女が見ていた
横溝正史
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[#表紙(表紙.jpg、横144×縦210)]
[#小見出し]  誰かが見ている
誰かが自分を見ている……
啓介はまたそれを感じた。二度目だった。あわててかれは車内を見まわした。いや、見まわそうとしたといったほうが当っていたかも知れない。ちょうど夕刻のラッシュ・アワーなので、電車は鮨詰《すしづ》めの満員だった。首をちょっと横にまわすだけだって、容易なことではない。
吊革《つりかわ》にぶらさがった啓介は、体を斜にささえながら、それでも無理に首をねじまげて、自分の周囲を見まわした。
いずれもどこかの会社か官庁からのかえりらしい、勤め人らしい連中ばかりである。むろん知った顔はひとりもない。みんなこの鮨詰め電車を、宿命とあきらめきった表情である。どっか痴呆的な匂いがする。
中にひとり女がいる。ラクダ色のオーヴァを着て、つばのない小さい帽子を恰好《かつこう》よく頭にのっけている。啓介のすぐうしろに立っていて、啓介が無理にそのほうへ首をねじむけたとき、女は無表情な顔でそっぽを向いていた。
啓介はさっき目白駅で電車を待っていたとき、この女が同じプラット・フォームにいたことを思い出す。
この女かな……さっきから痛いほどの凝視で、自分の神経をかきみだすのは……? しかし、そんな筈《はず》はなかった。いままで一度も会ったことのない女である。ほかにも知っている顔はひとりもなかった。
それじゃ自分の錯覚だったのであろう。ちかごろ少し神経がどうかしているようだ。ときどきこういう錯覚を起すことがある。散歩の途次など、ふいと誰かに尾行されているような気がして、神経をかきまわされることがある。
しかし、考えてみると、それはいわれのないことなのだ。啓介はひとにつけまわされるような覚えもなく、また、自分のようなものを、そうしつこく追いまわすような酔狂な人間も思いあたらない。
啓介はいつかそのことを忘れはじめた。と、すぐにまた、腹の底にドス黒いしこりとなって残っていた怒りが、熱い息吹きとなって胸元にこみあげて来る。
元来かれは、こんな時刻に電車に乗れる男ではないのだ。
乗物恐怖症――啓介は自分で自分をそうきめている。乗物に乗ると、啓介は窒息しそうな恐怖を感ずるのだ。だからかれの外出さきは、自分の脚ではこべる範囲に限られていた。電車に乗って出かけるなんてことはめったになかった。
それがいまこうして、えりにえってラッシュ・アワーの鮨詰め電車に乗っているというのは、そしてまた、それに耐えていけるというのは、女房に対するいかりと、そのいかりにまかせてあおった、ウィスキーの酔いに、神経が薄白くにごっていたからである。
啓介はいま、妻の加奈子をぶん殴って、家をとび出して来たのであった。
馬鹿げたことだった。
いまから考えても、どういうわけであんないさかいになったのか思い出せない。きっとどっちかの口の利きかたが悪かったとか、返事のしようが遅かったとか、そういうような、極《ご》く些細《ささい》なことだったにちがいない。
人がきいたらわらうだろう。
しかし、ひとがきいたらわらうような、そんな些細なことから、いさかいが起るところに、自分たち夫婦の深刻な不幸があると思わざるを得なかった。
啓介はさっき加奈子をぶん殴ったときの、なんともいえぬ不快な感じを、ドス黒いホロ苦さで思い出した。啓介はいままで女を――いや、人をぶん殴ったことなど一度もない人間なのである。女房を殴った――そのことについて、啓介ははげしい自己嫌悪をかんじている。と、同時に、自分をああいう粗暴なふるまいにまで追いつめた妻に対して、かれは二重の怒りをおぼえていた。
ぶん殴られたときの加奈子の無表情な、しかし表情のない顔のおくに沈潜したはげしい嫉妬《しつと》と、しぶとい愛着のにおいを思い出すと啓介は何かしらいやらしいものにでもさわったように、右の手がほてるのを覚える。
要するに……と、啓介は鮨詰め電車のなかで揉《も》まれながら考える。自分はあの女と結婚すべきではなかったのだ。思いきってもうひとりの女……いまはもう他人の妻となっている女と結婚すべきだったのだ。その勇気を欠いたがために、自分はいまこうして、不快な滓《かす》をくって生きている。そして、この滓は生涯自分についてまわるだろう。……
電車が有楽町についた。たくさんの人がおりていく。啓介もその人たちにまじって、機械的にプラット・フォームにおり立った。
広告塔のラウドスピーカーが、騒々しい音をたてて外国映画の宣伝かなにかやっている。みんないそがしそうな足どりだ。啓介もついそれにひきこまれて、いかにも何か用事ありげに駅の外へ出たが実際はどこへいくというあてもない。
女房と喧嘩《けんか》をしてとび出した男の、誰でもが感ずるような、妙にわびしい、取りとめのない悲哀を抱きながら、啓介は数寄屋橋をわたって、尾張町のほうへ歩いていった。
時刻は六時ちょっと過ぎだけれど、サンマー・タイムだから、まだ昼の延長みたいなものである。
さて、どこへいこうか……乗物恐怖症で銀座などへも長く出たことのない啓介は、ちょっと途方に暮れたかんじだったが、そのときまたかれは、焦げつくような視線をかんじて、ギクリと足を舗道にとめた。
誰かが自分を見ている……
振返ってあたりを見まわす眼にふとうつったのは、五、六間うしろの飾窓をのぞいている女の姿だった。
ラクダ色のオーヴァを着て、ふちのない小さい帽子を恰好よくかぶっている。
啓介はつかつかとそのほうへ近づいていった。
「ああ、君、君……」
声をかけてから啓介は、自分でちょっと驚いている。ふだんのかれなら、とても出来る芸当ではない。やはり酔っているんだな……啓介は少しフラフラするような気持ちだった。
女はギクッとしたように振返った。あとから考えると、たしかに多少表情がかたくなっていたように思われる。
「君、何かぼくに用事があるの」
女はまあというように眉をつりあげた。さっきは横顔だけしか見えなかったが、こうして真正面から見ると、アメリカ好みの化粧のどぎつさばかりが眼について、ふつうにしていたらもっと美しかろうにと思われるような女である。年齢は二十五、六だろう。
「君、目白からぼくをつけて来たんだろう? ね、そうじゃない?」
「まあ!」
女は仰山そうに眼をみはった。そして、きっと啓介の顔を射るように見詰めていたが、
「失礼なひとね」
肩をゆすって、プイとそっぽを向くと、高い踵《かかと》で舗道を蹴るようにして、さっさと尾張町の方へいった。
まったくね……
啓介は急に自分の立場が非常に滑稽なものに思われて、われにもなくにやにや笑った。
まったく失礼にちがいなかった。目白から有楽町へ出てくるとすれば、誰でもいま自分が乗って来たとおりの道程を経るにちがいない。あの女のほかにも、自分と同じ電車に乗り、同じ電車に乗換え、そして同時に有楽町でおりた人間はたくさんあるにちがいない。
自分はよっぽどどうかしている。また、神経衰弱が起りつつあるにちがいない。……啓介は毎年春さきから梅雨時分へかけてかなり強い神経衰弱におそわれるのが例だった。
「先生、……先生じゃありませんか。これは珍しい」
なれなれしくポンと背中を叩《たた》かれて、啓介はぼんやりうしろを振返った。
「ああ、西沢君……」
「どうしたんです。先生が銀座へ出ていらっしゃるなんて珍しいですな。おまけにパンパンをからかうなんて……材料あさりですか」
「パンパン……? ああ、いまの女、そうなのかい?」
「ええ、そうですよ。先生もいよいよ肉体文学へ転向ですか」
西沢はくすぐったそうに笑っている。
「ああ、そうだったのかい。あれ、パンパンなのかい」
あの女がパンパンだとすれば、いよいよ自分を尾行するいわれなどないであろう。おそらく目白の近所に住んでいる女が、この界隈《かいわい》へかせぎに出て来たのであろう。
啓介はいくらかしこりが解けたような気持ちになって、
「西沢君、どっか飲ませるうちはないか。ひとつ案内してくれよ」
急に元気になった。
「先生、どうかしたんですか。酔っぱらっているんですね。酒臭いですぜ」
日頃の啓介なら、この男にこういうなれなれしい口を利かせなかっただろう。
西沢というのは啓介の家に同居している男である。同居しているというより、転げこんだといったほうが当っているかも知れない。
気むずかしい啓介は、そうでなくても夫婦仲のうまくいっていない家庭へ、他人をまじえることを好まなかった。ことに西沢は啓介の仕事とつながりを持つ職業の男だ。自分たちの家庭のアラは、たちまち、このおしゃべりな男の口によって、文壇中にひろがるだろう。見栄坊な啓介にはそれが耐えられなかったのだ。
啓介はだから、西沢を同居させることについては、最初はげしく反対したのだが、加奈子にはそういう細かい神経はなかった。
西沢は加奈子と遠縁にあたっており、学生時代加奈子の実家で書生みたいなことをしていた男で、復員後家がなくて弱っていると泣きついて来ると、加奈子は妙な侠気《きようき》を出して、良人の反対も押切って、同居させることにきめてしまった。啓介は同じ言葉を二度くりかえせない性分である。いちど言ってききいれられないと、むっつりとしてひっこんでしまう。
そのかわりかれは、なるべくこの男と顔を合わせないように努めている。さいわい新聞社へ勤めている西沢は、朝は啓介が寝ているうちに家を出るし、夜もたいてい、啓介が書斎へひきこもってからでないと帰らない。
夜おそくかえって来た西沢が、茶の間で飯をかきこみながら、加奈子や婆あやを相手に、口から出まかせの冗談をとばしているのをきくと、啓介は神経をさかさに撫《な》でられるような不快さをおぼえる。加奈子はしかし、良人に愛されていない淋しさを、この五つも年下の男の無教養な与太話で慰めているらしく、ときどき西沢や婆あやといっしょになって、声を立てて笑っている愚かしさに、啓介はまた腹を立てた。
その西沢がしかし今日は妙に頼もしく思えるのだから、人間て現金なものだ。ちかごろ仙人みたいに閉じこもっている啓介は、この男の案内でもなければ、とても銀座裏はあるけないという自覚がある。
「なんでもいいから、君の馴染《なじ》みの店へ案内しろよ。今夜はうんと酔っぱらうつもりだ」
「弱ったな、どうも……いえね、先生におごっていただくのは嬉しいんです。しめたといいたいところだが……何しろ日が悪いや」
「何かさしつかえがあるのか」
「ええ、今夜七時から座談会があるんです。そいつをすっぽかすわけにゃ……」
西沢は新聞社で発行している、月刊雑誌の編集にたずさわっているのである。
「駄目かい、それじゃ……」
「ええ、ちょっと……」
西沢はわざと焦らせるように言葉をにごしたが、急に思いついたように、
「ああ、そうそう、今夜の座談会にゃ、那須先生も御出席なさるんですぜ」
そういって、その言葉の反応をためすように、三方白《さんぽうじろ》の眼で啓介の顔色をうかがいながら、ニヤニヤと舌で唇をなめまわす。
こういう男なのだ、この男は……蛙の面に水のように、いけしゃあしゃあと、見たところいかにも鈍感そうな顔をしていながら、それでいて何もかも知っているのだ。
多分加奈子がしゃべったのだろう。啓介はそういう愚かしい妻に対して、また新しい怒りを感ずると同時に、那須慎吉という自分にとって、禁断も同様な名前を、だしぬけに口に出して、自分の反応を見ようとするこの男の、一見無技巧にみえる意地悪さを憎まずにはいられなかった。
啓介はウィスキーの酔いのギラギラ浮いた眼で、しばらく西沢の顔を見詰めていたが、やがて、
「ふん」
と、鼻を鳴らすと、そのまま行きすぎようとする。西沢があわててそれに追いすがった。
「ちょっ、ちょっと待って下さい。先生、弱ったな、どうも……それじゃこうしましょう。いま六時二十分だから半時間ほどつきあいましょう。七時になったら解放してください。ぼく主催者側なんだから、どうしてもすっぽかすわけにゃいかない。ね、それで勘弁して下さいよ」
「うん、まあ、それでもいい」
西沢が啓介をひっぱっていったのは、資生堂の裏あたりになる小さな店だった。土間に腰をおろして安直に飲めるようになっていて、会社の帰りらしい男が四人飲んでいた。何しろサンマー・タイムで外はまだ明るいので、酒を飲むにも勝手がちがうらしく、みんな妙に間の抜けた顔をしている。
西沢は先客の誰かに、ようというような挨拶《あいさつ》をして、啓介を隅のほうにひっぱっていった。すぐに酒と簡単なつき出しが運ばれた。
「こうやって先生と酒を飲むなんてはじめてですね。まったく運が悪いや。座談会さえなきゃひと晩おつきあいをして、方々御案内するんですがね。先生もたまにゃ出ていらっしゃいよ。乗物恐怖症なんてなんです。げんに今日などちゃんと出て来ているじゃありませんか。そして肉体文学でもなんでも、じゃんじゃん書くんですな。しかし、さっきはちょっと驚きましたね。人違いじゃないかと思ったくらいだ。いったい、どういう風の吹きまわしなんです」
「女房と喧嘩をしてとび出して来たんだ」
どうせ知れることだからと思って、啓介はボソリとそういったが、いってからしまったと思った。この男は今夜、那須慎吉に会うことになっている。……
「奥さんと喧嘩して……? うっふふ、おおかたそんなことだろうと思った。いけませんねえ、もっと奥さんを可愛がってあげなさいよ。奥さんは先生にベタ惚《ぼ》れですぜ」
「君はちっとも飲まないじゃないか」
「酔っぱらってしくじっちゃたいへんだ。これでも今夜は司会者なんですからね。おっ、先生、どうかしましたか」
啓介はまた背中がムズ痒《かゆ》くなるような、不思議な視線を感じていた。誰かが自分を見ている。……ソワソワとかれはうしろを振返った。
店のなかには啓介たちをのぞいて四人の客があった。しかし、その四人は啓介たちが入って来たときにいた四人そのままではなかった。男がひとり減って、そのかわり女の客がひとりふえていた。
啓介はその女を見ると、ドキッとしたように酔いのまわった瞳をすえた。
ちかごろめったに外へ出ることもなく、したがって若い女に接する機会もごくまれな啓介には、派手な洋装の女を見ると、誰もかれも同じに見える。ことにようやく発して来た酒の酔いに、焦点のぼやけている啓介の眼には、とっさの間、その女がさっきの女と同じに見えた。しかし、瞳をさだめて見ているうちに、やっとそうでないことがわかった。
オーヴァの色もちがっているし、帽子の形もちがっている。さっきの女はラクダ色のオーヴァを着ていたが、この女のはビロードのように艶のある黒である。それに年齢もさっきの女より二つ三つ若いらしく、ポチャポチャとした頬《ほ》っぺたが、杏《あんず》のように艶やかだった。
しかし、それにも拘《かかわ》らず、啓介の瞳からは疑惑の色が消えなかった。眉のひきかた、口紅のおきかた、いや、それにも増してその女の全身から発散する体臭から、啓介はさっきの女とほとんど同じ印象をうけたのだ。少なくともこの女は、さっきの女と同じ種類に属する存在にちがいない。
「いやですぜ、先生」
ふいに西沢が肘《ひじ》でこづいた。
「そう露骨に見すえるものじゃありませんや。向うでも照れてるじゃありませんか」
「うう? うん」
啓介は気がついて、あわてて西沢のほうへ向きなおると、盃を口へ持っていった。
「うっふふ、先生は妙にああいう種類の女に興味を持っているんですね。さては、やっぱり材料ひろいですか」
「ふうん、するとあれもやっぱり……そうなのかい?」
「ひと眼でわかるじゃありませんか。ああして網を張ってるんですよ。なんなら声をかけてやってごらんなさい。すぐオーケーでさあ」
啓介は苦笑いをした。そんな興味はさらになかった。ただ、漠然とした、つかまえどころのない疑惑があるだけだった。
西沢は腕時計を見て、
「あっ、こりゃいけねえ、もう七時だ。先生、どうします。あなたはまだここにねばっていますか」
「君はもういくのかい」
啓介はふいと、ひとり取り残される淋《さび》しさを感じる眼の色になった。
「ええ、ぼくはどうしてもいかねばなりませんが、それじゃこうしましょう。座談会は九時までには終りますから、九時半ごろもう一度お眼にかかろうじゃありませんか。新橋際にもう一軒、ぼくの馴染みのうちがありますから、そこへいって待っていて下さい」
西沢はその店の地図を書きのこすと、
「先生、あんまり冒険をしちゃいけませんぜ。あとでぼくが奥さんに叱られるから」
西沢が出ていったあと、啓介はひとりで酒を飲んでいる。銚子《ちようし》はまだ三本とは空になっていないのだけれど、家を出るとき呷《あお》ったウィスキーの酔いが底にあるので、啓介の頭はすでにかなり溷濁《こんだく》している。かれはいつの間にやら席を向うがわにうつして、片手で頬杖《ほおづえ》をつき、チビリチビリと盃を舐《な》めている。
啓介のすぐ向うに例の女の横顔があった。その女のまえにはビールが一本、それにコップとつまみものの皿、ビールはほとんど減っていない。
妙な女だ……啓介は酔いのために、しだいに大胆さを増してくる眼付きで、まじまじとその女の横顔を見詰めている。
西沢はああして網を張っているのだといったが、その女の様子には少しもそんなふうは見えない。さっきからかなり客が入れかわって、いまではだいぶ数もふえているが、彼女はそれらのうちの誰にも、働きかけようとする模様はなかった。
ビールをまえにおいたまま、ただ端然として、ときどきコムパクトをのぞいたり、口紅をなおしたり……人を待っているようでもなかった。
向うのほうでは男が三人、何か声高にしゃべっている。なんでも今日、プロ野球で起ったトラブルについて話しているらしく、審判がどうの、コミショナーがどうのとまくし立てているところを見ると、だいぶその道の通らしい。スポーツ・ライターかも知れぬ。そういえば、さっき西沢がようと声をかけたのは、その中のひとりだったようだ。
啓介の頭はいよいよアルコールのために溷濁し、薄白い乳白の霧のなかを低迷している。しかし、そうして溷濁し、低迷している意識の底に、ただ一つのことだけが、しつこくこびりついて、強烈な光を放っていた。
それは那須慎吉の名前である。
那須は今夜、西沢の座談会に出席している。座談会は七時から九時までつづく。ひょっとするとそのくずれが、二次会ということになるかも知れない。つまりそのあいだだけ、泰子はひとりで留守を守っているわけだ。……
そのとき突然、スポーツ・ライターの連中ががやがやと立上った。啓介と例の女のあいだをとおって、表へ出ようとしたが、そのうちの一人が、ふと女の姿に気がついたらしく、
「やあ」
と、よろよろしながら声をかけると、
「どうしたんだい、こんなところで……」
女はしかしそのほうへは見向きもしない。相変らず端然として、テーブルのうえにおいたコップを撫でている。
「チェッ、気取ってやがらあ」
スポーツ・ライターの一行はがやがやと出ていった。啓介はますます深くなっていく酔いのうちにもこれだけのことをハッキリ認め、不思議に後までそのことをおぼえていた。むろんその時、この些細な出来事が、自分の身にどのような大きな意味を持って来るか、知っていたのではないのだが……
啓介もそれから間もなく、ふらふらとその店を出ていった。七時半だった。
外はまだ明るかった。ちょうど黄昏と夜との交錯している時刻で、銀座の表通りには、流れるように人が歩いている。
啓介はふいと孤独の切なさと、渇くような人恋しさにおそわれた。それは灯ともし頃の感傷だったかも知れない。西沢においてけぼりにされた淋しさもあったろう。さらにまた、まだ肚《はら》の底にくすぶっている、加奈子に対するウップンの余燼《よじん》もあったにちがいない。
ふいと泰子の面影が、酒にしびれた啓介のあたまのなかに浮きあがって来た。浮きあがって来たまま消えなかった。
那須慎吉は今夜座談会に出席している。座談会は九時ごろまでかかる筈である。ひょっとすると那須慎吉は、座談会がおわっても、まっすぐには帰らないかも知れぬ。つまり、そのあいだ、泰子はひとりで家にいるのだ。……
いけない、いけない、いったいおれは何を考えているのだ。いったい、何をしようというのだ。自制心を失ってはいけない、いけない。……
しかし、孤独の切なさが、いよいよきびしく胸をしめつける。人恋しさがますます切なくこみあげる。酒は人間の感情と感傷を誇張する。と、同時に自省心を鈍らせる。
今夜だ、今夜を外してはまたとこんな機会はない。おれは泰子にあいたいのだ。会って慰めてもらいたいのだ。それだけのことが何故《なぜ》いけないのだ。おれは何も、それ以上のことを要求しようというのではない。……
啓介はフラフラとそこにあった喫茶店へとびこんだ。コーヒーを注文したが、コーヒーが来ても手をつけようともしなかった。啓介の頭のなかには、あいかわらず泰子の面影と、ふんぎりのつかない決心が、にごった滓のように渦巻いている。
泰子はなぜ返事をくれないのだろう。おれはあんなにたびたび手紙を出しているのに、泰子はなぜ一通の返事もくれないのだろう。
瀬川の奥さんは、いつもたしかに取次いだといっている。と、すれば、おれの手紙がとどかないという筈はない。そうだ、おれには少くとも、それをたしかめるだけの権利があるわけじゃないか。……
啓介は急にいきおいよく椅子《いす》から立上った。そしてそれがはじめから、予定された行動であったかの如《ごと》く電話室へとびこんだ。
誰かが見ている。……
そのときまたふいと、かすかな疑惑が、にごった頭をかすめたが、啓介はもうなんのためらいもなく、渋谷にある那須慎吉の家を呼び出していた。
ちかごろの電話だから、あるいはかからないかも知れない。もしかからなければ……だが、電話は思いがけなくすぐかかって、女の声が向うへ出た。女中らしかった。サイコロは投げられたのだ。啓介はちょっと眼をつむって、それから思いきって大声で怒鳴った。
「奥さんはいらっしゃいますか。こちらは瀬川……瀬川春代の代理のものですが、奥さんがいらしたら、ちょっとお電話口へ……」
間もなく電話の向うに泰子の声が出た。
「お待たせいたしました。こちら泰子ですが、瀬川さんの奥さまでいらっしゃいます?」
啓介はちょっと言葉が出なかった。久しぶりに聞く泰子の声が、安っぽいと嗤《わら》わば嗤え、アルコールに誇張された感傷をあおったのと、同時にまた、どこやらにまだ残っている反省が、一瞬啓介にためらいを感じさせたのだ。
啓介が黙っていると泰子はいくらかせきこんだ調子になって、
「あの、もしもし、電話が遠いんですけれど……こちら泰子です。瀬川さんの奥さまでいらっしゃいますか」
「僕ですよ、奥さん、風間ですよ」
「あら」
と、狼狽《ろうばい》したような声がきこえたので、啓介はあわてて言葉をついだ。
「奥さん、電話を切らないで下さい。僕、いま銀座にいるんです。どうしてもあなたにお眼にかからなければならないことが出来たのです。なんとか都合して、銀座まで出て来ていただけませんか」
周囲に気兼ねして、出来るだけ落着いてしゃべるつもりだったけれど、ともすると、せきこんで来るのをどうすることも出来なかった。
電話の向うからすぐには応答はなかった。しかし、電話を切ったふうでもないのが啓介を図に乗らせた。
別に今夜泰子に会わなければならぬという特別の用件はなかった。しかし、いま電話でしゃべっているうちに、どうしても会わなければならぬような気になっていた。
「奥さん、お願いです。来て下さい。僕はいまやりきれない気持ちなんです。後生だから、来て下さい」
「どうなすったの。あなたお酒を飲んでいらっしゃるんじゃありません?」
「飲んでいます。不愉快で不愉快でたまらないから飲んでうちをとび出して来たんです」
「まあ、また加奈子さんと喧嘩でもなすったのじゃありません?」
「そのとおり、あんまりわからないことをいうもんだから、ついぶん殴って……ねえ、奥さん、だから来て下さい。お願いです」
「いけませんわ。だってうちのも留守なんですもの……」
「知っています。だからこうして電話をかけているんです。御主人も銀座でしょう。僕、よく知っています。もし、それでいけないのだったら、どこかほかの場所で……新宿かどこかで……」
「いいえ、いけません、そんなこといけませんわ。いつかのことを考えて下さい。あなたはお酒を飲むといけなくなるんですもの。ねえ、もういいかげんにして帰ってあげて……加奈子さんだってお可哀そうですわ。そしてもう電話なんてかけて来ないで……失礼、もう電話を切りますよ」
「あ、ちょっと待って……」
だが、その瞬間、ガチャンと電話を切る音が、痛いほど耳にひびいて来た。啓介は茫然《ぼうぜん》として受話器を耳にあてたまま、電話室から外を見ていた。
電話室のすぐ外に、女がひとり坐《すわ》っている。さっき酒場で会った女だった。
「勝手にしやアがれ!」
何かしらわけのわからぬ混乱と忿懣《ふんまん》が、ふきあげるように啓介の胸もとにこみあげて来た。全身がかあーッと熱くなって、いっときもじっとしていられない感じだった。肩であらっぽく電話室のドアを押すと啓介はよろめくように外へとび出した。じっさい、脚もとが少しひょろついていた。
かれはもう例の女に眼もくれなかった。その女が自分を尾行しているのであろうとなかろうと、そんなことはどうでもよいことなのだ。
啓介のあたまはいま熱風に吹かれている。傷つけられた自尊心、ぐしゃッとへし折られた自惚《うぬぼ》れの惨《みじ》めさ、アルコールで温められた啓介の血は、さらにまた怒りのためにたぎり立った。
もとの席へもどろうともせず、啓介はまっすぐに入口のほうへいくと、そこのレジスターへコーヒー代と電話料をたたきつけるようにおいて、そのまま外へとび出した。
外へ出るとき、何気なくうしろをふりかえると、例の女があわてて立上るのが見えたが、啓介はもうそんなことを気にもとめなかった。
なんでえ、なんでえ、なんでえ、ありゃアいったいなんという挨拶なんだ。電話を切るなら切るでもう少しなんとか挨拶のしようがあるだろうじゃないか。物貰《ものもら》いを追っぱらうように――だしぬけにガチャンか。耳が痛かったよ。ああ、痛かったとも。奥さん、もう二度とあんな電話はかけません。じっさい、私が悪うございました。いつまでもくよくよと、あなたのことを思いつめて、まったく私は馬鹿でした。さようなら、奥さん、今夜かぎりあなたのことは忘れてしまいます。……
いかりがしだいにおさまっていくにつれて、いいようのない淋しさが、かわって胸もとにこみあげる。アルコールに誇張された孤独の哀愁が、木枯しのように胸をふく。
夜がもうすっかり黄昏にとってかわっていた。ひょろひょろとよろめくように銀座裏を歩いていた啓介は、賑《にぎ》やかな一軒の飲み屋を見つけて、のたれこむようになかへとび込んだ。
考えてみるとそれは、やかましい政令の期限が切れて、料飲店の新しい取扱いかたが、まだ確定していない空白期間だった。
いままで形のうえだけでも裏口に逼塞《ひつそく》していた酒や銀飯《ぎんめし》が、おおっぴらに表へ進出して、街にはアルコールの気が充満していた。だから啓介のように、ちかごろの銀座に馴染みのうすい人間でも、いくらでも飲ませる家を発見出来るような晩だった。
あとから考えると、それが啓介に大きな不幸をもたらしたのだった。
十一
啓介は飲めばいくらでも飲めるたちである。と、いうより、いったんハメを外すと覚悟をきめれば前後不覚になるまで飲まなければ、承知の出来ないたちなのだ。
むろん、一軒ではおさまらなかった。つぎからつぎへと梯子《はしご》をして歩くくせがあった。ことにその晩は、肚の底にイライラしたものがあって、かれを一軒の店に落着かせなかった。
最初とびこんだ店で――その店の名さえ啓介は知らなかった――ビールを一本飲むと、すぐにかれはとび出した。そのころから、かれの記憶はしだいに怪しくなって来る。
そこをとび出してから間もなく、キャバレーのようなものにとびこんだのを、うすぼんやりと憶えている。しかし、それがなんというキャバレーだったか、また、銀座裏のどのへんだったか、そういう点になると、かれの記憶は完全に、アルコールの煙幕のかなたに消えていた。
ただ記憶にのこっているのは、耳がガンガンするようなブギの騒音だけ。そこでしたたかウィスキーを呷《あお》ったらしい。
そのキャバレーをとび出してから、また四、五軒飲んで歩いたらしいが、むろんどこをどう歩いて、なんという店へとびこんだのか、全然記憶にのこっていない。
もちろん、西沢との約束など、とっくの昔に忘れていた。いや、たとい思い出したとしても、こうして自由に飲んで歩ける以上、西沢などどうでもよかったろう。
だが、酔っぱらいというものは妙なものだ。こうして何もかもが意識の外にはみ出していながら、ただひとつのことだけは、しつこく意識の底にこびりついて離れなかった。
誰かが見ている。……誰かが自分を尾行している。……
酔っぱらって、千鳥足であてどもなく、暗い銀座裏をよろめき歩く自分のうしろから、コツコツコツ……適当の間隔をおいてついて来る、かるい靴音を啓介はその晩じゅう意識の底にかんじていた。
コツコツコツ……たしかに女の靴音だった。
啓介はまた、その靴音のぬしと思われる女と、どこかの酒場で口を利いたことも憶えている。啓介はその女が、ラクダ色の女でもなく、また、二番目の女でもなかったのを、ちょっと意外に感じたことも記憶している。
女は真紅なターバンを頭に巻いていた。しかし、啓介は知っていたのだ。さっきからの靴音が、たしかにこの女にちがいないことを。……
啓介ははなはだ愉快だった。銀座中のパンパンが、自分のあとをつけまわす。いったいどういう理由だか知らないが、そんなことはどうでもよかった。
酔っぱらって、しだいに陽気になっていたかれは、その女にビールをおごって乾杯したのを憶えている。しかし、それがどの店だったのか、また、その女とどういうおしゃべりをしたのか、それらの点になると、また、意識の外にはみ出していた。
十二
「ちょっと、駄目よ、そんなとこで眠っちまっちゃ……」
「ほ、ほっといてくれ。おれゃもう駄目なんだ。……おれゃアもう歩けねえ。……このままそっとしておいてくれ」
「駄目よ、駄目ってば、こんなとこに寝ていたら、きれいに裸にされちまうわ。しっかりなさいよ。だらしがないのねえ、先生」
「せ、先生……? だ、誰だい、君ゃア……こ、このおれを知っているのかい」
眼をひらいて、女の顔をふりかえったとたん、啓介の意識は一瞬シャッキリした。
「やあ、き、君か、ラクダ色のお嬢さん……」
いかにもそれはラクダ色のオーヴァを着た女、目白から有楽町まで、同じ電車でやって来た女、啓介が最初に尾行を意識した女だった。
「あっはっは! やっぱり君はおれを尾行していたんだね。光栄のいたりだ。パンパン部隊を繰り出して、ひと晩おっかけまわされるなんて、あっはっは、おれゃアまあ、なんて幸福な男だろう。だが、さっきの娘はどうしたい、真紅なターバンを巻いてた女さ」
「あの娘はもうかえってよ。なんでもいいからしっかりなさいよ。ぐずぐずしてると終電車をとりにがしてしまうわよ」
気がつくとそこは有楽町のガード下だった。啓介はガードの壁にもたれて、いぎたなく居眠りをしていた自分に気がついた。頭の上をゴーッと音をたてて電車が走っていく。
「さあ、よくって、あたしが手をひいてあげるから、しっかり歩くのよ。大丈夫、ほら、あんよは上手っと」
「おいおい、君、君は親切だねえ、ひと晩、ぼくを護衛してくれたあげくにさ、こうして電車の心配までしてくれる。有難《ありがた》いよ、僕ア……涙がこぼれるよ、ほんとうに。……しかし、君、パンパン嬢……」
「失礼ね、あたしパンパンなんかじゃなくってよ」
「おっと、失敬、失敬、それじゃラクダ嬢と呼ぼうか。ラクダ嬢、君はなんだって、これほど僕につくしてくれるんだ。なんだって、こんなに親切にしてくれるんだ」
「なんでもいいからさっさと歩いてちょうだい。そんなによりかかって来ちゃ駄目よ。だらしがないわね。奥さんと喧嘩して、銀座を飲みあるくなんて、みっともないわよ」
「な、なにイ……? き、君イ、君はどうしてそれを知っているんだい」
「なんでもいいから歩いてちょうだいってば。切符はあたしが買ってるから大丈夫よ。さ、階段よ。気をつけて……」
プラット・フォームへ出ると、すぐに品川まわりの電車が来た。酔っぱらいをつれているので、乗換えの不便をかんがえたのか、女は啓介をひきずるようにしてそれに乗込んだ。
「ねえ、君、ねえ、君、……君はなんだって……」
「いいから、ほら、そこに席があいたわ。お掛けなさいよ」
空いた席へ押し倒すように坐らされた啓介は、ねえ、君、ねえ、君、を繰りかえしながら、またいつか眠りにおちていた。
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[#小見出し]  凶 報
酔っぱらいの意識というものは、そのときは案外しっかりしているものである。ずいぶん泥酔していながら、わりに怪我《けが》がなかったり、どこをどうしてかえったのか忘れていても、翌朝眼がさめると、ちゃんと自分の寝床で寝ていたり……だから、そのときはかなりハッキリとした意識があるらしい。
しかし、いちど眠るともういけない。眠ると何もかも忘れてしまう。啓介も電車のなかで寝てしまったので、女のことを忘れてしまった。誰かにたたき起されて、プラット・フォームへつき出されると、そこが目白駅だったが、啓介はべつにそれを怪しみもしなかった。
「やあ、有難う、有難う」
誰にともなくそう怒鳴ると、啓介はふらふらしながら階段をのぼり、ふらふらしながら改札口から出ていった。
啓介の家は目白の駅から歩いて十五分ぐらいの距離である。
ふらふらしながら、ともかくも無事にわが家へたどりつくと、玄関にはまだ電気がついていた。酔っているので、加奈子と顔をあわせるバツの悪さも、それほど気にはならなかった。
呼鈴を押そうとするまえに、足音がきこえて、なかからガラス戸をひらいてくれた。しかし、それは加奈子ではなかった。
「やあ、小母さん、おそくまでどうも……」
啓介が小母さんと呼んでいるそのひとは、近所に住んでいる戦災者の細君で、加奈子が洗濯物《せんたくもの》だの、ちょっとした買物だの、配給品の面倒だのを頼んでいる、一種の婆やがわりの中婆さんで、名前は藤崎満江というのだが、啓介は単に小母さんとよんでいる。啓介が家をとび出すときにはいなかったのだから、そのあとで加奈子が呼んで来たのだろう。
「小母さん、もういいですよ。もうかえって貰ってもいいですよ。おそくまですみません」
「旦那さま、あの、奥さまは……?」
「奥さん? 女房がどうかしましたか」
「おや、それじゃ奥さまと、御一緒じゃなかったのですか」
「僕が……? どうして……? 僕はひとりですよ。ひとりでほうぼう飲んで来ました。小母さんはさぞ女房から、僕の悪口を聞かされたでしょう。あっはっは!」
やっと靴がぬげたので、ふらふらしながら、そのまま自分の部屋へいこうとすると、小母さんが茶の間のまえまで追っかけて来た。
「でも、変ですねえ。さっき旦那さまからお電話がかかって来たので、奥さまは大喜びで、いそいそとしてお出掛けになりましたのに」
啓介は一瞬ポカンとして小母さんの顔を見詰めていた。が、すぐゲラゲラと笑い出した。
「冗談でしょう小母さん、僕は電話なんかかけません。しかし、そうすると加奈子はいないのですか」
茶の間をのぞくと、ちゃぶ台のそばにほどきものが取りちらかしてある。むろん、加奈子の姿は見えなかった。藤崎の小母さんは大急ぎでほどきものを片づけながら、
「ええ、お電話があったので、大喜びでお出掛けでした。でも、ほんとに御一緒じゃなかったのですか」
「ええ、一緒じゃありません。そんなことをいって、きっと実家《さと》へでもいったんでしょう」
「いいえ、そんなことはありません。げんに私が電話のお取次ぎをしたんですもの」
「小母さんが……」
ちゃぶ台のふちに肘《ひじ》をついた啓介は、驚いたようにからだをまえに乗り出した。
「そして、それ、僕からの電話だったというんですか」
「ええ、だって、たしかに、おれだ、啓介だ、加奈子を呼んでくれとおっしゃって……」
啓介は血走った眼をまるくした。しだいに酔いがさめて来る。
「だって、しかし……変だなあ。僕は加奈子に電話なんかかけたおぼえはない。それ、たしかに僕の声でしたか」
「さあ……ずいぶんお酔いになって、ろれつが怪しかったから……でも、たしかに啓介だといってましたよ」
小母さんの眼にふいと猜疑《さいぎ》のいろがきざした。啓介の顔色から、何かをさぐり出そうとするように、小母さんはまじまじと瞳をすえている。女は女同士で、小母さんはふだんから加奈子の同情者なのだ。
啓介も急に不安がこみあげて来た。
「変だなあ、僕は知らないよ、そんなこと。……しかし、そいつなんといったんです」
「さあ、それは奥さまがお聞きになったものですから……でも、奥さまのお言葉では、旦那さまのほうからあやまっていらっしゃって、仲直りにどこかで踊ろう、すぐ銀座へ出ておいでと……そんなことじゃなかったでしょうか。奥さまは大喜びで、わたしに留守を頼んでお出掛けになりましたのに……旦那さま、ほんとに御存じじゃないのですか」
「知らない、僕にはおぼえがない。いったい、それは何時ごろのことなの」
「八時ちょっと過ぎでした。いまからじゃろくに踊るひまないわとおっしゃって……」
そのころ自分はどこにいたろう……啓介は考えてみたが思い出せなかった。何かしらドス黒い不安が、いかの墨のようにひろがって来る。
そこへ電話のベルがけたたましく鳴り出した。
てっきり加奈子だ。加奈子が実家から、様子をさぐりかたがた、電話をかけて来たのだろう……そう考えると啓介は、たとえいっときにしろ、その妻のために心配したのが腹立たしくなって、むっとちゃぶ台のそばを立った。しかし、電話へ出ている小母さんの声の調子が、急にちがって来たので、おやとその場に立止った。
「加奈子じゃなかったの?」
「ええ、西沢さんからです。旦那さまに何か御用がおありだそうで……」
「西沢ならいいよ。聞かなくてもわかっている」
仕事がおそくなって社へ泊ったり、飲み過ぎて友人の家へ一泊するときなど、西沢はいつも電話で断って来た。そんなとき啓介は、なに、どこへ泊るか知れたもんかとあざわらっていたが、
「いえ、あの、西沢さん、なんだかいつもとちがっているようですわ。きっと何かあったんですよ」
と、いう小母さんの言葉に、啓介は不承不承に受話器をとりあげた。
「ああ、西沢君? こちら僕、風間だ、何か用事?」
「ああ、先生ですか。風間先生ですね。奥さんはお留守だそうですね」
なるほどいつもの西沢ではない。声がしゃがれて、妙にせきこんでいる。
「ああ、留守だよ。女房に何か用事?」
「いえ、あの、奥さん、どこへお出掛けになったかわかりませんか」
「銀座へいくといって出掛けたそうだよ。しかし、それがどうかしたのかい」
「銀座……? 銀座へいくといってお出掛けになったんですね」
西沢はそれきりしばらく黙っていた。電話の向うからきこえて来る雑音が、妙に不安をかき立てる。
「おい、どうしたんだ。西沢君、君、女房に会ったのかい」
「いえ、あの、失礼しました。それで先生はいつごろおかえりになったんです」
「僕……? 僕はいまかえったばかりだ。酔っぱらってまだふらふらしてるよ。用があるなら早くいってくれ」
「先生……たいへんなことが出来たんです。電話ではいえません。僕、これからすぐにかえります。先生、どこへもいかないで待っていて下さい」
「おい、どうしたんだ。何があったんだ。これからかえるってもう電車はないぜ」
「なんとかしてかえります。電車がなければ自動車でかえります。自動車賃はお願いします。あ、それから藤崎の小母さんがまだいるようですが、すぐかえして下さい。先生とふたりきりでお話したいのです。それじゃのちほど……」
茫然としている啓介の耳に、ガチャンと電話を切る音がきこえて来た。……
啓介の話しぶりから、藤崎の小母さんも、何かしら尋常でないものを嗅ぎとったにちがいない。
奥さまがおかえりになるまではとか、せめて御様子がハッキリするまではとか、なんかといってはねばろうとするのを、やっとのことでかえってもらって、啓介はシーンとひとり茶の間にすわっている。
酔っていながら、酔ってはならぬと努力するためか、変に頭がズキズキいたんだ。ウィスキーでも飲んでみようかと思ったが、何かしら、これ以上酔ってはならぬと命ずるものがあって、戸棚《とだな》をひらくのがためらわれた。
なぜこれ以上酔ってはいけないのか……それは自分でもわからなかった。しかし、さっきの西沢の電話が、かれにあるショックをあたえたことだけはたしかである。
西沢のたいへんだという用件が、どんなものだか啓介には見当もつかぬ。しかし、西沢の言葉つきから、加奈子に関することらしいとは想像された。
小母さんの話によると、加奈子は銀座へ出掛けたという。西沢も今夜銀座にいたのだから、どこかで出会ったのかも知れない。しかし、それならば、なぜそのことを電話でいえないのか。加奈子が怪我でもしたというのか。なるほどそれなら大変だが、それとても電話でいえないはずはない。いや、一刻も早く知らせるべきではないか。
それよりももっとおかしいのは、自分がかえるまで、どこへもいかずに待っていてくれという言葉だ。いったい、いま時分、誰がどこへ出掛けよう。そういうわかりきったことに、念を押さねばならぬ事情とはなんだろう。
啓介はポケットをさぐって、シガレット・ケースを出そうとしたが、そうそう、今夜どこかへ落して来たんだっけと気がついて、茶箪笥《ちやだんす》のひきだしから光を取出した。
それにしても、今夜、自分の名前を騙《かた》って、電話をかけて来たのは誰だろう。加奈子を銀座へよび出していったいどうしようというのだろう。
啓介はそういういたずらをしそうな友人を考えてみたが、ひとりも思いあたらなかった。
第一、ちかごろではどの友人とも疎遠になっている。自分たち夫婦をいっぱいかついで、あっといわせようというような、無邪気な人物はひとりもない。
そのことと、いまの西沢の電話をむすびつけると、何かしら容易ならぬ事態が想像されそうだ。
啓介は茫然として、煙草をくわえたまま眼を瞠《みは》っている。頭のうえの柱時計がボーンボーンと陰気な音を立てた。二時である。
そのとき、自動車のちかづく音がして表へとまった。
自動車代をはらってやって、啓介が茶の間へひきかえして来ると、西沢は立ったまま、しきりに貧乏ゆすりをしていた。
西沢もかなり酔っていて、脂がギラギラと皮膚にういていたが、かれもまた、何か酔いきれぬものがあるらしく瞳が妙にとがっていた。
「どうしたんだ、西沢君、女房がどうかしたというのか」
西沢はギクリとしたように、啓介の眼をとらえると、しつこくその奥を覗《のぞ》きこみながら、
「先生、どうしてそれを知っているんです。ぼくの話が、奥さんのことだと、どうしてわかったんです」
なんとなく、からんだ口の利きかただった。啓介はむかっといかりがこみあげそうになる。そんなことはどうでもいいのだ。こっちは一刻も早くたいへんというのを聞きたいのじゃないか。しかし、啓介はぐっといかりをおさえると、
「いや、それはいずれあとで話す。それより君の話というのを聞こう。加奈子がどうしたというんだね」
「殺されたんです」
「なに?」
「奥さんが殺されているんです」
啓介は一瞬ポカンとして、西沢の顔を見詰めていた。何かしら西沢の言葉が、理解できないほどむずかしい事柄のように思われた。おれは酔っているのだ。酔っているから、西沢の言葉がよくわからないのだ。……
だが、しばらくして、西沢の言葉の持つ意味の、ほんとの恐しさがわかって来ると、啓介の顔はみるみるうちに、泣き笑いをするときのように歪《ゆが》んで来た。
「おい、君、そ、そりゃアほんとうか」
西沢は無言のまま啓介の顔を見詰めている。啓介の顔色から、何かをさぐり出そうとするように、とがった瞳をすえている。どことなく、ふてぶてしい顔色だった。
「いったい、どこで……」
「銀座裏のキャバレーで、……先生はレッド・ミルというキャバレーを御存じじゃありませんか」
啓介はだまって首を横にふったが、すぐぎょっと眼を瞠った。今夜、自分はたしかに、どこかのキャバレーへ入ったが、あれがそうではなかったか。表に赤い水車がまわっていた。……
「君は、それを……加奈子を見たのか。殺されてるのは、加奈子にちがいなかったのか?」
「ええ、ハッキリ見ました。奥さんにちがいありません。先生、まあ、坐りましょう。立ったままじゃ話も出来ませんや」
西沢の言っていた座談会はお流れになった。企画では那須慎吉のほかに、二人の名士が出席して、戦後の性道徳について、意見をたたかわせる筈だった。
那須慎吉は文学者だが作家ではなくて、某私立大学で、フランス文学を講義するかたわら、新聞雑誌に評論を書いている。
那須の評論は、かれの性格をむき出して見せたように、鋭くて、辛辣《しんらつ》で、仮借《かしやく》のないところが評判だった。戦後は主として、セックスの問題をとりあげているが、それからひいて人口問題に及び、妊娠中絶を法律で許可せよというのが、かれのちかごろの主張であった。
今夜もむろん、その問題について、三人の名士に意見をたたかわせてもらうつもりだったが、いろいろな行きちがいから、ほかの二人が時間まぎわになって、出席をことわって来たのだ。それはどうやら、那須に対する反感からであるらしかった。
那須は戦後論壇の花形だが、辛辣で、傍若無人《ぼうじやくぶじん》な性格なので、多くの人から敵視されていた。
司会者側では弱った。那須ひとりでは座談会にならないし、急にほかに出席者をこしらえるわけにもいかなかった。
そこで、その問題については、改めて那須に書いてもらうことにして、飯だけ食って散会した。それが八時ごろのことだった。
「ぼくはもうすっかりムシャクシャしましてね、酒でも飲まなきゃおさまらなくなったから、先生におごっていただこうと思って、酔月へかけつけたんです」
酔月というのが、西沢が啓介をひっぱっていった飲み屋の名前らしかった。
「しかし、先生はとっくにおかえりになったという、大ガッカリでさあ。新橋際の『田の幸』へは、九時半という約束でしたが、それでもひょっとして、もうおいでじゃないかと思っていってみたんです。しかし、そこへもお見えにならぬという。あいにく金はなし、仕方がないから銀座をブラついて、九時半ちょっとまえにいってみたんだが、先生はとうとういらっしゃらない。しかし、さいわい、さっき別れた編集長やほかの連中にそこで出会って、みんなでレッド・ミルへ押しかけていったんです」
ほかの連中は踊ったが、西沢は踊れないので酒ばかり飲んでいた。そのうちにカンバンちかくなったので、サーヴィス・ガールがそろそろそのへんを片づけはじめた。
西沢のグループもかえり仕度《じたく》をはじめたが、そのときだった。
「キャッ!」
と、女の子の悲鳴がきこえた。
「誰か来てえ……女の人が殺されている。……」
「それが加奈子だったというんだね」
啓介の額にはいっぱい汗がうかんでいる。いったん醒《さ》めかけた酔いがまた出て来たように、血走った眼に、ギラギラ脂肪がういている。それでいて、頭はシーンと冴《さ》えていた。
「そうなんです。さいわい、ぼくたちのグループがいちばん近くにいたので、まっさきに駆けつけたんです。奥さんは椅子に坐ったまま、うしろから首をしめられたらしいんです。ぼくはびっくりしましたよ。自分の眼を疑いましたよ。しかし、奥さんにちがいなかったんです。衣裳《いしよう》にだって見覚えがあるし……」
もう、冗談でも嘘《うそ》でもなかった。西沢は恐ろしい真実を語っているのだ。しかし、どうしてそんなことになったのだろう。
「それで、君はその女を知っているといったのかい。その女を風間啓介の妻、加奈子だと告げたのかい」
「いいえ、いいませんでした。どうしてだかいえなかったんです。それをいえばうちの特種になるんですがね。身許不詳の女というよりゃ、作家風間啓介の妻と来たほうが、どれだけニュース・ヴァリューがあるかわかりませんや。しかし、ぼくはだまっていたんです。先生のことを考えたものだから……先生」
西沢は急に体を乗出した。きっと啓介の瞳のなかをのぞきこんだ。
「さっきぼくが電話をかけたとき、先生はいまかえったばかりだとおっしゃいましたね。先生、いったい、それまでどこにいたんです」
「ぼくが……? 西沢君、そ、それはどういう意味なんだ」
「どういう意味って……」
西沢はしつこく啓介の瞳のいろを読みながら、
「だって、先生はこんや、いや、もうゆうべだ、ゆうべ奥さんと喧嘩して、家をとび出されたんでしょう。そして、終電車ちかくまで、銀座のどこかをうろついておられた。その同じ銀座で、奥さんが殺されていた。……先生、ぼくはそれを考えたんです。先生、まさか、あなたがやったんじゃないでしょうね」
啓介は突然、脳天から太いクサビを打ちこまれたような感じだった。いままでのおどろきは、たんに妻の奇怪な死にたいするおどろきだけだった。しかし、こんどの驚きは、その妻の死が、自分の身におよぼしてくる影響について、はじめて気がついたおどろきだった。
啓介は物凄《ものすご》い形相をして、西沢の顔を凝視していたが、やがて無言のまま立って戸棚をひらいた。西沢はギョッとして本能的に身をひいた。啓介の取出したのは、ウィスキーだった。啓介は無言のまま、ふたつのグラスにウィスキーをついだ。
西沢は自分のほうに押しやられたウィスキー・グラスを取りあげながら、ふと思い出したように、
「先生、あなたはシガレット・ケースをどうしました?」
ああ、シガレット・ケース……啓介は酔うとよく物を落したり、なくしたりする。今夜もどこかでシガレット・ケースのなくなっているのに気がついたが、べつに気にもとめなかった。
しかし、そのシガレット・ケースが、加奈子の死体のそばに落ちていた……と、いうことになると話はおのずからべつになる。犯人の目的は、単に加奈子を殺すことだけではなかったのだ。自分を罪に落すということが、犯人にとって、はるかに大きな目的だったのではあるまいか。
「そうです。奥さんの腰かけた椅子のすぐうしろに、シガレット・ケースが落ちていたんです。サーヴィス・ガールがそれを見つけて拾いあげようとしたんです。それをうちの編集長がとめました。そのとき、ぼくはハッキリ見たんです。先生が洋行がえりの友人から貰ったという、イタリヤ革かなんかのシガレット・ケース……」
啓介の耳のなかを、数千匹の蜂がブンブンあれ狂う。はげしく旋回する乳色の霧のなかを、そのときひょいと、那須慎吉の冷い顔がとおりすぎた。
「ねえ、西沢君、そんなことが出来るだろうか。賑やかなキャバレーのなかで、人殺しをするなんて……そんなこと、犯人にとって賢明なやりかただろうか」
「それはできます。かえって賢明かも知れませんぜ。キャバレーには馴染みも多いが、ふりの客も大勢あります。いちいち客の顔なんかおぼえちゃいません。犯人がその気なら、顔を見られぬようにして、出入りすることもできます。なかじゃ、スウィング・バンドがジャンジャンやってます。ちょっとくらいの叫びやうめき声はわからんでしょう。おまけに照明がしょっちゅうかわって、どうかすると、テーブルがまっくらになることもある。それにねえ、先生」
西沢は啓介がすすめるままに、いくらでもウィスキーをあけながら、
「奥さんのいた席というのが、太い柱と鉢植えのシュロの木のかげになっていて、ちょっとアベック・シートという感じで、ほかからはよく見えないんです。奥さんのすぐうしろには、重いカーテンが垂れている。犯人はそのカーテンの割れ目から、腕を出して、カーテンをしぼる紐《ひも》で、奥さんの咽喉《のど》をしめたらしいというんです」
シガレット・ケースを落したのは、そのときだろうといわれている。
「そ、それにねえ、落ちていたのはシガレット・ケースばかりじゃない。ほら、ゆうべ、ぼくが書いてあげた『田の幸』の地図ね、あれが落ちていたんです。あれはうちの社専用の原稿紙で、社の名前がちゃんと刷りこんであるから、いずれ、ぼくが書いたもんだってこと、わからずにゃおきますまい」
西沢のろれつがしだいに怪しくなってくる。啓介は恐ろしい眼でそれを見詰めていた。
……自分はゆうべ、女房と大喧嘩をして家をとび出した。そのことは藤崎の小母さんが知っている。西沢も知っている。
……誰かがゆうべ、自分の名前をかたって、電話で加奈子を呼び出した。そのことは藤崎の小母さんが知っている。しかし、藤崎の小母さんは、あれをあくまで自分だと信じ、そう主張するかも知れない。小母さんはふだんから、自分に好意を持っていないのだから。……
……さて、八時ちょっと過ぎに家を出た加奈子は、九時ごろまでにキャバレー・レッド・ミルへついたにちがいない。
それからキャバレーのカンバンちかい時刻(西沢はそれを十時ちょっと過ぎだといっている)のあいだのいつかの時刻に、加奈子は殺されたのにちがいない。
そしてそのそばに、自分のシガレット・ケースと西沢の書いてくれた地図が落ちていた。
……ところで一方、その時刻、九時から十時ちょっと過ぎの時刻まで、自分はどこで何をしていたか。それをハッキリ明言し、立証することが出来るだろうか。
ノオ!
すべてがアルコールの煙幕のかなたに消えて、記憶はこんとんとしている。西銀座の飲み屋から飲み屋へと、ほっつき歩いていたことはたしかだけれど、それを順序立てて、時間まで明確にすることは困難である。いや、困難というより不可能だ。
やられた!
完全にワナにおちた!
誰も自分のいうことを信ずるものはないであろう。自分と加奈子の不和は、多くのひとが知っている。……
「せ、先生、な、何を考えていらっしゃるんです」
西沢の眼は、昏睡の一歩手前まできている。それでいて、とろんとしたその眼には、しつこい猜疑がこびりついている。啓介にはそれがいまいましかった。
「いえねえ、西沢君」
しかし、声だけは妙にやさしく、
「君は那須に、ぼくとあったことを話したろうねえ」
「え? ええ、そ、そりゃ話しましたよ」
「それからぼくが、加奈子と喧嘩をしてとび出したことも……そして、ぼくが銀座をのんでまわるつもりだということも……」
「さあ、……いったかも知れません。ぼ、ぼくはおしゃべりだからな、あっはっは」
「それから、那須と八時ごろに別れたんだね」
「え? ええ、……そ、そうです」
「那須はひとりだった?」
「そ、そうでしたよ。……ひ、ひとり……」
西沢はそこでガックリちゃぶ台のうえに顔をふせた。啓介はすごい眼をしてそれを見ていたがやがて、ウィスキーの瓶《びん》をそっと電気にすかしてみた。溶けあまったアドルムの粉末が、キラキラと雲のようにういている。
夜が明けた。啓介の足下には西沢がぶっ倒れている。西沢の額にはねばっこい脂汗がいっぱいふき出し、息遣いが、嵐のように速く、はげしい。
「まさか、死にやしまいな」
啓介は西沢の瞼《まぶた》をめくってみた。それから念のためにマフラーで猿ぐつわをかませ、兵児帯《へこおび》と加奈子のしごきでしばりあげた。
それにしても西沢が、加奈子の身許をしゃべらなかったのは有難い。おかげで、少くともここ数時間、行動の自由が保証されたわけだ。
啓介はありったけの現金をかきあつめた。三万七千円ほどあった。ここ二年あまり、啓介はあまり原稿を書かなかったが、旧作が出版されるので、生活にはことかかなかった。
銀行の通帳を見ると、三十万ほど残高がある。啓介はそれをポケットにねじこんだ。
何か忘れているものはないか。何もない。
啓介はふと思いついて、新しいウィスキーの栓《せん》をきって、旅行用のウィスキー・ポットに詰めかえた。それを臀《しり》のポケットに入れると、残りのウィスキーの瓶を、新聞にくるんで、外套《がいとう》のポケットにつっこんだ。
乗物恐怖症……そんなことはこの際、問題ではない。しかし、いざという場合の用意にアルコールが必要なのだ。酔うと啓介は気が強くなる。乗物どころか、矢でも鉄砲でも来いになる。
新聞が来た。啓介は血走った眼を皿のようにして、社会面を見たが、どの新聞にもまだ、レッド・ミルの事件は出ていなかった。
八時半、啓介は外套の襟《えり》を立て、帽子をまぶかにかぶって、裏口から外へ出たが、そこで藤崎の小母さんとバッタリ鉢合《はちあわ》せをした。
啓介はドキッとして身内がすくんだ。心臓がガンガン鳴った。
「まあ、旦那さま、こんなに早くどちらへ……」
果して、小母さんの眼には疑惑のいろが濃い。
「あ、いや、ちょっと……」
「奥さんはゆうべ、おかえりでしたか」
「あ、うむ、やっぱり実家へかえっていたのだ。さっき電話がかかって来たので、ちょっと迎えにいって来る。……あ、小母さん、どこへいくんだ」
裏木戸へ手をかけた小母さんは、びっくりしたように振返った。
「洗濯物をいただきに……」
小母さんは週に一度、日をきめて、加奈子のためた洗濯物をとりに来るのだ。
「駄目だ、今日は加奈子が留守だから……」
「でも、洗濯物のありかはわかっていますから……」
小母さんは頑固《がんこ》にいって、疑わしそうにまじまじと啓介の顔を見守っている。
「いけない、駄目だといったら今日は駄目だ」
啓介は小母さんの手をはらいのけると、裏木戸に錠をかった。それから逃げるように、朝の町へ出ていった。うさん臭そうな小母さんの凝視を、いたいほど背後にかんじながら。……
[#改ページ]
[#小見出し]  逃避行
数寄屋橋のうえにいっぱい人が立っている。新聞社の電光ニュースを読んでいるのである。
電光ニュースはさっきから、くりかえし、くりかえし、キャバレー・レッド・ミルの事件を報じている。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――警視庁デハ目下行方ヲクラマシタ被害者ノ良人作家風間啓介氏ヲ捜索中……
[#ここで字下げ終わり]
そういう文字が、チカチカと明滅しながら、スイスイと横にながれていく。
皓三はそういう文字を、自動車の窓からちらととらえた。
「ふうむ」
短くうめいて、きっと唇をかむ。
自動車は新聞社のまえを通りすぎて、日比谷のほうへむかっていた。
皓三は自動車の背にあたまをよせて、さっき読んだ夕刊の記事を思い出す。
キャバレー・レッド・ミルの殺人事件は、今日の夕刊にいっせいに掲載されたが、被害者の身許をあきらかにしているのは、ただ一紙である。
それは西沢のつとめている東都新聞社が、傍系事業としてだしている東都夕刊だった。
西沢はうまくやった。
正午ごろ昏睡からさめたかれは、半時間ほどの努力で、いましめをとき、猿ぐつわをとった。
目白の家をとびだした西沢は、すぐ警視庁へいこうとはせず、自分のつとめている東都新聞社へかけつけた。
西沢の話をきいて社内はわきたった。新聞記者が八方へとんだ。材料が蒐集《しゆうしゆう》された。風間夫婦の写真がさがしだされた。
西沢は夕刊のしめきりが過ぎるのを待って、はじめて警視庁へ出頭した。
だから、キャバレー・レッド・ミルの事件は報道していても、被害者の身許をはじめとして、被害者の良人、作家風間啓介の逃亡という、センセーショナルな記事をあつかっているのは、東都夕刊だけだった。
西沢は残忍ないかりにもえていた。かれは日頃から啓介をすいていない。いや、すいていないというよりも憎んでいた。心の底から憎んでいた。
それにもかかわらず、昨夜、加奈子の死体を見たとき、なぜ、それと告げなかったのか、なぜこっそりそのことを、啓介に知らせてやろうとしたのか、自分でもよくわかっていない。ひょっとすると、それを機会に、啓介の好意を獲得しようとしたのかも知れない。
ところが事実はあのとおりである。西沢の胸には蒼白い復讐心がたぎり立っていた。
かれの陳述をはじめとして、東都夕刊の記事の調子が、啓介にとっていかに不利であったか想像されよう。
自動車は赤坂山王下にある、東洋ビルのまえでとまった。
東洋ビルもごたぶんにもれぬ焼けビルだが、わりにうまく修理ができている。四階建てだが、二階までが貸しオフィス、三階と四階はアパートになっている。地下室はバア。皓三はその地下室へおりていった。
階段をおりると、正面に、アパッシュとすりガラスに染め出したドアがあって、ドアをひらくとひどい煙草の煙。なかは大してひろくはなく、テーブルが五つ六つ、カウンターのまえでも飲めるようになっている。客は五、六人。
衝立《ついた》てのかげのテーブルでは、麻雀をかきまわす音がした。
皓三はテーブルのあいだを縫って、カウンターのそばにあるドアをひらいた。その音に客とおしゃべりをしていたバーテンがふりかえって、
「あ、社長……」
何かいいかけたが、皓三はかるく首をふって、ドアのなかへ入ってしまった。
「社長、社長、お客さんが……」
追っかけるようにいうバーテンの言葉を耳にもかけず、
「青木君、ちょっと考えたいことがあるから、誰も来ないように。……」
ドアを入るとせまいホール、そのさきにまたドアがあり、そこを入ると皓三の事務所。広くはないが、調度はゼイタクなものである。
皓三はどっかとアーム・チェヤーに腰をおとすと、ポケットから東都夕刊を取り出した。そしてもういちどレッド・ミル事件の記事に、すみからすみまで眼を通した。
記事は六段抜きのセンセーショナルなもので、西沢や藤崎満江の談も出ている。二人とも啓介が犯人にちがいないと断定していた。
記事を読みおわると、皓三はそこに出ている啓介の写真に眼をうつした。しばらく、とみこうみしていたが、
「似ていないな、この写真は……最近のあのひととはまるでちがっている」
新聞を投出すと、皓三はデスクのうえの煙草に手をのばした。だが、そのとたん、ギョッとしたように眼をみはった。
デスクのうえの鏡に、うしろのカーテンがうつっている。カーテンのかげに誰かいるのか、まるくふくれて、かすかに動いている。
「誰か、そこにいるのは!」
皓三はアーム・チェヤーからとびあがると、本能的に臀のポケットに手をやった。
カーテンがわれて、男の顔がおずおずのぞいた。風間啓介だった。げっそりとやつれていた。
皓三は一瞬、眉をつりあげたが、すぐ、つかつかと部屋を横切ると、ドアの内側からガチャリと鍵をかけた。
「ど、どうしたんです。先生」
皓三の声はつめたく、きびしかった。鋼鉄のように澄んだ瞳には、仮借のないつよい意志のひらめきがあった。
「た、助けてくれ……田代君」
啓介はまた飲んだのか、瞳にギラギラと脂がういている。しかし、その酔いも、不安と恐怖をおさえることはできなかった。
ベソをかくように歪んだ顔には、ドスぐろいおびえの色が、オドオドと揺曳《ようえい》している。
皓三はその顔色から、なにかをさぐり出そうとするかのように、しばらくきっと瞳をすえていたが、やがて、かすかに憐愍《れんびん》のいろが動いた。
「まあ、いいからこちらへ出ていらっしゃい。そんなところにいちゃ話もできない」
「大丈夫か……誰も来やあしないか」
「大丈夫です。誰も来やあしません。しかし、先生はどうしてここへ入って来たんです」
「バーテンに、いつか、君にもらった名刺を見せたら、ここへ通してくれたんだ。それで、君のかえりを待っていたんだ」
「青木に……? そいつは少し拙《まず》かったかな。青木は先生に気がつきゃあしませんでしたか」
「いや、気がつかなかったようだ。ぼく、これをかけていたものだから……」
啓介はポケットから黒眼鏡を出してみせた。皓三は白い歯を出してにやりと笑うと、
「ははははは、変装ですか。すっかり逃亡者気取りですね。まあ、いいから、こちらへ来てお掛けなさい。今日の夕刊を見ましたか」
「いや、見ていない。夕刊に出ているのかい」
啓介の瞳には、ますます不安の色が濃くなった。
「出ていますよ。大見出しでさあ。まあ、読んでごらんなさい」
啓介はよろめくように腰をおろすと、皓三のさしだした新聞を、くいいるように読みはじめる。
皓三はその横顔を、鋼鉄のように、つめたい、きびしい眼で凝視していた。
読みおわると啓介は、ねっとりと額にふき出した汗を、ハンケチでこすりながら、
「西沢のやつ……ひどいやつだ。すっかり、おれを犯人あつかいにしやあがって……」
「あっはっは、そりゃしますよ。薬を盛って睡らせて、おまけに縛りあげて、猿ぐつわまではめられりゃ、誰だって、先生を犯人だと思いますよ。しかし、ほんとうはそうじゃないというのですか」
「そうじゃないのだ。ぼくは何も知らないのだ」
「ほんとうですか」
「ほんとうだ」
「神かけて……?」
「神かけて……」
皓三はきっと啓介の瞳のなかをのぞいていたが、やがて椅子をすすめると、
「よろしい、それじゃ話をききましょう。いったい、ぼくになにをしろというんです」
「なるほど、すると、先生は、奥さんが殺された時間、九時から十時半までのあいだ、西銀座の飲み屋から飲み屋へと、梯子《はしご》をして歩いていたというんですね」
啓介はくらい眼をしてうなずいた。
「しかも、どこからどこへ飲んでまわったか、少しも記憶がないというんですね」
啓介はまたうなずいた。
「しかも、いっぽう、殺された奥さんのそばには、先生のシガレット・ケースと、西沢の書いてくれた地図が落ちていた。……先生はそれらの品をどこでなくしたか、それも記憶がないんですね」
啓介はくらい顔をしてみたびうなずいた。
「つまり、先生は絶対にアリバイを立証することができない。しかも、奥さんの死体のそばには、れっきとした証拠の品が落ちていた。……と、こういうことになるんですね」
「そうなんだ。田代君、おれは完全にワナに落ちたんだ。犯人はおれを、女房殺しの罪におとそうとしているのだ。おれはそのワナに完全に落ちてしまったのだ」
「誰か、そういう人物に心当りがありますか」
その瞬間、また那須慎吉の名前が、ちらと脳裏《のうり》にうかんだが、さすがにそれを口に出すことは憚《はばか》られた。
啓介は無言のまま首を左右にふった。
皓三はしばらく、さぐるように啓介の顔色を見ていたが、
「先生、ほんとうにあなたがやったんじゃないのでしょうね。泥酔して、記憶をうしなっているあいだに……」
「田代君!」
啓介は喘《あえ》ぐように、
「君までがそんな……そりゃ、女房の殺された時刻の記憶は全然ない。しかし、女房に電話がかかって来た、八時前後には、それほど酔いはふかくなかった。おれはどこへも……」
と、いいかけてハッとしたように、
「いや、女房に電話なんかかけたおぼえはないんだ」
皓三はだまってしばらく考えていたが、やがて強くうなずくと、
「よろしい、先生の話を信ずることにしましょう。で、どうすればいいというんです。ぼくに何をしろとおっしゃるんです」
「まず、第一におれをかくまってもらいたいんだ。金はある」
啓介はあらゆるポケットから紙幣束を出して、デスクのうえに積上げた。
「今日、銀行からひき出してきたんだ」
皓三はしかし、紙幣束には見向きもせず、
「それから……」
「それから、女をさがしてもらいたいんだ。三人の女を……」
「……そうなんだ。ぼくにもあの女たちが、どういうわけでああもしつこく、ぼくを尾行していたのかわからないんだ。しかし、尾行していたことだけは間違いないんだ。君にその女をさがしてもらいたいんだ」
「しかし、そりゃ……」
皓三は信じかねる面持ちで、
「こういっちゃなんですが、アル中患者の幻想じゃないんですか」
「ちがう、ちがう。断じてちがう」
啓介は必死となって、
「君も酒をたしなむほうだから知ってるだろうが、酔っぱらいというものは、どこか偏執狂《へんしゆうきよう》なところがある。すべての意識は溷濁していても、何かしらひとつのこと、それも、ごくつまらないことを、ハッキリ知っていることがあるものなんだ。ぼくはたしかに知っているんだ。三人の女がつぎつぎに、ぼくのあとを尾行していたんだ。これは間違いのない事実なんだ」
「そして、その理由はわからんというんですね」
「そうなんだ。だから、ぼくは不思議に思っているんだ。しかし、理由なんかどうでもいい。その女たちをさがし出せば、昨夜のぼくの行動がわかると思うんだ」
「つまり、自分でもおぼえていない昨夜の行動を、その女たちによって証明してもらおうというんですな」
皓三は白い歯をだしてかすかにわらった。
「そうなんだ、面目ない話だけれど、自分でも知っていないアリバイを、その女たちによって立証してもらおうと思うんだ」
皓三はだまって啓介の顔を見詰めていた。
かれはまだ、啓介の話を鵜呑《うの》みにすることは出来なかった。そこにはどこか突飛なところがあった。いかにもアル中患者の幻想めいた、常識では納得のいかぬ疑点があった。
しかし、相手の真剣な眼のいろを見ると、そのまま笑い捨ててしまうのも気の毒に思われた。
「なるほど、それじゃまあ、三人の女があなたを尾行していたと仮定しましょう。しかし、その女たちには、べつに連絡はなかったのではないか。相手がパンパンだとすると、カモになりそうな男を見つけて、ちかづこうとするのはありうることです。その場合、第一の女が尾行をあきらめてから、第二の女があなたに眼をつけて尾行をはじめるまでに、ギャップがあったとしたらどうします。第二の女と、第三の女のあいだに、ブランクがあったとしたらどうします。そうすると、三人の女をさがし出したところで、完全なアリバイを立証することは出来ませんぜ」
「いや、そうじゃないんだ。三人の女のあいだには、たしかに連絡があったにちがいないんだ」
啓介は、相手を説伏せようとして必死だった。脂汗がタラタラ額から流れおちた。
「有楽町のガード下で、ぼくが眠っているのを、叩き起してくれたのは、ラクダ色のオーヴァを着た女、つまり、第一の女だったんだ。ぼくはそいつに、真紅なターバンの女のことを訊《たず》ねた。すると、相手は言下にこたえた。あの娘《こ》はもうかえったわと。……」
「それはほんとうですか」
皓三の顔に、はじめて興味のかげが動いた。
啓介はそれに力をえて、いよいよ熱くなっていった。
「ほんとうなのだ。酔っていながら、不思議にそのことだけは、ハッキリ、おぼえているんだ。いや、あのときは、酔いの間隙だったにちがいないんだ。ねえ、田代君」
啓介はすがりつくような眼になって、
「第一の女が、真紅なターバンの第三の女のことを知っている。……と、いうことは、三人の女に連絡があった証拠じゃないか。第一の女は、ぼくに誰何《すいか》されたので、それ以上、尾行ができなくなった。そこでバトンを第二の女にわたした。第二の女も、しばらくぼくを尾行していたが、なにかの都合で、第三の女にバトンをわたした。第三の女は、有楽町のガード下まで、ぼくを尾行してきたが、そこで第一の女にひきわたしたのだ。つまり……」
「つまり、リレー式に先生を尾行していたというんですね。なるほど、それが真実だとすると、先生のアリバイを立証することができる。少くとも、昨夜の先生の行動を、明確にすることができる。しかし、先生」
皓三はまじまじと啓介の顔を見ながら、
「先生はそれでいて、なぜ、その女たちがそんなことをしたか、御存じないんですね」
「知らないんだ。全然、心当りがない」
「妙ですね。不思議な話ですね」
皓三は首をかしげて考えていたが、やがて思いついたように、
「ところで、先生、ひょっとするとその女たちが、奥さんを呼出して、殺したのじゃないかということは、考えられませんか」
「ぼくもそれを考えてみた。有楽町のガード下でたたき起されたとき、ラクダ色の女は、ぼくが女房と喧嘩をして、とびだしてきたことを知っていたのだ。しかし、女房にしろ、ぼくにしろ、あの女たちに怨《うら》まれるおぼえは全然ない。しかし、田代君。もし、あの女たちが犯人だとしたら、なおのこと、さがし出す必要があるわけじゃないか」
「なるほど。それはそうです。しかし、先生、その女たちをさがせといったところで、いったいどこから手をつけたらよいのか。ラクダ色だの、真紅なターバンだのといったところで、それじゃ、あまり漠然としている」
「いや、ところが、それには手段があるんだ」
啓介の眼は、必死の想いで、ギラギラ光っている。
啓介が第二の女、黒いつやのある外套をきた女に、はじめて気がついたのは、西沢につれていかれた酔月という店であった。
西沢はそこへ啓介をひとりのこして、座談会へ出席した。
啓介はしだいに酔いのふかくなる眼で、ぼんやりと、女の横顔をながめていた。
すると間もなく三、四人の客が、ドヤドヤと立上って、啓介と女のあいだをとおって、外へ出ようとした。その客のひとりが女を見つけて、ようと声をかけた。女は見向きもしなかった。
「チェッ、気取ってやがらあ」
声をかけた客は、舌をならして、出ていった。スポーツ・ライターらしかった。しかも、その連中のひとりが、西沢と挨拶をしたのをおぼえている。……
「だから、まず、酔月へいって、おやじに女のことを聞いてみる。女を知らなければ、スポーツ・ライターを聞いてみる。それも知らなければ仕方がない。西沢にあって、スポーツ・ライターを聞いてみる。西沢には、なるべく、接近してもらいたくないのだが……」
皓三の顔からは、懐疑のいろがうすれていった。
啓介は動顛《どうてん》している。酔っぱらっている。しかし、正気をうしなっているのではない。話に筋がとおっている。
「なるほど、それで、第二の女がわかれば、第一の女も、第三の女もわかるわけですね」
「そうなんだ。田代君、お願いだ。ぼくにとっちゃ生死の問題なんだ。助けてくれ」
皓三はつと立上ると、必死となって追いすがる啓介の眼を、焼けつくように背後にかんじながら、部屋のなかをゆきつ、もどりつした。
コツコツコツ。――皓三の靴音が、啓介の心臓にいのちの鼓動をたたきこむ。啓介の額は、ビッショリと脂汗だった。
皓三は、突然、啓介のまえに立止った。うえからきっと啓介を見おろした。
「よろしい、万事、先生のおっしゃるとおりやりましょう。かくまいましょう。女をさがしましょう。しかし、先生」
と、力をこめて、
「もし、その女たちがなにも知らなかったら、先生の考えているように、計画的に尾行していたのでなかったら、そのときはどうします」
そのときのことを考えて、啓介はわなわなふるえた。しかし、キッパリといいきった。
「仕方がない。そのときは、万事を運にまかせて、名乗って出よう。それ以上、君に迷惑はかけない」
啓介が田代皓三をえらんだのは、むろん、相手を信頼できると信じたからだ。しかし、それだけではなかった。
啓介と皓三の関係は、誰にも知られていなかった。妻の加奈子でさえ知らなかった。
啓介は戦争の初期に、徴用でラボールへもっていかれた。皓三は主計中尉でそこにいた。
当時は銃後でもそうであったが、前線ではとくに、将校ととくべつの関係をむすんでおくことが、何より大切なことだった。
みんな争って、将校の歓心を買おうとつとめた。啓介はそれをやらなかった。やらなかったところに、皓三がひきつけられた。
啓介はわがままで、だだっ児で、相当、えて勝手な男だ。しかし、お坊っちゃん育ちだけに、鷹揚《おうよう》で、世話ずきで、思いやりもあり、そこにかれの魅力があった。皓三は文学などに、全然、縁のない男だが、そこにひきつけられたのである。
啓介は六ヵ月そこにいて帰還した。皓三は二十一年の秋に復員した。
啓介はある日、尾羽打枯らした皓三の訪問をうけた。無心にきたのだった。新聞でかれの小説の広告を見て、思い出したのだそうだ。
啓介はこころよく無心に応じた。皓三はその後二度きたが、そのつど啓介はいくらかの金をわたした。不思議にも、かれのくるのは、いつも加奈子の留守中だった。
当時、すでに加奈子と不和になっていた啓介は、そんなことを話すはずはなかった。だから、加奈子ですら、啓介にそういう友人のあることを知っていなかった。
皓三はその後、需品廠《じゆひんしよう》にいた昔の仲間と結託《けつたく》して、アルコールの払いさげをうけ、それを千葉のアルコール工場にながす仕事をはじめた。
アルコールの代償として、ウィスキーを受取り、それを市場にながすのである。むろん、闇だ。
この仕事はまたたく間に皓三を肥らせた。東洋ビルの二階にある、田代商事会社は、ウィスキーの闇ブローカーで繁昌した。皓三はいつしかボス的存在になっていた。
半年ほどまえ、皓三は借りた金を十倍にして、啓介のところへ持ってきた。啓介はわらって受取らなかった。
皓三はしばらく思案をしたのち、名刺のうらに、暗号のような印をかいて、啓介にわたした。なにか困ることができたら、この名刺を持って、東洋ビルの地下室、アパッシュという酒場へきてくれといいおいて去った。
今度の事件で、まっくらな絶望感のそこから、啓介の頭に、ふとうかびあがってきたのは、この名刺のことだった。
皓三は、どんな手段をつくしてでも、啓介のこの信頼に、こたえてやらねばならなかった。
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[#小見出し]  女を捜せ
「そうですかねえ。なにしろ、大勢のお客さんですから、そういちいち、おぼえているわけにゃあねえ。お馴染《なじ》みさんなら、とにかく……」
「しかし、一昨日の晩のことだぜ。それに、そのときゃ、それほど、立てこんでもいなかったというのだがねえ」
「一昨日の、七時前後のことだというんですね。二十三、四の、黒い、ビロードのようにつやのある外套をきた女……おい、お仲、おまえ、おぼえちゃいないか」
「そうねえ、そういえば、そんなひとがいたような気もするけれど、どこの誰だかねえ。とにかくお馴染みさんじゃありませんねえ」
酔月では、おやじもおかみさんも、その女を知っていなかった。しかし、皓三は失望しなかった。
かれのように、はげしい人生をたたかって来た男は、成功とはそんなに、手近かにぶらさがっているものでないことを、胆に銘じて知っていた。
そこで、鋒先《ほこさき》を転じて、スポーツ・ライターの連中のことをきいてみた。おやじも、その連中については、すぐ思い出した。
「ああ、あの御連中、あの御連中なら、ちょくちょくお見えになりますがねえ。さあ、どこのひとですかねえ。ちょくちょくたって、ひと月にいちどか、ふた月にいちどぐらいのもんですからねえ」
「運動記者らしいというんだがね」
「ええ、そう、新聞社のひとらしいんですがね。何新聞のかただか……お仲、おまえ知っちゃいないか」
「さあ、わたしもつい、うっかりして……今度、来られたらお伺いしておきましょうか」
ひと月にいちどか、ふた月にいちどぐらいしか来ない客じゃとても、それまで待っていられない。
こうなると、やっぱり西沢にあたってみるより仕方がない。啓介の言葉を待つまでもなく、西沢にぶつかることは、かなり危険である。
啓介の話によると、西沢というのは、かなり狡猾《こうかつ》な男らしい。自分が啓介のために、はたらいていることを知ったら、どんな態度に出るかわからない。
しかし、そのときはそのときだ。この際、西沢から手繰《たぐ》っていくより、ほかに手段がないのだから仕方がない。
皓三は酔月を出ると、東都新聞社のなかにある、『月刊東都』の編集部に電話をかけて、西沢の在否をたしかめた。
西沢は欠勤だった。今日は加奈子のお葬式なのだ。
皓三はしばらく思案をしたのち、喫茶店へ立寄って、香奠《こうでん》をつつんだ。
それから、目白の、啓介の留守宅へ自動車を走らせた。
「西沢さん、ちょっと……」
と、受付けからよばれて、
「はあ、何か御用?」
大勢つめかけている弔問客をかきわけて、西沢はおくからとび出して来た。
ちょうどいま、加奈子のお葬式が出ようとするところで、風間家はごったがえしていた。
事情が事情だし、かんじんの主人が逃亡中のことだしするから、できるだけ内輪にということになっていたのに、風間の親戚も、加奈子の実家も、みな、相当にやっているうえに、
「あんな可哀そうな死にかたをしたんですもの、せめて、お葬いくらい、賑やかにやってやらなきゃ……」
という実家の母の意見もあって、お葬式は、最初の予定より、だいぶ派手なものになった。
それに好奇心もてつだって、弔問客も意外に多く、ひょっとすると、啓介が舞いもどって来やあしないかと、警察の連中や、新聞記者が大勢つめかけているので、風間家のうちもそとも、相当の混雑を見せていた。
西沢は葬儀委員長という格で、朝からワイシャツ一枚でてんてこ舞いをしていた。
こういう場合、こまめに動く西沢は、みんなから重宝がられて、あちらからも、こちらからも、西沢さん、西沢さんと、ひっぱりだこだった。西沢はまた、いくらかそれが得意だった。
いま、受付けから呼ばれて、玄関へとんで出ると、足のふみ場もないほど、履物《はきもの》をぬぎちらかしたなかに、派手な、紺のダブルをきた男が立っていた。
「あなたが西沢さんですか」
色の浅黒い、肉の厚い、好男子だった。眼も、鼻も、口も、かっきりと大きかった。
「ええ、ぼく、西沢です」
西沢は流れる汗をぬぐった。じっさい、暑い日だった。
「このたびはとんだことでした」
相手は西沢の顔から、眼もはなさずにいった。
「これは、軽少ながら、御霊前におそなえください」
部厚な香奠のつつみには、田代と、ただ苗字だけが書いてあった。
「これはごていねいに……どうぞおあがりになって、御焼香ください」
「いや、いずれ、改めてまいります」
相手はもういちど、まじまじと西沢の顔を見ると、くるりと踵《くびす》をかえして出ていった。
香奠には一万円つつんであった。
風間の親戚も、加奈子の実家も、みな、相当にくらしており、雑誌出版関係からの香奠もあったが、一万円つつんだものはなかった。
西沢は茫然とした。
皓三が風間家を弔問した真の目的は、西沢の顔を見知っておくためである。西沢に正式に会見を申込むのはこまるので、あらかじめ顔を知っておく必要があった。
その目的は十分はたすことができたので、皓三はすぐ風間家をとび出した。
香奠に、田代と、本名をかいたのはまずかったかなと思ったが、なに、苗字《みようじ》だけだからわかりやしまいと、たかをくくった。
風間家のおもてには、出棺《しゆつかん》を送るために、おおぜいひとが詰めかけている。
門の外にしつらえた受付けが、挨拶状を出すつごうがあるからと、しつこく住所をたずねるのを、ふりきって、曲りかどまで来ると、女がひとり立っていた。
グリーンと赤のチェックのスカートに、真《ま》っ紅《か》なカーディガン、赤靴に赤いハンドバッグ。
美人だが化粧がどぎつすぎた。年齢は二十五、六というところか。
皓三がちかづくと女は顔をそむけた。
その女は、皓三が来るときもそこに立っていたのである。
弔問客だろうと思ったが、考えてみると、立っている場所がすこし妙だ。風間家とはなれすぎている。
弔問にしては服装が派手《はで》すぎた。それに、皓三が来るときも顔をそむけたようだ。いや、あらゆる人に顔をそむけていたようである。
しかし、それはあとで気がついたことで、そのときは、べつに、気にとめたわけではなく、皓三は表通りへ出ると、待たせてあった自動車にとびのった。
自動車がうごき出すとき、ふりかえると、女が風間家のほうへ歩きだすのが見えた。
「きれいだが、少し、趣味が悪いな」
皓三はなにげなくつぶやいてから、ハッと自分の心におどろいた。
かれはいままで、女に眼をとめたことはほとんどない。ましてや、女に批評をくだすなど、かつてないことだった。
皓三は苦笑した。
何を考えているのだ、おれは……化粧がどぎつかろうがなかろうが、おれの知ったことじゃない。これが、ちかごろの女の趣味なのだ。銀座へ出てみろ、みんなあれじゃないか。……
皓三はそこで突然ギョッとしたように、大きく眼をみはった。
啓介を尾行していたという三人の女……
「ああ、ちょっと、ちょっと、もう一度、さっきのところまでひきかえしてくれたまえ」
ひきかえしてみると、ちょうど霊柩車《れいきゆうしや》が出るところで、見送り人の全部が、風間家のまえにならんでいたが、女のすがたはそのなかに見えなかった。
女は、もうそのへんにはいなかったのである。
火葬場まで、霊柩車についていったのは、啓介の兄の誠也と、加奈子の兄とあによめ、それに弟の四人。
霊柩車が出ると、弔問客もたいてい引上げ、あとにのこったのは、親戚のものや、ごくしたしい友人だけ。それでも家のなかは相当混雑していた。
西沢は葬儀屋に指図して、お壇をとりかたづけさせたり、挨拶状の宛名《あてな》をかく手配りをしたり、あいかわらず、忙がしそうに、家のなかをちょこちょこしていたが、すると、受付けにいた青年が、
「あ、西沢さん、ちょっと」
と、呼びとめた。
「え、なに? なにか御用?」
「ちょっと、これ……」
受付けの青年からわたされたのは、粗末なハトロン紙の封筒で、表に、『風間様御親戚の方へ』と、女文字で書いてある。裏をかえしたが、そこにはなにも書いてなかった。
「どうしたの、これ……?」
「若い女のひとがおいていったのです。親戚のかたへお渡ししてくれって……」
「あ、そう。有難う」
香奠かなにかであろうと、西沢は気にもとめずに封を切ったが、なかから出て来たのは紙幣ではなく、粗末な一枚の便箋だった。かなり上手な女文字で、こんなことが書いてある。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
奥さまを殺したのは、旦那様ではありません。わたしたちがよく見ていました。
[#地付き]三人の女より
[#ここで字下げ終わり]
西沢は茫然たる眼で、その文字を見つめていた。便箋をもつ手がぶるぶるふるえた。
それから、気がついて、あわててあたりを見まわした。誰も西沢の様子に気がついたものはなかった。
西沢は急いで、便箋を封筒におさめると、ズボンのポケットに突っ込んだ。それから、もう一度、あたりを見まわした。眼が、あやしく光っていた。
「君、君……」
西沢はさっきの受付けの青年を、見つけて呼びとめた。
「さっきの封筒ね。あれをおいていったの、どんなひと?」
「若い女のひとでしたよ。派手な洋装をした……」
「名前やところ、ひかえておいてくれたろうね」
「いや、ところが、そのひまがなかったんですよ。受付けの台のうえに封筒をおくと、さっさといっちまったんです」
「それじゃ困るじゃないか」
「ええ、でも、出棺間際の、ごたごたしていたところですから……」
そのとき、うしろから西沢の肩をたたくものがあった。警視庁の小田切警部補だった。
西沢はドキッとした。ズボンのなかで、さっきの封筒が焼けるように熱かった。
西沢は昨日、警視庁で、被害者の身許を知りながら、その場で申し出なかったことについて、小田切警部補からさんざんしぼられた。
それのみならず、啓介の逃亡を助けたのではないかという、疑いまで持たれていた。
眠り薬をのまされて、しばりあげられて、猿ぐつわまでかまされて、まるで煮え湯をのまされたようなハメにおちいりながら、それを狂言と見られては、それこそ、いい面の皮だと腹が立った。そして、その蒼白いいかりは、すべて啓介にむけられた。
警部補はしかし、何も気がつかなかったらしく、おだやかな微笑をうかべながら、
「西沢さん、弔問客の名前と所をひかえてあるでしょうな」
「はあ、だいたい、ひかえてありますが、二、三、つけおちがあるようで……」
「そう、それじゃ、それを見せてもらいましょうか。あなたに聞けば、こちらとの関係はわかるでしょうな」
「はあ、だいたい、知ってるつもりですが、わからないところは、親戚のかたに聞いてみましょう。どうぞ、こちらへ」
狭い応接室では、わかい連中が三、四人、挨拶状を書きあげたところで、弔問客の名簿や、香奠帳とひきあわせていた。
西沢が話をすると、わかい連中は帳簿をおいて、こそこそ出ていった。
警部補は西沢に聞きながら、弔問客の名前のうえに、啓介や加奈子との関係を記入していく。このなかから、啓介をかくまいそうな人物を、さがし出そうというのである。
弔問客をおわって、香奠帳へうつったとき、
「ああ、そうそう、小田切さん、今日はひとり、妙な弔問客がありましたよ」
と、西沢がいった。
「妙な弔問客……?」
「ほら、そこに、一万円、田代と書いてあるでしょう。その男なんです。親戚のひとに聞いても、誰も田代なんて男を知ってるひとはないんです」
「一万円。かなり大きな金額ですな」
「ええ、ほかのとはケタちがいです」
「それでいて、御親戚のかたも御存じない……おや、弔問客の名簿にもないじゃありませんか」
「ええ、受付けで聞いてみたんですが、ふりきるようにしてかえっていったというんです」
警部補はしばらく、まじまじと西沢の顔を見つめていたが、
「ひょっとすると、学生時代の友人じゃありませんか」
「そうですねえ。じゃ、ちょっと、那須先生に聞いてみましょうか」
西沢は応接室の入口まで立っていって、
「那須先生、那須先生……ちょっと……」
と、呼んだ。
「西沢君、なに?」
那須慎吉はむっつりとした顔で、応接室へはいってきた。
痩《や》せぎすの、きびしい頬の線と、冷徹な眼を持った男で、黒い背広のポケットから、真っ白なハンケチをのぞかせている。疳《かん》の強そうな男だ。
小田切警部補は、那須がはいってくるまえに、いちはやく、弔問客の名簿をくった。
那須慎吉の名前のうえには、城南大学時代の同級生、現在、母校仏文科教授――と、書いてある。
「ええ、ちょっとお伺いしたいことがあるんですが……こちら警視庁の小田切さん、こちらが城南の那須先生です」
と、紹介しておいて、
「先生は、田代という人物を御存じじゃありませんか」
と、たずねた。
「田代……? いいえ」
「先生の学校時代の友人かなにかに、田代というひとはいませんでしたか」
「おぼえがありません。なかったでしょうね。田代というひとがどうかしたのですか」
「実は……」
と、一万円の香奠のことを話して、
「それで、御親戚のかたにおたずねしてみたのですが、どなたも知らないとおっしゃるんです。それで、ひょっとすると、学校時代の友人じゃないかと、小田切さんがおっしゃるので……先生は、学生時代以来の、こちらの先生の親友でいらっしゃるから、もしや、御存じじゃないかと思って……」
「それじゃ、ちがうでしょうね。われわれの学生時代の仲間にゃ、そんな景気のいいやつはいそうもない。しかし、警視庁では、どうして田代という人物に関する知識が必要なんですか」
「いや、別に田代というひとに、かぎったことじゃないのですがね」
小田切警部補がはじめて口をひらいた。
「今日の弔問客のなかに、風間氏をかくまっていそうな人物はないかと、一応しらべてみようと思っているんですが、田代という人物の行動に、いささか不審の点があるものですから」
「なるほど」
浅黒い那須の顔に、はじめて興味の影がきざした。
「西沢君、それじゃ、瀬川先生の奥さんに聞いてみたら……風間のことなら、瀬川先生の奥さんが、いちばんよく知っていらっしゃる。ああ、ついでに、泰子も呼んでくれたまえ」
西沢に呼ばれて、瀬川夫妻と那須慎吉の妻、泰子がはいってきた。
あの夜、啓介が痛切な電話をかけた女――泰子と、その電話をかけるについて、名前をかりた瀬川夫人の春代と、そして、その良人、瀬川省吾の三人が。……
しかし、瀬川夫妻も、泰子も、田代という名前を知らなかった。
一万円という香奠の話をきくと、春代は眼をみはって、
「まあ、それじゃ、よほどふかい関係があるんでしょうね。それにしては妙ですね、あたし、こちらの御家庭のことなら、たいていのことは知ってるはずですのに。……」
「風間氏とはよほど御懇意でしたか」
小田切警部補が、さっき調べた弔問客名簿の、瀬川省吾の名前のうえには、元城南大学教授、目下パージ、啓介の恩師と記入してあった。
「ええ、あたしたち、媒酌人《ばいしやくにん》ですの。啓介さんも、加奈子さんも、わかい時分から知っていて、あたしどものほうへ出入りをしているあいだに、知り合って、結婚なすったんですの。こちらの、那須さん御夫婦も、やっぱりそうなんですよ。ほ、ほ、ほ、あたしども、むかしから世話ずきなものですから」
春代は世話ずきな女にありがちの、多弁で、ひとの思惑など、考慮しないたちである。
半分以上、髪の白くなっている省吾の年齢から考えても、四十はこえているのだろうが、小肥りにふとったからだはみずみずしくて、若づくりの、派手な顔立ちは、喪服をきていても、三十六、七としか見えなかった。
「それじゃ、ちかごろできた、お知り合いかもしれませんね」
「いいえ、そんなはずございません。一万円もよこすほどの濃い知り合いなら、あたしが知らないはずはございません。啓介さんは、ちかごろでもよく、あたしどものほうへ遊びにきて、なんでも打明けたものですよ。あたしを姉のように慕ってくれて……」
「御夫婦仲がうまくいってなかったそうですね」
「ええ、そりゃ……まあ、ウマがあわなかったんでしょうね。芸術家って、気むずかしいものだから……それにうまく調子をあわせる、こまかい神経が加奈子さんにあるとよかったんだけど、あのひともわがままいっぱいに育ったひとだから……そうそう、泰子さん」
「はあ」
「それ……田代というひと、加奈子さんのほうの知り合いじゃないかしら。あのひとの昔の男友達……加奈子さんは結婚前、よく男友達と問題をおこしたじゃないの。そのなかに、田代というひと、いなかった? あなた思い出さない?」
「さあ、一向に……そういう名前、いちども加奈子さんから、きいたこと、ないように思いますけど……」
喪服を着ているために、いっそう色の白く見える泰子は、警部補の眼にも、美しいとうつらずにはいなかった。
泰子はことし、三十二になる。
細面の、受け口の、どちらかといえば淋しい顔立ちである。
こういう女は、えてして、はやく老けるものだが、それが反対に、三つ四つ、若くみえるのは、彼女の表情のどこかに、女学生のように、あどけないところがあるからである。
眼が大きくて、黒い瞳のなかに、いつも、なにかをうったえるような影をやどしている。
ただし、そのうったえというのは、現状に対する不満とか、苦悶《くもん》とかいうものではなくて、子供が神をみるような無邪気なうったえだった。
だから、これは、彼女がどのような境遇におかれようとも、消すことのできないもので、啓介は、そこに心をひかれるのだが那須には理解できなかったし、また、理解しようともしなかった。
「奥さんは、亡くなられたこちらの奥さんと、昔からのお知り合いですか」
「はあ。……女学校から女子大と、ずうっといっしょだったものですから……」
「なるほど、するとここにいられるかたがたが、風間氏御夫婦と、いちばん接近していられたわけですが、どうでしょう、こういう場合、風間氏がいちばんに、頼っていかれる人物はどういうひとでしょう。お心当りはありませんか」
警部補はひとりひとりの顔色に注意しながら、一座五人を見わたした。
しばらく、誰も口をきかなかった。
省吾は超然としたような顔で、アーム・チェヤーの腕をなでながら、壁にかかった油絵をながめている。
小肥りに肥って、いつも睡たげな顔をしている、この初老の人物は、学者というよりも、平凡な、どこかの会社の課長さんという感じであった。
那須はそっぽをむいて、神経質らしく、煙草を小刻みにふかしていたが、やがて、ギュッと吸殻を灰皿のなかでもみつぶすと、
「そりゃ、おそらく、われわれじゃありませんね。風間があくまで、姿をかくしているつもりなら……われわれのところじゃ、すぐ警察に眼をつけられる。誰か、われわれの知らない風間の友人……」
「そういう、友人にお心当りはありませんか」
「さあ、ぼくはちかごろ、あまりいききをしていなかったから……」
「瀬川さんの奥さん、あなたになにか、お心当りは……?」
「さあ、……啓介さんの頼りになるひとで、わたしどもの知らないひとなんて、あるとは思えませんけれど……ほんとうならば、うちへいちばんにくるひとなんですがねえ。どうしたんでしょう。むろん、わたしどものほうへ来れば、すぐ警察へ自首して出るようにすすめますがねえ」
「いったい、その筋の見込みではどうなんです。やはり、風間が犯人だという見込みですか」
省吾がどっちでもよさそうな調子でたずねた。
「さあ、いまのところ、なんともいえませんねえ」
警部補は言葉をにごして、
「いや、まだ、なんとも見込みが立っていないというのが、ほんとのところじゃありませんかねえ。風間氏が出て来てくれるといいのですが……」
「啓介さんはなんだって、逃げかくれするんでしょうねえ。あのひと、それほど卑怯《ひきよう》なひとじゃないはずなんですが」
と春代がいう。
「現場にはなにか、遺留品があったそうじゃありませんか。風間の持ちものかなんか……もっとも、われわれのは新聞知識だから、間違っているかも知れないけれど……」
省吾がたずねた。
「そう、シガレット・ケースと新橋駅まえのマーケットの地図……両方とも、その晩、風間氏の持っていたものにちがいないと、断定されているんです」
「それで……そんなもの、証拠にならないんですか」
省吾はあいかわらず、どっちでもよさそうな調子だった。惰性で、会話をはこんでいるようなものである。
「それも、風間氏が出てこなければ、なんともいえません。遺留品というやつは、たしかに一応証拠物件ですが、なかには奸智《かんち》にたけた犯人が、他人に罪をきせるために、そのひとの持物やなんか、あらかじめ手にいれておいて、故意に現場へ遺留するというような場合もありますからねえ。われわれはこれを欺計遺留《ぎけいいりゆう》とよんで警戒しています。ただし、今度の事件がそれに相当するかどうか、これまた、風間氏の話を、よく、きいてみなければわからない。いずれにしても、風間氏に出てもらうことが先決問題なんですがね」
「今度の事件は、それほど複雑な事件かな」
那須がそっぽをむいたまま、ボソリと呟《つぶや》いた。
「いや、それについて、あなたがたの御意見をお伺いしたいのですが、要するに、これは風間氏の性格の問題ですね。風間氏というひとは、こういうことをやりそうな人物かどうか……」
「とんでもない。啓介さんというひとは、気まぐれで、気むずかしいことは気むずかしいひとだけど、しんはごくやさしい、涙もろいひとですよ」
「しかし、飲むとあいつはメチャだったからなあ」
「あなたは黙っていらっしゃい」
夫人にピシリときめつけられて、省吾は苦笑しながら黙りこんでしまった。
泰子はいたたまれなくなったように、蒼《あお》い顔をして立上ったが、そこへお骨がかえってきたらしく、玄関が騒々しくなった。
火葬場からかえって来た誠也は、玄関からあがると、そのまま奥へいこうとしたが、途中で応接室をのぞいて、小田切警部補のすがたを見つけると、
「やあ」
と、白い歯を出してわらった。
警部補も椅子から腰をうかして、
「やあ、昨日はどうも……」
「いや、それよりも、啓介のゆくえはまだわかりませんか」
いっしょにかえって来た、加奈子の兄弟をやりすごしておいて、誠也は応接室へはいって来た。
ほかの男が全部、洋服だのに、誠也だけが紋附《もんつ》き、袴《はかま》、白足袋《しろたび》といういでたちである。それがかれの男振りを引立てた。
弟の啓介とちがって、小肥りに肥った、色の白い、丸顔の好紳士で、鼻下の髭がうつくしかった。
誠也がはいってくるのといれちがいに、泰子がかるく会釈をして出ていった。那須はそっぽをむいて知らぬ顔をしていたが、眼付きがなんとなくけわしかった。
「いまのところ、まだ、なにも情報がはいっておりませんが……」
「困ったやつだ」
誠也は眉をくもらせて、
「どういう事情があるのかしらんが、ゆくえをくらますというのは拙い。白井氏のほうへも申訳がなくて……」
白井というのが、加奈子の実家の姓である。
「とにかく、一刻もはやくさがし出してください」
「そりゃもう、いうまでもなく、極力、捜索しておりますが、みなさんにも、ぜひとも御協力願わねばなりません。それについて、いまも問題になっているんですが、田代という人物ですがねえ」
「田代……? ああ、一万円の香奠をもって来たとかいう……ぼくもいま、火葬場へのみちみち、考えてみたんだが、どうしてもそういう人物に思いあたらない。もっとも、あいつの交友関係についちゃ、ぼくよりも瀬川先生や、那須君のほうが詳しいのだが」
「いや、それについて、いま、みなさんにお訊ねしてみたんですが、どなたも御存じないとおっしゃる。とにかく、これは疑問の人物ですね」
そこへ、手伝いに来ている、藤崎の小母さんが顔を出して、
「瀬川さまのおくさま、ちょっと……那須先生のおくさまが……」
と、しらせに来たので、それをしおに小田切警部補も立上った。
「それじゃ、この弔問客名簿と、ああ、それから田代という男の、香奠のつつみを借りていきたいのだが……のちほどお返しします」
あとに残っている私服になにか耳打ちをして、警部補はそれから間もなくひきあげた。
西沢はなぜか、ズボンのポケットにある、あの封筒のことについて、ついに触れなかった。
十一
お骨がかえって来たので、西沢はまた忙がしくなった。
八畳と六畳をぶちぬいたふた間に、白いカヴァーをかけた、ながいちゃぶ台が持出されて、料理やお銚子が、つぎからつぎへと運ばれる。西沢はそれの指図に大童だった。
ごったがえしている廊下をぬけて、春代が茶の間へはいってくると、泰子がかえり支度をしているので、
「あら、まあ、泰子さん、おかえり?」
「すみません。女中ひとりなもんですから……」
「だって、いいじゃないの。ひと口あがっていらっしゃいよ。せっかく用意ができたのだから……」
「でも、おそくなると、女中が怖がりますの。那須もかえれといいますし……また、初七日におまいりさせていただきます。先生によろしく申上げて……」
「そりゃ、いいけど……」
「おくさま」
「なあに」
「二、三日うちに、お伺いしたいんですけれど……」
春代ははじめて、泰子の顔色に気がついて、ドキッとしたように覗きこんだ。
「ええ、どうぞ……なにか用事があるの」
「ちょっと、お話がございますの」
「泰子さん」
春代はあたりを見まわして、声をおとした。
「もしや……啓介さんのことじゃない?」
泰子は力なくうなずいた。気を張っているとそうでもないが、こうして、しょげているところを見ると、頬《ほお》のやつれが眼についた。
「まあ……あなた、ちかごろ、あのひとに逢ったんじゃない?」
「いいえ、とんでもない。そんな話じゃないのですが、ちょっと、おくさまに聞いていただきたいことがあって……おくさま、那須にはだまってて……じゃ、いずれ、そのとき……」
春代のセンサク的な眼から逃げるように、玄関へ出ると、西沢が見つけてとび出してきた。
「那須先生のおくさん、おかえりですか」
「ええ、遅くなると無用心だから……西沢さん、あと、よろしくお願いします」
泰子を送り出して、ついでに……と、西沢が便所のまえまでくると、便所の鉢前のしたに、見おぼえのあるハトロン紙の封筒が落ちている。西沢はギョッとして、ポケットをさぐったが、封筒はなく、汗にぐしょ濡れになったハンケチだけが手にさわった。
いつかハンケチを取出す拍子に落したのだろうが、お骨がかえってから、西沢はいちども便所へちかよったことはない。
西沢はあわてて封筒をひろいあげたが、なかはからだった。
西沢が茫然としているところへ、便所のなかから誠也が出てきた。
十二
「……それで、とりあえず、この家のしまつだがねえ、西沢君」
上座に坐った誠也から声をかけられて、
「はあ……」
西沢はあわてて、盃をおいて、坐りなおした。
「さっき、火葬場へいくとちゅう、白井氏とも相談したのだが、石田さん御夫婦が、当分、留守番かたがた、来てもいいというお話なんだそうだ。これはもう、願ってもないことだから、よろしくお願いしておいた」
石田というのは、加奈子の妹婿で、去年シベリアから復員して来て、その後ずっと、夫婦で加奈子の実家の白井家へ、同居しているのである。
「それは、結構でした」
西沢は頭をさげた。
「それで、君のことだが、啓介が出てこないとすると、いや、出てくれば来たで、いろいろ、面倒なことがあるだろうと思う。石田さん御夫婦に、そこまで御面倒をおかけするのは心苦しいから、君もやっぱりここにいて、そのほうのことを引受けてくれたまえ。石田さんも、ぜひそうしてほしいといっていられるのだから」
「そう願えれば、ぼくもこんな有難いことはありません。石田さん、なにぶん、よろしくお願いします」
「いや、わたくしこそ……」
石田は恐縮そうに、向うのほうから挨拶をした。
「ぼくもできるだけ覗いてみるつもりだが、なにぶん、忙がしいからだだから……」
誠也は親のあとをついで、日東製鋼の重役におさまっていたが、あやういところで追放をまぬがれた。追放をまぬがれたのみならず、上のほうがみんな追放になったので、急にまえへ押し出された。
以前は親の光りは七光りで、重役といっても、ならび大名ぐらいにしか思われていなかった誠也だが、責任のある地位につくと、メキメキと腕をふるいはじめた。
はじめは、さすがに親の子だといわれていたのが、ちかごろでは親まさりという評判にかわって、新しい資本主義陣営のホープと目されている。
「……それで、西沢君はさいわい、新聞社にいることだから、なにかと、情報を耳にするのが早かろうと思う。そういうことがあった場合、できるだけ早く、われわれのほうへも連絡してもらいたいんだが」
「そう、あたしもそう思っていたところですよ」
なにかにつけて、口を出さずにいられない春代が、横から言葉をそえた。
「はあ、承知しました」
西沢は頭をさげた。
それにしても、どうして誰も、あの封筒のことに触れないのだろう。……
十三
「それから、これはぜひとも、皆さんにお願いしとかねばならんことだが……」
と、誠也は一座を見わたして、
「啓介がどこかへ現れた場合、へんに情をかけたり、義侠心を出したりしないで、あいつに自首するように、すすめていただきたいのです。もし、それを聞かなければ、首に綱をつけてでも、交番へひきわたしていただきたいのです」
誠也は沈痛な声になって、
「加奈子さんには気の毒でした。白井家に対しては、なんとも申上げようがない。しかし、これは誤解だと思う。あいつの気性は、兄のわたしがよく知っている。人殺しをするなんて、そんな……」
「そうですとも。わたしも手塩にかけた教え子だから、よく知っているが、いまの風間氏の説を支持します」
省吾がいうあとから、
「むろんですわ」
と春代が語気を強めてつけくわえた。
那須はきっと唇をむすんだまま、なにもいわなかった。どっかくらい眼の色だった。
加奈子の妹の清子が、すすり泣きをはじめた。
それにしても、なぜ、あの話が出ないのだろう。あの、三人の女の手紙の話が……
誰かがあの手紙を読んだことはたしかだ。と、すれば、当然、この席で披露《ひろう》すべきではないか。
加奈子が殺された。これはもう、どうすることもできない事実である。しかし、せめてその犯人が、加奈子の良人でないことを祈るのは、風間家としても、白井家としても同様だろう。
あの手紙はそれを知らせて来ているのである。匿名《とくめい》だから、どこまで信用してよいかわからぬとしても、それを発表することは、風間、白井両家のひとびとにとって、どれほど救いになるかわからない。
それだのに、なぜ、それを発表して、両家のひとびとを、喜ばせようとしないのだろう。
あれを読んだ人物は、暗黙のうちに、握りつぶしてしまうつもりだろうか。と、すれば、それはなぜだろう。……
つまり、そいつは啓介の無罪をいいたくないのだ。啓介が罪におちることを祈っているのだ。
それは単に、啓介にたいする反感、憎悪からだろうか。……そういう場合もある。
しかし、もう一歩つっこんで考えれば、そいつこそ犯人ではあるまいか。と、すれば、この席に犯人がいるのか。……
隣のひとからさされるままに、知らず知らずのうちに盃をかさねた西沢は、しだいに酔いのふかくなる眼を、ギラギラと血走らせて、一座のひとびとを見まわしていた。
その晩、ついに誰も、『三人の女より』の手紙にふれるものはなかった。
西沢も沈黙していた。
三人の女の好意は、誰かによって完全に握りつぶされたのである。
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[#小見出し]  犯罪の場
加奈子のお葬式から三日目の昼過ぎ、あらかじめ電話をかけておいて、吉祥寺にある瀬川の家をおとずれると、玄関まで出迎えた春代が、すっかり盛装をしているので、
「あら」
と、泰子は鼻白んだかたちになった。
「お出掛けですの」
「ううん、いいの。まあ、おあがんなさい」
「だって、お出掛けのところじゃ悪いわ」
「いいのよ。あなたからお電話があったので、急に思いついて支度をしたの。あなたも一緒にいっていただくつもりよ」
「あら、どちらへ……?」
「いいとこ。だから心配しないでおあがんなさい」
謎のようなことをいって、春代はさきに立った。
春代の居間になっている、茶の間のつぎの六畳にとおされると、庭の芝生のあいだに、赤いつつじが点々と咲いていた。
「やっぱりいいわね。焼けないところは……」
「お宅だって焼けなかったじゃないの」
「ええ、でも、御近所が焼けたので、すっかり殺風景になって……」
「そんなゼイタクなことをいっちゃいけないわ」
春代はお茶をいれると、ジロジロと泰子の服装を見ながら、
「そのスーツ、いいわね、新調したの」
「とんでもない。那須のお古よ。工夫してみたんだけど、どうせうまくいきゃあしないわ」
「でも、よく出来てるじゃないの。あなたは器用だから。……泰子さん、洋服地のいいのがあるんだけど買わない?」
春代の夫の省吾は、パージで学校をよしてから、しばらくあそんでいたが、その後、春代のやっきの奔走で、昔のお弟子のやっている、築地の商事会社の総務部長におさまった。
その会社は繊維製品をとりあつかっているのだが、重役連中がコミッションかせぎに、直接、品をはかせるのである。
春代は昔から、家庭で料理の講習をやっており、わかい婦人のお弟子もおおく、顔もひろいので、こういう仕事はうってつけで、かなり、うまくやっているらしい。
「うちの会社は綿製品だけど、ほかの会社と物々交換をするから、なんでもあるわ。市価より三割がた安いんだから、買っておきなさいよ」
と、春代はよく、靴下だの、ワイシャツだのを持って来た。
泰子は心細そうにわらうと、
「駄目よ、うちみたいなタケノコ生活者に、洋服地なんか、手が出やあしないわ」
「おっしゃいましたわね。那須さん、ちかごろ、相当、かせいでいらっしゃるじゃないの」
と、いったが、洋服地のことはあきらめたらしく、泰子の顔を見直して、
「それで、話というのはなんなの。啓介さんがどうかしたの」
と、改めてたずねた。
「へへえ」
と、泰子の話をきくと、春代は好奇的な眼をかがやかせて、
「そうだったの。あの晩、あなたに電話をかけたの。啓介さんもずいぶん大胆ねえ」
泰子は消えいりそうな声で、
「あのひと、お酒をのむと、いつもああなるのよ。電話をかけてきたときも、相当、ろれつが怪しかったわ」
「そうねえ、おととしだったか、お宅へおしかけて、泣いたり、わめいたり、醜態を演じたときも、したたかお酒をのんでいたってね。それで、あなたのお気持ち、どうなのよ。あたしの取次ぐ手紙にも、ちっとも返事、出さないじゃないの」
春代のくちぶりには、いくぶん相手を、非難する調子がまじっていた。
泰子は困ったように、
「だって、返事の出しようがないじゃありませんか。いまさらになって……」
「つまり、こんどのようなことがなかったとして、啓介さんがキッパリ加奈子さんと別れても、あなたは那須さんと別れられないというのね」
泰子はうなずいて、
「そんなこと、とてもあたしには出来やしないわ。那須との愛情はまた別問題よ。古いかもしれないけれど……」
春代はいやな顔をして、
「可哀そうに。それじゃ啓介さんのひとり相撲だったのね。だけど、だいたい啓介さんが悪いのよ。あなたをあんなに愛していながら、そして、あなたも自分を愛してるってことを知っていながら、那須さんにたのまれると、変な義侠心みたいなものを出してさあ。あなたと那須さんをとりもったり……それこそ古いわ。だけど、あなたもあなたよ」
春代はくやしそうにいった。泰子はそれをいわれるのが一番つらいらしく、だまってうつむいていた。
「まあ、昔のことはいいたくないけど、それをいまさらになって、加奈子さんとのなかがうまくいかないとなると、また、あなたが恋しくなって、……啓介さんも相当、身勝手ねえ。あたしだって、あんな手紙、とりつぐの困るのよ。瀬川に見られると、どんな誤解をうけるか知れやしない。もっとも、こんなお婆ちゃんに、ラヴ・レターをよこすひともないもんだけど……」
そうはいうものの、春代はこのなりゆきに、かなり興味をもっていたのである。
春代はわるい女ではないが、世話好きの女にありがちな、平地に波瀾《はらん》をまきおこして、よろこんでいるというような、物好きなところがあった。
啓介の気持ちを知ると、それをなだめるどころか、逆に煽動《せんどう》して、泰子への手紙を書かせたのも彼女だった。
泰子は啓介と結婚すべき女である。――と、当時、春代はきめていた。
家庭で料理の講習をしている春代のもとへは、わかい婦人の出入りがおおく、また、一方、省吾の関係で、男の学生もよく出入りした。
省吾は学校で無能の評判がたかく、瀬川先生の講義は十年一日のごとしだと、学生間でも冷評をうけていたが、それにもかかわらず、学生の出入りが多かったのは、省吾よりも、むしろ、春代のもてなしかたがうまかったからである。
子供がなかったせいもあるが、春代はわかい男女をあつめて、世話をやいたり、おせっかいをするのが好きだった。
また、かなり策略家である彼女は、策を弄《ろう》して、わかい男女をむすびつけたり、ひきはなしたりして、ひとりで悦にいっていた。
省吾は学校で無能であるのみならず、家庭でも無能で、リーダー・シップはすべて春代がにぎっていた。
春代が啓介と泰子を接近させたのは、はじめからそのつもりであった。ふたりは家庭的にもつりあいがとれていた。
泰子は継母にかかっており、弟妹たちはみんな腹ちがいだったが、継母がよくできた人で、泰子の婚資として、かなりの土地や家屋を用意していた。
ところが、さいごのどたん場になって、泰子は那須と結婚した。あとで、それが啓介の周旋だったとわかっても、春代のくやしさはおさまらなかった。
那須は秀才だったが、家がよくなく、大学を苦学して出たくらいなので、泰子の財産が目当てなのだと春代は罵った。
また、那須の泣きおとしに、うまうま乗った啓介を、お人好しの大馬鹿だと、面とむかって責めたりした。
そのくやしさが長く尾をひいて、だから、ちかごろ啓介の未練を知ると、それに油をそそぎかけたのである。
「それで、どうなの。啓介さんの電話に応じなかったのを、後悔してるというの」
春代はまたその問題にもどった。
「あたしとしては、あの場合、ああするよりほかはなかったのだけど、もし、あたしが出かけていたら、あんなことにならなかったのじゃないかと……」
泰子は悲しくうなだれた。
「あんなことって、つまり、啓介さんが加奈子さんを殺したという意味?」
泰子は消えいりそうな表情でうなずいた。春代はにわかに意地悪い眼つきになって、
「それじゃ、加奈子さんを殺したのは、啓介さんだと、あなたは思っているのね、那須さんもそういってらっしゃるの」
「いえ、あの……那須はこの問題について、ひとことも申しませんけれど……」
「そうお、ところがねえ、泰子さん、啓介さんのほうでは、那須さんを疑ってるって話よ」
泰子ははじかれたように顔をあげた。大きく見ひらいた眼が、ふるえながら、しばらく春代のおもてからはなれなかった。
「まあ……どうして……? どうしてなの?」
泰子はいきをはずませた。
「那須さんも、あの晩、銀座に出ていたでしょう。だから……」
「でも、あの晩は座談会があったはずよ。『月刊東都』の……」
「座談会はお流れになったのよ」
と、春代はおさえつけるように、
「あなた、それを知らなかったの」
「まあ」
「予定したひとが集まらなかったので、座談会はお流れになって、御飯をたべて八時ごろに散会にしたのよ。だから、加奈子さんに電話をかける時間もあるし、それからまた……」
さすがにそのあとは、春代にもいえなかった。泰子の顔は、くちなしの花のように、真っ白になっていた。
「ひどいわ。なんぼなんでも……おくさまは、誰にそんなことをお聞きになりまして?」
「西沢さんからよ。啓介さんは西沢さんを盛りつぶすまえに、しつこいほど念をおして、那須さんのことをきいてたそうよ。だから、ひょっとすると先生は、那須先生をうたがっているんじゃないかって、西沢さんはあたしにだけ、そっと耳打ちしてくれたのよ」
打ち砕かれたような、泰子のすがたを見ると、さすがに春代も気の毒になったのか、
「むろん、そんなこと、啓介さんの思いちがいにきまってるし、あたし、誰にもしゃべりゃしないから……西沢さんにも、かたく口止めしておいたわ。でも……あの晩、那須さん、何時ごろにかえってきたの」
泰子はおびえたように瞳をふるわせて、
「十一時……過ぎだったかしら」
うめくようにいって、そのあと、深淵《しんえん》をのぞくような眼になって、シーンとだまりこんだ。
春代はそれをいたわるように、
「いいのよ、そんなこと、気にしないだって。その時刻に、銀座にいたからって、いちいち疑われちゃたまらないわ。瀬川だってあの晩、かなり遅く、酒臭い息をしてかえってきたわ。会社が築地だもんだから、ときどき銀座で飲んでくるらしいのよ。お役人を饗応《きようおう》するんだとか、なんとかいってるけど、どうだかわかったもんじゃない。学校をやめて、金まわりはかえってよくなったけど、ちかごろ、柄がわるくなってねえ」
ついでに良人のザンソをはじめたとき、申込んであった電話のベルが鳴出したので、春代は立ってそれへ出て、しばらく誰かと話をしていたが、すぐもどって来て、
「それじゃ、泰子さん、出掛けましょうよ」
「あら、どちらへ……?」
「レッド・ミルというキャバレーへいってみようと思うの。西沢さんに、いま、案内を頼んだのよ」
時刻が時刻だったので、中央線はわりにすいていた。
ピンクの地に、銀糸で稲妻を小さくちらした駒撚《こまより》お召に、黒のつづれに金糸と銀糸で、兜《かぶと》と弓矢を大きく刺繍《ししゆう》した帯をしめた春代のすがたは、車内でもパッと眼についた。
泰子はさっきのショックもあるので、なんとかして、同行を断ろうとしたが、
「いいじゃないの。あんなみじめな死にかたをしたんですもの、いちどは終焉《しゆうえん》の地をとむらってあげるものよ」
と、春代は泰子をはなそうとしなかった。
「あたし、このあいだから、いちどいってみたいと瀬川にせがむんだけど、瀬川はいやだといってきかないのよ。それで、西沢さんに頼もうと思ったんだけど、ひとりじゃ、いやでしょう。そこへあなたからお電話があったもんだから、急に思いたって、今日にきめたの。だから、いやでもつきあっていただかなきゃ……」
春代はのっぴきいわせなかった。
「西沢さん、もう、社に出ていらっしゃるの」
泰子は仕方なしに、そんなことをたずねた。
「ええ、ほら、加奈子さんの妹さんの御主人の石田さん、あのかたが移ってこられたので、昨日から出社してるんですって」
電車を神田で乗りかえて、有楽町でおりると、ふたりはまっすぐに、西沢のつとめている新聞社へいった。
受付けへ通じると、すぐ西沢が、外出のしたくをして、うえからおりて来た。
「やあ」
と、春代にわらいかけたが、泰子に気がつくと、眼をまるくして、
「おや、那須先生のおくさんも御一緒ですか。みんな物好きだな」
「ううん、泰子さんは、ちょうど来合せたものだから、むりやりにひっぱって来たのよ。西沢さん、さっそく、御案内、たのむわ」
「いきましょう」
三人は新聞社を出た。
「西沢さん、キャバレーってどんなとこ」
「そうですねえ。昔のカフェーでダンスができて、アトラクションがあると思えばまちがいないでしょう。しかし、いま時分のキャバレーはつまりませんよ」
「結構よ。あたしたち、あそびにいくんじゃないのだから」
西沢は泰子をふりかえって、
「どうかしたんですか。おくさん、顔色がわるいようですよ」
「なんでもないのよ。陽気のかげんよ」
春代は泰子の気持ちなど、てんで問題にしていなかった。
キャバレー・レッド・ミルは電通のちかくにあり、表に赤い水車がまわっていた。
「ここですよ。さあ、どうぞ」
泰子は咽喉がヒリついて、膝頭《ひざがしら》がガクガクふるえるかんじであった。
キャバレーはやはり夜のものである。土曜だったので、客も相当あり、バンドもやっていたが、どこか間がぬけて、しらじらと興ざめのするかんじであった。
西沢はときどきくるとみえて、
「どうしたの、今日はバカに早いのね」
と、サーヴィス・ガールがとんできたが、うしろの二人に気がつくと、
「おつれさん」
「うん、今日はあそびに来たんじゃないのだ。見学にきたんだよ」
「なんの?」
「このあいだの事件さ」
「あら、いやだ、あんまり宣伝しないでよ」
そこで声をひくめて、
「このあいだ、亡くなったかたのお知り合い」
「そう、おくさん、この娘ですよ。最初にあれをみつけたのは……」
「まあ、さぞ、怖かったでしょう」
春代はセンサク的な眼で、ジロジロ娘を見つめている。
「その後、どう、景気は?」
「ええ、かえって繁昌よ。みんな珍しがっていらっしゃるのね。でも、さすがにあの席におつきになるかたはすくないわね」
西沢はその席へ、春代と泰子を案内した。
キャバレーのなかは、まんなかがホールになっており、向うにタンゴとスウィングのバンド。ホールをとりまいて、椅子、テーブル。西沢は春代と泰子をいちばんおくのテーブルへ案内した。
「ほら、その椅子なんですよ。風間先生のおくさんがすわっていたのは。……うしろにカーテンがあるでしょう。もとはここが便所へいく通路になっていたんだそうです。しかし、不便なもんだから、通路はべつに向うへつくって、ここはカーテンでゴマ化すことにしたんです。だから、犯人は便所へいくふりをして、向うの通路から出て、カーテンのうしろへまわることができたんです。この向うはちかごろ物置きにつかっていて、薄暗いし、誰もちかよるものはないから、犯人はゆうゆうとして……」
と、西沢は首をしめるまねをした。
「風間先生のおくさんは、先生のおいでになるのを待って、入口のほうばかりみていられたから、カーテンのうしろから、手がでるのに、気がつかなかったんですね」
春代は珍しそうに、あたりを見ていたが、泰子は胸がムカムカして吐きそうだった。
「ほら、ここはちょうど、柱とシュロのかげになって、向うから、見えにくくなっているでしょう。だから、誰も……」
西沢の説明につれて、春代と泰子は入口のほうへ眼をやったが、そのとたん、三人ともギョッと大きく眼をみはった。
泰子は片手を口にあてて、やっと悲鳴をあげるのをおさえた。テーブルに片手をついて、やっと体をささえたが、膝頭がガクガクふるえた。
入口から、那須慎吉がはいってきた。青い眼鏡をかけて、きょときょとと。……
那須先生は、どうしてあそこへ来たのだろう。しかも、青い眼鏡で、変装みたいな真似をして。……
それから間もなく、キャバレー・レッド・ミルを出て、電通のかどで春代とわかれた西沢は、数寄屋橋のほうへ歩きながら、頭のなかで、あやしい疑問をあたためている。
思いがけないところで、那須慎吉をみたときには、西沢のようにずうずうしい男でも、頬がこわばって、即座に声が出なかった。
そこへいくと、春代はさすがに老巧だった。わざと首をちぢめて、くすりと笑うと、猫のように那須のそばへちかよっていった。そして、うしろから眼かくしをして、バアと、驚かすときのような調子で、
「那須さん、妙なところでお眼にかかるわねえ」
ああ、あのときの那須慎吉の驚きよう!……
那須は文字どおりとびあがった。
そして、春代から泰子、西沢と順繰りにすがたを認めると、浅黒い顔が、一瞬さっと土色になった。頬の筋肉がはげしくけいれんした。
「那須さん、あなたも、加奈子さんの終焉の地を、とむらいにいらしたの。ね、そうでしょう」
那須はうなずいて、なにかいおうとしたが、モグモグと、言葉は咽喉にひっかかった。それでもやっと、
「ええ、ああ、そう……でも、……学生に見つかるとまずいから、こんな眼鏡をかけて、は、は、は」
笑い声はあやしくふるえて、力がなかった。
那須のいうとおりかも知れない。しかし、それなら、なぜ、あのように驚いたのか。春代に背中をたたかれて、どうして、あんなにとびあがったのか。……
老巧な春代はさすがに、その場をとりつくろうすべを知っていた。わざとはしゃいだ調子になって、
「せっかく、こうしてみんなそろったのだから、いっしょに御飯をたべましょうよ。あたし、瀬川に電話をかけるわ。あのひと、ちかごろ景気がいいのよ。みんなでおごらせようじゃないの」
しかし、誰もそれに乗ってくれるものはなかった。那須はほかに用事があるからと、ふりきるようにして立去った。泰子も頭痛がするからと青い顔をして逃げるようにかえっていった。
「変なひとねえ。みんな……」
春代はブリブリしながらひとりで銀座へ出ていった。……
それにしても、那須先生は、どうしてあそこへ来たのだろう。犯人はかならず一度、現場へまいもどってくるといわれている。ひょっとすると、那須先生が……
そのとき、西沢の肩をたたくものがあった。
田代皓三だった。
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[#小見出し]  白昼の決闘
「西沢さんでしたね。『月刊東都』の……」
皓三はしろい歯を出してわらっている。
しかし、西沢も相当、場かずをふんできた男である。相手の外貌に、だまされはしなかった。派手な、紺のダブルにつつんだ、相手のからだが、なんとなく、異様にひきしまっているのをかんじて、
(来たな!)
西沢もきっと緊張する。
いつかこの男が、こういう調子で、じぶんにちかづいてくることを、あらかじめ、覚悟していたような気持ちだった。
西沢は咽喉にからまる痰《たん》をきると、こわばった頬に、しいて微笑をうかべた。
「田代さん……でしたね」
「ええ、そう、よく、おぼえていますね。たった一度、お眼にかかったきりだのに……」
「そりゃ……」
と、西沢はまた、咽喉にからまる痰をきった。
「おぼえていますよ。あとで、問題になったんですからね」
「問題に……? 私が……?」
「そうですよ。一万円という香奠は大きいですからね。しかも、風間家でも、白井家でも、田代なんて人物に心当りはないという。そこで、田代某なる男は、疑問の人物であるということになった。ひょっとすると、風間先生をかくまっているのは、この男ではないかと、警察でもにらんでいるようです」
西沢は一句一句に気をつけて、相手の顔にあらわれる反応を注視していたが、皓三はあいかわらずにこにこしていて、眉毛ひと筋うごかさなかった。
「は、は、は、すると、ぼくがあそこへ顔を出したのは拙《まず》かったかな」
「そうですとも、風間先生をあくまで秘密にかくまいとおすつもりならね」
西沢はあざわらうようにいって、
「ときに、今日はぼくに、何か用事があるんですか」
「ええ、ちょっとお訊ねしたいことがあるんです」
「ああ、そう、それじゃ社へきてください」
西沢がくるりと踵をかえしていこうとするのを、皓三はやにわに肩をとってひきもどした。
「そりゃ、いけませんよ。ぼくは社へ、顔を出したくないんです。それくらいのこと、あなたにだって、わかってるはずじゃありませんか」
皓三はすばやく、相手の左腕に、じぶんの右腕をからませると、
「ね、歩きながら話をしましょう。そのほうがおたがいのためだから。……」
がっきりと、じぶんの左腕にからんだ相手の右手が、ポケットのなかで、なにかを握っているのをかんじて、西沢の全身からは、さっと冷汗がふきだした。
「君は、ぼくを、脅迫するつもりかい」
西沢はわれながら、じぶんの声のうわずっているのがくやしかった。額には、ねっとりと、玉の汗である。
「脅迫……? とんでもない。ぼくはね、ただ君と、腹蔵《ふくぞう》なく話をしたいと思っているんだ。さ、歩こう。歩きながら話をしようじゃないか」
「ぼくが、いやだといったら……」
「いや……? は、は、は、君がいやだなんていうはずがない。君はそんなバカじゃないだろ」
ポケットのなかで、相手の握っているものが、なにやらゴツゴツした感触で、西沢の腰のあたりを小突く。
つめたい戦慄が、西沢の背筋をつらぬいて走った。脚がガクガクふるえた。
「チェッ! 勝手にしやアがれ」
それでも、口だけは達者に、
「いったい、君は、このおれをどうしようというんだ」
「なに、べつに心配することはないさ。ぼくのいうとおりに、おとなしくついて来てくれればいいんだ」
数寄屋橋のうえは、流れるような人通りだ。橋の袂《たもと》の交番のまえに、おまわりさんが立っている。
しかし、誰も、腕をくんでいく、このふたりづれに、眼をとめたものはなかった。西沢にはかえってそれが有難かったが、腹のなかは、屈辱といかりでたぎり立っていた。
皓三は、しっかりと西沢の腕をとらえたまま、有楽町のガードをぬけて、日比谷のほうへ歩いていった。
「ねえ、西沢君」
皓三はおだやかな声で、
「ぼくの訊ねたいというのは、あの晩……ほら、風間夫人の殺された晩のことだがね」
西沢はだまっている。だまっているが、あいての言葉をきいていないのではない。
いやいや、全身の神経を緊張させて、あいての言葉から、なにものかを掘り出そうとしているのである。
「あの晩、君は有楽町で風間氏に出逢って、酔月という飲み屋へひっぱっていったね。おぼえている?」
むろん、おぼえていた。しかし、西沢は依然として、無言で押しとおした。
「そのとき、酔月には、三、四人のスポーツ・ライターがいたそうだね。そして君は、そのなかのひとりを知っていた。西沢君」
皓三はあいかわらずおだやかな調子で、
「ぼくの知りたいというのは、そのひとの名前なんだ。あのひとは、どこの社の、なんという人物なんですか」
この質問は西沢にとって、すこぶる意外だった。
この男が風間啓介のために、働いていることは、いまはもう疑う余地もない。風間の無罪を証明し、ひょっとすると、真犯人をさがそうとしているのかも知れない。
しかし、それにはどうして、あの運動記者が必要なのだろう。
西沢はすばしっこく頭をはたらかせてみたが、どうしても、その理由を発見することができなかった。
「西沢君、ぼくの質問がわかっているかね」
西沢がだまっているので、皓三のほうから切り出した。
「わかっている」
「それじゃ、こたえてくれたまえ。君はその男を知っているのだろう」
「知っている」
「どこの社の、なんというひとだね」
西沢は、いずれその質問に、こたえなければならぬことを知っていた。くやしいけれど西沢は、完全にあいてに圧倒されている自分をかんじていた。
西沢が圧倒されているのは、あいての持っている武器のせいばかりではない。あいての人格的な圧力に、完全に圧倒されているのだ。
その自覚が西沢をくやしがらせた。
眼に見えぬ白昼のこの決闘に、完全に打ちまかされている自分を意識すると、同じこたえるにしても、できるだけ長びかせて、あいてをじらせてやりたかった。
「君は探偵《たんてい》なのかい。私立探偵というような……」
「ぼくは探偵じゃない」
「じゃ、どうしてこんな問題に首をつっこむんだ。そりゃ、警察の領分だぜ」
皓三はただ、おだやかに微笑していた。
「君は、風間先生をかくまっているんだろ。風間先生は重大な殺人容疑者だぜ、警察で指名手配中の人物だ。そういう人物をかくまっているということが、どんな危険なことか知っているか」
「西沢君」
皓三はあいかわらずおだやかな調子で、
「ぼくは、ただ、君に質問するだけなんだ。君から質問はうけたくない」
「は、は、は、相当、身勝手な話だね」
西沢は咽喉のおくに、ひっかかったような笑い声を立てると、
「しかし、これだけはきかしてもらいたいな。どういうわけで、あの男が必要なんだね。あの運動記者が……」
皓三はちょっと考えたが、
「いや、その質問なら、ぼくがここでこたえなくとも、あとで君が、その男にあってきけばわかるだろう。ぼくがどんなことを、その男にきいたか……」
なるほど……と、西沢は肚のなかでうなずいた。
「よし、それではいおう。ありゃアね、極東タイムスの運動部にいる、原田という男だが……」
「極東タイムスの運動部にいる原田君……?」
「そう」
「間違いないね」
「間違いなし」
「西沢君」
皓三はのしかかるようにして、あいての顔をのぞきこんだ。
「君、へんな小細工をしても駄目だぜ。一寸のがれに、のがれようなんて考えたっていけないぜ。ぼくには仲間がおおぜいいるから……」
おだやかな調子のなかにも、ヒヤリとするような凄味《すごみ》があった。いや、おだやかだから、いっそう凄味がかんじられるのだった。
「嘘はいわない。それに、ぼく自身興味をもっているんだから……」
「興味? なにに……」
「君が原田君にあって、どんな質問をきりだすか、それをきくのが楽しみなんだ」
皓三はもういちど、まじまじと西沢の顔をのぞきこんだ。
「は、は、は、君はよほど風間氏に反感を持っているんだね。しかし、いっておくが、変なちょっかいを出して、ぼくの捜査の邪魔をしてもらいたくないな」
「さあ……」
西沢はニヤニヤ笑って、
「そいつは保障のかぎりではないね。ぼくもこれで、かなり物好きな人間だからな。は、は、は」
「なにを!」
皓三の声がちょっと強くなったが、すぐ思いなおしたように、
「そうか、じゃどうでも君の好きなようにしたまえ」
ふたりはいつの間にか、日比谷の角を右折してG・H・Qの横から、スバル座のまえをとおって、もとの有楽町のガード下まで来ていた。
皓三はそこで西沢の腕から手をはなすと、それが合図ででもあったかのように、自動車がうしろから来て、そばへとまった。
皓三がそれにとび乗ると、自動車はすぐに尾張町のほうへ走りさった。
「畜生!」
西沢は、じだんだを踏むように、五、六歩あとを追っかけたが、車体番号には泥がはねかかったようになっていて、よく読みとれなかった。
西沢はあきらめて社へかえると、極東タイムスの運動部へ電話をかけて、原田の在否をたしかめた。
原田さんはいま、後楽園ですという返事であった。
そこへ、写真部の吉岡という男がやって来て、
「西沢さん、これ、昨日頼まれたもの……」
どかっとデスクのうえにおいたのは、四角い革のケースに、犯罪捜査全書第五巻、『指紋』という小冊子だった。
「だいたい、この本を読めばわかると思いますがね、ひとつは、ハトロン紙の封筒についた指紋だといいましたね」
「うん、たぶん、ついてると思うんだ。なにしろ、じっとしていても、汗のにじみ出るような暑い日だったからね」
「ハトロン紙も、パリッとした、新しいやつじゃないと駄目ですぜ。少しくたびれているとどうかな」
「大丈夫、まだ、まあたらしい封筒だから」
「そう、それじゃここに書いてある、『沃度《ようど》による指紋現出法』というやつでやるんですな。沃度を熱して出る、紫色の煙を利用するんですが、こいつは数分ないしは数十分で消えるから指紋が現出したら、すぐ転写しなければいけない。西沢さんにそれができるかな」
「まあまあ、なんとかやってみるよ。この本を読めばわかるね」
「ええ、わかります。薬品や、沃度|噴蒸器《ふんじようき》は、このケースのなかに入っていますから……それから、もうひとつはガラスのコップでしたね」
「うむ、そうしたいと思っている」
「そのとき、気をつけなくちゃいけないのは、コップのなかに、熱いものをいれちゃいけませんぜ。指紋というものは脂肪なんだから、容器があたためられていると、脂肪がとけて指紋がくずれる」
「なるほど、それじゃ、ビールかサイダーにしよう」
「コップのほうはね、『アルミニューム粉末による現出法』というのでやるんです。ほら、ここに書いてあります」
吉岡は小冊子のべつのページをひらいてみせた。
「有難う。あとでよく読んでみよう。それで、それに使う薬品や、道具もここに入っているね」
「ええ全部そろえてあります。しかし、危いもんだな。西沢さんにやれるかしら。ぼくにまかせてくれりゃいいのに」
「いや、いずれ、君の応援をもとめる場合があるかも知れないが、こんどは自分でやってみよう」
「と、いって、手柄を独占しようというのじゃ……」
「いや、まだ、これが手柄になるかどうかわからないんだ。そうわかってりゃ、君に手伝ってもらうんだが……」
「まあ、いいや、いずれ、それが特種になって、ボーナスが出たら、いっぱい、おごってもらいますぜ」
「いいとも、そのときにゃ、ひと晩おごる」
新聞社は警視庁ではないのだから、指紋係りがいるわけではない。しかし、写真部の吉岡という男は、昔から指紋に興味をもっていて、素人研究家をもって任じていた。
西沢はそれを何かに、利用しようという肚らしい。
後楽園の野球がおわって、しばらくしてから西沢はもういちど、極東タイムスへ電話をかけたが、原田はまだかえっていなかった。
仕方がないので、西沢は社を出て、銀座をひとまわりしてから、極東タイムスへ出向いていって、受付けで原田の在否をきいていると、そこへ原田が、赤い顔をしてかえってきた。
「やあ」
「やあ」
「さっきから、君のかえりを待っていたよ」
「ぼくを……」
原田はふしぎそうな顔をして、
「何か用事があったの」
「うん、ちょっと聞きたいことがあって……」
「あ、そう、じゃ、あがりたまえ」
三階の応接室へとおされて、しばらく待っていると、原田がいそがしそうに入ってきた。
「聞きたいことって、なに?」
「今日、君のところへ変な男が来やあしなかった?」
「変な男って……?」
「紺のダブルを着た男さ」
「ああ、あのボスみたいな男かい?」
ボス……と、いわれて、西沢はドキッとした。なるほど、そういえばそんな感じだ。どこかにヒヤリとするような、凄味のあるのもそのためか。……
「うん、それじゃ、君はもう会ったのかい」
「会った、後楽園の入口で待っていたんだ。おれ、だいぶおごられちゃった」
原田が赤い顔をしているのは、そのためだった。相当きこしめしているらしい。
原田は笑いながら、
「あれ、君が紹介してよこしたのかい。いったい、何者じゃね。ずいぶん、羽振りがいいらしいぜ。札をざくざく持ってやアがる」
「ぼくにも、何者だかわからんのだが……」
と、西沢は言葉をにごして、
「いったい、あいつ、君にどんなことをたずねたんだい? 何か、君にききたいことがあるといってたが……」
「うん、それが変なことなんだよ」
原田は酔ったからだを、けだるそうに椅子のなかで伸ばしながら、まじまじと、西沢の顔を見て、
「パンパンのことをたずねるんだ」
「パンパンのこと……?」
西沢はあまりの意外さに、眼をまるくして相手の顔を見なおした。
「それ、ほんとうのことかい」
「ほんとだよ、誰が嘘なんかつくもんかい。ほら、いつか君と酔月であったね。君は誰かつれといっしょだったじゃないか。あのとき、酔月に女がひとりいたんだが、その女を、どこのなんという女で、どこへいけば会えるかと聞くんだ」
西沢はちょっと唖然《あぜん》としたかたちだった。
「で、君はその女を知っているの」
「いや、ぼくは知らないんだが、『スポーツ特報』の長島が知っていてね。かえりがけにようと声をかけた。それで、ぼくもあとで聞いたんだがなんでもその女はテル代といってね、パンパンだそうだ」
そういえば、あの晩、啓介は妙にそういう種類の女に興味を示していた。
数寄屋橋のたもとであったときも、それらしい女に話しかけていたし、酔月でも、どことなくそれらしい匂いのする女に、執拗な凝視を送っていた。
そうだ、思い出した。
ビロードのようにつやのある、黒い外套を着た女、……丸ぽちゃの、ちょっと可愛い娘だった。しかし、その女がどうしたというのか。……
西沢の胸はあやしく躍った。
ひょっとすると、あの晩、風間先生は、その女とあそんだのではあるまいか。そして、殺人のあった時刻には、その女と、どこかのホテルへしけこんでいたのではないか。と、すれば風間先生には、完全にアリバイがあるわけだ。
もしも、その女をさがし出し、いっしょに過した時刻と場所を証明させることに、成功することができさえすれば。……
西沢の胸はガンガン鳴った。額にジリジリ汗がにじみ出して来た。
かれにもようやく、啓介や田代の意図がのみこめてきたのだ。
先生は田代をつかって、その女をさがし出そうとしているのだ。そして、完全なアリバイをつかんでから、名乗って出ようとするのではあるまいか。
西沢はそのことと、このあいだの、お葬式の日になげこまれた、奇妙な手紙とをむすびつけて考えてみた。西沢はあの手紙を紛失したけれど、いまでもハッキリ、文句をおぼえている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
奥さまを殺したのは、旦那様ではありません。わたしたちがよく見ていました。
[#地付き]三人の女より
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よく見ていましたというのは、何を見ていたというのだろう。そこのところが意味不明だが、とにかく、啓介が犯人でないことをいっているのである。
ひょっとすると、啓介が黒い外套の女とあそんでいるとき、ほかにふたり女がいたのではないか。……
「ときに、そのテル代という女だが、その女にあうにはどこへいけばいいかしら」
「有楽町の駅前のマーケットのなかに、リラという喫茶店があるそうだ。そこへ、一日にいちどは顔出しをするということだが……」
「さっきの男にもそのことを話したんだね」
「うん、話した」
「ほかに何か聞きゃしなかった?」
「いや、それだけ」
「そう、有難う。じゃ、いずれまた……」
あっけにとられたような原田をそこに残して、西沢は極東タイムスをとび出した。
真昼のように明るく電気のついたリラの店には、ほかに客がなくて、ひとめでそれとわかる女が二人、隅のほうで煙草を吸っていた。
街頭に立っているときとちがって、こういう場合の彼女たちの表情は、妙にふやけて、電気の明るさが、残酷なように思われた。
西沢はコーヒーをかきまわしながら、ジロジロ女たちを眺めていたが、やがて、思いきって声をかけた。
「ねえ、君、君たちにちょっとたずねたいことがあるんだがね」
女たちはチラと顔を見合せて、いっせいにこちらへ向きなおった。西沢はすこしからだを乗り出すようにして、
「君たち、テル代という娘を知らない? やっぱり君たちの仲間だと思うんだが。……」
女たちはまたすばやい視線をかわしたが、やがて、ひとりがつと立上ると、西沢のまえへ来て腰をおろした。――
胸のうんとひらいた、フリルの多い、まっしろなフレンチ・スリーブのブラウスに、くろいロングスカート、靴下をはかずに、サンダルをひっかけた足の爪をまっかに染めている。
髪をあかく染めて、フェザー・カットした頭が、ライオンみたいなかんじである。
「たばこ、いっぽん、ちょうだい」
西沢が光のはこをおしやると、女はいっぽん抜きとって、器用にライターをならした。そして、アメリカの女優がするように、ふうっと紫煙を吹きあげると、
「あなた、新聞社のひとでしょう。かくしたってわかってるわよ。テルちゃんがどうかしたの」
「どうかしたって……?」
「さっきも、あの娘のことをききに来たひとがあったわ、なにかあの娘がしでかしたの」
ああ、そうか……と西沢は心のなかでうなずいた。
田代という男がすでに先手をうっているとすれば、少しまずいかなと考えた。
「なに、べつにどうしたってわけじゃないが、会ってちょっと聞きたいことがあるのさ。ここへくれば会えるという話だったが……」
「ええ、そう。きっといちどはここへ顔出しすることになってんだけど……」
「今日はまだこないの」
「ううん、今日ばかりじゃないの、この二、三日、ちっとも顔を見せないわ」
「病気でもしてんじゃない? あの娘の家はどこだい?」
「東中野よ。煙草屋さんの二階を借りてんだけど、いっても駄目よ」
「どうして……?」
「そこにもいないんだもの。この二、三日かえらないんだって。今日美代ちゃんがいってみたんだけど。ねえ、美代ちゃん」
「ええ」
と、美代も立って、西沢のテーブルへ来た。
美代という娘は、まだ、十六、七にしかみえない。こんな娘がやはりそうなのかと、さすがの悪党がりの西沢も、ちょっとあきれるかんじだった。
髪をバサバサにして、肩もまる出しの、かなりくたびれたサムマー・ドレス。野性まる出しという恰好だった。
美代も遠慮なく、西沢のたばこに火をつけると、
「あんた、教えてよ、ほんとにテルちゃんがどうかしたの」
「いや、ほんとにぼくはなにも知らないんだ。ただ、ちょっと聞きたいことがあって……」
「だって、おかしいわ。さっき聞きにきたひとがあったかと思うと、すぐまたあんたですもの。テルちゃん、自殺でもしたんじゃない?」
「自殺……?」
西沢は眼をまるくして、ふたりの顔を見くらべた。
「なにか、そういう心配でもあるのかい」
「だって、あの娘、しじゅう死にたい、死にたいといってたんですもの」
「さりとはまた、無分別な。どういうわけで、そんなに悲観したもんだね」
「あの娘、胸が悪いのよ。それで、すっかり悲観してしまって……」
「胸が悪い? だって、よく肥えて、血色も悪かアなかったじゃないか。もっとも、ぼくはちらと見ただけなんだけど……」
「ううん、あれで、しじゅう血をはいてるの。先月も、かなだらいにいっぱいほど、血をはいたって話よ。それで、すっかり世をはかなんじまったのよ」
西沢の心のそこに、ちらとある残忍な想いがうかんだ。
啓介はその女をさがしている。その女が出てこなければ、啓介のアリバイは成立たないのかも知れない。
ところで、その女は胸をやんでいる。最近、かなだらいにいっぱい血をはいたという。もし啓介がその女をさがし出すまえに、女が肺病で死ぬか、病身をはかなんで、自殺するかしたらどうだろう。……
「ところで、その娘の宿のほうでも、どこへいったか知ってないの」
「ええ、わからないというの。荷物なんかもそのままになってるのよ。だから、どっかで身投げでもしたんじゃないかって、心配してンのよ」
「まさか……誰かいいお客さんでもできて、どこかの温泉へでもしけこんでるんじゃないのかい」
「そんなノンキな話ならいいけど、いまどき、そんないいお客さん、ありっこないわ」
西沢はしばらくかんがえて、
「ときにさっき来た男ね。その男はほかになにも聞きゃしなかった? テル代という娘のこと以外には……」
「そうねえ」
フェザー・カットの女はかんがえて、
「そういえば、ラクダ色のオーヴァがどうの、赤いターバンがどうのといってたじゃないの」
「なんだい、ラクダ色だの、赤いターバンだのって」
「それはこうなのよ」
美代はませた恰好で、テーブルのうえに両肱《りようひじ》つくと、
「テルちゃんの友達のなかに、ラクダ色のオーヴァを着た女と、赤いターバンをまいた女はないかと聞くのよ。そんな、曖昧《あいまい》なこといったって、わかりゃしないけどさ」
西沢は心のなかで考える。なるほど、これで女が三人になる。
ラクダ色のオーヴァを着た女と、赤いターバンをまいた女。それとテル代の三人が、啓介のアリバイをにぎっているのではあるまいか。
「それで、君たち、そういう娘に心当りないの」
「ないわ、だって、そりゃ無理よ、いまどき、もう外套着てるひとないし、ターバンなんか、そういつも、同じものまいているひともないもの」
「なるほど、すると、さっき来た男も、てんで要領を得ずにかえったんだね」
「ええ、気の毒だけど、仕方がないわ。でも、あのひと、どういうひと。ちょっといい男じゃない?」
「それに、とても気前がよかったわ」
「何をいやアがる」
西沢は苦笑をして、
「当てつけるない。耳がいたいよ。ところでね、君たちに頼みがあるんだ」
「なあに」
「テル代という娘のいどころがわかるか、それとも、ラクダ色のオーヴァの女、それから、赤いターバンだったね、その赤いターバンの女、誰でもいいから、わかったら、おれのところへ知らせてくれないか。そのときにゃ、多少、お礼ができると思うが……」
「知らせるって、あんた、どちら?」
「東都新聞のなかにある『月刊東都』の西沢っていうんだよ」
「やっぱり、新聞社のひとね」
「新聞社のひとなら都合がいいわ。ねえ、あんた。どこかでテルちゃんらしい死体が見つかったら、あたしたちに知らせてよ。ほったらかしとくの、可哀そうだもの」
美代はテル代の自殺を、信じきっているらしかった。西沢の胸のすみにも、それを祈る心があった。
「よしよし。その代り、おまえたちも、三人のうちの誰でもいいから、わかったら、すぐおれのところへ知らせてこいよ。『月刊東都』の西沢だ。いいか、わかったな」
その晩、西沢は目白の家にかえって来ると、吉岡からかりてきた『指紋』という小冊子をひらいて、現場指紋採取要綱というところを、なんどもなんども読みかえした。
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[#小見出し]  指 紋
「へへえ、それじゃ啓介さん、やっぱり田代というひとのところに、かくまわれているというの。変ねえ。田代なんて名前、いちどもあのひとから聞いたことないけど、いったい、どういう関係なのかしら」
春代の声には、心外そうなひびきが、露骨にふくまれていた。
風間のことなら、なんでも知っているし、風間にとって、いちばん頼りになる相談相手は、自分をおいてほかにないと自負していた彼女は、今度の事件で啓介から、完全に無視された結果になっているのがくやしかった。
彼女はそのうちに、啓介が自分のところへやってくるだろう。そうしたら、情理をつくして説伏せて、啓介に自首させよう。自分のいうことなら、どんなことでも聞かぬということはない啓介である。なんなら、自分もつきそって、警視庁へ出頭してもいい。……と、そんなふうにまで考え、その場合の情景を思いうかべて、ひそかに甘い感傷にそそられたりしていたのであった。
それがいま西沢にきくと、啓介は田代という、自分も全然知らぬ男の庇護《ひご》のもとに、かくれているらしいという。春代は自分の感傷を、裏切られたようないまいましさをかんじずにはいられなかった。
「それで、その田代というひと、どんなひとなの。何商売をするひとなのかしら」
「それが、よくわからないんですが、ちょっと凄味のある男でしてねえ。友人のいうのに、ありゃヤミ会社かなにかの、ボスじゃないかというんです。そういえば、ちょっとそういうかんじのする男ですがねえ」
「風間君とは、しかし、どういう関係なんだろう」
春代の良人の瀬川省吾が、あいかわらず、どっちでもよさそうな口調でつぶやいた。
半生を妻のリードでくらしてきた省吾は、いつかならい性となって、どんな事件にも、とくに自分から熱意を示すようなことはなかった。
うっかり、なにかに乗気になると、ピシャッと春代に鼻っ面をたたかれる。だから省吾は、いつも睡たげな表情のなかに、自己の本心を押しつつむことに慣らされていた。
「さあ、それがさっぱりわからないので……年齢からいうと先生より四つ五つ、若そうに見えるんですがね」
「それで、その男がさがしているのは、パンパンだって」
いちばん上座にすわった、啓介の兄の誠也が、不審らしく眉をひそめた。
「ええ、そうなんです。それについて、ぼくはこう思うんですがねえ」
斜め向うにすわっている、那須慎吉の横顔を、さぐるようにみながら、西沢はちゃぶ台のうえに乗り出した。
今日は加奈子の初七日で、お葬式の日にあつまったひとびとのうち、おもだった連中は、みんな顔を出している。
「田代という男がさがしている、パンパンにはぼくも心当りがあるんです。あの晩、ぼくが先生をつれていった、酔月という飲み屋、そこに張っていた女ですがね。先生はその女に、ひどく興味を持っていたらしいんです。そのことは、そのときすでにぼくにもわかっていて、先生をからかったくらいですからね。ぼくはそれから間もなく、先生とその女をそこにのこして、座談会へ駆けつけたんですが、ひょっとするとそのあとで、先生、その女にわたりをつけて、どこかへあそびにいったんじゃないかと思うんです」
「あら、いやだ」
春代は吐きだすように、
「啓介さんて、そんなひとかしら」
「そりゃア……先生だって、男ですからね。それに、あの晩は、ひどく酔っていたから……」
「いくら酔ってたからって……いやアねえ」
春代は泰子のほうをかえりみたが、泰子は蒼い顔をしてうつむいたきり、さっきから一言も口をきかなかった。
春代は意地悪い眼つきで、おりおり、その泰子と、泰子の良人の那須慎吉を見くらべている。
那須慎吉も、ほとんど口をきかずに……暗い眼つきが気になった。
「いや、それに先生は小説家だから、小説の材料として、パンパンの生態を、研究しようとしていたのかも知れません」
「いやなこと。啓介さんに肉体文学なんて書いてもらいたくないわ。そんなもの書かなくたって、ほかにいくらでも、材料があるじゃありませんか。それに……」
「いや」
と、誠也はかるい身振りで、ともすれば脱線しそうな春代を制すると、
「その晩、啓介がその女とあそんだとすると、啓介にとっては、非常に有利になってくるね。つまり、その女をさがしだすことによって、アリバイを証明できる。……」
「そうです。そうです。先生のねらいはそこにあるんじゃないかと思うんです。つまり、その女をさがしだしてから……アリバイができてから、名乗って出ようというんじゃないでしょうか」
西沢はその言葉のかもし出す反応を、ひとりひとりの顔色から、読みとろうとするように、一座のひとびとの顔を見渡していた。
「しかし、それなら、警視庁へ出頭してからいえばよかった。警察の手でさがしてもらうほうが、よっぽど手っ取りばやかろうに……」
加奈子の兄の、白井氏の言葉である。
白井氏は今度の事件について、啓介にたいして、いまだに釈然としないものを持っている。
「むろん、そうですね」
誠也は率直にうなずいて、
「逃げかくれするのは、なんと考えてもまずい。それで、その女だが、どこのなんという女だかわかったの」
「ええ、わかりました。極東タイムスの原田という、運動記者が知っていたのです。名前はテル代といって、やっぱりパンパンなんだそうです。それでぼくはすぐにリラへいって……」
「リラというのは……?」
省吾が例によって、どっちでもよさそうな、睡そうな調子で、言葉をはさんだ。
「有楽町のマーケットのなかにある、喫茶店なんです。そこが、そういう種類の女の、なんといいますか、たまりみたいになっているんですね。で、ぼくはすぐにそこへ出向いていって、訊ねてみたんですがね」
「わかったの、テル代という娘のことが……」
春代もからだを乗出した。
「ところが……」
と、西沢はハンケチを出して、額の汗をぬぐいながら、まえにある、コップのビールを、ぐっとひと息に呷った。
それから、すばしっこい、狡猾そうな眼で、一同のまえにあるコップを見まわした。
それはとくに西沢が、注意してえらんだもので、彫りも模様もない、表面のすべすべとしたコップで、男にはビール、女にはサイダーがついである。
西沢の動作につりこまれて、二、三のひとがコップをとりあげた。
「ところが、あいにくなことにはこの二、三日、テル代という娘のすがたが見えないんだそうです。うちは東中野で、たばこ屋の二階かなんか借りてるんだそうですが、そこへも二、三日まえから、かえらないんだそうです。それで仲間の女たちは、ひょっとすると、自殺したんじゃないかと心配してるんだそうです」
「自殺……?」
那須と泰子をのぞいたほかの一同が、ほとんど異口同音にききかえす。
泰子はハッと顔をあげたが、すぐまた下をむいてしまった。那須は依然として無言である。
「ええ、そうなんです。なんでもその娘は、胸に病気があって、ついこのあいだも、かなだらいにいっぱい血をはいて、日頃から、死にたい、死にたいといってたそうです。しかし、まさか、よりによって、こんな場合に、死ぬなんてこともないでしょうがねえ」
「でも、もし、その娘が、ほんとうに自殺してしまったとすると、啓介さんの計画もムダになるわけね」
春代の言葉のなかには、いくらか、意地悪いひびきがあった。
「ええ、そうです。そうです。それで、ぼくも心配しているんですが……」
そこへ藤崎の小母さんが顔を出して、
「西沢さん、あと、お酒にしたいと思うんですが……」
「あっ、そう、じゃ、そうしてください」
西沢はすばやく立って、みんなのまえにあるコップを、さっさと片づけはじめた。長方形のお盆のうえに、注意ぶかくならべながら。……
西沢はお盆をもって、そそくさと座敷を出ると、台所へはいかずに、離れにあるじぶんの部屋へやって来た。
そして、注意ぶかく、コップのはしを持って、なかの液体を庭へあけると、かねて用意してあった、わり箸《ばし》をいっぽん、いっぽん、コップのなかに立てていった。
わり箸のさきには、ナンバアを書いた小さな紙が、旗のようにはさんである。
西沢は手帳をひらいて、そこにひかえてある、ナンバアと名前をひきくらべながら、いっぽん、いっぽん、注意ぶかく、わり箸をコップのなかに立てていくのである。
それがおわると西沢は、お盆ごと、コップを押入れのなかにしまいこみ、それからニヤリと、狡《ずる》そうな微笑をもらすと、何喰わぬ顔で、もとの座敷へかえってきた。
座敷では、泰子や、加奈子の妹の清子が、藤崎の小母さんを手伝って、盃や、刺身の皿をくばっているところで、誰ひとり、西沢の挙動に、気がついたものはなかった。
やがて、ひととおり、盃や、料理がいきわたると、西沢は一同の顔を見まわしながら、
「さっきの話のつづきですが、テル代という女が、自殺したとすると事だが、まさか、そんな不幸な偶然もないでしょうから、問題は、その女を、さがしだすということにあると思うんですがね」
「田代という男が、それをやってるんじゃないのか」
誠也が、気づかわしそうに、上座から声をかけた。
「そうなんです。ひとあしちがいで、ぼくはあわなかったんですが、田代という男も、リラへ現れたそうです。ところで、そのとき、田代のやつ、変なことを訊ねていったそうですよ」
「変なことって?」
春代が口をはさんだ。
「テル代という娘のほかに、その娘の友だちで、ラクダ色のオーヴァを着た女と、赤いターバンをまいた娘を知らないかというんだそうですがね。リラの女たちは、そんなあいまいなことで、わかりっこないといってるんですが、これでみると、田代という男は、テル代のほかに、まだ二人の女、つまり三人の女をさがしているらしいんですね」
「まあ、しかし、それ、どういう意味かしら」
春代は不審そうな面持ちだった。
省吾はだまって顎をなでている。那須はくらい眼をして、そっぽを向いている。誠也は気づかわしそうに眉をひそめていた。
「さあ、ぼくにもよくわからないんですが、あの晩、先生は、三人の女を相手に、どこかで飲んでいたんじゃありますまいか。だから、三人の女をさがしだすことによって、アリバイを立証しようというんじゃないでしょうか」
三人の女という言葉に、とくに力をいれながら、西沢はさぐるように一同の顔を見まわした。
「なるほど、それなら結構ですね」
加奈子の兄の白井氏が、刺身をつつきながら言葉をはさんだ。
白井氏は、額のはげあがった初老の紳士で、さる大銀行の理事をしている。白井氏は盃をなめながら、
「いずれは三人の女も発見されるでしょうから、そうなれば、啓介さんのあかしも立つわけだ。しかし、それにしても、テル代という女が、急にすがたを消したのは妙ですな。どういうわけでしょう」
「そうなんです。どうもそれがおかしいんです。まさか、自殺したとは思えませんがね」
「ひょっとすると……」
省吾がなにかいいかけて、そのまま口をつぐんでしまった。
「ひょっとすると……? 瀬川先生、何かお考えになることがあるなら、遠慮なくおっしゃってください」
「いやあ」
と、省吾はあいかわらず、どっちでもよさそうな口ぶりで、
「ぼくの考えたのは、そのテル代という女だが、そいつ風間君のアリバイを知っているのではなく、反対に、風間君の不利になる、事実を知っているのではあるまいか。それで、風間君がその女を、かくしてしまったのじゃ……」
「あなた!」
春代がとつぜん、鋭い声でさえぎった。
「そんな、つまらないことをおっしゃって……せっかく、皆さんがよろこんでいらっしゃるのに。……」
「ああ、いや、そういうわけじゃないんだが、風間君がすがたをかくす。それと相前後して、その女もすがたをかくす。それがちょっと妙だから。……」
「馬鹿なことをおっしゃい。それじゃ、なぜ田代という男をつかって、その女をさがしているんです」
「田代という男は、しかし、ほんとに風間君の代理ではたらいているのかしら。西沢君、その男はハッキリそう明言したのかい」
なるほど、考えてみると田代という男は、ハッキリそう明言したわけではなかった。
「それ見給え。田代という男は田代という男で、なにか別の目的ではたらいているのかも知れない。いや、しかし、いずれにしてもぼくだって、風間君の潔白をいのる心にかわりはないがね」
一座は急にシーンと白けわたった。
春代はにくらしそうな眼で、良人の横顔を見詰めている。省吾はとぼけた顔をして、せっせとカツレツの肉を切っていた。
那須慎吉はついにその晩、その問題について一言も語らなかった。泰子はおびえたような眼で、おりおり、良人の顔色をうかがっている。
客がかえったのは九時ごろだった。
石田夫婦や、藤崎の小母さんにてつだってもらって、ざっとそこらを片づけると、西沢はじぶんの部屋へかえって来た。
そして、ぴったり障子をしめきると、押入れのなかから、そっとお盆をとり出した。
お盆のなかには、コップが八つならんでいる。誠也に白井氏、瀬川夫妻に那須夫妻、それから念のために、石田夫妻のぶんもはいっている。
西沢自身の指紋は、昨日、下稽古の意味でとっておいたのである。案外うまくとれたので、西沢は今夜の実験にも自信をもっていた。
それでも西沢は大事をとって、もういちど、社の吉岡から借りてきた、『指紋』のなかの、『アルミニューム粉末による現出法』という項を読みかえすと、さて、おもむろにこれまた吉岡から借りてきた、革のケースの蓋をひらいた。
そして、ケースのなかから、アルミニューム粉末のはいった小瓶と、細い筆をとり出すと、筆先に、少量の粉をふくませ、第一号のコップの、指紋のついていそうな場所へかるく叩きつけてみる。
指紋のありかはすぐわかった。西沢は本に書かれているとおり、隆線の流れにそうて、漸次筆先で加工していく。やがてそこに、ほぼ完全な指紋が三つ浮きあがった。
拇指《ぼし》と示指《じし》と中指《ちゆうし》である。
さて、これをゼラチン紙に転写するのだが、これがいちばん厄介だった。
西沢は昨日、じぶんの指紋をとる場合に、はじめいちど失敗したが、今夜は絶対に失敗してはならないのである。
ゼラチン紙というのは、薄いセルロイド様の二枚の板のあいだに、ゼラチンがサンドウィッチのようにはさんであり、うえのほうの板は透明で、下の板は黒色になっていた。
西沢はそっと二枚のセルロイド板をはがす。透明板の裏面には、ゼラチンが密着している。
西沢は筆先で、コップについている無用のアルミニューム粉末を、ていねいに払いおとすと、浮きあがった指紋のうえに、透明板のゼラチンの部分をかるく押しつけた。
これで、アルミニューム粉末でえがき出されたコップの指紋が、ゼラチン紙に転写されるのである。
やがて、ゼラチン紙をコップからはがすと、もとどおり黒色板にはりつけ、うえからかるく押して、内部の空気をおし出した。
こうして指紋第一号ができあがると、西沢は机のひきだしから、昨日、とっておいた指紋をとり出した。
それは加奈子のお葬式の日、『三人の女より』という署名でとどけられた、あのハトロン紙の封筒から、昨夜、西沢が転写しておいた指紋なのである。
西沢の計画というのはこうなのだ。
『三人の女より』の手紙を読んだものは、西沢のほかにもうひとりあるはずだった。それにもかかわらず、そのひとは、ついにそのことを口に出さずに、握りつぶしてしまった。
なぜだろう。それは単なる啓介に対する反感だろうか。それとも、もっと深い根拠があるのではあるまいか。即ち、そのひと自身が犯人で、啓介をむじつの罪におとそうと、考えているのではあるまいか。……
どちらにしても西沢は、誰があの手紙を読んだか、それを知りたかったのだ。
それにはさいわい、封筒だけは西沢の手にもどった。この封筒から、手紙をひろったひとをさぐり出すことはできないだろうか……と、考えて、すぐ思いうかべたのが指紋のことである。
あの日は、じっとしていても、汗のにじむような暑い日だった。封筒にさわったひとの指紋は、ことごとくそこに印象されているにちがいない。
では、その封筒には、いったい何人のひとがさわったであろうか。まず第一に、それをとどけてきた女、それから受付けにいた青年、そのつぎは西沢自身、さいごに、封筒をひろった人物だ。すくなくとも、これだけの人物が、あの封筒にさわったはずである。
西沢は昨夜、苦心の末、封筒から七種類の、ほぼ完全な指紋を現出することに成功した。そのなかの二種類は西沢自身の拇指と示指であった。
あとの五種類の指紋のなかに、封筒をひろった人物の指紋がまじっているにちがいない。
西沢は今夜、コップに印象された、八人の男女の指紋のなかから、それと共通しているものはないかと試験しているのだ。
西沢はひとつひとつコップから、指紋を転写するごとに、拡大鏡で、封筒の指紋とくらべてみる。コップ一号、二号、三号、四号、五号……みんなちがっていた。
だが、第六号にいたって、突如、西沢の眼が鋭くひかった。
あった! この指紋だ! この指紋には指紋以外に、ひとつの特徴があった。それは示指のさきに小さな疵痕《きずあと》があるのである。
西沢の眼はギラギラと血走って、額にねっとりと汗がふき出している。
西沢はなんどもなんども、ふたつの指紋を見くらべたのち、ノートにひかえた、コップの番号と人名のページをひらいてみた。
ページをくる手がわなわなふるえて、息づかいが嵐のようにはげしかった。
やっとそのページが見つかった。
コップ第六号……
その下に書かれた名前を見たとき、西沢は愕然《がくぜん》として、大きく眼をみはったのであった。
西沢はとうとう、あの手紙を読んだ人物を発見したのだ!
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[#小見出し]  テル代
今年は入梅がはやくて、六月にはいってから、東京は連日の雨だった。
夜の女たちにとっては、露店商人同様、雨は禁物である。客も少かったし、衣裳もよごれた。第一、雨の街頭にたっているのは、どっか、しおたれた気持ちでみじめだった。
喫茶店リラの一隅に、雨であぶれた夜の女たちが、今夜もあつまって、つまらなそうにおしゃべりをしていた。
そのなかに、幼い美代もまじっている。フレンチ・スリーブの真赤なブラウスに、大きなプリントのある、ギャザスカート。プラスチックの三角巾。――美代も一人前の夜の女だ。
今夜もほかに客がなくて、電気がしらじらと明るすぎる。
ドアを排して西沢がはいって来た。ポタポタと滴のたれる洋傘をたたみながら、
「よう」
と、声をかけて、西沢は女たちのほうへちかづいてきた。
「いやンなっちゃうね、毎日。雨で……」
「ほんとうよ。なんとかしてよ、西沢さん」
「お察し申上げます。今夜もあぶれかい」
「こんなに降っちゃ、外へ出る気力もないわ。ほんとにクサクサしてしまう」
加奈子が殺されてから、もう一ヵ月以上たっている。
西沢は当初のような熱心さはなかったが、それでも毎日、惰性のように、リラへ顔を出した。
ずうずうしい西沢は、いつかここをたむろとしている、夜の女たちとなじみになって、たまにコーヒーをおごったり、たばこをふるまったりするくらいで、ひまつぶしができるのだから、やすいものだと思っていた。
テル代はいまだに消息がわからない。東中野のたばこ屋に、荷物をおいたままで、誰もとりにくるものもなかった。
こうして一ヵ月以上も、消息をたっているのは、ただごととは思われなかった。ひょっとすると、仲間の女たちがいうように、やっぱりどこかで人知れず、自殺したのではあるまいか。……しかし、はっきりその消息がわかるまでは、奥歯にもののはさまったような気持ちで、投出してしまう気にはなれなかった。
田代はどうしたのか、はじめのうち、二、三回顔を出したが、それきりバッタリすがたを見せなくなった。
西沢はかえってそれが気がかりで、ちかごろリラへやってくるのは、テル代よりも、むしろ田代の消息をつかむためだった。
三十分ほどおしゃべりをして、西沢がかえっていくと、ほとんどそれといれちがいに、女がひとりはいってきた。
ドアのところで、向うむきになって、ポタポタと滴のたれるレーンコートとフードをぬぐと、くるりとこちらへふりかえったが、そのとたん、女たちは一様に、
「あっ!」
と、大きく眼をみはった。
「まあ!……あんた!……」
誰かが喘《あえ》ぐように、
「テル代じゃない?」
「テル代だわ」
「テルちゃんだ」
二、三人、バラバラと立って、テル代の周囲をとりまいた。
「あんた、生きてたの。自殺したんじゃなかったの」
「まさか、幽霊じゃないでしょうねえ。美代ちゃん、よく見てごらんよ。足はついていて?」
「足はちゃんとついてるわよ」
「でも、お七の幽霊は足音だけよ」
「なにをバカなこといってんのよ。テルちゃん、あんた、ほんとにどうしてたのよ」
テル代はニヤニヤ笑っていたが、
「まあ、そう、みんなでガヤガヤいわないでよ。のぼせあがってしまうわ。ちょっと、やすませてよう」
テル代は女たちをかきわけて、隅のテーブルに腰をおろすと、急にあはあは笑い出した。
女たちは呆気にとられたような顔をし、テル代の様子を見まもっている。
丸ぽちゃの、可愛い顔立ちをしているテル代は、気性も陽気で朗かで、仲間のうちでも人気があった。
胸に病気がありながら、大酒をのんだりするでたらめなところもあるが、喀血《かつけつ》するとその当座、悲観して、死にたい、死にたいといい出すのも、むしろ彼女の、単純な性質を示していた。
テル代は脚をバタバタさせながら、からだをそらして、ひとしきり、笑いころげていたが、急にケロリとして、店のなかを見まわすと、
「やっぱり、なつかしいわねえ。あたし、毎晩、ここの夢見てたわ」
「なにいってんのよ。さんざん、ひとに心配かけながら……」
「すみません。でも、仕方がなかったのよう。悪く思わないでよ」
「いったい、どこへいってたの」
「故郷《くに》へかえってたのよ」
「故郷?……」
一同は顔を見合せて、
「やっぱりそうだったの、あんたの故郷、いったいどこなのよう」
「秋田のほうよ。ずうっと田舎」
「なんぼ田舎だって、郵便ぐらい出せるでしょ。それならそれで、ハガキぐらいよこしたらどう? どんなに心配したか、知れゃアしないわ」
「だって、それが、そういうわけにはいかなかったのよ。ほんとにバカみちゃった」
テル代はまた、椅子のなかで笑いころげた。
そのとき、美代がすうっと立った。そして、さりげない足どりで、リラの店から出ていったが、誰もそれに、気をとめたものはなかった。
「誰か、いっぽん、たばこ、くんない。有難う。おや、しゃれてるわね、洋モクじゃないの」
テル代はうまそうに、たばこをいっぽん吸いつけると、
「もとはといえば、あたしがバカだったのよね。ほら、四月のおわりに血をはいたでしょ。そして、死にたい、死にたいっていってたでしょ」
「そうよ、だから、みんな心配してたのよ。どこかで身投げでもしたんじゃないかって……」
「縁起でもないこといわないでよ。でも、すまなかったわ、ほんとに。さっき、姐《ねえ》さんのとこへよってきたら……」
「あら、姐さんとこへいってきたの」
「そりゃア、いちばんに挨拶しとかなきゃア悪いもの。姐さんにも叱られたわ。でも、わけを話すとそういう事情なら仕方がないと、かんにんしてくれたわ。それで、姐さんに、みんなが心配してるから、すぐ挨拶にいっておいでといわれて、さっそく、やってきたの」
「うん、それはいいけどさ、事情というのはどういうことなのさ」
「それよ」
テル代は真顔になって、
「あのじぶん、あたし、ほんとに悲観してたのよ。なんだか、世のなかが、つまらなくて、つまらなくて仕様がなかったの。いまから考えると、神経衰弱だったのね。それで、つい、田舎の叔父へ手紙書いたのよ」
「なんてって……」
「あたしはいま、東京でこれこれこういう生活をしているが、からだのぐあいもよくないし、後悔している。できることなら、田舎へかえって、まじめな生活をしたいって……」
「また、バカな考えを起したもんねえ」
いちばん年嵩の、おチカというギスギスした女が、あざわらうようにいった。
テル代は素直にうなずいて、
「まったく、そうよ。いまから考えると、じぶんでじぶんの気持ちがわからないわ。でも、そのときは真剣だったのよ。手紙を書きながら、ポロポロ、涙を流したりなんかしてねえ」
「ほんとにねえ。あたしだって、どうかすると、そんな気持ちを起すことがあるわ」
「そんなことはどうでもいいから、それからどうしたのよう。手紙を書いて……」
おチカがじれったそうに、あとをうながした。
「ええ、それで、その手紙出したんだけど、あとになって後悔したわ。しまった。あんなもの、出さなきゃよかったと思ったのよ。そいでね、下宿の小母さんにも、ひょっとしたら、田舎から誰か、たずねてくるひとがあるかも知れないけど、そんな女ここにはいないっていって頂戴っていってたの。まさか、叔父さん自身が、わざわざ、出てくるとは思ってなかったもんだから」
「まあ、叔父さんが、わざわざ、迎えにきたの」
「そうなのよう。あたしの留守中にね。そいで、下宿の小母さん、あたしにいわれたとおり、そんな女、いないっていったのね。ところが叔父さん、なかなか信用しないのよ。叔父さん、村会議員かなんかしてるだけあって、田舎もんとしてはしっかりしてんのね。そいで、近所やなんか聞いてまわって、あたしがいるってことたしかめたらしいの。ある晩、あたしが東中野で電車をおりると、そこにちゃんと叔父さんが頑張ってるじゃないの」
「まあ!」
女たちはため息ついて、
「それで、どうしたの?」
「どうもこうもありゃアしないわ。叔父さん、ちゃんと、あたしが手紙を出したのを、後悔してるってこと、見抜いてんのね。それで、一も二もなく、叔父さんの宿へつれていかれてさ、翌日、秋田へ旅立ちよ。どうすることもできやアしないじゃないの」
「だって、ハガキぐらい……」
「ハガキどころか、あんた、便所へいくにも、いちいち、ついてくるしまつですもの。いちど下宿へかえって、荷物をまとめてきたいといっても、それさえ、きいてくれないのよ」
「ずいぶん、こわい叔父さんねえ」
「そうよ。でも、ほんとは親切からきてるんだから、悪くいっちゃすまないんだけど。……下宿の小母さんがうそついたでしょ。それがいけなかったのね。東京もんは油断がならぬと、あたしもまるで信用がないのよ。あたしの信用のないのは、あたりまえの話だけど。……」
「それで、田舎へかえって、なにしてたの」
「何もしなかったわ。だって、何もすることないんですもの。それに、まるで座敷牢《ざしきろう》に、おしこめられてるのも同様なのよ。いつも誰かが張番についてるんですもの」
「あんたの叔父さんて、相当のうちなのね」
「それほどでもないけど、まあね。そういうわけで、手紙もハガキも書けないのよ。そんな仲間に手紙を出すなんて、もってのほかだというのよ。なにかというと、二言目には、御先祖さまがどうのこうのと、しまいには叔母さんとふたりで位牌《いはい》を持ち出し、泣いてかきくどくのよ」
「まあ、ずいぶん、封建的ね」
おチカがあざわらって、
「しかし、あんた、そんないい叔父さんがあるなら、おとなしくしてりゃアいいのに」
「そうはいうけど、いちど東京の空気を吸ったもんが、とっても、田舎でおとなしくしていられやアしないわ。やっと昨日、汽車賃をぬすみ出して、着のみ着のままで逃げ出してきたのよ」
テル代はそこで、また、あはあはと笑い出した。
これが、可憐《かれん》なテル代の、一ヵ月の冒険だった。
テル代の冒険について、女たちのあいだでは、ひとしきり議論がたたかわされた。
あるものは、おチカのいうように、そのままおとなしくしていればいいのにという意見だったし、あるものは、テル代の言葉のとおり、東京の空気を吸った女が、とても、田舎で、辛抱《しんぼう》できるものではないと同情した。
しかし、どちらにしても、いざとなれば、そういう安息所のあるテル代を、みんなうらやましがった。
「冗談、いわないでよ。今度という今度は、叔父さんも愛想をつかしたでしょ。二度と、なにも頼めないわ」
そうはいうものの、テル代は悪い気持ちではなく、いくらか得意でもあった。
ひとしきり、テル代の身の上に関する議論がすむと、おチカが思い出したように、
「それはそうと、テルちゃん、あんた、田舎へいくまえに、なにかしたんじゃないの。あんたがいなくなってから、毎日のようにたずねてくるひとがあるわ」
「そうだってねえ。さっきも姐さんから聞かれたんだけど、変ねえ」
とテル代は急に不安そうな顔になって、
「あたし、一向、おぼえがないんだけど、新聞社のひとですって?」
「そうよ。東都新聞の西沢というの。さっきも来てたのよ。あんたと、ひとあしちがいだった」
「いやだわ。あたし……新聞社のひとに追っかけられるなんて、そんなおぼえ、ちっともないわ」
「いえね、あんたのことを聞きにくるの、西沢だけじゃないのよ。もうひとりいるのよ」
「そうそう、あのひと、どうしたかしら、ちかごろ、ちっとも顔を見せなくなったけど、ちょっといい男よ。髭《ひげ》のない、クラーク・ゲーブル」
「それに、金離れがきれいだわね。あのひとどうしたのかしら。ちかごろ、ちっとも来ないわね」
「うっふふ、おヒサはあのひとに惚《ほ》れてんのよ。なんて名前だろうと、そればっかりいってんの」
「そのひと、名前、わからないの」
テル代がたずねた。
「うん、どこの誰ともわからないのよ。ここへ来たの、三度ぐらいだったかしら。それで、あきらめたのか来なくなったけど……、あんた、ほんとに、なにもおぼえがないの」
「ええ。……」
テル代はうなずいたが、なんとなく元気がなく、心細そうな様子だった。
「そうそう、それからその、名無しの権兵衛さんが訊ねるのに、あんたの友だちで、ラクダ色のオーヴァをもった女と、赤いターバンをまいた女はいないかというのよ。誰のことよ、それ……」
「ラクダ色のオーヴァと、赤いターバンをまいたひと……?」
テル代はとまどいしたように、眼をみはったが、すぐ、ハッと何かに気がついたらしく、みはった眼のなかに、かすかな怯えのいろがひろがった。
「あんた、そういうひとに、心当り、ある?」
おチカがテル代の顔をのぞきこんだ。
テル代はあわてて顔をそらすと、
「知らないわ。そんなこと。……」
と、吐き出すように、
「ラクダ色の外套だの、赤いターバンだのっていったところで、いくらでも、そんなの、あるじゃないの」
「だからさ、あんたの友だちで……」
「あたしの友だちってば、ここへくるひとたちだけよ。そんなかに、ラクダ色のオーヴァを持ってるひとや、赤いターバンをまいてるひと、あったかしら」
「そうね。それだから妙に思ってたんだけど……それじゃ、あんた、心当りがないのね」
「知らないわ。あたし……」
おチカは疑わしげな眼で、まじまじとその横顔を見つめていたが、それきり、そっぽを向いて、コムパクトを出して、口紅をなおしはじめた。
「それはそうと、テルちゃん」
と、ほかの女が腕をたたいて、
「あんた、どうするのさ。当分、やすむ? それとも、今夜からしょうばい、はじめる?」
「やすむなんてこと、できゃアしないわ。ほんとに汽車賃だけもってとび出してきたんだもの。姐さんに、いくらか借りてきたけれど、下宿の小母さんにだって悪いし……」
「下宿へはよってきたの?」
「うん、上野からまっすぐに駆けつけたのよ。でも、小母さんが、部屋をとっておいてくれたから大助かりよ。ほかのひとに貸してたら、どうしようかと思った。宿なしはいやだもん。もし、そうなったら、美代ちゃんとこへでも、当分、おいてもらおうと思ってたんだけど……あら、美代ちゃん、どこへいったのかしら」
その美代は、ちょうどそのころ、雨の中を、尾張町のPXのまえで、人待ちがおにたたずんでいた。
「そうお。それじゃ、さっそくかせがなきゃアいけないわね。でも、あいにくのこの雨で……」
「雨だって、仕方がないわ。そんなゼイタクいってられる身分じゃないわ。あたし、そろそろ出かけるわ」
「あら、いやにハリキッてんのね」
「そうよ。しばらく田舎で静養したおかげで、からだの調子とってもいいもん」
「そう、それじゃ、あたしたちも出かけよう。おチカ、あんた、どうする……?」
「あたしは、もうしばらくここで……」
みんなが出ていったあとで、おチカはたばこをいっぽん、ゆっくり吸ったが、時計の針が九時十分前をさすと、そそくさと立上った。
リラを出たおチカは、それからまっすぐに、日比谷の交叉点へやってきた。そして、人眼につかぬ薄暗い雨の中を、腕時計をすかしながら立っていると、かっきり九時に、うしろからきた男が、かるく肩をたたいた。
「どう? 今夜もまだだろう?」
「あら、あんた!」
おチカは思わず声をあげたが、すぐ気がついて、あたりを見まわすと、声をおとして、
「かえって来たわよ。とうとう今夜……」
「かえって来た?」
大きくみはった男の瞳に、キラリとただならぬ光がはしった。
長いレーンコートにすっぽりからだをつつみ、襟を立て、おまけにマフラで鼻のうえまでかくし、帽子のひさしを眼のうえまでさげ、そのうえに、三角のフードをかぶっているので、顔といっては、眼だけしか見えない。
「よし、それじゃ、歩きながら話をきこう」
ふたりは肩をならべて、日比谷公園のなかへ入っていった。雨が降っているので、公園のなかには人影もない。
「いったい、どこにいたのだい。あの娘は……?」
「故郷《くに》へかえっていたんですって」
「故郷……?」
「ええ、そう、叔父さんに、むりやりひっぱっていかれたんですって」
おチカは手短かに、テル代の話をとりつぐと、
「それでね、あたし、話のあとで、ラクダ色のオーヴァと、赤いターバンのこともきいたのよ。テル代は知らないといってるけど、知ってることは、ちゃんと顔色でわかるの。あたしからもういちど聞いてみましょうか。それとも、あんた、じぶんで当ってみる?」
男はだまって考えていたが、
「よし、おれが当ってみる。どうせ、いちどは会わなければならないんだから。……それで、テル代は……?」
「今夜から、しょうばい、はじめるんだって、ガード下に立ってるわ。赤いレーンコート着てるからすぐわかる」
男は注意ぶかい眼であたりを見まわした。雨の公園は人影もない。ふたりは闇の、いちばんふかいところに立っていた。
「おい、傘をたためよ」
「あら、どうして……?」
「邪魔じゃないか。おまえを抱くのに」
「あら、どうしたのよう。今夜にかぎって?」
「いいじゃないか、たまには、おれだって……」
「うっふ。いいわ。でも、キスだけよ」
女が洋傘をたたむと同時に、ポケットから出た男の腕が、やにわに女の後頭部めがけてふりおろされた。
ぐしゃ! と、一種異様な音がしたかと思うと、おチカは骨をぬかれたように、くたくたと、泥のうえにくずれていった。……
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[#小見出し]  ホテルQ
尾張町のPXのまえに、自動車が一台来てとまった。
なかからとび出したのは田代皓三だった。洋傘をひろげて、あたりを見まわしているところへ、美代が見つけて小走りにちかづいて来た。
皓三も美代のすがたをみると、皓い歯をだして笑った。
「さっきは、電話、ありがと。かえって来たんだってね」
「ええ、さっき。……びっくりしたわ。あたし。……幽霊じゃないかと思ったくらい。でも、せんより、ずっと血色がよくなって、元気そうになってんの」
「いったい、いままでどこにいたんだい」
「故郷へかえってたんですって。なんでも、秋田のほうだって話よ」
「しかし、また、なんだって、なにもかもおっぽり出して、そんなに急に、故郷へなどかえったんだろう」
「さあ。……そこまでは聞くひまなかったわ。だって、いっときも早くお知らせしようと、とび出したんですもの」
「ああそう、それでいま、テル代、リラにいるの」
「ええ、いると思うんだけど。……今夜はみんな、雨にクサって、リラでひまつぶしすることにしてんだから」
もうひとりの人物がおチカをつかって、テル代の消息をつかもうとしているのと同様に、皓三も美代に眼をつけて、手先きにつかっているらしい。
皓三は忙しいからだで、そうたびたび、リラへ顔出しするわけにいかなかったし、それに第一、危険でもあった。
西沢はどういうわけか、このことを警察へ報告していないらしいが、皓三のおそれるのは西沢自身であった。
たびたび、リラを訪れているうちには、いつか西沢に見つかるような場合もあるだろう。こちらでそれに気がつけばよいが、うっかりしていて、尾行されたりするのは困るのだった。
皓三もいったん、ひきうけた以上、三人の女をさがし出すまでは、啓介を警察の手にわたしたくなかった。
皓三は勝負師だ。
テル代の捜索が困難になってくるにつれて、逆にかれのファイトはましてきた。
なんどかリラを訪れているうちに、皓三は小まちゃくれた美代に眼をつけて、ひそかに彼女を抱きこんだのだ。
ふたりは人眼をさけるために、できるだけ暗い裏通りをよって、マーケットにちかよると、
「あなた、ここで待っててね。あたし、ちょっと見てくるから」
日劇の横へ皓三を待たせて、美代は小走りにマーケットのなかへ駆けこんだが、すぐ、がっかりしたような顔をして出てきた。
「どうしたの? いないの?」
「ええ、みんな出かけちゃって、ひとりもいないの。テルちゃんどうする気かしら。今夜からかせぎに出る気かしら」
「かせぎに出るとしたらどのへん?」
「いつもガード下に出るんだけど……ともかくいってみましょう」
雨はこやみなく降りつづけて、舗道から車道へかけて、滝のように水がながれおちる。
どこもかしこも、ものすごい水溜りで、自動車が猛烈なしぶきをあげて疾走する。ひとをさがしてまわるには勝手のわるい晩だった。
ガード下へくると、薄暗い、じめじめしたところで、ひと眼でそれとしれる女が、アロハの兄んちゃんとふざけていた。
美代は女の顔をすかしみて、
「キヨちゃん?」
「うん?」
キヨはふりかえって、
「美代ちゃん、なにか用?」
「あんた、テルちゃん、知らない?」
「テルちゃんて、テル代のこと?」
「ええ、そう、テルちゃん、今夜かえって来たのよ。あんた、このへんで、テルちゃんのすがた、見なかった?」
「ううん、知らん。あたし、いま、ここへ来たばかりだもの」
キヨはひとかせぎして来たらしく、瞳がうすじろくにごっていた。
「困ったわ。テルちゃん、東中野へかえったのかしら。それならそれでいいんだけど、まだこっちにいるのなら……」
「テルちゃん、いったい、どこへいってたのよう。よく生きていたわね」
「うん」
美代が、あいまいに言葉をにごしているところへ、数寄屋橋のほうから、女がひとりかけこんで来た。
「ああ、しどい雨、なにもかもズブ濡れだわ。まったく、いやんなっちゃうね」
声をきいて、美代がそのほうへ駆けよった。
「ハッちゃんじゃない?」
「誰……? ああ、美代……?」
ハツというのは、さっき、リラにいた女である。
「ハッちゃん、あんた、テルちゃんを知らない? テルちゃん、もう東中野へかえったのかしら」
「どういたしまして。あの娘、大ハリキリでさっそく今夜からかせぐんだって。いま、不二越のまえであったけど、どうやら、客がついたようよ」
「不二越のまえで……? そうお、どっちのほうへ歩いてった?」
「尾張町のほうへいったわ。あんた、なにか用事があるの?」
「ええ、ちょっと……」
美代は小走りに、皓三のほうへもどってくると、
「あっちよ、いってみましょう」
不二越のまえまできたが、もちろん、テル代のすがたは、もう、そのへんには見当らなかった。
雨にもめげず、あらゆる辻々には、それらしい女が立っている。そして、彼女たちの影のかたちにそうように、リンタクが二台、三台とまっている。
美代はその女たちをつかまえて、いちいち、テル代の消息をきいてみたが、誰も知っているものはなかった。逆にテル代がかえってきたのかと反問されたりした。
しかし、野性的で勇敢な美代は、そんなことでは失望しなかった。
「大丈夫よ。テルちゃんの宿ならみんなあたしが知っている。順繰りにさがしてみましょう」
「うん、でも、せっかく客のついてるところを、邪魔しちゃ悪いな」
「そんなこと、構うもんですか。一ヵ月も、あんたは待ってたんですもの。でも、あんたのほうで、明日まで待ってもいいというのなら……」
「いや、やっぱり今夜あいたいな」
鉄は熱いうちに打てという言葉がある。それに西沢に先を越されると面倒だった。
「じゃ、いっしょにいきましょう。ほんとにいまいましい雨ねえ」
電車道をこえた向うの天賞堂がわの舗道には、ちかごろできた葭簀《よしず》の日避けのうえに、土砂降りの雨がたたきつけて、白い霧が、もくもくと、ほのぐらい夜空にたちのぼっている。
美代と皓三は豪雨をついて、テル代のなじみの宿をさがしに出かけたが、ちょうどそのころ、銀座通りを東へこえた、三越の横のうすぐらいところを歩きながら、テル代は男のほうをふりかえった。
「ねえ、ちょっと……」
吹きつける豪雨に、テル代は息詰まるような声で、
「リンタクにしましょうよ。この雨じゃ、とても歩けやアしないわ」
「ホテル、まだ遠いのかい?」
「ううん、もうじき、東劇のちょっと向う……だって、あんたが、ドアに鍵のかかるところじゃないと、いやだというんだもの」
「うん、リンタクにしてもいい。しかし、ふたりともこんなに濡れてちゃ、運転手が承知するかな」
「なんとか交渉してみるわ。そのかわり、チップはずんで」
「よし」
「そのかわり、リンタクのなかで、あたしがサーヴィスしてあげる」
テル代はくくくと、咽喉のおくで笑うと、向うの辻にとまっている、リンタクのほうへ小走りに走っていった。
男はくらい舗道に立っている。長いレーンコートの襟を立て、マフラで鼻までつつみ、眉毛のうえまでフードをかぶった男である。
交渉はかなり手間取るらしく、テル代はなかなかかえって来ない。
男はくらい舗道のなかでも、なるべくくらいところをよって、人眼につかぬようにたたずんでいる。
しかし、そういう心づかいも、じっさいは、ほとんど無用といってよかった。
誰もかれも、洋傘をじょうごにしたくない努力で、風雨とたたかうのがせいいっぱいだった。わき見など、しているひまはなかったのだ。
男と女のふたりづれが、小走りに電車道を横切ってきた。美代と皓三だった。
「そこの横町に、一軒、テルちゃんのなじみのうちがあるんだけど……」
女の声が、ちらとフードの男の耳をとらえた。男はギョッとしたように顔をそむけたが、美代と皓三は、そのまま男のそばを通りすぎていった。
ふたりのいく手では、テル代がリンタクと交渉しているはずである。
男はからだを鋼鉄のように緊張させて、ふたりのうしろ姿を見まもっている。フードの下でふたつの瞳が、ギラギラと、もの凄い熱をおびて光っていた。
「こっちよ、こっちよ、あんた、なに、ぼんやりしてんのよう」
テル代の声にふりかえると、一間ほどうしろの車道のはしに、リンタクがとまって、幌《ほろ》のなかから、テル代のほの白い顔がのぞいていた。
リンタクはテル代を乗せて、向うの辻から電車道を大きく迂回《うかい》して、男のうしろへ来てとまったのである。
男のからだは、一瞬にして緊迫感がほぐれ落ちて、フードの下で、ニヤリと瞳が、無気味なわらいをふくんだ。
「お金、さきにわたしてあげて」
男はテル代にいわれただけの金額を、運転手の掌ににぎらせた。
男が乗り込むと、すぐにぴったり、幌がとじられて、運転手は風雨にむかって、おもむろにペダルをふみはじめた。
幌をおろしたリンタクのなかは、息づまるような温気《うんき》であった。ふたりのレーンコートから蒸発する温気が、トルコ風呂のように、せまい幌のなかに満ちあふれる。
「あんた、マフラ、とりなさいよ」
テル代は男にからだをすりよせるようにして、甘い声で誘った。
「いや、これは、ホテルへついてから」
「あら、それじゃ、キスもできないじゃないの。どうしたのよう、そんなにしんねりむっつりしてちゃ、サーヴィスもできないじゃないの」
テル代は男の首に腕をまきつけた。
やがて、低い、甘い、テル代のふくみ笑いが、幌の外まで流れてきた。
「うっふふふ、いいわ、構わないわ。なにしてもいいわ。あんたの好きなようにしてちょうだい」
リンタクは風雨をついて、三原橋をわたっていく。
ホテルQは、東劇にちかい河岸ぷちにあり、二階建てではあるが、安っぽいバラック式の建物で、ペンキ塗りの外壁が、いやにケバケバしかった。
青い電燈のついた玄関を入ると、小さいホール。ホールの正面に、傾斜の急なせまい階段があり、ホールの一方には、銀行の窓口みたいなクロークがある。
ホールには、ほのぐらい電燈がただひとつ。
テル代がクロークと交渉しているあいだ、男は全身から、ポタポタと、滴をたらしながら、ホールの隅にたたずんでいる。
「そう、じゃ、二階の七号室ね」
交渉がすんで、鍵をうけとったテル代は、男のほうへやってくると、
「さあ、もう、いいのよ。いきましょう」
自分からさきに立って、せまい階段をのぼっていく。男もそのあとについてのぼっていった。
途中までのぼってきたとき、うえからおりてくる足音がきこえた。せまい階段では、すれちがうのがやっとである。
男はドキッとしたように足をとめたが、逃げ出すわけにはいかなかった。
おりてきたのは、用のすんだ男女である。女をさきに立てて、男があとからおりてくる。女同士はかるく会釈をかわしたが、男同士は顔をそむけた。
こういう場所では、男も女も、おたがいにセンサクしない習慣になっているらしい。レーンコートの男は、ほっとしたように、テル代のあとからのぼっていった。
七号室はホテルのいちばん背後にあたっており、外はすぐ掘割りに面している。
テル代はなかから、ドアに鍵をおろすと、
「さあ、お望みどおり、鍵のおりる部屋へきてよ」
と、クックッ笑いながら、レーンコートを脱ぎはじめた。
男はポケットに手をつっこんだまま、鋭い眼で、部屋のなかを見渡している。
隣室との境の板壁のそばに粗末なべッドがひとつ、うえに古ぼけた毛布が二、三枚、ほかには帽子かけが二つ三つ。まったく、用さえたせればそれでよいという素朴さが愉快である。
男は窓のそばへよると、シェードをあげて外をみた。
くらい掘割りのうえに、風にもまれた豪雨が、ともえとなってたたきつけている。掘割りとホテルのあいだに、せまい犬走りがついているらしい。
部屋のなかには、くさった泥溝のにおいがみちている。
「ちょっと、あんた、なにしてんのよう」
甘い、鼻にかかった女の声にふりかえると、テル代は全裸にちかい肉体を、惜しげもなく電燈のしたにさらして、べッドのはしに腰をおろしていた。
男の眼が、一瞬、キラキラもえあがった。
「おい」
男はマフラのおくから、低い、しゃがれた声をかけた。あいかわらず、窓のそばに立ったままである。
「なによ。どうしたのよう。なぜ、こっちへこないのよう」
テル代は鼻を鳴らして、ベッドのうえに仰向きに倒れた。男はごくりと唾をのみながら、それでも窓のそばからはなれずに、
「こんなうちでも、ときどき、警察が踏みこむことがあるんだろ」
「なんだ、そんなこと心配してたの。バカねえ。大丈夫だから、早くこっちへ来て」
「大丈夫だって、万一の場合はどうするのだ」
「いやなひと、あんた、ずいぶん心配性ねえ。そんな取越し苦労してると、早く年とるわよ。でも、そんなに心配ならいっとくわ。この部屋を出ると、右の突当りにはばかりがあるでしょ、そのはばかりの横に裏階段がある。そっちのほうは、いつもお眼こぼしということになってるのよ。さあ、それで安心したら、早くこっちへ来てよう」
一ヵ月以上も、男をはなれた生活をしてきたテル代の肉体は、商売気をはなれて、ある渇きにうずいている。その渇きは、男にもつよく訴えて、眼がギラギラあやしく血走ってきた。
しかし、それにもかかわらず、男は窓のそばをはなれなかった。
「まあ、いい、少し、話をしよう。それから抱いてやる。実は、ききたいことがあるんだ」
「いやねえ。じれったいひと。話なんて、あとでだってできるじゃないの」
「いいから、おきき。ほかじゃないがね。今から一ヵ月ほどまえのことだ。夜の七時ごろ、君、酔月という飲み屋にいたことがあるだろ」
テル代は、はじかれたように起きなおった。
「まあ!」
と、息をはずませて、
「それじゃ、あんた、あたしとあそぶつもりじゃなかったのね。それをきくために、あたしをここへつれてきたのね」
「そんなことはどうでもいい。それより……」
「あんた、新聞記者?」
「うんにゃ、おれはそんなものじゃない」
「ああ、わかった。それじゃ、もうひとりのひとなのね」
過去一ヵ月、しつこく、じぶんを探していたふたりの男。――ひとりは髭のないクラーク・ゲーブル。――とても金の切ればなれのいい男――ヒサちゃんが岡惚れしている男――ああ、いま、そこにマフラでおもてをつつんでいるのがその男ではあるまいか。……
テル代の胸は、急に、うれしさでふくれあがった。
「いいわ。あんたのいうことならなんでもきいてあげる。いったい、なにをききたいの」
男には、女がどうしてそう急に、じぶんに心をゆるしたのかわからなかった。なにか感ちがいしているらしいと思ったが、それはそれで、もっけのさいわいだった。
「あの晩、君は、酔月にいた客と、どこかへいってあそんだんだろ。ね、そうじゃない?」
「ううん、それ、ちがうわ」
ベッドのうえに腹這《はらば》いになったテル代は、上眼づかいに男を見ながら、かわるがわる脚をバタバタさせる。お臀《しり》の筋肉が、白い電燈のしたでクリクリ躍った。
「あたし、あのひととあそんだんじゃない。あたし、ただ、あのひとを尾行しただけ」
「尾行……?」
男は眼をみはって、
「君はまえから、あの男を知っていたのかい」
「ううん、そうじゃないの。あの晩、あったのがはじめてなの」
「それで、どうして尾行などしたのだい」
「マチ子さんにたのまれたのよ。マチ子さんがずうっとあの男を尾行してきたんだけど、相手に気づかれたらしいから、あたしにかわって尾行してくれというの。それで、あたし、三時間ほど、あとをつけたの」
「マチ子って誰だい」
「京橋にあるサンチャゴというダンス・ホールのダンサー。ナンバー・ワンよ。綺麗《きれい》なひと。あたし、ずっとせんに、世話になったことがあるの。それが偶然、あの晩、天賞堂のまえでバッタリ出会ったら、後生だから今晩ひと晩、あの男をつけてくれ……って。そして、その結果を、終電車まえの時刻に、有楽町のガード下で待ってるから、知らせてくれって……」
男の眼が不思議そうにまたたいた。
「マチ子という女はなぜまた、あの男を尾行していたんだ」
「なぜだか知らないわ。でも、そうそう、マチ子さん、へんなこといってたわ」
「変なことって、なんだい?」
「チャンスがあったら、その男の左の胸をみてくれというのよ。そこにね、大きな星型の疵跡《きずあと》があるはずだからって……」
「大きな、星型の疵跡……?」
「ええ、そう」
「どういう意味だい、それは……」
「知らないわ、そんなこと。だって、いちいち、きいてるひまなんかなかったんですもの。相手はずんずん、いっちまうしさ。見失っちゃいけないというので、マチ子さんとは、そこそこに別れて、男のあとをつけていったんです。そしたら、相手が酔月へ入ったので……」
「ふうむ、それで、君は、その晩じゅう、その男の尾行をつづけたのかい」
男の眼が、熱気をおびてギラギラとあやしくひかる。
「ううん、そうじゃないの。そうねえ。それでも二時間ぐらい尾行したかしら。でも、そんなことしてたら、ひとばん、しょうばいあがったりでしょ。と、いって、マチ子さんのてまえ、ほったらかしとくわけにもいかないしねえ。どうしようかと思ってたら、いいあんばいに、お京さんに出会ったの」
「お京さんて、誰だい?」
「あたしたちのお仲間よ、でも、ラク町のほうの組じゃないの。新橋のほうのひと」
「で、そのお京がどうしたんだい」
「わけを話して、あとを引受けてもらったの。お京さんもマチ子さんには義理があるから、いやとはいわなかったわ。すぐ引受けてくれた。それであたしは、あとをお京さんにまかせて、尾行はやめてしまったの」
男は黙ってかんがえていたが、
「なるほど、それで、そのふたりというのが、ラクダ色のオーヴァを着た女と、赤いターバンを巻いた女ということになるんだね」
「ええ、そう、さっきおチカにきかれて思い出したんだけど、たしかにあの晩、マチ子さんはラクダ色のオーヴァを着ていたし、お京さんは赤いターバンを巻いていた。五月にしては、陽気の少し、寒い晩だったわね」
「それで君は、何時ごろまで、その男を尾行していたんだい」
「そうねえ、九時ちょっと過ぎまでだったかしら。ああ、そうそう、お京さんにあとをまかせて、尾張町のPXのところまできたら、ちょうど九時半だったわ」
男は時間を計算するように、ちょっとかんがえていたが、
「お京という娘は、それからずうっと、その男の尾行をつづけたんだね」
「ええ、そう、なんでもしまいには、相手が尾行に気がついたらしく、グデングデンに酔っぱらって、お京さんにビールなんかおごって、乾杯したりしたんですって。お京さん、それで、無理矢理にその男をひっぱって、約束どおり、終電車のちょっとまえ、有楽町のガード下で、マチ子さんにひきわたしたという話よ」
「君はそれで……マチ子という娘にたのまれた、その男の、胸の疵跡というのを調べてみたのかい?」
「あたしにはそんなチャンスなかったわ。お京さんは調べたかも知れないけど……」
「いったい、その星型の疵というのは、どういう意味があるんだい」
「知らないわ。あたし。……そのことなら、マチ子さんにきいてごらんなさい」
男はだまって考えていたが、やがて、ふたつの瞳をギラギラかがやかせると、
「ところで、その男だがね。君たちが尾行したという男さ。その男がどういう男だか、君は知ってるんだろ」
窓際に立っているレーンコートの男は、テル代のほうを覗きこむようにした。
窓の外には風雨がますますはげしくなった。
テル代はべッドのうえから半身起すと、煙草をいっぽん吸いつけて、
「ええ、知ってるわ」
と、しごく無雑作にいいはなって、フーッと、煙草の煙を吐き出すと、
「あのひと、なんとかいう小説家なんですってね。でも、その晩は知らなかったのよ。マチ子さんが、なにもいわなかったんですもの」
「うん、しかし、のちになってあの男の名前がわかったんだね」
「ええ、そのつぎの晩、マチ子さんが夕刊を読んでとんで来たのよ。あたしも夕刊読んでたけど、ちっとも気がつかなかった。だって、夕刊にのってる写真、ちっとも似てやあしないんだもの」
「それじゃ君は、あの男が、どういう立場になっているか、知っていたんだね」
「ええ、そりゃ……マチ子さんが話してくれたから……」
「それで、君たち、どうしたの」
「あたしたち、すぐ新橋へいって、お京さんを呼び出して話しあってみたの。お京さんも夕刊を読みながら、やっぱりあたしと同じように、昨夜の男とは気がつかなかったって、びっくりしてたわ」
「それで、三人話しあって、どういうことになったんだい」
テル代はケロリとして、
「むろん、新聞に書いてあること間違いだったのよ。あのひとが、奥さんを殺したなんて、とんでもない。だって、あの晩、ひと晩じゅう、マチ子さんとあたしとお京さんが、かわるがわる、あのひとを尾行してたんですもの。お京さんも、絶対にそんなことない。あのひとは、ぐでんぐでんに酔っぱらってたけど、キャバレー・レッド・ミルへなんか、絶対にいかなかったといってたわ。もっとも、あたしが尾行しているあいだに、あのひと、フラフラとレッド・ミルへ入ったけど、時間も早かったし、それにあたしがちゃんと見ていたんですもの。人殺しをしたなんて、そんなこと絶対にないわ」
レーンコートの男の眼が、脂を吹いたようにギラギラ光った。
「それだのに、君たち、どうして、そのことを、警察へとどけて出なかったんだ」
テル代は咽喉の奥でクックッ笑うと、
「だって、かかりあいになるの、いやだったんですもの。そんなこと、とどけて出れば、なんべんもなんべんも、警察へ呼び出されるでしょ。おまけに新聞に書かれたり……だから、お京さんが一番にいやだといい出したの。あたしもそれに賛成したのよ。マチ子さんは、ちょっと困ったような様子だったけど、あたしたちが承知しないものだから、じゃ、もう少し様子をみていようと、その晩、別れたきり、あたしは田舎へつれていかれて……だから、そのあとどうなったか、ちっとも知らないのよ。悪かったかしら」
ちょうどその頃、風雨をついて、三原橋をわたって、こちらへ急ぐ二人づれがあった。田代皓三と美代である。
「悪かったかしらはないわねえ。悪いにきまってるわねえ。ふふふ、悪かったらあやまるわ」
テル代は、レーンコートの男を誤解しているのである。
自分が田舎へいってるあいだ、しつこく自分のことを聞きに来たという二人の男、ひとりは西沢という新聞記者だと、名前もはっきりわかっているが、もうひとりの人物は、どこの誰ともわかっていない。
名前はわかっていないが、たいへんいい男振りで、金離れも悪くない。よほど金まわりのいい男にちがいないと、さっきガード下で客を待っているあいだに、テル代はさんざん、おヒサという女からきかされたのである。
「テルちゃん、あんたがかえってきたら、いまにきっとあのひとが、やってくるにちがいないわ。そしたら、絶対にはなしちゃダメよ。腕によりかけて、なんとかすんのよ。髭のないクラーク・ゲーブル、いや味がなくて、キビキビしていて、そりゃあ素敵な男よ」
リラの女たちが、髭のないクラーク・ゲーブルとよんでいるのは、田代皓三のことである。
テル代はいま眼のまえに立っている男を、田代皓三だと早合点した。そして、これは間違いではなかったのだが、女の直感から、かくも熱心に自分をさがすその男は、てっきり風間の友人で、風間のために、自分をさがしているのだと知っていた。
ただ、不幸にも、その男と、いま眼のまえに立っている男とは別人であり、風間の敵にも、自分をさがさねばならぬ理由のあることを、哀れなテル代は、気がついていなかったのである。
テル代は全身に媚びをたたえながら、
「悪かったら、あたし、その埋合せにいいことを教えてあげる。あの晩、あの小説家を尾行してたの、あたしたちばっかりじゃなかったのよ。もうひとり、あたしたちのほかに、小説家を尾行してたやつがあったのよ」
男の眼が、フードの下で、急に大きくみひらかれた。何かしら、殺気に似た、熱っぽいものがギラギラうかんだ。
テル代はしかし、それに気がつかず、
「あの晩、小説家は喫茶店から電話をかけたのよ。なんでもひとの奥さんらしかった。きっと、小説家の恋人なのね。ふふふ、でも、その恋人のほうがとしがうえなんじゃないかしら。そんなふうにきこえたわ。だって、小説家ったら、子供のようにダダをこねてるのよ。甘えたりなんかしてね。ところがそこへ、外から入って来た男があるの。その男は電話室のなかの小説家を見ると、ギョッとして立止ったのよ。それから、そっと、電話室のそばのテーブルに腰をおろすと、じっと小説家の電話にききみみ立てているの」
嵐はますますつのって来る。その嵐をついて、皓三と美代が、やっとホテルQの表まで駆着けた。
十一
「君は、その男を、よくおぼえているかい」
レーンコートの男がたずねた。何かが咽喉にひっかかっているような、妙にへしゃげた声だった。
「ええ、よくおぼえてるわ。でも、顔はまるで見えなかったのよ。だって、鼠色のスプリングの襟《えり》を立て、ともぎれの鳥打をまぶかにかぶって、おまけに大きな黒眼鏡かけてんですもの。でも、こんどそのひとに会ったら、すぐわかると思うわ。からだつきやなんかで……」
「その男が、小説家を尾行してたというんだね」
「あら、そうじゃないのよ。喫茶店であったのは、偶然らしいのよ。だって、電話室のなかの小説家を見たとき、ひどくびっくりしたらしい様子だったんですもの。ところが、そのあと、どういうわけでか、小説家の尾行をはじめたのよ。ええ、そう、あたし、その男に気をとられてたから、そのあと、電話がどうなったのか知らないけど、間もなく、小説家は電話室からとび出すと、すぐ外へ出ていったの。すると、その男も急に立上って……あたしは気づかれないように、いちばんあとから出ていったのよ」
レーンコートの男の眼に、ふかい驚きのいろがうかんだのを見ると、テル代はいかにも満足そうに、
「だから、あの晩、小説家のあとを、その男とあたしのふたりが、べつべつに尾行してたわけね。その男が、いつごろまで尾行してたか、はっきりおぼえてないけど、レッド・ミルへいったときは、まだたしかに尾行してたわ。そうそう、殺された小説家の奥さんのそばに、シガレット・ケースが落ちてたという話ね。あのシガレット・ケースは小説家が、そのとき忘れていったものなのよ。ええ、それだけはハッキリいえる。だって、小説家が出ていったあとに、シガレット・ケースがのこっていたんですもの。だから、あたし、小説家がそれをとりに、引返して来やあしないかと、しばらくあとを追うのをためらったんですもの。だけど、小説家がかえってきそうにないので、あわててあとを追っかけていったのよ」
レーンコートの男の息づかいが、急にあらあらしくなってきた。やけつくような視線で、女の裸身をみつめながら、
「君は……その話を、誰かにしたの」
「ええ、マチ子さんやお京さんに話したわ。あのシガレット・ケースは、きっと黒眼鏡の男が、あとで手に入れたのよ。そして、それを使って、小説家を罪におとそうとしたにちがいないわ。だから、小説家の奥さんを殺したのは、きっとあの男だと思うわ」
レーンコートの男はべッドのそばへよって来ると、パチッと電気のスイッチをひねった。
「あら、あんた、どうしたのよう、レーンコートぬぎなさいよ」
甘い鼻にかかった女の声のあとで、ベッドがはげしくきしり、やがてすすり泣くような女の呻《うめ》き声《ごえ》がきこえた。
雨と風が、はげしく裏の窓をうつ。
十二
「ああ、よかった。やっと突きとめたわ。やっぱりここなの」
クロークをはなれた美代が、眼をかがやかせて、ホールの隅に立っている皓三のほうへやって来た。
ホテルQの玄関先き。ガラス戸の外には、滝のように雨が落ちている。
「ああ、いたのかい」
皓三もほっとした顔色である。急に緊張がほぐれて、がっかりしたような様子だった。
「ええ、二階の七号室……あたし、ちょっといってみるわ」
「いいのかい、客といっしょに寝てるんだろ」
「ええ、だから、ちょっとあんたのことを通じとくだけ、せっかくここまで追っかけて来ながら、うっかり裏口から帰られでもしちゃつまらないもん。ちょっと待ってて」
美代が階段に足をかけたとき二階の七号室に電気がついた。
しらじらとした電気の下に、惜しげもなく裸身をさらして、テル代がべッドのうえに横たわっている。
眼を大きく見開いているが、瞳はある一点を凝視したまま動かなかった。半開きになった唇から、くろずんだ舌がのぞいている。咽喉のまわりに無残な指のあと。
レーンコートの男は、ギラギラと血走った兇暴な眼で、しだいに冷えていく女の裸身を見詰めていたが、やがて、注意ぶかい眼で、部屋のなかを見まわした。何か忘れものはないか、という顔色なのだ。
そのとき、忙がしく階段を駆けのぼる足音がきこえて来た。
レーンコートの男は、ぎょっとしたように息をのむと、手袋をはめた手で、あわてて電気のスイッチをひねった。
足音は階段を駆けのぼると、七号室のまえまで来てとまった。
コツコツとドアをノックしながら、
「テルちゃん、テルちゃん、いて?」
美代の声なのである。
レーンコートの男は、べッドのそばに立ちすくんでいる。
「テルちゃん、あたしよ。美代よ、ちょっと顔をかして……」
そのとき急に、暗闇のなかから、はげしくべッドのきしる音と、あらっぽい、男の息づかいがきこえた。
「あら!」
と、美代はこごえで叫んで、
「それじゃあね、テルちゃん、あたし階下《した》のホールで待ってるから、用がすんだら顔をかしてね、きっとよ」
美代の足音が階段の下へ消えるのを待って、レーンコートの男は手さぐりで、毛布をテル代のからだに着せると、そっとドアの外へ出て、さっきテル代からきいた、裏階段のほうへ急いでいった。
十三
「テルちゃん、遅いわねえ、どうしたんでしょ」
「泊るつもりじゃないのかい」
「いいえ、たしかショートタイムのはずよ。でも、もういちど聞いてみるわ」
あれからもう三十分はたっている。そのあいだに三組ばかりの出入りがあったのに、テル代とその客はまだおりてこない。
こんなところで、夜の女の用をすませて、おりてくるのを待っている自分が、皓三にはなんだかバカらしいような、くすぐったいような気持ちだった。
雨はさっきからみると、だいぶ小降りになっていた。
「やっぱりそう。あたしもういちど様子をみてくる」
美代は階段を駆けあがっていったが、しばらくすると、足音をしのぶようにしておりてきた。瞳が宙にういていた。
「あんた、ちょっときて」
あたりをはばかるような声がふるえていた。皓三はドキッとした。
「ど、どうかしたのかい」
「しっ、黙って……あたしといっしょに来て」
皓三は美代のあとからついていった。七号室のまえまでくると、
「ドアをノックしてると、しぜんにうちへひらいたのよ。そいでなかへ入って、スイッチをひねると……」
美代は皓三を部屋のなかへみちびいた。そして、注意ぶかく、うしろのドアをしめると、
「ほら、あのとおりよ。テル代、殺されたんじゃない?」
べッドのうえには、腰まで毛布をまとったテル代の裸身があった。
その白い咽喉のあたりに印せられた、なまなましい指の跡をみると、皓三は脳天から、大きな楔《くさび》をぶちこまれたようなかんじだった。
一瞬、棒をのんだように立ちすくんだが、すぐ、つかつかとべッドのそばへよって、テル代の胸に手をあてた。それから、そっと頭をもたげたが、すぐ、それをおろすと、軽く首を左右にふった。
「ダメ……なの?」
「うん」
皓三は大きくうなずいて、
「首の骨が折れている」
美代は叫び出しそうになるのを、あわてて口に手をあてた。
「さっき、君がノックしたときには、たしかに男の気配がしていたんだね」
「ええ。……でも、いまから考えると変だったわ。たしかに電気がついてると思ったのに、あたしが階段のうえへきたとたん、ふいと消えた。そしてドアをノックすると、急にべッドがきしり出して……テルちゃん、あのときはもう殺されていたのね。そして、犯人が逃げ出そうとしてたところだったのね」
美代はくやしそうに、ポロポロ涙をこぼして泣き出した。
十四
パンパン殺し。……それは珍しいことではない。戦後、いくどかそういう事件が、新聞紙上で報道されている。
しかし、この事件は、そういう単純なパンパン殺しのひとつであろうか。それにしては、あまり深刻な偶然ではないか。
ひと月あまり探しもとめて、やっと突止めた、キャバレー・レッド・ミル事件の重大な証人。――
それが、たったひとあしちがいで殺されるというのが、偶然と考えられてよいだろうか。そこには風間のアリバイを抹殺しようという、兇悪な犯人の意志がはたらいているのではあるまいか。
皓三ははげしく身ぶるいをした。身ぶるいをすると同時に、湧然と闘志のたぎり立つのをおぼえた。
何か、犯人の遺留品はないか――部屋のなかを見まわしたが何もなかった。
ただ、ポタポタと床にたれている滴から、犯人がレーンコートを着ていたらしいことがわかった。その滴はドアを出ると、裏階段のほうへつづいていた。
いまから追っかけてももうおそい。犯人は半時間もまえに仕事をおわって、ゆうゆうと立去っているのである。
皓三はあきらめて、美代のもとへかえってくると、
「美代ちゃん」
「うん?」
「おれはここで、警官と顔を合せちゃ、ちとまずいことがあるんだ。このままかえる。君、あとひきうけてくれるかい」
美代は力強くうなずいた。
「有難い。それからね、警官にたずねられても、できるだけおれのことは伏せておいてくれ。今夜、はじめて会った客だというように」
美代はまた、けなげにうなずいた。涙は乾いて、美代の眼にも野性的な闘志がひかっていた。
「それから連絡場所だがね、いままでのところじゃぐあいが悪い。おれ、ほかへ、場所をうつす。場所をうつしたら、君に知らせるから、なにかあったら、いままでどおり、すかさず知らせてくれるんだぜ」
美代はまた、力強くうなずいた。
「よし、じゃ……」
皓三が部厚な札束を出して握らせようとするのを、美代は力強く押しかえして、
「いらん、あたし、金のために働いてんじゃない」
「え?」
「抱いて……キスして……」
美代の眼がらんらんとかがやいている。皓三はびっくりして、美代の顔を見つめていたが、相手の気魄《きはく》にのまれたように、つと肩をだいて、額にキスをしてやった。それから逃げるように、裏階段をおりていった。
美代は失望したように、しばらくそこに立っていたが、やがて、ころがるように表の階段をおりていった。
「人殺しよう、誰か来てえ!」
金切り声をあげながら。……
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[#小見出し]  第十七号調室
キャバレー・レッド・ミル事件をたんとうしている、第十七号調室主任の小田切警部補が、捜査一課長によばれて、課長室へはいっていくと、同僚の仁科警部補がさきにきて、課長となにか話しているところだった。
仁科警部補は、第二十八号調室主任である。
「何か御用ですか」
「うん、まあ、掛けたまえ」
と、課長はまえの椅子を指さして、
「実は、君のほうの事件だがね、その後、どうだね、捜査の模様は……?」
「さあ……」
と、小田切警部補は渋面をつくって、
「そいつがなかなか、進展しないんで弱ってるんです。なにしろ、肝腎《かんじん》の風間啓介――こいつがなんといっても、目下、いちばん重大な容疑者なんですが――そのゆくえがいまもってつかめない。こいつの居所さえわかれば、事件は急転直下、解決すると思うんですがね」
「田代という男が、かくまっているという見込みなんだね」
「そうなんです。それで、都内で田代姓を名乗る人物を、虱潰《しらみつぶ》しに調べていったんですが、やっとそれらしい男にぶつかったんですが……」
「それらしい人物というのは?」
「赤坂にある東洋ビルというビルディングに、田代商事会社という事務所を持っている男ですがね。海軍くずれの、アルコールのヤミ・ブローカーをやってる男で、名前は皓三、だいたい、こいつらしいという目星はついたんですが、肝腎の当人が、また、ゆくえをくらましているんです」
「赤坂の東洋ビルに事務所を持っている男なんだね。で、自宅は?」
「自宅は小田急沿線の経堂にあるんですが、かなり豪勢な邸宅で、むろん、戦後、ヤミで儲《もう》けた金で買ったものでしょうがね」
「自宅のほうにも寄りつかないのかい」
「ここ三週間ほどかえらんそうです。田代という男はまだ独身で、伯母と妹、ほかに居候だか、用心棒だかわからんやつが三人いるんですが、妙なことには、妹というのがひと月ほどまえから家にいないんです」
「と、いうと……?」
「と、いうことは、風間啓介にその妹をつけて、どこかへかくまってあるんじゃないかとも思われるんです。妹というのは由紀子といって、戸籍調べでみると、今年二十二歳ですがね」
課長はしばらく考えていたが、やがてデスクの上に体を乗出すと、
「ねえ、小田切君、君の努力には敬意を払うよ。田代の線から、あくまで風間啓介の居所を突きとめようとする努力は尊敬するよ。ところが、ここにひとつ、妙な線がうかびあがってきたので、そのことで、君とひとつ相談しようと思ってね」
捜査一課長は、部下を働かせるコツを心得ている。ひとを働かせるには、できるだけ相手の自信と自尊心をきずつけないことだ。
小田切警部補は、キャバレー・レッド・ミル事件の捜査が暗礁に乗りあげているので、いささか焦躁《しようそう》の気味である。
何か適当な助言をあたえなければならぬ時期にきているが、それには、相手の自尊心をきずつけないように、気をつけなければならなかった。
「妙な線というと……?」
「君、西沢という男をどう思う?」
「西沢……?」
小田切警部補は、ピクリと肩をふるわせて、
「あの男がどうかしましたか」
「実はね、妙な事件にあの男がひっかかってきたんだよ。いまのところ、それがどういう意味をもっているかよくわからないんだが、ひょっとすると、君のほうの事件に、なにか関係がありゃせんかということになったんだがね」
「どういう事件ですか、それは……?」
「仁科君のほうの事件だがね。仁科君、君から話したらどうだ」
「そうですか。じゃ、ぼくが話しましょう」
仁科警部補は、小田切警部補のほうにむきなおると、
「ぼくのほうはパンパン殺しだがね。一昨日の晩、築地のホテルQというパンパン宿で、パンパンがひとり絞殺されたんだ。それから、同じ晩に、日比谷公園のなかで、同じくパンパンがひとり、何かこう、鈍器のようなもので、頭蓋骨を粉砕されて殺されているのが発見された。このふたつの事件に、何か関連性がありそうに思えたので、両方ともぼくが担当することにしたんだがね。それというのがふたりとも、ラク町のリラという喫茶店を根城にしている女だし、それにふたりが殺されたと思われる時刻の前後に、かれらを目撃したという人物の証言によると、たしかに同一人物と思われる男といっしょだったというんだ」
「なるほど、それが西沢と……?」
「いや、まあ、待ちたまえ。いま話す。それで、ホテルQで殺されたのはテル代、日比谷公園で殺されたのはおチカというんだが、このふたりの身辺をあらっていくうちに、うかびあがってきたのが、東都新聞社の西沢なる人物なんだ。西沢はここひと月ほど、毎日のようにリラへ現れて、テル代という女のゆくえをきいていたそうだ」
「西沢がパンパンのゆくえを……?」
「そうなんだ。どういうわけであの男が、テル代という女に、それほどの興味をもっていたのかわからんが、とにかく、ここひと月ほど、実に熱心に、リラへ日参したもんだというんだ。それでよくよく調べてみると、西沢がリラへ現れはじめたのは、ちょうどキャバレー・レッド・ミルの事件があってから、四、五日のちのころからだというんだがね」
「西沢がなぜ、パンパンなどを……」
小田切警部補はまだ釈然としない顔色だった。
課長はおだやかに微笑して、
「それはまだよくわからない。しかし、いま仁科君がいったように、キャバレー・レッド・ミル事件の直後に、西沢がそういう行動を起しているとすると、そこに何か意味がありはせんかと思うのだ。なにしろ、テル代をさがす西沢の熱心さときたら、ひととおりや、ふたとおりのものじゃなかったというんだからね」
「それじゃ、テル代という女は、しばらくいなかったんですか」
「そうなんだよ」
と、仁科警部補がひきとって、
「しばらく田舎へいってたんだそうだ。それがまた妙で、キャバレー・レッド・ミルであの事件があった翌日、突如、すがたをくらまして、一昨日の晩まで、だれもそのゆくえを知らなかったんだそうだ。それが、一昨日の晩、ひょっこりかえってきたかと思うと、二時間もたたぬうちに、死体となって発見されているんだ。こうなってくると、テル代のゆくえをさがしていた、西沢という男の行動にも、何か曰くがありそうじゃないか」
小田切警部補は強く唇をかんだ。
「西沢という男には、事件当時、二、三日尾行をつけてみたんですがね。べつに怪しいところもないので撤回したんだが……もうしばらく、尾行をつけておくべきだったかも知れませんね」
「そりゃアまあいいさ」
と課長はなぐさめるように、
「ああもすればよかった、こうもすればよかったというのは、あとになっていえることで、なかなかそうはいかんものだからね。ところで……仁科君、さきを話したまえ」
「はあ。それで西沢も西沢だが、ここにもうひとり、テル代のいどころをききに、二、三回リラへやってきた男があるというのだ。リラの女たちにいわせると、髭のないクラーク・ゲーブル、ちょっといい男だそうだ。課長さんの印象じゃ、そりゃア田代という男じゃないかとおっしゃるんだが……」
「いや、いや」
と課長はすばやく遮《さえぎ》って、
「印象で結論をくだしちゃいかん。しかし、どちらにしてもこのふたつの事件、キャバレー・レッド・ミルの事件とパンパン殺し、この捜査はいっぽんにまとめたほうがよくはないかと思うんだ。間違ってたら、またふたつにわけるとしてだね。そこでいままでのいきがかりもあるから、全部、小田切君にやってもらいたいんだが、どうだね、小田切君。いちど西沢という男を、参考人として呼出してみたら。……」
第十七号調室、捜査一課、小田切警部補――
警視庁の正面玄関を入って、一階の右側廊下、そこにズラリとならんだ調室のなかから、そういうネーム・プレートのかかったドアを見出したとき、さすがにずうずうしい西沢も、いくらか不安におののいていた。
さっき警視庁の記者溜りにいる、東都新聞社の同僚から電話がかかって、捜査一課の小田切警部補が、何か君にききたいことがあるそうだから、すぐいってやれといってきたとき、西沢は来たなと胸がおどった。
テル代が殺されたことはリラでもきいたし、新聞でも読んでいた。
西沢はちょっと茫然《ぼうぜん》たるかたちだった。いったい、なんと判断してよいのか迷った。
キャバレー・レッド・ミル事件とは別に、たまたまこういう事件が起ったのか、いやいや、それでは偶然が深刻すぎる。
西沢もまた、田代皓三と同じように、加奈子殺しの犯人が、風間啓介のアリバイを抹殺《まつさつ》するために、演じた兇行ではないかと疑った。
西沢にとっては、それは非常に恐ろしいことであった。
西沢はいつぞやの指紋しらべから、ひそかにある人物を疑っている。その人物がパンパン殺しをやってのけたと考えることは、西沢にとってはあまりにも恐ろしいことだった。……
「やあ、いらっしゃい。わざわざお呼立してすみません。さ、どうぞ、そこへおかけください」
小田切警部補はひどく愛想がよかった。西沢にはかえってそれが気味悪かった。
調室のなかを見まわすと、部長刑事らしいのがひとり、刑事がふたりいる。
ふつう直接取調べにあたるのは、部長刑事で、主任はおりおり口を出すだけだときいていたが、今日は主任みずから取調べにあたるつもりらしく、西沢は小田切警部補の真正面にすわらされた。
小田切警部補の意気込みや、察するにあまりありである。
「さっき、社の須藤君から電話がかかったものですから……」
「ああ、そう、いちいち手続きをふむのは面倒だから、日頃のお馴染みがいに、須藤君にお願いしたんです。実はちょっとお訊ねしたいことがありましてね」
「はあ。……」
「答えたくなければ、答えなくてもいいのですよ。しかし、腹蔵なく話してもらったほうが、今後なにかにつけて便利ですからな」
小田切警部補はきまり文句をいって、
「で、お訊ねしたいというのは、テル代という女のことですがね、テル代、ラク町のパンパンですがね。御存じですか」
「ええ、知ってます。但し、名前だけですがね。会ったことはいちどもありません」
西沢は平然といってのけた。それから急にからだを乗出した。
「ねえ、主任さん、あなたのおっしゃりたいことはよくわかってますよ。一昨日の晩、テル代というパン助が殺された。それでだんだん調べていくうちに、西沢という男が過去一ヵ月、毎日のように喫茶店リラへ、テル代のことをききにきたということがわかった。ところがその西沢たるや、キャバレー・レッド・ミル事件の西沢と同一人物である。してみると、テル代殺しも、キャバレー・レッド・ミル事件の一環として、演じられた兇行ではあるまいか……あなたのおっしゃりたいのはそのことなんでしょう」
西沢は肚をすえて一気にまくし立てた。小田切主任は先手をとられて苦笑しながら、
「いや、そう先まわりをしちゃいけません」
「それからもうひとつ、あなたのおっしゃりたいのはこうでしょう。西沢という男が、キャバレー・レッド・ミルの事件について、なにか知っているのなら、なぜ警視庁へ申出ないのだ。黙ってこそこそ暗躍するとは怪しからんやつだ。……と、こうもおっしゃりたいのでしょう。それについちゃ、ぼく、あやまります。つい、億劫《おつくう》だったものだから。……それに、ぼくも新聞記者でさ。警視庁を出しぬいて、特種にしたいって肚もあったんです。それ以外に他意はなかったんですよ」
「それじゃ、テル代という女が、なにかキャバレー・レッド・ミル事件に、関係があったんですか」
「だろうと思います。たしかなことは、ぼくにもわからないんですが、田代という男の行動から、ぼくはそうにらんだのです」
「田代?」
と、小田切主任は眼をいからせて、
「君はその後、田代にあったのか」
「会いましたよ。いや、会ったというよりとっつかまったんでさ。数寄屋橋のうえで、ピストルをつきつけられて……いや、いい恥さらしでした」
西沢はそこで、田代に脅迫された前後の模様を語ってきかせると、
「そういうわけで、田代という男が、テル代というパンパンを、さがしていることを知ったものだから、ひとつ出しぬいてやれという気になって……」
「それじゃ、テル代という女が、風間氏のアリバイを知っていたというんですね」
「じゃないかと思うんです。それで犯人のために殺された……と、いうのがぼくの推理なんです。ところで、田代という男がさがしていたのは、テル代のほかにもうふたり、ラクダ色のオーヴァを着た女と、赤いターバンを巻いた女というのがあるんですが、テル代が死んじまっちゃ、それが誰だか、わからなくなっちまった。そこで、問題は、ひょっとすると犯人は、テル代の口から、それをきいてるかも知れんのです。すると、ここにもうふたり、犯人に狙われる女があるということになるんですがね」
小田切主任は、すっかり煙にまかれたかたちである。
参考人聴取書に署名捺印して、第十七号調室をとび出した西沢の顔には、奇妙なうす笑いの影がうかんでいた。
今度こそ西沢は、なにもかも洗いざらい、主任のまえにさらけ出したか。――いや、そうではなかった。いちばん肝腎な指紋のことを、西沢はまだ、じぶんひとりの胸にたたんでいる。
西沢は三人の女よりという署名のある密告状を、読んだ人物を知っている。ひょっとするとそのひとが、犯人ではないかと疑っている。ところが一昨夜のあの事件だ。
テル代が殺されたと聞いたとき、西沢は脳天から楔をぶちこまれたように、強いショックをかんじた。何んともいえぬ恐ろしさが、肚の底からふきあげた。しばらくふるえがとまらなかったくらいである。
西沢の考えているその人物とパンパン殺し――それはあまりにもかけ離れている。やはり自分の考えは間違っていたのか。その人は三人の女からの手紙を読んだ。これはもう疑いもない事実である。しかも、その手紙の内容を発表することを控えている。いや、手紙を握りつぶしたのである。
しかし、それは、啓介に対する、単なる反感――つまり、西沢自身と同様に――からであって、それをもって、ただちにその人を、犯人と断定するのは、いきすぎだったのではあるまいか。
しかし、西沢にはその人[#「その人」に傍点]をそう簡単に、白と思いきってしまえない何物かがあった。
人は見かけによらぬものという言葉以上に、何かしら西沢の心の底に、ドスぐろい疑いの尾をひく何物かがあった。
西沢は社へかえると、忙しそうな編集室のデスクにむかって、しばらく煙草を吹かしていたが、やがて、思いついたように誠也のもとへ電話をかけた。
そして、テル代殺しから、さっき警視庁へよび出されたてんまつを、簡単に報告すると、そのつぎには吉祥寺にある瀬川家を呼び出した。
電話のむこうへ春代が出た。
「ああ、瀬川さんの奥さんですか。こちら東都新聞の西沢です」
「あら西沢さん。しばらくお眼にかからないけれど、その後、何かかわったことはなくって?」
「それなんですよ。実は、ちょっと妙なことがあって、ぜひお耳に入れておきたいと思うのですが、電話ではちょっと……」
「あら、そう、それじゃうちへいらっしゃいな。いまからすぐこない? いま、ちょうど泰子さんも来ているのよ、あのひとにも、ついでにお話しておいたらどうなの」
「そうですか。それは好都合です。じゃ、すぐお伺いしますが、先生はまだ……?」
「瀬川? 瀬川はまだかえらないわ。あのひと、ちかごろ、毎晩おそいんですもの。瀬川がいなきゃいけないの」
「いや、そ、そういうわけじゃないんですが、じゃ、すぐお伺いします」
西沢は電話を切ってなにか考えていた。
「電話どちらから……?」
電話のなかに、じぶんの名前が出たようなので、泰子は不思議そうに、茶の間からかえって来た春代の顔をふりかえった。
「西沢さんからよ」
「西沢さん?」
「ええ、そう」
と、春代は泰子のまえに来てすわると、
「何かあったらしいのよ。それで報告にくるといってるんですけど、あなた、ゆっくりしていってもいいんでしょう」
「さあ、そういうわけにもいかないんですけど……」
「いいじゃないの。たまには那須さんに、ひとりで御飯たべさせてあげなさいよ。ところで、どうなの。那須さんの御機嫌は?」
「相変らずよ」
泰子は沈んだ調子で、
「いつも、むっつりとして、めったに口も利かないわ。それにお酒が強くなって……」
「那須さんも、お酒、召上がるの?」
「ええ。……ウィスキーだから世話はやけないけど。……ときどき、書斎で飲んでるらしいのよ」
「そうお」
春代は考えこんだ顔色になって、
「でも、お宅なんか、うちで飲むんだからいいわ。うちなんか、ちかごろ毎晩おそいのよ。それに、いつも酒臭い息をして……ほんとに、いやんなっちゃうわ」
泰子は慰める言葉もなくて、無言のまま、膝のうえでハンケチをいじくっている。
毎年、夏痩《なつや》せをするたちだが、それが今年ははやく来て、しょんぼり肩がおちている。それに反して春代はまた、ちかごろ少し肥り気味で、膝のあたりなど盛りあがっていた。
「そりゃアね、無理もないのよ。なにしろ、恐ろしい金詰まりでしょ。商売のほうも思わしくないから、くさくさするのも無理はないと思うんだけど、少しはこっちの身にもなってもらいたいと思うわ。それにねえ、つきあうひとたちがいやなのよ。ヤミブローカーみたいな連中ばかりでねえ。商売柄、それも仕方がないと思うんだけど、こっちまで柄が悪くなるような気がしてねえ」
春代の愚痴をきいていると、きりがないので、
「それで、あの、御用とおっしゃるのは……?」
と泰子のほうからきり出した。
泰子は今日、ちょっと話したいことがあるからという、春代の電話でやって来たのである。
「そうそう、そのことよ。実はね、ちょっと困ったことがあるのよ。ほら、あたしが取りついでた手紙ねえ。啓介さんからあなたにあてた……あれを、瀬川が読んだらしいのよ。それで、変に誤解しているらしいの。あたし、困っちゃった」
泰子はまあと眼をみはった。
「先生、そのことで何かおっしゃいましたの」
泰子の声はふるえていた。
相手が瀬川にしろ、誰にしろ、あんな手紙をひとに読まれるのは困るのである。
むろん、それは泰子の知ったことではなかった。啓介がかってに書いた手紙である。ひょっとすると、春代がたきつけたのかも知れない。泰子はかえって、いつもそれを迷惑にかんじていたくらいである。
いまさらになって、そんなめめしいラヴ・レターみたいなものを書く啓介も啓介だが、それを取次ぐ春代も春代だと、泰子は腹の立つことさえあった。
しかし、それかといって、そういう手紙を、ひとに見られた場合、わたしは知らぬですむことではなかった。ましてや、省吾がそれについて、何か誤解しているらしいとあっては、泰子は不安に、胸をおどらせずにはいられなかった。
「いいえ、なにもいやアしないわ。いわないだけに癪なのよ。向うから何か切出せば、こっちにも弁解のしようもあるんだけど、黙って胸におさめているだけに困るのよ。あんなことで疑われちゃ、あたしも立つ瀬がないわ」
「まあ!」
泰子はおどろきの眼をみはって、
「奥さまを疑っていらっしゃるんですって」
「じゃないかと思うのよ。でなきゃ、何かいうはずよ。それをいわないところをみると、きっとわたしを疑ってるのよ」
「疑るって、どういうふうに……?」
「つまり、手紙の相手をあたしだと思ってるらしいのよ。まあ、聞いてちょうだい。こうなのよ。ちかごろ、瀬川の様子がどうもおかしいから、何かあるんじゃないかと思って、あのひとのデスクのひき出しをさがしたのよ。そしたら、ひき出しのいちばん底から出てきたのが、啓介さんからあたしに当てた手紙なのよ。あたし、どきっとしたわ。みると封が切ってあるから、あわててなかを調べてみたんだけど、なかみはないの。からっぽなのよ。あたし、わけがわからなくて、しばらくポカンとしていたけど、やっとだんだん、わけがわかってきて……腹が立ってたまらなかったわ。ほら、啓介さんの手紙、いつも差出人の名前も宛名も書いてないわね。あれ、那須さんに見つかったときの用心に、啓介さんがわざとそうしていたらしいんだけど、その代り、何も知らないひとが、封を切ると、あたしにあてた手紙に見えるわね。だって、上書にはちゃんとあたしの名前が書いてあるんですもの。まさか、あたしが改めて、あたしの名前でなかみだけ、あなたに回送するとは知らないでしょうからね。あたし、ほんとに困っちまうわ」
「そして、それ、いつごろのことですの」
「日附けをみると、四月十八日になっているわ。きっと瀬川、おこって手紙のほうはズタズタに破っちまったんでしょうが、封筒だけは何かの証拠にと思って、とっておいたんでしょう。困ったわ。あたし、ほんとに困ってしまうわ」
身から出た錆なのである。事を好む春代のよけいなおせっかいが、いつか自分の身にむくいてきたのだ。天にむかって吐いた唾が、顔のうえに落ちてきたようなものである。
勝手に苦しむがいい。
と、いってしまえばそれまでだが、泰子の気性として、そう冷淡につっぱなしてしまうこともできなかった。
「奥さま、それで、どうなさいますおつもりですの」
泰子にきかれて、春代は駄々児のようにからだをゆすりながら、
「どうするって、あたし、困っちまうわ」
ひとのことだと、面白半分に、ずいぶんよけいな智慧《ちえ》も出る春代だが、いざ、火の粉がじぶんの身にふりかかってくるとなると、から意気地がなくて、子供のようにたあいがなかった。
「瀬川がちかごろ、毎晩のようにおそいのは、商売のほうが面白くなくて、それでくさくさしてるんだと思ったのよ。だけど、あの手紙を読んだとすると、変な誤解も手伝ってるんじゃないかと、それが心配なの。根も葉もないことで疑われてるあたしもいやだし、そんなことで苦しんでるのかと思うと、瀬川も気の毒ですしねえ」
春代はわざとらしく溜息をついて、
「それで……あなたにはすまないんだけど、いっそ、ほんとのことを打明けたらどうかと思うのよ」
春代はさすがにいいにくそうだったが、泰子はべつに驚きもしなかった。
ずいぶん身勝手な話なのである。泰子は春代からああいう手紙をとりつがれるたびに、どれだけ迷惑をかんじたかわからなかったし、またそれを、那須にかくしておくために、どれだけ苦労したか知れなかった。
それがいま、省吾に見られて、変な誤解をうけたとなると、急にあわて出して、何もかも、じぶんにおっかぶせようとする春代の態度を、泰子は憎まずにはいられなかった。
しかし、その憎しみに徹しきれないのが、泰子の弱点なのだった。
泰子は昔から、春代の気性をよく知っている。春代のおせっかいはいつも無責任で、何か画策しているうちに、責任がじぶんの身にかかってきそうになると、すらりと逃げてしまうか、他へ責任をおしつけて、平気ですましているのである。
泰子はいままでにも、春代の無責任なおせっかいのおかげで、煮え湯をのまされるような思いをしたことがたびたびあった。
だから今度も、話をきいているうちに、結局、そういうところへ落着くのではないかと、内心予想していたのだけれど、問題が問題だけに、すぐには返事ができかねた。
「そりゃア、あなたに悪いことはわかってるわ」
泰子がだまっているので、春代は気をかねるように、
「あたしたちの問題を解決するのに、あなたの名前をひっぱり出したりしては、すまないということはよくわかってるの。だけど、瀬川に誤解をといて貰おうと思えば、どうしてもほんとのことをいわなければならないし、ほんとのことをいおうとすれば、あなたの名前が出るわけでしょう。それで、勝手にそんなことをしちゃすまないと思ったものだから、こうしてわざわざ来ていただいて、諒解《りようかい》を得ようと思ったのよ。ねえ、いやでしょうけど我慢して。……このとおり、手をついて頼むわよ」
仰山らしくお辞儀《じぎ》をされて、泰子はかえって、いやな顔をした。
「あら、そんなことなさらなくったって……」
「いえ、するわよ。何度でもするわよ。だって、あなたに御迷惑なことはわかりきってるんですもの。ほんとをいうと瀬川が馬鹿なのよ。ね。こんなお婆あちゃんにやきもちやいたりしてさあ。誰がこんなお婆あちゃんにラヴ・レターなんてよこすもんですか。ねえ、考えてもわかっているじゃないの。それとも、あのひとの眼からみれば、こんなお婆あちゃんでも、まだ、どこかに魅力がのこっているんでしょうか、ほ、ほ、ほ」
春代はわざとらしく笑うと、
「でも、考えてみれば、瀬川に打明けたって構わないじゃないの。あなたは別に、うしろぐらいことをしてるわけじゃなし。……啓介さんの手紙、みんな握りつぶして、一度も返事、お出しにならなかったんでしょ。なら、いいじゃないの。あたし、そのことは瀬川にもよくいっておくわ。瀬川だってきっとわかってくれると思うわ」
「でも、奥さま、もしこんなことが那須に知れたら……」
「大丈夫よ。そのことなら心配しないで。那須さんには絶対に知れないようにするわ。瀬川にもよくいっておくから。ほんとにこんな問題が起るのも、もとはといえば啓介さんのせいよ。男らしくもない。いつまでもくよくよと、あなたのこと思いつづけていたりして……そりゃア、あのひとに泣きつかれて、あんな手紙をとりついだ、あたしも馬鹿だったけど……啓介さんてひと、いつもああなのねえ。ひとに迷惑ばかりかけていて……ほんとにいやんなっちゃうわ」
その啓介をたきつけて、あんな手紙を書かせたことなど、春代はけろりと忘れていた。啓介のことをいわれると、泰子は心が苦しくなって、
「いいわ、では、奥さまのよろしいように。……」
「あら、じゃ、承知してくださるの。有難う、恩にきるわよ」
春代はにわかに、はしゃいだ調子になったが、そこへ女中が、西沢の来訪をとりついだ。
十一
「じゃあね。今夜ともかく、瀬川がかえってきたら、あたしから話してみるから……たぶんそれで誤解をといてもらえると思うんだけど、それでもいけなければ、あなたを煩わすかも知れなくってよ。そのときにはよろしくね。ああ、これであたし、胸がスーッとしたわ」
「何がスーッとしたですか」
そこへ西沢が、ニヤニヤしながら入ってきた。
「あら、いやな西沢さん、立聴きしてたの」
「いや、立聴きというわけじゃありませんがね。耳があるから、おのずから奥さんがたの密談も聞えますよ」
「まあ、密談だなんてひとの悪い、相変らず口の悪いひとね」
泰子とのあいだに話がついたので、春代はすっかりはしゃいでいた。
「いや、どうも……那須先生の奥さん、しばらく」
泰子はだまって頭をさげた。
泰子はなんとなく、西沢という男をすかないし、西沢もそのことはよく知っているのだが、そんなことには委細かまわず、
「どうです、その後、那須先生は……毎日、学校へいってらっしゃいますか」
「はあ……」
「西沢さん、那須さんは酒がとてもお強くなったそうよ」
春代が横からよけいな口をきいた。泰子はちらと眼をあげて、春代の横顔をみたが、すぐ、いやな顔をしてうつむいた。
「酒が……へへえ、那須先生、酒をおあがりになるんですか。外で……?」
「ううん、おうちで召上るのよ、それもウィスキーだから、うちのもの手がかからなくていいわ。それにひきかえ、うちのは困るのよ。毎晩、夜おそく、酒臭い息をしてかえるんですもの」
「へへえ、こちらの先生もね」
西沢は仔細らしく首をひねって、
「何しろああいう身の上ですからね。多少ニヒルになるのもやむを得ますまい。それに勤先が悪いや。銀座と目と鼻のあいだですからね」
「そうなのよ、それで困ってるの。今日も泰子さんに来ていただいて、忘れられた妻の愚痴をきいていただいてたというわけよ。ほ、ほ、ほ」
春代はわざとらしく笑って、
「ときに、西沢さん、話ってなあに?」
「さあ、それですよ。大変なことが起ったんですよ。奥さんがた、新聞をごらんになりゃしませんでしたか」
「新聞は毎日見てるけど、どんなこと……」
「一昨日の晩、パンパンがひとり殺されたんですよ。ところがそのパンパンというのが、いつかお話したテル代という女で、つまり田代という男がさがしていた女なんです」
「まあ」
と、春代も泰子も眼をみはったが、しかしふたりとも、まだその事実の恐ろしさの、ほんとの意味には気がついていなかった。
十二
西沢にはしかし、かえってそれが楽しいらしく、ふたりの顔を見くらべながら、
「奥さんがたはこのことを、どうお考えになりますか。これがただのパンパン殺しならよろしい。つまり、情痴の殺人とか、変態性慾者の犯罪とかならばね。しかし、そうでないとすると大変なことになる」
「そうでないって、どういう場合のこと?」
春代が眉をひそめて訊ねた。
「つまりですな。風間先生の奥さんを殺したのは、風間先生ではなかった。犯人はほかにあった。ところが、テル代という女が、何かしら、風間先生の無罪を証明するような、キイを握っていた。……と、こういうふうに仮定してみると、テル代殺しは大きな意味を持って来る。即ち、風間先生を無罪にする証拠を抹殺するために、加奈子夫人殺しの下手人が、テル代という女を殺したのじゃないか……と、そういう疑いもうきあがってくるわけです」
「まあ!」
春代と泰子はふたたび眼をみはって顔を見合せた。
ふたりにも、はじめてテル代殺しの恐ろしさが理解できたと見えて、にわかに顔色が悪くなった。
とりわけ、泰子の顔色といったらなかった。大きく見ひらかれた眼がおびえの色におおわれて、唇がわなわなふるえた。
春代はその横顔に眼をやりながら、
「でも、西沢さん、それだとすれば、犯人はどうしていままで待っていたの。もっと早くやりそうなものじゃありませんか」
「ところが、テル代という女は、キャバレー・レッド・ミル事件の直後、その翌日だかに田舎へかえって、誰もその行先きを知ってるものがなかったんです。それが一昨日の晩、ひょっこりかえって来たかと思うと、その晩のうちに殺されたんです。どうもこれを、他の動機の殺人とすると、あまり偶然が強すぎますね。だから、ぼくは、てっきり、キャバレー・レッド・ミル事件の犯人が、やったことだとにらんでるんですがね」
「でも、西沢さん。犯人はどうして、テル代という娘が、かえって来たこと知ったんでしょう」
「そこが問題なんですがね。犯人はスパイを使っていたんじゃないかと思うんです。実は、同じ晩に、おチカという、テル代の仲間の女が、もうひとり、日比谷公園のなかで殺されてるんですが、ひょっとすると、そいつが情報を提供していたんじゃないかと思うんですよ」
西沢はふたりの顔を見くらべながら、ニヤニヤと薄らわらいをうかべて、
「ところで、ここに恐ろしいのは、テル代のほかにもう二人、風間先生の無罪を証明できる女がいるらしいんですが、テル代が死んじまっちゃ、それが誰だか、全然手がかりがなくなった。しかも犯人は絞め殺すまえに、テル代の口から、それをきいたかも知れない。と、すると……もう二人、犠牲者が出るかも知れないんですが、われわれにはそれを防ぐ方法が全然ないんですよ」
泰子と春代の顔を、かわるがわる見ながら語る西沢は、いかにも楽しそうな口ぶりだった。
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[#小見出し]  かくれ家
小田急の成城駅で電車をおりた田代皓三は、南側の出口を出ると、すばやくあたりを見まわした。
尾行はないかと用心しているのである。べつに尾行の気配はなかった。
皓三は安心して、駅のまえを縦に走っている大通を、足をはやめて歩いていった。ちょうど夕方の退出時刻で、東宝がえりらしい男女が、三々五々、つれだっていきちがった。
成城の町も、小田急の線路から南側は、北側にくらべて、どこか植民地的なかんじだが、朝夕通う撮影所人種が、垢抜《あかぬ》けのした一種の雰囲気を投げかける。
駅から五分ほど大通を歩いて、そこから左へ曲ると、『涼風荘』と、看板のあがった旅館がある。
昔からの旅館ではなく、以前はさる金持ちの住宅だったのだが、戦後、新興成金の手にうつって、ひところはヤミ料理屋として繁昌したが、料飲店再開とともに、旅館に早変りした。むろん、つれこみ宿だが、おりおりは電車をうしなった客が、お巡りさんの案内でくることもある。
綺麗に打水をした玄関に、皓三が立つと、
「あら、いらっしゃい」
出迎えたのは三十五、六の年増だった。ここの女中頭でお秋という。
「うむ」
皓三がにこりともしないで、靴をぬいでいると、
「しばらくでしたわね。どうなすったのかと、あちら心配していらっしゃいましたわ」
「ああ、来たかったのだけれど、あまりたびたび来ちゃ、目につくと思ったものだから。ときに、先生、元気かね」
「ええ、すっかり。顔色なども見ちがえるほどよくおなりになって……」
「酒は、あいかわらず、飲む?」
「いいえ、ここんところ、ちっともおあがりになりません。酒を飲まなくても、寝られるようになったと喜んでいらっしゃいます」
「ほほう、そりゃア変ったな」
やっと靴をぬいで、うえへあがると、お秋が思い出したように、
「そうそう、忘れてた。さっきどこからかお電話がありましたよ」
「ぼくに……? なんといって?」
「いいえ、お嬢さまがお出になりましたから、あたしにはよくわかりませんけれど。……」
「ああ、そう、じゃ、由紀子にきこう」
そのまま、どんどん、皓三が奥へいくので、お秋は追いすがるようにして、
「あら、おかみさんには……?」
「いや、あれにはあとで会う。いま、なにしてるんだい」
「お風呂に入っていらっしゃるんです。ねえ、今夜はゆっくりしていらっしゃるんでしょう。おかみさんが可哀そうですよ。たまには……」
「いいよ、いいよ、あとで話をするから……」
苦笑いをしながら、お秋の案内も待たずに、渡り廊下でつながっている奥の離室へくると、
「あら、お兄さま?」
可愛い娘が出迎えた。
由紀子はことし二十二になる。皓三のいちばん下の妹で、皓三には由紀子とのあいだに、男女ふたりの弟妹があったが、ふたりとも早く死んだので、皓三はこの妹を、眼のなかへ入れてもいたくないほど可愛がっている。
両親がないので、戦争中は、四国にある郷里の伯母のもとへ預けてあったが、戦争もすみ、皓三の身がどうやら立ちゆくようになると、経堂に家を買い、郷里から伯母と妹をひきとった。
由紀子からみると、皓三はつねに英雄である。戦争中も英雄だったが、戦後もやはり英雄である。
戦後、またたく間に莫大な産をなした兄を、彼女は驚異と讃嘆の眼をもってみている。こういう兄を持ったことを誇りとしている。
彼女は兄のしていることを、深くかんがえてみたこともないし、ましてや、それに対して、批判を加えようなどとは、夢にも考えたことはなかった。彼女にとっては、兄のしていることは常に正しいのである。
皓三はこの単純な妹を、こういう家へ預けることを好まなかった。しかし、昂奮のあまり、自殺でもしやアしないかと危まれた啓介のためには、どうしてもひとり、適当な附添いが必要だったので、かれは妹をつけて啓介を、この離室のふた間へかくまうことにしたのである。
由紀子は編物でもしていたとみえて、座敷のなかには、編みかけのスウェーターかなんかと、婦人雑誌の附録がひろげてあった。風間啓介のすがたはどこにもみえなかった。
「由紀子、先生は……」
「お散歩よ」
「散歩?」
「散歩ったってお庭のなかだけだから大丈夫よ。お客さまがお見えになったら、お秋さんがすぐ知らせてくださるお約束なの。お呼びして来ましょうか」
「ううん、まあ、いい」
皓三は縁側に立って庭を見まわしたが、啓介のすがたはどこにも見えなかった。武蔵野の自然林をとり入れた庭はずいぶんひろくて、一千坪にもあまるのである。
「由紀子、毎日、退屈だろう」
「いいえ、それほどでもないわ」
由紀子はおよそ物に動じない娘である。いつも無邪気な眼をパッチリひらいて、世の中の悪意など、全然、知らぬげな風情である。
「毎日、何をしているの」
「何ってべつに……編物をしながら、先生からいろんな話をしていただくの、楽しみだわ」
「先生、どんな話をするんだい?」
「どんなって、いろいろよ。あたし、なんにも知らぬ娘だから、教えていただくのよ。いろいろ、ためになること話して下さるわ」
由紀子はあくまで落着きはらっている。
皓三は興味のある眼で、妹の横顔を見つめながら、
「由紀子、先生ちかごろだいぶ落着かれたってね」
「ええ、すっかり。まえみたいにいらいらしたり、おどおどしたりするようなところが、すっかりなくなったわ。せんからみると、まるで人がちがったようよ。でも、お兄さん、ちかごろ、何かまた変ったことがあったんじゃない?」
「変ったことって?」
「二、三日まえ、新聞をごらんになって、ひどくびっくりしていらしたようよ。あたしがお訊ねしても、何もおっしゃらなかったので、なんでびっくりなすったのかわからなかったけれど、それからおりおり、じっと考えこんでいらっしゃることがあるわ」
「ふむ」
皓三もそのことについて心配していたのである。テル代のことは啓介にも話してあったし、新聞をみたら、また、昂奮して、何かやり出しやしないかとおそれていたのである。
「先生、それで、昂奮なすったような様子はないかね」
「そうねえ、いくらかは……でも、すぐ落着いて、田代に悪い悪いといってられたわ。お兄さん、あのほう、なかなか解決しそうにないの」
「ふむ、ぼくも苦心してるんだがね。一向、手がかりがなくて……」
皓三はちょっと暗い眼をしたが、ふと思い出したように、
「そうそう、由紀子、さっきどこからか電話がかかって来たって?」
「ああ、そうそう、忘れてた。青木さんからよ」
青木というのは赤坂の東洋ビルの地下室にある、バア・アパッシュのバーテンである。
「青木から? 何んていって来たの?」
「いえ、お兄さん直接でないといえないというのよ。それでお兄さんがいらしたら、すぐ電話をかけてほしいといってたわ。電話、申込んでおきましょうか。なんだか、急ぎの用件らしかったわ」
「そう、じゃ、申込んでおいてくれ」
由紀子は立ちかけて、
「あら、先生がかえっていらした。先生、お兄さまが……」
啓介はなにかひどく考えこんでいるらしく、兵児帯に両手をはさんで、うつむき加減に歩いてきたが、由紀子の声に顔をあげると、
「やあ」
と、白い歯を出してわらった。ひどく懐しそうな笑いだった。
「しばらく」
「御無沙汰しました」
皓三がかるく頭をさげると、啓介はなあにと首を横にふって、由紀子のうしろ姿を見送っていたが、やがて皓三のほうをふりかえると、
「田代君、君の妹さんはじつにいい娘さんだねえ」
皓三はちょっとびっくりしたように、啓介の顔を見直したが、啓介の顔には、ただ、温い表情がたゆとうているだけである。
皓三は興味ぶかい眼で、啓介のそういう表情を見守りながら、
「なに、なんにも知らん女で……」
「いや、そうじゃない。なんにも知らなくても、人間、誠意のあるのがいちばんよい。君の妹さんは実に誠実だね」
「いや、お褒《ほ》めにあずかって身の面目」
皓三がおどけた調子で首をすくめるのを、啓介はあくまで真面目に見守りながら、
「いや、冗談じゃない。ほんとうだよ。君の妹さんは口数をきかない。しかし、だまっていても誠意があふれている。ぼくみたいな、心身ともに半病人には、理想的な看護婦だ。看護婦といっちゃ失礼だが……ぼくはじぶんの心にあるとげが、しだいに抜かれるような気がするよ」
皓三はかるく笑いながら、
「先生、だいぶお変りになりましたな」
「そうだろうね。妹さんがそばにいてくれると、気分がすっかり落着くんだね」
「少しお痩せになったようだが、血色はかえってよくなられた」
「ふむ」
と、啓介は自分の頬を撫でながら、
「せんみたいに、つまらぬ妄想になやまされたり、強迫観念におそわれることがなくなったからね。田代君、それでぼくは考えるんだが、いい加減に、君に御迷惑をかけるのはやめようかと思う」
「ぼくに迷惑をかけるのをやめるというと」
「名乗って出ようかと思うんだよ。君にも気の毒だし、それにいつまでも、ぼくみたいな人間のお守りをしている、由紀子さんにも悪いからね」
田代は啓介の顔を見守りながら、
「先生はこのあいだの新聞をお読みになりましたね」
啓介は平然として、
「ああ、読んだ。それで急にそういう気になったんだ。あの娘が殺されたのも、じぶんが逃げかくれしてるせいじゃないかという気がして……」
田代はだまってしばらく考えていたが、
「いや、先生がそういう気になられたのは賛成です。ほんとうならば事件の直後に、それをおすすめしたかったのです。しかし、先生、いまとなっちゃ、ぼくはむしろ反対ですよ」
「どうして?」
「どうしてって、ぼくはひとあしちがいのところで、テル代という娘を殺されているんです。あの娘が殺されるまえならともかく、いまとなっちゃくやしいんです。ぼくはどうしても、あとのふたりの女を探し出さずにおくものかと決心しているんです」
皓三の声にはふかい決意がこもっていた。
啓介は縁側のはしに腰をおろしたまま、黙然として、いまにも降り出しそうな暗い空をみていたが、
「ふたりの女を探し出すって、そう急に探し出せるあてがあるかね」
「あります」
皓三は決然と、
「ぼくはね、ラク町のパンパンをひとりスパイに使っているんですが、こうなれば意地ずくだから、どんなに金がかかっても構わない。ふたりの女を探し出してくれといってるんです。いままでは、テル代という娘に重点をおきすぎた。こんどはふたりを同時に探し出そうと思っているんです」
啓介はだまっている。よいとも悪いともこたえない。
皓三はいくらか熱っぽくなって、
「先生、テル代を殺されたのは、たしかにぼくの失敗です。先生にはすまなく思っています。しかし、ぼくの身にもなってください。ひとあしちがいであの娘を殺されたくやしさ……」
「いやいや、ぼくは君を責めているんじゃない。反対にぼくは自分を責めているんだよ。ぼくは自分のわがままと猜疑心について反省しているんだ。田代君、ぼくはこんどの事件について、ある人物を疑っていたんだ。そいつがぼくをおとしいれるために、加奈子を殺したと思いこんでいた。ところが、最近の事件で愕然とした。その人物はいくらなんでも、罪もないパンパンを殺すほど、兇悪な人間とは思えない。そうすると、ぼくの疑いは根も葉もないことであり、逆にぼくこそ、その男に対して、いろいろ、悪いことをしていたことを反省しはじめたのだ。だからぼくは、いちどその男にあって、潔く罪をわびたのちに、名乗って出ようと思っているんだ。決して、君の不信を責めるつもりはない」
皓三がなにかいいかけたとき、母屋のほうから由紀子が、いそぎあしにかえって来た。
「お兄さん、お電話が通じてよ」
「あ、そう」
皓三は腰をあげて、
「先生、いまの話ですがね、もう暫くかんがえさせてください」
と、大股に母屋のほうへ去ったが、しばらくすると、眼をかがやかせてかえってきた。
「先生、どうやらふたりの女のうちのひとりだけ、わかりそうですよ」
啓介はだまっていたが、皓三は委細かまわず、
「美代……と、いうのがぼくの使ってるスパイですが、その女から青木に連絡があって、ふたりのうちひとりだけわかったから、今夜八時に、京橋にあるサンチャゴというダンスホールの隣にある、喫茶店へ来てくれというんです」
皓三は腕時計を見て、
「もう六時だから、ぼくはそろそろ出かけます。先生、いまの話はそれからのことにしてください」
暗い空から雨がポツポツ降り出した。
成城で降り出した雨は、皓三よりもひとあしさきに、京橋のあたりを訪れて、濡れた舗道にきらきらと美しく、灯のいろがうつっていた。
ダンスホール・サンチャゴは、京橋の横町にある、六階建てのビルディングの、地階のほぼ半分をしめている。
そのとなりが、モナコという、ちょっと上品な喫茶店になっているが、雨宿りの客もまじえて、店のなかはかなり立てこんでいた。
皓三がいそぎあしに入っていくと、すぐ美代が見つけて、隅のブースからにっこり顔を出して合図した。
皓三はすばやくあたりを見まわしておいて、ゆっくりと美代のブースへ入っていった。
「大丈夫? 誰もつけて来やアしなかったでしょうね」
皓三がテーブルの向うへ坐るのを待って、美代が小声で訊ねた。あいかわらず、小まちゃくれた調子である。
「いや、どうして?」
「だって、あたしにはちかごろ、いつも尾行がついてるのよ。今夜も、まくのに苦労しちゃった」
皓三は驚いて、
「尾行が……? 君に……?」
「ええ、そう。このあいだのテル代ちゃんのときね」
と美代は声をひそめて、
「あくまであなたのことを、知らぬ存ぜぬで押し通したのよ。だけど、警察では信用してないらしいの。それに、ちかごろあたし、金まわりがいいでしょ。警察で眼をつけるのも無理はないのよ」
美代は鼻の頭に皺《しわ》をよせて、ふふふと笑っている。まがいものだろうけれど、新しい真珠の首飾が胸間に光っている。
皓三は不安そうにあたりを見まわした。
「今夜は大丈夫だろうね」
「大丈夫よ、そんなに心配しなくっても……日劇をつかってね、カゴ抜けをしてやったの。面白かったわ。向うじゃ、あたしが尾行に気がついてることを知らなかったのよ。いまごろはきっと、血眼になって、探しまわってるわよ」
美代にはこういう冒険が、面白くて仕方がないらしく、あはあはと笑っている。皓三はしかし、それどころではない気持ちだった。
「それはいいとして、さっき青木から電話があったんだが……」
皓三が小声で切出すと、
「ええ、そのことよ。あたし、ずいぶんボンヤリだったわ。もっと早く思い出すはずだったのに……」
美代がなにかいいかけたとき、女給が註文をききに来たので、二人の会話はちょっととぎれた。
やがて女給が、おあつらえのコーヒーをふたつおいていくと、美代がテーブルからのり出して、
「一昨日、テル代のお葬式があったのよ。あたし、警察の取調べがすむと、ずっと東中野の、テルちゃんのうちに詰めてたの。だって、テルちゃんとは、いちばんの仲好しだったし、それに……」
と美代は声をひそめて、
「あのことね、ほら、ラクダ色のオーヴァと赤いターバン……それがわかりゃしないかと思って、出入りのひとに気をつけてたのよ。お葬いにはたくさん来たわ。ちょうどチカちゃんのお葬いとぶつかったんだけど、なんといっても、テルちゃんのほうが、人気があるんですものね。むろん、みんなあたしたちのお仲間よ。そいで、あたし、眼を皿のようにして、そのなかから、ラクダ色のオーヴァと、赤いターバンをさがしたのよ」
「で、見つかったのかい」
皓三がもどかしそうに訊ねるのを、美代はかえってじらせるように、
「ところが駄目。だって、いちいち、あんたラクダ色のオーヴァ持ってる? だの赤いターバンまいてやしなかった? なんて、訊ねるわけにもいかないもん。刑事もふたり来てたけど、このほうも、何もつかまずにかえったらしいわ」
「それで、いったい、どうしたんだ。青木の電話じゃ、どっちかひとり、わかったという話だったじゃないか」
「そうよ、わかったのよ。だから、しまいまでお聞きなさいよ。あんたもずいぶんせっかちね」
美代は面白そうに眼でわらいながら、
「そういうわけで、お葬いの日はまんまと失敗だったんだけど、昨日になって、やっと手がかりがついたのよ。あら、手がかりだなんて生意気ね。ふ、ふ、ふ。あたし、昨日もテルちゃんとこに詰めてたのよ。いろいろ、あとしまつもあるしするのでねえ。ところが晩方になって、こっそり、ひとりでお悔みにやってきたひとがあるのよ。あたし、そのひとを見たとたん、脳天から金槌で、五寸釘でもうちこまれたような気がしたわ。だって、そのひとが、ラクダ色のオーヴァを持ってることを、ハッキリおぼえているンですもの」
「しかし、それじゃ、なぜ、いままで思い出さなかったんだ」
「だって、無理よ。そのひとはあたしたちの仲間じゃないんですもの。あんたの話じゃ、そのひともパン助だって……」
「いや、そんなことはどうでもいい。で、その女というのはどういう女なんだ。どこにいるんだ」
皓三が熱くなってせきこむのを、美代は面白そうにわらいながら、
「すぐ隣りにいるわ。ええ、お隣りのダンスホール。ナンバー・ワンのマチ子さんといえばすぐわかるわ」
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[#小見出し]  マチ子
ダンスホール・サンチャゴ。
青白い照明のなかで、曲はいまブルース。
頬と頬をよせあって、ホールいっぱいにひろがっているカップルのなかから、女の顔をひとつずつ、眼でひろっていた皓三は、突然、大きく眼をみひらいた。
何かしら、熱いものがぐうっと胸もとまでこみあげて、心臓がはげしく躍った。全身から、ねっとりとした汗が、ふき出すかんじだった。
「わかって?」
耳許で美代がささやく。
「うん、向うで踊ってる。真っ白なイヴニングを着た女だろ」
「ええ、そう、よくわかったわね。わかったら、あとで申込むといいわ。でも、あんた、踊れる?」
「うん、いくらか。……少し怪しいがね」
「うふふふ、それでも感心ね。なんでもいいから踊りながら話をつけるといいわ」
「有難う。それじゃ君にはもう用はないから、帰ってもいいよ」
「あら、ひどいわ」
「どうして?」
「どうしてったって……」
皓三はしかし、もう、上の空になった。マチ子のすがたを追う眼が燃えるように充血してきた。
マチ子!
どういうわけかその顔は、この一ヵ月あまり、皓三の眼底にこびりついてはなれなかった。
彼女のことを思うたびに、かれの胸はあやしく乱れた。何かしら、甘酸っぱい思いが、妙にいらいらした感情ともつれて、どうかすると皓三の心を苦しめた。
マチ子!
皓三はまえにいちど、この女に会ったことがある。
それは加奈子のお葬式の日だった。西沢の顔を見知っておくために、目白にある風間家を訪れた皓三は、そのかえりみちに、マチ子がひとり佇んでいるのを見た。
どういうわけかそれ以来、皓三はその女のことを忘れかねた。どこのどういう女なのか、二度と会う機会もあるまいと思うと、胸がかきむしられるような感じだった。
それがいま、こうしてめぐりあうことが出来たのだ。皓三にとっては、それは二重のよろこびだった。
啓介に対する責任と、じぶん自身の秘めた想いのためと。……
美代は女らしいカンから、皓三の表情にうかんだあるものを読みとった。
美代はマチ子とじぶんを比較してみた。それから、皓三のそばを離れて、悄然《しようぜん》と、ダンスホールから出ていった。
皓三はそれに気がつかなかった。
「君、マチ子というんだろ」
「ええ、そう」
「ぼくはまえにいちど、君に会ったことがあるよ」
「あら、そうかしら」
マチ子の顔色には、なんの感動もあらわれていなかった。
こういう挨拶はよく客からきかされる。きわどい交渉は、つねに、こういうさりげない挨拶からはじまるのである。
マチ子はいつも、たくみにそれを受流しながら、なれたステップを踏むのである。
「君、おぼえていない? たしかにぼくたち、まえにいちど会ってるんだよ」
「そうお。いつ……?」
皓三のステップはかなり怪しい。マチ子はたくみにリードしながら、職業的な声音で訊ねた。
「ありゃア、五月のはじめごろのことだったかな、ほら、目白にある、風間啓介という小説家のうちの近所で……」
突然、マチ子のステップが乱れた。抱きあったマチ子の胸が、大きく波打つのが、皓三にもかんじられた。
「君、おぼえてるだろ。小説家の細君が殺されてさ。そのお葬いの日だった。君も、あのお葬いにいったのかい」
マチ子のからだが小刻みにふるえている。彼女ははじめて、皓三の顔をまともから仰いだ。長い睫毛《まつげ》である。
「あなた……警察のかたなの?」
マチ子の声がふるえている。
「いいや」
「じゃ、新聞社のかた?」
「ううん、そうじゃない」
「じゃ、どうしてあたしをさがしていらっしゃるの。いいえ、あたしをさがしてここへいらしたんでしょう。ちゃんとわかってるわ」
「そう。あの事件以来、ずうっと君をさがしていたんだ。今夜、やっと会えてうれしいよ」
それは皓三の実感だった。
マチ子はさぐるように顔を見ながら、
「あなたはどういうかたなの。なぜ、そんなに熱心に……」
「ぼくはね、風間先生の友人なんだ。先生のために、君をさがしていたんだ。君だの、このあいだ殺された、テル代という娘だの、それから、赤いターバンをまいたもうひとりの女だの……」
「まあ!」
マチ子はおびえたように眼をみはって、
「それ、ほんと? だって、あなた、どうしてあたしたちのこと、知ってらっしゃるの」
「先生がおぼえていたんだよ。君たちが尾行していたことを。……だから、君たちをさがし出して、アリバイを証明してもらおうというわけさ」
マチ子のステップがまた大きく乱れた。皓三のたくましい腕のなかで、いまにも倒れそうになっていた。
皓三は強い腕で、しっかりとマチ子のからだを抱いていた。柔かな女のからだの感触が、皓三の血をおどらせた。皓三の肉はうずき、眼がギラギラと血走ってくる。
「君、しっかりしなきゃ駄目だ」
「ええ。……」
ステップなんかどうでもよかった。ふたりは惰性のように、ひとびとのあいだを縫って、ホールのなかを歩きまわりながら、
「君、今夜、ひまがとれない?」
「ひま、とって、どうするの」
「君とゆっくり話したいんだよ。そのことはね、風間先生のためばかりじゃないんだ。君のためも思ってるんだよ」
「あたしのためって……?」
「君、テル代という娘が、なぜ殺されたか知ってるかい」
「まあ!」
マチ子のステップが、また、大きく乱れた。真っ紅な口紅にもかかわらず、唇がみるみるうちに、土色にくちていくのがはっきり見られた。
「それ、どういう意味……?」
「テル代はね、風間先生のアリバイを知っているから殺されたんだよ。つまり、風間先生の奥さんを殺したやつは、あくまでも風間先生を罪におとそうと、先生のアリバイ殺しをやっているんだ。その手はじめがテル代という娘だ。そして、そのつぎは当然、君か、赤いターバンをまいた女……」
「まあ、いや、そんな……」
マチ子の声があまり高かったので、まわりで踊っていたひとびとが、いっせいにこちらをふりかえった。
しばらくふたりは、無言で踊っていた。マチ子はなにかしら、ひどく思いまどっている様子だった。
しばらくして、皓三はまた、マチ子の耳に口をよせた。
「だからね。ぼくは君たちを保護したいのだ。ことに君をまもってあげたいんだ。マチ子君、ぼくはね」
さすがに皓三もちょっとつかえたが、すぐ、顔もあからめずにキッパリいった。
「君が好きなんだ。ひと眼、君を見たときから、好きになったんだ。あっはっは、歌の文句みたいだがね」
マチ子はさぐるように、皓三の顔を見ながら、
「あなたが守ってくださらないと、あたしもテル代ちゃんみたいになるとおっしゃるの」
「そうだ、いまにきっと犯人が、君のところにもくる」
「そして、その犯人というのは誰なの」
「それがわかってりゃア、テル代だって殺されやアしなかった。犯人は悪魔の煙幕にかくれて、君たちをねらっているんだよ」
マチ子は踊りながら真正面から、きっと皓三の顔を見据えていたが、やがて、キッパリといった。
「いいわ。あなたのいうとおりするわ。あなたは信用できるかたらしいから。……」
一杯のブランデーが、マチ子の頬に血の気をよみがえらせた。
イヴニングを脱いで、チェックのスカートと、ピンクのカーディガンに着かえたマチ子は、化粧もあっさりとして、小麦色の肌がうつくしかった。
サンチャゴから、ほど遠からぬバアの奥まったコンパートメント。
皓三も三杯のウィスキーに酔っていた。酒に強い皓三は、三杯や四杯のウィスキーで酔うはずはなかったのだが、どういうものか今夜は酔った。
上機嫌な眼差《まなざ》しで、マチ子の顔をまじまじと見つめながら、
「綺麗だね、君は……あっはっは、御免御免、今夜はね、ぼく、機嫌がいいんだ。嬉しいんだよ。だってね、二度と会えないかも知れないと思ってた君に、こうして会えたんだからね。だからこうして有頂天になってるんだ。あっはっは」
マチ子はしかし、まだ、警戒のすっかりとけぬ眼差しで、
「あなたは、いったい、どういうかたなの、御自分ばかり上機嫌になって、あたし、まだ、お名前もうかがっていないわ」
「や、これは失敬、失敬。ぼくはね、田代皓三といって、海軍くずれのヤミ・ブローカー。しかし、もうそろそろ、足を洗って、まともな商売に入ろうかと思ってるよ。ヤミももう、大したことはないからね」
「風間先生とはどういう御関係?」
「戦争中、先生が海軍に徴用されて、南方の前線基地へ派遣されてやってきたとき、知合いになったんだよ。それで戦後、尾羽打枯らして一文なしになったとき、先生のとこへ無心にいったんだが、いま考えても先生はよくしてくれたよ。いやな顔ひとつせず、無心に応じてくれた。それも一度じゃない、二度、三度だ。それを肝に銘じてるもんだから、先生の頼みとあらば、どんなことでもきかねばならんぼくなんだ」
「風間先生て、そういうひとなの」
マチ子はしだいに警戒がとけてくると同時に、もの思わしげな眼つきになって、
「それで、いま、先生は……?」
「あるところへ、ぼくの手でかくまってある。君たち三人、そろったところで、名乗って出ようという考えだったんだが……ねえ、マチ子君、君たち、ほんとに先生のアリバイを知ってるの。君たち、ほんとにあの晩、先生のあとを尾行してたの」
マチ子は無言のままうなずいた。
「しかし、どうして……? 君たち、風間先生になにか用があったの」
マチ子はちょっとためらったが、やがてキッパリといいきった。
「あたし、風間先生に復讐しようと思ってたんです」
「復讐……?」
皓三は驚いて、マチ子の顔を見直した。マチ子の顔は、一瞬、彫刻のような血の気のない固さにかわった。
「君は、風間先生に、何かうらみがあるのかい」
マチ子は悲しげにうなずいて、
「妹が、風間啓介という小説家にだまされて、自殺したのよ。妹――あたしにとっては、たったひとりの肉親――両親を戦災でうしない、兄と弟を戦死させたあたしにとっては、たったひとり残った肉親なの。ヤエ子といって、それはそれは可愛い娘だったわ。今年二十になったばかり。……」
「それが、風間先生にだまされて、自殺したというんだね。だまされるって、どういうふうに……」
「妹は神田にあるバアにつとめていたの。そこへ風間啓介という小説家が、よく飲みにきて……いつか、妹と恋仲になったのね。妹はもう夢中だったわ。あの娘はなにも知らない無邪気な娘だったから、一度、男を知ると、前後の分別もなく、のぼせあがって……それを男がいいことにして、すっかりヤエ子をしぼりあげたのよ。はじめのうち、あたしも気がつかなかったんだけど、だんだん、身のまわりがなくなっていくので、はじめて、男が出来たらしいと気がついたの。それで、たびたび忠告したんだけど、男に夢中になって、眼がくらんでるあの娘は、あたしのいうことなんか耳にも入れない。せめて、相手がどういう男なのかと訊ねてみても、これは絶対に秘密だと……しまいにはとうとう、家をとび出して、どこへいったのかわからなくなってしまったんだけど、三ヵ月ほどたって、恐ろしく憔悴してかえってくると、その晩に、カルモチンをのんで死んだの。書置によって、あたし、はじめて、妹をだました男が、風間啓介という小説家であることや、妹はその男と結婚するつもりでいたところ、相手にはちゃんと奥さんのあることがわかって、それで自殺したんだってことがわかったの」
皓三は眉をひそめて、
「しかし、それ、ほんとうかな。風間先生て、そんな悪どいことをするひとかなア。マチ子君、それ、ひとちがいじゃない」
マチ子は悲しげにうなだれて、
「そうだったのよ。あたし、そのことを、あの晩、風間先生を尾行した晩に知ったのよ。家出するまえに妹はいちど、こんなことをいったことがあるの。妹の恋人には、右の胸に大きな星型の傷がある。徴用で、前線へつれていかれたとき、爆弾の破片でできた傷だって、妹がいつか洩らしたことがあるの。あの晩、風間先生が有楽町のガード下で酔いつぶれているとき、あたし、その胸をしらべてみたのよ。だけど、右にも左にも、どこにもそんな傷なんかなかったの」
マチ子はふかい悲しみの色をみせてうなだれた。
皓三はほっとしたように溜息をついて、
「なるほど、わかった。するとヤエちゃんは、二重にだまされてたというわけだね。そいつはヤエちゃんをだまして、金をしぼりとったばかりではなく、はじめっから風間先生の名前をかたって、ヤエちゃんをだましてたわけだね」
「そうなの、あたし、それがくやしいの」
マチ子は悲しげな眼に泪《なみだ》をもって、
「ヤエ子は正直で、信じやすい性質だったし、それに、若くて、ロマンチックなところのある娘だったから、相手が小説家だなんていうと、それだけで、もう、いちずに憬《あこが》れてしまったのね」
皓三はいたましい思いのうちにも、やはり苦笑を禁じえなかった。
「女って、そんなものかなあ。そうすると、小説家って、よっぽどとくだなあ」
「そりゃア、みんなの女がそうだというわけじゃないけど、ヤエ子みたいな世間知らずで、ロマンチックな娘にとっちゃ、小説家というのは、やはり魅力があったのよ。そこへつけこまれたんだから、あたし、いっそうくやしいのよ」
「だけど、女ってそんなにだまされやすいもの? そんなこと、ちょっと調べりゃア、すぐわかることじゃないか」
「そりゃア……なんといわれても仕方がないわね。やはりあさはかなのね。だけど……あたしがいまくやしいのは、ヤエちゃんみたいな世間知らずに、そんな問題を、勝手に処理させてたことなの。ヤエちゃんに男ができたらしいってことは、あたしにもよくわかってたんだから、なぜ、そのとき、じぶんが乗出してやらなかったかと……いまになってみると、それがあたしにはくやしいのよ」
「ヤエちゃんをだました男について、ほかに心当りない?」
「全然ないわ」
マチ子はくやしそうに唇をかんで、
「風間先生がそうじゃなかったってわかってから、あたし、改めて、ヤエちゃんのつとめてた神田のバアへも出向いてみたのよ。だけど、全然、雲をつかむような話で……胸に星型の傷のある男だなんていったところで、わかりっこないわ」
「君、その男がわかったらどうする?」
「むろん、ただじゃおかないわ」
マチ子のうつくしい瞳のなかに、一瞬、殺気に似た光がほとばしった。さすがの皓三も、思わずヒヤリとして、しばらく口をつぐんでいたが、
「君は、相当、強い女なんだね」
マチ子は淋しく笑うと、
「そうかも知れないわ。だって、いまの世の中、強くならなきゃア、女はいちんちも生きていかれないじゃないの。でも、あたし、いまじゃ、すまないことをしたと思ってるの」
「すまない? 誰に……?」
「風間先生に……」
「そうそう、風間先生のことだがね」
皓三はやっと自分の問題にかえって、
「君が風間先生のあとを尾行してたのは、そういうわけなんだね」
「ええ、そう、だから、あたし、あのかたに悪かったと思ってるのよ。あの時分、あたしどのくらい、あのひとを憎んだか知れゃアしない。八つ裂きにしてもあきたりないくらいに思ってたのよ」
「しかし、それなら、なぜ、じかに先生にあたってみなかったの」
「いえ、あたしいちど、先生のお宅を訪問したのよ。あいにくそのとき、先生はお留守で、奥さまにお眼にかかったんだけど、そりゃアもうさんざんだったわ。あの奥さま、少しヒステリーなのね」
マチ子は毒々しい微笑をうかべた。
「ほほう、そりゃア……単身敵地へ乗込んだとはえらいね。で、そのとき、奥さんに、ヤエちゃんのこと、話さなかったの」
「そんなひまなかったわ。だって、奥さん、へんに感違いして、はじめっから高飛車なのよ。あたしに口もきかせないの。あきれかえって、あたし、なにもいわずにとび出しちまった」
「それで、先生を尾行することにしたのかい」
「ええ、そう、あの時分、あたし、しつこくあのかたのあとをつけてたのよ。そんなことしないで、なぜ、手っ取りばやく話をつけなかったのかとおっしゃるでしょ。ところが、いざとなると妙に気おくれがして……それというのが、ほかでいろいろ風間先生のことをきいてみたんだけど、あのかた乗物恐怖症なんですって? 文壇でもそれは有名なことだし、めったに外へお出になることもないという話をきいて、あたし、だんだん自信がぐらついてきたのね。ひょっとすると人違いじゃないかしら……そんなふうに思いはじめたのよ。小説家のニセモノが現れるという話は、よくきくことですからね」
「それで、ただ、あてもなく尾行してまわってたのかい」
「そういわれても仕方がないわ。話しかけようと思いながら、いざとなると気がさすのよ。人違いだったらいい恥さらしですもの」
「ふうむ」
皓三は憐れむように女の顔をみながら、
「よし、それじゃ、あの晩のことをきこう。ほら、風間夫人の殺された晩のことさ」
「ええ、お話するわ。でも……」
と、マチ子はテーブルに眼を伏せて、
「そのことでも、あたし、風間先生に悪いことをしてるのよ。だって、あたしたち、先生が無罪だって知っていながら、いままで黙っていたんですもの」
皓三はこの瞬間において、はじめて重荷をおろしたようなかんじだった。
皓三はむろん啓介を信じていた。啓介が自分で無罪だといえば、そうであろうと思った。
ただ、かれが心配していたのは、三人の女が、啓介の考えているとおり、無罪を証明しうるような、知識をもっているかどうかということであった。
それについてマチ子はいう。
「その点については大丈夫なのよ。あたしとテルちゃんとお京さんが、順繰りにあのかたを尾行していたのよ。だから、そのあいだにあのかたが、人殺しをしたとすれば、テルちゃんかお京さんが、きっと見ていなければならぬはずなのよ。テルちゃんにしろ、お京さんにしろ、あのかたには、何の恩も怨みもないんだから、あのかたが人殺しをしたのを知っていながら、かばうなんて手もないわ。第一、そのつぎの日の夕刊に、キャバレー・レッド・ミル事件が大きく出て、容疑者は風間啓介という小説家だって、ちゃんと書いてあったのに、ふたりとも全然、それがまえの晩、尾行した男だって気がつかなかったくらいなんですもの」
「だけど、それじゃ君たちは、どうしてそのことを警察へ知らせなかったんだい」
「だから、あたし、風間先生にすまないと思ってるのよ。でもね、あたしはそうしたいと思ったの。それで、テルちゃんやお京さんに相談したんだけど、ふたりともいやだというの。かかりあいになりたくないというのよ。考えてみると、それも、無理はないのね。ああいう稼業をしていると、なるべく、警察やなんかと、ひっかかりをつけたくないんでしょ。あたしがもっと強く主張すればよかったんだけど、あいにく、その晩からテルちゃんがいなくなったので、どうすることもできなかったの。でもね、あたし、全然手をこまぬいてたわけでもないのよ。せめて、遺族や御親戚のかただけには、先生が無罪だってこと、知らせてあげたいと思って、手紙を書いて、あのお葬いの日に、受付けへ渡してきたのよ。むろん匿名だったけど……」
皓三は突然、大きく眼をみはった。
「君、そりゃア、ほ、ほんとかい?」
「ええ、ほんとよ、だから遺族のかたはそれを知っていらっしゃるはずだし、警察だって、遺族のかたから聞いて、知ってるはずだと思うんだけど……」
皓三の胸には、ふいとドスぐろい不安がきざした。警察は果して、それを知っていただろうか。知っていたら、事件はもっとべつの方向へ進展していたのではあるまいか。
いや、それよりもまえに、皓三が不思議でならないのは、少くとも西沢は、じぶんがテル代という女をさがしていることを知っていたはずだのに、警察が全然そのことを、知っていなかったらしいことである。
皓三の胸はにわかに怪しくみだれてきた。
「マチ子君」
と、大きく呼吸をはずませて、
「こりゃア、一刻も早く、お京という女をさがし出す必要があるぜ」
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[#小見出し]  お 京
雨は一時間ほどであがったが、そのあと、温度が急に上昇したかと思うと、江東方面からおしよせてきた霧が、みるみるうちに、銀座から京橋、新橋界隈をいちめんにつつんでしまった。
東京には珍しい濃霧で、五、六間さきの見通しもきかなかった。
翌日の新聞でみても、時ならぬ濃霧のために、都内だけでも、数十件の交通事故があったという。
銀座通りをいく自動車も、ひっきりなしにサイレンを鳴らして、牛のように徐行した。
店頭の灯も夜霧ににじんで、いぶされたようにぼやけていた。
午後十時。
店じまいの早いこのごろだが、ビヤホールやバーはまだひらいていて、千鳥あしでいく酔っぱらいのすがたが、影絵のように、夜霧のなかをながれていった。
「まあ、ひどい霧」
新橋駅東口まえにあるマーケットから、女がふたり、肩を組んで、霧のなかへ吐き出されてきた。ひとめでそれと、夜の稼業の知れそうな女たちである。
マーケットのなかの飲屋で飲んできたのだろう。ひとりはかなり酔っぱらっている。
「なんだい、これっぽちの霧……」
と、酔っぱらいのほうが巻舌で、
「なあ、お京、おまえ、そんなにくよくよするもんじゃないぜ。世の中、いいこともあれば悪いこともあらあね。そうそう悪いことばかりつづくもんじゃないんだから、もすこし、気を大きく持っていなよ」
脚をひょろひょろさせながら、男のような口のききかたである。
「サーちゃんはそういうけどね」
もうひとりのほうは素面《しらふ》らしく、しずんだ声で、
「あたし、今日という今日はつくづく悲しくなったわ」
「また、あんなことをいってるよ。そいじゃ、せっかく酒を飲んでも、なんにもならないじゃないか」
「すみません、悪かったわ。せっかくおごってもらいながら、こんなこといっちゃなんだけど、こんなときには、いくら飲んでも駄目なのね。へんに酔いがしずんでしまって。……」
「ちっ、あんなこといってやアがらあ。そいじゃ、飲んだ酒、かえしておくれといいたいくらいのもんだ。あっはっはっ!」
太い男のような声で笑うと、
「いったい、お京は意気地がねえよ。なんだい、あんなガキ、どうせおまえを捨てた男の子じゃないか。捨てちまえよ、あんなやつ。なあ、お京、お京ったら……」
そのとき、ふたりのそばをいきちがった男が、どきっとしたように肩をすくめると、霧のなかを二、三歩いって立ちどまった。
「お京ったら、なあ、お京、なんとか返事をおしよ」
相手の肩に全身のおもみをかけて、酔っぱらいの女が、あたり憚らぬ高声で話していくのを、霧のなかに立ちどまった男は、じっと見送っていたが、やがて素速くあたりを見まわすと、さりげない様子でつけていく。
「そりゃア、サーちゃんは子供を持った経験がないから、そんな邪慳《じやけん》なことをいうけれど……」
「当りまえだ。誰が子供なんか持つもんか。第一、パン助が子供を持っちゃおかしいよ。こちとら、自分のからだを張った金で、やっとじぶんひとつの口を養いかねてるんだ。それになんだい、おまえは……おや、どうしたんだい、お京、おまえ、泣いてるのかい」
お京はそれにこたえなかった。しょんぼりとうなだれて、それでも、酔っぱらいの女を肩にのせて、新橋のガードをぬけて、西出口のほうへまわると、モンテカルロと片仮名文字の看板のあがった喫茶店へ入っていった。
「おや、サー公、また、酔っぱらってるんだな」
所在なさそうに、店にたむろをした女たちが、非難するような眼をむけた。
「ああ、酔っぱらってるよ、酔っぱらってちゃいけないのかい。お京があんまり淋しそうな顔をしてるから、元気つけにいっぱい飲ませてやろうと思って……」
「なにいってるんだい。飲みたかったのはおまえのほうだろ。お京はちっとも酔っちゃいないじゃないか」
お京はみんなから少しはなれたところに、ぐったりとしたように腰をおろした。
二十四、五の、淋しい顔立ちをした女で、みなりはいやにけばけばしかったけれど、それが妙にそぐわなくて、むしろかえって、彼女の印象を淋しいものにした。
「お京ちゃん、どうかしたの。いやに元気がないじゃないか」
「ああ、お京はね、子供がはしかから肺炎を起して、死にそうになってんだってさ。ペニシリンを打てば助かるかも知れないと、医者がいってるそうだが、ペニシリン、安かアねえからな。ちっ、子供も、はしかも、ペニシリンも、みんな、みんな、鬼に食われてしまえだ」
酔っぱらいのサー公は、それだけいうと、テーブルのうえに顔を伏せて、グーグー、いびきをかきはじめた。
「ほんとに、のんきだよ、このひとは。このひとぐらい後生楽《ごしようらく》だといいね」
「そうでもないのよ。これでいろいろ苦労があんのよ。そいで、つい、酒を飲むんだが……おや、お京ちゃん、出かけるのかい」
「ええ」
お京はさびしく戸口に立って、
「あたし、とても、じっとしてられやしないわ。こんな晩、駄目だと思うけど……」
ふらつくような足どりで、夜霧のなかへ出ていった。
お京には二つになる男の子と、六十いくつになる老母がある。
男の子の父親は、彼女に子供をうませたものの、いっしょになることができなくて、ほかの女と結婚した。
その男はいま相当にくらしており、ときどき、お京に会いにくる。しかし、女房にかくれてお京にみつぐほどの腕はなくて、くるとただ、お京を抱いて、かきくどくだけのことである。
お京はそれでも、その男から全然捨てられるよりはましだと思っている。意気地のない、頼みにならない男だけれど、それでもときどき、会いにきてくれると張合いがあった。
はじめのうちお京は、いまの稼業をはじめたことを、できるだけ男にかくすようにしていた。しかし、いつまでもかくしおおせることではなかった。
間もなく男は気がついた。男はすまぬといって泣いた。しかし、それで、いくらかほっとしたらしく、そののちは、まえより足繁くやってきた。
くるとお京を抱いて泣くのである。ただそれだけの男だのに、お京は忘れることができなかった。
お京の母は、お京よりもっと古風でお人好しだから、男と手の切れてしまわないことを、却ってよろこんでいるふうである。
古風な彼女のかんがえでは、子供まである仲なのだから、いつかお京と、晴れて夫婦になってくれるだろうと思っているらしい。
その男がお京を愛していることはたしかである。しかし、その男はげんざいの女房をも同じように愛しており、その細君はいま、大きなお腹をかかえている。老母はそのことを知らなかったけれど、お京はよく知っているのである。
お京はその男からみついでもらおうとは思わない。しかし、子供の悪いときなど、いくらかでもたすけてくれたら。……
だが、お京はすぐそのかんがえをふり捨てた。
あのひとは子供なんか欲しくないといってたのに、あたしが勝手にうんだんだもの。子供のことは、全部あたしが責任をおわなきゃいけないわ。……
ガード下のくらい片側町を、お京は熱にうかされたような足どりで、ふらふらと歩いていく。濃い夜霧が、熱した頬を、手を、髪をしとどに濡らす。
霧のなかを、酔っぱらいらしい男が、肩をぶっつけるようにしていきすぎた。
「あんた、あそばない」
お京は機械的に声をかける。
酔っぱらいは、おや、というふうにもどってきて、お京の顔をのぞきこんだが、
「なんだい、その面ア……お通夜にいったような面アしてやアがる」
ぺっと唾を吐いていきすぎる。
これじゃいけないと気をとりなおして、お京がガード下まできたとき、ポンとうしろから肩を叩いたものがあった。
「おい」
と、ひくい、さびのある声で、
「あそばせてくれるかい」
「あら」
と、お京はうしろをふりかえると、
「すみません」
と、思わずしおらしい言葉が口をついて出た。夜の女の挨拶としてはかわっている。
お京はその男が、じぶんのあとをつけてきたことに気がついたのである。してみると、きっとじぶんが気にいってるのだろう。この男をはなしては……ペニシリン代がいるのである。
お京は男の胸にすがりつくようにして、
「ええ、いいわ。どっかへいきましょうよ」
全身の媚《こ》びをもってうったえた。
「うん、だが、こんなところで交渉するのはいやだ、もっとくらいところへいこう」
「ええ、じゃ向うの隅へいきましょう」
逃げられてはたいへんと、男の袖をとらえて、ガード横のくらいものかげへ入ると、男はすばやくあたりを見まわした。
長いレーンコートにすっぽりからだをつつみ、三角のフードを目深かにかぶっている。おまけに、レーンコートの襟を鼻のうえまで立てて、ボタンでとめているので、見えるものといっては、ただふたつの眼だけである。
お京はしかし、べつに気にもとめなかった。上客であればあるほど、ふたりきりになるまでは、顔を見せたがらないものである。
「おれ」
と、男は咽喉にひっかかったような声で、
「こんな遊び、はじめてなんだ。どうすればいいんだ」
「あら、そんなこと、むつかしいことでもなんでもないわ。お泊り? それとも……」
「うん、なるべくなら、終電車までに切上げたいんだが……」
と、女の顔色を読みながら、
「ことによったら泊ってもいい。そこは君しだいさ」
「ふふふふふ、泊ってらっしゃいよ。断然サーヴィスするわよ。ねえ、これくらいでどうお」
お京は男の手をとって、じぶんの指を握らせた。
「それで、泊りかい?」
「ええ、そう、ホテル代もひっくるめてよ。ねえ、あたしにまかせてよ。悪いようにはしないからさ」
「よし、じゃ、そうしよう。君のサーヴィスしだいで、もっとふんぱつしてもいい」
「あら、嬉しい」
「で、ホテルは?」
「東劇のすぐそばよ」
男がどきっとしたらしいのにも気がつかず、
「ねえ、リンタク、呼んできてもいいでしょ。この霧じゃ、とても歩けやアしないわ」
相手の返事も待たずに、お京がはしり出したとき、ガード下の向うの角へ、自動車がきてとまった。
おり立ったのは皓三とマチ子だった。
「この横町なのよ。モンテカルロという喫茶店なの。あなたもいっしょにきてくれる?」
「うん、いってもいい。だけど、うまくつかまるかな」
「たぶん、いると思うんだけど。……」
と、マチ子はあたりを見まわして、
「いつもなら、このへんに二、三人立ってるんだけど、今夜はこんな天気だから。……」
「とにかく、いってみよう。だけど、なかへ入るのはまっぴらだな」
「いいわ、まえまでいっしょにきてくれれば、あたしがなかへ入ってみるから」
「よし、じゃ、いこう」
自動車を待たせて、皓三とマチ子がガードのわきの片側へ入っていったあとへ、お京がリンタクをつれてかえってきた。
「さあ、あんた、お乗んなさいよ」
「どこまでいくんだ」
「だから、いってるじゃないの。東劇のそばの、ホテルQといううちよ」
「ホテルQ……?」
男の声がかすかにふるえたが、すぐ思いなおしたように、
「よし」
さきに立ってリンタクのなかへ乗りこんだ。お京もそのあとからもぐりこむと、すぐ運転手が幌をおろして、ゆっくりペダルを踏みはじめた。
霧のなかをいくリンタクが、ガード下をはなれて、交叉点《こうさてん》のあたりまでさしかかったときである。
つと、暗闇から出てきた男があった。無帽だけれど、黒眼鏡をかけ、レーンコートの襟を立てているので顔はよくわからない。
男はリンタクを見送って、はげしく身ぶるいをしていた。霧か汗か、額がギラギラひかっている。男は手の甲で額をこすると、
「畜生ッ!」
口のうちで鋭い舌打ちをして、それからいそぎあしに、リンタクのあとを追いはじめた。
皓三とマチ子が、ガードわきの横町から出てきたのは、それから間もなくのことである。
ふたりは手わけして、ガード下の霧のなかをさがしていたが、
「いないわね」
「客がついたんじゃないか」
「そうかも知れないわ」
「いったい、お京の巣というのはどこなんだい」
「東劇横のホテルQ、テルちゃんの殺されたところと同じよ」
「ホテルQ……」
皓三の顔がさっとまっしろになった。何かしら、不吉な思いが心の底をかきまわした。
「よし、いこう」
待たせてあった自動車にとびのると、
「おい、東劇のそばまでやってくれ。大急ぎだ」
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[#小見出し]  夜霧の底
深い夜霧のなかに、ホテルQの青い軒燈が、病人の息遣いのように、弱々しい明滅をつづけている。
そこだけがボヤッと明るくて、そのほかはいちめんの濃い霧だった。霧はときおり、乳色の渦をえがいて、ホテルQをめぐって流れる。
ガラス戸をひらいて、ホテルQの玄関から、一組の男女が霧のなかへ出て来た。
「おお、ひどい霧」
女がつぶやいて肩をすくめた。しかし、それきりあとは無言で、男と女は、思い思いの方角へ歩いていった。
用がすんでしまえばあかの他人の、そっけない二人の男女を、霧がみるみるうちに押しつつんでしまった。
かれらの姿が見えなくなったころ、自動車が一台きて、ホテルQのまえにとまった。なかから降り立ったのは皓三とマチ子だった。
ホテルQのガラス戸をみると、皓三はちょっとためらいを感じて、自動車のまえに立ちどまった。
「ぼくはちょっとまずいんだが……マネジャーに顔をおぼえていられると……」
「いいわ。じゃ、あたしがなかへ入ってきいてみるわ」
「いいのかい、間違われると恥をかくぜ」
「仕方がないわ。だって、大事な場合なんですもの」
「そう、じゃ、頼む」
「ちょっと待っててね」
マチ子はドアのなかへ駆けこんだが、すぐ失望したような顔をして出てきた。
「来ていないんですって」
「まだ……?」
「ええ、まだ途中かも知れないわ。ここで待ってましょうよ」
自動車のそばに立って、ふたりが立話をしているところへ、霧のなかから足音がちかづいてきた。男と女の足音である。
ふたりはきっと緊張して、足音のぬしが、光の輪のなかに現れるのを待っていた。自動車のヘッド・ライトを避けるようにして、男と女の姿が、ホテルQの軒燈のしたに現れた。
マチ子が一歩踏み出すと、女は顔をそむけるようにして、ホテルQの玄関のなかへ駆けこんだ。男がゆっくり、そのあとからつづいた。
「ちがってるの?」
「ええ」
マチ子が首を左右にふった。
皓三は咽喉の奥でひくくわらって、
「こんなところで張番をしてると、営業妨害になるね。おい、君、君」
皓三は自動車の運転手をよんで、何か耳打ちをした。自動車はすぐ、夜霧の向うに消えていった。
皓三とマチ子は、夜霧にぐしょ濡れになりながら、ホテルQのまえに立っている。
「遅いわね」
「遅いね」
「あれから、もう何分たって?」
「二十分」
「二十分……? 歩いたって、もうそろそろ着く時分だわね」
「どっか、ほかへいったんじゃないか」
「さあ。……」
霧は少しでもうすれるどころか、時がうつるにしたがって、いよいよ、濃く、ふかくなりまさっていく。
この時ならぬ天候異変が、皓三の胸に、ふいと、ドスぐろい不安の影をおとした。いつかの夜、テル代をさがして求めて、やっと居どころを突きとめたと思った瞬間、犯人に一歩先んじられたときの、あの真っ黒ないかりの想いが、腹の底からよみがえってきた。ひょっとすると、今夜もその二の舞いをふむのではあるまいか。……
男と女の一組が、ふざけながら、ホテルQのなかから出てきたが、皓三とマチ子のすがたをみると、あわてて口をつぐんで、霧のなかへ駆けこんだ。
「何よ、あれ」
霧のむこうから女の声がきこえた。
「どうせ、パン助さ」
「どうしてあんなところに立ってるの」
「交渉がまとまらないんだろ」
「いやアねえ、男がケチン坊なのね」
男と女の笑い声が、もつれ合いながら、霧のなかへ消えていった。
皓三はそれを聞くと、全身がかっと熱くなるのを感じた。
「おい」
と、夜霧のなかに、ほのじろくうかんだマチ子の横顔を見守りながら、
「ぼくがケチン坊だってさ。あっはっは、君の要求するとおり出すから、今夜、このホテルに泊ろうか」
冗談とも、真剣ともつかぬ言葉つきだった。
「いやなひと」
マチ子はつと、皓三のそばをはなれると、濃い霧のなかへ踏み出した。
「おい、どこへいくんだ」
マチ子は無言のまま、コツコツと夜霧のなかを歩いていく。皓三はあわててあとを追いかけた。
肩をならべると、相手の顔をのぞきこむようにしながら、
「おこったの」
「ううん、そうじゃないけど……」
「じゃ、どうして逃げ出すんだ」
「逃げ出すんじゃないのよ。なんだか心配になってきたから、お京さんをさがしにいくの」
「よし、いっしょにいこう」
ふたりは霧の海をわたって、三原橋のほうへ歩いていった。
皓三とマチ子が、三原橋をわたっているころ、お京とレーンコートの男を乗せたリンタクは、霧のなかを泳ぐように、ガタガタとあえぎながら、三十間堀の埋立地にかかっていた。
途中でいちど、リンタクが故障を起して、おそくなったのである。
「おい、ここはどのへんだい」
レーンコートの男が、ひくい声でたずねた。あいかわらず、三角型のフードを、目深かにかぶったままである。
お京は幌のなかから外をすかしてみて、
「三十間堀のへんらしいわ」
「ふむ」
男もじっと外をみていたが、
「ずいぶん深い霧だな」
「ええ、だんだんふかくなるばかりよ。一間さきとは見えやアしないわ」
「ふむ」
男はそれきり黙りこんでしまった。なんとなく、とりつく島のないような沈黙である。
テル代とちがって、どちらかといえば、ひっこみ思案で、淋しい気性のお京には、積極的にじぶんのほうから、男に働きかける才覚を持たなかった。
黙りこんだふたりを乗せて、きしむような音をたてながら、リンタクはよたよたと、霧のなかを泳いでいく。
「ねえ、君」
さっきから、しきりに幌の外をのぞいていた男が、ふいにお京のほうへふりかえった。
「なあに?」
男はちょっと口籠ったが、すぐ思いきったように、
「ホテルへいくなんて、無駄だと思うんだが……」
「あら、どうして……?」
お京はけげんそうに、男の顔を見直した。
男はちょっと言葉につまったかたちで、お京の眼を見返していたが、やがて、女の耳に口をよせると、何かはやくちにささやいた。
「まあ……」
お京は大きく眼をみはって、
「だって、そんなこと……」
「いいじゃないか。そうすればホテル代だけ浮くだろう。そのぶんをソックリ君にあげる。君だってそのほうが稼ぎになるはずじゃないか」
お京もちょっと心が動いたふうで、幌のなかから外をすかしてみながら、
「でも、大丈夫かしら」
と、ひとりごとのように呟いた。
「大丈夫だよ。この霧だもの、誰がこんなところをとおるものか。ね、いいだろう」
「うふふふふ、あんたも物好きなひとね。いいわ、あんたの好きなようにして頂戴」
押し殺したようなお京のしのび笑いが、リンタクの外までながれてくる。
「おい、君、君」
と、幌のなかから声をかけられて、リンタクの運転手は、ペダルを踏む足をゆるめた。
「へえ、何か御用で……?」
運転手は本能的に、幌のなかでおこなわれた交渉を知っていたが、わざと空とぼけているのである。
「すまないがね、君、この車をどこかひと眼につかぬところへ持っていって、とめてもらいたいのだが」
「へえへえ、ひと眼につかぬところへ持っていって、とめるんですか」
「ふむ。それだけのことはするからさ」
「へえ、じゃ、ホテルへいくのはやめですかい」
「ふむ、やめた。無駄だもの。それに、おれ、そうゆっくりはしていられないんだ」
「ようがす。姐《ねえ》さんさえ承知なら」
「むろん、この娘もそれでいいといってるんだ」
「そうですか、じゃ……」
運転手はあたりを見まわしながら、しばらくペダルを踏んでいたが、やがて車をとめると、
「旦那、このへんじゃどうでしょう」
「ひとが来やアしないか」
「大丈夫です。この霧ですもの。ひとが来たってわかりゃアしません」
「そう、じゃ、これ」
幌のなかから、革の手袋をはめた男の手がのぞいた。何枚かの紙幣をにぎっている。
「へえ、こりゃアどうも……」
この季節に、手袋をはめている男にたいして、運転手はちょっと淡い疑惑をかんじたが、べつにふかく、気にするほどのことでもなかったので、紙幣をうけとると、そのままポケットにつっこんだ。
「それじゃ、旦那、あっしは向うのほうで、張番をしながら、たばこを喫っておりますから、御用がすんだら呼んでください」
「ふむ、そうしてくれ」
運転手はリンタクの灯を消すと、十間ほどはなれたところへいって、たばこに火をつけた。
別に珍しいことでもないので、運転手は気にもならない。
ホテル代を節約するというよりも、一種の猟奇心から、こういう手を使う男がままあるので、運転手もなれているのである。
運転手は埋立地の瓦礫《がれき》の山に腰をおろして、ゆっくりたばこを喫っている。ふかい霧のなかに、運転手の喫うたばこの火が、蛍火のように明滅する。
うしろのほうでひとしきり、リンタクがきしむような音を立てていたが、間もなくそれがピッタリやむと、
「おい」
と、客の呼ぶ声がきこえた。
「おや、もういいんですか」
客はいつの間にかリンタクを出て、うしろ向きになって、幌をしめていた。
運転手はあわてて、たばこを捨てると、そのほうへ走っていった。
「うん」
客はそっぽを向いたまま、
「おれはここから歩いていく、この女は新橋まで送ってやってくれ」
そういい捨てると、そのままスタスタ、夜霧のなかへ消えていった。
運転手はちょっと、あっけにとられたように、客のうしろ姿を見送っていたが、別に深くも怪しまず、自転車にまたがると、ゆっくりペダルを踏みはじめた。
しかし、ものの五間といかぬうちに、うしろから呼びとめるものがあった。
「おい、君、君」
てっきり、いまの客がひきかえして来たのだと思って、自転車にまたがったままふりかえったが、そうではなくて、相手は無帽で、黒眼鏡をかけた男だった。
「へえ、何か御用で?」
男はちょっとためらったのちに、
「なかの客は大丈夫か」
「へえ、何んです?」
「いや、なかの客は大丈夫かといってるんだ。ちょっと調べてみてくれ」
「調べるって、何を調べるんです」
「客がどうかしてやアしないか……ちょっと声をかけてみてくれ」
運転手は不思議そうに、夜霧のなかに立っている、男の姿を見守りながら、
「別に、どうもするはずがないじゃありませんか。これから新橋まで送っていくんですが……」
「そんなことはどうでもいいんだ。なかの客が無事かどうか、調べてくれといってるんだ」
黒眼鏡の男は地団駄を踏むような調子で、みずから、幌のなかをのぞきながら、
「君、君、ちょっと、君」
声をかけたが返事はなかった。
「君、君……」
それから運転手のほうをふりかえると、
「おい、返事がないじゃないか」
「寝ているんじゃありませんか」
そうはいうものの、運転手も不安になったと見えて、自転車からおりると、
「もしもし、お客さん、ちょっと起きて下さい。もしもし」
しかし、返事は依然としてなかった。
運転手は黒眼鏡の男と、ふっと顔を見合せたが、
「どうしたんでしょ。そんなに急に眠るはずはねえが……もしもし、お客さん」
幌を外してなかをのぞきこんだが、
「あ、し、死んでいる!」
そのとたん、黒眼鏡の男は、身をひるがえして脱兎《だつと》の如く、夜霧のなかを駆け出した。
「人殺しイ……ひ、人殺しだ!」
運転手の声が、そのあとを追っかける。
「あら」
濃い夜霧のなかで、マチ子はふとそう呟いて足をとめた。
肩をならべて歩いていた皓三も、それに気がつくと、足をとめて、
「どうしたの」
「なんだか、変な声がきこえたような気がするんだけど」
「変な声って……?」
「人殺しイって、叫んでいたように思うんだけど……」
「人殺し……?」
皓三がギョッとして眼をみはったとき、深い夜霧の底から、また、ひとの叫ぶ声がきこえた。
マチ子は息をはずませて、
「ああ、やっぱりそうだわ。ねえ、人殺しイって、叫んでるんじゃない?」
「うん、よし、いってみよう」
皓三とマチ子は、暗い夜霧をついて、足早に突進していった。ふたりとも不吉なおもいに、咽喉がからからに乾いて、舌が上顎にくっつきそうであった。
叫び声は二、三度つづいてきこえたけれど、霧にこもって、はっきりどの方角ともさだめかねた。
それでも、声がしだいに間近かになるのを便りに、霧のなかを進んでいくと、道路のまんなかに、赤チャケた明りが、ボンヤリとにじんでいるのが見えた。
その明りをとりまいて、五つ六つの人影が、ワラワラと霧のなかにうごめいている。それをみると、皓三とマチ子は、思わず足をはやめてちかづいていった。
明りというのは、リンタクのへッドライトだった。リンタクのまわりには運転手とお巡りさんのほかに、通りがかりの野次馬が二、三人むらがっている。
リンタクの幌ははねられ、女がひとりぐったりとしているのが見えた。
お巡りさんが、懐中電燈の光を、その女の顔にあびせたとき、マチ子は思わず、二、三歩よろめいた。
皓三はすばやく、そのからだを抱きとめると、耳のそばに口を寄せて、
「しっ、黙って……何もいわないで……」
と、ささやいた。
お巡りさんは、懐中電燈の光で、女の首のあたりをしらべると、
「ふむ、ひどいことをしやがった。首の骨が折れている」
それをきくと、マチ子はまた、声を立てて叫びそうになった。
恐怖からくる戦慄《せんりつ》の発作が、はげしく彼女の全身をおそった。
皓三はたくましい左腕に、しっかりそのからだを抱きしめたまま、お巡りさんと運転手の押問答に耳をかたむけている。
「……へえへえ、それが、新橋のガード下なんです。その女が呼びにきたんでいってみると、男がひとり立っていましたんで……長いレーンコートに、三角の頭巾をかぶり、レーンコートの襟を鼻のうえまで立てていたので、顔のところは、てんで見えませんでしたが……いまから、考えると、はじめからそのつもりで、顔をかくしていたんでしょうが、なんしろ、この霧ですから、別に怪しいとも思わず……それで、二人を乗っけると、行先は、東劇のそばにある、ホテルQだというんです。……ホテルQ……こういう女が定宿にしてるところですから、あっしもよく知っていました。ところが、途中でいちど、車に故障を起して、ここまでくると男が呼びとめて……」
縷々とつづく運転手の申立てを、皓三とマチ子は霧の背後できいている。お巡りさんはヘッドライトの光をたよりに、手帳にメモをとっていた。
運転手は、それからの事情を手短かに物語ると、
「あっしも、どうも変だと思ったんです。少し早過ぎやアしないかとね。へっへっ、でもこっちにしてみりゃア、早過ぎるのはいくら早過ぎても構わねえわけで、男のいったとおり、女を乗っけたまま、新橋のほうへ引返そうしているところを、うしろから黒眼鏡の男に呼びとめられたんです」
それからまた、黒眼鏡との押問答の模様を、かいつまんで語ってきかせた。
「ふうん、すると、黒眼鏡の男は、はじめから、この女が殺されているということを、知っていたらしい節があるんだね」
「へえ、そうです、そうです。ひょっとすると、あとをつけて来たんじゃないかと思うんです。そのときは気がつきませんでしたがね」
「それで、その男は、レーンコートの男のあとを追っかけていったというんだね」
「へえ、女が死んでいることをたしかめると、畜生ッ、とかなんとか、口のうちで叫んで、一目散に、レーンコートの男の立去ったほうへ走っていきました。あっしもしばらく、そのあとを追っかけたんですが、なんしろこの霧で、とうとう見失ってしまいましたんで……」
「それはどっちの方角だったね」
「へえ、向うのほうで……」
皓三はマチ子の肩を抱いたまま、そっと五、六歩、霧のなかをあとずさりした。それからマチ子の耳に口をつけると、
「いこう、いまからじゃ、もう遅いと思うが……あれ、お京だろう」
「ええ」
マチ子はうめくようにいって、皓三に抱かれたまま、霧のなかを歩き出した。
霧はまた、ひとしお深くなった。夜霧の層は、刻々と濃度をまして、いまではもう、自分の周囲、二、三尺のところしか見透せない。まるで海の底を歩いているようなかんじである。
この濃い夜霧の底を、男がひとり歩いている。
長いレーンコートにすっぽりからだを包み、三角型のフードを、眉のうえまでかぶっている。
レーンコートの襟を、鼻のうえまで立てているので、顔のなかで見える部分といっては、ふたつの眼ばかりである。
夜霧の底で、ふたつの眼が、異様にギラギラ光っている。
コツコツコツ……
男はレーンコートのポケットに、両手をつっこんだまま、夜霧の町を、辻から辻へと歩いていく。あるときは小刻みに、あるときはゆっくりとした大股で。……
そして、ときおり、濃霧の壁のかなたに、じっと耳をすますのである。
コツコツコツ……
レーンコートの男は、さっきから、しつこくじぶんをつけてくる、足音のあることに気がついていた。
コツコツコツ……
じぶんが足を早めると、その足音も早くなる。じぶんが歩調をゆるめると、その足音もゆるくなる。
レーンコートの男は、いくどかうしろをふりかえった。しかし、濃い夜霧のために、相手のすがたを見定めることはできなかった。
さすがに、引返して、相手の正体をつきとめようとするほどの勇気は、レーンコートの男にもなかったのである。
霧はますます深くなる。その深い霧のなかから、コツコツコツとひびいてくる足音を、レーンコートの男は、まるで絞首台を組立てる、金槌《かなづち》の音のようにきいた。
コツコツコツ……コツコツコツ……
足音はあいかわらず、一定の間隔をおいてつけてくる。いまはもう、疑いの余地もない、誰かがじぶんをつけてくるのだ。
レーンコートの男は、走り出したい衝動をおさえるのにいっぱいだった。レーンコートのポケットへつっこんだ右手が、何かを砕けるばかりに握っている。眼がギラギラと光って、嵐のようにはげしい息遣いである。
レーンコートの男は、じぶんがいま、どこを歩いているのかそれすらわきまえなかった。しつこくつけてくる足音をまくために、夢中で霧のなかを歩きまわっているのである。
とうとう、たまらなくなったように、レーンコートの男は霧のなかを駆け出した。しかし、とある町角を曲ると、すぐ足をとめて、ピッタリとその背中を、淋しいビルディングの壁にもたせた。
眼が異様な兇暴さでかがやき、ポケットのなかで、何かを握った右手が、けいれんするようにふるえている。
町角の向うから、駆足でやってくる足音が、だんだんこちらへ近づいてくる。……
夜霧につつまれた町角へ、ポッカリとひとつの影が現れた。
町角までくるとその男は、足をとめて、夜霧の町を、あちこちと見まわしている。黒眼鏡をかけた男である。
ビルディングの壁に吸いついていた、レーンコートの男が、スルスルと蛇のように、その背後へはいよった。
レーンコートのポケットにつっこんでいた右手が、さっとあがったかと思うと、はっしとばかり、黒眼鏡の男の後頭部にふりおろされた。
グシャ!
日比谷公園のなかで、おチカという女が殺されたときと同じ物音だ。
濃い夜霧のなかに、黒いしぶきがさっと散って、黒眼鏡の男が声も立てずによろめくところを、二度三度、すさまじい打撃が加えられた。
黒眼鏡がこわれてとんで、男は骨をぬかれたように、くたくたとその場に倒れた。
レーンコートの男は、右手に、血に染んだスパナーを握ったまま、じっと夜霧のなかに耳をすましている。
どこにも人の気配はない。
レーンコートの男はほっとしたように、スパナーをその場に投出し、足下に倒れている男のうえに身をかがめた。そして、うつぶせに倒れている男をひっくりかえすと、カチッとライターをつけて、その顔をのぞきこんだが、そのとたん、
「あっ!」
と、いうような大きな驚きの声が、口をついて出た。
「こいつがどうして、じぶんのあとを……」
男の持ったライターの灯が、霧のなかではげしくゆれて消えた。
暗い夜霧のなかで、レーンコートの男は、しばらく失神したように立ちすくんでいたが、そのとき、町角のはるか向うから近づいてくる足音をきくと、弾《はじ》かれたように死体のそばをはなれた。
足音はしだいにこちらへ近づいてくる。それもひとりではないらしく、話声がきこえる。
レーンコートの男は足音をぬすんで、死体のそばから五、六歩はなれると、やがて、脱兎のように霧のなかを走っていった。……
それから間もなく、近づいてきた足音のひとりが、霧のなかで死体につまずいてよろめいた。
「あら!」
と、女の声で、
「こんなところに、誰か倒れているわ」
マチ子だった。
「酔っぱらいじゃないの、どれどれ……」
皓三がうつむいてライターを鳴らしたが、すぐ、
「あっ!」
と、いうような叫びをあげた。
「西沢だ。西沢が殺されている。……」
皓三はガチガチと歯を鳴らして、喘ぐようにつぶやいた。
「西沢……? 西沢ってだれ?」
「風間先生とこの同居人だよ。こいつも君たちをさがしていたんだ」
「あら、そこに黒眼鏡がおちているわ」
半ばこわれた黒眼鏡に、皓三も眼をとめた。
「それじゃ、さっき、お京殺しの犯人を追っかけていったというのは……」
「このひとじゃなかったの」
マチ子の声はふるえている。ライターの焔のなかにうきあがった彼女の顔は、恐怖のためにまっしろに色あせている。
「そうだ、西沢だったのだ。この男はきっと犯人を知っていたんだよ。知っていて、犯人を尾行していたんだ」
「そして、ここまで尾行してきて、逆に犯人に殺されたんじゃないの」
「そうかも知れない。いや、それにちがいない。犯人はもう、死にものぐるいになっているんだ。じぶんにとって、不利になりそうな人間は、かたっぱしから殺そうとしているんだ」
「まあ、怖い」
その兇暴な犯人の手は、じぶんのいのちをも狙っているかも知れないのだ。マチ子がふるえあがったのも無理はない。
皓三はライターをかざして、死体の周囲をさがしていたが、やがて血に染まったスパナーを発見した。
「これが兇器だね、なるほど、こいつでぐわんとやられちゃ、どんな人間だって、ひとたまりもありゃアしない」
マチ子はそのときはじめて気がついたように、
「ねえ、そのひと、ほんとに死んでるのでしょうか」
「それはもう……こう頭をぶちわられちゃ……」
「でも、もっとよく調べてみたら……手当てができるものなら、手当てをしてあげたら……」
皓三はだまってライターをマチ子にわたした。それからじぶんは身をかがめて、西沢の胸をひらきにかかった。
レーンコートのボタンをはずし、ワイシャツの胸をひらいて、西沢の心臓をしらべていたが、
「駄目、心臓は完全にとまっている。……おや」
「どうかして……?」
皓三は大きく息をはずませて、
「ちょっと、君、君……」
「何よ、何かあって……」
「これ……これを見たまえ、ここを……」
マチ子はライターをかざして、皓三の指さすところへ眼をやった。
それは西沢の右胸部だった。そこに大きな星型の傷があった。
風間啓介の名前をかたって、マチ子の妹、ヤエ子をだまして、死にいたらしめたのは、西沢だったのである。
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[#小見出し]  自 首
お京と西沢の死が、新聞記事になって出たのは、惨劇のあったつぎの日の、夕刊が最初だった。
学校からのかえりに、夕刊を買って、電車のなかでその記事を発見したとき、那須慎吉は、いっぺんに頬から血のいろのあせていくのを、じぶんではっきり意識した。強いショックが去ると、全身の血が凍るような、恐ろしさをかんじた。
記事の内容は、まだそれほど詳しくはなく、ただ、西沢がキャバレー・レッド・ミル事件の関係者であることをつたえ、ひょっとすると、この事件も、レッド・ミル事件の一環として、演じられた殺人ではあるまいか、というような臆測《おくそく》がつけくわえてあるだけだった。
慎吉は茫然たる眼差しで、その記事を読みおわると、本能的に、昨夜その時刻に、じぶんはどこにいたかと考えてみた。
昨夜は、地方の新制大学へ転任する友人のために、銀座裏で送別会があり、慎吉もその会に出席した。
会が果てたのは夜の九時ごろのことだった。慎吉はそれからひとりで、しばらく霧のなかを歩いてみた。
キャバレー・レッド・ミルはあの事件があってからも、同じように営業をつづけている。
慎吉はそのキャバレーの真向いにある酒場へ入って、ビールをいっぽん飲んだ。ある苦しい思い出のために、ビールは舌にほろ苦かった。
慎吉は酒場を出ると、すぐ眼のまえに、くるくるまわっている、ネオンの水車を、感慨ふかげに眺めた。霧のなかに回転する水車の色が、涙ににじんだようにぼやけていた。
慎吉はそれから、深い物思いに沈んだ恰好で、あてどもなく霧のなかを歩きまわった。
頭のなかに、何かしら、熱風に吹かれるような思いがあって、それが夜霧にあたると快かった。
慎吉が渋谷のうちへかえったのは、十一時を過ぎており、全身がぐっしょり霧にぬれていた。
お京や西沢が殺されたのは、いまから考えると、じぶんがあてもなく、霧のなかを歩きまわっていた時刻にあたる。
慎吉はそれに気がつくと、そばにいた乗客が、びっくりしてふりかえったほど、はげしくチリチリとふるえた。
「おかえりなさいまし」
玄関の格子をひらくと、足音をききつけて、いつものように泰子が出迎えたが、その顔色を見たとき、慎吉はすぐ留守中に、何かあったなと直感した。
何かしら、慎吉の胸をヒヤリとさせるような、硬張《こわば》った表情が泰子の顔にきざまれている。
「あなた」
むっつりとして書斎へいく慎吉を、泰子はあとから追っかけてくると、縋《すが》りつくような声で呼びかけた。
「…………?」
慎吉は無言のまま、泰子の顔を眺めている。
以前から、格別不和というのではないけれど、言葉少い夫婦仲だったのに、風間の事件が起ってからは、いっそう言葉数が少くなって、ちかごろでは、用事以外にはめったに口を利いたこともない。
ふたりとも、それをよいことだとは思っておらず、何んとかしてその埒を越えたいと思いながら、何かしら、胸につかえるものがあって、打ちとけて話しあうことができないのだった。
「今日、警察からひとが来ましたのよ」
慎吉はだまって、泰子の蒼白んだ顔をみつめていたが、やがてまえの椅子を指さすと、
「まあ、お掛け。西沢のことだろう」
「まあ」
泰子の眉間に、一瞬恐怖の稲妻が走った。
「あなた、それをどうして御存じなの」
「新聞で見たんだよ。夕刊にのっているんだ。それで刑事はなにを聞きにきたんだい」
「昨夜、あなたがおうちにいたかどうかというようなことを……」
慎吉はそうっと音もなく、椅子に腰をおろすと、ポケットからたばこを出して吸いつけた。マッチをするとき、その手がいちじるしくふるえているのを、泰子は恐怖にみちた眼でみつめている。
「それで、君は、なんと答えたの」
「なんてって。仕方がないから、ほんとのことを申しておきました。嘘をついたって、どうせわかることですし、それじゃ、かえって、あとあと悪いと思ったものですから……」
慎吉はそれをよいとも悪いともいわず、黙ってたばこを吹かしている。泰子のからだは、恐怖と不安で、ねじれるように歪んでいる。
「泰子」
しばらくしてから、慎吉がボソリとした声をおとした。
「いったい、君はどうしてぼくを疑いはじめたんだ。ぼくが風間の細君を殺したなんて疑いが、どうして君の胸にきざしたんだ」
「あたしはなにも……」
「いいや、泰子、今日はおたがいに率直になろうじゃないか。いや、もっと早く話しあったほうがよかったんだ。ねえ、泰子、誰がぼくのことを、君の心にふきこんだのだね」
「はあ、あの、それは……」
泰子はちょっとためらったのち、
「瀬川先生のおくさまが……」
「瀬川先生のおくさん……?」
何気なく聞きかえした慎吉の声は、しかし妙に語尾がふるえていた。
「瀬川先生のおくさんは、しかし、どうしてぼくを疑うんだい」
「瀬川先生のおくさまは、西沢さんから聞かされたんだそうです。西沢さんは西沢さんで、風間さんから、あなたのことを聞いたということでした」
「風間が……? ぼくを……?」
慎吉はどきっとした顔色だった。
「ええ、そうなんですって。風間さんは西沢さんを盛りつぶして逃出すまえに、あの晩のあなたのことを、しつこく訊ねていたそうです。それで、風間先生は、那須先生を疑ってるんじゃないかって、西沢さんが瀬川先生のおくさまに話したんですって」
慎吉は暗い顔をして、しばらくだまって考えていたが、
「それで君はそのことを信用しているのかい。ぼくが犯人だと思っているのかい」
「いいえ」
泰子は力をこめてきっぱりいったが、
「でも……」
「でも……? どうしたの」
「あたし、むろん、そんなバカなこと信じやアしませんわ。あなたが加奈子さんを殺したなんて、そんな……そんな……しかし……」
「しかし……?」
良人から追いつめられて、泰子は必死の思いで、きっと顔をあげると、
「あなたは、何かかくしていらっしゃるのね。何か、今度のことで、あたしにかくしていらっしゃることがあるのでしょう? あたしにはそれが心配なんですわ」
「ぼくが、何か、かくしていると、どうして君は思うんだい」
那須の声はしゃがれていて、額に、ねっとり汗がふき出している。
「それは、わかりますわ。あのじぶんから、あなたはすっかりお変りになって……飲みつけないお酒なんかおあがりになって……ねえ、あなた、はっきりいって下さい。あなたはほんとうにあの事件について、何も御存じないのですの」
「泰子」
慎吉はしずんだ眼の色で、妻の顔を視詰《みつ》めながら、
「こんな事件のあった際、疑われるということ自体が、疑われてる人間にとっては、致命的な打撃なんだよ。ぼくはね、君が疑いの眼をもって、ぼくを視詰めていることを知っていた。そのことが、ぼくを臆病にし、しどろもどろにしたのだ。君の眼に、ぼくの様子が変にうつったとすれば、たぶんそのためであろうと思うよ」
「いいえ、あなた、そればかりじゃありませんわ。あなたはきっと、何かほかに御存じなんですわ」
泰子が必死の思いで、慎吉の胸のなかをのぞこうとしているとき、女中が入って来て来客をつたえた。
「あの、風間さまがいらっしゃいました。風間啓介さまが……」
「風間が……?」
慎吉も泰子も、弾かれたように、入口のほうをふりかえった。
「おスミ、それ、ほんとに、風間かい。兄さんのほうじゃアないのかい」
「いいえ、風間啓介さんですわ。いつかいらしたことがありますから、あたしよく存じています」
おスミも事情を知っているので、いくらか硬張った顔つきだった。
「それで、風間、どんな様子なんだい。取乱しているような……」
「いいえ、そんなことございません。たいへん落着いていらっしゃいます。それに、若い御婦人のかたが御一緒のようです」
慎吉と泰子は顔を見合せた。
「ふむ、そう、それじゃともかく会ってみよう。向うへ……」
と、いいかけて、慎吉はちょっと考えて、
「いや、いっそ、ここへ通してもらおう。泰子、君もあってみるかい」
泰子はちょっとためらったが、すぐきっぱりとうなずいた。しかし、女中が出ていくと、さすがに心配そうに、
「あなた、気をおつけになって……」
「うん、なに、大丈夫だ」
慎吉も泰子もさすがに落着かなかった。
泰子はつと立上ると、椅子を楯にとるようにして、廊下のほうを視詰めている。
やがて足音がして、啓介のすがたが、書斎の入口に現れた。啓介の背後にひかえているのは由紀子だった。
三人のあいだに、一瞬、一種異様な沈黙がながれた。泰子は真っ蒼になって唇をかんでいる。
「いや」
啓介がやっと、咽喉にからまる痰を切るような音をさせて、口を切った。
「今日来たのは、敵としてやってきたんじゃないのだ。友人として、お別れにきたんだ」
「お別れ……?」
「ああ、そう、ぼくはね、逃げかくれしている自分の愚かさにやっとちかごろ気がついた。それで、これから自首して出ようと思っているんだが、そのまえに、ぜひとも君にあって、お詫《わ》びしなければならんと思ってやってきたんだ」
「ぼくに、詫びるんだって?」
「うん、ぼくはね、君を疑っていたんだよ。君がぼくをおとしいれるために、加奈子を殺したのだとばかり思いこんでいた。そして、そのことを西沢にもらしたことがあるんだが、いずれおしゃべりな西沢のことだから、きっとそのことを吹聴して歩いたにちがいない。あいつは、誰にでも、ひとに迷惑のかかることを、このうえもなくよろこぶくせのある男だからね。それで、君がさぞや迷惑したろうと、そのことについてあやまりにきたんだ」
慎吉は思わず泰子と顔を見合せた。
慎吉はしかし、啓介の真意をまだ測りかねて、
「しかし、そりゃア、風間君、どうして君はそんなに急に……」
「いや、べつにどうしてという、ハッキリとした理由はないんだ。ただ、ビクビクと逃げかくれているのが、いやになっただけのことさ。出るところへ出て、堂々と黒白をきめてもらいたくなった。それというのが、一ヵ月のチッ居生活で、ぼくの魂が健全になったためかもしれないね」
「そうおっしゃれば……」
泰子は眩しそうに、啓介の顔を仰ぎながら、オズオズと横のほうから口を出した。
「たいそう、お顔の色もよくおなりになって……」
「有難う、おくさん」
啓介は快活に笑って、
「あなたにも、いろいろ御迷惑をかけました。許して下さい。ぼくはね、あの時分、じつに不幸だったのです。いまから考えると、その不幸はみんなじぶんの心からきていたのですが、あの時分のすさんだ気持ちでは、そうは考えなかった。じぶんでじぶんの惨《みじめ》さを、誇張して、わざとその傷口を大きくして楽しんでいるというふうな、自虐的な感傷にひたっていたのです。そのために、君たち御夫婦にも、つまらない迷惑をかけました。自首するまえに、ひとことそれをお詫びしたいと思ったものだから。……では」
軽く一礼して、啓介がいこうとするのを、
「あっ、ちょっと……」
追いすがるように、泰子が呼びとめた。
「はあ、何か……?」
「あなたはいま、那須に対する疑いがとけたというようなことをおっしゃいましたね。それはどうして……」
啓介は皓《しろ》い歯を出してにっこり笑うと、
「おくさん、あれはぼくの妄想だったのですよ。アルコールに溷濁したぼくの頭が描き出した、幻想にすぎんのです。アルコールがさめて、落着いて考えると、そんなことはありうべからざることだと気がついたのです。ぼくは那須の性格はよく知っている。那須は直情派だから、しばしば世間から誤解をうけるが、それほど陰険な男じゃないのです。アルコールの酔いがさめて、眼のなかの埃《ほこり》がとれると、ハッキリそのことがわかった。だから、そのことについて、一言お詫びにあがったのです。さあ、由紀ちゃん、いこう」
「あの……そのかたは……」
「ああ、そうそう、忘れてた。紹介しましょう。こちら田代由紀子さんといって、逃避以来、ずうっと、ぼくの看護婦をしてくれたひとです。このひとが、ぼくの心のトゲを抜いてくれたのですよ。自首するのに、途中で勇気がくじけるといけないので、警視庁までついていってくれることになっています。では、失礼」
女同士はつつましやかに会釈をかわした。
那須はしかし、この会見の間中、暗い顔をしてうなだれているのだった。
第十七号調室を中心として、捜査一課は、昨夜から今日へかけて、ものすごい緊張ぶりである。
パンパンがまたひとり殺された。しかも、どうやらその犯人を尾行したらしい男が、それから間もなく、死体となって発見されたが、それはキャバレー・レッド・ミル事件に、ふかい関係をもつ西沢である。
と、いうことになると、当然、こんどの事件にも、キャバレー・レッド・ミル事件との関連性が考えられ、ひいては、いつかの西沢の、不吉な予言も思い出されるのである。
西沢はいつか、小田切警部補にむかって、こんなことをいったではないか。
「犯人はテル代という女を殺すまえに、彼女の口からふたりの女の名前をきいたかも知れない。しかも、テル代が死んだいまとなっては、われわれには絶対に、そのふたりが誰だかわかりません。だから、いまにもうふたり、女が殺されるかも知れないんです」
昨夜、殺されたお京というのが、西沢の予言した、ふたりのうちのひとりではあるまいか。……
捜査一課は、かくて昨夜から今日へかけて、ものすごい緊張ぶりなのである。
それにしても西沢は、どうして昨夜、あのリンタクを尾行したのか、かれはお京を発見し、お京を尾行していたのだろうか。
いやいや、それならば、西沢がいかに事件屋の小悪党でも、あらかじめお京に、注意をあたえておかぬという法はない。
ひょっとすると、西沢はむしろ、犯人のほうを尾行していたのではあるまいか。
西沢は犯人を知っていた。いや、知っていたとはいえぬまでも、ある人物に対して疑いを抱いていた。しかし、ハッキリ犯人であるという確信がないままに、ひそかにその人物を尾行していたのではあるまいか。
西沢という男の性格を知っているものなら、かれのこの行動は、いかにも自然で、うなずけるのである。
加奈子が殺されたとき、それを誰だか知っていながら、警官につげようともせず、あまり好意ももっていない啓介に、いちはやく報告にかえった西沢の性格は、犯人を知っていながら、それをひとに語ろうともせず、ひそかに自分で、確証をつかもうとしていたのではないか。
この、妙に秘密好きな、ひとにかくれて、コソコソやることの好きな小細工癖が、ついに、かれの身をほろぼしたのだと、いっていえないことはなかったであろう。
西沢が犯人を知っていたらしい。――と、いうことは、八方にとんだ刑事のつかんできた情報によって、しだいに確信がもたれてきた。
情報の第一は、いうまでもなく、西沢と同じ新聞社につとめている、写真部の吉岡の証言である。
「つまり、西沢がある人物……それが誰だか、いまのところ不明ですが、とにかく、ある人物に対して、疑いをもちはじめたのは、指紋かららしいのです」
警視庁、刑事部長の部屋なのである。
意外に大きくなったキャバレー・レッド・ミル事件のために、あらためて、捜査会議がひらかれた。
刑事部長、捜査一課長、係長、担当主任、それに関係各署の係官なども集って、活溌《かつぱつ》な討論が、いま、行われている。
小田切警部補は、自分の担当した事件が、意外に大きな波紋をひろげていくについて、少からぬ責任をかんじている。
キャバレー・レッド・ミル事件さえ、迅速に解決していれば、おチカからはじまって、西沢におわる四つの殺人事件は起っていなかったかも知れないのだ。
しかも、西沢の不吉な予言によれば、犯人の殺人スケジュールは、まだ、全部おわったわけではない。少くとももうひとり、犯人に命を狙われている女があるのだ。しかも、警視庁では、まだその女が誰だかわかっていない。
小田切警部補が、熱くなるのも無理ではなかった。
「西沢はある指紋に疑問をもったらしいんですね。どういうわけで、指紋に疑惑をいだいたのか不明ですが、その指紋というのは、どうやらハトロン紙の封筒についた指紋らしい。西沢はその指紋の現出法について、同じ社の写真部にいる吉岡という男に訊ねている。いや、訊ねているのみならず、その男から参考書や、いろいろな必要器具なども借りているんです。そのとき、西沢はもうひとつ、コップについた指紋の現出法についても、吉岡に訊ねているのですが、そのコップというのは……」
と、小田切警部補は流れる汗をぬぐいながら、
「どうやら、初七日の日に使ったコップではないかと思われるのです。風間家には、藤崎という、近所のおかみさんが、いつも手伝いにくることになっているのですが、その女の証言によると、風間家にはたくさんコップがあるにもかかわらず、初七日の日には、西沢がわざわざ、新しいコップを買って来て使わせたそうです。そのコップはいまでも残っていますが、それはなんの装飾もないノッペラボウのコップなんです。ところで、風間家に以前からあるコップは、いずれも唐草模様かなんかがカットしてある。つまり、そのコップではぐあいが悪くて、わざわざノッペラボウのコップを買って来て客に出させたというのは、コップについた指紋を調べようとしていたとしか思えないんですが」
「なるほど、そうすると、西沢に狙われている人物というのは、初七日の客のなかにあったわけだね」
一座にはちょっとした動揺が起った。
「そうです、そうです。初七日の日のことについては、藤崎のおかみさんがよく憶えているんですが、彼女のいうのに、その日、食事のまえに、男にはビール、女にはサイダーを出したそうです。そして、ビールがひととおりすんだら、日本酒にすることになっていたんですが、藤崎のおかみさんが、もう酒にしてよいかと訊ねにいくと、西沢が立って、さっとコップを集めたそうです。そして、みずからコップを持って座敷を出たというんですが、あとで藤崎のおかみさんが、台所へかえってみると、西沢が座敷から持出したコップは、どこにも見えなかったというんです」
「つまり、西沢はそのコップをどこかへかくしておいて、あとで指紋を調べようとしたんだね」
「そうじゃないかと思われるんです。吉岡という男の口ぶりによっても……」
「いったい、初七日の客というのは、どういう連中なんだい」
小田切警部補は手帳をひらいて、
「まず、風間啓介の兄の誠也、加奈子の兄の白井という男、加奈子の妹とその亭主の石田という人物、それから瀬川夫妻に那須夫妻と、そんなところです」
「すると、西沢が狙っていた人物も、そのなかにいるというわけだね」
「そうです、そうです。その翌日、吉岡が社で、指紋はどうだったと訊ねると、だいたいうまくいったと、西沢のやつ、ひどく満足そうな顔色だったといいますから、きっと指紋の現出に成功して、西沢は求める人物をさがしあてたのじゃないかと思うんです」
「なるほど、それで西沢のやつが、そいつを尾行しているうちに、実際に殺人事件が起り、西沢自身も殺されたということになると、そいつこそ犯人ということになるね」
「そうなんです。ところで、まえのテル代の場合といい、昨夜のお京の場合といい、犯人はあきらかに男ですから、さっき申上げたメンバアのなかから、女は除外してもよいと思います。と、なると、残るところは、白井、瀬川、那須、石田、それから、風間啓介の兄の誠也、この五人に限定されるわけですが……」
一瞬、一同はシーンとしずまりかえったが、そのとき、刑事部長の卓上電話のベルが、けたたましく鳴り出した。
刑事部長は受話器をとりあげて、ふたこと三言、なにかきいていたが、急にピクリと太い眉を動かすと、ガチャンと受話器をおいて、小田切警部補のほうへ振りかえった。
「小田切君、いま、キャバレー・レッド・ミル事件の捜査主任に会いたいといって、田代皓三という男がきてるそうだ」
刑事部長の一言に、捜査会議の席が、急にザワザワざわめきだした。
第十七号調室。
小田切主任のまえに、田代皓三とマチ子が腰をおろしている。部長刑事が二人に刑事が三人、いずれも緊張して、ものものしい空気がみなぎっている。むしろ、いちばん落着いているのは皓三だった。
マチ子はさすがに蒼ざめて、膝のうえでしきりにハンケチをもんでいる。
小田切主任は、咽喉にからまる痰を切ると、
「ええ――と、田代皓三君というんですな。職業はブローカーと。……で、そちらの方は?」
「鈴木マチ子、サンチャゴのダンサーです」
「ふむ、それで話というのは?」
皓三はまじまじと、小田切主任の顔をながめていたが、急に、にやりと笑うと、
「主任さん、あなたはぼくの名前を御存じのはずだ。赤坂の田代商事会社に張りこみがついてることは、ぼくもよく知ってますよ。今日は刀折れ、矢尽きて、警視庁の軍門に降りに来たんですから、そのつもりで、ひとつざっくばらんに願いましょう」
小田切主任は部長刑事と、素速い視線をかわしたが、それでもまだ用心ぶかく、
「なんだか、キャバレー・レッド・ミル事件について、話があるということだったが……」
皓三はあきらめたように肩をゆすると、
「ぼくはね、できるだけ簡単にやっつけようと思ってたんですが、あなたのほうで、そう用心されるんなら仕方がない。面倒でもはじめから話をしますが……たばこ、すっちゃいけませんか」
返事のかわりに小田切主任が、灰皿とライターを押しやった。皓三はいっぽん吸いつけると、
「ぼくがキャバレー・レッド・ミル事件の容疑者風間先生をかくまってることは御存じでしょう。その風間先生とも、昨夜よく相談したんです。本来ならば、西沢が殺されてるのをみたときに……」
小田切主任は大きく眼を見張ると、
「君は、西沢の殺されてるのを見たのかい」
「ええ、見ましたよ。このひとと……」
と、マチ子をふりかえると、
「お京という女をさがして歩いているうちに、西沢の死体にぶつかったんです。あれはおそらく、西沢が殺された直後のことだったでしょうね。そのとき、こいつはいけない。こうなっちゃもう、自分たちの手に負えない。すぐにも警視庁へ……と思ったんですが、風間先生に無断でそんなこともできません。そこで、ま、その場はそのままにして逃出したんですが、帰ってからみんなでよくよく相談して、結局名乗って出ることにしたんです。風間先生もそのうちにやってくるはずですが、ながらくお手数をかけてすみませんでした」
皓三は主任にむかってペコンとお辞儀をした。小田切主任はそれにむかって、何かいおうとしたが、そのとき、刑事がひとりあわただしく入ってきた。
風間啓介が由紀子に附添われて、自首してきたのである。
皓三とマチ子の出頭、それに啓介の自首は、警視庁の捜査陣に、大きなショックをあたえた。
ことに啓介の告白と、それを裏書きするマチ子の陳述は、いままでの捜査方針を一変させるだけの力を持っていた。
とりわけ、マチ子の陳述は、多大の興味をもって迎えられた。
ことに、あの夜、マチ子やテル代、それからお京の三人のほかに、男がひとり、啓介のあとを尾行していたという事実と、加奈子のお葬いの日、マチ子が啓介の冤罪《えんざい》をつげる手紙を投込んだという一事は、捜査当局の注目を強くひいた。
この陳述にもとづいて、あの日、風間家の受付けをつとめた青年が参考人として、呼出されたが、その陳述はピッタリと、マチ子の話と一致していた。しかも、かれはその手紙を、西沢に手渡したという。
それにもかかわらず、風間家の親戚で、誰ひとり、その手紙について聞いているものがないところをみると、西沢がその手紙を握りつぶしてしまったとしか思えなかった。
さらにまた、その手紙が、ハトロン紙の封筒におさめられていたということが、当局の注目をひいた。
ハトロン紙の封筒――それこそ、西沢が指紋を現出しようと試みた封筒ではあるまいか。どういう理由でか、西沢はその封筒に犯人の指紋がついているものと考えた。しかも、西沢の考えていた犯人は、初七日の客のなかにあったのである。
こうして、西沢の奇怪な行動の意味が、しだいに判明してくるにつれて、啓介に対する容疑は、根本からくつがえらざるを得なかった。
そして、捜査は改めて、白紙にもどってやり直さざるを得ないことになったのである。
「いや、たいへんなことになりましたな。しかし、そんなことなら、はじめから逃げかくれしないで、ありのままを話していただければよかったのに」
幾度かの取調べののちに小田切主任が渋面をつくって、啓介を責めると、啓介は悄然として、
「まったく、そのとおりでした。ぼくが臆病だったばっかりに、少くとも、四人の人命が失われたのです。その点については、どんなに責められても仕方がありません」
その翌日の朝刊に、啓介の自首が大きく発表されたが、警視庁ではわざと、かれに対する容疑を、白とも黒ともほのめかしていなかった。それのみならず、皓三やマチ子の陳述についても、一言も触れてなかった。
長いあいだ、間違ったみちを手探りで歩いていた捜査陣は、ようやく軌道に乗ったみちを、用心ぶかく、確実に歩みはじめたのである。
それから数日間の、無気味な、一切の沈黙が、そのことをよく物語っていた。
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[#小見出し]  夜の恐怖
環状線が終電車近くになって、有楽町からひろっていく客といえば、ほとんど、夜の女かダンサーに限られているという。
一度とぎれたラッシュが、その時刻になると、そういう客でまたぶりかえすのだが、ことにその夜は、秋葉原へんで線路に故障があったとやらで、品川まわりの電車がしばらくこなかったので、有楽町のプラットフォームは、たいへんな混雑ぶりだった。
プラットフォームにぎっちり詰まったひとごみに、揉まれ揉まれて、マチ子はひとり立っている。
二、三日ホールを休んだマチ子は、明日からまた出るつもりで、今日、挨拶にいったついでに、銀座を散歩して、ついおそくなってしまったのである。
プラットフォームの拡声器が、しきりに電車のおくれることをわめいている。それにつれてブツブツ不平をこぼすもの、怒鳴るもの、心配して泣き出すもの、フォームの喧騒はしだいにはげしくなってくる。
環状線の沿線に家のあるものはまだよかったが、さらにそれから私鉄に乗りかえねばならぬものは、それに乗りおくれる心配があるのである。
「おれゃアもう諦めたよ。目黒からまたリンタクだ」
「リンタクのあるやつはまだいいよ。おれはどうしてくれるんだ。渋谷で立往生してしまっちゃ目も当てられねえ」
「歩くさ、また。今夜はさいわい、いい月夜だぜ」
自棄半分に男たちがわめいている。マチ子は田町でおりるのだからよかったけれど、ほんとにこんなとき、郊外住居の女はどうするだろうと、ぼんやりそんなことを考えているうちに、客のかずはますますふえて、プラットフォームは身動きもできなくなった。
じれて、いきりたったひとびとの怒号が、フォームに満ちて、いったい、どうなることかと思われるくらいである。
そのころになって、やっと電車が、神田駅を出たという放送があった。それでわっとプラットフォームが湧き立ったが、マチ子はそのとき、うしろから誰かが強く、自分のからだを押すのをかんじた。
はじめのうち、マチ子は気にもとめなかったが、彼女を押す力はしだいに強くなってくる。それは単に、雑沓《ざつとう》に押されて、順繰りにまえへ押しているのだとは思えなかった。
誰かが自分を押している。……
マチ子はうしろをふりかえってみようとしたが、ひどいひとごみで首もまわらない。
マチ子はいつの間にか、プラットフォームの最前列に出ていたが、そこへ東京方面から電車が驀進《ばくしん》してきた。
と、そのときだ、誰かがいきなり、どんと強く彼女のからだをまえへ突きとばした。
「あっ!」
マチ子のからだは宙にういた。足がプラットフォームをはなれて、彼女は線路のうえをななめに泳いだ。
そこへ電車がまっしぐらに驀進して来た。
そのとたん、
「危い!」
誰かが叫んで、がっきり彼女の右腕をとらえてくれた。
宙にういた彼女のからだを、急いでプラットフォームのうえにひきずりあげた。
そこへ電車が来てとまった。
マチ子は一瞬の恐怖のために、心臓が氷のように冷えていた。しばらくは口も利けなかった。全身にビッショリと汗だった。
「あの……すみません、有難うございました」
「いいえ、別に……」
マチ子を救ってくれたひとは、色の浅黒い、痩せぎすの紳士である。そのひと自身、真っ蒼になっているように思われた。
マチ子は自分を押した男をみようとして、うしろをふりかえったが、芋を洗うようにつめかけた男のなかから、どれがじぶんを突いた男なのか、発見することはむずかしかった。
降りるひと、乗るひとで、マチ子はじぶんを救ってくれた紳士さえ、たちまち見失ってしまった。
ところが、そういう様子をさっきから、少しはなれたところから、じっと視詰めている男がひとりあった。その男はマチ子のあとから電車に乗ると、田町でマチ子といっしょに降りて、彼女がアパートへ入っていくまで見とどけて、それからハイヤーを見つけて警視庁へやってきた。
警視庁の第十七号調室には、まだ小田切主任が詰めていた。
小田切主任は入ってきた男の顔を見ると、ドキッとしたように腰をうかした。
「何かあったの、田代君」
皓三は帽子をとって汗をぬぐうと、
「ああ、驚いた。もう、ちょっとのところで、危くマチ子を殺されるところでしたよ」
「いったい、どうしたんだい」
皓三は手短かに、さっきのプラットフォームのエピソードを語ってきかせると、
「とにかく、誰かがマチ子を突いたことはたしかです。何しろあのひとごみですから、誰が突いたかわかりませんがね。こうなると、マチ子の尾行をしているだけじゃ駄目かも知れない。そばへくっついていなけりゃアいけませんよ」
小田切主任はじっと歯をくいしばっている。皓三はたばこを吸いながら、うつろな笑いをうかべて、
「それにしても、あのときマチ子の隣りに立っていた人物が、つかまえてくれたからよかったものの……ところで主任さん、その人物を誰だか御存じですか。刑事さんがその男を尾行していきましたがね。ぼくは尾行するまでもなく、ちゃんと知っているんです。那須ですよ。那須慎吉なんです」
渋谷で電車をおりた那須慎吉は、くらい夜道を歩いている。
那須の家は一高にちかいところにあり、戦災をうけるまえでも、途中のみちの、ずいぶん淋しいところだったが、戦後はそれがいっそう淋しく、物騒になっている。
さいわい天気がよくて、空には星屑がいっぱい散らかっているが、月はどこにも見えなかった。
途中までは、同じ電車できた連中が、あとになりさきになりしていたが、その連中もしだいに姿を消して、やがて那須ひとりになった。それでも那須は、別に淋しいとも思わず、うつむき加減にコツコツと歩いている。
淋しいとか、物騒だとかかんじるには、那須の心はあまりにも大きな物思いにとざされているのだ。
さっき、有楽町のプラットフォームで起った、あの小さいエピソードを思い出すと、那須は心臓につめたい刃を擬《ぎ》されたようなかんじだった。
一瞬のできごとだった。あのできごとに気がついたのは、おそらくまわりにいた、二、三の人々に過ぎなかったであろう。しかし、その連中とても、あのできごとの、ほんとの恐ろしさに気がついたであろうか。
あのときもし那須が、あの女の腕をとらえてやらなかったら、明日の新聞にはきっと、交通地獄によるあわれな犠牲者として、あの女の轢死《れきし》がつたえられたであろう。
那須は肩をすぼめてぶるると身ぶるいをする。そして、ああ、酒が飲みたいと思う。那須のしずんだ顔には、一種異様な光が沈潜していた。
那須はふいに、おやと歩調をゆるめた。心臓がにわかにガンガン鳴り出した。全身からジリジリと汗がふき出してきた。
誰かがあとをつけてくる。……
那須はつとめて落着いて、ふつうの歩調をたもとうとする。しかし、ともすれば、一目散に駆け出したい衝動にかられる。口がからからに乾いて、舌が上顎《うわあご》にくっついてしまうかんじだ。
誰かがあとをつけてくる。……それはもう妄想でも、気の迷いでもない。ある一定の間隔をたもって、その人物はあせらず、急がず、ゆっくりと那須のあとからついてくる。
那須は救いを求めるように、道の向うをすかしてみる。誰かくればよい。……那須の願望はとどけられた。突然、向うの横町から、つと、ひとつの影があらわれた。その男は急ぎあしに、那須のほうへちかづいてくると、風のようにすれちがった。
と、そのとたん、あっと口のうちで叫んで、那須は本能的に、地面に身をしずめた。
かちっ!
何やら固い音が、すぐうしろの地面を叩いた。
「あっ!」
と、叫ぶと、相手は身をひるがえして、すぐそばの横町へ駆けこんだ。
風のように横町を駆けぬけていく足音に耳をすましながら、那須がほっとして起きなおって、泥をはらっているところへ、うしろからつけてきた男が、足早に駆け着けてきた。
「どうかしましたか」
那須は一種の身構えをしながら、星明りに、相手のすがたをすかしてみて、ああ、刑事だったのかと、胸をなでおろした。那須には刑事が尾行している理由がわかっているのである。
「いえ、別に……ちょっとそこで躓いて……醜態でした」
「いま、誰かここにいたようじゃありませんか」
「ええ、誰かこの近所のひとでしょう」
刑事はさぐるような眼で、那須の顔を視詰めたのち、二、三歩横町のなかへ入っていったが、どこにももう人影は見えなかった。
刑事は諦めたように、那須のそばへかえってきたが、何か固いものを踏みつけて、
「おや」
と身をかがめて拾いあげた。
「これはなんです」
刑事の詰問するような調子に、何気なく刑事の手にあるものを見たとたん、那須は骨をえぐられるような恐怖をおぼえた。
スパナーであった。
那須はさっき、本能的に身をしずめた刹那、かちっと、何やら固いものが、背後の地面をうつのをきいたのを思い出した。
那須を襲撃した人物は、あやまって大地を叩いて、手のしびれから、スパナーをはなして、それを拾いあげるひまもなく逃げ出したのだろう。
「スパナーですね」
那須はじぶんの後頭部が、ざくろのようにはじけるところを想像しながら、それでもできるだけさりげなく答えた。さすがに声のふるえをどうすることもできなかったけれど。……
「スパナーはわかっています。私のききたいのは、どうしてこんなものが、ここに落ちていたかということなんです。あなたが落したんじゃないんですか」
「とんでもない、ぼくがスパナーなどをどうするんです」
刑事は疑いぶかい眼で、まじまじと、那須の顔を見ながら、
「お宅はこの近所ですか」
「ええ、すぐそこです。那須慎吉といいます。なんならいっしょについてきて下さい」
那須はさきに立って歩き出した。
刑事はハンケチでていねいに、スパナーをくるむと、それを持ったまま、那須のあとからついてくる。
おお、何んということだ。さっきのあの恐ろしい出来事を、知っているのは星だけである。
「おかえりなさいまし」
那須の足音に、なかから玄関をひらいた泰子は、門の外に立っている男を見て、
「あら、お客さま?」
「いいや、いいんだよ。玄関をおしめ」
那須はぐったりとしたように、沓脱ぎに腰を落すと、大儀そうに靴の紐をときはじめる。
刑事は門柱の表札を、懐中電燈であらためると、安心したように立去った。ガラス格子のなかから、その足音に耳をすましていた泰子は、不安そうに那須を見た。
「あなた」
「うん」
「いまのひと、どういうひと」
「なアに、刑事だよ」
「まあ!」
泰子はおびえたように眼をみはったが、那須はそれには構わずに、スポン、スポンと靴をぬぐと、そのまま書斎へ入っていった。
泰子は玄関の戸じまりをすると、追っかけるようにして、那須のあとから書斎へ入っていったが、那須は安楽椅子に腰をおろして、放心したように床を視詰めている。
「あなた」
「うん?」
いかにも大儀そうな返事である。
「何かあったんですの。お顔の色が真っ蒼よ。あら!」
泰子は良人のズボンに眼をとめて、
「まあ、どうなすったの、ズボンが泥だらけよ」
「なアに、転んだんだよ。なんでもないんだ。泰子、そこの戸棚にウィスキーがあるから出してくれ」
泰子の瞳にうかんだおびえの色は、いよいよ深くなってくる。
ウィスキーを注ぐ良人の手つきを視詰めながら、
「あなた、ほんとに何かあったのならいって下さい。このままじゃ、あたしとてもやりきれない。あなた、何をそんなに考えていらっしゃるの。ねえ、なぜ、何もかもあたしに打明けて下さらないの」
那須はひといきに呷《あお》ったウィスキー・グラスをおくと、はじめて泰子のほうに眼をむけた。その眼がうっすら、涙にぬれているのを見ると、泰子はドキッと眼を見張った。
「あなた!」
「ううん、なんでもないんだ。ただ、いっておくがね。泰子、君は当分、外出しないほうがいいよ。やむを得ない場合には、おスミをつれていくんだね。それから、どんなことがあっても、夜は決して外へ出ちゃいけないよ。夜は怖い。夜は恐ろしい。夜は物騒だよ」
那須はまた、ウィスキー・グラスになみなみと注ぐと、ぐっとひといきに呷った。そして泰子がなんといっても、書斎から出ようとはせず、いつまでも、いつまでも安楽椅子に坐っていた。
夜の底を凝視し、夜の底にうごめく、影の恐怖におののくものは、那須慎吉ばかりではなかった。
田町のアパートの一室に、身を横たえているマチ子も、夜の恐怖におののくひとりである。
マチ子のアパートはドアに鍵がかかるようになっているけれど、なかは畳敷きである。
マチ子はぐったりとした体を、粗末な夜具に横たえているが、もし、誰かひとがあって、彼女の部屋をのぞいたら、きっとびっくりして眼をみはるだろう。
鍵をかけたドアの背後には、ありとあらゆるガラクタ道具が、つんである。それがマチ子の防塁なのだ。それほど用心していても、今宵のマチ子は、なかなか瞼《まぶた》があわなかった。
さっきのあの恐ろしい思い出が、火のように頭のなかに渦巻いて、かえってあの瞬間より、恐怖の思いは強くなっている。
驀進してくる電車、そのまえに宙にういたじぶんの体、誰かの叫び声……そういうものが熱した頭に渦巻いて、時がたつにつれて、かえってその印象は鮮明だった。
「決して心配したり、怖がったりすることはないんだよ。君の周囲には、いつもぼくがついているからね。誰にだって指一本ささせやしない」
皓三はいつかそう耳もとでささやいたし、事実今夜なども、アパートまで見えがくれに送ってくれたようだ。
しかし、それほどの警戒でも、及ばぬ場合があるのではないか。たとえばさっきのプラットフォームの事件のような場合。……
一年は三百六十五日ある。そして機会はいたるところにあるだろう。……
誰かが足音をしのばせて階段をあがってくる。足音はマチ子の部屋のまえでとまった。コツコツと、あたりを憚るようなノックの音。
寝床のなかで、マチ子の体がさっと熱くなった。
「誰……?」
「ああ、よかった。起きてたの? あたしよ、カツミよ。ここあけて……」
同じダンスホールのダンサーだった。
マチ子はほっとして寝床を出ると、それでもまだ用心ぶかく、
「どうしたのよ、いまごろ……?」
「電車がなくなっちゃったのよ。泊めてよ、お願いだから」
マチ子は部屋のなかの電気をつけると、
「ええ、いいわ。だけど、あんたひとり?」
「ええ、ひとりよ。どうして?」
「そこらに誰もいないわね」
「ええ、あたしひとりよ。誰もいやアしないわ」
障礙物をのけてドアをひらくと、入ってきたカツミは眼をまるくした。
「まあ、どうしたのよ。これ?」
「ううん、なんでもないの。こっちへいらっしゃいよ」
「だって、ずいぶん用心堅固じゃないの。何かあったの」
「そうじゃないけど、なんだかちかごろ心細くて……」
「あんた、神経衰弱じゃない? なんだか顔色が悪いわよ」
「そうかもしれないわ」
マチ子は淋しく頬をなでた。
「休んでるからよ。ホールへ出ていらっしゃいよ。そうすれば少しは気が晴れるわ」
「ええ、あたしも明日から出ようと思ってるの。いつまで休んでてもきりがないんですものね」
「うん、それがいいわ」
カツミは畳に足を投げ出すと、大きなあくびをして、
「ああ、眠い、あんた寝てたんでしょ。あたしも寝かせてよ。なんだか眠くてたまらない」
「ええ、どうぞ」
マチ子が床をのべてやると、カツミはさっさと服をぬいで、シュミーズ一枚でもぐりこんだが、
「そうそう」
と、思い出したように、マチ子のほうへ向きなおった。
「今日、こっちへ誰かお客さん、こなかった?」
「いいえ、どうして?」
「ううん、昨夜、あんたのことをきいてたひとがあったからさ」
「あたしのことを? どういうふうに?」
マチ子はドキッとした。
「あたし、ちょっとびっくりしたわ。だって、昨夜、ホールからのかえりに、淋しいところでだしぬけに呼びとめるんですもの。強盗かと思ったわ。そしたら、あんたのことを訊ねるのよ。それでちかごろ休んでいるというと、住居はどっちだの、家族はいるかだのと、根掘り葉掘り訊ねるのよ。あれ、あんたのお馴染み?」
「どんなひと、それ?」
「どんなひとって、暗いところだったからよくわからなかったわ。黒眼鏡をかけた、がっちりとした体格の男よ。そうお。明日にも訪ねていくような口ぶりだったけど、こなかった?」
マチ子はいよいよ怯《おび》えた気持ちで、なおもカツミに男のことを、詳しく訊ねてみようとしたが、カツミの返事はしだいにいいかげんになり、間もなく、すやすや寝息がもれはじめた。
マチ子はまた、ひとりぼっちの孤独の恐怖のなかに取り残されたが、そのとき、階下でけたたましい電話のベルがしばらくつづいて、それから管理人のおかみさんのつっけんどんな声がきこえた。
「鈴木さん、お電話よ、田代というひとから……」
「ああ、マチ子君だね、ぼく、田代」
電話の向うからきこえてくる、皓三の太いバスの声をきいたとき、マチ子は肚の底から、あたたかいものが吹きあげてくるのをかんじた。
ちかごろ、接触をふかめるにつけて、しだいに相手に対する信頼感をましていたマチ子だけれど、このときほど、皓三の声をたのもしくきいたことはなかった。
「ああ、田代さん」
と、いったきり、すぐには言葉がつづかなかった。何かしら熱いものが、咽喉にこみあげてきて、声が出なかったのである。
皓三はそれを慰めるように、
「さっきはたいへんだったね、ぼくもゾッとしたよ。でも、いいあんばいに助かってよかった。ところで今夜だがね、ひとりで大丈夫かい。なんなら、ぼくが出向いてもいいのだが……」
「いえ、あの……」
とマチ子はちょっと口籠ったのち、
「いいあんばいに、お友達がきて泊ってるのよ。だから、今夜は大丈夫と思うんだけど……」
「お友達? 大丈夫だろうね、そのひとは?」
「大丈夫よ。ダンスホールのお友達なんだから……だけど、そのひとから、さっきちょっと妙なことをきいたのよ」
マチ子は手短かに、さっきカツミからきいた話をした。皓三はそれをきくと、しばらく黙っていたが、
「実はね、ぼくはいま小田切さんと話をしているんだが、いっそのこと、君のことを発表してしまおうかといってるんだ」
「発表するって?」
「つまり警視庁で君を保護してるってことさ。さっきみたいなことがあると、どんなに護衛をつけておいたところで、取りかえしのつかぬことが起りうる場合があるからね」
マチ子はちょっと考えて、
「でも、そうすると、犯人をつかまえるのがむずかしくなるんじゃない?」
「それはそうだけど、もしものことが起ると人道問題だからね」
マチ子はまた考えていたが、やがて語気を強めて、
「田代さん、そのことなら考えないで頂戴。あたし、やっぱりこのまま囮《おとり》の役をつづけるわ。あたしだってくやしいんですもの」
「しかし、マチ子君、こりゃアいのちがけの仕事だぜ。いまさら、いうまでもないことだけれど……」
「いいのよ、いいのよ。構わないのよ。その代り、田代さん、あなた、いつもあたしのそばにいて……あたしから眼をはなさないでいて……」
「それはもちろんのことだけれど……」
「それならいいの。それでいいの。小田切さんにもよくそのことをいっておいて……」
マチ子はいつか、泪《なみだ》であたりのぼやけてくるのをかんじていた。……
[#改ページ]
[#小見出し]  最後の火華
昨夜ああして電話のうえで、マチ子の覚悟のほどはきいたものの、皓三はやっぱり心配だった。
マチ子はあくまで、犯人をおびきよせるために、囮の役をつとめるという。しかし、それがいかに危険な仕事であるかは、昨夜のプラットフォームの事件でもわかるのだ。
皓三はもう一度マチ子を説いて、この危険な仕事から、手をひくように、忠告しようと思いなおした。小田切主任もそのほうがよいといっている。彼女の助力なしでも、きっと犯人をあげてみせると意気ごんでいる。
それにはキャバレー・レッド・ミル事件と、パンパン殺しや、西沢の事件との関係を明かにし、マチ子を表面に押出すことが第一である。
そうなれば犯人も、マチ子に手を出すことはひかえるだろう。なぜならば、犯人がマチ子をねらっているのは、警視庁でまだその関係に気がついていないものと考えているからであり、警視庁がそれを知るまえに、彼女を闇から闇へ葬ってしまおうとしているのだから。
むろん、犯人がすべてを知って、マチ子から手をひくとなると、捜査はそう簡単にいかなくなるかも知れない。どの事件の場合にも、犯人はほとんど物的証拠をのこしていないのだ。
西沢の事件の際に、遺留されたスパナーにしても、犯人がどこからか盗んできたものかも知れないし、確定的な証拠にはなりかねた。
しかし、それかといって小田切主任も、マチ子をいつまでも、危険な立場においておくわけにはいかなかった。今は、新聞記者にむかって、かれは一切の事情を公表しようと決心している。
皓三はそのことをつたえるために、正午少しまえに、田町のアパートを訪れたが、マチ子の部屋には厳重に鍵がかかっており、しかも、ドアの外からいくら呼んでも返事がなかった。皓三はふいとはげしい胸騒ぎをおぼえた。
マチ子はちかごろ、皓三が顔を出すまで、決して外出しないことにしているのである。
皓三がやって来て、かれの見えがくれの護衛をたしかめてから、はじめてその日の行動を起すことになっている。しかも、昨夜のようなことがあった今朝、彼女が無断で部屋をあけるはずはない。……
皓三はふいに足下から、大きな音を立ててくずれるような不安をおぼえた。かれは大急ぎで階下へおりると、管理人の部屋へとびこんだ。
「鈴木さん? いいえ、お出掛けになったようではありませんが、ドアに鍵がかかっているとすれば、私どもの知らぬ間に、お出掛けになったのかも知れませんね」
「とにかくドアをあけてくれたまえ。こちらに合鍵が保管してあるんだろ」
せきこんだ皓三の顔を、不審そうに見ていたが、かねてから鼻薬がきいているので、管理人もいやな顔はしなかった。合鍵でマチ子の部屋をひらいてくれたが、なかはもぬけの殻だった。
管理人はしかし、別に驚いたふうもなく、
「やっぱりお出掛けらしいですね。いつ出掛けたのか、ちっとも知らなかったが……」
この部屋のなかに、恐ろしい情景を予想していた皓三は、ほっとしたように額の脂汗をぬぐったが、しかし、考えてみると不安は去らない。誰にも知らさず、マチ子はいったいどこへいったのか。
「ねえ、君、これはおかしいよ。鈴木君はね、ある事情があって、ぼくがくるまで、絶対にひとりで外出しないことになっているんだ。それを君に無断で出ていくなんて、誰かつれがあったのかしら……」
と、ここまでしゃべってきて、皓三はハッとあることに気がついた。
「そうそう、昨夜、鈴木君のところへ友達が泊ったってね」
「へえ、お泊りでしたよ。電車がなくなったとかで、夜おそくやって来たんです」
「その友達は今朝かえったの?」
「へえ、朝早く……九時ごろでしたろうか」
「鈴木君はその友達といっしょに出掛けたんじゃない?」
「いいえ、そんなことはありません。そのひとが出ていくときにゃ、私ゃちゃんと見ていましたよ。ええ、自動車が出ていくところまで見ていましたが、鈴木さんはいっしょじゃありませんでした」
「自動車で……? その友達というのはいったいなんだい?」
「同じダンスホールのダンサーですよ。まえにも二、三度、終電車がなくなったからって、泊りにきたのをおぼえてます」
「ダンサーにしちゃ、しかし、ゼイタクじゃないか。朝っぱらから自動車を走らせるなんて……」
「いえ、それがね、大きなトランクがいっしょだったものですから」
「トランク?」
と、皓三は眉をひそめて、
「おい、おい、君、その友達というのは、昨夜電車がなくなったといって、やって来たんだろ、それがトランクを持って来たというのはおかしいじゃないか」
「いえ、トランクはそのひとのものじゃないんです。鈴木さんがかしてあげるんだという話で……」
「それじゃ、君、今朝、鈴木君に会ったの?」
「ええ、会いましたよ。ハイヤーを呼んでくれといって来たんです。それで、どこかへお出掛けですかと訊ねると、いや、そうじゃないが、友達が大トランクをかしてくれというから、かすことにしたが、とてもかついじゃいけないからと……」
「そのトランクというのは、もしや、いつも押入れのなかにあった、あの、バカでかいやつじゃない?」
「ええ、そうです、そうです」
皓三はふいに、何んとも名状することのできない不安が、ムラムラと肚の底からこみあげてくるのを感じた。
「君、君」
皓三はこみあげてくる不安をぐっとおさえて、
「いったい、それはどういう話なんだ。もう少し詳しく話してくれないか」
「詳しくったって、別に変ったことじゃないんですがね」
管理人は小鬢をかきながら、
「つまり、今朝早く鈴木さんが、私どもの部屋へやってきて、友達にトランクをかすことになったから、ハイヤーを呼んでくれとおっしゃるんで、それで私が電話をかけて、ハイヤーを呼びよせたんです。ハイヤーは二十分ほど待たせてやってきたんですが、そのことを鈴木さんの部屋へいいにいくと、少し重いから、運転手と助手に、うえまであがってくれるようにというんです」
「誰がいったんだね。それは……? 鈴木君がそういったのかい」
「いいえ、お友達の声でした」
「そのとき、鈴木君はこの部屋にいたのかね」
「さあ。……私はドアの外から声をかけたので、部屋のなかは見ませんでしたが……」
皓三はますます不安がつのってくる様子で、
「でも、気配ぐらいは……鈴木君の声はきこえなかったのかね」
「ええ、鈴木さんはなんともおっしゃいませんでした。気配たって、私はすぐに階下へおりていったものですから」
「それから、運転手と助手があがって来たんだね」
「そうです、そうです。しばらくすると、二人でトランクをかついでおりてきたんですが、ずいぶん重いトランクだとかなんとかいって、ブーブーいっていましたよ」
「鈴木君の友達というのは、そのトランクといっしょに自動車に乗っていったんだね」
「ええ、そうです」
「そのとき、鈴木君はどうしていたんだ? いっしょに送って出やアしなかったのか」
「いいえ、鈴木さんの姿は見えませんでしたよ。私ゃお部屋にいらっしゃることだとばかり思っていたんです」
「じゃ、それ以後、鈴木君の姿は見ないんだね」
「へえ」
皓三の不安はいよいよ濃度をましてくる。なんともいえぬ胸騒ぎに、肚の底が氷のようにつめたくなる感じだった。
「ねえ、君、いまの話ね。少し変だとは思わないかい。鈴木君が、友人にかすというのは、おそらく空のトランクのことだろう。それが、大の男ふたりがかりでも、重いというのはどういうわけだ。いったい、トランクのなかに何が入っていたんだろう」
「へえ……?」
管理人は不思議そうに皓三の顔を見守っている。皓三はそわそわと、部屋のなかをいきつ戻りつしていたが、急に足をとめると、
「そうだ、君、もう一度ギャレージへ電話をかけてね。今朝の運転手を呼んでくれないか」
幸い運転手はギャレージにいたらしく、電話をかけるとすぐやって来た。
皓三がトランクを運んだときの様子をたずねると、
「へえへえ、別に変ったことはありませんでしたが……こちらの旦那が二階へあがってくれとおっしゃるので、やってくると……ええ、この部屋でしたよ。女のかたが待っていて、トランクを運んでくれとおっしゃるんです。それで、助手の松田とふたりで運んだのですが、何が入っているのか、ずいぶん重うがしたね。大事なものが入っているんだから、気をつけて運んでくれという御注文でしたが……」
「ところで、そのとき、この部屋には、その女ひとりきゃいなかったのかね。ほかに誰かいやあしなかった?」
「いいえ、おひとりでしたよ。別に誰も」
皓三は管理人と顔を見合せた。管理人もようやく、事のなりゆきがわかってきたらしく、おびえたような眼のいろをしている。皓三の不安は、もう決定的なものになっていた。
「それで、君、その女とトランクを、いったいどこまで、送っていったんだ」
「新橋までなんです。ところが、それが妙なんですよ」
運転手は思い出したように、
「お客さんの注文で、新橋駅の西出口でトランクをおろしたんですが、ついでになかまで運びましょうかというと、いいえ、ここでいいというんで、私どもはそのまま、自動車を走らせたんですがね。ところが、少しいってから何気なくふりかえると、その女は、また別のハイヤーを呼んでいるじゃありませんか。どうやら、ほんとの行先は、新橋駅じゃなかったんですね。それで、松田とも、あの女、どうも臭いぞなどと話していたんです」
運転手も、女が二度目にやとった自動車の番号までは知らなかった。
しかし、女がそれほど用心して、行先をくらまそうとしているところをみると、トランクの中身が、容易ならざるものであることが想像される。
運転手がかえると、管理人は蒼くなって、
「すると、なんですか、鈴木さんはそのトランクに詰められて、運び出されたというんですか」
「いまのところ、そうとしか思えない。それ以外に、鈴木君が外出する理由は考えられないんだ」
「それじゃ、鈴木さんは殺されて……」
「いや、それはまだわからないが、とにかく、ぐずぐずしちゃいられない。君、その女の名前はわからないのかい」
「カツミというんですが、苗字のところはどうも」
「でも、サンチャゴのダンサーにはちがいないんだね。よし」
皓三は血相かえて、風のようにアパートからとび出していった。
皓三のとびこんで来たのは警視庁だった。
皓三の報告は、第十七号調室へ、爆弾をなげこんだも同様の効果をもたらせた。
小田切主任をはじめとして、部長刑事も刑事連中も、皓三からいちぶしじゅうの話をきくと、愕然として顔色をうしなった。
「それじゃ、カツミという女が、マチ子をトランク詰めにして、どこかへ運び去ったというんですか」
「そうです、そうです。そこで至急、つぎのようなことをお願いしたいんです。まず、第一にカツミという女の住居をしらべること。これはサンチャゴへいけばすぐわかると思います。但し、カツミが自宅へトランクを運びこんだかどうかは疑問ですが。……それから第二に、新橋駅の西出口から、トランクと女を乗せていったハイヤーをさがし出して、トランクをどこへ運んだか、それを調べること。……」
言下に小田切主任が、部長刑事を呼んで、耳打ちをした。
「とにかく、われわれだけでは手が足りない。仁科君のほうへいって、応援を求めてくれたまえ」
第十七号調室は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。刑事たちがいそぎ足に、出たり入ったりした。
パンパン殺しの線から、捜査をすすめている第二十八号調室の仁科主任も、緊張した面持ちでやってくると、なにか二言三言、小田切主任と打合せして、すぐまた忙がしそうにとび出していった。
小田切主任は卓上電話にかじりついて、あちこちと連絡をとっていたが、それが終ると、ほっとしたように、額の汗をぬぐいながら、皓三のほうへ振返った。
「ところで田代君、君の見込みはどうなんだ。マチ子はすでに殺されているのだろうか」
「いや、それですがね、ぼくもいろいろ考えてみたんですが、マチ子はまだ、生きていると思う」
「と、いうのは?」
「カツミという女が、犯人の依頼をうけて、マチ子を殺したのならば、なにも死体をトランク詰めにして、運び出すような手数をかけないでも、そのまま逃げ出せばよかったはずです。犯人はおそらく、マチ子をふつうにつれ出すのは困難だと考えたのでしょう。マチ子がいうことをきかないか、あるいはきいても、誰かがマチ子を尾行しているかも知れない。そこでカツミを使って、トランク詰めにして運び出させたのではないでしょうか。そこで問題は、犯人がそのトランクへ接近するまえに、われわれが先手をうって、トランクを発見するということです」
「それはしかし、ハイヤーを発見すれば……」
「そうです。いずれはハイヤーも発見されるでしょう。そして、トランクの行先きもわかりましょう。しかし、そのまえに犯人がそのトランクにちかづいたら……主任さん、これは時間の問題ですよ。一秒でもさきに、犯人のほうがトランクに手をつけたら……」
蒼白んだ皓三の顔には、苦悩と心痛からくる汗が、ビッショリと粟立っている。
「むろん、われわれはどんなことをしても、それを妨げねばならん。犯人がトランクにちかづくまえに、絶対にわれわれの手で、トランクのありかを発見しなければならん」
「しかし、主任さん、どうしてそれができるんです」
蒼白《あおじろ》んだ皓三の額には、血管がみみずのように怒張している。眼がギラギラと血走って、額からは滝のような汗がながれていた。
「カツミという女が、マチ子をトランク詰めにして、自動車につんで運び出した。彼女はそれを、自宅へ運びこむようなことは絶対にありますまい。どこか人眼につかぬところへ、運びこむにちがいない。そして、そのことを、なんらかの方法で、犯人に通知するのでしょう。犯人はそれをきくと、時をうつさずその場所へ駆けつけていく。そして、万事は終るのです。むろん、カツミはつかまるでしょう。いや、それよりまえに、自動車が発見されるかも知れない。しかし、それがどうなるのだ。マチ子が殺されてしまえば、すべては後の祭というわけです。われわれが発見するのは、おそらく絞め殺されて、つめたくなったマチ子の死体だ。おお、可哀そうなマチ子!」
「まあまあ、田代君、物事はそう悲観的にばかり見ないものだ。われわれはいま、全力をあげてトランクの行方を追及しているのだから、あるいはひょっと、犯人よりまえに発見することができるかも知れない」
「あるいはひょっと……おお、あるいはひょっと……われわれはいま、千にひとつの僥倖《ぎようこう》しか、期待することができないのだ」
小田切主任のまえにある、卓上電話のベルはひっきりなしに鳴った。いろんな情報がつぎからつぎへともたらされたが、まだ、確定的な報告はなかった。
カツミの姓や住居はわかっても、目下の彼女のいどころを、つきとめることはできなかった。
皓三は絶望的な焦躁で、部屋のなかを歩きまわっていたが、何を思ったのか、突然、部屋の中央に立ちどまった。
それから急いで、ポケットから小型の日記を取り出して、名簿のところを繰っていたが、
「よし、当って砕けろだ。主任さん、電話をかして下さい」
皓三が電話をかけたさきは、那須慎吉の教えている学校である。慎吉の在否をきくと、今日はお加減が悪くて、やすんでいらっしゃいますという返事であった。
皓三はガチャンと受話器をおくと、
「主任さん、ちょっとぼくは出かけます。あるいはこのほうから、トランクに接近する機会があるかも知れない。いずれあとで連絡します。そのときにはすぐ出張して下さい」
皓三は帽子を頭にたたきつけると、風のようにとび出していった。
昨夜、夜更かしをした那須慎吉は、風邪をひいたのか、熱を出して、寝床のなかにふせっていた。
那須が風邪をひいたのは、夜更かしのせいもあったろうけれど、それ以上に、昨夜うけた、大きな精神的ショックが原因しているのだろう。熱にうかされて、うつらうつらしているあいだも、かれは昨夜のプラットフォームの出来事と、夜道で襲撃された刹那の、あの骨の凍るような思いを、夢に見つづけて、いくたびかうなされて声を立てた。
いまも那須は、飛び散る血潮と、ざくろのようにはじけた頭を夢にみて、うなされた拍子にハッと眼がさめたが、そこへ泰子がおびえたような顔をして入ってきた。
「あなた、お客様がお見えになっているんですけれど……」
「駄目だよ、今日は……誰にも会わんといってあるじゃないか」
「でも、それが、ひとひとりの生命にかかわることだといって、なかなか帰りそうにないんですけれど……」
「ひとひとりの生命にかかわること?……」
那須は眼をみはって、
「誰だい? 客というのは?」
「田代さんというかたよ。ねえ、ひょっとすると、このあいだ啓介さんといっしょに来た、由紀子さんのお兄さんじゃないでしょうか」
那須はギョッとしたように、寝床のなかからからだを起して、
「それじゃ、風間をかくまっていたとかいう……それで、その男が、ひとひとりの生命にかかわることだというんだね」
「ええ、そうなんです。なんでも、女のひとがいま殺されかかっている。それを救うことのできるのは、こちらの先生よりほかにないと、なんだか、気の狂いそうな眼附きをしているんです」
那須は心の騒ぐ風情で、しばらく大きく眼をみはっていたが、やがて、沈んだ声で、
「泰子、着物をとってくれ」
「あら、お会いになりますの」
「うん、会わなきゃならんだろう。ひとひとりの生命にかかわることだというんだから」
「でも、大丈夫? また、熱が出たんじゃありません? お顔が真《ま》っ赧《か》よ」
「仕方がない。その代り、寝床のうえで失礼しますと、そう断ってくれ」
「ええ」
良人の着更えを手伝っておいて、泰子は玄関へ出ていったが、間もなく、彼女に案内されて入って来たのは皓三だった。なるほど、泰子のいったとおり、うわずった眼のなかに、どこやら気ちがいじみた光があった。
皓三はすすめられた座蒲団に坐ると、
「お加減の悪いところを恐入りますが、急ぎますから、挨拶は抜きにさせていただきます。先生、お願いです。女がひとり、いま殺されかかっているのです。それを救うことのできるのは先生よりほかにありません。先生、助けて下さい。後生です」
皓三は畳のうえに両手をついた。
那須は泰子と顔を見合せた。泰子はおびえたような眼をして、皓三の姿を見守っている。
那須はすこし膝をすすめて、
「田代君というんですね。話があまりだしぬけで、ぼくにはよくわからないが、どういうことなんです。それは……もう少し落着いて話してくれませんか」
皓三は顔をあげると、きっと那須の顔を見守りながら、
「失礼しました。少し気が顛倒しているものですから、醜態をお眼にかけました」
皓三は苦笑をうかべたが、すぐまた、むずかしい顔になると、
「先生、ぼくは昨夜、見ていましたよ。有楽町のプラットフォームの出来事を……」
那須ははっと顔色をうごかした。恐怖に似た稲妻がさっと面上をかすめた。泰子はおびえたような眼で、その横顔を視つめている。
「あの時、先生が手を出して助けてくださらなければ、あの女は電車に轢かれて死ぬところでした。ぼくはあの女を尾行していたので、少しはなれたところで、すっかり見ていたんです。それから今朝警視庁で、あなたがこの近所で、危く殺されるところだったということもききました」
「あなた!」
泰子がおびえたような叫びをあげた。
「そんな……そんな……そんな恐ろしいことがあったんですの。あなたは、なぜ、それをあたしに話してくださらなかったの」
「泰子、おまえは黙っておいで」
那須は皓三のほうへ向きなおって、
「いったい、昨夜のあの女はどういうひとなんです」
「風間先生のアリバイを知っているんです。そして、キャバレー・レッド・ミル事件の犯人も、そのことを知っているんです。それで、あの女を殺して、風間先生のアリバイを完全に抹殺しようとしているんです」
また、恐怖の稲妻が、那須の顔面をつらぬいて走った。はげしい戦慄が、熱にうかされたからだをゆすった。
「しかし、しかし……」
と、那須は喘《あえ》ぐように、
「それじゃ、なぜ、警視庁では、あの女を保護しないんです。あのまま放っておいたら、いつか殺される。いつかきっと殺される。……」
「いや、もう、すでに殺されかかっているんです。だから、先生に助けていただきたいと、お願いにあがったのです」
「しかし、ぼくに何ができるだろう」
那須はうつろの声で呟いた。皓三はきっとその顔を凝視しながら、
「いいえ、あなたが力をかして下されば、きっとあの女を救うことができます。先生、あなたは犯人を御存じの筈《はず》です」
「あなた!」
泰子が悲鳴ににた叫びをあげた。那須の顔にもはげしい動揺が現れた。
しかし、やっとそれをおさえると、那須はしゃがれた声で、
「ぼくが……犯人を知ってると……どういう根拠でいうんです」
「それは、昨夜の出来事が証明しています。先生、あなたは昨夜あの時刻に、どうして有楽町のプラットフォームにいたんです。どうしてマチ子を助けるような、まわりあわせになったんです。偶然としては、あまりうまく出来過ぎている。あなたはきっと、誰かを尾行していたにちがいない。しかし、あなたは、マチ子のことは御存じないのだから、彼女を尾行していたわけはない。と、すると、あなたの尾行していたのは犯人のほうです。あなたも西沢と同様に、犯人を知るか、あるいは確信はないまでも、漠然とした疑いを持っていられた。そこで、昨夜、犯人を尾行したところが、犯人がマチ子に眼をつけていることに気がついた。そこで、もしものことがあってはと、ひとごみにまぎれて、できるだけマチ子に接近するようにしていられた。その結果が、ああいう出来事になって、マチ子はあなたに、救われることになったのです。先生、ぼくはそのことについて、あなたにどんなに感謝していいかわからぬくらいです。先生、もう一度マチ子を救って下さい。お願いです」
那須の眉がピクリと動いた。
「それじゃ、いま、殺されかかっているというのは……?」
「そうです。マチ子です。昨夜殺されそこなった女です」
皓三はそこで手短かに、しかし、要領よく今朝の出来事を語ってきかせると、
「そういうわけで、まさかカツミがマチ子を殺したとは思えないのです。で、問題は一刻も早くトランクを発見することですが、それはこの際とても無理です。だから、われわれが、トランクに近づきうる唯一の方法は、犯人の挙動を見張っているよりほかはないのです。だから、先生にお願いするんです。先生、昨夜あなたが尾行していたのは、いったい誰なんです」
那須の顔には、はげしい苦悶のいろが刻まれている。那須は苦しく喘いで、
「しかし……しかし……すでに手遅れだとしたら……」
「そのときは諦めます。しかし、いまはそんなことをいっている場合ではないのです。われわれはあらゆる手段をつくさねばならんのです」
那須はしばらく眼をつむって、内心の苦悶とたたかっていたが、やがて力なく眼をひらくと、
「泰子、洋服を出してくれ。それから、すぐ出かけるからハイヤーを……」
銀座はいまランチ・タイムである。
近所のオフィスから吐き出された若いサラリー・マンやオフィス・ガールが三々五々つれ立って、ただなんとなく歩いている。
天気もよかったし、陽気もまだ、それほど暑いほうではない。かれらにとっては、お昼休みのひとときを、ただ、なんとなく歩くだけで満足できるのである。
銀座裏のとある喫茶店から、男がひとりふらりと出てきた。
鳥打帽をまぶかにかぶり、大きな黒眼鏡をかけている。それだけでも、見るひとがみたら、十分うさん臭いかっこうなのに、この好天気にレーンコートを着ているのがいよいよおかしい。
おまけに、ふかぶかとレーンコートの襟を立て、そのなかに顎をうずめるようにしているので、顔はほとんど見えないのである。
レーンコートの男は、喫茶店を出ると、黒眼鏡の奥から眼をひからせて、素早くあたりを見まわした。そして、誰もじぶんに眼をつけているものがないことをたしかめると、ゆっくりとした足どりで、天賞堂のまえから、有楽町のほうへ歩き出した。
いろんな人間が、その男とすれちがったり、追い抜いたりしていく。しかし、誰もこの男に、とくべつの注意をはらうものはなかった。
こういう人の雑沓する場所では、人間はかえって孤独なものである。だれもかれも、おのれじしんの用件や楽しみにかまけて、他人に注意を払うものはない。
数寄屋橋の交番のまえまでくると、その男はわざと歩調をおとして、ゆっくりといきすぎた。
交番のまえには、お巡りさんがひとり立っていたが、とくにその男に注目もしなかった。また、注目しなければならぬ理由もなかったのである。
お巡りさんはそのときむしろ、少しおくれて橋の向側を、同じ方向に歩いていく、ふたりづれに、なんとなく眼をひかれていた。
そのふたりづれも、同じように、大きな黒眼鏡をかけている。帽子をまぶかにかぶっている。おまけにふたりとも、大きなマスクをかけているのである。
お巡りさんはちょっと妙な気がして、そのふたりづれを見送ったが、ふたりの姿はすぐ、有楽町のほうへ消えた。
レーンコートの男は、有楽町の駅へ入ってくると、そこでまた、素早くあたりを見まわした。それから、さりげない足どりで、伝言板のほうへ歩いていった。
伝言板のまえに立って、素早くそのおもてを一瞥《いちべつ》したとき、黒眼鏡の奥でふたつの眼が、恐ろしい光をはなってもえあがった。
男はそこに書かれている一行を、もう一度無言のうちに読みかえすと、黒板をふきとって、ていねいにその一行を拭き消した。
それから急いで駅の構内から出ていった。
ふたりづれのマスクの男が、緊張した眼でうなずきながら、見えがくれにその男をつけていく。
十一
「大森――? 大森だね。大森のどのへん? 山崎君、ちょっとメモをとってくれたまえ。ああ、そう、そこで坂をのぼって……? 大森ハウスというアパートだね。そこにトランクがある? そして、犯人もそこへやって来たア? よし、すぐいく。君のいまいるところは……? よし、わかった。じゃ、のちほど」
ガチャンと叩きつけるように受話器をおいた小田切主任の額には、いっぱい汗がうかんでいる。
別の電話で、同じ報告をきいてメモをとっていた部長刑事も、主任の話しぶりから、だいたい報告の内容を推察した刑事も、いっせいにさっと立ちあがった。
「川田君、君はそのメモを持って、課長のところへ報告しといてくれたまえ。それから大森署へ連絡する。山崎君、君はおれといっしょに来てくれたまえ。進藤君、自動車の用意だ」
第十七号調室は俄然色めき立った。
自動車の用意はすぐできた。巧みに新聞記者をまいてそれに乗りこんだ小田切主任や、山崎、進藤などの刑事連中は、それから半時間ののち、大森の高台にある、大森ハウスのすぐ向いの、水月という喫茶店で、皓三や那須とむかいあっていた。
「そういうわけで、そいつを尾行して来たところが、あのアパートへ入っていったんです。ところが、いいあんばいに管理人がいなかったので、そいつはいったんここを出て、いま、どっかこの近所をうろついてるはずです。つまり、カツミという女が、このアパートの一室へトランクをかつぎこみ、鍵を管理人に預けていったんですね。管理人が留守で、その鍵が手に入らなかったものだから奴さん、いらいらしながら、管理人のかえりを待っているわけです」
「いったい、その部屋の住人というのは何者だね」
「なに、カツミの友達でさ。ああいう連中は、自分の住居へ男をひっぱりこむと、客同士かちあうことがあるので、男をつれこむときにゃ、友達同士、部屋を交換しやアがるんですよ。で、まえからカツミはこのアパートを利用してたらしいんですが、いま友達というのが、旅行中なもんだから、自由に部屋を使っているらしいんです。これは管理人の娘にきいたことですがね。今朝、その部屋へたしかにカツミという女が、大きなトランクをかつぎこんだと、その娘はいってますよ。カツミはここへトランクをかつぎこむと、すぐまたここをとび出して、そのことを、有楽町の伝言板へ書いておいたんです。犯人はそれをみて、ここへやって来たんですが……あっ、来た!」
一同はいっせいに、テーブルの下に身をかくした。
十二
いまかえって来たばかりの管理人から、二階六号室の鍵をうけとったレーンコートの男は、コトコトとアパートの階段をあがっていった。
戦後建ったアパートとしては上等のほうで、壁も厚く、床もしっかりしている。それに六号室の両隣りとも、ともかせぎのお勤人だから、昼はいつもあいている。
夜よりも、昼のほうが、かえっていいだろうといったカツミの言葉を、レーンコートの男は思い出していた。
二階の六号室。
鍵をまわすと、すぐドアがひらいた。男はすばやく部屋のなかにすべりこむと、なかから鍵をしめて、改めて部屋のなかへ向きなおった。
窓にカーテンの垂れた部屋のなかはほの暗かったが、そのなかに、くっきりと輪郭をうきあがらせているのは、一番の大トランクである。
それを見ると男の眼が、黒眼鏡のおくでギラギラひかった。男はじっと聞耳を立ててみる。カツミの言葉に嘘はなかったらしく、両隣りともシーンとして人の気配もない。
男はトランクのそばによると、事務的な手で蓋をひらいた。トランクの中には大きな風呂敷がかぶせてある。その風呂敷をとりのけると、マチ子のからだが現れた。
マチ子は昏々と眠っているのである。麻酔薬をかがされたらしい。しかも、なおそのうえにごていねいに、うしろ手にしばられ、猿ぐつわをかまされている。
トランクのうえにのしかかった男の眼が、またギラギラと兇暴な光をおびて来た。
男はもう一度、あたりの様子に聞耳を立てると、ごくりと生唾をのみ、それから、手袋をはめた両手を、女の咽喉にあてがった。ぐっと指先に力がはいる。
ガチャリ。――男の背後で、ドアの把手《とつて》が鳴った。男はあっとふりかえる。ドアがひらいて、三人の男のすがたが見えた。ひとりは警官である。
男は猛烈な怒号をあげて、窓のほうへ突進した。カーテンをひきさき、窓ガラスを叩きこわした。しかし、窓の下にも警官が立っている。
男はもう一度、猛烈な怒号をあげると、ポケットからなにか取出し、口の中へいれようとした。
だが、その瞬間、とびこんで来た小田切警部補が、男の利腕に、はげしい一撃をくれた。男の手から、何やら白いものが床におちた。
争闘はすぐ終った。
手錠をはめられた男は、茫然たる眼で、部屋のなかを見まわしていたが、突然、血管が大きくふくれあがった。
「那須!」
「先生、許して下さい」
手錠をはめられた瀬川省吾は、骨をぬかれたようにくたくたと床に膝をついた。
側では皓三がマチ子のからだを抱きしめて、白蝋のような頬に接吻の雨をふらせている。
感傷的な風景であった。
[#改ページ]
[#小見出し]  告 白
わたくし、立花カツミと申します。サンチャゴのダンサーをしております。
鈴木マチ子さんをトランク詰めにして、田町のアパートから運び出したのは、たしかにわたくしでございました。しかし、わたくしにそれを頼んだあの男に、そのような恐ろしい目的があったとは、思いもよらぬことでした。
その男――わたくしはそれが、どこのなんというひとか存じません。いいえ、ろくに顔さえ知らないのです。万事がくらやみのなかの取引きでしたから。……
はじめその男は、くらやみのなかでわたくしを呼びとめ、マチ子さんのことを根掘り葉掘りたずねていましたが、わたくしがマチ子さんと、とくべつに仲好しであり、ときどき、マチ子さんのアパートへ泊るということを知ると、こんなことをいい出したのです。
じつは、自分はある男と大きな賭けをしている。賭けの対象は鈴木マチ子で、自分はきっとあのマチ子を、ものにしてみせると断言した。しかし、マチ子という女はなかなか依怙地《いこじ》で、素直にうんと承服しない。自分は何も賭金をおしむわけではないが、こうなれば意地ずくである。マチ子を自分のものにしなければ顔が立たぬ。それについて、なんとか力をかしてくれまいか。……
むろん最初はわたくしも、一言のもとに一蹴しました。しかし、そのお礼として申出でた金額が、わたくしを誘惑したのです。
ある事情のために、わたくしは借金で首がまわらなくなっておりました。その男の申出でただけの金額があれば、わたくしは非常に助かるのでした。
そこで、相手の話をうろんに思いながらも、つい、相談に乗ったのです。
わたくしははじめ簡単に、マチ子さんを連れ出し、人眼につかぬところで、相手に引渡せばよいと思っていました。ところが、それではダメだとその男がいうのでした。
その理由は、賭けの相手が、ちかごろしじゅうマチ子さんを見張っているから、きっとあとをつけてくるにちがいない。そして、イザというときにとび出されたら、それこそ賭けも負けだし、恥の上塗りだというのです。だから、なんとかして、誰にも知られぬように、つれ出す方法はあるまいかというのでした。
そこで、いろいろ話合った揚句、考え出されたのが、トランク詰めの一件で、マチ子さんに麻酔薬をかがせて眠らせるということになったのですが、そのとき男がちゃんと麻酔薬の用意をしていたのには驚きました。
むろん、わたくしとて、その男の話を額面どおり受取ってはおりませんでした。いささか臭いとは思っていました。しかし、まさか相手にそんな恐ろしい殺意があったろうとは……マチ子さんだって、あんな稼業をしているのですもの、たかがひと晩からだをよごすくらい……と、わたくしはそう簡単に考えていたのでございます。
いずれにしても、わたくしに殺意のなかったことは、トランクにちゃんと、息抜きをあけておいたことでもお察し願います。
風間啓介ノ妻、加奈子ヲ殺シタノハ、タシカニ私、瀬川省吾デアリマス。
デハ、ナゼ私ガアノ女ヲ殺シタカ、ソノ動機ハ何ンデアッタカ。ソノ点ニツイテハ、私自身ニモヨク分ッテ居ナイノデス。コノヨウナ事ヲ申上ゲルト、サゾウロントオ思イニナルデショウガ、嘘モ隠シモナク、コレガ真実ナノデス。
私ハ加奈子トイウ女ニ対シテ、特別何ンノ感情モ抱イテオリマセンデシタ。憎シミヲ感ジタコトモアリマセンシ、マタ、格別遺恨ヲ抱イテイタワケデモアリマセン。強イテ言エバ、愚カナ女ト軽蔑シテイタ位ノモノデショウカ。
ソレニモ拘《カカワ》ラズ、私ハ加奈子ヲ殺シタ。何故《ナゼ》カ。
今ツラツラ当時ノ自分ノ心境ヲ顧ルニ、ソノ動機ノ最モ大ナルモノハ、妻、春代ニ対スル憎悪、春代ニ対スル反逆デアッタノデハナイカト思イマス。
ソウデス。私ハ妻ヲ憎ンデイマシタ。憎ンデ憎ンデ、八ツ裂キニシテモ飽足《アキタ》リヌクライ憎ンデオリマシタ。殊ニ戦後ハソノ感情ガ、根強ク私ノ心ノ中ニハビコッテ来タノデス。
ココデ私ト妻春代トノ関係トイイマスカ、家庭内ノ地位トイイマスカ、ソレヲ簡単ニオ話イタシマショウ。
私ハ彼女ト結婚シタ日以来、男性トシテノ誇リヲ失ッテシマッタモ同様デシタ。彼女ト結婚シタ日以来、私ハ彼女ノデクノ棒ニナッテシマイマシタ。彼女ハ何ンデモ万事、自分ノ思ウママニ操縦シナケレバ、腹ノ虫ノオサマラヌ女デスガ、ワケテモ亭主ニ対シテハソレガ極端デシタ。
彼女ハ自分ノ良人ヲ、自分ノ思ウママノ人間ニ、仕立テ上ゲナケレバ承知ノデキナイ女ナノデス。ソシテソノ事ヲ常ニ他ニ向ッテ誇リトシテイルノデス。ムロン、初メノウチハ、仲々私モ彼女ノ思ウママニハナリマセンデシタ。ソコニシバシバ、摩擦《マサツ》ヤ葛藤《カツトウ》ガアリマシタ。シカシ、ソノウチニ私ハ段々、ソノヨウナ摩擦ヤ葛藤ヲヒキオコスノガ面倒臭クナッテ来タノデス。構ワナイカラ、彼女ノ思ウママノ人間ニナッテヤロウ、イヤ、ナッタヨウナ顔ヲシテ居テヤロウト決心シタノデス。
コノコトハ彼女ノ虚栄心《キヨエイシン》ヲ非常ニ満足サセマシタ。彼女ハ私ヲカタワラニオイテ、シバシバ若イ人妻ナドニ向ッテ、オノレノ亭主操縦術ノ巧ミナルコトヲ誇ッタモノデス。ソンナ場合、私ハイツモ新聞ノカゲニカクレテ、苦笑ヲ洩ラシテイタモノデス。シカシ、ソレガ苦笑デアルウチハ好カッタノデス。ソノ苦笑ガイツカ彼女ニ対スル根強イ反逆トナッテ、私ノナカニ育ッテイタトハ、彼女モムロン気ヅカナカッタデショウシ、私自身デサエ、知リマセンデシタ。
私ガソレニ始メテ気ガツイタノハ、戦後ノコトデアリマシタ。
春代ト結婚シテ以来、ソシテ彼女ノ操縦ニ、唯々諾々《イイダクダク》トシテ身ヲ委ネルコトニ慣レテ以来、私ハ人生ニ対シテモ、学問ニ対シテモ、スベテノ情熱ヲ失ッテシマイマシタ。ソレハソウデショウ。自分ノ意志ヲ持ツコトノ出来ヌ人間ニ、ドウシテ情熱ガ持テマショウ。
私ハ唯、大学教授夫人トイウ肩書デ、春代ノ名誉慾ヲ満足サセ、又、大学教授トイウ肩書ヲ利用シタあるばいとカラ得ル収入ニヨッテ、春代ノ物質的慾望ヲ満足サセテヤレバ好カッタノデス。
学校ニオケル私ハ、久シイ間、無能トイウノガ通リ相場ニナッテイマシタガ、ソレモ当然デアッタノデス。私ハ唯、学校ト家庭ヲ機械的ニ往復シ、学校ニアッテハ十年一日ノ如ク、同ジ講義ヲ繰返ス、機械ニ過ギナカッタノデスカラ。
トコロガドウデショウ。ソウイウ無為無能、毒ニモ薬ニモナラヌ私ガ、戦争ガスンデ見ルト追放デシタ。シカモソレハ決シテ故ナキニ非ズダッタノデス。春代ハ昔カラ名誉慾ト権勢慾ノ強イ女デアリマシタガ、今度ノ戦争中程、コノ種ノ女ノ権勢慾ヲ煽ッタ時代ハ、他ニナカッタデショウ。
イツノ間ニヤラ私ハ、種々ナ国家主義団体ノ幹部ニ名前ヲ連ネテイマシタ。ソシテ私ノ未ダカツテ考エテ見タコトモナイヨウナ遠大ナ理想ヤ、高遠ナ思想ガ、私ノ署名ヲ以ッテ堂々ト、ソノ種ノ団体ノぱんふれっとヤ雑誌ニ発表サレタノデス。
私ハイツノ間ニカ、自分ガ国家主義者ノ一巨頭トナッテイルノヲ知ッテ、苦笑ヲ禁ジ得マセンデシタ。春代ハ又春代デ、ソウイウ国家主義者ノ妻トシテ、大イニ女傑ブリヲ発揮シマシタ。
嗚呼《アア》、女傑ノ良人タル者ノイカニ憂鬱デアルコトカ。
コウシテ戦争中ニ春代ノ播イタ種ハ、戦後ニ至ッテ、当然刈リトラネバナリマセンデシタ。戦後ノ日本ニ好モシカラヌ人物トイウれってるノモトニ、私ハ公職ナラビニ教職カラ追放サレルコトニナッタノデス。ソシテソノ頃カラ我々夫婦ノ相剋《ソウコク》ハ、シダイニ顕著《ケンチヨ》ニナッテキマシタ。
春代ハ負ケルノガ嫌イナ女デスカラ、タトエ自分ノ非ニ気ガツイテイテモ、ソレヲ認メヨウトハセズ、事毎ニ口穢《クチギタナ》ク私ヲ罵リマシタ。私ハソレニ対シテ一度モ言葉ヲ返シタ事ハアリマセンガ、妻ニ対スル憎悪ノ念ハ日毎ニ深刻ニナッテイッタノデス。
春代ガ私ノタメニ躍起トナッテ探出シタ繊維会社トイウノハ、全クノ闇会社デアリマシタカラ、ソコヘ出入スル人間ハ、皆柄ノ悪イ連中バカリデシタガ、私ハ進ンデ彼等ノ仲間ニ身ヲ投ジ、彼等ト酒ヲ飲ミ、彼等ト共ニ女ヲ買ッタノデス。
ソウデス、私ハ三人ノ夜ノ女ヲ殺シマシタガ、彼女等ヲ殺ス以前、シバシバ私ハ彼女等ト戯レ、彼女等ノ世界ノ事情ニハ、カナリ通暁シテイタノデス。シカモ春代ノ前デハ依然トシテ、無為無能ノ良人デアルカノ如ク振舞イ、彼女ヲ欺クコトニヨッテ、一種ノ復讐的快感ヲ味ッテイタノデシタ。
扨《サテ》、私ガ風間啓介ノ妻、加奈子ヲ殺ス直接ノ動機トナッタノハ、コノ春、偶然、風間カラ春代ニアテタ手紙ヲ読ンダ事ニアッタデショウ。
ソレハ明カニ風間カラ春代ニアテタ艶書デシタ。後ニ至ッテコノ艶書一件ハ、私ノ誤解デアルコトガワカリマシタガ、ソノ時ニハ既ニオソカッタノデス。
イヤ、ソレガ誤解デアッタニシロ、無カッタニシロ、私ノ春代ニ対スル憎悪ト憤懣《フンマン》ハイツカ何ンラカノ形デ、爆発セズニハ居ナカッタデショウ。
兎ニ角、コノ艶書ヲ発見シタ時ニハ、私ハ真黒ナ怒リニ燃エタノデシタ。私ハモトヨリ妻ヲ愛シテハ居リマセンデシタ。従ッテ、ソレヲ嫉妬トイウ事ハ出来ナカッタデショウ。
私ハソコニ、妻ノ不信ノ証拠ヲ発見シタト思イコミ、彼女ニ対スル憎悪ヲ決定的ナモノニシタノデシタ。
ソレ以前カラ、既ニ馴染《ナジ》ンデイタ酒色ニ、自ラ身ヲ投ジテ、沈湎《チンメン》スルヨウニナッタノハ、確カニソレカラ後ノコトデアッタノデス。
扨、ソレデハイヨイヨ、アノ日――加奈子ノ殺サレタ日ノ事ヲ申上ゲマショウ。
アノ日モ私ハ会社ノ帰リヲ銀座デ一杯飲ミマシタ。ソノ頃ノ習慣トシテ、一杯飲ムト私ハタダデハ帰レナクナッテ居タノデス。
ソノ日モ又、イカガワシイ女デモカラカウツモリデ、ソレマデノ時間ヲツナグタメニ、私ハ何ンノ気モナク、喫茶店ヘ入リマシタ。ソシテ、ソコデ偶然、電話ヲカケテイル風間ノ姿ヲ発見シタノデス。
私ハ一寸《チヨツト》ドキットシマシタガ、相手ガ気ガツカヌヲ幸イニ、何気ナク電話ノ内容ヲ聞イタノデス。ソシテ、ソレガソノ後ノ私ノ運命ヲ決定シタノデシタ。
風間ノ電話カラ、私ガ想像シタノハ、大体ツギノヨウナ事柄デアリマシタ。
一、風間ハ今、妻ノ加奈子ト喧嘩ヲシテ、銀座ヘトビ出シテ来テイルコト。
二、誰カ人妻ヲ呼出シテ、銀座デ逢引キヲシヨウトシテイルコト。
三、ソノ人妻ノ良人モ今、銀座ニイルノデ、女ガドコカ、他ノ場所ニシテ欲シイトイッテ居ルラシイコト。
当然、私ハソノ人妻ヲ、自分ノ妻春代デアルト考エマシタ。私ノ怒リハココニ於テ、爆発シタノデシタ。
私ハ以前カラ、風間トイウ男ヲ虫ガ好キマセンデシタ。風間ハ昔カラ春代ノぺっとナノデシタ。春代ノヨウナ女ニハ、ドウカスルト、グウタラデ、締《シ》メ括《クク》リノナイ若イ男ガ気ニ入ルモノデスガ、風間ガソレダッタノデス。
風間ニ対シテ春代ハ眼ガナク、風間モ又、春代ノソノ弱点ヲヨク知ッテイテ、巧ミニ彼女ノ歓心ヲ買ッテイタノデスガ、ソレガイツカ不倫ノ関係ニオチイッテ居ルト分ッテハ――当時私ハソウ思イコンデ居タノデス――私ハモウ許シテオケヌ怒リニ燃エテイタノデスガ、今、現在ソノ証拠ヲ見セツケラレテハ、カットセズニハ居ラレナカッタノデス。
シカシソウハ言ッテモ、ソノ時スグニ私ノ頭ニ、加奈子ニ対スル殺意ガヒラメイタトイウ訳デハアリマセン。
春代ニ対スル憎悪――ソレカラヒイテ風間ニ対スル憎悪、ソレガ風間ノ妻ニ対スル殺意ニマデ飛躍スルニハ、ソレ相当ノ過程ヲ必要トシタノデス。
電話ヲカケ終ルト、風間ハスグニ喫茶店ヲトビ出シマシタ。私ハソノ後ヲ尾行シマシタ。
何故、尾行シタノカ、ソレハ私ニモ分リマセン。何カシラ私ニモ理解シガタイ誘惑ガアッテ、ソノ時私ハ、風間ヲ尾行セズニハ居ラレナカッタノデス。
幸イ風間ハ酔ウテ居ルウエニ、ヒドク何カニ心ヲ奪ワレテイルラシク、従ッテ私ノ尾行モ易々タルモノデシタガ、尾行ヲツヅケテイルウチニ、私ノ心ニフトコンナ考エガ浮ンダノデシタ。
風間ハ今、私ノ妻ヲ呼出シテカラカオウトシテイル。ソレハ明カニ私ニ対スル侮辱《ブジヨク》デアル。ヨシ、ソレナラバ、私モ亦、風間ノ妻ヲ呼出シテカラカッテヤロウジャナイカ。ソレガ風間ノ侮辱ニ対スル、何ヨリノ返報ジャナイカ。
ソノ時、私ハカナリ酔ウテイタノデス。ソノ上ニ、風間ノ電話デカット逆上シテイタモノデスカラ、頭ノ調子ガ狂ッテイタノデス。
イエ、コウ言ッタカラトテ、ソノ夜私ノトッタ行動ヲ、酒ノ酔イニ転嫁スルツモリデハアリマセン。唯、ソノ時ノ私ノ心理状態ヲ、理解シテ戴キタイガタメニ申上ゲルノデス。
扨、前ニ申上ゲタヨウナ事ヲ思イツクト、私ニハトテモソレガ名案ラシク思エテキマシタ。私ハ風間ヲ尾行シナガラモ、有頂天ニナッテゲラゲラ笑ッタリシタモノデス。
風間ハ二、三軒飲ンデ廻ッタ揚句、きゃばれえ・れっど・みるヘ入リマシタ。シカシ、ソコニハホンノ一寸居タダケデ、スグマタフラフラトビ出シマシタ。
ソノ後ニ残サレテイタしがれっと・けえすト一枚ノ紙片ガ後ニ、私ニアノヨウナ、恐ロシイ事ヲ思イツカセタノデシタ。
私ハソノ二品ヲ手ニ入レルト、モウ風間ノ尾行ハ断念シテ、サッキ思イツイタ事ヲ実行シヨウトシタノデス。私ハ風間ノ名前ヲ騙《カタ》ッテ、風間ノ宅ニ電話ヲカケ、加奈子ヲきゃばれえ・れっど・みるヘ呼出シマシタ。
私ガれっど・みるヲ選ンダノハ、風間ハ一度ソコヘ来テイルカラ、今夜二度ト来ルコトハアルマイト思ッタカラデ、ソノ時ニハマダ、加奈子ニ対スル殺意ナド、毛頭持ッテイタ訳デハアリマセン。
イエ、本当デス。ソレデハ何故、風間ノ忘レテイッタ二品ヲ、ヒソカニ手ニ入レテオイタカト仰有《オツシヤ》ルノデスカ。
サア、ソレハ私ニモ分リマセン。ヒョットスルト、自分デハソウ意識シテイナクトモ、或イハ私ノ心ノドコカニ、既ニツギノ計画ガ、用意サレテイタノカモ知レマセンガ、シカシ、ソウイウ計画ノモトニ、二品ヲ用意シ、加奈子ヲ偽ッテ呼出シタノデハナイコトハ、天地神明ニ誓イマス。
扨《サテ》、今迄申シ忘レテイマシタガ、ソノ晩ズウット、私ハ一種ノ変装ヲシテイマシタ。シカシ、ソレトテモ、決シテ殺人ノ用意ノタメデハナカッタノデス。
銀座裏デ、イカガワシイ女ト戯レルヨウニナッテ以来、私ハ常ニ黒眼鏡ヲカケ、外套ノ襟ヲ立テ、出来ルダケ人眼ヲ避ケルヨウニシテ居タノデス、ソシテ、ソレガソノ晩、大イニ役ニ立ッタトイウ訳デス。
加奈子ニ電話ヲカケ終ルト、私ハ又、きゃばれえ・れっど・みるヘ引返シマシタ。ソシテ、加奈子ガドノヨウナ顔ヲシテヤッテ来ルカ、ソレヲ楽シミニシテ待ッテイタノデス。
加奈子ガヤッテ来ルマデニハ、タップリ一時間ハカカッタノデ、ソノ間中、強イ酒ヲ飲ンデイタ私ハ、ズイブン酩酊シテイマシタ。
シカシ、ソレデモ尚且《ナオカ》ツ、サスガニ洒々《シヤアシヤア》ト、加奈子ノ前ニ顔ヲ出シ、今カケタノハ贋《ニセ》電話デアリ、ソノ贋電話ノ主ハ自分デアルト、告白スル勇気ハアリマセンデシタ。
私ハ遠クノ方カラ、ヒソカニ加奈子ヲ見、彼女ノ人待チ顔ノ焦躁ブリヲ観察スルコトニヨッテ、ヒトリ悦ニ入ッテイタノデス。トコロガソコヘ、俄然、アノ悪魔的ナ考エガヒラメイタノデシタ。
ソノ端緒トナッタモノハ、恐ラクアノ加奈子ノ愚カサニアッタデショウ。
騙サレタトモ知ラズ、コテコテニオ化粧ヲシテヤッテ来タ女、ソシテ満身ニ愚カナ媚態ヲ用意シテ、良人ノ来ルノヲ、今カ今カト待ッテイル女――遠クノ方カラソレヲ見テイルウチニ、私ハ虫ズノ走ルヨウナ嫌悪ヲ覚エテ来マシタ。思イ切ッテ、ヒト捻リニ捻リツブシテヤリタクナリマシタ。
ソノ時デシタ。サットアノ計画ガ頭ニヒラメイタノハ。風間ハ今夜、コノ女ト喧嘩ヲシテトビ出シテ来タノダ。ソシテサッキ迄、イヤ、今デモコノ銀座ニ居ルカモ知レナイ。ココデ加奈子ガ殺サレタラ、風間ニ疑イガカカリハシナイダロウカ。
女房殺シノ罪ニ問ワレル風間、ソノ時ノ春代ノ気持チ――ソウ考エタトキ私ハ何ントモ名状スルコトノ出来ヌ戦慄ヲ感ジマシタガ、ソノ戦慄ハ必ズシモ不快ナ感ジデハナカッタノデス。
私ハイツカ、ぽけっとノ中デ、サッキ手ニ入レタ二品ヲ、汗ノ出ルホド握リシメテル自分ニ気ガツイテ愕然トシマシタ。
幾度モ申上ゲル通リ、私ハ決シテソノ夜ノ行動ヲ酒ノ酔イニ転嫁シヨウトハ思イマセン。シカシ、酒ガソノ夜ノ私ノ行動ヲ、何十ぱーせんとカ支配シタコトハ確カデス。
アノ悪魔ノヨウナ考エガ、私ノ頭ニヒラメイタ時、殆《ホト》ンド躊躇《チユウチヨ》シナカッタコトデモ、ソノコトハ分ルト思イマス。私ハ直チニソレヲ実行シマシタ。シカモ、ソレハ実ニ容易ニ成シ遂ゲラレタノデス。
アノ芋ヲ洗ウヨウナきゃばれえノ混雑、耳ヲ聾《ロウ》スルばんどノ騒音、ソシテ薄暗イ照明――きゃばれえニオケル殺人トハ、モシ大胆ニ決行スレバ、コレ程容易ナコトハナイノデアリマス。(以下省略)
瀬川省吾の告白のあらましが、大きく新聞に報道された日であった。
このあいだの冒険で、風邪を悪化させて寝ている那須の枕もとに、しょんぼり泰子が坐っていた。
やつれた那須の顔をみると、泰子は思わず涙ぐまれて、
「あなた」
と、低い声で呼んでみた。
那須は熱にうかされて、うとうとしかけていたところだったが、泰子の声が耳に入ったと見えて、ぼんやりと眼をひらいた。
「何んだい……おや、どうしたの、泣いてるのかい」
「あなた、すみません」
泰子はそっと眼がしらをおさえて、
「あなたはまえから犯人を知っていらしたのね。それで、あんなに苦しんでいらしたのね」
那須は苦しげに、熱い息を吐くと、
「いや、はっきりそれと知っていたわけじゃない。しかし、あるいは……と、恐れていたのだ。その疑惑がぼくを苦しめていたんだよ」
「どうして……? どうして、あなたは瀬川先生を……?」
「見たのだよ。あの夜、先生がキャバレー・レッド・ミルからとび出すところを……」
「まあ!」
「泰子、君もあの晩のことを覚えているだろう。あれは西沢の雑誌で、座談会を計画していた晩だった。ところが予定した出席者が集まらなかったので、座談会はお流れになった。それがぼくに対する面当てみたいだったから、当然、ぼくは面白くなかった。そこで酒でも飲んでいこうと飛込んだのがキャバレー・レッド・ミルの真向うにあるバアだ」
「まあ!」
と、泰子はまたいきをのんだ。
「ムシャクシャ腹で、そこでかなり飲んで出て来たぼくは、ボンヤリとレッド・ミルの水車のまわるのを立って見ていた。すると、そこへとび出してきたのが先生だった。先生のほうでは気がつかなかったけれど、ぼくにはすぐ先生だとわかったんだ。黒眼鏡をかけて、妙に人眼をさけるような風をしていられたが。……だから翌日の夕刊で、風間の細君が同じ場所で殺されたと知ったとき、すぐ、もしや……と、思ったのだ。動機はわからなかったけれど、戦後先生が、かなり荒んだ生活をしていられることは、ぼくもうすうす知っていたからね。……だが、泰子、この話はもう止そう」
「ええ、止しましょう」
泰子は素直に同意して、縁側へ出て晴れた空を仰いだ。もうすっかり夏になった空には、太陽がギラギラ光っている。
泰子は思い出したように、
「そうそう、風間さんからハガキが来てるわ。あの人、由紀子さんといま、伊豆にいらっしゃるんですって」
「そう、それもよかろう。あの男もこれから新しい生涯に入るのだろう」
「そうね」
と、泰子はうなずいて、そして、そのあとへ、わたしたちも……と、心の中で附加えた。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『女が見ていた』昭和50年8月30日初版発行