金田一耕助のモノローグ
横溝正史
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目 次
[#見出し]疎開三年六カ月――楽しかりし桜の日々
義姉光枝の奨《すす》めで疎開を決意すること
途中姉|富重《とみえ》の栄耀栄華《えいようえいが》の跡を偲ぶこと
桜部落で松根運びを手伝うこと
ササゲを雉子《きじ》に食われて泣き笑いのこと
敗戦で青酸加里と手が切れること
探偵小説のトリックの鬼になること
[#見出し]田舎太平記――続楽しかりし桜の日々
兎の雑煮で終戦後の正月を寿ぐこと
頼まれもせぬ原稿七十六枚を書くこと
城昌幸君の手紙で俄然ハリキルこと
いろんな思惑が絡み思い悩むこと
探偵小説を二本平行に書くということ
鬼と化して田圃の畦道を彷徨《ほうこう》すること
[#見出し]農村交友録――続々楽しかりし桜の日々
アガサ・クリスティに刺激されること
公職追放令に恐れおののくこと
澎湃《ほうはい》として興る農村芝居のこと
昌《ま》あちゃんのお婿さんのこと
「本陣」と「蝶々」映画化のこと
桜部落のヒューマニズムのこと
伜亮一早稲田大学へ入学のこと
八月一日に東京入りを覘うこと
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[#見出し] 疎開三年六カ月 楽しかりし桜の日々
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[#見出し] 義姉光枝の奨《すす》めで疎開を決意すること
[#見出し] 途中姉|富重《とみえ》の栄耀栄華《えいようえいが》の跡を偲ぶこと
正直のところ私は昭和二十年三月ごろまで、疎開しようなどという意志は毛頭なかった。
現在でこそ武蔵野市吉祥寺といえば、大きなデパートも二三進出してきているようだし、ギッチリと人家に埋まっており、たいへん繁栄をきわめていて、若いひとたちのあいだに、ジョージという陰語まで出来ているそうだが、私の住んでいた二十年ごろは、まだまだ東京郊外の一町村に過ぎず、空地などいくらでもあった。だから敵がそんな場所へむかって、焼夷弾攻撃を加えて来ようとは思えなかったし、たとえ加えて来たところで、都心の密集地帯とちがって避難場所はいくらでもあった。
それにもかかわらず三月九日の夜から十日の明方へかけての、敵の第一回焼夷弾攻撃におどろいて、義理の姉の原田光枝が疎開をすすめてきたとき、いちどは寝耳に水かと驚いたが、すぐその気になったのは、ほかにいろんな思惑がからんでいるにしても、薄倖《はつこう》に死んだ兄の五郎のたったひとりの想われびとだったそのひとの、好意に甘えてみたかったのだと、私は「書かでもの記」に書いているが、それこそNHKのクイズ番組ではないがホントのホントなのである。
では、ほかにいろんな思惑がからんでいるにしてもとある、その思惑とはなんであったか、それについてはまえに書いた「途切れ途切れの記」のなかで、私はこういうふうに書いている。
「私はそのまま吉祥寺にいすわるつもりだったのだが、それにもかかわらず三月十日の大空襲におどろいて、手篤《てあつ》い手紙をよこされた原田光枝女の疎開のすすめに、一も二もなく応じる気になったのは、そこが瀬戸内海にちかいからである。どう考えてもこの戦争もヤマがみえていた。戦争が終わったら探偵小説も復活するだろう。そんな場合、瀬戸内海の小島を舞台に書いてみたらどうかと漠然と考えていた私は、矢も楯もなくそこへいってみたくなった」
これをもう少し敷衍《ふえん》させていただくと、島を舞台に本格探偵小説をかいてみたいという願望は、おそらくは遠くは江戸川乱歩の名作「パノラマ島奇譚」や「孤島の鬼」に端を発しているのだろうけれど、近くはカーター・ディクソンの「プレーグ・コートの殺人」の影響である。
カーター・ディクソンは即ちディクソン・カーである。私がカーによって啓発された作家であるということは、そうとうひろく知られているようだが、私はカーのまえにアガサ・クリスティも読んでおればクロフツも愛読していた。エラリー・クイーンのごときは私が「探偵小説」という雑誌を編集しているころ、はじめて日本に紹介した作家である。エラリー・クイーンのまえにヴァン・ダインもいる。みんな私のひいき作家であり、愛読作家でもある。
しかし、これらの作家の作風は、これなら自分にも本格探偵小説なるものが書けるかもしれないという自信を植えつけてくれるどころか、その反対に、とってもとてもワシゃもう叶《かな》わんわと畏怖心を起こさせるばかりであった。思うに以上挙げた四人の作家の作風や持ち味には、それぞれちがったところがあるとはいうものの、みんなタッチがリアルなせいであったろう。
ところが戦争中のつれづれに、いまは亡き井上英三君から借覧《しやくらん》したカーの二作、「プレーグ・コートの殺人」と「帽子蒐集狂」とは、私にまったくちがった印象となって影響した。この筆法でいくならば自分にもいわゆる謎と論理の本格探偵小説らしきものが書けるかもしれないと、ちょっぴり自信らしきものを持つことが出来たのは、そこに盛られているロマンの匂いのせいであったろうか。それともどこかにストーリー・テラー的な味付けを、私はその二篇から読みとったのではあるまいか。
ストーリー・テラーとしての才能なら、私も若干自信を持っていた。だからこの二作、ことに「プレーグ・コートの殺人」のほうをよくよく咀嚼《そしやく》し、それを自分の持ちまえのストーリー・テラー的才能で粉飾していったならば、自分は自分なりの本格探偵小説が書けるのではないか。……これひとつの自信というべきであろう。
そう思いはじめていたやさきの、原田光枝からの疎開のすすめである。そこで瀬戸内海――島――「プレーグ・コートの殺人」と結びついてくるわけだが、「プレーグ・コートの殺人」のプレーグ・コートは別に島ではなく、ロンドン郊外にある中世ふうの旧家である。だから、これを島へもっていっても、いっこう差支えのないような雰囲気なのである。
そこで私の「途切れ途切れの記」によると、「しかし、私の持ってうまれたドン・キホーテ的性格のために、またしても一家五人、東京を離れて、知らぬ他国にさまようことになり、この冒頭にかかげたように、昭和二十年四月一日、総社《そうじや》の駅に降り立ったのだが、あにはからんや、私が当てにしてきたその家は、それより少しまえに焼き払われた大阪の罹災者によって、すでに占拠されているというのである」
と、いうことになるのだが、これにはいささか説明が必要なようである。
私が妻の孝子と結婚したのは昭和二年のことで、今年で金婚式を迎えたわけだが、その間二度家族ぐるみの大移動をやってのけている。最初は昭和九年の七月、私が胸を病んで信州上諏訪へ転地したときで、二度目がこんどの疎開である。二度とも行先はしらぬ他国であった。しかも、決断を下すのはいつも私なのだが、亭主関白の位をもって任じている私は、いつの場合でも家族のだれとも相談しない。ある日突然転地なり疎開なりを申し渡し、あとは一切家内に一任してしまうのだから、転地のときにしろ、疎開の場合にしろ、実際に行動したのは家内である。
彼女は決して才|弾《はじ》けた性格でもなく、社交家でもない。むしろ私の眼からみれば機転のきかないほうだが、いたってまめやかな性格で、それに恐ろしく辛抱強いほうである。さらにまた私以上に劣等感の強い性格だから、だれに対してでも腰が低く、したがってだれからも愛されるとはいわないまでも、だれからも憎まれない性格なのである。こういう非常の場合、それがものをいうばかりか、幸いお隣に住んでいらしたNさんのご主人というひとが鉄道省に勤めていられたので、貨車の手配はそちらのほうでしていただいた。しかし、なにしろ家財道具一切合切、大袈裟にいえばカマドの下の灰まで持っていこうというのだから、その当時としてはたいへんであった。そういえば荷物係りの荷役をする男がボヤいたという。
「これじゃ疎開じゃなく引っ越しだ」
それやこれやで東京出発は大幅に遅れて、三月二十五、六日ごろになった。汽車の切符の手配などもお隣のNさんのお世話になった。しかも、そのとき私たち親子五人は光枝の指定する総社へ直行せずに、その間、阪神間の住吉にある義兄の家へ立ち寄って、のんきに三泊しているのである。この義兄の溝口良吉というひとの、二度目の妻が私の姉の富重《とみえ》だが、その富重もそれより少しまえに亡くなっていて、その時分三度目の妻を迎えていた。
このひとは歯車歯切りの工場の年季小僧から身を起こし、のちに独立して妻を持ち、夫婦のあいだに女の子をひとりもうけたところで妻に先立たれた。そこへ縁あって姉の富重が後妻としてもらわれていったのである。姉はむろん初縁であった。おのれは初縁でありながら、継子のある、したがってそうとう年齢のちがう男のところへ嫁していったこの姉を、幼い私は傷ましいと思わざるをえなかった。
しかし、この溝口良吉というひとは石部金吉もいいところで、酒も飲まずタバコもやらず女道楽はもってのほか、ただ仕事一方という人物であった。私は大正十年大阪薬学専門学校一年のとき、一学期だけその自宅に世話になったが、そのうちの二階は六畳と四畳半のふた間しかなく、その四畳半に年季小僧がふたり、六畳のほうに私と年季小僧のいちばん兄貴株の人物、それに女中と三人枕を並べて寝るのだから、夏場など息苦しくて仕方がなかった。
その時分義兄の良吉は私によくいったものだが、
「マサシさん、世間のひとはちょっと小金が出来るとええ家へ越したがるもんやけど、わてらそんなアホなことせえしまへん。わてが宿がえするときは、うんと立派なうちにしたるさかいにと、富重にもよういうてあります」
当時は工場も小さかったけれど、歯車歯切りの溝口良吉といえばその道ではすでにそうとう有名だったらしい。このひとはこの上もなく姉を愛し夫婦のあいだに六男一女をもうけ、
「これでうち七福神がそろうたがな」
と、悦に入っているので、
「兄さん、そんなこというたら文ちゃんが可哀そうやおまへんか」
と、私がたしなめたことがある。文子というのは姉にとっては継子である。
後年産をなしたとき、義兄はしみじみ述懐するようにこう語った。
「マサシさん、名は体を現すといいますが、ほんまだすな。富重とは富が重なると書く。富重と夫婦になったばかりに、わてえろう財産家になりましたがな」
その富重も戦争中に死亡した。そのころ私は上諏訪の療養生活を切りあげて、すでに吉祥寺へ舞い戻っていたのだが、姉の訃報をきいたとき、また体を悪くしていたので、家内を名代として住吉の家へ派遣した。その家内がかえってきて、住吉の家がいかに豪勢なものであるかを力説し、
「あなたお姉さんの元気なうちに、なぜいちどはいってあげなかったの。お姉さんがあんなにきてほしがられたのもむりないわ。それこそ御殿みたいに大きなお屋敷よ」
と、私を強く責め立てたが、私は昂然として憎まれ口をたたいた。
「亭主が立身出世さらしくさったさかいにちゅうて、そないな贅沢さらしてたさかいに、若死にさらしくさったんや。だれがいってやるもんか」
富重の死はわれわれの生母はまの死とそっくりおなじだったという。脳溢血でひっくりかえってそれきりだったそうである。但し、われわれの生母のはまが貧困のうちに窮死したのに反して、姉の富重は亭主の良吉にねだって、豪勢な茶室を建ててもらい、あのへんいったいの奥様がたを三十名ほどご招待して、茶室びらきをやったのはよかったが、その心労が祟《たた》ってひっくりかえったのであると聞いて、私は時局柄をもわきまえずと、大いに立腹したものである。
あとにして思えば、母が貧困のうちに死んだからといって、娘もおなじように貧乏であらねばならぬという理屈はどこにもない。私の場合、そういう立身出世[#「立身出世」に傍点]した肉親のもとへしげしげ出入りするということが、いかにも物欲しそうで卑しいという、ケチなプライドというよりも、私の持ってうまれたヘソ曲がりと、一種の僻みであったろう。
私が疎開の途次そこへ寄ってみる気になったのも、姉に対するお詫び心と、そのへんだっていつ焼夷弾攻撃を受けまいがものではない。いちどは姉の栄耀栄華のあとも見ておいてやりたいという、ちょっとしたおセンチな気持ちにほかならなかったのだが、さて、きてみると聞きしにまさる豪邸であった。
敷地は千坪というからいまのことばでいえば三千三百平方メートル、建坪は百五十坪を越えていた。なにしろ警戒警報が鳴ろうが空襲警報がはためこうが、家の中の一室に電灯がつけっ放しで、しかも、明りが外へ洩れる気遣いがないというような広い家であった。そのほかにもう一軒おなじ地つづきに千坪の敷地をもった、これまたそうとう立派な家が用意してあった。これは早稲田を出てからまもなく応召した長男が、目出度く帰還したあかつきには、嫁をとり、そこで世帯をもたせるつもりで用意してあったのだが、その長男はガダルカナルで戦死したという公報が、それよりさきに入っていた。その公報が入ったのが姉の死後だったのが、私にとってはせめてもの救いとなったが、その豪邸も隣の家も、なにもかも虚しいように思われてならなかった。
疎開の途次にもかかわらず私がそこに三泊もしたというのには、こういう意味もこめられていた。
義兄の良吉は戦争中ちょくちょく上京してきて、軍のおエラがたのまえで、いかにすれば生産増強につながるかと、一席ぶたされるらしかった。そんなとき姉の希望でいつも吉祥寺のわが家を宿としていた。義兄の経済理論はこうであった。
「やれ、一億一心や、やれ、義勇奉公やちゅうたかて、そないなもん、戦争がこう長引いてしもたら通用せえしまへん。それにはやっぱり見返りが大切だす。働いたもんには働いただけの賃金出さんことには、ただ口先だけで生産増強、生産増強ちゅうたかて、そらドダイ無理だすわ」
いかにも大阪人らしい意見であったが、それこそ軍の最も恐れていたであろうところの、インフレ助長につながるものであったろう。
その義兄があるとき、わが家の四畳半の茶の間でつい口を滑らせたことがある。
「マサシさん。軍艦大和の鎖の環はひとつだけでも、この部屋くらいの大きさがおまっせ」
私はすかさず聞きかえした。
「兄さん、すると軍艦大和ってやっぱり造ってるんですか」
義兄はあわを食ったように眼をシロクロさせていた。
そういう立場にあってみれば都会がいかに危険にさらされても、疎開などとは思いもよらぬことであったろう。ひょっとするとこれがこの世の別れとなるかもしれないと、じっくり腰をすえて思う存分歓待を受けてあげたのである。これを歌舞伎流にいうと、これ今生の暇《いとま》乞いという心境であった。義兄のような立場にあると、牛肉でも新鮮な魚介類でも、なんでもヤミで手に入るらしかった。私はそこで三泊してさんざん御馳走になった揚句、三月三十一日の夜大阪駅を立って、その翌日の四月一日の午後四時ごろ、岡山県吉備郡総社町の鄙びた駅におりたったのである。
しかし、義兄の家のことはすべて私の取り越し苦労であった。住吉の家は二軒とも焼け残り、義兄も健在であった。ただこのひとは女房運の悪いひとで、三度目の妻にも先立たれたうえ後継者にも恵まれなかった。このひとのただひとつの道楽は書画骨董集めだったが、それも晩年、
「わいが儲けた金でわいが買い集め、さんざん楽しんだカスや。なんでも好きなもん持っていきいな」
と、気前よく出入りのもんにくれてやり、土地も手放し、二十三年まえ九十歳で三男のところで亡くなったが、あとにはほとんど財産をのこさなかったという。しかし、その遺業はいまも大阪製鎖という会社として存在しており、戦後たしか藍綬褒章をもらっているはずである。役者子供という言葉があるが、このひとの場合、職人子供という言葉がぴったりのような一生であった。
それはさておき、四月一日の夕刻われわれは目的地の総社に着いたのだが、あとから思えば非常にラッキーだったのは、あらかじめ覚悟していたにもかかわらず、列車が敵襲の危険にさらされるようなこともなく、住吉で三泊しているあいだも、警戒警報はちょくちょく聞いても、空襲警報に脅やかされることはいちどもなかった。時に私は四十二歳、家内の孝子は三十八歳、長女|宜子《よしこ》十七歳、長男亮一十四歳、次女瑠美は五歳であった。いまの年齢のかぞえかたでいうとである。
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[#見出し] 桜部落で松根運びを手伝うこと
[#見出し] ササゲを雉子《きじ》に食われて泣き笑いのこと
ところがさっき挙げた「途切れ途切れの記」にあるように、「あにはからんや、私が当てにしてきたその家は、それより少しまえに焼き払われた大阪の罹災者によって、すでに占拠されているというのである」と、いうことになるのだが、それにはこういういきさつがある。
義姉の光枝が私を世話をしようとしたのは、自分の生母であり、かつ私の継母であるところの浅恵の実家、久代《くしろ》村の福田家であった。
その家ならば私より福田家に縁の濃い人物がいくらでもいるはずだから、私ごときが当てにすべきいわれはなく、他のひとによって先有されていたとしても、どこに文句の持っていきようもなかった。
現に浅恵は私の末弟博が独立し、結婚して家を持つと、そちらのほうに身を寄せていて、戦争中浜松に住んでいたのだが、浜松が危険にさらされると、私よりひと足さきに岡山のほうに疎開していたのだが、その疎開先は久代ではなく、博の嫁の実家の箭田であった。だから久代の福田家へ私を疎開させようとしたのは、どう考えても光枝の早トチリとしか思えなかった。
そこで「途切れ途切れの記」を見ると、こういうことになってくる。
「しかし、この義姉はなかなかしっかり者で、予定していた家が駄目になると、すぐそれにかわる家を見つけておいてくれたが、じつはそれが大変なシロモノなのであった。
「見たところ築地をめぐらせ、巨石をあしらった坪庭もあり、そのへんの農家としては珍しく豪華な構えなのだが、かんじんの大黒柱の根元が一尺ほど、もののみごとに腐っていて、したがって大黒柱を中心に、建物全体が四方八方からかしいでおり、むろん建具なんて入りっこないから、襖も障子もぜんぜんなく、畳はぜんぶ新調しなければならなかった。「それをひと月ほどかかって、なんとか住めるようにしてくれたのだから、義姉の顔たるやたいしたものである。当時のことだから畳も建具もぜんぶヤミである。だいたいそんな時代に屈強な大工などいるべきはずはないのだが、それがいたからふしぎである。ただし、その時代に二十代か三十代で徴兵も徴用もまぬがれていたのだから、お世辞にも屈強といいかねた。まるで蚕の腹のような肌をしていて、腺病質という言葉を絵にしたような、しかし、男っぷりも上乗の大工が、義姉の家の筋向かいに住んでいた。その若い衆が一切取りしきってくれることになったが、むろんひとりで手に負えるはずもない荒れかただから、私たち夫婦もお手伝いしなければならなかった」
この記を書いたころ私はこの大工さんの名前を忘れていたが、こんど光枝の遺児の迪胤《みちたね》に問い合わせたところ、栄田実君といって昭和二十五、六年ごろ病死されたそうである。慎しんでご冥福を祈るしだいである。
さて、栄田実君の力を借りて問題の家……それが岡山県吉備郡岡田村字桜の家なのだが……がどうやら住めるように恰好がつくまでには、ひと月、いや、それ以上かかったが、その間われわれ親子五人はどうしていたかといえば、義姉の家の原田家へ寄寓していたのである。
光枝の夫は原田貞四郎といい、夫婦のあいだに四人子供をもうけたが、その四人の名前が四人とも凝りに凝っているのである。長男の敬策《けいさく》はまだよいとして、迪胤、伸佶《しんきち》、彬《あきら》とつづくのだが、私は末っ児のあきちゃんの名が、こんな難しい字を書くということは、こんど迪胤から手紙を貰うまでゆめにもしらなかった。この子はいま九州のほうにいて、毎年、年賀状をくれるのだが、自分ではあき子と署名している。即ち女の子なのである。子供たちにこういう凝った名前をつけた貞四郎というひとは御典医の末ときいていたが、今度迪胤にもらった手紙によると、備中国天城藩士だったそうである。
さて、われわれが世話になった昭和二十年ごろ、長男の敬策は陸士を出てむろん外地で転戦中だった。敬策は陸士時代よく吉祥寺のうちへきていたそうだが、その時分、私はその家を浅恵にあずけて、上諏訪のほうで療養中だったので、いちども会ったことがなかった。次男の迪胤には東京で二、三度会ったことがあるが、かれもまた昭和十八年十二月学徒動員で家にいなかった。したがって、当時の原田家の家族といえば貞四郎光枝の夫婦に、まだ小学生だった伸佶、彬の四人だけで、二階のふた間が空いていた。だからわれわれ親子五人が、身のまわりの品とともに寄寓していても、それほどの不都合はなかった。
ここにひと月ほど世話になっているうちに、私は光枝の口から絶えて久しく聞いたことのない言葉をきいて、非常に奇異な思いに打たれたことがある。ちょうどその頃原田家の親戚か識り合いに、縁談が持ちあがっていたらしい。貞四郎はそれに賛成らしかったが光枝が猛烈に反対して、
「そうじゃというて、それではあんまり家柄[#「家柄」に傍点]がちごうておいでんさる」
ああ、家柄。
そういえば東川崎の家にいるころ、よく柳井原から父の叔父にあたるひとがきていた。叔父といっても父と六つくらいしか年齢がちがわず、叔父甥というよりも兄弟か友達みたいなもので、われわれきょうだいもこのひとのことを、柳井原の叔父さんとか、新家の叔父さんとか呼んでいた。この叔父はふたことめにはご先祖様がどうのこうの、お家柄がどうしたこうしたというのが口癖であった。
その後二十四歳にして東京へとび出してきて以来、私は家柄などという言葉は絶えて久しくきいたことがなかった。それが二十年ちかくもたったいま、郷里にちかいところへかえってきて、突然義姉の口からきいたのだから、私はまことに奇異な思いに打たれると同時に、深い感銘を覚えずにはいられなかった。しかも、その後桜の家に落ちついて、部落のひとびととつきあいがはじまったころ、私の継母が久代村の福田家の出《しゆつ》であるとしると、村のひとたちは、
「それは、まあ、ぼっこうたいしたお家柄ですらい」
と、決して揶揄でも嘲弄でもなく、しんじつ感心してみせるのである。
こうして私の脳裡には好むと好まざるとにかかわらず、いつか「本陣殺人事件」の腹案が練りかたまっていったのであろう。
それはさておき桜の家の修復も完成し、曲がりなりにも畳建具も入り、どうやら住めるようになって、われわれ親子五人がそちらのほうへ移ったのを、「途切れ途切れの記」では五月中旬となっているが、それは私の記憶ちがいで、四月の終わりか五月上旬のことであったろう。その家はまことに見晴らしのよいところに建っていた。すぐ背後に桜のお大師さんというのが、少し小高い石段のうえに建っており、お大師さんを抱く丘は、すぐ北側の久代村までつづいていた。はじめてその家へわれわれ夫婦をつれていったとき、義姉の光枝は築地のまえに立ち、南のほうにひろびろとつづく田園を指さし、
「そら、そのむこうの村が川辺というて、そこにマサシさんの親戚が住んでおいでんさる。いこう世話好きなおかたじゃけん、いまにお近づきにおなりんさるじゃろ。そのずうっとむこうに川が横に流れてますじゃろうが。あの川のむこうに小高い山が見えてますけえど、その山のむこうがマサシさんのおくにの柳井原ですんぞな」
と、教えられたとき、私は一種の感銘をおぼえずにはいられなかった。ああ、私は知らぬ他国にさまよい来たのではなかったのだ。桜部落のなかには、私の名前をしっている人物もあり、その作家は柳井原出身じゃそうなと聞いていたそうである。私はそのことを「途切れ途切れの記」のなかでこう書いている。
「わたしゃ備前の岡山育ち、米のなる木はまだ知らぬ……と、いう俚謡にはいろいろ解釈があるようだが、要するに米がよく稔ることを唄ったのであろう。大袈裟にいえばくわえギセルでふところ手をしていても、稲は稔ってくれる土地である。したがって金持ち喧嘩せずで、賓客をもてなし、世話好きな土地柄でもある。ましてや私はまったくの異邦人ではなく、目と鼻のあいだの柳井原出身ということになっていたらしく、朝起きて土間の障子を開くと、だれがおいていってくれたのか、野菜が山のように積んであることがよくあった」
この奇特な贈物のぬしはすぐわかった。それはおなじ桜部落に住む浅野間さんという戦争未亡人で、部落のひとはその婦人をふでさんと呼んでいたから、私も以下ふでさんと呼ばせていただこう。ふでさんはうちの家内よりいくらか若い年頃だったが、お気の毒にその戦争で旦那さんを失って、幼い子供を三人かかえて、自分ひとりでお百姓をしているのであった。浅野間家は桜部落でも表通りにあり、家もりっぱで田圃もよいところに持っていた。それにもかかわらずほかの家々がみんな分家だの新家だのといっしょに、ひとかたまりになって住んでいるのに、浅野間といううちはその家一軒きりだった。しぜんふでさんは孤独であり、したがって孤独なさすらいびとであるところのわが一家に同情があったのであろう、よく野菜の類をとどけてくれた。うちの家内も方角こそちがえおなじ岡山県人なので、ふでさんとすぐ仲好しになった。
私の名前をしっており、私を柳井原の出身者として、はじめから好意をよせていてくれたのは加藤|一《ひとし》さんである。このひとも私より少し若いくらいの年輩だったが、戦前茨城県の内原かどこかにあった青年指導者養成所みたいなところを出ており、岡山県下のあちこちで、青年学校の先生をした経験を持っており、当時の農民としては世間も広く、物識りで、インテリぶらないインテリだった。ふでさんなんかもあらかじめ、このひとから私のことを聞いていたのであろう。
ああ、加藤一さん。
私の疎開生活でいちばん大きな収穫は、このひととの出会いであったろう。このひとなしには「本陣殺人事件」も「獄門島」も「八つ墓村」もうまれず、したがって現在の私のブームもなかったであろう。それらの農村や島の風物詩は、おりにふれて一さんの語ってくれた人情風俗におうところが多く、また意識的にこちらから教えを請うた部分も少なくない。そして、それらの風物詩が私の拙い小説を、どんなに豊かにふくらませてくれているか、それは読者諸賢のよくしられるところであろう。
またこの一さんとふでさんの存在が、三年六カ月にわたるわれわれの疎開生活を、どんなに楽しいものにしてくれたことか。私の借りていた家にも、耕そうと思えば耕せる土地が五、六坪はあった。しかし、私はそれでは満足しなかった。戦争はまだつづいているのである。そうそうはひとさまのお情けに縋《すが》りたくなかったし、可能なかぎりヤミはやりたくなかった。そこで一さんがしげしげ遊びにくるようになったとき、私は甘えてねだってみた。
「お宅の畑であそんでるとこない。ぼくも毎日なんにもせずにいるの辛うてかなわんわ」
「そんならうちの山の松根を掘った跡でも耕しておみんさるか。ジャガ芋はもう遅いが、ササゲくらいなら穫れるかもしれん。さいわいお宅にはコヤシは仰山おありんさるけんなあ」
一さんはあたまからわれわれごとき素人に、百姓のまねごとなど出来るもんかとタカをくくっているのである。しかし、私は真剣だった。
「でも、うちには百姓道具がないんだけど」
「ああ、そんなら浅野間にいうてお借りんさい。あそこならなにもかも揃うて余っているはずじゃけん」
家内からふでさんに頼むと、さあ、さあ、どうぞというわけで、鍬を二挺、肥たごをひとつ、天秤棒まで貸してくれた。
ここで松根のことをちょっと説明しておこう。日本ではもうガソリンが欠乏していたのである。都会では日まわりを栽培することが奨励された。日まわりの種子から油がとれるのだそうである。私たち一家が桜へ入居したころは、ちょうど田植えまえの農閑期だったとみえ、部落のひとたちは松根掘りに熱中していた。立ち枯れたり折れたりした松の根っ子を掘るのである。松の根っ子からやはり油が採れるのだそうな。女子供は掘った松根を山から運びおろすのに狩り出された。それを運びおろすのには猫車《ねこぐるま》というのが使われる。猫車は都会の建築現場でも使われているようだが、手押しの一輪車である。しかし、都会のそれが一輪車は一輪車でも、ゴムのタイヤが使ってあり、万事金属製でできているのに、農村で使う猫車は全部木製であるから、それを操作するにはそうとうコツを要した。
そんな場合家内は私の健康をおもんばかって、自分ひとりでお手伝いに出るのだが、彼女は順応性にとんでいるとみえ、まもなくふでさん並みとはいえないまでも、ふでさんの亜流くらいには猫車を扱えるようになり、あっぱれものの用に立つようになってきた。私もあんまり知らん顔も出来ないので、たまに松根運びのお手伝いに参上すると、
「先生はまあこれひとつで我慢おしんさい」
と、一番小さな松根をたったひとつ、猫車にのっけてくれるのである。それでもあっちへひょろひょろ、こっちへよろよろしながら、途中いくらか操作にもなれて、目出度く麓まで運びおろすと、みんなわっと歓声をあげて私の労をねぎらってくれ、こうしてわれわれ夫婦は、しだいに部落のひとたちに同化していったのである。
思えば戦争は私から物を書くという職業と、酒とタバコを奪ったが、その代り私に健康を返してくれたのである。夫婦とも農民の血が流れていた。いよいよ一さんの山を借りるときまると、私たちはそれぞれ鍬をかついでうねうねまがりくねった坂道を二、三百メートルものぼり、松根を掘ったあとの平地になったところを耕した。三十坪くらいも耕したろうか。耕しおわると肥タゴに肥を汲んで、夫婦ふたりで差し担いで、また長い坂道をエッチラオッチラと運ぶのであった。何度も何度も運んでいるうちに、とちゅうで農民にあってからかわれたりすると、
「われわれは、まあ、あんたがたの四分の一人前の力しかおまへんねン。あんたがたは一人でふたつの肥タゴを担ぐが、われわれはごらんのとおりだっさかいにな」
じっさい私はそういうことをやっているのが、楽しくて仕方がなかったのだ。あるとき私ひとりで一さんの山を耕していると、倉敷のほうで警戒警報が鳴りわたるのがきこえた。私は都会人の不幸に同情しながら、心の中でこう呟いていた。
神風を祈る心ぞ仇なれや
恃まずわれは爪で耕すも
疎開の途次、住吉の義兄のうちに三晩世話になっているとき、そこの次男が短波をきいていた。短波とは敵が日本国民にむけての宣伝放送だから、当時それを聴くことはご法度だった。露見すればどんな厳罰に処せられるかしれないのだけれど、私の甥は家の広いのをよいことにして平気でそれを聴いていた。私もそばでそれを聴いた。
あの当時良識のある人物で、大本営発表をまともに受け取っているものはなかったであろうと思われるが、短波で呼びかけてくる敵の放送は、はるかに戦局の緊迫を思わせた。問題は本土決戦があるかどうかということだった。
疎開まえ私はしばらく隣組の組長を仰せつかっていたことがある。ときどき古手の軍人がやってきてわれわれを教育していった。本土決戦に備えてである。これはもうだれでも知っていることだろうが、敵が機関銃をもって向かってきたら、竹槍をもって闘えというのはまだしもとして、女は快く敵に強姦させろ。そしてその最中に、相手の睾丸を握りつぶせというにいたっては沙汰の限りであった。これはもう軍のエゴイズムとしか思えなかった。敗戦となれば軍は崩壊するだろう。自分たちが生きる立場を失うならば、日本国民全体、男も女も道連れじゃと、そう喧いているとしか、継子育ちで僻み根性の強い私にはうけとれなかった。
それはさておき私たち夫婦の開墾は完了した。堆肥を施し肥えをまき、ササゲの種を植えつけたが、しかし、せっかくのわれわれ夫婦の努力も、秋になると水泡に帰したことを発見しなければならなかった。ササゲはたしかに稔ったのである。しかし、全部|雉子《きじ》に食われて収穫皆無におわったには、夫婦顔を見合わせて泣き笑いであった。
しかし、そうかといって、この努力は全然徒労に帰したわけではない。その翌年おなじ開墾地に、ひとからわけて貰ったジャガ芋のタネ芋を植えつけたところ、そんな荒蕪地にもかかわらず、思いのほかの収穫をあげ、部落のひとたちからも賞められ、われわれ夫婦も鼻たかだかであった。
こうして私は終戦の日まで時を稼いでいたのである。
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[#見出し] 敗戦で青酸加里と手が切れること
[#見出し] 探偵小説のトリックの鬼になること
疎開していた桜の家を、私は桜銀座と呼んでいた。桜という部落はさっきもいったように、背後を久代村までつづく丘に抱かれている。したがって桜部落のひとたちの家々は、丘の麓に段々型に建っていた。しかもそのひとたちの耕作地は、私の家のまえから一直線に、川辺村までつづいている村道の両側にひろがっているのである。だから桜部落の住民たちの半分は、家を出て野良へ出るまでには、いやがおうでもわが家のまえを通らなければならなかった。そのひとたちは野良仕事に倦きると、
「先生、ちょっと一服させてつかあさい」
と、わが家へやってくるのである。
まえにもいったように、わが家は築地にとりかこまれているのだけれど、そこには門の戸がなくてだれでも出入り自由である。門を入ると左側は巨石や灯籠をあしらった坪庭があり、右側にはわれわれ夫婦の丹精による、五、六坪の菜園が出来かけていた。門から正面に当たるところに腰高障子があり、そのなかはかなり広い土間である。土間の左側に六畳があり、六畳のさらに左側が四畳半になっていて、そこが私の書斎兼寝室になっていた。
農民たちはみんなゲートルに地下足袋すがただから、座敷へあがってくるようなことはなかったが、六畳の端っこについている板の上がり框に腰をおろしたり、なかには六畳の間へ上半身だけ仰向けに倒して、しばらく世話話をしていくのである。最初からいちばん頻繁にやってきたのは一さんだが、そのうちに内田のキンさんもやってくるようになった。戦争が終わったあとで私はキンさんにいわれたことがある。
「先生がここへおいでんさったとき、わしゃいやぁなひとが来たと思うたんですぞな」
「どうして?」
「だって、先生の顔にはこの戦争もう負けじゃと、ちゃあんと書いてありましたけんな」
そういわれて私はギクリとしたものだが、戦争中はふしぎにだれも戦争のことにはふれなかった。まるでその話はタブーになっていたようで、おかげで私も助かったものである。松根を掘って飛行機を飛ばしているようでは、所詮勝ちみはないということを、いわず語らずのうちにみんな知っていたのかもしれない。
このキンさんというひとは戦争が終わってから、よく私を手古摺らせたものである。酒に酔ってはよくわが家へころげこんできて、
「先生、このままうちへ帰ると母あちゃんに叱られますけん、しばらくここへおいてつかあさい」
と、さんざんクダを巻くのであった。
このキンさんは一さんより少し年長だったようだが、このふたりのコンビが桜部落を牛耳っており、万事につけて引っ張っているように思われた。キンさんにつづいて片岡の要さんもよくやってきた。要さんはそれまでに十六人の子供をもうけたが、育ったのは三人だけだということである。わが家のすぐ裏の片川のおじいさんや、そのまた裏の田口さんもちょくちょく顔をのぞかせた。なんのことはない。うちはそのひとたちのクラブみたいなものであった。だから私は家内にいったものである。
「このまえの道が桜銀座やとすると、うちはさしずめライオンかタイガーやな」
但しこのライオンかタイガーには女給もいなければ、酒はおろか番茶も出さなかったが、それでもけっこうみんな楽しそうであった。
それはさておき、終戦の日のことについて、私は「途切れ途れの記」にこう書いている。
「桜部落の戸数は三十戸くらい、しかし、ラジオを持っている家はわが家のほかにもう一軒しかなかったので、終戦の詔勅は二軒にわかれて聴くことになった。その前日、明日の正午からかならずラジオを聴くようにという通達をきいた部落のひとたちのほとんどが、もしやと思ったのではなかろうか。私の疎開していたその村は、広島県との県境にちかく、隠すよりは顕るるはなしで、広島市の惨状がひそかに語りつたえられていたからである。
「電波の状態は最悪だった。なにがなにやらサッパリ聴きとれなかった。私のラジオを取りまいて車座になっている農民たちも、心配してときどき質問してくるのだが、聞かれる私自身なにがなにやらサッパリなのだから答えようがない。一座は次第に動揺しはじめたが、ちょうどその瞬間、私の耳をじつに明確にとらえた一句があった。
「『これ以上戦争を継続せんか……』
「ただそれだけであとはまた雑音のなかに消えてしまったが、その刹那、私は心中おもわずたからかに絶叫していた。
「『さあ、これからだ!』
「さすがにその席には戦争未亡人もいられた。子供さんたちを戦地へ送り出している親ごさんたちも大勢いた。私もそのひとたちに遠慮することは忘れなかったと思うが、両手の掌に唾せんばかりの思いに奮い立ったのを、いまでもハッキリ憶えている。時にかぞえで四十四歳、いい年齢でもあったと思っている」
私のこの文章にたいして大坪直行氏は、そういったからといって横溝正史を叱ることは出来ないだろうと、なにかに書いておられたが、大坪氏のその文章を読んだとき、
「叱られちゃワリに合わないよ、大坪ハン」
と、私は苦笑せざるをえなかった。
なぜならば終戦の詔勅を聴いた瞬間、私はそれまで女房子供にまでひた隠しに隠して秘蔵していた、青酸加里と手が切れたことをハッキリ自覚したからである。ではなぜその時分私が青酸加里のごとき物騒なものを用意していたか、その青酸加里はどこから手に入れたか、いまさらそれについて語ることは避けたい。話が気障《きざ》になるからである。どちらにしても親子五人、青酸加里による無理心中をすることを免れたのだから、これは喜ばずにはいられないではないか。
しかし、アメリカさんの出方がまだわからない時代なので、その青酸加里はもうしばらくのちまで、保存しておく慎重さを私は持ち合わせていた。
いずれにしても、長いあいだ頭のうえにのしかかっていた重圧から解放されたのだから、私が急に溌剌《はつらつ》としてきたのも無理はないであろう。まさか私もあんなに早く文芸復興期が訪れようとは思わなかったが、いつそれがやってきてもよいように、準備だけはやっておこうと思い立った。そこで私がまず第一にやったことは、二階に放りあげてあった外国雑誌を取りおろす仕事であった。
ここで苦労性の読者のために、カマドの下の灰まで持ち出すようにして貨車に積んだ、私の家財道具や蔵書類はどうなったか、まずそのことからご報告しておこう。
私たちが総社へ着いてから三日ほど遅れて、貨車も無事に総社の駅へ着いたことは着いたのだけれど、アニハカランヤ、予期に反してそれが無蓋車であった。おまけに道中雨に降りつづけられたとやらで、どの荷物もどの貨物も雨でぐしょ濡れであった。それにもうひとつおまけにを付けさせていただくならば、あの時代のことだから、完全な包装材料などなかったのはやむをえないとしても、運送屋さんが調達してくれたのが、よりによって塩叭《しおかます》であった。それがまたよりによって降りつづく雨のなかを長の道中してきたのだから、夜具蒲団の類から一切合切、じっとり塩気をふくんでいるのだから、家内のごときは泣きべそかかんばかりの歎きであった。私はしかし取り越し苦労性のくせに諦めのよいほうである。
「まあ、いいさ、いいさ。焼けたひとのことを考えれば、こうして形があるだけでもありがたいと思わなければいけない」
さて、このおびただしい家財道具の収容所だが、これはあらかじめしっかりもんの義姉の光枝が用意をしておいてくれた。原田のうちの筋向かいにカフェが一軒あった。しかし、あの時代にカフェの営業などなりたとう道理がなく、お店は閉業状態であった。そこの女主人の小島愛子さんというひとと、義姉の光枝が仲よしだったので、あらかじめ義姉がたのんで、そこの土間を用意しておいてくれたのであった。
義姉の気の配りかたもさることながら、小島さんにもよくしていただいた。乾いた荷物貨物ならまだしものこと、ずぶ濡れになったものを土間一杯に積みあげて、ひと月以上も預かっていただいたのだから、さぞご迷惑だったろうと思われる。濡れたものなら乾きもするが、塩気をふくんだものはどうにもならない。せっかく乾いたと思っていても、雨が降ったり湿気の多い日には、どうしてもじっとりくるものだから、これには家内もずいぶん長いあいだ苦労したものである。
なお迪胤の手紙によると、小島愛子さんはいまなおご健在で、総社にお住まいだということである。この機会にあつくお礼を申し上げたい。
さて、桜の家の構造をここでちょっと説明しておくと、この家は中二階になっており、二階で寝起きをしようと思えば出来ないことはなく、げんに以前はだれかそこに起居していたらしく、間取りもなにもない床いちめんに畳が敷き詰めてあったが、それがたいへんな古畳で、私みたいな非力な男にでも、クルクルクルと巻けるようなシロモノなので、私はそれらの畳をみんな堆肥にしてしまった。そのうえ二階の床が即ち階下の天井になっているという建築様式だし、階下にはさっきいったふた間のほかに、もうひと間四畳半があったので、親子五人では二階まで使う必要はなかった。だから外国雑誌など当面必要のないものは、みんなこの中二階へほっぽりあげてあったのである。
さて、終戦の詔勅を聴いたあと、ひと感慨あったのち、部落のひとたちがそれぞれ引き揚げていくと、私は急に思い立って土間から斜についている、危なっかしい階段をギッチラギッチラのぼっていって、そこに山積みにされている外国の古雑誌を調べはじめた。それらの雑誌は全部中学時代から薬専時代へかけて、神戸の古本屋で買い集めたものだから号数は揃っていなかった。号数を揃える必要はなかったのである。むこうの大衆娯楽雑誌では、長篇が連載されるということはほとんどなく、全部短篇ばかりだったからである。
戦前は三流作家に過ぎなかったという自覚の強い私が、あんなに早く長篇を書く機会に恵まれようとは、そのじぶんゆめにも思っていなかったので、書くとすればまず短篇だろうが、その短篇も書きかたを忘れているかもしれないのである。どちらにしても私は刺激がほしかったのだろう、また探偵小説を書ける時代がやってきそうだということについて。
それにしても埃だらけの二階に腰をかがめて、それらの古雑誌をめくっているうちに、私はいまさら塩害のひどさを思いしらされた。どれもこれも塩分をふくんでパリンパリンになっており、ページとページがくっついているのがあるかと思うと、ほとんどの雑誌が土と埃にまみれているのだから、私はつくづく辟易せずにはいられなかった。そういうオンボロ雑誌をひとかかえずつ、危なっかしい階段づたいに、階下へおろしはじめたのを見ると、家内は眼をまるくして驚いていた。いかに私の気性をしっているとはいえ、終戦の詔勅をいま聴いたばかりだというのに、なんとまあこのひとの気の早いことよと、思ったことにちがいない。
それからもうひとつ、私が再起にそなえて準備をはじめたのは、原稿用紙の整備である。
書きつぶしの多い私は半ペラの原稿用紙を使っていたが、明治うまれのわれわれはものをだいじにする習慣がある。書きつぶした原稿用紙なども、ピリピリッと引き裂いたり、クシャクシャに揉みつぶしたりはしない。だいじにしまっておくのである。そういうのを私は茶箱に一杯持ってきていた。このほうは茶箱に入れて持ってきたので、塩害の被害は蒙ってはいなかった。なかには一行、二行ほど書いた書きつぶしもあれば、ひどいのは五、六字書いただけのもたくさんあった。私は別の書きつぶしを鋏で切って、切り貼りをするのである。世にこれほど辛気くさい仕事はなかったが、そういうことをしているのが、当時の私にはこのうえもなく楽しかったのだ。母の浅恵が心配して、
「マサシ、そないに根をつめてよいのかな。肩が凝りはせんか」
「お母さん、大丈夫ですよ。いまに見ていらっしゃい。この原稿用紙がものをいうんですから」
青酸加里の恐怖から免れて私は自信満々であった。いい忘れたが母は末弟博の嫁の実家へ、嫁や孫といっしょに疎開してきていたのだが、私がすぐ近所の村へ疎開してきたので、終戦前に母だけこちらへ引き取っていたのである。その母がしきりにこれからのことを心配するので、
「お母さん、心配しなさんな。これからはようなっても、いままで以上に悪くなりっこありませんから。少なくともここにいる以上は」
私はひどく楽天的だった。楽天的といえば家内の甥の中島|※[#「さんずい+幸」、unicode6DAC]《ひろし》というものがやってきて、
「おじさん、これからの日本はどうなるんでしょう。満州も朝鮮も台湾も失うてしもうて」
と、心細そうにきかれたときも、
「なあに、心配いらんさ。日本全体がアジアの東京になればいいのさ」
「それ、どういう意味です」
「なあに、日本全体がアジアの生産工場になればいいということさ」
と、こともなげにいってのけたが、その無責任な放言がこうもうまく適中して、この国がアジアどころか全世界の生産工場と化し、世界中のゴミをひっかぶって、国民全体がアップアップするような状態になろうとは、だれがそのとき知っていよう。私はただ日本人の勤勉さと、教育水準の高さに希望をつないでいただけのことなのである。
さて、秋になると若い人がおいおい復員してきたが、そのなかに石川淳一君と藤田|嘉文《よしぶみ》君とがいた。石川淳一君は私のうまれて育った神戸の東川崎町と旧湊川ひとつ隔てた西出町の出身で、したがって私の名前を知っていた。同君はバス歌手が志望で上野の音楽学校の声楽部に在席中、学徒動員で出陣していったのである。さて、戦争が終わって復員してみると、家族が全部こっちへ疎開しているので、それを追っかけてきたところが、すぐ隣の村に私が疎開してきていたので、足繁く遊びにくるようになったのである。同君はそうとうの探偵小説通で、江戸川乱歩などを読んでいた。
その石川君があるとき、私にこんなことを教えてくれた。
「江戸川乱歩さんの小説に人を殺してその死体を、ピアノのなかに隠すというのがありますが、ピアノのなかには絶対にひとなど入れませんよ」
「そやけどあらまあ小説やさかいにな。だけどなにかほかに死体をかくせるような楽器がある」
「コントラバス・ケースなら入ります。げんにぼく入ってみたことがあるんですが、ゆうに立って入れますよ」
ちなみに石川君はバス歌手志望だけに、身長五尺六寸は越えており、当時の日本人としては偉丈夫であった。
「そら、ええ、そらトリックになるぜ。石川君、いつかそれをトリックにして小説書くかもしれんが、そのときはいろいろ教えてえな」
それがのちに「蝶々殺人事件」になったのである。
藤田嘉文君は岡田村出身で岡山一中を経て、岡山医大在学中にこれまた学徒動員で、出陣していったひとりだが、復員してみると私という変わりだねが疎開してきていると聞いて、物珍しさも手伝ったのであろう、これまた足繁く通ってくるようになった。わが家で石川君と落ち合うことも多く、どうかするとふたり誘い合わせて訪ねてくることもあった。同君は探偵小説についてはほとんど無知だったから、ひととおり教育する必要があった。私がトリックというものについて、いろいろ初歩的なことを語ってきかせると、聡明な同君はすぐわかってくれて、なるほど探偵作家というものは、そういう妙なかんがえかたをするものか、と、いうような表情で私の顔を見直していた。
私はこうしてふたりの共鳴者をえて、すっかりトリックの鬼と化してしまった。せっせと原稿用紙の切り貼り作業をつづけながら、また塩害にパリパリになった外国雑誌をひもときながら、見るもの、聞くもの、読んだもの、これすべてトリックに結びつかざるはなしというていたらくであった。
そして細々《こまごま》としたトリックを考案しては、得意になって両君に語ってきかせているうちに、藤田君もおいおい探偵小説について理解を深めたのか、あるとき岡山一中琴の怪談というのを語ってきかせた。詳しい内容はいまはもうすっかり忘れているが、岡山一中ではなにか変事があるたびに、琴の音が鳴りわたるというのである。
ああ、琴。――
この純日本式な楽器が強く私の心を捉えてはなさなかった。
私の姉の富重は娘時分琴を習っていた。眼の不自由な女性のお師匠さんが、お弟子さんに手をひかれて、うちへ教えにくるのである。お姉さん子だった私はそのあいだじゅう、ふたりのそばに付き添っていて、神妙にお稽古ぶりを見学していた。そして、お師匠さんがかえると、親指と人さし指と中指に琴爪をはめて、十三絃をデタラメに掻き鳴らしていた経験をもっている。だから琴の構造や、それに附属している小道具については、私にもいくらか知識があった。これと密室と結びつけてみたらどうかと、私は大いに興奮して、たちどころにトリックを考案し、そのつぎ両君がやってきたとき、得意になってそのメカニズムを披露におよぶと、石川君はともかくとして、藤田君はひどく懐疑的で、
「先生、それ、そんなにうまくいきますかな」
と、私をからかうのである。しかし、私は昂然として、
「うまくいったらこそ事件になるんやないか。問題は書きかたやな。いかに読者を納得させるかどうか、そこが作者の手腕力量ちゅうことになるやろな」
これが昭和二十年の秋から冬へかけてのことだった。だから「本陣」にしろ「蝶々」にしろ、雑誌社から注文があるまえに、トリックだけは出来ていたようなものであった。
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[#見出し] 田舎太平記 続楽しかりし桜の日々
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[#見出し] 兎の雑煮で終戦後の正月を寿ぐこと
[#見出し] 頼まれもせぬ原稿七十六枚を書くこと
たいへん恐縮なのだが、この稿を起こすに当たってまえに書いた「『桜日記』に寄せて」という小文をここに引用させていただくことにしたい。そのほうが筆者にとってなにかと好都合だと思われるからである。
昭和二十年の年末に私は途方にくれていた。
当時私は家内と三人の子供をつれて、岡山県吉備郡岡田村字桜という、農村のどまんなかへ疎開していた。戦争はもう終わっていたが、村のひとたちは大変親切で、居心地もよく、私はとうとう伜《せがれ》が大学へ入ったについて、やむなくそこを引き払うまで、足かけ四年、まる三年と三カ月そこでお世話になってしまった。
その私がなぜ昭和二十年の歳末に、途方に暮れていたかというと、農村のどまんなかに住んでいるのだから、餠米の入手に困難はなかった。したがって正月の餠の用意は十分だったが、困ったことに雑煮のうわおきがないのである。なにしろそのへん一帯の農村をさがしても、鶏一羽飼っている農家が一軒もないのだからオドロキであった。思うに鶏の飼料を人間様が召し上がっていたものらしい。
その年の八月十五日終戦の詔勅がくだって以来、私は意気軒昂たるものがあった。来たるべき文芸復興にそなえて、さまざまなトリックを温めはじめていた。今後探偵小説を書くばあい、できるだけ本格を書こうと決心していた私は、大小さまざまなトリックを考案しては悦に入っていた。
戦後、私が書いた最初の探偵小説は「週刊河北」に掲載された「神楽太夫」三十四枚という短篇である。「週刊河北」というのは仙台の河北新報社から出ている週刊誌なのだが、これが戦後私のもらった最初の原稿依頼であった。私は思いがけない方面から舞いこんだ、この注文にとまどいしながらも、これはおそらく当時まだ博文館にいた水谷準君にでも問い合わせて、私の疎開先をしったのであろうと、それほど深くは気にもとめず、とにかく私は書きたかったのである。
ところがこれは後に知ったのだが、戦後東北大学の図書館からいちばん多く借り出され、若い学生たちに貪り読まれているのは、エドガー・アラン・ポーだったということである。「週刊河北」かなんかでこの記事を読んだとき、私はすぐにこれは江戸川乱歩のまちがいであろうと推理した。いかにアメリカとの戦争が終わったからといって、ポーはそれほど大衆性のある作家ではないし、作品もまた多くはない。それに反して乱歩は戦争中禁断の書であった。それが解かれたとき若い読者は乱歩に殺到したのであろう。したがって仙台という思いがけない方角から、私のところへ注文が舞い込んだというのも、おそらく乱歩のところへ依頼したが、乱歩がそんな地方の週刊誌などに小説を書くはずがない。それを断わるかわりに田舎でのんきに構えているらしい私をスイセンしたのであろうと、のちにして思い当たった。このことについて乱歩に聞いておくことをつい失念してしまったが、私の推理にまちがいはないと思っている。
いずれにしても遠く仙台のほうで文芸復興の息吹きがきこえはじめたのだから、東京のそれも遠くはあるまいと、昭和二十年の末頃私は希望にもえていたのである。そういう状態で迎える戦後第一回の正月なのだから、雑煮ぐらいはちゃんと祝いたいではないか。せっかく農村のどまんなかに住んでいるのだから。
ところがまえにもいったとおり鶏一羽手に入らないのだから、私が驚いたり、呆れたり、途方に暮れたりしているところへ顔を出したのが加藤の一《ひとし》さんである。このひとは当時のかぞえ年で四十四歳だった私よりだいぶん若いのだが、農村の指導に必要人物とあって、兵隊にもとられず、徴用にもひっかからず、村に残っていたのだが、多少文学趣味があり、私が仕事に追われるようになるまで、百姓仕事のあいまを見てはわが家に入り浸っていて、いろいろ面倒をみてもらったものである。その後私の書いた「本陣殺人事件」「獄門島」「八つ墓村」等に出てくる地方の風物誌は万事このひとに負うところによる。
その一さんに私の悩みを打ち明けると、一さんこともなげに曰く。
「そんなら兎をおつぶしんさい。なんならわたしが料理してあげる。そのかわりうちへも少々わけてつかあさい」
その兎というのはその年の五月、われわれが岡田村へ入居するとまもなく、近くに住む親戚のものが、当時かぞえで七歳だった次女のおもちゃにもと贈ってくれたもので、これまた一さんに作ってもらった金網つきの木箱のなかで飼っていたのだが、家内五人の丹精のかいあって、その歳末にはあっぱれ成兎となっていたのが身の不幸であった。
それよりさきわれわれがそこへ入居してまもなく、すぐ裏に住む井川という老人が、若いころ神戸でおたくのお父さんのお世話になったことがあるとやらで、われわれ五人を招待してくれたことがあるが、そのときご馳走になったちらし寿司のなかに入っていたのが兎の肉であった。兎ときいて多少薄気味悪くもあったが、かくべついやな匂いもせず、ちょっと鶏に似た味だったのを思い出し、
「それじゃ一さん、よろしくお願いします」
と、いうわけで明けて二十一年の元旦には、親子揃って兎の雑煮を祝うことになったが、そのときふと思い出したのは、兎の雑煮というのは徳川家の家例であったということである。
なんでも家康の何代かのまえのご先祖が戦に敗れて山奥へ逃げこみ、猟師の家に世話になっているうちに年が明けたが、そのとき猟師のつくってくれたのが兎の雑煮である。ところがその年そのご先祖は捲土重来《けんどじゆうらい》、戦って勝たざることなく、大いに開運したので、それ以来縁起を祝って、徳川家では毎年兎の雑煮で新年を寿《ことほ》ぐのだということを、なにかの本で読んだことがある。
私はべつに天下取りになるつもりはなかったが、こいつは春から縁起がいいわえと膝を叩いてよろこんだものだが、あとから思えばその日から、日記をつけておけばよかったのである。
ところが最近書庫の奥から出て来た日記を見ると、昭和二十一年三月一日からになっている。当時のことだから日記帳などという便利なものを売っているはずはないから、半ペラ原稿用紙の書きつぶしの裏をつかって二つに折り、それを何枚か糸で綴じ、日記というよりメモのようなものを書きとめてあるのだが、それによると「本陣殺人事件」の第一回はもうすでに活字になっている。城昌幸君から「宝石」という探偵小説専門誌をつくるから長篇をかくように、原稿料一枚二十円でどうだろうかというような手紙を頂戴したのはいつごろのことであろうか。戦前せいぜい四円くらいの原稿料しか貰った記憶のない私は、二十円という法外なお値段に驚倒したものだが、そのいきさつがこの日記には欠けている。
終戦と同時にとはいわないが、せめてこいつは春から縁起がいいと思ったその日から書いておけば、もう少しその間の消息がハッキリしたであろうのにと、いまから思えば残念である。
以上は昭和二十一年の日記を活字として発表するに当たり、一月と二月とが欠けていることについて、釈明のために書いた小文だが、昭和二十年の秋から二十一年の初頭へかけての消息がわりによく伝えられていると思うので、ここに再録させていただいたわけである。
この日記は三月一日からはじまっているのだが、そのまえにつぎのような項目がある。
「昭和二十一年一月より二月末日迄の仕事集計」
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
◎銀簪罪あり[#「銀簪罪あり」に傍点](捕物帳) 三十枚 「講談雑誌」へ
◎刺青された男 四十二枚 「ロック」へ
◎夢の浮橋(捕物帳) 三十五枚 「講談雑誌」へ
◎探偵小説 七十六枚 発表未定
◎藁人形(捕物帳) 三十五枚 「講談雑誌」へ
◎神楽大夫[#「神楽大夫」に傍点] 三十四枚 「週刊河北」へ
◎探偵小説と戦争(随筆) 十一枚 金文堂随筆雑誌へ
◎靨[#「靨」に傍点]面《えくぼ》 六十枚 「新青年」へ
◎本陣殺人事件[#「本陣殺人事件」に傍点](第一回) 二十九枚 「宝石」へ
[#ここで字下げ終わり]
(ヽヽヽヽヽは、雑誌発表切抜ズミ)以上(本ペラノ枚数)
これで見るとすでに雑誌に発表されたものと、そうでないものとが順序不同に並べられている。日記は三月一日からはじまっているのだから、それ以前のものは記憶をたどって書きとめておいたのだろうから、順不同ということになり、枚数などにも記憶ちがいがあるかもしれない。またおおざっぱに、
「昭和二十一年一月より二月末日迄の仕事集計」
と、書いているが、私の記憶にして誤りがなければ、「神楽太夫」は昭和二十年の秋ごろにはもう脱稿していたように思う。
当時は郵便事情がひじょうに悪く、ことにGHQの検閲にでもひっかかろうものなら、東京と岡山とのあいだの片道が、二十日くらいもかかるということが珍らしくなかった。しかも、私の手許にとどく封書のうち、三通のうち一通とまではいわないが、五通のうち一通くらいは必ず、
OPENED BY GHQ
と、いうような貼紙がしてあり、即ちGHQによって検閲されたということを示しているのである。なおいまの若いひとにはGHQといってもわからないかもしれないので、老婆心までに説明を加えさせてもらうと、これは、
General Headquaters
の、略称で、『広辞苑』によると、
「総司令部の略称、特に連合国軍日本進駐中におかれた総司令部の略称」
と、あるが、連合国軍といっても日本のばあい、アメリカが絶対主導権を握っていたのだから、アメリカ軍の総司令部といってもよかったであろう。そのアメリカ軍総司令部としても、日本国内の不穏の動きを封ずるために、アトランダムに郵便物を開封検閲することは、絶対必要だったかもしれないが、これに引っかかった郵便物こそ災難であった。悪くすると東京と岡山間を二十日かかり、いいほうでも、一週間か十日は見ておかなければならなかった。
だから原稿を依頼するほうでも、またそれに応ずるほうでも、それだけ時間的に余裕を見ておく用意が必要であった。城昌幸君から「宝石」発刊の報告があり、その「宝石」に長篇執筆の依頼があったのも、昭和二十年の暮れあたりではなかったかと思う。このことについてはあとでもっと詳しく述べるつもりだが、要するに戦後の文芸復興は、私が予想していたより、はるかに早くやってきたのである。昭和二十一年の正月を迎えるに当たって、私が意気軒昂たるものがあったのも、まことにうべなりというべきであろう。
それはさておきまえに掲げた、「昭和二十一年一月より二月末日迄の仕事集計」のなかに、「探偵小説」七十六枚、発表未定とあるのをご注目願いたい。
当時は用紙事情も悪く、どの雑誌もページ数が少なく、まことに薄っぺらで貧弱なものであった。したがって私のところへ舞いこむ原稿依頼もたいていは二十五枚か、せいぜい三十枚というところがいいところであった。したがってまえに掲げた作品目録のうち、「靨《えくぼ》」の六十枚はまだよいとして、「銀簪罪あり」の三十枚、「夢の浮橋」の三十五枚、「藁人形」の三十五枚はいまから考えても、よくそういう少ない枚数で書いたものだと思う。
以上三篇はいずれも捕物帳だが、私の捕物帳は巧拙はべつとしても、いずれも紆余曲折にとんでおり、しかもトリッキーであるところを売り物としている。おまけに無味乾燥におちいらんことを惧れて、お粂佐七のご両人の色模様や、辰と豆六のチャリをコメディー・リリーフとして使っている。それでよく三十枚や三十五枚におさまったものだと、いまから考えても感心している。しかもこののちしばらくは、この枚数で捕物帳を書きつづけているのだから、窮すれば通ずとはこのことであろうか。
しかし、作家としてはこれで満足できるはずはなく、ひとつ枚数の制限なく、思う存分書いてみようと試みたのがこの「探偵小説」である。戦後私がトリックの鬼になったということは、まえにも述べておいたが、それらの細かなトリックを、全部ぶちこんで書いてみたのがこの小説である。しかし、書きあげてみるとどのトリックにも、とりたてていうほどの創意はなく、なかには外国の探偵小説のトリックの二番煎じもあり、最後に意外性が用意してあるとはいうものの、私としてはあんまりよい出来とは思えず、だいいちその当時の用紙事情では、七十六枚もの長篇(?)を採用してくれる雑誌社はなさそうなので、そのまま手許に保存しておいたのである。
しかし、この一事をもってしても、当時の私がいかにトリッキーな本格探偵小説なるものに、意欲をもやしていたかということと、同時にいかに身辺閑散であったかということがわかっていただけるかと思う。あのまま吉祥寺に居据っていたら、食糧確保に狂奔しなければならなかったであろうし、それよりもおなじ探偵作家仲間の雑音に右顧左眄《うこさべん》して、注文もない原稿を執筆する余裕など、精神的にも時間的にも持ちえなかったであろうことはたしかである。その点私は幸福であった。農村のどまんなかにいたのだから、食糧確保には事欠かなかったし、それにもまして私が幸福だったのは、都会の雑音に悩まされることなく、自分の好んで選んだ途を、右顧左眄するところなく、勇往邁進できたことである。
私は超然として孤立していた。そして、いまにして思えば、そのことがいちばん好かったのではないかと思う。作家はつねに超然として、周囲から孤立しているのがいちばん好いのではないか。
しかし、私が謎と論理の本格探偵作家としていちばん炎《も》えたのは、なんといっても城昌幸君から、新しく発刊される雑誌「宝石」に、長篇執筆依頼をうけたときなのだが、それにふれるまえに小説「探偵小説」のその後のなりゆきについて書きとめておこう。
私の次弟横溝武夫は戦前から博文館にお世話になっていたが、戦後は「新青年」の編集部にいた。まえにかかげた作品目録のうち「靨《えくぼ》」六十枚が「新青年」に発表されているのもその縁による。この「靨」でも私は本格探偵小説とストーリー・テラー的才能の融合を試みている。いや、戦後最初に書いた「神楽太夫」がすでにそうである。「神楽太夫」では本格探偵小説でよく扱われる「顔のない死体」というトリックを採りあげているが、なにせ三十枚やそこいらでは、本格物としては書きようがないので、これを奇談物として逃げている。
由来私が小説らしきものを書きはじめたころ、その文体についていちばん大きな影響をうけたのは岡本綺堂であった。後年自分でも捕物帳を書いたくらいだから、「半七捕物帳」を愛読したことはいうまでもないとして、私はそれより綺堂の奇談物が好きであった。その滋味溢れる語りくちに魅了されたものである。江戸川乱歩の世話で東京へ出てきたのは、かぞえ年で二十五歳のときだったが、それ以前神戸にいたころ、私はよく当時博文館から出ていた「ポケット」という、いまの文庫本くらいの大きさの雑誌に綺堂まがいの奇談物を投稿していた。それらの作品のなかには没になったものもあるが、採用されたものも多少ある。私のもっているストーリー・テラー的才能は、岡本綺堂の影響がひじょうに大きいと、私はいまでも思っている。
それはさておき「靨」はただちにNHKラジオから放送されたりして、そうとう好評らしかったにもかかわらず、「新青年」からその後しばらく注文がなかった。思うに武夫としては私のものをあまりたびたび採り上げるのは、周囲にたいして遠慮があったのであろうし、私としても同様であった。
ところが昭和二十一年の日記を見ると、八月二十五日の項に武夫より来信のむねが誌《しる》してあり、「『探偵小説』を書きちぢめ始める」とある。そして、その翌日の八月二十六日の項に「探偵小説」百二十二枚を書上げるとある。この百二十二枚というのは半ペラの枚数だから、四百字詰め原稿紙に直すと六十一枚ということになる。
そのとき武夫の注文は六十枚の小説というのであった。かつて自分も雑誌記者をやった経験のある私は、原稿の依頼をうけたとき、その注文に対して神経質なくらい忠実である。ことに枚数などに関しては、出来るだけ指定の範囲内にとどめようと努力する。この場合相手が兄弟であるだけに、その注文にたいしてできるだけ忠実でありたいと、かくは七十六枚の原稿を六十一枚に書きちぢめていったのである。さて、その結果はいかにというに、これはみごと失敗におわった。それはそうであろう。いったん出来上がっている小説の、ストーリーの展開、会話のやりとりはすっかりそのままにとどめながら、あちらを削り、こちらを削除しながら書きちぢめていったのだから、出来上がったものを原作と比較すると、すべてが舌足らずで窮屈な作品になってしまった。
ところがこの作品の掲載された「新青年」をみると、私の「探偵小説」よりはるかに長い小説が数篇掲載されているので、私は大いに武夫を恨んだものだが、これはかれには責任のないことで、すべては当時の用紙事情の犠牲となったというべきであろう。
この小説は私としては舌足らずで、窮窟で、はなはだ不本意な作品であったにもかかわらず、そういうこととはしらぬ一般読者のあいだでは好評だったらしく、角田喜久雄氏が手紙で激賞してくれたのをいまでも憶えている。ここで同氏にあつく感謝の辞を捧げておくしだいである。
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[#見出し] 城昌幸君の手紙で俄然ハリキルこと
[#見出し] いろんな思惑が絡み思い悩むこと
まえにも述べておいたように、昭和二十一年の日記が三月一日からはじまっているので、私にとっては運命の手紙となった、「宝石」の城昌幸君からの長篇執筆の依頼状を受け取ったのが、昭和二十年の暮れだったか、二十一年の春早々だったか不明なのは、私にとってはなはだ残念なことである。
いや、それらの手紙類は一切合切保存しておいたのである。ところが二十三年の夏疎開先から現在住んでいる成城のうちへ引き揚げてくるとき、幾つかの石炭箱につめてかえってきたのだが、なにがさて成城の家というのが、敷地こそ六百坪と広いのだが、建物といえば当時はまだ三畳の玄関のほかに八畳の座敷と六畳のつぎの間、ほかに四畳半の茶の間しかなかった。これでは親子五人寝るのにせい一杯である。
さいわいほかにがらんとした十五坪の木造の物置きがあった。聞くところによるとこの家は以前花屋さんが持っていて、そこで花を造って青山斎場などへ出していたのだそうである。したがってがらんとした木造の十五坪は、トラックなどを収容していたところなのだそうだが、戦中戦後のガソリン不足で、トラックが動かなくなったので、手放す気になったのだそうである。このがらんとした十五坪の木造建築のおかげで、当面私は助かったのである。
思えば疎開したとき、これでは疎開ではない、引っ越しだと運送屋さんをボヤかせたとおり、まるでカマドの下の灰までひっさらうようにして、根こそぎ持ち出したガラクタ道具は、総社《そうじや》で立ち往生をしたときは小島愛子さんのカフェの土間でお世話になり、桜の家に落ち着いてからは、だだっぴろい屋根裏におっぽり出され、成城の家へ引き揚げてきてからは、がらんとした木造の物置きのなかの地べたのうえに、メチャクチャに積み上げられていた。ガラクタ道具としては難行苦行の連続であったろう。
おまけに当時はまだ十五坪という建て坪制限があって、その物置きに手を入れることは違法建築ということになり、ご法度になっていた。しかし、近所に物分かりのよい棟梁がいて、
「なあに、外側はこのとおりしっかりしているんですから、内側だけ造作すればいいんです。わかりゃしませんよ」
と、ばかりに木造トタン葺きの外観はそのままにしておいて、内部を改造して、どうやらひとの寝起き出来るような小部屋をふた間、ほかに十二畳敷きくらいの書斎を造ってくれ、やっとガラクタ道具の落ち着き先もきまり、親子五人それぞれ寝室もきまったのは、私がそこへ引っ越してから、すでに半年以上もたっていた。そこでやっと精神的に落ち着いた私は、かねてから気になっていた手紙類を整理しようと、幾つかの石炭箱を開いてみると、こはそもいかに!
どの手紙もどのハガキも、もののみごとにシミに食い荒らされて、ボロボロになっているのには、あっとばかりに肝《きも》をつぶした。思えば私のすることは万事このとおりである。なにもかも手抜かりのないようにと心を配りながら、どこかで大きく抜けているのである。行きは塩害、帰りは虫害では洒落にもならない。当時のことだからナフタリンだの樟脳などという防虫剤の入手困難だったのはやむをえないとしても、せめて成城の家へ落ち着いてから、いちはやく石炭箱を開いてみればよかったのにと、いまだに悔まれてならないのである。
これが現在のように落ち着いた世の中なら、私の後悔もそれほどではないであろう。しかし昭和二十一年から三年のなかばまでといえば、世相が目まぐるしく変転していった時代である。しかも、当時疎開先で私が頂戴した先輩や友人たちの手紙は、おおむね好意にみちたものばかりだっただけに、いまだに残る悔いは大きいのである。
閑話休題。
そういうわけで、私の生涯にとって重大な意味を持つ、城君のその手紙が失われたのは残念千万だが、正直なところその時分私は、城君のその手紙が私にとって、どのような意味をもつか全然気がついていなかった。
私の記憶にのこっている城君の手紙は、だいたいつぎのような意味のものであった。
「こんどわれわれの手で『宝石』という探偵小説専門雑誌を出すことになったが、それへ長篇を書いてもらえないか。現在の用紙事情だから、雑誌のページ数も非常に少ない。したがって一回二十五枚にとどめてほしい。回数は六回ということになっているがいかがなものであろうか。原稿料は一枚二十円を予定しているが、それでご承諾いただければ幸甚である」
この手紙のなかに金主の名前は書いてなかったように思う。いや、書いてあっても世事にうとい私のことだから、それがどういう人物なのかしらず、したがって気にもとめなかったのか、あるいは城君のほうで私の世事にうといことをしっていて、わざと金主の名を省略したのか、そのうちのどちらかだろうが、私は金主のことなどいっこう気にならなかった。
さて、そうなると私は城君というひとをどのていどしっていただろうか。私のしっている城君は本職が詩人であるということ。と、同時に怪奇幻想的な、いまでいえばショート・ショートの作家であること。その片手間に私同様捕物帳の作家でもあるということ。以上のことくらいで、会ったことも五、六度は越えていなかったであろう。したがって私は城昌幸君という人物を、全然しっていなかったも同様であり、いわんや探偵小説専門誌であるところの「宝石」という雑誌を、その間どういう紆余曲折《うよきよくせつ》があったにしろ、あんなにも長持ちさせるほどの名経営者であろうなどとは、当時はどうしてしっていよう。
それにもかかわらず、私が即座にこの需めに応じようと決心したのは、まえにも幾分か述べてきたように、執筆意欲に炎えていたというよりは飢えていたからである。しかし、そうとはいえ、私は私なりにいろんな思惑が絡《から》んでいたことも事実である。
その思惑のいろいろを列挙してみると、だいたいつぎのような事項になるであろう。
一、私のような戦前三流でしかなかった作家に、いきなり白羽の矢が立ったのは、「宝石」という雑誌が海のものとも山のものともわからない証拠であろう。(城君よ、失礼)
二、お膝下の東京には、自分より優れた探偵作家がたくさんいるにもかかわらず、遠隔の地にいる自分に白羽の矢が立ったのは、在京作家諸氏は食糧確保に狂奔しており、いまのところ精神的に創作の余裕がないのであろうから、その点遠慮気兼ねする必要はないであろう。
三、三回二十五枚で六回といえば、通算百五十枚ということになる。長篇というにはほど遠いが、ここでひとつ念願のトリックを主体とした、英米流の本格探偵小説というものを書いてみよう。
四、しかし、英米流の本格探偵小説というものは、雑誌の連載小説としてはたいへん不向きなものである。ことに一回の枚数が二十五枚というきびしい制約のもとにあっては、なおさら難しいであろう。
五、さらに一回ごとに大きなヤマ場をおいた、戦前の探偵小説にならされたこの国の読者にとっては、まことに歓迎されざる読み物になるかもしれないが、それはそれで仕方がないではないか。自分はいまそれ以外のものを書く気にはなれないのだから。
六、自分の小説が失敗するのみならず、城君だって雑誌編集については素人なのだから、三号くらいでポシャるかもしれない。それだっていいではないか。三回でも書いておけばあと書き足して、単行本として出版するという手があるではないか。
等々々、ずいぶん思惑が入り乱れたのだが、ことに最後の項にいたっては、城君にたいして失礼千万そのものであったが、当時はほんとうにそこまで考えたのである。
昭和二十三年の夏疎開先からかえってきて、いろんな会合に出席するようになったとき、だれだったか、たしか相手は女性だったが、あの際どうして本格探偵小説を書く気になったのかという質問をうけたことがある。そのとき私がこう答えたのを憶えている。
自分には経済的ピンチが二度あった。二度目が終戦後だが、最初は昭和八年に大喀血をやらかしたときである。一年間は先輩や友人たちの醵金《きよきん》で食いつないだが、昭和九年の後半再起して書きはじめたとき、私はむやみに金が欲しかった。それというのもふたりの子供が幼なかったからである。だからサービス精神旺盛な小説ばかり書きなぐってきた。しかし、そのころからみると十年以上も経っており、子供たちもそれだけ成長している。ここで作家として再起に失敗しても、それぞれ自立してくれるであろう。そういう安心感があったから、ああいう冒険に踏み切れたのであると。
そうなのだ。これもたしかに私の思惑のなかに入っていたのである。こういえば当時の私がいかに健気《けなげ》で、悲壮な気持ちだったかわかっていただけるだろうが、と、いうことはことほどさように、この国においては、自分の意図するような本格探偵小説は、失敗する率のほうが高いのではないかという懸念が強かったということである。
かくて私は城君にご依頼の件ありがたくお受けするという返書をしたためたのち、ただちに腹案を練りはじめたのだが、これは大して困難なことではなかった。本格探偵小説を書く以上、本格中の本格ともいうべき「密室殺人事件」か「一人二役」「顔のない死体」という三大トリックのどれかに、取り組んでみたいと思っていた私は、「神楽太夫」で探偵奇談ふうに顔のない死体を書いてしまった。これはこれでいつかまた改めて、本格探偵小説にしてみたいと思っていた私は、こんどはどうしても密室殺人に食指が動くのは当然の帰結ではなかろうか。いわんや私のようなものにでも、本格が書けるかもしれないという、自信めいたものを植えつけてくれたディクソン・カーが、密室作家であるにおいておやである。
まえにも書いておいたが、当時よく疎開先のわが家へ遊びにきていた、医学生の藤田嘉文君や音楽学生の石川淳一君に語ってきかせたように、密室殺人のトリックはもうそのころすでに完成していた。そのとき藤田君の指摘したように、
「先生、それ、そんなにうまくいきますかな」
と、いうところが問題なのだが、それに対して私が答えたとおり、
「うまくいったからこそ事件になるんやないか。問題は書きかたやな。いかに読者を納得させるかどうか、そこが手腕力量ちゅうことになるやろな」
私にその手腕力量にたいする自信があったといえば、僭上の沙汰もはなはだしいといわねばならぬが、密室殺人のトリックに関するかぎり、私には自信めいたものがあった。江戸川乱歩に指摘されるまでもなく、密室殺人のばあい心理的トリックのほうが、機械的トリックより数等優れていることはいうまでもない。しかし、おなじ機械的トリックでも、私の考えていたように、ああまで小道具たくさんに、メカニズムが複雑だと、かえって読者を面白がらせるのではないかと私は思ったのである。しかも、その小道具が全部純日本式であるということも、私の抱いていた大きな味噌[#「味噌」に傍点]であった。
ここで自画自讚させていただくと、この小説は二度映画化されたが、どちらの場合でも、あの機械的トリックの解明が、見せ場になっていたところをもってしても、私の味噌[#「味噌」に傍点]もまんざら的外れではなかったように思う。
さて、そのトリックに、疎開早々私を驚かせたお家柄という、いたって旧式で、封建的なものの考えかた。それに私の疎開していた村に旧本陣の末裔であるところの一族が住んでいた。私の疎開していた岡田村のすぐ南方に川辺という村があり、そこは昔街道筋に当たっていたとやらでそこに本陣があったが、明治になってから川辺村を引き払い、その末孫の一家が岡田村の山の谷へ移り住んでいた。山の谷は私の住んでいた桜のすぐ隣の部落だったから、わが家と目と鼻のあいだの距離だったが、さすがに本陣の末裔を誇るだけあって、家の構えもずいぶん大きく立派で、敗戦でなにもかもが瓦解してしまうまでは、近隣近在きっての分限者だったらしい。
これら三つ、即ちトリックと、お家柄にこだわる因習的なものの考えかたと旧本陣を結びつけることによってお膳立ては出来上がったのだが、あとに残る問題は、これをいかに小説として表現していくかということであった。なにしろ百五十枚という制約がついているのだから、ふつうの小説のように客観的に描写していくことはむつかしい。そこでものをいったのが岡本綺堂張りのストーリー・テラー的才能である。それともうひとつこの小説を書きはじめるに当たって、私に大きく影響をもたらせたのは、谷崎潤一郎の「春琴抄」であった。当時の私はたいへん物憶えがよく、昭和の初期雑誌で読んだきりのこの小説を、かなり細部にいたるまで記憶していた。
そうだ、ああいうふうに聞き書きという手法を用いればよいのだと、取りあえず書き上げたのが「本陣殺人事件」の第一回二十九枚である。但しここで断わっておくが、この小説は最初から「本陣殺人事件」という題がついていたのではなく、城君へ送った第一回には「妖琴殺人事件」と題されていた。「本陣」では一般読者にわかりにくいのではないかと、こんな妙ちきりんな題がついていたのだが、「妖琴」ではあまりにも戦前の私の作風が連想されそうだし、私はここできれいサッパリ出直すつもりでいたから、原稿を送ったあとで急いで、
「題は本陣殺人事件に改められたし」
と、いう意味の電報を打っておいた。本陣の意味については、第二回以降で説明を加えればよいのだからと思いなおしたのである。
かくして矢は弓をはなれたのである。あとはおおかたの批判を待つばかりであると、戦前から書きつづけてきた捕物帳はべつとして、長篇探偵小説はこれ一本にしぼるつもりでいたところ、ここに、俄然困った問題が持ち上がってきたのである。
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[#見出し] 探偵小説を二本平行に書くということ
[#見出し] 鬼と化して田圃の畦道を彷徨《ほうこう》すること
「宝石」より少しおくれて「ロック」という、これまた探偵小説専門雑誌が発刊された。編集長は山崎徹也君という人物であった。私は山崎徹也君という人物はぜんぜんしらなかったのだけれど、当時は創作意欲に炎えにもえていたのであろう。乞われるままに「刺青された男」四十二枚という探偵奇談を同誌に書いていることが、「昭和二十一年一月より二月末日迄の仕事集計」のなかに出ている。
この「ロック」には第何号かから小栗虫太郎君が長篇を書く予定になっており、事実その第一回は「ロック」に発表されたのが、そのあとで小栗君の急逝である。小栗君のこの急逝はいろんな意味で私にとってひじょうに大きなショックであった。
小栗君と私の関係は最近「小栗虫太郎に関する覚書」という小文のなかに書きとめておいたが、もう一度ここで繰り返しておこう。
小栗君の死によるショックの一番顕著なあらわれは、ズボラをもって定評のある私が昭和二十一年の三月一日から日記をつけはじめたことであろう。小栗君の命日はたしか二十一年の二月十七日であったと記憶している。そのまえ二、三度小栗君とは文通があった。戦後の小栗君は私同様意気|軒昂《けんこう》たるものがあった。かれもまた信州へ疎開しており、たまたま上京した際、海野さん(海野十三氏)に会って住所をきいたからといって、私に手紙をくれたのだが、その文面によると自分はこんご本格探偵小説一本槍でいくつもりだと、たいへん威勢がよかった。気脈が通じたとでもいうのか、私もまた「本陣殺人事件」の第一回を書き上げた時分のことだったから、大いに共鳴したという意味の手紙を出した。その手紙にもう一度返事が来たので、私も返事に返事を書いた。ところがそこへ舞いこんだのが、
チチシスオグリ
と、いう電報であった。私はしばし唖然とした。茫然とした。惘然《もうぜん》とせざるをえなかった。いちじは小栗君のお父さんが亡くなったからといって、なぜ私のところへ電報をよこさねばならないのだろうと、思い惑うたくらいである。そのうちにここにあるチチというのは小栗君のお父さんではなく、小栗君自身のことではないか。そしてオグリとは虫太郎君の遺族のことではないかと気がついて、私はいっそう唖然とし、茫然とし、惘然とせざるをえなかった。
そこで亡くなったのが小栗君にしろ、小栗君のお父さんにしろ、どちらにでもとれるようなしごく曖昧模糊たるお悔み状を書くと同時に、急ぎ海野さんに問い合わせの手紙を書いた。海野十三と小栗虫太郎、木々高太郎の三人は、戦前「シュピオ」という同人雑誌をもっていたくらいだから、海野さんと小栗君は私よりはるかに親交が深いはずである。私の問い合わせ状とは入れちがいくらいにやってきた海野さんの手紙によると、亡くなったのはやはり虫太郎君で、メチル禍による急死とあった。私は慄然たらざるをえなかった。
当時は酒も安心してのめぬ時代で、わが文壇では武田麟太郎がやはりメチル・アルコールで死んでいる。酒にたいしていたって意地きたない私が、きょうはひとの身、あすはわが身ではないかと、慄然たらざるをえなかったのも無理ではなかったが、同時に人の命のはかなさ、無情感というものを痛切に覚えずにはいられず、さてこそ三月一日から柄にもなく日記をつけはじめたのである。せめて手紙のやりとりの記録ぐらいは、とどめておこうと思ったのであろう。
しかし、ここでは実際問題として、いちばん困惑したのは「ロック」の編集長山崎徹也君であったろう。それを売りものにしようとしていた、長篇小説の作家が急逝したのである。編集長としてこれ以上困ったことはなかったであろう。そこでそのピンチ・ヒッターとして白羽の矢が立ったのがこの私であった。山崎徹也君から哀訴歎願にちかい手紙を受け取ったとき、こんどは私が大いに困惑する番であった。
本格探偵小説を二本平行に書くということが、いかに至難なわざであるか私はだれよりもよくしっているつもりであった。だからこれがほかの作家のピンチ・ヒッターだったら、私も断乎断わったであろう。ところが虫太郎君のばあいそうはいかぬ事情があった。
このことも「小栗虫太郎に関する覚書」のなかに書いているが、重複をもいとわずここに書きとめておくことにしよう。
小栗虫太郎なる作家が「完全犯罪」でデビューしたのは、「新青年」の昭和八年七月号であった。ところがその七月号には私が百枚の読切りを書く予定であった。現在でこそちょっとした作家は、百枚や百五十枚の小説、平気で書きこなすようだが、昭和八年ごろの作家は非力であったとみえ、百枚といえばひじょうな労作と思われていた。「新青年」のみならずどの雑誌でも、短篇といえば三十枚かせいぜい四十枚であった。だからその年「新青年」で若い作家に毎月百枚物を書かせて、それを呼びものにしようとしたのは、当時の編集長水谷準君としてはひじょうな英断であるとともに、ひとつの大きな冒険にはちがいなかった。
これを私の側からいわせてもらうと、その前年度博文館を退き、作家稼業に専念しようとしながら、かつての同僚諸君の好意をよいことにして、くだらない雑文ばかり書いて売文業に甘んじていた私にとっては、この百枚物は作家として旗幟《きし》を鮮明にする絶好のチャンスであった。それだけに私もハリキッて想を練り、調査すべき箇所は調査もし、いざ執筆に着手しようとしたやさきに大喀血をやらかして、医者から絶対安静を命じられるような失態を演じてしまった。
この際私のいちばん苦に病んだのは「新青年」の百枚物であった。これが三十枚か四十枚ならば、私に代わる作家なり作品なりはいくらでもあったであろう。しかし百枚物ともあればそうもいきかねるのが当時の実情であった。そこで家内に重々恐縮陳謝の電話をかけさせたところ、水谷編集長の返事はこうであった。
小説のことなら心配はいらない。こちらにちょうど手頃の作品があるからそれで埋め合わせる。だからそういうことは気にしないで、心ゆくまで療養してほしい。そのとき水谷準君のいった手頃の作品というのが、即ち小栗虫太郎君の「完全犯罪」であり、この作品があったがために、私は心ゆくまで療養ができたのである。つまりこの際小栗虫太郎が私のピンチ・ヒッターを務めてくれたのである。
山崎徹也君が虫太郎君と私の過去のそういう因縁を、しっていたかどうか疑問だが、かれの哀訴歎願状は、いたっておセンチ野郎の私の心情をいたく掻き乱したのである。それに私には音楽学生であるところの、石川淳一君に教えられた面白い思いつきもある。即ちコントラバス・ケースのなかなら、人間ひとりゆうに入れるという、これはひとつのトリックである。
そこで三月一日から書きはじめた日記の最初の日に、
「石川君へ手紙とハガキ書く」
と、あり、さらに、
「昨夜、『蝶々殺人事件』の腹案を練る。大体纏まる。『ロック』への長篇小説の予定なり。石川君に音楽についての疑問教示を乞うつもりなり。(中略)夜は『樽』を読返してみる。あれではあまり時間、日時がややこし過ぎて、日本の読者にはどうであろうか。作者としてはあれくらい考えてはみたいが」
と、書いており、その翌日の三日の項には、
「『本陣殺人事件』第二回下書き少々。石川君来る。『蝶々殺人事件』について、音楽の事について教えを乞う。椿姫のアルマンをアルトでやる話大いに面白し」
と、書いており、この日記を繰ってみると、石川淳一君というよき軍師をえて私が「蝶々殺人事件」にしだいに乗気になっていく経緯が一目瞭然だが、ついに四月十三日にいたっては、
「山崎君より電報。『本陣』ペラ十枚書いていたのを中絶して、『蝶々』に移る」
と、いうことになり、四月十五日にはついに、
「蝶々殺人事件』第一回(半ペラ八十六枚)書上げる」
と、いうことにあいなったしだいである。
そうなのだ。ここで思い出したが、私が本格二本平行に書くという大冒険に踏み切ったのは、山崎編集長のくどき上手もさることながら、一回四十枚というのが私にとって大きな魅力となったのである。それに長篇二本平行に書くということについて、それほど大きな負担をかんじなかったのは、戦前の人気作家、たとえば寡作であったことを生涯の誇りとしていた江戸川乱歩でさえ、その最盛期には月刊雑誌四誌に、同時に長篇を書いていたではないか。それに比較すると、当時の私の年齢(四十五歳)では本格二本平行に書くということのほうが、はるかに楽だったと思わざるをえない。
なぜならば本格の場合、まずトリックを考える。そしてそのトリックを中心としてシチュエーションを構成する。そのシチュエーションにのっとって人物配置をし、だれが犯人で、だれが被害者で、動機はなにかということをあらかじめ決めてしまうばかりか、そうとう細部にいたるまで想を練っておくから、途中でゆきずまるという危険性がひじょうに少ないのである。たとえば「蝶々殺人事件」のばあい、三月四日の日記に私はこう書いている。
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「『蝶々殺人事件』主要人物の名前
原さくら ソプラノ 被害者
原聡一郎 さくらの良人
小野龍彦 テナー さくらの愛人
相良千恵子 アルト さくらの弟子
藤本章二 流行歌手 別の被害者
志賀笛人 バス
土屋恭三 さくらの支配人」
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さすがに探偵作家の持つ秘密癖から、犯人や動機は書いてないが、以上のような人物配置が出来上がったとき、私には小説のかなりすみずみまで構想がいきとどいていたのだと思っていただきたい。
ただここに警戒すべきはと、そのとき私は考えた。二本の小説がおなじ味、おなじ調子になりはしないかということであるが、その点私は自信があった。「本陣」のほうは封建色濃い農村が舞台だし、「蝶々」のほうは歌劇団のなかで起こる悲劇だから、当然都会的色彩が強くなるだろう。起用する探偵も「本陣」のほうでは新しい探偵を創造するつもりだったのに反し、「蝶々」のほうでは戦前拙作で活躍してもらった、由利先生と三津木俊助のコンビを再登場させたらどうか。じつはこのコンビ、戦後は登用するつもりはなかったのだが、ちょうどいい、この機会に再登場を願うかわりに、由利先生に結婚させ、永久にご引退を願うその花道の事件にしてみたらどうか、いわば由利先生最後の事件にしてみたらと思いついたのである。だから舞台といい探偵の性格といい、ほとんど同時出発進行の二本の探偵小説がおなじ味、似たような調子になる懸念ははじめからなく、その点私は安心していた。
では「本陣」でデビューした新探偵の金田一耕助はいつごろ登場したのか。いま昭和二十一年四月二十四日の日記を見るに、
「本陣」書上げる。
◎「本陣」(第三回)五十七枚半ペラ
本陣の新しき登場人物
警部磯川 木村刑事「生涯の仇敵」金田一氏
と、ある。
この日記を見て思い出したのだが、この「生涯の仇敵」なる人物は、私の最初の構想にはなかったのである。それがここで突然登場してきたのはつぎのようないきさつによる。「本陣」の第二回を読んで城昌幸君がいたく賞揚してくれたばかりか、回数も六回とは限定しない。いくらでも好きなだけ書いてほしいという、まことに好意ある申し出があり、これが私を安心させると同時に、私にいくらか自信めいたものを与えたのである。こういう地味な語りくちの探偵小説は、この国ではうけないのではないかと思っていた私の杞憂《きゆう》が、少しずつだが吹っ飛んでいくのを覚えずにはいられなかった。さりとて最初から決めてある構成を、ここでがらりと変更するわけにはいかず、いくらかでも小説にふくらみを持たせることが出来るのではないかと、この「生涯の仇敵」を持ち出したのである。これが利いたかどうかは別として、この小説が最初の予定より倍以上の長さになり、私がいちばん危惧していたギスギスとした、翻案調の小説にならずにすんだのは、主として城昌幸君の好意ある配慮によるものと私はいつも感謝している。
この小説は私としては習作のつもりだったのだが、結局これが出世作となったようである。この一作の成功のおかげで引きつづき「獄門島」を書く機会をあたえられたのだから。
いずれにしても「本陣」と「蝶々」と全然持ち味のちがう探偵小説を二本平行して書き、どちらも大した破綻もみせずに完結出来たことによって、どうやら私も探偵作家として箔《はく》がついたようである。
いま当時の日記を引っ繰りかえしてみて、いったいどうしてこんなことが出来たのかと、私はいまわれながら驚嘆している。「本陣」と「蝶々」という七面倒な二本の探偵小説に取り組みながら、私は捕物帳なるものを必ず月一本書いているのみならず、需めに応じてあちこちの雑誌に奇談式なものを書きちらしている。どうしてああいう芸当が出来たのか、当時はまだ若かったのだといってしまえば身も蓋もない。
私は固く信じて疑わないのだが、当時私が東京を遠くはなれ、岡山という遠隔の田舎にいたからこそ、ああいう離れ業が演じられたのであろうと。その時分東京では江戸川乱歩を中心として、探偵作家相集まり、今後の探偵小説はいかにあるべきかと、カンカンガクガクだったらしい。そういう会合へしょっちゅう出ていたら、時間的ロスもさることながら、私は議論にふりまわされ、神経をすりへらすばかりか、妙に力んで空振り三振をしていたかもしれない。ところが私は東京を遠くはなれていたので、そういう雑音がほとんど耳に入って来なかった。「本陣」「蝶々」ともにまんざら不評ではないらしいが、どのていどの反響なのか、全然わからないのは心細いことであったが、その代わり変に力んだりせず、マイ・ペースで筆を進めることが出来たのは、遠隔の田舎にいて、ひとり孤立していたせいだと思う。
それともうひとつ感謝しなければならないのは、当時の桜部落の農民諸氏にたいしてである。戦争中あんなに入り浸っていた農民諸君も、私が仕事をはじめたとなると、ピタッと足踏みをしなくなった。加藤の一さんなども、
「たまには顔を見せてえな」
と、こちらから誘っても、
「そうおいいさりますけえど、先生の顔や眼つきをみると怖うて近寄れやせん」
そうなのだ。私は探偵小説の鬼になったのだ。私はどうかすると仕事の途中筆を投げ出して、なりふり構わず田圃の畦から畦へと気違いみたいに歩きまわった。ドテラの帯がとけてうしろへ長々と尾を引いていても、気がつかぬようなことがたびたびあった。家へかえってまた机にむかってみると、漢字のヘンだけ書いてツクリが書いてないことがあり、われながら苦笑せざるをえないようなこともままあった。私は想につまって苦しまぎれに家を飛び出すのではなかった。想が溢れて筆がおっつかぬまま、じれったくなって外へ飛び出すのであった。そして溢れくる想を整理するために畦から畦へと気違いみたいに彷徨《ほうこう》するのであった。だれもそれを咎めたりはしなかった。
「そらそら、先生、また締め切りが迫ってきたもんじゃけん、気違いみたいに歩きよるわい」
と、温かく見守ってくれたばかりか、
「先生、先生、帯がうしろに引こずっとるぞな」
と、注意してくれる親切な農民もいた。
日記を見ると私はその年の十月七日に、
◎本陣殺人事件 百三十九枚
を書き上げ、おなじ年の十一月二日に、
◎獄門島 七十八枚
を書いている。
こうして昭和二十二年の年が明け、私にとっては「獄門島」時代がくるのである。「本陣」が習作ならば、「獄門島」こそ探偵作家としての真価を世に問う労作であったと私は思っている。
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[#見出し] 農村交友録 続々楽しかりし桜の日々
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[#見出し] アガサ・クリスティに刺激されること
[#見出し] 公職追放令に恐れおののくこと
昭和五十一年の秋私は勲章をもらった。叙勲の沙汰が発表されたのは十一月三日、即ち文化の日の新聞各紙の朝刊だったが、その日とその翌日の二日間、わが家の電話は鳴りっぱなしだった。なかには思いもよらぬ人物からお祝いの言葉をいただいて、なるほど勲章をもらうということは、こんなにも有難いことなのかと、そのこと自体よりもお祝いの電話や手紙やハガキ、さては祝電のほうが私をよろこばせたくらいである。
その思いもよらぬ電話のぬしのなかに、懐しや加藤|一《ひとし》さんがいた。一さんは遥か桜からお祝いの電話をかけてきてくれたのである。東京には昌《ま》あちゃんというひと(後述)がいてときどきわが家へ顔を出してくれるので、岡田村字桜のその後の消息はあらかたわかっているつもりだったが、現に桜に住んでいる一さんの抑揚にとんだ岡山弁できくと、その感激もまたひとしおであった。
一さんの話によると私の「本陣殺人事件」で、三本指の男がはじめて顔を出す役場の附近は、いちめんに団地が建ち並びいまや完全に水島工業地帯のベッド・タウンと化しているそうである。
「わたしらみたいに昔から住んでいるもんは、小いそうなって暮らしてますらあ」
一さんは嘆いていた。
また私が疎開している時分、よくわが家へ顔を出していたお百姓もいまやあらかた身罷《みまか》って、
「いまでも生きているのは、片岡の要さんとわたしくらいなもんですぞな」
と、聞いて、三十年の歳月が決して短いものではなかったことを思いしらされた。
一さんは明治四十二年生まれだというから、私より七つ年下である。終戦のとき私は四十四歳であったから、一さんは三十七歳だったわけである。このひとは高松の農学校を出たのち青年師範へ入り、そこを出てから選ばれて、茨城県にあった内原の訓練所で教育をうけている。内原の訓練所というのは当時有名だったから、私も疎開以前からしっていた。こんど一さんから電話できいて思い出したのだが、所長は加藤寛次といって陸軍出身の人物で、訓練所の目的は満蒙開拓のための義勇軍の青少年を育成することにあったようである。
一さんはそこで教育を受けたのち、岡山県のあちこちの村や島で、青年学校の先生をしていた人物だから、ふつうのお百姓にくらべると世間も広く、ひと見識を持っており、私みたいな風来坊作家ともウマが合ったわけである。このひとがいなかったら私の「本陣殺人事件」や「獄門島」「八つ墓村」がうまれたかどうか疑問である。それらに描かれているローカル・カラーは、すべて一さんから伝授されたものであり、それによって小説が真実味をおびてきているのみならず、大いにふくらみをみせていることは、読者諸賢のだれしもが認めてくれるところだろう。
さて、昭和二十一年の私の日記を見ると、四月二十五日の項に、つぎのような文章がある。
「クリスティの『アンド・ゼン・ゼア・ウア・ナン』を読了、面白かった」
と、ある。
「アンド・ゼン・ゼア・ウア・ナン」は即ち「そして誰もいなくなった」である。
昭和二十三年の八月一日、疎開地から東京へ引き揚げてきた前後に早川書房が出来、あちらの作品をつぎからつぎへと翻訳紹介してくれるので、その後私はサッパリ原書というものを読まなくなったが、昭和二十年頃にはそういう翻訳書がなかったので、私は字引きと首っ引きでさかんに原書を読んだものである。それらの原書の提供者は神戸の西田政治、いま早川書房で盛んに翻訳をやっている東京の乾信一郎の両氏で、このひとたちはG・Iさんが持ち込んで、売り払っていったポケット・ブックを、古本屋で見付けては私に送ってくれたものである。江戸川乱歩などもそうとう送ってくれたが、このひとたちの好意のおかげで、私は草深い田舎にいても結構読む本にことかかず、むこうの探偵文壇がいかに隆盛をきわめているかということを知ることができ、大いに意を強くしたものである。
さて、「アンド・ゼン・ゼア・ウア・ナン」を読んだとき、私はちょっと奇異な思いに打たれざるをえなかった。「そして誰もいなくなった」はひとも知るとおり童謡殺人事件である。私はそれよりさきヴァン・ダインの「僧正殺人事件」を翻訳で読んでいる。これまたひとも知るとおり童謡殺人である。こんなことが許されてよいものかと、いちじは自分の眼を疑ったくらいである。潔癖な日本の批評家ならば、これはヴァン・ダインの模倣だの剽窃だなどといきり立つのではないかと思われた。その時分私はまだクリスティにはほかにも童謡殺人を扱った小説があり、エラリー・クイーンもそれを書いているということをしらなかったのである。
いずれにしても、「そして誰もいなくなった」を読んだことはひどく私を勇気づけた。こういうことが許されるのなら、ひとつ自分もやってみようと思いついた。密室殺人によって本格探偵作家としての第一歩を踏み出した私の第二作として、童謡殺人、あるいはそれに類した事件は、まことに恰好の材料ではないかと思いついた。
義理の姉原田光枝から疎開の奨めがあったとき、すぐその好意に甘えようという気になったのは、そこが瀬戸内海にちかい場所であるからであり、瀬戸内海には多数の島があるからだということは、まえにも書いておいたと思う。その時分私が島を舞台に書いてみたいと思っていたのは、江戸川乱歩の名作「パノラマ島奇譚」や「孤島の鬼」さらに疎開の前年に読んだカーター・ディクソンの「プレーグ・コートの殺人」の刺激によるものであることもまえにも書いておいた。「プレーグ・コートの殺人」のプレーグ・コートはロンドン郊外で島ではないけれど、これを島へもっていってもそれほど不自然でないと思ったということも、いつか書いておいたはずである。
かくて私は子供のようにはしゃいで義姉の奨めに応じたのだが、ここにはからずも私を刺激することはなはだ大であった「そして誰もいなくなった」の舞台が島である。しかも、私の身近には瀬戸内海の島である期間、学校の先生をしていた加藤一さんという軍師がついているのである。あに書かざるべけんやというわけで、「本陣殺人事件」と「蝶々殺人事件」の筆を進めながら、童謡殺人からヒントをえた構想を練りに練り、しょっちゅう一さんに家へ来てもらっては、島の人情風俗について教えをこうていた。こうして「本陣殺人事件」が雑誌「宝石」誌上で完結するまえに、「獄門島」の腹案はすでに出来上がっていたのである。
昭和二十一年の私の日記によると、十一月二日の項に、
「『獄門島』七十八枚」
と、あるが、これはもちろん半ペラの枚数である。
私としては「本陣殺人事件」が終われば羽織が引っ込み、おあとと交替ということになるのだろうとばかり思い込んでいた。それにもかかわらず城昌幸編集長より引きつづき長講一席弁じるようにと要請があったとき、私としてはそうとう驚いたのである。しかし、そのときだって私は「本陣」が好評だったからというよりも、東京のほうでは食糧事情やなんかの関係で、まだまだ作家諸氏が長篇の筆を執る心境にはいたらないのだろうと解釈していた。ことほどさように私は自信がなかったのである。
しかし、与えられたチャンスはフルに活かすべきだし、事情が事情だから、在京作家に遠慮気兼ねする必要はないであろう。それにクリスティのおかげで、書くべき作品の腹案はできあがっていたのだし、身辺には加藤一さんという軍師もついていてくれることだしと、城昌幸君の要請によろこんで飛びついたのである。
それにそのとき私は考えた。「本陣」は「本陣」として、私としては愛すべき習作だと思っているが、最初の城昌幸君の提示してきた枚数が枚数なので、聞き書きという形式をとらざるをえず、そこに若干の不満があった。しかし今度は一回が四十枚で、いくらでも好きなだけ書いてほしいという要請なので、私としてはハリキラざるをえないではないか。だから今度は大上段に振りかぶって、描写やなんかにもひと苦労してみようと思ったのだが、この小説を書きすすめていくうちに、私はつくづく思い当たった。自分はいままでずいぶん冗《くだ》らない小説を書いてきたが、こういうトリッキーな謎解き探偵小説がいちばん肌に合っているのだということを。そういう意味で私にああいう形式の探偵小説を書くことを思いつかせたカーター・ディクソン、即ちディクソン・カーにいまでも感謝の念を抱いている。
こうして昭和二十二年の年が明けたが、そのとき私は「蝶々殺人事件」と「獄門島」と、依然として長篇を二本持っていた。しかし、私はたいへん幸福であった。書くことよりほかに能のない私は、好きなことを書かせておきさえすればゴキゲンなのであった。しかし、そういう私でも年が明けるとともに心にひっかかることが出来てきた。
パージ、即ち公職追放がいよいよ始まったからである。いま新村先生編の『広辞苑』の公職追放の項をひもといてみると、つぎのごとく出ている。
「公共性のある職務に特定の人物が従うことを禁止すること。わが国では、戦後民主化政策の一として、昭和二一年一月GHQの覚書にもとづき、議員・公務員その地政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを追放した。二七年四月対日講和条約発効とともに自然消滅」
と、ある。つまり戦争犯罪者、即ち戦犯追放のことである。私はどんな意味でも戦争協力を強いられるようなことがあった場合、一家五人無理心中をやってのけようと、家人にも絶対秘密である毒物を用意しておいたような男だから、これにひっかかる心配はなさそうだが、それでもこのことがよっぽど気になったとみえ、一月六日の項にこういう記述がある。
「何もせず。G項追放の記事新聞に出る。もし自分がそれに該当するとすればどうなるのかよく分らず」
と、あり、さらに一月八日の項に、
「G項追放者のわれわれのなすべからざる事が『毎日』の一問一答にてよく分る。(もし自分が該当するとして)」
私がなぜこんなに取り越し苦労をしたかというと、自分は絶対に戦争反対であったが、積極的にその意志表示をする勇気がなかったこと。そして文芸報国会のメンバーであったこと。そうすると、自分だって非常に消極的な意味だが戦犯もおなじではないかと、自責の念に耐えられなかったのと、もうひとつはその頃さかんに文通していた海野十三が、なんとなくそれを気にしているのではないかと思われるフシがあったからである。
そこで思いあまって、江戸川乱歩に問い合わせ状を書いたくらいである。自分がそれに該当するかどうか、またわれわれの仲間に該当しそうな人物がいるかどうかということを。なぜ質問の相手に乱歩を選んだかというと、乱歩こそは戦争の犠牲者であり、このひとだけは絶対にパージの対象にはならないだろうと思ったからである。乱歩はすぐに返事をくれて、
「君は絶対に大丈夫、大丈夫」
と、太鼓判を押してくれたのみならず、
「われわれの仲間では、だれもそれにひっかかるものはないだろう」
と、報告してきてくれたので、私もやっと安堵の胸を撫でおろしたことである。私がなぜこのような取り越し苦労をしたかというと、われわれがそれに引っかかると執筆停止をくらうかもしれないからであった。
さて、わが桜では片岡の要さんがそれに引っかかった。それを聞いたとき私は要さんには悪いが吹き出しそうな気になった。要さんの田圃もわが家のまえにあり、したがってわが家でよくとぐろを巻いていたひとりだが、夫婦のあいだに十六人子供がうまれたが、三人しか育たなかったという人物である。子沢山の人間にタチの悪い人物があろうはずがなく、要さんは一家言あることはあるがおよそお人好しであった。そこを巧みに利用されて、なにか厄介な仕事を仰せつかっていたらしいが、それがパージにひっかかったわけである。
しかし、要さんはいっこう平気であった。それはそうであろう。このひとは村会議員に打って出ようというような野心家ではなかったから、かえってサバサバしたような気持ちであったろう。あいかわらず夫婦でわが家のまえの田圃へきて、しばらく農作業をやっているかと思うと、すぐあとは十六人子供を生んだという、これまた無類の好人物であるところのおかみさんにまかせておいて、
「先生、お邪魔かな」
とかなんとかいいながらわが家へやってきては、上がり框《かまち》に腰をおろしてタバコをくゆらせながら、要さんは要さんらしい気焔をあげていくのであった。
それはさておき昭和二十二年の年が明けると、近隣近在の村々は俄然活気づいてきたように思われた。おいおい若いひとたちが復員してきたり、またわが桜部落にも満洲から引き揚げてきた一家が二、三あったりして、たいへん賑やかになってきた。なかにはソ連に抑留されていたというひともいた。しかし、それらのひとびともすぐそれぞれの場所へ落ち着いて、少なくともわが桜部落では、それについてトラブルがあったというようなことは聞いていない。
だが、昭和二十二年の年が明けると、近隣近在の村々が俄然活気づいてきたというのは、ただそれだけではなく農地改革のせいではなかったかと思う。このあいだ一さんに電話で聞いたところによると、農地改革が施行されたのは昭和二十二年のことであったという。では農地改革とはどういうことかというと、これまた『広辞苑』によるとつぎのごとく出ている。
「農地の所有制度を改革すること。特に、戦後、GHQの指令で、農村の民主化と農村経営の合理化とをはかるために行われた土地改革。在村耕作地主は三町、在村不耕作地主は一町を保有面積とし、不在地主の小作地は全部買収して耕作農民に売り渡した。ただし、山林は従来のままとされた」
これは農民諸君を大いに喜ばせたにちがいない。それまで地主から土地を借りて耕作し、そのかわり一年の収穫米の何十パーセントかを、年貢として地主に納めていた小作農家が、自分の土地を持てるというのだから、そうでなくとも土地というものに深い愛着を持つ農民諸君にとって、これほど歓迎すべき政策はなかったであろうと思う。そして地主より小作農家のほうがはるかに多かったであろうこと、これまたいうまでもないことであろう。
戦争中供出米でさんざん痛めつけられた農民たちは、戦後GHQがどういう手を打ってくるかと、二十一年頃は呼吸をひそめる思いであったろう。それがおいおい農地改革の全貌がハッキリしてくるにつれ、村々が急に活気づいてきたのは無理もあるまい。
その現われのひとつが素人芝居の流行で、私みたいな疎開者までがその渦に捲き込まれてしまったのである。
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[#見出し] 澎湃《ほうはい》として興る農村芝居のこと
[#見出し] 昌《ま》あちゃんのお婿さんのこと
昭和二十二年の私の日記の二月五日の項につぎのような文章がある。
「(前略)園村より、農民諸君の芝居の台本の依頼あり、筋をきく」
この園村というのは私の疎開していた岡田村の隣の村で、そのとき台本を頼みにきたのは製麺所の主人で中年の人物であった。筋をきくとあるのは、そのとき私は二本頼まれたのだが、二本ともこれこれこういう筋のものを書いてほしいと、むこうさまから筋を持ちこんできたのである。いまはもう詳しいことは忘れているが、一本のほうはだいたいこうではなかったかと思う。
生みの母がいて継母がいて、そのどっちかの母がすっかり落ちぶれたばかりか、眼さえ見えなくなって路傍で物乞いをしている。そこへどっちかの母と子が通りかかってどうのこうのという、お涙頂戴もいいところの大々的新派大悲劇であった。これは女子青年団むきのもので、もう一本は男女共演ものの喜劇であった。
私はすっかり嬉しくなった。わが文名ついに隣村まで聞こえけりというわけで大乗気になり、そこはサービス精神旺盛な私のことだから、これでもか、これでもかと、純朴な農村の子女に涙をしぼらせるべく、あの手この手を使って、大々的新派大悲劇を書き上げた。
これは「書かでもの記」に書いておいたが、私の兄の五郎というのが芝居好きで、のちには新派の役者になろうとして果さず、失意のあまり胸を病んで若死にしたくらいのひとだから、私も兄につれられてよく神戸で小芝居を見たものである。歌舞伎も見たが新派も見た。いや二対一の割り合いで新派を見ることのほうが多かった。その時分の教養[#「教養」に傍点]のほどがものをいって、こういう農村の素人芝居の台本作家としては、打ってつけの人材[#「人材」に傍点]であったかもしれない。題は「母二人」というのであったが、もう一本書いた曾我廼家式喜劇とともに台本は一発でパスした。
私はその演出にも立ち合ったのだが、いよいよ三月二日の日曜日にそれを見物にいった記録が日記に残っている。
「四時頃より、有井へ、演芸会を見にいく。素人芝居、娘さんのほうの芝居はなかなかうまし、感服せり」
と、あるこの娘さんのほうの芝居とは、私の書いた脚本のほかにもう一本、近松半二の「傾城阿波の鳴門」の「どんどろ大師」の場、つまり巡礼お鶴の芝居が出たのだが、私はそのお弓を演じた女子青年団員嬢の素人とは思えぬうまさにすっかり舌を巻いたのである。この幕は素人芝居によく出る場で、お客さんに涙をしぼらせるのにまったくよく出来た芝居だが、それにしてもお弓をやったお嬢さんはうまかった。その場でひとにきくとどこかの料亭の娘さんだとかで、なるほどそれならそういう素養もあり、また旅役者の芝居やなんかで、いくどかお弓を見ているのかもしれないと改めて感服したりもした。
巡礼お鶴の芝居にくらべれば、私の書いた一幕物なんかお粗末そのものだが、それでも満場の歓客に涙をしぼらせたのだからたいしたものである。主役の盲いた物貰いは、お弓をやったお嬢さんだったと記憶している。
さて、脚本がよかったのか、役者がうまかったのかしらないが、私は三月九日の午後、例の製麺所のご主人の訪問をうけ、謝礼としてウドン二十把、米二升、サツマイモ二貫を贈られ、家人に対しても大いに面目を施したものである。世話人であるところの製麺所のおやじさんもたいへんゴキゲンで、演芸会の連中、四月になったらコンピラさんへ慰安旅行にいくことになっていると、厚く礼をいって帰っていった。
ところがこの演芸会たしかに好評だったらしく、わが岡田村でもやろうではないかということになり、園村から謝礼を贈られたおなじ日に、こちらのほうからも台本の依頼をうけた。そこで早速隣村から返却された台本を渡すと同時に、もう一本書くことになった。それというのが「母二人」にはわが女子青年団員諸嬢も大いに食指を動かしたのだが、もう一本の男女共演ものの喜劇のほうに自信がない。もっとシリアスなものを書いてほしいというのである。むろんこのほうは私の創作でよろしいということであった。
三月十三日の日記を見ると、
「夜早くつかれて眠りかけるが途中眼覚めたので、部落の素人芝居の台本書きはじめる」
と、あり、また十四日の項に、
「素人芝居の原稿『故郷』第一景だけを書き渡す」
と、ある。またその翌日の十五日の項に、
「午前中より午後三時頃までに、『故郷』第二景を書いてしまう。夜、青年団の台本持って行き、本読みをする」
と、書きとめてある。
このほうはちゃんと「故郷」という題も書きとめてあるので、筋もだいたい思い出したが、農村のそうとうの豪農の伜が、親の意にそまぬ結婚をして家を出て都会に住んでいたが、お定まりの戦災で家を失い妻と幼い子供をつれて故郷へかえってくる。ところが伜やおふくろの哀訴歎願にもかかわらず、おやじははじめ頑としてききいれず、伜たち三人を追いかえしてしまうが、骨肉の情は争えず、三人を呼び戻し親子和解をするという、なんのことはない、菊池寛の「父帰る」を裏返しにしたようなお話なのだが、私は大いに作劇術の妙を発揮して、このなかに童謡の「叱られて」と、「かえろかえろ」の斉唱を下座音楽のかわりに使った。
ところがこれですっかり私が手を焼いたのは、大々的新派大悲劇の女主人公の役に当たったのが、わが家の隣家……といっても、田舎のことだから軒を連ねてというわけではないが、……のお嬢さんの中山の昌あちゃんである。このひとこそこの雑文の冒頭に名前が出た女性なのだが、昌あちゃんのお父さんの中山※[#「暦」の「木」が「禾」、unicode66C6]一さんというひとは、当時ちかくの神在小学校の校長をしていられた。わが桜部落でも素封家という感じの家で、たいへん清潔なご家庭であった。そういううちの長女にうまれたうえに、時局柄も手伝って中山昌子さん、当時は二十歳前後であったが、それまでにおよそ芝居など観たことはなかったであろうと思う。したがっておよそ芝居ごころなどあろうはずがなく、そういうお嬢さんがよりによって、これでもかこれでもか式の大々的新派大悲劇のヒロインをやろうというのだから、指導するほうもされるほうも、その苦労たるや思いなかばに過ぎるものがあるだろう。
第一指導者であるところのこの演出家先生が、いたって頼りないのである。少年時代小芝居にうつつを抜かしていたといっても、じっさいに舞台に立ったわけではなし、そこはこういうふうに動いたらと自分でやってみてもサマにならない。そこの台詞《せりふ》まわしをこうしてみたらと注意しようにも、まさか昔ゴヒイキだった久保田清や、秋元菊弥などという小芝居の女形の口跡など、テレ臭くて口に出せるものではない。昌あちゃんにまかせておくと全部台詞を素《す》でいってしまう。それがどうやら恰好らしきものがついてきたのは、ひとえに昌あちゃんの努力研鑽の賜であろう。
日記の四月五日の項を見ると、
「夜、演芸会へ赴く。『母二人』よい出来なり。かなり見物を泣かせる」
と、あるが、私はテレ性なのでかなり[#「かなり」に傍点]などと謙遜しているが、じっさいは大いに泣かせたのである。
なお、その項のつづきに、
「演芸会盛沢山にて、恐ろしく時間がのび、夜が明けそうになるらしいので『帰郷』を割愛して、二時頃かえる」
と、あるが、あとで加藤の一さんに聞くと、「帰郷」が終わったのは明方の五時頃だったそうだが、これまた大いに見物を泣かせたと聞いて、私はすっかり気をよくしたものである。そのとき私は謝礼としてサツマ芋十貫を贈られたことが、四月十日の日記に出ている。
さて、この話にはもう少し後日談があるのでここに書きとめておこう。
その年の秋だったと思う。
私が散歩に出ると表の道で加藤の一さんや片岡の要さん、要さんの分家であるところの片岡の銀さんたちが、農作業をやめてひとかたまりになり、しきりに中山家のほうをうかがっている。
「なにかあったの?」
と、私がきくと、
「いや、どうやら昌あちゃんのお見合いらしいんですんじゃ」
と、三人のうちのひとりが答えた。
「へへえ、そら、お目出度いな」
と、野次馬根性の強い私もその仲間に加わってようすを見ていると、まもなく小柄で、色白の、度の強そうな眼鏡をかけた復員服の青年が、三、四人のひとといっしょに中山家から出てきたかと思うと、お母さんらしいひとを自転車のうしろに乗っけてさっと引き揚げていった。
昌あちゃんはまもなくその青年のところへお嫁にいったが、すると間もなく一さんが家へやってきて、
「昌あちゃんのお婿さん、年に四、五回碁を打てば食べていける男じちゅう話じゃけえど、どういうんでしょうな」
「へへえ、そんなら賭け碁ですんのんかいな」
と、答えたのは、私は三十二の歳から足かけ六年、まる五年五カ月信州の上諏訪で転地療養をしていたことがあるが、そこでどこかのお寺の和尚さんが賭け碁が好きで、ついに寺の財産全部賭け碁で食いつぶしてしまった、田舎にはよくそういう人物がいるものだということを聞いていたからである。そこで私思えらく、
「昌あちゃん、たいへんなところへお嫁にいったもんだ、可哀そうに」
ところがそれから二、三日してまた一さんがやってきて、
「先生、昌あちゃんのお婿さん、碁やのうて将棋やそうな。将棋がぼっこう強いんじゃそうな」
「へへえ、それで名前はなんちゅうやねん」
「たしか大山とかちゅうといましたな」
聞いて私はびっくり仰天。
戦後は仕事にかまけて将棋とはすっかり縁が薄くなってしまったが、上諏訪時代ちょっと凝っていたことがあり、田舎棋士に弟子入りしていた時代さえある。だから一さんよりいくらか棋界の消息に通じていた。
「一さん、そんなら大山七段とちがうか。その人なら年齢は若いが将棋界の鬼才とよばれて有名やでえ。いくいくは名人必至といわれてる人物や。もういっぺんたしかめてごらん」
一さんが確かめてみると、昌あちゃんのお婿さんはたしかに大山康晴七段にちがいなかった。
この話にはさらに後日談があって、昭和二十七年頃私はすでに東京へ引き揚げていたが、時事新報に頼まれて「まあちゃんのお婿さん」という短い雑文を書いた。そのなかでまあちゃんは私の弟子みたいなものだから、その縁につながる大山九段も私の弟子みたいなもんだと大いに威張っておいたら、さっそくご夫婦で挨拶にきてくれた。それ以来名人一家とわが家とは家同士のおつきあいがつづいているが、去年の暮れご夫婦でやって来られたとき、五冠王の座を何年保持したのかと訊いてみたら、昭和三十四年から十三年間つづけたと聞いて、私は舌を巻いて驚嘆せずにはいられなかった。こういう人物はおそらく日本棋界でも空前絶後であろうが、このような不世出の人物を友人に持てたというのも、疎開時代の楽しい思い出のひとつである。
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[#見出し] 「本陣」と「蝶々」映画化のこと
[#見出し] 桜部落のヒューマニズムのこと
さて、私の仕事のことだが、「宝石」の「本陣」のほうは昭和二十一年一杯で無事完結し、昭和二十二年に入ると新しく「獄門島」が連載開始されていたが、「ロック」の「蝶々」は二十二年に入ってもまだまだつづいていた。
同年の日記の二月九日の項を見ると、
「一日かかって『蝶々』書上ぐ。一〇〇枚突破。『蝶々殺人事件』の映画化について三枚」
と、あり、さらに翌十日の項には、
「『蝶々殺人事件』二〇八(半ペラ)(終篇)。『蝶々』の映画化について六枚」
思えばその頃は年齢も若く、筆も早かったのであろう。一日ひと晩で四百字詰原稿用紙百枚以上も書いたのを、私はいまでもはっきり憶えている。それにしても衰えたもので、ちかごろはせいぜい、五枚とはわれながら情けない。
さて、ここで映画のことを書きとめておこう。
「蝶々殺人事件」を映画化したのは大映であったが、最初大映が眼をつけたのは「本陣殺人事件」のほうであった。連載中から映画化の申し出があり、これらの東京における窓口はいっさい江戸川乱歩がつとめてくれた。最初乱歩からその話があったとき私は大いに驚いた。
戦前「人形佐七捕物帳」の一篇が映画になったことがあるが、それっきりで、私はいたって映画に縁の薄い作家である。したがって「本陣」にしろ「蝶々」にしろ、それが映画になろうなどとは夢にも考えず、ひたすら本格探偵小説の本道を追究するつもりで書きつづけてきたのに、映画にしたいという奇特の士が現れたので、私が大いに驚いたのもむりはないであろう。
しかし、その当時私がひるがえって考えるに、現在は映画の題材がたいへん窮屈な時代らしい、GHQから「忠臣蔵」の上演まかりならぬという指令が出たことを私は新聞でしっていた。われらの仲間の角田喜久雄君なども、元来が探偵作家出身といえ、かれが名をなしたのは時代小説である。それにもかかわらず目下しきりに探偵小説を書いているのは、時代小説に対してなんらかの圧迫があるのではないか。小説に対してすらそれだとすれば、より大衆的な映画に干渉があるのは理の当然と考えられる。戦前米櫃とされていた時代映画を取り上げられた活動屋さんたちが、その眼を探偵映画にむけはじめたのではないか。そういえば江戸川乱歩原作の「パレット・ナイフの殺人」という探偵映画が出来たらしいが、そういうところから乱歩なども映画人と接触が出来たのであろう、等々々。
なにしろ東京を遠く離れて中央の事情に疎い私は、そういうふうに揣摩臆測《しまおくそく》をたくましゅうするよりほかにみちはないのであったが、ここは一番乱歩さんに下駄を預けてしまおう、しかし、それにしても大映のひとたちは、「本陣殺人事件」の結末をしっているのであろうか。あの複雑な密室のトリックをしったら、改めて尻込みするのではなかろうかと、そう思いながらも一切を乱歩に一任した。
私は映画にするために結末を変更するつもりは毛頭なかった。作家はだれでもそうであろうが、映画よりもあくまでも小説のほうが大切なのである。果たして「本陣」が誌上で完結すると大映では、あの複雑なメカニズムに辟易《へきえき》して、「本陣」をキャンセルするかわりに、「蝶々」のほうを映画にしたいと、これまた乱歩を通じていってきたのである。
ところでその「蝶々」もまだ完結していないのであった。だから最終回のまえの分を「ロック」へ送ったら、「ロック」の編集長の山崎徹也君から、
「テフテフツイタランポシニレンラクスミ」
と、いう電報がきているのは、その間の消息を物語っているのであろう。即ちそれが活字になるまえに乱歩が検分していたのではないか。映画になりうる小説なりや否やと。
思えばあの当時乱歩にはずいぶん世話になったものである。かれも「パレット・ナイフの殺人」の場合、よほど手を焼いたとみえ、活動屋という人種が、いかにひと筋縄でいかぬひとたちであるかということ、原作者の注文は絶対といっていいくらい通らぬと思っていてもいいこと、原作がメチャメチャに改竄《かいざん》される場合があるかもしれないが、そこのところをよく覚悟しておく必要があること等々々を手紙で私に教えてくれた。
私は乱歩の教えを拳々服膺《けんけんふくよう》して、その後私の書いた小説がぞくぞくと映画になったが、そんな場合、私のほうから注文をつけたことはいちどもなく、いつもあなた任《まか》せである。したがって映画会社と契約書を取り交わし、原作料をもらってしまえば、その作品は私の手を離れて、まったく別のものになるのだという考えかたを私は終始一貫守ってきた。
だから、金田一耕助が洋服で登場しようが、肝腎の犯人が原作とちがっていようが、餅は餅屋である、映画としてはそのほうが効果的なのだろうと、いっこうわれ関せずえんで通してきたものである。なにしろ私はいたって寛容の精神にとんでいるからといえばお体裁がいいが、ほんとのことをいうと私はいたって気が弱く、他と争うことを好まない小心者なのである。しかし、ありようをいうとなるべくならば、原作に忠実に映画化してもらえたらというのが、本音であることはいうまでもない。
それはさておき大映からキャンセルされた「本陣殺人事件」の映画化について、今度は東横映画から名乗りあげてきたのには、私は大いに驚いた。これは乱歩を通じてではなく東横のほうから直接申し込みがあったのだが、その時分には小説も完結し、あの複雑なメカニズムも釈明されているのだから、東横映画ではそこをどう表現するつもりなのか、おそらく自信もってのことだろうからと、これまた一切乱歩に一任した。乱歩の仲介よろしきをえてこの二本は二本ともその年のうちに映画化されたが、二本とも題名が原作とは変わっていた。「蝶々殺人事件」は「蝶々失踪事件」に「本陣殺人事件」は「三本指の男」にと。
その間の事情をここに打ち明けておくと、これは映画会社の横暴によるものではなく、GHQの干渉によるものであった。GHQのおえらがたの考えかたによると、小説の題名としては殺人という言葉は許されるとしても、より大衆的な映画の題名のなかに、殺人という言葉が入るのは穏当ではないというのである。その結果「三本指の男」のほうは、事件のなかで三本指の男が重大な役割りを果たすのだから、いちおう妥当と頷けるのだけれど、「蝶々失踪事件」のほうは、なにがなにやらわけのわからぬ題名になってしまった。乱歩からそういう手紙を貰ったとき、GHQもえろう神経質なんやなあと、苦が笑いをしたことを私はいまでも憶えている。
ところで私はたいへんテレ屋さんなのである。悪いくせだと思うけれど、これが持ってうまれた性分なのだから、やむをえないとはいうものの、それがときどき非常に悪い面に顔を出す。戦前私の捕物帳が一本映画化されたということはまえにもいったが、それは私が上諏訪で病気療養中のことであった。この映画は当時私の住んでいた上諏訪の家のすぐちかくの映画館で上映され、しかもその頃、私は映画観賞にも十分耐えうるほども健康は回復していたのだけど、私はとうとうその映画を見にいかなかった。テレ臭かったのである。
しかし、今度はそうはいかなかった。あいだへはいっていろいろ骨を折ってくれた、兄貴分の乱歩のためにも見ずにすませるわけにはいかなのである。
二十二年の日記を見ると、暮れも押しせまった十二月三十日の項に、
「倉敷へ『三本指の男』を見にいく。同行石川君、藤田君、加藤さん、亮一」
と、あり、この石川君というのは「蝶々殺人事件」のトリックを私に教えてくれた石川淳一君であり、藤田君というのは「本陣殺人事件」の最初の発想となった、岡山一中琴の怪談なる伝説を私に語ってくれた藤田嘉文君である。加藤さんとはいうまでもなく一さん、亮一とは私の伜で当時旧制中学の二年か三年であった。「蝶々失踪事件」もやはりおなじメンバーで見にいったのを憶えているが、そのとき石川君におだてられて、ステージから一場の挨拶をしたのはとんだお笑い草であった。
こうしてこの年は農村芝居の台本書きに明け、二本の映画に暮れたようなものだが、農作業と全然縁が切れていたかというと、なかなかどうしてそうではない。
三月十三日の項に、
「午後、女房と二人で、加藤さんの山(去年女房と開墾したところ)を整地する」
と、あるのを筆頭に、翌十四日の項には、
「午後、昨日整地した加藤氏の山へジャガ芋約八割どおり植える。肥料を明日少し持っていかねばならぬ」
と、あるかと思えば、
三月十七日の項に、
「一日中ジャガ芋植えに没頭。山の辻八ウネ、三宅の山の下の段にジャガ芋植える。これで今度のジャガ芋植えは終りたれど、種が小さ過ぎるから出来るや否や疑問なり。去年も、この日、山の辻にジャガ芋植えたが、途中より雪が降った。今年も霙《みぞれ》しきりに降る。但し、すぐ歇《や》む」
また三月十八日の項には、
「今日は一日浅野間の畑の手伝い、夫婦して出張、ジャガ芋を植える」
この浅野間というのは戦争未亡人で、名前をふでさんといった。疎開した当時朝眼が覚めて表の腰高障子をあけてみると、よく灰フゴ[#「フゴ」に傍点]のなかに野菜が山盛りに盛ってあることがあった。のちになってそれがふでさんの好意であることがわかったが、ふでさんとしては未亡人でもあり、子供も幼なかったしするので、せめてもの慰みとして他に施しをしたかったのであろう。心の優しい女性で家内とはすっかり仲好しとなり、われわれが疎開中使っていた農機具一切、肥タゴから天秤棒にいたるまで、浅野間家から恩借していたものである。未亡人だから農繁期など手の足りぬことが多く、そういう場合いつも家内をお手伝いに差しむけていたものである。
そのふでさんはその後われわれが桜を引き揚げて、現在の成城の家へ移ったのち、なにかの都合で上京してきたとき、いちどわが家を訪ねてきてくれたことがあるが、その後幽明界を異にしてしまった。謹んで故人のご冥福を祈るや切である。いまでもお嬢さんの修子《みちこ》さんからは毎年年賀状をいただいている。
二十二年の日記を見ると、そのほかにも私はやたらに農作業に従事している。サツマ芋の蔓を何十本植えるだの、砂糖木の苗を植えつけるだのという記事がいたるところに散見する。果ては今日一日鍬を持ったせいかロクマク痛しなどという記述も見える。耕作地もおいおい手をひろげて、一さんの山だけでは事足りず、部落の他のひとたちの遊んでいる土地を借りては、サツマ芋だのジャガ芋を作っていたようである。部落のひとたちもわれわれ夫婦の熱心さにほだされて、快く遊んでいる土地を提供してくれたのである。
では、なぜ私がかくも熱心に農作業にいそしんだのか。ヤミをやりたくなかったからである。ヤミをやろうと思えばやるだけの収入は十分あった。しかし、それによってお互いの気持ちをスポイルするのがいやだったのである。思えば桜に疎開中の足掛け四年満三年と五カ月、ついぞいやな気持ちを抱かされずにすんだのは、村のひとたち、取りわけ桜部落のひとたちの人情がついに素朴さを失わなかったからである。
あの都会が荒廃しきっていた時代にあって、桜のひとたちだけがなぜ純朴さを保つことが出来たのか。それにはもちろんそのひとたちの持っている農民としての高い誇りもあったのだろうけれど、ひとつには都会からの買い出し部隊が来なかったせいもあったろうと思う。岡山市とはそうとう距離があったけれど、倉敷は目と鼻の距離であった。しかし、倉敷と岡田村とのあいだには一面に田園地帯がひろがっていた。だから多くの農民をスポイルしたであろう買い出し部隊も、桜まで足をのばす必要がなかったのであろう。
倉敷まで出るとヤミ市がそうとう盛んで、タバコなども自由に手に入ったらしい。しかし、私は最後まで手製のタバコで我慢した。
昭和二十一年の日記を見ると十一月二十七日の項に森下夫妻御来訪とあり、その翌日の項に森下夫妻帰られるとある。森下夫婦とはいうまでもなく森下雨村先生ご夫婦であり、森下雨村とは「新青年」の初代編集長である。私にとっては恩師に当たる人物であり、わが一家とは家族ぐるみのおつきあいであったが、戦争中から郷里の土佐へ隠棲していられた。それがその年の十一月所用あってご夫婦で上京され、その帰途桜へ立ち寄られ、ひと晩泊まっていかれたのだが、そのとき私はこういう話を森下先生からうかがった。
「都会はさぞタバコに不自由してるじゃろと思うて、葉タバコを土産に持参したんじゃが、某君のところへそれを持っていくと、帰りに外国タバコを贈れたのには恐れ入ったよ」
そのとき私は某君に対して深い怒りを覚えると同時に、すべてにおいて不自由しているだろうと思っていた都会人のほうが、われわれ農村に住んでいる人間より、はるかに贅沢をしているらしいことを知って安心もした。タバコにして然りとすれば、米や砂糖などにも不自由はないのであろうと、都会人のうちでもある種の人物に対しては、いたずらに同情することは中止することに決心した。しかし、同時に私はその悪習に染まりたくないと思った。桜に住んでいる以上、桜のひとびとと同じ生活をしていきたかったのだ。
昭和二十二年三月三十日の日記を見ると、
「供米いよいよ断末魔となり、部落の人々、眼の色が変わっている。こっちも落着かず仕事出来ず」
と、あるが、これが三月三十一日になると、「供出最終日、絶好の春日和なり、供出どうやら百%に漕ぎつけた由。結構な事なり」
と、あるところをみると、私は一個の疎開者に過ぎなかったけれど、私は私なりに農民諸君と一緒になって、一喜一憂していた姿が彷彿《ほうふつ》としてうかがわれるようである。戦争中米の供出についてさんざん軍に痛めつけられた農民たちのあいだには、戦争はもう終わったのだ、そろそろ政府のいうことを、仰せごもっともと恐れ入っていることはないではないか。供出などもええかげんにしておいたらどうだという説が、一部にはなくもなかったが、わが桜部落に限って供出百%に漕ぎつけたということは、そのヒューマニズムが高く評価されてよいと思うし、そういう純朴な農民気質が私を長く桜に引き留めたのである。
私はまた話相手には困らなかった。日記を見ると藤田嘉文、石川淳一の両君がよく私の寓居を訪ねてきてくれている。藤田君は岡山医大へ復帰し、そこを卒業後岡田村で開業しているようだが、それに反して石川君はついに学校へかえらず、疎開地に落ち着いて学校の先生となり、大いに土地の音楽運動に尽瘁《じんすい》しているようである。私の伜の亮一はいまクラシック音楽の評論家として身を立てているが、これはあきらかに石川淳一君の感化影響なのである。ここで改めて当時の両君のご好誼に感謝の辞を捧げたい。
その年の秋に東京の江戸川乱歩が、いまでも神戸で健在である西田政治をともなって来訪し、わが家で四泊していっている。そのことについても言及したいのだが、この文章もいささか長くなり過ぎたようである。それにその点についてはほかの雑文でも書いているので、ここでは割愛させていただくことにしよう。
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[#見出し] 伜亮一早稲田大学へ入学のこと
[#見出し] 八月一日に東京入りを覘うこと
さて、昭和二十三年になると私はすっかり途方に暮れてしまった。
伜の亮一は東京では府立十中に席をおいていたのだが、疎開してから矢掛中学というのへ転校させてあった。それがその春東京の早稲田を受けさせてみたところ、首尾よくパスしてしまったのである。私もここらが引き揚げどきかもしれないと思ったが、さて帰るに家なしという状態であった。
吉祥寺の家は強制疎開を命じられた人物に貸してあったのだが、ああいう時代に家を明け渡してほしいという因業さは私にはなかった。ましてやその家に満洲からの引き揚げ者かなんかいて、ふた家族か三家族が同居しているときいては尚更のことである。
そのころ東京の出版社のおやじで、杉山市三郎君というのがよく桜の家へ来ていた。この出版社は私の捕物帳を専門に出しているような店で、戦争中私はこの杉山書店で出してくれる、捕物帳の印税のおかげで糊口を凌《しの》いでいたのである。したがってお互いに気心のしれた仲だったが、このひとには子供が一女一男あった。ところが、下の跡取り息子がなかなかの秀才で、戦後仙台二高へ入っていたのはよかったが、不幸にも寮でメチルを飲んで死んでしまった。そのショックから杉山君は戦後いくらか立ち遅れたかたちだったが、二十一年の後半からいくらか立ち直って、二十二年から三年へかけて、月に一度かふた月に二度くらいの割合いで桜の家へ来ていた。ところがなにしろ当時の乗物事情である。東京から岡山までやってくるのはたいへんだったらしくよくコボしていた。
「先生、はやく東京へ帰ってきてくださいよ。こう毎月毎月やってくるのは大変ですぜ」
「それや帰りたいのはヤマヤマだよ。だけどおれ吉祥寺の家は取りあげられたもおなじこと。三界に家なしとはおれのこった。そんなにいうなら、どっか家を探してくださいよ」
などと冗談をいっていたが、この杉山市三郎なのである。亮一が早稲田受験のとき、神保町の家へ預かってくれたのは。神保町の家は不思議に焼けなかったのである。杉山君は死んだ伜のかわりに亮一を可愛がってくれた。さて、その亮一が首尾よくパスしたとなると杉山君は現在私の住んでいるこの成城の家へ亮一をつれていって、この家を譲ってもよいといっているから、お父さんにいって買わせなさい、お金はなんとかなるだろうからというようなことだったらしい。
亮一はその足でおなじ世田谷の海野十三の家へ立ち寄ったのである。そのころ海野十三と私は日文夜文のあいだがらであった。きょうは海野さんから手紙が来ないなあといっていると、翌日はドサッと三通くらいひとまとめにしてやってくるようなことがよくあった。海野十三は私とおなじ結核の前歴者であったが、その頃また病気がぶり返しているらしいということが、手紙のはしばしでわかっていたので、東京へいったら海野さんのところへお見舞いにいくようにと、亮一に申し伝えてあったのである。
ところが東京の友人のなかでも、海野十三だけが私の苦しいお台所を知っていた。当時私はそうとうの収入を持っていたのだが、それらの収入は全部隣村の川辺村にある銀行と郵便局を通じて入ってくるのであった。しかも、その銀行と郵便局には両方とも桜部落の子弟が勤めていた。だから私の収入は部落に筒抜けだし、もしそれ倉敷の税務署員が村を彷徨でもしはじめようものなら、わが家のまえの道路にご近所の悪戯小僧が、
「横溝、何百万円」
など、大きく楽書きするのである。
しかも、当時の税率はなにを基準として算出されていたのであろうか。一億総脱税という想定のもとに算出されていたのではなかろうか。まだ文芸家協会が復活されておらず、作家の必要経費など認められていなかった。そのうえ私は短命で、いつ死ぬかもしれないという信念を持ちつづけていたので、その年の税金はその年の収入で、綺麗サッパリ払っておくという主義であった。うっかり翌年になって追徴金でもバッサリ課せられてきたわ、稼ぎ手の私はくたばっていたわでは、女房子供は露頭に迷わねばならぬだろうという考えかたであった。
地方在住作家のそういう苦しいお台所を、私は冗談半分に海野十三に打ち明け、これだからいつまでたっても東京へかえれそうにありませんと、手紙の端にかいたことがある。だからなんとかしてほしいというつもりは毛頭なかったのだが。
そこへ亮一が出向いていって、ついいま見てきた家の話を打ち明けたのである。家の値段は土地を別として五十万円であった。その頃東京ではタンス貯金というのがはやっていたらしい。出版社あたりから持ってきた金をどこへも預けず、札束のままわが家で保管しておくという方法である。
亮一の話をきくと海野十三夫婦は、立ちどころに札束を畳のうえに積み上げ、通帳という通帳を全部開いてみせ、いまうちではこれだけの金が遊んでいる。ぜひ使ってほしいということであると、亮一からの手紙をよんで私は夢かとばかりに驚いた。窮すれば通ずとはこのことかと自分の太股を抓《つね》ってみたりした。
その後十三自身からも親切な申し出があり、私はすぐそのご好意に甘えようと決心した。そこで十三から三十万出してもらい、杉山君に十万円、私の懐中から十万円出すことにして、ただちに女房を上京させた。そのとき私がすぐに上京しなかったのは、話があまり急だったので、前住者が完全に立ち退くまでには、まだそう暇がかかりそうだというのと、次女の瑠美《るみ》が岡田村の小学校へ通っていたので、学期半ばに転校が可能なりや否かを心配したからである。
こうして一学期が終わるまで夫婦別居と話がきまった。即ち家内は東京の家で亮一の面倒をみ、長女の宜子《よしこ》が桜の家で私と瑠美の世話を焼くということになった。長女の宜子は昭和三年うまれだからもう年頃、それくらいのことは出来る年齢になっていた。
さて、そうなると夢想家の私はひとつの夢を持ちはじめた。出来たら八月一日に東京へ入りたいという夢である。なぜ私が八月一日に固執したかというと、それが徳川家康が江戸城へ入った日だからである。私はべつに天下取りになるつもりはなかったが、まえに述べた兎の雑煮のこともあり、ちょっと権現様にあやかってみたかったのである。
しかし、当時の窮屈な乗り物事情や貨車の都合もあり、そんなことは不可能であろうと思っていると、思いがけないところから援助の手が差しのべられた。桜に在住中の三年五カ月のあいだに私はいくらか「山陽新聞」のお役に立ったかして、それではこちらでなんとかしましょうというわけで、最寄りの清音《きよね》駅へ空の貨車を一台まわしてきたのには、私も驚いたが、清音駅の駅員諸君も驚いたそうである。いや、新聞社の勢力の偉大さには私もいまさら舌をまいて驚嘆せずにはいられなかった。七月三十一日の汽車の切符も新聞社で手配してくれた。
石川淳一君が自分もこの際東京へいってみたいからと、ひと足さきに東京へ立ってくれ、その石川淳一君と入れちがいぐらいに、家内が桜へかえってきた。われわれは家を綺麗に掃除し、久しくお世話になった大家さんにお返しした。夫婦そろって桜の部落へ挨拶まわりもした。そして七月三十一日の午後、夫婦親子四人そろって約三キロある清音駅へ、当時のことだからクルマもなく、徒歩でむかったのだが、あとに蜒々として長蛇のごとくお見送りの列がつづいたのを、私はいまでもハッキリ憶えている。
思えば昭和十四年十二月三十日の午前、私は足かけ六年、まる五年五カ月の転地療養を終えて、信州上諏訪から東京の吉祥寺の家へ引き揚げてきたのだが、そのときも上諏訪駅のプラット・フォームは当時よくあった出征軍人の見送りのごとく賑わった。私がすっかり恐縮していると、見送りのひとりがいった。
「なあに、午前中だからこれだけの人数ですんだんですよ。芸者衆がまだ寝ていますからね。お昼過ぎだともっと混んだでしょう」
上諏訪で最後に住んでいた私の家は、花柳界のどまんなかにあったが、家内は近所の若い芸者たちから、おばさん、おばさんと慕われていたのであった。思えばわれわれはどこへいっても、郷に入れば郷に従う夫婦らしい。
さて、昭和二十三年七月三十一日、私たちは清音の駅でお見送りの人びとと別れたが、加藤の一さんだけが岡山駅まで送ってくれた。ところが汽車が岡山駅へちかづくにつれて、一さんのようすがおかしくなってきた。妙に沈んで口数が少なくなってきたのである。
私たちは岡山駅で伯備線から山陽本線へ乗り換えなければならなかった。一同プラット・フォームへ降り立ったのはよかったけれど、突然一さんが泣き出したのには驚いた。声をあげて号泣しはじめたのである。私にも一さんの気持ちがわかるような気がして、胸がえぐられるようであった。こんなよい人をあとに残してなぜ自分は、東京みたいな殺風景なところへ帰らなければならないのだろうかと思うと、つい私も泣けてきて、滂沱《ぼうだ》として涙が溢れた。
やがて山陽線の上り列車が到着した。私は発車のベルが鳴り渡るまでプラット・フォームにいて一さんを慰め励ましていた。私自身も泣きながら。
やがて発車の時刻がちかづいたので、私も車中のひととなった。そして柱につかまり泣き濡れて、顔もあげられぬ一さんをあとに残して、一路東へむかったのである。八月一日の東京入りを目差して。
[#地付き](了)
[#5字下げ]本書は、徳間書店刊「別冊問題小説」一九七六年夏季号より一九七七年冬季号まで掲載されたエッセイを文庫化したものです。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『金田一耕助のモノローグ』平成5年11月10日初版発行