塙《ばん》侯爵一家
他一篇
横溝正史
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目 次
塙《ばん》侯爵一家
孔雀《くじやく》夫人
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[#見出し] 塙《ばん》侯爵一家
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[#小見出し] 霧の都
一
深い霧の中を、一台の自動車が歩くようにのろのろと走っていた。狭いごたごたとした町で、でこぼこの道路には鉄屑《かなくず》や木片が至るところにごろごろと転がっていた。両側には木造の倉庫が、霧の中にじっとりとぬれて、黒い輪郭を浮き立たせていた。
自動車は四つ角へ来るたびに止まった。そしてそのたびごとに、運転台から、黒い人影が飛び降りると、懐中電燈をともして町名を調べていた。
「大丈夫かな?」
自動車の中から、太い、バスの声がゆっくりと尋ねた。
「大丈夫です、大佐、もうすぐです」
黒い人影は自動車に飛び乗ると早口に答えた。
「なにしろ、この深い霧で、町の勝手がすっかり違ってしまったものですから、――でももうじきです」
自動車は再びのろのろと走り出した。中の男はそれきり黙りこんでしまった。遠くのほうから汽船の銅鑼《どら》の音が、霧にぬれて殷々《いんいん》と響いてくる。
「だいぶ、潮の香が高くなったようだな」
中の男が言った。
「ええ、この倉庫の向こうが、すぐテームズ河ですから、――ああ、大佐、ようやくまいりました」
自動車を止めると、さっきの男がいち早く運転台から飛び降りた。自動車の中からはゆっくりとした咳払《せきばら》いの声が聞こえた。と、思うと扉《ドア》を開いて、赤ら顔の男がそっと顔を出した。
「大丈夫かな」
「大丈夫です。だれもいやしません」
赤ら顔の男はそれでもまだ不安そうに、自動車のステップに足をかけたまま、しばらくためらっていたが、やがて思いきったように歩道に飛び降りた。
「自動車は?」
「このままにしておきましょう、大丈夫です」
「ここからだいぶあるのか」
「なあに、一町かせいぜい一町半くらいのものです」
赤ら顔の男は外套《がいとう》の襟《えり》を立てると、
「ほほう、ひどい霧だな」と言った。
二人は黙って自動車から離れて歩き出した。
アパー・スワンダム小路《レーン》。
ロンドン橋の東に当たり、テームズ河の北側に沿《そ》うた、汚いごたごたとした町だった。二人はこのトンネルのような狭い横小路へ入って行った。
二人とも確かに日本人である。一人のほうは年齢四十五、六、大兵肥満《だいひようひまん》な体格を、黒い外套ですっぽりと包み、目深《まぶか》に下ろした帽子の廂《ひさし》の下から、鋭い二つの眼だけがぎらぎらと光っている。肉の厚い赤ら顔で、太い口髭《くちひげ》だけが雪のように白かった。これが大佐である。
もう一人のほうは大佐に比べるとずっと小柄だった。痩《や》せた、繊弱《せんじやく》そうな体をしていて、顔色も蒼白《あおじろ》く、日本人としてもよほど体格の悪いほうである。ただその眼だけが妙な特徴を持っていた。じっと眠っているような眼をしているかと思うと、ふいに鋼鉄のような蒼白い炎を放つ、その瞬間、彼のみじめな顔全体が、いかにも惨忍で酷薄らしく見えるのだった。
「で、須藤君」こつこつと凸凹《でこぼこ》の敷石の上に靴《くつ》の音を立てながら、大佐がふと口を開いた。「その男が今夜そこにいるということに間違いはないかね」
「間違いはありません。日が暮れるとあいつは必ずその酒場にいるのです。そして時間が来て追い立てられるまで、その隅《すみ》っこに酔っ払っているのがおきまりなんです」
「しかし、その男は、はたして君が想像しているように、自殺の決心をしているだろうかね。死ぬということは易《やさ》しそうに見えて、いざとなると案外難しいものだからな」
「ところが、大佐、あいつときたらもう自殺するよりほかに手がないのですからね」須藤はずるそうに眼をしょぼつかせた。「今日大使館へやってきて、故国からなんの便りもないと聞いた時の奴《やつ》の顔ったらなかったですよ。死に神に襟首《えりくび》をなでられた顔というのは、たぶんああいうのをいうのでしょう」
「ところが日本からは送金があったのだね。いったいいくら送ってきたのだ」
「二十ポンドです」
「二十ポンド――? それだけあれば当分自殺をしなくても済むはずだね」
「ところが奴はそれを知らないから大丈夫です。絵は売れまいし、友人からは見離されてしまうし、当てにした故国からの送金はないし、きゃつに残された道は自殺よりほかにあるはずがありません」
「鷲見《すみ》――、なんとかいったな」
「鷲見信之助」
「送金の主は何者だね」
「女です。島崎|麻耶子《まやこ》という女です」
「女? 友達かな? 情婦かな? なにしろそいつは一応調べとかにゃならん」
そのとたん、須藤は軽く口笛を吹くと歩みを止めた。大佐はそれで、すぐ目的の場所に近づいたことを覚《さと》ると、軽く尻《しり》のポケットに手をやった。そこには弾丸をこめたブローニングがあった。
須藤は洞穴《ほらあな》に通じているような、真っ暗な階段を下りて行った。大佐もそれに続いて、酔っ払いの足ですり減らされた石の階段を一つ一つ気をつけて下りて行った。階段の下には厚い樫《かし》の扉があった。須藤はステッキの頭で、コツコツ、コツコツと調子をとってその扉をたたいた。と、不意に、四角い覗《のぞ》き孔《あな》が開いて、そこからぬっと気味の悪い老婆が顔を出した。
「鳥か獣か?」老婆が言った。
「三本脚の鴉《からす》」
須藤が答えると老婆の顔が引っ込んで、がちゃがちゃと鎖をひねるような音がした。と、間もなく扉が内側へ開かれた。
須藤は黙って老婆を押しのけると、大佐を促《うなが》して先に立った。木造の狭い階段が五、六段あって、その階段を下りきるとさらに一つの扉があった。須藤は大佐に目配《めくば》せすると、その扉を押して中へ入った。その扉を境に、中はむせるような煙草《たばこ》の煙と、アルコールの匂《にお》いでいっぱいだった。下級船員らしい男が五、六人、どこの国の言葉かわからない言葉でどなったり歌ったりしていた。甘酸っぱい女の体臭と白粉《おしろい》の匂いが、酒の香に混じって嘔吐《おうと》を催しそうであった。あらゆる国籍のあらゆる人種が、そこに泥のように酔っ払い、白痴のように踊っているのだった。
須藤はしかし、そういう光景には慣れ切っていると見えて、ステッキを小脇《こわき》にかかえたまま、手袋を脱ぎながら、じろじろと広間の中を見回していたが、やがて目的物を発見したらしく、大佐に向かってちょっと小指をあげて見せた。
「いるか?」
「います。向こうの隅です」
二人は広間へ下りると、煙と酔っ払いの渦《うず》をかきよけながら、つかつかと隅のほうのテーブルへ近づいて行った。
テーブルの上には一人の青年が覆《おお》いかぶさるようにして俯伏《うつぶ》せになっていた。髪は蓬々《ほうほう》と伸びて、耳の背後には垢《あか》がこびりついている。すりきれた上衣、垢じみた襟《えり》、ぼろぼろの靴、それはこの青年の窮迫を如実《によじつ》に物語っているのだった。頭のそばには空になったウイスキーの瓶《びん》とコップ、そのそばにはペン軸をつきさしたままのインキ壺《つぼ》と紙片が一枚広げてあった。
青年は二人がそばに立ったのを感ずると、ぼんやりと顔をあげて、まぶしそうにしばらくまじまじと二人の顔を見上げていたが、そのまままたテーブルに頭をくっつけて眠りこけてしまった。しかし、この青年が顔をもたげた瞬間の大佐の驚きは大きかった。本能的に彼は、腰のブローニングに手を持って行きながら、じっとこの青年の面に瞳《ひとみ》をすえていた。
「いかがです、大佐」
須藤は青年が再び眠りこんでしまうのを見て大佐のほうを振り返った。
「フム」
大佐は低い呻《うめ》き声をあげながら、呆然《ぼうぜん》としていたが、つと青年の頭髪《かみ》と顎《あご》に手をかけると、ぐいとその顔を光のほうに向けた。
「似てる」
「でしょう」
「瓜《うり》二つだ」
大佐が手を離すと、青年はだらしなく手の甲で涎《よだれ》をぬぐいながら、そのまままたテーブルによりかかってぐっすりと眠り込んでしまった。
須藤は卓上にある一枚の紙片を手に取り上げた。彼は英語で書いてある文章をちらと一瞥《いちべつ》すると、すぐにそれを大佐の手に渡した。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
余《よ》は敗れたり。
余は世間と闘い、惨《みじ》めにも敗北したり。余の行くべき道はただ死あるのみ。乞《こ》う、この手紙を発見したる者は日本大使館にこれを持参されんことを。かくて貧しき日本の画家鷲見信之助の存在は永遠にこの世から抹殺《まつさつ》されん。
追伸。
島崎麻耶子よ。
などてそなたのかくも情《つれ》なかりき。余は最後の瞬間までそなたの音信を待ちたるに遂に得ず。されど今や余はそなたを恨まんことを欲せず。たとえ心変わりのそなたにあるとても。
[#ここで字下げ終わり]
大佐は読み終わるとそれをポケットに入れた。そして何事か須藤の耳にささやいた。須藤はそれを聞くと、すぐに手をたたいて亭主《ていしゆ》を呼んだ。
「この男の勘定は幾らだね?」
「へえ、旦那《だんな》、だいぶもう溜《た》まっておりますんで」
鼻の頭の赤い、ユダヤ人らしい亭主は揉《も》み手をしながら賤《いや》しい笑いを浮かべた。大佐はポケットから紙幣の束を取り出すと、その中から二、三枚抜きとってそれをテーブルの上に投げ出した。
「須藤君、この男の左腕を持ちたまえ」
須藤は言われるままに酔っ払いの左腕をとった。広間の中で騒がしくどなり立てていた人々は、酔っ払いの腕を支えて出ていく、この不思議な二人の日本人の後ろ姿を、眼を皿《さら》のようにしてながめているのだった。
二
「安道《やすみち》さま、向こうに沢村大使の令嬢がお見えになっておりますよ」
背後からそっとそうささやかれて、鷲見信之助はぼんやりと舞台から眼を離した。
「西側のボックスです。左から二番目の――」
信之助はオペラグラスを眼に当てると、舞台を見るようなふうをして、そっと西側の左から二番目のボックスに眼をやった。若い令嬢が母親とも見える婦人とただ二人、じっと舞台のほうに見入っていた。舞台では今、沙翁《さおう》の「チャールス一世」の第二幕目が、ほとんど終わりに近づこうとしているのだった。
信之助はその令嬢の横顔にじっとオペラグラスの焦点を合わしていた。二十一、二の、丸顔の愛くるしい顔をした娘だった。額《ひたい》の広い、ちょっと鼻のしゃくれた横顔が、薄暗い照明を受けていかにも神々《こうごう》しく見えた。信之助はそれを見ると、どうしたものか急に胸騒ぎがしてきた。彼はもう舞台を見る気にはなれなかった。じっと、食い入るように、その横顔を見ていると、向こうのボックスでも気がついたらしい、年嵩《としかさ》のほうの婦人がそっと令嬢に注意した。
娘は何かそれに答えているふうであったが、おもむろにオペラグラスを手に取り上げると、それをこっちへ向けた。二人のオペラグラスが薄暗い客席の上で合った。と、令嬢はにっこりと微笑を浮かべて軽く目礼をした。信之助もあわててそれに目礼を返すと、初めてオペラグラスを膝《ひざ》の上に置いた。
「次の幕間には挨拶《あいさつ》に出られるのが至当かと存じますが、安道さま」
信之助の背後から、低いバスの声が聞こえた。信之助はそれを聞くとわざと眉《まゆ》をしかめたが、なぜか耳の付け根まで真っ赤になっていた。
「連れの婦人は令嬢の母親かね。大佐」
「さようです。沢村大使夫人です」
「令嬢の名は?」
「美子さま」
信之助は黙ってオペラグラスを膝の上でいじくっていたが、もう一度背後に向かって声をかけた。
「そのほかに何か知っておくことはないかね」
「さよう、大使の令嬢と安道さまとはたいへん親密でいらっしゃいました。言ってみれば恋仲ですかな。ところが安道さまが一ヵ月前から病床につかれたきりなので、それきり、二人はお会いになったことがございません。もっとも、病中令嬢は三度ほどホテルへお見舞いに見えられましたが、いつもお目にかかることができませんでした。ですからお会いになりましたら、まず第一に花束のお礼をおっしゃらなければなりませんよ」
信之助はその言葉を聞いているのかいないのか、オペラグラスを取り上げると、それを舞台のほうに向けていた。
この十日ほど彼はまるで夢の中の宮殿に生活しているのだった。あのごみごみとしたアパー・スワンダム小路《レーン》の酒場の中で、書き置きをしたためて、死ぬ前に一本ウイスキーを空にしたのはちょうどその日から十日前のことだった。それきり彼は前後不覚に眠り込んでしまった。そして、その次に眼を覚ましたとき、彼は宮殿のような贅沢《ぜいたく》な一室で寝ているのだった。
「お眼覚めになりましたか?」
その声に驚いて振り返ると、ベッドのそばにはいかめしい陸軍の制服を身につけた日本人が立っていた。
「水をください、――水を」
男は立ってソーダサイフォンからプレンソーダをコップに注いで口もとへ持ってきてくれた。信之助はそれを一息に飲み干すと、改めて部屋の中を見回した。
「ここはどこです、あなたはいったいだれです」
「そんなことはどうでもいい。どうだね、気持ちは」
「ええ、少しまだ頭がふらふらします。しかし、ぼくは――」
「しっ、黙ってろ! だれか来た」
軍服を着た男はいきなり信之助の口に手を当てた。
「いいか。今だれか来た、たぶんきみを見舞いに来たのだろう。きみはどんなことを聞かれても、ただ疲れきったような顔をして返事をするのじゃないぞ。そしてただこれだけのことを言うのだ。『ええ、大丈夫です。もう一週間もすれば起きられるでしょう』とな、わかったね」
信之助は相手の眼の中に凶暴な光を見た。いやだと言えば絞め殺しもしかねまじき剣幕である。信之助は恐怖と驚愕《きようがく》に心臓が冷たく縮みあがるのを感じた。彼は弱々しくうなずいた。
「よし、|どうぞ《カムイン》」
扉が開いて、一人の紳士が入ってきた。
「いかがですか、御容態は――?」
「ありがとうございます。閣下、おかげでおいおい御回復に向かわれるようでございます」
紳士は信之助の枕《まくら》もとまで来た。
「ほほう。だいぶおやつれになりましたな」
信之助はそっと薄目を開いてみた。そして驚いた。彼はこの紳士の顔を新聞で知っていた。白井哲次郎といって陸軍中将である。中将は信之助がそっと眼を開いたのを見ると、静かにその額に手を置いた。
「いかがでございますか」
「ええ、ありがとう」
信之助はちょっとさっきの男のほうを見た。男はポケットに手を突っ込んだまま、じっと彼のほうを見つめている。ポケットの中からちらとピストルの銃口が見えた。
「もう一週間もすれば起きられるでしょう」
信之助はそう言うと眼をつむってくるりと向きを変えた。中将はベッドのそばを離れると、しばらくさっきの男と話をしていたが、やがてていねいに見舞いの言葉を述べて立ち去った。
「うまい、うまい、あの調子だ」
中将を送り出した男は、手をすり合わせながらベッドのそばへ近づいて来て言った。
「どう見ても本物だよ。あの調子、あの調子」
「いったいこれはどうしたというのです。今のは白井中将じゃありませんか」
「ああ、きみも知っていたのだね。いかにも白井中将だ。きみの見舞いに来たのだよ」
「あなたはいったいだれです。ぼくをどうしようというのです」
「ああ、ぼくの名か、こいつはぜひ知っていてもらわねばならぬ。ぼくの名は畔沢欣吾《くろさわきんご》、陸軍大佐だ。そしてきみの従兄《いとこ》に当たり、きみの付き添いとしてこのロンドンへ来ている者だよ」
「じゃ、いったい、このぼくはだれです」
「きみか、きみは塙《ばん》安道、塙侯爵の令息さ」
不意に信之助はどきりとした。彼は思わずベッドから起き直ろうとしたが、そのとたんくらくらと眩暈《めまい》を覚えて、再びベッドの上に仰向けになった。
塙侯爵。――日本人でいて、この名を知らぬ者があるだろうか。あの偉大なる軍人にして政治家。日本のあらゆる活動的な機構の要《かなめ》を握っているといわれるあの偉大な存在。――そうだ、その塙侯爵の令息が、このロンドンに留学に来たということを、二ヵ月ほど前、信之助も新聞で読んだことがある。では、自分が今身替わりを勤めているのは、その塙侯爵の令息であったのか――。
「何もいうことはない。きみはただおれの言うままになっていればいいのだ。それとも――」大佐はポケットから一枚の紙片を取り出した。「ここにきみの遺書がある。お望みならもう一度アパー・スワンダム小路《レーン》へ送り返してあげてもいいがね」
信之助は恐ろしげに面を覆うた。あの惨めな夜のことを思い出すと、彼の体はふかふかとした毛布の中で激しく身震いをするのだった。あまり彼は死の淵《ふち》に近寄り過ぎた。二度と再び、あの真っ暗な孔をのぞく勇気はとても出てこない。
「大佐――」
信之助はきれぎれな声で言った。「ぼくはあなたの傀儡《かいらい》です」
そして彼は再び気を失ってしまったのだった。――
やがて「チャールス一世」の第二幕は終わった。
幕が下りると、信之助はすぐ立ち上がって背後を見た。
「おいでになりますか」
「行こう」
畔沢大佐はなぜかにやりと微笑を浮かべるとすぐ立ち上がった。
信之助たちがボックスへ入っていくと、美子はちょっと席をあけながら何事か母親にささやいた。そしてすぐ信之助のほうを振り返った。
「お体はいかがですか」
「ありがとう。もういいのです」
「ほんとうにロンドンは気候が悪うございますから、お気をおつけあそばしませんと」
夫人がそばから口を出した。
「ここはなんだか蒸し蒸しいたしますのね。塙さま、外へお出になりません?」
信之助は黙って腕を出した。美子は立ち上がるとその腕に手を置いた。二人が出ていく時、大佐が怪しく眼を光らせていたが、信之助はわざと知らぬ顔をしていた。
「お見舞いに来てくだすったそうですね」
「ええ、二、三度――でも一度もお目にかかれませんでしたのね」
「なにしろ熱が高かったものですから――花束をありがとう」
「いいえ」
二人はバルコンに出た。少し寒気がするのでバルコンにはだれもいなかった。
「あたし少し話がございますの。おかけになりません?」
信之助は美子と並んで腰を下ろした。そばから見た美子の顔はいっそう美しかった。顔全体が柔らかい線で輪郭づけられていて、頬《ほお》のあたりにいかにも静かな、落ち着いた調子《トーン》があった。それでいて唇《くちびる》の端の少ししゃくれているのが、どうかすると、この娘を、いかにもやんちゃらしく見せていて、この二つが不思議な平衡《へいこう》を保っているのだった。
「ああ、どうぞ、お煙草《たばこ》なら御自由に――」
美子は信之助がポケットに手を突っ込んだまま、もじもじしているのを見て言った。
「お話ってどんなことですか?」
「あたし、近いうちに日本へ帰ることになりましたの」
「ええ?」
ライターを持った信之助の手が不意に怪しく震えた。「急にまたどうしてですか?」
「父が本国から召還されましたの。で、この二十五日の船で発《た》たなければなりませんの」
「それはまた急ですね。前からそんな話があったのですか」
「ええ」美子は長い睫《まつげ》を伏せた。「あたし、それであなたに、お願いしたかったんですの。侯爵におとりなしを願おうと思っていたのですわ。しかし、もうだめ、世間に発表されてしまったんですものね」
「じゃ、ぼくも帰りましょう。ね、ぼくもいっしょの船で帰りましょう。そして東京へ帰ってから父に頼んでみましょう」
「まあ! そんなことはいけませんわ。あなたの御留学は二ヵ年の御予定ではございませんの。まだやっと二月|経《た》ったばかりじゃございませんか」
信之助は黙って外を見た。それから急に女の手を取ると、じっと相手の顔をのぞき込んだ。
「では、ぼくたち、もうこれきりでこのロンドンではお目にかかれませんか」
「いいえ」美子はゆっくりと頭《かしら》を左右に振った。「あたし、この週末にマドレコード卿《きよう》夫人からお招きに与《あずか》っておりますの。あなたもいらしてくだされば、――」
「もちろん、まいりましょう」
信之助は早口に言った。そして女の体をそっと抱き寄せた。
三
五月の空は香ぐわしく晴れて、ぼたんづるやすいかずらの花が古めかしい垣根《かきね》に、しおらしい花を開いていた。広い庭園のなだらかな芝生の上には、あちらでもこちらでも、若い、美しい男女が嬉々《きき》として戯れていた。
「まあ、やっと二人きりになれましたのね」
美子と信之助はそれらの群れから離れると、ほっとしたように言った。
「なにしろあの大佐ときたら、片時もぼくのそばから離れようとはしないのですからね」
「ほんとうにあの方は忠実なんですわ。あなたの体はたいせつなお体ですものね」
信之助は忠実という言葉を聞くとちょっと顔をしかめた。
「さあ、向こうでお茶でも飲みましょう。ほんとうにこれが、あのいやなロンドンからたった三十マイルしか離れていないとは思えませんわね」
二人はテントの中へ入っていって茶を飲んだ。
「いよいよ、明後日が御出発ですね」
「ええ、もう荷物はすっかり送ってしまいましたの」美子は淋《さび》しげに眼を伏せた。
「こんどお目にかかるのは東京ですね」
「ええ、でも、二年も後のことですわね」
信之助はなぜか冷たいものを心臓に当てられたような気がした。二年――。そうだ、その二年の後には自分はまたもとの貧乏画家にもどっていることだろう。
「何を考えていらっしゃるの? なんだか向こうのほうでにぎやかに騒いでいるじゃありませんの」
そこへ向こうから若いイギリス娘が小走りに駆けてきた。
「まあ、ミス・サワムラ。――向こうへ行ってごらんなさい。おもしろいことがありますよ」
「なんですの、たいへんにぎやかじゃありません?」
「巫女《みこ》ですの。それもあなたのお国の方ですよ。たいへんよく当たります」
「行ってみましょうか」
美子が言った。信之助はあまり気がすすまなかったけれど、美子がだいぶ好奇心を動かしているらしいのを見て黙っていっしょになった。巫女の小さなテントから、五、六人の女が笑いさんざめきながら出てきた。
「あなた、見ておもらいになりません?」
信之助はなぜかぞっとするような寒さを感じた。
「見ておもらいなさいよ。きっとおもしろいことがあるに違いありませんわ」
美子は悪戯《いたずら》っ児《こ》らしい笑いを浮かべていた。信之助はしばらくじっと相手の眼を見ていたが、やがて黙ってテントの中へ入っていった。テントの中にはカーテンが張ってあって、そのカーテンに小さな孔《あな》が開いていた。
「手を――、左の手を――」
カーテンの向こうから太い女の声が聞こえた。巫女の姿はそのカーテンに隠れて見えなかった。信之助は黙って手をカーテンの孔の中に入れた。
「不思議な手相です。これは尋常の手相ではありません」
カーテンの向こうから低い太い女の声が聞こえた。
「あなたは今たいへん高い地位につかれようとしています。あらゆる権力はあなたのものです。あらゆる幸福はあなたのものです。しかし――」
不意に女の声は怪しく乱れた。
「これはいけない。これはたいへん不吉な筋です。あなたはある権力を握ろうとしている。しかしその前に死が――いくつもいくつもの死があります。ああ、不吉な――、恐ろしい」
信之助はあわてて手を引っ込めると、急いでそのテントから出た。体がかげろう[#「かげろう」に傍点]のように揺れて、額にはビッショリと汗がにじんでいた。
「済みませんでしたわね。あんなものおすすめしたりして――」
美子は追いすがるようにして言った。
「いいえ」信之助はやっと落ち着きを取り返して言った。「どうせでたらめでしょうからね」
「でたらめでしょうか。ほんとうにそうでしょうか」美子はなぜか遠いものを追うような眼付きをした。
「いいえ、あたしにはそうは思われませんわ。もし、あなたがお父さまの後をお継ぎになれば――」
「馬鹿な。私は父の七番目の子供ですよ。そんなことがあるものですか」
美子が何か言おうとした。しかし、ちょうどそこへ畔沢大佐が難しい顔をして近づいてくるのが見えた。
「ああ、さっきからお捜ししておりました。ちょっとお耳を――」
美子は気を利かして彼らのそばを離れた。大佐と信之助は何事か早口に話し合っていたが、不意に信之助の顔色がさっと変わった。彼はなお二言、三言大佐に何か言っていたが、やがてつかつかと美子のそばへ寄ってきた。
「失礼ですが急に用ができましたから、私はこれからすぐにロンドンへ帰らねばなりません。マドレコード夫人にあなたからよろしく言っておいてください」
信之助はお辞儀をすると、相手の返事も待たずに美子のそばを離れたが、何を思ったのかまたつかつかと引き返してきた。そして、美子の耳にそっとささやいた。
「ひょっとすると、私も明後日、あなたと御同船することができるかもしれませんよ」
彼はそれきりくるりと美子に背を向けると、大佐とともに急ぎ足で立ち去った。
四
「で、ぼくはこれからどうしたらいいのだね」
信之助は大きな皮|椅子《いす》に身をもたせたまま、不安そうに大佐の姿を見ていた。大佐は両手を背後に組んだまま、さっきから部屋の中をあちこちと歩き回っていた。それは、信之助が初めて、このお伽噺《とぎばなし》の世界に眼覚めた、あの贅沢《ぜいたく》なホテルの一室だった。
「それを言う前に、きみの考えをきかねばならんが――」大佐はふいに立ち止まると、鋭い一瞥《いちべつ》を信之助のほうにくれた。「きみは現在の地位をどう思っている?」
信之助は相手の真意を計りかねて黙っていた。大佐は再び部屋の中を歩き回った。
「きみは今の地位をありがたいとは思わないかね。そして、いつまでもこの地位にいたいとは思わないかね」
「それは思う。もし、なんの危険もないとすれば――」
「もし、危険があったとすれば――?」
大佐は不意に立ち止まって、まっこうから信之助の顔を見た。信之助はまぶしそうに眼をそらしたが、その瞬間彼の脳裡《のうり》には美子の顔が思い浮かんだ。彼は皮椅子の腕をしっかと押さえながらあえぐように言った。
「もし、危険があったとしても!」
大佐はじっと信之助の眼の中をのぞき込んだ。そしてそこに不敵な真剣さを読み取ると満足そうな笑《え》みを漏らした。
「よろしい、きみは不思議な男だ。きみはまるで生まれながらの貴族のように振る舞うことができる。きみがそのつもりでいるなら、きみはさらに高い地位をつかみとることができるのだ。塙《ばん》侯爵――きみはその後継ぎになることができるのだ」
大佐はポケットから一通の電報を取り出した。
「見たまえ、ここにきみの兄が急死したことを知らせる電報が来ている。塙侯爵の長男だ。この長男が死ねば、後には塙侯爵家を継ぐ資格のあるものは二人しかいない。きみときみの次兄晴通だ。ところでこの晴通は恐ろしい不具のうえに気違いときている。親族たちは寄ってたかってきみを後継者に直すにきまっている。きみはやがて侯爵となる。そして富も名誉も権力もいっさいきみのものだ。恋も――」
「恋も――?」
信之助は低いうめくような声をあげた。
「しかし、彼らが贋物《にせもの》と知ったら――、そして本物が現われたら――」
大佐は相手の顔に激しい欲望の色を見てとった。それはいかなる困難をも押しのけようとする激しい、肉体的な欲望の色だった。
大佐は黙って隣室への扉を開いた。
「来たまえ」
信之助はよろよろと大佐の後について行った。狭い部屋の一隅《いちぐう》にカーテンが垂れていた。大佐はそのカーテンを静かに開いた。と、カーテンの中には一つのベッドがあって、そのそばに痩《や》せた醜い日本人がうずくまっていた。信之助はその男の顔に見覚えがあった。
「須藤、どうだね?」
「だめです。心臓がすっかり冒されています」
信之助はふとベッドの上を見た。と、彼は思わずきゃっと叫んで背後へとびのいた。ベッドの上には彼自身が横たわっているのだった。いや、もちろん彼ではなかった。しかし、信之助自身でさえ、自分の眼を疑ったほど、その男は彼によく似ていた。
「これが本物の安道だ」
「病気ですか」
信之助はわなわなと震えながら低い声で尋ねた。大佐は黙って眼で枕元《まくらもと》を指した。そこには長い水|煙管《ぎせる》と火皿《ひざら》と、何かしらどろどろとした薬みたいな物の入っているガラスの器とがあった。
「阿片《あへん》――」
大佐はそう言いながら男の手をとった。男は何かたわいのない声で二言、三言つぶやいたが、不意にすすり泣くように大きく息を内へ吸い込んだ。
「これが塙侯爵の七男だ。この男の眼前には今輝かしい栄光が垂れ下がっているのだ。しかしこの男はもうそれを受け取る資格がない」
大佐が手を離すと、安道の腕はぐったりとベッドの外に落ちた。
大佐はしばらくじっと病人の顔を見ていたが、やがてポケットから細い革の鞭《むち》のようなものを取り出して、それを病人の首に巻きつけた。
「絞《し》めたまえ、これを!」
言われて、信之助は不意によろよろと二、三歩背後へよろめいた。
「恐ろしい、そんな恐ろしいことが――」
「恐ろしい?」大佐は歯を出して笑った。「この男はどうせ生きている屍《しかばね》にすぎないのだよ。きみがこの鞭を引くことはむしろお慈悲というものじゃないか」
「でも、でも――」
「おい、聞けよ。きみがこの鞭を絞めさえすれば、きみはあらゆる権力をその手に握ることができるんだぜ。すばらしい名誉だ。すばらしい権力だ。すばらしい富だ。そしてすばらしい恋だ」
「酒を――、酒をください。ぼくの頭は狂いそうです」
「須藤君、この男に酒を持ってきてくれたまえ」
須藤は隣室からウイスキーの瓶《びん》とコップを持ってきたが、それをテーブルの上に置くと、大佐のほうへ振り返った。
「大佐、電話ですよ」
「電話? どこから?」
「大使館からです」
大佐は急ぎ足で隣室へ去ったがすぐもどってきた。
「おれはこれからちょっと大使館へ行ってくる。三十分ほどしたらもどってくるが、おい、鷲見《すみ》君、その間によく思案をしときたまえ、いいかね」
信之助は大佐の後ろ姿が見えなくなると、ウイスキーの瓶を取り上げて、瓶ごとごくりごくりと飲み出した。
畔沢《くろさわ》大佐はかっきり三十分ほどでホテルへ帰ってきた。一歩自分の部屋へ足を踏み入れた大佐はぎょっとして立ち止まった。須藤がまるで泥のように酔っ払って長椅子の上に横になっていた。
足元には空になったウイスキーの瓶が転がっている。
「おい、須藤、須藤、どうしたのだ?」
須藤はどろんとした眼をあげた。
「やっつけましたよ、大佐、ああ、いやだ。白い眼を開いてじっと俺《あつし》の顔をにらんでましたっけ。ああ、いやだ。酒をください。酒を――」
大佐は大股《おおまた》に部屋を横切ると扉を開いて隣室をのぞいた。ベッドのそばには幽霊のような顔をした信之助が呆然《ぼうぜん》として立っていた。
大佐はつかつかとそのそばへ寄ると、そっとベッドの毛布をめくってみたが、すぐに顔をそらしてしまった。
「よし、万事好都合だ。しっかりしろ。死体の後始末はおれがつけてやる」
大佐は信之助の手をとった。その手は氷のように冷たかった。
[#小見出し] 黒い影
一
欧州からの客を満載した郵船会社の高級船照国丸が、その大きな船体を、神戸港の第一突堤に横着けたのは、六月二十三日、午後二時ごろのことだった。
ちょうどこの汽船には、長いこと来朝を伝えられながら、そのつど約束を果たさなかったアメリカ映画界切っての人気俳優が初めての日本訪問に乗り込んでいたので、その歓迎員や、ファンや、弥次馬《やじうま》などを交えて、神戸港の埠頭《ふとう》はまるで豆をばらまいたようなおびただしい人出だった。
船客たちはだれも彼も、長い船旅に倦々《あきあき》として、一刻も早く故国の土を踏みたがっていたので、船が和田|岬《みさき》にさしかかったころから、みんな上甲板に出て、なんとなくそわそわと落ち着きなく、その辺を歩き回っていた。
やがて検疫船がやってきた。
そして型どおりの検疫が済むと、船は初めて神戸港へと入っていった。もうそのころには、だれ一人、甲板の手摺《てすり》から離れようとする者はなかった。
碧《あお》い、海のような六月の空を背景として、摩耶《まや》や六甲の山々が、額《ひたい》の上に迫るようにそそり立っている。山の中腹に建っている赤や白の異人屋敷が、点々として絵のように数えられた。
「まあ、たいへんな人だわね」
ふと突堤の上に眼をやった美子は、感嘆したようにそばに立っている塙安道にささやいた。
「あれ、みんな、あの映画俳優の歓迎でしょう?」
「そうらしいですね」
安道は、深い、暗いかげのある声でいった。
「こうしてみると、映画俳優の人気もなかなか馬鹿にはできませんね」
やがて、五色の旗を押したてたランチが、白い波を蹴立《けた》てて近づいてくるのが見えた。
「あれ、新聞社のインタビューですよ。われわれには関係のないことだけれど、うるさいから船室《キヤビン》へもどりましょうか」
「ええ」
美子は簡単に答えたが、彼女はこの甲板から離れたくない模様だった。まだ年の若いこの令嬢は、あの有名な映画俳優に対して、一種の興味を抱かないわけにはいかなかった。なるべくなら彼女は、この甲板に居残って、新聞社の写真班に取り巻かれているその男の姿が見たかったに違いない。
「では、あなたここに残っていらっしゃい。ぼくはともかく、一度船室へ帰って、上陸の用意をしましょう」
「あら、ではあたしもいっしょにまいりますわ」
美子があきらめたように手摺から離れた時、双眼鏡を片手にした畔沢大佐が向こうのほうから近づいてくるのが見えた。
「ああ、こちらにいらっしゃいましたか」
大佐は美子のほうに、ちょっと礼をすると、安道に向かって白い歯をみせて笑った。
「御覧なさい、あのランチの中にお兄さまとお嫂《ねえ》さまが乗っていますよ。仁一君などもいっしょのようです」
安道は不意に激しい胸騒ぎを感じた。
もうすぐ、この故国において、自分の兄弟や甥《おい》たちとの最初の会見が行なわれようとしている。――彼は何か、わけのわからぬことをつぶやきながら、つと、大佐の手にしていた双眼鏡を受け取るとそれを眼に当てた。
「ほら、ランチの一番先のほうで、しきりにハンカチを振っている婦人があるでしょう。あれがお嫂さま、そのそばにフロックを着て立っているのがお兄さまです。仁一君などの姿もみえるでしょう」
安道の双眼鏡が向くと、白いハンカチはいっそう激しく波の上にはためいた。フロックを着た、でっぷりと太った中年の紳士が、そのそばで、中学校の制服を着た子供二人を相手に、何かしきりに打ち興じていた。
安道はそれを見ると、思わず双眼鏡を取り落としそうになった。
「あら、どうあそばしたの?」
「いえ、なんでもないのです。どうも、今日は少し天気がよすぎるようですね」
安道はポケットから真っ白なハンカチを取り出して、神経質に額の汗をぬぐうと、初めて気が落ち着いたように、ゆっくりとそれをランチのほうに振ってみせた。
「さあ、もうすぐお兄さまたちがお見えになります。一度船室へ帰ってお支度をなすったほうがいいと思いますが――」
「うん」
「では、あたしも帰りましょう、安道さま、またのちほど――」
船室へ入ると、畔沢大佐はピンと扉に錠を下ろした。そしてコップに半分ほどウイスキーを注ぐと、黙って安道のほうに差し出した。安道は一息にぐっとそれを呷《あお》ると、改めてハンケチで首の汗をぬぐっていた。
「大丈夫かい?」
さすがに大佐も心配らしい声音《こわね》だ。
「うん、いや、まあ――」
「何も心配することなんかないよ。きみは兄貴と、嫂《あによめ》の話にうまく相槌《あいづち》を打ってりゃいいんだ。甥たちのことは気にかけるにゃ及ばないよ。実際きみが真実《ほんと》の安道だったところで、あんなにたくさんある甥や姪《めい》のことをいちいち覚えているわけにはいかないからね」
畔沢大佐の言葉はほんとうだった。
安道は男の中では侯爵の七番目の息子でしかないが、その間にある姉たちを勘定に入れると、実に、十五番目の子供になるのだった。しかも、そのおびただしい兄や姉たちは、もうほとんどすっかり結婚して、それぞれ子供を二、三人ずつ持っているのだから、彼がいちいち兄妹の子供を覚えていなくてもなんの不都合でもないのだった。
実際、あの有名な子福長者の老侯爵は、二ダース半に近い自分の子供たちに、それぞれの配偶者を合わせ、そしてその間にできた孫たちを加えると、優に六十人を越える大家内になるのだった。すでに老境に入った侯爵が、だから自分の息子と孫とを取り違えたりする喜劇は、決して珍しいことではなかった。
「どうだね、少しは勇気が出たかね」
「うん、まあ、なんとかやっつけてみよう」
「ふふふふ」
大佐はベッドの端に腰を下ろしたまま、手酌《てじやく》でウイスキーを舐《な》めながらにやりと笑った。
「実際、きみは驚いた男だよ。度胸の点ではたしかにおれより上手《うわて》だ。それに、どうもどこで修業したのか、侯爵家の令息といってもいささかも不思議でないくらい、もの慣れているのには驚くよ。見たまえ。沢村大使の令嬢だって、きみにはもうまるで夢中だよ。真実の安道の時だって、あんなにゃ惚《ほ》れていなかったのだがね」
「その話ならよしたまえ。それに第一、人がいないからといって、おれを贋物《にせもの》扱いにするのはよしてもらいたいね。でないといつ何時人の耳に入るかもしれないからね」
「は、は、は、それだ、その度胸だ。きみはもうすっかりこのおれを食ってかかっている。まあいい、それでなけりゃ大仕事はできないからね。では、安道さま、ランチがそろそろ着く時分でございますよ」
大佐は立って、わざとていねいなお辞儀をしながら、安道のために扉を開いてやった。
二
安道とその兄幸三郎との会見は、畔沢大佐が案じたほどのことでもなかった。
幸三郎は侯爵の三番目の息子で、この神戸にある大会社の社長の養子となって、今ではその会社の副社長をしているのだった。この世間なれた実業家は、兄弟の中でもいちばん父侯爵の気に入っており、行く行くは侯爵家を継ぐことになるかもしれない弟に対して、決して兄らしい傲慢《ごうまん》さを示すようなことはなかった。むしろ一種の尊敬と如才なさをもって、この近づきがたい、無口な弟の機嫌《きげん》をとろうとしていた。
「きみはそれで何かね、すぐ東京へ帰るつもりかね」
突堤がだんだん目前に迫ってくるのを見ながら、幸三郎はそんなことをいった。
「ええ、どちらでもいいのですけれど、なんならしばらく神戸に滞在したいと思います。少し疲れていますのでね」
「あら、それはむろんそのほうがよろしゅうございますわ。ぜひそうあそばせな。あたしの宅も広くはございませんけど、空いていることですし」
人のよさそうな嫂がそばから口を出した。
「うん、そうするんだね。なんだかひどく顔色が悪いようだぜ。どうせ兄貴の葬式もすんでしまったことだし、一週間や十日、帰るのがおくれたところで同じことだろうよ」
安道はちらと畔沢大佐のほうをみた。大佐は手摺にもたれたまま、そっぽを向いてにやにやと笑っていたが、安道の視線に気がつくと、そっとうなずいてみせた。
「そうですね。そうしていただけるとぼくもありがたいんですがね、おや。仁一君たちはどうしました」
「は、は、は、あれはね、きみよりもあの活動役者が目的《めあて》で迎えにきたのだよ」
「まあ、ほんとうに仕方のない子ですわ」
嫂は息子の名前を覚えていてくれたことがひどく気に入ったらしく上機嫌だった。
そこへ美子が母の大使夫人といっしょに近づいてきた。彼女はすっかり上陸の支度をして、頬《ほお》を興奮に染めていた。ひととおり紹介が済むと、彼女もすぐみんなの話の中へ入ってきた。安道がしばらく神戸に滞在するつもりだというと、彼女はいかにもうれしげに笑いながら、
「まあ、うれしいこと! 実はあたしも今母と相談していましたのよ。神戸に親戚《しんせき》があるので二、三日そこへ寄っていこうかって――ねえ、お母さま」
「まあ、それは好都合ですこと」
嫂はすぐこの二人の仲を見抜いたような眼付きで、
「じゃ、ぜひそうなさいませな。そして、あたしの宅へも一度お遊びにいらしてくださいませ」
船はとうとう突堤にぴったりと横着けになった。
と、どっとばかりにおびただしい歓迎人が船腹めがけて押しよせてきた。
「ああ、そうそう忘れていた。京都から加寿子がきているよ。船までくるとよかったのだけれど、少し疲れているというのでね――」
そのとたん、どっと押しよせてきた人波に、兄弟はその間を引き裂かれてしまった。しかし、このことは安道にとってはたいへん幸せだった。幸三郎との間が四、五間も離れた時、畔沢大佐がいち速く安道の耳にささやいた。
「加寿子――きみの姉だよ。京都の大道寺という公卿《くげ》華族に嫁《とつ》いでいる、子爵夫人だ。しかし、こいつは少し苦手だな」
その時、人波にもまれながら、美子が二人の間に割って入った。
「まあ、たいへんな人ですこと。無事に上陸できるのでしょうかね」
「なあに、大丈夫、あの活動役者さえ降りてしまえば――」
またもやそこへどっと押し寄せてきた人波にもまれて美子は二人から遠く押し流されていった。
「まあ、たいへん、たいへん、安道さま、あたしこのままだとどこまで持ってかれるか知れやしませんわ」
美子が顔をしかめながら、さもおかしそうにそんなことを叫んでいるとき、だれかがぎゅっと彼女の手を握った。そして何かしら紙片のようなものを無理矢理に彼女の手に握らせた。
「後で、――だれもいないとき御覧なさい。――疑ってはいけません。たいへんなことですよ」
太い、底力のある声が耳もとでした。
美子はハッとしてあたりを見回した。
しかし、彼女の周囲にいる人々はみんな、この恐ろしい人波にもみくちゃにされながら、笑ったり叫んだりしていた。だれ一人彼女のほうをみている者はなかった。
――だれだろう、そして、どういう意味だろう。――
美子は手に握らされた紙片を一刻も早く見たいと思ったが恐ろしい人波に身動きをすることもできなかった。手をあげることすらできないのだ。
彼女はもう一度あたりを見回した。と、この時、黒っぽい洋服に、真っ黒な帽子をかぶった女が、ずるずると人波に押されて彼女のそばから離れてゆくのが見えた。
「あの女だ!」
彼女は後を追おうとした。しかし、二人の間はみるみるうちに隔てられて、間もなくその姿は見えなくなってしまった。ただ、背の高い、男のようにがっちりとした体格と、色の白い横顔だけが、はっきりと彼女の印象に残った。
いつの間にやら船尾のほうまで押し流されていった美子は、そこでやっと息をつくことができた。彼女はすばやくあたりを見回したが、幸いだれも知った者が身近にいなかったので急いでさっきの紙片に眼を通した。
それには、こんな恐ろしいことが走り書きしてあった。
塙安道《ばんやすみち》に気をつけなさい。あの男は恐ろしい男だ。あれは贋物《にせもの》だ。――
美子はぎょっとしたように息を内へ吸い込んだ。一瞬間彼女は恐ろしい謎《なぞ》を解くような眼付きで、じっと虚空《こくう》に瞳《ひとみ》をすえていたが、やがて、奇妙な微笑を口辺に刻むと、ずたずたにその紙片を引き裂いて水の上にまきちらした。
そのころからようやく人波も退いて、向こうから安道が、美子の母といっしょにあたりを捜しながらこちらへ近づいてくるのが見えた。
三
大道寺子爵夫人加寿子が来ているときいて、畔沢大佐が、こいつ苦手だなとつぶやいたのは理由のないことでもなかった。
加寿子というのは、侯爵家の三番目の娘で、早くから京都の大道寺家へ嫁いでいるのであるが、この女は、いかにも女らしい偏狭と、センチメンタルな同情から、兄弟じゅうでいちばん不幸せな晴通がひどく贔屓《ひいき》だった。
もし、侯爵家にこの晴通と安道との間に、何かの争いが起こるとしたら、この女がさしずめ、安道にとって最も恐ろしい敵となるのはわかりきっていた。
なるべくなら、帰朝早々でまだ十分心の準備のできていない安道に、この姉を会わせるのは避けたいと思ったが、しかし、わざわざ京都から来ているものに会わないというわけにはいかなかった。それに幸三郎夫婦に向かって、四、五日やっかいになると安道に言わせてしまった後となっては、今さらその言葉を取り消すわけにもいかなかった。
はたしてこの姉と弟との最初の対面はまことに気まずいものであった。
「お帰りなさいまし」
幸三郎一家に、安道、畔沢大佐、それに幸三郎夫人にしつこくすすめられて、少しはしたないなと思いながらも、自分一人だけしばらくこの家にやっかいになることに決めた美子たちが、自動車を連ねて山の手にある豪壮な邸宅へ帰ってゆくと、召使たちに交じって玄関まで出迎えていた姉の加寿子が、冷たい刺すような声音で迎えた。
「お疲れになったでしょう」
「ええ、ありがとう」
安道は何かまぶしいものを避けるように、面をそむけながら答えた。
「こんなに急に御帰国なさるなんて、私夢にも考えていませんでしたわ。だれかがお呼びしたんですの?」
「ええ、父からの電報があったものですからね」
「まあ、お父さまもずいぶん忙《せわ》しない方ね。それにあなたもあなたね、何もお父さまの電報があったからといって、こんなに急いで御帰朝なさらなくてもよかったのですのに」
その言葉には、かなり露骨な敵意と嘲笑《ちようしよう》がふくまれていた。
「まあまあ、加寿子、玄関でそんな話でもあるまいじゃないか。皆疲れているだろうから、休ませてあげたらいいだろう」
「ああ、そうでしたわね」加寿子は初めて三人に道を開いてやりながら、「欣吾さん、御苦労さま、そして、こちらの方は――?」
「ああ、忘れていました。沢村大使の令嬢で美子さまとおっしゃるのです。滞英中はいろいろごやっかいになりました」
「ああ、そう」
加寿子はただ一言、そう言ったきり、かなり露骨な視線でじろじろと美子の様子をながめている。美子はその視線に会うと、何かしら熱いものを背筋に当てられたように、体じゅうがぞくぞくとするのを覚えた。
何も彼も知っているよ、どんなに美しい顔をしていたところで、私はごまかされやしないのだ。へん、その顔で侯爵夫人に成り上がろうと思っているのだろう。――加寿子の視線はまるで音のない声で、そうつぶやいているようにみえるのだ。
「美子さん、どうぞ」
幸三郎夫人にそう言われて、彼女は体をすくめるようにして、この恐ろしい姉の前を摺《す》り抜けた。
幸三郎の邸宅は、神戸の山の手にあって、洋館と日本建てが別々の棟《むね》になっている、かなり豪奢《ごうしや》な邸宅だった。安道、畔沢大佐、美子の三人には、この洋館のほうの部屋があてがわれた。美子は自分の部屋が、あの意地の悪そうな加寿子の部屋の隣だと知ると、何かしらいやな、心細い気持ちがした。
こんなことならこの邸《やしき》へ来るのじゃなかった。――と今になって彼女は悔やまれてくるのだった。幸三郎夫人の勧め上手と、もう一つには、安道と片時も離れているのが、なんとなく不安でもあったので、ついうかうかと、初めて会った人の招待に応じてしまったのだが、こんな侮辱に会うくらいなら、いっそのこと両親といっしょに東京へ帰っていたほうがよかった。――
美子は自分のものと定められた部屋へ入ると、着替えをしようともせずに、ぼんやりと窓のそばへ寄って外を見ていた。彼女の部屋は二階にあったので、広い庭の向こうにある煉瓦塀《れんがべい》越しに、白い歩道がながめられた。美子は今、ぼんやりと涙ぐまれるような気持ちで、この白い歩道に眼をやっていたが、不意に彼女はぎょっとして息を内へ吸い込んだ。
今しも、煉瓦塀の向こうを、黒っぽい人影がゆっくりとした歩調で歩いているのが見えたからである。遠いので顔はよくわからなかったけれど、その肩の格好なり、体つきなり、美子にふと、さっき船中で見た女のことを思い出させた。確かにそうだ。あの洋服にあの帽子――さっき船中で自分に怪しげな紙片を握らせたあの女に違いない。
美子は突然、わけのわからぬ、激しい恐怖に打たれた。いったいあの紙片の文句は何を意味しているのだろう。塙安道が贋物《にせもの》だって――? そんなことがはたしてありうるだろうか。あの高貴な、侯爵家の七男が贋物だなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことが、この世にありうるはずがない。むろん、それはでたらめに決まっている。
しかし、それがでたらめだったとして、さてそんなでたらめを自分に告げようとする者ははたして何者だろう。そして、いったいどんな理由があって、自分にこんなでたらめを吹き込もうとするのだろうか。
美子はじっとカーテンのかげから、例の怪しげな人影に眼をやっていた。女――黒衣の女は塀の外を、次ぎの町角まで行くと、そこからまた、ゆっくりと引き返してきた。そして、裏門のところまで来ると、急に歩調を落として、それでも様子だけはさりげなく、ぶらぶらと歩いていた。監視しているのだ。この邸宅を監視しているのだ。――そう考えると、美子はもう一度、何かしら、得体の知れぬ恐怖をぞっと身体《みうち》に感じるのだった。
と、ちょうどこの時、庭を横切って一人の女中が裏門のほうへ急ぎ足に行くのが見えた。彼女は買い物にでも行くらしく、片手に大きなバスケットを抱えていた。女中が裏門を開いて外へ出ると同時に、例の怪しい黒衣の女がつかつかとそのそばへ寄ってゆくのが見えた。
美子は思わずはっと息を吸い込んだ。女中と女は二言、三言何か話しあっていたが、やがて女はポケットから手紙のようなものを取り出すと、それを女中の手に握らせた。そしてそのまま、急ぎ足に立ち去ってゆくのが見えた。女中は何かしら、途方に暮れたような面持ちで、その女の後ろ姿を見送っていたが、これもまた急ぎ足で立ち去った。
美子はそこまで見ていると、もうじっとしていることができなかった。彼女は思わず扉を開いて廊下へ跳び出したが、そこでばったりと安道に出会った。
「おや」
と、安道は驚いたように声をかけた。
「まだ、お召替えが済んでいなかったのですか」
「あら」と美子は思わず顔を赤らめながら、
「あたし、少し頭痛がするものですから――」
「頭痛が、――それはいけませんね。ぼくはちょっと庭でも散歩しようかと思って、お誘いに来たのですが」
「ええ、お供しますわ。ちょっと待っていただければ――」
「もちろん、待っていますよ」
美子は扉のハンドルに手をかけたまま、ふと安道のほうへ振り返った。
「あたし今、この窓から外をのぞいていましたら、なんだか知ったような女が外を通っているので、あんなにあわてて廊下へ跳び出してまいりましたの」
「知った人?」
「ええ、でも考えてみると思い違いでしたわ。だってその人がこんなところにいるはずがありませんもの」
美子は扉をしめると大急ぎで着物を着替えはじめた。
それからしばらくして安道と美子の二人は手をとりあって庭をそぞろ歩いていた。
「この庭はね、これでも兄の自慢の庭なんですよ」
「けっこうでございますわ。お嫂《ねえ》さまという方はほんとうに優しい方ですのね」
安道は相手の言葉の意味をすぐ覚《さと》った。
「ああ、先ほどは失礼しました。どうも京都の姉は意地が悪くていけません。あれは兄妹じゅうでも持てあましているのです」
「いいえ」美子は低い、聞きとれぬくらいの声で言った。「あたしが悪かったのですわ。ついお言葉に甘えて、初めてのところへごやっかいになったりして――」
「そんなことはありません。そんなことをおっしゃられると、ぼくのほうでいっそうお気の毒に思います。ぼくはね、一刻もあなたのそばを離れるのがいやだったものだから――」
美子はつと相手の腕から軽く身を離した。
「あの失礼いたしますわ。あたしちょっとあの女中さんに話がありますの」
今しも裏門から帰ってきた女中は、美子が自分のほうに近づいてくるのを見ると、不審そうに足を止めた。
「あの、あたしさっき二階の窓から見ていたのですけれど」と、美子はためらいがちに言った。「あなただれか女の方とお話をしていましたわね。あの方、なんだかあたしの知っている女《ひと》のような気がするんですけれど、あたしに何も伝言はございませんでしたかしら」
「いいえ」女中はもじもじしながら言った。「お手紙をことづかっていますけれど、あなた様ではございませんでした。大道寺子爵の奥様へということでございました」
「ああ、そう、じゃ、やっぱり人違いだったのね。どうもありがとう」
女中が立ち去ると後ろから安道が近づいてきた。
「どうかしたのですか」
「いいえ、なんでもありませんの」
そう答えた美子の顔は、しかしまるで木の葉のように真《ま》っ蒼《さお》だった。
四
その晩、美子は慣れない寝室で、いかにも寝苦しい時を過ごしていた。うとうととしたかと思うと、ふと恐ろしい夢に襲われた。なんでも彼女は、狭い汽車の寝室のようなところに寝ていた。そして恐ろしい夢にうなされつづけていた。彼女はそれが夢であることを知っていて、何も怖くない、何も怖くないと自分に言ってきかせていたが、そのうちにふと眼を覚ました。と、だれかが自分のベッドの上にのしかかるようにして、寝室の外からのぞいている。その顔が反対の側にかかっている鏡にはっきりと映った。美子はその顔を見ると、思わず大声をあげて叫びそうになった。それは半面だけしか見えなかったが、確かに船の中でみたあの黒衣の女だった。その蒼《あお》いまでに真っ白な顔が、じっと美子の寝顔を打ち見守っているのだった。
美子はその視線の恐ろしさに、激しくベッドの中で身をもがいた。と、そのとたんにはっきりと眼が覚めた。彼女は夢の中でまた夢を見ていたのだった。
彼女はぞっと身を震わせながら、真っ暗な部屋の中を見回した。なんだか今の夢がまるきり夢とばかりは思えないのだった。だれかが、今この部屋の中で自分の顔をのぞき込んでいた。――美子にはなんだかそんな気がされてならなかった。
「馬鹿な! そんな馬鹿なことがあってたまるものか」
彼女は自分で自分の臆病《おくびよう》を笑いながら、もう一度深々と毛布の中に身を埋めたが、その時、ふと今夜のあの不愉快な晩餐《ばんさん》が思い出された。
加寿子が――あの意地の悪い安道の姉の加寿子が、安道や美子に敵意を持っていることは、今日初めて玄関で出会った時となんの変わりもなかった。しかし、不思議なことには晩餐の時の加寿子には、その敵意とともに、何かしら明らさまな恐怖が加わっているように思えるのだった。午後とは確かに様子が違っていた。彼女は始終黙々としてテーブルの端についていたが、時々、妙に回りくどい、かげのある言い方で突飛な質問を安道に向けるのだった。
それは主に彼らがまだ子供のころの思い出で、彼らの飼っていたペスという犬を覚えているかだの、庭の隅《すみ》にある榎《えのき》の木がどうしたのとか、そんなふうな質問だった。そして、安道がそれに対して答えることができなかったり、答えてもとんちんかんな返事をしたりすると、そのたびに、加寿子ははたのだれの眼にもわかるほど激しく身震いをするのだった。
美子には、なぜ彼女がそんな質問をするのか、おぼろげながらその意味を覚《さと》ることができた。彼女もまた、あの黒衣の女から例の怪しい通信を受け取ったのだ。そして、自分でも信じかねる疑惑を抱きながら、今こうして弟をためしているのだ! しかし、それにしても安道がそれに答えることができないのはいったいどういうわけだろう。やはりこの男はほんとうの安道ではなくて、安道の贋物《にせもの》なのだろうか。――
美子は不意に、ベッドの中でぎゅっと体を固くした。かすかな、聞きとれぬくらいかすかな物音が、どこか間近で聞こえたからである。それはスリッパの音のようであった。ひそやかに廊下の絨毯《じゆうたん》を踏んでゆく人の跫音《あしおと》に違いなかった。美子はそっとベッドからすべり落ちると、鍵《かぎ》のかかっていない扉のそばへ寄ってきき耳を立てた。スリッパの音は彼女の部屋の前を通って階段のほうへ一歩一歩進んでゆく。彼女はその音が階段の上あたりで聞こえるころ、そっと扉を細目に開いてみた。と、今しも階段の上についている薄暗い灯の下を、這《は》うように降りてゆく人影が見えた。
確かに加寿子だった。まだ着替えもしていない加寿子が、跫音をぬすみながら、そろそろと階段を降りてゆくのだった。まるで大きな昆虫《こんちゆう》でもあるかのような。その黒い後ろ姿を見た時、美子は全身の血が凍ってしまうかのような恐怖に打たれた。
加寿子はいったい、何をしようとするのか、それは彼女自身でもよくわからないことだった。しかし、彼女の血は、いま坩堝《るつぼ》のように激しくたぎり立っているのだった。あの恐ろしい疑惑、――それをどちらかに片づけてしまうまでは、どんなことでもしてのけなければならない。差出人不明の、あの忌まわしい手紙、そして、そこに書かれていた世にも恐ろしい疑惑――、安道か安道でないか、その疑問をただすためには、彼女はどんなことでも、あの怪しげな手紙の命令どおり決行しなければならなかった。
階段を降りると、加寿子は立ち止まってもう一度じっときき耳を立てた。邸の中は森《しん》と静まり返って、だれ一人起き出てくる者はなさそうだ。彼女は安心して、またもやそろそろと歩きだした。やがて彼女はふと一つの扉の前に立ち止まった。その扉のうちには畔沢大佐が眠っているはずだったけれど、まるで人気《ひとけ》もなさそうなほど物音がしなかった。加寿子はその扉の前を離れると、次ぎの部屋の前で立ち止まった。その時、彼女の全身は激しい興奮のために、小鳥の胸のように震えていた。心臓ががんがんと鳴って額《ひたい》にはべっとりと汗がにじみ出している。
加寿子はハンドルに手をかけたまま、しばらくじっと部屋の中の様子にきき耳を立てていたが、やがて、ごくりと生唾《なまつば》を飲み込むと、そっとそのハンドルを内へ押した。
予想していたとおり、安道はよく眠っていた。体を少し、毛布からずり出すようにして、鼻の穴をふくらまし、額にはいっぱい玉のような汗をかいていた。宵《よい》に彼女が飲ませておいた眠り薬がよくきいたとみえて、荒々しい息は嵐《あらし》のように部屋の空気をかき回していた。
加寿子はそっとそのベッドのそばに寄った。そして毛布の端からだらりと下がっている左の手にそっと手を触れた。そのとたん、安道が何かわけのわからぬことをつぶやきながら、どたりと寝返りを打ったので、彼女は思わずベッドのそばに身をかがめた。
しかし、安道がこうして寝返りを打ってくれたのは、加寿子にとってはまことに幸せだった。なぜならば、彼女が目的としてきた安道の左の手が、その拍子に胸の上にきたからである。加寿子は手早く懐中から、何か油のようなものを取り出すと、それを安道の左の手の掌に塗った。さすがに眠っている安道も、これにはいささか気持ちが悪かったのだろう、またもやどたりと寝返りを打った。しかし、加寿子はもう躊躇《ちゆうちよ》しているわけにはいかなかった。彼女は薄い、蝋《ろう》をひいた紙を取り出すと、それをぴったりと油を塗った左の掌に押しつけた。
つまりこうして彼女は、安道の左の手形をとろうとするのだった。それがいったい、どういう意味をもっているのか、実のところ、加寿子自身も知らないのだ。しかし、今日の午後受け取ったあの奇怪な手紙には、確かにこのことが命令されてあった。この男の左の手形、――それによって彼が真実の安道であるかどうかがわかるのだ。その手紙には確かそう書いてあった。
加寿子は首尾よく手形を紙の上に写しとると、手早く油を懐中にしまい込んだ。そして、相手の掌を拭《ふ》いておくことも忘れて、安道の部屋から跳び出した。畔沢大佐の部屋は相変わらず、しんと寝静まっていて、相手がいるのかいないのかわからないくらいだった。加寿子はもう跫音をぬすむことも忘れて、急ぎ足でその部屋の前を通りすぎた。
階段をのぼると次は美子の部屋である。しかし、加寿子はもう安心しきっていた。今美子に見つけられたところで、もうどうにでも弁解の法はつく。彼女は懐中にしまった油壺《あぶらつぼ》と薄い、蝋引きの紙片を押さえながら、ゆっくりと美子の部屋の前を通って、その隣りの扉に手をかけた。
しかし、その扉を内側へ押し開いた刹那《せつな》である、突然彼女はぎゃっとしめつけられるような悲鳴をあげた。何かしら焼けつくように熱いものが、さっと彼女の顔に降りかかった。と、思うと両眼が針で刺されるように激しく痛んだ。顔じゅうが荒い熊手《くまで》でひっかき回されるようにひりひりと痛んで、眼から、鼻から、口から、幾百という太い釘《くぎ》が打ちこまれるような、譬《たと》えようのない激しい苦痛だった。
何者かが扉の内側からそっと滑り出した。加寿子はその曲者《くせもの》がのたうち回っている自分の上に、身をかがめるのを感じた。熱い、荒々しい息使いが頬《ほお》に触れる。
加寿子は、しかし、あまりの苦痛のために、だれかが懐中へ手を突っ込んで、今写しとってきたばかりの安道の手形を奪いとってゆくのをどうすることもできなかった。
やがて彼女のただならぬ悲鳴を聞きつけた人々が、どやどやと駆けつけてきた時、加寿子は両手で顔じゅうをかきむしりながら廊下の上をのたうち回っていた。その顔をひと目見た者は、だれ一人あまりの恐ろしさに背後へとびのかないものはなかった。それは顔というよりも、かつて顔のあった廃墟《はいきよ》といったほうが正しい。額から頬、顎《あご》へかけての皮膚が、まるで破れ雑巾《ぞうきん》のようにベロベロになっていた。そして、このひっかき回された筋肉の間から、貝のむき身のように真っ白になった二つの眼が、どろんとにぶく光っているのだった。美子はそれを見ると、思わずそばに立っていた畔沢大佐にすがりついた。
「しっかりして! 大丈夫!」
畔沢大佐が低い、押さえつけるような声でつぶやいた。その声を聞きつけたのか、突然、加寿子が振り絞るような声で叫んだ。
「そいつだ、――そいつが私の顔に硫酸を振りかけたのだ」
「硫酸?」
美子はもう一度ぎょっとしたようにつぶやいた。そして、自分でも気がつかないうちに畔沢大佐の腕から身をひいていた。大佐は美子の疑惑にみちた視線を感じると、なぜかそわそわとあたりを見回していたが、やがて幸三郎夫婦に命令するようにいった。
「医者を――、ともかく医者を――」
安道だけが、――まだ眠っているのだろう、この恐ろしい場面へ顔を出していなかった。
[#小見出し] 二つの仮面
一
六月二十五日は塙《ばん》侯爵の八十五回目の誕生日に当たっていた。
毎年この日を期して、塙侯爵家では親類知己を招いて、華々しい祝宴を張ることが慣例になっていたが、今年は長男を失って間もなくのことでもあり、時節柄でもあるしするので、なるべくひかえ目にしようということになっていた。
しかし、こういうことは当事者のやむをえない遠慮から出ていることであって、この輝ける老侯爵を取り巻いている周囲の人々は、それでは決して満足しなかった。ことに今年は八十五回目という意義ある誕生日なのだから、少なくとも例年より淋《さび》しく行なうという法はないというのが彼らの主張だった。
こうしていつの間にやらこの計画は、例年よりもずっとずっと派手な、大げさなものになっていた。かつては三軍を叱咤《しつた》したこともある老侯爵も、このごろではたいていのことは人任せだったし、それに、こうした誕生日のお祝いが、あと何回あるだろうと思うと、やはりにぎやかにやってもらうに越したことはなかった。
安道が父侯爵の面前に出たのは、帰朝以来この朝が二度目だった。
「おめでとうございます、お父さま」
「おお、安道か、ありがとう」
いかめしい陸軍の制服をつけて、ゆったりと椅子《いす》にくつろいでいた老侯爵は、黒いフロックに、前折りの固いカラーをつけた安道の、颯爽《さつそう》とした姿を見ると、まぶしそうに二、三度ぱちぱちと瞬きをしたが、それでも心の底からうれしそうにその祝辞を受けた。
「お天気がいいので何よりですね」
「うむ、不思議にこの誕生日には雨が降ったことがないようだな」
「そうでしたね。なにしろお昼のは露天ですから、雨がいちばん怖いですね」
そういって安道は、白い手袋を脱ぐと大きな窓のそばへ寄って庭をながめている。
侯爵には、しかしこれだけの挨拶《あいさつ》では気に入らなかった。この誕生日の晴天についても、何か自分の功績、名誉――そういったものと結びつけて挨拶をしてもらいたかった。大勢ある他の子供たちは、みんなその要領を心得ていて、抜け目なくこの気難しい父の機嫌《きげん》をとることを忘れなかった。ところが、末っ児のこの安道だけが、いつもそういう点で侯爵を失望させることが多かった。侯爵はだから、いつの間にやらこの気位《きぐらい》の高い青年に対して、一種の威圧と同時に、それだけにまた、別な愛着をも感じているのだった。
「安道」
しばらくして老侯爵は息子の背後から声をかけた。安道は無言のまま、くるりと振り返ると、血色のいい、八十五歳とは全くみえぬ、父の顔に眼をやった。
「今日は、おまえに一つ頼みたいことがあるのだがね。――どうだ、煙草など一本つけては――」
安道は窓|枠《わく》に腰を下ろしたまま、遠慮なく父の机の上から、煙草を一本つまみあげると火をつけた。
「どんなことですか」
「今日、関口台町の殿さまがお見えになることになっている」
「そうだそうですね」
安道は窓枠に腰を下ろして、紫色の煙を吐きながら、部屋の正面にかかっている大きな額に目をやった。額の中には小柄な、貧相な顔をした男が、体に不釣り合いな大礼服を着て、滑稽《こつけい》なほどそっくり返っていた。それは先代|樺山《かばやま》侯爵の写真で、塙侯爵にとっては旧藩主に当たっているのだ。関口台町にお邸があるので、昔の家臣の間では、関口台町の殿さまで通っていたが、華族仲間でも有名な金持ちだという評判だった。
「殿さまの御接待もむろん、おろそかにはならんが」と、老侯爵はなぜか言いにくそうに、「それより今日は殿さまお一人ではないのでな」
「ははあ、どなたかお連れがございますか」
「ふむ、お妹さまの泰子さまがごいっしょにお見えになるはずだ。泰子さま――、おまえ存じあげているかね」
「そうですね、ずっと昔、一度お目にかかったことがございますけれど――」
「そうか、それは好都合だ。おまえには主に泰子さまのおもてなしをしてもらわにゃならん」侯爵はそこでまたわざとらしい咳《せき》をすると、「確か泰子さまは二十三だったかな。どういうわけかまだ御縁談がないようだ。おまえ、なるべくていねいにおもてなしをしてあげておくれ」
「承知しました」
安道はむろん、侯爵の真意がどこにあるかをすぐみてとった。しかし、彼はわざと何も気づかぬように、無邪気に快活に、それを引き受けた。
そこへごとごとと奇妙な跫音《あしおと》を立てて、三人の男女がこの部屋へ入ってきた。
「おや、安道、あなたさっきからここにいたの?」
何かしら、とがめるような険しい口調でそう声をかけたのは、今年七十幾つかになる、しかし見たところどうしても五十そこそこにしかみえない、これが塙侯爵夫人だった。夫人の背後にはフロックを着た四十二、三の男のそばに、品のいい老婆が付き添っていた。この男というのは、容貌《ようぼう》においても、体格においても非常に変わったところを持っていた。
顔はまるで、暴力をもって押しつぶしたようにいびつ[#「いびつ」に傍点]にひんゆがんでいて、干からびてかさかさとした皮膚は、ぞっとするほど不愉快な黄味を帯びている。そして薄い、あるかないかの眉毛《まゆげ》の下には、狡猾《こうかつ》そうな二つの眼が、絶えず相手の心を探ろうとするかのように激しく動いているのだった。今三人が部屋の中へ入ってきた瞬間、この無気味な眼は激しい嫉妬《しつと》のために蛇《へび》のように輝いていた。
さて、その体はというと、これがまたも尋常といちじるしく変わっていた。左のほうの脚が鰐《わに》のように曲がっているうえに、背中の骨が尋常でないとみえて、両|脇《わき》の下に松葉|杖《づえ》をつきながら、なおかつ、彼は、付き添いの婆やなしでは一歩も歩行がかなわないらしかった。
これが安道の兄晴通だった。
晴通は弟の顔を見ると、何かしら気がせくように、ごとごと不自由な松葉杖の音をたてながら侯爵の前へ出た。
「お父さん、おめでとうございます」
「ああ、晴通か、体のぐあいはどうだね」
「晴通は――」と、そばから老夫人がそれに代わって答えた。「今日はたいへん、いいのでございますって。それで、何がなんでもお祝いの席へ出ると申しておりますの」
「ああ、それはありがとう」
侯爵はぶっきら棒に、むしろ冷淡な声でそれに答えた。
「安道」老夫人は少しいらいらしたような調子でそばを振り返ると、「もう、そろそろ一時ですよ。皆さまがおいでになる時分だから、あなた御案内に出ておくれ」
「承知しました」
「そうだ、わしもこうしてはおれん。もう間もなく関口台町の殿さまがお見えになる時分だ。そろそろお迎えに出ようか」
侯爵もいっしょに、重い腰をあげた。
二
祝賀会は昼と夜との二回に分かれていた。
昼のほうの客は主として、侯爵一家とごく親しい交際をしている人々で、したがって家族づれなどが多かった。だから、ほんとうの知名の士などが集まるのは夜のほうだったが、昼のお祝いのほうが、水入らずで、のんびりとして、いかにも誕生日のお祝いらしく陽気で楽しかった。
祝賀会は一時からはじまることになっていて、二時には当日の主賓、樺山侯爵がやってくることになっていた。
やがて、その時刻になると、侯爵家の一家はことごとく門前に整列していた。侯爵の住んでいる紀尾井町付近の住民は輝けるこの功臣の喜びを頒《わか》つために、毎年この日には国旗を掲揚して祝意を表することになっている。今この国旗の下をくぐり抜けて、樺山侯爵の自動車が、砂利を噛《か》みながら門前に到着した。
家族に打ち交じって、このお出迎えに立っていた安道は、恭《うやうや》しく頭を下げながらも、その時、すばやい視線で、侯爵と同乗している妙齢の婦人を観察することを忘れなかった。
樺山侯爵家は昔から代々、非常に小柄なので有名だったが、当主の妹泰子というのも、その遺伝から逃れることはできなかったとみえて、侯爵と二人自動車から降り立ったところをみると、まるで小人島からの珍客のように見えた。顔立ちは醜いというほうではなく、むしろ小さいながらもよくまとまっていたが、どこか近代的な生気と叡智《えいち》に欠けていた。格好のいい唇《くちびる》もどこか締まりがなく、眼の色にも聡明《そうめい》さがなかった。
三十になるかならぬくらいの若い侯爵は、この妹をいたわるように、手をとらんばかりにして人々の前を通りぬけていった。その顔は人々の慇懃《いんぎん》な歓迎にもかかわらず、まるで憤《おこ》っているようにしかめっ面をしていた。
「おい、あのお嬢さんの顔をよく見ておけよ」
不意に背後で、低い、押さえつけるような声がしたので、安道が驚いて振り返ってみると、そこには畔沢《くろさわ》大佐が鹿爪《しかつめ》らしい顔をして立っていた。
「おお、きみか――」安道は一瞬間さっと眉根《まゆね》を曇らせたが、すぐ思い直したように「どうしたものか殿さま、ひどく不機嫌な顔をしているじゃないか」
「なあに、ありゃあの人の癖さ、あの人が笑ったところを、見た奴はおそらくないだろうよ。しかし、あれで妹思いでね、妹のこととなるといっさい夢中なのさ」
二人は他の人々から少しおくれて、肩を並べながら門前から奥庭のほうへ引き返して行った。
「ふん、ところがぼくは今日、あのお嬢さんの接待役をおおせつかっているんだぜ」
畔沢大佐はふと足を止めると、まじめな顔をして安道の顔をのぞき込んだ。
「ほんとうか、そりゃ――?」
「ほんとうだとも、父からさっき命令されたところだ」
「ふうん」
畔沢大佐は鼻から太い息を吐き出すと、不意にぐっと安道の手を握りしめた。
「おい、そいつは悪い辻占《つじうらな》いじゃないぜ。しっかりやりたまえ。せいぜいあのお嬢さんの御機嫌をとりむすぶんだな」
「あの女の歓心を買っておくと、何かいいことがあるのかい?」
「ある。――そしてきみなら大丈夫だ。まあしっかりやるんだな。しかし」そこで不意に畔沢大佐は顔をしかめると、「そうなると、あの女《ひと》が可哀そうだな」
「あの女って?」
「沢村のお嬢さんさ。さっきからきみを捜していたぜ」
「ほほう、あの女は、じゃもう来ているのか」
「おい、待てよ。そしておれの言うことをよく聞けよ」
畔沢大佐は立ち止まってあたりを見回した。華やかな人々の群れが、美しい豆をばらまいたように広い庭のあちこちに動いていた。遠くで陽気な楽隊《バンド》の音が聞こえて、白いテントの合間合間には、多彩な万国旗が、おもちゃのように水色の空に翻っていた。
「今日はね」と畔沢大佐は近くにだれもいないのを見すましてから言葉をつづけた。「きみにとっちゃたいへん大事な日なんだよ。われわれの希望が遂げられるか遂げられないか、その境目なんだ。だからおい、無慈悲なようだが沢村のお嬢さんは犠牲にするんだ。そして、せいぜい泰子姫の御機嫌をとるんだよ」
安道はしばらく黙り込んでいたが、やがて表情のない声でゆっくりと言った。
「いったい、そのわれわれの希望――というよりはむしろきみ一人の野心だが、それと泰子姫と何か関係があるのかね」
「あるとも、大ありさ。きみは泰子姫と結婚する。そして初めてこの塙侯爵家の相続人たる資格ができてくるんだ。わかったかね」
「わからないね」
「いや、そんなことはわからなくてもいい。それは複雑な家庭の機微に属するんだからね。しかし、老侯爵自身がきみに、泰子姫の機嫌をとることを望んでいるとすれば、われわれの希望はほとんど遂げられたも同様だぜ」
安道は不愉快な顔をして、もうそれ以上言葉を返そうとはしなかった。畔沢大佐の有頂天になっているのが、なんだか馬鹿馬鹿しくもあったし、憎らしくもあった。
「おい、きみはおれを裏切りやしないだろうな」
畔沢大佐は鋭い眼付きで、そういう安道の表情をじっと見ていたが、不意に不安そうな声でそう尋ねた。
「おい、恋はいつでもつかめる。女なんか、きみが目的を遂げた暁にゃいくらでもできるんだ。しかし、この名誉は、この光輝ある地位は一度チャンスを逃がしたが最後、永遠につかめないのだぞ。きみにゃ恐ろしい競争者のあることを忘れちゃいけない」
安道はそれに対して何か答えようとしたが、その時何を見つけたのか、不意に満面に笑みを浮かべると大佐のもとを二、三歩離れた。
「おめでとうございます。何を話していらっしゃいましたの? 傍《はた》から見ていますととても御熱心でしたわ」
美子が美しい片頬《かたほお》に無邪気な笑みを浮かべながら近寄ってきた。
「なあに、大佐がくだらない議論を吹っかけるものですから、すっかりくさっていたところですよ。ああ、もうそろそろお祝いのはじまる時刻ですね。向こうへまいりましょうか」
安道は美子に腕をかすと、大佐のほうを見向きもせずに歩き出した。
その時、どかあんと庭の隅のほうから花火があがって、わっと歓声がわき起こった。いよいよお祝いがはじまる知らせだった。
三
祝賀会はそれぞれ身分に応じて、五つのテントに分けて行なわれることになっていた。安道や畔沢大佐が列席するのは、むろんその中のいちばん大きなテントだったが、そこは樺山侯爵の兄妹を主賓として、今日の主人役塙侯爵やその一家の者、それにごく親しい身内のものだけが集まることになっていた。
美子はだから、このテントの中へ入ることを極力遠慮したが、安道がどうしてもそれをきかなかった。とうとう彼女は安道に引っ張られて同じテントへ入っていった。
「安道、おまえの席はこちらにあるよ」
二人が入ってゆくと、すでに席についていた老侯爵が、向こうのほうからそう声をかけた。その席は故意か偶然か、泰子の隣りにとってあった。安道はそれを見ると当惑したように美子のほうを振り返ったが、ちょうどそこへ畔沢大佐が一歩おくれて入ってきた。
「ああ、美子さん、あなたはこちらへいらっしゃい。ぼくの隣りが空いていますよ」
美子は急に、頬から火が出るような屈辱を感じた。できることなら彼女はその場から逃げ出したかったが、そういうわけにもゆかなかった。彼女は満座の人々に顔を見られるような面映《おもは》ゆさを感じながら、畔沢大佐の隣りへ腰を下ろした。それは、安道の席とはずっと遠く離れた、かなり下のほうの席だった。
間もなく料理や飲み物が運ばれて今日のお祝いがはじまった。老侯爵から二つ三つ離れたところに座っていた、軍人らしい老人が立ち上がると、簡単な祝辞をのべて、そのあとで、この偉大な老侯爵のために、一同の盃《さかずき》がささげられた。その後に立ち上がった侯爵は、これも簡単に謝辞をのべると、列席の栄を賜わった旧藩主兄妹のために盃をあげた。
これが済むと、後はもう無礼講も同様だった。みんなてんでに隣りの人としゃべりながら、食ったり飲んだりしていた。おりから向こうのほうでは余興がはじまったとみえて、にぎやかなオーケストラの音が聞こえてきた。時々、どかあん、どかあんと花火を打ち上げる音がする。いいかげん食ったり、飲んだりした人々は、それを聞くと、勝手に腰をあげて出ていった。
安道はこの時まで、料理にはほとんど手をつけないで、始終無言のままシャンペンのグラスをあけていたが、不意に、だれかがぐいと横腹をつっ突くのを感じた。驚いて振り返ってみると、老侯爵が向こうを向いたまま、左の肱《ひじ》を張って、盃を飲み干していた。はるか席の下のほうをみると、畔沢大佐が椅子《いす》にそりかえったまま、意味ありげにこちらを見ている。美子はつつましやかにテーブルの上に眼を伏せていた。
不意にまた、老侯爵の肱が意味ありげに安道の体をつついた。安道は初めてその意味を解くと、苦笑を漏らしながら、ナプキンをテーブルの上に投げ出して、隣席の泰子のほうへ振り返った。
「余興がはじまったようですね」
「ええ」
終始人形のようにちんまりと座っていた泰子は、男の眼が自分の上にのしかかっているのを見ると、驚いたように顔を赤くした。
「少し、お散歩をなさいませんか。なんなら御案内申しあげますが」
「はあ」
泰子は狼狽《ろうばい》したような眼をあげると、隣席の兄のほうを振り返った。若い侯爵はそれまで気難しい顔をして、黙ってひかえていたが、妹の眼の色を見ると、真正面を向いたままかすかにうなずいた。
「では――、お供させていただきますわ」
「御案内申しあげましょう」
二人が立ち上がったとき、下のほうから美子がひょいと顔をあげた。彼女は二人が手をとりあってテントを出てゆく後ろ姿をじっと見送っていたが、その時、別な視線が自分の横顔を見つめているのを感じて、あわてて眼を伏せてしまった。
「お母さま」
その時、四十二になる晴通が老夫人のほうへ甘えるように首をかしげていた。
「畔沢の隣りに座っているお嬢さんね、あれどこの女《ひと》?」
老夫人は息子の視線を追っていたが、美子の顔を見るといまいましそうに、
「さあ、だれでしょうね。さっき確か、安道といっしょに入ってきたようだが――」
「ぼく、あの女と話をしてみたいんだけど。――」
この不具者は、知識の発達においても、優に十五、六年はおくれているのだった。その性質はわがままで、駄々《だだ》っ児《こ》で、陰険で、嫉妬《しつと》心が深く、猜疑《さいぎ》心に富んでいたけれど、こうして人並みでないところが、老夫人や、一部の家族たちの奇形的な同情と愛情を集めているのだった。ほかの男の兄弟たちは、このあいだ死んだ長男と安道を除くほかは、みんな養子に行ったり他家の名跡《みようせき》を継いでいるのに、この晴通だけが、今まで独身のまま取り残されてきたのだった。老夫人にとってはそれがいじらしくてならなかった。しかし、何が幸いになるか知れたものではない。ただ一人取り残されていたがために、長男の死後はこの晴通が、有力な相続者の候補として考えられるようになっていた。そして、盲目的な母の愛は、なんとかしてこの人並みでない子を、侯爵家の後継者としたいとあせりだしているのだった。
老夫人は今、晴通の醜い頬に浮かんでいる激しい欲望の色を見てとると、慰めるように言った。
「そんなこと、なんでもありませんよ。畔沢が知っている様子だから、あの人に紹介してもらったらいいだろう。なんなら、わたしが言ってあげようか」
畔沢大佐は伯母《おば》の目配《めくば》せを見ると、すぐ席を立ち上がって近づいてきた。
「欣吾さん、あなたの隣りにいるお嬢さんね、あれどこの方?」
「ああ、あの女ですか。ありゃついこのあいだまでイギリス大使をしていた沢村さんのお嬢さんですよ。美子さんというのです。どうかしましたか」
「いいえね、晴通がお近づきになりたいというんだけど」
畔沢大佐はそれを聞くと、ちょっとあきれたように二人の顔を見た。しかし、すぐその次ぎの瞬間には、何を思ったのか、にやりとかすかな笑みを浮かべた。
「ああ、そんなことならお安いことですよ。御紹介しましょう。向こうでもきっと喜びますよ」
そう言いながら畔沢大佐は、新しい計画を忙しく頭の中で組み立てていた。
四
安道は泰子の手をとってテントを出ると、ゆっくりとした歩調で余興場のほうへ歩いていった。彼らの姿を見ると、行きずりの人々はみんな慇懃《いんぎん》な目礼を送っていた。
泰子はそれを感じると、顔を真っ赤にしながら、おどおどした、物慣れない態度で安道の後に従っていた。安道は女の扱いかたには自分でも相当に自信があるつもりだった。しかし、この女ばかりはいったいなんと言って話しかけていいのか見当がつかなかった。
侯爵家の姫君といったふうな威厳や誇りはこの女にはまるきり認められなかった。まるで日陰に咲いた花のように、おどおどとして、始終物におびえているような態度だった。たぶん、この女は、自分の器量のよくないことや、あまり聡明《そうめい》でないことを、幼い時から種々な場合に言いふくめられて養われてきたに違いない。樺山家には代々|智慧《ちえ》の薄い人間が一人ずつ生まれるという話だが、この女がその哀れな遺伝を受け継いでいるのだろう。そして多くの家臣や召使たちに甘やかされながら、その一方で、少し足りないお姫さまとして軽蔑《けいべつ》されていることを、いつの間にやら彼女自身|覚《さと》っているに違いない。
安道もそれを考えると、大家に生まれながらいまだに独身でいる、そして間もなく婚期を逸するであろうこの女に対して、あるいじらしさを感じないわけにはいかなかった。
「太《だい》神楽《かぐら》にしますか、それともダンスを御覧になりますか?」
「あたくし、どちらでもけっこうでございます」
泰子は消え入りそうな声音《こわね》で答えた。
「そうですか、ではダンスのほうにしましょう。どうせ、大しておもしろいものではありますまいがね」
やがて二人は、にぎやかなオーケストラの音が漏れているテントの中へ入っていった。
ダンスは安道が言ったとおり、あまり上等なものではなかった。どこか二流か三流の劇場から借りてきたものとみえて、踊り子も衣装もかなりにみじめなものだった。しかし、あまりこういうものを見慣れない人々には、それでもたいへんおもしろかったとみえて、テントの中はいっぱいだった。今、安道と泰子の二人が手を携《たずさ》えて入ってゆくと、粗末な舞台の上では数名の踊り子が、脚をあげたり、腰を振ったりして、かなりエロチックな踊りを踊っていた。二人は人々が開けてくれる道を通って、前から五、六番目の列のベンチに腰を下ろした。
踊り子の中の一人が、不意にテンポを間違えたのはその時だった。彼女は一瞬間、踊りをやめそうにして、じっと舞台から下を見下ろしていたが、そばから注意されて、あわててまた踊りをつづけた。
その踊りはすぐ幕になった。そしてそれから差しかえ引きかえ色んな踊りがあったが、さっきテンポを間違えた踊り子は、それから後も出てくるたびに、何か縮尻《しくじり》を演じていた。安道も最初のうちは気がつかなかったが、どうやらそれが自分のためらしいことに気がつくと、急にぐっと体を前に乗り出して踊り子の顔を見ようとした。
「あの方、あなたの御存じの方でございますの?」
泰子もその様子に気がついたらしく、低い声でそっとささやいた。
「いや、いっこう、――だけど妙ですね」
安道は不意になんだか不安になってきたらしく、ポケットからハンカチを取り出すと、そわそわと落ち着きなくカラーの裏を拭《ふ》いていた。
「なんだか、妙に蒸《む》すじゃありませんか。外へ出ましょうか」
「ええ」
二人はそっと立ち上がると、人々の邪魔をしないように外へ出た。舞台の上では例の踊り子がまたしても間違ったテンポを繰り返しながら、じっとその後ろ姿を見送っていた。
外へ出ると二人は、しばらく無言のまま庭のあちこちを歩いていたがそのうちに、咽喉《のど》の渇きを覚えてきたので、冷たい飲み物を出しているテントの中に入っていった。
「ああ、安道さま、おめでとうございます」
二人が軽い飲み物を飲んでいると、不意に背後からそう声をかけた者があったので、驚いて振り返ってみると、そこにはロンドン以来顔を見せなかった須藤ドクトルが、狐《きつね》のように狡猾《こうかつ》そうな顔に、奇妙なにやにや笑いを浮かべながら立っていた。
「ああ、須藤君、きみはいつ帰ってきたのだね」
「一船おくれて一昨日帰ってまいりました。御無事でおめでとうございます」
「ああ、いや」
安道は軽く相手の言葉をさえぎったが、何を思ったのかつと立ち上がると、須藤の手をつかんだ。
「須藤君、きみにちょっと頼みたいことがあるのだがね」
「はあ」
安道は須藤の手を引っ張るとテントの隅のほうへ連れていって、何か低声《こごえ》でささやいていた。
「はあ、するとあすこへ来ているレビューの踊り子なんですね」
「ふん、そいつをちょっと調べてもらいたいんだ」安道はあたりをはばかるような低声で、「いちばん背の高い、あの中じゃまあいちばん美人だろうね。唇の左に小さい黒子《ほくろ》があるからすぐわかるはずだ。そいつの名と住所を至急調べてもらいたいのだがね」
「承知しました。しかし、そんなことをして大丈夫ですか。またあの大佐にやかましく言われやしませんか」
「だからきみさえ黙っていてくれればいいんだよ。なに、少し気になることがあるからちょっと調べてみようと思うのさ」
安道は早口にそれだけのことを命令すると、急いで泰子のところへ帰ってきた。
「失礼いたしました。さあ、もう一度そこらを散歩しましょうか」
二人は外へ出ると、また人々の群れを縫って、無言のまま奥庭のほうへ歩いていった。時々、どかあんどかんと花火を打ち上げる音がして、水のように晴れた空に、綿くずのような煙がもつれて消えていった。二人はいつの間にやら、人々の群れから離れて、淋しい裏庭の木立の中に入っていた。その時である。彼らのすぐ間近なところで、どんという低い砲音が聞こえた。二人はそれを聞くと、驚いたようにあたりを見回した。
「まあなんでしょう。花火の音でしょうか」
「花火の音にしちゃ、少し近すぎましたね。どこかで奇術でもあるのかしれませんよ」
二人はそれきり、その物音には気も止めずに、路傍の切り株の上に腰を下ろした。
「もうそろそろ、お兄さまはお帰りになる時刻じゃございませんか」
「ええ」
泰子は軽くうなずいたが、別に立ち上がりそうにもしなかった。彼女はもっとこうして二人きりでいたいらしかった。この無口な令嬢は、お互いに口を利かなくても別に退屈らしいふうもなく、安道のこのもてなしを心の底から喜んでいるらしかった。安道はふと、さっき大佐の言った言葉を思い出した。すると、急に二人きりでこうしていることが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「そろそろ、帰りましょうか。お兄さまが待っていらっしゃるといけませんから――」
「ええ」
泰子はやや名残《なご》り惜しげにうなずいたが、素直に立ち上がって安道の腕に手をおいた。その時、木立《こだち》の向こうを、あわただしく走ってゆく人々の足が見えた。
「おや、どうしたのでしょう」
人々の動きはますます頻繁《ひんぱん》になってきた。そして、その走りかたがどうも尋常でないように思えた。何か変わったことが起こったのだ。それもよくないことが――、二人はふと無言の眼を見交わすと急ぎ足で木立の下を抜けて行った。
ふと見ると向こうの小さいテントの周囲にいっぱい人が集まっている。しかも彼らは不安そうな眼と眼を見交わしながら、低声でひそひそと何事か語り合っていた。不意にテントの中から畔沢大佐が血走った眼をして跳び出してきた。彼はさっと開いた人々の間を抜けると、きょろきょろとあたりを見回していたが、ふと安道の姿を見つけると、大股《おおまた》でつかつかとそばへ寄ってきた。その顔は真《ま》っ蒼《さお》で、額にいっぱい汗が浮かんでいた。
「おい、たいへんだ!」
大佐は思わずそう乱暴な口の利きかたをしたが、そばにいる泰子に気がつくと、あわてて言い直した。
「安道さま、たいへんなことができました」
「たいへんだって?」
「こちらへ来てください。いや、泰子さま、あなたはここにいてください。すぐだれかを寄こしましょう」
走りながら安道は低い声で尋ねた。
「おい、どうしたのだ?」
「老侯爵が殺されたんだよ、ピストルで――」
「ええ」
安道はどきりとして思わずその場に立ち止まりそうになったが、すぐ次の瞬間には、人々をかき分けてテントの中へ跳び込んでいた。土の上に、血に染んだ塙侯爵の白髪が横になっていた。顔は血と泥とに汚れて醜くひんゆがんでいた。広い胸に大きな勲章がピカピカと光っているのが、この場合不釣り合いで滑稽《こつけい》にさえ見えた。
死体のそばには、老夫人と晴通と付き添いの婆やが、めいめい放心したような顔付きで立っていたが、安道が入ってくるのを見た刹那《せつな》、晴通は噛《か》みつきそうな顔をして、よちよちと二、三歩前へ出ようとした。
五
それから後の侯爵家の騒ぎは、ここに細述するまでもあるまい。急報によって駆けつけた警視庁ならびに所轄警察の係官一同は興奮のあまり、来客たちに対して、無礼な態度をとり過ぎたというので、後々まで非難の的となったくらいだった。しかし考えてみればそれも無理からぬことだった。
相ついで起こった最近の不祥事件の後へ、さらに、それに幾倍かするこの大事件を加えたのだから、彼らが極度に狼狽《ろうばい》したのも当然だった。警視庁ではむろんこの事件を、最近のあの不祥事件と同じ性質のものとにらんでいた。ただ違っているのは、今までのそれの場合には、いつも犯人が現場で捕まっているのに、こんどの場合に限って、犯人は巧みに姿をくらましているのだった。警視庁の取り調べによって判明した老侯爵殺害前後の事情はおよそ次ぎのようなものであった。
老侯爵は祝宴のさなかに、ふと妙な不快さを覚えたので、周囲の二、三人にだけそのことを伝えて、庭の隅《すみ》にあるテントの中へただ一人休息するために入っていった。人々が妙な砲音を聞いたのはそれから間もなくのことだった。しかし、それは盛んに花火が打ち上げられている間のことだったので、だれも深く気に止めはしなかった。だから最初、このテントの中に侯爵の死体を発見した人も、そんなことは夢にも予期していなかった。それは侯爵家と非常に親しい間柄の知名な人物だったが、侯爵があまり長くテントの中にいるので、御機嫌《ごきげん》伺いに何気《なにげ》なく入っていったのだった。そして初めてこの惨事を発見したのである。あの妙な砲音を聞いてから、その時までにはたっぷりと五分間ぐらいは経過していたという話だった。だから、犯人はその間に、まんまと現場付近から逃走することができたわけである。
取り調べによると、ピストルはテントの外から発砲されたものらしく、ちょうど腰を下ろした頭の高さに黒い焼け孔《あな》が残っていた。それでいて、どうしてかくも巧みに、侯爵の頭を射ぬくことができたのか――それはたぶん、侯爵が椅子《いす》に腰を下ろして、テントによりかかったところを、外からそのふくらみをねらって撃ったものだろうということだった。凶器は間もなく現場付近の草むらの中に発見されたが、それには指紋もなく、全く犯人の見当がつかなかった。こうして、犯人がこの祝宴の混雑を利用して、巧みに犯跡をくらまそうとしたところに、この事件が普通の暗殺事件と違ったところがあった。
「いったい、きみはあの時どこにいたのだね?」
二人きりになると、畔沢大佐は安道の手をしっかり握って、不安そうに尋ねた。
「ぼくか、ぼくはあの泰子という女と裏の木立の中にいたよ」
「それは事実だね、泰子さんはそれを証明することができるだろうね」
「できるだろうと思う。ぼくたちもあの奇妙な砲音を聞いて、なんだろうと不審に思ってその話をしたくらいだから」
「うまい!」畔沢大佐は安心したようにほっと溜息《ためいき》をついた。「まあ聞きたまえ。おれはこの事件を単純な暗殺事件だとは思わないよ。それより、何か家庭的な紛争――われわれの知っている争いだ。――それが原因だろうと思うのだ。もしそれが警察にわかれば、われわれも相当厳しい尋問を覚悟しなけりゃならない。それに、神戸のあの硫酸事件のこともあるからね」
そういって大佐はふと、意味ありげな眼で安道の横顔を見た。安道は白い、憂鬱《ゆううつ》な眼をして、そっぽを向いていた。大佐は不意に不安そうに顔をのぞき込んだ。
「おい、きみはまさかこの事件で逃げ出すようなことはなかろうね」
「ぼくが――」安道はかすかに首を振りながら、「逃げようたって、今さら逃げられもしないじゃないか」
「よし、その覚悟なら安心だ。なあに、だれもきみを疑っている者はありゃしないのだ。それに、この事件でわれわれの希望はいっそう容易にこそなれ、心配することなんか少しもないのだから安心したまえ」
「いったい――」安道は相変わらず横を向きながら、「きみ自身はあの砲音が聞こえた時どこにいたのだね」
畔沢大佐はそれを聞くと、ぎょっとしたように相手の眼を見たが、不意に、低い干からびたような笑声を立てた。
「きみは、――きみはおれを疑っているのかい?」
「どうとも言えない」安道は表情を変えずに言った。「あの神戸の硫酸事件のときだって――」
「馬鹿!」
不意に畔沢大佐は大きな声で相手の言葉をさえぎった。
「馬鹿! おれがそんなことをすると思っているのかい、そんなことをしなくても、われわれの希望はもっと簡単に遂げられようとしているのだ。何を好んでそんな馬鹿なことをするものか」
「じゃ、きみはいったい、だれが父を――あの、老侯爵を殺したと考えるのだね」
畔沢大佐はすぐには答えなかった。彼はいらいらしたように部屋の中を歩き回っていたが、ふと安道のそばに立ち止まると、耳の上に身をこごめるようにしてささやいた。
「おれは知らん、――知らんがあのピストルには見覚えがある。ありゃ確かに晴通のピストルだぜ」
安道はぎょっとして相手の顔を振り返った。大佐の顔がその時、悪魔のように物すごく笑っているのが彼の網膜に鋭く焼きついたのだった。
[#小見出し] 嵐《あらし》のまえ
一
安道は高価なハヴァナの煙を吐きながら、さっきから所在なさそうに、机によりかかって、何かしら深い思索にふけっている。
大きなフランス窓の向こうに、ひろい西洋風な花壇があってその花壇の上を虻《あぶ》が物憂《ものう》い羽音を立ててとんでいた。安道はちょうど、その虻の羽音のような、物憂い、けだるい表情を浮かべたまま、さっきからペンを握った手を、無意識に机の上の紙面に動かしているのだった。
老侯爵があの奇怪な、謎《なぞ》のような最期をとげてから、二週間ほどのちのことで、さしもにごった返した邸内も、ようやくこのごろではもとの平静をとりかえしていた。騒ぎが大きかっただけに、その後の静けさには、何かしら、おこり[#「おこり」に傍点]を落とした後のような、妙にものわびしい、ちぐはぐなものがあった。しかし、今もし見る人があって、この一家族の近ごろの様子を子細に観察してみたら、その平静はほんの表面だけのことであって、その底には、無気味な、恐ろしい危機をはらんでいることに気がついただろう。
警察の取り調べもこのごろになってようやく緩慢《かんまん》になっていた。しかし、そうかといって、警察があきらめて手を抜いていると思ったら大間違いだった。実際この光輝ある一家族を取り調べるということは、警視庁にとってはやっかい極まる仕事だった。しかも、この人々をどんなに厳重に取り調べたところで、結局、真相を探りうることは難しいと考えた警視庁では、もはや形式的な尋問はその辺できりあげて、その代わり裏面へ回って、目ざましい活動を開始しているのだった。警視庁の首脳部でも、このごろようやく、この事件の形態およびその結果から、こんどの殺人事件が近ごろ頻々《ひんぴん》として起こるあの不祥事件と選を異にしていることに気がつきはじめていた。
犯人は決してある種の主義者的な人物ではなくて、むしろ家庭内にある。――それが種々な事情を探りえた結果、ようやく到着した結論だった。そうなると、警視庁の仕事はいっそう面倒になってくるのだ。この光栄ある一家族の中から、むやみに嫌疑《けんぎ》者を引っ張ってくるわけにはいかなかった。あらゆる証拠固めをしたのち、最後のどたん場まで犯人を検挙することは我慢しなければならないのだ。
――こうして塙侯爵の邸内を取り巻いて、疑惑に輝く警視庁の眼は、はげしく回転していた。そして侯爵一家は、今ちょうどそのすさまじい旋風の中心におかれた無風帯のようなものであった。いつなんどき、外部からの旋風に押しつぶされるかもわからないし、また、内部から直接自壊作用を起こさないものでもなかった。
しかも、この危険な噴火孔の頂上におかれているのは、だれでもない、安道その人に違いないのだった。
安道自身はしかし、そういう危険を身辺に感じているのかいないのか、老侯爵が亡くなって以後、家族の者にさえ白眼をもって迎えられながら、平然としてこの旋風の中心に立ちつづけていた。それは周囲に対する反抗のために、故意《わざ》とふてぶてしく度胸をきめているというより、ただ、物憂く、その日その日の退屈さをもてあましているように見えるのだった。
今の安道は、いかにもこの退屈の虫にかまれているように所在なげに右手を机の上で動かしながら、ぼんやりと窓外を見つめていたが、不意に何を見つけたのか、ちょっと眉根《まゆね》をくもらせると、体を前へ乗りだした。
花壇のはるか向こうのほうを、二人の女が、そろりそろりと歩いているのを見たからである。
二人の女というのは、老侯爵の葬式のために、京都から駆けつけてきた姉の加寿子と、付き添いの女に違いなかった。加寿子は付き添いの女に手をとられて、慣れない足で土の上を探りながら歩いていた。安道の部屋からでははっきりとはわからなかったが、彼女の顔はあの硫酸事件のために、二目とは見られぬ無惨な引きつりができているはずだった。いや、それは引きつりというよりは、もっと恐ろしい形相《ぎようそう》だったかもしれない。たとえていってみれば、せっかくできあがった粘土細工を、突然|悪戯《いたずら》小僧が現われてぬれた雑巾《ぞうきん》か何かで引っかき回したような顔――顔というよりも、顔のあった廃墟《はいきよ》といったほうが当たっているかもしれないのだ。
安道はこの可哀そうな姉の姿を、しばらくじっとながめていた。すると、付き添いの女がそれと気づいたものか、加寿子へ耳に口をつけて何かささやいているのが見えた。と、思うと不意に加寿子が、視力を失った眼を見はり、二、三歩足をこちらへ踏み出したのが見えた。安道はそのとたん、彼女の全身から、かげろうのように立ち上がる、すさまじい憤怒《ふんぬ》と呪詛《じゆそ》とを感じないわけにはいかなかった。瞬間彼は、いかにも不安そうに面をくもらせたが、しかし、じっと相手の様子を見つめているあいだに、次第に彼の口辺には静かな笑いがひろがっていった。それは、勝ち誇った、いかにも自信に満ちた微笑で、そのかげに、ある残忍ささえ感じられる微笑だった。
「おい、どうしたのだい? 何を、そんなに笑っているのだね」
不意に後ろから肩をたたかれて、安道はどきりとしたように、眼を机の上に落とした。そして、あとを振り返る前にすばやくあの微笑を面からぬぐい去っていた。
「おや、ありゃ大道寺子爵夫人じゃないか」
畔沢大佐は安道の背後から外をのぞきながら、ちょっと驚いたようにそうつぶやいた。加寿子の姿は、その時付き添いに手をとられて花壇の向こうのほうに消えていた。
「そうだよ」
安道は机のそばでちょっと向きを変えると、またしても右の手で所在なさそうに、いたずら書きをはじめながら、平静な声でそう答えた。
「きみが今、にやにやと笑っていたのは、あの女を見ていたのかい?」
安道は答えなかった。彼はむしろうるさそうに押し黙ったまま、しきりに右の手を動かしている。
「おい、言ってみたまえ。きみは今、なんだか勝ち誇ったようににやにや笑っていたが、あの加寿子さんに挑戦《ちようせん》していたのかい?」
「もし、そうだったとしたら、どうしたというのだね」
不意に畔沢大佐は驚嘆したように、瞳《ひとみ》をせばめて安道の横顔をながめた。それから、そばの椅子にどっかと腰を下ろすと、なおも安道の横顔を、孔のあくほど見つめながら、
「いや、大した度胸だ。おれにゃなんだか恐ろしくなってきたよ」
「どうして……?」
安道は大佐のほうを振り向きもせずに言った。
「どうしてってきみ、――あの女はきみを疑っている唯一の人間なんだぜ。ほら、いつか神戸できみの指紋までとろうとした女じゃないか。もし、きみの正体が暴露《ばくろ》するとしたら、まずあの女からに違いないのだ。だから、きみはあの女を見ると、何よりも恐れなければならないはずだのに、反対にきみは相手に対して自信と優越に満ちている。――きみは少しも発覚ということを恐れていないようだね」
「それじゃ、大佐、きみはぼくにもっとびくびくしておれというのかい? そして周囲の疑惑を招くように……」
「馬鹿な。そうじゃないさ。むろん、きみの今の態度こそおれにゃいちばん望ましいのだ。しかし、きみがあまり大胆なので、さすがのおれも恐ろしくなったというのさ」
「ふふん」
安道はかすかに鼻を鳴らすと、
「どうせ、ここまで来たものなら、今さらじたばたしたところでしょうがないじゃないか。それより、大佐、きみの仕事のほうはどうだね」
「うん、着々進行中さ」
大佐は椅子の背に身をもたせかけると、はじめて満足そうな吐息をもらした。
「ぼくにはまだよくわからないが、いったいきみのその仕事というのはどんなことなんだね。その仕事と、ぼくがこの侯爵家を相続するということに、何か重大な関係があるのかね」
「むろん、大ありさ」大佐は急に声を落とすと、「この仕事はまだ準備中だから詳しいことは打ち明けられないが、ある神聖な、国家的な大事業なんだぜ。おれがただむやみに、私利私欲を満たすために、こんなことをやっていると思われるのは癪《しやく》だから言っておくが、きみにも、今のこの国がどんな状態のもとに立っているかがわかるだろう。これはね、もっと決断をもたなければならないある種の人間が、優柔不断であらゆる点で躊躇逡巡しているからなんだ。この国は今、大手術を要する大きな腫《は》れ物《もの》みたいなものだ。しかも、だれも自ら立ってその切開に当たろうとする者がいない。つまりわれわれの団体がそれをやろうというのだ」
安道はふと、いたずら書きをしていた手をゆるめると驚いたように大佐のほうを振り返った。しかし、その瞬間、畔沢大佐は少し言いすぎたことを後悔するように、あわててポケットからハンカチを取り出すと、太い首をごしごしと拭いていた。しばらく、二人の眼が探りあうようにはげしくもつれ合っていた。
「それできみ、――その仕事には暴力が必要なのかい?」
間もなくそう質問を発した安道の声音《こわね》は、しかし水のように静かに澄んでいた。
「むろん。いくぶんかはね」
「そして、それがぼくとどんな関係があるのだ」
「それだよ。きみはつまりその団体の盟主になるんだ。いいかい。群衆にはいつも偶像が必要なんだ。そしてこの侯爵家の背景をもってすれば、きみは易々《やすやす》とその偶像になることができるんだ。いや」と、大佐はそこで不意に体を前に乗り出すと「きみ自身の中に、多分にその天稟《てんぴん》をもっている。きみはいつか偶像以上のものになるだろう。だが、それならそれでいい。きみはこの侯爵家の光栄を利用して、積極的にわれわれの団体に働きかけてもらいたいのだ。どうだ、わかったかね」
「それで、ぼくがいやだと言ったら――?」
「いや?」
不意に、畔沢大佐は椅子から立ち上がると、噛《か》みつきそうな姿勢で叫んだが、ふと思い直したように、
「まさか、きみはほんとうにいやだと言うのじゃあるまいね」
「どうだかわからないよ。その仕事の内容をもっと詳細に聞くまではね」
大佐はじっと射るような眼眸《まなざし》で安道の横顔をながめていたが、やがて腹をかかえるようにして大きな声で笑った。
「は、は、は、いや、今日はその話はよすことにしよう。いずれもっと詳しく相談する折りがあるだろうからね。ときに、きみはさっきからいったい何を書いているのだい」
安道はその言葉にふと気がついたように、机の上の紙片に眼を落としたが、急に狼狽《ろうばい》したようにその紙片を掌の中に丸めてしまった。
「おや、どうしたのだ。何かおれに見られて悪いようなことでも書いていたのかい?」
「いや、なんでもない」
そう言った安道の顔は、しかし、どういうわけか真っ赤になっていた。
「ちょっと、ぼく自身の私事さ」
「は、は、は、美子さんの名でも書いていたとみえるな。しかし……」
そう言いかけて、畔沢大佐はぎょっとしたように言葉を飲み込んだ。そして、何を思ったのか、急に体を前に乗り出すと幽霊でも見るように、じっと安道の横顔を見つめていた。
「どうも、不思議だね。きみは前から、他人と話すときに、無意識に自分の思っていることを紙に書く癖があるのかい」
「なぜ、どうしてだね」
「いや、ほんとうの安道にもやはりそんな癖があったのだが、その同じ癖を鷲見《すみ》信之助が持っていようとは不思議だね。おい、ちょっと、その紙片をこちらへ見せたまえ」
安道の顔色がそのとたんさっと変わった。しばらく彼は、大佐の険しい眼をじっと見返していたが、やがて、あざけるような微笑を唇の端に浮かべると、黙ってその紙片を大佐のほうへ差し出した。大佐はあわただしく、紙片の皺《しわ》をのばしていたが、そこに書かれていた文字というのは、次ぎのようなものだった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
まやこ。しまざきまや子。SHIMAZAKI、島崎|麻耶子《まやこ》。島崎。――しまざき。麻耶子、SHIMA
[#ここで字下げ終わり]
それは当然、鷲見信之助の脳裡《のうり》に、最も印象づけられているべき名前だった。畔沢大佐はほっとしたように、
「おい、この女はだれだね。たしかロンドンにいるきみのもとへ送金してきた女だね。いったい、この女はきみとどんな関係があるのだね」
「ぼくの昔の恋人さ」
「恋人――? そして、今どこにいるのだ」
大佐の面には、さっきとは別な不安の色が浮かんでいた。彼は相手の肩に手をかけると、のしかかるように顔を近づけながら、
「きみはまさか、この女に会ったりしやしないだろうね」
「会おうにも居所を知らないよ」
信之助は大佐の視線から面をそらしながら、憤《おこ》ったような声音で言った。
「ただちょっと、昔のことを考えていたから、ついそんな名前を書いただけのことなんだ。心配をするのはよしたまえ」
「よし、きみの言葉を信じよう。しかし、言っておくが二度とこんな女のことを思い出しちゃいかん。この女はいずれおれが処分してやる。いいかい、わかったね」
安道はそっけなくうなずいたが、しかし、その時彼は、大佐がいちばん心配していることを、ふてぶてしく頭の中でたくらんでいるのだった。
あの女に会ってやろう。今夜でも――と。
二
畔沢大佐は安道の部屋を出ると、侯爵夫人――いや、最近未亡人になった伯母のもとへ挨拶《あいさつ》に行った。そして、伯母から浴びせられる露骨な皮肉を聞き流して、いいかげんに部屋の外へ出てくると、思いがけなく、そこに晴通が立っているのを見つけた。
この不具者の姿を見ると、大佐はちょっと不愉快そうな色を浮かべて、そのまま行きすぎようとしたが、その時、晴通が後ろからおずおずとしたような声で呼びとめた。
「欣吾《きんご》君――」
大佐は今まで、この男からこんなふうに狎々《なれなれ》しく呼ばれたことがなかったので、驚くというよりも、むしろ一種の無気味さを感じて無言のまま足を止めた。
「きみにちょっと話があるんだけれど、――さしつかえなかったら、ぼくの部屋まで来てくれないかね」
大佐はなぜかしらぎょっとして、もう一度無言のまま相手の顔を見直した。しかし、相手の醜い顔が、いっそう醜く、真っ赤になっているのを見ると、不意にあることを思い出した。大佐は急にこみあげてくるおかしさを、腹の中で噛みころしながら、わざと鹿爪《しかつめ》らしい態度でききかえした。
「はあ、何か私に御用ですか。少し急いでいるのですが」
「いや、そうだろうが、手間はとらせないよ。ちょっと、ぼくの部屋まで来てくれたまえな。実はきみに、少しお願いがあるのだ」
晴通は松葉杖の間で、不自由な体をごとごとと動かしながら、哀願するような眼で大佐の顔を振り仰いでいた。
「そうですね」大佐は腕時計を見ながら、「十分くらいなら、時間をさいてもよろしいが」
「いや、十分でけっこう、じゃ、こっちへ来てくれたまえ」
子供のようにうれしがりながら、両腕の下に松葉杖をついてぴょこんぴょこんと廊下を蛙《かえる》のように跳んでゆく、この不幸せな不具者の後ろ姿を見たとき、畔沢大佐は今までこの男に対して感じたことのない、全く別な同情に胸のうずくのを感じた。元来彼は、晴通に対して、今まで決していい感情はもっていなかった。陰険で、嫉妬《しつと》深く、猜疑《さいぎ》心に富んだ男のどこがよくて、兄妹や母親に人気があるのだろうと思っていたくらいだ。いかに侯爵の血を引いているとはいえ、この人並みはずれた人間を倒してたとい贋物《にせもの》にしろ、今のあの安道を相続人にすることが、かえって侯爵家のためだと、彼は彼流に勝手にそう決めていた。しかし、今こうして、子供のように自分の機嫌をとっているこの男と、あのふてぶてしい、恐ろしいほど腹のすわった安道と比較して考えてみると、なるほど、この男に、女子供の同情の集まるのも当然だと考えないわけにはいかなかった。
二人は間もなく晴通の部屋へ入っていった。
「さあ、そこへ掛けたまえ。きみ、煙草は葉巻がいいかい? それとも紙巻――?」
「いや、そんなことより用件というのを 承《うけたまわ》 りましょうか」
大佐はこの不具者が、みすみす無駄《むだ》なことに神経を使っているのを感じると気の毒になって、そう簡単に切り出した。
「うん、それは今話すがね、しかし、いいじゃないか。何も毒は入っておらんよ。一本どうだい」
晴通は松葉杖を外すと、不自由な体をどっこいしょと椅子の中におろして、媚《こ》びるような微笑を醜い唇の端に浮かべた。
「そうですか。では、一本いただきますが……」
「ほんとうに、このあいだじゅうはたいへんやっかいをかけたね。父の後始末から何から、全部きみにやってもらったようなものだからね」
「いや、あんなこと……、それより用件とおっしゃるのは――」
「実はね、きみにききたいと思っていたんだが――」と、晴通はひどく心が騒ぐ風情《ふぜい》で、「ほら、このあいだの婦人のことさ」
「このあいだの婦人といいますと――」
「きみも人が悪いね。沢村大使の令嬢のことだよ。美子さんとかいったね」
「ああ、あの女ですか」
大佐は初めて合点がいったというようにうなずいた。晴通はまぶしそうに視線をそらしながら、
「あの婦人は何かね、安道とたいへん懇意だという話だが」
「そうですね。なにしろロンドン以来ごいっしょだものですから」
「ううん」晴通はもどかしそうに首を振りながら、「そんなことじゃない、何か二人の間に、特別の約束でもあるかというのだが――」
「さあ、そんなことはございますまい。まあ、言ってみればお友達でしょうな。それ以上、たぶん進んではいまいと思いますよ」
「ほんとうかね。それは――」
晴通は急に眼を輝かした。大佐はそれを見ると、あるいたましさを感じずにはいられなかったが、わざと平静をよそおいながら、急に気がついたように、からかうような笑いを浮かべて、
「どうしてですか。ひどくまた、あの女に御熱心なんですね。さては、このあいだ、だいぶ話がはずみましたね」
「ううん、ところがあの日は、途中であの女の姿を見失ってしまってね。それに、父のあの事件なんだろう。だから碌《ろく》に話なんかする暇はなかったのだが、――それでね、なんとかしてきみに、よろしく言ってもらおうと思って――」
「私に?」
大佐は眉根をしかめてみせた。
「じゃ、きみはいやだと言うのかい」
「いやじゃございません。しかし、私から申しあげるより、あなたが直接お会いになったほうがいいじゃありませんか」
「ぼくが――直接――? 会えるかしら?」
「会えるかしら?――は、は、は、おかしなことをおっしゃいますね。むろん、あなたが会いたいとおっしゃれば、向こうは喜んでやってきますよ」
「欣吾君、それはほんとうかね」
晴通の黄色い頬が、喜びに震えるのを畔沢大佐は見逃さなかった。その語調には気味の悪いほど熱烈な気がこめられているのだった。
「ほんとうも嘘《うそ》もありませんよ。そうですね。じゃ、今日でも私が電話をかけておいてあげましょう。しかし、この邸では少しまずいな。あなたは今夜外出することはできませんか」
「できるとも、どこへだって行くよ」
「じゃ、のちほど、場所と首尾とを、お知らせしましょう」
「欣吾君、お礼を言うよ。これがうまくいったら、ぼくはきみにどんなお礼だってするつもりだ」
「は、は、は、あんな大げさなことをおっしゃる。いずれまあ、御馳走《ごちそう》をしていただくことにしましょう。それで、御用というのはそれだけですか」
畔沢大佐は快活に手袋をはたきながら椅子から立ち上がった。
「それじゃ、私はこれで失礼しましょう。まあ、待っていらっしゃい。一時間ほど後に電話をかけますから」
畔沢大佐は不具者特有のうるさいほどの感謝の言葉を後に聞き流して、軽い足取りで廊下へ出ていった。その顔には奇妙な笑いが浮かんでいた。
大佐の目下《もつか》の急務は、安道を一日も早く泰子姫に近づけることにあった。それには美子という女をなんとかして、安道のそばから遠ざけなければならないのだ。そうするためには、こんな罪な悪戯《いたずら》も、やむをえないことだ――大佐のその微笑のかげには、そういう新しい計画が、秘められていたのだった。
三
安道はいったんこうと決心すると、決してその決心を翻《ひるがえ》さない男だった。
だから、その晩彼が、そっと紀尾井町の邸を抜け出したのは、昼間畔沢大佐の前でひそかに決心したことを、そのまま実行に移したまでのことだった。自動車も呼ばず、わざと徒歩でこっそりと邸の門を出た彼は、三つ目の横町まで来るとふと足をとめた。そして、そこに待っている自動車を見ると無言のまま彼はその中へ乗り込んだ。運転台には、あの須藤ドクトルが自分でハンドルを握っていた。
自動車はすぐ走りだした。
「おい、着替えはもってきてくれたろうね」
「はい、クッションの下においてあるでしょう」
「ああ、これか、ありがたい。――それであの女は今、アパートにいるだろうね」
「島崎麻耶子ですか? 確かにいるはずですよ。また、あのレビュー団から馘《くび》になったのですからね」
「可哀そうに――」
安道はしかし、その間にせっせと着替えをはじめていた。須藤ドクトルが用意しておいてくれた服装というのは、いかにも貧乏画家か何かが着そうな帽子と上着だった。
「おい、どうだ、似合うだろう」
須藤はハンドルを握ったまま、バックミラーの中の安道の姿を見ながら、
「およしになればいいのに、あなたもずいぶん物好きですね」
「どうしてだね? 昔の恋人に会いにゆくというのが悪いのかね?」
「いや、それもそうですが、それよりもこんなことが大佐に知れると、後がうるさいですよ」
「だから、知らさなきゃいいじゃないか。きみさえ黙っていてくれりゃ、わかりっこはないのだからね」
安道は懐中鏡をのぞき込んで、しきりに扮装《ふんそう》をこらしながら、
「しかし、あの女が島崎麻耶子であることには間違いはなかろうね」
「ははははは、あなたは昔の恋人をお忘れになったのですか。いや大丈夫、間違いはありませんよ。このあいだ、あなたに命令されるとすぐあのレビュー団の一座のものをつかまえてきいたのですからね。ああ、とうとう鷲見信之助になっちまいましたね」
「きみにもそう見えるかね」
安道は満足したように、懐中鏡をしまいながら、
「どうだろう、あの女はさぞ喜ぶだろうね」
「さあ、喜ぶというよりびっくりするでしょう。鷲見信之助はロンドンで投身自殺を遂げたことになっているのですからね」
「だからさ、たまにゃ、可哀そうな昔の恋人も慰めてやらなきゃならないさ。大丈夫、心配することはないよ。あの女に決して、こちらの身分を知らせるようなことはしないからね」
安道はそこで、晴れ晴れとした笑い声を立てると、陽気に口笛をくちずさんでいた。
しかし、この時彼は、もう少し深い注意を払うべきだったのだ。
彼が邸の門を抜け出したときから、彼の背後には影のような尾行者がついていた。その尾行者は、安道が自動車に乗り込むのを見ると、すぐ通りすがりのタクシーを呼びとめて、それに飛び乗った。
「前に行く自動車――あれをつけていっておくれ」
太い、男のような声でそう言った。
しかし、自動車の中の、ほのかな電燈の下に浮きあがったこの尾行者の姿を見ると、それは確かに女だった。黒っぽい地味な洋服に、同じような帽子をかぶっている。眼の落ちくぼんだ、顎《あご》のとがった中年の女で、がっちりとした体格といい、とげとげしく白い皮膚の色といい、どこか外国人を思わせるような風貌《ふうぼう》だった。そして、じっと自動車の前方に見すえた瞳《ひとみ》の中には、狂信者を思わせるような、不思議な執拗《しつよう》さをもった光が蒼白《あおじろ》く燃えているのだった。
読者諸君は覚えているだろう。
安道たちの一行が、神戸|埠頭《ふとう》へついた刹那《せつな》、美子の掌中に奇怪な紙片を握らせて立ち去った女――そしてまた、神戸の幸三郎の邸宅で、安道の姉に同じような密告状を送った女――それがこの女なのだ。
しかし、いったい彼女はどうしてこうもしつこく安道の後をつけまわしているのか、それよりも第一、安道の贋物《にせもの》であることを、どうして知っているのだろうか、それはこの女の服装のように黒い神秘だった。
二つの自動車は市ヶ谷から水道橋へ出て、それから本郷のほうへ曲がった。
「ああ、前の自動車は止まりましたよ。どうしましょう」
「ああ、そう、じゃいいからここで止めておくれ」
不思議な女はあわただしく賃金を払って降りると、急ぎ足で前の自動車に近づいていった。
「二階の二十三号室だね。よし、じゃ一時間ほどして来てくれたまえ」
安道のそういう言葉を聞きとるのに、彼女はちょうど間に合った。彼女はいつの間にやら、相手の服装が変わっているのに、ちょっと眼をそばだてたが、すぐ蒼白い微笑を浮かべると、さりげなくそのそばを通り抜けた。そして、十五、六歩いってからゆっくりと背後を振り返った。
安道の姿はすでにどこにも見えなくて、自動車が今方向転換をしようとするところだった。彼女はその自動車を見送っておいてから、急ぎ足であとへ引き返していった。自動車の止まっているのが見えた。
二階の二十三号室だね――。
彼女は安道がそう言っていたのを思い出した。安道の入っていったのはあのアパートに決まっている。
彼はなんの躊躇《ちゆうちよ》もなく、その横小路へ入ると、アパートの扉をぎいと押しひらいた。玄関には下駄《げた》だの靴《くつ》だのが乱雑に脱ぎすててあったが、幸い、あたりには人影はなかった。思うにこのアパートは、訪問客などに対して、大いに開放的にできていると見えた。そして、このことが今の彼女にとっては何よりも好都合だったのだ。
彼女は靴を脱ぎすてると、そっと跫音《あしおと》をしのばせながら、二階への階段をのぼっていった。そして部屋の番号を一つ一つ数えながら、やがて二十三号室の前までやってきた。彼女はそこに書いてある名札をちらと横眼で見ると、五、六歩その前を行きすぎたが、すぐ猫《ねこ》のように跫音を消しながら引き返してくると、二十三号室の扉の鍵孔《かぎあな》に、守宮《やもり》のようにぴたりと吸いついた。
そのとたん、部屋の中から、
「鷲見《すみ》――?」
と、おびえたような女の声が聞こえた。
「そうだよ、信之助だよ」
男の低い、押さえつけるような声がした。と、思うと、ベッドから跳ね起きたらしい女の気配が聞こえた。
「鷲見!」
と、そう叫んだ声は前より高かった。
「あなただったの。ほんとうにあなただったの。あなた、生きていたのね。生きていたのね」
はげしい感動のために、昂《たか》ぶった女の震え声が、扉の内部からきれぎれに聞こえてくる。
「あなた、死んではいなかったのね。テームズ河へ身投げしたというのは嘘《うそ》だったのね」
「ははははは、ありゃ、何かの間違いさ。御覧のとおり、おれはぴんぴん生きているよ」
「鷲見!」
「摩耶《まや》!」
ごとりと椅子《いす》の倒れる音が聞こえた。鍵孔からじっと中をのぞいていた黒衣の女は、その時、部屋の中央でひしとばかりに抱きあった二人の姿を見て、さも満足したように体を起こした。そして、もう一度、その部屋の名札を読むと、こっそりと扉のそばを離れた。
鷲見信之助。
島崎麻耶子。
そういう名前を、幾度も幾度も彼女は口の中で繰り返しているのだった。
四
安道がこうして、畔沢《くろさわ》大佐の眼をぬすんで冒険をやっているころ、畔沢大佐のほうでもまた、安道の眼をぬすんで、別な冒険をたくらんでいるのだった。
銀座裏の赤獅子亭《あかじしてい》という、気の利《き》いた西洋風なレストラン。――この家は料理も酒もごく上等で、ただそれだけでも十分に客がよべるのだったが、ここの常連になると、それよりももっと楽しい仕掛けがこのレストランの隅々《すみずみ》にあることを知っていた。それはこの広い建物の中に、離れ家のように隔離された部屋がいくつもあって、随時、だれにでも利用できるということだった。
こういう仕掛けは、ごくなんでもないようなことに見えて、その実、一度、それを利用することを覚えた人間には、たいへん便利なものであった。男にしろ、女にしろ、このレストランの門をくぐることは、少しも恥ずかしいことではなかった。そして、ちょっとボーイに眼配《めくば》せをして、いくらか――むろんそれは多いほどいいのだが――つかませてやると、心得てそういう部屋へ案内してくれるのである。そして、経営者の側では、そういう部屋の中で、どんなことをしようと、そこまでは責任を持たないという態度をとっていた。
この赤獅子亭の奥まった一室で、畔沢大佐はさっきから、人待ち顔にしきりにウイスキーのコップをあけていた。
「まだ、お見えにならないようですね」
気の利いた小皿《こざら》に盛って料理を運んできた若いボーイは、畔沢大佐がひとり淋《さび》しそうに酒を飲んでいるのを見ると、慰めるようにそう言った。
「うん、八時半までには間違いなく来ると言ったのだがね」
「八時半でございますか、それならまだだいぶ時間がございますね」
「そうかね。じゃ、おれの時計は進んでいるのかな。いったい、今何時ごろだね」
「さっき、八時が鳴ったところですから、まだ十分くらいでございましょう。で、あちらさまは――」
「いや、あちらはあれでいい、酒を飲まない男だから。――じゃ、とにかく、やってきたらすぐこちらへ通してくれたまえ」
「承知いたしました」
ボーイは恭しく頭を下げると、コップになみなみとウイスキーを注いで立ち去った。さすがに大佐も相当酔っていた。脂肪の厚い頬《ほお》がてらてらと酒のために光っていた。
ちょうどそこへ、こつこつと軽い跫音が近づいてきた。
そして、
「こちら――?」
という聞き覚えのある声が聞こえたと思うと、緋色《ひいろ》のカーテンを割って、美子の姿が現われた。
「あら」
美子はその場の様子を見ると、ためらったようにあたりを見回しながら、
「あなたお一人でございますの」
と尋ねた。
「ああ、いらっしゃい。お待ちしていましたよ。さあ、どうぞ」
「だって――」
美子はとっさのうちに、この家がどんな種類の家であるかを覚《さと》ったらしく、当惑したように眉《まゆ》をひそめた。
「あの方はどうなさいましたの。安道さまは――?」
「ああ、塙《ばん》侯爵の令息ですか。令息なら、さっきまでここにいたのですが、気分が悪いと言って、別室で憩《やす》んでいます」
「まあ!」
美子はまだカーテンのそばに立ったまま、じっと大佐の横顔をながめていたが、不意にある不安がむらむらと彼女の胸にこみあげてきた。
彼女は大佐がこんなに酔っ払っているのを見ることは初めてだった。
そして、女というものは、だれでも男の酔っているのを見ると、ある不安を感じないではいられない。それにこの場所がいっそう彼女の不安をつのらせたのだった。
彼女は逃げるようにそっとカーテンの外へ出ると、背後からついてきたボーイに尋ねた。
「こちらのお連れのかた、どちらにいらっしゃいますの?」
「ああ、塙さまとおっしゃるかたですか」
「ええ、その塙さま――」
美子は初めてほっと溜息《ためいき》をついた。それではやっぱり嘘じゃなかったのか。
ほんとうに安道もこの家へ来ているのか――。
「そのかたなら、さっきから別の部屋で憩《やす》んでいらっしゃいますが」
「そう、では、そのほうへ案内してちょうだい」
美子にはまだ、安道と畔沢大佐がなぜ別の部屋にいるのかわからなかった。しかし、安道がいるという一事で、すっかり安心しきっていた彼女は、それを深く怪しむいとまもないのだった。
「どうぞ。このお部屋でございます」
ボーイが案内してくれた部屋へ、何気なく入っていった美子は、しかし、その瞬間ぎょっとしたように立ちすくんでしまったのだった。
確かに、それは塙侯爵の令息には違いなかった。しかし、安道とは似ても似つかぬ兄の晴通が、蛙《かえる》のように醜い面に、精いっぱいの媚《こ》びを浮かべて、彼女の姿を迎えているのだった。何かしらその姿が、物の化《け》のように、無気味に彼女の眼に映った。
「よく来てくれましたね。さっきからお待ちしていました」
晴通の慇懃《いんぎん》な言葉を聞くと、美子は不意に、毛虫に刺されたような無気味さを感じて、思わず、カーテンのそばでぶるぶると身震いをした。彼女は漠然《ばくぜん》とした不安と危険とを、同時に自分の身辺に感じたのだった。
[#小見出し] 欺くもの
一
銀座から眼と鼻の間に、おや、こんな不思議な町があったのかなと、思わず見直さずにはいられないほど、そこは淋しい、忘れられたような町筋だった。
道の片側には、汚い、ごみごみとした泥溝《どろみぞ》が、黒い泡《あわ》をぶくぶくと吐きだしている。その泥溝に沿うて、道のもう一方には、長い長いコンクリートの塀《へい》がつづいていた。しかも、そのコンクリート塀の向こう側には、建物らしい建物の影はなくて、ただ荒れるにまかせた広場のまま投げ出されているのだった。ところどころ壊れかかったコンクリート塀の亀裂《きれつ》から中をのぞいてみると、白ちゃけた煉瓦屑《れんがくず》だの、焼けこげた材木だのが、あちこちにごろごろと積み上げられていて、その間には、青い雑草が一面に生い茂っていた。
この雑草と、わびしい廃墟の向こうに、はるか月島辺の工場の煙突が、くろぐろと林立しているのが見えた。
今、この煙突を横眼ににらみながら、長い長いコンクリート塀の下を、畔沢大佐はこつこつと靴音をひびかせながら歩いていた。
あたりに人影がなかったからいいようなものの、もし、だれかがこの時大佐の姿を見つけたらまことに異様に感じたに違いない。そうでなくても、人眼につきやすい、大佐の大きながっちりとした軍服姿は、地震以来、打ち忘れられたような、この築地《つきじ》明石町河岸付近の景色とはまことに似つかわしくないものだった。
とつぜん道が三叉《みつまた》になったところまでやってきた。汚い、悪臭を放つ黒い泥溝は、そこでやや大きな運河と合して、その泥溝の上に、小さい、形ばかりの橋が架《か》かっていた。大佐はその橋の袂《たもと》にたたずむと、何気ない顔つきで、今通ってきた道を振り返ってみた。細い、奈落《ならく》のような泥溝沿いの道にはどこにも人影は見られなかった。大佐はそれから、夕陽を見るような格好で、ゆっくりと運河の上手《かみて》から下手へと眼をやった。この黒い流れの上には、ところどころ、小さい荷船が舫《もや》ってあったが、その船の上にも、河沿いの白い道にもどこにも人らしい影は一つとして見えなかった。ちょうど夕凪《ゆうなぎ》時のような、わびしい無風帯な静けさが、しっとりあたり一面に覆いかぶさっているのだった。
大佐は再びこつこつと運河に沿うて歩きだした。その歩きぶりを見ると、特別に用事をもっている人のようにも見えなかったし、そうかといって、気紛《きまぐ》れに散歩しているとはなおさらのこと見えなかった。
散歩にしては、それはあまりに不思議な場所だったし、行く手に用事があるとしても、同じようにこの方角は解《げ》せなかった。どちらにしても、こういう場所に大佐の姿を見いだすということは、まことに不釣り合いな取り合わせのように見えるのだ。
それにもかかわらず、大佐はいかにも自信のある歩きかたで、まっすぐに上体を立てたまま、運河に沿うて歩いていった。間もなく、今まで通ってきたコンクリートの塀がぷっつりと断ち切れてそれから先、小さな倉庫のような建物が幾つも幾つも並んでいるところまでやってきた。運河はいつの間にやらこの道から他へそれて、その辺へ来ると、両側からのしかかるように、冷たい煉瓦造りの建物が、道の上に冷たい影をつくっていた。
大佐はこの不思議にも物音のない倉庫街の入り口に立ち止まるともう一度道の前後左右を見回した。打ちつづく経済界の不況のために、これらの倉庫どもは、全く廃物同然になっているとみえて、道に敷いたトロッコのレールにも、赤い錆《さび》がいっぱい付いて、レールの間には蒼いペンペン草が草むらをなして生い茂っている。大佐はこのレールを踏みながら、倉庫街の中へ向かって、ゆっくりと歩きだした。
この冷たい、日陰の街の中には、一軒だけ、妙な建物がたっていた。それはちょうど、両側から大きな煉瓦の建物に押しつぶされて、今にも地面の中へのめり込んでしまいそうな格好をした、古い、がたがたとした木造建築で、トタン張りの屋根の上には、はげかかったミルクホールの看板があがっていた。
大佐はこの奇妙なミルクホールの前まで来ると、なんの躊躇《ちゆうちよ》もなく、たてつけの悪いガラス戸をギイと押した。
「いらっしゃい」
ガラス戸の中は狭い土間になっていて、この土間の向こうに形ばかりのカウンターと、小さいガラス戸棚《とだな》があって、その戸棚の中に白い牛乳の瓶《びん》がいくつも並んでいた。このカウンターの中に、顔色の悪い、爺《じじ》むさい顔をした一人の男が新聞をひろげて読んでいたが、大佐の姿を見ると、すぐ立って土間のほうへ回ってきた。
「ミルクにしますか。それともお酒を召し上がりますか」
「酒にしてくれたまえ」
大佐はぶっきら棒に言った。
「はあ、酒は赤にしますか、それとも黒に――?」
「黒を――」
「承知しました」
男はカウンターの奥から、ウイスキーの瓶とコップを両手に持ってくると、コップになみなみと酒を注いだ。しかし、その拍子に彼はまことに妙なことをしたのである。
大佐が相手の注ぎ終わるのを待ちかねたように、ぐっと一息にその酒を呷《あお》るのを見ると、男は手早くテーブルの上に、小さい鍵《かぎ》をおいた。そして低い声で早口にこうささやいたのである。
「この奥の廊下の、右側の扉をひらいて……」
大佐はそれを聞くと、左の手でその鍵を押さえると、右手で銀貨をじゃらじゃらいわせながら勘定を払った。そしてすぐ椅子から立ち上がった。
男はそれを見ると、またカウンターの奥に引っ込んで、さっき投げ出した新聞を取りあげた。そして大佐が勝手に、店から奥のほうへ入ってゆくのを見向きもしないで、新聞を読みはじめた。
二
店と奥との境をなしているカーテンをめくると、そこは薄暗い板敷きの廊下で、その突き当たりが便所になっている。その便所の手前に、右側に当たって一つの扉がついていた。
畔沢大佐は、今不思議な方法で受け取ってきた銀色の鍵を、その鍵孔に差しこむと、かちっとそれを回した。そして、ちょっとおびえたような格好で首をすくめたが、すぐ、気を取り直したようにハンドルをぐいと押した。と、そのとたん、たった一枚の扉でさえぎられていた不思議な騒音が、まるで水から湧《わ》き上がる腐敗ガスのように、どこからともなく聞こえてくるのだった。
「やってるな――」
そういう意味の言葉を、声には出さずに、厚い頬の筋肉に刻むと、大佐はつとその扉の中へ入っていった。扉の裏側は、狭いトンネルのような廊下になっていて、その廊下を五、六歩行くと、下へ下りる階段があった。その階段をさらに十歩ほど下りると、そこにまた扉が一つあった。さっき大佐が聞いた騒音というのは、この扉の内部から聞こえてくるのだった。
大佐はこの扉の前に立つと、コツコツと指先ではじくようなたたきかたをした。と、そのとたん、今まで聞こえていた話し声が一時にぴったりと止まると、不意に鋭い声が中から聞こえてきた。
「だれだ!」
「おれだよ。畔沢だよ」
「ああ、大佐か」
ほっとしたような声とともに、それでもまだ用心深く扉を細目に開くと、中から赤ら顔の男がそっと顔を半分のぞかせた。
「どうしたんだ。いやにびくびくしているじゃないか」
大佐がむしろ呆気《あつけ》にとられたように笑いかけると、その男は、初めて安心したように扉を大きく開いて、
「いや、きみ一人だね」と、念を押した。
「うん、一人だよ」
「よし、じゃ、早くこちらへ入りたまえ。上の扉は閉めてきたろうね」
「ああ、閉めてきたよ」
大佐が中へ入ると、男は大急ぎで背後の扉を閉めると、ぴったりとまた錠を下ろしてしまった。
大佐はここで初めて、この部屋の中をゆっくりと見回すことができたのだった。それはまことに奇妙な部屋でもありまた、まことに奇妙な人々の集合でもあった。まず第一にその部屋というのは、広さにして、十坪ほどもあったろうか、四方をコンクリートの壁で囲まれた、天井の低い、まるで牢獄《ろうごく》のように冷たい部屋で、敷物も何もない漆喰《しつくい》の床には、粗末なテーブルが二つ三つと、脚の壊れかかった椅子が数脚。――ただそれだけだった。テーブルの上にはビール瓶にさした裸|蝋燭《ろうそく》が二、三本、ちろちろと白い炎をあげている。そして、この乏《とぼ》しい光の中に、煙草の煙が渦《うず》のように巻いているのが見えた。
こういう、不思議な、無気味な部屋の中にいる人々というのが、前にもいったように、またまことに、奇妙な取り合わせだった。人数にして、およそ十五、六人もいただろうか。思い思い違った服装をしているので、いったいどういう階級に属する人種であるか見当もつかなかった。労働者のような服装をした者もあれば、中学の教師然とした者もあった。医者みたいなのもあったし、会社員みたいな格好をした者もあった。みんな違った服装をしていながら、ただ一つ共通していることは、これらの人々がみんな三十五、六から四十ぐらいの年輩で、思い思いの服装にもかかわらず、一様に精悍《せいかん》な顔付きをしていることだった。
大佐が入っていった瞬間、これらの人々は一様に唖《おし》になったように、じっと黙り込んで彼の姿をまじまじとながめていた。それはちょうど、今|噂《うわさ》をしていたばかりの当の本人が現われたときにやる、妙に気まずい、ちぐはぐな沈黙だった。
「どうしたんだね、みんな妙に考え込んでいるじゃないか」
大佐は手袋を脱ぎながら、不思議そうに一同を見回した。しかし、だれもそれに答えようとする者はいなかった。大佐は手袋をポケットにしまうと、じゃらじゃらと佩剣《はいけん》を鳴らせながらつかつかとテーブルを囲んでいる二、三人のほうへ進んでいった。そのテーブルの上には、地図のようなものがひろげてあって、ところどころ、それに赤だの青だのの印がつけてあった。
いったい、この不思議な集合が、何を意味しているのか、それは、読者諸君の想像にまかせるとして、大佐はつとそのテーブルのそばに近づくと、どっかりとそばの椅子の上に腰を下ろした。
「おい、なんとか挨拶《あいさつ》したらどうだね。どうしてそう、皆おれの顔をじろじろ見るんだい」
テーブルの正面に座っていた男は、ポケットから葉巻を取り出すと、ゆっくりとそれを噛み切った。
「おい、畔沢」
不意にその男が言った。眉間《みけん》から左の頬へかけて、薄い創痕《きずあと》のある男で、その声には不思議な威力がこもっているのが感じられた。
「きみはまた、そんな姿でのこのこやってきたのかい」
「そんな姿――?」大佐は不思議そうに自分の軍服を見ながら、
「これじゃいけなかったのかい?」
「いいかげんにしろよ。きみの後をつけてきた者は……」
「うん、それなら大丈夫だよ。十分気をつけたつもりだ」
頬に傷のある男はふっと葉巻の煙を吐きかけながら、
「畔沢、きみはどうしてここへ本部を移したか知っているかい?」と尋ねた。
「ああ、実はそれを聞きに来たのだよ。前のところじゃどうしていけないのだね。急に本部を移したと聞いて、おれは全く驚いてしまった」
「嗅《か》ぎつけられたのだよ」
「嗅ぎつけられた?」
「だれか密告した奴があるんだ。スパイがいるんだよ」
「スパイ?」
「畔沢!」
不意に、その男がきっぱりとした声で言った。
「きみにその疑いがかかっているんだぞ」
不意に大佐はぎょっとしたように椅子から立ち上がった。そして、真っ赤にふくれあがった血管を、にゅっと相手の鼻先につきつけながら、
「おれが――? おれが密告したって? このおれがスパイだと」
と、噛みつきそうな声でどなった。急に、部屋の中に、ざわざわという無気味なざわめきが起こった。みんなめいめい、今にもある種の行動に出ようとするかのように、緊張した面持ちで身構えをしていた。
「だれが、――だれがそんなことを言うのだい? ええ、おい、何かそんな証拠でもあるのかい?」
「まあ、静かにしたまえ」
頬に傷のある男が落ち着きはらった声で制した。
「だれも、きみ自身がスパイだなんて言やあしない。しかし、スパイがきみの身辺にいることだけは確かなんだ。おい、畔沢、気をつけろ。あいつは大丈夫だろうな」
「あいつ?」
「侯爵の七男さ。きみはあいつに迂闊《うかつ》なことをしゃべったりしやしないだろうな」
「侯爵の七男――? それじゃきみたちはあの男が――」
「なんとも言えないね。とにかく、密告された事実というのが全部きみを中心にしての情報なんだ。だから、きみの周囲にスパイがいるとしか思えないね」
大佐は不意に打ちのめされたように、どっかと椅子の上に腰を落とした。
安道が――? そんなことをしようとは思われない。第一、あの男が密告をしようにも、それほど、深い事実を打ち明けた覚えはないのだ。しかし、また翻って考えてみると、あの眼から鼻へ抜けるほど、賢いあの男のことだ。もしもそういう気持ちがあるなら、自分の秘密を探るぐらいのことはなんでもないことだったかもしれない。だが、それにしても、いったいどういうつもりでそんなことをしたのだろうか。今この自分を憤《おこ》らせたが最後、彼自身の身の破滅であることは、あの男もよく知っていなければならないはずだ。もっとも、その秘密――、身替わりの秘密だけは、この人たちにもさすがに打ち明けてはいなかったが。
「なあ、畔沢。――きみはあの男に対してあまり美しい夢を見過ぎていやしないかね。きみが考えているように、あの男が動くかどうか、どうもわれわれには心もとないと思うね」
「なに、その点なら大丈夫だ。あの男はおれの傀儡《かいらい》さ。どうにでもしてみせる」
「ふふ、その自信はけっこうだ。しかし、ものは相談だが、ここらで一つきみのその迷夢をさましてもらいたいものだと思うがね。侯爵がなんだ、われわれにはそんなものは無用だよ。われわれはわれわれの意気と、実力で行くことにしようじゃないか」
「むろん、それはけっこうだ。しかし、利用できるものなら利用したほうがいいと思うがね。何も邪魔にならないものなら」
畔沢大佐は心中の不愉快さを隠しきれない面持ちで、吐きすてるようにいった。彼はようやく、自分の計画と、この人たちの心持ちとの間に大きな溝《みぞ》ができつつあるのを知って、なんとも名状できないほど腹立たしさを感ずるのだった。
「利用できればそれでいいさ。しかし、利用していると思っていたところが、逆に利用されているんじゃないかね」
「なんだって?」
「はははははは」頬に傷のある男は急に大声をあげて笑った。「きみは島崎麻耶子という女を知っているかい?」
「島崎麻耶子?」大佐はぎょっとしたように、「その女がどうかしたのかい」
「なあに、その女と侯爵の七男が密会していることを、きみが知っているかというのだ」
大佐はもう一度椅子から腰を浮かしかけた。
「きみ――それはほんとうか」
「本郷一丁目、本郷アパートだ。行ってみたまえ。さっきあの男がそこへ出向いたという報告があった。だいぶ二人は深い仲らしいぜ」
大佐は不意に椅子を蹴《け》って立ち上がった。太い髭《ひげ》が大きな驚駭《きようがい》と憤怒《ふんぬ》のために、はげしく震えているのがはっきりと見えた。
「よし」
大佐はテーブルの上に投げ出した手袋を取りあげると、大股《おおまた》に部屋を突っ切っていったが、扉のそばまで来ると、ふと足を止めてくるりと後ろを振り返った。
「あの男の始末はこのおれにまかせておいてくれ。決してきみたちの迷惑になるようなことはしないからね」
それだけ言うと、まるで、憤怒のかたまりのように肩をゆるがせながら、大佐は疾風のようにこの不思議な密会所から跳び出していったのだった。
三
「鷲見《すみ》――」
女が押し殺したような、甘ったるい声でささやいた。
「なあに」
男は物憂い、冷淡な声でそう答えると、女のほうは見向きもしないで鏡のそばへ寄っていった。鏡の中には安道のもう一つの姿である、あの貧乏画家の鷲見信之助の顔が、蒼白く冴《さ》え冴《ざ》えとして映っていた。安道はその、どこか不健康に見える自分の顔と、その顔の向こうに映っている女の、だらしなく寝乱れた姿を、苦汁を飲むような気持ちで、じっと見つめていた。
それはある事を果たした後の、限りない後悔と自嘲《じちよう》のほかには、何一つ残らない、もみくちゃにされた感情だった。いったいこの白粉《おしろい》やけのした、みじめに痩《や》せこけた肉体の、どこに魅力を感じて、自分はこうしてしばしば危険を冒す気になるのだろうか。
女として、この島崎麻耶子はどこに一つも取り柄のない存在でしかなかった。生活の労苦と、荒い、不健康な稼《かせ》ぎのために、顔は年齢よりもずっと老《ふ》けてみえたし、そのかさかさとした脂肪のない皮膚には、忌まわしい病毒の徴候さえ見えるように思われるのだ。事実、そういう病気の有無は別として、彼女がかなりひどい呼吸器病に冒されていることは確かだった。時々、ごほんごほんと咳入《せきい》るその様子には、この女の生命をむしばみつつある病気の昂進《こうしん》しつつあるありさまが、はっきりと見てとられるように思えた。ごほん! と咳をして、その後でつっと何か物を飲み込むのを見るとき、安道は自分の咽喉《のど》を真っ赤な血が滑ってゆくような痛痒《つうよう》さを覚えるのだった。
「鷲見、ちょっとこっちを見てちょうだい」
麻耶子がもう一度ベッドの中から叫んだ。
安道はそれ以上女が大きな声を立てない前に、鏡のそばを離れると、ゆっくりと女の前へ歩いていった。
「どうしたの。おや、きみはまた泣いているのかい」
「鷲見」女はシミーズの前をあわててかきあわせながら、「あなたはどうしてそうなの。どうして、あたしの話に身を入れて聞いてくださらないの」
「また、そのことかい」
安道は困ったように椅子に腰を下ろすと、そばのテーブルの上から煙草を一本つまみあげた。
「また――といって、あたしにとってはこれは真剣な問題なんだわ。ねえ、鷲見、せめて居所だけでもいいわ。ねえ、それをあたしに聞かせてくださることはできないの。居所を聞いたからって、あたし決して押しかけてなど行きやしないわ。あたし、このごろ気になって仕方がないことがあるのよ」
「居所はまた、いずれそのうちに知らせるつもりだが、その気になることってえのはどんなことなんだね」
麻耶子はやや涙ぐんだ眼をあげて、じっと安道の横顔をのぞき込んだ。
「このあいだもお話ししたわね。あなたは碌《ろく》すっぽ聞いてくださらなかったけれど。――あたし、あるところで確かにあなたの姿を見たのよ。それはとてもあたしたちの近寄りもできないある偉いお方のお邸だったけれど、あたしそこで確かにあなたの姿を見たんだわ。しかも、人にきくと、あなたはそこの坊ちゃんだということだったわ」
「ははははは、またそのことを言い出したね。そんなお伽噺《とぎばなし》みたいな夢は、もうそろそろ忘れたらどうだね。このおれがなんとか侯爵の坊ちゃんで、同時にまた貧乏画家の鷲見信之助だというのだね。そんな馬鹿げたことを、きみはまた、どうしてそう根強く信じているのだね」
「だって、その坊ちゃんというのも、近ごろロンドンから帰ってきたばかりだという話だわ。そして、人の噂《うわさ》によると、鷲見信之助はロンドンで死んだというのですもの」
安道はいかにも馬鹿馬鹿しいというふうに、吸いかけた煙草をジューッと灰皿《はいざら》でもみ消すと、
「それでいったいどうしたというのだね。この鷲見信之助がその侯爵さまの坊ちゃんになりすましているとでもいうのかい? それとも、逆に侯爵の倅《せがれ》が、鷲見信之助に化《ば》けているとでもいうの」
「わからないわ、あたしには――」
麻耶子は細い、今にも折れそうな首を曲げて、じっとそういう安道の顔を食い入るようにながめていた。
「わからないわ、あたしには――しかし、あのお邸で見た人と今ここにいるあなたとは確かに同じだと思うわ」
「おやおや、じゃこのおれは鷲見信之助じゃないというのかい。そいつは困ったことだ」
麻耶子はそれに対して答えようとしなかった。そして、何か考えをまとめようとするかのように、じっと部屋の一隅を見つめていたが、やがて、かすかな溜息《ためいき》をつくと、
「ねえ、だから後生ですから居所ぐらい知らせてちょうだいな。そうすればあたしのこの心配も少しは薄らぐかもしれないわ」
「心配、どうしてきみはそう下らないことを気に病んでいるのだろうね」
「心配だわ、心配だわ」
不意に麻耶子は駄々《だだ》っ児《こ》のように体をゆすぶると、むっくりと跳ね起きて鷲見信之助の胸にすがりついた。
「ねぇ、鷲見。あたしこのごろいやな夢ばかり見るのよ。それはそれは恐ろしい夢だわ。いつもあなたが恐ろしい危険にさらされている夢だわ。ねえ、後生だから、あなたあんな危険なことから身を引いてちょうだい。あんな恐ろしい、恐ろしい仕事から――」
安道は女の首に手を巻きつけると、顔を近づけて女の涙を唇《くちびる》で軽く吸ってやった。
「ははははは、しようのないお嬢さんだね。ぼくの居所は今に知らせる、今はちょっとぐあいが悪いが、しかし、決してきみが心配するようなことは起こりゃしないから安心しておいで」
「ほんとう――?」
麻耶子の大きな眼が、探るように安道の眼の中をのぞき込んでいた。安道はそれを見ると、不意に何かしら痛いもので体を刺されたような、身震いを感じた。
「ほんとう――だとも」
安道は、しかしその言葉をはっきりと終わりまで言ってしまうことができなかった。なぜならばその時不意に扉が静かにひらくのを見たからである。
ぎょっとしたように彼は、女を抱いたまま心持ちそのほうへ体を乗り出した。と、そのとたん、扉の陰から、憤怒に燃えあがった畔沢大佐の姿がぬっと脅《おびや》かすように現われた。安道はその姿を見たとたん、唇まで白くなるような恐怖に打たれた。
大佐は静かに扉を後ろに閉ざすと、低い、噛《か》みつきそうな声で言った。
「このざま[#「ざま」に傍点]は、なんだ!」
安道は静かに女の体を離すと椅子から立ち上がった。そして、ベッドのすそのほうに投げ出してあった、汚い、ぼろぼろの上衣を取り上げると、ぐいと肩をそびやかして、二足三足大佐のほうへ近づいていった。
この時初めて麻耶子は大佐の姿を見つけたのだった。そして、相手の様子から、これがただごとでないことを覚《さと》ると、一瞬間、彼女は、黒い瞳《ひとみ》を大きく見はって、真《ま》っ蒼《さお》になったが、すぐその次ぎの瞬間には、勇敢に身を躍らせて二人の間に割って入った。
「いけません、いけません、この人を連れてっては!」
「お退《ど》き、何も心配をすることはないのだからお退き」
「いいえ、いいえ、行っちゃいけません。行っちゃ――」
麻耶子は痩《や》せこけた体を、子供のようにゆすぶった。
「帰ってちょうだい! あなたは何をしに来たのです。断わりもなしに、どうしてこの部屋へ入ってくるのです。この人はあたしのものです。とっとと出て行ってちょうだい」
「退《ど》け!」
大佐の太い声が噛みつきそうに落ちてきた。麻耶子はそれを聞くと、一|刹那《せつな》ひるんだように立ちすくんだが、すぐとまた子供のような勇気を奮い起こした。
「いいえ、退きません。ここはあたしの部屋です。あなたこそ――あなたこそ。――」
不意に大佐のたくましい腕がぬっと伸びた。その大きな二つの掌の中で、麻耶子の首は細い根深のように頼りなげに震えた。
「あっ、ああ――ああ」
しばらく、彼女は細い手脚をばたばたと震わせて床を蹴《け》っていたが、次第に全身から力が抜けるのが感じられた。
「大佐!」
「大丈夫。――騒ぐと面倒だからちょっと眠らせただけのことさ」
大佐はそう言いながら、気を失った麻耶子の体を静かに床の上へ寝かせた。
安道はさすがに蒼ざめた顔で、大佐の一挙一動を石のように見守っているばかりだった。
「おい、行こう。話は帰ってからだ。人に見つけられたら面倒だから早く行こう。おい!」
不意に大佐は呆然《ぼうぜん》としている安道の手を握りしめた。
「貴様はまだこんな女に未練があるのかい。よし、それじゃひと思いにおれが片づけてやろう」
大佐はすぐそばのテーブルから、果物をむくナイフを取り上げた。そして、気を失っている麻耶子のそばにひざまずくと、その胸を開いて、ナイフの切っ先をそこに当てた。
「こうしたらどうする?」
安道はまさか、大佐がほんとうにそんなことをするとは思わなかったが、つと振り向いた相手の顔を見たとき、唇まで白くなるような恐怖に打たれたものである。
大佐の顔は、鬼のように物すごかった。
四
「安道さま、あたしちょっとあなたにお話がありますの」
にぎやかに笑い興じている人々の群れから、やや疲れたような面持ちで、つと二、三歩離れたとき、後ろからそう声をかけられて、安道はぎょっとしたようにそのほうを振り返った。
美子が強《こわ》ばったような表情に、強《し》いて笑顔をつくりながらじっと鋭い眼眸《まなざし》で彼の顔を見ていた。
「お話って、なんですか」
「こんなところでは申しあげられませんわ。露台《バルコニー》へでもお出になりません」
安道はそれを聞くと、心の狼狽《ろうばい》を押し隠すように、ポケットから白いハンケチを取り出して額《ひたい》をぬぐった。そして、その拍子にすばやい視線で明るい広間の中を見回した。幸い、畔沢大佐の姿も、泰子姫の形もその辺には見られなかった。
「そうですか、ではお供しましょう」
露台には幸い、客人の姿も見えなかった。
「とうとう、つかまえることができたわ。このごろではあなたと二人きりでお話するってことはなかなか容易なことではありませんのね」
美子はあざけるようにそう言うと、安道のほうは見向きもしないで、そばのベンチの上に腰を下ろした。広いフランス窓を通して、にぎやかな、明るい広間が見渡されたが、だれ一人、こちらを注意している者はいなかった。だれも彼もが、熱帯魚のように、誇らかに、活発に広間の中を躍り狂っていた。
樺山侯爵家で、一年に一度必ず催すことになっているお祝いの夜だった。それは、この侯爵家の先祖が、何百年か前に初めて城を持った日に相当しているとかで、毎年この日には必ず、臣家どもを集めてお祝いの宴を張ることになっていた。そういう何百年かのしきたり[#「しきたり」に傍点]は、しかし、このごろでは形を変えて、旧臣家ばかりではなくて、もっと他の知名な人々を招待して、一種の社交的な集まりとなっていた。だからこうして、侯爵家とはなんの由縁《ゆかり》もないはずの美子が、この席にいるのも別に不思議はないわけだった。
「まあ、ここへお掛けになりません?」
美子が冷たい、洞《うつ》ろにひびく声で言った。
「ええ」
安道は黙ってそのそばに腰を下ろすと、ポケットから煙草を取り出して、さもまずそうに喫《す》いはじめた。
「安道さま、このごろどうしてあたしをお避けになりますの」
「ぼくがですか。どうして?」
「あら、どうしてじゃございませんわ。あなた御自身、覚えのあるはずじゃございません」
「いいえ、いっこう覚えがありませんね」
安道は白い頬にとぼけたような笑顔を浮かべた。それを見ると、美子は口惜《くや》しそうに、黒い瞳をきらりと輝かしたが、
「ほほほほほ、そうおっしゃるのなら仕方がございませんわ。しかし、いつお電話をおかけしても、いつもあなたはお留守じゃございませんの」
「そうですか、ぼくはちょっとも知らなかった」
安道はいかにも気乗りがしないように言った。美子はそれを見ると、救い難い絶望と同時に、燃えあがってくる憤怒のために、両眼を黒曜石《こくようせき》のように輝かせていた。それはなんというはげしい変りかただったろうか。彼女を見る眼、彼女に対する口の利きかた、――これがあのロンドンからいっしょだったついこのあいだまでの安道だろうか。彼女はついこのあいだまでは、この男の心をさんざん引きずり、もてあそんでいるような優越を心ひそかに感じていたのだ。それが、今では全く逆になってしまった。冷たく、灰のように冷えきった男の態度に、彼女の心が逆に翻弄《ほんろう》されているような、なんとも名状しがたい焦燥を感じるのだった。
「じゃ、その話はよしましょう。どうせこんなこと下らないことですもの。それよりあたし、このごろ妙な噂《うわさ》を聞いたのですけれど――」
「妙な噂って申しますと」
「あなたと、あの泰子さまが御結婚なさるという――」
「それが妙な噂ですか?」
不意に、美子はぴしゃりと平手で頬をたたかれたような侮蔑《ぶべつ》を感じて、すっくとベンチから腰をあげた。
「それじゃ、あれは――あれはほんとうなんですか」
「どうですか、まだよくわかりません」
安道はすました顔付きで、ポケットから煙草を取り出すと、またそれに火をつけた。
「しかし、いずれそんなことになるかもしれませんね」
美子は全身を、はげしい憤怒と嫉妬《しつと》とで烙《あぶ》られるような気がした。彼女は何かしら、思い切ってはげしい言葉を探すように、そわそわとあたりを見回していたが、不意にぎゅっと唇をゆがめると、低い声でたたきつけるように言った。
「あなた、――あなた、それでいいと思っていらっしゃるの、あなたのことをこのあたしが知らないとでも思っていらっしゃるの」
「なんのことですか、それは――?」
「あなたの秘密、――あなたと畔沢大佐の秘密を、――」
「美子さん!」
不意に安道はすっくと立ち上がると、美子の両腕を痛いほど締めつけて、じっと相手の瞳の中をのぞき込みながら、
「なるほど、あなたは利口な女だ。しかし、その利口さは人を傷つける不幸せな利口ですよ。美子さん」
安道はそこで不意に声を落とすと、
「ぼくたちの秘密も秘密ですが、あなたの秘密もぼくは知っていますよ。それはぼくたちのとは比べものにもならないほど恐ろしい秘密――血に汚された秘密です。ねえ、だからお互いに黙っていましょう」
美子はそれを聞くと、真っ蒼になって、今にも倒れそうになった。
しばらく二人の眼が鋭い剣のようにからみあっていた。かつて恋人の眼として見交わされたこの四つの眼は、今や仇敵《きゆうてき》のようにはげしい憎悪と敵意とをもって見交わされているのだった。
「はははははは、いや、失敬しました。このことはお互いに忘れてしまいましょう」
安道は美子の腕から手を離すと、後をも見ずにさっさと広間へ下りていった。
「あら、あんなところにいらっしゃったの」
危うく彼とぶつかりそうになって、泰子が消えてなくなりそうな弱々しい笑顔を浮かべて立っていた。この女は盛装をこらすと、いよいよそのみじめな容貌《ようぼう》が眼についた。しかし、あの水晶のように聡明《そうめい》な美子に比べると、この女のやや愚かしい眼眸《まなざし》には、なんとなく気楽さが感じられるのだった。
「はははは、いや、失礼しました。なにか御用でございますか」
「今、向こうでおもしろいことがはじまっておりますの。手相を観《み》る女なんですよ。このごろロンドンから帰ってきたばかりなんですって。それはそれはよく当たるのですよ。あなたも観ておもらいになりません?」
「ああ、そんなことですか、じゃ、私も一つ観てもらいましょうか」
なるほど、広間の隅《すみ》に、テーブルが一つおいてあって、そのテーブルの向こうに、マスクをかけた女が、真っ黒な洋装で座っていた。その周囲を取り巻いて、数人の男女がおもしろそうにきゃっきゃっと笑っていたが、二人が近づいてゆくと、みんな道をひらくようにテーブルのそばから後退《あとじさ》りした。
「一つ、ぼくの手相を観てもらいましょうかね」
安道はおもしろそうに、そう言いながら右手を出した。
「左の手を――男のかたは左の手を――」
不思議な女占い師は、黒いマスクの奥からじろりと安道の顔を見上げながら、低い、男のような声で言った。安道はすぐ気軽に左の手を出しかえた。女占い師はその手をとって、拡大鏡でじっと見つめていたが、その様子には次第に奇妙な変化が現われてきた。最初、彼女は吸い込まれるように、じっと安道の掌《てのひら》を見ていたが、やがて、はげしい息づかいが、両方の肩に刻まれてゆくのが見てとられた。
人々は――泰子も――いったいこの不思議な女がどんなことを言い出すかと思って、固唾《かたず》をのんで待ちかまえていた。
「不思議だ。おかしい」
やがて、女の低い声が途切れ途切れに聞こえてきた。それは聞きようによっては、どこか勝ち誇ったようなひびきを持っているようでもあった。
「私は前に、ロンドンで、この人の――いや、塙安道の手相を観たことがある、それとこれとは全く違っている。私がロンドンで見た塙安道はこの人ではなかった」
安道はそれを聞いたとたん、熱い火に触られたようにあわてて手を引っ込めた。その時、彼の目は、人々の向こうに立っている美子のそれとかっきりとぶつかった。その眼は、邪心をふくんだ美しさで、あざけるように、勝ち誇ったように輝いているのだった。
[#小見出し] 肥料と栄光
一
美子はベッドからそっとすべり下りると、素足に赤いスリッパを引っかけて、大きなフランス窓のほうへ行った。そして、重い緋色《ひいろ》のカーテンを静かに引きしぼると、扉をひらいて、よろめくように広い露台に出た。
湿っぽい、塩分をふくんだ海の夜風が、熱ばんだ体に、どっと襲いかかるように吹きつけてくる。露台の上はどこもかしこも、洗われたように夜露にぬれていた。しかし、美子はそんなことにはいっこうお構いなしに、ぬれたベンチの上に、臙脂《えんじ》色のガウンでくるんだ体を、まるでたたきつけるように投げ出した。乱れた髪が、汗ばんだ額《ひたい》にうるさくもつれついてくる。しかし、彼女はそれをかきあげようともしないで、素肌のままの両|肱《ひじ》を、冷たい石の手摺《てすり》の上にのっけると、しばらく、身じろぎもしないで、海面の上の薄明かりに眼をやっていた。
月はすでに、この海沿いのホテルの後ろ側に回ったとみえて、海の上には、銀をとかしたような白光が静かに躍っていた。美子は、ふと今までに幾度となく、こういう景色を見てきたことがあるような気がした。確かに、この時刻に、こういう露台の上から、こういう海の上をながめたのは、今が初めてではないような気がしてきた。それは幼いころの夢であったか、それとも、だれかの話に聞いたのか、あるいはものの本で読んだのか、――だが、そんなことはどうでもよかった。
彼女は、そうして冷たい夜風に頭を冷やしているうちに、沸騰するようなはげしい感情が、次第に、砂のように冷めてゆくのを感じた。そしてその後に、後悔とも、あきらめともつかない淡い哀愁が、靄《もや》のようにひろがってゆくのだった。
不意にどっと、下のほうから白い潮の騒ぐ音が聞こえてきた。それと同時に、美子はぶるぶると肩をすくめると、あわてて海の上から面をそむけた。その拍子に、今彼女が、抜け出してきた寝室の様子が、見るともなく、ふと彼女の眼に映ったのである。一瞬間彼女は、眼に映った部屋の中の光景に、じっと瞳をすえていたが、すると、またしても、絶望的なはげしい感情が、ちりちりと背筋から、這《は》いのぼるように燃えあがってくるのを感じた。
半分、ひらいたフランス窓の間から、戸外の白光が斜めに転げ込んで、それが部屋の中のほの暗い光ととけあっていた。そして、この二つの光がもつれあっているあたりに、大きなダブルベッドの一角が見えて、その上に眠っている醜い男の顔を、まるで電気照明のように照らしているのだった。
その赤黒い、ゆがんだような顔を真正面《まとも》に見た刹那《せつな》、何かしら、悪夢にでも襲われたような、絶望的な気持ちで、美子は自分の身のまわりをながめた。――あの男の、醜い、にごった血が、今では自分の体内に流れているのだ。――美子はその時、ふと男の獣のような唸《うな》り声を思い出して、烙られるようなはげしい肉体の疼《うず》きを感ずるのだった。そして、こういう絶望的な行動にまで自分を追い込んだ、もう一人の男に対して、彼女は今さらのようにはげしい憤怒と、呪詛《じゆそ》とを感じずにはいられなかったのだった。
晴通はふとベッドの上で眼を見ひらいた。
彼は自分のそばに寝ているべきはずの女の姿が見えないので、驚いたように部屋の中を見回していたが、ふと、露台のほうからこちらをながめている彼女の視線と合うと、一瞬間、子供のように顔をしかめて笑った。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
彼はベッドの中から、わざと甘えるような声で話しかけた。美子はしかし、それに答えようともしない。何かしら、初めて会う男をでも見るような眼付きで、じっとこちらを見つめている。晴通はまぶしそうに眼をそらせながら、ベッドからすべり下りると、ごとごとと不自由な体を引きずって露台へ出た。
「おお、これは寒い、こんなところにいたら風邪《かぜ》をひく」
そう言いながら、彼はわざと美子から離れて海の上を見ていた。
「どうしたの、気分でも悪いの」
しばらくして、彼はふと美子のほうを振り返った。
「いいえ」
「中へ入ろう、ね、こんなところにいたら風邪をひくよ。おや、着物がぐっしょりぬれているじゃないか。だいぶ前からここにいたの」
「いいえ、ちょっと先から」
「いけない、いけない、もう部屋へ入ろう」
「いいえ」
美子は相手のほうを振り向きもしないで、ゆっくりと答えた。
「あたし、もう少しここにいたいの」
「だって、そんなことをすりゃ、風邪をひくのはきまっているじゃないか」
「大丈夫よ。それより、あなたこそ、もうお寝《やす》みになってちょうだい」
「そう、――じゃ、ぼくもここにいよう」
晴通も美子にならんで腰を下ろした。男の体が、軽く美子の肩に触れた刹那《せつな》、彼女は思わず、ぶるぶるとはげしい身震いを感じた。
しばらく、二人は押し黙ったまま、そうして腰を下ろしていた。
「ねえ、どうしたの? さっきのことをきみは後悔しているんじゃない?」
しばらくしてから、晴通がふとそう言った。そして、さも臆病《おくびよう》そうに腕を伸ばして彼女の腰を抱くと、醜い顔にいっぱいの媚《こ》びを浮かべて彼女の顔をのぞき込んでいた。
それと見ると彼女は、内心むしず[#「むしず」に傍点]の走るような穢《けが》らわしさを感じたが、しかしもう彼女は、それを撥《は》ね返そうとする気力も失《う》せたように、わざと、ののしるような微笑を浮かべると、
「いいえ、そんなことはありませんわ」
そう言いながら、彼女はふと、胸のボタンの外れているのに気づいて、静かにそれをはめながら、
「今さら、そんなことをおっしゃるものじゃありませんわ」
そう言って、彼女はかすかな笑声をたてた。
――そうだ、ほんとうに今さらなんといっても仕方のないことだ。豚に真珠――しかも、自分からすすんで、真珠をこの豚にくれてやったのではないか。
「ありがとう」晴通は静かに女の手をとった。「ぼくはどんなにお礼を言ったらいいかわからないよ。それはね、あなたが与えてくれたあの大きな歓楽に対してばかりじゃない。それもある。しかしもっと他の理由で――つまり、生まれて初めて安道に勝つことができたという、そういうよろこびから、ぼくはどんなに言って、あなたに感謝していいかわからないくらいだ」
「安道さま――?」
美子は不意に、きらりと光る瞳をあげた。
「あのかたがどうしたとおっしゃるの?」
「あいつはあなたを思っている。あなたに恋している。そのあいつを出し抜いて……」
「ほほほほほ!」
不意に美子は何かしら、物を引き裂くような笑声を立てた。
「まあ、どうしてあなたはそんなことをおっしゃるの? あの人は明日結婚なさるんじゃありませんか」
「それはむろん、あいつの野心を満足させるためにね、しかし、あいつのほんとうの恋は――」
「晴通さま」不意に美子が早口でそれをさえぎった。「あのかたが侯爵家をお継ぎになるだろうという噂《うわさ》はほんとうですの」
「ほんとうかもしれません。しかし、そんなことはどうでもいいじゃありませんか。侯爵家なんか、あいつにくれてやってもいい。ぼくは、こんな美しい宝を手に入れたのでね」
「いいえ、どうでもいいことはありませんわ。あの人が侯爵家を相続するというのは間違っています。恐ろしい間違いです。あたしは知っているのです。あの人の恐ろしい秘密を――」
「あいつの秘密?」晴通は不思議そうに顔をしかめて、「何を、あなたは知っているというのです」
「晴通さま」
不意に美子はきっと相手のほうへ向き直った。
「あなたは、あなたがもしも侯爵家をお継ぎになるようなことがございましても、決して今夜のこのお約束をお忘れにはなりますまいね」
そう言って彼女は、戸惑いしているような男の顔を、まるで突き刺すような視線でながめていた。そのはげしい眼の中には、何かしら、蒼白い、ゆがんだ熱情が、炎のように燃えあがっているのだった。
「ぼくが侯爵家を相続する――? は、は、は! そんなことはおそらく夢でしょうね、もう今となっては――」
「いいえ、いいえ、ところがそれが夢ではないのです。あたしにはそれができるのです。あたしには――」
美子ははげしく男の指をつかんでゆすぶった。そういう彼女の眼の中には、あの安道のうちひしがれた姿がはっきりと映っていた。彼女は名状しがたい勝利の歓喜を味わいながら、これからとるべき行動を、忙しく頭の中で計画立てているのだった。
二
すがすがしい夏の夜が明けた。しののめを破って、輝かしい太陽が次第にのぼってくる。
「おい、見ろ! あのすばらしい朝日を」
畔沢《くろさわ》大佐はふと、後ろを振り返った。
「今朝の、あの朝日を忘れちゃいかんぞ。あれこそきみにすばらしい栄光をもたらせる暁の光だ」
安道も窓のそばへ寄ると、手を後ろへ組み合わせて、はるか街のかなたから昇ってくるその朝日に、じっと瞳をすえていた。
陽はすでに巷《ちまた》の甍《いらか》を離れて、次第に東京の空の上へ昇っていった。不意に一道の光が、さっと斜めに、安道の体の上へ落ちてきた。それはあたかも、今日のすばらしい彼の栄光を祝福するかのようであった。安道はこの光の中に毅然《きぜん》として胸を張って立っていた。
「すてきだ!」
大佐がうめくように嘆賞の声をはなった。
「どう見ても、きみは立派な侯爵だ。きみのその姿を見ては、もうだれも異存をさしはさむことはできないだろうぜ」
「ありがとう」
安道もさすがに頬を染めながら、窓のそばを離れると傍らの椅子《いす》に腰を下ろした。
「これもみんな、きみのお骨折りの結果だ――と、こう礼を言っておく必要があるかな」
「ははははは、まあ、なるべくならその気でいてもらいたいね。きみと、そしてあの女の骨折りの――」
「あの女?」不意に大佐は、太い眉根に皺《しわ》を刻んだ。「だれのことだね、それは――」
「美子、――沢村美子というあの女のことさ」
「美子さん? あの女が何かしたというのかね」
安道はパイプをとりあげると、静かに、煙草を詰めながら、
「そうだ。ひょっとすると、きみよりあの女の尽力のほうが大きかったかもしれないね。ははははは、可哀そうな女だ?」
「おい!」
不意に大佐の顔にはげしい驚愕《きようがく》の色が浮かんだ。彼はつかつかと安道のそばに寄ると、大きな掌で、しっかりと安道の肩をつかまえた。
「それじゃ、老侯爵を殺したのは――」
「そう――、姉に硫酸をぶっかけたのもね」
「きみは前からそれを知っていたのかい」
「知っていたというより感じていたのだね。あの女はそんな女だ。あの女の美しさ、あどけなさは、心中に持っている恐ろしい欲望の仮面だよ。世の中にはあんな女がいるものだ。侯爵夫人という身分は、女にとってはすばらしい魅力らしいからね」
「そうだったのか!」
大佐は不意にどしんと音を立てて、傍らの椅子に腰を落とした。陰謀にかけては人後に落ちない大佐だった。彼もまた、目的の前には手段を選ばないという剛毅《ごうき》な性格の持ち主だった。しかし、あの繊細《かよわ》い女が、いかにはげしい野心を持っていたとはいえ、自分一人で、そんな恐ろしいことを決行したということは、彼のような人間にとっても、さすがに恐ろしい、驚くべき発見だった。
「きみはそれで、それを知っていながら、あの女を引きずっていたのだね。言いかえれば、きみ自身が、暗《あん》にあの女を示唆《そその》かしていたのじゃなかったのかね」
「あるいはそうかもしれない」
安道は不意に白い額をくもらせた。
「しかし、それかといって、ぼくを共犯者のように責めてくれては困る。ぼくがそれに感づいたのは、父が殺されてから後のことだからね」
しばらく、二人の間にうずくような沈黙がつづいた。大佐は沈痛な面持ちをしてじっと床の絨毯《じゆうたん》をながめていたが、不意にぎょろりと眼をあげると、
「それできみはどうするつもりだね?」
「どうするとはあの女のことかね」
「むろん」
「あの女のことなら、どうもしようがないじゃないか、今さら、事を荒ら立てたところで始まらんことだからね。あの女にとっては、結局侯爵夫人になりえなかったというだけで、それが大きな刑罰さ。それ以上、法律的に罰してみたところでしようがない」
安道はそして、その後へ物憂い声音で付け加えた。
「世の中にはああいう人間がいるものだよ。自分では自分のためになることをしていると思っているのだ。ところが、それは結局、他人を太らせる肥料にすぎないことが、後になってわかるのだ。あの女はその肥料さ。そしてぼくはその上に咲いた花だよ」
大佐は不意に椅子から立ち上がった。そしていかにも心が騒ぐ風情《ふぜい》で、部屋の中を落ち着きなく歩いていたが、不意にくるりと安道のほうを向いて立ち止まった。
「おい」彼は低い、噛みつきそうな調子でいった。「今の言葉は、まさか、このおれに向かって言った皮肉じゃあるまいな。きみはまさか、このおれまで肥料だと思っているのじゃあるまいね」
「どうだかね」
安道は口からパイプを離して、静かに大佐の眼を見返した。その眼にはかすかな笑いさえ浮かんでいるのだった。大佐は、何かしらはげしい惑乱を感じながら、その笑いの意味を酌《く》みとろうとするかのように、じっと相手の眼の中をのぞき込んでいた。
「いや、これはおれが悪かった」
大佐は二、三度はげしく瞬《まばた》きをすると、ゆっくりとまた安道のそばに腰を下ろした。
「なるほど、きみの言うように、おれだってきみにとっちゃ肥料だったかもしれない。いや、それに違いないのだ。しかし、この肥料は、あの女と少しばかり違っていることをきみは知っているだろうね。この肥料は咲かせた花から蜜《みつ》を要求している、それをきみは覚悟しているだろうな」
「うん、まあね」
安道は椅子にそり返ったまま、細い目で相手の顔をおもしろそうに見ていた。
「おい、まあねじゃわからない。おれはその覚悟をききたいのだ」
大佐は不意に体を前に乗り出すと、しっかりと相手の肩に手をかけた。安道はそれに答えようともしないで、静かな瞳を窓の外へ投げている。
「おい!」
大佐がはげしい口調で何か言おうとしたときである。
軽く扉をたたく音がした。
「お入り」
安道の言葉に応じて若い女中が入ってきた。
「あの、畔沢さまにお電話でございます」
「電話、――だれから?」
「本部、――確か本部とおっしゃいました。そういえばわかるということでございましたが」
それを聞くと、大佐は急に顔色を変えた。彼はどきんとしたように椅子から立ち上がって、安道に何か言おうとしたが、思い直したように、急ぎ足で部屋を出ていった。
しばらくして、部屋へ帰ってきた大佐の様子はすっかり変わっていた。何かしら大きな不安に包まれたように、そそくさと部屋へ入ってきた彼は、テーブルの上から帽子をつかむとそのまま出てゆこうとした。安道はそのとき、窓に向かって立ってぼんやりと、庭のほうを見ていたが、そのままの姿勢で大佐に声をかけた。
「大佐、式には列席できそうかね」
「うむ」大佐はうめくように立ち止まると、「式は三時だったね」
「そう、日比谷の大神宮――それからホテルの披露《ひろう》宴へ向かうはずだ」
「よし、じゃホテルで会おう、話はその時だ」
そう言いすてると、大佐は疾風のように部屋を跳び出していったのだった。
三
須田町で電車を降りると、畔沢大佐はせかせかと急ぎ足でガードをくぐった。そして、高い高架線の下を、走るように歩いていった。早朝の、ちょうどいちばん人の往来のはげしい時刻だった。そして、このことが、大佐にとっては非常に幸いだった。でなければ、彼のような服装をした人間が、そんなふうに歩いているということは、きっと、道行く人の眼をそばだたしめたに違いない。それほど、その時の彼の様子はいつもとは違っていた。
ふだんのあの鷹揚《おうよう》な、がっしりとした態度は、今の大佐のどこにも見られなかった。何かしら、大きな不安と動揺が、脂《あぶら》ぎった、赤ら顔いっぱいに浮かんでいた。
時々彼は近傍《きんぼう》に立ち止まると、数えるように片側町の家並みをながめていた。そして幾度か道行く人に何か尋ねようとしていたが、そのたびに思い直したように、きっと唇を結んで、またせかせかと歩いていった。
間もなく、低い町家の間に、白い、バラック建ての粗末な洋館が、大佐の前に現われてきた。それを見ると彼はほとんど小走りに、その建物のほうへ近づいていった。
須田町ビルディング――
そんな文字が、白い人造石の壁に、大きく浮き彫りにされているのが見えた。しかし、ビルディングというには、それはあまりに粗末な建物だった。二階、三階、四階――と、大佐はその建物の高さを眼で、測量しながら玄関の前まで来ると、本能的に、今来た道を振り返ってみた。そして、だれも格別、こちらを注目している者のないことを確かめてから、にわかにゆっくりとした足取りで、その玄関を入っていった。
幸い玄関にも人影は見えなかった。大佐はわざとエレベーターの前を素通りして、階段のほうから上へあがっていった。二階、三階と、同じような造りになった床を、だんだん上へあがってゆくと、彼は間もなく四階の廊下へ出た。これが、この建物の最上層になっているのだった。
大佐は階段の上に立ち止まると、ちょっと考えるように立ち止まって、廊下の左右を見回した。暗い、トンネルのような廊下が左右につづいていて、その突き当たりに、小さい窓が見えている。大佐は間もなく、その廊下の左のほう、つまり建物の背後のほうへ歩いていった。
この四階の貸事務所は、みんな空室になっていると見えて、その扉のあちら側も、ひっそりとして真っ暗だった。大佐はそれらの扉の上を眼で探りながら、間もなくいちばん奥の部屋までやってきた。見ると、そこだけ扉の向こう側がぽっと明るくて、P・L商会と書いた金文字を浮きたたせている。
大佐はその扉の前に立つと、ほっとしたように帽子を脱いで、額の汗を拭《ふ》いた。そして、静かにガラスの上をコツコツとたたいた。
「だれだ!」
太い、低い声が聞こえた。
「畔沢」
「よし、入りたまえ」
扉には鍵《かぎ》がおりていなかった。大佐はそれを聞くと、何気なく一歩中へ踏み込んだ。しかし、そのとたん、何かしら切迫した空気を感じて、彼は思わず敷居の上で立ち止まったのである。部屋の中には三人の男がいた。その中の一人は、かつて築地のあの穴蔵の中にいた、頬から眉間《みけん》へかけて、大きな創痕《きずあと》のある男だった。三人の男は、威嚇《いかく》と、そして同時にある敵意をふくんだ眼で、じっと大佐の顔を見ていた。
「まあ、こちらへ入りたまえ。おい、扉をぴったり閉めとかなきゃいかんよ」
頬に傷のある男が言った。大佐は言われたとおり、扉を閉めると、部屋の中央へ歩いていったが、そのとたん、思わず眼を見はってあたりの光景を見回した。床の上には、紙片が一面に散乱しているのだった。ずたずたに引き裂かれたのや、黒く灰になったのや、焦げ残りになった滓《かす》が、乱暴|狼藉《ろうぜき》をきわめていた。
「おい、これはいったいどうしたのだ」
大佐は床から眼をあげると、三人の顔を代わる代わるながめた。二人の男はそれに対して答えようとしないで、ポケットに手を突っ込んだままぐいと肩をそびやかしてみせた。大佐の眼は、それらの男の顔から、次第に下へおりていった。そして、その男たちのポケットの上に視線が落ちると、不意に、そわそわとしたように太い髭《ひげ》に手をやった。経験に富んだ彼の眼は、ポケットの中で彼らが握っているものがなんであるかよく知っているのだった。
大佐はあわてて彼らから眼をそらせると、頬に創痕のある男のほうへ二、三歩近づいていった。
「おい、これはどうしたというのだ」
もう一度彼は同じようなことを尋ねた。
「書類の始末をしているのだよ。後に証拠を残しておきたくないからね」
「何? 証拠を残す――?」
大佐はぎょっとしたように相手の顔を見た。
「おい、それはどういう意味だ」
「どういう意味か、貴様の胸にきいてみろ」
ふいに、傍らから一人の男がどなるように叫んだ。
「なんだと」
「おい、喧嘩《けんか》するのはよせ」
傷のある男が、鋭い、威厳のある声で二人をさえぎった。
「畔沢君は実際何も知らないのだ。きみたち向こうへ行って後片づけをつづけてくれたまえ」
二人が肩をそびやかして、部屋の隅へ立ち去るのを見送っておいて、畔沢大佐は傷のある男のほうへ向き直った。
「いったい、どうしたというのだ?」
「手が入ったのだよ。築地の本部に――」
「え?」
大佐はぎょっとしたように体を前へ乗り出した。
「いったい、それはいつのことだね」
「昨夜――というより、今朝のことだ」
「そして、他の連中は?」
「みんなやられた。逃げのびたのはわれわれ三人だけだ」
そう言いながら、彼はじっと大佐の眼の中をのぞき込んでいた。
「逃げのびたものの、われわれとて、一刻も油断はできない。警視庁ではわれわれのリストを持っているのだ。ところが、不思議なことには畔沢君、そのリストにきみのことだけは載っていないのだよ」
傷のある男はそう言いながら、もう一度大佐の面に鋭い眼をやった。
「これがどういう意味になるか、畔沢君、きみにもわかるだろうね。仲間の連中はみんなきみが裏切ったのだと憤慨している。そこにいる連中もそうだ。しかし、おれはそうは思わない。そうは思わないが、きみの不注意は責めないではいられないね、とにかく、スパイはきみの身辺にいるんだ」
大佐は不意に低いうめき声をあげた。彼の眼にはまざまざと安道の顔が浮かんできた。――大佐、式には列席できるかね。――そう言った安道の言葉が、がんがんと耳の中で鳴りひびくのが感じられた。畜生!
大佐が思わず椅子の上から立ち上がったときである。ふいに後片づけをしていた男が、鋭い叫び声をあげた。
「しまった、やられた!」
男は窓から外を見ていた。それを見ると、傷のある男はぎょっとしたように立ち上がったが、すぐ窓のそばへ近づいて下の道路を見下ろした。
「おい、カーテンを下ろしたまえ」
傷のある男は、一瞬間、祈るように眼を閉じたが、すぐそれを開くと、静かな、落ち着いた声でそう言った。そして畔沢大佐のそばへ帰ってくると、一|梃《ちよう》のピストルを握らせた。
「逃げられるだけは逃げてみよう。しかし、なるべく相手を傷つけないように!」
ピストルを握った四人の男は、そうして真っ白になった顔を、じっと見合わせて立っていた。その時、畔沢大佐は、再び安道の言った言葉を、はっきりと頭の中に思い出していた。
「世の中には、自ら好んで肥料になる人間がある――」
四
塙安道と樺山泰子との輝かしい結婚式は、日比谷の大神宮で滞りなく行なわれた。この結婚式に列席したものは、両家の親戚《しんせき》を合わせて三十人ぐらいの、ごく少数の人々だったが、その代わり、その後で、ホテルで開かれる披露宴には、朝野《ちようや》の名士数百名が招待されているはずだった。
この結婚式は、ただに、両侯爵家をつなぐのみならず、同時に、塙侯爵家の相続人を決定することを意味しているので、その夜の披露宴こそは、安道にとっては最も輝かしい栄光であらねばならぬはずだった。
滞りなく式が終わって、控えの間へさがると、安道はさすがにどっと襲いかかってくるような疲労を感じないわけにはいかなかった。それは、喜ばしい、快い疲労であるべきはずだったが、それと同時に、彼は名状しがたい哀愁をも感じていた。この鉄のような意志をもった、鋭い、利口な男は、今日のこの栄光のためには、いかなる犠牲を払っても惜しまない覚悟でいた。しかし、こうしてあまりにも易々とその野望が遂げられた今となっては、さすがに彼は、眼覚めの悪い、種々な記憶に責められないではいられなかった。
「何か、お飲み物でも持ってまいりましょうか」
「いいから、向こうへ行っていておくれ、しばらく静かに休んでいたいから」
付き添いの女を遠ざけると、安道はぐったりとしたように椅子の上に腰を落とした。せめて、花嫁の着替えができる間だけでも、彼はゆっくりと、一人でくつろいでいたかった。その後には、またあわただしい、華やかな数時間が待っているはずだったから。――
女が出ていってしばらくしてからのことだった。不意に、安道の背後にある屏風《びようぶ》がかすかに動いた。安道はその気配に、ぎょっとしたように後ろを振り返ったが、ふいと眉根《まゆね》をひそめた。
「おや、大佐、きみはそんなところにいたのですか。いったい、どうしたというのです」
大佐は屏風を傍らに押しやると、無言のままぬっと安道の前へ来て立ち止まった。
「おめでとう、侯爵――」
「ありがとう」
安道もさすがにうれしそうに微笑を浮かべかけたが、不意に、その微笑は途中で強《こわ》ばったまま消えていった。大佐がその時、ピストルを取り出して、傍らのテーブルの上においたからである。
「どうしたのだ、大佐、ひどく取り乱しているようじゃないか」
安道はピストルと大佐の服装を見比べながら、眉をひそめて言った。安道がそう言って怪しむのも無理ではなかった。
大佐の服には、ところどころ鉤裂《かぎざ》きができているうえに、額にはかすかなすり傷さえあった。
「どうしたって? きみの口からそれをきくのかい?」
「何かね。ぼくがそれをきいちゃおかしいのかね」
「白ばっくれるのはよせ!」
不意に大佐がどしんとテーブルをたたいた。その拍子に、ピストルがピクリと躍った。
「大佐、その危険なおもちゃはどこかへしまっといたらどうだね。そして、何をいったい憤慨しているのか、それをぼくに聞かせてくれたまえ」
大佐は今さらのように、驚嘆の眼を見はって、相手の白い顔をながめていた。そこには、なんの感動もなく、水のように澄んだ平静があるばかりだった。
「なるほど、きみは大した男だ。偉い男だね。おれは今になっても、きみを憎むより尊敬したい気持ちのほうが大きい。しかし、そういうきみにして、あんな陰険な小刀細工をしたのは、全く惜しいと思うね」
「どういう意味だね、それは?」
「おい、それをおれに言わせようというのかい? きみのためにおれたちの計画はめちゃめちゃになってしまったのだぞ。裏切り、密告――それがどんなに男らしくない、唾棄《だき》すべき行動だかきみは知っているだろうね」
安道は黙って相手の姿をながめていた。やがてその顔には、相手を憫《あわれ》むような微笑が次第にひろがってゆくのだった。
「なるほど」と、だいぶ経ってから彼は言った。「きみたちの計画が暴露《ばくろ》したというのだね。そして、それが、このぼくの密告の結果だと、きみは思っているのだね」
「まさか、今さらとなってきみはそれを否定するんじゃなかろうな」
「ところが、ぼくは否定せざるをえんね」安道の声音は落ち着いていた。「第一、ぼくはきみの計画というのがどんなものであるか、いつかきみがちょっと漏らした、あれだけしか知らないのだ。いわんや、どんな仲間がいるか、どこに本部があるのか、ぼくはまるきり知らないし、知っていたところで、ぼくには全く興味のないことだからね」
「じゃ、きみはスパイを働いた覚えはないというのか」
「ないね。ぼくは自分自身、きみたちの計画に加担するのは真っ平だと思っていたけれど、それを摘発しようなどとは夢にも考えていなかった。それは全く、別の世界のでき事で、ぼくはなんの関係もないことだからね」
安道はそう言い切ると、つと椅子から立ち上がった。その時、扉を軽くノックする音が聞こえたからである。
「おい、きみ、それはほんとうか」
「ほんとうだよ。きみ、他人に姿を見られたくないなら、どこかへ隠れていたまえ。――お入り」
扉がひらいた。そして、そこに数人の人々が、凝結したような瞳《ひとみ》で、じっとこちらを見ているのが見えた。
「ああお母さん、どうぞ。加寿子姉さんもどうぞお入りください。――兄さん、あなたはどうして、ぼくの結婚式に立ち会ってくれなかったのですか。ああ、美子さん、あなたもごいっしょでしたか。――」
安道は気軽にそう言いながら、緊張した彼らの顔を順々にながめていったが、そこにいる最後の一人を見ると、ちょっと顔をしかめた。そして、もう一度改めて、一同の顔を順々にながめていったが、不意に、何かしら白い頬におもしろそうな微笑を浮かべながら、後ろのほうを振り返った。畔沢大佐はその時、屏風の陰へ隠れることを思い直して、もう一度、つかつかと部屋の中央まで帰ってきていた。彼もまた、この一団の人々の緊張した面持ちが何を物語っているかを覚《さと》ったのである。彼はある、意地悪い、復讐《ふくしゆう》的な快感を味わいながら、この窮地に落ち込んだ、安道の様子を見ていてやろうと思っているらしかった。
「安道。――」
侯爵未亡人が低い、震えを帯びた声で言った。
「私は今、ここにいるこのかたから、容易ならぬ話を聞きましたよ」
そういって母は、美子のそばに立っている女を指さした。その女こそ、このあいだ樺山侯爵家の大広間で、安道をつかまえて贋物《にせもの》だ、と言ったあの不思議な女占い師だった。その女は、狐《きつね》のような顔に、意地の悪い微笑を刻みながら、じっと安道の顔を真正面からながめていた。
「お母さん、それはどんなことでございますか」
「このかたのおっしゃるのには、おまえはほんとうの安道ではないというのです。このかたは、柴山女史といって、このあいだ、ロンドンから帰られたばかりの、有名な占い師なのですが、ロンドンにいる時、安道の手相を観《み》たことがあるのに、その手相と、今のおまえの手相はまるきり違っているとおっしゃるのですよ」
「それは不思議ですねえ」
安道はおもしろそうに、肩をゆすぶりながらその占い師のほうへ近づいていった。
「ぼくは、ロンドンであなたにお眼にかかった覚えはないのですがねえ。それに、向こうで手相など観てもらったことは一度もありませんが……」
「あら、それは当然ですわ」
不意に横から美子が勝ち誇ったように言った。彼女の眼の中には、はげしい敵意とともに、何かしら、名状しがたい心の疼《うず》きが見てとられるのだった。
「あなたが覚えのないのは当然ですわ。あれはあなたではなかったのですから」彼女はそこで畔沢大佐のほうへ振り返った。
「畔沢さま。あなたは覚えていらっしゃるでしょう。あたしたちがロンドンを発《た》つ三日前に、マドレコード卿《きよう》のお茶の会に招かれたことがありましたのを。あの時、あたし、安道さまとごいっしょでしたわね。その時、安道さまは手相を観てもらったのですよ、それがこのかただったのですわ」
大佐はそれを聞くと、不意によろよろと二、三歩後ろへよろめいた。
「え、え、え、それじゃ――それじゃ、その時の手相と、今のこの男の手相と違っているというのですか」
「そうよ。そうなのですわ」
不意に、大佐はどしんと音を立てて、傍らの椅子の中にのめり込んだ。そして、まるで化け物を見るような眼付きで、安道の顔を見ていたが、その眼の中には、見る見るうちに、はげしい恐怖の色が浮かんでくるのだった。
「おい、いったい、きみはだれだ――? それじゃ、鷲見《すみ》信之助じゃなかったのか」
大佐はまるで、今にも息が切れそうな声で叫んだ。わけのわからぬ謎《なぞ》が、疑惑が、まるで火矢のようにはげしく彼の頭の中で渦巻《うずま》いているのだった。
「ははははは、それはぼくの口より、須藤君に話してもらったほうがいいでしょう。そうすれば、みんなの疑いは解けることだろうから」
安道が手をたたいた。須藤は部屋の外で様子を聞いていたとみえて、それを聞くと待ち構えたように、すぐ入ってきた。
「須藤君、今ちょっと妙な問題が起こっているのだがね。あのマドレコード卿のお茶の会があった日、このぼくはいったいどこにいたかね」
「はい、あなたはホテルにいらっしゃいました。御病気で……」
「ところが、その日、ぼくだと名乗って、その会に出席した男があるのだよ」
「それは鷲見信之助という男です。大佐がロンドンの下町から拾ってきた贋物《にせもの》で、あなたの御病気中、ずっとあなたの身替わりをつとめていた男です」
「それで、その男はその後どうしているのかね」
「その後、大佐の命令であなたを殺そうとしました。ほんとうにあなたの身替わりになってしまうためです。しかし、いざとなって気おくれしたその男は、反対に、あなたのために絞め殺されてしまいました。いや、ちょっと気を失っただけでしたが……」
「では、その男はまだ生きているのだね」
「そうです。あなたから多額の金を頂いて、ロンドンで勉強をつづけていましたが、昨日、この東京へ帰ってきたという通信がありました」
「よろしい」
安道は、ほの白い微笑を浮かべながら、代わる代わる一同の顔を見回した。大佐はもう、石のように体をすくめたまま、気抜けがしたように呆然《ぼうぜん》と安道の顔を見つめているのだった。
「美子さん、これであなたのお疑いも晴れましたか」
安道はあざけるような微笑を浮かべながら言った。それを聞くと、美子は、不意に深い陥穽《おとしあな》をのぞかされたような戦慄《せんりつ》を感じて、よろよろと二、三歩あとへよろめいた。
「心配することはありませんよ。あなたの秘密は永遠です。しかし、あなたは大佐に対しても何か申しわけのないことをしていらっしゃる。大佐はきっとそれを償わさなければおかぬでしょう」
それを聞くと、大佐はぴくりとしたように顔をあげた。美子は自分を見ているその眼の中に、凶暴な憤怒と憎悪とを感じて、思わず救いを求めるように人々を振り返った。
「ああ、喇叭《らつぱ》が鳴っていますね。あれは私たちの出発しなければならぬ合図です。お母さん、姉さん、行きましょう、花嫁をあまり待たせるのは礼儀ではありません」
安道はそう言って、軽く母の手をとった。
そして、大佐と美子の二人を残して静かにその部屋を出ていった。
花嫁と安道の二人が馬車に乗った時、だあん、だあんとあたりの空気をゆるがすような銃音が二度聞こえた。
「あら、あれ、なんでしょう」
花嫁の泰子はそれを聞くと驚いたように後ろを振り返った。安道も一瞬間、顔色を紙のように白くしたが、すぐ、かすかな笑いを唇の端に刻んだ。
「いや、なんでもありませんよ」
馬車はすでに砂利を噛んで動き出していた。彼らの行く手には、この輝かしい結婚式を見ようと、道をはさんでいっぱいの見物が立っていた。
人々はこの美しい花嫁と花婿の姿を見ると、思わずわっと歓呼の声を立てていた。
その中を安道の馬車は、静かに走っていった。輝ける新侯爵の披露の宴に向かって。――
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[#見出し] 孔雀《くじやく》夫人
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[#小見出し] 花嫁列車
「まあ、あなたもやっぱりあの列車? それであなたのお式、いつだった?」
「あたし? あたし去年の十月十四日よ」
「ああら、いやだ。あきれたわ。あたしもそうなのよ。するとあなたとあたし、同じ列車に乗ったことになるのね」
「まあ、それほんと? いやだわ、いやだわ。でもずいぶん不思議ね、同じ列車に乗っていながら、お互いに少しも気がつかなかったなんて、ほほほほほ」
「お互いにきっと逆上《あが》っていたのね。ほほほほほ、でも気がつかなくて幸せ。なまなか気がついたりしちゃ照れちゃうわ」
「それもそうね。そうでなくてもあたし照れてたのよ、あの日は特別に日がよかったとみえるのね。あたしたちの列車、新婚の夫婦でいっぱいだったでしょう。ところが、あたしたちのそばに、一人だけそうでない男の人が乗ってるのよ。その人ったら、いやにニヤニヤ微笑《わら》いながら、いかにもおもしろそうに、ひとりひとり花嫁の顔を見比べているのよ。憎らしいったらなかったわ」
「まるで花嫁展覧会ね」
「そうよ、花嫁オン・パレード」
「ほほほほほ」
「ほほほほほ」
圭子と幹子は、そこで思わず声を出して笑ってしまった。
十日ほど前のことだった。
いよいよ近く結婚するときまった有為子が、同じ学校を出て、ひと足先に結婚生活へゴールインしたお友達の圭子のところへ、その由を報告に行くと、ちょうどそこへ来合わせていた圭子の別の友人幹子が、これも去年結婚したばかりだったが、はからずも二人が同じ日に結婚して、同じ列車で新婚旅行に旅立ったことがわかったので、おやとばかりに興じ合ったのである。
「まあ、ずいぶん不思議な御縁なのね」
それまで無言のまま、この両先輩の経験談を傾聴していた有為子が、思わず感に耐えたように口を出した。
「お友達同士、同じ日に結婚して、同じ列車で旅行するなんて、まるで小説みたいね」
「そうでもないのよ。そんなこと、考えてみれば不思議でもなんでもないの。だって、あたしたち結婚する時には、みんな日を選ぶでしょう。そして結婚にいい日ったら、一年じゅうで数えるほどしかないのよ。だから、結局、みんな同じ日に式をあげるって結果になるんだわ」
「そうね。そして同じ日に式をあげたとなると、結局、あの列車になるのね」
「そう、俗に花嫁列車というくらいですものね。有為子さんだってきっとあの列車になってよ」
「そうかしら。いやだわ。あたしそんなの」
「どうして? いいじゃないの」
「だって、そんなに大勢、美しいかたが乗っていらしちゃ、あたし顔負けしてしまうわ」
「大丈夫、有為子さんくらい美しければ、どんな人が来たって負けるもんですか。ねえ、幹子さん」
「そうよ、大丈夫、心臓を強く持っていらっしゃいよ。こちらの彼氏、どんなかたか知らないけど、きっと大自慢よ」
「あら、いやよ、そんなにからかっちゃ」
有為子は思わず耳たぼまで真っ赤になってしまったが、しかし、それは決していやな気持ちではなかった。有為子は内々、自分の美しさに自信を持っていたし、それに結婚しようという相手にも、充分自信を持つことができた。幾組の新婚夫婦といっしょになるかわからないけれど、自分たち、その中に交じっても、決してひけを取るような一|対《つい》じゃないわと、心の中で考えてみる。そしてそんなふうに思いあがった自分のはしたなさに、また、一人で紅《あか》くなったりするのだった。
「とにかく、あたしその日には、駅まで送らせていただくわ、ねえ、いいでしょう。何も遠慮なさることないのよ」
「あら、どうかと思うわ。圭子さんたち、こちらをだしにして、去年の追想にふけろうというわけなのよ、きっと」
「これこれ、ほんとのことを言っちゃだめよ、ほほほほほ」
圭子はそう言って朗らかに笑ったが。――
彼女はその約束を間違えなかった。はたして圭子が予言したとおり、例の花嫁列車で旅立つことになった有為子を、彼女はわざわざ東京駅まで送ってきたのである。
「有為子さん、おめでとう。すてきね、あなたとてもきれいよ」
発車を待つ間の、あわただしいプラットホームだった。圭子は上気して、いくらか固くなっているこの年少の友を、力づけるように、わざとよそ行きでない言葉で励ましていた。
「あら、いやよ、そんなことおっしゃっちゃ」
「ほんとうよ、お世辞じゃないわ。あなたのほかに七人花嫁さんがいるけど、あなたほどきれいなかた一人もないわ」
「まあ、わざわざ数えてごらんになったの」
「そりゃ――」
と、圭子はわざと眼をくるくるさせると、急に有為子の耳に口を当て、
「それにあのかた、とてもシャルマンじゃない」
「あら」
思わず頬《ほお》を赤らめる有為子の手を握りしめて、
「お帰りになったら、改めて紹介してね。さあ、これでもう放免してあげる。あなた、あちらへいらっしゃいよ。あたし一人で占領してちゃ悪いわ」
「ええ」
「御機嫌《ごきげん》よう。行くさきざきからハガキをちょうだいね。なるべくなら連名で」
圭子は、もう一度、有為子の手を強く握りしめてやると、うじうじしている彼女の体を、向こうのほうへ押しやるようにして、自分は人ごみから離れて一歩後ろへ退いた。
プラットホームは八組の新婚夫婦を見送る人々で、ごった返すような騒ぎ、その中に交じって、いちいち挨拶《あいさつ》をして回っている有為子や有為子の夫の俊吉の姿を、圭子は頬笑《ほほえ》ましくながめていた。
さっき圭子がささやいたのは決して嘘《うそ》ではない。あまたいる花嫁花婿の中にも、有為子の夫婦ほど、美しくそろった一対はほかになかった。
俊吉は背が高く、色が白くて、真っ黒な洋服がよく身に合っていた。いくらか固くなっている様子も、初心《うぶ》らしくてよかった。
「ほんとうに、似合いの夫婦だわ」
自分が見送りに来ている夫婦が、いちばん際立《きわだ》っているということは圭子にとっても悪い気持ちではない。彼女はいくらか誇らしげな気持ちで、静かに見送り人の中を見回していたが、そのうちにふと、向こうの柱の陰に立っている一人の婦人の姿に気がついた。
その人は背が高くて、眼鼻立ちの大きい、その眼鼻立ちがあまりよく整いすぎているので、かえって近寄り難いような感じのある美人だった。年は三十二、三であろう。パッと眼のさめるような紫の羽織を着ていた。
圭子はなんとなくその婦人が気になった。それは相手が人眼をはばかるように、薄暗い柱の陰にたたずんでいたせいもあるが、もう一つには、彼女の眼の中にただならぬ表情が読みとられたからでもある。
彼女は明らかに有為子のほうを見ていた。いやいや、有為子と夫の俊吉の姿を代わる代わる見ているのだ。しかもその眼の中には決して見送り人らしい好意の色は見えなかった。反対に、世にもすさまじい憎しみが、黒い陽炎《かげろう》のようにめらめらと燃えあがっているのだ。
(何かある?)
圭子は不意に、ツーッと胸の中を冷たい物が通りすぎるような不快な感じに打たれた。今まで玲瓏《れいろう》と晴れわたっていた空に、一点、気味の悪い黒雲を発見したような気持ちだった。少なくともここに一人、有為子たちの結婚に対して、好感を抱いていない人物を、圭子はハッキリと認めたのだ。
だが。
その時不意にジリジリとけたたましく発車ベルが鳴り出した。プラットホームのどよめきはにわかに激しくなった。有為子も有為子の夫も、あわてて列車に乗り込んだ。
――と、紫の羽織を着た女も、あわててその次ぎの車に乗り込んだのである。
圭子はそれを見たとたん、胸がつぶれるような気持ちがした。幸福なるべきこの新婚の夫婦の上に、何かしら、まっ黒な雲が覆いかぶさっているような気がした。
列車が静かに動き出した。有為子はしきりに窓の中から、圭子のほうを見守っていたが、彼女はうっかり、それに手を振ってやることすら忘れていた。
紫の女。――
その嶮《けわ》しい横顔が、いつまでもいつまでも圭子の眼の前から離れなかった。
[#小見出し] 紫の女
結婚の第一夜は伊豆山の宿であかした。
そして、だれでも結婚第一夜というものは、こんなに侘《わ》びしいものだろうかと有為子は考えはじめている。これは、少なくとも花嫁にとっては不幸なことだった。
有為子は必ずしも、恋愛小説にあるような甘さを期待していたわけではない。早くから父を失って、未亡人になったしっかり者の母のもとで育てられた有為子は、その年ごろの娘としては、しっかりとした考えを持っていた。第一、彼女は婚約から結婚へ至る過程なども、決して小説にあるようなロマンチックなものではなくて、世間にざらにあるような、至って平凡なものだった。
最初、父の旧友である緒方という世話好きな中年の紳士から話があって、有為子は初めて土岐《とき》俊吉と見合いをした。俊吉は某医科大学の医化学の研究室に働いている、若い医学士だった。
学生時代、苦学で通してきたというだけあって、俊吉は人間もしっかりしていたし、近ごろの青年のように華やかなところはなかったが、その代わり浮ついたところは微塵《みじん》もなかった。そしてそのほうが有為子にも、有為子の母にも気に入ったので、この縁談はすぐバタバタとまとまったのである。
挙式までには半年ほどの婚約期間があった。その間、有為子は時々俊吉に会ってみて、次第に相手に対して尊敬の念がたかまっていくのを感じた。俊吉はあまり話題を持たない男だったし、いつでも専門のことばかり考えているらしく、会ってみてもあまりたくさん話すことはなかった。俊吉はまた、強《し》いて話題を求めて女の機嫌《きげん》を取り結ぶような男ではなかった。
それでも有為子は決して退屈をしなかった。無言のうちにも、深く相手が自分を愛していることを女特有の鋭い神経が知っていたので、黙りあっていたことが、彼女には少しも苦痛ではなかった。
しかし、今は違う。
そうだ、昨夜から今朝へかけての俊吉の態度には、確かに婚約時代と違ったところがあった。いったい、いつからこんなふうになったのだろう。有為子はぼんやりとそんなことを考えている。
重ねていうが、結婚の当初から、こんなふうに考えなければならぬということは、花嫁にとっては非常に不幸なことだったに違いない。
式の間はなんともなかった。冷静な中にも、幸福を包みきれぬ俊吉の表情を有為子はハッキリと思い出すことができる。駅で見送り人に取り囲まれた時も、俊吉は晴れ晴れとした表情をしていた。
それが、――
ああ、そうだ。列車が横浜を出たころ、俊吉は一度便所へ立った。帰ってきた時、俊吉の顔色があまり悪かったので、
「あなた、どうかなさいました」
と、有為子が低声《こごえ》で尋ねた。
あの時からなのだ。
「どうして?」
俊吉はわざと怪訝《けげん》そうに尋ね返したが、その時彼は有為子のほうを見ることができなかった。
(あの時、何かあったのだわ)
有為子は考える。しかし、何があったのか、それまでは有為子にもわからなかった。
有為子は籐椅子《とういす》によったまま、黙ってガラス戸の外をながめている。ガラス戸の下はすぐ海だった。海はよく晴れて、沖に浮かんでいる初島がくっきりと間近に見えた。
俊吉は机に向かって何か書いている。しかし、ほんとうは何も書くことなど、ありはしないのだということを、賢い有為子はちゃんと知っている。
こんな侘びしい新婚夫婦って、あるものだろうか、――有為子がそんなことを考えている時、不意に俊吉が頭をあげた。
「有為子」
「…………」
有為子はふと夫の顔を見た。そして、夫が何か打ち明けようとしているのだということを知った。
「なあに?」
だが、ちょうどそこへ折り悪しく宿の女中が入ってきたので、出かかった俊吉の言葉はそのまま咽喉《のど》の奥へひっ込んでしまった。
「あの――」
と、女中が気がねをしたように、
「八番のお客さまが旦那《だんな》さまにこれを――」
おずおずしながら、一通の手紙を渡した。
「ああそう」
俊吉はあわててその手紙を受け取ると、よく見もしないで、懐中へねじ込んでしまった。
「あなた、だれから?」
「なに」
出ていく女中の後ろ姿を眼で追いながら、
「友達がね、この宿に泊まり合わせていてね、ぼくの姿を見たらしいのだよ」
「お読みにならなくてよろしいの」
「そんな必要はないさ。別に用事ってあるはずがないんだもの。きっとからかってきたんだよ」
「そう」
有為子は海のほうを見ながら言った。それきり言葉の継ぎ穂がなくなってしまった。
「有為子」
しばらくしてから俊吉、
「ぼくちょっと買い物にいってくる」
「あら」
有為子はびっくりしたように、
「あたしもいっしょに行っちゃいけません」
「ううん、きみか。――いや、じき帰ってくるから、きみは待っててくれたまえ」
「…………」
俊吉は涙ぐんでいる有為子の眼を見た。すると急にいじらしくなって、彼女の肩に手をかけてやりたかったが、俊吉はそんなまねはできなかった。
「じき帰ってくるからね、待っているんだよ」
俊吉も、自分自身涙ぐんだような声で言うと、急に身をひるがえして部屋を出ていった。
有為子はそのあと、ぼんやりと海のほうをながめていたが、結婚の翌朝、花婿におきざりにされる花嫁のいじらしさに急に涙がこぼれそうになった。
有為子も立って、間もなく宿を出ていった。
宿のすぐ前に、だらだら坂があって、その坂を下っていくと、海のすぐそばに養魚場があった。有為子はそのほうへ行ってみようと、五、六歩あるきかけたが、その時、自分のそばをさっと通りぬけて、向こうのほうへ行きすぎた一人の女があった。
顔は見えなかったけれど、鮮やかな紫色の羽織が、はっきりと彼女の眼に止まった。有為子がなんの気もなしに振り返って見ると、その女の姿はもう、向こうの曲がり角を曲がって見えなくなっていた。
有為子はそのまま養魚場のほうへ降りていった。ところが、それから間もなく、なんの気もなく彼女が、ふと向こうに見える高い崖《がけ》の上を見ると、驚いたことには、彼女の夫の俊吉が、一人の女と連れ立って歩いているのだ。しかも、その女は濃い紫色の羽織を着ている。遠いので女の顔は見えなかった。
「まあ!」
有為子は不意に真《ま》っ蒼《さお》になった。夫が――昨夜、結婚の第一夜を明かしたばかりの夫が、今、ほかの女と歩いている。有為子でなくても、これは驚くのが当然だった。彼女は不意に、足元の大地ががらがらと崩れるような気がした。
夫と、紫の女の姿は、すぐ崖の向こうに見えなくなってしまった。
[#小見出し] 捕 縛
「奥さん、いったい、ぼくをどうしようというのですか」
切りたてたような高い断崖《だんがい》の上だった。海から吹いてくる風が、俊吉と女――紫の女の間にかもされている嶮《けわ》しい空気を、いっそう煽《あお》るように、ハタハタと二人の袖《そで》をひるがえした。数十丈もあろうかと思われる崖《がけ》の下には、白い波がしきりに砕けて、海には舟の影もなかった。
女は捨《す》て鉢《ばち》な様子で、岩の上に座ったまま黙っている。髪が冷たい風にひらひらと乱れて、美しい顔はすごいほど蒼《あお》かった。
「ぼくのあとをつけてきたり、こんな手紙を寄こしたり、これはいったいなんという態《ざま》なんです。もしこんなことが先生に知れたら、いったい、どうなさるおつもりなんですか」
俊吉の声はかなり激していた。
「もう、知れてしまったわよ」
女が冷ややかな声で言った。
「あたしが話したのよ、何もかも」
「話したって? 何を話したっていうのです」
俊吉が不意におびえたような眼の色をした。
「ほほほほほ、何もそう驚かなくてもいいじゃないの。あなたには気の毒だったけど、少しおまけまで添えて話したのよ。つまりね、あなたとあたしの間に、ちゃんと恋愛関係が成立してしまったように話したのよ」
「奥さん。それはひどい、そ、そんな――」
「だって、そうとよりほか話せないじゃないの。さんざんあなたをつけ回したけど、とうとう撥《は》ねつけられてしまったなんて、そんな恥ずかしいことが言えると思って?」
「ひどい、めちゃだ。奥さん、あなたは気でも狂ったのですか。そんなこと、もし先生がそんなこと真《ま》に受けたら、あなたはいったい、どうなさるおつもりなんです」
「どうもこうもありゃしない。先生はちゃんと信じていらっしゃるわ。そうでなくても、前からあたしたちの仲を疑っているんですもの」
女は低い、表情のない声で言った。そう言う彼女の眼の中には、何かしら気違いじみた表情があるので、俊吉は思わずゾッとした。
「先生はこうおっしゃるのよ。真実おまえたちが愛し合っているなら、それは仕方がないことだ。おまえたちは少しも世間の噂《うわさ》なんか気にする必要はない。自分のよしと信じる生きかたをするのがいちばんいいことだって。だから、おまえこれから行って土岐を取り返してこい、こうおっしゃるの、だからあたし、あなたを取り返しにきたのよ。花嫁にはお気の毒だけど」
女は土岐俊吉の恩師にあたる、瓜生《うりゆう》博士の夫人で、奈美子《なみこ》という。
孔雀《くじやく》夫人。――博士の弟子たちは、みんな彼女のことをそう呼んでいた。孔雀のように驕慢《きようまん》で美しく、意志の強い女だった。
「おまえが土岐を取り返してきたら、わしはおまえたちを許してあげよう。だけど、もし、それができなかったら、土岐がおまえよりも、新しい花嫁のほうをより多く愛しているのなら、わしはおまえたちを許すことができない、先生はそうおっしゃったわ。そしてあたし、先生のおっしゃることが真実だと思うから、こうしてあなたを奪いにきたのよ」
「真実も、真実でないも、奥さん、ぼくは今まで一度だって奥さんを愛したことはありませんよ。そんなふうに先生から疑われちゃ、ぼくは迷惑します」
「迷惑?」
「ええ、迷惑します。有為子も可哀そうです」
「有為子さんて、あの可愛い花嫁のことね。俊吉さん」
奈美子は急にきりりと柳眉《りゆうび》を逆立てて、俊吉の顔を見た。
「あたし、あなたを殺してしまいたい」
「な、なにを言うのです。――ぼくこそ、ぼくこそ、こんなひどい侮辱を受けて、ああ、ぼくはいったい、先生に向かってどう弁解すればいいのです」
「あなたがどんなに弁解したって、先生が信用するもんですか。人間てものは、正しかったという弁解より、正しくなかったという告白のほうを、信じたがるものなんですからね。俊吉さん、先生はもうあたしの言葉を信じきっているのよ。だからもう、あなたがあたしの言葉を受け入れないと、あなたは先生からどんな恐ろしい復讐《ふくしゆう》を受けるかもしれなくってよ。あなたも、あなたのあの可愛い花嫁も」
「ああ」
不意に俊吉がつぶやくようによろめいた。
「奥さん、あなたはぼくをおとし入れようというのだ。ぼくは――ぼくこそ、あなたを殺してしまいたい」
「殺して、俊吉さん、殺して。あたし切ない。あなたにこんなにきらわれて、――ああ、あたしあなたに殺してもらいたい」
奈美子が不意に狂気のように取りすがるのを、
「よし、殺してやる、殺してやる!」
言いながら、俊吉も我れを忘れて、夢中になって奈美子の首に手をかけた。はるか下の崖裾《がけすそ》で、白い波がパッと砕けている。
有為子は夢中になって、あまり広くもない伊豆山の町を歩きまわっていた。
彼女はいっそ、このまま一人で東京へ帰ってしまおうかとも思った。しかし、それは彼女の理性と分別が許さなかった。それに彼女は俊吉を愛していたし、俊吉を信じてもいた。
(なんでもないのだわ。ただ、ちょっとした知り合いのかたなんだわ)
彼女は何度も何度も自分で自分にそう言いきかせていた。彼女はふと、さっき出ていく時の、夫の涙ぐんだ声音《こわね》を思い出した。
すると急に胸の中が熱くなって、
(たとい、何があったとしても仕方がないわ。過去はどうであろうとも、現在では自分を愛していることに間違いはないのだもの)
それはいくらか卑屈なあきらめかただった。
しかし、日本の女のほとんどすべてが、こういうふうにして、自分を抑えつけてしまうのだ。
有為子は急に俊吉のことが気になった。そこで、さっき夫の姿を見かけた、あの崖のほうのだらだら道を登っていくと、その時、向こうから急ぎ足でこちらへ降りてくる男の姿が見えた。
その男は真っ黒な洋服を着て、柔らかそうな黒い帽子をすっぽりとかぶっていた。まだ若い男で、白い顔に、黒い色をした眼鏡をかけていた。片手に黒い革の鞄《かばん》を持って、片手にカメラのサックをぶら下げていた。
その男は、有為子の姿を見ると、びっくりしたように二、三歩行きすぎたが、ふと立ち止まると、
「もしもし、あなた有為子さんでしょう」
柔らかな声で呼びとめた。
有為子が驚いて振り返ると、
「そちらへ行くの、およしなさい。旦那さまはもう宿へお帰りになりましたよ」
そう言ったかと思うと、男はくるりと身をひるがえして、そのまますたすたと坂を降りていってしまった。
有為子は驚いた。狐《きつね》につままれたような気がした。なんだか気味悪くなった。
彼女はしばらく呆然《ぼうぜん》として、そこに立ちつくしていたが、急に前をかき合わせると、これまた坂を下って、大急ぎで宿へ帰ってきた。宿にははたして、俊吉が帰って待っていた。
「有為子、どこへ行ってたの」
俊吉の言葉はとがめるというよりも、優しさに満ちあふれていた。有為子はそれを聞くと急に涙がほろほろと頬《ほお》へ伝わってきた。
「もういいのだよ、ね、有為子。何も心配することはないんだよ」
それは昨夜から有為子が待ちこがれていた、初めての、夫らしい、優しい言葉だった。有為子はいよいよ泣けてきた。
「さあ、もう泣くのはお止し、いずれおまえにも話をするけれどね、ぼくは決して間違ったことをしたんじゃないよ。おまえ信じてくれるかい」
「ええ、ええ、信じるわ」
「そう、ありがとう」
俊吉はそっと有為子の肩を抱いてやった。
「どんなことが起こってもね、ぼくを信じていておくれ。信じてくれるだろうね」
「ええ、え、信じるわ」
「そう、じゃ、すぐ宿を発《た》って、関西のほうへ行こうじゃないか」
「あら、今からすぐ?」
「うん、ちょうどいい汽車があるようだからね。ぼくはいっときも早くこの土地を離れたいのだよ」
有為子はふと、さっき見た紫の女のことを思い出したが、すぐにそれをかき消すように、
「あたしも――、あたしもよ」
と低声《こごえ》で言った。
夜汽車でないので、少し不便だったけれど、ちょうど熱海発、神戸行きの汽車が三時何分かに出ることになっていた。
俊吉と有為子はその汽車に乗った。
ところが沼津まで来た時、不意にどやどやとこの汽車の中へ警官や私服が入ってきた。
「土岐俊吉さんですね」
私服の一人がかなりていねいな言葉で言った。
「そうです。あなたは?」
俊吉がびっくりしたように言うと、
「ちょっとここで降りてもらいたいんですがね」
「降りろ? いったい、ど、どうしたというのです」
俊吉が驚いて立ち上がった。
「瓜生奈美子さん――ご存じでしょう、その瓜生奈美子さんの死について、ちょっとお伺いしたいことがあるのですよ」
「あなた、あなた!」
有為子がすがりついた時、俊吉の頬は紙のように真っ白になっていた。
[#小見出し] 凶 報
圭子はやりかけていたフランス刺繍《ししゆう》の手を止めて、茶箪笥《ちやだんす》の上においてある小さな大理石の置時計に眼をやった。
時計の針は九時をさしている。
女中を先に寝かせてしまったので、家の中は静かだった。彼女はふとその静けさの中に、聞き覚えのある靴音《くつおと》を聞いたような気がしたので、しばらく針を持ったままじっと利《き》き耳をたてていたが、その靴音は家の前を通りすぎて路地の奥へ消えてしまった。
圭子はいくらかがっかりしたように、
「遅いわね、相変わらず、何かまた事件が起こったのかしら」
と、つぶやきながら、白いふきんをかけた餉台《ちやぶだい》のほうへ眼をやった。その餉台には夫がいつ帰ってきても間に合うように、ちゃんと食事の用意ができていた。
圭子の夫は新聞記者だった。島津慎介といえば、S新聞社会部の花形記者として、仲間のあいだでは、押しも押されもせぬ地位を占めている。それが圭子の夫だった。
「ほんとに亭主《ていしゆ》持つなら新聞記者はおよしだわねえ。困っちゃうわ」
圭子は肩をすぼめて溜息《ためいき》を吐いたが、しかしその独言《ひとりごと》の内容が持っているほどの不平らしい実感はなかった。
一年あまりの結婚生活の間に、彼女はすっかり新聞記者の妻らしい心構えができていた。夫の勤務は時間的に不規則をきわめている。朝出社したまま二十四時間以上も帰らないことがたびたびあった。たまには休暇があるかと思うと、きまって何か事件が突発して、電話で呼び出されたりした。
「第一、新婚旅行の時からしてそうなんですもの。あれ、ほんとうに凶《わる》い前兆だったわ」圭子はよく微笑《わら》いながら知人にそう言った。
彼らの新婚旅行は、いつか有為子に話したように、例の花嫁列車で熱海へ赴《おもむ》いたのだったが、その翌朝には早や、右翼団の大検挙という大事件が起こって、否応なしに夫の慎介は帰社を命ぜられたのだった。
圭子は今、その時のことを思い浮かべながら、心もちうつむきかげんになって、膝《ひざ》の上においた丸い枠《わく》の上に、熱心に針をすすめている。彼女はその仕事を急がなければならないのだ。なぜといって、彼女が今手をつけているそのテーブル掛けは、結婚のお祝いとして、有為子に贈ろうと思っているものなのである。彼女はそれを、有為子が旅行から帰る日までに仕上げようと思っているのだった。
(有為子さんたち、今夜どこかしら。あの人たちまさかあたしたちみたいに、途中から呼び返されたりしやしないわね)
友達の身の上に、それ以上の大打撃が降りかかっているとも知らぬ圭子は、自分たちのあわただしい旅行の結果を思い出して、ふと微笑《わら》いたいような気持ちになっていた。
あの電話のベルが鳴り出したのは、ちょうどその時だった。
「もしもし、あたし圭子よ、あなたア?」
電話は茶の間のすぐ外にあった。立ち上がってその受話器を外した圭子に、この時刻に電話をかけてくるのは夫よりほかにないと思い込んでいたので、いくらか甘えるような声で言ったが、すぐハッとなった。
電話は慎介からではなかったのである。
「ああ、もしもし、そちらは島津さまのお宅でございましょうか。奥さまはおいでになりますかしら。もしおいでになりましたら、恐れ入りますがちょっとお電話口まで」
震えを帯びた甲高《かんだか》い女の声なのだ。ひどく開き直った切り口上だったが、しかし、なんとなくおろおろとしたような早口が、圭子の胸にふとかすかな不安を投げかける。
「はあ、あの、あたし島津の家内でございますが、どちらさまでしょうか」
「あ、圭子さん、私、磯貝《いそがい》の母でございます」
電話の声がとび立つように言った。磯貝というのは有為子の実家の姓だった。
「あら、有為子さんのお母さま、失礼いたしました。どうかなすって?」
「あの、変なことをお尋ねするようですけれど、そちらのほうへ、もしや有為子がまいっておりませんでしょうか」
「あら、有為子さんが? どうして? 小母《おば》さん、いいえ、おいでではありませんわ。だって有為子さん、御旅行でしょう」
「ええ、あの――それではお伺いしてはおりませんのですわね」
その言葉つきは、何かしら張りつめた弦がプッツリと切れたような調子だった。圭子はふいと激しい胸騒ぎを感じた。
「小母さん、有為子さん、どうかなすって、だっておかしいわ。今ごろあたしのところに来てやしないかなんて。何か有為子さんの身に間違いがございましたの」
「はあ、あの――」
「ねえ、小母さん、言ってちょうだい、あたし気になるわ。有為子さん、どうなすったのよ」
「いえ、あの、――電話ではなんですから、いずれすぐ知れることですから、お隠しするわけじゃございませんけれど。――それでは圭子さん、私折り入ってお願いがあるのですけれど」
「ええええ、あたしにできることなら、どんなことでも。――なんですの」
「あの、もしや、そのうちに有為子がまいりましたら、そちらへ引き留めておいて、宅のほうにお知らせ願いたいのでございますが、私いま熱海にいるんですけれど、宅には融《ゆずる》が留守番をしておりますから」
「あら、小母さん、熱海にいらっしゃるの。ええ、そんなこと、なんでもありませんわ」
「それから、有為子はきっとひどく興奮していることと思いますから、間違いのないように気をつけてやっていただきたいと思いますの」
「まあ!」
圭子は思わず呼吸をつめて、
「小母さん!」
「圭子さん、わたくし、わたくし――」
電話の向こうから、ふいと咽《むせ》び泣くような声が聞こえたが、じき気を取り直したように、
「失礼しました。それでは取りこんでおりますからこれでごめんこうむります。旦那さまによろしく申しあげてください」
「小母さん、小母さん」
圭子が電話口でそう叫んだ時、向こうのほうでガチャリと受話器をかける音がした。
圭子は受話器を握ったまま、茫然《ぼうぜん》としてそこに立ちすくんでしまった。彼女の頭はすっかり混乱して、何を、どういうふうに考えていいのか見当もつかなかった。
しかし、ただ一つのことは確かだ。
有為子の身に、何かしら容易ならぬ間違いが起こったのだ。日ごろあんなに落ち着いた有為子の母が、あれほど取り乱しているのだもの、よほどたいへんなことに違いない。
だが、それがどんなことなのか、圭子には想像もつかなかった。彼女は、新婚の夫婦に起こりそうな、あらゆる場合を考えてみたが、しかしそのどれも、有為子たちの場合にはあてはまりそうもなかった。
(可哀そうな有為子、あなたいったいどうしたというの)
つぶやいたとたん、圭子の頭をさっと、昨夜東京駅で見た、あの紫の女の幻がかすめて通った。
(あ、もしや!)
叫んで、ガチャリと受話器をかけた時である。それを待ちかねていたように、またもやジリジリとベルが鳴り出した。
圭子はあわてて再び受話器を取り上げると、こんどこそ間違いもなく夫の慎介だった。
「圭子かい、ぼくだよ」
夫の力強い声が、この際、すがりつきたいほどたのもしく感じられた。
「あなた? あなた今どこにいらっしゃるの、早く帰ってよ。あたしねえ、あたしねえ」
「どうしたんだ、何をそう興奮してるの」
「なんだかあたしにもわからないの。でも、早く帰ってよ、ねえ、お願い」
「よしよし、実はいま熱海にいるんだがね」
「熱海ですって?」
圭子が魂消《たまげ》るような声をあげた。
「うん、仕事のことでね、こちらに事件があったんだよ。それでね、きみにちょっとききたいと思ったんだが、昨夜結婚したきみの友達ね」
「あら、有為子さんのこと?」
「そうそう、その有為子さんだが、その人の御主人、土岐俊吉と言やしなかったかい?」
「ええそうよ、あなた。その人がどうかしたの?」
「ああ、じゃ、やっぱり、そうなんだね」
慎介はぽつんと言葉を切って、それ以上話したものか、どうか、考えているふうであった。
圭子は躍起となって、
「あなた、あなた」
「なに?」
「有為子さんの御主人がどうかなすったの? ねえ、たった今、有為子さんのお母さんから電話がかかってきたのよ。ねえ、有為子さんどうかなすったの」
「うん、実はね、その土岐俊吉という人が、人殺しの嫌疑《けんぎ》で捕らえられたんだよ」
圭子は不意に、しいんと体じゅうの力が抜けていくような気がした。
「圭子、圭子、どうかしたのかい」
「いいえ、あの、――なんでもありませんの。それであなた、もしやその殺された人というの、紫の羽織を着た女のかたじゃありません?」
「圭子!」
慎介はびっくりしたように、
「きみはどうしてそれを知ってるのだね」
「いいえ、なんでもありませんの、お帰りになったらお話ししますわ」
「そう、それじゃぼくは十時二十七分の汽車で帰るからね。記事は今電話で送ったから、すぐそちらへ帰れると思う。しかしきみ、あまり興奮しちゃいけないぜ」
「ええ、大丈夫よ」
そう言ったが、もとの茶の間へ帰ってくる時、圭子の膝頭《ひざがしら》はガクガクと震えて、顔色は真《ま》っ蒼《さお》だった。
[#小見出し] 圭子の夫
可哀そうな有為子!
茶の間へ帰ってきた圭子は、ふとやりかけていたフランス刺繍《ししゆう》を見ると、ふいと涙があふれ出してきた。
圭子と有為子とは学校では二年違っていた。しかし二人の間につながれた友情はその年級の相違などを超えた、深い、厚いものだった。圭子はどちらかというと大ざっぱで、向こう見ずで、しかも感情の起伏の大きな、姐御肌《あねごはだ》のところがあった。それに反して有為子はいつもちんまりと静かで美しく、しかも芯《しん》に根強いものを持っていた。こういう性格の相違が、二人の友情をいっそう味の濃いものにしているのだった。
その有為子が――いったいなんということだろう。詳しいことはわからないけれど、夫が人殺しの嫌疑《けんぎ》で捕らえられたという、しかも新婚旅行の途中で。――
ああ、早く夫が帰ればいい。夫が帰ればもっと詳しい事情がわかるだろう。そして許されることなら、すぐにも有為子のそばへとんでいって慰めてやりたい。
圭子はふと思い出して旅行案内をくってみた。十時二十七分に熱海を出る汽車は、かっきり十二時に横浜へ着くことになっている。横浜から電車に乗り換えるとして、こちらへ帰ってくるのは一時を過ぎるだろう。
時計を見るとまだやっと九時三十分。圭子は時の経過のもどかしさに、身をやかれるような気がするのだった。
と、その時である。
不意にガタリと、何か玄関の格子にぶつかるような音がした。それから何かくどくどとささやく声が聞こえた。圭子はつと立ち上がって、玄関へ出ると、パチッと電燈のスイッチをひねって格子の外を見た。
格子のすぐ外に二つの人影が見える。
「あら、どうかなさいましたの」
玄関に立って腰をかがめながら言うと、白い顔がつとこちらを向いた。真っ黒の洋服を着て、柔らかそうな黒い帽子をスッポリかぶっている。まだ若い男で、白い顔に黒い色をした眼鏡をかけていた。
「ああ、失礼いたしました」
その男が白い歯を出して言った。甘い、柔らかな声だった。
「今ここを通りかかると、この御婦人がお宅の門の外で、倒れそうになっていられるものですから」
その声に圭子は初めて、男の腕によりかかって、ぐったりとしている女の姿に気がついた。圭子はハッとして足袋はだしのまま、三和土《たたき》の上にとび降りると、格子を開いて女の顔を見た。女ははたして有為子だった。
「あ、有為子さん」
有為子はぐったりとして眼をつむっている。
「ああ、それじゃ、あなたはこのかたは御存じなのですね」
「ええ、知っていますわ。きっとここへ訪ねてくるつもりだったのですわ」
「ああ、そうですか。だいぶ御気分が悪いようですが、どれ手伝ってあげましょう」
「恐れ入ります」
力を合わせて有為子の体を玄関から上へ運びあげる時、圭子はふとその男が、黒いカメラのサックを肩にぶら下げているのに気がついた。
男は有為子を無事に玄関の間へ寝かせると、圭子の礼を聞き流して、名前も名乗らずに、さっと暗い外の闇《やみ》へ消えていった。しかし、この時、圭子がもっと注意していたら、その男が玄関を出るとき、じろりと鋭い眼で表札を見ていったことに気がついたであろう。
だが圭子は今、それどころではなかったのだ。騒ぎを聞いて起きてきた女中に、大急ぎで床をとらせて、それに有為子の体を寝かせてやると、急に、今までこらえていた涙がポロポロとあふれ出してくるのだ。
まあ、なんという激しい変わりようだろう。たった一夜のうちに、有為子の頬はげっそりと落ちて、眼のふちが燃えるように赤味を帯びていた。額《ひたい》に手をあててみると、焼けつくように熱かった。
「姐《ねえ》や、おまえちょっとお医者さまを呼んできておくれ。それから帰りに氷をね」
「はい」
寝呆《ねぼ》けたような眼をした女中が、そそくさと出ていった後で、圭子は急に思い出して、有為子の宅へ電話をかけた。有為子の母はまだ熱海から帰っていなかったが、高等学校へいっている弟の融《ゆずる》が電話口へ出た。
融は心配そうに幾度も幾度も姉の容態をきき返したが、圭子は決して心配はいらないからと言って電話を切ってしまった。
医者はすぐ来てくれた。そしてていねいに聴診器をあてると、別に内臓には異状はないようだが、非常に大きなショックを受けているようだから、しばらく安静にしておいたほうがよかろうと言って注射を一筒打って帰っていった。有為子は相変わらず、真っ赤な顔をして眠っていたが、医者が帰っていくと間もなく不意にパッチリと眼をあけて圭子を見た。
「ああ、圭子さん」
有為子の眼から不意に涙があふれてきた。
「いいのよ、有為子さん、何も言わなくてもいいの。ねえ、静かに寝ていらっしゃい。今に何もかもよくなるわよ」
「圭子さん、あたし、あたし――」
有為子は夜着《よぎ》のはしを噛《か》んで泣き入ったが、急におびえたような眼をして、
「ああ、あの人――あの人どうして? あの黒い洋服を着た人――」
有為子が言っているのは、どうやらさっき、門の前で会った男らしかった。
「あの人、あたしを尾《つ》けてきたのよ。熱海からあたしを尾けてきたんだわ。あたし、あの人に伊豆山で会ったの、ああ、あの人が――あの人が何かを知っているんだわ」
圭子には有為子の言っている言葉の意味がよくわからなかった。たぶん熱にうかされて、うわごとを言っているのだろうと思った。しかし、後から考えてみれば、有為子のその言葉には、非常に大きな意味があったのだ。
黒眼鏡をかけた男。――あの男こそ、この事件に容易ならぬ関係を持っているのだった。
「いいのよ。さあ、もう何も考えないことにしましょうよ。そしてよく寝るのよ、わかって?」
「ええ」
有為子は、子供のように素直にうなずくと、眼をつむったが、やがてまた、悩ましげな夢の中へ落ちていった。
その打ちひしがれた花のような姿を見ると、圭子は胸がふさがりそうだった。
でもよくここへ来てくれたわ。母のもとよりもどこよりも、こうして自分のうちへ一番に来てくれたことを思えば、圭子はこの友のためなら、どんなことでもしてやりたかった。
圭子の夫の慎介が帰ってきたのは、それからよほど経《た》ってからだった。そして意外にも彼は、有為子の母といっしょだった。有為子の母は融からの電話で、有為子がここへ来ていることを知ったのだ。そして急いで帰る途中、汽車の中で慎介に出会ったのだった。
「どうもいろいろとありがとうございました」
よく眠っている有為子の顔を見ると、母はまた新しい涙だった。
「そんなことはどうでもいいのよ。小母さん、それより有為子さん、しばらくここへおいてあげたほうがよくはなくって?」
「ありがとう。これもさぞ切ないことだろうと思いますわ」
磯貝未亡人はそう言うと、せぐりあげるように涙をのむのだった。さて、圭子は夫の口から真相を知ることができた。
それはだいたい次ぎのような事情なのだ。
昨日の二時ごろだった。
伊豆山の漁師が崖下《がけした》の波の間に、無残に打ち挫《くじ》かれた女の死体を発見したのだ。女の顔は、崖を滑り落ちる時、すれたと見えてむちゃくちゃになっていたが、パッと眼につく紫の羽織を着ていたことより、ただちにK屋へその前の晩から泊まっている女だということがわかった。
宿帳には瓜生奈美子とあった。最初人々は、この哀れな犠牲者は崖の上を散歩していて、誤って滑り落ちたのだろうくらいに考えていた。ところが意外にも死体を調べてみると、肩胛骨《けんこうこつ》のところから左の肺へつき通るほど深い突き傷を受けていることがわかったのだ。崖の上を調べてみると、草むらに白鞘《しらさや》の短刀が血に塗《まみ》れて落ちていた。しかもそのあたりには格闘の跡とおぼしい、入り乱れた足跡があった。そこでこういうことが推察された。だれかがこの崖の上で奈美子を突き殺して、それからその死体を、崖の上から投げ落としたのだと。
すると、K屋の女中がこういうことを言い出した。その八番に泊まっていた奈美子が今朝ほど、新婚夫婦とおぼしい土岐俊吉のところへ手紙を書いた。そして二人は相前後してこの宿を出たが、しばらくして俊吉のほうだけ真っ蒼になって帰ってきたのに、奈美子はそのまま帰ってこなかった。すると、また別の男がこんなことをつけ加えた。奈美子と、そして確かに俊吉らしい男が崖のほうへ登っていくのを見た。しかも二人ともひどく興奮して、何かいさかいをしていた様子だというのだ。
しかも、俊吉は宿へ帰ってくると大急ぎで、新妻を連れて出発している。どちらから見ても、俊吉に対する疑惑の雲は深かった。
そこで早速、熱海から手配して、俊吉を車中で捕らえたのだった。
「まあ」
聞いているうちに、圭子は真っ蒼になった。
「そして、その奈美子という人はいったい、どういう人ですの」
「それはね、俊吉君の恩師にあたる瓜生博士の夫人なんだよ。ぼくは前からよく知っているがね、孔雀《くじやく》夫人といって、とても驕慢《きようまん》な女なんだ。ひょっとすると、俊吉君との間に、何か――何かこう、よくないいきさつがあったのかもしれないね」
慎介がこう腕組みをした時、今まで、よく眠っているとばかり思っていた有為子が、突然けたたましい声をかけた。
「あら、嘘《うそ》よ、そんなこと! 土岐は絶対にそんなことないって言ったわ。そして、決してその人を殺した覚えはないって、あたしに誓ったわ、嘘よ、嘘よ、みんな嘘だわ」
有為子は不意に身を震わせて泣き出したのである。
[#小見出し] 恐ろしき証拠
学者らしいきちんと整理された書斎だった。
瓜生《うりゆう》博士はドレシング・ガウンのまま、大きなデスクによりかかって、何か書いていた。左手で胡麻《ごま》塩頭をかきむしりながら、鉛筆を握った右手はしきりに紙の上に何やら書いている。
紙の上には見る見るうちに、丸だの三角だのが殖えていった。時々、鉛筆を握った指が激しく震える。顔色は蒼《あお》いというより、むしろ土色をしていた。眼は血走って、白い角膜に網のように血の筋が走っているのだ。
昨日、博士は熱海の警察から呼び出されて、妻の死体を見にいった。そして見るも無残に打ち挫《くじ》かれた体――というよりも、一個の肉塊を見てきたのだ。博士はその肉塊に対して、確かに妻の奈美子に違いないと証言を与えた。当然、そのあとには、質問の雨が降ってきた。ほとんど真夜中近くまで、あらゆる忌まわしい、疑いぶかい質問が、あまり丈夫でない博士の神経と肉体を責めさいなんだものだ。
妻の死――しかもその犯人と目《もく》されているのは、博士のかつての愛弟子なのだ。なんということだろう――今朝の新聞はその記事でいっぱいなのだ。博士はその新聞を読んだ。そしておびえきっていた。
「先生!」
不意に書斎のドアをひらいて若い書生が声をかけた。博士はドキンとしてまるで雷にでも打たれたように身を起こした。博士のその驚きようがあまりひどかったので、書生のほうがかえってびっくりしたくらいである。
「このかたがお眼にかかりたいと言って、お見えになっています」
名刺を見ると、
S新聞社社会部 島津慎介
とある。博士はそれを見ると、毛虫にでも触れたように眉《まゆ》を動かした。
「いかん、いかん。新聞記者には絶対に会わん。追い帰してくれ」
吼《ほ》えるような声だった。
「いえ、それが今日は新聞記者としてではないのだそうで、なんでも土岐有為子さんというかたの代理としてお見えになったのだそうです」
「土岐有為子?」
博士はまたもや、おびえたような眼の色をした。それからしばらく黙っていた。鉛筆を握った手が、テーブルの上で激しく震えた。
「よし、会ってやろう。応接室へ通したまえ」
そう言った博士の声には、かみつきそうな調子があった。
慎介は応接室へ通されて、静かに煙をくゆらしている。身だしなみのいい、どこから見ても立派な男だ。いかにもてきぱきとした、胸のひろい、決断力の強そうな、ひとくちに言って、たのもしそうな男だった。眉が太くて、眼が特別に冴《さ》え冴《ざ》えとしている。慎介は博士が入ってくるのを見ると、肉の厚い頬にちょっと人|懐《なつ》こい微笑を浮かべて、ポイと煙草《たばこ》を灰皿《はいざら》の中に捨てた。
「先生」
慎介が歯切れのいい声で言った。
「お疲れでしょうから、余談は抜きにして、早速用件を申しあげます」
「よかろう」
博士は大きな革|椅子《いす》に腰を落とすと、挑戦《ちようせん》するような眼つきをした。大きな椅子の中で、痩《や》せこけた小さい博士の体が、骸骨《がいこつ》のように見えた。
「先生はこんどの事件をどうお考えになりますか。やっぱり土岐君が犯人だとお思いになりますか」
「それがきみの用件かい。そして、おれはそんな質問に答えなければならんのかね」
「いや、失礼いたしました。でも、もう一度言い直しましょう、実はね、土岐有為子――ご存じでしょう、土岐君の新妻ですが、あの人が土岐君の無実をあくまでも主張しているんです。なんでも土岐君は、有為子さんに向かってキッパリとそう断言したんだそうです。それを有為子さんは信じて疑わないのです」
「そりゃ」
と、博士はぐいと肩をあげると、
「だってそれぐらいのことは言うだろうじゃないか。だれが花嫁に向かって、おれが殺したなんて言うもんか」
「そうなのです。あるいはそうかもしれません。ところが有為子さんだけは、この言葉が決して嘘《うそ》ではないと信じきっているんです。つまり、土岐俊吉という人は、そういう場合になって、決して嘘を言うような男じゃない。むしろ、自分がやったのなら、正直にやったと言って、許しを乞うだろう、――つまりそういう人物だと言うんです。私も初めのうちは、実は先生と同じように考えていました。しかし、だんだん聞いているうちに、有為子さんの言葉を信じたくなってきたのです。女の直覚というものには、何かしら優れた真実があるものです。それで実はお伺いしたわけですが、先生は長い間、土岐君の面倒を見てこられたものですから、あの人の性格などをよくご存じのことと思いますが、土岐君ははたして、有為子さんの言うような、そういう人物なんでしょうか」
博士は黙っていた。しかし、その顔には明らかに動揺の色があった。だが、博士はすぐにそれを押し包むと、
「うむ、そしてもし、きみが土岐の言葉を信じるとすれば、いったいどうしようというのだね」
「先生、私はその時にはもう一度この事件を調査し直したいと思うのです。いや、どんなに不利な証拠があっても構いません。先生、口はばったいことをいうようですが、こういう事件の場合には外面に現われた証拠ばかり追っていてはいけないのです。それよりも関係者の性格につきいっていくことが何よりもたいせつなのです。今までにも私はこれでたびたび成功してきたのです。十中八、九まで有罪と決まっていた嫌疑《けんぎ》者を救ったこともあります。それで、一つ、こんどの場合もひと働きしたいと思っているのですよ」
「きみが?」
「ええ、そう。先生、新聞記者という奴は、どうかすると探偵《たんてい》以上の働きをすることがあるんですよ」
博士は不意に憎悪に燃ゆる視線を慎介の面に投げかけた。だが、その視線が次第に狡猾《こうかつ》な色を帯びてくると、不意ににやりと微笑《わら》った。
「けっこうだ。きみの自信には敬服したよ。しかしねえ、島津君、きみもこの写真を見たら、そんな大きな口は利けまいよ」
博士はポケットを探って一葉の写真を取り出した。その写真には、はっきりと俊吉と奈美子の姿がうつっていた。伊豆山の崖《がけ》の上なのだ。
「殺してやるよ、よし殺してやる」
そう叫んで、俊吉が奈美子の首に手をかけた、あの瞬間の写真なのだった。
[#小見出し] 第三の人物
「どうだ、これが殺人直前の二人の姿なのだ。見たまえ、土岐は宿の浴衣を着ている。島津君、きみはこれでも土岐の無実を主張することができるかね」
博士の顔はどこか|※[#「豸+灌のつくり」、unicode8C9B]《おおかみ》に似ていた。
土色をした艶《つや》のない額《ひたい》が、自嘲《じちよう》と憂愁と、それから油断のならない狡猾さで、複雑な陰翳《いんえい》をつくっているので、さすがの慎介も、相手の真意を捕捉《ほそく》するのに、苦しんだくらいである。
慎介はまだ土岐の顔をよく知らなかった。しかし、博士がこう言うからには、この恐ろしい印画紙上の二人が、俊吉と奈美子の二人に違いないのだろう。
片手を岩の上について、崩れるような姿勢で相手を見あげている奈美子、――このほうは険のある横顔しか見えなかったけれど、それに反して、奈美子の白い首に手をかけた俊吉の顔は、おあつらえ向きといってもいいほど、カメラに向かって、はっきりと正面を切っているのである。
憤怒《ふんぬ》と憎悪とに燃え狂ったような眼の色、血のにじみ出るほど食いしばった唇《くちびる》、クチャクチャに乱れた頭髪、――その俊吉の表情が、片々として乱れとぶ千切れ雲をバックにして、すさまじいまでの殺気をもって迫ってくるのだ。
慎介は瞬間、ツーッと全身の血管がしびれるような気がした。それは必ずしも、この写真が物語っているとおりに、俊吉の有罪を信じたからではない。いな、それに関しては、慎介には、自ら別の意見があった。ただ、こういう世にも奇怪な撮影が、何人《なんぴと》かの手によって行なわれたという、その事実からして、慎介の鋭い神経が、この事件のうちに隠れているらしい、なんともいえないすさまじい人間の意志をかぎつけたからであった。
「どうだね、これでもきみは自説を主張する勇気があるかね」
挑戦するような博士の語気だった。
「先生、この写真はいったいだれが撮影したんです」
「そんなことはどうでもいい。それより、きみはこれでもあの男の無罪を主張する気があるかと言っているんだ」
慎介はいらいらとした、嶮《けわ》しい博士の表情を、むしろ不思議そうにながめていた。それからおもむろにこう言った。
「先生、そのことについては今しばらく言わないことにいたしましょう。それよりぼくが奇怪に考えるのは、どうしてこのような撮影がなされたかということです。写真が撮影されたからには、だれか二人の身辺にいてシャッターを切った者があるに違いありません。そいつはいったい何者でしょう。そしてなぜ、警察へこのことを届けて出ないのでしょう。いやいや、それよりも仮に土岐君が奥さんを殺したのだとすれば、なぜ、その時そばに控えていたこの第三の人物はそれを阻止しようとしなかったのでしょう」
「なるほど」
博士はうめくように、
「きみのいうとおりそいつの行動は疑惑にみちている。それぐらいのことは、きみに指摘されるまでもなく、おれだってちゃんとわかっているんだ。しかしねえ島津君、そいつの行動が疑惑にみちていたとしても、それによって土岐にかかっている疑いを割り引きするにはいかないんだぜ、見たまえ、土岐のこのすさまじい表情を。――この顔には、殺人者の殺気にみちた激情の瞬間が、はっきり印せられているじゃないか」
「そうかもしれません。しかし、先生、お言葉を返すようですが、私はやっぱりもっと別なことを考えずにはいられませんよ」
慎介はつくづくと写真の面をながめながら、
「いったい、この写真を撮影した主は、偶然の機会からこういう場面をとらえたのでしょうか。それとも、あらかじめ、こういう場面が起こりうるという期待をもって、ひそかに待機していたのではないでしょうか。どうも私にはあとの場合であるように思えて仕方がない。とすると、これはいったいどういうことになるのでしょう。この第三の人物は、ちゃんと殺人事件を予知していたということになるじゃありませんか。しかし、いかなる魔術師といえども、他人の意志を左右して、殺人を行なわせるなんて、そんなべら棒な芸当ができるはずはありません。したがって、殺人事件を予知していた人物すなわち殺人者ということになりはしないでしょうか。そうなのです。先生、私はこの第三の人物こそ、すなわち奥さんを殺した犯人に違いないと思うのです」
言いきってから、慎介はきっと博士の顔を見た。博士の顔には明らかに激しい混乱が現われていた。だが、勝ち気で我の強い博士は、あくまでも慎介の言葉に、承服することを拒むように、
「ふふふ、まあ、なんとでもきみの好きなように考えるさ。きみのその探偵術とやらが成功すれば、土岐のためにも幸福だろう。ところで、用件はこれで大概終わったように思うが」
明らかに、帰れという謎《なぞ》なのだ。
慎介はそれを聞くと、きっと博士の顔を真正面から見ながら、
「いや、失礼しました。しかし、先生、もう一つだけお尋ねすることをお許しください。この写真は、いったいだれが撮影したのですか」
「知らない」
「御存じない?」
「知らんのだ」
不意に博士は噛みつきそうな早口で言った。その様子があまり激しかったので一瞬、慎介は、博士こそ、この写真の撮影者なのではなかろうかと疑ったくらいである。
この疑いはただちに博士の頭にも反映したのにちがいない。
「ははははは! きみはおれを疑っているんだな。馬鹿な。よしよし、教えてやろう」
博士はポケットから、クチャクチャになった四角い封筒を取り出してみせた。その封筒の上には、筆跡をごまかすためであろう、わざと拙《つたな》い字で、博士の宛名《あてな》が書いてあった。
「今朝、表の郵便受けに、この封筒に入れて放りこんであったのだ。見たまえ。差出人の名は書いてない。どうだ、これで疑いは晴れたかい」
「なるほど、よくわかりました」
慎介はその封筒を手にとってよくながめると、それを博士に返しながら、
「ところで、先生はこの写真をどうされるつもりですか。警察へ届けるつもりですか」
「いや。まあ、しばらく様子を見ていよう。瀕死《ひんし》の病人の咽喉《のど》を絞めるようなことはしたくないからね」
「なるほど、それはお慈悲ぶかいことで」
慎介は皮肉な微笑を唇のはしに刻みながら、追い立てられるようにして応接間から玄関へ出た。玄関で靴《くつ》をはいている時、それでもそこまで送って出た博士が、
「なにも収穫がなくて気の毒だったね」
慰めとも、嘲《あざけ》りともつかぬ語調で言うのを、
「いや、そんなことはありません。大発見がありましたよ」
「なに、大発見?」
「そうですとも。第一に、あの第三の人物が存在しているということを教えていただいただけでも大した収穫です。それに……」
「それに?」
「それにもう一つは、どういう理由でか、瓜生博士が土岐俊吉を罪に落としたがっているという事実です」
慎介の言葉が終わらないうちに、靴をはいている彼の体を越えて、何やら物すごい勢いでとんだ。慎介が本能的に身をちぢめた刹那《せつな》、玄関の三和土《たたき》の上で、木っ端|微塵《みじん》に砕ける花瓶《かびん》の姿が目に映った。
慎介は憤然として立ち上がると、玄関に仁王《におう》立ちになっている博士の顔を鋭く凝視しながら、
「先生!」
と、強い語気で言ったが、すぐ薄笑いを浮かべると、
「馬鹿なまねをなさるもんじゃありませんよ。新聞記者をそういう方法で待遇なさるなんて、気違いじみた話です。この報いはきっとあるのですから」
言い捨てると、改めて靴の紐《ひも》を結びなおし肩をゆすぶりながら、悠々《ゆうゆう》として出ていった。
[#小見出し] 呼出状
三日ほどうわごとを言いつづけていた有為子は、四日目ごろから、次第に平静を取りもどしてきた。そしてこういう病気は、いったん針が回復のほうへ向かい始めると、あとは話が早かった。
五日目になると、有為子は床の上に起き直って、圭子とボツボツ話をするようになっていた。だが、一時的なショックがおさまったということは、とりも直さず、彼女に新しい苦難の日がはじまったことを、意味するのである。
有為子が意識を取りもどしたということをきくと、すぐ係官が熱海から駆けつけてきた。そしてかなり執拗《しつよう》な臨床尋問が繰り返された。
「何も心配することないのよ。そのうちにきっとよくなるわ。夫《うち》のがね、何かしらすばらしい反証を握っているらしいのよ」
そういう尋問のあったあと、ガックリと疲れ果てたような有為子を、励ますようにわざと朗らかに言う圭子だった。
「そうかしら。でも、あの刑事さんの口吻《くちぶり》じゃ、とても助かりそうじゃないわね」
いくらか肉が落ちて、そのためにいっそう美しさが増したかと思われる有為子は、痩《や》せた指で頬をなでながら淋《さび》しそうに言った。
「刑事なんかに何がわかるもんですか。それより夫のを信じてよ。あの人、何かよほど大きな確信があるらしいのよ。近ごろ夢中になってるわ。そうそう、それについて、ぜひあなたに頼んでみてくれと言われていることがあるの」
「なあに?」
「あなた、そのうち土岐さんに会いにいくでしょう」
「まあ」
有為子は不意に、暗い未決にいる土岐のことを思い出した。すると、病気のためとはいえ、今まで一度もその夫に会おうと努力しなかった自分のことが思い出され、急に涙がこぼれそうになった。
「会えるでしょうか。あたし会いたいわ」
「会えますとも。あなたがその気なら夫がすぐ手続きをとると言ってるわ」
「そう、すみません。じゃあたし、明日でも一度会いにいってみようかしら。それであたしに頼みたいというのは、どういうことなの」
「それはこうなの。あなた土岐さんに会ったら、こういうことをきいてもらいたいというのよ。つまりね、土岐さんがあの女と、岩頭で会っている時、その周囲に、だれかいやしなかったかと言うのよ。もっとハッキリ言えば、カメラを持った人が、二人の姿を撮影しようとしていたのに気がつかなかったかと、それをきいてきてもらいたいと言うの」
「まあ!」
有為子は不意におびえたような眼を見はった。
「カメラを持った人? その人なら、あたしよく知っているわ。ああ、そうなのだわ、あの人にきけば何か知っているに違いないわ。だってあの人、熱海からあたしを尾《つ》けてきたんですもの」
「あなたを尾けて?」
圭子が半信半疑で問い返すのを、有為子は不意にその手を握りしめて、
「ええ、そうよ、あなただって覚えてるでしょう。あの晩――あたしがここへ尋ねてきた晩、あたしをここへ抱え込んでくれた人があったでしょう。あの人がそうなのよ。あの人にあたし、事件のすぐあとで伊豆山で会ったのよ」
「まあ!」
圭子も不意に眼を見はって、
「そういえば、あの晩もあなた、さかんにそのことを言ってたわね。あたしうわごとだとばかり思って聞き流してたんだけど、――そうそう、そういえば、あの人確かにカメラを肩からぶら下げていたわ」
二人の女はそこで、不意にシーンと黙り込んで顔を見合わせていたが、有為子は急に圭子の手を握りしめ、簡単にあの日の経験を話すと、
「それにしても、島津さん、どうしてあの人のことに気がついたのでしょう。いったい、あのカメラを持った人が、土岐や瓜生の奥さんと、どういう関係があるというんでしょう」
「そこまでは、夫にもまだわからないらしいのよ。でもね、その人を捕まえれば、きっと事件の真相がわかるだろうと言うのよ、ひょっとすると――」
と、圭子は不意に声をひそめて、
「あの男こそ、孔雀《くじやく》夫人を殺した犯人じゃないかと言うの」
「そしてそのこと警察でも知ってるんでしょうか」
「いいえ、警察じゃまだいっこう気がついていないらしいのよ」
「まあ!」
有為子の恨みを帯びた眼から、不意にポロポロと涙があふれてきた。
「ありがとう、圭子さん。それじゃ島津さん、ほんとうにあたしたちの味方になって働いていてくだすったのだわね」
有為子はそう言うと、友の情けのうれしさに、思わず泣き伏すのだった。おぼれる者は藁《わら》でもつかむという譬《たと》えのとおり、土岐にかかっている疑惑の、あまりに完璧《かんぺき》なのに、土岐を信じながらも、すっかり打ち挫《くじ》かれていた有為子は、今こうして友の口から示された、ほんのかすかな、それこそ一筋の針のような希望の光にさえも、胸震うばかりの歓喜に泣けてくるのだった。
「ともかくこれは大発見だわ。夫の探している人物が、ちゃんとこうしてあなたの跡まで尾《つ》けてきたということがわかれば、慎介もまた何か考えがあるかもしれないわ。早速このことを知らせてやりましょうよ」
圭子はすぐに立ち上がって慎介の勤めている新聞社へ電話をかけたが、あいにく慎介は警視庁のほうへ出向いているということであった。その警視庁の記者|溜《だ》まりへ電話をかけてみると、いることはいるけれど、今ちょっと電話口まで出られないという返事。
じりじりとした圭子は電話を切ると、
「有為子さん、あたしちょっと行ってみるわ。そしてついでに、明日あなたが土岐さんに会えるように手続きを頼んでくるわ」
気の早い圭子はそう言うと早や身支度をはじめていたが、ふと気がついたように、
「そうそう、有為子さん、お粗末だけど、あなたこの着物着てたらどう、こさえてからまだ一度も手を通さないのよ。お宅から着物が来るまでこの着物を着てらっしゃいよ」
そう言うと、箪笥《たんす》の中から、白と黒との太い棒縞《ぼうじま》に、銀色の色紙を散らした着物を一そろい出してくれた。そしていかにも新聞記者の妻らしく、てきぱきと女中にあとのことを命じておいて、そそくさと出ていった。
有為子はそのあと、しばらくぼんやりとして、圭子の出してくれた着物を、指先でいじくっていたが、すると間もなく、女中が一通の手紙を持って入ってきた。
「お手紙でございます」
「あら、圭子さんならお留守じゃないの」
「いいえ、あの、奥様にでございます」
「まあ、あたしに?」
手にとって見ると、なるほど島津慎介様方、土岐有為子様とある。
(まあ、だれからだろう)
裏を返してみたが差出人の名はなかった。
有為子は不意に怪しい胸騒ぎを感じてきた。絶対に見覚えのない筆跡なのである。第一、彼女に用事がある者なら、手紙より電話をかけてきたほうが早いはずだった。有為子はあわてて封を切って読んだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
奥様
私はある事情のもとに次ぎのような写真を手に入れました。奥様はきっとこの写真に興味をお持ちのことと存じます。これについて、ゆっくりとお話し申しあげたいことがあるのですが、今夜六時、銀座尾張町の角までおいでを願いたいと存じます。ただし、絶対他言無用のこと、もしあなたがこの手紙にそむいた節は、遺憾ながら、この写真を警視庁までお届けしますゆえ、その点おふくみおきくださいませ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]黒眼鏡の男
土岐有為子様
その手紙といっしょに出てきたのは、疑うべくもない、俊吉と奈美子の、岩頭におけるあの写真だった。
有為子は不意に、ドシーンと鉄槌《てつつい》で脳天をたたかれたように、手紙と写真を持ったまま、真《ま》っ蒼《さお》になって体を震わせた。
[#小見出し] 不良混血児
圭子はいらいらしながら、銀座の表通りにある喫茶店の二階で夫を待っている。警視庁の記者溜まりへ慎介を訪ねていったが、夫は今とても手が離せないから、用があるならこの喫茶店の二階で待っていろと言うのである。
ここは慎介の勤めている新聞社と、すぐ眼と鼻の先にあった。
圭子はここでもう小一時間、慎介を待っているのだ。時計を見ると、ちょうど六時を五分ほど過ぎている。
圭子はうんざりとして、喫茶店の二階から、下の通りをながめていた。ちょうど時間とみえて、会社帰りのサラリーマンがゾロゾロと群がって歩いていく。チラホラ、灯の入りかけた飾窓の前を、美しい洋装の女たちが笑いさんざめきながら歩いていったりした。
そういう光景をぼんやりながめていた圭子は、そのうちに、おやというふうに窓から外へ乗り出したのである。
今しも、彼女のいる喫茶店のすぐ下で、徐行していった自動車の窓から、チラと見覚えのある着物の柄が見えたからである。黒と白との棒縞《ぼうじま》に、銀色を散らしたその柄は、たしかに、彼女の持っている着物と同じものだった。
「まあ!」
世の中には自分と同じ着物を持っている女もあるのだわと、その女の顔を見たかったが、そこまでは見えなかった。自動車はすぐ築地のほうへ曲がってしまった。その自動車が見えなくなってから、圭子はハッとしたように眼をすぼめた。
(そうだ、さっきあの着物を有為子さんのために出しておいたのだが、ひょっとすると今のは――)
と、言うと怪しい胸騒ぎを感じたが、しかし、すぐまたそれを打ち消してしまう圭子だった。
(馬鹿な、有為子さんが、今ごろ出歩いているなんてありっこないわ)
圭子はちょっと自分の想像力の強すぎるのを、嗤《わら》いたいような気になって、窓から階段のほうへ眼を移したが、そのとたん彼女のほうを見ていた眼とカッチリと出会った。
「あら、ジュリアンじゃないの。どうして逃げるのよ。いやな人ね」
声をかけられて、ドギマギした青年は、
「あ、やっぱり島津さんの奥さんか。よく似てる人だと思ったよ」
「嘘《うそ》ばっかり。あたしの顔を見て逃げようとしたじゃないの。またよからぬことをたくらんでるのじゃないの。いいからここへいらっしゃいよ」
「奥さんにかかっちゃかなわないな」
苦笑を浮かべながら、圭子のいるテーブルに近づいてきたのは、背の高い、端麗な顔をした、明らかに混血児と見える、皮膚の色が青味をおびているほど白い青年だった。
「ちょうどいいわ。退屈してるところなんだから、しばらく話し相手になってちょうだい。お茶ぐらいならおごってもいいのよ」
手に持っていた鳶《とび》色のオーバーを、どっかと投げ出して圭子の前に腰をおろしたのは、青沼ジュリアン、フランス人と日本人との混血児で、銀座ではかなり顔の売れた不良だった。
圭子の夫は職業柄、こういう仲間のあいだにもかなり知り合いが多かった。彼らが事件を起こした時にも、もちまえの義侠《ぎきよう》心からひと働きしてやることも珍しくなかった。ことに、このジュリアンは、不良とはいえ、どこか一本気な、正直なところを愛していて、よく眼をかけてやっていたし、留置場からもらい下げてやったことも一度や二度ではなかった。
圭子は初めのうち、こういう仲間と交渉を持っている夫を不安がったが、間もなく相手の気質をのみこんでしまうと、どうかすると自分からおもしろがって、面倒を見てやらないでもない。そういう姐御肌《あねごはだ》な彼女の気性には、ジュリアンも一目《いちもく》おいているのだった。
「どうしたのよ、妙にソワソワしてるじゃないの、何かあったの」
「なあに、なんでもないのですよ」
「いいから、ちょっと、あたしの眼を御覧なさいよ。ほら、また眼をそらすわね。ほほほほほ、ジュリアン、あなたまた何か後ろ暗いことをやってるのじゃない」
「そ、そんな……」
「だめだめ。あなたの癖はよく知ってるのよ。いつだってそうですもの。あなたは案外正直だから隠しきれないのよ。白状したらどう」
「案外はひどいな、ぼく、これでほんとうに正直なんですぜ」
「そうよ、そうかもしれないわ。だから言っちまいなさいよ。何をしでかしたのよ。白状しなきゃ、島津に言いつけてうんと油をしぼらせてやるから」
圭子がおもしろ半分にからかっているうちに、
「実はね、ぼく、ある人から妙なこと――つまり、一種の婦女|誘拐《ゆうかい》だな、それとももっと悪いことかな――そういう種類のことを頼まれたんだが断わっちまったんですよ」
ジュリアンは急に顔を伏せて、あたりをうかがいながらそんなことを言い出した。
「断わったの、断わったのならいいじゃないの」
「ところが、自分で断わった代わりに、他の奴を推薦しておいたんですよ。なんだか、それが気にとがめて」
苦いものでも噛《か》んだような口調だった。圭子はつい釣りこまれて、
「いったい、それはどういう話なの」
「それがよくわからないのです。妙なんですよ。なんだかこう気味の悪い男でしてね。黒眼鏡なんかかけやがって。――あれはきっと変装に違いないのだが」
「その黒眼鏡がどうしたというのよ」
圭子は次第に乗り気になっていく自分を感じながら、いらいらとして後を促す。ジュリアンは妙に陰気に爪《つめ》を噛みながら、
「実はこうなんです。昨日そいつがぼくの巣へやってきてね、なに、全く知らない男なんです。だれからぼくのことを聞いてきたのかなあ。とにかく、明日――つまり今日ですね、今日の六時に尾張町の角へ一人の女がやってくるから、そいつをどこへでも連れていって、つまり、その――無理矢理に貞操を奪うんだな、――そういうことをしてくれたら、お礼として五百円あげるというんです」
「まあ!」
圭子は思わず眉《まゆ》をひそめた。
「可哀そうに、そして、相手の女のかたってどういう女なの?」
「それがよくわからないのです。黒眼鏡の奴言わないんですよ。ただ今日の六時に、いっしょに尾張町まで来て、あの女だと教えるからそうすればそばへ行って、写真のことを言えばいいと言うんです。すると、相手はどんなことでも聞くからというんです」
「写真」
妙なことがあるものだという気持ちで、圭子は何気なくきき返した。
「そうなんです。なんでもその女の親戚《しんせき》の者が何か悪いことをしているらしい。その現場が写真に撮ってあって、相手の女はどんなことをしても、その写真を取り返したいと思っているんだから、そこを利用して、つまり、その――前に言ったようなことをしてしまえ、つまりその女を傷物にしてしまえと言うんですよ」
「まあ!」
圭子は不意に、自分でもびっくりするくらいの声をあげた。
「それで、それであなたどうしたの」
「どうもしやしない。あまり話が悪《あく》どいから断わったんですよ。ぼくはこう見えても、奥さんが考えてるほど悪人じゃないからな。
だれか、じゃ、ほかに適当な奴はないかと言うから、堀田の奴を教えてやったんです。あいつなら狒々《ひひ》みたいな男だし金にさえなるときけば、どんなことでもしますからね。黒眼鏡、それで堀田のところへ行ったようですが、ぼくは気になるものだから、今日の六時――ついさっきでさ、尾張町へ行ってみたんですよ。すると――」
「すると?」
「すると、堀田の奴が案の定、女を自動車へのっけてどこかへ行きやがった。可哀そうにあの女、今ごろは――」
「ジュリアン」
不意に圭子が力まかせに男の手を握った。
「すると、あなたその女の姿を見たのね。その女、どんなふうだった?」
圭子があまり熱心なので、ジュリアンはびっくりしたように、
「ど、どうって、何かこう愁《うれ》いに沈んだような――そう、特別に眼が大きくてきれいな女だったな。ぼくはどうせ、そういうふうにねらわれるぐらいの女だから、その女自身いけない奴だと思っていたんだが、妙にこう清純な感じのする人で――そうそう、白と黒との太い棒縞に、色紙を散らしたような着物を着て……」
「ジュリアン!」
皆まで聞かずに不意に圭子がすっくと椅子《いす》から立ち上がった。彼女の眼は燃えるようにキラキラと大きく輝いて、頬が真っ赤に染まっていた。
「あなた逃げちゃだめよ。待って、しばらく待って!」
呆気《あつけ》にとられているジュリアンを残して、圭子は大急ぎで電話室へとびこむと、震える指でダイヤルを回して、自宅の電話番号に合わせていた。有為子がうちにいるかどうかを確かめるためだった。
[#小見出し] 最も残忍な悪魔
銀座からわずか三分ばかりのところに、あら、こんな淋《さび》しい場所があったのかしら、と思われるような、河沿いの、倉庫と倉庫との間にはさまれた、小ちゃな洋館だった。
海が近いとみえて、プーンと潮の香が鼻をついて、裏にはくろく澱《よど》んだ泥溝《どろみぞ》が流れていた。安っぽい、南京蔀《ナンキンじとみ》の青ペンキが、ボロボロに剥《は》げているのも、なんとやら気味が悪いのである。
「まあ、このお家?」
有為子が思わず二の足を踏むのを、
「そう、この家ですよ。ここであの人が待っているのです。ほら、黒眼鏡の紳士がね」
堀田はこみあげてくる北叟笑《ほくそえ》みを、噛み殺しているような調子だったが、気の転倒している有為子には気がつかなかった。
通された部屋は暗くて埃《ほこり》っぽかった。
床には絨毯《じゆうたん》も敷いてなければ、家具らしいものはどこにもない。がらんとして、さむざむとしてまるで空き家みたいな家。
有為子は不意に、胸騒ぎを感じて、
「あら、そのかたどこにいらっしゃるの? ここ、だれもいやしないじゃないの」
と、言いかけて彼女は思わずフーッと息をのみこんだのである。
カチリと扉《ドア》に錠をおろす音を聞いたからだ。
「あら」
ハッとして振り返って見ると、堀田がニヤニヤしながら扉の前に立っている。銀色の錠を、わざと彼女に見せびらかすようにしながら、ポケットに入れると、そっとその上をたたいてみせる、そういう科《しぐさ》が、安っぽいアメリカ映画の、ある種の場面にそっくりで、その気障《きざ》で野卑《やひ》な相手の表情に、有為子はツーッと虫酸《むしず》の走るような悪寒《おかん》を感じた。
「あなた、何をなさるの。いったい、その黒眼鏡の紳士というのはどこにいらっしゃるの」
「ははははは、黒眼鏡の男なんかいやしませんさ」
「まあ!」
有為子は不意に真っ蒼になった。今にも足元の床がポッカリとあいて、自分の体をのみ込んでしまいそうな気がした。
だが。――
負けてはならないのだ。弱味を見せてはならないのだ。負けるものか、負けるものか、こんな奴、――
有為子は必死となって身を支えながら、
「あなたはいったいだれです。いったいあたしをどうしようというんです。だれに頼まれてこんなことをなさるのです」
「お嬢さん、いや、奥さんかな。落ち着いてくださいよ。そういっときにきかれたって、答えようがないじゃありませんか」
堀田は相変わらずニヤニヤと薄気味の悪い微笑《わら》いを浮かべている。まん中から分けた髪の毛を、ピンと蜻蛉《とんぼ》のようになでつけて、どことなく蟇《がま》を思わせるような醜悪な相好《そうごう》が、悪い趣味なのだ。植民地風な、いやに派手な洋服の縞柄《しまがら》と対照して、唾《つば》を吐きかけてやりたいほどの下劣さだった。
「まず第一にだれに頼まれたかお話ししましょうか。黒眼鏡の奴に頼まれたんですよ」
「あら、だって、その人ここにいないとおっしゃったじゃないの」
「居やしないさ、居ないけれどそいつに頼まれたてえのは嘘じゃありませんよ。何をって、ほら、わかってるじゃありませんか、この家は御覧のとおりの空き家なんですぜ。表と裏は河だし、両隣りは倉庫だし、あんたがどんな大きな声を出したって、だれひとりやってくる者はありゃしませんさ。ね、それだけのことはわかってくださらなきゃ困りますよ」
この男にはこういう物の言い方をするのがおもしろくてたまらぬらしい。ちょうど、猫《ねこ》が鼠《ねずみ》をもてあそぶように、ジロジロと舐《な》め回すような眼つきで、大きく波打っている有為子の胸のあたりをながめていたが、なんと思ったのか、不意に壁の上を探ると、カチリと音をさせてスイッチをひねった。
と、この陰惨な空き家にとって、滑稽《こつけい》なほど明るい電燈がパッと室内にあふれたのである。
これは全く驚くべきことだった。いったい、普通こういう場合の常識として、だれでも室内の暗からんことを望んだに違いない。しかるにこの男はわざわざスイッチをひねって、馬鹿馬鹿しいほど明るい電燈をつけたのだ。
「…………」
有為子は相手の真意を計りかねたように、呼吸をつめて堀田の顔をながめている。明るくなったために、醜い、蟇のような顔に浮き出した、気味悪い脂汗《あぶらあせ》がいっそうはっきりと見えた。眼が血に濁って、厚い唇がぬらぬらと唾液《だえき》にぬれていた。やにわに、堀田は、有為子の体に向かって躍りかかっていったのである。
…………。
だが、筆者はこういう場面をあからさまに描写することを好まない。
そこで筆を転じて、この陰惨な空き家の、もう一つ別の部屋をのぞいてみよう。
有為子たちがいるあの部屋と、壁一つ隔てたその隣室の暗闇《くらやみ》の中に、さっきから黙々としてうごめいている一つの影があった。黒い洋服に黒っぽい帽子、それから黒眼鏡をかけた、小柄の男なのだ。しかもこの男は肩から例のカメラのケースをぶら下げている。
いうまでもなく、黒眼鏡の怪青年なのだ。いったい、この男は何をしようとするのか。いやいや、それにもまして奇怪なのは、この男の正体なのだ。いったい彼はどういう目的があってこうも執念ぶかく、有為子や有為子の夫をつけまわしているのだろう。
それはさておき、隣室の様子に、じっと利き耳を立てていた黒眼鏡の男は、ふと気がついたように、壁にかけてある粗末な額を外した。
――と、
額の後ろに切ってあった四角な孔から、さっと白い光が流れてくる。その光の中にくっきりと浮き出した青年の横顔は、刺々《とげとげ》しいまでに陰翳《いんえい》が深いのだ。
黒眼鏡は、その覗《のぞ》き窓からしばらく隣室の様子をうかがっていたが、やがてカメラを取り上げると、忙しく焦点を合わせはじめたのである。
わかった、わかった。この男はこうして、有為子の世にも悲惨な姿を、カメラにおさめようとしているのだ。電燈をあんなに明々とつけさせたのは、実にその必要があったからなのだ。なんという悪魔! なんという恥知らずの痴漢なのだろう!
悪魔はカメラを持ったまま、じっと待機の姿勢をとっている。なかなか、思うようなポーズが得られないのであろう。蒼白い頬に、いらいらとした憤りの色が浮かんで、そうすると、端麗な容貌《ようぼう》が、なんともいえないほど、邪悪な表情に包まれるのだ。
不意に、黒眼鏡の瞳《ひとみ》がきらりと光った。
堀田が有為子の体をめがけて躍りかかったからである。
「キャーッ」
というような叫び。
しかし、それは意外にも有為子ではなく、反対に堀田の唇から漏れたのである。
とびのいて、頬をおさえた堀田の掌の間から、たらたらと血が流れている。
「畜生!」
歯ぎしりをしながら、しかし相変わらず堀田はニヤニヤと笑ってる。有為子は紙のように白い顔をしていたが、しかし、不思議なほど冷静だった。恐ろしい、息詰まるような無言劇。
再び、堀田が身をすくめてさっと有為子の体に躍りかかっていった。
が、その時、黒眼鏡の男はドキッとして隣室のドアのほうをのぞいてみたのである。激しく、閉ざされたドアを乱打する音が聞こえたからだ。
「開けろ、おい、開けろ!」
島津慎介の声だった。
「有為子さん、あたしよ、圭子よ、もう大丈夫、しっかりして」
圭子の声も聞こえた。
「おい、堀田、おれだ、おれの声がわかるかい、ジュリアンだ。貴様、あんまり悪どいまねをすると、そのままじゃおかねえぜ」
最後の声を聞いた時、堀田の顔にはおかしいほどの狼狽《ろうばい》の色がうかんだ。有為子の体を抱きしめたまま、どうしようかというふうに彼女の顔を見る。しかし、その時有為子は、男の腕に抱かれたまま、うっとりと眼をふさいでいた。圭子の声を聞いた瞬間、彼女はフーッと気が遠くなってしまったのである。
パチッ!
シャッターが鳴った。
それは黒眼鏡の男にとって、決して満足すべきポーズではなかったのだが、しかし、救いの者がやってきたからには、もうそれ以上待つわけにはいかなかったのだ。
黒眼鏡はカメラをしまうと、ハンケチを出して額の汗をぬぐった。それから、破れるような隣室の乱打の音をあとに聞きながら、陽炎《かげろう》のように身を震わせて、そっとこの忌まわしい空き家をあとに、暗い河ぶちに抜け出していったのである。
だが、――この時、彼は非常な大失策を演じてしまったのだ。と、いうのは、ポケットからハンケチを取り出した時、それに包んであった指輪がコロコロと床の上に転げ落ちたのを、その男は気がつかなかったのである。
そして、このことこそ、間もなく彼の咽喉《のど》をおさえる、最も有力な証拠になってしまったのであった。
[#小見出し] 恐ろしき疑惑
「面会人だ。こちらへ来い」
刑事の言葉に、ふと顔をあげた土岐俊吉は、物憂《ものう》そうな眼をして、暗い独房の中の、ある一点をじっと見つめていた。
頬がこけて、髪が乱れて、これがいつか東京駅のプラットホームで、圭子を嘆賞させた、あの土岐俊吉かと疑われるばかりひどい変わりようなのだ。もとより白い頬は、いよいよ蒼《あお》ざめて、額には苦悩を通り越して、深い虚無の表情さえ刻まれている。
「おい、おれの声が聞こえないのか。面会人だと言っているんだぜ」
刑事の声に俊吉はびっくりしたように振り返ると、初めて気がついたように、
「は」
と、低い、無感動な返事をして、
「どちらですか」
と、盲人の手さぐりにも似た、怪しげな手つきをしながら、とんちんかんなことを尋ねた。
「こっちへ来い、出てくるんだ」
「…………」
荒々しい刑事の言葉にしたがって、薄暗い廊下を、よろめくように歩いていった俊吉は、やがて狭い一室に放りこまれると、
「待っていろ、今すぐ会わせてやる」
刑事はピンとドアに錠をおろしていったが、しばらくすると、部屋の壁に、小さな窓がひらいた。
そのとたん、俊吉は五体に激しい電気を送られたように、手足を震わしたのである。
「有為子!」
「静かに、大きな声を出すんじゃないぞ。面会は十五分間。わかりましたか」
有為子に向かうと、さすがに優しくそう言いながら、刑事は二人のそばを離れて、向こうのほうへ歩いていった。
「あなた」
「有為子」
二人は格子《こうし》を隔てて、低い、しかし力のこもった声で呼びあった。有為子の円《つぶら》にひらいた眼からは、涙がいっぱいあふれて、肩が激しく痙攣《けいれん》している。
「有為子、きみは――きみは何しにここへ来たのだ」
「何しにってあなた」
有為子は泣きたいのを一生懸命こらえている。泣いてはならないのだ。面会時間はわずか十五分よりない。しかも彼女はききたいこと、話したいことが山ほどあるのだった。
「島津さんが、ぜひあなたに会ってこいとおっしゃるものだから」
「島津? 島津ってだれだい?」
「圭子さんの御主人よ。ほらいつかも話したことがあるでしょう、新聞社に勤めていらっしゃるかた」
「フフン、島津という男がどうしろと言ったのだ」
「そのかたが――」
と、言いかけて有為子はふと、夫はなぜこんなききかたをするのだろうと相手の顔を見直した。
俊吉は小さい窓の向こうから、執拗《しつよう》な眼つきをして、じっと有為子の顔を見つめている。それは何かしら、面《おも》やつれのした有為子の頬の後ろから、隠れているものを嗅《か》ぎ出そうとするような疑いぶかい眼つきだった。
「そのかたがどうしろというのだ」
俊吉は、いくらか毒々しい口調で重ねて尋ねる。
「そのかたが――」
(なんでもありゃしないのだわ。やっぱりああいう恐ろしい事件のために、気が立っていらっしゃるのだわ)
「あなたにぜひお尋ねしてきてほしいとおっしゃるの」
「おれに尋ねる? いったい何を尋ねるというのだ」
「あなた」
有為子は低い声に力をこめて、
「このことは島津さんばかりじゃありません。あたしも知りたいのです。だからあなた気を落ち着けて、よく思い出してください。伊豆山で、あなたが孔雀《くじやく》夫人に会っていらっしゃるとき。――」
「孔雀夫人?」
俊吉はふと、忘れていた夢を思い出したように、激しい息使いをした。
「ええ、瓜生《うりゆう》先生の奥さんよ。その奥さんに会っていらっしゃるとき、あなたがたのそばにもう一人、だれかいやしませんでしたか」
「だれが?」
「だれだかあたしにもわからないの。でも、このことはとてもたいせつなんですから、よく考えて思い出してちょうだい。その人は黒眼鏡をかけた、色の白い青年で、そしてカメラを持っていたはずなんですわ」
俊吉はちょっとの間、あきれたような眼つきをして有為子の顔をながめていた。そのために、さっきからの得体の知れぬ疑惑の色が、しばらく影を消したくらいだった。
「有為子、おまえの言うことはよくわからない。いいや、だれも私たちのそばにはいなかったよ。初めからしまいまで、私と――私とあの女の二人きりだった」
「いいえ、いいえ、そんなはずはありませんわ。あなたはきっと、忘れていらっしゃるのです。黒眼鏡をかけてカメラを持った人が――」
「有為子!」
俊吉の眼には再びさっと暗い、疑いの表情が燃えあがった。
「いったい、その黒眼鏡の男というのはだれのことなんだね」
「あたしもそれを知りたいのですわ。あなた、そういう男のかたをご存じありません? その人は、どういう理由でか、とてもあなたを、――あなたやあたしを憎んでいるんですわ。ね、あなた、あれはいったいだれですの」
「有為子、私にはさっぱりきみの言うことがわからない。いったい、その男がどうしたというのだ」
「写真を撮影したのです」
「写真?」
なぜかしら俊吉はびっくりしたように大声でそう叫んだ。有為子は気づかずに、
「ええ、そうなの。崖《がけ》の上の写真なの。あなたが、瓜生先生の奥さんの咽喉《のど》を絞めていらっしゃるところなの」
「有為子!」
俊吉は突然、転倒しそうなほど激しい驚愕《きようがく》の色を浮かべて、そう叫んだ。
「それはほんとうか」
「ええ、ほんとうよ」
「きみはそれを見たのか」
「ええ、見ましたわ。わざわざ送ってきたんですもの。いいえ、あたしのとこばかりじゃありませんわ。瓜生先生のところへも送ってきたんですって」
「瓜生先生」
俊吉はじっと探るように有為子の顔をながめながら、激しく爪《つめ》を噛んでいたが、
「瓜生先生?」
と、もう一度つぶやいて、その声に我れながら驚いたように有為子の顔を見直した。
「ええ、そうなの。でも、もしあなたが全く気づかなかったとしたら、その人、きっとどこかに隠れていたに違いないわ。そして」
「有為子」
俊吉は突然、そう言う有為子の言葉をさえぎると、
「刑事はこっちを見やしないか」
「あら」
有為子は夫の意をはかりかねたように、それでもそっと向こうをうかがうと、
「いいえ。居眠りをしているのじゃありません?」
「よし、それじゃきみに見せるものがある」
俊吉はもぞもぞとポケットを探ると、
「今日、だれかが差し入れてくれたものの中に、こんなものが入っていたのだ。有為子、この写真に覚えがあるかね」
有為子は、そう言いながら夫の差し出した写真を見たとたん、思わずゾーッと全身に鳥肌《とりはだ》の立つような恐ろしさに打たれたのである。
それは堀田の腕の中に抱かれたまま、気を失っている有為子の姿だった。
しかし事情を知らぬ者には、決してそうは見えないのだ。うっとりと眼をつむった彼女の顔は、やがて押しつけられるであろう男の唇を、待ちかねて恍惚《こうこつ》としているようにも受け取られる。そしてその上にのしかかった男の唇は、今にもそれに触れようとしているのである。
「有為子、その男が島津というのかね」
「あなた、あなた!」
声を聞きつけて刑事がとんできた時には、俊吉はまるで気違いのようにからからと打ち笑っていた。
恐ろしい疑惑が、俊吉を一瞬狂気の淵《ふち》に落としこんでしまったのだ。
[#小見出し] ジュリアンの経験
「まあ、なんて恐ろしい」
有為子といっしょに熱海まで行って、そして彼女が俊吉との面会を終えて出てくるのを待っていた圭子は、有為子の顔を見たとたん、いつか彼女が、自分の家へ転げこんできた日のことを思い出した。
それほど有為子の顔色は尋常ではなかった。
頬《ほお》が蝋《ろう》のように蒼ざめて、そのくせ、何かしら燃えるような潜熱が、くるくると大きい瞳《ひとみ》の中に躍り狂っているのを見たのである、手をとってみると灼《や》けつくように熱かった。
東京へ帰る汽車の中で、有為子は初めて俊吉との面会の模様を圭子に語って聞かせた。
「まあ、なんて恐ろしい」
その話を聞いて、圭子が最初に漏らした言葉がそれだったのである。
有為子は決して泣かなかった。俊吉のあの恐ろしい疑惑を彼女はじっと歯を食いしばって耐えてきた。
「だって辛《つら》いのは、疑われているあたしじゃありませんわ。あの薄暗い独房の中で、猜疑《さいぎ》にさいなまれている夫のほうこそ、どんなに切なく辛いことでしょう。それを考えると、あたしこれくらいのことに負けてはならないのです。もっともっと強くなって、あいつと闘わなければならないのですわ」
有為子はそう言うと、蒼ざめた頬にかすかな微笑さえ浮かべて圭子のほうを見た。
「ええそうよ、強くならなければだめよ。どうせ誤解ですもの、すぐ解けるに決まっていますわ。でも、なんて陰険な奴《やつ》でしょう。あくまでもあなたや、あなたの御主人を苦しめようとしているのね」
しかもその陰険な相手ときたら、頭も尻尾《しつぽ》もない人間のようにとらえどころさえないのだ。わかっているのは、いつも黒眼鏡をかけた、色の白い男だというだけのこと。
闘うにも闘いようのない、それこそ煙のような存在なのだ。
圭子はそういう妖怪《ようかい》じみた人間に呪《のろ》われている友のことを思うと、思わず熱い、塊りを嚥《の》み下したような心持ちになるのだった。
だが。――
その妖怪じみた人間の尻尾は全く意外な方面から、彼女たちの前に押さえられてきたのである。
熱海からの帰途、有楽町で降りた圭子と有為子の二人は、圭子の夫の慎介を新聞社に訪れたのである。
いうまでもなく、有為子からの報告を、首を長くして待っていた慎介は、すぐ二人を応接室へ通した。そして有為子の話を聞くと、さすがに慎介も舌を巻いて驚いてしまった。
「恐ろしい奴ですな。いったいどういうつもりでそういうことをするのか、さっぱりその目的がわからない」
慎介は吐き出すように、
「不良を雇って、あなたの体に傷をつけようとしたり、怪《け》しからん写真をとったり、何かしら、人間の魂とは思えないような、執拗《しつよう》な魂胆がそこにあるんですな」
「あなた」
圭子は心配そうに、
「あの堀田という男の口から、何かきき出せないんですの」
「だめなんだ。あいつはただ傀儡《かいらい》に使われただけのことで、相手の正体については何一つ知ってやしない。また、あんな男に尻尾をつかまれるような、そんな馬鹿な男じゃないらしいんだね、相手は」
慎介が苦々しげにそうつぶやいた時、
「あ、ここにいましたね。奥さんたちもごいっしょで、こいつはいい都合でした」
言いながら入ってきたのは、例の不良混血児の青沼ジュリアンだった。
「おい、チャボ、入ってきたまえ」
驚いて振り返った三人の眼の前に、青沼といっしょに入ってきたのは、背の低い、青脹《あおぶく》れのしたような、それでいて、馬鹿馬鹿しいほど派手なネクタイをした、ひと眼で青沼の仲間と知れる気の弱そうな男だった。
「島津さん、紹介します。こいつはわれわれの仲間でチャボと言うんですが、名前は――名前なんかどうでもいいや、チャボはチャボ」
ジュリアンは笑いながら、
「それでこいつが、ちょっと不思議な話を聞かせてくれようというんです。しかも、そのことはあなたばかりじゃない、ぼく自身にとっても非常にたいせつなことなんです。だが、その前にぼくの話をしましょう。お邪魔じゃないでしょう」
「いいよ、話したまえ」
青沼の様子からして、話があの黒眼鏡に関係のあることはよくわかっていた。慎介はそっと圭子と有為子の二人に眼配《めくば》せする。
「話というのは、一昨夜のあの築地の空き家のことですがね」
青沼ジュリアンは無遠慮に椅子の上に脚を投げ出すと、
「あの時のことについちゃ、今さら、ぼくの口から言うまでもありますまい。堀田の奴、間一|髪《ぱつ》というところで、小《こ》っ酷《ぴど》い目に逢《あい》やがった。いい気味でさ。ところで、ぼくの話というのは」
といいながら、ジュリアンはポケットから指輪を一つつかみ出した。
「ぼくはこの指輪を、例の部屋の隣りで拾ったのです。ところがぼくがなぜそのことを今まで、黙っていたかというと、こいつについて、ちょっと調べたいことがあったからですよ。というのは、ぼくはこの指輪に見覚えがあるんです。ほら、御覧なさい、紅玉がはまってるでしょう、むろん女持ちの指輪なんです。ところでこの指輪の裏側を見ると、Sという字とJという字の組み合わせが彫ってある。このJというのはぼくの頭字なんです。つまり、この指輪は、ぼくがかつて、ある女に贈った代物《しろもの》なんですよ」
「ほうほう、それがどうしてあの家に?」
慎介はにわかに興を催したらしく、デスクの上に体を乗り出した。
有為子と圭子も、思わず不審そうな眼を見交わすのだ。
「わかりません。堀田の奴にきいたが知らないと言う。すると、例の黒眼鏡の奴が持っていたに違いないが、そうすると黒眼鏡の奴は、ぼくのその女の友人と、なんらかのひっかかりがあるに違いないのです」
「そして、その女の友人というのは――?」
「お勢《せい》と言うんですがね」
「じゃ、そのお勢さんにきけば、黒眼鏡の正体がわかるんだね。そして、そのお勢さんは今どこにいるんだ」
「わからないのです」
青沼は突然、額《ひたい》に暗い影を刻んだ。そして、ちょっと淋《さび》しげに、
「喧嘩《けんか》別れをしちまったんです。なに、つまらないことなんですがね。お互いに意地張りなもんだから、――実はぼくもこのあいだから、あいつの行方を探していたところなんです。ところがこの指輪でしょう。ぼくもすっかり驚いちまって」
と、何かしら、得体の知れぬ不安ののしかかってくるのを払いのけるように、
「さあ、この後はチャボに話させましょう。こいつが、ぼくと喧嘩別れをしてから後の、お勢の行動をよく知っているんです。おい、チャボ、皆さんの前で、もう一度、お勢が姿をくらます前後の話をしてくれよ」
チャボはおずおずとしたような眼で一同を見回していた。
それから、なんとなく落ち着かぬような、困ったような表情で、かつては青沼ジュリアンの恋人だった、お勢という少女の話をはじめたのである。そして、このことが非常に大きな変化を、この物語にもたらしてきたのだった。
[#小見出し] お勢|失踪《しつそう》
「あれはいつごろのことだっけな。なんでもきみとお勢ちゃんと喧嘩別れをして、間もなくのことだったと覚えているけど」
と、チャボが、こういう青年特有の、無駄《むだ》なお饒舌《しやべり》をさせておくと、とても能弁なくせに、いざまとまった話をさせると、およそとりとめもない、そう言った、くどくどとした調子で話しはじめたのである。
「その時分、お勢ちゃんすっかり悄気《しよげ》切っていたんだ。喧嘩別れをしたものの、彼女、青沼にゃたっぷり未練はあったのだし、といって、自分のほうから謝っていくなア業腹《ごうはら》だし、だもんだから、すっかりもういらいらしちまって、そんなことから、それまで勤めていた銀座裏の酒場のお女将《かみ》とも喧嘩するし……」
と、こういうふうにチャボの話を、そのまま写していては、際限がないから、そこで筆者は彼の語ったところを物語風に要約してお眼にかけようと思う。
銀座裏の酒場をよしてしまったお勢は、その日から生活に困らなければならなかった。それに彼女のように、派手な性格の人間は、アパートのひとり暮らしなんて、淋しくて耐えられなかったのに違いない。そこで彼女は、仲間のうちで、いちばん愚鈍な代わりにまたいちばん無害なチャボのところを頼って、そこへ、無理矢理に転げ込んでしまったのであった。
もっとも、それには、彼女らしいもう一つの魂胆があったらしいことも見逃すわけにはいかない。チャボは青沼にとって、いちばんのお気に入りだし、したがってそこにいさえすれば、始終青沼の消息も聞けるのである。あわよくばそのうちに和解のチャンスをつかめるかもしれない。不良がっているくせに、妙に純情なところのあるお勢は、そういう希望を抱いていたのである。
こうしてお勢は、しばらくのうち、なすこともなくチャボのアパートにごろごろとしていたのだが、ある日、彼女は外から帰ってくると、いきなりチャボをつかまえてこんなことを言ったのである。
「チャボ。あたしひょっとしたら、近いうちに仕事にありつけるかもしれないわ」
彼女は眼を輝かしてそう言うのだ。
「ほほう、そりゃけっこうだ。それで仕事ってどんなことだい。また酒場かい」
「ううん、そんなんじゃない。酒場よ、さらばよ、だ。こんどは堅気《かたぎ》の仕事さ」
「へへえ、そりゃいよいよけっこうだ。で、またタイピストにでもなるの」
お勢はそういう仲間に落ちてくる以前、しばらくタイピストをしていたことがあったのだ。
「ええ、まあ、それに似た仕事、だけどもっといいのよ、あたし女秘書になるの」
「秘書?」
「ええ、そうよ。どうしたのよ、眼を丸くして。あら、あたしにそんなことができないと思っているんでしょ。馬鹿にしないでよ。女秘書ぐらいあたしにだって勤まるわよ」
お勢ははしゃぎ切って、すっかり有頂天になっていた。チャボはいくらか圧倒されたように、眼をパチクリさせながら、
「で、いったいまた、どうして急に、そんな話になったんだね」
「それが不思議なのよ。きょうね、偶然、資生堂でお茶をのんでいる時、その人と向かいあわせに座ったの。でまあ、いろいろな話をしているうちに、急にそんなことになったの。ぜひ私の女秘書になってくれとその人が言うのよ。あ、そうそう、あたしタイプが打てるということをその人に話したんだっけ。すると急にそんな話になって。――」
「いったい、その人というのは男かい、女かい」
「モチ、男のかたよ、とても立派なかた。背がすらりと高くて、まだ若いのよ。ゲーリー・クーパーに似てるわ。そして、とても親切で」
「おい、お勢ちゃん」
チャボが急に顔色を変えて、
「おまえ、そんなことしていいのかい」
「そんなことって何よ?」
「おまえ、まさか青沼の顔に泥を塗るようなことはしめえだろうな。もし、そんなことがあると、おれや、青沼に顔向けができなくなるぜ」
「何よ、顔色を変えて、なんのことかと思ったらジュリ公のことなの。なんだあんな奴、別れてしまえばあかの他人じゃないの。今さら心中立ても何もあったもんじゃないわ。あ、ああ、あたしあのかたといっしょに仕事をしているところを、ひと眼ジュリ公に見せてやりたいわ」
「やい、お勢」
チャボが急に眼の色を変えて、お勢の腕をつかんだ。
「そりゃおまえ本気かい」
「本気ならどうなのよ」
「よし、こうしてくれる」
チャボがお勢の利き腕をとって、無理矢理にねじ伏せようとするのを、お勢はすらりと抜けると、急に、
「ははははは」
と、笑って、
「馬鹿ね、チャボは、からかってやったら本気になって」
「え?」
「だけど、チャボ、あんたいいとこがあるわね。あんたそんなに青沼のこと考えてくれるの」
お勢は急にしんみりとして、
「なら、お願い。ね、なんとかして一度きっかけを作ってよ。あたしこんな性《たち》でしょ。こちらから折れて出るの、大きらい。後生《ごしよう》だから橋渡しをして」
「それじゃお勢ちゃん、今の話、みんな嘘《うそ》なのかい」
「女秘書になるというのはほんとうなの、だけど、相手は御婦人よ」
「ふうむ、いったい、どういう女なんだい。おまえ、うっかり素性の知れない女にひっかかったらたいへんだぜ」
「大丈夫よ、とても有名な方よ。名前を言えばあんただって知ってるわ。だけど、そのかた話が決まるまでだれにも言わないでくれっておっしゃったから、名前だけは聞かないでね。明日、もう一度資生堂で会って、その時、報酬や何か決めてくださるはずなの」
「明日また会うんだね」
チャボは何かしら考えながら、念を押すようにそう言った。
「それで、ぼく、その次ぎの日、お勢ちゃんのあとをこっそり尾《つ》けていったんです」
と、チャボは語るのである。
「そして、お勢ちゃんを女秘書に雇おうというその女の人を見てすっかり驚いちゃった。だってそれはとても有名な女なんです。ダンスホールや何かでよく見かけて知ってるんだけど」
「いったい、それはどういう人なんですか」
慎介がまどろかしそうに尋ねる。
「孔雀《くじやく》夫人。――ほら、このあいだ、殺された瓜生博士の奥さんなんです」
一瞬間、シーンとした沈黙が一同の上に落ちてきた。有為子と圭子は、不意に激しく呼吸をうちへ引くと、おびえたような眼を見交わす。あまりにも思いがけない人の名が、不意に彼らの前に提示されたからである。
チャボのくどくどとした話し振りに、今までかなりうんざりしていた慎介も、不意にカアーッと眼が覚めたように、体を前に乗り出すと、
「それで、それはいったいいつごろのことなんですか」
「さあ、もうかれこれ二週間になりますか。だが、話はまだこれだけじゃないのです。もっと、もっと妙なことがあるんです」
と、再びチャボが言葉をついで語り出したのは。――
チャボはその時、ひと足先にアパートへ帰ってくると、何食わぬ顔をしてお勢の帰りを待っていた。
すると、夕方になってひょっこり帰ってきたお勢は、どういうものか、昨日とは変わって浮かぬ顔をしているのだった。
「お勢ちゃん、どうしたい。昨日の人に会ってきたかい」
チャボが尋ねると、
「ええ、会ってきたわ」
「それで契約はどうだった」
「悪くはないのよ。いいえ、むしろよすぎるのよ。だけど、妙だなあ、ちょっと」
お勢はそう言いながらやっぱり考え込んでいる。
「妙だって、どうかしたのかい」
「ええ、ほんとうにどうかしてるわ。あんた探偵《たんてい》小説ってものを読んだことある?」
「探偵小説?」
「ええ、すっかり探偵小説なのよ。だれにも言っちゃいけないって言ったけど、構やしない。しゃべっちまうわ。その人、明日あたりに、この着物を着て、あるところへ来てくれと言うのよ。なんのためかわからないけれど」
言いながら、抱えて帰った風呂敷《ふろしき》包みをとくと、お勢は中から着物と、それから眼も覚めるような、紫色の羽織をとり出したのである。
「紫色の羽織ですって?」
有為子が不意に、呼吸を弾ませて尋ねた。
「そうなんです。ぼくは女の着物なんかよくわからないほうだけど、その羽織だけは、パッと眼につく紫色だったのでよく覚えているんです。お勢ちゃん、その翌日の朝早く、その羽織を着てアパートを出ていったきり、いまだに行方がわからないんです」
「どこへ行くとも言わなかったのかい」
ジュリアンが、眼を光らせながら尋ねた。
「うん、それだけはどんなに尋ねても言わないんだよ。ぼく、その時あとを尾《つ》けていけばよかったんだけど」
チャボはすっかり悄気《しよげ》きっていた。
慎介は、何かしら心が騒ぐふうで、しきりにボリボリと頭をかいていたが、やがて思い切ったふうに、
「それで、お勢さんの出かけていったという日を、きみは覚えていませんか」
「覚えていますよ。あれは確か十月十七日の朝だったですよ」
不意に有為子が激しい息使いをして圭子の手を握りしめた。
「圭子さん、圭子さん! あたし、あたし……」
「いいのよ、いいのよ、有為子さん、だんだんわかってきたじゃないの。しっかりしてらっしゃい。警察はとんでもない間違いをしているんだわ」
彼らがぎょっとしたのも無理はない。お勢が紫色の羽織を着たまま、出ていって再び帰ってこないというその日は、実に、伊豆山であの恐ろしい惨劇があった日と、同じ日だったからである。
[#小見出し] 現場再調査
孔雀夫人があの事件のすぐ前に、一人の女秘書を雇い入れた。そしてその女秘書に、彼女の最も好んで、ふだん常用としている紫色の羽織を着せて、人知れずある場所へ誘《おび》き出した。これはいったい、何を意味しているのだろう。しかも、紫色の羽織を着て出ていったその女秘書は、今もって、行方がわからないのである。
「ぼくはね、この事件を最初から、激情的に突発した事件だと思っていなかったのですよ。あの怪写真のいきさつから見てもわかるとおり、この事件の底には、何かしら、得体の知れない、気味悪い暗流がながれている。これは一朝一夕に起こるような事件じゃない。あらかじめ微《び》に入《い》り、細《さい》をうがって、計画された事件らしい、そして、そのことがふとぼくの関心をそそったのですよ」
熱海から伊豆山の町の入り口まで、自動車をとばせてきた一同だった。伊豆山の入り口で自動車を乗り捨てると、そこから、温泉宿へのだらだら坂を下っていく。一行というのは、島津夫妻に有為子、それから青沼ジュリアンの四人だった。
彼らはもう一度、あの恐ろしい事件の起こった日のことを繰り返してみようというのだ。
一行は間もなく、あの日、有為子と俊吉の泊まっていた宿の近くまで来た。
「あ、あたしがあの紫色の羽織を着た女に会ったのは、ちょうどこの場所でしたわ」
有為子はふいと、路傍に立ち止まると、今さらのようにあの日のことを思い出して、身を震わせた。
「その時、あの女はまるで、紫色の風のように、さっとあたしのそばを通りすぎていったので、顔はよく見えませんでした。でも、あたしが下に見える、あの養魚場まで行って、ふと向こうの崖《がけ》を見ると、ちゃんとその人が土岐といっしょに歩いているのが見えたんですの」
慎介は歩きながら、うっかりと有為子のその話を聞いていたが、何を思ったのか、不意にぎょっとしたように、
「有為子さん、その時あなたは、養魚場へ行くまでにどこかへ寄り道しましたか」
「いいえ、どこへも、どうして?」
「それで、あなたは養魚場へ着くと、すぐ、あの崖の上を見たんですね。すぐに」
「ええ、すぐというより、むしろ、養魚場へ行き着かない前でしたわ」
なぜそんなことを尋ねるのかと言わんばかりに、有為子は不思議そうな表情をした。慎介はそれに満足した説明を与えようともせず、
「圭子、きみは足の速いのが自慢だったね」
と、妙なことを言い出した。
「あら、どうしてそんなことをお尋ねになるの。なんなら有為子さんに尋ねてちょうだい。学校時代あたしランニングの選手だったのよ」
「よし、それじゃひとつ試してみよう」
慎介はみんなを連れて、さっき有為子が立ち止まった場所まで引き返してくると、
「よござんすか。有為子さんはここであの日、紫の女とすれちがった。そして有為子さんは養魚場まで行って、崖の上にその女が立っているのを見た。そんなことがはたしてありうるかどうか試してみるんです。圭子、きみは紫の女の代わりになって、できるだけ大急ぎであの崖の上へ行くんだよ。それから有為子さん、あなたはあの日と同じくらいの速力で、養魚場のほうへ行ってください。いや、あの日よりむしろ、ゆっくりとした歩きかたのほうが、あとに疑問が残らなくていいでしょう」
圭子と有為子は思わず眼を見交わした。彼女たちにも、どうやら、慎介の考えていることがわかってきたらしいのだ。
「やってみるわ。あたし、おもしろいわ」
こんなことの大好きな圭子は、何か途方もない冒険でもたくらむように活《い》き活《い》きと眼を輝かせて呼吸を弾ませた。
「よし、それじゃ圭子、崖の上へ行ったら、ぼくたちを待っていてくれたまえ。われわれもあとから行くから。さあ、ここで有為子さんと紫の女はすれちがったのだ。ほら、圭子」
慎介の声とともに、圭子は大急ぎで崖の上のほうへ走り出した。その姿はすぐ向こうの曲がり角から見えなくなった。
それを見送ってから、有為子は養魚場の方へゆっくりと歩いていく。慎介とジュリアンはそのほうへついて行った。
海はあの日と同じように、碧《あお》く晴れ渡っている。日は暖かだったが風は冷たかった。
「それくらいの速力でしたか。もっとゆっくりでもいいのですよ」
「ええ」
有為子は緊張のために真っ蒼になりながら、そろりそろりと坂を下りていった。間もなく彼らは養魚場へ着いた。そして崖の上を見た。しかし、圭子の姿はまだ崖の上に現われていないのである。
「まあ、どうしたのでしょう。あの時にはもうちゃんと、崖の上に姿が見えましたのに」
慎介は時計を出して、圭子が現われるまでの時を数えはじめたが、圭子の姿はなかなか見えなかった。二分と過ぎ、三分と過ぎ、五分と過ぎたが圭子の姿はまだ現われない。
「圭子の奴、どうしたんだろ」
さすがの慎介も多少いらいらしはじめた時、やっと圭子の姿が向こうの崖の上に現われて手を振った。
「七分。――七分かかりましたよ。さあ、それじゃわれわれも向こうへいってみましょう」
彼らは今来た道を引き返して、崖のほうへ登っていったが、圭子がどうしてあんなに長くかかったか、自分たちで歩いてみてすぐわかった。その崖は見たところ、いかにも近そうに見えるのだが、そこへ行く道はいわゆる九十九折《つづらお》りにくねくねと曲がっていて、すぐ崖が眼の上に見えていても、なかなかそこへは近寄れないのだった。
「わかりましたか、有為子さん」
その上まで来た時、慎介は額の汗をぬぐいながら、みんなの顔を見て、
「圭子は大急ぎで走ったのだけれど、しかも有為子さんが養魚場へ行き着くより七分も多くかかっている。ましてや、あの日有為子さんがすれちがった紫の女は、もっと長くかかったのに違いない。それにもかかわらず、有為子さんはあの日、養魚場へ行き着いた時、すでに紫の女が俊吉君といっしょに、崖の上を歩いているのを見たという。これは不合理のようだが、その実考えてみればなんでもない。有為子さんはいずれの場合にも、その女の顔をはっきり見たわけではなく、ただ紫の羽織でそう思い込んだだけなのだから。つまり、有為子さんが道で会った女と、崖の上で見た女とは、同じ女ではなかったのです。したがってあの日、伊豆山には紫色の羽織を着た女が二人いたことになるんです」
「そして、その一人がお勢なんですね」
ジュリアンが突然悲痛な声で言った。
「そう、おそらく、有為子さんが道ですれちがった女、それがお勢君だったのだろう。だがそのお勢君がどうなったか、それを決める前に、この崖の上でどんなことが起こったか、それを調べようじゃありませんか」
いいながら、慎介がポケットから取り出したのは、いつか黒眼鏡の男が有為子のもとへ送ってきた写真、俊吉が瓜生夫人の咽喉を絞めている、あの恐ろしい写真なのだ。
慎介はその写真とあたりを見比べながら、
「ああ、ちょうどここだ。ここにこの岩が写っている。青沼君、それから有為子さん、いや、有為子さんじゃ悪いな、圭子、おまえひとつやってくれ」
「やるって何をやりますの」
「青沼君と二人で、この写真と同じポーズをとってもらいたいんだ」
「まあ!」
さすがに圭子はちょっと怯《ひる》んだが、すぐに朗らかに微笑《わら》って、
「いいわ、やるわ、有為子さんのためなんですもの。だけどジュリアン、お手柔らかに頼んでよ。ほんとうに咽喉を絞めちゃいやよ」
「いや、どうかわかりませんぜ。ぼく、奥さんみたいなきれいな人を見ると、むやみに咽喉を絞めたくなる性分でしてね」
「馬鹿、変態ね、冗談も休み休み言うもんよ」
だがそういう無駄《むだ》口をたたいている彼らの顔こそ、観物《みもの》だった。蒼《あお》く緊張した顔は、あの恐ろしい瞬間を思い出して、いくらか汗ばんでさえいるのだった。
「あなた、これでよくって?」
「ああ、ちょっと待って?」
慎介は例の写真と見比べながら、
「ああ、圭子、もうちょっとこっちを向いて、それから右の手を草の上について」
「こう?」
「そうそう、有為子さん、どうです。どこか違ったところがありますか」
有為子はあの恐ろしい写真と、そっくり同じにとられたポーズに、思わず身震いしながら、
「そうね、もう少しあの岩のほうへ寄ってやしないでしょうか。写真だと岩がここに見えてますわ」
「あ、なるほど――二人ともその姿勢でもう少し右のほうへ寄ってくれたまえ。よし」
慎介は眼をすぼめて、二人のポーズをながめていたが、やがて自分で持ってきたカメラを取り出すとピントグラスをのぞきながら、あちこちと足場を探しだした。
「ああここだ」
慎介はついに求める場所を発見したのであろう。会心の叫びをあげると、
「有為子さん、有為子さん、ちょっとこっちへ来て、このピントグラスをのぞいてみてください。ここでシャッターを切ると、例の写真とすっかり同じ構図で写真が撮れると思うんです。左右の空間も天地も……」
有為子が近づいて見ると、慎介のカメラは灌木《かんぼく》の茂みに覆われた、平たい岩の上においてあるのだった。
「どうです。違っていますか」
「いいえ、すっかり同じですわ。あの岩の位置も……」
暗いピントグラスの上に、はっきりと映っているジュリアンと圭子のポーズを見ながら、有為子は思わず身震いをした。
[#小見出し] 恐ろしき真実
「あなた、まだなの」
さっきから同じポーズをつづけている圭子が灌木の向こうから、こちらを向いてそう言うのがピントグラスに映る。
「あ、まだ。青沼君、すまないがもう少しそのままでいてくれたまえ、有為子さんにまだ見ていただくことがあるのだから」
慎介は有為子のほうへ振り返ると、
「これでわかったでしょう。この恐ろしい写真が撮られた時には、カメラはちょうどこの位置にあったのです。この写真は、どうやらローライ・フレックスで撮影されたらしいので、ぼくもわざわざ同じカメラを選んで社から借りてきたので、間違いはありません。つまりシャッターが切られた時、カメラはこの灌木の陰の岩の台の上においてあったのです。わかりますね」
「ええ」
「それじゃもう一度、このピントグラスをのぞいてください。それから、この写真と、ピントグラスの上に写っている映像との間に、どこか違っているところがありはしないかよく調べてください」
「はあ」
有為子は、熱心に二つを見比べながら、
「さあ、よくわかりませんけど、全く同じじゃございませんかしら」
「有為子さん、もっとよく気をつけて、その写真に写っている孔雀夫人の右手と、圭子の右手を見比べてください」
「ああ、そういえば孔雀夫人は地面についた掌の下に何やら黒いものを握っていますわ。それから、すぐそのそばの草むらに、黒い紐《ひも》のようなものが見えます」
「ありがとう。それじゃもうしばらくそのピントグラスの中をのぞいていてください」
言いながら慎介はポケットから、黒い長い紐を取り出すと、それをカメラのシャッターにとりつけ、そしてその紐を草の中に隠しながら、地面を這《は》わせて、圭子の右手に握らせた。それは長い長いレリーズなのだ。
「有為子さん、こんどはどうです」
「あ、それです。その紐です」
ピントグラスをのぞきながら有為子が叫ぶ。
「よろしい、圭子、今握らせたレリーズを、そのままのポーズで押してくれたまえ」
パチッ! カメラのシャッターが鳴った。
「まあ!」
有為子も圭子も、青沼も思わずびっくりして声を立てた。
「それじゃ――それじゃあの写真を撮ったのは、孔雀夫人自身だったんですの」
「そうなんですよ。青沼君、圭子ももういいよ。ありがとう。ぼくはね、お芝居をしながら、自分の姿を、その共演者にも知られずに写真を写せるということをきみたちに知ってもらいたかったのだ。孔雀夫人はね、あらかじめあの灌木の陰にカメラを用意しておいて、そしてそのレンズの視野の中に、俊吉君を誘《おび》き出したのだ。そこでどういうふうに、土岐君を煽動《せんどう》したのかそこまではぼくにもわからないが、不意に俊吉君はカーッとして夫人の咽喉に躍りかかる、それこそ夫人にとっては待ちかまえていたチャンスなのだ。夫人は草の上に倒れるような格好をしながら、レリーズを押してカメラのシャッターを切ったのだよ。今、圭子がやったように」
「あ、それじゃ土岐がその時あたりにだれもいなかったというのは、やっぱり真実だったんですね」
「そうですとも、夫人自身がカメラマンと俳優との一人二役を演じたのですから、あたりにだれもいる必要はなかったのです。さてそのあとでどんなことが起こったか。――」
「ああ、恐ろしい、お勢、お勢!」
ジュリアンが不意に海に向かって叫んだ。彼の額は幽霊のように蒼白《あおじろ》んで眼は悲痛な涙にぬれているのだ。
「ああ、ジュリアン、きみにはすっかりわかっているのだね。そうだよ。土岐君は一時の激情から覚めると、急に恐ろしくなって夫人をおいたまま逃げだしたのだろう。そのあとへやってきたのが何も知らないお勢さんなのだ。夫人はそれを待ちかまえていたのだ。夫人はいきなりお勢さんを刺し殺すと、その顔を鑑別のつかぬようにめちゃくちゃにしておいて、この崖の上から投げ落としてしまったのだ」
「ああ」有為子と圭子は思わず、恐怖のために歯をガタガタ鳴らせながら、こめかみを押さえる。
「孔雀夫人は恐ろしい女なのだ。受けた侮辱は、どのような方法ででも、相手に撥《は》ね返さなければ承知のできない、蛇《へび》のように執念ぶかい女なんです。夫人は土岐君に対する復讐《ふくしゆう》を悪魔のような頭で、練りに練った。そして結局こんな恐ろしい方法を思いついたのです。花婿を、新婚旅行の旅先から、殺人の嫌疑《けんぎ》で逮捕させる、可哀そうな新郎新婦にとって、これほど恐ろしい復讐方法があるでしょうか」
さすがの慎介も慄然《りつぜん》としたように肩をすぼめながら、
「しかし、そうはいっても夫人は自分自身死ぬのはやっぱりいやだったんですね。いや、死んでしまえば、はたして自分の復讐がうまくいったかどうかわからない。そこで可哀そうなお勢さんが身替わりに選ばれたのです。お勢さんが選ばれた理由は、おそらく背の高さや、体の格好や肉付きが、非常に夫人に似ていたからでしょう。さて、こういうことがわかるといつか黒眼鏡の男が有為子さんの貞操を奪おうとした時まず最初に青沼君のところへ来たわけもわかるでしょう。あいつはお勢さんからきみの噂《うわさ》を聞いていたんです」
「でも――でも――」有為子は恐怖におののきながら、
「その、黒眼鏡の男は――あれはいったいだれですの」
「有為子さん」慎介は有為子の眼の中をじっとのぞきながら、一語一語に力をこめて言った。
「あなたにはまだわからないのですか。黒眼鏡の男なんて、そんな人間はこの世の中にいやしないのです。あれこそ、孔雀夫人その人の化身《けしん》なんですよ」
[#小見出し] 埋もれ火
凶事にあった印象というものは、なかなか一朝一夕にはぬぐい去ることができないものである。あの事件以来、一見しただけでも凶々《まがまが》しい雰囲気《ふんいき》に包まれているかのようにみえる、瓜生博士の邸宅へ、ある日、物思わしげに訪ねてきた一人の女性がある。
「先生は御在宅でございましょうか」
年齢に似合わず、地味な服装をしたその女性は、取り次ぎに出た書生の顔を見ると、ひかえ目な、しかし、どっか思い迫ったような眼付きでそう言った。
「はあ、御在宅でございますが、今、少しお加減がお悪いので」
「まあ」
訪問客は思わずおびえたような眼の色をして、
「よほどお悪いのでございましょうか」
「そうですね。私にはよくわかりませんが、しばらく安静にしなければならぬという医者の注意で、どなたにも御面会はお断わりしておりますが」
書生はあたかも、自分自身がドアの閂《かんぬき》ででもあるかのように、冷たく、厳然として言った。それを聞くと、婦人は思わず、
「ああ」
と、噛《か》み殺すような苦痛の呻《うめ》き声を漏らしたが、すぐすがるような眼をあげると、
「あなた、お願い。先生にお取り次ぎくださいな。ぜひともお目にかかって、先生にじきじきお願い申しあげたいことがございますの。あなた、……お願い。……」
危うく泪《なみだ》になりそうな婦人の、円《つぶら》なる眸《ひとみ》を書生はまたとなく美しいと思った。
「はあ、それは一応お耳に入れてもよろしゅうございますが、お名前は?」
「土岐。――土岐有為子とお伝えくださいまし」
「あ」
書生は危うく低い叫び声を漏らすところだったが、やっとそれを抑えると、
「承知しました。しばらくお待ちください」
書生がさがっていったあと、有為子は崩れるように玄関のベンチに腰をおろすと、黒い手袋をはめた手でしっかりと顔を覆うた。これから、自分が決行しなければならぬ、重大な使命のことを考えると、彼女の胸は千々《ちぢ》に砕ける。自分の一挙手一投足、それのみに今や、夫、俊吉の生命がかかっていると思えば、繊弱《かよわ》い女の胸の、泉のように湧《わ》き出づる不安に、今さらのごとく震えおののくのだった。
孔雀夫人は生きている。伊豆山の崖下《がけした》で発見されたあの屍体《したい》は、じつは孔雀夫人ではなかったのだ。
このあいだの伊豆山の実地検証で、圭子の夫から、その恐ろしい事実を説きあかされた時、有為子は暗雲一時に晴れる思い、すぐにも夫を救い出すことができるものとばかり、歓喜に胸を震わせたのだが。
事実は女ごころの考えるように、そうひと筋にはいかなかった。
頑《かたくな》な警察官を納得させるのには、それ相当の証拠がいるのだ。島津慎介の証明はことごとく筋道が立っている。どこにも不合理なところはない。ましてや孔雀夫人の性質を知っている者には、これこそ、最も合理的な犯罪の真相と考えられる。しかし、その真相はあまりにも突飛だった。世間の常識からかけ離れていた。そこに証拠を必要とする重大な理由があるのだ。
だが、その証拠。――その証拠がどこにあろう。屍体はすでに火葬に付せられた。しかも孔雀夫人の夫なる瓜生博士は、その屍体をおのが妻に違いないと証言してしまったのだ。
この上はただ生きている孔雀夫人を警察官の面前に連れてくるよりほかに、この事件をくつがえす方法はない。しかし、そんなことができるだろうか。あの狐《きつね》のように邪智ぶかい、狡猾《こうかつ》な夫人が、そう易々《やすやす》と発見されるだろうか。おそらく彼女は、それが必要とあらば、自分の身を殺してでも、この陰険きわまる復讐《ふくしゆう》を遂げようとするであろう。
もし彼女が、人知れぬ異境の果てで自殺したら、いやいや、永遠に帰らぬ決心をもって、この国から外へさまよい出たら。――ああ、その時には夫を救うチャンスは完全に失われてしまうのだ。
有為子は一度望んだ光明から、かくして再び眼隠しをされてしまった。そこには、暗澹《あんたん》たる絶望の溜息《ためいき》があるばかり。
だが、その時、慎介がまたこんなことを有為子にささやいたのである。
「有為子さん、有為子さん、何もそう失望することはないのですよ。ここにもう一つだけ土岐君を救うチャンスがあるのです。そして、それができるのは、有為子さん、あなたをおいてほかにないのですよ」
「おっしゃってください。あたしどんなことでもやりますわ。土岐を救うことができるなら」
「それはねえ、瓜生博士から告白をひき出すのです」
「え? 瓜生先生から」
「そう、博士はね、あの屍体が夫人のものでないことをちゃんと知っているんです。知っていながら、わざと偽りの証言をしているんです。わかりますか。むろん博士が夫人と共謀しているとは思えませんが、あの屍体を見たとき、利口な博士のことだから、すぐ夫人の計画を見破ったに違いありません。それにもかかわらず博士は、夫人の都合のいいように証言してしまったのです。なぜでしょう。つまり博士はそれほど土岐君を憎んでいるんですね」
「まあ!」
「だから博士に今さら、前言をひるがえさせ、真相を告白させるということはおそらく、石に物を言わせるより困難なことでしょう。だが、こうなってはそれをやらなければなりません。そして、それのできるのは、有為子さん、あなたよりほかにないのですよ」
「…………」
「博士は悪い人じゃない。しかし、あの人は恩讐《おんしゆう》ともに報いるといった性質の人なのです。土岐君に裏切られたと信じたその瞬間から、博士の胸は冷えきった灰の中に埋められてしまったのです。その死灰に、も一度人間の温か味を通わせることのできるのは、有為子さん、あなたの誠実、それよりほかにありえません。やってみる勇気がありますか」
「やります。あたし、やってみます。先生にお願いしてみます」
健気《けなげ》にも即座にそう言い切って、そして今、瓜生邸の玄関に立っている有為子だった。
よほど待たせてから、書生は再び玄関へ姿を現わした。その顔を見た刹那《せつな》、有為子は断わられるのではなかろうかと、思わず胸を震わせたが、相手は案外優しく、
「お目にかかるそうです。どうぞ」
と、有為子の前にスリッパをそろえてくれる。有為子は宙を踏むような、定かならぬ歩調で、その後ろからついていった。
重いカーテンを閉ざした薄暗い部屋、重病患者特有の、すえたようなにおい、有為子ははっと胸をつかれるような思いで、ドアのところに立ち止まったが、そのとたん、ベッドからかすかに頭をもたげた博士の眼と、ちかっと行きあってしまった。
有為子は直接、博士にお目にかかるのは初めてだったが、俊吉のアルバムに貼《は》られた写真でその面影はよく知っていた。しかし、その面影と今目の前にいる博士の面差《おもざ》しの、なんという大きな違いであろう。
憔悴《しようすい》しきった顔色には、ほとんど生気というものが認められない。ただ、落ちくぼんだ、落ちくぼんだがゆえに、いっそう熱っぽく輝いている双《ふた》つの眸《ひとみ》ばかりが有為子の眼を射た。
「有為子さんかね」
咽喉に痰《たん》がからまるような声だったが、思ったよりその調子は穏やかだった。
「何しに来ましたか」
「先生!」
ベッドのそばへ駆けよった有為子の眸からは、不意に、泉のように泪があふれてきた。博士に対する一途《いちず》なる怨《うら》みも、その瞬間、消えてしまって、胸をしめつけられるような切なさが、ひしひしと彼女の感情をたぎらせるのだ。
「お願いが――お願いがあってまいりました。先生、土岐を――土岐を救ってやってくださいまし」
「土岐を?」
「先生、わたくし今さら、土岐に代わって、なんの弁解をしようとも思いません。ただ、先生におすがりするばかりですの、先生、わたくし土岐を愛しております。そして土岐も――土岐もわたくしを愛しております。土岐の過去にどのような間違いがあろうとも、この愛情だけは、偽りはございません。先生、土岐をわたくしに返してくださいまし」
どう言って博士をかき口説こう。いかにして博士の心を動かそうと、みちみち思い悩んできた彼女の懸念《けねん》はすべて無用だった。今博士のベッドにひれ伏した時、切々たる彼女の哀願は、掘りあてられた地下水のように、あとからあとから湧き出《い》でてくる。
「先生、この娘を哀れに思ってくださいまし。そしてこの娘に、愛する者をも一度返してくださいまし。先生にはそれがおできになるのですわ。ああ、そして、先生はきっとそれをしてくださいますわ」
燃えるような両手の中に、拝むように抱きしめた博士の、ひからびた手の上に、はらはらと熱い泪《なみだ》がこぼれ落ちた。そしてその泪の灼《や》けつくような熱さが、氷のように冷たい博士の胸に滲《し》みとおった。博士は思わず身震いをした。
「有為子さん。それじゃきみは――きみは知っているのだね」
「はあ、よく存じております。でも、でも、あたし決して先生をお怨みしやしませんわ。いいえ、実は、たった今先生にお目にかかるまでは、ずいぶんお怨みしておりましたの。でも、でも、今先生のお顔を見たとたん、そのお怨みも消えてしまいました。先生、あたし先生がお気の毒で、――お気の毒で、――」
博士の全身が再び、わくら葉のようにちりちりと激しく震えた。有為子の嗚咽《おえつ》が、かみ入るような嗚咽が、博士の生命の根を、根こそぎ揺すぶるのだ。
「有為子さん、有為子さん」
博士の切ない、今にも息切れのするような声がつぶやいた。
「私に、――私にきみの眼を見せておくれ」
「はい」
有為子の、泪をいっぱいたたえた眼が、童女のように潔《きよ》らかな眼が、博士の灰色の眸の中に、しっかりと食い入ってきた。
「有為子さん、きみは、土岐を愛しているね」
「はい、愛しております」
「土岐の言うことなら、どんなことでも信用することができるのだね」
「信じます」
「ああ」
博士はがっくりと首をうなだれると、
「信じることのできる者は幸いだ。おれは――おれはだれをも信用することができなんだばかりに、世の中が実に淋しかった。おれは不幸だった」
博士はしばらく、うつろの眼をあげて、じっと虚空《こくう》を見ていたが、その皺《しわ》の深い眼尻《めじり》に、かすかな泪を浮かべると、
「有為子さん――ペンと紙を」
「はい」
博士の容態が妙にしいんと静かになってきたので、有為子ははっと胸騒ぎを感じながら、傍らのデスクの上にあった万年筆と便箋《びんせん》とを取り上げた。
「筆記してください。私の言うとおり筆記してください」
「はい」
有為子は騒ぐ胸を鎮めながら、万年筆を握ってきっと博士の面を見た。
「余、瓜生謙三は曩《さき》に熱海署においてなしたる証言を、改めてここに取り消さんとする者なり」
有為子の細い指先が思わず震える。
「十月十七日、伊豆山の崖の下において発見されたる身元不詳の女の屍体は、実に余が妻奈美子にはあらざりき。余は当時すでにその事実に気づきおりたるも、ゆえありてそれを言わず、偽りて奈美子の屍体なりと証言したり。奈美子は死せるにあらず、いまだ生存しおれり、余は現にその後数度、男装せる奈美子をこの眼にて目撃したり。余は重ねて前の証言を取り消す。かの屍体は奈美子にあらず、したがって土岐俊吉は無罪なり」
「先生、先生――」
「ペンを――ペンを――」
博士は震える手で、その告白書の最後に署名した、それから拇印《ぼいん》をおした。そしてそれが、博士のなしうる最後だったのである。
告白書の上に指を押しつけたまま、博士はこの世における最後の、苦悩にみちた長い長い息を吐いたのだった。
「先生、先生」
有為子が改めて礼を言おうとした時、博士の眼はもはや物を見ることができなかった。
[#小見出し] 紫の影
天城《あまぎ》は美しく晴れて、伊豆の連山がおだやかな起伏をつくっていた。
南国は春の来るのも早いのである。
山の水車小屋の軒にさがっていたつららが、やっと消えたかと思うと、もうあったかい春の若草が、溌溂《はつらつ》たる春の息吹《いぶ》きを吐きながら、土の下からはねかえってくる。
山の北側にはまだ点々と、斑消《まだらぎ》えの雪が残っているのに、どうかすると、チョン、チョンと、藪《やぶ》 鶯《うぐいす》のささ鳴きが聞こえたりする長閑《のどか》さだった。
天城の山のふところに抱かれた湯ケ島は、春の微光と湯煙に、空もほんのりとけむって、しいんと身にしみ入るようななごやかさ。
「有為子」
その湯ケ島にある、とある別荘のベランダで、ふと傍らにいる有為子を振り返ったのは、土岐俊吉。
「なあに」
有為子は今配達されたばかりの手紙から、ふと顔をあげると、陽気のせいだろう、ほんのりと上気して、きらきらと潤《うる》みをおびている眸《ひとみ》を、微笑とともに夫のほうへ向けた。
「圭子さん、何を言ってきたの」
俊吉は有為子の膝《ひざ》の上におかれた、女らしい筆の跡を見ながら尋ねる。
「圭子さんね、こんどの土曜から日曜へかけて、遊びにきてくださるんですって。御主人もいっしょよ。きっとあたしたちの様子が気になるのよ。こんなに幸福にしているのに」
有為子は楽しそうに言ったが、ふと微笑せぬ夫の、暗い翳《かげり》に気がつくと、すぐ話題を変えるように、
「ねえ、あなた、今日はひとつ、天城を越えてみない? 蓮台寺《れんだいじ》――いいえ、思いきって下田あたりまでハイキングしてみましょうよ。こんなにいいお天気ですもの。うちに引きこもっているの、惜しいわ」
有為子には夫の暗い翳がよくわかっていた。そしてそれは同時に彼女の不安でもあった。
瓜生博士の告白書は、事件の面貌《めんぼう》をがらり一変させてしまった。
被害者は奈美子ではない。奈美子はまだ生きている。そして、その孔雀夫人こそ、恐ろしい犯罪の計画者であり、実行者でもあった。――この意外な新事実は、世間をどんなに騒がせただろう。
改めて、俊吉に対する審理が、幾度も幾度も、前とは違った角度から繰り返された。島津慎介や、青沼ジュリアンや、はてはチャボまでが、幾度か証人として呼び出された。
こうして審理が繰り返されるほど驚くべき事件の真相が、次第に人々の面前に浮きあがってきた。
俊吉は無罪となった。そして放免された。
ああ、この時のたとえようもない激情。
「死刑から無罪へ」
新聞は最もセンセーショナルな題目として、大々的にこの事件を取り扱った。今まで殺人者として世間の指弾を受けた俊吉は、一躍して受難の聖者として迎えられた。おお、とりとめもない世間の心のはかなさ、彼の出獄はさながら、凱旋《がいせん》将軍のように迎えられたのである。
こうした激情の嵐《あらし》の中に取りかこまれた、若い夫婦の身を気遣って、ひそかにこの湯ケ島の別荘を世話してくれたのも、みんな思いやりの深い圭子の心遣いだった。
「いいのよ、そんなにお礼をおっしゃることはないのよ。だって、夫だってこの事件でずいぶん面目をほどこしたんですもの。こんなことを言っちゃ悪いけど、こちらこそお礼を言いたいくらいなの」
世間に隠れて都落ちする日、東京駅まで送ってきた圭子は、親愛をこめてそう言った。それから俊吉のほうへ向かって、
「土岐さん、有為子さんを頼んでよ。これ、あたしの可愛い妹なのよ」
そう言って朗らかに笑ったのである。
それからおよそふた月になる。
俊吉も次第に健康を取りもどしていた。そして、あの冷たい牢獄《ろうごく》の中におき忘れてきたかのような微笑も、春とともに、どうかするとその唇のはしにのぼることがあった。
しかしそれは縁側の障子にさす小鳥の影のように、あるいは波にたゆとううたかたのように、瞬間に消えるはかない微笑だった。微笑のあとには、いつも決まって、より深い苦悩が、俊吉の面をくもらすのだった。
そして有為子もその苦悩の原因を知っており、彼女も同じ不安に悩まされているのだった。
苦悩の種。――それはほかでもない。いまだに孔雀夫人が発見されないことだ。
警察の必死の捜索にもかかわらず、孔雀夫人は、どこへ潜りこんだのか、いまだに姿を現わさない。そしてどうかすると、目に見えぬ孔雀夫人の大きな影が、あの紫の影が、おびやかすように二人の上にのしかかってくる。
(ひょっとすると――)
有為子はときどき、どきりとすることがある。
(やっぱりあの崖下の屍体は孔雀夫人だったのではなかろうか)
疑ってはならない、信じなければならない、そう感じつつも、ふいと彼女は夫の顔を見直すことがある。
すると、たちまちそれが感染したように、俊吉もおびえたような眼をあげて、哀願するように有為子の顔を見るのである。
「二人はこんなに幸福にしているのに」
そう言った有為子の言葉は、だから、取りようによっては反語と聞こえないこともなかったであろう。
[#小見出し] 去年の雪
日向《ひなた》へ出ると、ジーンと耳鳴りのしそうな暖かさでいながら、そのくせ、いったん、山の陰へ入ると、汗ばんだ肌がいっぺんに冷えきってしまいそうな寒さだった。
「危ないよ、気をつけて」
「ええ、大丈夫」
わざと自動車道をよけて、危なっかしい間道を選んだ二人は、すでに、峠も越えて、南へ向いた斜面を滑るように降りていた。
「ほら、危ない」
「あ――怖かったわ」
消え残った雪に足を踏み滑らせた有為子は、危うく俊吉の胸に抱かれると、思わず声を立てて笑った。
運動のあとの、快い血色がほんのりと瞼《まぶた》を染めて、この時ばかりは、日ごろの懸念《けねん》も吹っとんでしまったようにみえる。彼女の足元に崩れた土くれが、深い谷底の中に落ちていった。
「まあ、ずいぶん深い谷ね。眼がくらみそうだわ」
「もう少し、楽な道を選ぶべきだったかな」
「いいの、このほうが、じろじろ人に見られなくて」
俊吉に抱かれたままの姿勢で、有為子はいつまでもそうして立っていたが、その時、思いがけなく、すぐ後ろの崖の上から、ざわざわと枯れ草を鳴らして降りてくる人の足音に、彼女ははっと俊吉のそばを離れた。
崖を降りてくる足音は、彼らのすぐ後ろで止まったが、そのとたん、
「まあ、お睦《むつま》じいことね」
谷を渡る小鳥のような、鋭い、金属製の声が二人の間に降ってきたのである。
「あ」
俊吉は瞬間、石のように固くなった。血の気がさっと一時に、頬から消えていった。夫のその様子に、ふと後ろを振り返った有為子も、そこに立っている人の姿を見ると、心臓に冷たいものを当てられたように、ゾーッとしてその場に立ちすくんでしまったのである。
茄子紺《なすこん》に金と銀で檜扇《ひおうぎ》を織り出した着物に、彼女独特の好みの紫の羽織がパッと眼に立って、やつれて色蒼ざめたがゆえに、ひとしお臈《ろう》たく見えるその女――。何人《なんぴと》と夫に尋ねるまでもない、いつぞや、有為子を圭子のもとまで送ってきた黒眼鏡の男――孔雀夫人の奈美子なのだ。
「あなた」
すがりつく有為子を後ろにかばって、俊吉は昂然《こうぜん》とひと足前に出ると、
「悪魔、おまえはここへ何しにきた」
「あなた、あなた」
「有為子、おまえは黙っておいで。奥さん、いいや、今じゃもう奥さんでもなんでもない。悪魔だ、おまえは私たちをいったい、どうしようというのだ」
「俊吉さん」
からみあっている二人の姿を、まじまじと意地悪い微笑でながめていた孔雀夫人の頬には、その時、不意にさっと蒼白い炎が燃えあがった。心おごれる女の、追いつめられたその境地において、初めてさっと燃えあがった憎しみと嫉妬《しつと》の表情だった。
「俊吉さん」
奈美子の針をふくんだ声が、冷たくあざけるように二人の面を打った。
「わたしはもう一度、この可愛い花嫁からあなたを取り返しにきたの」
「馬、馬鹿な。悪魔、向こうへ行け」
「いいえ。まいりません。あなたはそれができないと思っているのですか、ほほほほほ。俊吉さん、わたしはすでに生命を捨てた女ですよ。警察の手に捕らえられたら、どうせ生命のない女です。俊吉さん。生命をかけた恋というものが、どのようなものであるか、わたしはこの、小まちゃくれたあなたの奥さんに見せてやりたいのです」
ひらり、紫の袂《たもと》をひるがえすよと見るや、奈美子の華奢《きやしや》な指先に、ぎらりと銀色の小さなピストルが光った。
「俊吉さん、ここへ来て。わたしに接吻《せつぷん》して」
「あなた、あなた」
「ほほほほほ、小まちゃくれた可愛い奥さん、あなたは夫の唇が、あたしに触れるのを妨げることができると思ってるのね。お気の毒さま。今、あなたの面前で、二つの唇がしっかり合うところを見せてあげます。ただし、その時、俊吉さんの唇はすでに冷たくなっているんですけれどね」
白魚の指が、ピストルの引き金にかかった。
「あ」
白い煙が立って、ズドンという鈍い物音が谷から谷へと反響していった。しかし、その煙がもやもやと風に吹きはらわれたあとに、がっくりと路上に倒れているのは、意外にも俊吉ではなくて、孔雀夫人自身だったのだ。
「だ、だれ? だ、だれ?」
蒼白い奈美子の頬が、怒りに震えて、苦痛にあえぐ声がきれぎれに、血の中でのたうった。
「ぼくだ。奥さん、青沼ジュリアン」
「あ」
有為子も俊吉も、一瞬にして行なわれた、この意外な場面の進行にただ呆然《ぼうぜん》として眼を見はっているばかり。いつの間に、どうしてあとを尾《つ》けてきたのか、孔雀夫人がピストルの引き金に手をかけた刹那《せつな》、傍らの草むらの中から、ジュリアンが獣のように躍り出して、彼女の指を押さえたのだ。
弾丸は孔雀夫人の左肺を貫いていた。血が滴々として湿った路上を染めた。
「離して、離して、あなたには関係ないことだ」
「ぼくには関係がない? ははははは、奥さん、お勢を殺したのはだれだ。ぼくのいとしいお勢を殺したのは、孔雀夫人、あなただったではないか。それでも、このぼくには関係がないというのかい」
「あ」
孔雀夫人は不意に、白い眼をあげてジュリアンの顔を見た。
「奥さん、あなたがこの二人を憎むのは勝手だ。しかし、お勢をその復讐の道具に使うのは、少しお門ちがいだったろう。奥さん」
ジュリアンの眼が、まるで鬼火のように燃えあがった。落ちていたピストルを拾いあげると、きっと孔雀夫人の眼を見すえて、
「われわれをおもちゃにすることが、どんな恐ろしい結果をきたすか、今、見せてあげる」
「待って、待って、あの二人を殺してから――」
「まだ、まだ、そんなことを言っているのか」
「ジュリアン」
有為子が思わず、そばへかけ寄った時はすでにおそかった。引き金はひかれた。心|驕《おご》れる孔雀夫人の、うちひしがれた骸《むくろ》はむなしくそこに横たわった。
「ジュリアン!」
「いいんですよ」
すごいまでの冷静さをたたえて、混血児は冷たく微笑《わら》うと、
「これが、われわれの掟《おきて》なのです。有為子さん、それから土岐さん」
真っ蒼な顔をして、そこに立ちすくんでいる二人の顔を見比べながら、
「それにしても、あなたがたの恋には、ずいぶん大きな犠牲が払われましたね。土岐さん、有為子さん、この犠牲に対してでも、あなたがたはしっかりと、手を握りあって進まなければなりませんよ」
「青沼君」
「ジュリアン」
「さようなら、ぼくはお勢のところへ行きます。有為子さん、島津さんの御夫婦に会われたら、よろしく言ってください」
ジュリアンは右手をあげて、ピストルをこめかみにあてがった。そして、朽木《くちき》のようにどっとそこに倒れた。
孔雀夫人の血と、混血児の血が、混ざりあって、静かに、静かに消え残った去年の雪を染めていった。
天城はようやくたそがれて、抱きあったまま立ちつくしている俊吉と有為子の頬に早春の風が冷たい。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『塙侯爵一家』昭和53年2月25日初版発行