋は、ずっと奥のほうにあるらしい。途中までくると、美禰子が懐中電気をかざしながら追っかけてきた。
「驚いたわ、だしぬけに電気が消えるんですもの、おうちの時計、五分おくれてたのね」
間もなく一同は占いをする部屋のまえまで|辿《たど》りついた。
「金田一先生、さあ、どうぞ」
「はあ……」
金田一耕助はちょっとまごついた。それというのがそのときまで、かれはまだあの汗臭いお釜帽を持っていたからである。
「金田一先生、さあ、どうぞ」
菊江にもういちどうながされて、金田一耕助は仕方なく、廊下にある花瓶にすっぽり帽子をかぶせて、それからほの暗い占い部屋へ入っていった。
第五章 |火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》
その夜、目賀博士司会のもとに、風がわりな砂占いがおこなわれた場所こそは、すぐその直後に、あの血みどろな密室殺人の演じられた現場として、大きな問題をなげかけた部屋なのだから、ここにいささか筆をついやして、部屋の様子を描写しておこう。
その部屋というのは、だいたい十六畳じきくらいの、奥に細長い洋間で、廊下にむかった入り口には、|観《かん》|音《のん》びらきの、厚い|樫《かし》のドアがついており、そのドアは内側から|閂《かんぬき》がはまるようになっている。そのドアのすぐうえには、ちょうど入り口のはばだけの、横に細長い換気窓があり、そこには四枚のガラス戸がはまっていて、そのうちの二枚は左右にひらくようになっているが、この換気窓のたてのはばは、|曲尺《かねじゃく》で五寸あるかなしかだから、たとえガラス戸をはずしたところで、人の出入りはおろか、頭を出すことすら出来なかった。
さて、部屋へ入ると正面の壁一杯に、大きな窓があるが、その窓は全部二重窓になっていて、外側の窓には厳重に|鎧扉《よろいど》がおりるようになっている。
つまりこの部屋は|失《しっ》|踪《そう》した椿|子爵《ししゃく》の、いわばアトリエだったのだ。|閑《ひま》さえあると子爵はそこで、作曲や演奏に余念がなかった。だからこの部屋は、家人の居間や寝室からとおくはなれているうえに、壁には全部防音装置がほどこしてあるので、ここでちょっとした格闘が演じられたとしても、家人が気がつかないのも、無理がないように出来ているのである。
しかし、その夜、金田一耕助が、菊江の案内で観音びらきのドアのなかへふみこんだときは、部屋のようすはだいぶちがっていた。かれはそこがそんなひろい部屋だとは、事件が起こってもういちど、ひきかえしてくるまでは、夢にも気がつかなかったのである。
それというのが天井からたらされた、重いまっ黒なカーテンで、部屋の一部が三方からくぎられていて、カーテンのむこうは見えなかったからである。
カーテンの内部は八畳じきくらいもあったろうか、天井につるされた、自家充電のホーム・ライトの|笠《かさ》から出る、ほの暗い、末ひろがりの光のなかに、大きな円卓をとりかこんで、椿、新宮、玉虫の三家族が、おもいおもいの格好で、黙々として腰をおろしている。
金田一耕助はしかし、それらのひとびとを観察するまえに、円卓のうえにおかれた異様なものに、眼をひかれた。
それは直径一メートル半もあろうかと思われる、大きな、浅い陶器の皿で、皿のなかにはいちめんに、白い、細かい砂がもられて、きれいに表面がならされていた。そして、その上に、なんともいえぬ変てこなものが置かれているのである。
それは直径十センチくらいの、円い、薄いお盆のようなものに、五本の細い、繊細な雌竹をとりつけたものである。五本の竹はお盆を中心として、星型に規則正しく放射されており、そのはしは陶器の皿より十センチぐらいはみ出している。そして、それらの竹のはし十五センチほど内がわに、高さ三十センチばかりの、これまた細い繊細な雌竹が、脚としてとりつけてあり、これらの五本の脚は、皿にもられた砂の周辺に、規則正しい五角型をつくる頂点の位置に安定している。
つまり砂を盛った皿の表面から、三十センチばかりの高さのところに、五本の放射線を持った小さいお盆が、砂の表面と平行においてあるわけだが、このお盆の中心から、やはり長さ三センチばかりの金属製の|錐《きり》がぶらさがっていた。この錐はお盆のうらや、五本の放射竹の下側にとりつけてあるレールに沿うて、微妙な動きをしめすようになっていて、それが砂のうえに、占いの文字を書くらしい。つまりこれが目賀博士改良するところの、|扶《ふ》|けい[#「けい」は「札」の「きへん」を「占」にしたもの Unicode=4e69]《けい》とか|けい[#「けい」は「札」の「きへん」を「占」にしたもの Unicode=4e69]《けい》|卜《ぼく》とかいうものなのであろう。お盆も竹も竹の脚も、支那ふうに真赤な|漆《うるし》で塗ってあった。
さて、この奇妙な道具の説明はこれくらいにしておいて、それではその夜、この砂占いの席につらなったひとびとについて、いささか説明の筆をついやしておこう。
まず、正面に|坐《すわ》っているのは、今宵の司会目賀博士である。博士のうしろのカーテンには、唐紙に水墨でかいた、支那の仙人みたいな絵がかかっているが、あとで聞くと、この仙人は|何《か》|仙《せん》といって、けい[#「けい」は「札」の「きへん」を「占」にしたもの Unicode=4e69]卜をやるときにはこの仙人を呼び出すのだそうな。この仙人をうしろにして坐っている目賀博士は、かれ自身|蟇《がま》仙人みたいな顔をしている。
さて、この蟇仙人を中心にして、向かって右側には|秋《あき》|子《こ》、左側には綿のように真白な頭をした老人が坐っていたが、金田一耕助はひとめ見て、このひとこそ、その昔研究会を牛耳って、貴族院のボスといわれた、玉虫公丸もと|伯爵《はくしゃく》であろうと推測した。
戦後のうちつづく打撃のために、玉虫もと伯爵もさすがに往年の意気はうしなっていたが、それでもギロリと耕助を見やった眼には、人を人くさいとも思わぬ、冷酷非情な色がうかがわれた。老人に似合わぬつやつやとした肌は、くすんだような卵色をしていて、右のこめかみのあたりに、さすがに老齢を語る大きなしみが目についたが、それでも白い|髭《ひげ》をみじかく刈りこんだところは、身だしなみがよく、キラキラ光る地の着物の襟に、首にまいた黒い襟巻きのはしをはさんで、ゆったり|椅《い》|子《す》にもたれているのが、いかにも殿様らしい感じであった。
さて、玉虫もと伯爵のつぎには、さっきあった新宮利彦、利彦のつぎには、たぶんかれの妻だろうと思われる四十前後の黒いドレスを着た貴婦人が、つつましくひかえている。
利彦の妻の|華《はな》|子《こ》は、およそ秋子と正反対の印象を、ひとにあたえる婦人である。年齢はおそらく秋子とそうかわりはないだろうが、秋子にくらべると、たしかに十はふけてみえる。|容《よう》|貌《ぼう》も秋子みたいな異様な美しさはないが、さりとて醜いほうではなく、しっとりと落ち着いた、柄の大きな、|聡《そう》|明《めい》そうな中年婦人である。しかし、ひとめ彼女を見て感じられるのは、いかにも人生にうみつかれたような救いがたいほどの|倦《けん》|怠《たい》の色である。
金田一耕助はひそかに彼女のとなりに坐っている、あの寸ののびた、それでいて酒色にすさんだ利彦とくらべてみて、心ひそかに同情せずにはいられなかった。
さて、華子のつぎには息子の一彦、一彦のつぎには三島東太郎が坐っており、以上五人が目賀博士と耕助をつなぐ線の、左側に席をしめているひとびとだった。
そして、一方その線の右側には、目賀博士のすぐ隣に、秋子が坐っていることはまえにもいったとおりだが、秋子の隣には、世にこれほど醜い女があるだろうかと思われるような老婆が坐っていた。おそらくこれが新宮家から、秋子に付きそってきたまま居ついたという、老女の|信《し》|乃《の》なのだろう。
醜いのもここまで極端だと気にならない。いや、むしろ芸術的でさえある。それに年齢の|錆《さ》びが彼女の感情から、|羞恥《しゅうち》だの気取りだのという|垢《あか》を洗いおとしてしまったらしく、彼女自身、自分の醜いことも忘れたように、泰然として正面を切っているところが、見るものをして、むしろ|畏《い》|敬《けい》の念さえ催さしめる。とにかくこの女にも、どこか人間ばなれのした非情なところがあった。
その信乃のつぎには、|美《み》|禰《ね》|子《こ》、美禰子のつぎには菊江と、秋子をまじえて以上四人が、金田一耕助の右側に坐っており、女中のお種はその席にはつらならなかった。
さて時計がおくれていたために、緊急停電が意外にはやくやって来たので、みんなまごついたらしく、一同がこの部屋へあつまるまでにはかなり時間をくった。
金田一耕助が秋子や菊江、さては一歩おくれてきた美禰子とともに、この部屋へついたときには、部屋のなかには玉虫もと伯爵と老女の信乃、それから利彦の妻の華子の三人が、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》そうに控えているきりだった。
耕助たちより少しおくれて、目賀博士が無作法にも、ズボンのボタンをはめながら、例のガニ|股《また》でよたよたと入ってきた。
「やあ、どうもどうも。まだ時間があると思うたで、手洗いへいっとったら、急に電気が消えてすっかりまごついた。どうも|怪《け》しからんこっちゃ」
目賀博士はぶつくさいいながら、自分の席のほうへよたよたと歩いていったが、誰もそれに対して笑うものもなければ、|合《あ》い|槌《づち》を打つものもなかった。みんなスフィンクスのように押しだまっていた。
目賀博士より一歩おくれて、一彦と三島東太郎がほとんど同時についた。一彦はだまって母のそばへいったが、東太郎は時計のおくれていたことを、ぶつくさいいながらホーム・ライトをどしんと床へおいた。いまついているホーム・ライトの充電が切れた場合、予備につかうつもりらしい。
「先生、お種さんにきいたら、今日充電しといたホーム・ライトは、どっちだか忘れたというんですよ。だからこれ……」
と、天井に取りつけてあるホーム・ライトの|笠《かさ》を見上げながら、
「途中で、消えるかも知れないのですが、どうしましょう」
「まあ、ええがな。消えたら消えたときのことにしよ。ところで、これでみんなお|揃《そろ》いかな」
「いえ、あの、たくがまだ……」
そういったのは華子だった。
「ああ、新宮さんがまだじゃな。あのひとはいつでもおそいな。さすがはお殿様だけあって、おっとりしてござる。けっけっけ!」
|蟇《がま》仙人が蟇みたいな声をあげて笑っているとき、新宮利彦がぶすっと不機嫌な顔をして入ってきた。蟇仙人はけろりとして、顔をさかさに|撫《な》であげている。
これですっかり揃ったわけである。
一同が全部揃うと、しばらくゴタゴタしたのち、さっきいったような順序に席がきまったのだが、すると三島東太郎が立って、観音びらきのドアをしめ、なかから黒いカーテンをひいた。
これで十一人が、黒いカーテンの箱のなかに、すっかり閉じこめられたわけである。そして、そこに、間もなく、あの奇妙な砂占いがはじめられたのだが、そのことについては、出来るだけ簡単に述べることにしよう。
最初、まず蟇仙人の目賀博士が立って、何仙の像に礼拝すると、ひくい声で、|祝詞《のりと》のようなものを唱えはじめた。それは|梵《ぼん》|語《ご》とも支那語ともえたいの知れぬ、怪しげなお経のようなものだったが、そのなかにたびたび何仙という言葉が出るところを見ると、おそらくその霊をこの席に呼び出しているのであろう。かくべつよい声というのではなかったけれど、|馴《な》れていると見えて、堂に入っているので、しぜんとひとの心をひきつける。おそらくそれは列席者の、精神集中をたすける役目をもなすのであろう。
そのあいだ、ひとびとは両手をそろえて円卓のまえにおき、目を半眼に閉じて、めいめい自分の前方を|視《み》つめている。金田一耕助もそれにならった。
閉めきった、せまい、静かな部屋のなかに、蟇仙人のひくい、抑揚にとんだ声が、羽虫の|唸《うな》りのように、いつまでもいつまでもつづいている。それを黙ってきいていると、いつか夢見心地になってくる。
(いけない!)
金田一耕助は心のなかで叫んだ。
(こんなことをしていたら、自己催眠にかかってしまう!)
そこで金田一耕助は、気をまぎらせるために、そっと左右を見まわしたが、すると妙なことに気がついたのである。
かれの左側には三島東太郎が坐っていて、いまや無我の境に入りかけているらしかったが、見ると不思議なことには、円卓のはしに揃えておいた両手のうち、かれは右手にだけ手袋をはめているのである。
金田一耕助はおやと思った。そして見るともなしに見ていると、かれにもどうやら東太郎が、右手にだけ手袋をはめている理由がのみこめてきた。無我の境に入りかけている東太郎の両手の指は、いま,かすかに震動している。ところがそれらの指のうち、右手の中指と薬指だけが、他の指の震動といささかちがっているのである。
金田一耕助はすぐ、その二本の指が欠けているのだろうと思った。|根《ね》|本《もと》からか、それとも途中からか知らないけれど、そして、その醜さをかくすために、かれだけが常時、右手に手袋をはめている特権を許されているのであろう。
そうわかってくると、耕助はいつまでもその手を視つめている無礼さに気がついて、眼をそらして右側を見た。と、そのとたんかれは、ドキッとするようなものを感じた。
耕助の右側には菊江が坐っている。菊江もまた両手をそろえて円卓のはしにおいているのだが、彼女もまた左手の小指が、途中から欠けているのである。
金田一耕助は思わずそれをのぞきこもうとしたが、すると、そのとき菊江が左の|肱《ひじ》でかるくかれの横腹を小突いた。そして、|顎《あご》で向こうのほうをしゃくって見せた。見ると正面の席から蟇仙人が、おこった蟇のような顔をして、耕助の顔を|睨《にら》んでいる。
金田一耕助はまるで、教室のなかで|悪《いた》|戯《ずら》をしているところを教師に見つかった小学生みたいに|真《まっ》|赧《か》になって、ガリガリ頭をかきまわした。しかし、すぐまた気がついて、あわててその手を円卓のはしにおくと、神妙らしく眼を半眼にとじた。
右の席では菊江がクスクス笑いながら、ハンケチを出して、そっと左手のうえに落とした。そして、それっきり彼女もまた神妙らしく眼を閉じた。
しかし、このことによって耕助は、少なくとも菊江だけは、目賀博士の|妖術《ようじゅつ》を信用しておらず、自分を失っていないことに気がついたのである。
蟇仙人の祝詞はしだいに急テンポになってくる。そして、それがやがて気合いをかけるような調子になったとき、ふいに秋子がふらふらと立ちあがった。耕助はおどろいてそっと彼女の顔を見る。
秋子はいまや完全に催眠状態におちいっているのだ。京人形のようにととのった美しい顔から、もとより乏しい自我のひらめきが、いまや完全に抜きとられて、その眼は|恍《こう》|惚《こつ》として、遠くはるかなところを視つめている。
金田一耕助は昨日美禰子のいったことを思い出した。
母は非常に感じやすいひとです。そして、すぐひとの暗示にひっかかるんです。……
いまの秋子のようすを見れば、美禰子のことばを肯定せずにはいられない。そして、それがいかに危険なことかと、いまさらのように|懼《おそ》れずにはいられなかった。
秋子は恍惚として、遠く、はるかなところを見ながら、ふるえるような右手をあげた。そして、ひとさし指と中指と、薬指の三本をそろえると、それをそっと砂鉢のうえに架けられた、五本の放射竹のうちの一本の、はしのほうに触れた。
蟇仙人の|祷《いの》りはいよいよ急ピッチになってくる。すると今度は美禰子が立った。美禰子が立つのを見ると、すぐ一彦もそのあとから立ち上がった。ふたりとも秋子にならって、右手の指を三本そろえると、めいめい、自分のまえに突き出している、放射竹のはしに触れる。
五本の放射竹のうちの三本は、こうして三人によって占められたが、まだあと二本のこっている。その二本は東太郎と菊江のまえに突き出しているのである。ほとんど同時にそのふたりが立って、同じように右手の指を三本そろえて、放射竹のはしにおいた。
金田一耕助はちょっと驚いた。秋子や東太郎(東太郎のことはよく知らないから)は別として、美禰子や一彦、とりわけさっきクスクス笑っていた菊江などが、蟇仙人の|呪《じゅ》|縛《ばく》にひっかかろうとは思えなかった。それにもかかわらず、かれらも神妙に、放射竹のはしに指を三本おいたまま、眼を半眼にとじている。
こうして、五人そろうと目賀博士の祷りの声が、急にやわらかく、甘い調子になった。それがまるで、赤ん坊の眠りを誘う子守り|唄《うた》のような調子だった。
金田一耕助はそっと五人以外のひとびとの顔を見てまわる。すると、かれらの眼がいっせいに、放射竹の中心にある、あの朱塗りの円盤からぶらさがっている、金属製の|錐《きり》のさきにそそがれているのに気がついた。
かれらのすべてが、この占いに信用をおいているのかどうかわからない。しかし、少なくともこの瞬間だけは、そこにいるすべてのひとびとの顔色に、一種の緊張の気がみなぎっているのに気がついた。
金田一耕助はふと、中世紀頃西洋で行なわれたという、悪魔の集会サバトのことを思い出した。それほど、そのとき黒いカーテンの箱のなかには、一種異様な緊張の気がみなぎっていたのである。
と、ふいに誰かがすすり泣くような音を立てて、息をうちへひいた。見ると、あの錐がふわりと動いたのである。錐のうごきにつれて、砂のうえに小さな弧がえがかれた。錐はいったんそこでとまっていたが、やがてまた生あるもののようにふわりと動いて、砂のうえに、つづいて半円形をえがいた。
金田一耕助はすぐにこれが、日本のコックリさんと同じ原理であることに気がついた。放射竹のはしにふれている、五人の男女の微妙な指の震動が、中心の円盤につたわって、そこにぶらさがっている錐を動かすのである。
まえにもいったようにこの円盤のうちにも、放射竹の下部にも、いちめんにレールがついているので、その範囲内でなら、錐はどの方向へでも自由に動くことが出来るのである。そして、その錐の|尖《せん》|端《たん》が、砂のうえにえがいたかたちによって、蟇仙人の目賀博士が、運勢判断をするのである。この場合は椿|子爵《ししゃく》の生か死かを。……
錐の運動はしだいに活発さを加えてくる。そして、砂のうえにはふたつ三つ、不規則な半円や弧がえがかれたが、そのとたん、頭上のホーム・ライトが、スーッと暗くなったかと思うと、あっという間もなく消えてしまったのである。
一瞬まっくらがりのなかに、ザワザワと動揺が起こる。誰かがひくく叫んで、身動きをするような気配がかんじられた。金田一耕助はきっと緊張して、このあやめもわかたぬ|闇《やみ》のなかの、ひとの動きに耳をすます。握りしめた両手の|掌《てのひら》がじっとり汗だ。
しかしその動揺もすぐおさまった。蟇仙人が|叱《しか》りつけるように、いちだん声をはげまして、祝詞の声をつづけたからである。そして、そのままこの奇妙な砂占いは、闇のなかでつづけられたが、しばらくすると、ふいにパッと明るくなった。ホーム・ライトがついたのではない。緊急停電の時間がきれて、しぜんと電気がついたのである。
金田一耕助はあわててあたりを見まわした。誰にも異常はなかった。みんなホーム・ライトが消えるまえの姿勢のままである。金田一耕助はハンケチを出して、ほっと両手の掌をふいた。
電気がつくとほとんど同時に、目賀博士は祷りの声をやめた。すると秋子が放心したように、ぐったりうしろの椅子にくずれる。老女の信乃がそれを抱いて、赤ん坊をあやすように背中を|撫《な》でている。ほかの四人もそれぞれ席についたが、みんな疲れきったような顔をして、額に汗をにじませている。
目賀博士はふたこと三言、口のなかで最後のお祷りのようなことばを|呟《つぶや》くと、やがて、やおら立って砂のうえをのぞきこんだ。金田一耕助も腰をうかして、皿の中央に眼をやった。
錐はもう砂のうえにピタリと静止していたが、そこには奇妙なかたちがえがかれていた。
それはさきのとがった|楕《だ》|円《えん》型で、楕円の周囲からは|焔《ほのお》がもえあがるような線が、いちめんに出ている。それが金田一耕助に、雅楽に使用される|火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》を連想させた。
「ああ、これはまるで火焔太鼓みたいですな」
金田一耕助はそこで、思ったとおりのことを呟いたが、するといままで不思議そうに、砂のうえをのぞきこんでいた目賀博士が、弾かれたように顔をあげて耕助を見た。その眼にはなにかしら、一種異様なおどろきのいろがかぎろうている。
目賀博士はそれからまた、砂のうえに眼を落とすと、しばらく|喰《く》いいるように、火焔太鼓を見ていたが、やがてソワソワと秋子を見、老女の信乃と眼を見交わすと、ふりかえって、玉虫もと伯爵や新宮利彦の顔を見た。
金田一耕助はそれによってはじめて、玉虫もと伯爵や新宮利彦、それから老女の信乃たちが、目賀博士に負けず、劣らず、大きなおどろきに打たれていることに気がついたのである。
かれらもまた、喰いいるように、砂のうえにえがかれた、この不思議なもののかたちを|視《み》つめている。いやいや。おどろいているのはかれらばかりではない。美禰子や一彦、それから一彦の母の華子さえも、びっくりしたような眼をして、砂のうえを視つめている。
驚いていないのは、東太郎と菊江のふたりだけだった。かれらはむしろ、みんなが驚いているのに面喰らった格好で、眼をパチパチとさせている。
ふいに玉虫もと伯爵が、スックと椅子から立ち上がった。老人は怒りにみちた|眼《まな》|差《ざ》しで、ひとりひとり顔を見ていきながら、
「だ、誰だ! こんな|悪《いた》|戯《ずら》をしたのは!」
しかし、誰もそれに答えないまえに、観音びらきのドアをはげしく外からノックするものがあった。東太郎が立ってカーテンを少しひらき、ドアを細目にあけて誰かと話しはじめた。外へ来ているのは女中のお種らしかったが、ヒステリーを起こしたように、なにか早口にしゃべっている。
東太郎はそれを聞くと、びっくりしたように廊下に首を出し、なにかを聴きすましているふうだったが、やがてさっとカーテンをひきしぼり、観音びらきのドアを開け放した。
と、そのとたん、部屋のなかにいたひとびとが、ひとり残らず総立ちになった。
第六章 笛鳴りぬ
「悪魔が来りて笛を吹く」――
金田一耕助は事件が解決されるまでに、なんどこの曲を聴いたかわからないけれど、はじめてそれを耳にしたのは、東太郎が観音びらきのドアをひらいた,じつにその瞬間だった。
どこか遠くのほうから、ふるえるように聞こえてくるフルートのメロディー、しいんと静まりかえった家のなかに、|嫋々《じょうじょう》として流れるそのメロディーには、なにかしら一種異様な|戦《せん》|慄《りつ》的なところがあった。
しかし、それだからといって、このひとたちはなにをこのように恐れ|戦《おのの》いているのだ。……
金田一耕助はちょっと|呆《あき》れたような顔色で、そこに立ちすくんでいるひとびとの顔を見まわす。さっき火焔太鼓を見たときには、|痴《ち》|呆《ほう》的な放心状態しか示さなかった|秋《あき》|子《こ》までが……いや、その秋子がいちばん深刻な恐怖にとりつかれているのである。
彼女は老女の信乃につかまって、子供のようにふるえていたが、やがてフルートのメロディーが、もの狂わしくその旋律を強めたとき、秋子は両手でひしと耳をおさえた。
「ああ、主人がかえってきて笛を吹いている! 誰か……誰か……あれをやめさせて……」
駄々っ児のような秋子の叫びに、一同ははっとわれにかえった。|美《み》|禰《ね》|子《こ》がいかつい顔をして、ひとびとを突きのけるようにして部屋から外へとび出した。一彦がすぐそのあとを追った。金田一耕助もわけがわからぬなりにそのあとからとび出した。
停電の時間がおわったので、廊下にはあかあかと電気がついている。その廊下を美禰子がいちばんに走っていった。
美禰子のあとから一彦、一彦のあとから金田一耕助が走った。耕助のあとには東太郎と菊江がつづいていた。
廊下へ出るとフルートの音はいよいよはっきりきこえてきた。それはどうやら応接室のほうからきこえてくるようである。
美禰子がいちばんに、その応接室のドアのところまで駆けつけた。応接室のドアはさっき耕助たちが出ていったときのまま、開けひろげてあり、なかには|煌《こう》|々《こう》と電気がついていたが、人影はどこにもなかった。しかも、あの物狂わしいフルートの音はつづいているのである。
「あっ、美禰子さん、二階だよ」
一彦がさけんで走り出した。そのあとから美禰子と金田一耕助、それから東太郎と菊江がつづいて走った。そのあとから、まだ誰か来る様子だった。
二階へあがる階段は、応接室を出て廊下をいちど曲がったところにある。その下まで駆けつけてきて、一同はしいんと立ちすくんだ。仰げば二階はまっくらだった。が、フルートの音はたしかにそこからきこえてくるのである。
「誰……? そこにいるのは……?」
美禰子の声はふるえている。しかし、二階からは返事はなく、ただすすり泣くようなフルートの音がきこえるばかり。
「誰かそこにいて?」
美禰子はもういちど声をかけて、壁のうえのスウィッチをひねった。階段のうえがパッと明るくなったが、あいかわらず返事はなく、フルートの音は少しも調子をみださずにつづいている。
「いってみましょう。美禰子さん」
一彦が五、六歩階段を駆けのぼった。美禰子はちょっとためらったのち、すぐそのあとにつづいた。金田一耕助と東太郎もそのあとからついていったが、菊江はおくればせに駆けつけてきた利彦や|華《はな》|子《こ》とともにそこにのこった。
階段をのぼると、廊下の左側にふたつ三つ部屋があるらしかったが、フルートの音がきこえるのは、いちばんとっつきの部屋である。
一同はそれに気がつくと、階段のうえで立ちすくんでしまった。
「先生……」
美禰子が|喘《あえ》ぐようにいって、ひしとばかりに耕助の腕をつかんだ。
「父の書斎よ。父の書斎からよ」
その書斎のドアは少しひらいていて、そこから蛍火ほどのほのかな光がもれている。耕助は立ちすくんでいる一同をそこに残して、ドアのそばへより、それを少し大きく開くと、部屋のなかをのぞいてみた。
書斎のなかは電気が消えてまっくらだったが、ただある一点にほのかな明かりがともっている。金田一耕助はすぐその光源がなんであるかを認めた。
「先生、誰かいて……?」
耕助はゆっくり首を左右にふると、
「美禰子さん、この部屋には電気蓄音器があるのでしょう」
「電気蓄音器……ああ、それじゃ、それはレコードなの」
美禰子が弾かれたようにそばへよってきて、ドアの内側にあるスウィッチをひねると、パッと書斎が明るくなった。
そこはいかにも|失《しっ》|踪《そう》した椿|子爵《ししゃく》の人柄を思わせるような、きちんと片付いた部屋だったが、その一隅に大きな電気蓄音器がおいてある。そして、あの無気味なフルートのメロディーは、その電蓄のボックスからきこえてくるのであった。
「誰が……誰がこんな|悪《いた》|戯《ずら》をしたの」
レコードとわかって、美禰子はほっとしたのか、つかつかと電蓄のそばへよると|蓋《ふた》をひらいた。だが、そのとたん、ストップがかかってレコードはしぜんととまった。
こうして悪魔は「悪魔が来りて笛を吹く」の第一回目を、完全に吹奏しおわったのである。
一同は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、しばらく顔を見合わせていたが、やがて美禰子が気がついたように、
「あたしお母さまにいってくるわ。なにも御心配なさるようなことはありませんて」
いかつい、憤ったような顔をして、いこうとするのを、金田一耕助が腕をとってひきとめた。
「いや、美禰子さん、あなたはもうしばらくここにいてください。いろいろお|訊《たず》ねしたいことがある」
それからドアのところに立っている、一彦と東太郎のほうをふりかえると、
「君たち、このことを|階《し》|下《た》へいって、皆さんに|報《し》らせてきてくれませんか。誰かが悪戯をしたので、べつに御心配なさるようなことはありませんて」
一彦はちょっとためらったのち、無言のままうなずいてドアのそばをはなれた。東太郎もそのあとからついていった。
金田一耕助は電蓄のそばへよって、注意ぶかくレコードをはずすと、電気にかざしてそのラベルを読むと、
「ああ、これはお父さんの作品なんですね」
と、ちょっと驚いたような声で訊ねた。かれはいままでその曲を、いちども聴いたことがなかったので、メロディーを聴いただけでは気がつかなかったのである。
美禰子が無言のままうなずいた。
「そして、フルートの演奏者も、やっぱりお父さんなんですね」
美禰子がまた無言のままうなずいた。
金田一耕助は注意ぶかく、レコードをもとどおり回転盤のうえにおくと、美禰子のほうをふりかえって、
「美禰子さん、そこへ腰をかけませんか。立ったままじゃ話もできない」
美禰子は耕助の顔を見て、ちょっとためらったのち、それでもすなおに腰をおろした。白い|頬《ほお》がさむざむとそそけて、過度の緊張からくる疲労の色が、眼のふちを黒く|隈《くま》|取《ど》っている。そのためにいかつい顔がいっそういかつく見え、なんとなく哀れであった。
耕助もすこしはなれたデスクのはしに腰をおろすと、
「美禰子さん」
「…………」
「いろいろお訊ねしたいことがあるんですが、まず第一にさっきのことですね。フルートの音がきこえてきたとき、……どうして皆さんはあんなにびっくりなすったんですか。それぁもちろん、誰もいないと思っている家のなかから、だしぬけに笛の音がきこえてきたら、誰しも驚くのは当然だが、しかし、さっきの皆さんの驚きかたは、ただそれだけじゃなかったように思われる。どうして皆さんはあんなにびっくりなすったんだすか」
「その曲は……」
美禰子はためらいがちに、
「父の最後の作品なんです、父はそれを作曲して、自ら吹きこんで、レコードが出来ると間もなく、天銀堂事件にひっかかって、そして……そして……|失《しっ》|踪《そう》してしまったんです」
美禰子は|嗚《お》|咽《えつ》するように声をつまらせて、
「だから、その作品はまるで父の置き|土産《みやげ》みたいになったわけです。しかも、その曲の題名といい、また、先生もいまお聴きになっておわかりのことと思いますが、そのメロディーがなにかしら、|呪《のろ》いと憎しみにみちみちているような気がするものですから、母はこの曲をとても|怖《おそ》れているんです。きっと父がこの一曲のなかに、自分たちに対する呪いと憎しみのかぎりを吹きこんでおいたのだと、母はかたくそう信じておりますの。だから父の失踪後、母はうちにあった五、六枚のそのレコードを、全部たたきこわしてしまったんです」
金田一耕助は思わず|眉《まゆ》をつりあげた。
「全部たたきこわしてしまった……? じゃ、おたくにはこのレコードは、一枚もなかったというわけですか」
「はあ。……」
「しかし、このレコードは……?」
「存じません。だから、あたし、|怖《こわ》いんです」
美禰子はさむざむと肩をすぼめて、
「いったい、誰が持ってきて掛けたのか……そして、なんのために。……」
金田一耕助はデスクからすべりおりると、ゆっくりと部屋のなかを歩きまわりながら、
「悪魔が来りて笛を吹く……なるほど妙な題ですな。いったい、これはどういう意味なんでしょう」
「あたしにもよくわかりませんけれど、父のつもりじゃ、戦後のこの世相をいってるんじゃないでしょうか。戦後のこのめちゃくちゃな世相……父にはそれが悪魔が来て笛を吹いているようにしか、思えなかったんじゃないでしょうか」
「なるほど」
「ところが、母にはそれがまた,べつの意味にとれるんです。母の考えかたによると悪魔というのは父自身だというんです。いつか父が悪魔となってかえってきて、笛を吹くのだと、そういうんです。それというのが、父の失踪後、どう探してみても、黄金のフルートが見つからなかったせいもあるんですけれど。……」
「黄金のフルート?」
「ええ、父が愛用していたフルートなんです。フルートはふつう銀製か木製なんですけれど、父は特別に注文して、黄金のフルートを作らせたんです。|金《きん》だと音がやわらかく出るものですから……そのレコードも黄金のフルートで演奏したものです」
「そのフルートがお父さんの失踪後、紛失しているというんですね」
「はあ、ですから母は、父がそれを持っていったのだ、そしていつか悪魔になってかえってきて、そのフルートを吹奏するのだと考えているんです。あたしはむろん、そんなこと信じちゃいません。でも、さっきだしぬけにその曲がきこえてきたときには、一瞬、やっぱり母のいってたとおりだ、父がかえってきてフルートを吹いてるのだと、そんなふうに錯覚を起こしたんです」
美禰子の頬にはうっすらと鳥肌が立っている。おそらくさっき、フルートの音がきこえてきた瞬間の、恐怖を思いうかべているのであろう。
「お父さんはフルートには、よほど御堪能だったと見えますね」
美禰子はすこし眉をあげて、
「|椿《つばき》の家は代々、宮廷の雅楽の家だったんです。その血をうけついだものかどうか存じませんが、フルート演奏者としては、父は一流でした。作曲はたまにしかしませんでしたけれど。父の生涯の願いは、フランスへいってモイーズについて習いたいということでした。モイーズというのは、フルートの演奏者としては、世界での第一人者なんです。周囲がこんなでなかったら、父はフルートをもって立派に世に立ち、そのほうがどれくらい仕合わせだったかわかりません。父は決して無能ではなかったんです。玉虫の|大《おお》|伯《お》|父《じ》や新宮の伯父がいうように」
最後の一句を口から吐くとき、美禰子のからだは怒りと憎しみにふるえていた。金田一耕助はそれを哀れと思った。しかし、かれはわざとそれを無視して、ゆっくりと部屋のなかを歩きまわりながら、
「しかし、美禰子さん、そうなると今夜、このレコードを聴かせたということには、なにか重大な意味があるのかも知れませんね。悪魔が来りて笛を吹く……いったい、誰が、なんのために笛を吹こうとしているのか。……」
美禰子はかすかに身ぶるいをすると、
「先生、そんなふうにおっしゃらないで……あたし|怖《こわ》いんです。なんだか怖くてたまらないんです」
金田一耕助はふるえている美禰子のまえに立ちどまると、やさしくその顔を|覗《のぞ》きながら、
「美禰子さん、あなたが怖がってちゃお話にならない。あなたはこの家の柱なんだから、気をしっかり持っていなきゃいけませんよ。ところで、このレコードを掛けたやつですがね。あなたはそれに心当たりはありませんか」
美禰子はじっと床の|絨緞《じゅうたん》を|視《み》つめていたが、やがてかすかに首を左右にふると、
「わかりません。でも、チャンスからいうと、お種よりほかにありませんわね。ほかのひとはみんな占いの席にいたんですから。それとも誰か外から忍びこんできたひとがあるんでしょうか」
「お種さんというのは、こんな|悪《いた》|戯《ずら》をしそうなひとですか」
「まさか……と、思いますけれど。もっともあのひとは父の同情者でした。あたしをのぞいたら、あのひとだけが父の同情者でしたわね。父もあのひとを可愛がっていました。変な意味ではなしに。しかし、あのひとがなんだってこんなことをするんでしょう」
金田一耕助はやさしく美禰子の眼を視つめながら、
「美禰子さん、あなたの考えは間違っている。ひょっとするとこのレコードをかけたのは、お種さんだったかも知れない。しかし、レコードをかけるチャンスは、お種さんだけが持っていたわけじゃありませんよ。さっき占いの席にいたひとびとの大部分が、そのチャンスを持っていたわけですよ」
美禰子は弾かれたように耕助の顔を見ると、
「ど、どうしてですの、先生!」
「それはね、これが電気蓄音器であるからです。これをかけた人物は、今夜、八時半から九時まで停電があることを知っていた。これを逆にいうと、九時になると、しぜんに電流が流れてくるということを、知っていたんです。だから八時半に電気が消えると、そいつはここへあがってきて、レコードをかけ、ピックアップをそのうえにおき、スウィッチを入れておく。スウィッチを入れても電気は来ないのだから、レコードは鳴りませんね。そうしておいて、そいつは何食わぬ顔をして、占いの席へやってくる。そうしているうちに九時ともなれば、配電会社が電気を送ってくれる。その電気はこの電蓄のボックスにも流れ、スウィッチが入れてあるのだから、しぜん真空管をあたため、回転盤を回転させる。そこでレコードはひとりでに鳴り出したというわけです」
美禰子は息をつめて金田一耕助の話を聞いていたが、やがてはげしく身ぶるいをすると、
「まあ、でも、そのひとはなんだってそんなことをするんでしょう」
「それにはいろいろな意味が考えられますね。まず第一にこの曲を聴かせて、皆さんを脅かしておきたかったこと。しかし、それにはレコードをかけた時間のアリバイを作っておきたかったこと。それから……」
「それから……?」
「これはぼくの想像ですが、そいつはあの占いの席から、注意をほかにそらす必要があったんじゃないかと思うんです」
「どういうわけで?」
「それはぼくにもまだわからない。それについてあなたにお訊ねがあるんですが、さっき砂占いにあらわれた奇妙なかたちですね。あれはいったいなんなんです。あれを見て、どうしてあんなにびっくりしたんです」
美禰子は急に|怯《おび》えたような色になって、
「あたしにも、あれ、なんだかわかりませんの。また、なぜ、ほかのひとたちが、あんなにびっくりしたのか、|合《が》|点《てん》が参りませんの。でも、あたしは、まえに、あれと同じかたちの絵を、見たことがあるんです」
美禰子はしゃがれた声でささやくように、息もきれぎれにいった。
「いつ、どこで……?」
「父の|亡《なき》|骸《がら》が霧ケ峰で発見されたとき、あたし、それを引き取りにいったことは、昨日も申し上げましたわね。父の洋服のポケットに、小さい懐中日記が入っていたんです。あたしそのなかから、父の遺書のようなものが発見されはしないかと思って、丹念に調べてみたんです。すると、そのあるページに、あれとそっくり同じ形の絵がかいてあって、しかも、そのうえに……」
美禰子は息をのんで身ぶるいをした。
「しかも、そのうえに……?」
「悪魔の紋章という文字が書いてあったんです。ええ、たしかに父の|筆《ひっ》|蹟《せき》でした」
「悪魔の紋章……?」
金田一耕助も思わず息をのんだ。
「ええ、でも、そのときはそれほど深く、気にとめていたわけではありませんの。ああいう悲惨な死にかたをする直前ですから、父の頭もすこしどうかしていたんだろうくらいに考えて、ちかごろでは忘れていたくらいなんです。それが今夜、突然ああして砂のうえに現われたものですから。……」
「そのこと……お父さんの日記のなかに、ああいうかたちがかかれていたことは、ほかのひとたちも御存じでしたか」
「さあ、あたしにはよくわかりません。いっしょに|死《し》|骸《がい》をひきとりにいっていただいた、一彦さんには見せましたけれど。……でも、その日記は父のかたみとして、家へ持ってかえったんですから、みんな見たかも知れません。母の|手《て》|許《もと》にあるはずですから。……」
金田一耕助はもういちど、あのときの目賀博士や玉虫もと伯爵、新宮利彦やさては老女|信《し》|乃《の》の驚きかたを思いうかべてみる。あの驚きようはたしかに尋常ではなかった。あのひとたちは|火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》のような、奇妙なかたちについて、何か知るところがあるにちがいないのだ。
だが、それはなんだろう。悪魔の紋章とはいったい何を意味するのだろう。……
「ねえ、美禰子さん」
金田一耕助は|椅《い》|子《す》に腰をおろしている美禰子の顔を、うえからのぞきこむようにして、
「さっき停電になったときですがね。あなたはどこにいましたか」
はじめのうち美禰子には、その質問の意味がよくわからなかったらしく、したからぼんやり耕助の顔を見ていたが、急にさっと|頬《ほお》を紅潮させると、怒りに声をふるわせて、
「先生、それじゃあなたは、あたしがこのレコードを……」
「まあまあ、美禰子さん、|昂《こう》|奮《ふん》しちゃいけない。ただ|訊《き》いてみただけなんだから」
それから耕助は部屋のなかを見まわして、
「停電になった直後に、誰かがこのレコードをかけたのだろうということは、必ずしもぼくの空想じゃないんですよ。停電になると間もなく、誰かがこの部屋から出ていくのを、お母さんが聞かれたんです」
「母が……?」
「ええ、そう、あのときぼくはお母さんと、応接室で話をしていた。そこへ菊江さんが迎えに来てくれたので、いっしょに占いの部屋へ行こうとしているところへ電気が消えたんです。そこでしばらく真っ暗がりのなかで立ちすくんでいたんですが、そのときでした。お母さんがこの部屋に誰かいる。誰か主人の書斎を歩いているとおっしゃったのは。……」
「まあ!」
「お母さんはとてもおびえていらっした。しかしぼくたち、ぼくや菊江さんの耳には何もきこえなかったし、それに、ちょうどそこへ、お種さんが懐中電気を持ってむかえに来てくれたので、そのままになってしまったんです。しかし、いまから思えばお母さんのおっしゃったことはほんとうだったんですね。あのとき誰かがここへレコードをかけに来たんですね」
美禰子はかすかに身ぶるいをすると、
「母は……母はとても|耳《みみ》|聡《ざと》いのです。それはもうびっくりするほど耳が早いんです。あれがああいうタイプのひとの特徴なんです」
それから美禰子はやさしく耕助の顔を見て、
「先生、ごめんなさい。腹を立てたりして。こんなことの起こった場合、誰も同じように|証《あか》しを立てなければいけませんのね。あたしひとり特別ってわけにはいかないのでしたわね」
「美禰子さん、そういうわけじゃないが……」
「あのときあたしは自分のお部屋で泣いてましたの。泣き伏していたので、電気の消えたのも気がつきませんでしたの。先生、母のことを恥じるなんて、いけないことですわね。あたし出来るだけ、そうならないように努力してますのよ。でも、はじめてのかたがいらしたときだけは、どうしてもそうなってしまうんです。あたしって、親不孝なのね」
美禰子はさむざむと肩をすくめると、悲しそうに|睫《まつげ》を伏せる。
まえにもいったように美禰子は美しくない。それに母がああいう状態のせいもあろうが、精神的に背伸びをしているようなところがあって、それがいっそう彼女の表情をいかつく見せる。しかし、いまこうしてしょんぼりと、肩を落としているところを見ると、やはり娘らしく|可《か》|憐《れん》なところもうかがわれる。
金田一耕助はなにかいって、慰めてやろうと思ったが、うまい言葉も見当たらぬうちに、美禰子が急に顔をあげて、
「先生、それじゃこれから|階《し》|下《た》へいって、みんなに|訊《き》いてみましょうか。電気が消えたとき、どこで何をしてたかってこと。……」
「さあ。……それもいいが、おそらく無駄でしょうね。暗がりのなかのことだから、|嘘《うそ》をつかれたって、反証のあげようがない。しかし、とにかく階下へいきましょう」
美禰子はちかりと眼を光らせて耕助の顔を見たが、そのまま何もいわずに唇をかんだ。
ふたりが階下へおりていくと、応接室のソファによって、菊江が本を読んでいた。少しはなれて一彦が、立ったままぼんやりと、|煖炉棚《マントルピース》のうえにかかった油絵を見ていた。
ふたりのすがたを見ると、菊江はすぐに本を伏せて立ちあがった。
「美禰子さん、あれ、レコードだったんですって?」
「ええ。……」
美禰子はあいまいに言葉をにごして、なるべく菊江のほうを見ないようにしている。彼女は出来るだけこの女を、無視しようとしているらしかった。
菊江はしかしそんなことにはお構いなしで、
「それで、誰がレコードをかけたか、おわかりになって?」
「そんなこと、まだわからないわ」
「そう、でも、少なくともあたしじゃないわね」
菊江は耕助のほうへ明るい笑顔をむけて、
「ねえ、先生。あなた証明してくださるでしょ。レコードかけたの誰だかしらないけれど、それはきっと停電になってから間もなくのことよ。ほら、秋子奥さまが、二階に誰かいると、おびえていらしたでしょ。あのときのことよ、きっと。だとするとあたしはここに、先生や奥さまといっしょにいたんですものね」
美禰子はちょっとおびえたように菊江を見たが、そのままその眼を耕助のほうへむける。
金田一耕助はにこにこして、
「あっはっは、菊江さん、あなたはなかなか|聡《そう》|明《めい》ですね。レコードがかけられた時間を、ちゃんと御存じだったんですね」
「だって、それくらいのこと、あたしにだってわかるわ。レコードが鳴り出したとき、うちのひとはみんな、お種さんをのぞいてみんな、占いの席にいたんですものね。お種さんがあんな|悪《いた》|戯《ずら》をするはずはなし、まさか外からひとがしのびこんでねえ。……だから結局あそこにいたひとってことになるんだけど、するといつレコードをかけたのか……そう考えていくと誰にだってわかる問題よ。つまり、停電を利用した悪戯なのね」
「しかし、菊江さん、ああいう悪戯をした人物が、どうして占いの席にいたひとでなければならないんですか」
菊江は急にくりくりと、悪戯っぽく眼をひからせて、美禰子や一彦のほうを見ながら、
「それはね、先生、あなたがもうしばらくこのおうちにいらっしゃればすぐわかることですわ。このおうちのひとたちったら、それは妙なのよ。みんなたがいに疑い、憎しみ、|呪《のろ》い、|怖《おそ》れあってるみたいよ。なぜそうなのかあたしにもわからないわ。だけどみんな、ほかの連中にぐゎんと一撃くらわしてやろうと、身構えしてるみたいなの。そうしなければ逆に、自分のほうがやられるかもしれないというふうに。……あら、御免なさい、美禰子さん。こんなこと云ってしまって。……」
美禰子の頬は怒りのためにまっかに染まっていた。それにもかかわらず彼女が一言も発することの出来なかったのは、たぶん菊江のいうことが、真実をうがっていたからだろう。
金田一耕助は菊江という女を、興味ふかく見まもった。
まえにもいったとおり、菊江は|痩《や》せぎすで、姿のよい女である。それは肉体美とは反対に、骨体美ともいうべきものであった。それでいてどぎついほど性的魅力に|溢《あふ》れているのは、たくみなゼスチュアのせいだろう。美禰子がいつも、いかつい、おこったような顔をしているのに反して、菊江はいつもにやにやと、ひとを食ったような微笑をうかべている。
眼の大きい、頬骨のすこしとがった、ルージュの濃い女である。こういうのをアプレというのであろうかと、金田一耕助は思った。
美禰子はしばらく怒りにふるえながら、菊江の顔をにらんでいたが、急にくるりと一彦のほうへむきなおると、
「一彦さん、みなさん、どうなすって?」
だが、その一彦がこたえるまえに、菊江が横からひきとった。
「占いはもうお取りやめなんですって。だってお母さまがヒステリーをお起こしになって、たいへんだったのよ。それで一彦さんのお母さんとお信乃さんが付き添って、お部屋へおひきとりになったわ。目賀先生の注射で、やっとすこしは治まったけど、目賀先生はきっと今夜もお泊まりよ。お母さまのお守りにね」
菊江のことばの調子には、悪意というほどではないにしても、皮肉なひびきがこもっている。美禰子はそれを聞くと屈辱のために|真《ま》っ|赧《か》になった。
菊江はあいかわらずにやにやしながら、
「それで、一彦さんのお父さんは、ぶりぶりしながら御自分のお住居へおひきとりになるし、うちの御前は御前で、急に酒を飲むといい出すし。……あのひと、血圧が高いから、酒は医者からとめられてんのよ。だけど、あたし面倒くさいから放ってあるの。とにかく、なにがなんだかさっぱりわけがわからないわ。何をみんな、あんなにびくびくしてんのよ。美禰子さん」
そうなのだ。いったい何がそのように、あのひとたちを動揺させるのか。……
美禰子は憤怒にもゆる眼で、菊江の顔をにらんでいたが、やがて肩をそびやかして、そのまま部屋を出ていこうとした。しかし、すぐ気がついたように、ドアのところで立ちどまると、金田一耕助のほうをふりかえって、
「先生、すみません。あたし母を|看《み》てあげねばなりませんの。失礼ですけれど、今夜はこのままお引きとりになって」
「ああ、いいですとも」
耕助は気軽にいったものの、いささか失望を感じずにはいられなかった。かれはもうしばらくここに踏みとどまって、この興味ある一族を観察したかったのである。
ところが、いざ、かれがかえるという間際になって、ちょっとおかしなことが起こった。しかも、後になって考えると、このことが非常に大きな意味を持っていたのだ。
金田一耕助がきょろきょろと、応接室のなかを見まわしているのを見て、
「先生、なにか大切なものでもおなくしになって?」
と、菊江がからかうように|訊《たず》ねた。
「ぼ、帽子……ぼ、ぼ、ぼく、帽子、どこへやったかしら」
「ああ、お帽子……お帽子ならたしか、占い部屋のまえでお置きになったわ。あたし、取ってまいりましょう」
「いいです。いいです。ぼく、取って来ます」
そこで四人そろって占い部屋のまえまでくると、帽子は果たしてそこにあった。
さっき耕助は、くらがりのなかで何気なくおいたので、気がつかなかったけれど、それはとても妙なところにおいてあった。
占い部屋のドアの左側に、黒塗りの頑丈な台があって、そのうえに唐金の花瓶がおいてある。ところがその花瓶の高さというのが、ちょうど耕助の眼の高さにあるので、つい何気なくおいたものらしく、帽子はすっぽり花瓶の口にふたをしているのである。
「あら、まあ、おっほっほ、妙なところへお置きになったものね」
笑いながら何気なく、菊江が手をのばしてその帽子をとろうとすると、花瓶が急にぐらりと傾いた。
「あっ、危い!」
一彦と美禰子が左右から、あわてて花瓶を手でおさえた。その声に部屋の中から、三島東太郎がとび出してきた。
「どうかしましたか」
「あら、なんでもないのよ。先生のお帽子が花瓶の口にひっかかってとれないのよ。三島さん、とってあげてよ」
「どれどれ」
東太郎がかわってとろうとしたが、帽子はなかなかとれなかった。花瓶の口はちょうど帽子のサイズと同じくらいだし、そのうえ花瓶の表面に浮き彫りしてある、竜かなんかの一部分が、帽子の裏皮にひっかかったらしく、東太郎が無理にとろうとすると、ビリビリと皮の縫い目の破れる音がした。
「あらあら、たいへん、先生のたいせつなお帽子が……」
「あっはっは、菊江さん、あなたは皮肉ですな」
金田一耕助が笑ったときである。部屋のなかで突然怒気をふくんだ声が爆発した。
「誰だ! そんなところで、ごちゃごちゃふざけているやつは!」
金田一耕助はびくっとしたが、ほかの連中が案外平気なので、そっと部屋をのぞいてみると、それは玉虫もと伯爵だった。
玉虫もと伯爵はさっき目賀博士の|坐《すわ》っていた|椅《い》|子《す》にどっかとひかえ、ウィスキーの|角《かく》|壜《びん》をそばにおいて、もうかなり酔いのまわった眼を、ギラギラと血走らせている。
円卓のうえの砂鉢には、まだあの朱塗りの|扶《ふ》|けい[#「けい」は「札」の「きへん」を「占」にしたもの Unicode=4e69]《けい》がおいたままだったが、金田一耕助はそれとはべつに、そのとき妙なものが部屋のなかにおいてあるのに気がついた。
それは高さ一尺二、三寸、台座の直径三寸くらいの仏像のようなもので、部屋の左手のくろいカーテンのすぐまえにある、脚の高い机のうえに飾ってあるのである。
(はてな、さっきはあんなものがあったかしら。……)
金田一耕助はちょっと小首をかしげたが、すぐその仏像のある部屋の部分が、さっきはホーム・ライトの光の外になっていたことに気がついた。
(ああ、それで気がつかなかったのだ。……)
金田一耕助がぼんやりそんなことを考えていると、玉虫老人の|癇癪《かんしゃく》がまた爆発した。
「誰だ! そ、そんなところからジロジロのぞいているやつは!」
ひとつかみの砂がばっと足下に散ったので、耕助はびっくりしてとびのいた。
「うっふっふ!」
菊江が首をすくめて、
「あたしが放ったらかしといたものだからおこってるのよ。じゃ、先生、さようなら、御免なさい」
イヴニングの|裾《すそ》をからげて、菊江が部屋へはいっていくと間もなく、やっと東太郎の手によって、耕助の帽子は無事に救われた。
「先生、少しうらが破けましたが……」
「ああ、いいですよ、いいですよ」
「一彦さん、先生をお玄関までお送りして。あたしお母さまを看てあげなきゃならないから。……」
美禰子はもうその場にいたたまらなくなったのだろう。くるりと|踵《きびす》をかえすと、肩をゆすってどんどん向こうへいってしまう。耕助がそのうしろすがたを見送っていると、開けっぴろげた部屋のなかから、甘ったれたような菊江の鼻声がきこえてきた。
「もうお止しなさいよ。そんなに飲んでどうするの、お医者さんに|叱《しか》られても知らなくってよ。え、なあに。まあ、いやなひと。あなた|妬《や》いていらっしゃるのね。なによ、あんな風来坊みたいなやつ。……」
風来坊みたいなやつとは、どうやら耕助のことらしい。耕助は背中がムズムズするような気持ちで、一彦に送られて玄関までくると、|倉《そう》|皇《こう》としてその家をとび出した。
その夜、金田一耕助が大森の宿へかえりついたのは、もう十二時過ぎのことだった。
宿へかえると、かれはすぐに警視庁の|等々力《とどろき》警部に電話をかけてみた。電話はなかなか掛からなかったうえに、掛かっても、警部はいないとのことだった。
金田一耕助はがっかりした。
かれは昨日から、なんど警部に電話をかけてみたかわからないのである。椿子爵の調査にとりかかるまえに、警部にあって、一応、天銀堂事件と子爵との関係を訊ねてみたいと思っているのだが。……
金田一耕助は一種|焦躁《しょうそう》の思いを抱いて離れへかえると、寝床のなかにもぐりこんだが、なかなか寝つかれそうな状態にはならなかった。
あの狂い咲きのような椿夫人をとりまいて、あやしく回転するさまざまな顔、顔、顔、……それからあのフルートの音と火焔太鼓のような不思議なマーク。
耕助は|輾《てん》|転《てん》反側しながら、やっと明け方ちかく、うとうととまどろんだかと思うと、松月の女中にたたき起こされた。
「先生、先生、お電話ですよ」
「電話……? どちらから……?」
がばと寝床のうえにおきなおり、|枕許《まくらもと》においた腕時計を見ると六時半。
「椿さんというかたから、……御婦人の声のようでした」
耕助ははっと寝床から跳び出した。そして寝間着のまま、|母《おも》|屋《や》のほうへ走っていくあいだも、心臓ががんがん鳴っていた。
電話室へとびこむと、受話器にしがみついて、
「もしもし、こちら金田一です。ええ、そう、金田一耕助。どなた、美禰子さん?」
電話の向こうから|蚊《か》のなくような声が、かすかに細々と聞こえてくる。
「こちら美禰子です。椿美禰子です。金田一先生、すぐ来てください。とうとう起こったんです。昨夜、とうとう……昨夜、とうとう……」
「起こったってなにが、……もしもし、もしもし、美禰子さん、起こったってなにが……」
「先生、すぐ来てください。人殺しがあったんです。おうちのなかで……先生、あたし怖いの、怖いの、怖いのよ。すぐ来て……」
そこへほかの声と雑音が、ガアガアまじってきたので、美禰子の声はどうしても聴きとれなくなった。金田一耕助はたたきつけるように受話器をかけると、電話室からとび出していた。
悪魔はついに笛を吹き、こうして椿家の惨劇の第一幕が、騒然として切って落とされたのである。
第七章 血と砂
昭和二十二年九月三十日。
麻布六本木にある元|子爵《ししゃく》、椿英輔氏の邸内で、あの|血腥《ちなまぐさ》い最初の惨劇が発見されたのは、夏から秋へうつりかわる季節にありがちな、妙にうっとうしい、そうでなくても気が重くなるような、鉛色にくもった朝だった。
午前八時半。
六本木で鈴|生《な》りの電車をおりた金田一耕助が、椿家の正門のほうへ歩いていくと、ちょうど出勤時間のせいもあったろうが、あたりはたいへんな混雑だった。
まえにもいったように、そのへんいったい戦災をうけて焼失したなかに、ただ一軒焼けのこった椿家は、まるで丸裸にされたように、さむざむと、荒涼たる焼け野原にむかってむき出しになっている。その椿家をとりまいて、弥次馬がなにかにたかる|蟻《あり》のようにむらがっている。そのひとたちの表情を見ると、みんなうちにおさえきれぬ|昂《こう》|奮《ふん》をやどしながら、しかも今朝の天気のように妙に重っくるしく、それが騒然たる空気をあたりにただよわせていた。
椿家は焼けのこったとはいえ、全然、戦災をうけなかったわけではない。邸内にも炎上した建物はあったし、庭木の多くは|焼夷弾《しょういだん》をうけてくろく焼けただれていた。ことに塀にいたっては、周囲からうけた火勢が猛烈だっただけに、その損傷ははなはだしかった。しかも戦後における椿家の経済状態では、それを修理するすべもないので、板だの丸太だのを当てがって、どうやら一時を|糊《こ》|塗《と》しているのである。
そういう塀のすきまから、ときどき弥次馬だの新聞記者だのがしのびこんでは、見張りの警官たちに口ぎたなく怒鳴り散らされている。
じっさい、その朝、警官たちはすっかり昂奮していた。かれらはむやみに弥次馬を怒鳴り散らし、いたるところで新聞記者と|小《こ》|競《ぜ》り合いを演じた。まるで暴徒でも鎮圧するような剣幕であった。それをまた、つぎからつぎへと走りすぎる満員電車のなかから、|鮨《すし》|詰《づ》めになったひとびとが、好奇の眼をもって見てとおった。
こうして椿家の殺人事件は、まだ新聞にも出ないうちから、|燎原《りょうげん》の火のごとく東京中に知れわたり、そこに一種の昂奮状態をまき起こした。
今にして思えば、椿家の殺人事件があんなにも大きくセンセーションを起こしたのは、そこにいろんな要素が絡みあっていたからである。
まず第一に、それは当時注目の的になっていた、斜陽族のあいだに起こった殺人事件であった。第二にはそれが当然、過去における椿子爵の|失《しっ》|踪《そう》事件に、つながっているだろうことを想像させたことである。そして、第三にはこれは当時世間一般には、まだ知られていないことだったが、さらにさかのぼって、あの前代未聞ともいうべき天銀堂事件に、つながっているのではないかと思わせたことである。そして、そのことが検察陣を極度に緊張させたのであった。
しかしまた一方、ひるがえって考えてみると、椿家におけるこの最初の殺人事件は、それらの諸要素から切りはなして考えて見ても、十分捜査陣を昂奮させるに足る事件であった。そこには、なんともいえぬ異様な要素があったのだ。
それはさておき、|美《み》|禰《ね》|子《こ》の招きに応じて駆けつけてきた金田一耕助だったが、彼が首尾よく邸内にもぐりこんで、事件にタッチ出来るようになるまでには、多くの厄介な関門を通らなければならなかった。
誰だってこのよれよれの着物によれよれの|袴《はかま》をはき、くちゃくちゃに型のくずれたお|釜《かま》|帽《ぼう》を、もじゃもじゃ頭にのっけている、この風来坊みたいな男に、あのような特異な才能があろうなどと、思わないのが当然である。だからもし、この事件の担当者が等々力警部でなかったならば、たとえ美禰子の言葉ぞえがあったとしても、おそらくかれは新聞記者や弥次馬同様、昂奮した警官によって、門外へつまみ出されていたことだろう。
「あっはっは、これゃあたいへんな騒ぎですな、警部さん、なんだってみんなあんなに昂奮してるんです」
等々力警部の言葉ぞえによって、やっと玄関から中へもぐりこむことができた金田一耕助は、額の汗をふきながら、|呆《あき》れたように笑っていた。しかし、警部は笑うどころか、むずかしい渋面をつくって、
「金田一さん。笑いごとじゃありませんよ。これはじつにいやな事件です。じつになんとも、いいようのないほどいやな事件です」
警部の声があまり異様にしゃがれているので、耕助は思わず顔を見なおした。
金田一耕助と等々力警部は、ずいぶん古い|馴《な》|染《じ》みである。昭和十二、三年ごろ、警部の持てあましている事件を、横からひょっこりとび出した耕助が、みごとに解いてみせたことがあった。それ以来警部は妙に、この|飄々《ひょうひょう》たるもじゃもじゃ頭の小男に推服して、かれが事件に|容《よう》|喙《かい》することを、いやがらないばかりか、かえって歓迎するふうがあった。金田一耕助もこの警部の、竹をわったような気性を尊敬していた。そういうわけで、ふたりはもうかなり長いあいだのコンビなのである。それにもかかわらず、金田一耕助は、警部がこれほど昂奮しているのを、いままで見たことがなかった。
「警部さん、いったいどうしたというんです。人殺しがあったということですが、殺されたのは誰ですか」
警部はジロリと耕助を見て、
「金田一さん、あんたまだそれを御存じないのかな」
「知りません。さっき美禰子さんから電話がかかって来たんですが、途中で混線しちまって。……」
「じゃ、こちらへいらっしゃい。いま現場写真をとっているところですから」
応接室にもながい廊下にも、警視庁や警察のひとびとが|溢《あふ》れて右往左往していた。いずれも緊張して、ものものしい顔をしていたが、なかには金田一耕助の顔馴染みのひともあって、かるく目礼していきすぎたりした。家人の姿はどこにも見えなかった。
やがて金田一耕助が、警部に案内されてやってきたのは、昨夜、あの奇妙な砂占いのおこなわれた部屋だった。部屋のまえに刑事がふたり立っているのを見て、金田一耕助は驚いて警部に|訊《たず》ねた。
「警部さん、それじゃ人殺しのあった現場というのは……」
警部はむずかしい顔をして、
「そうです、金田一さん、あなたは昨夜ここへ来られたそうですね」
金田一耕助が無言のまま、警部のあとについて部屋のなかへはいっていくと、いましも写真班がさかんにフラッシュをたいているところだった。そのフラッシュの|閃《せん》|光《こう》をさけながら、すばやく部屋のなかを見まわした耕助の眼に、まず第一にうつったのは、|竦然《しょうぜん》として部屋のすみに立っている、目賀博士と三島東太郎のすがたであった。ふたりとも警部といっしょにはいってきた、金田一耕助のすがたを見ると、びっくりしたように眼を見張った。
金田一耕助もまた、このふたりがどうしてここにいるのかとふしぎに思ったが、しかしつぎの瞬間、彼の注意は部屋のなかにくりひろげられた眼もあてられぬ惨状に、すっかり奪われてしまったのである。
部屋の三方には昨夜のまま、まだ黒いカーテンが張りめぐらしてあり、その中央にある円卓をとりまいて、十ばかりの|椅《い》|子《す》が不規則にならんでいるのも、昨夜のままだったが、ドアをはいって向かって右側にある椅子が、ふたつ三つひっくりかえり、そのあいだに仰向けになって倒れているのは、玉虫もと|伯爵《はくしゃく》であった。
「そ、それじゃ殺されたというのは、玉虫もと伯爵だったのですか」
「そうですよ、金田一さん、あんたは誰だと思っていたんです」
じっさいのところ、金田一耕助にも見当がつきかねたのだけれど、美禰子の電話をきいたせつな、いちばんに|脳《のう》|裡《り》にうかんだのは、|秋《あき》|子《こ》夫人の面影だった。
写真班が死体をめぐって、さかんにフラッシュをたいている。金田一耕助はその妨げにならぬように、部屋のすみに身をよけながら、死体の様子を観察する。
玉虫もと伯爵は後頭部に裂傷をうけていると見えて、あの綿のように白い髪が|真《しん》|紅《く》に染まっている。そして、そこから流れ出した血が、じっとりと床の|絨緞《じゅうたん》をそめている。しかも、死体から一メートルほど離れたところにくろずんだ仏像のようなものがころがっており、その仏像にも、赤黒いしみがべったりとこびりついていた。
それでは玉虫もと伯爵は、あの仏像で殴り殺されたのであろうか、いやいや、それには疑問がある。
疑問の種というのは、玉虫もと伯爵が首にまいた襟巻きである。それは黒い絹の襟巻きだったが、それが食い入るようにもと伯爵の細い首に巻きつき、真結びに結ばれている。どうやら玉虫老人は、その襟巻きによって絞殺されたもののようである。
金田一耕助は仰向けにひっくりかえった玉虫もと伯爵の顔に眼をやった。するとなんともいえぬはげしい|悪《お》|寒《かん》が背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかった。玉虫老人は死の直前に、いったいなにを見たのであろうか。かっと見開かれた両眼といい、|歪《ゆが》んだまま、なかばひらいた口といい、断末魔における、なんとも名状することの出来ぬ恐怖を、まざまざと物語っている。その昔、研究会を牛耳って、貴族院のボスといわれたこの|老《ろう》|獪《かい》な政治家に、これほどまでに深刻な恐怖をあたえたのは、いったいなんであったろうか。
金田一耕助はそれからついで死体の状態に眼をうつす。玉虫もと伯爵は殺されるまえにかなり抵抗したものらしく、帯がゆるんでまえがはだけ、|裾《すそ》がまくれあがって、メリヤスのズボン下をはいた右脚が、|太《ふと》|股《もも》のあたりまで露出している。そして、はだけた着物の胸から腹へかけて、点々として血が滴っており、足には白の夏|足《た》|袋《び》をはいているが、スリッパは両方とも、死体からかなり離れたところへ飛んでいた。
「警部さん、どうでしょう、これくらいで」
「やあ、結構結構。それじゃテーブルのうえと部屋全体を、詳細に|撮《と》っておいてくれたまえ」
「承知しました」
死体の撮影がおわったので、金田一耕助がそっとそばへ寄ってみると、死体のまわりにはいちめんに砂がこぼれている。そして、その砂のうえやあいだに、点々として血が飛び散っていた。
金田一耕助は死体の顔をのぞきこんで、
「警部さん、被害者は最初、顔面をなぐられたんですね」
「どうもそうらしい。だから着物や胸や腹を染めている血は、鼻血じゃないかと思うんだがね」
死体の顔の、ちょうど鼻柱のところに|蒼《あお》い|痣《あざ》が出来ていた。
「しかし、それにしちゃ顔に血がついていないのは不思議ですね」
「|拭《ふ》きとったらしいんですよ。ほら、見たまえ。あそこにハンケチが落ちている」
警部の指さすところを見ると、ひっくりかえった椅子の下に、真紅に染まったハンケチが、丸くまるめて放り出してあった。
金田一耕助は眼をまるくして、
「拭きとったって誰が……」
「さあ、それは誰だかわからない。犯人がやったとすれば、なんのためにそんなことをやったのかわからないが、しかし、とにかく血を拭きとろうとしたことはたしかですよ。ほら、ごらん、着物についてる血なども、拭きとろうとしたようになすった跡がある」
そういわれてみればそのとおりであった。
金田一耕助はいよいよ奇異の眼を見張って、
「しかし、警部さん、血をふきとって、いったいどうしようというんです。これだけの大惨劇を演じながら……」
「だからわからないといってるんです。いや、わからんといえばこの事件は、わからんことばかりですよ」
等々力警部は顔をしかめて、いまいましそうな舌打ちをする。
金田一耕助は死体から眼をはなすと、改めていま写真班が撮影している円卓のうえを眺めた。
円卓のうえには砂鉢が、昨夜のままおいてある。しかし、そのうえに架けられた、五本の放射竹をもった|けい[#「けい」は「札」の「きへん」を「占」にしたもの Unicode=4e69]《けい》|卜《ぼく》は、もう昨夜のままではなかった。それは無残にへし折られ、がっくりかたむき、砂鉢の砂が大きくかき乱されている。しかも、そのけい[#「けい」は「札」の「きへん」を「占」にしたもの Unicode=4e69]卜といわず、砂鉢の砂といわず、飛びちる血潮に真紅にそまっているのである。
金田一耕助は息をころして、そのなまなましい血の跡をながめていたが、ふいに大きく眼を見張った。直径一メートル半もあろうかと思われる、あの大きな砂鉢の砂の、一部分たいらにならされているところに、判でおしたように、赤黒い血でもって描かれているのは、なんと、あのまがまがしい|火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》、悪魔の紋章ではないか。
金田一耕助はぎょっとして、目賀博士の方をふりかえった。目賀博士もそれに気がついていたに違いない。金田一耕助と視線があうと、ギコチない|空《から》|咳《せき》をしながら顔をそむける。三島東太郎はぼんやりと、不思議そうな顔をして、悪魔の紋章とふたりの顔を見くらべていた。
金田一耕助は円卓のそばへよって、悪魔の紋章のうえにちかぢかと顔を近づけて見る。
それは縦の直径二寸五、六分、横の直径二寸足らず、大きさといい形といい、昨夜砂のうえに描かれていたものと、そっくりそのままだった。残念ながら砂鉢の上が|掻《か》きまわされて昨夜描かれたあの形は、あとかたもなく消えているので、|較《くら》べて見るすべはなかったけれど。
金田一耕助は警部のほうをふりかえった。
「警部さん、これを忘れないように撮影しておいてください。この悪魔の紋章を。……」
「悪魔の紋章だって?」
「そうです、そうです。ほら、そこに血でもって宝珠の玉みたいな形が描いてあるでしょう。それを忘れないように、写真にとっておいてください」
やがて室内の撮影がすっかり終わると、等々力警部が合図をする。すると廊下に待っていたふたりの刑事がはいってきて、|観《かん》|音《のん》びらきの扉をしめたが、金田一耕助はそのときはじめて、一枚のドアのうえに、|斧《おの》でたちわられたような、大きな裂け目ができているのに気がついた。
刑事はドアをしめると、なかから掛け金をかけ、|閂《かんぬき》をはめる。それから引きしぼってあった黒いカーテンをしめたが、見るとそのカーテンのうえにも、いちめんに血の|飛沫《しぶき》がとんでいるのである。それはまだ生乾きのあいだに、誰かカーテンを開いたものがあると見えて、かなり、すれたり、こすれたりした跡があるが、血の飛沫がとんだとき、カーテンがこうして、しめられていたことはあきらかだった。
「目賀先生、これで……」
等々力警部が目賀博士のほうをふりかえると、
「いや、あの換気窓が……」
と、目賀博士は三島東太郎のほうをふりかえり、
「なあ、三島君、あれもたしかに締まっていたんだったな」
「ええ、そうです。そうです。わたしが外から開いたのですから」
「ああ、そう、それじゃその窓もしめてくれたまえ」
警部が合図をすると、刑事のひとりが椅子を持ってきて、ドアの内側においた。それからその上にあがると、ドアの上にある、横に細長い換気窓のガラス戸をしめた。こうして刑事がどこもかしこも締めてしまうと、等々力警部はあらためて部屋のなかを見まわし、それからきっと、目賀博士と三島東太郎の顔を見た。
「目賀先生」
そういう警部の声には、なにかしら一種異様なひびきがあった。
「それじゃ、あなたがたが今朝の三時ごろ、この事件を発見された時には、部屋の状態はこんなふうになっていたとおっしゃるんですね」
「そうです。そうです」
目賀博士は不安そうに、|蟇《がま》仙人のような顔をしかめながら、
「なあ、三島君、このとおりだったなあ」
「はあ、あの……でも、そのドアにはむろん裂け目なんかなかったんです。あれはぼくが|薪《まき》|割《わ》りを持ってきて、ぶちわったものですから。……そしてそこから手を突込んで掛け金をはずし、閂を引き抜いたんです」
三島東太郎も不安そうに、そわそわと部屋のなかを見まわしている。あいかわらず右の手には、安っぽい軍手をはめていた。
警部は燃えるような眼で、ふたりの顔を見くらべながら、
「それにもかかわらず、あなたがたがはいってきたときには、部屋のなかには被害者以外誰もいなかった。しかも、あのカーテンのむこうにある窓も、全部内側から掛け金が掛かっていたとおっしゃるんですね」
さっきから不思議そうに、刑事の行動や警部の言動を見まもっていた金田一耕助は、そのとき突然、ガリガリバリバリと、めったやたらにもじゃもじゃ頭をかきまわしはじめた。
「そ、そ、それじゃ警部さん、こ、こ、これは密室殺人なんですか」
「密室の殺人……?」
等々力警部は金田一耕助のほうをふりかえると、まるで|噛《か》みつきそうな調子でいった。
「そう、なんといったらいいのか知れんが、こんなことが果たしてありうるだろうか。ここには明らかに格闘のあとがのこっている。被害者はあの仏像で殴られたらしく、後頭部にふたつ三つ傷があるうえに、最後に大きな裂傷をうけているんです。そのうえにああして襟巻きで首をしめられて……直接の死因が後頭部の傷にあるのか、絞殺によるものか、それは解剖の結果を見なければわからないが、とにかく自殺でないことは明らかです。それにもかかわらず、あの換気窓から、この部屋の惨状を見つけたこのひとたち、このふたりのほかに美禰子さんや女中のお種、それから被害者の|愛妾《あいしょう》の菊江という婦人もいっしょだったそうですが、そのひとたちがドアをやぶって部屋のなかへはいってきたとき、被害者のほかには誰もいなかった。しかも、窓という窓は全部、内側から掛け金が掛かっていたというんですが、そんなことが果たしてありうるだろうか」
等々力警部の声は次第にたかまり、その|頬《ほお》は|真《まっ》|赧《か》に紅潮している。
金田一耕助はいかにも|嬉《うれ》しそうにめったやたらに、頭のうえの|雀《すずめ》の巣をかきまわしていた。
第八章 風神雷神
写真班の一行がひきあげ、解剖のために死体が救急車によって運びさられたあとの現場は、まるで|嵐《あらし》が通りすぎたあとのように|惨《さん》|憺《たん》たるものであった。鑑識課の連中が指紋検出のためにふりまいていった白い粉が、あらゆる家具にこびりつき、それが現場を染めている、あのなまなましい血の|飛沫《しぶき》と、奇妙なコントラストをなしている。
金田一耕助は警部といっしょに、三方に張りめぐらしてあるカーテンをめくって、その奥をのぞいて見た。そこには庭に面して窓がふたつあるが、それらの窓はいずれも防音のために二重窓になっており、しかも盗難よけの目の細かい鉄格子がついている。
金田一耕助はその鉄格子をいちいちゆすぶって見ながら、
「なるほど、これじゃたとえ締まりがしてなくとも、こっちの窓は問題にしなくてもいいわけですね」
金田一耕助はもういちど、観音びらきの扉をしめ、|閂《かんぬき》をはめ、黒いカーテンをとざしたのち、あらためて部屋のなかを見まわした。それから目賀博士と東太郎にむかってたずねた。
「すると、あなたがたが駆け付けてきたとき、この部屋の戸締まりは、こういう状態になっていた。しかも、あなたがたが扉を破って部屋のなかへとびこんできたとき、ここには被害者以外、誰の姿も見えなかったというんですね」
目賀博士と三島東太郎が陰気な目をしてうなずいた。東太郎はいぶかしそうな顔をして、上眼づかいにチロチロと、耕助と警部の顔を見くらべている。
「すると、こういうことになりますね。犯人はこれだけの凶行を演じたのち、煙のように消えうせたか……いや、しかし、常識としてそのようなことは不可能ですから、実際はどのようなトリックを用いて、密閉した部屋から抜け出したか、あるいは、部屋を出てからどのようなトリックを用いて、部屋を密閉したかということになりますね。警部さん、扉のうえの換気窓はどうでしょう。|験《ため》してごらんになりましたか」
警部が合図をすると、すぐに刑事が|椅《い》|子《す》にあがって、換気窓から脱出しようと試みた。しかし、すぐにそれが絶対に不可能であることがわかった。横の幅は相当あっても、縦の幅のせまいその窓は、|辛《かろ》うじて腕がとおるくらいで、どんな小さな男でも、そこから抜け出すことは絶対に不可能だった。
「いや、有難うございました。それで凶行後、その窓から抜け出したのだろうという可能性はなくなったわけですね。実際また……」
と、金田一耕助はにやにやしながら、
「出ようとすれば扉があるんだから、何も苦労して、そんな小さな窓から抜け出す必要もないのですからね。ところで、換気窓が問題でないとすれば、結局、この扉から出ていったということになりますが、そうすると、外からどういう方法で、掛け金をおろし、閂をはめ、カーテンをしめたか」
「いや、ちょっと。……」
と、目賀博士がかるい|咳《せき》をして、
「お話中じゃがそのカーテンははじめから、締まっていたんじゃないかな。血のしぶきのぐあいからそう思われるが……」
「なるほど、なるほど」
金田一耕助はうなずいて、
「そうすると、犯人はカーテンをそっとまくって出ていったんですな。とすれば、犯人のやるべきことはふたつしかない。掛け金をおろすことと、閂をはめること。……しかし、それは必ずしも不可能なことじゃありませんな」
金田一耕助は換気窓を仰ぎながら、
「ほかに絶対に|隙《すき》|間《ま》がないというならともかく、お|誂《あつら》えむきの場所に、たとえ狭くともああいう窓があるのだから。……」
「と、いうと……?」
等々力警部が不審そうに耕助の顔をふりかえった。
「たとえばですな。犯人は部屋を出るまえに、掛け金と|閂《かんぬき》に|紐《ひも》をゆわえつけておく。そして、その紐の端を窓から外へほうり出しておくんです。それから外へ出ると扉をしめ、廊下にある台にあがって、まるで魚釣りでもするように、上手に紐をあやつって、掛け金をおろし、閂をはめる。それから更に上手に紐をあやつって、掛け金や閂にゆわえてつけてある端をはずす。つまりはじめから、そういうふうにゆわえつけてあるんですな。うまく外れましたらお慰み……と、ばかりに紐を|手《て》|許《もと》にひいて窓をしめておく。こうしてまんまと密室の殺人事件が出来あがる。……」
得々として密室殺人の講義をしていた耕助は、突然、怒りにみちた声によって妨げられた。
「ば、ば、馬鹿な。そ、そ、そんな馬鹿なことが!」
びっくりしてふりかえると目賀博士であった。博士は怒りにみちた|蟇《がま》のように、凶暴な眼をギラギラ光らせ、
「犯人はなんだってそんなややこしい|真《ま》|似《ね》をするんだ。この部屋になかから締まりがしてあろうがなかろうが、人殺しがあったことにゃ変わりゃせん。なんじゃ、紐を使って掛け金をおろす? 閂をはめる? 子供だましみたいなことはええ加減にしとけ。なるほど、あんたの話をきいてると、いかにもうまくいきそうじゃが、さて、ひとつ、あんたやって見なされ。どんなに手間のかかる、ややこしい仕事だか……金田一さんや、まあ、お聞き。犯人はな、いっときも早くこの場から逃げ出したいんですぞ。いつなんどき、誰がくるか知れたもんじゃない場合ですぞ。それになんじゃ、うまく外れましたらお慰みィ……馬鹿もええ加減にしときなされ」
よほど|肚《はら》にすえかねたと見えて、目賀博士はあの特徴のあるガニ|股《また》で、よちよち部屋のなかを歩きまわりながら、|唾《つば》をとばして耕助にくってかかる。耕助はにやにや笑い出した。
目賀博士はまた凶暴な眼を光らせて、
「なんじゃ、なんじゃ。何がおかしい。おまえさんの笑うているのは、わしのいうことか。それとも、わしのガニ股がおかしいのか」
耕助はとうとうぷっと吹き出した。
「あっはっは、いや、先生、失礼しました。ぼくも先生の説に絶対に賛成ですな」
「何を!」
「いや、先生のお説に賛成であると申し上げているんですよ。ただね、ここにいらっしゃる警部さんが、あまり不思議だ不思議だというもんだから、こういうやりかたもあると、ちょっとウンチクのあるところをひけらかしていたんです。つまり可能性の問題ですな。しかし、ポシビリティーはあるとしても、プロバビリティーの点では先生のおっしゃるとおり薄そうですな」
「なんじゃ、そのポシビリティーだのプロバビリティーちゅうのは? |詭《き》|弁《べん》でひとを|瞞着《まんちゃく》するのはよしなされ」
「つまり、そういうことが出来るとしても、この事件でそれが行なわれたかどうかは、疑わしいと申し上げているんですよ」
「当たりまえじゃ、そんなこと」
目賀博士がぶつくさいっているのを耳にもかけず、
「第一、この事件では現場を密閉しておく必要は少しもなさそうですからな。被害者の死に方が自殺か他殺かまぎらわしいような場合には、現場を密閉しておくことによって、自殺らしく見せかけることもできる。しかし、この事件じゃ他殺たること一目|瞭然《りょうぜん》ですからな。何も犯人が骨を折って、危険を|冒《おか》してまで、現場を密閉しておく必要は少しもなかった」
「しかし、金田一さん」
と、警部が不満らしく口をはさんだ。
「議論は議論として、この事件では現場はたしかに密閉されていたんですぜ。この連中、いや、失礼、このひとたちが|嘘《うそ》をついているのでないとしたら。……」
「なんじゃあ、わしが嘘をついとるウ……」
ここにいたって|蟇《がま》仙人は、怒り心頭に発したらしい。口から蟇の|妖《よう》|気《き》のようなあぶくをぶつぶつ吐きながら、
「わしがなんで嘘を吐くんじゃ。なんで嘘をつかねばならんのじゃ。わしはさっきからいうとる。この部屋が密閉されておろうとおるまいと、人殺しがあったことにゃ変わりゃせんと。それになんで嘘をつく必要があるというんだ」
目賀博士は闘志満々である。警部にくってかかる声が、密閉された部屋にがんがんひびく。金田一耕助は背中を|叩《たた》いて、
「まあまあ、先生、警部さんがああおっしゃったのは言葉の|綾《あや》、つまり語調を強めるためで、誰も先生の言葉を疑ってなんかおらんですよ。ときに三島君」
「はあ」
さっきから途方に暮れたような顔をして、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》にひかえていた三島東太郎は、だしぬけに声をかけられて、びっくりしたように振りかえった。
「ぼくはまだ聞いておらんのだが、いったい誰が最初にこの事件を発見したんですか」
「それは菊江さんです」
「菊江さんがどうして……いや、そのことはあとであのひと自身から聞くとして、すると菊江さんがこの事件を発見して、君たちに|報《し》らせたんですね」
「そうです、そうです、菊江さんはあの換気窓になってる|欄《らん》|間《ま》から、部屋のなかを|覗《のぞ》いたんです。それでびっくりしてぼくを起こしに来たんですが……御存じのように、この家のなかで男といえばぼくひとりです。新宮さんの一家は別棟に住んでいらっしゃるものですから……ぼくも話を聞いてびっくりしました。それですぐ跳び起きて、この部屋のまえまでくると、なにしろ扉があかないものですから、菊江さんと同じように台のうえへあがって、欄間からなかをのぞいたんです」
「すると、そのときこの部屋には、電気がついていたんですね」
「ええ、そう、だから菊江さんにも、なかの様子が見えたんじゃありませんか」
「ああ、なるほど。ところでそのとき君は、すぐこれを殺人事件だと思いましたか」
「とんでもない。あなたもあとで欄間から覗いてごらんになるとわかりますが、あのとおり狭くて首が入らないものですから、部屋のなかのほんの一部分しか見えないんです。そのとき私に見えたのは、床のうえにひっくりかえっていらっしゃる、玉虫の御前の脚のほうだけでした。頭のほうは見えなかったんです。それから菊江さんの注意で砂占いのほうを見たんです。すると、そこに血らしいものがいっぱい……」
「そのとき君は、この奇妙な紋章に気がつきませんでしたか」
「さあ。……」
東太郎はちょっと考えて、
「気がつきませんでした。あの欄間からじゃこの砂鉢の一部分しか見えないので……それに何しろ|動《どう》|顛《てん》してたもんですから。……」
「そのとき、菊江さんはなんといいましたか」
「きっと酒を飲みすぎて、|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》を起こしたにちがいないというんです。ぼくもそうだと思いました。そこでお種さんを起こして、目賀先生を呼びにいってもらったんです」
「目賀先生は、どちらにおやすみでしたか」
金田一耕助はべつに底意があって、そういう質問を切り出したわけではなかったけれど、それを聞いた|刹《せつ》|那《な》の東太郎の表情こそ|観《み》|物《もの》であった。|真《まっ》|赧《か》になってもじもじしているその顔色には、世にも切なげなものがあった。
金田一耕助はこの質問が、どうしてこの青年を苦しめるのだろうといぶかったが、そのときうしろで毒々しい、ゆすりあげるような笑い声が爆発した。目賀博士である。
「三島君、三島君」
博士は|悪《いた》|戯《ずら》っぽい眼をギラギラ光らせて、
「何も遠慮することはありゃせん。目賀先生は奥様と、同じお部屋におやすみでしたと、なぜはっきりいわんのじゃ。げっげっげっ」
金田一耕助と等々力警部は、弾かれたように博士のほうをふりかえった。博士はにやにやと毒々しい微笑をうかべている。金田一耕助はその好色にかがやく|瞳《め》、ぎらぎらと|脂《あぶら》ぎった肌を見ているうちに、まるで蟇の妖気にあてられたように、体中が熱くなったり寒くなったりするのを感じた。
「ああ、いや」
と、金田一耕助は苦しそうな|空《から》|咳《せき》をして、
「なるほど、なるほど。先生は奥様の主治医でいらっしゃるから、それは当然の御配慮でしょうな。何しろ、いつなんどき奥様の発作が、再発しないとも限らぬ場合ですから」
「ふん、まあ、そんなものじゃろかい。とんだ主治医じゃて、げっげっげっ!」
目賀博士は蟇のような声を立ててうそぶいた。
金田一耕助はそのとき、美禰子がここにいたらどんな顔をするだろうかと思うと、この厚顔無恥な蟇仙人に対して、|肚《はら》のなかが|沸《たぎ》り立つような怒りをおぼえた。
「ええと、なるほど、なるほど。それで先生が起きてこられたわけですな。そのとき、秋子奥さまは」
「あれは……いや、奥さんは……」
と、素速くいいなおしたものの、さすがの蟇仙人も照れたらしく、つるりと顔を|撫《な》であげて、
「いや、その、なんじゃ、お信乃さんにまかせてきた。幸いお種が気を|利《き》かして、詳しいことは話さなんだで、奥さんは何も知らなんだのじゃ。騒ぎを聞いて美禰子さんも起きてきた。それでみんなしてこの部屋のまえへ駆け付けてきたのじゃが……」
「あなたもあの欄間から、部屋のなかを|覗《のぞ》かれたんでしょうね」
「そりゃもちろん。覗かんことにゃ……」
「そのときあなたはこの紋章に、お気付きになりませんでしたか」
「気がつかなんだな。あそこからじゃ見えんのじゃないかな」
「なるほど、それから。……」
「菊江さんや三島君は、脳溢血だろうというんじゃが、わしはどうも様子がすこし変だと思うた。死体のほうは脚だけしか見えなんだが、砂のうえに散っている血の量といい、|飛沫《しぶき》の状態といい、鼻血とばかりはいいきれぬ。そこでともかく新宮さんを呼んでこいと、お種を迎えにやったのだが……」
「お種さんを……?」
金田一耕助が何気なくふりかえると、三島東太郎はもじもじして、
「いまから考えるとぼくが行くべきだったんです。そうすればあのことも、もっとはっきりしたんですが……」
「あのことというのは?」
「お種はな、新宮さんのところへいくとちゅう、椿|子爵《ししゃく》を見たというんじゃ。なあに、気が動顛してたで、|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》でも見よったんじゃろ」
金田一耕助はぎくっとして、等々力警部と顔見合わせる。何かしら不吉な想いが、いかの墨のようにどすぐろく肚の底にひろがっていく。これはいよいよ尋常の事件ではない。
「つ……椿子爵ですって?」
金田一耕助はひくい声で|呟《つぶや》いた。目賀博士はしかしこともなげに、
「夢じゃよ、幻じゃよ。蜃気楼じゃよ。お種は子爵思いだったからな。ひょっとするとひそかに胸を|焦《こ》がしていたのかも知れんて」
「しかし……しかし……お種さんはたしかに見たといってますよ」
と、三島東太郎は腹立たしげに、蟇仙人の横顔をにらみつけながら、
「それにお種さんばかりじゃない。奥さんやお信乃さんも……先生はかくしていらっしゃるが、ぼくはお種さんに聞いたんです」
「秋子奥さまやお信乃さんも、椿子爵、あるいは椿子爵らしい人物を見たというんですか」
金田一耕助はいよいよ激しい胸騒ぎをおぼえる。警部はまるで|噛《か》みつきそうな顔をして、目賀博士と東太郎の顔を見くらべていた。
東太郎は暗い眼をしてうなずくと、
「それで奥さんがまた発作を起こされて……だから昨夜はあっちもこっちも大騒ぎだったんです」
目賀博士はもう何もいわなかった。
金田一耕助は沸り立つ胸をおさえて、
「なるほど、なるほど。そのことはしかし、あとでお種さんやお信乃さんに聞いてみることにしましょう。それで新宮さんはこっちへ来られたんですね」
「ああ、そう、そこでわしが様子がすこしおかしいから、すぐ警察へとどけるようにゆうたんじゃが、新宮さんはどうしても|肯《き》き入れん。まだ死んだものとはっきりしてるわけのものじゃなし、呼吸があるなら一刻も早く介抱したらよかろう……とあの仁としては珍しく筋のとおった話じゃ。それに、この家としてはなるべくなら、警察|沙《ざ》|汰《た》にはなりたくないじゃろと思うたから、わしも扉をぶち破ることに同意した。そこで三島君が物置きへ|薪《まき》|割《わ》りを取りに走ったのじゃ」
「それで扉をぶち破ったんですね。ところで、そこから手をつっ込んで、掛け金や|閂《かんぬき》をはずしたのは……」
「はじめにわしが手をつっ込んだ。しかし、何せ狭いすきまじゃで、なかなかうまく外れん。そばで見ていた美禰子さんが気をいら立って、わたしが代わるというので代わってもろたが、あの娘にも外すことが出来なんだ。そこで、三島君がもういちど薪割りをくれて、すきまをひろげ、そこから手をつっ込んで外しよった。そうだったなあ、三島君」
東太郎が無言のままうなずいた。
「そこであなたがとび込まれたわけですが、そのとき椅子の状態やなんかは……」
「金田一さん、それゃ無理じゃよ。わしだって犯罪現場に手をつけてはならんちゅうくらいのことは心得とる。しかし、何しろそのときはみんな|昂《こう》|奮《ふん》しとったで……とにかく、カーテンをめくってわしが一番にとびこんだのじゃが、とたんに椅子につまずいてひっくりかえった。そういう状態じゃで、誰が何にさわったか、さわった人間自身でもおぼえてはおらんじゃろ」
「いったい、誰と誰とがこの部屋へ入ってきたんですか」
「みんなじゃ」
「みんなというと……?」
「わしと三島君、菊江さんに美禰子さん、新宮家の三人、女中のお種……奥さんとお信乃さんをのぞいたみんなじゃ。もっとも、すぐ気がついて、女たちは外へ追い出したが……」
「ところで、この紋章に気がついたのは、いつのことでしたか」
「さあて……おお、そうそう、新宮さんと三島君が何やらごちゃごちゃやっているんで、なんのことじゃろと思うてそばへやってきて、はじめてわしも気がついたんだが……」
金田一耕助は東太郎のほうへ向き直った。
「君が新宮さんとごたごたやっていたというのは……?」
「それは、あの……こうなんです」
東太郎はどぎまぎしながら、
「新宮さんはあとでそうじゃないといってましたが、ぼくにはあのひとがその紋章……というんですか、それを消そうとしているらしく思われたんで、それで止めたんです」
「新宮さんがこの紋章を……すると、君もそのときすでに、これに気がついていたわけですか」
「いえ、あの、そうじゃありません。ただ、新宮さんの素振りがおかしいんで……あのひとしきりに砂鉢の砂をいじっているんです。それもわざとさりげなくやってるような振りをして……そんなことしちゃ、あとで警察のかたがやって来て、調べるときにいけないんじゃないかと思って、止めようとすると、いきなり砂を握って、投げつけようとするんです。それでぼくがとんでいって、その手をおさえたんですが、そのときはじめてぼくも、その紋章に気がついたんです」
「なるほど。それで新宮さんはいろいろ言い訳をなすったわけですね。それから……?」
「いえ、あの、そのとき奥さまの悲鳴がきこえてきたんで、……つまり、あの、椿子爵らしいひとの影を見られて、発作を起こされたわけです。それで、目賀先生や新宮さんはそのほうへとんでいかれたんです」
「みんな、そのほうへいったんですか」
「いえ、あの、ぼくと菊江さん、一彦さんとお種さんはここに残っていました。すると、しばらくして、美禰子さんがやってきて、すぐ警察へ電話をかけてくれとおっしゃるので……だから、菊江さんが最初ぼくを起こしにきたのは三時ごろだったんですが、警察へお|報《し》らせしたのは四時を過ぎていました」
金田一耕助はもっと|訊《たず》ねることはないかと考えたが、べつに思いつくこともなかったので、さっきから気になっていた床の仏像を拾いあげた。それは木彫りの像で、どっぷり血にそまっているが、手にとってみて、すぐそれが雷神であることに気がついた。
「これはいつもここにあるんですか。昨夜占いをやってるときに気がつかなかったが、かえりにこの部屋をのぞくと、そちらの台のうえにのっかっていたようだが……」
「ええ、いつもこの部屋においてあります」
東太郎がこたえた。
「しかし、これは雷神でしょう。そうすると風神と|対《つい》になっていなければならん|筈《はず》だが、ここにはこれひとつしかないんですか」
「さあ……ぼくが知ってるところでは、それだけのようですが、先生は御存じですか」
「さあ……わしもそれだけしか知らんな。それは対になってるもんかな」
「そう風神雷神といってね」
金田一耕助は雷神の首をにぎって持ってみる。まえにもいったように、それは高さ一尺二、三寸、台座の直径三寸くらい、大きさといい重さといい、なるほど|手《て》|頃《ごろ》の凶器だった。
金田一耕助はそれをおいて、ハンケチで手をふきながら、
「警部さん、じゃここはこれくらいにして、応接室でほかのひとたちの話を聞きましょう。ここでは御婦人がたになんですから」
部屋を出ると金田一耕助は、廊下にある台をひきよせて、そのうえにあがってみた。その台というのは昨夜かれが、帽子と取っ組みあいをやったあの花瓶のおいてあった台である。なるほどその|欄《らん》|間《ま》からでは、部屋の一部しか見えなかったが、それでもいろいろと眼の位置をかえてみると、砂鉢のうえに描かれた、あの悪魔の紋章がはっきり見えた。
第九章 黄金のフルート
「驚いたわ。あたし。だって先生がそんな偉い探偵さんだなんて、ちっとも知らなかったもんだから、昨夜はすっかり失礼しちゃって。……ごめんなさい。先生」
これが応接室へ第一番目に呼び出されて、警部や金田一耕助のまえに腰をおろした菊江の第一声だった。
さすがにけさは玉虫もと|伯爵《はくしゃく》の喪のつもりか、黒っぽいお召を着て、化粧などもできるだけひかえ目にしているが、顔色にも態度にも、悲しみの影など|微《み》|塵《じん》もなく、あくまでも人を食ってしゃあしゃあしている。
金田一耕助はわざとむずかしい顔をして、
「これこれ、菊江さん、いまはそんな冗談などいってる場合ではありませんよ。警部さんの質問に対して神妙にお答えしなさい」
|悪《いた》|戯《ずら》小僧をさとすような耕助の言葉に、菊江はひょいと首をちぢめて、舌を出した。
それでも警部の質問に対して、姓名だの年齢だのを素直にこたえたが、最後に被害者との関係を|訊《き》かれると、まあというように眼を見張り、失礼ねと口のうちで|呟《つぶや》いたが、
「あの、|妾《めかけ》なんですの」
と、すまして答えた。それには警部のほうが照れて、
「ああ、なるほど、なるほど、それでそういう御関係はいつごろから……」
菊江はまた、まあというように眼を見張ったが、それでも顔をあからめもせず、
「はあ、あの、あたし十六のときからですから、足掛け九年になりますわね。あたし|新《しん》|橋《ばし》から|半玉《はんぎょく》で出ておりましたのよ。その時分、あのかたに一人前の女にして戴きましたの」
応接室にいる刑事たちのあいだから、くすくすと笑い声が起こった。しかし彼女はそのほうを振り向きもしなかった。笑い声はすぐやんだ。
警部もこれは手ごわいと思ったのか、それ以上その問題を追求しようとはせず、さっそく昨夜の事件のほうへ質問の矢をむけた。それに対する菊江の応答はこうである。
「はあ、あの、金田一先生がおかえりになったあと、あたしずいぶんしつこく、|爺《じ》いさん、いえ、あの御前様におすすめしたんでございますのよ。向こうへいって寝ましょうって。それだのに爺い、いえ、あの、御前様ったら何におむずかりあそばしたのか、一向お|肯《き》き入れがございませんの。お肯き入れがないばかりか、しまいにはうるさいから向こうへいって勝手に寝ろとおっしゃいますの。そこであたしこれ幸いと、……いえ、あの、御命令ですから致し方がございませんでしょう。それであたし離れへかえってひとりで寝たんです」
「何時頃のことでしたか、それは……」
金田一耕助が口をはさんだ。
「十一時をよほど過ぎてましたわね。べつに注意もしませんでしたけれど……」
「そのとき、三島君やお種さんは……」
「さきに寝てもらいましたの。だって年寄りのむずかってるところ見られるのいやですもの」
「すると、あなたが出ていかれると、御老人ひとりあとに残ったわけですね」
「ええ、そうよ。いえ、さようでございます」
菊江はまたちょっと舌を出した。
「そのときの御老人の様子はどうでした」
「だから、さっきも申し上げたように、ひどくおむずかりでございました。何やらぶつぶつ口のうちで呟いたりして……」
「昨夜は宵のうちからそうでしたか」
「いいえ、宵のうちはべつに……ああなったのは砂占いのあとからでしたわね。きっとあの変てこな紋みたいなものがいけなかったのね。そうそう、|火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》、そうおっしゃったのは先生でしたわね。それからフルートの音、……でも、どちらかというと、火焔太鼓のほうが大きなショックだったらしいわ。ひどく考えこんで、びくびくして……」
「びくびくして……?」
「ええ、そう、爺いさん、いえ、あの、御前様には珍しゅうございますわ。あんなこと」
「ええ……と、さて、十一時過ぎに離れへかえると、あなたはどうしましたか」
「すぐに横になりましたわ。でも、はじめのうちは御前様がおかえりになるかと思って、心待ちにしてましたのよ。でも、いつまで待ってもそんな様子がないので、とうとう寝込んでしまいましたの。電気をつけたまま……」
「それで三時ごろに眼がさめたわけですか」
「ええ、眼がさめたときはびっくりしましたわ。だって電気はつけっぱなしだし、御前様の寝床はからだし、それで時計を見るとかれこれ三時でしょう。いくらむずかるったって、これではひどいと思ったので、あの部屋へいってみたんです。すると、電気はついてるし、扉にはなかから締まりがしてあるのに、いくら呼んでも返事がないので、あの台のうえにあがって、|欄《らん》|間《ま》からなかを|覗《のぞ》いたんです。そしたらあのとおりの有様で……」
「そのとき、あなたは|咄《とっ》|嗟《さ》になんとお考えになりましたか」
「むろん、脳出血だと思いました。だって、寝るまえに何度もそういって、注意したくらいですもの」
「ところで砂鉢のほうもごらんになったでしょうが、あの紋章には気がつきませんでしたか」
「気がつきませんでした。あれ、欄間からじゃ見えないんじゃないでしょうか」
「ところが見えるんですよ。はっきりと」
「あら、そう、じゃ気がつかなかったのね」
「あなたはあの紋章の意味を御存じじゃないでしょうか」
「存じません。どうしてあれがうちの爺いさん、あら、ごめんなさい、つい口癖になってるもんですから、……御前様をあんなにびっくりさせたのか、あたし不思議でなりませんの。でも、あの紋章の意味を知ってるひとは、ほかにもだいぶんあるようですわね」
菊江もはじめて、いくらか真剣な顔色になって|眉《まゆ》をひそめた。
金田一耕助はちょっと考えたのち、
「さて、それからあなたは三島君を呼びにいかれたわけですね。それからあとのことは、三島君や目賀先生に承って、だいたいわかっているつもりですが、何かあなたにお気付きの点はありませんか」
菊江はちょっと考えていたが、
「ああ、そうそう、あのこと……先生はお種さんや|秋《あき》|子《こ》奥さまが、亡くなった|子爵《ししゃく》の姿を見たということをお聞きになりませんでした?」
金田一耕助はちょっと緊張して、
「ああ、そうそう、そのことについてあなたのお考えは?」
「あたし、迷信家じゃありませんの、こんな性ですからね。だからこの間の東劇でのことがなかったら、頭からお種さんや秋子奥さまを馬鹿にしてしまいますわ。だけど、ほんとに不思議ですわ。東劇であったひと、子爵にそっくりだったんですものね。あたしゾッと水を浴びせられたような気がしたんです。それでなかったら、あたしすぐとんでいって、相手の正体を見きわめたんですけれどね」
「あなたはその男が、昨夜ここへ来たのだと思いますか」
「そうじゃないんでしょうか。だって、あんなによく似たひとが、あちらにもいる、こちらにもいるというんじゃ耐らないわ。ひとりで沢山よ」
「あなたのお考えじゃどうです。その男は子爵でしょうか。他人の空似でしょうか」
菊江は大きな眼を見張って、まじまじと耕助の顔を見ていたが、急にかすかに身ぶるいをすると、
「わかりません……と、申し上げるよりほかにしかたがありませんわ。先生、もう堪忍してください。あたしなんだか|怖《こわ》くなって来ちゃった。そんなに|臆病《おくびょう》なほうじゃないんですけれど。……」
「いや、失礼しました。それじゃね、向こうへいったらお種さんに、ここへ来るようにいってください」
お種が来るまでには相当ひまがかかった。そのあいだにいまの菊江の態度について、警部や刑事たちのあいだに議論がたたかわされたが、結局、あの女の本心は|捕《ほ》|捉《そく》しがたいというところで意見が一致した。
「とにかく、あの女は|旦《だん》|那《な》の死んだのをちっとも悲しんでいませんね。いや、悲しんでいないどころか、のうのうとしてるところがある。しかも、あの女はちっともそれを隠そうとはしていない」
誰かが結論を下すようにいった。
間もなくお種がやってきた。
菊江のあとから現われたお種を見ると、まるでいままで烈々とかがやいていた空が、いっぺんに薄雲に覆われたような印象をうける。彼女はさむざむと肩をすくめ、まるで|掌《てのひら》に抱きすくめられた小鳥のように、おどおどとふるえていた。
だからお種との一問一答は、とても菊江のようにすらすらとはいかなかった。それでも姓名だの年齢だの、この家に仕えている年限についてはわりにすらすら答えたが、(それによると彼女は足かけ七年、この屋敷に住んでいるそうである)|肝《かん》|腎《じん》の子爵、あるいは子爵らしい人物を目撃したというだんになると、彼女はすっかり固くなって、返事もしどろもどろだった。
だから、ここにはその要点だけを書き抜いておくことにしよう。
目賀先生から新宮利彦を呼んでくるようにと命じられたお種は、急いで勝手口から外へとび出した。あまり急いだので懐中電気を用意することさえ忘れていた。
しかし、昨夜は雲も多かったけれど、雲の向こうに月があったと見えて、庭はそれほど暗くはなかった。それにいかに広いとはいえ、同じ邸内のことである。お種は小走りに庭を突っ切っていった。
まえにもいったとおり、この邸内には|檜《ひのき》や|柏《かしわ》の大木が、うっそうとして茂っている。もっとも戦災をうけて、そのうちの相当の部分が、くろく焼けただれて立ち枯れていたけれど、それでも多くの樹がのこっており、その下を歩くときはかなり暗かった。
お種は小走りに木の間を縫うて走っていったが、ふいにぎょっとして立ちどまった。お種はある音をきいたのである。それはごく低い、かすかな物音で、しかもすぐ途切れてしまったけれど、彼女はそれがなんの音であるか知っていた。それはフルートの音であった。
お種は空耳だろうと思いながらも、場合が場合だけに、やはり|膝頭《ひざがしら》がふるえた。
するとまた聞こえた。それはメロディーもなにもなさない、ほんの短い音そのものだったが、もう間違いはなかった。それは長年彼女がききなれてきた、フルートの音にちがいなかった。
お種は全身に水を浴びせられたような衝撃を感じたが、それでも勇気をふるって、
「誰……? 誰かそこにいるの」
と、ふるえる声で聞いてみた。
すると、四、五間はなれた下草のなかから、ふいにむくむくとひとが立ちあがった。お種はいまにも心臓がとまりそうだった。何か叫ぼうとしたが、舌がこわばって声が出なかった。それでも一心不乱に向こうを見ていた。いや、全身がしびれてしまって、眼をそらすことさえ出来なかったのだ。
暗くてよくわからなかったが、相手は中肉中背の洋服を着た男であった。その男はお種のほうを向いたまま、手にしたものを口にあてて、かるく、短く音を立てた。
ああ、もう間違いはなかった。それはあきらかにフルートである。しかも、ちょうどそのとき雲が切れて、月の光がさっとその男を照らしたので。……
「そ、そ、それじゃ、お、お、お種さんは、そ、そ、その男の顔を見たんですか。は、はっきりと……」
金田一耕助はせきこんで、はげしく|吃《ども》った。|等々力《とどろき》警部は鉛筆の|尻《しり》をくわえて、|噛《か》みくだかんばかりの勢いである。
実際、そのときの応接室の緊張には、筆にも言葉にも尽しがたいものがあった。みんないちように眼を見張り、|焦《こ》げつくようにお種を見ている。もし、視線がひとをやき殺すものなら、お種は周囲からの視線に射すくめられて、真っ黒になって焦げ死んだろう。
「いいえ。いいえ」
お種はむざんに顔をひきつらせ、大きく息をはずませながら、
「ちょうど月の光がそのひとの、背中のほうからさしていたので、顔ははっきり見えませんでした。でも……でも……」
お種はふたたび大きく|喘《あえ》いだ。喘いで語尾をふるわせた。
「でも……どうしたんですか」
「月の光がさしたとたん、そのひとの口に当てているフルートが、きらりと光るのが見えたんです。それは……それは……黄金のフルートでした。|旦《だん》|那《な》様が|常《つね》|日《ひ》|頃《ごろ》、愛用していられた黄金のフルート……そして、……そして……旦那様といっしょに、行く方がわからなくなった黄金のフルート……」
だしぬけにお種は顔に両手をおしあて、わっとばかりに泣き出した。肩をゆすって泣くたびに、お種の指のあいだから、真珠のような涙がこぼれ落ちる。
一瞬、部屋のなかに、凍りつくような沈黙が落ちてきた。何かしら|惻《そく》|々《そく》として、冷たい鬼気が身にせまる。誰もかれもそおっと背後を、ふりかえって見たくなる気持ちだった。
「お種さん」
しばらくして金田一耕助が、しゃがれた|咽《の》|喉《ど》の|痰《たん》を切りながら声をかけた。
「あなたはそのひとを、ほんとの椿子爵だと思いますか、それとも、誰かが子爵のまねをして、あなたを脅かしたのじゃありませんか」
「いいえ、いいえ、あたしにはわかりません」
お種ははげしく首を横にふりながら、
「でも、あのフルートはたしかに旦那様のものでした。それに……それに……はっきり見えなかったとはいえ、横顔の|淋《さび》しそうな線やなんか、たしかに旦那様のようでした。それに、そのあとで奥様やお信乃さんも……」
「いや、奥さんやお信乃さんのことなら、あのひとたちに直接|訊《き》きます。それより、お種さんはそれからどうしたんですか」
お種は|袂《たもと》を顔におしあてて泣きじゃくりながら、
「あたしは馬鹿でございました。旦那様だとわかったら、すぐそのそばへとんでいくんでした。だって旦那様はお優しいかたで、いつもあたしを可愛がってくだすったんですもの。それだのに……それだのにあたしったら」
お種は腹立たしげに体をゆすりながら、
「そのときは無性に|怖《こわ》くて、新宮さんのお宅のほうへ、逃げ出してしまったんです」
「新宮さんのところでは、そのことを話したんでしょうね。椿子爵らしいひとにあったということを」
「ええ、それはもちろんお話ししました。でも、どなたも御信用なさらないで……それに玉虫の御前様のことがございますものですから、そのほうに気を取られていらっしゃったものですから。……でも、皆様とつれ立って|母《おも》|屋《や》のほうへかえる途中、さっきあのかたを見かけたところを通りましたので、そのことを申し上げますと、一彦さまがちょっとそのへんを探していらっしゃいましたが、そのときにはもう、あのかたのお姿はどこにも見えなかったんです……」
お種のくちぶりから察すると、彼女はあくまでその男を、椿子爵だと信じているらしい。こうして事件はいよいよ怪奇な様相を深めていく。一同は緊張した眼を見交わした。
「それではお種さんに、もうひとつお伺いいたしますがね」
金田一耕助は内心の|沸《たぎ》りたつような|昂《こう》|奮《ふん》をおさえて、出来るだけさりげない声でいった。
「玉虫の御前の殺された部屋ですがね。あなたは|欄《らん》|間《ま》からあの部屋をのぞきましたか」
お種は首を横にふって、
「いいえ、あたし、怖くって、そんなこと……」
「それじゃ、誰と誰がのぞいたか、御存じじゃありませんか。いまのところ、目賀博士と三島君、それに菊江さんがのぞいたことはわかっているんですがね」
「はあ、あの、|美《み》|禰《ね》|子《こ》お嬢さまと一彦さまが、のぞいていらっしゃったようでした」
「新宮さんはどうですか。あのひとはのぞかなかったのですか」
「あのかたは……あのかたはとても|臆病《おくびょう》なかたですから……あたしより、よっぽど臆病でいらっしゃいますわ」
新宮もと子爵に関する限り、お種は美禰子と同意見らしい。そのひとの名を口にするとき、こわ張った彼女の|頬《ほお》が、嫌悪のためにはげしくふるえた。
「いや、有難うございました。それではこれで……」
「はあ」
お種は光のない眼を耕助のほうに向けながら、ものうげに立ちあがると、
「あの、どなたかお呼びするのでしょうか」
「いや、ちょっとこちらで相談したいことがありますから、用事があればあとで誰かにいってもらいます」
「はあ」
お種はていねいにお辞儀をして出ていきかけたが、応接室の入り口までくると、そこで彼女は|釘《くぎ》づけになってしまったのである。そのとき、あわただしく入って来た刑事の、手にしているものが異様にお種を|惹《ひ》きつけたらしい。刑事について、ひきずられるように二、三歩ふらふらと部屋のなかへ戻ってきた。
「警部さん、警部さん、こんなものが庭の奥の防空|壕《ごう》のなかに落ちていたんですがね。こんどの事件に関係があるのかないのかわかりませんが。……」
それは長さ一尺あまり、幅二寸五分くらいの、古びた皮のケースだった。警部が手にとってひらいて見ると、なかは|空《から》でなにもはいっていなかった。
「金田一さん、これ、なんのケースでしょうね」
「さあ。……」
金田一耕助が手にとろうとするところへ、
「あの、ちょ、ちょっと拝見……」
息をはずませて、割りこんできたのはお種である。お種は異様にふるえる手で、ケースをいじくっていたが、やがてわなわなと唇をふるわせながら、
「これは……これは……フルートのケースでございますの。そして、あの、美禰子さまか一彦さまに見ていただけば、もっとはっきりしたことがわかると思いますけれど、これは……これは……たしかに旦那様の黄金のフルートのケース……」
「フ、フルートのケースですって? だって、フルートというものは、もっと細長い……」
「いえ、あの、フルートは三つの部分に分解出来るのでございます。そして、こういうケースにうまく納まるようになっておりますので……」
「それじゃ、これは椿子爵のフルートのケースに違いないというんですね」
ひったくるようにそのケースを受け取った等々力警部は、もういちど|蓋《ふた》をひらいて、なかをいじくっていたが、ふいにその眼が大きく見ひらかれた。血管がむくむくと怒張し、頬の筋肉がはげしく|痙《けい》|攣《れん》する。しばらくかれは化石したような表情でケースのなかをみつめていたが、急にばたんと蓋をすると、深呼吸をするように、深くいきをうちへ吸いこみ、それからお種のほうをふりかえった。
「い、いや、お種さん、有難う、そ、それじゃ君は向こうへいってくれたまえ」
「あの、美禰子お嬢さまか一彦さまをお呼びいたしましょうか」
「いや、い、いいんだ。いいんだ。いずれ、あとで、来てもらうが、とにかく、君は、向こうへいっててくれたまえ」
お種のすがたが廊下へ消えると、金田一耕助がやにわに警部のそばへすりよって、その手をおさえた。
「け、警部さん、な、何かあったんですか。そ、そのケースのなかに。……」
警部はもう一度大きく深呼吸をすると、力強くうなずいてケースをひらいた。
「ケースの裏にはってあるきれのしたから、……こんなものが出てきたんだ」
警部がつまみ出したのは、ダイヤモンドをちりばめた黄金製の|耳飾り《イヤリング》の片方だった。金田一耕助は思わず大きく眼を見張る。かれにはまだその耳飾りが何を意味するのかよくわからなかったが、つぎの瞬間、警部がケースを見付けてきた刑事に、つぎのように命令するのを聞いたとき、かれはまるで、脳天から真赤に焼けた|鉄《てつ》|串《ぐし》でもぶち込まれたような、大きなショックに全身をふるわせたのである。
「沢村君、君はこれからこの耳飾りを持って、銀座の天銀堂へいき、ひょっとするとこれは一月十五日の事件のときに、盗まれた品のひとつじゃないか聞いてきてくれたまえ。|但《ただ》し、まだ出所はいうんじゃないぞ」
第十章 タイプライター
「け、警部さん!」
耳飾りをひっつかんでとび出していく沢村刑事のうしろ姿を、|呆《ぼう》|然《ぜん》たる眼で見送っていた金田一耕助は、その姿が見えなくなると、弾かれたように警部のほうへ向きなおった。
「あなたはあの耳飾りを天銀堂事件の際に、盗まれた品のひとつだとお考えになるんですか」
|昂《こう》|奮《ふん》のために|膝頭《ひざがしら》がガタガタふるえて、舌がもつれる感じである。耕助のその眼をじっと見かえした|等々力《とどろき》警部の|瞳《め》にも、すさまじい|焔《ほのお》が燃えている。
「ああ、いや」
警部はぎこちなく|空《から》|咳《せき》をして、
「正確なことは沢村君の報告をきかんとわからんが、天銀堂事件の際の盗品目録のなかに、ダイヤをちりばめた耳飾りというのがあるんです。しかも犯人はよほどあわてていたものと見えて、一対の耳飾りのうち片方だけを持っていったんです」
「すると、残りの片方はいまでも天銀堂にあるんですね」
「そう、厳重に保管させてあります。だからいまのがあのときの盗品のひとつならば、一目|瞭然《りょうぜん》というわけです」
無気味な|戦《せん》|慄《りつ》が耕助の背筋を|這《は》いのぼる。
「警部さん」
「はあ」
「ぼくは一昨日から何度もあなたにお電話したんですよ。お聞きになってるでしょう」
「いや、すまなかった。こちらからも連絡しようと思ったんだが、忙しくってね」
「そんなことはどうでもいいんですが、|美《み》|禰《ね》|子《こ》さんをぼくのほうへ|廻《まわ》してくだすったのは、あなただそうですね」
「ええ、そう。何しろ、話があまりとりとめがないように思ったんでね、こういうことが起こると知ったら、もう少し身を入れて聞いておけばよかった」
「いや、それはぼくがよく聞いておきましたが、美禰子さんの話によると、椿|子爵《ししゃく》は天銀堂事件の犯人と、目されたことがあるんですってね」
警部はだまってうなずいた。
「しかも、その密告者というのは、この邸内に住んでいるものらしいという話でしたが、それはほんとうですか」
「いや、そうはっきりしたことはいえないが、よほど子爵の身辺に、接近しているものでないと、わからぬようなことが書いてありましたな」
「いったい、どんなことが書いてあったんです」
警部はちょっと首をかしげて、
「正確なことはおぼえておらんが、子爵があのモンタージュ写真にそっくりであること。天銀堂事件が起こった前後、子爵がどこかへ旅行していたこと。しかも子爵は家人にむかって|蘆《あし》の湯へいくと称していたが、実際は蘆の湯へいっていないこと。この行く方不明の旅行からかえって間もなく、子爵が三島東太郎という同居人と、宝石の売りさばきについて密談していたこと……だいたい、そんなところだったように|憶《おぼ》えているが……」
金田一耕助は部屋をいきつもどりつしながら考えこんでいたが、やがてつと足をとめると、
「ところで警部さんは、その密告者について調査して見ましたか」
「いや、そこまでは考えなかった。われわれにとっては密告者はどうでもよいので、天銀堂事件の犯人さえわかればよかったんだからね。ところが、はじめのうち子爵の態度が非常に怪しかったので、われわれはついそのほうに熱中してしまったのだ。ところが、いざという間際になって、子爵がアリバイを申し立てた。そこでさっそくアリバイ調べをやったところが、これが実に明確判然としているんだ。それで子爵にからまる容疑はいっぺんに雲散霧消したわけだ。そうなると、密告者が誰だなんてことは問題じゃない。それでついそのほうは見のがしてしまったんだが……」
金田一耕助はまた部屋のなかをいきつもどりつしながら、
「子爵はいったいどこにいたんです」
「関西旅行をしていたらしい。とにかく問題の十五日、即ち天銀堂事件の起こった当日は、前夜から|須《す》|磨《ま》の旅館に投宿しているんだ。これはもう絶対に間違いない。いや、間違いはない、と思っていたんだが、しかし、|糞《くそ》ッ、あの耳飾りが天銀堂事件の|贓《ぞう》|品《ひん》だということになると……」
警部はするどく舌打ちすると、ハンケチを出していらいらと、太い|猪《い》|首《くび》をふいている。
警部が|昂《こう》|奮《ふん》するのも無理ではなかった。あの耳飾りが天銀堂事件の際の贓品だとすれば、すべては根本からひっくりかえってくるのではないか。ひょっとすると警視庁は、たくみに擬装された椿子爵のアリバイに、ひっかかったのではあるまいか。そうなると、当然問題になってくるのは椿子爵の自殺だ。あれもまた椿子爵の大手品、一大ペテンだったのではなかろうか。子爵はああしてたくみに自己抹殺をしておいて、いまもなおどこかに生きているのではあるまいか。
金田一耕助はゾーッと背筋が寒くなるのをおぼえる。ああ、もしそのようなことがあったとすれば、健全なひとびとの常識や判断はすべて敗北し、あの狂い咲きの|妖《よう》|花《か》のような、|秋《あき》|子《こ》夫人のあやしい幻想と直感のみが、正しかったということになるのだ。
「しかし、椿子爵は……」
と、しばらくして耕助は警部のほうをふりかえった。
「なんだってアリバイを申し立てるのに、そんなに|躊躇《ちゅうちょ》したんです。どんな事情があったにせよ、天銀堂事件の犯人と目されるよりは、よほどましだと思いますがね」
「そう、だからわれわれも怪しいと思ったんだ。しかし、子爵の口ぶりによると、何か複雑な家庭的事情があったらしい。関西にいってたこと、ことに須磨にいたことは、絶対に秘密にしてほしいといっておった。いや、絶対に秘密を守るという条件のもとに、はじめて関西旅行をうちあけたんです」
「しかし、いかに複雑な家庭事情があるにせよ。……」
「そう、いまにして思えばそうも考えられる。畜生っ、それじゃあれが手だったのか」
警部はまたいらいらとハンケチで、額の汗をぬぐいはじめる。
金田一耕助はそれには答えず、あいかわらず部屋のなかをいきつもどりつしながら、
「ところで、警部さん、密告状というのはいまでも警視庁に保存してあるでしょうね」
「むろん、とってあります」
「すると、どうでしょう。もし、密告者がこの家のものだとすれば、その密告状からつきとめることが出来やあしませんか。|筆《ひっ》|蹟《せき》やなんかから」
「いや、それはむずかしい。と、いうのはそれは書いたものじゃないんです。タイプで打ったものなんです」
「タイプで……」
金田一耕助は思わず大きく眼を見張った。
「まさか、英文じゃないでしょうね」
「英文じゃありません。ローマ字ですがね」
「警部さん、いちどそいつを見せていただきたいのですが……」
「いつでも。――警視庁へいらっしゃれば、いつでもお眼にかけます」
そこへあわただしい足音がきこえて来たので、ふたりはぴたりと口をつぐんで、ドアのほうをふりかえった。
とび込んで来たのは美禰子である。お種から話を聞いてきたと見えて、|白《はく》|蝋《ろう》のように血の気をうしなった美禰子の|瞳《め》は、とがって、うわずって、ふるえていた。
「金田一先生!」
美禰子はガタガタと歯を鳴らし、押しへしゃがれたような声で、
「お父さまのフルートのケースが見つかったんですって?」
それから美禰子はテーブルのうえに眼をやると、
「ああ、それなのね」
と、断わりもなしに部屋のなかへとび込んでくると、ひっつかむようにフルートのケースを取りあげて、わなわなとふるえる手で調べていたが、やがて、
「ああ!」
と、全身から絞り出すような|呻《うめ》き声をあげ、どしんと音を立てて|椅《い》|子《す》に腰をおろすと、両手でひしと顔を|掩《おお》うた。
「美禰子さん」
金田一耕助はやさしくその肩に手をおくと、
「お父さんのケースですか」
美禰子は両手で顔を掩うたまま、力なくうなずいたが、やがて顔から手をはなすと、苦痛にゆがんだ眼でケースを見ながら、
「先生、警部さま、これはいったいどういうことになるんですの。それじゃ、やっぱり、お母さまの直感があたっていたということになるんですの。そして、昨夜お父さまは、ここへかえっていらしたんですの」
金田一耕助も警部も、すぐにはそれに答えることが出来なかった。美禰子は何かを引き裂くような声で、
「あたし、誰の言葉も信じやあしない。お種がいくらお父さまにお眼にかかったといったところで、また、お母さまや|信《し》|乃《の》が、いくらお父さまの姿を見たといっても、あたし信じることは出来ないんです。だって、だって、お父さまはかえっていらっしゃったら、誰をおいてもあたしのまえに、姿を見せてくださるはずなんですもの。しかし、このケースは……ああ、このケースは……ねえ、金田一先生、お父さまはほんとうに、昨夜ここへかえっていらしたんですの」
美禰子はまた両手で顔を掩う。
「美禰子さん」
耕助はその肩を軽くたたきながら、
「このケースはお庭の防空|壕《ごう》のなかにあったというんですがね。ひょっとすると、ずっとせんからそこにあったんじゃありませんか」
美禰子は首を強く左右にふって、
「いいえ、そんなことはありません。二、三日まえにもあたし、防空壕へ入ってみました。あたし誰にもさまたげられないで、考えごとをしたくなったときには、いつも防空壕へいくんです。そして、そこで一時間でも二時間でもぼんやりしているんです」
三家族同居しているこの奇妙な家のなかで、母にうとまれ、|親《しん》|戚《せき》からも無視されてきた、このあまり美しからぬ娘にとっては、つめたい防空壕も夢殿のような神聖な場所なのだろう。金田一耕助はこの孤独な娘の魂の訴えを聞いて、ちょっと心を打たれずにはいられなかった。
「美禰子さん、美禰子さん」
金田一耕助はその肩をたたいて、
「泣くのはおやめさい。いまは泣いてる場合じゃない。いろいろお|訊《たず》ねしたいことがあるんですから」
美禰子はうなずきながら涙をふいて、紙のように|蒼《あお》|白《じろ》んだ顔をあげると、
「すみません。あたしもそう思っていながら、あまりお父さまがお気の毒ですから。……お父さまはお亡くなりになってからも、悪いひとたちに利用されていらっしゃるんですわ。でも、もう泣きません。なんでもお訊ねくださいまし」
美禰子はけなげに姿勢を立てなおした。
「それじゃ、まず昨夜のことからお伺いしましょう。これはだいたいほかのかたから聞いているんですが、一応、あなたの口からもお伺いしましょう」
美禰子はうなずいて語り出した。
金田一耕助がかえって間もなく、秋子の発作がおさまったので、自分の部屋へひきさがったこと。しかし|昂《こう》|奮《ふん》しているのでなかなか眠れなかったこと。そのじぶん玉虫もと|伯爵《はくしゃく》がまだひとりであのアトリエにいたとは夢にも知らなかったこと。そのうちに、うとうとと眠ってしまったこと。三時ごろお種が目賀先生を起こしにきた声で眼がさめたこと。いっしょにアトリエへいったこと。……美禰子は要領よく順序立てて語ったが、べつに耳新しい事実はなかった。
「そのとき、あなたは|欄《らん》|間《ま》からなかをのぞかれたそうですね」
「のぞきました」
「あなたはそれで、とっさにどうお思いでしたか」
「あたしは目賀先生のお言葉を待つまでもなく、すぐ人殺しだと思いました。菊江さんや三島さんは脳出血だのなんだのって云ってましたけれど。……」
「どうして、そんなふうに思われたんですか」
「そんな予感があったからです。そのことは先生もよく御存じのはずです。それに、砂鉢にいっぱい血がこぼれてましたし。……」
「そうそう、砂鉢のうえにおされていた、あの奇妙な血の紋章ですがね。欄間からのぞかれたときあなたはあれにお気付きでしたか」
「いいえ、気がつきませんでした」
金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「それに気がついたのは……?」
「伯父さまと三島さんが砂鉢のそばで、何か云い争いをはじめたときです。そのとき、あたしたち廊下へ追い出されていたんですが、それでなかへ入って見て、はじめてあの紋章に気がついたんです」
「三島君の説によると、新宮さんはそれに砂をぶっかけて、消そうとしていたというんですがね」
「はい、あたしにもそう見えました」
美禰子はキッパリといい切った。
金田一耕助と等々力警部は顔を見あわせていたが、やがてまた耕助が口をひらいて、
「ときに凶器として使用された雷神ですがね、あれはいつもあの部屋においてあったそうですね」
「はい、いつもおいてございました」
「しかし、あれは雷神でしょう。そうすると風神と|対《つい》になっていなければならぬはずのものですが、目賀先生も三島君も知らぬという。風神はないんですか」
美禰子はちょっと眼をあげて耕助の顔を見る。そんなことがなぜ問題になるのかといいたげな顔色だったが、それでもキッパリと、
「それは御存じないはずです」
それからちょっと考えて、
「あれは去年の夏でしたか、三島さんがまだこの家へいらっしゃらないまえでした。あの晩、あの部屋に泥棒がはいって、そこにあった置き時計やなんかといっしょに、風神も雷神も持っていってしまったんです。ところがそれから二、三日たって、雷神のほうだけがお庭のすみに捨ててあるのが発見されたんです。そういうわけで、いまでは雷神だけしかないんです」
金田一耕助は|眉《まゆ》をひそめて、
「しかし、どうして雷神だけ捨てていったんでしょう」
「それはたぶん荷になったのと、そんなもの詰まらないと思ったからではないでしょうか」
「しかし、それはちと妙ですね。雷神のほうは詰まらないと思ったが、風神のほうは詰まると思って持っていったんでしょうか。泥棒にだって、あれが対になってるってことぐらいは、わかりそうなものですがね」
「金田一先生、あたしにも泥棒の気持ちまでわかりません」
美禰子はおこったようにキッパリいった。金田一耕助は恐縮したように頭をかきながら、
「いやあ、これは失敬失敬。それじゃこの問題はこれくらいにしておいて、つぎにうつりましょう。美禰子さん、お父さんは三島君をよほど信用していらっしゃいましたか」
美禰子はちょっとためらったのち、
「信用って、どういう意味でしょうか」
「たとえばですね。宝石を売ったりする場合、ほかのひとに相談せずに、三島君にだけこっそり相談するというふうな。……」
美禰子はこっくりうなずいて、
「そういう意味の信用ならしていました。|但《ただ》し、父は宝石類など、ひとつも持っていませんでした。母ならばありあまるほど持っていますけれど」
金田一耕助はギョッとしたように等々力警部をふりかえる。それにも|拘《かかわ》らず密告状によると、椿子爵は三島東太郎と、宝石を売ることについて密談していたというのだ。しかも天銀堂事件の直後に。……
「しかし、ねえ、美禰子さん、お父さんがお母さまのお許しを得て、宝石を売るということはあり得ることでしょう」
「いいえ、絶対にそんなことはあり得ません」
美禰子は急にいつものねつい調子になって、
「母に宝石を売らせようなどということは、|駱《らく》|駝《だ》が針の穴をとおるよりも不可能なことです。母は家を手ばなすようなことがあっても、宝石を手ばなすようなことはないでしょう。ああいうタイプのひとにありがちな、母は宝石マニヤなんです」
金田一耕助はまた等々力警部と顔見あわせる。もし、あの密告状が事実とすれば、椿子爵はいったいだれの宝石を売るつもりだったのだろう。金田一耕助の心はしだいに重くなってくる。かれはものうげに頭をかきながら、
「いや、それじゃ、まあ、その問題はそれくらいにしておいて、もうひとつお訊ねがあるんですがね。この家にタイプライターがありますか」
美禰子はびっくりしたように、耕助の顔を見直した。そして質問の真意をさぐろうとするかのように、まじまじと耕助の顔を|視《み》つめていたが、やがて、
「はい、ございます」
と、キッパリと答えた。
耕助はびっくりしたように等々力警部の顔を見る。それから息をはずませて、
「タイプライターが、あるんですって? この家に……そして、いったい、どなたがおやりになるんです」
「あたしがやるんですわ。先生、どうしてそんな顔をして、あたしをご覧になるんですの。あたしがタイプを打っちゃいけません? 終戦後父がすすめてくれたんです、それで母におねだりして、さる筋のかたからタイプライターを譲っていただきました。あたし、五か月教習所へ通って習いました。そして、この春学校を出ると同時に、さる会社の渉外部で使っていただくことになっていたんです。しかし、あんな事件があったものですから、母が外聞を悪がって、勤めに出してくれないんです。あたしいまでも働きに出たいと思ってます。こんなことさえなかったら。……」
美禰子の眼がまたしっとりと|濡《ぬ》れてくる。しかし、金田一耕助はいま、彼女の感傷についていくひまはなかった。
「そして、そのタイプライターはどこにありますか。ちょっと見せていただきたいんですが……」
耕助が立ちあがりそうにするのを押しとめて、
「いいえ、あたしが持ってまいります。軽いんですから」
美禰子は涙をふいて部屋を出ていった。
「警部さん、密告状のタイプライターの字、おぼえていますか。……」
「さあ。……確信はないが……しかし、この家にタイプライターがあるとすれば、むろん、それを使ったんでしょうな」
間もなく、美禰子がさげて来たのは、|鞄《かばん》のなかにゆっくり入りそうな小さな機械だった。
「ほほう、これは可愛いんですね。何んという機械ですか」
「ロケットというんです。スイスのヘルメス会社のもので、これはまだ正式には日本に輸入されていないそうです。打ってお眼にかけるのでしょうか」
「そう願えれば……」
美禰子はタイプライターをテーブルのうえにおくと、|蓋《ふた》を開いて機械を調整し、紙をはさむと、かたわらに用意してきた英語のリーダーをおいて、やがて、パチパチと|霰《あられ》のような音をさせ、みるみるうちに紙面いっぱいにタイプを打った。なかなか見事な手なみである。
「これでよろしいでしょうか」
金田一耕助は紙を受け取ると、さっとそれに眼を通し、警部のほうへ差し出した。警部はしばらく眼を皿のようにして、打たれた文字を見つめていたが、やがて、耕助にむかってかすかにうなずく。金田一耕助は音を立てて息をうちへ吸いこむと、
「ところで、美禰子さん、このうちにあなたのほかに、タイプライターの打てるひとがありますか」
「はあ、一彦さんと菊江さんが打てます。ことに菊江さんはお上手です。あのかたは眼をつむってても打てるんです。指がきまっていますから……」
「菊江さんが打てるんですって、タイプを……そんなに上手に……?」
「ええ、あたしがお教えしたんです。あのかたとても器用で熱心で……あたしあのかた好きじゃないんですけれど、そういう点ではいつも敬服しています」
そこへお種が、お食事の用意が出来ているんですけれど、ここへ持ってまいりましょうかと|訊《き》きに来た。いつか正午を過ぎているのである。
第十一章 肌の紋章
昭和二十二年、東京はまだ|物《もの》|凄《すご》い食糧難だったから、食事もごく粗末なものだったが、それでも|辛《かろ》うじて空腹をみたすと、
「警部さん、さっそく次にかかりますか。あと|秋《あき》|子《こ》夫人と|信《し》|乃《の》、それから新宮さんの一家がのこっているんですが……もっとも、秋子夫人はとても駄目でしょうけれどね」
警部は腕時計に眼をやって、
「そろそろ沢村君がかえってくる時分だが……金田一さん、ひとつ|訊《き》き取りをつづけるまえに、防空|壕《ごう》というのをのぞいてみようじゃありませんか」
「ああ、それもいいでしょう」
じつをいうと金田一耕助も、さっきから打ちつづく緊張に、かなり疲労していたのである。ふたりは庭へ出ると刑事に案内させて防空壕を見にいった。
防空壕は建物からはるかはなれた屋敷のすみにあり、うっそうたる木立に覆われた、|掩《えん》|蓋《がい》式のコンクリートづくりで、なかは四畳半くらいの広さがあり、粗末ながらも|椅《い》|子《す》テーブルもそなえ付けてあって、壕というより地下室といったほうが当たっていそうな、かなり立派なものである。ただ難をいえば暗いこと、灯火の設備のないことである。
警部はうすぐらい壕のなかに立って、あたりを見回しながら、
「すると、昨夜ここに椿|子爵《ししゃく》、あるいは椿子爵とおぼしき人間が、隠れていたことになるのかな」
金田一耕助はそれに答えず、何か思いに沈んでいたが、やがて、ふとつぎのような|呟《つぶや》きをもらした。
「なるほど、これは|手《て》|頃《ごろ》な場所だ。椅子もあるし、テーブルもある。……」
|等々力《とどろき》警部はその言葉を聞きとがめて、
「え? それはどういう意味? |美《み》|禰《ね》|子《こ》という娘が|冥《めい》|想《そう》するにはという意味ですか」
「いいえ、警部さん、ぼくはいまあのタイプライターのことを考えていたんですよ。密告状のタイプライターの文字は、いまのやつと似ているんでしょう」
「ああ、だいたいね。詳しいことは、比較研究してみなければわからんが。……」
「ぜひ、そうしてください。ところでいまかりに、密告状があの機械で打たれたものとしてですね。それが美禰子さんでないとすると、誰がどのようにして、機械を使用することが出来たか。……それをぼくは考えていたんです。美禰子さんの部屋は日本間だから、誰でも入ることは出来る。しかし、そこでタイプを打つということは、とても危険なことですから、こっそり持ち出して、使用したあとでまた、こっそりともとのところへ返しておく。そうすれば、美禰子さんにも気付かれずに、機械を使用することが出来るわけですが、ただ、問題はどこでタイプを打ったかということですね。御存じのようにタイプというやつは機関銃みたいな音を立てる。家のなかじゃとても秘密に打てません。そこでどこかへ持ち出さなければならないが、そう長時間かかるわけにはいかないから。……そこで、この防空壕なら理想的の場所だと思うんです。椅子もあるし、テーブルもある」
等々力警部はあたりを見回して、
「しかし、こう暗くちゃどうでしょう。とてもこれじゃ|鍵《キイ》にかいてある字は読めませんよ」
「警部さん、あなたはさっき美禰子さんのいった言葉を忘れている。美禰子さんはいったじゃありませんか。菊江さんは眼をつむってても打てるんです。指がきまってるからと。……」
警部はギョッとしたように眼を|瞠《みは》って、
「金田一さん、そ、それじゃあんたの考えじゃ、菊江という女が……」
「いいえ、そういうわけじゃありません。ぼくのいいたいのは、タイプライターというものは、熟練すれば眼をつむってでも打てる。と、いうことは、真っ暗がりのなかでも打てるということです。しかし、そろそろここを出ましょう。べつに収穫はなさそうですから」
防空壕には両端に入り口があった。ふたりはさっき入ってきたのと、反対がわの入り口から外へ|這《は》い出した。しばらく薄暗い壕のなかにいたので、外へ出ると鉛色にくもった空も、ぱっと眼を射るかんじである。
「そうそう、警部さん」
金田一耕助はあたりを見廻してから声をひそめた。
「部下のひとたちに命じて、さがしていただきたいものがあるんですがね」
「なにを……ですか」
「あの雷神と|対《つい》になってる風神ですがね」
警部はちょっと驚いたように、耕助の顔をふりかえって、
「しかし、金田一さん、風神のほうは去年の夏、泥棒が持っていったと……」
「いいえ、警部さん、ぼくにはそれがおかしいんですよ。雷神のほうを捨てて、なぜ風神だけ持っていったか、いやいや、雷神を捨てていったからには、風神だって捨てていったにちがいないです。とにかくぼくには最近まで、いや、昨夜まで、風神もたしかにこの家に、あったように思われてならんのですよ」
警部はだまって耕助の横顔を|視《み》つめていたが、耕助はそれ以上は黙して語らなかった。警部は肩をゆすって、
「よろしい。探させて見ましょう」
「お願いします。しかし、家人には何をさがしているのか覚られないように。……」
しかし、その風神はずっとのちまで発見されず、発見されたときにはすでに遅過ぎたのである。
そこからもとの応接室へかえる途中に、ガラス張りの温室がたっている。この温室は、半分地下へ掘りさげてつくったもので、地上に出ている部分はそれほど高くはなかったが、広さはかなりあって、幅一間半、長さ四、五間もあろうという|鰻《うなぎ》の寝床みたいな建造物だった。通りすがりにガラス越しになかをのぞいてみると、ちょうど地面と同じくらいの高さにある棚のうえに、いちめんに小さな鉢がならんでおり、また天井からもぎっしりと赤い、小さな素焼の鉢がぶらさがっていた。そして、その鉢のむこうに、作業服を着た人影がうごいているのが見えた。
その人影はふたりの姿を見ると、すぐ横についている、せまい窮屈なドアをひらいて、上半身をのぞかせた。
「何か御用ですか」
それは三島東太郎だった。植物の世話をしていたと見えて、手に|木鋏《きばさみ》を持っている。
「いや、ちょっと通りかかったものだから。……何んだか珍しそうな植物ですね」
耕助が身をかがめて、東太郎の肩越しにドアのなかをのぞくと、むっとするような温気とともに、青臭い頭の痛くなるような植物の|匂《にお》いが強く鼻をついた。
「ええ、|蘭《らん》と高山植物です。蘭は食虫蘭がおもですが、なかなか珍しいものがありますよ。ごらんになりますか」
「いや、今日は忙しいからこんどにしましょう。どなたの御趣味なんですか」
「亡くなられた子爵が|蒐集《しゅうしゅう》されたんですが、いまでは一彦さんがうけついで、世話をしていらっしゃいます。ぼくもときどきお手伝いをするんです。いま蘭に|蜘《く》|蛛《も》をやったんですが、いささか気味が悪いですね」
金田一耕助は東太郎の顔を見て、
「ときに三島君、君にちょっと|訊《き》きたいことがあるんですがね」
「ああ、そう、ちょっと待ってください」
東太郎は入り口にそなえつけてある水瓶で手を洗うと、すぐ右手に軍手をはめ、それから、よっこらしょと地上へ出てきた。
「どういうことですか。お|訊《たず》ねになりたいというのは……?」
「この春、一月のことですがね。椿子爵は旅行されたでしょう。その旅行からかえって間もなく、君に宝石の売りさばきについて相談されたということだが、ほんとうですか」
東太郎は顔色をくもらせて、
「そのことなら、あの当時も、警視庁へ呼び出されて訊かれたんですが、たしかにそんな御相談がありました。しかし、子爵は結局お売りにならなかったんです。奥さんが御承知なさらないからって」
金田一耕助は等々力警部と顔見あわせた。
「すると、子爵は奥さんの宝石を売るつもりだったんですか」
「そうだったのでしょう。はじめ御相談があったときには、そんなことはおっしゃいませんでしたが、取りやめときまったときに、いまいったようなお話がありました」
三人はそれから|母《おも》|屋《や》のほうへ歩きだしたが、しばらくしてから耕助がまた口をひらいた。
「三島君、君のお父さんは椿子爵と学生時代の友達だそうですね」
「ええ、中学時代の……」
「すると、君も東京のうまれですか」
「いいえ、ぼくは中国筋のうまれです。|呉《くれ》だったか、|尾《おの》|道《みち》だったか、なんでもあのへんだそうです」
「あっはっは、自分のうまれたところを知らないんですか」
「だってね、ぼくの|親《おや》|爺《じ》というのが中学校の先生でしたが、あちこち転々しましてね、ぼくの物心ついたのは岡山でした」
「なるほど、道理で|上《かみ》|方《がた》なまりがあると思った。京阪神にもいましたか」
「ところが、それは知らないんです。岡山県と広島県ばかりです。親爺というのがどうせどさ回りだったんですね」
「この家へ来るようになった動機は……?」
「それが面白いんですよ、復員してみると、おふくろは死んでるでしょう。親爺はずっとまえに亡くなってるし、|親《しん》|戚《せき》はなしで、半分|自《や》|棄《け》になって東京へ出てきたんです。そして、いろんな|闇《やみ》物資のブローカーをやってるうちに、こういううちから出る出物を扱いはじめたんです。そのときふと子爵のことを思い出しましてね。親爺から名前は聞いていましたし、親爺が生きてるうちは、おりおり文通もあったんです。そこで、どうせ困っておられるだろうと思って、去年の秋、何か出物はないかとお伺いしたところが、渡りに舟だったんですね。それ以来、ちょくちょくお伺いしているうちに、いっそうちへ来ないかということになって……これはむしろ子爵より奥さんの御意見らしかったですよ。だから子爵の|歿《ぼつ》|後《ご》もこうして御厄介になってるんですが、ほんとうのことをいうと、この家ではいまぼくがいないと、一日だって暮らしていけませんよ」
ちょうどそのとき、三人は、古い、荒れ果てた池のそばへつき当たった。金田一耕助がそれを|迂《う》|回《かい》しようとすると、
「ああ、こちらから、あの橋をわたっていきましょう。なに、大丈夫です」
さきに立って危っかしい橋を渡っていく、三島東太郎のうしろ姿を、奇妙な眼で見送りながら、金田一耕助もそのあとからついていった。
橋をわたったところで東太郎とわかれて、警部と金田一耕助が応接室へかえってくると、沢村刑事がただひとり、いらいらした様子で待っている。|昂《こう》|奮《ふん》しきった刑事の顔色から、すぐに天銀堂での結果が想像されて、金田一耕助ははっと胸がふさがる思いであった。
「警部さん!」
沢村刑事が勢いこんで、何か切り出そうとするのを、警部はそっと手でおさえると、用心ぶかくドアをしめた。それからつかつかとそばへ寄ると、
「どうだった。結果は……?」
沢村刑事は無言のまま、ポケットからふたつの封筒を取り出した。封筒には天銀堂の名が印刷してあり、表に万年筆でなにか走り書きがしてある。刑事がそれを読みながら、
「こちらがさっき、フルートのケースから発見されたやつ、それからこっちが天銀堂に残ってた分です。ひとつ|見《み》|較《くら》べてください」
ふたつの封筒からころがり出た、ふたつの耳飾りを見較べて、金田一耕助はちょっとの間、眼をつむっていた。この家にのしかかっている、あまりにも傷ましい運命に、腹の底が鉛のように重かった。
「ふうむ!」
等々力警部はふとい|溜《た》め息を吐き出すと、
「もう間違いはないな。昨夜の男が椿子爵であったか、なかったかは別問題としても、この事件に天銀堂事件の犯人が関係していることはこれでたしかだ」
「しかし、警部さん」
耕助は自分の感傷をふりおとすように、強く首を左右にふると、眼をひらいて警部のほうへ向きなおった。
「同じような出来の耳飾りが、|幾《いく》|対《つい》もあるというようなことは。……」
「それはないんだ。これは某華族の夫人から出たものですが、特別の注文によってつくられたものだそうだから、絶対に同じような品はないんだ。沢村君」
沢村刑事の耳に何かささやいていたが、それを聞くと刑事はすぐに、ふたつの耳飾りをふたつの封筒におさめると、それをポケットに突っ込んで、風のように部屋を飛び出した。おそらく本庁へ報告にいったのだろう。本庁の昂奮が思いやられる。金田一耕助は熱いものでも飲みくだすように、ごくりと|咽《の》|喉《ど》を鳴らせてまた眼を閉じた。
「ところで……と」
警部はいらいらと部屋のなかを歩きまわりながら、
「これからどうしたものかな」
「お信乃さんを呼んで訊いてみるんですな。あの女も昨夜、椿子爵らしい人物を見たということだから」
「よし!」
警部はすぐに人を呼んで、信乃をつれてくるようにいいつけた。
ちょっと手間をとらせたのち、信乃は刑事に連れられてやって来た。ドアのところで立ちどまった信乃は、ちょっとの間、警部と金田一耕助の顔を見くらべていたが、やがて無言のまま部屋へ入ってくると、自分から椅子に腰をおろして、さてまた、ふたりの顔を見くらべた。
「あの、どういう御用件か存じませんが、出来るだけ手っ取りばやくお願いしますよ。秋子さんの手がはなせませんからね」
どこか|棘《とげ》のある切り口上である。
まえにもいったように、世にこれほど醜い女はないが、また、いっぽう、世にこれほど威厳にみちた女もない。おでこで、眼玉がとび出して、鼻がへしゃげて、口が大きく、しかも顔中|皺《しわ》だらけなのが、まるで古|雑《ぞう》|巾《きん》のようである。しかし、ちぢれっ毛をきれいに|撫《な》でつけ、小さい|髷《まげ》を後頭部にくっつけているところといい、渋い|結《ゆう》|城《き》をきちんと着て、両手を|膝《ひざ》のうえにかさね、ふたりの顔をギロリと|睥《へい》|睨《げい》する眼つきといい、まるで大軍をも|叱《しっ》|咤《た》すべき|気《き》|魄《はく》である。
「ああ、いや、お手間はとらせません。昨夜のことについてお訊きしたいと思いましてね」
警部は体を乗り出して、
「昨夜あなたは椿子爵によく似た人物をごらんになったそうですが、そのときのことについて、ひとつどうぞ……」
信乃はまたギロリとふたりの顔を見て、
「そうですか。それではお話しいたしましょう」
と、ねちねちとした切り口上で、
「皆さまがアトリエの方へおいでになったあとで、秋子さんが御不浄へついていってくれとおっしゃるのです。いいえ、いくらあのかたがねんねえでも、いつもはそうではございませんが、昨夜は宵にへんなことがあったものですから、ひどく|怯《おび》えて……いえ、そのときはまだ人殺しのことは御存じではありませんでしたが……とにかく、ひとりで御不浄へいけなかったんです。それで、わたくしがお供申し上げたのですが、外でお待ちしておりますと、なかからキャッという秋子さんの悲鳴でございます。それで、|尾《び》|籠《ろう》な話ですが、わたくしもなかへとびこみまして、……すると秋子さんが窓の外を指さして、あそこに主人が立っている。……と、それこそ、気が違ったようなていたらくでした。そこでわたくしもひょいと外をのぞいたのですが、すると御不浄の窓から二、三間はなれたところに……」
「椿子爵、あるいは椿子爵に似た人物が立っていたんですか」
「はい、黄金のフルートを持って」
「あなたははっきり顔を見ましたか」
「はっきり見ました。月の光が真正面から顔を照らしていたものですから」
「あなたはそれを椿子爵だと思いますか」
信乃はまた|禿《はげ》|鷹《たか》のような眼でギロリと警部の顔を見ると、
「そんなこと、わかるはずがございません。ただちょっと見ただけですから。でも、たいへんよく似たひとでした」
「それから、どうしましたか」
「むろん、御不浄からとび出しました。そこへ目賀先生と利彦さん……いえ、新宮さんが、悲鳴をきいて駆けつけてこられたので、その話を申し上げました」
「それで、おふたりは、その男をさがしに出られたのですか」
「いいえ、目賀先生はお年寄りですし、新宮さんというかたは、とても、そんな勇気のあるかたではございません」
憎々しげにいいはなった信乃の声は、まるでいかの墨のようにドスぐろい悪意にみちている。
金田一耕助と等々力警部は顔見あわせる。新宮利彦はこの家のほとんどの人間から排撃されているようだ。それはただたんに、道楽者で意気地がないためだけだろうか。
「それで……?」
「いいえ、わたくしの話はただそれだけです。それからすぐに警察へ電話をかけることにして、わたくしどもは、あなたがたのお見えになるのをお待ちしていたのです。では、これで、……秋子さんが気になりますから」
信乃が立ちあがりそうになるのを、金田一耕助はあわてて押しとめて、
「ああ、ちょっと。もうひとつお訊ねがあるんですがね」
「はあ、どういうことでしょう」
「昨夜、砂占いのときに現われた変な紋章ですね。|火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》みたいな。……あれにはどういう意味があるんですか」
「存じません」
信乃は言下にきっぱり答えた。
「でも、あのとき、ひどく驚いていられたようですが」
「それは誰だって驚くでしょう。あんな変なかたちが、判でおしたように出て来たんですもの。では、これで失礼しますよ」
信乃は椅子から立ちあがると、悠々として部屋から出ていった。まったくそれは取りつくしまもないほど、威厳にみちた態度だった。
ところが、その信乃の姿がまだドアのむこうへ消えてしまわないうちに、廊下のはしから太い|濁《だ》み声と、荒っぽい足音がどたばたと近づいてきた。濁み声はたしかに新宮利彦である。信乃はギクッとしたように立ちどまって、そのほうを見たが、やがて足早に反対のほうへ消えていった。
そのあとへとび込んできたのは新宮利彦である。利彦はひどく酔っぱらっているらしく、髪が乱れ、|瞳《め》がギラギラ光っている。おまけに上着もワイシャツも着ておらず、ズボンに薄い合いシャツ一枚だった。
利彦はギラギラ|脂《あぶら》のういた眼で、警部と金田一耕助を視つめていたが、やがてにやっと不潔な笑いをうかべると、ふたりの見ているまえでシャツを脱ぎはじめた。
「あなた、あなた、そんなことをなさらなくても、ただ口でおっしゃれば……」
あとからとび込んできた妻の|華《はな》|子《こ》が、あわててとめようとするのを、利彦は|邪《じゃ》|慳《けん》につきとばして、
「うるさい、黙ってろ! どうせ婆あが告げ口しやあがったにちがいないんだ」
と、シャツを脱いでしまうと、よろよろとふたりのまえへやってきて、
「おい、君たち、いま、お信乃から聞いたろう。さあ、よく見たまえ、これが悪魔の紋章だ」
あっけにとられているふたりのまえへ、くるりと背をむけた利彦の|痩《や》せて骨ばった左の肩には、なんと、火焔太鼓のかたちに似た、うす|紅《あか》い|痣《あざ》がありありと浮びあがっているのではないか。
第十二章 YとZ
|火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》。――
昨夜から一度ならず二度までも、ひとびとのまえに意味ありげに展示された、あのまがまがしい、悪魔の紋章の本体というのはこれだったのであろうか。
耕助は一瞬、ちょっと肩すかしを食わされたような拍子抜けをおぼえたが、しかし、すぐ気を取りなおして、食い入るように利彦の左の肩を|視《み》つめる。すると、まるでそこからドスぐろい、悪魔の毒血でも吹き出してくるような、異様な|戦《せん》|慄《りつ》が腹の底からこみあげてくるのである。
じっさい、いかにもそのひとの不健康な生活を物語るような、肉のうすい、|産《うぶ》|毛《げ》のもしゃもしゃと生えた、|色《いろ》|艶《つや》の悪い肌のうえに、くっきりと浮びあがった薄桃色の火焔太鼓のかたちのなかには、なにかしら、世の常ならぬグロテスクなものがあった。
一瞬、|強《こわ》|張《ば》った沈黙が、化石したような部屋のなかに|漲《みなぎ》りわたり、そこにいるひとびとの手に汗を握らせる。
「ああ、いや」
|等々力《とどろき》警部がぎごちなく|空《から》|咳《せき》をしながら、口を開いたのはよほどたってからのことである。
「もう結構です。どうぞ、シャツに腕をお通しになってください」
新宮利彦はぶすっとした表情のまま、妻の華子に手伝わせてシャツを着ると、改めて警部にすすめられた|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
「なるほど、妙な|痣《あざ》ですな。うまれたときからおありなんですか」
いっときの|昂《こう》|奮《ふん》がさめたためであろう。新宮利彦は火の消えたような顔をして、ものうげにうなずくと、
「まったく妙な痣ですよ。ふだんはほとんど見えないんです。ただ薄白いかたちが皮膚の底に沈んでいるだけで、よくよく注意してみなければわからないんだ。それが、酒を飲んだり、入浴したり、つまり、皮膚が充血してくると、ああいうふうに、はっきり現われてくるんです」
「ああ、それで……」
と、金田一耕助は利彦の顔を見直しながら、
「酒を飲んでいらっしゃるんですね」
「ええ、まあ、そう。……そればかりじゃないがね。あんなことが起こっちゃ、酒でも飲まなければ、やりきれんじゃありませんか。しかし、まあ、どっちにしても、こんなことは手っ取りばやく極まりをつけたほうがいいと思ったのでね」
新宮利彦の酔っているのは、そればかりではあるまいと、金田一耕助は昨夜|美《み》|禰《ね》|子《こ》のいった言葉を思い出した。
「|伯《お》|父《じ》さまは影弁慶よ。あの|年《と》|齢《し》になっても、はじめてのかたには、とても人見知りするんです」
おそらく利彦は、酒でも飲んでいなければ、とてもこういう応対には耐えられないのであろう。
「奥さんは御主人のこの痣のことを御存じでしたか」
金田一耕助に突然言葉をかけられて、|華《はな》|子《こ》はどぎまぎしながら、
「はあ、あの……」
「もちろん、知っていますよ。夫婦の仲ですからね。それでもさすがに女房ですね。なるべくならこのことを、かくしておきたいらしいんだ。なに、つまらん取り越し苦労ですよ」
華子の口ごもるのを引きとった、利彦の口調のなかには、どこかとげとげしいものがある。
「なるほど、それで奥さんのほかにも、その|痣《あざ》のことを御存じのかたがありますか」
「うちのものはたいてい知ってますよ。生まれたときからあるんですからね。もっとも、若い連中はどうか知らんが……」
「お|信《し》|乃《の》さんも……?」
「もちろん、あいつも知ってます。それについてあいつが何か……?」
と、云いかけて利彦は、急に気がついたように、警部と耕助の顔を見くらべた。
「それじゃ、あいつはあなたがたに、これについて何も云わなかったんですか」
「ええ、おっしゃいませんでしたよ。いいえ、おっしゃらないばかりじゃない。あの火焔太鼓のかたちについて何か心当たりはないかとお|訊《たず》ねしたんですが、全然、知らぬとはっきり否定していらっしゃいましたよ」
利彦はどきっとしたように、妻の華子と顔を見合わせる。色艶の悪い|冴《さ》えない顔が、見る見る|蒼《あお》|黒《ぐろ》くくもってくる。
「ねえ、警部さん、金田一君」
利彦はいらいらと指の関節を折りながら、
「私にもどうもそれが気に食わんのですよ。|何《な》|故《ぜ》このことを、みんな隠したがっているんです。そりゃ、自慢になるほどのことじゃないが、といって、別にひた隠しに隠さねばならんほどの秘密でもない。私自身、見せびらかしゃあしないが、といって、別に気にしてるわけじゃないんですよ。それだのに、何故あの連中は……金田一さん」
利彦はとげとげしい、怒りにみちた眼を耕助のほうへ向けると、
「あなたは昨夜の、占いの席の出来事をおぼえているでしょう。あの砂鉢のうえに、この痣と同じようなかたちが現われたときのみんなの驚き……そりゃ、ぼくだって驚いたさ。華子だって驚いたでしょう。なんしろ自分の肌にある痣と、同じようなかたちが、思いがけなく現われたんですからね。しかし、ほかの連中の驚きようは、それとはちがっていたような気がしてならんのです。そりゃ、あの連中だって、へんな形が砂のうえに現われたんですから、それで驚いたのかもわからない。しかし、あの連中はみんな僕の肌にあるこの痣のことは知っているんですよ。それだのに、なぜあのときあの連中はそのことをいわなかったんです。無邪気に、率直に、なぜ、おや、これは利彦さんの肩にある、痣と同じ形だね、というようなことを、なぜ、いっちゃいけなかったんです」
金田一耕助は無言のままうなずいた。かれもいまそのことを考えていたのである。
利彦は底に酔いの沈んだ眼で、いらいらとかわるがわる警部や耕助の顔を眺めながら、
「じっさい、あのときはぼくも驚きましたよ。いまに誰かがそのことをいい出すかと、内心ぼくは待っていたんです。誰かが切り出せば、ぼくもいおうと思って待っていたんです。しかし、誰もそれをいい出すものはなかった。みんな|怖《おそ》れて、そわそわと口をつぐんでいるんです。まるでそれが、なにか恐ろしい禁断のおまじないででもあるかのように。……いったい、あの連中はなぜぼくのこの痣のことを、あんなに怖れ、ひたかくしにかくしていなければならないんだ。それが、ぼくにはわからない。ぼくのこの痣のことを近親者なら誰でも知っていることなんですからね」
金田一耕助はさぐるように相手の眼のなかを|覗《のぞ》きこみながら、
「あなた御自身が、そのことについて黙っていらしたのは……?」
「ぼくは別に、このことについて、隠すつもりはなかった。隠さねばならん理由はどこにもないんだからね」
利彦の病的なまでに黒い|瞳《め》に、いらいらと|焦躁《しょうそう》の色が燃えあがる。|日《ひ》|頃《ごろ》の|胴《どう》|間《ま》声が、調子っぱずれなキイキイ声にかわってくる。
「しかし、ぼくはじっさいびっくりしていたんだ。いや、ああいうかたちが砂のうえに現われたというそのことばかりじゃなく、それを見たあの連中の驚きようにびっくりしていたんだ。びっくりしたというよりも、気をのまれてしまったんだ。それでつい、いいそびれているうちに、あのレコードが鳴り出したものだから。……」
金田一耕助はうなずいて、
「人殺しがあったあと、あなたが砂鉢のうえにえがかれた、あの紋章を消そうとしたのも、やはり同じ理由からですか」
「もちろん、そう。じっさい、あのときぼくはすっかり気が|顛《てん》|倒《とう》していたんだ。人殺しのあった現場に、自分の肌にある痣と、同じかたちが血でえがかれている。……ぼくにはその理由はわからなかった。いや、いまもってわからない。しかし、宵に起こったあの出来事といい、なにかしら、恐ろしい災難が自分の身に、ふりかかって来そうな気がしてならなかったんだ。それでつい、|揉《も》み消そうとしたんだが……いまになって見ると、愚かな行動だったことはぼくも認める」
金田一耕助はだまって立ち上がると、|袴《はかま》の両腰に手をあてて、部屋のなかを歩きながら、
「ところで……|失《しっ》|踪《そう》された椿|子爵《ししゃく》の|亡《なき》|骸《がら》、……いや、椿子爵と信じられていた亡骸が、身につけていた手帳のなかに、あなたのその痣と同じかたちが書いてあって、そのそばに、悪魔の紋章という注意書きがしてあったということですが、そのことはあなたも御存じでしょう」
利彦は憎悪と怒りにかがやく眼を、耕助のほうにむけながら、|不承不承《ふしょうぶしょう》にうなずいた。
「あなたはそのことについて、どうお考えになりますか」
「どう考えるにも、ぼくには……ぼくには……さっぱりわからん」
利彦は|咽《の》|喉《ど》にからまる|痰《たん》を吹っ切るように、はげしく|空《から》|咳《せき》をしながら、
「ぼくにはあいつが……|英《ひで》|輔《すけ》のやつが気が狂ってたとしか思えん。それとも、あいつの眼には、このぼくが悪魔のようにうつっていたのか。……」
利彦は咽喉の奥で、やけくそな笑い声を立てたが、その笑い声は逆にベソを|掻《か》いているようにしかひびかなかった。
耕助はちらと素速く等々力警部のほうに眼をやりながら、
「何か心当たりがありますか。椿子爵がそれほどまでに、あなたに敵意を持っていたということについて。……」
利彦の顔にまた|蒼《あお》ぐろい怒りの色が燃えあがる。
「そのことについちゃ、あんたもすでに知ってるはずだと思うんだがね。うちのものに|訊《き》いてみれば、ぼくと英輔とのあいだが、どんなふうだったかすぐわかるはずだ。ぼくとあいつはうまがあわなかった。ぼくは嫌いなんだ。あの男が……」
「どういう理由で……」
「嫌いなものに理由もなにもあったものじゃない、あいつが|秋《あき》|子《こ》と結婚したときから、ぼくはあいつが嫌いなんだ。ぼくたちは一度だって兄弟らしい口を|利《き》いたことはなかった。とにかく虫が好かないんだ」
利彦のキイキイ声のなかには、どこかねつい、子供が駄々をこねて地団駄を踏むような、|或《ある》いはギリギリと歯ぎしりをするような、一種、異様なヒステリックなひびきがあった。
「あなた、あなた……」
|華《はな》|子《こ》が気を|揉《も》んでうしろから注意するのを、利彦は|邪《じゃ》|慳《けん》に振り切って、
「いいさ、構うものか。こんなこと、おれが隠していたところで、どうせほかの連中がしゃべっちまうんだ。しかし、それだからって、おれはなにも、あいつに悪魔とよばれる理由はない。あいつこそ、英輔こそ、おれの財産を|横《よこ》|奪《ど》りしてたのも同じじゃないか」
「椿子爵があなたの財産を横奪りしていたというのは……?」
「そうじゃないか。本来ならば、当然おれのものになるべき財産の多くが、秋子のやつに譲られたんだ。その秋子と結婚したあいつは、取りもなおさず、ぼくの財産を横奪りしようとしたも同様じゃないか」
「あなた、あなた、そんなさもしいこと……」
「さもしい……? 何がさもしいんだ。ほんとうのことじゃないか。これは。……しかし、英輔のやつは意気地がなかったから、結局その財産を、自由にすることは出来なかったけれどな、あっはっは!」
利彦のとげとげしい笑い声をきいて、ああ、そうだったのかと、金田一耕助は改めて相手の顔を見直した。利彦の椿英輔に対する憎悪は結局、そこに端を発しているのか。もし、そうだとすれば、それはうまがあわないとか、性格の相違とかいうものではなかったであろう。秋子と結婚した男は、それが椿英輔であろうがなかろうが、利彦から同じような憎悪と、迫害に見舞われなければならなかったにちがいない。
「なるほど、しかし、それだからといって椿子爵が、あなたのことを悪魔呼ばわりをするのは、いささか常軌を逸しているとお思いになりませんか」
「むろん、ぼくもそう思う。だから、さっきもいったように、あいつは気が狂っていたにちがいないんだ」
「気が狂っていたか、それとも、あの|火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》のようなかたちには、あなたの|痣《あざ》とはまたちがった、べつの意味があったか……」
利彦と華子はどきっとしたような眼で耕助を|視《み》る。等々力警部もさぐるような眼で、耕助の顔色を視まもっている。
金田一耕助はゆっくりと部屋のなかを歩きながら、
「そうとでも考えなければ、昨夜のあの占いの席における、玉虫の御前やその他のひとたちの、あの驚きかたは説明がつきませんね。新宮さんの肩に奇妙な痣がある。それと同じかたちが、思いがけなく砂のうえに現われた。ただそれだけのことで、あのひとたちは、どうして、あんなにびっくりしたのか。いやいや、びっくりしたばかりじゃない。いま新宮さんもいわれたとおり、たしかにあのひとたちは|怖《おそ》れていた。何者かを怖れていたんです。それには、何か理由があるにちがいないが、そういう痣を持っていらっしゃる、新宮さん自身にその理由がのみこめないとすれば、何かもっとべつの意味があるとしか思われません。それと同時に、椿子爵の手帳のなかに書きのこされていたあの形も、新宮さんの痣を意味するのではなく、もうひとつ別の、新宮さんも御存じのない意味のほうを|指《さ》していたのかも知れません」
ちょっと短い沈黙が、部屋のなかに落ちこんだ。金田一耕助は|袴《はかま》の腰に両手をやったまま、無言で部屋のなかを歩きつづける。新宮利彦は不安そうに、|怯《おび》えたような眼の色をし、上眼づかいに耕助の動きを視まもっている。
「あの……」
ふいに切なそうな声をあげたのは華子だった。華子も不安に|蒼《あお》|白《じろ》んだ顔を、ねじ切れるように|歪《ゆが》めながら、
「そのことについて、わたしどもも、今朝、主人と話をしたんですが」
「はあ……」
「あの形は、誰かが主人に罪をきせるために、わざとああして血で書きのこしていったんじゃございますまいか。主人が伯父さまをなにして、そのあとへ自分の印をつけておいたというふうに思わせるために。……」
「そう。そのことはぼくも考えました。そして、それだと、あの砂のうえに|捺《お》された火焔太鼓には、別にかくれた意味などなく、御主人の痣を指していることになって、事件は|却《かえ》って簡単なんですがね。しかし、それでは納得がいかないのは、昨夜のあの占いの席における、皆さんのあの驚きかたなんですよ。あのときには、まだ人殺しなんか起こってはいなかった。それにも|拘《かかわ》らず、あの紋章に皆さんがあんなにも大きな驚きと怯えを示したというのは、そこになにかべつの意味があるとしか思えないんですがね。それとも……」
耕助はおだやかに微笑をふくんで、
「あのひとたちに、何か、新宮さん御自身や奥さんにもお気付きにならないことで、新宮さんを怖れなければならないような理由があるんでしょうかねえ」
「はあ、あの、それはどういう意味で……」
「例えばですね」
金田一耕助は|悪《いた》|戯《ずら》っぽく眼で笑いながら、
「新宮さんが夢遊病でも起こして、いつか人殺しをするであろうというような恐怖を、あのひとたちが持っているとか……」
「と、とんでもない!」
華子は|蒼《あお》ざめた顔をゆがめながら、言下に強く打ち消した。
「あっはっは、そうでしょう、そうでしょう。そうだとすれば、やはりあの火焔太鼓には、新宮さんや奥さんの御存じのない、何か別の意味があるにちがいない」
「そうでしょうか。それならいいんですけれども……もし、あれが主人に罪をきせるための仕業だとしたら、わたし、りっぱにいい開きが出来るんです。主人は昨夜、ずっと別棟のほうに、わたしどもといっしょにいたのでございますから」
華子のいいたかったのは、おそらくそのことだったのだろう。
「いや、有難うございました。その痣を見せていただいたのは、大きな参考になりましたよ。それではもうお引きとりになってください。ああ、それから一彦君がいたら、ちょっとこちらへ来るようにいってくださいませんか。なに、ちょっと簡単な質問があるだけなんですから、御心配なく」
一彦に対する質問はまったく簡単なものだった。一彦も昨夜、あの殺人事件が発見されたとき、|欄《らん》|間《ま》から殺人の現場を|覗《のぞ》いたひとりである。
「あのとき、あなたはあの砂鉢のうえに、血の紋章がえがかれているのに、気がお付きじゃありませんでしたか」
そういう金田一耕助の質問に対して一彦はただ簡単に否と答えた。
「ああ、そう、有難うございました。ただそれだけですが……ああ、ちょっと」
「はあ」
「あなたは椿子爵のフルートのお弟子だそうですね。きっとお上手なんでしょう」
「はあ、あの、上手っていうわけじゃありませんけれど、ひととおりは……」
「どうでしょう、子爵の遺作『悪魔が来りて笛を吹く』の曲をお吹きになることが出来ますか」
「はあ、吹けると思います。譜がありますから」
「そう、それじゃいつか聞かせていただきたいものですね。いや、どうも有難うございました。それじゃこれで……」
あとになって金田一耕助は思うのだが、このとき思いきって一彦にあの問題の曲を聞かせて|貰《もら》っていたら、もっと早く犯人をつきとめることが出来ていたかも知れないのにと……。
それはさておき、それから間もなく等々力警部と、いったん警視庁へひきあげた金田一耕助は、さっそくあの密告状というのを見せて貰った。
警部もいったとおり、それはタイプライターで打ったものだったが、|素《しろ》|人《うと》の眼で見ても、それが美禰子の機械で打たれたものであることはあきらかだった。
「やっぱり、そうのようですね」
「ふむ、いずれ鑑識のほうへ回して厳重に検査させるが、だいたいあの機械で打たれたものと思って間違いがないようだね」
「そう、美禰子さんもいっていたが、あの機械、ロケットとかいいましたね、あれはまだ正式に、日本に輸入されていないという話ですから、あちらにもある、こちらにもあるという品じゃないにちがいない。おや……」
密告状を読んでいるうちに、金田一耕助はふいに|眉《まゆ》をひそめて、首をかしげた。
「どうかしましたか」
「ええ、ちょっと……警部さん、このローマ字の文章、全部YとZとを打ちちがえていますね、これはどういうわけでしょう」
なるほど、密告状というのは、文章そのものには取り立てていうほどのことはなかった。さっき警部もいったとおり、天銀堂事件が起こった前後、子爵がどこかへ旅行していたこと、しかも子爵は家の者にむかって|蘆《あし》の湯へいくと称していたが、実際はそこへいっていないこと、この行く方不明の旅行からかえって間もなく、子爵が三島東太郎と、宝石の売りさばきについて密談していたこと。……
と、そういうことが箇条書きに|羅《ら》|列《れつ》してあるのだが、そのなかに出てくることばのうち、例えば「行く方」だの「蘆の湯」だの、「家の者」だのと、ローマ字でYを使うべきところは、全部いったん Zukue, Ashino-zu, izenomono と間違って打たれ、その逆に、「前後」だの「残念ながら」というところは、Yengo, Yannennagara と打たれ、そしてあとでそれらのYとZを紫鉛筆で訂正してあるのであった。
第十三章 金田一耕助西へ行く
昭和二十二年十月二日。
玉虫もと|伯爵《はくしゃく》が殺されてから三日目の夜のことである。金田一耕助は神戸行き準急の二等車の隅に、いまにも押しつぶされそうな格好で乗っていた。
せめて旅行するときだけでも、洋服にすればいいものを、かたくなにも和服で押し通すつもりだから、そうでなくともよれよれの|袴《はかま》が、いよいよよれよれとなり、着物のあちこちに|綻《ほころ》びが出来、衣紋がくずれ、|足《た》|袋《び》が泥まみれになっているところを見ると、二等車のこの一隅に席をしめるまでに、かれがいかに大きな苦闘を演じてきたかがわかるというものである。
昭和二十二年の秋といえば、旅行はまだ一種の難行苦行みたいな時代であった。第一、切符を手に入れることすら、容易ならぬ仕事であった。幸い金田一耕助は、切符のほうは警視庁のはからいで、うまく手に入れることが出来たけれど、|闇《やみ》商人の物資買出しの乗客が、|喧《けん》|々《けん》|騒《そう》|々《そう》とひしめきあっている汽車のなかまで、警視庁の顔を|利《き》かすわけにはいかなかった。さてこそ金田一耕助は、|揉《も》み苦茶にされた破れ|雑《ぞう》|巾《きん》みたいな格好で、満員|鮨《すし》|詰《づ》めのこの二等車の隅に、気息|奄《えん》|々《えん》として小さくなっているというわけである。
むろん、金田一耕助はひとりではなかった。出川というわかい刑事が、同じ車に乗っているはずだったけれど鮨詰めのこの箱のなかでは、どこにいるのか突きとめようもなかった。当時は、つれといえども、同じ場所に席をしめるなどとは思いもよらぬことだったが、たといそれが出来たとしても、ふたりはやっぱりべつべつの場所に席をとっていたことであろう。
今度の旅行の目的からして、かれらは出来るだけひと目につきたくなかったからである。
かれらの旅行の目的。――
それはいうまでもなく、一月十四日から十七日までの、椿|子爵《ししゃく》の旅行、即ち天銀堂事件における子爵のアリバイを、あらためて再吟味する必要に迫られたからである。
じっさい、玉虫もと伯爵の殺人事件の|蔭《かげ》に、死んだはずの椿子爵に極似した人物が、影のように出没するということがわかったときの、世間の|昂《こう》|奮《ふん》と緊張は言語に絶するものがあった。新聞の紙面は連日その記事で埋まっていたし、どの新聞社も記者の大半をこの事件に投じておしまなかった。もし、なおそのうえにこの事件が、あの恐ろしい天銀堂事件と結びついているらしいということがわかろうものなら、警視庁は記者諸君の昂奮と熱狂とで揉み苦茶にされなければならなかったであろう。
だから出川刑事の今度の出張なども、極力伏せておかなければならなかったのである。椿子爵の信州行きを再吟味するというのならばともかく(むろん、そのほうへも別の刑事が出張しているはずであった)さらにそれより|遡《さかのぼ》って、天銀堂事件が起こったころの、子爵の行動を警視庁で、再調査しているというようなことがわかろうものなら、敏感な新聞記者諸君が、そこから何を|嗅《か》ぎ出すかわからなかったからである。
金田一耕助がこの調査行に、同行を申し|出《い》でたのは、かれはまたかれで、いくらかちがった目的を抱いていたのである。
じっさい、まえに一度確認された、天銀堂事件の際の、椿子爵のアリバイが真実のものであったか、それとも巧みに演出された偽装であったか、それはまだ何人にもわからないところであった。もし、それが偽装されたものであったとしたら、それこそ前代未聞ともいうべき、素晴らしい大手品が演じられていなければならぬはずだし、それに反して、警視庁の以前の調査が正しくて、椿子爵が真実関西旅行をしたものとすれば、その旅行には容易ならぬ秘密がふくまれているはずであり、その秘密を解明することによって、はじめてそののち、子爵家に起こった悲劇の|謎《なぞ》を解くことが出来るのではないか。――と、そう考えられるのである。
金田一耕助が子爵の旅行を、かくも重大視するにいたったのはむろん大きな動機があった。その動機というのはこうである。
九月三十日。――玉虫もと伯爵が殺害された当日、いったん警視庁へひきあげた金田一耕助が、例の密告状のなかにある、奇妙なタイプライターの打ちちがいを発見したことは、前章の終わりで述べたとおりである。
金田一耕助はそのときすぐに、|美《み》|禰《ね》|子《こ》に電話をかけて、そのことについてそれとなく|訊《たず》ねてみた。美禰子にも、しかし、その理由はわからないらしく、
「まあ、YとZの打ちちがいですって? それはどういう意味なんでしょう」
と、いくらか戸惑いしたような声が電話のむこうから答えた。
「いいえね、あなたのタイプで打つ場合、YとZを打ちちがえるというようなことがたびたびありますか」
「そうですわね、それは、|馴《な》れないうちは、ずいぶんいろいろ打ちちがいをいたしますけれど、なにもYとZにかぎって間違えるというようなことは……。御質問の意味がよくわからないんですけれど……」
「いや、それはね、ほかの文字は全部正確に打ちながら、YとZだけは、みんなあべこべに打つ……機械によってそういう間違いが起こるとか、あるいは打つ人間によって、そういう間違い癖があるとか、そういうことはありませんか」
「さあ、存じませんわねえ、そういうこと。YとZにかぎって間違えるなんて……妙ですわねえ。でも、それ、どういうことなんですの。何かうちのタイプライターが……?」
「いや、いいんです、いいんです。おわかりにならなければ結構です」
金田一耕助は失望して電話を切った。しかし、かれはどうしても、このことが|諦《あきら》められなかった。一個所や二個所ならばともかくも、全部が全部、YとZが打ちちがっているというのは、そこに何かしら深い意味がありそうに思われてならなかった。
ところが、その翌日のことである。金田一耕助のもとへ、美禰子のほうから電話がかかってきた。
「先生、あの……昨日おたずねがありましたYとZの打ちちがいのことですけれどね。それについて、ちょっと心当たりがあるんですけれど……」
「はあ、すると、何かそういうことが、起こりうるという可能性があるんですか」
「ええ、あたし、気になったものですから、昨日あれからタイプの先生のところへ、電話をかけてお訊ねしたんですのよ。すると、ひょっとするとこうではないか、というようなことがわかったんですの」
「それはどういうことですか」
「いいえ、あの、電話ではなんですから、これから先生のところへお伺いしたいんですけれど……じつはこのことのほかにも、ぜひ先生に聞いていただかねばならぬことがございますの。あたしたいへんなことを発見いたしまして……、自分がとても大きな間違いをしていたことに気がついたんです」
そういう美禰子のことばが、なんだか、ひどくふるえているように思えたので、金田一耕助も、何かしらはっと胸の躍るのをおぼえた。
「間違い……? ええ、ようござんすとも。お待ちしていますから、どうぞ」
それから一時間ののちに、金田一耕助と美禰子は、大森の山の手にある|割《かっ》|烹《ぽう》旅館、松月の離れにある耕助の部屋でむかいあっていた。
「あの……まず、タイプライターのことでございますけれど……」
美禰子はひどく|昂《こう》|奮《ふん》して、|蒼《あお》ざめた皮膚がさむざむとそそけ立ち、|瞳《め》が異様にとがっていた。それを|強《し》いて押えながら、|強《こわ》|張《ば》った切り口上だった。
「はあ、何か心当たりがついたそうですね」
「ええ、あの……これは教習所の先生にお伺いしたことですから、あたし自身経験したわけではないのですけれど、……先生もタイプのキイが、アルファベット順に排列してあるわけではないことを御存じでしょう」
「はあ、それは知っています。昨日もお宅で拝見しましたからな」
美禰子はうなずいて、
「タイプのキイのアルファベットは、使われる字の|頻《ひん》|度《ど》によって排列されているんです。つまり、いちばんたびたび使われる字を、いちばん使いよい指で打てるように排列してあるのですわね。それでタイプを打つ場合には十本の指を使いますけれど、どの指はどの字を打つというふうに、ちゃんときまっているんです。ですから、熟練すると、眼をつむっていても打つことが出来ます。指がきまってしまいますから……」
「ああ、ちょっと待ってください。眼をつむっていても打つことが出来るというのは、|暗《くら》|闇《やみ》のなかでも打てるということですね」
「ええ、もちろん。……」
「それで、YとZを打ちちがえるというのは……?」
「それは……タイプのキイの排列というのは、どの機械でもみんな同じなんですの。だから、たとえばレミントンで習ったひとでも、眼をつむって間違いなく、ロケットで打つことが出来ます。ところが、ここにただひとつドイツ向けのものになると、往々キイの排列にちがったものがあるんだそうです」
「ちがったというと……?」
「つまり、YとZだけが、ほかの機械とあべこべについているんですって」
金田一耕助はふいに大きく眼を|瞠《みは》った。それから急にがりがりと、五本の指で頭のうえの|雀《すずめ》の巣をかきまわした。あまりはげしく|掻《か》きまわしたので、ふけが|鵞《が》|毛《もう》に似て飛んで散乱した。
「まあ!」
美禰子はあわててハンケチで口をおさえて|尻《しり》ごみする。それから|呆《あき》れたような眼で耕助の顔を見ながら、
「いやな先生」
「あっはっは、いや、ご、ご、ごめん、す、す、すると、ド、ド、ド、ドイツ向けの機械はYとZのキイがあべこべについているというんですね」
耕助はひどく|吃《ども》って、それからあわてて、ちゃぶ台のうえの茶をがぶりと飲んだ。それから|臍《せい》|下《か》|丹《たん》|田《でん》にぐっと力をこめて、それでどうやら、吃ることと、頭のうえの雀の巣を掻きまわす運動がとまったようだ。美禰子はほっと胸を|撫《な》でおろした。
「ええ。そうなんですって。あたし、ドイツ語はよく知りませんけれど。たぶんYとZを使う頻度が、英語とはあべこべになっているんでしょうね。それで、同じ機械でもドイツ向けの輸出用には、YとZのキイを逆につけたのがあるんですって」
「なるほど、なるほど。ところで、そういう機械が日本にもあるでしょうかねえ」
「ええ、ドイツ相手の商会などでは、そういう機械を使っていたところがあるそうです」
「すると、こういうことになりますね。ドイツ向けのそういう機械でタイプを習って、眼をつむってても打てるくらいに熟練した人物が、暗がりかなんかで、ついうっかりとお宅の機械を使うとYとZをあべこべに打つわけですね」
「うちの機械……? 先生。何かうちにあるタイプライターが……」
「いやいや。それはいずれお話ししますがね」
金田一耕助はふと、|椿家《つばきけ》の庭のおくにある、あの薄暗い防空|壕《ごう》を思い出す。そして、そこでYとZのキイが逆についているのも気がつかずに、タイプを打っている人物を想像すると、何かしら胸の底が|沸《わ》き立つようであった。少なくともそこでそいつは、ひとつの大きな失敗をやらかしたわけなのだ。
「いや、どうも有難うございました。このことは非常に大きな参考になりましたよ。ところで、何かほかにお話があるということでしたが……」
「ええ。……」
真正面から金田一耕助を|視《み》すえた美禰子の瞳が、ふいにベソを掻くようにふるえた。
「あたし、たいへんな間違いをしておりまして……でも、それが間違いだってことがわかってから、かえって、いっそうわけがわからなくなってしまって……」
と、美禰子がハンドバッグのなかから取り出したのは、一通の封筒だった。
「先生、これはこのあいだもお眼にかけましたけれど、もう一度読んでください」
美禰子の取り出した封筒というのは、はじめて彼女がここに来たとき、金田一耕助に見せた、椿|子爵《ししゃく》の遺書である。この遺書の文面は、まえにも掲げておいたが、もういちどここに出しておこう。
[#ここから1字下げ]
美禰子よ。
父を責めないでくれ。父はこれ以上の屈辱、不名誉に耐えていくことは出来ないのだ。由緒ある椿の家名も、これが暴露されると、泥沼のなかへ落ちてしまう。ああ、悪魔が来りて笛を吹く。父はとてもその日まで生きていることは出来ない。
美禰子よ、父を許せ。
[#ここで字下げ終わり]
「これが、どうかしたんですか」
金田一耕助は不思議そうに美禰子の顔を|覗《のぞ》いていたが、急に気がついたように、
「もしや、これが|贋《にせ》手紙だと……」
「いいえ、いいえ、そうではございませんの。それはたしかに父の|筆《ひっ》|蹟《せき》にちがいございません。でも、先生、その遺書には日付が書いてございませんでしょう。それが間違いのもとだったんですの」
「と、いうと……」
「先生、このまえにもお話ししましたけれど、あたしがこの遺書を発見したのは、父が|失《しっ》|踪《そう》してから、ずっとのちのことでした。この夏お蔵の書庫へ入って、御本を整理していると、本のあいだからそれが落ちてきたんです」
「ええ、そのことならば、このあいだもお伺いしました」
「その本というのはこれなんですけれど……」
美禰子がハンドバッグから取り出したのは、戦争前にT書店から発行された翻訳書、ゲーテの『ウィルヘルム・マイステルの修業時代』の下巻であった。
「はあ、この本がどうかしましたか」
「先生」
美禰子は言葉に力をこめて、
「この本はこの春、あたしの机のまわりにおいてあったんです。それをなにも知らずに書庫のなかへしまってしまったんですけれど、父がまさか、書庫にしまってある本に、遺書をはさんでおくとは思われませんわね。そんなことしたら、たくさんある御本ですもの、いつあたしの眼につくかわかりませんもの。だから、父がこの遺書を、『ウィルヘルム・マイステル』の下巻のあいだにはさんだのは、きっとこれがまだ、あたくしの机のまわりにおいてあった時分のことにちがいございません。そういえばこの本は、父のすすめによって、この春あたしが読みはじめたものなんです」
「なるほど、なるほど、そうですか。しかし、それが……」
「それですから、先生、問題はこの本がいつお蔵の書庫へしまわれたかということなんです。あたし、いままでついうっかりしていたんですけれど、昨日、あんな事件が起こったものですから、もう一度父が失踪した当時のことを調べてみようと思って、自分の日記をひっくりかえして見たんです。すると先生」
と、美禰子はまたハンドバッグのなかから、一冊の本を取り出した。それは赤い表紙の婦人用の日記であった。
「先生、ここのところを御覧下さい」
ふるえる指で美禰子が指さしたところを見ると、二月二十日の項に、
――午前中に『ウィルヘルム・マイステル』読了。
――午後、思い立って机のまわりを整理。読みおわった本などを書庫にしまう。
と、美しい紫インクで書いてある。
「なるほど、するとこの本が書庫へしまわれたのは二月二十日、したがって、お父さんが遺書を本のあいだにはさんでおかれたのは、それよりまえということになりますね」
「そうなんです。ところが先生。父が天銀堂の容疑で、はじめて警視庁へひっぱられたのが、やはり二月二十日のことなんです」
美禰子の|焦《こ》げつくような視線をまともに浴びて、金田一耕助はしばらくぽかんとしていたが、急にぎょっと大きく眼を|瞠《みは》ると、思わず、ちゃぶ台のうえから乗り出した。
「な、な、なんですって。す、す、すると、お父さんは天銀堂事件の嫌疑をうけるまえに、すでに、自殺の決心をしていたとおっしゃるんですか」
「先生!」
「す、す、すると、お父さんが自殺を決意されたのは、天銀堂事件のせいではなかったんですね」
「そうなんです。先生、この遺書が本のあいだにはさまれた日から考えると、そういうことになるんですわ。父は天銀堂事件のために自殺したわけではなく、むしろ、天銀堂事件は父の自殺を、逆に十日ほどおくらせたことになるんです」
美禰子の眼はみるみるうちに|濡《ぬ》れてくる。彼女はその涙を|拭《ぬぐ》おうともせず、
「その日記によると、あたしはこの本を、二十日の午前中に読みあげたことになっております。だから、父が遺書を本のあいだにはさんだのは、きっとその午後、あたしがこれを書庫にしまうまでの間だったにちがいございません。父はそれからすぐに自殺行に旅立つつもりだったのでしょう。ところがそこへ警察のひとがきて、父を引っ張っていってしまったものですから、そのため三月一日まで自殺行がおくれたのでしょう。なにがなんでも天銀堂事件の容疑を背負ったままで死にたくなかったので、父はきっと、それが晴れるのを待っていたんでしょう」
金田一耕助の胸は|嵐《あらし》にもまれる小舟のように波打っている。この発見は美禰子にとって、はげしいショックであったと同様、金田一耕助にとっても大きな驚きだった。
「それじゃ、お父さんが自殺を決意されたのは、天銀堂事件のせいではなく、ほかに動機があったんですね」
「ええ、そういうことになります。父には天銀堂事件がなくても、自殺する動機はいくらでもあったでしょうが、ただ、わからないのはその遺書なんです。父はこれ以上の屈辱、不名誉に耐えていくことは出来ない。由緒ある椿の家名も、これが暴露されると泥沼のなかへ落ちてしまう。先生、あたしはこの屈辱、不名誉、暴露すると椿の家名を泥沼におとしてしまうという秘密、――それを、父が天銀堂事件の容疑者と目されたことだとばかり思っていたんです。しかし、この遺書が、天銀堂事件の容疑で引っ張られるまえに書かれたということになると、そうでないことになります。先生、父がそんなに恐れていた屈辱、不名誉、椿の家名を泥沼におとしいれてしまうような事実……そのために、父を絶望させ、自殺に追いやった秘密というのは、いったい、どんなことなんでしょう」
金田一耕助は、|鮨《すし》|詰《づ》めの二等車のなかで、ウィッチのように|黯《くろ》ずんで|歪《ゆが》んだ美禰子の顔を思い出す。美禰子のからだを包んで、ゆらゆらと立ちのぼる冷たい鬼気が、まだ自分のからだのどこかにしみついているような感じであった。
金田一耕助が今度の旅行を思い立ったのはひとつは、そのためであった。
一月十四日から十七日へかけての、椿子爵の|謎《なぞ》の旅行。
(もし、それが真実の椿子爵であったとしたら)――そこにこそ、すべての謎の|鍵《かぎ》が秘められているのではないかと思われたからである。
汽車はいま真っ暗な夜の|闇《やみ》をついて、西へ西へと走っている。
|喧《けん》|騒《そう》をきわめる闇商人や買い出し部隊もどうやら、思い思いに寝しずまったようだ。それらのいかがわしい人物にまじって、金田一耕助と出川刑事は、いま重大な使命を秘めて西へ走っているのだが、もうひとり同じ列車にこの事件に大きな関係を持つ人物が乗りこんでいようとは、さすがの耕助も夢にも気がつかなかったのである。
第十四章 |須《す》|磨《ま》|明《あか》|石《し》
東海道線が二時間以上もおくれて神戸へ着いたので、それから省線で兵庫までのし、そこからさらに山陽電鉄で|須《す》|磨《ま》までいって、須磨寺の池の近所にある三春園という旅館へ、金田一耕助と出川刑事が落ちついたのは、十月三日の午後一時過ぎのことだった。宿ははじめから三春園ときまっていたので、土地不案内ながらも、ふたりはたいしてまごつきはしなかったが、その代わり、神戸へつくとあいにく雨になっていたので、金田一耕助はなんとなく、こんどの調査の前途が、多難らしいことが予想されるような気持ちだった。
ただこの場合、ふたりにとって救いとなったのは、三春園というのが、戦後はやる温泉マークのついた、怪しげな普請などではなくて、古めかしい、軒のふかい、いかにも由緒ありげな落ちついた旅館だったことである。
神戸も戦災がひどくて、須磨のあたりも大部分焼きはらわれているが、須磨寺を中心として、わずかばかり焼けのこったこのあたりのたたずまいが、折りからそぼ降る秋雨のなかに、|辛《かろ》うじて古風な時代の昔をたもっている。三春園はそういう昔のなかに、しっとりと落ちついていた。
その代わり、相当格式ばった旅館らしく、金田一耕助と出川刑事が、奥のひと間へ招じいれられるまでには、かなり交渉に手間どった。
こんどの再調査については、できるだけ外部にもれることを避けるために、土地の警察へもまだ連絡してなかったので、出川刑事が宿のものに、じぶんたちの使命を納得させるには、かなり骨が折れたようである。そして、それがひとたび納得されたとなると、この古風な旅館のなかに、さっと緊張の気がみなぎるのを、金田一耕助は見のがさなかった。
「出川さん、こんどの調査はかなり厄介だと思いますから、あまり功をお急ぎにならないほうがいいですよ。とにかく|風《ふ》|呂《ろ》にでも入って、飯を食ってからのことにしようじゃありませんか」
座敷まで案内した女中が、あからさまな警戒のいろを見せて、こそこそと逃げるように立ち去っていくうしろ姿を見送って、金田一耕助がそう注意すると、
「ええ、まあ、臨機応変にやりましょう」
と、口ではそういっているものの、若い刑事はこの重大な使命に張りきっていた。
出川刑事は金田一耕助よりも、二つ三つ年下の年輩で、老練という点ではむろん難があるが、|短《たん》|躯《く》ながらもがっちりとした体格の、いかにも張り切り型らしかった。じつはこのまえ椿|子爵《ししゃく》のアリバイ調査に出張した刑事に、ほかに差しつかえがあったのと、こんどは全然白紙の立場にかえって、調査していったらよかろうというところから、若い出川刑事が選ばれたのだが、それだけにかれの張り切りかたは|物《もの》|凄《すご》かった。
それでも金田一耕助の注意によって、表面はうちくつろいだ様子で風呂へも入り、おそい昼食をしたためた。そして、給仕に出た女中たちに、それとなくかまをかけたりしていたが、女中たちは主人に口止めをされていると見えて、はかばかしい返事をしなかった。
「畜生っ、いやに警戒しやあがる」
食事がおわって、逃げるように|膳《ぜん》をさげていく女中たちのうしろ姿を見送りながら、出川刑事が苦笑いをしているところへ、おかみらしい四十前後の、小山のようにふとった女が現われた。
「いらっしゃいませ。お疲れさんでございましょう。どうもいきとどきませんで。……」
と、さすがに商売なれて、おかみの|挨《あい》|拶《さつ》に如才はなかったが、それでもどことなく警戒のいろが見える。
「ああ、いや……」
出川刑事があわてて|坐《すわ》り直すのを、じろりと見ながら、
「なんですか。いま番頭にききましたら、また|椿《つばき》さんのことでお調べやそうで……」
と、そういうおかみの顔色には、ありありと迷惑そうな色がうかがわれる。ちかごろはどんな事件にしろ、名前が出るのをよろこぶふうがあるのに、この宿ばかりはちがうらしい。金田一耕助はこいつはちょっと手ごわいぞと思ったが、出川刑事もそれに気がついたらしく、
「ああ、そのことだがね。たびたびのことで御迷惑だとは思うが……」
「いえ、べつに迷惑やいうわけではおませんが、あのことならもうあれで、解決がついてたのやと思てましたのに。……」
「いや、われわれのほうでもそう思っていたんだが、こんどまたああいう事件が起こったのでね。おかみさんも知ってるだろう。四、五日まえに東京で起こった事件。……」
「へえ、それなら新聞で読んでますけれど。……何しろえらい騒ぎで。……」
「そうだろう。だからもう一度調査しなおす必要が起こったのでね」
「でも、あのことなら、いまも申しましたとおり、あのときちゃんとお調べがついてる|筈《はず》やと思いますけれど。あれ以上のことはわたしらも申し上げようがありませんから。……」
と、おかみがなかなか警戒のいろを解かないので、金田一耕助がそばから口を出した。
「お話し中だがね。おかみさん」
「はあ」
「こんどこちらが出張して来られたのは、なにもこのうちを調べようというわけじゃないんですよ」
「はあ、と、すると……?」
「このまえ刑事さんが調べに来られたのは、一月十五日前後に椿子爵がこちらにいられたかどうか、それさえ調べればよかったんです。そして、そのことはいまもおかみさんがいうとおり、ちゃんと調べがついている。だから、あのときはそれで調査を打ちきったんですが、こんどまたああいう事件が起こったでしょう。それで、また調査しなおす必要が起こったというのは、あのときこちらに泊まったのが、椿子爵だったかどうかということじゃなく、椿子爵がこちらに泊まって、いったい何をしていられたか、いや、なんのために、この方面へやって来られたか……と、いうことを調査する必要が起こったんです。いまもいうとおり、このまえはそこまで調査しなかった。いや、する必要がなかったんですね」
「ああ、なるほど。それでよくわかりました」
おかみもようやく納得したらしく、
「そんならなにも、うちが直接関係があるというわけでもおませんのですね」
「そうです、そうです。だからわれわれはなにも、おたくに御迷惑をおかけしなくてもよかったわけです。ほかの宿へいってもよかったのです。要はこの須磨寺を中心として、椿子爵があのときどういう行動をとられたか、それさえわかればいいんですからね。しかし、同じことなら御縁のある、こちらさんへ御厄介になったほうが、なにかにつけて便利だと思ったものですから。……」
金田一耕助という男は、|風《ふう》|采《さい》はあがらないけれど、妙にひとを|惹《ひ》きつけるところがあり、説得力を持っている。かれがもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、どもりどもり説明するのを聞くと、おかみもしだいに釣りこまれて、
「そらそうだす。そういうことなら、とやかくいうことはおまへん。わたしはまた、あのとき申し上げたことに、なにかお疑いでもあるのか知らん思いまして。……」
「と、とんでもない」
「それにまた、あんな物静かな、お上品なかたが、こともあろうに天銀堂事件みたいな、恐ろしい事件の容疑者にされるなんて、あんまりお気の毒で、わたしら義憤みたいなもん感じとったんだっせ」
金田一耕助と出川刑事は思わず顔を見あわせる。
「ああ、するとおかみさんは、あのときの調査が天銀堂事件に関係があるということを、知っていたんですね」
「そら、わかりますがな。警察のかたはなんともいわはりませんでしたけれど、モンタージュ写真ちゅうもんがおましたし、それに日付が日付だすさかいに。……でも、そんなことが世間に知れたら、あのかたさぞ御迷惑なさいますやろ思て、わたしらうちのもんにも、固く口止めしといたんでっせ。それやのにあんなことにならはって、やっぱりあの事件が打撃やったんやなあと、うちのもんとも話してましたんです」
関西弁がしだいに多くなっていくのは、おかみの口のほぐれていく証拠である。金田一耕助はたくみにそこへつけいって、
「するとおかみさんは、椿子爵が自殺されたのは、やはりあの事件が原因だとお思いですか」
「そらそうに違いおまへんがな。すぐそのあとだしたもの。新聞ではそのこと知らなんだと見えて、いろいろゆうてましたけれど……」
おかみは、そういってからふっと小首をかしげて、
「もっとも、うちにお泊まりにならはったときにも、なんやしら妙やと思たこともおましたけれど。……結局、あのかた死神がついてはりましたんやな」
「妙だと思ったというのは……?」
「いえ、べつに取り立てていうほどのことはおませんでしたけれど、お顔の色もすぐれまへんし、あんまり沈んでいやはりますので、ひょっとすると、自殺なさるんやないやろかと、うちでもちょっと警戒したんです。ほら、ここら自殺の名所だっしゃろ。それにこういう商売をしてますと、ちょくちょくそういうお客さんがあるわけだす」
「ねえ、おかみさん。物の順序として子爵がここへ来られたときのことからお話し願えませんか。子爵はだれかの紹介状でも持って来られたんですか」
「いえ、そういうわけでもおまへんのです。ちかごろはいやなことが|流《は》|行《や》りまして、旅館でもアベックのお客やないと泊めんとこが多いのだす。殿方おひとりだすと、旅館のほうで女をお呼びするんで、それを承知のうえやないと、お泊めせんとこが多いのだすわ。ほんまにもういやらしい。それであのかた、ほうぼうで断わられてすっかりお困りになったあげく、うちへ来られたんだす。うちはアベックやないといかんちゅうことはおませんのですけれど、いちげんのお客さんは、なるべくお断わりするようにしてますので、そのときも、一応お断わり申し上げたんだす。しかし、あんまりお困りの御様子だしたし、それにあのとおりのお人柄だすやろ、ついお気の毒になってお泊め申し上げたんですわ」
「それが一月の十……?」
「十四日の晩だした。これはもう間違いはおまへんの。宿帳にもちゃんとそうついてますし、それに、それからひと月ほどたって、警察のお調べがおましたので、みんなではっきり思い出したんです。一月十四日の晩、つまり天銀堂事件の起こるまえの晩の十時ごろ、わたしが、じぶんでこのお座敷へ、あのかたを御案内申し上げたんだっせ」
おかみの最後の一句をきいて、金田一耕助と出川刑事は、思わずぎょっと座敷のなかを見まわした。宿のもののはじめの態度にひきくらべて、案外よい座敷へ通されたものだと思っていたが、それではおかみにそういう下心があったのかと、金田一耕助もはじめて気がついた。
そこは八畳と六畳のふた間つづきで、障子の外には秋雨のしぶく、手入れのいきとどいた庭がある。いかにも古風で、しっとりと落ちついた座敷である。それにしても問題の人物が問題の日時に、この同じ座敷に|坐《すわ》っていたのかと思うと、金田一耕助も出川刑事も、なにかしら、身うちがひきしまる感じであった。
出川刑事は緊張に|頬《ほお》を|強《こわ》|張《ば》らせて、
「それで、子爵はいつまでここに……?」
「十四、十五、十六日と、三晩こちらへお泊まりにならはりまして、十七日の朝早くお立ちになりました」
「そのあいだ、ずうっとこちらに……?」
「いえ、そういうわけやおまへん。十五日も十六日も、どこかへお出掛けだしたが、しかし、まさかあんた、十五日の朝九時ごろここを出たもんが、同じ朝の十時ごろ、銀座の天銀堂へ現われるわけがおませんですやないか」
おかみがまたちょっと気色ばむのを、金田一耕助はとりなすように、
「いや、おかみさん、刑事さんがああいったのは、物の順序というものですよ。ところで、物の順序のついでにお|訊《たず》ねしますがね、そのときこちらへ泊まったのは、たしかに椿子爵だったのでしょうね」
「そら、もうあんた。……あの、ちょっとすみませんが、あんたそのベルを押してみておくれやすな」
刑事がベルを押すと、さっき食事のとき給仕に現われた女中のひとりが現われた。
「ああ、おすみちゃん、番頭さんに宿帳を持って、こっちへ来るようにいうとくれ。それからあんたも来ておくれやす」
おすみはいったん引きさがったが、すぐ番頭といっしょにやって来た。番頭というのは三十五、六の、色白のいい男だが、|縞《しま》の着物に前垂れがけという姿が、いかにもこういう古風な宿のものらしかった。さっき玄関で刑事と押し問答をしたのもこの男である。
おかみは番頭の持って来た宿帳をひらいて、ふたりのまえに押しやりながら、
「これはあのかたが御自分でお書きにならはった字で、たしか|筆《ひっ》|蹟《せき》鑑定とやらでも、椿さんの字にちがいないいうことになったと思います。なあ、番頭はん、そうだしたなあ」
番頭は無言のままうなずいた。
それはいかにもこの宿にふさわしい、日本紙の宿帳で、名前も毛筆で書くようになっている。そこに麻布六本木の住所と、椿英輔と書かれた文字は、金田一耕助も同じひとの遺書で見おぼえのある、椿子爵の筆蹟にちがいないように思われる。年月日は印刷してあったが、そのあいだに書きいれられた文字は、間違いもなく一月十四日だった。
「なあ、なんぼなんでも縁もゆかりもないひとのために、わたしらが宿帳の日付に、あらかじめインチキしといたなんて、お思いにならはらしまへんやろな。それから、ここにいる番頭さんとおすみちゃんは、あのとき参考人として、東京まで出向いていったんだっせ。そして、面通しというんですか、椿さんに|逢《お》うて来たんやが、たしかに一月十四日から十六日まで、うちに泊まらはったお客さんにちがいないゆうて、証言して来たんだす。なあ、そうやったなあ」
おすみは無言のままうなずいた。番頭は不安そうに|膝《ひざ》をすすめて、
「おかみさん、そのことについて何か間違いでも……」
「いや、番頭さん、そういうわけじゃないんですよ。われわれがこんど出張してきたのは、もっとほかのことを調べに来たんですが、物の順序として、一月十四日から十六日までこちらに泊まった人物が、椿子爵であったかどうか、もう一度はっきりしておきたかったんです。出川さん、どうやらその点については、もう間違いはないようですね」
「そうですねえ」
出川刑事は渋い顔をして、煮え切らぬ返事である。かれとしては椿子爵のこのアリバイに、何かしら大きなトリックがあるほうが、むしろ有難かったのにちがいない。若い、功名心にもえているかれは、それを|看《み》|破《やぶ》ることに、大きな野心を抱いていたのにちがいないが、いまのおかみさんの話によると、その野心はどうやら水泡に帰しそうである。少なくともこの宿のひとたちからは、まえの証言をくつがえすような、何物をも得られそうになかった。
金田一耕助はしかし、べつに失望した様子もなく、
「番頭さん、いまおかみさんにも話したんですが、こんどわれわれがやって来た目的は、もっとべつのところにあるんです。それについて、ぜひあなたがたにも協力していただきたいんですが。……」
と、さっきおかみに話したようなことを打ち明けると、番頭とおすみは顔見あわせていたが、さて、これといって思いあたるふしはないらしかった。
「何しろほんとにお静かなかたでしたので……わたしどもほとんど口を|利《き》いたこともないくらいで。……へえ、十五日も十六日も、どこかへお出掛けだしたが、さて、どこへお出掛けなはったのか、手前ども一向に。……」
番頭が首をかしげるかたわらから、おすみが口を出して、
「十五日の日は朝出かけやはって、お昼過ぎにかえらはりましたわ。それからお昼御飯をたべてから、また出掛けて、夕方かえって来やはった。そやさかい、あの日はあんまり遠いところへいかはったんやないと思いますわ」
「そうやったかいな」
おかみは何か考えながらうなずいている。
「そうだすわ。わたし天銀堂事件のときに調べられたんで、いまでもおぼえてますの。ところが十六日の日は、今日は遅くなるかも知れへんさかい、弁当こさえてくれおっしゃって。……」
「ああ、そやそや、それでお結びこしらえたげたな。あの日は何時ごろおかえりやったいな」
「夕方の五時ごろだしたわ。冬のこったすさかい、もう暗うなってました。何んや知らんげっそりお|窶《やつ》れなさって、まるで生きたそらもないようなお顔色だしたわ。そのまえからおかみさんが、自殺でもしやはるんやないやろかと、心配してはりましたさかいに、わたし、てっきり自殺しそこのうて、帰って来やはったんやと思ったんだっせ」
金田一耕助と出川刑事は、またふっと顔を見あわせる。
一月十六日の外出――椿子爵が何かをつかんだとしたら、おそらくそのときのことにちがいない。そして、それがかれに自殺を決意させたのかも知れないのだ。
「それで何かね。子爵はどこへいくとも、いったとも云わなかったのかね」
「ええ、そんなことちっとも。……第一、わたし晩御飯のお給仕をしてても、気味が悪うて悪うて、……ろくに口も利きませんでした。そら、もうえらいお顔だしたわ」
「ああ、ひょっとすると、そら、|明《あか》|石《し》へ行かはったんとちがいまっしゃろか」
番頭の言葉に、出川刑事がふりかえって、
「えっ、どうして?」
「その日やったか、そのまえの日やったか忘れましたが、わたしにひとこと、明石へ行くには省線がよいか、山陽電鉄がよいかちゅうてお|訊《たず》ねにならはりました。それでわたしが、明石もところによりけりだすが……いいますと、それきり黙っておしまいにならはりまして。……」
「ねえ、おかみさん、おすみちゃん、いま番頭さんのいったようなことで、そのとき何気なしに聞き流したような言葉でいいんです。何か思い出すようなことがあったらおっしゃってくださいませんか」
一同はだまって顔を見あわせていたが、そのときふっとおかみが、小山のような|膝《ひざ》をゆすり出して、
「それで、なんだすか。椿さんがあのときこっちゃへ来やはった用件について、あんたがたには全然、なんの心当たりもおまへんのかいな。ひょっとすると、あのことやないやろかいうような、そんな見当もつきまへんの」
そういうおかみの眼の色を、金田一耕助はじっと|視《み》つめながら、
「いや、それについては心当たりがないこともないんです。つまり子爵は自分の一家のことについて、いままで全然知らなかったことを、最近どこからか聞き込んで、それをたしかめるために、この方面へやって来られたんじゃないかと思うんだが……」
それを聞くとおかみはしきりに、大きな体をもじもじさせながら、|袂《たもと》のはしで額の汗をこすっていたが、ふっと番頭とおすみのほうをふりかえると、
「あんたら、ちょっと向こうへ行ってておくれやす。用事があったら呼ぶよって。……ああ、それからお茶をいれかえて来て……」
金田一耕助と出川刑事は、またふっと目をあわせる。
おかみはなにか知っているのだ。
第十五章 玉虫伯爵の別荘
「わたしなあ、このあいだの新聞見てびっくりしたんだっせ。そら、玉虫の御前が殺されなさった事件。……」
おすみがいれかえて来た茶をついで、ふたりにすすめながら、おかみはいってよいものか悪いものか、まだ思案がさだまりかねるというふうに、しきりに体をもじもじさせていたが、それでもやっと口をひらいた。
出川刑事は金田一耕助のほうに素速い視線をくれながら、
「玉虫の御前って、それじゃおかみさんはあのひとを知ってるんですか」
と、膝をすすめる。
おかみさんはゆっくりうなずきながら、
「へえ、でも、そのことはあとで云いまほ」
と、|湯《ゆ》|呑《の》みを取り上げて伏目がちに、両手でそれを|撫《な》でながら、
「わたしはなあ、|椿《つばき》さんがあのかた……玉虫の御前の|御《ご》|親《しん》|戚《せき》やなどとは、こんど新聞を見るまで夢にも知りまへなんだんでっせ。いえ、第一、椿さんがこっちゃへ来られた時分、あのかたが|子爵《ししゃく》さんやなんて、ちっとも知りまへなんだんです。宿帳にもそんなこと書いておまへんですやろ。もっともそのほうのことは、天銀堂事件で調べられたとき、はじめて知りました。そやけど、あのかたが玉虫の御前の|姪《めい》|御《ご》さんのお婿さんやなんて、わたしは夢にも知りまへなんだ。その姪御さんやったら、わたしも知ってまんのだっせ。ずっと昔のこったすけれどな」
金田一耕助は出川刑事とまたふっと顔を見あわせた。そして、出川刑事が何かいおうとするのを、耕助はあわてて|制《と》めた。おかみはすでに話す気になっているのだ。こんなときには、話の腰を折らないほうがよいのである。
「|秋《あき》|子《こ》さまとおっしゃるんだしたわねえ。こんど新聞を見て思い出したんだすけれど。……|綺《き》|麗《れい》なおひとだしたわ。それこそ、いちま[#「いちま」に傍点]人形みたい、ふっくらとなさって。……そらわれわれ平民どもとちごて、いくらか変わったとこがおましたけどな。……あのかた、ちょくちょくこのうちへもお見えなさって、わたしらにも言葉をかけてくれやはったことがおますのだっせ。ちょうど、わたしと同じ|年《とし》|頃《ごろ》だしたなあ」
金田一耕助はまた、出川刑事が何かいおうとするのを眼顔でとめた。
おかみはゆっくり茶をすすって、湯呑みを下へおくと、ふたりの顔を見くらべながら、
「しかし、わたしがいまお話ししようちゅうのは、そのことやおまへんのや。つまりわたしはこんど新聞を見て、はじめて椿さんいうかたが、秋子さまのお婿さんやいうことを知りましてん。それで、そんなことなら、あのときもっと、お持てなしのしようもあったのに、などと考えていたところへ、いまのあんたはんのお話だっしゃろ。それでふっと思い出したんだすが、……椿さんがこっちゃにいられるあいだに、たったいっぺんだけだしたけど、あのかたの口から玉虫の御前のお名前が出たことがおましたんだす」
金田一耕助も出川刑事も緊張している。出川刑事ももう話の腰を折ろうとはしなかった。そのふたりの顔を見くらべながら、おかみはゆっくり言葉をついだ。
「あれはきっと十五日の朝やったろと思います。まえにもいいましたとおり、あのかたがあんまり沈んでいやはりますので、自殺でもなさるんやないかゆうてたんです。それに、朝御飯のお給仕に出た女中も、なんやしらけったいなお顔色やいいますので、わたしがそれとなく御様子を見に来ましたのだす。そのとき、十分か二十分かお相手をして、いろいろまあお話をしたんだすが、どういう話のつづきぐあいやったか忘れましたけれど、きっと、このへんにはいろいろ立派なお屋敷や別荘があったのに、みんな焼けてしもて……と、そういう話からだしたんやろ。この近所には昔、玉虫|伯爵《はくしゃく》の別荘があった|筈《はず》やが……と、そんなことおっしゃったんだす」
「玉虫伯爵の別荘……?」
いままで出川刑事を制止していたことも忘れて、金田一耕助が思わず口をはさんだ。
「ほんとにこのへんに、伯爵の別荘があったんですか」
おかみはあつい二重|顎《あご》を、うちへひいてうなずきながら、
「へえ、おましたのだす。いまはもう跡形ものう焼けてしまいましたけどなあ。いえ、もう焼けるまえから……ずうっと昔にお手離しになってしまはりましたけれど。……」
「ずうっと昔って、いつごろのことですか」
「そうだすなあ。お手離しになった時期はよう|憶《おぼ》えとりまへんけれど、このさきに月見山というところがおますやろ。あそこに伯爵様の別荘がおましたのは、わたしがまだ娘時分のことだしたなあ」
「ああ、おかみさんが玉虫伯爵や秋子さんを御存じだというのは、その時分のことなんですね」
「さよさよ。その時分、別荘にお客さんやなんかがあると、よくうちへ御飯を食べに来てくれはりましたんだす。こんなこというのはなんだすけれど、このへんではうちよりほかに御飯たべるとこおまへんさかいな。神戸までいけば、そら、いくらでも、おいしいもん食べさすうちおますやろが。……」
「それがおかみさんの娘時代なんですね。するとおかみさんはこのうちの……」
「家付き娘だすがな。養子を|貰《もら》いましたけど、これがひ弱うて、先年死んでしまいよった」
おかみは妙な笑いかたをしたが、すぐまた|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔になって、
「しかし、婿はんが来てから玉虫の御前がお見えになったん憶えてまへんさかい、きっとその時分はもう別荘を手離さはったあとやったんだっしゃろな」
「失礼ですが、おかみさんはおいくつですか」
「ちょうどだすがな」
「ちょうどというと四十ですね。すると椿子爵の奥さんと同じ年だ」
「へえ、そうやったと憶えてます」
「そして、御養子をお迎えになったのは?」
「十九の年だす。女学校を出るのん待ちかねて、両親が押しつけましたんや」
「すると、いまから二十年か二十一年まえに、玉虫伯爵は別荘を手ばなされたわけですね」
「そういうことになりまっしゃろな。たしか秋子さまといちばんおしまいにお眼にかかったんが、十六か七の時分やったと思いますさかい」
「秋子さんもちょくちょくその別荘へ……?」
「さあ。……そこらのことはよう憶えとりませんが、毎年夏になると、|御《ご》|親《しん》|戚《せき》のお坊っちゃんやお嬢さんが、かわるがわるおいでのようだしたな。こんど新聞を見て思い出したんだすが、新宮さんいうおかた、あのかたもお見えになって、秋子さまと御一緒に玉虫の御前につれられて、ここへお見えになったん憶えてます。あの時分、みんなまだお若うて……」
おかみの眼がふっと若やぎ、往時を追想するようなしみじみとした色がうかぶ。しかし、出川刑事にはそんな感傷に同情しているひまはなかった。
「ところでおかみさん、さっきの話はどうしたんです。椿子爵が玉虫伯爵の別荘のことを|訊《たず》ねたというのは……?」
「ああ、そのこと……」
おかみは思い出したように、
「いまから考えると、あれはわたしがいけまへなんだやな。玉虫の御前のお名前が出たんで、ついわたしが御前を存じあげてますちゅうようなことをいいましたのや。それで椿さん、警戒なさったのだすやろ。すぐ話をほかへ持っていきなさって。……その話は、それきりになってしまいました。わたしもこのあいだの新聞を見なんだら、そして、あんさんがたがお見えやなかったら、そんな話のあったことも、忘れてしもたことだっしゃろ」
おかみはそこで言葉を切ると、無言のまま、自分の|膝《ひざ》を|視《み》つめている。山川刑事は膝をすすめて、
「すると、椿子爵がこっちへ来られたのは、玉虫伯爵の昔の別荘に、何か関係があるということになりそうかね」
「さあ、それはどうだっしゃろ。とにかく、御前のお名前はそれきり出やしませんなんだのですから」
静かに膝をなでているおかみの様子には、しかし、もっとほかに何か知っていて、それをいおうかいうまいかと、思い迷うている色がはっきりうかがわれる。
金田一耕助は出川刑事に眼配せをしておいて、そっと膝を乗り出した。
「ねえ。おかみさん。このひとはね、このまえやって来た刑事さんの、調べ落としたことを調べるために、わざわざこうして来ていられるんだ。御覧のとおりまだお若い。これからいろいろ手柄をたてていかなければならないひとだ。それにはしかし、おかみさんのようなひとの、|義侠《ぎきょう》心にすがらなければならない。だから、おかみさん玉虫伯爵のことについて、何か思い出すことがあったら、ひとつ打ち明けてあげてくれませんか」
おかみは相変わらず膝をなでながら、
「そないにいやはったかて、わたしはべつに。……」
「ねえ、おかみさん、椿子爵の奥さん、つまり秋子さんがこちらにいられる時分に、何かあったんじゃないのかね」
おかみはそれを聞くとむっくりと顔をあげて、まじまじと金田一耕助の顔を見ながら、
「なるほど、それやったら|旦《だん》|那《な》さん、つまり子爵さんがこっちへこっそり、調べに来やはったわけがわかりますな。つまり、家内の昔のふしだらやなんか。……しかし、わたしの聞いてるのんは、そんなことやおまへんのだす。同じふしだらはふしだらでも、秋子さまは全然関係のないことだす。それやさかいに、申し上げてよいものやら悪いもんやら、わたしもさっきから迷うてますのやけれど。……」
金田一耕助はまた出川刑事と顔を見あわせた。果たしておかみは何か知っているのだ。しかも玉虫家、あるいはその親戚に関するスキャンダルを。……
「おかみさん、なんでもいいのですよ。あのひとたちに関することなら、どんなことでもいいんです。ひとつ、話してあげてくれませんか」
おかみはなおしばらく|躊躇《ちゅうちょ》したのちに、それでもやっと重い口をひらいた。
「それやったら申し上げますけれど、この話はなるべくならばこの場限りにしておくれやす。そのために番頭やおすみにも、座をはずさせたんだすさかい。……」
おかみは、みずから茶をついで、気をしずめるように静かにすすると、ふたりの顔を見くらべながら、
「御覧のとおりわたしのうちには、こんなつまらん庭でも庭がおます。それで出入りの植木屋があるわけだすが、その時分、つまり玉虫さんの御別荘のあった時分、うちへ出入りしてた植木屋の親方ちゅうのは、植辰という男だした。その時分、四十二、三、いや、五、六だしたやろか。職人の四、五人も使てましたが、その植辰が玉虫様の御別荘へもお出入りしてたわけだす」
「なるほど、それで……」
「その植辰に娘がひとりおまして。名前は、おこまはんいいました。年はわたしよりふたつぐらいうえだしたやろ。色の白いべっぴんだした。ところで玉虫さまの御別荘ちゅうのが、ふだんは閑古鳥でも|啼《な》きそうなほどひまだすさかいに、人手もそないにいらんのだすが、夏場になると、御親戚のかたが、かわるがわる大勢避暑に来やはります。それでおこまはんちゅう娘、いまもゆうたとおり器量もよし、植木屋の親方の娘にしては、行儀作法もひととおり心得てるので、毎年夏になると別荘へ、お手つだいにあがってたわけだす。まあ、臨時の小間使いちゅうわけだすな。ところが、そのおこまはんがボテレンになりましたんだす」
金田一耕助は思わず大きく眼をみはった。
「その別荘で、ですか」
「さよさよ」
「そして、相手は誰なんです」
「ところが、それをわたしは知らんのだす。いえ、これは正直な話。第一、わたしはこの話を、ずっとのちまで知りまへなんだのや。しかし、まあ順序を追うてお話しすると、おこまはんがボテレンになったもんだすさかいに誰かが……たぶん玉虫の御前だっしゃろ、……手切れ金を出しておこまはんを、植辰のとこへかえしたわけだす。植辰は相当もろたにちがいおまへん。そののちとても景気がよろしおましたさかいにな。さて、おこまはんのことだすが、ボテレンになったもんをひとりでおいとくわけにもいきまへん。それで植辰がじぶんの使てる職人の、源やんいうもんにめあわしたんだす」
「なるほど、なるほど、それで……」
「わたしがこのことを知ったのは、それからのちのことだすが、おこまはんの産んだ子は、お|小《さ》|夜《よ》ちゃんちゅうて可愛らしい娘だした。おこまはんはまえにもいったとおりべっぴんで、それに行儀作法もひととおり心得てます。気質もやさしいひとだした。それにひきかえ亭主の源やんちゅうのは、年が七つもちがううえに、みっともない顔をした男だした。それやさかいに、源やんがおこまはんを、どないに大事にしてもええはずやのに、これがとってもおこまはんをいじめるんだす。打ったり、|蹴《け》ったり、ひどいときには髪の毛とってひきずりまわしよる。わたしそれが不思議で、そのじぶんまだ生きてた、うちのお父つぁんにそのことを|訊《き》いたんだす。するとお父つぁんの返事ちゅうのが、そら、仕方がない、お小夜ちゃんちゅうお荷物をもって夫婦になったんやさかいな。源のやつもそのときは承知のうえやったが、やっぱりどないかすると、そのことがむしゃくしゃするのんやろと。わたしそのときはじめておこまはんが、玉虫さんの別荘でみごもった、いや、みごもらされたんやいう話聞いたんだす」
「それでお父さんも、お小夜という子の父親を誰とも御存じなかったんですか」
「さあ、それはどうだすやろ。お父つぁんはひょっとすると知ってたかも知れまへん。しかし、わてにそれだけの話をしただけでも、しもたいうような顔してましたさかい、知ってても、わてに云わなんだんかも知れまへんなあ。しかし、お小夜ちゃんちゅう娘の父親が誰やったにしろ、奉公人同士乳繰りおうたちゅうわけのもんやおまへんやろ。そんならなにも、玉虫の御前に、それほど責任があるわけやおまへんさかいな。やっぱり誰か、御前の|親《しん》|戚《せき》のひとだすやろなあ」
「おかみさんは新宮さん、秋子さんのお兄さんですね。そのひとにも|逢《あ》ったことがあるという話でしたが、|憶《おぼ》えてますか」
おかみは|眉《まゆ》をひそめて、
「それがな、どうしても思い出せまへんのだす。秋子さまがお兄さまやいうかたと、御一緒に来られたことはたしかなんやが、このあいだ新聞を見てから、思い出そ思うて苦労したんだすが、どないしても思い出しまへん。わたしらのあの時分の年頃やったら、女より男のほうが……それも|子爵《ししゃく》さんの坊っちゃんやと聞いたら、なおのこと眼につくはずだすがなあ。ひょっとしたらあのかた、影のうすいひととちがいますか」
おかみのその観察はたしかにある意味であたっていた。新宮利彦というひとは内心はいざ知らず、ちょっと見たところでは、たしかに影のうすいところがあった。|美《み》|禰《ね》|子《こ》もいっていたではないか。|伯《お》|父《じ》さまは影弁慶よと。
「どうでしょう、おかみさん、おこまさんというひとをはらませたのを、新宮さんだと考えては……」
おかみはちょっと考えて、
「そら、そうかも知れまへん。しかし、そのことなら|椿《つばき》さんがなにもこっそり、いまになって調べに来やはることないやろうと思いますけれどなあ。そら、そんなことがわかったら、名誉なことやおまへんが、と、ゆうて、世間に例のないことでもおまへんさかいなあ」
「どうだろう、おかみさん」
出川刑事は膝をすすめて、
「おこまの相手を玉虫の御前だと考えたら」
しかし、おかみは一言のもとにその考えを打ち消した。
「そうなあ、玉虫の御前もその時分、まだ五十前後だしたし、また、ずいぶん女好きのおかたやちゅうことは聞いてました。そやさかいに、そんなことがないとはいえまへんが、あの御前がはらましたんなら、ちゃんと産まして、里子にやるならやるで、しかるべく始末をつけなはったやろと思いまんな。それをあんなふうに、猫の|仔《こ》でも捨てるみたいに始末をなさったというのは、お小夜ちゃんの父御というのが、まだ部屋住みかなんかで、そないことが|公《おおやけ》になったら、あとあと困るというような、御身分のおかたやおまへんやろうか」
「それで、そのおこまさんやお小夜という娘は、その後どうしたんですか」
「それをわても知りまへんの。わたしが知ってるのは、お小夜ちゃんが四つか五つの時分までだしたな。なんしろ源やんいうのが、手のつけられぬ極道もんになってしもて、そののち植木屋の職人もやめて、神戸か大阪かで土方みたいなことしてるちゅう話を聞きましたが、それももう十年ももっとまえの話だす」
「お小夜という娘が生きていたら、いまいくつぐらいになりますか」
「こうっと。……」
おかみは赤ん坊のようにまるまるとふとった指を折って見ながら、
「二十二、三、三、四というとこやおまへんやろか。生きてたらきっとべっぴんになってまっしゃろ」
「ところで植辰というのはその後どうしました」
出川刑事がたずねた。
「ああ、それにも話がおまんねん。植辰はその後も、玉虫の御前をゆするかなんかしてたんだっしゃろな。いつも金回りがようて、植木屋の株を弟子のひとりに譲ってしもて、自分は若い|妾《めかけ》かなんか持って、ぶらぶら遊んでるちゅう話だした。そのまえから、小|博《ばく》|奕《ち》かなんか打つ男だしたが、すっかり、本職の博奕打ちみたいになってしもて、なんでも妾に子供をうましたという話だしたな。いえ、さすがにこのへんには|居《い》|辛《づら》いと見えて、|板《いた》|宿《やど》……月見山のもひとつさきだすが、そっちのほうへ越してしまいました。うちのお父つぁんでも生きてれば、また出入りもおましたのやろが、その後すっかり縁が切れてしもて……」
しかし、その植辰の消息なら、あとを譲られた植松のところへいけばわかりまっしゃろ、とおかみの教える植松の住所を、出川刑事が手帳にひかえているのを、ぼんやり見ながら、金田一耕助はふと立ち上がって縁側へ出てみる。
雨はいくらか小降りになって、空も明るくなっている。そして、さっきは気がつかなかった|淡《あわ》|路《じ》|島《しま》が、墨汁をにじませたように、海のむこうにうかんでいるのが望まれる。
金田一耕助はぼんやりそれを見ながら、いまおかみから聞いた話を、椿子爵の遺書と結びつけて見ようとする。しかし、ただそれだけではどうしても、遺書の意味を理解することは出来なかった。
おかみもいうとおり、お小夜という娘の父親が、新宮利彦であったにしろ、また玉虫伯爵であったにしろ、それは世間にない例ではない。椿子爵の遺書にもある、これ以上の屈辱、不名誉はないというその秘密は、もっと別のものでなければならぬ。
玉虫伯爵の別荘が、月見山にあった時分、何かもっとちがったことが起こったのだ。椿子爵はそれを|嗅《か》ぎあて、そのことが子爵をして自殺の決意をさせたのだ。しかし、それはどういうことだろう。
金田一耕助は庭にけぶる小雨を見ながら、何んとはなしに身ぶるいをする。まさかそのとき、眼のまえに浮んでいる淡路島の一隅で、あのような恐ろしい事件が演じられようとしているとは、夢にも知らなかったのだけれど。……
第十六章 悪魔ここに誕生す
植辰のあとを譲られたという植松の住所を聞いて、出川刑事が出かけたあと、金田一耕助は女中に寝床をのべてもらって横になった。
金田一耕助も戦争のために、ニューギニアの果てまで流れてきたくらいだから、見かけほど弱くはないが、やはり張り切り型の出川刑事のようなわけにはいかなかった。夜汽車の旅はつかれるのである。
しとしとと|枕《まくら》に通う秋雨の音をききながら、一時間ほどうとうとして、四時頃、眼をさましてみると、出川刑事はまだかえっていなかった。寝床を出て、縁側の障子をあけて見ると、雨はすっかりあがっていて、庭は床に入るまえより、かえって明るくなっている。
耕助が|蒲《ふ》|団《とん》をたたんでいると、おかみがお茶とお茶菓子を持って入って来た。
「あら、それはそのままにしといておくれやす。いま女中に片付けさせますさかいに」
と、盆をおいて茶をつぎながら、
「少しはお|寝《やす》みになれましたかいな」
「ああ、よく寝ましたよ。静かでいいな、ここは。……おかげでどうやら疲れもなおった。ときに、刑事さんはまだかえりませんか」
「へえ、まだ」
「植松というひとのうちはここから遠いの?」
「いいえ、そんなに遠いことはおませんのですけれど、どこかほかへよらはったんとちがいまっしゃろか」
そういえば、都合によっては土地の警察へ顔を出してくるかも知れないといっていた、出川刑事のことばを思い出した。
「それとも、植松がおらなんだかも知れまへんな。植木屋ちゅうたかて、|今日《き ょ う》び、ろくなお出入り先はおまへんですやろ。なんやかやと、|闇《やみ》みたいなことをやってるそうだすさかいな」
金田一耕助はボリボリと|煎《せん》|餠《べい》をかじりながら、思い出したように、
「ときに、もと玉虫|伯爵《はくしゃく》の別荘だったといううちね、それはここから遠いの」
「いえ、もう、歩いて十分か十五分のところだすが、どないしやはりますの」
「なにね、こうしていても仕方がないから、その別荘でも見て来ようかと思って。……」
「見てくるいわはったかて、戦災をうけてめちゃくちゃだっせ、残ってるちゅうたら|石《いし》|燈《どう》|籠《ろう》くらいのもんや」
「いや、それでもいいんだ。幸い雨もあがったようだし、ちょっと歩いて来たい。どういけばいいのかしら」
「そら、おいでになるんやったらおすみに案内させますけれど。……あの娘もちょうど、そっちの方角へ出かけるちゅうてましたさかいに」
呼び鈴を押すと、外出の支度をしたおすみが、障子の外へ来て手をついた。
「おすみちゃん、あんた姉さんのとこへ行かはるんなら、こっちのお客さんを途中まで御案内してあげておくれやす」
「へえ、あの、どっちゃまで」
「村雨堂のちょっと手前に、大阪の|葛城《かつらぎ》はんの別荘があったん知ってるやろ。こちらさん、あの別荘を見て来たいいわはりますさかい」
おすみは不思議そうな眼で耕助を見て、
「まあ、葛城さんの別荘ちゅうたかてまるでもう、跡かたもなくなってますけど」
「いや、それでいいんだよ。どのへんだか、ちょっと見てくればいいんだ」
「へえ、そんならどうぞお玄関のほうへおいでやして。わたしはお勝手から出ますさかいに」
耕助が玄関を出て待っていると、おすみが横のほうから小走りに出て来た。
「お待ち遠さま。さあ、お案内しまほ。どうぞこっちゃへおいでやして」
雨あがりとはいえ、このへんの地層は|花《か》|崗《こう》|岩《がん》から出来ているので、|水《みず》|溜《た》まりはあっても、ぬかるみといってはほとんどなく、かえってしっとりと水を吸った土が、さくさくと下駄の裏に快かった。西の空がしだいに赤味をましてくるのは、明日の天気を物語っているのであろう。
「どうやらお天気になりそうだね」
「ほんまにええかげんにあがってくれんと困りますわ。うっとうしゅうて。……」
そんな話をしながら、三春園から少しはなれると、道は坂の途中へさしかかったが、なるほどそこから浜辺へかけて、ひと目で見わたせる帯のようなせまい地帯の、いかにすさまじい戦災をうけたかがわかるのである。いたるところ|瓦《が》|礫《れき》と、焼けくずれた土の|堆《たい》|積《せき》で、そのあいだに雑草がわびしげにおい茂っている。それでもさすがに、山陽本線や電鉄の沿線には、バラックが建ちならんでいたけれど、耕助が歩いていく道の両側は、まだほとんど、戦災をうけた当時のままだった。
「なるほど、これはひどいね。まるでひと|舐《な》めじゃないか」
「へえ、ほんまに」
それからしばらく戦争のこと、空襲のおそろしかったこと、このへん一帯火の海になったうえに、逃げまどうひとびとのうえから、機銃掃射が加えられたこと。当時のだれでもが、会えば必ず話すような話をおすみもしながら、
「それでも下町や繁華街は、たとえバラックにしても、もうあらかた復興しましたけれど、このへんはなまじお屋敷が多かっただけに、なかなかそうはいきまへんのやわ、まさか、バラック建てるわけにもいきまへんし、財産税やなんかで、みんなえらい目におうてはりますさかいにな」
おすみはそこで、そのへんのお屋敷や別荘の、もとの持ち主の戦後のなりゆきについて、二、三例をあげて説明していたが、ふと思い出したように、
「そらそうとお客さん、あんたはん、なんで葛城はんの別荘のあとを見にいかはりますの」
と、耕助の顔をふりかえった。
「いや、ちょっと。行ってみたところで、大したことはないと思うんだが」
「やっぱり、こんどのお調べに、関係がおますのだすか」
「うん、あるといえばあるような、ないといえばないような」
言葉をにごす耕助の横顔を、おすみは|偸《ぬす》むように|視《み》ながら、
「あのなあ、お客さん、そういえばわたしも思い出したことがおますのよ。さっきお|訊《たず》ねなさった|椿《つばき》さんのことで。……」
「ほほう、どんなこと?」
耕助もはじめておすみの意味ありげな様子に気がついて、
「おすみちゃん、椿さんのことならどんなことでもいいんだ。どんな小っちゃな、つまらんことでもいいんだ。思い出したことがあったら教えてほしいとさっきもいったろ」
「へえ、でも、あのときは忘れてたんですわ。それがさっき、おかみさんが、葛城さんの別荘へお客さんを御案内しなはれいわはりましたやろ。それで、そうそと思い出しましたんやわ」
「どんなこと?」
「この一月に椿さんが、こっちゃへいらっしゃったとき、やっぱりあの別荘のあとに立ってはるのを、わたし見たんだっせ」
金田一耕助はどきっとしたように目をすぼめた。
「椿|子爵《ししゃく》が……? それ、いつのこと? 十五日のこと、十六日のこと?」
「さあ、そこまではよう|憶《おぼ》えとりませんけれど、十五日のことやったんやおまへんやろか。だって、十六日の日はさっきもゆうたとおり、お弁当持って出やはったんやさかい、このへんにうろうろしてはるはずおませんもの」
「なるほど、それで子爵はそこで何をしていたんだね」
「さあ、それはわたしにもわかりまへんわ。その葛城さんの別荘のちょっと向こうに、わたしの姉が住んでますの。幸い戦災からまぬがれたんだすわ。その日わたし、おかみさんにひまもろて、姉のところへ遊びにいったんだす。あ、そうそ、そういえばあれ十五日やわ。お正月の十五日に、わたし姉さんとこへ行ったんやさかいに。そのかえりのことだしたの。葛城さんのわきを通ると、男のひとが立ってまっしゃろ。わたしなんや気味が悪うて。……だって、もうそろそろ日が暮れかけて、あたりが薄暗うなってた時分のことだすもん。それでわたし、大急ぎでそばを通り過ぎようとすると、そのひとがひょいとこちらを振りかえったんだす。それが、あんた、椿さんやおませんの。わたしもびっくりしてしもて。……それでも頭さげないかんかしらと思てるうちに、そのひとはふいと顔をそむけると、焼け跡の向こうのほうから道へ出て、そのまますたすた行ってしまはりましたの」
「おすみちゃんはあとで椿さんに、そのことをいわなかったの?」
「いいえ。向こうさんのほうではあそこで|逢《お》うたん、わたしやとは御存じなかったらしいんですわ。何もおっしゃりませんでしたので、わたしもなんや、ゆうたら悪い思て。……それに、夕暮れの薄暗がりのことだしたさかいに、はっきり椿さんやったとは云いきれませんの。ひょっとしたら、ひとちがいやったかも知れんちゅう気もおましたさかいに。……」
金田一耕助は無言のまま足をはこびながら考える。
おすみの見たのはやはり椿子爵だったにちがいない。その昔、玉虫伯爵の別荘で起こった何事かを調べるために、わざわざ西下した椿子爵が、いまはもう跡かたもなく焼けくずれているとはいえ、そこを訪れてみようという気になるのは、ごく自然ななりゆきだった。
椿子爵はそこで何事が起こったか、行なわれたか知っていたのだ。それだけに、その焼け跡へ立った子爵の感懐もまたひとしおだったことだろう。それは|怨《うら》みか、悲しみか、憤りか。……もし、それが子爵をかって自殺を決行せしめたならば、そのときの子爵の感情の激動も、さぞ深刻だったことだろう。……
「それからなあ、お客さん」
黙々として歩いていた金田一耕助は、おすみの言葉にふと幻想をやぶられて、
「え? なに? おすみちゃん」
「十六日の日に、椿さんが行かはったとこなあ、わたしなんだかわかるような気がするんだっせ。もちろん、当て推量だすさかいに、間違うているかも知れまへんけれど」
金田一耕助は無言のまま、おすみの顔をふりかえる。おすみは鼻のひくい、平べったい顔をした、色の白いところをのぞいては、お世辞にもよい器量とはいいかねる娘だったが、小さい、細い眼のうごきにどことなく、|怜《れい》|悧《り》そうなところのうかがわれる娘だった。それにああいう客商売をしていれば、余人には見られぬ観察眼を持っているはずである。
「おすみちゃん」
金田一耕助はちょっと言葉に力をこめて、
「当て推量でもなんでもいいんだよ。おすみちゃんは|溺《おぼ》れる者は|藁《わら》をもつかむ、という言葉を知ってるだろう。われわれは溺れる者なんだよ。かいもく見当がついてないんだ。それにおすみちゃんは当て推量だというけれど、君みたいな|悧《り》|巧《こう》な娘さんの観察というものは、なかなか馬鹿に出来ないもんだよ」
「あら、わたし悧巧でもなんでもおませんわ」
おすみは言下に否定したが、それでもさすがに|嬉《うれ》しそうだった。
「いや、そうじゃない。君の話しぶりを聞いてると、|頭脳《あたま》のよいことがよくわかる。それにああいう商売をしていると、いろんなことがわかるようになるんだろ。われわれの気のつかないようなことが。……さあ、いっておくれ。一月十六日の日。椿さんはどこへいったと、おすみちゃんは考えるの?」
金田一耕助におだてられて、おすみはどぎまぎしながら、
「そないにいわれたら、わたしどうにもなりませんわ。でも、せっかくのお|訊《たず》ねだすさかいに、思いきっていうて見ます。間違うてたら堪忍しとくれやすや」
おすみはちょっと|唾《つば》をのんで、
「さっき番頭さんが、椿さんに明石へいくには、どういったらええかと聞かれたいわはりましたやろ。わたし、それで思い出したことがおますの。十六日の夕方、椿さんはおかえりになると、すぐお|風《ふ》|呂《ろ》へお入りやしたんです。わたしそのあとで、お洋服や|外《がい》|套《とう》のおしまつをしたんだすが、そのとき、ぷうんと潮の|匂《にお》いがするのに気がついたんです」
「潮の匂い……?」
「へえ、そうだすの、そら、このへんは海が近おますさかいに、潮の匂いは珍しゅうはおませんが、そのとき、椿さんの外套やお洋服にしみついてた匂いは、とてもそんなもんやおませんの。じかに潮を浴びたように。ああそうそう、それから生臭い匂いがしましたし、げんに魚の|鱗《うろこ》がふたつ三つ、ズボンや外套のすそについてたんだす」
「魚の鱗が……?」
金田一耕助はちょっと眼を見張って、
「で、おすみちゃんはそれをどう思うの」
「椿さんはきっと漁師の舟に乗らはったんですわ、明石から。……とゆうてまさか釣りにいかはったとは思えませんさかいに、それで淡路へ渡らはったんやおまへんやろか」
「淡路へ……?」
金田一耕助は思わずうしろをふりかえる。
丘陵の出っ鼻にさまたげられて、すっかりは見えなかったけれど、暮れなずんでいく海の向こうに、淡路島山がまゆずみ色に煙っている。金田一耕助はふっと怪しい胸さわぎをおぼえる。
「おすみちゃん、しかし、淡路へわたるには、ほかにちゃんとした舟はないの。連絡船やなんか……」
「いえ、それはおます。立派な船が一日に五度も六度も、|明《あか》|石《し》と|岩《いわ》|屋《や》の間を往復してます。しかし、お客さん、椿さんいうかたは、出来るだけあのときの旅行を、秘密になさっていやはったとちがいますやろか」
「それはそうだ。東京の警察で調べられたときも、三春園に泊まったことまではいったが、それからさきはどうしてもいわなかったそうだ。いや、いわなかったのみならず、それを調べてくれるなという条件で、三春園に泊まったことを白状したんだそうな」
「それやったらお客さん」
と、おすみはいくらか得意のいろをうかべて、
「連絡船でわたるより、漁師の舟でいたほうが、安全なんだっせ。お客さんは御存じかどうか知りませんが、淡路はいまヤミ島やいわれるくらい、神戸大阪からぎょうさん買い出し部隊が出かけていきますのだっせ。何しろ岩屋で卵買うて、明石へ持って来ただけでも、三倍に売れるいわれるくらいだすもん。そんな買い出し部隊はみんな漁師の伝馬船やとていきますの。漁師は漁師で魚釣っても,陸まで持って来よらしません。沖取り引きゆうて、みんな神戸大阪から来た商売人に、海のうえで売りさばいてしまうのです。そういうわけで、漁師やなんか、みんな多少うしろ暗いことしてますさかいに、警察で調べられても、なかなかほんまのこといやしませんわ。それやさかいに、椿さんが、人に知れんように淡路へわたろ思わはったら、連絡船でいくより、漁師の舟やとて行かはったほうが、よっぽど安全やと思いますわ」
金田一耕助はあらためておすみの顔を見直した。彼女の理路は整然としており、まだ年少なのにも|拘《かかわ》らず、さすがにああいう稼業をしてるだけに、いろんなことを知っているのに感服した。
「それごらん、おすみちゃん、ぼくのいったとおりだろう。君はなかなか悧巧じゃないか」
「また、あんなこと……」
おすみはどこか、文楽の人形の首に似た顔を、うすく染めながら、
「そんなことはどうでもよろしいが、なあ、お客さん、椿さんが淡路へわたらはったかどうかはべつとして、漁師の舟に乗らはったことだけは間違いないと思いますのん」
「どうしておすみちゃんはそのことに、それほど強い確信が持てるんだね」
「それはなあ、お客さん、わたしのお父さんいうのが釣りが好きで、戦争中の景気のええ時分、よう明石へ釣りにいったもんだす。そこから漁師の舟に乗って、沖へ釣りに出るのだすわ。あのへん、日本でもいちばんおいしい魚がとれるとこだすさかいにな。そんなとき、釣りからかえってきたお父さんの匂いいうのが、あのとき、椿さんのお洋服や|外《がい》|套《とう》にしみついてた匂いと、そっくり同じやったんですもの。そのお父さんも戦災で、のうなってしまわはりましたけれど。……」
おすみはちょっと沈んだ声になったが、急に気がついたようにあたりを見回し、
「あら、わたしとしたことが、おしゃべりに夢中になって、うっかり通りすぎてしまうとこやったわ。お客さん、ここが葛城さんの別荘の跡だすの」
おすみの言葉に、金田一耕助も夢からさめたように、あたりを|見《み》|廻《まわ》す。
すると、足下にみごとに焼け落ちた三千坪ばかりの敷地を見出すのである。もとはいま、金田一耕助やおすみの立っている坂の片側に、|煉《れん》|瓦《が》|塀《べい》かなにかがきずかれていたのであろうが、それも完全に焼けくずれて、すっかり裸にされた敷地のなかは、建物といい、庭の樹木といい、みごとに焼けおちて、ほとんど一物をあまさずというありさまだった。三春園のおかみがいったとおり、残っているのは庭石と|石《いし》|燈《どう》|籠《ろう》だけ、それも白く焼けただれて、折りからの秋の西陽を吸うているのが物悲しい。
「これはまた、みごとに焼けていますね」
金田一耕助は慨嘆しながら、
「ときに、おすみちゃん、椿さんが立っていたというのはどのへんだね」
「あそこ、ほら、お池のそばに石燈籠が立ってまっしゃろ。あのそばに立ってはりましたの。そして、わたしの姿に気がつくと、向こうに見える正門から、すたすた外へ出ていかはりましたの。お客さん、ちょっとそこからおりて見まほ」
坂の途中に通用門でもあったらしく、石段がななめについている。
「おすみちゃん、もういいよ。君はもう行きたまえ。おそくなるといけないから」
「ううん、構いませんの。姉さんのうち、すぐそこだすさかいに」
焼けくずれて、足下も危っかしくなっている石段を、おすみは構わず下駄でとんとんおりていく。金田一耕助もそのあとからつづいた。
石段をおりると、焼けくずれた|瓦《が》|礫《れき》の|堆《たい》|積《せき》のあいだ、いちめんの雑草である。雨にぬれた赤まんまの穂が、さざなみのようにそよいでいる。おすみと金田一耕助は、着物のすそをしとどにぬらして、さっきおすみの指さした石燈籠のそばまでたどりついた。
もとはきっと、名だたる名園でもうつしたのであろう。池や|築《つき》|山《やま》のたたずまい、庭石の配置、いくらか昔の面影をとどめているとはいうものの、いまはもうむなしい|廃《はい》|墟《きょ》でしかない。
「ほんまにもったいないことしたもんやわ。わたしらなかへ入ったことはおませんけれど、塀の外から見ても、御殿のような屋根が見えてましたのに。……」
その御殿のような建物も、いまはもう跡かたもなく、雑草に埋もれた土台が、そのかみの栄華の夢を物語るばかり。
とんぼがいっぴき来て、つと石燈籠の|笠《かさ》にとまった。おすみは娘らしいおさなごころから、本能的にそれを捕えようとして、石燈籠のそばへよった。とんぼはおすみの指を待つまでもなく、ふっと空へとび去っていく。
おすみはしかし、そのまま動かず、石燈籠の灯入れのおもてを一心不乱にながめていたが、急に金田一耕助のほうをふりかえると、
「お客さん、お客さん」
と、あわただしく呼んだ。
「なんだい、おすみちゃん」
「ここになんや、けったいなことが書いておますわ。悪魔ここに……それから、これなんちゅう字だすの」
「悪魔……?」
金田一耕助もぎょっとしたような気持ちで、おすみのうしろへ来て立った。
「ほら、ここに……燈籠の|御《み》|影《かげ》|石《いし》のうえに。……」
なるほど、白く焼けただれた石燈籠の灯入れのおもてに、|抉《えぐ》るように書かれた青鉛筆の文字が、雨にさらされてかえって黒味を濃くしてしみついている。これは椿英輔氏の|筆《ひっ》|蹟《せき》にはなはだ似ていて、文句は、
――悪魔ここに誕生す。
第十七章 妙海尼
その夜、出川刑事がかえって来たのは、九時過ぎのことだった。さすが精力型の出川刑事も、昨夜の旅行にひきつづく今日の活動でいくらかバテ気味に見える。
「やあ、御苦労さま。お疲れでしょう」
金田一耕助もまさかさきに寝るわけにもいかず、おかみを相手にとりとめもない話をしていたが、かえって来た刑事のげっそりしたような顔を見ると、慰めがおにいたわった。
「いやあ、どうも、やっぱり知らぬ土地だと、よけい神経を使うと見えてつかれますな」
「ほんまになあ。あんたがたの御商売もたいていやおまへんな」
と、おかみもいたわるように、
「ときに、あんたはん、お食事は?」
「いや、食事はすませて来ました」
「さよか、ほんならお|風《ふ》|呂《ろ》お召しやす。それからいっぱい飲んでおやすみやしたらよろしいわ」
「そうですか。じゃ、そういうことにお願いしましょうか」
刑事が風呂へ入っているあいだに、おかみは女中にさしずして、寝酒の支度をさせる。こういう女の常としてひとから頼りにされると|嬉《うれ》しいのである。いまではこの若い刑事に、手柄をさせてやりたいという好意でいっぱいらしかった。
「やあ、どうもいいお湯でした。これでやっとさっぱりしました」
風呂からあがった出川刑事は、顔をてらてら光らせて、どうやら|日《ひ》|頃《ごろ》の精気を取りもどしたらしい。
「それじゃ、さっぱりしたところでひとつどうです。せっかくのおかみさんの心づくしだから」
「やあ、これはこれは。たいへん|御《ご》|馳《ち》|走《そう》がならびましたな」
「いえ、もう、ほんまに、なんにもおまへんのよ。でも、この|鯛《たい》は明石の漁師にたのんで、わざわざとどけてもらいましたんです」
明石の漁師ときいて、金田一耕助はふっとおかみの顔を見る。そして、何かいいかけたが、すぐ思い直したように、
「ときに、出川さん、だいぶお手間がとれたようですが、何か耳よりな聞き込みがありましたか」
「さあ、それがねえ。しめたっと思ってたぐっていくと、全部途中で糸が切れよる。でも、まあ、第一日としては成功の部ですかな」
「あの……わたしは御遠慮しまひょうな」
おかみが大きなお|臀《しり》を持ちあげようとするのを、金田一耕助はあわてておさえて、
「いや、おかみさんはここにいてください。いろいろまた、お智恵を拝借しなければならぬことがあると思いますから。ねえ、出川さん、いいでしょう」
「いいですとも。何しろわれわれふたりとも不案内な土地で……それになるべくなら、こちらの警察の手を借りたくないと思っているんですから、おかみさんが何よりの頼りで。……」
そういわれるとおかみも嬉しいのである。大きな臀を落ちつけて、
「あら、まあ、わたしらなんにもお役に立ちませんけれど、その代わり、しゃべったらいかんことは、絶対に、しゃべりゃいたしませんから。……それで、あの、植辰のおっさんの消息はわかりましたかいな」
「はあ、わかりました。ところがねえ」
金田一耕助はあまりいける口ではなかったが、出川刑事は好きらしく、おかみさんの|酌《しゃく》で、いかにも楽しそうに|盃《さかずき》をなめながら、
「植辰の|親《おや》|爺《じ》というのは、死んだそうですよ」
「あら、まあ、どないして……あんな丈夫そうなおっさんが……」
「それが、やっぱり、空襲でやられたんだそうで。板宿というんですか、あのへんいったいやられた晩、植辰の親爺は酔っぱらって、空襲の最中に、ふんどし一本の素っ裸で外へとび出し、もっと来い、もっと来い、どんどん落とせなんていばってるうちに、ほんとうに直撃弾にやられて、死んじまったそうです」
「あら、まあ、わたしちっとも知りまへなんだわ。もっともその時分、わたしは疎開してて、こっちゃにおりまへなんだんやけれど。でも、まあ、いかにも植辰のおっさんらしい最期だすな」
「あっはっは、植松の親爺もそういって笑っていましたよ」
「そうすると、出川さん、植辰の線はそこで切れてしまったわけですか」
「いや、そういうわけでもないんです。植辰は死んだ時分、おたまという若い|妾《めかけ》と|同《どう》|棲《せい》してたそうですが、……そうそう、このおたまという女は、こちらのおかみさんも御存じあるまいと植松はいってましたな。植辰の親爺はその後何人も女を取りかえて、最後に同棲していたおたまというのは、三十五、六の、酌婦あがりかなんからしいというんですが、これが、植辰から、何か聞いてやあしないかと思うんですがね」
「それで、あの、おこまはんやお|小《さ》|夜《よ》ちゃんの消息は……?」
「いや、それについては、話があるんですよ」
出川刑事は鯛の刺身をつつきながら、
「植辰がやられたとき、妾のおたまは植松のところへ避難してきたそうです。植松のうちは、ああして助かってますからね。植松も話をきいて驚いて、捨ててはおけんというわけで、植辰の|死《し》|骸《がい》をひきとり、その時分のことですから、何も出来なかったが、とにかくかたちばかりのお|葬《とむら》いをしたそうです。そのとき、植辰のいちばん濃い身寄りといえば、娘のおこまと、妾にうませた息子の治雄……と、いうんだそうですね。このふたりだが、息子のほうは当時兵隊にとられていたので、おこまさんだけにはぜひ知らさなきゃ……と、いうことになったが、植松ではもうながいこと、おこまとは縁が切れてしまって、どこでどうしているか、ちっとも知らなかったそうです。ところが、おたまという妾が知っていて、じぶんでいって呼んで来たそうですが、そのときは植松も驚いたといってました。なんでも十年ぶりかなんかで会ったんだそうですが、すっかりやつれて、昔の面影さらになしという、ていたらくだったそうで」
「まあまあ、可哀そうに。あの器量よしのおこまはんがなあ。ずいぶん、苦労したんだっしゃろな。それで、源やんやお小夜ちゃんは……?」
「さあ、それなんですよ。亭主の源助というのは、おかみさんもいったとおり、神戸で土方かなんかしていたが、悪い病気をもらって、気がくるって死んでしまったそうです。どうもおこまさんも、この病気をもらっているんじゃないか。なんだか、そんな顔色でしたと、植松はいっていましたがね」
「まあ、まあ、なんて因果な。ほんまに可哀そうに。……それでお小夜ちゃんは? あの子はもうええ娘になってる|年《とし》|頃《ごろ》だすが」
「ところが、そのお小夜という娘も死んだというんです」
「へっ、あの、お小夜ちゃんも」
「そうなんです。しかし、それがどうもおかしいと、植松はいうんですよ。おこまさんにお小夜ちゃんのことを聞くと、あれも死にましたといったきり、いつ、どこで、どうして死んだかというようなことは、絶対にいわなかったそうです。あれには何かわけがあるらしいと、植松はいってましたがね」
金田一耕助はだまって考えていたが、
「ところで、その植松の親爺というのが、最後にお小夜という娘を見たのは……?」
「なんでも、その子が十一か二の時分だったそうですが、この子はいくいく、どんなべっぴんになるだろうと思われるような、それはそれは可愛い娘だったそうです」
出川刑事はそういって、盃を持ったまま、じっと意味ありげに金田一耕助の|瞳《め》をみる。
金田一耕助にもその意味はわかっていた。出川刑事はこんどの事件の関係者のなかに、お小夜に相当する人物を、当てはめてみようとしているのだ。生きていれば二十三、四になる娘。……そして、おそらく非常な美人……金田一耕助の頭脳のなかを、ふと、ある面影がかすめて通る。しかし、金田一耕助はあわててそれを|揉《も》み消した。お小夜という娘の生死、あるいはその後のなりゆきが、もっとはっきりわかるまでは、そういう考えかたをすることは禁物なのである。
「ところで、おこまさんという女は、その時分、何をしていたんですか。亭主もなく、娘も死んだとすると……?」
「なんでも|蘆《あし》|屋《や》か|住《すみ》|吉《よし》へんの、金持ちの疎開したあとへ、留守番みたいにして住みこんでいたらしいと、植松はいうんです。ところが、都合の悪いことには、植松もその家を知らないんですよ。おこまに聞いてみたが、はっきりと答えなかったそうです。おこまにしてみれば、お小夜という|父《てて》なし児をうんだことがありますから、昔のことを知ってる連中とは、なるべくならば、つきあいたくない|肚《はら》らしいんですね。植松もそれを察したから、しつこくは聞かず、お葬いがすむとそのままわかれて、それきりだそうです。だから、その後も金持ちの家の留守番をしていたのか、それとも、あのへんも空襲でやられたから、また、どっかへ行ったのか、さっぱりわからぬと植松はいうんです」
「まあまあ、ほんまに、はかないことだすな。あの戦争ちゅうもんさえなかったら、こんなにみんな、ちりぢりばらばらになることも、おまへなんだやろうにな」
そうなのだ。その戦争のために、こういう捜査ごとの場合、どれだけ|掣肘《せいちゅう》をうけるかわからないのである。
「ところで、おたまという|妾《めかけ》はどうしました。その女は当時、おこまの住み込んでいた家を知っていたわけですね」
「そうなんです。ところが、そのおたまという女も、二、三日、植松のところへ厄介になったのち、鳥取のほうに|親《しん》|戚《せき》があるからと、そっちへいってそれっきり。これまた、植松のほうでは消息がわかっていないんです」
「ほほう、すると、この線もそこで切れてしまったわけですか」
「いや、それがそうでもないんです。植松のところで、だいたい以上のようなことを|訊《き》いたのち、板宿の、せんに植辰の住んでいた家の近所というのへいってみました。さいわい、あのへんはもうだいぶ復興していて、昔住んでた連中が、バラックを建ててかえってきているんですね。そのなかには、植辰やおたまを知っているひとも沢山いました。そういうひとたちに片っぱしから当たって、おこまやお小夜、それから兵隊にとられた治雄という|倅《せがれ》、また、おたまのことを聞いてみたんですが、おたまのことはともかく、おこま母子や治雄という息子のことを知っているひとは、ほとんどいないんですね」
金田一耕助は|眉《まゆ》をひそめて、
「すると、治雄という息子は、|親《おや》|爺《じ》といっしょに住んでいなかったんですか」
「そうなんです。これは植松もいってましたがね。なにしろ、親爺の植辰が、つぎからつぎへと女をとりかえるもんだから、治雄も家にいづらくて、小学校を出たじぶんから、神戸のどこかへ奉公にいっていて、親爺のところへかえることは、ほとんどなかったそうです。おこまはおこまで、じぶんより年の若い妾のいるところへなど、顔出ししたくなかったんでしょうな。ほとんど寄りつかなかったらしい。と、いうわけで、おこま母子や治雄のことは、てんで要領をえませんでしたが、さいわい、ちかごろ……と、いっても、もう一年ほどまえのことですが、妾のおたまに会ったというひとを見つけましてね」
「ああ、すると、おたまは鳥取から、またこっちへ舞いもどっているんですね」
「そうなんです。そのひと……おたまにあったというひとですね、……そのひとがいうのに、去年の秋、神戸の新開地でばったりおたまに会ったというんです。そのとき、ちょっと立ち話をしたが、そのときのおたまさんの口ぶりでは、新開地の近所の、アベック専門の旅館、つまり、いまはやりの温泉マークのついた旅館ですね。そういうところへ女中として住みこんでいるらしいというんです。そこでさっそく新開地へとんで見たんですがね」
「まあまあ,ほんまにまあ、えらいお仕事だすな。それでおたまはんの居所がわかりましたのかいな」
「それがねえ、そのひとも旅館の名前は知らぬというんです。おたまさんに聞いたかも知らぬが、忘れてしまったというんですよ。それで、仕方がないから、おたまに会ったという地点を中心として、その付近の温泉マークの旅館を|虱《しらみ》つぶしに調べてみたんです」
「そんなにたくさん、そういう種類の旅館があるところなんですか。新開地というのは?」
「ああ、金田一先生は御存じないかも知れませんが、新開地というのは、まるで|浅《あさ》|草《くさ》の六区みたいなところですな。おまけにすぐそばに、|吉《よし》|原《わら》に相当する|福《ふく》|原《はら》という|遊《ゆう》|廓《かく》がある。まあ、たいへんなところですな。だから、そういう種類の旅館もやたらにあるんですが、それでもやっと、六軒目か七軒目につきとめましたよ。おたまがいたといううちをね」
「おたまがいた……? それじゃ、もうそこにはいないんですか」
「そうなんです。今年の三月ごろまではそこにいたんですが、その後どこかへ行っちまったんですね」
「そして、その宿ではおたまの現在の居所を知らないんですか」
「知らないんです。知らないのも道理、おたまはそこの物を持ち出して逃げたというんだから、居所を知られるようなヘマをするはずがない。……」
「あれ、まあ、運の悪い。せっかく、そこまでつきとめはったのに……」
おかみは大きく|溜《た》め息をつく。出川刑事はこともなげにわらって、
「いや、おかみさん、われわれの仕事って、万事こんなものですよ。そう、とんとん拍子にいっちゃ苦労はありませんや。今日など、むしろうまくいき過ぎたくらいですよ」
「ほんまにそうだっしゃろな。えらいお仕事やいうことがわかりまんな。まあ、ひとつ、熱いのが来ましたから」
「はあ、どうも有難う」
「ところで出川さん、そこで何か聞き込みはなかったんですか。おたまの|識《し》り合いやなんかについて。……」
「それも聞いてみました。ところがおたまは戦争で、身寄りのものは皆なくしたとかいってたそうで、そこに奉公しているあいだ、たずねて来たものはひとりもなかったそうです。ところが最近……それも、一昨日のことですがね、こちらにおたまさんというひとがいるはずだが……と、たずねて来たものがあるそうです」
「一昨日……? どういう人物ですか」
「尼さんなんだそうですがね。宿のものがおたまさんはもうここにいない、居所もわからないというと、ひどくがっかりして帰っていったそうですが、かえりがけに、もしおたまさんの居所がわかったら、淡路から妙海の尼がたずねて来たと伝えてくださいと、そういいおいてかえっていったそうです」
「淡路から……?」
とつぜん金田一耕助は弾かれたように、ちゃぶ台から身をのり出した。
「そ、そ、そして、出川さん、その尼というのは、い、いったい、ど、どんな女なんです」
金田一耕助の権幕があまりはげしかったので、刑事もおかみもびっくりしたように顔を見直した。刑事は|盃《さかずき》をおいて、
「金田一先生、なにかその尼さんに……?」
「いや、そ、そ、それについてはあとでお話しします。それより、その尼さんというのは、いくつぐらいの|年《とし》|頃《ごろ》で、どういう女だかわかりませんか」
「だいたいのことは聞いてきましたがねえ。しかし、わたしもその尼が、そんなに重要な人物だとは気がつかなかったものですから。……なんでも五十五、六の、ちょっと|小《こ》|綺《ぎ》|麗《れい》だが、顔色の悪い女だそうで、……そうそう、右の|眼《め》|尻《じり》に小さなほくろがあったとかいってましたが……」
「あら、まあ、ほんならそれ、おこまはんとちがいまっしゃろか。おこまはんにも、右の眼尻に小さなほくろがおましたが……そやけど年かっこうがちがいますな。おこまはんはことし四十二か三やと思いますけど。……」
「それだ! おかみさん、それですよ!」
金田一耕助は|昂《こう》|奮《ふん》のために声をふるわせて、
「植松の親爺はなんといったと出川さんはおっしゃった? ずいぶんやつれて、昔の面影はさらになかったといったそうじゃありませんか。おこまは苦労と悪い病気で、すっかり|老《ふ》けてしまったのに違いない。そして、出川さん」
「はあ」
「椿|子爵《ししゃく》は、一月十六日に、その女をたずねて淡路へわたったのに違いありませんよ」
出川刑事はびっくりして眼をまるくした。
「金田一さん、そ、それをどうして……」
金田一耕助はそこであらためて、おすみの観察なるものを語ってきかせると、
「ぼくもそのとき、おすみちゃんの観察のなかなか鋭いのには感服したが、まさかそのまま|鵜《う》|呑《の》みにしようたあ思わなかった。しかし、いまの出川さんの話を聞くと、また淡路へむすびついて来たじゃありませんか。これはどうしても、いちど淡路へわたって見なければなりませんね」
「まあまあ、おすみがそんなことを申しましたか」
「おかみさん、あの娘はなかなか|悧《り》|巧《こう》ですね。話しっぷりを聞いていても、頭のいいことがよくわかる。ところで、ねえ。出川さん」
「はあ」
「その尼さんがおたまをたずねて来たのは、一昨日だとおっしゃいましたね」
「はあ、そうです」
「一昨日といえば十月一日。あの事件がはじめて新聞に出たのはその朝のことですよ。妙海尼はそれを読んで何か思いあたるふしがあったので、淡路からわざわざ、おたまのところへ相談に来たんじゃないでしょうか」
出川刑事はどきっとした眼で、金田一耕助の顔を見すえていたが、やがて、いくらか声をふるわして、
「そういえば、金田一先生、旅館のものの話によると、その尼は、ひどく取り乱した様子だったそうですよ」
一瞬しいんとした沈黙が、部屋のなかにみなぎりわたる。三人は一種異様な光をおびた眼を、たがいに見交わしていたが、やがて、金田一耕助がギコチなく|空《から》|咳《せき》をすると、
「こうなると、一刻も早く、その尼さんをさがし出さねばなりませんが、淡路とだけで、詳しいことはわかりませんか」
「はあ、わたしもそれを聞いてみたんですが、淡路の妙海尼といっただけで、それ以上のことはいわなかったそうです。おたまにはそれだけでわかるんですね、きっと」
金田一耕助はにっこりとおかみの方をふりかえって、
「おかみさん、やっぱり、あなたにここにいて頂いてよかったですよ。こうなると、おかみさんのお力を借りるよりほかに、手がなくなりました」
「あら、まあ、わたしに何が出来まっしゃろ。出来ることなら、そら、なんでもお手助けさせてもらいますけど」
「おかみさんはさっきおっしゃったでしょう。この|鯛《たい》は明石の漁師に、わざわざとどけてもらったと。そうするとあのひとたちにお|馴《な》|染《じ》みがおありなんでしょう」
「へえ、そら、お父つぁんの代から、出入りしてるもんがおりますねん。それやさかいに、わたしら戦争中でも、魚だけは不自由しませなんだんです」
「それですよ。そのお顔をお借りしたいんです。そのひとたちのなかに、今年の一月十六日に、椿子爵を淡路へ送っていったひとがあるに違いない。しかし、おすみちゃんもいってたが、こういうことは警察が正面に出ると、なかなか、ほんとのことはいわないもんです。そこをおかみさんの顔でなんとか、探し出してはもらえないでしょうか。むろん、なんのために、こういうことを調べているのか、……それをおっしゃっていただいては困りますが、その代わり、そのひとたちのヤミ行為やなんかについては、絶対にタッチしないということを、よくおっしゃっていただいて」
「わかりました。そんなことなら造作おまへん。万事わたしにまかしといておくれやす。明日のお昼までには、きっと探し出してお眼にかけまっさ」
おかみさんはそういって、赤ん坊のようにまるまるとふとった|掌《てのひら》で、じぶんの胸をたたいて見せた。
こうして金田一耕助と出川刑事の捜査の焦点は、はじめて淡路へ向けられることになったのである。
第十八章 不倫問答
その晩、おそくまで寝床のなかで、出川刑事と話しこんでしまったので、翌朝、金田一耕助が眼をさましたのは、九時ももう半ばを過ぎていた。雨戸はまだしまっていたけれど、となりの寝床はもぬけのからで、出川刑事の姿は見えない。
|枕許《まくらもと》においてあった腕時計を見て、金田一耕助がおどろいてとび起きると、乱れ箱には出川刑事のどてらと|浴衣《ゆかた》がぬぎ捨ててあり、その代わり、|長押《なげし》にかけてあった洋服が見えなかった。それでは刑事はもう出掛けたのかといくらかあわて気味で雨戸をあけると、夜のうちにまた天気がかわったらしく、かなりひどい土砂降りになっている。
「これは。……」
と、耕助はいちまい雨戸をくったきり、縁側に立ってぼんやり雨脚を眺めている。庭石にたたきつける雨のいきおいはかなり強く、庭樹も遠くのほうは薄墨色にぼかされて、むろん、淡路島は見るよしもない。
こいつは少し|幸《さい》|先《さき》が悪いかなと、耕助が首をひねっているところへ、昨夜は姿を見せなかった女中のおすみがやって来た。
「お早うございます。雨戸はわたしが開けますよってに。……」
「お早う。またお天気が変わったね」
「へえ、ええあんばいやと、おかみさんはいうてはります」
「よいあんばいとは……?」
「このしけなら漁師もうちにいよるやろと。……」
「ああ、そうか」
それでは幸先がよかったのかと、金田一耕助は、あらためて降りしきる雨に目をやった。
「それに、お昼過ぎには小降りになって晴れると、ラジオもいうてますさかいに。……」
「それだとますます好都合だね。それで、明石のほうへは……?」
「番頭はんがいかはりました」
「それは御苦労様だね。この雨のなかを。……出川さんもいっしょにいったの」
「いいえ、出川さんはべつのところだっしゃろ。|旦《だん》|那《な》さん、顔をお洗いやして」
耕助が顔を洗って、おそい朝飯の|膳《ぜん》にむかっているところへ、おかみが|挨《あい》|拶《さつ》にやって来た。
「おかみさん、すまない。番頭さんが明石へいってくれたんだってね」
「へえ、今朝はやくやりました。ええあんばいに、このしけだすさかいに、漁師もみんないますやろ」
「うまくお目当てのが見つかればいいがね」
「そらおすみのいうように、ほんまに|椿《つばき》さんが漁師の舟でわたらはったんやったら、きっとつかまえて来ます。あら、|年《と》|齢《し》は若おますけど、なかなか抜け目のない男だすさかい」
「いや、いろいろお世話になってすまない」
「なんの、あんた、これしきのこと」
「出川君は……?」
「あのかたは神戸へいかはりました。昨夜のとこへいて、もういっぺんおたまはんのことや、それにひょっとしたら、尼さんの居所がわからへんか聞いてみるおっしゃって……」
「ああ,そう、ぼくはすっかり寝坊しちゃったな」
「お疲れにならはりましたんやろ。それに|昨夜《ゆんべ》はだいぶ遅うまで、お話しのようすだしたさかいにな。御飯がすんだら番頭はんや出川さんがかえってくるまで、横になっておいでやす」
「ああ,有難う。もう大丈夫ですよ」
おかみがさがると、耕助は机にむかって、手紙を二本書いた。一本は久保銀造、一本は|磯《いそ》|川《かわ》警部に|宛《あ》ててである。
もし、諸君が「本陣殺人事件」や「獄門島」をお読みくだされば、このふたりがどういう人物か、おわかりのはずである。久保銀造というのは岡山県の農村で果樹園をやっている人物、耕助にとっては一種のパトロンである。磯川警部は岡山県の警察本部に勤務していて、「本陣殺人事件」以来、金田一耕助とは古い|馴《な》|染《じ》みである。
耕助はせっかくここまで来たのだから、ひと足のばしてふたりに会っていきたかったのだけれど、こちらの捜査の進展いかんによっては、そういうわけにはいかなくなるのかも知れないので、取りあえず手紙で挨拶をしておこうと思ったのである。
おすみにたのんで手紙を出してもらうと、耕助はたばこに火をつけ、ぼんやり庭のおもてを眺めながら、昨日からこちらで得た知識を、頭のなかでまとめてみようと試みる。
かつて玉虫|伯爵《はくしゃく》が栄華をほこった別荘の焼け跡に、椿|子爵《ししゃく》の|筆《ひっ》|蹟《せき》らしい文字がのこっているところを見ると、子爵の旅行の目的は、もう明らかだといってもいいだろう。玉虫家、あるいは妻の里方の新宮家に関する何事かを、調査にきたのにちがいない。
しかし、悪魔ここに誕生す、――と、いうあの|呪《のろ》わしい言葉はいったい何を意味するだろう。出川刑事はそれを|小《さ》|夜《よ》|子《こ》のことだという。しかし、小夜子はそこでうまれたわけではない。おこまが小夜子を|身《み》|籠《ご》もったのは、その別荘だったかも知れないけれど、小夜子がうまれたのは、おこまが源助といっしょになってからのことである。いま、かりに身籠もったことをもって、誕生といったとしても、子爵はなぜ小夜子のことを悪魔と呼ぶのか。子爵は小夜子を知っているのか。
出川刑事はこんどの事件の関係者のなかから、小夜子に相当する人物を探し出そうとしている。小夜子の|年《とし》|頃《ごろ》に相当する人物といえば、菊江とお種である。いま、かりに、かれらのどちらかが小夜子であるとしても、子爵はなぜそれを悪魔とよぶのか。
出川刑事は小夜子を菊江だろうという。そして、小夜子の父については、ふたつの意見を持っている。新宮利彦の場合と、玉虫伯爵の場合と。……
「しかし、それじゃ……」
金田一耕助もこの大胆な意見には、眼を見張らずにはいられなかった。
「このうえもなく不倫なことになるじゃありませんか。じぶんの|甥《おい》の娘、あるいは、じぶんの娘と通じていることに。……」
出川刑事はしかし、こともなげに、
「なあに、前者の場合はそれほど不倫てことになりませんよ。ことにああいう連中の神経は、われわれ庶民とはちがっていて、そういうことにかけちゃ、わりにルーズなんじゃありませんかね。昔の歴史をみるとよくあるじゃありませんか。|叔《お》|父《じ》と|姪《めい》とくっついたり、|叔《お》|母《ば》と甥とが夫婦になったり、息子の嫁に手をつけたり。……」
「しかし、いくらなんだってじぶんの娘と……ええ、そりゃ外国にも例があります。親父と通じ、兄貴を恋人にしたなんて|物《もの》|凄《すご》い女もある。しかし、まさか玉虫伯爵が……」
「ええ、だから、その場合は、菊江は|妾《めかけ》じゃないと考えたらどうです。表面妾ということにして、世間をとりつくろっているが、じつはじぶんの隠し子を引きとって面倒見てるのだと。……」
しかし、それもうなずけないことである。玉虫伯爵のような暴君が、じぶんの娘を引きとるのに、それほど気がねをしようとは思えないし、また、引きとるほど愛情のある娘ならば、その娘に、妾の汚名をきせるような|真《ま》|似《ね》はしないであろう。
「それじゃ、伯爵のほうじゃ知らなかったとしたらどうです。菊江が娘であるということを。……」
「そして、菊江のほうは知っているというんですか」
「ええ、そう、知っていて近づいた。……つまり、生まれながらにして捨てられた、昔の恨みを晴らそうというわけですね」
「しかし、それじゃ菊江は知っていて、親父に身をまかせたというのですか」
「ええ、まあそうです。だから椿子爵が悪魔と呼ぶんじゃありませんか」
なるほど、出川刑事のいうとおりだとすると、このうえもなく恐ろしいことであり、悪魔とよばれても不思議はない。しかし、そのことが子爵の遺書にあるように、とくに|椿家《つばきけ》の家名を泥沼に落とすことになるだろうか。むろん、玉虫家もいまでは椿家の|親《しん》|戚《せき》にあたるのだから、玉虫家の不名誉は、椿家にとっても不名誉かも知れない。しかし、いかに椿子爵が小心とはいえ、玉虫伯爵の不名誉のために、自殺を決意しようとは思われない。
そして、そのことはお種が小夜子であった場合も同様である。お種がかりに新宮子爵、あるいは玉虫伯爵のおとしだねであったとしても、それがとくに椿家の家名にかかわろうとは思われぬ。お種は子爵に同情し、子爵もお種を可愛がっていたというから、いまかりに、ふたりのあいだに主従以上の関係が結ばれていたとしても、――謹厳な椿子爵にそのような間違いがあったろうとは思われぬが――そして、そういう関係が結ばれてから、お種の素性がわかったとしても、そのために子爵が自殺しようとは思われぬ。
お種が新宮子爵の子であった場合は妻の姪になり、玉虫伯爵のかくし子であった場合は、妻のいとこということになるから、それはそれで、たしかに不倫なことにはちがいないが、そのために椿家の家名が泥沼に落ちるというほど、深刻なショックを、子爵にあたえようとは思われぬ。それに第一、お種も悪い器量ではないが、大きくなったら、どんなべっぴんになるだろうと、いわれたほどの美人ではない。
「しかしねえ、金田一先生」
と、出川刑事はまたいった。
「おかみの言葉によると、妙海という尼は、おこまにちがいないように思われる。それからまた、子爵がおこまに|逢《あ》いにいったということも、だんだん、ほんとうらしく思えてきました。そうすると、おこまは子爵になんの話をしたんです。おこまは常雇いの小間使いじゃなかったんでしょう。ただ,夏場だけ伯爵の別荘へ手伝いにいっていたんでしょう。そんな女が玉虫家なり、新宮家なりの、それほど深い秘密を知るはずがないじゃありませんか。お小夜のこと以外には。……だから、やっぱりお小夜がどこかにいるんですよ。子爵に非常な脅威をあたえるような立場で、……」
それについて金田一耕助はこういう意見をのべた。
「それはそうかも知れませんが、しかし、植松という男が、最後にお小夜を見たのは、十一か二の時分だったというんでしょう。するとそれまでお小夜は神戸にいたわけですね。それからすぐ上京したとしても、お小夜にはどこか上方なまりが残っていなければならぬはずです。ところが菊江にしろお種にしろ、みじんもそんなところはありませんからねえ」
「そりゃああなた、十年以上も東京にいれば|訛《なま》りだって抜けまさあ。それも一人前の人間になってからだと無理かも知れませんが、十一や二で東京のものになってしまえば、|生《き》っ|粋《すい》の東京人とかわりゃしませんよ」
「それもそうですが、しかし、名詞のアクセントというやつは、なかなか改まらないものなんですがね、たとえ|蜘《く》|蛛《も》と雲、橋と|箸《はし》と端、こういう言葉のアクセントは、関東と関西じゃまるで反対になっているんです。ところが、いまあの家にいる連中で、それが違うのは三島東太郎だけなんですがね」
「ああ、あの男は岡山だというから。……しかし、それだって長く東京にいれば変わって来ますよ。ことに菊江は花柳界にいたのだから、やかましく注意されて改めたのかも知れない」
出川刑事は菊江を小夜子にしてしまったが、金田一耕助にはしかし、もうひとつ合点のいかぬ筋がある。
おこま妊娠の一件があったとき、おこまの|親《おや》|爺《じ》の植辰は、玉虫の御前からたんまり金をもらったらしく、そののちとても景気がよかったという。それは|頷《うなず》けるところである。おこまを|孕《はら》ませたのが、玉虫伯爵にしろ、新宮子爵にしろ、娘ひとり|疵《きず》|物《もの》にしたのだから、玉虫伯爵が責任をとって、相当の手切れ金を出したであろうことは想像される。しかし、その後も植辰が玉虫伯爵をゆすっていたらしく、いつも景気がよかったというのがわからない。
おこまのことなら、そのとき出た一時金で話はすんでいるはずである。のちのちまで、ゆすられるようなヘマを玉虫伯爵のような人物がやるはずがない。もし、小夜子の養育費として金を出していたとしたら、玉虫伯爵はおそらくその金が、確実におこまの手に渡るような方法を講じ、また、じっさいに小夜子の養育費として使用されているかどうか監視したにちがいない。途中で植辰に着服されるようなヘマをやる玉虫伯爵ではない。第一、養育費を出すほど責任を感じているとすれば、はじめから、おこまの身のふりかたに、もっと親切な配慮がなされたはずである。じぶんの手でしかるべき配偶者をさがし、おこまを片付けるというようなことも、玉虫伯爵ならばそれほど困難なことではなかったであろう。
「とにかく、植辰が玉虫伯爵をゆすっていたらしいというのが、ぼくには合点がいかんのです。伯爵は植木屋の親方|風《ふ》|情《ぜい》にゆすられるような人物ではない。ゆすられるとすれば、よほど大きな弱点が、伯爵のほうになければならんはずですがねえ」
「なるほど」
これには出川刑事も異存はなかった。
「お小夜の一件だけならば、上流社会にはありがちのことですから、それをタネにいつまでも、ゆすられるというのはおかしいですね」
「そうです。そうです。ことに相手が玉虫伯爵ときてはね。しかし、問題は植辰がほんとうに伯爵をゆすっていたかどうかということですね。おかみの話はまた聴きだから、これを根拠にしては話がちがうかも知れない。そんなところをもういちど、よく確かめておいたらと思うんですがねえ」
「ようござんす。それじゃ、明日もういちど植松なり、|板《いた》|宿《やど》の連中に当たって、よく聞いて見ましょう」
なるほど、おすみのいったとおり、|午《ひる》ちかくなると雨もよほど小降りになり、空もだいぶん明るくなって来た。さっきまで薄墨色にけむっていた庭の樹木も、ヴェールをはがされたように、すがたを現わし、小鳥がその枝へきてにぎやかに|囀《さえず》りはじめた。その代わり気温はかえってさがったらしく、宿の|浴衣《ゆかた》とどてらだけでは、肌寒さをおぼえたので、耕助はシャツを着こんだついでに、着物に着かえ|袴《はかま》をつけた。
十一時半ごろ出川刑事が、|濡《ぬ》れそぼった姿でかえってきた。
「やあ、どうも御苦労様。雨のなかを大変だったでしょう。ぼくはすっかり寝坊をしちゃって。……」
「いや、番頭さんは、まだかえらないそうですね」
「ええ、きっと探すのに骨を折っているのでしょう。ときに、あなたのほうは……?」
「金田一先生、それについて、ちょっと妙なことがあるんですが……」
出川刑事はぬれた上着や靴下を縁側に干し、それから耕助のまえへきてあぐらをかいたが、なんとなく不安そうな眼のいろだった。
「妙なことって……」
耕助もついつりこまれて、どきりとしたような眼の色になる。
「昨夜、お話があったもんだから、わたしゃあまずいちばんに植松のところへいったんです。そこで話をきいてから板宿へまわりました。例のゆすりの件をたしかめにいったんですが、その点はもう間違いはないようですね。ゆすっていたかどうかは知らんが、植辰はたしかに金穴を持っていたらしいと、これは植松も板宿の連中もみんな口が合ってます。よく|博《ばく》|奕《ち》にまけてすってんてんになったときなど、債権者にむかって、ぐずぐずいうな、おれは東京に金の|生《な》る木を持っているんだと威張ってたそうですが、果たしてそれから四、五日もすがたを消すと、どこからか金をつかんできて、きれいに博奕の負けを払ったそうです。板宿の連中などは、いつも、よい御身分だと|羨《うらや》んでいたそうですが、さて、その金穴がどこの誰かということになると、誰も知らないんですね。ただ植松だけは以前から、玉虫伯爵ではないかと、うすうす感づいていたというんです」
「しかし、植辰はどういう理由で玉虫伯爵から。……」
「それはお小夜ちゃんのことにきまっている。それよりほかに、植辰が玉虫の御前から、金を引き出す理由はないはずだと、植松もそれ以上のことは知らないようです」
金田一耕助は考えて、
「それで植松はお小夜の父についてはどういってるんです。新宮子爵か玉虫伯爵か……」
「いや、それについては植松も知らないそうです。玉虫伯爵の別荘へ手伝いにいっているあいだに、|手《て》|籠《ご》め同様に自由にされて、お小夜を|孕《はら》んだんだということは聞いているが、相手が誰かということは、植辰もおこまも絶対にいわなかったそうです。源助がおこまの髪の毛をとって引きずりまわすというようなことがあっても、おこまはお小夜の父について絶対に口をわらなかったそうで、|剛情《ごうじょう》というのか、慎しみ深いというのか、おこまはその秘密を守りとおしてきたんですね」
耕助はまた黙って考えていたが、
「それで、あなたの妙なことというのは……?」
「さあ、それなんです」
と、出川刑事は|膝《ひざ》をすすめて、
「植松のところから板宿へいく途中、道順ですから、玉虫伯爵の別荘の跡というのを見にいったんです。お話のあった|石《いし》|燈《どう》|籠《ろう》を見ておこうと思いましてね。ところが、その石燈籠の文字というのが消えているんです」
「消えている……?」
耕助は思わず大きく眼を見張った。
「ええ、誰かが石かなんかで削り落としたんですね。石燈籠の灯入れの、先生が昨夜おっしゃったところが、白く磨かれたようになっているんです」
金田一耕助はしばらくは物もいわずに、穴のあくほど相手の顔を|視《み》つめていたが、
「それじゃ、昨日、ぼくとおすみちゃんがあの焼け跡を立ち去ってから、誰かやってきて、石燈籠の文字を削り落としたというんですか」
「そうとしか思えませんね。しかも、それはなんの関係もない|悪《いた》|戯《ずら》小僧やなんかの仕業とは思われませんね」
「と、すると、今度の事件の関係者の誰かが、こっちへ来てるとでも……」
出川刑事はくらい顔をしてうなずくと、
「まさか、当人自身が来れるはずはありませんから、誰かがそいつの指令をうけて、やって来てるんじゃないでしょうか。もうひとつ妙なことがあるんです」
「もうひとつ妙なことというと……?」
「板宿で聞きこみが終わると、わたしはすぐ神戸の新開地へいったんです。おたまのいたのはミナト・ハウスというんですが、そこへいってもういちど、おたまや妙海尼のことを聞いてみました。それについちゃ、別に新しい事実も聞き出せなかったんですが、わたしがいく一時間ほどまえに、やっぱりおたまのことを聞きにきた男があるそうです」
金田一耕助は無言のまま、出川刑事の顔を眺めている。何かしら不安なものが腹の底からこみあげてくる。
「そいつも、しつこくおたまのことを聞いていたが、結局、要領を得ずにかえっていったというんです。ほかの場合なら、わたしも何気なく聞きのがしたかも知れません。しかし、あの石燈籠のことがあるもんだから、なんとなく気になって、その男の人相を聞いてるうちに……」
「その男の人相を聞いてるうちに……?」
「わたしゃ、いよいよ不安になったものだから、これを出して見せたんです」
と、出川刑事が腰をうかして、干してある上衣のポケットから取り出したのは、椿子爵の写真である。
「ひょっとすると、そいつはこの写真の男ではないかと|訊《たず》ねたところが……」
出川刑事は耕助の眼をきっと見て、しゃがれた声でささやくように、
「今朝来た男は眼鏡をかけ、|口《くち》|髭《ひげ》を生やしていたけれど、この写真に非常によく似ているという返事なんです」
出川刑事とがっきり眼と眼を見交わしている金田一耕助の|肚《はら》の底には、いかの墨のような、ドスぐろい想いがひろがり、なんとも名状することの出来ぬ|戦《せん》|慄《りつ》が背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかった。それでは椿子爵は、やっぱり生きているのであろうか。……
番頭が目指す漁師をさがしあて、明石からつれてきたのは、それから間もなくのことで、そのころには雨はもうすっかりあがっていた。
第十九章 淡路島山
雨はすっかりあがっていたけれど、雲はまだ低く垂れさがって、鉛色をした明石港の海面は、かなりうねりが高かった。
明石の港は|巾着《きんちゃく》の口をなかば開いて、南へむかっておいたような形をしており、港のおくに、こわれた舟で作ったような十メートルばかりの|桟《さん》|橋《ばし》がふたつ、|塵《じん》|埃《あい》のいっぱい浮いた|穢《きたな》い海面につき出している。岩屋通いの播淡汽船と、淡路周遊の丸正汽船が、それぞれその桟橋のひとつを使っているのである。
桟橋の根もとには雨にうたれた伝馬船がいっぱい、浪のうねりにあおられて、揺り|籠《かご》のように揺れている。港の出口にはそれでもいくらかスマートな燈台がひとつ。その向こうに淡路島が墨絵のようにけむっている。
明石も市の東側は戦災をまぬがれて、古い家がのこっているが、西半分は完全に燃えくずれたらしく、いずこも同じバラックつづき、|須《す》|磨《ま》|明《あか》|石《し》という名前から連想されるような、みやびさはどこにもない。
ふたつの桟橋のあいだにある、両汽船会社共有の待合室なども、いかにも急場しのぎのバラック建てで、どぶ臭い|匂《にお》いがしみついている。その待合室のなかや表に、二十人ばかりの男女が、ぽかんと虚脱したような顔で、連絡船の着くのを待っている。
金田一耕助は待合室には入らず、桟橋のうえをいきつもどりつしながら、深い思いにしずんでいる。出川刑事は待合室のそとに立って、そこに|貼《は》ってある汽船会社のポスターや、汽船の発着時間表などを見るともなしに見ている。
番頭が明石からつれてきた漁師は、名前を芳村作造といって、五十前後の|胡《ご》|麻《ま》|塩《しお》頭を短く刈った男であった。
その男の話によると、日を忘れたがたしかに一月のなかばごろ、紳士風の中年の男を、明石港の西にある、新浜町という漁師町の浜辺から、対岸にある淡路の長浜というところまで、漁船で送っていったというのである。その紳士はひどく沈んだ顔色で、はじめのうちほとんど口を|利《き》かなかったが、釜口村というところまでいくにはどういったらよいかと|訊《たず》ねたところから、おいおい口がほぐれたそうだ。
「釜口村……? 釜口村という名前にまちがいはありませんか」
金田一耕助が念を押すと、作造は強く|頷《うなず》いて、
「へえ、間違いおまへん。わたしがその名をおぼえてますんのは、|姪《めい》が釜口村へ嫁にいてまして、わたしもちょくちょく行くもんださかいに。……」
耕助は出川刑事と顔見合わせた。
「それで、作造さんはそのひとに、何んといって教えたの」
「へえ、長浜から岩屋まで歩いていて、そこから洲本行きのバスに乗って、小井ちゅうところでおりたらええ、そこが釜口村の入り口やゆうて教えたげました」
「そのひとは釜口村のどこへ行くとはいわなかったかね」
こんどは出川刑事が訊ねた。
「いえ、聞きまへんだな」
「作造さん、妙なことを訊ねるが、釜口村には尼寺みたいなもんはないだろうか」
「へえ、そらおます。寺ちゅうたかてあたりまえの家だすが、それがもう半分こわれてしもて、長いこと誰も住んでおらんだのに、去年か一昨年から尼さんが来て住んではります。名前はたしか妙海さんいうのやと聞いてますけど」
金田一耕助はまた出川刑事と顔見合わせた。いよいよもう間違いはない。椿|子爵《ししゃく》はやっぱり妙海尼を訪ねていったのだ。
「作造さん、そのほかに何かそのひとのいったことで、おぼえていることはありませんか」
「へえ、わたしが釜口村までの道を教えたげたら、その小井までいくには、どれくらい時間がかかるかと聞かはりました。それで、長浜から岩屋まで歩いて二十分、岩屋でバスを待つ時間を二十分と見て、岩屋から小井までが四十分だすさかいに、だいたい一時間と二十分、まあ、一時間半とみといたらよろしおますやろというと、そのかたしばらく考えてはりましたが、それではすまんが四時ごろまでには長浜へかえってくるさかいに、もう一ぺん迎えに来てくれんかいわはりますねん。それで……」
「ああ、ちょっと待ってください。作造さんがそのひとを乗せたのは、何時ごろのことでした」
「十時ちょっと過ぎだっしゃろ」
「長浜へ着いたのは……?」
「十一時まえだしたな。ええあんばいに海が|凪《な》いでましたさかい。わたしらの村から長浜まで、三十分くらいのもんだすねん」
長浜へ着いた時刻を十一時と見て、そこから小井まで一時間半、それから尼寺へ行くまでの時間を三十分と見て、一時には妙海尼に会える勘定である。さらに帰途に要する二時間をさしひいても、一時間は話す時間があったろう。そして、一時間あればかなりいろんなことが聞けたはずである。
「それで、作造さんは四時ごろ迎えにいったんですか」
「へえ、行きました。なにぶんにも、たんとお礼をくれはりましたさかい」
「それで、そのひとやって来たんだね」
「へえ、三時半ごろ長浜へいて待ってましたら、思たよりはよ来やはりました。それで、かえりは明石の港へ入って、播淡汽船の桟橋へ舟を着けたげました。たぶん四時半ごろやったろ思います」
港から山陽電鉄の明石駅まで約十分、明石から須磨寺まで三十分、須磨寺駅から宿までが十分だから、五時ごろにかえって来たというおすみの言葉にも間違いはない。
最後に出川刑事が椿子爵の写真を出して見せると、作造はたしかにこのひとにちがいないと断言した。
これでいよいよ椿子爵が、妙海尼をたずねて淡路へわたったことは、疑う余地がなくなったが、そこでいったいどんなことを聞いてきたのか、四時ごろ長浜へかえってきたときの椿子爵の顔色は、作造の言葉によると、
「幽霊にでも|逢《お》うて来やはったんやないかと思われるほど」
悪かったそうである。……
天気はいよいよ|恢《かい》|復《ふく》するらしく、低く垂れさがっていた雲が、しだいに吹きちぎられていくと、ところどころ青空さえ見えはじめた。それにしたがって、いままで|陰《いん》|鬱《うつ》な鉛色をしていた海面も、しだいに明るさを増していく。
やがて港口から連絡船が、|舳《へさき》に白い波をあげながら入ってきた。待合室にいた連中も、みんなぞろぞろ桟橋へおりてくる。
連絡船は千鳥丸といって七十トンぐらい、港のなかでくるりと一回転したのち、ぴったりと桟橋へ横着けになる。岩屋からの客は三十人くらいいたが、それが降りるのを待って、桟橋にいた連中がどやどや乗りこむ。金田一耕助と出川刑事は、いちばん最後から乗りこんだ。
ふたりは船室へは入らず、甲板の|柵《さく》にもたれて海を見ている。
一同が乗りこんだあとからも五、六人、あわてて桟橋をかけておりてくる客があったが、それらの客を乗せてしまうと、千鳥丸は出発する。
甲板の鉄柵にもたれて、桟橋のほうを見ていた出川刑事が、ふと耕助の横腹を|肱《ひじ》で小突くと、
「金田一さん、ちょっと妙なことがありますよ」
「妙なことってなんですか」
「あの待合室のまえに立っている三人の男ね、あれゃあわたしらの仲間ですぜ」
金田一耕助が陸のほうを見ると、洋服を着た三人の男が、いま、千鳥丸からおりた客のひとりに何か訊ねている。客は洋服を着た中年の男で、スーツケースをぶらさげている。
「あっはっは、わかりますか」
「それゃあわかりますとも、眼付きやなんかでね。船に乗るまえから、こいつは客じゃないなと|睨《にら》んでいたんです。網を張ってるにちがいないが、いったい何を待ってるのだろう」
「ヤミを監視してるんじゃありませんか」
「いや、ヤミの監視なら荷物を調べるはずですがね。さっきもひとり、洋服を着た男をつかまえて何か|訊《き》いてましたが、荷物を調べもしないではなしましたよ」
見ていると、いま、つかまっている男も、ポケットから何やら出して見せると、そのまま荷物を調べもせず解放してしまった。男はあたふたと|回《かい》|漕《そう》問屋のまえを通って、町のほうへ立ち去ったが、そのあとで三人の刑事は、誰もいない待合室へ入っていく。また、つぎの船の着くのを待つつもりらしい。
「なるほど、ちょっと妙ですね」
「妙ですよ。淡路で何かあったにちがいない。それでああして非常線を張っているんです」
金田一耕助と出川刑事は、顔を見合わせたまま、しばらく黙りこんでいた。ふいにふたりがいいあわせたように、かすかに身ぶるいをしたのは、必ずしも潮風の寒さが身にしみたせいではなかったろう。
「まさか……ねえ」
「わたしもまさかと思うが……」
出川刑事はそれきり黙って海のうえを見ていたが、やがて二、三度大きく首を横にふると、気をかえるように腕時計を見る。時計の針は二時ちょっと過ぎを示している。
「金田一先生、今夜は淡路へとまらなければならないかも知れませんぜ」
「はあ、そういう勘定になりますか」
「岩屋へ船が着くのが二時半、バスは船と連絡してるそうですが、小井までが四十分、それから尼寺をさがしていくのが三十分として、三時四十分、ざっと四時になりますね。ところが洲本から出るバスの終発が六時だそうで、それが小井に着くのが六時五十分頃、岩屋から洲本のほうへいく終発バスは、それより早く小井を通過していますから、どうしても六時五十分までに、バスの停留場へ来ていなければなりません。これに問にあうと、岩屋へ七時半について、終発の連絡船に乗れますが、このバスに乗りおくれると……」
「なるほど、なるほど。すると四時に尼寺へ着いたとして、六時五十分のバスに間にあうためには、六時二十分ごろ尼寺を出なければならないわけだから、その間、二時間と二十分しかないわけですね」
「そうです。そうです。それも妙海がうまく寺にいてくれたとしてですね。もし|托《たく》|鉢《はつ》にでも出ていたら、いよいよ時間が切迫します。椿子爵には一時間ほどのあいだに打ちあけたらしいが、われわれにはどうでしょうかねえ」
「なるほど、そうすると、六時五十分のバスに乗りおくれると、釜口村泊まりということになりますか。しかし、そんな村に泊めてくれるような家がありますかねえ」
耕助はいささか心細くなる。
「いや、釜口村はどうか知りませんが、そこからひとつ手前に仮屋という町があります。小井からは一里たらず、歩いても一時間あれば十分でしょう。そこまでひきかえしてくると、|旅《は》|人《た》|宿《ご》みたいなのがあるそうです」
「なるほど、それじゃ、今夜は巡礼にでもなったつもりで、そこへ泊まりますか」
耕助は低い声で笑ったが、そのとたん、船がちょっと大きくゆれたので、ふたりはよろめき、あわてて|鉄《てっ》|柵《さく》に|縋《すが》りついた。|別《べっ》|府《ぷ》通いの汽船がいま海峡を突っ切っていくのである。千鳥丸はそのあおりをくらって、しばらく揺れが大きくなったが、すぐまたもとに復して、た、た、たと単調なエンジンの音をひびかせながら、海面を切っていく。
気がつくと千鳥丸はもう海峡のなかば以上もつっ切って、淡路島山がすぐ眼前に迫っている。雲の切れ間はますますひろがって、|爽《さわ》やかな秋の青空が、眼にしみるようである。海面を見ると、潮の流れのかげんか、|縞《しま》|瑪《め》|瑙《のう》のように美しい模様が織り出されている。雨があがったせいか、もう点々と漁船の影が見られる。|鴎《かもめ》が群れていた。
しかし、金田一耕助の眼には、そういう景色も入らなかった。さっき、出川刑事と暗黙のうちに語りあった不安が、大きく頭のうえにのしかかっているのである。
まさかとは思うものの、げんに|石《いし》|燈《どう》|籠《ろう》のあの文字を、削り落としていったものがあり、また、ミナト・ハウスへおたまのことを、|訊《き》き合わせにきた男がいるのである。
石燈籠の文字を削り落としたのは、近所の|悪《いた》|戯《ずら》小僧かも知れないし、おたまを訪ねてきたのは、なんでもない|識《し》り合いかも知れぬ。そしてまた、明石の港に張りこんでいる刑事の目的というのも、じぶんたちの旅行とは、何んの関係もないことだろう。……と、無理にそう考えようとしてみても、やはり胸の底の不安は去らない。
耕助は帽子をとって、もじゃもじゃ頭を、やけに|掻《か》きまわす。潮風が|蓬《ほう》|髪《はつ》を、着物の|袖《そで》を、|袴《はかま》の|裾《すそ》をはたはたとなびかせる。出川刑事は鉄柵に|頬《ほお》|杖《づえ》ついて、しきりに|爪《つめ》をかんでいる。もう淡路島が|眉《まゆ》のうえに迫っていた。
やがて船脚がのろくなっていったかと思うと、千鳥丸は岩屋港の防波堤のあいだへ入っていった。うしろに低い丘を背負った岩屋は、帯のようにせまい町である。ここもまた漁港らしく、幅のせまい砂浜に、漁船がたくさん並んでいる。
岩屋の港の|桟《さん》|橋《ばし》はただひとつしかない。その桟橋のうえに五、六人の人影が見える。千鳥丸はそこでしばらく休んで、三十分ののちに明石へ向けて出帆するのである。
桟橋をあがると、すぐ洲本方面へつながる道路で、四、五人客を乗せたバスが待っている。ここの待合室の表にも私服らしいのがふたり立っていて、金田一耕助の顔をジロジロ見ていた。
船から降りた客の大半はこのバスに乗り込むのである。金田一耕助と出川刑事もいちはやく乗りこんで、後部に席をとったが、乗りこんでから気がつくと、桟橋のすぐ右手に、兵庫県国家警察岩屋署と看板のかかった建物がある。バスが出発の合い図をすると、そのなかから巡査部長がひとり、私服らしいのがひとり、それから医者らしいのがひとり、あたふたと出てきて飛び乗った。バスは三人を乗せるとすぐ出発する。
金田一耕助と出川刑事はまた顔を見合わせた。
医者はあいている席を見付けて腰をおろしたが、巡査部長と私服は運転台のそばに立って、何やら低声で話しこんでいる。
バスは岩屋の町を出外れると、海岸線に沿って南下する。道路の左側はすぐ砂浜で、その向こうは海である。右手を見ると半農半漁といった民家が、道路に面してならんでおり、その背後はすぐ爪先のぼりの丘になっている。丘は段々畑になっていて、いたるところに|甘《かん》|薯《しょ》の葉がしげっていた。
突然、出川刑事が立ちあがった。
「金田一先生、気になりますから、ちょっと訊いて来ます」
出川刑事は立っている客をかきわけて、運転台のほうへいくと、帽子をとって巡査部長に話しかけた。声は聞こえなかったが、ポケットから何か取り出し見せているのは、身分証明書のようなものだろう。巡査部長の顔にちょっと驚きの色がうかぶ。
それから私服らしいのと三人、熱心に何やら話していたが、こちらへ向けている出川刑事の横顔が、みるみるうちに土色になっていくのを見たときには、金田一耕助は腹の底が鉛のようにずしいんと重くなっていくのを感じた。
ああ、やっぱり、そうだったのか!
しばらく話しこんでいた出川刑事は、やがてこちらへ顔を向けて|顎《あご》をしゃくったが、作造の言葉ではないが、その顔色は幽霊を見たひとのようであった。
耕助がちかづいていくと、出川刑事がしゃがれ声をふるわせて、
「先生、いけません。やっぱり、そうです。先を越されました」
「先を越されたって、|殺《や》られたの?」
耕助の声も出川刑事に敗けず劣らずしゃがれている。
「そうです。絞め殺されたそうです」
耕助は一瞬眼をつむった。何かしら超現実的な恐ろしさが、肚の底から吹きあげてくる。あの「悪魔が来りて笛を吹く」の、幽鬼のすすり泣きにも似た、クレッシェンドの一節が、とつぜん、耳底でたからかに鳴りわたった。
出川刑事が簡単に紹介すると、巡査部長と私服は不思議そうに耕助の顔を見まもっていたが、それでも問われるままに巡査部長が語るところによるとこうである。
妙海尼殺害の報告が岩屋署へとどいたのは、正午頃のことだった。発見がおくれたのは今朝の|嵐《あらし》のせいらしい。雨が小降りになった十一時頃、村の娘のひとりが野菜を持って尼寺を訪れた。妙海尼は村の娘にお針だの編み物だのを教えていたので、娘たちのほうでも何かと尼のために気をくばっていたのである。
尼寺は雨戸が全部しまっていたが、試みに入り口の戸に手をかけるとなんなく開いた。中へ入ってみると尼の姿は見えない。しかし、|履《は》き物はちゃんと土間にあるので、娘が不思議に思って押し入れを開くと、|蒲《ふ》|団《とん》のあいだから尼の足がのぞいていたというのである。
「それで大騒ぎになったんですが、なんでも昨夜六時ごろ、洲本方面から来た、バスから降りた客が、停留場のそばにある煙草屋で、尼寺のことを聞いているんです。いまのところ、その男が|唯《ゆい》|一《いつ》の容疑者なので、取りあえず非常線を張っているんですが、たぶんもう手遅れでしょうねえ。本土から来たとしたら、もうとっくに島を脱出していると思いますがね」
巡査部長はかなり正確な標準語を話した。
「本土から来たと思われる節があるんですか」
「ええ、そのバスというのが、五時に洲本を出ているんですが、洲本へは二時半に神戸を出た船が、ちょうど五時に着くんです。バスはその船と連絡しているので、そいつも船でやって来たんじゃないかと思うんですがね」
「その男の人相は……?」
「四十前後の洋服を着た男という以外には、いまのところ詳しいことはわかりませんが、いま、バスの運転手や車掌を探しているところです」
「ところで、その尼ですがね。妙海というんだそうですが、本名はわかりませんか」
巡査部長は手帳を出して見て、
「本名は堀井駒子、年齢は四十いくつだそうです。まだ詳しいことはわかりませんがね」
金田一耕助はもういけないと眼をつむって、二、三度強く首を横にふった。そうしなければ放心しそうな気がしたからである。
堀井というのは嫁いでからのおこまの姓である。
第二十章 刺客
バスが小井に着いたのは、午後三時二十分ごろのことだった。
みちみちバスの窓から外を見ていると、自転車に乗った警官のゆききがはげしく、なんとなくあわただしい空気が感じられた。
バスの停留場へつくたびに、自転車からおりた警官がそばによってきて、運転台に立っている巡査部長と、なにか小声で打ちあわせをしていった。
小井というのはありふれた半農半漁の小部落で、|街《かい》|道《どう》に沿って、十軒足らずの人家がならんでおり、浜側の人家のむこうには、網の干してあるのが見える。山手側は人家のすぐうしろから、|爪《つま》|先《さき》のぼりの坂になっており、小高い丘が|眉《まゆ》ちかくそびえている。
朝霧山という。問題の尼寺は、この朝霧山の山ふところに抱かれているのである。
このへんが岩屋署管轄区域の、南のはずれにあたっているのだ。
一同がバスからおりると、付近の人家から三々五々、ひとが出て来て、軒下に立ってみている。そのなかから警官がひとり出てきて、巡査部長になにか耳打ちすると、一同をかたわらの人家のほうへみちびいていった。
それは軒にたばこの看板のかかった家だが、そのころはたばこもまだ自由販売になっておらず、薄暗い土間にわずかばかりの雑貨や荒物類が、バスのまきあげる|土埃《つちぼこり》にうもれてならんでいた。
一同が店先へ入っていくと、髪の赤茶けたちぢれっ毛のおかみさんが、いままで赤ん坊に乳房をふくませていたらしく、胸もとをかきあわせながら、おびえたような顔をして出てきた。
「このおかみさんなんですがね。昨夜バスから降りた客に、尼のことを聞かれたというのは……」
おかみはまるで、妙海尼の殺されたのが、自分の責任ででもあるかのようにおどおどしていたが、それでも、問われるままに語るところによるとこうである。
昨夜、五時五十分ごろ、ここを通過するバスがとおりすぎてから間もなくのことである。洋服を着た男がひとり、そそくさと店先へ入ってきて、妙海尼のところを聞いた。そこでおかみさんが道筋をおしえてやると、礼もいわずにそそくさと出ていった。なんだか、ひどく急いでいるふうであった。
「それで、おかみさんはそれっきり、その男を見なかったのかい」
巡査部長がたずねると、
「いえ、ところがそれから一時間ほどして、また、そのひとが店先へ入って来やはりまして……」
洲本から出る終発バスは、もうここを通過したかと|訊《たず》ねるのである。
「それで時計を見ると、もう七時を十分過ぎてました。いつもなら洲本発の終発バスは、とうに通りすぎてんならんはずだしたが、昨夜はどういうもんか遅れたと見えて、そんな話をしているところへ、バスがやって来たんだす。それでそのひと、バスに乗っていってしまはりましたんです」
「それで、その男、妙海尼のところへいったとか、いかなかったとか、なにかいってやあしなかったかね」
「へえ、そら、わたしも訊ねてみました。そしたら尼寺へいったけれど、留守やったで明日また出直してくるちゅうようなことをいうてましたけれど……」
「いったい、ここから尼寺まで、往復どのくらいかかるんですか」
出川刑事が横から訊ねた。
「一時間あったら、たっぷりでしょうね。多少、途中で道にまごついたとしても……」
そうすると五時五十分ごろここを立って、七時十分ごろ引きかえして来たとしたら、その間尼寺へいって、犯行を演ずる時間は十分あったわけである。
「ところで、おかみさん、そのひとの言葉つきだがね。上方のひとのようだったかね」
出川刑事の質問に対して、言下におかみはきっぱり答えた。
「いや、あれは東のほうのひとだすな。声は低おましたが、歯切れのええ言葉つきだした」
「なるほど、それでおかみさん、その男だがね、ひょっとすると、このひとに似てやあしなかったかね」
出川刑事が写真を取り出すのを見て、巡査部長をはじめ土地の警察のひとたちは、思わず|眉《まゆ》をつりあげる。
おかみさんはその写真をと見こう見していたが、
「昨夜のひとは帽子をかぶってはりましたし、それに眼鏡をかけ、ひげを生やしてましたさかいに、はっきりとはよういいまへんが、このひとによう似てはりました」
出川刑事と金田一耕助は、思わず顔を見あわせる。眼鏡をかけ、ひげを生やし、しかもこの写真に似ている男……それは今朝がた、神戸のミナト・ハウスへ現われた男ではあるまいか……。
金田一耕助はなにかしら、背筋をつめたいものが|這《は》うような感じだった。
出川刑事は、ふしぎそうな顔をして写真と自分の顔を見くらべている土地の警察のひとたちをふりかえると、
「いや、これについては、いずれのちほどお話ししましょう。それではすぐ現場へ」
街道をそれるとすぐ爪先のぼりの道になっており、そういう坂道がどこまでもつづいた。野良で働いているひとたちは、一行を見るとみな手をやすめて振りかえる。なかには、ぞろぞろついてくるものもあった。都会ではさのみ珍しくない殺人事件も、この平和な農村にあっては大事件なのである。一種のパニック状態がこの小部落をおそっていた。
歩くこと約二十五分。一行はやっと尼寺のほとりへたどりついた。そこは部落からはるか離れた山の中腹になっており、すぐそばには、山の傾斜に沿うて点々と、白い墓石がならんでいる。尼寺のすぐうらがわは、谷を利用してつくった小さな貯水池で、すがれた|蓮《はす》の葉が、|蕭条《しょうじょう》たる影を池のおもてに落としている。
しかも、尼寺とはいうものの、それは九尺二間ばかりの小さなこけら|葺《ぶ》きの平家で、塀もなければ垣根もなく、さむざむと、墓地にむかってむき出しにたっている。なるほど、これではいかに住居に不自由した戦争中から戦後へかけても、住むひとがなかったのも無理はない。
この尼寺をとりまいて、大勢ひとがむらがっている。
先頭に立った土地のおまわりさんが、弥次馬を追いながら、立てつけの悪い腰障子をひらくと、なかは狭い土間、土間から四畳半が見とおしで、部屋といってはその四畳半しかなかった。
死体はその四畳半のなかに、|北枕《きたまくら》に寝かされており、その枕元に三人の男が|坐《すわ》っている。ひとりは岩屋からやって来て、小井でバスをおりると、すぐこちらへ先行した医者である。その医者と小声で話をしているのは、土地の医者であろう。ふたりから少しはなれて、眉の白いお坊さんが窮屈そうに坐っている。
「どんな様子ですかな、先生」
巡査部長が靴をぬぎながら訊ねる。
「そうですな。詳しいことは解剖の結果を見にゃわかりませんが、死因は絞殺、これはもう間違いはないでしょうな」
「犯行の時間は……?」
「それも解剖の結果を見んことにゃ。……しかし、いまこちらの先生とも話をしていたんだが、今日のことじゃありませんな。昨夜の、それも、宵の口にやられたんじゃありませんか。まあ、あまりはっきりしたことはいえんが……」
一同があがると、狭い四畳半はいっぱいである。隅のほうに坐っていたお坊さんが遠慮をして、障子をひらいて|濡《ぬ》れ縁の外へ出た。
金田一耕助はひとびとの背後から、おそるおそる死体の顔をのぞいてみる。
丸く|剃《そ》りこぼった頭は小さくて、ちょっと釣り合いのとれぬ感じだったが、静かに眼を閉じたその眼鼻立ちは、人形のようにちんまりと整って、なるほど、若いころには相当うつくしかったろうと思われる。しかし、どう見ても四十前後の|年《とし》|頃《ごろ》とは思われなかった。
だいたい小づくりで、|老《ふ》けやすい体質でもあるのだろうけれど、さらに不幸な運命の重荷が、この女を押しつぶして、この老衰に拍車をかけたのであろう。ミナト・ハウスの女たちが、五十五、六に踏んだのも、無理はないと思われるほどの老けかただった。
枕元に立てた線香の煙が、ふいと耕助の鼻をくすぐる。その線香の|匂《にお》いと、山峡のしめった秋の空気の匂いが金田一耕助の胸に感傷的な波紋をかき立てる。
この女も玉虫|伯爵《はくしゃく》の別荘へ、手伝いにゆきさえしなかったら、もっと別の生きかたをして来たのにちがいない。その夏のある一日の出来事こそ、悪魔の|爪《つめ》のように彼女の生涯をひきさいたのだ。
玉虫伯爵の別荘で、|手《て》|籠《ご》め同様に自由にされて、|身《み》|籠《ご》もらされて、そしてお|小《さ》|夜《よ》という娘を産んだ。そのことがこの女のそれからのちの生涯を、まっ暗な影で押しつつんだばかりか、あげくの果てにはその命まで、奪う羽目になったのだ。
金田一耕助はなにかしら、じりじりするような|焦躁《しょうそう》と憤りの思いが、胸の底からこみあげてくるのを感ずる。
だが、この女の命をうばったのは、ただそれだけの事実のためであろうか。いやいや、そうは思われぬ。この女はもっとほかの、より重大な秘密に関係があったのだ。そして、その秘密のために命をおとす羽目になったのにちがいない。しかし、その秘密とは……?
金田一耕助は仏の小さな、剃りこぼった頭を見ているうちに、またじりじりと|焦《こ》げつくような焦躁と憤りの思いにかられてくる。
犯人がどのような危険を|冒《おか》してでも、この女の口をふさごうとしたところを見ると、それはよほど重大な秘密にちがいない。いったい、あの小さな頭のなかに、この女はどのような秘密をいだいていたのか……。
「それじゃ、わたしはこれでかえりますがね。死体のほうはどうします」
岩屋から来た医者が、|鞄《かばん》をしまいながら立ちあがった。
「いまに|自《く》|動《る》|車《ま》がくるはずですね。岩屋へ持っていって解剖することにしましょう」
「そう、それじゃ後程」
「現場写真やなんかは……?」
出川刑事が訊ねた。
「いや、それはもうさっきやっちまったんです」
「そう、それじゃ、そこいらに手をつけてもよござんすね」
「ええ、どうぞ」
土地の警察のひとたちは、好奇的な眼をかがやかせて、出川刑事の活動ぶりをながめている。出川刑事の眼をつけたのは、押し入れのまえにきちんとたたんで積んである新聞だった。妙海尼は、きちょうめんな性質だったと見えて、古新聞をきちんと四つにたたんで、古いのを下に、日付の順にたたんである。出川刑事はうえから順にそれを見ていったが、すぐ土地のおまわりさんを振りかえって、
「この尼さん、何新聞をとっていたかわかりませんか」
おまわりさんは障子をひらいて、濡れ縁の外にむらがっている土地のひとたちに訊ねていたが、すぐ障子をしめると、
「K新聞やそうです」
「そう、だいたいその新聞ばかりですね。ところで金田一さん」
と、出川刑事は耕助のほうを振りかえって、
「十月一日の新聞にかぎって、神戸大阪の新聞が七種類、二日三日の新聞も三種類ありますよ」
出川刑事と金田一耕助は、しばらくじっと眼を見交わしたまま立っていた。
十月一日といえば、|椿家《つばきけ》の殺人事件が、はじめて新聞に載った日であり、その日、妙海尼はおたまをたずねて、わざわざ神戸のミナト・ハウスまで出向いているのだ。
おそらく妙海尼は神戸で、手に入るかぎりの新聞を買って来たのにちがいない。そして、昨日も一昨日も、ひとつの新聞だけでは心もとなかったので、この近所で手に入るかぎりの新聞を買ったにちがいない。これを見ても妙海尼が、一日以来の新聞にいかに大きな関心をはらっていたかわかるし、それはおそらく椿家の事件のせいだったろう。
金田一耕助はまた、一歩先んじられたくやしさに、腹の底が鉛のように重くなるのを感じた。
「ときに、さっきここにお坊さんがいらっしゃいましたね。あれはどういうひとですか」
金田一耕助は部屋のなかを見まわしながら訊ねた。
「ああ、あれは隣村の法乗寺のお住持さんで、慈道さんというんです。妙海尼を世話して、ここへ住まわせるようにしたのもあのひとなんで……」
金田一耕助は出川刑事と顔を見合わせ、
「ああ、そう、それでは、ちょっとここへお呼び願えませんか」
遠慮して座を外していた慈道さんは、呼ばれてすぐに部屋へ入ってきた。お医者さんたちがかえったので、せまい仏の枕もとにも慈道さんと金田一耕助、それから出川刑事の三人が、かろうじて|膝《ひざ》をいれる余地があった。土地の警察のひとたちは、土間に腰をおろして好奇的な眼でこの三人を見守っている。
「お住持さん、このたびはとんだことになりまして……」
と、金田一耕助はもじゃもじゃ頭をさげると、
「じつは、わたしどもはこのかたを……仏になられたこのひとを訪ねて、わざわざ東京から出向いて来たものですが、ひと足ちがいでこんなことになって、まことに残念に思っております。それについて、お住持さんにお|訊《たず》ねいたしたいことがございますんですが……」
「東京からわざわざこれを訪ねて……?」
慈道さんは白い|眉《まゆ》をつりあげた。もう六十を越えているのだろうが、眉こそ白けれ、よくふとった血色のいい坊さんだった。
「すると、あんたがた妙海をよく御存じかな」
「いえ、そういうわけではありませんが、このひとにたずねたら、あるいは、いまわたしどもの当面している難問題が、解決するのではないかと思いまして……」
「難問題というと……?」
金田一耕助はちょっとためらったのち、
「殺人事件でございます。ひょっとすると妙海さんが、その事件の秘密を知っているのではないかと思いまして……」
土間のほうでちょっと大きなざわめきが起こる。慈道さんも白い眉をつりあげて、
「ええ……と、あんたはなんといわれるかな。お名前は……?」
「わたしは金田一耕助と申します。こちらは出川さんといって警視庁から出張して来られた刑事さんで……」
慈道さんは大きな眼で、穴のあくほど耕助の顔を見ながら、
「金田一さん、あんたのお考えはどうじゃろうか、妙海はひょっとすると、椿|子爵《ししゃく》のうちの殺人事件の、犯人を知っていたがために殺されたのじゃあるまいか」
椿子爵家の殺人事件ときいて、土間のざわめきはいっそう大きくなった。一同は|固《かた》|唾《ず》をのんで、仏の枕元に坐っている三人の顔を見くらべている。耕助も|膝《ひざ》を乗り出して、
「ああ、お住持さん、あなたはそのことを御存じなんですね。ええ、そうです。そうです。ぼくもそう思っているんです。それでなければ、偶然としてはあまり深刻すぎますからね。犯人はわたしどもが調査のために、こちらへ来ることを知っていたんです。それで先まわりをして、自分で来たか、それとも刺客をよこしたか、ひとあしさきにやって来て、妙海さんの口をふさいでしまったんです」
土間にみなぎる緊張の気は、いよいよ濃度をましてくる。切ないような息使いや、|空《から》|咳《せき》の音が一瞬の静かさをいっそう際立たせる。
金田一耕助はいよいよ膝を乗り出して、
「お住持さん、あなたはしかしどうして御存じなんです。この事件が|椿家《つばきけ》の殺人事件と関係があるということを。……妙海さんがお話ししたのですか」
慈道さんはうなずいて、
「そう、|一昨日《おととい》、二日のお|午《ひる》まえのことじゃったな。妙海がたくさんの新聞をわしづかみにして、わしのところへやって来て、この事件について心当たりがあるといって見せてくれたのが、椿家の事件の記事じゃった。妙海はその前日、やはりその事件について相談しようと、神戸の|識《し》り合いをたずねていったが、会えなかったとやらで、それでわしのところへ相談に来たのじゃな」
「それで……それで、妙海さんは、なにかいってましたか、犯人について……」
「それがな、金田一さん、いま考えても残念でならんのだが、妙海は結局、|肝《かん》|腎《じん》な点については、なにひとつ、まとまったことは打ちあけていかなんだのじゃな」
「ああ!」
耕助の唇からうめき声がもれる。希望はつねにつかんだと思ったせつな消えるのだ。
「これはわしにも罪がある。話があまりだしぬけじゃったで、わしも半信半疑で、親身になって聞いてやる余裕がなかったのじゃな。それに妙海も気が|顛《てん》|倒《とう》していたで、話もしどろもどろ、それに、肝腎かなめのことについては、まだ打ち明ける決心がついておらなんだらしい。それで、気が落ちついたら、もういちどおいでとかえしたのじゃが……。いまになってみると、それが残念でならぬ。なにがなんでもあのとき聞いておくのじゃった」
慈道さんは|溜《た》め息をついたが、そこで急に想い出したように、
「ただな、そのときわしは非常に意外なことを妙海から聞いた。ひょっとすると、これがなにかの参考になりゃせんかと思うから申し上げるが、妙海と椿家の関係じゃな」
「はあ、はあ……」
耕助は出川刑事と顔見あわせて膝を乗り出した。
「わしもこのことは初耳じゃったのでびっくりしたが、妙海は俗名こまといって、娘がひとりあった。お|小《さ》|夜《よ》とゆうてな」
「はあ、それは存じております」
「ああ、そう、それじゃお小夜の父親というのを御存じかな」
「いえ、それがわからないので弱っているんです。お小夜は誰の……」
「新宮さん、御存じじゃろ、新聞にも名前が出ていたから、あのひととおこまのあいだにうまれた子じゃげな」
耕助ははっと出川刑事と顔見あわせる。それではおこまを手籠めにして、子をうませたのは新宮子爵だったのか。
「それで妙海は非常におそれていたのじゃ。椿さんの家の人殺しはこれではすまない。今度は新宮さんが殺されるにちがいないと……」
金田一耕助は思わずぎょっと出川刑事と顔見合わせる。英語で周章|狼《ろう》|狽《ばい》するということを He has a bee in his head というそうだが、文字どおりそのとき耕助の頭のなかには、|蜂《はち》がブンブン飛びくるっているような感じだった。
「しかし、お住持さん、新宮さんがお小夜の父だからといって、なんだって殺されるというんです」
「さあ、それがわからん。そのとおり妙海の話というのは支離滅裂じゃったのじゃ。しかし、いまから思えばそれというのも、妙海が肝腎かなめなことを打ち明けるのを、ためらっていたせいらしい」
「お住持さんはお小夜という娘を御存じですか」
これは出川刑事の質問である。
「ああ、知っている。いちど会ったことがある」
「いつ、どこで……?」
「昭和十八年か九年ごろじゃったな。住吉のさるうちで……と、こうゆうたところで、あんたがたにはわかるまい。それにはわしと妙海が|識《し》り合いになったきっかけを話さねばならんが……」
そこで慈道さんの打ち明けた話というのはこうである。
慈道さんはもと阪神間の住吉にある、大きな真言寺の住持だったが昭和十七年ごろそこを弟子に譲って、故郷の淡路へ隠居したのである。しかし、その後もちょくちょく住吉のほうへ出かけていったが、その寺の大|檀《だん》|家《か》に溝口という家があった。溝口家の隠居というのが大の慈道さん崇拝で、慈道さんは住居へいくと、必ずひと晩かふた晩その家に泊まった。おこまは溝口家の女中をしていたのである。
「これは、いつも自分は罪業のふかい身じゃといって、わしが泊まるとよく話を聞きたがった。つまり仏の教えによって|活《い》きる道を求めようとしていたのじゃな。その態度がたいへん熱心じゃったし、それに心掛けのよい女じゃったで、わしもいろいろ眼をかけておった。その時分、おこまは亭主をなくしてひとり身じゃったが、娘がひとりあって、どこかへ奉公していると聞いていたが、その娘があるとき、わしがそこへ泊まっているうちに遊びに来たのじゃ。きれいな娘じゃったな。その時分、|二十《はたち》くらいじゃったろうか」
「その娘は、その後どうしたか御存じありませんか」
出川刑事の声は|昂《こう》|奮《ふん》のためにふるえている。膝のうえにおいた|拳《こぶし》もぶるぶる|痙《けい》|攣《れん》していた。
「死んだよ、可哀そうに、自殺したそうじゃ」
「自殺した……? そ、それはいつのことです」
「いつのことだか、淡路と住吉と離れているで、わしも詳しいことは知らぬが、おお、そうそう、そこに、|位《い》|牌《はい》がある」
仏の枕元にある小さな|厨《ず》|子《し》をひらいて、慈道さんが取り出したのは黒塗りの位牌である。
「慈雲妙性大姉……ああ、これじゃ、これじゃ。俗名堀井小夜子、昭和十九年八月二十七日亡……」
出川刑事はひったくるようにその位牌をとって、かみつきそうな眼で裏面に彫られた文字を読んでいたが、
「それじゃ……お小夜は死んでるんですか」
がっかりしたような声音である。無理もない。これによって出川刑事の小夜即菊江説は、一挙にして粉砕されたわけである。
「お住持さん、しかし、お小夜はなんだって自殺したんです」
「さあ、それよ」
慈道さんは眼をギロリと光らせて、
「その間の事情はわしも|一《いっ》|向《こう》知らなんだ。第一、お小夜が死んだことすら、ずっとのちまで知らなんだのじゃからな。ところが、このあいだ、一昨日、妙海がうちへ来たとき口走った言葉によると、お小夜の自殺も、なにか今度の椿さんの殺人事件に、関係があるようなことをゆうておった。そのときにはわしは、何ということやろうと思うていたが……」
「お住持さん、お小夜が死んだというのは、ほんとうのことでしょうねえ」
出川刑事は位牌を持ったまま、まだ|諦《あきら》めきれぬ顔色である。慈道さんは白い|眉《まゆ》をひそめて、
「そこに位牌がある以上|嘘《うそ》はあるまい。なんなら住吉の溝口へいって聞いて見なさるがよい。あそこではもっと詳しい事情を知ってるかも知れん。おこまが尼になると決心したのも、娘のことが一ばん大きな原因だったようじゃが……」
出川刑事は慈道さんから聞いて、住吉の溝口家のところをひかえていた。
「ところでお住持さん、もうひとつお訊ねがあるんですが、妙海さんはこの春、椿子爵が訪ねて来たというようなことをいってやあしませんでしたか」
「ああ、聞いた、聞いた。それもこの間聞いた。あのときなにもかも打ち明けたのが浅はかじゃったと、妙海はそれをひどく気にしていたが……」
金田一耕助の頭のなかには、いよいよはげしく蜂が舞いくるう。それは一匹の蜂ではなく、数匹あるいは数十匹の蜂のようであった。
妙海はいったいなにを椿子爵に打ち明け、なにを知っていたために殺されたのだろう。
金田一耕助と出川刑事は、なおもいろいろ慈道さんに聞いてみたが、慈道さんもいままで述べたところ以上にはかくべつこれという知識を持っていなかった。慈道さん以外に、妙海が打ち明け話をするようなひとはないかと出川刑事は訊ねたが、わしに打ち明けぬくらいのことを、ほかのものに|洩《も》らすはずはないと慈道さんは打ち消した。
それでも出川刑事は念のため、村中を駆けずりまわって訊ねてみたが、結局、慈道さんより得た知識以上のものはなにひとつ得られなかった。
こうしてその日、出川刑事と金田一耕助が岩屋へひきあげて来たのは、もう八時過ぎのことで、むろん明石への連絡もなく、ふたりはいやでも岩屋へ泊まらなければならなかった。その代わりに岩屋ではつぎのようなことがわかった。
小井で妙海尼のことを聞いた男は、やはり神戸から洲本へわたる船で来ているのである。その男が洲本発の終発バスに間にあったのは、バスが洲本を出てから故障を起こし、二十分ほど遅れたためであった。そのかわりかれは岩屋へ着いても、連絡船に間にあわず、ひと晩、そこへ泊まっている。そして、今朝六時ごろ宿を出て、連絡船で明石へわたっているのである。宿帳には東京の住所と名前が記載してあったが、むろん出たら目にきまっているので、金田一耕助は問題にもしなかった。
「ただ、問題というのはね、出川さん」
と、金田一耕助は|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうな声でいった。
「そいつは昨日の二時半の連絡船で、神戸から洲本へわたっていることですよ。汽船の時刻表を見ると、神戸と洲本をつなぐ連絡船はそのまえ、十時に出るやつがあります。それを利用したほうが、そいつの計画にとってはよほど好都合だったわけです。なぜって、そうすれば淡路へ一泊しなければならぬという、危険を|冒《おか》さずにすみますからね、それにも|拘《かかわ》らず、十時のやつに乗らなかったというのは、すこぶる意味深長だとは思いませんか」
「意味深長というのは……?」
「つまり、朝の十時にはそいつはまだ神戸にいなかった。その後神戸へ着いた汽車でやって来た。ということは、われわれと同じ列車で、東京からやって来たことを意味しているのではありますまいか」
出川刑事はふいに大きく眼を見張った。
「それじゃ、あの列車に……」
「じゃないかと思うんです。そいつはわれわれのこちらでの調査の結果、いずれは妙海にいきあたるってことを知っていたんですね。それで同じ列車で西下すると、われわれが須磨寺でまごまごしているあいだに、まっすぐに淡路へわたり、妙海を殺してしまった。そして、今朝はやく島を脱出すると、月見山へよって|石《いし》|燈《どう》|籠《ろう》の文字を消し、それから神戸のミナト・ハウスへよったという順序じゃありませんか」
「ミナト・ハウスへよったというのは……?」
「妙海に対すると同じ目的だったのじゃありませんかね。おたまがいたら呼び出して……」
出川刑事はまた大きく眼を見張った。
「金田一さん!」
と、息をはずませ、
「もしそうだとすると、われわれはこんなところでぐずぐずしてる場合じゃありませんね。もしもおたまの身に……」
「そうです。そうです。だからぼくもさっきから、じりじりする思いなんです。しかし、まあ、おたまがミナト・ハウスから姿を消していたというのは、考えようによってはわれわれにとって幸運だったわけです。そいつだって、一朝一夕に、おたまの居場所をさがし出すわけにはいきますまいからね。今度はどちらがさきに、おたまのもとへ|辿《たど》りつくか……それが、この事件の勝負どころになるんじゃないでしょうか」
「ようし、それじゃ、明日はいちばんの連絡船で明石へわたりましょう」
しかし、事実はなかなかそういう訳にはいかなかった。岩屋署との打ち合わせやなんかに手間どって、ふたりが連絡船へのったのはもう十時を過ぎていた。
出川刑事は明石からそのまま神戸へ直行したが、金田一耕助は須磨寺でわかれて、いったん三春園へひきあげて来た。
ところが耕助が三春園の敷居をまたぐかまたがぬうちに、奥からおかみがとんで来て、
「あっ、金田一さん、お客さんだす。さっきからお待ちかねで……」
「お客さん……? どなた……?」
「県の警察のかたやいう話だす」
「県の警察のひと……?」
金田一耕助があわてて座敷へ入っていくと、四十前後の男が居ずまいを直して、
「ああ、あなたが金田一先生ですか。出川君というひとはどうしましたか」
「出川君は神戸へいきましたが……あなたは……?」
男は県の警察の肩書きの入った名刺を見せた。警部補だった。
「じつは今朝ほど、東京の警視庁から電話がありまして、すぐこちらへ連絡してほしいということだったものですから……」
「東京から……そ、そして、いったいどういう用事なんです」
警部補はあたりを見まわして、声を落とすと、
「東京の椿子爵邸でまた人殺しがあったそうです」
耕助は無言のまま大きく眼を見張る。|咽《の》|喉《ど》が焼けつく感じだった。
「そして、殺されたのは……?」
「新宮利彦氏だそうです。それで、こちらのほうの捜査は出川君にまかせておいて……むろんわれわれも手つだいますが……至急あなたにかえっていただきたいという伝言なんです」
金田一耕助の頭のなかを、またブンブン|蜂《はち》が舞い狂う。
新宮利彦が殺された。……そのことは、妙海も予言していたということだが、では、妙海はなぜそれを知っていたのか。
耕助の頭のなかの蜂は十匹になり、百匹になり、千匹になり、はては百雷のとどろきとなって駆けめぐる。耕助はまるで悪酒に酔うたような心地だったのである。
第二十一章 風神出現
十月四日といえば、玉虫もと|伯爵《はくしゃく》が殺されてから、ちょうど六日目にあたっているが、その晩は宵のうち、麻布六本木にある|椿邸《つばきてい》は妙に無人だった。もっともその夜、外出したひとびとには、それぞれほんとに用事があったり、あるいは当人、用事があると思っていたのだけれど、あとになってわかったところによると、当人が|嘘《うそ》をついているのでないとしたら、誰かに欺かれて、まんまと外へおびき出されたことになるのである。
その夜の夕食の席のことである。|餉台《ちゃぶだい》についた新宮利彦が、広い茶の間を見まわして、
「おや、今夜はばかに静かだね。みんなどうかしたの」
例によってのろのろとした|濁《だ》み声である。
玉虫伯爵が非業の最期をとげて以来、|秋《あき》|子《こ》がとかくおびえるので、椿家の邸内に住んでいるひとびとは、三島東太郎や女中のお種のような奉公人は別として、みんなひろい茶の間にあつまって、会食することになっているのだが、その夜は秋子の乳母の|信《し》|乃《の》、秋子の主治医の目賀博士、それから玉虫伯爵の|愛妾《あいしょう》菊江と、その三人の姿が欠けていた。
「皆さま、お出かけよ」
|美《み》|禰《ね》|子《こ》がおこったようなそっけなさで答える。美禰子はいつもこの|伯《お》|父《じ》の、のろのろとした|胴《どう》|間《ま》声を耳にすると、じりじりするように|癇《かん》がたかぶってくるのである。
「お出かけ? お|揃《そろ》いでかい?」
「そうじゃないのよ。伯父さま、御存じじゃありませんか」
「何を……?」
「菊江さんは東劇よ。明日の切符でなくってよかったと、昨日このお席であんなに喜んでいたのを聞いてらしたじゃありませんか」
「そうだったかね。忘れたんだよ。だけど、どうして明日の切符じゃいけないんだい」
利彦は廃人のように空虚な|瞳《め》を美禰子にむける。相変わらず白いけれど|冴《さ》えない顔色である。美禰子はそのしまりのない、ちょっと間の抜けた感じのする|口《くち》|許《もと》を見ると、いっそう|焦《いら》|立《だ》たしさを|掻《か》き立てられる。
「まあ、伯父さまは忘れてらっしゃるの。明日は玉虫の伯父さまの初七日じゃありませんか。菊江さんがいくらあんなひとだって、伯父さまの初七日をうっちゃらかして、芝居見物も出来ないじゃありませんか」
「ああ、そうか」
間延びのした新宮利彦の返事を聞くと、美禰子はいっそういらいらして来て、
「伯父さまはいつもそうなのね。御自分の快楽のことばかり考えていらっしゃるから、ほかのことは何ひとつおわかりにならないのね」
「美禰子さん」
そのとき、女王のようなきらびやかさで、上座に坐っていた秋子が、例によって甘ったるい声でたしなめた。
「伯父さまにむかって、そんなにズケズケいうもんじゃありませんよ。|華《はな》|子《こ》さま」
「はあ」
「堪忍してやってくださいましね。この娘ったら、いったい誰に似て、あんなに娘らしくないんでしょうね」
「いいえ」
毎度のことなので、華子はもう|諦《あきら》めきったように落ち着いている。
「みんな美禰子さんのおっしゃるとおりですから。……」
「伯母さま、すみません」
美禰子もさすがに気がとがめたらしく、
「あたし、どうしてこうなんでしょう。伯父さまとお話ししていると、なんだか、とてもじりじりしてくるんですもの」
「きっと性がお合いにならないのね」
華子は悲しさに顔をふせたが、利彦はそんなことにお構いなしに、
「秋子さん、信乃はどうしたの」
「|成城《せいじょう》へまいりましたのよ。お兄さま」
秋子のお兄さまという言葉の調子には、女学生のような甘ったるさがあり、美禰子はいつもそれを聞くたびにぞっとするような|悪《お》|寒《かん》をおぼえる。その一事だけでも美禰子はこの伯父を好まなかった。
「成城って及川のうちかい」
及川というのは秋子にこの邸宅を譲った、母方の祖父のことである。
「ええ、そうよ、お兄さま。及川の伯父さまから信乃に来てほしいって電報が、さっきまいりましたのよ。それで信乃は大急ぎで出かけていきましたの」
「及川から……? いったいどういう用事だろう」
「さあ、わかりませんわ。でも、信乃は及川の伯母さまのお気に入りだから、きっと何か頼まれるんでしょう」
「おれに小遣いでもことづけてくれると有難いんだがな。あっはっは」
利彦は|濁《だ》み声をあげて、いやしい笑いかたをすると、
「それから|蟇《がま》仙人はどうした、蟇仙人は?」
「まあ、いやなお兄さま。蟇仙人だなんて。……」
秋子もさすがにむっとしたらしく、|頬《ほお》を染めて兄をにらむ。利彦はちょっとあわてて、
「いや、御免、御免、目賀博士はどうしたの。もうこのうちから引きはらったのかい?」
蟇仙人の一言がこたえたらしく、秋子がおこって答えないので、そばから美禰子が口を出した。
「目賀博士は今夜会があるので、横浜までお出かけになりました。おそくとも十時までにはかえって来るというお話でした」
「会合……? だって会合は明後日だといってたじゃないか」
「それが急に今夜に変更になったって、さきほどお電話がかかって来たんです。それで、目賀博士は大あわてでお出かけになったんです」
美禰子は|暗誦《あんしょう》でもするような調子である。利彦はふいとふとい|眉《まゆ》をひそめて、
「ふむ、誰もかれも出かけるんだな。一彦、おまえも今夜、美禰子といっしょに出かけるとかいってたな」
「はあ」
一彦は言葉すくなに答える。
「どこへ出かけるんだ」
一彦はしかしうつむいたまま答えなかった。
「おおかた映画でも見にいくんだろう。おまえら、のんきでいいことだな」
その言葉の調子があまりとげとげしかったので、美禰子がたまりかねたように金切り声をあげた。
「いいえ、伯父さま。そんなのんきなお話じゃございませんのよ。一彦さまは今夜、就職口を頼みにお出かけになりますのよ」
「就職口を……?」
「ええ。そう。一彦さまは以前から、就職口をさがしていらしたんですけど、幸いあたしのタイプの先生が、いい口があるからとおっしゃってくだすったのよ。それで今夜、あたしが一彦さまを、先生に御紹介することになっておりますのよ」
美禰子の声は怒りにふるえている。
利彦はちょっと|呆《あっ》|気《け》にとられたように、ぽかんと間延びした顔で、美禰子と一彦を見くらべていたが、急に華子のほうをふりかえると、
「華子、おまえそのことを知っていたの」
「はい、存じておりました。よいことだと思いますから、あたしも賛成しております」
華子は落ち着きはらっているが、それでも語尾がかすかにふるえる。
「あっはっは、そうか。一彦、おまえ働くのか。いったい、いくらくれるんだ、出来るだけたくさん吹っかけてやれ」
「あなた、そんなさもしいことを……」
「何がさもしい。おまえは黙っていろ。一彦、それじゃ向こうへいったらな、ついでにおれの口も頼んでみてくれ。なんにもしないでサラリーをくれるようなところはないかとな」
「あなた、あなた」
「なんだ、何があなただ、だいたいおまえに口をきく権利があるのかい。おまえの親父はあれゃなんだ。自分の娘婿がこんなに困っているのに、貢ぐすべも知りやがらねえ。おれはおまえのような女と結婚するんじゃなかったんだ。あの時分、縁談は降るほどあったんだから、もっとほかの女と結婚していれば、いまごろこんなに困ることはなかったんだ」
華子はぴいんと胸をそらして、真正面から|良人《お っ と》の顔を見すえている。血の気のひいた顔色は|真《ま》っ|蒼《さお》だったが、そうして胸をそらしていると、柄の大きな婦人だけに、堂々としている。|軽《けい》|蔑《べつ》とも|憐《れん》|愍《びん》ともつかぬ、一種複雑な色が華子の|瞳《め》をいきいきとかがやかせた。
一彦はうつむいたまま、肩をぶるぶるとふるわせている。額にねっとりと|脂汗《あぶらあせ》をうかべて、|餉台《ちゃぶだい》の下で|拳《こぶし》を握ったり開いたりしていた。
「伯父さま!」
美禰子がそばから憎悪にみちた金切り声をあげた。
「伯父さまこそ伯母さまの財産を全部おつかいになって、まだそのうえに、そんなことをおっしゃってもよろしいんですの」
「何を!」
妻のはげしい視線にあって、へどもどしかけていた利彦は、それを聞くと急に憎々しげな視線を美禰子にむけると、
「女房の財産を亭主がつかうのは当然の権利じゃないか。それより美禰子、おまえこそ泥棒だぞ」
「なんですって!」
「そうさ、泥棒さ。当然、おれの|貰《もら》うべき財産を、おまえのお母さんが貰ったんだ。お母さんが亡くなれば、おまえがその財産をとるんだろう。そうなればおまえはおれの財産を、|横《よこ》|奪《ど》りするのも同じことじゃないか」
「あなた、あなた」
たまりかねて華子があいだに割って入った。
「そんな失礼なことを。……美禰子さん、堪忍して。伯父さまはちかごろ少しいらいらしているもんですから。あなた、今夜はきっとあたしが工面してまいりますから、そんなにいらいらおっしゃらないで。……」
美禰子の|眦《まなじり》は怒りのために、張り裂けんばかりである。しかし、彼女はもうこれ以上、この|賤《いや》しい伯父と|諍《あらそ》う気持ちはなくなっている。彼女は満身の憎悪と軽蔑をこめた|一《いち》|瞥《べつ》を利彦の額にくれると餉台のそばから立ちあがった。
「一彦さん、そろそろ出かけましょう。もう七時よ」
「ああ」
一彦は力なく立ち上がりかけて、思い出したように、
「お母さん、いってまいります」
と、餉台に手をついて頭をさげたが、父には|挨《あい》|拶《さつ》もせずに美禰子のあとを追う。
利彦はしかし、いま美禰子と醜い諍いをしたことも忘れたように、けろりとした顔で、
「華子、それほんとかい。今夜工面をしてくれるというのは……」
「はい、きっとなんとかしてまいります」
「出来るかい、おまえに……?」
「なんとかなるだろうと思います」
「なるだろうじゃ困るぜ。きっとなんとかしてくれなくちゃ……」
「はい」
「そう、それじゃ早くいって来てくれ。|晩《おそ》くなると物騒だから」
「はい。でも……」
「でも……? どうかしたのかい?」
利彦の声がまたとがってくる。
「秋子さまがお|淋《さび》しかろうと思って……。お信乃さんも目賀先生もお出かけですし、三島さんもまだ帰らないようですから」
「秋子のお守りぐらいならおれにだって出来る。三島はどこへいったんだ」
「明日の初七日の準備に奔走しているんです。ものの不自由な時代ですから」
「そう、それじゃ間もなく帰るだろう。お種だっていることだし、心配はいらん。早くいって来い」
|日《ひ》|頃《ごろ》はちょっとでも家をあけると、がみがみいう|良人《お っ と》だのに、勝手なときにはせき立てるようにいうのである。華子は|溜《た》め息とともに立ち上がる。|諦《あきら》めきっていても、やはり溜め息が出るのである。
こうして七時ちょっと過ぎ、華子が家を出ると、椿邸にのこったものは、利彦と秋子の兄妹と、女中のお種の三人きりになった。
むろん、警察ではまだ警戒をゆるめず、それとなくこの屋敷を見張っているものの、それももうほんの形式だけのもので、あまり熱心なものではなかったらしい。
八時半ごろ三島東太郎が大きなルック・サックを背負ってかえってきた。通用門の外に張りこんでいる刑事がうさん臭そうにそれを見送っていた。
勝手口から入っていくと、台所で後片付けをしていたお種が、
「あら、お帰りなさい。疲れたでしょう」
「ああ、すっかりくたびれた。乗り物がたいへんだからね」
「ほんとうに。こんな時代にことがあるとたいへんだわ。でも間にあった?」
「うん、あらかたね。ゼイタクはいえないけれど、ああ、腹がへった」
「あら、御飯まだだったのね。すぐ支度するから待っててね」
奉公人たちの食事するところは、あの広い茶の間のつぎの間になっている。東太郎はルックをおろしてどっかとあぐらをかくと、
「どうしたの。いやに静かじゃないか。みんなもう寝ちまったの」
「みなさん、お出掛け、ほんとうに心細かったわ」
「どうして?」
「だって、一時間あまりというもの、この広いお屋敷に、あたしと奥さまと新宮さんの三人きりだったんですもの。あたし、|怖《こわ》くって、怖くって……」
「あっはっは、お種さんは|臆病《おくびょう》だなあ。家のなかには三人きりでも外にはちゃんと刑事が張り番をしてるから大丈夫さ」
「あら、刑事さんたちまだいるの」
「うん、ぼくが大きなルックを背負ってかえってきたから、変な眼をしてじろじろ見てたぜ。あんまり気持ちのいいものじゃねえな。だけど、みんなどこへいったのさ」
お種がお|膳《ぜん》を持ってきて、
「さあ、どうぞ」
それからお種はそれぞれの出かけさきを話して聞かせた。そのあとへ、さっきの茶の間の諍いを付け加えることも忘れない。
「ふうむ」
東太郎は|茶《ちゃ》|漬《づ》けをかきこみながら眼をまるくして、
「すると、新宮さんはよっぽど困っているんだね」
「そりゃそうよ。丸焼けになってしまったんですものね。それに、あのとおり、なんにもしないくせに、道楽だけはひと一倍はげしいほうだから、焼けるまえから不動産やなんか、すっかりなくしてしまって。……奥さんが持っていらした財産だって、相当あったはずなんだけど、それさえ新宮さんがすっかり|費《つか》っちまったって話よ。それでいて、奥さんのお里がなんにもしてくれないって、不平ばかりいってるんだから、憎らしいってありゃしない。なまけものの標本みたいなひとよ。あれは……」
そのとき、お種のおしゃべりを制するように、呼鈴がけたたましく鳴った。お種は壁にかけてある信号を見て、
「あら、お玄関ね。誰がかえって来たのかしら」
かえって来たのは信乃だった。お種が玄関をあけると、信乃が怖い顔をして、
「ああ、お種、あたしが出てる間に、うちに何か変わったことはなかった?」
信乃の声がふるえているので、お種はふしぎそうに、
「いいえ、別に……」
「秋子さまは大丈夫だろうねえ。何もお変わりはないだろうね」
「はい、御機嫌およろしいようでございます」
「そう」
信乃はそそくさとうえへあがったが、急に思い出したようにうしろを振り返って、
「あなた、恐れ入りますが、もう少々ここでお待ちくださいまし、御様子を見とどけてくるまでは気が落ち着きませんから」
「承知しました」
玄関の外から声がきこえる。
「あら、どなたかいらっしゃいますの」
「門の外に刑事さんがいらしたので、ついて来ていただいたのです。お種さん、あんたもいっしょに来ておくれ。あたし、なんだか怖いから……」
「まあ、ばあや様、どうかなすったのでございますか」
|日《ひ》|頃《ごろ》めったに取り乱したところを見せたことのないこの信乃が、妙におびえているので、お種はもうそれだけで、|膝頭《ひざがしら》ががくがくふるえる感じだった。
「なんでもいいから、あたしといっしょに来て……」
信乃はコートもぬがずに、長い廊下を走っていく。お種もそのあとからくっついていった。秋子の居間のまえまでくると、なかから、
「だあれ、お種?」
と、例によって秋子の甘ったれた声である。
「ああ、秋子さま」
信乃はがっくりしたように吐息を吐いて、障子を開くと、秋子は机にむかってお習字をしている。秋子はこういう女だが、たいへん字が上手で、退屈なときにはいつも手習いをするのである。
「まあ、信乃だったの。思いのほか早かったわね。及川の伯母さまの御用ってなんだったの」
「秋子さま、それが妙なのでございますよ。及川さまでは電報など打ったおぼえはないとおっしゃるんでございますよ」
「まあ!」
お種の声に気がついて、信乃がうしろをふりかえった。
「ああ、お種さん、あんたもうあっちへいってていいわ。そうそう、刑事さんに、何も異常はございませんでしたと断わって来ておくれ」
「はあ」
「あ、ちょっと、お種や」
秋子が呼びかけたので、お種は立ちかけた膝をまたおろした。
「菊江さんがかえって来たら、こっちへ来るようにいってね。お芝居の話を聞きたいからって、あたし惜しいことしたわ。切符持ってたのに……」
「承知いたしました」
障子をしめようとするお種の眼に、ふとうつったのは奥の間に敷いてあるふたつの寝床である。お種はそれを見ると思わずあかくなる。秋子と目賀博士は、ちかごろではもう公然と、夫婦の生活をしているのである。
玄関へ出て、刑事にひきとってもらって、戸締まりをしようとしているところへ菊江がかえってきた。
「お種さん、何かあったの。いまここから出ていったの、刑事じゃない?」
「ええ、でも別に……そうそう、菊江さま、奥さまがお待ちかねでございます。お芝居のお話をお聞きになりたいんですって」
「そう。でも今日の芝居、面白くなかったわ。菊五郎がすっかり元気ないんですもの」
そこへまた足音が聞こえてきたので、お種がしめかけた戸を開くと、かえって来たのは目賀博士である。博士はなんだかひどく御機嫌ななめで、そうでなくとも|蟇《がま》仙人のような顔が、いよいよ|蒼《あお》|黒《ぐろ》くものすごい。
「あら、先生、どうかなすって? ひどく御機嫌ななめじゃないの」
博士はぎろりと菊江を見て、
「これがぷりぷりせずにいられよかい。すっかり誰かにかつがれてしまった」
「かつがれたって?」
「横浜まで出向いていくと、会はやっぱり明後日だといいくさる。腹が立って腹が立ってたまらんから、かえりに友田のところへよって怒鳴りつけてやったら、友田のやつ、そんな電話をかけた覚えはないとけろりとしてやあがる」
「まあ!」
お種ははっと胸のとどろくのを覚える。信乃を呼び出したのも|贋《にせ》電報だったらしい。そしていままた目賀博士も。……
博士は急に気がついたように、
「お種、留守中べつに変わったことはなかったかい」
「いいえ、べつに……」
「それならええが。それにしても、くそっ、胸くその悪いこっちゃ」
「まあまあ、先生、奥へいきましょう。奥さまの顔を御覧になれば、いっぺんに御機嫌がなおりますわ」
博士の腕をとって奥へいく菊江のうしろ姿を見送って、お種は溜め息をついた。
お種は菊江が好きではない。好きではないというより嫌っている。しかし、この女の魅力をみとめないわけにはいかなかった。菊江がいることによって、家のなかはぱっと明るくなるのである。
奉公人溜まりへかえってきて、不思議な電話の話をすると、東太郎もびっくりして眼をまるくした。
「それで、お種さん、ほんとに留守中、何もかわったことはなかったの?」
「ええ、だからおかしいのよ。あたし、なんだか|怖《こわ》くなったわ。三島さん、あんた戸締まりを見てまわってくれない?」
「よし」
しかし、その戸締まりにも異常はなかった。十時過ぎに美禰子と一彦がかえってきたので、お種が玄関でその話をすると、ふたりともひどく驚いていた。
「それで、何もかわったことはなかったのね」
「そうなのでございます。それですから、いっそう気味が悪くって……」
美禰子はいかつい顔をして、しばらく考えていたが、やがて肩をゆすると、
「いいわ。その話はまた明日考えてみましょう。今夜は、もうおそいから、一彦さん、お引き取りになって。お種、もうみんな帰ったのでしょう。それなら戸締まりをして、あなたもお休みなさい。あたし、もうお母さまに|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》せずに寝るわ」
お種がもう一度戸締まりを見てまわって、部屋へさがって寝ようとしているところへ、勝手口をたたく音がした。お種はぎょっとして、
「どなた?」
と、声をふるわせる。
「あたし、華子よ」
「あら、奥さま。どうかなさいまして」
解きかけた帯をあわてて締めなおして、勝手口の戸を開くと、華子が|蒼《あお》|白《じろ》くひきつったような顔をして立っている。
「お種さん、うちのはこっちへ来ていません?」
「いいえ。あちらにいらっしゃらないのですか」
「ええ。何時ごろまでこちらにお邪魔していたんでしょうか」
「あれから奥様のお部屋で、十五分ほどお話しになって、それからあっちへお帰りになったようでございましたが……」
「そう。どこかへ出かけるようなこと、いってませんでしたかしら」
「さあ、奥さまにお伺いしてまいりましょうか」
「いいえ、いいの、いいの。そのうち帰ってまいりましょう。お邪魔しました。では、お休みなさい」
「お休みなさいませ」
勝手の戸締まりをしながら、お種はふっと心が暗くなる。
あの顔色ではきっと金策がうまくいかなかったのだろう。御主人にまたどんな|厭《いや》|味《み》をいわれることか。……
|枕《まくら》に頭をつけたものの、お種はなかなか寝つかれず、何度も何度も寝返りしていたが、急にぎょっとして寝床のうえに起きなおった。
だしぬけに、けたたましい女の悲鳴が聞こえてきたからである。それにつづいて荒っぽい男の|罵《ば》|声《せい》と、どすんばたんと組討ちをするような音。その合間合間に絶えいるような女の泣き声。
奥様のお部屋からだ!
お種が寝間着のうえにあわてて着物をひっかけているとき、誰かが廊下を走って、秋子の部屋にとびこむ音がした。信乃らしかった。どすんばたんという音はなくなったが、男の罵声と女の泣き声はまだつづいている。
お種は怖わごわ秋子の部屋のまえまでくると、むこうから東太郎もやってきた。
「どうしたの」
「さあ、なんですかしら」
ふたりが耳をすましていると、
「この|阿《あ》|魔《ま》、この阿魔!」
ぜいぜいと肩で息をするような声は目賀博士である。
「先生、まあ、先生、そんな手荒な|真《ま》|似《ね》を……なんぼなんでもそんな馬鹿なことが。……」
信乃が何かを取りなしているらしい。ヒイヒイと子供のように泣いているのは秋子である。
「いいや、いいや、きっとそうじゃ。それにちがいない。こいつが、このふんばり阿魔が誰かと打ち合わせて、わしとおまえさんをおびき出しよったんじゃ。そして、そして、その留守中に。……」
「ああ、先生、先生、そんなこと奉公人に聞こえたらどうするんです。何かの思いちがいですから、もう堪忍してあげてください」
そのとき、お種と東太郎はとつぜんうしろから突きのけられて、ぎょっとしてふりかえった。いつの間に来たのか、美禰子が|真《ま》っ|蒼《さお》な顔をして立っている。|瞳《め》が怒りにふるえていた。
美禰子はふたりに眼もくれず、いきなりさっと障子を開いた。
奥の間だけに|灯《あか》りがついていて、半分ひらいた|襖《ふすま》のあいだから、目賀博士が秋子の髪をひっつかみ、ぎゅうぎゅうと寝床のうえに押しつけているのが見える。博士はタオルの寝間着、秋子は派手な|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》、どっちもひどく着くずれて、うつぶせになって泣いている秋子の肉付きのいい肩が、大きく長襦袢から露出している。信乃の姿は、襖のかげになって見えなかった。
「どうしたんです。それは……」
縁側に立ったまま、美禰子の声は凍りつくように冷めたかった。
その声に目賀博士がぎょっとこちらをふりかえり、信乃の顔が襖のかげからのぞいた。信乃はいそいで目賀博士に耳打ちすると、こっちへ出て来てあいだの襖をしめる。
「なんでもないのよ。美禰子さん。先生は今夜は御機嫌が悪いんです。|贋《にせ》電話にだまされたもんだから。……さあ、あっちへいってお休みなさい。あとはあたしがよく取りなしておきますから。……」
美禰子はしばらく怒りにもえる眼で、信乃の顔をにらめつけていたが急にくるりと|踵《きびす》をかえすと、ものもいわず小走りに走っていった。
信乃は障子をしめようとして、お種と東太郎の姿に気がつき、
「まあ、あんたたちもここにいたの。馬鹿ねえ。なんでもないんだから、早くむこうへいってお休み、お休み」
「すみません」
東太郎とわかれて、お種が部屋へかえってきたのは十二時ちかくだった。
そしてそれから一時間ほどのちに、|椿邸《つばきてい》のひとびとは、また、あのまがまがしいメロディーによって夢を破られたのである。
悪魔が来りて笛を吹く……あの|呪《のろ》わしいフルートの音に……
美禰子はそのときまだ眠ってはいなかった。
夕食のとき伯父とのあいだに起こした醜い|諍《いさか》い、ちょっとしたことからこじれてしまった一彦の就職、そこへ持ってきて、さっき見せつけられたあの浅ましい母の醜態。……
どのひとつをとって見ても、美禰子から安らかな睡眠を奪う材料ばかりである。美禰子は怒りにふるえ、絶望にうめき、浅ましさに泣いた。
かぞえ年十九になる美禰子は、ようやく女体の秘密を知りはじめている。彼女はちかごろやっと母の肉体が、いつも火のように燃えているのだということに気がついた。そして、その火をしずめるためには、目賀博士のような|脂《あぶら》ぎった男性が、どうしても必要なのだということを覚った。
それまで彼女は不思議でならなかったのである。あの|傲《ごう》|慢《まん》で口やかましく、貴族の誇りに満ち充ちていた玉虫伯爵のような人物が、どうしてじぶんの同族の|姪《めい》を、目賀博士のような野人の|蹂躙《じゅうりん》にまかせて、平気で見ていられるのだろうと。また、母に献身的な愛情をささげている信乃が、なぜ目賀博士のような男から、母を守ろうとしないのかと。……
しかし、いまはもう何もかもわかっている。
すべては人一倍燃えやすい母の肉体のせいであった。しかも、彼女はそれを抑制する知性にかけている。彼女にはいつも鎮静剤が必要なのだ。もし彼女に適当な鎮静剤をあたえておかないと、どのような醜聞をひきおこすかわからないという|危《き》|惧《ぐ》を、玉虫伯爵や乳母のお信乃は抱いていたのだろう。そして、目賀博士こそは母にとってもっとも有効にして、しかも椿家にとってもっとも無害な鎮静剤として、玉虫伯爵や乳母の信乃から、黙認されていたのであろう。
浅ましい、浅ましい、浅ましい。……
美禰子は|枕《まくら》をかんで|嗚《お》|咽《えつ》する。すすり泣く声がいつまでも、いつまでも森沈たる深夜の|闇《やみ》につづいていたが、そのうちに美禰子ははっと、弾かれたように枕から顔をあげた。
じぶんのすすり泣きのほかに、もうひとつ、枕に通うべつの音をきいたからである。
フルートの音!
ああ、もう、間違いはない。あの|呪《のろ》わしい「悪魔が来りて笛を吹く」のメロディーが、遠くかすかに、もの狂わしく。……
美禰子はもう泣いてはいなかった。今日、お信乃と目賀博士をあざむいて呼び出した、ふしぎな|贋《にせ》電報と贋電話のことが、さっと彼女の頭脳をかすめてとおった。
やっぱり何かあったのだ!
美禰子は灯をつけると、大急ぎでパジャマのうえにガウンをはおった。縁側へとび出すとお種に出会った。
「お嬢さま、お嬢さま、あれ、あのフルートの音……」
「いいのよ、いいのよ、わかってるのよ、でも、どこから……」
「どこだかわかりません。どこだかわかりませんけれど、なんだかお庭のほうから聞こえるようで。……」
そのとき、フルートの音が突然、たからかな悪魔の|雄《お》|叫《たけ》びにうつったので、お種は木の葉のように身をふるわせながら、必死となって耳をおさえた。
お種のいうとおりだ。フルートの音はたしかに庭のほうから聞こえるのである。美禰子が雨戸をあけようとすると、お種があわててその手にしがみついた。お種の手は氷のようにつめたかった。
「いけません、いけません。お嬢さま、雨戸をおあけになっては……」
「いいのよ、いいのよ、お種、おはなし!」
「だって、だって、悪魔がとびこんでまいりましたら……」
争っているふたりの耳に、どこかで雨戸をひらく音が聞こえた。それにつづいて、
「お種、お種」
と、呼ぶ声は信乃である。
「お種、あなたはお母さまのほうへいってあげて。あたし、ちょっといってみる」
がらりと雨戸をひらくと、フルートの音が急に高くなり、美禰子も、お種も、それに面をうたれたように、思わず二、三歩|尻《しり》ごみした。
外はまっくらで星の影さえ見えない。美禰子は大急ぎで部屋へとってかえすと、懐中電気を持って来た。
そこへ菊江もやって来た。
「美禰子さん、ど、どうしたの、あのフルート……?」
さすがに菊江の顔も|真《ま》っ|蒼《さお》で声もかすかにふるえている。派手な|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》のうえに、羽織をひっかけている姿がなまめかしかった。
「どうしたのかわからないの。でも、きっと何かあったのよ。行って見ましょう」
そのときばかりは、美禰子も菊江に対する反感をわすれていた。反対に彼女の持っているコケティッシュな雰囲気が、ひどくたのもしく感じられた。
はだしのままふたりが庭へおりたとき、洋館のほうの窓があく音がして、誰かが庭へとびおりる気配がした。
「誰……?」
美禰子がぎょっとして声をかけると、
「ぼくです」
と、東太郎の声がして、間もなく三人はいっしょになった。東太郎はズボンのうえに毛糸のジャンパーを着てこれまたはだしのままである。
秋子の座敷のまえをとおると、秋子をなかにはさんで信乃とお種が、凍りついたような格好で立っている。
「目賀博士は……?」
菊江が声をかけると、信乃があっちというふうに指さしたが、口は|利《き》かなかった。おそらく声が出なかったのであろう。
あの呪わしい「悪魔が来りて笛を吹く」のメロディーは、まだもの狂わしくつづいている。
日本ふうの庭園をぬけて、|胡《ご》|麻《ま》|穂《ほ》|垣《がき》の|枝《し》|折《お》り|戸《ど》をくぐると、向こうに見える|鰻《うなぎ》の寝床のような温室のまえに、懐中電気の灯が動いている。
近づいてみると華子と一彦だった。ふたりとも、いま寝床からとび出してきたばかりの姿で、温室のガラスに額をくっつけるようにして、なかをのぞいていたが、
「奥様、何かございましたの」
と、うしろから菊江に声をかけられて、弾かれたように振り返ったその顔は、白い|蝋《ろう》|燭《そく》よりまだ白かった。
「ど、どうしたのかわかりませんの。でも、フルートの音が温室のなかから……」
それは華子にいわれるまでもなくわかっている。あの物狂わしいフルートの音は、温室のなかから聞こえるのである。三人がのぞいて見ると、温室のなかに懐中電気の灯がうごいている。
「誰……? あれ……?」
美禰子が押しつぶされたような声で訊ねた。
「目賀先生」
と、一彦がかんたんに答えて息をのんだ。
そのとたん、目賀先生がスウィッチをひねったと見えて、温室のなかがぱっと明るくなった。そして、ひとびとは、フルートの音が、どこから来るのかはじめて知ったのである。
温室のなかには電気がふたつぶらさがっているが、ひとつのほうは電球がはずされて、その代わりコードが、そこからぶらさがっている。コードのさきは温室の棚におかれた電気蓄音器につながっており、|蓋《ふた》をひらいた電蓄のなかで、あのまがまがしいレコードが、物狂わしい音をあげながら回転しているのである。
ひとびとが凍りついたような眼で、その回転を凝視しているまえで、レコードは最後の悲痛な雄叫びをあげたかと思うと、急にぴたりと停止した。
悪魔が笛を吹きおわったのである。
ひとびとがほっと|呪《じゅ》|縛《ばく》をとかれたような眼を、目賀博士のほうにむけると、博士は床にかがみこんで何やら見ている。何を見ているのか、ぎっちりならんだ食虫|蘭《らん》や、高山植物のかげにかくれて見えなかった。
「先生、先生、何かございまして?」
ガラスの外から美禰子がわめくと、博士はのっそり立ちあがった。そして、|蟇《がま》仙人のような顔をこちらにむけると、
「新宮さんが死んでいる。殺されていなさるんじゃ。こいつで|眉《み》|間《けん》をわられてな」
蟇仙人がタオルの寝間着の|袖《そで》でつまみあげたのは、去年の夏、泥棒に盗まれて以来、行く方不明になっていた風神である。
ガラス越しながらもその風神が、ぎたぎたするような血で、ぐっしょり|濡《ぬ》れているのがはっきりわかり、美禰子は急にはだしの冷めたさが脚下からのぼってくるのをおぼえた。
これが金田一耕助の留守中に起こった事件である。
第二十二章 指輪
「それじゃ、新宮さんの殺されたのは、四日の夜の、七時から八時までのあいだだとおっしゃるんですね」
金田一耕助は悩ましげな眼付きで、眼のまえのテーブルのうえにおいてある風神の像を見つめながら、いかにもものうげな調子である。
六日の午前十一時ごろ。|椿邸《つばきてい》の応接間。
昨日の朝、須磨寺の宿で凶変を聞いた金田一耕助は、あとは出川刑事にまかせておいて、その夜の汽車で神戸をたつと、今朝東京駅へ着いたその足で、椿邸へかけつけて来たのである。
だいたいが、あわただしい旅行であったうえに、ゆうべ夜汽車で眠れなかったので、耕助は心身ともに綿のように疲れている。|瞳《め》が熱っぽく濁って、しょぼしょぼと|無精髭《ぶしょうひげ》のはえた|頬《ほお》が、げっそりこけて|憔悴《しょうすい》している。頭脳のなかに薄皮がはっているような感じである。
「そうです、そうです」
と、|等々力《とどろき》警部はいらいらと、テーブルのまわりを歩きまわりながら、
「七時から八時までのあいだ……と、いうより、七時半ごろのことじゃないかと思われるんですがね」
「どうして、そうはっきり限定出来るんですか」
「それはこうです。四日の晩、このうちでは、|秋《あき》|子《こ》夫人と女中のお種、それから被害者の新宮さんの三人をのこして、あとの連中はみんな出掛けているんです。そのことはさっきもちょっと話しましたが、菊江は東劇へ芝居見物、三島東太郎は昨日の初七日の買い出しで、このふたりは朝から出掛けている。お|信《し》|乃《の》と目賀博士は夕食まえに、それから|美《み》|禰《ね》|子《こ》と一彦は夕食がすむとすぐ出掛けていった。そして、さいごに|華《はな》|子《こ》の出掛けたのが、七時五分ごろだというんです。この華子が出掛けていくのを見送って、新宮さんと秋子夫人は夫人の部屋へひきさがった。そして、十五分か二十分話をしたのち、新宮さんは秋子の部屋を出て、じぶんの住居のほうへかえっていったというんですから、たぶん、その時刻は七時二十分か二十五分ごろだったでしょう。ところで、あんたも御存じのとおり、新宮さんの住居は別棟で、屋敷のすみに建っているから、そこへかえるには温室のそばを通らなければならない。さて、五日の朝の一時過ぎ、温室のなかで死体となって発見された新宮さんの服装というのが、秋子夫人の部屋を出たときのままだし、新宮さんの住居のほうにも、新宮さんのかえって来たような気配はない。だから、新宮さんは七時半ごろこちらを出て、自分の住居へかえる途中、温室のなかへ引っ張りこまれて、殺されたんじゃないかということになるんです」
「死因は絞殺でしたね」
「ええ、そう、この風神でぶんなぐって、|昏《こん》|倒《とう》しているところを、温室にあった|棕《しゅ》|梠《ろ》|縄《なわ》で絞め殺しているんです」
警部はさすがに顔をしかめる。金田一耕助はしかし、あいかわらず無感動な声で、
「しかし、それにしちゃ不思議ですね」
「なにが……?」
「だって、七時半といえば、まだ宵の口でしょう。無人といってもこちらには、奥さんやお種さんが起きていたはずだから、何か聞こえそうなものですがねえ」
「さあ、そのことですがねえ」
警部はあいかわらず部屋のなかを歩きまわりながら、
「奥さんやお種ばかりじゃない。表には刑事が三人張りこんでいたんですよ。それにも|拘《かかわ》らず誰ひとり、悲鳴を聞いているもんはないんです。ねえ、金田一さん」
そこで警部は急に立ちどまると、うえから耕助の顔を見おろしながら、
「玉虫|伯爵《はくしゃく》の場合がやっぱりそうだったじゃありませんか。いかに防音装置がほどこしてあったとはいえ、あれだけの大乱闘のあいだに、伯爵が声を立てなかったとは思えないのに、誰ひとり気がついたものはなかった。ということは……」
「と、ということは……?」
「と、いうことは……」
と、警部はおこったようにぎらぎらする眼で、うえからきっと、金田一耕助の|瞳《め》をにらみつけながら、
「玉虫伯爵にしろ新宮子爵にしろ、この犯人のまえへ出ると、蛇にみこまれた|蛙《かえる》のように、体がすくんで声も立てられないのじゃないか。そして、相手のいうままに唯々諾々と、殺されてしまうんじゃないか。……馬鹿げた考えかも知れないけれど、わたしにゃそんな気がしてならないんだ」
金田一耕助のものうく|濁《にご》った瞳のなかに、そのとき、きらりと|昂《こう》|奮《ふん》の炎がもえた……
「なるほど、そして、警部さんはそれを誰だと思っていらっしゃるんです。玉虫伯爵や新宮子爵に対して、そのような神秘な力を持つ犯人を……」
「椿|子爵《ししゃく》!」
言下にきっぱり警部がこたえた。何かを|噛《か》みきるような強い調子である。
「椿子爵……?」
|鸚《おう》|鵡《む》がえしに金田一耕助。
「しかし、椿子爵は玉虫伯爵や新宮さんにとっちゃ、|軽《けい》|蔑《べつ》の的だったというじゃありませんか」
「なるほど、以前はそうだったでしょう。いや、そうであったからこそ、いまもしかりに、椿子爵が生きているとすれば、あのひとたちは、どのような強いショックにうたれるでしょう。その子爵が、だしぬけに眼の前へあらわれたら……とにかく、わたしにゃ椿子爵以外に、これほど強い力を持つ人物を、考えることは出来ませんねえ」
「なるほど」
しばらく黙ってかんがえていたのちに、金田一耕助は|合《あ》い|槌《づち》をうった。それから思い出したように、
「ときに目賀先生やお信乃を呼び出した、|贋《にせ》電話や贋電報のぬしはわかりませんか」
「電話のほうはわからない。最初お種が出たんだが、どうも公衆電話らしかったというんです。目賀先生も何しろちかごろの電話だから、ガーガーと雑音ばかり多くて、誰の声ともわからなかったといっている。|但《ただ》し、男の声だったことだけは間違いないというんですがね」
「目賀先生の会の予定は今夜だったんですね。そのことを知っているのは……?」
「この家のものはみんな知ってたそうです。ちかごろでは新宮さんのほうもいっしょになって、みんなこちらで夕食をとるんだが、三日の晩だったかに目賀博士が、そのことを|洩《も》らしたそうだ」
「電話がかかって来たのは夕方の何時ごろ?」
「四時半ごろだそうです。会は横浜で六時からというんだから、目賀博士は大あわてにあわてて出ていったんですね。ところがそれから約半時間たった五時ごろ、お信乃のところに電報が来たんです」
「やはりお種が受けとったんですね」
「いや、なんでもそのとき新宮さんが外出さきからかえって来て、門のところで配達夫に出あったとかで、受け取ってきてお種にわたしたそうですがね」
「なるほど、それでお信乃さんも、急いで出掛けたというわけですね」
金田一耕助はだまって|爪《つめ》をかみながら、しばらく考えこんでいたが、
「どうも妙ですね」
「何が?」
「何がって、お話を聞いていると、そいつは四日の日、菊江さんは芝居見物に、三島君は買い出しに出掛けて、かえりがおそくなるだろうことを知っていた。また、美禰子さんと一彦君も夕食後、就職運動に出掛けることを知っていた。と、すると、邪魔になるのは目賀博士とお信乃だけだから、このふたりを贋電報や贋電話でおびき出した。……と、そういうことになるんでしょう」
「そう、そのとおり。しかし、それがどうして妙なんですか」
「どうしてって、そいつはなんだって、そんな手数をかけてまで、みんなをこの屋敷から追っ払わなければならなかったんです」
警部は|呆《あき》れたように眼をまるくして、
「それは云うまでもなく、新宮さんを殺害するために……」
「いいえ、だから不思議なんです。新宮さんを殺すなら、なにもそんな手数をかけなくても、ほかにいくらでもチャンスはあるはずですよ。もし、しいて新宮さんの周囲のものを追っ払わねばならぬ必要があったとしたら、まず、第一に華子夫人を追っ払うべきじゃないでしょうか。ところが、さっきのお話によれば、華子夫人が外出しなければならぬ羽目になったのは、新宮さんの命令じゃありませんか」
警部はまた眼をまるくして、
「金田一さん、あんたは何を考えているんです。新宮さんは被害者ですよ。殺されたんですよ」
「ええ、そう、そのとおり。そして、ぼくは何も考えてやあしません。|唯《ただ》不思議だといってるんです。ところで華子夫人が出掛けたのは金策のためだったんですね」
「ええ、そう」
「新宮さんはそんなに金につまっていたんですか」
「それはもう絶対ですね。新宮さんはたちの悪い負債……と、いうより、じぶんの詐欺行為の埋め合わせをしなければならなくなっていたんです。それが遅れると訴訟を起こされる。裁判となると絶対敗けでさあ。じつにたちの悪い詐欺をやってるんですからね。だから、ここでどうしても、まとまった金をつくって内済にしなきゃ、一身の破滅というところまで、追いつめられていたんです」
新宮利彦の詐欺行為と聞いても、金田一耕助はかくべつ驚きもせず、
「なるほど、その金を奥さんにつくらせようとしたんですね。で、金策は出来たんですか」
「いや、それは出来なかったらしい」
と、何気なくいったあとで、警部ははっと気がついたように大きく息をはずませながら、
「金田一さん! あなたはまさか華子夫人が、金策に失敗したために……」
「いや、いや、いや!」
金田一耕助はあわててそれをさえぎると、
「ぼくはそんなこと考えてやあしませんよ。ねえ、警部さん、誰が犯人であるにしろ、この事件の動機はとてもそんな単純なものじゃありません。ぼくはただ、|腑《ふ》に落ちないところを追究しているだけなんです。新宮さんを殺すのに、華子夫人をおびき出さないで、なぜお信乃をおびき出したか、目賀博士は男だから邪魔になるとしても、お信乃をなぜそんなに邪魔にするんです。あの女はいつも秋子夫人につきっきりですから、新宮さんを殺すのに、それほど邪魔になるわけはないじゃありませんか」
等々力警部はふいと|眉《まゆ》をひそめて、
「ああ、金田一さん、あんたはあのことをいってるんですな。四日の晩、お種と三島が立ちぎきしたという目賀博士のことば。……秋子夫人にむかって、おまえが誰かと打ちあわせて、わしとお信乃をおびき出したんだ。そして、その留守中に、……と、|罵《ののし》っていたあの言葉。……」
耕助はぼんやりうなずいて、
「そう、それもあります、不思議ですねえ。目賀博士はなんだって、そんな幻想をいだいたんでしょう。そして、留守中に、秋子夫人が、なにをしたといいたかったんでしょう。警部さん、目賀博士は、それについて、いったいなんと釈明してるんですか」
「ところが、博士はそんなことをいった覚えはないというんですね。もし、かりに、そんなことを口走ったとしたら、むしゃくしゃ腹で当たり散らしていたところだから、口から出まかせをいったんだろう……と」
「むしゃくしゃ腹というのは……」
「|贋《にせ》電話でおびき出されたのが、|癪《しゃく》にさわってたまらなかったというんでね」
「しかし、それだからって秋子夫人が……」
金田一耕助はあくまでその点を追究しようとして、急に気をかえたように、
「いや、そのことはそれくらいにして、それじゃもう一度、電報のことにかえりましょう。電報の発信局はわかってるんでしょう」
「それはわかっています。成城の|砧《きぬた》郵便局、その電報を受け付けた局員もわかって、その男もその電報を受け付けたことはおぼえているんですが、さて発信人がどんな人物だったかということになると、そこまでは記憶がないというんです。それでも、いまその人物にあったら思い出すかも知れないというので、昨日の昼過ぎここへつれてきて、椿|子爵《ししゃく》の写真を見せたり、家人にあわせたりしたんですが、みんな違うというんですね。というわけで、いまのところ、電報のほうからも、なんの手がかりもつかめないわけです」
「なるほど」
耕助はだまって|爪《つめ》をかみながら、伏し目がちにしばらく考えこんでいたが、やがて顔をあげると、
「ときに五日の朝一時ごろ、聞こえてきたというフルートの音、こんどもやっぱりレコードだったそうですが、それについて御説明願えませんか」
「いや、それについちゃ、ひとつ現場へ出かけて見ようじゃありませんか。死体のほうは昨日の朝、解剖のために運び出したが、あとはまだそのままにしてありますからな」
無言のままうなずいて、金田一耕助がものうげに立ちあがったところへ、表のほうに自動車がとまった。解剖をおわった新宮利彦の死体がかえって来たのだ。奥のほうからバラバラと、家人がとび出してくるのと入れちがいに、警部と金田一耕助は、庭へ出ると温室のほうへやってきた。
温室のなかには刑事がひとり、棚にならんだ珍奇な植物を、ひとつひとつのぞいている。
警部と金田一耕助は段をおりてドアをひらくと、くぐるように身をかがめて、温室のなかへ入っていった。
刑事はふたりに敬礼すると、ちょっとわきへよったが、あいかわらず珍しそうに、天井からぶらさがった植物の鉢をのぞいている。
「あそこに被害者の死体が、首に|棕《しゅ》|梠《ろ》|縄《なわ》をまきつけたまま横たわっていたんですがね」
と、警部は温室の奥まった土間を指さすと、それから入り口のすぐ左側の棚を指さし、
「ほら、そこに電気蓄音器、それからスウィッチがある」
と、ドアの横の柱を指さした。
なるほど、ドアの左の棚のうえに、中古の電蓄がおいてあり、そのコードが、ふたつある電気のひとつにさしこまれていることは、まえの章でもいったとおりである。
「つまり犯人はその電蓄にレコードをかけ、むこうの電気のスウィッチを切っておいて、電蓄のスウィッチを入れ、さらに、この柱についているスウィッチを入れたんですね。そこでレコードが回転をはじめ、くらがりのなかでフルートが鳴り出したというわけです」
「すると、フルートが鳴り出したときには、犯人はここへ来ていたわけですね」
「ところがそうもいかんのです。このスウィッチの親スウィッチが、|椿邸《つばきてい》のなかにある。だから、その親スウィッチを切っておけば、こっちのスウィッチを入れても電蓄は回転しない。そうしておいて、適当なときに親スウィッチを入れれば電蓄が鳴るというわけで、だからひょっとすると椿邸にいる誰かが、いながらにしてこのメカニズムを操作したのかも知れず、そうでないとすれば、いまあんたがいったとおり、誰かがここへスウィッチを入れに来たわけです」
金田一耕助はふっと大きく眼を見はった。そして、ゆるく頭をかきまわしながら、
「なるほど、なるほど、そしてその親スウィッチが切ってあったか、入れてあったか、誰も知っているものはいないんですね」
「むろん、そんなことに、いちいち注意するものはありませんからね。ふだん、それは入れっぱなしになっているそうで、われわれが調べたときにもONになっていましたがね」
「ところで、この電蓄は……?」
「誰も知らぬというんです。この家のものじゃないんですね。と、すると犯人が持ちこんだものにちがいなく、その線からたぐっていけやあしないかと思うんですが、こうして残していったところを見ると、犯人にもよほど自信があるんでしょうね。えっ、なに!」
警部と金田一耕助が、いっせいにうしろをふりかえったのは、だしぬけに刑事がなにか叫んだからである。刑事は|昂《こう》|奮《ふん》した面持ちで、
「け、警部さん、妙なものがありますよ。あそこに指輪みたいなものが……」
「なに、指輪が……?」
警部が指さしたのは、天井からぶらさがった無数の鉢のひとつである。鉢の直径は十四センチ、そこに同じ植物が一本ずつ植わっているが、それらの植物はどれも長い|蔓《つる》のさきに、袋をひとつずつぶらさげている。袋の直径は二センチぐらい、深さが四、五センチあって、それぞれ|蓋《ふた》を持っている。その蓋のなかには閉じているものもあれば、開いているものもある。
そこにぶらさがっているカードによって、それが「うつぼかずら」という食虫植物であることがわかったが、刑事がのぞいたのは、そのうつぼかずらの袋のひとつであった。
警部もそれをのぞいて見て、大きく|眉《まゆ》をつりあげたが、すぐ指をつっこんで、袋のなかからつまみ出したのは大きなダイヤをちりばめた金の指輪である。
金田一耕助はそれを見ると、びっくりしたようにそばからのぞきこんで、
「あっ、こ、これは……」
「金田一さん、あんたはこれに見おぼえがありますか」
「あります。たしかにそうだ。いつかの占いの晩、秋子夫人の指にこの指輪が光っていたのをおぼえています。刑事さん、すみませんが、美禰子さんを呼んで来てくれませんか」
美禰子はすぐにやって来た。そして、その指輪を見るとびっくりしたように、たしかに母のものにちがいないと断言し、四日の夕食のときまでその指輪が、母の指に光っていたと保証した。
「そ、そ、そして、お母さんは」
と、金田一耕助は昂奮のためにむやみやたらと、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「この指輪がなくなったことについて、騒いでやしませんでしたか」
「いいえ、ちっとも……」
「でも、お母さんは宝石狂といわれるくらい、宝石に愛着を持っていられるという話でしたね。指輪がなくなったら……」
「それこそ大騒ぎですわ。それだのに、あたし、ちっともそんな話を聞かなかったのは、いったいどういうわけでしょう」
美禰子は|狐《きつね》につままれたような顔色だったが、そのときだしぬけに昂奮した声で叫んだのは金田一耕助。
「警部さん、警部さん、もう一度呼んでください。あの贋電報をうけつけた、|砧《きぬた》郵便局の局員を……。その男は昨日この家で、ひとりだけ会わない人物があったはずなんです」
警部もびっくりしたように、
「誰です金田一さん、それは誰です」
「新宮利彦氏」
第二十三章 指
|贋《にせ》電報の発信人が、新宮利彦だったにちがいないということは、その日のうちに確認された。
あれからすぐに呼びよせられた砧局の局員も、新宮利彦の顔を見ると、発信人の顔を思い出して、たしかにこのひとにちがいないと断言した。また、|椿家《つばきけ》へ電報を配達した配達夫の話によると、あの電報を、椿家へもっていったのは、三時ごろだったが、そのとき、門のなかから出てきて受け取ったのは、新宮利彦だったというのである。
それらの話から考えられることは、新宮利彦はその日の朝、成城まで出向いていって電報をうつと、すぐ引きかえしてきて、門の付近で網を張って待っていたらしい。つまりそれは、電報があまりはやく|信《し》|乃《の》の手を落ちるのを、おそれたためであろう。
こうして贋電報の発信人が、新宮利彦だとわかると、当然、考えられることは、贋電話のぬしも、利彦ではなかったかということである。このほうは、しかし、確実な証明をうることは出来なかったが、時間的にいって不可能なことではなかった。
利彦は信乃にあてて打った電報を自分で受け取ると、そのまま外出して、四時半ごろ目賀博士に電話をかけたのだろう。そして、博士があたふたと出かけていくのを見とどけておいて、五時ごろ外からかえってくると、いま受け取ったばかりのような顔をして、信乃に電報をわたしたのだろう。
しかし、新宮利彦はなんのために、そんな手数のかかることをしてまで、目賀博士や信乃をこの家からおびき出さねばならなかったのか。
「それはねえ、警部さん」
耕助はものうげな眼のいろをして、
「新宮さんはその日のその時刻には、目賀博士とお信乃さん、それから|華《はな》|子《こ》夫人の三人をのぞいては、みんないなくなることを知っていたからですよ。邪魔になるのはこの三人だが、華子さんはじぶんの妻だから、なんとでも口実をつけて追い出すことが出来る。厄介なのは目賀博士とお信乃さんだが、そこでああいう方法で、ふたりを外へおびき出したんです」
「しかし、それはなんの必要があって……?」
「それはねえ、警部さん、さっきあなたのおっしゃったことから、想像出来ると思うんですよ」
「わたしのいったことから……?」
「ええ、そう、新宮さんは、のっぴきならぬ金の必要に迫られていた。新宮さんはどうしても、大至急相当まとまった金をつくらねばならぬ羽目になっていたが、その金策のあてはどこにもなかった。妹の|秋《あき》|子《こ》さんに|縋《すが》る以外には……」
警部は眼をまるくして、
「それじゃ、新宮さんは妹をくどいて融通してもらおうと、くどくチャンスをつくるために、お信乃と目賀博士をおびき出したというんですか」
「そう、それよりほかにうつぼかずらのなかから、ダイヤの指輪が出てきた理由は説明出来ませんね。秋子夫人があの指輪を紛失したものなら、あるいはたれかに盗まれたとしたら、大騒ぎをせずにはいなかったろうと、|美《み》|禰《ね》|子《こ》さんもいってましたね」
「ああ、そう」
「それにもかかわらず秋子夫人は、温室から指輪が発見されるまでたれにもそのことをいってなかった。美禰子さんさえ知らなかったくらいですからね。と、すると秋子夫人は承知のうえで指輪を手ばなしたにちがいない。つまり、たれかにくれてやったということになる。では、たれに……? と、いえば、のっぴきならぬ金策に、四苦八苦していた新宮さんのことが頭脳にうかぶ。新宮さんは、妹をくどき落とすことに成功したが、秋子さんも現金の持ちあわせがなかったので、よんどころなく、指輪を抜いてわたしたのでしょう。いや、新宮さんのほうから指輪でいいといったかも知れない。こうして、首尾よく指輪を手にいれた新宮さんは、ここを出て、じぶんの住居のほうへかえる途中、犯人に温室へひっぱりこまれて、殺されてしまったのでしょう。犯人は新宮さんが、指輪を持っていることを、はじめから知っていたのか、それとも殺してから気がついたのか、そこまではわかりませんが、とにかく、取りあえずうつぼかずらの袋の中へかくしたのでしょう。こう考えるよりほかには、指輪があそこにあったということについて、説明のつけようがないと思うんです」
警部は腕をうしろに組んだまま、椿家の応接間を、さっきからいきつもどりつ。秋の日は短くて、応接間にはもう電気がついている。新宮利彦の死体をむかえて、椿家では今夜がお|通《つ》|夜《や》らしく、ひとの出入りがあわただしい。
「しかし、ねえ、金田一さん」
警部はいきつもどりつしていた足をふととめると、耕助のほうにむきなおって、
「なるほど、あなたのおっしゃるとおりかも知れん。いや、きっとそうでしょう。しかし、それだからって、なぜあんなに手数をかけてまで、目賀博士とお信乃を、おびき出さねばならなかったんです。もっとも、たとえ相手が妹とはいえ、無心をふっかけているところを、ひとに見られたり聞かれたりするのは気まずいものだ。しかし、それなら秋子夫人を別室へよぶなり、目賀博士やお信乃さんに、座を外してもらうなりすればいいじゃありませんか。なにも、そんなに手数をかけておびき出さなくとも」
「警部さん」
金田一耕助はかすかにほほえんで、
「それはねえ、あなたが新宮さんというひと、ならびに、新宮さんというひとに対するお信乃さんや目賀博士の感情をよく御存じないからです。新宮さんというひとは、すきさえあれば秋子さんから、金を引き出そうとしていたひとです。秋子さんがまたあんなひとだから、兄さんに頼まれるといやとはいいきれなかったんでしょう。新宮さんのようなひとに金をつぎこむということは、|笊《ざる》に水をそそぐようなものです。いくらつぎこんでも、意味なくどこかへもれてしまう。それじゃ、秋子さんにいくら財産があったところで追っつくものじゃない。だから、目賀博士はともかく、お信乃さんは警戒おさおさ怠りなく、絶対に新宮さんを秋子さんに、近づけないようにしていたんじゃないかと思うんですよ」
等々力警部はうなずいたが、しかし、まだそれだけでは説明しきれない、しこりのようなものを感じずにはいられなかった。
金田一耕助自身もそれを感じているらしく、しばらく黙って考えていたが、やがて警部のほうへ顔をむけると、
「警部さん、とにかく、たれがどんな理由で電報をうったにしろ、問題はたれが新宮さんを殺したか、ということになるんですが、それについて関係者のアリバイは……? 四日の晩、外出していたひとびとの行動はどうなんです」
「それがねえ、はっきりしているようでもあり、はっきりしていないようでもあり……」
警部は|溜《た》め息をついて、
「とにかくみんな行くといって出かけたところへはいってるんです。菊江は東劇へいってるし、三島東太郎は買い出しをしてきている。目賀博士は横浜へいってるし、お信乃は成城へいっている。華子は金策のために実家へいってるし、美禰子と一彦はいっしょにタイプの先生のところへ出かけている。しかし、殺人の行なわれたと思われる七時半ごろに、この家へかえって来れなかったかというと、たれもそうだとはっきりいえないんです。一度こっそりかえってきてまたこっそり出かけたかも知れないんですよ」
「しかし、あの晩は刑事さんが張り番をしていたんでしょう。もし、たれかが出入りをしたら……」
「ところがね、これだけ広い屋敷でしょう。それにあんたも御承知のとおり、この家の塀は戦災にやられて、ところどころ応急修理のままでほったらかしてあるところがある。そんなところから忍びこもうと思えば、いくらでも忍びこむすきはあるんです」
「しかし、それじゃ、そこを調べてごらんになったら……? 最近たれか出入りした形跡があるかないか……」
「ところが、それがいけないんです。玉虫|伯爵《はくしゃく》の事件のときも、あそこから新聞記者がなだれこんだでしょう。だから、あのへんにゃ足跡が、いちめんについているんです。それだけならば、まだいいんだが、昨日、われわれがそれに気がついたときにゃ、朝のうちに新聞記者がやってきて、さんざん、そこら中をふみ荒していったあとなんです。これはわれわれの大失態でしたがね」
警部はにがりきっている。金田一耕助は慰めるように、
「まあまあ、そう完全にいっちゃ捜査の苦心はありませんからね。それじゃ、時間的にいって、みんな七時三十分にここにいようと思えば、いられるというわけですかね」
「そうなんです。菊江は東劇をしまいまで見ていなかったかも知れないし、三島東太郎は買い出しから、もっとはやくかえったかも知れない。目賀博士は六時ちょっとまえに、横浜の会場へいっているが、|騙《だま》されたとわかると、かんかんになって、すぐそこをとび出している。お信乃が|成城《せいじょう》の及川家へいったのは、六時ちょっとすぎなんですが、これまた騙されたとわかると、うちが気になるからといって、すぐとび出している。反対に華子が|中《なか》|野《の》にある実家へいったのは八時過ぎだというし、美禰子と一彦が|目《め》|黒《ぐろ》にあるタイプの先生のところへ着いたのはこれまた八時過ぎだという。だから、この三人は新宮さんを殺してから、出かけたかも知れないです。なにもかも、この不自由な交通機関のせいなんですよ。電車がなかなか来なかったとか、混んでいて乗れなかったとかいわれたら、もうそれ以上二十分や三十分の時間の誤差は追究しようがないんです」
警部は|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な溜め息をついた。
金田一耕助はだまって考えこんでいたが、やがてものうい眼をあげると、
「警部さん、さっきあなたのお言葉では、玉虫伯爵や新宮さんを殺したのは、椿|子爵《ししゃく》にちがいないとおっしゃいましたね。なるほどこの事件の裏面には、椿子爵もしくは椿子爵に極似した人物が|彷《ほう》|徨《こう》していることはたしかなようです。しかし、玉虫伯爵の場合はともかくとして、四日の夜の新宮さんの事件にはそいつが関係しているかどうか。……たれかそれらしい姿を見たひとがあるんですか」
警部は|陰《いん》|鬱《うつ》な表情で首を左右にふる。いくらか憤りさえこもった首のふりかただった。金田一耕助は溜め息をついて、
「ぼくの考えるにはねえ、警部さん、四日の夜、そいつは東京にいなかったんじゃないかと思うんです。なぜって、四日の朝、そいつは神戸にいたんですからね」
警部はびくっとしたように|眉《まゆ》を動かした。そして物問いたげな眼で、耕助の顔を見おろしている。耕助も無言のままうなずきながら、
「そうなんです、四日の朝の九時半ごろ、そいつは神戸のあるところへ現われているんです。それからすぐに汽車に乗ったとしても、ちかごろの列車のこの状態じゃ、七時半までにここへ到着出来たかどうか、いや、それよりもぼくの考えじゃそいつはある女を探しもとめて、まだ神戸をうろついているんじゃないかと思うんですがね」
「話してください、金田一さん」
警部は急に熱のこもった声になり、
「それがあっちのほうの調査の結果なんですね。あっちのほうでも殺人が行なわれたという報告はとどいているんですが、それじゃ、それにも椿子爵、もしくは椿子爵とおぼしき人物が関係しているんですね」
金田一耕助はうなずいた。それから、要領よく神戸から淡路にわたっての調査の結果を報告した。聞くことごとに、等々力警部のおどろきは深まるばかりである。金田一耕助は語りおわると、
「いずれ出川刑事から、もっと詳しい報告が来ると思いますが、ぼくのお話しできることは以上のとおりです。これを要するに新宮さんがその昔、玉虫伯爵の別荘で、おこまという女を犯してはらませた。そのことが今度の事件に大きく尾をひいているらしいんですが、しかし、ただそれだけではないと思う。そのほかに、何かもっと大きな、暗い影がそのころ|胚《はい》|胎《たい》してるんじゃないかと思うんですが、それがなんだかわからない。そして、それさえわかれば……」
金田一耕助は熱っぽい眼をきらりと光らせたが、急に気をかえるように、
「しかし、警部さん、そのことはいましばらく、忘れていることにしましょう。出川刑事から、もっと詳しい報告がとどくまでは。……それよりもいまの場合、指輪のことをもう少し、詳しく追究していかれたら……? 秋子夫人にそのことを|訊《き》いてみられたら……?」
警部はうなずいて部下を呼ぶと、秋子夫人にこちらへ来ていただくようにと命じた。
刑事が出ていったあと耕助は、|椅《い》|子《す》にのめりこむような格好で、ぼんやりとテーブルのうえを凝視している。そこには温室から発見された、風神の像がおいてある。
それは玉虫伯爵の殺人のさい発見された、雷神の像と|一《いっ》|対《つい》をなすものだけあって、大きさはほとんど変わらなかったが、こうしてテーブルのうえにおいて、妙に安定を欠いているのは、台座の下部がすこし切りとってあるからである。
金田一耕助はさっきから、そのことに非常に興味をおぼえているのだ。
誰かが台座の下部を輪切りにしたのだ。しかも輪切りにされた部分を、もういちど台座にくっつけたらしく、そこにある風神像の底部を見ると、かすかに|膠《にかわ》がついている。輪切りにされた部分は、おそらく直径三寸、厚さ三、四寸くらいの円盤だったろうが、たれがなんのためにそんなものを切り落としたか、切り落としたあとでまたくっつけたか。そして、また、温室のなかで発見されたときには、どうしてその部分だけ、取りはずされていたのか。……
金田一耕助はそのことに、異常な興味をおぼえてる。
そこへ秋子のかわりとして、老女の信乃がやってきた。
「秋子さまはお加減がお悪いので、わたしがかわりにまいりました」
信乃は切り口上でのべると、|禿《はげ》|鷹《たか》のような眼で警部と耕助を見くらべている。
等々力警部は|眉《まゆ》をひそめて、
「それは困りますね。お信乃さん、これはやっぱり御当人にきていただかねば。……」
「いいえ、秋子さまはこちらへお見えになりません。あのかたにはこんなこと、ふさわしくないのです」
信乃はてこでも動きそうにない。じっさい、秋子をここへ呼ぼうとすれば、家鳴り震動するほどの、大騒ぎを演じなければならないだろう。警部はあきらめたように苦笑した。
「それではあなたでも結構ですが、あなたは奥さんの指輪が温室から発見されたのを御存じでしょう」
「はい、そのことなら美禰子さんから聞きました」
「それについて、奥さんはなんといってらっしゃるのです。紛失したとか、たれかにわたしたとか。……」
信乃はすこしもためらわずに、
「それは秋子さまが新宮さんに差しあげたのだと伺っております。じじつ、またそれにちがいございますまい」
「そして、それはいつのことですか」
横から口を出した金田一耕助を、信乃はギロリと|凄《すご》い眼でにらみながら、
「四日の晩、みんなが出払ったあとだそうで。……茶の間から秋子さまが、じぶんのお居間へかえっていらっしゃると、新宮さんがついてきて、あまりしつこくお頼みになるものだから。……そこはやっぱり御兄妹ですから、秋子さまも新宮さんの窮状に同情されて……それで指輪を差しあげたのだと思います」
「あなたは四日の晩、成城からかえっていらっしゃったとき、奥さんの指から指輪がなくなっていることに気がつきませんでしたか」
信乃はちょっとためらったのち、
「はあ、あの、そのときは気がつきませんでした。気がついたのはその翌朝、つまり昨日の朝のことでございました。そこで奥さんを問いつめて、新宮さんに差しあげたんだということを、はじめて知ったようなしまつで……」
「それじゃ、それは新宮さんの死体が発見されたあとですね。なぜそのとき、指輪のことをおっしゃらなかったんですか。当然、新宮さんの死体が持っているべきはずの指輪のことを。……」
「それは……それは……」
信乃はちょっと追いつめられたような表情をしたが、すぐそれを跳ねっかえすように、
「それはやっぱり|動《どう》|顛《てん》していたからです。それにわたしども、なんでもかんでも、なるべくそうっとしておきたい習慣がついているんです。だってこの春からあまりいろんなことが起こるものですから……」
信乃のことばにも多分の真実性はある。しかし、ただそれだけのこととは思えない。あれだけ高価な指輪のことを、なぜ、黙って過ごそうとしたのだろう。
「ところで……」
と、こんどは警部が乗りだして、
「あなたを|贋《にせ》電報で呼び出した人物ですがね。だいたい新宮さんに間違いない、ということになってるんですが、それについて、あなたはどうお考えですか」
信乃は|睫《まつ》|毛《げ》ひと筋動かさず、
「どうもこうもございません。秋子さまが新宮さんに指輪をまきあげられた……いえ、あの、差しあげたと聞いたときから、わたしどもはあの電報のぬしが、新宮さんだと思っていました」
等々力警部はちらと耕助のほうを見て、
「どうして……?」
「どうしてって、いかにも新宮さんのやりそうなことだからです。あのひとはそういう卑劣なかたなんです。すきあらば秋子さまにおどりかかって、金をまきあげようとしていたんです。わたしども……わたしと目賀先生は、だから片時も秋子さまから、目がはなせなかったんです。秋子さまを新宮さんのいうままにさせておいたら、いくら財産があったところで足りっこはございません」
それはだいたい、金田一耕助の想像したとおりだから、信乃が真実をのべているものと思っても間違いはなかった。
しかし、なにかしらそこに欠けているものがあった。奥歯にもののはさまったような、あるいは靴をへだてて|痒《かゆ》きを|掻《か》くような、なにかしら、もどかしさを感じずにはいられなかった。
この女はまだすっきり泥を吐いていない。しかし、この女にそれを吐かせることは、雄鶏に卵をうませるよりも困難なことにちがいない。
「いや、有難うございました。それではちょっと、目賀先生にこちらへ来ていただくよう、おつたえ願えませんか」
信乃はまたギロリと耕助をにらむと、
「お断わりしておきますが、目賀先生もあの贋電報や贋電話が、新宮さんのしわざだということは御存じですよ。わたしどもよく話しあったあげく、それにちがいないときめたんですから」
それから、信乃は姿勢をただし、堂々として応接室から出ていった。
目賀博士が現われるまでに相当ひまがかかったのは、おそらく信乃と打ちあわせをしていたのだろう。
目賀博士は例によって、|蟇《がま》仙人のような顔に、不敵な微笑をうかべながら、
「どういう御用件じゃな。あの贋電報や贋電話のことなら、だいたい、お信乃さんのこたえでつきていると思うがな」
金田一耕助はものうげな眼をして、
「いや、先生にお|訊《たず》ねしたいのはそのことじゃないのです。先生はあの晩奥さんと、寝床へお入りになってから|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》をされたそうですね。そのとき、おっしゃった先生のことば……おまえが誰かと打ちあわせて、わしとお信乃をおびき出したんだ。そして、その留守中に……と、おっしゃったようですが、その留守中に奥さんが、どうしたとおっしゃりたかったんですか」
耕助の眼にじっと|視《み》つめられて、蟇仙人の不敵な面に、ふいと不安な色がうかんだ。それによって耕助は、この質問が問題の核心をついているのだと知った。しかし、相手もさるものである。すぐに人を食ったような微笑を取りもどすと、
「あっはっは、なんだと思えばそのことか。これは何度もいうとおり、そんなことをいったかどうか覚えはないが、いったとすればこうだろう。じつは、指輪のことをいいたくなかったので、いままでかくしていたのだが、わしは寝床へ入ってから、あれの指から指輪がなくなっていることに気がついたのじゃ。それを問いつめているうちに、あいつの返事がだんだん怪しくなってきたので、さては新宮さんにやったのだと気がつくと同時に、あの贋電話も新宮さんのしわざだったにちがいないと思いあたった。そこで思わずかっとして……なにしろ、あの贋電話には、すっかり腹を立てていたもんだからな」
「しかし、それじゃ奥さんが誰かと打ちあわせて……と、いうことにゃならないじゃありませんか」
蟇仙人のおもてに、またかすかに不安の色が走った。しかし、すぐにそれをたからかな笑い声で吹きとばすと、
「だから、自分でも何を口走ったか覚えてはおらんといっている。きっとむしゃくしゃ腹で、八つ当たりをしていたんだろう。おまえさんでも|騙《だま》されて、いまどきの電車にもまれて、横浜くんだりまでつれ出されてごらんなされ。どんなに腹が立つことか」
「先生には、奥さんが新宮さんに指輪を用立てられたということが、そんなに腹の立つことなんですか」
蟇仙人はまたぎょっとしたように耕助の顔色を読んだ。
「いや、こういういいかたをしては失礼ですが、先生には、奥さんの財産がなくなっていくということが、そんなに気になることですか」
目賀博士はなにかしら、ほっとしたように渋い微笑をうかべて、
「ああ、そのことか。わしが秋子の財産に、どれだけ執着をもっているかというんだね。そりゃたれしも、貧乏よりも金持ちがええにきまっとる。しかし、どちらかというと、わしはそのほうにはわりに執着がうすいほうだろうな。だからこそ、玉虫伯爵のおめがねにかなったのだから」
「玉虫伯爵のおめがねに……?」
「ああ、そう。あんたがたはわしがいま、あれとああいう暮らしをしているのを、わしが暴力かなんかで、あれを征服したと思うていなさるかも知れんが、それは決してそうではない。これでも伯爵の|媒酌《ばいしゃく》で、式はちゃんとあげているのじゃ。極く内々でじゃったがな。だから、決して野合ではない。|椿《つばき》さんの一周忌がすんだら、正式に|披《ひ》|露《ろう》しようということになっているんだ……」
「しかし、それは、いつ……?」
「椿さんの死体が発見されてから一週間目のことじゃったな。わしは伯爵にくどき落とされたんじゃ。あれはあんな調子だから、誰かしっかりとした配偶者が必要なんじゃ。わしのようにわりに無欲で、それから、つまり、そのなんじゃ、わしのように強壮な体をした男がな。かっ、かっ、かっ!」
金田一耕助は思わずデスクのはしを握りしめる。
母のからだはいつも火のように燃えている。そして、その火を鎮めるためには、目賀博士のような|脂《あぶら》ぎった男が必要なのだ。……
一昨夜、美禰子がかんがえたことは当たっていた。そして、金田一耕助も、いま、はっきりそのことを知ったのである。
いうことだけのことをいって目賀博士が出ていくと、あとしばらく、金田一耕助も等々力警部も、|慄《りつ》|然《ぜん》として口をきくことも出来なかった。なにかしらえたいの知れぬ|妖《よう》|気《き》が、部屋のすみずみまで漂うて、ねっとり体にからみついてくる感じである。|蟇《がま》仙人の毒気にあてられたのかも知れぬ。
それにしてもいまの博士の告白によって、秘密の解明がいくらか前進したことはたしかである。それがこの恐ろしい殺人事件の|謎《なぞ》を解く|鍵《かぎ》になるかどうかは別としても、すくなくとも椿子爵と秋子夫人の、夫婦生活の秘密を照らすたいまつとはなったようだ。
玉虫伯爵はことごとに、椿子爵をインポテンツとののしってやまなかったというが、子爵は不能者ではなかったとしても、秋子夫人を完全に、とことんまで満足させるほどの精力には欠けていたのだろう。そのことが夫婦の仲をつめたくし、ひいては身びいきの強い、そして|姪《めい》に目のない玉虫伯爵の不興を|蒙《こうむ》ったのだろう。つまり秋子夫人の配偶者としては、子爵はノルマルであり過ぎたのだ。
いたましき子爵! そしてまた、いたましき秋子夫人!
「あら、いらしたのね」
突然、はなやかな声をかけられて、警部と金田一耕助は、はじかれたようにふりかえった。応接室の入り口に、はじけるような笑みをふくんで立っているのは菊江である。
「あまり静かなものだから、どなたもいらっしゃらないのかと思ったわ。こんどはあたしの番だと思って、お待ちしてたんですけれど」
「ああ、そう、それはどうも。……どうぞお入りになって」
「入ってもよくって?」
「さあ、さあ、どうぞ、どうぞ」
金田一耕助はいそいそとして|椅《い》|子《す》をすすめる。
最近のこの家における菊江の存在こそ、まことに奇妙なものであった。玉虫伯爵が亡くなった現在、この家にとって彼女はまったく縁なき|衆生《しゅじょう》も同様である。それにもかかわらず、この家のひとびとが彼女に格別つめたい素振りも見せないのは、貴族の|鷹《おう》|揚《よう》さもあったのかも知れないけれど、それよりもみんながこの女の存在を必要としていたからなのだ。
実際、この女が、いけしゃあしゃあとまき散らす、コケットリーな空気の救いがなかったら、事件の重圧におしつぶされて、みんな窒息していたかも知れない。
金田一耕助はこの場合、とくに強くそれを感じた。
「どうなすったの、先生、いやに深刻な顔をしていらしたわね。またデッド・ロックに乗りあげたってわけ」
不機嫌そうに渋面をつくっている警部のほうをわざと無視して、菊江は金田一耕助をからかいにかかる。
「あっはっは、デッド・ロックには、はじめから乗りあげてますよ。デッド・ロックまたデッド・ロックというわけでね」
耕助はいくらか生気を取りもどしたらしい。そんな軽口が口からとび出す。
「ところで、ちょうどいいところでした。あなたにもお|訊《たず》ねしようと思っていたところなんですがね」
「はあ、どんなことですの。四日の晩のアリバイなら、もう口が酸っぱくなるほど申し上げましたけれど……」
「いや、そのことじゃないんです。じつは秋子奥さまの指輪のことなんですがね」
警部は不思議そうに耕助の顔を見る。指輪のことならお信乃と目賀博士の陳述で、だいたい、かたがついているはずなのである。
「はあ、あの指輪のこと。あの指輪はやっぱり奥さまが新宮さんにまきあげ……いえ、あの、差し上げてたんですってね」
「やっぱり……?」
金田一耕助は菊江の顔を見直した。
「やっぱりというのはどういう意味ですか。じゃあなたはあの指輪がなくなっていることに、気がついていたんですね」
「ええ、気がついてましたわ」
「いつごろから……?」
「あの晩、四日の晩……あたし東劇からかえって来て、奥様のところへお伺いしたでしょう。そのとき、奥様の指から指輪がなくなってることに気がついたんです」
「なるほど、やっぱりあなたは女ですね」
「あら、それはどういう意味ですの」
「だって目賀博士やお信乃さんは、ずっとあとまで気がつかなかったのに。……」
「まあ!」
菊江は急に眼を見張って、
「あのひとたち、そんなふうにいってるんですの。変ねえ」
「どうして?」
「だってあのひとたちも気がついてたのよ。いいえ、あのひとたちが、あたしに教えてくれたようなものだわ。あたしお芝居の話をしてましたのよ。すると目賀先生とお信乃さんが、しきりに妙な眼配せをしていらっしゃるの。あたし、はじめなんのことだかわからなかったんだけど、おふたりの視線が、かわるがわる奥様の指にいくもんだから、それで、はじめてあたしも気がついたんですもの。だけど、困ったわ。こんなこといっちゃいけなかったのかしら」
警部の顔にふと好奇的な色が動いた。警部ははじめて耕助が、たくみにかまをかけているのだということに気がついたのである。
「いいですよ、いいですよ。こんなこと、なんでもないことですからね。ところであなたは、奥様の指に指輪がないことに気がつくと、すぐ新宮さんがまきあげたんだと考えたんですね」
「ええ、だって目賀先生もお信乃さんも、とてもいやな顔をしていらしたし、それに|贋《にせ》電報や贋電話のこともございますでしょう。いかにも新宮さんのやりそうなことだと思ったもんですから。……」
「おやおや、すると新宮さんはこの家のひとたちに、すっかり|肚《はら》を読まれていたわけですな」
「それはそうね。だって先生、玉虫の御前がどうしてこの家へ乗り込んで来られたか御存じ? 御前は焼け出されたことは焼け出されたけれど、ほかにいくところがなかったわけじゃありませんのよ。それにもかかわらず、ここへいらしたというのは、新宮さんを監督なさるためなのよ」
金田一耕助は思わず大きく眼を見張る。
「それは……それじゃ新宮さんというひとは、よほどの札つきだったわけですね」
「ええ、まあ、そうねえ。新宮さんは焼け出されると、こちらへ転げこんでいらしたでしょう。御前はそれを心配なすって、あいつを秋子のそばへおくと、秋子の財産をめちゃめちゃにしてしまう、と口ぐせのようにおっしゃってたんですが、そのうちに御自分も焼け出されると、それを機会にこちらへ乗り込んでいらしたんです。その時分新宮さんの御一家は、いまあたしどもの御厄介になってる離れにいらしたんですが、御前がそこを占領なさることになったので、あっちの別棟のほうにお移りになったんです」
金田一耕助はなにかしらはげしい胸騒ぎをおぼえる。玉虫伯爵はなんだって、自分の|甥《おい》をそれほど警戒しなければならなかったのだろうか。
なにかある! そこになにかあるにちがいない!
「ところで、ここにもうひとつお訊ねがあるんですがね」
「はあ、いくらでも」
「いやあ、そうたくさんはないんですがね。目賀先生のことですがね。先生は玉虫伯爵の|媒酌《ばいしゃく》で、秋子奥さまと結婚……つまり内祝言というやつですな。それをやったといってるんですが、あなたはそのことを御存じでしたか」
「あたしは知ってましたわ。でも美禰子さんなんかは御存じないようですわね」
「玉虫の御前から聞かれたんですね」
「はあ」
菊江もさすがに|頬《ほお》をあからめて、
「だって、なんぼなんでも、あんまりはやいんですもの。|椿《つばき》さんのおなきがらが発見されてから、一週間たつかたたぬ時分だったでしょう。目賀先生がときどき泊まっていらっしゃるようになったんです。しかも奥様のお部屋へ御一緒に……そうでなくとも、ああいう騒ぎを起こしたあとですからね。世間|体《てい》ってものがございますわ。それで、それとなく御前に申し上げたら、なに構わんさ、あれはおれも承知のうえで、内祝言をしたんだから。……と、こうおっしゃるんでしょう。あたし二の句がつげませんでしたわ。そのときしみじみ思ったんですけど、こういう世界のひとの考えは、あたしみたいな|下《しも》|々《じも》のものにはわからないって。……」
菊江の言葉の調子には、たぶんに皮肉と|嘲《あざけ》りがこめられている。金田一耕助はそのときはじめて、この女のコケットリーなヴェールのかげにかくされた、案外古風な姿の真実にぶつかったような気がした。
「ところで、もうひとつ……こんなことお訊ねしちゃ失礼かも知れないんですがね。あなたのその左の小指ですが、それどうなすったんですか」
菊江はびっくりしたような眼で、金田一耕助の顔を見ていたが、急に声を立てて笑い出した。
「まあ、いやな先生、なんのことかと思ったらこのこと……?」
と、菊江はわざと、半分ちぎれた左の小指を立てて見せると、にやにや笑いながら、
「これ、自分で切ったのよ。いいひとのために。……あら、ほんとのことよ。あたしだっていいひとのひとりくらい、あったっていいじゃありませんか。いまから考えると馬鹿なことしたもんだけど、そんときは夢中だったから、大して痛いとも思わなかったわ。でもあとで|姐《ねえ》さんがたには|叱《しか》られるし、玉虫伯爵のじいさん、いえ、御前さまは誰のために切ったんだ、切ったんだって、しつこくやきもち焼くし、うっふっふ。大騒ぎだったわ」
「誰のために切ったんですか」
「だから、いいひとのためによ。そのひとが兵隊にとられて出征するとき、お別れに来てくれたんです。あたしひと晩泣きあかしたあげく、指を切って贈ったの。ほ、ほ、ほ、古風ねえ。だけど、先生はどうしてそんなことお|訊《き》きになるの。まさかそのひとがあたしをとられた腹いせに、玉虫の御前を殺したなんて考えていらっしゃるんじゃないでしょうね。それだったらお|門《かど》ちがいよ。可哀そうに、そのひとったら、向こうへいったとたんに戦死しちゃった。まるで死ににいったみたい。風とともに散りぬね」
「いや、失礼しました」
この女にも似合わず、いくらか紅潮して、ヒステリックになっている菊江を、耕助はいたわるような眼で見ながら、
「ぼくがお訊ねしたのはそういう意味ではないんです。この家には指の欠けたひとがふたりもいる。……それが不思議だったもんですから」
「ああ、三島さんのことね」
菊江は耕助の顔色を読もうとするように、きらきら光る|瞳《め》をすえながら、
「あのひとをあたしと一緒にしちゃいけないわ。あたしのはいたずらなんだけど、あのひとはお国のために指を失ったんですから」
「三島君はどの指がないんですか」
「中指の半分ほどと、紅さし指が三分の二ほど欠けてらっしゃるのじゃないでしょうか。だけど、どうしてそんなことを……」
それに対して金田一耕助は、こともなげにいいはなった。
「なあに、あなたにしろ三島君にしろ、そうして指が欠けていても|暗《くら》|闇《やみ》でタイプが打てるかどうか、それを考えていたんですよ」
第二十四章 a=x, b=x ∴ a=b
新宮利彦の殺人事件があってから、|椿家《つばきけ》に第三の殺人事件が起こって、それを機会にすべての秘密が明るみへ出て、事件が急速に解決におもむくまでには、またしても数日の休止期間があった。
だが、この休止期間といえども、なにもかも一切が休止していたわけではない。表面さりげない、ごく|些《さ》|細《さい》な動きのなかにも、解決への気運は着々として芽生えつつあったのだ。
ここではこの休止期間中に起こった、一見なんでもないように見えながら、あとから思えば事件解決の重要なポイントとなった、二、三の動きを|捕《ほ》|捉《そく》してみよう。
その日、椿邸を辞するとき、金田一耕助はなにか深く思いしずんだ様子で、警部にむかってこんなことを|訊《たず》ねた。
「ときに警部さん、天銀堂事件のほうは、その後どうなっているんですか」
「あのほうも、もちろんやってますがねえ。一時あっちのほうはわたしの係りじゃなくなったんですが、今度またこっちの事件にこんがらがって来たでしょう。それで目下、二本立てでやってるんですが、どっちも難しい事件でねえ」
警部は|眉《まゆ》をくもらせた。
金田一耕助はまたなにか思い惑うふうだったが、やがて思いきったように、
「あの事件が起こった当時、かなり多くの容疑者があげられたでしょう。ほら、あの、モンタージュ写真に似ているというので。……椿|子爵《ししゃく》なんかもそのひとりだったが……」
「ええ、そう、なかにはてっきりこいつと思ったやつもあるんですが、|肝《かん》|腎《じん》の極め手がなくって、そのままになってるのもありますがねえ」
「それらの容疑者はその後どうなっているんですか。監視でもつけてあるんですか」
「それが理想なんですがねえ、なかなかそういうわけにはいかないで……なんしろ予算もないし、人手も足りないし、……こういうと逃げ口上のようだが。……」
警部は暗い顔をした。
「ねえ、警部さん。どうでしょう、ここでもう一度、それらの容疑者の行動を洗ってみたら……いえ、一月までさかのぼる必要はないんです。椿家の事件が起こって以来の行動でいいんですが……」
警部はびっくりしたような眼で耕助の顔を見る。
「金田一さん、それはどういう意味ですか」
金田一耕助はいくらか極まり悪げな微笑をうかべながら、
「警部さん、|嗤《わら》わんでくださいよ。ぼくはいまごく初歩の代数の定理の妄想にとりつかれているんです。御存じでしょう。a=x, b=xならば、したがってa=bという法則を……」
「それが、どうしたんですか」
「いいえねえ。椿子爵はXなるモンタージュ写真に似ておられた。ところがあのモンタージュ写真に似ている人物はほかにも|幾《いく》|人《にん》かあった。するとモンタージュ写真Xに似ている椿子爵は、同じく似ているべつの人物Bにも似てやしないかと思うんです」
「金田一さん」
警部はとつぜん大きく|喘《あえ》いだ。
「そ、それじゃあんたはこの事件のかげに|躍《おど》っている、椿子爵らしい人物を、それらの容疑者のひとりだとおっしゃるんですか」
「いや、そうはっきり断言出来るわけではありません。第一、あれがほんものの椿子爵なのか、にせものなのか、それからしてまだはっきりしないのですからね。しかし、もしあれがにせものだとして、誰かが替え玉を使ってるのだとすると、ちょっと問題が面白くなってくる。替え玉なんてものはそう容易に見つかるものじゃありませんからね。ところが椿子爵の場合には、お|誂《あつら》えむきにあのモンタージュ写真というやつがあった。警部さん、あのモンタージュ写真は、こんどの事件の犯人のために、椿さんに似た人物を、日本中から募集してやったみたいな結果になってるのかも知れませんよ。あっはっは」
警部は思わず両の|拳《こぶし》をつよく握りしめる。なにかしら、自分でも説明出来ない怒りの感情が、|肚《はら》の底からこみあげてくるのをおぼえるのである。
金田一耕助は語をついで、
「ところで代数の場合とちがって、椿子爵はXに等しかったわけじゃない。ただ、Xに似ていただけだろうと思うんです。そうするとBなる人物がXにしろ、単にXに似ている人物にしろ、椿さんはBに等しくはない、等しくはないが似ていることだけはたしかだろうと思うんです。少なくとも多分に共通点、相似点を持っているにちがいない。そういう人物が意識して、椿子爵に|扮《ふん》|装《そう》しようとすれば、ほかの人物がやるよりもよほどよく似てくるだろうと思われる。しかも、ほんのちらと顔を見せるだけのことですからね」
「そうするとたれかが……つまり今度の事件の犯人が、天銀堂事件の容疑者のむれから、いちばん椿子爵に似ている人物を物色して、そいつを子爵の替え玉に使っているんじゃないかというんですね」
「ええ、そう。あのモンタージュ写真に似ている人物がひっぱられるごとに、新聞がその男の住所氏名を発表しましたからね。あっはっは、だから警視庁と新聞がよってたかって、この事件の犯人のために、椿子爵の替え玉を物色してやったみたいなもんかも知れませんよ」
「しかし、金田一さん、あの耳飾りはどう説明します。あれは天銀堂の犯人が……」
「だから、警部さん」
と、金田一耕助は急にきびしい|表《か》|情《お》をして、
「ぼくが思うのに、今度の事件が解決すると同時に、天銀堂事件も解決するんじゃないでしょうかね。椿子爵AはXに等しくはなかった。ただ単に似ているだけだった。しかし、Bは似ているだけではなくXに等しかった、つまりXそのものだったのかも知れませんよ。また、それでなければ犯人……今度の事件の犯人が、いかに|好《こう》|餌《じ》で釣ろうとしても、殺人事件の片棒をかつがせるということは難しい。いや、そいつは片棒かついでいるのみならず、淡路ではみずから手をくだして人殺しをやっている。B即ちXは天銀堂事件の確証を、今度の事件の犯人に握られていて、|否《いや》|応《おう》なしに躍らねばならん立場にいるんではないでしょうかねえ」
|等々力《とどろき》警部は二度三度、背筋をつらぬいて走る|戦《せん》|慄《りつ》を禁ずることが出来なかった。
天銀堂事件の犯人と、椿子爵事件の犯人と……どちらがどちらともいえぬ世紀の大犯罪者である。これらの鬼畜性を持った人物が、たがいにからみあっているとすると。……
等々力警部はドス黒い霧がさっと眼前にひろがるような感じであった。
「よろしい、それではもういちど、天銀堂事件の容疑者を洗ってみましょう」
金田一耕助はそこで等々力警部とわかれたが、その翌日、警視庁から出川刑事の報告書が|廻《まわ》されて来た。
それによると、おこま即ち妙海尼の娘|小《さ》|夜《よ》は、やっぱり死亡しているのである。そのことは出川刑事が、おこまの一時身をよせていた、住吉の溝口家へおもむいてたしかめたところで、もう間違いはなさそうだった。
出川刑事の報告によると、小夜子は当時、神戸の大きな造船所へ徴用されていたが、昭和十九年八月二十七日に青酸加里を|呷《あお》って自殺した。原因は誰にもわからなかったが、死後、死体を解剖したところ、妊娠していることがわかった。彼女は妊娠四か月の身重だったのである。
小夜にはほかに身寄りがなかったので、母のおこまが身をよせている溝口家でひきとって、ささやかながらお|葬《とむら》いを出しているので、もうそのことについては疑いの余地がない。
しかし、小夜がなぜ自殺しなければならなかったのか、そしてまた胎児の父が誰だったか、それについては溝口家でも知らず、いまのところ不明である。
いずれ調査の結果、判明しだい報告する、なお、植辰の|妾《めかけ》おたまの消息も、いまもってわからないが、これまた判明しだい報告する|云《うん》|々《ぬん》。……
金田一耕助はこの報告書を読んだとき、強い興味をおぼえずにはいられなかった。
小夜を妊娠させた相手はいったい誰なのか。また、小夜はなぜ自殺しなければならなかったのか。
これは一概にはいえないかも知れないけれど、由来、妊娠している女ほど強いものはないはずだ。それは胎児を守ろうとする母性の本能が、弱い女でも強くするのだ。胎児を守りぬくためには、女はどんな苦境をも切りぬけていこうとする本能に恵まれているはずである。
小夜というのがどういう性質の婦人だったか知らないけれど、自ら生命を断って胎児を|闇《やみ》から闇へ葬ろうというのには、よくよくの理由がなければならぬ。その理由とはなんであろう。……
その日の午後、等々力警部から金田一耕助のもとへ電話がかかって来た。警部はかなり|昂《こう》|奮《ふん》している模様だった。
警部のいうところによると、天銀堂事件の容疑者として取り調べられた数名のうち、この二、三日消息をたっている人物がひとりある。それは|飯《いい》|尾《お》|豊《とよ》|三《さぶ》|郎《ろう》といって、当時クロの疑いがもっとも濃厚だった人物であるというのである。
「とにかく、目下全力をあげてそいつの行く方を捜索中なんですがね」
そういってから警部は言葉に力をこめて、
「じつはね、わたしの部下にいまでも飯尾が犯人にちがいないという確信を持っているやつがあるんです。それほど当時、そいつの容疑は濃厚だったんですが、そいつがうまくわれわれの指からすべり抜けていったというのは、ひとつには極め手がなかったせいもありますが、もうひとつ大きな理由としては、そいつを取り調べ中に、椿子爵に関する密告状が来たんです。それでとにかくそのほうへ当たってみると、こっちのほうが疑わしくなってきた。それでわれわれの神経が椿子爵に集中しているあいだに、飯尾はうまくすべり落ちていったんです」
それから警部は急に声を落とすと、
「そういえばね、飯尾は子爵に似てましたよ。もっとも当時はモンタージュ写真に似てるといって、引っ張られた連中ばかりだから、みんな、どこかに共通点があるのはあたりまえだくらいに思って、そう気にもとめませんでしたが、いまから思えばあいつがいちばん子爵に似ていた。あいつがうまく|扮《ふん》|装《そう》すれば……」
「とにかく捜査の御成功を祈ります。それから念には及びませんが、出川刑事と連絡して、京阪神のほうをお忘れなく」
その翌日、金田一耕助は椿邸へ|美《み》|禰《ね》|子《こ》をたずねていった。べつに用事があったわけではないが、なんとなく美禰子という娘が哀れに思えて、慰めにいったのである。
さいわい新宮利彦のお葬いも一段落つげて、ここもほっと小休止の状態に入っていた。
美禰子はあいかわらず暗い顔をしていたが、どういう話の継ぎ穂だったか、ふとこういうことを|洩《も》らした。そしてそのことがつよく金田一耕助の印象にのこったのである。
「あとから思えば、これは父が|失《しっ》|踪《そう》する直前のことばでしたから、なんだか遺言みたいな気がして気になるんです。父は妙なことをいったんです。それはあたしと一彦さんのことなんですが……」
「あなたと一彦さんのこと……」
「ええ、そう」
美禰子はいくらか|頬《ほお》をそめて、
「父はあたしと一彦さんのことを誤解していたらしいんです。あのひとと絶対に結婚しちゃいけないって意味のことを、ごく遠回しにですけれどいったんです」
「それはいとこ同士だから。……」
「ええ、そうなんです。それに……」
と、美禰子はちょっと|口《くち》|籠《ご》もったが、すぐ思いきったように、
「あたしたちにはもっと強い理由があるんです。というのは、あたしの母の両親、つまりあたしの祖父母ですがこれがいとこ同士なんです。それから祖母の両親、つまりあたしの|曾《そう》|祖《そ》|父《ふ》|母《ぼ》というのがこれまたいとこ同士だったんです。そういうふうに代々近親結婚がつづいたから、母みたいな……いえ、あの、ああいうひとがうまれたんです。父はそのことを気にしてたんでしょうけれど、それにしても、あたしと一彦さんの感情はよく承知のはずだのに、どうしてあんなことを心配したのか、あたし、一彦さんに対しては、いとこ以外のなんの感情も持っておりません。一彦さんだって同じことなんです。父もそのことは、よく知ってるはずだのに、なぜ心配そうに、あんなことをいったのか、しかも、あんなに遠回しに……」
「遠回しにって、どんなふうに?」
「父は一彦さんとはっきり名ざしはしませんでした。いまこの屋敷にいるたれとも結婚してはならぬ、というようなことをいったんです。それも、とても心配そうな顔色で……でも、いまこの屋敷にいる、そしてあたしの配偶者になりそうな|年《とし》|頃《ごろ》の青年といえば、一彦さんしかございませんものね」
第二十五章 アクセントの問題
金田一耕助はいま寝ころんで本を読んでいる。行儀のわるい男で寝ころんで読まぬと、読んだことがすなおにあたまに入って来ないのである。読んでいるのはゲーテの「ウィルヘルム・マイステル」、いうまでもなく|美《み》|禰《ね》|子《こ》に借りて来たのである。
一昨日、美禰子を訪問した際、椿|子爵《ししゃく》が|失《しっ》|踪《そう》する直前に、美禰子にあたえたという思わせぶりな忠告を聞いて、金田一耕助はふっと怪しい胸騒ぎをかんじた。美禰子自身もそれが父の失踪直前の言葉だっただけに、遺言のような気がしてならぬといっていたが、子爵はそういうふうに、いろんな点で、|謎《なぞ》の暗示をのこしておいたのではないか。
気の弱い子爵は、あからさまに言明することを|憚《はばか》るような場合、遠まわしに|匂《にお》わせるようなやりかたをしていたのではないだろうか。
たとえばあの「悪魔が来りて笛を吹く」のレコードだ。あの思わせぶりな題と意味ありげなメロディーと、そこにもたぶんに暗示的なものがふくまれているではないか。と、すれば子爵失踪直前の言動には、すべてなんらかの意味がふくまれていたのではないかと、考えてはいけないだろうか。
遺言がはさんであったという「ウィルヘルム・マイステル」にしても、子爵がいいたくしていえなかった、なんらかの暗示がふくまれているのではないか。げんに美禰子がそれを読んだのは、父のすすめによるという。子爵が「ウィルヘルム・マイステル」を美禰子にすすめたのは、純粋な文芸鑑賞の意味だけだったろうか。それともほかに、なにか理由があったのではないか。……
そこで美禰子から「ウィルヘルム・マイステル」上、中、下三巻を借りてくると、耕助は一昨日の晩から読みつづけているのだが、正直な話、それはかなりうんざりするような仕事だった。
この膨大な小説を読みあげるには、いまの耕助の気持ちはあまりにも落ち着きをかいている。しかもかれの読みかたたるや「ウィルヘルム・マイステル」を鑑賞しようというのではなく、そこに書かれている事柄からひょっとすると子爵ののこしておいた暗示が|汲《く》みとれはしないかというのだから、小説の面白味などあたまに入ろうはずがない。それはもう精神労働以外の何物でもなく、昨夜あたりから耕助のあたまのなかには、缶詰にされた活字が、とげのようにちかちかと躍っているのである。
それでも耕助は読んでいる。惰性で読みつづけているのである。しかも、そうして|暢《のん》|気《き》そうに寝っころがって、本を読みつづけていながら、いっぽうかれは絶えず|肚《はら》のしこりに悩まされている。
じぶんのいまやっていることは、いたずらに神経を疲労させるだけの無駄な努力ではないのか。こうしているうちにもなにかまた、重大事件が起こるのではないか。……淡路で先を越されて以来、耕助は一種の脅迫観念に悩まされつづけているのだ。いくら読んでも終わりにならぬ「ウィルヘルム・マイステル」に対して、かれは身勝手ないきどおりと、いらだたしさを感じずにはいられなかった。
じつをいうと耕助は、このあいだから首を長くして待っているものがあるのだ。今日はもう十月十日、指折りかぞえて今日あたり、それが来なければならぬはずだと思うと、いっそういらいらしてくるのである。
午後三時、耕助の待っていたものがとうとうやって来た。
「金田一さん、お手紙ですよ」
と、いう女中の声にはね起きた耕助は、二通の手紙をひったくるように手に取ると、一瞬きらりと眼をかがやかせた。
一通は出川刑事からの手紙だったが、あとの一通は岡山県の警察本部に勤務している磯川警部からであった。
金田一耕助が|須《す》|磨《ま》市の三春園に滞在中、岡山の磯川警部にあてて手紙を書いたということは、まえにもちょっと書いておいたが、耕助がちかごろ、首を長くして待っていたというのは、それに対する返事であった。
耕助は、いそいでその封を切ると、ひといきにそれを読みくだした。読んでいくうちに、読書につかれた眼がいきいきとかがやいて呼吸がすこしはずんでくる。二、三度それを読みなおしたのち、今度は出川刑事の手紙をひらいたが、それを読んでいくうちに、耕助の眼はいよいよ異様な熱をおびてくる。|昂《こう》|奮《ふん》のために、手紙を持つ手がわなわなふるえて、髪の毛をひっつかんだ右手の指先の運動がしだいに速度をましてくる。
出川刑事はとうとう植辰の|妾《めかけ》おたまを発見したのだ。そして、その口からある重大な事実を聞き出したのだ。
耕助は、かわるがわる二通の手紙を読みなおすと、それを|膝《ひざ》のまえにならべて、まるで|咬《か》みつきそうな顔色で考えこんでいたが、そこへ遠くのほうで電話のベルが鳴る音がして、いそぎあしに廊下をわたってくる足音がきこえた。
「金田一さん、お電話」
「どちらから……?」
「|等々力《とどろき》警部さんからです。なんだか、とても昂奮していらっしゃるようですけれど……」
なにかまた事件が起こったのではないかと、耕助があわてて電話口へ出ると、等々力警部はただひとこと、|芝《しば》の|増上寺《ぞうじょうじ》境内へ来るようにとつたえたきり、そのまま電話を切ってしまったが、その言葉つきのきびしさから、なにかまた、容易ならぬ事件が起こったらしいことを思わせた。
時計を見ると三時半。
今夜は|嵐《あらし》にでもなるのか、空は墨を流したように暗くくもって、吹きまくる風がしきりに|砂《さ》|塵《じん》をまきあげている。その風とたたかいながら、耕助が芝の増上寺にたどりついたのは、もうかれこれ五時。陰惨な|黄《たそ》|昏《がれ》の色のなかに、風はいよいよはげしく吹きつのっていた。
境内へ入っていくと、警官の往来があわただしく、弥次馬にまじって右往左往する新聞記者の顔色にも、緊張のいろがきびしかった。
耕助があしばやに進んでいくと、向こうに見えるひとだかりのなかから、等々力警部がひとり出て来て、こちらをむいて手招きしているのが見えた。そこは広い、境内でも、ことに|淋《さび》しいところで、一年ほどまえにも、さる凶悪な変質者の殺人が行なわれた場所だった。耕助がちかづいていくと、警部がきびしい表情をして、人垣にかこまれた草のなかを|顎《あご》で示した。耕助がのぞいてみると、深い雑草のなかに、|猿《さる》|股《また》ひとつの裸体の男が倒れている。耕助は人垣をかきわけて、一歩まえへのり出したが、そのとたん、|嘔《おう》|吐《と》を催しそうな胸の悪さをおぼえて、思わず顔をそむけずにはいられなかった。
じっさい、それはなんともいえぬ|物《もの》|凄《すご》い死体だった。顔といわず、手足といわず、いちめんに|咬《か》み裂かれて、腹部からはみ出した|臓《ぞう》|腑《ふ》がぞっとするほどむごたらしい。
ことにひどいのはその顔で、故意にか、偶然にか、めちゃめちゃに|毀《き》|損《そん》されたその顔は、ほとんど相好の識別もつかぬくらい、無残な肉塊になっている。
「誰ですかこれは……?」
金田一耕助がおしひしゃがれたような声で|訊《たず》ねた。警部はむずかしい顔をして、
「まだ、誰ともはっきり断定は出来ません。しかし、ひょっとすると、いまわれわれが|血眼《ちまなこ》になって探している人物じゃないかと思われる節があるんです」
警部の声は沈痛をきわめていた。
「われわれがいま血眼になって探している……?」
耕助はどきっとしたように眼を|瞠《みは》って、思わず息をのんだ。
「それじゃ、あの飯尾豊三郎という」
「そう、このとおり顔がめちゃめちゃになって、着衣をはぎとられているので、いまのところ、はっきり断定出来る段階ではありませんが、ひょっとすると、あの男ではないかという疑いが非常に濃厚なんです。そしてもし、これがわれわれの想像どおり飯尾だとすると。……」
警部の血走った眼には、すさまじい憤激のいろがうかんでいる。
金田一耕助も同じことを考えて、思わずぞっと総毛立つのをおぼえた。
「しかし、こう相好がかわっていちゃ、たとえあの男だとしても、証明することはむずかしいでしょうね」
「いや、それはわけはない。飯尾という男には前科があるんです。だから、もしあいつだったら指紋を照合してみればいい。幸い指が残っているのがなによりです」
「ああ、それは……」
そのとき、死体を調べおわった医者が立ちあがって、警部のほうへやってきた。
「解剖してみなければはっきりしたことはいえませんがね、だいたい、死後二日というところでしょうな。死因は絞殺、|紐《ひも》ようのもので絞められたんですね」
「ところで、その顔ですがね。野犬のしわざだけでしょうかね」
警部が訊ねた。
「いや、野犬も手伝ったでしょうが、そのまえに、故意に顔をめちゃめちゃにしておいたらしい形跡がありますね。死体の|身《み》|許《もと》がわかっちゃ、犯人にとってなにか都合の悪いところがあったんじゃないですかね」
金田一耕助はまたぞっとしたように、むごたらしい死体から顔をそむけた。
「警部さん、いったい誰がこの死体を発見したんですか」
「野犬ですよ。むこうの雑草のなかに埋もれていたのを、野犬がひっぱり出して、肉をくらっているところを、通りがかりのものが発見したんです」
警部はそれから医者にむかって、
「先生、死後二日経過しているとすると、凶行のあったのは、一昨八日ということになりますか」
「そう、一昨日の晩あたりの出来ごとでしょうな。いずれ解剖してみれば、もう少し詳しいことがわかると思うが……」
医者にかわって鑑識課の連中が、死体の指紋をとっているのを見て、ふたりはその場をはなれた。
風はいよいよ吹きつのって来て、まともから吹きつける|砂《さ》|塵《じん》のために、ほとんど顔もあげられないくらいである。取り散らかされた|紙《かみ》|屑《くず》が、へんぽんとして暗い|飆風《ひょうふう》のなかを飛んでいく。ポツリポツリと大粒の雨が落ちて来た。
「警部さん、ちょっと話があるんですがね」
「はあ。……」
「これ」
耕助がふところからなにか取り出そうとするのを見て、
「とにかく、自動車のなかへ入りましょう。これじゃどうにもならない」
ふたりが自動車のなかへ逃げこんだとたん、猛烈な勢いで雨が落ちて来た。自動車のなかには誰もいなかった。
「これゃひどい」
「今夜はひとあれしそうですね」
しばらくふたりはなんとなく、窓外に吹きあれるすさまじい雨脚を眺めていたが、やがて警部が耕助のほうを振りかえった。
「ときに、話というのは……?」
「これですがね。ちょっと読んで見てください」
耕助が取り出した封筒の差し出し人の名を見ると、等々力警部はふしぎそうに|眉《まゆ》をひそめたが、やがてなかみを引き出して、何気なく眼を通しはじめた。しかし、ものの二、三行も読まないうちにぎくっと体をふるわせて、弾かれたように耕助のほうをふりかえった。そして、何か物問いたげな眼で、まじまじと耕助の顔を見ていたが、すぐまた急いで、食い入るようにあとを読みはじめる。
等々力警部をそれほどまでに驚かせた、磯川警部の手紙のなかから、必要な部分だけをここに紹介しておこう。
[#ここから1字下げ]
(前略)|扨《さて》、お訊ねの三島東太郎の件につき、当方に|於《おい》て調査した結果を、以下簡単に御報告申し上げ候。
一、昭和十七年頃、岡山県立第×中学の教頭に、三島省吾という人物あり、妻女勝子とのあいだに東太郎なる一子ありしことは事実なるものの如し。
二、三島省吾が椿子爵と親交ありしことは、かつての同僚の語るところにして、これまた事実なるべし。
三、三島省吾は昭和十八年脳出血にて死亡。妻女勝子も昭和十九年、岡山市大空襲の際死亡。
四、それより先、一子東太郎は広島の陸軍病院にて戦病死せる由。
いずこも同じ戦災にて、この調査も|完《かん》|璧《ぺき》とは申しがたく候えども大体以上の事実に間違いはなかるべく、従っていまもし三島東太郎と名乗る人物が存在するとせば、それは同姓同名の別人か、あるいは|贋《にせ》|者《もの》に相違あるまじく、この段御賢察におまかせ申し上げ候(後略)
[#ここで字下げ終わり]
「なんだ、そ、それじゃ三島東太郎というのは贋者なのか」
警部は満面に朱をそそいで、仁王様みたいな顔をしている。血管がおそろしくふくれあがっていた。
「そうらしいですね。同姓同名の別人ってことはないでしょう。椿子爵と親交のあった、岡山県の中学校の先生の息子だと、自ら名乗っているんですからね」
警部は耕助の横顔を穴のあくほど|視《み》つめながら、
「金田一さん」
と、しゃがれた声で、
「あんた、どうしてそれを御存じだったんですか。あいつが贋者だということを……。この手紙はあんたの質問に対して答えて来たものらしいが……」
「いやあ、それは……」
と、金田一耕助はゆっくり頭をかきまわしながら、
「アクセントの問題なんですよ」
「アクセントの問題……?」
「ええ、そう、いつかわれわれはあの男と温室のまえで|出《で》|遭《あ》ったことがあるでしょう。そのとき、あの男は、いま食虫|蘭《らん》に|蜘《く》|蛛《も》をやってたところだといっていた。それからその直後に、|母《おも》|屋《や》のほうへかえる途中で、こっちの橋を渡っていったほうがはやいですよ。というようなことをいったんですが、問題はその蜘蛛と橋という言葉のアクセントなんです。あの男は、それが東京と、すっかり反対なんです。警部さんも御存じでしょう。蜘蛛と雲、橋と|箸《はし》と端、炭と隅、そういう言葉のアクセントが、東京と上方では、あべこべになっているということを。……」
「うん、それは知ってる。しかし、あの男はあっちのほうのうまれだから……」
「ところが、それが違うんですよ。警部さん」
と、耕助はゆっくりあたまの毛をかきまわしながら、
「蜘蛛と雲、橋と箸と端、炭と隅……それらの言葉のアクセントが東京とちがっているのは、上方といっても近畿地方に限るんです。これはぼくと同姓の言語学者に聞いたんですが、兵庫県から西、つまり岡山県へ入ると、それらの言葉のアクセントは、また東京と同じになるんです」
警部は大きく眼をみはった。
「ほんとうですか、それは……」
「ほんとうです」
耕助はあいかわらず、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「ぼくは岡山県に友人を持っているので知っていますが、そのひとたちはみんな東京と同じように発音するんですよ。だから、いま三島東太郎と名乗っているあの男が、ほんとに中国うまれの中国そだちだったら、蜘蛛や橋という言葉のアクセントは、東京と同じでなければならんはずなんです。ところがそれが違っている、そこでぼくはあのとき、阪神地方に住んだことはないかと|訊《き》いてみたんですが、いちどもないというようなことをいってましたね。だから、ぼくはあのとき、あの男が|嘘《うそ》をついてるってことを見抜いたわけです。言葉は国の手形といいますが、あの男自身、兵庫県と岡山県では言葉のアクセントが違っているということを、知らなかったんですね」
警部はまるで|咬《か》みつきそうな顔をして、耕助の横顔をにらんでいたが、そこへずぶ|濡《ぬ》れになった刑事がひとり、何か指図を仰ぎに来た。
外を見ると、|嵐《あらし》はいよいよ本式になって、増上寺の境内はもうすっかり、横なぐりに吹きつける土砂降りのなかにつつまれている。
さっきまで|蟻《あり》のようにむらがっていた弥次馬もあらかた散って、土砂降りのなかに残っているのは刑事と新聞記者ばかり。おりおり写真班のたくフラッシュが、稲妻のように、陰惨な嵐の|闇《やみ》を引きさいていったが、そこへ救急車が死体を受け取りにやって来た。
警部は自動車のなかから、刑事にむかって、適当な指令をあたえると、やがて金田一耕助のほうへ向きなおった。
「さて……」
と、そういってから、警部は大きく息をうちへ吸うと、
「あの男が三島東太郎でないとすると、いったいあいつは何者なんです。なんだって偽名を名乗って|椿家《つばきけ》へ入りこんだんです」
「警部さん、あなたはまだ、出川刑事の報告をお読みになりませんか」
「出川刑事の報告……? いや、まだ……何かまたいって来たんですか」
金田一耕助はふところから、さっきの報告書を取り出すと、
「これは複写紙で書いたものだから、たぶん同じ報告書が警視庁のほうへもいってると思うんですが……まだお読みにならないとすると、お出掛けになったあとで着いたんですね。とにかく読んでごらんなさい」
警部は、ひったくるようにそれを受け取ると、いそいでなかみを引き出して、むさぼるように読みはじめた。
出川刑事の報告書というのは、かなり長文にわたっているが、ここにはそれを出来るだけ要約してお眼にかけることにしよう。植辰の|妾《めかけ》おたまは、神戸の温泉旅館を出奔してから、大阪天王寺区のもっとも下等な売春宿にもぐりこみ、売春の仲介をするかたわら、彼女自身も相当の|年《と》|齢《し》をしながら、春を売っていたらしい。
出川刑事がどのようにして彼女を発見したか、それはこの物語に直接関係のないことだから割愛するとして、かれが発見したとき、おたまはたちの悪い病気のために、足腰が立たなくなって、とや[#「とや」に傍点]についたきりだったという。
さて、出川刑事が苦心の末、おたまから聞き出した事実というのは、だいたいつぎのとおりであった。
おたまの説によると、|小《さ》|夜《よ》|子《こ》を妊娠させた相手というのは、植辰の息子の治雄ではないかという。
治雄は幼時から植辰の|膝《しっ》|下《か》をはなれ、神戸の商家に年期奉公をしていて、おたまと|同《どう》|棲《せい》していた父のもとへはめったに寄りつかなかったが、小夜子の母のおこまのところへは、かなり|頻《ひん》|繁《ぱん》に出入りをしていたらしい。
おこまと治雄は異母姉弟にあたるわけだが、年齢からいうと親子ほどもちがっているし、げんにおこまの娘の小夜子は、治雄とおなじとしだった。
植辰の血からいうと治雄と小夜子は|叔《お》|父《じ》と|姪《めい》にあたっている、しかし、おこまの母と治雄の母はちがっているし、それに年齢的な関係もあって、ふたりは叔父と姪というような感情を持ちにくく、いつか恋仲になっていたのではないか。
小夜子が自殺したのは昭和十九年の八月だが、治雄が兵隊にとられていったのはその年の六月のことだから、自殺したとき妊娠四か月としても、時間的に合わないことはない。
小夜子がなぜ自殺したのか、おたまも知らない。
しかし、ひょっとすると、小夜子が妊娠していること、そして、その相手が治雄だということを知って、おこまが驚きのあまり彼女を責めすぎたのではないか。おこまは古風な潔癖家だったから、叔父と姪とが関係したということについては、若い連中のようにルーズな考えかたではすまされず、小夜子を責め、その結果、小夜子を自殺せしめるにいたったのではないか。……おこまという女はそういう女だったとおたまはいうのである。
なお、小夜子の相手を治雄ではないかと考えるには、おたまにはもうひとつの理由があった。
去年の夏頃、当時まだ神戸の温泉旅館に奉公していたおたまのもとへ、復員して来たばかりの治雄が、ひょっこり訪ねてきたことがある。
治雄はなによりもまず小夜子の消息を|訊《たず》ねたが、彼女が自殺したということを聞くと、おどろきのあまり、|茫《ぼう》|然《ぜん》自失せんばかりのありさまだった。さらに、自殺したとき、小夜子が妊娠四か月の身重だったということを話すと、治雄はほとんど気が狂いそうな眼つきになった。
それから恐ろしい権幕で、なぜ小夜子が自殺したのかと問いつめてきたが、それはおたまにも答えることが出来なかった。おたま自身にもはっきりしたことはわからなかったからだ。
そこでおこまに聞けばいいと、淡路に疎開しているおこまのところを教えてやった。治雄はそれを手帳にひかえていったから、きっとおこまのところへいったにちがいない。その後、おこまにも治雄にもあわないから、詳しいことはわからないが。……
出川刑事の報告は、だいたい以上のとおりだが、最後にいたって、警部が思わず声を立てずにはいられないようなことが、書き加えてあった。
「……その後、おたまはいちども治雄にあったことがなく、したがって治雄がいまどこで、なにをしているか一切知らないそうです。また、まえにもいったとおり、治雄はめったに植辰のもとへ寄りつかなかったので、おたまもかれの性質、ひととなりはよく知らないそうですが、ただひとつ、復員後の治雄のからだには、非常に大きな|目印《めじるし》がある。治雄は戦傷のために、右の指を二本うしなっているというのです」
その最後の一句が毒矢のように、警部の|脳《のう》|裡《り》をつらぬいた。
「治雄! 治雄……そ、それじゃ、いま三島東太郎と名乗っている男は、そのじつ、植辰の息子なのか」
金田一耕助は暗い眼をしてうなずいた。
|嵐《あらし》はいよいよたけり狂って、自動車がときどき無意味な音を立ててきしんだ。救急車が死体をのっけて、あえぎあえぎ立ち去っていく。運転手がずぶ|濡《ぬ》れになってかえって来た。
「すみませんでした。どちらへやりますか」
「麻布六本木へやってくれ」
警部は言下にこたえて耕助の顔を見る。
耕助は無言のままうなずいた。
「しかし、金田一さん、あいつはなんだって、偽名を名乗って椿家へ入りこんでいるんだ」
「それはぼくにもわかりません。しかし、ふしぎなのはあの男が、偽名の対象として、椿子爵の旧友の息子をえらんだことです。植辰の息子が子爵の旧友を知っているはずがない。と、すると、これはむしろ椿子爵があの男に、旧友の息子の名をえらんで与えたのではないでしょうかねえ」
「椿子爵が……?」
警部はまた大きくあえぐと、
「しかし、子爵はなんだって……いや、それより子爵はいったいこの事件に、どのような役割をつとめているんです」
「警部さん、それはぼくにもまだわかりません。ただわかっていることは、おたまの話がすべてを説きつくしているのではないかということです。まだある。そこにはまだまだ、深刻な秘密があるにちがいない。……」
金田一耕助はそれきり、しいんとだまりこんでしまった。
第二十六章 |秋《あき》|子《こ》は何に驚いたか
金田一耕助と|等々力《とどろき》警部を乗っけた自動車が、芝増上寺を出たころから、暴風雨はいよいよ本格的になってきて、それこそ、家も人も吹っとびそうなほど、猛烈なものになっていた。
あとでわかったところによると、昭和二十二年秋のその|颱《たい》|風《ふう》こそは何十年ぶりともいわれるほどの大きなもので、颱風の進路にあたった関東南部一帯にもたらした惨害は、いまもなお語りぐさになっているくらいである。
それはさておき、耕助と等々力警部が|椿家《つばきけ》へかけつけたのは、まだ六時まえのことだったが、あたりはもうすっかりドスぐろい|嵐《あらし》の|闇《やみ》にぬりつぶされていた。しかも暴風雨のために停電したと見え、椿家の大きな建物が灯の色もなく、吹きまくる颱風のなかにしずまりかえっているのが、なんとはなしに、はっと胸をつかれるほどのまがまがしさだった。
玄関に立って等々力警部がはげしくドアを|叩《たた》くと、しばらく待たせたのちに、ガラス越しに|蝋《ろう》|燭《そく》の灯が、またたきながら近付いてくるのが見え、やがてドアを開いたのは、お種ではなく|美《み》|禰《ね》|子《こ》だった。蝋燭の光のせいもあったのか、美禰子の顔はまたウィッチのようにくろずんで|歪《ゆが》んでいる。
耕助がはっとして何かいおうとする拍子に、蝋燭の灯が風に吹き消された。
「早くお入りになって。ドアをしめてしまいますから」
美禰子の声にうながされて、耕助と等々力警部はまっくらな玄関へとびこんだが、そのとたん、ふたりとも大きく音を立てて、あやうくまえにひっくりかえりそうになった。何かにつまずいたのである。
「あら、ごめなさい。ついうっかりして……」
あやまりながら美禰子はあわてて蝋燭に灯をつける。その光であたりを見まわすと、玄関の土間には、トランクだのスーツケースだのが、うずたかく積んであった。
「ど、どうしたんですか。これは……?」
警部の|瞳《め》に疑惑のいろがほとばしる。金田一耕助も怪しむように、美禰子の顔を見なおした。
「いえ、あの、ちょっと……」
そこへ応接間のほうから、
「美禰子さん、なんだい、いまの音は……?」
と、にごった声が聞こえてきた。目賀博士の声だった。少し酔っているようである。
「いえ、あの、なんでもありませんの。お客様がいらしたのよ」
「客はわかってる。いったいだれだい」
「警部さんと金田一先生」
美禰子はおこったように答えたが、それに対する目賀博士の返事はなかった。
「さあ、どうぞおあがりになって。でも、なにかまだ……?」
「いやあ、なに、ちょっと。……」
警部に目くばせしながら、うすぐらいホーム・ライトに照らされた応接室へ入っていくと、そこにも荷造りされたトランクだの、スーツケースだのが積んであり、そのなかで上半身はだかになった目賀博士が、流れる汗を|拭《ぬぐ》いながら、一彦を相手に、せっせと荷造りをやっていた。
「どうしたんですか、……これは? 引越しでもしようというんですか」
金田一耕助が驚いて、とがめるように|訊《たず》ねると、
「いやあ――」
と、目賀博士はよごれたハンケチで、太い|猪《い》|首《くび》をこすりながら、
「|秋《あき》|子《こ》のやつがね、この家にいるのがいやになった、当分鎌倉の別荘へ逃げ出したいというんですよ。それでこういう大騒ぎだあね」
「逃げ出すって、それじゃみんな鎌倉へ引越してしまうんですか」
「いや、みんなというわけじゃない。秋子とお|信《し》|乃《の》婆さんと女中のお種と、この三人だけじゃ。わしはあっちとこっちと掛けもちということになるじゃろうな。わしがちょくちょく出かけてやらんと、秋子のやつが|淋《さび》しがるんでね、けっけっけっ」
汗ばんで、それゆえにいっそう|脂《あぶら》ぎって見える|蟇《がま》仙人が、蟇のように奇怪な声をあげて笑った。てらてらと油光りのするような胸に、ひと握りの胸毛が、ぐっしょり汗にぬれているのが、妙に|猥《わい》|褻《せつ》な威じだった。
「しかし、たったそれだけの人数が出かけるのに、こんな沢山荷物がいるんですか」
金田一耕助はとがめるような眼で室内に積まれた荷物を見まわす。
「お母様は、いつも|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》なことがお好きなんですわ」
美禰子が例によっておこったような、しかし、いくらかすまなそうな声で答えた。一彦はだまって荷物をいじっている。
「しかし、そりゃいかんよ。そ、そんなことは断じて許せませんよ」
だしぬけに口を出したのは等々力警部である。警部の声は怒りにふるえている。
「当分、誰もこの家から動いちゃいけないということは、口が酸っぱくなるほどいっておいたはずだ。せっかくだが、これは思いとまって|貰《もら》いましょう」
「思いとまるもとまらんもありはせん。秋子はもう出掛けたがな」
「な、な、なんですって!」
「まあまあ、警部さん、そりゃあ、わしだって、いまの自分たちの立場はよう知っとる。動いちゃあんたがたの迷惑になることはようわかっとる。だからとめたがな。口が酸っぽうなるほど、秋子にいいきかせたがな。しかし、なあ、警部さん、秋子には法も通らんのじゃ。そのことは警部さんにもおわかりじゃろ。あれはな、法の外に住んでるんですわい」
「出かけたって、いつ……?」
警部はやっと怒りをおさえる。
「つい、さっき、それでももう二時間にもなろうかな。よいあんばいに、|嵐《あらし》がひどうならんうちに、いきついたことじゃろうと思うていたところじゃが」
「出かけたのは秋子奥さんとお信乃さんと……?」
「女中のお種をつれていきおった」
「鎌倉のところというのは……?」
美禰子がそれに答えるのを、警部が手帳にひかえているところへ、三島東太郎がスーツケースをぶらさげてやってきた。
「目賀博士、スーツケースというのは……ああ、いらっしゃい。ちっとも存じませんでした」
うすくらがりのなかに立っている、警部と耕助の姿を発見すると、東太郎もさすがにびっくりしたらしく、あわてて頭をさげると、まえはだけになったシャツのボタンをはめた。
「ああ、それそれ、それでみんな|揃《そろ》ったと、……。ところで三島君」
目賀博士はのびをして、手の甲でとんとん腰をたたきながら、
「荷造りはあとのことにして、ここらでまたいっぱいやらんかい。ちょうど警部さんや金田一先生もお見えになったし、なにしろ、こう暑うてはやりきれんわい」
じっさい暑かった。しめきった部屋のなかは、|蒸《む》し|風《ぶ》|呂《ろ》のなかにいるようで、じっとしていても、毛穴という毛穴からじりじりと汗が吹き出してくる。それに気圧がぐんぐんさがっていくのが、はっきりわかるような息苦しさだった。
「ええ、それじゃグラスをとってまいりましょう」
東太郎の出ていくあとから、
「どれ、わしも手を洗うて来よう。一彦君、あんたはどうじゃ」
「ええ」
一彦も目賀博士のあとから出ていった。
「お嬢さん、電話をちょっと拝借したいのですが……」
「さあ、どうぞ」
美禰子と等々力警部が出ていくと、あとには耕助ただひとり。うずたかく積みあげられたトランクやスーツを、|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼で眺めている。
今日のこの唐突な秋子夫人の出発には、なにかまた、不吉な暗示がふくまれているのではないか。この家から逃げ出したいという秋子夫人の気持ちはわかるとしても、なぜまた、今日のような嵐をついて、出発しなければならなかったのだろう。いかに子供のような夫人とはいえ、嵐が通り過ぎるまで、待てなかったものだろうか。……
金田一耕助の胸は、窓をゆさぶる嵐のように、はげしく騒ぎ、波立つのである。
「あら、金田一先生、あなたおひとり?」
だしぬけに声をかけられて、金田一耕助は卒然としてふりかえる。ほの暗いホーム・ライトの光のもとに、銀盆をささげて立っているのは菊江であった。銀盆を持つ菊江の左の小指が半分かけているのが、なにかしら妙に無気味な感じをあたえる。
「あら、失礼ね。どうしてそんなにじろじろ、あたしの顔をごらんになるの」
「ああ、いや、失敬、失敬、ちょっと考えごとをしていたもんだから。……」
「あら、ごめんなさい。だしぬけに声をかけたのでびっくりなすったのね。警部さんは……?」
「電話かけにいったんですよ」
「ああ、そう、じゃ、すぐかえってらっしゃるわね。すみません、そのテーブル、ちょっとこっちへよせて……」
菊江がテーブルのうえにおいた銀盆のうえには、サンドウィッチが山のように盛りあげてある。
「お食事、まだなんでしょう。あたしたちもここでお|相伴《しょうばん》させていただくわ。だって、お茶の間、ここよりもっとひどいんですもの。ほら、あたしのこの格好」
菊江はサロン・エプロンをかけたワン・ピースの両手をひろげて見せながら、
「秋子奥さまってかたは、お姫様さまでいらっしゃるでしょう。諸事簡単に……ってわけにはまいらないのよ」
「秋子奥様は、急に鎌倉のほうへ、いらっしゃることになったんですか」
「急にでもないの。四、五日まえから。……ほら、新宮さんがお亡くなりになったでしょう。あの直後から鎌倉のほうへいきたいとおっしゃって、それで、みんなしてかわるがわる出向いていって、あっちのほうの受け入れ態勢はまあ、出来てたのね」
「しかし、よりによってこんな嵐の日に、出発しなくてもよさそうなもんだが……」
「そう、あれ、ちょっと妙でしたわね」
「妙って……?」
菊江はちらと耕助の顔をながし目で見て、
「ほ、ほ、ほ、いやあね、あなたみたいなひとは、どんな言葉のはしだって、聞き捨てになさるってことはないのね。いえね。だいたい、今日御出発の予定だったことは予定だったのよ。ところがこの嵐でしょう。いえ、その時分はまだこんなにひどくはなかったけど、ラジオによるとだんだんひどくなるというので、みなさんもおとめになるし、奥様もいちじは思いなおしていらしたの。それでみんなここに集まって、目賀先生はウィスキー、ほかのひとたちはお茶をのんでたのよ。そしたら奥様がだしぬけに」
「だしぬけに……どうかしたんですか」
「ええ、あの、きゃっとおっしゃって。……あら、すみません。あたしったら、ズルを極めこんじゃって。……」
入って来たのは|華《はな》|子《こ》と美禰子である。ふたりとも皿だのカップだのをのっけた盆を持っている。大皿のうえには野菜サラダとフィンガー・ソーセージが山のように盛ってある。
「やあ、これはこれは……たいへんな|御《ご》|馳《ち》|走《そう》ですな」
「いえ、あの、なにもございませんのよ。こんな時代ですから。……あの、|御《ご》|挨《あい》|拶《さつ》もいたしませんで、よくいらっしゃいました」
華子はあいかわらずもの静かでつつましやかだが、利彦が生きている頃からみると、どことなく、顔色がはればれしているのを、金田一耕助は見のがさなかった。
「でも、これだけ出来るというのも、みんな三島さんのおかげよ。あのひとがいなきゃ手も足も出ないわ。それはそうと……」
と、菊江はいくらか声をひそめるようにして、
「あのひとどうして? 目賀先生……」
妙に意味ありげなそのいいかたに、金田一耕助がおやと菊江の顔を見なおしたとき、
「おお、|蟇《がま》仙人なら、ここにいるぞ」
半裸体の目賀博士が、せいぜいおどけたつもりでそういいながら、よたよたとガニ|股《また》で入ってきた。
いつもならこんなとき、さっそく言葉がたきにならずにおかぬ菊江だのに、どういうものか今日はちょっと表情をかたくして、一歩あとずさりをするようにする。テーブルのうえに皿をならべていた美禰子と華子も、ちらと眼を見かわせると、そのまま無言で、いくらか体をかたくした。
なにかあったな!
金田一耕助ははっと胸騒ぎがする感じで、|脂《あぶら》ぎった蟇仙人と、青じろんだ女たちの顔を見くらべている。
目賀博士はぎらぎらするような眼で一同を見まわしながら、
「あっはっは、どうしたんだ。みんな、なにをそのようにきょときょとしてるんじゃ。さあ、御馳走になろうじゃないか。なにはどうした、警部さんは?」
「警部さんは電話です」
「ああ、そうか、そうか。それはそうと三島はどうしたんじゃ。はやくグラスを持って来んかい」
ぶつくさいいながら目賀博士は、そこにあったウィスキーとグラスを取りあげると、自分で勝手についで飲んでいる。華子はカップに紅茶をつぐと、
「金田一先生、御自由におつまみになって」
「お行儀が悪いけど手づかみよ」
「はあ、どうも。……」
そこへ東太郎と一彦が入ってきた。
「ああ、グラスが来た来た。金田一さん、ひとつどうじゃ」
「いいえ、ぼくは紅茶のほうが……そうですか、では、ひとつ……」
「三島君、君はどうじゃな。なに、いらん、あっはっは、客のまえだと思っていやに神妙にしてるな。さっきは相当のんだくせに。ときに警部さんはおそいな」
そこへ警部が汗をふきふき、不機嫌なかおをしてかえって来た。
「警部さん、どうかしましたか」
「ふむ、たったいま横須賀線が不通になったそうです」
「えっ?」
一同思わず警部の顔を見直した。
「土砂崩壊かなにかで、当分復旧の見込みがたたんというんですよ」
「まあ、それじゃ|秋《あき》|子《こ》さまは……?」
華子が心配そうに|眉《まゆ》をひそめる。
「いや、奥さんは大丈夫でしょう。奥さんが出かけられたのは――?」
「四時ちょっと過ぎでした」
「それなら大丈夫。不通になったのは六時過ぎだというから――。なんでも|戸《と》|塚《つか》へんで|崖《がけ》|崩《くず》れがあったらしい」
「警部さん、もし電車が通っていたら、どうなさるおつもりだったんですか」
「むろん、誰かを迎えにやって、こっちへかえって|貰《もら》うつもりだった。こんなときに、むやみにここを離れてもらっちゃ、困りますからな」
警部はにがりきっている。
「まあまあ、警部さん、出来たことはしかたがない。秋子は逃げもかくれもしやあせん。それより、ひとつ、どうじゃな」
目賀博士のついで出すグラスをとって、警部は、無意識にのんでいる。その警部の視線のさきには、三島東太郎が立ったまま、せっせとサンドウィッチを|頬《ほお》|張《ば》っている。
ふいに警部がウィスキーにむせた。あわててグラスを下におき、はげしく|咳《せ》きこんでいたが、やっとそれがおさまると、東太郎にむかって何かいいかけたが、そのせつな、金田一耕助がすばやく口をはさんだ。
「ああ、ときに菊江さん、さっきの話ですがね。ひとつ、つぎを聞かせてください。秋子奥さまは、どうしてきゃっとおっしゃったんですか」
「えっ?」
警部はぎょっとしたように、金田一耕助の顔をふりかえる。それに対して耕助は、手みじかに事情を語ると、
「そういうわけで、秋子奥さまがなぜだしぬけに、きゃっとさけばれたか、それをこれからお伺いしようというわけです。菊江さん、ひとつ、そのときの模様を話してくださいませんか」
菊江はいくらか|蒼《あお》|白《じろ》んだ顔色で一同の顔を見まわしていたが、ちょっと眉をあげると、
「ええ、お話ししますわ。でも、あたしにも秋子奥さまが、なぜあのようにびっくりなさいましたのか、なにをあのように|怯《おび》えられたのか、その理由はわかりませんのよ」
「そ、そんなにひどく秋子奥さまは怯えられたんですか」
「ええ、とっても。あたしにはそう見えましたけれど、華子奥さまや美禰子さんは、どういうふうにお感じでしたかしら」
「あたしも、母があんなに怯えるのを、見たことはございません」
言下に美禰子がキッパリいって、さぐるように、目賀博士の顔を見る。
「なるほど、なるほど」
金田一耕助はがりがり頭をかきまわしながら、
「それじゃ、そのときの模様を、詳しく話してみてください。いったい、どういうきっかけで、秋子奥さまが、そんなにひどく怯えられたか。――」
「どういうきっかけって、とにかく秋子奥さまは、いちど、今日御出発なさることをお|諦《あきら》めになったんです。そこで、みんなして、ここでお茶をのんでたんですわ。三時半ごろでしたので。――秋子奥さまはそのときそのソファ――」
と、部屋の中央の少し窓よりにあるソファを指さしながら、
「そのソファに、お|信《し》|乃《の》さんとならんで|坐《すわ》ってらっしゃいました。あたしたちは、めいめい勝手なところに席をしめていたんです。ところがだしぬけに秋子奥さまが、あっというような、それこそ、とても深刻な声をお立てになったんです。あたしびっくりして、奥さまのほうをふりかえると、奥さまはまるでなにかに取り|憑《つ》かれたような眼つきで、目賀博士を見ていらっしゃいました」
「いや、あれはなにもわしを見て……」
「先生、ちょっと。……とにかく菊江さんの話を聞かせてください。それから……?」
「ええ、あたしにも奥さまが、何を見ていらしたのか、はっきりわかりません。しかし、少なくともその視線は目賀先生にむけられていたんです。奥さまの御様子があまりおかしかったので、一瞬、あたしどもは呼吸をつめて、奥さまのお顔を見ていました。すると、突然、奥さまがきゃっとさけんで、お信乃さんの胸に|縋《すが》りついて……そのとき、うしろ手に目賀先生を指さしながら、お信乃、お信乃、悪魔……と、そうおっしゃったように聞こえたんですけれど。……」
「ええ、あたしもはっきりそう聞きました」
美禰子がまたキッパリといいきった。
「なるほど、なるほど、それから……?」
「それからもう狂ったようにおなりになって、あたしはもう一刻もこの家にはいられない。お信乃、早く鎌倉へつれてってと。……みなさんがどんなにおとめしてもお聞き入れなく、逃げるように御出発なさいましたの」
しいんとした沈黙が部屋のなかに落ちこんでくる。外の|嵐《あらし》にもかかわらず、骨も凍るような静けさだった。
「なるほど、すると奥様は今日この部屋で、悪魔……を、発見されたというんですね」
「はあ、あの、そうじゃないかと思います」
「そして、奥様の発見した悪魔とは、目賀先生らしいとおっしゃるんですね」
「いえ、あの、それは、……あたしにも、よくわかりませんけれど……」
目賀博士が猛烈に鼻を鳴らして、何かわめき立てようとしたのはそのときだった。
しかし、金田一耕助はすばやくそれをさえぎって、
「いや、ちょっと待ってください。目賀先生、そのときあなたはどこにいらっしゃいました? 秋子奥様のごらんになったものは、ひょっとするとあなた以外のものだったかも知れない。恐れいりますが、そのときの席へお戻りになってくださいませんか」
目賀博士はちょっと戸惑いしたような顔をしたが、すぐ、ソファから向かって左のほうの部屋の隅へ歩いていった。そしてそこでくるりとこちらをふりかえると、
「わしはここに立って、こうしてウィスキーのグラスをなめていたんだ。そうだ、ちょうどこのままの姿だった。上半身裸で……」
「そして、秋子奥様はここに坐っていらっしゃったんですね」
金田一耕助はソファに腰をおろして、目賀博士のほうを見る。すると、すぐ気がついたのは、目賀博士から少しはなれた背後に、鏡をはめこんだマホガニー製の|衝《つい》|立《たて》が立っていて、その鏡に目賀博士の|脂《あぶら》ぎった背中がうつっていることである。
むろん、鏡にうつるのは目賀博士の背中ばかりではない。ちょっと目の角度をかえることによって、ソファから向かって右の部屋の部分が、かなりすみずみまで見えるのである。
金田一耕助はなにかしらはっとした。
「あの、ちょっとお伺いしますが、そのときみなさんのこらず、ここにお集まりだったんですね」
「ええ、みんな……鎌倉へお供したお種さんも……」
「それじゃ、すみません、そのときの席へおつきになってくださいませんか。警部さん、あなたはお信乃のかわりになってください」
みんな妙な顔をしていたが、それでもそれぞれ席をかえた。華子と美禰子はテーブルをはさんでソファのまえに。菊江はテーブルの向かって右手に。一彦は華子のうしろに立ち、東太郎はソファの右背後に窓を背にして。そして、
「お種さんはそこに立っていたのよ」
と、菊江は東太郎の少しまえあたりを指さした。
金田一耕助はもう一度秋子の席から鏡を見る。だが、すぐ失望したというのは、ちょっと眼の位置をかえることによって、そこにいるひとびとの全部を、鏡のなかに見ることが出来るのである。華子と美禰子は斜めうしろから、一彦はその側面を、菊江は斜め前面から、東太郎はほとんど真正面から。……
金田一耕助は失望したように、ゆっくり首を左右にふると、立ちあがって窓際へいき、ちょっと窓を開いたがまたあわててそれをしめた。危く窓が吹きちぎられそうになったからである。
耕助は|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼で、しばらく宙をにらんでいたが、
「仕方がない、決行しよう!」
と、急にくるりと警部のほうをふりかえると、
「警部さん、表に自動車が一台いますね。それじゃ……」
と、すばやく室内の人数をかぞえると、
「もう二台、自動車をくめんしてください。それから刑事さんを二、三人、いや、四、五人……」
「ど、どうするんです。金田一さん」
「これからみんなして鎌倉へ出かけるんです。このなかに悪魔がいるにちがいない。そして、秋子奥様はそれを発見されたんだ。鉄は熱いうちに打たなきゃならない。誰が悪魔だか秋子奥さまにいっていただくんです」
警部が風のように部屋をとび出していった。電話をかけにいったのである。
「でも、あのこの家は……?」
華子がおろおろするのをおっかぶせるように、
「大丈夫、刑事さんに見張りをしてもらいます」
ほかのものは誰も口をきかず、しびれたような顔をして突っ立っていた。
金田一耕助にとっては、いや、金田一耕助のみならず、すべてのひとにとって、おそらくこの夜の冒険は、生涯消しがたい印象となってのこるだろう。
文字どおりそれは恐怖と|戦《せん》|慄《りつ》の三時間だった。いよいよ募る烈風と豪雨をついて、三台の自動車は遮二無二鎌倉にむかって|驀《ばく》|進《しん》した。あとから思えば一台も事故を起こさず無事に目的地へたどりついたのは、まるで|奇《き》|蹟《せき》みたいなものである。
金田一耕助と等々力警部、それから美禰子の三人をのせた先頭の自動車が、北鎌倉の別荘へついたのは、もう十時をだいぶ過ぎていたが、むろんそのへん一帯も停電でまっくらだった。
ベルをおしてもきかないので、耕助がどんどん玄関の格子をたたくと、懐中電気をふりかざしたお種がなかから開いたが、耕助の顔を見るとふいに大きく眼を見張った。お種はそれから警部を見、最後に美禰子を発見したが、そのとたん、大きく口をあけ、両手をふるわせながら声なき叫びを張りあげた。
「あ、お、お種さん、どう、どうしたんだ」
くらくらと倒れようとするお種のからだを、あわてて抱きとめた耕助のあたまには、さっと不吉な想いがひらめく。
「奥さんがどうかされたのか」
「悪魔が……」
「えっ、悪魔が……?」
「笛を吹いたんです。そして奥様は……」
「奥様は……?」
「お亡くなりになりました。目賀先生の調合されたお薬をのんで……」
第二十七章 密室の再現
|颱《たい》|風《ふう》の一夜は明けて十月十一日。
麻布六本木にある|椿邸《つばきてい》は、今日は朝から、戒厳令でもしかれたような、ものものしい警戒ぶりである。
新聞でまた新しい惨劇を知った弥次馬が、つぎからつぎへと押しよせて、好奇心にみちた眼で、屋敷の周囲を取りまいている。颱風でくずれた塀のすきまから、なかへ侵入しようとする新聞記者と、警官のあいだに、ひっきりなしに小ぜりあいが演じられていた。
午後七時。
鎌倉で解剖に付された|秋《あき》|子《こ》夫人の|遺《い》|骸《がい》を先頭に、関係者一同が引きあげてくるにおよんで、椿邸を|囲繞《いにょう》する空気は、いよいよ緊迫の度を加えて、警官のいききが|俄《にわ》かに活発になってくる。
誰もかれももううんざりしているのだ。いつまでもこんなことを繰り返していてはならなかった。これ以上の惨劇はもうまっぴらだ。一刻もはやくけりをつけて、警察の威信を示さねばならぬ。そのためには今夜あたり、なんらかの手をうたなければならないのだが……。
夫人の遺骸が奥座敷に納まったころ、金田一耕助が騒然としてやってきた。かれは今朝、横須賀線が復旧するとまもなく、ひとあしさきに東京へひきあげてきたのだ。疲れて、血走っていたけれど、|瞳《め》が一種異様なかがやきをおびているところを見ると、耕助はなにかつかんだのではないだろうか。
応接室で警部に出あった。警部は隅のほうへ耕助をひっぱっていって、押し殺したような声でささやいた。
「金田一さん、出川刑事からまた報告が来ましたよ」
「知っています。ぼくのところへも来ましたから……」
「|小《さ》|夜《よ》|子《こ》の自殺の原因が……」
「ええ、それについて、ぼくも考えているところなんですが……」
ふたりはだまって、はげしく視線と視線をからませている。突然、金田一耕助が身ぶるいをした。
出川刑事の報告というのはこうである。
刑事はその後も神戸にとどまって、小夜子自殺の真因を知ろうとして、百方、奔走しているのだが、最近になって、つぎのような事実をつきとめたのである。
小夜子は自殺する前日、Mという親しい友人を訪れている。そのMが述懐するのに、あとから思えば、あのとき小夜子さんは、お別れの|挨《あい》|拶《さつ》に来てくれたらしいのだが、その際、彼女が妙なことを口走ったというのである。
あたしは畜生道におちいった。……と。
畜生道……この古風な、|草《くさ》|双《ぞう》|紙《し》めいた言葉の意味を、Mははっきり理解することが出来なかった。しかし、そのときの小夜子の顔色なり素振りから、強く印象にのこったのである。
「畜生道……金田一さん、これはどういう意味でしょうかね。つまり、|叔《お》|父《じ》にあたる治雄と関係したことをいってるんですかな」
「しかし、そのことなら、小夜子も承知のうえだったんじゃないでしょうかねえ。それに、畜生道という言葉は、ふつうもっと強い肉親|相《そう》|姦《かん》の場合に用いられるようですが……」
そこでふたりはまた、無言のまま眼と眼を見かわしていた。|等々力《とどろき》警部の瞳のおくにも、何かしら燃えているものがあった。
金田一耕助はふと視線をそらすと、ゆっくり頭をかきまわしながら、
「警部さん、|秋《あき》|子《こ》夫人の解剖の結果は……?」
「お定まりの青酸加里というやつですね。目賀博士の調合した、強心剤のなかにしこまれていたんですな。どうもこの青酸加里というやつ、やたらに|氾《はん》|濫《らん》しているので、始末におえない。これも戦争の|惨《さん》|禍《か》というやつですかね」
警部は暗い眼をしてつぶやくと、
「金田一さん、どうです。思いきって、三島東太郎をたたいてみたら。……」
「ええ、いずれ、今夜のうちに……しかし、もう少し待ってください。それより、警部さん、お願いしておいた、あちらの部屋の用意は出来ましたか」
「ふむ、いまやっているところだが……もうすぐ準備が出来るだろう」
そこへ刑事が入ってきて、何か警部に耳打ちした。警部はうなずいて、そそくさと応接室から出ていった。
あとには耕助がただひとり、応接室にとりのこされて、ぐったりとソファに身を沈めた。あたりを見ると、荷造りされたままの、トランクだのスーツケースだのが、昨夜のまま、うずたかく積みあげてある。それはもう鎌倉へ送られる必要もなく、ただ|徒《いたず》らに目賀博士や、三島東太郎に、汗を流させただけだった。
金田一耕助は|憮《ぶ》|然《ぜん》とした眼で、トランクの山を見まわしながら、もう一度、昨夜のことを考えてみる。
思えば秋子夫人の最期は、まことにあっけないものだった。
何におびえたのか、昨日の四時ごろ、ここをとび出した秋子夫人は、お|信《し》|乃《の》とお種をともなって、北鎌倉の別荘へ走った。三人が別荘へ着いたのは、六時ちょっとまえのことだったが、広い別荘のなかは暴風の|闇《やみ》につつまれていた。しかし、その時分、北鎌倉いったいは、まだ停電にはなっておらず、そのことが秋子夫人の命を断つのに、重要な役目をなしたのである。
おびえきった秋子夫人は、お信乃とお種に左右から、抱かれるようにして、洋風の寝室へ入っていった。お信乃が壁際にあるスウィッチをひねった。しかし、電気はつかないで、その代わりまっくらな部屋のなかから聞こえるのが、あの|呪《のろ》わしい「悪魔が来りて笛を吹く」のメロディー……
それこそ、まさに効果百パーセントだったろう。戸外には|嵐《あらし》がたけりくるっている。しかも、秋子はおびえにおびえている折り柄だった。そこへ突然、真暗な部屋のなかから、あの血も凍るような呪いの旋律が聞こえてきたのだから、秋子の魂はその瞬間、ショックのために死んでいたのかも知れない。
お信乃もお種もしばらく棒をのんだように立ちすくんでいた。お信乃はしかし、それまでのたびたびの経験から、すぐに犯人のからくりを見破った。
彼女は手さぐりで部屋のなかへ踏みこむと、ベッドの|枕《まくら》もとにある電気スタンドのスウィッチをひねった。電気はすぐつき、あの呪わしいメロディーの|源《みなもと》もすぐわかった。
お信乃はベッドの下から小型の電蓄をひっぱり出した。電蓄の回転盤のうえで、悪魔のレコードが|躍《おど》っている。
お信乃は電蓄の回転をとめると、レコードをはずして床のうえに投げつけた。レコードは木っ葉|微《み》|塵《じん》となって散乱したが、そのとたん、秋子はお種の腕のなかで気を失ったのである。
そのとき、お信乃やお種が、秋子の手当てをしかるべき医者にまかせていたら、あるいはそれから起こったような悲劇は未然に防ぐことが出来たかも知れない。
しかし、なにしろあの大嵐だ。はたして医者が来てくれるかどうかおぼつかなかったし、それにお信乃としては、外見をはばかる気持ちもあったのだろう。
かねてから、こういう場合の用意にと、目賀博士が調合しておいた錠剤を、秋子の口にふくませたが、それが彼女の生命を奪おうなどとは、お信乃はむろん、夢にも知らなかったのである。
錠剤のなかには青酸加里が入っていた。秋子ははげしい|苦《く》|悶《もん》と|痙《けい》|攣《れん》にのたうちながら絶息した。恐怖のために気が狂いそうになっているお信乃とお種の腕に抱かれて。……
戸外にはいよいよ嵐がたけり狂っていた。
さて、問題は誰があの電蓄をしかけ、そしてまた、誰が目賀博士の調合した錠剤のなかに、青酸加里をしこんだかということだが、金田一耕助はもうそれについては、考えることをやめた。
秋子が別荘へおもむくまでには、椿家の家人はかわるがわる準備のために、出向いていったというではないか。してみれば、電蓄の用意をするチャンスは、誰にでもあったし、また、青酸加里入りの錠剤を目賀博士のつくった薬とすりかえるチャンスだって、椿家の住人なら誰にだってあったはずだ。犯人はいつも、誰にでも与えられるチャンスを利用しているのである。
それよりも問題は、昨日、秋子はこの部屋で何を見たのか。誰のうえに悪魔……を発見したのか、ということである。
金田一耕助は思い出したように部屋を見まわす。それから立って、ごたごたと積みあげられたトランクや、スーツケースのあいだを歩きまわる。鏡をはめこんだ|衝《つい》|立《たて》のまえに立って考え込む。
昨日、秋子夫人をおびやかしたものは、目賀博士そのものだったのか。それとも、この鏡にうつった誰かの影像ではなかったか。と、すれば秋子夫人が鏡のなかに発見したのは、いったい、なんだったのか。
金田一耕助は衝立を背にして、もう一度部屋のなかを見まわす。いや、一度ではない、何度も何度もあたりを見まわす。|爪《つめ》をかみ、もじゃもじゃ頭をかきまわし、スリッパをはいた片脚が、いそがしいリズムで貧乏ゆすりをする。
突然、耕助の眼がとある一点に凝縮した。そのとたん、もじゃもじゃ頭をかきまわす手の運動も、貧乏ゆすりをする脚のリズムも、凍りついたようにはたと止まって、大きく見開かれた耕助の瞳に、はげしい炎がもえあがった。
耕助の眼は、|鎧扉《よろいど》をおろした窓に、|釘《くぎ》|付《づ》けにされているのである。
「悪魔……」
耕助は大きく|喘《あえ》ぎ、いったん停止していた指が、今度は猛烈な勢いでもじゃもじゃ頭をかきまわしはじめた。まるで髪の毛を引き抜こうとでもするかのように……。
耕助はそのときようやく、秋子夫人のいおうとしていたことが、わかったような気がしたのである。
そこへ刑事がいそぎあしに入ってきた。
「あ、金田一先生、あちらの用意が出来ておりますが……」
「ああ、そう」
耕助は夢からさめたように、眼をぱちくりさせながら、
「警部さんは……?」
「向こうでお待ちでございます。みんな集めておきました」
「ああ、そう、それじゃ」
|袴《はかま》の|裾《すそ》をさばいて、長い廊下を刑事のあとからついていくとき、耕助の眼にはこの事件がはじまって以来の、ただならぬ|昂《こう》|奮《ふん》のいろが見てとられた。かれははっきり意識しているのである。さすがの恐ろしいこの事件もようやく大詰めに迫ってきたことを。
耕助が案内されたのは、この一連の殺人事件の、最初の幕を切って落とした、あの防音装置のほどこされたアトリエのまえである。そこにはいつかの夜、砂占いの席につらなったひとびとのすべてが、ひとかたまりになって立っている。むろん、あの夜からのちに、あいついでこの世を去った玉虫|伯爵《はくしゃく》や新宮利彦、それから秋子夫人のすがたは見えなかったが。
大勢の私服の警官にとりかこまれて、不安そうに部屋のなかを見ているそれらのひとびとの顔色には、過労からくる|痴《ち》|呆《ほう》的な|匂《にお》いがかんじられた。
「金田一さん、これでいいのかね」
部屋のなかから警部の声が聞こえた。
耕助はひとびとのあいだをわって、部屋のまえに立つと、無言のままなかを見まわす。
黒いカーテンで三方を区切られた、八畳ばかりの|一《いっ》|劃《かく》。天井からぶらさがった自家充電のホーム・ライト。ただし、それは形ばかりで、今夜はあかあかと電気がついている。
ホーム・ライトの下にある大きな円卓をとりかこんで、|椅《い》|子《す》が十脚あまり。円卓のうえには砂占いに使われた大きな皿。皿のなかには新しい砂が盛られて、きれいに表面がならされている。それから、円卓から少しはなれた台のうえに、風神だか雷神だかの像がのっかっている。
金田一耕助は入念に、部屋のなかを|見《み》|廻《まわ》したのち、そばに立っている|美《み》|禰《ね》|子《こ》をふりかえった。
「美禰子さん、あの晩……ほら、玉虫伯爵が亡くなられた晩、ここはこのとおりでしたね。それとも、どこかちがっているところがありますか」
美禰子は|蒼《あお》|白《じろ》くそそけ立った顔色で、念入りに部屋の調度をひとつひとつ見ていったのち、かすかにうなずきかけたが、急に頭を横にふって、
「ああ、あれ、ちがっていますわ」
「どれ。……」
「ほら、あの台にのってるの風神でしょう。あの晩、ここにあったのは雷神でしたわ。玉虫の伯父さまは雷神の像でなぐられて……」
金田一耕助はかすかにほほえんだ。
「ところがね、美禰子さん、あの晩、この部屋にあったのは風神だったんですよ。しかし、あのとき風神像は、ホーム・ライトの光の外に立っていたし、それによく似たかたちだから、誰もそれに気がつかなかったんです。誰だって、そんなものに特別に注意を払うものはなかったでしょうからね」
美禰子は物問いたげな眼で、耕助の顔を見ながら、
「でも、風神像は去年泥棒に盗まれて……」
「そう。しかし、ここにあるじゃありませんか。泥棒はいったん風神雷神ともに盗み出したが、ふたつとも庭のどこかへ投げ出していったんですね。雷神のほうはその後発見されたが、風神は誰の眼にもつかぬところにほうり出されていた。それを犯人が発見して、あの晩の計画に利用したんですね」
美禰子はまた物問いたげな眼で耕助を見、何かいおうとしたが、そのまま口をつぐんでしまう。美禰子に代わって口を開いたのは菊江だった。
「それで、金田一先生、これからいったい何がはじまろうというんですの。あの晩の情景をもう一度ここに再現してみせて、それで犯人を恐怖におとしいれ、告白を引き出そうというわけなんですの」
相変わらずからかうような調子だが、今夜はさすがに声がしゃがれている。|悧《り》|巧《こう》な女だけに、今夜の耕助の態度のなかに、いつもとちがうものを|嗅《か》ぎ当てたのにちがいない。
耕助はにこにこしながら、
「ええ、まあ、そういうわけで……」
「でも、そんなことでやすやすと、恐れ入るような犯人だといいのですけれど」
そういいながら、菊江はそれまで並んで立っていた、目賀博士のそばから、わざと|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な身ぶりではなれる。目賀博士の眼が、凶暴な光をおびてまたたいた。
「いやあ」
耕助は相変わらずにこにこしながら、
「犯人の告白はどうでもいいんです。それよりもぼくは、あの晩、いかにして砂鉢の砂のうえに、|火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》、即ち悪魔の紋章がえがかれたか、それからまた、どういうふうにして、密閉された部屋のなかで、あのような血みどろの殺人が行なわれたか、それを再現してみようというんですがね」
「つまり、手品の種明かしをしようというんだね」
|脂《あぶら》ぎった|蟇《がま》仙人の眼に、あざ|嗤《わら》うような色がうかぶ。|華《はな》|子《こ》と一彦は鉛をのんだように、重っ苦しい顔をして立っている。少しはなれて、三島東太郎とお種が、思い思いの顔色で立っている。お信乃はあいかわらず、|禿《はげ》|鷹《たか》のような眼をして、しゃんと威儀を正していた。
「さよう、さよう、そのとおり。そして、すべての手品の種明かしが子供だましであるように、この密室の殺人事件の真相も、かなりあっけないものです。|但《ただ》し、そうかといって、これは誰にでも出来るというわけのものではありませんがね」
金田一耕助はそういいながら、部屋のなかへ入っていった。みんなの眼がそのあとを追っかける。
金田一耕助は円卓と風神像のあいだに立って、ドアのほうをふりかえると、いくらか鼻白んだような顔色で、
「ほんとうをいうと、ここでちょっともったいぶって、あの晩のとおりみなさんに椅子についていただき、電気を暗くして、もう一度砂占いをやってみたいところなんですがね。しかし、今夜はほかにもまだやらねばならぬことがありますから、手っとりばやくやってお眼にかけましょう」
耕助はそういいながら、かたほうの台のうえに立っている風神像を取りあげると、台の底を判でも|捺《お》すようにべったり砂のうえに押しつけた。そして、それを取ったとき、ひとびとの眼は、ふっと大きく見開かれたのである。砂のうえにはありありと、あの晩見たと同じような、火焔太鼓のかたちがえがかれているではないか。
目賀博士が突然くっくっ笑い出した。
「なるほど、これは子供だましだな。しかし、そういえばあの晩の火焔太鼓も、判で捺したようにえがかれていた。新宮さんの奥さん、そうじゃなかったかな」
目賀博士はわざとそばにいる菊江や美禰子を無視して、遠い華子に話しかける。
「はあ、あの、そうおっしゃれば……」
誰も目賀博士や華子の説に反対するものはなかった。
「わかったわ。金田一先生」
と、菊江も|唾《つば》をのみながら、
「それで、どうして火焔太鼓が、あの晩、砂鉢のうえに現われたかということが。……でも、それだけじゃ、玉虫の御前が、どうして殺されたかという説明にはならないわね」
「ええ、そう、だからそれをこれから警部さんとふたりで、実演してお眼にかけようというんですよ」
「ええ、わたしとふたりで……?」
警部はびっくりしたように、眼をパチクリとさせている。
「ええ、そう。なに、実演といっても簡単なもんでさあ。ぼくのいうとおりにしてくださればいいんですよ。さて、そのまえに。……」
と、耕助はドアのほうをふりかえり、
「砂鉢のうちに火焔太鼓が現われたとき、どういうことが起こったか、みなさんも|憶《おぼ》えているでしょう。『悪魔が来りて笛を吹く』……あのレコードが聞こえてきたんでしたね。あれはつまり犯人が、今度の事件の被害者たちを、じわりじわりと絞めつけていく、ひとつの手段だったんですが、それと同時に、火焔太鼓からいっとき、ひとびとの注意をそらせる必要もあったわけです。|何《な》|故《ぜ》といって犯人は、誰にも気付かれないうちに、この風神をもとの雷神と取りかえておかなければならなかったからです。では、その雷神はどこにあったか。……」
耕助はつかつかと部屋から出てくると、ドアの外に飾ってある大きな花瓶を指さして、
「みなさんはあの晩、ぼくがこの部屋へ入るまえに、何気なくこの花瓶のうえに帽子をおいたことをおぼえてるでしょう。ところが、その帽子の裏の汗革が、花瓶の彫り物にひっかかって、取るに大騒ぎを演じたのでしたね。ところが、なんと皮肉なことには、あの晩、雷神はこの花瓶のなかにかくしてあったんです」
耕助は一同の顔を見まわしながら、
「犯人はあのレコードで、われわれを部屋から追い出すと、大急ぎで花瓶のなかから雷神を取り出そうとした。ところがおっとどっこい、ぼくの破れ帽子がひっかかって、雷神を取り出すことが出来ない。無理に帽子を取ろうとすれば、汗革を破るおそれがある。それに、あんまりぐずぐずしていることも出来なかったので、風神と雷神の取りかえは一時延期することにした。ところが、そのうちにレコード騒ぎも一段落つき、ぼくがやっとのことで、帽子をとってかえったので、電神はいつでも花瓶のなかから取り出すことが出来るような状態になった。ところが今度は……」
「玉虫の御前が邪魔になったのね」
菊江がやさしい声で口をはさんだ。
「ええ、そう。あの火焔太鼓に大きなショックをかんじた玉虫の御前は、ひとりこの部屋に頑張って、いつまで待ってもお引き取りになろうとしない。そこで、犯人も|諦《あきら》めて、いったんは自分の部屋へかえったが、しかし、なんとしても、夜の明けるまでには、風神と雷神を取りかえておきたかった。そこで、真夜中ごろ、ひとの寝鎮まるのを待って、こっそりこの部屋のまえへ忍んできた。おそらくそのときこの部屋は、電気が消えていたのでしょう。犯人はそこで、てっきり玉虫の御前も、お引き取りになったものと考えて、花瓶のなかから雷神を取り出し、それを逆手に部屋のなかへ入っていった。……」
耕助がそういいながら、花瓶のなかから取り出したのは雷神である。それを逆手に耕助は、|爪《つま》|先《さき》立って部屋のなかへ入っていくと、
「ところが、あにはからんや、そこにはまだ玉虫の御前がいられた。御前は酔っ払って寝ていられたのか、それとも電気を消して、物思いに沈んでいられたのか。……それはともかくとして、そこへ誰かこっそり忍んできたので怪しんで、だしぬけにぱっと電気をつけた。……」
耕助はそこで警部に向きなおり、
「さあ、警部さん、あなたが玉虫の御前ですよ。ぼくが犯人です。犯人はだしぬけに電気がついたので、驚いて玉虫の御前を見る。玉虫の御前は玉虫の御前で、犯人と、犯人の握っているものを見た。玉虫の御前は|聡《そう》|明《めい》なひとだから、ひとめ見て、さっきの火焔太鼓のからくりに気がつかれた。そこで犯人を詰問しようとしたが、そのとたん、犯人が玉虫の御前におどりかかって……」
耕助は|袴《はかま》の|裾《すそ》をさばいて跳躍すると、右手に握った雷神で、等々力警部にうってかかった。それから、警部のからだを仰向けに、砂鉢のうえに押し倒すと、左手で|咽《の》|喉《ど》をおさえ、右手の雷神で二度三度、警部の頭や面部を打つまねをした。
それは見ていて、かなり|滑《こっ》|稽《けい》なお芝居だった。警部はこのお芝居について、あらかじめなんの打ち合わせもしていなかったらしく、まるで|鳩《はと》が豆鉄砲をくらったように、眼をパチクリとさせながら、しかし、金田一耕助のするままになっている。
耕助は警部の咽喉をおさえつけたまま、
「こうして、砂鉢はかき乱され、あたりには血が飛び散った。ことに玉虫の御前が鼻血を出されたので、血の量はじっさいの傷よりも多かったわけです。さて、砂鉢のうえにおさえつけられた玉虫の御前は、必死となってもがきながら、おまえは誰だ、いったい、何をするのだというようなことを聞かれたのでしょう。さあ、警部さん、あなたが玉虫の御前ですよ」
耕助にうながされて、
「ああ、ふむ。……」
と、警部は砂鉢のうえに仰向けに、おさえつけられたまま、
「おまえは誰だ。いったい何をするのだ」
「それに対して犯人は、ある言葉を御前の耳にささやいたんです」
そういいながら、耕助は警部の耳に口をあてると、
「わ、わたしは――」
と、何やらひとことささやいたが、そのときの警部の顔色こそみものであった。警部は、やにわに耕助の体をつきとばすと、はじかれたように立ちあがり、
「な、な、なんだって。き、き、金田一さん、そ、そ、そりゃほんとうか」
警部のそれはもうお芝居ではなかったのだ。まるで地獄の口でものぞいたように、ドスぐろい恐怖と驚きに顔を|歪《ゆが》め、目玉がいまにも飛び出しそうであった。
それに対して耕助は、落ち着きはらって、|袂《たもと》の砂を払いながら、
「ほんとう――だろうと思います。そして、警部さん、あの晩の玉虫の御前も、いまの警部さんと同じような驚きと恐れをもって、同じような言葉を、犯人にむかってあびせたにちがいないのです」
一同はしばらくしいんと黙りこんでいた。
耕助は何を警部にささやいたのか。そしてまた、警部は何をあのように驚いたのか。
妙に不安でぎこちない空気が、一同の顔を|強《こわ》|張《ば》らせる。それは、耕助のささやいた言葉が、想像もつかなかったせいもあろうが、なかにはまた、それがわかった人物も、あったからかも知れないのである。
やっと菊江が口をひらいた。あいかわらず、からかうような調子だが、妙に声がしゃがれている。
「金田一先生、いったい、どんなおまじないを、警部さんにおっしゃいましたの」
「やあ」
耕助は警部に眼くばせをしながら、
「それはもう少し伏せておくことにしましょう。それよりも、いまの警部さんの顔色から、どんな恐ろしい言葉だったかおわかりになるでしょう。ことに玉虫の御前は当事者だけにね」
「金田一先生」
と、|怯《おび》えたような声をかけたのは美禰子である。美禰子の眼はいよいよ大きく見開かれて、|蒼《あお》|白《じろ》んだ|頬《ほお》がさむざむとそそけ立っている。
「それが、あれですの? 椿家の名誉を泥沼に落とすという――」
「ええ、そ、そ、そうかも知れません」
食い入るような美禰子の視線から顔をそむけて、耕助はぎこちなく|咽《の》|喉《ど》の|痰《たん》を切りながら、
「これで、あの晩起こった惨劇の、第一幕は終わったわけです。玉虫の御前はかなりの手傷を負うておられた。ことに鼻血が飛んだので、部屋中|惨《さん》|憺《たん》たる光景を呈しました。しかし、それかといって御前はそのとき死んでいられたわけではなく、まだまだ元気でいられたんです」
「しかし、それじゃなぜひとを呼ばなかったんだね」
|蟇《がま》仙人の蟇のような声である。
「それがつまり、おまじないのせいなのね」
菊江がかしこくも指摘する。
「ええ、そう、ひとを呼んで、そいつにべらべらしゃべられると、困る理由があったんですね。そこで御前は一時そっと妥協された。いや、そいつのほうが一時、御前と妥協したといったほうが当たっているかもしれません。そこでそいつは、御前をここに残して部屋から出ていった。むろんそのとき、そいつは、風神と雷神を取りかえていったわけです。さて、あとに残った御前は、扉をしめ、掛け金をかけ、|閂《かんぬき》をはめ、それからカーテンをしめられた。いや、おそらく扉もカーテンも格闘の間じゅう閉まっていたにちがいない。それでないと物音が外へ|洩《も》れたはずだし、それにカーテンには|血《けっ》|痕《こん》が散っていましたからね。さて、それをもう一度念入りにしめて、御前がひとりここに残ったというのは、おそらく、ショックがあまり大きかったからでしょう。御前は気持ちを整理する時間がほしかった。それと、そんな血だらけの姿でこちら――」
と、耕助は菊江のほうを|顎《あご》で示して、
「のそばへかえっていくことを、|憚《はばか》る気持ちもあったのでしょう。こうして犯人は外に、御前は密閉された部屋のなかに残ることになったんですが、そのとき、犯人がふと一計を案じたんですね」
そこで金田一耕助は、もう一度つかつかと部屋から出ると、あの花瓶のおいてあった台を、扉の正面まで持って来た。
「いいですか。そのとき、この扉はぴったりしまっていたんですよ。しかも閂と掛け金で、二重にしまりがしてあったんです。むろん、カーテンもしまっていました。そこで犯人はこの台のうえにあがって、|欄《らん》|間《ま》の窓からなかをのぞきこんだんです」
と、金田一耕助は台のうえにあがると、欄間からなかをのぞきながら、
「そして、おそらくこんなことをいったんでしょう。御前、御前、もうひとこと申し上げたいことがあります。ちょっと、お耳をかしてください。――さあ、警部、あなたが玉虫の御前ですよ」
「ああ、ふむ、そうか」
警部はちょっとあたりを見まわしたのち、手近の|椅《い》|子《す》を持ってきて、それを扉の内側におくと、そのうえへあがった。
「金田一さん、これでいいのかな」
「そうです、そうです。ついでにこのガラス戸を開いてください」
警部は欄間にはまっているガラス戸を、二枚左右に開いた。金田一耕助は台のうえから一同の顔を見まわしながら、
「こうして犯人と玉虫の御前は、欄間ごしに顔をつきあわせた。ごらんのとおりこの欄間は、上下のはばがせまいから頭は入らない。しかし、腕なら十分に入ります。しかも、皆さんもおぼえていられるでしょうが、あの晩、御前は、お|誂《あつら》えむきに、首に襟巻きをまいていられた。犯人は御前の耳に口をよせ、何かささやくふりをしながら、いきなり襟巻きのはしを両手でつかんで――」
金田一耕助もさすがに|唾《つば》をのみ、
「勝負はおそらく簡単についたでしょう。玉虫の御前は、|剛《ごう》|毅《き》なかただが、なんといってもお|年《と》|齢《し》だし、それにショックで参っていられた。大きな声も立てずに絶息されたことでしょう。犯人はそれを力まかせに、むこうへ突きとばしたが、そのとき御前は椅子か何かの角でうたれて、また後頭部に大きな傷を負われたのでしょう。そして、ここに血みどろな、密室の犯罪が出来あがったというわけですね」
金田一耕助は台からおりたが、誰も口を|利《き》くものはなかった。ふたたび無気味な沈黙が、一同のうえに落ちてくる。
その沈黙を破ったのは、またしても菊江だった。
「しかし、金田一先生、あの砂鉢に血で描かれていた、火焔太鼓はどうしたんですの。犯人がこの部屋を出ていくとき、|捺《お》していったんですの。御前の見ている眼のまえで――」
それを聞くと、耕助はうれしそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「菊江さん、あなたはじつに頭がいい。ほかのひとの見落としていることでも、あなたはちゃんと|憶《おぼ》えているんですからね。それはこうです。いままでお話ししたところは、あの晩の惨劇第二幕で、そのあとにもう一幕あったわけです」
金田一耕助は部屋へ入ると、風神像を取りあげて、台座の裏を一同に示した。いうまでもなくそこには火焔太鼓が彫ってある。耕助がそれをいじると、台座の裏が五分ばかりの厚さでぽっかり外れた。
耕助は直径三寸くらいのその円盤を、|掌《てのひら》のうえでもてあそびながら、
「いうまでもなくこれはぼくが作ったもので、われわれが風神を発見したときには、ちょうどこれくらいの厚さだけ、台座の底が切り落とされていたんです。だから事件が発見されて大騒ぎになったとき、犯人はこういう円盤をポケットにしのばせて駆けつけてきたというわけです。そして、扉が打ち破られ、一同が死体のほうに気をとられているうちに、こっそり同じような品で砂のうえに、血の紋章を捺しておいた。つまりそれが惨劇の第三幕目で、ここに完全に密室の殺人が出来あがったというわけです」
耕助はいくらか得意であったが、しかし、菊江はまだ承服しなかった。
「しかし、それじゃおかしいじゃございませんか。そうして台座の底が切りはなしてあったのなら、あの砂占いのとき、なにも風神と雷神をとりかえたり、あとでそれをまた取りかえたり、そんな手数のかかることをしなくても、よさそうなものじゃありませんか。その簡単な判こを使ったほうが、よほど、便利で、手数が省けると思いますけれど――」
金田一耕助はそれを聞くと、いよいようれしそうに、がりがり、ばりばりともじゃもじゃ頭を|掻《か》きまわして、
「そ、そ、そうです。菊江さん、あああなたのおっしゃるとおりですよ。あなたはじつに賢明です」
耕助はそれからやっと落ち着いて、
「だからぼくが思うのに、あの晩の惨劇は、突発的に起こったことなんだ、犯人ははじめから、殺人を計画していたのではなかったのだ――と。犯人は最初から、御前に殺意を抱いていたのかもしれない。しかし少なくともあの晩は、それを決行するつもりはなかった。あの晩は、ただ、火焔太鼓でおどろかし、レコードで恐慌をまき起こし、さらに椿|子爵《ししゃく》らしき人物を点出することによって、より一層、このお屋敷を恐怖のどん底におとしいれる。そうして、じわじわとあるひとたちを絞めつけていく、いわば準備行動だけで、あの晩は満足するつもりだったのでしょう。ところが、いまお話ししたような順序で、思いがけなくも殺人を決行してしまった。しかも決行したあとで考えてみると、それはたいへん異様な状態のもとにおかれている。密閉された部屋のなかで血みどろな殺人が行なわれているのです。その異常さ、神秘さに気がついてた犯人は、その神秘性をより一層強調するために、あの血の|烙《らく》|印《いん》ということを思いついた。そこで犯行後じぶんの部屋へかえると、大急ぎで台座の底を切り落としたのです。そして、あなたが事件を発見して大騒ぎになったとき、切り落とされたその判こをポケットにしのばせ、何食わぬ顔をして駆けつけた。――と、そういう順序になるだろうと思います」
「わかりましたわ。金田一先生」
さすが気むずかし屋の菊江もやっとそれで納得した。
「それで密室の殺人については、何もかも説明がついたというわけなのね。そこで今度は誰が犯人かということになるんでしょうけれど、あなたはそれをご存じなのね。そして、その犯人というのはいまここにいるんでしょう」
菊江が明るく笑いながら、じぶんの周囲を見まわしたとき、さすがにひとびとは顔色をうしない、緊迫した空気が、部屋の内部を押してくるんだ。
第二十八章 火焔太鼓の出現
まったく菊江のいうとおりである。
密室の|謎《なぞ》は解けた。そして、今度はいよいよ、誰が密室の殺人を構成したか、そして、また、誰が新宮利彦と|椿《つばき》|秋《あき》|子《こ》を、つぎつぎに血祭りにあげていったのか、それを説き明かすべき段階である。それからまたいかなる動機が、そのような血なまぐさい犯行を、あえてさせたかということを。――
「ええ、そ、そ、そう――」
金田一耕助はさすがにどもった。どもったきり、しばらく黙りこんでいた。かれは菊江の明るい微笑を憎まずにはいられなかった。
耕助はこの一瞬を、出来るだけさきにのばしたかったのだ。出来ることならこの仕事から、逃げ出してしまいたいくらいである。それほど、これから試みようとする秘密の解明は、どすぐろく、陰惨で、かつ、いまわしかった。
しかし、それは許さるべきことではなく、また、常に真実をさぐりあてようとする犯罪探求者の良心と、それから、誰でも持っている、あの虚栄心という厄介なしろものが、かれを|煽《せん》|動《どう》するのである。
耕助はやっと心をきめたように、重い口をひらいた。
「ぼくはいま、ある確信を持っているのです。しかし、その確信を裏づけるために、もう一度、ある実験をしてみなけりゃならんと思っているんですが。――」
「実験というと――?」
|等々力《とどろき》警部が|眉《まゆ》をひそめた。
「ええ、そう、昨日秋子夫人を驚かしたものはなんであったか――秋子夫人はいったい何を発見したのか。――」
「しかし、それなら、昨日もやってみたじゃないか」
|蟇《がま》仙人の目賀博士が、横眼で耕助をにらみながら、せせら|嗤《わら》うようにわめいた。
「ええ、そう。しかし、昨日のやりかたは完全ではなかったんです。今日はもっと慎重にやってみたいんです。とにかく、秋子奥さまが、何を発見したかということがわかれば、犯人についてもわかると思うんです」
等々力警部は、さぐるように耕助の顔を見ながら、
「それには、もう一度、応接室へいったほうがいいというんですか」
「ええ、そう、そう出来れば――」
そこで一同はアトリエから、もう一度応接室へいくことになった。黙々とつれだっていく関係者の周囲を、刑事や警官が、羊の番犬のように取りかこんでいく。もう誰も逃げ出すことは出来なかったし、逃げ出そうとするものもなかった。
応接室のまえまで来たとき、金田一耕助は立ちどまって、ためらいがちに|美《み》|禰《ね》|子《こ》に声をかけた。
「美禰子さん」
「はあ――?」
「あなたや一彦君、それから新宮さんの奥さんは、この部屋へお入りにならないほうがいいと思うんですけれど」
「あら、どうしてでしょう」
美禰子の|瞳《め》が急に大きくなる。まるで金田一耕助を、|呑《の》みつくしそうな気色だった。
「どうしてといって――」
「いいえ、先生」
と、美禰子はキッパリとした調子で、
「あたし入りますわ。あたし、何もかも知りたいんです。|伯《お》|母《ば》さまだって、一彦さんだって同じことだと思いますわ。先生」
美禰子は急にやさしくいって、金田一耕助の腕に手をかけた。
「先生、先生のお気持ちはよくわかります。あたしたちにいやなことを聞かせたくないとおっしゃるんでしょう。でも、あたし覚悟をきめております。一彦さんだって、伯母さまだって、同じことだと思うんです」
それでも金田一耕助が何かいおうとするのを、美禰子はいそいでさえぎって、
「それに、先生、あたしには知る権利があるとお思いになりません? だって、あたし依頼人よ。こんなこと申し上げては失礼ですけれど、先生をお雇いしたのはあたしなのよ。まだ一文もお礼、差し上げてませんけれど」
それから美禰子は一彦と華子を振り返った。
「さあ、伯母さま、一彦さん、入りましょう」
金田一耕助は首うなだれて、一同のあとから入っていった。
こういう|小《こ》|競《ぜ》り合いがあったので、耕助が入っていったのはいちばん最後だった。応接室のなかには、羊の群を取りまいて、番犬どもがいかめしく眼を光らせてしゃちこばっている。
耕助は一同の顔を見まわしたのち、ちょっと困ったように|眉《まゆ》をひそめ、それから警部のそばへよって何やら耳うちした。警部は眉をつりあげて、
「しかし、もし――」
「大丈夫です。ドアの外や、窓の下を見張っていてくだされば。――」
等々力警部が刑事や警官をあつめて、何やら指令をあたえると、一同はすぐ部屋から出ていった。金田一耕助はそのなかのひとりをつかまえて、何か低声で話をしていたが、
「あの、新宮さんの奥さん、ちょっと――」
|華《はな》|子《こ》が呼ばれてそばへいくと、三人で何やら話していたが、やがて刑事は出ていき、間もなく持ってきたのは、銀盆にのっけたウィスキーの角瓶と数個のグラスだった。
耕助はそれを受け取ると、刑事を部屋から押し出すようにして、なかからぴったりドアをしめた。それから銀盆を持ったまま、一同のほうを振り返ると、
「さあ、これで、われわれだけになりました。このドアはずいぶん厚いから、ここで話をすることは、たぶん外へは|洩《も》れないでしょう」
まるで|咽《の》|喉《ど》に魚の骨でも、ひっかかっているような声である。
「金田一さん、いったい、何をやらかそうというんだね。われわれにいっぱい振舞ってくれるというのかい」
目賀博士がどくどくしくわめいた。
「そうですよ、目賀先生、あなたにはぜひ飲んでいただかねばなりません。つまり、ぼくは、昨日秋子奥さまが、悪魔を発見したときと、同じ状態にみなさんをおきたいんです」
金田一耕助は銀盆を中央のテーブルのうえにおくと、グラスにウィスキーをついだ。
「さあ、どうぞ」
「じゃ、わしから頂戴するかな」
目賀博士はふてくされた様子で、グラスを|鷲《わし》づかみにすると、
「一彦君、三島君、遠慮なく飲むがいい。ひょっとすると、それが|末《まつ》|期《ご》の水のかわりになるのかも知れないぜ」
一彦はちょっとなめただけで、すぐにグラスを下においたが、東太郎は勢いよく一息にあおった。それから目賀博士のほうにむかって、
「先生、昨日、ぼくは何杯ぐらい飲んだでしょうね」
と、にこにこしながら|訊《たず》ねた。
「そうさね。五、六杯は飲んだろうよ。君の強いのには驚いた」
「そうですか。それでは――」
東太郎は無造作にウィスキーをつぐと、たてつづけに五、六杯あおった。たちまち|頬《ほお》に血の色がまし、額にじっとり汗がうかんでくる。
「そう、ちょうどこれくらいの酔いかたでしたよ。昨日、あのことが起こったときには――」
一同は驚きと、たぶんに|怖《おそ》れのまじった眼で、東太郎の顔を|視《み》つめている。目賀博士でさえ、グラスを握った手がふるえ、東太郎の顔を穴のあくほど視つめている。
「ああ、いや」
と、金田一耕助はあいかわらず、咽喉に何かひっかかったような声で、
「さあ、これで準備が出来ました。それではみなさん、あのときの位置についてください。あ、目賀先生、あなたはあのとき、上半身裸体ではなかったんですか」
目賀博士はぎろりと耕助の顔をにらむと、それでも上衣とシャツを脱ぎ捨てて、鏡のはまった|衝《つい》|立《たて》のまえまでいってこちらをむいて立った。
一彦はちょっとためらったのち、それでも上衣だけぬいだ。三島東太郎は窓のそばへいき、こちらをむいて立つと、無造作に上半身裸になった。
金田一耕助はちょっと眼を閉じ、すすり泣くような|溜《た》め息を吐いた。
「金田一さん、それで――?」
警部や女たちの物問いたげな視線に、射すくめられて、耕助はしばらく、部屋の中央に立っていたが、やがて力なく、昨日秋子が|坐《すわ》っていたというソファへいって、投げ出すように腰をおろした。
金田一耕助はそこでまた、ちょっと眼を閉じ、|呼《い》|吸《き》を吸ったが、すぐにその眼を開くと、目賀博士の背後にある衝立の鏡をのぞきこみながら、二、三度体の位置をなおした。
耕助の唇から、また、長い、すすり泣くような溜め息がもれる。
「警部さん、ここへきて、あの鏡のなかをごらんなさい。三島君のうしろの窓ガラスにうつっているものが、そのまま、鏡にうつっている。秋子奥さまはそれをごらんになって――」
「いや、もう、それには及びませんよ。金田一先生」
呼びかけられた、かんじんの金田一耕助をのぞいて、ほかのひとびとはいっせいに、声の主のほうを振り返った。
いうまでもなくそれは三島東太郎だった。不思議にもそのときの東太郎の顔色は、いうばかりもなく晴々として朗かだった。まるでこれから、ピクニックにでも出掛けそうなほど、陽気で明るかった。
「ひとりひとりそこへいって、鏡をのぞくのはたいへんだ。それよりぼくがみなさんに、直接お眼にかけたほうがよさそうです」
東太郎はつかつかと部屋の中央まで出てくると、くるりとそこで背をむけたが、そのとたん、一同は恐ろしい|呪《じゅ》|縛《ばく》にかかってしまった。
警部は笛のような声を立ててうなり、およそものに動ぜぬ目賀博士でさえ、いまにも飛び出しそうなほど眼をみはり、みるみるうちに額に汗が吹き出してきた。
じっとりと汗ばんだ東太郎の左の肩に、くっきりとうかびあがっているのはまぎれもなく火焔太鼓、新宮利彦の肩にあったのと、そっくり同じかたちの|痣《あざ》だった。
一同はまるでものに|憑《つ》かれたような眼つきをして、そのまがまがしい痣を|視《み》つめている。華子と一彦は紙のように白くなり、菊江はぽかんと眼をみはり、お|信《し》|乃《の》の顔は邪悪にみちて|歪《ゆが》んでいた。ただ、|美《み》|禰《ね》|子《こ》だけがなんだか|腑《ふ》に落ちかねる顔色である。
しばらくして東太郎はふりかえった。さすがに顔は|蒼《あお》ざめて|強《こわ》|張《ば》っている。その強張った顔に|強《し》いて微笑をつくろいながら、
「みなさん、おわかりですか。椿|子爵《ししゃく》が手帳のなかに、悪魔の紋章と書きしるしておいたのは、ぼくのこの痣のことだったんです。ぼくはこの痣を証拠に、椿子爵に名のり出たんですから」
「それじゃ、あなたは――」
華子が何かいいかけたが、その言葉は終わりまで発音されずに、口のなかでふるえて消えた。
東太郎はあいかわらず強張った微笑をうかべたまま、
「ええ、そうですよ、奥さん、ぼくはあなたの|旦《だん》|那《な》さんのおとし子なんです。一彦君、ぼくは君の異母兄なんだぜ」
一彦は屈辱のために|赧《あか》くなり、きゅっと体をかたくした。
「そして、君はじぶんの父を殺したんだね」
警部の口調はきびしかったが、東太郎はこともなげに、
「そうですよ、警部さん、あっ、ちょっと待ってください。ひとを呼ぶのは待ってください。それじゃ、金田一先生の志が無になる。ぼくはもう覚悟をきめているんだ。悪あがきはしやあしないから安心してください」
金田一耕助も警部がひとを呼ぶのをとめた。そして、みずからドアのそばへいくと、そこに立ちはだかった。それは東太郎の逃亡をさまたげるよりも、外からひとが入ってくるのを警戒するためであった。
「そんなことなら、そんなことなら、もっとはやくいってくださればよかったのに――あたしだって、出来るだけのことはしてあげたのに――」
華子がうめいてすすり泣いた。このとき、はじめて東太郎はふてぶてしい微笑をうかべて、
「有難う、奥さん。しかし、あんたは何も御存じないのです。あいつは……あなたの旦那さんだった男は、人間じゃなかったんです。あいつは畜生だった。けだものだった。あいつはもう、このうえもない恥知らずの動物だったんだ。人面獣心とはあいつのことだ」
東太郎のおもてには、そのとき、たとえようもないほどのはげしい憎悪がもえあがった。しかし、すぐがっくりと肩を落とすと、
「あっはっは」
と、|咽《の》|喉《ど》のおくでかすかに笑って、
「金田一先生、ウィスキー、飲んでもいいでしょう」
といいながら、じぶんで勝手についで飲んだ。
美禰子はいったんの驚きからさめると、さっきから、冷めたい眼をして東太郎の挙動を視つめていたが、そのとき急に、きびしい声で|詰《なじ》るようにいった。
「三島さん、あなたが|伯《お》|父《じ》さまのことを、なんとおっしゃろうとも構いません。あたしもあなたの意見に賛成です。しかし、それだからって、あなたはなぜ、あたしのお母さまを殺したんです。あの罪もない、可哀そうなお母さまを……」
そのとき急に金田一耕助が走ってきて、うしろから美禰子の肩に手をおいて
「三島君!」
と、何か注意をするように鋭い声をかけた。
東太郎と耕助はきびしい眼をして、しばらく|睨《にら》みあっていた。等々力警部は顔をそむける。
「先生、許してください」
しばらくして、東太郎が弱々しい声でつぶやいた。
「しかしこの|娘《こ》は、なにもかも知りたがっている。それに……それに、ぼくもいっぺんこの娘を妹と呼びたいんだ」
「妹……?」
美禰子はつぶらの眼を見張る。
「そうだよ、美禰子、おれはな、新宮利彦がじぶんの妹、即ちおまえのお母さんを犯して産ませた子供なんだ」
第二十九章 悪魔の記録
私。――三島東太郎という偽名のもとに、昨年より|椿家《つばきけ》に同居している本名河村治雄は、万一の場合、他に迷惑をおよぼすことをおそれて、ここに告白状をしたためておくことにする。
万事は終わった。
私は|大《おお》|伯《お》|父《じ》を殺し、父を殺し、母を殺害する準備を完了した。母はまだ死んではいないけれど、私の計画にして、失敗するようなことはよもやあるまい。だから母がすでに死せるものとして、私がここに、この告白状をしたためておくということは、必ずしも早すぎはしないだろう。
私は大伯父と父を、もえるような憎悪と|復讐《ふくしゅう》心をもって殺害した。かれらを殺したあとには、なんの悔恨ものこらなかった。むしろ成すべきことを成しとげたのちに、誰でも感ずるような、サバサバとした、痛快味さえおぼえたのである。
それにもかかわらず、母を殺害する準備を完了したいま、心のなかを吹きすさぶ、このやりきれない荒涼たる|嵐《あらし》は、いったい、どうしたというのであろう。私は大伯父を|怨《うら》み、父を憎むと同様に、母をも憎んでこの家へやって来たのだが……。
ひょっとすると、私は母を殺害するあの計画が、失敗に帰することを祈って、この告白状を書こうとしているのではないだろうか。即ちこの告白状が誰かに発見されることによって、母の殺害計画が、未然に防止されることを祈っているのではあるまいか。
いやいや、そうあってはならぬ。
母はやはり死ななければならないのだ。あのような母を生かしておくことは、母にとっても、|美《み》|禰《ね》|子《こ》にとっても幸福ではない。
おお、美禰子、けなげな美禰子よ。
そうだ。私はこの告白を美禰子にあてて書くことにしよう。このような恐ろしい事実を知るということは、美禰子のような少女にとっては、救いがたい打撃となろう。しかし、美禰子よ、おまえはそれに耐えていかねばならないし、また、おまえならばきっと耐えていけるだろう。
さて、私のこの恐ろしい、血みどろな犯罪行為の告白をするまえに、私はまず自分の生い立ちから述べていかねばなるまい。
私は神戸市|須《す》|磨《ま》|寺《でら》の植木職、植辰こと、河村辰五郎の長男としてそだてられた。戸籍を見ても、辰五郎とその妻はるのあいだに出来た子として入籍されている。
しかし、私は物心ついたころから、いつ、誰に聞いたともなく、じぶんが河村辰五郎の実子でないことを知っていた。どこからか|貰《もら》われてきた里子であるということを、いつ、どうして知ったのか|憶《おぼ》えていないけれど、知っていた。
私がもの心ついたころには、戸籍上の私の母はるはすでに死亡していて、辰五郎は植木職もやめ、わかい|妾《めかけ》とともに、神戸の板宿というところに住んでいた。
この妾というのは、その後、辰五郎が何度もとりかえた妾のうちの初期の女で、名前はたしかお勝といったと思うが、ひょっとすると、そのことを私に教えてくれたのは、このお勝という女だったかも知れぬ。
しかし、そのお勝も、数多い辰五郎の後の妾も、私のほんとうの出生について知るものはなかったらしく、昭和二十一年夏、軍隊から復員してくるまで、私はじぶんの素性について、全然知るところはなかった。
むろん、辰五郎は知っていた。私はいくどか辰五郎にむかって、自分の両親について教えてくれるようにと懇願した。そんな場合、辰五郎はいつも、にやにやとへんな笑いかたをして、(ああ、いまこそ、あのいやなにやにや笑いの意味がわかるのだ)
「おまえは、そんなことを知らないほうがいいのだ」
と、いった。またあるときは、
「それがわかると、おまえはとても生きていられまい。おれの子として籍に入っていることを有難く思え」
と、いうような意味のことばをいったりした。
それでもなおかつ、私がしつこく追究すると、辰五郎は怒ってものを投げつけた。その権幕があまり恐ろしかったので、私はかれから自分の素性を聞き出すことを、断念しなければならなかった。
むろん、辰五郎と私のあいだには、親子としての愛情などみじんもなかった。と、いって、かくべつ仲が悪いというのでもなく、しじゅういがみあっていたというわけでもなかったけれど。
高等小学校を出るとすぐ、私は辰五郎の家を出て、神戸の商家に奉公にいった。これは辰五郎の希望であると同時に、私の希望でもあった。つぎからつぎへと妾をかえる、ばくち打ちの養父のもとに、私はいたくなかったのだ。辰五郎としても、私が成人するにつれて、煙たくなってきたのだろう。
私は神戸の奉公さきから夜学に通って勉強した。そして、十九のとしにそこを出て、海岸通りの商事会社へ勤務することになった。それはドイツ系の商事会社で、私はそこで、タイプライターをおぼえたのである。
そのころ私のいちばんの楽しみというのは、おこま母娘の住居を訪問することだった。当時おこまは|湊川《みなとがわ》新開地にちかい裏長屋で、娘の|小《さ》|夜《よ》|子《こ》とふたりきりで住んでいた。おこまの亭主の源助というのを私がよく憶えていないところを見ると、それよりよほどまえに死亡していたと見える。おこまはいつも家で賃仕事のようなことをしており、娘の小夜子は新開地の映画館で、女給のようなことをしていた。
おこまと私は戸籍上では姉弟ということになっている。しかし、事実はそうではなくふたりのあいだに、なんの血のつながりもないことは、おこまも小夜子もよく知っていた。しかし、そのころにはおこまはまだ、私のほんとうの素性は知らなかったのである。
おこまがそれを知ったのは、つぎのようなきっかけからであった。
まえにもいったとおり、おこま母娘を訪問することは、当時の私の|唯《ゆい》|一《いつ》の楽しみだった。幼いときから家庭の温か味というものを知らぬ私は、おこまの家ではじめて、それに似たものを味わうことが出来たのだ。おこまも小夜子も私の境涯をふびんがって、私が訪ねていくと、いつも温かくもてなしてくれた。
それは私が二十の年の、しかも真夏のことだった。私の勤めている商事会社に祝いごとがあって酒が出た。当時はまだ酒を飲まぬ私だったが、みんなに寄ってたかって、強い洋酒を飲まされて、すっかり酔っ払ったあげく私はおこまの家を訪れた。
真夏の暑さのうえに酒の酔いも手つだって、私はすっかり汗になっていた。それを見ておこまと小夜子が、縁先にたらいを持ち出して、行水を立ててくれた。私はよろこんで行水を使ったが、そのときである。小夜子が|頓狂《とんきょう》な声をあげてさけんだのは……。
「あら、治雄さんの背中には妙な|痣《あざ》があるのね!」
この痣のことについては私もまえから知っていた。その痣はふだん皮膚の裏面に沈潜していて、ほとんどわからないのだけれど、入浴したり、ひどく汗をかいたりすると、鮮かに肌の表面にうきあがってくるのである。
しかし、それから間もなく行水を終わって、座敷へかえってきたときの、おこまのあの顔色の悪さが、私の痣に関係があろうなどと、どうしてそのとき知ることが出来よう。
しかし、おこまは知っていたのだ。じぶんを犯して、小夜子という娘をうませた男の背中に、私とそっくり同じ痣があったことを。そして、そのことからして、私の素性に疑いを持ちはじめたおこまは、ある日、板宿に辰五郎を訪れ、さんざん父を詰問した結果、はじめて私の出生を知ったのだった。
当然、おこまは私を避けはじめた。ことに私と小夜子の感情が、しだいに熱していくのに気がつくと、いよいよ私をおそれ、つめたくなり、うとんじはじめた。
そのことについて私はおこまを誤解し、おこまに対してはげしい怒りをおぼえたのだ。
おこまは私がどこの馬の骨とも牛の骨ともわからぬ人間だから、小夜子の婿として不服なのだ。しかし、そういう小夜子だって、誰の子だかわからぬというではないか……。
事実、私はそういう言葉を使っておこまを|面《めん》|罵《ば》したことがある。ああ、あのときおこまが、真相のほんのはしくれでも打ち明けてくれたら!
しかし、やがて、おこまがいかに小夜子と私を遠ざけようとしても、どうにもならぬ場合がやってきた。小夜子は川崎造船所へ徴用女工としてとられ、しかも、おこまは強制疎開で、家をたたんで、ひとり立ち去らなければならなくなったのだ。
それが、昭和十九年の春のことで、それ以来、私は以前よりかえって自由に、小夜子にあうことが出来、そして、ついに夫婦の交わりを結ぶにいたったのであった。
私は誓う。断言する、私がどんなに小夜子を愛していたかを。そしてまた、小夜子もどんなに私を愛していたことか。
小夜子も私も同じような境遇だったのだ。彼女も自分の父を知らなかった。そのことが彼女の美しさに、奥ゆきのある陰影をそえ、どんなにはしゃいでいるときでも、いつも、どこか憂わしげな影をやどしていた。それがこのうえもなく私の心をとらえ、同じようなことが彼女にもいえるのだった。
私たちが最後の一線をふみこえたのも、遠からず兵隊にとられるであろう自分というものの印象を、小夜子の肉体のうえに、強烈に植えつけておきたかったのだし、小夜子もまたそれを望んだのであった。
果たして間もなく、私は兵隊にとられていくことになったが、そのとき私たちは、もし私が生きてかえってきたらきっと結婚しようと誓いあったのだ。
戦争のことについてはいうまい。それは私の告白となんの関係もないことだから。
昭和二十一年五月。私は無事に復員してきた。私がなによりもさきに知りたかったのは、いうまでもなく小夜子の安否だった。
私は八方手をつくして彼女のゆくえを求めたあげく、とうとう養父辰五郎のさいごの|妾《めかけ》であったおたまの居所をつきとめ、そこで小夜子の消息をはじめて知ったが、ああ、そのときの私の驚き、悲しみ……そして、その驚きと悲しみは、やがて変じて、いうばかりもない絶望と怒りとなった。
小夜子は私が出征すると間もなく自殺しているのだ。しかも、そのとき彼女は妊娠していたとすれば、それはいうまでもなく私の子供である。私の子供を宿しながら、小夜子はなぜ自殺しなければならなかったのか。
おたまもその理由は知らなかった。おこまに聞けばわかるだろうと、尼になって淡路にいる、おこまの居所を教えてくれた。私はむろん、おこまを訪ねて淡路へ渡った。
突然訪れた私の姿を見たときの、おこまの驚きと|怖《おそ》れは、非常なものだった。そして、そのことが一層私を憤激させたのだ。
おこまは私の権幕のすさまじさに、すべての秘密を打ちあけずにはいられなかった。
あの、ほの暗い淡路の|田舎《いなか》の|庵《あん》|室《しつ》で、尼姿のおこまの口から、世にも|忌《いま》わしい秘密を打ち明けられたせつな、私は人間を失格した。悪魔に魂を売りわたしたのである。
おこまの告白を、ここに簡単に書きしるしておこう。
大正十二年の夏、おこまは月見山にある玉虫|伯爵《はくしゃく》の別荘へ、臨時の小間使いとして雇われていった。その別荘には伯爵の|甥《おい》と|姪《めい》にあたる新宮利彦とその妹|秋《あき》|子《こ》の兄妹がきていた。
ある日、おこまは利彦と秋子の、世にあるべくもない場面をかいま見たのである。しかも、その同じ夜、おこまは利彦に犯された。利彦のつもりではそれによって、おこまの口を封じようとしたものらしい。
利彦と秋子は夏の終わるのを待たずに東京へ去ったが、それから間もなくおこまは自分が妊娠していることに気がついた。父に責め問われるままに、おこまははじめて相手が新宮利彦であることを打ち明けた。
むろん、それを聞いて黙っているような辰五郎ではない。辰五郎はすぐに東京へ出向いていって、玉虫伯爵に談じこみ、多額の金をまきあげてきた。そしてそれから間もなく、おこまは子供を身ごもったまま、父の弟子の源助のもとへ嫁にやられたのである。
したがって、おこまは私が辰五郎のもとへ引きとられた前後の事情はよく知らなかったという。ましてや、私が誰の子であるかなどとは考えてもみなかったそうだ。
それに気がついたのは、まえにもいったあの行水の一件のときだった。おこまはその昔、月見山の別荘で二、三度利彦の背中を流したことがあるので、そこに奇妙な|痣《あざ》のあることを知っていた。それと同じ形の痣を私の背中に発見したときのおこまの驚き――
おこまはつぎの日、辰五郎を訪れ、詰問したあげく、はじめて私の出生の秘密を知ったのだ。
大正十三年六月、新宮秋子は月見山の別荘で、ひそかに男子を|分《ぶん》|娩《べん》した。その子は玉虫伯爵の計らいで、うまれ落ちるとすぐ辰五郎の手にわたされた。その子の父については、伯爵も付き添いの|信《し》|乃《の》も、一言も語らなかったけれど、娘の口から利彦と秋子のあるまじき行為を聞いていた辰五郎には、それが誰の子であるか察することが出来たのである。
しかし、かれはそのことを誰にも――、妻のはるにすら語らなかった。|何《な》|故《ぜ》ならばそのときすでに、この秘密をもって生涯の|金《かね》|蔓《づる》にしようと決心していたかれは、秘密の露見することは、取りも直さず、金蔓を失うことであることを知っていたのだ。かれがあのようにかたく秘密を守りとおしたのは、利彦や秋子の名誉のためばかりではなく、自分の|貪《どん》|欲《よく》のためだった。
しかし、この事実を知ったおこまの驚きはどんなだったろう。兄と妹のあいだにうまれた男子が、いままた腹こそちがえ、同じ父を父としてうまれた妹と通じようとしている。
いや、おこまのさまざまな苦心のかいもなく、事実、二代にわたって、世にも浅ましいあやまちが繰りかえされたのだ。そして、その結果をやどした小夜子は、母からその浅ましい事実を聞かされると、もはや生きていることは出来なかったのだ。おお、可哀そうな小夜子!
あのほの暗い淡路の庵室で、おこまの口から以上のような事実を聞かされたせつな、私は気が狂った。まえにも述べたように悪魔になったのだ。悪魔に魂を売りわたしたのだ。そして、小夜子のためにも自分のためにも、かたく|復讐《ふくしゅう》を誓ったのだ。私は思う。よくあのとき、怒りのあまりおこまをひねり殺さなかったものだと。あのときにおこまを殺していたら、のちになって、あのような手数をかけずにすんだのに。
それはさておき、ひと晩おこまの|庵《いおり》に泊まった私は、翌朝淡路を立ってまっすぐに東京へやってきた。そして、ヤミ屋の手先のようなことをやりながら、新宮利彦や玉虫伯爵の動静をうかがっているうちに、識り合ったのが飯尾豊三郎という男であった。
ここに飯尾豊三郎という男について簡単にのべておこう。こいつは、まるで道徳的に不感症のような男であった。この男にははじめから善と悪との区別がないのだ。それでは、特別に強烈な悪の意志でも持っているかというと、そうでもなかった。|風《ふう》|貌《ぼう》は穏和で、性格にもどこか眠り男のような頼りないところがあった。天銀堂事件のような大それた犯罪をやらかしながら、その反響が大き過ぎると自分で|呆《あき》れているような男である。
それはさておき、こうしてヤミ屋の手先をやりながら、調べあげた新宮利彦と妹の秋子、さては玉虫伯爵の動静というのが、なんと、私の目的にとってはお|誂《あつら》え向きに出来ていたではないか。かれらはいま全部、同じ邸内に住んでいるのである。
それがわかると私はすぐに椿|子爵《ししゃく》に会いにきた。あのとき私が|何《な》|故《ぜ》椿子爵をえらんだのかよくわからない。その時分には椿子爵の性格を知っていたわけではないから、事がこんなにうまく運ぼうなどとは知ろうはずはなかったのだ。ただ私としては正面からのあまりの早急な攻撃は避け、側面からじわりじわりと攻めつけてやろうという考えだったので、それには私の出生に関する限り無関係で、しかも、私の母といまもっとも密接な関係にある椿子爵こそ、格好の人物として選ばれたのだろう。
私はこの家の応接室で椿子爵に面会したのだが、そのときまず一驚したのは、子爵が飯尾豊三郎にたいへんよく似ていることだった。
むろんふたりを並べてみたら、見わけをつけることは困難ではなかったろう。しかし、べつべつに見ると、顔かたちから眼鼻立ち、さらにどこか疲れて、放心したような印象が、非常によく似ているのである。しかし、そのときには私はまだ、このことを利用してやろうなどとは夢にも思わなかった。
名前を秘していたので、子爵もはじめは、たいへん|怪《け》|訝《げん》そうであった。しかし、ひとたび、私の口から素性が語られ、背中にある|痣《あざ》(私はそのときあらかじめ酒を飲んでいったのだ)を見せられたときの子爵の驚き! 恐らく意識しているといないとにかかわらず、自殺ということが子爵の|脳《のう》|裡《り》にひらめいたのは、その瞬間だったろう。それほど、そのとき子爵のおもてをかすめた、絶望的な嫌悪の色は深刻だったのだ。
さて、私はまず最初の一撃で、相手を打ちのめしておいて、それからおもむろに自分の身のうえを語って聞かせた。自分の身のうえのみならず、小夜子の身のうえも語って聞かせた。そして小夜子と私がどういう関係を結ぶにいたったか、その結果小夜子がどうなったかというだんになると、子爵は文字どおり|真《ま》っ|蒼《さお》になり、いまにも気を失うのではないかと思われるほどだった。
ただ、そのとき私が不思議に思ったのは、私の語るこの世にも|忌《いま》わしい話に対して、子爵が一度も|反《はん》|駁《ばく》を加えて来なかったことだ。子爵はいくどか耳をおおいたそうな素振りをしたが、一度も「|嘘《うそ》だ!」とも「そんな馬鹿な!」ともいわなかった。おそらくあの妻と、あの兄なら、それくらいのことはあったかも知れぬと納得したのだろう。
さて、私の話が終わったあとで、子爵は絶望的な光を眼にうかべてこういった。
「それで君はどうしてほしいというのだ」
それに対して私はこの家においてほしいといった。子爵の眼にうかんだ絶望的な光は恐怖に変じた。この家にいてどうしようというのだと反問した。
「べつに、どうしようという考えはありません。しかし、私にはいまいるところがないのですから、げんざいじぶんの両親が、住んでいるところにおいてほしいというのは、当然の要求だろうと思います」
子爵の眼にうかんだ恐怖の色は、もはやのっぴきならぬものになっていた。
「そして……そして、私がそれを拒絶したら……」
ああ、気の毒な子爵よ。子爵の額にはそのときいっぱい汗がうかんでいた。恐怖のために体がねじきれるようであった。それに対して、私は冷然とせせら|嗤《わら》った。
「さあ、そのときのことは私もまだよく考えておりませんが、ひとつ新聞社へでもいきますかな。新聞によっては、こういう話をよろこんで、買ってくれるところがあるそうですから……」
この一言が完全に、子爵の息の根をとめたのである。
結局、私は書生として、|椿邸《つばきてい》に同居することになった、その代わり、子爵の眼のくろいあいだは、絶対にこの秘密を他にもらさないこと。また、絶対に三人に手出しをしないことを誓わされた。そして、私はその約束を厳重に守ってきたではないか。
私に三島東太郎という名前をあたえたのは、むろん子爵であった。私の言葉に上方|訛《なま》りがあるところから、岡山で死んだ旧友の息子の名前を名乗らせたのだ。
さて、それ以来の子爵の|懊《おう》|悩《のう》は、はたの見る眼も気の毒なくらいであった。
潔癖な子爵はそういう妻や義兄と、同じ屋根の下に住むさえ、|虫《むし》|酸《ず》の走るような嫌悪感をおぼえるらしかった。しかもふたりの罪の児が眼前で、えへらえへら笑っているのだ。小心で気の弱い子爵が、しだいに、生きているのに耐えられぬ想いを抱きはじめたのも無理はなかろう。
子爵があの「悪魔が来りて笛を吹く」の作曲を思い立ったのは、たぶんそのころのことだと思う。この作曲を思い立ったということからして、そのときすでに子爵が死を決意していたことがうかがわれる。|何《な》|故《ぜ》ならば、この曲のなかで子爵は、悪魔とはなにびとであるかということを、|明瞭《めいりょう》に示しているのだから。
さて、今年の一月十四日から十七日へかけて、椿子爵は運命的な旅行をした。私にはむろん、子爵の行き先はよくわかっていた。何故といってそのまえに、妙海尼となっている、おこまの住所を、あらためて子爵に|訊《き》かれたのだから、子爵は|煩《はん》|悶《もん》懊悩のあげく、一応私の話をたしかめておこうと決意したのだろう。
皮肉にもこの子爵の留守中に天銀堂の事件が起こった。
私もはじめはこの事件が、飯尾豊三郎のしわざだなどとは夢にも思わなかった。しかし、一次、二次とモンタージュ写真が修正されていくにつれて、この事件の犯人を、飯尾豊三郎だとかたく信じた。
果たして二月のなかごろになって、飯尾がひっぱられたという記事を新聞で読んだ。ところが、そのときになって私はふと、残忍な|悪《いた》|戯《ずら》を起こしたのだ。
即ち、椿子爵を天銀堂事件の犯人として密告したのである。
私が何故そんなことをしたのか自分でもわからない。それは必ずしも飯尾豊三郎を救うためではなかった。飯尾とはその後接触をたっていて、げんざいの居所さえ|報《し》らせてなかったくらいだから。
それにもかかわらず、私がそんなお節介をしたというのは、私の体内に、父、新宮利彦からうけついだ、卑劣で残忍な血が流れているからであろうとしか思えない。
私はこの家へ来てから、新宮利彦という人物を、つぶさに観察することを怠らなかったが、かれの持っているいろいろさまざまな悪い性質のなかでも、特に顕著なのは卑劣な残忍さということである。
新宮利彦のもっとも好むところは、弱いものいじめであった。かれはことのほか犬をおそれた。犬がいると数十メートル手前から道を避けた。しかし、ひとたびその犬が鎖につながれていると、それをいじめずにはいられないのである。
私はいちど新宮利彦が、鎖につながれた犬を、なぶりものにしているところを目撃したことがあるが、それはなんともいいようのないほど残忍で|執《しつ》|拗《よう》なものだった。それほど犬好きでない人物でも、そのときの利彦と犬の様子を見れば、鎖が切れて、犬がひと思いに利彦を|咬《か》み殺してしまえばいいと思わずにはいられなかったろう。
当時の椿子爵は私にとって、家名という鎖につながれた犬も同様だった。私がどんなことをしても、咬みつくことは出来ないのだ。子爵はむろん密告者が私であることを知っていたろう。しかし、子爵は口に出してそれをいうことは出来なかった。私は子爵にとって、オールマイティーの切り札を持っていたのだ。
さて、子爵はさんざん窮地に立ったあげく、やっとアリバイを申し立てて釈放された。だが、それと同時に、いや、それ以前に飯尾豊三郎も釈放されていたのだ。
私は子爵の|失《しっ》|踪《そう》後間もなく、ひそかに、飯尾豊三郎を訪れたのだった。
飯尾豊三郎は当時、新橋付近の焼け跡にある、バタヤ部落の掘立小屋の|聚落《しゅうらく》のなかにただひとりで住んでいた。
そういうところに住んでいながら、かれはいつも身だしなみよく、上品に取りすましているうえに、わりに金回りがよく、また金放れも悪くないので、部落の連中から先生と呼ばれて、一目おかれていた。
部落の連中はかれの財源がどこにあるのか、いぶかっていたようだが、以前二、三度かれと交渉を持ったことのある私には、かれの資産がなんであるかよく知っていた。それはすぐれた|風《ふう》|采《さい》と、物に動ぜぬ態度とにあったのだ。何しろはじめから善悪の区別のない男だから、およそ物に動じるということがない。かれは平気で|嘘《うそ》がつけたし、ひとをペテンにかけることなど、|屁《へ》とも思わぬ男であった。
そういう飯尾豊三郎でも、私が訪ねていったときには、いくらか|狼《ろう》|狽《ばい》気味だったようだ。私があのいまわしい嫌疑からのがれたことに対して祝辞をのべると、かれはただ薄ら笑いをうかべただけだが、それでも私を|視《み》る眼には、明らかに不安の色が宿っていた。私はそれだけで満足して、その日は別れた。
後日、かれが告白したところによると、私だけははじめからかれの苦手だったそうだ。かれの話すところによると、私の体からは黒い|陽《かげ》|炎《ろう》のような|妖《よう》|気《き》が立ちのぼっていて、それがかれをおそれさすと同時に、|惹《ひ》きつけもしたらしい。飯尾は私が訪ねていったとき、ああもう駄目だと観念したという。
それはさておき、飯尾に泥を吐かせるのは、それほどむずかしいことではなかった。と、いうのは、私は飯尾の妙な性癖を知っていたからだ。かれはなんでも大切なものを手に入れると、いちじどこかへ埋めてかくすくせがある。ちょうどビスケットにありついた仔犬が、いちじゴミ|溜《た》めの付近だの、枯れ草のなかだのにかくしておくように。しかも飯尾のかくし場所というのが、増上寺境内にあるらしいということまで、私はまえから知っていた。
天銀堂から|掠奪《りゃくだつ》してきた貴金属類を、飯尾はどのように処分したか。いかに道徳的不感症とはいえ、あのような大騒ぎをひき起こした以上、そうやすやすと|贓《ぞう》|品《ひん》のしまつが出来るはずがない。飯尾はあの貴金属類を、まだ増上寺境内のどこかに埋めているのではないか。……
そこで私は増上寺を、ひそかに見張っていることにきめたのだが、その見張りはそれほど長く続ける必要はなかった。私が訪ねていってから三日目の夕方、飯尾はのこのこ増上寺へやってきた。私の来訪によって動揺した飯尾は、一度埋めた場所に不安をおぼえて、ほかへうつすつもりだったらしいのだが、そこを私に押えられたのだ。
贓品を手にしているところをつかまっては、いかに飯尾のような|狡《こう》|猾《かつ》な男でも、誤魔化すわけにはいかなかった。案外すらすらと犯行を自認した。私はかれから贓品をまきあげるかわりに、月々いくらかの仕送りをしてやることにして、かれを掌中におさめたのだ。
その時分、私は飯尾をどうしようという、はっきりした目的を持っていたわけではない。しかし、とにかく椿子爵に|酷《こく》|似《じ》した人物の死命を制しておくということは、今後なにかにつけて、好都合だろうくらいに考えていたのだ。こうして私は一方においては椿子爵を、他方においては飯尾豊三郎をと、相似ふたりの人物を、完全に掌中におさめることが出来たのだ。
椿子爵が|失《しっ》|踪《そう》したのは、たしかその前後であった。私はすぐにそれを自殺行であろうと思ったが、そのとき、私がもっとも恐れたのは、自殺の直前、私のことをなんらかの形で、書きのこしておきはしなかったかということだった。さいわい、この家には遺書はなかったけれど、身につけているのではないかというおそれがあった。だから、子爵の死体が発見されると、私はみずから進んで、新宮利彦や、|美《み》|禰《ね》|子《こ》や一彦と同行したのだ。
しかし、さいわい子爵の身辺にも、遺書らしいものは発見されなかった。ただひとつ、ポケット日記に書かれた、あの|火《か》|焔《えん》|太《だい》|鼓《こ》のかたちと、悪魔の紋章という文字が、子爵に出来た精一杯の意志表示だったのだろう。内気で、潔癖で、ひかえめな椿子爵には、あのようないまわしい事実を、口にするのはもとより、筆に書くさえ|憚《はばか》られたのにちがいない。
私の頭脳に漠然とした計画がまとまりはじめたのは、おそらくこの頃からだろう。椿子爵のこの自殺と、飯尾豊三郎の相似とを、なんらかの形で利用出来ないか。……だから、|霧《きり》|ケ《が》|峰《みね》からかえってきて、|秋《あき》|子《こ》夫人即ち母から様子をきかれたとき、私はその死体を椿子爵のようでもあるし、また、違っていたようでもあると、しごく含みのある返事をしておいた。
美禰子よ。
おまえも知っているとおり、おまえの母というひとは、とても暗示にかかりやすいひとなのだ。そうでなくとも子爵の|失《しっ》|踪《そう》を、別の意味にとってひどく恐れていた秋子夫人は、まんまと私の暗示にかかってしまった。なおそのうえに、その後も機会あるごとに、私が椿子爵の生存をほのめかすものだから、秋子夫人は完全に妄想のとりことなった。
こうして、しだいに気運が醸成されていくのを待って、私はいよいよ計画の第一歩に乗りだした。第一歩とはいうまでもなく、飯尾に椿子爵の|扮《ふん》|装《そう》をさせて、秋子夫人のまえに出すということである。まえにもいったように、飯尾と子爵は|瓜《うり》|二《ふた》つというほども似ているわけではない。ふたり並べてくらべれば、識別するのはそれほど困難なことではなかろう。
しかし、子爵の失踪後半年あまりもたった今日、飯尾に子爵の扮装をさせれば、もともと似ている男だから秋子夫人のようなひとを欺くのは、それほど困難なことではなかろう。私はそれを東劇で実験してみた、その結果は美禰子も知っているとおりである。
さて、こうして、この家の住人に最初のショックをあたえたのち、すかさず私はまた計画の一歩をすすめた。いうまでもなく、それがあの砂占いの夜の出来事なのだ。ただ、ここではっきり断わっておくが、私はあの晩、玉虫伯爵を殺害する意志は毛頭なかったのだ。
いやいや、私には果たして最初から、大伯父や両親に対して殺意があったのだろうか。自分でもはっきりとはいえないが、それほどの決意も私にはなかったように思う。むろん、私は|復讐心《ふくしゅうしん》にもえていた。出来るだけ残忍な打撃をあたえてやろうと決心していた。しかし、まさか殺そうとまでは考えていなかった。
それがいつか殺意というかたちとなって現われてきたのは、やはりこの家の空気のせいだと思う。新宮利彦と椿秋子、それから玉虫|公《きみ》|丸《まる》の三人のあいだにわだかまる、一種異様な雰囲気は、過去の秘密や、深い事情を知らぬものにも、なにかしら、むかむかするような、不潔でいやらしいものを感じさせる。
その空気が椿子爵を自殺させ、私に殺意を起こさせたのだ。だが、自己弁護はよそう。
それはさておき、砂占いの夜の私の計画というのは、ただ火焔太鼓の形と、「悪魔が来りて……」のメロディーによって、三人に挑戦の|火《ひ》|蓋《ぶた》を切ることにあった。
この時の私のやりかたを、ひょっとすると金田一耕助は感付いているのではないかと思うが、念のために書き記しておくことにする。
それより少しまえ、私は庭の落ち葉だめのなかから、風神像を発見して持っていたのだが、その台座のうちに火焔太鼓の形を彫り、それを砂占いの部屋にある雷神像ととりかえておいたのだ。そして、雷神のほうはアトリエのドアの外にある、花瓶のなかへかくしておいた。
注意して見れば、風神と雷神の区別はすぐつくが、なにしろ薄暗い部屋のなかだし、誰だってそんなものに関心を払うものはなかったので、私のこの計画は成功したようだ。ホーム・ライトが消えると同時に、私は砂のうえに風神で判をおした。そして、電気がついてあのレコードのメロディーに驚いて、一同がとび出していったすきに、風神を雷神とすりかえておこうと思っていたのだ。
ところが、どっこい、あのいまいましい金田一耕助のやぶれ帽子が花瓶の口にひっかかって、どうしても雷神を取り出すことが出来ぬ。|強《し》いて取り出そうとすると、帽子を破るおそれがある。おまけにそのうちにひとがやって来たので、私は一時、取りかえを断念しなければならなかった。
あのころ、私はまだ金田一耕助なる人物を、全然知らなかったのだけれど、それでもあの男が帽子を取ろうと、花瓶と格闘しているのを見たときは、|腋《わき》の下から汗が流れたものだ。花瓶がゆれるたびに、雷神がごとごとと音を立てたのだから、後になってそれを思い出せば、金田一耕助が怪しまぬはずはない。
それはさておき、どうしてもその夜のうちに、風神と雷神を取りかえておきたかった私は、ひとの寝しずまるのを待って、アトリエのまえへしのんでいった。アトリエはドアがしまっており、電気も消えてまっくらだった。私はてっきり玉虫公丸も部屋へひきとったことと思い、花瓶から雷神を取り出してドアをひらいた。ドアの内側にはカーテンがしまっていたが、それをくぐってなかへ入ったとたん、
「誰だ!」
と、鋭い声とともに電気がついた。
そのときの私の驚き! 玉虫公丸はまだアトリエのなかにいたのだ。私は一瞬金縛りにあったように身動きが出来なくなったが、玉虫公丸のほうでも同じだった。
私たちはしばらく無言のまま|睨《にら》みあっていたが、そのうちに私の持っている雷神に眼をつけると、玉虫公丸は振り返って風神を見た。|聡《そう》|明《めい》な男だから、その|一《いち》|瞥《べつ》で、火焔太鼓のからくりを見破ったのにちがいない。風神像をとりあげて、底を調べようとしたせつな、私は雷神を振りあげて玉虫公丸にうってかかった。そのときの私の精神状態は戦場で絶望的な突撃を命じられたときの感じによく似ている。なんともいいようのない、憤怒と憎悪の念に駆り立てられたのだ。
美禰子よ。
おまえもあの部屋の惨状はよく知っているだろう。しかし、そのときの玉虫公丸の負傷はそれほど大きなものではなかったのだ。ただ最初の一撃が面部をうったために、実際の傷よりも非常に多量の鼻血が流されたのだ。
さて、あの砂鉢のうえに玉虫公丸をおさえつけて、なおも打ってかかろうとしたとき、公丸が下から|喘《あえ》ぐように私のことを|訊《たず》ねた。私はかれの耳に口をよせ、自分が誰であるかを|囁《ささや》いた。そこで勝負は完全についたのだ。
椿子爵がそうであったように、玉虫伯爵も私の素性を知ったせつな、塩をかけられた青菜のように|萎《しぼ》んでしまった。だから、私はもうそれ以上、伯爵をいためつける必要はなくなったわけだ。人一倍家名を気にする伯爵が人を呼んだり、警察へつき出して、|藪《やぶ》から蛇をつつき出すような|真《ま》|似《ね》をするはずがない。
そこで私たちのあいだに一種の妥協が成立した。私が自分の出生の秘密を守る代償として、伯爵は私の将来を保証しようというのだ。
もし、あのとき、伯爵の眼にあやしい殺気さえ走らなかったならば、私は当分それで満足していたかもしれないし、この家を出ればあるいは私の体内にみなぎっている、危険な殺意もうすらいでいったかも知れぬ。
ところが、こうして交渉が成立したのち、部屋から出ようとして、何気なくふりかえったとたん、私ははからずも玉虫公丸の眼にうかんだ、なんともいえぬ凶暴な光を一瞬見たのだ。
私ははっと思った。いまや、私より伯爵のほうに、より強い殺意がきざしていることに気がついたのだ。私は玉虫公丸がどんな男かよく知っている。やろうと思えばどんなことでもやってのける男だ。私を殺すくらいのことは|屁《へ》でもあるまい。しかも、誰も私の出生の秘密を知るものはないのだから、私が他殺死体となって発見されても、誰が玉虫公丸を疑おう。……
とっさに、私はまた決心をかえた。いや、それまで漠然としか感じていなかった殺意が、そのときはじめて、はっきりとした形となって現われたのだといってもよい。
外へ出ると、なかから伯爵がドアをしめ、|閂《かんぬき》をおろし、掛け金をかける音が聞こえた、さらにカーテンがしめられた。おそらく伯爵には|妾《めかけ》の菊江やその他のものに、どういって|怪《け》|我《が》をいいつくろったものか、思案をする必要があったのだろう。
私もちょっと思案したのち、花瓶をおいてあった台をドアのまえに持ってきて、それにあがって|欄《らん》|間《ま》からなかをのぞいた。……
(筆者|曰《いわ》く。これからあとの一部分は、金田一耕助の実験と同じことになるから略す)
だから、あの晩、玉虫公丸を殺すということは、全然、私のプログラムにはなかったのだ。もし、はじめから殺人の計画を持っていたら、おそらく私は飯尾豊三郎に、邸内を|徘《はい》|徊《かい》することを命じはしなかったろう。
火焔太鼓のマークとレコードの音で、秋子夫人を中心として、この家に恐慌をまき起こしたのち、さらに椿子爵らしい人物を|瞥《べっ》|見《けん》させて、恐怖の竜に|点《てん》|睛《せい》しようというのが、そのときの私の幼稚な考えだったのだ。
あそこで殺人が行なわれれば、飯尾は私を疑うだろう。それだけでも私にとって不利だのに、もし飯尾がつかまれば、私の計画は暴露してしまう。この一事をもってしても、あの晩の殺人が、突発的に行なわれたものであることを、信じて|貰《もら》うことが出来るだろう。
そのことは新宮利彦の場合も同様だった。
もっとも玉虫伯爵を殺害して以来、私ははっきりあの男に対する殺意をあたため、計画を練っていた、石はすでに坂をころがりはじめたのだ。いきつくところまでいかなければ、とどまらないだろうことを、私は知っていた。しかし、それがあの晩であろうとは、私も予期していなかったのだ。
あの晩、私は一般に信じられているより、大分早くかえってきた。そういうとき、私はいつも崩れた塀のすきまから出入りをするのだ。そのほうが、張りこんでいる刑事やおまわりに、変な眼で見られずにすむからだ。
さて、塀の破れから入って勝手口へいくには、秋子夫人の部屋を遠くに見るような位置を通ることになる。私はふと新宮利彦があたりを見まわしたのち、そっとその部屋の障子をしめるところを目撃した。と、間もなく部屋のなかの電気が消えたのだ。
それからあとのことを書くのはよそう。それ故にこそ、私はあの男をけだものと呼んで|憚《はばか》らないのだ。私の胸は憎悪で張り裂けそうであった。
私はあの男が母の指から指輪をまきあげて出て来るのを待ち伏せて、温室のなかへ引っ張りこんだ。さすがに|破《は》|廉《れん》|恥《ち》なあの男も、いま自分がやって来たことを見られたと知ると、|真《ま》っ|蒼《さお》になってふるえていた。私は自分が誰であるかを名乗ってきかせたのち、|茫《ぼう》|然《ぜん》として、馬鹿みたいに立っている男を、そこにかくしてあった風神像でなぐり倒した。あいつは一撃のもとに倒れると、子供のように声をあげて泣いた。私はそのうえに馬乗りになり、悠々として首をしめたのだ。
玉虫伯爵の場合もそうであったが、新宮利彦の場合はことに、殺害のあとでなんの悔恨も残らなかった。私はむしろ、この世から害虫を駆除したようなすがすがしさをおぼえた。いや、もっともっと残酷な殺しかたをしなかったのが悔まれるくらいだ。
それからあとのことは、いまさらここに書くにも及ぶまいが、ただちょっと心残りなのは、新宮利彦に対する|復讐《ふくしゅう》のチャンスが、こんなに早く来ると知ったら、おこまを殺す必要はなかったようだ。おこまの口から自分の素性が暴露して、そのために、新宮利彦を殺す機会を失うことをおそれた私は、飯尾豊三郎に、おこまの殺害を命じたのだが。……
飯尾の始末は私がつけた。いずれ芝の増上寺境内から、死体が発見されるだろうが、警察でもそれを飯尾と気がつくかどうか。母を殺害する準備も完了している。石はとうとう転がるところまで転がったのだ。
ただひとり残るのは自分のことだが、私はこれからさきどうなるのか。つかまって絞首台へ送られるのか。それともそのまえに、自分で自分の生命を断つ羽目になるのだろうか。だが、どっちでもよい。私はもうあまり長く生きていたくはないのだ。
しかし、|美《み》|禰《ね》|子《こ》よ。
おまえは生きていかなければならぬ。このような残酷な事実を知ったのち、強く生きていくということは難しいことだ。しかし、おまえはそれに耐えていけるだろう。一彦はおまえほど強くなさそうだが、|華《はな》|子《こ》夫人がきっと支えとなって下さるだろう。しかし……これは悪魔のいうことではなさそうだね。
美禰子よ、さようなら。
一彦よ、さようなら。
第三十章 悪魔笛を吹きて終わる
三島東太郎即ち河村治雄の遺書は、何もかも終わったのち、数日にして発見されたものである。それを読んだのは美禰子と一彦と華子未亡人と、金田一耕助と|等々力《とどろき》警部の五人であった。
あの、さまざまな思い出のある応接室で、美禰子がそれを朗読し、あとの四人が耳をかたむけた。
美禰子も一彦も華子夫人も、この陰惨な記録によく終わりまで耐えしのんだが、さすがに文章が新宮利彦の殺害される直前の非行に及んだときには、一同は|慄《りつ》|然《ぜん》として顔を見合わせた。華子夫人のごときは、あまりの浅ましさに、声を立てて泣き出したくらいである。
等々力警部は|溜《た》め息をついた。
「金田一さん、あんたはそれを知っていたんだね」
金田一耕助も溜め息をついた。
「知っていたというわけじゃありませんが、ひょっとすると……と、いう疑いを抱いたわけです。あの夜、就床後に起こった目賀博士と|秋《あき》|子《こ》夫人のいさかいから――」
金田一耕助は、そこではげしく|咳《せき》をすると、
「いや、失礼しました。とにかく終わりまで読みつづけましょう。美禰子さん、あなた読みつづける勇気がありますか」
「はい、読みつづけましょう」
美禰子は強い意志の|片《へん》|鱗《りん》を見せた。
こうして、美禰子がこの長い遺書を読み終わったあと、一同はずいぶん長いあいだ黙りこくっていた。華子夫人はときどき思い出したように身ぶるいをし、すすり泣いた。一彦はソファに腰をおろしたまま、両手で頭をかかえこんでいる。
美禰子がそっとそばへよって、一彦の肩に手をおいた。
「一彦さま。そんなに考えこむことはないのよ。あなたのお父さまはいけないひとだったけれど、あなたのお母様は立派なかたよ。そして男の子は父よりも母の血をより多く、うけつぐのだということを、あなたも御存じでしょう。その反対に女の子は、母の血よりも父の血をより多くうけつぐのね。有難いことに、あたしは女の子だから、お母様よりもお父様の血を、より多くうけついでいるのだわ。そして、お父様は弱いひとであったけれど、正しい、親切なひとだったってことは、一彦さん、あなたも認めて下さるでしょう」
一彦は頭をかかえたまま強くうなずいた。首をふるたびにはらはらと、涙が床のうえにとび散った。
「有難う。もう泣くのはよしましょう。|伯《お》|母《ば》さまもしっかりして。これからは、伯母さまだけが頼りなのですから」
「すみません、美禰子さま」
「この家は出来るだけはやく処分しましょう。そして、あたしたち、どんなにせまい家でもよいから、明るい、よく陽の当たる場所に住んで、身にしみこんだこの暗いかげを洗いおとしましょうねえ」
それから美禰子は金田一耕助のほうを振り返った。
「金田一先生、これで何もかも終わったわけですけど、そのまえに、|唯《ただ》ひとつ先生にお聞きしたいことがございます」
「どういうことですか」
「先生はどうしてあのことを御存じになりましたの。母と――伯父のことを――」
金田一耕助ははっとして、話をほかのほうへ外らそうとしたが、強い決意を秘めた美禰子の視線へ、打ち|克《か》つことは出来なかった。この娘は何もかも知らずにはおかないのだ。
「それはね、美禰子さん、お父さんの遺書がはさんであった、ウィルヘルム・マイステルのおかげですよ」
「ウィルヘルム・マイステル――?」
美禰子は、はっと顔色を動かした。
「そう、おわかりになったでしょう。あのなかにお互いにそれと知らずに兄と妹が恋におちて、子供が出来て、三人それぞれ不幸な境遇に落ちていく遺族のことが書いてあるでしょう。私はお父様の性格を考えて、あの当時のお父様の言動には、何かしら、すべて含みがあるのだと解したのです。したがってマイステルをあなたにすすめたことについても、そこに何か意味があるのじゃないか――と、読んでいくうちにあのショッキングなロマンスにぶつかったんですね。それにまあ、その他いろいろな事情を|綜《そう》|合《ごう》して、三島東太郎即ち河村治雄なる人物は、一彦君と兄弟であると同時に、あなたの兄妹でもあるのじゃないかと考えたわけです。しかし、もうその話はよしましょう」
「ええ、よしましょう。金田一先生、有難うございました」
不思議なことに、こういう暗い事実を知らされたあとだったにもかかわらず、美禰子の身辺からは、最初金田一耕助を訪ねて来たときのような、あのいまわしい、黒い|陽《かげ》|炎《ろう》は消えていた。――
ところで、三島東太郎即ち河村治雄はどうしたのであろうか。
それをお話しするためには、筆者がわざと途中でうち切っておいた、第二十八章火焔太鼓の出現の項を、もう少し語りつづけなければならぬ。
三島東太郎は一切の犯行を自認したのち、一彦のほうへ向きなおってこういった。
「一彦、その一番下積みになっている、スーツケースを開いておくれ。そのなかに、黄金のフルートが入っているはずだから」
一彦は金田一耕助と等々力警部の顔色をうかがったのち、東太郎に示されたスーツケースのなかから、黄金のフルートを取り出した。
東太郎はそのフルートを受け取ると、手袋をぬいで、
「金田一先生」
と、耕助のほうへ向きなおった。
「あなたはなぜ、『悪魔が来りて笛を吹く』のあの曲を誰かに――一彦にでも吹いてもらわなかったのです。もし、それを吹奏するところを御覧になったら、椿子爵のいう悪魔とはなにびとであったか、一目|瞭然《りょうぜん》だったはずなんです。ひとつ私が吹いて見ますから、よく指の動きを見ていてください」
東太郎はフルートの歌口に口をあてると、やがて、あの恐ろしい曲を吹奏しはじめた。
それこそ、一世を|震《しん》|撼《かん》させた、この陰惨な大事件の終幕を飾るには、もっとも適切な伴奏だったろう。
しめきった、ほの暗い応接室のなかに、あの|呪《のろ》いと憎しみにみちみちた、物狂わしい曲が、しだいに調子をたかめていったとき、ひとびとは幾度か眼にした、血みどろの死体よりもまだ恐ろしい、|凄《せい》|然《ぜん》たる鬼気にうたれずにはいられなかった。
だが、そのとき、金田一耕助の胸をはげしく打ったのはそのことではなかったのだ。
曲がすすみ、なかばに達し、さらに終わりに近づいていくというのに、半分失われた東太郎の中指と薬指は、まだ一度も使われないのだ。
金田一耕助はとつぜん、真赤に焼けた|鉄《てつ》|串《ぐし》を、脳天からぶちこまれたようなショックをかんじた。
ああ、それでは「悪魔が来りて笛を吹く」という曲は、右手の中指と薬指を使わなくてもすむように作曲されていたのか。椿|子爵《ししゃく》はそれによって、悪魔とは何者であるかを暗示していたのか。
驚きのあまり、耕助が何かいおうとした瞬間、三島東太郎は黄金のフルートを口に当てたまま、朽ち木を倒すように床に倒れた。
相棒の飯尾豊三郎が天銀堂で使った薬で、みずからの生命を断ったのである。
こうして、椿家を突如訪れた悪魔は、笛を吹き終わると同時に、この世から去っていったのであった。
本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月)
金田一耕助ファイル4
|悪《あく》|魔《ま》が|来《きた》りて|笛《ふえ》を|吹《ふ》く
|横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Seishi YOKOMIZO 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『悪魔が来りて笛を吹く』昭和48年2月20日初版発行
平成 8年9月25日改版初版発行
底本では、
秋子の「秋」は、「秋」の古字である Unicode="#79cc" になっています。「秩vの「口」を「火」にした字です。作中に頻出するため、「秋」で代用しましたが、本文中の最初に出てくる部分以外は注記は省略しています。