殺人|暦《ごよみ》
横溝正史
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目 次
殺人暦
女王蜂
死の部屋
三通の手紙
九時の女
[#改ページ]
[#見出し] 殺人暦
[#小見出し] 生ける死人の群れ
謎《なぞ》の死亡広告
仙石雷蔵《せんごくらいぞう》は夕飯を済ませると、家族の者と別れてただ一人書斎へ帰ってきたが、すぐ卓上の呼鈴《よびりん》を激しく鳴らした。
「御用でございますか」
と、若い書生が顔を出した。
「おお鈴木か。おれの居《お》らぬ間に、だれかまた書斎へ入ったね」
その声はやや慄《ふる》えを帯びている。
「いいえ、そんなはずはありませんが……」
「いいや。たしかにだれか入ったに相違ない」
「でも、御前《ごぜん》がお食事をしていられる間、私はずっと扉の前で張り番をしておりました。絶対に、そんなはずはないと思います」
「そうかね……では、この鍵《かぎ》はどうしたのだ? さっきおれが、この部屋を出て行く時にはこんな物はなかったぞ」
雷蔵はそう言いながら、テーブルの上から古びた鍵をつまみあげた。
鈴木は困ったような顔をした。
「あ、その鍵ですか。それなら私が置き忘れたものです」
「なに、きみの鍵だ?」
「そうです、お庭の倉庫の鍵です。さっき御前がお食事にいらしてから、テーブルの上を片づけましたがその時忘れましたのでしょう」
雷蔵はがっかりしたように鍵をほうり出すと、椅子《いす》に腰を落とした。額《ひたい》にはべっとりと脂汗《あぶらあせ》が滲《にじ》んでいる。
「なあ、鈴木君!」
しばらくして雷蔵は言葉をかけた。
「はあ」
「きみはさだめしおれの臆病《おくびよう》を嗤《わら》っとるじゃろうな。実際おれは、自分であきれるほど神経質になってしまった。しかしおれの身にもなってくれ。生きながらおれは、死人の数に入れられてしまったのじゃ。あいつはいったい、どんなことをしおるか分からん。今にも、おれの咽喉《のど》を締めに来んとも限らんのじゃ。それを思うと、おれは夜もおちおち眠れんくらいじゃ」
鈴木はもじもじしながら立っていた。この場合どう言って慰めていいか分からない。雷蔵は構わず言葉をついだ。彼は話している間だけでも、せめて不安が遠のくと見える。
「世間の奴《やつ》らは、あれは単なる悪戯《いたずら》じゃと思うとる。しかし考えてもみい! あんな念入りな悪戯が一時の酔狂や何かでできるもんかどうか……」
「でも、あの死亡広告を出されたのは御前だけではございません。ほかに四人もあったじゃございませんか」
「そうじゃ。ところが、それがいっそういかんのじゃて……」
雷蔵は肉の厚い赭顔《あからがお》に深い皺《しわ》を刻んだ。
雷蔵の不安というのは――今から十日ばかり前、都下第一の大新聞××の広告面に、突如彼の死亡広告が掲げられたのである。仙石家ではだれも知らないことだった。
その広告を見た友人や親戚《しんせき》が、慌《あわ》てて駆けつけてきたので初めて知ったくらいである。だれの悪戯だか分からない。
広告は為替《かわせ》といっしょに新聞社へ送ってきたというのだから調べようにも手がつけられなかった。
生ける死人――なんという無気味な悪戯だろう。ところが悪戯はその日のみでは終わらなかった。
その翌朝、またもや生ける死人の広告が、しかも同時に二つも出された。二人とも当代第一流の名士でしかも雷蔵とは因縁浅からぬ人々だ。こうなると、警視庁でも捨てておけない。やっきとなってこの悪戯者の犯人捜査に努めたが皆目《かいもく》手掛かりもないのだった。
そうこうするうち、まるで警視庁を愚弄《ぐろう》するかのように、中二日置いて、またしても二人この悪戯の槍玉《やりだま》に挙がった。都合《つごう》五人――しかも、五人が五人とも知名の人々ばかりだ。
――雷蔵の恐怖はことに激しかった。最初自分の死亡広告を見た時はそれほどでもなかったが、次から次へと出る名前が、遠い昔のある秘密に関連していることを覚《さと》ると、彼は堪《たま》らない気がした。墓場の底に眠っているとばかり思っていた死人が、突如、眼前に立ち現われたような恐怖と狼狽《ろうばい》を感じたのだった。
――電話の呼鈴が激しく鳴った。
雷蔵はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として身を退《ひ》いた。彼はこの事件以来全く神経衰弱に陥っている。ちょっとした物音にも心臓の鼓動が激しくなる。頭の禿《は》げた――精力絶倫をもって鳴るこの大事業家としては、全く傍《はた》の見る眼もおかしいほどである。
仕方なしに、そばから鈴木が受話器を取り上げた。
「神前《かみまえ》さんからです」
と、彼は言った。
神前|伝《でん》右衛門《えもん》は、同じくこんどの死亡広告の槍玉に挙げられた一人で、大宝石商人、仙石雷蔵とは旧《ふる》くから因縁のある男である。神前と聞くと、雷蔵もホッとしたように受話器を手にとった。
「はア仙石ですが……はアなるほど、そいつはけっこうですな。はア、それで? なるほどいやよろしい。ではお待ちしていましょう。ナニ、こちらの方は大丈夫ですよ。充分に警戒させてあります。では後刻――」
受話器を置くと、雷蔵は書生の方を振り返った。
「鈴木君」
「は」
「今夜、お客様が五人お見えになることになった」
「は」
「その四人は、おれと同じように死亡広告を出された人たちだ」
「は」
「その人たちを、おまえよく知っているだろうな」
「ハイ、よく存じ上げております」
「あと一人は警視庁の探偵《たんてい》で、結城三郎《ゆうきさぶろう》という男だ」
「はア、あの結城探偵がお見えになるのでございますか」
「きみはその男を知っとるのか?」
「新聞で時々拝見しています。たいへん敏腕な探偵だそうでして……」
「そうか、それはけっこうだ。ほどなくここへお見えになる。だから、その人たち以外には絶対に、だれもここへ通してはならんぞ!」
「承知いたしました」
雷蔵は、もう一度鈴木を呼び止めた。
「それから、このことは家族の者には知らせないように!」
「ハイ」
鈴木が退《さが》ると、雷蔵は用心深く後ろの扉をしめた。
犠牲者の密議
八時かっきりに、宝石王神前伝右衛門はやってきた。年輩は雷蔵とそう変わらないが、鶴《つる》のように長身|痩躯《そうく》、頭も髭《ひげ》も雪のように白い。ただ瞳《ひとみ》のみが異様に黒く光っている。
二人は無言のままうなずき合うと、がっかりしたように椅子に腰を下ろした。それから五分ばかり経《た》つと服部新一《はつとりしんいち》と紫安欣子《むらやすよしこ》が手を携えてやってきた。共に、あの奇怪な死亡広告の犠牲者である。
新一は、ついこの間亡くなった某政党の領袖《りようしゆう》、服部|省吾《しようご》の一人息子で、まだ三十になるやならずの青年紳士。白皙《はくせき》の面に聡明《そうめい》そうな瞳が輝いて、きっと結んだ唇《くちびる》には利《き》かぬ気らしい激しい気性が窺《うかが》われる。ビロードのセミドレスに黒い蝶型《ちようがた》のネクタイを結んだところは、大政治家の令息というよりも、芸術家と言った方がふさわしい風貌《ふうぼう》である。
彼は二人の老人を見ると、いかにもいらいらしたように、碌《ろく》にお辞儀もせず、隅《すみ》の椅子に腰を下ろした。
紫安欣子はそれに反して、この二人の老人の姿を見ると、やっと幾分安心したらしく、親しげに会釈《えしやく》を交わした。しかし場合が場合だけに、だれも無駄口《むだぐち》をたたくものはない。
欣子は現在、都下第一流の大劇場帝都座の首脳女優として、その美貌《びぼう》と才能を謳《うた》われている女だ。せいぜい若作りにしてはいるが、ほんとうの年を知っている人の言葉によると、四十の坂はとうの昔に越えているはずだという。しかし、三十そこそこにしか見えぬ。姥桜《うばざくら》の残《のこ》んの美しさがきらきらとした肌《はだ》に脂濃《あぶらつこ》く浮いていた。
欣子らに一足遅れて、待たれていた最後の一人が入ってきた。しかし、これはまあなんと意外な人柄だろう。
年齢《とし》のころは十八か九の、うら若い素晴らしい美人だ。こんな美しいしとやかな令嬢が、どうして、あの恐ろしい悪戯の犠牲になったかと、あきれるよりも無残に思われるほどである。
樺山冴子《かばやまさえこ》――元の警視総監、樺山|勝五郎《かつごろう》の姪《めい》だ。
「遅くなりまして――」
冴子は一同を見ると、低い声でつぶやくように言ったが、早や顔色も蒼《あお》ざめ、恐怖に耐えぬように傍らの椅子に身をすくめた。
「やあこれでそろいましたな」
五人の主客がそれぞれ席につくと、神前伝右衛門は、わざと元気らしく言って時計を見た。
「八時十五分――それにしても、結城探偵は遅いな」
その時、仙石雷蔵は軽い咳《せき》をした。
「時に神前さん! その結城探偵というのは、充分に信用のできる男じゃろうな」
「うん、その心配なら御無用じゃ。警視庁切っての腕利《うでき》きだからな。まああの男にことを分けて頼み込めば間違いはあるまいよ」
「ことを分けて頼むとおっしゃいますと?」
紫安欣子は不安そうに、ハンカチをまさぐりながら口を出した。
「あの昔のことを、みんな打ち明けてお願いするのでございましょうか」
「いや、その必要はあるまいと思う」
「しかし、それでは、探偵が引き受けてくれるかなあ」
雷蔵は不安そうに念を押した。伝右衛門はそれをさえぎるように、
「探偵はわれわれの安全を保護するのが役目だ。何も、われわれの昔の秘密まで知る必要はない。とにかくここにいる五人の者は、ある理由から共同の敵を持っている。いつなんどきそいつのために生命を脅かされるかもしれんのだ。いや、現在すでに脅かされている。探偵がそれを保護するのに、とやかくと詳しい話を知る必要はないのじゃから」
「まあ!」
と、冴子は真《ま》っ蒼《さお》な顔をして、椅子の中で体を慄《ふる》わせた。
「あたしたち、生命を脅かされているのでございますって? あたしには少しも分かりませんわ。いったいなんのために、あたしはこんな恐ろしい目に逢《あ》うのでございましょう……ねえ皆さん、その理由を話してくださいませ」
「そうだ、冴子さんのおっしゃるのも無理はない」
新一青年も、興奮に慄えながらそばから口を出した。
「冴子さんばかりじゃない。僕にも分からないのだ。いったい冴子さんや僕が、どんな悪いことをしたというのです」
「なるほど、きみや、冴子さんの分からないのも無理はない。しかし、これはきみのお父上や、冴子さんの伯父《おじ》上に関係していることなんだ」
「それを話してください。僕は理由なしに、こんな脅迫を受けているには耐えられません。私の父や、冴子さんの伯父上がどんなことをしたというのです。そしていったい、われわれを脅迫しているのは何者です――あなた方はそれを御存じなんでしょう」
雷蔵、伝右衛門、欣子の三人は困ったように顔を見合わせた。新一や冴子の言葉は当然だ。彼らは何も知らない。
ただ亡くなった父や伯父の受けるべき十字架を、代わって背負わされようとしているのだ。
しばらくして、伝右衛門が口を切った。
「いや、そのことは聞かぬ方がいいでしょう。われわれとしても墓場へ行くまで、絶対に洩《も》らしたくない秘密なのじゃからな」
伝右衛門は深い渋面を作りながら、いらいらしたように立ち上がった。
「それにしても結城探偵は、どうしたのじゃろう。ずいぶん遅いじゃないか」
その言葉の終わらぬうちに、背後の方で声がした。
「いや、結城三郎はここにまいっておりますよ」
真紅の貼《は》り紙《がみ》
一同あっ[#「あっ」に傍点]と驚いて振り返ると、いつの間にか入り口の扉を背にして、中年の紳士が立っていた。
鉤《かぎ》のように曲がった鼻、鋭い眼差《まなざ》し、抜け上がった額《ひたい》――紛《まご》う方《かた》なき結城三郎だ。
「おや結城君、きみはいつ入ってきたのだね」
神前伝右衛門がとがめるように言うのを、
「いつ、どこからでも入ってくるのが私の役目です。もしお気に触《さわ》ったら、も一度出直して扉をたたきましょうか」
結城三郎は落ち着き払って、部屋のなかを見回した。伝右衛門は苦笑した。
結城三郎は大きな姿見の前を通って、一同の間に席をしめた。伝右衛門は入り口の扉の締まっているのを確かめてから、鹿爪《しかつめ》らしい咳払いをして探偵の方へ向き直った。
「結城君、きみはここに集まっている顔触れを見て、今夜の用件というのは察しがついたろうと思うが……」
「例の死亡広告の件でしょう」
と、ずばりと言ってのける。
みんなはいやな顔をした。
「さよう。あの広告のことじゃが……」伝右衛門は、何か咽喉《のど》の奥に引っかかったような咳払いをしながら、
「きみはあの事件に対して、どういう意見を持っているか知らんが、われわれはあの死亡広告は単なる悪戯だとは思っていない。われわれに対する死の脅迫だと信ずべき或《あ》る理由を持っている。それできみに依頼するんだが、事件がこれ以上進まぬうちに、つまりこれ以上悲劇をもたらさぬうちに、あの悪漢を逮捕してもらいたいのだ」
「なるほど――しかし、どういう理由であなた方は、あの広告をもって脅迫だとお思いになるのです!」
「それは今、話すわけにはいかん。とにかくわれわれ五人は、或る恐るべき悪党から死をもって脅迫されている。きみはそいつを逮捕してわれわれの生命の安全を保障してくれればいいのだ」
探偵は黙って、床の上に眼を落とした。気難かしそうな皺《しわ》が眉根《まゆね》に深く刻まれる。彼は無言のまま、しばらく指の爪《つめ》を噛《か》んでいたが、
「では、これだけを打ち明けてくださるわけにはゆきますまいか? あなた方を脅迫している人物が、いったい何者であるか――たぶん、あなたはそれを御存じなのでしょうが……」
「しかし、それを打ち明けてはわれわれの秘密を洩らすことになる。それに、おれにもよく分からないのだ。なるほどかつてわれわれ五人を眼の敵《かたき》にして狙《ねろ》うていた男があった。しかし、そいつは十五年も昔に亡くなったはずだ、現におれは、そいつの死骸《しがい》を見たのだからな」
「その他に――たとえば最近において、何か怨《うら》みを買ったような覚えはありませんか」
「ない、絶対にない、あればその男だけじゃ」
「――とすると、その男が生き返ってきたか。あるいは、その男の子孫の者が、企てている復讎《ふくしゆう》としか見られんわけですなア」
「そうだ。それ以外に絶対に心当たりがない」
伝右衛門はかすかに身慄《みぶる》いした。
彼らが秘めている秘密というのはどんなことだろうか?
伝右衛門はいまさら思い出して身慄いを禁じ得ないところを見ると、よほど恐ろしい秘密に違いないのだ。
「お気の毒でも、その秘密の断片なりと聞かせていただきたいですね」
と、結城三郎は言った。
「では、それを聞かないうちは、われわれに味方をすることはできんと言うのか」
伝右衛門は気色《けしき》ばむ。
「いや、そうは言いません。しかし、それが分かれば、自然犯人の逮捕も早かろうというものです」
「それはできん。そいつは絶対に不可能じゃ」
だれかと思えば仙石雷蔵である。彼は額から湯気を立てながら喚《わめ》き立てた。
「あの秘密を洩らすくらいなら、おれはいっそ殺された方がましじゃ」
彼は喘《あえ》ぐように言うと、がっくり椅子の中へ身をずらせた。人々はそこで、ふと黙りこんでしまった。
その時だ、突然、低い叫び声が冴子の唇から洩れた。
見ると、彼女は眼を大きく瞠《みは》ったまま、化石したように部屋の一方を凝視している。何事が起こったか――と、人々は我れ知らずその方を振り返った。と、同時にさっと顔色を変えた。
見よ! 部屋の一隅《いちぐう》に立っている大姿見の上に、血のような真紅の紙が貼《は》りつけてあるではないか、しかも、その貼り紙の上には墨黒々と、
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第一の犠牲者 紫安欣子
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「あッ」
当の紫安欣子は、失神せんばかりに驚いた。
おお、悪魔の警告は発せられたのだ。しかしいつだれが、この貼り紙をしたか?
「先刻まで、確かにこんな物はなかったはずだ」
雷蔵の唇は紫色になっている。
「おれが入ってきた時にもなかった」
「あたしも知らない」
人々は今にも、恐ろしい吸血獣が咽喉をめがけて跳びかかってきそうな気がした。見渡せど部屋の中は確かに六人、ほかには何者の姿も見えぬ。
結城三郎は立ち上がると、つかつかッと姿見のそばへ寄って、まだ糊目《のりめ》も乾かぬ貼《は》り紙をつくづくと打ちながめた。そして、黙ってそれを剥《は》ぎ取ろうとした。
「待て!」
突然叫んだのは新一だ。
「おい、きみは何者だ。きみはほんとうの結城三郎なのかッ」
おお、なんという恐ろしい疑問だ。では、この男は探偵ではないというのか。並居《なみい》る人々は爆弾を投げられたようにぎくりとした。そうだ。――この男が最後に姿見の前を通ったのだ。そのほかに、だれも近寄った者はいないのだ。
「違う、違う!」
神前伝右衛門が悲鳴に似た叫び声をあげた。
「この男は、おれの知っている結城三郎じゃない。似てはいるが違う。こいつは贋者《にせもの》だ!」
姿見の前に立った探偵は、困惑したような顔つきで一同を見渡した。が、次第にその顔はほぐれて行った。と、見る見る顔いっぱいに広がって行く無気味な微笑――たちまち面貌はがらりと変わった。もはや、結城三郎の正直|一途《いちず》の峻厳《しゆんげん》さは顔のどこにも見当たらない。
「おやおや、やっと今気がつきましたかね」
それが怪人物の最初の一言である。
「ずいぶん暇がとれましたねえ。しかし、無理はないや。おれ自身でも感心するくらいうまく化けたからね」
「キ、きみはいったい何者だッ」
若い新一は、堪《たま》りかねたように叫んだ。
「さよう――なんとしておきましょうかね。しかし世間の奴らは、我輩を隼白鉄光《はやしろてつこう》と言ってますぜ」
一同は思わず飛び上がった。
ああ隼白鉄光! 神のごとく魔のごとき、神出鬼没の鉄光!
現わるると思えばたちまち立ち去り、どんな隙間《すきま》からでも忍んでくる前代|未聞《みもん》の怪盗鉄光である。
「ウーム、貴様だな、われわれを愚弄《ぐろう》したのは――」
新一は憤怒に燃えた。彼は今にも、この怪盗に掴《つか》みかからんばかりの気勢を示した。
「おっとどっこい。そう早合点をしちゃア困るよ」
怪盗は落ち着き払っている。彼は驚く人々を尻目《しりめ》にかけながら、
「正直のところ、我輩、この事件にはなんの関《かかわ》り合いもありゃアしない。ただあの奇妙な死亡広告にちょっと好奇心を煽《あお》られただけのことさ。そこで、物は相談だが――」
怪盗は椅子《いす》を引き寄せると、どっかと馬乗りにまたがった。
「一つこの事件に、片棒かつがせてもらいたいと思うのだが、どうだろうね? 自分から言うのもおかしいが、あのぼんくら[#「ぼんくら」に傍点]の結城三郎なんかより我輩の方がよっぽど頼み甲斐《がい》があるというもんだぜ」
大胆と言おうか、不敵と言おうか――彼は自ら素性を暴露《ばくろ》して毫《ごう》も恐れない。
しかも自ら、この五人の護衛者になろうというのだ。
「駄目《だめ》だ! それより貴様、結城探偵をどうしたのだ」
新一が怒鳴った。
「ああ、あの名探偵かね。あいつなら心配することアないよ。ちょいと眠らせておいたから、もうそろそろ眼がさめる時分だろうて。はッは……」
その時である。突然玄関の方に当たってけたたましい呼鈴の音。つづいて扉を乱打する響き――と、怪盗は飛鳥のように椅子から飛びのいた。
「野郎、来やがったな」
彼は急いで扉の方へ走ったが、ガチャリ――鍵を回すと、すぐ窓の方へ引き返した。
「ところで皆さん――今夜はどうも、突然驚かせて申しわけありません。探偵の野郎がもう少しゆっくり来るんだと、もっと種々御相談申し上げたいことがあったのですが、残念ながら見らるるとおりの次第、今夜はこれで失礼します。さて、いずれ皆さんは、我輩の力を借りたいと思うことが早晩おありでしょうが、その時は、××新聞の三行広告に、『は[#「は」に傍点]、て[#「て」に傍点]』宛《あて》に御通信くださらば幸甚《こうじん》です。不肖鉄光、いついかなる場合といえども、ただちに推参するを厭《いと》わないつもりですからな」
鉄光は傍若無人に、それだけをしゃべり散らすと、ごていねいに最敬礼をして、そのまま窓を越えて闇《やみ》の庭に消えたのである。
それとほとんど同時だった。入り口の扉がめりめりッと打ち破られ、その隙間から寸分|違《たが》わぬ探偵結城三郎がまだ、覚め切らぬ寝呆《ねぼ》け面《づら》をヒョッコリと出した。
瀕死《ひんし》の胡蝶《こちよう》
その夜のことがあってから、警視庁は急に色めき立ってきた。今までは単なる悪戯とみなして、歯牙《しが》にもかけなかった死亡広告事件が、急に容易ならぬ現実味を帯びてきたからだ。
仙石雷蔵にしろ、神前伝右衛門にしろ、剛腹をもって実業界の一方に君臨している大人物だ。まさか彼らが、子供のように白昼夢に恐れ戦《おのの》こうとは思われぬ。
彼らの恐怖には、必ずやそれだけの根拠がなければならない。残念ながら結城探偵は、その秘密を窺《うかが》うことはできなかった。事件の重大性だけは充分に見てとった。しかもこの事件には、怪盗鉄光というお景物《まけ》まで加わってきたのだ。
しかし、ここに最も哀れをとどめたのは、女優紫安欣子である。眼に見えぬ復讎鬼は、彼女を第一の犠牲者として指名した。
今はもう、彼女はそれを寸分疑うことができない。あの五人の犠牲者のいる前で、巧みに貼られた恐ろしい死の警告状――それだけを考えても、悪魔の並み並みならぬ手腕が分かるではないか。
あの夜、本物の結城三郎がやってきてから、改めて貼り紙についての詮議《せんぎ》が行なわれた。
しかしだれ一人、それを知っている者はいなかったのだ。いつ、どういう機会に貼られたか、だれ一人気づいたものはない。まるで、眼に見えぬ手によって貼られたとしか思えないのである。
ただ一人服部新一は、あくまでも、鉄光の仕業だと主張した。しかし鉄光が、なんの必要あってそんなことをするだろう? なるほど彼は怪盗である。
しかしこの事件とは、なんらの関係もないはずだ。少なくとも雷蔵や伝右衛門、欣子が恐れている復讎鬼と鉄光の間に関係があろうとは想像できぬ。
とすればこの復讎鬼は、昔の妖術師《ようじゆつし》のような神通力をもっているのだろうか。
欣子の懇請によって、彼女の身辺には、警視庁から厳重な護衛がつけられた。それでもまだ不安に思った欣子は、急に邸内に人を殖やして、深夜も煌々《こうこう》たる燈火を絶やさないほどの用心を払った。彼女はそれで、自宅においてはやっと安心することができた。
ただ困ったことは、彼女は目下帝都座の舞踊劇に主役として出演中である。題は「瀕死《ひんし》の胡蝶《こちよう》」というのだが、なんて悪い辻占《つじうら》だろうと、欣子は少なからず気に病んでいた。
もちろん帝都座の楽屋にも厳重な警戒網は張られていたが、彼女は不安でならなかった。と、果然、そこへ第二の警告状がやってきた。
ある日、彼女の宅へ服部新一が見舞いにやってきた。彼は元来青年の血気と、それに、彼自身「昔の秘密」をよく知らぬために、あまりこの復讎を恐れてはいなかった。むしろ欣子が、こんなに仰山《ぎようさん》に騒ぎ立てるのを滑稽《こつけい》に思っていたくらいである。
だから彼がやってきたのは、見舞いというよりもむしろ、先夜も聞き洩らした「昔の秘密」を聞きにきたのだった。
「いけません……いいえ、そればかりはいけませんわ」
話題がそれに触れると、欣子は顔色を変えて叫んだ。
「それだけはどうぞ堪忍《かんにん》してください。ああ、恐ろしい。思い出してもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とします」そう言ったまま欣子は腕の中に顔を埋めてしまった。
「そうですか。ではやむを得ません。今日は何も聞きますまい。しかし欣子さん、そう恐れたことはありませんよ。相手も人間なら五|分《ぶ》五|分《ぶ》の勝負じゃありませんか。こちらには大勢人がいるのです。まあ気をしっかり持っていらっしゃい」新一はそう言い残して帰って行った。
ところが、彼を送り出した欣子が、元の居間に帰ってみると、いつだれが持ってきたのか、テーブルの上にまたも真っ赤な紙きれ――
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復讎は近づけり
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例の警告状だ。欣子はそれを見ると、思わず床の上に気を失って倒れてしまった。
悪魔は風のようにどこからでも出入する。いつしか人々は迷信的に恐れ始めた。欣子はもはや絶望の極、抵抗する気力さえもなくなったほどである。
しかし、そうした物々しい警告状の言葉にも似げなく、なかなか復讎らしい復讎はやってこなかった。かくて十月二十五日、帝都座の興行は千秋楽の日となった。
銀色のピン
この興行が済めば、欣子はしばらく休養する約束ができていた。この恐ろしい不安が通過するまで、人の出入りの多い劇場などから、なるべく遠ざかっていた方がいいと人も言い、自分もそのつもりになっていた。
いよいよ今日が千秋楽だ――そう思うと、欣子の心は異常に緊張した。何かしらこの一日を終われば安全なのだ。
そんな気がした。
その夜、欣子が楽屋入りをしたのは八時ごろだった。彼女は最後の舞踊劇で踊ればいいのだからいつもこの時刻にやってくるのである。むろんその晩も、彼女の身辺には厳重な護衛がつけられていた。そして、道具方と言わず俳優と言わず、ことごとく一応取り調べを受けた後でなければ、だれも舞台裏へ通ることはできなかった。
八時半ごろになって、欣子の部屋へ一人の女客がやってきた。ほかならぬ冴子である。彼女は女らしい心配から、そして自分も同じ犠牲者であることの同情から、堪《たま》らなくなって今夜やってきたのだった。
「しっかりしてちょうだいね。あたし、決して心配するようなことはないと思うわ」
冴子は瞳《ひとみ》を曇らせながら、それでも力をこめて言った。
「ありがとう。あたし、もう心配してやしないわ。それより冴子さん、あなたこそお若いんだから気をつけてちょうだいね」
「ありがとう」
二人は黙って手を握り合った。いつの間にやら涙が二人の眼にあふれていた。
「まあ、あたしお馬鹿さんね。泣いたりして……ほんとうに皆さんが、こんなに護《まも》ってくださるんだから心配なことなんかありゃしないわ」
欣子の言葉は、しかし冴子に聞かせるというよりも、自分自身に言い聞かせているように響いた。
そこへ、若い女弟子が出場を知らせてきた。
「では冴子さん、しばらく待っててちょうだいね」
言い捨てると、欣子はきらびやかな金糸銀糸で縫い取りした胡蝶の衣装をひらめかして出て行った。
「瀕死の胡蝶だなんて、なんていやな題なんでしょうね」
冴子はその後ろ姿を見送りながら、思わず独語した。
やがて、待たるる舞踊劇の幕は開かれた。観客席はいっぱいである。彼らはいつの間にやら、この恐ろしい悲劇の主人公のことをどこからか洩《も》れ聞いてきたのだ。
そして同情のない好奇心から、毎日毎日この帝都座へ押しかけてくるのだった。
春光を思わせる華やかな舞台は、やがて劇が進行するにつれ、次第にうらがれた照明に変わって行った。夏がすぎて秋ともなれば、今まで嬉々《きき》として戯れていた胡蝶の最後の時が近づいてくるのだ。
照明は薄暗くなって行く。欣子はここで一度舞台の物影へ隠れると、きらびやかな衣装を脱いで白絹《しろぎぬ》一枚になることになっている。そして再び舞台へ出ると、ただ一人瀕死の胡蝶の踊りを踊りぬくのだ。
劇が今や、そのクライマックスに近づいてきた時である。舞台裏を見回っていた結城三郎は、ふと物影に蠢《うごめ》く怪物の影を認めた。
「だれだッ」
低いが、鋭い声音《こわね》である。相手はしかし身動きもしない。
「だれだッ――そこにいるのは?」
結城三郎は用心深く身構えしながら、じりじりとその方へ近寄って行った。相変わらず相手は身動きもしない。
「貴様は何者だッ」
「おれだよ」
相手は、ポケットに手を突っ込んだまま嘯《うそぶ》いている。洋服姿の紳士だ。
「おれでは分からん。名を名乗れ!」
「見忘れたか結城三郎――おれだよ。鉄光だよ」
「何ッ!」
結城三郎は思わず飛びのいた。
ああ怪盗鉄光! 彼は再び出現した。結城三郎にとっては宿年の怨《うら》み重なる鉄光――長い間|愚弄《ぐろう》され、翻弄《ほんろう》されてきた鉄光! 探偵はとっさに、呼笛《よびこ》を口に当てようとした。
「待て結城三郎! 貴様、あれが聞こえぬのか」
鉄光は泰然としている。結城三郎はその気魄《きはく》に圧《お》された。思わず相手の言うままに耳を澄ました。何も聞こえぬ。ただ悲しげに啜《すす》り泣くオーケストラの音――
「貴様、あれが聞こえぬのか。貴様の耳はどこについているのだ」
鉄光は我れにもあらず、荒々しく叱咤《しつた》した。
その時、パタパタッと冴子が駆けてきた。彼女は二人の姿を見るとぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたように暗闇《くらやみ》に立ち止まったが、その一人が結城三郎だと覚《さと》ると、いきなりその胸にすがりついた。
「結城さん、あの音――あの音――あれはなんでしょう? ああ恐ろしい。あの音、あの音――あたしあたし……」
彼女は極度の興奮に身悶《みもだ》えしていたが、やがてばったり気を失って、そこへ打ち倒れてしまった。
耳を澄ませば聞こえる――聞こえる。それは怨《えん》ずるがごとく、嘆くがごとく綿々《めんめん》として尽きざる啜り泣きの声。
「結城三郎、よッく聞いておけ! あれはな、紫安欣子の断末魔の声だぞ!」
言ったかと思うと、鉄光はひらりと身を翻えして、脱兎《だつと》のごとく舞台裏の闇へ――
ちょうどその時刻だった。大道具の影で白絹一枚になった欣子は、よろよろと舞台の方へよろけて出たと見る――その白絹の背一面を染めた唐《から》 紅《くれない》の血潮の滴《したた》り! しかもその背には、あたかも昆虫《こんちゆう》の標本のような大きなピンが一本、ぐさりと突き立っているではないか。
観客はその瞬間、ウワッーと叫んで、潮のごとくなだれ[#「なだれ」に傍点]て総立ちとなった。
[#小見出し] 水葬礼の夜
第二の犠牲者
その夜の帝都座の混乱は、いま改めてここで述べるまでもあるまい。蟻《あり》の這《は》い出る隙間《すきま》もないほど、厳重な警戒網を巧みに潜《くぐ》った犯人は、物のみごとに紫安欣子を刺し殺してしまったのだ。
その夜、紫安欣子が踊っていたのは「瀕死《ひんし》の胡蝶《こちよう》」で、彼女はその舞踊劇中の胡蝶の役を受け持っていた。犯人はたぶんそういうところから思いついたに違いない。兇器として用いられたのは、一個の大きな銀のピンであった。
紫安欣子はそのピンをもって、ほんとうの胡蝶ででもあるかのように、背中からぐさりと一突きに突き刺されているのだった。
――これは後になって分かったことだが、紫安欣子は舞踊の半ば、衣装を脱ぎ替えるために大道具の松の木影へ隠れることになっていた。いつもならそこに、彼女のお弟子が一人待っていて、なにかと世話するのだったが、あいにくとその晩に限って病気と称して休んでいた。
欣子は他の者に代わらせるのがなんとなく不安だったので、断然だれの手も借りずに、自分一人で衣装を脱ぎ替えることに決めていた。
と、その大道具の木影というのが、三方ともごたごたした道具に取り囲まれていて、観客席からはもちろんのこと、舞台裏のどこからも見えないことになっているのだ。おまけに舞台は秋の黄昏《たそがれ》を思わせるような薄暗い照明である。犯人にとって、こんな屈強な機会はまたとないのであった。
調べてみると、背景に使われていた緑色のカーテンが、縦に三尺ほど切り裂かれていた。しかもその場所というのがちょうどあの松の木の真後ろに当たっているのだ。思うに犯人は、舞台裏の薄暗がりに身を忍ばせていて、欣子がその木影へやってきた時、カーテンの裂け目から手を伸ばしてただ一突きに突き殺したものに違いない。
それはさて措《お》き、この惨劇が発見されると同時に、劇場は隅《すみ》から隅まで捜索された。しかし千を超える観客の中から一人の犯人を発見することは困難この上もないことだった。それに、観客席と舞台裏の間には厳重な仕切りが設けてあって、そこには絶えず番人が付ききっていた。
「いいえ、だれもここを通った人はありません。今日は特別に、だれ一人ここを通してはならないと支配人から厳重に申し渡されていましたので……」
探偵の取り調べを受けた時、番人は頑強《がんきよう》に言い張った。
その言葉に偽りがあろうとは思われぬ。
犯人がここを通ったのでないとすれば、後はただ一つ楽屋の入り口があるだけだ。しかしそこにも刑事が見張りをしていて、探偵結城三郎が与えた許可証を持ったものでなければ、だれ一人出ることも入ることもできないことになっていたのだ。それらの手配に、まさか手抜かりがあったろうとは思われぬ。
にもかかわらず、犯人は確かにこの舞台裏へ入ってきた。そして、あの大胆な殺人を敢行して再び風のごとくその姿を晦《くら》ましてしまったのだ。
結城三郎が地団駄《じだんだ》を踏んで口惜《くや》しがったのも無理ではない。
「あなた! 犯人の手がかりがありまして?」
探偵が一とおり舞台裏の捜索を終えて、紫安欣子の部屋へもどってくると、ぐったりと疲れ切ったように椅子に凭《もた》れかかっていた冴子が、蒼白《あおじろ》い顔をあげて尋ねた。
「いいや、まだです。いったいどこから入ってきて、どこから出たかも分からないのです」
探偵は渋面を作って答えた。その顔には歴然と苦悩の色が見える。無理もない。事件がもし、このまま解決されないとすると、彼の責任問題が起こるかもしれない。
「でも、こんな人出入りの多い劇場のことですもの、分からないのが当然だと思いますわ」
冴子が慰めるように言った。
「いいえ、そんなことはありません。劇場の出入り口という出入り口は、全部部下の者に監視させてあるのです。その手配には絶対に手抜かりはありません」
「でも、あの人は――? あの人はまさか、許可を得て入ってきたのではありませんでしょう?」
「あの人――? ああ、あなたは隼白鉄光のことを言っていらっしゃるのですね。あなたはあいつが犯人だとお思いになるのですか」
「いいえ、あたしにはまだ分かりませんわ。でもあの人だって、易々《やすやす》と忍び込んだくらいですもの。犯人にだって、もしほかに犯人があるとすれば、造作《ぞうさ》なく入れたろうと思いますわ」
「もしほかに犯人がありますとすれば――? ではやはり、あなたは隼白鉄光を疑っていらっしゃるのですね。しかしそれは違いますよ。あいつは犯人ではない。断じて犯人ではありませんよ。私は昔から、あいつの遣《や》り口《くち》ならピンからキリまで知っておりますが、あいつは決して殺人はやらない。それがあいつの誇りなのです。だから、こんどの場合に限ってその誇りを放棄したとは夢にも思われません。犯人は別にあります。そして、そいつは鉄光などより数十倍も利口な奴で、そして鉄のような冷たい血を持った奴です」
探偵は調子にのってしゃべりつづけていたが、ふと冴子の視線に気がつくと、あわてて口を噤《つぐ》んだ。
冴子はあきれたように探偵の顔をながめている。
無理もない。探偵の身として、悪党の弁護をしているのであるから、だれでも妙に思わないではいられないだろう。それに気がつくと、結城三郎は顔を紅《あか》らめた。
「私がこんなことを言うと、変にお思いになるでしょう。しかし……しかし」
「いいえ、あたしなんとも思ってはおりませんわ。でも、鉄光が犯人でないとすればあたしはいっそう恐ろしい。ああああ犯人はまだどこか、そこいらに隠れているのではないでしょうか?」
冴子は突然、あの恐ろしい記憶を呼び起こしたように、肩をすくめて辺りを見回した。
樺山冴子――彼女もまた欣子と同じように、悪魔の呪《のろ》いのかかっている一人なのだ。そしていつの日にか、欣子と同じような運命に遭遇しないとも限らない。
「大丈夫ですよ。今夜のところ、劇場じゅうは厳重に見張りをさせてありますから、もうこれ以上恐ろしいことが起こる心配はありません。それより確かな者を、二、三名つけて送らせますから、あなたはもうお引き取りになった方がいいでしょう」
「はい、そういたしましょう。それにしても、欣子さんの死骸《しがい》はどうなったのでしょう」
「死骸ならあちらに置いてあります。たぶん解剖に付されることになりましょう」
冴子は再び顔色を変えて、よろよろと倒れそうになった。探偵は傍らへかけ寄って、その体を抱き止めた。
「ありがとうございます。いえ、なんでもありませんわ。あんまり興奮したものですから、すっかり疲れ切ったのですわ」
言いながら彼女がスカーフをとろうと俯向《うつむ》いた時である。探偵はその背中を見て、ぎょっと二、三歩背後へよろめいた。
なんということだろう! 彼女の背中には、べったりと一枚の紙片が貼《は》りつけてあるではないか。真紅な毒々しいあの紙片だ。しかもその紙片の上には歴然と、
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第二の犠牲者 樺山冴子
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冴子は一目その文字を読んだ刹那《せつな》、
「あれ!」
と叫んで再び探偵の腕の中に倒れ込んだ。
救援にすがる
帝都座の事件は果然、大きな社会問題となった。事件以後数日を経るも、警視庁は一人の嫌疑者《けんぎしや》を挙げることもできない。新聞がいっせいに、警視庁攻撃の鉾先《ほこさき》をそろえたのも無理ではない。
しかしそれらは、全く他人事《ひとごと》である。新聞社も読者も、自分の身には関係のない奇抜な事件としてこの紫安欣子殺しを噂《うわさ》することができた。しかしここに、他人事と笑って済ませない人間が四人あった。
言うまでもなく仙石雷蔵、神前伝右衛門、服部新一、樺山冴子の四人だ。彼らも早晩、紫安欣子と同じような目に逢《あ》うべき運命に置かれている。恐ろしい死の警告状の第一歩は、みごと大衆の前で果たされた。同じ死の手が、いつ何時自分たちの上に下りてくるかもしれないのだ。
分けても、冴子の恐怖は大きかった。彼女は第二の犠牲者として、あの忌まわしい警告状を受け取っている。しかも彼女は、この恐ろしい復讎《ふくしゆう》の裏に隠されている秘密については、なんら与《あずか》り知るところはないのである。なんのために、自分はこんな恐ろしい脅迫を受けなければならないのだろうか。なんのために、自分は殺されなければならないのだろうか。彼女は冷酷な運命に対して恨んだ。嘆いた。身悶《みもだ》えした。
仙石雷蔵や、神前伝右衛門の話によると、秘密というのは亡くなった伯父《おじ》、元の警視総監樺山勝五郎に関係しているということだが、それ以上のことについては、依然として口を噤《つぐ》んで語ってくれようとはせぬ。いったい伯父はその昔どんな悪いことをしたのだろう。いやたとえ伯父が、どんな悪いことをしたにせよ、その復讎まで自分が引き受けねばならぬという法があるだろうか。
彼女はこの惨虐な運命に対して、心の底から呪詛《じゆそ》すると同時に、もはや何人《なんぴと》も信用しまいと決心した。仙石雷蔵も神前伝右衛門も、服部新一も、みんな自分自身の恐怖に怯《おび》え切って、だれ一人彼女の身を護《まも》ってくれようとする者はないのだ。彼女はもはや、彼女自身で、護るよりほかに方法はないのだ。しかし冴子のような可憐《かれん》の女性に、果たして、この恐ろしい復讎鬼と戦う力があるだろうか。
ある日、冴子の許《もと》へ、あわただしく服部新一が訪ねてきた。彼は異常に興奮し、その眼は血走ってさえいる。彼は応接室で冴子に会うと、いきなり噛《か》みつくように叫んだ。
「冴子さん、この広告を出したのはあなたですか」
見ると彼の手には、その日の新聞が鷲掴《わしづか》みに握られている。彼が指したのは、その新聞の三行広告であった。そこには次のような広告が出ている。
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は、て――へ。今夜八時銀座三光堂にてあいたし。か、さ――より
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冴子はピクリと眉《まゆ》を動かした。
「ええ、あたしですわ。それがどうかしまして?」
彼女の声は水のように冷ややかだ。
「……なんだってあなたはこんな真似《まね》をするのです。あなたはほんとうに、今夜三光堂へお出《い》でになるつもりですか」
「むろんですわ。自分から面会を求めておいて、行かないというわけにはまいりませんわ」
「あなたはいったい、どういうつもりなのです。あの恐ろしい悪党に会っていったいどうしようというお考えなのですか」
「あたしは自分の身を護らなければなりませんのよ。だれもあたしを護ってくれる者がない以上、あの男にでもすがるよりほかには途《みち》がないじゃありませんか」
「あの男に護ってもらうですって? あなたは気でも狂ったのじゃありませんか。隼白鉄光というのは有名な悪党ですよ。それにあいつこそ、恐ろしい犯人かもしれないじゃありませんか」
「いいえ、あたしはそうは思いません。あの人は決して、人殺しをするような人ではありません。結城探偵もそう言っていましたわ。それにあの人は、悪党ながらとても、侠気《きようき》のある人だという噂ですわ。だからきっと、頼りない女を助けてくれるに違いないと思いますのよ」
新一はあきれたように、冴子の顔を打ちながめた。彼はどうしても、この無謀な企てを思い止まらせようとさんざんに言葉を尽くして説いた。
しかし冴子の決心は、鉄のように固かった。しまいにはかえって、彼女の方が憤《おこ》り出したくらいである。
「いったいあなたはどうして、あたしが鉄光と会うのをそんなにきらうんですの。何かそうしてはならない理由が特別におありなの」
その言葉の中には、鋭い針のような皮肉が含まれている。新一はそれ以上、言葉をつづけることはできなかった。
「やむを得ません。それではあなたの御決心にお任せしましょう。しかし言っておきますが、決してあの男に心を許してはなりませんよ」
「それくらいのこと、あたしだって承知しておりますわ。しかし服部さん、このことはだれにもおっしゃってくださっちゃ困りますわ。この三行広告のことを知っているのは、私たち四人よりほかにありません。あたし仙石さんにも神前さんにも、成り行きを見ていただくようにお願いしてありますの。だからあなたも、決して他人に洩らしてくだすっちゃ困りますわ」
「よろしい。承知いたしました」
服部新一は肩をすくめてそう言った。しかし彼は、果たしてその約束を守っただろうか。
鉄光捕縛か
銀座の三光堂はその夜ひどくにぎわっていた。ちょうど土曜日だったので、狭い茶室は、身動きもならぬほど客でいっぱいだった。
その隅の方のテーブルで、先刻から人待ち顔に、茶を飲んでいる女性――それは冴子である。彼女は人に見られないように面を包んで、焦立《いらだ》たしそうに時々時計の針をながめた。時間は八時になんなんとしている。だのに、鉄光はまだ姿を見せない。
彼はあの広告を見なかったのだろうか。それとも警察の眼を恐れてやってこないのだろうか。
やがて三光堂の大時計が八時を打った。
「やっぱり来ないのだわ」
冴子は失望したようにつぶやくと、椅子《いす》から立ち上がろうとした。その時だ。テーブルの下で、いやというほど彼女の足を踏みつけたものがある。そこには先刻から、薄汚い老人が茶を啜《すす》っている。老人は冴子の足を踏みつけたまま、自分の足を退《の》けようともしない。
冴子はあまりの無礼に、何か言おうとした。しかしその時、彼女はフト妙なものを見たのである。老人は新聞を読むような格好をして、テーブルの上にその日の朝刊を一枚広げている。いま冴子が見ると、老人はそこに載っているあの三行広告をしきりに指で弾《はじ》いている。冴子は思わず、
「あっ!」と叫んで、再び腰を下ろした。
「叱《し》っ! 静かに!」
老人は新聞で顔を隠すと低い声でささやいた。
「すぐにここを出なさい! 松屋の裏にエスベロという酒場があります。そこへ行って、『は、て』と言うと特別室へ案内してくれます。しかし今夜のことはだれも知らないでしょうな」
「はい、だれも知っている者はありません」
冴子は慄《ふる》えるような声音《こわね》で答えた。
「よろしい。では一足先へ行っていてください。私もすぐ後から行きます」
それだけ言うと、老人は椅子にふんぞり返って、またもや新聞の中に顔を埋めた。
冴子は言われたとおり勘定を済ませると、急いで三光堂を出て行った。彼女の頭の中には、いま妙な疑惑が渦《うず》を巻いていた。あの白髪のよぼよぼした老人が、果たして隼白鉄光であろうか? いつか仙石邸で見かけた姿とは、まるきり違っているではないか。
姿ばかりではない。その声も態度も――
しかし冴子は、すぐにその疑惑を打ち消した。そうだ! 鉄光のような男にはどんな変装も不可能ではないのだ、世間ではあの男を百面相の盗賊だと言っているではないか。
彼女は足を早めると、道を横切って松屋の裏へ行った。
そこには果たしてエスベロという酒場があった。彼女はそこの扉を押すと、出迎えたボーイにたった一言、「は、て」とささやいた。ボーイは黙って、彼女を二階の特別室へ案内した。
なるほど、ここならどんな密談でもできる。部屋には厚い樫《かし》の扉があって、それには内部から鍵《かぎ》が掛かるような仕掛けになっていた。冴子はいまだかつて、こんな場所へ出入りをしたことがなかった。況《ま》して男と二人きりで、こんな部屋へ閉じこもろうとは夢にも考えないことだった。しかし、今はそんなことを躊躇《ちゆうちよ》している場合ではない。自分の身を護るためにはどんな危険も恐れてはならないのだ。
彼女は強《し》いて心を落ち着けると、ボーイが持ってきてくれた甘いポンチに口をつけた。
その時、階段を上がってくる静かな足音が聞こえてきた。あの男が来たのだ。老人に扮装《ふんそう》した鉄光がやってきたに違いない。
――冴子はきっと身を緊張させると、入り口の方へ眼をやった。足音はだんだん近づいてきた。そして入り口の前で立ち止まると、静かに外から扉が開かれた。
しかしそこに現われた顔――おおその瞬間、冴子はあっと叫んで椅子から立ち上がった。それは鉄光ではなくて、結城探偵ではないか。
「まあ、あなたは――」
冴子はそう叫んだまま、二の句がつげなかった。探偵は冴子の姿を見ると、にやにや笑いながらそばへよってきた。
「……樺山さん、あまり無謀なことをするものではありませんよ」
「まああなたは――あなたはどうしてここへ来たのです。そしてあの人は? あの人は?」
「鉄光ですか。あの男なら、いま下で捕縛して、すぐ警察へ送りましたよ」
「え? なんですって? 捕縛したのですって?」
突然、冴子は言いようなき絶望を感じた。彼女は喘《あえ》ぎつぶやいた。
「どうして、どうしてあなたは今夜のことをお知りになったのですの?」
探偵は黙ってポケットから、一通の手紙を取り出した。
「密告状ですよ」
「ええ?」
冴子はその手紙を一目見ると、さっと顔色を変えた。おお、その密告状は彼女自身の筆跡で書かれているのだ。
「ああ、だれかがあたしを裏切ったのだ。あたしの筆跡を真似《まね》てこんな密告状を書くなんて、あんまりだわ。あんまりだわ」
「そう興奮なすっちゃ困りますよ。だれがしたにしろ、これは悪いことじゃありませんよ。おかげでとにかく鉄光なる悪党を捕縛することができたのですからね。さあ、こんな危険な真似はよして、今夜はまっすぐにお帰りなさい。いま下に自動車を呼んであります。それがあなたにとって一番安全な方法ですよ」結城三郎は慰めるように言った。
ついに袋の中の鼠《ねずみ》
冴子はすっかり打《う》ち挫《ひし》がれたような気持ちだった。鉄光が捕縛された――何もかも自分のためなのだ。これから先、だれが自分を護ってくれるだろう。彼女は疾走する自動車の中で深い絶望の吐息を洩《も》らした。
突然、自動車がガタンと大きく揺れた。冴子ははっ[#「はっ」に傍点]として眼を挙げると、窓の外をひょいとながめた。とたんに、彼女はもう一度ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。
「運転手さん! 道が違いますわ。あたし小日向台町《こびなただいまち》へ行くのよ」
声をかけたが、運転手は振り返ろうともしないで、依然としてハンドルを握っている。自動車は小石川とはまるで反対の渋谷の方へ向かって疾走している。
「運転手さん――」
彼女は声をかけようとしたが、ふいに大きな恐怖を感じた。もしや――もしや、あの恐ろしい悪魔の手先に捕らえられたのではなかろうか。
その時、運転手はひょいと後ろを振り返った。
「お嬢さん、心配なさることはありません。これからゆっくりお話のできるところへ行こうというのです」
「え? なんですって?」
「今夜の会見は、あなたの方から切り出したのではありませんか。何もいまさら尻《しり》ごみすることはないでしょう」
「え? ではあなたは?」
「鉄光ですよ」
そう言って、運転手は大きな塵《ちり》よけ眼鏡を外して見せた。
「まあ!」
冴子は息をつぐこともできなかった。彼女はぐっと体を乗り出すと、息も絶え絶えに叫んだ。
「それじゃ――それじゃあなたは無事だったのですか?」
「無事ですとも、鉄光はいつだって無事ですよ」鉄光はハンドルを握ったままカラカラと打ち笑った。
「でも――でも、さっきの老人は?」
「あれですか。あれは何も知らないほんとうの老人ですよ。ちょっぴり金を掴《つか》ませて、あんなお芝居を頼んだのです。結城三郎の奴、今ごろ気がついて地団駄踏んで口惜しがっていることでしょうよ」
自動車はそういううちにも闇《やみ》の中を疾走して行く。なんという注意深い男だろう。彼は万事危険がないと見てとるまでは、決して姿を現わそうとはしないのだ。冴子はいまさらのように驚嘆の眼を見張って、男の後ろ姿をながめた。
間もなく自動車は、冴子がかつて一度も見たことのない町へ停《と》まった。
「おっと、と、恐れ入りますが、自動車から降りる前に、この眼隠《めかく》しをしてくれませんか。あなたを疑ぐるわけではありませんが、僕だって自分の身を護らなければなりませんからね」
冴子は言われるとおり黒い布で眼隠しをした。
鉄光は自動車をギャレージに蔵《しま》うと、彼女の手を取って先に歩いた。
冴子は低い階段を登るのを意識した。数えてみると階段は五つあった。やがて男がガチャガチャ鍵《かぎ》を鳴らして、玄関の扉を開いている気勢《けはい》。
つづいて長い廊下、それから何度となく階段を登ったり降りたりした。
「さあ、もうけっこうですよ。どうぞその眼隠しをお取りください」
間もなく男にそう言われて、冴子は怖々《こわごわ》眼隠しを取った。と、きょろきょろ辺りを見回した。そこは大して広くはないが、贅《ぜい》を尽くした感じのいい緑色の部屋である。
「何も心配することはありませんよ、お帰りには私が送って行ってあげます。さあここへかけて、ゆっくりお話を承ろうじゃありませんか」
そういう男の態度には、なんらやましいところは見当たらなかった。いったいこれが、世間に恐れられているあの怪盗であろうか。
見たところ、美髯《びぜん》を貯《たくわ》えた柔和な面持ち、瀟洒《しようしや》たる風采《ふうさい》だ。冴子はなんとなくこの男に信頼を感じた。
「あたし、話って別にございませんのよ。ただあなたにお眼にかかって、今後の保護をお願いしたかったのでございますわ」
「ありがとう。信頼に与《あずか》って光栄です。ところで、ではまず、今夜のことからお尋ねいたしますが、あなたはだれかにあの広告のことをお話しになりましたか」
「いいえ、あたしだれにも申しませんわ」
「すると、あなたと私を除いては、あの広告の意味を知り得る者は仙石雷蔵と神前伝右衛門と、服部新一の三人きりありませんね」
「ええ。――それがどうかしましたか」
「そうです。だれが密告したのかを知りたいのです。そいつこそあなた方の恐ろしい敵ですからね」
「まあ、では――」冴子は思わずよろめいた。
「あなたはいま言った人たちの中に、恐ろしい犯人がいるとおっしゃるのですか」
「そうかもしれません。あなたは密告状を御覧になりましたか」
「はい、見ました」
「では、それがだれの筆跡だったかお分かりになったでしょう」
「はい、それが――」冴子はしばし躊躇《ためら》ったが、思い切って言った。
「あたしの筆跡と同じでございましたわ」
「なんですって? あなたの筆跡ですって?」
鉄光は椅子から跳び上がった。彼はしばらく部屋の中を歩き回っていたが、突然くるりと冴子の方を振り返った。
「あなたはいま言った三人に、手紙を書いたことがありましょうね。だから、彼らのうちのだれかがあなたの筆跡を真似《まね》ようとすれば、なんの造作《ぞうさ》もないわけですね」
冴子はその恐ろしい質問に、思わず顔色を変えた。
「でも、でも――」
「まあお聞きなさい。私がこの事件に首を突っ込んでいることを知っているのは、結城三郎を除いてはあなた方四人よりないではありませんか。そして犯人は、私がこの事件に首を突っ込むことを欲しないのです。なぜならばこの鉄光が恐ろしいから――こういえば、犯人が密告状を出したことがお分かりでしょう。私はそいつの仮面を引ん剥《む》いてやりたいのです」
鉄光は焦々《いらいら》したように、部屋の中を歩き回った。
しかし、しかしそんなことがあってよいことだろうか。仙石雷蔵、神前伝右衛門、服部新一――皆この恐ろしい脅迫に怯《おび》え戦《おのの》いている人たちばかりではないか。彼らの中に、そんな奇妙な芝居をしている者があろうとは思われぬ。
冴子は、眼に見えぬ蜘蛛《くも》の巣を払いのけようとするかのように、よろよろッと椅子から立ち上がった。そのとたん、彼女の膝《ひざ》から、ばたりと落ちた一枚の紙片――一目それを見た冴子は思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫んだ。
「十一月五日――第二の犠牲者の血祭り」
恐ろしい殺人鬼だ。悪魔はちゃんと犠牲者の最後の日を暦の中に書き込んでいるのだ。鉄光も、その紙片を読んだ刹那《せつな》、さっ[#「さっ」に傍点]と顔色を変えた。
「尾《つ》けられた! 畜生、まんまとこの隠れ家まで尾けて来やがった」
彼はあわてて扉の方へ行った。冴子は今にも倒れそうな格好で、テーブルの端で身を支えている。いつだれがこの紙片を持ってきたのだ。この部屋にはさっきからあの男と自分の二人きりではないか。扉のそばへ行った鉄光は、再びあわただしく部屋の中へ取って返した。
「冴子さん、ぐずぐずしているわけには行きません。悪魔の奴、この隠れ家まで尾けて来やがった。さあお送りしますから、あなたはすぐにお邸《やしき》へお帰りなさい」
鉄光の取り乱した様子を見ると、冴子はいっそう大きな恐怖を感じた。ああ、やはりこの男でも敵《かな》わないのだ。悪魔は幽霊のようにどこへでも忍び込んでくることができるのだ。
彼女は急いで身づくろいして、先に立って部屋を出た。
「廊下を突き当たると階段があります。その階段の上に上げ蓋《ぶた》がありますから、それを開けて外で待っていてください。私はすぐ後からまいります」
冴子は言われるままに階段を登った。電気が消してあるので辺りは真っ暗だ。上げ蓋を上げると冴子はひょいと外へ顔を出した。そのとたん、何かしら甘い匂《にお》いがすうっと彼女の鼻を掠《かす》めた。と、思うと彼女は早や半ば意識を失ってしまった。
「おい、女の方はうまくやっつけたぜ。後は例の鉄光の奴だ」
「叱《し》っ! 足音が聞こえるじゃないか」
冴子はそんな声を朦朧《もうろう》と耳のそばで聞いた。それにつづいてずるずると、地面の上を引きずられていく感じ。
冴子より一歩遅れた鉄光は同じように上げ蓋から顔を出した。彼は真っ暗がりの中を地面へ這《は》い登ろうと、二、三度階段の上で身を揺すった。そのとたん、真っ黒なものがすっぽりと彼の眼の前にぶら下がってきた。
あっ! と思う間もない。彼は早や眼に見えぬ手ですっぽりと頭から袋をかぶされていた。
「ははははは。これで、鉄光の奴は袋の中の鼠《ねずみ》でさ。ところで女の奴はこれからどうします」
「女はひとまず邸の方へ送り帰せ、鉄光の奴さえ片づけりゃ、後はこちらの思いどおりだからな」
「それじゃ、こいつだけどんぶりこですかい?」
「まあ、そうさ。かわいそうに念仏でも唱えてやるがいい」
鉄光は袋の中でその言葉を聞いて、冴子だけはひとまず安全なことを知って安心した。そうだ! 恐ろしい悪魔は、自分だけ先に片づけておいて、後でゆるゆると仕事に取りかかろうと言うのだろう。恐ろしい復讎《ふくしゆう》だ。彼らはできるだけ犠牲者に恐怖を与えておいて、ゆるゆるとその生命を奪おうとするのだ。
袋詰めの鉄光を積んだ自動車は、それから間もなく京浜国道を矢のように走っていた。
その夜、品川のお台場沖に船を出していた者があったら世にも奇怪な場面を見たことだろう。一|艘《そう》の小船に三人の男が乗っていた。みんな、黒い布で顔を隠している、彼らはほどよい深さのところまで来ると、ぴたりと船を止めた。
「おい、ここいらでよかろう」
首領らしいのが言うと、後の二人が袋を両方から抱えた。
「やい鉄光! 聞いておけ、これが最後だぞ、おれたちゃ貴様に、仕事の邪魔をされたくないのだ。やろうと思えば、おれたちゃどんなことでもやってのける。十一月五日が冴子の番だ。それから仙石雷蔵、神前伝右衛門、服部新一とみんな順々にやっつけて行く。しかし、こんなことを言うのも無駄《むだ》な話だなあ、貴様はこれがこの世の見納めだ」
彼が合図をすると同時に、飛沫《しぶき》をあげて袋は海底深く沈んで行った。ぶく、ぶく、ぶく――と、しばらくはかない泡《あわ》が水面に浮いていたが、間もなくそれも消えてしまった。
後はただ死のような静けさだ。
[#小見出し] 蛇屋敷《へびやしき》の怪
恐怖の名
品川のお台場沖で、袋詰めのまま、水葬礼にされた怪盗隼白鉄光はその後どうなったか。それはしばらく預かるとして話は樺山冴子の身の上に移る――
鉄光の隠れ家から出ようとするところを、悪党の一味に捕らえられた冴子は、その夜はしかし別に変わったこともなく、小石川|小日向台町《こびなただいまち》の邸宅に送り返された。
恐ろしい復讎鬼の執念だ。彼は犠牲者を決してただでは殺さない。死は復讎者にとって最後の切り札であることを、彼はよく知っているのだ。その最後の切り札を出す前に、彼はさんざん相手に恐怖を与えておく。そして犠牲者が、その恐怖に耐えられなくなったころを見計らって悠々《ゆうゆう》と魔の手を伸ばすのである。恐るべき執念であると同時に、また恐るべき自信だ。彼は警官を物の数とも思わない。ただ一人怪盗隼白鉄光のみが眼の上の瘤《こぶ》であったが、その鉄光も海底の藻屑《もくず》と消えてしまった今では、天下に何一つ恐るべきものはない。彼はまるで猫《ねこ》が鼠《ねずみ》を弄《もてあそ》ぶように、残忍な爪《つめ》をみがきながら、犠牲者に肉薄して行くことができるのだ。
樺山冴子は、あの夜のことがあって以来、病気と称して何人《なんぴと》にも面会しなくなった。いや、あの無気味な恐怖のために、今では真実の病気と言って間違いはないのだ。
十一月五日――復讎鬼の指定した日は日一日と近づいてくる。そして冴子は、この悪魔のような人物の遣《や》り方《かた》を滞《とどこお》りなく知っているのだ。帝都座の舞台で紫安欣子を串刺《くしざ》しにした手際《てぎわ》といい、怪盗隼白鉄光を誘拐《ゆうかい》し去ったあの手段――あの水際だった手段に万が一の誤算があろうとは思われぬ。しかもその復讎鬼は次の犠牲者として自分を名指しているのだ。なんのために、またどういう理由で自分はこんな恐ろしい復讎を背負わねばならないのだろうか。彼女は日夜、その無情な悪党を恨み嘆いた。無理もない。彼女は生まれてからこの方、虫一匹も殺したことのないような繊弱《かよわ》い女性だ。その繊弱い女性の身をもって、どうしてこんな恐ろしい復讎鬼との闘いに耐え得るものぞ!
「あら、あなたでしたの?」
冴子は今、小日向台町の邸宅の奥まった一室で、恐怖に戦《おのの》く心をわざと押し鎮めるために、編み物を手に取り上げていたが、ふとそれを置くと、怯《おび》えたような声でそう言った。そこにはいつの間に入ってきたのか、服部新一のすごいほど蒼白《あおじろ》い顔が見える。
「ええ、僕です。なにしろ警官たちがうるさいほど見張っていますから、わざと裏の方から忍び込んできたのです」
「まあ、警戒を抜けて来たとおっしゃるの? それじゃ、まだまだこの邸には忍び込む隙《すき》があるのでございますわね」
「ええ、ええ、隙だらけですよ。あんな人形のような警官が何十人立っていたところで、なんの役にも立ちゃしませんよ。僕はそれを、実地にお眼にかけようと思って、わざとあいつらの眼を盗んで入ってきたのです」
新一の蒼白い顔はだんだん紅味《あかみ》を帯びてきた。彼は冴子と向かい合っているといつもこうなるのだ。冴子の霑《うる》んだ瞳《ひとみ》、長い睫毛《まつげ》、さては濡《ぬ》れた唇《くちびる》などを眼《ま》のあたりまざまざと見ていると、彼の心の中は不思議なほどの惑乱を覚えてくるのだった。
「まあどうなすったの? そんなにあたしの顔ばかり御覧になっちゃ、あたし厭《いや》でございますわ」
冴子は編みかけの肩掛けに眼を落とすと、ぽっと顔を紅《あか》らめた。
「いや、そういうわけじゃありませんが」
新一は瞬間感じた心の動揺を押さえつけながら、
「実は今日は、あなたにいいお便りを持ってきたのですよ」
「いい便りですって、まあ、あたしにはいい便りなどありませんわ。あの恐ろしい日は、こういううちにも刻々と迫ってくるのですもの――」
言ったかと思うと、冴子は持っていた編み物をそばのテーブルの上に投げ出して、ふいに袂《たもと》の中に顔を埋めた。またしてもこみ上げてくる不吉な予感、恐ろしい死の刻印――それを思うと、彼女は居ても立っても居たたまらない恐怖を覚えるのだ。新一はかすかに慄《ふる》えている冴子の肩の上に手を置くと、
「冴子さん、そう絶望したものじゃありませんよ。僕たちは闘うのです。あいつだって人間です。僕らが死もの狂いになって防げば防げないことはありませんよ」
「でも、でも――ああ、あたしは恐ろしい。あたしは見たのですもの、欣子さんの殺されたところを見たのですもの。私もきっと同じように殺されるに違いありませんわ」
「欣子さんのことを考えるのはよしましょう。あれは明らかにわれわれの失敗だったのです。警官たちに委《まか》せきって安心していたのがいけなかったのです。でも、あのおかげでわれわれには充分の覚悟ができました。それに僕には、悪魔の正体が半ば分かってきたような気がするのですよ」
「え? なんですって?」
冴子は突然、俯伏《うつぶ》していた顔をあげた。
「悪魔の正体が分かったのですって?」
「ええ、そうです。いや、まだここで充分に納得するようにお話しするわけにはまいりませんが、僕はこのあいだから、亡くなった親父の古い手紙や日記などを整理していたのです。その中に、ふとこんどの事件に関係がありはしないかと思われるような名前を発見したのですよ」
「えッ。そ、それはいったいなんという名前ですの」
冴子は蒼白《あおじろ》んだ顔を緊張させて、じっと新一の唇を見詰めている。
新一は急に恐ろしくなったように辺りを見回しながら、低い声でたった一言ささやいた。
「城田伝三郎《しろたでんざぶろう》」――ああ、城田伝三郎――読者よ、この名をよく記憶していていただきたい。城田伝三郎この名前こそ、後日になってすべての謎《なぞ》を解く鍵《かぎ》とはなったのだ。
「城田伝三郎?」
冴子は何事かを思い出そうとするふうに、一心になって考えていたが、やがて失望したように、
「あたし、いっこう聞き覚えのない名前ですわ。その人がどうしたのですか。その人がもしこんどの事件に関係があるとすれば、いったい、どんな恐ろしいことがその昔あったのでございましょう」
「そこまではまだよく分かりません。しかし冴子さん! こう言っちゃ悪いが、僕の親父やあなたの伯父さんたちは、その昔あの紫安欣子や仙石雷蔵、神前伝右衛門といっしょになって、ずいぶんいろんなことをやったらしいですよ。その祟《たた》りが血筋を引いているあなたや僕の上にまで来てるのです」
服部新一はそう言うと、唇をゆがめて苦笑を洩らした。すごい苦笑だ。冴子はその笑顔を見ると、なんとはなしに椅子の中でぎゅっと身を固くしたほどだった。
服部新一の父と言えば、ついこのあいだ亡くなったばかりの某政党の領袖《りようしゆう》だ。冴子の伯父というのは、これも二、三年前に死んだが、一度は警視総監になったほどの人物だ。これらの人々とあの大富豪仙石雷蔵――それに宝石王と言われる神前伝右衛門、女優の紫安欣子たちを取り巻いて、その昔どんな恐ろしい事件があったのだろうか――服部新一はその秘密を知ってか知らずにか、さも恐ろしげに身を慄わせたのである。
呪《のろ》われた日
恐ろしい十一月五日はしだいに近づいてきた。そして小日向台町の樺山邸は、物すごいほどに警官の警戒だ。帝都座における失敗にこりている探偵結城三郎は、こんどこそ失敗《しくじ》ってはならなかった。それに冴子の口から聞いた鉄光誘拐の顛末《てんまつ》をもってしても、相手がいかに恐るべき人物であるかを覚った結城三郎は、警視庁としては空前と言っていいほど厳重な警戒網を張りめぐらした。
しかし、いかなる名探偵といえども、暦の繰られてゆくのを防ぎ止めるだけの力はない。悪魔の殺人暦に、第二の犠牲者を血祭りに挙げる日として指定された、十一月五日はとうとうやってきたのである。
その日の樺山邸の警戒は、実際筆紙に尽くしがたいほどだった。邸宅の周囲には一|間《けん》置きぐらいに警官が立っており、出入りはいっさい厳禁されていた。
実際何も知らない付近の人たちは、いったい何事が起こったのかと怪しんだほどである。
結城探偵は、これでもまだ不安が鎮まらなかった。こういう場合、彼はいつも隼白鉄光のことを思う。憎い敵だ。
――長年愚弄され続けてきた。しかしあの男がいたら何かしらもっと安心できるような気がするのだ。
少なくとも鉄光は、かかる無残な殺人鬼の跳梁《ちようりよう》を許してはおかない。彼はいつも警視庁を愚弄しながら一方ではその警視庁になり代わって、許すべからざる悪党を斃《たお》してくれる。不思議な存在だ。
しかし冴子に聞けば、その鉄光も殺人鬼の一味に誘拐されたまま、いまだ杳《よう》として消息が分からないという。結城三郎はなんとはなしに不安を感じながら、邸内を見回って歩いていた。幸い樺山邸は、至って小人数だったので、邸内に住む人々の中に悪党の一味が混ざっていようとは思われぬ。その点だけは結城三郎にとっても安心だった。
午後四時ごろ、服部新一が見舞いにきた。
そして彼が帰った後へ、冴子のかかりつけの篠山《しのやま》老博士がやってきた。老博士は何も知らないらしく、物々しい警戒に不審の眼をパチパチさせながら、冴子の寝室へ入ってきたが、一とおり彼女の診察を済ませると、さっさと帰って行った。むろん、新一も篠山老博士も、厳重な取り調べを受けたことは言うまでもない。
こうして午後六時以後には、絶対に何人《なんぴと》をも通さないことになった。結城三郎は刻々として不安が増してくる。時計の針が生命を刻むようにさえ思われるのだ。
彼は冴子と顔を合わせるのさえ懼《おそ》れた。この、恐怖に怯え切っている哀れな小雀《こすずめ》を見ることは、実際結城三郎としても耐えがたいことであった。
「大丈夫です。気を確かに持っていらっしゃい。これだけ厳重に警戒してあるのですから、たとい悪魔だって、あなたの身辺に近づくことはできませんよ」
結城三郎は朝から何度となく繰り返している言葉を、またしても繰り返さねばならなかった。
冴子はそれを、気休めと知ってか知らないでか、ただかすかにうなずいてみせるだけである。蒼白《そうはく》な彼女の面は穏やかに澄み切っていて、そこにはもはやなんの恐怖も興奮も見られない。
彼女はすでに観念の臍《ほぞ》を固めているのだ。それを見ると、結城三郎は彼女の勇気に驚嘆すると同時にいっそう哀れさが増してくるのだった。
「さあ、もう九時です。あなたは寝室へお入りになった方がいいでしょう。なあに心配することはありません。寝室の前には私たちが徹夜して張り番をしていますからね」
「ありがとうございます。ではお茶でも頂いて、あたし失礼することにいたしますわ」
やがて小間使いの夏江《なつえ》が、お茶の用意をして持ってきた。冴子は手ずから熱いオレンジのお湯をこしらえると、それを口許《くちもと》へ持って行こうとした。
「いや、ちょっと待ってください。私にそのホット・オレンジを少し飲ませてくれませんか」
「まあ、これは失礼いたしましたわ。あたし一人飲もうなんて……」
「いや、そういうわけじゃないのです。ちょっと毒味をしようと思いましてね」
「おや、そうでございますか。では、別にお注《つ》ぎいたしますわ」
冴子は有り合わせた三つのコップに、ホット・オレンジを注ぐと、結城三郎を初め、そこに居合わせた二人の部下にもすすめた。
「まさか。あたしを毒殺しようとはしないでしょうね」
冴子はみんなで熱いオレンジをすすってしまうと、そう朗らかに言い残して、自分の寝室へ入って行った。
これからがいよいよ本舞台だ。時計を見ると九時五分過ぎ。十二時までにはもう二時間と五十分しかない。殺人鬼が約束を履行するとすれば、この短い時間しかないのだ。あいつはやってくるだろうか? そうだ! 帝都座の手際から見れば、十中の八、九までやってくるものと思わなければならない。しかしやってくるとすれば、こんどこそ袋の鼠《ねずみ》も同然だ。冴子の寝室と警官たちが張り番している部屋との間にある扉は開け放たれて、結城三郎の眼には、冴子の寝台が真正面に見える。彼は冴子が屏風《びようぶ》の影で寝間着に着替えて、その寝台へ潜り込んだ時から、一時《いつとき》といえどもその寝室から眼を離そうとはしなかった。
やがて寝台の方からは、かすかな寝息が聞こえてきた。なんという大胆な女性だろう。彼女はこの恐るべき危険を前にして静かな眠りに入ったのだ。
結城三郎を初め二人の部下の者も驚嘆の眼を見張って、横になった冴子の後頭をながめていたが、不思議! 不思議! その間に彼らもだんだん眠くなってきたではないか。時計を見ると、まだ九時半過ぎたばかりだ。まだそんなに眠いという時間でない。それに緊張し切っているこの場合、睡魔がかくも突如として襲ってこようとは思われぬ。
結城三郎はその時、ふと先刻飲んだホット・オレンジのことを思いだした。と、突然、恐ろしい考えが頭の中に浮かんできた。
彼はハッとして何か言おうとしたが、もうすでに遅かった。睡魔は容赦なく全身に広がって行く。しゃべろうにも舌がもつれて声も出ない。
椅子から立ち上がろうとすると、脚がよろよろとよろめいてどしんと床に尻餅《しりもち》をついた。見れば部下の二人は、とっくの昔に昏々《こんこん》たる夢路に入っている。
麻酔薬だ。恐ろしい麻酔薬があのホット・オレンジの中に混入されていたのだ。結城三郎は、今初めてそのことに気づいた。しかし、これをどうすることができよう――表には見張りの警官がいるはずだ、一声叫べば、すぐにもここへ飛んできてくれることだろう。しかし、呼ぼうにも声が出ない。歩こうにも足が立たないのだ。結城三郎は恐ろしい苦悶《くもん》を感じながら、ようやくのことで隣室との境まで這《は》いよった。
しかし、それがようやく彼に残されていた力だった。
ここまで来ると、彼は急に体の力が抜けてゆくのを感じた。彼はバッタリと敷居の上に身を俯伏《うつぶ》せにすると、そのまま昏々として深い眠りに落ちて行った。
死の寝室
ちょうどその時である。
冴子の寝室の中では、世にも奇妙なことが持ち上がった。冴子が、今横になっている古風な寝台の天蓋《てんがい》が、突如するすると静かに滑り落ちてきたのである。冴子の寝台というのは、日ごろから彼女が自慢しているもので、べッドの四隅には、太い柱がついていて、その上には箱の蓋《ふた》のようになった天蓋が取りつけてあるのだ。今、その天蓋が四本の柱を伝って、するすると滑り落ちてくるのだ。
一寸――二寸――刻々として天蓋は冴子の体の上へ覆いかぶさってこようとする。
分かった。分かった。これが殺人魔の計画なのだ。天蓋は部厚な樫《かし》の木で作られてあるのだから、それが冴子の体を包んだが最後、彼女は窒息するよりほかにない。
なんという奇抜な手段だろう。たぶん、寝台には巧みな仕掛けが施してあって、その上にだれかが横になると、体の重みで、何分かの後に自然と天蓋が下りるような仕組みになっているに違いない。危ない、危ない。冴子の生命は風前の燈火《ともしび》も同然だ。
彼女は今、そんな恐ろしい危険が眼前に迫っているとも知らず、安らかにすやすやと眠っている。そして、彼女を護衛すべきはずの結城探偵を初め、二人の部下も昏々として深い眠りに落ちているのだ。
五寸――一尺――と、天蓋はいよいよ下降してきた。このまま放っておけば、もう三分とは経たないうちに、恐ろしい死の天蓋は、すっぽりと冴子の身体を押し包んでしまうだろう。そうなれば、冴子の体は蠅《はえ》とり菫《すみれ》に捕まった昆虫《こんちゆう》も同様だ。
どうもがいたところで助かる見込みはない。
その時である。結城三郎たちが眠りこけている部屋の後方にあるカーテンが、突如静かに大きく揺れた。と思うと、ぬっとその影から人の顔が現われた。煌々《こうこう》たる電燈の明かりで見れば、だれでもない篠山老博士だ。さっき冴子を診察して帰ったはずの篠山老博士だ。いったい彼はどうして、今まで、この邸内に隠れていたのだろう。
それはさておき、老博士は天蓋の仕掛けを見ると、ぎょっとしたように二、三歩|後退《あとじさ》りしたが、その次の瞬間には結城三郎の体を跳び越えて、栗鼠《りす》のように冴子の寝台へとび込んで行った。そして何も知らずに眠っている冴子の体を抱えると、毛布のままずるずると彼女を床の上に抱き下ろした。
そのとたん、天蓋はバッタリと寝台を押し包んでしまった。危機一髪! 真に危機一髪だった。もう数秒遅れると、冴子はその恐ろしい天蓋に押し包まれてしまうところだった。
篠山博士は驚嘆したように、つくづくと寝台のあちらこちらを調べていたが、やがてその秘密がすっかり分かってしまうと、ふと、床の上に横になっている冴子の体に眼を落とした。何も知らない冴子は、まだ安らかに眠っている。老博士はそれを見ると、ほっと安心したように、身をかがめてその顔をのぞき込んだが、そのとたん彼は思わず、
「や! や!」
と、叫んで、二、三歩跳び退《の》いたのである。それは冴子ではなく、冴子の小間使いの夏江という女だ。
ああ、いつの間に冴子と夏江と入れ替わったのだろう。それよりも冴子は、いったいどこへ消え失《う》せたのだろう――。篠山老博士は惑乱《わくらん》したように、きょろきょろと部屋の中を見回していたが、ふと部屋の隅に立っている屏風に眼をつけると、つかつかとそのそばへ寄って中をのぞき込んだ。
すると、彼は一眼見て何もかも分かった。屏風の影には冴子の着物が脱ぎ捨ててある。冴子は探偵たちにお休みを言って、この寝室へ入るとすぐ、この屏風の影へ入ったはずだ。そこで彼女は、寝間着に着替えると見せかけて、その実小間使いと入れ替わりになってしまったのだ。結城は遠視のことだし、それに後ろ姿しか見えなかったから、てっきり冴子だとばかり信じて見張りをつづけていたに違いない。
それにしても、冴子はどこへ行ったのだろう?
老博士はふと傍らの窓を見た。それはちょうど屏風の影になって、隣室から見えないのだが、その窓の端に小さな布が引っかかっている。
そうだ。この窓から冴子は抜け出して行ったのだ。しかし――? しかし――? 老博士はなおも不審そうに首を傾けた。冴子が抜け出したのは自分の意志からか、それとも何者かに誘拐《ゆうかい》されたのだろうか。
「馬鹿! そんなことを考えている時じゃねえぞ。一刻を争う場合だ。あのお嬢さんが生きるか死ぬかという瀬戸際じゃないか。何を貴様はぐずぐずしているのだ」
老博士は自分で自分を叱咤《しつた》すると、いきなり部屋をつき抜けて行った。
その足どりはどうして、老人とは思えない達者さだ。ああ、この奇怪な老博士は何者だろう。慧眼《けいがん》な読者のうちには、早くもその正体を見破った方もあることだろう。
篠山博士の正体
篠山老博士は、あの厳重な警戒網をどうしてくぐり抜けたか? それからしばらくの後には、久世山の坂を大急ぎで走り下りていた。
その傍らには警官の服装をした男が一人ついている。
「それでどうしたのだ。貴様は冴子さんがあの邸を抜け出すところを確かに見たというのだな」
そう尋ねる博士の眼は異様に輝き、言葉は嵐《あらし》のように鋭い。
「そうです。あの裏門が突然内部から開いたのです。おやと思って様子を見ると、冴子さんがきょろきょろと辺りを見回しながら出てきました」
この男、警官の服装はしているが、ほんとうの警官ではないらしい。言葉つきから見れば、どうやらこの篠山老博士の部下らしく見える。いやいや彼は、警視庁に奉職している一方、この老博士の手先となって働いてるのかもしれぬ。それにしてもこの老博士は何者か。警視庁へ部下の者を住み込ませてその内情をいち早く知り得る人間は、この世の中に、たった一人しかいないはずではないか。
隼白鉄光――そうだ。隼白鉄光よりほかにかかる奇抜な思いつきを持っている男はないはずだ。そうするとこの老博士は、隼白鉄光なのだろうか。
しかり!
この夜の篠山老博士こそは隼白鉄光の変装にほかならないのであった。むろん、冴子のかかりつけの篠山博士は立派にこの世に存在している。しかし、篠山博士は目下のところ旅行中なのだ。鉄光はその留守中を巧みに利用したにすぎない。敵を欺かんと欲せばまず味方より――鉄光はその格言をよく知っていた。冴子さえも、鉄光のこの変装には、気づかなかったほどである。
それにしても鉄光は、あの品川の沖で、海底の藻屑《もくず》と消えたはずではないか。いやいや鉄光ほどの男だ。そう易々《やすやす》と殺されると思っていたのが、悪党の一生の不覚だったかもしれない。
ほんとうのことを言えば、鉄光はいったん海の底へ沈んだ。しかし、持ち前の沈着と機敏とが彼の生命を救ったのだ。彼は幸い持ち合わせていた懐中ナイフで、袋を切り破ってもう一度この娑婆《しやば》へ浮かび上がると、そのまま身を隠して、ひそかに今日まで待っていたのである。
それはさておき、冴子の行方《ゆくえ》だ。
「ところで、その時冴子さんは一人だったかね」
「はい、一人でした。なんだか男のような黒い着物に身を包んでいましたが、だれも見ている者がないと思ったのか、そのまま塀《へい》のそばを離れてこの道を下へ、足早やに降りて行ったのです」
「貴様はそれをなぜ止めなかったのだ。あの女を一人で外へ出すなんて、気違いの沙汰《さた》じゃないか」
「私もそう思ったのですが、なにしろあなたからはなんの合図もないし、仕方がないものだから、保田《やすだ》の奴に後をつけさせたのです」
「ああ、そうか。保田が後をつけて行ったというのだね。それじゃ大丈夫だ。あの男はなかなか抜け目のない男だからな」
篠山老博士――いや、今では全く隼白鉄光であるところのこの男は、それを聞くと、初めて、安心したように、足を緩《ゆる》めた。
「それで保田の奴はどうしたんだね。つけて行くのはいいが、おれに報告するのはいったいどうしてくれるんだ。おれにはあいつにだって委《まか》せ切りにはしておけない。一刻も早く安否が知りたいのだ」
「ああ、そのことなら抜け目はありませんよ。保田はもう一人、池上《いけがみ》――ほら、御存じでしょう。このごろ警視庁へ入った男ですが――あいつを連れて行きましたから、行く先を突きとめたら池上を報告に寄越すだろうと思います」
「そうか、そいつはありがたい。なるほど貴様たちも近ごろだいぶ抜け目がなくなってきたわい」
鉄光に褒《ほ》められて、警官の服装をした男はうれしそうに顔を紅《あか》らめた。
彼らがこうして、久世山を下りて江戸川まで来た時である。向こうから警官の服装をした男が、急ぎ足でやってくるのを認めた。
「ああ、池上が帰ってきました。行く先を突きとめたとみえまして」
池上は鉄光の姿を見ると、ついと道の傍らに寄った。それを見ると、鉄光もさり気なくそのそばへ寄って行った。
「突きとめたか」
鉄光の質問はいつも簡単だ。
「はい、突きとめました」
「どこだ。行く先は?」
「雑司ヶ谷の蛇屋敷《へびやしき》です」
「なに? 蛇屋敷?」
「そうです。どういうわけか、付近ではその屋敷のことを蛇屋敷と呼んでいるのです。見るからに陰気な建物です」
「よしよし、それで冴子さんは一人かね」
「いいえ、連れがありました」
「何? 連れがあった? どこでその連れと逢《あ》ったのだ」
「ハイ、あらかじめ打ち合わせがしてあったのでしょう。ついこの向こうに自動車が待っていまして、冴子さんが来るとすぐ乗っけて走り出しました」
「フーム。して、その連れというのはいったい何者なんだね」
「服部新一です」
「何! 服部新一だって!」
そう聞くと、さすがの鉄光も思わず声をあげて愕然《がくぜん》とした。
蠢《うごめ》く壁
雑司ヶ谷の奥に、古くから空き家になっている一軒の洋館がある。空き家といっても貸家札が出ているわけでもなく、荒れるにまかして、だれもその内部をのぞいてみた者はない。
どういうわけか、付近の人々はその屋敷のことを昔から蛇屋敷と呼んでいた。たぶん、庭の辺りによく蛇が這《は》っているところから、ついこんな無気味な名がついたのだろう――と、付近の人々も詳しくはその理由を知らない。
今、この蛇屋敷の表へ近づいてきた三人の男がある。
「大将ですか」
突然傍らの闇《やみ》の中から、一人の男がぬっと姿を現わしてそう声をかけた。
「おお、保田だね。どうだね、首尾は?」
「それがおかしいのです。たしかに、この屋敷の中へ入ったのは入ったのですが、それっきり、なんの音沙汰もないのです」
「フーム」
鉄光は夜目《よめ》にもありありと不安の色を見せながら、じっと建物を振り仰いだ。
なるほど、無気味な建物だ。長い間修理もせずに、風雨に曝《さら》していたものとみえて、白い壁はところどころ落ちて、一面に蔓草《つるくさ》が伸びている。いかにも妖怪《ようかい》じみた西洋館だ。
「いったい、これは空き家なのかね」
「いいえ、空き家ではないようです。さっき調べてみたのですが、門のところに城田|寓《ぐう》という古びた表札が掛かっています。しかし近所できくと、もう長いこと、だれも住んでいないという話なのです」
「城田寓? なるほどね」
おお、城田といえばこのあいだ、服部新一が見つけたという城田伝三郎に何か関係があるのではなかろうか。もしやこの屋敷が、その昔城田伝三郎の住居ではなかったろうか。
鉄光はそんなことまでは知らなかったが、言い知れぬ不安が、むらむらと、胸もとにこみ上げてくるのだった。この無気味な家へ、服部新一はなんの用事があって、冴子を連れ込んだのだろう。
「よし、おまえたちはこの屋敷の付近を警戒していろ。おれはちょっと内部を調べてくる」
「大将一人では危険ですぜ。おれたちのうちだれかを連れて行っておくんなさい」
「馬鹿を言うな。これしきのことに恐れているおれじゃねえよ。それより貴様たちは抜かりなく見張りをしていて、服部新一の奴が出てきたらフン捕《づか》まえてしまうんだぞ」
「へえあの服部をですかい?」
「そうさ。なんでもいいからおれのいうとおりにしろ」
鉄光はそれだけのことを言い残すと、ひらりと鉄の門を乗り越えると、ようやく玄関へたどりついた。
意外にも玄関の扉は細目に開いていて、いかにもここからお入りなさいと言わぬばかりである。
中は漆《うるし》のような真の闇《やみ》――
鉄光はしばらく躊躇《ちゆうちよ》していたが、思いきって一歩中に踏み込んだ。と、そのとたん、プーンと鼻をついた一種異様な匂い――それはなんとも形容のし難《がた》い、むかむかと胸の悪くなるような匂いだ。鉄光はハンカチを取り出して鼻を押さえると、勇を鼓《こ》して奥の方へ進んで行った。玄関の隙間から、蒼白い月光が斜めに差し込んでいるので、歩くのにもそう不自由はしない。
彼はふと廊下の右手にある扉が細目に開いているので、その扉の中をのぞいてみた。と、あの気持ちの悪い匂いはいっそう強烈になってくる。
たしかにこの部屋だ。この部屋の中からあの無気味な匂いは流れてくるのだ。鉄光はそう考えるとその正体を見極めずにいられなかった。彼は足音を忍ばせて、そっと部屋の中へ忍び込んだ。
と、どこからともなく、サラサラ、サラサラというかすかな物音が聞こえてくる。
四方の壁からのようでもあり天井からとも思われる。いやいや四方の壁と言わず、天井と言わず、到《いた》るところでサラサラ、サラサラと何かの蠢《うごめ》くような物音がするのだ。と、同時にあの胸の悪くなるような臭気はいよいよ烈《はげ》しくなってくる。鉄光は思い切って懐中電燈を取り出した。
が、一度その光を壁に向けるや否や、彼は、あっと叫んで思わず二、三歩跳び上がった。
蛇だ。おびただしい蛇の群れだ。壁と言わず天井と言わず一面に蛇がうねうねと、無気味に体をくねらせながら這い回っている。その鱗《うろこ》が動くたびに、まるで壁が揺れているように見えるほどである。
それにしても、蛇はなぜ、その壁から這い出さないだろうと思って、もう一度よく見直せば、分かった! 分かった! 壁から天井へかけて一面に細い網が張ってあって、蛇はその網の中に蠢《うごめ》いているのだ。
つまりこのおびただしい蛇は、偶然にこの屋敷の中へ這い込んだのではなくて、何者かが飼っているのだ。あまりのことに、さすがの鉄光も思わず眼をそむけた。
と、そのとたん、廊下の方にかすかな物音が聞こえた。鉄光がぎょっとして振り返ると、足音はよろめくように部屋の方へ近づいてくる。それと同時に、低い啜《すす》り泣くような声音《こわね》が聞こえた。
一歩、二歩、三歩。
足音と啜り泣きの声は次第に間近に迫ってきた。やがて、部屋の前で立ち止まったかと思うと、いきなりドシンと扉にぶつかるような音がして、よろよろと人影が鉄光の足許へ転げてきた。
鉄光は思わずきっと身構えをしながら、懐中電燈の光を向けたが、一眼相手の姿を見ると思わずあっと叫んで跳び上がった。
冴子だ、樺山冴子だ。
男のような洋服に身を固めた冴子が、瀕死《ひんし》の呻《うめ》き声をあげながら、鉄光の足許に倒れているのだ。見れば肩のところにぐさりと短刀が刺さっていて、そこから真っ赤な血がどくどく吹き出している、――ああ悪魔は、ついに第二の殺人に成功したのだろうか。
[#小見出し] 死の熔鉱炉《ようこうろ》
奇怪な恋愛場面
鉄光は一目冴子の様子を見ると、あっと叫んでそのそばへ駆け寄った。
「冴子さん! 冴子さん! 気をしっかり持って!」
冴子はその声に気づいたものか、薄《うつ》すらと眼を開けると、まるで物に憑《つ》かれたように怯《おび》えた眼で、おどおどと鉄光の顔を打ち見守《まも》っていたが、ようやく相手がだれであるか、分かるとほっと安堵《あんど》の吐息を洩《も》らして、そのまままた眼を閉じてしまった。
それを見ると、鉄光は言わんかたなき恐怖を感じた。このまま冴子は、永久に還《かえ》らぬ眠りに入ってしまうのではなかろうか。この不可抗な昏迷《こんめい》から、再び目覚める日がないのではなかろうか。
そう考えると、鉄光は名状し難い胸の痛みを感じた。生まれてからこの方、かつて一度も味わったことのない感情だ。
何かしら暗黒な、絶望的な恐怖が彼を揺すぶるのだ。
「冴子さん! しっかりしなきゃ駄目だ。眠っちゃいけない眠っちゃいけない」
怪盗鉄光としては、不思議なほど取り乱した態度でそう叫びながら、必死となって冴子の両手を握りしめている。まるで、その手を離したが最後、彼女の魂は永久に逃げてでもしまいそうに。――だが、しばらくすると、彼はようやく日ごろの沈着を取りもどした。
そうだ。こんな馬鹿げた子供|染《じ》みたお芝居をしている場合じゃないぞ。馬鹿め、貴様はそれでも、怪盗鉄光と言われるほどの男か、は、は、は、――おれもよほどどうかしているぞ! 鉄光は自ら嘲《あざけ》りながら、まず第一に冴子の肉を刺している短刀をそっと引き抜いた。
血がぱっと散って、華奢《きやしや》な指先を染める。調べてみると幸い傷はそんなに深い方ではなかった。兇器は肩胛骨《けんこうこつ》を外れて、わずかに肉の中に食い入っているにすぎない。もし熟練な医者が診《み》れば、全治に一週間とはかからないことを断言しただろう。鉄光は素早く手当てを済ませると、ほっとして額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》った。
冴子はまだ深い昏迷に陥っている。閉ざされた二つの眼の上には長い睫毛《まつげ》が覆いかぶさって、くっきりと高い鼻のあたりに細やかな陰影をつくっている。抜けるように白い額は恐怖のためか、心持ち汗ばんで、髪の毛が二筋三筋もつれていた。
鉄光はその物静かな、美しい顔をつくづくと見守っているうちに、不思議な感情にとらわれて行った。いまだかつて一度も味わったことのない夢のような甘美な情感だ。彼は我を忘れて、頭を下げると、美しい額にそっと唇《くちびる》を押しあてた。
十秒――二十秒――そのまま彼の姿勢は動かない。
他から見れば、それは世にも奇妙な光景だったに違いない。場所は雑司ヶ谷の奥の廃屋の中だ。しかも二人を取り巻くものは、あの無気味な蠢く壁である。何十、何百と数知れぬ蛇の群れが、壁一面に張られた金網の中で黙々と、ひそやかに、無気味な蛇行《だこう》運動を続けている。
その薄気味の悪い部屋の中での不思議の恋愛の場面。
突然、鉄光は夢から覚めたように、冴子の額から唇を離した。相手がかすかに身動きをしたからだ。
見ると蒼白《そうはく》の面には、さっと一抹《いちまつ》の紅味《あかみ》が浮かんで、唇がかすかに動いたと思うと、冴子はパッチリと美しい瞳《ひとみ》を開いた。
「あら――あなたでしたの」
冴子はまじまじと鉄光の顔を打ち見守りながら、そっと溜息《ためいき》を吐くようにつぶやいた。
「あたし、夢でも見ていたのでしょうか」
「夢? そうです。あなたは恐ろしい夢を見ていられたのです。しかしもう大丈夫、私が来たからには親船に乗った気でいらっしゃい」
「じゃ――、あなたがあたしを救ってくだすったのね」
冴子はかすかに身動きをしようとした。そのとたん、彼女は初めて肩のあたりの烈しい痛みを意識した。
「あっ!」
と叫ぶと、彼女は美しい眉根《まゆね》をしかめて、かちっと歯を噛《か》みあわせる。
「静かにしていらっしゃい。痛みますか、なあに、傷は浅いから大丈夫です。一週間もすれば元どおりになりますよ」
「ありがとうございます。いいえ、大丈夫ですわ」
冴子は強《し》いて元気な微笑をつくろうとしたが、そのとたん、何を思いだしたか、彼女はさっと恐怖の色を浮かべると、犇《ひし》と鉄光の腕にすがりついた。
「どうかしたのですか。私がここにいる以上は大丈夫です。何も怖いことはありませんよ」
「いいえ、いいえ」
冴子は美しい瞳を虚空《こくう》に据《す》えたまま喘《あえ》ぐようにつぶやいた。
「二階へ――二階へ行ってみてください。あたしは大丈夫です。服部さんが――服部さんが――」
「服部? 服部新一のことですか。服部新一がどうかしたのですか」
「二階の、右から二番目の部屋――ああ恐ろしい、行ってみてください。服部さんが、もしや服部さんが――」
鉄光は突然、理由の分からぬ腹立たしさを感じてきた。冴子はなぜ新一のことをこうも気にかけるのだろう。あんな男なんかどうなっても構わないではないか。
「お願いです。どうぞ、どうぞ私には構わないで、あの人を――あの人を」
冴子の瞳には名状し難い熱情が現われている。その声は心痛のために打《う》ち慄《ふる》え、美しい双頬《そうきよう》からはさっと血の気《け》が去って、今にも昏倒《こんとう》しそうな様子である。
鉄光はそれを見ると、一瞬間|打《う》ち挫《くじ》かれたような気がしたが、すぐ次の瞬間には、やっと気を取り直した。
「よろしい。二階の右から二番目の部屋ですね。では、ちょっと行ってみましょう。しかしあなたは?」
「いいえ、いいえ、あたしは大丈夫です。あたしよりあの方が――」
「よし!」
皆まで聞かずに鉄光は、決然として部屋を出て行った。
血の祭壇
階段も廊下も堆高《うずたか》い埃《ほこり》の山だ。むっとするような悪臭、嘔吐《おうと》を催しそうな重い空気――鉄光はその薄暗闇《うすくらやみ》を掻《か》き分けるようにしながら、一歩一歩気をつけて、二階へ登って行った。一つ、二つと数えるまでもなく、冴子の言った部屋はすぐ分かった。扉が細目に開かれたままになって、そこから紫色の月光がかすかにあふれ出している。
鉄光は護身用の短銃を左の手にしっかり握りしめると、足でいきなり扉を蹴《け》った。さっと一煽《ひとあお》り空気が大きく動いたが、部屋の中は藻抜《もぬ》けの殻《から》、だれもいない。鉄光は半ば期待を裏切られたような気持ちがしたが、それでも用心に怠りなく部屋の中へ入るといきなりぴたりと壁に背をつけた。
だれもいない。部屋の中は重く鈍く静まり返って、人の気勢《けはい》はさらにない。
冴子の気遣った服部新一の姿も見えない。鉄光は安心して、つかつかと部屋の中央へ進むと、ぐるりとあたりを見回した。そのとたん、ふと奇妙なものが闇に慣れた彼の眼をとらえた。部屋の一|隅《ぐう》に、不可思議な祭壇が設けられてある。白木の上に黒布をかけた壇が一つ、その上に何やら飾ってある様子。鉄光は怪訝《けげん》そうに首をかしげながら、そっと忍び足にそばへ寄ると、懐中から取り出した点火器をかちっと鳴らした。
めらめらと淡い光があたりの闇を引き裂いて、黒い大きな影が、天井から壁へかけてゆらゆらと無気味に揺れる。鉄光はその光の中で、つくづくと祭壇の上を見ると思わずかすかな呻《うめ》き声を洩らした。
祭壇の上には大きな写真が五つ、不吉な黒枠《くろわく》に嵌《は》められて並んでいる。しかもその写真の主というのが、奇怪なことには、すべて鉄光の見知っている人々ではないか。
仙石雷蔵、神前伝右衛門、服部新一、樺山冴子、紫安欣子の五人だ。何者にとも知れず、命をねらわれている五人の犠牲者――その写真がずらりと並んでいるのだ。
しかもよくよく見ると、紫安欣子の写真の上には大きく朱で十文字が描いてあるではないか。
なんという無気味な祭壇だろう! なんという冷血な祈りだろう! 殺人鬼はここで五人の犠牲者を順々に斃《たお》して行くために、世にも奇怪な祈祷《きとう》を捧《ささ》げていたのだ。昔話に聞く調伏《ちようぶく》の祭壇――それよりも、もっともっと無気味なことがこの現実の世界でも行なわれているのだ。
鉄光はそれを見ると、あまりに恐ろしい殺人鬼の執念にぞっ[#「ぞっ」に傍点]と背筋が冷たくなるのを感じた。見ると祭壇の前には、グロテスクな格好をした銅壺《どうこ》が置いてあって、中からかすかに薄い煙が立ちのぼっている。
それで見ると、祈りの主はつい先刻までこの部屋にいたものと見なければならぬ。そうだ! 殺人鬼は冴子を斃す前に、ここで祈祷を捧げていたものに違いない。
それにしても、そいつはどこに隠れたのだろう。
鉄光は用心深く部屋の中を見回した。しかし、がらん[#「がらん」に傍点]とした部屋の中にはさらに人の気勢《けはい》はない。
思い切って引き返そうとして、もう一度つくづくと無気味な写真に眼をやった時だ。彼はふと妙なものを見つけた。
五つの写真の下には、それぞれ短冊型《たんざくがた》の真っ赤な紙が貼《は》りつけてあって、それに何やら文字が書きつけてある様子。
そばへ寄って点火器を差しつけてみると日付だ。赤い紙いっぱいに書いた悪魔の殺人暦、それが一人一人の写真の下に貼りつけてあるのだ。
まず左から見ると、紫安欣子の写真の下には、十月二十五日、樺山冴子の下には十一月五日、それから神前伝右衛門、仙石雷蔵、服部新一と順々に十日ずつ置いて、五の字のつく日が記入されている。紫安欣子の殺されたのは確かに十月二十五日だった。そして、今日は十一月五日ではないか。
ああ、なんという恐ろしい暦だ! 殺人鬼は犠牲者を血祭りにあげる日を、あらかじめ暦の中に記入しているのだ。恐ろしい暦! 奇怪な悪魔の吸血暦だ!
さすがの鉄光も唖然《あぜん》としてその生々《なまなま》しい日付の上に眼を釘付《くぎづ》けにされた。
――とその時である。突然絹を裂くような女の悲鳴が階下から聞こえてきた。冴子だ。冴子の声だ。何事かが、また彼女の身に振りかかってきたに違いない。
鉄光はそれを聞くと、体を扉に投げつけるようにして、部屋から外へ飛び出した。
意外な少女
「アレ! だれか来てえ」
冴子の悲鳴に続いて、どたんばたんと格闘する物音が聞こえてくる。それを聞くと、鉄光は心臓の凍るような思いがした。いかに彼女の懇願とはいえ、たった一人冴子を部屋の中に残して、一時でも外へ出たことが、犇々《ひしひし》と悔やまれてくる。階段を石のように転げ降りて行く彼の網膜の上には、血みどろになって兇悪な殺人鬼とあらごうている可憐《かれん》な冴子の姿が映ってくる。
彼は一足に五段、六段とめったやたらに階段を飛び下りると、いきなり先刻の部屋へ跳び込んだ。と、そのとたん眩《まぶ》しい強烈な光がさっと彼の面を打った。
「ああ、あなた!」
という冴子の叫び声。
しかし、焼けつくような光線に眼をやられた鉄光は、何を見ることもできない。
ただ声によって、冴子がまだ無事だったことだけが彼を感謝させた。
「冴子さん! 冴子さん!」
鉄光は手探りに部屋の中へ進んで行く。そのとたん、
「あれ、危ない!」
という冴子の悲鳴。つづいて、ズドンという銃音。――弾丸がピュッ! と彼の耳を掠《かす》めてうしろへ飛んだ。
「畜生!」
ようやく闇に慣れてきた鉄光。ふと見ると、今しも窓に片脚をかけて外へ跳び出そうとする曲者《くせもの》の姿だ、黒い布に顔半分を隠した洋服姿の男――
「ウヌ!」
鉄光の指先から短刀が飛んだ。
「あっ!」
という悲鳴――窓ガラスにかけた曲者の手からさっと鮮血が散る。が、その次の瞬間には、曲者の姿はもう窓の外へ飛んでいた。
「危ない、あなた!」
冴子がすがりつくを振りもぎった鉄光、やにわに窓かまちに片脚をかける。庭の雑草をかき分けて、ざざざっ――と、栗鼠《りす》のように逃げて行く曲者の姿が見える。
「離してください。畜生! あいつだ!」
「いいえ、でも――でも、相手は兇器を持っています」
「大丈夫、離してください」
離そう、離すまいとあらごうているところへ、銃音を聞きつけたのか、外に待たせてあった鉄光の部下がひょっこり扉の外へ顔を出した。
「大将、どうしました」
「おお、保田か、冴子さんを頼んだぞ」
鉄光はそう言い捨てると、まだすがりついてくる冴子を突き放して、庭の雑草の上へ飛び降りた。
深い雑草の茂みが、この場合かえって幸いだった。曲者の逃げて行く後をまるで印しづけるように、丈《たけ》なす雑草がざわざわと左右に揺れる、それを目当てに、鉄光も草の中に頭を突っ込んだ。庭は思ったよりはるかに広い。その中を曲者と鉄光の、まるで隠れん坊のような追跡だ。
今しも雲を離れた月が、この無気味な追っかけごっこを白々と照らしている。やがて、雑草の切れ目まで来た。
ふいに眼界が展《ひら》けて、黒い土の湿りが見える。しかし、曲者は!
そこは裏門の近くに当たるとみえて、四、五|間《けん》先に崩れかかった高い土塀《どべい》が見える。
しかし、そこから曲者が外へ飛び出したとはどうしても思えない。それかと言って、ほかには隠れるような場所はどこにも見えぬ。
鉄光は呆然《ぼうぜん》としてあたりを見回した。その時、ごく近くのところでふいに女の声が聞こえた。
「あら、あんなところに人がいるわ!」
若い美しい女の声だ。
鉄光はあまりのことに、ぎょっとして声のした方を振り返った。
十八、九の、まだ女になり切らぬ生々《うぶうぶ》しい顔をした少女が、不思議そうにこちらを見ている。
「あなたはだれ? どうしてここへ入っていらしたの?」
少女は臆《おく》する色もなく、鉄光の方へ近づいてくる。それにはむしろ、鉄光の方があっけにとられた。
「私ですか。私は怪しいものじゃありませんが、そういうお嬢さんこそ、こんなところで、いったい、何をしていらっしゃるのです」
「あら、だってあたしはここの家のものですもの。ああ分かった。あなたあちらのお化け屋敷からいらしたのですわね。たくさん蛇がいたでしょう。あなた蛇がおきらいなんでしょう。それで、そんなに驚いていらっしゃるに違いないわ」
鉄光は呆然として少女の眼をのぞき込んだ。きれいに澄みきった眼だ。なんの邪心も企《たくら》みもない眼だ。
「お嬢さん! あなた、ここのお家のものだとおっしゃったがほんとうですか」
「ほんとうですとも。でも、ただ番人の娘なのよ。ほら、向こうに灯《ひ》が見えるでしょう。あすこにお父様と二人で住んでいるのよ。このお屋敷の御主人が帰っていらっしゃるまであたしたちはここに住んでいなければならないのですって」
「ほほう――ところでお嬢さん、あなたはさっき、だれかここへ来るのを見ませんでしたか」
「ここへ! ええ来たわ、男の人でしょう」
「そうです。そうです。その男はどこへ行きました」
「裏門の方から出て行ったわ。あたしが門を開いてあげたの」
「えッ、あなたが門を開いたのですって!」
「そうですとも。だってあの人、悪者に追っかけられていると言って、手に怪我《けが》をしていたんですもの」
手に怪我をしていたと言えば、確かにさっきの曲者だ。鉄光の投げた短刀で、負傷をしたのを鉄光ははっきり覚えている。
「で、その男はどんな様子をしていました」
鉄光は思わずせき込んだ。この少女の唇から、今や殺人鬼の正体は暴《あば》かれようとしているのだ。彼が思わず息せき込んだのも無理ではない。
「あの方、どんな様子って、いつもと同じようなふうをしていたわ」
「いつもと同じ……」鉄光はふとその言葉を聞きとがめて、
「それじゃ、お嬢さんはその男を御存じなんですか」
「知ってるわ。このごろ、ちょくちょくあたしのところへ来るんですもの」
「で、その男の名は――」
「その人の名は?」
少女はちょっと首を傾《かし》げた。鉄光は焼けつくような眼で、その唇を見つめている。今にも心臓が張りさけそうな気がするのだ。恐ろしい殺人鬼の名前、それがこの少女の唇から洩れようとする。
「服部さんというのよ。たしか服部新一という名だわ」
「なんだって! 服部新一だって!」
鉄光は突然、地の底へのめりそうな声をあげた。服部新一! あの男が殺人鬼の本体なのか。その時向こうの小屋の方で、
「奈美江《なみえ》、奈美江――」
と呼ぶ声が聞こえた。
「あら、お父さんが呼んでいるわ。じゃあたし、失礼してよ」
少女奈美江はそう言い捨てると、軽い足どりで、向こうの方へ行ってしまった。しかし鉄光は、それに気もつかない様子で呆然として立っている。彼の頭の中には今聞いたばかりの名前がまるで、火矢《ひや》のように渦巻《うずま》いているのだ。
服部新一!――服部新一!
人造大宝石
服部新一はいったい、この事件にどんな関係を持っているのか。そして、蛇屋敷の番人の娘、少女奈美江の許《もと》を、なんのために彼はたびたび訪問したのか? それらのことは後に述べるとして、ここには同じ夜に、全く別の方面で起こったもう一つの惨劇について述べることにしよう。
宝石王、神前伝右衛門は、その夜川崎の方に持っているガラス製造工場に、遅くまで居残っていた。彼はその工場の社長であると同時に、またかなり優秀な技師でもあった。
いったい、日本の宝石王と言われている伝右衛門の巨富は、おおかたこのガラス製造工場から産まれたものである。
ガラスと言ってもそこで製造するのは普通のガラスではなかった。
だれにものぞかせないその工場を、だれかのぞくものがあったとすれば、ドロドロの熔塊《ようかい》から、やがて豆粒ほどの大きさに冷却してゆくガラスの玉を見て、思わず眼を見張らずにはおられぬだろう。
つまりそれは、人造ダイヤの製造工場なのだ。いや、ダイヤばかりではない。ルビー、エメラルド、オパールとあらゆる高価な宝石の類がその工場から無数に製作される。
しかも、それが一度伝右衛門の持っている銀座の店へ出ると、何千円、何万円という値段がつけられるのだ。いったいだれが発明したのか、そこで製造される宝石類は、人造宝石のうちで最も巧妙なものであった。
世界の宝石市場と言われるオランダへ出しても、かつて贋物《にせもの》であることを観破された例がなかった。それほど、そのガラス工場から作り出される人造宝石は、巧妙を極めているのである。伝右衛門はそれだけに、ガラス工場の秘密が暴露《ばくろ》することを極度に懼《おそ》れていた。彼はそれを隠すために一方ではわざと、つまらないガラス製品などをこしらえているのであった。だから、世間ではこの高価な秘密をだれ一人気づいているものはなかった。それを知っているのは仙石雷蔵と、紫安欣子のただ二人だった。
そしてこの秘密が、遠い昔の秘密と関連しているのでもあった。
伝右衛門は小さな社長室で、さっきからいらいらしながら時計をながめていた。白い壁にかかっている月並みな柱時計は今しも十時五十分を指している。
遠くの方で車輪の音が聞こえるたびに、彼はビクッとして扉の方を振り返った。言うまでもなく、彼も最近、紫安欣子を殺したあの恐ろしい殺人鬼に命をねらわれている一人なのだ。従って近ごろの彼は、すっかり神経質になっていた。ちょっとした物音、わずかの気勢《けはい》にも、心臓が破裂しそうな怯えを感じる。
ことに、こうして人気《ひとけ》のない郊外の社長室に、ただ一人居残っている場合など、彼の恐怖は極度に増大されるのだ。もっとも、殺人鬼の遣り口をよく知っている彼は、予告なしに襲われた例がないだけに、今夜のところ幾分安心してもいいのだ。彼はまだ真紅の警告状を、一度も受け取ってはいないのだから。
柱時計が十一時を打った。
伝右衛門は知らなかったが、それはあたかもあの雑司ヶ谷の蛇屋敷から、服部新一とおぼしい曲者が逃げ去ってから、四十分ほど後のことである。
ふと扉の外をコツコツとたたく音に、伝右衛門はぎっくりと振り返った。
コツ、コツ、コツコツ。コツ、コツコツ――と、扉をたたく音はある記号を罩《こ》めて響く。それは伝右衛門たちの仲にあらかじめ定められた暗号なのだ。
コツ、コツ、コツコツ。コツ、コツコツ――伝右衛門はそのたたき方に、じっと耳を傾けていたが、やがてほっと安堵の吐息を洩らした。
「仙石か」
「ウム」
伝右衛門はツカツカと扉のそばへよると、把手に手をかけて静かに内へ開いた。そのとたん、さっと躍り込んできた一人の曲者――伝右衛門はそれを見ると、ぎょっとして二、三歩|後退《あとじさ》りした。
「だ、だれだ! き、貴様は!」
男の手には銀色のピストルが光っている。顔半分は黒い布で隠して、眼ばかりが異様に光っている。ピストルを握った手には、白いハンカチを巻きつけていたが、そのハンカチに赤く血が滲《にじ》んでいるところを見ると、つい今しがた怪我をしたものだろう。
「だ、だれだ! キ、貴様は!」
伝右衛門はよろよろしながらテーブルに倚《よ》りかかった。
「よせ! つまらないお芝居はよせ! いくら押しても駄目だ。その呼鈴《よびりん》の線はちゃんと切ってあるのだ」
「うう」
伝右衛門は、低い呻き声をあげながらテーブルから手を退《ひ》いた。
「おい、伝右衛門、おまえの待っていた仙石雷蔵の代わりに、このおれが飛び込んできたからといって、そんなに驚くにも当たるめえぜ。なあ、おい、ゆっくり話をしようじゃねえか」
男はピストルを持ったまま、傍らの椅子《いす》を引き寄せるとどっかりとそれに馬乗りにまたがった。
「い、いったい、キ、貴様は何者だ!」
伝右衛門は咽喉《のど》の奥に何か引っかかっているような声をあげた。
「おやおや、ひどくまたおれの素性が聞きてえんだな。じゃ、言ってやろう。ほら、紫安欣子をプスリと一突き――な、それがこのおれなんだ。どうだ、そういえば分かるだろう」
男の声は、顔に巻きつけた黒布のためか妙に曖昧《あいまい》に聞こえる。
それがわざと、作り声をしているようにも聞こえるのだ。伝右衛門は冷水を浴びせられたような恐怖を感じた。
「そ、それで、貴様は俺になんの用があるというのだ。貴様はおれを――おれを殺そうというのか」
「ウンニャ、殺すにゃまだ早い。この殺人鬼さまはな、そう易々《やすやす》とは人を眠らせないのだ。おい、伝右衛門!」
突然曲者の声音《こわね》はがらりと変わった。
「あの秘密書類を返してくれ。ほら、人造宝石の製造法を書いたあの秘密の書類だ」
「えッ?」
伝右衛門はそれを聞くと、髪の根まで白くなるような恐怖に打たれた。
熔鉱炉《ようこうろ》の焔《ほのお》
「人造宝石の作り方だって? そ、それはいったい、なんのことだ」
「白《しら》ばくれるのはよしてくれ。へん、この御大層なガラス工場の中でいったい何を作っているのか、世間の人はいざ知らず、このおれの眼ばかりは誤魔化《ごまか》すわけにはゆかねえぞ」
伝右衛門は烈しい困惑を感じた。いったいこの男は何者だろう? そして、どうしてこの秘密を知っているのだろう。
元来、この人造宝石の秘密を知っているのは、最初より六人しかいないはずではないか。
仙石雷蔵、紫安欣子、冴子の伯父樺山勝五郎、新一の父服部省吾、そして神前伝右衛門のほかにもう一人加えて都合六人、しかし、現在では、仙石雷蔵と伝右衛門を除いた他の四人は、皆亡くなっている。従って、今ではこの大秘密を知っているのは、仙石雷蔵と伝右衛門のほかにはだれ一人いないはずなのだ。
それをどうして、この男は嗅《か》ぎつけたのか。それよりもいったい、この男は何者なのだ!
「おいおい、思案をしている場合じゃないぜ。もともとあの秘密書類は貴様のものじゃねえんだぜ。そうとも、おまえたち五人のものがある男から捲《ま》き上げたものなんだ。それをおれが取り返して正当な持ち主に返してやろうというんだ。おい伝右衛門なんとか挨拶《あいさつ》をしねえか」
曲者のピストルは、じりじりと伝右衛門に向かって進んでくる。伝右衛門は形容しがたい恐怖に打たれた。男の眼には覆い切れぬ殺気がみなぎっている。彼は決してこけおどしのためにピストルを弄《もてあそ》んでいるのではないのだ。
「おい、黙ってちゃ分からねえ。返すのか、返さねえのか」
「か、返せない。……」
「ナニ、返さない? フフフ、貴様はこうしているうちにも、あの仙石の親父がやってくるかもしれねえと、そいつを頼みにしているんだろう。よし、それなら貴様に見せてやるものがある。あれを見れば少しゃ薬が効くだろう」
男は背後を振り向くとピュッと口笛を吹いた。と、あらかじめ待たせてあったのだろう。同じく覆面をした男が二人、バラバラと部屋の中へ飛び込んできた。
「親分、何か御用で」
「ウン、この老耄《おいぼれ》をあそこへ連れて行け」
「承知しました。じゃ、いよいよ、荒療治と出かけるんですかい」
「あまり剛情だから、少し目を覚ましてやるんだ」
曲者はそういうと、ピストルを懐中へしまって、自分から先に立って悠々《ゆうゆう》と部屋を出て行った。二人の男はバラバラと伝右衛門のそばへ寄ると、しっかりとその両腕を握った。
いったいどうしようというのか、荒療治というのは何を意味するのか、伝右衛門には少しも分からなかった。しかし、彼がただ一つ心頼みにしていることは相手がこのまま自分を殺してしまうのではないだろうということだった。あの書類の所在を知っている者は、自分を除いてはほかに一人もない。仙石雷蔵さえも知らないのだ。
従って、彼を殺してしまえば彼らの欲しがっている書類は永久に手に入らないことになるのだ。伝右衛門はそう考えると、いささか心が安らかになるのを感じた。
どこへ行くのか、二人の男は伝右衛門の両腕をとらえたままひそやかな足どりで進んで行く。
一言でも叫べば、たちまち跳びかかって、猿轡《さるぐつわ》をはめる用意をしているのだ。首領らしい男は、先に立ったまま振り返りもしないで、進んで行った。それがゴタゴタした工場の一画で、壊れた機械だの、金屑《かなくず》だのが堆高《うずたか》く積み上げてある。
それを巧みにくぐり抜けながら、この奇怪な行列は黙々として進んで行く。
やがて、ふと、首領が足を止めた。それに続いて、後の三人も足を止めた。
「これをかけろ!」
首領がポケットから何か取り出して、伝右衛門に渡した。青眼鏡だ。
「そいつをかけて、この工場の中をのぞいてみるんだ」
伝右衛門はぎょっとして、首領の顔を振り返った。
ガラス工場というのはどこでも普通厚い煉瓦《れんが》で周囲を包まれていて、ところどころに覗《のぞ》き穴《あな》がこしらえてある。そしてのぞく時にはだれでも青眼鏡をかけなければならないのだ。そうしないと、熔解《ようかい》したガラスの白光のために、いつ何時視覚を失うかもしれないのである。
曲者はそんなことまで知っているのだ。
伝右衛門は眼鏡をかけると、命じられるままに恐る恐る覗き穴へ眼を当てた。と彼は思わず二、三歩後退りした。
工場の中に、沸々《ふつふつ》とたぎり立っている大|熔鉱炉《ようこうろ》――、その熔鉱炉の上に、一人の男がブラ下がっているではないか。しかもその男というのが、ほかでもない。仙石雷蔵だ。彼は恐怖のために眼を見張り、舌をだらりと垂れて、必死となってもがいている。
魂《たま》ぎるような叫び声をあげているらしいが、厚い煉瓦塀にさえぎられて聞こえない。血管は今にも破裂しそうにふくれ上がり、髪の毛は一本残らず逆立っている。
まるで地獄絵だ。いやそれよりも、もっともっと恐ろしい現実なのだ。体に巻きついている綱が切れたら最後、雷蔵の体は一瞬にして、熔鉱炉の焔《ほのお》と消えてしまわねばならないのだ。
「おい、これでも言わねえのか。貴様が言わぬとあらば、あの綱を切るまでだ。そうすりゃ、かわいそうに雷蔵の体は煙になってしまうんだぜ」
伝右衛門は必死になってもがいた。
なんという恐ろしい光景だ。この殺人鬼は決して、ただでは人を殺さない。彼は犠牲者を血祭りにあげる場合、いつもそこに見物人を置いておくのだ。しかしこれは、なんという恐ろしい見世物だったろうか。中にいるのは伝右衛門と同じ仲間だ。そして彼が、もし一言否といえば、その仲間は一瞬にして熔鉱炉の焔と化してしまう。
沈黙すべきか、語るべきか。――
「おい、なんとか言わねえか。おれアそう長くは待てねえ性分なんだ」
伝右衛門の額にはビッショリ汗が浮かんでいる。彼の眼前には、今や旧知の友が瀕死《ひんし》の躍りを躍りつつあるのだ。しかもその命は彼の一言にかかっているのである。
しかし伝右衛門は、その時ふと、残忍な微笑を洩らした。雷蔵を殺してしまえば、このガラス工場の利益は自分一人のものになる。曲者との闘いはその後のことだ。彼は突然はっきり言った。
「言わぬ!」
それを聞くと同時に、首領はピュッと高く口笛を吹いた。と思うと、雷蔵を吊《つ》るしていた綱がぷっつりと切れた。
工場の中に隠れていた仲間の者が、綱の端に刃を当てたに違いない。
その瞬間、ぱっと熔鉱炉の中から青白い焔が上がった。それきりだった。
一瞬の青白い焔――それきり雷蔵の姿は彼らの眼前から消え失せた。
そして仙石雷蔵の存在は、もはやこの宇宙から完全に抹殺《まつさつ》されたのである。
[#小見出し] 密室の髑髏《どくろ》
殺人鬼の正体
「服部さんが、あの恐ろしい殺人鬼ですって? まあ! あたし信じられませんわ。とてもとても、あたしそんなこと信じられませんわ」
冴子は唇まで白くして、かすかに細い肩を慄《ふる》わせた。
打ちつづく恐怖、惨劇のために、彼女の繊弱《かよわ》い体はいよいよ痩《や》せ細って、まるで風にも得耐えぬ風情《ふぜい》である。
鉄光はそれを見ると、世にも痛ましい同情にうたれるのだった。しかしこの並み並みならぬ恐怖も、もう大詰めに近づいているのだ。
殺人鬼の仮面は今や剥《は》がれようとしている。いや、否が応でも、自分の手で引ん剥《む》いてやらねばならないのだ。そして、このかわいそうな犠牲者を恐ろしい死の恐喝《きようかつ》から救ってやらねばならぬ!
「今に分かります。服部新一があの恐ろしい殺人鬼であったという証拠を、今にお目にかけますよ。しかしその前に、このあいだの夜、あなたがどうして邸を抜け出して、あの蛇屋敷へ行かれたのか、それを一つお伺いしようじゃアありませんか」
「ええ、そのことなら申し上げますわ」
冴子はふと、シェードを下ろした自動車の窓から、遣瀬《やるせ》ない視線を外に向けた。
彼ら二人を乗せた自動車は、今麻布六本木にある服部新一の邸宅へ向かっているのだ。向こうへ着けば、新一が殺人鬼であったという証拠を見せてやろうという鉄光の言葉である。
しかし、しかしそんなことを信じられるだろうか。服部新一が紫安欣子を殺し、そして自分を殺そうとした恐ろしい殺人鬼! そんなことがあり得るだろうか。
「あの日、服部さんがお昼ごろにいらっした時、だれにも知れないように、こっそり小さな紙片をくだすったのですの」
冴子は深い溜息とともに、低い声で語り始めた。
「それには、今夜邸にいることはかえって危険だから、だれにも知れないようにこっそり抜け出してこいと書いてあったのですわ。そうすれば、自分が発見した秘密を、何もかも打ち明けてやろうというのです。で……」
「ああ、それであなたは、探偵たちに睡眠剤を飲ませておいて、こっそり抜け出したのですね。しかし、女中を身代わりに、べッドの上へ寝かせておいたのは、あなたの智慧《ちえ》なんですか」
「ええ、そうですの。まさか、あんな恐ろしい仕掛けがべッドに施してあるとは、あたし夢にも知らなかったものですから」
「ごもっともです。で、邸を抜け出してからどうしました」
「あたし、江戸川まで歩いて行ったのです。すると、服部さんが自動車で待っていて、あたしを蛇屋敷まで連れて行きましたの。そしてあたしたち、あの恐ろしい呪《のろ》いの祭壇がある部屋まで入って行ったのですわ」
「ちょっと待ってください。その時服部新一は、あの邸の鍵《かぎ》を持っていましたか」
「ええ、持っていらっしゃいましたわ。まるで、御自分のお家へでもお入りになるような御様子でしたわ」
「そうですか」
鉄光は眼を|※[#「目+爭」、unicode775c]《みは》ると、さも満足げに何かうなずいていたが、
「ありがとうございました。それから……」
「ええ、それから、あたしあの気味の悪い祭壇を見せられて、びっくりしてしまいましたの。まるであたし、気が遠くなるほど驚いてしまいましたわ。ところが、そのうちにふと気がついてみると、いつの間にやら服部さんの姿が見えなくなっているじゃありませんか。あたしぎょっとして、二、三度呼んでみましたがどこからも返事は聞こえてきません。あたし、もう恐ろしくて、一時《いつとき》もそんな場所にじっとしていることはできませんので、急いで部屋を飛び出すと、階段を下りようとしたんですの。その時ふいにうしろから、ぐさっと肩のあたりを刺されまして……」
「その時あなたは、相手の顔を御覧になりませんでしたか?」
「いいえ……でも肩を刺された瞬間、あたしはもう気が遠くなって後のことは少しも覚えていないのです……」
冴子はいまさらのように、あの夜の恐ろしさを思い出して、ぶるぶると細い肩を慄わせた。無理もない。彼女の肩のあたりは、今もなお、あの夜受けた傷口がまざまざと残っているのだ。
「あなたは、それを服部新一の仕業だと思いませんか。あなたをあの蛇屋敷へ連れ込んで、どこか暗闇《くらやみ》の中に身をひそめていて、突然背後から刺し殺そうとしたのだとは思いませんか!」
冴子は遣瀬《やるせ》なげに首をうなだれて、黙って唇を噛んでいる。彼女の頭の中には、今しも大きな疑惑が渦巻いているのだ。その疑惑は、鉄光の手によって、ふいに投げられたものだったが、それに反抗しようとすればするほど、今ではますます大きくなって行こうとする。打ち消そうと努めれば努めるほど、それは打ち消し難い確固たる信念に変わって行く。
「でも、でも……」
冴子は自分の疑惑と闘うように、「あの人がもしあたしを殺そうと思うんでしたら、何もあの蛇屋敷まで連れ出す必要なんか少しもございませんわ。だって、あんな巧妙な仕掛けがべッドにこしらえてあったのではございませんか」
「それもそうです。しかし、私の考えはそれでも変わりませんよ。見ていてごらんなさい。あの男が犯人であるという確かな証拠を今すぐにお目にかけますよ」
鉄光が自信ありげにそう言った時である。
自動車がガタンと一揺れ、大きく揺れたかと思うと、ぴったりと停《と》まった。服部新一の邸の表へ着いたのだ。
切断された指
「服部さん、いらして?」
冴子が、かねて顔見知りの女中に尋ねると、
「旦那《だんな》様でございますか」
玄関へ出迎えた女中は慇懃《いんぎん》に手をつかえながら、
「旦那様は、このあいだから、ずっとお帰りになりませんので……」
「まあ、そんなに長いことお帰りにならないの?」
「ええ、もう一週間ばかり……はい、たしか十一月の五日にお出かけになったきり、なんの音沙汰《おとさた》もございませんので、あたしどもも心配申し上げているところでございますの」
「まあ十一月の五日!――」
冴子ははっと息を飲み込みながら、背後に立っている鉄光の方を振り返った。十一月の五日と言えば、忘れもしない彼女が蛇屋敷で奇禍に遭《あ》った日ではないか。そうすれば、あの日以来彼は、自分の邸へも帰ってこないのだろうか。鉄光は無言のまま、意味ありげに冴子に眼配せをした。
「あの、あたし、服部さんにぜひ申し伝えねばならない用事がございますの。ちょっとお居間の方へ通していただいては御迷惑でしょうか」
「はあ、どうぞ」
冴子はたびたびこの邸を訪問したことがあるとみえて、女中はなんの躊躇《ちゆうちよ》もなく身を引いた。
「そう、ではちょっと失礼いたします。この方、やはり服部さんのお友達なんですけど……」
「ええ。どうぞ、どうぞ」
女中はなんの疑いも抱かずに、快く二人を新一の部屋へ通した。
女中が退くと、鉄光の様子は急にがらりと変わった。彼はいかにも忙しげに辺りを見回しながら、
「お聞きになりましたか。服部新一はあの夜以来、自分の邸へも帰らないのですよ」
冴子はそれに対して答える術《すべ》も知らない。
こうして鉄光の言葉が、一つずつ実際となって現われてくるたびに、彼女は言い知れぬ恐怖を感じるのだった。
「見ていてごらんなさい。今に手品の種をすっかり割ってお目にかけますよ」
彼はそう言い捨てると、急に敏捷《びんしよう》に立ち働き出した。部屋の中の、どんな些細《ささい》な秘密も見いださずにはおかぬというふうに、炯々《けいけい》と輝く眼光を八方に配りながら、その指は忙しくテーブルから壁、壁から本棚《ほんだな》へと這《は》い回る。
冴子はそれを見ると、恐ろしい期待のために、胸もついえそうな気がするのであった。
突然鉄光が勝ち誇ったような叫び声を挙げた。
「あった。あった。これを御覧なさい!」
鉄光の声に、ふと顔をあげた冴子は、その瞬間、さっと顔色を失った。
片方の壁に立てかけてある本棚が、今や鉄光の手によって一尺ばかり横へのけられた。その後に、五寸平方ばかりの穴が開いている。鉄光はその穴の中へ手を突っ込むと、何やら手にいっぱい掴《つか》み出した。それはまぎれもなく、殺人鬼がいつも死の予告に用いるあの真紅な紙片だ。
「フフフフ。あるぞ、あるぞ、この穴こそ、恐ろしい手品の種明かしだ」
鉄光はにやにやと薄気味の悪い微笑を浮かべながら、次から次へといろんなものを掴み出した。顔を覆うための黒布、手袋、ピストル、短刀――だが、最後に掴み出したものを見た時、さすがの鉄光も思わずあっと声をあげた。
「こりゃ、どうしたのだ。人間の指じゃないか!」
冴子もそれを見ると、失神せんばかりに驚いた。いかにもそれは人間の指だった。根元から、ぷっつりと断ち落とされた生々《なまなま》しい薬指――しかもその指には、ダイヤモンドの指輪が燦然《さんぜん》と光を放っているではないか。
「フン、この指輪が抜けないものだから、指ごと切り落としたんだな。なんという残酷な真似《まね》をする奴だろう。それにしても、この指はいったいだれのだろうな」
冴子は怖々《こわごわ》、鉄光の背後からそっとのぞき込んだ。が、そのとたん、彼女は唇まで白くなるような恐怖に打たれたのである。
「あっ! その指輪には見覚えがございますわ!」
「え! この指輪に見覚えがある? いったいだれの指輪です!」
「ああ、でも、まさか、まさか――」
冴子は歯を食いしばり、拳《こぶし》を握りしめたまま、まるで幽霊でも見るような眼つきで、じっと虚空《こくう》を見詰めている。その中には、名状しがたい恐怖の色が浮かんでいた。
「え? 言ってごらんなさい。これはだれのですか!」
「はい、それは――」
「冴子さん、躊躇《ちゆうちよ》したり、怖がったりしている場合ではありませんよ。さあ、早く言ってください」
「はい、それは――仙石雷蔵さんの指でございますわ!」
冴子はそれだけ言うと、もう立っていることすらもできない様子であった。
彼女は、よろよろと蹌踉《よろめ》いたかと思うと、そのまま、ぐったりと傍らの寝椅子に腰を落としてしまった。ああ、仙石雷蔵といえば、冴子が蛇屋敷で襲われた晩、同じく殺人鬼の手によって、熔鉱炉の焔と化したはずではないか。
彼の指がここに残っているとすれば、おそらく彼は、死の直前に、無慙《むざん》にも指を断ち落とされたものに違いない。殺人鬼はいったいなんのために、そんな恐ろしいことをする必要があったのだろう。
鉄光や冴子は、雷蔵が殺されたことはまだ知っていなかった。
しかし彼らは、この指を見た瞬間、ある恐ろしい想像のために、思わずぞっと身を慄わせたのであった。
奇怪な老人
鉄光も冴子も、石のように黙りこくっていた。たった今見た恐ろしい情景が、まるで悪夢のように冴子の頭にこびりついている。もはや断然打ち消すことのできない真実の証拠を、彼女はまざまざと二つの眼で見てきたのだ。そんなことがあってよいことだろうか。ああ! なんという恐ろしい欺瞞《ぎまん》だ。裏切りだ!
冴子に対して、さも親切らしく、力づけていた新一こそ、その実恐ろしい吸血獣だったのだろうか。
「これからまたどこへまいりますの」
冴子はさんざん思い悩んだ、疲れ果てた眼をあげると、まるで訴えるように鉄光の顔を振り仰いだ。
「雑司ヶ谷まで」
鉄光は簡単にそれだけ言うと、それきり唇を閉じてしまった。彼の頭の中にも、今大きな渦が巻いているのだ。あまりあっけなく、万事が明るみへ出されたことを、彼は今つらつらと考えているのだ。
あんなに用意周到な犯人としては、あまり造作《ぞうさ》なく証拠が発見され過ぎた。これが果たして、犯人の残して行った真実の証拠だろうか。鉄光は今まで、この犯人の遣《や》り口《くち》を鬼畜のごとく憎悪していただけに、この解決はあまり造作がなさすぎるのだ。
鉄光よ! 貴様は少し図に乗り過ぎているぞ。こんなに易々《やすやす》と尻尾《しつぽ》を押さえられるなんて、少し怪しいとは思わないか。気をつけろ鉄光!
しかし鉄光は、今まで見てきたこと、してきたことを振り返ってみて、どこに間違いがあろうとも思えないのだ。万事は服部新一を指さしている。
「あいつが犯人だ! 間違いがあって堪《たま》るもんか!」
鉄光は低い呻き声とともに、そうつぶやきながらふと窓外に眼をやった。自動車は今、江戸川のほとりを走っている。
「あなたは先刻の指をどうお考えになりまして?」
冴子はものわずらわしげな眼で、鉄光を見返りながら尋ねた。
「どう考えると言って、ほかに思いようはありませんね。あの指輪が仙石雷蔵氏のものである以上、あの指も雷蔵氏のものに違いありませんよ」
「でも、もしあれが仙石さんの指としたら、いったい、仙石さんはどうなすったのでしょう」
「むろん、殺されたのに決まっています。先刻も仙石邸へ電話をかけて聞いてみたのですが、雷蔵氏が、行方不明になったのは、十一月五日の夜からだそうです。つまり、あなたが雑司ヶ谷の蛇屋敷で襲われたと同じ晩です。そしてその夜から、服部新一の行方も分からなくなっているのです」
「では、では――あの晩、仙石さんはどこかで殺されたのでしょうか」
「そうとしか思えませんね」
「あたし、神前さんにお伺いすれば、何か分かると思いますわ。あの方は、仙石さんとは特別に親しかったのでございますし……」
言いかけて、冴子は何に驚いたのか、ぎょっとしたように自動車の隅に身を縮めた。
「おや、どうかしたのですか」
「いいえ、なんでもありませんの……」冴子は肩をすぼめて低い声で言った。
「あたし、なんだか気分が悪くて堪《たま》りませんのよ」
「もう少しの御辛抱です。ほら、もうすぐに蛇屋敷です」
「まあ、蛇屋敷へまいりますの?」
「そうです。すべての秘密はあすこにあるのです。私はあの夜以来、たびたび蛇屋敷を訪ねて、留守番の弥吉爺《やきちじい》さんや、娘の奈美江という少女とすっかり心安くなったのですが、探れば探るほどこの事件には深い秘密がありますよ」
ちょうどその時、彼らの乗った自動車は、雑司ヶ谷の陰惨な蛇屋敷の裏門の前へ着いた。なるほど、たびたび来たというだけあって、鉄光はよく勝手を知っていた。彼は冴子を車から助け下ろすと、古びた鉄門をなんの造作なく開いた。中は丈なす雑草だ。
その雑草の向こうに冷たい、灰色の、見るからに無気味な建物が見える。かつての夜、あの建物の中で恐ろしい危難に遭ったのだと思うと、冴子は思わず寒そうに肩をすぼめた。
「冴子さん、どうなすったのです」
「あたし、でも……」
「大丈夫です。私たちが用事のあるのはあの建物の方ではありませんよ」
彼らが雑草の中の小径《こみち》を五、六歩行くと、突然向こうから、六十あまりの爺さんが出てきた。
「ああ弥吉爺さんだ」
弥吉爺さんは、不思議そうに二人の様子を見比べていたが、鉄光が何か合図をすると、やっと安心したらしく、おずおずとそばへ寄ってきた。
「ああ、旦那でございましたかい」
「爺さん、今日は。今日はまた尋ねたいことがあってやってきたよ。ところで奈美江さんはどうしたね?」
「奈美江ですかい。奈美江は今、あるお方といっしょに出て行きました」
爺さんは不安そうに冴子の顔を見ながら、おずおずと言った。
「あるお方ってだれだね。ああ、この方か。この方なら決して心配はいらない方だ。何もかも言っておしまい」
「はい、あの、神前伝右衛門さまとごいっしょに出かけましたので……」
「何? 神前伝右衛門が?」鉄光がそう叫ぶのといっしょだった。冴子があっと軽い叫び声をあげた。
「じゃ、やっぱりそうだったのだわ。さっき擦《す》れ違った自動車――あの中に、確かに神前さんが乗っていらっしゃいましたわ。そうです。若い、美しい御婦人と……」
鉄光と冴子は思わずひたと顔を見合わせた。
神前伝右衛門が蛇屋敷の番人奈美江を連れ出したのだ。いったいそれにはどんな意味があるのだろう。
呻《うめ》く髑髏《どくろ》
「へえ、それはこうなのでございますよ」
弥吉爺さんは問われるままにおずおずと語った。
「つい先刻、神前さまが大あわてにあわてていらして、奈美江に用事があると言って、無理矢理に自動車で連れて行かれたので……」
「まあ!」
と、冴子は大きく息を吸い込みながら、
「じゃ、爺さんは前から神前さんをよく御存じなのね」
「ええ、ええ、よく存じて居りますとも。仙石さんも、神前さんも、このあいだ亡くなられた紫安欣子さんも、それから新一さんのお父上の服部省吾さま、それにあなたの伯父さまも……」
「まあ! じゃ、爺さんはあたしを知ってるの」
「はい、はい、樺山勝五郎さまの、姪御《めいご》さまでございましょう」
冴子は思わず息を内へ引いたまま、眼を丸くして、この不思議な老人の顔を見詰めていた。いったい、この爺さんは何者だろう。どうして、自分の伯父や、そのほかいろんな人々を知っているのだろう。老人は、しかし冴子のその驚きには眼もくれないで、不安そうに鉄光の方を振り返った。
「旦那さま。何かしら、またよくない事がこのお屋敷で起こっているようでございますよ。はい、わたくしはちゃんと知っているのです。だれかが、このお屋敷の中で殺されかけておりますじゃ」
「え?」
鉄光は思わずそう言い返した。
「はい。二階のあの恐ろしい祭壇のあった部屋、あすこへ行ってみなされ。人の呻《うめ》き声がどこからか聞こえますぞ。昔、城田の旦那さまが行方不明になられたお部屋じゃ」
弥吉爺さんはそれだけのことを言うと、さも恐ろしそうに肩を揺すって、そのまますたすたと向こうの方へ立ち去った。
「城田ですって?」
冴子はふと、老人の言葉を聞きとがめて、
「今、爺さんは確か城田とか言いましたわね」
「そうです。城田伝三郎というのが、この建物の所有主なのですよ」
「まあ」
冴子はふと、かつて服部新一の言った言葉を思い出した。城田伝三郎! この名前こそ、すべての秘密の背後に隠されている恐ろしい謎《なぞ》だ。――服部新一は確かにそう言ったではないか。
「行ってみましょう。人の呻き声がするという部屋へ行ってみましょう」
冴子は何を思ったのか、突然鉄光の腕にすがりついてそう叫んだ。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ですわ。あたし、この秘密を、底の底まで突きとめないではいられませんわ」
「よろしい。その覚悟なら大丈夫です」
鉄光は冴子の手をとると、丈なす雑草をざわざわと掻き分けて行った。老人の言葉も気にかかるし奈美江の行方も気になった。しかし今の場合あの部屋を検《あらた》めてみるのが、何よりの急務だった。幸い前に一度来たことがあるので、問題の部屋を見つけるのはなんの造作もなかった。
がらんとした薄気味の悪い部屋の隅には、依然として、あの呪《のろ》いの祭壇がしつらえてある。夜見た時もそうだったけれど、昼見るといっそう無気味な妖気《ようき》に満ちていた。
「この部屋ですわね」
冴子はこのあいだの夜のことを思い出して骨の髄まで冷たくなるような恐怖を感じた。
「そうです。この部屋です」
その言葉がまだ終わらないうちに、二人は突然、ぎょっとして床から跳び上がった。どこからともなくかすかに這《は》いのぼってくるかすかな人の呻き声――泣くような、あるいは恨むような、まるで地獄の底からでも、聞こえてくるような、低い、細い絶え絶えな呻き声だ。
「まあ、怖い」
「しっ!」
鉄光は冴子をたしなめながら、静かに声のする方へ近寄って行った。声は一方の壁を伝って、はるか床の下から聞こえてくるのだ。その壁の前には、あの呪いの祭壇がいまわしく飾られている。
「ここだ!」
突然、鉄光はそう叫んで祭壇を蹴返《けかえ》した。しかし、何も見当たらない。堆高《うずたか》く積もった白い埃《ほこり》があるばかりだ。
「冴子さん、手を貸してください。どこかこのあたりに隠し戸があるに違いありません」
鉄光はその辺の壁をこつこつとたたきながら叫んだ。冴子もそれに倣《なら》って、盲滅法に壁の面をなでていた。ふと、彼女の繊細な指先が、その壁の面の小さな突起に触れた。
と思うと、突然、壁の下部に仕掛けてあった嵌板《はめいた》がするすると床の下へめり込んだ。後にはようやく人間一人入れるか入れないくらいの真っ黒な穴があいた。
「あれ」
と、冴子が跳びのくと同時に鉄光がつかつかとそのそばへ寄ってきた。呻き声が急に高くなってきた。たしかにこの穴の奥に、だれかが幽閉《ゆうへい》されているのだ。
「冴子さん入ってみますか」
「あたし。――あたし恐ろしい」
冴子は、唇まで白くなっている。
「よろしい。じゃ、私一人入ってみましょう。あなたはここで待っていてください」
鉄光はそう言い残して、その狭い穴の中へ入って行った。
そこは半坪ほどの空き地になっていて、すぐ足下から、下の方へ通じる石の階段がある。それは部屋と部屋とのごくわずかな隙間《すきま》を利用して作られた秘密の通路なのだ。
鉄光は用意の懐中電燈で、足下を照らしながら、一歩一歩階段を下りて行った。
何十年という長い間、ついぞ陽《ひ》の目を見たことのない闇《やみ》の階段は、まるで噎《むせ》ぶような悪臭に満ちていて、うっかりすると、窒息でもしそうなほど、埃が堆高《うずたか》く積もっていた。
階段は二十段あまりあった。それを下りると、鉄光は突然、広い石畳の部屋へ出てきた。壁土がざらざらと落ちていて、空気が骨を刺すように冷たい。鉄光は何気なく、懐中電燈の灯《ひ》を一方の壁に向けた。と、さすがの彼も、髪の白くなるような恐怖に打たれた。
壁を背にして、骸骨《がいこつ》が座っているのだ。眼も鼻もない醜い骸骨が、まるで刺すような笑いを、唇のない歯並みの間に浮かべて、じっと洞《うつ》ろの眼でこちらを見ている。
一瞬間鉄光は、その骸骨が生きていて、今にも跳びかかってきそうな恐怖を感じた。いったい、あの気味の悪い呻き声は、この髑髏《どくろ》の歯並みの間から洩《も》れているのだろうか! ふいに呻き声が高くなった。鉄光はぎょっとして、その方へ電燈の円を向けた。見ると、今まで気づかなかったけれど、その髑髏と並んで、一人の男が俯伏《うつぶ》せに倒れているではないか。呻き声はその男の唇から洩れているのだ。
鉄光はつかつかとその男のそばへ寄った。見ると俯伏せになった後頭部が、柘榴《ざくろ》のように割れて、髪の毛いっぱいに赤黒い血がこびりついている。
鉄光はその男の肩に手をかけた。
「おい、きみ、きみ」
二、三度揺すってみたが答えはない。呻き声が高くなるばかりだ。鉄光は思いきって、その男の顎《あご》へ手をかけると、ぐいと顔を引き上げた。
そのとたん彼は、
「あっ!」
と叫んで、思わず手を離すと棒立ちになってしまった。男というのは服部新一ではないか!
服部新一がここにいる。しかも瀕死《ひんし》の重態で、人事も弁《わきま》えない! いったい、これはどういうわけだ。鉄光は突然、眼の前の壁が自分の方へ倒れかかってくるような惑乱《わくらん》を感じた。今の今まで彼は、服部新一を犯人だとばかり思っていたのだ。そして、すべての事件を、その考えから出発して解決していた。それだのに、今、彼の想像が根本からくつがえされたではないか。突然鉄光は、床から跳び上がった。何を思ったのか、彼は夢中になって、今降りてきた階段を登って行った。しかし、階段を半分も登らぬうちに、彼は思わず低い呻き声をあげた。彼が今潜り込んできた隠し戸がぴったりと締まっているではないか。
「冴子さん、冴子さん!」
鉄光は階段を登り切ると、夢中になって扉をたたいた。
しかし、冴子の答えは聞こえなかった。
あたりは森《しん》として人の気勢《けはい》もない。鉄光は初めて恐ろしい罠《わな》に気がついた。
隠し戸は想像していたよりも、何倍も何倍も頑丈《がんじよう》にできている。彼は今完全に袋の鼠《ねずみ》だ。それにしても、冴子はいったいどうしたのだろう。
[#小見出し] 焔《ほのお》の肉団
悲憤の遺書
蛇屋敷《へびやしき》の奇怪な密室に閉じこめられた隼白鉄光は、もはや全く手も足も出なくなってしまった。
厚い嵌板《はめいた》は打てど、たたけど、びくともしない。広いがらん[#「がらん」に傍点]とした空き屋敷――しかも、恐ろしい蛇を飼う屋敷とて、だれ一人近づこうとしない蛇屋敷の奥まった密室の中だ。呼べばとて、叫べばとて、人の耳に届こうとは思われない。
「冴子さん――冴子さん!」
鉄光はさきほどから、何度となく繰り返した名をさらにまた呼びつづける。
今の場合彼にとって、ただ一人の救いの神は冴子あるのみだ。冴子はこの嵌板の向こうにいるはずだ。どうして返事をしないのか? どうして自分を救い出そうとしないのか?
突然鉄光の頭に、恐ろしい考えが浮かんできた。――冴子もまた賊の術中に陥っているのではなかろうか。鉄光をこの密室に閉じこめた悪魔は、さらに冴子の上へまで毒手を伸ばしているのではなかろうか。そうだ! それよりほかに考えようはない。
そう考えると、鉄光は言いようのない不安に駆られた。冴子の救援が待てないとしたら、彼は否《いや》が応《おう》でもこの密室を、自分自身の手で破って出なければならないのだ。
しかし、打ち見たところこの厳重な、鉄のように厚い嵌板をどうして破ることができよう。彼はさっきからたたきつづけて、赤くなった掌を見ながら、ふと考えを直して、さっき登ってきた階段を下の方へ降りて行った。
長い間、陽の目を見ない密室の中は、堆高く積んだ埃のために、身動きをするたびに、窒息しそうないやな臭気である。鉄光は用意の懐中電燈で足下を照らしながら、その無気味な密室の中へ入って行った。
壁には、例の気味の悪い髑髏《どくろ》が、さっきのままの姿勢で倚《よ》りかかっている。その髑髏の足下には服部新一が、相変わらず苦しげな呻き声をあげていた。
――間もなく鉄光はすっかり日ごろの落ち着きを取りもどした。急にこの密室を破ることができないとなればいい思案が湧《わ》いてくるまで、ともかくこの部屋の中の様子をよく見ておこう。――鉄光は懐中電燈をしまうと、ポケットから一本の巻《まき》煙草《たばこ》を取り出した。かちっ[#「かちっ」に傍点]とライターが鳴る。やがて彼は、悠々《ゆうゆう》と紫色の煙を吐きながら、ライターの光の中でつくづくと辺りの様子を見回した。
壁に倚りかかっている何者とも知れぬ髑髏――鉄光はまずその方へ体をかがめた。
髑髏の着ているボロボロの衣服から見て、それが十数年以前から、この部屋の中に横たわっているものであることが推察される。
たぶんこの男も、鉄光や服部新一と同じように、この部屋へ閉じこめられたまま、飢えか、あるいは他の理由で、冷たい骨になってしまったのであろう。骸骨の保っている一種異様なゆがんだ姿勢が、当時の苦悶《くもん》のさまを如実《によじつ》に物語っているように思われる。
それにしても、この骸骨の主はそもそも何人《なんぴと》であろうか。
鉄光がそう思って、ふと体を前に乗り出した時である。果敢《はか》ないライターの焔のまたたきの中に、壁面に書かれた異様な文字が眼に映った。
おや――とばかりに、鉄光は身を起こした。そして、あわててライターの火を消すと、再び懐中電燈を取り出した。
壁に書かれた文字というのは、たぶん、暗闇《くらやみ》の中を手探りで書いたものだろう。
ところどころ書き損なったり、重なり合ったり、なおその上に、長い年月のために壁面が摺《す》り減らされて、判読するにずいぶん骨が折れた。
だが、それは間違いもなく、そこに横たわっている骸骨の手によって、死の直前に書き綴《つづ》られた無念骨髄の遺書なのだ。文意はおよそ次のようなものである。
毒ガス襲来
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――余、城田伝三郎ハ五人ノ悪漢毒婦ノタメニ、明治四十五年十月二十二日コノ所ニ閉ジコメラレタリ。余ノ命間モナクコノ所ニ於《おい》テ亡ビン。余ハソノ死ノ直前ニ於テ、コノ怨《うら》ミノ遺書ヲココニ書キ残スモノナリ。
――五人ノ悪漢毒婦トハ左ノ人物ナリ。樺山勝五郎、服部省吾、仙石雷蔵、神前伝右衛門、紫安欣子――何ガ故《ゆえ》ニ彼等余ヲ陥レタルカ。余、今ソノ理由ヲ左ニ述ベン。余ハ世界ノ富ヲクツガエスベキ大イナル発明ヲナシタリ。コノ発明ガ大規模ニ行ナワレンカ、余ハタチマチニシテ世界ノ大富豪トナリ得ベシ。サラバ、ソノ発明トハ如何《いか》ナル種類ノモノカト言ウニ、ソハ人造ダイヤモンド[#「ダイヤモンド」に傍点]ノ完成ナリ。現在坊間ニ流布《るふ》セル人造|金剛石《こんごうせき》トソノ撰ヲ異ニシ、余ノ発明セルダイヤモンド[#「ダイヤモンド」に傍点]ハアラユル点ニ於テ、天然ダイヤ[#「ダイヤ」に傍点]ト毫《ごう》モ異ナルトコロナシ。
――試ミニ、余コレヲ世界ノダイヤ市場ト言ワレルオランダ[#「オランダ」に傍点]ヘ送リタレド、誰《だれ》一人コレヲ人造ダイヤ[#「ダイヤ」に傍点]ナルヲ観破セルモノナシ。ココニ於テ、余ハ大イナル財産ヲ作ルベキ緒《ちよ》ヲツカミタレド、遺憾ナガラ余ハイト貧シキ一理学士ニ過ギズ。カカル大発明ヲ実際ニ応用スベキ資本ヲ持タズ。余、ココニ於テ、伝手《つて》ヲ求メ前記ノ五名ト親交ヲ結ビ、彼等ニ秘密ヲ明カシ、ソノ出資ヲ求メ、ココニ人造ダイヤ[#「ダイヤ」に傍点]製造ノ秘密工場ヲ起コシタルナリ。
――余等六名ハ、マズ樺山勝五郎ヲ盟主ト仰ギ、コノ秘密ノ絶対ニ外ニ漏レザルコトヲ神ニ誓イタリ。
人造ダイヤ[#「ダイヤ」に傍点]ノ製造工事ハ着々トシテ進行シ、半歳ナラズシテ、余等六名ハ大イナル富ヲナシタリ。モシ、コノママ、何事モナク進マバ、余等ハ世界ニ類ナキ幸福人トナリ得シナランガ、人生好事魔多シ。間モナク、余ト五名ノ共同出資者トノ間ニ、大イナル溝《みぞ》ヲ生ズベキ事件起コリタリ。
――ソハ何事ナラント言ウニ、樺山勝五郎ニ一人ノ妹アリ。名ヲ澄子トテ頗《すこぶ》ル美人ナリ、余コノ澄子ヲ深ク恋シテ、幾度トナクソノコトヲ兄勝五郎ニホノメカシタリ。
――サレド、余モトヨリ至ッテ武骨ナル一学者ニシテ、時ニハ狂人ノゴトク荒々シクナル性質ヲ知レルタメカ、勝五郎ハ余ヲ深ク恐レテ、ツイニハ澄子ヲ余ノ眼前ヨリ隠シタリ。
――余、即《すなわ》チ悶々《もんもん》ノ情ニ耐エズ、日夜狂人ノゴトク澄子ノ行方ヲ探シ求メタルガ、或《あ》ル日ツイニ、彼女ガ鎌倉ノ別荘ニアルヲ聞キ知リ、無理矢理ニ押シコミ、ツイニ暴力ヲモッテ澄子ノ処女ヲ奪イタリ。
――嗚呼《ああ》、カクシテツイニ、余ト五人ノ共同出資者トノ間ニハ、完全ナル亀裂《きれつ》ヲ生ジヌ。勝五郎ノ怒リハサルコトナガラ、彼他ノ四人ヲ煽動《せんどう》シ、余ガ発明ヲ他ノ人物ニ売ラントスル行動アルガゴトク彼等ニ説キ、ツイニ余ヲ亡キ者ニセント計リタルナリ。
――余モトヨリ、人造ダイヤ[#「ダイヤ」に傍点]製造工業ノ資本ヲ彼等ニ仰ギタルノミニシテ、製法ノ秘密ハイササカモ彼等ニ説キ明カシタルコトナシ。余コノ秘密ヲ一片ノ紙ニ書記シ、常ニ肌身《はだみ》離サズ持チ居タレド、ソノ盗マルル日ヲオソレ、ワザトコレヲ暗号トナシ、ソノ暗号ヲ解クベキ鍵《かぎ》ヲ、余ガ家ノ召使イノ娘、少女奈美江ノ背中ニ刺青《いれずみ》シタリ。
――サレド、カクノゴトキ余ノ用心モツイニハ無駄トナリ了《おお》セタリ。彼等ハツイニ余ノ秘密ヲ盗ミタルナリ。ダイヤ[#「ダイヤ」に傍点]製造ノ秘密ヲ知ル上カラハ、彼等ニトッテ、余ハ全ク無用ノ人物ナリ。否、否、無用ト言ウヨリモムシロ、有害ナル存在ナリ。
――彼等、ココニ於テ余ヲ計リ、コノトコロニ余ヲ幽閉セリ。余ノ命間モナクコノトコロニ尽キン。サレド余ノ恨ミハ永遠ニ彼等トトモニ生キン。
――聞クトコロニヨレバ、勝五郎ノ妹澄子ハ、余ノ暴力ニアイテ間モナク妊娠シ、近ゴロ一人ノ女児ヲ分娩《ぶんべん》シタリトカ。
――嗚呼! コノ女児コソ余ニトリテハ、コノ世ニ残スタダ一人ノ娘ナリ。娘ヨ! 余ガ娘ヨ。余ハココニ命ヲ落トストモ、余ガ恨ミハ汝《なんじ》ノ体内ニ於テ再生セン。娘ヨ! 汝成長ノアカツキハ必ズ余ノ遺志ヲツギ、余ノ恨ミヲ酬《むく》イヨ。余再ビ書記ス。余ノ敵ハ左ノ五人ナリ。樺山勝五郎、服部省吾、仙石雷蔵、神前伝右衛門、紫安欣子。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]城田伝三郎誌ス
ああ、なんという奇怪な遺書であろうか。分かった、分かった。これですべての事件は明らかになった。あの恐ろしい殺人鬼は、この城田伝三郎の遺志をついで、壁に書かれたこの五人の者に復讎《ふくしゆう》しようとしているのだ。
樺山勝五郎を初め、彼《か》の五人の者が今日の不思議な富をつくった原因も、これによってすべて明らかになった。
人造ダイヤモンド! なんという素晴らしい思いつきであろう。
しかし鉄光にとって、さらに、さらに意外な発見は、樺山勝五郎の妹澄子と、城田伝三郎とのいきさつである。これがもし事実とすれば、樺山勝五郎の姪《めい》こそは、城田伝三郎の娘であり、この燃ゆるような怨みの遺志をつぐべきただ一人の人物である。おお、そして勝五郎の姪とはだれあろう、あの冴子その人でないか。
冴子! あの冴子が――?
なんという恐ろしい欺瞞《ぎまん》だ。なんという素晴らしいお芝居だ! あの、虫も殺さぬ顔をした冴子が、こんどの恐ろしい殺人暦の元兇であろうとは!
しかし、そう言えば何もかも納得がゆく。紫安欣子を殺したのも冴子だ。あの場合人の疑いを起こさずに、欣子に近づき得たものは、冴子のほかにだれ一人ないではないか。次に鉄光自身に面会を求めたのも、彼が彼女にとって、ただ一人の邪魔者であったからであろう。
そう言えば、結城探偵に鉄光との面会を密告したのも彼女に違いないし、それが失敗したとなると乾分《こぶん》の者に命令して、鉄光の巣窟《そうくつ》まで尾行させ、そして鉄光を袋詰めにして、品川沖で海へ投げ込んだのも彼女の仕業なのだ。
なんという恐ろしい女だ。なんという利口な女だ! こうして、ただ一人の邪魔者を亡くした彼女は次には人々の疑いをさけるために、わざと自分で自分を脅迫してみせたのだ。
そして自ら死の寝台を作り、探偵たちに麻酔剤を飲ませ、そして自分は、服部新一をこの蛇屋敷に連れ込んで殺そうとしたのだ。すべてが辻褄《つじつま》が合っている。今までは彼女の美しさに眩惑《げんわく》され、彼女のかぶったしとやかな仮面に欺かれていたのだが、こうして事実が明らかになると、彼女の狡猾《こうかつ》な計画が、掌を指すように一々うなずけてくる。
鉄光は獣のように呻いた。激しい自嘲《じちよう》と怒りのために、彼は気も狂わんばかりだった。
「馬鹿! 馬鹿! 鉄光、貴様はなんという馬鹿な男だ。あんな小娘に欺かれ、翻弄《ほんろう》され、いい玩具《おもちや》になっていた貴様はなんというお人好しだ。たった今貴様は、あの女の奸計《かんけい》によってこの部屋へ閉じこめられながら、今のさきまであの女に救いを求めていた貴様は、なんという間抜けだ。大馬鹿野郎だ!」
彼は野獣のような怒りに眼を輝かせ、唇を慄《ふる》わせ、気違いのように真っ暗な部屋の中を歩き回っていた。
が、突然彼は、異様な臭気を感じて、ふと床の上に立ち止まった。
鼻を衝《つ》くような激しい臭気。埃の匂いか、否、違う。違う。涙を催しそうな、居たたまらない匂いだ。あっ! ガスの匂いだ。人間を窒息させるガスの匂いだ!
そうだ。その昔城田伝三郎も、このガスによって殺されたに違いない。その同じガスによって、今また、隼白鉄光を殺そうというのだ。
「うぬ」
鉄光は部屋の中を独楽《こま》のように走り回った。しかし四方の壁は、寸分の隙《すき》もない。鉄と樫《かし》の木で作られ、そして、恐ろしいガスの匂いは刻々として、彼の身辺にその濃度を加えて行く。
苦しい、息が詰まりそうだ! 鉄光は襟《えり》を外し、喘《あえ》ぐように新しい空気を求めた。その、彼の体を取り巻いて、死の匂いがだんだん高く濃くなりまさって行くのだった。
恐ろしき焼《や》き鏝《ごて》
それとほとんど同じ時刻である。
東京の他の一隅で、この事件と関連して、もう一つ恐ろしい事件が起こりつつあった。それは向島にある神前伝右衛門の、別邸の奥まった一室である。
その部屋の中央には伝右衛門が椅子《いす》にふんぞり返って、悠々《ゆうゆう》と煙草をくゆらしている。その傍らには一人の少女が不安そうな様子できょろきょろと辺りを見回していた。
「ね、ね、服部さんがお怪我をなすったというのはほんとうなんですの」
少女は声を慄わせ、哀願するように尋ねる。言うまでもなくそれは、蛇屋敷の番人の娘奈美江である。
「ほんとうだとも、だれが嘘《うそ》なんか言うもんか」
伝右衛門のその答は、しかし、この場合としては不似合いに落ち着いて、どこか毒々しい響きさえ帯びている。
「いったい、どこにいるんですの。あの方は――ね、お願いですから、早く逢わせてください。その怪我というのは重いんですの」
「そう、たいへん重い。あるいは今ごろは、もう死んでいるかもしれない」
「えッ!」
奈美江は紙のように白くなって、相手から二、三歩とびのいた。伝右衛門はしかし、相も変わらず煙草をくゆらせながら悠々として椅子の中にふんぞり返っている。
見ると、部屋の中には大きな暖炉が切ってあって、この季節としてはおかしいほど赤い火がかっかっと燃えていた。
そして、その石炭の中には大きな鏝《こて》がさし込んであって、その鏝は、今や真っ赤に焼けているのだった。
伝右衛門は煙草をくゆらしながら、なぜか、さっきからこの鏝から眼を離そうともしなかった。
「もう死んでいるかもしれないのですって?」
しばらくして、やっと奈美江は、切れ切れな声で、喘ぐようにそう言った。
「そんなに、そんなにたいへんな怪我なんですの。では、――では、一刻も早くあたしを連れて行ってください。あたしはあの人を看護しなければなりません。そしてもしまだ間に合うようだったら、あたしのこの一心であの人を救ってみせます」奈美江は、伝右衛門の膝《ひざ》にしがみつくようにして尋ねる。伝右衛門はようやく、唇からパイプを外した。
「ところが、残念ながらこのおれは、服部君がどこにいるか知らないのじゃ」
「えッ」
「まあ、そう驚くことはない。たぶん今ごろ、あの男がそんな目に遭《あ》っているだろうと想像するだけで、さて、どこで、どんな目に遭っているかは、このおれにも皆目《かいもく》見当がつかんのでな」
「まあ――」
奈美江はしかし、その言葉を聞くと幾分落ち着いた様子で、
「それじゃ、あたしをどうしてここへ連れておいでなすったの。あなたは、あたしをからかっていらっしゃるのね」
「からかっている? どうして、どうして、あんたにここへ来ていただいたのには、それだけの重大な理由があったからじゃ。しかし、ほんとうのことを言うと、あんたが素直に言うことを聞いてくれるかどうか分からなかったので、ちょっと服部君の名前を借用したまでじゃ」
「まあ」
奈美江は不安そうな低い叫び声をあげた。
服部新一が大怪我をしたという相手の言葉が、全く嘘であったことは分かったが、さてそれでは、いったいどんな用事があるというのだろう。
彼女は不安そうに、相手の顔から彼の視線をたどって、赤々と燃え上がっている暖炉の方に眼をやった。そしてそこに燃ゆる火と焼けている異様に大きな鏝を見ると、彼女はなぜか、ぞっと全身を慄わせた。
「ハハハハハ、あんたもあの鏝を見られたようじゃな。そうそう、あんたに用事があるというのはあの鏝のことでな。どうしてあの鏝が、あんなに焼けているか、あんたには分かるかね」
かすれたような、異様に残忍な声だ。その眼を見ると、何か血まみれになった小雀《こすずめ》を弄《もてあそ》んでいる野獣のような狂暴さが見える。
「あの鏝が――あれが、どうしたというんですの」
「あれでおまえさんの背中を焼こうというのさ。ほら、おまえさんの背中にあるあの刺青《いれずみ》――あれを焼き消してあげようというんだ」
「げっ」
奈美江はそれを聞くと、本能的にうしろに飛び退いて、一方の壁にピッタリと背を凭《もた》せかけた。
「何も驚くことはないて。おまえさんにとっても、あんな刺青を持っているということは、あまり好ましいことではないはずじゃて。ところがおれにはそれがいっそう好ましくないのじゃ。おまえさんは知るまいがその刺青はある暗号を解く一つの鍵《かぎ》になっている。ところがおれは、このごろその暗号を盗まれたのでな。もしその鍵も盗まれてしまうと、おれの秘密はすっかりそいつに奪われてしまうことになるのじゃ。そこでそいつがおまえさんに手をかけない前に、その刺青を消してしまおうというのじゃ。どうだ。分かったかな」伝右衛門はがらりと、パイプをテーブルの上に投げ出すと、やおら立ち上がって暖炉のそばへ立ち寄った。鏝はもう充分に真っ赤に焼けている。
伝右衛門はその柄《え》を握ると、にやりと狂暴な笑いを口辺に浮かべた。
最後の復讎
奈美江はそれを見ると真《ま》っ蒼《さお》になった。
今まで相手の地位を信じて、まさかそんな狂暴なことはすまいと思っていたのに、今彼の態度を見ると、相手が真剣であることが分かった。
あの恐ろしい焼き鏝を、自分の背中に当てようとしているのだ。自分の秘密を保ち、私欲を満足させるために、この男は他人の苦痛などはなんとも思わないらしい。
奈美江は絶望的な呻きを、咽喉《のど》の奥の方で立てた。彼女には今初めて、相手がこの淋《さび》しい向島の別邸を選んだ理由が分かってきた。付近に人家とてない淋しい人里離れたこの別荘の奥まった一室では、どんなに叫び声をあげても、他人の耳に入ることはないのだ。それに、さっき自動車から降りて、この部屋へ入るまでに気がついたことではあるが、この広い建物の中には、だれ一人、人らしい影は見られなかったことだ。思うに伝右衛門は、あらかじめ召使いに命じて、一時この邸の中を空っぽにさせたものだろう。
「助けてエ――助けてください。ああ、恐ろしい」奈美江は壁にしがみついたまま、襲いかかってくる伝右衛門の魔手から身を縮めた。
「フフフフフ、いまさらなんといったところで始まることじゃない。この別荘の中には、おれとおまえさんの二人きりしかいないのだからな。まあ、じたばたせずにおとなしくしているがいい。ナアニ、しばらくの辛抱だ。すぐ快くなるよ。な、その代わりお礼はたんまりする。しばらくおれの言うとおりになっているがいい」
荒々しい野獣のような鼻息が、次第次第に奈美江の方へ襲いかかってくる。その手には、白い焔をあげている恐ろしい焼き鏝が握られているのだ。
「アレ! 助けてエ!」
身を翻えして逃げようとする奈美江の手を、しっかりと伝右衛門がとらえた。
「まあさ、そう他人《ひと》をじらすものじゃない。おとなしくしていな。ほらほら、おとなしくしていないと危ないよ」
「何を――何をするのです。ああ、恐ろしい。そんなことが――そんなことが――」
必死となって、身をもがく奈美江の帯に伝右衛門の指が触れた。するすると帯が解かれる。
「あれ」
独楽《こま》のように舞いながら、奈美江は生命懸《いのちが》けで帯の一端をとらえた。
「そんな無法なことを――ああ、あなたはあたしを殺そうというのですね」
「殺す? フフ、なんなら殺しても構わないのだ。いや、殺してしまった方がいっそ後腹《あとばら》が病めなくていいのだ。それをそうしようとしないのは、むしろおれの慈悲じゃと思いなさい」
帯が解けて、着物が剥《は》がれた。無残にも白い肌が襦袢《じゆばん》の襟《えり》からこぼれかかる。
「ああ、ああ、あたしは殺される。殺される」
奈美江は苦しげに、喘ぐようにそれだけのことをつぶやいた。
と、そのまま気を失って、枯れ木のように床の上に倒れてしまった。
「フフフ、いい塩梅《あんばい》に気を失ったらしい。やれ、やれ、これで手術も少しは楽になろうというものだ」
伝右衛門は奈美江の体の上にのしかかると、残忍な微笑を浮かべながら、哀れな肉体の上から最後の一枚を剥ぎとった。
と、その下に現われたものは世にも奇怪な肌絵だった。
ああ、奈美江のような少女の肌に、こんな恐ろしい秘密があろうとだれが想像し得よう。真っ白な雪のような肌に、紫色に浮き上がっている奇怪な数聯《すうれん》の文字、あの大仕掛けな、人造ダイヤモンドのすべての秘密は、この数聯の文字の中に秘められているのだ。
伝右衛門はそれを見ると、満足らしい微笑を口に浮かべた。そして、いったん傍らに置いた焼《や》き鏝《ごて》を再び手に取り上げた。焼き鏝は白く熱して、かすかな焔さえ上げている。伝右衛門はそれを右手に取り直すと、今|将《まさ》にそれを相手の肌の上に押しつけようとした。と、その時である。どこかでズドンという砲音が聞こえた。
と、思うと、伝右衛門の体が突然前のめりに、ばったりと床の上に倒れた。と見ると、彼の胸からは間もなく、赤い血がだくだくとあふれ出した。
たった一発のもとに、彼は撃ち殺されてしまったのだ。
気を失った奈美江のそばに、伝右衛門が激しい最後の痙攣《けいれん》に襲われ始めた。そして間もなく、その体は石のように固くなってしまった。
そこへ静かに扉を開いて、二人の人物が入ってきた。その一人は、間違いもなく冴子である。彼女の手には、まだ薄煙の立っているピストルが握られている。
彼女は黙って、伝右衛門のそばにひざまずいたが、やがて、紙のように白い顔を連れの男の方へ振りむけた。
「どう? あたしの射撃の腕前は?」
連れの男は感嘆したように二、三度うなずく。この男の様子は、どこからどこまで服部新一とそっくりである。
奸悪《かんあく》な冴子が、いざと言えば、いつでも新一に罪を転嫁《てんか》することができるように、あらかじめ雇っておいた腹心の部下なのだ。
過ぐる夜、あの蛇屋敷で冴子とともに、鉄光の前でお芝居をしてみせたのもこの男だったし、また川崎のガラス製造工場で、仙石雷蔵を殺したのもこの男である。みんな冴子の命令なのだ。
「この死骸《しがい》はどうしましょう」
「そのまま、放っておいたらいいだろう。この男は四人のうちで一番|倖《しあわ》せだったよ。だって、たった一発のもとに、なんの苦痛もなく死ぬことができたのだからね」
冴子の白い顔は毒々しく落ち着いて、その美しい口辺には、今や疑いもなき殺人鬼の兇笑が刻まれている。
鉄光があの密室の苦痛の中で、初めて発見したように、あの恐るべき殺人鬼の正体は冴子だったのだ。
この虫も殺さぬ美しい容貌《ようぼう》を持った冴子! 彼女が恐ろしい吸血獣であろうなどと、どうして想像することができよう。そこに彼女の欺瞞《ぎまん》があり、そして、彼女の恐ろしい成功があったのだ。
「さあ、その娘さんを自動車の中へ運んでおくれ。あたしたちはもう一度、あの蛇屋敷へ帰らねばならないのだよ」
冴子は奈美江の白い腕を見ながら、復讎を果たしてしまった後の、やや懶《ものう》げな声音《こわね》でそう命令した。
焔の肉団
向島から雑司ヶ谷の蛇屋敷へ引き返すまで、冴子は自分でも名状しがたい激しい憂鬱《ゆううつ》に襲われて、一言も口を利《き》かなかった。
服部新一に似た部下のものも、彼女に気をかねて、黙りこくって自動車のクッションに身を凭《もた》せている。奈美江は気を失ったままぐったりと正体もなく横になっていた。
冴子は自分でも、この激しい憂鬱の理由がよく分かっていた。それは一種、悔恨にも似た深い自責の念だった。では彼女は、彼女の行なってきたその数々の罪業《ざいごう》を後悔しているのだろうか。否、否! 復讎に関するかぎり、彼女はなんの悔悟《かいご》も自責も感じていないのだ。
彼女が初めて、自分の両親に関する秘密を知り、父があの蛇屋敷で、悲惨な最期を遂げたことを知った日以来、彼女は魂を悪魔に売ってしまったのだ。
どんな罪業も、どんな流血の惨事も、彼女は眉根《まゆね》一つ動かすことなしに、平然として行なうことができる。それだのに、では、なぜ彼女が今かかる不可思議な憂鬱に捕らえられているのだろうか。
それは鉄光に対する彼女自身でも分からない不思議な感情だった。生命を賭《か》けて闘ってきた二人――そして、とうとうその末に得た彼女の勝利――その勝利の陰に、彼女は言うに言えない暗澹《あんたん》たる憂鬱を感じたのである。
自動車は間もなく、雑司ヶ谷の蛇屋敷へついた。彼らはまだ正体もなく突《つ》っ伏《ぷ》している奈美江を、番人小屋へ運び込むと、蛇屋敷の地下室へ入って行った。
「や、や、こんな所に人が死んでいる! こりゃ、ここの番人の爺やじゃないか!」
突然、新一に似た部下が頓狂《とんきよう》な声をあげた。
「叱《し》ッ! そんな大きな声を出すもんじゃないよ。それはあたしがやっつけたのさ。邪魔になるといけないからね」
冴子は爺さんの死体を跳び越えながら、平然としてそう言った。
地下室は間もなく、ばったりと行きどまりになった。しかし冴子が、その行きどまりの壁の一隅を押すと、突然そこにぽっかりと黒い洞穴《ほらあな》が口を開いた。
「さあ、そこにあるランプに火を点《つ》けて先に歩いておくれ。このトンネルは狭いから、気をつけなきゃいけないよ」
真っ暗な狭いトンネルは、この建物の壁と壁の間の空間を巧みに利用してあるとみえて、間もなくだんだん爪先《つまさき》登りになって行った。
かすかなランプの火を先に立てて、冴子は黙ってついて行く。その顔は蒼白く緊張して、時々|身慄《みぶる》いさえもするのだった。
トンネルはよほど高くなって、間もなくばったりと行き止まりになった。そこには、厚い鉄の扉がピッタリと閉まっている。その扉の向こう側こそ鉄光が幽閉されているはずの、あの密室になっているのだ。冴子はいったい、なんのためにこんなところへやってきたのか。
言うまでもない。彼女は一眼、自分と闘ってきたあの憎いしかし、そのくせ憎み切れない強敵、鉄光の最期のさまを見とどけたかったのだ。
「そこに踏み台があるだろう」
冴子はランプを持って立っている部下に命令した。
「その踏み台に登って、この扉の向こう側をのぞいておくれ。ほら、扉の上の方に小さな蝶番《ちようつがい》があるだろう。そこのところを押すと、小さな窓が開くはずだ。分かった? そう、じゃ中をのぞいてみておくれ」
部下の者は命令されたとおり、危なっかしい踏み台の上に上がると、小窓を開いて中をのぞき込んだ。
「何か見えて? だれかその部屋の中にいるのが見えて?」
「いいえ、なにしろ真っ暗なので――」
「もっと、そのランプを高くしてごらん!」
冴子がいら立たしそうに叫んだ。
「ねえ、中に男が二人倒れているはずだ。見えない? そんなはずがあるものか、もっとよく見てごらん」
部下の者は、言われるままに、ランプを高く持って部屋の中をのぞき込んだ。
異様なガスの臭気がはげしく鼻を衝く。しかし、部屋の中には何人《なんぴと》の姿も見えない。彼はランプを持ち替えると、真っ暗な他の一隅に眼をやった。
と、突然彼はわっ[#「わっ」に傍点]と恐ろしい悲鳴をあげた。思いもかけぬ無気味な髑髏《どくろ》の姿が、彼の眼に入ったのだ。彼はその無念そうな、白い顔を見ると、もう一度、
「うわッ!」
と叫んで、あわてて踏み台から跳び降りようとした。
そのとたん、危なっかしい踏み台がぐらぐらと左右に揺れた。
「あれ、危ない!」
あわてて、跳びのこうとする冴子の頭の上へ、真っ逆さまにランプが落ちてきた。
「あっ!」
という暇もない。
油がたちまち、彼女の全身の上に流れた。そして火がパッとその油へ燃え移った。
「アレ!」
彼女は生不動《いきふどう》のように、全身焔の塊《かたまり》となって部屋じゅうを転げ回る。
そのたびに、火が廊下の所々に燃え移った。
あまり突然の出来事に、部下の者は呆然《ぼうぜん》として、どうしていいか分からないらしい。
「畜生! 畜生! おまえはあたしを見殺しにする気かい。覚えておいで、ああ、苦しい。助けてエ! あつッ! あつッ!」
焔と化した髪の毛からパッと火の粉が散って、異様な香《か》がはげしく鼻を打つ。
肉の焼ける匂いだ。
「苦しい。ああ、苦しい、助けてエ!」
冴子は何を思ったのか、突然密室への扉を開くと、いっさんにその中へかけ込んだ。彼女が動くたびに焔が散って、見る見るそこらじゅう一面の火の海となった。
――番小屋でふと正気に返った奈美江は、不思議そうに辺りの様子を見回した。そして、そこが自分の住居であることを知ると、ほっとしたように胸をなで下ろした。
それではさっきまでの、あの恐ろしい出来事は皆夢だったのだろうか。彼女はよろよろと小屋を出ると、だれが自分を救ってくれたのだろうと、きょろきょろ辺りを見回した。と、その時、向こうの雑草の中に横たわっている二人の人影が見えたので、彼女は足早やにその方へ近づいて行った。
「ああ、奈美江さん、いいところへ来てくれました」そう声をかけたのは鉄光である。
「服部君を介抱してやってください。すっかりやっつけられているようだが、まだ息はある。介抱によっては助かるだろう。さあ、手をかしてください」
奈美江はそう言われて傍らを見ると、そこには服部新一が、真っ白な顔をして倒れているのだった。
「まあ」
奈美江はあわてて駆け寄ると、新一の頭を膝の上に抱き上げた。
あの、蛇屋敷の窓という窓が、奇怪な焔《ほのお》を吐き出し始めたのはちょうどそのころだった。
「あっ! 蛇屋敷が焼ける。だれがあんなところへ火をつけたのだ」
鉄光はよろよろと立ち上がったが、すぐまた、草の上にばったりと倒れた。
火は、見る見るうちに屋敷中に燃え広がって行った。そしてあの殺人鬼の体と、人造ダイヤモンドの秘密を包んだまま、やがて一団の焔と化して、そして間もなく灰となり果ててしまった。
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[#見出し] 女王蜂
その女
大理石ずくめのホテルの大玄関をのぼって行くとき、そこにある大姿見にちらとうつった自分の姿を見ると、畔柳半三郎《あぜやぎはんざぶろう》はさすがになんともいいようのない苦笑を口辺に浮かべた。
長いこと、手を通したことのないタキシードを着込んだ自分の姿も姿だが、それよりも第一、今夜自分の帯びている妙な使命を考えると、くすぐったいような、気恥ずかしいような、我ながらあきれはてる次第で、――はてな、自分にもまだ、こんな若々しい興奮が残っていたのかなと、しかしそれがまんざら不愉快ではなく、どうしてどうして、その反対に妙に気が弾《はず》んでいるのだが、そういう気持ちを打ち消すように、彼はわざとあらあらしい歩調で、グリル・ルームの方へ下りて行った。
半三郎にとっては、ちょうどほどよい時刻であったらしい。七色のテープと、金銀のモールと、そればかりはわざと日本趣味にこしらえたのだろう、つなぎ団子《だんご》の紅色提灯《べにいろぢようちん》と飾りたてられた大広間の中には、早や、紫色の煙が立ちこめて、陽気なジャズの音と、にぎやかな、そのくせ節度をはずさない笑い声が満ちていた。
半三郎がその部屋の入り口まで来て、ふと足を止めたのは、もう何年にも踏み込んだことのない、こうした空気にちょっと気おくれを感じたためでもあったらしいが、しかしそれにはもう一つのほんとうの理由がないのでもなかった。彼は上衣のポケットから、銀のシガレットケースを取り出すと、フランス製の細巻き煙草《たばこ》を一本抜き取って、それに火をつけると、ゆっくり、ほの白い煙を吐き出した。そのようすを見ると、部屋へ踏み込む前に、彼には一応、中にいるひとびとのあいだあいだを物色しておく必要があったためと思われる。
たっぷりと一本の煙草を半分も喫ってしまったころであろう、ようやく彼の姿を見つけたらしいボーイが、急ぎ足に近づいてきた。
「どうぞ、こちらへ」
半三郎が取り出して見せたチケットを、しかし、このボーイはほんの形式的に一瞥《いちべつ》しただけで、奥まった、隅《すみ》のほうのテーブルへまっすぐに彼を案内した。半三郎はテーブルにつくと、喫いかけの煙草を灰皿《はいざら》のなかでもみ消して、さてあらためて鷹揚《おうよう》に部屋のなかを見回した。長いあいだ遠ざかっていた世界とはいえ、こういう場合における彼の態度は板についたもので、その物腰なり、顔色なりには寸分のすきも見られない。ボーイはこのようすを見ると、やや安心したように、そのあいだ、テーブル掛けを直したり、花瓶《かびん》の位置を置きかえたりしていたが、半三郎がいま無意識的にシガレットケースを取り出したのを見ると、急いでそばへよってきてマッチを擦《す》った。その火を煙草に移すために、当然二人の顔がすれすれに近づいたが、そのとき、稲妻のように速い視線が二人のあいだにかわされた。
「右隣のテーブル」
ボーイはそれだけのことを、やっと聴きとれるくらいの速さでささやいたかと思うと、すぐマッチの火を消して反《そ》り身になった。
「何にいたしましょうか」
「そうだね。なにか軽い飲み物をもらおうか」
半三郎はタイプライターで打ったメニューをいじくりながら、結局ホットクラレットを注文した。
緑色のズボンに、赤い上衣を着て、赤と黒とのふちなし帽子をちょっと、小意気に横っちょにかぶった、まだ十八、九の、なかなか美貌《びぼう》のボーイだが、半三郎はその後ろ姿を見送りながら、にやりとくすぐったそうに笑いを口もとに刻んだ。もしそばに注意ぶかい観察者がいて、いまの二人の視線に気がつき、ボーイのささやいた言葉を聞いたとしたら、なにかこの二人が容易ならぬ陰謀でもたくらんでいるように思うにちがいない。と、そう考えると半三郎は、滑稽《こつけい》なくらい愉快になってくるのだった。
もっとも、実際において、ある種の陰謀をたくらんでいないとはいえない今夜の彼の立場であった。――というのは、中年を過ぎて、とっくの昔に読者からも雑誌社からも存在を忘れられてしまったこの時代遅れの小説家は、それゆえにいっそう世間に対して臆病《おくびよう》になってしまって、このごろめったに書斎から外へ出たこともないというのになにを思ってか五年も前に着たきりのタキシードなんか着込んで、ところもあろうにホテルの創立何十年かの記念舞踏会へ姿を現わそうというのだから、それにはそれ相当の理由がなければならないはずである。しかも、その理由というのが、ある若い、美しい令嬢を見に――というよりも、確かめに――というのだから、この時代遅れの小説家としてははなはだ滑稽である。
近藤富士郎《こんどうふじろう》――というのが、さっきのボーイの名前なのであるが、万事その男の方寸から出ていた。というのは二、三日前にこの富士郎が彼のもとを訪れてきて、突然切り出したことには、
「先生、先生が昔畔柳プロダクションをやっておられたころ、先生のところで働いていた紅沢千鶴《あかざわちず》という女を先生は覚えていますか?」
畔柳半三郎がプロダクションなんか起こして、怪しげな映画を作っていたのは、もうかれこれ五、六年も以前の話である。その当時から不良性を帯びていた富士郎は、当時まだやっと十三か四の少年にちがいなかったのだが、将来映画界の大スターを夢みて、このプロダクションによく出入りをしていた。そういう関係で、いまでも彼は時々半三郎のもとを訪れるのであるが、さて、突然彼からこんなふうな質問を切り出されてみると、半三郎は思わず顔を赧《あか》らめるのだった。
当時はまだ半三郎の文名も隆々たるものがあったし、ちょうど親がのこしてくれた遺産が、彼の自由になるように都合よく転げこんできたので、なにかしずには生きていられない青年の血気から、とうとう怪しげなプロダクションなんか起こして、若い男女をさかんにその周囲に集めていたものだが、その結果は士族の商法で、経済的に行きづまってしまったばかりか、風紀上にもいろんな問題を引き起こしたそのあげくの果てが、ある忌まわしい事件に引っかかって、プロダクションばかりか、彼自身の生活までめちゃめちゃにたたきつぶされた。その苦い思い出を境として半三郎は社会の表面から沈澱《ちんでん》してしまったのである。
しかし、当時まだやっと十三や四の少年だった富士郎は、事件の表面はともかく、半三郎の魂を根こそぎ枯らせてしまった深いいきさつを知っているはずがなかった。だから、その当時の、しかも事件の中心をなした女の名を口に出すことが、どんなに相手の心を苦しめるか、それに気がつかなかったのも無理とは言えない。
「蛇《へび》の眼を持った女――たしか、そういうあだながありましたね」
富士郎は相手の気持ちなど考える余裕もなく話し出した。
「なにしろ、当時僕はまだほんの子供だったし、向こうはあれでうちの大スターだったので、僕なんか相手にもしてもらえなかったし、口を利《き》いたこともなかったくらいですが、それでも僕はあの女の顔だけは不思議に忘れません。蛇の眼といわれた、あの眼が特徴で、油のなかに真珠を溶かしたような、不思議な光沢を持った眼でしたが、それが物をいうとき、凝《じ》っと相手の瞳《ひとみ》のなかをのぞきこんで動かない――その眼つきだけでも、僕は生涯《しようがい》あの女を忘れないでしょう。ところが先生、あの女がホテルで外人を撃ってつかまったのは、たしか五年前のことだったと覚えていますが、いつ監獄から出てきたのでしょうね」
「さあね」
と、半三郎は口にくわえていたマドロスパイプを、思わず取り落としそうになりながら、相手がなぜそんなことを聞こうとするのかを確かめるように、じっと美しい白い額《ひたい》を見た。
「たしか去年あたり出てきたはずだと覚えているが、きみはまたなぜそんなことを訊《き》くんだね」
「いえね、このごろときどきあの女に逢《あ》うのです。しかもそれがおかしいのですよ。先生は近ごろあの女にお逢いになりましたか」
「いいや、あれきり逢わない。なんでも監獄を出てから、上海《シヤンハイ》へ渡って向こうで死んだという話を、いつか、だれからか聞いたことがあるが」
「それは間違いです。あの女はたしかに生きていますよ。もっとも、それが少し妙なのですがね」
富士郎の話すところによると、このごろホテルのグリルへときどき踊りにくる女のなかに、紅沢千鶴に違いないと思われるのが一人いる。前にも言ったように、彼はその女と口を利いたこともないし、向こうのほうではまるきり彼を知らないのだが、彼のほうでは、例の蛇の目の印象からたしかにあの女に違いないというのであった。
「それが妙なのは、ひどく羽振《はぶ》りがよさそうなのですよ。それに名前も違っていますしね」
「なら、別に不思議はないさ」
半三郎はなにか別のことを考えながら、
「死んだというのは間違いだったのだろう。あの女のことだから、金持ちのパトロンを見つけるくらいの腕は十分あるからね。それに、名前の違っているのだって不思議はないさ。あんな事件で世間に知れ渡っている悪名だもの。もしそのままの名前で現われたら、むしろ、そのほうが不思議なくらいのものだよ」
半三郎としては、できるだけこの話題から早く逃れたかったので、無愛想というよりは、むしろそっけないくらいの調子でそう説明してのけたが、しかし、それだけでは、富士郎の異常な熱心はなかなか冷まされそうにもなかった。この男はこの男で、なにか別の思惑があって、最近彼の眼前に現われたこの女を十分探究する必要があるらしい。ホテルのボーイをやっているのは、ほんの表面だけで、この男の化粧代や、衣服代や、さてはいまもネクタイに飾っている大粒のダイヤモンドなどがどこから出ているか、半三郎も内々知らないではなかった。つまり彼は近く自分の餌食《えじき》になりそうな女の弱点を、できるだけはっきり知っておく必要があるのに違いないのだ。
「いえね、それが単に名前が変わっているくらいなら、僕もいっこう驚きはしないのですがね」
と富士郎は白い額に異様な熱心を現わしながら、
「その名前というのがどうも腑《ふ》に落ちないのです。ほら、前の枢密院《すうみついん》議長の鷲尾《わしお》子爵ですね、その鷲尾子爵の令嬢で、鷲尾|芙蓉子《ふよこ》と名乗っているのです。しかも、それが嘘《うそ》と思えない証拠には、いつも子爵家の自動車でやってきますし、時々|邸《やしき》のほうへ電話をかけたりしているのです。ともかく、鷲尾家を知っている人々の眼にも、十分鷲尾令嬢でとおっているのですが、それでいて、僕が見るとどうも紅沢千鶴としか思えないのです。先生は紅沢千鶴のことはよく御存じだと思いますが、あの女はなにか鷲尾家と関係があったのですか」
「まさか」
半三郎はむしろ、この突飛な質問に驚いたくらいで、むろん彼の知っていた無名女優の紅沢千鶴が、前の枢密院議長と関係などあろうはずがなかった。
「それならたぶんきみの勘違いだろうよ」
半三郎は気の毒そうな苦笑を洩《も》らしながら、
「あの女がいかに化けるのがうまいといったところでまさか子爵家の令嬢にはなれないからね」
しかし、そう言った言葉のすぐそのあとから、彼はなにかしらどきりとするような疑いにぶつかって思わず愕然《がくぜん》とした。むろんそれは、不良少年の富士郎などに打ち明けるべき性質のものではなかったし、彼自身そんなことを信じる気にはとうていなれないのであったが、しかし、まさかと否定するその後から、なにかしら、得体の知れぬ疑いがもくもくと頭をもたげてくる。
「なんと言ったかね。前の枢密院議長で鷲尾子爵だね。その令嬢の芙蓉子さんというのかね」
半三郎はそこでパイプを詰めかえると、ものの五分間あまりも、ぼんやりと虚空《こくう》に瞳《ひとみ》をすえたまま、何事か深く考え込んでいたが、突然からりとパイプを投げ出すと、富士郎のほうを振りかえっていった。
「そいじゃ、一つ僕がその令嬢というのを検分しようか。なに、きみの勘違いに違いないのだが、紅沢千鶴に似ている女と言や、ちょっと逢ってみたくもあるからね」
富士郎は富士郎で、なにかほかの考えごとに忙しかったのだが、この言葉を聞くとややたじろぎ気味で、
「ええ、先生が来てくださるのですって?」
と、あわててそう繰り返したが、さて、なにがこう急に相手を熱心にさせたものか、その真意を知ろうとするように、じっと半三郎をのぞき込んだ。
もう一人の監視人
半三郎はたっぷりと半時間待たされたろう。
こういう場所における、一人ぽっちの客ほどつまらないものはない。もっとも半三郎にしてみれば、その気にさえなれば、パートナーを見つけるくらい造作《ぞうさ》ないことだし、昔とった杵柄《きねづか》で、こういう場合におけるエチケットはよく心得ているつもりであるが、これから間もなく、ちょっとした冒険を試みようとしている彼にとっては、いまほかにパートナーを選んでおくということはあとの邪魔になるばかりで、退屈でもしばらく、一人でいるほうが好都合なのであった。
ボーイ姿の富士郎が注文をきくふうをして何度めかにそばに近づいてきた。その眼の色を見た半三郎は、すぐ彼の言おうとしていることが反射的に了解された。素早い視線をかわしあったのち、半三郎は何気ない眼を入り口のほうへやった。
いましもそこに姿を現わした女というのは、日本人にしては背の高過ぎる、四肢《しし》の均整のよくとれた体つきをしていて、肩幅など、どちらかといえは広過ぎるくらいの立派な体格をしていた。それが最近の流行なのか、やや黒味を帯びた鳶色《とびいろ》のドレスを着て少し反《そ》り身になった胸の上には、大粒の真珠をつないだ頸飾《くびかざ》りをかけていた。身のまわりの装飾品といえばただそれだけなのだが、それがかえって、この女全体を上品に浮きたたせて、好みのほどもしのばれるのである。
彼女はちょっと入り口に立ち止まって、素早い、しかし無礼でない一瞥《いちべつ》でぐるりと部屋のなかを一とおり見まわしたが、やがて体を半分ほど斜めうしろに振り返った。すると、この時まで女の影に隠れてよく見えなかったのだが、そこに背の高い西洋人が立っていて、女に腕を貸すと、二人はそのままとんとん軽く碁盤《ごばん》目の床を踏んで半三郎のテーブルのほうへ近づいてきた。
富士郎はそれを見ると、つと半三郎のそばを離れてそのほうへ行った。このことは半三郎にとってはなによりもの幸いだった。というのは、このとき彼の顔をよく注意して見たら、そこに隠しきれない驚愕《きようがく》の色を、はっきりと見ることができたからである。彼は女の姿が部屋の入り口に現われた瞬間から、なにか妙な気おくれを感じていた。それがいよいよ女が自分のほうへ近づいてくるのを見ると、不安だの驚愕だのという感情よりも、むしろ恐怖に似たものをはげしく心のなかで味わった。いまにも女が自分を見つけて跳びかかってきそうな、そんな馬鹿馬鹿しい妄想《もうそう》にさえとらえられたものである。
しかし、やがて富士郎が女のテーブルの用を聞いて、ふたたび彼のほうへやってきたときには、さすがに彼は日ごろの冷静に立ちかえっていた。彼が指にはさんでいた煙草を見つけて、富士郎がそれに火をつけてやりながら、
「いかがですか?」
と意味ありげに訊いたのに対しても、
「そうね」
と、ごく冷淡に答えるだけの余裕は取りもどしていた。
間もなく、正面の楽師団のほうからオーケストラの音がおこって、人々はふらふらとテーブルから立ち上がった。それを見ると、隣のテーブルでもまず西洋人のほうから立ち上がって、女に手を貸そうとした。最初女はちょっとためらったように、豊かな頬《ほお》に片えくぼをうかべて相手の顔を見ていたが、すぐ悪びれない態度でそれに応じた。
二人とも鮮やかなステップを踏みながら、間もなく人々のなかへまぎれ込んで行った。もうこの時分には、さすがにそういつまでも節度を保っているわけにもゆかなかったとみえて、踊っている人々のステップにもだいぶ狂いが見えてきた。なかに一組、独楽《こま》のように敏捷《びんしよう》に回転しながら、たくみに人々のあいだを踊り抜けてゆく若い男女があったが、見ていると、その一組は、故意か偶然か、たえず鷲尾令嬢の一組のそばにつきまとって離れないのである。そして鷲尾令嬢のそばを摺《す》り抜けるごとに青年のほうからおどけたようすで挨拶《あいさつ》したり、ときには無遠慮に近い言葉をかけたりした。そのたびに西洋人のほうは一口|愛嬌《あいきよう》のある態度で受けこたえしていたが、令嬢はといえば、相も変わらず片えくぼを刻んだまま、そのほうに視線をくれようともしなかった。
やがて一曲終わって、人々はまたぞろぞろとめいめいのテーブルへ引き揚げてきた。それから、そういう踊りが何回となく繰り返された。そして、その何度目かに、半三郎にとってはまたとない機会がやってきたのである。ちょうどその少し以前から、座を外していた鷲尾令嬢の相手は、ダンスが始まる時刻になっても、どうしたものか姿を見せようとはしなかった。もうそのころには、場内もすっかり乱れていたし、それにもっと好都合なことには、半三郎自身そろそろほどよく酔いがまわってきていたことである。彼は思いきって席を立つと、つと鷲尾令嬢の前に近づいた。
「一つ、お相手を願えませんでしょうか」
この言葉はできるだけ小声に、そして最上級の慇懃《いんぎん》さをこめていわれたものであるが、それにもかかわらず、このとき芙蓉子の驚愕は言語に絶していた。一瞬間彼女は、棒をのんだような表情で、例の蛇《へび》の目でじっと半三郎の瞳《ひとみ》のなかをのぞきこんでいたが、やがて、その顔はまるで悪戯《いたずら》を発見された子供のような表情に変わっていった。しかしそれも一瞬間のことで、その次の刹那《せつな》には、ぬぐったような無表情にかえると、突然|憤《おこ》ったように立ち上がって彼の腕に手を貸した。
「どこかでお眼にかかったことがあるような気がしますが、僕の思い違いでしょうか」
やがてほどよいステップを踏みながら、人々のなかにまぎれ込むと、半三郎はふと相手の耳のなかにささやきかけた。
「いいえ」
と女はきっぱりとした声で、
「それは思い違いでございますわ。もっとも私のほうではよく先生を存じあげておりますけれど」
「おや」
と半三郎は軽い驚きをこめた声で訊《き》きかえした。
「それは光栄ですな。でもお眼にかかったこともない僕を、どうして御存じでいらっしゃいますか」
「先生のお写真をよく方々の雑誌の口絵で拝見するんですもの」
そう言ってから彼女は急に思いついたように付け加えた。
「さっきはほんとうに驚きましたわ。先生のような方が、突然私の前に立ってお申し込みをなさるんですもの」
しかし、この言いわけめいた言葉は、この場合まことにふさわしからぬ言葉であったと同時に、いっそう相手の疑いを深くするものでしかなかった。これが五、六年以前の、十分自信を持っていた当時の畔柳半三郎ならば、この言葉で誤魔化《ごまか》されてしまったかもしれないのだが、この二、三年来、雑誌の口絵はおろかなこと、名前さえ出したことのない半三郎には、まことにまずい弁解でしかなかった。
半三郎はなにかこのことについて言おうとした。が、その言葉は口を出る前に、ほかの事件のためにさえぎられてしまった。というのは、またしてもさっきの若い男女の一組が、うるさく芙蓉子の周囲につきまとってきたからである。
「御存じなのですか。あの連中を」
半三郎はうるさそうに顔をしかめながらそう尋ねた。
「いいえ、いっこう――もっとも向こうのほうでは知っているのかもしれませんけれど」
この終わりのほうの言葉に、女はとくに力を入れたように思われた。やがて、そうしているうちに、オーケストラは一曲終わって、それまで踊っていた人々は、めいめい互いに拍手しながら、思い思いの席に帰っていった。半三郎も女の手をとって、その席へ送っていったが、するとそこには、依然としてあの外人の姿は見えなくて、そのかわりに富士郎でないほかのボーイが、なにか紙片のようなものを持って待っていた。芙蓉子はそれを受け取ると、ちょっと半三郎のほうに目礼して、急いで中身に目をとおしたが、そのままに紙片は掌のなかに丸めこんでなにか二口三口ボーイにささやいていた。
たぶんそれは、連れの外人に言いのこす言葉を頼んだのに違いない。彼女はボーイがうなずくのを尻目《しりめ》にかけて急ぎ足で部屋を出て行った。
この場合半三郎としては、後をつけて行きたいのは、やまやまであった。
しかし、たったいま、素知らぬ顔で、いっしょに踊ったあとで、いままたそのあとを尾行してゆくのはなにがなんでもあまり後ろめたい気持ちがしたので、心ならずもそのままひかえていたのである。
ところが、半三郎がかくして優柔不断に居残っているあいだに、もう一人の別の男がこっそりと彼女のあとをつけていた。それは、さっきからうるさく彼女の周囲につきまとっていた若い男女の一組のうちの青年のほうで、彼は女が出ていくのを見ると、素早くそのあとについていった。
女はグリル・ルームを出ると、まっすぐに携帯品預かり所のほうへ歩いてゆく。
そのあとを見えがくれについてゆく青年の眼には、ふと、彼女を待ち合わせているらしい男の姿が眼についた。それは、四十を三つ四つ越えたかと思われる、色の浅黒い、痩《や》せこけた紳士で、なにか心配事があるように、片手に握った手袋をひらひらさせながら女の近づいてくるのを待っていた。
そのそばまで行くと、女はなにか早口に男に尋ねていたが、それに対する男の答えを聞くと、急に真《ま》っ蒼《さお》になって、二、三歩後へよろめいた。
それをまた男のほうから叱《しか》りつけるようにして、早口になにか言っていたが、やがて女の外套《がいとう》を取り出して着せてやると、その腕をとって急ぎ足でホテルを出て行った。あとをつけていた青年は、二人の後ろ姿を見送りながら、ちょっとしばらくのあいだ考えこんでいたが、すぐ思い切ったように、自分も預けてあった外套を取り出すと、急ぎ足にあとをつけていったのである。
青白き貴公子
小石川|音羽《おとわ》の通りから関口台町《せきぐちだいまち》のほうへのぼってゆく、滑らかな坂道を曲がり角につきあたると、そこの左わきに最近できた赤い屋根の瀟洒《しようしや》な建物が建っている。
外から見ると、卵色の壁と赤い屋根が、いかにもほどよく調和して、よく見受ける文化ハウス式なちゃち[#「ちゃち」に傍点]な感じではなしに、むしろ古風な、落ち着いた印象を人々に与える。
この建物の建っている屋敷は、ずいぶん広大なもので、関口台町の通りから、もう一方は江戸川公園の上のほうまでつづいているのである。この卵色の建物の屋上の、サン・ルームめいたガラス張りの部屋のなかには、一人の青年がドレシングガウンのままで、さっきから部屋のなかをあちらこちらと歩きまわっていた。二十七、八の、色の抜けるように白い、態度なり表情なりにどこか外国人くさい匂《にお》いのする青年であった。それもそのはず、井汲譲治《いくみじようじ》――というのがこの青年の名前であるが――は二十三の年にイギリスへ渡って、二十八の年になるまで足かけ六年というものを、あの物堅いイギリスの上流家庭で教育を受けてきたのである。
そこで彼は、イギリス人の一面のみしか学んでこなかった。すなわち彼らの持つスポーツ精神、諧謔《かいぎやく》趣味などは生来彼の性分に合わなかったとみえ、彼が得てきたものは、持って生まれた孤独的な魂にますます磨きをかけてきたぐらいのものである。
彼は帰ってくるとすぐに邸内の一隅《いちぐう》に、この卵色の建物を建てて、そのなかに固く引きこもってしまった。というのは、彼がその臨終に間に合うようにと、大急ぎで帰ってきたにもかかわらず、彼の父の、有名な千万長者の井汲|闊造《かつぞう》はすでに亡くなっていたので、いまや彼は、この莫大《ばくだい》な財産を、だれにはばかるところなく、自由にすることができたからである。
彼は待ちくたびれたように、時々サン・ルームのガラス窓から関口台町の通りをのぞいてみた。しかし、待っている人物の姿はなかなかやってこないとみえて、そのたびに彼はいっそういらいらしながら、部屋のなかを歩きまわった。
そして、時に思い出したようにテーブルのそばに立ち止まっては、その上に飾ってある三枚の写真に眼を落とすのである。この写真というのが、なかなか注目に値するのだ。というのは、その三枚の写真の主というのが、いずれも二つ三つずつ年齢において異なっているし、服装も同じではないのだが、どう見ても同じ女を写したものとしか思えないのだ。
もし諸君が、この三枚の写真についている、一つ一つの説明書を一瞥《いちべつ》すれば、この青白き貴公子が、はたしてこの物語の女主人公に大いに関係があることがわかるだろう。
一番右の一番若いころの写真の説明――
紅沢千鶴――畔柳プロダクション時代
大正十五年八月ごろ写す。
次の説明――
紅沢千鶴――K――刑務所時代
昭和三年十二月二十日写す。
最後の説明――
鷲尾芙蓉子――現在
昭和六年二月一日写す。
この説明のとおり、三枚の写真のうち二枚まで紅沢千鶴の写真で、あと一枚が鷲尾芙蓉子の写真なのである。ところが、もしこの三枚の写真の主のなかに違ったところを発見しろといわれれば、だれしも非常な困難を感ずるに違いない。
譲治はこの写真を一とおり見比べたのち、思い出したようにポケットから一枚のカードを取り出した。
そして、そのなかにあるどんな誤謬《ごびゆう》をも発見してみせるという意気込みで、しばらく一心にカードの面をながめていたが、やがて、急に一種の憤怒《ふんぬ》を感じるように、ポイとそのカードをテーブルの上に投げだした。
われわれの主人公の奇怪な正体を知る上において、このカードはなかなか便利である。
ここにちょっと写しとってみよう。
紅沢千鶴
元、畔柳プロダクション女優。
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昭和二年四月十五日、Gホテルにおける外人|狙撃《そげき》事件において入獄、同五年八月三十一日出獄。爾来《じらい》行方不明、上海《シヤンハイ》にて客死せりとの風評あり。
鷲尾芙蓉子
前枢密院議長鷲尾子爵令嬢。
昭和二年四月十五日ごろより同年九月三十日ごろまで、シナ旅行と称して家をあけたるほかは絶対に怪しむべき節なし。ただしこのシナ旅行には種々の疑問あり、だれ一人彼女をシナにて見かけたるものなく、シナより便りを得たるものもなし。船客名簿にもその名を発見することを得ず。
[#ここで字下げ終わり]
つまり、このカードを比較してみれば、すぐにも分かるとおり、紅沢千鶴がK――刑務所に服役中の期間も、鷲尾芙蓉子は立派に鷲尾家に生活していたのである。したがって、この二人が同じ人間であることは絶対にあり得ない。
ただ疑問とするところは、紅沢千鶴の入獄のはじめごろ鷲尾芙蓉子が居所を曖昧《あいまい》にしているのであるが、それとても、お金持ちの娘さんの、なにか秘密を要する旅行と解釈すれば、そうむずかしく考えるにも及ぶまい。
それにもかかわらず、井汲譲治があくまでもこの事件を探究しようと決心しているのには、深い理由がある。それはただ、一通の手紙ではあったが。
だが、ちょうどその時、彼の待ちくたびれていた客がようやくやってきた。
見るとそれは、昨夜ホテルの舞踏会で、しつこく芙蓉子に付きまとっていたあの青年に違いなかった。
「どうしたのだ。島津《しまづ》、ひどく遅いではないか」
譲治は相手の顔を見ると、テーブルの上のものを片づけながら、むずかしい顔をしてそうきめつけた。
「失敬、失敬、なにしろたいへんなことができたのでね、ちょっと、ほかを回っていたのさ」
島津はそういいながら、いかにも急いで来たというふうに、額《ひたい》の汗をぬぐいながら、どっかとそばの椅子《いす》に腰をおろした。
「そのたいへんという、きみの電話を聞いたから、いままで待っていたのだが」
と、そこで気がついたように、譲治は棚《たな》からソーダ・サイフォンを取り出すと、それにウイスキーを割ってやりながら、
「なにか、昨夜の舞踏会で発見することがあったかね」
「ウム、まあ」
と島津はわざと言葉をにごして、
「それよりもきみに訊きたいのだが、そもそもこんどのこの事件を捲《ま》きおこした女、な、ほら、K――刑務所で、紅沢千鶴といっしょに服役していたという女さ。あの女の顔を、きみは見たことがあるかね」
「ウム、逢《あ》ったことはないが一度玄関|際《ぎわ》で追い返すところを見たことがある。なにしろ僕のフィアンセに対して怪《け》しからんことを申し立てて来るのだから逢う気にはなれなかったのでね」
「きみはいまでも、その女の申し立てを嘘《うそ》だと思っているのかね。ほら、その女の手紙にあった、紅沢千鶴ならば、右の肩に大きな牡丹型《ぼたんがた》の痣《あざ》があるという、――その同じ痣を芙蓉子さんの肩に発見しても、きみはやはりその女の言葉を疑っているのかね」
「どうして、今ごろになってそんなことを訊くんだね」
譲治はおこったように、相手の顔を見下ろして、
「だから、きみに頼んで、探偵《たんてい》の真似《まね》までしてもらっているのじゃないか」
「まあ、いいさ、きみがその女の顔を覚えているというなら幸いだ。実はね、昨夜ホテルの帰りに芙蓉子さんの後を尾行したんだよ。相手は芙蓉子さんと例の木場《きば》のやつさ」
「木場?」
譲治はその名を聞くと、一種の嫌悪《けんお》の情にたえぬように顔をしかめた。
「そうさ、きみのきらいな芙蓉子さんの後見人の木場といっしょさ。なんでも木場のやつが急用で芙蓉子さんを迎えに来たらしい。で、僕も自動車でそのあとを尾行したのだが、芝公園の付近でまんまと見失ってしまった」
「なんだ。見失ったのか。それじゃなんにもならないじゃないか」
「そうさ、それで昨夜はそのまま引き揚げてきたのだが、今朝になって新聞でたいへんなことを発見したのだ」
島津はそう言いながら、ポケットから皺《しわ》くちゃになった一枚の新聞を取り出して、その三面記事を相手の前につきつけた。見ると、それはほんの五行ぐらいの短い記事である。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
芝公園の他殺死体――。今暁《こんぎよう》二時ごろ芝公園内において、一見三十歳前後の女の死体が発見された。死因は背後より鋭利なる刃物にて刺されたものらしく、兇行時間は昨夜十一時過ぎと推定さる。云々。
[#ここで字下げ終わり]
報道はいたって簡単なものである。
譲治はその記事がなにを意味するかよく分からなかったが、急に恐ろしい不安がこみ上げてくるのを感じた。
「きみが、芙蓉子さんを脅迫しようとした女の顔を覚えているなら幸いだが……」
そういいながら、島津は一枚の写真を取り出して見せた。
「今朝警察へまわって、死体の写真を写してもらってきたのさ。死体の顔だからだいぶ違っていることと思うが、きみには見覚えがないかね」
譲治はその写真を手にすると、穴のあくほどその顔を凝視していた。やがて、彼の顔には見る見るはげしい驚きと不安がひろがって行った。
やがて、彼はきれぎれな声音《こわね》で言ったのである。
「フム――この女だ、たしかにこの女に違いない」
譲治はそれきり、写真を取り落としたことも知らずに、うつろの眼をじっと虚空《こくう》にすえていた。
人魚の部屋
鷲尾子爵の令嬢、芙蓉子は、若い女中のお君《きみ》に髪をあげさせながら、さっきからぼんやりと鏡のなかの自分の姿に見入っていた。わがままで気まぐれなこの令嬢も、入浴のあとだけはいつも上機嫌《じようきげん》で、女中に思いがけない冗談を言ったりするのであるが、今日はどうしたものか、その入浴のあとでさえ、ひどく心が浮かないらしかった。
彼女はさっきから女中のお君が、彼女の髪の多いことだの、皮膚のきれいなことだのを、褒《ほ》めたり羨《うらや》ましがったりしているのを、さもうるさそうに聞きながしながら、スリッパの落ちそうになった左の足を痙攣《けいれん》的にひらひらとさせていた。こんなときお君はいつもそう思うのであるが、この若い令嬢は、機嫌の変化によって、その容色の上にもひどく違った印象をきたすのである。機嫌のいいときの彼女は、眼の色も生き生きと潤いを持っていたし、皮膚にも弾力があって、お君のような同性にも、若さと健康の美しさを感じさせた。それが一度不機嫌になると、こんどは打ってかわって唇《くちびる》がかさかさにかわいて、眼も生色がなく、肌《はだ》の色にさえ異様な荒《すさ》みが見えて、彼女のような順調な育ちを持っている令嬢としては、ふさわしからぬ肉体の衰えを感じさせるのである。
お君はいまもそれを不思議に思いながら、いつの間にか、若い主人の不機嫌に感染して、彼女も多く黙りがちのまま髪をあげていた。
「もういいわ。それでいいわ、あとは私が勝手に結うから」
さっきからいらいらしつづけていた芙蓉子は、お君の指先が思うように働いてくれないのに業《ごう》を煮やしたのか、突然鏡のほうへ身を引いてそう叫んだ。
「はい、あの――」
「いいの、心配しなくてもいいの、私自分で結ってみたくなったんだから」
芙蓉子はそういったかと思うと、せっかくお君が八分どおり結い上げた髪を、ばらばらにほぐしてしまった。お君はそこで当惑したように、手を引っ込めたが、しかしそれ以上よけいな口を利《き》こうとはしなかった。この邸《やしき》へ来てからまだ日の浅い彼女ではあったが、さすが芙蓉子の一番お気に入りだけあって、彼女の気性ははたの女中のだれよりも一番よくのみ込んでいるのである。
芙蓉子は何度も何度も結い上げては、またばらばらにほぐしている。彼女自身の手でもなかなかうまく結えないらしい。
「そのピンを取ってちょうだい」
「は」
「それから櫛《くし》――」
「これでございますか」
芙蓉子は櫛をさすと、邪慳《じやけん》にぐらぐらといま結い上げたばかりの根をゆすっていたが、それでもやがて、あきらめたように鏡のなかで唇をそらしてみせた。
「タオルを取ってちょうだい」
「私、お拭《ふ》きいたしましょう」
「そう」
芙蓉子は化粧台の前で足を組み合わせたまま、桃色地のゆるいガウンの衣紋《えもん》を抜いた。お君はその襟筋《えりすじ》を、ほどよく冷やした蒸しタオルでぬぐいながら、ふと奇妙なものを発見した。
「あら、お嬢様これなんでございますの」
「なアに」
「右の肩のところにございますもの。痣《あざ》――でございますか。まあきれいでございますこと。牡丹《ぼたん》の花そっくりの形をしておりますわね」
お君はしかし、この奇妙な発見にあまり気を取られていたために、そのとき起こった芙蓉子の急激な変化に気がつかなかったのである。彼女の白い眉《まゆ》の間を、そのとき、一閃《いつせん》の稲妻がはげしく通りすぎたのを。
「おや、どうかしたのでございますか」
「いいえ、なんでもないの。パフを取ってちょうだい。私、自分でたたくから――」
芙蓉子は静かに肩を入れると、やや蒼白《あおじろ》んだ頬《ほお》の上へむやみにパフをたたきつけた。そしてようやく彼女の長いお化粧が終わると、それでもさっきとは見違えるほど生き生きとしてきた。最後に棒紅《ぼうべに》で唇をいろどると、彼女は立ち上がって細目に鏡のなかの自分の姿を検討している。
「いやだわね。ちっともうまくできないんだもの」
しばらく彼女は、さも不満足らしく鏡のなかをしげしげとながめていたが、やがて溜息《ためいき》とともに吐き出すようにそういうと、化粧台の上から一つ一つ指輪を取り上げた。
「おや」
「どうかしたのでございますか」
「指輪が一つ――」
「そこにございません?」
「一つ見えないわ。真珠にダイヤをちりばめたのが、――そのへんに転がっていやしない?」
だが、芙蓉子のその言葉が終わらないうちに、お君が頓狂《とんきよう》な声をあげて床から二、三歩跳び上がった。彼女のスリッパの下で、ガリガリとものの砕ける音がしたのである。
「どうしたの?」
「申しわけございません。つい粗相《そそう》をいたしまして……」
床の上から指輪を拾いあげた彼女の顔は真っ蒼だった。見るとダイヤを嵌《は》めこんだ台金が少しゆがんで二粒ほど抜けおちている。お君はあわててそれを拾いあげた。
芙蓉子は指輪を手にとると、黙ってしばらく見ていたが、やがてなにを思ったのか、
「お君、手を出してごらん」
といった。お君が叱《しか》られることを覚悟で、すっかり恐縮しながらおずおずと右の手を出すと、芙蓉子はその手を握って、
「まあ、わりに細い指をしているわね」
そういいながら彼女は、お君の無名指《むめいし》に指輪をはめこんで、
「ちょうど合うようだね、落ちたダイヤもたいせつにしまっておくがいいわ。こんど、天運堂が来たら修繕させるといい」
「あの、お嬢様――」
お君は咽喉《のど》がふさがりそうな声を出した。
「いいの、おまえにあげるからたいせつにしておおき。そのかわり――」
と彼女はそこで、指先で唇をなでながら、鏡のなかのお君の姿をみつめた。
「さっきのことはだれにも言うんじゃないよ」
「さっきのことでございますって?」
「牡丹型《ぼたんがた》の痣《あざ》のことよ。いいかい。それは口止め料だよ」
そう言い残すと、彼女はさっとゆるいガウンの裾《すそ》をひるがえして、その部屋を出ていった。お君はそのうしろを呆然《ぼうぜん》と見送っていたが、やがてふと眼を右の指に落とした。そして彼女は思うのである。――気まぐれなお嬢様を持っているということもまんざら悪いことではない――と。
だが、お君はいま、この高価な口止め料に喜んでばかりはいられないのである。彼女は忙しい視線で部屋のなかを見まわすと、そっと化粧台のそばにおいてある紙屑籠《かみくずかご》のほうへ近寄った。そして、そこでもう一度あたりを見まわすと、素早い指先でそのなかから二、三片の紙片を拾いあげた。
それは芙蓉子の入浴中にとどけられた手紙で、彼女はそれを読み終わると、すぐずたずたに破いてこの紙屑籠のなかへ放り込んだものなのである。そのとき彼女は、できるだけ平静を装うていたが、鋭いお君の眼は、その平静の下に起こったはげしい惑乱を看破《みやぶ》らずにはおかなかったのだ。幸い芙蓉子は、こういうところに意外なスパイがいようとは夢にも知らなかったとみえて、あまり細かく破いてはいなかった。だから、お君がいまそれをもとどおり継ぎ合わして、その上に書いてある文句を読むことはなんの造作《ぞうさ》もないことだった。
それは次のような簡単な文章であった。
――美しき人魚の部屋は今もなお昔のままにあなたを待っている。今夜――
お君はそれだけの文章を暗誦《あんしよう》すると、紙片をもとどおり屑籠のなかへ放りこんだ。そして差出人のない、この奇妙な手紙の意味を考えながら、若い主人のあとを追ってその部屋を出ていった。
スパイ
筆者はここで、この若い女中の奇妙な行動に説明を与える前に、一応|鷲尾《わしお》子爵家の内情をお話ししておかなければなるまいと思う。
三年前に亡くなった、前の枢密院議長鷲尾|勘蔵《かんぞう》氏には二人の子供があった。芙蓉子とその弟の康則《やすのり》である。康則はこの物語にあまり関係がないから説明を省略するとしても、現在子爵家を継いでいるものはこの若い青年に違いなかった。彼は生まれつきあまりからだが丈夫なほうでないので、一年じゅうの大半を葉山《はやま》の別荘のほうで送っている。したがって赤坂にある子爵家にいる者といっては、芙蓉子と彼女の後見人|木場省吉《きばしようきち》の二人だけだった。木場省吉というのは先代子爵の信用のあつかった友人で――というよりは、世間の取《と》り沙汰《ざた》によると、先代子爵のいろんな秘密を知っていたので――子爵の生前からこの一家とは離れがたい密接な関係をつづけていたのだが、子爵が亡くなると同時にこの邸へ後見人として堂々と乗りこんできたのである。元来、子爵家はその地位の高いにもかかわらず、有力な親類というものが少なかったし、それに木場が、どういうふうに持ち込んだものか、臨終の床にある子爵に、彼を子供たちの後見人にするようにとの遺言状を書かしていたので、彼のその地位にたいしてだれ一人異存をさしはさむものはなかった。
もしあるとすれば、彼が日ごろから煙《けむ》たがっている井汲譲治だけだったろう。譲治と芙蓉子はその親同士がきめておいた許婚者《いいなずけ》で、そして彼は先年、父親が生きているあいだに親同士の約束を果たすために、長年のイギリス生活から帰ってきたのである。
幸いその結婚は、譲治の父親が急に亡くなったところから、いまにいたるまで延びのびになっているのであるが、もし二人がその気にさえなれば、この結婚式はいつでも挙げられるべき性質のものだった。しかもこの危険な可能性は十分にあった。譲治と芙蓉子はだれの眼にも似合いの夫婦だったし、もし彼らに沁《し》み沁《じ》みと語りあう機会を与えれば、すぐにも好きになってしまいそうな二人の状態であった。
木場省吉はそれを妨げなければならないのである。それは現在の彼の立場を守るばかりではなく、将来子爵家の莫大な財産を自由にするためにも、ぜひ必要なことであった。
それにもかかわらず彼は、最近指に受けた傷手のために、自由に行動することができないので、すっかりいらいらしていた。ところで、この指の傷というのがまた奇妙なのである。彼の言葉によると、自動車の扉に噛《か》まれたというのであるが、お出入りの医者の診察するところでは、だれか、人間の歯によって噛み切られたものに違いなかった。それはもう一月《ひとつき》も前のことで――そうだ、一月前といえば、芝公園内で不思議な殺人事件のあったころであるが――彼の傷もちょうどそのころからである。
はじめは大したこともなかろうと思っていたのに、傷口から悪性の黴菌《ばいきん》が入ったとみえて、このごろでは全身の節々《ふしぶし》が痛んで、起居振る舞いさえ自由にならないのである。
「木場さん、いかがでございますか」
夕方からいつも決まって上昇する熱の予感に、木場はいまもいらいらしているところへ、美しく着飾った芙蓉子が入ってきた。木場はその姿をじろりと意地悪そうな視線でながめたが、そのままプイと横を向くと、気難《きむずか》しそうに眉根《まゆね》に深い縦皺《たてじわ》を刻んだ。芙蓉子はしかし、わざと、相手の態度には気がつかないふうをして、鏡の前へよると、その美しい後ろ姿を映してみせていた。
「芙蓉子さん」
木場は寝台の上に半身起き上がると、いりつくような視線で芙蓉子の眼のなかをのぞきこんだ。
「…………」
芙蓉子は黙って振り返ったが、相手の視線に気がつくと、ちょっと顔色を変えた。
「あなた、今夜譲治君と帝劇へ行くというがほんとうですか」
「ええ、ほんとうよ。今夜デルモント夫人のリサイタルがありますの。せっかくの御招待ですから行かなければ悪いと思って……」
「いいですとも、行くことはちょっとも構いませんよ」
木場はそこまでをわざと気軽にいって、
「しかし芙蓉子さん、あの男とこんなにたびたび会うことが、どんなに危険だということをあなたは御存じでしょうね」
「たびたび――? いいえ私そんなにたびたびあの人と会っているわけではありませんわ」
「いいや、会っている。一昨日あなたは邦楽座《ほうがくざ》へ行くといって、お君を連れて出ましたね。しかし、邦楽座へはゆかずに鶴見《つるみ》の花月園《かげつえん》へ行ったというじゃありませんか。そして、そこには譲治があなたを待っていた」
「まあ」
芙蓉子は思わず眼を瞠《みは》って、
「お君がそんなことをしゃべったのですか」
「お君のことはどうでもよろしい。それよりも私はあなたに自重して欲しいというのです。譲治君と会うことを悪いとはいわない。いや、許婚者の仲だから、相手に誘われたら三度に一度ぐらいはつき合わないとかえって怪しまれる。だから私は、むしろ進んで譲治君の招待に応じることをすすめるのだが、ただあなたの自重をうながしたいのです」
「分かっていますわ、私――」
芙蓉子はそこで急に声を落とすと、
「私、どうせあの人と結婚できるからだじゃないんですもの」
「そう、それさえ分かっていれば間違いはありません。じゃ、行っていらっしゃい。――芙蓉子さん」
木場は最後の言葉にとくべつに力をこめると、異様な熱心さをもって、射るように芙蓉子の眼のなかをのぞき込んだ。それを見ると芙蓉子は一瞬間、背筋の冷たくなるような悪寒《おかん》を感じたが、やがて観念したように眼をつぶって、相手の差し出した腕のなかに身をゆだねた。
そのときの木場の表情は、まるで歓喜に慄《ふる》える悪魔のようであった。日ごろのつつましやかな仮面はがらりと落ちて、たぎりたつような淫《みだ》らな欲望に輝いているのである。芙蓉子はまるで、祭壇に供えられたいけにえのように、不愉快な感触をこらえながら、相手のなすがままにまかせているよりほかにしようがないのである。
しばらくしてから木場はやっと芙蓉子のからだを解放した。
「ありがとう、では行っていらっしゃい」
芙蓉子はその言葉を終わりまで聞かないで、逃げるようにこの忌まわしい部屋を出ていった。
木場はその後ろ姿を見送っておいて、ぐったりとしたように寝台に身を投げだした。しばらく彼は、眼を閉じて、たったいまの歓楽がからだの隅々《すみずみ》までひろがってゆくのを楽しんでいたが、やがて、なにを思ったのかがばとまた寝台の上に起き上がった。
じっと澄ましている彼の耳に、ふと電話をかけているらしい女の声が聞こえたからである。
お君はちょうどその時、芙蓉子を玄関へ送りだすと、急いで電話室へ駆けこんでいた。彼女の呼び出したのはGホテルのグリル・ルームである。
「もし、もし、近藤《こんどう》さんいますか。――ああ、ふう[#「ふう」に傍点]ちゃん、あたしお君よ、分かって?――例のね。今出かけたわ。帝国劇場よ、ほらデルモント夫人のリサイタルね。あすこであれ[#「あれ」に傍点]と会うらしいの。それから、もしもし、分かって? あの手紙がまた来たわ。あたし暗誦しているから、ここで言ってみるわ。――美しき人魚の部屋は今もなお昔のままにあなたを待っている。今夜――というの。分かって? 差出人の名前はなかったけど、今夜はそのリサイタルの帰りに、美しき人魚の部屋というのへ行くんじゃないかと思われるの。――報告はただそれだけよ。じゃ、こんどいつ会ってくれる? あさって――? ええ、いいわ、じゃさようなら」
お君はそこで電話を切ると、ドアを開こうとしてうしろを振り返った。
だが、そのとたん彼女は咽喉《のど》のつまりそうな驚愕《きようがく》に打たれたのである。そこには、いつの間に来たのか、木場省吉が燃えるような眼をして立っているのだった。お君はそれを見ると、紙のように蒼白《そうはく》になった。
「お君!」
木場省吉は自分から電話室のドアを開いて、低いが、鋭い、きめつけるような声で言った。
「もう一度言ってごらん、いまの手紙の文句を!」
そう言う彼のからだは、高い熱のためか、それとも興奮のためか、おこり患者のようにぶるぶると慄えているのである。お君はふと、鷲《わし》の爪《つめ》のように曲がった、筋《ふし》くれ立った相手の指を見た。そのとたん彼女は相手がいかに危険な人物であるかをさとって、眼の前が真っ暗になったような気がした。
島津君の手柄
帝国劇場の大廊下を、さっきから人待ち顔にうろうろと歩きまわっている若い青年があった。粗《あら》いホームスパンの洋服に、粋《いき》なネクタイをかけて、抜けるように白い顔に、漆黒《しつこく》の頭髪を波打たせているところは、どう見ても活動俳優かなんかとしか見えない。彼はたぶん、デルモント夫人の独唱なんかよりも、もっとほかにたいせつな用事があるらしく、さっきから一度も場内に入ろうとはしないで、正面の大廊下をなにかいら立たしげに歩きまわっている。
「ねえ、あれ蒲田《かまた》の役者じゃない?」
携帯品預かり所の前に集まった二人の若い女案内人はその青年のほうを見ながらそんなことをささやき合っている。
「そうね。でも、あまり見たことのない顔ね」
「このごろ売り出したOさんじゃない? このあいだ『都会の白鬼』でちょっと顔を出しただけだけど、たしかあんな顔をしていたと思うわ」
「そう、じゃ、そうかもしれないわね」
だが、ちょうどその時、場内では一つの曲目が終わったらしく、にわかに多勢の人々が、ぞろぞろと廊下へあふれ出してきたので、彼女たちはそれ以上、その青年に注目しているわけにはゆかなくなった。
近藤富士郎は――言うまでもなくそれは富士郎だったのであるが、――いま多勢の人々が廊下にあふれだしたのを見ると、急にからだを緊張させて、いよいよせわしい視線で、はげしく人々のあいだを物色していたが、やがて目的の人物を探しあてたのか、ふと肩を落として、ポケットから煙草《たばこ》を一本つまみ出した。
そして、うつむきかげんにマッチの火を煙草に移している彼の前を、いましも通りすぎる若い男女の二人連れを、ちらと素早い視線で一瞥《いちべつ》した。女はたしかに、鷲尾子爵の令嬢芙蓉子に違いない。男はたぶん、お君から聞いた許婚者の井汲譲治だろう。
二人はむろん、富士郎などには眼もくれずに、手を組み合ったまま、なにか話しながら通りすぎた。富士郎はその後ろ姿を見送ると、マッチをピンと指で弾《はじ》きあげて、何気なく彼の後について行った。
「気分はいかがですか」
男が心配そうに尋ねかけるのを富士郎は耳にした。
「ええ、なんだか、こう――」
芙蓉子は白い額《ひたい》に手をあげると、顔をしかめて、訴えるように譲治の顔を振り仰いだ。
「いけませんね。少し蒸すせいじゃないですか。なにか冷たい物でも飲んでみたら」
「ええ」
芙蓉子は気のない返辞をしながら、それでも別に拒もうともせずに、譲治と歩調を合わせていた。間もなく彼らは喫茶室の前までやってきた。
「混んでますね。よしましょうか」
譲治がそういったとき、しかし、都合のいいことには、五、六人の客が一時にどやどやと立ち上がったのである。
「ああ、ちょうどいいぐあいです」
譲治は芙蓉子の手をとってなかへ入ると、彼女のために席をこしらえてやり、それから自分も椅子《いす》についた。富士郎が同じくこの部屋へ入ってきたのはちょうどこの時である。彼は都合よく、譲治たちの隣のテーブルに、背中合わせに腰を下ろすと、ソーダウイスキーを注文した。隣のテーブルではフルーツ・ポンチとホットクラレットを注文していた。
「木場さんはその後いかがですか」
しばらくのあいだ無言のまま、めいめいの前におかれた飲み物に口をあてていた譲治と芙蓉子は、ふと譲治のほうからそう話を切り出していた。
「ええ、相変わらずですわ。はきはきしないで弱っているようです」
「ひどいことになるものですな。ドアに指を噛《か》まれたぐらいで」
譲治はその言葉をなんの気なしに言ったのであるが、そのとたん芙蓉子はさっと顔色を変えた。幸い彼女は、ちょうどその時、うつむいてストローを口にあてていたので、譲治には気づかれなかったようであるが、さっきから向こうの鏡に映っている姿によって、それとなく観察していた富士郎の眼には、はっきりとその狼狽《ろうばい》の色がよまれた。
「でも、われわれにとっては、あの人の病気がなによりもありがたいというものです。おかげでこうして、たびたびあなたとお眼にかかることができるんですからね」
「まあ」
芙蓉子はその時ようやく顔をあげた。そして非難するような眼で譲治をたしなめながら、
「そんなことをおっしゃるものじゃありませんわ。あの人、気難しい人ですけれど、決して悪い人じゃないんですもの」
「そうですかしら」
譲治はちらと不愉快そうな色を面に現わしながら、
「僕にはあの人のことがどうも信用できませんね。あなたやあなたのお父様が、どうしてあの男を信用なすったのか不思議なくらいです」
「もういいわ。その話はよしましょうよ」
芙蓉子はまどわしげな眼をあげて、相手に哀願するように頭を振ってみせた。その瞬間、譲治は名状しがたいはげしい感情にとらわれた。彼はもう日ごろの忌まわしい疑いなどを起こしている余裕はなかった。もし、そばに人がいなかったら、彼はきっと、相手の細い腰に腕を捲《ま》きつけて、その額の上に唇《くちびる》を押しあてたに違いなかった。
――ちょうどその時、次の曲目に移るベルがはげしく場内に鳴り響いた。
「いかがです? 気分はなおりましたか」
「あの私――」
芙蓉子はそこで、言いにくそうに声を落としていった。
「はなはだ勝手なんでございますけれど、これで失礼させていただけませんでしょうか」
「やっぱり悪いですか、それじゃお屋敷までお送りいたしましょう」
「いいえ、あの――」
芙蓉子はあわてて譲治の言葉をさえぎった。
「そんなにしていただいては困りますわ。私一人で大丈夫です。あなたお残りになって……」
富士郎にとってはちょうどそれが潮時だった。彼は素早く勘定をすませると、急ぎ足でその部屋を出ていった。
富士郎がとったその策はまことに賢明だったと言わねばならない。なぜならば、一足先に出た彼が、劇場の前をぶらぶらしているところへ、どう話を決めたのか、芙蓉子がただ一人で出てきた。
彼女は玄関に立っている譲治に最後の挨拶《あいさつ》をすると、すぐに自動車を呼ぼうとはせずに、なにを思ったのか、日比谷公園のほうへ急ぎ足で歩いていった。
「ははあ、あとに証拠が残らないように、途中でタキシを拾うつもりだな」
富士郎のその考えは的中していた。
芙蓉子は日比谷の交差点まで来ると、ちょっと立ち止まって前後を見まわしていたが、やがて、折りから通りかかったタキシを呼び止めた。それを見ると、富士郎は急に足を早めて、そばへ近寄って行ったが、彼の敏捷《びんしよう》な行動にもかかわらず、芙蓉子のほうが彼より早かった。
彼女は自動車に乗り込むとすぐにバタンとドアをしめてしまった。と思った瞬間には、早や、車は富士郎の前から滑り出していた。
「しまった!」
富士郎はしかし、すぐその後から来た車をつかまえていた。
「おい、きみ、向こうへゆく自動車を尾行してくれたまえ」
富士郎が早口にそういって、ステップに片足かけた時である。ふいに、後から彼の肩に手をかけたものがあった。
「おいおい、待ちたまえ」
振り返ってみると、若い男が帽子のひさしの下から、探るように富士郎の顔をみつめている。
「しまった! 刑事だ!」
脛《すね》に傷持つ富士郎は、とっさのあいだにそう考えた。そして蒼白《そうはく》になった。
「おやおや」
とその男は口の中でつぶやいた。
「きみはGホテルのボーイだな。まあいいから、僕といっしょに来たまえ」
その男は刑事ではなかった。富士郎は知らなかったけれど、芙蓉子の一番熱心な監視人、井汲譲治の友達の、島津という新聞記者だった。
畔柳プロダクション
島津が富士郎をつかまえたのはなんといっても大手柄に違いなかった。なぜならば、彼らはまったく別の出発点から、それぞれ芙蓉子の正体に疑いをいだくにいたったものである。だからもし、彼らが膝《ひざ》を交えて談合し、お互いに知っているところを打ち明けてみれば、あるいは芙蓉子の正体をつかむのに好都合な結果を見ることができるかもしれないからである。
しかしこの場合、彼が、富士郎の出現によって、つい一瞬間、芙蓉子のことを忘れていたのは、なんといっても大失態だったと言わねばなるまい。
おかげで芙蓉子は、同時に二人の尾行者から逃れることができたわけだ。彼女は自動車の窓から、ちらと富士郎の姿を見つけた。そして、そのとたん、彼女はふいと相手の正体を思い出した。
そうだ。いつも行くホテルのボーイだ。しかし、なんのためにあの男が自分を尾行しようとしているのだろう。
芙蓉子はなぜかしら不安な胸騒ぎを感じて、いっそ今夜のこの冒険をあきらめようかしらとさえ思った。しかし、そうすることのできない、もっと大きな不安が別にあったのだ。
自動車は坦々《たんたん》たる京浜国道を西へ、西へと走っている。そして、自動車のなかにいる芙蓉子は、まるで石像のように身動きもしないで、じっと虚空《こくう》に瞳《ひとみ》をすえていた。それはたしかに、真珠を溶かしたような不思議な光沢を持った眼、富士郎のいわゆる蛇《へび》の目に違いなかった。
彼女の白い、広い額にはほんのりと汗がうかんで、唇はときどきはげしく痙攣《けいれん》していた。それはなにか、非常に大きな決心を抱いているもののように見えた。
自動車は品川を過ぎ大森を過ぎ、間もなく六郷の橋へ差しかかったが、まだ停《と》まろうとはしない。やがてとうとう川崎の町へ入ってきた。
「そこのところで右へ曲がってください」
川崎市へ入ってから、彼女の態度はいっそう緊張していた。暗い、狭い道を幾度も幾度も曲がりながら、彼女はとうとう、川崎市の山の手側の町外れに自動車を着けさせた。
「そこ――そこでいいの。そこで降ろしてちょうだい」
「え? こんなところで停めるのですか」
運転手はびっくりしたように訊《き》き返す。それもそのはず、若い女の身で、こんな淋《さび》しい原っぱのなかで自動車を停めようというのであるから。正気の沙汰《さた》とは思われない。
「ええ、ここでいいの。御苦労様」
芙蓉子は決めた賃銀の上に、たっぷりとチップをはずんでおいて自動車を降りた。運転手はあっけにとられたようにその後ろ姿を見送っていたが、なにを思ったのか、へッドライトを消すと彼もまたこっそりと自動車から這《は》い出した。
この不思議な女客を、このまま見逃してしまうことは、彼の好奇心が許さなかったとみえるのだ。彼はほとんど四つん這いにならんばかりの格好で、芙蓉子の後をついて行った。芙蓉子はむろん、そういうことはまるで気がつかない。足場の悪い原っぱの道を、雑草を掻《か》きわけながら彼女は進んでゆく。やがて、その眼前に不思議な、真っ黒な建物が現われてきた。
「はてな。変な建物だなあ」
うしろからついてゆく運転手もすぐその建物に気がついた。工場のようであるが、それにしては煙突がどこにも見当たらないのである。半円形の細長い屋根が、折りからの薄曇りの空にそびえて、一種異様な、妖怪《ようかい》めいた感じを起こさせるのである。
芙蓉子はその表門と思われる木戸のそばへ近寄ると、そっと扉を押してみた。古びて、腐りかけた木戸は、なんの手ごたえもなくするりとうちへ開いた。芙蓉子はそのまま、この不思議な建物のなかへ吸い込まれるように入って行った。運転手はそれを見ると、ふいに闇《やみ》のなかから躍り出して、ばらばらとその木戸のそばへ近寄った。そして、しばらくじっと暗闇《くらやみ》のなかに耳をかしげていたが、やがてポケットからマッチを取り出すと、それに火をつけた。おぼろげなその光のなかに、彼はかろうじて、畔柳プロダクションの文字を読み取ることができたのである。
ハレムにて
畔柳プロダクションというのは、前にいったとおり、数年前までかなり人気のあった小説家、畔柳半三郎が、当時親の遺産が転げこんだのをいいことにして、道楽半分におこした映画会社である。しかし、これも前にも言ったとおり、そういう気紛れな活動会社の長つづきをするいわれがなく、間もなく、いろいろな経済的な破綻《はたん》と、それにともなっておこったもろもろの醜聞とのうちに、またたく間に瓦解《がかい》してしまった。そして、それと同時にプロダクションの盟主畔柳半三郎は、文壇からも、彼の気紛れな映画界への野心からも引退してしまったのである。
しかし、こうして事実上、畔柳プロダクションの事業は滅亡してしまったが、その残骸《ざんがい》は、数年後の現在にいたるまで、川崎市の郊外にとり残されていたのである。それはいっそ醜く、荒廃した、どこやらに相馬《そうま》の古御所を思わせるような妖怪めいた廃墟《はいきよ》である。
芙蓉子がいま、足を踏みこんだのは、このものすごい廃墟のなかであった。一歩一歩、ぬかるみの道を拾ってゆく彼女の面には、さまざまな、交錯した感情が現われている。それは怖《おそ》れと、懐かしさと、憎悪と、そして同時に愛着をもふくんだ複雑な感情だった。
芙蓉子に会見を申し込んだ人物が、それがだれであろうと、会見の場所として、この古い撮影所を選んだのは、まことに賢明であったと言わねばならない。なぜならば、彼女はいつも、もう一度この撮影所へもどってゆくであろう自分の姿を、ほとんど運命的に信じていたからである。
間もなく彼女は、朽《く》ち果てたグラス・ステージの入り口までたどりついた。さすがに彼女は、この巨大な妖怪のように横たわっている、無気味なほどがらんとしたスタジオのなかへ入ってゆくには、よほどの決心が必要だった。
しかし、ここまで来ておいていまさらどうしようというのだ。それに彼女としても、なるべく早くかた[#「かた」に傍点]をつけたいある用件があるのだった。それには、たとえ強《し》いられて来たとはいえ、こうしてわざわざやってきた機会を、なるべくのがさないほうが得策でもあった。
彼女はそこで、肺臓のなかに湿っぽい空気をいっぱい吸いこむと、思いきったように、薄暗いステージのなかへ入っていった。もし、現代の作家が現代式な妖怪芝居を書き下ろすとすれば、彼らの選定すべき場面は、あの鶴屋南北《つるやなんぼく》の墓場だの、寺の本堂だのの代わりに、さしずめ、こうした古朽ちた撮影所だの、深夜の機械工場の内部であらねばなるまい。
芙蓉子はぞっとするような恐怖を背筋に感じながら、それでもそろそろと摺《す》り足《あし》で奥のほうへ進んでいった。長いこと捨てておかれた建物の内部特有の、むせるような空気が重っくるしくよどんで、しかもそれが、ガラス張りの温室のなかで温められているために、酸味を思わせるような臭気を帯びていた。
だが、彼女はもう躊躇《ちゆうちよ》しなかった。というのは、行く手にあたって、彼女を待っている不思議な部屋の輪郭が、おぼろげながらも見えはじめたからである。
それはまことに異様な部屋のたたずまいであった。厚いタペストリイと、深々としたクッションと、目も綾《あや》な敷物と、――そして甘い芳《かぐわ》しい匂《にお》いを持った香煙に包まれた、ハレムのような一室だった。そしてそこばかりは、この埃《ほこり》っぽい撮影所の内部でも、まったくかけはなれた別の世界を形造っているのだ。
彼女はいま、アーチ形になったその部屋の入り口に立ち止まった。そして重い緋色《ひいろ》のカーテンを静かに押しのけた。部屋のなかには陰電燈でもともしてあるのか、それとも、スタジオのグラス天井を洩《も》れてくる淡い月の光か、ともかくほどよい微光が漂っていた。彼女は闇《やみ》になれた目で、あまり広くもない紫色の部屋のなかを一渡りずっと見渡した。そしてその眼を、わざと一番最後に、隅のほうにあるオレンジ色の寝椅子《ねいす》の上に落とすと、はじめて彼女は、作りつけたような微笑を口もとに刻んで、静かにうしろのカーテンから手を離した。
しばらく二人は――彼女と、寝椅子の上に腰を下ろしていた男とは――そのままの姿勢でじっと探りあうように、お互いの眼のなかをのぞきこんでいたが、やがて男のほうが固い微笑をうかべてかすかにからだを動かした。
「やっぱりあなたでしたね。千鶴さん」
男はそう言って寝椅子から立ち上がりながら、
「その眼を持っているかぎり、あなたは僕を欺きおおせるわけにはゆきませんよ」
芙蓉子はふいに虚をつかれたように、はげしく二、三度またたきをしたが、やがて胸の上においていた手でぎゅっとショールの一端を握ると、そのままずるずると引っ張って、無造作に丸めると手提げカバンといっしょに、ぽいとそばのテーブルの上に投げ出した。そしてことさらに草履《ぞうり》の音をばたばたさせながら、男のそばへ寄って、どっかりと寝椅子の上に腰を落としたのである。
「いったい、私をどうしようとおっしゃるの」
彼女はそう言って、きっと男の白い額を見つめていた。
「あなたは私を売ったはずじゃありませんか。いまさら私にどんな御用がございますの」
男はポケットから細巻きの煙草を取り出すと、ゆっくりとそれに火をつけながら、
「いや、ただあなたにお祝い申し上げようと思いましてね。それと同時に、僕は結局、あなたに対して、済まないことをしたのではなかったということを認めてもらいたかったのですよ。なにしろ、このボロダクションの撮影所の女優から、子爵家の令嬢とは大した出世ですからな」
男は斜めに芙蓉子の顔を見ながら、紫色の煙をもくもくと吐き出した。
いうまでもなくそれは畔柳半三郎だった。
秘密の一端
女はその言葉を聞くと唇をゆがめて、鼻の先でフフンと軽く笑いながら、
「いまさらそんないやがらせを聞かせるために、わざわざこんなところまで私をお呼び出しになったんですの」
「いいや、決して!」
半三郎も女にならんで腰を下ろすと、
「決してそんなわけじゃありませんよ。僕だってこれで大いに良心はありますからね。あのとき僕がとった態度は、たしかに利己的でありすぎた。その点僕が煩悶《はんもん》しなかったと思うのはあなたの間違いですよ。あれ以来消息を絶ってしまったあなたのことを、僕がどんなに心配していたか――、だから子爵令嬢になりすましているあなたが、楽しい昔の紅沢千鶴であるかどうかを確かめようと思ったのも、決して単なる好奇心からではないのですよ。僕の気持ちとしては、ただあなたの安否を確かめたかったのです。だから、あなたも素直に、私の心からなる祝辞をうけなければなりませんよ」
「ありがとう。じゃ、素直にお礼を申し上げるわ」
芙蓉子は皮肉なながし目で相手を見ながら、ゆっくりと寝椅子から立ち上がった。
「じゃ、御用というのはそれっきりね。あたしもう、お暇《いとま》しても構いません?」
女のこの思いがけない逆襲には、さすがの半三郎も思わずたじたじとした。寝椅子の端に腰をおろしていた彼は、一瞬間、ぽかんとした表情で立っている女の顔を振り仰いでいた。しかし彼もさる者、すぐ次の陣容をととのえることを忘れはしなかった。
「いいですとも、どうぞ。しかし一言申しておきますが、僕はまだあなたになんのお約束も与えはしませんでしたよ。したがってあなたの秘密を、ついうっかり他人にしゃべったからといって、あとになって不服を言われても知りませんよ」
芙蓉子はじっと焼けつくような眼で男の顔をみつめていた。その口辺にははげしい憎悪がひらめいた。しかし、彼女はすぐその表情をぬぐい捨てて、
「それがあなたの切り札なのね」
と、吐き捨てるように言いながら、彼女はべったりと虎《とら》の皮の敷物の上へからだを投げ出した。
「切り札? ははは、そう言われるとなんだか僕が、あなたを脅迫しているように聞こえますね。まあいいです。それよりももっと昔の話をしようじゃありませんか」
「もうたくさん、あたし昔のことは考えないことにしていますの。だから、あまりその問題には触れないでちょうだい」
「なるほど、あの痩《や》せた紳士にそう注意されているんですな。木場省吉というんですね、あの男の名は?」
「あなたはどうして、そんなことまで知っていらっしゃるのです」
「どうしてでもいいです。そればかりじゃありませんよ。僕は現在のあなたのことなら、たいていなんでも知っているつもりです」
その時ふいに彼女は、さっき自動車のなかから見た近藤富士郎のことを思い出した。そうだ、この男に最近出会ったのは、あのボーイのいるホテルのグリル・ルームではなかったか。
「分かったわ。あなた、あのボーイをスパイに使っているんですわね」
「ボーイ? Gホテルの近藤富士郎のことですか。ノオ、ノオ! あの男がどんなことをしているか知らないが、いまのところ僕とは全然無関係ですよ。だがそんなことはどうでもいい。それよりも木場氏についてもっと語ろうじゃありませんか」
その名が出るたびに、芙蓉子は痛い傷にでもさわられるように顔をしかめた。木場省吉! その名は彼女にとって、もはや呪《のろ》いのほかのなにものでもないのだ。しかしそれでいて、あの男の恐ろしい妖術《ようじゆつ》から脱し切れない彼女なのだ。
「なぜあなたは、そんなにあの人のことを話したがるんですの?」
あんぐりと口を開いた虎《とら》の頭をなでながら、彼女はわざと静かに、声を落としていった。
「なぜ――? そうですね。たぶん敬服しているからでしょう。それとも嫉妬《しつと》からですかな。いや、なんにしてもあの男の智慧《ちえ》には驚かざるを得ないですね。ああいうとっさの場合に、ホテルの人が人違いをしたのを幸いに、あなたを身代わりに使うことを思いついたあの男、そしてこの僕に、五千円の金をたたきつけてぐうの音《ね》も出させなかったあいつ。――悪魔――そうですね。悪魔の智慧ですね」
芙蓉子は黙って聞いていた。血の気のうせた顔は真っ蒼で、きっと引き結んだ唇の端が、ときどき妙に痙攣《けいれん》するのだった。それはこみ上げてくるはげしい感情を、無理矢理に抑圧している悲しい努力を示すのだ。しかし、間もなく彼女は静かな声音で言った。
「どうしてあなたはあの男のことばかりおっしゃるの。五千円という金であの男に私を売ったあなた御自身も、悪魔の手下だとはお思いになれない? ほほほほ、おかげでこの私がどうなったとお思いになって? 外人|狙撃《そげき》犯人ですって? この私が? ほほほほ、まったくそれに違いないわね。だってそのために私は、二年あまりも監獄へ入っていたんですものね」
「ほほう。それじゃあなたは、やっぱり監獄へ入ったんですね。しかし、どうしてそんなことができたのです。僕にはどうにも分からない」
「今あなたはおっしゃったじゃありませんか、あの男は悪魔だって。悪魔にはどんなことだってできるものですわ。ホテルで外人を撃ったほんとうの鷲尾令嬢を、みんなが紅沢千鶴と間違ったのを幸い、さっそくあなたのところへ私を買いにきたくらい機敏なあの人ですもの。監獄へ入っていた鷲尾令嬢とあたしを擦《す》り替えるぐらいのことは、なんの造作もないことですわ」
芙蓉子の言葉は、ことごとく半三郎にとっては驚きの種らしかった。しかし、なにも知らない読者諸君は、より以上の混乱を感じられるに違いない。薄暗いハレムのような一室、彼らの口から縷々《るる》として語られる、この異常な物語を聞くことはまことに興味の深いことであるが、私らはいましばらく彼らの物語に耳を傾けようではないか。
呪《のろ》わしき相似《そうじ》
「擦り替えたのですって? 監獄のなかで」
「いいえ、監獄のなかではありませんわ。あの人を一度脱獄させたんですの。そしてすぐまた捕らえられたんですわ。でも捕らえられたときにはもうあの人ではなく、私が身代わりになってたんです。だからあの人は大手をふって鷲尾家へ帰ってゆくことができたんですわ。だって世間じゃ、外人狙撃事件で監獄へ入っているのは、紅沢千鶴だとばかり思っていたんですからね。現に千鶴と一番縁の濃いはずのあなたまでが、あの人を見て、たしかに千鶴だと証言したじゃありませんか。五千円の金でね」
しかし半三郎には、その最後の皮肉もほとんど耳に入らないようすだった。彼は自分も一役演じているこの奇怪な事件の、さらに複雑な秘密にただただ驚嘆するばかりだった。
「そう、あなたの非難は甘んじて受ける。しかし、いまさらそんなことを言っていても始まらない。僕はこの事件の真相をはっきり知りたいのです。――あの時、そうだ、忘れもしないあれは昭和二年の四月でしたね、あの男が突然訪ねてきて、あなたのからだと、紅沢千鶴に関するいっさいの沈黙を五千円で買いたいと言い出したのは。あの当時、実際僕は金に困っていた。そして一方あの男はどういうふうにあなたを説き伏せたのか知らないが、とにかく私たちは二人ともあの男の申し込みを受けることになった。そしてあの男はすぐその場からあなたを連れて行ったのだが、その日の夕方僕は警察へ出頭を命じられたのです。しかし僕は約束どおり、ほとんどなにも語らなかった。ただ、外人狙撃犯人を目の前につきつけられた時に、紅沢千鶴に違いないと証言したにとどまるのです。しかし、その嘘《うそ》はあまり困難ではありませんでしたよ。なぜと言って、あの女ときたら、あなたとまるで生き写しで、もし木場氏からあらかじめ聞いていなかったら、僕自身あなたと間違えてしまうほどでしたね。こうしてともかく、あの女は紅沢千鶴として処刑を受け、それと同時に、ほんとうの紅沢千鶴は姿をくらましてしまった――と、僕はただこれだけのことしか知らなかったのです。それ以来あなたにも、あなたを買いに来た木場氏にも逢わなかったし、したがってあなたの名前で監獄へ行った女が、どこの何者だかまるきり見当もつかなかった。また最初の約束があるので僕は知ろうともしなかったのです」
「最近まではね」
そこで突然芙蓉子、いや、いまでは疑いもなき千鶴がそう言葉をはさんだ。
「そう、最近まで。――しかし、たとえあなたが身代わりに立った女が鷲尾子爵の令嬢だったということを知っても、僕はそれ以上深入りはしなかったでしょう。僕もずいぶん卑劣な男だけれど、五千円でいっさいの沈黙を売った以上、脅迫がましいことはしたくありませんからね。しかしあなたが現在鷲尾令嬢になりすましているのは問題外だ。このことは最初の約束にもなかったはずです。だから僕は当然詰問していい権利があるのです。ほんとうの鷲尾令嬢はどうしたのです。あなたと入れ替わりに監獄を抜け出したという鷲尾令嬢、ほんとうの芙蓉子さんはいまどこにいるのです」
突然、千鶴はさっと顔色を変えた。彼女の顔色は紙のように白くなった。唇がわなわなと慄えて、咽喉《のど》がぜいぜいと鳴った。
「知りません! あなたはどうしてそんなことを尋ねるのです」
千鶴はふいにすっくと立ち上がると、まるで恐ろしい悪夢でも払いのけるような格好で、たじたじと入り口のカーテンのところまで身を引いた。だが、彼女よりも半三郎の行動のほうが早かった。彼は一跳びに入り口のところまで飛んで行くと、カーテンを背に、千鶴の前にすっと立ちはだかった。慄えている女の肩にしっかりと両手をおいた。
「知らないというはずがない。言ってごらんなさい。ほんとうの芙蓉子さんは生きているのか死んでいるのか」
「知りません、知りません。そこを離してちょうだい!」
千鶴は必死になってもがきながら、そばのテーブルの上に投げ出した手提げカバンを取り上げた。
「知らないというはずはない。それじゃ芙蓉子さんは死んだのだな。そうだ。木場のやつが殺したに違いない。あの男が操縦するにはほんとうの芙蓉子さんより、贋《にせ》の芙蓉子のほうが都合がいいからな。だからその昔、芙蓉子さんを千鶴の身代わりにしたように、こんどは千鶴! あなたを芙蓉子さんの身代わりにしているのだな」
「知らない、知らない。離してちょうだい。離さないか。畜生!」
手提げカバンのなかに突っ込んでいた千鶴の手が、ふいに前方にのびた。半三郎はさすがにはっと息をのみ込みながら、たじたじと二、三歩下がったが、
「僕を撃とうというのですか。なるほど、それがきみの答えだね。僕を殺してでも、あの不義の贅沢《ぜいたく》にかえりたいというのだな」
「そこをお退《ど》きなさい」
「いいや、退かない。千鶴おまえは馬鹿だ。言いようのない馬鹿だ」
「その馬鹿にはだれがしてくれたんです。まあいいからそこを退いてちょうだい、退かないんですか。私は伊達《だて》や見得にピストルを持っているんじゃありませんよ」
ズドンとピストルが鳴った。むろん彼女にはほんとうに撃つつもりなど毛頭なかった。ただこけおどしに床へ発砲したばかりである。しかし、立ちこめた白い煙が薄れて行った時、千鶴はそこに世にも恐ろしいものを見た。
「千鶴――」
半三郎が叫んだ。と思うと、引《ひ》っ掻《か》くように重いカーテンにすがりついていたが、やがてくなくなと床の上へ倒れた。
「千鶴――、おまえは、――おまえは馬鹿だ」
床の上に腹這《はらば》いになった半三郎は、両手でからだを支えて、もう一度起き上がろうとしたが、すぐまたどたりと横倒しに転げた。そのとたん、脇腹《わきばら》からどっとおびただしい血潮があふれて床の上へこぼれた。
千鶴は化石したように、ピストルを持ったまま立ち竦《すく》んでいる。自分で自分の眼を信じることができないのだ。あの弾丸が命中したのだろうか。そんな馬鹿なはずがありようがないではないか!
彼女はふいに恐ろしそうにピストルを投げ出すと、よろよろと二、三歩よろめいた。と、そのとたん、カーテンのあいだからしっかりと彼女の手を握ったものがある。
「大丈夫、しっかりして!」
彼女は耳のそばでささやかれたその言葉によって、振り返ってみるまでもなく、それが何者であるかを悟ることができた。
「ああ」
彼女はふいに絶望的な呻《うめ》きをあげると、両手でしっかりと顔を覆うた。カーテンを掻きわけて、姿を現わした木場省吉は、ぎらぎらと光る眼で、床の上に倒れている半三郎の姿を見ていたが、やがてにやりと薄笑いをうかべると、右手に握っていた短刀の血をぬぐった。そして静かに床の上に身をかがめると、まだ煙を吐き出しているピストルを拾いあげて、弾丸の有無をしらべていたが、やがてそれを瀕死《ひんし》の半三郎の白い額に押しあてた。
「芙蓉子さん、あなたの秘密を知ろうとする者はみなこのとおりですよ。いつか芝公園でやっつけた女にしても、女中のお君にしても、そしてこの男にしても……」
千鶴は引き金を引く音を聞いた。それと同時にぱっと舞い上がった煙を、彼女は朦朧《もうろう》と意識した。と、そのとたん、四方の壁がどっと自分のほうへ倒れてくるような恐怖を覚えた。
「ああ、恐ろしい、ああ、恐ろしい――」
それきり彼女は気を失って倒れたのである。
絶 望
「それでもきみはまだ、芙蓉子さんの罪悪を信じることができないのかね」
いかにもいらいらした調子で、きめつけるようにそう言ったのは新聞記者の島津である。眉《まゆ》をつり上げ肩をいからして、憤懣《ふんまん》にたえぬ面持ちで部屋のなかを歩きまわっている。そのそばには、井汲譲治がふだんよりはいっそう蒼白い顔をして、きっと下唇を噛みしめながら、うつろな瞳《ひとみ》を虚空《こくう》にすえていた。
前章に述べた事件があってから数日後のこと、関口台町にある井汲譲治の、例のサン・ルームめいた部屋のなかの出来事である。
「殺された畔柳半三郎という男が、芙蓉子さんに特別の興味を持っていたことは、あの近藤という男の話でも分かるじゃないか。あの男も別の出発点からわれわれと同じような疑いを芙蓉子さんに対して抱いていたのだぜ。しかも兇行のあった晩、芙蓉子さんそっくりの女を、日比谷からあの畔柳プロダクションまで乗りつけて行った自動車があるというのだ。それでもきみはまだ芙蓉子さんを信じようというのかい?」
譲治はそれに答えようともせず、かたくなに沈黙を守っていた。いや、沈黙を守っているというよりも、すべての発声機関にサボタージされているといったほうが正しい。発声機関ばかりではない。彼はなにを考える力も、なにを判断する能力も完全に失ってしまったのだ。むろん彼は、島津の言葉を聞いていないのではない。聞くまいとしても耳に入ってくるその言葉のなかに、呪《のろ》わしくも無限の真実を認めればこそいっそう物を言うことができないのだ。島津はそのようすを哀れむようにしげしげとながめていたが、やがて静かにそばのソファに腰を下ろした。
「ねえ、井汲君、僕らはもう一度この事件を最初から考えてみようじゃないか」
彼はポケットから煙草を取り出して火をつけたが、すぐそれを床の上に投げ出して靴《くつ》で踏みにじった。
「われわれが芙蓉子さんに対して、初めてある疑いを抱きはじめたのはあの女――そうだ、紅沢千鶴と同じ監房にいたという女が、われわれに密告してきて以来だ。調べてみるとなるほど、その女の言葉のうちにはところどころ否定できない点がある。たとえば芙蓉子さんと紅沢千鶴の恐ろしいまでの相似《そうじ》だ。しかし、きみも僕もまさかとその当時は打ち消していたね。一|分《ぶ》の疑いは抱いたものの、後の九|分《ぶ》までは否定していた。ところで、われわれに密告してきたあの女はその後どうなったね。芝公園で何者にとも知れず殺害されたじゃないか。しかもその晩、ホテルの舞踏会から芙蓉子さんと木場省吉の後をつけていた僕は、ちょうど芝公園の付近で彼らの姿を見失ったのだぜ」
島津はそこでちょっと言葉を切った。実際、できることなら彼としてもこんな忌まわしい暴露《ばくろ》はよしたかったに違いない。しかし、なにかしら得体の知れぬ泥沼のなかに引きずりこまれようとしている友人を見ると、彼の気性としては、どこまでもこの事件の真相を突き止めずにはいられないのだった。
「ちょうどその時分だ」
島津は言葉をついで、
「近藤富士郎の話によると、彼もまたその時分から芙蓉子さんに対して同じような疑いを抱きはじめたのだ。そして、紅沢千鶴の昔をよく知っている、小説家の畔柳半三郎を仲間に引き入れようとした。近藤としてはこれは失敗で、畔柳半三郎は一目芙蓉子さんを見ると、彼はまた彼で、勝手に行動しようとしたのだ。そこにこんどの悲劇の原因があるのだが、一方富士郎は畔柳に失敗すると、こんどは手をかえて、自分の女を直接鷲尾家の女中として住み込ませた。あの男は不良で、むろんその目的は結局脅迫にあったのだろうが、さすが不良だけあってやることが思いきっているよ。自分の情婦をただちに敵陣へ放ったのだからね。ところでそのスパイのお君という女中はどうなったか。これもまた、殺された畔柳半三郎と前後して、姿をくらましてしまったじゃないか。近藤富士郎の話によると、たとえどこにいても彼のところへ便りを寄越さないような女じゃないと言うぜ。ではいったい、この失踪《しつそう》はなにを意味するのだね」
譲治はまるで、自分自身が詰問にあっているように、髪の毛をかきむしりながら苦しげな呻《うめ》き声をあげた。あらゆる指が彼女を指さしている。しかも彼はまだ、その中心にいる芙蓉子の微笑を真実のものと信じたいのだ。彼女のあの白い腕が罪の血によごれていようなどと、どうして信じることができよう。彼はかさかさにかわいた唇を舐《な》めながら、哀願するように瞳をあげたが、すぐにまた顔を伏せてしまった。島津は結局友人以外の何者でもないのだ。自分のこの苦悶《くもん》、肉体的な痛みにまで感じられるこの懊悩《おうのう》を、この男は同情こそすれ、同感することはできないのだ。島津はいたましげに、痩《や》せこけた友人の頬をながめていたが、やがて立ち上がると静かにその肩に手をおいた。
「ねえ、あきらめたまえ。きみがあきらめるとさえいってくれれば、僕は生涯《しようがい》の沈黙を約束する。なあに、近藤だって大丈夫だ。いくらかの金といくらかのおどしで僕がきっとあの男の唇は閉じてみせる」
島津はしかし、この言葉のあまりに空虚な響きに気がついてそのまま唇を閉じた。彼らがいかに沈黙を守っていたところで、この秘密が永遠に保たれるものだろうか。少なくとも事件は三人の人物の生命に関係しているのである。しかも警察では自動車の運転手を有力な証人としているのだ。そして日比谷公園の付近から、畔柳プロダクションまで芙蓉子を送って行ったこの運転手は、十分証人となり得る価値があるのだ。
島津は暗然として事件の将来を見詰めていた。
と、その時である。突然卓上電話のベルがはげしく鳴り出した。島津は邪魔臭そうに受話器を取り上げたが、その顔は見る見るうちに、隠しきれない驚きのために緊張してきた。しばらくしてがちゃんと受話器をおいた彼は、いきなり譲治のほうを振り返ると、まるで噛みつくように怒鳴りつけたのである。
「おい! 鷲尾《わしお》邸がたいへんだ。すぐ出かけよう!」
悲劇の大詰め
ちょうどその少し前から、鷲尾家の奥まった一室では妙なことが起こりつつあった。
この数日来、主人から呼ばれることなしに、この奥の部屋に近づくことを絶対に禁じられていた召使いたちは、最初のうちこそ気がつかなかったが、間もなくこの妙な出来事に注意しはじめた。
いったいこの数日間というもの、彼らは漠然《ばくぜん》とした不安に絶えず脅《おびや》かされつづけていたのだ。芙蓉子も木場も、この奥の一部屋に閉じこもったきりで、めったに外へ出てこようとしなかった。ある時食事を運んで行った女中の言葉によると、芙蓉子は高熱のためにたえず囈言《うわごと》を言っているという話だったし、それを介抱しているはずの木場自身も例の不思議な傷のために唸《うな》りつづけているというのである。それでいて医師を招くことを絶対に拒んでいる彼らの真意は、召使いの者にも計りかねるのだった。しかも真夜中の寝静まったころになると、しばしばはげしい鞭《むち》の音が、遠く離れている女中部屋まで響いてくるのだった。その音に混ざって絶え絶えに聞こえるのは、たしかに芙蓉子の呻き声に違いなかった。とすれば、後見人の木場が芙蓉子を折檻《せつかん》しているのであろうか。しかし、あんな病人を鞭で乱打して、いったいどうしようというのだ。
女中たちはその音を聞くごとに、水を浴びせられたように怯《おび》え切って、お互いに必死となってしがみついて寝るのだった。
ところが今朝になると事情が少しばかり変わってきた。
久しぶりで奥の部屋から出てきた芙蓉子は、案外元気で、女中たちに機嫌《きげん》のいい冗談などを言いながら、お湯へ入って身仕舞いをしたりした。木場のために食事を運んでいった別の女中の話によると彼もまた久しぶりではればれとした顔で、いつもよりだいぶたくさんの食事をとったという話である。芙蓉子はお気に入りのお君がいなくなったので、湯から上がると自分一人で念入りにお化粧をしていたが、やがてそれが済むと、二言三言、お付きの女中に冗談を言い残して、ふたたび奥の部屋へ入って行ったのである。
それが午後の二時ごろのことだった。
そしてあの気味の悪い呻き声が洩れはじめたのは、それから半時間ほどのちのことなのだ。それはいつもの芙蓉子の呻き声と違って、どうやら木場の唇から洩れてくるものらしかった。女中たちはしかし主人たちの上機嫌にすっかり安心し切っていたものか、はじめのうちは別に気にも止めず、また木場が、例の傷の痛みに唸っているのだろうぐらいにたかをくくっていたのである。
しかし、その呻き声はだんだん高まるばかりではなく、聞いている者に、なにかしらぞっとするような悪寒《おかん》を感じさせるのである。とうとう堪《たま》らなくなった女中の一人が、抜き足差し足、そっとその部屋の前まで近寄ると、鍵穴《かぎあな》から中をのぞいてみた。と同時に、彼女は魂消《たまげ》るような悲鳴をあげてその場にへたばったまま、口を利《き》くことができなくなってしまったのである。
その時木場は寝台の上に仰向けになって寝ていた。不思議なことに彼はほとんど一糸をもまとわぬ裸体に近い姿をしていた。そしてその枕《まくら》もとには、芙蓉子が日ごろよりいちだんと立ち勝《まさ》った美しい顔に、不可思議な微笑をたたえながら立っているのである。見ると彼女は、手にどきどきするような刃物を握っている。そしてその刃物が痩《や》せた腹上をすうと滑るごとに、真っ赤な線が縦横無尽に刻まれてゆくのである。
そのたびごとに木場の唇から低い切ない呻き声が洩れるのだった。それでいて彼が抵抗しようとしないのは、手足をしっかりと寝台の脚に縛りつけられているからである。
どうしてこんなことが始まったのかわからない。あるいはこれは、木場の日ごろの奇妙な性癖が昂《こう》じた結果ではなかろうか。そうでもなければ彼のような大の男が、いかに病気であるとはいえ、芙蓉子のような女の手にかかってこんな惨《みじ》めな姿になろうとは思えなかったからである。
「さあ、これであなたも満足でしょう。あたし今まで、一度だってあなたの要求を拒んだことはありませんでしたわね。結局あなたは、あたしの一番かわいい人だったかもしれませんわね」
そう言って芙蓉子は、やにわに男の唇に武者ぶりついた。木場はその下で苦しげに頭を左右に振ったが、しかし不思議なことには、もはや断末魔に近い彼の顔には、少しも憤《おこ》っているような色は見受けられないのである。むしろその反対に、神の姿を眼近に見詰めている狂信者のような歓喜が、体いっぱいにあふれているのだった。
「さあ、これであなたももうおしまいよ。芙蓉子さんを殺し、畔柳半三郎を殺し、お君を殺し、そしてあたしの秘密を最初に見つけたあの女を殺した木場省吉、でも、なにもかもあたしのためにしたことなのね、この紅沢千鶴のために。あたし、だから、決してあなたを恨んだり、憎んだりしちゃならなかったのだわ。少なくとも譲治さんとあんなに近付きになるまではね」
その言葉を聞くと、いままさに息を引き取ろうとしている木場の面に、一瞬はげしい焔《ほのお》が舞い上がった。彼はもうほとんど見えなくなったらしい眼で忙しく芙蓉子――否、もはや紅沢千鶴と言ったほうが正しいだろう――の顔を探した。
「ほほほほ、いまになって、まだあなたは嫉妬《しつと》しているの。お馬鹿さん。安心していらっしゃい。こうなってはあなたといっしょに行くよりどうにもしようのないあたしじゃありませんか」
そのとたん千鶴の右手がさっと空《くう》に上がった。と同時に霧のように飛び散った真っ赤なもののなかで、木場のからだが最後のはげしい痙攣《けいれん》をした。
譲治たちが駆けつけてきたのはそれから間もなくのことである。
厳重に錠を下ろした扉を、無理矢理に押し破って入った彼らは、あまりの無残な光景に思わず眼をそむけてしまった。
そこは文字どおり血の海だった。
そして腑分《ふわ》けをされたような木場の醜いからだの上に、千鶴がまるで接吻《せつぷん》するような格好で、顔を埋めて死んでいたのである。
この事件に対する一番熱心な研究者だった島津君は、その後鷲尾家の整理を委任された時、ふと紅沢千鶴の遺書を発見した。それは遺書というよりも、千鶴が悶々《もんもん》のままに書きつづったものらしかったが、それによって彼ははじめてこの事件の恐ろしい真相を知ったのである。
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――芙蓉子さん、(すなわち私ではなしにほんとうの鷲尾芙蓉子さん)が不良少女の仲間に落ちたのも、やはり木場の感化だったらしい。
――不良外人にだまされたり、そのあげくの果てに相手を撃ち殺したり、それにはみんな木場が陰で糸を操っているに違いないのだ。しかし、彼女が外人を狙撃《そげき》してその場で捕らえられた時、そこに不思議なことが起こった。というのは、居合わせた人々はみんな彼女を畔柳プロダクションの紅沢千鶴だと間違えてしまったのである。――それが木場にとって乗ずる機会を与えた。彼は芙蓉子さんに沈黙を教える一方、すぐにほんとうの紅沢千鶴を買い出しにきたのである。そして私は畔柳半三郎によって五千円の金で彼のもとへ売り込まれた。私はすぐ姿を隠さなければならなかった。なぜといって二人の紅沢千鶴が存在していてはならないからである。こうして昭和二年の四月のはじめから、九月の終わりまで生ける屍《しかばね》のような生活を送っていた私は、ある日、紅沢千鶴の名で監獄へ入っている芙蓉子さんと擦《す》り替えられたのである。
――こうして鷲尾家の名誉は完全に救われた。芙蓉子さんがそんな恐ろしい所から帰ってきたとはだれが知ろう。外人狙撃犯人は紅沢千鶴なのだ。そして彼女はいま監獄にいる?……そうだ、私は芙蓉子さんに代わって、そこで残りの刑期を済ませねばならなかった。
――いったい私がなぜこんな馬鹿なことを承諾したのか。それは自分でも分からない。報酬に眼がくれたのか。いないなそれよりも木場省吉という男の恐ろしい魔力に支配されていたと言ったほうが正しいだろう。
――ともかく私は、残りの二年あまりの刑期を過ごして監獄を出ると、約束どおりすぐ木場のところを訪れた。報酬を受け取るために。ところがそこに待ち受けていたのは、私の思いも設けぬ恐ろしい将来であったのだ。
――その日から私は、鷲尾芙蓉子になりすました。私はどこまでも芙蓉子さんの影を踏んで生きなければならないらしい。
――ほんとうの芙蓉子さんはどうなったのか、私は知らぬ。しかし木場が殺したのではないかという疑いは十分ある。私はもう木場の傀儡《かいらい》にすぎない。――
[#ここで字下げ終わり]
島津はそこでポツンと切れているその遺書を何度も何度も読み返した。
そして得体の知れぬ恐怖に眼の前が真っ暗になったような気がした。
彼はそれをふたたびイギリスへ渡った井汲の許《もと》へ送ってやろうかと思ったが、すぐ思いかえして灰皿《はいざら》のなかに突っ込んだ。そして火をつけた。白い燃えかすが軽くゆるやかに部屋のなかに舞い上がった。それを見つめながら島津は、暗い暗い溜息《ためいき》をついたのである。
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[#見出し] 死の部屋
一
しばらくホテル住まいをしていたアメリカ帰りの木藤仙吉《きふじせんきち》が、こんど小日向台町《こびなただいまち》に古い家を買ったというので、ある日私は久しぶりに彼を訪問して見る気になった。
三十四年前××新聞の特派員としてニューヨークへ派遣されていたみぎり、私はよくこの木藤仙吉の厄介《やつかい》になった。木藤は二十五の年にアメリカへ渡って、足かけ十二年向こうに生活しているという話だったから、当時すでに三十六、七歳になっていたわけだが、かなり手広く毛織商売をやっていた。ニューヨークの日本人会でも、まあ顔の売れた方で、アメリカにおける成功者の中でも指折りの方だったろう。
それが最近、相当金を溜《た》めてこの日本へ帰ってきたのだが、私は横浜|埠頭《ふとう》へ出迎えたきり彼に会わなかった。ホテル生活をしている間にも時々社の方へ電話をくれたが、そのつど社務が忙しくて、不本意ながらも彼の招待に応ずることができなかった。
その晩、私がわざわざ分かり難《にく》い小日向台町の新居を訪問する気になったのは、一つはそういう無礼を埋め合わせたい気持ちもあったのだ。
小日向台町へは一度社用で来たことがあるが、実に分かり難いところだったと覚えている。それに夜のことでもあったので、三丁目の二十七番という番地だけでは、はなはだおぼつかないと思っていたが、果たしてそのとおりだった。酒屋の御用聞きだの、通りすがりの学生だの、子供を遊ばせている近所のお主婦《かみ》さんなどに、何度となくきき直して、結局探し当てた家は、しかし、私のまんざら馴染《なじみ》のない屋敷でもなかった。まさかと思って二、三度素通りしたその家が、結局木藤の新居と分かった時、
「おやおや、木藤の奴《やつ》、妙な家を買ったものだなア」
と思わずそうつぶやかずにはいられなかった。
それは家並みの建て込んでいるその辺としては家の周囲にかなり広い地所をとった、見るからに陰気な和洋折衷の建物だ。しばらく空き家になっていたとみえて、門の鉄柵《てつさく》には仰々しく鉄条網を張って、それがまだそのままになっている。私は仕方なしに、そばの耳門《くぐり》の方から入って行って玄関の呼鈴《よびりん》を押した。
「どなた」
という声が奥の方から聞こえて、やがてガラガラと玄関の戸を開いてくれたのは、見覚えのある木藤自身だった。アメリカ流の派手な室《ドレツ》 内《シング》 着《ガウン》を着て、難《むずか》しそうな顔をして出てきたが、薄暗い軒燈の光に私の姿をすかして見ると、急ににこにことして、
「きみかい? ミスター鈴木」
とうれしそうに言った。
「夜分で失礼だと思いましたが、急にお目にかかりたくなって――」
私が弁解がましくそう言うと、木藤は打ち消すように、
「いや、どうぞ、どうぞ。私も今退屈して困っていたところです」
と手を取らんばかりにして私を招じ入れた。
中に入ってみると、どの部屋もがらんとしておりからの梅雨時に、到るところカビ臭い匂《にお》いが漂っている。道具らしい道具も全くなくて、歩くたびに畳がめり込みそうなほどだ。
「なにしろまだ間がないのでこんなありさまです」
奥の八畳へ通した時、木藤は仰山《ぎようさん》そうにわざと道具のない部屋を見回して笑った。
「おいおい住居らしくするつもりですが、なにしろ日本《こちら》の勝手がよく分かりませんのでね。それに相談相手もないので困っています」
そう言われると私は、自分の冷淡を責めないわけにはいかなかった。
十数年ぶりに帰ってきた彼は、この広い東京に身寄りもなければ友達もないのだ。強《し》いて相談相手を求めるとすれば、私くらいのものであったろうから、いまさらのように私は自分の忘恩が恥じられた。
「まあまあ、それでも洋館の方はここより幾分ましですよ。向こうへ行こうじゃありませんか」
木藤は八畳の座敷に取り散らかした、鋸《のこぎり》だの、鉄棒だの、巻き尺だのという奇妙な道具を、手早く片づけると、自分から先に立って縁側の隅《すみ》にある、抜け穴のような廊下の扉《ドア》を開いた。
「妙な建物ですね。こんなところに廊下があるのですよ。たぶん洋館の方は後になって建て増したのでしょうが、幾らなんでもずいぶん変ですね」
木藤はそう言って笑った。
かなり長い廊下には、中ほどにぽっつりと薄暗い電燈がついているきりで、後はほとんど真っ暗だった。通りすがりに窓の外を見ると、桐《きり》の葉がさやさやと音を立てて白い葉裏を見せていた。また雨になりそうな天気だ。
「さあ、どうぞこちらへ」
渡り廊下が終わると、洋館の内部でそこにちょっとした広間があった。木藤は二つある扉の奥の方を開きながら、そう言ってにっこりと私の方を振り返った。
二
なるほどその部屋はさっきの日本座敷から比べるとずっと整頓《せいとん》されている。寝台もあれば鏡台もあり、寝台の枕元《まくらもと》にある書物机の上には、シェードをかぶせた電気スタンドが置いてあって、その下には読みさしらしい横文字の本が伏せてあった。
思うに木藤は、一日のたいていの時間をこの部屋の中で暮らしているのだろう。長く向こうにいた彼にとっては、日本座敷に用のないのは当然だった。
「お一人ですか? 女中さんはいないのですか?」
彼がすすめてくれた畳み椅子《いす》に腰を下ろしながら、私はそう尋ねた。
「ええ、まだ一人です。適当なのを物色しているのですが、どうも見つかりませんでね。それに向こうの簡易生活に慣れている者にとっては、結局この方が気楽なんですけれどね」
木藤はそんなことを言いながら、戸棚《とだな》の中を探して、日本には珍しいモントラッシュの酒瓶《さかびん》と、鷓鴣《しやこ》の冷肉を皿《さら》に盛って取り出した。
「いやはや、寡夫《やもめ》暮らしの不自由さには、こんなものしかありません。まあ遠慮なくやってください」
彼が二つのグラスに酒を注《つ》いでいる間に、私はふと机の上に伏せてある本の、背の金文字を読んでみた。
メExperience of Criminal Investigationモ
「おや」
と私は内心驚いて、この男、犯罪学を研究しているのかしらと審《いぶ》かった。木藤はそれを見るとさり気なく本を取り上げて机の下に放り込むと、
「は、は、は、は、は! 暇つぶしに下らないものを読んでいますよ」
と、取ってつけたような笑い声を立てると、ぐっと一息にグラスを空《あ》けた。それを見ると、相手の素振りを怪しむ暇もなく、私も思わず自分のグラスに手を出した。
それからしばらくアメリカ時代の思い出や、こちらの生活の不自由なことなどに話の花が咲いたが、その切れ目に、私はふと、さっきから心の中にわだかまっている問題を口に出したのである。
「木藤さん、私がこの家へ来るのは、今日が初めてではありませんよ」
「おや、どうしてです? じゃ前に知った方でも住んでいられたのですか?」
「知っているというわけでもありませんが、ちょっと新聞の用で訪ねてきたことがあるのです。半年ほど前まで、この家には畔柳信三郎《くろやなぎしんざぶろう》という物理学者が住んでいたものですよ」
「ええ、それなら私も知っています」と木藤はじっと私の顔を見ながら、「私はこの家を、さる周旋業者の手を経て買ったのですが、持ち主が畔柳博士だということを聞きました」
「ああ、そうですか、ではこの家は博士の持ち物だったのですね」
「そうです。しかし、あなたが社用で尋ねてこられたというのは、いったいどんな用件だったのですか?」
「それがねえ、ちょっと――」
私が言い渋るのを見て、彼はちょっと不愉快そうな顔をしたが、すぐ顔色を和らげて、
「ああ、何か社の機密に属する用件だったのですね。それならお話しなさるにも及びませんよ」
「いいえ、そういうわけじゃないのですが……」
と私はちょっと考えたが、別に言って悪いという話でもない。それに途中で言葉を濁したりして、この家に悪い印象でも持っては気の毒だと思ったので、私は思い切って話すことにした。
「木藤さん、あなたが半年早く帰っていられたら、あの事件をよく御存じになられたはずですがね」
「ははあ、すると相当騒がれた事件だったのですね」
「そうです、新聞でもずいぶん書き立てましたし、世間でもだいぶ問題になりました」
「そんな喧《やかま》しい問題がこの家に関連してあったとすれば、ちょっと住むのは厭《いや》ですね」
「いや、家とはなんの関係もないことです」
私はあわてて打ち消しながら、
「気になさるといけませんから、博士には気の毒ですがお話ししましょうか」
「どうぞ」
木藤は低い声でそう言うと、私のグラスになみなみと酒を注いでくれた。その態度には、さっきの熱心にもかかわらず、どこかよそよそしいところが見えるのだ。そのくせ私は、彼がその話を聞きたくて耐《たま》らないことはよく分かっていた。
「お会いになったことがあるかどうか知りませんが、畔柳博士は六十を二つ三つ越した年輩の方です」と私は話し出した。「なんでも十五、六年前に奥さんを失われてからというもの、ずっと独身で婆《ばあ》やと二人きりで暮らしていられたのですが、それが突然、去年の春の終わりごろ結婚されたのです。しかも相手の婦人というのが当時十九だったと言いますから、かなり突飛な結婚です。そのうえ彼女はあるダンスホールにいたダンサーだというのですから、この結婚はかなり世間の問題になりました。しかし、こういう世間の非難も構わずに博士は無理に結婚されたのですが、博士の新夫人のかわいがりようと言ったら、尋常とは言えなかったそうです。何かこう、美しい人形でもかわいがっている――言ってみれば猫《ねこ》かわいがりですね、夫人の言うことなら一も二もなく肯《き》かれるのだそうです。それでいて、どこか夫人を人間として扱っていない、――つまり、博士ほどの偉い学者になると、どんなに情熱的になっても、どこかに冷たい批判性がひそんでいるのですね、それが反対の結果になって現われて、夫人のめちゃくちゃなわがままをなんでも喜んで肯いていたらしいんです。こういう夫婦生活ですから長続きのしないのは分かりきっています。果たして、間もなく破綻《はたん》がやってきたのです」
「夫人――確か繁代《しげよ》さんと言いましたが――この繁代さんには、ダンスホールにいた時分からの恋人がありました。相手は沢田譲二《さわだじようじ》という名で、繁代さんとは同じ年のなかなかの美少年ですがこれが評判の不良なんです。初めは繁代さんを食い物にしていたらしいのですが、繁代さんが結婚してみると、急に懐かしくなったらしいのですね。結婚後はいっそう繁代さんに接近してくるふうを見せたそうです。ところが前にも言ったとおり、博士は繁代さんの言うこととなるととても寛大ですから、この譲二という青年にも、平気で出入りを許していたらしいのです」
「これがそもそもの間違いでした。なにしろ一人は人妻とはいえまだ年若い娘さん、それに一方が不良少年ときている。間違いが起こらなければむしろ不思議というもの、それでも半年あまりはなんのこともなく過ぎましたが、とうとうある日駆け落ちをしてしまったのです。それが今年の二月の初めごろのことでした」
「ほほう、駆け落ちをしたのですか。そりゃ気の毒ですな。博士もさぞがっかりしたことでしょうな」
「ところが案外そうでもないのです。私が博士の感想をききにきたのは、駆け落ち事件があってから二日目のことでしたが、割りに元気でしたよ。そうそう、博士の話をきいたのも、ちょうどこの部屋でしたが、博士はその時ワイシャツ一枚になって、ペンキ塗りをやっていましたっけ」
「ペンキ塗りを?」
「そうなんです。あれでやはりじっとしていると内心苦しかったのでしょうね、大童《おおわらわ》になってこの部屋の扉から羽目板を塗っていましたが、話すことは割りにしっかりしていました。まあこうなるのが当然だと、前から覚悟していたらしいんですね」
「それで、駆け落ちをした二人はその後どうしましたか?」
「さあ、いっこう消息を聞きませんが、なんでも三か月ほど経《た》って、上海《シヤンハイ》から博士|宛《あて》に手紙が来たそうです。それ以外にどうなったか知りませんね。しかし、何にしても気の毒なのは博士ですよ。そんなことから××大学の方もよさなければならぬことになりましてね、それでこの屋敷も引き払ってしまったのでしょう」
「そうですか、いやどうも気の毒な話ですなア」
木藤はしばらくぼんやりと虚空《こくう》を見詰めていたが、
「いや、どうもありがとうございました。近日この家の売買について、直接博士にお目にかかることになっているのですが、いいことを聞かせてくださいました。うっかりそんな問題に触れちゃ失礼ですからね?」
木藤はそう言って、探るように私の顔を見たのである。
三
今夜ぜひ来てくれという木藤からの手紙を社で受け取ったのは、それから一週間ほど後の夕方のことであった。
幸いその晩は体もあいていたので、少し頭痛気分だったけれど、小日向台町へ出かけて行った。木藤はあれから博士に会ったろうか、そんなことを考えながら、彼の家を訪ねてみると、家の中は相変わらずがらんとして、あれから少しも手を入れたように見えない。例によって洋館の方へ案内されたが、前の部屋と違って、その晩は隣の狭い書斎へ通された。通りすがりにふと見ると、隣の部屋には重い樫《かし》の扉がぴったりと締まっていた。
「いやよく来てくださいましたね、もう少し早く来てくださると、もっとおもしろい芝居をお見せすることができたのですがなア」
見ると木藤はだいぶ酔っているらしかった。テーブルの上には、ほとんど空《から》になりかけたウイスキーの瓶が置いてあった。
「どうです。住み心地はどんなものですか?」
「住み心地?」
木藤は酔っ払い特有の、白眼の勝った瞳《ひとみ》でじっと私をにらんでいたが、突然ワハハハハととってつけたような笑い方をした。
「悪くはありませんな。なにしろ隣の部屋ときたらとてもおもしろいですよ。ずいぶんいろんな研究材料がありましてな」
「研究材料?」
「そうです。この前あなたが訪ねていらした時僕が犯罪捜索に関する本を読んでいたのを御覧になったでしょう。これで僕は犯罪に関してはなかなか興味を持っているのでしてね」
「ほほう、すると隣の部屋に何か犯罪に関する研究材料があるとおっしゃるのですか」
「ありましたなア」木藤はそこでグイとウイスキーを一息に呷《あお》ると、「それをお話ししようと思って今夜お招きしたのですが……」
その時である、隣室に当たって何か床に倒れるような物音がかすかに聞こえた。それに続いて思いなしか、人の呻《うめ》き声《ごえ》のようなものが聞こえる。私がぎょっとして立ち上がりそうにすると、
「いやなんでもありませんよ、なんでもありません、それよりまア、僕の話を聞いてください」
木藤はまるで催眠術でもかけるように、じっと私の眼の中をのぞき込みながら、「僕があの部屋へ寝起きするようになって、最初何を発見したと思います。実に奇妙なものですよ。実に奇妙な――書き置きを発見したのですよ」
「書き置きですって?」
「そう、それも世の常の書き置きじゃない。壁の羽目板の床から二尺ばかりのところに紫鉛筆で書いてあるのです。『われわれは殺される――』とたったそれだけ」
「ナ、なんですって?」
「まア、静かにお聞きなさい。それを見て僕はこう考えましたね。だれかがこの部屋で殺された。そして床の上に倒れて今にも息を引き取ろうとした時、真相を書き残すつもりでここまで書いたが、そのまま息を引き取ったのだろう。――と、そう考えたが、とすればその時犯人はどうしていたのだろう。犯人がもしそばにいたら、そんなことを書かせもすまいし、よし書いたところで後から消してしまったろう。ところがあの部屋には今でもちゃんとその文字が残っているのです。つまり犯人はそれに気がつかなかったのだと思わなければなりません。これはどうも不思議ですね」
「…………」
私は黙って木藤の口許《くちもと》を見詰めていた。なんのために彼がこんな話をするのか、私にはよく分からない。しかし彼はなかなか熱心に話しつづけるのだ。
「どうも不思議だ。分からない、どんなふうにして殺されたのだろう、――そんなことを考えている時、初めて聞いたのがこのあいだのあなたの話です、あの時博士はこの部屋にペンキを塗っていたという……」
「え? 博士ですって……博士が何かこの事件に関係があるのですか?」
「まア、黙って聞いていてください。僕はその話を聞いた時、突然思い当たりました。ペンキの匂いはガスの匂いととてもよく似ているのだからガスの匂いを消すにはペンキに限るのです。それにあんな際にもかかわらず、博士がペンキ塗りなんかしていたのは、ずいぶんおかしな話じゃありませんか。そう考えて、さてあの部屋をもう一度よく観察してみると、実に奇妙な構造です。窓と言わず扉といわず、実にがっちりとしていて、一度締めると、どこからも空気の抜ける所はないのです。つまりガスを送るには理想的な部屋にできているのですね。そこに気がつくと、僕はいっそう熱心に部屋の中を調べてみました。そしてとうとう発見したのです。廊下からあの部屋の天井へ、昔ガス管を通じてあった後が残っています。そのガス管の一方の口は、天井の隅《すみ》の人眼につかないところに開いているのです」
「いったい、しかし、それはどういう意味ですか?」
私はやっとのことで咽喉《のど》の奥の方から声を振り絞った。
「おや、まだお分かりにならないのですか。つまり畔柳夫人の繁代さんと、恋人の譲二君は駆け落ちをしたのではなくて、博士に殺されたのです!」
「ナ、なんですって? ソ、そんな馬鹿なことが……」
「馬鹿なこと? いいえ、真実ですよ。現に先ほど、博士が自白したばかりですから」
「え! じゃ、じゃ――」
「そうです。今隣の部屋にいるのがその博士です。私がだまして連れ込んだのです、ちょうど博士が妻と譲二をだましたようにね。今ごろはもう死んでいるでしょう。ガスでね、は、は、は、妻と情夫を殺したと同じ方法で、隣の部屋で死んでいるでしょう」
私はその時、初めて木藤の眼の中に兇暴な光を見た。彼はじっと私の顔を見詰めていたが、やがて、その面《おもて》は次第に悲しげにゆがんできた。
「そうです。私は復讎《ふくしゆう》したのです。譲二は私がアメリカへ渡る前、ある婦人――その人は今、立派な家庭の主婦になっていますが――との間にできた子供です。私は譲二を探しに日本へ帰ってきたのです。そしてその婦人の口から、こんどのいきさつを聞きました。婦人も譲二が駆け落ちをしたとは思わないというのです。だから私はこの家が売り物に出ていたのを幸い自分から買って調べてみる気になったのです。おお、かわいそうな譲二!――」
突然、木藤の咽喉が奥の方でごろごろと鳴った。と、思うと、ふいにがっくりと机の上に顔を伏せてしまった。私が驚いてその肩に触ってみると、その時すでに、彼の体は冷たく、固くなりつつあったのだ。
私は愚かにもその時、初めてテーブルの上にある毒薬の瓶《びん》に気がついたのである。
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[#見出し] 三通の手紙
[#小見出し] その一
安宅源蔵《あたかげんぞう》より為安史郎《ためやすしろう》へ
とうとう見つけたぞ、なんとうまく隠れていた貴様だったろう。井之頭《いのかしら》百花園主人為安史郎か。――
なるほど、カーネーションやアネモネや、ダリヤなどの咲き乱れた温室の中で、若い細君といっしょに、虫をとったり、水をやったりしている髭《ひげ》の白い老人を、だれが昔のあの、蝮《まむし》の四郎《しろう》だと思おう。
現に昨日井之頭公園からの帰途、ふと垣間見《かいまみ》たおれでさえ、最初のほどはなかなか気がつかなかったくらいだ。あの時、きみは広い花壇のすみに、若い細君といっしょに尻《しり》からげで立ちながら、
「来年はこのあたりに、苺《いちご》をもう少し作ろうじゃないか」
と話しかけていたね。
おれはその声を聞いたのだ。おれはちょうどその時きみから一|間《けん》と離れない、檜垣《ひがき》の外に立って、ぼんやりと、なんの意味もなく、きれいな温室の中に眼をやっていたのだが、その声を聞いたとたん、突然古沼の底から湧《わ》きおこってくる、あのメタンガスのように、とめどもない喜びを感じた。
きみは外貌《がいぼう》をあんなにまで巧みに作り変えることができたにもかかわらず、潮と風できたえられたあの声だけは、どんなにも変えることができなかったとみえるね。長い長い間探していた声を、突然、耳もとで聞いた時のこのおれの喜びをまあ想像してみてくれ。
おれは本能的に身を隠そうとした。身を隠してもっとよくきみの様子を観察してみようと思ったのだ。しかし、その場の様子が、おれにそんな不自然な態度をとらせる必要は少しもなかった。ちょうどその時、きみの娘だろう、七つくらいの女の子が大きな下駄《げた》をはいたまま、危なっかしい足どりできみたちの方へやってきた。きみの若い細君は、それを見ると子供の転ぶことの懸念《けねん》で、すぐきみのそばを離れて向こうへ行ってしまったし、きみ自身はというと鍬《くわ》を杖《つえ》についたまま、それこそもう、祖父の代からこんな職業をしているという様子で、いかにも平和らしくのんびりと微笑《ほほえ》んでいた。実際だれが見ても、あの壊れかかったぼろ船を乗り回し、黄海《こうかい》から支那海《しなかい》、時には遠くインド洋まで出向いて、人の五人や十人、平気でやっつけたあの兇暴な蝮の四郎とは全く見えない。
四郎よ。
おれだって人間だ。まんざら血も涙もない男じゃないつもりだ。実際昨日、きみのうちの平和な情景を見たときは、危なく涙が出そうだったぜ。
善哉《ぜんざい》、善哉、貴様はよくこそ足を洗ったものだ。きみの細君はかわいい。さらにきみの子供はもっとかわいい。四郎よ、二度と昔の夢を見るな。きみの細君と子供のために、花造りとして平和に生きろ!
四郎よ、ほんとうならおれだってこう言いたいんだ。贅沢《ぜいたく》はできなくっても、その日その日の腹の虫さえおさまってりゃ、おれだって決してこんな野暮《やぼ》なことは言いたくないんだ。
おれがどうして昨日、井之頭くんだりまで出向いていったか、それを言や、きみにもおれの心持ちが分かってくれるだろう。おれはいま線路工夫をしているのだ。昨日、きみの隠れ家を見つけたというのも、三鷹《みたか》付近の線路を修繕に出向いたその帰途だった。
こういえはおれが今、どんなに困っているか分かってくれるだろう。多くとは言わない、志――、志だけでいいのだ。
おれは今アメリカへ渡ろうと思っている、その旅費の一部分をきみに喜捨してもらいたい。きみの隠れ家を発見したこのおれを、アメリカへやってしまうことは、きみにとっても決して無駄《むだ》なことじゃなかろうぜ。
昔の罪劫《ざいごう》はまだ決して帳消しにはなっていないはずだ。この手紙を書く代わりに、もっと短い、もっと簡単なハガキを、ほかの場所へ書き送ることによって、おれはきみの現在の幸福を台なしにすることさえできたのだ。
表記の住所へ至急返事をしてくれたまえ。
[#小見出し] その二
為安史郎より安宅源蔵へ
手紙見た。
おれがどんなに驚愕《きようがく》したか、失望したか、嘆いたか、そんなことはいまさら繰り返すまでもあるまい。
昔のおれなら、きみをおびき寄せて殺してしまうことなんど、なんでもないことだ。しかし今は違う。おれは現在の妻と結婚する前に、決して今後この手を血で染めないと神に誓ったのだ。
千円だけ用意しておいた。
今夜八時、三鷹村の踏切より南へ入る三|丁《ちよう》、櫟林《くぬぎばやし》の中で待っていてくれ。合図はカンテラだ。かっきり八時に、S行きの列車があの踏切を通りすぎるはずだ。その列車が見えなくなったら、カンテラを三回振ってくれ。
ただし、きみがアメリカ行きを誓わないかぎり、この千円も決して渡さないつもりだ。ひょっとしたら現在のこの老人にも、まだ昔の四郎の血がどこかに残っているかもしれないから、会ったら素直に物を言ってくれ。おれは二度と昔の二の舞いをしたくないのだ。終わりにこの手紙を読んだらすぐに焼き捨ててくれたまえ。
[#小見出し] その三
生方貞吉《うぶかたさだきち》宛の無名の手紙
拝啓、突然にて御驚きのことと存じ候《そう》らえども、其許様《そこもとさま》、其《そ》の後|益々《ますます》御隆盛の由、数年前より拝察仕り陰ながら喜び居り候《そうろう》 者にて御座候。お互いに膝を交えて、久闊《きゆうかつ》を叙し昔の思い出話にふけることの能《あた》わざるは、まことに因果なる因縁とは存じ候えども、御訪ね申し上げてはかえって迷惑と奉存知《ぞんじたてまつり》、今まで差し控え申し居り候。其許様|築地《つきじ》にて立派やかなる支那《しな》料理店|被成居《なされおる》ことを承り候時は、小生も御懐かしさの余り、飛び立つ思いにて御座候らえども、思い直せばいやいや、上海《シヤンハイ》にて一味解散の砌《みぎり》、爾後《じご》は往来にて出会うことあるも、決して口も交わすまじ、お互いに相識《そうしき》なるがごとき挙動はいっさい差し控え申すべしと固く誓いし言葉も有是《これあり》候まま、今まで御無音に打ち過ぎ申し候。しかるに如何《いか》なれば如《かくの》 斯《ごとき》 手紙参らせ候|也《や》、其の理由は夙《つと》に御賢察のことと存じ候らえども、小生このたび五千円の金がなくては如何《いか》にも立ち難き仕儀|是有《これあり》候まま、斯《か》くは其許様におすがり申し上げる次第にて候。
今夜八時、府下三鷹村の踏切を南へ去ること三丁、櫟林の中にて相待ち居り候間、枉《ま》げて御救い被下度《くだされた》く、合図は八時きっかりに踏切を通過するS行き列車の影を没するとともに、カンテラを三回輪に可振《ふるべく》、是《これ》を目当てに御進み被下度《くだされた》く、小生の身許《みもと》は其の時御判明のことと被存知《ぞんぜられ》候。この窮場御救い被下《くだされ》候上は、今後其許様の秘密は絶対に安全なることを付け加え、今夜くれぐれも御待ち申し上げ候。
その夜八時ごろ、為安史郎は夕飯の膳《ぜん》を引くと、ゆったりと茶を飲みながら夕刊を読んでいた。細君の美也子《みやこ》は子供を寝かしつけて、そろそろと縫い物をひろげようとしていた。
その時、どこかでズドンというような物音が聞こえた。
「まア、なんの音でしょう」
細君がふと顔をあげた。
「何?」
「鉄砲の音のようでしたわ」
史郎はゆっくりと柱時計を振り返ると、
「八時だね」と言った。そして、「なんでもないよ。自動車でもパンクしたのだろう」
と付け加えた。事実間もなく、騒がしいエンジンの音とともに、自動車の走り去る音が聞こえてきた。
史郎は今、クッションの下に銃を隠して、いっさんに東京の方へ走り去っている生方貞吉の顔を思い浮かべて、にっこりと笑った。
――あいつならやるだろうと思った。生方貞吉――、あいつは鉄のような意志を持っている男だからな。
史郎は次に、枯れすすきの中に丸太のように転がっている安宅源蔵の死体を思い浮かべてさすがにちょっといやな気持ちがした。
――しかし、しかし、おれは決してこの手を血で染めはしなかった。ただ、二通の手紙を書くためにインキでこの指を汚《よご》しただけだ――
史郎はそこで細君の方を振り返っておだやかに言った。
「子供はよく寝てるようだね」
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[#見出し] 九時の女
深夜の電話
近ごろようやく売り出してきた探偵《たんてい》作家の寒川譲次《さむかわじようじ》は、もうにっちもさっちもゆかなくなっていた。明日の午後一時までに、どうしても三千円という金をこさえなければ、郷里にある彼の生家が、破産の宣告を受けなければならぬという羽目になっているのだ。
譲次ひとりなら破産ぐらいなんでもないことだった。近ごろぼつぼつ原稿も売れだしたし、自分ひとりぐらい食ってゆくには、大して困りはしないという自信はあった。
しかし郷里にいる母や妹のことを考えると、自分だけが食うに困らないからといって、安閑としているわけにはゆかない。田舎者《いなかもの》は元来正直だ。ことに父の代までは地方でも名望家としてきこえていた家柄だけあって、破産というような不名誉な極印《ごくいん》を押されたら、あの気の小さい母がどんなに気を落とすだろうと思うと、譲次はいても立ってもいたたまれないような気がするのだ。
――なんとかうまくかたをつけてくださらないと、お母様は絶望のあまり発狂なさるかもしれません。――
妹からはそんな手紙さえ来ているくらいだ。
しかし、この寒川譲次にいったいなにができるというのだ。ようやく売り出したばかりの駆け出しの探偵作家にとっては、三千円といえばなかなかの大金だ、しかも明日の午後一時までといえば、後十二時間しかないのだ。
寒川譲次はべッドの上でごろりと寝返りをうつと、眉《まゆ》をしかめてデスクの上の置時計をにらんだ。時計の針はちょうど十二時五十分を指している。その時計の針の一分一分に、寒川譲次はなにかしら追っかけられるような焦燥を感ずるのだった。
とにかく、明日の朝になったら、心当たりの出版屋や雑誌社を二、三軒回ってみよう。幸い、彼の初めての短篇集が、近くある出版社から出版されることになっているので、そこで五百円くらいの工面《くめん》はつくだろう。そのほかもう五百円くらいは、なんとか目鼻がつくというあてがあった。
しかし、あとの二千円をどうしようというのだ。
譲次は吸いかけのチェリーを、さも苦そうに灰落としのなかへつっこむと、両手を頭のうしろで組んで、ごろりとべッドの上に仰向けになった。
枕《まくら》もとの電話がけたたましく鳴り出したのは、ちょうどそのときだった。
だれだ、今ごろ――?
譲次はうるさそうに眉をしかめると、それでも仕方なしに不承不承べッドの上に起き直って、受話器を取り上げた。
「ああもしもし、ええ、そうです。こちら寒川――寒川譲次です。あなたはどなたですか」
電話の声は女だった。細い、顫《ふる》えをおびた透きとおるような声が、こころよく彼の耳朶《じだ》をうった。
「あたし――わかりません? ほほほほほほ、おわかりにならないのはごもっともですわ。まだ御挨拶《ごあいさつ》を申し上げたこともないわたしですもの、でもね、あなたはよく御存じのはずですわ。九時の女――、ほら、あんたがたのあいだで、九時の女でとおっている女ですわ」
「え? なんですって?」
譲次はびっくりしたように、思わず送話器にしがみついた。
「ほほほほほ、なにもびっくりなさることはありませんわ。あたしちゃんと知ってますのよ。あなたがたのお仲間で、あたしのことを九時の女とあだ名していらっしゃることを、でもね、そんなこと、どうでもよござんす。寒川さん、あなたとてもお金が要るんでしょう?」
譲次はもう一度どきりとした。彼は自分のききちがいではないかと思って、思わず相手に訊《き》きかえした。
「な、なんですって? いまなんとおっしゃいました?」
「ほほほほほほ、ごめんなさいね。だしぬけにこんな電話をかけたりして、びっくりなさるのは当然ですわ。でも、あたしちゃんと知ってますのよ。あなたのお家が破産に瀕《ひん》していることだの、どうしても、明日――いえ、もう今日ですわ。今日の午後一時までに三千円のお金を作らなければならないことだの――」
譲次は一瞬間受話器を握ったままぽかんとした。相手がどうしてそんなことを知っているのだろうという疑問よりも、むしろ、なんのために、こんな電話をかけてきたのか、その真意がはかりかねたからである。譲次はむしろ憤《おこ》ったように、ぶっきら棒な声で問いかえした。
「それはほんとうです。明日の――いや、今日の午後一時までにはどうしても三千円という金が要るのです。しかし、それがどうしたというのですか」
「ほほほほほほ、憤らないでちょうだい」
電話の向こうからあでやかな笑い声がきこえた。
「あたし決して悪い女じゃないのよ。あなたが困っていらっしゃることをきいて、とても同情しているのよ。それでものは相談なんですけどね」
そこまで言って女はちょっと言葉を切ったが、すぐそのあとをつづけた。
「もし、もし、寒川さん? きいていらして?」
「ええ、きいていますよ」
「そう、それでね、ものは相談なんですけど、あたし、そのお金を御用だてしてもいいと思っているのですけれど」
「な、なんですって?」
譲次はもう一度受話器を握り直した。
「そ、それはどういう意味ですか」
「どういう意味って、言葉どおりの意味よ。あたしがそのお金を――」
「だって、だって、一面識もない――もっともお互いに顔は識《し》り合っているものの、なんの交際もないあなたが、ぼくに三千円という大金を貸してくださるというのですか」
「いいえ、お貸しするのじゃないわ、差し上げるのよ」
しばらく二人のあいだの会話がとぎれた。譲次は探るように受話器に耳をあてていたが、やがて、落ち着きはらったような声でゆっくりと尋ね直した。
「よろしい、わかりました。御好意はたいへんありがたいです。それで、むろん、無条件じゃありますまいね。その条件というのをきかせてください」
「ほほほほほ、さすがに探偵作家だけあって、お察しがいいのね、むろん条件はありますわ。きいてくださる?」
「ええ、どうぞおっしゃってください」
「そう」
女はしばらく考えるように言葉を切ったが、やがてまた、透きとおった美しい声がきこえてきた。
「じゃね、その条件というのを申し上げる前に、この電話が決して冗談やでたらめでないという証拠を見てください。あなたちょっと、玄関まで来てくださらない?」
「玄関って、このアパートの玄関ですか」
「ええ、そうよ、玄関を出ると石の階段がありますわね。その階段の一番下の段の隅《すみ》に、棕櫚《しゆろ》の植木鉢《うえきばち》がおいてあるでしょう。あなた覚えていらして?」
「ええ、ええ、よく知っています」
「その植木鉢の中に銀のシガレットケースがあるはずですから、それをとってきてくださいな。そうすれば、あたしの電話がでたらめでないことがよくわかりますわ。ええ、いますぐに――ああ、電話は切らないでどうぞそのまま、シガレットケースがありましたら、もう一度電話へ出てちょうだい」
譲次はなんだか狐《きつね》につままれたような気がした。いったい、相手は真剣なのだろうか。それとも自分が金に困っていることを知って、からかっているのではなかろうか。
九時の女。――
そのあだ名についてはこういう謂《いわ》れがあるのだ。
譲次はそのころひどくダンスに凝っていた。ようやくフォックストロットが満足に踊れるか踊れないくらいの技倆《ぎりよう》でしかなかったが、それだけにおもしろくて暇さえあると彼は毎晩のようにフロリダへ踊りに出かけた。
九時の女――というのはそのダンスホールの定連なのである。すらりと背の高い、太陽に燃えあがった緋《ひ》ダリヤのように美しい女だったが、だれも彼女の身分を知っているものはいなかった。譲次などとちがって踊りもなかなか達者で、ワルツでもタンゴでもなんでも鮮やかに踊ってのけた。たぶん外国仕込みだろうと噂《うわさ》をするものもあったが、それほどの女の素性がわからないというのが第一不思議だった。素性どころか名前さえ知っているものはないのである。ときどき市会議員で、有名な漁色家としてきこえている河合卓也《かわいたくや》という男といっしょに現われることがあったが、その卓也自身にきいてみても、どこの女だかわからないという曖昧《あいまい》な返事だった。
ただ、この女には妙な習慣というか、非常にきちょうめん[#「きちょうめん」に傍点]なところがあった。どんなことがあっても、九時になるとさっさとそのダンスホールから帰ってゆくのである。最初それに気がついたのは譲次だった。そして、この奇妙な女性に対して、あの「九時の女」という尊称を奉ったのも譲次自身なのである。むろん譲次もその女と二、三度手を組んで踊ったことはある。しかし二人のあいだはただそれだけのことだった。ダンスホールでの浅い識《し》り合《あ》い――識り合いというにはあまりにも薄い馴染《なじみ》の、しかも素性も知れぬ女から、突然三千円という大金を提供しようと切り出されたのだから、譲次ならずとも一応怪しんでみるのは無理でもなかった。
譲次はそれでも念のため、寝間着の上から羽織をひっかけると、言われたとおり電話をつなぎぱなしにしておいて部屋の外へ出た。十二時すぎのことだから、どの部屋も電燈は消えてしまって、アパートの中はしんと静まりかえっていた。下へ降りてみると、受付も窓を閉ざして寝た様子。夜じゅう開けっぱなしになっている玄関のドアを開いて外へ出てみると、冷たい風がひゅっと電線を鳴らしていた。空には凍《こご》えたような星がちかちかと光っている。
「おお、寒い!」
譲次は首をすくめながら、指定された棕櫚の植木鉢へ近寄って行ったが、言われたシガレットケースはすぐ見つかった。いつだれがおいて行ったのか、むろん、あの女にちがいないが、まだ真新しい銀色のケースが、少し土をかむって埋まっているのだった。それを見ると譲次の面は思わずじりりと引きしまった。女の話はでたらめではなかったのだ。
彼はそのシガレットケースをつかむと、大急ぎで部屋へ帰ってきた。
「もしもし、もしもし、シガレットケースはたしかにありましたよ」
女のかすかな笑い声がそれに応じてきこえてきた。
「そう、それであなた、そのケースに見覚えはございません?」
そういわれて、譲次はもう一度そのケースを見直した。銀地に宝石と七宝《しつぽう》とで美しく孔雀《くじやく》を描き出したその品には、たしかに彼は見覚えがあった。一昨日のことである。銀座の散歩の途次、天賞堂のショーウインドーで、しばらく彼が去りがたくながめつくしていた品がそれだった。定価はたしか百二十円とついていたから、いかに譲次が欲しがっても、なかなか手の出せそうにもない品なのだ。それにしても女がどうしてそれを知っているのだろうか。
「ほほほほほほ、お気にめしまして? でもあたしを怪しまないでちょうだい。あのときちょうどあなたのうしろを通りかかって、あまりあなたが欲しそうにしていらしたので、つい悪戯心《いたずらごころ》から買ってみただけですわ。お気にめして倖《しあわ》せ、じゃこんどはそのケースを開いてみてちょうだいな」
譲次はもうすっかり度肝《どぎも》をぬかれた態《てい》だった。甘い、誘うような女の声音《こわね》には逆らいがたい一種の魅力がこもっている。譲次は受話器を耳にあてたまま、片手でパチッとそのケースを開いてみた。そのとたん、こんどこそは前にも一倍するはげしい驚きで、思わず受話器を取り落としそうになったのである。
奇妙な命令
ケースの中には手の切れそうな百円紙幣が、きちんと折り畳んで入れてあった。それはたったいま銀行から引き出してきたばかりのように、青々として、羊皮紙《ようひし》のような光沢をもっている。瞬間譲次は棒のように立ちすくんだまま、その紙幣をながめていた。
「なにかありまして?」
電話の向こうからうながすような女の声がきこえてきた。
「あ、ありましたよ、お金が」
「そう、じゃ、ちょっとそれを勘定してみてちょうだい」
譲次はケースの中から紙幣の束を引きだした。恥ずかしい話だが、それを勘定するときの譲次の指はひどく顫え、額《ひたい》にはびっしょりと汗が浮かんでいた。彼は自分のあらあらしい息使いが、向こうの女にきこえやしないかと思って、あわてて送話器の口を掌で押さえたくらいである。
しばらくして紙幣束を数え終わると、彼はぐっと唾《つば》を飲みこんで、息をととのえながら、強《し》いて落ち着きはらった声音でいった。
「百円紙幣が十五枚――千五百円あります」
「ほほほほほ、いかが、その贈り物は、お気にめしまして?」
女のたてた高い笑いが、痛いほど強く耳にひびいてきた。譲次はもうすっかりその女に翻弄《ほんろう》されている態だった。
「はい、いや、たいへんけっこうです。しかし――」
譲次がなにか言おうとするのを、女は押さえつけるようにさえぎって、
「そう、お気にめして倖せですわ。それでこの電話が冗談やでたらめでないことはわかりましたでしょうね」
「ええ、よくわかりました」
「そう、じゃこれからあたしのほうの条件というのを申し上げますわ。きいてくださるでしょうね」
「むろん、うかがいます」
女の声はややとぎれた。なにか思案をめぐらしているのだろう、少し早目な息使いが電話を伝わってきこえてくるような気がした。そのあいだがあまり長かったので、譲次はもどかしそうに、
「もしもし、もしもし、どうぞその条件というのをおっしゃってくださいませんか」
「ええ、いま申し上げますわ」
女はやっと決心したようにいった。
「でも、あらかじめ申し上げておきますが、あたしのほうの条件というのはたいへん奇妙なことなんですよ。きっとあなたにはよく飲み込めないところがあるだろうと思いますの。しかし、それについて余計な質問をされたりしますと、あたしのほうではたいへん迷惑なんですけれど――」
「わかりました。じゃ、あなたのお話がすむまで黙ってうかがっていればいいのですね」
「ええ、そうなんですの、そして、その上あたしの言ったとおりのことをしてくださると、たいへんありがたいんですけれど――、ではまず、あたしの条件というのを申し上げてみますわ。第一にあなたはいますぐアパートを出て、小石川の小日向台町《こびなただいまち》までいらっしゃらなければいけません。自動車でもなんでも、できるだけ早いほうがいいのですけれど、ただ注意しておきますが、運転手に見覚えていられるようだとあとのために困ります。ですから、二、三度自動車を乗り換えなすったほうがいいと思いますわ。そして、小日向台町へいらっしゃるには大日坂を登っていって、そこを突き当たると、左へ曲がるのです。そしてもう一度そこを左へ曲がると角に青い電燈のついたお屋敷があります。あなたにその家の中へ入って行っていただきたいの。いいえ、門も玄関も鍵《かぎ》はかかっていないはずですから大丈夫ですわ。玄関を入ると、すぐ左側に広い応接間があります。その応接間には英国風の広いストーブが切ってありますが、そのストーブの前の床に、真紅《まつか》なショールが落ちているはずなんですけれど、それを取ってきていただきたいのですわ。おわかりになりまして?」
「ええ、よくわかりました」
「あたしのほうの条件というのはただそれだけのことなんですのよ。ただ言っておきますが、くれぐれもあなたはそこへ入るところをだれにも見られちゃいけません、そしてお屋敷の中へ入ってもできるだけ用心をして、絶対に家人に覚《さと》られてはならないということを覚えていてちょうだい。もっとも、家人といっても女中が二人に書生が二人、それに婆《ばあ》やと五人きりですが、みんな遠くのほうに寝ているはずですから、特別に大きな音を立てないかぎり大丈夫です。いかが、やっていただけます」
「まあ待ってください」
譲次はあまり奇妙な相手の命令にややあわて気味で、
「そして、そのショールを持ってくれば、それをどうすればいいのですか」
「ああ、それを言うのを忘れていましたわね。ショールはすぐあたしのところへとどけていただかねばなりません。あたしは、新宿の遊廓《ゆうかく》のそばにあるチンチンチャイナマンというバーで待っていますわ。御存じでしょう。ええ、あなたが御存じなことをあたしちゃんと知っているのです。そこへそのショール、真紅なショールを持ってきてくだされば、あたしたちの取り引きは終わるのです。そこでショールと引き換えにあと金千五百円を差し上げます。いかが?」
譲次にはすぐ返答ができなかった。なるほど、話にすると至って簡単で、むしろあっけないような気がするくらいだったが、しかし、また考えてみると、そんな簡単な仕事に、三千円もの懸賞がついているところに、なんともいえぬほど不気味さが感じられるのだった。譲次があまり長いこと黙りこんでいるので、こんどは女のほうからせかせかとした声がきこえてきた。
「いかが、やってくださる? それとも――」
「まあ、待ってください」
譲次はちらりとデスクの上にある紙幣束に眼をやりながら、
「ただ一つこれだけのことをきかせてくださいませんか。これは犯罪を構成する仕事なのですか、それとも――」
「あら、だから最初申し上げたじゃありません? あなたのほうから質問されると、たいへん迷惑をするということを」
女の声はむしろあらあらしいほど強かった。譲次はぴしゃっと鼻先をたたかれたようなたじろぎを感じながら、
「なるほど、そうか、それでもし僕が承知しなかった場合は、――この手付けの金はどこへお返しすればいいのですか」
「いいえ」
女はゆっくりと押さえつけるように、
「その御心配には及びません。もともと、あたしのほうが勝手なのですから、そのお金だけは御遠慮なくお役に立ててくだすってけっこうです。だけど、あたし、あなたはきっと引き受けてくださることと信じているのですわ」
ふたたび二人のあいだには長い沈黙が割りこんできた。それはまことに際《きわ》どい刹那《せつな》だった。譲次の額《ひたい》にはびっしょりと汗がうかび、受話器を握った手はぶるぶると激しく顫《ふる》えている。三千円、故郷の家、母の顔、――そんなものが、めまぐるしく彼の眼前に浮かんできた。そして、その中央に、女の、あの緋ダリヤのごとく妖艶《ようえん》な女の、憂わしげな眼がはっきりと波紋のひろがるように大きくクローズアップされてきたのである。そのとたん、譲次の決心ははっきりとついた。
「やります!」
譲次は満身の力をふりしぼるようにして、大声でそう怒鳴った。
「ああ、そう、ありがとう。ではいずれのちほど――」
女の声はそれきり切れた。
ガチャンと受話器をかける音が、痛いほど鋭く譲次の耳にひびいてきた。
黄色いショール
譲次が小日向台町までたどりついたのは、もう二時近かった。彼のアパートはお茶の水だったから、そこからまっすぐに自動車を飛ばせれば、ものの十分もあれば行けるはずだったけれど、女の注意もあったので、彼はわざとほかの方向へ自動車を走らせて、そこからまた別の自動車を拾ったので、時間が倍以上もかかったのだった。
しかもなお用心深く彼は、石切橋の付近で自動車をおりると、そこから徒歩で、ゆっくりと大日坂を登っていった。冷たい風が電線をすさまじく鳴らせている。坂の上にも下にも人影は一つも見えなかった。幸い小日向台町の上には友人が一人住んでいるので、そのへんの地理にはかなり詳しかったし、それに巡回のお巡りさんにつかまった場合には、その友人の名前を口に出すこともできた。場合によっては、仕事のほうはあきらめて、その友人のところへ行って泊まってもいいと思っていた。
しかし、こういう用心までもなく、彼はだれにも見とがめられずに、目的の家まで来ることができた。そこは道が鍵の手に曲がったところで、小日向台町でも一番人通りの少ないところだった。その道をとおるものといえば、わずか半丁ほどの道の両側に並んでいるお屋敷の住人しかないはずだった。しかもそのへんには宏壮《こうそう》な邸宅が並んでいるのだから、家の数からいえばほんの四、五軒しかない。したがって、こんな時刻にその道をとおりすがるものがあろうとは思われなかった。
譲次は安心して、落ち着きはらって、目指す青電燈のお屋敷の中へ入って行った。女がいったとおりの鉄門には鍵がかかってなかった。譲次は中へ入ると、静かに門をもとどおりにしめておいて、きれいな玉川|砂利《じやり》を踏みながら、玄関のほうへ進んでいった。玄関にはぽっつりと青い電燈がついている。そのほかにはどこにも灯の色は見えなかった。家全体が海底に沈んでいる廃墟《はいきよ》のごとく、黒く、ちんまりと静まりかえっていた。
玄関のドアには鍵はかかっていなかった。譲次はしかし、そのドアを開いて中へ入る前に、玄関の傍らにかかっている表札を見ることを忘れはしなかった。
河合卓也。――
譲次は瀬戸の表札にそう書かれているのを見たとき、思わずぎょっとして、足を一歩うしろへ引いたのである。
河合卓也といえば、ときどきあの不思議な「九時の女」といっしょに、ダンスホールへ現われる、あの漁色家の市会議員ではないか。そうか。これが河合卓也の住居なのか。瞬間彼は、卓也の脂《あぶら》ぎった、いかにも精力的な二重|顎《あご》と、でっぷりとせり出した腹とを思い出した。なにかしらそれは、汚い動物を連想させるような、不愉快な、穢《けが》らわしい印象だった。
譲次は玄関のドアに手をかけたまま、しばらくためらったようにあたりを見まわしていたが、考えてみると、これが河合卓也の邸宅であろうとなかろうと、これから彼がやろうとする仕事にはなんの関係もないわけだった。この邸宅がだれのものであろうと、これから彼のしようとする仕事は、どっちみち夜盗に類したことではないか。
譲次は思いきって玄関のドアを開いた。
中は真っ暗だったが、幸い外の電燈の光が、ドアにはめこんだガラス越しにぼんやりと溶けこんでいるので、歩くのには困るというほどでもなかった。見まわすと広いたたきの向こうに、低い板の床が見えた。その床板の片隅には大きなハットラックがおいてあって、そのそばに応接間へ入るドアのハンドルが、ぼんやりと金色に光っていた。
譲次は靴《くつ》のまま躊躇《ちゆうちよ》なくその床の上にあがると、応接間のドアを開いた。
応接間の中は真っ暗だった。
しかもうっすらと外の光をうつして四角に区切られている窓までの距離から察すると、その部屋はかなり広いらしく、したがっていろんな家具調度類などが置いてあるにちがいなかった。だからうっかりと踏みこんでものに突き当たったり、つまずいたりして音を立ててはたいへんだ。譲次はちょっと途方にくれたようにドアの外に立っていた。こんなことなら、スイッチのありかをよくきいてくるのだっけ。
しかし、譲次はすぐまた思いかえした。
いったいこういう部屋のスイッチのありかなどいうものはだいたい決まっているはずだ。それはドアを入って一番手近なところ、つまり右側の壁にあるのが普通なのだ。譲次はそろそろと手探りに壁の上を探ってみた。スイッチはすぐ見つかった。そこで彼は思いきってかちっ[#「かちっ」に傍点]とそれをひねった。
明るい、薔薇《ばら》色の光が、洪水《こうずい》のように部屋の中にあふれた。その光の中で彼はまず第一に、英国式のストーブというのを眼で探した。広いおよそ二十畳敷きもあろうかと思われる部屋の中には、贅沢《ぜいたく》な、金目な調度が、ほどよい調和を保って置かれている。それはいかにも快い、コンフォタブルな部屋のたたずまいだった。
しかし、譲次はいまそんなことに感心しているべき場合ではなかった。いつなんどき、ときならぬ灯の色を怪しんで、人がやってこないとも限らないのだ。一刻も早く目的のショールを手に入れて逃げ出さないと、どんなことになるかもしれない。暖炉はすぐ見つかった、それはドアを入ると、右手の壁の中央に大きく切ってあって、その前には総革張りのアームチェアが暖炉のほうへ向けて備えつけてあった。いま譲次が急ぎ足で、二、三歩そのほうへすすんでゆくと、その安楽|椅子《いす》の陰から、ショールの端が蛇《へび》のようにうねりながらのぞいているのが見えた。
なんだ。こんなことか!
譲次は約束した使命があまり思いがけなく簡単にすまされそうなので、張りつめた気持ちが、ちょっとしぼんでしまいそうな気がした。
しかし、むろん彼は大急ぎでそのほうへ近づいてゆくと、床の上にかがんでそのショールの端に手をかけた。
しかし、そのとたん彼は、がんと頭を殴られたような驚きに打たれて、思わずそこに棒立ちになったのであった。
いままで、大きな安楽椅子の陰に隠れて見えなかったのだけれど、暖炉の前の床の上には、一人の男が俯伏《うつぶ》せに倒れているのだった。しかも男の顔は、赤々と燃えあがっているストーブの火の中へ突っ込んだままになっていて、そこからなんともいえぬいやな匂いが立ちのぼっているのだ。
譲次はそれを見ると、思わず自分の立場も忘れて、わっと叫んでうしろへ飛び退《の》いた。
男の死んでいることは考えるまでもなかった。だれが生きたまま、ストーブの火の中へ顔を突っ込もうぞ。しかも毛の薄い後頭部には、ぽっかりと柘榴《ざくろ》のような裂傷が口を開いているではないか。しばらく譲次は釘付《くぎづ》けにされたようにその場に立ちすくんでいたが、やがて、だんだんと落ち着きを取り返してくるにしたがって、持ち前の鋭い頭で、この場の情景を解釈してみようと考えていた。
ゆるいガウンのようなものを着ているからには、それがこの家の主人河合卓也にちがいなかった。毛の薄い頭、丸い肉づきのいい肩、大きなお臀《しり》、短い脚――それは焼けただれた顔を見るまでもなく、見覚えのある河合卓也のそれらしかった。しかも、ダンスホールで幾度か見たことのある、太い金の指環をはめた左手が、しっかりとショールの端を握っているのだ。それを見ると譲次は、もう一度ぎょっとして生唾《なまつば》を飲み込んだのだった。
女の言ったことは嘘《うそ》ではなかった。ショールはたしかに暖炉の前の床の上に落ちている。しかしそれはショールが単独で落ちているのではなく、その端には恐ろしい死人の手がつながっているのだ。
譲次はそこではじめて、この不思議な取り引きの理由が飲み込めてきた。なるほど、これでは三千円でも高くはない。女が、――あの不思議な「九時の女」が犯人なのだ。どういう原因でか、彼女は河合卓也を殴り殺してしまったのだ。そうだ、あのストーブのすぐそばに落ちている太い火掻《ひか》き棒《ぼう》、――あれには生黒い血がこびりついているではないか。なにかのはずみに、女があの火掻き棒で河合卓也を殺したのだろう。そしてあわててここを抜け出してから、はじめてショールを忘れてきたことに気がついたにちがいない。しかし、女には二度とここへ取り返しに来る勇気は出なかったのだ。そこでこの奇妙な取り引きを思いついたにちがいない。
譲次はそこではじめて、自分の立場をはっきりと認識した。それはこの上もなく危険な、薄氷の上に立たされているような自分だった。万一、こんなところを人に見つかったら、どういって弁解することができるだろう。だれがあんな奇妙な電話の取り引きを信用するものか。しかも自分の懐中にはいま、身分不相応の大金が入っているのだ。
譲次は急にぞっとするような寒さを身内に感じた。そのとき彼がもう少し臆病《おくびよう》な男だったら、前後の考えもなく、そのままその場から逃げ出していただろう。しかし、さすがに探偵作家の頭で、彼はそういう恐怖の中でも自分の仕事だけは忘れなかった。かれは大急ぎで、死人の指からショールをもぎとると、それでもまだ用心深く、スイッチをひねって電気を消しておいてから、その部屋を飛び出していったのである。
譲次が新宿のバー、チンチンチャイナマンへ着いたのは、もう三時近い時刻だった。
女は――見覚えのある「九時の女」は、真っ白な、白堊《はくあ》のような顔をしてボックスの奥で待っていた。譲次の姿を見たとたん、花の崩れるように、緊張した顔がほぐれてゆくのを、とっさのまにも譲次は見逃さなかった。
「ありがとう――」
譲次は見た、訴えるような眼の中には、そういう無言の感謝が秘められていた。譲次は黙って女の前に腰をおろした。
「持ってきてくだすって?」
低い、顫《ふる》えをおびた声が、さも気遣わしそうに尋ねた。譲次はポケットへ手を突っ込んだまま黙ってうなずいた。そのとたん、女は鋭く息をうちへ吸いこんだ。それはまるですすり泣いているように譲次の耳にひびいた。
「ありがとう。じゃ、これお約束のもの」
女は手早く白い封筒を譲次のほうへ押しやった。
「なにも訊《き》かないでね、――約束ですから、――あたしがやったことはやり過ぎだったかもしれないけれど、決して悪いことじゃないと思っていてちょうだい、――では、あれを頂かしてちょうだいな」
女は始終譲次の目を避けるようにしながら早口にいった。譲次は無言のまま、テーブルの上の封筒を胸のポケットにしまいこむと、上衣のポケットからぞろりと例のショールをつかみ出した。女は手早くそれを自分のほうへ引き寄せたが、そのとたん、さっと彼女の顔色が変わった。
「あっ! これはちがいます」
「え?」
譲次ははじめて声を出して、女の顔を見直した。女の顔には見るみるうちにはげしい困惑の色が浮かんできた。そして息も切れ切れに、
「あたしはたしか、真紅なショールと申し上げたはずですわ。ね、覚えていらっしゃるでしょう。だのに、これは、――これは――」
譲次もそれをきいたとたん、白墨のように真《ま》っ蒼《さお》になったのである。
いま女の手にあるショールは、たしかに真っ黄な色をしているではないか。
恐喝者《きようかつしや》
「九時の女」――と、そうとしか譲次は相手の素性を知らないのであるが、その女から二度目に電話がかかってきたのはあの奇妙な取り引きがあったその翌日のお昼すぎだった。
前夜譲次は、自分の意外な失策から、この取り引きを零《ゼロ》にしようと申し出たのだったが、女はどうしても聞き入れなかった。自分にとっては三千円くらいの金はあってもなくても同じことなのだし、それに譲次は間違えたとはいえ、たしかに女の命令どおりの仕事をしてきたのだから、ともかくもその金だけはおさめておいて、有効に使って欲しい、その代わり、こんどまたなにか自分のほうから頼むことがあるかもしれないが、その場合にはぜひ力を貸していただきたい――そういう約束で譲次は別れたのだった。
しかし、その女からかくもすみやかに電話がかかってこようとは夢にも思わないところだった。
「寒川さん?」
電話の声はいちじるしく顫《ふる》えをおびていた。
「たいへんなことが起こったのです。それでぜひともあなたのお智慧《ちえ》を拝借したいのですが、お目にかかっていただけます?」
「ええ、どうぞ」
譲次はなんのためらいもなく答えた。昨夜のいきさつから、彼はすっかり女に好感を持っているのだ。どことなく侠気《きようき》のみえる、男のように大胆な彼女の態度に、彼はすっかり心を惹《ひ》かれたのだった。たといあの女が河合卓也を殺したにしても、それにはやむをえぬ事情があったにちがいない、そして非はむしろ向こうにあるのだ、――そんなふうに譲次はいつか同情的な気持ちになっていた。それにはむろん、女の美しさも大いに手伝っていたことは確かだったけれど。
「どこでも会う場所をおっしゃってください。すぐ出かけますよ」
「ありがとう。じゃ、銀座裏のユーカリという喫茶店御存じ? あたしいま、その二階にいるのですけれど、すぐ来てくださいません?」
「承知しました」
「じゃ、お待ちしていますわ。ああそれから、昨夜のお金お役に立ちましたかしら?」
「ありがとう、おかげで破産からまぬがれましたよ」
「そう、それはけっこうでした。じゃお待ちしていますから、できるだけお早くね」
「いま、すぐ出かけます」
電話を切ると、譲次はすぐにアパートを飛び出した。いったい、どうしたというのだろう。いま時分銀座あたりへ出ているところをみると、彼女の身辺にはまだ危険は迫っていないらしい。とすれば、たいへんなことというのはどんなことなのだろう。
譲次がとつおいつそんなことを考えているころ、自動車ははやユーカリ喫茶店の表に着いている。
譲次の姿を見ると、女はほっとしたように蒼白いながらも綻《ほころ》びそうな笑顔で迎えた。相手がそれほどまで自分に頼っているのかと思うと、譲次はちょっといじらしい気がした。
「昨夜はどうも」
「いいえ」
女は疲れ切ったような声で答えた。
「それで、どんなことが起こったのですか。ぼくにできることならなんでもおっしゃってください。あの三千円はぼくにとっては生死の鍵《かぎ》も同じだったのですからね」
「まあ」
女は涙ぐんだ眼にちょっと笑いをみせて、
「ほんとうを言えば、昨夜の取り引きはあれですまさなければならないはずだったのですけれど、たいへん困ったことが起こったのであれとは別にあなたのお力にすがらねばならぬと思っておりますの。きいてくださる?」
「どうぞ」
譲次はじっと相手の眼の中を見返した。女は譲次の誠意を全身に感ずると、ほっと軽い溜息《ためいき》をついて、
「どうせ、今日の夕刊に出ることですし、そうなればなにもかもわかってしまうことですから、あたし率直に申し上げますわ。寒川さん、あなた半年ほど前に自殺した大江雷蔵《おおえらいぞう》という人を御存じじゃありません?」
「ええ、よく知っています。一度は内閣書記官長までしたことのある人でしょう」
「そうです。その大江雷蔵というのが、あたしの父なのです。あたしは大江の娘の珠実《たまみ》というのですわ」
「ええ?」
譲次はさすがにぎょっとしたように、思わず椅子《いす》から乗り出すと、相手の顔をじっと見直した。いずれは身分のある人の令嬢だろうとは思っていたが、あの有名な――もっとも自殺したがゆえにいっそう有名になったことも確かであるが――大江雷蔵の娘とは夢にも思わないところだった。
「こんどの事件は、あの父の自殺からずっと引きつづいているのですわ」
珠実――いまこそ「九時の女」などという怪しげなニックネームは返上して、はっきりとそう呼ぶことができる。彼女はふかい、暗い溜息とともにそう語り出した。
「世間では父の自殺の原因はまったくわからないことになっています。しかしあたしたち周囲のものならだれでも知っていることなんですの。父の死んだ原因は、あの河合卓也に恐喝《きようかつ》されつづけたそのあげくだったのですわ」
河合の名前を口に出すとき、彼女の目には烈々たる憎悪の色が浮かんでいた。それをもってしても、彼女がいかに相手を憎み呪《のろ》っていたかがわかるような気がするのだった。
「このことはあたしひとりの秘密ではないので、あまり詳しくお話しするわけにはまいりませんが、父はあの男に対して非常な失策を演じたのです。というのは、父が生命をもっても守らなければならないはずの、ある重要な秘密書類をあの男に盗まれてしまったのですの。その書類が一度発表されると、それこそたいへんなことになるのです。迷惑をこうむるのは父ひとりだけではなく、日本の、およそ知名な人たちの大半が、非常な打撃をこうむることになるのです。中にはその書類が発表されると日本にいることのできなくなる人たちもあります。話がはなはだ漠然《ばくぜん》として恐れ入りますが、どうぞこの程度でごめんくださいまし。これはあたしひとりのことではありませんので、――さて、それを手に入れた河合卓也は、いかにもあの男らしいやりくちでその書類を利用しはじめたのです。つまりそれを種にそこに名前を連ねている人たちを、片っ端から脅迫しはじめたのです。実際その書類を一通持っているということは、全能の力を持っているのも同じことなのです。だれでもその男から無心を吹っかけられて、いやと頭を振るわけにはまいりません。しぶしぶながらも相手の要求に応じないわけにはゆかないのです。これで、あの男が近ごろめきめきと羽振りのよくなった原因がおわかりになったでしょう」
譲次は黙ってうなずいた。珠実は心持ち上気した頬《ほお》を静かになでながら言葉をついで、
「父が自殺したのはじつにその責任観念からでした。父のちょっとした過失のために、有力な先輩や恩人が、まるで赤ん坊のように、あの悪党に操られているのをみると、居ても立ってもいられなくなったのです。それでとうとう――」
珠実はさすがにその日を追想するがごとく、悲しげに眼を伏せた。しかし、すぐその嘆きを振るい落とそうとするかのようにはげしく首を振ると、
「あたしたち、あたしと弟の俊作《しゆんさく》とが復讎《ふくしゆう》を誓ったのは、父の死の枕《まくら》もとでした。あたしたちはどうしても父の敵《かたき》を討ちたいのです。それにはどうすればいいか、一番手短かでしかも一番効果的な手段は、その秘密書類を取り返すことよりほかにはありません。あの男のいまの地位、いまの財産はまったくその書類のおかげなのですから、それさえこちらへ取りもどしてしまえば、あの男は羽根をもがれた鳥も同様で、その書類あるがために刑罰から逃れてきたさまざまな罪悪のためにでも、たちまちいまの地位を失ってしまうのは火を見るよりも明らかな事実なのです。それ以来あたしは、心にもない媚《こ》びを浮かべ、胸では口惜《くや》しさと悲しさで泣きながら、面には嬌笑《きようしよう》を粧《よそお》いつつあの男に近づいていったのでした。しかし、結局これは浅墓な女の浅智慧《あさぢえ》だったのですわ。向こうでもちゃんとそれを知っていて、逆にあたしから一番たいせつなものをつまみとろうとたくらんでいたのですからね。こうしてお互いに虚々実々の戦いをつづけながら、とうとう昨夜までやってきたのでした」
珠実はそこでちょっと眼を伏せたが、すぐにまた昂然《こうぜん》と眉《まゆ》をあげると、
「昨夜はあたしにとっては、じつに恐ろしい危機でした。ああして、あたしがあの男を倒さなければ、あたしは女の一番たいせつなものをむざむざとあの男に奪いとられるところだったのです。もっともあの書類さえ取り返すことができたら、あたしのからだなんかどうなっても構いません。それは最初からの覚悟でした。しかし、あの獣のような男は、口ではどんなに約束したところで、取り引きが自分のほうに有利にすすめば、結局その約束を果たさないのはわかりきっています。あたしはもう死にもの狂いでした。相手は野獣のように迫ってきます。そのとき幸いにも手に触れた火掻き棒であたしは夢中で、あの男を殴りつけたのでした。むろん、あたしにはあの男を殺すつもりなど毛頭なかったのですが、あたりどころが悪かったとでもいうのでしょうか。あの男はまるで雪達磨《ゆきだるま》が解けるように、床の上に倒れてしまったのです。まあ、そのときの驚きをお察しくださいませ。あたしはあの男の硬直した姿を見ると、もう無我夢中になって屋敷を飛び出したのでした。そしてだいぶたってからあたしはやっとショールを忘れてきたことに気がついたのです。そのあとはあなたも御存じのとおりですわ。つまりわたしのほうでもあなたを助ける代わりに、あなたにあの恐ろしい証拠品を取りもどしてきていただこうと思ったのです」
「なるほど」
譲次は考え深げにいった。
「ところがぼくは頼まれ甲斐《がい》もなく間違ったショールを持ってきたというわけですね」
「ええ、でもいまこうして来ていただいたのは、そのことではありませんの。じつは」
と珠実は急に声を落とすと、
「弟のことなんですの、弟の俊作があたしの代わりに犯人として捕らえられてしまったのですわ」
「え、なんですって?」
譲次はどきりとしたように、からだを前に乗り出すと、改めて相手の顔を見直した。
「そうなんですの。弟はやはりあたしと同じ目的をいだいて、始終あの男をつけ回していたのですがなんという運の悪いことでしょう、昨夜あなたがお帰りになったそのあとへ、またあの屋敷に忍びこんだらしいのです。そしてその現場を、巡回の警官に捕らえられてしまったのですわ」
珠実は深い深い溜息《ためいき》とともにいった。
「むろん、あたしの一言で、弟を救うことはわけはありませんわ。そして、あたし自身、弟を救うためならどんなことをしてもいとわないつもりです。しかし、しかし、あたしは口惜《くや》しいのです。あんな男のために――と思うと、腸《はらわた》を千切《ちぎ》られるほど残念なのです。それで一応あなたに御相談しようと思ったのですが、やはりあたしが名乗って出るよりほかには、弟を救うみちはないものでしょうか」
「そうですね」
それは実際難しい問題だった。おそらく彼女が名乗って出ない以上、現場で捕らえられたという俊作が罪に落ちるのはわかりきっていた。しかし、いまはそれをはっきりと言ってしまうのはあまりにも残酷なような気がするのだった。そこで譲次はわざと別の方面から話を切り出して行った。
「昨夜あなたは真っ赤なショールをかけていられたんですね。ところがぼくの持って帰ったのは真っ黄なショールでしたね。あれはどういうわけなんでしょう」
「さあ、あたしにもそこのところがよくわからないのです。あたしはたしかにあの男が、あたしの真紅なショールを握ったまま、床の上に倒れた姿を思い出すことができます。それだのにどうして別な黄色いショールを握って死んでいるのでしょう、あたしも不思議でなりませんの」
「いったいあなたは、あの黄色いショールにはまったく見覚えはないのですか」
「いいえ」
珠実は素早く相手の言葉をさえぎると、
「じつは昨夜帰って、つくづくとそのショールをながめているうちに、ふと思い出したのですが、このショールはたしかにあの男のお妾《めかけ》みたいなことをしている、松村蓉子《まつむらようこ》という女の持ち物にちがいないのです。あたしはその女がこの黄色いショールをかけているところを、何度も見たことがあるのを思い出しましたわ」
「なるほど、すると昨夜、あの部屋へその女が来ていたということになりますね、フフン、これはおもしろい、いったいその蓉子というのはどんな女ですか」
「さあ、もう三十五、六にもなりましょうか、あまり美しくないヒステリーじみた女ですけど、どういうわけかひどく河合の気に入っている様子で、影の形に添うように、どんなときでもいっしょのようでしたわ」
「なるほど、それではもう一つお尋ねしますが、河合という男はストーブのすぐそばにぶっ倒れたのですね。ガウンを着たまま――」
「いいえ」
珠実はなにゆえかそのとき、急に顔を真っ赤にすると、しばらくためらっている様子だったが、やがて思いきったように、
「なるほど、あたしがあの部屋へ入って行ったとき、あの男はたしかに長いガウンを着ていました。ところが、あたしたち争っているまに、どうしたはずみか、ガウンの紐《ひも》がとけてするするとガウンが脱げてしまったのです、ところが――」
「ところが――」
と、譲次はためらっている相手を励ますように口をはさんだ。
「ところが、ガウンの脱げてしまったあとのあの男といえば、まるで真っ裸だったのですわ、ええ、ほとんど一糸をまとわぬといっていいくらい、全裸体になってしまったのです。あたしがあんな恐ろしいことをしてしまったというのも、その姿の醜さ、恐ろしさにかっと逆上してしまったからなのですわ」
「ほほう!」
譲次はふいに口笛に似た叫び声をあげた。
「そいつは不思議ですねえ。ぼくが発見したときには死体はちゃんと行儀よくガウンを着ていましたよ」
「まあ!」
珠実は思わず眼を丸くして叫んだ。
譲次はしばらく考えていたがやがて、きっぱりといった。
「珠実さん、この事件はあなたが考えていらっしゃるより、よほど複雑しているようですね。謎《なぞ》は黄色いショールとガウンにあります。よろしい検事局には幸い、ぼくの知っている検事がおりますから、念のため、もう一度よく調べてみましょう。それまであなたは、沈黙を守っていらしたほうがよさそうですよ」
「まあ、なにか助かる見込みがありそうでしょうか」
「まだよくはわかりません。しかし、万事ぼくに任せておいてください」
珠実の眼の中にはその刹那《せつな》明るい希望の色がうかんできた。彼女は感謝をこめた眼差《まなざ》しで、じっと譲次の顔をながめていた。
「ときに、あなたは例の黄色いショールをお持ちですか」
「ええ、ここに持っていますわ」
「それは好都合です。そいつをしばらくぼくに預からせてくれませんか」
「ええ、どうぞ」
彼女はかすかに身顫《みぶる》いをしながら、あのおそろしい、黄色のショールを取り出して譲次の手に渡した。
二つの煙草《たばこ》容器
「ははははは、もの好きなお坊っちゃんがまた出しゃばってきたね」
宇津木《うつぎ》検事は譲次の頼みというのをひととおり聞き終わると、機嫌《きげん》のいい声で朗らかに笑った。宇津木検事と譲次とは同郷の出身で、学校時代から専門こそちがえ、兄弟のように親しく交際してきた仲だった。ことに譲次が近ごろ探偵小説で売り出してからというもの、職業柄二人のあいだはいっそうその親密の度を増してきていた。
この場合、なによりも幸いだったことには、こんどの河合事件は、宇津木検事の係りだったのである。
「どうも怪しいぜ。まだ夕刊も出ないうちにきみがあの事件を知っているなんて、少々臭いぞ」
「いや、その事情はいずれのちほど話すがね。ぼくは一度、その河合卓也という男の死体を見たいのだ。それにできることなら、ぜひ現場を見せてもらいたいのだがね」
「そりゃまあ、わけはないといえば、わけのないことさ。死体はまだあの家にあるのだし、それにぼくももう一度現場を検分してみようと思っていたところだからね」
「そりゃ好都合だ。ぜひともぼくをいっしょに連れて行ってくれたまえ」
「仕方がない。言い出したからはあとへ引かぬ男だからね。その代わり、あとでよく説明をしないと、きみを嫌疑者《けんぎしや》としてあげちまうぞ」
「冗談じゃない」
宇津木検事と寒川譲次を乗せた自動車は、それからまもなく小日向台町の河合卓也邸の前の狭い道に横着けにされた。その時分にはもう、事件の噂《うわさ》がひろがっていたとみえて、日ごろは至って物静かな屋敷中だのに、今日はいっぱいに人がたかっていた。その中にものものしい顔つきをした警官がいかめしく肩をいからせながら張り番をしているのだった。
宇津木検事と譲次の二人はまっすぐに例の応接間に入っていった。譲次はその部屋へ入ると、なにかしら一種の感慨に打たれずにはいられなかった。いまからちょうど十二時間ほど前に、この寒川譲次がまるで泥棒のようにこの部屋へ忍びこんだということを知ったら、宇津木検事はどんな顔をするだろうと思った。
「なるほど、これが現場なのだね」
譲次はわざと物珍しげにあたりを見まわした。それは昨夜とはほとんどなんの変わりもなさそうに見えた。思うに証拠を消失することをおそれて、死体が発見されたときのままにしてあるのだろう。譲次は珠実の残していった紅《あか》いショールがどこかに落ちていはしまいかと思って、素早くあたりをながめまわしたがどこにも見当たらなかった。
「なるほど、この暖炉の前に被害者は倒れていたのだね。それで犯人の遺留品というようなものはなかったのかしら?」
「遺留品――? 遺留品なんか必要じゃないさ。犯人が現場で捕らえられているんだからね」
「ああそうか、それもそうだね」
譲次は検事の言葉にほっと安心した。その口吻《こうふん》から察すると、珠実のショールは警察の手にも入っていないらしい。いったい、どうしたというのだろう。
譲次は大きなテーブルの上に腰をおろすと、なんの気なしに、そばにあった金属製の煙草《たばこ》入れの蓋《ふた》を開いた。
「ああ、キリアージか、なかなかしゃれてやがる」
彼はもとどおり蓋をすると、もう一つのほうの箱の蓋をとった。中にはウェストミンスターが入っていた。このふたつの煙草入れはまったく同じ形をしているのだったが、ただちがうことはその容器の色彩だった。一方は箱も蓋も真紅だったが、もうひとつのほうはすべて真っ黄なのだ。紅と黄、譲次はなんとなくこのふたつの色彩が気になっているのだ。
「おいおい、なにを考えているのだね、これからひとつ死体を見に行こうじゃないか。奥の寝室のほうに置いてあるはずだからね」
「ああ、行こう」
譲次はふたつの煙草の容器に、きちんと蓋をすると、検事のうしろについて出て行った。検事は部屋を出ると、ぴったりとドアに鍵をおろして、その鍵を張り番に立っている刑事に渡した。死体は奥の八畳のほうに寝かせてあったが、なんの気なく、ひょいと顔の上においてあった白布を取り除《の》けた譲次は、思わず、
「こいつはひどい!」
と叫ばずにはいられなかった。なんという凄惨《せいさん》な顔つきだろう、いや、それはもう顔という言葉はあたらなかったかもしれない。正確にいえばかつて顔のあった跡の廃墟《はいきよ》とも言うべきであろう。眼も鼻も口もない、まるで焼けただれた一塊の肉にすぎないのだ。しばらく譲次は黙ってそれを見詰めていたが、やがて静かに白布で覆うと、こんどは身体の種々な部分を調べはじめた。
「おいおい、名探偵、いやに念入りに調べるようだが、なにか発見するところがあったかね」
「あったね」
譲次は死体のそばを離れると、自信に満ちた声でゆっくりとそう答えた。
「ほほう、それは意外だ。いったいどんな発見だね」
「まあ、あの応接間へ行ってから話そう。ここは話をするのにあまり感じのいい部屋ではないからね」
「こいつは驚いた。きみに教わることがあろうなどとは夢にも思わなかったね」
二人はすぐもとの応接間へとって返したが、なんの気なしにテーブルの上をながめた譲次は、ふいにぎょっとしたように敷居の上で立ち止まった。
「きみ、きみ」
彼はあわててそばにいた見張りの刑事を振り返った。
「ぼくたちが奥に行っているあいだに、だれかこの部屋へ入ったものがあるかね」
「いいえ、そんなことはありません。御承知のとおり、鍵はわたしが預かっているのですし、このドア以外には絶対に入るところはないのですからね」
「ところがそうじゃない。たしかにいましがた、この部屋へ入ったものがあるね」
「え、そんな馬鹿なことが」
刑事は真っ赤になってそう怒鳴っていた。
「おいおい、名探偵どうしたというんだね」
宇津木検事が不審そうに横から口を出した。
「見たまえ、あれを」
検事は不思議そうに譲次の視線を追っていたが、
「きみのいうのはあの煙草容器のことかね、きみはさっきもいやに子細らしくあれをひねくりまわしていたが、あの煙草容器がどうしたというのだね」
「ぼくはね」
と譲次は一句一句に力を入れながらきっぱりといった。
「ある理由からあの紅と黄という色彩について、特別の関心を抱いているのだ。だから、さっきこの部屋を出るときには、たしかに紅い箱には紅い蓋を、黄色い箱には黄色い蓋をしておいたはずなのだ。ところがいまはどうだろう」
検事はそういわれてもう一度、そのふたつの煙草容器を見直したが、ふいにぎょっとしたように譲次のほうを振り返った。
そこには紅い箱の上には黄色い蓋が、黄色い箱の上には紅い蓋がのっかっているではないか。
ショールの謎《なぞ》
あの物すごい騒ぎが問題の河合卓也邸に起こったのは、その夜の十二時すぎのことだった。
最初例の応接間の窓がぽっと明るくなったかと思うと、またたくまにもうもうたる煙が部屋いっぱいに流れこんできた。それにつづいてパリパリと木材の焼け落ちる音、火事だ! 火事だ!という叫びがどこか近くからきこえてきた。するとそのときである。あの英国式に切った大暖炉のそばの壁が、ふいにぱっくりと口を開いたかと思うと、その中から一個の黒影が鞠《まり》のように躍り出してきたのだ。
この不思議な人影は、しばらくきょろきょろと不安そうにあたりを見まわしていたが、やがて大胆にとっとと部屋を横切ると、あわててドアを開いた。しかし、その瞬間彼は、なにかしら、獣のような叫び声をあげて二、三歩うしろへとびのいたのである。
「やあ、とうとう自分から飛び出してきましたね」
ドアの外には譲次がさもうれしそうに、にこにこ笑いながら立っていた。そのそばには宇津木検事と珠実が、まるで幽霊でも見るような眼つきをしながら付き添っているのだった。これを見ると奇怪な人物は、なにかしら得体の知れぬ唸《うな》り声《ごえ》とともに、猛然と譲次のほうへ躍りかかってきた。もしこのとき、三人の刑事がいち速く相手の腕をとらえて手錠をはめなかったら、譲次はどんなにひどい大|怪我《けが》をしていたかわからないくらいだった。手錠をはめられてもなおその怪物は、牡牛《おうし》のような唸り声をあげながら猛《たけ》り狂っているのだった。
「いや、どうも御苦労さま。ではさっそく、あの火を消しとめておいてください。消防署のほうへは宇津木検事から話がしてあるはずですから大丈夫ですが、近所の方々によろしくあやまってください。なあにちょっと薪《たきぎ》を燃やしただけですからね」
譲次はそこで、手錠をはめられた男のほうへ振り返った。
「河合さん、どうも失礼しました。なあに、あなたの隠れているところなど、探せばすぐわかると思ったのですが、それも面倒だったので、ちょっとした狂言を書いてあなたのほうから出馬していただいたのです。どうも御苦労さまでした」
「まあ、――それじゃ、やっぱりこの人河合さんなのね」
珠実はあまりの意外さに息も切れ切れにそう叫んだ。
「それじゃ、それじゃあの死んでいたというのは?」
「ははははは! この男が死ぬものですか、御覧なさい、この男の額《ひたい》に大きな打撲傷があるでしょう、それがすなわち、珠実さんに殴られた跡ですよ」
「でも、でも、あの死体は――」
「待ってください、待ってください。ぼくにはなにもかもわかりかけてきた。ただひとつ、まだよく解《げ》せないところがありますが、どうやらそれもわかりそうな気がする。しばらく待ってください。ぼくに考えさせてください」
譲次はふいに狂気のように部屋の中を歩き出した。なにかしら恐ろしい考えが彼の頭脳の中で旋回をはじめたのだ。きっと唇をかみしめ、眼を血走らせ、毛をかきむしりながら、部屋の中を歩きまわっている。ふいに彼の足は、たったいま河合卓也が抜け出したばかりの密室の前でぴったりと止まった。と思うと、ぎょっとしたように彼はうしろを振り返った。
「珠実さん、たいへんお気の毒ですが、こちらへ来てくださいませんか。宇津木さんもどうぞ。この密室の中にもう一つ死体があるようです」
それを聞くと、宇津木検事と珠実の二人はびっくりして彼のそばへ駆けつけた。
「ああ、蓉子さんですわ」
「蓉子――河合の妾だったというあの女ですね。そして黄色いショールの持ち主の――」
「ええ、それにちがいございませんわ」
珠実はさすがにがくがくと顫《ふる》えながら答えた。蓉子はまるでくびれた袋のように床の上に打ち倒れているのだった。
「絞め殺されている」
宇津木検事が重々しい声音でいった。
「そうです。その男が絞め殺したにちがいありません。その男の身体検査をしてみてください。なにか兇器になるようなものを身につけているにちがいありませんよ」
刑事の腕が素早く河合卓也のからだを探っていたが、まもなく、腹に巻きつけた真紅なショールをぞろりと取り出した。
「あっ、それだ。それが珠実さんのショールだ。ああ、だんだんわかってきたぞ。皆さん静かにしていてください。そしてぼくにしゃべらせてください。しゃべっているうちになにもかもわかりそうな気がします」
譲次はテーブルの上から煙草を取り上げると、まるで煙突のように煙を吐きながらしゃべりはじめた。
「まず第一に珠実さんの経験から考えて行きましょう。珠実さんは昨夜ここで、非常な危険に直面した。この男が獣のように襲いかかってきた。そこで、珠実さんは自分の身を守るために、手に触った火掻き棒で相手を殴り倒してここから逃げてゆかれた。そのときこの男は、珠実さんが肩にかけていたショールを握りしめたまま一時床の上に昏倒《こんとう》したのです。それからどのくらいたったか、この男はふと息を吹き返した。と、そこへこの男の第二の敵が現われた。それがいま、奥でこの男の身替わりをつとめているあの死体なのです。あの死体の人物が何者であるか、それはこの男の自白にまつよりほかはありませんが、ともかく二人のあいだには恐ろしい争闘が行なわれた。そしてとうとうこの男は相手を殴り殺してしまったのです。そこでこの男は一石二鳥という素晴らしいことを考えついたのですよ。つまり彼は、近ごろひどくいろんな人々から怨《うら》みを買っている。生命がけでこの男をつけねらっているのは二人や三人ではないのです。そこでもうここらで身の隠しどころだと思った彼は、その死体を自分に仕立てるといううまい方法を考えついたのです。そうすることによって、殺人の罪から逃れると同時に、執念深く自分をつけねらっている復讎者《ふくしゆうしや》たちの手からも完全に逃れようと考えたのです。しかもその殺人の嫌疑《けんぎ》を、珠実さんになすりつけることもできる。そこで彼は死体に自分の着物を着せると同時に、珠実さんのショールを握らせておこうとした。ところでここでこの男はふたつの大失敗をしたのです。そのひとつは珠実さんのショールの代わりに、蓉子のショールを握らせてしまったことです。たぶん蓉子はその少し前からこの部屋にいたのにちがいありません。ひょっとすると、この男の手伝いをしたかもしれないのです。それからもうひとつの失敗というのは、あまりこの男が大事をとりすぎて、死体がひとめ見て自分だとわかるようにちゃんと着物を着せたことです。珠実さんに殴り倒されたときには、この男は裸だったのですから、あの死体も裸のままにしておけば、かえってぼくの注意をひかなかったでしょう。裸で死んでいるはずの男がなぜ着物を着ていたか、だれがなんのために着物を着せたか、ぼくはさんざんその謎を考えているうちにふと、ひとめ見てその死体を河合卓也だと思わせるためではなかろうかと考えつきました。ところでもし、死体が真実河合卓也であるとすると、なにもそんな御苦労なことはしなくてもいいはずですから、勢いあの死体は河合卓也ではないということになります。そこでぼくは今日念のために、もう一度あの死体を検《しら》べてみたのです。そして、やっぱりぼくの考えが正しいという証拠を、あの死体の上にいろいろと発見しました。ところが、ここでこの男はまたしても第三の失策を演じた。われわれが奥の部屋で死体を検べているあいだに、こっそりとこの男は秘密室から這《は》い出して、煙草を取りにやってきたのですが、そのとき間違えて、またもや紅と黄の煙草容器の蓋をとりちがえたのです。その結果、ぼくにこの秘密室の存在を感づかせることになったのですが、ここですよ、いまぼくが考えていたのは。――ほら、この男は紅と黄色について昨夜から二度も失敗を演じている。最初はショール、二度目には煙草容器――と。これはなぜでしょう。わかりますか。ね、いまぼくはやっとその解釈ができたのですが、この男は紅と黄色の見境がつかない色盲《しきもう》なんですよ」
譲次はそこではじめて言葉を切ってあたりを見まわした。だれも彼もこの条理整然たる彼の話しぶりにすっかり感動して、余計な口をはさもうとするものは一人もいない。
「ところで皆さん、これでこの事件の謎は解決されたわけですが、この色盲ということはこの事件の根本にもっともっと深い関係を持っているものなんですよ」
譲次は一同が謹聴している様子に満足したらしくふたたび言葉をついだ。
「ここに珠実さんのショールがあります。御覧のとおりこれは真紅な色をしていますが、この男はたったいままでそれを黄色のショールだとばかり信じて後生大事に持っていたのです。考えてもごらんなさい。この男はこのショールで蓉子という女を絞め殺しているのですよ。しかもその恐ろしい兇器に使用した品を、なおも肌身離さず胴に巻きつけていたのです。この男がいかに黄色いショールをたいせつにしていたかわかるでしょう。いったいそれはなんのためですか」
譲次はそういいながら、ポケットから黄色いショールを取り出した。
「ここにほんとうの黄色のショールがあります。これこそ蓉子が平生肌身離さず持っていたものです。おや河合さん、眼の色が変わりましたね。はははは、やっぱりそうだったのだね。ぼくが話をしながらも、きみの表情から片時も眼を離さなかったとは気がつくまい。きみにとっちゃ、このショールは生命よりもたいせつなんだろう。よしよし、いまそのたいせつなものを取り出してみせてやろう」
譲次の指は素早く黄色のショールをなでまわしていたが、やがて彼の眼には勝ち誇った色がきらりと輝いた。
「あったぞ、あったぞ、河合さん、あなたもなかなかロマンチストですね」
そういいながら、彼は器用な指先で、ショールの端についている玉になった黄色いふさのひとつを解きほぐしていた。
「ほうら、これだ!」
一同の視線は期せずして譲次の指先に集まった。そこには、ラムネの玉ほどの大きさに、ていねいに丸めた一個の紙片の玉があった。それを見ると、河合卓也は思わず大きく絶望の溜息《ためいき》を洩らした。
「ははははは、お気の毒だが、これさえこちらへもらってしまえば、きみはもう翼をもがれた鳥も同じことさ。さあ、珠実さん、受け取ってください。これこそあなたが生命にかけて探していた例の秘密書類ですよ」
「まあ!」
珠実はいまにも気を失いそうな声をあげた。その眼にはみるみるうちに、涙がいっぱいひろがってきていた。彼女は譲次の手からその紙片を受け取ると、二度とふたたびひとでには渡すまいとするかのように、しっかり懐の中へしまいこんだ。
「さあ、河合卓也君、これでもうきみは妖術《ようじゆつ》を失った悪魔も同じことさ。もうだれもきみを支持してくれる大官はいなくなったのだぜ。きみの罪はいずれここにいる宇津木検事がきめてくれるだろう」
譲次はそのとき、自分の腕をしっかりと握りしめているある力を感じて、思わずそのほうを振り返った。そこにはあの「九時の女」の讃美と尊敬と感謝とを交えた美しい視線があった。
譲次は無言のままその視線にうなずいてみせたのである。そこには、昨夜彼女から贈られた三千円より、もっともっといい贈り物が秘められているのだった。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『殺人暦』昭和53年11月20日初版発行