白蝋《びやくろう》仮面
横溝正史
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目 次
白蝋仮面
バラの怪盗
『蛍の光』事件
[#改ページ]
[#見出し] 白蝋仮面
小男と棺桶
それは東京の桜も散ってしまって、青葉若葉のかげがしだいにこくなっていく、五月なかばの、妙にむしむしする夕方のことだった。
お堀ばたの柳をかすめて、警視庁のまえからまっしぐらに、数寄屋橋《すきやばし》のほうへ走っていく、一台のトラックがあった。
べつにこれといってかわったところもない、ふつうのトラックだが、運転台に運転手とならんで、まえかがみにすわっている男の、黒いちりよけめがねに、顔じゅうかくれてしまいそうなマスクというすがたが、なんとなく気にかかる。
それにもうひとつ気になるのは、トラックにつんだ長方形の箱だが、その大きさといい、形といい、棺桶《かんおけ》そっくりだった。
それは何百万というひとが住んでいる東京都のことだから、棺桶のひとつやふたつ、べつにめずらしいことではないかもしれないが、しかし、そのトラックにつんである棺桶こそ、あとから思えば、あの、世にも奇妙な白蝋仮面《びやくろうかめん》事件の、発端となったのである。
さて、トラックはいましも、数寄屋橋のたもとから、きゅうに左の横町へはいっていったが、諸君もごぞんじのとおり、そこは東京でも有名な新聞街で、一流の新聞社がずらりとならんでいる。
その新聞社のひとつ、新日報社の横町から、いましも一台の郵便車がとび出してきたが、その郵便車がさっきのトラックの横っ腹へ、ドシンとぶつかったからたまらない。
「やいやい、気をつけろ。このばかやろう」
「なにを! てめえのほうからぶつかってきやがって!」
というわけで、いまにもけんかが起こりそうだったから、たちまち、あたりは黒山のようなひとだかり。
しかし、さいわい、どっちの自動車にも故障はなかったので、いいあいをしただけで、まず、郵便車のほうから砂けむりをあげていってしまった。
しかし、トラックのほうはまだ動かない。
それというのが、いまの衝突のあおりをくらって、台の上にのっけてあった白木の箱が、台からころげおちて、すこし箱がこわれたからである。
ところが、トラックを取りまいているひとびとが、なにげなく、ひょいとその棺桶をみると、なんと、箱のこわれ目から、ニューッと、まっしろな男の足がのぞいているではないか。
ああ、そうするとあの箱は、やっぱりほんものの棺桶で、なかには男のひとの死体がはいっているのだろうか。
しかし、お葬《とむら》いの車でもないトラックが、死体のはいった棺桶をはこぶというのは、ちょっとおかしい。死体を移動するということは、警察がとてもやかましくいうはずなのだ。
それはさておき、郵便車がいってしまうと、トラックからノロノロとおりてきたのは、運転手とならんですわっていた、あの黒めがねに、大きなマスクをかけた男だった。
さっきから、どうもからだつきがおかしいと思っていたら、なんと、その男はひとなみはずれた小男ではないか。
トラックを取りまいたひとびとが、あっけにとられて見ていると、その小男は類人猿のようなかっこうで、ノロノロと、トラックの車体にのぼった。そして、腰から金づちをとり出すと、メリメリと棺桶のふたをこじあけたのである。
そのひょうしに、トラックを取りまいていたひとびとがいっせいにのぞきこむと、なんと箱のなかにあおむけに寝ているのは、まっしろな男の裸体像、つまり石膏像《せつこうぞう》ではないか。
「なあんだ、つまらねえ。人形か……」
トラックを取りまいていたひとりが、がっかりしたようにつぶやいた。
「アッハッハ、いっぱいくったよ。しかし、考えてみると、この新聞街のまんなかを、死体をのっけた自動車が、走りまわるはずがないからな」
トラックを取りまいていたひとびとは、ひとり去り、ふたり去り、やがて、ほとんどいってしまった。
そのあとで、小男はゆうゆうと、棺桶のような箱のつくろいをすると、やがてまた運転台へのりかえて、トラックはすぐに、砂けむりをあげて走り去ってしまった。
事件はただそれだけのことだった。
だから、そのときトラックを取りかこんでいたひとびとのなかには、ずいぶん腕ききの新聞記者もまじっていたのだが、これでは記事にもならないやと、なにげなく見のがしてしまったのもむりはない。
しかし、あとから思えば、事件はただそれだけのことではなかったのである。その棺桶のなかには大きな秘密があって、それを見のがした新聞記者は、とんでもない大事件の糸口を、つかみそこなったのだった。
トラックを取りまいていたひとびとのなかに、自転車にのったひとりの少年がまじっていた。その少年は、なまえを御子柴進《みこしばすすむ》といって、この春、中学を出て、新日報社へはいったばかりだが、うまれつき探偵小説がすきで、新聞社でもひまさえあれば、探偵小説ばかり読んでいるので、探偵小僧というあだ名がついている。
その探偵小僧の進はトラックと郵便車が衝突するところを見ていたのだが、なんのこともなく、トラックもいってしまったので、じぶんも、新聞社へ帰ろうとして、ふと足もとを見ると、なにやら、キラキラ光る小さなものが、おちているのが目についた。
進はなにげなく、それをひろいあげてみて、思わずハッとした。
それはふつうのガラス玉ではなく、ダイヤモンドのようだった。むろん、子供の進には、それがほんものかにせものか、わかるはずはないが、それについて進には、思いあたることがあるのだった。
さっき、トラックと郵便車が衝突をして、あの棺桶がガラガラと、台の上からころげ落ちたときだった。
「あぶない!」
と、そばを通りかかった進が、いそいで自転車をとめたとたん、どこから飛んできたのか、カチッと自転車のハンドルにあたって、下へ落ちたものがあった。
進は、しかしそのときは、衝突のほうに気をとられていたので、すぐそのことを忘れてしまったが、いまから考えると、あのときハンドルにあたったのは、このダイヤモンドではなかったか。
しかし、それでは、このダイヤは、いったいどこから飛んできたのか……。
進はすぐに、あの棺桶のような箱のさけ目を思い出した。あの箱が台のうえからころげ落ちて、メリメリとさけたひょうしに、ダイヤがなかから飛び出したのではあるまいか。
新聞社の給仕をしている進は、ちかごろさかんに、ダイヤの密輸がおこなわれていることをきいている。それからまた、それらのダイヤが、いろんなもののなかにかくされて、運ばれるのだということも知っていた。
ひょっとすると、いまの棺桶のなかには、石膏像のほかに、ダイヤがたくさん、かくしてあったのではあるまいか……。
進はとっさに、トラックの走り去った方角をふりかえった。するとさいわい、そのトラックがいましも、丸ビルのほうへまがっていくうしろ姿が見えた。
新聞記者は決断がはやくないとつとまらない。将来、新聞記者になって、奇怪な事件にぶつかりたいと思っている進は、とっさに決心すると、ダイヤをポケットにねじこんで、自転車にとびのり、いちもくさんにトラックのあとを追跡した。
トラックは丸ビルの角をまがって、お堀ばたへ出ると、それから半時間あまり、町から町へと走りつづけたが、そのコースというのがふしぎだった。行先をくらますために、わざとまわり道をしているとしか思えないのだ。
進の心臓は、いよいよはげしくおどった。
ダイヤ密輸の張本人を、つかまえたときのすばらしさを想像した。
しかし、進の空想はまちがっていた。それはダイヤの密輸とは、なんの関係もなかったのである。いやいや、それより、もっとすばらしい、奇怪な事件だったのである。
それはさておき、半時間あまりも東京じゅうをぐるぐる走りまわったトラックが、やがてピッタリ横づけになったのは、麻布《あざぶ》にある、さびしい大|邸宅《ていたく》のまえだった。
もうそのときには、日もとっぷりと暮れはてて、あたりはくらくなっている。
トラックがとまると、運転手と例の小男がおりて来て、トラックから棺桶のような箱をおろそうとした。
進はちょっと思案をしたが、かまわずに自転車を走らせていった。そして、ちょうどそのトラックのそばを通りすぎようとしたときだった。
どういうはずみか、小男がつまずいたからたまらない。棺桶がトラックの上から、ドシンところげ落ちたのだったが、そのとたん、
「いたい!」
という、小さな叫び声が棺桶のなかからきこえてきたのである。
動く石膏像
進はガクンと心臓がおどった。思わずペダルを踏みそこないそうになった。
しかし、そこで立ちどまっては怪しまれる。進は口笛を吹きながら、なにもきこえぬふりをして、そのままそこを通りすぎると、横町へまがって、そこで自転車をとめた。そして、そっとのぞいてみると、もう小男も、運転手も、すがたが見えない。たぶん、あの気味の悪い棺桶を、お屋敷のなかへ運びこんだのだろう。
ちょうどそこへ、近所の酒屋の小僧さんらしいのが通りかかったので、進があのお屋敷のことをたずねると、
「ああ、あのお屋敷ならあき家だよ」
と、小僧さんが答えた。
「あき家?……。だって、トラックがとまってるじゃないか」
「うん、だから、だれか引っ越してくるのかもしれない。あしたあたりご用聞きにいってみようっと」
小僧さんは、口笛を吹きながらいってしまったが、進の胸は、いよいよはげしくおどった。
あき家のなかへ石膏像をかつぎこんで、なににするのだろう。いやいや、あれは、ほんとの石膏像だろうか。ひょっとすると、あの石膏像のなかには、ひとがかくれているのではないだろうか。
進があれこれ、そんなことを考えていると、むこうからトラックのエンジンの音がきこえてきた。そこでもういちどのぞいてみると、トラックはこっちへやってくるようすである。
進はいそいで自転車を、そばにあった溝にかくすと、電柱をのぼり、お屋敷のなかからのぞいている、桜の枝のしげみのなかに身をかくした。
と、ちょうどそのとき、トラックが角をまがって、進の目の下を通りすぎていったが、なかにはむろん棺桶もなく、また小男のすがたも見あたらない。それでは、小男はあの棺桶といっしょに、あき家のなかにのこったのか……。
進はいよいよ胸をおどらせて、桜の枝からおりようとしたが、ふと気がつくと、いま、じぶんののぼっている桜は、あのあき家の庭にはえているのである。
そう気がつくと、進はからだのむきをかえて、あき家のなかを見おろした。
それはずいぶん広いお屋敷で、庭にはいっぱい木が植わっている。大きな日本建築のうちと、それから、それにつづいた洋館が見えたが、日本建築のほうが、まっくらなのに、洋館の窓のすきまから、チラチラとあかりがもれているのである。
「うん、あそこにいるんだな」
進はもう一度、塀《へい》の外を見まわしたが、自転車はうまく溝のなかにかくれている。それにもうまっくらだから、たとえひとが通っても、気がつくはずはない。進は安心して、桜の幹をすべりおりると、そっと庭におり立った。
それにしても、ずいぶん荒れたお屋敷で、庭にはいちめんに草がはえている。進は、できるだけ音をたてないように気をつけて、洋館のほうへはいよった。
洋館の窓にはよろい戸がしまっている。しかし、なにしろ古いお屋敷だから、そのよろい戸がところどころ破れて、そこからあかりがもれているのだ。
進は起きあがると、そっとよろい戸の破れから、なかをのぞいてみた。
なかは十畳じきくらいな、ガランとした洋間だったが、その中央においてあるのは、あの長方形の箱であった。その箱のそばにひざまずいて、ふたをこじあけようとしているのは、あの気味の悪い小男である。
小男は一本一本くぎをぬき取った。そのたびに、キイキイと、いやな音がへやのなかにひびいた。小男はとうとう、くぎをぬいてしまって、ふたを横へとりのけたが、そのとたん、進は、頭からつめたい水をぶっかけられたようなおそろしさを感じたのだった。
ああ、なんということだろう。小男がふたを取りのけたとたん、箱のなかからムクムクと、石膏像が起きあがったではないか。
「アッ!」
進が思わずそうさけんだときだった。
「この小僧!」
うしろからどなる声がきこえたかと思うと、進はもんどりうって、土のうえに投げつけられてしまった。そのとき、さっき拾ったダイヤモンドが、ポケットのなかからころがり出して、モグラの穴へはいるのが見えたが、進は、しかしそれを拾うひまもない。
上からだれかがのしかかって、進はみるみるうちに、さるぐつわをはめられ、手足をしばりあげられてしまったのである。
深夜の怪放送
「ボス、怪しい小僧が窓のすきまから、このへやをのぞいていましたから、ひっとらえてまいりました」
そこはあの洋間のなかである。ゆかの上に投げ出された進のまえには、あのふしぎな石膏像が、仁王立ちに立っている。
進は恐怖の目を見はって、下からその石膏像を見あげたが、すぐそれが石膏像でもなんでもなく、ふつうの人間であることに気がついた。
そいつはぴったり身についた、シャツとズボンをはいていて、その上から、いちめんにベタベタと石膏をなすりつけているのだ。そして、顔にはお面のようなものをかぶり、その上にも石膏がなすりつけてある。それはひたいの中央に、みじかい角がはえた、西洋の鬼のような仮面だった。
諸君。きみたちは人間の皮膚には毛穴があって、それが呼吸していることを知ってるだろう。そして毛穴をぬりつぶしてしまうと、たとえ鼻と口とで息をしていても、死んでしまうこともごぞんじだろう。
だから、その男も、もし全身に石膏をぬっていたら、息がつまって死んだはずだった。
しかし、そいつが石膏をぬっているのは、からだのまえのほうだけで、背中もおしりも手も足も、裏がわのほうは何もぬらず、肉にくい入るような、まっしろなシャツやズボンを着ているだけだった。そして、そのズボンのおしりには、長いしっぽがぶらさがっているのだ。
それにしても、そいつはなんだって、こんな妙ななりをしているのだろうか。
ふしぎな石膏人間は、上から進を見おろしながら、
「きさま、どうしてここをのぞいたのだ」
と、われがねのような声でたずねた。
「ぼく、ぼく、あき家のなかへ棺桶みたいなものを、あのおじさんが運びこむのを見たもんだから、へんに思って、そのなかへしのびこんだんです。そしたら、そこの窓から、あかりがもれていたもんだから……」
「そうか。それにちがいないな。まさか、トラックのあとをつけてきたんじゃあるまいな」
「とんでもない。ぼくのおうち、すぐこの近所なんです」
「よし、川北、山下、こいつのからだをしらべてみろ」
すぐに小男と、さっきの進を投げとばした男が、進の身体検査をした。進を投げとばした男は、ボクサーのような大男で、目にマスクをかけていた。
「ボス、べつになにも持っていませんが……」
進はそのとき、さっき投げとばされたひょうしに、ポケットからダイヤがころがり出たことをどんなに感謝したかわからない。もしあのダイヤが見つかったら、トラックをつけてきたことが知れ、どんな目にあったかもわからないのである。
「そうか、よし」
「ボス、こいつを、どうしましょう。いっそ、しめ殺してしまいましょうか」
ボクサーのような大男が、進ののど[#「のど」に傍点]に大きなてのひらをあてた。進はゾッとして、思わず目をつむった。
「いや、それにはおよぶまい。それよりおれは、今夜こいつを利用しようと思うんだ」
「利用するって?……」
小男がマスクの奥でボソボソいった。
「われわれの声は、あの女のまわりのものに知られている。あの女ひとりだけならいいが、そばにだれかついているとまずい。だから、われわれにかわって、この小僧に放送させようと思うんだ」
「なるほど。しかし、この小僧が、しゃべるのをいやだといったときは……」
「そのときは、おまえの手でしめ殺してもらうさ。アッハッハ」
石膏人間のつめたい笑い声をきいたとたん、進は、またゾッとするような恐ろしさを感じた。
「よろしい。そのときにはわたしが、ひと思いにしめ殺してやります。しかし、それまでにはまだ六時間ありますね」
「そう、だから、それまではかわいそうでも、もう一どさるぐつわをはめ、逃げないようにしばりあげておかねばならぬ」
進は、さるぐつわをはめられた。そして、もう一どしばりなおされると、ゆかの上に投げ出されてしまった。
そうしておいて三人は、あかりを消して、このへやから出ていってしまったのである。
それにしても、ふしぎなのはボスのことばだった。進に、いったいなにを放送させようとするのだろうか。
さて、それから六時間ほどたった。
さるぐつわをはめられ、がんじがらめにしばられた進は、手足のナワをとこうとして、どんなにもがいたかしれない。
しかし、あのボクサーのような大男の、強い力でしばられたむすびめは、とても少年の力ではとけなかったのだ。
こうして真夜中の一時すぎ、つかれはてた進が、ついうとうととしていると、ボクサーと小男がやってきて、
「おや、こいつ、大胆なやつだ。ねむってやがる。やい、小僧。起きろ、起きろ」
と、いやというほど足でけられて、進は、ハッと目をさました。
「さあ、これからおまえに用があるんだ。ナワをといてやるから、こっちへこい。ただし、声をたてると、承知しないぞ」
ボクサーは、マスクの奥からすごい目でにらみながら、ナワをとくと、小男と左右から、進の手をとって、つぎのへやへつれていった。
見ると、そこは、コンクリートづくりの、箱のようなせまいへやで、窓もなく、ドアも二重になっていて、どうやら完全な防音装置がほどこされているらしいのである。
そして、へやの中央のテーブルには、マイクロホンがおいてあり、いましも石膏の怪人が、それにむかって、なにやらおまじないみたいなことをささやいているところだった。
やがて、おまじないがおわると、石膏の怪人はマイクのスイッチを切り、進の方をふりかえると、
「小僧、ここへこい」
「はい……」
と答えたものの、進は、気味が悪くて、足が前へすすまない。
「なにをぐずぐずしているんだ。こいといったらはやくこないか」
どなりつけられて、進がふるえながらそばへよると、怪人は一枚の紙を渡して、
「小僧、声をだしてこれをよんでみろ」
見るとその紙には、妙なことが書いてあった。進がそれをよみはじめると、
「いかん、いかん。そんな早口じゃいかん。もっとゆっくり、ささやくように……そうだ、ここにある写真の主に、話しかけるようなつもりでよんでみろ」
そういわれてマイクのそばを見ると、そこには十四、五歳のかわいい少女の写真がかざってあった。進は、なんどもなんどもよみかたを訂正されたが、それでもやっと怪人の気にいったのか、
「よし、いまの調子をわすれるな。さあ、これからいよいよ放送だ。おちついてやれ」
怪人がマイクのスイッチをいれると、進はいよいよ放送をはじめたが、それは、なんともいえぬ、へんな文句だった。
「起きろ、起きろ、起きろ……へやをでて、へやをでて、へやをでて……左へ、左へ、左へ……三番めのドア、三番めのドア、三番めのドア……はいれ、はいれ、はいれ……右のかべ、右のかべ、右のかべ……それをとれ、それをとれ、それをとれ……まわれ右、まわれ右、まわれ右……五歩前進、五歩前進、五歩前進……右手をあげろ、右手をあげろ、右手をあげろ……ふりおろせ、ふりおろせ、ふりおろせ」
「もっと、ゆっくり」
そばから怪人が、小声で注意した。
進は汗びっしょり。それでもそばから怪人が、ものすごい目を光らせているものだから、しかたなしによんでいく。
「手のものをすてろ、手のものをすてろ、手のものをすてろ……洋だんすのまえへ、洋だんすのまえへ、洋だんすのまえへ……いちばん上のひきだし、いちばん上のひきだし、いちばん上のひきだし……ビロードの小箱、ビロードの小箱、ビロードの小箱……それをとれ、それをとれ、それをとれ……へやへ帰れ、へやへ帰れ、へやへ帰れ……小箱をベッドの下へ、小箱をベッドの下へ、小箱をベッドの下へ……寝ろ、寝ろ、寝ろ……わすれろ、わすれろ、わすれろ」
進が奇妙な文句をよみおわったとたん、怪人はマイクのスイッチを切り、
「アッハッハ、よくできた、よくできた。それじゃほうびをやろう。それ、山下」
怪人が合図をすると、ボクサーがいきなりうしろからだきしめて、なにやらしめったハンカチみたいなものを、ピタリと進の鼻にあてがった。
進はいうまでもなく、必死になってもがいたが、そのうちに、あまずっぱいにおいが鼻から頭へ、ツーンとぬけると、やがてぐったりとねむりこけてしまったのである。
怪盗白蝋仮面
さて、それからどれくらいの時間がたったのか進がふと目をさますと、やぶれたよろい戸のすきまから、あかるい朝の光がさしこんでいた。ハッとして腕時計を見ると、九時ちょっとすぎだった。
へやのなかを見まわすと、むろんもう怪人もボクサーも、小男のすがたも見あたらない。いや、そればかりではなく、テーブルやマイクロホン、少女の写真もなくなっているのである。
進は、いそいでゆかからとびおきようとした。なんだか頭がズキズキいたんで、足がふらつく感じだったが、いまはそんなことを気にしているばあいではない。
大いそぎで洋館からとびだすと、そのまま門の外へかけだそうとしたが、そのとき、ふと思いだして、ゆうベボクサーに投げつけられた、窓の下まで帰ってきた。
そして、見おぼえのある、モグラの穴を掘ってみると、あった、あった。ダイヤがさんぜんと光っているのである。
進は、それをポケットにつっこむと、内から外へとびだして、ゆうべ自転車をかくしておいたところへ帰ってきたが、さいわい、そのへんは人通りの少ないうえに、溝がふかくてうまくかくされていたので、自転車はまだそこにあった。
ホッと胸をなでおろした進は、自転車をひっぱりあげると、有楽町《ゆうらくちよう》にある新日報社めざしていちもくさん。
ところが、日比谷《ひびや》の角まで来たときである。そこにある新聞売り場のポスターを見て、進は思わずギョッとして自転車をとめた。
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[#ここからゴシック体]
怪盗白蝋仮面、石膏像となってまんまと逃走
[#ここでゴシック体終わり]
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そんな文字が電光のように、進の目をつらぬいたからである。進は、大いそぎで新聞を一枚買うと、自転車を道ばたによせ、むさぼるようによみだしたが、そこには、つぎのような意味のことがのっているのだった。
怪盗白蝋仮面が、芝高輪《しばたかなわ》の東洋ビルにかくれていることをつきとめた警視庁では、きのう数十名の警官をくりだして、ビルディングのまわりをとりまかせた。
この東洋ビルというのは、六階だてだが、一階から三階までは貸事務所、四階と五階がアパートになり、六階はいろいろな催しごとをする、ホールになっている。
さて、白蝋仮面がこのビルディングにかくれていることは、わかったものの、何階のどのへやにいるかということまでは、わからなかった。そこで警官たちは、手わけして、しらみつぶしにへやをしらべていった。
ところが、そうしているところへ、六階からボクサーのような大男と小男が、棺桶みたいな大きな箱をかついで、おりてきた。むろん、警官たちは怪しんで、箱のふたをあけさせたが、なかにはいっているのは、悪魔サタンの石膏像だった。
ちょうどきのう、東洋ビルの六階では、絵画や彫刻の展覧会がおわったところで、ほかにも絵や彫刻をはこびだすひとがおおぜいいたので、警官たちも怪しまずに、悪魔サタンの像を、通したのだった。
ところが、あとでわかったところによると、そのサタン像のなかにこそ、白蝋仮面がかくされていたらしいというのである。警官に十重二十重《とえはたえ》とビルディングをとりかこまれた白蝋仮面は、全身に石膏をぬって石膏像となり、まんまと警官の目をくらましたのだった。
いやいや、そればかりではない。白蝋仮面の石膏像をのせたトラックは、わざとまわり道をして、新聞街のなかをつっきり、腕ききの記者たちをしりめに走っていったのである
ああ、なんという大胆さ! なんという悪がしこさ。
探偵小僧の御子柴進は、この記事をよむと、ブルブルからだがふるえてきた。それでは、きのう自分がつけていったのは、怪盗白蝋仮面だったのか!
それにしても、白蝋仮面とは何者なのか。それはいま評判の怪盗なのである。全国の警官たちが、やっきとなって追っかけまわしても、ついぞ、しっぽをつかまれたことがないという、それこそ、神出鬼没の怪盗なのだった。
白蝋仮面というあだなはあっても、そいつはべつに仮面をかぶっているわけではない。そいつはまるで、顔そのものが白蝋でできているみたいに、自由自在にかわるのである。つまり、変装の名人なのだ。
そこで、ひとよんで白蝋仮面。
それはさておき、新聞をよんでしまうと、探偵小僧の御子柴進、キッとくちびるをかみながら自転車にのって、いちもくさん、新日報社さして帰っていった。
一柳家の事件
ちょうどその朝、新日報社は上を下への大さわぎだった。それというのが、白蝋仮面も白蝋仮面だが、もうひとつ大事件が起こっていたのである。
御子柴進が編集室にとびこむと、ハチのすをつついたようにいそがしいへやの一隅で、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》が電話をかけていた。三津木俊助というのは、新日報社の宝といわれる腕きき記者、新聞記者というよりも、いまでは名探偵として有名である。御子柴進が新日報社へ入社したのも、このひとにあこがれていたからだった。
「三津木さん。三津木さん、ちょっと……」
俊助が電話をかけおわるのを待って、進が声をかけると、
「おお、探偵小僧、どうしたい。きみはゆうべ帰らなかったというじゃないか。さっきおうちから心配して電話をかけてきたぜ」
「それについて話があるんです」
「いや、話ならあとにしてくれ。きょうはとてもいそがしいんだ。それより、おうちへ電話をかけておきな」
そこへ写真部のひとが、いそがしそうにはいってくると、
「三津木さん。引きのばしをしてきましたが、これくらいでいいですか」
そういいながら、デスクの上へおいた写真をひとめ見るなり、進は思わず、アッと叫んだ。なんと、それこそ、ゆうベマイクロホンのそばにかざってあったのと、おなじ少女の写真ではないか。
「おい、探偵小僧。きみはこの少女を知っているのか」
進の顔色を見て、三津木俊助がふしぎそうにたずねた。
「はい、知っています。いいえ、このひとを知っているわけではありませんが、ゆうべあるところで、このひとの写真を見たのです」
「あるところって、どこ?……」
「いえいえ、それより三津木さん、このひと、いったいどうしたんです。なにか新聞にのるようなことをしたんですか」
「ふむ、じつはね。この少女はじぶんのおじいさんを殺して、宝石をとろうとしたんだ。さいわい、おじいさんのほうは、気絶しただけで助かったが、宝石の行方はわからない」
進はきゅうにガタガタふるえだした。
「み、三津木さん。ひょっとすると、その宝石というのは、ビロードの小箱のなかにはいってやしませんでしたか」
「なに!」
俊助は、ふいにいすから立ちあがった。
「おい探偵小僧、きみはどうしてそれを知っているのだ。この事件は、けさ六時ごろ発見されたばかりで、まだどの新聞にもでていないはずだが」
「三津木さん! それについてはいずれあとで話します。それより話してください。この少女はどこのなんというひとで、いったい、どんなことをしたのです」
ガタガタふるえている進を、怪しむように見つめながら、それでも三津木俊助が話してくれたところによると、こうだった。
少女の名は一柳由紀子《いちやなぎゆきこ》といって、有名な宝石王、一柳鶴平老人の孫だった。
由紀子は幼いとき両親をうしなったので、いまでは祖父の一柳鶴平老人とただ二人、多くの使用人にかしずかれながら、小石川《こいしかわ》の高台にある、ひろいお屋敷に住んでいるのである。
さて、けさの六時ごろ、お手伝いが由紀子を起こしにいくと、ぐっすりとしてベッドの上に眠りこけている。由紀子のパジャマの胸のあたりに、サッと血のとんだ跡がついていた。
おどろいてお手伝いが由紀子をゆり起こし、わけを聞いてみたが、由紀子にはぜんぜんおぼえがないという。ゆうべ寝るときには、そんなものはついていなかったし、由紀子はべつに、どこにもけがはしていないのである。
そこでふしぎに思って、ふたりが、おじいさんの鶴平老人を起こしにいくと、鶴平老人はベッドのなかで、血に染まって気絶しており、ベッドのそばにも血にそまったゴルフのクラブが落ちていた。
「そこで、大さわぎになって、おまわりさんをよんできて、いろいろしらべてもらったところ、鶴平老人の頭をなぐって気絶させたのは、由紀子さんにちがいないということになったんだ」
三津木俊助はくらい顔をして、
「それというのが、由紀子さんのパジャマの胸にかえり血がついているばかりではなく、パジャマのボタンがひとつ、鶴平老人のベッドのそばに落ちていたんだ。そればかりではなく、鶴平老人をなぐったクラブの柄をしらべたところが、由紀子さんの指紋がついていたんだよ」
進は、いよいよはげしくふるえながら、
「そして、そして、宝石のはいったビロードの小箱というのは、鶴平老人のへやにある、洋だんすのいちばん上のひきだしにあったんじゃありませんか」
「進くん!」
「いいえ、いいえ。三津木さん、わけはあとで話します。それよりぼくを一柳さんのところへつれていってください。ぼくはなにもかも知っています。由紀子さんがなぜそんなことをしたか、また、ビロードの小箱がどこにあるかということも……」
三津木俊助はびっくりしたような目で、進の顔を見守っていたが、なんにもいわずに、受話器をとりあげると、大いそぎで、自動車を命じた。
宝石のありか
小石川にある一柳邸は、警官たちが厳重に見張っていて、だれひとりなかへはいれない。ことに新聞記者ときたら、かたっぱしから追っぱらわれてしまった。
しかし、さいわい三津木俊助は鶴平老人としたしいあいだがらだったから、新聞記者としてではなく、友人として迎えいれられた。むろん、御子柴進もいっしょである。
鶴平老人は頭のほうたいもいたいたしく、二階の寝室に寝ていた。きずのほうは大したことはなかったのだが、精神的なショックにまいっているのである。
それはそうだろう。目のなかへいれても、いたくないほどかわいがっている孫が、自分を殺そうとしたのだから、だれだってびっくりせずにはいられまい。
それはさておき、三津木俊助と進が、へやのなかへはいっていくと、そこには鶴平老人のほかに三人のひとがいた。
ひとりはひとめでそれとわかる由紀子。まっさおになって涙ぐんでいる。その由紀子から、いろいろ事情をきいているのは、俊助や進も顔見知りの警視庁の等々力《とどろき》警部。
それから、もうひとり色の浅黒い、きびきびとした態度の紳士は、花田卓蔵《はなだたくぞう》といって、弁護士だった。鶴平老人にたのまれて、由紀子をすくうためにかけつけたのである。
「おお、これは三津木くん。よくきてくれた。わしはどうしてよいかわからん。由紀子は気でもくるったのだろうか」
鶴平老人はもう涙声である。
「いや、ご老人。それについてここにいる少年が、なにもかも知っているというのでつれてきました。これは御子柴進といって、うちの社の給仕、あだ名を探偵小僧というのです」
「えっ、その少年が?……」
一同はびっくりしたように進をふりかえった。進はいささか固くなりながら、
「おじいさまにおききしたいことがあります。おじいさまをなぐったゴルフのクラブというのは、ドアをはいって右のかべにかけてあったのではありませんか」
鶴平老人はふしぎそうにうなずきながら、
「そう、そのとおりだが、きみがどうしてそれを知っているんだな」
進は、それには答えず、
「それから、盗まれた宝石というのは、ビロードの小箱にはいって、あの洋だんす[#「だんす」に傍点]のいちばん上のひきだしにしまってあったのでしょう。
いえいえ、ちょっと待ってください。それから由紀子さんの寝室というのは、このドアを出て、右へいくと三番めのへやですね」
「進くん。き、きみはどうしてそんなくわしいことを……」
「三津木さん、ちょっと待ってください。ぼくはそのビロードの小箱がどこにあるか知っています。みなさん、きいてください」
進がドアから外へとび出すと、みんなびっくりしてついてきた。寝ていた鶴平老人まで起きてきた。進は三番めのドアのまえまでくると、
「これが由紀子さんのへやですね。はいってもいいですか」
「どうぞ」
ドアを開くと、あけはなった窓のむこうに、ビルディングでも建つのか、高い鉄骨がそびえているのが見えた。
しかし、進はそんなものには目もくれず、つかつかとベッドのそばへよると、敷きぶとんとマットレスのあいだをさぐっていたが、
「ほら、ありました」
と、取り出したのはビロードの小箱である。それを見ると、由紀子はワッと泣きだしたが、進はそれをなぐさめようと、
「いいえ、由紀子さん、泣くことはありません。ゆうべあんなことをしたのはあなたですが、それはあなたの意志ではなかったのです。
あなたは催眠術をかけられて、悪者の思うままにあやつられたのです。しかも、催眠術をかけたやつは、このへやにいたわけではなく、遠くのほうから、特殊なラジオであなたに指令をあたえたのです。
みなさん、さがしてください。このへやのどこかに、きっと特別波長のラジオの受信器がかくしてあるにちがいありません」
一同はびっくりしたような顔をして、ただ目と目を見かわすばかり。
そのときだった。
とつぜん、へやのなかのどこからともなく、世にも恐ろしい声がきこえてきたのである。
「小僧! よくもわれわれのたくらみをしゃべりやがったな。この仕返しはきっとするからおぼえていろ!」
それはききおぼえのある、あのボクサーのような大男の声だった。
鉄骨上の男
それをきいておどろいたのは鶴平老人に由紀子、三津木俊助に等々力警部、それから花田弁護士である。
いままでみんな、半信半疑で探偵小僧の話をきいていたのだが、いまの声をきくと、もう、うたがいの余地はなかった。
「あっ、やっぱりそうだ。探偵小僧のいうとおり、このへやのどこかに、特別波長のラジオの受信器がかくしてあるにちがいない」
そこでみんなで手わけして、声のきこえてきた方角をたよりに、ベッドの枕もとをさがしていたが、やがて、
「あったぞ、あったぞ。こんなところにかくしてあったぞ」
と、そういう声は三津木俊助。
なるほど、見ればかべにかかった油絵のうしろに、スピーカーがはめこんであるではないか。
それを見ると、鶴平老人は目に涙をうかべて、探偵小僧の手をにぎりしめた。
「ありがとう、ありがとう。御子柴くん、おかげで由紀子のうたがいは晴れた。わしはこんなうれしいことはない」
鶴平老人が礼をのべるかたわら、三津木俊助も肩をたたいて、
「でかしたぞ、探偵小僧。しかし、きみはどうしてこんなことを知っていたのだ」
「すみません」
探偵小僧の御子柴進は、ペコリと頭をさげると、
「じつは由紀子さんをそそのかした放送はぼくがしたんです。でも、ぼく、こんな恐ろしいことになるとは夢にも思いませんでした。悪者におどかされて、しかたなしに放送の原稿を読んだんです」
「悪者……悪者ってだれだい?」
「白蝋仮面です」
「な、な、なんだって?」
三津木俊助と等々力警部は、ゆかからとびあがっておどろいたが、
「おい、探偵小僧。もっとくわしい話をしてくれたまえ。きみは白蝋仮面を知っているのか」
「いいえ、そういうわけではありませんが……」
と、そこで進は、ゆうべからのできごとをのこらず語ってきかせると、
「しかし、警部さん、三津木さん、ぼくはふしぎでなりません。いまの声はたしかに白蝋仮面の部下の、ボクサーのような大男の声でしたが、そいつはどうしてぼくがここで、秘密をばらしていることを知ったのでしょう。ひょっとするとどこからか……」
と、そういいながら進は、窓のそばへよって外をながめたが、きゅうに大声をあげて叫んだ。
「あっ、あそこだ、あそこだ。あの鉄骨を、いまおりていきます」
由紀子のへやの窓のむこうに、ビルディングでも建つのか、高い鉄骨がそびえていることは、まえにも書いておいたが、なるほど、見ればその鉄骨を、いましもサルのようにおりていくひとりの男。
それはたしかに白蝋仮面の部下の、あのボクサーのような大男である。しかも、胸に移動マイクをぶらさげているところを見ると、いまの放送もその男にちがいないのだ。
「ちくしょう! それじゃあんなところからこのへやを見張っていたんだな。三津木くん、いっしょにきたまえ」
「ようし!」
等々力警部は、下から警官たちをふたりよびよせると、鶴平老人と由紀子の番をさせ、じぶんは三津木俊助とともに家からとびだしていった。探偵小僧の御子柴進も、むろんあとからついていく。
弁護士花田卓蔵氏は、ちょっとためらっていたが、これまた心をきめたように、すこしおくればせながら、一同のあとについて家をとびだしていった。
地下の迷路
さて、こちらは鉄骨上の大男である。
からだのわりに身がるなやつとみえて、サルのようにスルスルと、鉄骨をつたっておりていった。そのまま鉄骨をおりてしまえば、警部や三津木俊助も、まにあわなかったのにちがいないが、それが天ばつとでもいうのか、とちゅうでへまをやってしまったのだ。
それというのは、あまりあわてていたために、鉄骨からとびだしている、ボルトに気がつかなかったのだが、そのボルトが毛糸のジャンパーにひっかかったからたまらない。
「しまった!」
と叫んで、ボルトをはずそうとしたが、なにしろものが毛糸のうえに、足場の悪い鉄骨の上だから、あせればあせるほど、いよいよ毛糸がもつれてくるのだ。
「ちきしょう、ちきしょう」
口のうちで叫びながら、それでもやっとボルトをはずしたときには、むこうのほうから等々力警部に三津木俊助、それから探偵小僧の三人が、二、三人の警官をうしろにしたがえ、こちらにむかって走ってくるのが見えた。
「しまった」
と叫んだボクサーは、それから大いそぎで鉄骨をすべりおりたが、そのときすでに一同が、作業場のかこいのなかへなだれこんでくるのが見えた。
「とまれ、神妙にしろ! 命令にしたがわぬとうつぞ!」
先頭に立った警部が叫んだ。
ボクサーは絶望的な目つきをして、キョロキョロあたりを見まわした。
きょうはさいわい、作業は休みとみえて、あたりに人影はないが、高いかこいをめぐらした作業場は一方出口で、どこにも逃げる道はない。
「おとなしくしろ。動くとうつぞ!」
警部の一行はしだいにこちらへ近づいてきた。ボクサーはまたキョロキョロと、逃げ道はないかとあたりを見まわしたが、そのとき、ふと目についたのは、二、三メートルほどむこうに、ポッカリあいた四角な穴である。
それは地下室の入り口なのだ。むろん、まだ作業ちゅうなので、すっかりできあがってはいないが、コンクリートづくりの階段が、ななめについているのが見える。
それを見るとボクサーは、サッと身をひるがえして、穴のなかへとびこんだ。
「おのれ、逃げるか!」
あわててその場へかけつけて来た等々力警部、
「あっ、こんなところに地下室の入り口が……」
「警部さん、なかへはいってみましょう」
「よし!」
警部は警官たちを入り口の外に待たせて、俊助のあとについて階段をおりていった。あとからふたりの警官と探偵小僧の御子柴進もついていく。
まだ、電気の設備ができていないので、地下室のなかはまっ暗だった。それに工事ちゅうのこととて、ゴタゴタといろんなものがおいてあるので、足もとのあぶないことといったらない。
「ちくしょう。こんなことと知ったら、懐中電燈を持ってくればよかった」
さいわい三津木俊助がライターを持っていたので、それをたよりに、地下室のろうかを進んでいった。
このビルディングは、かなり大きなものになるらしく、地下室もずいぶん広い。それに地下室のほうは、もうだいぶ工事が進んでいるらしく、へやとろうかのくぎりができているので、まるで迷路みたいである。
「ちきしょう。いったいどこへかくれやがったか」
一同はひとつひとつ、へやのなかをのぞいていった。へやのなかにもろうかのすみにも、セメント樽《だる》やセメント袋がゴタゴタにならべてあったが、ボクサーのすがたは、どこにも見あたらない。
「ひょっとすると、ほかにも入り口があって、そこから逃げだしたのじゃないか」
「しかし、それなら、警官がなんとか声をかけるはずです。とにかく、もうすこしむこうへいってみましょう」
一同がなおも前進をつづけていくと、まもなくろうかのむこうから、だれかこちらへやってくる足音。それをきくと一同は、ギョッとして顔を見あわせた。
「ひょっとすると、さっきのやつが……」
「いや、それにしては足音がみだれておりません。ひとつ声をかけてみましょう。だれだ、そこへくるのは?……」
「ああ、そういう声は三津木くんですね。さっきのやつはどうしましたか」
そういいながら足をはやめて、ろうかのむこうから近づいてきたのは、なんと花田弁護士ではないか。
仮面の推理
「おお、花田さん。あなたは、どこからここへやってこられたのですか」
「あっちのほうにも入り口があるんですよ。悪者が地下室へとびこんだというので、わたしは、あっちの入り口からはいってきたんです」
「悪者におあいになりませんでしたか」
「いいや、あいませんでした」
「しかしひょっとすると悪者は、どこかにかくれて、あなたをやりすごし、そのあとで、あっちの入り口から逃げだしたのじゃありませんか」
「そんなことはないでしょう。いっしょに来たおまわりさんに、入り口の外で待っててもらうようにしておきましたから、悪者がとびだせば、なんとか声をかけるはずです」
それをきくと等々力警部は、両手を打ってよろこんだ。
「ははあ、わかりました。ようし、そうすると悪者は、まだこの地下室にかくれているんだな。こうなったら、袋のなかのネズミも同じだ。みんなで手わけをしてさがしてみよう」
「いや、ちょっと待ってください。そのまえに、ほかにもまだ入り口がないかしらべてみましょう」
そこでいったん外へ出た一同は、かこいの内部をしらべてみたが、地下室への入り口はふたつしかない。そして、その入り口にはどちらも警官が番をしていて、悪者はまだ出てこないというのである。
「ようし、それじゃ、いよいよ袋のなかのネズミだ。きみ、どこかへいって懐中電燈を五、六本かりてきてくれたまえ」
警官はすぐに、懐中電燈の用意をしてきた。みんなそれを一本ずつ持って、ふた手にわかれて地下室へおりていった。進も、懐中電燈を一本もらって、三津木俊助のあとからついていった。
こんどはみんなが懐中電燈を持っているので、地下室もわりに明るい。
一同はかたっぱしから、へやのなかをしらべていったが、やっぱりどこにも悪者のすがたは見あたらない。しかも、そのうちに、むこうの入り口からはいって来た等々力警部や花田弁護士と、ばったり出あったのである。
「おや、警部さん。あなたのほうにもさっきのやつはいませんでしたか」
「いなかったよ。きみのほうにもいないのかい」
「見えませんでした。へんですねえ」
「妙だなあ。いったい、どこにかくれていやがるんだろう」
一同がぼうぜんとして、顔を見あわせているときだった。
「わっ、み、み、三津木さん」
と、かなきり声をあげてとびあがったのは、探偵小僧の御子柴進だ。
「あ、あ、あんなところから血が……」
「な、な、なに、血が……どこに、どこに……」
「ほら、あのセメント樽の底から……」
進がサッと照らしたところを見て、一同は思わずギョッと息をのみこんだ。
ろうかのすみに、大きなセメント樽がひとつおいてある。俊助はさっきそのふたを取って、なかをのぞいてみたのだが、セメントが口のところまで、いっぱいつまっていたので、そのまま、ふたをしたのである。
ところが、いま進にそういわれて、セメント樽の底を見ると、なんと、そこから赤黒い血が、ぶきみにしみだしているではないか。
しかも、その血は一同の目のまえで、しだいにひろがっていくのだ。
「あっ、それじゃ、この樽のなかに……」
俊助はあわててふたをとり、セメントのなかへ手を突っこんだ。しばらくしてぬきだした手を見ると、グッショリ血にそまった短刀をにぎっているではないか。
「あっ、それじゃ、あいつはこの樽のなかで自殺したのか」
「いや、そうじゃなさそうです。短刀の突っ立っていたのは背中のようでしたから……とにかく死体を樽のなかからひっぱりだしてください」
すぐさまふたりの警官が、力をあわせて、樽のなかから死体をひっぱりだしたが、見ると、それはたしかに昨夜のボクサーだった。そして、その肩のあたりに、深い突ききずがあるのだ。
「あっ、そ、それじゃこいつ、殺されたのか」
「そうですよ。警部さん。世のなかに自分の背中をついて自殺するやつがあるだろうか。だれかがこいつを殺したのだ。そして、その犯人はまだこの地下室の、どこかにかくれているはずです」
進は思わずゾッとして、暗い地下室をみまわした。
セメント樽の怪
さあ、たいへん、たとえ悪者にしろ、ひとひとりが殺されたのだから、そのままではすまされない。
等々力警部は、さっそく電話をかけて、おおぜいの応援の警官をよびよせると、地下室のなかを、すみからすみまでしらべさせた。しかし、ふしぎなことに、犯人はどこにもかくれていないのである。
「へんだなあ。それじゃ、いったいどこから逃げたのだろう」
しかし、その逃げ道もないのだ。三津木俊助は、しばらくだまって考えこんでいたが、やがて何を思ったのか、
「警部さん、とにかくいちおう、一柳さんのところへひきあげようじゃありませんか。ここは警官たちにまかせておけばだいじょうぶ。花田さん、あなたもいっしょにどうぞ」
そこで、あとは警官にまかせておいて、一同は、ひとまず一柳家へひきあげることになったが、とちゅうで公衆電話をみつけると、
「あ、ぼくは、ちょっと社へ連絡しておきます。みなさんは、ひとあしさきにどうぞ」
と、俊助はボックスのなかへとびこんだ。
そこで、一同がひとあしさきに、一柳家に帰って待っていると、やがて俊助も帰ってきた。一同はまた、二階にある鶴平老人のへやにあつまったが、等々力警部は、すっかりふきげんになっていて、いらいらと、へやのなかを歩きまわっている。
「どうもふしぎだ。犯人は、どうしてあの地下室から逃げだしたのか、わしには、さっぱりわからない」
腹立たしげにつぶやく警部を、そばから俊助がなぐさめがおに、
「まあまあ、警部さん、そんなにご心配なさることはありませんよ。犯人は、どこへも逃げなかったのですから」
「なに、逃げなかった?……」
一同はびっくりしたように、三津木俊助の顔を見なおした。俊助はニコニコしながら、
「だって、警部さん。そう思わざるをえないじゃありませんか。どこにも逃げだす口はなかったし、また、逃げだすチャンスもなかったんです」
「しかし……」
「まあ、おききなさい、警部さん。ボクサーのような大男が、地下室へとびこんでからというもの、しじゅうおまわりさんが入り口の外で番をしていたんです。だれかがとびだせば、わからぬはずはありません。しかし、だれもとびださなかった……」
「というと、犯人はまだ、あの地下室にいるというのかね」
「いいえ、あれだけさがしても見つからないところをみると、もうあそこにはおりますまい」
「三津木くん、どうもわからないね。きみはいったい、なにをいおうとしているんだ」
「つまりね、われわれのすぐそばにいるんです。ただ、われわれがそいつを犯人だと、気づかないでいるだけのことなんです」
「なに、犯人はわれわれのすぐそばにいる?……三津木くん、それはどういういみなんだ。もっとはっきりいってくれたまえ」
「つまりですね。犯人はわれわれのすぐあとから、べつの入り口を通って、あの地下室へとびこんだんです。犯人は逃げてくるボクサーに出あった。そこで、セメント樽のなかにかくれるように命じた。ボクサーはいわれるままに樽のなかへもぐりこんだが、そいつを上からグサリと突き殺し、セメントをつめ、ふたをすると、なにくわぬ顔をして、われわれのほうへやってきたんです。そして、どこにもボクサーのすがたは見えなかったと、われわれにうそをついたんです」
警部をはじめ探偵小僧、それから鶴平老人も由紀子も、ハッとしたように、花田弁護士のほうをふりかえった。
花田弁護士はニコニコしながら、
「三津木くん。きみの話をきいていると、まるでぼくが犯人みたいですね」
「そうです。あなたが犯人ですよ」
「とんでもない。三津木さん、それはあんたのまちがいだ。こんな有名なひとが、人殺しなどするはずがない」
鶴平老人はびっくりして、三津木俊助をなだめにかかった。
「そうです。一柳さん、花田弁護士はそんなことをなさるかたじゃない。それくらいのことはぼくだって知っています。
しかし、その花田弁護士は、まだ事務所にいられたんですよ。ぼくはさっき公衆電話をかけてたしかめたんだ。これから出かけるところだということでした。だから……だから、こいつは花田弁護士じゃないんだ。こいつは……こいつは変装の名人、だれにでも化けることのできる白蝋仮面なんだ!」
白蝋仮面の呪い
俊助の叫びをきいておどろいたのは、等々力警部。サッとピストルを取り出したが、そのとたん、花田弁護士の顔色が、にわかに、ガラリとかわった。
「アッハッハ、警部さん、およしなさいよ。そんなおもちゃをひねくりまわすのは……」
「なに、お、おもちゃだと……」
「そうとも。こんなこともあろうかと、さっき、むこうの地下室をうろつきまわっているあいだに、チョロリとピストルをすりかえたんだ。アッハッハ、見かけだけはりっぱだが、そいつは役に立たぬおもちゃだぜ」
「ちきしょう!」
警部は手にしたピストルを、くやしそうにゆかにたたきつけたが、そのとたん、ヒョウのように身をおどらせた花田弁護士は、すばやくピストルをひろいあげると、キッと、それを身がまえながら、
「アッハッハ、警部さん、ありがとう。これで攻守ところをかえましたな。やい、みんな、しずかにしろ! 動くとうつぞ!」
「な、な、なんだと? そ、そ、それじゃ、そのピストルは……」
「りっぱなほんものよ。警部さんが持っているくらいのしろものだからな。アッハッハ、うそだよ、地下室ですりかえたなんていったのは……アッハッハ」
「ち、ち、ちきしょう!」
等々力警部は目を白黒、じだんだをふんでくやしがったが、こうなってはもうあとのまつりである。あいての手に飛び道具がにぎられているのだから、どうすることもできない。
「さあさあ、みなさん。お気のどくですが手をあげていただきましょうか。それから一列横隊にならんで。そうそう、さすがに三津木先生はわかりがはやい。こうなっちゃ、なまじ悪あがきをすると命があぶないですからな。やい、探偵小僧、きさまもならべ!」
探偵小僧の御子柴進は、腹のなかがにえくりかえるようなくやしさだったが、飛び道具にはかなわない。鶴平老人や由紀子といっしょに、手をあげてそこにならんだ。
「アッハッハ、それでよしと。やい、俊助」
白蝋仮面のにせ弁護士は、にわかに、ガラリと声をかえると、
「きさま、よくもおれの変装を見やぶりやがったな。おれはな、由紀子にいったん罪をきせ、弁護士に化けて、それを助けてやるかわりに、このおいぼれから、うんと金をまきあげるつもりだったんだ。それを、それを……きさまのためにだめにされちまった」
白蝋仮面は、バリバリと歯ぎしりをしながら、
「やい、探偵小僧!」
と、こんどは進のほうへむきなおり、
「きさま、よくもラジオの秘密をばらしやがったな。きさまのおかげで、おれは、かわいい部下を殺さねばならなくなった。このしかえしはきっとするからおぼえてろ!」
そういいながら白蝋仮面は、ジリジリとあとずさりをしていくと、ヒラリとろうかへとびだした。それを見るなり等々力警部、
「おのれ!」
とばかり追いかけたが、その鼻先へ、ピシャリとドアがしまったかと思うと、ガチャリとかぎをまわす音。
「アッハッハ、警部さん、あばよ!」
遠ざかっていく白蝋仮面の足音をきいて、
「ちきしょう、ちきしょう!」
警部は、やっきとなってドアに体あたりをくれたが、そんなことでびくともするドアではない。俊助は、サッと窓を開くと大声で警官をよびあつめた。
「あっ、警官! もし花田弁護士がそっちへいったらつかまえてください。あいつは、にせものなんだ。あいつは、白蝋仮面なんだ!」
窓の下にあつまった警官は、それをきくと、サッと家のまわりに散ったが、それからまもなく階下のほうで、けたたましいわめき声、それにつづいて、ドスンバタン、とっくみあいをするような、はげしい物音。
「あっ、つかまったかな」
一同が顔見あわせているところへ、入りみだれた足音が近づいてきたかと思うと、警官がドアを開いて、
「警部さん、花田弁護士をつかまえてきましたが……」
見れば、なるほど花田弁護士、両手に手錠をはめられて、いまにもたおれそうなかっこうで、警官にひったてられているではないか。
金獅子城
等々力警部は上きげんで、
「アッハッハ、うまくやった。うまくやった。おい、白蝋仮面、さすがのきさまも手錠をはめられちゃ、どうすることもできまい。とにかくピストルをかえしてもらおうか」
「な、なにをいうんだ。白蝋仮面だのピストルだの、なんのことだか、わしにはわからん」
手錠をはめられた花田弁護士は、怒りに声をふるわせながら、
「一柳さん、いったいこれは、なにごとです。あんたから電話があったので、いまわしがやってきたら、いきなり警官がおどりかかって……そりゃ、裏口からこっそりはいってきたのは、わしが悪い。しかし、表には警官がおおぜいいて、めんどうだと思ったし、それに心やすいあんたのうちのことだから……」
弁護士の話をきいているうちに、一同の胸には、ハッと不安がきざしてきた。
「花田さん。花田さん、あんた、ほんとうの花田さんかな」
鶴平老人が声をふるわせた。花田弁護士は、ムッとして、
「な、なにをいっているんです。一柳さん。ほんとの花田も、うその花田もあるもんですか。とにかく、これはどうしたことです」
と、弁護士が、かんかんになっておこっているところへ、ヨロヨロとはいって来たのは、髪ふりみだしたシャツ一枚のはだかの男。
「け、警部どの……」
と、いいかけて、ふと花田弁護士を見ると、
「あっ、こいつだ、こいつだ。ちきしょう」
と、気ちがいのようにおどりかかった。おどろいたのは等々力警部、あわてて、はだかの男をだきとめると、
「木村くん、ど、どうしたんだ。きみは、なぜはだかでいるんだ。警官の制服はどうしたんだ」
「こいつにはだかにされたんです。こいつが、わたしの制服をはぎとって……わたしは、いままで、さるぐつわをはめられ、がんじがらめにしばられて、階下の物置におしこめられていたんです。アッ、そうだ。そのときこいつが警部さんに渡してくれと、これを……」
と、はだかの警官がさしだしたのは、一ちょうのピストルと一枚の紙きれ。
見ると、その紙きれには、こんなことが書いてあるではないか。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[#ここからゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
だいじなピストルありがとう。つつしんでおかえしもうしあげます。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]白蝋仮面
等々力警部どの
[#ここでゴシック体終わり]
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ちきしょう、ちきしょう!」
警部は頭からゆげ[#「ゆげ」に傍点]を立ててくやしがったが、もうそのときは、あとのまつりだった。こうして花田弁護士に化けた白蝋仮面は、警官をはだかにしてその制服をつけ、おりからやってきた、ほんものの花田弁護士をおそって手錠をはめ、それを別な警官にひきわたし、自分も警官になりすまして、ゆうゆうと一柳家から逃げだしてしまったのである。
ああ、恐るべき白蝋仮面!
それはさておき、ここに問題なのは白蝋仮面が、御子柴進にむかってはいたことばである。
「きさまのおかげで、おれは、かわいい部下を殺さねばならなくなった。このしかえしはきっとするからおぼえていろ!」
と、そういったときの白蝋仮面の目つきの恐ろしかったこと! あのような大胆不敵の怪盗のことだから、いつなんどき進にむかって、どのような危害をくわえないともかぎらない。
それを心配した三津木俊助は、山崎《やまざき》編集局長とも相談して、一時、探偵小僧をどこかへかくすことにしたが、さて、そのかくし場所にこまっているところへ援助の手をさしのべたのが一柳鶴平老人である。
鶴平老人は、ちかごろ伊豆に別荘を買ったが、じぶんも由紀子をつれて、しばらく保養にいくから、進にもいっしょにこないかというのである。
探偵小僧は、あれしきのことに恐れて逃げかくれするのはいやだ、と思ったが、俊助があまり心配するものだから、鶴平老人のすすめにしたがうことにした。
こうして、五月もおわりのある日のこと、鶴平老人と由紀子、それから探偵小僧の三人は、ひとめをさけて東京をたち、伊豆の別荘へやってきたが、ひとめ、その別荘を見たとたん、探偵小僧は、思わずアッとおどろいた。
それというのが、その別荘は、まるで西洋のお城のような建物で、その名も金獅子城《きんじしじよう》というのだった。
金色の鬼
金獅子城というのは、Sという温泉町から奥へ入ること約四キロ、人里はなれたさびしいところに建っていて、ひとめをさけてかくれすむには、おあつらえむきの場所だが、そのかわり、たいくつなことといったらない。
それでもはじめのうちは、お城のような建物のめずらしさに、由紀子も探偵小僧の御子柴進も、ついうかうかと、その日その日をすごしていた。
まったくそれは、めずらしい建物だった。
もとこの城を建てたのは、なんとか子爵《ししやく》だそうだが、そのひとがヨーロッパ旅行をしたとき、フランスの田舎で見てきたお城をそっくりまねて建てたのが、この金獅子城だということである。
だから天城山《あまぎさん》を背景として、がけの上に建っているこのお城を見ると、まるでおとぎばなしのさしえを見るよう、高い尖塔《せんとう》、物見台、銃眼のついた堅固な塀、お城のまわりには、まんまんと水をたたえた堀をめぐらしてあり、堀には吊《つ》り橋がかかっているのである。
しかも、かわっているのは外観ばかりではなく、なかへはいると、いよいよお城そのままで、大広間には十いくつかの鎧《よろい》が立っており、かべには剣だの槍だのがかざってあるのだ。
「なんでも、このお城には、ぬけ穴があるんだそうだ」
と、はじめて金獅子城へついたとき、鶴平老人がそういった。
「ところが、そのぬけ穴はこれを建てた子爵さんよりほかに、知る者はなかったんだが、その子爵さんが、きゅうになくなったので、いまでは、だれもぬけ穴のありかを知っている者はないそうだ。御子柴くんは探偵小僧というあだながあるくらいだから、ここにいるあいだに、ぬけ穴のありかをさがしてごらん」
それをきいたとき、進も由紀子も、大いに好奇心をもよおした。
そこでふたりはその当座、お城じゅうをかけずりまわって、ぬけ穴のありかをさがしたが、よほどじょうずにかくしてあると見えて、どうしても発見することはできない。
そのうちにふたりとも、ぬけ穴さがしにもあいて、だんだんたいくつしてきたが、するとある日、鶴平老人がこんなことをいいだした。
「アッハッハ、おまえたちたいくつしてきたな。むりもない。年よりのわしでさえたいくつするくらいだもの。よしよし、それではあすS町へつれていってやろう」
それをきくと由紀子も進も大よろこび。それというのが、そのじぶんS町にはオリオン・サーカスという、大仕掛けな曲馬団がきていたからである。
さて、その翌日、三人は、自動車でS町まで出かけたが、なるほどひょうばんだけあって、オリオン・サーカスは大したものである。ゾウだのライオンだのがたくさんいて、いろいろ、めずらしい曲芸を見せてくれる。
はじめのうち進もむちゅうになって、曲芸に心をうばわれていたが、そのうちにふと、怪しい胸さわぎをかんじた。
それというのが、そのサーカスのピエロに小男がひとりいたからである。
きみたちもおぼえているだろう。白蝋仮面の部下のなかに、とびきり背のひくい小男がいたことを――。
オリオン・サーカスの小男は、顔をまっ白にぬったくったうえ、ほっぺたにダイヤだのハートだのの形をかいているので、人相はよくわからなかったが、背かっこうが白蝋仮面の部下そっくり。
それに気がついた進は、ハッと胸をとどろかせたが、進をおどろかせたのは、ただ、そればかりではなかった。
プログラムがだんだんすすんで、やがて『金色の鬼』というおどりになったが、そのおどりを見たとたん、進は、アッと手に汗をにぎった。
それは金色の鬼をとりまいて、うすものをまとった花のような少女が数人、いりみだれてのおどりだったが、その鬼のすがたというのがただごとではないのだ。
全身に金粉をぬったくって、ひたいの中央に短い角をはやし、おしりに短いしっぽをぶらさげた金色の鬼のすがたは、ああ、なんと、いつか石膏像にばけて、警官の目をくらました白蝋仮面のあのときのすがたにそっくりそのままではないか。
「アッ!」
と、思わず叫ぶ進の顔をふりかえって、
「あら、進さん、どうかなすって?」
と、由紀子が心配そうにたずねた。
「い、いいえ。な、なんでもありません」
「でも、お顔の色がまっさおよ。それに、とてもひどい汗、どこか悪いんじゃないの」
「いや、なんでもないんです。きょうは、むしむしするもんだから……」
進がそんなことをいって、ごまかしているときだった。
だしぬけに楽屋のほうから、けたたましい女のかなきり声。
「あっ、たいへん。ライオンがおりから逃げた」
それをきくと見物人は、ワッとばかりに総立ちになった。
黒い影
さあ、たいへん、ライオンがおりから逃げたというのだから、サーカスのなかは、うえをしたへの大そうどう。
「そら、そっちへ逃げたぞ」
「お客さんにけがさせるな」
「ひと思いにうち殺してしまえ」
うろたえさわぐ芸人たちの声にまじって、怒りにみちたライオンのうなり声が、楽屋のほうからきこえてきたから見物人はもう生きた空もない。
われがちと逃げまどうひとびと、そのひとたちにおしたおされて、助けをもとめて泣きわめく子供たち、地獄のような光景とは、まったくこのことである。
鶴平老人も顔色をかえて立ちあがると、
「由紀子、進くん、ともかく出よう、けが[#「けが」に傍点]があっちゃつまらないから」
と、おしあうひとびとにもまれもまれて、やっとサーカスのテントを出たとき、楽屋のほうでズドン、ズドンと、鉄砲の音。
それにまじって、
「やあ、テントの外へとびだしたぞ」
「みなさん、気をつけてくださあい」
と、必死となって叫ぶ芸人たちの声に、サーカスの付近は、いよいよ大そうどう。
「これはいかん。由紀子、進くん、一刻もはやく、お城へ帰ろう」
三人は自動車にとびのって、すぐにS町を出発したが、それから約二キロほどきたときである。
とつぜん、運転手が叫んだ。
「あっ、あんなところにライオンが」
その声に三人がギョッとして、運転手の指さす方角を見ると、谷ひとつこえたむこうのがけの上へ、いましも一頭のライオンが、たてがみをふりみだして、いちもくさんに走っていくすがたが見えた。
「ああ、おじいさま、こわい!」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。お城へ帰って吊り橋をあげておけば、ライオンだってなんだって、とびこえることはできないさ」
それからまもなく一同は、ぶじに金獅子城へ帰ってきたが、その夜のテレビのニュースによると、さいわい、けが人はなかったが、ライオンは天城山へ逃げこんだから、付近のひとびとは注意するように、とのことだった。
その晩はその話でもちきりだったが、そのうちに鶴平老人が、ふと進の顔色に目をとめて、
「御子柴くん、どうしたの。ひどく顔色が悪いが、そんなにライオンのことが心配かい」
「いえ、あの、そんなことはありませんが……」
「進さんは、どこかおかげんが悪いのよ。だってライオンが逃げだすまえからお顔の色が悪かったんですもの」
「それはいけない。それじゃはやく寝なさい。由紀子や、おまえも興奮しているから、はやくベッドへおはいり。ライオンのことは大じょうぶだよ」
「はい」
それからまもなく、ふたりはそれぞれ寝室へひきさがったが、さて、その夜のま夜なかすぎのことだった。ねぐるしい夢を見つづけていた進は、異様な声にふと目をさました。それは、たしかにライオンのうなり声のようだった。
ハッとベッドの上に起きなおった進は、じっときき耳をたてていたが、声はそれきりきこえない。
それでは気のせいだったのかと、ふたたび枕に頭をつけようとしたときだった。
ドアの外で、だれやら身動きをするけはい。ギョッとした進が、息をのんでようすをうかがっていると、やがて、だれやらドアのそばをはなれて、しのび足で、ろうかのむこうへ行くけはいがする。
進は、にわかに心臓がおどりだした。
だれだろう。いまごろ、ろうかを歩いているのは。そして、ドアの外でなにをしていたのだろう。
進は音もなく、ベッドからすべりおりた。そして、ソッとドアを開いて見ると、だれやら階段のほうへまがっていく、うしろすがたが見えた。
進はろうかをはうようにして、階段のところまでやってきたが、そのとたん、つめたい水でもぶっかけられたようなショックを感じたのだ。
二階から大広間へおりるひろい階段を、足音しのばせていくうしろすがたは、なんとあの小男ではないか。
消えた小男
小男は階段をおりると、大広間のほうへすがたを消したが、ゴリラのようなうしろすがたの気味悪さ!
進はつめたい水でもあびせられたように、しばらくふるえていたが、やがて、勇気を出して、階段をおりていった。
階段をおりると、ひろいひろい大広間、あちこちに西洋のヨロイが立っている。そのヨロイのひとつが進のすがたを見ると、ギロリと目をひからせたようだったが、進はむろんそんなことには気がつくはずがない。
あたりを見まわすと、小男のうしろすがたが、いましもむこうのろうかへ消えるところだった。そのろうかには、鶴平老人や由紀子のへやがあるのである。
進は、ネコのように足音をしのばせ、ろうかの入り口まで走りよったが、そのとたん、思わずぼう立ちになってしまった。
小男のすがたが見えないのである。
そのろうかは、おくゆき十メートルばかり。つきあたりには、鉄格子のはまった窓があり、窓から月のひかりがさしこんでいる。
ろうかの左がわはかべになっており、そこにも窓があるが、これまた厳重な鉄格子。そして、右がわに鶴平老人と由紀子のへやがならんでいるのだ。窓から抜けだすはずがないとすれば、鶴平老人か由紀子のへやへ、しのびこんだのではないだろうか。
進は、あまりの恐ろしさに、ひざが、ガクガクふるえたが、それでも、勇気を出して、鶴平老人のへやのまえまでしのびよったが、そのときとつぜん、へやのなかから、
「だれだ! そこにいるのは?」
と、するどいひと声。
「あっ、おじいさま。ぼ、ぼくです」
「なんだ、御子柴くんか。どうしたんじゃね」
そういいながらドアを開いたのは、パジャマすがたの鶴平老人。
「いったい、いまごろどうしたんじゃな」
「おじいさま。いま、ここへ、あの怪しい小男が、やってきたんです。ぼくそのあとをつけて……」
「小男? 小男ってなんのことじゃ」
「ほら、きょうのサーカスに、小男のピエロがいたでしょう。あれに、よくにた男です」
「なんだ、サーカスのピエロが、ここへしのんできたというのか。アッハッハ、御子柴くん、きみは夢でも見たのじゃないかな」
「いいえ、夢ではありません。ぼく、たしかに見たんです。あの小男がこのろうかへはいるのを見たんです。ひょっとすると由紀子さんのへやへ……」
「なに、由紀子のへやへ?……」
鶴平老人もいくらか心配になったのか、となりのへやへいったが、由紀子もふたりのはなしには目をさましていたらしく、
「おじいさま、どうかしましたの?」
と、心配そうにドアを開いた。
「ああ、由紀子や。御子柴くんがね、きょうサーカスで見た小男が、いまここへしのんできたというのじゃ。ひょっとすると、おまえのへやに、かくれちゃおらんかな」
「あら、いやだ。あたしのへやには、ちゃんとかぎがかかっておりますもの。でも、進さん、それ、ほんとのこと?」
由紀子も気味悪そうである。
「アッハッハ、御子柴くん、夢を見たんだよ。ほら、ろうかの窓には、ぜんぶ厳重な鉄格子がはまっているし、おまえのへやにも、わしのへやにもかぎがかけてあったのだから、どこにもかくれるところはない。それとも、御子柴くん、小男は忍術つかいみたいに、ドロドロと消えたというのかい」
そういわれると進も、へんじにこまってしまった。
ああ、しかし、進は、夢を見たのでも、ねとぼけたのでもなかったのである。たしかに、小男のすがたを見たのだ。しかも、小男はこのろうかへはいってきたのである。
しかし、それではあの小男は、いったいどこへ消えたのであろうか。
進はあまりの気味悪さに、からだじゅうが、氷のようにひえていくのをおぼえずにはいられなかった。
城のとりこ
それでもよく朝になると、鶴平老人は使用人にいいつけて、お城のなかを、くまなくしらべさせた。しかし、どこにもひとがしのびこんだようなあとはないのだ。
「ほら、ごらん。御子柴くん、やっぱりあれは夢だったんだよ」
「でも、おじいさま。このお城にはぬけ穴があるんでしょう。もしやそこから……」
「アッハッハ、なくなった子爵のほかに、だれも知らぬというぬけ穴を、旅まわりのピエロが、どうして、知っているというんだね」
「でも、あの小男は……」
白蝋仮面の部下ではないか、といいかけて、はたと口をつぐんだ。由紀子がおびえてはいけないと思ったからである。
「とにかく、あれは夢だったんだ。御子柴くんも由紀子もそんなことはわすれておしまい」
その日はそれですんだが、それから二、三日のちのこと、進は由紀子にさそわれて、お城の物見台へあがっていった。
ふたりはしばらくあたりのけしきを見ていたが、きゅうに由紀子があたりを見まわし、
「進さん。あたし、ちかごろ、こわくて、こわくてたまらないのよ」
「ど、どうしてですか。由紀子さん」
由紀子は、こわそうにあたりを見まわすと、
「ここならだれもきくひとはないわね。進さん、あなたちかごろのおじいさまをどうお思いになる?」
「おじいさまが、ど、どうかしたんですか?」
「だって、とてもへんよ。まえのことをすっかり忘れてとんちんかんなことばかりよ」
「まえのことって?……」
「ここへくるまえのことよ。いいえ、ここへきてからだって、はじめのうちのことは、ぜんぜんわすれてるの。そして、あたしがへんな顔をすると、とてもこわい目をしてにらむのよ」
「由紀子さん。それ、いつごろから?」
「ほら、このあいだ、あなたが小男のすがたを見たとおっしゃったでしょう。そのつぎの日からなんです。進さん、あなた、ほんとに小男を、ごらんになったの?……」
「ええ、ぼく、ほんとに見たんです」
「いったい、小男って、なんなの?」
進は、いおうか、いうまいかとまよったが、思いきってほんとのことを打ちあけた。
「そればかりじゃないんです。ぼく、あのサーカスに、白蝋仮面じゃないかと思われるやつがいるのを見たんです」
「まあ!」
由紀子はまっさおになって、ふるえながら、
「その小男があの晩、あたしたちのおへやのまえで消えたのはね、ひょっとすると、おじいさまのおへやへはいったのじゃ……」
「しかし、それならおじいさまが……」
「だから、あたしこわいのよ。進さん、あれ、ほんとうに、あたしのおじいさまなの」
「由紀子さん、な、な、なにを、いうんです」
「だって、だって、白蝋仮面は、だれにでも、化けることができるんでしょう。花田弁護士に化けたときだって、弁護士さんにそっくりだったわ。だから、いまこのお城にいるのは、おじいさまじゃなくて、白蝋仮面が、おじいさまに化けているのじゃ……」
進は、からだじゅうがしびれるような、恐ろしさをかんじた。そういえば進も、この二、三日、鶴平老人のようすが、なんとなく妙なのに気がついていたのである。
ふたりはしばらく、まっさおな顔をして立っていたが、やがて、由紀子がいまにも泣き出しそうな声で、
「進さん、あれが、白蝋仮面だとすると、ほんとのおじいさまはどうしたの。あたし、それを考えると、こわくて、こわくて……。
進さん、おねがい。あなた三津木先生に手紙を出してくださらない。すぐ、こちらへきてくださいって……」
「ええ、ぼく、これからすぐに書きます」
「なに、なにを書くんだって?」
だしぬけに、きこえてきた声に、ふたりはアッとふりかえったが、そのとたん、棒のように立ちすくんでしまったのだった。
いつのまにあがってきたのか、鶴平老人がそこに立っているではないか。
「アッハッハ、どうしたんだね。なぜ、そんな妙な目つきでわしを見るんじゃ」
鶴平老人はそういいながら、うたがいぶかそうな目で、ジロジロふたりを見ている。
「ああ、おじいさま。ぼく、ちょっとおねがいがあるんですけれど……」
「なんだい、たのみというのは?……」
「ぼく、ちょっとお城を出たいんですけれど」
「お城を出てどうするんだい」
「いえ、あの、ちょっと散歩に……」
「いけない、いけない! サーカスのライオンはまだつかまらん。どこにかくれているかもわからんのじゃ。とうぶん、ふたりとも、ぜったいにお城から出てはいけません」
それをきくと、進も由紀子も、いよいよまっさおになった。
まえにもいったとおり、このお城には、まわりに堀がめぐらしてあるから、吊り橋をおろさないと、ぜったいに外へ出られない。
しかし、その吊り橋は鶴平老人のゆるしがないと、おろさないことになっているのである。
ああ、それでは進と由紀子は、金獅子城のとらわれびとになったのか。
ぬけ穴をもとめて
世のなかにこんな気味の悪いことがあるだろうか。
おじいさまが、いつのまにやら、ほかのひとにかわっているのではないかなんて、そんな恐ろしいことがあるだろうか……。
由紀子はいま、その恐ろしいうたがいに、おののきおびえているのだが、しかも、そのうたがいは、いよいよ強くなってきた。
その翌日、鶴平老人は、いままでの使用人にぜんぶひまを出し、どこからか新しい使用人をつれてきたのだ。それを知ると由紀子は、まっさおになってふるえあがった。
「ああ、もうだめだわ。こんどきた使用人は、みんな白蝋仮面の部下なのよ。あたしたちが逃げださないように見はっているのよ」
進もしまったと思った。いままでの使用人さえいてくれたら、手紙を出してもらうこともできたのだが、いまは、もうそれもできない。
こうして、ふたりは完全に、ひとざとから遠くはなれた金獅子城のとりこになってしまったのである。
由紀子は、あまりの恐ろしさに、いまにも病気になりそうだったが、進がそばからそれをはげまして、
「由紀子さん、そんなに気の弱いことじゃだめだ。ぼくたち、ここから逃げ出すことができるかもしれない。いや、きっと逃げ出せる」
「あら、どうして、どこから逃げるの。吊り橋は、おじいさまの命令がなければおりないのに」
「なあに、吊り橋なんかどうでもいい。ぬけ穴から逃げるんだよ」
「ぬけ穴?……。どうしてぬけ穴を見つけるの。あんなにさがしてもわからなかったのに」
「それはね、いままでは目あてもなしに、めくらめっぽうさがしていたからだめだったんだ」
「それじゃ、いまは目あてがあるの?」
「うん、あるんだ。ほら、このあいだ由紀子さんとはなしをしていた物見台ね。由紀子さんはあのとき、おじいさまがくるの、気がついていた?」
「ああ、そういえば、あたしふしぎでしかたがなかったわ。あたし、ずいぶん階段のほうに気をつけていたのよ。それなのに、おじいさまのあがっていらっしゃるの、ちっとも気がつかなかった。
進さん、それじゃ、あそこにぬけ穴の入り口があるの?」
「そうじゃないかと思うんだ。おじいさまは、きっとそのぬけ穴から出てきたんだ」
由紀子はきゅうに目をかがやかせて、
「進さん、さがしましょう。ぬけ穴をさがしましょう。そして、このお城から逃げだしましょう。あたし、こわくて、こわくて、いっときもこんなところにいられないわ」
「もちろん。しかし、由紀子さん、あせっちゃいけないよ。こんなこと一どしくじると、もう取りかえしがつかないからね。ときがくるまで、だれにもさとられないように……」
しかし、さいわい、そのときは、思ったよりもはやくやってきた。
その翌日の晩ごはんのとき、鶴平老人はふたりにむかい、こんなことをいった。
「由紀子や。今晩わしはようじがあって、町までいってくるからな。おまえは、御子柴くんとふたりで、おるすばんをするんですよ」
それをきくと、由紀子は、思わず進と顔を見あわせた。
「ええ、おじいさま。由紀子、しっかりおるすばんをするから、ゆっくりいってらっしゃい」
「ああ、そうか、そうか。御子柴くんもたのんだよ。ゆめにもお城から出ようなんて考えるんじゃないよ。どこからライオンがとび出すかもしれんからな。アッハッハ!」
鶴平老人は気味の悪い声で笑った。
それからまもなく、鶴平老人は、ふたりに送られてお城から出ていった。お城の番人は鶴平老人が出ていくと、すぐまた吊り橋をつりあげて、ジロリとふたりをにらんだ。
「さあ、由紀子さん、今夜だ。したくをしてまっていらっしゃい」
「ええ、進さんも……」
大いそぎで身じたくをととのえたふたりは、時期のくるのをまっていたが、さいわい使用人たちは、鬼のるすにせんたくとばかりに、お酒をのみはじめたようすである。
このときとばかりに、そっとへやをぬけ出したふたりは、それからまもなく、しゅびよく物見台へとたどりついた。
恐ろしいわな
物見台は高い塔の上にあり、まんなかに大きな獅子の像がおいてある。
そして、その獅子の台座のいっぽうには、金獅子城とほった銅板がはめこんであるのだ。
「由紀子さん、このあいだおじいさまの立っていたのは、この獅子のそばだったね」
「ええ、だしぬけに、声がきこえたので、びっくりして、ふりかえると、そこに、おじいさまが立っていたんです」
「よし、きっと、この獅子に仕掛けがあるんだ」
ふたりは、懐中電燈で、ねんいりに獅子の像をしらべたが、ふと気がついたのは、ひたいにたれかかっているたてがみである。
ちょうどそれが、ほとけさまのひたいにある、びゃくごう[#「びゃくごう」に傍点](白い毛、光を放つといわれる)のような形になっているのだ。
進がそれに手をふれると、なんだか、動くような気がした。
ハッとして、思わず強くゆびでおすと、そのとたん、台座にはめてあった銅板が、音もなく内へひらいた。
「あっ、す、進さん!」
「しっ、しずかに」
台座のなかをのぞいてみると、そこはたたみ二枚しけるくらいの広さになっており、そのすみに四角な穴が切ってある。
「うん、やっぱりここだ。由紀子さん……」
ふたりが台座のなかへはいこむと、銅板はまたしずかにしまった。
四角な穴をのぞいてみると、ずいぶん深いものらしく、底知れぬやみのそこから、なまぬるい風が吹いてくるのだ。
むろん、穴のなかには、まっすぐに鉄のはしごがついていた。
「由紀子さん、このはしごおりられる?」
「だいじょうぶよ。このお城から出られるのだったら、どんなことでもするわ」
「よし、それじゃついておいで」
ふたりは危険もわすれて、鉄ばしごをおりはじめたが、さいわい、この鉄ばしごのとちゅうには、十メートルほどごとに、おどり場がついていて、やすめるようになっている。もしそれがなかったら、由紀子はきっと底知れぬやみのなかの、長い長いはしごのとちゅうで、気がとおくなっていたことだろう。
五、六十メートルもおりたかと思うと、やっと底までたどりついたらしく、大きなトンネルが目のまえに開けた。
「ああ、もうだいじょうぶ。このトンネルをいけば、きっと外へ出られるよ」
「うれしいわ。はやくいきましょう」
だが、そのトンネルを四、五十メートルもきたときである。
「あっ、いけない。だれかが来た! 由紀子さん、懐中電燈を消して……」
ふたりはあわてて、懐中電燈を消すと、ピタリとトンネルのかベへすいついたが、と、見ると、むこうに見えるあかりがふたつ、こちらへむかって走ってくるではないか。
「見つかった。由紀子さんひきかえそう」
「進さん、手をひいて。あたしこわい」
「由紀子さん、しっかり……しっかりしなきゃだめだ!」
由紀子の手をひいた進は、むちゅうでまっくらなトンネルの、かべづたいに走っていったが、ふと手にさわったのは、ドアの、とってのようなもの。
「あっ、由紀子さん、ちょっとまって……」
進が、とってをまわすと、なんなくドアが開いたではないか。
これさいわいと進が、由紀子の手をひいてなかへとびこみ、ピタリとドアをしめたところへ、足音が近づいてきた。
「おい、川北《かわきた》、だれもいないじゃないか」
「ボス、ひょっとしたら、このドアのなかへとびこんだんじゃありませんか」
なんとなくききおぼえのある声に、進はかぎ穴から、ソッと外をのぞいた。
が、そのとたん、からだじゅうの血が、こおるような恐ろしさをかんじた。
ドアの外に立っているのは、このあいだサーカスで見た、あの金色の鬼と小男のピエロではないか。ああ、もうまちがいはない。やっぱり、このふたりは、白蝋仮面とその部下だったのである。
「なに、このドアのなかへ……」
金色の鬼の白蝋仮面は、カラカラと笑うと、
「それじゃ、まるで自分からもとめてあぶないところへとびこんだようなもんじゃないか。やい、探偵小僧、へやのなかをよくしらべて見ろ!」
なんとなく意味ありげなことばに、進は懐中電燈をつけて、へやのなかを見まわしたが、そのとたん、
「あれ!」
と叫んで、由紀子が、すがりついた。
むりもない。へやのすみには一頭のライオンが、ランランとした目をひからせてこちらをねらっているではないか。
進はいっぺんに、髪の毛が白くなるような気がした。そのときまたもや白蝋仮面が、高らかに笑った。
「だから、いわんことじゃない。さっき出がけに、うっかり城から出ると、どこからライオンがとび出すかもしれんといったじゃないか。そのライオンは、ひもじさでうえているのだ。ゆっくりえじきになるがいい。アッハッハ」
そういいながら白蝋仮面は、外から、ガチャリとドアにかぎをかけてしまった。
獅子のえじきに
「あっ、おじさん、たすけてください。ここをあけてください」
いかに勇敢な探偵小僧も、うえたライオンにはかなわない。あまりの恐ろしさにまっさおになり、ひっしとなってドアをたたいた。白蝋仮面はせせら笑って、
「やい、探偵小僧。そんなにライオンがこわいか。よしよし、それじゃたすけてやろう。そのかわり正直に白状しろ」
「な、なにを白状するんですか」
「いつかきさまが、おれのあとをつけてきたとき、どこかでダイヤを拾いはしなかったか」
進は、それをきくとハッとした。
きみたちもおぼえているだろう。いつか石膏像にばけた白蝋仮面が、トラックにのって逃げるとちゅう、郵便車と衝突したのを――。
そのとき、白蝋仮面のかくれていた箱のなかから、とびだしてきたダイヤモンドを、進が拾ったことがあったはずである。
進が白蝋仮面の事件に関係するようになったのは、みんなあのダイヤを拾ったからだった。
「アッハッハ、だまっているところをみると、やっぱりきさまが拾ったんだな。さあ、いえ、そのダイヤはいまどこにあるんだ」
「いいます、いいます。アッ、ライオンが……」
いままで、むこうのすみにうずくまっていたライオンが、むっくり起きると、のそりと一歩、ふたりのほうに近づいてきた。
それを見ると進は、ドアにしがみついたまま、ヒシと由紀子をだきしめた。由紀子はもう気をうしないかけているのだ。
だが、そのとたん、白蝋仮面が、ガラリと開けたのはドアの上部にあるのぞき穴である。そこからピタリとピストルでライオンにねらいをさだめると、
「さあ、はやく、白状しろ。ライオンが近づいてきたら、このピストルで、うち殺してやる」
ライオンはピストルをみると、怒りにみちた叫びをあげ、バリバリと爪でゆかをひっかいた。進は、全身の毛がサッとさかだつのをかんじた。
「はい、あの……そのダイヤなら……」
と、進はちょっと考えて、
「こ、ここにあります」
と、ポケットから抜きとったのは万年筆。それをのぞき穴から白蝋仮面に渡すと、
「さあ、おじさん、はやくここをあけてください。はやく、はやく……」
「まあ、待て。アッハッハ、万年筆とはうまいところへかくしたな。おい川北。この万年筆をしらべてみろ」
小男は万年筆をしらべていたが、
「ああ、ボス、ありました、ありました。万年筆のなかに、ダイヤがありました」
「そうか。よし!」
「さあ、おじさん。ダイヤがあったら、はやくここをあけてください。はやく、はやく」
「アッハッハ、ばかめ。ダイヤさえとりかえせば、もうきさまには用はない。ライオンのえじきになって死んでしまえ」
「エ、エッ!」
「アッハッハッ、探偵小僧、もういちどよくへやのなかをしらべてみろ。おもしろいものが見つかるからな。さあ、小男いこう」
ああ、なんという悪人だろう。ダイヤをまきあげた白蝋仮面は、小男をつれて、ゆうゆうとドアのまえから立ちさった。
それにしても、もういちどへやのなかをしらべてみろ、おもしろいものが見つかる、と白蝋仮面がいったのは、いったいなんのことだろうと、進はおそるおそる、懐中電燈で、へやのなかを見まわしたが、そのとたん、
「キャッ!」
と叫んで、由紀子はとうとう、気をうしなってしまった。
それもむりではない。へやのすみにころがっているのは、バラバラになった、人間の骨としゃれこうべ。しかも、そのしゃれこうべのそばに、ズタズタにひきさかれているのは、まぎれもなく、鶴平老人の洋服ではないか。
ああ、それでは鶴平老人もこのへやで、ライオンのえじきにされたのか……。
あまりの恐ろしさに進は、全身の力がぬけていくのをかんじたが、そのとき、ライオンが、うううー、とひくいうなりをあげて、ふたりのほうへ近づいてきた。
俊助きたる
かわいそうな御子柴進や由紀子は、その後、どうなっただろうか。
それはしばらくおあずかりとしておいて、さて、その翌日の夕方のことだった。
金獅子城へ思いがけない客がやってきた。新日報社の三津木俊助である。
「やあ――一柳さん。二、三日お休みがとれたので、ごやっかいになりにきましたが、みんな元気でいますか」
「おお、これはこれは、三津木さん」
と、ホールであいさつをかわしたにせ鶴平老人は、ギロリと目をひからせたが、すぐわざと顔をくもらせて、
「これはよいところへ……じつは、電報を打とうと思っていたところです」
「電報を?……な、なにかかわったことでもあったのですか。そういえば、探偵小僧や由紀子さんのすがたが見えないが、まさか、あのれんじゅうにまちがいがあったのじゃ……」
「いや、じつはそのことなんで……」
「えっ、そ、それじゃ、探偵小僧や由紀子さんが、ど、どうかしたんですか」
俊助は、ハッと顔色をかえた。
「そ、それがな。この金獅子城にはだれも知らぬ、秘密のぬけ穴がありますのじゃ」
「ああ、そのことなら、いつか探偵小僧が手紙でいってきたので知っていますが……」
「ああ、そう。ところがそのぬけ穴というのに御子柴くんと由紀子が、ひじょうに好奇心をいだきましてな。なんとかして、ぬけ穴のありかを発見したいとむちゅうになっていたんです」
「はあ、はあ、それで?……」
「ところが、ゆうべわしが町へいっているるすちゅうに、ふたりのすがたが見えなくなった。しかも、門から出ていった形跡はない。ご承知のとおり、あの吊り橋をあげておくと、だれも出入りはできんわけで……」
「はあ、はあ、なるほど……」
俊助の顔色には、いよいよ不安のいろがひろがってきた。
「門から出たのでないとすると、この城のなかにいなければならんはずじゃが、それがどこにもすがたが見えん。
そこで、わしの考えるのに、ふたりはゆうべ、ぬけ穴の入り口を発見したのじゃないか。そしてなかへはいったきり、出られなくなったのじゃないか……」
「そ、そして、そのぬけ穴の入り口というのはどこにあるんですか」
「それがわかるくらいなら、わしもこんなに心配しやせん。御子柴くんも由紀子も、だまっていってしまったもんじゃから、どうしてもその入り口というのがわからん」
俊助はしかし、いくらか安心したように、
「しかし、ご老人。それならば、なにもそれほどご心配なさることもありますまい。ぬけ穴のなかでまよっているとしても、まだ一昼夜もたたないのですから、まさかうえ死にもしますまい。大いそぎでぬけ穴の入り口をさがし出して……」
「いや、ところが……」
と、鶴平老人はいよいよ顔色をくもらせて、
「あんたはご承知かどうか知らんが、このあいだ、町へきているサーカスから、ライオンが一頭逃げだしたきり、いまだにつかまらんのじゃ」
「ああ、そのことならきいています」
「ところが、そのライオンがひょっとすると、ぬけ穴のなかへまぎれこんだのじゃないか……。というのは、ゆうべぬけ穴のありかをさがしていると、地の底からライオンのうなり声と、子供の泣き叫ぶ声がきこえたのじゃ。だから、ひょっとすると、ふたりはぬけ穴のなかで、ライオンのえじきになったのじゃないか。そう思うと、わしはこの胸がはりさけそうで……」
ああ、なんとお芝居のじょうずなやつだろう。
白蝋仮面のにせ鶴平老人は両手で顔をおさえて、オイオイ泣いてみせるのである。俊助もそれをきくと、さっと顔色をかえたが、そこへかけこんできたのは小男の使用人だった。
「あっ、ボス……いえ、あの、だんなさま。ぬけ穴の入り口が見つかりました」
「な、なに、ぬけ穴の入り口が見つかったと?」
「そうです、そうです。物見台の獅子の台座が開くのです。はやくきてください」
「よし、三津木さん、あんたも来てください」
白蝋仮面のにせ鶴平老人と、小男の部下は、なにやらすばやく目くばせをすると、あたふたと物見台へあがっていった。三津木俊助もふたりのあとからついていった。
あぶない、あぶない、俊助もこうして、悪者のわなに落ちるのではないだろうか。
魔か人か
物見台まであがってくると、獅子の台座の銅板がパックリと開いている。
俊助はなかをのぞいてみて、
「なるほど、これこそぬけ穴の入り口にちがいない。しかし、どうしてきみはこれを発見したんですか」
「いえ、あの、獅子のまき毛をいじっていると、きゅうにそこが開きましたので……」
「アッハッハ、それはまあ、しあわせでしたね。ご老人、とにかくなかへはいってみましょう」
「し、しかし、このぬけ穴のなかには、ひょっとするとライオンが……」
「ご老人、あなたはなにをおっしゃるのです。あなたはお孫さんがかわいくはないのですか。お孫さんがかわいければ、ライオンがいようがトラがいようが……」
「ああ、いや、そ、そうでした。川北や、懐中電燈とピストルを持ってきておくれ」
白蝋仮面が目くばせすると、すぐに小男の川北が、いわれたものを持ってきた。そこで三人は、めいめい懐中電燈を照らしながら、ぬけ穴のなかへはいっていった。
このぬけ穴のことは、まえにも書いておいたから、ここでは、あまりくどくどしく、くりかえすのはひかえることにしよう。
長い、長い、鉄ばしごをおりると、あのまっくらなトンネルである。
小男はいちばん先頭に立っていたが、だしぬけに立ちどまると、
「おや、――こんなところにドアがある!」
と、懐中電燈の光をむけたのは、きのう、進と由紀子が、ライオンのえじきになったへやのまえである。
「おお、なるほど、川北、ちょっと開いてみい」
しかし、かぎがかかっているのか、ドアはびくともしないのだ。白蝋仮面の鶴平老人は、懐中電燈であたりを見まわし、
「おい、川北、ドアの下からなにかのぞいているが、それはなんじゃな」
白蝋仮面のことばに、もっともらしく、ゆかにかがみこんだ小男が、ドアの下からひきずりだしたのは一枚のハンカチーフ。
「あっ、だんなさま。こ、これはお嬢さまのハンカチではございませんか」
「おお、そうじゃ、そうじゃ。たしかに由紀子のハンカチじゃ。それじゃ、由紀子はこのへやのなかに……」
と、白蝋仮面はドアにすがりつき、
「由紀子や、由紀子や、おまえ、このへやのなかにいるのか。いるならいると返事をしておくれ。おじいさまは心配で、心配で、もう気がくるいそうじゃわい」
と、れいによって芝居気たっぷり、でもせぬ涙をふきながら、気ちがいのようにドアをたたいていたが、そのとき、そばから小男が、
「だんなさま、ちょっとお待ちください」
「待てとはなんじゃ」
「ここにひとつかぎがあります。このかぎはお城のどのドアにもあわないので、いったいどこのかぎかと思っていましたが、ひょっとすると、これはこのドアのかぎでは……」
「おお、川北、はやくためしてみてくれ。はやく、やはく……」
せきたてられて川北が、とり出したのは大きなかぎである。それをかぎ穴にさしこむと、
「あっ、だんなさま。あいました。ドアが開くようすです」
「よし、はやく、開いておくれ」
白蝋仮面は小男の部下に、なにやら、すばやく目くばせすると、そっと俊助のうしろにまわった。
そして、小男が用心ぶかく、ドアを開いたとたん、いきなりドンとうしろから、俊助をつきとばしたからたまらない。
「アッ、な、なにをするんです!」
ふいをくらってヨロヨロと、ドアのなかへのめりこもうとした俊助は、くらやみのなかでだしぬけに、だれかの胸にぶつかった。
「アッ、だれだ。そこに立っているのは!」
「エッ!」
俊助の声におどろいた、白蝋仮面と小男は、ドアのなかへサッと、懐中電燈の光をむけたが、そのとたん、
「ワッ、ゆ、ゆうれいだ!」
と、思わず、二、三メートルとびのいた。
ふたりが、おどろいたのもむりはない。
ドアのなかにしょんぼりと、うらめしそうに立っているのは、ライオンのえじきになったはずの一柳鶴平老人ではないか。
怪しい影
「だ、だれだ! き、き、きさまは?……」
さすがの怪盗、白蝋仮面も、これにはどぎもを抜かれたらしく、肩で息をしている。
小男の川北は、頭をかかえてろうかにしゃがみ、ワナワナふるえているのだ。
「わしがだれかだって?……」
と、怪しい影はうらめしそうな、しゃがれ声でいった。
「そんなことはきくまでもない。おまえたちのほうがよく知っているはずじゃ。わしはこの金獅子城のあるじ、一柳鶴平じゃ」
「そ、そんなはずはない。一柳鶴平は、ライオンのえじきになったはずだ。おれは、バラバラになった骨、しゃれこうべを見た……」
「そうじゃ。わしはライオンにくわれて死んだ。わしはゆうれいじゃ。ゆうれいになって、うらみをはらしにやってきたのじゃ」
と、フラフラとドアのなかから出てくるようすに、たまりかねたか、
「おのれ!」
とばかりに、白蝋仮面は腰のピストルをとり出すと、二、三発、たてつづけにぶっぱなしたが怪しい影はあいかわらず、うらめしそうに立っている。
「アッハッハ、いくらでもうて。一ど死んだら二どとは死なん。ゆうれいにたまがあたってたまるもんか。白蝋仮面、うらめしいぞ」
怪しい影は両手をのばして、白蝋仮面ののどをしめようとするのだ。
ああ、なんというふしぎな光景だろう。
まっくらな地下道のなかに、ふたりの鶴平老人がいるのである。そして、ひとりの鶴平老人が、もうひとりの鶴平老人の、のどをめがけてつめよってくるのだ。
「キャッ!」
さすがの白蝋仮面も、悲鳴をあげてとびのくと、
「川北、逃げろ!」
と、いちもくさんに逃げていくふたりのうしろから、怪しい影のうらめしそうな声が、追っかけてきた。
「これ、待て、白蝋仮面。よくもわしをライオンのえじきにしたな。そのしかえしに、こんどはおまえをライオンのえじきにしてやる。それ、ライオン。はやくあいつを追っかけろ!」
そういう声に白蝋仮面が、うしろをふりかえってみると、おお、なんということだろう。怪しい影のうしろから、ライオンがたてがみさかだて、追っかけてくるではないか。
「ワッ、た、たすけてくれ!」
白蝋仮面と小男が、ころんだり、すべったりして、やっとたどりついたのは、あの鉄ばしごのふもとだった。
「しめた。ここまでくればだいじょうぶ」
と、白蝋仮面はその鉄ばしごのそばの、かべをさぐっていたが、やがてかくしボタンを見つけると、強くそれをおした。
と、そのとたん、ガラガラと上から落ちてきたのは、厚い鉄のとびらである。それがピタリと、トンネルの入り口をとざしてしまった。
ちょうどそのとき、とびらのむこうへかけつけてきたのは、怪しい影と、ライオンだ。
「おのれ、ここをあけろ。ここをあけぬか」
ドンドンと、とびらをたたく音にまじって、ライオンのうなり声がきこえた。
「アッハッハ、そのとびらを開いてたまるもんか。ゆうれいならけむりのように、とびらのすきまから抜けてこい。川北、はやく上へあがろう」
ライオンと怪しい影をあとにのこして、物見台からはいだした白蝋仮面と小男は、汗びっしょりの顔を見あわせ、
「ボス、いまのはいったいなんでしょう。ほんとにあれはゆうれいでしょうか」
「ばかなことをいうな。この世にゆうれいなんかいてたまるもんか。だれかが鶴平に化けているんだ。しかし、ふしぎだな。どこからあのへやへしのびこんだのだろう」
「どっちにしても、このままじゃすみませんぜ」
「わかってる。それくらいのことに気がつかぬおれではない。川北、耳をかせ」
白蝋仮面がなにやら耳うちをすると、
「アッ、それじゃ堀の水を通して、地下道を水びたしにするんで……」
「そうだ。トンネルの入り口を両方ともしめておいて、どんどん堀の水をつぎこめば、あのゆうれいもライオンも、それから三津木俊助も、みんな地下道のなかで水におぼれて、ネズミのように死んでしまうさ。アッハッハ、とにかくいそごう」
と、大いそぎで物見台をかけおりたふたりは、もとの大広間へ帰ってきたが、そのとたん、ふたりとも髪の毛も白くなるような恐ろしさに、ギョッと、そこに立ちすくんでしまった。
ああ、なんということだろう。
大広間の中央には、いま地下道へのこしてきた、鶴平老人のゆうれいが、うらめしそうに立っているではないか。しかも、その足もとには、ライオンがランランたる目をひからせて、うずくまっているのである。
俊助の勝利
ああ、それにしても鶴平老人やライオンは、いったいどこから出てきたのだろう。
地下道の入り口を、鉄のとびらでしめてしまえば、どこにも抜けだすすきはないはず。もし、トンネルのむこうの口から抜けだしたとしても、こんなにはやくはこれないはずなのだ。
それでは、そこにいるのは、ほんとうにゆうれいで、けむりのようにとびらのすきまから、抜けだして来たのだろうか。
さすがの白蝋仮面も、頭からつめたい水をぶっかけられたような恐ろしさを感じないではいられなかった。小男の川北は、歯の根もあわぬくらいガタガタふるえている。
鶴平老人のゆうれいは、フラフラこちらへ近づいてくる。その足もとには、ライオンがランランたる目をひからせているのだ。
「おのれ、化けもの!」
白蝋仮面はやっきとなって、ピストルのひきがねをひいたが、鶴平老人もライオンもへいきのへいざで近よってくる。
白蝋仮面は気ちがいのように、また二、三発ぶっぱなした。が、そのときだった。とつぜん、あざけるような笑い声。
「アッハッハ、よしたまえ、白蝋仮面。いくらうってもだめさ。さっき地下道で、こっそりたまを抜きとっておいたのだから」
そういう声は三津木俊助。
「な、な、なんだと!」
白蝋仮面は、あわててあたりを見まわしたが、どこにも俊助のすがたは見あたらない。
「おのれ、出てこい。三津木俊助!」
「アッハッハ、おどろいたか白蝋仮面。それじゃすがたを見せてやろう」
と、へやのすみからノコノコ歩きだしたのは、なんと西洋のヨロイではないか。
「さあ、もうよい。進くんも由紀子さんも出てきたまえ」
すると、二つのヨロイが歩きだした。そして、あっけにとられている白蝋仮面の面前で、三人のヨロイ武者がヨロイをぬぐと、その下からあらわれたのは、三津木俊助に御子柴進、それから由紀子もぶじだった。
「そ、それじゃ探偵小僧も由紀子のやつも、ライオンに食われたのじゃなかったのか」
「どうやらそうらしいね。白蝋仮面」
「そして、この鶴平もほんものか」
「アッハッハ、抜かったね、白蝋仮面。ぼくはずっとまえからぬけ穴のありかを知っていたんだ。そこでときどきぬけ穴を通って、この城へしのびこんでいたんだ。見たまえ。ここにぬけ穴の入り口があるんだよ」
俊助が指さしたのは、ひときわ大きな西洋のヨロイ。そのヨロイの胸にあるボタンをおすと、パッとヨロイが左右にわれて、その足もとにポッカリ穴があいているのだ。
「これがほんとのぬけ穴の入り口なんだ。ぼくは、まえからここを通って、この大広間へしのびこみ金獅子城を見はっていたんだ。そのうちきみがやってきて、鶴平老人を地下道へつれこみ、ライオンのえじきにしようとしたんだ」
「アッ、そうだ。しかし、そのライオンはなんだって、鶴平老人を食ってしまわなかったんだ。いや鶴平老人ばかりじゃない。探偵小僧や由紀子のやつも、どうしてライオンのえさにならずにすんだんだ」
それをきくと俊助は、腹をかかえて笑いころげた。
「アッハッハ、白蝋仮面、サーカスから逃げだしたライオンは、とっくの昔に山のなかで、警官たちにうち殺されたんだ。そして、そこにいるライオンはな……警部さん、もういいでしょう。ひとつ白蝋仮面に顔を見せてやってください」
と、いうやいなや、ライオンがスックとばかり立ちあがった。そして首をうしろへはねのけたところを見ると、なんと、それは等々力警部ではないか。
黄色い煙
「ああ、そうか。そうだったのか。それじゃあの地下道にちらばっていたがいこつ[#「がいこつ」に傍点]や、しゃれこうべ[#「しゃれこうべ」に傍点]は?……」
「アッハッハ、あれか。あれはね、町の病院から、人体模型を借りてきたのさ。そして、いかにもライオンにくわれたように、バラバラにして、散らかしておいたのだ」
「ふうむ、まいったよ、三津木俊助。こんどは完全におれのまけだっ」
さすがは怪盗、白蝋仮面。こうなってはもうだめだと、すでにかくごをきめたのか、がっくりしたように首をうなだれた。
「警部さん、手錠を……」
俊助が合図をすると、等々力警部はライオンの毛皮の下から、手錠を取り出したが、それを見ると白蝋仮面、あわてて手をふりながら、
「ああ、ちょ、ちょっと待ってくれ」
「なに、待てとは?……」
「手錠をはめられたらもうおしまいだ。そのまえに、タバコを一本すわせてくれ」
「警部さん、どうしましょう」
「フム、いいだろう。おい、白蝋仮面、一本だけだぞ。さっさとすってしまえ」
「いや、ありがとう。おい、川北、おまえも一本すえ」
白蝋仮面はポケットから、タバコを二本とりだすと、小男の川北と一本ずつ、さもうまそうにすいはじめた。
三津木俊助と等々力警部は、ゆだんなくピストルを身がまえている。進と由紀子は、鶴平老人とともに、心配そうにこの場のようすを見ているのだ。
白蝋仮面はふかぶかとタバコをすうと、
「ああ、これで当分、タバコのすいおさめか。おい、川北」
「は、はい」
小男の川北はどういうわけか、タバコをすいながら、ガタガタふるえているのである。
俊助はハッと怪しい胸さわぎをかんじたが、そのときだった。ふたりのすっているタバコの先からパチパチと青白い火花が散りはじめたから、おどろいたのは三津木俊助。
「しまった! すてろ! タバコをすてろ!」
と、あわてて叫んだが、そのときはもうおそかった。
「これでもくらえ!」
と、白蝋仮面と小男が、タバコを投げすてたとたん、
ドカン! ドカン!
と、ものすごい音をたてて、タバコが爆発したかと思うと、あたりいちめん、モウモウと黄色い煙がたちこめた。
「アッ、しまった!」
一同は思わずゆかに身をふせたが、そのすきに身をひるがえした白蝋仮面、
「川北、こい!」
と、叫ぶとともに、サッと俊助がひらいたヨロイのなかへかけこんだ。
「しまった! 待て!」
と、叫んだものの、あたり一面たちこめた黄色い煙に顔をあげることもできない。煙は目にしみ、のどにしみ、一同はポロポロ涙をこぼしながら、ゴホンゴホンとせきをするばかり。しちてんばっとうの苦しみである。
それでも、やっと煙がおさまって、一同が顔をあげたときには、白蝋仮面も小男も、影も形も見えなかったのだった。
「ちくしょう。こんなことなら、すぐに手錠をはめればよかった」
「なあに、警部さん、だいじょうぶですよ。ぬけ穴の出口はちゃんと警官がみはりをしているんですからね」
「あ、そうだ。それじゃ、すぐにいってみよう」
と、ふたりはすぐにぬけ穴へもぐりこんだ。
そのぬけ穴は堀の下をくぐって、付近のがけ下までつづいているのだが、そのがけ下からはい出した警部と俊助のすがたをみて、
「アッ! あなたは三津木俊助さん!」
と、見張りの警官がまっさおになった。
「おい、どうしたんだ。いまここへ、白蝋仮面と小男がきやしなかったか」
と、等々力警部がたずねると、
「いえ、あの、白蝋仮面はきませんが、そこにいる三津木俊助さんが……」
「エッ、ぼ、ぼくがどうしたというんです」
「は、はい、三津木さんが白蝋仮面の部下を捕らえたから、警察へつれていくといって、小男をひったてていったんです。そして、あとから警部さんが、白蝋仮面をつれてくるから、ここでまっていろといったんです」
「し、しまった!」
警部と三津木俊助は、じだんだふんでくやしがったが、いくらくやしがってもあとのまつりだった。
白蝋仮面は、ひともあろうに、三津木俊助に変装して、まんまと逃げてしまったのである。
青色ダイヤ
こうして、白蝋仮面が金獅子城から逃げだしてからはや一月あまりたった。
探偵小僧の御子柴進は、いつまで伊豆にかくれていてもしかたがないので、まもなく東京へ帰ってくると、元気に新日報社へかよっていたが、そのうちに、またしても大事件が起こって、ここにふたたび白蝋仮面と三津木俊助の、はなばなしい一騎討ちの幕がきっておとされたのである。
その事件というのはこうだった。
ちょうどそのころ、東京には、めずらしい外国の客が滞在していたのだ。そのひとは、アラビアかどこかあのへんの、小さな王国の王族のひとりで、アクメッド・アリ・ハッサン・アブダラアという、たいへん、長たらしい名まえのひとだったが、ふつうはアリ殿下とよばれていた。
アリ殿下の国は、いまもいったとおり、あまり大きな国ではないが、殿下自身はたいへんな金持ちで、なんでも世界で何ばんめとかに指を折られるほどだとかいうことである。
そういうめずらしい国の、大金持ちの貴族が、世界一周旅行のとちゅう、日本へ立ちよったのだから、そのひょうばんといったらなかった。新聞という新聞は、アリ殿下のうわさでもちきりだった。
きょうは殿下がどこへ出かけられたの、あすはどこそこをご見物のご予定だの、さてはまた、朝おきてから夜寝るまでの、殿下のご日常などが毎日毎日写真いりで、どこかの新聞にでない日とてはなかった。
それだから、ちかごろではもう、アリ殿下のことといえば、だれひとりとして知らぬものはなかったが、そういう新聞記事のなかでも、とりわけひとびとをうらやましがらせたのは、殿下がもっている、おびただしい宝石のことである。
この旅行先でさえ、殿下は何十となく宝石を身につけているのだ。
それらの宝石はどのひとつをとってみても、ゆうにひと財産もふた財産もあるということだが、そのなかでもとくに有名なのは、殿下がいつもターバンにちりばめている、青色ダイヤだった。
きみたちはアラビアン・ナイトをよんだことがあるだろう。殿下もあのへんの国のひとだから、いつもアラビアン・ナイトのさしえにあるような身なりをして、頭にはグルグルと布をまいている。
その布をターバンとよぶことは、きみたちもたぶんごぞんじだろうが、貴族になると、そのターバンの正面にじまんの宝石をちりばめているのだ。
アリ殿下のターバンにちりばめられた青色ダイヤは、世界じゅうにその名がしられていて、殿下が日本へ到着すると、さっそく、その写真が新聞にのったくらいだった。
さて、前おきがたいへん長たらしくなったが、事件というのは、この青色ダイヤを中心として起こったのである。
アリ殿下の青色ダイヤの写真が、新聞にのってからというもの、進は妙に、考えこんでしまった。
そして、毎日どこかの新聞にのるアリ殿下の記事を、目をサラのようにしてよみあさった。そればかりではなく、ときどきうなされたように、ひとりごとをいうことがあった。
「そんなはずはない。そんなはずはない。しかし……」
と、そんなことをつぶやいては、ひとりでゾッとみぶるいをしているのだ。
そのようすを見て、ふしぎに思ったのは三津木俊助。
「おい、おい、探偵小僧、きみはいったいなにを考えているんだい。アリ殿下の記事ばかりよんでいるが、きみは殿下と知りあいかい」
と、からかいがおにそんなことをいうと、そばから樽井《たるい》という記者が、
「三津木さん、アリ殿下は探偵小僧のおじさんなんですとさ。だから、いまにたんまり宝石を、おみやげにもってきてくれるはずだと楽しみにして待っているんです。アッハッハ!」
と、じょうだんをとばした。俊助はそれをきいて思い出したように、
「アリ殿下が探偵小僧に、おみやげをもってきてくれるかどうか知らんが、殿下が近く社へいらっしゃることはほんとうだよ」
それをきいて、おどろいたのは探偵小僧。
「エッ、三津木さん、それはほんとうですか」
「ほんとうとも。アリ殿下はたいへん進歩的なかたで、新聞という事業にも、深い興味をもっていらっしゃるんだ。それで、日本の代表的新聞である新日報社を、したしく見たいとおっしゃるんだよ」
それをきいて進は、ハッと怪しい胸さわぎをかんじた。
アリ殿下
さて、いよいよアリ殿下が新日報社をご訪問なさる日がやってきた。
新日報社では朝からそうじに大わらわ。どこもかしこもピカピカと、かがやくばかりにみがきあげられると、正面にはアリ殿下の国の国旗と、日の丸の旗が立てられた。
やがて、午後三時。
アリ殿下が、いまホテルをお出になったという電話があったので、社長をはじめ、社内のおもだったひとびとが、威儀をただして、正面の玄関でお待ちしていると、やがて到着したのは金ぴかの自動車。
山崎編集局長が立ちよって、うやうやしく自動車のドアを開いてあげると、まずなかからとび出したのは、身のたけ一メートル四十センチにもみたぬ、黒人だった。
この黒人は、モハメットといって、アリ殿下のいちばんのお気にいりで、殿下はどこへいくにも、この黒人をつれてあるかれるのである。
さて、モハメットのあとから、やおら自動車をおり立ったのは、身のたけ二メートルもあろうかというりっぱな人物。色こそけしずみをぬったような黒さだが、するどくいかった目つきといい、ワシのくちばしのように高い鼻といい、いかにも王族にふさわしい人品、これこそひょうばんのアリ殿下だった。
そのアリ殿下のあとからおりてきた日本人は、おそらく通訳のひとだろう。
さて、アリ殿下はひとまず社長室におちつくと、そこで新日報社の事業について、かんたんに話をきかれたのち、山崎編集局長の案内で、社内をみてまわることになった。
その殿下が、編集室の、御子柴進のデスクのまえまできたときだった。
さっきから一心ふらんに、アリ殿下のターバンにちりばめられた青色ダイヤを見ていた探偵小僧の御子柴進が、思わず、アッ、とひくい叫び声をあげた。
しかし、アリ殿下はもとより、山崎編集局長も、そんなことにはきがつかない。そのまま編集室を出ていった。
進はぼうぜんとして、殿下のうしろすがたを見送っていたが、その肩をポンとたたいたのは樽井記者。
「おい、探偵小僧、どうしたんだい。なぜ殿下におみやげをねだらなかったんだい」
「ぼく、ぼく、そんなこと知りません」
「知らないことがあるもんか。おまえ、アリ殿下の顔をみて、ひどくびっくりしてたじゃないか。たしかに、アッ、と叫んだぜ」
「ぼく、殿下のお顔を見て叫んだのじゃありません」
「じゃ、なにを見て叫んだんだい」
「ぼく……あのターバンにちりばめてある青色ダイヤをみて叫んだんです」
「はてな。それはどういうわけだ。あのダイヤがどうかしたのか」
「いえ、あの、なんでもありません。きっとぼくの思いちがいなんです」
だが、そういう進の顔色は、まっさおになっていた。
ところが、ちょうどそこへ社長室から電話がかかってきて、進にお茶をもってくるようにとのことだった。
「ほら、ほら、いよいよ殿下にお近づきになれるときがきたぜ。はやくいって、おじさんにおみやげをねだってこい」
樽井記者はおもしろそうに笑っていたが、進はそれどころではない。
食堂から、用意のお茶をもらってきて、社長室のまえにたったとき、進の胸は早鐘のようにおどっていた。それをこらえて、やっとのことでドアをたたくと、
「おはいり」
と、なかから返事をしたのは三津木俊助。
ドアを開くと、アリ殿下をはさんで、社長や山崎編集局長、それから三津木俊助が、通訳のひとをなかにはさんで、うちくつろいで話をしていた。
進はふるえながら、一同のまえにお茶をくばっていたが、そのときである。どうしたはずみか、アリ殿下のターバンから青色ダイヤが抜けおちて、コロコロと進の足もとにころがってきたのだ。
進はハッとして、いそいでそれを拾いあげたが、どうしたことか、すぐに殿下にかえそうとはせず、穴のあくほどそのダイヤをみつめているのである。
おどろいたのは社長をはじめ一同だ。
「おい、御子柴くん、どうしたんだ。はやくダイヤを、殿下におかえししないか」
みるにみかねて俊助が、叱るように注意をしたが、そのときだった。とつぜん、進がかなきり声をあげて叫んだのである。
「いいえ、いいえ、このひとはアリ殿下ではない。このひとは、きっと白蝋仮面です」
電話の声
それをきいておどろいたのは、社長をはじめ、山崎編集局長と三津木俊助。
「これ探偵小僧、なにをいう。殿下にむかって、失礼なことをいうのじゃないぞ」
山崎編集局長がたしなめたが、探偵小僧はやっきとなって、
「いいえ、いいえ、ぼくはこのダイヤに見おぼえがあるのです。いつか白蝋仮面を追跡して、このダイヤを拾ったのです。そして、このあいだ金獅子城で、白蝋仮面にとりあげられたのです。このダイヤを持っているからには、このひとは白蝋仮面にちがいない!」
殿下のほうを指さしながら、やっきとなって叫ぶ探偵小僧の顔を、殿下はさもふしぎそうに見ていたが、やがてかたわらにひかえている、通訳のひとにむかってなにかをたずねた。
それにたいして通訳が、おそるおそる、探偵小僧のいまのことばを口にすると、殿下はびっくりしたように目を見張り、なにやら早口にいった。
あわてたのは山崎編集局長である。
「これ、探偵小僧、つまらんことをいうものじゃない。通訳さん、どうぞ殿下におあやまりください。こいつは気でもくるっているのでしょう。探偵小僧、おまえは、はやくむこうへいけ」
山崎さんがむりやりに、探偵小僧をへやからおし出そうとするのを、アリ殿下はそっと手をあげてとめると、なにやらまた、通訳にむかっていった。
すると、通訳のひともびっくりしたように、
「あっ、編集局長さん。ちょっとお待ちください。殿下がその少年に、おたずねになりたいことがあるとおっしゃいます」
と、進をひきとめると、
「きみの名は?……ああ、御子柴くんというの。ここにいらっしゃるのは、けっして怪しいひとじゃない。正真正銘のアリ殿下だが、殿下はしかし、けっして、きみのことをおこってはいらっしゃらない。それよりもきみにおたずねになりたいことがあるとおっしゃるのだから、正直にもうしあげるように」
と、そこで通訳のひとは、殿下となにか話していたが、やがてまた、進のほうへむきなおり、
「きみはこのダイヤと、おなじようなダイヤを、どこかで見たことがあるというのだね。そのことについて、くわしく話をしてごらん」
進は、だんだん自分の思いちがいであったことに気がついた。すると、きゅうにはずかしくなって、穴があったらはいりたいような気がしたが、それでも、ダイヤについてのいきさつを、くわしく説明した。
通訳のひとが、その話を殿下につたえると、殿下がまたなにやら、ベラベラと通訳のひとにしゃべった。
通訳のひとが、それを日本語になおして、みんなに語ってきかせたところによると、それはだいたい、つぎのような話だったのである。
殿下の持っている青色ダイヤは、もと一対になっていたという。つまり、それとそっくりおなじダイヤが、もうひとつあったのだ。そして、そのふたつのダイヤは、殿下の国の守り神、アラーの像の両眼に、ちりばめられていたのだ。ところが、二、三年まえ、日本からきた旅行者が、もったいなくも、神像の片目をくりぬいて、ダイヤを持って逃げたのである。それからのち殿下の国では、なにかとよくないことがつづくので、これはきっとアラーの神の怒りにちがいない。いっこくもはやく、青色ダイヤを取りかえし、アラーの神の怒りをしずめねばならぬと、そこで殿下がはるばると、日本へやってこられたというわけなのだった。
「いまこの少年の話をきくと、白蝋仮面の持っているダイヤこそ、アラーの神の片目にちがいない。みなさん、なんとかしてそのダイヤを取りかえしてください。お礼はいくらでもすると、殿下はそういっていられるのです」
と、通訳のひとの話をきいて、一同は思わず顔を見あわせたが、そのときだった。卓上電話のベルが鳴りだしたので、なにげなく俊助が受話器をとりあげると、なんと、電話の主は白蝋仮面ではないか。
「モシモシ、そちら新日報社? 三津木俊助はいますか。
なに? きみは三津木俊助か。アッハッハ、こちらは白蝋仮面だ。いま、そこにアリ殿下がいるだろう。そして、アリ殿下から、おれの持っている青色ダイヤを取りかえしてくれとたのまれたろう。
しかし、そうはとんやがおろさんよ。あべこべにこっちから、殿下の持っている青色ダイヤをちょうだいに参上するから、そのことをよく殿下にもうしあげておいてくれ。アッハッハ」
と、あざけるような高笑い。白蝋仮面はそのまま電話をきってしまった。
三人のアリ殿下
さあ、たいへん、怪盗白蝋仮面が、アリ殿下の宝石をねらっているというのである。
警視庁でもそれをきくとすててはおけなかった。等々力警部をはじめとして、おおぜいの刑事や警官が、アリ殿下の車のまわりを、厳重に警戒することになった。
三津木俊助や御子柴進も、毎日のようにホテルへでむいて、なにくれとなく、殿下にご注意をもうしあげた。アリ殿下もふたりの親切に感謝されて、まもなく三人は、たいへん仲よしになったが、ただ困ったことには、根がいたって快活なアリ殿下は、白蝋仮面のおどかしを、すこしも恐れるふうもなく、お心のままにふるまわれるので、三津木俊助や進は、ただもう、ハラハラするばかりだった。
そして、あの恐ろしい夜がやってきたのである。
それは、白蝋仮面が、おどかしの電話をかけてきてから、一週間ほどのちのことだった。アリ殿下はホテルの大広間をかりて、盛大な仮装舞踏会を開かれたのだ。
そのことについても、三津木俊助や進は、なんどおいさめしたかわからない。
「こんなばあいですから、あまりはでなことは、お見あわせになられたほうがよろしいのではないでしょうか」
と、もうしあげたのである。
しかし、いったん思いたったら、あとへひかれるアリ殿下ではない。
「三津木さん、御子柴くん、ご心配、ありがとう。でも、わたし、みなさんに、たいへん親切な、おもてなし、うけました。おかえししなければ、礼儀、そむきます。どろぼう、恐れて、礼儀、そむいては、わたしの国、はじになります。わたしよく、気をつけます。ご心配、いりません」
かたことまじりにそういわれると、アリ殿下は着々と、仮装舞踏会のじゅんびをすすめられたのだ。三津木俊助と進は、しかたがないので、なんとかしてアリ殿下をお守りしようと、ひそかに相談していた。
さて、いよいよその晩ともなれば、ホテルの周囲はたいへんな警戒ぶりである。刑事や警官がうの目たかの目、怪しい者と見れば、かたっぱしから、ひっとらえようと、手ぐすねひいて待ちかまえている。
やがて、定めの時刻の八時ともなれば、客がぞくぞくとつめかけてきた。それらの客は、みんな一流の紳士淑女だが、仮装舞踏会のこととて、おもいおもいの仮装をしているので、ホテルの大広間は、またたくまに、おもちゃ箱をひっくりかえしたようなにぎやかさになった。
さて、今夜の主人公のアリ殿下はと見れば、べつになんの仮装もしていらっしゃらない。お国における、いちばん上等の礼服を着て、黒人のモハメットをつれていらっしゃるだけのことだが、それがかえって、どんな仮装よりもみごとにみえた。
「いや、おそれいりました。殿下のそのおすがたにくらべれば、われわれの仮装は、おはずかしいようなものです」
と、ヨロイ武者に仮装した客のひとりがほめそやせば、そばからお姫さますがたの婦人が、
「ほんとにすばらしゅうございますこと。あの、そして殿下、そのターバンにちりばめてございますのが、あの有名な青色ダイヤで……」
と、たずねる。
「ええ、そう。白蝋仮面というどろぼう、ねらっている、ダイヤです」
と、殿下はニコニコ笑っていられたが、そのときホールの入り口で、きゅうにざわめきが起こったので、なにごとであろうとふりかえったとたん、殿下はアッと目を見張られた。
そのとき、ホールの入り口から、しずしずとはいってきた二組の客があったが、なんと、ふたりの客がふたりとも、黒人をつれたアリ殿下。……いや、アリ殿下とそっくりおなじ仮装をしているではないか。
これにはさすがのアリ殿下も、びっくりして目をまるくしていられたが、そこはさすがに社交なれたかたのこと、やがて、ニコニコとふたりのほうへ近づいていくと、
「これはこれは、ようこそ」
と、うやうやしくおじぎをされて、
「なるほど、これ、おもしろいです。あなたがわたし? わたしがあなた? アッハッハ」
と、腹をかかえて笑われた。
しかし、ほかのひとたちは、笑うどころではない。なんともいえぬ気味悪さに、思わずゾッと顔を見あわせた。
それもむりはないのだ。あとからはいってきたふたりの殿下というのが、なりかたちはいうにおよばず、顔つきまで殿下にそっくり。三人ならんでたっているところを見ると、どれがほんものの殿下だかわからなくなるくらいである。
ああ、ひょっとすると、この三人の殿下のなかに、変装の名人、白蝋仮面がいるのではあるまいか。
そうだ、そうだ、きっとそうなのだ。しかし、そうすると、もうひとりのアリ殿下は、いったいだれなのだろう?
しかし、殿下はそんなことには気にもとめず、愉快そうにお笑いになりながら、
「ときに、あなた、お名まえは? 失礼……わたしアリです」
と、おたずねになると、すぐにひとりのアリ殿下が、
「わたし、アクメッド・アリ・ハッサン・アブダラアです」
と、かたことまじりに答えた。すると、それにつづいてもうひとりのアリ殿下も、
「わたしもそう。わたし、アラビアの王子、アクメッド・アリ・ハッサン・アブダラア」
と、答えた。アリ殿下はそれをきくと、腹をかかえて笑いながら、
「おもしろいです。おもしろいです。すると、わたし、三人いる。だれがほんとのアリ殿下?」
しかし、笑いごとでないのは、客のなかにまじっていた、等々力警部をはじめとして、警官たちや刑事たちである。
すわとばかりに、三人のアリ殿下をとりまいたが、するとひとりが手をあげて、
「いけません、いけません。このひとたち、わたしのお客さま。失礼なことしては困ります」
と、おしとめた。すると、それにつづいてもうひとりが、
「そう、そのとおり。お客さまに失礼しては、わたしの国、はじです。用があったら、会がすんでからに、してください」
それにつづいてさいごのひとりも、
「さあ、それではみなさん、そろそろ、ダンスしましょう。これ、モハメット。音楽のひと、そういいなさい」
さあ、こうなると、どれがほんもののアリ殿下か、いよいよわからなくなってしまった。等々力警部をはじめ警官たちは、歯ぎしりしながらも手をつかねているよりほかに、しかたがない。
そのうちに、ホールのすみからうつくしい音楽がながれてきて、ここにいよいよ盛大な、仮装舞踏会の幕が切っておとされたのである。
それはまったく、世にもきらびやかでうつくしい舞踏会だった。仮装舞踏会のことだから、客たちはみなそれぞれ、うつくしい仮装をしている。西洋の騎士もいればピエロもいる。お姫さまもいれば田植え娘もいる。
それらのひとびとの、手をとりあってダンスをしているところを見ると、いかにも楽しそうだったが、ほんとをいうと、その楽しそうな舞踏会の底には、なんともいえぬ、気味の悪い空気が流れていたのである。
等々力警部をはじめとして、おおぜいの警官たちは、目をひからせて、三人の殿下を見張っていた。
そして、ちょっとでも怪しいふるまいがみえたなら、ひっとらえてやろうと、手ぐすね引いて待っているのだ。
こうして、いく番かのダンスがすみ、ホールの正面にある大時計が、九時をしめしたときであった。
とつぜん、ホテルじゅうの電気という電気が、いっせいに、フッと消えてしまったから、さあたいへん。ホールにみちあふれていたひとびとは、ハチの巣をつついたような大さわぎ。
「キャッ、たすけてえ!」
「わたし、こわい!」
と、悲鳴をあげる婦人たちの声にまじって、
「電気をつけろ! はやく電気をつけろ!」
と、どなっているのは等々力警部。
ところがこのとき、くらやみのなかから、とつぜん、またちがったざわめきが起こった。
「ああ、あれ、あれ、アリ殿下が……」
と、口々に叫ぶ声に気がつき、警部がフッと、ホールのすみに目をやると、ああ、なんということだろう。うるしのようなくらがりのなかに、アリ殿下のすがただけが、まるで、夜光虫のように、ボウッと光って、うかびあがっているではないか。
しかも、そのアリ殿下は、キッと、ピストルを身がまえている……。
アラーの神
おどろいたのは等々力警部、ひとびとをかきわけて、アリ殿下のそばに近づくと、
「あなたはだれです。ほんとのアリ殿下ですか」
「そう。わたし、アリです」
「しかし、そのおすがたどうしたのですか」
「わたし、悪者が、電気消すのではないかと、思いました。そして、くらがりのなかで、わたしに害、くわえるのではないかと思ったのです。それで、からだに、くらがりのなかでも光る薬、ぬっておきました。こうしておけば、電気消えても、悪者、わたしに近づくこと、できません。アッハッハ!」
ああ、なんといううまい考えだろう。そしてまた、なんという、かしこさだろう。
アリ殿下は、悪人が電気を消すかもしれないということを、あらかじめ知っていたのだ。そして、そのときの用意として、全身に夜光塗料をぬっておいたのである。
「わかりました。われわれがきっと殿下をお守りします。だれにだって、指一本ささせることはありません。おい、みんな、殿下のそばにあつまれ。だれも殿下のそばへ近づけるな。それからだれかホテルの支配人のところへいって、はやく電気をつけるようにいってこい」
警部のことばにザワザワと、くらがりのなかでざわめきが起こったかと思うと、アリ殿下のまわりには、たちまち警官があつまった。それから、ホールを抜け出す足音がきこえたのは、きっと支配人のところへ走ったのだろう。
ひとびとは、息をころして、電気のつくのを待っていた。しかし、よほどひどい故障らしく電気はなかなかつかない。
五分――十分――十五分……。
一同が、しだいにジリジリしはじめたとき、やっと電気がついたが、そのとたん、いそいであたりを見まわした等々力警部は、思わずギョッと目をみはった。
いないのだ。さっきまでいた、もうふたりのアリ殿下が……。
「しまった! おい、みんな手わけして、さっきのふたりをさがしてみろ!」
警部はやっきとなって叫んだが、それにしてもあの怪しいふたりのアリ殿下と、それからふたりのモハメットは、いったいどこへいったのだろう。
それを物語るためには、もういちど物語を、電気が消えたしゅんかんまで、もどさなければならない。
ホテルじゅうの電気という電気が消えて、ひとびとが大さわぎをしているときだった。
スルスルと、ホールを抜けだしたふたつの影がある。
ふたつの影は、ヘビのように足音もなく、ろうかをすべり、階段をのぼっていくと、やってきたのは二階の一室。ああ、そのへやこそは、アリ殿下が泊まっているへやなのである。
怪しい影は、ポケットから合いかぎをだして、ドアを開くと、すばやくなかへすべりこんだ。
「おい、川北、おまえもはやくはいってこい」
「はい」
と答えて、つづいてへやへはいってきたのは、小男の影。怪しい影はすぐにドアをしめると、かぎをかけてしまった。
「さあ、こうしておけばだいじょうぶ」
と、怪しい影はつぶやきながら、懐中電燈を取り出して、へやのなかをしらべたが、すると、その光のなかにうきあがったのは、なんともいえぬ気味の悪い像である。
それは人間の大きさほどもある、銅でできた大きな像だが、左右の手が三本ずつ、つごう六本もあるのだ。
それだけでも気味が悪いのだが、その像には片目しかないのである。それというのもまえには両眼あったのだが、左の目だけが青く光っているのである。
怪しい影はクスクス笑って、
「アリのやつめ、もったいらしくターバンに、ダイヤをちりばめているけれど、あれはにせもののガラス玉よ。ほんものの青色ダイヤは、こうしてアラーの神の目におさまっているんだ。おい、川北、はやくあのダイヤをくりぬいてこい」
ああ、もうまちがいはない。いま、そこにいるアリ殿下と、従者のモハメットこそ、白蝋仮面と、小男の部下にちがいない。
白蝋仮面の命令で、小男の川北は、スルスルと、アラーの神像に近よったが、まえまでくると、思わずギョッと立ちすくんだ。白蝋仮面は、気をいらだてて、
「おい、川北、なにをぐずぐずしているんだ。はやくダイヤをぬかないか」
「ボス、だって、この神さま、あんまりこわい顔をしているもんで……」
小男の川北が、しりごみするのもむりはない。アラーの神は、なんともいえぬ恐ろしい形相をしているのである。
カッと開いた大きな口、さかだつまゆ、いかりにみちたそのまなざし――しかも、片目がないだけに、いっそう気味が悪いのだ。
「アッハッハ、いかにこわい顔をしていたところで、たかが、銅でできた人形じゃないか。さあぐずぐずしてると、ひとがくるぞ。はやくそのダイヤをくり抜いてしまえ」
せきたてられて、しかたなく、小男の川北は青色ダイヤに手をかけた。
「どうだ、川北。抜けそうか」
「ボス、なにか道具はありませんか。とても素手では抜けません」
「よし、それじゃこれを使ってみろ」
と、白蝋仮面がとり出したのは、七つ道具のついたナイフである。
「へえ」
小男の川北は、それを使って、いろいろ苦心していたが、やがて、
「しめた!」
という叫び声。
「どうした、どうした。抜けそうか」
「へえ、どうやら動きだしました。もうすこしです」
「はやくしろよ。ひとがくると一大事だ」
小男の川北は、いっしょうけんめい、指でダイヤをいじっている。ダイヤはグルグルまわったが、それでもなかなか抜けない。
気をいらだてた川北が、指先に力をこめて、ウンとそれをひっぱったときだった。
三本ずつあるアラーの神の手のうちの、一対の手が、だしぬけに、ハッシとふりおろされたかと思うと、ガッキと川北の首っ玉をつかまえたから、当の本人の川北はもちろん、白蝋仮面もハッと顔色をかえた。
「ワッ! ボ、ボス、た、たすけて……」
「ちくしょう。さてはおれがダイヤをぬすみにくるとしって、こんな仕掛けをしておいたのだな。
川北、ダイヤはどうした」
「ダ、ダイヤはまだあの目のなかに……」
なるほど、みれば青色ダイヤは、まだアラーの神の片目のなかに光っている。
白蝋仮面はそのほうへ、手をのばしかけたが、まだほかに、どんな仕掛けがあるかと思うと、気味が悪くて手が出せない。
小男の川北は、虫のなくような声で、
「ボ、ボス、は、はやくこの手をはなしてください。ああ息がつまる……く、苦しい……」
あわれ、小男の川北はとりもちにひっかかったハエのように、手足をバタバタさせたが、首をつかんだアラーの神の両手には、いよいよ力がこもってきて、川北はいまにも気がとおくなりそうだった。
「ああ……ボ、ボ、ボス……く、苦しい……死ぬ……死んでしまう……」
「ちくしょう、ちくしょう。しっかりしろ。いまにきっと、たすけてやる。気をたしかにもっていろ!」
白蝋仮面は、気ちがいのようになって、アラーの神のまわりを、グルグル歩きまわっていたが、どういう仕掛けになっているのか、川北の首をしめた両腕を、もとへもどす方法はわからないのである。
そのうちに、とうとう川北は、首っ玉をつかまれたまま、ぐったりと気をうしなってしまった。
「川北、しっかりしろ! ちくしょう、ちくしょう。アラーのやつめ!」
白蝋仮面がこぶしをかためて、くやしそうにアラーの神を、ぶんなぐっているときだった。
「アッハッハ、さすがの白蝋仮面も、とうとうわなにひっかかったな」
勝ちか負けか
そういう声とともに、パッと室内の電気がついたから、おどろいたのは白蝋仮面。
「なにお!」
と、声がしたほうへ目をやると、いましも奥のカーテンを、左右にわって出てきたのは、アリ殿下と従者のモハメット。アリ殿下はキッとピストルをかまえている。
「ヤッ! き、きさまはアリ殿下、いつのまにここへ……」
と、白蝋仮面が目をしろくろさせていると、アリ殿下はカラカラ笑って、
「アッハッハ、ぼくがアリ殿下に見えるかい。そうすると、ぼくの変装もまんざらではないと見えるな」
そういう声をきいて白蝋仮面は、ギョッと大きく目を見はった。
「ああ、そういう声は俊助だな。それじゃ、きさまは、三津木俊助だったのか」
「アッハッハ、やっといまわかったのかい。きみにしちゃ、さとりがおそいじゃないか」
「そして、そのモハメットは何者だ」
「おや、まだ、わからないのかい。いつか金獅子城で、きみのためにあやうくライオンの餌になろうとした、探偵小僧さ。探偵小僧、白蝋仮面さんにあいさつしな」
探偵小僧のモハメットは、ひたいに手をあて、いかにもアラビア人らしく、もったいぶったあいさつをした。
ああ、なんと、三人めのアリ殿下とモハメットは、三津木俊助と探偵小僧の御子柴進だったのである。
「ちくしょう」
白蝋仮面は、くやしそうに、歯をギリギリとかみならしながら、
「それじゃ、アラーの神にこんな仕掛けをしておいたのもきさまだな」
「そうさ。アリ殿下が今夜、ターバンにつけていらっしゃる、にせダイヤにだまされるようなきみじゃない。きっと、ほんもののダイヤをとりにくるにちがいないと思ったから、アラーの神に仕掛けをしておき、さきまわりをして、きみのくるのを待っていたのだ」
白蝋仮面は、しばらくだまっていたが、
「まいったよ、三津木俊助。今夜はおれの負けらしいな。ところで、すまないが、アラーの神の両腕を、なんとかしてやってくれないか。このままじゃ、こいつ、死んでしまう」
「よしよし、きみのような男でも、部下はやっぱりかわいいんだな。おい、探偵小僧、あの腕をもとどおりにしてやりなさい」
「はい」
と答えて、探偵小僧がアラーの神のうしろへまわり、どこやらいじくっていたが、すると、いままで川北の首をしめていた腕が、ギリギリと上へあがっていったかと思うと、気をうしなった川北は、泥人形のようにクタクタと、ゆかの上にたおれた。
「さあ、これでいいだろう。気をうしなっているだけだ。命にはべつじょうあるまい」
「ありがとう、三津木俊助」
と、白蝋仮面はひたいの汗をぬぐいながら、
「さて、これからどういうことになるかな」
「アッハッハ、どうもこうもあるもんか。お気のどくながら、きみをつかまえるだけのことさ」
「なに、おれをつかまえる?」
白蝋仮面は目をまるくして、
「アッハッハ、三津木俊助、そうはいかないよ。今夜はおれの負けだといったが、あれはダイヤのことをいっただけで、そうかんたんにつかまってたまるもんか」
「へへえ」
俊助も目をまるくして、
「それじゃ、きみはまだ逃げられると思っているのか」
「そうだ。そう思っているよ」
「しかし、ホテルのまわりには、十重二十重と警官がとりまいているんだぜ。いや、ホテルのまわりばかりじゃない。ホテルのなかにも、等々力警部をはじめとして、おおぜいの警官がつめかけていることを、きみも知らぬはずはあるまい」
「知ってるよ」
「それでも、きみは逃げるつもりかい」
「ああ、逃げるつもりだ」
「どうして逃げる?」
「こうして逃げるんだ」
いったかと思うと白蝋仮面は、まるで野球のすべりこみのように、サッと身をうかして、かたわらの窓にとびついた。
ガチャンと窓ガラスがこわれて、白蝋仮面は、はや、バルコニーへとび出している。そのうしろから俊助が、あざけるような笑い声をあびせかけた。
「アッハッハ、だめだよ、だめだよ。白蝋仮面、下にはいっぱい警官がいるんだぜ」
だがそのとたん、俊助の顔色がサッとかわったのだった。
決死の逃走
バルコニーから下へとびおりるかと思いのほか、なんと、白蝋仮面はスルスルと、上へあがっていくではないか。
「しまった!」
と、叫んだ俊助が、こっぱみじんとくだけたガラスをふみながら、バルコニーへとび出してみると、白蝋仮面は三階の屋上からたれている、綱をつたってスルスルと、上へあがっていくのだ。
白蝋仮面はあらかじめ、こんなこともあろうかと、三階から綱をたらしておいたらしいのである。
「しまった! 御子柴くん、呼び子を……呼び子を……」
俊助にいわれて進は、ハッと気がついたように、ポケットから、笛をとりだすと、ピリピリピリとそれを吹いた。
それをきいて、階下の大広間から、ドヤドヤとあがってきたのは、等々力警部をはじめとして、おおぜいの警官や刑事たち。そのなかにはアリ殿下と従者のモハメットもまじっていた。
「おお、三津木くん。どうした、どうした」
「警部さん、白蝋仮面がいま屋上へ逃げていったんです。すぐにきてください」
「なに、白蝋仮面が屋上へ逃げたと? そして、ここにたおれているのはだれだ」
「そいつは白蝋仮面の部下で、川北という小男です。気をうしなっていますから、すぐ警視庁へつれていってください」
俊助はへやからかけ出しながら、
「殿下、あなたはモハメットとここにいてください。どこへもおいでにならないように」
「三津木さん、ありがと。わたし、ここにいます。どこへもいきません」
殿下のことばをあとにききながら、三津木俊助と等々力警部、探偵小僧の三人がおおぜいの刑事や警官をひきつれて、ホテルの屋上へきてみたが、白蝋仮面のすがたはどこにも見えない。
「おや、三津木くん、白蝋仮面はいないじゃないか」
「そんなはずはありません。どこかに、かくれているにちがいない。みなさん、さがしてください」
しかし、その屋上にはあかあかと電気がついているので、どこにもかくれるようなところはない。
「それじゃ、われわれがぐずぐずしているあいだに、また下へおりていったかな」
「下へおりたらこっちのもんだ。このホテルはアリのはいだすすきまもないほど、厳重に警官が張り番をしているのだから」
警部がそんなことをいっているときだった。
とつぜん、けたたましい叫び声をあげたのは探偵小僧の御子柴進。
「あ、み、三津木さん、あんなところに白蝋仮面が……」
「な、なに、白蝋仮面が……どこに……どこに?……」
「あそこです。あの空の上です」
「なに、空の上?」
ギョッとした一同が空をあおげば、ああ、なんということだろう。いましもホテルの上空を、フワリフワリととんでいくひとつのアドバルーン。そのアドバルーンからたれている、綱の先にぶらさがっているのは、まぎれもなく、アリ殿下のすがたをした白蝋仮面!
「ああ、わかった、わかった」
このホテルの屋上には、アドバルーン――すなわち広告気球がひとつ、つなぎとめてあったのである。白蝋仮面はその綱を切りはなち、それにぶらさがって、空へとんでいくのだ。
「しまった。ちくしょう!」
警部をはじめ、警官たちが、いっせいにピストルをぶっぱなしたが、ときすでにおそく白蝋仮面はピストルの射程距離より、はるかに遠く飛んでいた。
さて、それからあとの大さわぎは、いまさらここにくりかえすまでもあるまい。
等々力警部はすぐに警視庁へ電話をかけて、全都に手配をさせた。
今夜は、西風なので、アドバルーンは江東《こうとう》から海上へ流れていくにちがいないと、その方面にはことに厳重な監視の網がはられた。
また三津木俊助は新日報社へ電話をかけ、ヘリコプターでアドバルーンを、追跡するように命じた。
こうして、おりからの星空を、フワリフワリととんでいく、アドバルーンを追っかけて、新日報社の屋上から、ヘリコプターが飛び出したから、さあ、このニュースをラジオできいた東京じゅうは大さわぎ。
人 質
さて、こういう手配にてまどった俊助が、半時間ほどたって、探偵小僧とともに、アリ殿下のへやへ帰っていくと、殿下はひとりぽつねんと、酒をのんでいた。
「あっ、殿下、モハメットはどうしました?」
「モハメット、支配人のところ、やりました。三津木さん、モハメット、帰ってくるまで、ここにいてください」
アリ殿下はかたことまじりの日本語でいった。
「承知しました。御子柴くん、きみもそこへかけさせていただきなさい」
ふたりが腰をおろすと、アリ殿下は、俊助には西洋の酒、進にはあまい飲み物をついで、まえへさしだすと、
「おあがりなさい。これ、飲むと、たいへん、元気つきます」
「ありがとうございます。御子柴くん、きみもいただきなさい」
俊助は酒を飲みながら、ふと、アラーの神に目をやって、
「おや、殿下、あの青色ダイヤはどうなさいました」
「ああ、あれ、あれはずして、べつのところ、かくしておきました。白蝋仮面、また、帰ってくる、こまります」
さすがのアリ殿下も、今夜の白蝋仮面のやりくちには、いささか恐れをなしたのだろうか、顔をしかめてそういった。
「アッハッハ、だいじょうぶですよ。殿下、白蝋仮面はもう二どと、帰ってくるようなことはありません」
「それ、どういうわけ?」
「だって、殿下、アドバルーンは風のまにまに流れていくだけです。方向をさだめることや、着陸することもできません。いずれ、気球からガスが抜けて、墜落するにきまっています。それが海の上ならばまだしも、陸上だったら、白蝋仮面の命はありません。あいつもばかなまねをしたものです」
「そう、そうですか、三津木さん。白蝋仮面、ばかなまね、したでしょうか」
「そうですとも、あいつににあわぬことをやったもんです。アッ……」
「おや、三津木さん、どうしましたか」
「いや、なんでも……おい、探偵小僧、どうしたんだ。いくらつかれたからって、殿下のまえで、いねむりをするやつがあるもんか。起きろ、起きろ……」
そういいながらも俊助、目をパチクリさせながら、しきりに首をふっている。俊助もなんだかきゅうに、ねむくて、ねむくて、たまらなくなったのだった。
「三津木さん、どうしましたか」
アリ殿下がまたたずねた。
「いえ、あの、なんでもありませんが……おや、あの声はなんだ。あのうめき声は……」
「アッハッハ、三津木さん、気になりますか。あのうめき声が……」
「エッ?」
「気になるなら、そのカーテンをめくって、なかをのぞいてごらんなさい」
「な、な、なんですって?」
俊助はぼんやりと、アリ殿下の顔をみていたが、やがて、フラフラとカーテンのまえまで歩いていくと、サッとそれをまくりあげたがそのとたん、つめたい水でもぶっかけられたような気がした。
なんとそこには、アリ殿下とモハメットが、がんじがらめにしばられたうえ、さるぐつわまではめられて、ゆかの上にころがっているではないか。
「あっ殿下、モハメット!」
三津木俊助はびっくりぎょうてん、あわててうしろをふりかえったが、そのとたん、きゅうに全身から骨を抜きとられたように、クタクタとゆかにひざをついた。そのようすを、へやのなかのアリ殿下が、ニヤニヤしながら見ているのである。
「き、き、きさまはだれだ?」
「アッハッハ、俊助、いまさらだれときくまでもあるまい。おれさ、白蝋仮面だ」
「な、な、なに!」
俊助はあわてて腰のピストルに手をやろうとしたが、全身がしびれて、思うように、手足がきかない。
「そ、そ、それじゃ、さっき、アドバルーンで逃げていったのは?……」
「アッハッハ、ありゃ人形だよ。殿下とおなじすがたをした人形を、屋上にかくしておいて、それをアドバルーンにつけてとばしたのさ」
「ち、ち、ちくしょう」
三津木俊助は、バリバリと歯ぎしりをした。いや、歯ぎしりをしようとしたのだが、いまはその力さえないのだ。
「アッハッハ、三津木俊助、どうしたい。なにかいわないか。もう口もきく元気がないのかい。そうだろう、そうだろう。いま、きさまの飲んだ酒には、つよい薬がまぜてあったんだからな。アッハッハ――」
にせアリ殿下の白蝋仮面は、ゆかにたおれた俊助を、小気味よげにけりながら、
「どうだ、俊助。さっきはおれの負けだったが、こんどというこんどは、おれが勝ったぞ。アッハッハ」
と、白蝋仮面はゆかいそうに笑って、
「アリ殿下はおれを俊助だと思っていたんだ。それはそうだろう。白蝋仮面はアドバルーンでどこかへとんでいったと思っていたんだからな。そこでおれは、きさまになりすまして、殿下のおあいてをしているうちに、殿下とモハメットにねむり薬をのませ、これ、このように青色ダイヤを手にいれたんだ。アッハッハ、俊助、おれの手なみがわかったか」
俊助はなんといわれても、かえすことばがない。いや、ことばをかえそうにも、からだじゅうがしびれて口がきけないのだ。白蝋仮面はせせら笑って、
「さあてと、これからいよいよホテルを脱走するんだが、やい、俊助、おまえは、ホテルのまわりは十重二十重と警官にとりまかれているから、とても逃げだすことはできまい、と思っていようが、なあに、細工はりゅうりゅう、おれはどうどうと正面からでてみせるぞ」
そういいながら、白蝋仮面のだきあげたのは、探偵小僧の御子柴進である。
「おい、俊助。探偵小僧は人質として、もらっていく。こいつをかえしてほしいと思ったら、おれの部下の川北をかえせ。あいつは小男だが、おれにとっては忠実な部下だ。いずれおれからたよりをするが、そのときには川北をかえしてよこせ。そうすれば、探偵小僧をかえしてやる」
そういいすてると、白蝋仮面は、御子柴進をだいたまま、ゆうゆうとへやからでていった。
あとには三津木俊助が、はらわたもにえくりかえるようなくやしさをいだいて、もがいていたが、そのうちに薬がまわったのか、こんこんと眠りこけてしまった。
さて、こちらはアリ殿下にばけた白蝋仮面である。進をだいたまま、ホテルの正面玄関まできたが、そこでばったりであったのが、警視庁の等々力警部。
「おや、三津木くん。探偵小僧がどうかしたのかね」
なにしろ進をだいているものだから、警部もそれを三津木俊助と信じてうたがわないのだ。
「ああ、警部さん、いまアリ殿下のおへやで、ごちそうになったんですが、探偵小僧め、飲みつけぬ酒をのんだもんだから、すっかりよっぱらってしまったんです。ぼく、これから医者へつれていきます」
「それは、それは……そして、アリ殿下は?」
「殿下は、おへやにいらっしゃいます。警部さん、なおこのうえにも、殿下に気をつけてあげてください」
「うん、それはよくこころえている」
「ときに、警部さん。白蝋仮面ののって逃げたアドバルーンは見つかりましたか」
「フム、東京湾のほうへ、流れていったらしい、というところまではわかっているが、そのあとはさっぱり消息がわからない」
「アッハッハ、白蝋仮面もばかなやつです。いまに海上に墜落して、フカかなにかの餌食になるにきまっています。アッハッハ」
白蝋仮面はひとごとのように笑っている。
「フム、あいつをつかまえることができなかったのは残念だが、そうなると、疫病神を追っぱらったのも同じだ。枕をたかくしてねられるよ」
「ほんとにそのとおりです。では警部さん、ぼくはこれで失礼します。くれぐれもアリ殿下をよろしく」
と、通りかかった自動車をよびとめると、進をだいたまま、白蝋仮面はそれにのって赤い舌をペロリ。
そのままどこへともなく走りさったが、それからまもなく、アリ殿下のへやへやってきた等々力警部が、そこになにを発見して、どのようにおどろいたか……それは、いまさらここにいうまでもないだろう。
歌とおどりのふたご
ああ、なんという悪知恵にたけたやつだろう。
こうして白蝋仮面はまんまとアリ殿下の青色ダイヤをうばいとったばかりか、探偵小僧の御子柴進を人質としてつれさってしまったのだ。
その翌日、東京湾の沖合で、アリ殿下とそっくり同じ扮装《ふんそう》をした人形とともに、アドバルーンの浮いているのが発見されたが、さあ、こうなると世間はだまっていない。
あんなにたくさんの刑事や警官を動員しながら、たったひとりの白蝋仮面に、してやられたのだから、警視庁はごうごうたる非難の矢おもてに立たされたが、ことに責任者の等々力警部の肩身のせまさといったらなかった。
しかし、白蝋仮面の部下の小男の川北をとらえているだけ、警部はまだよいほうである。
ここに面目まるつぶれとなったのは、新日報社の三津木俊助。アリ殿下からあれほど保護をたのまれていた青色ダイヤはぬすまれる。探偵小僧は人質にとられる。おまけにさんざん白蝋仮面に馬鹿にされたのだから、そのくやしさといったらない。
なんとかして、このしかえしをしてやらねば、腹の虫がおさまらなかったが、それについて俊助が、たのみとしているのは、白蝋仮面がさいごにいったことばだった。
白蝋仮面は小男の川北と探偵小僧をとりかえっこしようというのだ。いずれそのうちに、むこうから、たよりをよこすというのだが、そのときこそは、目に物見せてやろうとばかり俊助は手ぐすねひいて、その日のくるのを待ちうけていた。
ところが、白蝋仮面から、なんのたよりもこないうちに、ここにちょっと、みょうなことが起こったのだが、あとから思えばそのできごとこそ白蝋仮面の事件に、たいへん大きな関係があったのである。
そのころ、丸《まる》の内《うち》の東都劇場に『歌とおどりのふたご』という人気者が出演していた。
そのふたごの名は、夏彦《なつひこ》と冬彦《ふゆひこ》といって、十五歳になったばかりのふたごの少年である。だいたい、ふたごというものは、にているものと相場がきまっているが、夏彦と冬彦ほど、よくにたふたごはほかにあるまい。うりふたつというもおろか、現在の両親が見てもどちらがどちらとも見わけがつかぬくらいなのだ。そういうふたごの少年が、そろいのタキシードで歌いながらおどるのだが、その声のよいこと、おどりのじょうずなことといったらない。
さて、『歌とおどりのふたご』といえば、東京じゅうでも、知らぬ者はないくらいの人気者だったが、アリ殿下のホテルで、ああいうさわぎがあってから、三日目のこと、東都劇場の楽屋へひいきの客からだといって、そのふたごをむかえにきた自動車があった。
なにしろ、いま東京にかくれもない人気者のことだから、ひいきの客にまねかれることはめずらしくないので、その晩の招待も、あらかじめ承知していたので、ふたりはなんのうたがいもなく、むかえの自動車にのった。
さて、ふたりを乗せた自動車が、やってきたのは麻布のさびしいお屋敷だった。
きみたちもおぼえているだろう。この物語のいちばんはじめに、探偵小僧が石膏人形に化けた白蝋仮面を追跡して、しのびこんだあき屋敷。ふたりがつれこまれたのは、なんとそのあき屋敷だったのである。
しかし、夏彦も冬彦も、そんなことは夢にもしるはずがない。自動車がつくと、運転手がみずから門を開いてふたりを家のなかへ案内した。
なにしろ、夜ふけのことだから、あたりの荒れているのはわからなかったが、それにしても、これだけひろいお屋敷に運転手よりほかに使用人はいないのかと、ふたりはなんとなくふしぎに思った。
運転手はふたりを応接室へ案内すると、
「ちょっとお待ちください。すぐご主人がお見えになりますから……」
そういって出ていったが、なにを思ったのか、ドアのところで立ちどまると、
「念のためにいっておきますが、おとなしくここで待っているのですよ。けっしてそこらをほっつき歩いたりのぞいたりするのではありませんよ」
と、ギロリとにらんだその目のすごさ。ふたりは思わずちぢみあがった。
「へんだねえ、夏ちゃん。どういうんだろ」
「へんだねえ、冬ちゃん。どういうんだろ」
運転手がでていくと、ふたりは同じようなことをいって、気味悪そうに顔を見あわせていたが、いつまで待っても主人というひとはでてこないのだ。
腕時計をみると、もう十時。
あたりはシーンとしずまりかえっていたが、そのときふと、どこからかきこえてきたのは、いかにも苦しそうなうめき声……。
大時計のなか
「アッ、ありゃなんだ? 夏ちゃん」
「アッ、ありゃなんだ? 冬ちゃん」
ふたりはまた同じようなことをいいながら、びっくりして、へやのなかを見まわした。
うめき声はたしかにへやのなかからきこえるのだが、どこにも人影はみえない。ふたごはソッと、テーブルの下や、長いすのむこうをのぞいたが、どこにもひとはいないのだ。それでいてうめき声はつづいている。
ふいに夏彦が冬彦の袖《そで》をひっぱった。
「冬ちゃん、あ、あの時計のなかじゃない?」
「夏ちゃん、ぼ、ぼくもそう思う」
ふたりが目をつけたのは、へやのすみに立っている大きな時計である。外国ではそれをグランド・ファーザー・クロック――すなわち『祖父の時計』というのだが、高さ二メートル以上もあろうという大きな箱型の時計で、上に文字盤がついており、その下に振り子がぶらさがっているのだ。
ふつうは振り子の部分もガラスのドアになっていて、外から振り子が見えるのだが、その大時計は振り子の部分に、唐草もようをほった木製のドアがしまっている。そして、あのうめき声は、ドアのなかからきこえるのだ。
ふたりはソッと、ドアのそばへよると、
「もしもし、そこにだれかいるのですか?」
夏彦が声をかけると、うめき声は、まえより高くなったが、はっきりした返事はなかった。
「夏ちゃん、いいからあけてみよう」
「うん、でもだれかきやしないかしら」
「よし、ぼく、ちょっと、ようすをみてくる」
冬彦はソッとろうかへ出てみたが、あいかわらず、家のなかはシーンとして、ひとのけはいはない。
「夏ちゃん、だいじょうぶ、いまのうちだ」
「よし」
夏彦がドアを開いたとたん、時計のなかからころげでたのは、さるぐつわをはめられ、がんじがらめにしばられた少年ではないか。
「あ、き、きみはだれです。どうしてこんなところにいれられているの?」
「夏ちゃん、そんなこときいたってむりだよ。さるぐつわをはめられているんだもの」
「ああ、そうか。よし」
夏彦がさるぐつわをはずしてやると、少年は早口にこんなことをしゃべった。
「ぼく、新日報社の御子柴進というんです。きみたちここを出たら、新日報社の三津木俊助というひとに、このことを知らせてください。さ、はやくぼくにさるぐつわをかませて、もう一ど、時計のなかへ入れてください。そして、ぼくをみたなんて、けっして、いうんじゃありませんよ。あ、だれかきた。はやくはやく」
ああ、その少年こそは白蝋仮面につれさられた探偵小僧の御子柴進だったのである。
ふたごの夏彦と冬彦も、新聞で御子柴進のことは知っていた。そこで、大いそぎで進をもう一ど、大時計のなかへおしこんだところへ、足音がきこえて、はいってきたのはお医者さんのように、白い手術着をきたひとだった。
そのひとはジロジロ、へやのなかを見まわしながら、
「きみたち、いまここでなにをしていたの」
と、するどい目でふたりを見る。頭のはげあがった、目つきのするどい男である。
「ぼ、ぼくたち、なにもしません。さっきからここにすわっていました」
夏彦がふるえ声で答えると、あいてはあざ笑うようにくちびるをねじまげて、
「アッハッハ、うそをついてはいけない。おまえたち、あの時計のなかを見たろう」
「い、いいえ。そ、そんな……」
「だめだ!」
手術着をきた男は、とつぜん大声でどなると、
「さっき運転手はなんといった。へんなところをのぞいちゃいけないといったろう。それにもかかわらず、おまえたちは時計のなかを見た。さあ、その罰にこれをあげよう」
ああ、その声、その顔、うまく変装しているけれど、それはたしかにさっきの運転手ではないか。
奇怪な男はそういうと、手術着のポケットから両手を出したが、みるとその両手にはピストルが一ちょうずつにぎられているのだ。
「あ、な、なにをするんです」
ふたごの夏彦と冬彦が、叫んだときはおそかった。カチッとピストルのひきがねがひかれると、なかからとび出したのは、鉛の弾丸と思いきや、なにやら甘ずっぱいにおいのする液体が、霧のように、サッとふたりの眼前に散って、ふたごの夏彦と冬彦は、その霧を吸うとともに、クラクラと目がくらんで、そのままゆかにたおれてしまったのだった。
救いを呼ぶ声
「ほほう、それできみたち、目がさめたとき、べつになんの異状もなかったというんだね」
その翌朝、十時ごろ、新日報社へかけつけてきたふたごの夏彦と冬彦の話をきいて、三津木俊助は目をまるくしていった。
「そうなんです。ぼくたちピストルをうたれたとき、てっきりうち殺されるものとばかり思っていたんです」
「ところが、ほんとうはそうでなく、ピストルからとび出したのは、麻酔薬だったのです。ぼくたちそのまま眠りこけてしまって、目がさめたらけさだったんです」
「それでぼくたち、すぐ大時計のなかをしらべてみたんですけれど、御子柴くんのすがたは見えませんでした。それで、御子柴くんとの約束を思い出して、その家から逃げだすと、すぐここへかけつけてきたんです」
ふたごの夏彦と冬彦は、キツネにつままれたような顔をしている。
「よし、それじゃとにかく、きみたちのつれこまれた家というのへいってみよう」
警視庁へ連絡すると、すぐ等々力警部がやってきた。そこで一同は、自動車にのって出かけることになったが、みちみちふたりの話をきいた警部は、ふしぎでならぬおももちである。
「それで、きみたち、目がさめたとき、なにもとられているものはなかったの?」
「ありません。ぼくたち、とられるようなものは持っていなかったんです」
「三津木くん、これはいったいどうしたというんだ。その手術着の男というのは、白蝋仮面にちがいないが、なんだってあいつは、この少年たちを、あき屋敷へよびよせたんだ」
「それがぼくにもふしぎなんです。きみたち、なにか、心あたりはないの。なにか白蝋仮面に目をつけられるような……」
「いいえ、ぼくたち、ぜんぜん、心あたりはありません。なあ、冬ちゃん」
「うん、そうだよ。ぼくたちなんのためによばれたのか、さっぱりわからないんです」
「ほんとにぼくたち、キツネにつままれたようなかんじなんです」
キツネにつままれたようなかんじは、夏彦と冬彦ばかりではなかった。聞いている警部も俊助もなにがなんだかわからない。
ふたりの話をきいてみると、白蝋仮面は、まるで探偵小僧のありかをしらせるために、ふたりをよんだような結果になっているが、まさかそんなはずはない。
それでは白蝋仮面はなんのために、ふたりをあき屋敷へよんだのか……。
俊助はあやしく胸の乱れるのをおぼえたが、ああ、白蝋仮面が夏彦と、冬彦をあのあき屋敷へよびよせたのには、深い意味があったのである。
それはさておき、自動車はまもなくあのあき屋敷へついた。警部はその家を見ると目をまるくして、
「なんだ、これはいつか探偵小僧が、白蝋仮面につかまって、あやしいラジオの放送をさせられたうちじゃないか。ところで、その応接室というのはどこだ」
「はい、こちらです」
ふたりの案内した応接室には、あの大時計が立っていたが、むろん、もうそのなかはもぬけのから。探偵小僧のすがたはどこにも見えなかった。俊助は時計のなかをしらべていたが、
「あっ、警部さん。ここに落ちているのは、探偵小僧の服のボタンです。これでみると、探偵小僧がここにおしこめられていたことはたしかですが、しかし、それからどこへつれていかれたのか……」
俊助が心配そうにまゆをくもらせているときだった。とつぜん、へやの一隅からきこえてきたのは、
「三津木さん、三津木さん」
とよぶ、探偵小僧の声。一同はハッとしてあたりを見まわしたが、どこにも探偵小僧のすがたはなく、しかも声だけはつづくのである。
「三津木さん、ぼく、いま、白蝋仮面のとりこになっているんです。ぼくのうしろから、白蝋仮面がピストルをおしつけています。白蝋仮面はあしたの晩、八時に小男の川北を、上野動物園まえまでつれてきたら、ぼくをかえすというんです。ああ、それから、白蝋仮面がまえから持っていた青色ダイヤも、このあいだ、アリ殿下からぬすんだダイヤもだれにもわからぬところにかくしたから、さがしてもむだだといっています。三津木さん、ぼ、ぼくをたすけて……」
「あっ、ここだ!」
俊助が気がついて、かべにかかった額をはずすと、そのうしろからあらわれたのは、ラジオの拡声器。しかしそのとたん、探偵小僧の声はプッツリ切れてしまった。
動物園騒動
さて、つぎの晩八時まぢかになると、上野の動物園のまわりはたいへんな警戒ぶりだった。あちらの木かげこちらの森かげ、およそもののかげというかげには、刑事や警官が身をひそませて、『怪しいものきたらばきたれ』と目を光らせているのだ。
なにしろ、このあいだアリ殿下のホテルからマンマと白蝋仮面をとり逃がして、世間のひなんをあびているので、今夜のきんちょうはひじょうなものである。
やがて、八時ちょっとまえ、動物園の正門まえへ三つの影が近づいてきた。いうまでもなく、小男の川北の手をとった三津木俊助と等々力警部。
俊助は正門まえまでくると心配そうに、腕時計に目をやった。時計の針は八時五分まえ。約束の時間まではあと五分である。
あたりを見ると人影もなく、シーンとしずまりかえった公園のなかには、高い塔がくろぐろと空にそびえている。その塔というのは、ちょうどそのころ公園のなかに開かれていた、万国博覧会のよび物として、人気をよんでいた展望台、すなわち東京のめぬきの場所を、ひとめで見られるという塔なのだ。
もちろん、博覧会はひるまだけだから、いまは塔上にいるひともなく、明かりの色もない高い建物が、暗い夜空にもののけのようにそびえているのがぶきみである。
俊助はなんとなく気になるように、ときどき、その塔をあおいでいたが、やがて、約束の正八時。俊助と等々力警部が小男の川北の両手をとり、キッと身がまえたときだった。
とつぜん、動物園のなかから、ものすごい猛獣のうなり声がきこえてきた。と、同時に、いままで静まりかえっていた動物園の構内から、バタバタとあわただしくいきかう足音がきこえてきたかと思うと、
「ワッ、たいへんだ、たいへんだ。ライオンがおりからとびだしたぞ」
「錦ヘビもいないぞ」
「トラも逃げた。トラも逃げたぞ」
「だれかおりを開いたやつがあるぞ」
「全員ひじょう警戒につけ」
口々に叫ぶ、そんな声がきこえてきたかと思うと、やがて、ズドン、ズドンと鉄砲の音がきこえてきたから、すわこそと、等々力警部と三津木俊助のふたりは、思わず顔色をかえた。
「アッ、警部さん、気をつけてください。きっと白蝋仮面のやつがやったことにちがいありません」
「そうだ。このどさくさまぎれに川北をとりかえそうというのにちがいない。しかし、三津木くん、これはどうしたものだろう」
さすがの警部も俊助も、とっさのこととてよい思案もうかばない。川北をつれて逃げるのはたやすいことだが、それでは進を取りかえす機会をうしなうわけである。
左右から川北の手をとった三津木俊助と、等々力警部がとほうにくれてまごまごしているころ、動物園のさわぎは、ますます大きくなってきた。
「それ、ライオンが塀をのりこえたぞ」
「アッ、錦ヘビがニレの木へのぼっていく」
「おお、おお、あれはどうしたことだ。ニレの木のてっぺんにだれかいるぞ」
口ぐちに叫ぶ声にまじって、足音はしだいにこちらへ近づいてくるのだ。
「警部さん、これはいけない。ここはいったんひきあげたほうがよいかもしれません」
「よし」
川北の手をひっぱって、警部と三津木俊助が、動物園の塀ぞいにバラバラと走っていくと、その前方の暗がりへ、塀の上からヒラリととびおりたものがある。
「アッ、ライオンだ!」
木にのぼる錦ヘビ
さすがの三津木俊助も、からだじゅうの毛という毛が、さかだつような恐ろしさをかんじた。等々力警部はサッと腰のピストルに手をやったが、そのとたん、
「うっちゃいけない!」
と、叫びながら、すっくとライオンがうしろ足で立ちあがったから、警部と俊助は二どびっくり。
「だれだ!」
「おれだよ。白蝋仮面だ。約束どおり小男の川北をもらいにきた」
白蝋仮面はライオンの頭をグラリとうしろにはねのけると、自分もピストルを身がまえながら、暗がりのなかにふみだした。
「しかし、それじゃ約束がちがうじゃないか。探偵小僧はどこにいるんだ」
「探偵小僧は動物園のなかにいる。川北をこちらへよこせば、そのありかを教えてやる」
「しかし、そんなことをいって……」
「なにをぐずぐずいっているんだ。きみたちには動物園のあのさわぎがわからないのか。ぐずぐずしてると探偵小僧は猛獣にかみ殺されるぞ」
俊助と等々力警部は、思わずハッと顔を見あわせた。
動物園のさわぎはいよいよひろがり、ズドン、ズドンという鉄砲の音にまじって、ものすごい猛獣のうなり声がきこえてくる。
「警部さん、こうなったらしかたがない。川北をこいつに渡しましょう。おい、そのかわり、探偵小僧のありかをいうな?」
「いう。おれも男だ」
「よし」
と、川北のからだをおしやると、白蝋仮面はその手をとって、なにか耳もとにささやいた。小男の川北はうなずきながら、そのまま闇《やみ》のなかへきえていった。白蝋仮面はそのうしろすがたを見送って、
「探偵小僧はな、ニレの木のてっぺんにぶらさがっているんだ。きみたち、さっきの叫びをきいたか。そのニレの木へ錦ヘビがのぼっているらしい。はやくいかぬと探偵小僧はヘビにのまれて死んでしまうぞ」
それだけいうと白蝋仮面は、身をひるがえして、まっしぐらに闇のなかを逃げていった。三津木俊助と等々力警部は、あまりのことにぼうぜんとして立ちすくんでいたが、そのときまたもやきこえてきたのは、動物園の看守たちの叫び声である。
「あれあれ、錦ヘビがニレの木にのぼっていくぞ」
「ニレの木のてっぺんに、だれやらひとがぶらさがっている……」
それをきくと俊助は、ハッと身ぶるいをしながら、
「警部さん、きてください!」
と叫ぶと、いちもくさんに正門まえへ駆けつけた。もちろん、動物園の正門には、ピッタリと鉄の門がしまっていて、なかには看守が、ものものしげに鉄砲を身がまえている。猛獣がきたらたったひとうち、というかまえなのだ。
俊助と等々力警部はてみじかにわけを話すと、看守のゆるしをえて鉄の門を乗りこえた。
動物園のなかはたいへんなさわぎである。こういうときの用意にそなえて、園内に取りつけてある電気という電気がついて、なお、そのうえにサーチライトが、サッと空を照らしているのである。
「あっ、警部さん、むこうです!」
俊助が指さすところを見ると、なるほど動物園の中心に、クッキリとそびえ立つニレの木のてっぺんに、少年がひとりたかてこてにしばられて、ぶらさげられているのだ。
そして、その少年から二メートルほど下を、いましも大きな錦ヘビが、気味悪くうねりながら、ヌルヌルとのぼっていく。サーチライトの光をあびて、錦ヘビのからだがぬれたように光っている。
三津木俊助も等々力警部も危険をわすれて、そのニレの木の下へかけつけた。ニレの木の下には、五、六人の看守がかたまって、あれよあれよとさわいでいるが、だれも鉄砲をうとうとするものはない。
あやまって、少年に命中してはたいへんだからなのだ。
錦ヘビは進の足もとから、一メートルほどのところまでのぼった。そこまでくると錦ヘビは、キッと鎌首をもちあげて、いまにも足からのもうという体勢にうつった。
「アッ!」
一同は思わず息をのみ、目をおおった。たまりかねた俊助は、
「鉄砲をかしてください」
と、ひったくるように、看守の手から鉄砲をうばいとると、錦ヘビの鎌首めがけてキッとねらいをさだめた。
白蝋仮面の逃走
やがて、ねらいがさだまったところで、ズドン、と一発。
しかし、不幸にもさいしょの弾丸はねらいをはずれて、ニレの梢《こずえ》をさわがせただけでどこかへ飛んでしまった。
錦ヘビはちょっと鎌首をちぢめたが、すぐまたおこったようにニョッキリもたげて、ペロペロ舌を吐きながら、進の足をめがけてうねっていった。
「おのれ!」
と叫んだ三津木俊助、こんどこそは、といっしょうけんめいねらいをさだめて、ズドンと一発うってはなてば、みごと脳天に命中したらしく、錦ヘビはニレの梢で、ものすごく身をくねらせていたが、やがて、全身から力が抜けていくと、ドサリと梢から落ちてきた。
「しめた!」
と叫んだ看守たちは、地上に落ちてまだ身をくねらせている錦ヘビのそばへかけよると、ズドン、ズドン、といっせいに鉄砲の弾丸をあびせた。
「これでよし! ところでほかの猛獣たちは?」
「おかげさまでみんなかたづきました。トラがいっぴき死にましたが、ライオンはおりのなかへ追いこみました」
「それはけっこう。それではひとつあの少年を、梢からおろす手つだいをしてください」
「承知いたしました」
こうして、それからまもなく、御子柴進はぶじにたすけおろされたが、こちらは白蝋仮面と小男の川北である。
白蝋仮面はいつのまにかライオンの皮をぬぎすてて身軽になり、公園の闇のなかを走っていったが、とつぜん、いく手をさえぎった二、三人のひとの影。
「だれか!」
と、叫んだのはいうまでもなく刑事である。白蝋仮面はそれを見ると、
「しまった!」
と叫んで、あともどりをしようとしたが、うしろからも警官が二、三人、呼び子を吹きながら走ってくる。その音をきいて、あちらの木かげ、こちらの森かげから、クモの子のように刑事や警官が、バラバラとあつまってきた。
「どこだ、白蝋仮面は!」
「おお、白蝋仮面は、あそこにいるぞ!」
警官がパッとあびせた懐中電燈の光にうかびあがったのは、万国博覧会の塀にぴったり背中をつけて、血走った目を光らせながら、ピストルを身がまえている白蝋仮面のすがただった。
「白蝋仮面! 神妙にしろ!」
「そのピストルをなげすてろ!」
しかし、白蝋仮面はそのことばにしたがおうともせず、博覧会の塀に背中をくっつけたまま、ジリジリと左のほうへよっていく。そして、およそ三メートルほども左へにじりよったかと思うと、
「ばかめ!」
と叫んで、ズドンと一発、おどかしのピストルをうちはなったかと思うと、アッというまもない、白蝋仮面のすがたは、塀のなかへのみこまれてしまった。
「アッ! しまった!」
「あんなところに仕掛があったんだ!」
警官や刑事がバラバラと、塀の外へかけよると、博覧会のなかをいそぎ足で逃げていく、白蝋仮面の足音がきこえた。
「ちくしょう、ちくしょう!」
警官たちはやっきとなって塀をたたいたが、どういう仕掛けになっているのかびくともしないのだ。
「ええい、めんどうだ。のりこえろ!」
刑事のひとりが塀の上へかけのぼったが、そのときだった。西の空からきこえてきたのは、ヘリコプターの爆音である。
警官たちは、なにかしらハッとしたが、しかし、いまはそんなことにかまってはいられない。つぎつぎと塀をのりこえる警官たちの目にうつったのは、いましも展望塔へのぼっていく白蝋仮面のすがただった。
しかも展望塔の上から、
「ボス! はやくはやく」
と叫んでいるのは、どうやら小男の川北らしい。
「おお、展望塔へのぼっていくぞ!」
「しかし、塔へのぼってどうする気だろう」
「ひょっとすると、あのヘリコプターが……」
一同がハッと顔を見あわせているころ、ヘリコプターは展望塔の上空へさしかかったが、そこでスピードをおとしてゆるく旋回しはじめた。しかも、そのヘリコプターからは、一本の綱がたれているではないか。
「しまった、しまった。ちくしょう、ヘリコプターで逃げるぞ」
警官が気がついたときはおそかったのだ。そのとき、すでに塔のてっぺんにたどりついていた白蝋仮面と小男の川北は、ヘリコプターからさがった綱にぶらさがって……。
人間金庫
その晩の東京じゅうのさわぎといったらなかった。
白蝋仮面がヘリコプターで逃げたというので、新聞社のヘリコプターがいっせいに飛び立った。警官たちは自動車やオートバイで追っかける。
白蝋仮面のヘリコプターは、まもなく東京湾の上空にさしかかったが、それから数分ののち、たいへんなことが起こった。とつぜん、白蝋仮面のヘリコプターが、へんな音響を発したかと思うと、空中分解をしたからたまらない。
ひとも機体もまっさかさまに海のなかへ墜落した……。
さて、そのつぎの晩のことである。三津木俊助のことばによって、アリ殿下のへやにあつまったのは、等々力警部に御子柴進、ほかにふたごの夏彦と冬彦もきている。
アリ殿下はうれわしげな顔色で、
「白蝋仮面、海へ落ちたそう、死体あがりましたか」
「それが、目下捜索ちゅうなんですが、白蝋仮面も小男の川北も、どうしても死体がわからないのです」
等々力警部が答えると、アリ殿下はいよいようれわしげな顔色で、
「きっと、フカのえじきになったのでしょう。アラーの神のふたつの目は、とうとう海中に没してしまいました」
と、がっかりしたようにいったが、そのとき、そばから口をだしたのは三津木俊助。
「殿下、そんなにがっかりなさることはありません。ひょっとするとふたつのダイヤを、とりかえすことができるかもしれないと思うのです」
「えっ、ダイヤをとりかえすって?」
「ええ、そうです」
と、三津木俊助は夏彦と冬彦のほうへむきなおると、
「妙なことをたずねるがね、きみたちの目、かたっぽう入れ目じゃないの」
「えっ!」
夏彦と冬彦は、びっくりしたように顔を見あわせている。
「アッハッハ、やっぱりそうだったね。夏彦くんの左の目、冬彦くんの右の目は入れ目だね。たいへんじょうずにできているので、だれも気がつかないようだけれど、ぼくははじめからそうだと思っていたよ。きみたち、いつから入れ目をしているの」
「はい、ぼくたち、生まれたときから、片目がつぶれていたんですって、夏ちゃんは左の目、ぼくは右の目が……それですこし大きくなると入れ目をしたんです」
「三津木先生、このことはないしょにしていてください。入れ目だなんてわかると、ぼくたち、人気にさわりますから……」
「ハッハッハ、そんなこと、だれもしゃべりゃしないよ。そのかわり、ちょっと、その入れ目をはずしてぼくに見せておくれ」
夏彦と冬彦はまた顔を見あわせていたが、三津木俊助にうながされると、しかたなく、かたっぽずつ、入れ目をはずして俊助に渡した。ほかのひとたちは目をまるくして、俊助のてのひらのガラスの目玉を見つめている。
俊助はしばらくそれをいじくっていたが、にわかにうれしそうな笑い声を立てて笑うと、
「アッハッハ、やっぱりそうでしたよ。白蝋仮面のやつ、夏彦くんと冬彦くんをあき家へつれこみ、麻酔薬をかがせて眠らせると、そのあいだに入れ目をぬきとり、かわりに、青色ダイヤをひとつずつかくした入れ目を入れておいたんです。つまりこのふたりを人間金庫にしたてたんですね。夏彦くん、冬彦くん、すぐかわりの入れ目をとりよせてあげるから、これをこわさせてくれたまえ」
三津木俊助がハッシとその入れ目をたたきこわすと、なかからあらわれたのは、ああ、なんと光輝さんぜんたる、ふたつの青色ダイヤではないか。
そのときのアリ殿下のおよろこびは、いまさらここにのべるまでもないだろう。
それからまもなくアリ殿下は、ふたつの青色ダイヤを持って、よろこび勇んで帰国したが、そのまえに三津木俊助や御子柴進、等々力警部やふたごの夏彦と冬彦にまで、たくさんのお礼をしていかれたということである。
それにしても、東京湾の海中へ落ちた、白蝋仮面と小男の川北はどうなったのだろうか。殿下のいわれるようにフカの餌食になったのだろうか。それとも死体があがらないところを見ると、まだどこかに生きていて、また悪事をたくらんでいるのではないだろうか。
[#改ページ]
[#見出し] バラの怪盗
恐怖の一幕
朱実《あけみ》はふと、ピアノのキーから手をはなすと、ギクリとしたようにあたりを見まわした。
いごこちのよさそうなへやのなかにはバラ色の灯があふれ、マントルピースの上にかざってあるフランス人形といい、かべの鳩時計といい、いかにも少女のへやらしい、上品な趣味によってみたされている。
「なんだかいま、妙な音がしたようだけれど、気のせいかしら」
朱実は不安そうに立ちあがる。
ピンク色のイブニングに真珠のくびかざりをかけた朱実のすがたは、まるでマントルピースの上のフランス人形のように、けだかくも美しいのである。
「いやだわ。こんなことならお留守番なんかするんじゃなかったわ。おとうさまもおかあさまもまだお帰りにならないし、わたしなんだかこわくてゾクゾクしてきたわ」
朱実はふとフランス人形をみて、
「イヴォンヌさん。笑わないでね。わたしそれほど臆病《おくびよう》じゃないのだけれど、このごろはいやなうわさがあるでしょう。あら、イヴォンヌさんごぞんじじゃないの、ではいま話してあげるわ」
朱実はマントルピースの上から人形をおろすと、かわいい顔にほおずりをしながら、
「イヴォンヌさん、きいてちょうだい。東京にはいま、それは恐ろしい怪盗が悪事を重ねているのよ。神出鬼没とはまったくあの怪盗のことね。盗みにはいると、かならずバラの花を一輪のこしていくというところから、世間ではバラの怪盗といって大さわぎをしているのよ」
朱実はそこまでいうと、ハッとしたようにイヴォンヌのからだをだきしめ、こわごわ窓のそばへよった。どこかで、またもやカタリというような音がきこえたからである。
「いや! わたしこわいわ。バラの怪盗じゃないかしら。きっとそうだわ。わたしのくびかざりをねらっているのよ。ああ、こわい! わたしどうしたらいいだろう」
朱実のそのことばもおわらぬうちに、風もないのに重いカーテンがゆらめいたかと思うと、ヌーッと現われたのは二本の手――
「あれッ!」
朱実はイヴォンヌをだいたまま棒立ちになった。からだがジーンとしびれて、心臓がいまにもやぶれやしないかと思われるばかりである。
「お嬢さん、こんばんは」
カーテンの間から静かにすがたをあらわしたのは、黒いタキシードに黒いシルクハット、黒マントに黒いマスクという異様な黒装束の一紳士。ああ、まぎれもない、いまうわさに高いバラの怪盗だ。夢がとうとう現実になったのである。
「あなたは――あなたはいったいだれです」
「おや、わたしをごぞんじないのですか。そんなことないでしょう。今もお嬢さんは、その人形とわたしのうわさをしていたじゃありませんか」
「ああ、それじゃ、やっぱり――」
「さよう、世間のことばにしたがえば、バラの怪盗というのがわたしの名前ですよ」
怪盗は胸にさしたバラをぬきとってピアノの上においた。朱実は必死になって、
「行ってください。行かなければおとうさまやおかあさまをよびますよ」
「ハハハハハ、うそをいってもだめですよ。みんな留守なことはよくしっています」
「いったい――いったい、何がほしいのです」
「お嬢さんのそのくびかざり――」
「いや! こればかりはかんにんして……」
「だめです。よこしなさい」
「いや、いや、あれ、だれかきてえ」
ふいに怪盗がおどりかかって、朱実の口にふたをした。それから小さな瓶《びん》をとりだすと、朱実にそれをかがせようとする。
「いや、いや、はなして……」
朱実はけんめいになってもがいていたが、しだいにその動作がにぶくなってきたかと思うと、やがてぐったりと首をたれてしまった。麻酔薬のききめが勝ちを制したのである。
「フフフフフ、うまくいったぞ」
怪盗はものすごい笑いをもらすと、カーテンのかげから大きな麻袋を取り出して、
「おやおや、人形をだいたままはなさないな。ええッ、めんどうだ、このままつれていこう」
朱実のからだをイヴォンヌごと、袋のなかにつめこむと、
「よいしょと、しめしめ、うまくいったわい」
怪盗はまるでサンタクロースのように、その袋を肩にかつぐと、何を思ったのか帽子をとって正面に向かい、ペコリとおどけたお礼を一つ、それから窓を越えて出て行った。
と、――とつじょ、割れるような拍手とともに、スルスルと幕がおりて、広間にはパッと電気がついた。
『バラの怪盗』
劇の第一幕が終わったのである。
怪盗登場
「おふたりともお芝居がとてもおじょうずね。史郎《しろう》さんがカーテンのかげからぬっと出てきたときには、わたしほんとうにゾッとしたわ」
「ほんと。――お嬢さん、こんばんは。――ですって、あの声の気味悪いこと。まるで本物のバラの怪盗そっくりね」
「あらいやだ。あなたバラの怪盗ごぞんじなの」
「そういうわけじゃないけど。――それに朱実さんだっておじょうずじゃないの、眠り薬をかがされるところなんか、ほんとうみたいだったわ」
などと広間では少女たちのさわがしいこと。
こんな風に書くときみたちは、キツネにつままれたような気がするかもしれないが、実はさっきの場面はみんなお芝居だったのである。
きょうは瓜生《うりゆう》家の令嬢、朱実の誕生日、毎年のように、お友だちや親戚《しんせき》の人たちをおおぜい招待して、盛んなお祝いがもよおされたが、それだけではおもしろくないとあって、当の朱実の従兄《いとこ》の史郎が、さんざん頭をひねって考えだしたのが、この『バラの怪盗』というお芝居なのである。
バラの怪盗とは、目下都内を荒らしまわっている実在の人物である。その神出鬼没、ひとに恐れられた怪盗を、一種の喜劇的人物に仕立てて、舞台の上で馬鹿にしてやろうというのがふたりのいたずらごころだった。
ところは瓜生邸の大広間。一方にかんたんな舞台をこしらえて、カーテンをつづり合わせた幕がかかっている。芝居では夜だったけれど、実際はまだ日が高いのである。
広間のかたすみには、朱実の両親をはじめ、おとなのお客たちも席にすわっていて、次の幕の開くのを待っている。
「どうしたんだろう。ひどく幕のあくのがおそいじゃないか」
「なれないものだから、大方まごまごしているのでしょう」
「それにしても史郎と朱実も、いつの間にあんなおけいこをしたのだろう。これだから、近ごろの若い者はゆだんがならない」
などと瓜生夫妻も上きげんでいるところへ、いそぎ足ではいって来たのは、するどい目つきをした中年の紳士だ。
「おそくなってすみませんでした」
「いや、これはよくきてくだすった。この調子では、別にご足労ねがうまでのことはなかったかもしれませんがね」
「いや、まだゆだんはできませんよ。なにしろ相手は名うてのバラの怪盗ですからな」
この紳士というのは、ちかごろバラの怪盗をむこうにまわして、たいへん活躍している、志賀俊郎《しがとしろう》という私立探偵なのである。
どうしてその探偵が、こんな席につらなっているかといえば、もしもほんとうのバラの怪盗が芝居のうわさを耳にして、何か変なまねでもしやしないかと、そこはありがたい親心から、ひそかに探偵をまねいて、万一にそなえているのだ。
「いま、第一幕がおわったところですがね。どうしたんだろう、ひどく幕間が長いが……」
と、瓜生氏が思わずまゆをひそめたところへ、あわただしくはいってきたのはひとりの書生。主人の耳に何かささやいたかと思うと、そのとたん、
「エエッ」
と瓜生氏はのけぞらんばかりにおどろいたが、すぐあたりの客に気がつくと、しいてことばをおちつけ、
「志賀くん、ちょっと」
「はあ、何かご用でございますか」
「いや、何でもないがちょっと来てくれたまえ」
と、広間からぬけだした瓜生氏と探偵のふたりづれ、そこは職業がら、瓜生氏はああいうものの何かよういならぬ大事件が突発したのにちがいないと、早くも見てとった探偵は、無言のまま瓜生氏のあとについて行く。
やがて、書生に案内されたふたりが、そそくさとはいっていったのは舞台裏の楽屋にあてられたせまい一室で、見ればそこには、バラの怪盗の扮装をしたままの青年が、ぼんやりとした顔で椅子《いす》にしばりつけられているではないか。
「史郎、これはいったいどうしたというのだ」
瓜生氏はまるでかみつきそうなようすである。
「ああ、伯父《おじ》さまですか」
史郎はまだ夢からさめきらぬように、あおい顔をして、力なく首をふりながら、
「ぼくにもさっぱりわけがわからないのです。メーキャップをおわって、舞台へでる時間を待っているとふいにうしろから、だれかがぼくのからだをだきしめて、何か甘ずっぱいにおいのするものを鼻におしつけられたかと思うと、そのまま気が遠くなって。……いま、やっと気がついたところです。伯父さん、このナワをといてくださいな」
「それじゃ、さっき舞台へでたのはおまえじゃなかったのか」
「エッ? だれかぼくのかわりをやった者があったのですか」
「あったも、大ありだ。そいつが朱実に薬をかがせて、麻袋のなかに入れてどこかへつれていってしまったが……」
「それは妙ですね。ぼくの芝居にはそんなところはなかったのですが、反対にあそこでは、バラの怪盗がさんざん朱実さんにやっつけられることになっていたのですよ」
「それじゃ、さっきのやつは何者だろう」
といいかけて瓜生氏はサッと顔色をかえた。ある恐ろしい考えがいなずまのように頭に浮かんできたのである。ほかのふたりもほとんど同時に、同じことを考えたのだろう、いっせいに、
「バラの怪盗」
と、あえぐようなつぶやきをもらすと、ぼうぜんとしてそこに立ちすくんでしまったのである。
人形の使者
さあ大へん、瓜生邸は上を下への大さわぎ。
家じゅうの者を総動員して捜索してみたが、朱実のすがたはどこにも見あたらないのである。
そのうちに次のようなことが、しだいに明らかになってきた。
あの芝居の、幕が下りた直後のことである。
バラの怪盗のふんそうをしたマスクの男が、麻袋をかついだまま、ゆうゆうとして正面玄関から自動車にのって立ちさったというのだ。これを目撃した者は二、三にとどまらなかった。
しかしそのひとたちはみな、これも芝居の延長ぐらいに考えて、笑いながら見送ったというのだ。
ああ、何という大胆さ! 何というすばらしい悪知恵! 怪盗はこうしてまっ昼間、公衆の面前から堂々と、朱実を誘拐してしまったのだ。こうなるともう、あいての正体をとやかくいうまでもない。バラの怪盗以外に、こんなズバぬけた芸当のやれる人間が、あろうとは思えないからである。
はたせるかな。
舞台の上のマントルピースの上に、さきほど怪盗にふんした男が置いていったバラの花を見ると、茎のところに次のようなカードがブラ下げてあるのだ。
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拝啓、しばらく令嬢を拝借つかまつりそうろう、いずれそのうちに何等かのご要求をもうし上ぐべくそうろう、そのときには何ぶんよろしくお願い申し上げそうろう
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[#地付き]本物の『バラの怪盗』より
瓜生殿
夫人はそれを見るとウーンと気を失ってたおれ、瓜生氏はまっさおになって歯をくいしばった。
こうしたさわぎのなかにあって、ひとりしょんぼりとして胸をいためているのは史郎である。史郎は幼い時に両親に死別し、それ以来、伯父夫妻の手もとに引きとられ、わが子のようにそだてられてきた。
その大恩人にこんな心配をかけるのも、もとはといえば、かれがこんな芝居を思いついたからである。
――そう考えると伯父や伯母の顔を見るさえつらい。穴があればはいりたいほどめんぼくないのである。
「伯父さま、なんとももうしわけありません」
「いまさら、そんなことをいっても仕方がない。このうえは、朱実の身にまちがいのないように、無事に取りかえす工夫が第一だ」
そこで志賀探偵ともひたいをあつめて、いろいろと今後の相談をしていたが、そこへはいってきたのが自動車の運転手である。
「ご主人さま、さきほど怪しげなかっこうをした男が、ご主人さまにさしあげてくれといって、こんなものを置いてまいりましたが」
見るとかなり大きな白木の箱だ。
なにげなく瓜生氏が開いてみると、あらわれたのはイヴォンヌの人形、朱実の愛するフランス人形なのである。
「あっ、朱実からだ!」
と飛び立つ思いで人形をだきあげたとたん、ヒラヒラと舞いおちたのは一通の手紙だ。取る手おそしと開いてみれば、筆のあともたどたどしい乱れがきで、
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
麻袋に入れられ布で猿轡《さるぐつわ》されて三々苛《さんざんいじ》められる本当に苦しい※木て頂戴《ちようだい》五百万化粧|鞄《かばん》に入れて物て来て下さい屋敷中の人に宜敷く願います※
明晩十時、神宮外苑の絵画館の横まで持ってきてください。警察へしらせると私を殺すと申します。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]朱実より
お父さま
まぎれもない、朱実からの悲しいうったえなのだ。そのたどたどしい、まちがいだらけの字を見るにつけても、瓜生氏はもう胸のふさがる思いで、ウームと太いまゆを動かしながら、
「志賀くん、これはどうしたものだろうね」
「そうですな。これはいちおう、あいての要求に応ずるよりほかにしようがありますまいね」
「それじゃ警察へとどけるのも見合わせるのか」
「そうなすったほうが、お嬢さんのために、およろしいかと存じますね」
「よし、それじゃさっそく、五百万円の金を用意することにしよう」
瓜生氏と志賀探偵が、こういう相談をしているあいだ、なにげなくその手紙をながめていた史郎は、とつぜん何を思ったのか、サッと顔色が赤く変わった。それから、内心の興奮をおし殺すように、キッと歯を食いしばり、じっと手紙の面をみつめていたが、その目は、しだいにするどくかがやきをおびてきたのである。
ああ、史郎はいったい、この手紙のうえに何を発見したのであろうか。
ガラス箱の少女
話かわってこちらは朱実である。
重苦しいねむりからふと目ざめた朱実は、なんともいえぬほどふしぎなかんじにうたれた。
見まわせばどこもかしこも氷のようにキラキラと光って、まるで海底にでも寝ているような気がするのである。
ハッとして手をのばせば、その指先にふれたのは冷たいガラスの感触。なんということだ! 朱実のからだは大きな長方形のガラス箱のなかに寝かされているのである。
朱実がドキッとしてからだを動かそうとすると、そのひょうしに、太い女の声が耳もとできこえた。
「おや、気がついたのね」
その声におどろいてふり返ると、だらしなく洋服を着た女が、ゆかにねそべってトランプのひとり占いをしている最中だった。
物すごくあれ果てた洋風のへやで、ゆかにはボロボロの絨毯《じゆうたん》が敷いてあるほかに、家具といっては何一つない。
ただ朱実のおしこめられたガラス箱が、大きな台の上にのっかっているばかりなのだ。
「ちょうどよかった。そろそろ起こそうと思っていたところだよ。さっそくだがおまえさん、この紙にわたしのいう通り手紙を書いておくれ」
女はペンと紙を持ってたちあがると、ガラス箱のふたを開いてくれた。
「まあ、ここはどこですの。わたしはどうしてこんなところにいますの」
「ホホホホ、なにも知らないのもむりはないね。ここは麻布六本木《あざぶろつぽんぎ》の有名な化け物屋敷さ」
「まあ!」
朱実はゴクリとつばをのみこんで、
「わたし、どうしたのでしょう。あなたはいったいだれです?」
「わたしかい、わたしは混血児リリーという者だが、バラの怪盗にたのまれてここにいるんだよ」
「ええ? バラの怪盗ですって?」
「そうよ。おまえさんは本物のバラの怪盗に誘拐されてきたんだよ。わかったかい?」
「まあ!」
朱実は思わずくちびるまでまっさおになった。恐怖のために声もでないのである。
「何もこわがることはないよ。取って食おうとはいやしない。金さえもらえばかえしてあげるんだからね。さあ、わたしのいうとおり手紙をお書き」
「なんと書いたらいいんですの」
「明晩十時、神宮外苑の絵画館横まで現金で五百万円持って来るようにお書き。もしまちがったり、警察へとどけたりすると、おまえの生命《いのち》はないのだから、そのつもりで、うんとあわれっぽく書いたがいいよ」
朱実はペンを持ったまま何か考えている。
「何を考えてるのだ。さっさと書かないか」
「はい。書きます」
朱実は一字一字考えながら書きあげて、
「これでよろしゅうございますか」
「どれどれ」
リリーは手紙を読むと、
「よしよし、いい子だね。それじゃこのフランス人形に使いをたのむことにしようよ」
そういって手早く、フランス人形と共に、手紙を木の箱におさめると、そそくさとへやをでて行ったが、すぐ引き返して来た。
「今、使いの者に持たしてやったからね。苦しくとも、もう少ししんぼうしているんだよ」
そういったかと思うと、かくしもったハンカチをいきなり朱実の鼻先におしつける。ハッと思ったがもうおそい。麻薬のにおいが、ツーンと鼻から脳へぬけたかと思うと、朱実はふたたびこんこんたるねむりのなかへ落ちてしまったのである。
「ホホホホ、もろいものだね。かわいそうだが明日の晩までねむっていてもらわねばならないのだよ」
リリーは再びトランプの札をめくりはじめたが、やがて日が暮れて夜になった。朱実はあいかわらずガラス箱のなかでこんこんとねむっている。リリーはあきもせずトランプをやっていたが、そのときコツコツとかすかにドアを叩《たた》く音。
「だれ?」
「おれだ。バラの字だ」
「おや、親分ですか?」
リリーが急いでドアのかんぬきをはずすと、はいって来たのは黒マントに黒マスク。まさしく例のバラの怪盗といういでたちである。
「どうしたんですの。何か忘れものでも……」
「いや、ちょっとようすを見に来たのだ。ああ疲れた。何か飲み物はないかね」
「ちょっと待ってらっしゃいよ。今すぐ持って来ますから」
リリーが向こうを向いたとたんである。
いきなり怪人がおどりかかって、両腕でグイグイとのどをしめつける。おどろいたのはリリーだ。
「あれ、苦しい、ど、どうするのよ、親分」
しばらく手足をバタバタさせていたが、しだいにぐったりと首をうなだれる。急所をしめあげられて気絶してしまったのだ。
「フフフ、もろいやつだ」
マスクの下から、小気味のよい笑いをもらした怪人。手早くリリーのからだをしばりあげると、ツツツーとすり足でガラス箱のそばへよった。
そしてガラス越しに、するどい目で、じっと朱実の寝すがたをうち見守っていたが、やがてニヤリと会心の笑みをもらすと、ガラスのふたにしずかに手をかけたのである。
ああ、ふしぎなる怪人の行動よ、かれはいったい何者であったろうか。
マスクをとれば
麻布六本木の化け物屋敷へあらわれた怪人は、はたして何者であったか、またガラス箱のなかにこんこんとねむりつづける朱実の運命はどうなっただろう。――
それらのことはしばらくおあずかりすることにして、さて話はその翌日の夜の十時少し前、神宮外苑、絵画館の横に自動車をとめて、街燈の影もほのぐらい木かげに、人待ちがおにたたずんでいる三人は、いわずと知れた瓜生氏に甥《おい》の史郎青年、いまひとりは志賀探偵である。
怪盗との約束を守って、五百万円の金を持って、朱実を取りかえしにきたのだが、三人ひとかたまりになっていては、怪盗のほうでも近づきにくかろうというので、瓜生氏ひとりをそこにのこして、あとの二人は、絵画館の裏手のやみのなかに、合図のあるのを待つことになった。
「それでは伯父さん、カバンをお渡ししておきますから、どうか気をつけてください」
「なに、だいじょうぶだ」
「金はたしかにそのカバンのなかにはいっているのですね」
と、これは志賀探偵。
「はいっていますとも、手の切れそうな一万円紙幣が五百枚、ちゃんとはいっていますよ」
「それじゃ瓜生さん、万一、危険なことがあれば口笛をふいてください。すぐかけつけてきます」
と、志賀探偵と史郎青年のふたりが、思い思いの方角に消えていったあとには、カバンをかかえた瓜生氏がただひとり、うすくらがりの木かげにとりのこされた。
月も星もない晩で、吹く風も生ぬるく、ホーホーとなきしきるフクロウの声がゾッと身にしむような物すごさ。
と、そのとき、どこやらでポキリと枝の折れるような音がした。ハッとした瓜生氏が、思わずステッキを握りしめて身がまえをしたとき、くらやみのなかからコウモリのようにサッとあらわれた奇怪な人影――いわずと知れたバラの怪盗だ。
「瓜生さんですね」
おし殺したようなふくみ声。黒いマスクの下から、殺気をおびた両眼が、うす気味悪くかがやいて、マントの下にかまえているのはピストルらしいのである。
「金を持ってきましたか」
「持ってきた」
「よろしい、こちらへいただきましょう」
「いや、そのまえに朱実をかえしてもらわねば……」
「お嬢さんはすぐ後でかえします」
「まちがいないか」
「だいじょうぶ、わたしもバラの怪盗です」
「よし、それでは信用して金を渡すが、娘のことはまちがえてはこまるぜ」
「ご心配はいりません。すぐ部下に電話をかけて、お嬢さんを送りかえさせますよ」
「よし、それでは五百万円」
ずっしり重いカバンをうけとった怪盗、ニヤリとほくそ笑むと、ピストルを腰に、手早くカバンを開くと、両手をなかへつっこんだが、そのとたん、カチリという物音と共に、アッという苦痛の声が、怪盗のくちびるをついて出た。
「ちくしょうっ、一杯はめやがったな」
「ど、どうしたのだ?」
「しらばっくれるない。カバンのなかにこんな仕掛けをしやがって、うぬ! あっ痛ッ、タ、タ、タ!」
怒髪天《どはつてん》をつく、というのはこういうときに使うことばだろう。全身を怒りにふるわせながら、サッと振りあげた両手を見ると、なんということだ! そこには鋼鉄の手錠がしっかと食いこんでいるではないか。
あっけにとられた瓜生氏は、目ばかりパチクリさせている。
「おれは知らぬ。いったいだれがこんなことをしたのだろう」
「ハハハハハ! 伯父さん、ご心配はいりませんよ。ぼくがちょっと細工をしておいたのです」
声と共に木かげからおどりだした史郎青年。
「伯父さん、こんなやつに五百万円なんて大金をくれてやるのは、もったいないじゃありませんか。だから先ほど、家をでるとき金のはいったほうはわざと置いてきて、この手錠仕掛けカバンだけもってきたのですが、こんなにうまくいくとは思いませんでしたよ。さあ、こいつを警官に引き渡してやりましょう」
と、闇に向かって口笛を吹けば、バラバラとあらわれたのは数名の警官たち。さすがの怪盗もこうなれば絶体絶命である。
何しろ手錠をはめられているのだからどうにもならない。観念の目をとじるよりほか、いたしかたがないのである。
「伯父さん、それではこいつの正体をお目にかけましょう。おどろいてはいけませんよ」
というより早く史郎青年、腕を伸ばして怪盗の顔からサッとマスクをはぎとれば、アッとばかりに棒立ちになったのは瓜生氏である。
意外とも意外、それは志賀探偵ではないか。ああ、あの有名な私立探偵、怪盗追撃の第一人者、志賀探偵こそ怪盗そのひとだったのだ。
「伯父さん、これでいままで、バラの怪盗の容易につかまらなかったわけがわかったでしょう。じぶんでどろぼうをして、じぶんで追っかけているんですもの、つかまるはずがありませんよ。おや、伯父さん、どうかしましたか」
「いや――」
と瓜生氏は不安そうにひたいの汗をぬぐいながら、
「史郎、おまえこんなことをしてだいじょうぶかい。もしも朱実にまちがいでもあったら……」
「ああ、そのことですか。なに、伯父さん、だいじょうぶですよ。こいつさえつかまえてしまえば何が出来るものですか。おい、バラの怪盗、こうなりゃ神妙に、朱実さんのいるところへ案内したほうがよかろうぜ」
「フム」
何を考えたのか、怪盗は案外すなおに、
「よし、それじゃ、おれを自動車にのっけてくれ。お嬢さんのいるところへ案内してやろう」
そういって怪盗は、うす気味悪い微笑をもらしたのである。
木っ端みじん
麻布六本木の化け物屋敷。
漆喰《しつくい》ははげ、窓は破れて、ぼうぼうと生いしげったその表玄関へ、めずらしくも横づけになった二台の自動車。いうまでもなくそれは、怪盗を先頭にたてた瓜生氏、史郎、ならびに警官の一行である。
怪盗の案内にしたがって、ふめばそのまま足もめりこみそうなろうかづたいに、やって来たのは奥まったせまい一室。うすぐらいはだか電燈の光でみると、ボロボロの絨毯が敷いてあるへやの向こうのかべぎわに、大きなガラスばりの箱が安置してあって、そのなかにねむっているのはイブニングすがたの少女である。
「ほら、お嬢さんはあそこにいるよ」
と、いいながらなに思ったか、怪盗はツツーッと二、三歩かべぎわにさがった。とは気づかぬ瓜生氏、
「アッ、朱実!」
と、思わずそばへかけよろうとしたとたん、怪盗の手がかべのスイッチにふれた。
「あぶない!」
史郎が瓜生氏をだきとめたそのせつな、ごうぜんたる音響と共に、ガラス箱の上から落下してきたのは大石である。あっという間もあらばこそ、朱実のからだはその下敷きになって、木っ端みじんとくだけてとんだ。
「アッ!」
と瓜生氏は棒立ちになってしまった。
「ハハハハハ。どうだ小僧。きさまがいらぬおせっかいをしたばかりに、かわいそうに、お嬢さんは木っ端みじんだ。瓜生氏、おまえさんもいい甥御《おいご》をもたれてしあわせなことだ。ウワハハハハ!」
と、人を食った高笑いの憎にくしさ。
瓜生氏は胸をさされたようによろめいた。その面にありありときざまれているのははげしいうらみの色だ。
史郎はさぞやしょげるだろうと思いのほか、
「ハハハ、伯父さん、心配なさることはありませんよ。おい、バラの怪盗さん、りこうなのはじぶんひとりだと思っていると大ちがいだぜ。朱実さん、出ていらっしゃい」
声に応じて、さっとあいだのとびらが開くと、さっそうとしてあらわれたのはセーラー服も可愛い朱実のすがた。
これはとばかりおどろく怪盗をしりめにかけ、
「ごめんなさい、おとうさま、ちょっとこの怪盗さんの裏をかいてやったのよ」
「朱実――」
瓜生氏は夢に夢みる心地だ。
「それじゃ、さっきガラス箱のなかにいたのは――?」
「あれはお人形よ。お人形にわたしの着物を着せて、ちょっと怪盗をからかってやったの」
「ああ、これは夢でなければよいが……」
しかし、それは夢ではなかった。朱実はたしかに生きていた。そして完全に、あのバラの怪盗にかぶとをぬがせたのである。
暗号解読
「それにしても朱実や。おまえは、どうしてあいつの手をのがれることができたのだね」
と、瓜生氏があらためてそうたずねたのは、その夜、警官たちに守られ、母の待っている自宅へ親子そろって無事に帰りついてからのことであった。
「おとうさま、これもみんな史郎にいさんのおかげよ。にいさんにたすけていただいたの」
「史郎さんが……?」
と、これは夫人、わけののみこめぬ面持ちで、
「史郎さんが、どうしてあの賊のかくれ家を知っていたのでしょう」
「伯母さん、それは朱実さんが知らせてくれたからですよ」
「まあ、朱実が。――朱実や、おまえそんなひまがあるなら、なぜわたしたちにもひと筆書いてくれなかったの? そうすれば、どんなに安心したか知れないのに」
「あら、おかあさま。おかあさまだってわたしの手紙をごらんになったはずよ。ほら、イヴォンヌに持たせてよこしたでしょう」
「うん、あれなら見たが、別にあれには所なんか書いてなかったはずだが――」
と、まだ不審のはれぬ瓜生夫妻のおもてへ、にっこりといたずらそうな微笑を送った史郎と朱実のふたり。
「ところが、伯父さん、伯母さん、あの手紙は暗号になっていたんですよ」
と、いいながら、イヴォンヌ人形の持ってきた、朱実の手紙をとりだした史郎。
(皆さんもここでもう一どあの手紙のところを開いてください)
「この手紙をみたとき、ぼくはなんともいえぬほどふしぎな気がしたのです。というのは、ずいぶん、まちがった字や、書きちがいがある。
いかに朱実さんがうろたえていても、来てちょうだいを木てちょうだいと書いたり、持って来てくださいを、一ど、物て来てください、と書いて消したり、あまりひどすぎます。そのほか、さんざんと書くべきを三々と書いたり、送りがなが落ちていたり、五百万円の金をわざわざ化粧鞄に入れてもって来てくれといったり、どうも理由のわからぬ所がある。日ごろの朱実さんとも思えない。
そこでぼくはふと、これは暗号になっているのではないかと思って、はじめのほうの文章だけ文字を数えてみると、ちょうど六十三文字あります。しかも、どうやら、六十三文字にするために、わざと字を消したのではないかと思われるところもある。
なぜだろう、なぜ、六十三文字にしなければならぬのだろう、と、そう考えて、すぐ気がついたことは、六十三という数が七九、六十三と三と七の倍数になっていることです。そこで最初三字ずつとばして読んでみたのですが、なんのことかさっぱりわからない。そこで、こんど、七字ずつとばしてみると、はたせるかな、
『麻布三本木化け物屋敷』
という文字が出てきたじゃありませんか。
しかし、麻布には六本木というところはあるが三本木というところはない、そう思ってもう一どよく手紙をみると、三々とここでダブっているから、六という意味になるのでしょう。
つまり、そうするために、散々を三々と書いたり、来て頂戴を木て頂戴と書いたり、用もないのに、わざわざ化粧鞄と書いたらしいのです。そこまでわかればしめたもの、ぼくはさっそく六本木へ出向いて、化け物屋敷というのをさがしてみたのですが、何しろ付近でもひょうばんだからすぐわかりましたよ。
そこでいちど家へ帰ると、こんどはバラの怪盗の変装をして、まんまとあの家へ忍びこみ、留守番をしていた混血児リリーという女をたおして、朱実さんをたすけ、おまけにリリーの口から志賀探偵こそ怪盗であることを知ったのです」
きけばきくほど意外なことばかり、瓜生夫妻が感心して、史郎をほめそやすと、史郎はにっこりと微笑しながら、
「いや、伯父さん、伯母さん、ぼくの手柄なんかなんでもありませんよ。それより、ああいう危険なさいに、落ちつきはらって、よくもああいう暗号を考えだしたものだと、ぼくはただ朱実さんの勇気に感服するばかりです。朱実さんこそ怪盗逮捕の第一の功労者ですよ」
といえば、サッとほおを赤らめた朱実は、甘えるように両親に向かって、
「お父さまやお母さまったら、わたしがいつも探偵小説ばかり読んでるって、苦い顔をなさいますけれど、探偵小説だってときには役に立つこともありますでしょう」
といったから、瓜生夫妻をはじめ、史郎や当の朱実まで、思わずドッと笑いくずれた。
恐ろしかったできごとも、今はもう昔の語りぐさ、瓜生邸には平和な灯の色がまたたいているのである。
[#改ページ]
[#見出し] 『蛍の光』事件
路上の虹
角の服部《はつとり》の大時計が八時をさして、夜の銀座はいまがひとの出さかりだった。行きかうひとの波も、ネオンのかがやく夜の銀座を楽しむように流れていた。
その銀座へ、久しぶりに出て来た医学生、宇佐美慎介《うさみしんすけ》は、今しも四丁目から、数寄屋橋《すきやばし》のほうへ帰りかけたがそのとき、何を見つけたのか、おやっとばかりに歩道に立ち止まった。行きかうひとの足にけ散らされもせずに、一つまみの南京玉(ガラス玉)が、さんぜんと歩道に散らばっている。
〈はてな〉
慎介はけげんそうにうしろをふりかえって見る。
さっき四丁目の角をまがるときも、たしかに一つまみの南京玉が散らばっているのを見た。そして――慎介は急ぎ足に数寄屋橋のほうへ歩いてみた。するとはたして、そこにも一つまみの南京玉が、まるで地上の虹《にじ》のようにさんぜんとかがやいている。いや、そこばかりではない。見れば数寄屋橋から日比谷《ひびや》のほうまで、点々として美しい虹の尾をひいているのである。
だれが、なんのためにこんなまねをしたのかわからないが、まだあまり時間のたっていないことは、ひしめくような雑沓《ざつとう》にもかかわらず、大して踏み荒らされていないのでもわかる。
〈よし、こいつをひとつつけていってやれ〉
慎介はにわかに好奇心をおぼえて、その虹のあとを追い出した。
考えて見ると、なんでもないことかも知れない。だれかがいたずらをやったのかも知れないし、また、何かのはずみに、南京玉の箱がこわれたのを、持ち主が気づかないでいるのかも知れない。しかし、どちらにしてもいいのだ。慎介はどうせ、その方角へ帰るみちすがらなのだから。
ところが、日比谷の近くまできたときだ。慎介はとつぜん、ハッとして前方にひとみをすえた。
二メートルほど向こうを手を組んでいくふたりの男女、男は年のころ二十四、五歳、あまり上等でない毛糸のジャンパーに、古ぼけたハンチングと、いかにも怪しげな服装だのに、もうひとりはセーラー服も小ざっぱりと、うしろすがたもかわいい少女、ところがこのふたりが明るいショーウインドーのまえまできたときだ。少女がふとセーラー服のポケットから、左手を出したかと思うと、その指先からバラバラと地上にばらまかれたのは、まぎれもない、いま慎介があとを追っているあの南京玉だ。
慎介は思わずハッとして、ふたりのうしろすがたを見なおしたが、すると気のせいか、少女がいかにもオドオドとしているように見える。
わかった、わかった、この少女はいま何か恐ろしい危難に直面しているのだ。しかも何か声を出すことの出来ぬわけのある彼女は、ひそかにこの南京玉によって、ひとの注意をひこうとしているのだ。
慎介は思わずつかつかと足を早めたが、しかし待てよ、もしこれが思いちがいだったら、とんでもない恥をかかねばならない。よしよし、これから先どんなことが起こるか、そこまで見とどけてからでもおそくはあるまい。そう考え直した慎介は、静かにふたりのあとをつけていく。
少女はあいかわらず、少しずつ南京玉をまいていく。見ると、ポケットから南京玉で編んだ大きな手さげカバンがのぞいている。少女はポケットのなかでその手さげカバンをズタズタに引き裂いているのだ。しかしそういうこととは気づかぬ青年、交差点をスタスタと横切ると、いやがる少女をむりやりに引きずりこんだのは日比谷公園、やがて何かいいあらそいながら、とあるうす暗い木かげに立ちどまった。さすがにぎやかな丸ノ内も、そこまで来ると物すごいばかりシーンとしているのである。
慎介は木の間づたいに、ソッとふたりのほうへ近づいていったが、そのとき、きこえてきたのは、怒りにふるえる少女の声。
「いや、そんなことあたしいやよ!」
青年の声はきこえなかった。
「いやだといったらあたしいや。そんなスパイみたいなまね、あたしにはできないわ」
少女ははげしく身をふるわせたが、すると青年がいきなりその肩に両手をかけた。
そこまで見ればもうほうってはおけない。
「何をするか!」
と大声をあびせると、やにわに木かげからおどり出した。宇佐美慎介、青年のきき腕とると見るや、とっさに打った腰投げ一番、見事きまって相手は地上にはったが、すぐムクムクと起きあがると、あらためて慎介におどりかかろうとするようすもない。しばらくじっとにらみあっていたが、
「早苗《さなえ》! 早苗! ああ、もうだめだ!」
悲痛な声で叫ぶと見るや、ヒラリと身をひるがえし、脱兎《だつと》のごとく逃げ出した。
電話の音楽
「きみはあの男を知っているの?」
たずねたが返事はない。
おやとふりかえってみると、少女は木の幹によりかかってぐったりとしている。手にさわって見ると氷のように冷たいのである。脳貧血を起こしたらしいのだ。
慎介はいきなり少女のからだをだきあげ、公園の外へ走り出すと、折よく通りかかったタクシーをよびとめ、すぐ、琴平町《ことひらちよう》にある自分のアパートへ走らせた。
医学生である慎介は、こういう場合の手当てをよくこころえているのだ。アパートの一室に静かに寝かせ、足をあたためたり、薬を口につぎこんだりしてやると、少女はまもなくうっすらと目をあいたが、親切な慎介のことばをきくと、安心したものかまたこんこんと深いねむりに落ちた。
それからおよそ一時間、大分気分もよくなったらしい。少女は、パッチリとつぶらの目を開いたが、あたりのようすを見ると、
「あら」
と叫んで起きようとする。慎介はそれをおさえるように、
「何も心配することはないんだよ。ぼくは宇佐美慎介という学生だ。気分がよくなったら送っていってあげるから、もうしばらく横になっていたまえ、きみの名は早苗というのだろう」
「ええ」
と、いいかけて少女はおびえたらしく、
「あのひとは――あのひとは――」
「ああ、さっきのやつのことかね。だいじょうぶ、どこかへ逃げちゃったよ」
少女はそれをきくとホッとしたように、しかしなぜか涙ぐみながら、
「ありがとうございました」
と、ひくい声で礼をいった。
「きみはあいつを知っているの。南京玉をまいていったのはだれかにたすけてもらいたかったからなんだろう。なぜ、声を出さなかったの?」
少女は顔を赤らめ、何かいいかけたが、涙ぐんで口を閉じてしまった。何かしらよほど深い事情がありそうに見える。
「あの、いま何時ごろでしょう」
しばらくして少女がいった。
「いま、ちょうど九時半だよ」
「あら、あたしこんなにおそくなって……お父さまが心配していらっしゃるわ」
「ああ、それじゃさっそく送ってあげよう」
「あの、こちらに電話ありませんか」
「きみの家に電話があるのかい。よしよし、ぼくがかけておいてあげよう、何番?」
「港区の四〇一局の一三二一番、緒方《おがた》といいます。早苗すぐ帰りますって。お願いですから、さっきのこといわないでね」
「よしよし、わかった」
うなずいた慎介はアパートの管理室の電話を借りると、四〇一局の一三二一番のダイヤルを回した。すると向こうのほうでかすかにアッという声がきこえたきり、あとはうんともすんとも返事をしないのである。
「もしもし、もしもし」
と、いくどよんでみても返事はなかった。それでいて電話はちゃんと接続されているのである。どうやら向こうでは受話器をはずしたままほうってあるらしく、妙にシーンとしたけはいが、慎介の耳にかすかな不安を感じさせた。
と、そのときだ。電話をつたわって、ふとかすかな金属性の音楽がきこえてきた。雨だれの音にも似た、ものうい、わびしい音楽の音、我にもなくじっときき耳を立ててみると、それは『蛍の光』のメロディーなのである。シーンと静まり返ったなかにきこえる、その歌のひと節に、慎介はふとひき入れられるように耳をかたむけていたが、ふたたびハッと、思い出したように、
「もしもし、もしもし」
と、そのとたん『蛍の光』がにわかに中途で止まったかと思うと、ガシャンと物のたおれる音、電話口のすぐそばに、たしかにひとがいるのだ。それでいて、なぜ、返事をしないのだろう。
「もしもし、もしもし」
やけになってどなりつける慎介の声に、早苗が不安そうに電話室へやってきた。
「どうかしましたの」
「ああ、すこし妙なんだよ」
慎介がそういったとき、だれかが受話器をかけたらしく、ガシャーンとにぶい音をたてて、電話は切れてしまったのである。
博士邸の殺人
「きみのうち、どのへん?」
「港区の白金台町《しろがねだいまち》ですの。日吉坂《ひよしざか》のすぐ上です」
それから間もなく、タクシーを走らせているふたりだった。
「きみのおとうさん、何をするひとなの?」
「おとうさまは緒方|謙蔵《けんぞう》といいます。理化学研究所に出ていますの」
慎介は思わずアッと低い叫び声をあげた。
「するときみは緒方博士のお嬢さんですか」
「ええ」
とうなずく早苗の横顔を見ながら、慎介はふいにむらむらと好奇心のたかまるのを感じる。かれがこのように見も知らぬ少女をいたわるのは、もとより持ちまえの正義感からであったが、ほかにもう一つ別の理由があったのだ。
さっき公園でちらと小耳にはさんだことば。
「あたしスパイみたいなまねは出来ないわ」
スパイとはききずてならぬことばだった。しかしわずか十四や十五歳の少女に、そんな大それたまねができるはずはないから、あるいは自分のききちがいではなかったかと思っていたが、いまやはからずもその謎《なぞ》がとけたのだ。
緒方博士が最近、ある強力な殺人光線を発明したということは、今や世界にかくれもない事実、その発明が国家にとっていかに大切なものであるか、またそれだけに、外国のスパイがすきあらばと博士の周囲に目を光らせているだろうことも想像される。ひょっとするとさっきの怪青年も、早苗を使ってその発明を盗もうとしていたのではないだろうか。
そう考えると慎介はいまさらのように、さっきの男を逃がしたのが残念でたまらない。と同時に、いまの電話のいきさつが不安の種となる。緒方博士に何かまちがいが起こったのではあるまいか。
「ねえ、おとうさまどうかなすったのでしょうか」
思いは同じ早苗も、不安に声をふるわせる。
「さあ、まさか。しかしきみの家にはおとうさまのほかにだれもいないの」
「いいえ、庭番のおじいさんやお手伝いさんのほかに桑原《くわはら》さんという助手の方が泊まっていらっしゃいます」
「そう、じゃだいじょうぶだよ」
自動車はまもなく白金台町に着いた。表通りで自動車から降り、暗い横町へはいると、時刻はすでに十時過ぎ、寒い冬の夜のこととて、どの家もシーンと寝静まっている。
「あの家がそうですの」
早苗が向こうを指さしたときだ。タタタタと大地をけってこちらへ走って来る男、すれちがいざまその顔を見て、慎介はハッとおどろいた。
さっき日比谷公園で見たあの青年なのだ。
「あら、にいさん!」
早苗の声をきくと同時に、青年はクルリと身をひるがえして、見るみるうちに暗闇《くらやみ》のなかへすがたを消した。相手もよほどおどろいたらしいが、慎介もおどろいた。すると、あの青年は早苗の兄だったのか、それにしてもなっとくのいかないことばかり、慎介が思わず早苗の顔を見なおしたときだ。
「どろぼう、どろぼう、人殺しだ!」
と叫ぶ声。
「あら、桑原さんの声だわ」
早苗は思わずまっさおになった。
さあいよいよただごとではない。ふたりは夢中になって玄関へとび込んだ。博士の書斎は二階にある。靴をぬぐ間ももどかしく、その書斎へとび込んだ早苗と慎介。
「あ、お嬢さん」
今しも卓上電話を取りあげて、いそがしく一一〇番へ電話をかけていた桑原助手は、早苗の顔を見るよりはやく、
「先生が、先生が――」
と、声をふるわせる。見るとゆかの上には、ごま塩頭の老人が朱《あけ》に染まってたおれているのだ。
「あっ、おとうさま!」
一声叫んで、早苗はそのまま気を失った。
慎介はつかつかとへやのなかへはいると、博士の脈をとってみたが、すでにこと[#「こと」に傍点]切れていることは一目見てわかるのだ。無残にも緒方博士は、心臓を一突きえぐられて死んでいるのだった。
「お気のどくですが、もうだめですね」
慎介はホッと溜息《ためいき》をついて立ち止まりかけたが、見れば博士の死体の下に、何やら白い紙片が落ちている。慎介はそれを拾いあげると、何を思ったのかすばやくポケットに突っ込み、さて、あらためてへやのなかをみまわした。
するとまず第一にかれの目についたのは、へやの片すみに立っている西洋の甲冑《かつちゆう》、それはまるで生きているように、かべぎわに突っ立っているのである。その次にかれの目についたのは卓上電話、電話がここにある以上、さっき慎介が耳にしたあの物音は、このへやからきこえて来たのにちがいない。
それにしてもあの『蛍の光』はどこからきこえて来たのかしらと、卓上を見まわすと、あったあった、電話のすぐそばに四角い目ざまし時計が置いてあった。
それは俗にオルゴール時計といって、あらかじめ好きな時間に鳴るように合わせておけば、目ざましのベルのかわりに、時計のなかのオルゴールがひとりでに鳴り出すしかけになっているのである。して見ると、さっきの『蛍の光』は、この歌時計のオルゴールが鳴る音だったらしい。
慎介はそう気がつくと、なぜか不審にたえぬ顔つきだった。
秘密の手紙
さてそれからあとの大さわぎは、いまさらここに述べるまでもないだろう。
緒方博士は殺害され、殺人光線の秘密は盗まれたのだ。博士はあの奇妙な甲冑のなかに、秘密書類のファイルをかくしておいたのだが、しらべてみると、そのなかから一番かんじんな書類が一枚盗まれているのである。それは半紙半分ぐらいの大きさに、計算だの図面だの薬品の名だのを、ぎっしりと書きこんだ、うすい紙で、人間でいえば心臓、扇でいえばかなめにあたる部分なのだ。
博士はその部分だけは、家人はもちろん、助手の桑原にさえ見せないほど、大切にしていたのだが、その一番かんじんな、たった一枚の書類が盗まれてしまったのである。
しかもこの憎むべき極悪犯人が、博士の長男の謙一郎《けんいちろう》であるらしいときくにいたって、ひとびとががくぜんとして色を失ったのも無理はない。
緒方博士の長男、すなわち早苗の兄の謙一郎は、数年前、父とけんかして家をとび出してしまったが、その謙一郎があの晩、家のまわりをうろついているのを見たのは、早苗と慎介のふたりだけでなく、桑原助手もそのひとりだった。
「わたしは妙な音になにげなく書斎へはいっていくと、先生はゆかの上にたおれており、謙一郎くんが今しも窓から外へとび出そうとするところでした」
こういう桑原助手のことばに、謙一郎のゆくえは厳重に捜索された。
それから三日、博士の葬式もすんで、わびしく静まりかえった緒方邸へ、ひょっこりとたずねてきたのはほかでもない宇佐美慎介。早苗は目をまっかに泣きはらしていたが、慎介のすがたを見ると、それでもたのもしそうに微笑する。
「早苗さん、今日来たのはほかでもない。きみにこのあいだのことをききたかったからです。なるほど、きみにはいいにくいことかもわからないが、これは国家にとっての重大事ですよ」
早苗はそれをきくと、おびえたような目の色をしながらも、こっくりと素直にうなずいた。
「まず第一に、このあいだの日比谷のできごとだが、あのとき、にいさんはきみに何といっていたの」
早苗はそれをきくと目に涙をいっぱい浮かべ、
「あたし、あのときぐうぜん四丁目の角でにいさんに会いましたの。久しぶりだったからあたしどんなにうれしかったでしょう。ところがにいさんたら、あたしにいきなり秘密書類のことをきくのです。そればかりか、もっとゆっくり話をしようと、あたしの手を引っぱってぐんぐんと日比谷公園へつれていきます。あたしこわくて、こわくて……」
「なるほど、それであの南京玉をまいていったのですね」
「ええ」
と早苗はうなずきながら、
「うっかり声を出すとにいさんの悪事がしれてしまいます。だからだれかが怪しんで、あとをつけてきて、あたしたちの話のじゃまをしてくれればいいと思って」
「なるほど、それで公園のなかでにいさんはどんなことをいいました」
「にいさんは、おとうさんにいって、あの秘密書類をどこかもっとたしかなところへ、かくすようにするか、それとも、あたしにこっそり盗んで、自分に渡してくれといいますの。あたし、てっきりにいさんはお金にこまって、その秘密書類をだれかに売ろうとしているのだと思って、そんなスパイみたいなまねはできないともうしましたの」
慎介はそれをきくと、しばらくだまって考えていたが、やがて、つとひざをすすめると、
「早苗さん、ぼくはあなたにあやまらねばならぬことがあるのです。というのは」
と、ポケットから一枚の紙片を取り出すと、
「ぼくはあの晩、先生の死体のそばで、こんな手紙を拾ったのを、いままでかくしていたのです」
早苗はふしぎそうにその紙きれに目をやったが、たちまちハッとしたように、
「まあ、おにいさまの筆跡ですわね」
「そうです。にいさんから博士にあてて書いた手紙です。ぼくがよんであげましょう」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
お父さん。とつぜんお手紙を差しあげてさぞおおどろきになることでしょうが、ぼくは至急、だれにもないしょでお父さんにお目にかかりたいのです。お父さん、ぼくはいま非常に危険な立場にいます。悪者がぼくの命をねらっているのです。もしぼくがお父さんに会ったということがわかれば、きっと彼らはぼくを殺してしまうでしょう。だから、ぜったいにだれにも知られず、お父さんにお目にかかりたいのです。
お父さん、家にはオルゴール時計がありましたね。あの『蛍の光』を歌うオルゴール時計が。今夜九時半かっきりに鳴るように仕掛けておいてくださいませんか。ぼくはその音をきいたら、お父さんがこころよくこの不孝者に会ってくださるものと思い、ひそかにお父さんの書斎へしのんでいきます。
お父さん、お願いです。どうぞ、どうぞ、この不孝な子供にただ一目だけ会ってください。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]不孝な謙一郎より
「まあ」
早苗は思わず目を丸くした。
「するとあの晩、にいさんがここに来たのは、お父さんとお約束がしてあったのね」
「そうです。ぼくは電話で、たしかに『蛍の光』が鳴っているのをききましたよ。だから先生も会われるつもりでいられたのでしょう。さてこの手紙から推理すると、にいさんは何か先生に話さなければならぬことがあった。それでこういう手紙を出されたのだが、そのあとではからずも、銀座できみに会ったものだから、きみの口からお父さんに話してもらおうとしたのだが、そこをぼくが邪魔したことになるんだね」
慎介はそういって、何か感慨ぶかげに考えていたが、ふいに決心の色をうかべると、
「早苗さん。ぼくはきみにお願いがあるんだ。今夜ないしょで、お宅へぼくを泊めてくれませんか。いや、おどろくのは、もっともだが、ぼくにはちょっと考えるところがあるんです」
「ええ、いいわ。どうぞ」
何かしら、思うところありげな慎介のようすがたのもしく、早苗はすぐさまそう答えたのである。いったい慎介にはどういう考えがあるのだろう。
金色の怪物
どこかでチーンと一時が鳴った。
あの殺人のあった博士の書斎は、今しもうるしの闇に包まれて、ゴーッと表を吹きあれる風の音も冷たいのである。
この闇のなかにさっきからもくもくとしてうごめいているひとりの人物があった。いうまでもなくそれは宇佐美慎介、かれは夕方から書斎の片すみの、大きな書棚のうしろに身をかくして、息をころして何事かの起こるのを待ちかまえているのである。書斎の他の片すみには、あのぶきみな甲冑が、金色の底びかりをたたえて、まるで生きもののよう。さすがの慎介もそれを見ると、背筋の冷たくなるようなこわさをかんじるのだった。
――とそのとき、ろうかのほうにあたって、コトリとかすかな物音がきこえたかと思うと、スウッと冷たい風がほおをなでる。だれかドアを開いてはいって来たのだ。
〈来たな!〉
慎介は思わずゴクリと息をのむ。しかし相手はそんなこととも気がつかず、ぬき足さし足、あの卓上電話のほうへしのび寄ったが、と、そのとき、慎介はふいにシーンと血がこおるような気がした。見よ、いままでもくもくとかべによりかかっていたあの金色の甲冑が、ふいにノッシノッシと歩き出したではないか。
「アッ?」
慎介は思わず声を出して叫んだが、そのとき早く、甲冑の怪物が、マリのごとく身をはずませたと見るや、曲者めがけておどりかかったからたまらない。ガラガラと物すごいひびきを立てて二つのからだがゆかの上にころがった。
ああ、夢ではないか。あまり意外のできごとに慎介はぼうぜんとそこにたたずんでいたが、そこへ物音をきいて駆けつけて来たのは早苗である。
「宇佐美さん、宇佐美さん、どうかなすって」
慎介はハッと夢から覚めた。
「早苗さん、スイッチ、スイッチ、電気のスイッチ」
パッと、スイッチがひねられる。と見れば、ゆかの上には二つのからだがゴロゴロところがっているのだ。金色の甲冑が火の玉のようにきらめいたかと思うと、やがて相手をゆかの上にたたきつけ、スックと立ち上がった甲冑の怪物、顔にはめた黄金のマスクをとったが、早苗はその顔をひと目見るや、
「あ、おにいさま」
と、まっさおになって絶叫した。
まさしく甲冑の怪物は、早苗の兄謙一郎だったのだ。
謙一郎は早苗と慎介の顔をみると、さびしげに笑ったが、やがて取り出したのは一個の笛、ピリピリとそれを吹き鳴らすと、やがて入りみだれた足音と共に、書斎のなかへはいって来たのは、数名の警官をしたがえた警察署長である。
「アッ」
兄の大事とばかり、早苗はまっさおになったが、しかし謙一郎はあんがい平気だ。
「署長さん、そこにたおれているのが、父を殺した犯人なのです。そしてあの秘密書類を盗んだ極悪人なのです。そいつのからだをしらべてください。書類を持っているにちがいありませんよ」
署長はつかつかとその男のそばへよると、グイとからだをだき起こしたが、その顔を見たとたん、
「あっ、桑原さん!」
と、早苗は思わず息をのんだ。
いかにも、くちびるのはしから、タラタラと血を流し、まっさおな顔をして、ぐったりとうなだれているのは、助手の桑原だったのだ。
「それじゃあの、桑原さんが――、桑原さんが――」
「そうだよ、早苗」
謙一郎はさもいとしげに早苗の手を取り、
「おまえはにいさんを誤解していたのだよ。いや誤解されても仕方のない、いままでのにいさんだったからね。それに、ぼくのやり方がすこしとっぴだったから、おまえが怪しんだのも無理はない」
謙一郎は早苗と慎介とを見くらべながら、
「宇佐美くん、きみの名は宇佐美くんというのでしたね。どうかぼくの話を聞いてください。早苗、おまえもきいておくれ」
そういって謙一郎は、およそ次のような話をはじめたのである。
オルゴール時計の秘密
ふとしたことから父博士にそむいて、家を飛び出した謙一郎は、それから数年、いうにいわれぬ、苦労をした。かれは幾度か父にあやまって家に帰ろうと思ったが、そのたびにむらむらとこみ上げて来るのは持ちまえの意地っぱり。
〈何くそっ、今に出世して錦をかざって帰るのだ〉
そう思いなおすのだ。が、まだ年若いかれに、どうしてそんな出世の糸口があろう。あるときは人夫にもなった。あるときは水夫にもなった。そうして転々とさまよい歩いているうちに、あるときふと、ひとりの外人に救われた。
はじめのうち謙一郎はその外人を親切なひととばかり思っていたが、しだいにわかってきたところでは、その外人こそは世にも恐ろしいスパイの一味だったのだ。かれは謙一郎の素性《すじよう》を知っていた。さてこそ父の発明を盗ませようと自分の仲間に引き入れたのである。
しかし、謙一郎も日本人、どうしてそんな恐ろしいまねができようか。かれはすぐにもその仲間から脱走しようと思った。しかし、ときすでにおそく、かれの周囲には厳重な監視の網の目が張られているのだ。
「ぼくが知っているのはその外人だけでしたが、ほかにもずいぶんたくさんスパイがいるようす。なかには日本人もいるらしいのです。しかも彼らはたくみに秘密の連絡を保っていて、ぼくはなかなかしっぽがつかめない。警察へとも思ったが、しかしそうすれば、その外人だけはとらえても、ほかの一味を逃がす心配がある。もうすこし秘密をにぎってから――」
と、そう思ったが、気にかかるのは父の身のうえだ、といってうっかり父に近づこうものなら、たちまち裏切り者として殺される。それがスパイ一味のおきてなのだ。しかも父の周囲にはちゃんと一味の者が張りこんでいるようすさえある。
「そこでぼくはああいう手紙を書き、危険をおかしてでも一ど父に会おうと思ったのです」
ところがその手紙を投函《とうかん》して間もなく、はからずも銀座で妹にあった謙一郎は、これさいわいと万事をたのもうと思ったが、かえってそれが早苗のうたがいを招くもととなり、おまけに慎介に、さまたげられたので、やむなく、あれからただちにこの家へしのんできたのである。
「ぼくは八時半ごろから、物かげにかくれてこの家を見張っていました。そのあいだに、なつかしい父が書斎の窓からじっと外を見ているすがたも見ました。父は自分に会ってくれるだろうか。それともかたくなな父は許してくれないかも知れない。そんなことを思いながら待っていると、間もなく合図の『蛍の光』の音がきこえてきたのです」
それをきくと、謙一郎はただちに書斎のなかへしのび込んだが、意外、父は殺されているではないか。謙一郎はそれを見ると、うたがいが自分にかかるのを恐れて、すぐ逃げ出したが、しかし、ことはあまりに重大である。こうなっては黙っているわけにはいかないので、とちゅうから思い直して警察へとび込んだのである。
警察でもこと重大と見て、謙一郎が自首して出たことは秘密にしておき、かえってかれをうたがうように見せて、一方ひそかに真犯人を捜していたのである。
「ところでここにふしぎなのは、ぼくが見張っているあいだ、だれひとりこの家へ出入りした者はないのに、そのあいだに父は殺されている。だから、てっきり家のなかにスパイの一味がいるにちがいないと、そこで署長とも相談のうえ、ぼくがこの甲冑のなかにかくれることになったのです」
謙一郎の長話はおわった。ああ、かれはスパイではなかったのだ。いやいや、もっとも英雄的な愛国者だったのだ。早苗はそれをきくと、うれしさに思わず涙をうかべて、
「にいさん、かんにんして。あたしにいさんをうたがったりしてすみません」
「いやいや、おまえのうたがうのも無理ではなかったのだ。ただ、残念なのは、ぼくがぐずぐずしていたばかりに、お父さんが、お父さんが――」
と、謙一郎は思わず涙を飲んだが、そのとき、ふいに署長の声が冷たくふたりをさえぎった。
「緒方くん、こいつ書類を持っていないぜ」
謙一郎はそれをきくと、ハッと顔色をかえ、
「そんなはずはありません。あの晩からこいつは厳重に見張ってあったのですから、外へ持って出たり、ひとに渡すはずはありません」
と、自分でも桑原のからだをしらべたが、やっぱり書類は見当たらない。ああ、書類はすでに他のスパイによって外国へ送られたのではなかろうか。
「ハハハハハ、ぼくがスパイだって。なにを証拠にそんなことをいうのだ。おい謙一郎くん、きみこそお父さんを殺して書類をうばったのだろう」
証拠がないと見て、桑原は憎にくしげにいう。
「ちくしょうっ」
謙一郎はこぶしをかためたが、かんじんの証拠がなくてはどうすることもできない。署長もおいおい、うたがわしげな目で謙一郎の顔を見なおすのである。
「署長、いったいその書類というのは、どのくらいの大きさなんですか」
そのとき、ふいに横合いからきいたのは慎介だ。
「それはね、うすい紙に書いたもので、まるめれば耳の穴にでもはいるということだよ」
慎介は、それをきくとにわかに顔色をかがやかせた。
「わかりました。署長、ぼくがその書類のありかをしっています」
「なんだって!」
署長も、謙一郎も早苗も、さては桑原までが、思わずびっくりしたように叫んだ。
「そうです。いまその書類をお目にかけます。しかし、そのまえにちょっとこの男と話をさせてください」
慎介はキッと桑原をにらみつけると、
「おい、桑原くん、ぼくはあの晩のきみの行動を手に取るように知っているぞ。きみはまさか博士を殺すつもりはなかったのだ。ただあの書類をうつしとればよかったのだ。ところが、その書類をうつしているところへ、博士がひょっこりはいってこられたので、やむなく殺してしまった。ところがちょうどそこへ、この卓上電話のベルがけたたましく鳴り出したので、きみは受話器をはずしておいた。使用人の者が起きてきてはこまると思ったからだろう。ところが、これがきみの大失敗さ。おかげでぼくは非常に大事なことを耳にすることができたのだからね」
桑原は思わずドキリとした顔をした。慎介は愉快そうににっこりと笑うと、
「きみが先生を殺したのは九時半ごろだったね。ところできみは知らなかったろうが、九時半になると、このオルゴール時計が鳴るように、先生があらかじめ時間を合わせておかれたのだ。だから、きみが先生を殺したとき、急にそのオルゴール時計が鳴り出したので、きみはなんとなく気味が悪くなり、そいつをなんとかして止めようとした。そのうちにきみはふとすばらしいことを思いついたね」
慎介はオルゴール時計を取りあげると、底にはめてある板を取りはずす。と、なかに見えるのは一面に突起のついた真鍮《しんちゆう》の円筒と、その円筒のそばにならんでいる無数の短冊型の金属板。
「ごらんなさい。これがオルゴールです。この水平についている円筒が回転するにしたがって、表面についている突起が、薄い金属板をはじいて音を発する。その音につづいて一つの曲になるのです。つまりこの金属板はピアノのキーと同じことで、指でたたくかわりに、この突起が次々とそのキーをはじいていくのです。だから、その歌を途中で止めようとするには、この円筒の回転を止めなければなりません。ぼくはあの晩、オルゴール時計がとちゅうでハタと鳴りやんだのを、電話できいてふしぎでたまらなかったのですが、今お話をきいているうちに、そのわけがわかりました。桑原くんはその秘密書類をうつそうとしたが、そこへオルゴール時計の音をきいて謙一郎くんが表からはいってくる。その足音をきいた桑原くんは一刻もぐずぐずできない。といって、博士が殺された以上、家の者は厳重に捜索されるにちがいないから身につけているのは危険だ。そのまま逃げれば、うたがいがかかる。そこでとっさのあいだに書類をまるめ、このオルゴールのあいだに突っ込んだのです。ほうらごらんなさい、ここに紙のようなものがはさまっていますよ」
慎介がにこにこ笑いながら、その紙きれを取り出すと同時に、じゃまもののなくなった円筒はふたたび回転をはじめ、あの夜、中断された『蛍の光』が、いまや静かに室内へ流れ出したのである。
その紙きれが秘密書類だったことはいまさらいうまでもあるまい。桑原はいさぎよく罪に服し、その自白によって、スパイの一味はひとりのこらず逮捕されたのだ。謙一郎もいまでは家に帰り、妹とともに静かに父のあとをとむらっている。
そして、かれらのもっともよき友だちとして、宇佐美慎介はしばしばその家を訪れるのである。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『白蝋仮面』昭和56年9月10日初版発行