悪魔の家
他六篇
横溝正史
[#表紙(表紙.jpg)]
目 次
広告面の女
悪魔の家
一週間
薔薇王
黒衣の人
嵐の道化師
湖 畔
[#改ページ]
[#見出し] 広告面の女
発《ほつ》 端《たん》
最初は顔の輪郭だけだった。細いペンでていねいに書いた輪郭だけだったけれど、それでもまだうら若い女の顔であることは十分うなずけた。ところが、その翌日になると、その輪郭の中に双《ふた》つの耳が書き入れられ、そしてその耳にぶら下がっている奇妙な耳輪が書き加えられた。その耳輪というのはかなり特色のあるもので、細い鎖の環の先に、小さな魚の形をした飾りがぶら下がっているのである。ところがその翌日になると、さらに眉《まゆ》と眼がその顔の中に付け加えられた。日本人ばなれのした細い眉と、切れの長い美しい眼なのである。
こういう広告が毎日のように、新聞の広告面に現われはじめたのだから、さあ、これが評判にならずにいなかった。不思議なことには、その広告には説明文はおろか、広告主の名前さえ明記してないのだから、何を目的としているのか、さっぱりわからないのである。
かなり広いスペースに、そう、それはきまって夕刊の、どの新聞でも小説欄を設けてある、あの第三面のちょうど小説欄の下なのだが、そこへ毎日のように、目的不明のこの奇妙な顔だけが、少しずつ筆を加えられていくのだから、人々がはげしい好奇心のとりこになったのも無理はない。
「きみ、あの広告を見たかい」
「ああ、見た見た、なんだか変だね。いったいなんだろうね。あれは?」
「ぼくはおそらく映画会社の宣伝じゃないかと思うんだがね、鶴亀《つるかめ》キネマときたら、ずいぶん思いきった宣伝をやるからね。これもあそこの悪戯《いたずら》じゃないかと思うんだ」
「ところがさにあらずさ。あそこの企画部にはぼくの友人がいるんだが、全然、心当たりがないそうだよ。それにあの顔だね、ああいう日本人ばなれのした輪郭をもった女優は、あそこにはいないからね」
「そういえばそうだね、すると東活のほうかな。あそこにもしかし、こういう女優は心当たりがないなあ」
「いや、ぼくは思うんだが、テキはデパートだぜ。冬帽子か肩掛《シヨール》の宣伝になるんだ、きっと。角丸デパートあたりが怪しいんじゃないかな」
「いや、ぼくはやっぱり映画のほうだと思う。きっとわれわれのまだ知らない、新人の売り出しなんだぜ」
「いや、ぼくはデパートだ」
「いや、ぼくは映画だ」
「よし、それじゃ賭《か》けをしよう。きみは映画のほうに賭けたまえ。ぼくはデパートのほうに賭ける」
と、いうようなわけで、あらゆる方面、あらゆる階級にわたって、以上のような騒ぎが持ちあがったことを、当時の人々は記憶していることだろう。もしこの広告が、なんらかの宣伝を目的としたものなら、それは申し分なく効果を発揮したというべきだった。およそ東京付近の住民で、今やその広告に多大の注意を払わないものはなかったし、また、その広告を話題にしない人間はなかったからである。
こういうデマやゴシップをよそに、しかし、その奇妙な顔は、毎日、ほんの少しずつしか筆を加えられていなかった。
第四日目には、すんなりとしたギリシア風の鼻が、第五日目には格好のいい唇《くちびる》が、最後の日には、房々と波打った断髪が書き加えられ、そしてこの問題の女の顔は完成したのである。さて完成したところを見ると、それは明らかに、普通の日本の女ではなかった。鼻の高さ、眼のくぼみかた、全体の輪郭のきびしさなど、どう見ても、眼の色のちがった紅毛人《こうもうじん》の血がまじっているとしか思えないのである。
「おやおや、すると外国映画のスターかな」
あくまでも映画会社の宣伝だと信じている男も、最後にいたって、匙《さじ》をなげるように溜息《ためいき》をついたことだが、しかし、それは結局、映画の宣伝でもなければ、デパートの戦術でもなかったことが間もなく判明したのだ。
一週間目にいたって、ついに正体を暴露《ばくろ》したその広告の目的というのは、およそ次ぎのごときものであった。
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[#中央揃え]賞金一万円
[#ここから2字下げ]
姓名 サラ・アンシバル(日仏混血児)
年齢 二十三歳
右ノ住所ヲ左記ノ所へ御通知アリタル方ニ謝礼トシテ一万円呈上ス
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]丸ビル七階 熊谷《くまがい》法律事務所
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この暴露された広告の真の目的は、世間に対して二様の反響を投げかけたということができる。なあんだ、つまらない、単なる尋ね人かと、それきり興味をなくしてしまった人と、賞金の莫大《ばくだい》さと、手段の異様さに、さらに新たなる興奮をかき立てられた人と。――それはさておき筆者がここにお話しようとするのは、この広告がはからずも巻き起こした、世にも怪奇な一場の冒険談なのである。
死仮面《デス・マスク》に彩色する男
蜂谷《はちや》三四郎というのは、二、三年前さる私立大学を卒業して、現在ある商事会社に勤務している、いたって平凡な一サラリーマンにすぎない、どの点から見ても、この青年が現代の普通の青年にくらべて際立《きわだ》った特色をもっているということはできなかったであろう。容姿は際立って端麗というのでもなければ、それかといって人前に出て恥をかくというほどでもなかった。才能も中くらいであったし、趣味にも異常な点はなかった。郷里にはちょっとした恒産を持った兄が質屋を営んでいて、学生時代そこから送ってもらっていた、月々八十円の金は、彼にとっては多すぎもしなかったし、少なすぎもしなかった。特別な派手好きというでもなく、そうかといって吝嗇《けち》でもなく、学生時代あれほど風靡《ふうび》した左翼思想に感染《かぶ》れるでもなく、無事に学校を出ると、さる先輩の斡旋《あつせん》で、現在の商事会社に入社することになり、爾来《じらい》、特別に才腕を認められるというのでもなかったが、さりとて過失もなく、年々きまった額だけは欠かさず昇給もしていた。
さて、あの奇妙な新聞広告が現われはじめたころ、彼は渋谷にある渋谷アパートから、丸の内の商事会社まで毎日勤務していたのだが、そういうある日、ふとした用事があって、彼はアパートの隣人なる石上栗丸《いしがみくりまる》という人物の部屋へ無断で入っていった。というところからこの物語ははじまるのである。
いったい、この渋谷アパートというのは、いかにも蜂谷三四郎の住居《すまい》にふさわしい無味乾燥なアパートで、外部は洋風だったけれど、内部へ入ってみると畳敷きで、部屋の入り口が襖《ふすま》の代わりにドアになっているのと、縁側の代わりに窓がついているのとのほかは、普通の下宿となんら選ぶところはなかったが、蜂谷三四郎はすでにこのアパートに六年あまりも住んでいて、別に侘《わ》びしいとも淋《さび》しいとも感じたことはなかった。生活を変えないということが彼の特色の一つだといえばまあ言えないこともないのだ。
さてその隣人の石上栗丸というのは、いったいどういう人物であるかというと、蜂谷三四郎もあまり詳しいことは知らなかった。ただし、それは彼が特別に無関心であるからでなく、なにしろ相手は二週間ほど前に、その隣室へ引っ越してきたばかりだから、蜂谷三四郎にとっても、あまり観察の足しになる材料がなかったからである。ただわかっているのは、四十二、三という年輩と、ひどく茶目っけなところがあるかと思うと、どこか奥底の知れないところがあり、妙に狎《な》れ狎《な》れしいかと思うと、また何かしら他人《ひと》をよせつけないといったふうな、ひと口にいってあまり気味のいい人物ではなかった。
いったい、蜂谷三四郎は前にもいったもろもろの性格が示すように、特別に友達を作るというほうでもなければ、人懐《ひとなつ》っこい性質でもなかったが、それがこの薄気味の悪い隣人と、まだ二週間になるやならずで、狎れ狎れしく往来《ゆきき》するというのは、次ぎのようなきっかけがあったからなのだ。
引っ越してきたその翌日の朝のこと、石上氏は蜂谷三四郎のところへ挨拶《あいさつ》に来ると、早速安全|剃刀《かみそり》の刃を一枚無心した。蜂谷三四郎はどこか蟹《かに》を思わせるような、平たい相手の顔に、もじゃもじゃと無精髭《ぶしようひげ》が生えているのを見ると、これはむろん剃ったほうがいいと思ったので、快く持ち合わせの刃を呈上したのである。するとその晩、お礼心にか相手からお茶の招待が来、それ以来、ちょくちょく向こうから話にやってくるようになった。石上氏は見たところ、別にどこへも勤めているふうも見えなかったし、そうかといって、自宅にいてできる種類の仕事を持っているようでもなかったが、由来、アパートの居住者は、その隣人に対してあまり関心を持たないものなのである。
さて、この章のはじめのほうで書いた日のことだ。社から持って帰った仕事――それはかなり頭を悩ます計算の仕事だったが――に専念していた蜂谷三四郎は、にわかに吸取紙の必要に迫られた。探してみたけれどあいにく、自分の机の周囲には見当たらない。ひょっとすると石上氏が持っているかもしれないと思って、急いで隣室へ入っていったのだが、そこで彼はハタと当惑してしまったのだ。
というのは、ドアの外にはスリッパが脱いであったし、錠もおりていなかったので、てっきり、部屋にいるとばかり思った石上氏の姿がそこに見えないのだ。無断で他人の部屋へ闖入《ちんにゆう》するということは、蜂谷三四郎の趣味としてあまり好ましいところではなかったが、しかし、この場合、吸取紙の必要は彼の日ごろのそういう習慣を破らせるほど、十分急を要したのである。蜂谷三四郎は、ええい、ままよとばかり部屋の中へ踏み込むと、机の上にひろげてあった新聞紙を無造作にとりのけたが、そのはずみに、思わずおやと眉をひそめたのである。
新聞の下から、奇妙なものが出てきたからだ。それは石膏《せつこう》でこさえた黄ばんだ仮面なのである。蜂谷三四郎はまだデス・マスクというものを見たことがなかったが、一見して彼は即座にこの仮面をデス・マスクであろうと判断した。それもあまり上手でない、素人の手で作ったものらしく、ところどころひびが入ったり、妙に輪郭が崩れたりしたところもあったが、明らかにまだ年の若い婦人の仮面で、しかも驚いたことには、その白っぽいその仮面のうち、眉と眼だけが妙に生き生きと彩色してあった。それはブルーネット型ともいうべき顔なのであろう、長く曳《ひ》いた眉は碧味《あおみ》をおびた栗《くり》色をしていて、眼の色も深い碧さをたたえているのである。全体が真っ白なのにもかかわらず、そこだけが、生き生きと彩色してあるのが、妙に気味の悪い感じで、蜂谷三四郎はしばらく茫然《ぼうぜん》として仮面をながめていたが、その次ぎに彼の眼についたのは、その仮面の双《ふた》つの耳にぶら下がっている奇妙な耳飾りであった。それもおそらく石上氏が素人細工にこさえ上げたものであろう、真鍮《しんちゆう》でこさえた怪しげな細工であったが、明らかにそれは小魚の形をしていた。そしてこのことが蜂谷三四郎にはっとある連想を呼び起こさせたのである。
彼はあわててさっきとりのけた新聞をもう一度ひっくり返してみた。すると予期していたとおり、そこに載っているのは、近ごろ噂《うわさ》の高い、あの奇妙な広告で、しかも、その広告の、のっぺらぼうの顔には、その日、眉と眼だけが書き入れられたところであった。
蜂谷三四郎はそこまでわかると、あわてて新聞をもとどおり、仮面の上にかぶせ、そっとドアを締めると、抜き足、差し足、自分の部屋へ帰ってきたのである。
蜂谷三四郎壁に孔をうがつ
さて、典型的なサラリーマンの蜂谷三四郎にも、一つの大きな弱点があった。それは人並みはずれて好奇心が強いということである。今まで、この欠点が外部に現われなかったのは、彼の好奇心を煽動《せんどう》するに足るほどの事件がなかったからにすぎないのだが、今や千載一遇ともいうべきその時節が到来したのである。
東京じゅうは今やあの奇妙な広告のために、沸き返るような騒ぎを演じているのだ。そしてその広告と、なんらかの意味で関連を持った人物が、はからずも自分の隣室に居をかまえているのだ。彼は何人《なんぴと》も知らんと欲して、いまだ知ることのできない秘密を、まんまとつかんだ時の得意さを想像してみた。すると、矢も楯《たて》もたまらなくなった蜂谷三四郎は、次ぎのような奇妙な方法で、その好奇心のはけ口を見いだしたのである。
蜂谷三四郎の部屋の一方には、一|間《けん》の床の間と一間の押し入れがあったが、その押し入れの壁はすなわち石上氏の部屋の、押し入れのない側の壁になっているのである。だから、その壁に隙間《すきま》を見いだせば、ひそかにこの奇妙な隣人の挙動を探ることができるということに、彼は気がついたのだ。蜂谷三四郎の好奇心はもはや少しの躊躇《ちゆうちよ》も許さなかったので、早速彼は押し入れにもぐり込むと、壁に小さな孔《あな》をあけた。だいたい、このアパートは見かけに似合わず、たいへんヤワにできていたし、石上氏の部屋の装飾を熟知していた彼には、それがなんの困難も危険も伴わない仕事だった。石上氏が壁にかけているまずい油絵の額の、すぐその上側に、向こうでは気づかないほどの孔をあけることに、蜂谷三四郎はまんまと成功したのである。
この奇妙な窓があいてから二、三日のあいだに、蜂谷三四郎はずいぶんいろいろなことを発見した。しかもそれは、ますます彼の好奇心を煽動するほど、十分奇怪な事柄であった。まず石上氏が、新聞に現われるあの怪広告をお手本にして、毎日|死仮面《デス・マスク》に少しずつ彩色をほどこしていることは、もはや疑う余地がなかった。次ぎに奇妙なことには、石上氏もしばしば、自室の押し入れの中にもぐり込むという習慣を持っていることである。ドアの外にスリッパがありながら、しかも、しばしば石上氏の姿が部屋の中に見えないというのは、こういう秘密の隠遁《いんとん》所をひそかに設けているからなのである。
「おやおや、してみると石上氏もひそかに隣人を注視しているのかな」
そう考えた蜂谷三四郎が、しかし、すぐその考えを改めなければならなかったというのは、石上氏の向こうの部屋は、長いこと空き部屋になっているのである。おまけに石上氏がその押し入れにもぐり込む時は、いつもきまって素手ではなかった。いつでも彼は手に長い、黒い筒のようなものを携えているのであるが、それが望遠鏡であることに気がついた時、蜂谷三四郎の好奇心は、ついにその絶頂に達したかの感があった。
いったい、蜂谷三四郎の住んでいるこのアパートは、ちょっとした崖《がけ》の上に建っているのだが、その崖のすぐ下には、有名な望月《もちづき》子爵の宏壮《こうそう》な邸宅が、昔からあるのである。したがって子爵邸の庭は、アパートの窓から一望のもとに俯瞰《ふかん》されるという不利な位置に建っていた。だから、このアパートが竣成《しゆんせい》した時、子爵家から槍《やり》が出て、さてこそ二つの建物のあいだには、殺風景な高い目隠し塀《べい》がこしらえられてあり、普通、アパートの部屋に立っている分には、向こうの庭は見えないようになっていたが、これが押し入れの上の段へはいのぼると、問題はおのずから別になってくる。眼の位置が高くなるにしたがって、目隠し塀の上から子爵邸の庭をのぞくということは決して困難なことではなかった。
石上氏はつまり望遠鏡でひそかに、子爵邸を監視しているのである。
こう気がつくと蜂谷三四郎は、もはや救いがたい好奇心のとりこになってしまった。彼が早速その晩、街へ出向いて一|挺《ちよう》の望遠鏡を買い入れてきたことはここにいうまでもあるまい。押し入れの上のほうの、子爵邸に面した壁に新しくまた一つの孔があけられた。そして、そこから望遠鏡で向こうの庭を注視しはじめた蜂谷三四郎は、そのうち、なんともいえない奇怪な事実に気がついたのである。
それはあたかも一方では、あの奇妙な新聞の肖像画がいよいよ完成して、人々を沸き立たせた広告の目的が、ようやく世間の前へ暴露《ばくろ》されたころのことだった。それは一万円の賞金付きの尋ね人で、探される人物というのは、サラ・アンシバルという日仏の混血児、当年とって二十三歳で、肖像画に示されたような容貌《ようぼう》を持ち、耳には魚の形をした耳飾りをはめているということを、蜂谷三四郎もよく知っていた。
そのサラ・アンシバルを子爵邸に発見したといったら、蜂谷三四郎がどれほど驚いたか、ここにお話しするまでもないであろう。
その少女はいつも薄桃色のドレスを着ていた。そして頭髪は光沢のあるブルーネットで、眼の色は碧《あお》かった。だが、何よりも間違いのないことは、彼女が首を動かすたびに、きらきらと双《ふた》つの耳の下にきらめく黄金の耳飾りである。それは明らかに魚の形をしているのだ。彼女はいつも、木《こ》の間《ま》がくれに見える洋館の窓に、頬杖《ほおづえ》をついて、ぼんやりこちらのほうへ顔を向けて庭をながめていた。ときどき悲しげな表情《かお》をして、歌を歌っていることもあったし、そうかと思うと、気違いのように地団駄《じだんだ》を踏んで、部屋の中にいるだれかに怒鳴っていることもあった。ただし、蜂谷三四郎の部屋から、そこまではかなり遠いので、言葉までは聞こえなかったし、よし聞こえたとしても、興奮した時、彼女が口から出まかせにしゃべるのは、いつもフランス語らしかったので、蜂谷三四郎にはその意味を了解することは困難であったろう。
しかし、ただ次ぎの一つのことだけは明らかだった。彼女は明らかに、自分の意志に反して、そこに監禁されているのである!
蜂谷三四郎は、この思いがけない発見にすっかり気が動転してしまった。一方では一万円の賞金をかけて、この少女を探している人物がある。そして、一方では彼女は、あの有名な望月子爵の手によって人知れず監禁されているのだ。いったいこれはなんということだろう。
もちろん、蜂谷三四郎もはっきりこの少女をサラ・アンシバルであると断言する勇気はなかった。彼女はあの肖像画の女と非常によく似ているようでもあるし、また、そうでないようにも思えた。なにしろ、線で描いた絵のことだから、はっきりと特徴をつかむことは困難だったのだ。しかし、あの耳飾りだけはもう間違いはない。あんな奇妙な耳飾りをしている人間が、この日本にそうたくさんあろうとは思えない。それから、もう一つ彼の確信を裏付けるのは、隣人石上栗丸氏の行動なのだ。石上氏が、あの広告面の女となんらかの関連を持っているらしいことは、もはや疑う余地がないのだから、その石上氏がひそかに監視している人物が、サラ・アンシバルであろうことも、これまた想像に難くないのだ。
蜂谷三四郎はここに至って、にわかに望月子爵なる人物に対して興味をおぼえはじめたものだが、近ごろの青年の常として、いたって世情にうとい彼は、子爵に対しても、遺憾ながらあまり豊富な知識を持っていなかった。ただわかっているのは、子爵というのが年ごろ、四十八、九の、背の高い、色の浅黒い、美髯《びぜん》をたくわえた紳士であるということ、それから政府の仕事をしているということ、あまり新聞には現われなかったが、いわゆる黒幕として、政界には隠然たる勢力を持っているらしいこと、旧幕時代の小藩の血筋であること、だいたいこのくらいのものである。しかし、その翌日、社においてはからずも同僚から聞き込んだ、次ぎのような事実は、俄然《がぜん》彼の興味をかき立てた。
「そうだね、ぼくもよく知らないが、なんでも若いころ、そう今から二十年も前になるかな、パリに留学していて、風流貴公子として、向こうでずいぶんもてはやされたもんだって噂《うわさ》があるぜ」
このゴシップが、蜂谷三四郎の確信を決定的なものとした。どういう事情があるにせよ、現在、望月子爵に監禁されているのが、混血児のサラ・アンシバルであることは、もはや、疑う余地がなかった。
そこで、その日蜂谷三四郎は、社の近所の公衆電話から、お尋ねのサラの居所《いどころ》を知っている者だが、今日夕刻、お訪ねしてもいいかと熊谷法律事務所へ電話をかけておいて、さて、約束の時間になると、一万円の幻をえがきながら、勢い込んで丸ビルの七階へのぼっていったのである。
塀の上から飛び下りた女
だが、煌々《こうこう》と電燈のきらめく七階の廊下へ、昇降機《エレベーター》から吐き出されるころには、言いがいもなく、あれほど勢い込んでいた彼の勇気も、シャボンの泡《あわ》のようにしぼんでしまっていたからといって、あながち、蜂谷三四郎を軽蔑《けいべつ》することはできないであろう。目指す熊谷法律事務所というのはすぐわかった。大きな模様入りガラスのドアに、いかめしいゴチックの金文字で、熊谷法律事務所と刷り込んであるその部屋の前まで来た時、にわかに蜂谷三四郎の脚はガタガタと震え出したのだ。彼はソワソワとあたりを見回すと、ピカピカと光っているドアのハンドルに手をかける代わりに、大急ぎでその部屋の前を通りすぎ、廊下の突き当たりにあるトイレットに飛び込んだ。そこで用を足しながら、ようやく気を落ち着けた彼は、こんどこそ勇気を出して、あの事務所のドアを開こうと歩き出したのだが、そのとたん、彼はハッとして立ち止まってしまった。
蜂谷三四郎がドアの二、三歩手前まで来た時だ、ガラガラと音をさせて昇降機が止まると、中からあたふたと駆け出してきた一人の紳士がある。蜂谷三四郎はその人をよく知っていた。それは間違いもなく、望月子爵その人なのである。蜂谷三四郎はまるで悪事をたくらんでいる男が、警官の姿を見たように、あわてて熊谷法律事務所の前を通りすぎ、階段のほうへ歩いていった。子爵はむろん、彼に眼もくれなかった。たとい眼をくれたとしたところで、そこにいる男が、自分の邸宅のすぐうしろにあるアパートの住人であろうなどとは知るよしもなかったのだが。
子爵は大股《おおまた》に蜂谷三四郎のそばを通りすぎると、問題のドアをぐいと開いた。そして、せっかちな人とみえて、またドアをよく締めもしないで、畳みかけるようにして放った子爵の第一声が、蜂谷三四郎を混乱の淵《ふち》にたたき込んでしまったのである。
「サラの居所がわかったというのは、ほんとうのことかね?」
蜂谷三四郎は次ぎの瞬間、蝗《いなご》のようにそのドアのそばへ飛んでいった。
「ほほう、サラの居所を知っているって電話をかけて来た者があるんだって? そして、なるほど、そいつが間もなくやってくることになっているんだね」
蜂谷三四郎は逃げるようにドアの前を離れると、昇降機の存在も無視して、階段づたいに、一息に地階まで駆けおりた。彼の心臓はあまりの驚きのために、今にも鼓動を停止するかと思われた。実際、これはなんといって説明していいかわからないほど、意外千万な発見だった。あの不思議な広告の主は、実に望月子爵その人だったのだ。しかも子爵こそ、その尋ね人の居所をいちばんよく知っているはずなのである。なぜといって、その尋ね人を監禁しているのは、実に子爵自身なのだから。
蜂谷三四郎はさしあたり、このなんとも名状することのできないほど、混乱した頭脳《あたま》を整理する必要があった。彼は地階から、さらに地下室へおりていって、そこにある食堂へ入っていったが、するといきなり、
「おやおや、蜂谷さん、妙なところでお目にかかりましたな。どうしたんです。何をそんなにきょろきょろしているんです。まるで警官に追っかけられた掏摸《すり》のような表情《かおいろ》をしているじゃありませんか」
と、傍若無人に呼びかけられて、彼はいよいよ狼狽《ろうばい》してしまったのである。声をかけたのは、いうまでもなくアパートの隣人、石上栗丸だった。
「あっ、石上さん」
蜂谷三四郎はほとんど恐怖に近い表情を示した。
「まあ、こちらへいらっしゃい。私はあなたがなんのためにここにいらっしゃるのか、よく知っていますよ。あなたはあそこ[#「あそこ」に傍点]へ行ったのでしょう。そして、あのことを話しましたか。いやいや、わかった、あなたは子爵に会ったんですね。それでそんなに泡《あわ》を食って逃げてきたんですね」
石上氏はおもしろそうに笑いながら、
「いや、それはよかった。もしあなたがあそこ[#「あそこ」に傍点]へ行ってあのこと[#「あのこと」に傍点]を話したとしたら、とんでもない恥をかいていたところですからね。ところで、蜂谷さん、あなたは私が今、なんの話をしているかよく御存じでしょうね」
蜂谷三四郎は知っているともいないとも答えないで、ただあきれたような眼で、蟹《かに》のように平たい、相手のいが栗《ぐり》頭をながめていた。
「蜂谷さん、私がこんなにあなたの問題に首を突っ込んでお話しするからといって、決して気を悪くしないでくださいよ。人間にはそれぞれ秘密があるものです。私もそれを責めようとは思いませんよ。もしこの世の中から秘密というものがなくなったら、世の中はどんなにつまらないことでしょう。現に私にも秘密はあります。そして、あなたもいくらかそれを御存じのはずでしたね」
蜂谷三四郎は思わずさっと頬《ほお》を赤らめた。石上氏はとっくの昔から、彼のあの不謹慎な覗《のぞ》き見を承知していたのである。
「若い時にはだれでも好奇心を抑制することができないものです。私はそれを決して悪いことだとは思いませんよ。好奇心こそこの文明の推進力の大きな要素《フアクター》なんですからね、私などもやっぱりあなた時分の年ごろにはそうだったものです。しかしね、蜂谷さん、あなたがたの年ごろではとかく好奇心のほうが先走りをして、分別のほうがあとに残されがちなものです。いけないのはつまりその点なのです。あなたも私ぐらいの年ごろになればおわかりになりますよ。あなたは何も御存じないのです。そしてとんでもない思いちがいをしているのです。さようなら、私の言葉で気を悪くなさらないように祈ります」
その晩、蜂谷三四郎はこの青年としては、珍しく外で飯を食べた。そして一人でおでん屋へ首を突っ込んで酒を飲んだということがわかったら、彼の同僚たちはどんなにびっくりすることだろう。
しかし、その日は畢竟《ひつきよう》、蜂谷三四郎には魔日だったのだ。貪慾《どんよく》な運命の神はそれだけではまだ満足せず、最後にもっとも驚くべき事件を、この哀れなサラリーマンのために用意しておいたのである。
九時少し過ぎのことだ。はじめて飲んだ酒の酔いに、ふらつく足を踏みしめて、蜂谷三四郎が渋谷アパートへのだらだら坂をのぼっている時である。そこは左が窪地《くぼち》になり、右側には長い塀《へい》があって、その塀の向こうには、あの忌ま忌ましい望月子爵邸の広い庭が、一段低いところにあるはずなのだが、今しも、蜂谷三四郎が薄暗いその塀の下を歩いている時、ふいにドサリとひどい物音を立てて、彼の眼前一|間《けん》ばかりのところへ落ちてきたものがある。蜂谷三四郎の酔いはその瞬間いっぺんに頭のてっぺんから揮発してしまった。彼は棒をのんだように、地上にうずくまっている、そのものに眼を注いでいたが、次ぎの瞬間、あわててそばへ駆けよると、ぐったりとしている柔らかい肉塊を抱きあげた。それはもう疑いもなく、あのサラ・アンシバル、もしくはサラ・アンシバルと思惟《しい》されるところのあの女であった。
「フィリップ――? フィリップ――?」
抱き起こされたとたん、その女はあえぐような声でそう言った。それから、いかにも切なげな、切れ切れな声で、何やら言ったが、どうやらそれはフランス語らしく蜂谷三四郎にはよく意味がのみこめなかった。
「どうしたんです。サラさん、あなたはサラ・アンシバルさんでしょう?」
それを聞くと女はハッとして顔をあげると、おびえたような眼で蜂谷三四郎の顔を見た。それから左の手でしっかりと胸をおさえたまま、
「あなた、助けて。あたしをどこかへ隠して、悪者があたしを追ってくるのです。あたしをかくまって。だれにも見つからないようにあたしを隠して」
それはいくらかアクセントがちがっていたが、立派な日本語だった。
「悪者ってだれです。望月子爵のことですか」
「ええ、そう、子爵は恐ろしい人です。悪人です。あたしをいじめます。あたしを殺そうとします。あなた、お願い、あたしを助けて」
「よし」
子爵に対する理由のない反抗が、とっさの間に彼の行動を確定した。彼はいきなりサラの体を抱くと、自分のアパートへ走り出したのである。その時彼は、相手が動けないのは足をくじいたせいだとばかり思っていたので、もし、左の手でおさえた胸に、あんな大きな怪我《けが》をしていると知ったら、いかに子爵に対する憤懣が大きかったとしても、きっとこんな無謀なまねはしなかったにちがいないのだけれど。
蜂谷三四郎長崎へ赴く
幸い渋谷アパートというのは、蜂谷三四郎のように無趣味な、そして生活を変えることを蛇蝎《だかつ》のように忌みきらう男か、あるいは石上栗丸のように特殊な目的をもった人間以外には、あまり魅惑的なアパートではなかったので、蜂谷三四郎の住んでいる二階には、彼と石上氏のほかにはだれ一人住んでいるものはなかった。おまけにその石上氏もいいぐあいに留守だったので、蜂谷三四郎のこの無分別な秘密は申し分なく完全に運ばれた。
しかし、蜂谷三四郎はたちまちこの無分別な冒険の償いをしなければならなかったのだ。なぜというに、彼がそっとサラの体を、すでに敷いてあった自分の寝床の上に寝かせたとたん、今まで必死となっておさえていた彼女の掌の下から、どっとばかりに血があふれてきたからだ。彼女は貫通銃創を左の胸に受けているのであった。そして今や刻々として生命の灯が消えつつあることが、蜂谷三四郎のような素人の眼にもはっきりわかったのである。
「や、や、これはたいへんだ。医者を――医者を――」
蜂谷三四郎は唇《くちびる》の色まで真《ま》っ蒼《さお》になって立ち上がったが、すると、女は必死の力を振り絞ってそれを止めると、
「いいえ、いいえ、だれにも知らさないで、だれにもいわないで」
と、あえぎあえぎ言った。
「しかし、それじゃあなたは死んでしまう」
「死んでもいいの、あたしだれにも知られずに死にたいの。だから、あなた子爵にも知らさないで」
「待っていらっしゃい」
蜂谷三四郎は大急ぎで部屋を出ると、洗面器に水をくんできたが、すると女は彼の机から便箋《びんせん》と紙を出して、何か書いているところだった。女はその手紙を書き終わると、それを封筒におさめ上書きをすると、
「あなた、お願い」
「なんですか?」
「あたしが死んだら、だれにも知らさずこの上書きのところへ、手紙といっしょにあたしの体を送っていただきたいの、あなた約束してくだすって?」
「しかし……」
「いいえ、何も訊《き》かないで約束してちょうだい。お願いよ、ねえ、お願いよ」
碧《あお》く澄んだ女の眼の美しさに、蜂谷は思わず身震いをした。なにしろあの女の眼の美しさには、磁力のような魔力があったからねえとは、その後、蜂谷三四郎がこの冒険談を人に話すたびに、漏らす述懐である。
「え、ええ、約束します」
蜂谷三四郎はわれにもなく、キッパリとそう断言してしまったのである。すると、女は意味深い微笑を口辺に浮かべると、
「そして、だれにも知らさないことも」
「ええ、だれにも知らさないことも」
「子爵にも」
「ええ、子爵にも」
と、鸚鵡《おうむ》のように繰り返してから、蜂谷三四郎は思い出したように、
「しかし、あなたは子爵といったい、どういう関係なのですか」
と、尋ねた。それに対して彼女が答えたのは、だいたい次ぎのような言葉である。
「子爵はあたしの父なのです。子爵がパリに留学中、ある婦人とのあいだに生まれたのがあたしなのです。母は死にました。そしてあたしは瞼《まぶた》に浮かぶ父の面影を慕って、はるばるパリからこの国へ渡ってきたのですが、父は冷酷な人でした。自分の地位や、外聞や、体裁ばかりを考えている人でした。父はあたしを監禁しました。そしてあたしを苦しめました」
「しかし、子爵は新聞であなたの行方を探していますよ」
「知っています。子爵は悪賢い人なのです。あたしを監禁していることを人に覚《さと》られないために、わざとあんな広告をするのです」
むろん、これらの問答は、こういうふうに整然と語られたのではない。なぜというのに、彼女の血はだんだん少なくなり、彼女は刻々として死のほうへ歩みを運ばせていたから。しかしどちらにしても、この女は恐ろしく意志の強い女なのだ。ついに一言も苦痛らしい言葉を漏らさなかったのみか、最後には再び、あの意味ありげな微笑を唇のはしにたたえながら、何度も何度も念を押して、あの約束を守ることを誓わせたのち、とうとう、明け方ごろ息を引きとってしまったのである。
さて蜂谷三四郎が経験した冒険のうちで、最も戦慄《せんりつ》的な仕事が、そのあとからやってきたのだ。今や柄《がら》にもなくヒロイックな気持ちになった、この善良なサラリーマンは、女との約束を一言も違《たが》えず守ろうと決心したのである。彼は女がどうしてあのような恐ろしい傷を受けたのか、望月子爵邸にどのような事件がその晩起こったのか、それさえ調べてみようとはしなかった。実際、その晩から翌日へかけて、子爵邸はなんとなく物騒がしい様子であったが、しかし、秘密は堅く保たれたので、蜂谷三四郎が調べてみたところで、何もわかりはしなかったであろう。
彼はいくらか得意でもあった。子爵に対する理由のない復讐《ふくしゆう》心に燃えていた彼は、皮肉な快感さえも味わいながら、その翌日、街へ出て一番の大トランクを買ってくると、その中に女の屍体《したい》を詰め込んだ。これらのことは完全に秘密のうちに遂行されたのだ。というのは、女はよほど力強く傷口をおさえていたとみえて、あの塀《へい》の外からアパートの彼の部屋のあいだまで、一滴も血は落ちていなかったし、また都合のいいことには、ただ一人の隣人なる石上氏もとうとうその晩帰ってこなかったからである。
蜂谷三四郎は女との約束に対して、あくまでも忠実になろうと思って、その恐ろしいトランクと手紙とを、鉄道便に託す代わりに、自らそれを携えて、手紙の上書きのところへ出向いていった。しかも、なんと、女が書き残したその宛名《あてな》というのは、実に長崎だったのである!
彼はとんでもない犯罪の手助けをしているのかもしれなかった。あるいはまた、世にも恐ろしい陰謀の片棒をかつがされているのかもしれなかった。しかし、そんなことはどうでもよかったのだ。子爵と石上氏に対するいまいましさが、この平凡な平和の愛好者を駆って、一生に一度というこの冒険へ、喜んで走らせたのである。
その翌晩、東京駅から汽車に乗った蜂谷三四郎が、まる一昼夜と何時間かかかって、やっと長崎にたどりついたのは、それから三日目の午前九時ごろのことであった。むろんその町をはじめて踏む蜂谷三四郎は、すぐ駅から自動車をやとって、あの恐ろしい荷物といっしょに目的のところへ出かけていった。自動車は物珍しい長崎の町をくねくねと幾度か曲がりつつ進んでいった。そして彼は次第に、自分が陰惨な、不潔な町の一角に向かって進みつつあることを知った。彼は奇妙な南京《ナンキン》寺を見、不潔きわまる支那《しな》町を窓から見学した。そして、とうとう自動車が彼を下ろしたのは、昔の居留地の跡ともおぼしい、潮の匂《にお》いのする、じめじめとした迷路のような路地の奥にある、一軒の怪しげな酒場の前であった。
蜂谷三四郎は運転手に手伝わせてあの大トランクを下ろすと、つかつかと道を横切って、自ら、ペンキの剥《は》げかかったドアを開いた。そして、
「フィリップ・ラングラールさんはいらっしゃいますか」
と、手紙の表に書かれた名前を言ったが、そのとたん、彼はくらくらと眩暈《めまい》を感じて、そこに倒れかけたのである。疲労のためではない。その時、薄暗い土間の中から、いっせいにこちらを振り向いた数名の人物の中に、彼ははっきりとむずかしい顔をした望月子爵と、あの不思議な隣人石上栗丸氏の顔を認めたからである。
結 末
厳密にいうと、蜂谷三四郎の奇妙な冒険はここに終わったのである。しかし、これらの冒険の対象になった秘密について、私はこれから諸君にお話ししなければならぬ義務を持つ。
それは次ぎのようにして闡明《せんめい》されたのである。
蜂谷三四郎の姿を見たとき、石上栗丸氏はまるで世にも信じられぬものをそこに見たように、眼を丸くして驚いた。おそらく、その時、大地震と大空襲が同時にあったとしてもこれほど驚かなかっただろう。だが、すぐ次ぎの瞬間、彼はすぐ持ちまえの茶目っけな、人懐っこい微笑を取り返した。
「これはこれは、地獄できみに会おうとも、これほど私は驚きはしなかったでしょうよ。なぜといって、あなたほど完全に極楽往生をされるかたはないと信じていたのですからね。しかし、蜂谷さん、あなたはどういう用件でここへやってきたのです。そして、その御大層なトランクには何が入っているのです」
この愛すべき冒険家は、もはや完全に謀反気《むほんげ》をけし飛ばし、もとの善良な小羊に立ちかえっていたので、その返答はしどろもどろだった。
「とにかく蜂谷さん、そのトランクの中を見せていただきましょうか。いや、あなたにはその勇気がおありにならないらしいから、警官、ひとつ、その錠をぶち壊してください」
子爵と石上氏を取り巻いていた警官が、たちまちよってたかってその錠をたたき壊した。そしてその次ぎの瞬間には、ひどい驚きの声と、鋭い叱責《しつせき》が、恐縮しきっている蜂谷三四郎の頭上から霰《あられ》のように降ってきたことはいうまでもない。警官はこれを恐ろしい違法行為だから、拘引するとまでいきまいたのだ。それをようやくなだめたのは石上氏であった。
「蜂谷さん、さあ話してください。あなたはどうしてこんな馬鹿げた冒険の中に首を突っ込むのです。あなたのような善良なサラリーマンが……」
今やすっかり傷心しきっている蜂谷三四郎はしどろもどろになって、このあいだからの経験をあますところなく打ち明けたが、すると、それを聞いていた石上氏はほっとしたように溜息《ためいき》をつくと、
「子爵、事件が妙な方面に展開してきたようですね。そして、この分だと、まだわれわれは希望を持っていてもいいかもしれませんよ」
そして石上氏は蜂谷三四郎のほうを振りむくと、次ぎのような話を諄々《じゆんじゆん》として説き聞かせたのである。
「蜂谷さん、あなたはひどい誤解をしているのです。ここにいるのはサラ・アンシバルじゃないのですよ。こいつは恐ろしい騙《かた》りなのです。つまり一種の女天一坊なのです。さあ、お話ししましょう。子爵にはサラ・アンシバルという令嬢があったことはほんとうなのです。その娘さんが最近、子爵を尋ねて、日本へやってきたことも確かなのです。ところが、子爵の面前へ現われたのは、ほんとうのサラではなくてそこにいるその娘だった。子爵はすぐこいつを贋者《にせもの》と看破されたのですが、外聞をおそれて、自宅へ監禁しておくと、一方、ひそかに新聞広告によって真実のサラ・アンシバルの行方を求められたのです。念のために言っておきますが、子爵のような御身分のかたには、これは実に由々しい体面問題だし、外聞にかかわるところなので、醜聞をおそれて、できるだけ秘密に捜索する必要があったのです。むろん、子爵はサラの顔を知っていられるわけではなかったが、風聞によると、その娘が亡くなった母に生き写しだし、それにいつも母の遺品の耳輪をはめているというので、さてこそ、母なる婦人の若い時分の写真を手本にして、ああいう奇妙な肖像が描かれたのです。わかりましたか、さあ、それで子爵のほうはすんだが、こんどは、私自身の話です。残念ながら、私は自分の身分をはっきりと打ち明けるわけにはまいりませんが、まあ、一種の冒険家とでも思っていてください。さてその私はひと月ほど前、ある必要のために、この酒場の中に入り込んでいたのです。蜂谷さん、あなたはここをなんだと思いますか。ここは世にも恐ろしい阿片窟《あへんくつ》でもあり、賭博《とばく》宿であり、それから淫売《いんばい》窟でもあるのです。ところで、ある晩私が、この酒場の一室でうとうとしていると、地下室のほうで妙な音がするじゃありませんか。それはどうやら女のうめき声らしいのです。私はしばらくしてから、そっと人知れずその地下室へ下りていったのです。すると案の定そこには一人の若い女がうつ向きに倒れていました。首にはベルトが巻きついていて、鼻と口から血を出して死んでいるのです。こんなことは、ここでは珍しくありませんし、それに当時、私はそういう小さな事件――その時はそう思ったのですね――よりも、もっと大きな獲物を追いかけていた時なので、なるべく掛かり合いになりたくなかった。ところが、その時私がたいへん妙な気がしたのは、当時、地下室の床が半分塗りかえられたばかりで、まだセメントがよく乾ききっていなかったのですが、女の屍体《したい》は、そのセメントの中に顔を突っ込んで死んでいたのです。だから、私がそれを抱きあげた時には、ポッカリとそこに女の顔のあとが残ったのです。このことが私にあるヒントを与えました。その翌日私は新しい石膏《せつこう》を買ってくると、後日の証拠にもと、ひそかにその型をとっておいたのですが、それがいつかあなたの御覧になったあの死仮面です。さて、再び私の仕事に立ちもどりますが、その時分私の追っかけていた獲物というのがにわかに上京したので、私もそのあとについてまいりましたが、意外にもその獲物というのが望月子爵邸へ雲隠れしてしまったじゃありませんか。さあ、私はとほうに暮れてしまった。子爵とその女とどういう関係があるのか、まさか子爵が、私のにらんでいるような犯罪に関係があろうとは思えないが、これは由々しい一大事なのです。そこで私はひそかに渋谷アパートに居を構えて、その獲物――つまりそれが、そこに死んでいる女なのですが――そいつを監視しはじめた。そうしているうちに、新聞に出はじめたのが、あの奇妙な広告なのです。私はあれがこの地下室で死んだ哀れな娘の肖像であることはすぐ覚《さと》ったのです。というのは、その娘もああいう魚の形をした耳輪をはめていたからですよ。私は毎日、その肖像と比較して、死仮面に彩色をほどこし、そして、もはや、二つのものが完全に同じ人間から来ていることはわかったのですが、さて奇妙な広告の目的がわからないのです。蜂谷さん、その時分の私はあなたと同じ程度に無知だったのですよ。私がやっと、その広告主を知り、そして子爵の求めている者を知ったのは、実に、あなたと丸ビルで会ったあの日なのです。今や、すべてのことが明らかになった。子爵の求めている真実のサラ・アンシバルはこの地下室で絞殺され、私の追っかけている女がその替え玉となって、子爵邸に住み込んでいるのです。しかも私にはその目的がはっきりわかるのです。これは一刻もゆるがせにできぬ由々しき一大事です。そこですぐ子爵に会って、万事を打ち明け、その晩子爵と同道してお邸《やしき》へうかがったのですが、時すでに遅し、子爵邸ではたいへんなことが起こっていたのです。あなたはまだ御存じないでしょうが、子爵の秘書が殺され、あの女は逃亡したのです。しかも、非常に貴重なもの、それは子爵にとってよりも、国家としても、それが外部へ漏れることを最も警戒しなければならぬ、ある書類が盗まれたのです。わかりましたか、だから私たちはすぐその女を追っかけて、この隠れ家へやってきたのですが、ここで図らずもあなたと、その女の死骸《しがい》に対面したというわけです」
そこまでほとんどひと息に語り終わると、石上氏は急にきっと形を改めた。
「こう言えば、あなたの関係した事件がどんな重大なことかおわかりになるでしょう。わかったらはっきり言ってください。その女が塀から飛び下りた時、何か、そう、大きな折り鞄《かばん》のようなものを持っていませんでしたか」
「いいえ、持っていませんでした」
蜂谷三四郎は恐怖と心配のために、消え入りそうな声で答えたのだ。
「そして、ほかに仲間のような者が待っていませんでしたか」
「ええ、いませんでした」
と、言ったが急に思い出したように、
「そうそう、あの女は私が駆け寄った時にフィリップ、フィリップと答えましたから、あるいはフィリップという男が待ち合わせるはずになっていたのかもしれませんが、もしそうだとすると、私のために、その会見はさまたげられたのでしょう」
「そして、女は生前ついにフィリップに会うことができなかったのですね」
「そうですとも、だから私がこうしてフィリップ・ラングラール宛てに手紙をことづかってきたのです」
子爵はいきなりその手紙にとびつくと、震える手付きでその封を破いたが、すぐはげしい絶望のうめき声をもらしたのである。
「暗号だ。われわれはこれを読むことはできない」
「子爵」
石上栗丸氏が、しかしその時、急に威儀をただすと、きっぱりとこう言ったのである。
「大丈夫です。あの女は傷の痛みにたえかねて、あの重い折り鞄を塀の外へ持ち出すことができなかったのです。あいつはきっと鞄を庭のどこかに埋めておいたにちがいありません。しかも、蜂谷君のおかげでそれを取り返しにいくことも、仲間にそのことを知らせることもできなかったのです。子爵、すぐ東京へ電話をおかけなさい。そして庭を探させなさい。鞄はきっとまだ安全に、その隠し場所にあるにちがいありません」
それから数時間の後、東京から返事の電話がかかってきた時、蜂谷三四郎が子爵と、それから石上氏とに、どんなに感謝されたか、ここに述べるまでもあるまい。
蜂谷三四郎は今では結婚して二人の子供の父親となっている。あの当時のことを追想すればおそらく夢のような気がするだろう。
その時彼は一万円の賞金は手にすることはできなかったけれど、その代わり、それ以上に莫大《ばくだい》な謝礼を子爵から贈られた。しかもその後、彼がしきりに昇進するのは、どうやら彼の勤めている商事会社の有力な株主である子爵の推挽《すいばん》によるらしいという、同僚の噂《うわさ》だが、あながちそうとばかりではないであろう。なぜといってこの事件のために、物を観察する眼が深くなり、そしてそれが仕事の上に現われないはずはなかったから。
それはともかく、蜂谷三四郎は今でも、一本の晩酌《ばんしやく》に陶然とすると、あの壁と孔と、彩色された死仮面と恐ろしいトランクの話を妻と子供の上に繰り返すのである。すると、愛すべき彼の妻は、
「あら、またお父さんがあの話をはじめたわよ」
と、微笑《わら》いながらも、ほどよく合槌《あいづち》を打ったり、驚いたり、感嘆したりして、おそらくは夫にとって、一世一代の出来事であろう、その冒険への懐かしい追想を女らしくいたわることを忘れないのです。
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[#見出し] 悪魔の家
霧の中の顔
国電の西荻窪《にしおぎくぼ》で深夜の電車をおりた、新日報社の花形記者|三津木俊助《みつぎしゆんすけ》は、駅を出ると、
「おお、ひどい霧だ」
と、首をすくめて思わず外套《がいとう》の襟《えり》を立てた。
暦の上ではまだ大寒のさなかだというのに、雪でも降ることか、生暖かい狭霧《さぎり》が立てこめて、季節の変調が、なんとなく不吉な予感を呼ぶような晩だった。
時刻はかれこれ真夜中の一時ごろ、天気が天気でもあるし、時刻も時刻なので、駅の近くの商家など、どこもピッタリと大戸をおろして、犬の子一匹姿を見せない。寝しずまった深夜の街は、海の底をでも思わせるように、しいんと息をひそめて、霧の中にぼんやりと浮き上がっている街燈の光が、さながら海底に生える奇樹怪草の実のように、乳色の闇《やみ》の中を点綴《てんてい》しているのである。
右へ行くと中島飛行機製作所、左へ行くと善福寺、その分かれ道まで来たとき、俊助はふと足をとめて、はてなとばかりに首をかしげた。コツコツコツ、コツコツコツ、さっきから聞こえていた足音が、彼が立ち止まると同時にピタリと闇の中に吸いとられてしまったからだ。振り返って見たが、あいにくの霧で、三|間《げん》先とは見通せないのである。俊助は仕方なしに、善福寺のほうへ向かって再び歩きだしたが、するとまたもやコツコツコツ、コツコツコツ、あの小刻みの足音が、しつこく彼のうしろからついてくるのだ。
もう間違いはない。たしかにだれかが自分を尾行してくる!
すでに家並みの密集地帯は出はずれたので、あたりはいよいよ淋《さび》しくなるばかり、どこやらに武蔵野《むさしの》の面影をとどめた杉並木に、乳灰色の霧が音を立てんばかりに渦巻《うずま》いて、家並みもちらりほらりと、次第に疎《まば》らになってくる。いかに冒険に慣らされた俊助とはいえ、こういう真夜中、ましてや姿の見えない尾行者にあとをつけられるということは、あまり気味のいいことではない。それに日ごろから、探偵《たんてい》に類似した仕事をしている俊助としては、いつどこで、どんな人間の恨みを買っていないとも限らないのだから、どんな場合でも、身を護《まも》る用心を怠ってはならないのだ。
俊助はにわかにきっと唇《くちびる》を噛《か》みしめると、くるりと踵《きびす》を返して、つかつかとあとへとって返した。と、ふいを打たれて逃げおくれた相手は、とまどいをしたように路傍に立ちすくむと、
「あれ!」
と、おびえたように叫んだが、意外にもそれは女の声なのである。
これには俊助も驚いたが、つかつかとそばへよると、
「いや、これは失礼いたしました。驚かせてすみません。それにしてもあなたはどちらのほうへお帰りになりますか」
女は小鳩《こばと》のようにおどおどしていたが、それでも俊助の優しい声を聞くと、
「いいえ、いいえ、あたしこそ……」
と、まだ胸の動悸《どうき》がおさまらぬ様子で、
「黙ってあとをつけたりして、申しわけございません。でも、あたしなんだか気持ちが悪かったものですから、あなたをお頼りにして……」
「ははははは、そうですか、それならそうと早くおっしゃってくださればよかったのですのに。どちらのほうへお帰りですか」
「あの、善福寺のちょっと向こうですの。あそこのお池のそばを通るのが、あたし怖くて怖くて……」
「ああ、そうですか。いや、あの池の辺は男でもあまり気味のよくないところです。ちょうど幸い、ぼくもそっちへまいるものですから、ごいっしょにまいりましょう」
「はあ、あの、そう願えますれば……」
女はすがりつくような眼で俊助の顔を仰いだが、すぐその眼を伏せると、つつましやかに一歩おくれて俊助のあとからついてきた。
まだやっと二十か二十一ぐらいの、大して美人というのではなかったけれど、ぎゅっと抱きしめればそのまま解けてしまいそうな、いかにも病身病身としたのが、可憐《かれん》でもあり、男の保護欲をもそそる、と、そういったふうな女なのである。
みちみち俊助は二言三言、言葉をかけてみたが、相手はただ言葉少なに、「はあ」とか「いえ」とか答えるばかり、ときどき、俊助が気を引き立てるように放つ冗談にも、「ほほほほほ」と軽く笑うのみで、その笑い声もなにかしら、気が滅入《めい》るように陰気だった。
やがて二人は善福寺池のほとりまで来た。霧はいよいよ濃くなって、その霧の向こうに、どろりと濁った池の水が、忌まわしい排泄《はいせつ》物のように不気味に光っている。枯れ芦《あし》の影も暗く、道はぬかるんで、どうかすると女の足駄《あしだ》も吸いとられそうになる。
女は思い出したようにコートの前をかき合わせると、うつむき加減にそこを通り抜けようとしたが、思わず石につまずいて、二、三歩ぬかるみの道によろめいた。
「あ、危ない!」
俊助が手を出したとたんである。どうしたのか、女は突然、
「あれ!」
と、叫ぶと、まるで頑是《がんぜ》ない子供のように、夢中になって俊助の胸に顔をこすりつけたから、驚いたのは俊助である。
「ド、どうしたのです」
「あそこに人が――人が――」
と、女は息を弾ませて、
「悪魔が――悪魔が――」
「悪魔――?」
この年ごろの娘が、さりとは突拍子もないことをいうものだと、俊助はひょいと向こうを見たが、そのとたん、さすがの彼もゾーッと全身に鳥肌《とりはだ》が立つような気がした。
霧にぼやけた杉木立の向こうに、ボーッと燐《りん》のように浮き上がった首。絵に描いたお閻魔《えんま》様か、そうだ、朝鮮の道祖神にあるなんとか将軍、そういうグロテスクな顔が、おりからどっと吹き下ろしてきた風に、ザーッと音を立てて渦巻《うずま》く霧の中に、ゆらゆらとうごめいたかと思うと、突如、
「くくくくく、くくくくく!」
と、なんともいえぬほど気味悪い声を出して笑ったのである。
「あれ」
と、女は夢中になって俊助にすがりつくと、
「あなた、あなた、行かないで――行かないでくださいまし」
「大丈夫、そこを離しなさい。だれかが悪戯《いたずら》をしているんですよ」
すがりつく女の手を振りもぎって、俊助が駆け出したとたん、奇怪な顔はかき消すごとく消えうせて、弾みを食った俊助が、どんとばかりにぶつかったのは善福寺の土塀《どべい》なのだ。
「あっ」
俊助は思わず顔をしかめたが、すぐ気を取り直し、マッチをすって見たが、あたりはただ濃い霧が渦巻いているばかり、人影らしいものはさらにない。俊助は惘然《ぼうぜん》として土塀を見、土塀の向こうに亭々《ていてい》とそびえている善福寺の大杉を振り仰ぎ、それから身を伏せて地上を見た。しかし、奇怪なことには、しっとりと湿りを帯びた土の上には、足跡らしいものはどこにも見えないのだ。
俊助はしばらく、這《は》うようにしても一度そのへんを調べて歩いたが、しまいにはさすがの彼も、あまりの事の奇怪さに、思わずゾクリと首を縮めた。と、そこへおどおどと近づいてきた女が、ガタガタと歯を鳴らしながら、
「あなた、早く向こうへまいりましょう。あたし怖い。――あたし怖いわ」
と、あえぐようにいう。女の身として、これはまことに無理のない話だった。俊助はもっとあたりを調べてみたかったが、これ以上彼女を怖がらせるのもよくないと思ったのか、
「ええ、まいりましょう。なあに、いずれだれかが悪戯をしたのですよ」
と、強《し》いて元気らしくいったが、ふと思い出したように、
「あなたは今、あの顔を見るとすぐ悪魔とおっしゃいましたね。どうして悪魔を連想したんです。あまり怖い顔だったからですか」
女はそれを聞くと、ぎょっとしたように、
「ええ、あの……」
といったきり、なにゆえかあとは濁して、寒そうに肩をすぼめた。
女の家はそこからあまり遠くなかった。畑の中にぽつんと一軒建っている、見るからに陰気な和洋折衷の家。
「ありがとうございました。ここですの」
と、小走りに女は石門の中へ入ると、
「桑三さん、桑三さん」
と、低声で呼んだ。すると奥のほうでパッと灯《あか》りがついて、やがてコトコトとゆるやかな足音が聞こえてきたかと思うと、ギイと玄関のドアをひらいたのは、二十前後の、蝋《ろう》のように色の白い、どこかそぐわない格好をした青年だった。
「弓さん、どうしたんです。蒼《あお》い顔をして」
「いいえ、なんでもありませんの。あまり淋《さび》しかったものだから、こちらに送っていただきましたの、お義兄《にい》さんお帰りになって?」
「いいや、まだ」
女はほっとしたように、
「あ、そう、鮎《あゆ》ちゃんは寝ていて?」
「ええ、よく寝ているようですよ」
こういう応答のあいだ、俊助は女のうしろに立っていたが、なんとやらその青年の体つきの尋常でないと思ったのも道理、彼は傴僂なのだ。
傴僂はいたわるように女に向かって、
「ともかく中へ入りなさい。寒かったでしょう」
「ええ」
と、女は俊助のほうを振り返ると、
「あなた、ありがとうございました。あがっていただくといいのですけれど」
「なに、御心配には及びません、ではお休み」
俊助がくるりと踵《きびす》を返したときだ。突然、奥のほうから火のつくような幼児の泣き声。
「ああ、アクマが来た、アクマが来た。叔母《おば》ちゃま、叔母ちゃま、怖いよう!」
女はそれを聞くと、瞬間、紙のように蒼白《そうはく》になったが、すぐ青年の体を押しのけるようにしてまっしぐらに家の中へ駆け込んだ。
義足の男
その明け方ごろより急に気温が下がったかと思うと、霧はそのまま雪となって、夕方ごろには早や東京じゅうは真っ白な覆い物で包まれてしまった。
俊助は忙しい新聞社の編集室で、ぼんやり昨夜の奇怪な出来事を思い出している。霧の中の顔、奇怪な女の素振り、いわくありげな傴僂青年、それから最後にあの幼児の泣き声。――そんなことをとつおいつ考えていると、受付から電話がかかってきて、
「三津木さん、磯貝弓枝《いそがいゆみえ》というかたが御面会」
「磯貝弓枝?」
俊助は聞き覚えのない女の名に、はてなと首をかしげたが、はっとなにか思い当たったように、早口で、
「あ、そう、三番の応接へ通しておいてくれたまえ」
といった。
磯貝弓枝とはたしかに昨夜の女にちがいない。あの傴僂の青年が彼女をとらえて、弓さんと呼んだのを俊助ははっきり覚えていたが、それにしても、なんの用があって、その女が訪ねてきたのだろうと思うと、俊助は早くも好奇心で胸がワクワクするのだ。
応接室へ出てみると、そこに待っているのは、はたして昨夜の女だった。そこでいかにも女らしいくどくどとした挨拶《あいさつ》があったが、それがすむと急に彼女は膝《ひざ》を乗り出して、
「先生、あたし先生にお願いがあってまいりましたの。今朝になってあたし、桑三さんから先生のお名前を伺ったものですから」
「桑三君というのは昨夜のあの青年ですか」
「ええ、そう、あの人先から先生のお顔をよく知っていたんですって。先生」
と、ここで女は急に身震いをすると、
「あたし恐ろしくてたまりませんの。あたしの家には悪魔が乗り移っているのですわ。なにかしら、よくないことが起こりつつあるのですわ。先生、お願いでございます。あたしたちを救ってくださいまし」
女は思いあまったように、一気にそこまでしゃべったが、急に気がついたように、
「ほほほほほ、あたしとしたことが唐突《とうとつ》にこんなこといって、先生だってお困りですわね。先生あたしたち一家のことから聞いてくださいまし」
そう前置きして彼女が話しだしたのは、だいたい次ぎのような事情なのだ。
彼女がいま身をよせている家は義兄の家であって、義兄の蒲田喜久蔵《かまたきくぞう》という人は、亡くなった彼女の姉の御亭主《ごていしゆ》にあたる人なのである。蒲田氏はもと朝鮮の総督府に勤めていた人だが、昨年官を辞してこの東京へ帰ってきたが、それからまもなく姉がなくなったので、その手伝いに来ているうちに、なんとなく弓枝はずるずるとその家に寄食することになってしまったのだ。
「そういつまでもごやっかいになっているの、よくないと思うのですけれど、鮎ちゃんがわたしを離さないものですから、……」
と、弓枝はなぜか、頬《ほお》を赤らめながら弁解がましくいうのだった。
家族はその蒲田氏と、今年五つになる鮎子というひとり娘と、それから蒲田氏の弟の桑三と、弓枝の四人暮らし。ところが、近ごろになってこの一家に、急に妙な空気が襲ったのである。
ひと月ほど前のこと、朝鮮から義兄にあてて一通の手紙がやってきたが、それ以来、蒲田氏は眼にみえて用心深くなり、また疑い深くもなった。以前から短気で荒々しい振る舞いの多かった人が、このごろではそういう気性がいよいよはげしくなり、それだけでも弓枝がなんとなく居辛《いづら》く思っているところへ、こんどは急に五つになる鮎子が、妙なことをいい出したのである。
鮎子は発育のおそい脾弱《ひよわ》い子で、五歳になるとはいえ世間の三つぐらいの体つきと知恵しかなかったが、その鮎子が一週間ほど前から、
「アクマが来た! アクマが来た!」
回らぬ舌でそう叫ぶと、まるで眼に見えぬ魔物にでも襲われたように、手足を震わせて泣き出すのだ。
「あたし初めのうち、たいして気にも止めなかったのですけれど、あまりそれがつづくので、だんだん気味悪くなってきているところへ、昨夜あんなことがあったものでございますから。……今まで、あたしたちの眼にこそ見えなかったけれど、幼い鮎ちゃんの眼にはいつも、ああいう恐ろしい姿が映っていたんじゃないかしらと思うと、急に怖くなって。……」
と、弓枝は急に身震いをすると、眼に涙さえ浮かべながら、
「先生、こんなとりとめもない話を持ち込んでさぞ、愚かな女だとお思いになるでしょう。でも、これはあの家に住んでみなければわからない気持ちなんですね。あの家には悪魔が住んでいるんです。いいえ、なにかしら、今によくないことが起こるにちがいありませんわ」
なるほど、彼女自身もいうとおり、弓枝の話はあまり突飛でとり止めがなかった。しかし話が奇怪であればあるほど、俊助は不思議な魅力に惹《ひ》き込まれていくのだ。それに昨夜霧の中で見た顔、あれだけは、弓枝の妄想《もうそう》でもなければ、幼児の夢でもない。現に俊助自身が、ハッキリとあの恐ろしい顔を目撃したのだ。
俊助はにわかに膝《ひざ》を乗り出すと、
「それで、あなたはこのぼくにどうしろとおっしゃるのですか」
「あたし、先生に一度家へ来ていただいて、よく調べていただきたいんですの。いいえ、義兄にはこのこと、まったく内緒なんですけれど、あたしなんとかうまく義兄の前を取り繕いますから、ひと晩お泊まりになって家の内外をよく調査していただきたいと思いますの。今のうちになんとかしなければ、なにかしら、よくないことが起こりそうで、あたし、怖くて怖くて……」
「なるほど、義兄《にい》さんの前はそれでうまくごまかせるとしても、桑三君がぼくを知っていちゃ……」
「いいえ、あの人は大丈夫ですわ。桑三さんは、体こそあんなですけど、とても気性の優しい人ですし、それに、あたしのいうことならなんでも聞いてくれますし」
と、ここまでいうと、弓枝が、またポーッと顔を赤らめながら、
「あたし、今日ここへ来ることもあの人に話しておきましたし、義兄さんに内緒でいてくれるように頼んでおきましたの」
「そうですか、よござんす。それじゃ善は急げといいますから、さっそくこれからでもどうでしょう」
「まあ」
弓枝は急にパッと顔を明るくすると、
「それじゃ、お願いできますのね。あたし救われましたわ。こんな、こんなうれしいことございませんわ」
弓枝は思わず涙ぐみそうになったが、しかし、あとから思えば、彼女の努力はすでに、おそすぎたのだ。
弓枝がこうして、新聞社で俊助と話をしているころ、それは夕方の六時ごろのことであったが、西荻窪の彼女の家の付近を、一人の見知らぬ男が歩いていた。
垢《あか》じんだ洋服、形の崩れたお釜帽《かまぼう》、無精髭《ぶしようひげ》をもじゃもじゃと生やした、見るからに人相のよくない男だったが、おまけにこの男は片脚がなくて、そこに棒のような義足をはめているのだ。男はヒョコヒョコと松葉|杖《づえ》をつきながら、降りしきる雪の中を歩いていたが、おりから通りかかったお百姓をとらえると、
「ちょっとお尋ねします。この辺に蒲田喜久蔵という家はありませんか」
と、太い、濁った声で尋ねるのだ。
「ああ、蒲田さんかね、蒲田さんなら向こうに見えている家がそうですよ」
「あ、そう、いやありがとう」
見知らぬ男は再び雪の中を、ヒョイヒョイと飛ぶように歩き出したが、あとになってそのお百姓が人に語ったところによると、そのとき、彼の眼の中には、なんともいえぬほど恐ろしい光があったということだ。
宙に浮く首
俊助と弓枝の二人が西荻窪のプラットホームへおり立ったのは、それから半時間ほどのちのことだった。
むろん、日はすでにとっぷりと暮れていたし、雪はいよいよはげしくなって、そうでなくても難渋《なんじゆう》な善福寺のあたりは、ますます歩行に困難だった。二人はいい合わせたように、昨夜ここで見た、あの恐ろしい顔のことを思い出しながら、無言のまま、足早やにそこを通りすぎたが、するとまもなく、葉の落ちた櫟《くぬぎ》林のあいだから、弓枝が悪魔の家と呼んだ、あの蒲田氏の邸宅が、突兀《とつこつ》として雪の夜空にそびえているのが見えてきた。
なるほど、気のせいか真っ暗な空を背景にして、雪の中にそそり立っているその家には、なにかしら不吉な予感と、忌まわしい暗示とがほのみえている。
「まあ、どうしたのでしょう。二階の客間に電気がついていますわ。だれかお客様でもあるのかしら」
なるほど、黒の一色に塗りつぶされたその建物の中で、洋風になっている二階の窓だけが、あかあかと光を外に投げている。二人はその光を目指して次第に、家のほうへ近よっていったが、そのときだ。ふいに弓枝があっと叫んで雪の中に棒立ちになってしまったのだ。
「あなた! 先生! あれです、ああ、あの恐ろしい顔が……」
その声に、彼女の指さす方向をながめた俊助も、その瞬間、シーンと血の凍るような思いがしたことだ。ああ、なんということだ。雪に覆われた真っ暗な屋根の上に、あの恐ろしい顔が――昨夜見た、悪魔の首が、ユラユラと鬼火のように揺らめいているではないか。
「あっ!」
俊助は思わずそこに棒立ちになってしまったが、そのとたん、悪魔の首はフーッとかき消すように消えてしまって、あとにはただ降りしきる雪がさんさんと。――
俊助といえども、昨夜も同じ顔を見たのでなかったら、おそらく一瞬の幻として、笑殺してしまったことだろう。しかし、昨日につづいてまた今夜、同じ顔を、同じ恐ろしい首を目撃したのだから、もはや、幻影だなどと笑ってすますわけにはいかぬ。
言い合わせたように二人がいっさんに家のほうへ駆け出したときである。またもや、火のつくような幼児の泣き声が、けたたましく家の中から聞こえてきた。
「アクマが来た! アクマが来た! 叔母ちゃま、叔母ちゃま、怖いよう、怖いよう!」
するとその声が聞こえたのであろう。灯のついたあの二階の窓が、ガラリとうちからひらかれると、ひょいと一人の男が顔を出したのである。
「あ、義兄ですわ」
蒲田氏は、眼にいっぱいの恐怖を浮かべて窓から外をのぞいていたが、ふと弓枝たちの姿を見ると、なにかしら絶望したような呻《うめ》き声を漏らし、救いを求めるように手を振ったが、そのとたん、ぐいとうしろから強い力で引きもどされるように、その姿は窓の中へ消えてしまった。と、何者かの手によって、バターンと窓がしめられる。
「アクマが来た、アクマが来た! 叔母ちゃま、怖い、怖い!」
鮎子の声がまた聞こえる。
「先生!」
蒲田氏の奇怪な素振りに、一瞬、気をのまれたように雪の中に立ちすくんでいた弓枝は、その声を聞くと、ハッと気がついたように、玄関のほうへ駆け出していった。
「ちょっと待っててちょうだい、あたし義兄の様子を見てまいります」
そう言うと、彼女は下駄《げた》を脱ぎすてるのももどかしく、夢中になって玄関の中へ躍り込んでいったが、それから、二分とたち、三分と過ぎたが、弓枝の姿は見えないのだ。
玄関にたたずんだ俊助は、全身を耳にして家の中の様子をうかがっているが、聞こえるのは、ただサラサラと降りしきる雪の音と、鮎子の泣き叫ぶ声ばかり。
五分たった。
それでも弓枝はまだ出てこない。鮎子もようやく泣きやんで、家の中はゾーッとするほどの静けさだ。
とうとうたまりかねた俊助は、玄関から首を入れると、
「弓枝さん、弓枝さん」
呼んでみたが返事もない。傴僂《せむし》の桑三も留守らしい。俊助はとうとう靴《くつ》を脱いで玄関へあがった。玄関の正面に階段があって、その階段の上からほのかな光がこぼれているのを頼りに、俊助は二階へあがっていった。ドアが開け放しになっていたので、例の部屋はすぐわかる。俊助は無言のままそのドアのところに立ったが、そのとたん彼は、ぎょっとしてそこに立ちすくんでしまったのだ。
部屋の片隅《かたすみ》に弓枝が真《ま》っ蒼《さお》な顔をして立ちすくみ、その眼は釘《くぎ》づけにされたように床の上を見ている。俊助もその視線を追ってそのほうへ眼をやったが、とたんにクヮーッと血が頬《ほお》へのぼってきたのだ。
床の上には蒲田氏が朱《あけ》に染まって倒れていた。胸にぐさっと、一本の短刀を突き立てたまま。
俊助はそっと弓枝のそばへ寄り、軽くその肩へ手をかけたが、そのとたん、弓枝ははげしく身震いをすると、
「悪魔! 悪魔!」
そう叫んで、フーッと気を失って倒れてしまったのである。
傴僂の桑三が、外から帰って来て、ノソノソと這《は》うように階段をあがってきたのは、ちょうどそのときだった。
仮面の屍体《したい》
「なあに、事件は簡単|明瞭《めいりよう》さ。つまり、要するにわれわれは片田専吉という、その男を探し出せばいいんだよ」
無造作にそう言い放ったのは、警視庁にその人ありと知られた、腕利きの等々力警部。
「そう、その男が事件の晩、蒲田氏を訪ねたことだけはたしからしいね」
なにかしら思いにふけりながら、そう合槌《あいづち》を打ったのは三津木俊助である。
事件の日から数えて今日で五日目、空はみがいたように晴れ渡って、広い武蔵野には、ところどころ斑消《むらぎ》えの雪が残っていた。今しも等々力警部と三津木俊助は、連れだってあの悪魔の家へ赴く途中だった。
事件ののち、蒲田氏の邸内は隈《くま》なく捜索されたが、その中から発見されたのは、片田専吉という男が京城《けいじよう》から出した一通の手紙、そのうちに参上するから、まとまった金を用意しておけという、つまり一種の脅迫状なのだ。
警視庁からはただちに、京城へ宛てて照会電報が発せられたが、その発電がやっと今日とどいたのだ。そしてその返電によると、片田専吉というのはもと京城で薬局を開いていた薬剤師なのだが、よからぬ行為があったために薬剤師の免状をとりあげられてしまったという、いわくつきの男。しかもこの男は片脚がなくて木の義足をはめているという。
ここまでわかればもう問題はなかった。事件の当夜、そういう風態の男が、蒲田氏の家をきいたということは、すでに警視庁にもわかっていたし、桑三の話によっても、あの日の夕方そういう男が兄を訪ねてきたという。
そのとき、蒲田氏は相手の顔を見ると非常に驚いた面持ちで、弟の桑三にしばらく外出しているようにと命じたのだそうな。
「つまりなんだな。蒲田氏は京城にいるあいだに、なにかよからぬことをやっているのを、そいつに尻尾《しつぽ》をつかまれていたんだ。それであの晩、訪ねてきた片田と、金のことから喧嘩《けんか》が昂《こう》じて、とうとうああいうことになってしまったんだよ。問題は蒲田氏のその秘密というやつだが、なあに、こりゃ片田のやつをつかまえりゃすぐわかることだ」
楽天家の等々力警部は、いかにも無造作に言うのだが、しかし、俊助にはなんとなく腑《ふ》におちぬ点がたくさんあるのだ。なるほど、犯人は片田専吉かもしれない。しかし、そうすればあの恐ろしい形相《ぎようそう》をした顔は何者だろう。片田専吉は事件の夕方、お百姓に蒲田氏の家をきいたというから、そのときまであの辺に近よったことがないのはたしかだ。それだのに俊助は事件の前日、すでに蒲田氏の邸宅の付近で、あの恐ろしい悪魔の形相に脅かされているのである。それから、あの鮎子だ。
鮎子が始終脅かされるアクマというのは片田専吉であるはずがない。してみると、たとい片田専吉が犯人としても、あの家を覆うていた悪魔は別にあるはずなのだ。そいつはいったい何者で、そしてなんの目的で、罪もない幼児を脅かすのだろう。
「とにかく、片田という男も男だが、蒲田という男も一|筋縄《すじなわ》じゃいかん男らしいぜ。死んだ細君というのも、とてもあの男に虐待されていて、病みついたのもその虐待が原因だということだ。なんでもその細君は相当まとまった財産があったそうだが、そいつを目当てに、蒲田のやつ、わざと細君を虐待して、死を早めたんだろうって噂《うわさ》だよ。それからね、これは世間の噂だから、当てにはならんが、あの弓枝という女だね、あれは亡くなった細君の妹だそうだが、こいつもどうやら蒲田に自由にされているらしいという話だぜ」
「フーム」
俊助は思わず、はかなげに思い悩んだ弓枝の風情《ふぜい》を思い浮かべ、すると、なんとも言えないほど、哀れさ、痛ましさに胸がいたむのだった。
「それにしても、片田のやつ、いったいどこへ姿をくらましやがったのかな。あんな姿で、うまうまと今まで逃げおおせているというのが不思議だて」
等々力警部はそう言って舌打ちをしたが、そのとき、なにを思ったのか、ふいに俊助がおやと言って路傍に立ち止まった。
「あれはいったい、どうしたんだろう」
「なんだ、なんだ」
「ほら、あのおびただしい烏《からす》の群れを見たまえ」
そこは善福寺の池からほど遠からぬ藪《やぶ》の小陰で、その藪のほとりに一つの古井戸があるのだが、その井戸の上を烏が、まるで胡麻《ごま》でも撒《ま》いたようにおびただしく群がって、不吉な、忌まわしい鳴き声をあげているのである。
「なんだ、烏じゃないか。しかし、烏というやつはいつ見てもあんまり気持ちのいいものじゃないな。ことにああたくさん集まっていると、いっそういやな気がする」
「ちょっと待ちたまえ」
なにを思ったのか俊助は消え残った雪を蹴立《けた》てて、古井戸のそばへ近よっていったが、見るとその井戸には跳ね釣瓶《つるべ》がぶら下がっているのだが、その釣瓶の竿《さお》が、今にも折れそうに撓《しな》って、井戸の中に首を突っ込んでいるのである。
俊助はその棕櫚縄《しゆろなわ》に手をかけて、そっと井戸の中をのぞき込んだが、そのとたん、あっと叫んでうしろにとびのいた。
「どうした、どうした」
「人だ! 人がぶら下がっている」
その声に俊助のうしろから井戸の中をのぞき込んだ等々力警部、なるほど見れば、真っ暗な井戸の途中に、釣瓶の棕櫚縄で首を巻かれた一人の男が、まるで死刑囚のようにブラブラとぶら下がっているのだ。
「あ」
と、警部も思わず息をのんで、
「三津木君、手伝ってくれたまえ。とにかく上へ引きあげてみよう」
二人は力を合わせて、その棕櫚縄を引きあげたが、次第に屍体《したい》がせりあがってくるにしたがって、そいつが片田専吉であることはひと目でわかった。片足がなくて、そこに棒のような木の義足がついているのである。
「片田専吉だな。畜生、探してもわからないはずだ。こいつめ、こんなところで首を吊《つ》っていやがったのだ」
そういいながら、屍体の顔をのぞきこんだ等々力警部、そのとたん、
「わっ、こいつはどうしたんだ」
驚いてうしろへとびのいたが、無理もない。片田の屍体は仮面をかぶっているのだ。しかもその仮面は、俊助が二度までも脅かされた、あの悪魔の形相とそっくり同じで、しかも陰々《いんいん》として怪しげな燐光《りんこう》を放っているその気味悪さ。
「三津木君、三津木君、こいつはいったい、どうしたというんだ」
俊助は屍体のそばにひざまずいて、その仮面をとりはずして、とう見、こう見していたが、
「わかりました、警部、これは朝鮮でお祭りなどに、悪魔|除《よ》けの踊りに使う仮面ですよ。光っているのは表面に燐を塗ってあるからです。しかし、妙だなあ――」
俊助はなにを思ったのか、じっとその仮面を見つめていたが、ふと彼の眼は屍体に巻きついている棕櫚縄を見た。その棕櫚縄の先端には、壊れた釣瓶がぶら下がっていたが、その釣瓶の底に、万年筆ほどの黒い棒が沈んでいる。俊助は何気なくその棒を手にとったが、そのとたん、
「あ、これだ!」
と、思わず顔色を変えたのである。
壁に映る影
「等々力君、それから弓枝さんも桑三君も見たまえ。今、おもしろいものを見せるよ」
その晩のことである。
悪魔の家へ集まったのは三津木俊助をはじめとして、等々力警部に弓枝と桑三、それから弓枝の膝《ひざ》には、頑是《がんぜ》ない鮎子も抱かれているのだ。鮎子は風邪《かぜ》から肺炎を起こして、ヒーヒーと苦しそうな息遣いをしながら、それでも片時も弓枝から離れようとしないのである。俊助はそう言いながら、一同の顔を見比べながら、ちょっと意味ありげな微笑を浮かべた。
「おもしろいものって、なんだい」
「なんでもいいから、ちょっと灯《あか》りを消してくれたまえ」
「灯りを消す?」
「そうだ、暗くしておかないと見せられないものだ。桑三君、ちょっと電気のスイッチをひねってくれたまえ」
桑三はなんとなく不安らしい面持ちで、しかし、それでも従順に電気を消したが、そのとたん一同はあっとばかりに息をのんだ。真っ暗になった壁の上に、朦朧《もうろう》として浮きあがったのは悪魔の顔――片田専吉がかぶっていたあの仮面の幻なのだ。弓枝の膝に抱かれた鮎子はそれを見るとふいに、
「アクマが来た、アクマが来た」
と火のついたように泣き出したのである。だが、そのときだ、暗闇《くらやみ》の中で、突然どたんばたんと物すごい格闘の音が聞こえたかと思うと、
「等々力君、等々力君、灯りを――灯りを――」
その声に警部が再び電気をつけると、これはまあどうしたというのだ。傴僂の桑三が、真《ま》っ蒼《さお》な顔をして俊助の膝の下に組み敷かれているではないか。
「あ、桑三さん。先生、先生、これはいったいどうしたというんでございますの」
弓枝はおろおろとしながらも、しっかり鮎子の体を抱えている。
「なあに、桑三君がね、ふいにこの懐中電燈をたたき落とそうとしたんですよ。はははは。弓枝さん、われわれをあんなに驚かした悪魔の正体というのはこの懐中電燈の中にしかけた幻燈ですよ。ほらね」
俊助はそう言いながら、さっき古井戸の釣瓶の中から見つけ出した、あの万年筆ほどの懐中電燈を、暗闇に向けると、そこに再び朦朧としてあの悪魔の顔が浮きあがってきたのだ。
「まあ!」
弓枝はおびえたように眼を見張りながら、
「それじゃ、桑三さん、あれは――あれはあなたの悪戯《いたずら》だったんですの」
桑三は静かに畳の上に起きなおると、しばらく無言のまま、じっと唇《くちびる》を噛《か》んでいたが、やがて、蝋《ろう》のような面をあげると、
「そうです。こうなったらなにもかも言ってしまいましょう。弓さん、先生も警部さんも聞いてください。ぼくがなぜ、こんな恐ろしいことを考えついたか、なにもかもお話ししましょう」
桑三は血走った眼に、うっすらと涙を浮かべ、一同の顔を見回したが、やがてぼつぼつとこんなふうに話しはじめたのである。
「ぼくは昔から兄を憎んでいました。兄は人間の着物を着た獣、血も涙もない恐ろしい悪魔なのです。ぼくは兄が亡くなった嫂《ねえ》さんを、どんなふうに虐待したかをよく知っています。しかし、ただそれだけではぼくといえども兄を殺す気にはなれなかったでしょう。ぼくがいよいよ兄を殺さねばならんと思いはじめたのは、じつに、弓さんがこの家へ来てからのことなんです」
桑三はそこまで話すと、ふいに両手で顔を覆うてすすり泣きをはじめた。なぜ、弓枝がこの家へ来てから、彼の兄に対する憎悪が急に高まったのか、桑三はあまり詳しく話さなかったが、しかし、それは聞くまでもないことだ。弓枝を見る眼、弓枝に対する口の利きかた、それがすべてを語っている。桑三は熱烈な、しかし遣瀬《やるせ》無い想いを弓枝によせていたのだ。しかも、その弓枝は、兄の毒牙《どくが》にかかって穢《けが》されてしまった。――彼が燃えるような復讐《ふくしゆう》の念に駆られたのも無理はない。
「ぼくはどうして兄をやっつけようか。どうして自分を罰せられずに、兄だけを殺そうかそのことについてじつに長いあいだ考えていました。ところが、今から二週間ほど前に、ふいとすばらしい方法を思いつきました。そして、それを教えてくれたのはじつに、そこにいる鮎子なんです。ある日のこと、ぼくは自分の部屋で、朝鮮のお祭りに使う悪魔除けの面をながめていましたが、そこへこの鮎子が入ってきて、ひと目その仮面を見ると、
『叔父ちゃん、怖い、叔父ちゃん、怖い』
と泣き出したのです。そのとき、ぼくはよせばよいのにその仮面をかぶって、
『ほら、悪魔だよ、鮎子ちゃん、悪魔だよ』
と脅かしました。すると鮎子は、
『アクマが来た、アクマが来た』
と火のついたように泣きながら逃げ出しました。が、その晩からなんです。鮎子がときどきうなされるようになったのは。初めのうちぼくはつまらないことをしたと後悔しましたが、アクマが来た、アクマが来たという鮎子の泣き声を聞いているうちに、ふと恐ろしい考えがきざして来ました。
よし、自分がひとつ悪魔に化《ば》けて、兄を殺してやろう、そして殺人の罪をありもしない悪魔に転嫁すればいいのだ。そう考えたぼくは、その手はじめとして、悪魔の存在を鮎子以外の人間にも信じこませねばならない。そしてこの家がなんとなく、目に見えぬ悪魔によって呪《のろ》われているようにみせかけねばならない。そこでぼくは、自分でこの面をかぶって、最初に弓さんを脅かしておこうと考えました。そう思って、ぼくはいやが上にも恐ろしくするために、あの仮面に燐《りん》を塗ったのですが、さてよく考えてみると自分はこのとおり不具者です。たとい面をかぶっても体の格好からすぐ見破られるにちがいない。そう気がつくと、ハタと当惑しましたが、そのうちに、ふと思いついたのが、あの幻燈のことです。ぼくは生まれつき非常に器用なものですから、あの仮面をフィルムにとって、それを懐中電燈にはめこみました。それからあとは皆さんも知ってのとおり、弓さんの帰りを待ちうけて、最初は善福寺の塀《へい》に、二度目には屋根の煙突に、いつも樹の上に隠れていてあの幻燈を映してみせたのです。そして、そして……」
と桑三がなぜか口ごもるのを見て、警部がもどかしそうに、
「そして?」
と、きびしい声でうながした。
「そして、そうです。そしてぼくは兄を殺しました。いいえ兄ばかりではありません、片田という男まで殺してしまったのです」
「嘘《うそ》です。嘘です!」
そのとき、突然、そばからはげしい声が聞こえてきたので、ハッとして振り返ると、弓枝が真っ蒼な顔をして、わなわなと体を震わせている。彼女は泳ぐような手つきで、桑三のそばへにじりよると、
「皆さん、この人の言うことを信じちゃいけません。なるほど、義兄さんを殺そうとしてあのような企《たくら》みをしたのは、この人だったかもしれません。しかし、しかし、実際に手をくだしたのはこのあたしでございます。はい、この弓枝にちがいございません」
必死となって叫ぶ弓枝。桑三は真っ蒼になって、
「弓さん、馬、馬鹿な! なにを言う。警部さん、この人は気が狂っているのです。兄を殺したのはぼくです。この桑三です」
「桑三さん、ありがとう。あなたのお志、あたし死んでも忘れないわ。でも、でも、もうだめ、あたし、あたし、もう覚悟しているのよ」
と、言ったかと思うと、絹糸のような血がタラタラとその唇から流れてきたのである。
「あ」
三人はいっせいに、そばへ駆けよると、
「弓さん、きみは――きみは――」
「桑三さん!」
弓枝は切なげにあえぎながら、桑三の手をしっかりと握りしめると、
「あたしの手を――あたしの手を握っていて。先生、三津木先生、あたし、決して先生を欺くつもりはなかったのですわ。あの晩まで、自分で義兄を殺すつもりなど、少しもなかったのでございますの。でも――でも、先生を玄関に待たせて、二階へあがっていったとき、あたし、あたし、恐ろしいことを聞きました」
弓枝はそこでカッと血を吐くと、
「義兄は――義兄は、お姉様に少しずつ毒をのませて、だれにもわからぬように殺してしまったのです。片田という男が、そのことで義兄を脅迫しているのを、あたし、ドアの外で聞いたのです。あの男が――あの男が、その薬を調合したというのだから間違いはありませんわ。しかも、しかも、あたしはその悪魔に、――その悪魔に――」
と弓枝は、今さらのように口惜《くや》しげに身震いをすると、はげしくすすり泣きながら、
「あたしの口惜しさ、腹立たしさ、先生、察してくださいまし。桑三さん、察してちょうだい。あたしもう夢中でした。夢中で部屋の中へ躍り込むと片田という男の持っていた短刀を奪いとって、ぐさりとひと突き――ぐさりとひと突き――」
弓枝はそこまで言うと、再びおびただしい血を吐いたが、ようやくまた顔をあげると、
「先生、警部さん、義兄を――いいえ、義兄ばかりじゃありませんわ。片田という男を殺したのも、みんな、みんなあたし、――あたしです。桑三さん――桑三さん、――鮎ちゃんを、鮎ちゃんを頼んでよ」
言ったかと思うと、哀れな弓枝はガックリと首をうなだれてしまったのである。
「桑三君、桑三君」
可哀そうな弓枝の弔いもすんで、その初七日の晩のことだ。不思議な縁からこのしめやかな席につらなった俊助は、やがて桑三と二人きりになると、ふと改まってそう声をかけた。
「桑三君、鮎ちゃんのぐあいはどうかね」
「はあ、もういけないのじゃないかと思っています。なにしろすっかり肺炎をこじらせてしまったものですから」
「そうかね、ときに桑三君、きみにちょっと訊《き》きたいことがある」
「なんですか、先生」
桑三は瞬間、おびえたような眼をしたが、すぐその顔は蝋《ろう》のような平静にかえった。
「桑三君、きみの義兄《にい》さんを殺したのは、なるほど弓枝さんだったかもしれんが、あの片田という男を殺したのは、桑三君、きみだね」
ズバリと言われて、桑三はちょっと顔色を動かしたがすぐ、静かに微笑すると、
「そうです。先生、ぼくはいつかその話を先生には打ち明けて自決するつもりでした」
桑三は表情のない声で、
「ぼくはあの晩、裏口から気違いのように逃げていく片田を捕らえて、はじめて弓さんが兄を殺したことを知ったのです。あいつは悪党にも似ず案外|臆病者《おくびようもの》とみえて、その話をするとブルブルと震えながら、
『ああ恐ろしい、人殺しだ、人殺しだ、水を――水をくれ』
とぼくに言うのです。ぼくは、
『雪でも食いやがれ』
と言ってやりましたが、急に気がついて、あいつを井戸のそばへ連れていくと、あいつが水をくんでいるところを、うしろから棕櫚縄《しゆろなわ》で絞め殺してしまいました。それから急に思いついて、持っていた仮面をあいつに着せ、懐中電燈といっしょに井戸の中へ投げ込んでしまったのです。先生ぼくは決して自分の罪をのがれようとは思っていません。ただ弓さんの死の間際に頼まれた、鮎ちゃんを頼みますという言葉が気になって今まで、生きてきたのです。しかし、先生、鮎ちゃんももう長いことはないでしょう。昨日、お医者様があの児を診察して、あと、二、三日しか持つまいと言うのです。そして、そして、鮎ちゃんが呼吸を引き取ったら、そのときこそ、弓さんのあとを追って、あの世とやらへ行くときです」
桑三はそう言って、背中を丸くすると世にも物すごい微笑を浮かべたが、はたして彼の言葉に間違いはなかったのである。
それから三日ほどのち、呼吸を引き取った鮎子のそばに、服毒して死んでいた桑三の顔つきは世にも幸福そうだったということである。
悪魔の家には、やっぱり悪魔がついているのである。
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[#見出し] 一週間
一
――特種《とくだね》というやつは道端に転がってやしないぜ。犬ころじゃあるまいし、きみたちは道端のごみ溜《だ》めをあさって事件を探し回っているからいけないんだ。事件は作るもんだ。創作するもんなんだ。それが特種というやつだ。いいかい、わかったかい。よし、わかったら話はそれだけだ。ひとつ呼び売りが売り切れになるような特種を創作したまえ。――
(何を言やがる、あの赤鼻め)
宇佐美慎介はおもしろくなかった。
(紙代《かみ》は上がるし、収入広告は減るし、部数は落ちる一方だ! 編集部も営業部もみんなヒステリックになっていやがるんだ。特種を創作しろ? へん、おもしろくもない。なるほど事件は道端に転がってやしないかもしれないが、創作するたってロハじゃできねえ、資本《もとで》がかからあ。近ごろみたいに外勤の足代にまで、けちけち文句をつけやがって、創作が聞いてあきれらあ)
「おい、宇佐公、どうしたい、いやに不景気な面あしてるじゃないか」
青いシェードを額《ひたい》にあてて、鉛筆を耳にはさんだ同僚の鎌田《かまた》が、慰めるように慎介の肩をたたいた。
「部長の言葉なんかに、あんまりとらわれるなよ。奴《やつこ》さん、先ほど営業部から槍《やり》が出たんでいささかお冠りというわけさ。その飛ばっちりがちょっととんできたんだ。あんまり気にしなさんな」
「しかしなあ鎌さん」
慎介は熱っぽい眼をあげて同僚の顔を見た。
「うち[#「うち」に傍点]もこの調子じゃ先が知れてるな」
「うん、まあね。なんしろ大東がジャンジャンのしてきたからね、うち[#「うち」に傍点]なんか食われる一方さ。しかしまあ安心しろ。なんたって、暖簾《のれん》が古いやな。ボシャるたってそう急にいきゃしないやな。われわれの食い扶持《ぶち》ぐらい、まだまだどうにかならあね」
「おやおや、心細いしだいだ。とにかくおれはくさくさするから、ちょっと外へ出てくるぜ。警視庁へでも回ってみらあ。またごみ溜めをあさるって笑われるかもしれないが」
慎介は帽子を頭へたたきつけると外へとび出していた。
江東新聞――そう彫りこんだ漆喰《しつくい》の剥《は》げかかっているのも社運の衰亡を思わせる。玄関を出入りする社員たちの顔色にも生気がなかった。輪転機の音も、ほかの新聞社みたいに景気がよくない。なんでも、昨日植字職工から、待遇改善の要求が幹部につきつけられたという話だ。
「ちぇっ、何から何までしめっぽくできていやがる」
警視庁の記者溜まりへ入っていくと、東報の五百崎《いおざき》という、色の生白い男が、
「どうです、江東さん、何かおもしろいニュースはありませんか」
と、にやにやしながら声をかけた。天下の色男はおれ一人だというような、気障《きざ》な面をした男だ。いつも女給の噂《うわさ》ばかりしているところから、カフェー細見という綽名《あだな》がある。
その向こうでは代書人みたいな男が、鉛筆をなめながら、しきりに手帳に何か書いている。のろ松という綽名のある毎公の記者だ。電話に向かって悪口雑言のありったけを吐き散らしている男があるかと思うと、汗臭い帽子を頭にのっけて昼寝をしているやつがある。将棋をさしているのがある。安っぽい暴露《ばくろ》雑誌を読みながら、しきりににやにやしている男がある。おおかた、小遣いかせぎに書いた、自分の暴露小説でも読み直しているのだろう。食いあらされた丼《どんぶり》の上には蠅《はえ》が五、六匹ブンブン舞って、一つしかない鉄|火鉢《ひばち》の上には、煙草《たばこ》の吸《す》い殻《がら》が盛りあがるように林立している。
いつも見慣れた風景だが、その殺風景さの一つ一つが今日は癪《しやく》にさわる。
「そうだな。××官邸に爆弾が投げ込まれたというニュースはどうだね」
「何?」
受話器を握っていた男がビクッとこちらを振り返った。のろ松は鉛筆の手を止めた。将棋さしは将棋をやめた。昼寝をしていたやつまでどきんと飛び起きたのは滑稽《こつけい》だった。
「そりゃ事実かい」
「なあに、そんな事件でも起こらないかというのさ」
「なあんだ、馬鹿馬鹿しい」
一同は憤《おこ》ったように吐き出すと、またそれぞれの仕事に熱中しはじめた。この際、昼寝も仕事の一つである。
「何も馬鹿馬鹿しいことはありゃしねえ。おれはそういう記事でも捏造《ねつぞう》してやろうかと思っているんだ。うちの部長が言やがったぜ、おまえたち、事件事件ってまるでごみ溜《だ》めをあさっているようなものだってさ。つまりたまにありついたところで、ひとの食いあらした後だっていう意味さ。創作をしろ、事件をでっち上げろと言やがったぜ」
「それはね、江東さん」
カフェー細見が眼鏡の玉を拭《ふ》きながら、いやに優しい声で言った。
「こう言っちゃ失礼だが、そろそろおたくの経営が左前になってきたって証拠ですぜ」
「なんだと?」
「いや、憤《おこ》っちゃいけません、憤っちゃ。――実はぼくにも経験があるんですよ。ほら、先年つぶれた××新聞、ぼくはしばらくあそこにいたんですが、ボシャる前にはやっぱりそんなことを言ってましたぜ。それでわれわれ、その意見を尊重してやったんでさ。ほら、A、A銀行危うしってあれでさ。別にありゃ捏造したわけじゃないが、早耳をよくも調査せずにやったところが、あの騒ぎでしょう。おまけにこの早耳というやつが、根も葉もない噂《うわさ》話だったものだからたまりません。それやこれやで死期を早めちまったってわけですが、だから江東さん、きみも気をつけなきゃいけませんぜ、気を――」
「勝手にしやがれ」
慎介はだれにともない鬱憤《うつぷん》を吐き散らしながら、再び記者溜まりから外へとび出していた。
「おやおや、あいつどうかしやがったのかな。気でも狂やあしめえ――」
「気も狂うでしょうよ。そろそろ首が細くなってきたんですからね」
カフェー細見のいやににちゃにちゃした言葉に、ほかの連中はみんな笑ったが、笑いながら冗談じゃない、いつまでも他人事《ひとごと》じゃないんだという顔つきをした。
二
記者溜まりをとび出した慎介は、そのまま銀座のほうへぶらりと足を向けたが、そこで悄然《しようぜん》と飾り窓の中をのぞきこんでいる一人の男を見つけた。つかつかとそばへ近寄っていって、
「おい、史郎《しろ》ちゃん」
と肩をたたくと、
「あ!」
と、とび上がるようにうしろを振り返って、
「なあんだ、宇佐美さんですか。しばらく」
と、ベソをかくような微笑を浮かべたのは、混血児のように色の白い、眼もとのきれいな、美貌《びぼう》の青年だったが、どこか面《おも》やつれがして、妙におどおどしていた。
「どうした史郎ちゃん、いやに惟悴《しようすい》しているじゃないか」
「ええ」
と、青年はあとさきに眼をやりながら、
「なんだか体ぐあいが悪くて。それに、人に顔を見られるような気がするので困ります。銀座なんてもうぼくなんかの出てくる場所じゃないんですね」
なるほどそういえば、レーンコートの襟《えり》を立てて、帽子を目深《まぶか》にかぶった姿が、人眼をしのぶ落人《おちうど》のようで妙に哀れだった。
「なんだ、いやに意気地がないんだね。まあいいや。久しぶりだ。どっかへ行ってお茶でも飲もう」
「ええ」
青年はもじもじとしながら、
「お茶はありがたいんですが、この辺じゃどこへ行っても顔を知られているんで」
「いいよ。おれにまかせとけ。きみを知らないところへ連れていこう」
それから間もなく慎介が、その青年を連れこんだのは、築地の裏側にある一軒のおでん屋だった。昼間だから客とては一人もなく十五、六の女の子が、襷《たすき》がけのまま眠そうな顔で新聞を読んでいた。こういう場所というものは夜よりもかえって昼間のほうが、薄暗くもあり陰気でもあった。
「お主婦《かみ》さんは?」
「風呂《ふろ》へ行ってます」
「お君さんは?」
「まだ来ません」
「そうかい、なんでもいい。料理はいいから酒をつけてくれたまえ。史郎ちゃん、酒を飲むだろう」
「ええ」
入ってくるなり家の中を見回した青年は、いくらか安心したように、それでも気をつけて、いちばん薄暗い隅《すみ》っこを選《よ》って、もぞりと腰を下ろしていた。
少女はお銚子《ちようし》と二、三品の突き出しを持ってくると、無器用な手つきでそこへ並べておいて、そのまま暗い奥のほうへ引っこんでしまった。
「どうだ、ここならいいだろう」
「ええ」
青年は注がれた杯《さかずき》を手にも取らずに、大儀そうに唇《くちびる》を持っていってチューッと吸った。その様子がいかにもふてくされていた。
「どうだね、その後は?」
「どうもこうもありません。どこへ行っても相手にしてくれないし、仕方がないから、も一度あれ[#「あれ」に傍点]をやっつけようかと思っているんです」
「馬鹿だな。そう自暴自棄《やけくそ》になっちゃ仕方がない」
慎介はその青年の生気のない横顔を憐《あわ》れに思った。もとはこんなではなかった。もっと色艶《いろつや》もよかった。不良ではあったが不良なりに可愛げもあった。今はそれが全くない。
日比野史郎というその男は、活動写真へ首をつっこんだり、活弁の見習いみたいなことをやったり、つまらない雑誌にかかりあったり、しかし、そのどれもが物にならないで、それよりもあいつは女をしぼるのが本職だなんて仲間から擯斥《ひんせき》されているうちに、レビューガールと心中をたくらんだ。女は死んだ。しかし彼は死ななかった。天国へ行く代わりに生きて刑務所へ行った。日ごろの行状からその心中には純粋なものが感じられなかった。売名的な匂《にお》いが多分に受けとられた。女が死んで、彼だけ助かったのにも、助かった後の言動にも、どこか計画的な色彩があった。
新聞は彼をたたきつけた。日比野史郎は一時に悪名を天下に流した。もし彼の目的が売名にあったとしたら、それは十二分に成功したようなものだが、しかし、今時世間はそんなに甘くできてはいなかった。刑務所から出てきた彼は、すっかり世間に背を向けられていた。どこでも彼を相手にしなかった。彼はその日その日の糊口《ここう》にも窮した。おまけに彼は悪性の病気に悩んでいるのである。
「自暴自棄にもなります。世間は一度つまずいた人間は、もうまともにゃ扱ってはくれないんですからね。ぼくのような人間のいきつくべきところは、もう一度あれをやるよりほかにしようがありませんね」
妙に反抗するような態度だった。からみついてくるような、毒々しい言い方だった。慎介は死ぬ死ぬというその言い方に腹が立った。
「やるったって、もう一度死ぬ勇気があるかい」
「自分ではあるつもりです」
「しかし、こんどは一人だろうな。まさかもうきみの手に乗るやつはあるまい」
態《ざま》ア見ろという気持ちだった。慎介はすっかり依怙地《えこじ》になっていた。しかし相手は動じなかった。
「それがあるんですよ」
史郎はにやりと微笑《わら》った。
「ふうん、世の中にゃ物好きな女もあるもんだね、どこの淫売《いんばい》だい」
「いや、それが相当有名な女なんだから驚くでしょう。有名たって famous じゃありません。ぼく同様 notorious のほうですがね。あなたもたぶん、御存じの婦人です」
「だれだい、その馬鹿女は?」
「白鳥のマダムです」
「あ、なるほど」
その瞬間、慎介は反感も何も忘れて思わず感嘆した。白鳥というバーのマダム、緒方|弥生《やよい》ときたら、なるほど notorious の点においては、日比野史郎と甲乙つけがたいほどの存在だ。
緒方弥生はもと映画スターだった。Aという映画監督に見いだされて、大部屋女優からめきめきと売り出した女で、間もなくそのAと結婚したが、人気の絶頂にある時分に、Aを毒殺して他の男と逃げようとした。毒殺は未遂に終わって彼女は即座に逮捕されたが、取り調べの時、男の圧制に対して反抗したのだと、大見得を切ったという強《したた》か者《もの》だ。刑務所から出てきた当座、しばらくは懺悔《ざんげ》の生活とかなんとか、殊勝らしいことを婦人雑誌かなんかに寄稿していたが、結局、鉛は鉛、悪女は悪女だ。間もなく大森付近で白鳥というバーをはじめたが、世間には物好きの種はつきなかったし、女にすたりはなかった。そういう悪い経歴がかえって人気の種となって、大いに繁盛しているということを、慎介自身は行ってみたことはないが、そこの常連らしい、例のカフェー細見から聞いたことがある。
「ふふん、緒方弥生か、なるほどあの女ならきみとは似合いの好一|対《つい》だ。どちらがどちらともいえないからね」
「そうです。破《わ》れ鍋《なべ》にとじ蓋《ぶた》っていいますからね」
日比野史郎は苦っぽい微笑を浮かべた。
「それにしてもあんな強か者が、よくきみの手に乗ったね」
「ぼくの手に乗るってなんですか」
「むろん、きみのほうから言い出したんだろう」
「ところが大違い、向こうから誘いかけてきたんです。でも、別に不思議なことはありませんね。あの女も寄る年波でだんだん世間から相手にされなくなる。一時は相当客もあったらしいが、近ごろはさびれる一方だし、借金はかさむし、おまけに少し胸のほうが悪いんですね。以前から死にたい死にたいと言ってましたが、独りじゃいやだというんです。このあいだも言ってましたよ。そりゃ世間には馬鹿が多いから、なんとか憐《あわ》れっぽく持ちかけりゃ、いっしょに死んでくれるような男もないではないが、普通の相手じゃいやだ。史郎ちゃん、今お前さんと心中すりゃ、世間ではずいぶん騒ぐだろうねって、――つまりあの女は、せっかく心中しても、世間から問題にされないのが何より怖いのですね。ちょっと不思議な心理だけど」
「何も不思議なことはあるまい。史郎ちゃん、きみだって同じじゃないか」
史郎はさすがに憤然としたらしかった。黙ってこのわたかなんかつついていた。しかし再び顔をあげた時には、少しも感動の表情《いろ》は浮かんでいなかった。
「そうです。ぼくだってあんな婆《ばあ》さんじゃ、いささか役不足だから、鼻であしらっておいたんですが、考えてみるとこう不景気じゃやりきれない。宇佐美さん、ぼくが今あの女と心中したら、うんと新聞に書いてくれますか」
「そうさ、そりゃ特種にならんこともないが」
と、言いかけて、慎介はハッとした。
こいつだ。こいつはごみ溜めの中からあさった材料じゃない。まだ、だれにも食いあらされていない、ピチピチとした新鮮な事件だ。亭主《ていしゆ》殺しの緒方弥生と、心中未遂の日比野史郎と、――この組み合わせはたしかにセンセーションになる。しかし、まてよ。これだけじゃ少し物足らんな。近ごろこんな材料を特種に扱ったのじゃ、他社の物笑いにならんでもない。出し抜かれた負けおしみから、黙殺されてしまわないでもない。遅れながら、口惜《くや》しがりながら、ついてこざるを得ないような事件、そういう事件じゃないと、特種とはいい難い。しかし、人物はそろっているのだ、役者に不足はない。もうひとひねりすれば――そうだ、創作だ。そこが創作なのだ。
慎介はきっと史郎の顔を見すえた。少し可哀そうだが、なに構うことはあるもんか。どうせこいつは半端《はんぱ》物なんだ。
「史郎ちゃん、おまえほんとにそいつを決行する勇気があるかい。あるなら、うんと新聞に書いてやるぜ」
「書いてくれますか」
史郎は気のない返事をした。
「うん、書いてやる。しかし、ただの心中じゃはじまらん。世間でまたかと思うだけで、だれも相手にしやしない。しかしここにくふうがある」
「どんなくふうですか」
「きみがあの女を殺すのだ。殺しておいて逃げるんだ」
「なんですって?」
史郎もさすがに蒼白《あおじろ》んだ。
「ははははは、何も驚かなくてもいい。ほんとに殺すんじゃないんだ。殺したようなふりをして姿を隠すんだ。あの女もまた殺されたようなふうをしてしばらくどこかへ隠れているんだ。こうしてさんざん世間をひっかき回しておいて、いいころおい、おれがきみたちを見つけ出すということにするんだ。これなら、死ぬまでもなく十分世間を騒がせることができるぜ」
「しかし、そんなことをしておいて、罪にゃならんでしょうかね」
史郎は懸念《けねん》の色を浮かべながら、しかし、その眼の中にはしだいに生気が加わってきた。
「何、大丈夫だ。騒いだのは世間の勝手で、自分たちはちょっと喧嘩《けんか》をしたが――その喧嘩の跡をいかにも殺人現場らしくこしらえておくんだね――すぐ仲直りをして、温泉かどこかへ行っていた。そのあいだ、新聞を一度も見なかったから、そういう騒ぎは全く何も知らなかったと言えばいいんだ。なに、あとは万事おれが引き受ける。うまくいったら少しぐらい報酬を出してもいいぜ」
「金になるんですね、そして、罪にはならないんですね」
史郎はにわかに熱心になってきた。
「大丈夫――大丈夫だが――」
と、言ったが、慎介は急に意気込みをくじかれた態で、
「しかし、きみだけ承知したところではじまらないね。弥生のやつがうんと言わなきゃ」
「大丈夫、そりゃぼくが引き受けます。あの女ときちゃ、そういう悪戯《いたずら》が何より好きな女です。自分が殺されたら、世間がどんなに騒ぐか、それが見られるだけでもあの女としちゃうれしいに違いありません。ひとつどこかへ呼び出して相談しましょうか」
急に史郎のほうが熱心になり出した。
三
輪転機がブンブンうなっていた。鉛筆を耳にはさんだ記者たちが独楽鼠《こまねずみ》のように右往左往していた。だれも彼も殺気立っていた。汗ばんで真っ赤な顔をしていた。原稿紙がとぶ。電話の鈴《ベル》が鳴る。給仕が編集室と工場のあいだをくたくたになってとび回る。
たかがバーのマダムの殺害事件だった。しかし完全に他社を出し抜いているという意識が、江東新聞社の編集室を沸騰させているのだ。
赤鼻の樫村《かしむら》部長は、鼻の頭をいよいよ赤くしながら、さっきから受話器にしがみついている。
「――それで犯行のあったのは正午ごろのことらしいって? 白昼の惨劇っていうわけだな。なに、酒屋の小僧が悲鳴らしいものを聞きつけたって? おいおい、その小僧、しゃべりゃしないだろうな。よし、夕刊が出るまでしゃべらせるな。それで現場の模様は――おい、おい、おい、お話し中だ。現場の模様――え、血のついた短刀が見つかったって? なに? 指紋がある? よし、いいからそいつはしばらく隠しておけ。なに構うもんか。おれが引き受けた。そいつをタネに明日の朝刊でまた出し抜くんだ。それから――? え? 肉片のこびりついた女の髪の毛がひとつかみ? そいつはすばらしい。それじゃ屍骸《しがい》はなくてもあったも同様だ。なに? 屍骸のありかもわかりそうだって? え? ちょっと待った! 給仕! 給仕! 夕刊の原稿がも一つ行くから待ってろと工場に言っておけ。宇佐美君、宇佐美君――それから――? 一時ごろに大トランクを運び出して自動車で立ち去った者がある? 二十七、八の色白の青年、黒眼鏡をかけ、外套《がいとう》の襟《えり》を立て、人眼をしのぶがごとしか。だれが言ったんだ、だれがそんなこと――なに、角の八百屋の娘――よし、そいつにも金轡《かねぐつわ》をはめとけ。そして、その自動車を探すんだ。いいかね、わかったな。ああ、それから白鳥の見取図を大至急、いま写真班をやったからね、そいつといっしょに帰してくれたまえ。まだどこの社も知らないだろうな。なに、警察もまだ知らない? よし、それじゃね、もう一時間もたってから、その女給に――なんていったけな、発見者の名は? 通子《みちこ》? ――通子こと清水よしゑ、年は二十七歳、よし、もう一時間もたってからその女給に警察へとどけさせるんだ。一時間――一時間だよ、それより一分も早くちゃいけないぜ。なに、構うもんか、おれが引き受けた。よし、それだけでいい」
ガチャンと受話器をかけた赤鼻部長は、なかなかじっとしてはいなかった。
汗を拭《ふ》きながら、
「鎌田君、鎌田君」
と大声で呼んで、
「今の原稿のつづきだ。いいかい、屍骸はトランク詰めか。――黒眼鏡の怪青年――そいつが標題《みだし》だ。畜生! 犬も歩けば棒にあたる。宇佐美のやつ、すばらしいネタを掘り出しやがった」
「部長さん、部長さん」
小僧がとんできた。
「あとの原稿をすぐ欲しいと言っていますよ」
「うん、今すぐだ。それからも一度工場に行って、見取図が来るはずだから、それだけのスペースを空けとけと言ってこい」
輪転機はブンブンとうなっている。赤鼻部長は眼を真っ赤に充血させて記事を口述している。鎌田の手から原稿用紙が一枚一枚給仕の手にとんだ。編集室には埃《ほこり》がいっぱい舞っている。
こうして、その日の夕刊は、完全に江東新聞が他社を出し抜いた。
――白昼の惨劇、夫殺しの元女優緒方弥生殺害さる? ――血染めの白鳥――肉片のついた髪の毛――屍体はトランク詰めか――黒眼鏡の怪青年――
そんな仰々しい活字の羅列《られつ》が、他の新聞社の連中を寝耳に水と驚かせた。しかもその翌日、ほかの新聞がやっと惨劇の発見を伝えているころには江東新聞はまたもや一歩先んじていた。
――黒眼鏡の怪青年の正体|暴露《ばくろ》さる。――犯人は心中未遂の日比野史郎か。――
さらにその日の夕刊では、
――白鳥の惨劇について、いち速く報道した本社は、その後またまた奇怪なる事実を発見した。犯行の直後、大トランクを運び出した怪青年が、心中未遂の日比野史郎なることは朝刊既報のとおりだが、その後苦心してその足どりを調査するに、ついに問題の大トランクを発見したのである。トランクは××駅に一時預けにされていた。トランクの中は一面の血だった。しかも、またもや肉片の付着した女の頭髪が発見された。死体はいまだ発見されないが、ここに至っては緒方弥生の殺害された事実は疑うべくもない。――
「おいおい、いやだぜ宇佐美君、きみは狐《きつね》でもついているんじゃないのかい」
事件があってから三日目に、はじめて警視庁の記者溜まりへ顔を出した慎介は、さんざんほかの連中から油をしぼられていた。
「捜査課の連中も不思議がっているぜ。昨夜やっと指紋のついた短刀を発見したそうだ。指紋は間違いなく日比野史郎のものだが、江東新聞じゃちゃんと朝刊でそれを素っ破抜いているんだからね。おまけにだ。刑事が不審がっているのは、前に捜した時にはたしかにそんな短刀はなかったのに、夜になると、ちゃんと床下から、そいつが出てきたというわけだ。おかげで大目玉だったそうだ」
「大目玉は奴《やつこ》さんばかりじゃない。こちとらだってずいぶんしぼられたぜ」
「なにしろ神がかりに会っちゃかなわないよ」
蜂《はち》の巣をつついたように、ガヤガヤ言っている中から、
「江東さん、まさか創作じゃないでしょうね」
横のほうから、いやに静かな声で言ったのはカフェー細見の五百崎で眼鏡の奥でにやにや笑っている。
「創作――? 創作ってなんです?」
「このあいだ、言ってたじゃありませんか。事件がなけりゃこしらえろって。いいかげん世間を騒がせたあげく、ひょっこり弥生、史郎の御両人が、どっかから出てくるんじゃありませんか」
「こん畜生!」
パチッとすばらしい音がした。眼鏡がとんで、五百崎の白い頬《ほお》がみるみるうちに充血してきた。慎介は失敗《しま》ったと思った。
「なんだ、なんだ」
腕っ節の強そうなのが、二、三人バラバラと二人のあいだに割って入った。
「まあまあ御両所、いかなる恋の恨みか知らぬが、腕力|沙汰《ざた》は大人げなし、ここは殿中、しずまりたまえ判官殿」
五百崎は冷ややかに慎介の顔を見ながら、眼鏡を拾いあげた。それから、おりからかかってきた電話へ出た。慎介はすっかり悄気《しよげ》てしまった。五百崎を殴ったのも大きな失敗だったが、彼にとって致命傷なのは、五百崎がどうやら真相を嗅《か》ぎつけているらしいことだった。
事実の真相は部長にすら打ち明けていない。すっかり事件が片づいてから折りを見て告白するつもりだった。それだけに五百崎に感づかれたというのは大きな痛手だった。
「え? なんですって?」
電話に出ていた五百崎がふいに大きな声を出した。慎介は思わずそのほうを見た。五百崎はすぐ持ち前の冷ややかな態度にかえった。
「なんだ詰まらない」
だれに聞かせるともなく受話器をかけると、そうつぶやいて落ちていた古雑誌を拾いあげた。バラバラと五、六ページをめくっていた。それから時計を出して見ると、
「おや、もう三時か」
つぶやきながら、帽子をとって出ていった。ひどく落ち着き払った態度だった。
「おい、今のカフェー細見の様子を見たか」
手帳をしまって立ち上がったのは毎日公論ののろ松である。この男はいつでも手帳に何か書いているのだ。
「どうも臭いぜ。いやに澄ましやがって」
「よし」
腕っ節の強いのがいきなり受話器をはずした。
「もしもし、東報ですか。ああ、部長さんですね。ぼく、五百崎です」
五百崎のにちゃにちゃした調子をまねて、
「今のところをもう一度言ってください。手帳にひかえますから、――あ、蒲田のB町、B町の五番地、わかりました、ありがとう」
ガチャリと受話器をかけると、
「おい、蒲田のB町だとさ。行ってみろ、何か事件らしいぜ」
蒲田のB町へ駆けつけてみると果たして大事件だった。空き家の中から女の惨殺|屍体《したい》が発見されたのだった。屍体は緒方弥生だった。慎介は気が遠くなりそうだった。
「宇佐美君、失敬しました。弥生はやっぱり殺されていましたね」
五百崎の冷ややかな声が、慎介を恐怖のどん底にたたきこんだ。
「どうしたんです。なぜそんな怖い顔をしてるんです。まだ怒ってるんですか」
四
「宇佐美さんですか。宇佐美さんですね。――ぼく――ぼく、日比野です」
屍体発見の記事が、他社に比較していちじるしく生彩をかいていると、今さんざん、部長から油をしぼられた慎介だった。
「きみ、これはうちの特種だぜ。せっかくきみが掘り出したネタなんだ。それを肝心のところでこうダレちまっちゃしようがないじゃないか」
部長の言葉ももっともだった。慎介自身、己れの書いた記事の無気力さをつとに承知していた。しかし、それはどうにもならないじゃないか。慎介は今あまりに大きな混乱の中にいる。部長に反抗する勇気すらなかった。慎介は自分の事務机《デスク》に帰ると、頭をかかえてうなりつづけていた。そこへ史郎から電話がかかってきた。史郎も今朝の記事を読んだのに違いなかった。泣き出しそうな声だった。
「今朝の記事――あれはほんとうですか」
「ちょっと待ちたまえ、今電話を変えるから」
人のいない応接室へ電話をつながせて、
「きみは今どこにいるんだ」
「どこでもいいです。ぼく、約束の場所であの人を待っていたんです。しかし、いつまで待っても来ないものだから、今いるところへ来たんです。ところが今朝の新聞を見ると――」
と、史郎は電話の向こうで息をのんで、
「宇佐美さん、あれはほんとうなんですか、ほんとうなら、ぼく困ります、ほんとうに困ります。宇佐美さん、ぼくはどうしたらいいんです」
今にも泣き出しそうな声だった。それも無理はなかった。何もかもそろっていた。証拠も彼自身の経歴も――、もし、今捕らえられたら、きっと有罪になるに違いなかった。裁判――刑務所――死刑――史郎が狼狽《ろうばい》しているのも無理はなかった。
「宇佐美さん、宇佐美さん。何か言ってください。ぼく、怖くて、怖くて。――」
「きみ、きみはほんとうに何も知らないのだね。まさか、きみがほんとうに――」
「バ、馬鹿な、ソ、そんなことをおっしゃるなら、ぼく、これからすぐに警察へ出頭します。そして、何もかもぶちまけてしまいます」
「ま、待ってくれたまえ」
慎介は必死だった。脇《わき》の下から冷や汗がタラタラと流れた。今、史郎に事実を打ち明けられたら何もかも、おしまいだった。なんとかして、史郎を釘付《くぎづ》けにしておかなければならない。
「ぼくに考えがある。もう少し待ってくれたまえ」
「考えがあるって、いったいどうしようというのです」
「真犯人を探すのだ。真犯人を探し出して、きみの冤罪《えんざい》を晴らしてみせる。それまで待っていてくれたまえ」
史郎は黙っていた。受話器を握った慎介の掌が汗でべとべとになった。
「ね、お願いだからそれまで待っていてくれたまえ。きっと、きっと、ぼくが……」
「そんなことができますか」
「できる、できるとも。そうしなければぼく自身破滅だ。きっと、きっと探し出してみせる」
史郎はまた黙りこんだ。慎介は全身の神経を耳に集中して、一心に相手の返事を待った。
「いったい、それにはどのくらいの時間がかかるのです」
しばらくしてからもぞりと史郎が言った。
「一週間――一週間だけ待ってくれたまえ」
「一週間――一週間ですね」
史郎は考えこんでいるふうだったが、
「よろしい。それでは待ちましょう」
「ありがたい、待ってくれるか」
「待ちましょう。ぼくだってなるべく出ていきたくはないのです。世間の評判になるなんて、もう真っ平だ。今日は金曜日ですね。じゃ来週の金曜日の午後十二時まで待ちます。その時また電話をかけます。そしてその時までに……」
「よし、わかった。大丈夫だ。しかし、きみは今どこにいるのだ」
「ぼくですか――ぼくは――」
と言いかけて史郎はハッとしたらしく言葉を切ると、
「御冗談でしょう。ぼくの居所《いどころ》はめったにあかされませんぜ」
「な、なぜだい」
「なぜって、考えてごらんなさい。この事件をいちばんうまく片づける方法は、ぼくを殺してしまうことですからね。ぼくを黙らせてさえしまえば、それで万事めでたしめでたしでさ。ヘヘヘヘ、しかし宇佐美さん、そうは問屋が卸しませんぜ。ぼくは万一のために手紙を書いて、信用のできる友人に預けておきます。そして来週の金曜日の十二時半までにぼくから音信がなかったら、その手紙を公開してもらうようにしておきます。わかりましたね。じゃさようなら」
ガチャンと受話器をかける音が、痛いほど慎介の耳にひびいてきた。それでも慎介はまだ受話器を離さなかった。彼はそのまま石になってしまったようにそこに立ちつくしていた。額《ひたい》には汗がいっぱい浮かんで、大きく見張った眼は、何物をも見ていなかった。ふいにくらくらとしたかと思うと、ツルリと円筒型の受話器が汗ばんだ彼の掌から滑り落ちた。
五
約束の一週間はすでにもう三日たってしまった。しかも慎介は一歩も前進していなかった。史郎から電話がかかってきた時のままだった。全く五里霧中だった。幾度か彼はB町の、あの屍体の発見された空き家を訪問してみた。しかし、まだ駆け出しの、彼のような若輩記者に発見できるような証拠は何一つ残っていなかった。もし、そんな物が存在したとしたら、とっくの昔に、警官連によって押収されたはずだった。
彼はうめいた。もがいた。あせった。頭の毛をかきむしりながら、今日もまた、空き家の中を歩き回っている。雨戸を閉ざした空き家の中は昼間でも薄暗くて、このあいだ、屍体の横たわっていたあたりには、黝《くろず》んだ血の跡が雲のように、薄くこびりついている。弥生の血なのだ。もし、この血が口を利いてくれたら――実際慎介は、畳に耳をこすりつけて、その神秘な声を聞こうとさえ努めたくらいである。慎介はしかし、すぐその馬鹿らしさに気がついた。
こんなまねをするなんて、おれは気が狂いかけているのではなかろうかとさえ思った。彼は両手で顔を覆うて、おいおいと泣き出したくらいである。
しかし、彼はすぐ自分で自分が恥ずかしくなった。涙をぬぐって彼は立ち上がった。いや立ち上がりそうにした時、ギラリと光る物を畳の目に発見して、彼は思わず腰をかがめたのである。それは小さなガラスの破片だった。手にとって見ると、かすかな窪《くぼ》みを持っているところから、時計ガラスのようなものに違いないと思われた。彼はもう一度、畳の上に額《ひたい》をすりつけて見た。すると、あちらにもこちらにも、ギラギラ光る小さな破片が散乱していた。彼は一つ一つ、それらの物を拾いあげて見た。そして、それが腕時計のガラスに違いないことを確かめた。そう言えば、弥生の屍体は、小型の腕時計をはめていた。そして、そのガラスが壊れていたのを、慎介ははっきりと思い出した。
しかし――? 慎介はそれ以上、そのガラスの破片を役立てる方法を知らなかった。これがシャーロック・ホームズのような名|探偵《たんてい》なら、この腕時計のガラスから、何かすばらしい推理に到達したに違いない。しかし、慎介にはガラスはただガラスにすぎなかった。
慎介はフラフラとその空き家を出ると、近所の人々を片っ端からつかまえて、それまで幾度となく繰り返した質問を、今日もまた繰り返した。しかし、その結果はことごとく失敗だった。だれもあの晩、あの空き家へ入る人間を見た者はなかったし、また出るところを目撃した人物もなかった。怪しい声を聞いた者もなかったし、足音を耳にした人間もいなかった。
慎介にとって、全くB町の人間ほど天下に愚かな人物の集まりはいないように思われた。いやいや、ひょっとすると、彼らはそろいもそろって、犯人を故意に隠蔽《いんぺい》しているのではないかとさえ思われた。
それにしても彼は、史郎があの時自分の居所を明かしてくれなかったことをつくづくと感謝した。全くその時の彼の心理状態では、居所さえわかっていれば、これからすぐにも出向いていって、史郎を絞め殺したかもしれなかった。
彼は今、自分で自分の神経が信用できない状態なのだ。相手があればだれでも殺したかもしれないし、またひょっとしたはずみで自殺したかもしれなかった。彼は全く恥辱と悔恨のために、自分の体をズタズタに引き裂いてしまいたかった。
慎介はふと思いついて、その足で大森の白鳥へ行ってみた。いいぐあいに白鳥には、事件の当の発見者――それは最初、慎介がそうなるようにたくらんでおいたことなのだが――その通子がただひとり、途方に暮れた面持ちで、テーブルの上に片肱《かたひじ》をついていた。
「どうなすったの、お顔の色が悪いわね」
「言ってくれたまえ、通子君、マダムはいったいどんな男と関係していたのだ。客の中でいちばん熱心だったのはいったいだれなんだね」
「また、同じことをお尋ねになるのね。幾度言ったって同じことですわ。Yさん、Kさん、Mさん、それから東報の五百崎さんなども、まあ御熱心な方でしたわね」
慎介はまた呻《うめ》き声をあげる。YもKもMもみんな立派なアリバイを持っている。そして五百崎だが、慎介はあの男がきらいだったが、しかしまさか犯人と決めてしまうほどの勇気はなかった。慎介はあの男を軽蔑《けいべつ》していた。あの男に、そんな大それたまねなどできるはずはないと決めていた。
慎介は力なくそこを出ると、それから行きどころのないままに、警視庁の記者溜まりへ帰ってきた。なんとなく妙な空気だった。カフェー細見も、のろ松も、代書人も、腕っ節の強いのも、みんなそこにいたが、なんとなく白《しら》けた顔をしていた。妙にシーンとして口を利かなかった。慎介は急にいらいらしてきた。
「なぜみんな黙っているんだ」
だれも口を利かなかった。慎介はかっとした。
「なぜ、おれの顔ばかりじろじろ見るんだ」
それでもみんな黙っていた。食いあらした丼《どんぶり》の蓋《ふた》に、飯つぶがひとかたまりこびりついていて、その上に蠅《はえ》がブンブン舞っていた。
慎介は自暴自棄な不快さを覚えて、再びそこを出ていこうとした。その時ふいに、
「宇佐美さん」
優しい声で呼びとめたのはカフェー細見だった。
「なに?」
慎介は喧嘩《けんか》腰で振り返った。
「みんなはね、きみのような敏腕家がなぜ今日の重大発見を見逃したのか、それを不思議に思っているんですよ。きみはもう少しで大失敗をするところだったんですよ。もしぼくが――」
「しっ!」
代書人がそばから制した。しかし、カフェー細見は平然として眼鏡のガラスを拭《ふ》きながら、
「もし、ぼくが知らせてあげなければね。まだ夕刊の締切には間に合います、大至急でぼくの言うとおり報告なすったらいいでしょう。日比野史郎が発見されたのです」
「え?」
慎介はふいに髪の毛が逆立つのを覚えた。顔面筋肉が硬張《こわば》って、舌がつーとしびれた。
「だめだよ、きみ、こいつにそんなことを知らせちゃ。――こいつには今まで、さんざん出し抜かれているんだ」
のろ松が苦情を言った。しかしカフェー細見は耳にも入れず、まるで記事を口述するように言った。
「問題の日比野史郎屍体となって現わる」
「え、で、死んだのですか」
「そうです。まあ、お聞きなさい。今暁六時ごろ、霊岸島沖合に一個の水死人の死体が漂着したが、意外にもその屍体は問題の日比野史郎なることが確かめられた。あまり水を飲んでいないところより察するに、入水する前に服毒したものと思惟《しい》され、おそらくは官憲の追及急なるにおそれをなし、覚悟の自殺を遂げたものならんか。――さあ、これだけ材料があれば記事になるでしょう。これがこのあいだ殴られたお礼ですよ」
慎介は蹌踉《そうろう》として記者溜まりから出ていった。
六
日比野史郎が屍体となって発見された。それは事実だった。しかし、そのことは少しも慎介を解放してはくれなかった。
史郎は死んでも、あとには遺書が残っているはずだった。しかもその遺書の発表を食いとめることのできる唯一の人物、日比野史郎は死んでしまったのだ。おそらく、土曜日の朝までにはその遺書は発表されるだろう。そしてすべてのカラクリが暴露《ばくろ》するのだ。ああ、なんという恐ろしいこと。
しかし、その時、慎介の頭にはもっともっと恐ろしい疑惑があった。史郎はほんとうに自殺したのだろうか。いやいや、そんなはずはあり得なかった。彼は犯人ではないのである。一週間たてば、たとい真犯人は現われずとも、自分の冤罪《えんざい》を証明することのできる立場だった。それにこのあいだの電話の模様から考えても、とうてい自殺するなどとは考えられない。
――とすると?
慎介は恐ろしさのあまり思わず身震いした。彼はなるべくこれ以上恐ろしいことを考えまいと努めた。しかし努力すれば努力するほど、その恐ろしい考えは頭をむくむくともたげてくる。
弥生を殺した犯人、――そいつが自分に降りかかってくるかもしれない疑惑の種を刈り取るには史郎を殺すのが最も完全な方法だった。あらゆる証拠、あらゆる空気は史郎に対して不利にでき上がっている。今、史郎が死ねば、必ず絶望のために自殺したのだと世間では思うだろう。しかも、そういういっさいは、すべて慎介がでっちあげたのだ。とりも直さず、彼自身が犯人のためにお膳立《ぜんだ》てをこしらえてやったのも同様なのだ。
慎介は再び震えあがった。震えながらもそういう思考の方向から頭をそらすことができなかった。
それにしても、なんという手際のいいやつだ、そいつはまるで、最初から自分たちのこんどの計画を知っていたようなものだ。――と、そこまで考えてから、慎介はふいにぎょっとしたようにとび上がった。
そうだ。だれかが最初からこの計画を知っていたのではなかろうか。そして巧みにわれわれの計画を、彼自身の計画に書きかえたのではなかろうか。しかし、どうしてそれを知ったろう。この計画は彼自身と史郎と弥生のほかには、だれ一人知る者はないはずだった。史郎か弥生がしゃべったのだろうか。いやいや、そんなはずはあり得ない。
――すると?
「あ、そうだ!」
慎介はいきなり帽子をつかんで社をとび出した。そして、最初その計画を立てたおでん屋へやってきた。幸いおでん屋にはこのあいだの娘がいた。
「きみ、きみ、このあいだ――そうだ一週間ほど前にぼくがここへ来たのを覚えているね」
「ええ、覚えています」
慎介の意気込みがあまりはげしかったので、娘はびっくりしたような顔をした。
「あの時、ほかにだれもいなかったはずだね」
「ええ、いらっしゃいませんでした。あなたとお連れさんだけでした」
「きみはもしや、あの時のぼくらの話を聞きはしなかったかね」
「いいえ」
娘は不思議そうな顔をした。
慎介はだんだん気が重くなったが、それでも勇気をふるい起こした。
「それで、われわれが出た後でだれか客はなかったかね」
「ええ、ありましたわ。東報の五百崎さん」
「なに?」
「そうそう、五百崎さんはその時、宇佐美さんはどうしてあんなやつといっしょに歩いているんだろう。いったい、ここでなんの話をしていたいと訊《き》いていらっしゃいましたわ」
慎介はふいにぐるぐると、あたりの壁が回るような気がした。五百崎――どこへ行っても五百崎だ。あいつは弥生に懸想《けそう》していた。そして、この事件を創作ではないかと、最初に指摘したのも五百崎だった。
「ありがとう!」
彼はそこをとび出すと、まっしぐらに警視庁の記者溜まりへとんでいった。五百崎はいなかった。彼は再びそこをとび出すと、東報社へ駆けつけた。五百崎は留守だった。慎介はその下宿を聞いて訪ねていった。そこでもやっぱり五百崎をつかまえることはできなかった。
それから三日間、彼は犬のように五百崎を探して町じゅうを歩き回った。しかし、どこへ潜ったのか、五百崎の姿はどこにも発見することはできなかった。
彼は綿のように疲れて社へもどってきた。そしてどっかりと自分の椅子《いす》に腰を下ろすと、最後の審判でも待つように、じっと歯を食いしばって、眼をつむっていた。なぜなら、ちょうどそれは金曜日の十二時少し前だったから。
「宇佐美さん、今日は夜勤ですか」
給仕が不思議そうに顔をのぞきにきた。しかし、慎介は答えなかった。給仕は仕方なしに一つ一つ電気を消して立ち去った。慎介の頭の上の電気がただ一つ取り残されて、蒼白《そうはく》な彼の面を照らしていた。
十二時が鳴った。慎介は思わず身震いをした。――と、その時である。ふいにこの部屋へ入ってきて、黙って彼のそばに腰を下ろした者があった。
五百崎だった。
慎介はおよそ信じられないものを見たように、全く息が詰まりそうだった。五百崎は無言のまま、片脚あげて膝を組み合わせた。慎介はそういう動作を、まるで幽霊をでも見るような目つきでながめていたが、その時、ふいに脇《わき》の下からさっと、冷たい汗がほとばしり出た。
組み合わせた五百崎の靴《くつ》の裏にキラキラと光るものが二つ三つささっていた。ガラスの破片だった。ひょっとすると、弥生の腕時計のガラスでは――?
慎介の視線から、五百崎もそれに気がついた。しかし彼は平然としていた。
「きみの靴の裏を見せたまえ」
五百崎は命令するように言った。いつもの五百崎とは全く違っていた。慎介は抵抗することのできない圧迫を感じて自分の靴の裏をあげて見た。ガラスの破片はそこにもささっていた。
「われわれは何度もあの空き家を訪問したのだから、こんなものは証拠にならない」
五百崎は慎介の考えをすっかり見抜いたように言った。
「しかし、あそこを訪問したことのないはずの、人間の靴の裏に、これがあってみたまえ。それこそ重大な証拠だ。そしてそういう靴があるのだ」
「だれの靴だ」
「日比野史郎の靴!」
シーンとした静寂《しずけ》さが、暗い編集室に落ちてきた。慎介の眼からふいにポロポロ涙が落ちてきた。彼は机に頭を伏せて泣き出した。
「ぼくは最初から――いや、きみが弥生の失踪《しつそう》を素っ破抜き、犯人は史郎だと思った。狂言を利用して、彼はそれを実行したのだ。なんの理由もなくあいつはそうしてみたかったのだそうだ。ぼくは彼の仲間を通してあいつの隠れ家を突き止めて訪問した。ちょうど、きみに電話をかけた後で、仲間へ送る手紙を書き終わったところだった。ぼくはすぐあいつに自白させた。あいつは靴の裏にあれがあったから、のっぴきならなくなったのだ。ぼくはあいつを警察へ連れていくことができたんだが、そうしなかった。あいつに自殺のチャンスを与えたかったからだ。さあここにあいつの遺書がある。きみの心配していた遺書だ。ぼくはもっと早くこれをきみに渡したかったのだが、史郎がせめて一週間きみを悩ませてくれとぼくに嘆願したのだ。それがあの男の復讐《ふくしゆう》だそうだ」
五百崎は白い角封筒をそこへ置くと立ち上がった。そして黙って出ていこうとした。
「ちょっと、待ってくれたまえ」
慎介がふいに、むっくりと頭をもたげた。それから燃えるような眼で相手を見た。
「きみはなぜぼくにこんなに親切にするのだ。ぼくを嘲弄《ちようろう》するためかい。それとも真実の好意からかい」
五百崎は憐《あわ》れむように慎介を見た。
「好意からだ」
「なぜ――、なぜぼくに好意を持つのだ」
五百崎は黙って彼のそばを離れた。ドアのとってに手をかけた。それからくるりとこちらを振り返って言った。
「きみがぼくと同じ、新聞記者だから」
五百崎は出ていった。
慎介は黙然とうなだれた。
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[#見出し] 薔薇王
消える花婿
たいへんなことが起こった。花婿が晴れの結婚|披露《ひろう》宴の席上から、突然、煙のように消えてしまったのである。しかも、その花婿というのが、世にもまれな、美貌《びぼう》の青年子爵なのだ。
――と、こう書いただけでも、わっと世間が沸きそうな事件が、その晩、赤坂のKホテルで起こったのである。
だいたい、その披露宴というのは、最初から、ちょっと妙であった。――と、のちにいたってホテルのボーイたちは考えるのだった。
唐木子爵様
御両家御婚礼御披露宴会場
日 疋 様
そういう立て看板が、れいれいしくホテルの玄関わきに立っている。
日疋《ひびき》様というのは、この二、三年、麻雀《マージヤン》の飜《フアン》の勘定みたいな勢いで、めきめきと屋台骨をふとらせた、日疋|製鎖《せいさ》会社の社長、日疋万蔵のことなのである。そして、一方|唐木子爵《からきししやく》というのは、これはあるいは、はてな、そういう子爵があったかしら、と、首をかしげる向きもあるかもしれないが、子爵はやっぱり子爵なのだ。
こういう両家の、めでたい婚礼披露宴とあってみれば、さぞや、知名の人々もおおぜい集まってはなやかなことであろうと想像するに、案に相違して、その晩披露宴にのぞんだ客というのは、両家あわせてわずかに二十にみたぬ数だった。
もっとも、これは時局がら、なにごとも内輪《うちわ》にという、けっこうな趣旨だったかもしれないが、それにしても合点のいかぬのは、二十にみたぬ客たちの人品|骨柄《こつがら》、どう考えても、かりそめにもこれが、子爵家の結婚披露宴に列席しようという人柄ではない。
「これだから、政略結婚というやつはいやになる。見ろよ、日疋家の一族のものどもを。だいいち、こういうホテルへ顔を出すがらじゃないね」
「しかし、花嫁はなかなかどうして、たいした美人だぜ。ありゃ親爺《おやじ》にちっとも似ていないね」
「似ていなくてしあわせさ。親爺に似ていた日にゃ、たいへんなしろものができあがっちまう」
ボーイたちとて、めいめいの意見を抱懐するぐらいの自由はもっている。彼らが陰で、こんな悪口をたたいていたとて、必ずしも、責めるわけにはいかないだろう。
まったく、俗にいう成りあがり者のみじめさは、こういう席へ出してみるとはっきりわかる。主の日疋万蔵は、さすがに一代でこんにちの財をきずきあげただけあって、どうにか格好はついていたが、彼にすがって、芋蔓式《いもづるしき》に浮かびあがった親類縁者の下劣さ、はしたなさは、はたの見る眼も気の毒なくらいだった。
しかし、日疋家のほうは、もともと、素性が素性だから、これで無理もないとしても、子爵家のほうはいったいどうしたのだろう。かりにも子爵家の縁者につながるからには、たとい尾羽《おは》打ち枯らしたとしても、もっと毅然《きぜん》たる風格こそ望ましいではないか。ところが、その晩、子爵家側から出席した客というのが、これまた、日疋家の親戚《しんせき》におとらぬ、いやいや、それに輪をかけたほどの、さもしげな連中なのである。
で、結局、新郎新婦の二人だけが、その晩、はたとは不調和なほど照りかがやくことになった。
新婦の美樹子《みきこ》というのは、日疋万蔵の長女なのだが、これはボーイたちの評判にものぼったとおり、親爺の万蔵には少しも似たところのない美人だった。まず第一に背がすらりと高く、額《ひたい》が広く、瞳《ひとみ》は理知的にかがやいて、唇《くちびる》がよくひきしまっている。もっとも、こういう顔だちから受ける冷たさは、いなむわけにはいかなかったが、まずは非のうちどころのない、現代式な美人ということができよう。
さて、新郎の唐木子爵だが――そうだ、この子爵というのが問題なのだ。そして、その問題がそろそろ頭をもちあげはじめたのは、夜の八時ごろのことだった。
大神宮で式をあげた二人は、それからすぐにこのホテルへ来ていた。ここで披露の宴を終えると、新郎新婦の二人は、すぐ新婚旅行に出る予定で、だから着替えをしたり、化粧直しをしたり、そういうことに手間どって、二人が披露宴のテーブルにつくのは、八時ごろになっていた。
ところが、花嫁をはじめ客たちがみんな席についてしまったのに、どうしたのか、肝心の花婿がなかなか姿を現わさない。花嫁だけがうつむきがちにひかえているのに、その隣りの席がいつまでもふさがらぬというのは、妙に空虚な感じがするものだ。
一座はなんとなく、しらけきった気持ちで、花婿の現われるのを、今か今かと待っている。間もなく、テーブルのあちこちで、ひそひそと不安なささやきが起こる。ボーイたちも手持ちぶさたな面持ちで、隅《すみ》っこのほうでしゃちこばっている。
やがてたまりかねた万蔵氏が、ボーイをよんでなにやらささやいた。ボーイはかしこまってすぐ出ていったが、間もなく、当惑したような顔色で帰ってくると、なにやらひそひそと万蔵氏に耳打ちをする。
「なんだ、どこにも姿が見えないって?」
万蔵氏がびっくりしたように訊《き》き返した声が、耳に入ったので、一同は思わずはっと顔を見合わせた。
「そ、そんな馬鹿なことがあるものか。もっとよく探してくれたまえ。体ぐあいでも悪くて、どこかで休養しているんじゃないか」
噛《か》みつくように言われて、ボーイはあたふたと出ていったが、しばらくすると、こんどは別のボーイをひとり連れてきた。
「どうしたのだ、やっぱり見えないのか」
「はい、この男の言うのに、なんでも先ほど、どこからか、子爵様にお電話がかかってまいりましたそうで。それをお聞きになると、急に顔色を変えて、どこかへ行ってしまわれたという話なんで」
それを聞くと、ふいに花嫁がすっくと立ちあがったので、万蔵氏は驚いて振り返った。
「美樹子や、おまえ、どこへ行くのだ」
「いいえ、向こうへいって休んでいますわ。だってこんなところにいてもはじまりませんもの」
まったく、それは驚くべき自制心だった。すでに容易ならぬ混乱が、一座の人々を圧倒しているのに、彼女はいくらか蒼《あお》ざめてはいたものの、眉《まゆ》ひとすじ動かすのではない。かえって、父をなぐさめるような口調でそう言うのだ。
「そう、それもよかろう。なに、心配することはありゃせん、すぐもどってくるさ」
娘を付き添いの婦人にまかせると、万蔵氏はすぐボーイのほうへ振り返った。
「どこかへ行ったって? じゃ、ホテルから出ていったのか」
「いえ、だれも外へお出になるところを見たものはないのですが」
「じゃ、やっぱりどこかにいるんだ。花婿が消えてなくなるなんて、そ、そんな馬鹿なことがあってたまるもんか。いいから、支配人を呼んでくれたまえ、そしてホテルの中を、隅《すみ》から隅まで探してみるんだ」
こういう騒ぎは、隠そうとすればするほど、かえって人眼につきやすいものである。結婚披露の席上から花婿がいなくなった。――こういう噂《うわさ》が、たちまち、ぱっとひろがったものだからホテルの中は大騒ぎになった。
ボーイたちが手分けをして、ホテルの中を隈《くま》なく捜索する。招かれた客たちも、こうなるとじっとしてはいられない。ボーイといっしょになって、広いホテルを探し回る。もっとも、彼らの大半は、子爵を探すことよりも、むしろ、こういう機会に、贅沢《ぜいたく》なホテルの内部を参観することに、より多くの興味をもっていたのだが。
捜索の結果はまったくむだだった。子爵の姿はどこにも見当たらないのである。こうなると、花婿はまったくだれにも気づかれぬうちに、そっと、ホテルを出ていったと考えるよりほかにしようがない。
「いったい、こ、これはどうしたことじゃい」
興奮すると、昔の下積み職工時代の癖が出るのである。万蔵氏は、いよいよ花婿の姿が見えないときまると、拳《こぶし》をかためて、あのさもしげな子爵家の縁者どもを睨《ね》め回す。その人たちは、子爵の姿が見えないと聞いたときから、すでに、妙におどおどとした態度をみせていたが、今、この一|喝《かつ》にあうと、たちまちちぢみあがって、ひとかたまりになってしまった。
だが、その時分にはまだ、一同の胸にも一|縷《る》ののぞみが残っていた。花婿はなにかの都合でほんの一時、場をはずしただけのことなのだ。間もなく、恐縮しながら帰ってくるにちがいない。だって、こんなけっこうな縁組をむざむざ棒にふるはずがないではないか。
だが、そういう希望が、あまりにも無残にうちくじかれるのは、そう長くはかからなかった。
探しあぐねて、虎《とら》のようにたけり狂っている万蔵氏のところへ、ボーイがあたふたと一枚の名刺を取り次いだのは、それから間もなくのことである。
名刺は警視庁から、警部が出張してきたことを知らせているのだ。
警部だって? いったい、ぜんたい、このめでたい披露宴と、警視庁とどういう関係があるというのだ。
「よし、どこか人のいないところへ通しておいてくれ。今、すぐ行って会う」
万蔵氏には、なにかもっとよくないことが起こりつつあることがよくわかった。しかもそれは、子爵の失踪《しつそう》となにか関係のあることにちがいない。
ボーイの案内にしたがって、別室へ入っていくと、金筋の入った制服を着た警部が、いかめしい顔をして立っている。廊下には私服らしいのがうろうろとしていて、何かしら容易ならぬ雰囲気《ふんいき》をばらまいている。
「私が日疋万蔵ですが、何か御用ですか」
警部は鋭い、しかし、落ち着いた眼で、じっと万蔵氏の顔を見ていたが、やがて、穏やかな口調でこう言う。
「花婿がいなくなられたそうですね」
「いや、それは、実はまだ、そうときまったわけじゃありませんが、だれかそんなことを報告したものがあるのですか」
警部はあわれむように、万蔵氏の顔を見ながら、
「いや、子爵の失踪《しつそう》したことは知らなかったのです。むしろわれわれは、子爵に会うためにやってきたので、実は先ほど、妙な電話が警視庁へかかってきたのですよ」
「妙な電話というと?」
「日疋さん、つかぬことをお伺いしますが、あなたは唐木子爵なる人物について、よく身元調査をしましたか」
「それはもちろんです。できるだけのことはしましたよ。可愛い娘の生涯《しようがい》の問題ですからね。唐木子爵というのは、今でこそ、つまり、財政的にはなはだ不如意《ふによい》に陥っていられるが、中国辺の小大名の出で、れっきとした家柄だということはよくわかっています」
「そう、そのとおりです。しかし、先代が陋巷《ろうこう》で窮死されてからというものは――」
「いや、その話なら、子爵からもよく伺っています」
「まあ、待ってください。日疋さん、私の言おうとするのはこうです。先代――というより、この人が子爵家の最後の人だったのですが、それが陋巷で窮死してからというもの、後継者がなかったので、唐木という家は、そのまま絶えてしまっているのですよ。したがって、今のところ、唐木子爵と名乗る資格をもっている人間は、一人もないのです」
ふいに万蔵氏の頬《ほお》がびくびく痙攣《けいれん》して、固いカラーの上で、今にも咽喉《のど》がつまりそうになった。
「すると、すると、あの唐木子爵と名乗る男は贋者《にせもの》だとおっしゃるのですか」
「お気の毒ですが、そう考えるよりほかにしようがありませんね。いったい、あなたはどうして今夜の花婿とお近づきになったのですか」
「そ、それはつまり、娘がスキー場か何かで懇意になって、しかし、あの男、贋子爵だとすると、いったい、な、何者なんです」
「残念ながら、今のところ、そこまではわかりません。しかし、何か容易ならぬ前科をもっているやつらしいですよ」
万蔵氏は四方の壁がどっと倒れてきて、このまま自分たちを埋めてくれればいいと思った。
「でも、でも、今晩、子爵の親類だといって、この披露宴へ出席しているあいつらは何者なんです。まさか――」
「そう、実は、あなたに御異存がなかったら、その人たちを少し取り調べたいのですがね」
だが、その取り調べは、万蔵氏に決定的な打撃を与えてしまった。警部の尋問にあうと、彼らは一も二もなく泥を吐いてしまったのである。
「へえ、わたしら、別に悪気《わるぎ》があったわけじゃないんで。ただ黙って座ってりゃ、たんまりうまいものが食える上に、十円の日当になるというんで。子爵の親類ですって? めっそうもない。わたしら、自分の口から一度もそんなことを言ったおぼえはありませんがねえ」
事実彼らの言うとおりだった。木賃宿から駆り出された彼らは、借り衣装を着て、ただおどおどとこの席につらなっていたばかりなのである。
ここに至って万蔵氏は、危うく狭心症の発作を起こすところだった。
神秘な男
「ボーイさん、ちょっと」
デザートを運んできたボーイをつかまえて、朱実《あけみ》は怪訝《けげん》そうに尋ねる。
「どうしたのよ、妙にホテルの中が騒がしいじゃないの」
「ヘヘ、いえなに」
年の若い、可愛いボーイは、いくらかあわてた調子でそう言うと、妙にちぐはぐな笑い方をする。
「いえなにじゃないわよ。さっきから変な人間が、何度もここをのぞいていくじゃないの。いったい、あの人たち何よ?」
「さあ、なんだか取りこみがあったらしいんですけれど、私よく存じません」
「まあ、いやに白《しら》ばくれてるのね、憎らしい」
あわてて皿《さら》を片づけていくボーイのうしろ姿を、朱実は眼鏡ごしににらみながら笑った。
甲野《こうの》朱実はここのグリルの常連である。友達を連れてくることもあるし、今夜のように一人でやってくることもある。だから、ここのボーイさんとはたいてい顔|馴染《なじ》みになっていたし、だから、ボーイのほうでも、彼女が、近ごろめきめきと売り出した女流作家だということをよく知っている。
人気作家だし、特別に美人というほうではないが、ふんわりとした明るい顔だちの朱実は男のようにこだわりのない、てきぱきとした気性と、切ればなれのいい金の使いぶりで、ここのボーイたちのあいだには、なかなか人気をもっている。
朱実はゆっくりデザートを片づけながら、しきりに、大きな緑色のふちなし眼鏡の奥から、グリルの中を見回していた。
どうも様子が変なのだ。
時刻が少し遅いので、グリルの中には、ほんの二組か三組の客しかいなかったが、その人たちも同じ気持ちとみえて、やっぱり同じように、不安そうに、あたりを見回している。向こうのほうでは、ボーイがひとかたまりになって、何かひそひそささやき交わしている。
「よう、潔く白状なさいよ、いったい、どうしたというのよ、隠し立てをすると、これからもう可愛がってあげないわよ」
ボーイがコーヒーを運んできたとき、朱実はからみつくような笑い方をした。こういう笑い方をされると、ここのボーイでだれひとり抵抗できる者はない。
「実は」
と、ボーイは朱実が煙草《たばこ》をとり出したので、あわてて灰皿をもってくると、マッチをすりながら朱実の耳もとでささやいた。
「花婿がみえなくなったのです。今夜ここで結婚披露宴があったのですが、その席上から花婿が消えてしまったのです」
「まあ」
「それで、いま刑事が来て調べているんですよ。花婿というのは子爵と名乗っていたんですがね、これがどうやら贋《にせ》華族で、おまけに前科者らしいんですよ」
「そいで、子爵がどこから出ていったのかわからないの」
「ええ、わからないのです。だれも出ていくところを見たものがないんです。ええと、それで、何か持参いたしましょうか」
「いいわ、もう何もいらないわ。伝票をもってきてちょうだい」
ボーイ頭《がしら》がやってきたので、急にしゃちこばって、テーブルのそばを離れるボーイのうしろ姿を見ながら、朱実はおかしそうにくすくすと笑った。
花婿が失踪しようが、それが前科者の贋子爵であろうが、朱実はべつに大した感興もおぼえない。むしろ、なあんだ、そんなことかと思うと、自分のつまらない好奇心が恥ずかしくなってきたくらいだ。
そこで朱実は勘定を払うと、ほかの客を尻眼《しりめ》にかけて、さっさとグリルから出ていく。グリルの前の庭には、朱実がさっき乗りすてた自動車が待っている。朱実は自分で運転ができるので、運転手はいない。といって、朱実はまさか自動車をもてるほどの身分ではないので、この自動車は近所のガレージから借りてきたものなのである。
ボーイに送られて、この自動車の運転台にとび乗った時分には、朱実はすっかり、あの贋子爵のことは忘れていた。ところが、自動車がホテルの裏側から出ようとする刹那《せつな》、
「あら」
と叫んで、朱実は思わずハンドルを間違えるところだった。
バックミラーの中に、白い、美しい男の顔が、ぼんやりと映っているのにはじめて気がついたからである。
「しっ!」
その顔が、あわてて口に指をやった。
「お願いです。このまま自動車をやってください。決して御迷惑はかけません」
男の嘆願するような瞳《ひとみ》が、鏡の中から朱実の眼を見つめている。少し髪は乱れているが二十七、八の、透きとおるようにきれいな男だった。
朱実はちょっとばかり胸がドキドキとした。しかし、なんとなく、ここで自動車を止めるわけにはいかないような気がする。
(いいわ、構うものか、あとでとがめられたら、そんな男の乗っていること、ちっとも知らなかった、と、言えばいいんだわ)
朱実はそこで、ぐいとハンドルを回すと、たちまち、ホテルから外へとび出した。
晩春の甘ずっぱい匂いが、街じゅうにあふれて、すいすいと窓外を流れていく燈火の色も、なんとなくロマンチックなかんじだ。朱実は今自分が、異様な冒険の中に身をひたしていることを感じて、思わず胸をわくわくさせる。
「ねえ、どちらまで行けばいいんですの?」
前方に瞳《ひとみ》をすえたまま、朱実はうしろの客席にいる男に声をかける。
「どちらでもいいんです。あなたのよいところまでやってください」
「あたしのいいとこ? ほほほ、そいじゃ警視庁へ行くかもしれなくってよ」
朱実の冗談が身にこたえたものか、うしろの男は答えない。バックミラーをのぞいてみたが、男の顔は見えなかった。たぶん、隅っこのほうに身をよせているのだろう。もぞもぞと動く黒い半身だけが映っている。
「ねえ、ほんとにどこへ行けばいいんですの。あたしあなたに脅迫されているのよ、あなたの言うこときかなかったら、うしろから咽喉《のど》をしめられるんでしょう。だから行く先を言ってちょうだいよ」
「そんなことしやしませんよ」
男は落ち着きはらった、どこか、哀愁をおびた低い声でそう言った。
「しかし、よかったら代々木までやってください」
「代々木? ええ、いいわ、代々木のどの辺?」
「幡《はた》ヶ谷《や》です」
自動車はすぐ幡ヶ谷のほうへ向けられる。朱実は今、非常に悪いことをしているのかもしれなかった。うしろに乗っている男がどういう人間か、その服装《みなり》を見ればすぐわかる。黒いセミドレスを着て、胸に薔薇《ばら》の花をさして、――むろん、今宵《こよい》の花婿にちがいなかった。この男は贋《にせ》子爵で、そして前科者かもしれないのだ。だが、それにもかかわらず、朱実はこの男を、怖いとも気味悪いとも感じなかった。さっきちらと見た、異様に美しい顔と、嘆願するような瞳の色が強く印象に残っている。朱実はこの男の正体を、どこまでもつきとめていかずにはいられない、強い誘惑を感じている。
自動車は山谷から、初台《はつだい》をぬけて、幡ヶ谷へさしかかっていた。
「そう、そこの角を曲がればすぐです」
うしろから、さっきの男が声をかける。朱実はぐいとハンドルを回して、角を曲がったが、そのとたん、ばらばらと自動車の前にたちふさがった影がある。しまった! 警官なのだ。
「ストップ! ストップ!」
警官の声に、あわてて自動車を止めた朱実は、そのとたん、すうっと全身から力がぬけていくのを感じた。まあ、なんて馬鹿な男だろう、ここに交番のあるのを忘れているなんて……。
警官は自動車のうしろに回って、車体番号を調べると、
「うむ、やっぱり一八八四番だ。きみ、きみ」
と、警官は運転台のそばへよってきて、
「この自動車は、さっき赤坂のKホテルから出てきたものだね」
「ええ、でも、それがどうかしまして?」
「きみの名は甲野朱実、職業は小説家、それにちがいないね」
「ええ、よく御存じですこと」
「さっき、警視庁から手配があったのだ。ちょっと自動車の中を調べさせてもらうよ」
警官は客席のドアに手をかける。そこを開けられたらおしまいだ。あんな眼立つ服装《みなり》をしているのだもの、ひとめ見たらわかってしまう。警官をつきのけて、このまま自動車をつっ走らせてしまおうか。――そんな捨て鉢《ばち》な考えが朱実の頭をかすめた瞬間、
「ど、どうしたの、甲野さん、もう、ぼ、ぼくのうちへ着いたのかい」
酔っぱらいの大きな濁声《だみごえ》が、朱実のうしろから突然降って湧《わ》いたかと思うと、
「おや、きみは那須《なす》君じゃないか」
という警官の声が朱実の耳朶《じだ》をうった。
驚いてあとを振り返った朱実は、そのとたん、雷に打たれたような、大きな衝撃を感じた。ちがっているのである。さっきバックミラーの中で、ちらと見た男とは、似ても似つかぬ男が、悠々《ゆうゆう》とクッションの上にふんぞり返っているのだ。
「おや、警官」
男は生《なま》欠伸《あくび》をかみころしながら、きょろきょろと窓から外を見回すと、
「ど、どうかしましたか」
いかにも今、眼覚めたばかりのように、充血した眼をパチパチと瞬いてみせる。横っちょにかぶったベレー帽の下から、もじゃもじゃな髪がはみ出して、寛《ゆる》いビロードの上衣に、大きなボヘミアン・ネクタイ、どう見たって画家か彫刻家としか見えない。
「那須君、きみはどうしてこの自動車に乗っているんだ」
警官はこの男を知っているとみえて、不思議そうに眼を見はっている。
「ど、どうしてって、そうそう、赤坂で甲野さんにひょっこり出会ったんですよ。そしたら甲野さん、そう酔っぱらってちゃ危ないから、送ってやろうてんで、むりやりに自動車の中へ引きずりこんで――いやはや、このほうがよっぽど危ないくらいのもんだ。でもまあ、よくここまで来れたもんだな。ときに警官、何か事件がありましたか」
「いや」
警官は客席から離れると、朱実のそばへよってくる。
「さっき、警視庁から電話があったんですがね、きみの自動車に、怪しい男が乗っているかもしれぬという疑いがあるんだそうだ。何か気づきませんでしたか」
「あら」
朱実は緑色の眼鏡の下で、大きく眼を見はった。
「いいえ、いっこう。ねえ、那須さん、あんたそこへ乗る時、だれもいやしなかったわね」
「さあてね、気がつかなかったね。もちろん、いたら気がつくはずだが。警官、怪しい男って、いったい何者ですか」
「ああ、わかった、あれじゃありません? Kホテルから消えたという、あの花婿――」
「いや、もうよろしい、気をつけて行きたまえ」
警官にうながされて、朱実はぐっとスタータをいれた。なんとも名状することのできない、疑惑と混乱を、緑色の眼鏡の中につつみながら。――
洋服|箪笥《だんす》の中
「いったい、あなたはだれですの」
あたりをはばかるような低声《こごえ》で、朱実がそう尋ねたのは、自動車が交番から、よほど離れてからだった。すると、突然、うしろから、爆発するような笑い声が聞こえたと思うと、ヌーッとバックミラーの中に、画家の顔が大きく浮きあがってきた。
「ぼくがわかりませんか、ほら、この顔のふくらみと、ひろがった鼻を削り落とす、そして髪をきれいになでつけて、赤い顔料を洗い落としたとしたら、――」
朱実はじっと、そういう鏡の中の顔を見つめているうちに、ふいに、こみあげてくるような驚きに圧倒されて、思わず、
「あら!」
と、叫んでしまう。
「おっと、危ない、わかりましたね。わかったら、ついでにぼくのアトリエまで送ってください。さっき警官にああ言っておいたのだから」
「いったい、いったい、あなたはだれですの?」
「那須薔薇《なすそうび》――この辺ではそういう名前でとおっていますがね。気のいい、酔っぱらいのへぼ[#「へぼ」に傍点]画家――さっきの警官にも、たびたびやっかいをかけていますよ。おっと、そこを左へ曲がって、その家です」
朱実は今や、自分がアラビアン・ナイトのような奇怪な物語中の人物であることを、強く意識せずにはいられない。まぎれもなくこの陽気な自称ヘボ画家こそ、さっきホテルを騒がせたあの贋《にせ》子爵にちがいないのだ。しかし、だれがこの二人を、同じ人間と思うものがあるだろう。さっきこの男に注意されてからでさえ、朱実はやっと、この男の面影の中に、贋子爵の影をとらえることができたほどである。しかも、それは水に映る鳥影《とりかげ》のように、ほんの瞬時の印象にすぎなかった。次ぎの瞬間には、贋子爵の影はぬぐわれたようにかき消えて、そこにいるのは完全に陽気な、酔っぱらいの画家なのである。
「何を考えているのです。ちょっと寄っていきませんか。今晩の冒険のお礼に、お茶でもさしあげますよ」
「ええ」
「怖いのですか。ぼくが暴行でもはたらくと思っているのですか。可哀そうに、これでもこの界隈《かいわい》じゃ、好人物でとおっている男ですよ。もっとも、酔っぱらって、ときどき居所をくらますのが欠点だけれど」
「ええ、寄せていただくわ。何か御馳走《ごちそう》してちょうだい」
朱実は心をきめて、勢いよく運転台からとびおりた。
「そうそう、そう来なくちゃ嘘《うそ》だ。あなたとぼくは一週間ほど前に、あるところで懇意になった。そして、今夜、わざわざ酔っぱらいのぼくを送ってくれるほど、あなたはぼくに好意をもっている。お茶ぐらい飲んで帰るのは当然ですよ」
男がベルを鳴らすと、中から上品な老婢《ろうひ》が戸をひらいた。こういう神秘な男の隠れ家に、召使がいるということが、ちょっと朱実に意外な感じを抱かせた。
「お客様をお連れしたけれど、おまえは遅いからもう寝てもいいよ」
「お部屋は――?」
「いや、アトリエのほうへ御案内するからいい。さあ、甲野さん、こちらへいらっしゃい」
さっきの警官の言葉から、この男はすでに、朱実のすべてを知りつくしているとみえる。警戒したり、逡巡《しゆんじゆん》したりするふうは少しも見えない。万事あけすけなその態度が、朱実には少なからず気にいった。
「まあ、それじゃこれがあなたの隠れ家というわけなのね。神秘な――、なんといったらいいの、神秘な人?」
「神秘な人? どうして、どうして、ぼくはそんな人間じゃありませんよ。飲んだくれの、ただの画家《えかき》ですよ。少なくともこの家《うち》ではね。那須と呼んでください」
「そう、それじゃ那須さん、ここにある絵はみんな、あなたがおかきになったの?」
「可哀そうに、画家《えかき》のアトリエへ来て、そんなむごいことを尋ねるもんじゃありませんよ」
「まあ、それじゃあなたが画家と自称していても、まんざら嘘《うそ》にはならないわね」
実際、その広いアトリエに散らかっている、いろんな絵は、どれも立派に一流の価値をもっている。朱実は小説家だから、絵のことだって、ほかの種類の人間より、よくわかるという自信をもっている。そして、この絵はみんなこの男がかいたのだ。なんという不思議な男だろう。
「いや、お褒《ほ》めにあずかってありがとう。だが、絵のことなんてどうでもよろしい。さあ、ここへ来て、お茶でも飲みませんか」
那須薔薇と自称する男は、テーブルの上に散らかった本だの、パレットだのを片づけはじめたが、ふいにおやと奇妙な声をあげたので、朱実は思わず振り返った。見ると、那須は一枚の女持ちのハンケチをもったまま、呆然《ぼうぜん》たる眼つきをしている。その瞬間、朱実は、相手の表情の中に、容易ならぬ混乱の色を読みとって、思わず息をつめた。
那須は気がついたように、ハンケチを丸めてポケットへつっこむと、すぐベルを鳴らして老婢《ろうひ》をよんだ。
「婆《ばあ》や、今夜お客様があったのかい?」
「いいえ、旦那《だんな》様、どなたもお見えになりません」
「そう」
那須はすばやくあたりを見回したが、すぐさりげない様子にもどって、
「いや、よろしい。遅くなるといけないから、おまえもう寝たらいいだろ」
「はい、それではお先にやすませていただきます」
「まあ、どうかなすって。だれか今夜、この隠れ家へ闖入《ちんにゆう》したというわけなの? スパイ? それともお友達? どちらにしても女のかたなのね」
「いや、あなたの眼光のするどさには恐れ入る。だが、まあそんなことはどうでもいい。さあ、そこへ掛けてください。至急に作戦を練らなければならぬ必要がある」
「作戦?」
「そうですよ。あなたは今夜、お尋ね者の逃亡を助けたのだから、それに対して口実をつくっておかなければならぬ」
「あら、あたし、お尋ね者のことなんか知らなくってよ。ただ、那須薔薇さんをお送りしただけじゃありませんか、そしてその那須さんとは一週間前、あるところで――――」
「うまい、うまい、しかし、一週間前だの、あるところでなどというのは、少し曖昧《あいまい》だよ」
「あ、そう、じゃ、――そうそう、あたし、四月二十三日に、上野のS展覧会へ行ったけど、そこでお懇意《ちかづき》になったことにしましょう」
「こいつは奇妙だ。ぼくもS展覧会へ行きましたよ。日はちがっているが。それで、今夜、Kホテルを出たところで、ぼくが酔っぱらって歩いているのを見たので、自動車を止めて拾いあげた、ね、わかりましたか」
「ええ、わかったわ。だけど、あたし警察から調べられるようなことがあるのでしょうか。だれだって、贋《にせ》子爵と那須画伯を同じ人間だなんて、知ってる人はないでしょうに」
「ところが、今にわかるのですよ。なに、そうあわてなくてもよござんす。さあ、紅茶が入りましたから、そこへお掛けなさい」
「ええありがとう」
朱実はテーブルのそばの安楽椅子《アーム・チエアー》に腰をおろしたが、そのとたん、思わずあっと低い叫びをあげた。
「どうかしましたか」
「いえ、肘《ひじ》をぶっつけて。おお、痛かったこと」
朱実は顔をそむけながら、あわてて紅茶|茶碗《ぢやわん》に口をもっていった。そうしながら、片方の手をお尻《しり》の下に持っていって、さっき、ちくりとお尻をさしたものを探りあてる。それは女学生などが、胸や、袴《はかま》のひもにとめている、小さい徽章《バツジ》だった。朱実は思わず息をのむ。さっきの女持ちのハンケチとこの徽章、――だれか、今夜このアトリエへ訪ねてきたものがあるのだ。そしてひょっとしたら、この徽章から、その女の正体を探ることができるかもしれない。
「どうしたんです。何を考えているんです」
「いいえ、この紅茶いやに苦いわね」
朱実はそっと、徽章をブラウスの裏側にとめながら、
「で、どうして、今宵《こよい》の花婿と那須画伯が同じ人間だってことがわかりますの? あなた何かへまをおやりになって?」
「いや、なんでもないのですよ。贋子爵――いや、贋子爵というのはいやだな。唐木《からき》子爵としておいてください。その唐木子爵が、今夜結婚したことは御存じでしょう」
「ええ、そして途中から逃げ出したのね」
「そう、ところがね、子爵は婚約中に今夜の花嫁に那須画伯を紹介したことがあるんですよ。その女《ひと》の肖像をかかすためにね。で、花嫁は子爵のすすめにしたがって、ときどき、このアトリエへ訪ねてきて、那須画伯のモデルになっていたというわけです」
朱実はあまりの驚きに、思わず茶碗を取り落としそうになった。
「おっと、危ない、ついでに飲んでしまいなさい」
「ええ」
「もひとつ入れましょうか」
「いえ、もうたくさん。で、その花嫁というかた、二人が同じ人だということ、ちっとも気がつかなかったんですの」
「気づくもんですか。あなただって、まだ疑っているくらいじゃありませんか。しかし、子爵がいなくなったとしたら、当然、子爵の友人である那須画伯が問題になってくるでしょう。だから、ぼくは今夜限り、このアトリエを引き払うつもりです」
「ああ、すると、こんどはあたしにお鉢《はち》が回ってくる番ね。あら、どうしましょう」
「大丈夫、あなたなら、うまく切り抜けられますよ。さっききめたとおり言えばいいんですよ。それに、ぼくは今、ちょっと細工をしておきましたから」
「細工?」
「そう、今、あなたは紅茶が苦すぎると言いましたね。もう少したつと、あなたはぐっすり眠れますよ。那須画伯は、甲野女史に麻酔剤をのませて、そのあいだに逃亡したというわけです」
「あら、すてき!」
朱実はふいに笑い出した。
「あなたって、なんて神秘な人でしょう。で、つまり甲野女史は那須画伯のぐる[#「ぐる」に傍点]でなかったと、証明できるわけね」
「そう、しかし、ひょっとするとあなたに対して、醜聞《スキヤンダル》が伝わるかもしれませんよ。なにしろ那須画伯は、正体不明の曲者《くせもの》だから」
「いいわ。あたし醜聞《スキヤンダル》なんか気にしなくてもすむのよ。それに那須画伯は眠っている女に、指一本さすような人じゃありませんもの」
那須の眼には、ふいに深い驚嘆の色が現われた。しばらく彼は、孔《あな》のあくほど、朱実の顔を見つめていたが、やがて肩を落として、ほっと深い溜息《ためいき》をもらす。
「あら、どうかなすって。いやあね。そんなにひとの顔をじろじろ見て」
「いやぼくは今夜、なんてえらい女《ひと》に救われたのだろうと、神に感謝しているところですよ。しかしねえ、明日の新聞を御覧になったら、きっとあなたは、ぼくを軽蔑《けいべつ》するようになりますよ」
「そうかしら、でも、そんなことどうでもいいわ。こんどはいつお眼にかかれて」
「さあ、たぶんもう二度と会えますまいよ。会ってもあなたにはぼくがわかりますまい。ぼくにはね、自分の顔というものがないのです。ぼくはいつでもだれか他人になっているんです。ぼくはいったいだれなのだ。ぼく自身にさえわからなくなるくらいですよ。もしあなたがぼくのことを思い出したら、自分の顔をもたぬ人間の、深い哀愁をついでに思い浮かべてください。名前ですか。そうですね。ぼくは薔薇《ばら》が好きで、自ら薔薇《そうび》と名乗っているくらいですから、ひとつ薔薇の王様とでもしておいてください。ああ、だいぶ薬がきいてきましたね。さあ、お寝《やす》み、あとで毛布をかけておいてあげますからね」
那須はその約束を忘れなかった。朱実の瞼《まぶた》がくっついてしまうと、そっと毛布をかけてやり、それからしばらく寝息をうかがったのち、アトリエをつかつかと横切って、大きな洋服|箪笥《だんす》を外からひらいた。
「ゆかり、出ておいで、おまえどうしてこんなところへ来たの、あれほど言っておいたのに」
「だって、お兄さま……」
と、あとはおし殺したような忍び泣きの声。安楽椅子《アーム・チエアー》の中で、朱実がどたりと寝返りをうつ音がする。
黒衣の巫女《ウイツチ》
それから、一週間ほどのあいだ、新聞という新聞は、この奇妙な花婿|失踪《しつそう》事件で、蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎだった。まったく、こんな素晴らしい事件てあるものではない。贋《にせ》子爵と人気作家と富豪令嬢と――役者は申し分なくそろっている。しかも、あとからあとからと、奇妙な事件が暴露《ばくろ》していくのだから、新聞という新聞が、この事件一色に塗りつぶされたのも無理ではなかった。
さて、その後の経過を要約すると、だいたいこうなのである。
Kホテルにおいていよいよ子爵の姿が見えないときまると、ただちに、紀尾井町にある子爵の邸《やしき》へ、警官の一隊が急派された。一方、花嫁の口から、那須薔薇なる画家が、贋子爵と友人だということを聞きだしたほかの一隊は、これまたすぐに、幡ヶ谷のアトリエへ駆けつける。
さて、そこで何が発見されたかというと、麻酔薬をのまされて、昏々《こんこん》と眠りこけている甲野朱実の意外な姿。これだけでも、新聞がわっと沸きそうな特種《とくだね》だのに、さらにそれに輪をかけたような、世にも意外なかずかずの発見が、紀尾井町のほうでなされたのである。そして、その発見が、突如この事件に、なんともいえぬ神秘な色彩を投げかけた。
警視庁ではこの数年来、手掛かりのない犯罪に悩まされつづけていた。某々大使館の盗難事件、某々ホテルの詐欺事件、何々銀行の拐帯《かいたい》事件等々と、およそ数えきれないほどの犯罪事件が、未解決のまま残されている。
中には容疑者の判然としているのもあったが、不思議に、どの容疑者もその後、泡《あわ》のように消えてしまって、ついぞ尻尾《しつぽ》をつかまれたことがない。ところが今、唐木贋子爵の邸宅を捜索するにおよんで、これらの事件が一挙にして氷解した。そこには、それら迷宮事件に関する歴然たる証拠が細大もらさず残っているばかりか、犯罪日記とも称すべき世にも異様な覚え書きさえごていねいにおいてあった。
じつに、唐木贋子爵こそは、過去数ヵ年にわたるあらゆる迷宮事件の犯人だったのだ。――とここまではよかったが、そこでまた当局ははたと難関につきあたってしまった。
というのは、前にもいったとおり迷宮事件の中には、容疑者の判然としているものも少なくなかったが、それらの容疑者の容貌《ようぼう》と唐木贋子爵の写真とでは、どれもあまりかけ離れすぎているのであった。
何々銀行から金を拐帯《かいたい》したのは、実直そうな若い男だった。某宝石商から宝石を詐取したのはでっぷりと肥えた実業家ふうの紳士だった。さらに某々大使館の夜会へ乗りこんだ泥棒は、女のようなやさ男だったといわれる。それらの事件の関係者に、唐木贋子爵の写真を見せたところがはじめのうちは、だれも、一言のもとにこの男ではないと否定した。ところが、何度も何度も同じ取り調べを行なっているうちに、こんどは一様に、ひょっとしたら、この男であったかもしれないと首をかしげ出したのである。というのは、顔かたちはおよそちがっているけれど、その瞳《ひとみ》の中にたたえられた、一種名状することのできない翳《かげ》、――それは哀感ともいうべきものであったが、その点だけが、どの容疑者のばあいにも共通した特徴だというのである。しかも、この特徴は贋子爵のみならず、那須画伯にもいちじるしく感じられる。
そこで警視庁では、すべての人間を、ただ一人に帰納して考えることになった。拐帯犯人も宝石詐取紳士も、大使館の強盗も、いやそれのみならず、那須画伯さへも、みんなみんなただ一人の男、すなわち唐木贋子爵に、ほかならぬと断定を下したものだ。ああ、なんという怪奇なことだろう、唐木子爵と自称する人こそは、カメレオンみたいに、自由自在に変色しうる、世にも神秘な神通力《じんつうりき》を心得ていることになるのだ……ここにいたって、新聞という新聞が、わっと痙攣《けいれん》を起こしたのも無理はない。
芝二本|榎《えのき》にある日疋《ひびき》万蔵氏の邸宅の、奥まった一室では、きょうも美樹子《みきこ》が、今にも破裂しそうなこれらの記事を読みくらべている。
窓という窓に、黒いカーテンを張りつめた部屋のたたずまいが、どこか喪《も》を思わせるように陰気である。おまけに、この部屋の唯一のあるじ、美樹子の姿というのが、これまた喪中のような不吉な感じを抱かせる。
襟《えり》のつまった黒繻子《くろじゆす》の支那《しな》服を、ぴちっと体に食いこむように着こなしているので、高い丈が、いっそう高く見え、蒼《あお》ざめた顔色がいっそう蒼く見えた。
美樹子はあれ以来、この一室にとじこもったまま、いっさいの訪客を断わっている。それでいて父の万蔵氏が心配して、旅行や転地をすすめるのを絶対に耳にいれない。彼女は黙っている。黙って考えている。考えながら、何かしら強い意志で計画している。彼女の姿はまるで、黒い炎みたいにも見えた。
だれかが軽くドアをノックした。
「どなた?」
「ぼくです。美樹子さん」
「ああ、良三さん、お入り」
ドアをひらいて、入ってきたのは、美樹子の遠縁にあたる青年で良三という。
「良三さん、何か吉報があって?」
美樹子はテーブルの上にある花束を、指でむちゃくちゃにほごしながら、良三のほうに振り返りもしないで尋ねる。冷たい、気のめいるような声だ。
「さあ、吉報といっていいかどうか、あなたの判断をまたなければわかりませんがね」
「言ってちょうだい、どんなこと」
「はい――」
ハンケチで汗をふきながら、良三は弱々しい愛想笑いを浮かべた。そして、心の中では、この女、だんだん、巫女《ウイツチ》みたいになってくると溜息をつく。
「言ってちょうだい、どうしたのよ」
美樹子がいらだたしさをおさえかねたように、むしりとった花を床にばらまいた。
「はい、へえ、いま申しますよ」
良三は、おどおどしながら、せめて一度ぐらい、こちらを向いてくれればいいのにと嘆いている。たしか年は美樹子より三つ四つ上なのだが、二人いっしょにいると、全くその反対に見えるのである。
「実は甲野朱実のことですが」
「あの女がどうかして?」
美樹子の声がふいにとがった。
「あの女が活動をはじめたのです。もっとも、それが、あの――あの人と関係のあることかどうかわかりませんけれど」
「いちいち、注釈をいれなくてもいいのよ。いったい、どんな活動をはじめたの」
「女学校まわりをはじめたのですよ。毎日、毎日、東京じゅうの女学校を歩き回っているんです。何かしら、探ねるものがあるらしいのですよ」
「あっ!」
ふいに、美樹子がさっと椅子《いす》から立ちあがった。膝《ひざ》にこぼれていた花弁《かべん》がばらばらと床に落ちる。美樹子はその花弁を踏みにじりながら、はじめて、きっと良三のほうを振り返った。
「それ、ほんとうのことなの?」
「ほんとうですとも、だれが嘘《うそ》など言うものですか」
期待したような眼の色ではなかったが、それでも、美樹子の顔をはじめて正面から見て、良三はわずかに自分をなぐさめている。
「何か心当たりがありますか」
美樹子はすぐには答えない。きっと血が出るほど唇《くちびる》をかみしめたまま、高い背をいよいよ高くして、しばらく部屋の中を歩き回っていたが、ふいに立ちどまると、挑《いど》むような眼の色をして良三を見た。
「良三さん、あの女《ひと》――甲野さんはやっぱり警察でしゃべったより、もっとたくさんのことを知っているのよ。女学校めぐり――ええ、それにちがいないわ。きっとそうだわ」
美樹子はふいに、目的の糸のはしをつかんだ喜びに全身を震わせた。
「良三さん、聞いてちょうだい。あの人には妹があるのよ。あたし、ただ一度だけその写真を見たことがあるの。あの人、懐中時計の蓋《ふた》の裏に、だいじそうに貼《は》っていたのよ。可愛い顔をした、まだほんの子供だったわ。あたしがだれ? ときくと、妹だと言ってあわてて隠してしまったけれど、そう、きっとまだ女学校へいっている年ごろよ。名前はわからない、でも、顔だけは知っている。いま会っても、きっと思い出すことができるわ」
美樹子はしだいに早口になった。
「甲野さんの探しているのも、きっとその妹よ。良三さん、あなた早く行って。そして片時も、甲野さんから眼を離さないようにしてちょうだい。もし、あの女《ひと》が目的の女を探しあてた様子があったら、すぐあたしのところへ来て知らせるのよ。わかって? もし失敗したら、あたし生涯《しようがい》、あなたとは口をきかなくってよ」
美樹子の声がしだいに癇走《かんばし》ってくるにつれて、良三はおどおどとドアのほうへあとじさりしていく。背の高い美樹子は、相手を圧倒するように、とうとう廊下へ追い出してしまった。
「ええ、わかりましたよ、美樹子さん、ぼくきっと成功してみせます。だけど、あなたはその女を見つけて、いったいどうしようというのですか」
「どうする――? その女を、あたしがどうするって?」
美樹子はしゃがれた、それこそ巫女《ウイツチ》みたいな声でつぶやいたが、そういう彼女の両手は、自分でも気がつかぬうちに、一輪の薔薇《ばら》の花を、くしゃくしゃにもみつぶしているのである。
ほほえみ幼稚園
江東の貧民窟《ひんみんくつ》の一|隅《ぐう》に、ほほえみ幼稚園というのがある。
青いペンキを塗った、南京蔀《なんきんじとみ》の粗末な木造建築で、狭い運動場には、それでも形ばかりのブランコや木馬がならんでいる。アーチ型になった入り口の門を見ると、中央に兎《うさぎ》のマークが彫ってあって、片方の門柱には、ほほえみ幼稚園、もう一方の門柱には、ほほえみ育児相談所だのほほえみ授産所だのというような看板が二、三枚ならんでいて、この建物が、単に幼稚園ばかりではないことを示している。これがあの有名な、細川|篤子《あつこ》女史主宰するところの社会事業団体、ほほえみ会の事業の一端なのである。
赤坂のKホテルで、あの、花婿|失踪《しつそう》騒ぎがあってから半月ほど後のこと。ある日、このほほえみ幼稚園を訪ねてきた一人の若い洋装の婦人があった。
雨催《あめもよ》いの昼すぎのことで、薄光りのする屋内運動場では、今しも園児たちが遊戯に余念なかった。いずれもこの近所の、貧民窟の子供ばかりだから、山の手のブルジョア幼稚園みたいにきれいごとにはいかない。
垢《あか》じみた袷《あわせ》を着た男の子や、よれよれのセーラー服を着た女の子が、毛虱《けじらみ》のいっぱいたかっていそうな頭をふりたてながら、たんたん狸《たぬき》の腹鼓《はらつづみ》の遊戯に一生懸命になっているのだが、覚えのいい子もあり、悪い子もあり、さっきから、およそ半時間あまりも同じことを繰り返しているのだが、なかなかうまくいかない。
一人間違えると、ほかの子もつい引きこまれて間違ってしまう。それをののしる子がある。負けずにやり返す子がある。一人が手を出すと、相手も黙って引っこんではいない。口汚いののしりあいから、果てはとっつかみあいが方々ではじまって、やがて蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎがはじまろうというわけ。こういう園児を相手にしている保母たる者も、容易な仕事ではないと思われる。
それでもさっきから、子供たちをなだめたり、すかしたり根気よくオルガンに向かって、同じことを繰り返しているのは、十九か二十の、肩あげもまだとれないような、ほんの子供子供した娘だった。痩《や》せて、顔色が悪くて、額《ひたい》ばかり広く、髪はちぢれているし、顎《あご》はとがっているし、決して美人ではなかったが、でも、いつも唇《くちびる》のほとりに絶やさぬ微笑といい、大きな円《つぶら》な眼といい、どこか、精神的な美しさをそなえた娘だった。
「だめよ、定子さん、よそ見ばかりしていちゃあ。一郎さん、そんなにひとのことばかり構うのじゃありませんよ。さあ、みんな覚えたでしょう。こんどは間違わないわね。もう一度はじめからやってみましょうねえ」
若い撓《たゆ》まぬ先生は、どんな難局に立っても、ここのモットーであるところの微笑を、その頬《ほお》から消すようなことは決してない。そしてこの微笑がすべてを征服する。どんな悪戯《いたずら》っ児でも、この不撓不屈《ふとうふくつ》の先生の前には、ついに兜《かぶと》を脱いでしまうのである。
やがてまた、たんたん狸《たぬき》がはじめられる。
園児たちも、こんどは行儀よく輪になって踊りはじめた。
今、門から入ってきた、若い洋装の婦人訪問客は、屋内運動場の窓から、しばらくこの様子をながめていたが、やがて、何か心にうなずきながら、職員室のほうへ歩いていったが、ちょうどそこへとび出してきた、十四、五の女の子を見つけると、
「あの、ちょっと、細川先生いらして?」
と、尋ねる。
尋ねられた女の子は、しばらくぽかんとした表情《かお》をして相手の様子をながめていたが、紙袋をかぶせられた猫《ねこ》のように、だんだんうしろへさがっていく。たぶん、この近所の子で、給仕代わりにでも働いているのだろう。服装《みなり》の貧しい、でも眼のくるくるとした利口そうな子だ。
「いらしたらお眼にかかりたいんだけど、そう言ってくださらない。あたし、甲野朱実というんですけど」
そこまで聞くと女の子は、無言のまま、くるっとうしろを振り向くと、バタバタと廊下の奥へ駆けこんでしまった。朱実は立ったまま、緑色の眼鏡越しに、狭い汚い建物を見回していたが、ふとその眼が、建物の正面に彫りこんである兎のマークにとまると、かすかな微笑《ほほえ》みを唇のはしに浮かべた。それがこの幼稚園のマークにちがいない。
やがてさっきの女の子がもどってきた。
「どうぞ、こちらへ。――先生、お眼にかかりますって」
こんどはなかなか行儀がいい。下駄《げた》箱の中を探して、スリッパをそろえてくれる。
「あら、ありがとう。お利口ねえ」
朱実はそのスリッパをひっかけると、女の子のあとについていった。がらんとした廊下の向こうのほうで、子供たちの叫び声が、わんわんと建物に反響している。さっきの遊戯が終わったのにちがいない。
「おや、いらっしゃい。よくいらしたわねえ」
園長の部屋へ入っていくと、今、外出するところだったとみえて、身支度をしていた細川女史が、にこやかな微笑で迎えた。年はとうに五十の坂を越えているのだろう、髪にはだいぶ白いものがまじっているが、顔の色艶《いろつや》といい、体の肉づきといい、年齢よりははるかに若く見える細川女史は、いつ会っても元気で愛想がよかった。
「あら、お出かけですの」
「ええ、ちょっと。でもいいのよ、まあお掛けなさいよ。いったい、どういう風の吹き回しで? でも、よく来てくだすったわねえ。汚いので驚いたでしょう」
「ええ、でも、思ったより整頓《せいとん》してますのね」
「なかなか、とてもたいへんよ。でも、まあ、皆さんが熱心にやってくださるので、どうにかやっていけるんですけど」
知識婦人の会合などでよく会うので、朱実はこの細川女史をよく知っていた。年輩からいえば親子ほどもちがう先輩だったが、よく弁じ、よく笑い、男のように物にこだわらない細川女史の前へ出ると、年齢の相違など、どこかへけしとんでしまう。
「で、どういう御用? 何かお書きになるの?」
「いいえ。そういうわけじゃありませんけれど、一度見せていただいておいたら、何かの参考になるかと思って」
「どうぞ、よく見ていってくださいよ。そしてどしどし書いてください。わたしたちが百万言を費やして宣伝するより、あなたがたが、ほんの一筆書いてくだすったほうが、はるかに効果があるんですからねえ。でも、いらっしゃるんだったら、あらかじめお手紙でもくださればよかったんですのにねえ。きょうは、どうしても出かけたいところがありますから、そう長くは、お相手できないんですよ」
「相変わらずお忙しそうね」
「ええ、とても。きょうはこれから陳情に出かけるの。お偉い人の前でひとくさり弁じるのよ。ははははは」
細川女史は男のように体をゆすって笑うと、窓をひらいて、
「久世《くぜ》さん、久世さん」
と、大声で呼んだ。
呼ばれたのはさっきの若い保母である。遊戯が終わって、帰っていく子供たちを門のところで送っていた彼女は、細川女史に呼ばれて急ぎ足に廊下のほうへ回ってくる。
「ちょうどよかった。久世さんにお願いしよう。でも甲野さん、あなた、参観にいらっしゃるのなら、もっと時間を考えなきゃだめよ。今時分来たって、子供たち、みんな帰ってしまったあとじゃありませんか」
「そうでしたわねえ」
朱実は、自分がここへ来たほんとうの目的を考えて、ちょっとうしろめたい心持ちになりながら、
「あのかた、久世さんとおっしゃいますの。とても熱心なかたね、さっきちょっと拝見したんですけれど」
「ええ、ここでもいちばん熱心な人ですね。ああして、朝は朝で子供たちの相手だし、夜になると、娘たちにお裁縫や編み物を教えなければならないのだから、弱い体でよくつづくと思う。とても、普通の人じゃできませんねえ。ああ、久世さん、ちょっとこっちへ来てください」
若い保母はなにげなくドアをひらいたが、そこにいる朱実の顔を見ると、とたんに、すうっと血の気《け》がひいて、微笑が一瞬にして硬張《こわば》ってしまった。細川女史は、そんなことにはいっこう気もつかず、
「久世さん、こちら甲野朱実さん、御存じでしょう、小説をお書きになるかたです。ここをよく見たいとおっしゃるのですけれど、あたし出かけなければならないから、あなた、代わって御案内してあげてください。甲野さん、こちら久世ゆかりさん、このかたによくお願いしておきますから、どうぞごゆっくり、せいぜいあら探しをしていってください」
細川女史は、ひと息に紹介と用件を終わると、忙しそうに廊下の外へ出ていった。あとにはゆかりが、取りつく島を失ったように、蒼ざめた顔をして、朱実の顔を凝視している。今にも泣き出しそうな表情だった。
「まあ、こちらへ来てお掛けになりません」
「ええ」
「お驚きになって? ごめんなさいね」
「いいえ」
「あなた、あたしの好奇心を軽蔑《けいべつ》していらっしゃるでしょう。いいのよ。あたし自身、自分をうんと軽蔑しているんですから。でも、作家って、だれでもこんなに賤《いや》しいものだとお思いにならないでね。さあ、お返ししましょう」
朱実はハンドバッグをひらくと、中から小さい徽章《バツジ》をとり出して、自分でゆかりの胸にとめてやった。兎の格好をした銀色の徽章だ。
「もう落とさないようにね。あたしずいぶん探したのよ、どこか女学校の徽章《きしよう》じゃないかと思って東京じゅうの女学校を探し回ったのよ。ほほほほ、御苦労なことね」
ゆかりはいよいよ蒼ざめて体を固くした。額《ひたい》にはうっすらと脂汗《あぶらあせ》が浮かんでいる。朱実はいたわるような眼で、その様子を見ながら、
「何も心配なさることはないのよ。人間て、どうかすると、スパイみたいな仕事がおもしろくてたまらなくなることがあるものなのね。でもあたし、苦労の甲斐《かい》があったわ。あなたみたいないい人を見つけ出したんですもの」
ゆかりの顔には複雑な表情が浮かんでいる。いくらか血の気を取りもどした頬は、ぽっと紅《あか》みを加えて、大きな瞳《ひとみ》が涙ぐんだようにきらきら光っている。強《し》いて微笑を浮かべようとする唇が痙攣《けいれん》するように震えている。
朱実はその手を握ると、できるだけ気安い微笑を浮かべながら、
「ねえ、そんなにびくびくなすっちゃいやよ。あたし、そんなにあなたをびっくりさせたかと思うと苦しくなるわ。あなたお体がお弱そうね。こういうお仕事が辛《つら》いんじゃなくって」
「いいえ」
ゆかりははじめて、朱実の瞳をまともから見た。
「あたし、この仕事をしていることがとても幸福なんですの。これをよせば、あたしきっと病気になってしまいますわ」
「そう? あなたお住まいは? この御近所?」
「ええ」
「おひとりで住んでいらっしゃるの?」
「いいえ、友達といっしょに、石屋さんの離れを借りておりますの、すぐこの近くですわ」
「お兄さんには、あれからお会いになって?」
「いいえ」
「お便りは?」
「ありません」
ゆかりはいくらか強い声で言い切ったが、すぐ顔を紅《あか》らめて、
「ごめんなさい。あたし……」
「あら、どうかなすって?」
「あたし、兄のしていることは全く知りませんの。あたしたち、いつも別々に住んでおりますの。兄はときどき、あたしの様子を見にきてくれますけれど、いつも居所は知らせてくれませんわ。でも、あたし、兄があんなことをしたなんて、とても信じられませんわ」
「お兄さまはいいかたね。あたしにもそれはわかっていますわ」
「ええ、兄はとても気質《きだて》の優しい人です。でも、あたしたち子供の時分からとても不幸だったものですから、兄はいくらか人並みでないところがございます。でも、兄があんな恐ろしいことを今までしていたなんて、あたし夢のような気がしますわ。いいえ、ほんとうに夢ですわ。あんなことが現実にあり得るはずがございませんもの」
興奮してきたのだろう。頬の紅みはいよいよ増して、瞳が熱っぽく輝きはじめたのを見ると、朱実は急に不安な気になった。脾弱《ひよわ》そうなこの体で、こんなに興奮していいのだろうか。――朱実はあわてて相手の手を握りしめると、
「いいのよ、いいのよ。あたし、そんなことを考えてきたんじゃないの。ただ、あなたという人、どんなかたかしらと思って、ついうかうか来てしまったのよ。ごめんなさいね。あらだれか聴いているわ」
朱実はゆかりのそばを離れると、あわてて窓のそばへ走りよった。さっき、細川女史の開けた窓の下から、その時、若い洋服の男がなに気ない様子でブラブラ離れていくのが見えた。
「あのかたこちらに関係のおありのかた?」
「いいえ」
ゆかりは別に気にもとめないふうだったが、朱実はなんとなく気になって、その男が門の外へ出ていくまで、無言でうしろ姿を見送っていた。
嵐《あらし》の過去
「美樹子さん、美樹子さん、わかりましたよ」
芝二本|榎《えのき》にある、日疋《ひびき》万蔵氏の邸宅、その邸宅の奥まった一室では、相変わらず喪服のような支那服を着た美樹子が、ひとり所在なさそうにレコードを聴いていた。ルシェンヌ・ボワイエの細い、金属性の声が震えるように胸に食い入ってくる。美樹子はそれを聴いているのか、いないのか、デスクの上に、拝むように両手を組んで、じっと虚空《こくう》のある一点を凝視しつづけていたが、そこへ、手柄顔にとびこんできたのは、いうまでもなく良三である。その意気込んだ声に、
「あら、びっくりした」
美樹子は真実、どきりとしたふうに胸をおさえてうしろを振り返ったが、相手の顔を見ると、ひと眼でその言葉の意味を了解した。
「わかったって、あの女のこと?」
「そうですよ、きょう、やっと突きとめたんですよ。いや、ずいぶん苦労しました。私もそうですが甲野朱実もね。でも、とうとう、朱実は成功しましたよ。あの女の居所を発見したんです」
美樹子の瞳が一瞬燃えるように大きくひろがったが、すぐ猫《ねこ》の眼のように細くなった。何かしら、妙にねっとりした気味の悪い眼つきだ。
「で、その女はどこにいたの」
「深川です。深川の幼稚園にいるんです」
「幼稚園?」
「そうです。その女は幼稚園の保母なんですよ」
美樹子は黙って良三の顔を見ている。かすかな薄ら笑いが、唇の両端に浮かんだ。
「間違いはなくって。まだほんの子供よ」
「そうです、十九か二十、それより上ではないでしょうね」
「で、その女《ひと》、美人?」
「さあ」
良三は不思議そうに美樹子の顔を見直したが、すぐその眼をそらしてしまう。
「美人――て、あなたはその女《ひと》の顔、知ってるんでしょう」
「忘れたわ。一度写真で見たきりなんですもの、それも、小さい写真だったから。でも、こんど会えばきっと思い出すわ。ねえ、良三さん、その女、美しい女?」
「美人じゃありませんね」
良三は吐きすてるように言う。
「栄養不良みたいに痩《や》せこけていてね、眼ばかりぎらぎらと大きくて、まるで、病人みたいですよ」
「良三さん、ほんとに間違いはなくって、その女《ひと》――、もしその女があたしの探している女《ひと》だとすると、きっときれいな女《ひと》にちがいないと思うんですけど」
「間違いありませんよ、ぼくは甲野朱実とその女の話をしているところを、ちょっと立ち聴きしたんですけど、たしかに、あなたの探している女にちがいないと思うんです」
良三は歓心を迎えるような薄ら笑いを浮かべながら、窓下で立ち聴きをした会話の断片を語ってきかせた。
「それから、ぼくは、間もなく二人連れ立って出てきたところを、尾行していったのですよ。ずいぶん、いやな仕事だと思いましたけれどね」
美樹子はぐいと眉をあげて、白眼《にら》むように良三の顔を見たが、べつになんとも言わなかった。良三はしかしすぐ、自分の失策に気がついて、あわてて、
「いや、なにしろ慣れない仕事ですから、ずいぶん困ったんですけど、でも、どうやら気づかれずに尾行をつづけました。二人は幼稚園の近くの、石屋の前で別れましたね、朱実はそのまま帰ってしまって、その女だけ、石屋の裏木戸から入っていきました。どうやら、そこに間借りをしているらしいんですよ」
「まあ、それじゃ、その女《ひと》の名前もわかったわけね」
「わかりましたよ。近所で訊《き》いてきました」
「いったい、なんという名前なの?」
「久世っていうんです。久世ゆかりというんですよ」
良三はごく自然にその名前をいったにすぎなかったが、そのとたん、美樹子の顔からいち時にスーッと血の気《け》がひいてしまった。
「な、なんですって?」
「久世というんです。久世ゆかり――御存じですか、そういう名を」
良三は怪訝《けげん》そうに訊き返したが、美樹子はその言葉が耳に入ったのかどうか、まるで噛《か》みつきそうな表情《かおいろ》で、じっと相手の顔をながめている。何かしら、恐ろしい嵐《あらし》に吹きまくられているような顔つきだった。久世ゆかり――、美樹子はたしかにその名前を知っているのにちがいなかった。しかも、その名が、決して彼女の心に快い印象をもたらすものでないことは、その時の美樹子の顔を見ればよくわかる。額の広い、蒼白んだ顔には、なんとも名状することのできない苦痛が――恐怖にさえ近い懊悩《おうのう》が、ぐるぐると旋回するように通りすぎる。
今まで張りつめていた気持ちが、そこでブッツリと切れたような感じだった。彼女はふいにぐったりと、デスクにもたれると、いっぺんに二つ三つ年をとったようにさえ見えた。
「久世ゆかり――久世ゆかりというのね」
「ええ、そうですよ」
良三は相手の心持ちをはかりかねた気まずさから、われ知らず言葉を早めて、
「なんでもその女は、友達と共同で、その石屋の離れを借りているんだそうです。親戚《みより》も何もないらしく、今まで訪ねてきた人間は一人もないそうですよ。念のために、兄弟があるか、どうか訊いてみましたが、だれも知っている者はないらしいんです」
「いいわ、ありがとう」
「え?」
「いいのよ、わかったわ。それだけわかればいいの。きょうはこれで帰ってちょうだい」
「じゃ、あなたの探している女というのは、その女にちがいありませんか」
「ええ、ちがいありません」
良三は何かもっと、優しい言葉がかけてもらいたかったのである。帽子を握ったまま、おどおどとした調子で立っていたが、美樹子はくるりと向こうを向いたまま、それきり、こちらを振り返ろうともしない。
「それじゃ美樹子さん、もう帰ってもいいですか」
「あら、まだいたの、うるさいわねえ」
思わず声が癇走ったが、すぐ思い直したように、
「ええ。いいのよ、ありがとう。何かまたお願いすることがあるかもしれませんけど、きょうはこのまま帰ってね」
「じゃ、さようなら」
「さようなら」
良三が出ていって、ドアがしまると同時に、美樹子の眼から、ふいにボロボロと涙があふれてきた。美樹子が泣く? もし良三がこんなところを見たら、いったいなんと思うだろう。きっと気でも狂ったにちがいないと考えたにちがいない。
全く美樹子は気が狂いそうな表情《かおいろ》だった。しばらく彼女は頬にあふれる涙をぬぐおうともせずにじっと瞳をすえていたが、やがてその表情がしだいに固くなっていくと、何を思ったのか、ふいに立ち上がって部屋を出ていった。
「静《しず》や、パパはいらして?」
日本座敷のほうへ行くと、美樹子は女中をとらえて尋ねる。
「ええ、お座敷にいらっしゃいます」
「そう」
美樹子が入っていくと、万蔵は新聞の将棋欄を見ながら一人で盤面に向かって、しきりに駒《こま》を動かしているところだった。あの事件以来、万蔵も眼に見えて老いこんだ。そして、不愍《ふびん》な娘に対するいたわりもあったのだろうけれど、近ごろでは毎日、早く帰ってきて、べつに話し相手になるというのではないが、それとなく美樹子に対する親心を見せているのだった。
「パパ」
「おや、美樹子かい、どうした。お入り」
「ええ」
美樹子は父がかたわらへよせてくれる将棋盤から、少し離れたところに座ると、
「パパ、あたし、ちょっとパパに訊《き》きたいことがありますの」
「なんだね、改まって」
「ママのことよ」
「ママのこと、え?」
「ええ、ママのこと――」
美樹子はさすがに眼を伏せたが、すぐ勇敢にその眼をあげると、真正面から父の顔を見て、
「一昨年《おととし》お亡くなりになったママのことよ」
「ふむ、京子がどうかしたかね」
「ママがうちへいらっしたのは、あたしが四つか五つの時だったわねえ」
「ふむ、おまえが五つの時だった」
万蔵は、その話をするのをあまり好まないらしい。できるなら、ほかの話題に変えたいという表情《いろ》がありありと見えていたが、しかし、何かしら思い入った美樹子の顔色にひきこまれるように、
「どうしたのだ、だしぬけにそんなことを尋ねたりして」
「いいえ、あたし、急に訊きたくなったのよ。ねえ、パパ、ママがうちへいらっしゃる時、ママは先の旦那《だんな》さまと二人の子供を捨てていらっしゃったんですってね。あたしもっと前に、だれからかそんな話を聞いたと思うんだけど」
「美樹子!」
万蔵はするどい声で言って、美樹子の顔を見たが、すぐ弱々しい声で、
「おまえ、なんだってそんなことを詮索《せんさく》するのだ」
と、哀願するように娘の顔を見る。美樹子は今さら、父の古傷に刃《やいば》をあてる残酷さを知っていた。しかし、それは訊かなければならないことなのだ。どうしても、知っておかねばならぬことなのだ。
「ごめんなさい、パパ。でもある理由から、あたし、どうしてもお訊きしなければならないの。ママの先の旦那さまはたしか久世といったわね。そうじゃなかった?」
「…………」
「そのかた、どうなすったか、パパは御存じない?」
「死んだそうだよ。北海道のほうで」
「で、二人の子供はどうしたでしょう。たしか上が男の子で下が女だって聞いていたけど」
「知らない。ずっと後になって探してみたけれど行方がわからなかったのだ、京子もずいぶん、そのことで頭をいためていたが……」
万蔵にとっては、生涯《しようがい》、忘れてしまいたい出来事がそれだった。今から十五、六年前にもなるだろう。当時小さな工場の経営者だった万蔵は、まだ幼い美樹子を残して妻に先だたれた。さすが、後年大をなすだけあって、万蔵はその時分からいささか人とちがったところがあって、熱心なクリスチャンになっていたが、妻を失ってから、その信仰はいっそう熱心さを加えた。
はげしい禁欲生活の幾年かがつづいた。日曜ごとに彼は教会の門をくぐって、妻を失ったあとの空虚を信仰によって満たそうとしていたが、その教会の主任牧師が久世という男で、彼の細君というのが京子だった。久世と京子とのあいだには二人の子供があったし、万蔵にも美樹子という、眼の中へ入れても痛くないような可愛い娘があった。
どちらから考えても、間違いの起こりそうなはずはなかったのに、それにもかかわらず、はげしい嵐《あらし》が、突如この三人を押しころがしてしまったのである。
全く、今から考えてもぞっとするような、恐ろしい争闘だった。三人とも、息も絶え絶えになって、不思議な運命と闘い、抵抗しようと試みた。しかし、そういう良識が眼覚めたときにはすでに遅かったのだ。京子は二人の子供を捨てて万蔵のところへ来るよりほかはなくなっていた。久世は捨てられた二人の子供を連れて、北海道へ行った。そしてその事件が原因になったのだろう。数年ならずして死んだということを、万蔵夫婦は風の便りに聞いた。
「パパはその子供の名前を知っていて?」
「ふむ、たしか上のほうは謙介といったな。おまえより七つぐらい上だろう。下のほうはゆかりといったと覚えている」
「パパはその謙介という人に、いま会ってもわかるかしら」
「さあ――とてもわからないだろうね。ずいぶん昔の話だから。それに、あの時分まだほんの子供だったからね。しかし、美樹子、おまえはなんだって、そんなことを言い出して、このお父さんを苦しめるのだ」
万蔵は苦汁《くじゆう》を飲むように言った。
美樹子はそれに答えなかった。これ以上話して、父をもっと大きな苦悶《くもん》の中へ投げこむのはあまりに残酷なことだった。
うつむいた美樹子は、膝《ひざ》においた手がはげしく震えるのを、やっと辛抱していた。
誘《ゆう》 拐《かい》
ゆかりは近ごろ、時々、わけのわからない微熱に悩まされている。夜眠れなくて、眠るとびっしょり盗汗《ねあせ》をかく。幼稚園へ出入りをする知り合いの医者に診てもらうと、大したことはないが、過労のようだから、少し静養したがよかろうと言ってくれた。
しかし、何もしないで寝ていることは、ゆかりには微熱に悩まされながら働いているより、もっと切ないことだった。細川女史や同居している友達もいろいろ心配してくれたが、
「いいえ、大丈夫よ、あたしやっぱり働かせていただくわ。でもみなさまがそんなに言ってくださるなら、夜の仕事だけ勘弁していただこうかしら」
そう言ってゆかりは、相変わらず昼のうちは、貧民窟の鼻たれ小僧を相手に暮らしている。
ある日、そのゆかりのもとへ、自動車の運転手が一通の手紙をもってきた。見ると、甲野朱実からで、至急お眼にかかって、お話ししたいことができたから、この自動車で来てくれという文面なのである。
「まあ」
ゆかりは思わず眼を見はって息をのみこむ。
朱実はあれからも二、三度、ゆかりを訪ねてきたことがある。会うたびに、朱実のふんわりとした、物にこだわらない、それでいて隅々《すみずみ》まで行きとどいた思いやりが、ゆかりの心を温かくつつんで近ごろではどうかすると、朱実の訪ねてくるのを心待ちにしている自分に気がつくことがあった。兄からは、相変わらず便りはなかったし、可哀そうなゆかりは、いつかしら、だれかにすがりつかずにはいられない、はかないものを感じはじめていたのだ。
それにしても、そんな急な用事とはなにごとだろう。もしや、兄さんのことではないかしら――そう考えると、ゆかりはふいにこみあげるような不安に、胸がぎゅっとしめつけられるように苦しくなった。
「で、甲野さん、どこにいらっしゃるの?」
「すぐ来てくださるようにってお話でした。へい。とてもお急ぎの模様で」
運転手は、ゆかりの問いには答えないで、ほかのことを言う。ゆかりはいよいよ不安になって、前後《あとさき》の考えもなく自動車に乗りこんだが、その自動車がゆかりを連れこんだのは、芝二本|榎《えのき》の、立派なお屋敷なのである。
「あの、甲野さん、このお屋敷にいらっしゃるの?」
「へい、そうなんです」
自動車の音を聞きつけたのだろう、玄関へ女中が出てきてゆかりの言葉を待たずに、
「さあ、どうぞ、お嬢さま、お待ちかねです」
ゆかりはなんとなく変な気がした。しかし、あまり人を疑うことを知らぬゆかりは、ちぐはぐな気持ちだったが、女中の案内にしたがって立派な式台の上にあがった。
どこもかも、ピカピカと拭《ふ》きこまれた、立派なお屋敷で、ゆかりは今さら、自分の身すぼらしさが恥ずかしくなってくる。
女中は長い廊下を通って、奥まった一室にゆかりを通すと、
「少々お待ちくださいませ。お嬢さま、今すぐお見えになります」
と座布団《ざぶとん》をすすめて退《さが》っていった。
お嬢さまというのは朱実のことだろうか。あのかた、こんな立派なお屋敷に住んでいらしたのかしら。――ゆかりは今さらのように、物珍しげに座敷の中を見回していたが、何を見つけたのかふいに、さあっと、血の色が頬からひいた。
机の上に、額にはまった一枚の写真が立ててある。ゆかりはその写真に見覚えがあった。それはたしかに、彼女の母の写真なのだ。
ゆかりは思わず腰を浮かしかけたが、そこへ、
「お待たせいたしました」
と、いう声が聞こえたので、あわてて振り返ったゆかりはそのとたん、唇の色まで真《ま》っ蒼《さお》になってしまった。
「びっくりなすって?」
美樹子は――むろんそれは美樹子だった――豹《ひよう》のような瞳をすぼめて、上からゆかりを見下ろしたが、すぐ、
「やっぱりあなただったわ。あたし、お兄さんから、あなたのお写真見せていただいたことがありますの。あなたもあたしを御存じらしいわね」
と、言いながら机の前に座ると、額にはまった写真を、カタリと音をさせて机の上に伏せてしまう。
「あの、甲野さんはこちらに――」
「嘘《うそ》よ、ちょっとお名前を拝借したのよ。ごめんなさい、ひとの名前を騙《かた》ったりして悪い趣味ね」
どこか隙《すき》があったら、とびかかりそうな美樹子の眼つきだった。ゆかりは心臓に冷たいものでも当てられたような、かすかな身震いを感じながら、
「で、あたしに何か御用があったのでしょうか」
「ええ、あったのよ、お兄さんはどこにいらして?」
美樹子はその言葉を、できるだけ何気なく言うつもりだったけれど、それでも語尾がかすかに震えた。
「存じません」
「御存じない?」
「ええ、あたしたち、いつも別に暮らしているもんですから、兄がどこで、どんなことをしているか、あたし少しも知りませんの」
「そう」
美樹子は机の上にあったペーパー・ナイフで、美しくマニキュアした爪《つめ》をこすりながら、独りごとのように、
「不思議ねえ。それじゃ甲野さん、どうしてあなたのことを御存じなのかしら」
と、言う。
「それは、――それは――」
ゆかりは一言でその間の事情を説明したいと思ったが、思うように言葉が出ずに、今にも涙があふれそうになる。
「あなたは、お兄さんがあたしにどんなことをなすったか御存じ?」
「ええ」
ゆかりは、肩を落として溜息《ためいき》をついた。
「どうして御存じなの。今、お兄さんのしていること、少しも知らないとおっしゃったくせに。新聞にも、お兄さんの名前は出ていなくってよ」
「それは、それは――」
ゆかりは必死だった。なんとかして、この無残に自尊心を傷つけられた女の疑いを解きたいとあせりながら、
「あたしたち、時々、二人のあいだだけにしかわからない方法で通信をしますの。なぜそんなことしなければならないのか、あたしには少しもわかりませんけれど、ある時、あたしその通信にしたがって、幡ヶ谷にあった兄の寓居《ぐうきよ》を訪ねていったことがあります。その時、あなたの肖像を拝見しました。そしてその次ぎの日、新聞であなたのお写真を見ましたんですわ。あたし、あなたのお名前は、ずっと子供の時分から、よく兄から聞かされていたもんですから。――」
「ああ、あの肖像――あの肖像はどうしたでしょうね。あたし返していただきたいのですけれど」
「だめですわ」
あまりキッパリゆかりが答えたので、美樹子は、びっくりしたように相手の顔を見て、
「どうして。どうせ、お兄さんにも要らないものでしょう」
「いいえ、兄にはとてもあの肖像が必要なのです。兄は――兄は――とても、あなたを――」
ゆかりの眼からは、ふいに大粒の涙があふれてきた。
再 会
流れるような銀座の人通りの中を、朱実《あけみ》は何かしら落ち着かない、追いたてられるような気持ちでせかせかと歩いている。おりおり顔見知りの人に会って、その人たちが、何か話しかけそうにしてきたが、今夜に限って彼女は、挨拶《あいさつ》をするのも面倒な気がして、逃げるようにすりぬけてしまう。
ある新聞社から、中支の戦線を見てこないかという話があった。彼女も急にその気になったのは、つい今しがたのことだった。行くとすると彼女は、いろいろな用意が要るような気がする。考えてみると、戦線へ出かけるのに、何もいるはずはなかった。だが、沸騰する心の中で、あれもこれもというふうに、とりとめのない雑念がひょいひょいと浮かんで、それを整理するのにすっかり当惑してしまう。
(興奮しているのかしら。やっぱり興奮しているんだわ。だめね、今からこんなことじゃ)
戦争という大きな出来事が、急に身近に迫ってきた感じで銀座の風景もいつものように楽しく彼女の眼には映らなかった。行くとすればこの土曜日――土曜日といえばあと三、四日しかないわ。こんな時に、旅慣れない日本の女は困ってしまう。――そんなことを考えながら、彼女はある洋品店の前にふと立ち止まって、|飾り窓《ウインド》の中をのぞきこんだ。べつに買いたいものがあったわけではなく、その飾り窓の中に鏡があったので、こんな時、自分はいったいどんな顔をしているだろうか、それが見たかったのである。
案外変わった顔でもなかった。これなら大丈夫――朱実はいくらか満足した気持ちで、飾り窓の前を離れかけたが、その時、自分とならんで鏡の中に映っている顔がふと彼女の眼をとらえた。鏡の中で、相手の眼が、じっと自分の顔を見ている。細い、骨ばった顔だったが、日焼けのした、たくましい男の顔で、その男の眼が異様な熱っぽさで、鏡の中から自分を凝視しているのに気がついたのである。
(まあ、失礼な!)
朱実は腹立たしそうに、鏡の中の男の顔をにらみ返したが、そのとたん、ふいに大きく呼吸をうちへ吸いこむと、思わず体を前へ乗り出して相手の顔を見直した。うしろを振り返って、直接その男の顔を見るのが恐ろしかったのである。
「お尋ねしたいことがある。ぼくのあとからついてきてください」
男はそれだけ言うと、飾り窓の前を離れて、ゆっくりと人混みの中を歩き出した。
(まあ!)
朱実は、もう一度大きく胸を波打たせた。
(あの人だわ。やっぱりあの人だったんだわ)
朱実は男の去っていく方向を見定めておいてから、これもゆっくり|飾り窓《ウインド》の前から離れた。頬から血の気がなくなって、心臓が躍るように鼓動している。その男の顔は、いつかの贋《にせ》子爵でもなかったし、またあの陽気な画家《えかき》でもなかった。しかし、彼女はあの眼つきと口吻《くちぶり》から、仮面をとおして、直接その魂を射通すことができたのだ。
男は幅の広い肩で、人混みをかきわけながら、ゆっくりと新橋のほうへ歩いていく。朱実もひきずられるようにそのあとへついていった。男はやがて、薄暗い銀座の横町へと曲がる。朱実もそのあとからついていく。
人通りの少ない銀座裏まで来ると男はつと立ち止まって煙草《たばこ》に火をつけた。それが合図なのだ。朱実は足を早めて男のそばへ近よっていった。男はちらと、流し眼に朱実を見たが、それきり無言のまま、煙草をくわえて歩き出す。朱実もそれに肩をならべて歩き出した。だれが見たって親しい恋人同士としか見えない。
「甲野さん」
よっぽどしばらくしてから男がボツンと口をひらいた。
「…………?」
「あなた、あれをどこへやりました?」
「あれ?」
「ゆかりです。あなたはあの娘《こ》をどこへ隠したんです」
「まあ!」
朱実はふいに胸をおさえて立ち止まったが、すぐ足を早めて追いすがると、
「ゆかりさん、いらっしゃらないの?」
男は憤《おこ》ったように眉をひそめて、朱実の顔を見たが、すぐそっぽを向くと、
「ぼくはあなたを見損なったようだ。そんな女《ひと》だとは思わなかった」
「あら、あたし存じませんわ。ゆかりさん、ほんとにお見えにならないの。あたし、明日でもまたお伺いしようと思っていたんですけれど」
「この手紙はどうしたんです」
男のつきつけた手紙を、街燈の下ですかして読んだ朱実は、みるみる真っ蒼になって、
「いいえ、知りません。あたしの名前になっていますけれど、あたしじゃありませんわ。だれかが名前を騙《かた》ったのですわ」
「きっとですね」
「ええ、ほんとですとも。でも、ゆかりさん、いつごろからいらっしゃらないのでしょう」
「一週間ほど前に、自動車がそんな手紙を持って迎えにきたそうです。ゆかりはその自動車で出かけたまま、いまだに帰ってきません。ぼくはきょう幼稚園のほうへも訊き合わせてみましたが、細川女史のところへ、しばらく静養するからという手紙が一通来ているきりだということです。その手紙にも、所書きは書いてないと言っていました」
「まあ!」
朱実はいよいよ驚いて、
「だって、あたしがそんなことをするはずはないじゃありませんか。そりゃ、あたしがゆかりさんを探し出したのはいけなかったかもしれないけれど……。でも、これだれでしょう。あたしたちのことをよく知っている人にちがいありませんわね」
男の様子は眼に見えて不安そうになってきた。ひどく落ち着きなく、きょろきょろとあたりを見回していたが、急にこの男にも似合わないほど、がっかりとした調子で、
「わかりました。あなたでないとすると、こんな悪戯《いたずら》をするのは、あの女《ひと》にちがいありません」
「あの女《ひと》とおっしゃると?」
「ぼくが結婚式から逃げ出したあの女です。ぼくは復讐《ふくしゆう》されたのです」
「まあ!」
朱実はいよいよ真っ蒼になって、思わず口へ掌をあてた。
「それじゃ、あのかたがゆかりさんを――」
「甲野さん、ぼくは今夜、どんなことがあっても、ゆかりに会わなければならないのです。もし、今夜をはずすと、われわれは、生涯会うことができないかもしれないのです。ああ、ゆかり、ゆかり!」
男は急に、二つ三つも年をとったように思えた。この男を――この神秘な男を、これほどまでに動転させる出来事とは、いったいどんなことだろう。
「待ってらっしゃい。もし、それならあたしに考えがありますわ」
朱実は何を考えたのか、急に男のそばを離れると、路傍の自動電話へとびこむと、しばらくジリジリベルを鳴らしていたが、やがて、息を弾ませて中からとび出してきた。
「やっぱりそうよ。ゆかりさんを連れだしたのは日疋さんのお嬢さんでした。でも、お二人とも今はお屋敷にいらっしゃらないそうです。鎌倉の別邸のほうへ、二、三日前に出かけていかれたということですわ。で、あなたこれからいらっしゃる?」
「よし、行ってみましょう」
一瞬、男の面《おもて》が、パッと明るくなった。
「なんなら、あたしもお供してもいいのですけれど」
支那兵の弾丸
日疋万蔵氏の鎌倉の別邸は材木座にあった。
二人がその別邸へ着いたのはかれこれ、十一時過ぎのことだった。二人とも、何かしら恐ろしい不安に、めくらめくような気がした。美樹子が、まさかゆかりをどうしようとは思えなかったけれど、それでも、こんな場合、想像はとかく悪いほうへそれていきがちなものだ。
「ねえ、大丈夫でしょうねえ」
朱実がみちみち、何度となく念を押したのは、ゆかりのこともあったけれど、それよりもっと心配なのは男のことだった。もし、美樹子が騒いだら、その時こそ、この男の破滅なのだ。ああわかった。美樹子さんがゆかりさんを連れ出したのは、この人を釣《つ》り寄せる手だったのだ。
「大丈夫です。ぼくのことなら心配しなくてもいいのです」
その点については、男は不思議なほど自信を持っている。
鎌倉の別邸へ着いて男が玄関のベルを鳴らすと、やがて奥のほうから女中が出てきた。
「ゆかりはいますか。久世ゆかりです。いたら、兄が来たと言ってくれませんか」
「はあ、少々お待ちくださいまし」
女中はいったん、奥へさがっていったが、すぐ引き返してくると、
「どうぞ」
と、二人を招じ入れる。広い廊下を通って奥へ行くと、座敷に煌々《あかあか》と灯《ひ》がついているのが見えた。
「こちらでございます」
女中が襖《ふすま》をあけたとたん、電燈の下に真っ白なシーツを敷いたベッドが見えた。そして青ざめたゆかりの顔が、白いくくり枕《まくら》の上に、仰向けになっているのと、そのそばに、向こうむきになってひざまずいている女のうしろ姿が眼に映った。
「ゆかり!」
男が叫ぶと、向こうむきになった女が、そのままの姿勢で、しっ、というように片手をあげて制《と》めた。
「静かにしてください。ゆかりさんはお体が悪いのです。あまり興奮しちゃいけないのです」
立ち上がってこちらを向いたのは美樹子だった。
その様子にも、声音《こわね》にも微塵《みじん》も悪びれたところがないのが男にはむしろ意外なくらいだった。
「ゆかり」
「お兄さま」
ゆかりは弱々しい微笑で、兄を迎えると、
「美樹子さんにお礼を言ってちょうだい。あたし、とてもお世話になって」
「そう」
男は、なぜかそわそわしながら、むしろそっけないような調子でそういうと、
「ゆかり、きょうはお別れに来たんだ。兄さんは明日《あした》の一番で出発しなければならないんだ」
「出発って?」
「これが来たんだよ」
男がポケットからつまみ出した封筒を見た刹那《せつな》、三人の女の眼が、一様に、ドキリとしたように大きく見ひらかれた。ゆかりは一瞬間、血の気のない頬を蝋《ろう》のように固くしたが、すぐ世にも美しい微笑を浮かべた。
「おめでとう、お兄さま」
「うん、ありがとう。兄さんは今までやくざな生活をしていたが、こんどこそ立派な兵隊になるよ」
「ええ、うれしいわ。お兄さんなら立派な兵隊になれるわ。ねえ、お兄さん、新聞に書いてあったことはみんな嘘《うそ》だわね」
一瞬間、シーンとした沈黙が座敷へ落ちてきた。朱実は男がどう答えるかと思うと、息詰まりそうな気がした。
「ぼくが詐欺師で宝石泥棒だという一件かね。はははは」
男は咽喉《のど》の奥でかすかに笑うと、
「むろん、あんなお伽噺《とぎばなし》みたいな話がありえようはずがないじゃないか。甲野さん」
「はい」
「あなたも、あの新聞にだまされていた一人でしょうねえ。むろん、ぼくはそんな悪党じゃありませんよ。見かけほどぼくは神秘な男でもないのです。ぼくがやった悪事といえば、唐木子爵の名前をかたったぐらいのものでしょうね。しかし、それとても全然虚構の事実でもないのですよ。唐木子爵が亡くなられる時分、ふとしたことから、ぼくは最後までお世話をしてあげたんです。そして、そのお礼に、ぼくはいっさいのものを子爵から譲られたのですから、法律上はともかく、子爵の名をおかす権利はあると思っていたのです」
「でも、警察で発見した、あのいろいろな証拠は?」
「甲野さん、あなたはまだ夢を見ていられるんですね。むろん、あれはぼくが勝手にでっちあげておいた証拠ですよ。なぜぼくがそんなことをしたか、あなたにはわからない。しかし、ここにいる美樹子さんならわかるんです。ぼくは実際、詐欺師で拐帯《かいたい》者で宝石泥棒であるより、もっと恐ろしい悪党だったかもしれません。なぜなら、自分をそういう大それたペテン師であると見せかけることによって、美樹子さんの名誉を台なしにしようとたくらんだのですから。でも、その天罰はもう十分受けましたよ。ぼくは馬鹿でした。復讐《ふくしゆう》をするだのされるだのとそんなことは、今われわれの眼の前に切迫している、この大きな事実の前に出してみると、まるで虫けらのような感情だったことに、今ごろやっと気がつきましたよ。美樹子さん、あなたの代わりは、シナの兵隊がやってくれますよ。あいつらの撃つ弾丸《たま》が、われわれの忌まわしい縺《もつ》れを清算してくれるでしょう」
「ええ、いってらっしゃい。そして華々しく戦死していらっしゃい」
美樹子はちょっと咽喉につまったような声で、
「しかし、もし、万が一にも生きてお帰りの節は、ここへ帰っていらっしゃらなければいけませんよ。なぜって、ゆかりさんは、お体がよくなるまで、あたしとここでお暮らしになる約束ですから」
「ありがとう」
男はしゃがれたような声で言った。それから、もう一度、
「ありがとう」
と、繰り返した。
朱実はこの二人のあいだに、どんな因縁があるのか知らなかったけれど、それがどんな葛藤《かつとう》であったにしろ、この瞬間、氷のようにさらりと解けていったのを感じる。
結局、これは神秘な男でもなんでもなかった。しかし、それでいいのだ――朱実はそう考えてにわかに胸の中がすがすがしくなるのをおぼえた。
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[#見出し] 黒衣の人
一
現代にはもはや、ロマンチックな冒険談はなくなったと説く現実主義者に、由紀子《ゆきこ》が受け取ったあの不思議な手紙を見せてやりたい。それは、次ぎのごとくおよそ神秘きわまるものだった。
由紀子さん。
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あなたはぼくを覚えていますか。去年の夏|蓼科《たてしな》高原で会った黒眼鏡の男を。……当時あなたは「黒衣の人」とぼくを呼んでいましたね。あなたはぼくの名前も知らず身分も知らず、それでいて行きずりのこのぼくに、不思議な信頼をよせてくれましたね。ぼくがまるで魔術師ででもあるかのような信仰をさえ抱いてくれましたね。そういうぼくに打ち明けてくれた、驚くべきあなたの身の上話、――あなたはあの夜のことを今でも覚えていられるかしら。
それは八月も半ばをすぎて、高原にはすでに肌《はだ》寒い秋風が流れ、都会の避暑客もボツボツ引きあげはじめようとしたころおい。当時あなたは川端老夫人の付き添いとして、その高原へ来ておられたが、ある晩、夫人が寝《しん》についたのち、人気《ひとけ》なき白樺《しらかば》の下ではじめてぼくに悲しい過去の打ち明け話をしてくれました。今、そのときの話をもう一度ここに繰り返しましょうか。
「黒衣の小父《おじ》さま、あなたは三年前に殺された、桑野珠実という女優を御存じ? あたしの不幸はその事件からはじまったのよ」
開口一番、あなたはまずぼくを驚かせた。桑野珠実殺し、当時あれほど騒がれた事件だもの、それを知らずにどうしましょう。
桑野珠実というのは映画界きっての妖婦《ようふ》役者であるとともに、実生活においても有名な淫婦《いんぷ》だった。その女のために幾多前途有為の青年が、不幸におちこんだ話はあまりにも有名だった。ところが、昭和×年七月十六日の朝のこと、その珠実が荻窪《おぎくぼ》の自宅の庭で、何者かに撲殺されているのが弟子の幾代という女によって発見されたのだ。それはいかにも彼女らしき最期というべく、無惨にも脳天を打ち割られた珠実は、派手な浴衣を朱《あけ》に染め、ミモザの花の下で死んでいたということ、そして、そばには銀の握りのついた太いステッキが血に染まって落ちていた。当然の結果、ステッキの持ち主が捜索されたが、まもなく検挙されたのが緒方静馬という青年で、彼こそステッキの持ち主であり、珠実にだまされた男の一人であり、さらに悪いことには、その夜彼が珠実と口論したことが、弟子の幾代によって証言された。ところが、幸か不幸か、この青年は未決にいるあいだに病を得て急死したので、はたして彼が有罪なりや否やは、いまだに疑問として残っている。……つまり以上が珠実事件の輪郭ですが、由紀子さん、この不幸な緒方青年こそ、じつにあなたの兄上だったのですね。あなたはこういう打ち明け話ののち、それでも毅然《きぜん》としておっしゃった。
「あたし兄の無罪を信じます。真犯人は別にあります。あたし、いつかだれかすばらしく賢い人が現われて、兄の汚名をそそいでくれると、固く信じておりますの」
そういうあなたの調子には、勇敢な騎士の出現を待望しているお伽噺《とぎばなし》の女王様の面影がありましたっけ。
さて、由紀子さん、あれから早くも一年たちましたが、今こそぼくはあなたの騎士になれます。今やぼくは、桑野事件の秘密のヴェールをかかげることができます。だが、まあしばらく待ってください。それには一つの条件がある。
由紀子さん、あなたは勇気もあり思慮もある女性だから、ぼくが次ぎのような変梃《へんてこ》な注文を出したからといって恐れたり、尻込《しりご》みしたりすることはないでしょうね。
さて、今日は七月十五日です。今夜あなたは川端老夫人から一晩ひまをもらいなさい。そして撫子《なでしこ》模様の浴衣を着て、白い碁石を五つ、黒い碁石を三つ持って、かっきり九時に、新宿駅の西側ガード下まで来てください。するとそこに老婆が一人いますから、それに碁石を渡すのです。老婆はあなたに一つの提灯《ちようちん》と、一茎の釣鐘草《つりがねそう》の花をくれるでしょう。さてあなたは、その提灯と釣鐘草を持って、荻窪の桑野珠実の家まで出かけるのです。その家は事件以来住む人もなく、化《ば》け物屋敷みたいに荒れはてているが、そんなことに恐れてはなりません。裏木戸から入っていくと十五、六歩にしてミモザの木がありますから、しばらくその木陰に隠れていてください。
するとかっきり十時に、同じく裏木戸から一人の人物が入ってきます。そのときあなたは提灯をかざしてその人を迎えるのです。そして「あなた、この釣鐘草を御存じ?」と訊《き》き、さらに、「桑野珠実を殺したのはだれですか」と尋ねるのです。それ以外のことは決して言ってはなりません。よござんすか。珠実殺しの真犯人を知ることのできるのもできないのも、すべてそのときのあなたの態度一つですよ。
さあ、大胆に! 勇敢に!
躊躇《ちゆうちよ》や逡巡《しゆんじゆん》はあなたのためならず、勇気を出して秘密の帳《とばり》を開きなさい。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「黒衣の人」より
二
「まあ、なんて妙な手紙でしょう」
読み終わった由紀子は呆然《ぼうぜん》たる眼つきをした。
「まあ、なんて変梃な手紙でしょう。でも、でも、あたし行かなきゃならないわ」
由紀子はいささか普通とちがったところのある娘だったので、この謎《なぞ》めいた手紙が気に入らなくもなかったのである。
撫子の浴衣、黒白合わせて八個の碁石、ガード下の老婆、提灯と釣鐘草――まあ、なんて奇抜な手紙でしょう。なにからなにまで、お伽噺を読んでいるような感じだわ。――そして由紀子はこの謎の興味に強く心を惹《ひ》かれたのだ。
それに彼女には、この手紙が全然意外でもなかった。去年の夏以来、彼女はどんなに熱心に黒衣の人のことを日記に書きつづけたことだろう。避暑地で会ったという以外、名前も素性も知らぬ黒衣の紳士。――それは上品な中年の紳士だったが、空想癖の強い彼女は、なんとやらこの人が兄の冤罪《えんざい》をそそいでくれそうな気がしてならなかったのだ。
由紀子は可哀そうな娘で、兄を失ってからは、ほかに親戚《しんせき》としては一人もなかった。
彼女が今身をよせている川端老夫人というのは、富裕な官吏の未亡人で、数年以前夫と死別してからは、慎策というひとり息子と暮らしていたが、四年ほど前慎策が洋行したので、留守中の淋《さび》しさに、かてて加えて健康が勝《すぐ》れぬところから、だれかよい娘があったらと物色中、おめがねにかなったのが由紀子だった。老夫人も彼女の兄のことを知っていて、するといっそう不憫《ふびん》がかかり、付添いとはいえ、わが子のように可愛がる。孤児の由紀子も老夫人を他人とは思わない。真実の母にたいするごとくまめまめしく仕えていたが、そういう彼女の気持ちにいっそう拍車をかけたのが慎策の帰朝なのだ。今年の春洋行から帰った慎策は、いつしか由紀子に心を惹《ひ》かれていた。
由紀子としてうれしからぬ道理はないが、彼女には兄の獄死という悲しい過去がある。
ああ、兄さえ潔白だったら。――
「ええ、あたし行ってみるわ。どんなことがあっても、お兄さまの冤罪の晴れることなら」
そこで彼女は老夫人の寝室へ入っていった。
「小母さま」
彼女はいつも老夫人をそう呼んでいる。
「あの、たいへん勝手ですけれど今夜十二時までおいとまをいただけないでしょうか」
「ああ、いいですとも。どこへお出かけ?」
白い枕《まくら》に頭をおいた老夫人は、細い金縁眼鏡の奥から、優しく由紀子の顔を見る。やつれてはいるが肌《はだ》のきれいな、上品な人。
「はい、田舎《いなか》からお友達が上京するというので」
嘘《うそ》を言うのは心苦しかったが、真実を打ち明けて心配させることもないと思った。
「ああ、そう、でも若い者のことだからなるべく早くお帰りなさいね。慎策も今夜は会があるとやらで、遅くなるそうですから」
「はい」
夜になると由紀子は行李《こうり》の中から、撫子《なでしこ》の浴衣を出して着た。それから座敷から白の碁石を五つ、黒石を三つ選《え》りわけて新宿へ出かけた。
それにしても、黒衣の人はどうして撫子の浴衣のことなんか知っているのだろう。老夫人のお見立てで作っていただいて、今まで一度も手を通したことがないのに。――
新宿のガード下へ来てみると、はたして暗がりのなかに老婆が一人、ぼろのようにうずくまっていた。むろん暗がりのこととて顔は見えない。
由紀子はハッと胸をとどろかせたが、勇を振るって老婆の前に立ち止まった。
「はい、白石が五つに黒石が三つですよ」
老婆はうつむいたまま、細い指で碁石を数えていたが、
「はい、よろしゅうございます」
と、もぞもぞと取り出したのはまぎれもなく一茎の釣鐘草と小さい提灯。
由紀子はそれを受け取ると、逃げるようにその場を立ち去った。
今はもう間違いはない。あの謎《なぞ》のような手紙は、決して悪戯《いたずら》でもなく、でたらめでもなかったのだ。由紀子は今さらのように膝頭《ひざがしら》ががくがくと震え、舌がひきつるような気がした。そして酔ったような足どりで、あの荻窪の化け物屋敷へたどりついたのは、約束の十時に垂《なんな》んとしていた。
裏木戸をひらくと中はまっくら。伸びるにまかせた雑草が、乳ぐらいの高さにはびこって、ざわざわと生ぬるい風に揺らめいている。西の空がときどきさっと蒼《あお》白く光っていた。
稲妻だ。由紀子は恐ろしさに歯の根がガクガクと鳴ったが、今さら引き返す気にはなれぬ。勇を鼓《こ》して雑草の波をかきわけていった。
歩むこと十五、六歩、はたしてそこに一本のミモザの木が、紫色の花をつけていた。花はすでに散りかけていた。幸いその木の周囲は、いっそう雑草が繁《しげ》く、身を隠すには好都合だ。それにしても、あの女が殺されたのは、この木の下だった。おそらくここいらにはびこっている雑草は、みんなあの女の血を吸って生長したのであろう。――つい、余計なことを考えた由紀子は、心臓がドキドキと鳴って、脇《わき》の下から冷たい汗がタラタラと流れた。
五分――、十分。――
闇《やみ》の中の無気味な時刻の推移なのだ。ときどき、蒼白い稲妻が、ざあーっとこの荒れはてた庭の面を掃いていった。
――と、このときギイと裏木戸の軋《きし》る音。ざわざわと雑草のすれあう音。だれかやってきたのだ。しかも忍び足で。まっくらだから姿かたちもわからない。男か女か、それもわからない。しかし足音はしだいにこちらへ近づいてくる。
由紀子は恐怖と興奮に、心臓が石のように固くなった。と、そのときである。ふいにあっという低い叫びとともに、雑草がはげしく揺れた。なにかにつまずいたらしい。それにしても今の声はたしかに男だった。
男は――正体不明の男は――雑草の中へ転ぶところを、やっと立ち直ると、あわててその辺をかき回してなにか探していたが、やがて、
「あっ、こ、これは……」
なにを見つけたのか、なにに驚いたのかただならぬ息使いだ。由紀子はとほうにくれた。こんなことは手紙に書いてなかった。どうすればいいのだろう。
だが、男のほうではむろんそんなことは知らない。マッチをすって一心に地上を見ていた。
由紀子はとうとう決心した。すばやく提灯《ちようちん》に灯をともすと、ミモザの木の下へよろめきながら這《は》い出した。
「…………!」
男はまるで体じゅうに電流を通されたように、雑草の中からとびあがった。由紀子は震える声をおさえながら、
「あなた、この釣鐘草を御存じ?」
と、しおれかかった花を前へ突き出した。
「桑野珠実を殺したのはだれですか」
男は凝血したようにそこに立ちつくしていたが、やがてよろよろ二、三歩前へのめり出した。
「ああ、撫子《なでしこ》の浴衣――釣鐘草――間違いはない、おまえは――おまえは――」
そのとき、さっと蒼白い稲妻が二人のあいだを掃いて、通りすぎた。その一瞬間の明るみに由紀子はハッキリ見たのだ。相手の顔を。亡者のように紫色にひきつった顔を。夢遊病者のようにあらぬほうを見つめている眼を。死にかかった金魚のように、パクパクと震えている唇《くちびる》を。ああ、なんと恐ろしいことだろう。それはまぎれもなく慎策ではないか!
「ああ、あ、あなたは……」
叫ぶとともに由紀子は、棒のようにどさりと雑草の中へ倒れてしまった。
三
「先生、先生はこの家を御存じですか」
「この家? なんだね、三津木君、この家がどうかしたのかね。空き家のようだが」
「御存じありませんか。これが桑野珠実の家ですよ。ほら、四年前に殺された。……」
「おお、これが」
「そうそう、そういえば今日は七月十五日。珠実の四周忌にあたりますね」
「三津木君、あの事件ならおれもよく覚えているが、たしか犯人と目《もく》された男は、未決にいるあいだに死んだのだったね」
「そうですよ。緒方静馬といいましたが、あの男の有罪説には、かなり疑わしい点がありましたよ。おや、あの声はなんだ!」
珠実邸の裏通りなのである。
おりから聞こえてきた女の悲鳴に、ふと足を止めたのは、はからずもその場を通りかかった有名な私立|探偵《たんてい》由利先生と、もう一人は某新聞社の花形記者三津木俊助。俊助は深く由利先生に私淑して、いつも先生の探偵事件に助手の役目を勤めているのである。
「たしかに女の悲鳴でしたね」
「そうだ、しかもこの家の中からだぜ」
今しも噂《うわさ》をしていた家の中から、ただならぬ悲鳴が聞こえてきたのだから、二人はぎょっとして路傍にたたずんだのも無理はない。
ふと見ると裏木戸があいている。由利先生は何気なく、つかつかとそのほうへ歩みよったが、このときだ、ふいに中から躍り出した壮漢が、出会い頭にパッと由利先生を突きのけると、そのまま闇《やみ》の中をまっしぐらに逃げ去った。あっというまもない。あまりとっさの出来事で、さすがの先生も俊助も手を出すひまさえなかったのである。いうまでもなくそれは慎策だった。
「なんだ、あいつは?」
俊助は呆然《ぼうぜん》とそのあとを見送っている。
「まだ若い男だったね。たいして風態の悪いほうでもなかったようだ」
「中へ入ってみましょうか」
「ふむ、とにかく女の悲鳴が気にかかるな」
裏木戸から中をのぞくと、雑草の中に提灯《ちようちん》の灯が、ゆらゆらと鬼火のように瞬いている。
二人はそれを目当てに進んでいったが、まず俊助が由紀子の体を見つけて驚いた。
「あ、先生、ここに女が倒れていますぜ」
「なに? そこにもいるのか。三津木君、じつはここにも一人女が倒れているんだが」
雑草の中にかがみこんでいた由利先生が、驚いたように顔をあげた。
「なんですって? すると二人ですか」
「そうらしい、そちらのほうはどうだ。死んでいるのか」
俊助は由紀子の胸に手をあててみて、
「いや、こちらのほうは生きています。気を失っただけらしい。そちらはどうです」
「よくわからないが、どうやら冷たくなっているらしい。三津木君、その提灯を見せたまえ」
地上に転がって、ゆらゆらと燃えている提灯を取りあげて、俊助は由利先生のほうへ近づいた。見るとなるほど、踏みしだかれた雑草の中に、まだうら若い女がくわっと眼を見ひらいたまま倒れている。さっき慎策が驚いたのも、この女の死体だったらしい。
「あ、見たまえ、心臓をひと突きにやられている。ああ、ひどい血だ、明らかに他殺だね」
なるほど女の胸から流れ出した血が、ぐっしょりと草の根をぬらしている気味悪さ。俊助はゾクリと身震いしながら、提灯の灯で女の顔を見なおしたが、
「あ、先生、ぼくはこの女を知っていますよ」
と、頓狂《とんきよう》な声をあげた。
「なに? 知っている。してしてだれだね」
「珠実の弟子の幾代という女です。珠実殺しの時分、ぼくは何度もこの女に会いましたから、決して間違いじゃありません」
「ほほう!」
由利先生は思わず眼をすぼめた。
「珠実の命日に珠実の弟子が殺される、――か。三津木君、こいつは四年前の事件から糸をひいているんだぜ」
「ああ、なんてこった。同じ日に同じ庭で。……おや、先生、そこになにやら白いものが光っていますが、それはなんですか」
「どれどれ」
ああ、もしこの時由紀子が、由利先生が雑草の中から拾いあげたものを見たら、どんなに驚いたことだろう。まぎれもなくそれは、白い碁石ではないか。
「碁石だね、あ、そこにもある」
「先生、そこにもありますぜ」
二人は提灯のあかりで、しばらくその辺を探し回ったが、やがて拾い集めたのは、なんと、白石五個、黒石三個の都合八個の碁石なのだ。
「まだよごれていないところを見ると、つい今しがた落としていったものにちがいない。あとでよく調べるとしてそちらの女はどうだ」
夜露が咽喉《のど》に入ったのか、由紀子はそのときようやく気がつきかけていた。
「もしもし、気がつきましたか」
俊助に抱き起こされて、
「あ、あなた、あなた――あら!」
「御心配には及びません。われわれは怪しいものじゃないのです。ときにお嬢さん、さっき逃げていった男を御存じですか」
「はい、あの、いいえ」
由紀子はまだ夢の中をさまよう心地だったが、事件があまり奇怪なので、めったなことは言うまいと、早くも心をきめていた。由利先生はそういう様子に眼をとめながら、
「お嬢さん、あなたはあそこに死んでいる女を御存じですか」
「え? し、死んでいる……? だ、だれが死んでいるんでございますの?」
「おや、知らないんですか。あそこに女が殺されているんですよ」
「しかもその女というのは、かつてここで殺された桑野珠実の弟子で、幾代という女です」
ああ、なんという恐ろしいことを聞くものだろう! 幾代――その女こそ兄に対して、いろいろと不利な証言をした女ではないか。
「まあ! そ、それじゃあのひとが……」
「お嬢さん、その女を御存じですか」
「知っています、知っています。その女こそ兄にとっては敵《かたき》ですわ」
「え? 兄の敵?」
穏やかならぬ由紀子の言葉に、二人ははっと顔を見合わせた。
「なるほど、これにはよほど深い事情がありそうだ。お嬢さん、あなたのお兄さんというのは?」
「はい、あの――緒方静馬といって――」
「な、なんですって?」
晴天の霹靂《へきれき》とはまったくこのようなときに使う言葉だろう。由利先生と三津木俊助、由紀子の言葉を終わりまで聞かぬに、はや棒をのんだように、その場に突っ立ってしまった。
四
荻窪における奇怪な殺人は、恐ろしい反響を巻き起こした。七月十五日は桑野珠実の殺された命日だ。その同じ日に、場所も同じミモザの木の下で、珠実の弟子が殺されたのだ。これほど神秘的な事件がまたとあろうか。
こうなると再び四年前にさかのぼって、桑野事件が蒸し返される。考えてみるとあの事件は容疑者の死によって一段落ついたようなものの、実際は、静馬はひと言も犯行を肯定しなかったのだから、まったく未解決も同様だった。
ひょっとすると、静馬という青年は濡衣《ぬれぎぬ》のまま悶死《もんし》したのではあるまいか。――さあ、これだけでも、世間の好奇心をあおるに十分だったのに、このたびの事件にはなんともいえぬロマンチックな色彩がある。というのはほかでもない。黒衣の人と称する正体不明の紳士の手紙なのだ。
警官の尋問にたいして、由紀子がついあの手紙のことを漏らしたものだからたまらない。たちまちそれが新聞にのって大評判になった。
黒衣の人とは何者だろう。あの謎《なぞ》のような手紙はなにを意味するのだろう。彼はあらかじめこんどの事件を知っていたのだろうか。ひょっとすると、彼こそは珠実殺しの犯人で、そして幾代をも殺害したのではあるまいか。――等々と、さまざまな臆説《おくせつ》が伝えられた。
それにしても、黒衣の人はどうして姿を現わさないのだろう。このような騒ぎが起こっていることを知らぬはずはよもあるまいに、なぜ、姿を現わしてすべての秘密を説き明かしてくれないのだろう。ひょっとすると、新聞でも伝えているとおりあの人が……と、さすが夢想家の由紀子も、近ごろではしだいに黒衣の人にたいする信仰を失っていったが、と、それにとってかわって、彼女の前に現われたのはほかならぬ由利先生。
先生は毎日のように、由紀子を訪れて優しく慰めたり励ましたりしながら、巧みにいろんなことを彼女に話させた。そしてそのあげく、考え深そうに言うのだ。
「とにかくね、お嬢さん、黒衣の人というのはよほど深いたくらみを持っていたにちがいありませんよ。というのは、わしが調べたところによると、撫子《なでしこ》の浴衣といい、釣鐘草といいことごとく死んだ珠実と非常に縁が深いものなんです。珠実は殺された晩に、撫子の浴衣を着ていたそうですし、釣鐘草はあの女がもっとも愛していた花なんです。そしてよく、提灯をかざして、あのミモザの花の下で、男を待っていたという話ですからね」
「まあ! そうすると……」
と、由紀子はふと、あの晩慎策が口走った言葉を思い出しながら、
「あたしはあの人の幽霊の役目を勤めたわけなんでしょうか」
「どうもそうとしか思えませんね。ちょうどあなたの年ごろも、珠実が殺された年ごろと同じぐらいだし。……つまり、黒衣の人はあなたを珠実の幽霊に仕立てて、ひと芝居打つつもりだったのじゃないかと思います。ところがそこへ、なにかしら故障が起こった。つまり、あの殺人事件が起こったのです。ところで、お嬢さん」
由利先生はそこできっと由紀子の顔色を見ながら、
「あなたはほんとうに、あの晩、珠実の家から逃げていった男を御存じないのですか」
「は、はい、存じません。まったく知らぬ人です」
由紀子はおずおず眼を伏せながら答えるのである。
さて、このあいだ、慎策や川端老夫人はどうしていたかというに、慎策はあれ以来、同じ家に住みながら、極力由紀子を避けようとする。それを感ずると、由紀子は胸がつぶれるほどの悲しみと同時に、恐ろしい疑いを感ずる。
慎策さんはどうしてあの晩、あそこへやってきたのだろう。そして、あのとき、口走ったあの言葉――ああ、あの人は桑野珠実を知っていたのだろうか。由紀子の小さい胸は千々《ちぢ》に砕けるのだった。
しかも老夫人は老夫人で、にわかに病が昂《こう》じて、近ごろでは頭もあがらぬ大病なのだ。由紀子は西を向いても、東を向いても、取りつく島もない心地。
と、あの事件から十日目のことである。由紀子のもとへまたもや奇怪な手紙が舞いこんだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――由紀子さん。このあいだはたいへん失礼しました。あのような恐ろしい事件が起こったので、せっかくのぼくの計画もすっかり齟齬《そご》しました。由紀子さん、あなたはもう一度冒険をやる勇気がありますか。もしあるなら、この手紙を見しだい、銀座西二丁目のKビル三階、十五号室へ来てください。そうすれば直接お目にかかって、ぼくはすべての秘密を打ち明けてあげます。由紀子さん、勇気を出して、ためらわずに! そして、だれにもこのことを打ち明けてはなりません。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]黒衣の人
ああ、またしても黒衣からの手紙なのだ!
「ええ、行きますわ。あたしどうしても行かなければならないわ」
いったん失われかけた黒衣の人にたいする信仰が、再び頭をもたげてきたのである。
彼女は夢遊病者のようにつぶやくと、そのままフラフラと家を出てしまった。
しかし、もしこのとき由紀子が、子細にこの手紙を調べていたら、いろいろ妙な事柄に気がついたであろう。第一、この手紙は前のに比べるとまるで筆跡がちがっていた。それに文章の調子だって、以前の神秘的なのに反して、ひどく現実的でそっけない。
だが、頭の混乱している由紀子はてんで、そんなことには気がつかなかった。黒衣の人という署名だけで、彼女はあたかも魔術にかかったように、だれにも知らさずフラフラと家を出たのだ。
Kビルというのはすぐわかった。三階の十五号室。――それは空室とみえて、表にはなんの標識もあがっていなかった。いやいや、三階全体ががらんとして、まるで都会の幽霊屋敷だ。事務所というより倉庫のような感じなのだ。
しかし、奇怪なことには慣れっこになっている由紀子のこと、なんの躊躇《ちゆうちよ》もなくドアをひらくと、大きな安楽|椅子《いす》に、だれやら向こうむきに腰をおろしている。
「由紀子さんですか」
その人は向こうに向いたまま尋ねた。
「は、はい。……」
由紀子は興奮のために歯がガクガク鳴った。
「うしろのドアをぴったりしめてください。あなたはここへ来ることを、だれにも言いはしなかったでしょうね」
「は、はい。……」
由紀子は気をつけてぴったりドアをしめた。
と、そのとたん、安楽椅子からすっくと立って、こちらを振り返った男、その男の顔を見て由紀子はハッとした。ちがっているのだ。去年|蓼科《たてしな》高原で会った黒衣の人とは、似ても似つかぬまだ年若い男、薄気味の悪い、人相のよくない男なのだ。
「ま、まあ、あなたはだれです」
「黒衣の人さ」
「ちがいます、ちがいます。黒衣の人はあなたのような若い人ではありません」
「そんなことはどうでもいいじゃないか、お嬢さん、わしはちょっとおまえさんに話したいことがあるので、黒衣の人の名を借りたのだよ」
ああ、だまされたのだ。罠《わな》に落ちたのだ!
「いったい、あなたはだれです。あたしになんの用事がおありなんです」
由紀子は弱身を見せまいとして必死だった。
「おれかい、おれはな、幾代の情夫というやつさ。名前は須山謙吉というがね」
「で、どういう御用なんですか」
「まあ、ゆっくり話そうじゃないか。お嬢さん、おまえ、幾代がなぜあの晩、あんなところへ出向いたか知っているかい。あの女はな、珠実殺しの犯人に会うためだったのだぜ」
「な、なんですって!」
「驚いたかい、幾代は真犯人を知っていたんだ。そして長いあいだそいつを種に金をゆすり取っていたんだ。ははははは、うらやましい話だ。おれもそれにあやかりてえと、幾代にいろいろ尋ねたが、大事な金蔓《かねづる》のことだから、まあ、なかなかしゃべりやがらねえ。で、あの晩こっそり幾代をつけていって犯人の顔を見てやろうと思ったが、運悪く幾代のやつに見つけられ……」
「あ、わかった、それで幾代さんを殺したのね」
「ふふふ、ま、そんなことさ。おれはそれから急に恐ろしくなった。恐ろしくなっていったんあの屋敷を逃げ出したが、ここで逃げちゃせっかくの苦心も水の泡《あわ》だ。どうしても犯人の顔を見なけりゃと、引き返したとたん出会ったのは若い男、真《ま》っ蒼《さお》になってあの屋敷から逃げ出していくところさ。おれはこっそりそのあとをつけていった。そしてそいつがどこのなんというやつかちゃんと調べてしまったのさ」
由紀子はジーンと総身がしびれるような気がした。ああ、この男は慎策を見たのだ。そして慎策の身分素姓も知ってしまったのだ。
「で――? どうしたとおっしゃるの?」
「おいおい、白《しら》ばくれるのはよせよ。あの男はおまえの恋人だろう。しかもありゃ、おまえにとっては兄の敵《かたき》だぜ。だが、おれはそんな野暮なことは言わねえつもりだ。恋のためにゃ恨みも忘れる。な、そこだ。おれは金が欲しいんだ。じつは慎策――たしか慎策とかいったな。あいつにたびたび手紙を出したが、畜生返事も寄こさねえ。で、おまえに取り次いでもらいたいんだ。耳をそろえて、五千両、安い口止め料だ。なあそれを慎策に出させてもらいてえんだ」
ああ、どうしよう、どうしよう、それでは珠実を殺し、兄を獄死させたのは慎策だったのか。兄の敵――しかし、その人は今じゃ自分にとってはかけがえのないいとしい恋人。
「おい、返事のないのは不承知か、それともおれの言葉を疑っているのかい。おりゃなにもかも知っているんだ。慎策が急に洋行したのは、珠実が殺されてから一ヵ月ほどのちだった。あいつは珠実に関係があったにちがいねえんだ。どうだ、これでも取り次ぐのはいやか」
「よしよし、その取り次ぎならわしがしてやるよ」
あっと叫んで須山と由紀子がうしろを振り返った。と、そこに立っているのは由利先生と三津木俊助。ああ、もうなにもかもおしまいだ。由利先生にすっかり聴かれてしまったのだ。所詮《しよせん》、あのかたは助からぬ。――由紀子はみるみる蝋《ろう》のように真っ蒼になってしまった。
五
「三津木君」
「はい」
「この畜生を、警視庁へ連れていってくれたまえ。自分から幾代殺しの犯行を自白しているのだから大助かりだ。由紀子さん」
「は、はい……」
「さあ、帰りましょう。われわれは慎策君の依頼で、あなたを迎えにきたのですよ」
「し、慎策さんの……」
「そうです。あなたはさっきの手紙を机の上に置いたまま出てきたでしょう。慎策君がそれを見つけて大騒ぎをしているところへ、われわれが行き合わせたのです。慎策君はあなたの身を気遣って、自分で来たがったのだが、ちょうど老夫人の容態が急変したので、われわれが代わりに来たのです。さあ、帰りましょう」
「まあ、小母さまが……」
「おいおい」
そのとき、やっと勢いを取りもどした須山謙吉が、せせら笑うように毒づいた。
「おれを警視庁へ連れていくのはいいが、そうなると可哀そうだが、慎策のやつもそのままじゃおかねえぜ。ふふふ、藪《やぶ》をつついて蛇《へび》を出すたあこのことだ。わかってるだろうな」
「黙れ。三津木君、早くそいつを連れていきたまえ。さあ、由紀子さん、帰りましょう」
由紀子は表に待たせてあった自動車に乗ったが、その胸は千々に砕けるばかり、兄の恨みと己れの恋の板ばさみになって、かよわい彼女は地獄の猛火に焼かれる思いだった。それにしても、由利先生はさっきの話を聴いたのだろうか。聴いたとしたら、なぜ、なにも言わないのだろう。
「せ、先生」
「なんです?」
「先生はさっきの話をお聴きになりまして? 今の男が言った言葉を。――」
「聴きましたよ。だがね、由紀子さん、あなたはそのことでなにも心配することはないのです。あなたはまだなにも御存じない」
由利先生は慰めるように言った。
二人が川端家へ帰っていくと、中から慎策が転げるようにして迎えに出た。
「あ、由紀さん、無事だったか、早く、早く、母があなたに話したいことがあると言って待っているのです」
「慎策君、御容態は?」
「いけないそうです。あと半時間も持つまいという医者の言葉です」
由紀子はそれを聞くと棒を飲んだように立ちすくんだが、次ぎの瞬間、大急ぎで老夫人の病室へ駆けこんだ。
「小母さま。あたしよ、由紀子です。いま帰ってまいりました」
「由紀さん?」
老夫人は枕《まくら》からかすかに頭をずらすと、細い手で由紀子の手を握った。だれの眼にも、この老夫人がすでに死の一歩手前まで来ていることがわかった。
「由紀さん、わたしはあなたに謝らねばならぬことがあります。わたしは悪いことをしました。あなたのお兄さまを獄死させたのは、みんなわたしのせいですよ」
「な、なんですって?」
由紀子はふいに、顔をさかさになでられたような驚きに打たれた。老夫人の細い手を握った指がはげしく震えた。なにか言おうとしたが、舌が硬《こわ》ばって口を利けなかった。
「由紀さん、桑野珠実を殺したのはわたしですよ。いいえ、殺したと思っていたのです」
由紀子はふいに総身の毛がゾーッと逆立った。この人が――? この母にもまして優しい老夫人が――?
「いいえ、嘘《うそ》です、嘘です。そんなこと、そんなこと。あたし信じません。信じませんわ」
「由紀さん、ありがとう、あなたがそう言ってくれるのはうれしいのですが、でもほんとうなのです。そして、それが母のとるべきただ一つの道だったのです。あの女は慎策を誘惑しようとしました。わたしはあの女に、どんなに嘆願したでしょう。でもあの女は笑ってとりあってくれません。わたしは絶望のあまり、あり合うステッキであの女を殴ったのです。あの女は倒れました」
老夫人は咽喉がごろごろと鳴った。しかし彼女は必死となって、
「わたしはあの女を殺したと思いました。でも、わたしは少しも後悔しませんでしたよ、あなたのお兄さまのことさえなければ……」
痰《たん》が再び咽喉へからまってくる。老夫人は切なげに息をつなぎながら、
「あなたのお兄さまが捕らえられたと聞いたとき、わたし、どんなに苦しんだでしょう。幾度かわたし自首を決心しましたが、とうとう、その勇気が出ないうちに、お兄さまは亡くなられたのです。わたしは悪いことをしました」
「小母さま、いや、いや、そんなことをおっしゃっちゃいや。あなたはわたしのお母さまです。なにもおっしゃらないで」
由紀子は老夫人にしがみついてむせび泣いた。老夫人は軽くそれを制しながら、
「ありがとう、でも、言わせておくれ、お話すればわたしの心が軽くなるのです。わたしはどんなに苦しんだでしょう。あなたを引き取って面倒を見たのも、みんな罪滅ぼしのつもりだったのです。そんなことで消えるほど軽い罪ではなかったけれど」
「いいえ、小母さま、あなたがあの女を殺したとしても決して罪ではありませんわ。あんな、あんな悪い女ですもの――」
「由紀さん、わたしの言っているのはそのことではありません。お兄さまのことです。わたしはあの女のことでは少しも後悔してはおりません。ほんとうに、わたしが殺したとしても。でも、実際はわたしが殺したのではなかったのです」
「え?」
「わたし、幾代という女から聞きました。このあいだの晩、あの女は死ぬ間際に告白したのです。珠実はわたしに殴られていったん気絶したけれど、あとで息を吹き返したのです。それを、幾代がまた殴り殺したのです。長いあいだ、わたしはそうじゃないかと思っていたんですけれど……」
だが、老夫人はもうそれ以上つづける気力がなくなっていた。それはあまりにも奇怪な話なのだ。疲労と、困憊《こんぱい》が死の翼となってすでに彼女を包んでいる。老夫人はあせって、幾度か舌を動かしたが、それは声のない言葉として唇を漏れるばかり、見るに見かねて、由利先生が前へ進み出た。
「奥さん、あとはわたしが話しましょう。ちがっていたら手を振ってください。あなたは長いあいだ幾代に脅迫されていた。そのあいだに、あなたはしだいに幾代に疑いを抱きはじめた。そこであの女の迷信深いのを幸い、このあいだの晩、お芝居をして、あの女に告白させようとしたのですね」
老夫人はかすかにうなずく。
「あなたは由紀子さんの日記を見られた。そして由紀子さんが黒衣の人にたいして深い信仰を持っているのを知って、みずから黒衣の人になって、あんな手紙を由紀子さんのところへ送ったのですね」
由紀子は驚いた。それじゃ黒衣の人というのはこの川端老夫人だったのか。
「そうですよ、由紀子さん。あなたが蓼科で会ったというのは、魔術師でもなんでもない。ただ普通の、物好きな紳士で、あなたの身の上話をおもしろがって聞いただけのことなんでしょう。それをあなたが勝手に神秘に空想していられた。そこで老夫人は、できるだけ事件を神秘にして、そうすればきっとあなたが命令どおりするだろうと、碁石のことなんか、考えついたんです。むろん、あの老婆というのも老夫人だったのですよ。つまり、あなたが神秘感にとらわれていればいるほど、お芝居の効果はあがる。幾代は恐怖におののくだろう。そしてすべてを告白するだろうと、こう思われたのです。で、老夫人は新宿で提灯と釣鐘草を渡すと、すぐその足であなたより先に荻窪へ行かれたが、そのときには幾代がすでに死にかけていたのです。わかりましたか」
「そうです」
慎策は深い悲しみに打たれながらも言った。
「わたしはあの夜、母のそぶりがおかしいので、荻窪の屋敷へ行ったのです。母が由紀子さんの面倒を見ていると知ったときから、わたしはなんとなく母の秘密に気がついていました。しかし、ミモザの木の下に立っている由紀子さんを見たときだけは驚きました。わたしもてっきり珠実の幽霊だと思い、幽霊が幾代を殺したのだと、愚かにも考えてしまったのです」
「由紀子さん」
そのとき、老夫人が再び縺《もつ》れる舌で、
「わたしを許しておくれ、慎策」
「はい」
「わたしの罪の償いをおまえ代わってしてくれるだろうね。由紀さん」
「はい」
「慎策は純潔です。珠実に誘惑されはしなかった。わたしがそれを救ったのです。信じてくれますわね」
「はい。信じますわ」
由紀子は老夫人の手を握りしめたまま、よよとばかりに泣き伏した。
「ありがとう。これでわたしも安心して死ねます」
その言葉とともに、川端老夫人は深い深い溜息《ためいき》を吐いた。その溜息こそ、哀れな母が長いあいだ胸に溜めていた憂悶《ゆうもん》を一時にこの世に向かって吐いたものだった。
それから老夫人はがっくりと眼をとじたのであった。
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[#見出し] 嵐《あらし》の道化師
心中一歩前
物すごい大雷雨だった。翌日の新聞の伝えるところによると、東京市内の落雷二十三ヵ所という、じつに近来にない大雷雨だった。
その日は朝からむしむししたが、昼すぎに及んで、西の空から妙に暑苦しい雲がはみ出してきたかと思うと、じりじりとこれが東京の空いっぱいにひろがり、耐えがたい息苦しさを覚えたが、四時ごろになって果然大雷雨になった。
滝のごとく落下する雨、攻め太鼓のようにとどろく雷鳴、はためく稲妻、四界|暗澹《あんたん》として、さながらこの世の終わりかと思われるばかり。
こういう大雷雨の中に、サーカスのテント小屋が一つ、今にももみつぶされそうに立っている。ところは砂町の片ほとり。旗も幟《のぼり》もとうの昔に吹きちぎられ、テントの裂け目から降り注ぐ豪雨に、場内は早や一面の水浸し、いや、じつに惨澹《さんたん》たるありさまだ。
旅から旅へ渡り歩くサーカスにとって、なにが頭痛の種だといって、雨ほど困るものはない。ましてや今日の大雷雨、座員一同は恨めしそうに宿へひきあげていったが、しかし、そのあとに、人眼をしのぶような二人の男女が残っていた。
一人はこの座の花形で、環《たまき》という可愛い娘、桃色の肉|襦袢《じゆばん》に派手なガウンを着て、サーカスの女特有の、毒々しい粧《よそお》いはこらしているが、どこかあどけなく上品なところがある。
もう一人は藤代辰弥《ふじしろたつや》といって、一年ほど前から、このサーカスの行く先々へ、きっと一度は、環に会いにくる金持ちのお坊ちゃん、さてこそ他の連中は、気を利かしたつもりで、二人をおいていったものだが、今の二人はそれどころではなかった。
「辰弥さん」
ふいに女は涙にうるんだ眼をあげた。
「すみません、すみません。あたしあなたがお気の毒で、お気の毒で。……あたしのような女のために、先のあるあなたがこんなことになってしまって、それを思うとあたし胸が張り裂けるようですわ」
と、よよとばかりに男の膝《ひざ》に泣き伏した。辰弥はその背中をなでながら、これまた涙に眼をうるませて、
「なにを言うのだ。そんな水臭いことを言うと、ぼくはかえって恨みだよ。きみといっしょに死ねるのなら、ぼくはこんなうれしいことはない」
「いいえ、いいえ、そんなことはありませんわ。あたしはしがないサーカスの娘ですけれど、あなたはこれから先、いくらでも出世のできるお体なんですもの。それを思うと、あたし、あなたというかたを知らずにおけばよかったと思いますわ」
と、言ったものの、すぐまたはげしく頭を振って、
「いや、いや、やっぱりそうじゃないわ。あなたというかたを知らなかったら、あたしの生涯《しようがい》はどんなに淋《さび》しいものでしょう。あなたのおかげで、たといわずかのあいだでも、この世の楽しみを味わったのですもの。あたしもうなんの未練もないけれど、ただあなたがお気の毒で、お気の毒で、……」
絶え入りそうに泣きむせぶのを、男は少し言葉を強めてたしなめた。
「またそれを言う。それを言われるとぼくは身を切られるより辛《つら》いよ。サーカスの娘、サーカスの娘と、環ちゃんは自分を卑下《ひげ》するけれど、きみをサーカスの娘にしたのはいったいだれの罪なんだ。みんなぼくの親爺《おやじ》じゃないか。親爺がきみのお父さんの財産を横領して、……」
「あれ、そのことはもう言わないでちょうだい。そんなことはみんな、あたしたちの知らない昔の出来事なんですもの。それよりあたしただ一つ心がかりはお父さんのこと」
「そうだ、それなんだ。ぼくも自分の親爺より、環ちゃん、きみのお父さんのことが気がかりなんだよ。お父さんにとっては、環ちゃんこそこの世にたった一つ残された大事の宝なんだ。それをこのぼくに奪われたと知ったら、どんなにぼくを恨むだろう。親爺には財産を奪われ、息子には娘を奪われ……ぼくはきみのお父さんが気の毒で、気の毒で。……」
と、しばらく二人は涙に沈んでいたが、やがて女のほうがほっと顔をあげ、
「もうそんな話よしましょう。それよりもっと楽しい話をしましょうよ。ねえ、あれからもう一年になるわね」
「うん、去年の夏だったね」
「あたしたちが上諏訪《かみすわ》で興行していたとき、あなたもあそこへ避暑にいらしてて、毎日見にきてくだすった。そしてだんだん話をするようになり、まもなく一座が福島へ行くと、あなたがあとから追いかけてきてくだすった。ああ、あのときのうれしかったこと!」
「あのとき、ぼくはもう居ても立ってもいられなかったんだよ」
「それから名古屋までついてきてくだすって、そこでお別れしたのだけど、また十月に東京で会うことができて。……ほんとにあの時分は楽しかったわ。敵《かたき》同士だなんてこと、夢にも知らなかったんですもの」
「敵同士――ほんとに妙な縁だったねえ」
辰弥は深い溜息をついたが、やがて女の肩を抱きよせると、
「環ちゃん、いつまでこんなことを言っていてもきりがない。人の来ぬまに、……」
「ええ、いいわ」
と、眼にいっぱい涙をたたえながらも、女はにっこと笑ってみせた。すると男がポケットから取り出したのは二つの紙包み、用意のコップに水をくみ、その中にサラサラと白い粉末を溶解した。
二人は今、無謀にも心中しようというのだ。どんな深い事情があるのか知らないが、若い身空でさりとは無分別な。――おりから雷鳴はいよいよはげしく、テントを漏れる雨は滝のように二人をぬらし、おりおりさしこむ稲妻の物すごさ。
「この雷が念仏代わりね」
「ほんとに呪《のろ》われた二人の最期には、おあつらえ向きの伴奏だよ」
と、男は笑ったが、
「環ちゃん」
「辰弥さん」
と、手にしたコップをめいめい唇へもっていく。ああ、危ない、危ない、そのコップの一滴でも、唇の中へ滑りこんだら、若い生命はもうこの世のものではない。覚悟の上とはいいながら、さても危ない。……
だが、このときである。
疾風のように表から躍りこんできたものが、いきなりさっと環の体に飛びついたから、
「あれえ!」
と、叫んで男の体にすがりつくはずみに、環は思わず二つのコップをたたき落とした。あっと二人は驚いたがあとの祭り、薬を溶かした大事な水は、すでに楽屋の破れ畳に吸いこまれて。――
だが、それよりも気になるのは、いま環にとびついた怪物だ。環はこわごわ振り返ったが、
「おや、まあ、おまえクロじゃないか」
と、ふいに頓狂《とんきよう》な声を突っ走らせた。
「なに、クロ!」
男は仄暗《ほのくら》がりに瞳《ひとみ》を定めたが、いかさま、それは環の父が日ごろから可愛がっている、子牛ほどもあろうという大きな犬だ。
「クロや、いけないわねえ。おまえがだしぬけに飛びつくものだから、薬を台なしにしたじゃないか。おや、おまえなにをくわえているの」
環が尋ねると、クロはだしぬけにワンと吠《ほ》えて、くわえていたものをポロリと落とした。環は何気なくそれを拾いあげたが、ふいにあれえっと叫んでうしろへ飛びのく。
「ど、どうしたの、環ちゃん」
「だって、だって、クロがあんな恐ろしいものをくわえてきて……」
と、震えながら女の指すほうを見て、辰弥もあっと呼吸《いき》をのんだ。仄暗い畳の上に、ポコリと転がっているのは、恐ろしや、人間の血塗《ちまみ》れ小指。――
引きずる死体
「クロ! おまえこんなものをどこからくわえてきたのだ」
だが、もちろん犬がそれに答えるはずがない。クロはしばらくうろうろと、忙しく二人の周囲をまわっていたが、やがて、ワン、ワンとふた声ほど、空を向いて吠えたかと思うと、いきなり環の裾《すそ》をくわえて外のほうへ出ようとする。
「あれ、いやよ、クロ、なにをするの」
環が邪険に振り払うと、クロは恨めしそうにじっとその顔を見ていたが、やがて五、六歩表へ出ると、そこでまたくるりと振り返って、哀願するようにはげしく吠える。その様子がどう見ても唯事《ただごと》ではない。
「まあ、どうしたんでしょう。クロがあんな様子をするのは、とても唯事じゃありませんわ」
「いったい、クロはどこから帰ってきたんだろう」
「さっきお父さまが連れて出たはずなのよ。あっ、もしや、お父さまが……」
環はさっと蒼《あお》ざめる。
「待ちたまえ、ちょっと、その指……」
辰弥は気味悪そうに、落ちている小指を拾いあげて、
「環ちゃん、きみ、この指に見覚えない?」
「あれえ!」
環はひと眼見るや思わず呼吸を弾ませて、
「それたしかにお父さんの右の小指よ。ほら爪《つめ》が半分なくなってるでしょう。これがたしかな証拠よ!」
「わかった! お父さんがどこかで大|怪我《けが》をしていらっしゃるんだ。それでクロが知らせに帰ってきたんだよ」
「まあ、あたしどうしましょう」
「どうもこうもありゃしない。これからすぐクロを案内にしてお父さんを探しにいきましょう」
「あなたも行ってくだすって?」
「むろん、行きますよ」
心中はこれで一時お預け。人間にはなにが幸いになるかわからない。もしこのときクロが飛びこんでこなかったら、二人はいたずらに心中者の汚名を天下にさらしていたことだろう。
二人が立ち上がると、クロはいかにもうれしげに二声三声吠えておいて、それからまっしぐらにテントの外へ走り出した。戸外は依然として猛烈な大雷雨、はためく雷鳴は耳も聾《ろう》するばかり、雨は沛然《はいぜん》と降りしきり、暗然として三|間《げん》先とは見通せない。
そういう中を一匹の犬と二人の男女は、全身ズブぬれになって走っていく。クロはおりおり立ち止まって、促すように吠えながら、また先に立って走っていく。砂町から海辺町、扇橋から白河町と、クロの目指す方向に気がつくと、二人はしだいに不安になってきた。
「ねえ、辰弥さん、これお宅の方角じゃない?」
「ふむ、そうらしいけど、まさか……」
と、辰弥も不安らしく声を震わせたが、そのときだ、先に立ったクロが、二声三声吠えながら、まっしぐらに駆けこんだ家を見て、二人はぎょっとして雨の中に立ちすくんだ。
「ああ、やっぱりお宅よ!」
「よし、行ってみましょう」
二人も大急ぎで、大きな石の門をくぐった。奥のほうでけたたましいクロの声が聞こえる。
「まあ、だれもいないのかしら。女中さんや書生さんはどうしたんでしょう」
「奥のほうへ行ってみましょう」
そこで二人は庭から奥へ回ったが、見ると開放した十畳の奥座敷を、クロが気違いのように飛び回っている。
「まあ、クロったら!」
言いながら環はひょいと座敷の中をのぞいたが、そのとたん、あっとばかりに辰弥の胸にすがりついた。
座敷の中は大乱脈なのだ。一面にベタベタと血が飛んでいて、しかも縁側にはべっとりと血を吸った刃物が落ちている。しかも環にはその刃物に見覚えがあった。それこそまさしくもサーカスの曲芸に使う両刃ナイフではないか。いよいよ唯事《ただごと》ではない。この血の量から考えて、ここで人殺しがあったことはたしかだが、それにしても死体はいったいどこへ行ったのだろう。
辰弥も環も、真っ蒼になってしまったが、するとそのとき、さっきから座敷の中で嗅《か》ぎ回っていたクロが、一声高くうそぶくと、再びさっと雷雨の中へ飛び出した。……
ちょうどこれと同じころ。
清澄公園から河岸のほうへ、奇妙な影が走っていく。だんだら染めのトンガリ帽に、紅《あか》い水玉模様の道化《どうけ》服、――道化師なのだ。顔を壁のように真っ白に塗って、両の頬《ほお》には赤い日の丸、眼の上と鼻のあたまには菱形《ひしがた》に墨を塗り、口はうんと大きく紅と墨でなぞっている。
そういう道化師が、おりからの大雷雨を縫って、こけつ転《まろ》びつ走っていく。見ると片手になにやら引きずっているのだが、彼が過ぎゆくあとを見ると、点々として赤い滴《しずく》が垂れている。ああ、なんということだ、その道化師が引きずっているのは一個の死体ではないか。
道化師はやがて、清洲《きよす》橋の袂《たもと》までやってきたが、と、このとき、小名木川を渡って足早やに、こちらのほうへやってくる人影が見えた。それを見ると道化師は、ぎょっとしたようにあたりを見回したが、幸い眼についたのは一枚の古蓆《ふるむしろ》、道化師はすばやくそれを死体にかけ、川へおりる石段のほうへ押しやった。
人影はしだいにこちらへ近づいてくる。三十二、三の青年で、傘《かさ》もささず、帽子から洋服からズブぬれになったまま、うつ向き加減にやってきたが、橋の袂に立っている道化師の姿を見ると、ぎょっとしたように立ち止まった。
道化師は素知らぬ顔で水の面をながめている。なにしろ真っ白に塗りたてているので、どんな表情をしているのかさっぱりわからない。
青年はいぶかしそうに道化師の姿を見ていたが、なにしろこの大雷雨だ。一刻もじっとしてはいられない。そこで再び足早やに、清洲橋を向こうへ渡っていったが、そのうしろ姿を見送っておいて道化師、再び死体を抱きあげると、タラタラと苔《こけ》で丸くなった石段をおりていった。
見ると、そこには一|艘《そう》のモーターボートがつないである。道化師はそのモーターボートの中へ死体を投げこむと、自分もひらりと飛び乗ったが、そのときだ。さっきの青年が急ぎ足にこちらへ引き返してきた。
やっぱり道化師の様子が気になったらしいのだ。橋の欄干から下を見ながらタタタタタとこちらのほうへ近寄ってきたが、モーターボートの上まで来ると、あっと叫んでその場に立ちすくんだ。
と、このとき、けたたましい犬の声が聞こえたかと思うと、降りしきる豪雨の中からさっと躍り出した黒犬が、まっしぐらに石段を駆けおりると、今しも綱を解いて滑り出そうとするモーターボートへひらりと飛び移った。
「あっ!」
と道化師の驚愕《きようがく》に満ちた叫び声。
それを見ると青年は、急いで橋を渡って石段のところまで来たが、そこでバッタリ出会ったのが辰弥と環の二人づれだ。
環はひょいとモーターボートの上を見て、
「あれ、お父さま!」
と、叫んだ拍子にダダダダダと、モーターボートはエンジンの音をとどろかせて河岸から離れた。おりから雷雨はいよいよはげしく、隅田川は蒼茫《そうぼう》と雨にけむって、モーターボートはまたたくうちに見えなくなった。けたたましい犬の声を川上に流しながら。……
あとには三人の男女が、呆然《ぼうぜん》として立ちすくんでいたが、やがて青年がふと二人のほうへ振り返ると、
「失礼ですが、あなたがたは今の男を御存じですか」
「はい、あの……」
と、辰弥が思わず口ごもるのを、青年はジロリと鋭い目で見て、
「たしか今お嬢さんは、あの男にお父さんとおっしゃったようですね。なに、いずれわかることですから、正直にお話しくだすったほうがいいのですよ。ぼくはこういうものですが。……」
と、取り出した名刺を見ると、
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新日報社会部記者
三津木俊助
[#ここで字下げ終わり]
この男こそ、いま帝都新聞界きっての腕利きといわれる花形記者、三津木俊助だった。
満州から来た男
雨はあがった。大雷雨は去った。そして東京じゅうに落雷の惨害を残して、恐ろしい一夜は明けたが、そこでまたもや人々は新たなる恐怖に襲われたのだ。
――大雷雨中の殺人事件――犯人は死体を抱いて逃走す――隅田川雷雨中の大捜索。――
そんな活字が新聞という新聞にでかでかとならんで、今さらのように人々を脅かした。
昨夜から今朝へかけて、隅田川から東京湾、さらに隅田川の支流など必死の捜索がつづけられたが、あの奇怪な道化師を乗せたモーターボートはいまだに杳《よう》として行方がわからない。おそらく死体は水中深く投げこまれたのだろうが、これまたいまだにあがらないのだ。
こうして川上に大捜索をつづける一方、清澄公園の裏側にある、藤代哲蔵の邸内でも、昨夜からひきつづききびしい尋問が行なわれ、付近一帯は上を下への大騒ぎだ。
「おいおい三津木君、こんどもまた、きみに出し抜かれたな」
そういう藤代家の応接間へ、今日も朝早くからつめきっている俊助の肩をポンとたたいたのは、警視庁でもその人ありと知られた等々力警部、俊助とは肝胆相照らす仲だった。
「おい、等々力君、きみはいつ帰ってきたんだ」
「今朝早く急行で帰ってきたんだ。地方へ出張しているところを電報で呼びもどされ、眠るまもありゃしない。ああ眠い、眠い」
警部は生《なま》欠伸《あくび》を噛《か》み殺しながら、
「しかし、相変わらずきみの敏捷《びんしよう》なのには驚くぜ。こんどもまた警察を出し抜いたというじゃないか」
「なあに、偶然行きあわせたんだよ」
「そうだってね。で、三津木君、ぼくはひとつ、きみから事件の顛末《てんまつ》を訊《き》きたいのだがね。新聞も読んだし、本庁でもあらかた訊いてきたんだが、やっぱりきみの口から訊くのがいちばん本筋だからな」
「ああ、いいとも、お安い御用だ」
「いったい、被害者の息子辰弥という男と、加害者の娘、環というのはどんな関係なんだ」
「それが、よほど深い仲らしいんだが、驚くな、あの二人は昨日心中をしようとしていたんだぜ」
「なに、心中?」
これには警部も驚いたが、すぐふうむと太い息を鼻から漏らして、
「よほど入りまじった事情があるらしいな」
「そうなんだよ。じつはぼく、今朝ほど環という娘の属しているサーカスの小屋へ出向いていったんだがね、そこで二通の遺書を発見したんだ。辰弥と環がめいめい父親に宛《あ》てて書いた遺書なんだが、それによると環の父の栗島《くりしま》陽三という男は、辰弥の父藤代哲蔵に対してだいぶ深い怨恨《えんこん》を抱いていたらしい。それやこれやでいっしょになれぬのをはかなんで、二人は心中を決心したらしいんだね」
「ちょっと待ってくれたまえ、その栗島陽三という男は、サーカスの道化師だろう。ところで一方藤代哲蔵といえば、この辺ではかなりの資産家という話だが、サーカスの道化師と資産家、どうもこれは妙な取り合わせじゃないか。いったい二人はどういう関係があるんだね」
「そこまでは遺書だけではわからない。環か辰弥に訊いてみるよりほかに道はないが、二人とも非常に興奮していて、とても尋問に答えられそうにないんだ」
と、二人がそんな話をしているところへ、刑事の一人があわただしく近づいてきた。
「警部さん、こういう男が、藤代哲蔵に会いたいと言ってきているんですが」
と、差し出した名刺を見ると、
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満蒙《まんもう》鉱業会社社員
藤代善平
[#ここで字下げ終わり]
「ほほう。藤代という姓を名乗るところをみると、被害者の親戚《しんせき》かな。で、その男は主人の殺されたことを知らないのかい?」
「ええ、そうらしいんですよ」
「よし、じゃちょっと辰弥をここへ呼んでくれたまえ」
刑事が出ていくと、まもなく辰弥が入ってきたが、おお、一夜のうちになんというひどい変わりかただろう。頬はげっそり落ちくぼみ、眼は異常に血走って、唇はわなわなと震え、まるで廃人同様の相好《そうごう》だった。
「辰弥君、きみはこういう男を知っているかね」
辰弥は名刺を見ると、力なくうなずいて、
「知っています。父の弟、つまりぼくの叔父《おじ》にあたる人です。長らく満州のほうへ行っていたのですが、近いうちに一度東京へ帰るから、その節はぜひ寄ると一月ほど前に言ってきていました」
「なるほど」
警部は俊助とちょっと眼を見交わしたが、すぐ刑事に向かってその男を連れてくるようにと合図をする。
藤代善平。――その男は年ごろ四十二、三の、痩《や》せぎすの、背の高い紳士だったが、応接室へ入ってくるなり、いかにも不思議そうな眼で警部と俊助の顔を見比べていたが、ふとその眼を辰弥に移すと、
「おお、おまえは辰弥じゃないか。そうだ、たしかに辰弥だね、長く会わないがわたしを忘れやしまいな。おれはおまえの叔父の善平だよ。どうしたんだ。妙に浮かぬ顔をしているが、親爺《おやじ》はどこにいるんだい」
辰弥は無言、警部も俊助も黙って相手の顔を凝視している。善平もこのただならぬ空気に気がついたものか、ちょっと気まずそうな咳《せき》をして、
「辰弥、なにがあったのかね、妙に家のまわりがごたごたしているようだが、この人たちはどういうおかただね」
「藤代さん」
そのときふいに警部が横から声をかけた。
「あなた、今日の新聞を御覧になりませんでしたか」
「新聞? いいえ、いま東京駅へ着いたばかりですから――」
と、言いかけてにわかにさっと顔色を変えた。
「おお、それじゃもしや兄貴は――?」
「そうです。昨日殺害されました。目下《もつか》その死体を捜索中なんですが、あなたは犯人の心当たりがあるでしょうな」
「あります」
「だれですか。それは」
「栗島陽三、目下サーカスの道化師をやっているそうです」
「どうしてあなたはそんなことを知っているんです」
「兄貴の手紙で知ったのです。兄貴はだいぶそのことで頭脳《あたま》を痛めていました。なんでも辰弥が、偶然陽三の娘と恋仲になったとやらで」
「いったい、その陽三という男はあなたの兄さんとどういう関係があるんですか」
「それは――」
と、善平が言い渋っているときだ。表のほうがにわかに騒々しくなったので、何事が起こったのだろうと、一同が思わずドアのほうを振り返ったとたん、よろよろとよろぼうように駆けこんできたのはまぎれもない猛犬クロ。
「あっ、クロ!」
辰弥はそれを見るより思わずそばへ駆け寄ったが、そのとたん、クロはううと逆毛を立てて、低い唸《うな》り声をあげたが、それきりばったりと床の上に倒れた。見ると横腹に深い傷を負うて、むごたらしく血がこびりついている。
蔵の中地獄
「辰弥さん、あたしたちはなんという不幸な生まれでしょうねえ。こんなことになると知ったら、あのとき死んでしまったほうが、どれくらいましだったか知れやしないわねえ」
「環ちゃん、もうそのことは言わないでおくれ。ぼくはもうなにを考えるのもいやになった」
ここは藤代家の邸内にある蔵の中、辰弥と環は今夜も手を取りあって身の不幸を嘆きあっている。あれから早くも一月たったが、いまだに環の父陽三の行方もわからなければ、辰弥の父哲蔵の死体も発見されなかった。藤代家ではあんな恐ろしい出来事があったので、召使はみんな怖がって暇をとり、今では辰弥がただ一人、叔父の善平さえ気味悪がって、ホテルに泊ったきりめったにここへやってはこない。そこで警察では気を利かして、この家へ環を預けることにした。陽三が生きていたら、いつか環のもとへ帰ってくるだろうという肚《はら》で、さてこそ藤代家にはいつも刑事が一人張りこんでいる。
思えば二人は因果な仲だった。
環の父陽三と、辰弥の父哲蔵とはその昔大学時代の同窓だった。二人は姿かたちがたいへんよく似ていたところから、クラスでも双生児と呼ばれていたくらいだが、そういうことから二人は固く結びついたが、やがて大学を出ると、陽三は哲蔵をともなって郷里北海道へ帰っていった。陽三の家は北海道でも有名な大地主で、広大な牧場なども持っていた。
それに反して哲蔵のほうは大学も苦学で出たくらい、さしあたり就職の口を求めねばならぬ身分だったが、そこを陽三が救いあげて自分の土地の管理人にしたのである。これがそもそもの間違いのもと、お坊ちゃん育ちの陽三が、すっかり哲蔵を信用して、万事まかせ切っているうちに、土地財産、すべて哲蔵のものになっていた。
このときの陽三の驚き、幾度か彼は法廷へ持ち出したが、なにしろ歴とした譲渡証書があるのでどうにもならない。まもなく陽三は無一文で投げ出されてしまった。それからのちの彼はただ転落の一途である。元来お人よしのうえに、数年にわたる訴訟|沙汰《ざた》にすっかり意気消沈してしまった彼は、することなすことがへまつづきで、ついには悲しい笑いを売るサーカスの道化師とまで落ちぶれてしまったのだ。環はこのサーカスで知りあった女とのあいだに生まれた娘。
一方、陽三の財産を奪った哲蔵は、その後ますます辣腕《らつわん》をふるって、見る見るうちに身代《しんだい》をこさえあげたが、やがて潮時をみて全財産を金に換えると、東京へひきあげてきてそこで結婚した。そして辰弥が生まれたのである。
さすが腹黒い哲蔵も、昔のことを思えばうしろめたい。また陽三の恨みも恐ろしかった。だから東京へ帰ってからも、なるべく人づきあいをせぬよう、こっそり隠れるように暮らしていたのだが、なんという運命の悪戯《いたずら》だろう。なにも知らぬ子供たちが偶然恋仲になったところから、お互いに現在の境遇や居所を知るにいたったのだ。
哲蔵も年をとれば往年の意気はなく、今さら陽三の復讐《ふくしゆう》が恐ろしくてたまらず、さてこそ心の不安を満州にいる弟に知らせてやったのだが、果然その予想は的中してこんどの惨劇。
「それにしてもお父さんはどうしたのでしょう。あんな恐ろしいことをしたのだから、きっと今ごろまで、生きてはいまいと思いますけど」
「お父さんも気の毒な人だねえ。あんなに気の弱かった人が、ああいう恐ろしいことをしたのだからよくよく恨みも深かったのにちがいない。思えばぼくは、自分の親爺が恨めしいよ」
二人が夢中で話しているときだ。突如蔵の外でけたたましい犬の吠え声。
「おや、どうしたんだろう。クロがにわかに吠え出したが……」
クロもあれ以来、いくらか元気を回復して今では環といっしょにこの邸《やしき》へ引き取られているのだ。
「変ねえ、近ごろめったに吠えないクロが、あんなに気違いみたいに吠えるなんて……」
なんとなく二人が胸騒ぎを感じた瞬間、ふいになんともいえぬ異臭がプンと鼻をついた。ガスだ! しかし、こんな蔵の中にガスが漏れてくるはずはないが、あたりを見回した二人は、ふいにあっと呼吸をのみこんだ。
高い窓のところから、鉛管が一本、蛇《へび》のようにゆらりと垂れている。ガスはそこから入ってくるのだ。
「あれ! 辰弥さん!」
「大丈夫、環ちゃん大丈夫だ、しっかりしておいで」
叫びながら辰弥は戸のほうへ突進したが、ああなんということだ。いつのまにやら、戸は表からピッタリと締められている。
「しまった! だれかがぼくたちを殺そうとするのだ!」
「あれ、辰弥さん、辰弥さん」
環が犇《ひし》と男の体にすがりついたときである。ふいに窓があいて、ヌーッと中をのぞきこんだのは、真っ白な顔――ああ、道化師の顔なのだ。
「あれ、お父さま!」
環は思わず叫んだが、そのとたん道化師はニタリと笑うとピッタリ外から窓を締めた。
「ああ、小父《おじ》さん、小父さん、待ってください。ぼくは殺されてもかまいませんが、環ちゃんはあなたの娘です。環ちゃんだけは助けてあげてください。小父さん、小父さん、お願いです」
「いや! いや! 辰弥さん、あたしも死にます。あたしもあなたといっしょに死にます。お父さんは気が狂っているのですわ」
「ああ、環ちゃん!」
「辰弥さん!」
二人は犇《ひし》と抱きあったが、しだいにガスの濃度が増していくのだろう。耐えがたい息苦しさ、手足がジーンとしびれてきて、やがて意識も朦朧《もうろう》となってくる。
と、このときだ、再び窓がひらいたかと思うと、またもや道化師が中をのぞいたが、見るとこんどは防毒マスクをかけている。彼はしばらく蔵の中をながめていたが、やがて縄梯子《なわばしご》を下に投げると、それを伝っておりてきた。そしてなかば知覚を失っている環の体を抱きあげると、再び窓から抜け出して、それきりどこかへ立ち去った。
あとにはほの暗い電燈が、苦悶《くもん》にゆがんだ辰弥の顔を、ものすごく照らしている。
蔵の外では、クロがけたたましく吠える声、ジャラジャラと鎖を引きずる音ばかり。
クロの活躍
ちょうどそのころ、この藤代邸を目指してやってくる二人づれがあった。
一人は三津木俊助だが、いまひとりは雪白の頭髪をいただいた老紳士。
「いや、三津木君、ぼくも大阪にいたが、だいたいのことは新聞を読んで知っているよ。早く帰ってきたかったのだが、なにしろ向こうの事件が片づかなくてね」
と、そういう老紳士を何人《なんぴと》というに、これぞ俊助が日ごろから恩師とも指導者とも仰ぐ由利先生。俊助が常に、難事件において、非常な成功をおさめるのは、この由利先生がついているからだという評判がある。
こんどの事件においても、俊助はしばしば由利先生のことを思ったものだが、あいにく先生は大阪へ出張中だったのでどうすることもできなかった。
その由利先生が今朝がたようやく帰京したので、さっそく俊助が引っぱり出してきたわけだった。
「そうですか。それじゃだいたいのことはおわかりでしょうが、事件はいたって簡単なんです。栗島陽三という道化師が、復讐《ふくしゆう》のために藤代哲蔵という金持ちを殺害した――、と、ただそれだけのことなんですが、問題はそれからのち陽三という男がどこへ行ったか、どうしてああも完全に姿をくらましたか――」
と、言いかけてふいに俊助はおやと首をかしげた。
「先生、犬の吠えるのが聞こえやしませんか」
由利先生もちょっと聞き耳を立てたが、
「おお、なるほど聞こえる。聞こえる。ずいぶんけたたましく吠えているようだな」
「あ、あれはたしかにクロの吠える声です。先生、なにか起こったにちがいありませんぜ」
そこで二人はいっさんに駆け出すと、まもなく脱兎《だつと》のごとき勢いで藤代邸へ駆けこんだが、見ると張り込み中の刑事が居ぎたなく涎《よだれ》を垂らして眠りこけている。俊助はいやというほど、その横腹を蹴《け》ったが、それでもまだ刑事は目を覚まそうとはしない。
「チョッ、だめです。先生ひょっとすると、だれかに一服盛られたんじゃありませんか」
「うん、それにしても辰弥や環はどこにいるんだ」
二人は家じゅう隈《くま》なく探したが、むろん二人の姿はどこにも見えない。俊助は早くも胸騒ぎを感じながら、
「そうだ、クロに訊いてみよう。クロがなにか知っているかもしれません」
庭へ出てみると、鎖につながれた猛犬が、今にもその鎖をひきちぎらんばかりに吠えているのだ。
「おお、クロか、どうした、どうした。おまえの御主人はどこへ行ったのだ」
鎖をといてやると、クロは猛然と土蔵目がけて突進して、がりがりと戸をひっかいていたが、ふいに妙な唸り声をあげて尻《しり》ごみする。由利先生と俊助はすぐさまその戸をひらいたが、とたんにあっと飛びのいた。顔も向けられぬ猛烈なガスの臭気! しかもそのガスの臭気の中に倒れているのは、まぎれもなく辰弥ではないか。
「しまった!」
叫んだ三津木俊助は、ハンケチで鼻を覆うと、いきなり中へ飛びこんで、辰弥の襟首《えりくび》をつかむと、ズルズルと外へ引きずり出した。由利先生はすぐさまそれを庭へ担ぎ出して、とりあえず人工呼吸をほどこした。
「だめですか、先生」
「さあ、なんともわからぬが、ともかくきみは隣家のものをたたき起こして、医者を呼ばせてくれたまえ。しかし、環はどうしたろう」
「環の姿は見えませんが、おや」
と、俊助はふと草のあいだからなにやら拾いあげたが、とたんにぎょっと眼をすぼめた。
「先生、こりゃ道化師の帽子ですぞ。さては陽三のやつが……」
「三津木君、そんなことを言っている場合じゃないぜ。早く、早く、医者だ、医者だ」
まもなく医者と警官が駆けつけてきたが、幸い手当てが早かったせいか、辰弥の生命はとりとめる模様だ。
それでほっとした由利先生と三津木俊助がクロはどうしたろうとあたりを見回していると、おりから、どこかへ行っていたクロが、再び駆けもどってくると、なにやら異様な声で吠える。
「先生、クロがどこかへ案内しようというんですぜ」
「ふむ。そうらしいな。ひょっとすると、環の居所を知っているのじゃないかな」
クロはそれを聞くと、いかにもそうだといわぬばかりに、二声三声吠え立てたが、やがて先に立って駆け出した。由利先生と俊助がそのあとから尾《つ》けていくと、クロが案内したのは清澄公園の西側、いつか道化師がモーターボートで逃げ出した河岸ぷちなのだ。ここまで来ると、クロは異様な声で吠え立てたが、やがてざんぶとばかり川の中へ躍りこんだのである。
沈むだるま船
「おや、すると環は川の上にいるのかな」
「ふむ、どうもそうらしいな」
二人が見ていると、クロは暗い水を切ってズンズン下流へ泳いでいく。見ると、一町ほど向こうを一|艘《そう》のだるま船が、ゆらりゆらりと流れていくのだが、クロの目指しているのはどうやらそのだるま船らしい。
「三津木君、その辺に舟はないか。どうもあのだるま船が気にかかる」
幸い公園の貸しボートがあった。そこでそれに飛び乗った二人は、大急ぎでだるま船とクロのあとを追ったが、見るとそのとき、クロはだるま船に追いついて、身振いしながらその上に駆けのぼったかと思うと、ふいにけたたましく吠え出した。いよいよ唯事《ただごと》ではない。
「三津木君、どうも変だ。あのだるま船はだれも漕《こ》ぎ手がいないらしいぜ。水のまにまに流されているらしい。おや」
と、由利先生がふいにボートから身を浮かしたから、驚いたのは三津木俊助、
「先生、どうかしましたか」
「三津木君、たいへんだ、大急ぎ、大急ぎ、あのだるま船は沈みかけているんだ!」
なるほど、だるま船の吃水《きつすい》は刻一刻と深くなっていく。やがてがくんと大きく揺れると船は斜めに傾いて、半分ばかり水に浸った。そこの上では、クロが気違いのように吠えている。
そのとき、ようやくボートはだるま船のそばへ漕ぎよったが、由利先生と俊助が、ひょいとそのだるま船の上を見ると、そこには二人の男女が相抱くように倒れているのだ。一人はまさしく環だが、もう一人は意外にも道化師の栗島陽三、二人とも生きているのか死んでいるのか身動きもしない。
俊助はひらりとそのだるま船に飛び乗ると、環と陽三の二人を順々に由利先生の手に渡し、自分はクロとともにひらりとボートに飛び移ったが、そのとたん、だるま船はがっくり傾き、ぶくぶくと水底深く沈んでしまった。
じつに危うい一|刹那《せつな》だった。
由利先生と俊助はそこで再びボートを漕ぎもどしたが、クロはもう気違いのようになって、環の顔と、陽三の顔を舐《な》め回っている。
「先生、二人とも死んでいるのですか」
「いや、二人とも生きてるよ。環はガス中毒らしいが幸いいたって軽微らしい。陽三のほうは眠り薬で眠っているのだ」
「なんですって、眠り薬を飲んでいるんですって?」
あまり意外な言葉に俊助は思わず叫んだ。無理もない、警察で必死となって探している当の本人が、眠り薬を飲んで眠っているなどとは、あまりにも大胆な振る舞いではないか。
だが、ちょうどそのとき、ボートはさっきの公園のわきまでやってきた。俊助がボートを河岸ぷちにつける。そして、環と陽三を担ぎ出そうとしていたが、そのときたいへんなことが起こったのだ。
先ほどからボートの中で、物すごい唸《うな》り声を立てていたクロが、ボートが河岸に着くと見るや、いきなり、さっと陸に飛びあがると、まっしぐらに公園の中へ躍りこんでいった。
驚いたのは二人だ。
「クロ! クロ!」
叫んでいるとき、突然公園の中からわっという悲鳴が聞こえたが、それにつづいてこけつ転《まろ》びつ、こちらへ逃げてくる人影、しかもうしろから、クロが牙《きば》を鳴らし、眼をいからせ、鞠《まり》のように躍りかかっているのだ。
「クロ! クロ!」
驚いて陸へ飛びあがった俊助の胸へ、
「助けてえ!」
と、よろめきかかった血塗《ちまみ》れの男、その男の顔を見て、俊助は思わず叫んだ。
「あっ、きみは藤代善平君!」
「なに? 藤代善平だって、三津木君、その男を殺しちゃいかん。そいつこそ兄、藤代哲蔵を殺した犯人なのだ!」
由利先生がボートの中から儼然《げんぜん》として叫んだのである。
「おれがどうしてあの男に疑いをかけたというのかね。なに、それはごく他愛ないことだよ」
事件が落着《らくちやく》したのち、由利先生は三津木俊助と等々力警部を前において語りはじめた。
「あの男が藤代邸へはじめて顔を出したとき、いま東京駅へ着いたばかりで、兄貴の殺されたことを知らぬと言ったね。わしはその記事を読んだときはてなと思った。あの日の朝刊には、藤代哲蔵の殺されたことが、でかでかとのっていたんだからね、その新聞を見ないというのはおかしい。いったい、旅行者というものは、汽車の中で、朝、眼を覚ますと、一番に新聞を買って読むものだよ。それで、こいつ少し妙だぞと思ったものだから、大阪から満州へ電報を打って、あの男の消息を尋ねたんだ。すると藤代善平は、一ヵ月も前から内地へ帰っているはずだという返電が来た。それでおれの意見はハッキリときまったんだ。あいつは満州で兄貴の手紙を読んだ。その手紙には栗島陽三にたいする恐怖と不安が細々《こまごま》と書いてある。善平のやつはそれを逆に利用したんだよ。つまり、自分が陽三に代わって兄を殺そうという計画だ。動機はむろん兄貴の財産だね。
そこでひそかに東京に帰り一ヵ月ほど様子をうかがっているうちに、サーカスからナイフを盗み出した。それから女中や書生のいない時機を計って、陽三を兄貴の家に呼び寄せる。むろん、そのときには、善平のやつ、すでに兄貴を殺しておいたんだ。そこへなにも知らずにやってきた陽三、善平はこれも殺すつもりだったんだが、相手の小指を切り落としただけで急に気が変わった。陽三をもう少し長く生かしておく必要を感じたのだ。
そこで陽三の自由を奪っておき、その衣装をはぎ取り、自分が道化師になりすますと、まず陽三をモーターボートへ運びこむ、それからまた引き返して、兄貴の死体を運び出したが、そこをきみに見つかったのだ。
ここで注意しなければならないのは、道化師の扮装《ふんそう》というものは非常に特徴があるうえに、顔を真っ白に塗るのだから、だれが扮しても同じように見えるのだ。だからあの男はもしあの際、きみに見つからなかったら、きっともうひと芝居うって、だれかに自分の姿をさらしたにちがいないのだ。つまり、道化師の姿をハッキリだれかに印象づける必要があったのだね。
さて、では、陽三をなぜ、後日まで生かしておいたかというと、それは辰弥を殺すまではどうしても陽三が生きている必要があるのだ。
辰弥を殺さなければ、兄貴の財産は手に入らない。そこでまたもや道化師に扮して辰弥を殺す。そのあとで陽三が自殺するか、あるいは誤って死んだということになれば、万事オーケーだ。そこであのだるま船のからくりで、陽三と環を殺そうとしたんだよ」
由利先生は一気にそこまで語り終わると、それから静かに溜息《ためいき》を吐いた。
「結局、神のものは神にかえる。陽三の財産を、環と辰弥が結婚すれば、陽三のもとへかえったのも同然だ。しかもそれを奪った哲蔵は、今ごろ海底で白骨になっているだろう。これが神の御心《みこころ》なのだ。しかし、三津木君、この事件に関するかぎり、手柄はわしのものでもなければ、きみのものでもない。じつにあのクロだったね」
そのクロに噛《か》まれた傷がもとで、善平はまもなく死亡したが、死ぬ前にすべてを告白していった。一ヵ月間、だるま船の中に監禁されていた陽三は、すっかり体が弱っていたが、それもおいおい回復してきたし、まもなく環と辰弥が結婚するということだから、彼も二度と、悲しい笑いを売る必要はなくなるだろう。
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[#見出し] 湖 畔
一
私がはじめてその男に会ったのは、S湖にそろそろ水鳥がおりはじめた、秋の終わりごろのことだった。
その時分私は、健康を害して、ただ一人そのS湖畔の素人下宿で、わびしい自炊生活をしていたのである。そういう私にとっては、その辺の秋の空気はもっとも苦手だった。いや、雲母のように清澄で、しっとりと適度の湿度を保った高原の秋は、呼吸器を病む者にとっては、もっとも快適なものであるはずなのだが、その前に私は精神的にまいってしまうのであった。
全くなすこともなく、体温の上昇ばかり気にしながら、異郷の地にただ一人病気を養っている者にとっては、十月から十一月と、しだいに陽《ひ》の色の褪《あ》せていくのを見ると、自分の残り少ない体力まで、磨《す》り減らされていくような気がするのである。枯《か》れ芦《あし》の上を吹きわたる風にも、どこか暗い翳《かげ》があって、裸になった湖畔の柳にも、私は露出した神経を感じるのである。
その土地は、私にとってはいつまで経《た》っても馴染《なじ》めない異郷だった。しかも生来人ぎらいな私は、自分の健康を思うて、友人をつくることを極力避けていたから、淋《さび》しい独居生活の幾日かを、ひとことも口を利かずに過ごすことも珍しくはなかった。私の神経はしだいにうちへ向かって沈澱《ちんでん》していった。どうかすると私は、その沈澱した神経の重みに耐えられなくなることがあった。
そうすると私は、卒然として、気が狂ったように宿をとび出し、湖畔を歩き回るのである。私がもし、もう少し慎みぶかい人間でなかったら、きっと湖水に向かって大声でわめき叫んだことだろう。
私がその男に会ったのは、ちょうどそういうある日のことだった。秋の霖雨《りんう》に増水していた湖水の水が、日一日と減水していって、朝など、どうかすると湖畔の枯れ芦のあいだに、薄い氷の破片が浮いていることがある。私はそういう湖畔にたたずんで、鬱積《うつせき》している思いを外へ吐くかわりに、じっと胸の中に耐えがたくおさえて、煙草《たばこ》ばかり、むちゃくちゃにくゆらしていた。
その時突然、その男が私に近よってきて、声をかけたのである。
「あなたのような体で、そうむやみに煙草をすいつづけるのはよくありませんね」
私は驚いてその男のほうを振り返った。そして、このあたりには見慣れぬ、異様なその風態に驚いた。その男はきっと五十の坂をとっくに越えていたのだろう。房々とした白髪が、銀のようにきれいだった。背がすらりとまっすぐに高くて、顔も手も脚も、針金のように細かった。それでいて、そうきびしい感じを起こさせない。皮膚の色艶《いろつや》は老人じみて褪《あ》せていたが、顔の表情には少年のような優しい懐かしみにあふれていた。
だが、私を驚かしたのはその体を包んでいる、異様に古風な洋服なのである。私はそれと同じような洋服を、自分の父や、祖父の若い時分の写真に見ることができる。胸も胴も極端につまっていて、腕もズボンも肉に食い入るかと思われるほど細かった。これと同じ洋服を、この男以外の者が着ていたら、きっと私は吹き出したことだろう。ところがこの人に限って、異様なまでに古風な洋服がはなはだよく似合っているのである。
「え? 何かおっしゃいましたか」
私はいま非難された煙草を、さらにもう一本つけ直しながらその男に、こう訊《き》き返した。しかし、相手はそれに答えようともしないで、湖の上をながめていたが、
「だいぶ水鳥がおり出しましたね。もうすぐ氷が張りはじめる」
そう言いながら、彼は細身のケーンをあげて、湖水のほうを指さしたが、その姿はなんとなく黒い蟷螂《かまきり》を連想させた。
「あなたは胸が悪いのでしょう。いや、よくわかっています。あなたの歩きかたは、一度大きな喀血《かつけつ》をしたことのある人間の歩きかただから。胸の中に、壊れたセメントの洗い場を抱いている人間の歩きかたなのです。この湖畔の空気は、そういう病人には非常にいいのですが、しかしこの風景はあまりわびしすぎる。なんだか神経をむしばまれそうだ。ねえ、あなたはそう思いませんか」
私は無言のまま、その老紳士の横顔をながめていた。血管の透けてみえるような薄い右のこめかみに、十銭白銅ほどの痣《あざ》があって、その痣の下に、青い静脈《じようみやく》がヒクヒク動いているのが、なんとなく無気味だった。
「私は向こうの――」
と、紳士は私の無言をいっこう気にするふうもなく言葉をつづけて、
「K――館にいるのです。やっぱりね、あなたと同じ病気なのですよ。私はあなたがうらやましい。あなたはまだ若いから回復するでしょう。私はだめです。五十を過ぎると、眼に見えて抵抗力がなくなりますからね。せっかくここへ来てみたが、どうも結果ははかばかしくありません。私はめったに外へ出ません。いつも部屋の中から外を見ているんです。あなたはよく散歩しますね。しかも、きっちり時間をきめていられるようだ。私は時計を持っていないのだが、あなたの散歩で、たいてい時間がわかるのですよ。さようなら。
私もこれから時々散歩することにしますから、また会いましょう」
老紳士はそしてすたすたと行ってしまった。
私はあっけにとられてしまった。鬱積《うつせき》した想いがいっぺんにほぐれてしまって、老紳士の後ろ姿を見ているうちに、つい、にやにやと微笑が唇《くちびる》の上に湧《わ》きあがってくるのを感じた。あの老紳士も、きっと無聊《ぶりよう》にとりつかれていたのに違いない。私と同じように、あるに効《かい》なき想いを抱いて、終日、沈澱していく神経を持てあましていたのだろう。私とてもきっといつかは、あの老紳士のように、見知らぬ男をつかまえて、あの寝言《ねごと》のような言葉で、物想いのはけ口を求めるかもしれない。
そう思うと、なんとなく私は、あのいささか気違いめいた老紳士が哀れに思えてくるのであった。
二
それから後、私は散歩の途中、よくこの白髪の老紳士と会うことがあった。この人は、私が最初に感じたよりも、もっともっと奇妙な人だった。最初の日のとおり、ひどく愛想のよい日があるかと思うと、その次ぎには、こちらから話しかけても、むっつりとして一言も答えないで、よそよそしく疑いぶかそうに、ジロジロと私の姿を見回して、ひどく私を面食らわせることがあった。すると、その次ぎには、前よりももっと愛想よく、前の日の無礼をあやまったりするのだった。
こういう病人の常として、気分にむらのあることは当然だったが、それにしてもこの老紳士のはそれがあまり極端なので、私はひどくそれに苦しめられた。ところがそのうちに、私は妙なことに気がついた。この老紳士の右のこめかみに、十銭白銅ほどの痣《あざ》があるということは前にも述べておいたが、その痣がどうかすると見えないことがある。そして、老紳士の気分の変化と、この痣の消長とに、たいへん深い関係のあることを私は発見した。
つまり、その痣のある日はひどく機嫌《きげん》がよくて、最初の日のように饒舌《じようぜつ》を弄《ろう》するのだが、そうでない日はいつも気むずかしく、眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せて黙りこんでいた。きっとあの痣は生理的に濃くなったり、薄くなったりするのだろう。そして、それがその日の気分の上にいちじるしい影響を与えているのだろう。そう考えると、私はこの老紳士のお天気にも、なんとなく哀れさを感じるのだった。
私はいつの間にか、この男をよぶに、老紳士という言葉を使っていた。だが、この男をよぶのには、こういう言いかたがいちばんふさわしいように思う。会う度が重なるごとに、そして、口を利く日を経るにしたがって、私は相手の物静かな、うちに沈んだ教養の深さを認めないわけにはいかなかった。五十幾年かの月日を、この紳士が何をして過ごしてきたのか私は知らない。そういう話題は、つとめて避けようとするのがこの紳士のくせだったが、どうかすると、外国の話などが出ることがあった。そういうおりおりの話の断片を集めてみても、この老紳士がかなりの旅行家で、そしてその旅行も商用などではなく、単に見聞をひろめるためになされたものらしいことがうなずけた。
私はいつの間にか、この老紳士に対して、ひとかたならぬ尊敬の念を抱きはじめていた。相手のほうでも、同病のせいもあるだろうけれど、私に対して特別の親愛を感じていたことはたしかである。おそらく、この土地で私がうちとけて話すのは、この老紳士一人であったと同様に、向こうでも、ごく断片的にではあったけれど、自分の過去をのぞかせてみせるのは、この私一人だったろう。
だから、そういうこの老紳士が、あんな大胆不敵な所業をやってのけたということがわかった時、私はほとんど自分の神経を信じることができなかったくらいである。
三
この湖畔にはプロムナードをかねた小公園があった。もとこの公園は、湖の対岸にある製糸町の資本家が別荘に建てたものだが、のちにこれを町に寄付して、今では浴客たちの集まるこの湖畔の温泉町で、ただ一つの名物になっていた。公園の中には、クリーム色をした千人|風呂《ぶろ》が建っている。池があって噴水がいつも五色のピンポン・ボールをくるくると躍らせている。春から秋へかけて、楓《かえで》の茂みが美しかった。
私は朝起きると、パンとコーヒーの簡単な食事の前に、いつもこの公園の中をひと回りしてくるのが習慣になっていた。おそらくこの公園へ足を踏みいれる最初の人間は、毎日この私だったろう。
その日も私は、刺すような寒気の中を、ぶらぶらと公園の中へ足を踏みいれた。掃ききよめた砂利の下では、大地がかんかんに凍っていて、湖の表面からは湯気のように靄《もや》があがっていた。湖畔には五寸ほどの厚さに氷が張っていて、沖のほうでは水鳥の群れがときどき水煙をあげて飛び立ったりした。
私はいつものとおり、湖畔のプロムナードから、公園の中へ足を踏みいれたが、池のそばまで来たときである。思わずおやと足をとどめた。ベンチにあの老紳士が腰をおろしているのを見たからである。
その人と口を利きあうようになってから、こんなに朝早く、この老紳士が起きているのを見たことがない。それがまず私に妙な感じを起こさせたのに、その服装《みなり》というのがまた変わっているのである。極端に謹厳なこの老紳士は、いつだって、あの古風な洋服を、ネクタイの結び目一つ崩さずに着ているのに、今朝に限って、宿のものらしい褞袍姿《どてらすがた》なのである。むろん、帽子もかぶっていなかった。それでいて、例のケーンのステッキだけは右手に握って、まるで銅像ででもあるかのように、きちんと真正面きって、瞬《まじろ》ぎもせずにベンチに腰をおろしていた。
その極端に謹厳な姿勢が、私にふと妙な感じを起こさせたが、それでも私は軽く手をふって挨拶《あいさつ》をした。紳士はしかしそれに応《こた》えようともしないで、依然として、銅像のように正面をきっている。近づいていくにしたがって、私はその紳士の服装に、妙にそぐわぬものを感じた。それは見慣れぬ褞袍姿のせいだろうか。いや、それだけではないらしい。
なんだか妙だ。どこか間違っている。――と、考えているうちに、私は突然はっとした。それは実に、なんともいえない変梃《へんてこ》な、滑稽《こつけい》な間違いだった。
老紳士は左前に着物を着ているのである。
そうわかった瞬間、私はこれをどう言って相手に注意したらよいか途方にくれてしまった。この人は長年の洋服生活に慣れて、着物の着方を忘れてしまったのだろうか。それとも、一種の放心状態におちいっているのだろうか。そうだ、こんなに朝早く、この寒気の中を、素肌《すはだ》に褞袍だけであんなところに座っているということだけでも、あまりいい徴候ではない。私は妙な不安を感じて急歩調《いそぎあし》にベンチのほうへ近づいていって声をかけた。
そして、私は思わずぎょっとして二足三足後ろにとびのいた。
しばらくじっと相手の様子を見ていたが、それから恐る恐るそばへ寄ると、そっとその肩に手をかけてみた。と、そのとたん相手は人形を倒すように、ごろりとベンチの上に転がってしまったのである。
老紳士は褞袍姿のまま、このベンチの上で死んでいたのである。
四
その時の、私の変梃な感じはいちいちここで述べるまでもあるまい。
あの物静かな、ネクタイの結び目一つゆがんでいても気になるらしい謹厳な老紳士が素肌に褞袍を着たまま、しかもその褞袍も左前に着て死んでいるのだから、私が面食らったのも無理はないだろう。
だが、私が真実一驚を喫したのは、そのことよりも、それから間もなく判明した、その老紳士の驚くべき所業なのである。
この湖畔の町に、大黒屋という古着屋がある。店構えもあまり立派なほうではなく、雇い人とてそう多くはないが、手堅いその商売のやり方から、いつの間にか金を溜《た》めて、おそらく現金をもっている点では、この町でも大黒屋の右に出るものはなかろうといわれている。家族はしっかり者というより、むしろ因業婆《いんごうばばあ》といったほうがよさそうな後家《ごけ》と、後家のひとり娘と、それから番頭|手代《てだい》女中などしめて七人。ところが、その大黒屋へ昨晩強盗が入って、金庫の中にあった三千円という現金をすっかり持っていってしまったというのだが、しかも、その強盗というのが変わっていた。
その人は五十ぐらいの白髪の上品な老人で、古風な洋服を着ていて、ひどく物静かな調子で後家や番頭を脅迫したそうだ。むろん、覆面だの、頬《ほお》かぶりだのというような野暮なものはしていなかった。もし、その人が手に銀色のピストルを持っていて、ときどきそれを穏やかに振ってみせるのでなかったら、ほんとうに相手が強盗に入ったのかどうか、それさえ疑いたくなるような調子だったそうである。
その強盗というのが、私のいわゆる老紳士であったことはいうまでもない。狭い町のことだから、一ヵ月もそこに逗留《とうりゆう》していると、町の人はたいてい知ってしまう。大黒屋の小僧もこの紳士を知っていた。K――館の客だということも知っていたし、日ごろいたって物静かな、穏やかな老人だということも聞いていたので、その人が、ピストル片手に、静かな声音《こわね》で脅迫した時には、夢かとばかり驚いたそうだ。
この盗難を大黒屋から警察へとどけて出たのは、明け方になってからである。というのは、老紳士は抜け目なく、家族全部|数珠《じゆず》つなぎにしていったので、その縛《いまし》めを解くのに、かなりの時間がかかったのである。
警察ではこの由を聞くと、すぐにK――館へ踏みこんだが、私が老紳士の死を、大黒屋へ報告にいったのは、ちょうどそういう騒ぎの真っ最中だった。
この湖畔の警察の記録には、今でも大黒屋のこの盗難事件は迷宮として残っているはずだ。実際それは妙な事件だった。あの老紳士は大黒屋へ押し入ってからわずか一時間ほど後に、あの公園のベンチで最期の呼吸《いき》をひきとったらしい。だが、それにしても盗んでいった三千円という大金はどうしたのだろう。いや、それよりも、大黒屋へ押し入った時は洋服姿だったというのに、いつの間に褞袍《どてら》に着替えたのだろう。それからまた、老紳士の洋服というのはいったいどこへ消えてしまったのか。
K――館の老紳士の部屋にもそれは見つからなかったのである。いや、洋服ばかりではなく、靴《くつ》も帽子も。――
そこで警察の見込みというのはこうだった。この老紳士にはきっと相棒があったのだろう。そして、その相棒が老紳士の盗んできた三千円という金を持って高跳《たかと》びしたのだろう。――と、そういう推察だったが、だが、それにしては、老紳士の身のまわりのものをいっさい持ち去ったのがおかしいし、第一、あの孤独な老紳士に相棒があったなどとはどうしてもうなずけないことだった。いやいや、老紳士が強盗に入ったということさえ、その人を知っている者なら、だれでも否定したくなるのだった。
結局金は出てこなかった。そして、老紳士の屍骸《しがい》は湖畔の無縁塚《むえんづか》へ葬られた。というのは、老紳士が宿帳に記してある名前は偽名だということがわかり、だれ一人その人の身元を知っている者がなかったので。
こうして、この事件はいまでもときどき人の口にのぼることがあるが、だれ一人真相を突きとめる者もなく、湖畔の町には一年という歳月が過ぎていった。
五
一年間の辛抱づよい療養生活のおかげで、私はしだいに健康を回復してきた。私は間もなくこの湖畔の町を去って、再び東京へ帰ることができるだろう。もう一度湖に氷が張りつめて、それが再びとけるころには、私は東京の土を踏むことができるのだ。
私はそれまでの日を、一年間の習慣にしたがって散歩をつづける。湖畔の柿《かき》が裸になって、湖にはまた水鳥がおりはじめた。その水鳥を見ると、私はあの老紳士のことを思い浮かべる。私は今でもあの老紳士に対して悪い印象を持つことができない。おそらくあの人の奇妙な出現と奇妙な退場がなかったら、私は去年の秋の憂鬱《ゆううつ》にとり殺されていたかもしれない。
私はあの古風な洋服と、物静かな微笑を思い浮かべ、そういう穏やかな声音で大黒屋の因業婆さんを脅迫している場面を想像すると、ひとりでにおかしさがこみあげてくる。
ある日、私はいつものように朝の食事の前に散歩に出かけた。私の散歩の道順は去年といささかも変わりはない。湖畔のプロムナードから公園の中へ入っていく。
湯気のような靄《もや》が湖の表面から一面に立ち昇っていて、ときどき水鳥がしぶきをあげて飛びあがるのも去年と同じだった。
私は公園の池の端へさしかかった。そしてそこで突然、名状することのできない驚きにうたれて足を止めたのである。
去年、あの老紳士が奇妙な死を遂げた同じベンチに、老紳士が腰をおろしていた。それはまるで私の記憶の中から抜け出して、仮にそこへ姿を現わしたもののように、去年と寸分違わぬ姿だった。いや、死んでいた時の姿ではない。生前私に深い印象を与えた、あの古風な洋服姿なのだ。
私は自分の眼を疑った。ひょっとすると、頭がどうかしたのではあるまいかと迷った。私は非常な恐怖と危懼《おそれ》を感じて、しばらく呼吸をすることすら困難なぐらいだった。
それは相手に対する恐怖ではなく、自分自身の神経組織に対する危懼なのである。
ふいに老紳士は私のほうを振り返った。そして見覚えのある、人なつこい微笑を浮かべると、手をあげて私を招いた。
私はそれによって、はじめて自分の神経が狂っているのでないことはわかったが、すると新しい恐怖がすうっと私の血管の中を走っていった。
老紳士は再び手をあげて招いた。
「いらっしゃい。もう間もなく、あなたがいらっしゃる時分だと思ってお待ちしていました」
そういう声も、去年と同じである。私が相手に対して抱いていた恐怖も、それを聞くと同時に消えてしまった。
「やっぱりあなただったのですね。だが、これはどうしたのです。私にはわからない。私は去年、同じこのベンチの上にあなたを見たのです。あなたはそこで死んで……」
私はまたもや、自分の頭が狂っているのではないかと思った。私はあわててあたりを見回した。このごろのくせとして朝靄《あさもや》が濃く立てこめていたが、別に空気に異変がありそうには思えなかった。
「まあ、おかけなさい。すぐあなたの疑いは晴れます。その疑いを晴らしていただこうと、私はこうしてまたこの土地へ帰ってきたのです。私は幽霊ではありません。死なない者がどうして幽霊になれましょう」
老紳士は少し疲れたような頬に、淡い微笑を刻んだ。
去年私を悩ました右のこめかみの痣《あざ》は、依然としてそこにある。
私はそれを見ているうちに、卒然としてその痣の語る意味をさとった。去年死んでいた老紳士には、たしかにその痣はなかった!
「ああ、それでは去年死んだのは……」
「そうです。私の兄弟です。双生児の兄弟ですよ。去年あなたに御懇意に願ったのは、私一人ではありません。われわれ兄弟二人だったのです。もっとも、兄弟のほうは、私ほどあなたに馴染《なじ》むことができなかったようですが」
「しかし、しかし、それにしても宿の者はどうしてそれを言わなかったのです」
「宿の者も知らなかったのです。私たちは一人としてあの宿に投宿したのですよ。われわれは貧しくて、二人分の宿料を払うことができなかったものですから」
老紳士はそこでちょっと淋《さび》しげな微笑を浮かべると、自分の服装に眼を落とし、
「そう、この洋服も兄弟共通のものでした。われわれは代わり番こにこれを着て散歩に出たのです。洋服ばかりではありません。靴《くつ》も帽子も杖《つえ》も、われわれのあいだにはただ一人分しかなかったのです。だから、一人が散歩に出たあとは、いつも一人は宿の一室で内部《なか》から錠をおろして閉じこもっていたのですよ」
私はなんともいえない変梃《へんてこ》な感じにうたれた。気が狂っているのではないにしても、これは狂気に近い話に違いなかった。しかし、老紳士は平然としてその話をつづけるのだ。
「私たちは全く貧しかったのです。しかも兄弟は胸を病んでいて、どうしても転地する必要がありました。しかし、それかといって、そんな変梃なふうに二人が一人になるほどの必要もなかったのです。こういうやり方を主張したのは兄弟でした。そして後になって私ははじめて、兄弟のその主張の意味を覚《さと》ったのです。あれは、ここへ来るときから、あの恐ろしい強盗を計画していたのです。そして、それには絶対に、われわれが二人であることを人に知られてはならなかったのです」
老紳士はポッツリと言葉を切った。そして湖の上に立ち昇る濃い靄を吸いこむように、深い息を吸った。
「おわかりですか。あれは私のために犠牲になろうとしたのですよ。兄弟の病気はとても回復がむずかしいほど進んでいました。しかも二人は片時も離れることができない仲でした。兄弟はしだいに自分が、私の足手まといになりつつあることを感じはじめたのです。それで、自殺を決心したのですが、その前に私に置き土産をしようというので、ああいう恐ろしいことをやったのです。あの晩は、兄弟が散歩に出る番でした。それで私は一人宿に残っていたのですが、そこに兄弟の置き手紙があるのを発見したのです。私はそれによってはじめて兄弟の計画を知りました。その手紙にはまた、私にこの公園へ来るようにと書いてありました。私は驚いてここへやってきたのですが、兄弟はその時すでに冷たくなっていたのですよ。私がどんなに悲しんだかわかってくださるでしょうね。それは私たちのような兄弟でないとわからない深い情愛なのです。私たちは五十年というこの年月を、一時間と離れて暮らしたことはなかったのですよ。兄弟は私の肉体の一部でした」
「そして、あなたはその御兄弟の洋服をはぎとり、金を持って逃げたのですね」
私が思わず非難をこめてそう言うと、老紳士はまっすぐに頭をあげて私の顔を見た。
「なぜそれがいけないでしょう。私はあれの生命がけの贈り物をむだにしたくなかったのです。私はあれの犠牲を受けてやるのが、せめてもの供養だと思ったのです。だが、私はまたここへ帰ってきました。兄弟の終焉《しゆうえん》の地へ私の骨を埋めるために帰ってきました。あなたはきっと、余計なおせっかいで、悲しみにあふれている、この私の計画を邪魔なさりはしないでしょうね」
そう言うと老紳士は、謎《なぞ》のような眼で、じっと私の顔をのぞきこんだのである。
それから一週間ほど後、老紳士の屍骸《しがい》が、湖の蜆《しじみ》をとる網にかかってあげられた。一週間水につかっていた老紳士の相好《そうごう》はすっかり変わっていて、これが去年の大黒屋事件に関係のある人間とは、だれにも覚られずにすんだ。
老紳士の骨は、彼が望んだとおり兄弟と同じ無縁塚に葬られた。
湖には日一日と氷が厚くなっていく。この氷がとけた時、私は東京へ帰るだろう。それまでは、ああそうだ、今日もこれから散歩のついでに、あの無縁塚へ参ることにしよう。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『悪魔の家』昭和53年3月5日初版発行