金田一耕助ファイル1
八つ墓村
[#地から2字上げ]横溝正史
目 次
発 端
第一章 尋ね人
第二章 疑惑の人
第三章 八つ墓明神
第四章 四番目の犠牲者
第五章 |鎧《よろい》の中
第六章 春代の激情
第七章 |木《こ》|霊《だま》の|辻《つじ》の恐怖
第八章 絶体絶命
大団円
発 端
八つ墓村というのは、鳥取県と岡山県の県境にある山中の一寒村である。
むろん、山の中のことだから、耕地といってはいたって少なく、せいぜい十坪か二十坪ぐらいの水田が、あちらにポッツリこちらにポッツリあるくらいのものだし、しかも気候の関係からいって作柄も悪く、いかに食糧増産を叫んだところで、主食に関する限り、やっと村内の人口がまかなえるかまかなえないかの程度にすぎない。
それにもかかわらず村全体がわりに豊かに暮らしているのは、他に生業があるからである。八つ墓村の生業というのは、炭焼きと牛である。牛を飼うことは近年はじまったのだけれど、炭焼きは昔から、この村のもっとも|主《おも》ななりわいの道であった。
八つ墓村を抱く山は、遠く鳥取県までつづいており、その山々を埋めつくして、|楢《なら》、|樫《かし》、|櫟《くぬぎ》などの木が生い茂っているから、炭材に事欠くようなことはなく、昔からこの地方の|楢《なら》|炭《ずみ》といえば、関西地方でも有名である。
それからもう一つの生業であるところの、牛を飼うことは近年にはじまったのだけれど、いまではこのほうが、炭焼き以上に重要な村の財源となっている。この辺の牛はひとくちに|千《ち》|屋《や》|牛《うし》とよばれて、|役牛《えきぎゅう》としてよく肉牛としてよく、近所の|新《にい》|見《み》で牛市が立つときには、全国から|博《ばく》|労《ろう》が集まるくらいである。
したがって村じゅうどの家でも、牛の五頭や六頭飼っていないことはないが、それらの牛は必ずしも、飼い主の所有というわけではなく、村の|分《ぶ》|限《げん》|者《しゃ》の買った子牛をあずかって、一人前の牛に育てあげ、それを売った利益金を、定められた率で出資者とわけあうのである。つまりふつうの農村の、地主と小作みたいな関係がここにもあるわけで、こういう山中の一寒村にも、貧富の懸隔ははっきりあった。八つ墓村の分限者は二軒あって、一に|田《た》|治《じ》|見《み》、二に野村。田治見家は村の東にあるところから東屋とよばれ、野村家はそれに対立する意味で西屋とよばれている。
それにしても無気味なのはこの村の名前である。
八つ墓村。――ここにうまれ、ここに|屍《かばね》を埋め、代々永くこの名になじんできた人々には、別になんの奇異な感じもあたえないのかもしれないが、はじめてこの名を耳にする、他郷の人々にとっては、一種異様な名前のように思われる。何かしら無気味な|曰《いわ》く|因《いん》|縁《ねん》がありそうに思われてならぬだろう。
いかにもそのとおり、そしてその因縁というのはいまから遠く、三百八十余年の昔、|永《えい》|禄《ろく》年間に端を発する。
永禄九年七月六日、雲州富田城主|尼《あま》|子《こ》|義《よし》|久《ひさ》が、|毛《もう》|利《り》|元《もと》|就《なり》に降って月山城を明け渡したとき|宗《むね》|徒《と》の|公《きん》|達《だち》で、この降服を|肯《がえん》じなかった若武者一騎、七人の近習をしたがえて城を落ちのびた。伝説によると、その時一行は他日の再挙を期して馬三頭に三千両の黄金を積んでいたという。そして河を渡り山を越え、千辛万苦の末、たどりついたのがこの村であった。
はじめ村人は快く、八人の落武者を迎えた。落武者もまたこの山奥の|素《そ》|朴《ぼく》な人情に安心して、しばらくここを仮の宿りと定め、土民に姿をやつして、炭焼きなどをはじめた。
幸いここは山も深く、かくれ家に事欠くようなことはなかった。さらにまた、いざとなれば|鍾乳洞《しょうにゅうどう》という格好のかくれ場所もあった。このへん一帯の地層は、石灰岩からできているので、|渓《けい》|谷《こく》へおりると、いたるところに鍾乳洞がある。なかには|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》みたいに、だれもその奥底をさぐったものがないという、深い洞窟もあった。それらは討っ手が押し寄せた場合、|究竟《くっきょう》なかくれ場所となるだろうと思われた。あるいは八人の落武者が、この村をしばしの宿と定めたのは、こういう地形を勘定に入れたせいかもしれない。
こうして半年あまりの歳月は、|落《おち》|人《うど》のうえにも平穏無事に打ち過ぎた。村人とのあいだにも、|悶着《もんちゃく》は起こらなかった。
ところがそのうちに、毛利方の|詮《せん》|議《ぎ》がしだいにきびしくなってきた。そして詮議の手はついにこの山奥までのびてきた。それというのが落人の大将というのが、尼子の一族でも聞こえた豪のものであったから、そういうものを生かしておいたら、他日、どのような|禍《わざわい》の種になるかもしれぬと考えられたからである。
落人をかくまっている村の人たちも、しだいに自分たちの立場が不安になってきた。それに毛利方の提出したほうびの金にも目がくれた。だが、それよりもかれらがもっと心をひかれたのは、馬に積んできた三千両という黄金である。落人全部を殺してしまえば、だれもこの三千両のことを知るものはあるまいと思われる。いや、たとえ毛利方で知っていて、黄金の詮議があったとしても、知らぬ存ぜぬ、そのようなものは見たこともございませぬと言い張れば、のがれられぬこともあるまいではないか。
村の人々はそこでよりより評議した末に、衆議一決したところで、ある日、ふいに立って落人を襲うた。落人はそのとき全部、山の炭焼き小屋に集まって、炭を焼いていたところだったが、それを取りまいた村人は、三方から枯れ草に火を放ち、まず落人の退路をたっておいて、|屈強《くっきょう》の若者たちがてんでに山刀、竹|槍《やり》をふるって炭焼き小屋を襲撃した。乱世のこととて、土民たちも|戦《いくさ》のすべは知っていたのである。
落人たちはふいをつかれた。かれらはすっかり村人に心をゆるしていたおりからだけに、この襲撃は寝耳に水だった。場所が山の炭焼き小屋であっただけに、|槍《そう》|刀《とう》の用意もなかった。それでもありあう|鉈《なた》、|斧《おの》などをふるって戦ったが、多勢に無勢で、|所《しょ》|詮《せん》勝ちみはなかった。一人討たれ、二人討たれ、ついに一行八人、ことごとく土民の手にかかって死んだのは、まことにはかない最期であった。
村人は八つの|首《く》|級《び》をはねると、炭焼き小屋に火を放ち、|勝《かち》|鬨《どき》あげて引き揚げたが、言いつたえによると、八つの首級はいずれも無念の形相ものすごく、見るものをゾッとさせたということである。わけても若大将の無念はひとしおで、土民の手でズタズタに斬られ、血みどろになって息を引きとる間際まで、|七生《しちしょう》までこの村に|祟《たた》ってみせると叫びつづけたというのは、いかさま、さもあるべきことであろう。
それはさておき村の人たちはこの首級によって、首尾よく毛利方よりのほうびの金にありついたが、肝心の三千両という黄金は、どうしてもありかがわからなかった。かれらは|血眼《ちまなこ》になって、草の根をわけ、岩をうがち、渓谷を掘って黄金のゆくえを求めたが、ついに成功することがなかったという。それのみならず、この黄金の探索の間にいろいろ不祥の怪異があった。
あるものは鍾乳洞の奥をさぐっていたところが、突然、落盤のためにあえない最期をとげた。あるものは、岩角を掘っていたところが、ふいに|崖《がけ》崩れのために、足を踏みすべらし、谷底へおちて大けがをしたあげく|跛《びっこ》になった。あるものは木の根を掘っていたところが、突然、その木が倒れてきて、無残な圧死を遂げた。
こうした怪事があいついだところへ、最後に村人を恐怖のどん底にたたきこむような事件が起こった。
八人の落武者が惨殺されてから、半年ほど後のことである。その年はどういうものかこの地方に雷が多く、落雷がしきりであったから、これも八人の|怨《おん》|念《ねん》であろうかと、村の人たちも安からぬ思いにおののいていたところ、ある日、名主田治見庄左衛門宅の杉の大木に落雷して、杉の木はもののみごとに根元まで真っ二つに裂けた。
ところでこの田治見庄左衛門こそ、かの落人襲撃の発頭人であったが、あれ以来、とかく気分がすぐれず、なんとやら物狂おしい振る舞いが多かったので、家人も|戦々兢々《せんせんきょうきょう》としていたところ、突如、この落雷で逆上してしまった。ありあう刀を抜きはなつと見るや、いきなり家人の二、三人を斬り倒し、家を走り出ると、いきあう村人を片っ端からなぎ倒し、おのれは山へ入って自ら首をはねて死んだ。
|嘘《うそ》か|実《まこと》か、このとき、けが人は十数人出たが、庄左衛門の一撃で死んだのは七人であり、それに自ら首をはねて死んだ庄左衛門を加えると、八人の死人が一時に出たということになり、これもあの無残に殺された八人の落武者の、怨念のなすわざであろうと人々は恐れた。
そこで人々は八人の霊を鎮めるために、犬|猫《ねこ》同然に埋めておいた八つの|死《し》|骸《がい》をとり出すと、改めてこれを丁重に埋葬し、そこに八つの墓を立て、明神とあがめ奉ることにした。これがすなわち、八つ墓村の背後の丘にある八つ墓明神の由来記で、村の名もこの明神の名前から来ている。
以上が八つ墓村に関して、遠き昔から語りつがれた物語である。
ところが歴史は繰り返すとでもいうのであろうか、近年になってこの山奥の一寒村の名が全国の新聞に|喧《けん》|伝《でん》されるような、一大不祥事件が起こった。そして、その事件こそ私がここに紹介しようとする怪事件の、直接の端緒となっているのである。
それは大正×年、すなわちいまから二十数年まえのことである。
東屋とよばれる田治見家の当時の主人は、|要《よう》|蔵《ぞう》といって、そのころ三十六歳だったが、田治見家にはかの庄左衛門以来、代々狂疾の遺伝があり、要蔵も若いころから、とかく粗暴残虐の振る舞いが多かった。要蔵は二十の年におきさという女と結婚して、|久《ひさ》|弥《や》、|春《はる》|代《よ》という二人の子どもがあった。
要蔵は早く両親をうしなったので、二人の|伯《お》|母《ば》に育てられた。したがって事件の起こったころの田治見家の家族といえば要蔵夫婦に十五になる息子の久弥、八つになる娘の春代と二人の子どものほかに、いまいった二人の伯母があった。
この二人の伯母というのは双生児で、二人とも|生涯良人《しょうがいおっと》を持たず、いかず後家として、要蔵の両親なきあと田治見家のいっさいの|采《さい》|配《はい》をふるっていた。要蔵には弟が一人あったがこれは母の実家をつぐために、早くから家を出て、姓も里村と名乗っていた。
さて、事件の起こる二、三年まえ、要蔵は妻も子どももありながら、突然はげしい恋をした。恋の相手は村の|博《ばく》|労《ろう》の娘で、当時高等小学校を出て、郵便局の女事務員をしていた。年は十九で、名は|鶴《つる》|子《こ》。
要蔵はまえにもいったように粗暴で残虐性を持つ男だったが、その恋もまた、文字どおり火のようにはげしいものであった。一日かれは鶴子の帰りを道に擁して、むりやりに自家の土蔵へ|拉《らつ》しかえると、暴力をもってこれを犯した。しかもかれはそのまま鶴子を土蔵に閉じこめてかえそうとはせず、気ちがいじみた情欲の犠牲として責めさいなんだ。
鶴子はむろん泣き叫んで救いを求めた。事情を知った二人の伯母と妻のおきさが、驚いて要蔵をいさめたがかれは|頑《がん》としてきき入れなかった。鶴子の両親もびっくりして駆けつけてくると、娘をかえしてくれるようにと泣きついたが、要蔵は一言のもとにはねつけた。あまりしつこく周囲のものが騒ぎ立てると、要蔵はギラギラした眼つきをして、どんな乱暴なまねもしかねまじき|風《ふ》|情《ぜい》であった。
それに恐れをなした人々は、結局鶴子を口説き落として、要蔵の|妾《めかけ》になることを承知させるよりほかにみちはなかった。鶴子はなかなかうんといわなかったが、彼女がかぶりを横にふったところで、どうなるものでもなかった。土蔵の|鍵《かぎ》は要蔵が握っており、好きなときにやってきて、暴力をもって思いを遂げていくのである。
鶴子もだんだん考えた。こんなことならいっそすなおに承知して、要蔵の妾になろう。そうすればこの土蔵から出ることができるであろう。土蔵から出さえすれば、また、なんとか方法もあるだろう。――鶴子はそんなふうに覚悟をきめて、両親を通してその旨を要蔵に通じた。
要蔵の喜びはいうまでもない。鶴子はすぐに土蔵から出されて、離れの一|棟《むね》があてがわれた。そして着物だの髪飾りだの調度類だの、いろいろなりっぱなものがあてがわれて、要蔵のかわいがりようといったらなかった。かれは昼も夜も離れに入り浸って、鶴子の肉を|愛《あい》|撫《ぶ》しつづけた。
鶴子にはそれが恐ろしかった。聞くところによると、要蔵の情欲には、なにかしら気ちがいじみたはげしさがあって、とてもふつうの女には、受けとめかねたのであろうといわれている。たまりかねた鶴子は、いくたびか要蔵のもとから逃亡を試みた。しかし、そのつど要蔵が気ちがいのように暴れるので、村の人々が恐れをなして、鶴子のもとへ泣きついてきた。結局、鶴子はいやいやながらも、要蔵のもとへかえらねばならなかった。
そうしているうちに鶴子は妊娠して、男の子を産み落とした。要蔵は大喜びで|辰《たつ》|弥《や》とその子に命名した。こうして子どももできたしするので、鶴子の尻もいくらか落ち着くかと思われたが、その後も彼女は、子どもを抱いてたびたび家を抜け出した。それというのが、子どもができたのちも、要蔵のはげしい情欲には少しもかわりはなかった。いや、子どもを産んだことによって、女が完全に自分のものとなったと思いこんだ要蔵は、いよいよ増長して狂態の限りをつくした。
それに耐えられなかったのと、もうひとつ鶴子がそんなにたびたび飛び出すには、深い理由のあることを、そのころになって両親や村の人もはじめて気がついた。
鶴子にはずっと以前から、深く言いかわした男があったのである。それは村の小学校の|訓《くん》|導《どう》で、|亀《かめ》|井《い》|陽《よう》|一《いち》という青年だった。訓導という職務柄、二人はこの恋をよほどうまく隠していたらしい。亀井というのはこの村の出身者ではなく、他から転勤してきたものだが、この地方の地質に興味をもっているとやらで、よく鍾乳洞の探検に出かけたりしていたから、おそらく二人は、人の知らない鍾乳洞の奥で、ひそかに|逢《あい》|曳《びき》をつづけていたのだろうといわれている。
村の人は口さがないから、こういうことがわかってくると、辰弥の出生にもとかくのことを言い出すものがあった。
「あれは田治見の|旦《だん》|那《な》の子どもではない。亀井先生の子どもなのだ」
せまい村でのこういううわさは、いつか要蔵の耳に入らずにはいない。要蔵は烈火のごとくいきどおった。愛着もはげしい代わりに、|嫉《しっ》|妬《と》も気ちがいじみていた。鶴子の髪の毛をとって、打つ、|蹴《け》る、殴るはまだしものこと、素っ裸にして冷水を浴びせたりした。それまで、眼の中に入れても痛くないほど、かわいがっていた辰弥の背中や|太《ふと》|股《もも》に、焼け|火《ひ》|箸《ばし》をあてたりした。
このままでいけば子どもも自分も殺されてしまう。――たまりかねた鶴子は、また辰弥をかかえて家を抜け出した。二、三日彼女は、両親のもとにかくれていたが、自分が飛び出したあとの要蔵の怒りを人づてにきくと、恐ろしくなって郷里を|出奔《しゅっぽん》して、姫路にある|親《しん》|戚《せき》のもとへ身をかくした。
要蔵は四、五日、酒ばかりくらって、鶴子のかえりを待っていた。いままでの例だと、鶴子が飛び出していってもたいてい二、三日もすると両親か村の総代が|詫《わ》びを入れて、連れかえしてくるのであった。ところがこんどは五日待っても十日待っても鶴子はかえってこなかった。要蔵のいら立ちはしだいに気ちがいじみてきた。二人の伯母も妻のおきさも、恐ろしくてそばへ寄れなかった。こんどばかりは村の人たちも、だれひとり口をきこうとするものはなかった。
こうしてついに、要蔵の狂気は爆発したのである。
それは春のおそい山村では、まだ|炬《こ》|燵《たつ》のいる四月下旬のある夜のことだった。
村の人たちは突然、時ならぬ銃声と、ただならぬ悲鳴に眠りをさまされた。銃声は一発にとどまらず、間をおいて二発、三発とつづいた。悲鳴、叫声、救いを求める声はしだいに大きくなってきた。何事が起こったのかと表へ飛び出した人々は、そこに世にも異様な風体をした男を見た。
その男は|詰《つめ》|襟《えり》の洋服を着て、脚に|脚《きゃ》|絆《はん》をまき|草鞋《わ ら じ》をはいて、白|鉢《はち》|巻《ま》きをしていた。そしてその鉢巻きには|点《つ》けっぱなしにした棒型の懐中電燈二本、角のように結びつけ、胸にはこれまた点けっぱなしにしたナショナル懐中電燈を、まるで|丑《うし》の刻参りの鏡のようにぶらさげ、洋服のうえから締めた|兵《へ》|児《こ》帯には、日本刀をぶちこみ、片手に猟銃をかかえていた。村の人々はそれを見ると、だれでも腰を抜かさずにはいられなかった。いや腰を抜かさぬまでも、そのまえに男のかかえた猟銃が火をふいて、ひとたまりもなくその場に撃ち倒されてしまった。
これが要蔵だった。
かれはまず、そういう風体で、一刀のもとに妻のおきさを斬って捨て、そのまま狂気のように家を飛び出したらしい。さすがに二人の伯母や子どもたちには手をつけなかったが、その代わり、罪もない村の人たちを、当たるを幸いと、あるいは斬り捨て、あるいは猟銃で|狙《そ》|撃《げき》して回った。
後で調べてわかったところによると、ある家は表をたたいて訪れる声に、何気なく主人が、大戸をひらいたところをいきなり外からズドンと狙撃された。また、ある家では新婚の若夫婦の寝入りばなを、雨戸を一寸ほどこじあけて、そこから突っ込んだ銃口で、まず花婿を撃ち殺し、物音に驚いてとび起きた花嫁が壁際まで逃げていって、助けてくれと手を合わせているところを、ズドンと一発やったらしい。手を合わせたまま死んでいる若い嫁の姿勢が、駆けつけてきた係官の涙をしぼった。しかも、この花嫁のごときは、つい半月ほどまえ、十里ほど向こうの村から嫁入ってきたばかりで、要蔵とは縁も|由縁《ゆ か り》もない女であった。
こうして要蔵は一晩村じゅうを暴れまわったあげく、夜明けとともに山へ逃げこみ、ようやくにして恐怖の一夜は明けたのである。
翌日、急報によって近くの町々村々から、おびただしい警官や新聞記者が押し寄せてきたときには、八つ墓村は血みどろになっていた。あちらにもこちらにも血にまみれた死体がころがっていた。どの家からも|瀕《ひん》|死《し》のうめき声が|洩《も》れた。まだ死にきれないで助けを呼んでいるものもあった。
そのとき、要蔵によって重軽傷をおわされたものは数知れなかったが、即死したものは三十二人、実に|酸《さん》|鼻《び》を極めた事件で、世界犯罪史上類例がないといわれている。
しかも、山へ逃げこんだ肝心の犯人要蔵はその後ついに行方がわからずじまいである。むろん、警官や消防隊、村の若者たちによって、組織された自警団等によって、付近の山々峰々は|隈《くま》なく捜索された。鍾乳洞もかたっぱしから奥がさぐられた。それらの捜索は幾月も幾月もつづけられた。しかし、要蔵のありかはついにわからずじまいであった。もっとも、かれがかなり後まで生きていたらしい証拠はいろいろ発見されている。牛が射殺されてところどころ肉がもぎとられているのが発見されたのである。(ここいらの牛は、冬じゅう牛小屋につながれているが、春とともに山へ放たれるのである。牛は野草を食って、幾日も幾日も山から山へとさまよい歩き、どうかすると鳥取県のほうまで行っていることがある。そして、半月に一度か一月に一度、塩がほしくなるとノコノコ山をくだって、飼い主のもとへもどってくるのである)そしてそのそばに、火薬を爆発させて火をおこし、肉をあぶって食ったらしい|痕《こん》|跡《せき》も残っていた。
このことは、山へ入った要蔵が、自殺する意志など毛頭なくて、生きられるだけ生きようという強い執念を物語っており、村の人たちを新たなる恐怖にたたきこんだ。
要蔵の消息はいまもってわかっていない。いくらなんでも山へ入って二十数年、そんなに長く生きていられるはずがないというのが常識的な判断だが、村人のなかには、|頑《がん》|固《こ》にそれを否定しつづけているものも少なくない。しかも要蔵生存説の根拠というのが、かなり|滑《こっ》|稽《けい》なものであった。
あの際、要蔵によって即死せしめられた者は三十二人であった。三十二という数字は八の倍数に当たっている。すなわちあれは八つ墓明神の八つの墓が、四つずつの|生《いけ》|贄《にえ》を要求されたのだ。だから要蔵が死んだとすると、生贄がひとつあまるわけだというのである。そして、その説を主張する人は、きまって最後にこう付け加える。
「二度あることは三度ある。田治見の先祖の庄左衛門さんと、こんどの要蔵さんと二度まであんなことがあったからには、いずれまたもう一度、ああいう恐ろしい、血みどろな事件が起こるにちがいない」
八つ墓村ではいまでも子どもが悪くむずかると、懐中電燈の角を生やした鬼が来るぞとおどすのである。すると子どもたちは親からきいた、白鉢巻きに二本の懐中電燈をさし、胸にナショナル・ランプをぶらさげ、兵児帯に日本刀をぶちこみ、片手に猟銃をかかえた鬼の姿を思い出して、いっぺんに泣きやむということである。それは八つ墓村の人たちに、いつまでも残る悪夢だった。
それにしても要蔵逆上に、直接関係をもつ人々はどうしたろうか。不思議なことには、あの際要蔵に殺傷されたのは、たいてい要蔵鶴子の一件に、かかりあいのない人々ばかりで、実際に関係のある人々はおおむね助かっている。
まず、要蔵がもっとも憎んだであろう訓導の亀井陽一だが、かれはその晩、隣村の|和尚《おしょう》のところへ碁をうちに行っていたので、危うく難をまぬがれた。しかし、さすがに村人の思惑を考えたのか、事件の後間もなくどこか遠いところの学校へ転勤していった。
つぎに鶴子の両親だが、かれらは騒ぎをきくといちはやく事情を察して、裏のわら小屋のわらのなかへ身をひそめたので、これまたかすり傷ひとつ負わなかった。
さらにこの騒ぎをひき起こした張本人ともいうべき鶴子親子は、まえにもいったとおり姫路の親戚のもとへ逃げていたので、これまた助かったことはいうまでもない。
彼女は騒ぎがあった後、警察に呼びもどされて、しばらく村へかえっていたが、なんといっても村人の彼女に対する恨みは深かった。彼女さえおとなしく要蔵のきげんをとっていたら、こんなことにはならなかったのに――と、親を失い、子どもを殺された遺家族の憎しみは強かった。
それにいたたまれなくなったのと、もうひとつ、要蔵がひょっとすると、まだ生きているかもしれぬという恐怖に駆り立てられて、鶴子は間もなく、当時二つになっていた子どもを抱いて、村を出奔してそれきり消息がわからなくなった。
こうして二十六年の歳月が流れて、昭和二十×年。二度あることは三度あるという故老の言いつたえのとおり、八つ墓村には、またしても、怪奇な殺人事件があいついで起こったのである。しかもこのたびの事件では、まえの二つの事件のような激情的な突発事件ではなく、妙にネチネチとした、えたいの知れぬ殺人があいついで起こったのだから、八つ墓村はなんともいえぬ、無気味な恐怖のなかにたたきこまれたのであった。
さて、まえおきがいやに長ったらしくなったが、それではいよいよ物語の幕をあけることにしよう。なお、そのまえに断わっておくが、以下諸君の読まれるところのものは、この物語のなかで重要な役割を演じた、関係者の一人が書いたものなのである。私がどうしてこの手記を手に入れたか、それはとくにこの物語の筋に関係がないからここには書かないでおく。
第一章 尋ね人
八つ墓村からかえって八か月、私はやっとちかごろ心身の平静を取りもどしたように思う。
いまこうして神戸西郊の小高い丘のうえにある、この新しい書斎に座って、絵のように美しい|淡《あわ》|路《じ》島を眼のまえに見ながら、静かに|煙草《た ば こ》を吸っていると、よくまあ無事に生きのびられたものだと、不思議な感じにうたれることがある。よく小説などを読むと、あまりの恐ろしさに髪の毛がいっぺんに白くなったというようなことが書いてあるが、いま、机のうえにある鏡を手にとってみても、特別に白髪がふえたように思えないのが、われながら不思議でならない。それほど私は恐ろしい経験をしてきたのだ。幾度か、生死の関頭に立たされたのだ。あとから考えると、どっちへころんでも、生きられないようにできていたのだ。
それがこうして無事に生きているのみならず、以前にもまして、いや、まえには夢にも考えなかったような幸福な境遇に入ることができたのは、すべて|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》という人物のおかげである。あのモジャモジャ頭の、|風《ふう》|采《さい》のあがらない、いくらかどもるくせのある、小柄で奇妙な探偵さんが現われなかったら、私の命はとっくになくなっていたにちがいない。
その金田一耕助がこういった。いよいよ事件が解決して、八つ墓村を去ろうとしていたときのことである。
「あなたのような恐ろしい立場におかれた人も珍しい。私があなただったら、生涯の記念として、この三か月の経験を書きとめておきますね」
そのとき私はこう答えた。
「私もそう考えています。いつか、――できるだけ早く、記憶のまだ新しいうちに、私はこんどの事件の|顛《てん》|末《まつ》を細大あまさず書きとめておきましょう。そしてその中であなたの功績をたたえましょう。私のできる御恩返しといっては、それよりほかになさそうですから」
私はできるだけ早くその約束を果たしたいと思っていた。しかし、私のなめた経験があまりにも恐ろしく、そのために心身がすっかり疲れ果てていたのと、もうひとつには、不慣れな文章を書くということが|億《おっ》|劫《くう》だったのとで、ついその約束が今日までのびたのだ。
しかし、幸い私の健康もようやく回復してきた。ちかごろ恐ろしい夢魔に襲われることも少なくなり、体の調子もたいへんよい。文章に自信のない点では、いまも変わりはないけれど、私は何も小説を書こうというのではない。自分のなめた経験を、ただありのままに書きとめておけばよいのだ。いわば事実の報告なのだ、事実|譚《だん》なのだ。そしてひょっとすると、その事実の異常さ、恐ろしさが、文章の|拙《つたな》さを救ってくれるかもしれぬと思っている。
八つ墓村――おお、思い出してもゾッとする。なんといういやな名前だろう。なんといういやな村だろう。そしてまた、なんといういやな、恐ろしい事件であったろう。
八つ墓村――私は二十七歳になる去年まで、そのようないやな名前の村があるとは夢にも知らなかった。ましてや自分がそのような、いやな名前の村に、重大な関係のある体だなどとはどうして知ろう。もっとも私はうすうすと、自分が岡山県の生まれであるらしいことは知っていた。しかし、岡山県のなんという郡、なんという村の生まれか、そのような詳しいことはちっとも知らなかったし、また知ろうとも思わなかった。
物心ついてから、ずっと神戸でそだった私は、田舎などに少しも興味は持たなかったし、また母も田舎に親戚はひとりもないと、つとめて郷里のことを語るのを避けていたようである。
ああ、私の母! 私はいまでも|瞼《まぶた》の裏にはっきりと、七歳のときに亡くなった母の面影を描き出すことができる。幼いときに母をうしなった男の子のだれでもがそうであるように、私も自分の母ほど美しい婦人は、世の中にいないように思っている。母は小柄で万事小造りなひとだった。顔も小さければ、眼も鼻も口もちんまりと小さく整っていてまるでお|雛《ひな》様のようであった。手などもまだ子どもだった私と、そう変わらないほどの小ささでその小さな手で、母はいつもひとから頼まれた針仕事をしていた。そして始終沈んだ様子をしていて、口数もいたって少なく、外へ出ることはめったになかった。しかし、一度口をひらくと、もの柔らかな岡山弁が、音楽のように快く私の耳にひびいた。
その時分、私がいつも幼い胸をいためていたのは、この物静かなおとなしい母が、どうかすると真夜中などに、恐ろしい発作に襲われることであった。いままで静かに眠っていた母が、突如、がばと寝床のうえに起き直ると、恐怖のためにひきつったような舌で、なにかわけのわからぬことを早口でしゃべりながら、やがて|枕《まくら》につっぷして激しく泣き出す。そういうことがたびたびあった。そんなとき、母の気配に眼をさました私や、私の養父にあたる母の|良人《お っ と》が、左右から母の名を呼び、体をゆすぶっても、なかなか母は正気にもどらなかった。そしてさんざん泣いて泣いて泣きつくしたあげく、良人の腕に抱かれたまま、子どものように泣き寝入りをしてしまうのであった。そんなとき、私の養父は、夜じゅう母を抱いて、静かに背中をなでていた……。
ああ、私はいまこそ母の発作の原因を知ることができたのだ。いたましき母よ! あのように恐ろしい過去を持った母であってみれば、ときどきああして、恐ろしい悪魔に襲われたのも無理ではなかったのだ。
あの時分のことを思うと、私は養父に対して感謝の念を禁じえない。後年意見の衝突から、養父のもとをとび出して、ついに和解の機会がなかったことが、いまになってみると残念でならぬ。
私の養父という人は、|寺《てら》|田《だ》|虎《とら》|造《ぞう》といって神戸の造船所の職工長だった。母とは十五も年齢がちがっていたうえに、ずいぶん体の大きい、あから顔の、見たところはいかにも|怖《こわ》そうな人だったが、いまから考えると、心のひろい、りっぱな人だったと思われる。どうして母がこの人といっしょになったのか、いまもって私にはわからないが、ずいぶん母を大事にし、私をかわいがってくれたので、この人が自分の義理の父だということは、ずっと後になるまで私も知らなかった。籍を見ても私はちゃんとこの人の子どもとして入っていた。だから私はいまでも|寺《てら》|田《だ》|辰《たつ》|弥《や》というのである。
ただ、子どもごころに不思議に思ったのは、私の|肌《はだ》|身《み》はなさず持っている守り袋の|臍《へそ》の緒書きには、ちゃんと大正十一年生まれと書いてあるのに戸籍では大正十二年生まれとなっていることである。だから私は今年二十九歳なのだが世間一般には二十八歳で通っているのだ。
それはさておき、まえにもいったとおり私の母は、私が七つの時に死んだ。そしてその時からして私の前半生のほんとうの幸福は、ぴったりと停止したのだ。だが、こういったからとて、それから後の私の生活が悲惨なものであったなどというのではけっしてない。母が亡くなった翌年、父は新しい妻をめとった。そのひとは母とちがって大柄で、陽気でよくしゃべるひとであった。おしゃべりな女の多くがそうであるように、このひとも心に毒のない人だったし、養父はまえにもいったとおり、心のひろい人だったから、その後もずっと私のめんどうを見てくれて、小学校から商業学校と出してくれた。
しかしなんといっても血をわけていない親子の間には、何かしら欠けているものがあった。いってみれば、見た眼には別に変わりのない料理だが、食べてみると、大事な調味料が欠けているようなものだ。それに新しい母が、つぎからつぎと子どもを生んだので、邪魔にするというほどではなくとも、なんとなく私に対して、よそよそしくなるのは当然だろう。それが原因になったわけではないが、商業学校を出た年に、私は養父と大衝突をして家をとび出し、友だちのところへころげこんだ。
それからあとは別に変わったことはない。尋常の体を持った当時の青年の、だれでもがそうであったように、私も二十一の年に兵隊にとられた。そして間もなく南方へやられて、苦しい月日を送っているうちに、終戦となり、その翌年復員してきた。
さて、復員して神戸へかえってみると、全市みごとに焼けているのには驚いた。一度衝突した仲だけれど、いまとなってはただ一人、頼りに思う義父の家も焼けてしまって、義母も義理の弟妹たちの行方もわからなかった。しかも、聞くところによると養父は造船所が爆撃されたとき、爆弾の破片に当たって死んだということである。おまけに戦争にいくまえ勤めていた商事会社もつぶれてしまって、いつ再起するかわからないという状態である。
私はすっかり途方にくれたが、幸い学校時代の友人に親切な男があって、戦後新しくできた化粧品会社へ世話をしてくれた。この会社は特別によい業績をあげているというのではなかったが、さりとてやっていけぬというほどではなかったので、どうやら私も二年ちかく、最低生活だけは維持できたのである。
こうしてもしあの事さえなかったら、私はまだまだ苦しい、そしてまた平凡な生活をつづけていったことだろう。ところがそこに|俄《が》|然《ぜん》、灰色の私の人生に、一点の紅をたらしたような異常なことが起こった。そして、これが、きっかけとなって、私は眼もくらむような怪奇な冒険と、血の凍るような恐怖の世界に足を踏み入れたのであった。
そのきっかけというのはこうである。
あれは忘れもしない去年、すなわち昭和二十×年五月二十五日のことであった。九時ごろ会社へ出勤すると、しばらくして課長に呼ばれた。課長は私の顔をジロジロ見ながら、
「寺田君、きみは今朝のラジオをきかなかったかね」
と、尋ねた。
私がはいと答えると、課長は重ねて、
「きみの名はたしか辰弥といったね、そしてきみのお父さんの名は虎造といやあしなかったかい」
と、尋ねた。
私は今朝のラジオのことと、自分や養父の名前と、どういう関係があるのかと不思議に思いながら、それでもそうですと答えると、
「それじゃ、やっぱりそうだ。寺田君、ラジオできみを探している人があるぜ」
と、課長がいったので私も驚いた。課長の話によるとこうだ。今朝のラジオの尋ね人の時間に、寺田虎造の長男、寺田辰弥の居所を知っているものがあったら、つぎのところへ知らせてくれ、もしまた寺田辰弥自身がこのラジオをきいたら、本人じきじき出向いてほしいという放送があったそうである。
「それでぼくは相手のところを写しておいたのだがね。これだ。きみ、だれかきみを探すような人の心当たりがあるの」
課長の手帳には「北長狭通三丁目、日東ビル四階|諏《す》|訪《わ》法律事務所」と、書いてある。
私はこれを見て、まことに奇異な|想《おも》いにうたれたことである。いままで述べてきたところでもわかるとおり、私は孤児同然の身のうえなのだ。戦災をうけて行方のわからなくなっている義理の母や弟妹たちが、どこかに生きているのかもしれないけれど、その人たちは弁護士を頼み、ラジオを通じてまで、私の行方を探そうとは思えなかった。もし、養父が生きていたら、寄る辺ない、私の身をふびんに思って、探してくれるかもしれないけれど、その人はもうこの世にない人である。そのほかには全然心当たりがなかった。
私が奇異な想いにうたれてぼんやりしていると、
「とにかく行ってみるのだね。きみを探してくれる人があるのだから放っておいては悪いよ」
と、課長がはげましてくれた。そして、午前中ひまをあげるから、これからすぐに行ってみるようにと付け加えた。思うに課長も、はからずも自分が聴いた因縁があるので、この問題に好奇心を持っていたのだろう。
私はなんだか|狐《きつね》につままれたような気もし、また、一方にわかに小説中の人物になったような感じもしたが、課長がすすめてくれるままに、それからすぐに会社から出た。そうして一種の期待と、一種の不安に胸をとどろかせながら、北長狭通三丁目、日東ビル四階にある、諏訪法律事務所の一室で、諏訪弁護士と向かいあったのは、それから半時間もたたぬうちだった。
「なあるほど、ラジオというものは効果のあるものですな。こんなに早く反響があろうとは思わなかった」
諏訪弁護士というのは、色の白い、でっぷりと太った、いかにも人柄のよさそうな人物だったので、私もいくらか安心した。私はよく小説などで、悪徳弁護士のことを読んだことがあるので、何かそういうインチキの道具に使われるのではないかと、みちみち不安を感じていたのである。
諏訪弁護士はひととおり、養父のことや私の過去の経歴を聞いたのち、
「それで、その寺田虎造という人ですがね、それはあなたの実父でしたか」
「いいえ、実はその人は、私のほんとうの父ではないのです。私は母の連れ子でした。その母は私の七つのときに亡くなりましたが……」
「なるほど、あなたはそのことを、ずっと昔から知っていましたか」
「いいえ、小さいときには虎造という人を、ほんとうの父だと思っていました。ほんとのことを知ったのは、多分、母の亡くなる前後だろうと思います。いまはっきり思い出せませんけれど……」
「ところで、あなたのほんとうのお父さんですがねえ、その人の名を御存じですか」
「いいえ知りません」
私はそのときはじめて、自分を探しているのは、ひょっとするとほんとうの父かもしれないと気がついて、にわかに胸の高鳴るのを覚えた。
「あなたの亡くなられたお母さんも、あなたの御養父に当たる方も、その人の名をいったことはありませんか」
「いいえ、一度もきいたことはありません」
「お母さんはあなたの幼い時、亡くなられたのだから仕方がないとして、御養父に当たる方は、あなたが成人するまで生きていられたのでしょう。どうしていわなかったのでしょうねえ。まさか御存じなかったわけではあるまいが……」
いまになって考えると、養父の母の愛しかたからして、なにもかもいっさいの事情は知っていたことと思われる。しかし、それを私に話さなかったのは、おそらく話す機会がなかったためであろう。私が家をとび出さなかったら、兵隊にとられなかったら、そして自分が爆死しなかったら、いずれ話すつもりだったのではあるまいか。
私がそのことをいうと、諏訪弁護士はうなずいて、
「なるほどそう承ってみればそうでしょうねえ。ところであなたの御身分ですがねえ。けっしてお疑いするわけではありませんが、何か身元を証明するようなものをお持ちでしょうか」
私はしばらく考えたのち、小さいときから肌身はなさず持っている守り袋を出してみせた。
諏訪弁護士は守り袋をひらいて、例の臍の緒書きを出してみると、
「辰弥――大正十一年九月六日出生――なるほど、これにも名字が書いてないから、あなたはいまだにほんとうの名字を御存じないわけですね。おや、この紙はなんですか」
弁護士がひらいたもう一枚の紙というのは日本紙に毛筆で、地図のようなものが書いてあるのだが、実は私もその地図が、何を意味するのか知らなかった。それは不規則な迷路のような形をした地図で、ところどころに「|竜《りゅう》の|顎《あぎと》」とか「|狐《きつね》の穴」とかいうような、地名ともなんとも、わけのわからないことが書いてある。
そして地図のそばに、|御《ご》|詠《えい》|歌《か》のようなものが書きつけてあるのだが、その御詠歌が地図と何か関係があるらしいことは、歌の中に「竜の顎」とか、「狐の穴」とかいう同じ文句が入っていることでもわかるのである。それにしても私がなぜ、このようなえたいの知れぬ紙片を、後生大事に守り袋の中へ入れて持っているかといえばこれにはひとつのわけがある。
母がまだ生きていたころのことである。ときどき彼女はこの地図を出させて、じっと見ていることがあった。そんなとき、いつも沈んだ顔色をした母の面に、ボーッと朱がさして、|瞳《ひとみ》がきらきらとうるむのであった。そして最後にきまって、ホーッと深いため息をつきながら、こんなことをいうのであった。
「辰っちゃん、この地図はね、大事に持っているんですよ。けっしてなくするんじゃありませんよ。いつかこの地図が、あんたを仕合わせにしてくれることがあるかもしれない。だから、けっして破ったり、捨てたりしちゃいけませんよ。そしてね、このことはけっしてだれにもしゃべらないように……」
私は母の言葉を守って、いつもこの地図を肌身はなさず持っているのだが、ほんとうをいうと、幼いころとちがって、二十を過ぎる時分から、この一枚の紙片に、そんないやちこ[#「いやちこ」に傍点]な霊験があろうなどとは、だんだん考えなくなっていた。それにもかかわらず、破りもせずに持っているのは、一種の惰性みたいなもので、別に邪魔になるわけでもないので、とにかく持っているのであった。
だが、私はまちがっていたのだ。この地図こそは私の運命に、なんとも名状することのできない大きい影響を持っていたのだ。だがそのことについては、もっとさきで詳しくお話しする機会があるだろう。
諏訪弁護士もとくにこの地図に興味を持っていたわけではなかったとみえて、私が無言のままひかえていると、ていねいに畳んで、もとどおり守り袋にかえした。
「いや、これでだいたいまちがいのないことがわかりましたが、念には念を入れよということもありますから、最後にもうひとつ、私のお願いをきいていただきたいのですが……」私が|怪《け》|訝《げん》そうに顔を見ていると、
「実は、あなたに裸になっていただいて、体を見せてもらいたいのですが……」
私はそれをきいたとたん思わず火の出るほど真っ赤になった。
ああ、それこそは私のもっとも人に知られたくない秘密なのだ。幼いころから銭湯にいくこと、学校で体格検査をうけること、海水浴にいくこと、すべて衆人のまえに素肌をさらすことを私がどんなにいみきらったか。それというのが、私の体には背中といわずお|臀《しり》といわず|太《ふと》|股《もも》といわず、縦横無尽に傷跡があるのだ。それはまるでむちゃくちゃに焼け|火《ひ》|箸《ばし》でも当てがったような無残なあとだった。私は何も自慢するわけではないが、それさえなかったら、私の肌はたいへん白く、きめも細かで、女のように美しいのだ。そして肌がきれいであればあるだけ、紫色をしたその傷跡がいっそう毒々しく、見る人に恐ろしい感じを抱かせるのだ。しかも私はこの傷跡がいったいどうしてできたものだか少しも知っていなかった。幼いころ、私はときどきこの傷のことを母にきいたことがあるが、そんなとき、母が急にはげしく泣き出したり、また、例の発作を起こしたりするので、その後は聞かないことにきめていたのだ。
「何か私の体のことが……あなたの御用件に関係があるのでしょうか」
「そうです。もしあなたが私の探している人物にまちがいがないとしたら、あなたの体には、余人のまねようとてまねられない目印があるはずですから……」
私は思いきって上衣をぬいだ。ワイシャツもシャツもぬいだ。それからズボンもぬいで|猿《さる》|股《また》ひとつになった。そして諏訪弁護士のまえに、恥ずかしい裸体をさらしたのである。
諏訪弁護士はつくづく私の体をながめていたが、やがてホーッと深い吐息をもらすと、
「いや、ありがとうございました。さぞいやな思いだったでしょう。さ、早く洋服を着てください。これでもう完全にまちがいのないことがわかりました」
それから諏訪弁護士は、こんなことをいった。実はある人があなたを探している。名前はまだ申し上げられないが、その人はあなたの身寄りの人であり、あなたの居所がわかったら、引きとって、お世話をしたいといっている。その人はたいへん金持ちだから、きっとあなたのために悪いようにはならないだろう。私はもう一度その人とよく打ち合わせて、それからあなたに連絡することにする。そういって、諏訪弁護士は私の住所と勤務先をメモにひかえた。
私と諏訪弁護士の第一回の会見はこのようにして終わったのだ。
私はいくらかハッキリしたものの、まだ多分に狐につままれたような気持ちで社へかえると、課長に礼をいって、あらましのことを報告した。課長は眼をまるくして、
「ほほう、そりゃたいへんだ。するときみは大金持ちの御|落《らく》|胤《いん》かい」
課長がしゃべったとみえて、その話はたちまち社内にひろがって、その当座、私は会う人ごとに御落胤御落胤とひやかされたのには弱った。
その晩、私は眠れなかった。それはけっして幸福な期待に有頂天になったせいではない。それもいくらかはあったがそれよりも私には不安のほうが大きかったのだ。不幸だった母の、あの恐ろしい発作、それに自分の体にある毒々しい傷跡、それはけっして楽しい夢をそそるようなものではなかったからである。
私は何かしら、恐ろしいことが起こりそうな予感がしてならなかったのだ……。
無気味な警告
その時分私は八つ墓村についても、八つ墓村にからまる無気味な伝説についても全然知るところはなかった。ましてや自分がその村と、あのような因縁をもって結ばれていようなどとはどうして知ろう。
それにもかかわらず、降って|湧《わ》いたようなこの尋ね人の一件に関して、私が妙に不安を感じていたといえば、諸君はきっと、それを小説的な言い回しのように思うだろうけれども、けっしてそうではないのだ。
だいたい人間というものは、あまり激しい境遇の変化を好まぬものだ。いや、好まぬというよりも|臆病《おくびょう》になるのだ。ましてや私の場合のように、未来を待っているものがなんであるか、想像さえできぬ場合、いっそう臆病になるのは当然だろう。できるならばこのままそうっと放っておいてもらいたいような気がするのも無理はなかろう。
だが、そうかといって私は、諏訪弁護士からの通知が、このまま来なければよいとねがっていたわけではけっしてない。いやいや実はその反対に、私は首を長くして、弁護士からの通知を待っていたのだ。まことにそれは変てこな気持ちであった。通知が来るのが怖くもあるが、それかといって通知の来ない日は物足りなかった。
こうして奥歯にもののはさまったような、お預けされた犬みたいな、妙にもどかしい気持ちのうちに、五日と過ぎ十日とたっていったが、弁護士からはなんの音信もなかった。しかし、弁護士がこの問題を、あのままうっちゃらかしてしまったのでないことは、時日がたつにしたがって、だんだんはっきりわかってきた。
その時分私は友人のもとに寄宿していたのだが、ある日私が会社からかえってくると、若い細君がこんなことをいった。
「寺田さん、今日は妙なことがあったのよ」
「妙なことって?」
と私がききかえすと、
「変なひとが来てね、あなたのことを根掘り葉掘りきいていったのよ」
「私のことを……? 根掘り葉掘り?……ああ、それはこの間お話しした、弁護士の使いのものじゃありませんか」
「ええ、私もはじめはそう思ってたのだけれど、どうもそうじゃないらしいのよ。なんだか田舎のひとらしかったわ」
「田舎のひと……」
「ええ、そうよ、年齢はさあ……田舎のひとの年齢って、あたしにはよくわからないわ。それにね、その人合トンビの|襟《えり》を立て、黒眼鏡をかけ、帽子をまぶかにかぶってるんでしょう? 顔だってよく見えなかったわ。あたし、なんだか気味悪かったけれど……」
「それで、どんなことをきいていったんです」
「おもにあなたの品行や性質のことよ。酒を飲むかだの、ときどき気ちがいみたいに暴れ出すようなことはないかだの……」
「気ちがいみたいに暴れ出す……? 妙なことを尋ねたものですね」
「ええ、あたしも変に思ったわ」
「それであなたはどう答えたのです」
「むろん、そんなことはありませんと太鼓判をおしておいたわ。とても気のやさしい、思いやりの深いかただといっておいたわ。それにちがいありませんものね」
細君のお世辞にもかかわらず、私はなんだか不快な感じを|払拭《ふっしょく》しきれなかった。
弁護士が手をまわして、私の身元を調査しようというのはうなずける。また、そのついでに私の性癖を調べておこうというのもわからぬことではない。酒を飲むか、煙草を吸うかというような質問は、品行をしらべる場合、だれでも持ち出す問題である。しかし、ときどき気ちがいのように、暴れ出すことはないかという質問は、いささか突飛すぎるように思われる。いったいその人は、私の性質のなかから、何を探り出そうとしているのだろうか。
ところがそれから二、三日たって、私は会社の人事課長からまた同じような注意をうけた。会社へ来たのも、宿へ来たのと同じ人物らしく、帽子をまぶかにかぶり、黒眼鏡をかけ、合トンビの襟を立てて、妙に顔をかくすようにしていたそうである。そして、ここでも同じように、ときどき兇暴な発作におそわれて、暴れ出すようなことはないかと尋ねたというのだ。
「ひょっとすると、きみの知らないお父さんというのは、飲酒癖があって、飲むと暴れ出すくせがあるのかもしれないね。そういう悪い遺伝がきみにありゃしないかと、それを心配しているんだよ。なあに寺田君にかぎってそんなことは絶対にありませんといっておいたから安心したまえ」
かねてから私の落胤説をきいている人事課長は、そんなことをいってのんきに笑っていたが、私はそれどころではなかった。どすぐろい不安と不快の影は、いよいよ色濃くなるばかりだった。
もし諸君が二十七歳にして、おまえの体内には気ちがいの血がながれているぞといわれて見たまえ。どのように大きなショックを感ずるか。――むろん私はまだはっきりとそう指摘されたわけではない。しかし私のことを尋ねている人物は、間接にそれを私に|覚《さと》らせようとしていると思われぬこともない。いや、私に覚らせるのみならず、世間にむかって吹聴しているようなものだ。
私はなんとなくいらいらとした気持ちになった。こんな中途半端な気分でいるよりは、いっそこちらから諏訪弁護士のところへ出向いていって、ききたいことがあるならば直接なんでもきいてほしいといってやろうかと思った。しかし、そうするのもなんとなく、さもしいような気がするので、ぐずぐずと決心をつけかねていると、そこへ飛びこんだのが、あの気味の悪い手紙なのだ。
それははじめて諏訪法律事務所へ出向いた日から数えて十六日目のことであった。いつものようにあわただしい朝飯をすませて出勤の身支度をしていると、
「寺田さん、あなたへお手紙よ」
と、表のほうから友人の細君が呼ぶのがきこえた。私はそれをきくと、すぐ諏訪弁護士のことを思いうかべはっと胸をとどろかせた。それというのがその時分、弁護士からの便りを今日か明日かと待ちこがれていたせいもあるが、もうひとつには、私には手紙をくれるような親戚や友人はひとりもいなかったからだ。
ところがさてその手紙を手にとってみて、私は少なからず妙な気持ちがしたことだ。
それはまるで、便所のおとし紙のようにどすぐろい色をした、粗悪な|漉《すき》直しの封筒で、かりそめにも日東ビルの四階に、事務所を持っている、弁護士などの使うべき品とは思われなかった。おまけにあて名の文字も子どものように下手クソで、ごていねいにもところどころ、ボタボタとインキがにじんでいる。裏をかえしてみると差出人の名前もなかった。
なんとなく怪しい胸騒ぎを感じながら、私は急いで封を切ったが、するとなかから出てきたのは、これまたおとし紙のような安物の|便《びん》|箋《せん》で、そこには表書きと同じようにインキのにじんだ下手クソな字で、つぎのようなことが書いてあるのだ。
[#ここから1字下げ]
八つ墓村へかえってきてはならぬ。おまえがかえってきても、ろくなことは起こらぬぞ。八つ墓明神はお怒りじゃ。おまえが村へかえってきたら、おお、血! 血! 血だ!二十六年まえの大惨事がふたたび繰りかえされ八つ墓村は血の海と化すであろう。
[#ここで字下げ終わり]
いっとき私は放心状態におちいっていたにちがいない。若い細君の呼ぶ声が、はじめのうち、どこか遠いところからきこえてくるような気持ちだったが、そのうちやっと現実世界にひきもどされると、私はあわててその便箋を封筒におさめ、ポケットのなかへ突っ込んだ。
「寺田さん、どうかなすって? その手紙になにか変わったことでも書いてあって?」
「いや、別に……どうしてですか」
「だって、あなたのお顔、|真《ま》っ|青《さお》よ」
細君はさぐるように私の顔を見ていた。
そうかもしれぬ。いや、当然そうあるべきはずだった。このような奇怪な手紙を受け取って、驚かぬものが世にあるだろうか。私の胸はあやしく乱れ、全身からねっとりと気味の悪い脂汗がふき出す感じだったが、|強《し》いて平静をとりつくろうと、物問いたげな細君の眼をさけるようにして、それから間もなくそそくさと、私は友人の家から出ていった。
幼いときから孤独になれた私は、めったなことでひとの意見をたたいたり、他人の同情にすがったりすることを好まぬのだ。自分はつねにひとりぼっちであるという意識は、母をうしなって以来、私の性質の底の底までしみとおっていて、どんな逆境にあっても、どんな災難をこうむっても、私はけっして愚痴をこぼして、ひとの同情をもとめようとは思わなかった。他人を信用しないのではないけれど、ひとにはそれぞれ思惑もあれば屈託もある。それをうっちゃらかしておいてまで、私の力になってくれるものはないであろう。……
ああ、この性癖……孤独癖からくる私のこの寂しい、しかし、見ようによってはしぶといとも見えるであろうこの性癖のために、その後私がどのように誤解され、どのような恐ろしい災難をこうむらねばならなかったか……むろん私はその時分、そんなことを知る由もなかったのだ。
それはさておきこの手紙が、どんなに私を動転させたか、諸君にもわかっていただけることと思う。
八つ墓村――私がこの奇妙な、まがまがしい名前に接したのは、実にそのときがはじめてだった。八つ墓村――その名前からしてすでに、ひとを脅かすのに十分だのに、そこにはさらにさまざまな、異様な脅し文句が書きつらねてあるではないか。八つ墓明神のお怒り……血! 血! 血だ!……二十六年まえの大惨事……八つ墓村は血の海と化すであろう。……
いったいこれはどういう意味なのだ。この手紙を書いた人物の真意はいったいどこにあるのだ。わからない。私にはなにもわからないことばかりだった。そしてわからないだけにいっそう無気味なのだ。
ただわかっていることは、この手紙もまた、このあいだの尋ね人の一件と、関係があるらしいことである。してみると、諏訪弁護士が私を発見して以来、少なくともふたりの人間が、急に私というものに、関心を払いはじめたことになる。あちらこちらで私の身元性癖を調べまわっている男と、この手紙のぬしと。……
いや!……と、そこで私は急に気がついて立ちどまった。ひょっとすると、そのふたりは同じ人物ではあるまいか。すなわち、私のことを尋ねまわっている男が、この手紙を書いたのではあるまいか。私はそこでもう一度、ポケットのなかから例の手紙を取り出してみた。そしてずいぶん念入りに、消印のところを調べてみたのだけれど、残念ながらインキがかすれて、消印の文字も読めなかった。
それはさておきその朝の私は、思い惑い、ほとんど途方にくれる気持ちだったので、幾台かの満員電車に乗りそこない、やっと社へ駆けつけたのは、定時から半時間もおくれた九時半ごろのことであった。ところが私が社へつくとすぐに給仕が、課長さんが呼んでいると教えてくれた。そこで私がまっすぐに課長の部屋へ入っていくと、課長は上きげんで、
「やあ、寺田君、待っていたよ。実はさっき諏訪法律事務所から電話がかかってね、すぐきみに来てくれというのだ。どうやらいよいよ父子対面ということになるらしいぜ。きみ、金持ちの親父さんが見つかったら、一度われわれをおごらなきゃいけないぜ。はっはっは。おや、どうしたんだい、なんだか顔色が悪いじゃないか」
それに対して私がなんと答えたか覚えていない。何か答えたとしても、それはおそらく意味をなさない言葉だったろうと思う。妙な顔をしている課長をあとにのこして夢遊病者のように私はフラフラと社から出ていった。そしていよいよ、恐怖と|戦《せん》|慄《りつ》の世界へ一歩ふみ出していったのである。
第一の殺人
それから間もなく私の直面した出来事を、どういうふうに書いていってよいのか私にはわからない、私にもしすばらしい筆力があるならば、この場面をもって物語の最初のヤマ場とすることができるだろう。
しかし、私にはとてもそれだけの筆力はないし、事実またその出来事は、裏面の恐ろしさはともかく、表面はしごくあっけなく行なわれたのである。そのとき私がぼんやり感じたところを正直に打ち明けると、なんだこれが人間の死なのか、してみると、人間の命なんてなんともろいものであろうか……というような、まことにたあいのない感じであった。もっとも、のちになるほど、恐ろしさがこみあげてきたけれど。……
それはさておき、私が諏訪法律事務所へ駆けつけたとき、そこにはひとりの先客があった。
その人は|胡《ご》|麻《ま》塩頭を丸坊主にして、軍隊からの払い下げらしい、カーキ色の兵隊服を着ていた。みごとに渋紙色に染めあげられた顔色といい、ゴツゴツと節くれ立って、煙草の|脂《やに》に染まった指といい、どう見ても田舎のひとである。そして友人の細君同様、私にも田舎のひとの年輩は見当がつきかねたが、たぶん六十から七十までのあいだだろう。
その人はいかにも窮屈そうに事務所の安楽|椅《い》|子《す》に座っていたが、私の姿を見ると、ギクリとしたように腰をうかして、弁護士のほうをふりかえった。その動作からして本能的に、私はこの人こそ、私を探している人――あるいは探している人に関係のある人物だろうと推察した。
「やあ、いらっしゃい。お待ちしていましたよ。さあ、どうぞ、そこへお掛けなさい」
諏訪弁護士はあいかわらず如才がなかった。デスクのまえの椅子を指しながら、
「ずいぶん待ちくたびれたでしょう。私もね、できるだけ早く吉報をお知らせしたいと思ったのですが、なにしろちかごろは電報でも郵便局でも手間取りましてね。やっと最近打ち合わせが終わったものですから……御紹介しましょう」
弁護士は安楽椅子の老人をふりかえると、
「こちらは|井《い》|川《かわ》|丑《うし》|松《まつ》さんといって、あなたのお|祖《じ》|父《い》さん……亡くなられたあなたのお母さんのお父さん、つまり母方の祖父にあたる方ですね。井川さん、こちらがいまお話しした辰弥さん、鶴子さんの息子さんですよ」
私たちは椅子からちょっと腰をうかして、ただ簡単に目礼を交わしただけだった。目礼がすむと私たちは、すぐに視線をそらしてしまった。祖父と孫の初対面としては、まことにあっけないものだったが、事実はつねにかくのとおりのものなのだ。新派悲劇のようにはなばなしくはいかないものだ。
「さて、あなたを探し出して引き取ろうというひとですがね、それはこの御老人ではないのですよ」
祖父の風体のあまり金持ちらしくも見えないところから私が失望しやあしないかとでも思ったのであろう。弁護士は急いで言葉をつぐと、
「むろん御老人だって人情としてあなたのことを気にかけていられないことはなかったでしょうが、こんどはただ使者に立たれただけで、ほんとうにあなたを探しているのは、お父さんの親戚のかたなのです。ここで手っ取り早く、あなたの本姓をおしらせしておきましょう。あなたの本当の姓は田治見……。つまりあなたは田治見辰弥というのがほんとうの名前なんですね」
諏訪弁護士はデスクのうえのメモを繰りながら、
「ところであなたのお父さん……亡くなられた要蔵さんというかたには、あなたのほかに二人の子どもがあった。久弥さんに春代さんといって、あなたにとっては腹ちがいの兄さん姉さんにあたるかたですね。久弥さんも春代さんももう相当の年齢に達していられるのですが、おふたりとも体が弱くてまだ独身でいらっしゃる。いや、春代さんのほうはわかいころ、一度かたづいてもどってこられたのでしたかね」
祖父は無言のままうなずいた。その人は初対面の目礼を交わしたのちは、ずっとうつむいたきりだったが、それでもときどき顔をあげては、ぬすむように私の横顔を見ていた。そしてその眼がしだいにぬれてくるのに気がついたときには私も胸を打たれずにはいられなかった。
「さてそういうわけで久弥さんにも春代さんにも、いくいく子宝を恵まれる希望がないわけで、そうなると由緒ある田治見の|嫡流《ちゃくりゅう》は絶えてしまう。それを心配なすったのがあなたの大伯母にあたるかた、つまり、要蔵さんの伯母さんにあたるひとですが、この伯母さんはふたりあって、|小《こ》|梅《うめ》さんに|小《こ》|竹《たけ》さんといって双生児なんです。おふたりとも、むろんずいぶんの御高齢なんですが、まだしっかりとしていられて、田治見家のいっさいの|采《さい》|配《はい》をふるっていらっしゃる。そのひとたちが相談のあげく、小さいときお母さんとともに行方不明になったあなたを探し出して、田治見の家をつがせよう……と、いうのがだいたいの事情なのです」
私の胸はしだいに大きく波打ってくる。それはなんとも名状することのできない感情であった。喜びか、悲しみか……いやいや、まだまだそのように、割り切れた感情に達するまでには遠いのだ。ただ、もうわけのわからぬ惑乱に私の心は圧倒されそうであったのだ。それに、以上の説明だけでは、まだまだ私には納得のいきかねるところもあった。
「と、まあ、だいたい以上のような事情なんですが、詳しいことはいずれ御老人からお話があると思います。ところで差しあたって何か御質問がありますか。私にお答えできることならなんなりと……」
私は大きく呼吸をすると、いちばん気になることから切り出した。
「私の父というひとは亡くなったのですか」
「ええ、まあね、だいたいそういうことになっています」
「だいたい……? だいたいというのはどういう意味ですか」
「いやあ、それは……そこんところはいずれ御老人から、改めてお話があると思いますが、だいたい、あなたが二つのときにお亡くなりになったと、まあ、それくらいで勘弁してください」
私の心は怪しく乱れたが、しかし、それ以上突っ込むわけにもいかなかった。それにいずれその話は祖父から聞かせてもらえるというのだ。そこで私は第二の質問を切り出した。
「それでは私の母ですが、母はなぜ私をつれて出奔したのですか」
「いや、それはごもっともな質問ですが、ここではちょっと……そのこととお父さんの死と、深い関係があるのですが、いずれそれらの事情はひっくるめて、御老人からお話があると思います。何かほかに御質問はありませんか」
大事な質問を二つまで外されて、私は少なからず不満だったが、同時にまた、私の心はいよいよ怪しく思い乱れた。
「それではもうひとつお尋ねします。私は今年二十七になります。それまでついぞ自分の肉親について知らなかったし、あなたがたのほうでも私を探そうとはなさらなかった。それになんだっていまになって、急に私を探しはじめたのです。さっきのお話でだいたいわかったようにも思いますが、なんだかまだ|腑《ふ》に落ちないところがあるのです。いまうかがった事情のほかに、なにかもっと、別のさしせまった動機があるのではないのですか」
弁護士と祖父とはすばやい眼配せを交わしたようであったが、やがて、弁護士はつくづくと私の顔を見直して、
「いや、あなたはなかなか鋭い頭脳を持っていらっしゃる。そう、そのことは将来、あなたの身に重大な関係を持ってくるかもしれませんから、ここで一応お話ししておきましょう。しかし、このことは絶対に他言無用ですよ」
こう念を押しておいて、弁護士が語ってきかせた事情というのはこうである。
私の父の要蔵には修二という弟があったが、これは母の実家をつぐために、早くから家を出て|里《さと》|村《むら》姓を名乗っている。この|里村修二《さとむらしゅうじ》には|慎《しん》|太《た》|郎《ろう》という息子があったが、軍人を志望して少佐になっていた。戦争中は参謀本部づきかなんかでたいへん幅を利かせていたが、終戦と同時に|尾《お》|羽《は》打ち枯らして郷里へかえり、いまでは失意の身で百姓のまね事のようなことをやっている。年齢は三十六、七だが、まだ独身で妻も子どももない。しかし軍人だっただけに体はいたって|頑《がん》|健《けん》である。したがって、いまもし久弥や春代にもしものことがあれば、田治見の財産は当然、慎太郎のふところへころげこむわけだが。……
「どういうものか、あなたの大伯母というひとたちが、慎太郎というひとを好まないのです。いや慎太郎という人のお父さんの修二さん、この人はもうとっくになくなっているのですが、その人を昔から好まなかった。そのきらいな人の子どもであるのみならず、慎太郎という人は幼いときから村を出て、めったに帰郷したこともないから、まるで赤の他人も同然なのです。そういう感情は二人の御老婆のみならず、久弥さんにしても春代さんにしても同様だから、そこできらいな慎太郎氏に跡をとられるくらいなら、いっそあなたを探し出して……と、いうのがまあ、打ちあけたところ、田治見家のひとたちの真意のようです。さあ、これでだいたい私の役目はすみましたから、あとはゆっくり御老人におききくださるんですな。では私はちょっと中座しますから……」
私の心は急に重くなってきた。少なくともここにひとり、私の帰村をよろこばない人物があるわけだ。そのことと今朝受け取った無気味な警告状のことを思いあわせると、|忽《こつ》|然《ぜん》として私は、真相の一部に突きあたったような気持ちだった。
弁護士が立ち去ったあと、私たちはずいぶんながく黙りこくっていた。事実は小説や芝居のようなわけにはいかないのだ。いかに肉親とはいえ、そうにわかに打ちとけられるものではなく、いや、肉親であればあるだけぎこちなさが先に立って、お互いにそらぞらしい言葉はつかえないのだ。
……と、私はそのとき、祖父があんなにもながく黙りこくっているのを、そんなふうに解釈していたのだが、いずくんぞ知らん、事実はそればかりではなく、祖父はあのとき内臓をむしばまれていく苦痛に、口をきくことすらできなかったのだ。
私は祖父の額にねっとりうかんだ脂汗を、不思議そうに見守りながら、思い切ってこちらから口をひらいた。
「お|祖《じ》|父《い》さん」
祖父はちらりと眼を動かしたが、言葉は出ずに、きっと食いしばったくちびるがわなわなとふるえていた。
「私の生まれた村は八つ墓村というのですか」
祖父はかすかにうなずいた。くちびるからは一種異様な|呻《うめ》き声がもれたが、それでも私はまだ気がつかなかった。
「それだとお祖父さんに見ていただきたいものがあります。今朝私は妙な手紙を受け取ったのですよ」
私はポケットから手紙を取り出すと、中身だけ抜き取って祖父のまえにひろげて見せた。祖父はそれを取ろうとして手をのばしかけたが、急にがっくりまえにのめった。
「あ、お祖父さん、どうしたのですか」
「辰弥……水を……水を……」
それが直接、祖父が私にむかって口をきいた、最初であると同時に最後でもあったのだ。
「お祖父さん、どうしたのです。気分でも悪いのですか」
私はあわてて例の手紙をポケットにねじこむと、デスクのうえにあった|土《ど》|瓶《びん》をとりあげたが、そのとき、祖父をおそったはげしい|苦《く》|悶《もん》の|痙《けい》|攣《れん》とともに、絹糸のような血の一筋が、祖父のくちびるのはしから流れ出すのを見て、私は思わず悲鳴をあげて人を呼んだ。
美しき使者
それから十日あまり、私はわけのわからぬ激しい|渦《うず》のなかに立たされていたものだ。二十七年間の私の生涯は、戦争という一事をのぞいては、だいたいにおいて退屈な灰色に塗りつぶされていたのだ。ところが、あの尋ね人という一件が、ポトリと、灰色の人生のうえに、一滴の朱をおとしたかと思うと、その朱のいろは、みるみるうちにひろがって、やがて私の生活を真っ赤に塗りかえていったのだが、思えばあの十日間こそ、最初の朱のひろがりであったろう。
最初私は祖父の死を、|漠《ばく》|然《ぜん》と持病の発作かなんかであろうと思っていた。ところが駆けつけてきた医者がまず死因に疑いをいだき、警察に報告したところから、俄然騒ぎは大きくなった。
死体はすぐに県立病院へうつされ、そこで警察の嘱託医によって慎重に解剖されたが、その結果、ある劇烈な毒による中毒死ということが判明するに及んで、私の立場はにわかにむずかしくなってきた。
警察がまず疑いの眼をむけたのも無理のないところで、私こそ、祖父と最後の数分間をいっしょに過ごした、ただ一人の人物だったからだ。聞くところによると、私が事務所へやってくるまで、祖父は三十分ほど諏訪弁護士と対談していたそうだが、そのあいだなんの異状もなく、また、私がやってきてから約十分間、祖父の様子にはとりたてて変わったところも見受けられなかった。変わったところがなかったからこそ弁護士も安心して、私たちをのこして中座したのだ。ところが、弁護士が立ち去ってから間もなく苦悶をはじめ、やがて|もが[#「もが」は「足偏」+「宛」Unicode="#8e20"]《もが》き|死《じ》にに死んだというのだから、だれが考えても、私が一服盛ったとしか思えなかったのも当然だろう。
「冗談じゃない。この人がなんの必要があって、自分の祖父に毒を盛るというんです。それにこの人……寺田君はいままで一度だってあの老人に会ったことはないのですよ。殺人狂ででもないかぎり、そんな馬鹿なことができるもんですか」
諏訪弁護士はこういって私を弁護してくれたのだが、この弁護は弁護にして弁護になっていなかった。諏訪弁護士はけっしてそんなつもりでいったのではなかったろうけれど殺人狂ででもないかぎり、そんな馬鹿なことができるものかという言葉は、裏返してみれば、もし私が殺人狂であったとしたら、あんなことをしたかもしれないという意味になるのだ。しかも、その時分私自身まだ知らなかった自分の|呪《のろ》わしい出生を、警察では諏訪弁護士からきいていて、ちゃんと知っていたのである。
私は係官が妙に|猜《さい》|疑《ぎ》にみちた眼で、ジロジロ私の顔色をうかがいながら、私の健康状態、わけても精神状態について、根掘り葉掘りたずねるのに、ほとんど耐えることができなかった。係官のくちぶりから察すると、ときどき耳鳴りがするとか、あやしい幻覚に悩まされるとか、はげしい|憂《ゆう》|鬱《うつ》症におちいるとかそういうふうに告白すれば満足するらしかったが、正直のところ、私はいままで一度もそのような不快な症状に悩まされたことはない。私はけっして人一倍快活なほうではないが、これは孤独な境涯から来ているところで、自分ではまず普通の人間だと思っている。
しかし、係官はなかなか私の言葉を信用しないらしく、二、三日、私は繰り返し繰り返し自分の精神状態について尋問をつづけられた。
ところがそうしているうちに、急に局面が変わってきたのだ。私はのちになってその原因を知ることができたのだが、だいたいそれは次のとおりであった。
祖父を殺した毒物というのは、非常にはげしく舌を刺すもので、尋常の手段ではとても服用させられないような種類のものであった。警察の嘱託医はかねてこの点に疑問をもっており、そこで入念に胃の内容物を分析してみたところ、ついに溶解したゼラチンを検出することができたのである。
そこでこういうことになる。祖父を殺した犯人はカプセルに入った毒物をあたえたのだが、そのカプセルが胃のなかで溶解するには、相当時間がかかるから、そうなると、祖父と会って十数分間にしかならぬ私は、当然、|嫌《けん》|疑《ぎ》の外へおかれたわけだ。
ところがそうなると、改めて嫌疑の対象となるのは、諏訪弁護士であった。私はそのときはじめて知ったのだが、祖父は諏訪弁護士の宅に一晩泊まったのだそうである。そして、これもそのときはじめて知ったのだが、諏訪弁護士も八つ墓村の出身者であったそうな。八つ墓村には私の家の田治見家のほかに、もう一軒野村家という分限者があり、諏訪弁護士はこの野村家の縁者であった。そういうところから、こんどの調査も商売気をはなれて引き受けたものらしく、八つ墓村から関係者が神戸へ出てきたときは、いつも宿を提供していたというのである。
しかし、諏訪弁護士にしたところで、祖父に毒など盛ろういわれはなく、そうなると、いったいだれが毒をのませたか。こうして、捜査はまた|暗礁《あんしょう》に乗りあげたかたちになったが、そこへ諏訪弁護士の電報によって、祖父のあと始末かたがた、改めて私を引きとるために、八つ墓村から出てきた人物が、やっと神戸についた。そして、そのひとの話によって、一挙にして疑問は氷解したのだ。
祖父にはかねてから|喘《ぜん》|息《そく》の発作があり、ことに興奮すると発作はいっそう激しかった。そこで医者にたのんで特別につくってもらった薬を、いつも用意していたが、こんどのように、はじめて孫に会う旅行では興奮のほども思いやられるから、その薬を用意していないはずはない。その薬がカプセルのなかに入っていることは、村じゅうだれ一人知らぬものはないくらいだから、ひょっとすると犯人は、それらのカプセルのなかに、毒物を封じた別のカプセルを混ぜておいたのではあるまいか。……
この新しい証言によって、すぐに祖父の荷物が調べられたが、すると果たして三個のカプセルの入ったボンボンの|鑵《かん》が現われた。それらのカプセルの中身も厳重に分析されたがこれは紛れもなく喘息の薬で、別に異常はなかったという。
しかし、このことからして、祖父は喘息の薬とまちがえて、毒薬を飲んだのであろうということになり、そうなると、犯人は遠く八つ墓村にいるということになる。こうして事件は八つ墓村へ移されることになり、おかげで私も弁護士も、嫌疑の外へおかれることになったのであった。
「いや、|美《み》|也《や》さんのおかげで助かったよ。なに、ぼくなどたとい見当ちがいの嫌疑をこうむったところで、いずれなんとか切り抜けてみせる自信はあるが、たびたび呼び出されちゃやっかいだからね」
「ほほほほほ、さすがの諏訪さんもいくらかまいったらしいわね。でもあなたや私なんか海千山千だからいいけれど、こちらお気の毒でしたわね。あなた、ずいぶんびっくりなすったでしょう」
それはふたりの嫌疑が完全に晴れた晩のことであった。お祝いにいっぱいやろうという諏訪弁護士にまねかれて上筒井にある弁護士の自宅へおもむいた私は、そこで世にも意外なひとに紹介されたのである。
「こちら森|美《み》|也《や》|子《こ》さん、われわれにとっては救いの神ですよ。わざわざ八つ墓村から出てきて、丑松さん殺しの疑問を一挙にして解決してくれたのはこのひとなんです。美也さん、こちらが問題の寺田辰弥君……」
ああ、そのときの私の驚きをなんといって表現したらよいだろうか。八つ墓村といういやな名前や、さてはまた祖父丑松の|鄙《ひな》びた風体などからして、私はいままでその村を野蛮な|人外境《じんがいきょう》かなんぞのように考えていたのだ。ところがいま眼のまえにいるひとは、都会でだってそうざらには、お眼にかかれないような美しいひとだった。いやいや、美しいのみならず、都会的に洗練されつくした技巧が、ちょっとした身のとりなしや、口のききかたにもうかがえるのだ。
そのひと――年齢はたぶん三十をいくらか出ているのだろう。肌の白くてきめの細かいことは上質の練り絹を見るようであった。面長な、どちらかといえば古風な顔立ちなのだが、それでいて古臭い感じはどこにもなく近代的な才気がピチピチと躍動しているのは、うちにある知性のせいであろう。髪をアップにした|襟《えり》|足《あし》の色気はこぼるるばかりで、その夜彼女は和服を着ていたのだが、きものの線の美しさときたら、こういうのを|小《こ》|股《また》の切れあがった女というのではなかろうかと、私はそぞろに|妖《あや》しく心の乱れるのを覚えたくらいであった。
「あっはっは、驚いた、驚いたね、寺田君、驚いたでしょう。こういう変わり種がいるんだから、八つ墓村も馬鹿にはならない。これでこのひと、旦那さんをなくしてね、つまり陽気な|寡《か》|婦《ふ》というわけで、目下よい候補者を物色中なんだから、向こうへ行ったら君なんかもねらわれるくちかもしれないぜ、あっはっは……」
酒がまわるにつれて、諏訪弁護士は上きげんで、そんな冗談をいったりした。そのたびに世なれない私は、かあーッと熱くなったり、かと思うと、急にガタガタふるえ出しそうなほども、身内が冷たくなったりするのであった。
「まあ、いやあね。初対面のかたに失礼じゃありませんか。あなた、ごめんなさい、このひとったら酔うととても口が軽くなっちまうんですもの」
「諏訪さんとは以前から御懇意なんですか」
「ええ、遠い縁つづきになっておりますの。八つ墓村から都会へ出るひとって、あまりたくさんないでしょう。だもんですからついウマが合って……そうそう、あたしも焼け出されるまで東京にいたんですのよ」
「だけど美也さん、きみはいったいいつまであんな牛くさい田舎にくすぶってるのさ。きみみたいな人が田舎にいるということは、田舎自体迷惑だし、都会だってきみみたいな麗人を失っちゃ寂しいよ」
「だから、東京にいい家が建つようになったら引きあげるといってるじゃありませんか。あたしだってあんな田舎に骨を埋めるつもりはありませんから御安心ください」
「そりゃそうだろうが、少し落ち着きはらい過ぎるよ。もう何年になるかな。終戦の年からだから、足かけ四年か。きみみたいな人が四年もよくあんなところでしんぼうできたものだ。八つ墓村になにか|惹《ひ》きつけられるようなものでもあるのかい」
「馬鹿なことおっしゃい。それよりあたし、寺田さんにお話があるのよ」
美也子はピシリときめつけるように諏訪弁護士を押さえると、私のほうへ向きなおって美しくほほえんだ。
「寺田さん、あたしあなたをお迎えにまいりましたのよ。御存じでしょう?」
「はあ……」
「お祖父さま、お気の毒でした。こんなことになると知ったら、はじめからあたしがお迎えにくればよかったのですね。田舎のひとって、村では大きな口をたたいていても、外へ出るとからきし意気地がないんですものね。それであなたの大伯母さま、小梅さまと小竹さまに頼まれて、丑松さんのあと始末かたがた、あなたをお迎えにまいりましたの。二、三日うちに立とうと思いますけれど、ごいっしょしてくださいますわね」
「はあ……」
私の体はまた熱くなったり冷たくなったりしたことだ。
ああ、こうして私の灰色の人生にたらされた朱の色はとめどもなくひろがり、ひろがり、ひろがっていく。……
第二章 疑惑の人
森美也子は二、三日うちに八つ墓村へたちたいといっていたが、そこは女のことで、たまに田舎から出てきたのだから、買い物もしていきたいし、阪神間に住んでいるお友だちも訪ねたいし、また、久しぶりに芝居も見ていきたいしというわけで、一日のばしに|逗留《とうりゅう》がのびて、私たちがいよいよ八つ墓村へ向けて出発したのは、六月二十五日のことであった。
思えばラジオの尋ね人から、私がはじめて諏訪法律事務所を訪れたのは、五月二十五日のことであった。その間わずか一か月だったけれど、私にとってそれはなんというあわただしい、そして目まぐるしい一か月だったろうか。いよいよ出発ときまるまで、私は毎日のように、諏訪弁護士の自宅を訪れた。どうかすると、美也子から電話で呼び出されて、買い物や芝居見物のお供を仰せつけられたりしたものだ。
生まれてからこっち、異性というものに接触する機会の少なかった私には、それはなんともたとえようもないほどうれしい、胸のワクワクするほど楽しい経験ではあったが、それと同時に、まえから|漠《ばく》|然《ぜん》ときざしていた、不安というか、|危《き》|懼《ぐ》というか、恐怖というか、……いやいや、それらをごっちゃまぜにしたような感情の根も、日ましに深くなっていき、はては|暗《あん》|澹《たん》たる絶望感にさえ襲われるにいたったのだ。
それというのが、どうせ一度は話さなければならないことだが、何もかもいっときに打ち明けて、あまり大きなショックをあたえるのもかわいそうだとでも考えたのだろう、諏訪弁護士と森美也子は、出発のあわただしい往来のあいまあいまに、少しずつ私の出生にからまるあの恐ろしい出来事を話してくれたのだ。
そのことについては、別に発端として書き加えられるはずだから、私は改めてここに書かない。いや、書くにしのびないのだ。父と母とのあのように恐ろしい、いたましい|葛《かっ》|藤《とう》を、子として筆にすることができようか。ああかわいそうな母よ! 私はそのときはじめて、幼時、自分の胸をいたましめた、母のあの恐ろしい発作の原因を理解することができたのだ。と、同時に自分の全身にきざまれている、あの無気味な傷跡の由来も納得することができたのだ。
そのことは二つとも、鉛のように重っ苦しく、私の胸を押しつぶしたが、さらにさらに私の心を苦しめたのは、最後に打ち明けられたあのものすさまじい三十二人殺しの|顛《てん》|末《まつ》だった。諏訪弁護士と森美也子は、できるだけ私を驚かさないように、静かに、さりげなく話してくれたのだけれど、それでもなおかつ私のうけたショックは、たとえようもないほど大きかった。その話をきいた直後、私は全身が氷のように冷えわたるのを覚え、息の根もとまるかと思われるほどだった。いっとき私は石になったように、シーンとしずまりかえっていたが、やがて、押さえても押さえても押さえきれぬ|戦《せん》|慄《りつ》が、あとからあとからこみ上げてきて、しばらくは全身のふるえがとまらぬくらいだった。
「ほんとうにこれはいやな役目ですわ。本来ならば、この話は、あなたのお祖父さまの丑松さんにしていただくつもりだったのですけれど、丑松さんがあんなことになられたので、諏訪さんとも御相談して、わたしたちの口からお話しすることにしたのです。ほんとうにお気の毒だと思います。いいえ、お気の毒を通り越して、残酷な気さえしました。しかし、これから故郷へおいでになる以上、一度はきかされる話ですから……どうぞ悪く思わないでくださいね」
美也子はいたわりをこめた声でそういうと、いたましそうに私の顔を見守ってくれる。私はやっと、のどにからまる|痰《たん》を切った。
「いいえ、悪く思うどころか……あなたがたのお心遣いは感謝にたえません。そうです。どうせ、一度は聞いておかねばならぬ話でした。同じ聞かされるなら、あなたがたのような親切なかたから聞かされるほうが、どのくらい仕合わせかしれません。しかし、森さん」
「はあ……」
「村の人たちはぼくをどう思っているのでしょう。いまぼくが村へかえっていったなら、村の人たちはどんなふうに考えるでしょう」
美也子と諏訪弁護士は顔を見合わせたが、やがて諏訪弁護士はおだやかにこういった。
「寺田君、そんなことは考えないほうがいい。そんなふうに、ひとのことを考えていては一日だって生きていられやしないぜ」
「そうですわ。諏訪さんのおっしゃるとおりよ。それにあなたには、なんの罪もあるわけじゃないんですもの」
「いや、そういってくださるあなたがたのお気持ちはよくわかります。しかし、ぼくは知っておきたいのです。村の人々がぼくに対して、どういう感情をあたためているか、それをあらかじめ知っておきたいのです」
諏訪弁護士と森美也子は、ふたたび顔を見合わせたが、やがて美也子がうなずいて、
「ええ、そういえば、あらかじめそのことを知っておいたほうがいいかもしれませんわね。あなたにもなにかと気持ちのうえで、準備がいることでしょうから、……率直にいって村の人たちは、あなたに対してよい感じを持っていないようですわね。考えてみればそれは理不尽なことです。あなたにはなんの罪もないわけだから……しかし、親を殺され、子を殺された人たちにとってみれば、無理もないことかもしれません。それに、いけないことには、田舎の十年は都会の一年にも当たらないのですよ。都会では人の離合集散がはげしいから、たいていのことは一年もたてば忘れられてしまいますわね。しかし、田舎では人がみんな定着していますから、つまらないことでも何年も何年も覚えているものなんですよ。このことはあなたもよく知っておかれたほうがいいかもしれません。それだから、こんどあなたがかえっていらっしゃるということについても、村ではとやかくいってる人もあるようです」
「それじゃぼくがかえるということは、村じゅうに知れわたっているんですね」
「そりゃ……都会とちがって田舎では、秘密にことを運ぶなんてことは、なかなかできないものなんですよ。いつしかどこかから漏れて……いったん漏れるとすぐ村じゅうに知れわたってしまいます。でも、そんなことあんまり気になさらないほうがいいと思うわ。どうせ都会のものが田舎へ来れば、いろんなことをいわれるものです。わたしだって、この年になって独身者でしょう? だからかげではずいぶんひどいことをいわれてるらしいんだけれど、そんなこといちいち気にしてちゃきりがないから、柳に風と受けながすことにきめているの。ほんとに田舎ってうるさいものね」
「しかし、美也さんと寺田君は立場がちがうから……美也さんのいうような感情のしこりが村にあるとすると寺田君の村入りにゃ、これゃ相当の勇気と覚悟がいるわけだね」
私はまた、鉛のように重っ苦しい圧迫を、腹の底に感じたが、しかし私という人間は日ごろはいたって弱気なくせに、最後の土壇場になると、自分でも不思議に思うほどの勇気が出てくる性分なのだ。私はおそいかかる不安と|危《き》|懼《ぐ》を払いのけるようにして、|強《し》いて静かにこういった。
「いや、いろいろのことを教えていただいてありがとうございました。諏訪さんのおっしゃるとおり、ぼくにとってはこれは非常な重荷です。しかし、これだけのことを伺っておけば、ぼくみたいなものでも、いくらか覚悟ができるような気がします。ところで森さん」
「はあ……」
「いろいろなことを尋ねるようですが、もうひとつ、ぜひともお尋ねしたいことがあるのですが……」
「はあ、どういうことでしょうか」
「村の人全体がぼくを憎んでいるとしても、その中に特別に、ぼくを憎んでいるというような人にお心当たりはないでしょうか。ぼくを村に入れたくない。ぼくを村から遠ざけておきたいと思っているような人に……」
「さあ……どうしてそんなことをおたずねになりますの? それに村の人全体が、あなたを憎んでるなんてことはありませんのよ。そんなふうに大げさにお考えにならないように。さっきのあたしの話が、そんなふうにとれたとしたら、訂正しておかねばなりませんわ」
「どうしてぼくがこんなことお尋ねしたかというと、実はわけがあるのです。見てください。いつかこんな手紙がぼくのところへ舞いこんだんですよ」
私が出してみせたのは、いつかの日、そうだ、忘れもしない祖父の丑松が毒殺された朝、私のもとへ舞いこんだ、あの無気味な、警告状めいた手紙だった。諏訪弁護士と森美也子は、それを見ると大きな眼をみはって顔を見合わせた。
「ねえ、森さん、そこに書いてあることと、こんどの祖父の事件と、何か関係があるのではないでしょうか。だれかがぼくを村から遠ざけるために、だれかがぼくを村へ近づけたくないために、何か恐ろしいことをたくらんでいるのではないでしょうか」
さすがに美也子も|蒼《あお》ざめて、すぐには私の問いに答えなかった。諏訪弁護士も|眉《まゆ》をひそめて、
「なるほど、こんな手紙を書いたやつがあるとすると、井川のじいさんを殺したのも、何かよほど深い根底があるとみなければなりませんね。美也さん、きみに心当たりない?」
「さあ……」
「慎太郎君はどうだね。あんたは東京にいる時分から、あの人を知っているんだろう。何かこう、こんなことを思いつきそうな人物じゃないかね」
「まさか……」
言下に打ち消しはしたものの、その瞬間、美也子の|頬《ほお》からさあーっと血の色があせていって、くちびるがかすかにふるえているのを、諏訪弁護士も私も見逃すことができなかった。
「慎太郎さんというのは、私のいとこだとかいう……」
「そう、もと少佐だった人ですね。美也さん、きみ何か思い当たるところがあるのじゃない?」
「そんなこと……そんなこと……思い当たるなんてそんなこと……絶対にありませんわ。でも、あたしにはわからないわ。あの人すっかり変わってしまって……昔はあんなに威勢のいい人だったのに、ちかごろではまるで|爺《じじ》むさくなってしまって、村へかえってから、ろくに口をきいたこともありませんもの。いいえ、あたしばかりじゃありませんわ。おそらく村の人たちで、あの人と親しく口をきいた人は一人もないでしょう。ええ、それほどあの人は人間ぎらいになってしまって……だから、あの人が何を考えているのか、どんなふうな気持ちでいるのか、あたしにも見当がつきません。でも……でも……まさかそんな恐ろしいたくらみのある人とは思えませんわ。昔のあの人の気性からしても……」
美也子の言葉をきいていると、口では一応慎太郎のために弁護しているみたいだったが、それがしだいに混乱していくところをみると、彼女もまた、何か思いまどうているらしかった。つまり理性のうえでは否定できても、何かしらその底に、感情的に否定できぬ何物かがあるのではあるまいか。そしてそのことがいつまでも、私の胸に疑惑の影をおとしたまま消え去らなかった。
里村慎太郎――その人こそは八つ墓村でも、もっとも私の帰郷を好まぬ、強い動機を持っているべきはずの人物ではないか。そのことと、いまの美也子のあやしい混乱ぶりを私はふかく胸に彫りつけておこうと考えた。
旅立ち
六月二十五日――われわれが八つ墓村へ出発する日は、|雨《あめ》|催《もよ》いのうっとうしい梅雨空で、そうでなくてもこんどの旅立ちに、|気《き》|後《おく》れみたいなものを感じている私を、いっそう重苦しく圧迫した。正直のところ、|三宮《さんのみや》駅で発車の時刻を待っているあいだ、私は気がめいりこんでしようがなかった。駅まで送ってくれた諏訪弁護士も、妙に沈んだ顔色で、
「寺田君、気をつけたまえよ。めでたい旅立ちの門出に、不吉なことはいいたくないが、私もなんだかこんどの尋ね人の一件が表面にあらわれている意味だけではないような気がしてならなくなったのだ。何かしらその裏にわれわれの思いもよらぬ深い意味がかくされているのではなかろうか――と、そんな気がしてならないのだ。お祖父さんの死に方といい、あの奇妙な警告状といい、それにきみの性行をきいてまわっている男といい……私はなんだか胸騒ぎがしてならないのだ」
私の性行を調べてまわっている男というのは、いつか友人の細君や、会社の人事課の課長からきいた人物のことである。念のためにこのあいだ私はそのことを、諏訪弁護士にきいてみたのだが、果たしてあれは諏訪弁護士の部下ではなく、かえってそのことがひどく弁護士を驚かせたらしかった。
「それはね、私も依頼者に対する責任上、一応きみの身持ち品性を調べさせましたよ。しかし、それがすぐきみに、筒抜けになるような下手な調べかたはしやしない。ふうむ、するとわれわれのほかに、だれかきみのことを調べている人物があるというのだね。そして、その人は田舎の人らしかったというんですね。美也さん。きみに何か心当たりはない?」
「さあ……」
美也子もたいへん驚いたらしく、美しい眉をひそめていたが、結局、だれがなんのためにそんなことをするのか見当もつかないという返事で、彼女自身もこの事実には、ひどく動転しているらしかった。
諏訪弁護士がいい出したのはそのことだった。
「ねえ、寺田君、人間て妙なものだね。ひと月まえまできみとぼくとは、赤の他人というもおろか、お互いにその存在すら知らぬ仲だった。ところがあの尋ね人の一件が二人を結びつけ、しかもかわるがわる同じ殺人事件の容疑者にされてからというもの、ぼくはなんだかきみが他人でないような気がしてならなくなったのだ。変なことをいうようだが、きみに深い親愛の情を覚えはじめているのだよ。だから向こうへ行ってね、何か困るようなこと、他人の助力が必要なことが起こった場合には、遠慮なくぼくのところへ言ってきてくれたまえ。何をおいても駆けつけてあげるからね」
諏訪弁護士のこの親切な申し出は、私の心をえぐらずにはおかなかった。雨とも風ともわからぬ未来へむかって旅立とうとするその朝の私は、少なからず感傷的な気分になっていたのだ。私はのどをつまらせて、ただ、黙って頭を下げるよりほかに方法を知らなかった。
私たちのなかでいちばん元気だったのは美也子である。その朝彼女は身軽な旅行服に、派手なグリーンのレーンコートを着ていたが、大柄な彼女にはそれがぴったり似合って、うっとうしい雨催いのプラットフォームに、パッと美しい花がひらいたようであった。
「あなたがた、何をいってらっしゃるの。寺田さんの身に何かまちがいが起こるときまってでもいるように……馬鹿らしいわ。なんでもありゃしないのだわ。わかってみれば、なあんだ、そんなことだったかというようなことになるにきまっているわ。それに、よしんば……」
と、美也子はそこでクルクルと|悪《いた》|戯《ずら》っぽく眼玉を回転させると、
「何か起こったところで、あたしというものがいることを忘れないでちょうだい。あたし、これで強いのよ。負けるの大きらい、男にだってだれにだって……だから、あんまりくよくよしないほうがいいのよ。なるようにしかならないのだから……」
「ふむ、まあ、美也さんにまかせておけば大丈夫だろうがね」
諏訪弁護士も苦笑いをしていた。
やがて発車の時間が来たので、私達は車中の人となり、そして、諏訪弁護士と別れたのである。
前途にさまざまな不安や危懼を持ちながら、一方私はやっぱりこの旅行を楽しいと思わざるを得なかった。人にはそれぞれ体臭というものがある。体臭の強い人もあれば弱い人もある。また魅力のある体臭もあれば、いやな体臭もある。美人でもいっこう人をひきつけない体臭の持ち主もあれば、それほどの容姿でもないのに、ひどく人の心をそそるような体臭を持っている人もある。パーソナリティーというのであろうか。美也子は美人である。しかもなおそのうえに魅力ある体臭を非常に多分に発散する女であった。
彼女は|姐《あね》|御《ご》|肌《はだ》……あるいは姐御肌にふるまうのが好きな性分らしい。したがって、人からものを頼まれたり人にすがられたりするのを好むようである。この数日の浅い交際であったが、彼女ははじめから私の保護者をもって任じているらしく、姉が弟にあたえるようなこまごまとした注意をするかと思うと、いよいよ旅立ちときまると、パッパッと派手な金の使いかたをして、私の旅装をととのえてくれたりした。
「いいのよ、何も心配することはないのよ。これみんな、あなたの大伯母さまがたからあずかってきたお金なんですもの。田舎では第一印象が何より大切なのよ、それにこちらがへりくだっていちゃ、図に乗って馬鹿にするわ。服装にしろ態度にしろ、ハッタリをきかさなきゃだめなのよ。あなた、おどおどしてちゃだめよ」
私は鼻面をとってひきずりまわされているような感じのうちに、なんともいえぬワクワクするような快感にうかされていたのだ。彼女の強い体臭に酔わされていたのだ。
さて、この汽車のなかで私ははじめて、美也子の身の上話をかなり詳しく聞くことができた。八つ墓村には私の生まれた田治見家のほかに、もう一軒野村家という|分《ぶ》|限《げん》|者《しゃ》があることはまえにもいったが、美也子はこの野村家の当主|荘《そう》|吉《きち》の義妹にあたるのである。つまり荘吉の弟の|達《たつ》|雄《お》という人が、彼女の夫だったということである。
「御主人は何をしていられたのですか」
「電機器具の製造工場を経営していたの。電機器具ってどんなものか、あたしにはちっともわからないのだけれど、戦争中はたいへんな景気でしたわ。つまり軍需成金というわけね」
「それで御主人はいつごろ亡くなられたのですか」
「太平洋戦争の三年目、つまりソロソロ日本の運命がかたむきかけたころのことね。病気は脳出血――お酒を飲み過ぎたのよ」
「まだ、お若かったのでしょう」
私がこの質問を出すと、美也子は声を立てて笑った。
「あたしと十以上もちがっていたのよ。だけどまあ、若いといえば若いといえる年ごろね。なにしろああ急に亡くなるとは思わなかったから、あたしも途方に暮れたんだけど、幸い主人と共同で経営してた人が紳士的でね、あといっさいひきうけてやってくれたうえに、きちんきちんとあたしのほうへもお金をまわしてくれましたの、だから食べるには困らなかったけれど……」
「慎太郎という人とは、よほど長くつきあっていられるのですか」
私はこの質問をできるだけさりげなく切り出したのだけれど、それでもその瞬間、美也子のすばやい視線が、稲妻のように私の脳天をつらぬくのを防ぐことができなかった。
「そうね、それほど長いつきあいというのでもないわ。そりゃ……同郷だから名前は知ってたし、軍人になってることも聞いてたわね。それが急に交際をはじめるようになったのは、主人がひっぱってきたからよ。戦争中はなんといってもサーベルの天下でしたからね。軍人の羽振りのいいとこをつかまえているといないのとじゃ、いろいろちがうところがあったんでしょう。で、うちへ招待したり、外でいっしょに飲んだり……」
「御主人がお亡くなりになってからも、そういう交際はつづいていたんですか」
美也子はまたすばやい視線で私の脳天をつらぬくと、なぞのような微笑をうかべた。
「そりゃつづいていたわ。以前よりもっと|頻《ひん》|繁《ぱん》にいらっしゃるようになったわね。だってこちらも主人を亡くして心細い状態だったし、それに同郷といえばねえ、やはり懐かしいのよ。だけど、ほんとうをいうと、あたし軍人はきらいだったのよ。ただ、参謀本部にいる人なんかと接触していると、いろいろ情報がわかるでしょう。その意味で、まあ、いってみればあたしのほうがあの人を利用していたみたいなものよ」
これはもっと後に知ったのだけれど、美也子は情勢不利とさとると、ダイヤだの貴金属などを買い集め、それが目下の彼女の財産となっており、しかもその額はかなり|莫《ばく》|大《だい》なものであるといううわさだった。美也子というのはそういう女なのだ。日本の女には珍しい大胆さと実行力を持った女なのだ。
「慎太郎という人は、まだ独身だと聞いていますが、田治見の家に同居しているのですか」
「いいえ、あの人、独身だけど一人じゃないのよ。|典《のり》|子《こ》さんという妹さんがひとりあるの。そうそう、その典子さんというのがやっぱり……」
やっぱりとまでいって美也子がはたと口をつぐんだので私は思わず顔を見直した。美也子の顔には、何かしら気まずい色が流れている。それで私はいっそうあとを追及せずにはいられなかった。
「やっぱり……どうしたのですか」
美也子は心苦しそうにのどの奥の|痰《たん》をきると、
「ごめんなさい。こんな話持ち出すんじゃなかったわ。でも、いったんいい出したことを途中でやめちゃ気持ちが悪いわね。じゃ、いってしまいますけれど、典子さんが生まれたのはあの騒ぎ……あなたのお父さまのあの騒ぎがあったときですの。つまり典子さんのお母さんがあの騒ぎのショックで、早産されたのですわね、たしか八か月でお生まれになったのだと聞いています。だからとても育つまいといわれていたのが、不思議に赤ちゃんのほうは育ったんですが、お母さんは産後間もなくお亡くなりになったんです。だから典子さん、いまでも……つまりあの騒ぎのときに生まれたのだから、あなたと一つちがいのわけですけれど、見たところ、十九か二十くらいにしか見えないのですよ。慎太郎さんはその方といっしょに、|親《しん》|戚《せき》にあずけてあった家へかえり、百姓をしていらっしゃるわけです」
私の心はまた重くなってきた。父の犯した|罪《ざい》|業《ごう》は、こうして長く尾をひいているのだ。典子のような犠牲者は、まだほかにも村に生きているにちがいない。私はいまさらのように、自分のこのたびの村入りが、どのような大きな波紋をえがき出すかを想像して、背筋の冷たくなるような恐怖を覚えずにはいられなかった。
|濃《こい》|茶《ちゃ》の|尼《あま》
岡山で山陽線から|伯《はく》|備《び》線へ乗り換えて数時間、Nという駅で私たちが汽車をおりたのは、もう午後四時を過ぎたところだった。山陽線では二等だったからわりに楽だったが、伯備線には二等がないうえに、たいへんな混みかただったので、汽車をおりたときにはほっとした感じだった。八つ墓村へ行くには、しかし、それからもう一時間バスに乗り、さらにまた半時間歩かねばならないのだと聞かされて、正直のところ、私はうんざりせざるを得なかった。
しかし、幸いバスはすいていた。このバスのなかで私は八つ墓村の最初の住人に出会ったのである。
「おや、西屋の|若《わか》|御寮人様《ごりょうはん》じゃありませんか」
このへんの人間特有の、あたりはばからぬ大声で、そう呼びかけながら、美也子のまえに腰をおろしたのは、年ごろ五十前後の、顔も体もゴツゴツといかつい、ちょうどこのあいだ死んだ祖父と同じような体質の男だった。おそらくこれがこの辺の人間のタイプなのだろう。服装まで祖父に似ている。
「おや、吉蔵さん、どちらへ?」
「Nまで用事があってまいりました。いま、かえりでございます。奥さんは神戸からのおかえりで……? 井川のじいさんお気の毒なことをしましたねえ」
「あんたは商売|敵《がたき》がいなくなったのでホッとしたでしょう」
「じょ、冗談いっちゃいけません」
「だってあんたこのあいだ、マヤ|先《さき》をついたとかつかれたとかで、丑松さんと大げんかをしたというじゃないの」
あとで聞いたところによると、吉蔵というのは、祖父と同じ職業の|博《ばく》|労《ろう》だった。八つ墓村には祖父とこの男と二人の博労がいたが、こういう山村では博労も百姓も義理堅くて、一度お得意になると、絶対に出入りをかえぬものである。ところが戦後の|紊《みだ》れた秩序はこういう山奥にもしみこんできて、百姓のほうでも自分の勝手で博労をかえるし、博労のほうでも平気で他人のなわ張りを荒らす、これをマヤ先をつくというのである。マヤ先とはおそらく|厩先《うまやさき》すなわち得意先のことであろう。
吉蔵は美也子にいたいところをつかれたらしく、目を白黒させながら、
「奥さん、変なことをいわねえでくだせえまし、私ゃ、そのことで大迷惑をいたしましたよ。警察の旦那にゃきびしいお取り調べをうけるし、村の者にゃ変な眼で見られるし……なにマヤ先をついたのはお互いっこのことだ。こっちばかりが悪いのじゃありません。それを井川のじいさんが、変にからんで出たものだから、ついかっとして……」
「いいわよ、わかってよ。だれもあんたが井川のじいさんを殺したといやあしないわよ。だけどその後村の様子はどう? 何も変わったことありません?」
「そうさねえ。|新《あら》|居《い》先生が、たびたび警察へ呼び出されて、お気の毒でございますよ」
「ああ、新居先生は丑松さんの主治医だったのね。でも、まさか主治医が患者に毒を盛るなんてことないでしょう。そんなことすれば、すぐわかっちまうじゃありませんか。それに新居先生は、丑松さんに恨みがあるわけじゃなし……」
「ええ、だからまあ、参考人というわけでしょうなあ。とにかく新居先生のこさえた薬を、すりかえたやつがあるにちがいない。しかしねえ、奥さん」
と、吉蔵は急に声をひそめて、
「新居先生が殺したわけじゃないにしても、井川のじいさんは、新居先生の薬とまちがえてのんで死んだんでしょう。それでねえ、新居先生の薬をのむと死ぬといいふらすやつがあってねえ、ちかごろじゃ新居先生、だいぶ患者がへったということですよ」
「まあ、意地の悪い。だれがそんなことをいいふらしたのでしょう」
「それがねえ、大きな声じゃいえませんが、|久《く》|野《の》先生らしいんですよ」
「まさか……」
「いや、まさかじゃありませんや。新居先生が疎開してきて以来、久野先生はサッパリですからな」
どこの田舎でも同じことで、村でいちばんいばっているのは医者である。百姓たちは村長よりも小学校の校長先生よりも、医者に対して頭があがらない。全部ではなかろうけれど、村医者のある人々ほど尊大にかまえ、|横《おう》|柄《へい》をきわめるものはない。患者のよりごのみをし、夜中の往診などよほどの分限者でないと出向かない。それでいて、長い習慣からだれもそれを怪しまなかったものである。
ところが終戦前後から日本全国どこへ行っても村の様子が一変した。都会で焼け出された医者は、それぞれ縁故をたどって村へやってきた。それらの疎開医者は、新しい患者を獲得するために、都会仕込みの外交辞令とサービスを惜しげもなくふりまいた。いったい、田舎の人は義理堅いものだが、馬鹿にされるよりも、お世辞のひとつもいわれるほうへなびくのは、人情として当然である。ことに戦後はどこへ行ってもそう義理堅くばかりもしていられないという風潮がみなぎっているし、第一、腰の重い医者よりも、マメに動いてくれる医者のほうをありがたがるのは無理もない。
こうしてどこの村でも、疎開医者がまたたく間に旧来の医者を圧倒してしまったものだが、八つ墓村でもその例に漏れないらしい。博労のマヤ先争いといい、医者の患者争奪戦といい、いかにも村という小天地に起こりそうな|確《かく》|執《しつ》を、私はそのとき、少なからず興味をもって聞いたことである。
「いや、久野先生も少しいばりすぎましたからね。因果はめぐるというやつでさあ。田舎で患者をうしなっちゃどうにもなりませんね。町じゃ夜逃げもできましょうが、村じゃそんなわけにもいかない。そうかといっていままでそっくりかえっていたものが、そうにわかにペコペコもできませんしね。小作料は金納だし、薬礼だってせんにゃ米で持っていくやつもあったが、ちかごろじゃ米はヤミで売って、金で払ったほうがとくですからね。だれだって米など持っていくものはありません。そこへもってきてあのとおりたくさんの子持ちでしょう。だから久野さんとこじゃ食べるものにも困るらしく、ちかごろ奥さんが|薯《いも》を作りはじめましたぜ。いや医者の奥さんが百姓をするようになっちゃおしまいでさあ」
吉蔵も久野先生に何かふくむところがあるらしく、しきりに痛快がっていたが、急にまた声をひそめると、
「それでねえ、久野先生の新居先生に対する憎しみというものは、ひととおりやふたとおりのものじゃないんですよ。陰じゃずいぶん聞いていられないようなことをいってるそうですからね。で、私ゃ思うんだが、井川のじいさんに一服盛ったのは、久野先生じゃあるまいかと……」
「まあ!」
美也子も思わず息をのんだ。
「だって、新居先生が憎いからって、何も、罪もない丑松さんに毒を盛ることはないじゃありませんか」
「そんなことありませんや。つまり新居先生に罪をなすくりつけるためでさあね。それに井川のじいさんに罪のないこともありませんぜ。新居さんが疎開してくると、一番にかかって、それ以来、新居さんの薬はよくきくと、村じゅうに宣伝して歩いたのは井川のじいさんですからね。久野さんにとっちゃ憎くてたまらぬのも無理はないでしょう。それに、こんな田舎で毒薬など持っているのは、医者よりほかにありませんからねえ」
「もうよしてちょうだい。吉蔵さん、かりそめにもこんな事件で、めったな当て推量などしゃべって歩くものじゃありませんよ。それに、ここにいらっしゃるのは、久野先生と御親戚になる方なのよ」
吉蔵はそのときはじめて私のほうへ向きなおったが、その眼にはみるみる深い驚きのいろがあふれてきた。
「ああ、それじゃこれがお鶴さんの……」
「そうよ。丑松さんのお骨をもって、こんどはじめて村へかえっていらっしゃったの。いずれごあいさつには出ますけれどどうぞよろしくね」
吉蔵はいままでのあけすけな態度を急にうしなって、しいんと考えこんでしまった。そして、ときどき上眼づかいに私のほうを見ていたが、やがてまた体を乗り出すと、
「奥さん、あんたほんとうにこの人をつれてきたんですね。まさか連れてきはしまい。また、この人も来いといっても来まいと村ではいってたんですがね」
私は何かしら、心臓に冷たいものでも当てられたような気持ちだった。少なくとも村へ入ろうとするその矢先にきく言葉としては、あんまりうれしいあいさつではなかったのだ。
吉蔵は何かもっと話したいらしかったが、美也子がそっぽを向いて相手にならなくなったので、それきり黙りこんでしまった。そして、子細らしく、腕組みをして気むずかしそうにくちびるを結んでいたが、ときどき私のほうをぬすみ見る眼のなかには、何かしらおだやかならぬものがふくまれていた。私はいよいよ心が沈み石をのみ下したように下っ腹が重かった。
こうして、やがてわれわれは、八つ墓村への入り口まで来たが、バスがとまると吉蔵がまっさきにとびおり、一目散に駆け出したので、私たちは思わず顔を見合わせた。吉蔵の心はわかっている。われわれよりも一足さきに村へかえって、私のことを注進しようというのだろう。美也子はほっとため息をついた。
「諏訪さんのいったことはほんとうだったわね。これはよほど勇気がいるわ。寺田さん、大丈夫?」
私の顔はたぶん真っ青になっていたろうけれど、心はもうすっかりきまっていた。私はただ力強くうなずきかえしただけだった。
バスの停留場から八つ墓村へ入るには、|峠《とうげ》をひとつ越えねばならない。峠といってもそう高くはないのだが道が悪いから自転車以外の乗り物は通るまい。二十分にして峠へついたが、そこから北を見下ろした|刹《せつ》|那《な》、私はなんともいいようのない暗い感じにおそわれたことをいまでもはっきり覚えている。
八つ墓村――それはまるで|摺《すり》|鉢《ばち》の底のような地点にあった。四方を山にとりかこまれて方二里あまり、その山々はかなりうえまで耕され、ふもとから摺鉢の底へかけては、水田も見られたが、それらの水田は文字どおり|猫《ねこ》の額ほどの面積で、おかしなことには、どの水田にも周囲に|柵《さく》をめぐらしてあった。これは後に知ったのだが牛で生きているこの村全体がひとつの牧場なのだ。牛は村道のいたるところで好き勝手に寝ころんでいる。そしてそれらの牛の侵入を防ぐために、水田の周囲に柵をめぐらしてあるのだそうだ。
私がはじめてこの八つ墓村を望見したのは、まえにもいったとおり六月二十五日、すなわち|梅《つ》|雨《ゆ》|時《どき》の|黄《たそ》|昏《がれ》ごろのことであった。雨は落ちていなかったけれど、雲は低く垂れさがり、摺鉢の底に点在する荒壁の家々のうえに何かしらまがまがしいものがおそいかかってきそうな感じだった。私は思わずゾクリと身をふるわせた。
「ほら向こうの山のふもとに、ひときわ大きなお屋敷が見えるでしょう。あれがあなたのお家。それからそのうえのほうに、大きな杉が一本立っているでしょう。あれが八つ墓明神……あの杉の木はついこのあいだまで二本あって、|双《ふ》|生《た》|児《ご》|杉《すぎ》といわれていたのだけれど、三月の終わりに、春には珍しい雷があって、その雷に打たれて一本の杉が根元から、真っ二つに裂けてしまったの。それ以来、村の人たちは、何かまたよくないことが起こるのではないかと、|戦々兢々《せんせんきょうきょう》としているのよ」
私はまたゾクリと気味の悪い戦慄が、背筋を貫いて走るのを禁じ得なかった。私たちは黙々として峠を下っていったが、すると間もなくふもとのほうにおおぜい人がむらがっているのが見えた。いずれも田んぼからとび出してきたという格好だったが、そのなかに吉蔵の姿がまじっているのを見ると私はきっとくちびるをかんだ。
人々は口々に何やらわめいていたが、だれかが私たちの姿を見つけたらしく、何か叫ぶと急にぴたりと黙りこんでいっせいにこちらを振り返った。そして口ほどにもなく、モゾモゾと|尻《しり》込みする気配だったが、その中からひとり異様な風体をした人物が現われて、きっと私たちのほうをにらみすえた。
「来るな! 来てはならぬ! かえれ!」
異様な風体をした人物は下から金切り声をあげて叫んだ。私は身内がすくむ感じだったが、それをそばから励ますように、美也子がぎゅっと腕をつかんだ。
「平気よ、行きましょう。あれ、|濃《こい》|茶《ちゃ》の尼というのよ。少し気が狂っているの。何もしやあしないから大丈夫よ」
なるほど近づくにしたがってそれが尼であることがわかった。しかし、なんという醜い尼であったろうか。年齢はもう五十か、あるいはもっといっているのだろう。兎口のくちびるは三つに裂け、まくれあがって、その下から馬のような大きな、黄色い|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》がのぞいている。私たちが近づくと尼は握りしめた両手を振りまわし、|地《じ》|団《だん》|駄《だ》をふむような格好でどなりつづけた。
「来るな、来るな、かえれ、かえれ。八つ墓明神はお怒りじゃ。おまえが来ると村はまた血でけがれるぞ。八つ墓明神は八つのいけにえを求めてござる。おのれ、おのれ、来るなというに……おまえはおまえの|爺《じい》がなぜ死んだか知っているのか。あれが一番目のいけにえじゃぞ。それから二つ、三つ、四つ、五つ……いまに八人の死人が出るのじゃ。おのれ、おのれ、おのれ……」
濃茶の尼は金切り声を張りあげて叫びつづけながら、私たちが村を横切り、渓谷をわたって、田治見家の門へたどりつくまでついてきた。そしてそのうしろには、|痴《ち》|呆《ほう》のように、表情のない顔をした村の人たちが、いっぱいつづいているのだった。
これが私の八つ墓村で、最初にうけた歓迎だったのだ。
二老婆
「寺田さん、気にしちゃだめよ。田舎の人は口先だけはうるさいけれど、その実、みんな意気地がないから何もできゃあしないのよ。おどおどするとかえってつけこまれるから、ちゃんとしていらっしゃい」
まったくそのとき、美也子がそばについていてくれたからこそ、私も辛うじて体面を保つことができたけれど、もし自分ひとりだったらどうだろう。おそらく私は途中から夢中になって駆け出していたにちがいない。事実、田治見家の門のなかへ駆け込んだとき、私は全身にびっしょりと汗をかいていたのだ。
「しかし、あの濃茶の尼というのは、いったい何者なのです。どうしてあんなにしつこくぼくにつきまとうんです」
「あの人もね、あの事件のときの犠牲者の一人なのよ。あの人の御亭主と子どもが、あのときいっしょに殺されて……それで尼になって、濃茶というところに|庵《あん》|室《しつ》を結んでるんだけれど、さっきいった八つ墓明神の双生児杉の一本が、雷にうたれて真っ二つになるところをその眼で見て以来、少し気が変になっているのよ」
「濃茶というのはところの名ですか」
「ええ、そう、|字《あざ》の名なのよ。昔からそこに尼寺があってずっとせんにそこにいた尼さんが、客さえあれば濃茶を立てて出したのね。それ以来、その尼さんのことを濃茶の尼と呼んでいたのが、いつの間にか字の名になってしまったって話よ。あの尼さん、ほんとうは|妙蓮《みょうれん》さんというんだけど、妙蓮さんなんて神妙らしく呼ぶものは一人もないわ。濃茶の尼だの、濃茶|婆《ばば》あだのと……まあ、気ちがいのことだから気にしないほうがいいわ」
それにしても、いま濃茶の尼の口走った言葉と、いつか舞いこんだ無気味な警告状の文句のあいだに、どこか共通したところがあるのはどういうわけだろう。あのように半分気の狂った老女に、気ちがいめいてはいるけれど、どこか理路整然としたところのある、あのような警告状が書けようとは思えない。ひょっとするとあの警告状を書いた人物は、気ちがいの尼の口走る言葉からヒントを得て、ああいう文句をつづり出したのではあるまいか。とにかく私はしっかりと、そのことを心の中に書きとめておこうと決心した。
それはさておき、はじめて見る私の生家というのは、予想を越えてはるかに大きなものであった。何かしらそれは巨大な|巌《いわ》といった感じの、どっしりとした重量感と安定感をもった建物で、|土《ど》|塀《べい》をめぐらせた邸内には、|亭《てい》|々《てい》と天を摩す杉木立ちが、うっそうとしてそびえている。私たちが門のくぐりを入って広い玄関のほうへ行こうとしたとき、横の木戸から女中らしい女がとび出してきた。
「あら、西屋の若奥様、いらっしゃいませ。表のあの騒ぎは何事でございます」
「なんでもないのよ。捨てておきなさい。それよりお島さん、奥へ行って美也子が辰弥さんをお連れしてきたからといってくださいな」
「辰弥様……」
お島という若い女中は、大きく眼をみはって私の顔を見ていたが、いくらか頬を染めるようにして小走りに木戸の奥へひっこんだ。
「さあ、寺田さん、どうぞこちらへ」
「ええ」
広い玄関へ入ると、いかさま旧家らしい落ち着いた冷気が身にしみる。私は緊張のためにいくらか心臓がドキドキするのを覚えた。
しばらく待っているとさっきの女中のあとから、三十五、六の、少し髪のちぢれた色の小白い、いかにも生気のない顔色をした女が現われた。
「まあまあまあ、西屋の若奥様、さ、どうぞ、どうぞ」
そういう言葉はこのへんの女特有の、かん高い調子で、いかにも|仰山《ぎょうさん》そうであったが、なんとなく声の調子に熱がなく、動作がのろのろとしているのは、必ずしも誠意にかけているのではなくて、体のせいであるらしく思われる。心臓でも悪いのか、|蒼《あお》くむくんだような顔をして、眼のいろにも力がなかった。
「ああ、春代さん、おつれしてきましたよ。お待ちかねの辰弥さん。寺田さん、こちらがあなたのお姉さまの春代さんですよ」
美也子はこの家とよほど親しいらしく、私たちを紹介すると、|靴《くつ》をぬいでさっさと上へあがってしまった。私たちは玄関の上と下とで黙って頭を下げたが、春代は|気《き》|後《おく》れしたようにすぐ眼をそらしてしまった。
これが私と異母姉との初対面だったが、その第一印象は悪くはなかった。姉の春代はけっして美人ではなかった。まずまずやっと十人並みという器量だろう。しかし、いかにも田舎の大家でボーッと育ってきたらしい、善良で気のよさそうなところが、緊張した私の神経を、なごやかにときほぐしてくれる。私はなんだか、ほっと重荷をおろしたような気持ちだった。
「どう? 春代さん、弟さんの印象は……?」
「はあ、あの……たいそうりっぱになって……」
姉はちらと私の顔を見ると小娘のように頬をあからめ、うつむいてにっと笑った。そういう様子からみて、姉もまた私に対してよい印象を持ったらしく、それがいっそう私の心にくつろぎをあたえた。
「さあ、それでは伯母さまたちがお待ちしていらっしゃいますから」
私たちは姉のあとについて長い廊下をふんでいった。外から見てもこの家は、ずいぶん大きなものだが、なかへ入るとその大きさはいっそう拡大され、十五|間《けん》の長廊下をわたるときなど、私はどこかのお寺かなにかにいるような錯覚にとらわれたくらいであった。
「春代さん、伯母さまたちは離れなの?」
「はあ、あの、今日は辰弥さんをはじめてお迎えするのだから、あちらにしようとおっしゃって……」
十五間の長廊下がつきると、三段ほどあがって、そこに十畳と十二畳の二間つづきの座敷があった。これは後に知ったことだけれど、旧幕時代この家に、御領主様をお迎えすることがあって、そのとき、この離れを|普《ふ》|請《しん》したのだということである。
この十二畳の床の間を背負うて、田治見家の二人の主権者、小梅様と小竹様が、ふだん着の上に、あわててひっかけたと見えて紋付きの羽織を着てきちんと座っていた。
廊下からこの二人の姿を見たとき、私はなんともいえぬ異様な感じに打たれたことだ。
双生児には一卵性の双生児と二卵性の双生児とふたとおりあるということを、私はいつかきいたことがある。そしてひとつの卵がわれて二つになった双生児ほど、相似が顕著だということだが、私の大伯母たちはあきらかに、一卵性の双生児にちがいない。
二人はたぶん、もう八十を越えているのだろう。真っ白な髪を、ちんまりうしろにたばねて、背を丸くして座っている。顔も体も|掌《たなごころ》の中に丸めてしまえそうなほど小さく、なんだか|猿《さる》が二匹座っているような感じであった。ただし、ここで猿といったのは、体の大きさを形容したまでのことで、その顔が猿のように醜いという意味ではない。どうしてどうしてその顔は、若いころはさぞ美しかったろうと思われるような面影をとどめている。年齢のわりには|色《いろ》|艶《つや》もよく、歯のないくちびるを、|巾着《きんちゃく》の口のようにすぼめているのも上品であった。
しかし、なんといってもあまり顕著な相似が、見るものに一種異様な|戦《せん》|慄《りつ》をあたえるのである。
双生児も若いものにはそれほど珍しいという現象ではない。また、それほど異様な感じもしない。しかし八十を越えて、しかもこんなによく似た双生児というものは珍しいとか異様とかいうよりも、むしろなんだか薄気味悪いのである。先天的な相似はともかく、後天的にできたはずのしわの一筋から、皮膚のシミにいたるまで、そっくり同じで、一方が笑えばもう一方の顔の筋肉も、同じようにほころびるのではないかと思われるほどだった。
「伯母さま」
春代は縁側にきっちりと手をつかえた。
「西屋の美也さまが、辰弥をおつれくださいました」
これがこの家の家風なのであろうか。春代の大伯母たちに対する態度は、|慇《いん》|懃《ぎん》丁重をきわめていた。私は思わず廊下に|膝《ひざ》をついたが、美也子はにやにやしながら立ったままだった。
「ああ、そう、御苦労さま」
背中を丸くした老婆のひとりが、巾着のような口をもぐもぐさせた。私にはまだどちらがどちらともわからなかったが、後でそれが小梅様だとわかった。
「さあ、どうぞこちらへ、美也さん、御苦労でしたえなあ」
小竹様もそのあとにつづいて口をもぐもぐさせた。
「いいえ、伯母さま、おそくなりまして――お待ちどおだったでしょう」
美也子はこの家の家風などおかまいなしに、座敷へ入ると少し横のほうへ横座りに座ると、
「さあ、辰弥さん、こちらへお入りなさいな。こちらがあなたの大伯母さまになるかたがたよ。こちらが小梅様で向こうにいらっしゃるのが小竹様」
「美也さん、ちがいますよ。わたしが小竹で向こうのが小梅ですよ」
老婆のひとりが静かに訂正した。
「あら、失礼。あたしいつもまちがってしまいますのよ。伯母さま、こちらがお待ちかねの辰弥さん」
私は大伯母たちのまえに座って、黙って頭をさげた。
「ああ、それじゃこれが辰弥かいな。小竹さんや」
「はい、小梅さん、なんでございます」
「血は争われぬものじゃな。鶴子に生きうつしじゃないか」
「ほんになあ、眼もと口もと、あの時分の鶴子にそっくりじゃえなあ。辰弥、ようかえってこられた」
私はまた黙って頭をさげた。
「ここがおまえの生まれた家じゃえ。おまえはな、この家の、この座敷で生まれたのじゃ。あれからもう二十六年になるが、この座敷はあのときのまんまにしてある。|襖《ふすま》も、|屏風《びょうぶ》も、掛け軸も、|欄《らん》|間《ま》の|額《がく》も……なあ、小竹さん」
「ほんになあ、二十六年といえば長いようでも、過ぎてみればすぐじゃえなあ」
老婆たちの眼には、過ぎ去った日を追うような影がほんのりとさした。そのとき横から美也子が口を出した。
「伯母さま、久弥さんは……?」
「ああ、久弥かいな。あれは病気で寝ているで、引き合わせるのは明日にしよ。あれももう長うはあるまい」
「まあ、そんなにお悪いんですか」
「久野の恒さんはまだ大丈夫大丈夫とゆうてるが、あんな|藪《やぶ》医者に何わかる。この夏が越せるか越せぬか」
「御病気はなんですか」
私ははじめて口を開いた。
「肺病じゃがな。辰弥や、だからおまえにしっかりしてもらわにゃならん。春代も|腎《じん》|臓《ぞう》が悪うてな、子どもを産める当てはないのじゃえ。それでかたづいていた先からもどされたのじゃけん、おまえがしっかりしてくれぬと、この家はつぶれてしまうがな」
「でも、小梅さん、もう大丈夫じゃえなあ。こんなりっぱな子どもがかえってきたのじゃけん、跡取りの心配はもうのうなった。どこやらで大当てちがいをしてるやつがあるじゃろ。よい気味えなあ、ほっほっほ!」
「ほんに小竹さんのいうとおりじゃ。これでようようわたしも安心できる。ほっほっほ!」
薄暗い|黄《たそ》|昏《がれ》どきの広い座敷で、二匹の猿のような老婆が声を立てて笑ったとき、私はまたゾーッと背筋が冷たくなるのを覚えた。それほど二人の笑い声のなかには、いままでのおだやかさとうってかわった、邪気と陰険さが露骨に現われているのであった。
こうして私はいよいよ、この山奥の、古い伝説と、なまなましい惨劇の記憶のつきまとう家に身をおくことになったのであった。
|三《さん》|酸《さん》|図《ず》|屏風《びょうぶ》
その晩、私は眠れなかった。
神経質な人間のだれでもがそうだが、寝床がかわるとなかなか寝つかれぬものである。長途の旅行に体は綿のように疲れながら、神経のほうは針のようにとがって、私の頭は|冴《さ》えかえるばかりであった。
思えばそれも無理はないのだ。つい昨日まで友人の家の四畳半の、それも|箪《たん》|笥《す》だの|行《こう》|李《り》だのを、ごたごたと置きならべた狭い片すみに、小さくなって寝ていた私にとって、十二畳の座敷は広過ぎた。広過ぎてかえって体の置き場のない感じがするのだ。私はいくどもいくども寝床のなかで寝返りをうった。眠ろうとあせればあせるほど、意地悪く頭は冴えかえり、冴えかえった頭のなかを、走馬灯のようにかけめぐるのは、めまぐるしかったその日いちにちの出来事だった。
|三宮《さんのみや》駅での別れ、美しい旅装の美也子、バスで出会った博労の吉蔵、醜い濃茶の尼と村の人々、それからまた二匹の猿のような小梅様と小竹様、――それらの姿や情景がなんの順序も排列もなく、頭のなかに消えては現われ、現われては消えていく。そして、そういう出来事のいちばんおしまいに思い出されるのは、姉の春代からきいた、ちょっと妙な出来事である。
小梅様と小竹様は、さすがに老齢のこととて、対面がおわると自分たちの部屋へひきとった。そのあとで私は|風《ふ》|呂《ろ》をもらったが、風呂から出ると姉の春代が、
「明日からは向こうで食べていただきますが、今夜はお客様ですから、ここで食事をしていただきます。西屋の若奥様もつきあってあげてくださいませ」
と、女中のお島と二人がかりでお|膳《ぜん》を運んできた。
「あら、あたしもごちそうになるの」
「どうぞ。何もありませんけれど時分どきですから……遅くなったら若い衆に送らせます」
「そう、じゃ、遠慮なしにちょうだいしていくわ」
と、そんなことから美也子もいっしょに夕飯を食べていくことになったが、私にしてみれば彼女が少しでも長く、そばにいてくれるのがありがたかった。食事がすんでも彼女はすぐにはかえろうとはせず、姉をまじえて三人で、とりとめもない話で時間をつぶした。むろんいちばん多く語ったのは美也子で、彼女は屈託のない調子で、あたりさわりのない話をする。それによって、ともすれば沈みがちな私の心をひき立てると同時に、とかく固くなりがちな、姉と私の仲をくつろがせようとするのだった。しかし、さすがの美也子もしまいには話題がつきてどうかすると黙りこんでしまうことがある。そんなとき私たちのあいだには、ふうっと沈黙が流れこんできたが、そういう潮時を見計らって、私はさりげなく座敷のなかを見回した。
さっき小梅様だか、小竹様だかのいった言葉が、強く私の心にのこっているのだ。私の大伯母のひとりはこういったではないか。
「おまえはこの家のこの座敷で生まれたのだよ。あれからもう二十六年になるが、この座敷はあのときのままにしてある。襖も、屏風も、掛け軸も、それから欄間のあの額も……」
してみれば、かわいそうな私の母も、これらの屏風や襖や掛け軸を、毎日ながめて暮らしたのだろう。そう思うと私の胸には、切ないような懐かしさがこみあげてきて、それらのひとつひとつを見直さずにはいられなかった。
床の間には|百衣観音《びゃくえかんのん》の大きな掛け軸がかかっている。当時の母のつらい、哀れな立場を思うと、母がどのような熱心さで、この観音様におすがりしたかが、わかるような気がする。そういえば私の知っている母は、観音様の大の信者で、いつも床の間に小さい像をおまつりして、朝夕信仰を怠らなかった。
さて|床《とこ》|脇《わき》の違い|棚《だな》をみると、そこの壁にはお能の面がふたつかけてあったが、それはものすごい|形相《ぎょうそう》をした|般《はん》|若《にゃ》と|猩々《しょうじょう》で、まるでこの座敷は鬼と仏が同居しているみたいだが、それかあらぬか欄間の額には「鬼手仏心」の四文字。襖の絵は漢画と|大和《や ま と》|絵《え》の手法をとりあわせたような山水だが、いずれも年代がついてくすんでいる。
さて、そのほかにもうひとつ、私の注意をひいたものがあった。それは|六曲《ろっきょく》の屏風だった。屏風のおもてには大きな|瓶《かめ》をとりまいて、三人の古代シナ人の姿が、ほとんど人間の大きさくらいに描いてあった。何気なく私がその屏風を見ていると、姉の春代が思い出したようにこんなことをいい出した。
「そうそう、その屏風については、ちかごろ妙なことがあったんですよ」
三人のなかで、いままでいちばん言葉少なくひかえていた姉の春代が、だしぬけにこんなことをいい出したので、私は思わず顔を見直した。
「まあ妙なことってどんなことですの」
美也子も膝を乗り出した。
「それがねえ、……こんなことをいうと、あなたに笑われるかもしれませんけれど、その屏風のなかの人間が抜け出したというんですのよ」
「まあ!」
美也子は思わず眼をみはって、春代の顔を見つめていた。私も彼女の顔と屏風の絵を見くらべながら、
「いったい、この屏風の絵はどういうことを描いてあるのですか。何か故事来歴があるのでしょうね」
「ええ、わたしもよく知りませんが……」
と、春代は頬を染めながら、
「なんでもそれ、三酸図屏風というんですって。そこに描いてある三人は|蘇《そ》|東《とう》|坡《ば》と|黄魯直《こうろちょく》と、|金《きん》|山《ざん》|寺《じ》の住持|仏印和尚《ぶついんおしょう》だとかきいております。蘇東坡がある日、友だちの黄魯直を誘うて、仏印和尚を訪ねたところが、和尚さんが喜んで|桃《とう》|花《か》|酸《さん》というのをごちそうした。それをなめて三人が眉をしかめたが、東坡は|儒《じゅ》、黄魯直は|道《どう》、仏印はむろん|仏《ぶつ》|門《もん》ですわね。その三人が三様に眉をしかめたが、もとは同じ桃花酸のためである。つまり、儒、道、仏、三教のとくところはそれぞれがちがっていますけれど、帰するところはひとつである……と、いうような意味だときいております」
「まあ、いかにも昔のシナ人の考えそうなことね。しかし春代さま、この絵の人間が抜け出したというのはいったいどういうことですの」
美也子にとっては絵の故事来歴よりも、そのほうがよっぽど興味があるらしかった。むろん、私としても同じことである。
「さあ、それがまことにとりとめのないことで……|嘘《うそ》だかほんとうだかよくわかりませんけれど、でも、ちょっと妙なことがありましたのよ」
と、春代は人のよい調子で、次のようなことを語ってきかせた。
「この離れはたいてい締めきってあるのですが、それでも部屋が蒸れるといけませんから、三日に一度くらい開けることにしておりますの。ところがいまからふた月ほどまえ、私がお島と雨戸をあけにまいりますと、どうも変なところがありますの。だれかが入ってきたんじゃないかと思われるようなところがあるんですわね。でも、そのときは、わたしそれほど気にもとめませんでした。ところが、それから二、三日たってまた雨戸をあけにまいりますと、やっぱり変なところがあるんですの。たしかにだれかが入ってきたような……つまり、屏風の位置がほんの少しですがちがっていたり、違い棚の地袋がぴったりしまっていなかったり……それでいて、雨戸には少しも異状はないんですの。それでわたし、気の迷いかしらとも思いましたが、やっぱり気になるもんですからお島にも内緒でわざと地袋を少しあけておいたり、屏風の位置を畳のへりでちゃんときめたり……つまり、もしほんとうにだれかが入ってきて、地袋や屏風にさわったら、すぐわかるようにしておいたんですの。そして、その次の日、こっそり見にきたんですが……」
「変わったことがありましたの、地袋や屏風に……」
「いえ、その日はなんともありませんでした。それでわたし、やっぱり気のせいだったのかと思いましたが、それから二、三日たって来てみると……」
「来てみると……? どうかしたんですの」
「ええ……屏風のはしが畳のへりから外れており、地袋がぴったりしまっているんです」
「まあ!」
美也子と私は顔を見合わせた。
「それで雨戸にさわった形跡は……?」
「それがありませんの。わたしねえ、それを確かめると雨戸を開くまえに|枢《くるる》をよく調べてみました。それから一枚一枚雨戸も調べてみましたが、枢はちゃんとおりていますし、無理に雨戸を外したような形跡はどこにもございませんの」
私はまた美也子と顔を見合わせた。
「この離れへ入ってくるのは、お庭からしか入れないのですか」
「ええ、そのほかには、さっきあなたが通っていらした十五間の長廊下しかございません。でも、あの長廊下には戸がしまるようになっていて、|母《おも》|屋《や》のほうから錠をおろすようになっております。その|鍵《かぎ》はふたつあって、ひとつはわたし、ひとつは伯母さまが持っているんですの」
「どなたかおうちのかたが……」
「いいえ、そんなはずはございませんわ。兄はあのとおり寝たっきりで、歩くことさえできないような始末ですし、伯母さまがまさか……お島だってこんなところに用事のあるはずはありませんし……」
「変ねえ」
「変ですねえ」
「ええ、ほんとに妙なんです。わたしもなんだか気味が悪くなりましたが、うっかりそんなこと|他《ひ》|人《と》にいうわけにはまいりません。それでいろいろ考えたあげく、|山《やま》|方《かた》の平吉に頼んで、ここへ寝てもらうことにしましたの」
これはあとで知ったことだが、この広い屋敷のなかには奉公人の寝起きする建物が別に建っていて、そこには山方だの牛方だの河方だのというのがたくさん住んでいるのだった。山方というのは、山へ入って木をきったり炭を焼いたりする係り、牛方とはいうまでもなく牛の世話係り、河方というのは、舟に炭だの材木だのを積んでN駅まで運び出す係り、ちかごろではN駅まで運び出せばよいが、昔はずっと下まで河を下ったということである。
「それでどうでした。何か変わったことがございましたの?」
「それがねえ、平吉というのがたいへんな酒飲みでしてねえ、酒を振る舞うという条件で、ここに寝てもらうことにしたのですが、はじめの二、三日うちは何も変わったことはございませんでした。ところがたしか四日目でしたか、わたしが朝早く様子を見にくると、平吉がいないのです。それに見ると雨戸が一枚開いています。わたしびっくりして平吉を探したのですが、平吉は、自分の部屋へかえって頭から布団をかぶって寝ているんですの、それを起こしていろいろきいてみると、……」
「…………?」
私たちが無言のまま、春代の顔を見つめていると、春代はポッと頬を赤らめながら、
「つまり、その……真夜中ごろにその屏風の絵が抜け出したというんです」
「まあ!」
私たちは思わず屏風のほうを振り返った。
「この絵が……三人とも……?」
「いいえ、抜け出したのは一人だったそうです。なんでもお坊さんらしかったというのですが、果たしてどうでしょうか。まえにもいったとおり平吉は、たいへんな酒飲みで、酒を飲まないと寝られないのです。それもズブズブに酔うてしまうまで飲まないと承知ができないほうで……それですから、何をいうことやら取りとめはございませんが、真夜中ごろふっと眼をさますと、寝るまえにたしか電気を消しておいたはずだのに、どこからともなくほのかな光がさしこんでいた。それでおやとあたりを見回すと、屏風のまえにだれやら立っている。平吉はびっくりしてだれだと声をかけたそうですが、すると相手も驚いたらしくふっとこちらをふりかえったのですが、それがたしかにその絵のお坊さんだったというんです」
「まあ、おもしろいわね、それで平吉というひとどうしましたの」
美也子は膝を乗り出した。私も|固《かた》|唾《ず》をのんで春代の顔を見つめていた。春代はふっと笑いをふくんで、
「平吉にとってはおもしろいどころの騒ぎじゃありません。声をかけると相手もびっくりしたらしく、さっと身をひるがえして、そのままどこかへ消えてしまった。いえ、それまでどこからかさしこんでいた光が、ふっと消えてしまったので真っ暗になってしまって、何が何やらわからなくなった。……と、こういうんです。しかし平吉はその暗がりのなかで、たしかにだれかが、自分の|枕元《まくらもと》をすりぬけていく気配を感じたといっているんです。平吉はもうすっかり酔いがさめた感じで、しばらくブルブルふるえていましたが、やっと勇気を出して電気をつけて屏風を見ると、屏風のなかにはちゃんと三人立っている。別に異状もありません。それで平吉もいくらか落ち着いたが、ふと思い出して雨戸を調べてみると、ちゃんと枢がおりている。また長廊下のほうの戸口も調べてみたそうですが、これまた外から錠がおろしてあるのでびくともしない。さあ、そうなると平吉はまた怖くなってきたのだそうで、どこからも人の出入りをした形跡がない以上、やっぱり屏風の絵が抜け出したのじゃあるまいか……と、そう考えると、欲も|得《とく》もない、ただもう怖い一方で、とうとう雨戸をあけて逃げ出してきたというんです」
「変ねえ」
「変ですねえ」
私たちはまた顔を見合わせた。
「ええ、ほんとに変な話なんです。平吉はこんなこともいっていました。屏風の絵が抜け出したのをハッキリ見たのは昨夜がはじめてだったけれど、そのまえから変なことがたびたびあった、夜中に眼をさますと、なんだかこう、だれかにじっと見すえられているような気がしてならなかった。だれかが、どこからか、じっと自分を見すえている……そんな気がして、ゾッとするようなことがたびたびあった。あれはきっと屏風の絵が、屏風のなかから、自分を見つめているにちがいない、とそんなことをいうんです。むろん、屏風の絵がどうのこうのということは、平吉の思いちがいでしょうけれど、だれかがこの離れへときどき入ってくることはたしからしいんです。わたしはその証拠をつかんだんです」
「まあ、証拠ってどんなことですの」
美也子はいよいよ好奇心をあおられたらしく、ひと|膝《ひざ》ふた膝まえへゆすり出した。
「わたし、平吉の話をきくと、固く口止めをしておいて、とにかくもう一度離れを調べてみようと思って、ここへ引きかえしてきたんです。ところが屏風のうしろに変な紙片が落ちていたんですの」
「変な紙片って……?」
「わたしもなんだかわからないんですけれど、古い日本紙に筆で地図みたいなものが書いてあって、『|猿《さる》の腰掛』だの『|天《てん》|狗《ぐ》の鼻』だのと、変な地名みたいなものが書き入れてあり、そばに歌みたいな文句が書いてあるんです」
私は思わずあっと低い叫びをもらした。美也子も同じように、大きなショックを感じたらしく、すばやい視線で私を見たが、すぐ眼を伏せて、じっと畳の上を見ている、そういう様子からみると、私が同じような紙片を、守り袋のなかに持っていることを、美也子も知っているにちがいない。私は彼女にそのことを話した覚えはないが、いつか諏訪弁護士がそれを見ているから、何かのはずみに美也子に話したにちがいない。
私たちの様子に気がついたのか、春代は不思議そうに二人の顔を見くらべながら、
「まあ、どうしたんですの。何かその紙片に心当たりでもございますの?」
美也子が知っているとあっては、私も隠すわけにはいかなかった。
「実は……ぼくも、同じような紙片を持っているんです。ぼくもそれがなんのまじないだか、どういう意味があるのか知りませんが、小さいときから守り袋のなかに入っているので……しかし、ぼくのには、『猿の腰掛』だの『天狗の鼻』だのというような文句はありませんが……」
私は守り袋からその紙片を出して見せるべきかどうか迷ったが、なんだかそうしたくなかったので、そのまま無言でひかえていた。春代も美也子も出してみせろとはいわなかった。しかし、春代はどうやらその紙片に何か深い意味があるらしいのをさとったらしく、
「まあ、変ねえ。わたしその紙片は大事にとってありますから、いつかあなたのとくらべてみましょう」
春代も美也子もそれきり黙りこんでしまった。春代にしてみれば、ほんのお座興のつもりで話し出した彼女の冒険談が、何やら私の身の上に関係がありそうになってきたので、そういう話を美也子のような他人のまえで、うっかりさらけ出した自分の軽率を後悔しているらしかった。美也子は美也子で、春代のそういう気持ちがわかったのであろう。それ以上、正体不明の侵入者について、意見をたたかわすひまもなく、|倉《そう》|皇《こう》としてかえっていった。そしてそれから間もなく、私は問題の離れ座敷に、床をのべてもらって、ただ一人そこへ寝ることになったのだ。さまざまな妖しい疑惑や不安に悩まされながら。……
殺人第二景
明け方ちかくなって、私はやっと眠りに落ちたらしい。眼がさめると雨戸のすきから、明るい光がさしこんでいる。枕元においてあった腕時計を見ると、もうかれこれ十時である。私はびっくりしてとび起きた。
都会にいると周囲の騒音があるから、どんなに夜更かしをしてもこんなに遅くまで寝ていることはない。はじめて泊まったその家でこんなに朝寝坊をしてしまって、はたの思わくも恥ずかしく、私はあわてて寝床をあげると雨戸を繰りはじめたが、その音をきいて姉の春代が母屋のほうからやってきた。
「お早うございます。いいんですよ。それはお島にあけさせますから」
「お早うございます。すっかり朝寝坊をしちまって……」
「お疲れだったのでしょう。それにわたしが変な話をしたりして……よくおやすみになれましたか」
「はあ」
「寝られなかったのでしょう。眼が赤いですよ。ほんとにあんな詰まらない話をしなければよかった。でも、お|錠口《じょうぐち》まで駆けつけてきませんでしたね」
昨夜春代は寝るまえに、今夜は長廊下に錠をおろさないでおくから、何か変わったことがあったら、母屋のほうへ駆けつけていらっしゃいといいのこしていったのである。そのことをいっているのだが、相変わらずのろのろとして大儀そうな口のききかたのなかに、誠意がこもっていて、昨夜から見るとまたひとしお打ちとけた態度が身にしみてうれしかった。
私はそれから母屋のほうへ案内されると、姉の給仕で朝の|食膳《しょくぜん》についた。朝寝坊をしたので私ひとりだった。
「お|婆《ばあ》さまがたは……」
「伯母さまがたはお年寄りだから、とても朝が早いのですよ。ずっとせんに起きて、あなたの起きるのを待っていらっしゃいます」
「すみません」
「いいえ、いちいちそんなに謝まらなくても……ここはあなたのお家ですから、もっとくつろいでね。どうせわたしたちは田舎者だから行き届きませんけれど、しんぼうして末長くこの家にいてくださいね」
なんとなく心細い思いをしている私の胸に、その言葉は砂にしみいる水のようにしみとおった。私は黙って春代の顔を見ながら頭をさげたが、すると春代はどうしたのか、ポーッと|瞼《まぶた》を染めながら膝に目を落としてしまった。食事中に昨夜の話の地図のことが出るかと心待ちにしていたが、姉はついに切り出さなかった。私のほうでも控えていた。何も急ぐことはないのだ。これからさき、私は長くここにいるのだから。……
食事がおわると姉がいいにくそうに、
「あの……伯母さまがたが待っていらっしゃるのですが……今朝はぜひとも兄に会っていただこうと思って……」
「はあ」
そのことは昨夜も話のあったことなので、私もあらかじめ覚悟していたのだが、姉はさらにいいにくそうに、
「兄にお会いになるときは気をおつけになってね。兄は悪い人ではないのですけれど、なにぶん長いこと床についているもんですから気むずかしくって……それに今日は里村の慎太郎さんが来ているものだから……」
私はなんとなくドキリとした気持ちだった。
「ええ、そう、わたしたちには|従《い》|兄《と》|弟《こ》に当たるのですけれど、どういうわけか伯母さまがたも兄もこの人をきらって……慎太郎さんが来るといつも兄のきげんが悪いのです。でも今日はあなたのことがあるものですから、こちらから使いを出して、わざわざ来てもらったんですの。妹さんの典子さんもいっしょに来ていますの」
つまり大伯母たちは私のかえってきたことを一刻も早く|披《ひ》|露《ろう》したいらしいのだ。それが私に対する純粋な好意から出ているのであったならば、私も大いにありがたいのだけれど、そこには多分に、ある人に対する当てつけの気味がまじっているらしいので、それが私の心を重くした。
「お客さまはそれだけですか」
「いいえ、ほかに久野の|恒《つね》おじさんが来ています。久野の恒おじさんというのは、父の従兄に当たる人ですからそのおつもりで……」
「医者をしているかたですね」
「ええ、そう、よく御存じですね、美也子さんからお聞きになったの」
「いや、バスのなかで吉蔵とかいう博労がそんな話をしていましたから」
「ああ、吉蔵……」
姉は眉をひそめて、
「お島にきいたんですけれど、昨日村の人たちが、何かあなたに無礼な態度があったそうですね。いつか折りがあったら、わたしからもよくいっておきますが、あなたも気をつけてくださいね。みんな|頑《がん》|固《こ》だけれど、別に悪い人たちではないのですから……」
「よくわかっております」
「そう、では、御案内しましょう」
兄の久弥の寝ているのは、中二階みたいになった薄暗い裏座敷で、庭には|紫陽花《あじさい》の花がほの白く咲いていた。姉がこの座敷の障子をひらいたとたん、私はなんともいえぬ臭気にうたれて、思わずちょっとたじろいだ。私はこの臭気に記憶があった。それはずっとまえ|肺《はい》|壊《え》|疽《そ》で死んだ友人の部屋で経験した臭気である。肺結核は療養法さえあやまらなければ、治りやすい病気といわれているが、肺壊疽では助からぬ。大伯母たちがとてもこの夏を越せまいといったのも無理はないと思うと、私はまず運命を宣告されたこの人のいたましさに心が暗くなった。
兄はしかし案外元気であった。姉が障子をひらいたとたん、寝ていた人が|鎌《かま》|首《くび》をもたげるようにしてこちらを見たが、私と視線が合ったとき、病人特有の、ギラギラと油のういたような眼から、さっと火花が散ったように思われた。しかし、それも一瞬で、やがてにやっとなぞのような微笑をうかべると、そのまま枕に頭をつけた。
兄は私より十三上だということである。したがって今年四十一になるはずだが、病気でやつれているせいか五十にはたしかに見えた。全身から肉という肉をそぎ落とされて、いたいたしく骨ばった皮膚には生気というものがまったくなく、ぐりぐりととび出したのど仏にも、死の影がうかがえるように思われる。しかし、それでいて、兄の顔色にはどこか|精《せい》|悍《かん》の気があふれていた。自分の寿命をあきらめながら、なおかつ、何かとたたかっているような強い意志のひらめきがあった。だが、それにしても、いまのなぞのような微笑は何を意味するのだろう。
「お待たせいたしました。さあ、辰弥さん、どうぞ」
「辰弥、ここへおいで。皆さん、さっきからお待ちかねじゃがな」
兄の枕元には小梅様と小竹様が、相変わらず二匹の猿のように座っていたが、そのひとりが自分のそばの席を指さした。私はむろん、そう声をかけたのが小梅様だか小竹様だかわからなかったが、いわれるままに席につくと、だれにともなく頭をさげた。
「久弥や、これがおまえの弟の辰弥じゃえ。りっぱになったもんじゃろがな。辰弥、これが兄さんじゃ」
私が無言のまま頭をさげるのを、兄は食いいるような眼で見つめていたが、やがてゴロゴロ|痰《たん》のからまるような声で、
「ほんにええ男ぶりやな。田治見の筋にこんなええ男が生まれたとは珍しい。はっはっは……」
どこか毒々しい笑い声だったが、笑った拍子に兄ははげしく|咳《せ》き込んだ。咳とともにあのいやなにおいが部屋のなかに充満する。その臭気も臭気であったが、私は兄のいまの言葉に、顔をあげていられなかった。兄はひとしきり咳きこんで、やっとそれが納まると、首をねじまげて、向こうに座っている人たちに声をかけた。
「慎さん、どうじゃな。こんなええ弟がかえってきたので安心というもんじゃあるまいか。わしもな、こんなええ跡継ぎができたで、安心して眼をつむれるというもんじゃ。久野のおっさん、あんたも喜んでおくれ。あっはっはっは」
兄がまた咳きこみそうになったので、老婆のひとりが急いで吸い飲みを口に当てがってやった。兄はのど仏をぐりぐりさせながら、ごくごく水を飲んでいたが、やがて首を横にふると、
「もうええ、もういらん。伯母さん、うるさいがな」
と、突っぱねるようにいって、それからまた私のほうに首をねじむけた。
「辰弥、ひきあわせておこ。向こうのはしに座ってござるのが、久野のおっさんや。お医者さんやぜ。ちかごろ村にはもっとええお医者さんができたそうなが、そこは親戚やでおまえも病気になったら、せいぜいおっさんに診てもらい。それからな、その隣に座っているのが、おまえの従兄の慎太郎さんや。無一物同然になって村へかいらはったんやが、おまえもせいぜい|昵《じっ》|懇《こん》にしてもらいや。ええか。郷に入っては郷にしたがえや。みんなにかわいがられるようにせないかん。そしてな、よう気をつけて、田治見の財産、ひとにとられんようにせなあかんぜ」
兄はそこでまたはげしく咳きはじめた。私はそのいたましさにハラハラすると同時に、また何かドスぐろいものが、いかの墨のように腹の底にひろがる感じだった。どういう事情があるのか知らないが、久野のおじや従兄の慎太郎に対する、兄の憎悪というか、敵意というか、それはあまりにも露骨でえげつなかった。親戚同胞、いかなればこそ、かくも相憎まねばならないのだろうか。そこに田舎の旧家というもののむつかしさを感じて、私はあさましいような、情けないような、同時にまた、なんともいえぬ|暗《あん》|澹《たん》たる感じにうたれずにはいられなかった。
興奮したせいか、兄の咳はなかなかおさまらなかった。咳いて咳いて咳きいって、そのまま息が絶えてしまいはしないかと思われるほどだった。咳と咳とのあいだに、ヒーッと痰のからまる音が、身を切るように切なくて、しかもあのなんともいえぬいやな臭気は、いよいよ強く、梅雨時のしめった空気のなかに立ちこめた。
しかし、だれも手を下して、兄を介抱しようというものはいなかった。双生児の小梅様と小竹様は、ちんまりと正面きったまま、兄のほうへは眼もくれなかった。それはすでに兄の寿命をあきらめきった姿なのだろうが私にはなんだか薄情に思われてならなかった。はるか末座に座った姉の春代は、うつむいてかすかに肩をふるわせている。見ると首筋から横顔へかけて、火をつけたように|赧《あか》くなっていた。おそらく彼女もまたあまりのあさましさに顔をあげることができないのであろう。
久野の恒おじ――あとで知ったのだが、このひとの名は|久《く》|野《の》|恒《つね》|実《み》というのであった――という人は、六十ぢかい|痩《や》せぎすで眼のギロリとした、|胡《ご》|麻《ま》塩の髪の毛の硬そうな人物だったが、この人は|眼《ま》じろぎもしないで、遠くのほうから咳きこむ兄の様子を見守っている。もし視線が人を殺すものなら、あのとき兄は一瞬にして|悶《もん》|絶《ぜつ》したろうと思われる。面長の鼻の高い、若いときは相当好男子であったろうと思われるような顔立ちだから、年をとると人相がいっそうけわしくなる。そのとき、恒おじの顔にあらわれていたものは、憎々しさと、|態《ざま》アみろといわぬばかりのあざ|嗤《わら》いのほか何ものでもなかった。
いとこの里村慎太郎――私は最初この座敷へ入ってきたときから、いちばん多くこの人に注意をはらっていたのだが、この人の気持ちばかりはどうしても|忖《そん》|度《たく》することができなかった。年齢は姉の春代とおっつかっつというところだろう。太り|肉《じし》の、色の白い大男で、頭を丸刈りにして、かなりくたびれたセルを着ているのが、いかにも軍人あがりらしいが、|無精《ぶしょう》ひげがもじゃもじゃと生えているところは、いつか美也子もいったとおり、かなり爺むさい感じであった。
さっきもいったとおり、私は座敷へ入ってきたときからこの人の顔色に注意していた。できればその顔色から、何かを読みとろうと試みた。だが、その結果といえば、ことごとく失敗というよりほかはなかった。むっつりと腕組みをしたこの人は、どんなときでも眉根ひとつ動かさなかった。平々淡々としてそっぽを向いていた。見ようによっては、大胆不敵とも受けとれたが、また、別の見方をすれば、一種の虚脱状態にあるのではないかと疑われもした。
慎太郎のすぐ隣に、妹の典子が座っている。私はひとめその顔を見たときから、醜い女だときめてしまった。人間というものは現金なものだ。もし彼女が美人であったならば、私も大いに同情もし、父の罪業に関して自責の念も感じただろう。しかし、彼女があまり美しくなかったのでいっこうそんな気が起こらないばかりか、私はいくらか安心したような気持ちだった。
典子はきょとんとしたような顔で、一座の人々を見回している。無邪気といえば無邪気だが、いくらか足りないのではないかと思われた。額の広い、|頬《ほお》のこけた女で、なるほど美也子のいったとおり、私とひとつ違いとはどうしても見えない。と、いってそれは若々しいという意味ではなくて、成熟しそこなったという感じである。いかさま月足らずということが、ひとめでわかるようなひ|弱《よわ》さであった。彼女は不思議そうな顔をしてひとりひとり見回していたが、やがてその視線が私の上に来ると、そこではたと静止してしまった。まじまじと彼女は私をながめた。しかし、そこには取りたてていうほどの特別の感情はなさそうだった。ただ、無邪気に、もの珍しげにながめているだけのことらしかった。
兄の咳はなかなかやまない。咳と咳との間にまじる、ヒーヒーと笛を吹くような音が、いよいよ切なく骨をえぐる。それでもまだ、だれも口を出さないので、何かしら、重っ苦しい空気が、圧迫するように一座の上にのしかかって来た。
と、このとき突然、兄が手をふって、
「馬鹿! 馬鹿! おれがこんなに苦しんでるのに、だれも何もしてくれないのか、|馬《ば》……」
そこでまた、兄ははげしく咳きこんだ。見るとこめかみのあたりに、ぐっしょりと冷たい汗がういている。
「薬を……薬をくれ、薬を……だれか薬を……」
双生児の小梅様と小竹様が顔を見合わせた。それから軽くうなずくと、そのうちの一人が枕元にあった手文庫をひらいて、中から畳んである薬包紙をひとつ取り出した。別のひとりが吸い飲みをとりあげた。
「そら、久弥、薬じゃぞ」
枕にしがみついていた兄は、その声に鎌首をもたげて、吸い飲みのほうへ口を持っていったが、何を思ったのか私のほうへ首をねじ向けると、
「辰弥、これが久野のおっさんの薬や。見てみい、ようきくぜ」
何を思ってあのとき兄は、あんなことをいったのか、いまもって私には兄の真意がわからない。たぶんそれは久野のおじに対する単なる皮肉だったのだろうが、あまりにもその言葉は的中しすぎた、それも恐ろしい意味で……。
ふたりの老婆から薬を飲まされた兄は、しばらく枕に顔をおしあてていた。どうやら咳は一時おさまったらしかったが、さっきの疲れか、細い肩が大きく波打っていた。しかしそれもだんだんおさまってくるらしいので私もほっと胸なでおろしたが、そのときだった。突然、兄の体がギクンと大きく|痙《けい》|攣《れん》した。
「あ、あ、あ、くく、苦しい……み、水……」
寝床のなかから|這《は》い出して、兄は両手でのどのあたりをかきむしった。その形相のすさまじさは、さっき咳に苦しんでいたときの比ではなかった。私はふっと祖父の臨終を思い出して、全身に|粟《あわ》立つのを覚えた。
「あっ、伯母さん、に、兄さんが……」
ふたりの大伯母たちも、いつもとちがった兄の苦しみかたにいくらか|狼《ろう》|狽《ばい》したらしい。あわてて吸い飲みを口へもっていったが、兄はもうそれを飲むことができなかった。吸い飲みの口が歯にあたって、カチカチと音を立てるばかりであった。
「久弥、これ、しっかりせえ、水じゃぞ、ほら、水じゃがな」
兄はしかし、その手をはらいのけるようにして、またひとしきりのどをひっかいていたが、やがて、があーッと白い枕覆いの上に血を吐いた。そして、それきり動かなくなった。
金田一耕助
いま思い出してもゾッとする。そのとき私は、あの薄暗い中二階の裏座敷に、ドス黒い霧のような悪気が、さあーッとみなぎりわたるのを感じた。私は何かしら、身に迫る危険があるような気がして、すぐにもその場から逃げ出したいような衝動にかられた。読者諸君よ、私の|臆病《おくびょう》を笑わば笑え。私にとって、それははじめての経験ではなかったのだ。祖父といい兄といい、私の眼のまえに現われると、やがてつぎの瞬間には、恐ろしいもがき死にをしていったのだ。しかも、その死に方は、祖父のときも兄のときも、全然同じではないか。
毒殺……私の脳裏に、すぐその考えがひらめいたのも無理はないだろう。
しかし、ほかの人たちは案外落ち着いていた。久野の恒おじは、二、三本注射をうったが、やがてあきらめたように首を横にふって、
「御臨終です。あまり興奮なすったので、みずから死期を早めたのですね」
私はびっくりしてその顔を見直した。それからその言葉に、なんの不審も抱かないで、そのまま受け入れている人々をあきれたように見回した。
しかし、私は知っているのだ。御臨終ですと、ごくさりげなくいった恒おじの言葉が、かすかにふるえていたのを。……それからまた、私の視線に気がつくと、狼狽したように顔をそむけたのを。……あの言葉のふるえといい、私に顔を見られたときの狼狽ぶりといい、あれはたしかにただごとではなかった。久野の恒おじはきっと何か知っているのだ。私はこのことを、深く心のなかに彫りつけておこうと考えた。
久野のおじとは反対に、いとこの慎太郎の気持ちは、そのときもまた|捕《ほ》|捉《そく》することができなかった。兄が苦しみ出したとき、いくらかびっくりしたような表情を見せたが、あとはまた平々淡々として、兄の死に顔を見つめていた。妹の典子も、これまたきょとんとしたような無邪気な眼をみはっていた。
私はよっぽど叫びたかったのだ。言葉がのどまでついて出ていたのだ。
「違います、違います。これはふつうの死に方ではありません。祖父の丑松と同じように、だれかの手にかかって毒殺されたのです」
しかし私は叫ばなかった。のどまでこみあげてきた言葉をやっと飲み下したのだった。
兄の病気が病気だったし、それにそばに医者もついていることだしするので、兄のこの突然の死も、別に問題を起こしそうになかった。遅かれ早かれ、こうなることはみんな知っていたので、家人にも奉公人にも、別にショックを与えたようでもなかった。そのことが私にはなんだか物足りなかったけれど、強いて平地に|波《は》|瀾《らん》をまきおこすこともあるまいと思って、私は黙ってひかえていた。それに、私といえども兄の死をはっきり毒殺と断定する勇気はなかったのだ。肺壊疽の末期には、ああいう死に方をするのかもしれなかった。もし祖父の死を眼前に見ていなかったら、私とても久野おじの言葉をそのまま受け入れたことだろう。
さて、兄のお弔いはその翌日の夕刻執り行なわれることになった。これでお弔いがふたつかち合うことになったわけだ。ひとつは私の携えてきた祖父の丑松の遺骨である。私はこれを井川家へとどけて、そこで改めてお弔いを出す予定だったが、兄の|急逝《きゅうせい》でまだそのことを果たさぬうちに、こちらの不幸をきいて祖母と養子の兼吉夫婦が、向こうのほうから駆けつけてきた。私の祖父には私の母以外に子どもがなかったので、母がああいうことで姿をくらましたのち、|甥《おい》の兼吉というのを養子にして跡を継がさせていたのだ。
私は祖母の浅枝や養子の兼吉と、その日はじめて会ったのだが、この人たちはこの恐ろしい物語に、特に深い関係はないから、ここではあまり触れないでおこう。ただその場で相談ができて、祖父のお弔いも同時にこの家から出そうということになったことだけを、書き留めておけばことが足りるだろう。
双生児の小梅様と小竹様は、かわるがわるこんなことをいった。
「丑松とは鶴子がいなくなって以来、縁が切れたようになっていたが、こんどは家のことで神戸へ行ってもらって、あんな始末になったのだから、こちらでお弔いをするのがほんとうだと思う。それに両方とも、辰弥に|施《せ》|主《しゅ》になってもらわなければならないのだから……」
ああ、なんという眼まぐるしさであったろう。私の平板な灰色の人生は、いよいよ大きく変転して、その日いちにち、私は忙殺される思いであった。いろんな人がつぎからつぎへとお悔やみに来た。そしてそのことが、期せずして村の人々に、私を披露する結果になって、だれもかれもお悔やみの言葉がおわると、じろじろとセンサク的な眼で私を見ていった。
美也子も来たし、美也子の義兄の|野《の》|村《むら》|荘《そう》|吉《きち》という人も美也子といっしょにやってきた。
野村家は村の西はずれにあって、私のうちの田治見家とならび称せられる分限者だが、あるじの荘吉という人はいかにもそういう大家のあるじにふさわしい、おっとりとした態度で、|鷹《おう》|揚《よう》な口の利き方をする人であった。年は五十前後だろう。しかし、その荘吉氏ですら、美也子が私を紹介すると、一瞬好奇の色をかくしきれなかった。むろん、さすがに、すぐそういう顔色をおしかくしたが。……
さて、それから後は別にいうこともなく、二つのお弔いはつつがなく、その翌日の夕方おわった。祖父の丑松は便宜上火葬にして、遺骨を持ってかえったが、このへんでは一般の習慣として土葬なのである。田治見家の墓地は屋敷の、背後の八つ墓明神のすぐ下にあったが、そこへ新しく穴が掘られると、兄の|亡《なき》|骸《がら》をおさめた|柩《ひつぎ》がおろされた。そしてその柩の上に最初の土を落としたのはかくいう私だったのだが、そのとき私は何かしら大切な落としものでもしたように、ひやっとしたのをいまでもハッキリ覚えている。
ところでこのお弔いからかえって、改めて村の人々に仏事の振る舞いをするときになって、美也子が私のそばへやってきた。
「辰弥さん」
と、彼女はいつか私を名前で呼ぶようになっていた。
「あなたにぜひ紹介してほしいという人があるんですけれど、いまお手すきじゃない?」
「はあ、どういう人ですか」
「どういう人だかあたしにもよくわからないの。神戸からかえってみると、本家のほうへ来ていたのよ。義兄の古い友人だとかで、この近所へ用事があって来たついでに立ち寄ったとかいって、本家へ|逗留《とうりゅう》しているのよ。名前は金田一耕助というの」
そのころ私はまだ金田一耕助という名を知らなかった。美也子も知らなかったらしい。
「それで、その人、私にどういう用事があるのでしょう」
「さあ、それはあたしにもわからないわ。あなたと二人きりで話をしてみたいといっているんですけれど」
私の心は怪しく乱れた。ひょっとすると警察関係の人ではあるまいかと考えた。それならば会わずにすますというわけにはいくまい。
「どうぞ、それでは向こうの座敷でお待ちしていますから」
人の出入りの少ない別室の六畳で待っていると、そこへにこにこしながら入ってきた人物があったが、ひとめその人の|風《ふう》|貌《ぼう》を見たとき、私は人違いではないかと思ったくらいだ。私はなんとなく、もっと堂々たる|風《ふう》|采《さい》の人物を期待していたのだ。だから、
「失礼しました。ぼくが金田一耕助です」
と、ペコリとお辞儀をされたとき、私は思わず眼を見はって、相手の様子を見直さずにはいられなかった。
金田一耕助――年齢は三十五、六だろう。小柄で、もじゃもじゃ頭をした、どこから見ても風采のあがらぬ人物である。おまけによれよれのセルに|袴《はかま》をはいているのだから、よく踏んでも、村役場の書記か、小学校の先生くらいにしか見えない。おまけに少しどもるくせがある。
「いや、これは……私が辰弥です。何か私にお話があるということでしたが」
「はあ、ちょっとお伺いしたいことがありまして……」
金田一耕助はにこにこしながら、しかし、どこか相手をひやりとさせるような鋭さのある眼で、それとなく私を観察しながら、
「だしぬけにこんなことをお伺いして、はなはだ|不躾《ぶしつけ》とは思いますが、あなたは村のうわさを御存じですか」
「村のうわさといいますと……」
「つまり、お兄さんの死についてですね。村ではちと、けしからんうわさがとんでいるようですが……」
私は思わずドキリとした。直接そういううわさを耳にしたわけではなかったが、一昨日の濃茶の尼の言葉からしても、兄の死について、怪しいうわさがとぶであろうということは想像されなくもなかった。しかも、私自身、同じような疑問をいだいていたのだから。……瞬間私の顔色にあらわれた動揺を見てとると、金田一耕助はにっこり笑って、
「なるほど、あなた御自身、同じような疑問を持っていられるのですね。しかし、それならば、あなたはなぜそのことを口に出していわなかったのですか」
「どうしてです。どうして私にそんなことがいえるのです」
私はやっと口をひらいた。なんだかのどの奥が熱くなって、いがらっぽくなるような気持ちだった。
「現に医者がついていて、その人がなんでもないといっているのですから、素人の私にどうして口出しをすることができましょう」
「なるほど、それも無理のないところですね。しかし、ねえ、辰弥さん、私はここで一応忠告しておきますが、あなたは今後、なんでも怪しいと思うようなことがあったらはたの思惑など考えないで、率直にそれを披露されたほうが有利ですよ。それでないと、今後どういう苦しい立場に立たされるかわかりませんよ」
「金田一さん、それはどういう意味ですか」
「つまりね、あなたは最初から村の人々から色眼鏡で見られているのです。あなたが村へかえってきた。きっと何か変事が起こるにちがいない。……村の人々はみんなそういう考えを持っているんです。むろん、迷信ですよ。しかし迷信だからいっそう怖い。理屈では説き伏せられない|頑《がん》|冥《めい》さですからね。しかも、丑松さんといい、お兄さんといい、あなたにかかりあったとたん、変な死に方をしている。村の人々の迷信が、いよいよたかまるのも無理はないのです。御用心をなさらなければいけませんね」
私の心は暗い|怯《おび》えで、鉛のように重くなった。何かしら眼に見えぬ黒い糸が、しだいに自分の身を金縛りにしていくような感じであった。金田一耕助はにこにこしながら、
「いや失礼しました。はじめてお眼にかかって、いきなり変なことをいい出して、さぞいやな思いをされたでしょう。まあ、これもぼくの老婆心だと思って堪忍してください。ところであなたの疑惑ですがね、お兄さんの御最期に関する……それについてひとつ話してくれませんか。いや、自分の主観は話しにくいでしょうから、ひとつ、客観的にお兄さんの御臨終の模様を話してくださいませんか」
それならば私にも話をするのに気安かった。私は問われるままに、兄の臨終の模様を子細に語ってきかせた。金田一耕助はおりおり言葉をはさんで、私の記憶を刺激してくれたが、やがて私の話がおわると、
「それであなたはそのときの情景と、丑松さんの御最期の模様をくらべてみて、どういうふうにお考えになりますか。そっくり同じだとお思いになりませんか」
私は暗い顔をしてうなずいた。金田一耕助は黙ってしばらく考えていたが、やがてじっと私の眼をのぞきこみながら、
「辰弥さん、私はどうもこの事件はこのままじゃおさまらないと思いますよ。なにしろ村の風説が大きすぎるし、それにあなた御自身そういう疑惑を持っていられるとすればねえ。いずれ警察の手がのびるかもしれませんよ」
そういって金田一耕助は、さぐるように私の顔をながめていた。
金田一耕助の予想はあやまらなかった。果たしてそれから三日のちにN町の警察と岡山市の警察本部から、どやどやとたくさんのひとがやってきた。そして兄の墓が発掘され、改めて|屍《し》|骸《がい》が現地解剖された。この解剖には県警察の嘱託医N博士があたったが、それに協力したのは村の疎開医者|新居修平《あらいしゅうへい》氏だった。
その結果は二日のちに発表されたが、兄の死は明らかにある毒物に原因していることが判明した。しかもその毒物は祖父丑松を殺したものと、まったく同じ種類のものであった。
ああ、こうして八つ墓村には、眼にも見えぬ黒い|妖《よう》|気《き》がいよいよ渦巻き始めたのだった。
劣等コムプレックス
私の胸のいらだちは、しだいにはげしくなってきた。腹の底が、じりじり|煎《い》られるような息苦しさ。……何かしら、しなければならぬことが、いっぱいあるような気がしながら、しかも、どこから手をつけてよいのかさっぱりわからぬもどかしさ。……少なくとも私には、考えなければならぬことがたくさんあったのだ。
まず第一に、祖父の丑松と、兄の久弥の死を他殺として、(それはもう、疑う余地のない事実だが)そのことと私の帰村とのあいだに、何か関係があるのだろうか。つまり、私が村へかえってきたがために、あるいはかえってきそうになったがために、ああいうことが行なわれたのであろうか。もし、私が発見されなかったら、いや、発見されても、村へかえることを拒んだら、ああいうことは起こらずにすんだのであろうか。
私はそのことを、よく考えなければならなかった。
つまり、二つの|連《れん》|鎖《さ》殺人事件は、私を中心としてえがいている、渦のなかの出来事だろうか。それとも、私とは関係なしに、別の頂点を目ざしてえがいている、渦のなかの出来事だろうか。私が発見されようがされまいが、私が帰村しようがしまいが、そういうことには関係なしに、やはり、あの二つの殺人事件は起こったろうか。
私はそれを、よく考えてみなければならないのだ。
私にはまた、毒殺者の意志というか、目的というか、それが少しもわかっていない、いや、私のみならず、だれにとっても、それはなぞであったろう。いったい、祖父を殺してどうしようというのだ。私を村へ呼びもどしたくないところから、使者に立った祖父を殺したのであろうか。しかしそんなことをしたところで、私を村からきりはなすという保証はどこにもないのではないか。現に私は美也子の迎えで、こうして村へかえってきている。
兄の久弥の死にしてからが、私にはさっぱり理由がわからない。兄はほうっておいても、早晩、死ぬべきひとであった。この夏を無事に越せたかどうかわからぬ。犯人はただその死期を、ほんのちょっぴり繰りあげただけのことなのだ。しかも、それには、多くの危険を覚悟しなければならなかったろうに。……
なお、ついでながらいっておくが、兄の死に、毒殺の疑いがもたれると同時に、家人と主治医であった、久野の恒おじが、厳重に取り調べられた。そして、いちばん苦境に立たされたのは、久野の恒おじであった。
私はいまでも、兄の臨終の模様をよくおぼえている。兄ははげしく咳きこんだのちに、双生児の小梅様と小竹様に薬を求めた。すると、双生児のうちのひとりが(それが小梅様であったか、小竹様であったか、私にはよくわからなかったが)枕元にあった手文庫から、薬包紙を一服とり出した。そのとき、そのひとは、けっしてあれかこれかと、薬の包みを選択するようなことはなかったのだ。たくさんある薬のなかから、いちばんさきに手にふれたものを、兄の久弥にのませたのだ。
ところが、兄の死に毒殺の疑いが持たれるようになると、警察ではただちに、のこりの薬包紙を全部押収して分析した。しかし、そこにはなんの異状もなかったそうだ。だから、たくさんあった薬包紙のなかに、ただ一服、毒物をまぜた包みがあったのを、あのとき偶然、小梅様だか、小竹様だかがとりあげたのだ。
ところで、この薬はどうなっていたかというと、久野の恒おじが、一週間ずつまとめてあたえたそうだ。内容は|炭《たん》|酸《さん》グアヤコールにチョコール、それに|重曹《じゅうそう》を調合したもので、いまどき、どこの田舎医者でも、こんな薬を調合するものはないそうだ。しかし、兄にとって十分気やすめになったらしく、三度三度、服薬を忘れず、薬がきれると、使いのものを走らせた。
ところで、問題はここなのだが、久野の恒おじもはじめのうちは、そのつど一週間ぶんずつ調合してわたしていたが、しまいにはめんどうくさくなったのと、それに、この処方は変質する心配がないので、いっぺんに、一か月ぶんくらい調合しておいて、しかし、それをそっくりわたしては、ありがた味がうすいので、そのなかから、一週間ぶんずつ、わたすことにしていたそうだ。だから、恒おじの薬局には、早晩、兄にわたされる薬の包みのストックが、いつもかなりたくさんあったわけだ。
このことは、犯人にふたつの機会をあたえることになる。兄の枕元ですりかえる場合と、恒おじの薬局ですりかえておく場合と……そしてこのことが、探索を困難ならしめたのだ。なぜならば、第一の場合だと、容疑者はいちじるしく限定されるが、あとの場合では、そういうわけにはいかなかった。
兄の久弥はああいう病人にありがちの、ひどく気むつかしくなっていて、病室には小梅様と小竹様、それに姉の春代のほかは絶対にいれなかった。むろん、主治医の恒おじはべつとして。……だから、まえの場合にかぎっていれば、四人のなかから、犯人を探せばよかったのだが、あとの場合があるだけにやっかいだった。
田舎のことだから、恒おじの薬局はひどくルーズで、だれでも平気で出入りができた。間取りの関係で、恒おじの家の客間は、診療室の奥になっており、玄関からそこへ行くには診療室をとおらねばならないのだが、たまたま患者がきていると、客は薬局をとおって、奥の客間へとおされた。だから、恒おじといくらかでも懇意にしているほどのものならば、だれでも薬をすりかえるチャンスがあったわけだ。
したがって、問題は、だれがチャンスを持ちえたか、ということよりも、だれが早晩、兄の久弥にあたえられるであろう薬のストックが、いつも恒おじの薬局にあることを、知っていたかということになる。そして、その点になると恒おじにもわからなかった。むろん、いくら田舎でもそんな無責任な投薬のしかたはないので、恒おじはだれにも内緒にしていたが、一か月ぶん、百にちかい薬包紙を、いっぺんにつつむのは、相当、手間のかかる仕事なので、いつも家内じゅうで手伝っていたそうだ。そのなかには、小学校や中学校へ行っている子どももまじっていたから、かれらの口からもれて、恒おじ自身は内緒にしているつもりでも、かなり多くのひとが知っていたかもしれない。むろん、こうなったら、私はそれを知っていましたと、名乗って出るものもなかろうけれど……。
さて、第一と第二の事件を見ると、犯人はいつも、けっして急いでいないことに気がつくのだ。祖父の丑松にしても兄の久弥にしても、いつ犯人のすりかえたカプセルなり、薬包紙なりを口にするかわからないが、早晩飲むであろうことさえわかっていれば、犯人はそれで安心していられたのだ。つまり、犯人はいつも、いちばん無理のない、安全な方法をえらんでいるのだ。たまたま、ふたつの事件の際に、私がその場にいあわせたのはそれこそ偶然というべきだろう……。
こう考えてみると、この事件はかならずしも、私を中心として起こったものとも思われぬ。私はただ、不幸な偶然から、渦のなかにまきこまれて、キリキリ舞いをしている、あわれな捨て小舟にすぎないのだ。父の恐ろしい|罪《ざい》|業《ごう》のからを背負うているだけに、偶然も偶然とみなされず、いつの間にか、事件の中心へおしだされたかたちになっているのだ。だが、それならばそれで、私はいっそう警戒しなければならないのだ。
八つ墓村における私の味方といえば、美也子よりほかにない。しかし、その美也子にしたところで、女のことだし、また、彼女自身、村のひとから白眼視されているのだから、果たして、頼りになるかどうかわからぬ。こう考えてくると自分をまもるものは自分以外にないのだ。私は戦わねばならぬ。だが、だれと……? だれを相手に……?
私はまず、いつか私に脅迫状をよこした人物のことを考えてみた。しかし、その人物を探しだすことは、私のような新参者には、容易なことではないと思われる。では、私の素行品性を、調べてまわっていた人物はどうであろうか。友人の細君の話では、田舎のひとらしかったということだが、もし、それが八つ墓村の住人だったとしたら、それを調べるのはそう困難ではないと思われる。こういう田舎では、ひと晩、家をあけるような旅行をすれば、すぐ村じゅうに知れわたってしまうのだ。
そこで私はさりげなく、ちかごろこの村の住人で、旅行をしたものはないかと、姉の春代にきいてみた。姉の春代は閉じこもりがちで、めったに外へ出ることはないのだが、ちかごろ村をはなれたものは、丑松さんと美也子さん以外にないようだと答えた。彼女自身外へ出なくても女中のお島がきいてきて話をするから、何か変わったことがあったら、自分が知らぬはずはないと付け加えた。村ではそれほど話題が少ないのだ。
私はさらに、よりいっそうのさりげなさを装うて、ひょっとすると、里村の慎太郎さんは、ちかごろ、どこかへ旅行しなかったかときいてみた。この質問には、姉の春代もちょっと驚いたらしかったが、それでもすぐに、そんなことはないと打ち消した。彼女がいうのに、慎太郎さんが旅行をすれば、自分にわからぬはずはない。それというのが、あそこでは典子さんが体が弱く、少し働きすぎるとすぐ倒れる。それで、これは小梅様や小竹様、また、兄の久弥にも内緒にしていたが、毎日、かならず一度はお島をやって、すすぎ洗たく、それから御飯炊きなどさせることにしているのである。だから、慎太郎さんがひと晩でも家をあければ、お島の口から、自分の耳に入らぬはずはないといった。そして、そのあとへ、しかし、このことは小梅様や小竹様にはけっしてしゃべってくれるなと付け加えた。
私はこれをきいて驚いた。この家ではみんな慎太郎というひとを、憎んでいると思っていたのに、ここにひとり、ひそかな同情者が現われたのだ。そのことは、姉の心根のやさしさを物語っており、私にもうれしくないことはなかったが、同時にちょっと、不快なかげりを感じたこともいなめなかった。それほど、慎太郎というひとに対する、私の先入観は悪かったのだ。
しかし、私はすぐ、いわれのない心のかげりを追いはらうと、改めて、どうしてこの家のひとたちは、姉をのぞいて、みんな慎太郎さんを憎むのかと尋ねてみた。はじめのうち、姉はけっしてそんなことはないといいはっていたが、問いつめられて、とうとうこんなことを話してくれた。
「情けない。ちかごろこちらへ来たばかりのあなたの眼にさえそれがうつるとは……」
春代はふかいため息をついて、
「いいえ、それにはけっしてこれというわけはないのです。ただ、いけないことは、慎太郎さんのお父さんの修二さんというひとが、弟の|分《ぶん》|際《ざい》で、私の父よりしっかりしていた。つまりまっとう[#「まっとう」に傍点]な人間だったということです」
姉の顔にはしみじみとした悲しみがひろがった。
「こういうことをいうのは、亡くなった父や兄をきずつけることだから、私にとっては、身を切られるようにつらいことです。でも、あなたが無理にしゃべらせるのだから……辰弥さん、こういう時代になっても、田舎では家ほど大事なものはないのですよ。そして、その家を継いでいくのは長男です。長男が馬鹿か気ちがいでないかぎり、次男、三男が兄をしのぐということはありません。二、三年あとから生まれたというだけで、どんなにすぐれた器量をもっていても、弟が兄をしのいで、本家を継ぐことはできないのです。だから、兄と弟の器量に、それほど違いがないときは、かえって問題はありません。兄が出来が悪くても、弟の出来も同じように悪ければ、かえってあきらめがついてサバサバします。ところが、うちの父と叔父の修二さんの場合、あまり違いがありすぎました。叔父さんはりっぱなひとでした。どこへ出しても恥ずかしくないひとでした。それに反して私の父は……つまりそこに伯母さまがたのくやしさがあったのです。大事な本家を継ぐべき長男の出来がよくないのに、どうせ新家をするか、他家を継ぐよりほかはない次男の器量がすぐれている。そのくやしさに、おろかな子どもほどかわいいという感情がからんできて、伯母さまがたは、叔父さまをうとんじはじめたのです。そして、その感情は慎太郎さんの代になって、いっそう強くなったのです」
春代はそっと眼頭をおさえて、
「この田治見家のものはみんなだめです。兄にしても私にしても、一人前には通用しません。いいえ、なにもいわないで……あなたのいおうとすることはよくわかります。私の弁護をしたいのでしょう。でも、私だって片輪も同様な体なんですもの」
春代はさびしく|頬《ほお》|笑《え》んで、
「ところが、里村の慎太郎さんはりっぱです。戦争がこんなことになったから、あのひともいまは|尾《お》|羽《は》打ち枯らしていますけれど、人間のりっぱさでは、とても兄とはくらべものになりません。伯母さまたちにはそれがくやしかった。兄さんにはねたましかった。つまり、この田治見の家は弱いもの、一人前でないものの集まりだから一人前のひとにはだれにでも威圧を感じるのです。ましてや、慎太郎さんみたいな、しっかりした人に会うと恐ろしくなってくるのです。つまり、伯母さまがたや、兄さんが慎太郎さんを憎んだのは、みんな、劣ったものが、優れた人に対する、ひがみから来ているのです」
心臓の悪い姉の春代は、これだけの話をするにも息が切れた。顔色が|蒼《あお》くなった、眼のふちにくろい|隈《くま》ができた。私はしみじみそれを哀れと思った。姉はそれでもしいて頬笑んで、
「でも、私はうれしいのよ。あなたが帰ってきてくれたのでうれしいのよ。あなたはまっとう[#「まっとう」に傍点]なひとね。いいえりっぱだわ。だから、うれしいのよ」
疲れた|瞳《ひとみ》を一瞬キラリとかがやかせると姉はボーッと|瞼《まぶた》を染めてうつむいた。
第三章 八つ墓明神
私は一度八つ墓明神を見たいと思っていた。この村のすべての悪と|禍《わざわ》いの根元となっている八つ墓明神……それを見たところで、いま目前に迫っている、現実の問題の解決の足しになるとは思えないが、一応見ておく必要はあると思った。しかしなにぶんにも兄の急死でゴタゴタしている場合だし、それに、この村へ着いた日のことを考えると、うっかり外へ出るのもはばかられたのだ。
ところが、初七日の日のことである。お|午《ひる》過ぎ、少し早目に手伝いに来た美也子にその話をすると、
「あら、それじゃこれからいっしょに行きましょうよ。お手伝いだって、どうせあたしはなにもできないのだし、あなただって、べつに御用はないでしょう。お寺さんがいらっしゃるのは、どうせ夕方になるでしょうから、それまでにちょっとお参りしてきましょうよ」
と、誘ってくれた。
私たちはふたりとも都会そだちだったので、|忌中《きちゅう》には神参りをしないものだというようなことを知らなかった。いや、知っていても、それほど切実には考えなかった。
姉の春代に話をすると、ちょっとびっくりしたような顔をしたが、それでもすぐにうなずいて、
「そう、じゃ、行ってらっしゃい。でも、できるだけ早くかえってくださいね。間もなくお客様がお見えになる時刻だから……」
「ええ、じきにかえるわ。すぐそこなんですもの」
私たちは、ひろい座敷をつきぬけて、裏の勝手口から外へ出た。勝手口の外は、すぐのぼり坂になっており、少し行くと小さな貯水池があった。幸い、そのへんには人家もなく、人にも出会う心配も少なかった。
貯水池をぐるりとまわると、一|間《けん》ほど|花《か》|崗《こう》|岩《がん》でたたきあげた|崖《がけ》があり、崖の上には黒木の|柵《さく》がめぐらしてあり、石段の下に、「田治見家之墓地」と、刻んだ石碑が立っている。ここまでは私も、兄のお弔いのときに来たことがある。この墓地の横に細い|小《こ》|径《みち》がついていて、それをのぼると、ひょろひょろと|痩《や》せた赤松の生えた丘のあちこちに、点々として小さな墓石がならんでいた。このへんの丘が、八つ墓村の住民の、永遠の眠りにつく場所になっているのだ。
「ときに、金田一耕助という人はまだいますか」
ふと思い出して、私がそんなことを尋ねると、美也子はなぜか、ふっと美しい眉根をくもらせた。
「ええ、まだいるわ」
「いったい、あのひとはどういうひとなんですか。なにか、警察と関係のあるひとなんですか」
「さあ、それがよくわからないの。ひょっとすると、|私《し》|立《りつ》|探《たん》|偵《てい》というようなひとじゃないかと思うんだけど……」
「私立探偵……?」
私はちょっと驚いて、
「それじゃ、こんどの事件の調査に来ているんですか」
「まさか。……だって、あのひとが来たのは久弥さんの事件の起こるまえですもの。それに田治見家の事件に、うちの本家が、私立探偵を雇う義理もないでしょう」
「それもそうですね。しかし、野村さんは、どうして、私立探偵など、御存じなんでしょう」
「さあ、……あたしにはよくわからないけど……とにかく、あのひとがここへ来ているのには、特別の意味はないのでしょう。なんでもこの向こうの|鬼《おに》|首《こべ》|村《むら》という村へ、事件の調査を依頼されてやってきたんですって。そのかえりに立ち寄って、しばらく骨休めをしていくんだという話よ」(作者注―鬼首村については、『悪魔の手毬唄』『夜歩く』を参照されたし)
「へへえ、あんな男に、事件を依頼するひとがあるんですかねえ」
私は思わず、自分の感想をもらすと、美也子はふふふと笑って、
「まあ、ひどいことをおっしゃる。人は見かけによらぬものというから、あれでもりっぱな名探偵かもしれなくってよ」
美也子の言葉はあたっていたのだ。それから間もなく私たちは、あのもじゃもじゃ頭の貧相などもり男が、どのようなすぐれた探偵であるか、身をもって知らされたのだ。
それはさておき、小さな墓石のならんでいる丘をのぼりつめると、そこに|切《き》り|通《どお》しがあり、その切り通しを向こうへぬけると、さっきから聞こえていた水の音が、急に大きくなってきた。見るとはるか眼下に、かなり急な渓流が、岩をかんで流れている。こういう山奥としては川幅はわりにひろくて、いたるところに巨石がころがっていた。
「いつか、ひまがあったら、あの川へおりてみましょうよ。いたるところに|鍾乳洞《しょうにゅうどう》ができていて、ちょっとほかでは見られない景色よ」
私たちはしかし、その川ぶちまでおりずに途中から川と平行に、また坂をのぼりはじめた。そして、行くこと二、三丁にして、やっと八つ墓明神の石段の下までたどりついた。
石段は約五十段あった。かなり急な傾斜なので、一気にのぼるのには息切れがした。途中で下をみると、眼がくらみそうだ。石段をのぼりきると、山をきりひらいてつくった二百坪ばかりの平地があり、そこに八つ墓明神の拝殿があった。この八つ墓明神のつくりについては、べつに改めて述べるところもない。日本の津々浦々、どこへ行っても見られるようなお|社《やしろ》である。
私たちはかたちばかりの拝殿にぬかずいて、それからぐるりと社のうしろへまわった。神官はいるのかいないのか、どこにも人の気配はなかった。社の背後には十段ばかりの石段があって、それをのぼると、五十坪ばかりの平地があり、そこに、八つの|塚《つか》があった。ひとつは大きく中央にあり、あとの七つはそれを取りまくような位置にある。中央の塚が大将で、あとの七つは臣下であろう。塚のそばに八つ墓明神の由来を彫った石碑が立っているが、漢文なので私にはよく読めなかった。
この平地の東のはずれに、杉の巨木が亭々として空にそびえていた。
「あれが双生児のかたわれなのよ。そしてこっちのが、この春、雷にうたれた杉……」
美也子の説明で、平地の西はずれをふりかえったとたん、私はドキッと胸を躍らせた。
平地の西隅に、株ばかりになった杉をめぐってしめなわが張ってあり、そのしめなわのそばにしゃがんで一心に|数《じゅ》|珠《ず》をもんでいる姿があった。うしろ姿であったけれど、ひと眼でそれが尼であることがわかった。濃茶の尼か……?
「かえりましょう」
私は低声でささやいて、そっと美也子の|袖《そで》をひいた。美也子はしかし、首を横にふると、
「大丈夫よ。あれ、濃茶の尼じゃないわ。バンカチの尼さんのバイコウさんよ。あのひとはいたっておだやかな人だから、なにも心配することはないの」
あとで知ったことだが、バンカチとは|姥《うば》ケ|市《いち》と書くのだそうである。やはり|字《あざ》の名で、おそらくは、日本のあちこちにのこっている|姥《うば》|捨《すて》伝説の名残りをとどめているのであろうか。そのウバガイチがいつかバンカチと|転《てん》|訛《か》して、そこに|慶勝院《けいしょういん》という尼寺があり、バイコウさんはそこの院主であった。バイコウとは梅幸と書く。歌舞伎役者の梅幸と同じ字だが梅幸尼はおそらくそういう名前の役者があることさえ知るまい。
梅幸尼はしばらく一心不乱に祈念をこらしていたが、やがて立ち上がってこちらを見た。そして、ちょっと意外そうに眼をみはったが、すぐにっこりとおだやかに頬笑んだ。なるほど濃茶の尼の妙蓮とは、似ても似つかぬきれいで上品な尼さんだ。色白の小ぶとりにふとった顔は、観音様のように柔和であった。丸くそりこぼった頭に、茶色の|宗匠頭巾《そうしょうずきん》をかぶり、黒い道行きを着ている。年齢は六十を越えているのだろう。
梅幸尼は数珠をつまぐりながら、しずかに歩をはこんでちかづいてきた。
「御院主さま、御信心でございますのね」
「はい。いろいろ気にかかることがあるものですから……」
梅幸尼はうすく|眉《まゆ》をくもらせながら、まじまじと私の顔を見て、
「こちらが東屋さんの……?」
「ええ、そう、辰弥さま。辰弥さん、慶勝院の梅幸さんよ」
私はかるく頭をさげた。
「それはよいところでお眼にかかりました。私もこれから|麻《ま》|呂《ろ》|尾《お》|寺《じ》さんのお手伝いで、お宅へあがるところでした」
「それはそれは……御苦労さまです」
「御院主さま、麻呂尾寺のお住持さまはいかがですか。御病気とか承っていましたが……」
「はい、なにぶんにもお年がお年ですから……それで今日は|英《えい》|泉《せん》さんが御名代でおいでになるはずでございます。私もちょっと|助《す》け鉄砲に、お手伝いさせていただきます」
「それは御苦労さま。では、ごいっしょにまいりましょう」
私たちは石段のところまで来たが、梅幸尼はそこでちょっとうしろを振り返って、
「ほんとに無残なことをしたもので……」
「え? なんでございますの」
「いえ、あのお竹様の杉の木でございます」
梅幸尼は雷にうたれた杉のほうを指さした。
「え? あれ、お竹様の杉というのですか」
「はい、あちらのがお梅様の杉、こちらのがお竹様の杉、双生児杉でございます。そうそう、東屋さんの小梅様と小竹様は、双生児にお生まれなされたので、お杉の名前をいただかれたのだと承っております」
梅幸はしずんだ声で、
「ああして、何百年も何千年も、いっしょにスクスク成長してまいりましたのに、それが一方だけ雷にうたれてなくなるなどとは……これもなにか|凶《わる》いことの起こる前兆ではないかと思うと、空恐ろしゅうございます」
梅幸尼もやはりこの村のものであった。八つ墓伝説からぬけきれないのである。私はなんとなくいやあな気がしたことだった。
無意味な殺人
梅幸尼をともなって家へかえると、ちょうどいま、お寺さんがついたところで、客もポツポツ詰めかけていた。
いったい、田治見家代々の宗旨は禅宗で、|菩《ぼ》|提《だい》|寺《じ》は村の|蓮《れん》|光《こう》|寺《じ》であったが、亡くなった兄の久弥は、わかいころから、隣村にある|真《しん》|言《ごん》宗、麻呂尾寺の住持、|長英《ちょうえい》さんというひとを崇拝していたので、お弔いもその後のお勤めも蓮光寺と麻呂尾寺の二か寺になった。
麻呂尾寺というのは隣村になるが村境にあって、地形からいうと、むしろ八つ墓村に縁が深く、|檀《だん》|家《か》もこちらのほうに多かった。ただし、お住持の長英さんは、すでに八十の高齢で、とかく|臥《ふせ》りがちのことが多く、たいていのお勤めは、戦後入山した、英泉さんという|所《しょ》|化《け》が名代をした。姥ケ市の慶勝院は麻呂尾寺の末寺で麻呂尾寺に手が足りないときは梅幸尼が助け鉄砲に出るのである。
冠婚葬祭、都会ではだいぶ簡略になったが、田舎ではまだそういうわけにはいかぬ。吉凶いずれを問わず、家になにかことがあると、一財産とぶのである。ことに、近在きっての分限者といわれる田治見家であってみれば、初七日の客も、数十名の多きに達した。
法要は二時ごろからはじまったが、なにしろ禅と真言の二か寺がお勤めするのだから、終わったのは四時もとうにすぎ、そろそろ五時にちかい時刻であった。それからお|斎《とき》になるのだが、これがたいへんであった。
山方、牛方、河方など、うちの奉公人や、出入りの小百姓たちは台所にちかい土間で無礼講だが、親戚はじめ村のおもだったひとびとは、十二畳二間をぶちぬいた座敷で、お坊さんふたりには本膳、その他には会席膳をふるまうのであった。
これらの指図はみんな、小梅様と小竹様から出るのだが、実際に立って采配をふるうのは姉の春代だから、私はまずその健康を気づかった。
「姉さん、大丈夫ですか。あまり働きすぎて、あとで体にさわると悪いですよ」
「ええ、ありがとう。でも、大丈夫ですよ。気が張っているから……」
すでに用意のできた、ふたつの本膳や、二十にちかい会席膳の、ずらりとならんだ台所で、春代は|蒼《あお》くむくんだような顔をしていた。眼もとにも元気がなかった。
「でも、顔色が悪いですよ。あとはお島や手伝いのひとにまかせて、あなたは離れへ行って横になったら……」
「そういうわけにもいきませんわ。もう少しの辛抱だから……辰弥さん、お客さまにそろそろ、お席におつきくださるようにといってくださいな」
「そうですか。では……」
行きかけたところへ、典子が私を探しに来た。
「お兄さま……」
典子は消えいりそうな声でそういうと、ちらと私の眼を見て、すぐうつむいてしまった。
典子が私に話しかけたのは、このときがはじめてだったし、私もわかい娘から、お兄さまとよばれたのは、これが生まれてはじめての経験だった。私は胸がドキリとした。しかし、日陰に咲いた花のような、弱々しい典子の様子をみると、すぐに苦笑がわきあがった。これがもっとわかわかしい、女らしい魅力のある娘だったら……しかし、今日の典子はうっすらと化粧をしている。
「ああ、典子さん、なにか御用ですか」
「慶勝院の御院主さまが、お兄さまにちょっと……」
「ああ、そう、御苦労さま。御院主さん、どちら?」
「こちら……」
典子の案内で玄関のつぎの間へ来ると、梅幸尼はかえりじたくをしていた。
「おや、おかえりですか。いま、お斎をさしあげようと思っておりますのに」
「いいえ、そうしていると遅くなります。私は年寄りですから、これで失礼させていただきます」
「お兄さま」
うしろから典子がささやいた。
「御院主さまのお膳、あとから若い衆にとどけさせるといいわ」
さすがは女である。よく気がついた。
「ああ、そうしましょう。御院主さま、それではすぐにお膳をとどけさせますから……」
「ありがとうございます」
梅幸尼は|剃《そ》りこぼった頭をかるくさげたが、急にあたりを見まわすと、つと私のそばにより、耳に口をあてるようにして、
「辰弥さま。一度私のところへお出かけください。私、あなたにお話があります。私あなたの身のうえに関したことで、たいへん大事なことを知っています」
私が|茫《ぼう》|然《ぜん》としていると、梅幸尼はまたあたりを見まわして、
「いいですか。きっとですよ。来るときはひとりでね、だれもつれないでね、さっき、八つ墓明神で、お話ししようかと思ったのですが、西屋の若奥さまがごいっしょだったものだから……じゃ、忘れぬようにね。このことは、私と麻呂尾寺のお住持さまが知っているだけ……では、明日にでも……お待ちしています」
梅幸尼はつと私のそばをはなれると、もう一度、まじまじと、まるで何かの暗示をあたえるように私の顔を見て、それからわざとらしくお辞儀をして、玄関のほうへ出ていった。
私は茫然とした。とっさに尼のささやく言葉の意味を、|捕《ほ》|捉《そく》することができなかった。毒気をぬかれたような顔をしてキョトンとそこに立ちすくんでいた。それでもやっと気を取りなおして、もう一度、梅幸尼にいまの言葉の意味をききただしてみようと、玄関へ追っかけて出たときには、尼の姿はすでにそこには見えなかった。
「お兄さま、御院主さま、いま、なにをおっしゃってましたの?」
気がつくと、うしろに典子が立っている。典子の、子どものようなあどけない眼にも、奇妙な色がうかんでいた。
「ああ、いや……」
私はポケットからハンカチを出して、額ににじんだ汗をぬぐった。
「なんだか、さっぱりわけがわからない」
座敷へかえってみると、すでに一同は着席していた。正面には、蓮光寺の和尚|洪《こう》|禅《ぜん》さんと、麻呂尾寺の所化英泉さんがふたりならび、その左側には、私の席をひとつおいて、小梅様に小竹様、そのつぎの席が春代らしくてぬけていて、そのつぎが里村の慎太郎さん、つぎの典子の席がまたぬけていて、そのつぎが久野の恒おじ、その妻と長男。
その向かいがわには、村長をかしらに、西屋のあるじ野村荘吉氏とその妻。それから森美也子、そのつぎに座っている四十五、六の、色の白い、鼻下に美しいひげをはやした紳士は、その日はじめて紹介されたのだが、疎開医者の新居修平先生。大阪から疎開してきたということだが、言葉は歯切れのいい江戸弁で、肌ざわりも柔らかく、なるほど、これでは久野の恒おじのおされるのも無理はないと思われた。今日は、兄の死体を解剖したという因縁で、小梅様と小竹様が、とくに懇望して来てもらったのだ。この新居先生のつぎに、私の母方の祖母と、義理の叔父にあたる兼吉が、小さくなって座っており、さらにあとふたり、私の知らぬ顔がならんでいた。いや、紹介されたかもしれぬが、忘れたのである。
私はこの座敷の外をとおって台所へ、慶勝院へお膳をひとつ届けるようにいいつけにいった。
「あら、御院主さま、おかえりになったの。ええ、じゃそうしましょう。あとでだれかに届けさせましょう。ああ、ちょっと辰弥さん」
と、春代は私を呼びとめて、
「あなたをお使いしてはすまないのですが、お膳をひとつ、運んでくださいな」
「承知しました。どれですか」
「本膳がふたつあるでしょう。そのうちのひとつを持ってください。あとのひとつは私が持ちますから。……それで、向こうへ行ったら席におつきになって……」
「はあ、お寺さまのですね。これはどちらへ?」
「どちらでもいいのですよ。同じだから……」
私と姉の春代は、本膳をひとつずつ持って立ち上がった。
「お島さん、それじゃあとを順々に運んでくださいね。私はこのままお席につくから……」
「はい、承知しました」
本膳をささげた私と姉は、肩をならべて座敷へ入っていった。そして、ふたりの位置から私の持ってきたお膳は、しぜん、蓮光寺の洪禅さんのまえにおくことになった。姉は麻呂尾寺の英泉さんのまえにお膳をおいた。ふたりのお坊さんは、衣の袖をつまぐりながら、しずかに頭をさげた。
お膳をおいて私と姉が、めいめい自分の席につくと、すぐあとから、お島が手伝いの女たちの手をかりて、会席膳を順次運んできた。会席膳がのこりなく配られると、お|銚子《ちょうし》が運ばれ、いよいよお|斎《とき》にうつった。
「では、何もございませんけれど、どうぞ御遠慮なく……」
私があいさつをすると、洪禅さんと英泉さんはかるく頭をさげて、自分のまえにあった|杯《さかずき》をとりあげた。
洪禅さんと名前をきくと、相当の大和尚らしくきこえるが、実際はまだ三十をちょっとすぎたばかりの|痩《や》せぎすの、度の強そうな眼鏡をかけた、衣を着ているからこそお坊さまだが、そうでなければ、書生にちょっと毛の生えたようにしか見えぬ人物だった。それに反して麻呂尾寺の英泉さんは所化とはいいじょう、五十の坂をとっくに越したらしい年配で、胡麻塩の毛のこわそうな人物で、これもまた度の強い眼鏡をかけているので、眼がつりあがったように見え、両の頬に一本ずつ、深いしわが縦に走っているのが、過去の労苦のなにものかを語っているようであった。
こういう場合の話題は、たいてい故人の追憶からはじまるものだが、兄の死に方が、死に方だから、しぜんそれを避けるかたちになって、その代わりとして、話題の対象として洪禅さんがえらばれた。洪禅さんはまだ独身らしく、村長と西屋の主人、野村荘吉氏がお嫁さんの世話で奔走しているらしかった。わかい洪禅さんはそれをいわれると、うで|蛸《だこ》のように真っ赤になって、額からポタポタと汗を落とした。それがおかしいといって、美也子がはたからからかうので、洪禅さんの頭からは、ポッポッと湯気が立ちはじめ、一同大笑いになった。
だが、笑っていられるあいだはよかったのだ。それから間もなく起こった、あの血も凍るような恐ろしい出来事……それを思い出すと、私はいまでも、ペンを持つ手がふるえるのだ。
洪禅さんも、英泉さんも、酒はあまり強いほうではないらしく、すぐ杯をふせると、|箸《はし》をとりあげた。ほかのひとたちも、おいおいそれにならうものが多く、御飯のお代わりにお島さんがいそがしかった。
ところが、そうしているうちに、
「あっ、こ、これ、どうなされた!」
という鋭い叫びに、私がふっと顔をあげると、麻呂尾寺の英泉さんが、うしろから洪禅さんの体をかかえるようにしている。洪禅さんは箸を落として、片手を畳につき、片手でのどから胸をかきむしるようにしていた。
「あ、く、くるしい、……み、水……」
とっさに四、五人、バラバラと立って台所へ走った。ほかの人々もみな中腰になった。
「これ、洪禅さん、ど、どうした。しっかりせんか」
村長がうしろへまわって、洪禅さんの顔をのぞきこんだとき、
「く、苦しい……胸が……胸が……」
洪禅さんはバリバリと畳に|爪《つめ》を立て、とても人間業とは思えぬほど、はげしい身ぶるいをしたかと思うと、お膳のうえにガーッと血を吐いた。
「キャッ」
だれかが悲鳴をあげた。一同は総立ちになり、なかには座敷から逃げ出したものもあった。
これが殺人第三景であったのだ。
酢のものぎらい
私の悪夢はまだまだつづく。気ちがいめいたこの馬鹿騒ぎ、意味を捕捉することもできぬ殺人茶番……私はそれからのちも、まだまだ、恐ろしい経験をなめなければならなかったのだ。がそのなかでももっとも肝を冷やしたのは洪禅さんの断末魔だった。
洪禅さんの血を吐くのを見ると、疎開医者の新居先生がつと席を立った。しかし、すぐ気がついたように、
「久野先生、ちょっとお手を……」
と、恒おじを呼んだ。私もその声に恒おじのほうを見たが、そのときの恒おじの顔を、いまもって忘れることはできない。恒おじは座ったまま、中腰になってお膳の上から乗り出していた。額にはいっぱいの汗だった。眼玉が外へとび出しそうであった。杯をにぎったまま、|膝《ひざ》においた右のこぶしが、ブルブルとはげしくふるえていた。そのこぶしのなかで、バチンと杯のわれる音がした。
新居先生からよばれて、恒おじはハッと気がついたように、ハンケチを出して額の汗をふいた。そのとき|掌《たなごころ》にながれる血にはじめて気がついたらしく、あわててハンケチでゆわえた。それから立って、新居先生の招きに応じた。膝頭がガクガクふるえているようであった。
新居先生は不思議そうな顔をして、ジロジロとその様子を見ていたが、やがてテキパキとした手つきで、洪禅さんを診察し始めた。
「だれか、恐れ入りますが、玄関に私のカバンがありますから……」
言下に美也子が立った。新居先生は二、三本注射をうったが、やがて、あきらめたように首をふって、
「だめです。もういけません」
「先生、死因は……?」
村長がヘシャげたような声で尋ねた。
「さあ、解剖してみなければ、正確なことはいえませんが、やはり、こちらの久弥さんの場合と同じじゃないでしょうか。久野先生、あなたの御意見はいかがですか」
久野の恒おじは放心したように眼をみはって、新居先生の言葉も耳に入らぬかのようであった。一同はあやしむように、ジロジロとその様子をながめていたが、そのとき、だれかが、強く私の背中を小突いた。
「こいつだ、こいつだ! こいつが毒を盛ったのだ!」
ギョッとしてふりかえった私の鼻先に、恐ろしい形相をして、指をつきつけているのは、麻呂尾寺の英泉さんだった。
「貴様だ! 貴様が毒を盛ったのだ。貴様は自分のじじいを殺した。それから兄を殺した。そして、こんどはおれを殺そうとして、まちがって、洪禅君を殺したのだ!」
英泉さんの額には、みみずのような|癇癪筋《かんしゃくすじ》がふくれあがり、|吊《つ》りあがった眼が、眼鏡の奥でギラギラと血走っていた。一瞬、さっとつめたい殺気が、座敷のなかにみなぎりわたった。
そのとき、だれかがバラバラと私のうしろへ来て、私をおしのけると、まえに立ちはだかった。姉の春代だった。
「まあ、麻呂尾寺さん、なにをおっしゃるのでございます」
姉の声はいかりにふるえた。
「辰弥さんが、どういう因縁で、あなたに毒を盛るというのです。あなたと辰弥さんとのあいだに、どういう関係があるというのです」
英泉さんははっと気がついたように、|怯《ひる》んだ色を見せた。それからあわててあたりを見まわした。一同の眼が自分の上に注がれているのを見ると、さらに怯んだ色が深くなり、|狼《ろう》|狽《ばい》したように、衣の|袖《そで》で額をこすった。
「いや、こ、これは失礼を……」
「失礼もないものでございます。麻呂尾寺さん、さあ、聞かせてくださいまし。辰弥さんがどうして、あなたを殺すというのでございます。どうしてあなたに毒を盛るというのでございます」
姉ははあはあと、あらい息遣いをしながら英泉さんにつめよった。英泉さんはますます狼狽して、
「いえ、もう、なんでもありません。あまり恐ろしいところを見たものだから、つい逆上して……とんだことを申しました。どうぞ、水に流して、忘れてください」
「いかに逆上したからって、いっていいことと、いっていけないことがありますよ。麻呂尾寺さん、もっとハッキリいってください。あなたと辰弥さんと、どういう関係が……」
「姉さん、姉さん、もういいですよ。あんまり興奮なさると、お体のためになりません」
「だって、あんまりくやしいんだもの……」
姉は|袂《たもと》を顔にあてると、肩で息をしながら泣き出した。
それにしても、英泉さんは、なんだってあのようなことをわめきたてたのだろう。いかに逆上したとはいえ、全然、心にもないことが、口をついて出るとは思えぬ。洪禅さんが毒殺されたとわかったとたん、自分とまちがえたのではあるまいかという疑いが、ふっと心にわきあがったのにちがいない。しかし、それはなぜだろう。……
英泉さんはこういった。
「貴様は自分のじじいを殺した。それから兄を殺した。そして、こんどはおれを殺そうとして……」
なぜだろう。祖父と兄のつぎに、なぜ、英泉さんをねらうのだろう。わからない。私にはわからぬ。何もかもがなぞだった。
それはさておき、洪禅さんの毒殺によって、八つ墓村には、また恐怖の旋風がまき起こったのだ。それも無理のないところで、祖父の丑松といい、兄の久弥といい、いままでの犠牲者は、いずれも田治見家に縁のふかいひとたちばかりであった。ところがこんどの犠牲者は、菩提寺の住職であるという以外、かくべつの縁もゆかりもない人物である。第一、第二の殺人も、その意味を捕捉することはむずかしいが、第三の殺人にいたっては、てんで意味がわからぬというよりも、無意味な殺人としか考えられなかった。犯人はだれかれの見さかいなく人を殺すことによって満足する、毒殺魔なのであろうか。
それはさておき、急報によって、すぐ村の駐在さんが駆けつけてきた。それから夜に入って、N町から|磯《いそ》|川《かわ》|警《けい》|部《ぶ》をはじめ、係官がおおぜいどやどやと押しかけてきた。
この磯川警部というひとは、県の刑事課でも|古狸《ふるだぬき》といわれる老練の人物だそうだが、兄の変死が問題になって以来、その捜査にやってきたので、N町を根拠地として、毎日この村へ出張していたのだ。だから、磯川警部が駆けつけてきたのには、なんの不思議もないことだが、おかしなことには、そのなかに、あのどもり男の金田一耕助がまじっていたことだ。しかも、さらにおかしなことには、その金田一耕助が、一行のなかでかなり幅がきいているらしいことだ。磯川警部でさえが、この男にむかって、かなりていねいな口のききかたをした。さて、取り調べの結果、わかったことはだいたい次のとおりであった。
洪禅さんの殺された毒物は、酢のもののなかに仕込まれていたらしい。そして、その毒を仕込んだ時刻については、だいたい、次の場合が考えられた。
ふたつの本膳をはじめ、二十にちかい会席膳は、お吸い物をのぞいては、みんな座敷でお経があげられているうちに盛りあわされて、しばらく台所にならべられてあった。そして、その台所へは女連中のみならず、男連中も、ちょっとお|冷《ひ》|水《や》をとか、ちょっとコップをかしてくださいとか、入りかわり、立ちかわり顔を出した。だから、洪禅さんの本膳に、毒を仕込む機会はだれにでもあったわけだが、ここにわからないのは、犯人はそのお膳が、洪禅さんに行くことをどうして知っていたのだろう。
本膳はふたつ、ほかは全部、会席膳だから、ふたつのお膳がお寺さまへ行くことは、だれにだって想像できる。したがって、犯人がもし、座敷の客のなかにあったとしても、まちがって、毒を盛ったお膳が、自分にまわってくるようなことは、絶対にないと安心できたであろう。しかし、そのお膳が洪禅さんへ行くか英泉さんへ行くか、これはお|釈《しゃ》|迦《か》さまだって予測することはできなかったであろう。
私が毒のはいったお膳を持ち、姉の春代がもうひとつのお膳を持ったのは、まったくの偶然であった。さらにまた、私が姉の右にたち、その位置のまま座敷へはいっていったために、洪禅さんのまえに、毒のはいったお膳をすえたのも、これまた、まったくの偶然であった。そこにはけっして、姉の意志も、私の意志もはたらいていたわけではない。だから、あのとき、私がもうひとつのお膳に手をかけるか、あるいは姉の左に立つかしていたら、当然、毒殺されるのは、英泉さんでなければならなかったはずなのだ。
そうすると、犯人がねらったのは、洪禅さんでも、英泉さんでも、どちらでもよかったというのだろうか。しかしそんな馬鹿な人殺しというものがあるだろうか。
すべてが気ちがいじみている。万事が調子が狂っている。しかし、この事件の犯人が、けっして馬鹿でも気ちがいでもないことは、あまりにも鮮やかすぎる手ぎわでもわかるではないか。われわれの眼に、この事件が気ちがいじみてうつるのは、犯人の計画が、全然、わかっていないせいではあるまいか。つまり、いままで起こった三つの殺人事件は、犯人の描こうとする、血みどろな殺人円の円周上の、三つの点にすぎないのではあるまいか。そして、犯人がその円を描き終わるまで、われわれは何を目的として、こういう殺人が行なわれるのかわからないのではあるまいか。
それはさておき、その夜、十二畳二間ぶちぬいた犯罪現場では、奇妙な実験が行なわれた。これはどうやら金田一耕助の発案らしく、われわれに、もう一度、さっきの席へ着いてほしいというのであった。幸い、新居先生の当を得た注意で、犯罪の場には少しも手がつけてなかったのだ。死体を解剖のために移動させただけで、お膳は全部、さっきの順序のままならんでいた。私たちはみんなそのお膳についた。
「よっく見てください。まちがいはありませんか。皆さんのまえにあるお膳が、たしかにさっき、あなたがたが手をつけたお膳ですか。よく調べてください」
私たちはみんな自分のまえにあるお膳を調べた。|皿《さら》|小《こ》|鉢《ばち》のなかの食物の減りかたに注意した。そしてだいたいまちがいないということになった。すると金田一耕助は、ひとつひとつ酢のものの鉢を調べまわって、何やら手帳につけはじめた。
わかった、わかった。
金田一耕助はだれが酢のものを食べ、だれが酢のものを食べなかったかを調べているのだ。それはおおかた、つぎのような推理によるものだろう。
本膳と会席膳と区別があるから、犯人はよもや毒入りの膳が自分にまわってくるようなことはあるまいとたかをくくっていただろう。しかし、つぎの場合のような危険を、覚悟しなければならなかったのだ。お膳など盛りあわせる場合、あとになって、あちらのお膳の小鉢と、こちらのお膳の小鉢を、おきかえるようなことはよくやることだ。また、あちらの小鉢から、ちょっと|箸《はし》でつまんで、こちらの小鉢に移すというのもよくある図である。
犯人は毒を仕込んだのちに、だれかがその小鉢をほかのお膳とおきかえたら……あるいはそのなかからちょっとつまんで、ほかのお膳に移したら……だから、犯人は酢のものだけには絶対に箸をつけなかったろう。……
さて金田一耕助が調べた結果を、私はずっと後になって聞かされたのだが、そのとき酢のものに箸をつけていなかったのは、かくいう私、田治見辰弥ただひとりであった!
私は酢のものが大きらいなのだが。……
英泉の旅行
私はもう、へとへとに疲れてしまった。何を考える力もなくなった。
ああ、もう、たくさんだ。
人間の緊張と興奮にたえうる力には、おのずから限界がある。その限界をこえると、緊張の糸はプッツリ切れ、興奮の袋は張りさける。こういう状態を|腑《ふ》|抜《ぬ》け状態という。私はその夜、腑抜け状態にあった。
洪禅さんの死体は現地解剖されることになって、とりあえず別室へ移された。磯川警部の手によって、県警察本部の|嘱託医《しょくたくい》、N博士に電報がうたれた。
こういう手続きがあったあとで、私たちはその夜おそくまで、かわるがわる厳重な取り調べをうけた。いままでのふたつの事件の場合では、毒殺者がどこにいて、どういう機会に投薬したかわかっていないが、こんどの事件の場合では、それがハッキリしているのだ。毒殺者はこの家の屋根の下にいて、台所の混雑にまぎれて、たくみに毒を仕込んだのだ。
つまり、祖父を殺し、兄を殺し、そしていままた洪禅さんを殺した毒殺魔は、じつに私のすぐ身近にいたのだ。それを考えると、私の背筋をつらぬいて走る、うすら寒い|戦《せん》|慄《りつ》を、どうすることもできなかった。
取り調べは|峻烈《しゅんれつ》をきわめ、その夜おそくまでつづけられた。なかでも、もっとも残酷な係官の尋問のほこさきにさらされたのは、かくいう私だった。うちつづく不幸な偶然は良識ある係官の頭脳さえ混濁させ、そのひとたちの眼にも、いまや、私のすがたが、一種異様な怪物としてうつってきたらしい。ただ、わけもなく、当たるを幸い、次から次へとひとを殺していく毒殺魔……この事件の犯人は、そうとしか思えないのだが、それは、私ほど格好な人物がほかにあろうか。
私はあのような恐ろしい父を持っている。父の体内にながれていた、あの凶暴な血は、私の体内にもながれていて、しかし、それはかたちを変えて、火のように真っ赤に|灼熱《しゃくねつ》するかわりに、蒼白く沈潜して、それが毒殺狂の素質をつくっているのではあるまいか。……
私の出生には、あのような血みどろな大惨事がからんでいる。そのことが、私の黒い運命の星となり、私を駆って、このようなえたいの知れぬ犯罪をおかさせるのではあるまいか。……
私にとって、もうひとつ不利だったのは、私がこの村にとって、新参者だということである。村人にとっては、私は異邦人の不可解さを持っていた。だから、だれひとりとして、自信をもって、私をかばうことのできる者がいなかったことだ。姉の春代でさえがひょっとすると……と、考えたのではあるまいか。……それを考えると、私は身を切られるよりもつらかった。
姉にしてすでにしかりとすれば、疑いぶかい警察官の|猜《さい》|疑《ぎ》の眼が、いっせいに私の上に注がれるのも無理はない。私は大手、|搦手《からめて》から、|執《しつ》|拗《よう》な取り調べをうけた。あるいはまわりくどく、あるいは直接法に、係官の尋問は、あくなき|苛《か》|烈《れつ》さでつづけられ、そのために私は、心身ともにへとへとになったのだ。
江戸時代にはうつつ責めという拷問法があったそうである。囚人をいくにちもいくにちも眠らせずにおいて心身ともに綿のごとく疲れ、|虚《きょ》|妄《もう》状態にあるところへつけこんで、あることないこと、白状させるのである。
その夜の係官の態度がそうであったというのではないが、うちつづく緊張と興奮の|破《は》|綻《たん》から私自身うつつ責めに会っている囚人みたいであった。ひょっとすると、自分は自分でも気がつかぬ怪物であって、どこかに第二の恐ろしい自分がひそんでおり、そいつが自分でも知らぬ間に、あのような、恐ろしいことをやってのけるのではあるまいか。……そんなつまらぬことさえ考えたのである。
私はもう少しのところで、
「そうです、そうです。何もかも私です。私のやった仕事なのです。さあ、こう白状したからには、もう、そう私をいじめないで……私をそっとしておいてください」
と、叫び出したいような心境にさえ追いこまれていたのだ。
それを救ってくれたのは、ほかならぬ金田一耕助であった。
「まあまあ、警部さん、この事件はね、だれが犯人であるにしろ、一朝一夕には解決しませんよ。なぜといって動機が|皆《かい》|目《もく》わかっていない。丑松さんの場合でも、久弥さんの場合でも、動機があるようで、じつはよくよく考えてみると、まるでないみたいなものです。こんどの洪禅さんにいたっては、全然、動機がわからない。犯人はいったい何をたくらんでいるのか。……それが判明するまでは、そうむやみに、短兵急に責めてもだめですよ」
金田一耕助という人物は、磯川警部に対して、不思議な勢力をもっているらしく、かれの一言によって、私はやっと、警部のするどい尋問のほこさきから、解放されることができたのだ。
磯川警部はにが笑いをしながら、
「いや、もう、実にやっかい千万な事件ですな。二十六年まえの事件も、恐ろしいことにかけては、前代未聞であったが、その代わり、まあ単純な事件であった。それにひきかえ、こんどの事件は、規模こそ小さいが、われわれを悩ませることにかけちゃ、まえの事件以上だ。畜生、親子二代にわたって、われわれに手をやかせるのか……」
それはさておき、洪禅さんの死体の見張りとして、ふたりの刑事をのこして、係官の一行がひきあげたのは夜ももう十一時過ぎのことであった。洪禅さんの死体は、明日N博士の到着するのを待って、この家で解剖されるのである。
係官がひきあげると間もなく、それまで、足止めをくっていた、初七日の客も、逃げるようにこそこそとかえっていって、ひろい屋敷うちは、潮のひいたあとのような、わびしさのなかにとりのこされた。
私はもう、なにをする勇気もなかった。なにかしら、みじめな|想《おも》いが胸のうちに満ちあふれ、取りちらかした座敷のなかに、腑抜けのようにべったり座っていると、不覚の涙があとからあとからあふれてきた。
だれも私に言葉をかけてくれるものはない。台所のほうでガチャガチャと皿小鉢を洗う音がするが、|闃《げき》として人声はなかった。おそらくお島をはじめ手伝いの女たちは、今日の惨劇の話をしているのだろうが、私をはばかって大きな声を出すことさえひかえているのだろう。と、いうことは、その人たちの胸にも、私に対する疑いが、しだいに黒い根となってはびこっているのだろう。皿小鉢を洗う音さえ、どこかあたりをはばかるように……。
ああ、私は孤独だ。
だれも私の味方となって、やさしい言葉をかけてくれるものはない。……孤独の想いがひしひしと、切なく胸にみちあふれてきたとき、突然、私の想いを見抜いたように、
「いいえ、そうではありません。私はいつでもあなたの味方ですよ」
うしろから、そっと私の肩を抱いてくれたものがあった。
姉の春代だった。
姉はやさしく、私の肩をだきすくめ、
「だれがなんといっても、私だけはいつもあなたの味方ですよ。そのことだけは忘れないでね。私はあなたを信じています。いいえ、信じているというよりも、私は知っているのです。あなたがそんな恐ろしいかたでないことを……」
このときほど、私はひとの情けを身にしみて感じたことはなかった。私は思わず、子どものように、姉の胸にすがりついた。
「姉さん、姉さん、教えてください。ぼくはいったい、どうすればいいのです。ぼくがここへ来たのがいけなかったのでしょうか、もし、それならば、ぼくはいつでも神戸へかえります。姉さん、教えてください。ぼくはどうすればいいのです」
姉はやさしく私の背中をなでながら、
「まあ、神戸へかえるなんて、そんな気の弱いことはいわないで……あなたはこのうちのひとなのだから、ここへ来るのに、なに不都合なことがありましょう。いつまでも、ここにいてもらわねばなりません……」
「しかし、姉さん、ぼくが来たために、あのような恐ろしいことが次々と起こるとしたら、ぼくは一刻もここにいることはできません。姉さん、教えてください。だれがあんなことをするんです。そして、それとぼくとのあいだにどのような関係があるんです」
「辰弥さん」
姉は声をふるわせて、
「そんなつまらないことを考えないで……あなたとあのような恐ろしい事件とのあいだに、なんの関係がありましょう。そのことは、兄の場合でよくわかっているじゃありませんか。あなたにいつ、薬の包みをすりかえる機会があって? ここへ着いたばかりのあなたに……」
「でも、でも、警察のひとびとは、そういうふうに考えてくれません。あのひとたちは、ぼくがまるで、悪魔の|妖術《ようじゅつ》を心得ているように考えているのです」
「それもこれも、みんな血迷っているからです。いまに冷静になれば、だんだん誤解もとけますわ。辰弥さん、けっして悲観したり、捨て鉢になったりしないで……」
「姉さん!」
私はなにかいおうとしたが、声がのどにつまって、あとの言葉が出なかった。姉もしばらく黙っていたが、やがて思い出したように、
「そうそう、辰弥さん、あなたこのあいだ、妙なことを私にきいたわね」
「妙なこと?」
「ええ、そう、だれかちかごろこの村を離れて、どこかへ旅行をしたものはないかと……あれはいったいどういう意味でしたの」
何かしら、思い当たる節のあるらしい|声《こわ》|音《ね》に、私ははっとして姉の顔を見直した。姉は疲労のためにむくんでいたが、キラキラとかがやく|瞳《ひとみ》のなかには、なにかしら強い想いがひそめられていた。
私はそこで、つつむところなく、いつか神戸で、私の素行品性を、尋ねてまわっていた男のことを打ち明けた。そしてそれは、私を探しあてた、諏訪弁護士も関知しない人物で、しかも、田舎のひとらしかったと付け加えた。
姉はまあと眼をみはり、それはいったい、いつごろのことかとききかえした。そこで私が指折りかぞえて、だいたいのひにちを思い出すと、姉は指を折って日数をくっていたが、やがて、しだいに息を弾ませると、
「やっぱりそうだわ。ちょうどその時分だった……」
と、姉はにわかに膝をすすめて、
「辰弥さん。このあいだあなたは、この村のもの[#「この村のもの」に傍点]とおっしゃったでしょう。だから私はうっかりしていたけれど、この村のものではなく、しかし、この村とたいへん縁の濃いひとが、ちょうどそのころ旅立ちをしているのです」
「だれです。姉さん、それはだれですか」
「麻呂尾寺の英泉さん……」
私はギョッとして、姉の顔を見直した。何かしら、脳天から大きな|楔《くさび》をうちこまれたような感じであった。
「ね、姉さん、そ、それはほんとうですか」
私の声は思わずふるえた。
「ほんとうですとも。けっしてまちがいではありません。さっき英泉さんが、あなたに向かって変なことをいったでしょう。私はあのとき腹が立ってたまらなかったから、夢中になって食ってかかったのですが、そのとき、ハッと思い出したのです。英泉さんが、先月のはじめ、五、六日寺をあけて、どこかへ旅行したことを……」
私はなにかしら、ゾッとするような想いに胸を吹かれた。興奮のために、歯がガタガタと鳴る感じだった。
「姉さん、姉さん、英泉さんというのはどういうひとです。なにかこの家に関係のあるひとですか」
「とんでもない。あのひとは終戦後間もなく、麻呂尾寺へころげこんできたひとで、以前は満州のお寺で、布教にあたっていたということです。麻呂尾寺の長英さんとふるいおなじみらしく、長英さんが御病気なので代理をつとめているのですが、どこのどういう|素性《すじょう》のひとか、私はちっとも存じません」
もし神戸へ現われた人物が、真実英泉さんであるとしたら、あのひとはなぜ、そんなことをするのだろう。どうして私にそのような関心を持つのだろう。……
「姉さん、英泉さんはこの事件について、何か知っているのではありますまいか。今日のあのひとの恐ろしい言葉からしても……」
「きっとそうにちがいありません」
姉はキッパリと、
「それでなくて、あのような恐ろしい言葉が出るはずがありません。英泉さんはあとで、あまりの恐ろしさに逆上したのだといってましたね。逆上は逆上にちがいなかろうけれど、いかに逆上したからといって、心にもないことが、口をついて出るはずがありません。辰弥さん、あなたはあのとき英泉さんが口走った言葉を覚えているでしょうね」
どうしてそれを忘れることができようか。私はそのときの恐ろしい想いに身ぶるいしながら、無言のままうなずいた。
「あなたはあの言葉のうちに、何か思いあたることはありませんか。英泉さんはむろん、なにか勘ちがいしているのにちがいありませんが、その勘ちがいのいわれとなりそうなことを……」
むろん、私にはなんの思いあたる節もなかった。
私はいまさらのように、この村における、自分の心細い立場を思い、|悄然《しょうぜん》とうなだれていたが、そのとき、お島が入ってきた。
「あの辰弥さま……」
お島は敷居ぎわに手をつかえて、
「御隠居さまがたが、ちょっと……」
「あら、そう、じゃいますぐにまいりますって……」
姉の春代が立ちかけるのを、お島はおしとめるようにして、
「いえ、あの、奥さまはおよろしいそうで……辰弥さまだけにちょっと……」
姉と私は、思わず不審の眼を見交わした。
毒 茶
私はこの家に来てから一週間になるが、いままでついぞ、ふたりの大伯母たちと、差し向かいになったことはなかった。私が大伯母たちと対面するときには、いつも姉の春代か、またはほかの人物が介在していた。
それがだしぬけに、しかも、あのような恐ろしいことがあったこの夜更けに、姉を除外して、私にだけ会いたいというのだから、何かしら不安な想いに、あやしく胸のうちが乱れた。
しかし、べつにいなむべき筋合いのことでもないので、私はお島について立ちあがった。姉の春代が、不安そうな眼をして、私のうしろすがたを見送っていた。……
双生児の小梅様と小竹様は、母屋のなかでもいちばん奥まった部屋、つまり、離れをつなぐ十五間の長廊下のつけぎわの、八畳と六畳のふた間を居室としていて、ふたりはいつも、その八畳に、仲よく枕をならべて寝るのであった。
お島の案内で、私がその部屋へ入っていくと、小梅様と小竹様は、まだ寝もやらず、静かに茶をすすっていた。相変わらず私にはどちらが小梅様で、どちらが小竹様だかわからなかった。ふたりは私の顔をみると、|巾着《きんちゃく》のような口をほころばせて、
「おお、辰弥か、御苦労じゃったな。さあさ、こっちへ来てお座り」
「お島や、おまえはもう用はないで、あっちへ行ってお休み」
小梅様と小竹様が、かわるがわるそういった。私はふたごのひとりの指さしたところへきて座り、お島はだまって頭をさげて出ていった。
「伯母さま。私に何か御用ですか」
私がこの奇妙な、|猿《さる》のような感じのする双生児を見くらべながら口を切ると、
「ほ、ほ、ほ、辰弥や、何もそう改まることはないぞな。ここはおまえの家じゃけん。もう少しくつろいでな。なあ、そうじゃあるまいか、小竹さん」
「ほんに小梅さんのいうとおりぞな。なにもそうビクビクすることはないけんな。久弥が死んでしもうたで、おまえがこの家の主人も同じじゃ。もっと大きな気になってもらわぬと困るぞな」
人間もこの年ごろになると、すべての感情が揮発しつくして、情操腺が、軽油か海綿みたいになってしまうのかしらん。小梅様も小竹様も、ケロリとして、今日の惨劇など、あったのか、なかったのか、わからぬような顔色である。私にはそれが、かえって気味悪かった。足の裏が、ムズムズする感じであった。
「それで、御用とおっしゃるのは……?」
私が重ねて尋ねると、
「おお、そうそう、なに、別に用というわけではないが、おまえも疲れたであろうから、お茶を一服、あげようと思うてな」
「ほんに、いやなことがたび重なるで、おまえもさぞ、しんがくたびれるじゃろ。さ、さ、珍しいお茶があるで一服進ぜよ。小梅さん、あんたたてておやり」
「あいあい」
小梅様がふくささばきもあざやかに濃茶を一服、たててくれた。私はふたりの老婆の真実をはかりかねて、しばらく|呆《あっ》|気《け》にとられて顔を見くらべていたが、
「どうしたのじゃえ。小梅さんのせっかくのお|点《て》|前《まえ》じゃ。ありがたくちょうだいせんかや」
と、小竹様にうながされると、いなむ理由もないままに、茶碗をとりあげひと口すすった。が、すぐドキッとして、老婆のほうを見直した。
何かしら、舌をさすようなあやしい味……しかも、私が見直したとき、小梅様と小竹様のあいだにかわされた、ただならぬ眼くばせ。……私はゾーッと背筋をつらぬいて走る戦慄を感じた。全身の毛孔という毛孔からつめたい汗がふき出した。
毒殺魔……? おお、猿のようなこのふたりの老婆が、毒殺魔なのか。……
「どうおしだえ。辰弥、なぜ、そんな妙な顔をする。さあ、ひと口におあがり」
「はあ……」
「ほ、ほ、ほ、妙な子えなあ。なにをそんなにキョトキョトしている。毒は入っておらんぞな。さ、ぐっとひと息におあがり」
ああ毒殺魔とはこんなに無邪気なものなのか、ふたりの老婆は巾着のような口をつぼめて、いかにも楽しげに、しかしまた、どっか気づかわしげに、茶碗をもった私の両手を見つめている。
私の額からはタラタラとつめたい汗がながれた。眼のまえがまっくらになって、茶碗をもった両手がわなわなふるえた。
「これ、どうしたものじゃ。さ、ぐっと勢いよく飲んで、それから向こうへ行っておやすみ。もう、夜もだいぶおそいでな」
「ほんに、今日はいろいろくたびれたであろ、さあさあ、その茶をぐっと飲み干して、なにもかも忘れて寝るのじゃ。寝るほど楽はなかりけりじゃわな」
私は進退きわまった感じであった。口にふくんだ苦い茶を、いまさら吐き出すわけにはいかなかった。いやいや、吐き出したとてなんとしよう。その一部分は、すでにのどをとおってしまったではないか。
毒食らわば皿まで……ええ、もう、どうにでもなれ、一種、捨て鉢な勇気が私を駆って、あやしい茶を、ぐっとひと息に飲み干させた。なんとも名状することのできぬ恐怖と戦慄と絶望に、わなわな体をふるわせながら。……
「ああ、飲んだ、飲んだ」
「ほ、ほ、ほ、よい子えなあ」
小梅様と小竹様は、顔見合わせてニッタリ笑うと、子どものように首をちぢめてよろこんでいる。私はまた、背筋をつらぬいて走る戦慄を感じ、じっと、自分の体のなかを、透視するようにうつむいていた。
いまに腹のなかが、キリキリいたんでくるのではあるまいか。いまに生ぬるい血が、胸もとにこみあげてくるのではあるまいか。……私の全身は、粘っこい汗でヌラヌラぬれた。
「ああ、もうよい。辰弥や、もうさがってもよいぞえ」
「そうそう、小梅さんのいうとおり、離れへ行っておやすみ。ぐっすり眠るのじゃえ」
「はあ……」
畳に手をついてお辞儀をすると、私はフラフラ立ち上がった。なにかしら、あたりがぐるぐる回って、眼がくらむような感じであった。廊下へ出ると、姉の春代が心配そうに待っていた。
「辰弥さん、伯母さまがたの御用というのはなんでしたの」
「いいえ、なんでもありません。お茶を一服よばれてきました」
「お茶を……?」
姉は不審そうに眉をひそめたが、そこではじめて、私の顔色に気がついたのか、
「まあ、辰弥さん、あなた、どうなすったのです。お顔の色が真っ青ですよ。それに、ひどい汗……」
「いいえ、なんでもありません、少しつかれているのです。今夜、ぐっすり眠ったら、また元気になりましょう。姉さんおやすみなさい」
すがりつこうとする姉の手をふりはらい、私はよろよろと離れへかえった。離れにはお島の手で、寝床が敷いてあった。私はまるで、悪酒に酔ったような、フラフラする気持ちで、寝間着に着かえ、電気を消すと、寝床のなかへ身を投げ出した。
幼いころ私は「|八陣守護城《はちじんしゅごのほんじょう》」という芝居を見たことがある。毒酒と知りつつ、やむにやまれぬ仕儀から飲んだ、|佐《さ》|藤《とう》|肥《ひ》|田《だの》|頭《かみ》|正《まさ》|清《きよ》が、三年間天守閣に閉じこもり、刻々とちぢまっていく、生命の灯を見つめて暮らしているという芝居で、私はそのとき幼なごころにも、なんともいえぬ恐ろしさと、もの悲しさを感じたことをおぼえている。
その夜の私の気持ちがそれだった。私は全身の神経を集中して、自分の体内に起こるであろう異変を見つめていた。それはなんともいえぬ、救いのない、暗澹たる気持ちであった。私は|暗《くら》|闇《やみ》のなかに眼を閉じ、さまざまなあやしい、血みどろな|妄《もう》|想《そう》を瞼のうらにえがいていた。
しかし、私の体内には、なんの異変も起こらなかった。いや、恐れていた肉体の痛みが起こるまえに、疲労した私の神経が、緊張にたえられなくなって、うとうとしはじめたのだ。
私はいつしかぐっすり眠っていた。したがって、それから間もなく、一種異様なものの気配に、ハッと眼をさましたのが、夜中の何時ごろであったか、私には全然わかっていない。
奇怪な仏参
私には幼い時分から妙な癖があった。いや、癖というより病気といったほうが当たっているのかもしれない。
それは非常につかれたときとか、または、試験やなにかで、神経を使いすぎたときに起こる現象で、夜、寝床へ入って、うっとりしかけたと思うと、ハッと眼をさます。しかし、それはほんとうに眼がさめるのではなくて、知覚だけは半分さめながら、運動神経はまだ完全に眠っているのである。
そういうときの恐ろしさ、心細さは、実際、その経験を持ってるものでないとわからないであろう。私の知覚はさめている。自分の周囲になにがあるか、どういうことが起こりつつあるか、おぼろげながら意識している。それでいて、運動神経は、完全に|麻《ま》|痺《ひ》していて、手脚を動かすことはおろか、口をきくことさえできないのだ。口をきこうにも、舌の根がこわばって、満足な言葉をつづることができないのだ。つまり、完全な、かなしばりの状態におちいるのである。
その夜、私がハッと眼をさましたとき、ちょうどそういう状態にあった。
私は座敷のなかに、なにやら異様な気配、……つまり、私以外の人間がいて、その人間のかもし出す空気の動揺や、押しころしたような息づかいを、身をもって感じていた。いや、そのまえに、たしかに電気を消して寝たはずの室内に、不思議な微光のただよっているのを、閉じた瞼のうらに、ハッキリと感じていた。それでいて、私の体は、どうにもならなかったのだ。全身の運動神経がストライキを起こしていて、完全にかなしばりの状態におちいっていたのだ。
私はなんともいえぬ恐ろしさに、全身から熱湯のような汗がふき出すのをおぼえた。声を出して叫ぼうと思うが、例によって、舌がこわばって言葉が出なかった。手脚を動かして、寝床の上に起き直ろうとするが、全身が布団のなかに|糊《のり》|付《づ》けされたみたいに動かなかった。せめて、瞼を開こうとしても、上の瞼と下の瞼が、ピッタリと|膠《にかわ》づけにされたようにくっついて離れなかった。おそらく、こういう様子を外からみると、仮死の状態にちかいものと見えたであろう。
室内にいる何者かは、こういう私の状態に安心したのか、じりじりと寝床のほうへ|這《は》いよってきた。そしていくらかためらいながら、それでもとうとう、枕元まで這いよると、じっと上から、私の顔をのぞきこんだ。いや、のぞきこんだのが感じられたのだ。
しばらく、そのものは、私の枕元に座ったまま、身動きもしなかった。呼吸をこらして、私の顔を見つめているようであった。やがて、しだいに息使いがあらくなった。ハッハッと、せぐりあげるような熱い息吹きが私の顔をうったかと思うと、そのうちに妙なことが起こったのだ。ボタッと、何やら熱いものがひとしずく、私の頬っぺたに落ちたのである。
涙だ!
私は思わずギョッとして、一瞬、大きく息を吸ったが、相手も驚いたらしく、あわてて身をひいて、しばらくじっと、私の様子をうかがっていた。それから、また、安心したように、膝をにじり出した様子であったが、なにを思ったのか、急にギョッとうしろへとびのいた。そして、しばらくあらっぽい息使いをしながら、じっと身動きもしないでいたが、にわかにソワソワ立ち上がった。
そのとたん、私のかなしばりは半分解けた。さきほどから、必死となってたたかっていた、上の瞼と下の瞼の膠づけが、そのときやっと解けたのだ。
私はかっと眼を見開いたが、そのとたん、ゾーッと全身を、電波のような恐怖がつっぱしった。
三酸図屏風のまえに、だれやらひとが立っている。向こうむきに立っているので、背中だけしか見えなかったがそれはまるで屏風にかかれた、仏印和尚がぬけ出したような姿であった。
私ははっと、いつか姉の春代からきいた話を思い出した。
いつかこの座敷へ泊まった、山方の平吉も、屏風の絵がぬけ出したのを見たという。……
私はもっとよく、その正体を見極めようとして瞳を見はったが、そのとたん、いままで室内にただようていた不思議な微光がフーッと消えて、あやしい姿は、屏風に吸いこまれたように、闇のなかに消えてしまった。
私は|渾《こん》|身《しん》の努力をもって、あの|呪《のろ》わしいかなしばりとたたかった。私にゆるされている唯一の運動である呼吸を、できるだけ強め、その反動によって、反射的に起きなおろうとした。ときどき私は、それに成功して、かなしばりを解くことができるのである。
だが、その努力がまだ成功しないうちに、私はまた、ハッと呼吸をこらさねばならなかったのだ。十五間の長廊下をふんで、だれかこっちへやってくる。……
ひたひたと、猫のように柔らかな足音、さやさやと、しずかな|衣《きぬ》|摺《ず》れの気配。……やがてその足音と衣摺れの音は、お錠口をとおって、離れの縁側へやってきた。そして、私の寝ている座敷のまえまでくると、ピタリと障子の外にとまって、そのまま、しばらく動かない。
私はまた、瞼を閉じて、じっと呼吸をこらしている。心臓がガンガン躍って、額にジリジリと脂汗がにじんでくる。
一瞬、二瞬……
やがてしずかに障子のひらく気配がするとほのかな微光とともに、だれやらそっと、座敷のなかへ入ってきた。しかも、それはひとりではなくふたりである。私はそっと薄眼をひらいてそのほうを見たが、そのとたんなんともいえぬ変てこな感じにうたれたのである。
入ってきたのは小梅様と小竹様であった。小梅様だか小竹様だか、例によって、私にはわからないのだが、双生児のひとりが古風な|雪《ぼん》|洞《ぼり》をかかげていた。その雪洞のほのかな光が、ふたりの姿を、闇のなかにぼんやりとうきあがらせる。
小梅様も小竹様も、黒っぽいおそろいの道行きを着て、手首に水晶の|数《じゅ》|珠《ず》をかけている。そして、さらにおかしなことにはふたりとも|杖《つえ》をついているのである。
ふたりは足音をしのばせて、そっと私の枕元にしのびよると、雪洞をかかげて中腰になり、上から、私の顔をのぞきこんだ。あわてて私が瞼を閉じたことはいうまでもない。
「よう寝てるえなあ」
ふたごのひとりがつぶやいた。
「さっきの薬がきいたんえなあ。ほ、ほ、ほ」
ふたごのもうひとりが、ひくい声でわらった。
「小竹さん、あれ、見や、ひどい汗……」
「つかれてるんえ。息遣いがあらいわえな」
「ほんにかわいそうに、いろいろな目におうて……」
「でも、このぶんなら大丈夫えなあ。なかなか眼が覚めそうもないで」
「そうそう、そんなら、この間に、ちょっとお参りしてこよ。今日は、月こそかわれ、仏の命日じゃでな」
「そんなら小梅さん」
「小竹さん」
「はよ行こ」
小梅様と小竹様は、雪洞をかかげてすりあしで、座敷から縁側へ出ると、外からしずかに障子をしめた。
そのとたん、私のかなしばりは完全に解けた。私はがばと、寝床の上に起きなおった。
ああ、夢か……?
いいや、夢ではない、小梅様と小竹様はまわりの縁をまわって、便所のほうへ行く。ふたりの歩くにつれて、雪洞の灯が、ふたつの小さな老婆の影を、障子の上に移動させていくのである。
私の寝ている十二畳の座敷のうらには、八畳ばかりの板の間の部屋がある。|納《なん》|戸《ど》ともいうべき部屋で、古い|葛籠《つ づ ら》や|長《なが》|持《もち》、|鎧櫃《よろいびつ》、ほかにその昔、この家の主人が出入りに使ったらしい古風なお|駕《か》|籠《ご》などが押し込んである。小梅様と小竹様の入っていったのは、その納戸らしかったが、そのとき、私は思わずギョッと呼吸をのんだのである。
私のいる十二畳の座敷の床脇の壁に、|般《はん》|若《にゃ》と|猩々《しょうじょう》の面がかかっていることはまえにもいったが、ふたりの老婆が納戸へ入っていくと同時に、般若の眼から、かすかな光がもれてきたのだ。その光は、ろうそくのまたたくように、ゆらゆらゆれて、明るくなったり、暗くなったりする。私はしばらく、|茫《ぼう》|然《ぜん》としてその光を見つめていたが、やがて、しだいに次のようなことが|明瞭《めいりょう》になってきた。
すなわち、般若の面のうしろの壁に、小さな孔があいていて、双生児のひとりのかかげている雪洞の灯影が、その孔をとおして漏れているのだ。そして、そのことは同時に、さっき私の眼覚めたとき、室内にただよっていた、不思議な微光のいわれを、説明することになりはしないか。すなわちあの光は、納戸についていた灯が、般若の眼をとおして、この部屋にながれこんでいたのではあるまいか。そしてその光がふっと消えたということはこの座敷へしのびこんでいた人物が、納戸のほうへ逃げたということになりはしないか。
私の胸はあやしく躍り、心臓の鼓動が、早鐘をつくようにゴトゴト鳴った。私は寝床からとび起きると、そっとちがい|棚《だな》のほうへしのびよったが、そのとたん、納戸のなかで、ガタンとなにか、ふたをするような音がしたかと思うと、いままで明滅していた般若の眼のかがやきが、ふうっと消えてしまったのである。そして、それきり納戸のなかに人の気配はなくなった。
私は何かしら、名状することができぬスリルをおぼえた。
双生児の小梅様と小竹様は、私に毒を盛ったのではなかったのだ。私にのませたのは眠り薬であったのだ。つまり、小梅様と小竹様はあの不思議な納戸入りを、だれにも知られたくないために、私を眠らせておこうとしたのだ。しかし、小梅様と小竹様は、真夜中に、納戸になんの用事があるのだろう。
私はそっと電気をつけた。それから座敷をすべり出て、床の間のうらにある納戸へ入った。納戸のなかはまっくらだったが、私の予期していたとおり、ちがい棚のうらにある壁の一角から座敷にともした電気の灯影が一道の光となってもれている。
「伯母さま。――伯母さま――」
私はこごえで呼んでみた。むろん、返事を期待したわけではない。ただ、試みに呼んでみたのだ。案の定、返事はなかった。そこで私は思いきって、納戸についている電気のスイッチをひねってみた。果たして、小梅様と小竹様の姿はそこになかった。
この納戸には、いま私が入ってきた、便所のまえの杉戸のくぐりよりほかに、絶対に出入り口はないのである。北側に小さな窓があるけれど、それにも|格《こう》|子《し》がはまっており、おまけに厳重に戸がしまっている。戸にはなかから|枢《くるる》がおりていた。
私はまた、なんともいえぬ大きなスリルが全身をつらぬいて走るのをおぼえた。
この納戸にはどこかに抜け|孔《あな》があるのだ。それはもう疑う余地もない。姉の春代が、離れ座敷にいだいた疑惑も、平吉という山方の男がおびやかされた|闖入者《ちんにゅうしゃ》も、すべてそこに秘密の抜け孔があるということによって、合理的に説明される。
そうだ、わかった。平吉という男は、離れの十二畳に寝泊まりをしているあいだ、しじゅう、だれかに見すえられているような気がするといったそうだが、すなわちそれは、秘密の抜け孔から納戸へしのびこんだ闖入者が、座敷へ行くまえに、こっそり、般若の面ののぞき孔から、様子をうかがっていたのにちがいない。
私はそっと、光の漏れている壁のそばへちかよった。そこには小さな鏡がかかっていたが、その鏡を外すと果たしてその背後には丸い孔があらわれた。その孔に眼をあてると、十二畳の座敷が、ひと眼で見渡せたのだ。
だれがどうして、このようなのぞき孔を用意したのか、それはいずれゆっくり考えることにして、それよりまえに、私は抜け孔のありかをさがさねばならなかった。私は改めて納戸のなかを見渡した。
納戸の壁際には、黒い鉄の縁取りをした、古風な|箪《たん》|笥《す》が三|棹《さお》、|葛籠《つ づ ら》が五つ六つ、片すみの台の上には、黒塗りの鎧櫃、天井には|網《あ》|代《じろ》|駕《か》|籠《ご》がつるしてある。しかし私の眼をいちばん強くひきつけたのは、それらの道具ではなく、納戸のほぼ中央においてある大きな長持だった。さっききいた、バタンとふたをするような物音が、私に長持を連想させたのだ。長持のかけがねはこわれて、がくんと斜めに外れていた。
私は長持のふたをあけてみる。なかには絹夜具が二、三枚。この夜具をとりのけようとしたとき、足の下からバタバタとあわただしい足音がきこえた。
私はギョッと呼吸をのんだ。小梅様と小竹様がかえってきたのであるまいか。
私はあわてて電気を消すと、座敷へもどり、そこの電気も消して寝床のなかへもぐりこんだ。と、ほとんど同時に納戸のほうで長持のふたのひらく音がした。そして、般若の面のまなこから、ポーッとほのかな光がさした。
雪洞をかかげた小梅様と小竹様が、私の座敷へ入ってきたのは、それから間もなくのことだった。私はあわてて眼を閉じる。小梅様と小竹様は、雪洞をかかげて、私の顔をのぞきこんだ。
「それ御覧、辰弥はこのとおりよく寝てござる。納戸に灯がついていたなんて、小竹さん、それはあんたの思いちがいじゃがな」
「ほんに。私としたことが。……さっき、あんまりびっくりしたもんで」
「それえなあ。あんたは今夜、変なことばかりいいなさる。だれがあの抜け孔のなかにいるものかな。仏のほかには……」
「いえいえ、あれはまちがいはござんせん。雪洞の灯が消えて、ふたりがまごまごしているあいだに、たしかにだれかが、わたしのそばをすりぬけて……」
「まだ、それをいいなさるかえ。まあ、ええわいの。辰弥が眼を覚ますと悪いで、向こうへ行て、ゆっくり話をしましょ」
小梅様と小竹様は、杖をついてコトコトと長廊下づたいに、母屋のほうへかえっていった。
私にはそれらの情景が、まるでこの世のほかの情景のようにしか思われなかったのだ。
第四章 四番目の犠牲者
私の身辺にはまたまた、しなければならぬことや、考えねばならぬ疑問のかずかずが降ってわいてきた。
私はまず、秘密の抜け孔のありかを突き止めなければならぬ。また、小梅様と小竹様が、なぜ、深夜、ひとめをしのんで、その抜け孔へ入っていくのか、それも考えてみなければならないのだ。さらにまた、その抜け孔を利用して、この座敷へしのんでくるのが何者か、そしてまた、この座敷に、どのような目的があるのか、それらのことも調べなければならぬ。しかも、そういう仕事は、すべて、自分ひとりで、秘密のうちに運ばねばならないのだ。なぜならば、姉の春代でさえが、抜け孔の存在を知らないらしいのだから。
しかし、その夜の私は、心身ともに綿のように疲労していたうえに、小梅様と小竹様にのまされた薬がきいたのか、何をする気力も、何を考える意力もなくなっていた。小梅様と小竹様が、母屋のほうへ立ち去ると間もなく、私はまるで、死んだように眠りこけてしまった。
翌朝、眼が覚めたとき、私の頭はまだ重かった。睡眠剤が|宵《よい》にはきかず、朝になってきいたと見えて、薄皮をかぶったように、薄白く頭が濁っていて、手脚が重く、全身がけだるかった。それに今日もまた、警官たちがやってくるであろうと思うと、ドス黒く、気がめいりこんでならなかった。
しかし、私は頭が重いからといって、全身がけだるいからといってボンヤリしてはいられないのだ。そうだ。この朝私は、何をおいてもしなければならぬことがあった。それは梅幸尼を訪問することなのだ。
梅幸尼は、私の身の上に関する、何かしら重大なことを知っているらしい。そのことが、こんどの事件を解決するうえに、役立つか立たぬかわからぬけれど、いまの私にとっては、それが唯一の希望であり、頼みの綱でもあった。警官たちが来ると、また、出そびれることになるかもしれぬ。そうだ、朝飯を食べたら、すぐに出かけることにしよう。
私が寝床からとび起きたところへ、姉の春代がやってきた。姉もまた、小梅様と小竹様の昨夜の、妙な招待をあやしんでいるにちがいない。私の顔を見ると、ほっとしたように、
「ああ、いま、お眼覚め? 御気分はいかがですか」
「ありがとう。御心配をかけてすみません。もう大丈夫ですよ」
「そう、それはよかった。でも、まだ顔色が悪いようですよ。あまりくよくよ考えないようにね」
「ええ、ありがとう。なに、おいおい慣れてくると思いますから、御心配くださらないように」
私は当分、昨夜のことは、姉にも黙っていようと思った。そうでなくとも、体の弱い姉を、これ以上驚かしては相済まぬ。
「伯母さまがたは、今朝どうしたのか、お寝坊なのよ。さきに、御飯をいただきましょうね」
姉とふたりで朝の食膳についたとき、私はバンカチのことを聞いてみた。まえにもいったように、バンカチとは、|姥《うば》ケ|市《いち》と書くのがほんとうだそうだが、ふつうバンカチでとおっているので、私は以降、そう呼ぶことにする。
姉は不思議そうに、バンカチがどうかしたのかとききかえした。そこで私が手短かに、昨日のことを話してきかせると、姉は驚いたように眼を見はって、
「まあ、梅幸さんが……いったい、どんな話があるのでしょう」
「さあ、それはよくわからないのですが、この際、ぼくはどんなことでも、自分の身の上に関係のあることなら、きいておきたいと思うのです。警官たちが来ると、また出にくくなりますから、そのまえに出かけたいと思います」
「そう、それもいいけれど……変ねえ。梅幸さんが、どんなことを知っているのでしょう」
姉の声音には、浅からぬ不安のひびきがこもっていた。私はそこで、梅幸尼というひとはどういうひとなのかときいてみた。それに対する、姉のこたえというのは、だいたい、次のとおりであった。
梅幸尼がどうして尼になったのか知らぬが、この村のちゃんとした筋目のもので、姉が物心ついた時分からすでに尼であった。麻呂尾寺のお住持さまの長英さんなども、深く信頼している様子で、あれは女ながらも、よく修行をつんだものだとほめている。したがって同じ尼でも濃茶の尼の妙蓮のように、出来星の尼とちがって、村のひとたちからも尊敬されているのである。
「でも、その梅幸さんが、あなたにどのような話があるのかしら……」
姉の声音には、たゆとう|危《き》|懼《ぐ》のひびきがあり、なんとなく、私をやりたくないらしかった。とはいえ、何事にもあれ、控え目な姉は、強いて私をひきとめはしなかったが。……ああ、あとから思えば、姉があのとき、無理にも私をとめてくれたら、あのような驚きと、恐怖を重ねなくともすんだであろうに。
それはさておき、私がうちを出たのは九時ごろのことであった。田治見家は東屋とよばれていることでもわかるとおり、村の東部によっているが、慶勝院のあるバンカチは、村の西はずれにあり、その間、およそ半里あまり。私はなるべく人に会いたくないので、裏山づたいに道をえらんだ。
今日は七月三日、梅雨はまだ明けないはずだが、珍しい上天気で、|樹《き》|々《ぎ》の|梢《こずえ》では小鳥の声がにぎやかだった。足下に長くのびた村をみると、田植えをおわったせまい田んぼに、|早《さ》|苗《なえ》が青くそよいでいた。そして、道のいたるところに牛がごろごろ寝そべっている。
行くことおよそ半時間。足下に大きなお屋敷が見えてきた。それが西屋とよばれる野村家で、田治見家とは比較にならぬけれど、大きな土蔵や|厩《うまや》が幾|棟《むね》もならんでいるのが、ほかの家々とは段ちがいであった。この野村家の別棟の離れに、美也子は東京以来の|老《ろう》|婢《ひ》とともに起居しているのである。そのへんから道は村へ入っていって、野村家の裏をとおることになる。
ひょっとすると、美也子がそこらに出てやあしないか。……そんなことを考えながら、野村家の裏へさしかかったとき、だしぬけに、
「これ、どこへ行く」
鋭い金切り声とともに、バラバラとわき道からとび出して、私のゆくてに立ちふさがったものがあった。濃茶の尼の妙蓮なのだ。私はギョッとして、足がその場にすくんでしまった。妙蓮は何やら大きな荷物を背負うていたが、私の姿をみると勝ちほこったように、体を反らせて、
「かえれ、かえれ、かえれ、おまえは東屋から一歩も外へ出てはならぬ。おまえの行くさきざきに血の雨が降る。こんどはだれを殺しに行くのじゃ」
兎口からはみ出している、黄色い|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》を見ていると、私の胸にはむらむらと、つめたい怒りがこみあげてきた。私は満身の憎悪を瞳にこめて、相手をにらみつけながら、足のそばをすりぬけようとした。しかし尼は大きな荷物をゆすぶりながら、私が右へよれば右、左へよれば左、と、|悪《いた》|戯《ずら》小僧が幼い子どもをいじめるように、通せん坊をする。
「やらぬ、やらぬ、一歩もここを通さぬぞ。かえれ、かえれ、東屋へかえれ。そして、荷物をまとめてとっととこの村から出ていきおれ」
過労と寝不足のために、その日の私の精神状態は、ふだんの均衡をうしなっていたのだ。怒りが脳天からふきあげた。かっとして、私は、いきなり尼の体をつきとばした。そのひとつきで、尼の体は野村家の|塀《へい》までふっとんで、そこでどしんと|尻《しり》|餅《もち》をついた。がらがらと、背中の荷物が奇妙な音を立てた。
尼はびっくりして、兎口のくちびるをわなわなふるわせていたが、急にわあわあ泣き出した。
「人殺し……だれか来てえ……この男がわしを殺そうとした。だれか来てえ……」
尼の声をききつけて、野村家の裏木戸から、牛方らしい若者が五、六名バラバラととび出してきた。若者たちは私の顔を見ると、ギョッとしたように眼を見はったが、かれらの眼のなかに、ある無言の抗議をみると、私は心中しまったと思った。
「さあ、みんな、そいつをつかまえておくれ。そして駐在さんへ突き出しておくれ。そいつはわしを殺そうとしたんだ。ああ、痛い、痛い、そいつがわしを殺そうとした」
牛方たちは無言のまま、ずらりと私を取りまいた。何かいえば、躍りかからん気配である。私の|腋《わき》の下から、タラタラとつめたい汗がながれた。私はそれほど、自分を臆病な人間とは思わぬけれど、理屈を説いてわからぬ相手だけに始末が悪いのだ。世の中に無知と無教養ほど恐ろしいものはない。
私はなにかいおうとしたが、舌がこわばって言葉が出なかった。男たちはまた一歩、私のほうへ踏み出した。尼は相変わらず、わあわあと子どものように泣きながら、あることないことわめきたてる。私は進退きわまった感じだったが、そこへ野村家の裏口から、バラバラととび出してきたものがあった。
美也子であった。
美也子はその場の様子を見ると、とっさに事情をのみこんだのであろう。私のそばへ駆けよると、きっとうしろにかばいながら、
「まあ、どうしたの。みんなでこのひとをどうしようというの」
若者のひとりがもぐもぐ口を動かしたが、私にはよくききとれなかった。
美也子にもよくわからなかったとみえて、私のほうをふりかえると、
「辰弥さん、いったい、どうしたというんですの」
と、尋ねた。そこで私が手短かに事情を話すと、美也子は眉をひそめて、
「おおかたそんなことだろうと思ったわ。それじゃ尼さんのほうが悪いのじゃありませんか。さあ、みんなも話がわかったでしょう。わかったら、さっさとうちへかえって仕事をしなさい」
若者たちは顔を見合わせたが、しかたがないというふうに、首をすくめて裏木戸からなかへ入っていった。なかにはペロリと舌を出したものもあった。濃茶の尼も、味方がいなくなると、心細くなったのか、逃げるように立ち去った。わあわあと子どものように泣きながら。……
「ああ、びっくりした。いったい、あなたがなにをしでかしたのかと思ってギョッとしたわ」
美也子はほっとしたように笑いながら、
「あなた、いったい、どこへいらっしゃるの」
そこで手短かに梅幸尼の話をすると、美也子は眉をひそめて、
「まあ、話っていったいどんなことでしょう」
と、しばらく考えていたが、
「いいわ、それじゃあたしが慶勝院まで送っていってあげるわ。いいのよ、いいのよ、あたしは表で待っているから。……だって、いつなんどき、またいまみたいなことが起こるかしれませんもの」
私にもむろん、美也子のついてきてくれるのはありがたかった。
慶勝院は野村家から、一丁ほど行ったところにあり、それは尼寺というより、庵室といったほうがよさそうであった。|柴《しば》|垣《がき》のなかにあるのは、小ザッパリとした、ふつうのわらぶきの家で、門を入ると三間ほど行ったところに、腰の高い障子がはまった玄関があり、玄関のすぐ左に|濡《ぬ》れ|縁《えん》のついた部屋がふたつ。雨戸はひらいていたが、ちかごろ|貼《は》りかえたばかりらしい障子がいかにも清潔な感じでしまっていた。掃ききよめられた前庭には、|楓《かえで》の樹がただ一本。
そのとき、私が不思議に思ったのは、障子のなかに電気がついていたことである。今日はよい天気だし、それほど暗い家とは思われないのに、どういうわけだろうと思いながら腰高障子をひらいて|訪《おとの》うたが、なかから返事はきこえなかった。
二度三度、呼んだあげくに、私は玄関の土間へふみこんだが、そのとたん、頭から、つめたい水をぶっかけられたように、ゾッとしてその場に立ちすくんだ。
あがりがまちの障子があけはなってあったのだ。土間へ入ると、すぐにそこから奥の六畳が見通せた。梅幸尼はその六畳で、うつ伏せになって倒れていた。しかも、畳の上には点々として、黒いしみがこぼれ、尼の枕元には、田治見家からとどけられた会席膳がひっくりかえっていた。
私の|膝頭《ひざがしら》はガクガクふるえた。のどがヒリヒリ、ヒリついて眼のまえがまっくらになったような気がした。
「おまえの行くさきざきに血の雨が降る」
さっき濃茶の尼の叫んだ言葉が、稲妻のひらめきのように、私の脳裏によみがえってきた。
そうだ、そのとおりだ。ここにもひとつ、殺人が行なわれている。……私が門を出ると、美也子がそばへよってきた。
「どうしたの。何かあったの。お顔の色が真っ青よ」
「梅幸さんが死んでいる」
それだけいうのがやっとであった。美也子はびっくりしたように大きく眼を見はって私の顔を見つめていたが、すぐ、|踵《きびす》をかえして、バラバラと門のなかへ駆け込んだ。私もあとからついていった。
梅幸尼はやっぱり死んでいるのであった。そして、その死因が、祖父の丑松や、兄の久弥や、さては蓮光寺の洪禅さんと同じであるらしいことは、畳の上にこぼれた、血のあとでも想像された。梅幸尼のくちびるにも、黒く乾いた血がこびりついていた。
美也子と私は、茫然と眼を見交わしていたが、そのとき私は、一枚の紙片がひっくりかえったお膳のそばに落ちているのに気がついて、何気なく拾いあげた。
それはポケット日記を引きさいた紙の一枚で、そこには太い万年筆の字で、次のようなことが書いてあった。
双児杉 お梅様の杉
お竹様の杉
博 労 井川丑松
片岡吉蔵
分限者 東屋、田治見久弥
西屋、野村荘吉
坊 主 麻呂尾寺の長英
蓮光寺の洪禅
尼 濃茶の尼、妙蓮
姥ケ市の尼、梅幸
そして以上の名前のうちお竹様の杉、井川丑松、田治見久弥、蓮光寺の洪禅、姥ケ市の尼、梅幸の名前の上には、それぞれ、赤インキで棒がひいてあったのだ。
恐ろしき|籤《くじ》
「や、や、や! こ、こ、これは、どうも。……こ、こ、これはどうも……」
ひどいどもりようである。
「そ、そ、それじゃこれが、こ、こ、こんどの一連の殺人事件の、ど、ど、ど、動機だというんですか」
と、びっくりしたのか、うれしいのか、それとも興奮しているのか、むやみやたらと、もじゃもじゃ頭をかきまわしたのは、金田一耕助という小柄で奇妙な探偵さんである。あまり頭をかきまわすので、細かいフケが、きららのように飛んで散乱した。
「畜生!」
と、鋭い舌打ちをしたのは磯川警部だ。それきりふたりは、凍りついたように黙りこんで、手帳のきれはしを見つめている。
金田一耕助はあいかわらず、ガリガリ、ガリガリ、めったやたらともじゃもじゃ頭をかきまわしながら、ガタガタと脚でしきりに貧乏ゆすりをやっている。磯川警部は眼を皿のようにして、手帳のきれはしに書かれた文字を見つめている。紙を持つ手が、アル中患者のようにブルブルふるえ、血管がおそろしくふくれあがって額にはねっとりと脂汗。……
私はそういうふたりの様子を、悪酒に酔ったようなとりとめのない気持ちでながめていた。頭がフラフラして、眼がちらつき、いまにも吐きそうな気持ちだった。全身にけだるい|倦《けん》|怠《たい》|感《かん》がひろがって、見得も外聞もなく、そのままそこへへたってしまいたかった。
ああ、ほんとうにそのとき私は、このままどこかへ行ってしまいたかったのだ。
それは私たち――私と美也子のふたりが、梅幸尼の死体と死体のそばに落ちていた、あの奇妙な紙片を発見してから、間もなくのことだった。
かさねがさねの大きなショックに、私はそのとき、何をどうしてよいのか、さっぱり才覚も浮かばなかったが、女ながらも美也子は、局外者だけにしっかりしていたのか、いったん驚きからさめると、すぐに人をよんで駐在所へ走らせた。
幸い駐在所には、うちつづく怪事にそなえて、昨夜から磯川警部が二、三の刑事と、泊まりこむことになったらしく知らせをきいて、刑事とともに駆けつけてきた。途中、西屋へよってきたとみえて、もじゃもじゃ頭の金田一耕助もいっしょだった。
美也子はそこで、手っとりばやく事情を話すと、死体のそばから拾った紙片を出してみせたが、その瞬間、警部も金田一耕助も全身が硬直するような驚きにうたれたのである。
無理もないのだ。ああ、その紙片に書かれた文字――いったいそれは何を意味するのか。
双児杉 お梅様の杉
お竹様の杉
博 労 井川丑松
片岡吉蔵
分限者 東屋、田治見久弥
西屋、野村荘吉
坊 主 麻呂尾寺の長英
蓮光寺の洪禅
尼 濃茶の尼、妙蓮
姥ケ市の尼、梅幸
そして、以上の名前のうち、お竹様の杉、井川丑松、田治見久弥、蓮光寺の洪禅、姥ケ市の尼、梅幸の名前のうえに、それぞれ、赤インキで棒がひいてあることはまえにもいったが、お竹様の杉をのぞいては、赤インキで|抹《まっ》|殺《さつ》してある名前こそ、ちかごろ、あいついで殺されていったひとではないか。
してみると犯人は、村にある、相似た境遇身分、地位、職業の人間ふたりのうち、そのひとりを殺そうとしているのだろうか。だがそれはなんのためか。
しかし、それもこの表をよく見れば、わからぬこともなさそうな気がする。いちばん最初に抹殺されているお竹様の杉は、人意をもって倒されたのではなく、落雷のために引き裂かれたのだ。しかもそのことが八つ墓村に、不吉な予感をもたらすもととなり、村にみなぎるちかごろの不安はすべてそこから端を発しているのだ。
この事件の犯人は、ひょっとすると、救いがたい迷信から、お竹様の杉が雷に引き裂かれたことをもって八つ墓村に大きな|祟《たた》りのある前兆と考え、さてこそ、八つ墓明神のいかりを鎮めるために、お竹様の杉をもふくめて、八つの|生《いけ》|贄《にえ》をそなえようとしているのではあるまいか。しかも、それには、お梅様の杉、お竹様の杉と二本ならんだ神杉の、一本が倒れたことにヒントを得て、村で並立あるいは対立している、ふたりのうちのひとりを殺そうとしているのではあるまいか。
ああ、なんということだ。世にこれほど、奇怪な殺人計画があるだろうか。世にこれほど気ちがいめいた殺人作業があるだろうか。私はなんともいえぬ恐ろしさに、全身に電撃をうけたようなショックをおぼえ、やがて、ショックをとおりこして、しだいに放心状態におちいりつつあったのだ。……
「ああ、いや」
金田一耕助がのどにからまる|痰《たん》を切りながら、やっと口がきけるようになったのは、それからだいぶたってからのことであった。私にはその声が、どこか遠くのほうからでも響いてくるように思われてならなかった。それほど、そのとき、私の精神状態は、うす白く濁っていたのだ。
金田一耕助はこんなことをいっていた。
「この表を見て、ぼくにもやっと、洪禅さん殺しのなぞが解けましたよ。あのときぼくは、毒の入った本膳が、洪禅さんのまえに行くことを、どうして犯人が予知したろうかと思い悩んだのです。犯人が本膳のひとつに毒を投げ込む、――これは|造《ぞう》|作《さ》なくやれたでしょう。しかし、その毒入り本膳を、洪禅さんのまえにすえるについては、あの場合、五十パーセントの成功率しかなかったわけです。もっともこれは辰弥君が犯人でないと仮定してですがね。一応、まあこの仮定の上に立って、では、犯人はどうして、そんなあやふやなことで満足していられたのか――そこをさんざん考えつめていくと、どうしても、次のような結論に達せざるを得なくなるのです。すなわち、犯人の殺そうとしたのは必ずしも洪禅さんと限ったことではなかったのではないか。洪禅さんでも英泉さんでも、どちらでもよかったのではないか。……それはいかにもバカげたことです。被害者がAでもよければBでもよい。そんなバカバカしい殺人事件がこの世の中にあるはずがない。……それが昨夜来ぼくを苦しめていた問題なんですが、この表を見るとやっぱり、そういうバカバカしい、なんともいえぬ奇妙な殺人事件であったのですよ。この表で見ると、犯人は洪禅さんと長英さんのどちらかを殺そうとしていた。しかし、長英さんが病気で、弟子の英泉さんが、名代に立ったので、洪禅さんと英泉さんのどちらかを殺そうとした。そしてその結果洪禅さんが、あの不幸なクジに当たったというわけなのです。恐ろしい、実に奇妙な、気ちがいじみた事件ではありますが、これこそ洪禅さん殺しのなぞをとくキイだったのですよ」
ああ、そのことならば私もゆうべ考えたのだ。金田一耕助と同じように疑い、思いまどうたのだ。しかし、これで洪禅さん殺しのなぞは解けたというものの、事件全体をくるんでいる、この怪しくもまがまがしいなぞの解決については一歩も前進したわけではない。いやいや、恐ろしい無気味ななぞは、以前にもまして濃くなってきたのだ。
「ああ、ふむ、いや」
磯川警部も、のどにからまる痰を切るような音をさせると、
「すると、なんですかな、金田一さん、井川丑松が殺されたのも、東屋の主人が毒殺されたのも、それからここに殺されている梅幸尼が一服盛られたのも、みんな不幸なクジに当たったというんですか。つまり、丑松の代わりに吉蔵、東屋の主人の代わりに西屋の主人、梅幸尼の代わりに妙蓮が殺されてもよかったし、また殺されていたかもしれぬというんですか」
金田一耕助はしばらくだまって考えていたが、やがて暗い眼をしてうなずくと、
「そう、警部さん、あなたのおっしゃるとおりかもしれません。しかし……ひょっとすると、そうでないかもしれないのです」
「そうでないかもしれぬというと……?」
「この事件が、その表から考えられるように、迷信にこりかたまった、気ちがいめいた人間の犯行ならばあなたのおっしゃるとおりかもしれません。しかし……」
「しかし……? なに……?」
「つまり、それにしては、犯人のやりかたがあまり巧妙すぎるように思われてならんのです。狂信者の犯罪としては、どの事件もあまり微妙すぎる。そこには何か、もっと別の動機がありはしないか……」
「なるほど」
警部は一句一句に力をこめて、
「つまり、あなたの考えでは、表面、迷信による犯罪とみせかけて、その実、裏面にはもっと別の、それこそ犯人の真の目的としている、ほんとうの動機がありはしないかというんですね」
「そうです、そうです。それでなければ、ここがいかに迷信ぶかい八つ墓村でも、あまり事件がとっぴすぎますからね」
「しかし、それじゃ、犯人のほんとうの目的というのは……」
金田一耕助はもう一度、子細に表をながめていたが、やがて頭を左右にふると、
「わかりません。この表だけじゃ、まだなんとも判断の下しようがありませんね。それよりも……」
と、金田一耕助ははじめて、私たちのほうをふりかえって、
「森さん」
と呼んだ。
「はあ……」
美也子もさすがに|強《こわ》|張《ば》った顔をしていたが、それでも|強《し》いて微笑をうかべると、
「何か御用でございますか」
「この手帳の文字ですがね。もう一度よく見てください。あんたはこの筆跡に心当たりがありませんか」
それは手帳型のポケット日記の一ページで、ふつうこの型の日記は一ページに、上から順に四日の日付が刷りこんであるものだが、この紙片は、上から三分の一ほどが|鋏《はさみ》で切りとったようになくなっていた。そして、残りの三分の二に見られる日付は、四月二十四日と五日である。
まえにあげた十の名前は、このページを横にして二十五日のところから書きはじめてあり、したがって、切りとられた四月二十三日と二十二日のところには、まだまだ呪われた名前が書きつづけられてあったのではあるまいか。文字は太い万年筆の書きなれた達筆だった。
「男文字ですわね」
「そう、ぼくもそう思いますね。だれか村の人に、そういう文字を書くひとはありませんか」
「さあ……」
美也子は美しく首をかしげて、
「あたしにはちょっと……村のかたの字はいっこうに不案内で……」
「辰弥さんあなたは……?」
私はむろん、言下に首を横にふった。
「ああ、そうですか。では、だれか、ほかのひとに見てもらいましょう」
金田一耕助は警部に紙片を返しかけたがふと思いなおして、
「ああ、そうそう、ついでにこの日付を調べておきましょう。警部さん、あなた、今年のポケット日記をお持ちでしたね。ちょっと見てください。四月二十五日は何曜日ですか」
警部のいった曜日と、引きちぎられた日記の曜日はぴったりと一致した。金田一耕助はにこにこしながら、
「すると、この一枚は、今年のポケット日記からちぎられたものだということになりますね。残念ながら、裏になにも書いていないので、今のところだれの日記だかわかりませんが、なに、いまに探し出せますよ。ああ、いいあんばいに久野先生がいらした」
盗みする尼
それにしても久野おじは、あのとき、どうしてあんなにおびえていたのだろうか。
|弥《や》|次《じ》馬をかきわけて、庵室の庭へ自転車を乗り入れた久野おじは、自転車にかけてあったカバンを小脇にかかえると、まるで酒に酔っぱらったような足どりで、フラフラとこっちへやってきた。そういえば、はじめてこのひとに会ってから、まだ八日にしかなっていないのに、たったそれだけのあいだに、ずいぶんやつれたものだ。頬がこけて、眼のふちに黒い|隈《くま》ができた。そして落ち着かぬ瞳は、脂がういたように異様にギラギラ光っていた。
「いや、どうも、遅くなって……隣村まで往診にいっていたもんだから……」
|靴《くつ》をぬいで庵室へあがってくると、久野おじは聞きとれぬくらいの声で、もぐもぐいった。
「いやあ、お手間をとらせてすみません。またひとつ、事件が起こったもんですから……」
「やっぱり、例の事件のつづきですか」
久野おじの声はふるえていた。
「それだったら、私はごめんこうむりたいのだが。……まえに一度、失敗しているし。……新居君はいないのですか」
「新居先生は洪禅さんの死体解剖の件について、何か準備しなければならぬことがあるとかで、町まで出向いていかれたそうです。洪禅君のことで、昨夜、電報がうってありますからいずれN博士も来られるでしょう。そうしたら、このほうもいっしょに解剖してもらうつもりですが、そのまえにちょっと診ていただきたいと思って……」
久野おじはいかにもいやそうであった。
久野おじ自身もいうとおり、かれは兄の久弥の場合、致命的な誤診をして、あとで大恥をかいている。したがって、なるべくならばこの事件に、接触したくないという気持ちはよくわかるが、それにしても、あのおびえかたはどうだろう。
梅幸尼の枕元に座ったとき、久野おじの体は、まるで、|瘧《おこり》患者のようにブルブルふるえ、額から、頬から、滝のように汗がながれた。
「先生、どうかしましたか。体ぐあいでも悪いのですか」
金田一耕助が尋ねると、
「ああ、いや、ちょっと。……過労ですかな、体がだるくて……」
「それゃあいけませんな。医者の不養生といって、とにかく無理をなさりがちなものだから……いかがですか、お見立ては」
久野おじはそこそこに|検《けん》|屍《し》をおわると、
「いやまちがいなし。洪禅君や田治見の主人と同じです。いずれ、N博士が確かなところをいってくれるだろうが……」
「で、死後何時間ぐらい……」
「さあ」
久野おじは渋面つくって、
「十四時間から十六時間はたっていると思う。いま十一時だから、だいたい、昨夜の七時から九時ごろまでの出来ごとでしょうな。いや、それもN博士に決定してもらったほうがいいでしょう。私はあまり、こういう事件は得意でないので……」
久野おじはカバンをしまうのもそこそこに、
「じゃ、私はこれで……」
と、立ち上がろうとするのを、
「ああ、先生、ちょっと」
と金田一耕助が呼びとめた。
「ちょっと待ってください。先生にもひとつ見ていただきたいものがあるのです。先生、この筆跡に心当たりはありませんか」
金田一耕助が出してみせたのは、ひきちぎられたポケット日記の一ページだったが、ああ、そのときの久野おじの表情を、私は永遠に忘れることができないであろう。
久野おじの細い体は、一瞬、電流を通じたようにピクリとふるえた。いまにも眼玉がとび出しそうになり、あごがガタガタはげしく鳴った。額から、頬から、またしても滝のような汗。
「ああ、先生は御存じなんですね。この筆跡を……」
金田一耕助の声に、久野おじは|弾《はじ》かれたように顔をあげると、
「知らん、わしは知らん!」
|噛《か》みつきそうな声だった。
「あんまり妙なことが書いてあるからびっくりして……」
久野おじはそこではじめて気がついたように、美也子と私の顔をじっと見すえて、
「だれがそんなことを書いたのか知らんが、そいつは馬鹿か気ちがいじゃ。わしゃ知らん、わしはなにも知らん。わしはなにも……」
美也子の不思議そうな眼に見つめられて、久野おじの声はふるえるように低くなったが、やがてまたいちだんと声を張りあげて、
「わしはなんにも知らんのじゃ。この事件についてわしはまったくなにも知らんのじゃ」
それだけいうと久野おじは、|呆《あっ》|気《け》にとられた警部や金田一耕助をあとにのこして、庵室をとび出すと、酔っぱらいのような足どりでペダルを踏みながら、自転車に乗って立ち去った。
私たちは思わずほうっと顔を見合わせたが、やがて磯川警部がクックッとのどの奥でわらいながら、
「は、は、は、先生、このあいだの失敗以来よっぽど神経質になっているとみえる。だれも先生の知ったことだといってやせんのに」
金田一耕助は、だまってしばらく考えていたが、やがて警部のほうをふりかえると、
「いや、警部さん、いまの久野先生の態度はなかなか暗示的でしたよ。ぼくにはね」
と、ひきちぎられたポケット日記の一ページに眼を落として、
「この|鋏《はさみ》で切り取られたあとの部分に、どういう名前がならんでいたか、少なくとも一組だけはわかるような気がしますよ」
警部がピクッとしたように眉をつりあげた。
「だ、だれだい、それは……、いや、だれとだれの名前だい?」
「村の医者、久野恒実氏。村の疎開医、新居修平氏。この二人の名前が、医者という項目の下に、二行にならんでいたのではありますまいか」
私たちは思わずドキッと顔を見合わせた。美也子の美しい顔も、今朝ばかりは|色《いろ》|艶《つや》をうしなって、妙にさむざむとした感じだった。
「いずれにしても、この紙片が手に入ったのは、何よりのことでしたよ。犯人がわざと落としていったのか、それとも余人が、なにかためにするところがあっておいていったのか、いずれにしても犯人の意図、あるいは意図らしくみせかけようとするところのものが、これでいくらかハッキリしたわけですね。警部さん、この紙片は大事にとっておいてください。森さんや辰弥君は新来者だから、この筆跡に見覚えがないのでしょうが、なに、どうせ狭い村のことだ。だれかきっと、この筆跡を知ってるものがあるはずですよ」
さて、これで奇怪なメモについては、一応調査を打ち切ることにして、改めて、梅幸尼の死因について、調査がすすめられることになったのだが、そうなるとまた、警部の尋問の|鋒《ほこ》|先《さき》にさらされるのは、かくいう私だったのだ。
梅幸尼がどうして死んだか、それはその場の様子をひと眼見ればわかるのだ。梅幸尼は、田治見家からおくられた会席膳を食べていて、そのなかに仕込まれていた毒のために死んだのだ。久野おじの言葉によると、梅幸尼が死んだのは、昨夜の七時から九時までのあいだだろうという。そのことは、田治見家からお膳がとどけられた時刻とも、ぴったり符合しているのだ。
「いったい、この膳を、梅幸尼にとどけるように取り計らったのはだれですか」
警部の質問はまたしても、私のいたいところをつくのである。
「はあ、あの、それは私ですが……梅幸さんが、お|斎《とき》のまえにお帰りになったので、私から姉さんに頼んでとどけるようにしてもらったのです」
金田一耕助がほほうというような眼をして私を見た。警部は苦虫をかみつぶしたような顔をして、ジロジロ私の顔を見ながら、
「それゃあ、しかし、よく気がついたことですね。男って、なかなかそうはいかないものだが……」
ああ、また、私は疑惑のふかみへおちていく。……
「いえ、あの、それは、ぼくだってこんなことは不得手ですから気のつくはずはないのですが、典子さんがそばから注意をしてくれたんです」
「典子さんというのは?」
「田治見家の新家の、里村さんの妹さんですよ」
美也子がそばから言葉をそえた。
「なるほど、それできみが姉さんにそのことを伝えたんだね。どこで……」
「台所でした。そのとき、台所にはおおぜいひとがいましたし、御存じのとおり、あの台所と座敷とはわりにちかいのですから、座敷にいるひとでも、注意していたら、私の言葉がきこえたかもしれません」
「それで姉さんは……」
「お島にすぐそうするように指図をして、それから私たちはひとつずつ本膳をもって、座敷のほうへやってきたのです」
「すると、そのとき、座敷にいたひとには、この会席膳にちかづく機会はなかったわけですか。それからすぐにお斎がはじまったとしたら……」
「さあ……」
私はちょっと考えて、
「この会席膳が、いつごろうちを出たのかわかりませんが、もし、あの騒動のあとだったら……洪禅さんが血を吐いたとき、座敷にいた客の、半分くらいは逃げ出しましたから……」
警部はチョッと舌を鳴らして、
「よろしい、会席膳がいつごろ田治見家を出たか、あとでよく調べてみよう。ところで、そのとき座敷を逃げ出したのが、だれとだれだかわかりませんか」
「さあ……」
私にもはっきりとした記憶はなかった。
「なにしろ、ぼく自身びっくりしてたものですから。……ただ、パタパタと、座敷から出たり入ったりする足音を覚えているだけです」
「きみ自身、逃げ出しゃあしなかったろうね」
「とんでもない。ぼくは逃げ出すどころじゃありません。足がすくんでしまって、それに、ぼくはいちばん上座にいたんですから逃げ出せばだれの眼にもすぐわかるはずです」
「そのことなら……」
と美也子が横から助け舟を出してくれた。
「あたしがよく覚えていますわ。お斎がはじまってから、あの騒ぎで警察のかたがいらっしゃるまで、辰弥さんは一度も座敷からお出になりませんでした」
「ああ、そうそう」
金田一耕助は思い出したように、
「森さんもあの席にいらしたんですね。どうです、あなたはあのとき、座敷から出ていったひとを覚えていませんか」
「さあ、……女のひとはみんな一度は逃げ出したでしょうね。それに、洪禅さんが血を吐いたとき、水をとりに走ったひともありますし……でも、だれとだれが座敷を出て、だれとだれが出なかったか、そこまでは責任をもってお答えすることはできませんわ」
「なるほど、それじゃ会席膳の問題は、もう一度田治見家の台所へ行って、きいてみることにして、さて、問題は今朝のことですがね。辰弥君は昨日、梅幸尼からなにか話があるといわれて訪ねてきたのだという話でしたが、その話の内容というのについて、なにか心当たりはありませんか」
「ありません」
言下に、私はキッパリ答えた。答えざるを得なかったのだ。私自身その問題について思い迷うているのだから。ただ、この問題について、つきとめようと思えばつきとめる方法が、ほかにないこともない。それは麻呂尾寺の住持、長英さんにきいてみることだ。あのとき梅幸尼はこういったではないか。このことは私と麻呂尾寺の長英さんのほかには、だれも知らぬことですと。……しかし、私はなんとなく、それを警部に打ち明けたくなかった。私自身でいつか長英さんに会ってきいてみたかったのだ。
警部は疑わしそうに、私の顔色を読みながら、
「どうも妙ですね。みんな大事の瀬戸ぎわの、いまひと息というところで殺される。梅幸尼はいったいきみに、何を話したかったのか。……いや、それよりも辰弥君、きみはどうもこんどの事件の場合、殺人に縁がありすぎるよ。きみの行くさきざきで人殺しが行なわれるじゃないか」
警部に指摘されるまでもなく、私自身それを感じて、心が重くなっていたのだ。
「ほんとに不幸な偶然です。さっきも濃茶の尼にそれをいわれたとこでした」
「濃茶の尼?」
突然、つぎの間から声をかけたのは、警部のつれてきた刑事のひとりである。
「あんたは今日、濃茶の尼に会ったのかね」
「はあ、ここへ来る道で……ちょうど西屋の勝手口のところで会いました」
「濃茶の尼はどの方角からやってきたかね。ひょっとすると、この尼寺のほうから……?」
「はあ、そういえばそのようでした」
「おいおい、川瀬君、濃茶の尼がどうかしたのかね」
警部が口をはさんだ。
「いえね、警部さん、台所の板の間から、ほら、その|濡《ぬ》れ縁へかけて、べたべたと|埃《ほこり》まみれの足跡がいっぱいついているんですよ。だれかわら|草《ぞう》|履《り》をはいてきたやつが、台所からあがったにちがいないのですが、梅幸尼というのはたいへんきれい好きなひとだったから、気がつけばすぐふいてしまうはずです。だからその足跡は梅幸尼の死後、ついたものだろうと思うのですが……」
刑事の言葉にはじめて気がついたのだが、そういわれてみれば、足跡の主は台所から座敷へ入り、濡れ縁へぬけたらしく、梅幸尼の枕元からひっくりかえったお膳のあたりへかけて、べたべたと白い足跡がついていた。畳の上ではあまり目立たなかったけれど、板の間にくっきりついたその足跡は|扁《へん》|平《ぺい》|足《そく》のさきのひらいた、子どものように小さい足跡だった。私はすぐに、さっきあった濃茶の尼の尻切れ草履をはいた、埃まみれの足を思い出した。
「ふうむ、すると濃茶の尼が辰弥君や森さんより、ひとあしさきに、この尼寺へ入りこんだというのかね。しかし、それならば、あの尼さん、なぜ騒ぎ立てなかったろう」
「それはね、あの尼め、うしろ暗いことをやっているからですよ」
「うしろ暗いことというと?」
刑事はうす笑いをうかべて、
「あいつは妙な盗癖をもってるやつでしてね。なに、大それた盗みをやるわけじゃないんですが、ひとが見てなきゃそこらにあるものを、手当たりしだい持ってく癖があるんです。|賽《さい》|銭《せん》|箱《ばこ》からお賽銭をくすねたり、お墓の|供《く》|米《まい》をぬすんだり、まあ、その程度の盗みだから、村の連中も、たいていは見ぬふりをしてるんですが、どうかすると、ひとの洗たく物などを平気で持っていって着ていることがあるんで、問題を起こすこともあるんです。梅幸尼はそれを|不《ふ》|愍《びん》がって、いつもいろいろとりなしてやってたもんですが、濃茶の尼はそれをまたいいことにして、梅幸尼の眼をぬすんで、なんでもかんでも持ってったもんです。相手が梅幸尼のことだから、いえばハイハイとくれるにきまっているものでも、盗んで持っていくんです。つまり、品物そのものよりも、盗むということに興味をもっているんですね」
金田一耕助は興味ふかげに刑事の話をきいていたが、
「それで、今日、濃茶の尼がこの庵室から、何か持っていった形跡がありますか」
「ええ、もう、台所へ行ってごらんなさい。めちゃくちゃでさあ。|糠《ぬか》みそのなかまでかきまわしてやあがる。濃茶の尼め梅幸尼が死んでるのを見て、もうこんなものいらんだろうと、勝手に理屈をつけやがったにちがいありません。辰弥さん、あんたが濃茶の尼に出会ったとき、尼さん、大きな荷物を持ってやあしませんでしたか」
「はあ……」
私は美也子と顔を見合わせた。
「そういえば、大きなふろしき包みを背負っていました」
「ええ、そう、その上にひとからげの荷物をさげていたわね」
「そ、そ、そ、そして、それは、あ、あ、あ、あなたがたが、ここ、ここへ来る直前だったというんですね」
金田一耕助は、だしぬけにガリガリ、バリバリ、またしても頭の上の|雀《すずめ》の巣をかきまわしはじめたが、そのとき、私はどうしてこの奇妙な探偵さんが、あのように興奮したのか、さっぱりわけがわからなかった。しかしあとになって考えると、濃茶の尼の盗癖と、彼女が私たちよりひとあしさきに、尼寺へ盗みに入ったということがこの事件全体に大きな意味をもっているのだった。
抜け孔の冒険
この記録に筆を染めてから私がいつも不便を感じるのは、これが一種の探偵|譚《だん》であるにもかかわらず、探偵のがわから筆をすすめていくことができないということである。ふつう一般の探偵小説では、探偵のがわから筆をすすめていくことによって、どの程度に調査が進行し、探偵が何を発見したかということを、読者に示すことができるのだ。そして、それによって、犯人や解決を暗示することができるのだが、この記録の場合、記述者はいつも探偵のそばにいたわけではない。いや記述者が探偵のそばにいるのは、ごく例外の場合に限るのだから、記録のすすんでいく過程において、警察がどの程度に、何を発見したかということを、ありのままに示すことができないのがほんとうなのである。
しかし、それでは、なぞを解こうとする読者にとって不親切になるわけだから、たとえ、記述者がずうっとのちにいたって知った事実でも、必要と思えば、要所要所に記入していくことにする。
それともうひとつ、この記録がふつう一般の探偵譚とちがうところは、記述者がすでに起こった事件のあとを追うのみならず、おのれ自身の身の上や、またその身辺にむらがる疑問を追究していかねばならぬことだ。現にその晩私は、梅幸尼の怪死とはほとんど無関係と思われる、あの抜け孔の秘密をさぐって、ひとつの冒険に直面したのだ。
だが、そのことはいずれあとで話すとして、それよりまえに、その日のうちに警部や金田一耕助の発見した事実をごく簡単に述べておこう。まえにもいったとおり、これはずっとのちになって知ったことなのだが、ここで書いておいたほうが、読者に対して、親切であると思うからだ。
まず梅幸尼のところへとどけられたあの会席膳だが、あれが田治見家の勝手口を出たのは、洪禅さんの騒ぎがあってから間もなくのことであり、それを運んだのは山方の仁蔵という若者であった。
仁蔵の話によると、お島から梅幸尼のところへ会席膳をとどけるように命じられて、台所へ入っていくと、会席膳がただひとつ残っていた。そのとき、座敷のほうがなんとなく騒がしく思われたが、すでに振る舞い酒にくらい酔うていた仁蔵は、べつに深く気にもとめず、会席膳をもってフラフラと田治見の勝手口を出たのであるという。もしそのとき仁蔵が、座敷の騒ぎの意味を知っていたら、そのことを梅幸尼にも話したであろうし、梅幸尼もそれを聞けば、気味悪がって|箸《はし》をつけなかったかもしれない。屋敷じゅうにあの騒ぎが知れわたったのは仁蔵が家を出た直後であったというから、犯人は実にきわどいところで目的をとげたわけであり、それだけにまた、梅幸尼には運がなかったのだ。
さて、犯人が会席膳に毒を投ずる機会だが、それはいくらでもあった。洪禅さんが血を吐いた瞬間、座敷の客人はわっと総立ちになり、なかには座敷から逃げ出したものすらあるということはまえにも述べた。また、だれもかれも洪禅さんの様子に気をとられていたのだから、そのあいだにこっそり、座敷からぬけ出そうと思えばいくらでもその機会はあった。しかもそのとき台所にいたお島や手伝いの女たちは、座敷の騒ぎをきくと、反対に台所をからっぽにして、座敷のほうへ駆けつけてきたのだから、ある期間、台所には問題の会席膳がただひとつ、ほっておかれたことになる。現に仁蔵が台所へ入ってきたときには、だれもそこにいなかったという。
これを要するに、洪禅さんが血を吐いてからしばらくのあいだは、座敷も台所もてんやわんやだったのだから、犯人の乗ずる機会はいくらでもあったわけだ。
さて、こうして理詰めに押しつめていったところで、これからただちに犯人がわかるわけのものではないが、ただここでは、座敷にいた人間の大半に、毒を投ずる機会があったことを、わかっていただければよいのである。
さて、これだけのことをいっておいて、それではいよいよ、その夜の私の冒険のほうへ、筆をすすめていくことにしよう。
その晩の食卓では、姉の春代はとりわけ私と話をしたがった。姉もむろん、梅幸尼の事件を知っており、その死体を最初に発見したのが、私と森美也子であったということが、何かしら、異様に彼女を刺激したらしい。どうして私が美也子といっしょだったのだとか、途中で誘ったのかとか、姉のようなおっとりとしたひととしては珍しいほどの熱心さで、根掘り葉掘り尋ねるのだった。そして、最後にこんなことを付け加えるのだった。
「あの美也子さんというひとは賢いひとです。男にも負けないくらい利口なひとです。でも、わたしにはなんだか、あのひとが恐ろしく思われてなりません。眼から鼻へぬけるあの利口さが、わたしにはなんだか怖いのです。こんなこというと田舎者のひがみのように思われましょうけれども、またそう思われてもしかたのないことですけれど、怖いものはやっぱり怖いというよりほかにしかたがありませんわ。現に里村の慎太郎さんなども……」
と、姉はちょっと口ごもったが、それでも珍しく勇をふるって、
「あのひとにさんざん利用されたのだという評判がありますわ。まだ、戦争があんなことにならないで、慎太郎さんが参謀本部でときめいていた時分、美也子さんのごきげんのとりようったらなかったということです。慎太郎さんもついうかうかとそれに乗ぜられて、あのかたの旦那様が亡くなってからというものは、美也子さんの家に入りびたりになっていたそうです。それで一時は美也子さんは、慎太郎さんと結婚するのだろうという評判が、こんな田舎まできこえてきたくらいです。ところがどうでしょう。戦争がこんなことになって、慎太郎さんが尾羽打ち枯らすと、美也子さんはもう見向きもしなくなったのです。こうして同じ村に住んでいながら、ろくに口さえききません。たとい以前、それほど懇意な仲でないにしろ、一度同じ東京に、住んだもの同士だといえば、それだけでも情がうつるはずでしょう。ましてやひところ、あんなに|頻《ひん》|繁《ぱん》に出入りをし、結婚するのだとまでうわさされたふたりだのに、いまでは他人以上のよそよそしさなのです。それは美也子さんには、亡くなられた旦那様の遺産もあり、また眼から鼻へぬけるように利口なひとだから、戦争中に、ダイヤモンドをしこたま買いしめ、どんなインフレにもびくともしないほどの御身分なのに、慎太郎さんはあのとおり、これから先どうするというあてもない浪人ですから、以前は以前として、いまとなっては美也子さんが警戒なさるのもあたりまえのことでしょうけれど、それではあまり現金すぎると思うのですがどうでしょう。現にいま美也子さんの財産となっているダイヤモンドなども、慎太郎さんがこっそり忠告して買わせたものだという評判だのに……」
私はどうして姉がこのように、多弁になったのかわからなかった。また、姉のような好人物が、なぜ、こう急に、美也子の悪口をいい出したのか解せなかった。私はただあきれて姉の顔を見つめていた。すると、姉もそれに気がついたのか、顔を真っ赤にして、はたと口をつぐんだ。そして、いかにもやるせなさそうに、しばらくそわそわしていたが、やがて哀れみを求めるように眼をあげて、
「わたし、つまらないことをいってしまったわ。ひとさまの悪口をいうなんて……辰弥さん、あなた、さぞ気を悪くなすったことでしょうね」
「いいえ」
私は姉を慰めるようにつとめて優しい声でいった。
「美也子さんの悪口をいわれたからって、ぼくが気を悪くするわけがありませんよ」
それをきくと姉はいくらか顔色を取りもどして、
「そうお、それならばわたしうれしいんだけど……とにかく、ひとは見かけによらぬものだというから、これからさき、お互いに気をつけましょうねえ」
姉はなおも私と話をしたかったらしいのだけれど、私は疲れているからという口実で、それから間もなく離れへさがった。姉はなんとなく、ものかなしげな眼の色だった。
疲れていたことも疲れていたのだけれど、私が早く離れへひきあげたかったのは、もっとほかに目的があったのだ。私は今夜こそ離れにある抜け孔を発見しようと考えたのだ。
離れにはもう雨戸もしめてあり、私の寝床も敷いてあった。しかし私はその寝床に見向きもせず、座敷の裏の納戸へ入っていくと、昨夜、見当をつけておいた長持のふたをひらいてみた。まえにもいったように、この長持の底には、絹夜具が二、三敷いてあるのだが、その夜具のなかをさぐっているうちに、何やら固い|梃《てこ》のようなものが私の手にさわった。私はしばらく梃をあちこちいじくってみたのち、ぐいと強く押してみた。
と、長持の底は夜具といっしょに、ガタンと下へひらいたのである。そして、その下から、現われたのは、まっくらな|縦《たて》|孔《あな》だった。
私は思わず息をのんだ。
私の想像はあたっていたのだ。ここにひとつの抜け孔があり、ときおりここから、離れへしのんでくるものがあるのだ。と、同時にまた、双生児の小梅様小竹様が、この抜け孔を通って奇怪な仏参をやっているのだ。
ああ、あの奇怪な深夜の仏参。この抜け孔の奥に、いったい何人がまつられているのであろうか。
私の心臓はガンガン鳴った。額にはビッショリ汗がうかんだ。私はもう一度、座敷へもどってあたりの様子をうかがうと、電気を消して納戸へかえった。腕時計を見ると九時ちょっと過ぎだった。
かねて用意したろうそくに灯をつけると、納戸の電気も消し、私はろうそくの灯で、そっと抜け孔のなかを調べた。長持のすぐ下から、かなりひろい石段がつづいている。私はそっと石段の上におり立った。納戸の下へすっぽりおり立って、もう一度そこらを調べてみると、長持の底の裏にひとつの梃がついている。試みにそれをいじくっていると、だしぬけに長持の底はバタンと軽い音を立てて締まった。
これで私は、すっかり抜け孔のなかに、閉じこめられたわけである。私はにわかに心細さをおぼえ、あわててさっきの梃をさがし出し、それを逆に押すと、また、長持の底がガタンと跳ねかえってきた。それで安心して中から長持にふたをすると、もう一度梃をひねって長持の底をもとどおりにしておいた。こうしておけば、だれかがかりに長持のふたをひらいたところでここに抜け孔があることに気がつくはずはないのである。それから私はろうそく片手に、すりへった石段をひとつずつ降りていった。
ああ、私はいったい何をしようというのか。――私自身にもわかっていなかった。第一、この抜け孔と、一連のこんどの殺人事件と、何か関係があるのかないのか、それすらわかっていないのだ。ただ、わかっていることは、この抜け孔が何かしら田治見家の秘密とつながりを持っているらしいこと、ただ、それだけだ。だが、それだけでも、私にとっては十分冒険の価値があるのだ。私は自分を|囲繞《いにょう》する異様な疑惑の雲をつきやぶるためには、田治見家のどのような秘密でもつきとめておく必要があったのだ。
石段はかなり長くつづいていたが、それはさして険しくもなかった。なるほどこれでは、小梅様や小竹様のような老人にでも、杖をたよりに上がり降りができるはずである。
石段をくだってしまうと、こんどは横孔。私はその横孔に立って、ろうそくの灯でつらつらあたりを見回したのち、はじめてこれが一種の|鍾乳洞《しょうにゅうどう》であることを知った。むろん、これは天然の鍾乳洞ではない。だれかが人工的にうがったものにちがいないが、地質の関係でいつか鍾乳洞の様相を示してきたのだ。
ろうそくの灯にちらちらまたたく|洞《どう》|壁《へき》には、乳灰色をした|縞《しま》がうき出し、ところどころに、やや完全な鍾乳石が垂れさがっている。つまり、これは完全な鍾乳洞ではないが、人工のトンネルが、地質と水の関係で、鍾乳洞らしい面影をそなえているのだ。
私はこの一種異様なトンネルのなかに立って、思わず心の躍るのをおぼえた。私は勇気をふるってそのトンネルを進んでいった。そのとき私が気づいたのは、このトンネルが袋になっているのではなくて、必ずどこかに出口があるらしいことである。と、いうのは、ろうそくの灯のたえまなきゆらめきから、空気が動いていることがわかり、空気が動いている以上、どこかで外気と接しているはずなのだ。
それからいったい、どのくらい歩いたであろうか。くらやみのなかの、しかもはじめての体験では、見当もつきかねたが、間もなく私はバッタリとひろい階段につきあたった。それはさっき私が降りてきたような、天然の岩をきざんでつくった石段だったが、私は案外はやく、トンネルの終点へつきあたったのが物足らなかった。この階段をのぼっていけば、きっとどこかの地上に出られるのだろうが、それではあまり|呆《あっ》|気《け》なさすぎるように思われてならぬ。
それでもほかに行くところがない以上、私はこの石段をのぼらねばならなかった。そこで右手にろうそくを持ち左手を壁について、一歩階段に足をかけたが、そのとたん思わずどきっと足をとめた。左手をついた洞壁がぐらりと揺れたような気がしたからである。私は驚いて、ろうそくの灯でその岩壁をあらためた。しかし、べつにかわったところもなく、乳灰色の縞のまじったふつうの壁である。
私は試みにその壁をついてみたが、動く、動く、岩はたしかに動くのである。
私はもう一度ろうそくの灯で、子細に岩壁をあらためたが、そのときふと足下にくろい布のようなものが落ちているのに気がついた。何気なくそれを拾いとろうとして、そこでまた私は、どきりと息をのんだのである。それはたしかに、小梅様か小竹様かの道行きの片|袖《そで》であり、しかもそれは岩の下からはみ出しているのだ。
私はなんともいえぬ興奮にジリジリと額から汗がふき出してくるのをおぼえた。昨夜小梅様と小竹様は、この岩をとおって出入りをしたのだ。すなわち、この岩は動くのだ。小梅様と小竹様のような老婆にして、この岩を動かすことができるならば、私にだって動かせぬはずがあろうか。
私はもう一度、ろうそくの灯で子細に岩をあらためたが、すぐにからくりを見破ったのだ。岩には縦に大きく一条の割れ目が走っている。その割れ目のまえにろうそくをもっていくと炎がはげしくまたたくところからみても、この岩の向こうが空洞になっていることがわかるのである。その割れ目にそってろうそくを移動させていくと、ちょうど人が四つんばいになって出入りができるくらいの大きさの、アーチ型の岩が、他の壁とは独立して、そこにおかれてあることがわかった。
私はなおも入念に、階段の下を調べてみたが、するとアーチ型の岩のそばに、|鍾乳筍《しょうにゅうじゅん》が三、四本出ているのだが、その一本が鍾乳筍ではなくて、鉄でできた梃であることに気がついた。すぐに私がその梃を、押してみたことはいうまでもない。
私の思ったとおりであった。アーチ型の岩は私が梃を押すにつれて、少しずつ向こうへひらき、そこにやっとひと一人、通れるくらいの道ができた。その|洞《ほら》|穴《あな》の向こうもまっくらである。
私はふかく息を吸うた。そして、梃をはなしても、岩が静止していることを見とどけたのち、その洞穴のなかへもぐりこんだ。洞穴の向こうがわにも、鍾乳筍に似た梃がある。その梃によって、自由に岩が開閉できることを見定めたのち、私は改めて、この新しい横孔を観察してみた。
この横孔こそ、いま私が通ってきた、人工のトンネルとちがって、自然にできた鍾乳洞なのだ。そこには一面に鍾乳石がぶらさがり、大きさもさっきのトンネルにくらべると、だいぶ小さく、よっぽど用心をしていなければ、頭を天井にぶっつける危険があった。
これらの鍾乳洞の景観については、もっとのちに詳しく述べる機会があろうと思うから、ここでは割愛して筆をさきにすすめることにする。第一私は、あたりの景観にあまり長く心をとめているひまはなかったのだ。
小梅様と小竹様は、どうしてこのような危ない鍾乳洞などに迷いこんだのか。このような鍾乳洞の奥に、いったいだれをまつってあるというのか。私の心はさまざまな怪しい疑惑に思い乱れた。
それはともかく、鍾乳洞をしばらく行くと、道が二またにわかれている箇所に出くわした。私はちょっと途方にくれた。小梅様と小竹様は、いったいどっちの道へ行ったのか。……地面を調べてみたが、かたい岩のあちこちに水だまりがあるだけで、足跡など残りようはないのである。
私はしかたなしに右のほうへ道をとったが、しばらく行くと、ろうそくの灯がはげしくゆれ出したことに気がついた。と同時に滝のような水の音がきこえてきた。どうやら出口がちかいらしいのである。
私は少し足をはやめた。と、間もなく行く手に、ポッカリ穴があいて、その穴の外に小さな滝が落ちているのを認めた。滝といったところで、|溝《みぞ》から溝へと落ちていく、高さ一|間《けん》くらいの滝である。そこまで来たとき、ろうそくの灯が風にあおられ、はたと消えてしまった。
私はどうやら道をまちがえたらしいのである。小梅様と小竹様はきっとさっきの二またを、左へ行ったにちがいない。なぜならば、もしこの滝をくぐったとすれば二人ともずぶぬれになっていなければならぬはずなのだ。
私はよっぽどあとへもどって、左の穴の奥をさぐってみようかと思ったが、あまり時間がおそくなってもと考えなおして、それはまた明晩試みることに腹をきめた。それよりもこの滝の向こうは、村のどのへんに当たるのか、そのほうが私には気になった。
私は思いきって、滝をくぐって外へとび出したが、そのとたん、
「あれッ」
というような悲鳴をあげて、私のすぐそばからとびのいたものがあった。女の声であった。
私はぎょっとして二、三歩うしろにとびのくと、相手の姿をすかしてみた。女もブルブルふるえながら、星明かりに、私の姿をすかしていたが、だしぬけに、
「あら、お兄さまだわ」
いかにもうれしげな声を立てて、私の胸にすがりついてきた。典子だったのだ。
典子の恋
「ああ、典子さんですか。びっくりしましたよ」
相手が典子だとわかったので、私はいくらかほっとした。相手が無邪気な典子ならば、なんとかこの場の様子をいいくるめられそうな気がしたからである。
典子は、
「ふふふ」
と、口のうちで笑って、
「あたしこそびっくりしてよ。だって、だしぬけに、こんなところからとび出していらっしゃるんですもの。意地悪ね」
と、典子は珍しそうに滝の向こうをのぞきこみながら、
「どうしてこんなところに隠れていらしたの。この穴のなかに何かあって?」
典子は私が抜け孔の、向こうがわからやってきたとは気がつかぬらしい。ちょっとした気まぐれから、穴のなかへもぐりこんでいたのだろうと、思いこんでいるらしいのだ。むろん、私にとってはそのほうが好都合なので、できるだけ、彼女に調子をあわせることにした。
「いえ、なに、ちょっと入ってみたんですよ。なんにもありませんよ。ただじめじめした洞穴ですよ」
「そうね」
典子はすぐに洞穴をのぞくことをやめ、私の顔を仰ぎながら、|瞳《ひとみ》をかがやかせて、
「でも、どうしていまごろ、こんなところへいらしたの。何か御用がおありだったんですの」
「いや、別にそういうわけじゃなかったんですがね。なんだか気持ちがいらいらして、眠れなかったものですから夜風にあたったら気持ちがよかろうと、つい、ふらふらととび出してきたんです」
「そうお」
典子はちょっと失望したようにうなだれたが、すぐ、また快活に顔をあげると、
「でも、まあ、いいわ。お眼にかかれてうれしいわ」
私には典子の言葉の意味がよくわからなかった。びっくりして、星明かりのなかにほのじろく浮かんでいる典子の横顔を見守りながら、
「典子さん、それ、どういう意味?」
「ううん、なんでもないの。ねえ、うちへ寄ってらっしゃらない? おうち、いまだれもいないのよ、あたし、寂しくって寂しくって……」
「慎太郎さんはいないのですか」
「ええ」
「どこかへお出かけ?」
「さあ……あたしよく知らないのよ。このごろ毎晩、いまごろになると、どこかへ出かけるのよ。どこへ行くのか尋ねても、黙って教えてくれないの」
「典子さん」
「なあに」
「あなたはいまごろ、どうしてこんなところを歩いてたの」
「あたし?」
典子は大きな眼をあけて、まじまじと私の顔をながめていたが、やがてふうっと下を向くと、右足で土を|蹴《け》りながら、
「あたしねえ、寂しくて、寂しくてたまらなかったのよ。それで、いろんなことを考えてると、なんだか急に悲しくなって……とてもひとりでおうちにいられないような気がしてきたの。それで夢中でとび出して、そこらを歩きまわっていたのよ」
「典子さんのおうちどこ?」
「そこよ、すぐ下に見えてるでしょう?」
私たちの立っているところは、坂の途中をきりひらいた狭い、幅二、三尺の険しい道で、うしろの|崖《がけ》の上もまえのゆるやかな傾斜も、いちめんに深い竹やぶでおおわれている。その竹やぶをすかして、斜め下のほうに小さいわらぶきの屋根と、白く灯の色のさした障子の上のほうだけが見えた。
「ねえ、寄ってらっしゃいよ、あたし、寂しくてたまらないんですもの」
典子は私の指を握ってはなさない。私はたいそう当惑したことだ。いかに典子がすすめても、彼女の家へ寄る気はなかったが、さりとて、そのまま洞穴のなかへもぐりこむこともできなかった。なんとかして、典子をこの場からつれ去らねばならぬ。
「おうちへ寄るのは困るのですが……では、どこかそこらで休んでいきましょう」
「あら、どうしておうちへ寄るの困るの?」
「慎太郎さんがかえってくるといけないから……」
「あら、どうして……?」
典子は無邪気な眼を見はって、私の顔をのぞきこむ。彼女には他人の思惑だの、世間のうわさなどということは、いっこう気にならないらしいのだ。いや、気にならぬというよりも、はじめから、そんなことは知らないのだ。典子は生まれたての赤ん坊のように、|天《てん》|真《しん》|爛《らん》|漫《まん》の女であった。
それでも彼女は、しいて自説を固持しようとはせず、やがてやぶのなかの|小《こ》|径《みち》をぬけると、ゆるやかな傾斜をしている草っ原をみつけて、そこで休んでいくことになった。草はじっとりと夜露にぬれていたが、そんなことにはお構いなしに、典子のほうからさきに腰をおろした。私もそのそばにならんで座った。
いま私たちのいるところは、八つ墓村を抱く丘の|襞《ひだ》のようになった|窪《くぼ》|地《ち》の|縁《へり》で、その窪地のなかには階段式に狭い田んぼや畑があり、それらの田んぼや畑のあいだに、点々として、小さいわらぶきの農家が建っていた。ここらの農家は雨戸もしめず、電気もつけっぱなしで寝るとみえて、どの家の障子にも、明るく灯の色がさしており、その灯の色が、植えつけをおわったばかりの田んぼにうつって美しかった。空にはいっぱいの星|屑《くず》で、銀河が乳色にけむっている。
典子はしばらくうっとりと、美しい星空をながめていたが、やがてその眼を私に向けると、
「お兄さま」
と、小さい声でいった。
「なあに」
「あたしねえ。さっきお兄さまのことを考えていたのよ」
私はびっくりして典子の顔を見直した。典子はしかし、べつに大して恥ずかしそうな色もなく、ただ、無邪気に、
「あたしねえ、もう、ほんとに寂しくて寂しくてたまらなかったのよ。なんだかこの世でひとりぼっちになったような気がして、しまいにはホロホロ泣けてきたの。ええ、泣けて泣けてしかたがなかったのよ。馬鹿ねえ、どうしてあんな気持ちになったのかしら、自分でもわからなかったんだけど……すると、ふいにどういうわけかお兄さまのことが思い出されてきたのよ。ええ、お兄さまにはじめてお眼にかかったときのことやなんか、いろいろと……すると、どうでしょう、急に胸が切なくなって、……ぎゅっと胸をしめつけられるような気がして……そして、いっそう泣けてくるのよ。それであたしたまらなくなったもんだから、さっきもお話ししたとおり、夢中でおうちをとび出したのよ。そして気ちがいみたいに歩きまわっていたら、バッタリお兄さまに出会って……あたし、びっくりしたわ。心臓がドキドキしたわ。でも、とてもうれしくなって……ねえ、お兄さま。きっと神様が、あわれな典子のお願いをきいてくだすったのね」
典子の話をきいて私はかなり大きなショックを感じた。全身にビッショリ汗をかき、体じゅうが熱くなったり寒くなったりした。
ああ、これが愛情の告白でなくてなんであろうか。それでは典子は私を愛していたのか。
なにしろあまりだしぬけだったので、私はすっかり|面《めん》|食《く》らったかたちで、返す言葉もなく、ただまじまじと、典子の顔を見直していた。典子はしかし、別にはじらいの色もなく、まるで、グリムかアンデルセンのお|伽噺《とぎばなし》に出てくる少女のように無邪気であった。少しもいやらしい感じではなく、むしろ反対に、|素《そ》|朴《ぼく》で|可《か》|憐《れん》であった。
しかし、それかといって、それに対して私はなんと答えることができようか。私の心のどこをさぐってみても、典子に対する愛情など|微《み》|塵《じん》もないのだ。いや、愛だの恋だのということは、もっとお互いに、理解しあって後のことではあるまいか。私はまだ典子という女性を、ほとんど知っていないのだ。
私はなんといってよいか返答に窮した。お座なりをいって相手を慰めることは、私の性質が許さなかったし、またこのような無邪気な女を欺くことは、許しがたい罪悪のように思われた。いきおい私はだまっているよりしかたがなかった。典子もまた、私の返事を期待していたわけでもないとみえて、自分のいうだけのことをいってしまうと、それで満足しているらしかった。そういう彼女の様子を見ると、自分がこれほど愛している以上相手も当然、愛してくれるものと、固く信じて疑わぬというふうにも見え、それがまた私を不安にした。
そこで私はできるだけ、この危険な話題から逃げ出さなければならなかったのだ。
「典子さん」
しばらくしてから、私のほうから呼びかけた。
「なあに」
「きみはこっちへ疎開してくるまで、東京でお兄さんといっしょに住んでいたんだろう」
「ええ、そうよ、どうして?」
「東京のおうちへ美也子さん、よくやってきた?」
「美也子さま? そうね、ときどき。たいていはお兄さんのほうから出かけていったのよ」
「美也子さんと慎太郎さんとは、結婚することになっていたんだって?」
「ええ、そんなうわさがあるわね。ひょっとするとお兄さんも、美也子さんもその気だったのかもしれないわ。もし、戦争があんなことにならなかったら……」
「美也子さんはいまでもときどき遊びにくる?」
「いいえ、ちかごろちっとも……そうね、はじめのうち二、三度いらしたけれど、お兄さんが逃げてるもんですから……」
「慎太郎さんが逃げてるんだって、どうしてだろう」
「どうしてだか知らないわ。ひょっとすると、美也子さんはお金持ちだのに、お兄さんは貧乏になったからかもしれないわ。お兄さんはあれでとても気位が高いのよ。ひとから哀れみをうけたり、お情けをかけられたりするの大きらいなのよ」
典子のこたえには少しも渋滞するところがなかった。おそらく彼女は、私がなぜこんな質問を切り出すのか、考えようともしなかったであろう。それを思うと、私はなんとなくうしろめたい感じだったが、しかしやっぱり突き止められるところまで突き止めておきたかったのだ。
「それじゃどうだろう、慎太郎さんさえ承知すれば、美也子さんはいまでも結婚するつもりかしら」
「さあ……」
典子は無邪気に首をかしげた。そうしてかしげているところをみると、びっくりするほど長い首だが、それは必ずしも悪いかたちではなく、反対に、どこかなまめかしいところさえあった。
「あたしにはわからないわ。あたし馬鹿だから、とてもひとの心なんかわからないわ。それに美也子さんは、あんな複雑な性格のかたなんですもの」
私は驚いて典子の顔を見直した。姉の春代も美也子に対して、よい感じを持っていないらしいことを、私は今日はじめて知ったのだが、典子もやっぱりそうかしら。人は見かけによらぬもの……姉の春代は美也子のことをそういったが、典子も同じようなことをいう。姉の場合は、一種の|嫉《しっ》|妬《と》みたいなものが、まじっていないとはいえないが、無邪気な典子に、そんな下心があろうとは思えない。してみると同性の眼から見た美也子はそんなかげのある女なのだろうか、私にはただ、お|侠《きゃん》な、|姐《あね》|御《ご》気取りの女としか見えないのに。
慎太郎の顔
私たちはいったいそこに、どのくらい座っていただろうか。あいにく時計を忘れてきたので、サッパリ時間がわからなかったが、かなり長いあいだ座っていたと思う。それというのが、典子がなかなか放してくれなかったからである。私たちのあいだには、特別多くの話題があったわけではないが、典子はただ、私のそばに座っているだけで満足らしく、つぎからつぎへと、思い出話などを語ってきかせた。それはいずれも童話のように無邪気で毒気のない話で、聞いていると、私はいつか、ささらのように裂けてとがった神経が、不思議になごんでいくのをおぼえた。
八つ墓村へやってきてから、こんなことははじめてだ。いつも怒った|針鼠《はりねずみ》のように、神経の針をとがらせてひとの顔色ばかりうかがっていた当時の私にとっては、それはこのうえもなく安らかないっときだった。私はいつかうっとりとして|縷《る》|々《る》とつづく典子の話に耳をかたむけていたが、そのときどこかで、柱時計の鳴る音がしずかにひびいた。かぞえてみると十二時だ。
私はびっくりして、草っ原から立ち上がった。
「ああ、もう十二時だ。あまりおそくなるといけないから、ぼくはもうかえります」
「そうお」
十二時ときいてさすがに典子もとめなかったが、それでも名残り惜しそうに、
「でも、うちのお兄さん、まだかえらないわ」
「いったい、お兄さんはどこへ行くんです。そんなに毎晩……」
「知らないわ。昔は碁が好きでよく夜更かしをしたもんだけど、こっちへかえってからは、どなたともおつきあいしないから、碁をうちに行くところもないのにねえ」
典子はなんの屈託もなく、兄の夜歩きについても、かくべつ心配しているようなふうもなかったが、私はそのときふいと、胸の騒ぐのをおぼえた。慎太郎はいったい毎晩、どこへ出かけていくのだろう。
「そしてお兄さん、いつも何時ごろにかえってくるの」
「さあ、あたしよく知らないのよ。いつもあたしが寝てからかえってくるんですもの」
「典子さんは毎晩、何時ごろに寝るの?」
「たいてい、九時か十時には寝るわ。今夜はとくべつなのよ、でも、起きててよかったわ。こうしてお兄さまにお眼にかかれたんですもの。ねえ、お兄さま、あしたの晩も来てくださるわね」
典子の言葉の調子をきくと、当然明晩も私が来るときまっているもののようであった。しかもそれがあまり無邪気なので、私にはどうしても否とはいえなかった。
「そうね、来てもいいよ。しかし、雨だったらだめだよ」
「雨だったらしかたがないけれど……」
「その代わり典子さん、約束しておくれ。今夜ぼくにここで会ったことを、慎太郎さんに絶対にいわないこと」
「あら、どうして」
典子はびっくりしたように、目玉をくるくるさせる。
「どうしてでも。今夜のことばかりじゃない。明日ここで会うこともいっちゃいけないよ。でなかったら、ぼくはもう二度と来ないから」
このおどしはよくきいた。
「ええ、いいわ。あたしだれにもいわないわ。その代わりお兄さま、毎晩来てくださる?」
女というものは、生まれながらの外交官だ。典子はたくみに一歩前進した。
私は苦笑しながら、それでもしかたなく、
「ああ、来るよ」
「きっと」
「うん、きっと来る。さあ、慎太郎さんがかえってくるといけないから、典ちゃんはそろそろおかえり」
私の典子のよびかたは、いつか典ちゃんにかわっていた。典子はすなおにうなずいて、
「ええ、それじゃ、お兄さま、さようなら」
「さようなら」
典子は五、六歩坂をくだるとふりかえって、
「さようなら」
「ああ、さようなら」
典子はまた坂を下りかけたが、何を思ったのか、上手のほうを向いたまま、あらと叫んで立ち止まった。
「ど、どうしたの、典ちゃん」
何かしら、私はドキッとした思いで、同じように上手のほうをふりかえった。
さっきもいったように、そのとき私たちの立っていたのは、襞になった窪地のへりだったが、この窪地は半丁ほど上手で袋のようにつぼんでおり、そこに部落と離れて、一軒小さな家が建っているらしく、しめきった障子にあかあかと電気の光がさしていたが、私がふりかえった瞬間、その障子のうえをちらと黒い影が横切った。それはほんの一瞬の印象だったので、ハッキリとはわからなかったけれど、洋服を着て、鳥打帽をかぶった男のようであった――と、思う間もなく電気が消えて、障子の上はまっくろになった。
「まあ!」
典子は息をのんで立ちすくんでいたが、すぐ私のところへ駆けのぼってくると、
「お兄さま、あれ、どうしたんでしょう」
「なに、典ちゃん」
「さっきの影よ、お兄さまもごらんになったでしょう。鳥打帽をかぶった男のひとのようだったわね」
「うん、でも、それがどうかしたの」
「だって、おかしいわ。あれ、尼寺なんですもの」
何かしら、ドキッとする思いで、私はもう一度そのほうをふりかえったが、電気の消えたその尼寺は、星明かりのなかで、ただくろぐろと沈黙している。
「典ちゃん、それじゃ、濃茶というのはこのへんなのかい」
「ええ、そうよ、あれ、妙蓮さんの尼寺よ。妙蓮さんのところに、いまごろ男のひとがいるなんておかしいわ。それにどうして電気を消したんでしょう」
「電気を消しちゃいけないのかい」
「ええ、だって、妙蓮さんはいつも電気をつけっぱなしで寝ているわ。電気を消すと寝られないんですって」
何かしら私もあやしい胸騒ぎをおぼえた。
「濃茶の尼は今日警察へ呼ばれたんじゃないの」
「ええ、呼ばれたわ。でも、ひとことも口をきいてやらなかったと、いばってかえってきたわ。あのひとはおこらせちゃだめなのよ。おこらせたら、知ってることだっていやアしないわ。でも、どうしたんでしょうね。電気を消したりして……それにさっきの男のひと、なんでしょう」
私はふと、みだらな連想のために、顔のあからむのをおぼえた。|蓼《たで》食う虫ということもある。兎口の尼のもとにだって、忍んでいく男がないこともないだろう。しかし、典子にそんなことはいえなかった。
「なあに、なんでもないさ。だれかお客さんがあるんだろう」
「だっておかしいわ。お客さまがあるのに電気を消したりして……」
「いいからおかえり、ぐずぐずしていると一時になるよ」
「そうお、では、お兄さま、おやすみ」
「おやすみ」
典子はいくどもふりかえりながら、こんどはまっすぐに坂をくだっていった。その姿が見えなくなるのを待って、私はやぶのなかにある、崖下の道へもぐりこんだが、そのとき、上のほうから急ぎ足にくだってくる足音をきいて私はギョッとして立ち止まった。
だれかが丘をくだってくる。……
私はそっと崖の角から、上手のほうをのぞいてみた。しかし、道が曲がりくねっているので、足音の主はまだ見えなかった。しかし、たしかにここへおりてくるのだ。しかも、妙にあたりをはばかるような忍び足で……、私はすばやく竹やぶのなかへもぐりこむと、下草のなかへうずくまった。こうしていれば、向こうから見られる心配はなく、しかし相手の顔は思う存分見ることができるのだ。
足音はしだいにこちらへ近づいてくるが、近づくにつれて、だんだん速度がにぶってくる。あたりを警戒している証拠だ。私は心臓がガンガン鳴るのをおぼえた。つばがかわいてのどがひりつく感じであった。
やがて足音は私のそばまでやってきた。まず、道の上に長い影が現われ、ついで影の主が現われたが、そのとたん、私はいっとき、心臓の鼓動が停止するかと思われた。
影の主は慎太郎であった。慎太郎は鳥打帽をかぶり、作業服の腰に手ぬぐいをぶらさげ、地下足袋をはいた脚にゲートルをまいていた。おまけに、|小《こ》|脇《わき》につるはしをかかえているではないか。それだけでも、ひとの眼を驚かすに十分だったのに、しかも、おお、そのときの慎太郎の顔――
大きく見ひらかれた眼は、いまにも|眼《がん》|窩《か》からとび出しそうで、おまけに異様に熱気をおびてギラギラと輝いている。くちびるは奇妙にひんまがり、わなわなふるえ、額から小鼻へかけて、脂汗でギタギタと光っていた。
人間というものは、ひとと対座しているときは、なかなか腹の底にあるものを顔色に現わさぬものだが、だれもいないと思ったとき、日ごろ、腹の底にたたんであるものが、ひょいと顔に出るものである。そのときの慎太郎がそれだったのだ。しかもそういう慎太郎の顔から、そのとき私のうけた感じは、なんとも救いようのないほど、陰惨にして、凶暴な印象だった!
私はあまりの恐ろしさに、心臓が氷のように固く、つめたくなるのをおぼえた。危うく声を立てるところであった。もしもあのとき声を立てたら、あの鋭いつるはしのきっさきが、まっこうから私の頭のてっぺんめがけて、ふりおろされていたのではあるまいか。
しかし辛うじて私は声を立てることをおさえたし、したがって、慎太郎も私のいることに気がつかなかった。文字どおり抜き足差し足しのび足で慎太郎は私のまえを通りすぎると、やがて、その姿はやぶのかなたに見えなくなった。
私がやぶのなかから|這《は》い出したのは、それからよほどたってからのことだった。私はビッショリ汗にぬれていた。|膝頭《ひざがしら》がガクガクふるえる。めまいがするような気持ちだった。
それでも私はしばらくたって、気分のおさまるのを待ってから、また、あの滝の奥の|洞《どう》|窟《くつ》にもぐりこんだ。そして、それからあとは別に述べるようなこともなく、無事に自分の部屋へもどってきたが、その夜、なかなか寝つかれなかったことはいうまでもあるまい。
久野おじの逃亡
昨夜おそくまで寝つかれなかったので、翌日は思わず朝寝坊をしてしまった。眼がさめると雨戸のすきから明るい朝の日差しがさしている。枕もとの時計を見ると九時だった。
私はびっくりしてとび起きると、寝床をたたみ、雨戸を繰りはじめたが、その物音をきいて、姉の春代が母屋のほうから、あわただしい足どりでやってきた。
「お早うございます。つい、朝寝坊しちゃって……」
あいさつをしたが、姉はだまって、まじまじと私の顔をながめている。おやと思って私は姉を見返した。姉はなんとなく強張った表情で、さぐるように私を見ていたが、やがて、
「お早うございます」
と、しゃがれた声でいい、それから、
「辰弥さん、ちょっとお話があるのよ」
と、いつもに似合わず、改まった調子であった。
何かあったな! そう感じると私はなにか、いかの墨のようなドスぐろい不安が、腹の底からムクムクとこみあげてくるのをおぼえた。それほどそのときの姉の様子には、警戒の色が濃かったのだ。
「さあ、どういうことでしょうか」
私がおそるおそる尋ねると、姉はなおも私の顔から眼をはなさず、
「昨夜、また人殺しがあったのよ」
と、ささやくような声でいい、
「濃茶の尼の妙蓮さんが殺されたのよ」
姉はあたりをはばかって、押し殺したような声でそういったのだが、その声はまるで私の耳もとで、爆発するように大きくひびいた。私は、ピクリと、思わず手脚をふるわせ、眼をひんむいて姉の顔を見直したが、すると姉はおびえたように、二、三歩あとじさりをしながら、なおもしつこく私の顔に視線をおいて、
「それで今朝早く、警察のかたがやってこられて、辰弥さんは昨夜どこへも出なかったかと尋ねていったのよ。もちろんわたし、辰弥さんは昨夜早くから離れへはいって、けっして外へ出なかったといっておいたけれど……辰弥さん、あなた、ほんとにどこへも行きゃあしなかったわね」
「も、もちろん、ぼくはどこへも行きゃあしません。疲れていたものだから。早く寝床へ入って……」
姉は大きく眼を見はって、おびえたように私の顔を見ていたが、やがて眼に見えるように血の気がひいて、くちびるがわなわなふるえた。
どうしたのだろう。姉は何をおびえているのだろう。どうしてあんな眼つきをして、私の顔を見るのだろう。そう考えているうちに、私はハッとあることに気がついた。ひょっとすると姉の春代は、昨夜、私が地下道へもぐりこんでから、この離れへやってきたのではあるまいか。そして私のすがたの見えなかったところから、今朝、濃茶の尼が殺されたときいて、ふと疑念がきざしているのではあるまいか。そこへもってきて、いまのうそだ。それがいよいよ、姉の疑惑に油を注いだのではなかろうか。
ああ、なんということだ! よりによって私がはじめて離れをぬけ出した晩に、人殺しがあったとは……しかも、私は昨夜、濃茶の尼の尼寺の、すぐそばにいたのではないか。……
姉の春代は私の同情者である。だから昨夜のことを打ち明ければ、きっと納得してくれるだろう。しかし、それが果たしてよい結果をうむであろうか。姉のような正直者は、ひとにむかって絶対にうそはつけないであろう。たとえ口でうそをついても、眼色ですぐ看破されるであろう。そして、はてはほんとうのことをしゃべらずにはいられないだろう。そうだ、姉を苦しめるのは気の毒だが、当分昨夜のことはだまっていよう。それに私はあの地下道のことを、だれにも知られたくないのだ。
「姉さん」
しばらくしてから私のほうから口をきった。
「濃茶の尼が殺されたって、また毒をのまされたのですか」
「いいえ」
姉はふるえ声で、
「こんどは毒じゃないそうです。手ぬぐいで首をしめられていたそうですよ」
「そして、それはいったい何時ごろのことなんです。濃茶の尼の殺されたのは……」
「昨夜の十二時前後のことだろうということですよ」
私はまた腹の底から、なんともいえぬドスぐろい思いがこみあげてくるのを感じた。それではやっぱり昨夜私と典子の見た影が犯人だったのだ。濃茶の尼はあの瞬間にしめ殺されたのだ。私はそれをいくばくも離れていないところから見ていたのだ。
私は突然、はげしいショックを感じた。ああ、障子にうつったあの影は、鳥打帽をかぶっていたではないか。そして、それから間もなく、丘をくだってきた慎太郎も同じように鳥打帽を……
人間の神経というやつは妙なものだ。私は昨夜から、慎太郎の奇怪な行動について悩まされつづけていた。あのときの、慎太郎のなんともいえぬ、ものすさまじい凶悪な顔……私は夢にまでそれを見たくらいである。私はなにかしら、慎太郎がうしろぐらい目的を持って、ちかごろ毎晩、夜歩きをしているのだろうと察していた。それでいて、このときまで、尼寺の障子にうつった影と、慎太郎をむすびつけて考える知恵は出なかったのだ。なぜだろう。ひょっとすると、それは慎太郎のひっさげていたつるはしのせいではあるまいか。つるはしと尼寺と……それはあまりにもかけはなれている。そのことがついいままで障子の影と慎太郎を、別々に考えさせていた原因ではあるまいか。
「辰弥さん、あなた、何を考えていらっしゃるの」
「いいえ、別に……」
「辰弥さん」
姉の声は急にやさしくなった。
「あなた、何かいいたいことがあったら、なんでもいってくださいね。わたしはあなたの味方です。世界じゅうのひとがあなたを疑っても、私だけはあなたを信用しますよ。そのことだけは、きっと忘れないでね」
「ありがとう、姉さん」
私はなんとなく胸のふさがるのをおぼえた。
私は昨夜の一件を、あくまで胸にたたんでおくつもりである。しかし、私が隠していても、いつか露見するにちがいないと思われてならなかった。そうなったら、私に対する疑いは、またいちだんと濃くなるだろう。そのときになっても、姉はやっぱり私を信用してくれるだろうか。
それから間もなく、私たちは離れを出て、朝の食卓にむかいあって座った。双生児の小梅様と小竹様は、もう食事をすませて部屋へさがっていたが、姉は私の起きるのを待っていてくれたのである。ひょっとすると、食欲がなかったのかもしれない。
私は姉のお給仕で、だまりがちに|箸《はし》を口へはこんでいたが、すると姉は思い出したように、
「そうそう、今朝はもうひとつ変なことがあるのよ」
と、姉は箸を持つ手を膝において、真正面から私の顔を見た。
「変なことって?」
「久野のおじさまが姿を隠したんですって」
私はびっくりして姉の顔を見直した。
「久野の恒おじさんが……?」
「ええ、そう。辰弥さん、あなた御存じでしょう。昨日、梅幸さんの死体のそばに、変なことを書いた紙が落ちていたんですってね」
「ええ、あの、こんどの殺人事件の予定表みたいな……」
「ええ、そう。あれ、久野のおじさんが書いたんだってことがわかったんですって」
私はまた、驚いて姉の顔を見直した。
「姉さん、それ、ほんとうですか」
「私も詳しいことは知らないけれど、警察で調べたところじゃそうなんですって。それで、今朝早く、警察のひとがおじさまのところへ踏み込んだところが、おじさまの姿が見えないんですって。おうちのひとも、おじさまがいつ出かけたか知らないのよ。それで大騒ぎになって家じゅうさがしたところが、寝床の下から書き置きみたいなものが出てきたんですって。なんでも当分姿を隠すが、自分は絶対に潔白であるから、心配しないようにというようなことが書いてあったそうです」
私の心はあやしく乱れた。私はずっとまえから、久野の恒おじを疑っていたのだが、こう呆気なく|兜《かぶと》をぬぐようなまねをされると、かえって拍子ぬけしたような感じであった。
「おじさんは、いつごろ家をぬけ出したんでしょう」
「それがわからないのよ。昨夜おじさんは気分が悪いといって、早くから離れへ床をとらせてひっこもったんですって。おばさんはそれっきり、おじさんの姿を見ていないんです。だから今朝、お巡りさんがやってきたときも、離れにいることだとばかり思って起こしにいったところが、寝床がぬけっからでしょう。それで、びっくりして大騒ぎになったということですわ」
「それで寝床へ入った様子は……?」
「それが全然ないという話なのよ。だからおじさま、昨夜、離れへ入ると、すぐその足で家をぬけ出したのね。そうそう、それからおうちにあった現金を、すっかり持ち出したらしいという話ですよ」
「おじさんが寝床へひっこんだ時刻は……」
「九時半ごろだというんだけれど」
それからすぐに家を出れば、濃茶の尼をしめ殺す時間は十分ある。
「姉さん」
私は箸をおいて姉のほうへ乗り出した。
「久野のおじさんというひとは、そんなことをするひとですか。わけのわからぬ人殺しをむやみやたらと……」
「まさかねえ」
と、姉はためいきを吐いて、
「昔から|探《たん》|偵《てい》小説は好きなほうだけれど……」
「探偵小説」
私はちょっと呆気にとられて、姉の顔を見守った。
「ええ、そう。おばさんなんか、いつもこぼしているのよ。あの年をして、探偵小説に夢中だなんて、世間に対してもきまりが悪いって……私は探偵小説ってどういうものだか知らないけれど、いろいろ、人殺しやなんかある小説でしょう。だからといって、久野のおじさまが、そのまねをしようとは思えないんですけれど……」
私の探偵小説に対する知識も、姉同様、それほど深いものではない。しかし、いつか読んだが、探偵小説の作者や読者に、それほどの悪人はないということであった。私もそのとき、なるほどと思ったのだが、しかしひるがえってこんどの事件を考えると、どこやらに、探偵小説のにおいがしないであろうか。
かくて私の心は乱れに乱れ、これを要するに、何が何やらさっぱりわけがわからなくなったのである。
その午後、思いがけなくも、金田一耕助がふらりとひとりでやってきた。私はまた、尋問責めにあうのではないかとドキリとしたが、金田一耕助はそんな気ぶりも見せず、私の顔を見るとにこにこ笑いながら、
「あっはっは、何もそうむやみに警戒なさることはないですよ。今日はね、ちょっとあなたの顔を見たくなったからやってきたんです」
「はあ」
そういわれても、私は固くならざるをえなかったが、幸いそばから姉の春代が、助け舟を出すように、
「あの……久野のおじはつかまったでしょうか」
と、口を出した。
「いや、まだでしょう。それで磯川警部はあわてて町へ出ていったんですが、どうなりますかねえ」
金田一耕助は案外無関心な口ぶりだった。
「金田一さん」
こんどは私が口をひらいた。
「昨日の紙片ですがね、梅幸さんの枕元におちていた……あれは久野のおじの書いたものだということですがほんとうですか」
「ほんとうです。その点についちゃまちがいはありません。あれは銀行が年末に、お得意先へくばったポケット日記の一ページなんですが、この村でそれをもらった家は三軒しかないんです。こちらと野村さんと久野先生、そこで筆跡鑑定してみたところ、久野先生の字にちがいないということがわかったんです」
「久野おじが逃亡したのはそのためでしょうか」
「むろん、そうでしょうね」
「そうすると、久野おじが犯人ということになるのでしょうか」
「さあそこですね。逃亡は一種の告白なりという言葉があるから、ふつうならばそう考えてもよいところなんですが、ここにひとつ矛盾があるんです」
「矛盾というと?」
「昨夜の濃茶の尼殺しですがね」
私はドキリとして金田一耕助の顔を見直した。しかし、相手は別に下心もないらしく、
「昨夜の事件はあなたも聞いているでしょう。あれはなかなか興味のある事件ですが、それは別として、濃茶の尼が殺されたのは十二時前後なんです。これはいろんな点から、もうまちがいがない事実なんですが、ところが久野先生は、昨夜十時五十分の上り列車に乗った形跡があるんですよ」
私は思わず眼を見はった。すると濃茶の尼の事件に関するかぎり、久野おじは完全なアリバイを持つことになるのか。
「そうなんです。そのとおりなんです。久野先生がたとえばつぎの駅でおりたにしたところで、すぐそれに連絡する下り列車はありませんし、歩いちゃとても十二時までにはかえれません。だから、昨夜の事件に関するかぎり、久野先生は無関係だし、したがって、いままでの事件についても、無関係ということになるんじゃないかと思うんです」
「しかし、それじゃ久野おじはなぜ逃げたんでしょう」
金田一耕助はにやりと笑って、
「それゃ……あんな馬鹿馬鹿しいことを手帳に書いたってことだけでも、とても村にゃいられますまいね。逃げ出す値打ちは十分ありますよ」
「ひょっとすると、昨夜の事件は、いままでの事件と関係がないのじゃないでしょうか。だって、昨日拾ったメモによると、犯人の計画では、対立、あるいは並立しているふたりのうちどちらかを殺すことになっていたじゃありませんか。そして尼さんじゃもう梅幸さんが殺されている。濃茶の尼を殺すのは、ちとおかしいのではないでしょうか」
それは今朝から私の胸にわだかまっている疑問であった。ところが金田一耕助はそれを聞くと、にわかにガリガリ頭をかき出して、
「ああ、あなたもそれに気がついていたのですか。そうですよ、そうですよ。しかし、これはやっぱりいままでの事件のつづきなんですよ。ただ、これは犯人にとっては、はじめの予定に入っていなかった殺人なんです。濃茶の尼を生かしておけないわけが、急に持ち上がってやった仕事なんです。では、急に持ち上がったそのわけとは……? つまり、犯人がヘマをやったからですよ。ええ、そう。梅幸尼の事件で、犯人ははじめてヘマをやらかしたんです。辰弥さん、あなたにはそれがわかりませんか。わかりそうなもんですがねえ。いえ、ひょっとすると、あなたにはわからないのがあたりまえかもしれない」
金田一耕助はまじまじと私の顔を見ながらかすかにため息をつくと、それから間もなく|飄々《ひょうひょう》として立ち去った。
ああ、金田一耕助は、なんのためにやってきたのだろうか。
昔の人
その晩、私はまた、抜け穴から地下道へもぐりこんだ。
昨夜のようなことがあったすぐそのあとで、しかもまた、姉の春代が昨夜の私の脱出に気がついているのではあるまいかという|懸《け》|念《ねん》のあるとき、ふたたび地下道へもぐりこむのは、かなり冒険のように思われたが、何かしら私の体内には、やむにやまれぬ衝動があってどうしても地下道へもぐりこまずにはいられなかったのだ。それに典子に対する約束もあったし、もう一度彼女に会って、昨夜のことを口止めしておかねばならなかった。
私は納戸にある長持の底から、地下道へもぐりこんだが、それでもだいぶ|躊躇《ちゅうちょ》していたので、時刻は昨夜よりかなりおくれていた。
私はまたろうそく片手に、自然石をきざんだ石段を下り、暗いトンネルをすすんでいく。一度往復した道なので、昨夜ほど不安はなかった。例の岩の関門も無事にくぐって、道がふたまたに分かれているところまで来たが、そこで思わず、ドキッとして立ち止まったのである。
ふたまたに分かれた道の右のほう、つまり濃茶へ抜けるトンネルのほうから、ときどきパッパッと|閃《せん》|光《こう》が走ってくるのだ。私はあわててろうそくの灯をふき消した。そして、|暗《くら》|闇《やみ》のなかで、石のように立ちすくんでいた。
その道は、ふたまたの分かれぎわから、少し行ったところで急カーブをしているのだが、そのカーブの向こうからパッパッと閃光が走ってくる。閃光はカーブのあたりの洞窟の壁面を、めらめらとかすかになめるとすぐ消える。二、三度そういうことがあったのち、私はやっと、だれかがカーブの向こうで、マッチをすっているのだとわかった。
一瞬、私は寒波におそわれたようにゾーッとした。心臓が一瞬、鼓動を停止したのちに、こんどは逆にガンガン鳴り出した。全身から熱湯のように汗がふき出した。
ああ、だれかこの地下道のなかにいるのだ! 私は一昨日の晩のことを思い出した。自分の部屋へしのんできた人物、そして、地下道のなかで小梅様と小竹様をおびやかした人物……ひょっとすると、あいつがまたやってくるのではあるまいか。
また、ほのじろい閃光がもえあがった。しかしこんどはすぐには消えずに、しばらくめらめらともえあがったのちに、やがて別の色の光にかわった。わかった。ろうそくに火がついたのだ。ろうそくの灯はしばらく岩の上に明滅していたが、やがてそれが安定した光となっておちついた。どうやら相手は|提灯《ちょうちん》を持っているらしいのである。やがて提灯の灯はしだいにこちらへ近づいてくる。
私はあわててふたまたに分かれた道の、左側にもぐりこんだ。私の心臓はまだはげしく躍っているが、考えてみれば、これは絶好の機会かもしれぬ。うまくやれば、毎度離れへ侵入する、|曲《くせ》|者《もの》の正体を見とどけることができるかもしれないのだ。
提灯の灯は、ゆらりゆらりと揺れながら、しだいにカーブに近づいてくる。私は地下道の岩の壁に、ぴったりと背中をくっつけたまま、相手の近づくのを、いまかいまかと待っていた。
やがて提灯がカーブを曲がったらしく、すぐ眼のまえに黄色い光が流れてくる。足音がしだいに近づいてくる。私は息をのんで相手の姿が、ふたまたへ現われるのを待っていた。やがて、とうとうその姿が私のすぐ鼻先へ現われた。そのとたん、私は足下をさらわれるような、大きな驚きにうたれたのである。
「典子?」
いかにもそれは典子であった。典子は、私の声に、びっくりして飛びあがったが、すぐ提灯の灯で私の姿を認めると、
「お兄さま」
いかにもうれしそうに私の胸へすがりついてきた。
「典ちゃん、きみはどうしてこんなところへやってきたのだ」
私の驚きはまだおさまらなかった。私は|呆《あっ》|気《け》にとられて、典子の顔を見守っていた。典子はしかし、案外平気で、
「お兄さまをさがしに来たのよ。だって、お兄さまったら、いつまで待っても来てくださらないんですもの」
「きみはまえからこの地下道を知っていたのか」
私の声は思わず詰問の調子になる。
「いいえ、そうじゃないのよ、あたしね、昨夜のところでお兄さまを待ってたのよ。ええ、ええ、ずいぶん長いこと待っていたわ。それだのに、いつまでたってもお兄さまったら来てくださらないんですもの。それで、ひょっとすると、穴のなかにかくれていらっしゃるのじゃないかと思って、ちょっとなかへ入ってみたの、すると、穴、ずいぶん深いでしょう。それであたし、ひょっとするとお兄さまはこの穴をとおっていらっしゃるのかもしれないと思って、おうちへかえって提灯をとって来たのよ」
私は典子の大胆なのにあきれてしまった。
「典ちゃんはそんなことをして、怖くなかったのかい」
「ええ、それは怖かったわ。でも、お兄さまに会えるかもしれないと思うと、そんなこと思っていられなかったんですもの。でも、あたし、やっぱりやってきてよかったと思うわ。こうしてお兄さまに会えたんですもの」
典子はどこまでも無邪気であった。と、同時に彼女の恋情のなみなみならぬことを知って、私は何かしら、身内の痛むようなものを感じずにはいられなかった。しかし、それはともかくとして、私は一刻も早く、用件をすまさなければならないのだ。
「典ちゃん」
「なあに」
「きみはだれにも、昨夜のことを話しゃあしなかったろうね」
「ええ、あたしだれにも話しゃしないわ」
「今夜ぼくに会うことも……」
「ええ、だれにもいやあしないわ」
「慎太郎さんにも?」
「ええ」
「慎太郎さんは今日どうしてた?」
「お兄さんは今日、頭が痛いって一日寝てたわ。そして、おかしいのよ。お兄さんたら、あなたと同じようなことをいうのよ」
「ぼくと同じようなこと?」
「ええ、昨夜おそく外へ出てたことを、だれにもいっちゃいけないって、おかしいわね。男のひとってどうしてみんな、うそをつくことが好きなんでしょうね」
私はなんとなく心が躍った。
「典ちゃん、きみは濃茶の尼が殺されたことを知ってる?」
「ええ、知ってるわ。今朝きいてびっくりしたわ。ねえ、お兄さま、昨夜障子にうつっていたひとが、妙蓮さんを殺したんじゃないでしょうか」
「典ちゃん、慎太郎さんはそのことについてどういってる?」
「お兄さん? 別に……どうして?」
典子がふしぎそうに私の顔を見上げたときだった。
だしぬけにあっというような叫びが、私のうしろできこえたかと思うと、だれかバタバタと地下道の奥へ走っていく。私も典子も一瞬ギョッとして立ちすくんだが、すぐつぎの瞬間、私は典子の手から提灯をもぎとってその足音を追っかけた。
「お兄さま」
「典ちゃん、きみはそこで待っといで」
「いやあ、あたしもいっしょに行く」
こっちのほうの地下道も、ふたまたのところから少し行ったところで、えぐるような急カーブを描いて曲がっている。さっき逃げ出した人物は、これがあるために、カーブのところへたどりつくまで、私たちのいることに気がつかなかったのだろう。
私たちは足音をたよりに、用心ぶかく地下道の奥へすすんでいったが、この道はさっきのカーブのみならずまるで、羊の腸のように曲がりくねっていて、足音と、そして相手の携えているらしい、明かりの反射をかすかに見ながら、どこまで行ってもその姿をつかむことはできなかった。
いったい私たちは、あのふたまたからどのくらい奥へすすんだのであろうか。間もなく私たちは、足音も、明かりの反射も、ふたつともとり逃がして、|茫《ぼう》|然《ぜん》として、地下道のなかに立ちすくんだ。
「もうだめね」
「うん、とうとう逃がしてしまったようだ」
「いったい、だれなの、いまのひと!」
「ぼくも知らないんだよ」
「ずいぶん、この洞穴は深いのね」
「うん、そして、きっとどこかに入り口があるんだよ」
「もう少し行ってみましょうか」
「典ちゃんにその勇気ある?」
「ええ、あるわ、お兄さまといっしょなら」
「よし、じゃ、もう少し行ってみよう」
曲者を捕らえることはもうあきらめたが、私にはもっと別の目的があったのだ。いや、それこそ私の最初の目的だったのだ。小梅様と小竹様の、お参りをする仏様――今夜こそ、私はそれをつきとめねばならぬ。
提灯をかかげながら、私たちは用心ぶかく、五分あまりすすんだが、すると急にトンネルのなかがひろくなった。私は驚いて、提灯をかかげてあたりを見回したが、そのときだった。突然典子が何やら叫んで私の胸にしがみついたのは。……
「ど、どうしたんだ、典ちゃん」
「だって、だって、お兄さま、あんなところにだれやらひとが……」
「えっ、ひと……!」
私もびっくりして、典子の指さすほうへ提灯を差しむけたが、そのとたん、私は骨の髄まで凍るような恐怖にうたれたのだ。
洞窟の壁の一部の、床から三尺ばかりの高さのところが、仏を安置する|龕《がん》のように、えぐられていて、その龕のなかに、|鎧武者《よろいむしゃ》がひとり、昔の武者絵の大将のように、泰然として石棺の上に座っているのだ。私ははじめ鎧が飾ってあるのだろうと思った。しかし、そうではなかったのだ。兜の深い|廂《ひさし》のために、顔はよく見えなかったけれど、鎧のなかにはたしかに人がいるのである。しかも、そのひとは身動きもせず、じっとこちらを見下ろしている。……
第五章 |鎧《よろい》の中
私はしばらく口もきけなかった。恐怖のために、心臓がのどのところまでふくれあがって、何かいおうとしても、舌が|強《こわ》|張《ば》って言葉が出ないのだ。意気地のない話だけれど、膝頭がガクガクふるえて、全身が針金のように硬直してしまった。
だが、こういったからとて、ひとは私の臆病を|嗤《わら》うことはできないであろう。だれだって、真っ暗な洞窟のそのような場所で、異様な風体をした人物に出会ったら、やっぱり私同様、硬直状態におちいるにちがいない。しかも、おお、異様な風体をしたその人物の、口もきかねば身動きもせぬその無気味さ! そいつはただ、深い兜の廂の下から、まじまじと私たちを見下ろしているのだ。
「だ、だれだ、そこにいるのは!」
私はやっと、のどにからまる|痰《たん》をきってそう尋ねた。
しかし相手は返事もせず、いや、返事どころか微動だにしないのだ。何かしら妙にひっそりとしたもの――いってみればこの世の生活の鼓動から、かけ離れたような静けさが、無気味にその全身をくるんでいるのである。
私は典子と顔を見合わせた。
「お兄さま」
典子は私の耳に口を寄せて、
「あれ、ひょっとするとお人形じゃない? 木像かなんかじゃなくって?」
私もいったんはそうかと思ったが、それにしては|腑《ふ》に落ちぬところがあった。体の線に、木像のもつ固さがなく、何かしら、もっと人間にちかいものがあるように思われる。しかし、いずれにしても、生きているものではないことは確かなようだ。私はいくらかほっとした。
「典ちゃん、きみはここにいたまえ。ひとつよく調べてみよう」
「お兄さま、大丈夫?」
「うん、大丈夫だ」
私は典子のそばを離れると、提灯を持ったまま|龕《がん》の上にあがった。さすがにそのときあの鎧武者が|猿《えん》|臂《び》をのばして、いきなり上から躍りかかってくるのではあるまいかと、私は背筋がムズムズするような感じであった。しかし、鎧武者は依然として、石棺に腰をおろしたまま泰然としている。私はそのまえにちかぢかと提灯をさしむけた。
ろうそくの燃えるにおいにまじって、|黴《かび》としめった腐朽のにおいがつよく鼻をつく。それは|甲冑《かっちゅう》から発散するにおいであった。私はこういう|骨《こっ》|董《とう》|的《てき》な品物に、いっこう不知不案内であったが、鎧も兜も相当の地位の侍が用いたもののように思われる。しかし、どちらもずいぶん古いものらしく、糸などもボロボロになり、胸板も|前《まえ》|草《くさ》|摺《ずり》も半分くさっていた。
私は提灯をかかげて、兜の廂の下をのぞいていたが、そのとたん、なんともいいようのない無気味さに全身がゾーッとケバ立つのをおぼえたのだ。
それは人形でもなく、木像でもなく、たしかに人間であった。しかし、むろん、生きているのではない。死んでいるのである。しかし、その死人のなんという無気味さであったろうか。肌は泥色とも、灰色とも、また|鳶《とび》|色《いろ》ともつかぬ、妙に濁った色をしており、しかも、すべすべとして、一種の光沢をおびている。それはちょうど石けんのような感じであった。
この死人――年齢はそう、三十から四十までのあいだであろうか。鼻がひらたく|顴《かん》|骨《こつ》の出張っているのは、このへんの人間の特徴としても、眼と眼とのあいだがつまって、額がせまく、あごのとがっているところが、いかにも険悪な相に見える。眼はかっと見ひらいているが、かさかさと光をうしなった|瞳《ひとみ》は、泥細工のようである。
私はあまりの無気味さに、全身からネットリと冷汗のふき出すのをおぼえた。歯がカチカチと鳴って、いまにも|嘔《おう》|吐《と》を催しそうだったが、そのときふと、この死人の顔にどこか見覚えのあるような気がしてきた。せまい額、とがったあご、そして眼と眼のあいだのつまった間隔――そうだ、私はたしかにどこかでこういう顔を見たことがある。
だれだろう、いつ、どこで見た顔だろう――しかし私がそれを思い出すまえに、私のそぶりに驚いて、典子が龕の下へ駆け寄ってきた。
「お兄さま、お兄さま、どうかなすって? 鎧の下になにかあって?」
典子の声に私はやっとわれにかえった。
「典ちゃん、そばへ寄っちゃいけない。向こうへ行っていたまえ」
「だって、お兄さま」
「うん、ぼくもいまおりる」
|龕《がん》からとびおりると、典子がおどろいたように声をかけた。
「まあ、お兄さま、どうなすったの。ひどい汗……」
「ううん、いいんだ、いいんだ」
私はまるで|上《うわ》の空だった。いったい、あの死人は何者だろう。石棺のまえに、|花《はな》|筒《づつ》や線香立てなどの飾ってあるところをみると、小梅様と小竹様のお参りするのは、たしかにここと思われる。と、すればあの死人は、ふたりの老婆となにかつながりのある人物にちがいないが、いったいどういう関係があるのだろうか。
「お兄さま」
典子は私にすがりつくと、不安そうに顔を仰いで、
「ほんとうに、あの鎧の下になにがあったの? あれ、お人形じゃなかったの?」
「あ、そうだ、典ちゃん、きみにきいたらわかるかもしれない。ちかごろ村で死んだひとで、三十から四十くらいまでの男のひとはなかったかい」
「まあ、どうしてなの。どうしてそんなことをお尋ねになるの」
典子は不思議そうに、眼をくるくるとさせていたが、
「ちかごろ、村で死んだひとといえば、お兄さまも御存じのはずだわ。そのなかで、三十から四十までの男のひとといえば、蓮光寺の和尚さまの洪禅さんと、おたくの久弥兄さんくらいのものだわ」
「うちの久弥兄さん!」
私は突然、つよい電撃をうけたようなショックをおぼえた。さっとある考えが頭脳にひらめいたからだ。
そうだ、そういえばあの死人の顔は、どこか兄の久弥に似ていやあしないか。眼と眼のあいだがつまって、額がせまくて、あごがとがっていて、どこか険悪な感じのするところが。
しかし、しかし……そんなことがありうるだろうか。兄の久弥はたしかに|柩《ひつぎ》におさめられ、田治見家代々の墓地に埋められたではないか。もっとも後に、解剖のために掘り出されたが、解剖がすむと再び納棺され、埋葬されたのだ。その柩の上に、最初の土のひとかたまりを落としたのは、かくいう私自身ではないか。私はその柩が、すっかり土で埋めつくされるのをこの眼で見た。墓石はまだ立たないけれど、兄はたしかにあの土の下で眠っているはずなのだ。
とはいうものの、やっぱりあの死人は兄に似ている。田治見家の一族で、あの年ごろの人物が、ちかごろ死んだといううわさをきかぬところをみると、やはりあれは兄なのだろうか。だれかがあの墓穴から、兄の|死《し》|骸《がい》を掘り出してきて、あんなところへ飾ったのだろうか。しかし、それにしても変だ。兄が死んでからもう十日もたつのに、腐敗の徴候が見えぬというのはどういうわけか。
なんともいえぬ怪しい疑惑につつまれて、私はその場に立ちすくんでいたが、そのときだった。
「だれ……? そんなところにいるのは……?」
だしぬけにうしろから声をかけられ、私も典子もびっくりしてとびあがった。ふりかえると、向こうにだれか、提灯を持って立っている。
「だれ……? そこにいるのは……?」
提灯が一歩前進する。典子はおびえたように私にしがみついた。
「だれ……? そこにいるのは……?」
相手はみたび声をかけて、たかだかと提灯をかかげた。この洞窟のなかで声をたてると、あちこちの壁に反響して、音響が妙にふやけてしまうのだが、私はそのときはじめて声の主に気がついた。
「ああ、そこにいるのは姉さんじゃありませんか。ぼくですよ。辰弥ですよ」
「まあ、辰弥さん? やっぱりそうだったの? でも、もうひとりのひとはどなた?」
「典子さんですよ。新家の典子さんですよ」
「まあ、典子さん?」
姉の春代はびっくりしたように声をうわずらせたが、すぐ急ぎ足でそばへちかよってきた。
「あら、ほんと、やっぱり典子さんでしたね」
姉の春代は怪しむように、私たちの顔を見くらべ、それからあたりを見回しながら、
「それにしてもあなたがた、こんなところで何をしているんです」
「姉さん、それについてはいずれあとでお話ししますが、姉さんこそ、こんなところへどうして来たのです」
「わたし……」
「姉さんはまえから、この洞窟のことを知っていたんですか」
「とんでもない。わたしはじめてだわ。こんなところへ来るの……」
と、姉はあたりを見回すとおびえたように肩をすくめて、
「でも、話には聞いてたことがあるの。ずっとむかし屋敷から、どっかへ抜ける道がついてたってこと、子どものときに聞かされたことがありましたわ。でも、もうずっとまえに埋めてしまったと、伯母さまがたはいっていたのに……」
「それじゃ、姉さんは今夜はじめて、この抜け道に気がついたのですか」
姉はかすかにうなずいた。
「姉さんはどこからどうして入ってきたんです」
私の詰問するような調子に、姉はいくらかためらったが、やがてきっとまともから、私の|瞳《ひとみ》をのぞきこむと、
「辰弥さん」
と、言葉を強めて、
「昨夜、あたしはあなたにお話があって、離れのほうへ行ったのですよ。そうしたら、あなたの姿がどこにも見えなかったでしょう。それでいて、戸締まりはちゃんとなかからしてあるので、わたし、|狐《きつね》につままれたような気持ちだったわ。ずいぶんながく、わたしは離れで待ってたんだけど、いつまで待ってもあなたがかえってこないものだから、あきらめて母屋のほうへかえってしまったのです。ところが、今朝になってみると、あなたはちゃんと離れにいるでしょう。わたし、いよいよ狐につままれたような気がしたけど、あなたが黙っているのでわたしもきくのをひかえていたんです。でも、あんまり心配だから、今夜も離れへ行ってみたのよ。するとまたあなたの姿が見えない。しかも、やっぱり戸締まりは、なかからちゃんとしてあります。それで、はじめて小さいときに聞いた抜け孔のことを思い出したんです。どこか、この離れに抜け孔があるにちがいない。……そう思ってさがしているうちに、納戸の長持のふたのあいだに、こんなものがはさまっているのに気がついたんですよ」
姉がふところからさぐり出したのは私のハンカチだった。
「これ辰弥さんのね。わたしはっとして、長持のふたをとってみると、お布団の上にボタボタと、|蝋《ろう》のしずくが垂れています。そこでいろいろやっているうちに、ガタンと長持の底がひらいたのですよ。それでこうしてやってきたんだけど……」
姉はそこでまた、怪しむように私たちの顔を見くらべながら、
「それにしても辰弥さん、あなたはどうしてこの抜け孔を知ってるの。だれから教わったの?」
もうこうなっては、姉に隠す必要はなかったが、典子のまえでそのいきさつを、打ち明けるのははばかられた。
「姉さん、それについては、いずれおうちへかえってからお話ししますが、それよりも姉さん、あなたにお尋ねしたいことがあるのです。姉さん、あそこにあるあれ、いったいあれはなんでしょう」
提灯をかかげて、例の|龕《がん》のほうを、指さすと、姉もはじめて気がついたらしく、あっというような叫びをあげてたじろいだが、すぐ気を取り直して二、三歩前進すると、
「まあ、変ねえ、だれがこんなところへ持ってきてすえたんでしょう」
と、あえぐようにつぶやいた。
「姉さん、姉さん、するとあなたはこの鎧を御存じなんですか」
「ええ……ずっとまえに一度見たことがあるわ。ほら、辰弥さんも御存じでしょう。離れの裏に|祠《ほこら》のようなものがあるでしょう。いつかあなたは、持仏堂かときいてたわね。ほんとはあれ、持仏堂ではなくて、お|社《やしろ》なの。表向きはお|稲《いな》|荷《り》様ということになっていますが、ほんとうは、ほら……」
と、姉はいくらかためらったのち、
「あなたもきっと、話にきいているでしょう。ずっと昔、この村のひとたちに殺された|尼《あま》|子《こ》の大将――あのひとをおまつりしてあるんですって、あの鎧もその大将のものだとかで、それが御神体なのよ。ほら、あの石棺のなかにおさめて祠のなかにおまつりしてあったんですけれど、ずうっとまえ、そうねえ、いまから十五、六年もまえになるかしら、急にそれが見えなくなったんです。泥棒が持っていったのかもしれないが、変な泥棒もあればあるもんだって、その時分いってたんですよ。でも、変ねえ。だれがこんなところへ持ってきてすえたのかしら」
これで、だいたい、甲冑の由来はわかったけれど、問題は甲冑よりも、その甲冑のなかにいる人物なのだ。
「姉さん、よくわかりました。それで鎧の由来はよくわかりましたが、それよりも……姉さん、よく見てください。兜の下をよく見てください。だれか、鎧のなかにいるでしょう。いったい、あれはだれなんです」
姉の春代ははじかれたように私の顔をふりかえったが、気の弱そうな微笑をうかべて、
「まあ、いやですよ。辰弥さん、おどかさないでくださいよ。わたしは心臓が悪いんだから……」
「姉さん、うそじゃありません。よく見てください。たしかにだれかいるんですよ。ぼくはいまこの龕の上にあがって見てきたんですよ」
姉の春代は、おびえたように|龕《がん》の上をふり仰いだ。龕の上からあの甲冑を着た死人が、無気味な眼をして見下ろしている。姉ははげしく呼吸をうちへ吸った。それから、提灯をたかだかとかかげて、吸い寄せられるように龕のほうへちかよっていた。
姉のこのただならぬ気配を、私も典子も手に汗握って見守っていた。
姉は龕にしがみつくようにして、兜の下を見つめていたが、急にはげしく身ぶるいすると、うわずったような眼を私に向けて、
「辰弥さん。お願い。わたしをこの壇の上へあげて」
|蒼《あお》白い姉の額には、いっぱい汗がうかんでいる。私はすぐに手伝って、姉の体を壇の上に押しあげた。姉は恐怖と好奇心のいりまじった眼で、ちかぢかと兜の下の顔を見つめている。息使いがしだいにあらくなってくる。姉はたしかにこの死人を知っているのだ。……
私は呼吸をつめて、姉の様子を見守っていたが、そのとき、典子がふと私の|袖《そで》をひっぱった。
「なに? 典ちゃん?」
「お兄様、こんなところに何か書いてあるわ」
典子の指さすのは、姉の春代の立っている壇の、上から五寸ほどのところである。なるほどそこに横書きで何やら石に彫りつけてある。私は提灯の灯をちかづけて、その文字を読んでみたが、そのとたん、思わずギョッと呼吸をのんだ。
|猿《さる》の腰掛。
その四文字はたしかにそう読めるのである。猿の腰掛――猿の腰掛――ああ、私はいつかこの言葉をきいたことがあるではないか。そうだ、あれは私が田治見家へついた晩のことだった。姉の春代が離れへ来る、不思議な侵入者のことを話したが、その侵入者の落としていったと思われる、地図のようなものに、そういう地名が書き込んであったという、そして、私もそれと同じような地図を持っているのだが、ああ、そうするとあの地図はこの地底の迷路を示しているのか。
私がまた、新しく持ち上がったこの疑問に、茫然として立ちすくんでいるときだった。突然頭上でキャッという姉の悲鳴がきこえた。私が驚いてふりかえったとき、姉はふらふらとよろめいたかと思うと、
「危ない!」
両手をひろげた私の腕へ、くずれるように落ちてきた。
「ああ、辰弥さん、辰弥さん、いったいこれはどうしたというの。わたしは気がちがったの。それともわたし夢を見てるの」
「姉さん、しっかりしてください。どうしたんです。姉さんはあのひとを知ってるんですか。だれです。いったい。あれはだれです」
「お父さん」
「え?」
「二十六年まえに山へ逃げこんで、そのまま行方のわからなくなったお父さん。……」
姉はわたしにしがみついて、気が狂ったように泣き出した。
私はまるで脳天から、真っ赤に焼けた焼け|串《ぐし》でも、たたきこまれたようなショックを感じた。典子もそばで、茫然として眼を見はっている。……
黄金三枚
春代のような心臓の弱い人間にとっては、その夜の恐ろしい発見は、あまりにも大きな打撃だった。その夜私たちは、典子にかたく口止めして、例のふたまたのところで別れると、あの長持の底をとおって、もとの離れへかえってきたが、明るいところで見る姉の顔色は、びっくりするほど悪かった。
「姉さん、しっかりしてください。ほんとに顔色が悪いですよ。ちょっと横におなりになったら……」
「ええ、ありがとう。心臓が悪いって意気地のないものね。でも、あんまりびっくりしたものだから……」
「しかし、姉さん、あれがお父さんだってほんとのことですか」
「辰弥さん、それについてはまちがいありません。わたしもずいぶん自分の眼を疑って、何度も何度も見直したのですから。……お父さんが山へ逃げ込んだのは、わたしの八つのときでした。でも、わたしはいまでも、ハッキリお父さんの顔を覚えているんですよ。こうして|瞼《まぶた》を合わせると、ありありとその面影がうかぶくらい……」
姉の眼にはうっすら涙がうかんでいた。あのような恐ろしい事件をひきおこしたひとでも、姉にとってはやっぱり懐かしい父なのであろう。私はなんとなく身内のすくむのを覚えた。
「しかし、姉さん、不思議ではありませんか。お父さんが山へ逃げこんだのは、三十六歳のときだということですが、あの死人は、それからいくらも年をとっていないようじゃありませんか」
「そうねえ。お父さんはきっと、山へ逃げこんでから間もなく、あの抜け孔へまぎれこんで、そして、そこで死んだのでしょう。いままで行方がわからなかったのも無理はないわ」
「だけど、それからもう二十何年もたっているんですよ。そのあいだ、どうして腐りもせずに、昔の姿のままでいるのでしょう」
「さあ、それはわたしに、わかりません。わたしのような無学なものにはわかりません。でも、辰弥さん、世の中にはいろいろ不思議なことがあるじゃないの。|木《ミ》|乃《イ》|伊《ラ》だとかなんだとか……」
「そういえばそうですが、あれは木乃伊とは見えませんね。もっとも、ぼくも木乃伊というものを実際に見たことはありませんが」
「それよりも辰弥さん」
姉は急に|膝《ひざ》をすすめると、
「あなたはどうしてあの抜け孔を知ってるの。いつからあの抜け孔に気がついてたの」
そこで私が一昨夜のことを、かいつまんで話してきかせると、姉はのけぞるばかりに驚いた。
「まあ、それじゃ伯母さまがたが……」
「ええ、そうですよ。そのときの伯母さまがたの口ぶりでは、毎月命日にはお参りしているらしいのですよ」
「それじゃ、伯母さまがたは、ずっとまえから、あそこに父の死骸があることを、御存じだったのですね」
「そうらしいですよ。ひょっとするとあんなところへ鎧をきせて、おまつりしたのも伯母さまがたじゃないでしょうか」
姉の顔色がいよいよ悪くなった。姉は|襟《えり》にあごを埋めて、しばらく黙って考えていたが、何か思いあたるところがあるのか、急にはっとはじかれたように顔をあげた。見るとその顔は無残にゆがんで、とがった眼つきにはただならぬ色がうかんでいる。
「姉さん、ど、どうしたんですか。何か思いあたることがあるのですか」
「辰弥さん、怖い、あたし、怖いわ。……でも、やっぱりそうだわ。きっとそれにちがいないわ」
「姉さん、どうしたんです。何がそうなんです」
「辰弥さん」
姉の春代はうわずった声で、
「わたし、ずいぶん長い間、このことで心をいためてきたんですよ。ことにちかごろ……ほら、いろんなひとが死ぬでしょう、恐ろしい毒で……それ以来、いっそう、そのときのことが思い出されてならないのだけれど……」
姉はそこではげしく肩をふるわせると、
「辰弥さん、これはあなただからお話しするのよ、けっしてだれにもしゃべらないでね」
姉はそう前置きをしておいて、さてつぎのような話をはじめたのである。
それはいまから二十六年まえ、すなわちあの恐ろしい出来事があってから間もなくのことであった。当時八つだった春代は、母の殺されるところを目撃して以来、ひどい恐怖症にとりつかれていた。彼女は毎晩真夜中になるとものにおびえて、火のつくように泣き出した。大伯母の小梅様と小竹様がそれを|不《ふ》|愍《びん》がって、毎夜彼女を抱いて寝ることになった。
「ええ、わたしは伯母さまがたのあいだに入って寝ていたんです。ところが、どうかするとその伯母さまがたが、真夜中になると、どこかへ見えなくなることがあるんです。一度など、それでわたしが大騒ぎをして、泣きわめきながら、家じゅうをさがしまわったことがあるのです。それからというものは、ふたりいっしょに見えなくなることはありませんでしたが、それでもかわるがわる、毎晩きっと、どちらかがいなくなるのです。それでわたしが残っているほうの伯母に尋ねると、なに、御不浄へ行ったのだからすぐ帰る、と、いつもきまって同じような返事でした。なにぶんにも子どものことですから、別にふかく問いもせず、そのまま寝てしまうのが常でしたが、そのうちにあるときわたしは、ふたりの伯母の恐ろしい話を聞いたのです」
その晩も例によって姉の春代は、小梅様と小竹様のあいだに入って寝ていたが、ふたりの大伯母が春代の頭越しにかわすヒソヒソ話にふと眼をさました。しかし、なんとなくふたりの大伯母たちの話しぶりが、あたりをはばかる様子なので、寝たふりをしたまま、聞くともなしに聞いていると、まず毒という言葉が耳についた。それからいつまでもこんなことはつづけていられないだの、つかまったら死刑にきまっているだの、あいにくあの様子ではなかなか死にそうもないだの、またあばれ出したら大騒動じゃだの、そんな話がきれぎれに聞こえて最後に、いっそお弁当に毒を仕込んで……そういう言葉が耳に入ったときには、姉の春代もあまりの恐ろしさに全身汗ビッショリだったという。
「子どものときにふかく心に彫りつけられた事柄は、生涯忘れるものではありません。わたしはいまでもあのときの、伯母さまがたの話を思い出すと、なんともいえぬほど、恐ろしい思いがするのです」
姉は恐ろしそうに肩をふるわせると、|襦《じゅ》|袢《ばん》の袖でそっと涙をおさえた。姉のこの話の恐ろしさは、十分私の胸にもしみた。私は腰から下が、氷のように冷えていくのをおぼえた。
「姉さん、姉さん、そうすると伯母さまがたはあの事件のあとしばらく、父をあの地下道にかくまっていたというのですか」
「いまになってみるとそうとしか思えません。伯母さまがたはきっと食事をはこんでいたんでしょう」
「そして、とうとう、毒をのませて……」
「辰弥さん、よしんばそうだったとしても、伯母さまがたを悪く思っちゃいけませんよ。伯母さまがたは家名を考え、世間体を考え、また父のためを考えて、きっとそうなすったにちがいありませんわ。父は伯母さまがたの秘蔵っ子でした。眼の中へいれても痛くないほど、伯母さまがたは父を大事にしていたのです。その父に毒をのませて……そのときの伯母さまがたの御心中をお察しすると、お気の毒でなりません」
この家にまつわる恐ろしい悪因縁を考えると、私は|慄《りつ》|然《ぜん》たらざるをえなかった。
おそらくこれは姉の推量どおりなのであろう。小梅様と小竹様は、家名を思い、世間体を考え、さらにまた捕らえられたときの父のなりゆきを思いはかって、ひそかに死にいたらしめたにちがいない。そしてそのことは、父にとっても慈悲ぶかい処置だったろう。しかし、それにもかかわらず、私はなんともいえぬドスぐろい思いに、胸をふさがれずにはいられなかった。
「姉さん、わかりました。ぼくもこのことはけっしてだれにもしゃべりません、典子さんにもかたく口止めしておきます。姉さんももうこのことは忘れておしまいなさい」
「ええ、そうしましょう。どうせこれは、ずうっと昔のことですから……ただ、わたしの心配しているのは、このことと、ちかごろのあの毒殺騒ぎと、何か関係があるのじゃないかと思って……」
私はドキッとして、姉の顔を見直した。
「姉さん、それじゃあなたは伯母さまがたが……」
「いいえ、いいえ、そんなことのあるべきはずはないけれども、久弥兄さんの死んだときのことを思い出すと……」
その父を毒殺した双生児の二人が、またその息子を殺したのではあるまいかという疑いは、姉としては無理のないところかもしれなかったし、それにああいう高齢に達した老婆というものは、どこか人間ばなれがしていて、ものの考えかたにも、常識では測り知れないようなところがあった。姉はそれを恐れているのだ。
「姉さん、そんな馬鹿なことはありませんよ。それはあなたの思い過ごしというものです。それより姉さん、あの抜け孔ですがね。どうしてあんなものがこの家にはあるんです」
「ああ、あれ……わたしも詳しいことは知らないけれど、なんでもこの家の先祖のひとりに、たいそうきれいな女のひとがあって、御領主様のお城へ御奉公にあがったところ、お殿様のお手がついたのだそうです。それがなにかむずかしい事情があって、お城をさがらねばならなくなったんだそうですが、お殿様のほうではそのかたを忘れかねて、ときおり、この屋敷へお忍びで来られたそうです。この離れもそのために建てましたのだということですから、あの抜け孔なども万一の用意のために造っておいたのではないでしょうか。でも、辰弥さん」
「はい」
「あなたはもう、あんなところへ入るのはおよしなさいね。またなにか、悪いことがあるといけないから」
「はあ、よします」
姉を安心させるために、私はキッパリそういいきったが、むろん、よす気などは毛頭なかった。
ひとつの疑問が解けたと思うと、またそこから新しい疑問が芽生えていく。小梅様と小竹様の奇怪な仏参のなぞはとけたが、そこからまた変質しない死体のなぞと、猿の腰掛の疑問がうまれてきたのだ。いったい、地下迷路の地図などが、どうして私の守り袋に入っていたのか。亡くなった母の言葉によると、それが私に幸福をもたらすかもしれないということだったが、あの変てこな地図や御詠歌に、どうしてそんな効能があるのだろうか。
それはさておき、その晩はほかの話にかまけて、私はとうとうあの地図のことを、姉に切り出す機会をうしなった。しかも、姉はその晩から、高熱を出してどっと寝ついてしまったので、しばらく私はそのほうのことはあきらめなければならなかった。
姉が熱を出したのは、やはりあの地下道でうけたショックが原因だった。その証拠には姉はときどき熱にうかされ、鎧がどうのとか、お父さん、お父さんとか口走った。そのことから、あの地下道の秘密が露見しやあしないかと恐れたのと、もうひとつには、なんといってもこの家では、私にとっていちばん大事な姉なのだ。だから、その当座、昼も夜も私は姉の枕元につききりで介抱した。姉もまた、私の姿が見えないと、心細がってすぐにお島を探しによこした。そして片時もそばから離さなかった。
小梅様と小竹様も心配して、おりおり枕元に顔を見せた。姉の病気を聞きつたえて、慎太郎や典子も見舞いに来た。典子にはこういう状態だから当分会いに行けないというと、彼女はすなおにうなずいた。それから、あのことはけっしてだれにもしゃべらないから、お姉さまによくそういってほしいといいのこして帰った。美也子や久野のおばも見舞いに来た。久野のおばはまだ恒おじの行方がわからないと、蒼い顔をして元気がなかった。
こうして見舞いの客があるごとに、私がハラハラするのは、熱にうかされた姉のうわごとだった。それを取りつくろうためにも、私は姉の枕元をはなれることができなかった。こうして一週間ほど、姉の看護に心をうばわれているあいだ私は事件のことを忘れていたし、事件のほうでも、別に進展はなかったらしい。金田一耕助もその後、姿を見せなかった。
こうして瞬く間に十日という日が過ぎ去った。そして、そのころになって、姉の熱もだいぶ下がり、うわごともいわなくなった。一時は心臓が弱いから、あまり高熱がつづくようだと……と、新居先生も首をかしげていたのが、この分ならばと、保証してくれるようになった。私もやっと|愁眉《しゅうび》をひらいたし、姉もまた感謝の思いをこめて「すみません、辰弥さんにはずいぶんわがままをいったわね。さぞお疲れになったでしょう。もう大丈夫だから、今夜から離れのほうへ寝てください」
と、いうようになった。
こうして久しぶりに離れへかえってきた私は、ずいぶん疲れていたことは疲れていたが、そのまま眠る気にはなれなかった。私は久しぶりに機会を得て、また、あの地下道へもぐりこんだのである。
私はこのあいだから、変質しない死体のなぞについて、ずいぶん頭脳をなやました。幸い田治見には百科事典があったので、その疑問を解こうとして、あちこちひっくりかえしてみたが、その結果、どうやらひとつの確信を得たのである。私はそれを確かめようと、地下道へもぐりこんだのだ。
幸いその夜はひとにも出会わず、だれにおびやかされることもなく、無事に|龕《がん》までたどりついた。私は龕の上によじのぼり、もう一度|屍《し》|体《たい》をあらためたのち、いよいよ確信を強めたのである。
その屍体は|屍《し》|蝋《ろう》になっているのである。百科事典の説くところによると、屍体が水分にとんだところに葬られた場合、屍体の脂肪が分解して脂肪酸を生じ、その脂肪酸が水中のカルシウムやマグネシウムと結合すると、水に不溶解性の脂肪酸カルシウムおよび脂肪マグネシウム、すなわち石けんに化成するというのである。つまり屍体は石けんになってしまい、長く原形のままで残る。これを屍蝋というのだそうな。むろん、だれでもこうなるとは限らず、生来、脂肪分にとんでいる人から多くでき、かつまた、葬った場所が、カルシウムやマグネシウムにとんだ水分の多いところでなければならぬ。
おそらく父の体質と、父の葬られた場所がこういう条件に完全に合致していたのであろう。そして父は死後もながく、昔の形をくずさずに屍蝋と化してしまったのだろう。だがこのことが小梅様や小竹様を、どのように驚かせ、|畏《おそ》れさせたことだろうか。いつまでたっても腐敗せぬ父の屍体に、大伯母たちは神秘的な脅威を感じたにちがいない。あの世界に類例のない罪を犯したそのひとが、死後もまたこのような奇跡をあらわしたのだ。それに対する大伯母たちの|畏《い》|怖《ふ》はどのようなものであったろうか。大伯母たちがその屍蝋に甲冑をきせ、ここにこうしてまつったのは、おそらく父を神とみたのであろう。
これだけのことを確かめると、私はやっと満足したが、しかし、まだまだ強い好奇心があったのだ。私はそっと父の屍体をとりのけると、石棺のふたをひらいて中をあらためたが、あとから考えると、このことが私の運命に、大きな変化をもたらしたのだ。
石棺の中には古い猟銃と一口の日本刀があった。それからこわれた三つの懐中電灯が入っていた。おお、これこそは八つ墓村の人々にとって、いまだに悪夢の種となっている、あの恐ろしい一夜のかたみではないか。私は思わずふるえあがった。そしてあわてて石棺にふたをしようとしたが、そのとき、ふと別のものが私の眼をひいた。はじめ私にもそれがなんであるか、よくわからなかったので、提灯の灯をさしつけてみると、それはチカリと金色に光った。私はあわてて棺の底からものをつまみあげた。
それは縦五寸、横三寸くらいの、四すみを落とした|楕《だ》|円《えん》|形《けい》の金属で、手にとるとずっしりと持ち重りがした。そして片面には木目のような跡があり、片面はざらざらとした地肌だった。私は眼を見はって、しばらくそれを|掌《たなごころ》にのせ見つめていたが、突然、さっと背筋をつらぬいて走る|戦《せん》|慄《りつ》を感じた。
ああ、これは黄金の板、すなわち|大《おお》|判《ばん》なのではないか。
私は急にガチガチと歯の鳴るのをおぼえた。全身がガタガタふるえ出した。わななく指でもう一度、私は棺の底をさぐってみた。
大判は三枚あった。
二度目の毒茶
その夜、離れへかえってきたときの私は、まるで熱病にうかされたような気持ちだった。私は離れへかえりつくやいなや、水差しの水をゴクゴクと口飲みにした。それほどそのときの私は、興奮のためにのどが乾いていたのだ。
ああ、私はいまこそ、母の慈悲がわかるのだ。母がどうしてあの地図を、私の守り袋に入れておいてくれたか、そしてまた、なぜあの地図をあのように大事にせよといいのこしたか、私にはいまはじめてわかったのだ。そしてまた、地方にのこる伝説だの|口《こう》|碑《ひ》だのというものが、かならずしも馬鹿にならぬことを、いまはじめて知ったのだ。
いまから三百七十余年の昔、八つ墓村の先祖のひとたちによって殺された、八人の尼子の残党は黄金三千両を馬につんできたというではないか。八つ墓村の先祖のひとたちが、ふいに襲って八人の落人を殺したのは、ほかに理由もあったけれど、ひとつには、その黄金に目がくらんだためであるといわれている。しかも肝心の黄金は、そのときついに発見されなかったと伝えられている。
ああ、その黄金は、いまだに地底の迷路のなかに、隠されているのではあるまいか。そして、いまから二十六年まえ山へ逃げ込み、地にもぐった私の父は、地底の迷路を|彷《ほう》|徨《こう》しているうちに、はからずもその黄金の隠し場所につきあたったのではあるまいか。そして、その中から三枚だけ持ち出したところを、小梅様と小竹様に毒殺されたのではあるまいか。なんにも知らぬ小梅様と小竹様はどうして父がそのようなものを所持しているか、考えてみようともせず、父の他の持ち物といっしょに、石棺に納めてまつっておいたのではなかろうか。
そうだ。それにちがいない。そう考えるよりほかに、あの三枚の黄金について、適当な説明を求めることはむずかしい。
いつか私はきいたことがある。定量定質の大判を鋳造した最初のひとは織田信長で、それよりまえはただ金塊を|槌《つち》で打ち平らめ、|極《ごく》|印《いん》もなければ墨書きもなく、必要に応じて|秤《はかり》ではかって、切り遣いにしたものだという。私がさっき見てきた黄金は、そういう判金の一種ではなかろうか。尼子の滅んだ永禄九年は、織田信長が天下に|覇《は》をとなえるより以前のことだし、このころ天下に群雄が割拠して、金銀においても紛乱時代で、各地にいろんな判金があったという。
尼子の落人八人は、再挙の日にそなえて、それらの黄金の何枚かを、馬につんで落ちのびたのだ。したがって、これを黄金三千両というのはまちがっているのかもしれぬ。後の世のひとが、語りつぎ、語りつたえているあいだに、白髪三千丈式に、多いことの形容として、三千両と価値を定めたのかもしれない。だが、そんなことはどうでもよいのだ。尼子の落武者が、何枚かの大判を持ってきてどこかへ隠したこと、そしてその大判がいまだにどこかに隠されていること。それらの事実にさえまちがいがなければ、|多《た》|寡《か》大小は問題ではない。そして、それらの事実にまちがいのないことは、あの石棺の中にある、三枚の黄金が証明しているではないか。
私はまた、異常な興奮と戦慄に、体が細かくふるえるのを感じた。私は肌身はなさず持っている、古い守り袋を首からはずすと、わななく指でその中から、日本紙に書かれた例の地図を取り出した。
いつかもいったとおり、それは毛筆で書いた|八《や》|幡《わた》の|藪《やぶ》知らずみたいな、複雑な迷路の地図で、その中の三つの地点に、それぞれ地名が書き込んである。三つの地名は「竜の|顎《あぎと》」「|狐《きつね》の穴」「鬼火の|淵《ふち》」と、いずれも変な名前で、そのそばに、つぎのような三首の歌が書き添えてある。
[#ここから2字下げ]
みほとけの宝の山に入るひとは竜のあぎとの恐しさ知れ
ぬば玉の|闇《やみ》よりくらき百八つの狐の穴に踏みぞ迷うな
|掬《すく》うなよ鬼火の淵の鬼清水身をやく渇によし狂うとも
[#ここで字下げ終わり]
ああ、もうまちがいはない。いままではなんの気もなくこの歌を読みすごしていたが、いまこうして読み直してみれば、これこそ埋もれた宝の山へたどりつく、みちしるべであると同時に注意書きでもあるのだ。恐らく宝の山へいく途中には、「竜の顎」だの「狐の穴」だの「鬼火の淵」だのという難所があって、うっかりそこへ踏み迷うと命をおとすような危険があるのだろう。
母がどうしてこのような地図を持っていたのか私は知らぬ。また、このような歌を、いつだれがつくったのかも私にはわからない。しかし、そんなことはどうでもよいのだ。これが黄金三千両という、埋められた宝の山へみちびく案内書であるということだけで十分なのだ。
私は心を躍らせて、地図の面に眼をさらしたが、よく見ていくうちに、しだいに失望をおぼえてきた。この地図はまだ完全とはいえぬ。ところどころ線がぼやけたり、とぎれたりするところがあった。それはおそらくこの地図を書いたひとにも、まだ探検がよく行き届いていない箇所なのだろう。それはよいとして、もっと困るのは、この地図の場所へ近づく道がわからないことだ。私の知っている地下のトンネルに相当するところは、この地図のどこにも見当たらない。ここではじめて私は、姉の持っている地図の重要さをさとった。姉の持っている地図には、「猿の腰掛」という地名があるという。「猿の腰掛」のありかならば私も知っている。ああ、そうだ、姉の地図とこの地図とは、二枚つづきになっているのではあるまいか。そして姉の地図は入り口を示し、私の地図はその奥を示しているのだろう。しかし、この地図にも、肝心の宝の山が記してないのはどういうわけか。この地図にはまだもう一枚、つづきがあるのだろうか……
それはさておき、その晩、私はよく眠れなかった。かならずしも私は欲張っているのではない。第一、いまかりに私が、黄金何枚かをさがし出したところで、それが果たして法的に、自分の所有に帰するものかどうか私は知らぬ。それにもかかわらず、私があんなに興奮し、熱にうかされたのは、そこにあるロマンチックな興味に熱狂するのだ。埋められた財宝は人間にとって永遠に郷愁みたいなものであろう。「宝島」や「ソロモン王の鉱山」が、いまだに愛読されるのがその証拠だ。それらの小説では、むろん、途中の冒険がおもしろいのだが、それかといって、最後に宝を掘りあてなかったら、どんなにつまらないことだろう。
その翌日、私は姉の春代によっぽど地図のことを切り出そうかと思ったが、どうしてもうまく切り出せなかった。それは私の心にある野心がきざしてきたからだろう。あの地図が宝のありかを示すのでなく、単に地下の迷路を示すのだったら、もっと気安く、私も切り出すことができたろう。姉の無知につけこんで、大事なものをまきあげる。……そのうしろめたさが私に|躊躇《ちゅうちょ》を感じさせたのだ。それかといって、秘密をうちあける気にもなれなかった。宝探しはひとりに限る。秘密にやってこそおもしろいのだ。結局、その日はとうとう切り出す機会をうしなった。
たしか、その日だったと思う。久しぶりで金田一耕助がやってきたのは。――かれは姉の見舞いをのべたのちに、奇妙なことを打ち明けていった。
「今日はね、取り消しにあがったのですよ。ほらこのまえ来たとき、ぼくはこんなことをいったでしょう。濃茶の尼が殺されたのは夜十二時前後だったのに、久野先生はそれよりまえ、N駅を十時五十分に出る上り列車に乗っているから、この事件に関するかぎり、久野先生には完全にアリバイがあると。……ところがあれはまちがっていたんです」
「まちがっていたって?」
「あの晩、十時五十分に駅を出る汽車に乗ったのは、久野先生じゃなかったんです。ほかのひとだったんです。駅員がまちがったんですね。ときどき、こういうまちがいがあるから捜査もやっかいですよ」
金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわして、
「ところで、あの晩、久野先生が十時五十分の汽車に乗らなかったとすると、これはいったい、どういうことになるのでしょう。上りにしろ、下りにしろ、十時五十分に出る汽車がN駅の終列車だし、翌日の一番が出るまでには、警察の手がまわっている。だから、久野先生がどこへ逃げたにしろ、汽車を利用しなかったことだけはたしかなんです」
私は思わず眉をひそめた。
「しかし、汽車を利用しなかったとすると、いったい、どこへ行ったんでしょう。あれからもう十日もたっているのに……」
「ですからねえ、ぼくの考えではひょっとすると山へ逃げこんだんじゃないかと思うんです。二十六年まえの事件でも、犯人は山へ逃げこんだでしょう。そして、それきり行方がわからなくなったでしょう。だから、こんどの事件でも……」
そこで金田一耕助は、私の顔色のかわったのに気がついたのか、
「おや、どうかしたんですか。お顔の色が悪いですよ、ああ、そうか、これは失礼しました。二十六年まえの話は、あなたのまえでは禁物でしたね。いや、失敬、失敬」
金田一耕助は|飄々《ひょうひょう》としてかえっていった。あいかわらず私には、なんのためにかれがやってきたのかわからなかった。
その晩のことである。小梅様と小竹様に招かれて、私がふたたびお茶のふるまいにあずかったのは。
「辰弥や、このたびは御苦労じゃったえなあ。おかげで春代もどうやらようなりそうじゃ。これもみんなあんたのおかげぞな」
「ほんに、小梅さんのいうとおりじゃ。あんたがいなんだら、どうしようもないところじゃった。奉公人ではかゆいところへ、手がとどくというわけにはいかんえなあ」
双生児の小梅様と小竹様は、あいかわらず、猿のように小さな体をまるくして、|巾着《きんちゃく》のような口をもぐもぐさせる。私はただ堅くなって、お辞儀ばかりしていた。
小梅様はほほほとわらって、
「まあ、そう堅くならずに、もっとお楽にしておくれえな。おまえにそう堅苦しくされると、こっちまで肩が張るえな。今夜はな、おまえの骨折りをねぎらおうと思うてな。小竹様がお茶を進じょと言うておいでじゃ」
お茶ときいて私はドキリとふたりの顔を見直した。しかし、小梅様も小竹様も、きょとんとした顔つきで、
「ほほほ、こんなしわくちゃ婆あの招待では、かえってありがた迷惑じゃろが、そこがそれ、気は心じゃ。まあ、お相手をしておくれ」
小竹様はふくさをかるくさばきながら、ふと思い出したように、
「ときに、辰弥や、春代のあの病気じゃがなあ、あれはいったいどうしたもんじゃろ」
「どうしたものとおっしゃると?」
「いいえなあ」
と、小梅様も膝を乗り出し、
「あの子は元来達者なほうではなく、いつもぶらぶらしているのじゃが、気で持っているというのか、何年にも寝たことのない子じゃ。それがどうしてだしぬけに、あのような大熱を出すようなことになったのじゃろな」
「それよ、それよ。新居先生のおっしゃるには、ちかごろ何かひどく心配するとか、びっくりするとか、気を遣うようなことはなかったかとおっしゃる。わたしには別に心当たりはないが、辰弥、おまえどうじゃな。何かそんなことがあったようかな」
「さあ、ぼくにもいっこう、心当たりはありませんが、久弥兄さんのお葬式以来の、心労がつもりつもって、こんどの御病気になったのではないでしょうか」
「まあ、そういえば、それもそうじゃろが、もっとほかに、何かあったんじゃあるまいか。なあ、小竹さん」
「そうえなあ。そういえば妙なうわごとを言うてたえなあ。トンネルがどうとか、|鎧《よろい》がどうのとか、それからお父さん、お父さんとやら、……辰弥、あれはなんのことじゃろな」
小竹様は|茶《ちゃ》|筅《せん》の手をやめ、じっと私の顔を見る。小梅様も眼をしょぼつかせながら、さぐるように私の顔をながめている。私はわきの下から、さっと熱汗のふき出すのをおぼえた。
小梅様と小竹様が私を招待したのは、姉のうわごとの意味をさぐろうというのであったろう。いやいや、ふたりはすでに、うわごとの意味をさとっているにちがいない。そして、それがかれらを不安におとしいれ、いったい、どこまで私たちが知っているかと、それをさぐりにかかったのであろう。
「ほほほ」
私が無言でひかえていると、小梅様はさりげなく笑って、
「辰弥は辰弥、春代は春代じゃ。春代のうわごとをなんで辰弥が知るもんかいな。なあ、辰弥や。それ、小竹さん、辰弥にはよお茶をあげえな」
「あいあい、わたしとしたことが……はい、辰弥や、粗茶一服召し上がれ」
私はだまってふたりの顔を見くらべる。ふたりの老婆はとぼけた顔で、私と|茶《ちゃ》|碗《わん》をながめている。私の胸にはなんともいえぬ恐ろしさが細かい戦慄となってはいあがってくる。
私は姉の話を思い出していた。双生児の小梅様と小竹様は、二十六年前あの地下道で、やはりこういうとぼけた顔で、父に毒をすすめたのではあるまいか。私にはなにかしら、このしわくちゃのふたりの老婆が、世にも奇怪な、非人情な、|妖《よう》|怪《かい》のように思われてならぬ。
「これ、辰弥や、どうしたもんじゃ。せっかくの小竹様の志じゃ、ぬるうならぬうちにちょうだいせんかい」
私は絶体絶命だった。茶碗をとりあげる手がわなわなふるえて、茶碗のふちで歯がカチカチと鳴った。私は眼をつむり、心の中で神を祈りながら、ぐっとひと息に茶を飲み干した。茶はこのあいだの晩同様、舌を刺すように苦かった。
「ああ、飲んだ、飲んだ。辰弥や、御苦労じゃったえなあ。もうええ、もう部屋へさがっておやすみ」
顔を見合わせてニッタリ笑うふたりの老婆の、口が耳まで裂けていくような錯覚をおぼえながら、私はフラフラ立ち上がった。
洞窟の怪物
そうはいうものの、小梅様と小竹様のお茶の招待は、それが二度目であっただけに、私もこのまえのときほど|怖《お》じ恐れはしなかった。小梅様と小竹様の気持ちは、よくわかっているのだ。
おそらくふたりは、姉の春代のうわごとから、地下道の秘密が気がかりになってきたにちがいない。小梅様と小竹様はずいぶんの老齢で、|本《ほん》|卦《け》がえりをしたようなところもあるが、なかなかどうして|狡《こう》|猾《かつ》で抜け目がないのだ。姉の春代がどの程度まで地下道の秘密をかぎつけたのか――それをたしかめるために、今夜ふたりはあの地下道へ、もぐりこむつもりにちがいない。そして、それには私が眼をさましていてはぐあいが悪いので、一服盛って眠らせようという魂胆にちがいないのだ。
よしよし、それならば眠ってあげましょう。重なる心労と興奮で、このところ私はいたく疲労している。ここらで一眠り、ぐっすり眠るのは、体のためにもよいであろう。小梅様と小竹様よ、どうぞ御自由に、地下道を検分しておいでなさいませ。
私は離れへひきあげると、電気を消して、お島の敷いておいてくれた寝床へもぐりこんだが、しかし、心の中にある種の緊張があると眠り薬もきかぬものとみえるのだ。私は別に待っているわけではなかったが、小梅様と小竹様の現われるのを、いまかいまかと聞き耳をたてていると、すっかり眼が|冴《さ》え、眠り薬の利き目はいっこう現われそうもなかった。
こうして私は寝床のなかで、一時間あまりも|輾《てん》|転《てん》反側していたであろうか。すると果たして、十五|間《けん》の長廊下のほうから、ひそやかな足音がきこえてきたかと思うと、例によって|手燭《てしょく》をかかげた小梅様と小竹様が、そっと私の部屋へ入ってきた。私があわてて|狸《たぬき》寝入りをしてみせたことはいうまでもない。
小梅様と小竹様は、手燭をかかげて私の顔をのぞきこむと、
「それ、ごらん、辰弥はよう寝てござるじゃないかえ。小竹さんのように、キナキナ心配することはありゃせんえ」
「ほんになあ。さっきお茶を飲むとき、変な顔をしていたで、もしや気がついたのじゃあるまいかと心配したが……このぶんなら大丈夫えなあ」
「大丈夫とも。わしらが帰ってくるまでに、眼のさめるようなことはありゃせん」
「そんなら、小梅さん、この間にちょっと行ってみよ」
「あいあい」
小梅様と小竹様は、しずかに部屋から滑り出ると、またいつかのように、回り廊下の障子の上に、ふたつの影をおとしながら、裏の|納《なん》|戸《ど》へ入っていったが、やがて長持のふたをあけたりしめたりする音がしたかと思うと、あとはまた真夜中の静けさにもどって、人の気配はさらになくなった。
さて……と、そこで私は寝床のなかで、大きく深呼吸をしたことだ。いったい私はどうしたものか、ここでこのままふたりの帰りを待っていてよいものか、それとも小梅様と小竹様をつけていくべきか。私はしばらく迷うたが、結局、このまま待っているよりしかたがないだろうと心をきめた。どうせ小梅様と小竹様の行く先はわかっているのだ。ふたりの老婆は「猿の腰掛」まで出向いていって、屍蝋となった仏の安否を見とどけようとしているのである。つけていったところでしかたがない……。
そう考えた私は、そのまま寝床のなかで、ふたりの帰りを待つことにしたのだが、あとから思えばこの怠慢が、私やまた小梅様や小竹様の身に、恐ろしい災禍をもたらせたのだ。ああ、あのとき私が思いきって、ふたりのあとをつけていたら、よもやあのような恐ろしいことは起こりはせなんだであろうに。
しかしあとから繰り言を、いくらいってもはじまらぬ。あのとき、ふたりの老婆の行く手にあたって、あのような残忍な悪魔の手が、待ちうけていようとはだれが知ろう。たとえあのような結果になったとて、神様はきっと私の怠慢を、許してくださるだろうと信じている。
それはさておき、ふたりの老婆が行ってしまったので、私の緊張はがっくりほぐれた。緊張がほぐれると、薬がきいてきたとみえて、私はにわかに睡魔におそわれ、それから間もなく、うとうとしはじめていたのである。
だからあのことが起こったのは、小梅様と小竹様が、地下道へもぐりこんでから、どれくらい時間がたったのちのことなのか、私にはさっぱり見当がつかぬ。
私は双生児の老婆のひとりに、けたたましく揺り起こされたのである。例によって私には、それが小梅様だか小竹様だかわからなかったけれど、相手のただならぬ気配に、私の睡魔はいっぺんに吹っとんだ。
「ど、どうしたのですか、伯母さん」
私はがばとばかりに寝床の上に起きなおると、恐怖にゆがんだ老婆の顔を見直した。いい忘れたが、老婆は私を起こすまえに、電気をつけたとみえて、部屋のなかは明るかったのである。
老婆は猿のような顔をして、何かいおうとするらしいのだが、舌がもつれて言葉が出ない。見ると老婆の着物にはいっぱい泥がついていて、ところどころ|鉤《かぎ》裂きさえできている。
いよいよただごとではない。私は腹の底に、鉛のかたまりをのみ下したようなしこりを覚えながら、
「伯母さん、伯母さん、ど、どうしたのですか。そして、もうひとりの伯母さまはどうなされたのです」
「おお、おお、小梅様は……小梅様は」
「はあ、その小梅伯母さまは……?」
「だれかがさろうていきおった。おお、辰弥や、辰弥や、仏が生きてかえったのじゃ。ああ、恐ろしい、仏が生きて動き出したのじゃ。これ、辰弥や、辰弥や、早う|行《い》て、小梅さんを助けておくれ。さもないときには小梅さんは孔の奥へひきずりこまれて殺されてしまうかもしれん。これ、辰弥、早う行ておくれ。早う行て、小梅さんを助けておくれ」
私はドキッとして小竹様の顔を見直した。それから子どものように泣き叫ぶ、小竹様の肩に手をかけてはげしくゆすぶった。
「伯母さん、伯母さん、小竹伯母さま。いったいどうしたというのです。それだけでは、お話の意味がよくわかりません。もっと落ち着いて話してください」
だが小竹様は落ち着くどころか、いよいよとりのぼせて、手のつけようがなくなった。こういう老婆が興奮すると、|頑《がん》|是《ぜ》ない、五つ六つの子どものようになるものだ。小竹様は手ばなしでおんおん泣き出し、泣き出すかと思うと、何やら早口にしゃべりまくる。私はその意味を|捕《ほ》|捉《そく》するのに苦しんだが、それでもだんだん聞いているうちに、だいたいの意味だけはのみこめた。
双生児の小梅様と小竹様は、地下道をとおって、「猿の腰掛」まで出向いていった。そして案じられた屍蝋の安否を見とどけにかかったが、そこへ何か妙なことが起こったらしい。小竹様の言葉によると、龕の上のあの|鎧《よろい》武者が、だしぬけにむくむく動き出し、それがふたりに向かって躍りかかったというのである。
むろん、あの屍蝋がいまになって、生気を取りもどすはずはないから、それは小竹様の錯覚であったにちがいない。しかし、そこに何者かが、ひそんでいたらしいことはたしからしい。ひょっとすると、だれかが「猿の腰掛」のほとりをさまようているところへ、小梅様と小竹様の二人が、行きあわせたのではあるまいか。そこで相手はとっさの場合、龕の上に駆けのぼって、鎧武者のうしろへ身をかくしたのではないか。そして、そのものの身動きをするところが、|仄《ほの》暗い手燭のなかで、あたかも鎧武者が動くように見えたのではないか。
そこまでは格別不思議な話でもない。現に私もあの地下道へ、しばしば出没する人物のあることを知っている。しかし、その人物が小梅様と小竹様に、躍りかかったということになると話は別だ。ましてやそいつが小梅様を|拉《らつ》し去ったとすると捨ててはおけぬ。
私は手早く身支度をしながら、
「伯母さま、伯母さま、それはほんとのことですか。ほんとにだれかが小梅様を孔の奥へひきずりこんでいったのですか」
「ほんとうじゃよ、だれがうそをいうもんかいな。小梅さんの助けを呼ぶ悲しそうな声が、まだわしの耳に残っているよ。辰弥や、後生だから早く行って、小梅様を助けておくれ」
「伯母さま、伯母さま、そして相手はいったいどんな様子をしていました」
「そんなことがわかるもんかいな。仏様がとびかかってきた拍子に、手燭はたたき落とされて、あたりは真っ暗になってしもうたのじゃもの」
小竹様はそこでまた、子どものように声をあげて、おんおん手放しで泣き出したが、そこへ騒ぎをきいて母屋のほうから姉の春代が駆けつけてきた。春代はその場の様子を見ると、|蒼《あお》白く顔をひきつらせて、
「まあ、伯母さま、辰弥さん、これはいったいどうしたことです。何事が起こったのでございます」
「おお、春代や、春代や」
小竹様は春代の顔を見ると、また、新しくせぐりあげて泣き出した。
私は姉に手短かに、ことのいきさつを話してきかせると、
「そういうわけですから、姉さん、ぼく、ちょっと『猿の腰掛』まで行ってみます。提灯があったら貸してください」
「辰弥さん、わたしもいっしょに……」
「いいえ、姉さん、あなたはここに残っていてください。あなたはまだほんとうの体じゃないのだから、無理をしてはいけません」
「でも……」
「いいえ、いけません。あなたが行ってしまったら、小竹様はどうするのです。小竹様の介抱をお願いしますよ。姉さん、提灯を早く……」
姉はやむなく母屋へとってかえすと、提灯に灯を入れて持ってきた。
「辰弥さん、大丈夫?」
「大丈夫です。できるだけ早く帰ってきます」
「気をつけて行ってくださいね」
なんとなく本意なさそうな姉の春代と、小竹様をあとに残して、私は提灯片手に例によって、あの長持のなかから、地下道のなかへもぐりこんだ。
この地下道も、だんだんなじみがふかくなって、私はもう迷うようなこともなく、例の岩の戸をくぐりぬけると、ふたまたみちを左へとって、「猿の腰掛」のほうへ進んでいった。
ところが、もう間もなく、「猿の腰掛」へ着くころのことだった。私はドキッと立ち止まると、あわてて提灯の灯を、うしろ手にかくしたのである。「猿の腰掛」のあたりからほのかな光が流れてくることに気がついたのだ。
だれかいる! 私の額からはねっとりと汗が吹き出し、心臓が胸郭をやぶって、いまにも躍り出しそうなほどにがんがん鳴り出した。口の中がからからに渇いて、舌が上あごにくっつく気持ちであった。
私は用心ぶかく、必要があればいつでも灯がつけられるように、マッチの用意をしておいて、ふっと提灯の灯を吹き消した。
幸い、相手はこちらの明かりに気がつかなかったらしい。相変わらずほのかな光が、曲がり角の壁にあたって明滅している。私は足音に気をつけながら、手探りでその曲がり角まで滑っていった。
その曲がり角を曲がると、「猿の腰掛」のある広場が、すぐ向こうに見渡せるのだが、果たしてそこに、だれやらひとが提灯を持ってたたずんでいた。そのひとはどうやら、提灯をかかげて、「猿の腰掛」をながめているらしい。
私は壁に背中をくっつけて、三歩四歩五歩、|蟹《かに》のような横ばいで、相手のほうへ近づいていったが、相隔たること数歩のところまでやってきたとき、思わず驚きの声が私のくちびるをついてとび出したのであった。
「典ちゃん」
「あら」
ああ、それはやっぱり典子であった。彼女ははじかれたようにふりかえると、提灯をたかだかとかかげて、|闇《やみ》の中を見回しながら、
「お兄さま、お兄さまなのね。お兄さまはどこにいらっしゃるの?」
私は闇の中からとび出すと、典子の肩を抱きすくめた。何かしらはげしい感動が、私の胸をはずませて、体じゅうがかっとほてるような感じであった。
「典ちゃん、典ちゃん。き、きみはどうしてこんなところへやってきたのだ」
典子は甘えるように、私の胸にすがりつくと、
「お兄さまを探しに来たのよ。ここへ来れば、ひょっとすると、お兄さまに会えるかもしれないと思って、あたし昨夜もそのまえの晩も、ここへ来てお兄さまを待っていたのよ。だって、もうずいぶん長いこと、お兄さまに会えないんですもの」
ああ、なんという激しい典子の恋情であろうか。私に会えるかもしれないという一|縷《る》ののぞみのためには、彼女はいかなる暗闇も、いかなる底なしの|洞《どう》|窟《くつ》も、物の数とは思わぬらしい。私はなんともいえぬいじらしさに胸がしめつけられるような感じであった。
「ああ、そう、それは悪かったね。ぼく、いろいろ忙しかったものだから、つい抜け出すことができなかったのだよ」
「いいのよ、いいのよ。お姉さまが御病気なんですもの、あたし、わがままはいえないわ。それに、今夜、こうしてお眼にかかれたんですもの。こんなうれしいことはないわ」
私はあまりのいじらしさに、思わず強く典子の体を抱きしめてやった。典子はうれしそうに、私のなすがままにまかせている。典子の心臓の鼓動と、私の胸のときめきが、ひとつになって、互いの体につたわった。
私はしばらく、典子の髪の毛をなでていたが、しかし、すぐにこんなことをしている場合でないことに気がついた。
私はそっと、典子の肩から手をはなすと、
「典ちゃん」
「なあに」
「きみはいつここへ来たの、きみがここへ来たとき、何か変わったことはなかった?」
私の質問に、典子もはっと気がついたらしい。にわかに|怯《おび》えの色を眼にうかべると、
「ああ、そうそう、お兄さま、ちょっと変なことがあったのよ。典子が向こうのふたまたのところまで来たときだったわ。この辺から恐ろしい悲鳴が聞こえてきたのよ。それで典子、びっくりして、ふたまたのところで立ちすくんでいると、だれかひとが、転げるように典子のそばをすりぬけていったの。猿のように小さなひと。……ええ、それこそ、こけつまろびつお宅のほうへ走っていったのよ」
どうやらそれは、小竹様であったらしい。
私は息をはずませて、
「それで、典ちゃんはどうしたの」
「どうもしやあしないわ。びっくりしてそこに立ちすくんでいたわ。すると、またこの辺から二度三度と、恐ろしい悲鳴が聞こえてきたの。しかも、どうやら助けを呼んでいるらしいので、あたし怖かったけれど、そっとこっちへ来てみたの」
私は典子の大胆さに、舌をまいて驚嘆するばかりだった。
「それで、その悲鳴はその後どうなったの」
「あたしがこっちへ近づくにつれて、その悲鳴はだんだん遠くなっていくの。そして、しまいにはとうとう聞こえなくなってしまったわ。きっと、この|洞《ほら》|穴《あな》の、ずっと奥のほうへ行ったにちがいないのよ」
ああ、|何《なん》|人《ぴと》かが泣き叫ぶ小梅様を、真っ暗な底なしの洞窟の奥にひきずりこんだのだ。私はなんともいえぬ恐ろしさに膝頭がガクガク鳴って、舌がぴったり上あごにくっついてしまったのだった。
黄金紛失
私は提灯に灯をつけなおすと、典子とふたりで、あらためて、「猿の腰掛」のあたりを調べてみた。
なるほど、湿った土の上に、入り乱れた足跡がついており、さらに何かをひきずっていったらしい跡が、ながく洞窟の奥までつづいている。いうまでもなくそれは、小梅様をひきずっていった跡にちがいなかった。
相手が何者にもあれ、そのとき小梅様は、|鷲《わし》につかまれた|小雀《こすずめ》、猛獣のあごに落ちた|小兎《こうさぎ》も同様だったであろう。残忍な悪魔の小わきにかかえられて、絶望的な叫びをあげながら、真っ暗な洞窟の奥へひきずりこまれていく小梅様の姿を想像すると、私は全身の血も凍るばかりの思いであった。
「典ちゃん、典ちゃん、そしてその声は、たしかにこの洞窟の奥のほうへ消えていったのだね」
「ええ、そうよ。とても悲しそうな声だったわ。お兄さま、あたし当分あの声が、耳について離れないと思うわ」
典子は思い出したように肩をふるわせる。私は提灯をかかげて、地下洞窟の広場の奥を調べてみた。私たちはいままでこの広場までしか来たことはないけれど、この広場からさらに奥へむかって、長い、複雑な地下迷路がつづいているらしいのだ。
「お兄さま、この奥のほうへ行ってみましょうか」
「典ちゃん、その勇気ある?」
「あるわ。お兄さまといっしょなら」
典子は|皓《しろ》い歯を出して笑った。
典子は、月足らずでうまれた|繊弱《せんじゃく》な娘である。しかし、この繊弱な体の中には、不思議に大胆で楽天的な魂が宿っているのだ。いやいや、彼女の大胆さも楽天気質も、みんな私に対する信頼から生まれくるのかもしれぬ。愛する者のそばにさえいれば、どんな危険も恐れない。――というよりは、危険なんかありっこないと信じているのだ。典子は生まれたての赤ん坊のように、素朴で単純な娘であった。
「うん、奥へ行ってみてもいいが、そのまえに一応、『猿の腰掛』を調べてみよう」
私には小竹様の言葉が気になっていた。仏が生きて動き出した――と、小竹様はそういっていたが、それの真否をたしかめてみなければならぬ。私は「猿の腰掛」へとってかえすと、たかだかと提灯をかかげて、|龕《がん》の上をふりあおいだが、やっぱり私の思っていたとおりであった。
あの無気味な鎧武者は、依然として石棺の上に腰をおろし、|兜《かぶと》の|廂《ひさし》の下から、|蝋《ろう》|化《か》した眼で、まじまじと私たちを見下ろしている。ただ、その座っている位置が、このまえ私が見たときと、少しちがっているように思われる。してみると、だれかがあの屍蝋を取りのぞき、石棺のふたをとってみたのではあるまいか。
私はふいに、ハッとあることに気がついた。あの石棺の中には、大判が三枚あるはずだ。私はそれを見つけたけれど、もとのところへしまっておいたのである。あの大判はまだあるだろうか。
「典ちゃん、ちょっと待ってて……ぼく、|龕《がん》の上にあがってみる」
私は龕の上によじのぼると、鎧武者をとりのけて、石棺のふたをひらいて中を調べてみたが、そのとたん全身から熱汗がさっと吹き出すのを覚えた。石棺の中には、もう大判はなかったのである。
ああ、だれかが黄金三枚を持ち去った。……私はなんともいえぬ失望と同時に、自分自身に対する激しい憤りを感じたことだ。自分はなぜ、あの黄金を持ってかえらなかったのだろう。なぜ、こんなとこへそのままおいていく気になったのだろう。
大判はだいたい四十三、四匁はあるらしい。その中に含まれている|金《きん》の量をおよそ八〇パーセントとしても、四十匁として三十二匁の金があるはずだ。いま、金の値段を一匁二千円として大判一枚で六万四千円の価値があり、したがって、大判三枚を失ったということは、約二十万円の富を失ったことになるのだ。だが、私が歯ぎしりが出るほど悔しかったのは、単に二十万円の損失ばかりではない。
あの三枚の黄金こそは、この洞窟のいずこかに、|莫《ばく》|大《だい》な財宝が埋もれているという、何よりのたしかな証拠なのだ。あの三枚の黄金を手に入れた人物も、そこのところに気がつきはしまいか。もし、そいつもそれに気がついたとしたら、きっと財宝を探し出そうとするにちがいない。もしそうなったら私は、宝探しにおいて、恐るべき強敵を持つことになるのではないか。
ああ、自分はなぜあの黄金を、もっと安全なところへ隠しておかなかったのだろう。……
「お兄さま、どうかなすって? そのお棺の中に何かあって?」
典子の声に私はハッとわれにかえった。
「ああ、いや、なんでもないんだよ」
私は額にねばつく汗をぬぐうと、もとどおり石棺にふたをし鎧武者をまえの位置に座らせて、龕の上からとびおりた。
「お兄さま、どうなすったの、お顔の色が真っ青よ」
さもあろう。そのとき私は、掌中の|珠《たま》をとられたような、ひどい失望を覚えていたのだから。
「ううん、いや、なんでもないんだよ」
私は|強《し》いて心を取り直すと、
「曲者はね、典ちゃん、あの鎧武者のうしろに隠れていたのだよ。そこへ、小梅様と小竹様が、何も知らずにやってきたのだ。そして、あの鎧武者にお参りをしているところへ、いきなり上から躍りかかって、小梅様をかかえて、洞窟の奥に逃げこんだのだよ」
「まあ!」
典子は大きく眼を見はって、
「ま、それじゃさっきの叫び声は、小梅伯母さまでしたの」
「そうなんだよ、そして、さっき典ちゃんが、すれちがったのは小竹伯母さんだったんだ」
「まあ」
典子はいよいよ驚いて、
「でも、伯母さまがたは、どうして、こんなところへ来られたんですの」
「いや、それにはいろいろ事情があるんだが……」
「そしてまた、小梅伯母さまをひっさらっていった曲者というのはだれなんですの、小梅伯母さまを洞窟の奥にひっぱりこんで、いったい、どうしようというんですの」
ああ、そのことなんだ。私はそれを恐れていたのだ。
八つ墓村にはいま、わけのわからぬ気ちがいじみた計画が、|何《なん》|人《びと》かによって推し進められている。そいつは村でふたつならんだ人物の片っ方を、かたっぱしから殺そうとしているのだ。そして、小梅様と小竹様こそは村じゅうでも、もっとも典型的な二|幅《ふく》|対《つい》ではないか、いやいや、現に犯人が、こんな気ちがいじみた計画を思いついたのも、もとはといえば、|双《ふた》|児《ご》杉の一本が、雷に打たれて裂かれたところより起こったのではないか。その双児杉の名をそのままにうけついだ双児の小梅様と小竹様のどちらかが、早晩、犠牲者のひとりに選ばれるということは、予測される事実ではなかったのか。
私は体じゅうに|鳥《とり》|肌《はだ》の立つ寒さを覚えた。あの猿のようにちんまりとした、抵抗力のない老婆が、凶手にたおれるところを想像すると、何かしら無残絵でも見るような陰惨な気持ちにうたれずにはいられなかった。相手が何者にしろ、あのような老婆を殺すことは、ボロぞうきんをひきちぎるより容易なことであるだろう。
「お兄さま、行きましょう。あれが本家の伯母さまだとしたら、このまま捨ててはおけないわ。ねえ、そのへんまで探しにいってみましょう」
女というものは、いざとなると、だれでもこんなに勇気があるものだろうか。典子は私よりよっぽど勇敢だった。典子にうながされて、私もやっと決心がついた。
「うん、よし、それじゃ探しにいこう」
そうはいったものの、すぐ、私たちははたと当惑してしまったのだ。
それというのが、この地下広場には、さっき私たちが通ってきた道のほかに、三つの道が奥へ向かってひらいているのだが、そのうちのどれをたどっていけばよいのか見当をつけかねたからである。私たちは注意ぶかく、地面を調べてみたけれど、小梅様をひきずった跡は、もうそのへんでは消えていた。おそらく曲者は小梅様を、背負うか抱くかして、奥の洞窟へ逃げこんだのだろう。小梅様はあんなに年老いて小さくしなびているのだから、それはなんの|造《ぞう》|作《さ》もないことであったろう。
「困ったわね」
「困ったね」
「どれでもよいから、でたらめに行ってみましょうか」
典子はいよいよ勇敢である。しかし、私はそれほどの向こう見ずにはなれなかった。
「そんなことはできないよ、洞窟の奥に何があるかわからないからね」
「そうねえ」
私たちは顔見合わせてためらっていたが、そのときだった。私たちの背後から、あわただしい足音をさせてだれかがちかづいてくる様子に、私も典子も、ギョッとしてふりかえった。
と、見れば、曲がり角の向こうから、提灯の灯がひとつ、ポッカリ現われたかと思うと、
「あ、そこにいるのは辰弥さんじゃない」
そういう声は、たしかに姉の春代だった。私はほっと胸をなでおろしながら、
「ああ、姉さん、あなた、どうしてここへ来たんです。大丈夫ですか、そんなことをして……」
「ええ、いいの。あたし気になったもんだから、……それにあなたにお渡ししたいものがあって……」
「なんですか、ぼくに渡したいものって……」
「これなの」
春代は足早にちかづいてきたが、そこではじめて典子の存在に気がついて、
「まあ!」
と、びっくりしたように眼を見はった。
「典子さん、あなたもごいっしょでしたの」
「ええ、偶然、ここで落ち合ったのですよ。それで、姉さんぼくに渡したいものって?」
典子のことを説明しようと思えば長くなる。めんどうだから私は、できるだけそのことに触れないようにして姉をうながすと、
「ええ、これ、ほら、いつかお話ししたでしょう。離れで拾った地図のようなもの。……あたし、さっき気がついたのだけど、この地図の中に、『猿の腰掛』という地名が書き込んであるでしょう。それで、ひょっとしたら、これこの地下道の地図じゃないかと思って、急いでとどけにきたんですよ」
はっと私は胸を躍らせた。まえにもいったように、私はこの地図を手に入れたくてウズウズしながらも、姉を欺くうしろめたさに、今日まで切り出す勇気が出なかったのだ。それをこんど計らずも、姉のほうから持ってきてくれたのだから、心中、飛び立つ思いであった。しかし、できるだけそういう様子は押しつつんで、
「ああ、そう。ありがとう。実は、小梅伯母さまはこの洞窟の奥へひきずりこまれたらしいのですが、どの道を行ってよいかと、いま迷っていたところなんです」
「ああ、そう、それなら真ん中の道にちがいないわ。だって、御覧なさい、ほかのふたつの道は、すぐその向こうで袋になっているんですもの」
提灯の灯で地図を調べてみると、なるほど、「猿の腰掛」のある地下広場から、奥へひらいている三つの道のうち、両端のふたつは中へ入ると間もなく袋になっているらしい。そして、真ん中の道だけが、羊の腸のようにくねくね曲がりながら、どこまでも奥へつづいているのである。
私はもっと詳しくこの地図を調べてみたかったのだけれど、いまはそんなことをしているひまはなかった。
「それじゃ、ひとつこの洞窟をさぐってみましょう。ありがとうございました。姉さん、あなたはおかえりなさい」
「ええ、でも……典子さんは?」
「典ちゃんはぼくといっしょに、行くといっているんです」
「典子さんが行くなら、わたしも行きます」
姉の語気の中に、なんとなくおだやかならぬものがあったので、私は思わず顔を見直した。姉の顔は妙に|強《こわ》|張《ば》っている。
「姉さん、だって、それじゃ小竹伯母さまは……?」
「伯母さまには眠り薬を差し上げておきました。よく眠っていらっしゃいますわ。とにかくわたしもいっしょに行きます」
おこったようにそういうと、姉はみずからさきに立って、どんどん洞窟の中へ入っていった。いつもの姉に似合わない、|依《え》|怙《こ》|地《じ》な今夜のそのそぶりに、私はびっくりして典子と顔を見合わせた。
ああ、姉はどうしてあんなに急に、おこったような顔色を見せたのであろうか。そしてまた、私たちは、この洞窟の奥に、いったい何を発見するのだろうか。
第六章 春代の激情
私はずっと以前に、鍾乳洞を舞台にした、探偵小説を読んだことがある。
その小説のトリックやプロットはともかくとして、鍾乳洞における殺人という着想が、私にはたいへん興味ふかかったし、また鍾乳洞の光景の、ロマンチックな描写が、当時私を魅了し、そんなに美しいところなら自分も一度、行ってみたいなどと、夢のようなことを考えたものである。
いまその本が手元にないので、ハッキリとしたことはいえないが、ウロ覚えに覚えている、記憶の底をさぐってみると、そこには次のような文章があったように思う。
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――入り口からしばらくの間は、石灰岩の天井が低く垂れ下がって、頭をかがめなければ歩けないのですが、行くほどに天井もしだいに高くなり、|蛍《けい》|石《せき》の結晶した壁が、百千の宝石をちりばめたように、うつくしく、|燦《さん》|然《ぜん》と、闇の中にかがやいているのでした。……
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それからまた、鍾乳洞にある天然の大広間については、次のような描写があったのを覚えている。
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――天井の高さは百フィートもありましたろうか。幾百、幾千と知れぬうつくしい鍾乳石が、氷柱のように一面に懸垂しています。しかも大広間の天井の中央からは、真珠色をした巨大な天然のシャンデリアの|総《ふさ》がキラキラと垂れ下がり、周囲の壁には、奇怪な天然の彫像や唐草模様が、燦然として、眼も|綾《あや》な色彩を織りなしているのです。それはまるで、古代の宮殿をそのまま、さらに幾倍か崇高華麗にしたかのようなながめでした。……
[#ここで字下げ終わり]
しかし、事実と小説とのあいだには、大きなひらきがあることを、いま、私たちが探検している、この洞窟が如実に示しているのだ。
姉のあとに従って、典子と私が進んでいくこの洞窟は、たしかに鍾乳洞の様相を示していた。天井が低くていたるところに氷柱のような鍾乳石が垂れさがっている。周囲の壁には一面に、不透明な色をした、天然の彫像や唐草模様が織り出されていた。たしかにそれは、一種の奇観にはちがいなかったが、さりとて、小説に書かれているほどきれい事でも、また、ロマンチックなものでもなかった。
足元も、周囲の壁も天井も、一面にじめじめしていて、ときおり、|襟《えり》筋へおちて来る水滴が、ひやっと私たちを跳びあがらせた。じっとりしめった空気は、重く、暗くよどんでいて、けっして|爽《そう》|快《かい》な肌触りとはいえなかった。いわんや、百千の宝玉をちりばめたように、うつくしく燦然とかがやく蛍石など、私たちの周囲のどこにも見られなかった。
私たちは、ただ、無気味な底なしの洞窟を、限りない不安をいだいて、まるで盲人のように、手探り、足探りで歩いていくのだ。私たちのすすんでいく、周囲二、三メートルぐらいは、提灯の灯でほのかに浮かびあがっているけれど、その光の輪の外は、まえもうしろも、一面に重っくるしい闇につつまれている。私は不安と焦燥に、しだいに息苦しさを覚え、できることなら、このままもとの道へとってかえしたいと、何度考えたかしれぬくらいである。
こんな場合、女たちのほうが、男より勇気があるのだろうか。私がそんなふうに|尻《しり》|込《ご》みを感じているにもかかわらず、姉の春代や典子は、そのような|気《け》|振《ぶ》りも見せず、黙々として、闇の洞窟をすすんでいく。姉の春代は二、三歩さきに、典子は私によりそうようにして……だれもひとことも口をきかなかった。
この洞窟には無数に|枝《えだ》|道《みち》があるらしく、私たちはときおりふたまたのわかれ道につきあたった。そのたびに姉の春代はたちどまって、提灯の明かりで地図を調べていたが、やがてまた、さきに立ってズンズン歩き出す。私たちにひとことも相談しないで……。
いままで何度もいったように、私はこの村へ来て以来、姉の好意を唯一の頼りに生きてきたのだ。姉はいままで一度だって、私に不快な色や挙動を示したことはない。姉はいつももの静かで、おだやかで、そのあたたかい人柄が私を気安くくるんでいてくれるのである。
それだのに、今夜の姉はいったいどうしたというのだろう。なぜ、突然、あのように依怙地な態度にかわったのであろう。私が何か悪いことをしたのであろうか。私の態度、行動に、何か姉の気にさわるようなことがあったのであろうか。
私たちはまた、何度目かのふたまたに行きあたった。例によって姉は、提灯の明かりで地図を調べていたが、やがてまた、私たちのほうへはふりむきもせず、ズンズン暗い洞窟をすすんでいく。
とうとう私はたまらなくなり、姉のうしろから追いすがると、肩に手をかけてひきもどした。
「姉さん、姉さん、ちょっと待ってください。姉さんは何をそのようにおこっているんです。なんでぼくにひとことも、口をきいてくれないんです」
提灯の灯に浮きあがった姉の顔は、蝋のように|蒼《あお》ざめて|強《こわ》|張《ば》っていた。額にはつめたい汗がビッショリと浮かんでいる。
姉は切なさそうにあえぎ、あえぎ、
「あたし……あたし……何もおこっちゃいませんわ」
「いいえ、姉さんはおこっています。何かぼくにおこっています。姉さん、堪忍してください。ぼくに悪いところがあったらあやまります。どこが悪いのかいってください、ぼく、きっと、姉さんのいうとおりにします。その代わり、姉さんもきげんを直して……ぼく……ぼく……姉さんにそんなにつめたくされると、どうしてよいのかわかりません」
姉はだまって私の顔を見つめていたが、急にその顔がクシャクシャと、子どもがベソをかくときのようにゆがんだかと思うと、
「辰弥さん」
だしぬけに私の胸にとりすがり、声をあげて泣き出した。
「姉さん、ど、どうしたんですか」
私も驚いたが、典子もびっくりしたらしい。呆気にとられて、眼を大きく見はっている。
姉は私の胸に武者ぶりついたまま、なおもはげしく泣きむせびながら、
「辰弥さん、堪忍して、堪忍して。……あたしがあなたにつめたくするなんて、そんな、そんな……いいえ、あたしが悪かったのよ。あなたに悪いところなんかちっともないの。みんなあたしが悪かったのよ。堪忍してね、堪忍してください」
姉は私の胸に顔をこすりつけ、こすりつけ、なおもはげしく泣きつづける。姉の涙が寝間着のまえをとおして、私の胸にやけつくようにしみとおった。
私は茫然として立ちすくむ。姉のこの突然の激情を、私はなんと解釈してよいのかわからなかった。したがって、姉を慰めようにも、なんといって慰めてよいのかわからなかった。私はただ、手をつかねて、姉のこの激情のあらしが、おさまるのを待っているよりほかはなかった。典子もオロオロしていたが、さりとて慰める言葉もないらしく、ただ心配そうな顔をして、姉の様子を見守るばかりであった。
だいぶたって、やっと姉のすすり泣きが、下火になったところを見計らって、私は静かにその肩をなでてやった。
「姉さん、姉さん、あなたはきっと疲れていらっしゃるんですよ。だから、なんでもないことに、感情がたかぶってくるんです。ねえ、もう帰りましょう。帰ってゆっくり休息しましょう」
「すみません」
姉はやっと私の胸からはなれると、涙をふきながら、|含《はじ》|羞《らい》の色をいっぱい浮かべて、まぶしそうに私の顔を見た。
「ほんとにあたし、今夜はよっぽどどうかしているわ。なんでもないことに腹が立ったり、急に泣き出したくなったり、……典子さん、あなたびっくりなすったでしょう」
「いいえ。それよりもあたし心配だったわ。お姉様、どこか、御気分が悪いんじゃありません」
「そうですよ、きっと。過労なんです。このあいだじゅうずうっと寝ていたくらいですものね。こんなところにいちゃ、体に毒ですよ。姉さん、もう帰りましょう」
「ありがとう。でも、あたしこのまま帰る気にはなれませんわ。小梅伯母さんの安否がわかるまでは……」
そうだ。そのこともある。あの哀れな小雀のような老婆を捨てておいて、このままひきかえすわけにもいかなかった。と、いってここからひとり、姉に引き返せというのも心もとなかったし。……
「姉さん、それじゃ、しばらくそのへんで休んでいきましょう。そうすればまた元気が出るかもしれません」
「そうねえ。では、そうしましょう」
姉はもう私の言葉にさからわなかった。
「典ちゃん、どこかそのへんに、休めるようなところない?」
「ええ、あたし、探してみるわ」
典子は提灯をかかげてそのへんを探していたが、
「ああ、お兄さま、ここがいいわ。ここなら土もしめっていないし。……お姉さま、こちらへいらっしゃいませ」
典子の見つけたのは、えぐったように彫られた壁のくぼみで、足元には|陶《とう》|枕《ちん》のように、鍾乳石のかたまりが盛りあがっていて、それがちょうど、腰をやすめるのに適当な高さになっていた。私たちはそこにならんで腰をおろしたが、姉の春代はぐったりとして、その顔色はいよいよ悪い。息づかいさえいかにも切なそうであった。
「姉さん。大丈夫ですか。そんなに無理をして……」
「いいのよ。しばらく休んでいればよくなるわ」
姉は額をもみながら、提灯の明かりに浮きあがったあたりの景色をながめていたが、
「ああ、ここきっと、『天狗の鼻』というところね」
「え、どうして?」
「だって向こうを御覧なさい。『天狗の鼻』のような岩が突き出しているわ」
姉は提灯をたかだかとかかげて、向こうの壁を指さした。
気がつくと、洞窟もそのへんまで来ると急に広くなっているのだが、姉の指さす向こうの壁のくぼみから、太い岩の棒が、なるほど天狗の鼻のように突出している。しかもその壁のくぼみに刻まれた、鍾乳石の彫刻がちょうど天狗の面のような|亀《き》|裂《れつ》を示していた。
「なるほど、そういえばあの壁は、そっくり天狗の面のような格好をしていますね」
「そうよ、だからここがきっと、天狗の鼻にちがいないわ、ほら、この地図にもそう書いてあります」
姉がひろげてみせた毛筆書きの、地下迷路の地図には、次のように、三つの地名が書きこんである。「猿の腰掛」「天狗の鼻」「|木《こ》|霊《だま》の|辻《つじ》」――そして、そこには私の地図と同じように、三首の歌が書き記してあるのだった。
[#ここから2字下げ]
麻の葉の乱れ乱れていくみちの一里塚こそ猿の腰掛
あまかける天狗の鼻に憩いなば木霊の辻に耳傾けよ
六道の鬼と仏のわかれ路よ木霊の辻を心してゆけ
[#ここで字下げ終わり]
「なるほど、そうするとあの『猿の腰掛』が、この地下迷路の第一の目印だというんですね」
「そうですよ、きっと。そしてこの『天狗の鼻』が第二の目印の場所なのね。そして、きっとこのちかくに『木霊の辻』というところがあるのでしょう」
「でも、木霊の辻に耳傾けよというのはどういうことでしょう」
典子もそばから口を出した。
「さあ、よくわからないが、天狗の鼻に憩いなば、木霊の辻に耳傾けよとあるんですから、ここで耳をすましていれば、なにか聞こえるのかもしれませんね」
私がそんなことをいっているときである。突然、姉の春代が手をあげて、
「しっ!」
と私たちを制した。
「ちょっと……あれ、なに? なんの音?」
私たち、私と典子は姉の顔色に、ドキッとして息をのんだ。
「姉さん。何か聞こえますか」
「ええ、なんだか変な声が聞こえたような気がするのだけど……あっ!」
姉はあわてて口をおさえたが、そのとたん、私もハッキリ聞いたのだ。
ヒーッというような悲鳴が一声高く、洞窟のはるか奥から、聞こえてきたかと思うと、ある間隔をたもってその悲鳴が、幾度にも幾度にもダブって、ふるえながら、こちらのほうに響いてくるのだ。そして、それにつづいてドタバタというあわただしい足音が、洞窟の奥から聞こえてくるのだが、それはまるで、幾百幾千という大軍が攻め寄せてくるように、おどろおどろととどろきわたった。
「あっ、だれか来る!」
「姉さん。典ちゃん、提灯をお消し」
私たちはいっせいに、提灯の灯を吹き消して、闇の洞窟にうずくまった。
あのおどろおどろの足音は、すぐやんだけれど、それでも、だれかが洞窟の奥から、しだいにこちらへ近づいてくるらしいことは、おりおりつまずくような足音が、何度にも何度にも、ダブッて聞こえてくるところからでもわかるのである。
ああ、わかった、わかった。さっきの悲鳴も足音も、けっして多人数によって発しられたものではないのだ。
木霊の辻――という名でもわかるとおり、この奥には、音の反響のすばらしい複雑な地下迷路が横たわっているのであろう。そこでは一度音を立てると、あちらの壁、こちらの岩へと反響して、それが何倍、何十倍と拡大されて、遠くのほうまで聞こえてくるにちがいない。
したがって、いまこちらへ近づいてくる人間も、けっしてそれほどたくさんではなく、おそらくひとりではあるまいか。もし、ふたり以上ならば、たまには話し声も聞こえてこなければならぬはずである。
ガタ!
また、だれかがつまずいたらしい。すると、それにつづいて、
ガタ!
ガタ!
ガタ!
ガタ!
ガタ!
と、同じような音が、しだいに間遠に、|不明瞭《ふめいりょう》になりながら、しめった空気の中をふるえてくる。
「|木《こ》|霊《だま》ね」
典子もようやくそのことに気がついた。
「うん、木霊だ」
「しっ、だまって! だいぶこっちへ近づいてきましたよ」
もうその足音は、木霊の辻をぬけ出したらしい。不明瞭な反響はなくなったけれど、その代わり、ヒタヒタとしのびやかな足音がしだいにこちらへ近づいてくる。私たちが息を殺して待っていると、やがて、向こうの岩角から、ユラユラゆれる光の輪があらわれた。どうやら相手は懐中電燈を持っているらしい。私たちは思わず壁のくぼみに背をすりよせた。
懐中電燈の光の輪はユラユラゆれつつ、しだいにこっちへやってくる。二十歩――十五歩――十歩――五歩――ああ、とうとう、その男が私たちのまえまでやってきた。
幸い私たちのいるところは、壁のくぼみになっているので、相手は気がつかなかったけれど、そいつが眼のまえを通りすぎるとき、私たちはハッキリその姿を認めたのだ。
それは|鼠《ねずみ》色の衣をまとうた、麻呂尾寺の英泉さんであった。
鬼火の淵
その夜、私たちは、結局、小梅様のゆくえを突き止めることができないままに、途中からあきらめて、スゴスゴ引き返さねばならなかった。
なにしろ、地下の迷路はひろく、ふかく、かつ、はてしがなかったし、それにまた、姉の春代の容態が、しだいに悪くなる一方なので、それ以上、冒険をつづけるわけにはいかなかったのだ。
姉の気分が急にまた、悪くなり出したのは、たしかに英泉さんの影響だった。いまの姉の健康では、極力、強い刺激や興奮を、避けなければならなかったのに、あのときの、思いがけない英泉さんの出現は、姉のみならず、われわれ一同にとって、たしかに大きなショックだったのだ。
おお、あのときの英泉さんの顔! 眼玉はとび出し、小鼻はふるえ、ガクガクあごが鳴っていた。……あのすさまじい、なんとも名状することのできぬ凶悪な表情は、いったい何を意味するのだろうか。私は、そういう英泉さんの顔が、眼前数尺のところを通りすぎるのを見たとき、ヒヤリと、つめたい刃を心臓に、あてがわれたような恐ろしさを感ずると同時に、すぐ、いつか、どっかでこれと同じような表情を見たことを思い出した。
いつ、どこで……?
長く考えるまでもなく、私はすぐに思い出した。いつかの夜、そうだ、濃茶の尼が殺された晩、つるはし片手にぬき足さし足忍び足で、坂を下ってきた慎太郎の顔! おおあのときの慎太郎の、ものすさまじい表情と今夜の英泉さんの凶悪な顔。……そこにはなにか一脈相通ずるところがありはしないか。あとから思えばあの夜の慎太郎は、たしかに濃茶の尼の殺害と、なんらかの意味でつながりを持っていたのだ。では、今夜の英泉さんは……? かれはこの洞窟の奥で、いったい、何をし、何を見てきたのであろうか。……
それはさておき、英泉さんの思いがけない出現は、姉をすっかりぶちのめした。私たちは英泉さんの姿が見えなくなり、足音が聞こえなくなるのを待って、提灯に灯をともしたが、そのときの姉の顔色ったらなかった。全身から最後の血の一滴を吸いとられたように真っ青になって、額にはいっぱい、つめたい汗がうかんでいた。吐く息さえも苦しげで、いまにも気を失いそうな顔色だった。
私たちはそこでちょっと、英泉さんの奇怪な行動について話しあったが、姉はもう、そんなことを聞いたり話したりするのさえ|億《おっ》|劫《くう》そうであった。心臓をおさえてうつむいた姉の額からは、ますますはげしく、つめたい汗がふき出てきた。
とうとう典子は、たまりかねたように叫んだ。
「お兄さん、もう帰りましょう。このままじゃ、お姉さま倒れておしまいになりますわ。洞窟の探検は、また明日でもあらためてやりましょう」
姉の春代は、もうそれ以上強情は張らなかった。私たちはそれから間もなく、左右から姉の体を抱えるようにして、最初のふたまたのところまで来ると、そこで典子とわかれて、もとの離れへ帰ったのである。
その晩、私は一睡もしなかった。姉も姉だけれど、小梅様のことも気がかりだった。私はその夜、二度と洞窟へもぐりこむ気にはなれなかったけれど、これをこのまま捨てておいてよいだろうかと思い惑うた。いずれ明日になったらもう一度、洞窟の中へ入ってみるつもりだけれど、もし、そこに発見するのが、すでにつめたくなっている小梅様の死体であったら……?
おお、そのときは何もかも明るみへ出てしまう。洞窟の秘密も、小梅様や小竹様の昔の|罪《ざい》|業《ごう》も。……それはしかたがないこととして、あの洞窟の秘密が暴露したら、それが私の身の上にどういう影響を持ってくるだろうか。私は毎夜おとなしく、この離れに寝ていることになっているのだ。それがああいう抜け道を持っていて、どこへでも自由自在に抜け出すことができるとわかったら、警部をはじめ村のひとびとは、いったい私をどう思うだろうか。それでなくても私はいま、疑惑の中心におかれているのに。
私は恐怖のために寝床のなかで、体が焼かれる思いであった。全身がカーッともえるように熱くなるかと思うと、また急に氷のようにつめたくなったりした。のどがヒリヒリひりつく思いで、いくどか枕元の水差しから、ゴクゴクと水を口飲みにした。
そういう不吉な|想《おも》いを追っぱらうために、私は強いても英泉さんのことを考えてみる。英泉さんはこんどの事件に、いったい、どういう関係があるのであろうか。私はいつか英泉さんに、思いがけない|誣《ぶ》|告《こく》をうけたことを思い出した。それからまた、英泉さんの不思議な旅立ちのことを思いうかべた。英泉さんの旅立ちは、ちょうど神戸で不思議な人物が、私の身元を調査してまわっていた期間と一致する。ああ、英泉さんはいったい私をどうしようというのだ。……
突然、私ははじかれたように寝床の上に起きなおった。そして枕元に張りめぐらされた三酸図|屏風《びょうぶ》に眼をやった。屏風にかかれた仏印和尚。――山方の平吉はこの離れへ寝ているあいだに、その和尚が抜け出すのを見たという。そして私もいつかの夜、同じ錯覚を感じたのだが、ひょっとすると、あれは英泉さんではなかったか。
私はその夜見た、英泉さんの鼠色の衣を思い出した。ああいう姿でしのんできたら、屏風の絵と見まがうのも、かならずしも不自然ではないし、また、ああいう姿で忍んでくるものは、英泉さんよりほかにはない。そうだ。あの地下の抜け孔を通って、たびたびこの離れへしのんでくるのは、麻呂尾寺の英泉さんだったのだ。私はもう一度、こんどの事件をはじめから考えてみる。すると、この事件全体が、|因《いん》|縁《ねん》|因《いん》|果《が》に終始していて、ひどく|抹《まっ》|香《こう》くさいことに気がつく。そして、英泉さんは坊主ではないか。
ああ、それでは犯人は英泉さんだったのか。いや、きっとそれにちがいない。
私はあまりの恐ろしさと興奮に、寝床のなかでガタガタふるえた。全身からまた、つめたい汗がふき出した。
それはさておき、そうしてひと晩、|輾《てん》|転《てん》|反《はん》|側《そく》しながらも私はもしやと、小梅様のかえりを待っていたが、夜明けになっても、とうとう大伯母はかえってこなかった。私は思い惑い、どうしてよいかわからなかったが、とにかく姉に相談してみようと、彼女の寝室へ出向いていったが、すぐ姉はもう相談相手にならないことをさとった。
彼女は蒼い顔をして、打ちくだかれたようにぐったりと眼を閉じていた。そばには睡眠剤がまだきいているのか、小竹様が男のようないびきをかきながら眠っていた。
「辰弥さん、あなたのよいようにしてください。あたしにはもう何を考えることも、何をすることもできないの」
私が相談をかけると、姉はうっすらと眼をひらいてそういったが、すぐまたものうげに閉じてしまった。
「そうですか。それではぼく、これから駐在所へ行ってみます」
駐在所ときいて、姉はギョッとしたように眼をひらいたが、すぐ、寂しそうにうなずいて、
「そうね、そうしたほうがよいかもしれないわね。いや、そうしなければならないかもしれないわね。伯母さまがたにはお気の毒だけれど……」
そばに寝ている小竹様のほうをふりかえると、姉の眼からは、みるみる露のような涙がわきあがってきた。
「それじゃ、姉さん、行ってきます。ひょっとするとお巡りさんがおおぜいやってくるかもしれませんが、伯母さまにはなんとかうまくとりつくろってください」
「ええ。いいわ。あなたこそ御苦労さま」
駐在所では磯川警部が、ちょうどいま起きたところだったが、私の話をきくと、まるで爆弾でも|炸《さく》|裂《れつ》したようにびっくり仰天して、大きく眼玉をひんむいた。そして何かせきこんで聞こうとしたが、すぐ思い直したように、部下を走らせて、金田一耕助を呼び寄せた。金田一耕助はとるものもとりあえず、西屋から駆けつけてきたが、この騒ぎをきいて眼をさましたのだろう。美也子もいっしょについてきた。
この際、美也子の顔を見たことが、どんなに私を力づけてくれたかわからない。私はこれから、いよいよ四面|楚《そ》|歌《か》の取り調べをうけなければならないのだ。警部や金田一耕助は、いちいち私の言葉に疑いを持つだろう。そういう疑惑のまなざしにとりかこまれて、取り調べの矢面に立つことが、どんなに苦しい、つらいことか。私はあらかじめ覚悟をきめてきたつもりだけれども、それでも、ひとりでも味方がそばにいてくれるほうが心強かった。
磯川警部はもう一度、金田一耕助のまえで同じ話を繰りかえさせた。そして、ときどき言葉をはさんで、さっき聞きもらしたことを、根掘り、葉掘り聞き直したりした。
金田一耕助は、しだいに興奮の色を見せて、ガリガリ、ガリガリ、むやみやたらと頭をかきまわしていたが、やがて私の話がおわると、唖のようにおしだまって、私の顔を見つめていた。そして、だいぶたってからため息まじりにこんなことをいったのだ。
「辰弥さん、私はいつか――はじめてあなたにお眼にかかったとき、御忠告しておいたはずですがねえ。今後なんでも怪しいと思うこと、|腑《ふ》に落ちぬと思うことがあったら、すぐにわれわれに告げてくださいと。……それでないと、あなたはいま、微妙な立場に立たされているのだから、今後どのような不利なことになるかもしれないと……」
「申しわけありません」
私は率直に頭をさげた。
「つい、好奇心にひきずられたのと、自分で解決できることなら、人手をかりずにやってみたいと思ったものですから……」
「危ないもんですな。とかく、そういう無鉄砲が、身を滅ぼすもとになるんですよ。ところで、警部さん、さしあたり何から手をつけていくつもりですか」
「何からといって、とにかく鍾乳洞の中を調べてみよう。小梅様がさらわれたというのだから、捨ててはおけない」
「英泉さんのほうは?」
「ふむ英泉にも話をきかねばならないが……辰弥さん、洞窟の中で英泉を見たというのはまちがいじゃないでしょうな。まさか、他人をおとしいれようというのでは……」
「と、とんでもない。英泉さんを見たのは、ぼくひとりじゃないんです。姉さんも典ちゃんも、ちゃんといっしょに……」
と、そこまでいってから、私はしまったとくちびるを|噛《か》んだ。果たして、警部も金田一耕助も、さては森美也子までが、疑惑にみちた眼を大きく見はって、まじまじと私の顔を見直したのだ。
警部は薄気味悪い微笑をうかべて、
「典ちゃん? 典ちゃんてだれです」
「はあ……その……里村慎太郎さんの妹の、典子さんのことです」
「それはわかっているよ。しかし、さっきのきみの話では、その女性の名は出てこなかったね。春代さんときみのふたりが、洞窟へ入っていったようにいっていたが……」
「はあ、その、……なにしろ、相手が若い女性のことですから、こんな事件に巻き添えにしたくないと思ったものですから。……」
私はもうしどろもどろだった。
警部はふたたび、ものすごい微笑をうかべて、
「まあ、よろしい、よろしい。きみはいったいどこまで真実を語っているのかわからん。いまに、すっかり泥を吐かせてあげる。とにかく、そういう抜け孔があって、きみが自由自在に外へ出ることができたとなると、これまでの事件――とりわけ濃茶の尼の妙蓮殺しの場合における、きみのアリバイをもう一度検討しなおす必要があるが、まあ、それはあとのことにして、とりあえず小梅様の捜索にとりかかることにしよう」
警部はそこで必要な手配り、ならびに英泉さんの|拘《こう》|引《いん》を部下に命じておいて、駐在所を出発、東屋の離れへ向かうことになった。むろん金田一耕助もいっしょだったが、美也子もわれわれについてきた。
みちみち美也子は私の手を握りしめ、
「辰弥さん、何も心配なさることはないのよ。だれがなんといったって、あたしはあなたを信用してるわ。警察のひとたちや、村の連中がどんなことをいったって、けっして気になさらないでね」
「ええ、ありがとう。ぼくもその気でいるんですが……」
「そう、気を大きく持っていらっしゃいね。ときに春代さんがまたお悪いんですって?」
「ええ、昨夜のショックですっかりまいっています。ここで警部からやたらに取り調べをうけたら、どんなことになるかと思うと、ぼくはそれが心配で……」
「いいわ。あたしが警部さんにいって、取り調べはできるだけ先にのばしてもらうことにするわ。ほんとに春代さまもお気の毒に……そうでなくとも心臓がお弱いんですものね」
このとき私は美也子を得たことによって、どれだけ心丈夫であったかわからないのだ。ただ一人頼みとする春代があの調子で全然相談相手にならぬのみならず、かえって手のかかる現在、美也子のようにテキパキとした、才|長《た》けた味方がそばにいてくれることを、私はどのように感謝したかわからなかった。
「なにぶんよろしくお願いします」
やがて私たちの一行は、東屋の田治見家へ着いた。奉公人たちも、うすうす小梅様の|失《しっ》|踪《そう》に気がついているらしく、よりより集まって、不安そうに協議をしているところだったが、そこへ、どやどやと警部の一行が乗り込んだものだから、みな眼を見はって顔を見合わせていた。
幸い、警部は姉の取り調べはあとまわしにして、すぐ洞窟へ入るといい出した。そこで私は、あとのことは、万事美也子にまかせておいて、磯川警部と金田一耕助、それに刑事のふたりを奥の離れへ案内した。そして、私たちはすぐに、あの長持の底から、地下の洞窟へ入りこんだのである。
金田一耕助はこの長持の仕掛けや、また地下の抜け孔をいかにも物珍しげにながめていたが、別にそれについて、批評がましい言葉は出さなかった。私は警部から借りた懐中電燈をたずさえて、一行のいちばん先頭に立った。警部をはじめ三人のひとびとは、黙々として私のあとからついてくる。
私たちは間もなく、岩のくぐりを抜けて、最初のふたまたのところまでやってきた。私が無言でそのふたまたを「猿の腰掛」のほうへ行こうとすると、警部は私を呼びとめて、
「この道を、あっちへ行くとどうなるのかね」
この質問こそ、私にとっていちばん痛いところなのだが、もうこうなっては、かくしていることもできなかった。
「はあ、こっちへ行くと濃茶へ出ます」
「なに、濃茶?」
警部はギョロリと眼を光らせて、
「きみはこの道を行ったことがあるのか」
「はあ、一度だけ……」
「いつ?」
「妙蓮さんが殺された晩……」
「辰弥君!」
警部が声をいからせて、何かいおうとしたときだった。
「まあまあ、警部さん、そのことはいずれあとできくとして、ここはともかく一刻も早く奥を探検してみようじゃありませんか」
そこでまた私たちは、黙々として洞窟の奥へすすんでいった。
やがて「猿の腰掛」へやってくると、私は懐中電燈で屍蝋を示し、簡単に事情を説明した。警部をはじめ金田一耕助や二人の刑事も、この屍蝋ならびに私の奇怪な物語には、いたく心を動かしたらしい模様だったが、これまた耕助の発案で、万事はあとで調べることにして、一刻も早く、洞窟の奥を探ろうということになった。
私たちは間もなく「天狗の鼻」へさしかかった。私はそこでも簡単に、もう一度昨夜の話をくりかえすと、やがてそこを離れていよいよ「木霊の辻」へ足を入れることになったのだ。
「天狗の鼻」までは私もやってきたことがある。しかし、それからさきは全然未知の世界だったので、私は足元に気をつけながら、一歩一歩慎重に足を運んだ。しかしすぐに私たちは、いま自分たちの歩いているのが「木霊の辻」であろうことに気がついた。それというのが私たちの足音、|咳《せき》|払《ばら》い、ちょっとした物音でも、すばらしい反響をともなって、しばらく鳴りやまないからだ。ここで一声叫んでみたら、さぞやすばらしい効果をあげるだろうと思わざるをえなかった。ああ、そのとき私は何も知らなんだのだ。それから間もなく「木霊の辻」で、どのような劇的シーンが演じられねばならなかったかということを。
それはさておき「木霊の辻」を過ぎてから間もなくのことだった。私は突然あっと叫んで立ちすくんでしまった。
「ど、どうしたんですか。な、何かありましたか」
金田一耕助が、あわててうしろから駆けよった。
「金田一さん、あ、あれを……」
そういいながら、私は急いで、懐中電燈を消してみた。
と、どうだろう。私たちの足元からはるか下にあたって、|閃《せん》|々《せん》として、何やら光るものが見えるのである。金田一耕助も、磯川警部も、さらにふたりの刑事たちも、私にならって急いで懐中電燈の灯を消した。
と、ねっとりと|澱《よど》んだ漆の闇の底のほうから、|蛍火《ほたるび》のように淡いかがやきが、点々として、そこら一面に燃えているのが見えたのである。
「なんだろう」
「なんでしょう」
しばらく私たちは息を殺して、その淡い、青白いかがやきを見つめていたが、やがてまた私は懐中電燈をともし改めて自分の周囲を見回した。そして、自分がいま地底の|崖《がけ》ともいうべき|断《だん》|崖《がい》の上に立っていることに、はじめて気がついたのである。私は驚いて崖の下をのぞいてみた。そして、そこに青黒い水が、死んだようにトロリと澱んでいるのを発見したのであった。
鬼火の|淵《ふち》!
そうだ、これこそ「鬼火の淵」にちがいない。身をやく渇によし狂うとも、けっしてそこの水をのんではならぬと注意書きのついている鬼火の淵……ああ、私はいつか、姉の地図の限界を踏み越えて、自分の地図の領分まで踏みこんでいたのだ。してみれば、「|狐《きつね》の穴」や、「竜の|顎《あぎと》」も、もう間近いのではあるまいか。
だが……
そのときだった。
私と同じように、懐中電燈を照らしながら身をこごめて鬼火の淵をのぞいていた金田一耕助が、突然、
「あっ、あんなところにだれか浮いている――」
そう叫んだかと思うと、がばとばかりに身を起こした。そして懐中電燈の光をたよりに、しばらく忙しくそのへんを調べていたが、やがて、
「ここに道がある。みんな来てください」
そうどなると、みずからさきに立って崖をくだりはじめた。私たちも、そのあとからついていったことはいうまでもない。
私はもうすっかり転倒してしまって、膝頭がガクガクふるえる感じであった。それにもかかわらず私は、鬼火と見まがうあの光りものが、崖の途中いちめんにはえている、|苔《こけ》の類から発せられていることに気がついたのだ。
夜光苔――たぶんこれは、そういう種類のものであったろう。
さて、私たちはすぐ淵のふもとまでたどりついた。暗闇のなかで見ると、ひどく深いように見えたのだけれど実際はそれほどでもなく、崖の上から水面まで、二丈とはなかったであろう。まっさきに駆けおりた金田一耕助は、懐中電燈の光で、しばらく|蒼《あお》|黒《ぐろ》い水の上を探していたが、やがて、
「あそこだ、あそこに浮かんでいる」
その叫び声につれて、私たちもいっせいに同じ方角に懐中電燈の光をむけた。そして、四つの|光《こう》|芒《ぼう》の焦点に猿のように小さい体が、仰向けになってぶかぶか浮かんでいるのを認めたのである。
それはたしかに双児のひとりの小梅様にちがいなかった。
危機を|孕《はら》んで
小梅様の死によって、私の立場がいよいよむずかしくなってきたことはいうまでもあるまい。むろん私に、小梅様を殺さねばならぬ動機などあろうはずはないが、それは私自身の言いぐさであって、世間のひとにはまた別の考えかたがあったであろう。
それに幾度もいうとおり、この事件では動機なんてどうでもよいのではないか。祖父の丑松にはじまるこの一連の殺人事件に、いったい、どのような動機が考えられようか。動機のない殺人、意味のない殺人、てんでんばらばらの殺人事件……まるで馬鹿か気ちがいの仕業としか思えないではないか。そして、馬鹿か気ちがいの仕業となると、村人の疑惑がいっせいに、私の上に注がれるのもやむをえないことなのだ。なぜといって私の体内には、三十二人殺しという凶悪無残な犯罪者の血が流れているのだから。
だからあのとき、私以上に有力な容疑者が現われてくれなかったら、私はきっと捕らえられて留置場へぶちこまれていたにちがいない。そしてそのまま、犯人にしたてられていたかもしれないのだ。
私よりもっと有力な容疑者――それはこうだ。
「鬼火の淵」に浮かんでいた小梅様の死体を崖の上にひきあげると、すぐに二人の刑事が外界へとってかえし、ひとりは疎開医者の新居先生を、ひとりは提灯だのカンテラだの、その他さまざまな照明用具を持ってひきかえしてきた。そして「鬼火の淵」は|天地開闢《てんちかいびゃく》以来の照明を浴び、それらの光のもとで、検屍だの、現場捜査だのが行なわれたのである。
私はいまでも、そのときの情景を思い浮かべることができるが、「鬼火の淵」は思ったよりも広かった。私たちの立っているところが、ちょうど袋の底のように、淵の行きどまりになっていて、左方に高い岩壁が天井まで突っ立っている。天井まで八メートルくらい。そしてその岩壁の途中に、狭い|桟《さん》|道《どう》がついていて、それをつたって行けば向こう岸へ行かれるらしい。向こう岸までは三十メートルくらい。
さて、そこを袋の底として、鬼火の淵は右手へ長くつづいている。金田一耕助は懐中電燈を照らしながら、そのほうへ歩いていったが、間もなくかえってきての報告によると、そこから右へ行くにしたがって、天井がひくくなり、三百メートルほど行ったところで、崖と天井がくっついて、淵の水は地下へもぐっているという。つまりそこは伏せたお|椀《わん》のまんなかに、仕切りの壁を立てたようなもので、この地下道の中でも、いちばん天井の高いところに当たっているらしいのだ。
さて、新居先生の検屍は、そう長くはかからなかった。小梅様はしめ殺されたのち、「鬼火の淵」の崖の上から投げ落とされたらしいという。なにしろ年老いて、猿のようにしなびていた小梅様のことだから、だれが犯人にしろ、それは赤子の手をねじるよりも、容易な仕事だったにちがいない。
さて、一方、磯川警部と二人の部下は、現場付近を調べていたが、そのうちに刑事の一人が、重大な証拠を発見したのである。
「警部さん、崖の下にこんなものが落ちていましたが……」
それは鼠色の地に、粗い|碁《ご》|盤《ばん》|縞《じま》のある鳥打帽だったが、私はそれをひと眼見ると、思わずあっと叫び声をあげた。その声に、磯川警部がジロリと振り返ると、
「辰弥さん、あんたはこの帽子を御存じかね」
「はあ、あの……」
私が|躊躇《ちゅうちょ》しているところへ、金田一耕助がやってきて、警部の手から鳥打帽を受け取ると、と見こう見していたが、
「ああ、これは久野先生の帽子ですね。辰弥さん、そうじゃありませんか」
「ええ、そうじゃないかと思うんですが……」
「そうですよ。たしかにそうですよ。新居先生、あなた見覚えはありませんか」
新居先生はさすがに言葉をにごしたが、その顔色には明らかな肯定があった。私たちは思わず顔を見合わせた。
「すると、なにかな。久野先生はこの地下道にかくれているのかな」
「そうでしょう、きっと。だから警部さん、ぼくはまえからどうしても、一度このへんの鍾乳洞をさぐってみる必要があるといってるんです。おや、ここに何かある」
金田一耕助は帽子の汗皮の裏から何やらさぐり出した。それは小さな紙片のようなものだったが、耕助はそれをカンテラの灯に照らしてみて、突然、鋭く口笛を吹いた。
「金田一さん、ど、どうしたんです。何かありましたかな」
「警部さん、御覧なさい。いつかのやつのつづきですよ。ほら、辰弥君が梅幸尼の死体のそばで発見した……」
私もあとで見せてもらったが、ああ、違いない。それこそ梅幸尼の枕元で、私が発見した、あの奇妙なメモのつづきなのだ。幅五分くらいの、|短《たん》|冊《ざく》|型《がた》に切りぬいた小さな紙片だったが、いつかのポケット日記と同じ紙で、しかも同じ万年筆の筆跡で、
双 児 小竹様
小梅様
と、書いてあり、小竹様の名前のうえには、さっと赤インキで棒が引いてあったのだ。
「ふうむ」
警部は太いうめき声をもらすと、
「金田一さん、これはやっぱり久野先生の筆跡らしいね」
「そうです、そうです」
「しかし、どうしたんだろう。辰弥君の話によると、そこに死んでるのは、小梅様だというのに、ここでは小竹様の名前が抹殺してある」
「ああ、それはぼくも妙に思っているんですが、小梅様と小竹様とはあんなによく似ているんだから、小竹様を殺すつもりで小梅様を殺したのか、あるいは小梅様を殺して小竹様と見誤ったのか、いずれにしても犯人にとっちゃ、そんなことは大して問題じゃなかったんですよ。双児のうちのどちらでもいい。ひとり殺せばよかったのだから」
「なるほど、それで金田一さん、あんたの考えじゃ久野先生は、この洞窟の中にかくれているというんですね」
「そうですよ。だから警部さん、これゃどうしても大々的に、洞窟狩りをする必要がありますよ」
「ふむ、それゃあんたがいうならしてもよいが、なにしろ洞窟といっても広いからな。それに久野先生はほんとうにここにいるかな」
「いますとも、警部さん、久野先生はたしかにここにいるんです。ここよりほかに久野先生のいるところはありませんよ」
その言葉があまり確信にみちていたので、私は思わず顔を見直したくらいである。
さて、それから間もなく私たちは、小梅様の死体をかついで引きあげたが、そこで私が改めて、警部から尋問をうけたことはいうまでもあるまい。
金田一耕助は笑いながら、
「辰弥さん、こんどこそ正直にいってしまいなさいよ。どうせかくしだてしたところで、すぐに|尻《しり》がわれるのだから」
と、そばから忠告してくれる。私もそれにしたがって、できるだけ正直に答えたが、なおかつ二つの事実だけは、どうしても打ち明ける気にはなれなかった。濃茶の尼が殺された晩、慎太郎を見たということと、黄金三枚の秘密である。前者は典子のために、そして、後者は自分のために……。
しかし、金田一耕助はそれに気がついたのかつかないのか、それ以上追及しようとはせず、取り調べはひとまず終わった。そして幸い、その場から拘引されるようなこともなく、ただ当分、村を離れてはならぬと、足止めされただけだった。私のあとで春代も取り調べられたが、これは新居先生の注意もあって、ごく簡単にすんだようだ。
こうして私は|縄《なわ》|目《め》の恥をのがれたようなものの、そのことが私にとって仕合わせだったかどうかはわからぬ。なぜならば、そのために私はいよいよ村人の反感を買い、ひいてはあのような恐ろしい目に会わねばならなかったのだから。
それはさておき、警部の一行がひきあげると、私は急に心細さが身にしみた。いまやこの広い屋敷に生きているのは、小竹様と姉の春代と、私の三人きりになってしまったが、小竹様ときたら、生きているというのは形ばかり、まるで他愛がなくなってしまったのだ。
よく小説などに、双児の一方が死ぬと、あとの一方もすぐあとを追うというようなことが書いてあるが、小竹様にはそんなことはなかった。現にいまでも生きているのだが、生きているというのは形ばかり、小梅様が死んだ瞬間、小竹様の魂も死んでしまったらしく、彼女は赤ん坊よりも他愛がなくなったのだ。
小竹様がそんなふうなところへ、姉は姉で、いよいよ持病を重ねらせて、何一つ相談相手になりそうにない。いや、あまり気の毒で相談をかける気にもなれないのだ。そこで私は、小梅様の|亡《なき》|骸《がら》をかかえて、ひとりやきもきしなければならなかったが、さらに私を心細がらせたのは、これだけの騒ぎがあったにもかかわらず、だれひとり見舞いにも来なければ悔みにも来ぬ。小梅様の死が、村じゅうへ知れわたっていないはずはないのに、どうしてだれもやってこないのか。……私は腹の底が固くなるような不安を覚えたが、さらにその不安をかきたてるのは、奉公人の態度である。
やってこないのは他人ばかりではない。おおぜいいる奉公人さえはかばかしく顔を出さぬ。呼べば来るし、用をいいつければしてくれるが、それがすむと、逃げるように行ってしまう。これはいよいよただごとではないと、私の心は鉛のように重っ苦しくなってきた。
こんなときに美也子がいてくれたらと思うのだが、その美也子も私が洞窟へ入っている間に帰ってしまって、それきり顔を見せなかった。私はなんだか、美也子にまで見放されたような気がして、心細さに耐えかねたが、そこへ遅ればせながら駆けつけてきたのは典子と慎太郎だった。
「やあ、失敬失敬、遅くなってすまなかった。きみひとりでたいへんだったでしょう」
慎太郎はいつになく元気で、白い歯を見せてにこにこしていた。私はいままでこのひとの、こんなにいきいきとした表情を見たことがない。私の知っているこのひとは、いつも眉根にしわを寄せ、半分虚脱したような顔をしているのに、今日はどうしてこんなに元気なのだろうか。慎太郎は如才なく、姉にお悔みをいったり、|本《ほん》|卦《け》がえりをしてしまった小竹様を慰めたりしていた。
「遅くなってすみません。もっと早く来たかったのに、お巡りさんにひきとめられて……」
典子もそういってあやまった。磯川警部の一行は、ここを出るとすぐその足で、典子のところへ行ったらしい。
「典子、ずいぶん、いろんなことを尋ねられたわ」
「典ちゃん、それでなんと答えたの」
「しかたがないから、何もかも正直にお話ししたわ。いけなくって?」
「なあに、いけなかあないさ。でも、そうすると何もかもお兄さんに知れちまったわけだね」
「ええ」
「お兄さん、何かいやあしなかった?」
「ううん、別に……」
「お兄さん、怒ってやあしなかった?」
「あら、どうして?」
典子は不思議そうに私を見ながら、
「お兄さん、何もお怒りになることないわ。お兄さん、喜んでるんだわ。口に出してはいわないけれど……」
なるほど、それで今日の慎太郎は、あのようににこにこしているのだろうか。だが、そうなると私はまた、不安にならずにいられない。
典子は私を愛している。そして持ち前の無邪気さと楽天的な魂から、自分が愛している以上、向こうも愛してくれるものと信じて疑わないようである。
しかし、私は典子を愛しているだろうか。なるほど、私はちかごろ典子がしだいに好きになってきている。しかも、不思議なことには、典子が急に美しく見えてきたものである。それについて私は反省したことがある。ひょっとすると、あばたもえくぼの類で、典子に|惚《ほ》れてきたので、あの月足らず娘が、急に美人に見えてきたのではないかと。……しかし、そうではなかった。典子がちかごろ急に美しくなったことは、姉の春代や女中のお島も認めているのだ。
「新家のお嬢様のきれいにおなりあそばしたこと。正直いって、私あのかたが、あんなきれいなお嬢様におなりあそばすとは思いませんでしたわ」
お島がいつかそんなことをいっているのを聞いたことがある。
思うに典子は私を愛することによって、急に成長を遂げたのであろう。あの月足らずの細胞が、人を愛するという感情の高揚のために、急に青春の清新と|溌《はつ》|溂《らつ》とを獲得し、本来あるべき美を取りもどしたのではあるまいか。
だが、そうはいっても私はまだ、典子を愛しているとは思えなかった。それだけに慎太郎に早まった期待を抱かれては困るのだ。
「お兄さま、何を考えていらっしゃるの」
「ううん、別に何も……」
「お兄さま、いよいよ村じゅう総出で、鍾乳洞狩りをするんですってね」
「ああそんな話だね」
「そうなると困るわね。だって当分お兄さまにお眼にかかれないんですもの」
ああ、典子はこんな場合でも、地下道で私に会うことを楽しみにしているのだ。あまりにも強いその恋情に私はたじたじする感じだった。
「お兄さま」
しばらくすると典子がまた声をかけた。
「なに」
「お兄さま、昨夜のことをお巡りさんにおっしゃったのね。英泉さんのことを……」
「うん、いったよ」
「それで英泉さん、今日駐在所へひっぱられたのよ。村の人はそのことで、とてもお兄さんを怒ってるわ」
「どうして?」
私ははっと胸騒ぎを覚えた。
「お兄さまがうそをついて、英泉さんをひっぱらせたと思っているのよ。村にはわからず屋が多いから、お兄さま、お気をつけになってね」
「うん、気をつけよう」
私はまた腹の底が鉛のように重くなるのを覚え、いつか一度は村のひとたちと、正面衝突をしなければおさまらないのではないかとおそれた。まさかそれがあのようなあらしとなって、やってくるとは知らなかったが。……
こうして八つ墓村はいまや、私を中心として、しだいに危機の淵へ接近していたのであった。
母の恋文
磯川警部の要請で、村の青年団のあいだに、洞窟狩りの一行が組織されたのは、その日のうちのことである。
この洞窟狩りでわかったのだが、八つ墓村の鍾乳洞は、ほとんど全村の地下にまたがっており、網の目のように四方八方に走っているのだ。だから、ひとが隠れているには、これほど|究竟《くっきょう》の場所はないが、それだけに捜索隊の骨折りは容易ではなく、とても二日や三日で|埒《らち》のあく仕事ではなかった。
私はその捜索隊のうわさを聞きながら、しかし、その日はいちにち、小梅様のお弔いの用意に忙殺されていた。お|午《ひる》過ぎになると、それでもボツボツ、お悔みの客がやってきた。しかし、それらの応対は万事慎太郎や典子にまかせて、私はなるべく顔を出さぬことにしていた。悔みの客は悔みを述べると、すぐこそこそと帰っていった。
夕方になってやっと英泉さんがやってきた。駐在所へひっぱられたと聞いていたが、どのように言い開きをしたのであろうか。英泉さんは苦虫をかみつぶしたような顔をしていたが、それでも勤めるだけは勤めてくれた。
お弔いはその翌日無事にすんだ。兄の久弥のときにくらべると、なんとなくあわただしく、寂しく、妙に落ち着かぬ感じだったが、ただここに私の喜びとしたのは、従兄の慎太郎とかなり打ち解けることができたことだ。
慎太郎といえば、すぐに私の眼にうかぶのは、濃茶の尼の殺された夜のあのものすさまじい|形相《ぎょうそう》である。しかし、|膝《ひざ》をまじえて語ってみると、それほど凶悪なひととも思えず、また策をかまえて他人をおとしいれるというような人柄ではなさそうだった。むしろこのひとは案外単純なひとなのだ。単純だからこそ、敗戦のショックから、まだ立ち直ることができないのだ。私はこの人の性格について、大きな誤解をしていたのではあるまいか。
だが、そうだとすると、私にいつかあの奇妙な警告状をよこしたのはだれであろうか。……これを要するに、なぞはまだひとつも解けていないのだ。いや、解けるどころか、ますますふえていくばかりなのだ。
葬式の翌日、またひょっこりと金田一耕助がやってきた。
「やあ、昨日はお弔いでおつかれになったでしょう。私もね、このところすっかりくたびれてしまいましたよ」
「ああ、鍾乳洞狩りをやってるんだそうですね。久野のおじはまだ見つかりませんか」
「まだまだ」
「金田一さん、久野のおじはほんとうにあの鍾乳洞に隠れているんでしょうか」
「もちろんですよ。どうしてですか」
「だって、久野のおじが家出をしてから、もう二週間になりますよ、あれ以来、鍾乳洞にいるとしたら、どうして生きているんでしょう」
「それはむろん、だれか食事を運んでやるやつがあるんですね」
「なるほど、でも、ちかごろこの騒ぎにどうでしょうか。やっぱりだれか食事を運んでいるんでしょうか」
「さあ、そこまではわかりませんがね。しかしとにかく久野先生が、鍾乳洞のどこかにいることはまちがいありませんよ。このあいだの鳥打帽ですね。あれだってたしかに久野先生が、家出をするときかぶって出たものだというんだから」
「そうですか。それにしてもどうしてあんなにうまく隠れていられるのか不思議ですねえ」
私はなんとなく|腑《ふ》に落ちなかった。
「いや、不思議でもなんでも、久野先生が洞窟の中にいることは確かです。いてくれぬとぼく困るのです。責任問題ですからね」
「責任問題とは?」
金田一耕助は、もじゃもじゃ頭をかきまわしながらニヤニヤ笑って、
「実はね、今日でもう三日洞窟狩りをやっているのに、いまだに久野先生の消息がわからないものだから、ソロソロ文句をいい出したやつがあるんですよ。もっとも、ろくな手当も出さずに働かせているんだから、無理もありませんがね。だから、これで久野先生が見つからんということになると、ぼくはつるしあげになるかもしれません」
金田一耕助は心細そうに肩をすぼめる。私も大いに同情した。
「それで、どうなさるおつもりですか」
「どうもこうもありませんや。いまさら打ち切るわけにはいきません。それで明日は徹底的に調べてやろうと思ってるんです。ぼくの考えじゃ、鬼火の淵の向こう岸がくさいと思うんですが、村の連中尻ごみして、どうしてもあれから奥へ入ろうとはせんのですよ。明日は思いきって、あそこへ踏み込んでやろうと思うんですが、辰弥さん、どうです。あんたもひとつ行ってみませんか」
私はどきりとして相手の顔を見直した。しかし金田一耕助は、別に他意ありそうな顔色でもなかった。私はいくらか安心して、
「ええ、そりゃあお供をしてもいいですが、しかし、金田一さん、どうもぼくにはわかりません。久野おじはいったい何をしたんです。いや、何をしようとしたんです。日記にあんなつまらんことを書いて……」
「ああ、そのことですか、久野先生が日記のはしに、あんなことを書いたには、それ相当の理由があったんでしょうね。まさか夢遊病を起こして、心にもないことを書いたわけじゃないでしょう。そうそう、その日記については、ちょっとおもしろい話があるんですがね」
金田一耕助は妙に渋い微妙をうかべて、
「久野先生はこの春、盗難にあったことがあるんだそうです。自転車にカバンをつけたまま、患家へ寄っているあいだにちょろりとカバンをやられたんですね。奥さんの話によると、ポケット日記はいつもそのカバンの中に入れてあったというんです。久野先生もその当座、とても心配していたが、その心配の仕方が、カバンをとられただけにしちゃ大げさ過ぎるので、家の者も不思議に思っていたというんです」
「なるほど。そして、そのカバンは返らずじまいですか」
「いや、ところがちかごろになって、妙なところから出てきたんですよ」
金田一耕助はくすくす笑いながら、
「このあいだ、濃茶の尼が殺されたとき、|庵《あん》|室《しつ》を調査したことはあなたも御存じでしょうが、そのとき、出たわ、出たわ、文字どおり|贓《ぞう》|品《ひん》の山なんです。といっても、ろくなものはありゃあしない。口の欠けた|土《ど》|瓶《びん》だの、|柄《え》のとれた|柄杓《ひしゃく》だの、たくあん石まで出てきたんだから驚きましたよ。ところが、そういう贓品の中に、久野先生のカバンもまじっていたんです」
「なるほど、じゃ盗人は濃茶の尼なのですね」
「そうそう、あいつが奇妙な盗癖を持ってたことはあなたも御存じでしょう。久野先生の折りカバンも、つまりその盗癖にひっかかったんですね」
「なるほど、それで日記は?」
「ありませんでしたよ。尼がどこかへやったのか、それとも奥さんの記憶ちがいで、はじめから日記はそこになかったのか……こうなると、濃茶の尼を殺したのは残念ですね」
金田一耕助はそこでポツンと言葉を切ると、なんとなく暗然たる顔色だった。そこで私は話題を転じて、英泉さんのことを尋ねてみた。
英泉さんは地下の散歩を、いったいどんなふうに弁解したのかと思ったのである。すると金田一耕助はニヤニヤしながら、
「いや、あれはなんでもないんです。麻呂尾寺というのはこの村の西隣にありますね。そこから村の東はずれの、濃茶のへんまで行こうとすれば、野越え山越え、たいへんな道のりになる。ところがあの地下道を利用すれば、半分の時間で来られるというんです。だから英泉さんは、濃茶に用事のあるときには、いつも地下道を利用しているというんです」
「へへえ、するとあの地下道は、バンカチのほうまでつづいているんですか」
「そうなんですよ。ぼくも英泉さんの案内で歩いてみて驚きましたね。鍾乳洞としては、実に大げさなもんですね」
「しかし、英泉さんはどうしてああいう通路のあることを知ってるんです。あのひとはちかごろ麻呂尾寺へ来たばかりでしょう」
「それはね、長英さんに教わったそうですよ。長英さんもその昔、|托《たく》|鉢《はつ》のかえりなど、人に会うのがめんどうくさくなると、よく地下道へもぐりこんだというんです」
私はしかし信用しなかった。なるほど英泉さんが濃茶へ抜けるのに、地下道を利用しているということはほんとうかもしれぬ。そして地下道はあんなに暗いし複雑だから、たまに迷うこともあるかもしれぬが、私の部屋へまで迷いこむというのは不思議である。金田一耕助とても英泉さんの言葉を|鵜《う》のみにしたわけではなかろう。その証拠には皮肉な調子で、こんなことをいったものである。
「それにしても妙ですな。この村のひとたちが、鍾乳洞なんててんで問題にしていないのに、外から来たひとびとが妙に心をひかれるというのは……英泉さんといい、あなたといい……」
耕助は声を立てて笑ったが、すぐまたまじめな顔になると、
「ときに森君は相変わらずやってきますか」
と、思い出したように尋ねた。そして、この質問こそ、そのとき、私のいちばん痛いところをついたのだ。
そうなのだ。私はそのころ美也子のそぶりに、妙に不安を感じていたのだ。美也子はすっかり変わってしまった。妙によそよそしくなってしまったのだ。
兄の久弥のお弔いのときなど、美也子はまるでこの家のもののように、さきに立って働いた。それだのにこんどはお義理に顔を出すだけで、用がすむと、まるで怖いもののように帰っていく。私に会っても笑顔も見せず冗談ひとついうのでもなかった。
どうしてそんなに変わったのか、私にはその理由がどうしてもわからなかった。四面|楚《そ》|歌《か》のこの村で、美也子は私のただひとりの味方なのだ。その美也子が急につめたくなったので、私はどんなに心細く思っていたことか。だから金田一耕助に、だしぬけに美也子のことを聞かれると、ベソをかくような顔にならずにはいられなかった。
しかし、金田一耕助も、別に深い意味があって聞いたわけではなかったらしく、それから間もなく、|飄々《ひょうひょう》として帰っていったのである。
私があの|文《ふみ》|殻《がら》を発見したのは、たしかにその晩のことだったと思う。
その夜、私はなかなか寝つかれなかった。金田一耕助を思い、美也子を思い、慎太郎を思い、典子を思い、さらに英泉さんのことまで考えていると、頭が|冴《さ》えてくるばかり、私は何度も寝床の中で、|輾《てん》|転《てん》反側していたが、そのうちに妙なことが気になり出した。
私の枕元には、例によって三酸図屏風が立っているのだが、その屏風の向こうに、だれかいるような気がしてならなかったのだ。そんな馬鹿なことがと思いながら、これが強迫観念というのであろうか。どうしても気になってならないのである。そこで私は思いきって寝床を出ると、電気をつけて屏風の向こうをのぞいてみた。むろんだれもいるはずはなかったが、その代わり私は妙なものを発見したのだ。
電気の光が向こうにあるので、屏風の中の|下《した》|貼《ば》りが、まるで幻燈のように裏へすけて見えるのだが、そこには一面に手紙のようなものが貼りつけてあるのだった。そしてある部分では手紙の文字が、手にとるように読めるのだ。
私は妙な好奇心にそそられて、それらの手紙を拾い読みしていたが、そうしているうちに、それらの手紙が若い男女のあいだに取りかわされた恋文らしいことに気がついた。そうなると、私はいよいよ好奇心にそそられて、あて名と差出人の名前をさがしてみたが、そのうち突然、足下をさらわれたような大きな驚きにうたれたのである。
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陽一様まいる つるより
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それからまた
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鶴子どの 陽一拝
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と、いうのもあった。ああ、なんということだ。それは私の母が恋人の、亀井陽一と取り交わした、古い昔の恋文ではないか。
おお、かわいそうな母よ。想う男に添えずして、思いもよらず、鬼のような男のとりことなった哀れな母は、かつての日、恋しい男と取りかわした文殻を、屏風の中に貼りこめて、せめてもの慰めにしていたのであろう。そして父のいない夜など、いま私がしているような、屏風の向こうに電気をつけ、裏にすけて見えるその文字を、涙ながら読んでいたのではあるまいか。
私は屏風の裏にべったり座り、ともすれば涙にかすむ眼をこすりつつ、なつかしい母の筆の跡をたどったが、そのうちに、それらの手紙がかならずしも、ここへ来る以前に取り交わしたものばかりではなく、鬼のような父の|生《いけ》|贄《にえ》となってのちに、やりとりしたものもまじっていることに気がついた。そして、それらの手紙はとりわけ哀切を極めているのであった。
――いかなるすくせのいたずらにや、鬼のようなる男のために、かくまでも身をけがし果て|候《そうら》いし、つるが身の不仕合わせ。
と、母はおのれの不運をなげき、
――さるにつけても思い出され候は、竜のあぎとのほとりにて、はじめてあつきおん情を賜わりしころのこと。
と、昔をしのんでいるのだが、してみると世間のうわさどおり、父の暴力に屈する以前、母はすでに亀井青年とふかい契りを結んでいたとみえる。
――ひとも|怖《おそ》るる|烏《う》|羽《ば》|玉《たま》の、岩のしとねもつるが身には|極楽浄土《ごくらくじょうど》。
であったとそのころの歓喜を|謳《うた》い、
――しかし、果報つたなきこの身には、そも一瞬の幸福にて候いし。
と、自分の不幸をなげき、あの凶暴な一日を境として、「わが身の生きているが不思議なくらい」と、思いがけない運命の逆転に|瞠若《どうじゃく》たるさまが眼に見えるようである。
その夜、私は眠れなかった。
狐の穴にて
こうして寝不足の一夜を明かした私が、その翌朝、重い頭をかかえてぼんやりしているところへ、金田一耕助と磯川警部がやってきた。
「やあ、遅くなりました。お待ちになったでしょう」
金田一耕助はにこにこ笑っている。私はちょっと面食らったが、すぐ、昨日耕助から鍾乳洞狩りに誘われたことを思い出した。
「ああ、それじゃやっぱり行くんですか」
「ええ、やっぱり行くんですよ」
「でも、ぼくがいっしょに行ってもいいんですか。お邪魔じゃないんですか」
「なに、邪魔どころか、あなたが来てくださるとありがたいですよ。あなたがいちばん、洞窟の地理に詳しいようだから」
それがどういう意味なのか、私は相手の心を読もうとしたが、金田一耕助は相変わらず、無邪気な顔をして笑っている。磯川警部は万事この男にまかせきっているといわぬばかりの顔つきで、だまってそばにひかえていた。
「そうですか。それじゃお供しましょう。ちょっと待ってください。支度をしてきますから」
「ああ、ちょっと。警部さん、ついでにあのことを頼んだら……」
「ああ、そうそう、辰弥さん、いつかあんたが神戸で受け取った警告状ですがね、八つ墓村へ近寄ってはならぬという……」
「はあ」
「あの警告状をお持ちでしたら、ちょっと拝見したいんですがね」
私はだまって二人の顔を見くらべた。何かしら不安な思いがこみあげてくる。
「何か――また――あったんですか」
「ええ、まあ、それはいずれ話します。とにかく警部さんに見せてあげてください」
私はすぐ手文庫から、例の警告状を取り出してきた。警部と金田一耕助は、ていねいにそれを調べていたがやがてうなずきあいながら、
「やっぱり同じらしいですね」
金田一耕助がいった。警部がうなずいた。私は不安な思いにおののきながら、
「どうしたんです。何かその警告状について、手掛かりがあったんですか」
「いや、そういうわけじゃないが……」
と、磯川警部のいうところによると、
「実は昨日、Nの警察へ妙な投書が舞いこんでな。それが文体といい、紙の質といい、いつかあんたに聞いた警告状とよく似ていると思ったものだから……」
「で、どうなんです。似てるんですか」
私は思わずせきこんだ。ひょっとするとそのことから、警告状の筆者がわかるのではあるまいか。
「だいたい同じだと思いますね。むろん、文句はちがっているが、筆跡といい、紙の質といい、それがポタポタ、インキのにじんでいるところといい……」
「辰弥さん、このインキのにじんでいるところが|曲《くせ》|者《もの》なんですよ。これはわざとインキをにじませたんです。いや、インキのにじむような紙をえらんだんですね。これで筆跡鑑定が、非常にむずかしくなるんですよ」
「それで、投書にはどんなことが書いてあるんです。何かぼくに関係のあることでも……」
「そうですよ。辰弥さん」
金田一耕助は哀れむように、私の眼の中を見つめながら、
「そいつはあなたを告発してるんですよ。そうです。この警告状と同じような、はげしい、予言者めいた調子で、八つ墓村の犯人は田治見辰弥である。なぜ捕らえて処刑しないのか、というようなことが書いてあるんですよ」
私の心は鉛のように重くなる。
「それで差出人はわからないのですか」
「わかりません。しかし、この村のものだってことは確かですよ。八つ墓村の郵便局の消印が、ちゃんと押してありますからね」
「そうするとこの村に、私をおとしいれようとしている人物があるわけですね」
金田一耕助はうなずいた。
「ところでその投書ですが、私を犯人だとするのは、何か確かな根拠でもあるんですか」
「御安心なさい。それがなんにもないんですよ。ただ犯人は田治見辰弥であると、わめきたてているだけのことなんです。だから私は不思議なんですよ。ねえ、辰弥さん、この警告状や投書をよこしたやつは、けっして馬鹿じゃありませんよ。少なくとも筆跡をくらます方法を知っており、また筆跡をくらます必要があるほどの人物なんです。それほどの人間が、なんの根拠もあげずに、ただ田治見辰弥が犯人であるとわめいたところで、警察が動くかどうか知らぬはずがありません。とすればそいつはいったい、何をねらっているのか、あの投書からどのような効果を期待しているのか、それがわからないだけに、ぼくはなんだか不安でならないんです」
「すると投書のねらいは、ぼくを警察へあげさせるということではなく、もっとほかの目的があるというんですね」
「じゃないかと思うんです。それでなきゃ無意味であるばかりではなく、危険千万な話ですからね。だから危険を冒すには冒すだけの、効果を期待しているはずなのだが、それがなんだかわからない……」
私はなんだか心の底が、冷えきっていくような感じであった。
私たちが鍾乳洞へもぐりこんだのは、それから間もなくのことである。今日は刑事もつれず私たち三人だけで、めいめいカンテラをぶらさげて、暗い地下道を黙々とすすんでいった。私はいま金田一耕助にいわれた言葉が、いかの|墨汁《ぼくじゅう》のような黒い|靄《もや》となって、腹の底によどんでいるので、口をきくのさえ大儀であったが、そのうちふと妙なことに気がついた。
「どうしたのですか。今日は洞窟狩りはお休みなんですか」
鍾乳洞の中は|闃《げき》として人影もないのである。私がそう尋ねると、金田一耕助は頭をかき、
「いやあ。実は青年団からボイコットをくらいましてね」
「ボイコットを……?」
「ええ、そう、洞窟狩りなんかしたってむだだというんです。久野先生がこんなところにいるはずはないし、いるとしたら三日も捜しているんだから、見つからぬはずはないと、今日はどうしても洞窟へ入ってくれんのですよ」
「すると三日間、むだ骨を折ったわけですか」
「おや、どうして」
「だって久野のおじが見つからなければ、むだ骨になったわけじゃありませんか」
「そうでもありません。あの連中のおかげで、捜査の範囲がだいぶちぢまったわけですから」
「どうして?」
「どうしてって、あの連中の手をつけたところは、捜さずともすみますからね」
私はびっくりして相手の顔を見直した。この男はこれで果たして正気なのであろうか。
「だって金田一さん、久野のおじには足があるんですよ。青年団の捜したあとへ移動したとするとどうなるんです」
金田一耕助はびっくりしたように声を立てた。はじめて気がついたように額をたたいた。
「や、なるほど。そういうこともいえますね。こいつは気がつかなかった。はっはっは――」
警部は別に意見ものべずに、カンテラ片手に黙々と歩いている。耕助も耕助だが警部も警部だ。私は心細さが身にしみた。
私たちは間もなく「鬼火の淵」へさしかかった。
金田一耕助の目ざしているのはこの淵の向こう岸なのだ。そしてそれは同時に、私の目ざすところでもあった。「|狐《きつね》の穴」といい「竜の|顎《あぎと》」というのも、すべて「鬼火の淵」の向こう岸にあたっている。そして問題の宝の山は、「竜の顎」の近所にあるらしいのだ。
「鬼火の淵」のほとりに立って、暗い対岸をのぞんだとき、私はつめたい戦慄が、背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかった。自分の運命を決するもの――いやいや、それは自分の運命のみならず、思えば母から私へと、親子二代にわたって伝えられた宿命なのだ。その宿命の淵に立って、私がなんとも名状することのできぬ、心の渇きを覚えたのも無理ではなかろう。
金田一耕助にもこの淵を渡るのには、かなり決心がいるらしかった。
「警部さん、それじゃいよいよ決行しますかな」
「ふむ、行ってもええが大丈夫かな。ここからさきへは近年だれも入ったものがないというが……」
「大丈夫ですよ。辰弥さん、きみはどうです」
「ぼくはお供しますよ」
私が断固と答えると、
「よし、それで話はきまった。警部さん、おさきへ」
まえにもいったとおり、淵はここで袋の底のように行きどまりになっており、われわれの左には、切り立てたような岩壁が突っ立っている。その岩壁の途中に狭い桟道がついているのだが、それは文字どおり|爪《つま》|先《さき》がかかるか、かからぬかくらいの広さしかなく、しかも岩壁の表面からは、絶えず砂がこぼれているのだから、そこを渡っていくということは、この上もなく危険な振る舞いといわねばならなかった。
金田一耕助はカンテラを腰にさすと、ピッタリと壁に吸いついた。それから一歩一歩、|蟹《かに》のように横に|這《は》っていく。私もそのあとにつづいた。少しおくれて磯川警部。
文字どおりそれは、一寸二寸ののろい前進である。岩壁のわずかな突起へとっつかまりながら、少しずつ歩をずらしていく。おりおり足下から岩がくずれて、音を立てて淵の中へ落ちていく。そのたびに私たちは、心臓のちぢまるような思いであった。もちろん、「鬼火の淵」はそれほど深い淵ではない。しかしこの場合、深い浅いは問題ではない。だれだって真っ暗な水の中に転落するのはごめんだろう。
それに気味が悪いのは、あの夜光苔だった。そこらじゅう|閃《せん》|々《せん》とまたたいている青白い光は、見る者から妙に距離の観念をうばうのだ。すぐそばにまたたいているかと思うと、また反対に、とても遠いところに見え、うっかりそれに気をとられていると、体がひきこまれそうになり、そのために何度体の中心を失いかけたかわからぬくらいだ。
だれも無言であった。口をきくものはなかった。私たちは|蛆《うじ》|虫《むし》のように、黙々として暗闇をのたくっていった。前を行く金田一耕助と、うしろから来る磯川警部の、はげしい息使いが聞こえるばかり、私はもう全身に水を浴びたような汗だった。
こうして、桟道のなかほどまで来たときである。突然、金田一耕助が鋭い悲鳴をあげたかと思うと、ドサッと何かを投げ出すような音がきこえ、それと同時にカンテラの灯が消えて真っ暗になった。私はギョッとした。てっきり淵の中へ転落したのだと思った。全身の血が一時にサッと冷えていくのを覚えた。
「金田一さん、金田一さん、どうかしましたか」
私は闇に向かって叫んだ。
「耕助君、耕助君」
うしろから警部の声もきこえた。するとそのとき前方でゴソゴソ動く気配がしたかと思うと、マッチをする音、やがてカンテラの灯の中に、金田一耕助の顔がうかびあがったが、驚いたことにはその顔は、ちょうど私の膝のあたりに見えるのだ。金田一耕助はキョトキョトあたりを見回しながら、
「ああ、驚いた。てっきり淵の中へ転落したと思いましたよ。気をつけてください。そこに大きな段落がありますから」
それからまた、入念に闇の中をすかしてみながら、
「しめた、警部さん、辰弥君、あと少しの辛抱だ。ここまで来ると道がうんと広くなってる」
その言葉に力を得て、蟹の横ばいを早めていくと、間もなく一メートルぐらいの段落にぶつかった。この段落をおりると、道はいくらか広くなっている。もちろん、まだ壁につかまらなければ危険だけれど、蟹の横ばいの必要はなかった。
間もなく私たちは対岸へついた。向こう岸にはちょっとした広場があり、その広場に大小五つの洞窟が口をひらいていた。金田一耕助はそれを見ると、ううんとうなっていたが、すぐいちばん右はしの孔へ入っていった。しかしすぐ出てくると、
「だめ。これはすぐ向こうで袋になっている」
それから第二の洞窟へもぐりこんだが、しばらくするともどってきて、
「こいつは奥は深そうだ。警部さん、綱を貸してください」
綱は|二《ふた》|束《たば》あった。金田一耕助は一束のほうを左腕に通すと、あとの一束をといてその一端を警部に握らせ、
「しっかり握っていてくださいよ。離しちゃいけませんぜ。生命の綱なんだから、辰弥さん、きみはぼくと来てください」
いわれるままに、私は金田一耕助についていったが、この洞窟も一丁ほど奥で、袋になっていることがわかった。
「チョッ、こんどもむだ骨か」
私たちは綱をつたってもとの広場へひきかえした。つまりこの綱は万一のときの道しるべなのだ。
「これも袋かな」
「ええ、袋でした。こんどは第三の洞窟です」
警部をそこに残して、私たちはまた洞窟へもぐりこんだが、この洞窟も間もなく、袋になっていることがわかった。
こうして三度失敗したが、四番目の洞窟にいたって、私たちはそこに無数の|枝《えだ》|洞《どう》|窟《くつ》のあることを発見したのである。金田一耕助は最初の枝洞窟にぶつかったとき、私をそこに立たせ、いままでたぐってきた綱と、それからもう一束、腕にかけてきた綱をといて、その一端と、都合二筋の綱を私に持たせて、
「ここに立っていてください。綱を離しちゃいけませんぜ。ぼくが孔の奥から綱をひいたら、あなたはこっちの綱をひいてください。そうすれば警部がやってきますから。警部が来たら、この綱の端を岩の角へでも結びつけておいて、ふたりでやってきてください。綱をつたってくればわかるはずですから」
つまり警部の綱は大本を示し、私の綱は枝道を示すのだ。なるほどこれを克明に繰り返していったら、どんな複雑な迷路といえども迷うことはあるまい。金田一耕助は綱の一端を持って枝洞窟へ入っていったが、しばらくするともどってきて、
「驚きましたよ。この枝洞窟の中にゃ、また三つ小さい枝が出てるんです。幸いどれも浅い袋だからよござんしたがね」
私たちはまた、警部の綱をのばしながら洞窟をすすんでいった。すぐ第二の枝洞窟にぶつかった。金田一耕助がまた私に第二の綱を持たせてもぐりこんだことはいうまでもない。
私は足下にカンテラをおき、左に警部の綱右に耕助の綱を持ってそこにたたずんでいた。するとしばらくして本洞窟の奥から聞こえてきたのは忍びやかな足音である。私はギョッとした。全身から冷たい汗が吹き出した。ああ違いない、確かにだれかがこっちのほうへやってくる!
私はあわててカンテラの灯を吹き消した。そして闇の中で身構えた。と、ほとんど同時に、洞窟の奥から、かすかな光がさしてきたかと思うと、しだいにそれが近づいてきた。どうやらカンテラの灯らしい。だれかがカンテラをさげてやってくるのだ。私の心臓はガンガン躍った。逃げ出せるものなら逃げ出したいと思った。しかし、私は逃げ出すわけにはいかないのだ。私の手には金田一耕助の生命の綱が握られているのだから。
私は闇の中に身をしずめ、息を殺し、いざという場合のために身構えながら、近づいてくるカンテラを見つめていた。カンテラの灯はしだいに近づき、いまや眼前|数《すう》|間《けん》のところまで迫ってきた。カンテラの灯を下から浴びて、ぼんやりと赤黒い顔が浮き出している。その顔の輪郭を闇の中にハッキリ認めたとき、私は心臓が裂けるかと思われた。
「金田一さん!」
思わず声をかけて、すぐ悪いことをしたと思った。だしぬけに声をかけられて、文字どおり耕助はとびあがったのである。
「だ、だれだ!」
「ぼくです、ぼくです、辰弥です、待ってください。今、カンテラをつけますから」
カンテラに灯を入れると、金田一耕助は狐につままれたような眼を見はっていた。
「辰弥さん、き、きみはどうして……!」
「ぼくはどうもしやしませんよ。ぼくはさっきからここにいるんですよ。あなたが一回りして来たんですよ。あなたの入っていた枝洞窟は、きっと向こうでこの洞窟へ出てくるんですね。私は驚きましたよ。あなたとは思わなかったから、カンテラを消して待っていたんです。びっくりさせてごめんなさい」
金田一耕助もやっと納得がいったらしい。
「なるほど、そういえば向こうで道が左右にわかれているところがありましたよ。これだから綱が必要なんですね。ぼくは前へ前へとすすんでいるつもりだったのに、いつの間にやらあともどりをしていたんですからね」
こういう失敗をやりながらも、金田一耕助は洞窟の探検をあきらめなかった。枝洞窟にぶつかると、いちいち|丹《たん》|念《ねん》に調べなければ承知しなかった。しかもその枝洞窟はゆくてに当たって、無数といっていいほど存在しているのだ。
ああ、この洞窟こそ狐の穴にちがいない。
「狐の穴に踏みぞ迷うな」と歌にもある洞窟なのだ。歌によるとその穴は、百八つあるということだが、百八つが調子を合わせるための誇張としても、まだまだたくさんの枝洞窟のあることは覚悟しなければならなかった。金田一耕助はそれを片っ端から調べていくのだ。
私は多少うんざりしたが、実際はその探検も、そう長くはかからなかったのである。それから間もなく、何番目かの枝洞窟へもぐりこんだ耕助が、急にはげしく綱を引いた。
私ははっとして孔の中へとびこもうとしたが、すぐさっき耕助にいわれたことを思い出し、警部の綱をはげしく引いた。そして、その綱と耕助の綱と、二本の綱の端を、天井からぶらさがっている鍾乳石に結びつけているところへ、警部が綱をつたって急ぎ足でやってきた。
「ああ、辰弥君、何かあったのか」
「いや、ぼくもよく知らないのですよ。この枝洞窟の中になにかあるらしいんです」
私たちは耕助の綱をつたって枝洞窟へ入っていった。すすむこと約三百メートル、やがて向こうにカンテラの灯が見えてきた。この洞窟はそのへんで袋になっているらしく、金田一耕助はカンテラのまえにうずくまって一心に地面の上を凝視していた。
「金田一君、金田一君、何かありましたか」
警部の声に耕助は|裾《すそ》をはらって起きあがると、手をあげてわれわれを招き、ついで無言のまま足下を指さした。カンテラの灯にうきあがったその顔は、妙にきびしくひきしまっている。私たちは足を早めて耕助のそばに駆け寄ったが、ひと眼その足下を見たとたん、思わずそこに立ちすくんでしまったのである。
耕助の足下に、|土饅頭《どまんじゅう》ほどの土くれが盛りあがっているが、その土饅頭の中からニューッとのぞいているのは、おお、なんということだ、洋服を着た男の上半身ではないか。顔はすっかり|相《そう》|好《ごう》がくずれて、ひどい臭気だ。
「埋葬が完全じゃなかったので、臭気を防ぐことができなかったんですね。その臭気のおかげでぼくはさぐり当てたんですよ」
「だれです、これは、いったいだれです」
恐ろしさに歯をガチガチ鳴らしながら叫んだのは私である。警部は|固《かた》|唾《ず》をのんで、この恐ろしいものを凝視していた。
「相好がくずれているのでハッキリ識別することはできません。しかし、これが久野先生でなかったら、私は首をあげてもいい」
それから金田一耕助は、警部のほうを向いて銀のシガレット・ケースを差し出した。
「死体の胸の上においてあったんです。あけてごらんなさい。おもしろいですよ」
警部がひらくと中にはたばこはなくて、短冊型に切った小さな紙片が一枚、そしてその紙片の上には、
医 者 久野恒実
新居修平
と、書いてあり、そして、久野恒実の名前のうえに、赤いインキで棒が引いてあった。しかも、おお、なんということだ。それらの文字はまぎれもなく、久野おじ自身の筆跡ではないか。
してみると久野おじは、自分で自分のいのちをちぢめたのであろうか。
面影双紙
金田一耕助は知っていたのにちがいない。久野おじがとっくの昔、つめたい|死《し》|骸《がい》となっていたことを。それでなければ三日間にわたる青年団の大捜索にもかかわらず、ああも強い確信をもって、洞窟捜査を主張するはずがない。
それを考えると私は恥ずかしくてならぬ。みちみち私はかれをやりこめたつもりで、得意になっていたのだが金田一耕助はそんなことは百も承知、二百も合点だったのだろう。すべてを知り、すべての計算の上に立って、久野おじはすでに死んでおり、その死体はこの洞窟の奥に横たわっているにちがいないと、推理考察したのであろう。それを考えると、私はきまりが悪いどころではなくなった。相手を見る眼が変わらざるをえなかった。
金田一耕助――一見|風《ふう》|采《さい》のあがらぬ、もじゃもじゃ頭のこのどもり男は、ひょっとすると、見かけによらぬ天才ではあるまいか。……
それはさておき、久野おじの死体が発見されたことによって、またしても局面が大転換をしたことはいうまでもあるまい。
久野おじこそはもっとも有力な容疑者だったのだ。どういう理由があったのか、それはまだわかっていないけれど、日記の一ページに、あのようなけしからぬ名前を書きつらねたのは久野おじだった。そしてそれが|暴《ばく》|露《ろ》すると同時に、姿をくらましてしまったのだ。だれの眼にもこれほど疑わしい人物はなかったのだが。……ああ、しかし、それもいまはひっくり返ってしまったのだ。
久野おじのあの|腐《ふ》|爛《らん》した死体を見れば、素人の私にだって、死んでから三日や四日でないことはすぐにわかった。これはのちに医者の綿密な検査の結果わかったことだが、久野おじの死体は、少なくとも死後二週間はたっているということだった。死後二週間といえば、久野おじは|失《しっ》|踪《そう》後間もなく死んでいたことになり、したがって小梅様が殺されたときには、久野おじは十日もまえに死んでいた勘定になるのだ。この一事をもってしても久野おじは犯人でなく、かえって同じ犯人の手によって殺された犠牲者のひとりだということがわかるであろう。
さて、久野おじの死因だが、またしてもそれはあの毒物だった。祖父の丑松以来、多くの人を殺すのに用いられた毒薬が、またしても久野おじに用いられたのだ。では、その毒物がどういうふうにしてあたえられたか。……それは死体といっしょに発見された竹の皮包みが物語っているようだ。この竹の皮包みには、カチカチになった握り飯が二つ残っていたが、そのどちらからも例の毒物が検出されている。つまり、毒物は握り飯の中に仕込んであったのだが、ではだれがその握り飯をあたえたか、それについて久野のおばは次のように証言している。
久野おじの家出は、当時、だれも知らなかったのだから、弁当など当てがうはずがない。また、久野おじはいたって無器用なひとだったから、自分で握り飯をつくるなんて思いもよらぬし、かりに、一歩譲って、ひそかに握り飯をつくって家出をしたとしても、それならばそれで、だれか家人が気づかぬはずがない。おばは以上のように強調したうえ、それでもまだ事足りずと思ったのか、顔赤らめて付け加えるのに、自分のうちは知らるるごとく大勢家族で、いつも食糧不足に悩んでいる。ここ数年白い御飯など炊いたことはないのに、このお結びは銀飯であると。……
これによってこれを見るに、久野おじは家出ののち、だれからか竹の皮包みの握り飯を受けとっているのだ。
ああ、なんという恐ろしいことだろう。鍾乳洞の奥で、小さくなってふるえている久野おじ。
(久野おじがどういうわけでそんなことになったのかわからないけれど、そういう羽目におちいったかれは、おそらく不安に胸をおののかせていたことだろう)そこへこっそり忍んでくる正体不明の人物。親切ごかしにあたえる竹の皮包み。久野おじは何も知らずに、握り飯をむさぼりくらう。ひとつ、二つ、三つ、四つ、五つ。……
それからあとは、いつものとおりだ。|苦《く》|悶《もん》、うめき声、吐き出す|血《ち》|嘔《へ》|吐《ど》、全身をゆすぶる死の|痙《けい》|攣《れん》。その痙攣がしだいにおとろえ、力をうしない、やがてがっくり息絶えるのを、つめたく見守る|蛇《へび》のような犯人の眼。
ああ、恐ろしい。ゾッとする。いったいいつまでこんなことがつづくのだ。いつになったら、この恐ろしい血まみれ騒ぎは終わるのだ。もうよい、もう堪忍してほしい。そして私を昔どおりの、灰色の人生にかえしてくれ。私はもう息もたえだえなのだ。……
しかし、そういうわけにはいかなかった。私はまだまだ、この気ちがい騒ぎからぬけ出すことはできなかったし、前途には、もっともっと恐ろしいことが待ちかまえていたのだ。
第一、久野おじが殺されたことによって、私の立場がいよいよ怪しくなったことはいうまでもあるまい。久野おじの存在こそは、私にとって唯一の安全弁になっていたのだ。ところがいまや、その安全弁は完全にケシとんでしまった。しかも、いままで久野おじに対する疑いが、深ければ深かっただけ、こんどは逆に、久野おじに対する同情が、大きくなればなるだけ、私に対する疑惑と憎しみは深まっていくのであった。
「気をつけてくださいよ、辰弥さん」
ある日、姉が|蒼《あお》い顔をして、私に意外な注意をあたえた。
「お島の話ですけれどね。だれかあなたのことを書いて、役場のまえに|貼《は》り出したものがあるんですって」
「ぼくのことを書いて……」
「ええ、そう。つまりこの間じゅうからの人殺し、あれはみんなあなたの仕業にちがいないって、そんなことを書いて昨夜のうちに、役場のまえに貼り出したものがあるんですって」
私は腹の底が固くなると同時に、またなんともいえぬ怒りが、ムラムラとこみあげてくるのを覚えた。
「姉さん、それでそいつはぼくをどうしろというんです」
「いいえ、そこまでは書いてないが、ただ、犯人はあなたにちがいない。それが証拠に、すべての事件はあなたが来てから起こったことである。あなたがこの村にいるかぎり、血まみれ騒ぎはおさまらないだろう……と、そんなことが書いてあるんだそうです」
心臓の悪い姉は、それだけのことを話すのにも、たびたび息が切れ、いかにも切なそうであった。彼女は元来丈夫でないところへ、うちつづく凶事の打撃もあり、そこへもってきて、私に対する思いやりやら心配から、いよいよ心臓を悪くしているのであった。私はそれが気の毒で、できるだけ心配をかけないようにしているのだが、いまは場合が場合であった。私は思わず膝を乗り出した。
「姉さん、いったいだれがそんな貼り紙をしたのでしょう。いいえ、それよりだれがそんなにぼくのことを憎んでいるのでしょう。警部さんの話によると、このあいだ警察へも、同じような意味の投書があったということですよ。だれかこの村にひどくぼくを憎んでいるやつがあるんです。そいつはぼくをこの村から追い出したがって、いろんなことをやってるんです。姉さん、それはいったいだれでしょう。いったい、だれがどういうわけでそれほどぼくを憎むんでしょう」
「さあ、そんなことわたしにはわからないけれど……でもね、辰弥さん、気をつけてね。まさかと思うけど、村の人は単純だから、どんなことが起こらないとも限らないから……」
姉はそのころすでに村の不穏な空気を察知していたのか、いかにも心細そうな調子だったが、私はまさかそこまで気がつかなかった。
「ええ、それはぼくだって気をつけます。しかし、姉さん、ぼくは心外でなりません。だれがどういう理由で、こんなにしつこく憎むのか、それを考えると、はらわたが煮えくりかえりそうです」
私は男泣きに泣いた。姉は鼻をつまらせながら、やさしく私の肩に手をおいて、
「無理もありません。でもね、辰弥さん、あんまりキナキナ考えないでね。誤解なんですから、いずれは解けるにきまっています。ただ、それまでの辛抱です。ねえ、じっと我慢して、無鉄砲なまねをしないようにね」
姉がいちばんおそれているのは、こんなことから|嫌《いや》|気《け》がさして、私が家をとび出していきはしないかということだった。実際当時の事情では、私にとび出されては困るのだった。小竹様はぼけてしまって赤ん坊も同然だったし、姉自身は心臓が悪くて、ちょっとの働きにも息切れがするのだった。しかし、姉の春代が私を手放すことをおそれたのは、そういう功利的な意味からではなかった。姉は私を愛していたのだ。私を愛するのあまり、片時もそばをはなしたくなかったのだ。私には姉の気持ちがよくわかっていた。いや、わかっていると思っていたのだ。後から思えば、実際は姉の気持ちの十分の一もわかっていなかったのだが。……
それはさておき、だれか必死となって、私をおとしいれようと画策している者があるにもかかわらず、警察ではいっこう、私を挙げに来ようとしなかった。実際、久野おじの死体が発見されて以来、警察は鳴りをしずめている感じで、磯川警部はもちろんのこと、金田一耕助さえも姿を見せなくなった。村のひとたちもまだ直接行動を起こすにいたっていなかったし、また、新しい事件も起こらなかった。どういうものか美也子までが|鼬《いたち》の道で、ちかごろちっともよりつかなくなった。
そういうわけで、それは妙にひっそりと静まりかえった休止期間であった。あとから思えば、それはちょうど激流が、いよいよ滝へかかるまえに、ゆるやかな淵をつくるようなものだったが、そうとは知らぬ私は、むやみにその小康状態がありがたかった。しかし、まさかこういう状態では、宝探しもできないので、せめてこの期間を利用して母の恋文を整理しておこうと思いついた。
そこで姉の許しを得て、N町から|経師屋《きょうじや》を呼びよせると、三酸図屏風を解体して、その中から下貼りに用いられている、母と亀井陽一の恋文を取り出す仕事をはじめた。私はその屏風を家から持ち出すことを好まなかったし、また母の恋文をむやみなひとに見られるのはいやだったので、経師屋に毎日|午《ひる》過ぎから出張してもらって、離れでいっしょに仕事をすることにした。
私にはこの仕事がこの上もなく楽しかったのだ。思えば八つ墓村へ来て以来、ろくなことはなかったが、せめてこれらの手紙を発見したことによって私は自分を慰めた。幼いころ母を失っただれでもがそうであるように、いくつになっても私は母が恋しいのだ。
はじめのうち、姉の春代も気分がよいと、よく離れへやってきて、私たちの仕事ぶりを見物していた。しかし、取り出される母の恋文を読んだりすると姉はすぐ感動して、それが心臓へひびくらしく、のちにはめったにやってこなくなった。
私は毎夜、その日取り出された手紙を整理し、それを読むのを無上の楽しみとしていた。むろんそれらの手紙は、どれひとつとして当時の母の不幸を物語っていないものはなかったが。……
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――日夜をわかたぬ責め|折《せっ》|檻《かん》に、つるは身も心もやせ細り……
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とか、
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――いうこと聞かねば、髪の毛握ってひきずりまわされ……
[#ここで字下げ終わり]
とかいう文字が、涙ににじんでいるかと思うと、
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――かわいがるとて裸にされ、そこらじゅう|舐《な》め回される気味悪さ、いやらしさ、あさましともなんともいわんかたなき……
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と嘆いているところをみると、父の|愛《あい》|撫《ぶ》の方法が、いかに風変わりなものであったかわかるのだ。そうかと思うと、
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――たまの留守ゆえ気楽にせんと、横になって本など読み、また思い立って手紙など書くに、帰宅後、何を読んでいたの、だれそれに手紙を書いたのと、いちいち|掌《たなごころ》をさすがごとく当てる気味悪さ、あれほど執念ぶかき人ゆえ、体は家を留守にしても、魂はつるが身につきまとい、片時も離れることなきかと思えば、いよいよ心いぶせく、気もついえるばかりの恐ろしさ……
[#ここで字下げ終わり]
と、おののいているところをみると、私の父というひとは、神通力を持っていたのか、留守中の母の行ないを、万事知っていて、いちいち掌をさすように当てたらしい。なるほど、それが事実とすれば、母が恐れおののくのも無理はないが、そのとき、はっと思い出したのは、あの床の間のお能の面の、背後の壁にあけてある孔のことだった。
わかった、わかった。父は家をあけると見せて、抜け孔から奥の納戸へまわり、ひそかにあの孔から母を監視していたのではあるまいか。そしてあとで何食わぬ顔をして、留守中の母の行動をあてて見せ、それによって母が恐れおののくのを、何よりもおもしろいこととして悦に入っていたのではあるまいか。それはいかにも、|嗜虐的《しぎゃくてき》性欲の持ち主のやりくちらしかった。そうして父はか弱い母を、とことんまで責めさいなむことによって、性欲の満足を覚えていたのであろう。
かわいそうな母よ。どちらにしても彼女には、片時として心の安まるすきはなかったであろう。思えば母が、すべての想いをこの屏風に秘めたのは、よい考えであった。いかに疑いぶかい父でも、まさか屏風の中まで見通しにはできなかったであろうから。母は好きなときに、屏風の表に電気をともし、裏へ回って古い恋文を読むことができたのだ。
私はこの屏風に秘められた母の秘密のいたましさに、夜ごと枕をしとどにぬらした。そしてこの秘密に気づいたことを、せめてもの慰めと思った。ひょっとするとこれも母の魂の導きではあるまいかなどと思ったりした。しかしああ、私はまだまだ知らなかったのだ。そこにはもっともっと大きな秘密が、――私の人生観をいっぺんに変えてしまうほどの大きな秘密が、隠されていたことを。……
それは経師屋の仕事のあがる日であった。下貼りを取り出してしまったあとの屏風の繕いをしながら、経師屋がこんなことをいった。
「旦那、ここになんだか妙なものが貼りこめてあるんですがね。これもついでに取り出しておきましょうか」
「妙なものって?」
「厚紙のようなものですがね。それもじかに貼りこめてあるんじゃなくて、紙袋に入れて、袋ごと下貼りのなかに貼りこんであるんですよ。どうしましょう。これ」
それならば私も気がついていた。電気の光で透かしてみたとき、郵便ハガキぐらいの四角なものが、|膏《こう》|薬《やく》を貼ったように、屏風の左の肩のあたりに貼りこめてあるのに気がついていた。しかしそれがごていねいに、紙袋に入っているとは気がつかなかった。私の胸は好奇心におどった。何か大事なものが隠してあるのではあるまいか。……
「ああ、それじゃ取り出しておいてくれたまえ」
それは果たして奉書の紙でつくった袋で、口には厳重に|美《み》|濃《の》紙で封がしてあり、触ってみると、郵便ハガキぐらいの大きさの厚紙が入っているらしかった。
その夜私は、経師屋がかえるのを待って、その袋の口を切った。私の指は思わずふるえた。私は中のものを取り出した。そして、|呆《ぼう》|然《ぜん》として眼を見はったのである。
それは私の写真であった。しかし、いつ写したのか、本人の私自身、全然記憶のない写真であった。でもあまり遠い昔の撮影でないことは、二十六、七という、現在の私とあまりちがわぬ年ごろからでもよくわかる。胸から上の半身像で、いくらか気取ってにっこり笑っている。どこかの写真屋のスタジオで、写した写真らしかったが、それでいて、私自身、全然記憶のない写真なのだ。
私は|茫《ぼう》|然《ぜん》とした。なんともいえぬ恐しい思いに、私の胸は|千《ち》|々《ぢ》に乱れ、頭は錯乱するようであった。しかしそのうちに私はようやく気がついたのだ。写真の主は非常に私によく似ている。本人の私自身が見まがうばかりである。しかし、それは私ではなかったのだ。眼もと、口もと、頬のふくらみ。――|瓜《うり》二つほど似ているけれど、どこか私でないところがある。しかもこの写真の古さ。これは二年や三年まえの撮影ではない。
わななく指で、私は写真の裏をかえしてみた。すると、つぎのような文字が、おどるように私の|網《もう》|膜《まく》にとびこんできたのである。
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亀井陽一(二十七歳)
[#地から2字上げ]大正十年秋撮す
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|礫《つぶて》の雨
ああ、なんということだ。母の昔の恋人は私と瓜二つである。私は母の恋人に、そっくりそのままなのである。おお、これほどたしかな不義の|証《しる》しがあるだろうか。私は田治見要蔵の子どもではなかったのだ。私は母と母の情人、亀井陽一との間に生まれた子どもなのだ。
この発見ほど私を驚倒させたものはなかった。私はほとんど心も狂わんばかりであった。それは一方に私に大きな安心と喜びをもたらしたけれど、一方において深刻な失望の|苦汁《くじゅう》をなめさせたこともいなめない。田治見要蔵の子どもではなく、したがって自分の体内には、あの気ちがいじみた田治見家の血は流れていない、――という発見は私にとってこの上もなく大きな喜びであったけれど、それと同時に私は、田治見家のあの巨大な財産が、指のあいだからこぼれ落ちていく失望を、なめなければならなかったのだ。
恥を忍んで私はあえて告白するが、そのころ、田治見家の財産は、私にとって大きな魅力になっていたのだ。私はひそかに田治見家の財産調べをしたくらいである。牛方のひとりが私に話してくれたところによると、田治見家で目下、小作に預けてある分を別としても、百二十頭からの牛を山へ放ち飼いにしてあるそうである。成牛一頭、当時の相場で十万円はくだらぬという話だったから、それだけでも私には眼のくらむような話だのに、しかもそれは田治見家の財産の十分の一にも当たらぬという話であった。
「何せ昔から田治見様には及びもないが、せめてなりたや領主様といわれたくらいですからな」
と、そんな話をきくにつけても、私がいよいよ田治見家の財産にひきつけられたのも無理ではあるまい。
しかし、いまやそれらの財産は私にとって、なんの意味もないものであることがわかったのだ。私は田治見家にわら一筋だって要求する権利はないのだ。ああ、この失望この落胆! 私はまるで真っ暗な淵へつき落とされたような絶望を感じたが、そのときはっと気がついたのは、小梅様や小竹様、姉の春代はこのことに、気がつかなかったのであろうかということである。あの大惨事が起こった当時、姉はまだ幼かったから無理はないとしても、小竹様や小梅様は、亀井訓導に会ったことはなかったのであろうか。たとえ一度でも亀井訓導をみていたら、私の面影から気がつかぬはずはない。二人の相似はそれほどのっぴきならぬものなのだ。
だが……そのとき、さっと私の脳裏をさしつらぬいた、ある恐ろしい思い出がある。それは兄久弥の臨終、すなわち兄と私の初対面のときの光景である。はじめて兄が私を見たとき、その顔になぞのような微笑がうかんだことは、まえにも書いておいた。また兄はそのとき私にむかってなんといったか。
「ほんにええ男ぶりやな。田治見の筋にこんなええ男が生まれるとは珍しい。はっはっは」
あのなぞのような微笑といい、毒々しい笑いといい、長く私を苦しめたものだけれど、いまこそハッキリその意味がわかるのだ。兄は知っていたのだ。私が田治見家のものでないことを。亀井陽一の子どもであることを。それにもかかわらず、兄はなぜ私を、田治見家の跡取り息子として迎え入れたのか。それはいうまでもない。慎太郎に跡を渡したくないからだ。
私はいまさらのように、兄のすさまじい執念に、戦慄せざるをえなかった。すべては慎太郎に対する憎悪から来ているのだ。慎太郎を除外し、|態《ざま》あ見ろと赤い舌を出してみせるためには、みすみす赤の他人に家を譲ることさえはばからなかったのだ。それはけっして私に対する親切からではない。私は|傀《かい》|儡《らい》にすぎないのだ。慎太郎をいやがらせ、やっつけるために踊らされている|木《で》|偶《く》の|坊《ぼう》にすぎないのだ。私は深い失望を味わうとともに、はげしい怒りをおさえることができなかった。
その夜、私は眠れなかった。父を恨み、母を恨み、兄を恨み、果ては自分をこの村へつれてきた運命を恨んだ。いったい自分はなんの面目があって神戸へかえれようか。私の前途を祝福し、さかんな声援を送ってくれた同僚や上役に、あれはまちがいでした……と、かえれるだろうか。
こうして私は|懊《おう》|悩《のう》し、|煩《はん》|悶《もん》し、夜中にいたるも眠ることができなかったが、世の中には何が仕合わせになるかしれたものではない。そのために私は、恐ろしい危難からまぬかれることができたのであった。
あれは深夜の十二時ごろのことであったろう。地鳴りのようにあたりをゆるがす|鯨《と》|波《き》の声に、私ははっと寝床の上に起き直った。鯨波の声は二度三度、夜のしじまをついて聞こえた。
すわ、なにごと!――と、息をのんだ|刹《せつ》|那《な》、バラバラと屋根|瓦《がわら》や、雨戸を打つ音がした。|石礫《いしつぶて》だ――と、気がついた瞬間、私は夢中でとび起きて、洋服に着かえていた。鯨波の声がまた聞こえた。
ただごとでない。――私は|肚《と》|胸《むね》をつかれる思いで雨戸のそばへ忍びよった。|膝頭《ひざがしら》がガタガタふるえた。雨戸のすきからのぞいてみると、|練《ねり》|塀《べい》の外は真っ赤である。|松《たい》|明《まつ》が右往左往しているのである。鯨波の声がまた聞こえ、礫の雨が屋根瓦や雨戸にあたってすさまじい音を立てた。なにごとが起こったのか知らないけれど、おおぜいの人が田治見家目ざして押し寄せてきたことだけはたしからしい。
様子を聞こうと、十五間の長廊下のほうへ走っていく途中でバッタリ寝間着姿の姉に出会った。
「ああ、姉さん、ど、どうしたのです」
と、私が尋ねると、
「ああ、辰弥さん、逃げて、逃げて!」
と、姉のさけぶのと同時だった。見ると姉は手に私の|靴《くつ》をぶらさげている。
「辰弥さん、逃げるのよ、逃げるのよ。あのひとたち、あなたをつかまえにきているのよ」
「なんですって、ぼくをつかまえにきたんですって?」
私は茫然とした。
「あなたをつかまえて|簀《す》|巻《ま》きにして、川へほうりこむんですって。さ、早く逃げて……」
姉は私の手をとって、ぐんぐん離れへ引っぱっていく。私は背筋のつめたくなるような恐怖をおぼえたが、それと同時に、|勃《ぼつ》|然《ぜん》たる怒りがふきあげてくるのを制することができなかった。
「姉さん、なんのためにぼくをつかまえるんです。なんのために簀巻きにするんです。いやだ、いやだ、逃げるのは、いやだ。あいつらに会ってわけをきいてやります」
「いけません、いけません。そんなことをいったって、わかる相手じゃありません。それにいまは気が立っているのだから」
「だって、姉さん、あんまり|悔《くや》しい。それに、逃げるのは自分に罪のあることを認めるようなものじゃありませんか」
「そんなことをいったってしかたがない。負けるが勝ちということもあります。ここはいったん逃げておいて、おりを待って……」
そのときどっとののしる声が、母屋のほうへ乱入してきた。姉の春代は真っ青になり、さすがに私も身内がすくんだ。
「廊下は錠をおろしてきたけれど、あんなものはすぐ破られる。さ、早く、早く」
「だって、姉さん……」
「辰弥さん、まだそんなことをいってるの」
姉は声をはげました。
「あなたは姉さんのいうことがわからないの。姉さんがこんなに心配していることがわからないの。ねえ、逃げて、逃げて! わたしのいうことを聞いて……」
私はもうそれ以上、逆らうことはできなかった。それに屋根や雨戸を打つ礫の音を聞くと、身の危険を思わずにはいられなかった。
「姉さん、逃げるといってどちらへ……」
「しかたがないわ。鍾乳洞にかくれるのよ。『鬼火の淵』の向こうなら、だれも行きはしないわ。そのうちに様子をみて村の人をなだめるし、ひまがかかるようだったらお弁当をとどけるわ。とにかく今夜はわたしのいうことを聞いて……」
姉の顔色はいよいよ悪く、これだけのことをいうあいだにも幾度も息切れがした。私はもうそれ以上、姉を心配させるに忍びなかった。
「わかりました。姉さん、あなたのおっしゃるとおりにします」
私は腕時計をとって腕にまくと、納戸の中へ走りこんだ。時刻は零時三十分だった。幸い納戸にはこのあいだ使ったカンテラや懐中電燈があったので、それを持って長持のふたをあけているところへ姉が合オーバーを持ってきてくれた。
「風邪をひくといけないから……」
「すみません。姉さん、では行ってきます」
「気をつけてね」
姉はせぐりあげる涙をおさえた。私も泣けそうになってきたので、あわてて長持の中へもぐりこんだ。
こうして|苛《か》|烈《れつ》な運命は、とうとう私を|常《とこ》|闇《やみ》の地下道へ追いこんだのであった。
闇を縫うて
後から思えばそれは実に危ない瀬戸ぎわだった。
長持の底をぬけた私が、下の地下道へおりるかおりぬうちに、上のほうから床を踏みぬくような足音と、ののしり騒ぐ声がきこえた。侵入者が離れへ踏みこんできたのだ。その騒ぎから考えて、三人や五人ではないらしく、口々にどなる声をきくと、私は全身から恐怖の冷や汗が流れ、やはり姉の言葉にしたがってよかったと思った。
私はカンテラの灯をふき消すと、暗い地下道を手さぐりですすんでいった。幸いちかごろ、すっかりおなじみになった地下道のこととて、|暗《くら》|闇《やみ》のなかでも不自由はなかった。
間もなく私は第二の石段のふもとまで来た。いい忘れたが、この石段をのぼっていくと、庭の奥の|祠《ほこら》の中へ出るのである。おそらく昔、この抜け孔を造ったひとは、離れの納戸と裏の祠をつなぐだけが目的だったのだろう。それがたまたま天然の鍾乳洞にぶつかったので、思いもよらぬ大仕掛けな抜け孔となったのであろう。
さて、私が手さぐりに壁をさぐって、岩のとびらをさがしていると、にわかに上のほうが明るくなって、
「ひゃっ、こんなところに抜け孔があったのか」
「気をつけな、足場が悪いぞ」
「おお、大丈夫か、なんだか気味が悪いな」
そんな声がせまい洞窟に反響して、割れ鐘のようにひびいてくる。
私は夢中で|梃《て》|子《こ》をおろしたが、そのときほど岩の開くのをまどろこしく感じたことはない。上のほうから足音が、しだいにこちらへ降りてくるのに、岩のとびらはごくのろのろとしか開いてくれぬ。もしこのとびらの開くのが間に合わなければ、私はいやでもいま来た道を引き返さねばならぬが、おお、その道からも足音と、ののしり騒ぐ声が近づいてくるではないか。
私は総身の毛という毛が逆立つような恐怖をおぼえたが、それでもやっと体が入るくらいの岩が開いたので、無理矢理に中へもぐりこむと、向こう側から梃子をおしたが、またしても私は危ないところで間に合ったのだ。岩がまだ締まるか締まらないうちに、どやどやと上から足跡が降りてきた。
「ひゃっ、これ見ろ、岩が動いてるぜ」
「しまった、野郎、それじゃいまここをもぐっていきゃあがったにちがいない」
「この岩はどうしたら動くんだ」
「待て待て、おれに見せろ」
そういう声をあとにして、私はまた闇の地下道を|這《は》っていった。
そのときはじめて私はかれらの計画の大げさにして、真剣なのに気がついたのだ。この様子でみると、抜け孔の入り口という入り口から追っ手のものを繰りこませているらしい。もしそうだとすると、私は一刻も早くあのふたまたまでたどりつかねばならぬ。そうでないと、いつも典子が忍んでくる濃茶の入り口から侵入してくるであろう追っ手のために、行く手をさえぎられるおそれがあるのだ。
これは後に知ったことだが、かれらはやはり私の想像したとおり、あらかじめ手分けして、鍾乳洞の入り口という入り口に見張りをおいたそうである。そして、私が地下道へもぐりこんだと知るや、伝令をとばして、いっせいに中へ繰りこませたのだが、私にとって仕合わせだったことには、夜のこととて何かに不自由で伝令に手間どったこと。かれらが地下道に慣れていなかったために、とかく行動に敏活を欠いたこと。それらのおかげで私はまたしてもかれらより一足さきに、ふたまたへたどりつくことができたのである。
しかし、私はまだまだ安心できなかった。追っ手はしだいに数を増してくるらしく、おりおりあげる喚声が、百雷のごとく地下道の空気をふるわせる。それに追われる私は夢中で、「猿の腰掛」から「天狗の鼻」へ通ずる洞窟にもぐりこんだ。
「天狗の鼻」から「木霊の辻」、それを過ぎると、「鬼火の淵」も、間近である。「鬼火の淵」さえ渡ってしまえば大丈夫だ。村のひとたちはあれからさきへ入ることを恐れているし、たとえ入ってきたところで、「狐の穴」という|究竟《くっきょう》のかくれ場所もある。「狐の穴」をすみからすみまでさぐるというのはまず不可能であろう。
それを力に私は「天狗の鼻」までさしかかったが、ギョッと立ちすくんだのである。行く手にあたる「木霊の辻」から、がやがやと人の話し声がきこえてくる。しかもその声は「木霊の辻」にこだまして、大きな反響の|渦《うず》をえがきながら、しだいにこちらへ近づいてくるのだ。
ああ、私は忘れていた。いつかここで英泉さんに出会ったことがあるが、その英泉さんの話によると、この向こうにバンカチへぬける口があるというのだ。いま向こうから来る連中は、きっとそこから入ってきたのにちがいない。私は絶体絶命だった。うしろから来る連中はいよいよ勢いを増したらしく、おりおり爆発するような喚声が、洞窟の空気をふるわせる。行く手の「木霊の辻」からは、刻々として足音が近づいてくる。
私は懐中電燈をつけると、夢中であたりを見回した。と、眼についたのはすぐ頭の上に突き出しているあの太い天狗の鼻である。それを見ると私は無我夢中で、壁をよじ、「天狗の鼻」へのぼっていった。ところがたいへん都合のいいことには、天狗の鼻の上側というのがえぐられたようにくぼんでいて、体を横にすると、スッポリ中に入ってしまうのである。これ幸いと私が身を伏せたとたん、「木霊の辻」の曲がり角から松明の火が現われ、足音が近づいてきた。
「おかしいなあ。こっちへ逃げてきたとしたら、もうそろそろ出会いそうなもんだが……まさか途中で行き違いになったのに、気がつかなかったんじゃあるめえな」
「馬鹿なことをいっちゃいけねえ。それほど広い孔でもねえよ」
「そうだな。するとまだ来ねえのかな」
「やっこさん、灯をつけるわけにもいくめえから、暗がりの中を手さぐりで逃げてやがんだよ。それだとするとひまがかかるぜ」
「ふむ、これは鉄のいうとおりかもしれねえな。それじゃここらで待ち伏せするか」
話し声から判断すると、三人づれらしいのが、「天狗の鼻」の下まで来ると立ち止まった。どうやらここで待ち伏せするらしい。
私は気が気でなかった。もしここへあとからの連中がやってきたらどうだろう。かれらはきっとこのあたりをすみからすみまでさがすにちがいない。そしてそんな場合、だれしも一番に眼をつけるのは天狗の鼻であろう。
「|爺《とっ》つぁん、天狗の鼻とはよくいったものだな。まったくよくできてやがる」
下で話している声がきこえる。
「ほんにな。しかもあれが自然にできたというんだから不思議なもんだ。もっとも壁の眼や口は、人が彫ったということだが……」
「|爺《とっ》つぁん、あの鼻の上は大丈夫かな。あんなとこへかくれているんじゃ……」
第三の声がそういったときには、それこそ私は生命のちぢむ思いであった。しかし、幸い|年《とし》|嵩《かさ》なのが、
「馬鹿なことをいっちゃいけねえ、ほら」
と、松明をかかげたらしく、洞窟の天井にゆらゆら灯影がゆれて、
「だれかいるとしたら見えねはずはねえ。信さん、つまらねえことはいわねえものだ」
私はほっと胸なでおろし、改めて天狗の鼻のこのくぼみに感謝せずにはいられなかった。三人はそこに腰をおろすとたばこを吸いながら雑談をはじめたが、そのうちに話題が、今夜のことにふれてきたので、私は思わず聞き耳を立てた。
「鉄、おまえはそういうがな。それじゃ、二十六年まえのようなことが、もう一度村に起こってもかまわねえというのか」
そういう声にどこか聞き覚えがあったので、私はおやと思っておそるおそる天狗の鼻からのぞいてみた。見るといつか私たちが英泉さんに出会ったとき、身をかくしたあのくぼみに、三人の男が|鼎《かなえ》になって座っていたが、私はその中の一人に見覚えがあった。それははじめて私がこの村へ、足を踏み入れたとき、バスでいっしょになった|博《ばく》|労《ろう》の吉蔵であった。
吉蔵の言葉に相手はもぐもぐいったが、それはよく聞きとれなかった。吉蔵は少し調子を強めて、
「鉄、おまえはあのとき幾つだった。三つ……? それじゃあのときの恐ろしさを、覚えてねえのも無理はねえ。まあ、聞け、おれはあのとき二十三でよ、|嬶《かか》をもらってふた月め、互いにそろそろ味がわかりはじめて、うれしい最中よ。嬶は六つ年下の十七だった。死ぬ子はみめよしでいうんじゃねえが、そりゃかわいい女で、吉つぁんには過ぎものだといわれていたもんだ。それがおまえ……」
吉蔵の言葉が激して、
「あの晩、ズドンと一発よ。なんの恨みもねえものを、野郎、虫ケラみたいに殺しゃあがった。あのときのことを思うと、おらあいまでも腹が煮えくりかえる」
吉蔵の声が無気味に洞窟に反響する。私はゾッと冷たい風に吹かれる感じであった。
「そりゃあ、あのとき|親《しん》|戚《せき》をやられた人はそんな気がするだろうが、しかし、爺つぁん、それかといって何もこんな大騒ぎして、あの若僧を追っかけまわすことはねえと思うんだが……警察の旦那にまかせておいちゃいけねえのか」
鉄の言葉に吉蔵はフフンとせせら笑って、
「鉄、てめえ若えくせに、いやに警察御信心なんだな。だが、よく聞け。警察なんてものは当てにならねえもんだ。二十六年まえのあのときだって、要蔵のやつはひと晩あばれまわったんだぜ。警察の連中がもっと早く駆けつけてくれたら、死人やけが人は半分ですんだんだ。それがどうだ。あいつらのやってきたなあ、何もかも終わったあとで、要蔵がとっくの昔に山へ逃げこんだあとだった。なあ、警察のやることは万事この調子よ。あいつらは万事終わってから、のこのこやってくるんだ。そんなものを頼りにしていられるかい。わが身がかわいいと思えば、自分で自分を守らなきゃならねえんだ」
「だって、爺つぁん、あの若僧をほうっておいたところで、なにも二十六年まえのようなことが起こるとは限るめえ」
「おめえ、それを保障するか。起こらねえと保障できるか。それじゃ現にこのあいだから起こってる事件はどういうんだ。二十六年まえの一件以来、人殺しなんて一度もなかったこの村に、あの若僧がきて以来、こんなにつぎつぎいやなことが起こるというのはどういうんだ。あいつは悪魔の申し子だ。おらバスの中で出会ったときからそう思っていたんだ。あのときひと思いに殴り殺してやるんだった」
吉蔵のギリギリ歯ぎしりをする音が、|錐《きり》でもみこむように私の神経にくいこんだ。私は鉛をのんだような気持ちである。
「そりゃ、爺つぁんにゃ重なる恨みがあるからな。おめえ濃茶の尼の妙蓮と、よろしくやったっていうじゃねえか」
鉄という若者がひやかすようにいう。それに対して吉蔵の声はいよいよきびしく、
「いけねえか。妙蓮といい仲になったのが悪いか。どうせ割れ|鍋《なべ》にトジぶたよ。妙蓮は兎口で半きちがい。こっちは嬶を殺されてからぐれ出して、まともな人間は相手にしてくれねえ男だ。だけどなあ、鉄、よく覚えとけ。男でも女でも、みめ形ばかりで値打ちはわからねえ。寝てからわかる味もあらあ。妙蓮はおれを夢中にしてくれたし、おれもずいぶん妙蓮をかわいがってやったものさ。それを、それを……あの若僧め」
またギリギリと歯ぎしりをする音がする。しばらくしてまた若者が口をひらいた。
「だけど、ほんとにあの若僧が下手人なのかなあ。おれには信じられないなあ」
いままで黙って二人の話を聞いていた、第三の男がそのときはじめて口をひらいた。
「それよ。おれもはなは半信半疑だったんだが、近ごろじゃやっぱりそうだと思うようになった。それというのが……」
と、体を乗り出して、
「うちにいる若御寮人よ。おまえも知ってのとおり、あの若僧を神戸まで迎えにいったのは若御寮人だ。それだけにせんにはあの若僧が御ヒイキで、あいつのことといえばムキになって、かばい立てをしたもんだ。ところがどうだ。近ごろは掌を返すようによそよそしくなったし、第一、寄りつきもしねえじゃねえか、きっとあのひとも若僧の性根を見抜いたにちがいねえ。女ながらも眼から鼻へぬけるようなひとだからな」
私は思わずドキリとした。ハッキリ名前は出ないけれど、若御寮人というのは美也子のことにちがいない。
「それじゃ西屋の若御寮人さんも、あいつが下手人だといってなさるのか」
鉄が聞いた。
「うんにゃ。そこはたしなみのあるひとだから、われわれみたいに口軽にはおっしゃらねえさ。でもな、このあいだうちの親方がそっとあのひとの気をひいてみたのさ。すると、若僧の名前が出たとたん、若御寮人は顔色をかえてよ、あのひとのことはいわないで、私の前で二度とあのひとのことなんか聞きたくもないと、そういうと、逃げるように奥へお入りになったというのさ。だから親方なんか、若御寮人はきっとあの若僧が、下手人にちがいねえという、証拠を何か握っていなさるにちがいねえといってるよ」
ああ、それじゃ美也子まで私を見捨ててしまったのか。それにしても証拠とはなんだろう。むろん、そんなものがあるべきはずはないが、かりにそれらしいものを美也子が握ったとしても、なぜ彼女は私に確かめてくれなかったろう。私はまるで地獄へ突き落とされたような暗い絶望を感じた。
「ふむ、するとやっぱり何かな……」
鉄が何かいいかけたときだった。突然、向こうのほうでわっという喚声があがった。それを聞くと三人はいっせいに立ちあがって、
「なんだ、ありゃ……」
「若僧がつかまったんじゃねえか」
「よし、行ってみよう」
三人そろって、駆け出したが、すぐ気がついたように、
「鉄、てめえはここに残ってろ」
「そ、そんな|殺生《せっしょう》な」
「怖いのか。意気地なし。すぐかえってくるから番をしてるんだ」
ひとり取り残された鉄は、松明かざしてしばらくもそもそしていたが、やがて耐えられなくなったものか、
「爺つぁん、ちょっと、ちょっと……」
と、ふたりのあとを追っかけていった。
しめた! このときだ! このときを外して、追っ手からのがれる|術《すべ》はない。私は大急ぎで「天狗の鼻」からすべりおりると、「木霊の辻」を回って、「鬼火の淵」へたどりついた。私のいちばんおそれたのは、「鬼火の淵」に見張りがついているのではないかということだったが、幸い、そこまでは気がつかなかったらしく、あたりにはだれもいなかった。
私はほっとして、懐中電燈の光であたりを見極めると、すぐあの桟道にとりついた。真っ暗だったけれどまえに一度とおった経験があるので、それほど恐れはしなかった。
私は間もなく鬼火の淵の向こう岸へたどりついた。あたりは暗くものすごく、とてもひとの来るようなところでないが、私にはもうここよりほかに安息の場所はないのだ。
私は胸の中を木枯らしが吹きぬけていくような|侘《わび》しさを抱いて、|悄然《しょうぜん》として闇の中にたたずんでいたが、するとそのとき、やにわに私の胸にとびついてきたものがあった。
私はギョッとして、それに文字どおり二、三歩とびあがったものだが、
「お兄さま、あたしよ、あたしよ」
そういう声は、なんと、典子ではないか。
闇からの声
「典ちゃん、きみはどうしてこんなところへ来たんだ。こんなところへ何しに来たんだ」
「お兄さまを探しに来たのよ。お兄さま、地下道へ逃げこんだと聞いたから、きっとここへいらっしゃると思って、さっきから待ってたの。でも、よく逃げてこられたわ。あまり遅いので、途中でつかまったんじゃないかと思って、どんなに心配したかしれなかったわ」
「典ちゃん!」
私は胸がせまって思わず強く典子を抱きしめた。
実際、そのときほど、私はひとの情けに飢えていたことはなかったのだ。思いがけないその夜の出来事は、私の心から、人間に対する信頼というものを、根本から奪っていきそうであった。私の恐れたのは、かならずしも肉体的な危険ではない。いやしくも法治国に生きている以上、こんな理不尽なリンチに会うべきはずはないという自信を私は持っていた。そのうちに警察のひとびとがやってきて、かれらを説き伏せて助けてくれるだろうと信じていた。だから肉体的な危険についてはそれほど恐れてはいなかったのだけれど、ただ私の恐ろしかったのはひとの心であった。
こういう騒動が起こったのには、いずれ扇動者があるのだろうが、私の恐れたものはその扇動者よりも、わけもなくそういう扇動にのる村のひとの心であった。いかに扇動者が言葉たくみに扇動したところで、村のひとたちの心の中に、私に対する憎悪の種子がなかったなら、こうまでうまく爆発するはずがない。それほど私は村のひとたちから、憎まれていたのであろうか。……そう考えると、私はなんともいえぬほど心細くなり、はかなくなるのであった。
それともうひとつ、私の心を暗くしたのは、さっき聞いた美也子のうわさである。どういう理由で、美也子が私を疑いはじめたのか知らないけれど、以前あれほど私を信じ、私をはげましてくれた美也子だけに、思いがけないその変心は、いまさらのように人の心の頼りなさを思わせるのであった。
そういう場合だけに、私は典子の親切が、この上もなくうれしかった。ありがたかった。しかし、とはいえ、これはこのまま受け入れられるべきものではない。
「典ちゃん、ありがとう、よく来てくれたね。しかしここはきみの来るべきところじゃない。早くお帰り」
「あら、どうして?」
暗闇のこととてよくわからなかったが、典子は例によって無邪気な眼を見はっているらしい。
「村のひとがやってくると、どんなことになるかわからないよ。とばっちりを食ってけがをしちゃつまらない、いまのうちにお帰り」
「あら、それなら大丈夫よ。村のひとたちはこの淵を渡るのをとても怖がるのよ。この淵を渡ると|祟《たた》りがあるという伝説があるんですって。だからここにいれば大丈夫なのよ」
とはいえ、こういう暗闇に、若い女と二人でいることは心苦しかった。
「でも、やっぱり典ちゃんは帰ったほうがいいよ。慎太郎さんが心配するといけないから」
「ううん、いいの。お兄さま、もうしばらく、ここにおいて。そのうちにどうせ一度帰ってこなきゃならないけれど」
「何か用事があるのかい」
「ええ.お兄さまのお弁当を持ってこなきゃ……」
「ぼくの弁当?」
私はびっくりしてきき返した。
「ええ、そうよ。この騒ぎは相当長引くと思うの。そのあいだ何も食べずにはいられないでしょう。だからもうしばらくしたら、一度帰ってお弁当をこさえてくるわ」
「典ちゃん、きみ、どうしてそう思うの。この騒ぎが長引くって……」
「どうしてって、そんな気がするのよ。みんなの意気込みからして……」
「だって、典ちゃん、警察でこんなこと許しておきゃあしないだろ。そのうちに警察の干渉で、解散になると思うんだけど」
「お兄さま」
典子が悲しげにいった。
「こんな山奥の村では、警察ってほんとうに無力なものよ。それも、村の一部で事を起こしたというのなら、それに反対なひとを使って説得させるという手もあるけれど、こんどのような村全体が加担しているような場合、警察がうっかり手を出すと、かえって事が大きくなるの。だから結局、警察は手をつかねて見ているより手がないと思うのよ。いつかの水げんかのときだってそうでしたもの」
私は急に心細くなってきた。
「典ちゃん、それじゃ今夜の騒ぎにゃ、村全体が加担しているというのかい」
「ええ、うちみたいな疎開者は別だけど……でもね、お兄さま、みんながみんな、お兄さまを憎んでるってわけじゃないのよ。ただ、二十六年まえのことをいわれると、みんな加担せずにはいられないのよ。四十以上の人にとっては、二十六年まえの大騒動は、いまでも昨夜の悪夢と同じなのよ。だから、もう一度あんなことが起こるぞといわれると、どんなことでもやりかねないのよ。そこをうまくだれかが|焚《た》きつけたので、パッと火の手が燃えあがったのね」
「いったいだれが焚きつけたんだろう」
「さあ」
「まえからこんな心配はあったの」
「あたしはちっとも気がつかなかった。だからこの計画は村の西側で起こったのよ、きっと。だって周さんと吉蔵とが大将株だという話ですもの」
「周さんてだれ?」
「西屋の|若者頭《わかものがしら》よ。なんでもこのまえの騒動のとき、お嫁さんと子どもが殺されたんですって」
それを聞いて、私はふっと怪しい胸騒ぎをおぼえた。
「西屋の若者頭だって? 典ちゃん、それじゃ、ひょっとすると西屋の主人が、この騒ぎの後押しをしてるんじゃあるまいか」
「まさか……ただ、騒ぎもこう大きくなると、村長だろうと西屋の主人だろうと、どうすることもできないのね」
私はいよいよ心細くなってきた。
「典ちゃん、それじゃぼくはどうすればいいんだ」
「だから持久戦よ。あのひとたちの熱のさめるのを待ってるのよ。いまはみんないきり立ってるから、だれがなんといったってだめ。余計なことをすれば、火に油をそそぐようなものよ。だけど、そのうちにだんだん熱がさめていくわ。おだてに乗って、竹|槍《やり》なんか振り回してるのが馬鹿らしくなってくるわ。だから、それまで待つのよ」
「竹槍なんか振り回しているのかい」
「ええ、でもみんなから元気よ。いちばん気をつけなきゃならないのは、博労の吉蔵というひと。あなたを見つけたら殴り殺してやるって、太い棍棒を振り回してるんですって。吉蔵ならやりかねまいという話だから気をつけてね」
さっき松明の光で見た、吉蔵の凶悪な顔を思い出すと、私はゾッと背筋が冷たくなった。そうすると、私は危ないところで命拾いをしたのであろうか。
私は黙りこんでしまった。心が重くなって、口をきくのも大儀になった。しばらくすると、典子の冷たい手が、闇のなかを手さぐりで、私の両の|頬《ほ》っぺたを押さえた。
「お兄さま、何を考えてらっしゃるの。何も心配することはないのよ。ここに隠れていらっしゃればいいのよ。だれもあの淵を渡ってきやしないわ。周さんだって、吉蔵だって、ああいう乱暴なひとにかぎって迷信ぶかいものなのよ。だからここにいれば大丈夫よ。食べ物はあたしが運んでくるしさ。あたしね、だれも知らない抜け道を見つけたのよ。その代わり|兎《うさぎ》の穴みたい。だから、ほら、あたしこんな風をしているでしょ」
なるほど触ってみると、典子は戦時の防空服のような、かいがいしい服装をしていた。
「だから、二日でも三日でも、向こうがいやになってやめてしまうまで|籠城《ろうじょう》するのよ。負けちゃだめよ。あくまでがんばるのよ」
私はこのときほど、典子をたのもしく思ったことはない。彼女はおよそ、悲観という文字を知らぬもののように元気で楽天的であった。
典子のようなか弱な体に、どうしてこんな強い魂が宿るのかと、不思議でたまらなかったくらいである。
「ありがとう、典ちゃん、万事きみにまかせるよ」
「いいわ、引き受けたわ。だから心配しないで……あっ、来たわ!」
私たちは反射的に身をひるがえすと、かたわらの洞窟の中へとびこんだ。と、ほとんど同時に、わっという喚声とともに、「鬼火の淵」の向こう岸が、燃えあがるように明るくなった。追っ手の連中が駆けつけてきたのである。かれらもどうやら、私が淵を渡ったことに気がついたらしく、|地《じ》|団《だん》|駄《だ》ふんでくやしがりながら、こちらにむかってしきりに口ぎたなくののしった。
典子は私の腕を強くつかんで、
「相手になっちゃだめよ。あなたがここにいるって確信はないのだから」
私はむろん相手になる気はなかった。
「ほら、御覧なさい。松明をもって、いちばんとっさきにいるのが西屋の若者頭の周さんよ。それから周さんの後にいるのが博労の吉蔵」
周さんというのは六十くらいの白髪の|老《ろう》|爺《や》で、松明の光で見るせいか、しわの深い、眼玉のギロリとしたあから顔は、とんと芝居に出てくる|矢《や》|口《ぐち》の|頓《とん》|兵《べ》|衛《え》だ。吉蔵はなるほど、太い棍棒をさげている。
しかし、典子のいうとおり、だれひとり淵を渡ってくる者はなかった。かれらは地団駄ふんでくやしがりながら、向こう岸から一時間あまりも毒づいていたが、そのうちに、どう相談がまとまったものか、二、三人の張り番を残して、ほかの連中はひきあげていった。
「そうれ、ごらんなさい。やっぱりあたしのいうとおりでしょう」
向こう岸に残った連中は、カンテラを取りまいて腰をおろし、はじめのうち流行歌を歌ったり、合間合間にこっちへ向かって毒づいたりしていたが、そのうちにだんだん静かになったと思うと、やがてピタリと話し声もやんでしまった。どうやら眠ったらしいのである。
それを見ると気がゆるんだせいか、私も急に睡魔に襲われ、いつか典子の膝を枕に、深い眠りに落ちたのであった。
それからいったい、どのくらい眠ったのであろうか。寝苦しい夢を見つづけていた私は、夢の中で自分の名を呼ぶ声を聞いて、はっと眼をさました。
「辰弥さーん!」
夢の中で聞いた声は、まだ闇の中でつづいている。
「辰弥さーん、助けてえ……」
一瞬、私はまだ夢を見つづけているのであろうかといぶかったが、それは夢ではなかった。闇のかなたからたしかに私の名を呼ぶ声が聞こえるのである。
私はハッと起き直ると、
「典ちゃん、典ちゃん」
と、低い声で呼んでみたが、典子の返事はなく、おそるおそる懐中電燈をつけて見たが、典子の姿はどこにもなかった。腕時計を見ると時計は十時二十分、おそらく一夜明けたのであろう。
そのとき、また闇の中から私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「辰弥さん、辰弥さん、どこにいるの。助けてえ、助けてえ。ああ、あたし、殺されるウ……」
私はやっとハッキリ眼がさめると、はじかれたように洞窟の外へとび出した。
見張りをしていた連中も、すでに引き上げたとみえて、「鬼火の淵」の向こう岸は真っ暗だった。その暗闇の向こうから、
「辰弥さん……」
と、遠くなり、近くなりして聞こえてくる声を聞いたとたん、私は全身に総毛立つような恐怖をおぼえた。
ああ、その声! それは姉の春代ではないか。
第七章 |木《こ》|霊《だま》の|辻《つじ》の恐怖
私はちょっとためらったが、それはけっして|臆病《おくびょう》風に吹かれたからではない。なにごとが起こったのかわからなかったからだ。しかし、つぎの瞬間、またしても、
「辰弥さーん!」
と、悲しげに救いを求める声を聞いたとき、私の心はすぐにきまった。姉が助けを求めているのだ。どんな危険を冒しても行かねばならぬ。私は懐中電燈をポケットにしまうと、すぐに、桟道にとりついた。渡りなれてしまえばこの桟道も、それほど危険とは思えない。
桟道の途中まで来たとき、またしても姉の声が聞こえた。こんどはよほどハッキリしていたが、その声はひとところにとどまっているのではなくて、洞窟の中を走りまわっているらしいのである。
だれかが姉を追いまわしている!……そう考えると、私はなんともいえぬ恐ろしさがこみあげてきた。姉を追っかけている人物の恐ろしさもさることながら、私は姉の健康を気遣ったのである。
医者は姉に、できるだけ安静にするようにと命じている。ちょっとの興奮、ちょっとの運動も、姉の心臓にはさわるのである。そうでなくとも昨夜の騒動が、体にさわりはしなかったかと気遣っていたやさきだ。私は夢中で桟道を渡ると、
「姉さん、姉さん、姉さん、どこにいるのです!」
と、危険も忘れて叫んだがそのときだった。あの異様な声と音響が、おどろおどろしく聞こえてきたのは。
「辰弥さーん!……」
「辰弥さーん!……」
「助けてえ……」
「助けてえ……」
と、姉の叫びのひと声ごとが、繰り返しとなって聞こえてくるのだ。そして、それにまじって闇の中を駆けめぐり、こけつまろびつする気配が、異様な、拡大された音響となって伝わってくるのである。
ああ、姉は――姉とその襲撃者とは、「木霊の辻」の中にいるのだ。
「姉さん、姉さん、いま行きます。しっかりしてください。いま行きます」
私は叫びながら夢中になって駆け出した。もうだれも怖くはなかった。周さんだろうが吉蔵だろうが、だれでも来いと懐中電燈をふりかざした。
私の声がとどいたのか、
「ああ、辰弥さん、早く来てえ!」
いままであてどもなく呼んでいた声は、急に希望と活気が加わって、逃げまわる音、救いを求める声はいよいよ明瞭になってくる。私は夢中で走るのだが、おお、なんとそれはじれったいことか!
「木霊の辻」は羊腸と曲がりくねっていて、救いを呼ぶ声はすぐ近く聞こえながら、なかなかそこへ行きつくことのできぬもどかしさ。しかも、姉とその襲撃者の一挙手一投足が、拡大された音響となって、手にとるように聞こえてくるのだから、それこそ|搾《しめ》|木《ぎ》にかけて、全身の|膏《あぶら》をしぼられるような感じであった。
「姉さん、姉さん、大丈夫ですか。相手はいったい、どんなやつです」
私は走りながら叫んだ。
「ああ、辰弥さん、早く来て……どんなひとだかわからないの。真っ暗だからわからないの。ひとことも口をきかないからわからないの。でも……でも……このひと、あたしを殺すつもりなのよ。ああ、辰……辰弥さん!」
私はギョッとして立ちどまった。一瞬、シーンと静かになったが、突然、
「キャーッ!」
という悲鳴が聞こえたかと思うと、土を|蹴《け》る音。しかし、それもほんのわずかの間で、やがてどたりと何かが倒れるような音がしたかと思うと、ヒタヒタと忍び足に逃げていく音が、かすかな反響をともなって遠ざかっていき、やがてバッタリ聞こえなくなった。あとは死の静けさなのである。
私は頭から水をぶっかけられたような恐ろしさに、身じろぎもせずに立ちすくんだ。意気地のない話だけれど、歯がガチガチと鳴って、膝頭がガクガクふるえた。しかし、すぐ気を取り直して大急ぎで駆け出した。
私が暗闇の中に倒れている、姉の姿を発見したのは、それから間もなくのことである。
「姉さん、姉さん」
私は急いで姉を抱きおこしたが、そのとたん、世にも異様なものが姉の胸につっ立っているのに、思わず眼を見はった。それは鍾乳石であった。姉はそこらいちめんにぶらさがっている、鍾乳石のかけらで刺されているのであった。
「姉さん、姉さん」
私は夢中でまた叫んだ。すると姉はまだ死にきっていなかったとみえて、薄白くにごった眼を見開いた。そして私の顔のあたりを見つめていたが、やがてかすかにのどを鳴らすと、
「辰弥さん……」
と、つぶやくようにいった。
「ええ、そうです。ぼくです。姉さん、しっかりしてください」
私が体を抱きしめると、まっ白な姉の顔に、ごくかすかながら微笑の影がさした。
「いいえ、もうだめ。その傷よりも心臓が……」
姉は苦しげに身をもみながら、
「でも、いいのよ。うれしいのよ。死ぬまえに辰弥さんに会うことができたのだから……」
「姉さん、死ぬなんていわないでください。それより相手はいったいだれなんです。だれがこんなことをしたんです」
姉の顔にはまたかすかな微笑がうかんだ。それはなぞのような微笑であった。
「だれだかわからないの、真っ暗だからわからなかったの。でも、わたし、そいつの左の小指をいやというほど|噛《か》んでやったわ。もうちょっとで噛み切るくらい……辰弥さんあなたもさっきの悲鳴聞いたでしょう」
私は驚いて姉の顔を見直した。そういえばくちびるのはたに、なまなましい血がついている。それではさっきの悲鳴は姉ではなく、かえって犯人のほうだったのか。
姉はまた苦しげに体をのたくらせ、すすり泣くような息を吐いた。
「辰弥さん、辰弥さん」
「姉さん、姉さん、なんですか」
「わたしもうすぐ死ぬわ。わたしの死んでしまうまで、あなたはどこへも行かないでね。ここにいてわたしを抱いてね。わたし、あなたに抱かれて死ぬのうれしいのよ」
私は|茫《ぼう》|然《ぜん》として姉の顔を見直した。ある驚くべき疑いがさっと私の頭をかすめた。
「姉さん、姉さん」
姉はしかし、私の言葉が耳に入ったのか入らないのか、うわごとのように言葉をつづける。
「辰弥さん、わたしもう死ぬのだから、どんな恥ずかしいことでもいえるわね。わたし、あなたがどんなに好きだったか……わたしはあなたが好きで、好きで……ああ、もう死ぬほど好きだった、それも弟としてではなく。ほんとはあなたは、わたしの弟ではないんだもの。それなのに、辰弥さん、あなたはわたしを姉としか扱ってくれなかったわね。それがわたしには悲しかった……」
ああ、姉はやっぱり知っていたのだ。私が真実の弟でないことを。そして、まちがって舞いこんできたこの私に、ひそかな思慕の情を寄せていたのだ。私はなんともいえぬ哀れさに、胸をうたれずにはいられなかった。
「でも、もういいわ。こうしてあなたに抱かれて死ぬのだから。ねえ、辰弥さん、わたしが死ぬまでどこへも行かないで、……そしてわたしが死んだら、かわいそうだと思ってときどき思い出してね」
姉はなおもくどくどと語りつづける。しまいには息切れがして、何をいってるのかわからなくなったが、それでもなおかつ、彼女は語りつづけた。もうとっくに視力をうしなった眼を見はりつづけて。……その顔は童女のように清らかであった。
こうして姉は、私に抱かれたまま息を引きとったのである。
私は姉の眼をつむらせ、静かに体を土の上に横たえてやったが、そのとき姉が左の手に、ふろしき包みと水筒を持っているのに気がついた。ふろしき包みをひらいてみると、竹の皮包みの握り飯が入っていた。それを見ると急に胸が迫ってきて、涙が滝のようにあふれた。ああ、姉は私のところへ弁当を持ってくる途中で、この奇禍に出会ったのだ。
姉の体を抱いて、しばらく私は涙にくれたが、すぐこうしている場合でないことに気がついた。一刻も早くこのことをお巡りさんに知らせねばならぬ。
姉の心尽くしの弁当を腰につけ、水筒を肩からかけると、私は懐中電燈を持って立ち上がった。が、そのときだった。
「この野郎!」
満身の憎悪をこめた声が、闇の中で|炸《さく》|裂《れつ》したと思うと|発《はつ》|矢《し》! と風を切って私の頭上に振りおろされたものがあった。実に危ない一瞬だった。うっかりその一撃をまともにくらっていたら、私の頭は|柘《ざく》|榴《ろ》みたいにはじけていたにちがいない。
「何をする!」
反射的に身をしずめて、危うく最初の一撃をのがれた私はそう叫びながら、懐中電燈の光を、さっと襲撃者に浴びせたが、そのとたん、全身がしびれるような恐怖を感じた。
懐中電燈の光の中にうきあがったのは、まがうかたなき吉蔵の顔であった。最初の一撃に失敗したかれはギリギリと音を立てて、歯を噛みながら、まむしのような指で太い棍棒を握りなおしている。
その眼を見ると、さっき典子のいったことが、うそや誇張でないことがよくわかる。殺気がほとばしっていた。話せばわかる顔ではなかった。吉蔵はほんとうに私を殺すつもりなのだ。
まともに懐中電燈をむけられた吉蔵は、ちょっと眼のくらんだ様子だったが、やがて片手で光をよけながら片手で棍棒を大上段に振りかぶると、
「これでもくらえ!」
腹の底から憎悪のかたまりをしぼり出すような声だった。獣のように体を弾ませ、発矢とばかり棍棒を振りおろしたが、こんどもまたねらいが狂ったのである。夢中で身をしずめた私の|横《よこ》|鬢《びん》を、はるかにはずれて、棍棒はいやというほど岩をたたいた。
「あっ!」
はずみをくらって二、三歩宙を泳いだ吉蔵の口から、痛烈な叫びがもれたと思うと、棍棒が手先を離れてくるくると二、三間さきへとんだ。岩をたたいた拍子に手がしびれたのであろう。私はとっさに身をしずめると立ち直った吉蔵の胸に、いやというほど|頭《ず》|突《つ》きをくれた。
「うわっ!」
さすがの吉蔵もこの不意打ちにはたまりかねたのか、胸をおさえて|尻《しり》|餅《もち》をついた。そのすきに、私は一目散に逃げ出したが、このとき、私は眼がくらんでいたのにちがいない。途中で気がつくと、南無三! 私はまた「鬼火の淵」へむかっているのだ。しかもそれに気がついて、もとへ取ってかえそうとしたときには、追っかけてくる吉蔵の、ものすごい|咆《ほう》|哮《こう》と足音が聞こえてきた。
ああ、もうあとへはもどれない。
こうして私はふたたび、「鬼火の淵」の向こう側へと追いこまれる羽目になったのであった。
小指の傷
私の胸はいま絶望と焦燥とにみたされている。いま私はこんなところに隠れている場合ではないのだ。
姉がなくなった現在、田治見家に生きのこっているのは役にも立たぬ小竹様ばかりである。私がいないで、いったいだれが姉の弔いをするのか。いやいや、それのみならず私には、もっと重大な義務がある。私は姉を殺した犯人を知っているのだ。左の小指をかみきられて、半分ちぎれそうになった人物。――私は一刻も早くそのことを、警察へ報告しなければならないのだ。
ああ、それだのに私はこの洞窟から抜け出すことができない!
「鬼火の淵」の向こう岸には、吉蔵が焚き火をしながら番をしている。吉蔵のそばに周さんの|獰《どう》|猛《もう》な面構えも見える。こんどの暴動の正副頭目ともいうべきこの二人は、あくことを知らぬ執念と憎悪をもって、私を見張っているのである。さっきの吉蔵のけんまくからして、かれらを説得するなどということはおよそ不可能であろう。
私のただ一つの頼みは警察だった。人殺しがあったからには、警官が出張しないはずはない。警官が出張すれば、証人として私を要求するだろう。そうなったら、吉蔵や周さんがいかにがんばっても、私を引き渡さぬわけにはいくまい。私はそれを待っているのだが、どういうわけか、頼む救いの手はなかなかやってこなかった。吉蔵の焚き火のまわりには、入れかわり立ちかわりやってきて、酒でも出たのか、しだいに騒ぎが大きくなってくるのに、警察の連中はいっこうやってこないのだ。
私の胸にはみじめな思いがみちあふれる。万一にもかれらが「鬼火の淵」を渡ってくることを考えると、「狐の穴」の奥に隠れている私の胸の中には、焦燥の思いがみちあふれた。
諸君よ、諸君はあやめもわからぬ闇の中で、話相手もなく、すごす時間のいかに長いものかを御存じだろうか。実際、私はもしあのとき、恐ろしい物思いの種がなかったら、気が変になっていたかもしれないのだ。
私の恐ろしい物思い。――それは、こうだ。姉の最期に直面したとき、まず第一に私が考えたのは、これもやっぱり一連の、殺人事件の一部だろうかということだった。
祖父の丑松からはじまる一連の殺人事件では、いつも毒薬が用いられた。例外は小梅様と濃茶の尼の場合だけだが、金田一耕助の説によると、妙蓮の場合は番外で、おそらく犯人にとっても、予期せぬ殺人だったろうという。そういえば妙蓮の死体のそばにはあの奇妙な紙片は落ちていなかったそうだ。
では姉の場合はどうか。私は気が転倒していたので、紙片が落ちていたかどうか、注意する余裕もなかったが、もし落ちていたらどういう名前が書いてあったろうか。姉の春代と並立、あるいは対立する人物……おおそれは森美也子のほかにないのではないか。
姉の春代は|腎《じん》|臓《ぞう》が悪くて離縁になったということだからかならずしも未亡人というわけではないが、村では後家で通っている。美也子はあきらかに未亡人だ。しかも西屋と東屋の、それぞれ妹に当たっている。おお、なんということだ。それでは姉が死ななかったら、美也子が殺されたかもしれなかったのだろうか。
だが。……なぜか私はこの考えに、賛成することができなかった。
この一連の殺人を気ちがいのでたらめとするには、田治見家はあまり多くの犠牲をはらいすぎた。小竹様と小梅様は、ともに田治見家のものだから致し方がないとしても、久弥や春代の場合、どうして東屋ばかりが|槍《やり》|玉《だま》にあげられねばならなかったのか。ひょっとすると久弥と春代の場合にかぎって、二人のうちのどちらでもよいのではなく、はじめから犠牲はかれらときまっていたのではあるまいか。
すなわちこの一連の殺人事件は、一見狂信者のでたらめな犯罪とみせかけておいて、その実、田治見家の家族を皆殺しにするために立てられた念の入った計画ではあるまいか。
私はあまりの恐ろしさに、しばらく体がふるえてやまなかった。
だが、こうして動機がわかってみれば、犯人も一目|瞭然《りょうぜん》である。里村慎太郎以外にこの犯人に適合する人物があるだろうか。私はいつか濃茶の尼が殺された晩、ゆくりなくも見た慎太郎のものすごい形相を思い出した。
そうだ、慎太郎なのだ。何もかもかれなのだ。私を警察へ密告したのも、役場のまえに私のことを|貼《は》り出したのも、みんな慎太郎の仕業にちがいない。慎太郎は田治見家のすべてを殺したうえ、その罪を私になすりつけることによって、田治見家の財産を横領しようとしているのだ。それにこんどの暴動だが、ひょっとするとこれも慎太郎の扇動によるのではあるまいか、たとえ私がつかまっても、証拠不十分で無罪になる場合を考えて、てっとりばやく吉蔵や周さんを扇動して殺させようというのではあるまいか。
ああ、何もかもつじつまが合う。すべてが論理的である。私はあまりの恐ろしさに、暗闇の中で二たび三たびふるえあがった。
それにしても、典子はこの事件でどんな役目を演じているのだろうか。彼女もこの計画を知っているのだろうか。知っていて、知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいるのだろうか。いやいや、そんなことは考えられぬ。あの無邪気であどけない典子に、そんな表裏があろうとは思われない。それに第一慎太郎は、こんな恐ろしい計画を、たとえ妹であろうが打ち明けるようなことはあるまい。
その日いちにち、真っ暗な洞窟の奥に寝ころんで、私はみみずのように|輾《てん》|転《てん》反側していた。恐ろしい思いや悲しい想いに、体が熱くなったり寒くなったりした。ひょっとすると、病気になるのではないかとさえ思われた。
いっそこの機会に、洞窟の奥をさぐって、宝探しをしてみたら、気がまぎれるのではないかと思ったが、とてもその気にはなれなかった。その気になれなかった理由は、恐ろしい思いや悲しい思い出に、頭がいっぱいになっていたせいもあるが、もうひとつは、自分の持っている地図が果たして信頼できるかどうかと疑問を持ったからである。
地図を見ると、いま私のいる「狐の穴」と、隣の第五の洞窟は、奥のほうでひとつになっているらしい。そしてその奥に「竜の顎」があり、すぐその奥に、「宝の山」があるらしいのだが、なにしろ毛筆で書いた簡単な線だけなので、この複雑な迷路の手引きとしては心細かった。
現に私はこのあいだの金田一耕助との探検によって、「狐の穴」がどのような複雑な構造をしているか知っているのだが、地図にはそれがごく不完全にしか現われておらぬ。結局、この洞窟を探検するにはいつか耕助がやってみせたように、綱をひいていくよりほかに方法はあるまい。綱さえあればひとりでもやれぬことはあるまいが、しかし、助手があるに越したことはない。私は典子のことを考えたが、その日はとうとう典子は帰ってこなかった。
典子が帰ってきたのは、その夜も明けてつぎの朝のことである。
「まあ、お兄さま、ここにいらしたの。あちらに見えないものだから、典子、どんなに心配したか知れやあしないわ」
狐の穴に私を探しあてた典子は、いかにも懐かしそうにそういって、私の胸にとびついた。
「ああ、典ちゃん、帰ってきたのかい」
「ええ、帰ってきたわ。お兄さま、昨日はすみませんでした。黙って行ってしまって。……お兄さま、あまりよく寝ていらしたので……」
「ああ、そんなことだろうと思ってたよ。でも、よく帰ってくれたね。見張りの者はいなかったの」
「いたわ、まだ。でも昨夜騒ぎすぎたとみえて、疲れて寝てるの。お兄さま、お腹おすきになったでしょ。昨日帰るつもりだったのに、たいへんなことが起こって……」
「いいや、昨日は姉さんが弁当を持ってきてくれたから」
「あら!」
典子ははじかれたように私のそばから身をひくと、懐中電燈の光で、さぐるように私の顔色をうかがいながら、
「それじゃお兄さまは、昨日、お姉さまにお会いになって?」
と、あえぐような調子だった。
「ああ、会ったよ、姉さんはぼくの腕に抱かれて息を引き取ったのだ」
ふたたび典子は悲鳴に似た声をあげて身をひくと、おののく視線で私の顔をのぞきこんだ。
「でも……でも、お兄さまじゃないのでしょう。お兄さまがあんなこと、なすったのじゃないのでしょう」
「何をいうのだ、典子ちゃん!」
私は思わず言葉を強めた。
「なんでぼくが姉さんを殺すものか。ぼくは、姉さんが好きだったんだ。姉さんを愛していたんだ。姉さんもぼくをかわいがってくれた。その姉さんをなんでぼくが殺すのだ」
しゃべっているうちに急に涙があふれてきた。滝のように|滂《ぼう》|沱《だ》として、熱い涙があふれてきた。息を引き取る間ぎわにささやいた、姉の言葉はともかくとして、私は姉の親切が身にしみていた。心細い私に対して示してくれた終始かわらぬ温かい態度は、私の胸の奥ふかくしみとおっていて、いまさらのようにそのひとを失った悲しみが、胸のうちにみちてくるのであった。
「お兄さま、堪忍して、堪忍してね」
典子は私の胸に身を投げかけると、
「たとえいっときでもお兄さまを疑うなんて、典子が悪かったわ。典子はお兄さまを信じていたはずなのに」
典子はちょっとためらったのち、
「でも……お兄さまがお姉さまを殺すところを見たというひとがあるもんですから……」
「吉蔵だろう。あいつがそんなふうに言いふらすのも、無理はない。あいつはぼくが姉さんの、屍体を抱いているのを見たのだから、それにあいつは元来、ぼくをとても憎んでいるんだから。しかし、典ちゃん」
私は言葉を強めて、
「警察はなにをしているのだ。警察はどうしてぼくを救いにきてくれないんだ」
「それがいけないのよ、お兄さま。春代姉さまのことがあったので、火に油を注いだように村のひとたちいよいよ手がつけられなくなって……お兄さまのことは自分たちで始末するって、|人《ひと》|垣《がき》をつくって、『木霊の辻』からこっち、お巡りさんを通さないんです。無理に通ろうとすると、どんなことが起こるかわからないので、お巡りさんも手をつかねているありさまなんです。でもね、お兄さま」
典子は私を勇気づけるように、
「こんなこと、いつまでもつづきゃしないわ。警察だってほうっておくはずもなし、だから、もう少しの辛抱よ。お兄さま、しっかりして」
「それゃあ典ちゃんがそういうならばぼくもがんばるが、姉さんのお弔いはだれがするんだ」
「ああ、そのことなら心配ないわ。うちの兄さんがいるから……」
「慎太郎さん……?」
突然、冷たい戦慄が、私の背筋を走りぬけた。探るように典子の顔を見直したが、典子は無邪気で、なんのわだかまりもなさそうである。
「ええ、そうよ。兄さんは軍隊育ちだから、こんなときにはテキパキしていいのよ」
「ああ、そう、そうだったね」
まるでのどに魚の骨でもひっかかったような声だった。
「それで、慎太郎さん、元気かね。どこにもけがはないかね」
典子は不思議そうに眼を見はった。
「あら、どうして? 兄さん、元気よ。どこもけがなんかありませんわ」
「ああ、そう、それはよかったね」
さりげなくいったものの、私の胸はあやしく乱れた。いったいこれはどうしたことだろう。私の考えはまちがっていたのだろうか。
姉の言葉によると、彼女は犯人の小指を、ちぎれんばかりに噛んだという。その傷がどの程度のものかわからないとしても、とかく指の傷というものは痛みやすいものである。ましてや、姉がいうように半分ちぎれそうになったといえば、その苦痛はとても人眼からかくすことはできないはずだ。
「ねえ、典ちゃん、だれか指をけがしたというような話をきかなかった? だれか左の小指に包帯してるひと見なかった?」
「いいえ、お兄さま、知らないわ。どうしてですの」
典子は依然としてただ無邪気である。
ああ、その言葉にうそがあろうとは思えない。そうすると私の考えはまちがっていたのであろうか。私はまたわけがわからなくなってきた。
慎太郎と美也子
何もかもつじつまが合う。すべてが論理的である。大地をうつ|槌《つち》ははずれても、私のこの推理にあやまりのあるべきはずはないと、うぬぼれていただけに、そのときの私の面食らいかたは大きかった。
「典ちゃん、昨夜のお通夜には麻呂尾寺の英泉さんも来てくれたんだろうね」
「ええ、いらしたわ。どうして?」
「あのひと、もしや小指にけがを……」
しかし、典子はキッパリそれを否定して、昨夜お|斎《とき》を差し上げるとき、自分が給仕をしたのだから、そんなことがあれば気がつくはずだが、英泉さんは右も左もどの指も、けがなんかしていなかったと断言する。
私はいよいよわからなくなった。慎太郎と英泉さん以外に、この事件に関係のありそうな人物があるだろうか、私はもう一度この事件の|顛《てん》|末《まつ》を、頭の中で描いてみたが、それらしい人物はひとりも思い出せなかった。すると姉の言葉がまちがっていたのだろうか。
「ねえ、お兄さま、どうかしたの。小指にけがをしたひとがなにかしたんですの」
「いや、そういうわけじゃないが、ちょっと気がかりなことがあってね。典ちゃん、こんど外へ出たらね、それとなく、そういうひとはいないか気をつけてくれないか」
「ええ、いいわ。そしてそういうひとが見つかったら、すぐ知らせにくるわ」
「ああ、そうしておくれ。それからこんど来るときね。糸を持ってきてくれないか。|凧《たこ》|糸《いと》かなんか丈夫な糸がいいのだが、なかったらふつうの|木《も》|綿《めん》|糸《いと》でもいい。できるだけ長いのがいいんだ。糸巻きにまいたまま、五つ六つほしいんだが……」
「まあ、お兄さま、糸を何になさるの」
私はちょっとためらったが、どうせわかることだからと、
「実はね、ここにこうしてても退屈でしようがないから、この機会に洞窟の探検をしてみようと思うんだが、それには、長い糸がいるんだよ。できるだけ長い糸がいいんだ。洞窟の中で迷い子にならぬように、道しるべをつけていくんだから」
私の話を聞いているうちに、典子の瞳に奇妙なかがやきが現われた。
「お兄さま」
ささやくように、
「宝探しをなさるのね」
図星をさされて私ははっと真っ赤になった。すぐに言葉が出なかったが、やっとのどにからまる|痰《たん》を切ると、
「典ちゃん、きみも知ってるの、あのことを……」
「それは知ってますわ。昔からの言い伝えですもの。それに……」
典子は声を落とすと、
「ほかにも宝探しをしてるひとのあることを、典子は知っているのよ」
「だ、だれ? それはだれなの、典ちゃん」
「うちの兄さん!」
「し――慎太郎さんが……」
私は思わず息を弾ませた。そして典子の顔を凝視した。
「ええ、そう。兄さんは恥ずかしいのか黙ってるけど、あたしはちゃんと知ってるの。毎晩おそくシャベルやスコップをかついで、こっそり出かけるのは宝探しにきまってるわ」
私はまた濃茶の尼の殺された夜の、慎太郎の異様な風体を思い出した。それでは慎太郎も私と同じように、宝探しをしていたのか。
「あたし、兄さんが気の毒だから、いままでだれにもいわなかったけれど。……あたし兄さんが気の毒でならないのよ。あのひと何もかも失ってしまったでしょ。地位も身分も未来の希望も……いえいえ、そればかりじゃないわ。恋さえ失ってしまったんですもの」
「恋……?」
「そうよ。兄さんはいまでも美也子さんを愛しているのよ。でも気位の高いひとだから、こうなっては口が裂けても、結婚してくださいとはいえないのよ。美也子さんは金持ちでしょ。ダイヤモンドをしこたま持っているんですもの。それに反して兄さんは、|尾《お》|羽《は》打ち枯らした|痩《やせ》|浪《ろう》|人《にん》、口が縦に裂けてもプロポーズすることはできないのよ。だから宝でも掘りあてたら……と、当てにもならないことを当てにして、躍起になって探しているんです。それを思うと気の毒で、気の毒で……」
私はまたあやしい胸騒ぎをおぼえた。そういう慎太郎ならば、いよいよもって本家の財産に食指を動かさぬはずがない。当てもない宝探しに憂き身をやつすより、手近にある財産に眼をつけるほうが、どれだけ実際的だかわからぬ。それではやっぱり犯人は慎太郎なのだろうか。そしてあの小指のことは致死期にある姉の幻想だったのだろうか。
「そうすると典ちゃん、慎太郎さんには確信があるのだろうか。金持ちになって申し込めば、美也子さんが受け入れてくれるという……」
「もちろんよ」
言下に典子がこたえた。
「いいえ、金持ちになんかならなくたって、兄さんが申し込めば美也子さんは、よろこんで受け入れるにきまってるわ。お兄さま。美也子さんが、あんなに美しくて、利口で、金持ちの美也子さんが、どうしてこんな草深い田舎に、いつまでも引っ込んでるのか、おわかりにならないの。美也子さんは待ってるのよ。兄さんの申し込みを一日千秋の思いで待ってるのよ。それを思うと美也子さんも気の毒だわ。兄さんもつまらない意地をすてて、さっさと結婚してあげればいいの。……ほんとうはわたし、美也子さんがあんまり好きじゃないのだけれど……」
それから間もなく典子は、お弔いの用意でいそがしいからと、見張りの眼をぬすんで帰っていったが、そのとき私は、なんともいえぬ|侘《わび》しい空虚感におそわれたのであった。
典子の話に私は大きなショックを感じていた。一昨夜、「天狗の鼻」で立ち聴きした話といい、いまの典子の話といい、私はいまさらのように美也子という女の複雑な性格、微妙な心理の|翳《かげ》りに驚かずにはいられなかったが、それは同時に私にとって、このうえもなく寂しい、やるせない思いだった。ああ、私は美也子に恋していたのだろうか。
それはさておき、典子はそのつぎの日も監視の眼をくぐって、私のところへやってきたが、そのとき彼女はこんなことをいった。
村のひとたちの|激《げっ》|昂《こう》は依然としてとけず、警察のどんな説得も勧告もうけつけるけしきはないが、それでもここにかすかながらも、希望の|曙《しょ》|光《こう》が見えてきたというのは、麻呂尾寺の長英さんが動くかもしれぬといううわさがあるというのである。麻呂尾寺の長英さんは、もうよほどの高齢で長く老病に|臥《ふ》しており、寺の仕事いっさいは弟子の英泉さんにまかせているが、この高僧が説得すれば、村のひとたちも納得せぬことはあるまいというので、なんでも金田一耕助が、麻呂尾寺へ頼みにいっているというのである。
麻呂尾寺の長英さんときいて、私ははっと思い出したことがある。殺された梅幸尼はいつかこんなことをいったことがある。あなたの身の上に関することで、私と麻呂尾寺のお住持さまだけしか知らないことがあると。梅幸尼の死後、私はいつか麻呂尾寺を訪れたいと思いながらも、つぎからつぎへと起こる事件にいままで果たすことができなかったのだが。……
「典ちゃん、それがほんとうならありがたいね。ぼくはもうこんな暗闇のなかにいるのいやになったよ」
「ええ、だからもうしばらくの辛抱よ」
「ところで、典ちゃん、もうひとつのことはどうだった?」
「ああ、糸のこと? 糸ならここに持ってきたわ」
「いや、糸も糸だが、ほら、小指にけがをしてるひとのことさ」
「ああ、あのこと」
典子はちらと私の顔をぬすみ見すると、ぎごちなく|空《から》|咳《せき》しながら、
「あたしずいぶん気をつけてたけれど、指にけがしたひとなんかひとりも見なかったわ」
だが、そういう典子の様子には、どこか|怯《おび》えたようなところがあり、まともに私の顔を見ようともしなかった。
「典ちゃん、それ、ほんとうかい。うそをついて、だれかをかばってるんじゃあるまいね」
「あら、そんなことないわ。お兄さまをだますなんて。……それよりお兄さま、せっかく糸を持ってきたんだから洞窟を探検しましょうよ。今日は少しぐらいゆっくりしてもいいの。ねえ、宝探しだなんて、ずいぶんロマンチックじゃないの」
典子は急にはしゃいだ調子になって立ち上がった。ああ、典子は指にけがをした人物を知っているのだ。そしてその人物をかばっているのにちがいない。だが、ああ、だれを……?
暗闇の情熱
私の長いこの物語も、ようやく大詰めに近づいてきたようである。その大詰めへ入るまえに、どのような恐ろしい運命が私を待ちうけていたことか。この物語の最初の幕を切って落として以来、私の歩いてきた道は、けっして|平《へい》|坦《たん》なものではなかったが、これからお話ししようという、恐怖と危険にくらべれば、ものの数ではないように思われる。だが、そのことはおいおい述べていくことにしよう。
典子にすすめられるままに、その日、私たちは試験的に洞窟の探検をやってみた。このあいだ金田一耕助に教えられたとおり、私はまず最初の場所の鍾乳石に、糸のはしを結びつけると、それをたぐりつつ孔の奥へとすすんでいった。
まえにもいったとおり、「鬼火の淵」の奥に五つの洞窟が口をひらいているのだが、その中の三つまではこのあいだ、金田一耕助が奥をきわめた。そしてあとの第四の洞窟、すなわち「狐の穴」と、第五の洞窟がまだ奥をきわめられずにのこっているのである。ところが私の地図で見ると、このふたつの洞窟は、結局奥でひとつになっているらしいので同じことなら、少しでもなじみのほうが、心丈夫でよかろうと、私は第四の洞窟をえらんで奥へすすんでいくことにした。
私たちはすぐに枝洞窟にぶつかった。しかしそこいらはこのあいだ、金田一耕助がすでに調べたところなので、改めて調べてみる必要はなかった。あのとき私は枝洞窟の数をかぞえていたのだが、金田一耕助が久野おじの死体を発見したのは、たしか十三番目の枝洞窟だったとおぼえている。だからそこへたどりつくまでは、私たちはいちいち枝洞窟をさぐらなくともすむのである。
間もなく私たちはその洞窟にぶつかった。
「そうだ、たしかにこの洞窟だったよ。久野おじさんの死体が横たわっていたのは。ほら、この鍾乳石に傷がついているだろ。これ金田一耕助が、後日の証拠にとつけておいた印なんだ」
「それじゃこれからさきは、まだお入りになったことがないのね」
「ああ、まだ」
「行ってみましょうよ、おもしろいわ。それにこの糸をどんなふうに使うのか見たいわ」
「典ちゃん、きみ、怖くないの」
「ちっとも、だってお兄さまといっしょですもの」
私たちは間もなく第十四番目の枝洞窟にぶつかった。そこで私はいままでたぐってきた糸を、糸巻きごと、そこにある鍾乳石に結びつけると、別の糸巻きの糸のはしを同じ鍾乳石に結びつけ、その糸をたぐりながら枝洞窟の中へ入っていった。
この枝洞窟はかなり深く、奥のほうには、また小さな枝が生まれていた。そこで第二の糸巻きごとそこにある鍾乳石に結びつけ、さらに第三の糸巻きのはしを同じ鍾乳石に結びつけると、その糸をたぐりながら孫洞窟へ入っていった。しかし、この孫洞窟はすぐ奥で袋になっていたので、糸巻きの糸をまきながら、さっきのところへ出てくると、第三の糸巻きはポケットにしまいこみ、第二の糸巻きの糸をたぐって、さらに奥へすすんでいったが、これもまた間もなく袋になっていた。そこでその糸を巻きながら引き返してくると、間もなく第一の糸巻きのところへ帰ってきた。
「まあ、すてき!」典子はひどく喜んで、
「糸を追うなんて、まるで|妹《いも》|背《せ》|山《やま》とお|三《み》|輪《わ》みたいね。でも、こうすると絶対に帰り道を見失うことはないわね」
「そうだよ。いまの洞窟みたいに袋になっていれば、別に糸なんかいらないが、網の目みたいにクロスしてたり、いつの間にやらもとの洞窟へ帰っていたりすると、しまいにはわけがわからなくなって、もと来た道だと思いながら、奥へ奥へとすすんでいることがあるからね。そんなときはこの糸さえあれば迷うことはない」
そこで私はこのあいだ、枝洞窟へ入っていった金田一耕助が、いつかこの洞窟へ出ていて、向こうからやってきた話をしてきかせた。
「まあ! 気味が悪いわね。するとこの糸、切らさないようにしなきゃだめね」
「そうだよ。だからあまり強くひっぱらないようにしよう」
私たちはそれからなおも奥へ奥へとすすんでいった。典子はおもしろがって、もういいかげんに帰らなきゃといっても、もう少し、もう少しといってきかなかった。私たちはその後もいくつかの枝洞窟にぶつかったが、片っぱしから中を探ってみたことはいうまでもない。それらの枝洞窟の中には、ずいぶん複雑なのがあって、第三、第四、第五の糸巻きを使わねばならぬようなのもあった。また、孫洞窟をたどっていくと、いつの間にかそれが親洞窟へ帰っていたようなこともあった。
「まあ、おもしろいわね。この糸がなければ、これがいま自分たちの歩いてきた洞窟とは、全然気がつかないわね」
典子はますます興に乗った。
ところがそのうちに、私たちは、とてもふかい枝洞窟にぶつかったのである。この枝洞窟にはあまりたくさん孫洞窟はなかったけれど、いくら行っても果てしがないので、私はだんだん不安になってきた。
「典ちゃん、これはいけない。この洞窟はきりがないぜ。ここらでそろそろ引き返そうよ」
「ええ、でも、もう少し行ってみましょう。それできりがつかなかったら、そのときは引き返してもいいわ」
ところがそれからいくらもすすまないうちに、私たちはギョッとして立ち止まった。ふたりともあわてて懐中電燈を消すと、暗闇のなかで息をこらして立っていた。行く手にあたってひとの声らしいものを聞いたからである。
「お兄さま」
しばらくしてから典子が乾いた声でささやいた。
「お兄さまはここにいて。あたしちょっと様子を見てくる」
「典ちゃん、大丈夫かい」
「ええ、大丈夫」
暗闇のなかを典子の遠ざかってゆく気配が聞こえたが、様子を見とどけるまでには、それほど遠くへ行く必要もなかったとみえて、こんどは懐中電燈をふりながら帰ってきた。
「お兄さま、どこ? 懐中電燈をつけて。大丈夫だから」
私が懐中電燈をつけると、典子が眼をかがやかしてとんできた。
「お兄さま、あたしたちいまどこにいるか御存じ、あたしたちはいま、『鬼火の淵』のすぐそばにいるのよ」
「鬼火の淵?」
私は思わず眼を見はった。
「ええ、そうよ。お兄さまはさっき、第四の洞窟と第五の洞窟は、奥のほうでひとつになっているらしいといったでしょ。あたしたち、いつの間にやら第五の洞窟へ迷いこんで、『鬼火の淵』へ引き返してきたのよ」
私はなんだか狐につままれたような感じだったが、しかし、考えてみるとこのことは、今後の探検にとって非常に好都合であった。なぜならば、宝の山は第四、第五の洞窟の合流点の奥になるのだが、ただ歩いていただけでは、どこがその合流点なのかわかるはずはなかった。それを私たちはいま偶然発見したのである。
「あの第一の糸巻きの結びつけてあるところ、あそこがふたつの洞窟の合流点なのね。あたしたちあそこから左へ道をとって来たんだけど、明日はあそこから右へ行ってみましょう。この糸巻きはここへ結びつけておきましょうよ。こっちのほうが近いようだから、明日はこの糸をつたって行きましょうね」
典子は第二の糸巻きをそこにある鍾乳石にむすびつけると、それから間もなく監視の眼をぬすんで、「鬼火の淵」を出ていった。その晩、私は第五の洞窟で眠った。
典子がみたび忍んできたのは、そのつぎの日の正午過ぎだった。
「お兄さま、すみません、遅くなって。お腹すいたでしょ。もっと早く来るつもりだったんですけれど、見張りがきびしくって」
典子は弁当の包みを解きながら、
「その代わり、お兄さま、吉報があるのよ。今日じゅうにもここから出られるかもしれないのよ」
「どうして、典ちゃん」
私は思わず呼吸を弾ませた。
「麻呂尾寺のお住持さまが乗り出してくだすったの。お住持さま、御病気でちっともこんどのこと御存じじゃなかったのを、昨日、金田一さんが出向いていってお話しすると、たいそうびっくりなすったとかで、今朝、|輿《こし》に乗って本家へお見えになったのです」
「なんだって? それじゃ長英さんがうちへお見えになってるの」
「ええ、そう。そしていま村の主だったひとを集めて、懇ろにお説教をしていらっしゃるのよ。お巡りさんのいうことは聞かなくても、お住持さまのおっしゃる言葉に、そむくわけにはいかないでしょう。ましてやお住持さま、御病気をおしてわざわざ出てこられたんですものね。だからいまにきっと、だれかが迎えに来るにちがいないと思うのよ」
私は胸の|動《どう》|悸《き》がにわかに高まり、腹の底から甘酸っぱいものがこみあげてくるのをおぼえた。ああ、この洞窟から出られる。この暗闇から抜け出すことができる。……私の心は歓喜にふるえ、私の体は興奮におののいた。私がこの洞窟を出るということには、大きな意味がふくまれているのだ。すなわち、そのときこそはこの忌まわしい、八つ墓村の殺人事件が解決するときなのだ。私は犯人を探し出すことができるのだから。
「典ちゃん、典ちゃん、それはほんとうだろうね。ぼくを|糠喜《ぬかよろこ》びさせるのじゃないだろうね」
「ほんとうですとも、お兄さま、だから、もうしばらくの辛抱よ」
「典ちゃん」
私はいきなり典子を抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう。これもみんなきみのおかげだよ。きみというひとが毎日やってきてくれなかったら、毎日やってきて外の情報をつたえてくれなかったら、ぼくはきっとこの暗闇のなかで、恐怖と不安で気が狂っていたろうよ。いやいや、気が狂うまえにここをとび出していって、吉蔵のやつに撲殺されていたかもしれない。あいつはほんとうにぼくを殺す気なんだからね。ありがとう、ありがとう、典ちゃん」
「お兄さま、うれしいわ」
私の胸の中で典子の体が、小鳥のようにふるえていた。典子のしなやかな腕は、いつか私の首にまきつき、私たちはどちらからともなくくちびるを重ねていた。……
それから後のことを私はよく覚えていない。突然、はげしい衝動のあらしが、私たちを押しころばしたのだ。闇が私たちの|羞恥《しゅうち》心を奪った。私たちは汗ばみ、あえぎ、身をもだえ、息もたえだえになるまでからみあって離れなかった。やがて、桃色の美しい霧が二人の体をつつんだ。
「お兄さま」
よほどたってから、典子は私の腕から身をひくと、おくれ毛をかきあげながら、うっとりとした眼で私の顔を見上げた。懐中電燈の光のなかで、|羞《はじ》らいをおびて上気した頬がかわいかった。
「なあに、典ちゃん」
私はまだ夢を追うている気持ちだったが、典子はすでに現実の世界にもどっていた。
「あの小指のことね。あれはどういう意味ですの。左の小指に傷のあるひとって……」
「典ちゃん」
私は思わず呼吸をはずませると、
「見つかったのかい、そういうやつが。いったい、だれだ。だれだ、そいつは!」
「いいえ、まだハッキリとわからないけれど……でも、お兄さま、いったいそれはどういう意味ですの。小指の傷って……」
私はちょっとためらったが、私がそれをいわないかぎり、典子は口を割りそうにもないので、とうとう思い切って、姉の言葉をうちあけた。
「だからね、左の小指に噛まれた傷のあるやつこそ、こんどの事件の犯人なんだ。少なくとも、姉を殺した犯人なのだ。だから、典ちゃん、いってくれ。いったいそれはだれなんだ」
はげしい|怯《おび》えが、たとえようのない恐怖の色が、すさまじいまでに典子の顔をゆがめた。何か叫ぼうとして口をひらいたが、叫び声は凍りついたように外へ出なかった。やがて顔色が土色に|朽《く》ちていき、くちびるがカサカサに乾いてきたかと思うと、|瞳《ひとみ》がガラスのように光を失った。
「典ちゃん」
私はびっくりして典子の肩に両手をかけた。
「ど、どうしたんだ。しっかりおし!」
私に肩をゆすぶられて、典子の首は二、三度ぐらぐらゆれたが、つぎの瞬間、私の胸に顔を埋めると、典子はわっと泣き出した。
「典ちゃん、ど、どうしたんだ。きみは知ってるんだね。姉さんを殺したやつを知ってるんだね。いったい、だれだ、そいつは……」
典子は私の胸の中で激しくいやいやをした。
「お兄さま、聞かないで、聞かないで。あたしにはとてもいえない。あんまり恐ろしくてとてもいえない。お兄さま、聞かないで……」
私の胸にはふいと疑いがきざしてきた。
「典ちゃん、どうしたんだ。なぜいえないんだ。ひょっとするとそれは慎太郎さんじゃ……」
「な、なんですって!」
典子が叫んで、はじかれたように身をひいた。その瞬間だった。
「あ、あんなところにいやあがる!」
割れ鐘のような声が私たちの|耳《じ》|朶《だ》をうった。
私たちはギョッとして、そのほうをふりかえったが、そこに立っているのはまぎれもなく、博労の吉蔵だった。吉蔵は片手に松明、片手に棍棒をひっさげて、洞窟の入り口からのっしのっしと近づいてくる。松明の油煙が|濛《もう》|々《もう》と洞窟の天井をこがし、パチパチと松の皮がはじけてとび散る火の粉を、全身にあびて近づいてくる吉蔵の形相は、地獄の鬼よりもものすごかった。
しびれるような恐怖が全身を硬直させ、私は馬鹿みたいにそこにすくんでいた。
第八章 絶体絶命
「お兄さま、逃げて!」
突然、声をかけてとびあがったのは典子だった。その声が私の|麻《ま》|痺《ひ》状態に活をいれたのだった。私もぴょこんととびあがると、一目散に洞窟の奥へ走り出した。
「お兄さま、これを、これを」
追いすがりざま、典子が何かを握らせた。懐中電燈だった。
「ありがとう、典ちゃん」
しばらく夢中で走っていたが、途中で私はふと気がついて、
「典ちゃん、きみはお帰り。吉蔵はまさかきみまで殺しゃあしないだろ」
「だめよ、お兄さま」
典子があえぎながら答えた。
「お兄さまはあの眼つきに気がつかないの。吉蔵はお兄さまを殺すつもりなのよ。そして、それを知っているわたしだって生かしちゃおかないわ」
「典ちゃん、すまない、きみまでこんな危険な立場におとしいれて……」
「いいのよ、いいのよ。それより早く逃げましょう、ああ、もう、あそこへ来たわ」
この場合、吉蔵よりもわれわれのほうが有利だったのは、たとえ一度きりにせよ、私たちがこの道を、通ったことがあることだった。
それだけに足元もたしかで、吉蔵がおりおりつまずいたり、よろめいたりするのに反して、私たちは自信をもって走ることができた。だから吉蔵とわれわれの距離はしだいに大きくなっていった。それに反して、われわれにとって不利だったことは、懐中電燈を消すわけにいかないこと。懐中電燈を消しては、危なくてとても走れない。そしてその光が、吉蔵の追跡の目標をあたえるのである。
しだいにひろがっていく距離に気をいらだって、吉蔵がうしろからさまざまな|罵《ば》|詈《り》雑言をあびせかける。そのひとことひとことに、私は|鞭《むち》でうたれるように、身内がすくむ思いがした。私たちはただ逃げるよりほかはなかった。昨日ひいておいた糸をたよりに、私たちはひた走りに走った。そして間もなく、第一の糸巻きをむすびつけてあるところまでたどりついた。
「助かったわ。お兄さま」
典子が叫んで鍾乳石から糸巻きをはずした。
「この糸をまきながら逃げていけば、吉蔵には道がわからなくなってしまうわ。そして、こっちの洞窟は、あんなに複雑にできているのだから、きっとわき道へ迷いこんでしまうわ。そのあいだにわたしたちは、『鬼火の淵』から逃げましょう」
そのとおりだと私も思い、いくらか胸もやすまったが、安心するにはまだ早かったのだ。それから、ものの二、三十間と歩まぬうちに目くるめくような光をさっとまともから浴びせられ、私はあっと立ちすくんだ。
「あっはっは、いやあがった、いやあがった。話し声がするようだと思って待っていたら、やっぱりここにいやあがった。だが、連れはだれだ」
光が私からずれて典子を照らした。
「なあんだ、里村の典子じゃねえか、それじゃてめえたち、こんなところで乳繰りあっていやあがったのか。あっはっは、ちょうどいいや。おい、若僧」
光がまた私のほうへもどってきて、
「てめえひとりじゃ寂しかろう。|冥《めい》|途《ど》の道づれをこしらえてやるぜ」
それは西屋の若者頭周さんだった。周さんは白髪頭に向こう|鉢《はち》巻きで、片手につるはし、片手に|龕燈提灯《がんどうちょうちん》をひっさげていた。|瞳《ひとみ》が殺人鬼の殺気をおびてかがやいている。私はそのつるはしが脳天につっ立つときの幻想をえがいて、身も心もしびれるようだった。
周さんが一歩近づいた。しかし、私は動くことができなかった。周さんがまた一歩前進した。私はやっぱり動けなかった。だが、このときである。突然、典子が何やら叫ぶとひらりと、右手をふった。その|刹《せつ》|那《な》、周さんの顔に何やらあたって、細かいものがパッとあたりに飛び散った。周さんはつるはしをとり落とし、あっと片手で顔をおさえた。
「お兄さま、この間に!」
典子が腕をとらえたので、私はやっとわれにかえった。私たちは手をとって、ふたたび洞窟の奥へ走りだした。
このとき典子の使った目つぶしについて、彼女はのちにこう語った。
「お兄さまのところへ忍んでくるとき、つかまっちゃ困ると思って、卵の|殻《から》に灰を入れたのを、いつも二つ三つ用意していたの。でも、あんな悪いやつに使うのだったら、灰じゃ物足りなかったわね。唐がらしでも入れておいてやればよかった」
それはさておき、私たちはふたたび第四の洞窟と、第五の洞窟の合流点まで引き返したが第五の洞窟へ入るわけにはいかなかった。そこからは吉蔵がやってくるのである。
「しかたがないわ。お兄さま、こっちの道へ逃げましょう」
「でも、典ちゃん、そっちの道には何があるかわからないよ。まだ、一度も入ったことがないのだから」
「でも、お兄さま、ここにこうしていて、みすみすあのひとたちに殺されるよりはましでしょう。あっ、お兄さま、来たわ!」
第五の洞窟から、明滅する松明の炎が近づいてきた。それと同時に第四の洞窟から、周さんの怒りにみちた|咆《ほう》|哮《こう》が聞こえてくる。私たちは反射的に身をひるがえして、未知の洞窟へとさまよいこんだ。
ああ、闇!
私たちの行く手にひろがるのは、はてしもない未知の暗闇である。その闇の中に何があるか、鬼が|棲《す》むか|蛇《じゃ》がひそむか。いやいや、たとえ鬼が棲み、蛇がひそむとも、私たちはいま、それを考慮しているひまはない。背後からせまる現実の危険が、私たちを絶望の闇の奥ふかく、追い立て、駆り立てていくのだ。
この洞窟にも、無数のわき道や枝道があった。しかし、背後からふたりの殺人鬼に追い立てられるいまの私たちには、糸をひくひまも、目印のしるしをつけるいとまもない。私たちは網の目のような迷路から迷路へと、絶望的な恐怖をいだいて逃げていく。ああ、もうこうなっては、たとえ吉蔵や周さんの凶手からのがれることができるとしても、無事に洞窟から出られるかどうかわからない。
「あ、お兄さま、あれ、なんの音」
突然、典子が立ちどまって私の腕をつかんだ。
「ええ、なに?」
「ほら、あの音、あれ、風の音じゃない?」
なるほど、どこか遠くのほうで、ゴーと風のうなるような音が聞こえる。その音はすぐやんだが、典子は瞳をかがやかせて、
「あれ風の音よ、きっと。だからどこか近くに出口があるのよ。外へ出る口があるのよ。お兄さま、行きましょう」
その後もときおり、ゴーという音は聞こえたが、出口どころかその反対に、それから間もなく、私たちの逃避行に、いよいよ終止符をうたねばならぬときが来たのである。典子と私はほとんど同時に、あっと叫んで立ちすくんだ。そして、眼のまえに立ちふさがる冷たい壁に、絶望的な瞳をむけた。私たちはとうとう、袋小路に追いつめられたのであった。
「お兄さま、灯を消して……」
私たちは急いで懐中電燈を消したがときすでに遅かった。周さんの携えた龕燈提灯が、遠くから私たちの姿をとらえた。周さんのそばには吉蔵もいた。かれらも、とうとう私たちを追いつめたことを知ると、ぴたりとその場に足をとめた。そして、龕燈の灯でなめるように私たちの姿を見まわすと、
「あはははは!」
と、周さんが毒々しい声で笑った。
「とうとう、行きづまりやがった」
それから吉蔵と顔見合わせてにたりと笑った。ものすごい笑いだった。血のしたたるような微笑だった。
|彼《ひ》|我《が》の距離十間あまり、周さんと吉蔵がゆっくり一歩踏みだした。周さんはつるはしを、吉蔵は棍棒をひっさげて。……
固く手を握りあった典子と私は、壁に背中をくっつけて、身じろぎもせずに、ふたりの姿を見守っていた。だれも口をきく者はなかった。私は酔ったような気持ちだった。いままで何度もこんな場面に出会ったような気がした。
周さんと吉蔵がまた一歩踏み出した。
私がかれらの生きている姿をハッキリ見たのはそれが最後だった。何が起こったのか、そのとき私にはさっぱりわからなかったのだけれど、とにかくさっきからたびたび耳にした、あの風のような異様な音がものすごくあたりにとどろいたかと思うと、私はいきなり、突きとばされたように地面に倒れた。物音は二度三度とどろきわたり、あたりの空気がはげしく揺れた。そして、何やら固いものが、バラバラと頭上から降ってきたところまでは覚えているが、それきりふうっと気が遠くなってしまったのであった。
黄金の雨
私たちは、いったい、どのくらい失神していたのか。あとから考えてみるのに、それはあまり長い時間ではなかったようだ。
気がつくとあたりは真っ暗で、まだときおり、風のような音がしたが、それもごく微弱で、洞窟の中は、しいんとしずまりかえっていた。私は、その静けさのなかに聞き耳を立ててみる。周さんや吉蔵はどうしたのか。いや、それより典子は……?
「典ちゃん、典ちゃん」
低声で呼びながら、あたりの地面をさぐっていくと、私の手はすぐに柔らかな肉体にぶつかった。私は急いでその体を抱きおこした。
「典ちゃん、典ちゃん」
体をゆすりながら、二、三度名を呼ぶと、すすり泣くように息をうちへ引く音が聞こえ、
「お兄さま?」
と、典子も身を起こした。
「いまのはなんでしたの。周さんや吉蔵はどうしたんですの」
「さあ、それがさっぱりわからないんだ、典ちゃん、きみ、懐中電燈を知らない」
「懐中電燈? ああ、懐中電燈ならここにあるわ」
典子は懐中電燈を握ったまま気を失っていたらしい。その懐中電燈の光で、私はまず自分の身辺から照らしてみた。私の懐中電燈もすぐ見つかった。私はそれを拾おうとして身をかがめたが、そのまま石になったように凝結してしまった。ああ、この物語のなかで、私はいくどか大きな驚きを味わわされたが、このときほど深い感動にうたれたことはない。懐中電燈のそばに二ひら三ひら、見覚えのある大判が散らばっているではないか。
「お兄さま、どうかなすって?」
その声にやっとわれにかえった私は、ふるえる手で大判の一枚を拾いあげると、無言のまま典子のまえに差しだした。口をきこうとしたが、舌の根がこわばって声が出ないのであった。典子の瞳も大きくふるえた。彼女も急いで身をかがめると、二ひらの大判を拾いあげた。それからなおも懐中電燈であたりを探して、私たちは六枚の大判を得た。大判はこれで都合九枚になった。
典子と私はしいんと顔を見合わせた。
「お兄さま、変ね。どうしてこんなふうに散らかってるんでしょう」
その答えはすぐにわかった。そのときまた、ゴーッと風のような音がして、洞窟がはげしく揺れたので、典子と私は思わずひしと抱きあったが、その肩へバラバラと降ってきたのが大判だった。私たちは抱きあったまま反射的に上を見たが、そのとたん、典子が気が狂ったように声をあげた。
「ああ、お兄さま、あそこよ、あそこよ、あそこから落ちてくるんだわ」
この鍾乳洞は、ずいぶん天井が高くて、ざっと五|間《けん》(九メートル余)あまりもあろうか。そして、壁に沿うて無数の太い鍾乳石の柱が、蛇のようにからみあい、ねじりあいながら立っているのだが、不思議なことにはそれらの柱は、みんな天井から約一間(一・八メートル)ほど下のところで断ちきられているのである。と、いうことはいま私たちの行く手をふさいでいる壁と天井とのあいだに、一|間《けん》ぐらいのすき間があることを示しており、その壁のはしから幾枚かの大判が、いまにも滑りおちそうに見えているのである。それらの大判は、私たちの見ている眼のまえでザラザラとこぼれ落ちてきた。私たちは思わず顔を見合わせた。
「お兄さま、ここが宝の山なのね」
私は無言のままうなずいた。もう当初の興奮も去って、私たちは落ち着きをとりもどしていた。
それにしても、大判がどうしてあんな宙ぶらりんの位置に隠してあるのか、それについて私はこう考えた。
|尼《あま》|子《こ》の|落《おち》|人《うど》があの大判を隠した時代には、この天井はこんなに高くはなく、いまの天井から一|間《けん》ほど下がったところ、すなわち壁の上部にあたるところが|床《ゆか》だったのではあるまいか。その床が長い年月に、しだいに|浸蝕《しんしょく》され深くなり、現在のように天井の高い洞窟になってしまった。ところが尼子の落人が宝物をおさめた場所は、かれらがそれを知っていたかどうかは不明としても、硬質の岩石であったがために、浸蝕をまぬがれ、宝物はいつか、虚空の|岩《いわ》|棚《だな》の上に取り残されることになり、そのために、いままで、幾多の冒険家どもの眼からのがれてきたのであろう。
それにしても、なんという皮肉な運命であろう。数百年にわたる長い歳月のあいだ、幾人の冒険家がこの黄金を求めて命をかけたことであろう。それにもかかわらず、たくみに姿を隠しつづけてきた黄金が、偶然ここに迷いこんできた私たちの頭上へ、みずから降ってきたのである。これをしも運命の皮肉といわずしてなんであろう。
いやいや、運命の皮肉はそれだけにとどまらなかった。運命は私に労せずして黄金をあたえたが、その代わり黄金を持って帰る道をふさいでしまったのであった。
いっときの黄金の夢からさめると、私たちはあらためて周さんと吉蔵のことを思い出し、懐中電燈の光であたりをさがしてみたが、そのうちに、私たちは、髪の毛も逆立つような恐ろしい事実を発見したのだ。ああ、なんということだ。私たちがいま通ってきた道は、ぴったりと岩と土とでふさがれているではないか。
落盤があったのだ。落盤が周さんと吉蔵を埋めてしまうと同時に、私たちをこの洞窟の中に閉じこめてしまったのだ。
「典ちゃん!」
「お兄さま!」
私たちは気ちがいのように落盤のそばへ駆けよると、両手で土をかきはじめた。しかし、すぐにそれがいかに愚かな努力であるか、ということに気がついたのでやめてしまった。
「典ちゃん!」
「お兄さま!」
私たちはひしと抱きあった。
「典ちゃん、もうだめだ。われわれはもうここから出ることができない。私たちはここで飢え死ぬばかりだ」
それから私はひっつったような笑い声をあげた。
「天はぼくたちに黄金をあたえた。その代わり帰路を断ってしまった。ぼくたちはマイダス王みたいに、黄金を抱いて飢えるのだ」
私はまた笑い声をあげた。笑いながらみじめな想いに涙がとめどもなくあふれた。このとき、私よりよほど落ち着いていたのは典子である。
「お兄さま、しっかりして、いいえあたしたち死にゃあしないわ。きっと助かるわ。いまにだれかが助けにくるわ」
「だれが……だれが助けにくるんだ。第一、ぼくたちがこんなところに閉じこめられていることからして、だれも知らないじゃないか」
「いいえ、そんなことはありません」
典子はキッパリいった。
「お兄さまが『鬼火の淵』のこちらがわにいることは、村のひと全部が知っています。そして、周さんと吉蔵が禁断の『鬼火の淵』を越えてきたところをみると、麻呂尾寺のお住持さまが村のひとを説き伏せて、お兄さまを助けることになったのだと思います。周さんと吉蔵は、それが不服で、村のひとたちを出しぬいて、お兄さまを殺しにきたのにちがいありません」
後にわかったところによると、典子のいうとおりであった。周さんと吉蔵は村のひとたちの軟化に憤慨して、禁断の「鬼火の淵」を踏みこえ、そしてあの悲惨な最期を遂げたのだった。
それはさておき、典子は言葉をついで、
「それですから、いまにだれかが迎えに来ます。いいえ、もういまごろは来ているかもしれません。村のひとたちは『鬼火の淵』を渡るのを恐れるとしても、警察の人たちはきっとやってくるでしょう。ああ、そうだわ。金田一耕助というひと、あのひとがきっとやってきます。そして、第四と第五の洞窟にひいてある糸を発見するとあのひとはすぐ、それが何を意味するかさとるでしょう。そしてそれを伝ってくれば、あの二つの洞窟の合流点までは、なんの造作もなく来ることができます。それからここまではそれほど遠くはないのですし、それに金田一耕助というひとは、糸の使いかたを知っているのですから、きっとひとつひとつ|虱《しらみ》つぶしに、洞窟を調べてくるにちがいありません。ですから、あたしたちは気をたしかに持って、どんな物音をも聴きのがさぬように、じっと聞き耳を立てていましょう。あのひとたちは、きっとお兄さまの名前を呼びながら、やってくるでしょうから、それが聞こえたら、こちらも返事をしてやらなければなりません。そして、あたしたちがここにいることを、知らせてやらねばならないのです」
それから典子は急に立って、落ちていた大判を拾いあつめると、洞窟のすみに穴をほってそれを埋めた。私がびっくりして何をするのかと尋ねると、典子はにっこり笑ってこういった。
「この大判はお兄さまが発見したのだから、お兄さまのものです。救いのひとがやってきたとき、あたしたちが正気でいればいいけれど、もし気を失っているようなことがあったら、そのひとたちに大判を見つけられてしまいます。だから、こうして隠しておくのです。助かったら改めてとりに来ましょう。あの壁の上には、まだまだたくさんの大判があるにちがいありません」
ああ、女というものはなんという奇妙な動物であろう。果たして助かるかどうかわかりもしないのに、彼女はちゃんと未来の計画をたてているのだ。しかし、典子のこの慎重な用意は、すべて後日私のために役に立った。典子のいったことはことごとく的中し、私たちは彼女のいったとおりの順序で救われたのである。それにはまる三日かかったけれど。
さて、黄金を埋めてしまうと、典子は私のそばへやってきて、むずかしい顔をして私の顔をのぞきこんだ。
「これで大判のほうは片づきました。あとはこの事件の犯人の問題だけです。それについてお兄さまにお尋ねがございますの」
典子はあらたまった口調でいうと、鋭く私の眼をのぞきこんだ。
「お兄さまはさっき妙なことをおっしゃいましたわね。小指を噛みきられた人物は、うちの兄ではなかったかと。……そうすると、お兄さまはうちの兄を疑っていらしたのね。でも、それはどういうわけでございましょう。うちの兄がどうしてあんなバカバカしい人殺しをするというのでしょう。縁もゆかりもないひとを、うちの兄がなんだって殺すというのでしょう」
それはいつもの典子ではなかった。鋭い|気《き》|魄《はく》にみちた典子であった。典子は私を愛しているのだけれど、同じように兄をも愛しているのだった。だからその兄を|誣《ぶ》|告《こく》されたとあっては、いかに相手が私でも、そのままには許しておけないのであった。
典子の気魄におされて、私はしどろもどろにならざるをえなかった。しかし、問いつめられれば答えぬわけにはいかず、私は自分の推理を話した。そしてこの一連の殺人事件が、結局、田治見家一家皆殺しという目的をカムフラージするために、行なわれたのではないかと語ると、典子は突然体をふるわせて真っ青になってしまった。そして、瞳をすえて、ずいぶん長いあいだ考えこんでいたが、やがて私のほうへ向きなおったとき、彼女の眼にいっぱい涙がやどっていた。
典子はやさしく私の手をとり、くちびるをふるわせながら、ささやくようにこういった。
「よくわかりました。きっと、お兄さまのおっしゃるとおりなのね。それよりほかに、この変てこな殺人事件の動機は考えられませんわね。でも、お兄さま、犯人はうちの兄ではないのです。お兄さまがうちの兄というひとをもっとよく御存じだったら、けっしてそんな疑いは起こらなかったはずなのです。兄は、正しいひとです。気位の高いひとです。飢えてもひとの財産に、眼をつけるようなことはなかったでしょう。それに小指を噛み切られたひとはうちの兄ではなかったのです」
「だれなの、それじゃ、だれが指を噛まれたの」
「森――美也子さま!」
私はまるで重い鈍器で頭をぶん殴られたような気持ちだった。ひどいショックで、全身がしびれてしばらくは口もきけなかった。
「森――美也子――?」
私はあえいだ。呼吸がとまりそうであった。
「そうです。あのひとは噛まれた傷を秘密に治療しようとしたのです。それがいけなかったのね。傷口から悪いバイキンが入ったらしく、体じゅうが紫色にはれあがって、突然、重態におちいりました。それで新居先生が駆けつけて、はじめて小指にひどい傷をしていることがわかったのです。それが今朝のことなのです。むろん、だれもその傷にどういう秘密があるのか知らないのですけれど」
「美也子さんが……あの人が……しかし、どうしてあのひとが……」
「それはたぶん、お兄さまのお考えになったとおりでしょう。あのひとは兄に本家をつがせたかったのでしょう。本家の|莫《ばく》|大《だい》な財産を相続すれば、兄も自信をもって、結婚を申し込んでくると思ったのでしょう。恐ろしい美也子さま。おかわいそうな美也子さま」
典子は私の胸に顔をうずめて、さめざめと泣き出したのである。
その後の事ども(一)
この物語もここまでくると、もう終わったも同様だろう。宝物を発見したし、犯人もわかったのだから。しかし、細かいふしぶしにいたっては、まだまだ解きあかされぬ部分もあるし、読者諸君にとって疑問の点も多かろうから、それらのことをここに思い出しながら、記述していくことにしよう。
さて、そのまえに、私たちの洞窟脱出のてんまつだが、それはまえにも述べたとおり、典子のいったとおりの順序で救援の手がさしのべられた。しかも彼女の考えていたよりもはるかに敏速に。それというのが、吉蔵のかざしていた松明のおかげなのである。空気の流通のわるい洞窟の中では、一度こもったにおいはなかなか抜けぬ。しかも、吉蔵のかざしていた松明は猛烈な油煙をあげていたのだから、そのにおいが洞窟の中に残っていたのは当然で、それが捜索隊の道案内となったのである。
かれらもまさか周さんと吉蔵が、私をねらって「鬼火の淵」の奥ふかく潜入したとは知らなかった。長英さんの尽力で、やっと村民を鎮めると、金田一耕助と磯川警部、それに二、三の刑事をまじえた一行は、すでに私を「鬼火の淵」までよびにきた。そして、淵の向こうから私の名を呼んだが、返事がないので不安に思って、淵を渡ってきたのである。
そして、第四と第五の洞窟に、ひと筋の糸が張られているのを見ると、金田一耕助はすぐに私が、何をやっていたかさとった。そこまではよかった。しかし、第五の洞窟で手つかずの弁当やスプリングが、あらあらしく踏みにじられているのを発見し、しかも洞窟の中にこもっている強い油煙のにおいに気がつくと、金田一耕助ははっと胸騒ぎをおぼえたのである。私が松明を持っているはずはないし、また私の同情者(それがだれだかわからなかったが、あたりの様子をみれば同情者のいたことは明らかだろう)にしても、松明をかかげて忍んでくるはずはない。
そこで一行は緊張すると、ともかく、糸をつたって洞窟の中へ入ることになった。かれらは間もなくあの合流点までたどりついた。糸はそこでとぎれていたが、まえにもいったとおり油煙のにおいが道しるべとなった。慎重な金田一耕助は、それでも万一をおもんぱかって、綱を引いていくことを忘れなかったが、こうしてかれらは落盤の向こうまでたどりついたのであった。幸い、落盤の範囲はあまり広くなかったらしく、かれらの叫び声や足音が、かすかながらも私たちのところへひびいてきた。私たちも必死となって壁をたたき、床を打ち、声をからして叫んだ。
こうしてかれらは落盤の向こうに、だれかが生きていることを知り、大急ぎで救援隊が組織されたのである。それは困難かつ危険な仕事であった。洞窟はふかく、せまく、窮屈で、なおそのうえにいつまた落盤があるかわからぬ状態だった。それでも近所のN町から、駆りあつめた人夫などをまじえて、昼夜兼行の作業がつづけられたのである。
私たち、典子と私は落盤の向こうに感じられる、ひとびとの努力に感謝しながらも、一方、遅々としてすすまぬ作業に|業《ごう》を煮やし、どのように不安におののいたことだろう。文字どおりそれは希望と不安のないまぜられた、極度の緊張による三昼夜であった。
こうして私たちは結局救い出されたのが、四日目の朝、落盤の壁に待ちに待ったすき間ができ、そこからだれかが躍りこんできたときには、意気地のない話だけれど、私は危うく気を失いそうであった。躍りこんできたひとびとの中には金田一耕助もいた。磯川警部もいた。慎太郎もいた。それから麻呂尾寺の英泉さんが、涙ぐんでおろおろしているのが、疲れきった私の眼に異様にうつった。それから最後に、どこかで見たことのある顔ながら、どうしても思い出せない人物が私のそばへやってきて、
「寺田君、しっかりしろ、おれだ、忘れたのか。神戸の諏訪弁護士だ。きみも苦労したなあ」
と、いいながらハラハラと涙を落としたときには、どうしてこのひとがこんなところへ来たのかといぶかりながら、とうとう私は|恍《こう》|惚《こつ》として、夢幻境に落ちていったのであった。
それからのち一週間あまり、私は高熱にうかされて、夢とうつつの境を|彷《ほう》|徨《こう》していたらしい。極度の恐怖と興奮と洞窟内における不自然な生活が、私をほんとうに病気にしたのだ。のちに典子が語ったところによると、新居先生もいくどか眉をひそめたそうで、どんなに気をもんだかしれないということであった。典子のほうがよっぽど丈夫で、彼女は三日寝たきりで、その後はずっと私につききっていてくれたのである。
こうして一週間ほどで危険期は過ぎたが、危険期を脱すると、まず第一に私の脳裏にうかんだのは美也子のことであった。しかし、私にはそれを口に出してきく勇気はなかったし、周囲のひとびともつとめて避けているらしく、だれも彼女の名にふれるものはなかった。しかし、あとから思えば八つ墓村を震撼させたあの事件もその一週間のあいだにすっかり片づいていたのだ。いやいや、私が洞窟から救い出されたときには、すでにだいたいけりがついていたといってもよい。
さて、危険期が過ぎると回復も早く、私は間もなく以前の体にかえったが、するとある日、金田一耕助がやってきて、
「やあ、すっかり元気になりましたね。けっこう、けっこう。ところで今日はあなたにことづけを頼まれてきたのですがね」
と、例によって|飄々《ひょうひょう》としている。
「はあ」
「麻呂尾寺のお住持さんですが、体がよくなったら会って話しておきたいことがあるから、一度寺へ来てほしいというんです。あなたもこんどはあのひとに、だいぶ世話になったのだから、一度あいさつにいったらどうです」
「ああ、それは……私もこのあいだからそう思っていたところです。では、さっそく出かけることにしましょう」
「どうです。ぼくといっしょに行きませんか。ぼくはこれから西屋へ帰るのですが……」
金田一耕助が同行をすすめるのは、村のひとたちに出会ったときの、互いの気まずさを考えてくれたからであろう。その好意に感謝して、私はいっしょに行くことにした。
「あなたはまだ西屋に……?」
「ええ、もうそろそろ、引き揚げようと思っているんですがね」
「警部さんはどうしました」
「いま岡山へ帰っていますが、二、三日したらやってくるはずです。そうそう、それで、あなたにお願いがあるんだが、警部がきたら一度みんなで集まって、こんどの事件について語りあってみたらと思うのですがね。その会場に離れを拝借できたらと思ってるんです」
別にいなむべき筋合いでもないので、私はすぐに承諾した。それからあとは別にこれという話もなく、金田一耕助はバンカチのはずれまで送ってくれると、
「じゃ、これで……お住持さんによろしく。あんまりびっくりなさらんほうがいいですよ」
と、妙なことをいうと、にやにや笑いながら、さっさと行ってしまった。私はなんだか変な気がした。またこの上に私に驚くことがあるだろうか。私はもうどんな驚きにも免疫になるほど、ひどい経験をしてきたのに。……
だが、私はまちがっていたのだ。この事件の最後において私はまた大きな驚きにぶつかったのであった。
長英さんは老病とはいえ、|色《いろ》|艶《つや》もよく、いかにも福々しい眉をしたお坊さんで、体も大きくよく肥えていた。中風で、起居が不自由だということだが、|呂《ろ》|律《れつ》も別に怪しくはなかった。私がお礼のあいさつをするのを、夜具によりかかって聞いていたが、その様子がいかにもうれしそうであった。
「いや、よかった、よかった、何にしても無事でよかった。わしはちっとも知らなんだもんじゃけん、つい、打つ手がおくれてすまんことじゃった。病気が悪いときいていたが今日はよく来てくれたな」
「はい、何か私にお話があるということでしたから」
「それよ。これ、英泉、何をソワソワしてる。みっともない。もちっと落ち着いていなされ」
英泉さんはいかにも老師思いらしく、かいがいしく世話をやいているのだが、なぜか落ち着かず、それになるべく私のほうを見ないようにしているのがおかしかった。
「辰弥や、わしの話というのはこの英泉のことじゃが、聞けば英泉とおまえは、妙ないきがかりから変なことになっとるそうだが、ここはひとつ水に流してな。この英泉というのは、おまえにとっても縁のふかい男じゃけん」
「お師匠様」
「ええがな。ええがな、何もかも打ち明けてしまうと、おまえも覚悟をきめたはずじゃ。辰弥や、この英泉は、満州でひどい苦行をしてきたために、すっかり人相が変わってしまって、梅幸のほかにはだれひとり、気づくものはなかったのじゃが、これは昔、村の学校にいた、亀井陽一という先生で、おまえのおっ母さまとも、ひとかたならぬ縁のあった男じゃ」
おお、驚くなといっても、これが驚かずにいられようか。父――そうなのだ。生まれて二十八年、私ははじめて真実の父なるひとにめぐりあったのだ。私の体はわなわなふるえ、全身が燃えるように熱くなった。それは懐かしいとか憎いとかいう感情を超越した、一種|得《え》|体《たい》の知れぬ激情だった。私はただ無言のまま、父の横顔を凝視した。その父はただおろおろと涙ぐんで、私を正視することさえできないのだが、それにしてもだれひとり気づくもののなかったのも無理はない。それはなんというひどい変わりかたであったろう。屏風の中から発見した、あの秀麗な面影はどこにもない。風雪が美しい山容を削りとって、岩ばかりの醜い|禿《は》げ山にするように、二十八年の歳月が、父の面影をすっかり変えてしまったのだ。
「辰弥や、おまえも亀井陽一の名は知っているとみえるな」
長英さんは私の顔色を見守っていた。私はうなずいた。そしてここで腹のさぐりあいをしているよりも、何もかも打ち明けたほうが向こうも話しよかろうと思った。
「このあいだ屏風の中から、私はそのひとと母のあいだにとりかわされた手紙を発見しました。また、母が大事にしていたらしい、そのひとの若いころの写真も見つけました」
長英さんと、英泉さんが、びっくりしたように顔を見合わせた。私は言葉をついで、
「その写真は亀井というひとの二十六、七のころの写真でしたが、その顔は……その面影はいまのぼくに生き写しです。だから私は、自分がそのひとの何に当たるかだいたい知っているつもりです」
英泉さんがいきなり両手で眼を押さえ、声をあげて泣き出した。長英さんがそれをたしなめて、
「みっともない、ええ加減にせんかい。辰弥や、皆までいうまい。しかしおまえがそこまで知っているなら話もしよい。英泉、いや亀井は二十八年まえの大事件の晩、ここに泊まっていたおかげであの災難をのがれたのじゃが、ああいうことが起こったのも、もとはといえば自分からと、一念|発《ほっ》|起《き》、村を出奔すると坊主になったのじゃげな。それもいちばん苦しい修行をしようと、満州の奥地で苦行僧みたいなことをしたそうな。それがこんどの戦争で、|否《いや》|応《おう》なしに送り帰され、やむなくわしのところへ頼ってきたのじゃが、そういうわけでおまえなども、ほったらかしですまなんだと言うてるが、何せ事情が事情じゃで、まあ、なんじゃ、堪忍しておやり」
英泉さんはまだ泣いている。私も涙ぐましい気持ちになってうなずいた。
「さて、それからいよいよこんどのことじゃが、英泉は東屋で双児の隠居がおまえを探して引き取るということをきいて、ひどくびっくりしたそうな。おまえの出生には当時からいろいろうわさがあったもんで、そのことは小梅や小竹、また久弥などもよう知ってのはずじゃ。それだからこそ、いままでほうっておいたものを、いまになって探し出すというのはどういうわけかと、ひどく不安になったところへ、ちょうど神戸に用事もあったところから、ついでにおまえの性質、素行なども調べたげな。つまり英泉にも、おまえが、どっちの子かようわからなんだのじゃな。こうしておまえを眼のまえにおいてみれば、一目瞭然じゃが……」
長英さんはほろ苦く笑った。
私はそこでひらきなおった。
「なるほど、それでだいぶわかってきましたが、しかし、わからないのは蓮光寺の和尚が殺されたときのことです。どうしてあのとき、あなたは私を犯人だと思われたのですか」
英泉さんはそれを聞くと世にも切なげな表情をした。そして救いを求めるように長英さんを見た。長英さんが身を乗り出した。
「それよ、そのことも英泉から聞いた。おまえがこの村へやってきて、始終、顔を見るようになるにつけ、英泉にはハッキリおまえが自分の子だとわかってきたのじゃ。英泉はそれが怖かったと言うている。昔の自分の|罪《ざい》|業《ごう》を、まざまざと眼のまえにつきつけられたようで、身のちぢまる思いじゃったげな。それともうひとつ英泉を苦しめたのは、おまえの気持ちのわからぬことじゃ。おまえは自分の出生の秘密を知らんのじゃろうか。いやいや、あれほどの騒ぎを聞いておらぬというはずはない。と、すれば自分が要蔵の子でないことも、知っていなければならぬはずじゃ。それを知りながらヌケヌケと、田治見家を相続しようというおまえが、英泉にはとても恐ろしく思われたのじゃな。つまり、おまえが天一坊のような悪党で、田治見を横領するためには手段もえらばぬ、祖父も殺せば兄も殺す、そういう恐ろしい怪物がしかも自分の子どもなのだと、いまさらのように昔の罪業に責められていたやさき、眼のまえで蓮光寺の和尚が毒殺された。そこでてっきりおまえが、自分を父と知っていて、殺そうとしたのだと思いこんだのじゃ。つまりここでうっかり父だなどと名乗られると、田治見家横領の邪魔になるから、殺そうとしたのだと、そう思いこんだのだそうな。あの時分はおまえというものがよくわからず英泉は|苦《く》|悶《もん》|懊《おう》|悩《のう》の絶頂にあったのじゃから、まあ、堪忍しておやり」
つまりあのとき父が責めたのは、私よりむしろ自分自身の過去の罪業感だったのだろう。それを思うと私はすなおに許せた。
「よくわかりました。私だって自分が田治見家のタネでないことを知っていたら、だれがなんといってもここへ来るのではなかったのです。ところでもうひとつお尋ねがあります。いつも洞窟から離れへ忍びこんでいたのはあなたでしょう。姉はあなたの落としていった抜け穴の地図を拾ってましたよ。あれはいったいどういうわけですか」
それについても長英さんが説明した。
「辰弥や。人間というものはよほど修行をつんだつもりでいても、なかなか|煩《ぼん》|悩《のう》を払い落とすことはできぬものじゃ。英泉も昔のことはいっさい忘れた気で、それゆえにこそ、この村へ帰ってきたのじゃが、さて、日がたって落ち着いてくるにつれて、思い出されるのはおつる――おまえのおっ母さまのことじゃ。おっ母さまが屏風にはりこんだ手紙のことは、ふたりだけの秘密じゃったが、その屏風がまだあの離れにあることを知ると、矢も|楯《たて》もたまらず、地下道を抜けては屏風を見にいってたそうな。ことにおまえが帰ってきて、あの離れへ起き|臥《ふ》しするようになってからは、いっそう懐かしくて、始終地下道をうろついていたげな。そうそう、いつかおまえや春代や新家の典子が、天狗の鼻でこれの姿を見たときも、いつもと同じように、おまえ恋しさに洞窟をうろついているうち、恐ろしい悲鳴を聞いたので、それでもうおびえきって、抜き足差し足歩いているところを、おまえたちに見られたのじゃげな。それもこれも、おまえ恋しさから出た行動じゃ。疑いを晴らしておやり」
私はいつかの夜、離れに寝ている私の頬に、落ちてきた熱い涙を思い出し、急に眼頭の熱くなるのを覚えた。私は無言のままうなずいて、
「そうでしたか。私はまた、宝物でも探していらっしゃるのかと思っていました」
「ああ、いや」
英泉さんがはじめて口をひらいた。そしてだれにともなく低いボソボソとした声でいった。
「私も若いころには宝探しに熱中したこともある。このお寺に奇妙な地図と御詠歌みたいな歌をかいた紙がつたわっているのを、このお師匠様からうつさせていただいて、夢中で洞窟の中をほっつきまわったこともある。しかし、それも昔の夢じゃ。いまではもう、そんな夢を見るにはあまりにも年をとりすぎている」
「いいや、夢ではない。宝物はたしかにある」
長英さんは強い声でいったが、急に思い出したように私のほうへ向きなおると、
「それで思い出したのじゃが、このあいだ、辰弥と典子がとじこめられたところ、ひょっとするとあそこが宝の山じゃないかと思うのだが……それというのが周吉と吉蔵の死体を掘りだしに行ったものの話によると、あそこはまえにも落盤があったらしく、古い人骨が一体あらわれたが、そのそばに水晶の|数《じゅ》|珠《ず》玉がちらばっていたところを見ると、坊主ではないか、と……いいよった。そのことと、寺につたわるあの歌、みほとけの宝の山に入るひとは『竜の顎』の恐ろしさ知れというあの歌を思いあわせて、落盤のあったところが『竜の顎』ではないかと思う。そうするとおまえたちの閉じこめられたところが、宝の山にあたるのじゃないか」
長英さんにはすまぬことながら、そのとき私は無言のまま、うなだれていたのである。
その後の事ども(二)
東屋の離れ座敷で、この事件の最後のしめくくりをするために、集会がひらかれたのは、姉の春代の三十五日の夜だった。
会する者、金田一耕助をはじめとして、磯川警部に新居先生、西屋の主人野村荘吉氏、麻呂尾寺の英泉さんに、慎太郎典子の兄妹、それにちょうどそのころ、また八つ墓村へ帰っていた神戸の諏訪弁護士、それに私を加えて都合九人であった。
姉の三十五日というので、心ばかりの酒さかなが用意され、|上戸《じょうご》は飲み、|下《げ》|戸《こ》はくらい、私がこちらへきてから、はじめて経験するなごやかな会合であった。
金田一耕助は私同様、酒はだめとみえて、一杯のビールにはや顔を赤くそめて、しきりにもじゃもじゃ頭をかきまわしていたが、やがて磯川警部にうながされて、どもりがちに口をひらいた。
「ここにいらっしゃる警部さんは御存じですが、どういうものかこの私は、岡山県というところに縁があって、警部さんと事件をともにしたことも一度や二度ではないのですが、こんどのこの事件ほど、手こずったことはありません。|謙《けん》|遜《そん》ではなく、私はあえて告白しますが、こんどのこの事件では、ぼくにいいところは少しもなかった。アメリカの野球の言葉でいえば、この事件における私は、完全ゴートだった。そのいちばんいい証拠は、私という人間がいなくても、この事件はしぜんと終息し、犯人もしぜんと刑罰をうけていたにちがいないのです。ところが、それでいて私は最初から、犯人を知っていたのですよ。辰弥さんのお|祖《じ》|父《い》さんの丑松さんが殺された時分から、犯人は森美也子ではないかと疑っていたのですよ。……と、こういうと、いかにもいばってるように聞こえるかもしれませんが、そうじゃないのです。そのことを知っていたのは私ばかりじゃない。もうひとりほかにいるんです。ほかでもない。ここにいらっしゃる西屋の御主人、野村荘吉氏、すなわち美也子さんの義兄にあたるかたです」
私もふくめて一同は、ぎょっとして西屋の主人の顔を見た。野村荘吉氏はしかし、ただむっつりとくちびるを結んでいた。
「いったい私がどうしてこの村へやってきて、西屋さんへごやっかいになっているか、そのことから申し上げれば、いまいったことはすぐ納得がいかれると思います。荘吉氏は令弟すなわち、美也子さんの夫だった達雄氏の死に、深い疑惑をいだいていられたのです。達雄氏は太平洋戦争の三年目に死亡された。病名は|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》ということになっているが、荘吉氏はこの死因に疑問をいだかれた。達雄氏の死は他殺ではないか、すなわち、毒殺されたのではないか、そしてその犯人は妻の美也子ではないか、……と、そういう強い疑惑をもっていられたのです」
私たちは|愕《がく》|然《ぜん》とすると、またあらためて西屋の主人の顔を見た。わけても慎太郎の顔にあらわれた、驚きと苦悩のいろは深刻だった。しばらくかれは|惘《ぼう》|然《ぜん》として、西屋の主人を見ていたが、やがてがっくり肩をおとして、うなだれた。これに反して、西屋の主人は|能《のう》|面《めん》のように、眉毛ひと筋うごかさぬ。
「西屋の御主人がどうしてそういう疑惑に到達されたか、それはこの事件に直接関係のないことだから省略するとして、とにかく御主人は非常に令弟を愛していられたので、この疑惑を疑惑のまま胸にだいていられるにしのびなかったのです。できることなら真相を明らかにして、犯人に|復讐《ふくしゅう》したい、……と、そう考えていられるところへ、たまたま私が『夜歩く』の事件で、この向こうの鬼首村へ来ていたので、あちらの事件の終わるのを待って、このほうの調査を依頼してこられたのです。だから私ははじめから、森美也子なる女性を調査する目的をもって、この村へ来ていたのですよ」
このことは磯川警部も初耳だったとみえて、いくらか非難のこもったまなざしで、金田一耕助を見つめている。そのことがもっと早くわかっていたら、事件も早く解決していたにちがいないと思ったのであろう。耕助はしかしその非難を完全に無視して、
「さてこの村へやってきた私は、西屋の御主人からいろいろ話をききました。美也子さんに対する疑惑の動機、根拠というようなものを伺いました。しかし、それはいずれも薄弱だったり、たとえ根拠があるにしても、いまとなっては調査不可能と思われるような事態ばかりなので、私はこの事件を引き受ける自信はなかった。そこで、お断わりして引き揚げようと思っているところへ、舞いこんできたのが神戸で丑松さんが毒殺されたという報です。しかも、みずから志願して、その後始末に神戸へ行こうというのが森美也子さん、さらにもうひとつ付け加わえさせてもらうならば、西屋の御主人の説によると、令弟達雄氏臨終の模様が丑松さんの最期とそっくりだというんです。こうなると私もいくらか考えなおさざるをえませんでしたが、そこへ西屋の御主人の、さきのことはともあれ、もうしばらく様子をみてほしいという要請もありましたので、滞在しているうちに起こったのが久弥さんの殺人事件、こうなるともうこっちからお願いしてもおいてもらいたくなったわけです」
一同は黙って聴いている。だれひとり口をきく者はなく、|咳《せき》ひとつする者はなかった。ただひとり諏訪弁護士だけが独酌で、ちびりちびり飲んでいた。
「当人をまえにおいていうのもなんだが、西屋の御主人は復讐心にもえていられた。ただもう、美也子さんを憎んでいられたので、丑松さんが殺され、久弥さんが毒殺されたとき、すぐにそれを美也子さんの仕業だと断言された。達雄氏の場合もふくめて、全部同じ手口であるというのです。それはそうかもしれなかったし、事実また、美也子さんは毒をもるチャンスを持っていた。丑松さんは神戸へたつまえに、諏訪弁護士あての紹介状を、美也子さんに書いてもらっている。だからそのとき美也子さんには、カプセルをすりかえるチャンスがあった。また、久弥さんを殺した毒は、皆さんも御存じのとおり、久野先生の薬局で投ぜられたものですが、その薬局には美也子さんも、たびたび出入りをしているのだから、これまたチャンスがあった。しかし、ここがむずかしいところで、そのひとにチャンスがあったというだけで、告発するわけにはいきません。人間はチャンスだけでひとを殺すものではない。そこには動機というものがあるはずです。では美也子さんにどういう動機が考えられるか、夫殺しはともかくとして、丑松さんや久弥さんを殺しても、彼女は一文の|得《とく》にもなりません。いやいや、事件が終わったいまになってみれば、久弥さん殺しに重大な意味のあったこともわかるのですが、そのときにはわからなかった。久弥さんが殺されただけではわからなかった。いやいや、これはまちがい、あのとき久弥さんだけが殺されたのならあるいは、犯人の計画の第一歩を、見抜くことができたかもしれないのですが、そのまえに丑松さんが殺されている。丑松さん殺しと久弥さん殺しに一貫した動機を考えるのは当然のことで、その結果、何が何やらわからなくなってしまったのです。さらにそのうえ、達雄氏の場合を考えようとするからいよいよいけない。森達雄氏と博労の丑松さん、さらに東屋の御主人とくると、もしこれが同一犯人の犯行とすれば、犯人は完全に気ちがいとしか思われません。ところがわれわれのヒロイン森美也子さんは、あのとおり才気|煥《かん》|発《ぱつ》、とてもそんな早発性|痴呆症《ちほうしょう》的犯罪を犯そうとは思えない。さらにこのことは蓮光寺の和尚洪禅さんから、梅幸尼へとすすむにしたがって、いよいよ強調されます。つまりこの一連の殺人事件では、最後のひとりが殺されるまで、動機がわからないというところにむつかしさがあったのです。つまり犯人は動機不明という事実の背後に、あぐらをかいていられたのです。だから、あのとき――梅幸尼が殺されたとき、枕元にあのような紙片をおいておかなかったら、犯人の動機|隠《いん》|匿《とく》はもっと完全だったろうと思います。あの紙片を梅幸尼の枕元においたこと、このことによっていままで完全無欠だった犯人も、はじめてヘマをやらかしたんです。しかも二重の意味で……」
そのとき、横から諏訪弁護士がビールをついだので、金田一耕助は言葉をきった。そして、ひとくちのどをうるおすと、またボソボソ語りはじめた。
「実際、それまでこの一連の殺人事件で、動機の探究という点になると、われわれは完全にシャッポをぬいでいたんです。丑松さんから梅幸尼にいたる四つの殺人事件に、いったいどんな一貫した動機が考えられましょう。完全に動機のない殺人としか思えなかった。ところがあの紙片によって、犯人は、はじめて動機らしいものを見せてくれた。小竹様の杉が雷に裂けたことによって、恐ろしい霊感をうけた何者かが、八つ墓明神にそなえる|生《いけ》|贅《にえ》として、並立、あるいは対立している二者の一方を|斃《たお》していくという、狂信者的な動機、いかにもそれは八つ墓村の殺人事件としてはもっともらしい。しかし、いかにもっともらしいといっても、それではあまり非現実的すぎる。それに、由来狂信者の犯罪というやつは、激情的なのがふつうで、こんどの事件のように陰険かつ巧妙な例は少ないものです。しかし、とにかく犯人が、はじめて動機らしいものを示したところに、あの紙片は興味があった。ひょっとすると犯人は、ほんとうの動機をカムフラージするために、ああいう動機を示しておきたかったのではないか。……と、こう考えてくると、どうしてどうして、動機のない殺人どころか、この事件の犯人は、容易ならぬやつだということになります。あの紙片で示したような動機を|捏《ねつ》|造《ぞう》するだけでも、ふつうの頭脳ではありませんが、さらに動機をカムフラージしようという考え方、これこそもっとも高級な犯人のやりかたですからね。殺人事件で動機がうまく隠せたら、犯人の計画は半ば以上成功です。ほんとうをいうと、そのころ私は、この事件に対して、ほとんど|匙《さじ》をなげかけていたのですが、これで急に闘志がわいてきた。つまり犯人は、少し早く手のうちを見せすぎたのですね」
金田一耕助はそこでひといき入れると、
「それともうひとつ犯人の失敗はなんといってもあの紙片を出す時期をあやまったことです。梅幸尼は東屋からとどけられたお|膳《ぜん》をたべて死んだんですが、前後の事情から考えて、毒の投じられたのが東屋の台所であることはあきらかです。したがって、犯人は梅幸尼の庵室へ近よる必要は全然なかった。では、どうしてあの紙片があそこに落ちていたのか、犯人がわざわざ持っていっておいたのか、そうです。それよりほかに考えようはないのですが、ではその時期は? この事件の犯人は非常にかしこいのですから、いずれ人殺しが発見されるだろう家へ、深夜こっそり紙片をおきにいくなんてことは考えられません。だからあの紙片をおきにいくいちばんいい時期は、辰弥さんが美也子さんとふたりで、庵室を訪れて死体を発見したとき、そのときよりほかに考えられない。そのときふたりのうちのどちらかが、こっそり落としておいて、あとのひとりに発見させる。犯人はこれほどいい時期はないと思って、そのとおり実行したのですが、いずくんぞ知らん、それこそ最悪の時期であった。なぜならばふたりが庵室へ到着する直前に、濃茶の尼がしのびこんで、死体のまわりを|這《は》いずりまわっているのです。それを知らなかったのが、犯人のもっとも大きな手抜かりでした。濃茶の尼は死体のまわりに、そんな紙片なんか絶対になかったと証言するかもしれない。そうなっては一大事ですから、その晩、濃茶へしのんでいって、妙蓮を絞め殺してしまったのです」
このときふいに一座の中から、鋭いうめき声がもれたので、私たちははじかれたようにそのほうをふりかえった。慎太郎だった。慎太郎ははげしく身ぶるいをし、おびえたように眼をとがらせながら、とめどなく流れる汗をぬぐうていた。
私が静かに声をかけた。
「あの晩、――濃茶の尼が殺された時、私はあなたが庵室のほうから坂をおりてくるのを見たのですよ。そのときのあなたのものすごい形相から、尼を殺したのはてっきりあなただと思いこんだのですが、そうでなかったとすると、ひょっとするとあなたはあの晩、美也子さんの姿を庵室の付近で見られたのではないのですか」
こんどは私のほうへ一同が、はじかれたようにふりかえった。警部はふふむと不満らしく鼻を鳴らした。慎太郎がくらい眼をしてうなずいた。
「そうです、美也子を見たのです。しかし、それが美也子だったといいきる自信はなかった。美也子はそのとき男装していたし、ほんのちらと見ただけですから。むろん相手は私に見られたことに気がつかなかった。しかし、とにかく美也子らしい人物が、庵室から出てきたので、不思議に思って中をのぞいてみたのです。そして、あの死体を発見したんですが、どう考えても美也子があの尼を殺す理由はないと思ったものですから、とにかく黙っているにしくはないと思っていままでだれにもいわなかったのです。そうですか。辰弥君が見ていたんですか」
慎太郎は流れる汗をぬぐった。警部がまたはげしく鼻を鳴らし、怒りにみちたまなざしを、私たちふたりにそそいだ。
金田一耕助がそれをとりなすように、
「まあまあ、あなたがたがそれらのことを、私たちに告げなかったというのは、なんといっても非難されるべきことですよ。いまさらいってもしかたのないことですがね。あのとき、濃茶の尼を殺したのは、なんといっても私たちの手抜かりでした。ぼくはまさか犯人が、そこまで実行力があるとは思わなかった。実際また、濃茶の尼に証人としてどれだけの価値があるか疑問だったのです。ことにあんな小さな紙片ですから、そんなもの見なかったといっても、それにどれだけの信頼性があるかわからなかったんです。しかし、犯人はそういうふうには考えなかったんですね。危険な存在は先手をうって殺してしまう。実際、恐ろしいやつですが、考えてみればそれがいちばん安全な方法なんですね。さて、このことによって私の頭脳には、森美也子というものの映像が、急にクッキリとうかびあがってきた。いままでは西屋の御主人の、とりとめもない疑惑の対象でしかなかった美也子さんの行動の中から、ぼくははじめて疑惑の裏付けとなりそうな事実を、発見したわけです。ところが困ったことに、それと同時に久野先生が、にわかに疑惑の対象として浮かびあがってきたことです。しかも美也子さんよりはるかに強い疑惑の対象として……」
「そうだ、いったい久野先生は……」
と、そのときはじめて口をひらいたのは、新居先生であった。
「この事件でどういう役割をしめておられたのですか。あの奇妙ないたずら書きは、ほんとうに久野先生が書かれたものですか」
そういう新居先生の顔を見返す金田一耕助の瞳には、一種異様なかがやきがあった。まるでいたずら小僧のような微笑をうかべて、
「そうですとも、あれはたしかに久野先生の書かれたものです」
「しかし、久野先生はなんだって……」
「まあ、お聞きなさい、新居先生。こんどのこの奇妙な一連の殺人事件の最初の立案者は、実に久野先生なんですよ。そして久野先生がなぜこんな奇妙な計画をたてたかというと、その原因は実に新居先生、あなたにあるんですよ」
その後の事ども(三)
「な、な、なんですって!」
新居先生のくちびるからもれた叫びは鋭かった。それは驚きと怒りにみちたものだった。さすが温厚な新居先生も、このときばかりは|蒼《あお》ざめて、くちびるがかすかにふるえていた。私たちはびっくりしてふたりの顔を見くらべていた。
「いや、先生、驚かせてすみません。しかし、ぼくの言葉はけっしてうそでもでたらめでもないのです。久野先生がああいう奇妙な計画を考えたというのは、実に新居先生、あなたのためなのです。とはいえ先生、ぼくはけっしてあなたを非難しようというのではありませんよ。非はむしろ久野先生にあるのですからね。つまり|外《げ》|道《どう》の|逆《さか》|恨《うら》みというやつです。しかし、疎開してこられたあなたに、患者をすっかりとられてしまった久野先生の恨みは深かった。遺恨コツズイというやつですね。きっと八つ裂きにしてもあきたりぬくらいに思ったことでしょう。そういう恨みがつもりつもって、久野先生はとうとうあなたを殺す計画をたてたのです」
「私を殺す……?」
新居先生の顔はいよいよ蒼くなった。一同の注視を浴びて|間《ま》が悪そうに、|杯《さかずき》をとりあげるその手はひどくふるえていた。
「そうです。久野先生はあなたを殺そうと考えたのです。しかしただあなたを殺しただけでは、すぐに自分に疑いがかかることを久野先生は知っていた。なにしろあなたに患者をとられて、遺恨コツズイであることは、村じゅうの人が知っていますからね。そこでなんとかして、あなたを殺しても、自分に疑いのかからぬ方法はないものかと、とつおいつ、考えに考えたあげく編み出したのがすなわち、こんどの八つ墓伝説殺人事件。すなわち双児杉の一本が、雷に裂かれて倒れたのは、八つ墓明神の|生《いけ》|贅《にえ》を要求している|証《あかし》であるぞよという、あの濃茶の尼の|妖《よう》|言《げん》をたくみにとりいれ、村で並立あるいは対立している二者の一方が殺されるという、迷信的犯罪なのです」
「するとなんですか」
新居先生はまだ驚きのさめやらぬ声で、
「久野先生はたったひとりの私を殺すために、罪もない数名の人を殺そうとしたんですか」
「そうですよ、久野先生は何人殺してもかまわなかったんです。はじめからあの人は、ほんとに人殺しなどするつもりはなかったのだから」
「なんですって」
新居先生は眼をまるくして、
「それはどういう意味なんです。あなたのいうことはどうもよくわからんが」
金田一耕助はにこにこと無邪気な眼で新居先生を見つめながら、
「先生、こういうことを言っては失礼ですが、お見受けしたところ、先生はまことに温厚で円満なお人のようですが、そういう先生でもいままで一度も、憎んだことはなかったでしょうか。あいつを殺してやりたい、八つ裂きにしてやりたいなどと、御立腹なすったことはないでしょうか」
新居先生はだまって金田一耕助の顔を見ていたが、やがてかすかにうなずいた。
「そういう経験は全然ないといえばうそになりましょうな。もちろん実行するつもりは毛頭ないが……」
「そうでしょう、そうでしょう」
金田一耕助はうれしそうに、頭の上の雀の巣をガリガリかきまわしながら、
「われわれ凡愚の人間は、精神的には始終、人殺しをしているようなものなんです。ここにいる警部さんなどいままでに何度ぼくを殺してるかしれませんぜ。あっはっは。いや、冗談はさておき、久野先生の殺人願望もその程度にすぎなかったんです。先生ははじめから実行するつもりはないのだから、したがって計画などもできるだけ奇抜で大仕掛けなほうがよかったのです。そして、そういう計画を楽しんでいるかぎり、人間は人殺しなどするものではないのです。だから先生がそのプランを、頭脳の中でだけ練っていられたら、まちがいは起こらなかったのですが、不幸にして先生は、興に乗ってそれを文字にして書きつけておかれた。それがまちがいのもとだったんです」
「そのノートを、どういうはずみでか美也子が手に入れたわけだね」
野村荘吉氏がはじめて口をはさんだ。
「そうです、そうです、その媒介をしたのがつまり濃茶の尼なんです。久野先生は不謹慎にもそういう大事なことを書いた|虎《とら》の巻を、往診カバンに入れて持ってあるいていられた。そいつをちょろりとちょろまかしたのが濃茶の尼で、彼女はなかをひっかきまわしたあげく、日記なんかいらないわとばかりに、ポイと捨てたのが不幸にも美也子さんの手に拾われた、と、いうわけなんですね」
一同のくちびるからは思わず深いため息がもれる。金田一耕助も暗い眼をして、
「実際、事件のきっかけは、どんなところに転がっているかわかりません。美也子さんはあの日記を拾わなくても、それと似たようなことをやったかもしれない。しかし、あの日記が、彼女の行動に拍車をかけたことは争われませんね。美也子さんは日記の中にあるあの奇妙な殺人計画書を読んで、どんなに驚いたことでしょう。そのなかには春代さんとならんで、自分の名前を犠牲者のひとりとして挙げられているんですからね。しかし、なにしろあのとおり賢明なひとのことだから、すぐにそれが久野先生の、実行する意志もない、机上プランであることに気がついたことでしょう。と、同時にその計画が、かねて自分の抱いている願望すなわち東屋のひとびとを皆殺しにしたいという欲望に、非常に好都合にできていることに気がついたことでしょう。なぜといって、そこに挙げられている犠牲者のなかには、東屋の家族全部が入っていたのですから、つまり久野先生が新居先生を目標としてたてたその計画は、そっくりそのまま東屋一家皆殺しという目的に、すりかえることができるのです。ここで運命は決定しました。美也子さんは久野先生とちがって、実行力にとんだ人物だったから計画どおり、着々として実行していったのです。そして、ここにあの奇妙な、八つ墓村の連続殺人事件の幕がきって落とされたわけなのです」
重っ苦しい沈黙が、ずしーんと一同のあいだに落ちてきた。なんとも救いようのない|暗《あん》|澹《たん》たる気持ちだった。やがて金田一耕助はその沈黙の|呪《じゅ》|縛《ばく》からのがれようとするように、二、三度強く咳をすると、
「みずから掘った穴とはいえ、この事件でいちばん気の毒だったのは久野先生ですよ。久野先生は自分の編みあげた計画どおり順次ひとが殺されていくのを見たとき、どんなに驚き恐れたでしょう。もちろん、久野先生の計画では、新居先生以外は、二人のうちのどちらを殺すともきめてなかった。しかし、ともかく自分の書きあげておいた人物が、つぎからつぎへと殺されていくのだから、これほどの恐怖はありますまい。だれかが自分の計画を実行している……と、そこまでわかっても、だれがなんのためにやっているのか、久野先生にもわからなかった。またそのことを人に打ち明けるわけにもいかなかった。久野先生はただ恐怖のまなざしをもって事件のなりゆきを見守っているよりほかにしようがなかったのですが、そこへとうとう、とび出したのが、自分の筆になる殺人予定表だったから、先生は恐怖の絶望のどん底へたたきこまれた。いったんは知らぬと言い張ったものの、いずれは自分の筆跡だとわかるだろう。そのときいったいなんといって弁解できるか。あのたわけた、途方もない計画、いい年をして、新居先生ねたましさのあまり殺人計画をえがいて慰めてました。なんてことがいえるでしょうか。そこで久野先生は逃げだした。姿を隠すよりほかに道はなかったのですが、そこを犯人にだまされて、洞窟の中へつれこまれ、まんまと一服盛られたのでしょう。そのとき犯人がどんな言葉で欺いたのかわかりませんが、おそらく、ほとぼりがさめるまで、姿を隠していたら、なんとか打開の道があろうとかなんとかいったんでしょう。なにしろ相手が女だから、久野先生もつい気を許したんですね」
「すると美也子さんは、洞窟の地理に通暁していたんですね」
私が尋ねた。
「そうですよ。考えてみるとあれほど才|長《た》けた婦人ですからね。埋められた財宝伝説に、好奇心を起こさぬはずはない。かなり以前からあのひとは、洞窟の探検をやっていたんじゃないかと思いますよ。それに、あのひとが地下道へ出入りしていたというたしかな証拠もあるのです。警部さんあれを……」
磯川警部がカバンの中から取り出したものを見て、私は思わず眼を見はった。なんとそれは三枚の黄金ではないか。
「ここにいらっしゃる英泉さんの話によると、この三枚の大判は、つい最近まで『猿の腰掛』と、|屍《し》|蝋《ろう》の棺の中にあったんだそうです。英泉さんはずっとまえからそのことを知っていられたそうですが、仏の眠りを妨げるのを恐れて、そのままにしておかれたんだそうで、いや、いかに無欲の僧侶とはいえ恐れ入ったものです。これ、いまの値段にしたらたいへんなものですよ。なお、これは余談ですが、こうして現に三枚の大判が出てきたんだから、あの埋められた財宝伝説も、まんざら夢物語ではなさそうですぜ。ひとつ探してみますかな」
私は典子と顔見合わせて微笑したが、すぐ眼をそらせて黙っていた。
「失礼ですが、その大判はどこにあったのでございますか」
典子がつつましやかに尋ねた。
「ああ、そう、うっかりしましたが、これは美也子さんの手文庫の底から発見されたのです。この一事をもってしても、美也子さんが最近、洞窟の中へ入ったことがわかるでしょう。あのひとがこの大判を見つけたのは、ひょっとすると、小梅様の殺された晩ではないでしょうか。あのひとが屍蝋の棺をあらためているところへ、小梅様と小竹様がやってきた。偶然そこで出会ったのか、来るのを知って待っていたのか、とにかくふたりがやってくると、いきなり上から躍りかかって小梅様を絞め殺した。あのひとにとっちゃ、小梅様でも小竹様でもどちらでもよかったのだが、雷に裂かれて倒れたのは、小竹様の杉だったから、できれば小竹様のほうを殺したかったのでしょう。だから、あの殺人連名表では、まちがって小竹様のほうを|抹《まっ》|殺《さつ》したのでしょう」
「あのひとは……」
と、私が低い声でいった。
「いつも小竹様と小梅様の見わけがつかないのでした」
「なるほど、それでついあのときもまちがったのですね。さて、小梅様が殺されてみて、はじめて、いままでてんでんばらばらだった被害者のうち、共通点をもったふたりが出てきました。すなわち久弥さんと小梅様です。それと同時に田治見家で、あとに残ったひとり(この場合、辰弥君は新来者だから一応除外するとして)の春代さんにも、犯人のリストに載りうる資格があるということ、すなわち、森美也子とふたりならんで未亡人の項にあげうるということに気づいたときのぼくの驚きを御想像ください。ここにはじめて事件の動機が、うかびあがってきたのです。犯人は東屋の一族を皆殺しにしようとしているのだ。そしていままでの殺人は、全部それを擬装するために行なわれたのだ、と、そう気がついたときの私の驚き。……ところで私はだいぶまえから、美也子を犯人と知っているのですから、この動機と美也子とを結びつけてみました。東屋の一族を皆殺しにして、果たして美也子になにか利益があるだろうか。直接にはありません。しかし、そのあいだに慎太郎さんという人物をおいてみると、|俄《が》|然《ぜん》、重大な意味をおびてくる。美也子さんは先夫の死後、慎太郎さんと結婚するつもりだったらしいということは、西屋の御主人から聞いていました。そこで私はこの事件を、てっきり二人の共謀であろうときめてしまったのです。私がそう考えたのも無理はないので、美也子さんと慎太郎さんとの、あの微妙な心理の|葛《かっ》|藤《とう》、意地の張り合いなどわかろうはずがありませんからね」
慎太郎は暗い眼をしてうなずいた。思えばかれが意地や気位をかなぐり捨てて、美也子と結婚していたならば、少なくとも八つ墓村の事件だけは起こらずにすんでいたのだ。その代わり、先夫殺しの女と結婚することになったかもしれないけれど。
「さて、こうしてだいたい動機もわかり、犯人もわかったものの、いったいぼくにどういううつ手がありましょう。そこにはこれという決め手はひとつもなかった。美也子慎太郎(そのころぼくはそう思っていたのですが)を告発する材料はなにもなかった。そこでぼくは待つよりほか手がなかったのです。犯人はいずれ早晩春代さんに手をのばすのにちがいない。それをとっておさえたら……と、そう考えていたのだが、おっと、どっこい、犯人のほうがはるかに上手だったのです。ぼくは思うのですが、美也子さんの考えでは、久野先生の|亡《なき》|骸《がら》は、なかなか発見されまいとたかをくくっていたのではないか、すなわちすべての罪を久野先生になすりつけるつもりではなかったかと。久野先生がみんなを殺し、行方をくらましたのだと思わせようとしたのではないかと。――半年も一年もたってあの屍骸が発見されたところで、白骨になっていることだから、小梅様とどっちがさきに死んだかわかるはずがない。いやいや、小梅様のあとで春代さんを殺しても、それもやっぱり久野先生の仕業だと思わせることができると思っていたのでしょう。すなわち、久野先生は失踪後、ある期間洞窟の中で生きていて、小梅様を殺し、春代さんを殺し、その後、洞窟の奥ふかく逃げこんで、みずからあの殺人連名を胸において、自殺したのだと、そう思わせることができると思っていたのではないでしょうか。ところがぼくが――ぼくは小梅様の屍骸のそばから、久野先生の鳥打帽が発見された瞬間、先生はすでに死んでいるにちがいないと思ったのですが――強硬に洞窟内の捜索を主張したものですから、急に計画を変更せざるをえなくなった。なぜといって、いま久野先生が発見されては、小梅様よりさきに死んでいることがすぐわかるし、春代さん殺しの罪をなすりつけるわけにはいきません。そこで新しく|罪《ざい》|業《ごう》転嫁の対象として選ばれたのが辰弥さん、あなたなのです」
そのことは、私もうすうす気がついていたのだけれど、金田一耕助に改めて指摘されると、いまさらのように冷たい戦慄が背筋をつらぬいて走るのを、おさえることができなかった。
金田一耕助は暗い眼をして、
「いやいや、久野先生の死体発見のことがなくても、美也子さんはいつかあなたを、片づけてしまうつもりだったのです。おそらくはじめてあなたを神戸まで迎えにいったときから、いずれ生かしてはおかぬと考えていたのでしょう。そうそう、美也子さんはこんなことをいってましたよ。春代さんを殺したとき、あの人の持っていた弁当に、毒を仕込んでおくつもりだったと。そうしておけば、あなたが犯人であり、すべてを決行したのちに、絶体絶命となって、毒を仰いで自殺したのだ、ということになるだろうと思っていたのです。ところが、意外に早くあなたが|馳《は》せつけてきたために、そのひまがなかったのだと打ち明けましたよ」
私はまた、恐ろしい戦慄が、背筋をつらぬいて走るのを禁じえなかった。ああ、私はどっちへころんでも、生きていられぬように仕組まれていたのだ。私がいまこうして生きているのは、まったく奇跡みたいなものである。
金田一耕助はいよいよ暗然たる表情をして、
「だが、辰弥君をそこへおいこむまえに、美也子さんは恐ろしい策略をめぐらした。しかも、美也子さんはそれを非常にうまくやったんです。警察へ密告状を出したり、役場のまえに貼り紙をしたり……そうです、みんな美也子さんの仕業でした。辰弥さん、最初あなたに、絶対にこの村へ帰ってはならぬという変な密告状を送ったのも、やっぱりあのひとなんですよ。それでいて自分であなたを迎えにいっているのだから、その点だけでもあなたが絶対にあのひとを、疑えなかったのも無理はないのです。さて、警察へ密告状を出したり、役場のまえに貼り紙したりしながら、一方において、たくみに単純な農民諸君を扇動していったのです。美也子さんは口では、けっしてあなたを怪しいなどとはいわなかった。しかし、それ以上のゼスチュアをもって、自分も辰弥が犯人であると思っているということを、周吉や吉蔵に信じこませたのです。そして、とうとうあの暴動が突発したというわけです」
金田一耕助はため息をついて、
「私がさっき、相手のほうが上手だったといったのはこのことです。暴動――だれがこんな事態を予期しましょう。実際、あのときの自分のことを考えると、われながら愛想がつきる。周章|狼《ろう》|狽《ばい》なすところを知らず、ハラハラ、オロオロ、テンヤワンヤと、てんてこまいをしているうちに、まんまと春代さんが殺されてしまったんです。この事件で、私にいいところはひとつもなかったというのは、ここのところをいうのですよ」
金田一耕助は、|憮《ぶ》|然《ぜん》として口を閉じたが、しばらくして、嘆息するようにこうつぶやいた。
「恐ろしい女でしたな。すごい女でしたな。昼は|美《び》|貌《ぼう》と才気であらゆる男を魅了しながら、夜はうば玉の闇の衣を身にまとい、殺人鬼となって、洞窟の奥から奥へと|彷《ほう》|徨《こう》する。天才的毒殺魔であると同時に、天才的殺人鬼でもあったわけです。ああいうのを|女《にょ》|妖《よう》というのでしょうか」
だれもそれに返事をする者はなかった。息苦しい沈黙がわれわれの周囲を|囲繞《いにょう》する。その沈黙を破って私が卒然として叫んだ。
「いったい美也子はどうしたんです。その後どうなったのです。だれもぼくにいってくれない。美也子はその後いったい、どうしたんです」
一瞬、ひとびとはしいんと鎮まりかえって、互いに顔を見合わせていた。やがて金田一耕助が、のどにからまる痰を切りながらたったひとこと。
「美也子は死にましたよ」
「死んだ? 自殺したのですか?」
「いいえ、自殺ではありません。それは恐ろしい死にかたでしたよ。辰弥さん、春代さんと美也子は相討ちでしたよ。春代さんに噛まれた傷がもとで、美也子さんは死んだのだから。それはもう、何んともいえぬ|凄《せい》|惨《さん》な最期でした。あの美しいひとが、全身紫色にはれあがり、骨肉をくいあらす苦痛にのたうちまわりながら、最期の息をひきとったのです」
私はそのとき、姉の春代もひょっとしたら、そのことを知っていたのではあるまいかと気がついた。まさか美也子がそのような恐ろしい最期をとげようとは知らなかったであろうけれど、自分を殺そうとした人物、自分が小指を噛みきった相手が、だれであったかを知っていたのではあるまいか。いかに暗闇の中とはいえ、いかに口をきかなかったとはいえ、体と体が接触すれば、そして口までふさがれてみれば、相手が男性か女性かぐらいわかったはずである。そして相手が女性だっとわかってしまえば、それがだれだか気がついたにちがいない。そうだ、姉は知っていたのだ。だからこそ、私が相手はだれかときいたとき、姉はあのようになぞのような微笑をもらしたのだ。さすがに名前を出すことははばかったが、小指を噛みきったことによって、十分復讐をとげたことを、姉は知っていたのにちがいない。そう考えてくると、その傷がもとで美也子が凄惨な最期をとげたというのも、姉の執念のように思われて、私はいまさらのように慄然たらざるをえなかった。
それから金田一耕助は、光のない眼でぼんやりと、あらぬかたをながめながら、こんなふうにこの話を結んだ。
「美也子の臨終は恐ろしいものでしたよ。ものすごいスリルでしたね。いいえ、美也子のためによりも、ぼく自身のために、美也子が死んでしまえば何もかも葬られてしまうでしょう。息を引き取るまえになんとかして告白を引き出さねばならない。しかも、ぼくにはなんの決め手もなかった。ただ|臆《おく》|測《そく》をならべたてるよりほかに知恵はなかった。あんな賢明な人だから、はじめのうち、あのひとは鼻の先でわらってましたよ。実際あれは一種の決闘でしたね。心理的というよりも気魄の決闘だったんです。だが、慎太郎さんの名前が出たとたん、あのひとは負けました。そこへぼくはつけこんだんです。あなたがこのまま黙って死ぬと、何もかも慎太郎さんが背負わねばならぬだろうと、私がハッタリをきかせたとたん、美也子は完全に降伏したんです。違う、違う! と美也子は必死となって叫びましたよ。それから、あのひと、つまり慎太郎さんは何も知らないことなのだ。私ひとりでやったことなのだ。こんなことが知れてしまえば、あのひとは私を|軽《けい》|蔑《べつ》するだろう。私はあの人に何も知らさずに、本家を相続させたかったのに……そういってサメザメと泣くと、はじめて何もかも打ち明けたのです。悪い女ではありましたが、あのときの彼女の絶望的な嘆きを思うと、いまでもぼくは胸がしめつけられるようですよ」
美也子はすべてを告白すると、金田一耕助にたのんで、神戸へ電報をうって、諏訪弁護士を呼びよせたそうだ。諏訪弁護士は翌朝着いた。彼女は弁護士に後事を託して息を引き取ったのである。それは私が洞窟から救い出された日のことで、さすがに彼女も息を引き取るまで、私の安否を気づかっていたという。
「さあ、これで万事、話は終わったようですな」
すべての話が終わって、一同が思い思いの感慨にふけっているときである。突如、席の|一《いち》|隅《ぐう》から陽気な声をあげたものがあった。諏訪弁護士であった。
「話がすんだら、ひとつ飲みほそうじゃありませんか。どうも陰惨きわまる話で、気が|滅《め》|入《い》っていけない。何かこう、心の明るくなるような話はありませんか」
そういう諏訪弁護士の眼には、涙が白くひかっていた。かれは美也子が好きだったのだ。
その心根を察して、一座の気をかえるために、膝を乗り出したのはかくいう私であった。
「それでは|僭《せん》|越《えつ》ながら、ぼくが話をしましょう。金田一さん」
「はあ」
「あなたはこのあいだぼくに、あまり驚かないようにと注意してくださいましたね。そういえば、ぼくはこっちへ来て以来、驚かされることばかりでした。だから最後に、こんどはぼくが皆さんを、あっと驚かせてあげようと思うのです」
何をいい出すのかと一同は|怪《け》|訝《げん》そうに私の顔を見ている。私は典子と顔見合わせて微笑した。さすがに私の心はおどり、舌が少し上ずった。私はビールをのんで気をしずめると、いくらか気取った調子でこういった。
「金田一さん、あなたはさきほど、埋められた財宝の伝説は、まんざら夢物語ではないらしいとおっしゃいましたね。そうです。夢ではありませんでした。私はそれを発見したのです」
突然、一座がざわめき出した。互いに顔を見合わせて、大丈夫かいといったような眼の色だった。私はまた、典子と眼を見交わせて微笑した。
「皆さん、御心配には及びません。私はけっして気が狂ったのでも、夢を見ているのでもないのです。私が今夜諏訪弁護士をこの席にお招きしたのも、このことをお願いしたかったからです。埋もれた財宝を発見した場合、その所有権はどうなるのか、また、どういう法的手続きをとったらよいのか、私には少しもわかりません。だから、このこといっさいを、諏訪さんにお願いしたいと思うのです。なお、ついでながらここで発表させていただきますが、私は典子と結婚しました。あの洞窟の中で、……さあ、典子、皆さんにあの黄金をお眼にかけたら……」
典子が立って床わきの地袋をひらき、それからおびただしい大判を取り出したとき、そこにどのような歓声と拍手のあらしが起こったか、そのことは改めて述べるまでもあるまい。
大団円
以上で私はすべてのことを語りつくしたつもりだが、なお、苦労性の読者のために、二、三|蛇《だ》|足《そく》を付け加えておくことにしよう。
大判は二百六十七枚あった。美也子の手文庫から発見された三枚を加えると二百七十枚だ。少し半端な数ではあるが、ひょっとすると「竜の顎」で、白骨になっていたお坊さんの相棒が、いくらか持ち出したのかもしれぬ。さて、大判の目方と金の含有量は、まえに書いておいたから、二百六十七枚の大判が、時価いくらになるか、物好きな読者は計算してみられるのも一興だろう。
それはさておき、あの日、私は慎太郎にむかって、田治見家相続の辞退を申し出た。理由として自分がだれの子であるかわからぬということを挙げた。慎太郎は黙って私の顔を見ていたが、やがて首を左右にふると、
「それはいけないよ、辰弥君。きみのようなことをいえばだれだってそうだ。世のなかに自分の父はだれだとハッキリといいきれる人物があるだろうか。それを知っているのは母親だけだ。いや、母親だってわからぬ場合があるかもしれんぜ」
そこで私は、屏風の中から発見した、亀井陽一の写真を出してみせた。
「兄さん、これを御覧ください。これでもなおかつ、ぼくに田治見家を相続するほどの、クソ度胸があるとお思いですか」
慎太郎は黙ってその写真と私の顔を見くらべていたが、いきなり私の手を握った。ずいぶん|剛《ごう》|毅《き》な男だけれど、そのときばかりは、眼に白いものが光っていたようだ。
慎太郎はいま八つ墓村に、石灰工場を建てるのだといって夢中になって奔走している。そのへんいったい、石灰の原料となる石灰岩が、無限に埋蔵されているので、事業は非常に有望だと、専門家も太鼓判をおしているそうだ。それについて慎太郎は私にこういった。
「この村に新しい事業が起こり、近代的技術を身につけた人間が、おおぜいいりこんでくるようになったら、村の人たちのものの考えかたも、いくらか変わってくるだろう。それ以外に、このいまいましい村の、迷信ぶかい人たちの考えかたを|矯正《きょうせい》する方法は見当たらない。そういう意味でも、私はこの事業を成功させねばならないのだ」
それからまた、別の機会に慎太郎はこんなこともいった。
「辰弥君、私は|生涯《しょうがい》結婚しないだろう。それは美也子に対する義理などではなく、私のような経験を持った男が、女性に対して懐疑的になり、臆病になるのも無理ではなかろう。だから、きみたち、きみと典子はたくさん子どもを産んでくれ。きみたちのあいだに生まれた二番目の男の子を、私はもらって田治見家の相続人にしたい。そうすることによって、不幸だったきみのお母さんにも義理が立ち、また、きみをこの家の相続人にしようとした、久弥君の遺志にも、添うことができると思う。辰弥君、このことだけはいまから約束しておいてくれたまえ」
さて、私は姉の百か日をすませて神戸へたつことにしていた。神戸の西郊には諏訪弁護士が、私たち夫婦のために新居をかまえて待っていてくれるのである。世の中は妙なもので、あの黄金発見の|顛《てん》|末《まつ》が新聞に出るとあちこちから借金の申し込みも、降るようにあったが、それと同時に、金を貸そうという申し込みも少なくなかった。これでみると、貧乏人には金の貸し手はひとりもないが、金持ちにはいくらでも金を貸したがる連中があるらしい。
神戸の新居へは父にも同伴をすすめたが、父は固辞してうけなかった。
「私には老師をみとらねばならぬ義務がある。それに若夫婦の中へこの老人がわりこんではどうであろうか。いずれ足腰が立たなくなったら、やっかいになることがあるかもしれぬが、それまでは|非《ひ》|業《ごう》に死んだ人々の|冥《めい》|福《ふく》をいのって暮らしたい」
さて、私は亡姉に対するせめてもの|手《た》|向《む》けとして、この家の|棟《むね》の下では、けっして典子と夫婦の語らいをすまいと決心していた。そのことは典子も承知していたのだが、あと二、三日で百か日というある日、典子が私の耳もとにあることをささやいた。
私は愕然とした。
私はある確信を持っていたのだ。私の生命の最初のいぶきが、母の胎内に芽生えたのは、あの洞窟の中にちがいないと。同じことが典子の胎内に起こったのである。たった一度の経験で。……繰りかえす細胞の歴史は|執《しつ》|拗《よう》である。
私は強く典子を抱きしめてやった。そして、近く生まれるであろうこの新しい生命には、けっして自分のなめてきたような、みじめな半生をあたえまいと誓った。
本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月)
金田一耕助ファイル1
|八《や》つ|墓《はか》|村《むら》
|横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Seishi YOKOMIZO 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『八つ墓村』昭和46年4月30日初版発行
平成8年9月25日改版初版発行