呪いの塔
横溝正史
[#改ページ]
目 次
[#表紙(表紙.jpg、横144×縦210)]
第一部 霧の高原
第一章 仮想探偵劇
大江黒潮
恋愛合戦
探偵劇の役割
七つの階段
道子の失踪
第二章 バベルの塔
南条記者
犯罪劇の復習
塔の怪人
東京へ
第二部 魔の都
第一章 屋根裏の奇人
壁図書館
峰岸夫妻
もう一つの死
第二章 憑《つ》かれた人々
恐ろしき復讐
田村時雄兄妹
フィルムの語るもの
仮面落つ
大江黒潮
[#改ページ]
[#小見出し] 第一部 霧の高原
[#改ページ]
第一章 仮想探偵劇
[#小見出し] 大江黒潮
一
深い夜霧をついて、列車は北へ北へと走っていた。碓氷《うすい》峠にさしかかってから、急にのろくなった。列車の音が、ゴトンゴトンと、人々の眠りを誘うように、単調なリズムを刻んでいる。
しかし、この二等車に乗っている人々は、もうだれも彼も眠ってなどはいなかった。いかにも旅路の終わりらしい、楽しい忙しさで、めいめい荷物の整理に余念がなかった。
「次はどこですか?」
ようやく荷物を――といっても簡単なスーツケース一つだったが――整理しおわった由比耕作が、ほっ[#「ほっ」に傍点]としたように座席のうえで、くつろいでたばこに火をつけているとき、たった今までぐっすりと眠りこんでいた中年の紳士が、むっくりと起き直ると、黒い眼鏡の奥で、眠そうな眼をしょぼしょぼさせながらそう訊《たず》ねかけた。
「もうすぐ軽井沢ですよ」
「ああ、そうですか」
男は霧に濡れた窓ガラスに額をこすりつけるようにして、外の闇《やみ》をのぞいていたが、やがて耕作のほうへ向き直ると、
「あなたもやはり軽井沢ですか?」と、訊ねた。
「ええ」と、耕作はちょっとはにかむように、「親しい友人がいるものですからね。四、五日そこで厄介《やつかい》になろうと思っているのです」
「それは結構ですね。私も――」と、男は白麻の胴着のポケットから、太い葉巻を取り出すとその端を噛《か》みきりながら、「しばらく軽井沢で骨休めをしようと思って飛び出してきたのですが、知人も何もありませんのでね」
「はあ、するとお宿のほうは――?」
「さあ、まあホテルへでも泊まるつもりでおりますが、今ごろから行っても部屋があいているでしょうかね」
「さあ」
耕作は思わずそうことばを濁しながら、もう一度、つくづくと相手の顔を見直さずにはいられなかった。
打ち見たところ、肉の厚い、血色のいい顔をした紳士で、いかにも硬そうな髪の毛が短く刈り込まれてきちんと左で分けられていた。円い鼻の頭と、かわいい唇《くちびる》のあいだには、短い、しゃれた髭《ひげ》を生やしていて、濃い眉根の下には、金縁の煤《すす》色眼鏡が光っていた。
その様子をみても、赤ん坊のように丸々とした左の指にはまっている、実印用らしい金の指輪からみても、この男が宿のあてもなしに、ぶらりと旅に出る種類の男とはどうしても受け取れなかった。
耕作は不思議そうにまじまじと相手の様子をみているうちに、ふとこの男が上野から乗り込んできたときのことを思い出した。列車が今まさにプラットフォームを滑り出そうとしたときである。何か大声で駅員と罵《ののし》りあいながら、よろよろとこの二等室へ跳び込んできた酔っ払いの紳士があった。顔を真っ赤に充血させて、吐く息さえ苦しげにふうふうといいながら、その男は耕作の前までよろけながらやってきた。
そしてそこにあいている席をみつけると、どっかと太った体をその中に投げ込んだのだった。そのとたん耕作は、プーッと酒くさい息を無遠慮に、真正面から吹きかけられて思わず顔をそむけたのだった。
「こ、こ、この席はあいているのでしょうな」
「ええ、あいていますよ」
耕作がそっけなく答えると、男は何かわけの分からぬことを、ぶつぶつと低い声で呟《つぶや》きながら、上衣をぬいで窓の側の釘にひっかけていたが、この男は、それほど酔っ払っていながら、まだこの汽車の中で飲むつもりとみえて、尻《しり》のポケットから小型ウィスキー瓶《びん》をとり出したのだった。
耕作があきれて思わず相手の顔をみていると、男は丸々とした頬《ほお》に子供のような笑いを浮かべた。
「ひ、ひ、一ついかがです?」
「いいえ、たくさん」耕作はあわてて眼を読みかけた雑誌のうえに落としながら、「僕はあまり酒は飲まないのです」
「そうですか、それは、それは――」
男はそんなことを呟きながら、瓶ごと口へもってゆくと、ごくりごくりと水でも飲むように一息に飲み干してしまった。そして瓶をからにしてしまうと、まるで鯨《くじら》が潮を吹くようにふうっと酒くさい息を耕作のほうへ吐きだした。
しかし、耕作は相手の様子をみているうちに、だんだん不愉快を忘れて、反対に滑稽《こつけい》な痛快味さえ覚えたのだった。そこで思わず軽いことばが口をついて出た。
「お見事ですなあ、どうも」
「いや、なに」
男ははじめていささかきまりの悪そうな微笑を浮かべると、
「失礼します」
と言いながら、座席のもたれに頭をくっつけたが、と、思うと、はや雷のように大きな鼾《いびき》を、厚い唇のあいだから吐きだしていた――
その男というのがいま、耕作の向かいに坐っているこの紳士だった。耕作はそのときのことを思い出して思わずにやにやと笑った。
「部屋がありませんかなあ、そいつは困ったなあ。こんなに夜遅く宿を探してあるくのも不愉快ですからなあ」
酔いからさめかけた男は、本当に困ったように、平手でぴしゃぴしゃと頬をたたいていた。
「まあ、そんなことはありますまいよ。何しろ今年は不景気ですからね」
耕作は慰めるように自分でも自信のないことを言った。
「そうですか。それだとありがたいのですが、――あなたは軽井沢へいらしたことがあるのですか」
「いいえ、今度がはじめてです」
「そうですか。私もはじめてです。知らない土地でホテルにはぐらかされちゃみじめですからね」
男はそう言いながらも、また窓の外をのぞいていたが、
「どうも大変な霧ですね。それになんだかうそ寒くなってきたじゃありませんか」
「ええ、東京とはだいぶ気温がちがいますね」
そう言いながら耕作は、相手の様子をみていたが、
「あなた、お一人ですか、奥さんはあとからいらっしゃるのですか」
と、訊ねた。
「妻? いいえ、なに、僕一人ですよ。つい気まぐれに跳び出して来たのですがね」
男は急に不機嫌《ふきげん》になった。それで耕作は仕方なしに、ポケットからたばこを探り出すとそれに火をつけた。
しばらく、気まずい沈黙がつづいていたが、ふと、男が思い出したように訊ねた。
「失礼ですが、あなた東京のお勤めは?」
「雑誌社につとめています」
「ああ、そうですか」
男は急に黒い眼鏡のおくで両眼をぎゅっと収縮させると、
「たぶん、そういう方面のお方だと思っていました。なに、御様子でたいていのことは分かりますよ」
そう言ってから何かしら思い迷っている風だったが、やっと決心を決めたように、
「それじゃあなたは大江黒潮という人を知りませんか。ほら、有名な探偵小説家の――」
「ええ?」耕作は驚いて相手の顔を見直しながら、「大江黒潮ですか? よく知っていますよ。実は僕、その大江黒潮に招待されて行くところなんです」
「あっ、そうでしたか!」
男はいかにも狼狽《ろうばい》したようにとんきょうな声をあげたが、すぐあわててそれに付け加えた。
「なるほど、大江黒潮氏も軽井沢にいるんですか」
しかし、そのことばは何かしら耕作の耳には、曖昧《あいまい》にひびいた。どこかにとってつけたようなぎこちなさが感じられた。
「あなた、大江黒潮を御存じですか?」
耕作は突っ込むように訊ねた。すると相手は激しく瞬《またた》きをしながら、
「私が? いいえ、どうしまして。私はただあの人の小説を愛読しているだけのことですがね。随分物凄いことを書きますね、あの人は――」
そう言いながらポケットから銀色の懐中時計を取り出すと、いかにもとってつけたように、
「おや、もう間もなく軽井沢へつきますね」
と言って、そのままくるりと横をむいてしまったが、その態度がどうも不自然であった。そしてよくないことを切り出したのを、いかにも悔《くや》むような様子が見てとられた。
耕作はその様子に何かしらこだわったもののあるのを感じて、それ以上追及する気にはなれなかった。
自分がこれから大江黒潮のところへゆくと聞いて、急に警戒しだした相手の態度がどうしても飲み込めないのだった。
なるほど大江黒潮は有名な小説家だし、ことにその作風が他の小説家と違っていつも血みどろで、陰惨で、刺激的だから、読者としてその作家に好奇心を抱くのは当然だった。それに、自分が雑誌記者だときいて、ふだんから興味をもって眺めているこの作家のことをきいてみるのも飲み込めた。しかし自分が大江黒潮のところへ行くときいて、急に話題を変えようとするのはいったいどういうわけだろう。むしろ彼が、単にこの有名な小説家に好奇心を抱いている読者に過ぎないとしたら、その家に招待されてゆくほど親しい間柄にある自分をとらえて、反対にいろんなことを聞くべきではなかろうか。
そこはさすがに探偵雑誌の編集者だけあって、由比耕作は知らず識《し》らずのうちに、相手の態度を分析しようとしていた。
そうだ、この男は大江黒潮に対して読者として以外に、何らかの理由で興味をもっているのだ。そしてもし、耕作が単に、雑誌記者と作家の関係で、大江黒潮を知っているのだったら、彼は自分の口からいろんなことを聞き出そうと思ったのかも知れない。
しかし、自分がその程度を越えて、大江黒潮と毎日親しく口を利きあう仲であることはかえってこの男を当惑させたに違いない。そういう人間に、この男はかりにも大江黒潮のことを訊ねるべきではなかったのかも知れないのだ。でなければ、自分の答えをきいて、この男があんなにも狼狽するはずがないではないか。
しかし、由比耕作はそれ以上のことになるとまったく見当がつかなかった。彼はまた、それを知ろうとも思わなかった。由比耕作というのはそういう男だった。
彼は探偵雑誌の編集者であり、また探偵小説の作家でもあったけれど、実際の探偵ではなかった。だからそれ以上現実に追及してみる興味も起こらなかったが、あとから考えてみると、この小さな事実が、その後起こった事件によほど大きな関係を持っていたのだった。
耕作が執念ぶかくぬらぬらとそんなことを考えているとき、列車は霧の中に激しく汽笛を鳴りひびかせながら、急に速力を落としてトンネルの中へ入っていった。
このトンネルを出たところに、軽井沢の駅があるはずだった。
二
由比耕作が大江黒潮の招待によって、今その訪問の途次にあるというのはこういう次第であった。
数日前のことである。
帝都の暑さにすっかり閉口しきっていた耕作のもとに、軽井沢にいる大江黒潮から手紙がやってきたのだった。
「やって来給え、由比耕作君」――と、その手紙はそんな風にはじまっていた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
東京の暑さは毎日新聞でみているが、それに比べるとこちらは楽天地だよ。それにいろんなおもしろい連中が集まっている。決して君を退屈させるようなことはないだろう。一日も早く雑誌の編集を片付けてやって来給え。それにこの招待は必ずしも君に対する同情からだけではないのだ。今いろんなおもしろい連中が集まっているといったものの、実は僕はもうその連中にそろそろうんざりしているのだ。せめて君にでも来てもらって、大いに議論でも闘わそうと思っている。
では一日も早く来給え。待っている。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]軽井沢にて
[#地付き]大江黒潮
由比耕作はその手紙をみると、すぐにでも荷物をまとめて、上野駅へ駆けつけたい衝動《しようどう》にかられた。それは、東京の暑さばかりが、彼をそんなに駆りたてたわけではなくて他に理由がないでもなかった。
この由比耕作という男は、探偵雑誌の編集をしているばかりでなく、自分でもときどき探偵小説を書いていた。彼はこの両|天秤《てんびん》式な生活にひどく不愉快を感じながら、それでいてそのどちらをもよすことができなかった。なぜならば、彼のこの二つの仕事から得る収入は、ほとんど同じくらいであって、そのどちらをよしてもたちまち収入が半分に減るわけだった。生活に対してひどく臆病なこの雑誌記者兼探偵小説家は、長いあいだ、だからどちらともつかぬ生活態度をとってきていた。そしてその過剰な仕事の負担のために、近ごろではだんだん生活に対して無気力になりつつあった。
最近いろんな機会にそれを意識してくると、さすがに臆病なこの男も、急に今までの両棲《りようせい》的な生活が不愉快になってきた。すると、この男のくせで、一時に何もかもさっぱりかた[#「かた」に傍点]がつけたくなったのであった。この男は今も言ったとおり、大変臆病であるくせに、物事が行きづまりになると、妙に図々しく、肚《はら》の据わってくるところがあった。それは度胸というのではなくてたかをくくるのだった。
「なあに、どうにでもなるさ」
それが行きづまったときのこの男のモットーだった。そして、最近とうとうそういう心境にまで行きついていた。
大江黒潮からの手紙が編集室へとどいたのは、ちょうど彼がそんな気持ちで仕事をしているところだった。彼はこの招待状をみると、急に大江黒潮に会いたくなった。そうして相手に自分の決心を語って、同意を求めたいという気持ちが動いたのだった。
それというのが、大江黒潮と由比耕作とのあいだは、単なる作家対編集者と、少しばかり様子が違っていたからである。二人は仕事をのぞいても、年こそ違っているが、気のあった友達だったし、作品においても互いに相手を扇動しあってきていた。むろん、その作家的名声の点においては、大江黒潮と由比耕作との間には比べものにならないものがあったが――
「よし、四、五日大江黒潮のところで遊んできてやろう。そして機会があったら今度のこの決心を語って同意を得よう」
そこで由比耕作は、それから数日後の今日、雑誌のほうの仕事を片付けて、上野からこの列車に乗り込んだのだった。
筆者はこの章において大江黒潮のことを書こうと思いながら、思わず由比耕作の最近の心境に多く紙数を費したが、大江黒潮のことなら、筆者が改めて語るまでもなく、諸君のほうでより詳しく御存じであるに違いない。
数年前、ある探偵小説の専門雑誌に、特異な作品を発表してより大江黒潮の名は一躍有名になった。以来、寡作《かさく》だ、寡作だといわれながら、彼は今までかなりの分量の作品を発表していたが、その作風のずば抜けて特異な点において、この作家は世間の注目と賞讃をよんでいた。どの小説もどの小説も、彼の書くものはことごとく不思議な猜疑《さいぎ》と、燃えたたぬ陰火《いんか》のような邪推《じやすい》に満ちていた。
あるものは犯罪者の夢のように血みどろであり、あるものは嫉妬《しつと》ぶかい女の妄想のように、ねちねちと、執念深い悪巧みだった。そしてそのことごとくに、精神異常者の呪《のろ》いと、歪《ゆが》められた性欲の匂いがあった。
この作家にはおよそ世間の道徳だの常識だの、人情だのということはまったく興味がないらしい。彼の描くところはことごとく裏の世界だった。明るい太陽に背を向けた、じめじめとした影の世界に発酵する悪と汚辱《おじよく》の生活だった。そしてそれが一度この作家の筆になると、まるでのぞき機械《からくり》をのぞいているように、おどろおどろしく浮き上がってくるのだった。
こういう作品を通して、読者はいったいこの作家はどんな異様な生活の持ち主であろう、そしてどんな奇怪な性欲生活をしているのだろうと想像していた。そしてそれについては、いかにもまことしやかな噂《うわさ》が世間に伝えられていた。
しかし、実際に会った大江黒潮は、まるきりその作品とはうらはらの、いたって温厚な、常識にとんだ、どちらかというと平凡でさえあり過ぎる一人の社会人でしかなかった。そして彼の作品では、いちばん排斥《はいせき》されているかにみえる人情家でさえあった。
作家の日常がその作品と似ても似つかぬ例は、しかし、そう大して珍しいことではなかった。だが、大江黒潮のばあいはそれがあまり極端なので、彼を最もよく知っているはずの由比耕作でさえ、ときには不思議に思うこともあった。そしてあるときは、深い疑惑を感じるばあいさえあった。
「これははたして、あの男の書いた小説だろうか。一見、平凡な何の変哲もない常識家の彼の、いったいどこにこんな恐ろしい空想がかくされているのだろう」
こういうばあい、耕作の頭はいつも大江黒潮のもう一人の友人のことが思い浮かぶのだった。
その男とは、由比耕作がまだ知らないころからの、大江黒潮の古い友達で、この男こそ、大江黒潮の小説を実地に生活しているように見えるのだった。
「大江黒潮の思想は、あの男に多分に影響されているのではなかろうか」
耕作はいつもそう考えるのだった。
しかし、その男のことを急いでここに語ることはよそう。われわれは間もなく、この物語の一方の大立者である、その不思議な男にいやでも対面しなければならないのだから。――
――筆者がこんなことを語っているあいだに、列車はようやくトンネルをくぐり抜けて、間もなく軽井沢の駅についた。
「ほほう、ひどい霧だ」
急にざわざわと座席から立ち上った人々は、だれもかれも、窓の外を見ると、思わずそう呟かずにはいられなかった。
実際それは馴れない者を面食らわせるには十分なほど深い霧だった。乳のように濃い水分が、じっとりとあたり一面に立てこめて、プラットフォームの灯が、軽羅《けいら》を透してみるようにぼんやり鈍く光っていた。その中を駅員の黒い影が、まるで幻燈のようにあわただしく行き来していた。何となくそれは水族館の水槽の中を思わせるような、妙に陰気な、物寂しい風景だった。
耕作は簡単なスーツケースをさげると、例の黒眼鏡の男のあとにつづいてプラットフォームに降り立った。たちまち冷たい霧が、目隠しをするように彼の眼界をさえぎった。その鼻先を、あわただしい旅客の姿が、魚のようにすいすいと横切った。
「大丈夫ですか?」
彼は急ぎあしに前を行く男の後ろ姿にこう呼びかけた。
「ありがとう。なんとか頼み込んでみましょう」
改札口を出ると男は運転手風な姿をとらえて、声高に交渉していたが、やがてきょろきょろとあたりを見回していた。耕作がのそのそとそのほうに近づいてゆくと、軽羅の向こうから、
「いや御心配をかけました。幸い、ホテルに部屋があるそうですよ」
「それは結構でした。ではさよなら」
「さよなら。いずれまた――」
やがて男を乗せた自動車の、赤いテールライトが、霧の中にとけ込んで行くのを見送ると、耕作は初めて自分自身のことを考え始めた。彼とても、土地不案内なこの深い霧の中で、ただ一人おっぽり出されてはどうすることもできなかった。電報を打っておいたから迎えがきていなければならないはずだが――彼があたりを見回しているとき、二、三間先で、人の話し声がきこえた。
「由比耕作さんというのはあなたではありませんか」
車夫のような影がそんなことを訊ねた。
「いいや」
訊ねられた男は、頭を振りながら相手から二、三歩離れた。
これを聞くと耕作は思わず声をかけた。
「おい由比ならこちらにいるよ。大江さんの宅からかい?」
「ああ、そちらですか――ちょっと待っていてください」
車夫の姿はすぐ霧の中に見えなくなったが、間もなく人力車の梶棒《かじぼう》をひいてこちらへ近づいて来るのがみえた。
「お待ち遠さま。つい、時間をまちがえたものですから」
そう言いながら車夫が梶棒を下ろした。その車夫の顔を見分けることもできないほど深い霧だった。
「とても、大変な霧だね。いつもこうなのかね?」
「そうですね。今年は特別に霧が深うございますね」
やがて、由比耕作を乗せた人力車は、湿った土のうえに、ゴム輪を軽く弾《はず》ませながら静かに走り出した。
耕作はその幌《ほろ》のあいだから、広いこの高原のうえに流れている霧を眺めながら、思わずぶるぶるっと冷たく身震《みぶる》いをして肩をすくめた。
そのとき彼は、この霧の中であんなに恐ろしい数々の事件に遭遇しようとは夢にも思わなかったのだけれど。――
[#改ページ]
[#小見出し] 恋愛合戦
一
大江黒潮の借りている貸別荘は、軽井沢でもいちばん遠いはずれにあった。海底のようにしん[#「しん」に傍点]と静もり返っている夜の高原を、ただ一台の俥《くるま》に身を託して走ってゆく由比耕作は、ふと言い知れぬ寂寥《せきりよう》と孤独に打たれた。
物音がまったく聞えないというのではない。しかし、その音はすべて、厚い霧の膜《まく》にとざされてどこか遠い、別の世界からきこえてくるように思われるのだ。自分の世界というものは、身のまわり二、三尺しかなくて、そのほかはすべて薄白い水滴によって遮断されているのだった。
「ねえ、君、君」
由比耕作は幌の中でたばこに火をつけながら、あまりの寂しさに耐えかねて、つい俥屋にそう声をかけた。
「へえ、なんでございますな」
黙々として走りつづけていた俥屋は、すこし息切れがしたような声で答えた。この俥屋の息遣いと、濡れた路上をひたひたとたたく足袋《たび》の音しか、耕作に交渉をもっている生活的な物音はなかったのだった。
「大江さんの宅にはお客さまが大勢いるというがほんとうかい?」
耕作はふうっと幌のあいだから、たばこのけむりを吐き出しながら訊ねた。けむりはしばらく、もやもやと幌のなかにたちどまっていたが、やがて次第に、海草のように縺《もつ》れながら外の霧の中に溶けこんでいった。
「ほんとうでございますよ。何しろあすこときたら大変でさあ」
「大変――? 大変ってどういう意味だい? そんなに大勢客が来ているのかい?」
「まあね。それに何しろ集まっている人が人ですからね。このごろじゃ軽井沢中で大評判ですよ」
「へへえ、何かそんなに評判になるようなことがあるのかい?」
「さあ、あっしにゃよく分かりませんが、旦那、恋愛合戦ってなんのことだね」
「恋愛合戦?」
耕作はいかに近代的な避暑地とはいえ、この田舎《いなか》駅の車夫から、あまり突飛《とつぴ》なことばをきかされたので、思わず俥のなかで苦笑いを洩らした。
「へえ、そうですよ。その恋愛合戦ったらないというんですよ」
「何がだい?」
「なにね、ほら、いまおっしゃった大江黒潮さんのお宅でさあ」
「ほほう」
耕作は思わず、唇からたばこを取りおとしそうになりながら叫んだ。
大江黒潮と恋愛――?
それはおよそ滑稽な、信じがたい取りあわせだった。あのお人好しの細君孝行の大江黒潮が、かりにもほかに愛人を作ろうなどとは、夢にも考えられないことだった。
「ねえ、旦那《だんな》、あっしにゃよく分からないんですがね、いったい、その恋愛合戦ってな、なんのことですね」
耕作の返事がなかったので、しばらくするとまた車夫がそう訊ねかけた。
「恋愛合戦かね」耕作は俥のなかで考えながら、「そうだね、小父さんは田舎の人だからよく知っているだろう、夏になると蛙《かえる》がうじゃうじゃ集まってうるさく啼《な》くことがあるじゃないか」
「へえ、知ってまさあ、ありゃ雄《おす》が雌《めす》を呼んでいるんで、中には雄同士かみあって死ぬことさえあるそうですぜ。そういや、よくその後で池のそばへ行ってみると、蛙の死骸がごろごろ転がっていることがありますぜ」
「そうそう、それだよ」
「へえ、なんですね」
「何さ、恋愛合戦というのは」
「なある!」
突然車夫がとんきょうな叫びをあげた。その拍子に俥ががたん[#「がたん」に傍点]と大きくゆれたので、耕作は思わず足を踏ん張りながら、
「おいおい、小父さん、気をつけておくれよう。大丈夫かね」
「すみません。しかし、旦那、それでよく分かりましたよ。なるほど、恋愛合戦というのはあれのことですかね。いかにもね」
「ははははは、いやに感心しているじゃないか」
「いや、そういうわけじゃありませんが、なるほどそう言われてみると、いかにも大江さんのお宅がそれなんでしてね」
車夫はそう言いながら、梶棒のなかでくすくすと笑っていた。
「ふうむ」
と、耕作は思わず呻《うめ》き声を洩らしながら、
「そんなにひどいのかねえ、町中の評判になっているほど」
「そうなんでさ。何しろあっしらの眼にだってあまりますからね。ねえ、旦那、大江さんの御主人は小説をお書きになるという話ですが、小説家の仲間なんてみんなああなんですかね。ほい、しまった、旦那もどうやらそのほうらしゅうございますな」
耕作はそれに対してなんとも答えなかった。別に憤っているわけではなかったが、第一、大江黒潮の家庭にそんなばかばかしい事件が起こりようがないと思っていたからだった。
しばらくすると、車夫がまた息をととのえながら言った。
「ねえ、旦那、旦那も大江さんのお宅に逗留《とうりゆう》なさるなら気をつけなきゃいけませんぜ。あんまりその恋愛合戦なんかの仲間に入ると、しまいにゃ蛙みたいに食い殺されちまいますぜ」
車夫の口調があまりまじめだったので、耕作は思わずくすくすと俥の中で笑い声をたてた。
「いや、冗談じゃありませんや。いまにあの家にゃ何か起こるに違いありませんよ。こんなこといっちゃ悪うがすがね」
耕作はそれをきくと何かいやあな気がして、それきり口をつぐんでしまった。こんな車夫の口の端にまでのぼっているとすると、よくよくのことに違いないと思ったが、もうそれ以上この車夫の口から聞く気にはなれなかった。
それにしてもいったいどんな仲間が大江黒潮の周囲に集まっているのだろうか。たいてい耕作は知っているつもりだったが、およそ恋愛などから縁の遠い人種ばかりだった。なるほど、黒潮の手紙にもおもしろい仲間がいると書いてあったが、とすると、自分のまったく知らない連中なのだろうか。――
耕作がそんなことを考えているとき、がたんと俥の梶棒がおりた。
「へえ、お待ち遠さま」
二
見るとそれは、蔓《つる》ばらを垣根に這《は》わせた、瀟洒《しようしや》な別荘風の建物で、垣根のおくから、明るい灯の色が乳色の霧に溶けこんで、夢のようにぼんやりと光っていた。
俥の音をききつけたとみえて、急に玄関に当たって、ぼっと明るく薔薇《ばら》色の灯がともった。
「由比さん?」
明るい、華やかな声が爆発するようにきこえた。
「へえ、お連れ申しましたよ」
「どうも御苦労さま。由比さん、いらっしゃいませ」
それはききおぼえのある黒潮の夫人、折江の声だった。どこか子供子供した、それでいて威厳を保とうとするかのような、一種特徴のある声音だった。
「とうとうきましたよ。大変な霧ですね」
垣根の門から小石を敷いた道を伝わって、やっと玄関まで辿《たど》りつくと、そこにぱっと明るく、まるで白い花が咲いたように折江の顔が浮きだしていた。
「大変だったでしょう。あらあら大変、あなたそんな姿でいらしたの。それじゃとても寒かったでしょう。こちらじゃこの二、三日、みんな冬支度でおりますのに」
事実、その時分には耕作は骨の髄《ずい》まで冷えていた。
「さあさあ、おあがんなさい。何か熱い飲物でもあげましょう。あなた、由比さんがいらしてよ」
「やあ、よく来たね」
タオルの寝間着のうえにどてら[#「どてら」に傍点]と羽織を重ねた大江黒潮が、そのとき無精らしく帯のあいだに両手を突っ込んで玄関に現われた。
「やあ、お手紙をありがとう。何しろこんなに涼しいとは思いませんでしたよ」
「なあに、涼しいのは涼しいが今夜は特別だよ。やあ、なるほど、こいつはひどい霧だな」
黒潮は玄関から外をのぞきながら、そのときはじめて気がついたような驚きかたをした。このごろまた太って、頬の筋肉がだらんとたるんで、両眼が寝不足らしく黄色く濁っていた。皮膚の色は白いというよりも、どこか生気のない青さで、いかにも不健康な生活を送っている人間らしく、挙動がのろのろとして牛のように大儀そうだった。
「どうです。お体のほうは?」
「うむ、まあ、相変らずだね」
やがて座敷へ通ると、折江が熱い紅茶にウィスキーを添えて持ってきた。
「いらっしゃいませ」
と、そこで改めてあいさつがすむと、折江は耕作の姿を見ながら、
「それでは大変ね。あなたの着替えでも出しましょうか」
「そうだね」
やがて折江が浴衣《ゆかた》のうえにどてら[#「どてら」に傍点]を重ねたのを持ってくると、耕作は手早く着替えをすませた。
「まあ、帽子も洋服もぐっしょりよ。これじゃ寒かったでしょう」
「ええ、ありがとう」
耕作は熱い紅茶にウィスキーを混ぜて飲みながら、かいがいしく立ち働いている折江の姿をみていたが、ふと、気がついたように、
「奥さん、いやにおめかしをしているじゃありませんか。どこかへお出掛けになるのですか」
「あら」
折江は洋服を洋服掛けに通して長押《なげし》にかけながら、ちらと良人の方をみた。
「あなた、どうしましょう」
「行ってきたらいいだろう。ごちそうのほうはねえや[#「ねえや」に傍点]にだってできるのだろう」
「ええ、用意はちゃんとできているんですけど――」
「どこかへお出掛けですか?」
「ええ」
折江はちょっと口ごもった。
「ダンスに行くんだよ。柄にもない」
「ほほう」
耕作は熱い紅茶で咽喉《のど》を焼きそうになって、あわててコップを下においた。そして改めて、折江の姿をつくづくと見上げた。女としては大柄のほうで、それだけに盛装をこらすと、ぱっと大きな花が開いたようなあでやかさがあった。耕作はふと、黒潮と知り合ったころのこの女の姿を思い出したが、その時分からみると五つ六つも年齢をとっていなければならないはずだのに、今夜みる彼女は、反対にその当時に比べて三つか四つは確かに若くみえた。
輪郭のはっきりした、眼鼻立ちの大きな顔なので、化粧をすると見違えるほど美しくなるのだ。それに着物が、そういう方面には趣味の薄い耕作には、なんという地だか分からなかったが、派手な模様の透《す》かし織《おり》で、そうしてりゅう[#「りゅう」に傍点]と立っているところは、姿勢はよし、上背はあるし、他人の女房ながら思わずあっぱれあっぱれと、昔の殿様のように白扇でもってあおいでやりたいような姿だった。笑うと金歯が艶《なまめ》かしく光った。
「それにしても驚いたなあ、奥さんがダンスをはじめるなんて」
「あら、そんなにばかにしたもんじゃありませんわ。由比さんもはじめたらどう? すぐ上手になりますわ。うちのにもすすめているんですけれどあのとおり無精でしょう。ダンスでも少しやると運動になっていいんですけれどね」
「しかし」と耕作は腕時計をみながら、「もう九時じゃありませんか。今ごろからでもいいのですか」
「なあに、ホテルへ行けば夜中踊っているんだよ」
黒潮はちょっと眉をひそめて言った。その顔色をみたとたん、耕作はふと、さっきの車夫のことばを思い出したのだった。恋愛合戦――? なるほど、これがそもそもその一端かな。それにしても、この他にはどんな連中がいるんだろう。耕作がそんなことを考えているとき、表のほうで自動車の停まる音がした。そして大きな声で叫びながら玄関に飛び込んで来た男があった。
「奥さん、お客さまはまだですか。今夜はすてきですぜ。夜中踊ろうじゃありませんか」
「あら、篠崎さん? 今こちらからお誘いに行こうと思ってたところなんですの。お客さま、さっきいらしたの」
折江は身支度をしながら言った。
「そう、じゃすぐ出掛けようじゃありませんか」
そう言いながら、ひょっこり座敷の入口に姿を現わしたのは、三十四、五の鼻下に美しい髭を蓄えたスマートな格好をした男だった。
「じゃ、先生、奥さんをお借りして行きます。やあ、失礼」
「由比耕作君です。こちらは篠崎宏君、日東キネマの――」
耕作は黙って畳のうえに頭をさげた。
この男は雑誌社なんかに勤めていながら、初対面の人間に会うと妙にはにかむ癖《くせ》があった。ことに、相手が派手な職業で、世間に知られている人物だと、一種の反感を混えて一層固くなるのだった。むろん、このばあい篠崎宏は、耕作に反感を持たれても仕様がないほど、世間的にも有名だった。日東キネマ撮影所の主席監督で、少し安っぽいけれど、日本の貧弱な映画界ではまず「名」という字をかぶせても、どこからも異存の出ない監督の一人だった。
「お支度ができたらそろそろ出かけましょうか。裏の山添さんは?」
「山添さんはさっき、岡田さんとお出掛けになりましたわ。それより京子さんは?」
「京子さんは昼からずっとホテルですよ。この霧をいいことにして、このごろじゃホテルに入り浸りでさ。中西のやつが離さないのでね」
「ほほほほほ、信ちゃんも大変ねえ。それじゃちょっと行って来ますわ。由比さん、あとをよろしく」
やがて賑やかな笑いをたてながら、二人は玄関を出て行った。間もなく警笛の音をけたたましく響かせながら、自動車の軋《きし》りが次第に遠のいて行くのが感じられた。
なるほど、なるほど、これはどうして盛んなことだわい――とそこで耕作は大いに感嘆したのだった。そしてなんだか嵐《あらし》の去ったあとのように、ぼんやりとはじめての座敷の中を眺め回していた。すると、そこに取り残された自分たちが、急にみじめに感じられてくるのだった。黒潮はとみると、これはさすがに泰然としていたが、どこか疲れたようなけだるさが、その全身に感じられた。
「だいぶ、賑やかなようですね」
しばらくしてやっと耕作がそれだけ言った。
「うん、少し賑やか過ぎて困る」と黒潮は青白い眉根をしかめながら、「僕にもウィスキーを少し入れてくれ給え」
と、冷えかけた紅茶のコップを耕作のほうに押しやった。
「入れ替えたらどうです。熱いのと――」
「いや、これでたくさん」
少しウィスキーを入れ過ぎた紅茶を、黒潮は苦そうに飲みながら、
「どうもあの連中をみていると、つくづく僕たちは意気地がないと思うね。篠崎という男なんか、あれで僕とほとんど同年輩なんだぜ。それであんなに振る舞えるのだから、僕も時にはうらやましいと思わないでもないね。ときに――」
と、そこで黒潮はそういう彼らを問題にしていることが急に不愉快になったものか、急に話題をかえた。
「君は、もちろん今度の僕の小説を読んでくれたろうな」
「『恐ろしき復讐』ですか。読みましたよ。なかなかおもしろいじゃありませんか」
「うんね」
黒潮は表情も変えずにそう言ったが、なんだかその声がかすかに震えているように思えるのだった。耕作は驚いて相手の顔を見返したが、それきり相手が黙っているので、
「世間の評判も大変いいようですよ。ことにあの殺人の場の描写ですね。あすこは実に凄いなあ。もっとも、あの場面をあまり長々と書いてあるというので、少し非難する人もあるようですが、僕はそう思わないな。あの小説はあすこがねらいどころなんですからね。僕はあれだけで十分だと思う」
耕作はウィスキーの酔いがまわってきたのか、一人まくし立てているうちに、相手がだんだん憂鬱になってくるのを感じてふと妙な気がした。と、それと同時に、彼の頭には口でしゃべっていることとはまったく別な考えが浮かんだのだった。それはいつも、黒潮が傑作を発表する度に起こる、ある不思議な疑惑だった。――これがあの男の頭に浮かぶ空想だろうか。こんな物凄い空想が、あの平凡な男のどこを押せば浮かんでくるのだろうか。――
耕作は今日もまた、その不愉快な疑惑が頭に浮かんだので、あわててそれを打ち消すように紅茶茶碗に口をつけた。
と、そのときである。
玄関のほうからあわただしい跫音《あしおと》とともに、二十七、八の美しい女が、取り乱した格好で座敷へ飛び込んできた。
女はこのひっそりとした座敷の様子をみると、びっくりしたように、
「あら、ごめんあそばせ」と、あわてて膝《ひざ》をつきながら、
「先生、奥さまは?」
「折江――? 折江は今ホテルのほうへ参りましたよ。お会いになりませんでしたか!」
「あら、そう、では入れ違いになったのでございますわ」
と、女は途方にくれたような面持ちをして、黒潮と耕作の顔を見比べていたが、やがて思い切ったように、
「じゃ、失礼しますわ。また明日――」
と、そのままそわそわと出て行った。その様子がひどく取り乱しているようで、顔色なども真っ青だった。
「だれです、あれは――?」
耕作は女の跫音が消えてゆくのに耳を澄ましながら、黒潮のほうを振り返った。黒潮もじっと聞き耳を立てていたらしかったが、
「この裏にやはり一軒借りて住んでいる女だがね、山添道子というのだ」
と、なぜか心配そうな顔で言った。
「一人ですか?」
「うん、一人で」
そう言っているところへ、今度はばたばたと靴の音がきこえた。その靴の音はしかし玄関のほうへは回らずに、庭伝いに座敷の外へ近づいて来たが、やがてガラス戸の外へ、若い男の姿が現われた。
「先生、先生」
そう呼ぶ声が、霧に濡れたガラス越しに、水を含んだように聞こえた。
「おや、岡田君じゃないか」
黒潮が大儀そうに立って行ってガラス戸をあけてやると、さっと白い霧が男の体を包んで部屋の中へ流れ込んできた。
「君はホテルへ行ってたんじゃないの?」
「ええ、行ってたことは行ってたんですが、あの――山添さんを御存じじゃありませんか」
「山添さんなら、今ここへ寄ってすぐ帰って行ったよ。どうしたんだい、一緒じゃなかったのですか」
「ええ、一緒だったんですが、山添さん、踊りの途中から急に気分が悪くなったと言って逃げるようにホテルを飛び出したんですがね」
「そういえば、何だかひどく取り乱しているようだったよ。君、喧嘩《けんか》でもしたんじゃないのかね」
「いいえ、僕は何も気に障ることを言った覚えはないのですが、何か僕のことを言っていましたか」
「いいや、そんなことはないがね」
黒潮の声はひどく冷ややかだった。
「どうしたんだろうな。わけが分からないなあ」
岡田という男はいかにも当惑したようにもじもじとしていたが、やがてあきらめたように、
「じゃ失敬します。お休みなさい」
と、耕作のほうは見向きもしないであたふたと出ていった。
「ありゃ、活動役者の岡田稔じゃありませんか」
「そうだよ」黒潮は簡単にそう言いながら外をみたが、
「ひどい霧だなあ。これじゃ明日も晴れる見込みはないなあ」
と言いながらピシャリとガラス戸をとざした。
なるほど、なるほど、――とそのとき耕作はまた考えたことだった。何しろ盛んなことだなあ。それにしても黒潮はいったい、彼らの中でどんな役割をしめているのだろう。――そう考えながら黒潮のほうを見ると、相手はまだガラス戸から外を眺めていた。その黒い後ろ姿が、なんとなくみじめで、影の薄い感じがしたのだった。
[#改ページ]
[#小見出し] 探偵劇の役割
一
その翌日、耕作が眼をさましたのは九時ごろだった。平常はいたって朝寝坊のくせに、はじめての家に来ると、どうしてもゆっくりと眠っていることができないのだった。家の中はまだだれも起き出さないとみえて、ひっそりと寝静まっていた。傍をみると、黒潮がやや黒ずんだような顔をしてまだよく眠りこけていた。鼻が悪いとみえて、ときどき口をひらいて、ひっかかったような寝息を洩らしている。
耕作はしばらく、寝床の中でもじもじとしていたが、やがて思いきって床を離れると、縁側へ出て雨戸を二、三枚繰ってガラス戸をひらいた。するとどっとばかりに、冷たい朝の空気が寝間着一枚の全身に襲いかかってきた。耕作はぶるぶると肩を震わせながら、それでも縁側の端にしゃがんでたばこに火をつけた。
霧はすっかり晴れていたが、空はまだ曇って、高原の上には冷たい朝の空気が水のように流れていた。そのすがすがしい景色が睡眠不足の耕作の眼にはいかにもさわやかだった。昨夜彼は、あれから随分おそくまで黒潮と話をしていたのだが、そのうちに、二人ともウィスキーの酔いがまわって、そのまま寝床を並べて寝てしまったのだった。だから耕作は、それから後折江が帰って来たのかどうかまったく知らなかった。
耕作が三本目のチェリーに火をつけていると、後ろのほうでもぞもぞと身動きをする気配がしたので、振り返ってみると黒潮が腹ばいになってこちらを見ていた。
「なんだ、ばかに早いね」
「うん」
耕作はたばこをくわえたまま冷たい縁側に横になった。
「ガラス戸をしめたまえ、そんな格好をしていると風邪をひくよ」
「奥さんは?」
「隣で寝ているよ」
「そう、僕はちっとも知らなかった」
「君はよく寝ていたね。もっともだいぶおそかったけれどね」
黒潮はそう言いながら、枕もとの敷島に火をつけた。耕作はしばらく縁側に寝そべっていたが、だんだん体が冷えて来るので「おお、寒い、寒い」と言いながら、またいま抜け出したばかりの寝床へもぐり込んだ。
「あすこのほうに――」
としばらくしてから、耕作はガラス戸の外を指しながら、
「何だか妙なものがあるね。塔のようなものが――」
「うん。バベルの塔か」
「バベルの塔――?」
「まあ、そう呼んでいるのだね。今年はじめてできたんだそうだ。一種の遊戯場だね。ほら外国なんかによくあるじゃないか。滑り台だの、回転木馬だの、観覧車だのって」
「ほほう、それはおもしろいね」
「もちろん」と、黒潮は敷島の灰を枕許の新聞のうえに落としながら、「それほど大げさなものじゃないがね。それに、日本人はだめだね。せっかくああしてこしらえたものの客がないんだね。だからこのごろじゃ立ち腐れみたいになっていて客を入れないんだよ」
「そいつは残念ですね」
「いや、僕たちは登ろうと思えば登れるよ。塔の番人のじいさんとすっかりねんごろになってね。われわれが行けばいつでも歓迎してくれるよ。なんならお昼からでも登ってみようか。ちょっとおもしろいところがあるよ」
「登りたいですね」
そんな話をしていると、急に枕許が暗くなったので、ふと頭をもたげてみると、縁先に二十ばかりの女があでやかに笑いながら立っていた。
「雨戸が開いていたから、ばかに早いと思ったらこのざまなのね」と、女は無遠慮に笑いながら、
「先生、あがってもいいでしょう」
「さあ、どうぞ」と、黒潮は相変らず寝床の上に寝そべったまま、「御紹介しよう。由比君。こちらは日東キネマの伊達京子さん」
「ほほほほほ、そんなのないわねえ」
と、京子はあわてて寝床のうえに起き直った、まだ眼糞をひっつけている由比耕作のほうに媚《こ》びるような流眄《ながしめ》をくれながら、あでやかに笑った。前にもいったように、こんな場合、耕作はまことに無器用な男だった。彼は寝床の上に起き直ってぺこん[#「ぺこん」に傍点]とお辞儀をしたものの、浴衣のあいだから膝小僧が出ているので、またあわてて膝を崩すと、そのままいつの間にやら、黒潮の真似をして寝そべってしまった。
「京子さん、今日は撮影がありそうですか」
黒潮は顎《あご》を畳にくっつけて空を睨《にら》むようにしながら訊《たず》ねた。
「さあ、どうですか」京子はどうでもよさそうに、「この分じゃまたお昼から霧ですね」
「しかし、そうのびのびになっても困るでしょう。会社の都合だってあるんでしょうから」
「だって仕方がないわ。今更場所をかえるわけにもゆきませんものね。ほかの場面がみんなここになっているんですもの」
「ああ、ロケーションですか」
耕作ははじめて気がついたように訊ねた。うかつ[#「うかつ」に傍点]な話だが、彼は少しもそれに気がつかなかったのだった。
「ええ、そうなんですの、もう二週間以上になりますのよ。あらかた撮ってしまって、あと二、三カットしかないのですけれど、あいにくとこの霧でねえ」
「うまくいっている。霧を口実に遊んで行こうという肚《はら》なんだろう」
「むろんだわ」京子はこともなげに笑った。
「それにしても大変な費用だなあ」と、耕作は、この男はすぐ金に換算してみるくせがあった。
「大勢いるんですか」
「ううん、監督の篠崎さんと岡田さんとあたしとカメラマンの四人。他の人はみんな帰ったの」
「それじゃ役者は二人きりですね」
「ええ、この二人のいちばん肝心なシーンが残っているのよ。そうそう、ところがね、急に役が一つ増えたの。それで今更撮影所から女優さんを呼ぶわけにもゆかないでしょう? だからこちらの奥さんにエキストラになってもらうことになっているんだわ」
京子はそう言いながら、黒潮の顔を見てなぜかにやにやと笑った。そしてその顔をすぐ耕作のほうに振り向けながら、
「篠崎さんの発案でね」と付け加えた。
耕作はそのことばの中にふと悪意を感じた。それと同時に彼は、京子の面に絶望的な媚びが暗くひろがっていくのを見遁《みのが》すわけにはいかなかった。なるほど! とそこで彼は思わず肚の中で手を叩《たた》いた。ここに黒潮の役割があったのだ。黒潮と京子、岡田と山添道子、篠崎と折江、――なるほど盛んなことだ。恋愛合戦、恋愛合戦! と彼はそう心の中で叫びながら寝床の上でごろりと横になった。
そこへ折江が新聞と手紙を持って入って来た。彼女は京子をみると、はじめて気がついたように、
「まあ、京子さん、随分早くからまあ!」
「ほほほほほ、奥さん、お疲れでしょう」
この二人の簡単なあいさつは尋常にきけばなんでもないことだったかも知れないが、耕作にはそれがひどくおもしろかった。なるほど、「随分早くからまあ!」に、「奥さん、お疲れでしょう!」か――女というものはなんと省略法がうまいものだろう。彼らは決して、「随分早くから御熱心なことですこと」だの、「奥さん、昨夜はお楽しみでお疲れでしょう!」などと、露骨なことばを使わずに十分その効果をあげることを知っているのだ。
この考えは耕作が何気なく折江の顔を見たとき、一層はっきりとしてきた。思いがけなくも、彼女はちゃんと化粧をしているのだった。さっきからこそ[#「こそ」に傍点]とも音をさせないから、まだ眠っていることだとばかり思っていたのに、案ずるに彼女は、京子の声をきくとすぐ床を抜け出して、こっそりと化粧をして、そして、相手にひけ[#「ひけ」に傍点]をとらぬくらい美しくなってから、はじめてこの戦場へ顔を出したのに違いなかった。
「奥さん、今日あたりは霧が晴れるかも知れませんわ。そしたらいよいよあなたのお体をお借りしようと思っていますのよ」
「あら、なんのことですの」
折江はわざととぼけたような声で言った。
「あら、お忘れになっちゃいけませんわ。ほら、あたしの叔母さんの役よ」
「あら、あれ? あたし困りますわ。だってあたし京子さんみたいにお芝居が上手じゃありませんもの」
折江はすぐにそう逆襲した。
「だって、そこが監督の腕ですわ、ねえ、先生」
黒潮はそれには答えずに、突然寝床の中から叫んだ。
「おい、白井三郎が来るってさ」
「あら、白井さんが」と折江が叫んだのと、
「へえ、白井さんがねえ」と耕作が寝床の中から起き上がったのとほとんど同時だった。
「いったい、いつ?」
「明後日と書いてあるから」と黒潮は消印をみながら、「明日だね」
「ほほう、白井さんがね。あの人が来ればおもしろいだろう」
そう言いながら耕作は寝床をはい出したが、今度はほんとうに起きるつもりらしく寝間着を着替えはじめた。
「大江さん、あなたも起きたらどうです。そして飯でも食って、バベルの塔へ登ろうじゃありませんか」
二
バベルの塔というのは黒潮の借りている貸別荘から三町ばかり先の、小高い丘のうえに建っていた。高さにして、優に三百フィートくらいはありそうな、木造の塔で、塔の頂辺から曲がりくねった階段が幾つも幾つも榕樹の枝のように地下へ垂れていた。そして塔の側面といわず、階段といわず、船のカモフラージュみたいにいろんな色で目まぐるしく彩色してあった。
この、まるで絵具壺から抜け出したような塔が、小高い丘のうえに、屹然《きつぜん》と聳《そび》えているところはかなり偉観だった。
「おや、あの風車みたいなものがついているのは、あれはなんですか」
耕作はだんだん近づいてくるその塔をみながら、ふと傍の折江に訊ねた。黒潮は彼らから二、三歩おくれて、京子と一緒に歩いていた。
「あれ? あれは観覧車よ。でもだれも乗り手がないものだからこのごろでは休んでいるのよ。無理もないわ。あんな危なっかしい観覧車に乗っちゃ、それこそ命がけだわ」そう言いながら折江は後ろを振り返ると、「あなた、今日は外の階段を登りましょうよ」
「うん、そうしてもいいね。由比君はあんなのが好きだろう」
「なんです? 外の階段って?」
「まあ、見ていらっしゃい」と後ろから京子が声をかけた。
「とてもおもしろいのよ」
しばらく行くと後ろから追っかけて来る跫音がしたので、ふと振り返ると、篠崎と、岡田と道子が一団になって近づいて来るのが見えた。
「やあ、いまお宅へ寄ったところが、塔のほうへ行ったというのであとから追っかけて来たところですよ」
篠崎監督が笑いながら言った。
「うん、由比君のごちそうにバベルの塔へ登ろうと思ってね」
「そいつはおもしろい。先生、じゃみんなで登りっくらしようじゃありませんか」
俳優の岡田はそう言いながら一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イと一行の人数を調べていたが、
「やあ、こいつはすてきだ。ちょうど七人いますぜ」
「七人? なるほどね」と、黒潮もうなずいたが道子のほうをみると、「だって御婦人は気の毒だよ」
「しかし、ここにいるのはみんな一回や二回は登ったことのある連中ですもの。由比君に比べればまだ歩《ぶ》があるわけですよ」
「道子さん、あなた一人で登れますか」
黒潮はそう言いながら足を止めて道子を迎えるようにした。
昨夜みたときと違って、この女はまるで空気のように脆《もろ》い、か弱い感じのする女だった。細面の、無口らしい、始終うつむき加減の、なかなかの美人だった。細い頸《くび》が魚の腹のように白く、透明な感じがした。
なるほど! とそこで耕作は思ったのである。この女こそいかにも黒潮が好みにかないそうな女だ。このしおらしい、尋常な女――これが黒潮の好みなのだ。しかし、とまたこのおせっかいな雑誌記者は考えるのだった。さて、そうすると京子はどうなるのだろう。
「ええ」と道子は素直にうなずきながら「皆さんがやろうとおっしゃるなら、あたしもやりますわ」
「あなたは少し危険だな。折江や京子さんと違って――あなただけ特別にして、僕と一緒に登りませんか」
「あら、それは不公平よ」突然京子が甲高《かんだか》い声で叫んだ。
「道子さんだって子供じゃあるまいし、それに今まで登ったこともあるんでしょう。みんな別々に競争しましょうよ」
黒潮は黙って苦笑いを洩らすと、そのまま道子の側を離れていつの間にか京子と歩調を合わせていた。こうして話しているうちに、一行は自然と三つの組に分かれて、折江は篠崎と、京子は黒潮と、そして岡田は道子と肩をならべるような位置になって歩いていた。ただ一人耕作だけがのけものになって、仕方なしに彼は黒潮と京子の組へ入って歩いていた。
「いったい」と、そこでふと耕作は訊ねた。「ちょうど七人だとか、競争をするとかいうのはどういう意味なんです」
「まあ、待っていらっしゃいよ。今に分かるから、とても愉快よ」
そのうちに一行はとうとうバベルの塔の下までやって来た。側へよって来ると塔は一層高く眼の前にそそりたっていたが、遠くから見るのと違って、ペンキのはげかけた荒削りの木造建築は思ったほども立派ではなかった。この塔の中心に、塔の側面から約十間ほど離れたところに、放射状にかかっている階段の登り口があった。数えてみるとその階段は七つあった。
つまり塔の頂辺から七つの曲がりくねった階段が周囲に放射されていて、それが適当な傾斜を作りながら、塔の外の地上に下りているのだった。しかし、不思議なことには、下から仰ぎみたところこの七つの階段はおのおの独立しているのではなくて、あるところではくっついたり、またあるところでは三つ岐《また》になって上へ登ったりしていた。
「おや」と、耕作はその階段を下から仰ぎながら、「あの階段は途中で尻切れとんぼになっているじゃありませんか。あれで上まで登れるのですか」
「はははははは、あれか、あれは袋階段さ。つまりこの七つの階段は一つの迷路になっているんだよ」と黒潮が説明した。「普通の迷路というものは、たいてい地上にあるだろう。あれを立体的に直したのがこのバベルの塔さ。なかなか考えたものだね」
「なるほど」耕作は思わず感嘆詞を放ちながら、
「そいつはおもしろいですね」
「ただね、このバベルの塔の欠点は、どの階段を登って行っても、おそかれ早かれ頂上へ達することができることなのだ。だから、どの階段を選択しようかという興味がない。それに地上の迷路と違って、立体的だから費用が嵩《かさ》むので、それほど複雑にできていないことだよ。まあ子供だましみたいなものだが、それでも初めてだとちょっとおもしろいよ」
しかし、間もなくこの立体的迷路を子供だましと笑ってすますことができなくなるのを、そのとき彼らは夢にも予想していなかったのだった。
彼らが近づいて行くと、塔の底の入口から、ひょっこり六十くらいのじいさんが顔を出した。
「おや、いらっしゃい、お揃《そろ》いでようこそ」
「じいさん、塔へ登りたいんだがかまわないかね」
「さあ、どうぞ、今日は曇っておりますから、あまり見晴らしがきかないかも知れませんがね」
「なあに、そんなことはかまわないさ。一つあの階段をみんなで競争しようというんです」
「おや、さようですか。それじゃどうぞ御随意に――」
「じゃ、岡田さん、くじをひいて決めようじゃないの。だれがどの階段を登るか――」
「よしきた」
岡田はポケットからペンと紙片を取り出すと、その紙片の上に何やら書いてそれに七つの曲がりくねった線を引いた。
「だれからでもいいから、この線の頭に印をつけて下さい」
――とそんなことからくじを引いてみると、耕作にはApolloというのが当たった。つまりこの七つの階段にはApolloだのJupiterだのVenusだのという、ギリシャ、ローマ神話に出てくる神々の名がそれぞれついているのだった。
「さあ、持ち場が決まったらみんな場所へついて、それからじいさん、また号砲を頼むぜ。由比君、じいさんがピストルを撃ったら登るんだぜ。いちばん早く上の展望台へついたのが勝だ」
由比耕作は受け持ちのApollo階段の下に立った。なるほど、見ると階段の登り口の小さなアーチの上はApolloの石膏像が雨にさらされて薄黒くなっていた。右を見ると二十間ほど離れたところに、映画監督の篠崎宏が、左を見ると山添道子がそれぞれ階段に足をかけて待ちかまえていた。その他の人々の姿は塔の陰に隠れて耕作の眼には見えなかった。
と、そのとき、塔の頂辺からドスンというピストルの音が聞こえた。それで三人は一斉に階段を登りはじめた。篠崎宏はいかにも敏捷《びんしよう》らしく、二、三段ずつ跳び越えて駆け登っていたが、間もなく、その姿はどこかへ見えなくなってしまった。左をみると、山添道子が手すりにつかまりながら、それでもせいぜい懸命に登っていた。ときどき耕作のほうをみるとちらと糸切り歯を出して笑ってみせた。間もなく耕作は階段の三分の一ほどのところへ来た。すると、岐《みち》はそこから二|岐《また》に分かれていて、どちらへ行ったほうがいいのかよく分からなかったが、彼はでたらめに左のほうの道をとった。もうそのころには道子の姿は彼の眼界から消えていた。左へ五、六歩進むと、そこからまた上へ登る階段があった。それを登っているとふいに上のほうから華やかな声が降ってきた。
「由比さん、だめよ、そんなところでぐずぐずしてちゃ」
その声に思わず仰いでみると京子が彼より一周上の階段を大急ぎで登って行くところだった。耕作もそれで負けない気になって、初めて階段のうえを駆けていったが、ふと彼は当惑して立ち止まってしまった。いつの間にやら彼は袋階段へ踏み込んでいたとみえて、行手がぷっつりと切って落とされているのだった。
「おやおや」
耕作は汗をふきながら思わず立ち止まったがやがて仕方なしにぶらぶらとあともどりを始めた。その時分にはすでにかなり上まで登っていたので、ふと下をみると、彼は思わずくるめくような恐怖に打たれた。前にも言ったように、この塔全体が船のカモフラージュみたいに、むちゃくちゃに彩色がほどこしてあったうえに、榕樹の枝のような階段が、幾岐にも幾岐にも分かれて下のほうへ続いているので、じっとその階段を見下ろしていると、ふいに頭がふらふらとするような頼りなさを覚えるのだ。耕作ははじめて、この立体迷路が案外ばかにならぬことを感じたのである。
「おや、あなたはまだこんなところにいらしたの?」
そういう声に、ふと振り返ってみると、向こうのほうから道子がぶらぶらと近づいてくるのがみえた。いかにも疲れきったように、額にかすかな汗をにじませて、頬をぽっと上気させ、手すりにつかまりながら切なげに肩で呼吸をしている。黒眼がちの眼が、心持ちうるんでいるようにさえ見えた。
「少し休んでいらっしゃいません? どうせ皆様にはとてもかないっこはありませんわ」
「そうですね」
二人はハンカチを出して階段のうえに敷くと、子供のように肩を並べて腰を下ろした。
「だいぶお疲れのようですね」
「ええ、心臓が弱いものですからだめね」
女の長い、透き通るような顔に、黒い髪の毛が二、三本まつわりついているのが、耕作のすぐ鼻の先にあった。耕作はそのとき、なぜか思わずぽっと顔を赤らめた。
「あれ、大江さんのお宅がみえますわ」
「どれですか」
耕作は心持ち女のほうに体をすりよせた。
「あれ――ほら、丘のふもとに煙の出ている家があるでしょう。その向こうの、赤い瓦のお家――」
「ああ、あれ?」
耕作はとうとう女の肩にぴったりと身をすり寄せていた。
「なるほど、ここからみるとなかなか立派な邸ですねえ」
「ええ、この辺でもいちばん大きな貸別荘なんですものね」
「あなたのお宅はどれですか?」
「あたしの家? あたしの家はほら、大江さんのお邸の右側にかわいいおもちゃみたいな家があるでしょう。あれですわ」
「なるほど、じゃ、すぐ近くなんですね」
「ええ、夜でもお遊びにいらしてくださいまし」
「ありがとう」
それっきり二人の話はぷっつりと途切れた。このなんでもない会話が、後になってどんな重大な意味を持っていたか、由比耕作はむろんそのとき少しも気がつかなかった。
それっきり話が途切れて、しばらく二人は黙り込んでいたが、間もなく、女のほうから思い出したように切り出した。
「あなたは郁文社の方ですってね」
「ええ、探偵雑誌をやってるんです」
「そう」女は何か考え込んでいる様子だったが、「大江さんの小説はたいていあなたのほうの雑誌に発表されるんでしたわね」
「そうでもありません。このごろは随分ほうぼうの雑誌から頼まれて書くようですが、先生のいちばん気に入った力作は昔からの習慣で僕のほうへ回してくれるようです」
「このごろ何かお書きになりまして?」
「いいえ、四月号に、『恐ろしき復讐』というのをもらったきりです。もうそろそろ十月号をもらわなければならないのですがね」
「あら、でもこのあいだたしか、あなたのほうの原稿だって書いていらっしゃいましたけれど」
「そうですか」耕作はびっくりしたように、
「僕にはまだなんの話もありませんよ」
「そう、でも、たしかあなたのほうの原稿だと言ってらっしゃいましたわ。もう出来上がっている時分だと思うんですけれどね」
耕作が大江黒潮の原稿を欲しがっているのはたしかだった。大江黒潮というのは、気難かしい小説家の中でも、最も気難かしい一人で、原稿をもらうのになかなか骨の折れる作家だった。したがって、こちらからもよく頼みもしないのに、向こうのほうから書いてくれるということはほとんど信じられないことだった。
「あなたが東京をお発ちになるとき、まだ原稿は着いていませんでした?」
「ええ、こなかったようですね」
「そう、じゃ、今ごろ着いているかも知れませんよ」女はそう言ってから、そのあとへ何気ない調子で付け加えた。
「あなたの留守中に原稿がとどいたばあいどうなりますの」
「そうですね。そのまま、僕の机のうえに置いてありますよ。探偵雑誌は何しろ、僕一人でやっているのですからね」
「そう」
女は考え深そうに言った。
しかし、この女はどうして大江黒潮の原稿のことをこうも問題にするのだろう。それは編集者としての自分に対する単なる親切からだろうか。それともほかに理由があってのことだろうか。――
そのときふいに上のほうから賑やかな笑い声が落ちてきた。
「やあい、意気地なし。上へ登れないであんなとこで一服してらあ」
それはやんちゃなあの京子の声だった。二人が思わず振り返ってみると、頂辺の展望台から五人の男女が笑いながら下をみていた。
「だって君たちは卑怯だよ。僕だの道子さんだのに、なんのハンディキャップもつけないって手があるもんか」
そう言いながら、耕作はふと黒潮の眼をみたが、急にぞっとして急いで視線をそらしてしまった。そこに彼は今まで一度もみたことのない、不思議な、暗い憤《いきどお》りの色を、はっきりと読みとったのである。
恋愛合戦――耕作はふと低い声でそう呟いたのだった。
三
午前中に京子が予言したとおり、昼間は照ったり曇ったりしていたが、夕方になると急にまた霧が下りてきた。高原の遥かかなたに、薄白い膜が現われたかと思うと、それがたちまちのうちに、高原いっぱいにひろがって、丘も木も家も橋も、そしてあのバベルの塔さえも完全に包んでしまった。
その晩はホテルのダンスがないという話で、賑やかな人々は仕方なしに大江黒潮の邸宅に集まっていた。そして、黒潮の邸にある、ちょっとしたダンスホールでレコードをかけて、京子と岡田が踊ったりした。道子はどうしたものか、岡田がどんなにすすめても、相手になろうとはしなかった。折江は折江で、主婦としての応接に忙がしかったので、篠崎の相手をつとめることができなかった。そこで、疲労を知らぬ京子が、代わる代わるこの二人の男の相手をして踊っていた。
八時半ごろになると、この一行にまた一人の客が増えた。それはホテルに滞在している中西信之助というお坊ちゃんお坊ちゃんした青年で、K大学の学生だという話だった。
「京子さん、君ひどいじゃないか」
信之助は京子の顔をみるといきなり食ってかかるようにどなった。
「昨夜、あんなに約束しておきながら、とうとう今日僕をすっぽかしてしまったね」
「ああ、そうそう」
京子は急に思い出したように、あはあはと笑いながら、
「ごめんなさい、今日はね、こちらのお客さまのお供でバベルの塔へ登ったの。あんたも一緒に来ればよかったわ」
「僕は今日、一日ホテルで寝ていたよ。支度をして今に来るか来るかと思って待っていたのに、すっぽかされてほんとうに口惜しかった」
「まあ、そう怒らないでね。また明日にでもお供をするじゃないの。さあ、それより踊りましょうよ」
耕作はそんな話を聞いているうちに、なんだか憂鬱になって庭へ出た。冷たい霧が、高原を渡ってくる風に、彼の襟《えり》をひえびえと撫でていった。膝の高さほどある草は、すっかり秋の色を帯びて、しっとりと濡れていた。裏のほうへ回ってみると、そこには暗い木立があって、その向こうにかなり深い谷があった。のぞいてみると、谷の底からは真っ白な霧が煙のように湧き上がっていた。
耕作はしばらくたばこをくゆらせていたが、やがてそろそろと元の道をとって返した。九時にみんな揃って夕飯を食うことになっていたので、探していると悪いと思ったからである。
立木をくぐり抜けて低い築山のふもとまで来ると、ふと上のほうで人の跫音がしたので、耕作は思わず立ち止まった。
「だれ? そこにいるのは?」
それは京子の声だった。
「僕です。京子さん?」
「あら、由比さん? 待っていらっしゃい。いま降りて行くから」
やがて、霧の中から白い女の姿が足のほうから現われた。やがて京子の艶《あで》やかな顔が、ぽっかりと夕顔のように浮き出してきた。
「あなた、お一人ですか?」
耕作は京子の降りて来た築山の上のほうを見ながら訊ねた。
「ええ、一人よ、あなたのあとを追っかけて来たの」
京子はいたずらっ児らしく、くすくすと笑った。
「まさか」
「ほんとうよ。もっとも信じたくなければどちらでもいいけれど」
二人は二、三歩肩を並べて歩いたが、京子がふと足を止めた。
「ちょっと、休んで行きましょうよ」
「皆が探してやしませんか?」
「大丈夫よ。御飯のお支度ならまだなかなかよ」
「しかし、こんなところで二人きりでいて、中西君に恨まれるのも考えものですからねえ」
「ばかね、あなたも」
京子は霧の中にきらりと黒い瞳を輝かせながら、ちょうど道端にあったベンチに腰を下ろした。
「着物が濡れますよ」
「かまやしないわ、そんなこと。あなたもおかけなさいな」
耕作は仕方なしに京子の傍へ腰を下ろした。不思議なことに、この女とこうして肩をならべて、暗やみに坐っているということは、耕作にとってはなんの興味も起こらなかった。今日の昼、あのバベルの塔の階段の途中で、道子と並んで坐っていたときに比べると、われながら不思議なくらい冷静でいられるのだった。それでいて、美しさにおいては、道子はとても京子に比べられなかったし、年齢もたしかに、道子のほうが五つ六つは上に違いないのだった。
「妙に神妙にしているわね。あたしでお気の毒さまね。道子さんを呼んで来てあげましょうか」
「ばかな!」
耕作は吐きすてるように言って、あわてて袂《たもと》からチェリーを探り出したが、あいにくマッチが湿って火がつかなかった。
「はい、火を――」
京子が両手で風をよけるようにしながら、マッチの軸を耕作のほうにさし出していた。耕作はあわてて、たばこをくわえた口をその両手のあいだに持っていったが、そのとき顎のほうから光を受けた京子の顔が何かしら、妖怪じみた緊張を帯びているのがみえた。
「あなた、大江先生とは長いあいだのお友達なの?」
しばらく、話の緒《いとぐち》を探しているように考え込んでいた京子が、ふと、そんなことを訊ねた。
「そうですね。五、六年になりますかしら。あの人が探偵小説を書き出した時分のことですから」
「そう?」京子は首をかしげながら、「あの人は探偵小説を書きはじめるまでには随分いろんなことをやってきた人なんですってね」
「そういう話ですね。その時代を僕はよく知らないのですけれど」
「なんでもシナそばの屋台を曳いたことまであるっていうじゃありませんか」
「そういう話ですね。しかし、そんな昔のことなら、僕より白井三郎に聞いたほうがよく知っていますよ。明日ここへ来るという男です」
「あら」京子は美しい眼で耕作を睨むようにしながら、「あたし、何も特別に聞いているんじゃありませんわ。まあさ、これも話じゃありませんか」
「どうですか」
「ばかね、いやに気を回してんのね」京子はそう言いながら、自分も袂からたばこを探り出すと、「火を」と言った。
耕作がたばこを渡すと、それで吸いつけながら、
「あたし先生のものは好きだから、たいてい読んでいるんですけれど」としばらくして京子がまた口を開いた。「このあいだあなたのほうの雑誌に出た『恐ろしき復讐』というのは随分凄いわね」
「あれは近来の傑作ですね」
耕作はやや憂鬱そうな声で言った。この男は不思議な男で、大江黒潮の書くものに大変心酔していて、人に会うごとに自分のほうから極力推賞しながら、反対に、相手のほうからそれをほめられたりすると、急に気難かしくなるのが常だった。
「大江先生は会ってみると、なかなかあんなことを考えそうな人じゃありませんけど、やはり、あれ、みんな御自分で空想なさるのでしょうか?」
「さあ、どうですか」と何気なしに言ったが、耕作はすぐあわててそれに付け加えた。「やはり自分で考えるのでしょう」
「でも、今度の『恐ろしき復讐』の殺人場面なんか、何だか、空想ではとても書けそうにありませんわ。実際に人を殺した者か、それとも殺人の現場を見た者でないと――」
「そこが、やはり小説家なんでしょう?」
「そうでしょうか」京子は考え深そうに、「あたし、大江先生は、だれかに殺人の現場をお聞きになって書いたのじゃないかと思うわ。だって、あの小説の主人公が殺される場面ね。――男は受話器を握ったまま[#「男は受話器を握ったまま」に傍点]、雪達磨が解けるようにへなへなと卓の側に崩折れた[#「雪達磨が解けるようにへなへなと卓の側に崩折れた」に傍点]。血が額にあいた孔から左の眼を伝って耳の後へ斜に流れて[#「血が額にあいた孔から左の眼を伝って耳の後へ斜に流れて」に傍点]、それが絨毯の模様の孔雀の丁度左の上に溜った[#「それが絨毯の模様の孔雀の丁度左の上に溜った」に傍点]。犯人がふとみると[#「犯人がふとみると」に傍点]、壁にかかったマドンナの左の眼にも一滴の血が飛んでいた[#「壁にかかったマドンナの左の眼にも一滴の血が飛んでいた」に傍点]。それとみると[#「それとみると」に傍点]、犯人は急に自分の左の眼が焼けつくように痛むのを感じたのだった[#「犯人は急に自分の左の眼が焼けつくように痛むのを感じたのだった」に傍点]。――そういう文句があったでしょう? あんなこと小説家の空想で考えられるものでしょうか」
耕作は編集者の自分でさえ記憶してないそういう章句を、まるで学校の生徒のように暗誦しているのにびっくりして相手の顔を見返した。と、その瞬間、耕作はなぜか、ぞっとするような薄ら寒さを体内に感じたのだった。京子の顔は霧の中に白墨のように白くこわばっていた。そして、その黒い瞳の中には、何かしら激しい感情が烈々と燃えているのを見てとったのである。
四
京子と耕作が広間へとって返すと、ちょうど折江が二人を探しに出ようとしていたところだった。
「まあ、どこにいらしたの。さっきから随分待ってたのよ」
「あら、ごめんなさい。由比さんがあたしに話があるとおっしゃるものですから」
京子はそう言ってから、すぐあはあはと大声で笑った。
「うそよ、あたしのほうが由比さんに話があったの」
そう言いながら、彼女はふきげんな顔をしている信之助のほうへ行って腕を出した。そして何か低声でささやいていたが、信之助がそれを聞くと急に朗らかな顔になったので、何か耕作のことでも言ったのかも知れない。耕作はそれをみると急に不愉快になった。
やがて、一行は連れ立って食卓についた。
西洋流に大江黒潮夫妻が卓子の両端について、その両側に、岡田、篠崎、信之助、耕作、それに京子と道子の女連が混っていた。故意か偶然か、岡田と篠崎は道子を、耕作と信之助は京子をあいだに挟むような位置になった。篠崎は左に道子を、右に折江をひかえているような位置に坐っていた。
この並び方は、しかし、大変都合がよかった。なぜならば、篠崎は折江に、岡田は道子に、信之助は京子にと、ちょうど自分の最も都合のいい話相手を隣に見いだしたからである。ただ主人役の黒潮と由比耕作だけが、こういう一対から除け者にされた形だったが、彼らは席がちょうど直角に並んでいたので、話相手に困ることはなかった。むしろ耕作は、煩わしい女連を他の者にまかせておいて、黒潮と二人きりで話ができることがいっそ気楽だった。
食事中別に変わった話はなかった。
明日はどうでも撮影にとりかからねばならないとか、あまり遅れたので会社のほうでさぞ怒っているだろうとか、その映画における折江の役柄だとか、そんな話がとりとめもなく取り交されていた。耕作の隣では信之助が、しきりに京子に何か訴えている様子だった。
あの、奇抜な、変てこな思いつきが、どういうきっかけでその食卓の話題にのぼったか、耕作はあとになって考えても、どうしても思い出すことができなかった。
ただ、映画監督の篠崎がこんなことを言い出したのがきっかけでなかったかと思うのである。
「探偵作家というものは」と、すでに議論がかなり深入りしているときだったので、篠崎はやや興奮した面持ちで言っていた。「随分いろんな、奇抜な事件を考え出すし、それにまた、一方作中の人物に巧みに解決させるようですが、実際作家にはそんな能力があるのでしょうかね」
「そんな能力とは――?」
大江黒潮がその相手になっていた。
「つまり作家自身が実際の事件に当たって、それを解決できるかどうかという――」
「さあ、それは一概にはいえませんね。できる作家もあるし、できない作家もある」
「そういえば、身も蓋《ふた》もありませんが、それでは日本の探偵作家にできる人がありますか」
「さあ」と黒潮は考えていたが、「僕にはできないね。ここにいる由比君もおそらくだめだろう」
「じゃ、堀下氏や、大賀氏、堂下氏は――?」
「さあ、どうかと思うね」
「それじゃ、結局」と篠崎は勝ち誇ったように言った。「だれもできないということになりますね」
「いや」と、黒潮は急に開き直って、「ところが、ここに一人できる人間がいるよ」
「ほほう」
人々の眼が一斉に黒潮の青白い面に集まった。
「それはだれですか?」
「白井三郎という男だがね」
そのとき、折江が口へ持っていきかけたコップをがたん[#「がたん」に傍点]と卓子の上に置いた。
「そうあの人ならできるかも知れないわね」
「白井三郎、それはどんな人ですか。今まで探偵小説を書いたことがありますか」
「書いたことは書いた。しかし、発表したことはおそらく一度もあるまいね」
「それじゃ、作家とはいえない」
「いや、そうはいえないよ」黒潮は卓子のうえにあった水瓶をひきよせて、それをコップに注ぎながら、「白井三郎という男は、なるほど、作品を発表したことはない。しかし、そうかといって彼がほかの職業を持っているかというと、絶対に何もしない男なんだ。だから、この男をどの職業に入れたらいいかということになると、結局、まあ、せめて探偵作家ということになるね」
「それで、その人の書くものは巧いのですか、拙いのですか」
「さあ僕にもよく分からない。おそらく本人以外にはだれにも分からないだろう。しかし、こういうことは言える。作家としては恐ろしく鋭い感覚を持っている男だとね。つまり作家になるにはあまり鋭すぎるのだ。それに、大衆に分からせようとする努力をしない」
人々は黙っていた。そこで大江黒潮は勢いことばを続けなければならなかった。
「よく世間では、僕の興味が偏しているというが、この白井三郎というのは、僕に何十倍という輪をかけたような男だ。一度僕はこの男の書いたものを読んだことがあるが、それはとてもすばらしい、美しく、また物凄い空想なのだ。しかし、それは単に空想を文字にうつしただけで、とうてい小説とよぶわけにはいかなかった。――僕と小学生時代からその同窓で貧困時代しばらく共同生活みたいなことをやっていたこともあるが、今の僕の思想や興味はだいぶこの男に影響されているらしいんだよ」
黒潮はそう言って眼を伏せると、コップの水を軽く吸っていた。
「ああ、その方なのね。今あなたが言ってらしたのは?」
京子がそっと耕作の耳にささやいた。耕作は無言のままうなずいてみせた。
「なるほど、その人が明日来るというのですね」
篠崎はそう言って考えていたが、急に朗らかな声で笑った。
「よし、それじゃわれわれで一つその天才を歓迎しようじゃありませんか」
「歓迎?」
折江はなぜかいやな顔をした。
「そうです。これだけ役者が揃っているのです。何か変わった方法で歓迎しなきゃわれわれの名折れだ。どうです、奥さん、その人に一つ、探偵的能力をみせてもらおうじゃありませんか」
「まあ、いったい何をするのです?」
「つまり、われわれで仮想探偵劇をやるのです。そして、その人に犯人を当ててもらうのです」
篠崎はそこで急に自分のことばに興奮してきたらしく、
「つまり、ここにいるだれかが殺されることにする。そして犯人もむろんこの中にいる。さて、だれが犯人か、それをその人に当ててもらうのです」
「しかし」と、そのとき耕作がはじめて口を出した。「およそ、どの探偵小説だって、探偵が犯人を探し出すには、それぞれ鍵《かぎ》がありますよ。もっとも鍵は物質的なものではなくても、犯人と被害者とのあいだの心理的|葛藤《かつとう》というようなものでもいいのですけれど」
「だから、これからその鍵というのをこしらえようじゃありませんか。だれか被害者を決めて、ここにいる皆が、その被害者に恨みを持っていたという風に。――」
「あら、それはすてきね」
京子がいちばんにそれに賛成した。それに続いて折江と岡田と信之助が賛意を表した。道子でさえもが、この思いつきにはかなり興味を覚えているようだった。
「そう、じゃ決まった。では第一に被害者と犯人を決めなければならないが、被害者にはだれがなります」
「それは」と、急に熱心になった折江が卓子から乗り出すようにして、「だれかれというより主人役に、あなたがお引き受けしたらどう?」
「仕方がないね。割の悪い役だけれど」
黒潮は苦笑したが、なぜかいやな顔をしていた。
「さあ、これで被害者は決まった。それで犯人は?」
「犯人もついでに由比さんに引き受けていただきましょう。探偵作家仲間だから」
「承知しました」耕作は内心の不愉快さを押しかくしながら軽く頭をさげた。「しかし、僕の動機は――? 僕はなぜ大江さんを殺さねばならないのです」
「そうね」
これには折江も困ったらしかった。しばらく考えていたが、
「じゃ、その動機はもっとあとでゆっくり考えましょう。それより、他の人にもそれぞれ、大江を殺すかも知れないという動機を作らなければいけませんわ。できるだけたくさん容疑者を作っておくのが探偵小説の常道ですものね」
「じゃ、奥さん、僕から決めてください。僕はどういう動機を持っているのです?」
篠崎がおどけたように首をすくめながら言った。
「あなたはね」と、そのとき、急に京子が横から口を出した。「あなたは大江さんの奥さんに首ったけ惚《ほ》れているのね。それで大江さんを殺して一緒になろうと思っているの――というのはどう?」
この大胆なことばは急に一座をしらけさせてしまった。人々はふいと無気味な沈黙に落ち込んだ。
「よし、それはおもしろい。そいつはすてきだ。それに決めようじゃないか」
そう言ったのは大江黒潮だった。篠崎はそわそわと髭をひねりながら、
「しかし、先生、そんなことで僕のような人間が人殺しをするでしょうか」
「だから、君は結局しないんじゃないか。とにかく、それに決めよう。それで――と、今度は折江の番だが、折江もそれと同じ動機にしよう。つまり折江は最近僕に愛想をつかしている。そして僕が死ねば篠崎君と一緒になれると思っている。どうだね、折江?」
「結構だわ」
折江はなぜか捨てばちな調子で言った。
「それであたしと篠崎さんとは決まったから、今度は信ちゃんの番よ」そう言いながら彼女は、信之助と京子の二人をじろじろと見比べていたが、ふと妙な微笑を浮かべると、「そうだわ、信ちゃんはね、京子さんに、とても夢中になっているの。ところがその京子さんは信ちゃんなんか眼中になくて、大江に惚れていることにするの。ほほほほほ、あんな若年寄みたいな大江にね。それで信ちゃんは嫉妬のあまり大江を殺す――というのはどう?」
「すてきだわ!」京子が叫んだ。「だけど、そうするとあたしはどういう動機があるの? 先生にそんなに恋をしているんだったら」
「だからさ、あなたのほうでそんなに夢中になっていたところで、それは結局片思いなのよ。だって、大江は道子さんに気があるんだから」
そのことばに京子と道子の二人はさっと顔色を変えた。しかし、二人の狼狽はそれぞれ違った意味を持っていた。京子のは激しい憤怒だったが、道子のは穴へ入りたいような当惑だった。京子は燃えあがる憤怒を抑えながら、しばらく、じっと折江の顔を見ていたがやがて、吐きすてるように言った。
「それで結局あたしは大江さんを殺すというのね。いいわ。それで決まったわ」
「さあ、それで由比さんはあとまわしとして」と、今度は篠崎が口を出した。「岡田君だね。岡田君のも結局今のが役立つね。つまり岡田君は道子さんに気があるが、大江先生がどうも道子さんに手を出しかねない、それでつまり先生を恨んでいるというのだね」
岡田はうつむいてグラスに口をつけたまま軽くうなずいた。
「それであたしはどうなりますの?」
道子が最後に細い、低い声で訊ねた。
「さあ、これは困ったな。道子さんは先生に思われているんだし、何も殺す動機はなさそうだな」
「ところが、あるわ」
突如また折江が卓子の下のほうから叫んだ。その声には何かしら言い知れぬ陰険さがあった。
「道子さんはね、こういうことにするの。道子さんは立派な人妻なのよ。それが御主人の眼をかすめて、この軽井沢へ来ているの。つまり岡田さんにね。ところが――」と彼女はコップの水で咽喉《のど》をうるおしながら、「ところが、その道子さんに大江が思いをかけたの。むろん道子さんは言うことを聞きやしないわ。そこで大江は一つの脅迫手段を考えたのよ。つまり、道子さんと岡田さんのことを小説に書いたの。しかも、道子さんの御主人が読めばすぐ分かるような書き方でね。道子さんはそれを破棄してくれという。大江はいやだという。破棄するためには自分の恋を入れろというのが大江の言い分よ。道子さんはその小説が発表されたら身の破滅だというので、大江を殺す――というのはどう?」
しかし、だれもすぐにはそれに賛成する者はなかった。みんな急に不愉快な、恐ろしい沈黙に落ち込んでしまった。
耕作はふと道子の顔をみた。道子は両手でしっかりと卓子の端を握っていたが、その手を離せば今にも倒れそうな格好だった。しばらく彼女は、息をととのえるような格好で、じっと卓子のうえに眼を落としていたが、やがてつとその眼をあげると、
「おもしろいわねえ」と、低い、消え入るような声で言った。
耕作は、ふと眼を転じて黒潮と岡田のほうをみた。
黒潮はきょとん[#「きょとん」に傍点]とものにつかれたような格好で、じっと折江の顔をみていたが、その横顔を岡田の燃えるような眼が、射すくめるように睨《にら》んでいた。耕作は思わず乾いた唇をなめながら、ごくりと大きく咽喉を鳴らしてつばを飲み込んだ。篠崎はしきりにたばこを吐き出していたし、京子は石のように前方を見据えている。
「それで」と、このばあいいちばん無邪気だった信之助が、この場の空気を救うように口を出した。「結局真犯人の由比さんの動機はどういうことになるのです?」
「そうね」と、折江はもう騎虎《きこ》の勢いだった。一座の空気なんかかまっていられないようにしゃべりつづけた。
「由比さんはその原稿を大江から渡されて、すべての事実を知るの。そして由比さんも心ひそかに道子さんを愛しているのよ。むろんそれは岡田さんのような恋と違って、もっとプラトニックだっただけに、一層内心の憤りは激しかったわけね。由比さんはその原稿を破棄しろと大江に迫る。大江は肯《き》かないで、君の雑誌でいけなければ、他へ発表するばかりだという。そこで由比さんは大江を殺す決心をするのよ。どう? ちょうど由比さんに向きそうじゃない?」
ああ、こうしてこの恐ろしい仮想探偵劇の役割は決まったのである。
――何かある。何かこのお芝居の底には恐ろしいものがひそんでいる。これが単なる道化芝居だろうか。みんなそれぞれ、表面には平静を装いながら、その底には、真剣なる思いを秘めているのではないだろうか。――
耕作はふと、午後バベルの塔の階段の途中で、黒潮の原稿について、道子から訊ねられたことを思い出した。それと今の折江の恐ろしいことばを思い合わすと、慄然《りつぜん》として人々の顔を見回したのだった。
そのとき、大江黒潮があくびを噛み殺しながら言った。
「さあ、それでいよいよ役割は決まったようだね。じゃ、明日、白井三郎がきたらこの芝居の実演をすることにするか!」
[#改ページ]
[#小見出し] 七つの階段
一
その翌日、黒潮の家で雑魚寝《ざこね》をして明かした一同は、眼がさめると再びこの仮想探偵劇について、細かい注意を協議しはじめた。だれもかれも、どういうわけか、この探偵劇のためにひどく興奮しているように見えるのだった。
「場所は」と、被害者になる大江黒潮自ら言った。「あのバベルの塔の展望台がいいね。どうだね、由比君?」
「すてきですね。迷路の殺人ですか。あなたの小説にもありましたね」
「そうだわ、それがいいわ」と折江もたちまち同意したのだった。「ほら嫌疑者は七人でしょう。それにあの階段もちょうど七つあるのですもの」
「なるほど」と篠崎が感心したように言った。「こいつはいい。偶然とは思われませんね」
「つまりこういうことになるね」と大江黒潮は、人の好い顔に笑いを浮かべながら、「ここに七人の嫌疑者がいる。しかし、この七人は絶対に現場不在証明を持ってはならない。だから、この仮想犯罪が行なわれるあいだ、みんなお互いに見られないように、七つの階段のどこかに姿を隠しているのだね」
「すてきだわ!」そう叫んだのは京子だった。
「あたし何だか、ほんとうに恐ろしくなってきたわ」
「いや、僕もこの思いつきはひどく気に入りましたよ」
岡田稔はなぜかいらいらしながら、しきりにたばこの煙を吹かせていたが、ふと監督の篠崎のほうを振り返ると、
「ねえ、篠崎さん、こいつ一つ映画にしてみようじゃありませんか。石山金吉にでもシナリオを書いてもらってさ」
「いいね。塔の上の犯罪か。何しろ、あの塔がいいじゃないか。階段が七つあったり、観覧車がくっついていたり、それにあの色彩が効果的だよ。石山金吉が喜びそうだね」
「篠崎さん、映画といえば今日はどうなりますの。幸い今日はお天気がよさそうだから、一息に撮ってしまったらどう?」
「うむ、そのつもりで、さっきも大江先生の奥さんに頼んでおいたところだがね。今日は否が応でもやっつけちまう」
こういう会話はすべて、あの役割の決まった翌日、大江邸の庭先で取り交されたことばである。この場には、主要人物のうち、道子と中西信之助の二人だけが姿をみせていなかった。
耕作は昨夜からの睡眠不足で、腫れぼったい眼をしながら、ぼんやりと話題にのぼっているバベルの塔を遠く見上げていたが、すると彼は、わけもなく、ぞっとするような悪寒《おかん》を覚えたのだった。今日もまた晴れきらぬ空の、無気味な黒空を負って、丘のうえにそそり立っている五色の塔をみると、彼はなぜかしら、そこにいい知れぬ不吉な色を感じずにはいられなかった。
「それで、時刻はいつごろになるのですか? その仮想探偵劇の――」
「そうだね。それは白井三郎の到着次第だがね。どうせ、夕方から夜になるだろう」
「夜!」
京子はそれを聞くと、思わず肩をすぼめた。
「じゃ、夜になってあの塔を登らなければならないの?」
「まあ、それまでにはたいてい白井三郎が来るだろうと思いますがね」
「じゃ、大急ぎでそれまで撮影のほうをやっつけよう」
篠崎の言葉に一同は一時別れることになった。そして篠崎、岡田、京子の三人はそれぞれ自分たちの宿舎に帰ることになった。折江もそのあとから追っかけて行かなければならなかったので、結局あとには大江黒潮と由比耕作との二人だけが取り残されることになったのだった。
二人きりになると、彼らは急にくつろいだ気持ちになった。そして気のあった者同士のあいだしか分からない苦っぽろい微笑を洩らすと、大江黒潮が慰めるように言った。
「疲れたろう。座敷へ帰って寝直そうか」
「そうですね。だけど、白井さんが来たら――」
「あの男のことだ。分かるものか」
「しかし、白井さんが来なかったらせっかくのお芝居もおじゃんですね」
「あんなもの、お流れになったほうがいいよ」
二人は庭から座敷へ帰ると、蒲団も敷かずに、そのまま冷たい畳のうえに腹ばいになった。疲れていながら二人とも妙に頭がしんと冴えていた。とても眠れそうになくて、それでいてまた口をきき合うのも億劫《おつくう》だった。しばらく彼らは、お互いの眼の中をまじまじとのぞき込みながら、黙ってしきりにたばこを吹かせていたが、やがてふと耕作のほうから口を切った。
「最近、何かお書きになりましたか?」
「書かないね」黒潮はこともなげに言った。「ああいう連中と一緒じゃ、とても書けやしないよ」
「そうですか」耕作は疑わしそうに、「人の話によると、何だか最近書き上げたようだという話でしたがね」
「だれがそんなことを言ったのだね」
耕作はそこでふと返答に困ったが、黒潮がじっと自分のほうをみているのに気がつくと、そのままことばを濁してしまうわけにもゆかなかった。
「実は、山添さんから聞いたのですがね」
「山添さんが――?」黒潮はつと畳のうえから起き直りながら、「あの人が君にそんなことを言ったのかね」
「ええ」耕作は思わず眼を伏せながら、「昨日、バベルの塔の途中できいたのですがね」
「勘違いだよ。何かの――」黒潮は吐き捨てるように言った。「できればむろん君のほうへ回すつもりでいるがね」
しかし、そう言ったとき、なぜか黒潮の瞳には、急にありありと暗い色が現われた。しばらく彼は、放心した者のように、じっと耕作の頭越しに、部屋の一部を眺めていたが、ふいにごろりと仰向けになると、
「できればね」と、独語のように言った。
耕作はなぜか惑乱するような気持ちで、日ごろから尊敬しているこの作家の横顔をじっと見つめていたがふいと軽い溜め息をついた。昨夜から今朝へかけて、彼の心にはふいと、何かえたいの知れぬ疑いが食い入っているのだった。何かしら大江黒潮の顔を真正面に見ることのできないような気持ち、――自分自身でその不愉快さを持てあましながら、それでいて口に出して相手に説明することも、相手の説明を求めることもできないような、妙に焦《じ》れったい、いらいらするような気持ちだった。
「何を考えているのだね?」
あまり長いこと沈黙がつづくので、黒潮はふとこちらへ向き直ると、冷やかすようにそう訊ねた。
「いいえ、何でもありませんがね、――ちょっと昨夜のことを思い出していたんです」
耕作は内心を見透かされるような狼狽を感じながらあわててそう言った。
「ははははは、とらわれちゃいかんよ。昨夜はみんな、妙にヒステリックになっていたからね」
「とらわれやしませんが――」と耕作はもっと何か言いたかったが、急にことばを変えると、
「それはそうと、白井さんは何時ごろの汽車で来るのでしょうね。時間が分かってりゃ、僕でも迎えに行きますがね」
「白井三郎か」
大江黒潮は溜め息をつくようにそう言ったが、急にごろりと耕作のほうへ転んでくると、そのまま腹ばいになって、
「君は宇野浩二の『二人の青木愛三郎』という小説を読んだことがあるかね?」
「ありますよ。そして――」
耕作は急にむっくりと上身を起こして腹ばいになった。
「そして――?」黒潮はたばこに火をつけながら、あとをうながすようにじろりと耕作のほうを横眼でみた。
「いいえ、なんでもありませんよ」耕作はあわてて言った。
「言ってみたまえ、君の考えを。――いや、言わなくても分かっているよ。君も感じているだろう。あの小説に出てくる二人が、ちょうど黒潮と白井に似ていることを」
そういうとき、大江黒潮の声には日ごろに似げなく弱々しい、嘆くような響きがあった。耕作は思わずごくりと生つばを飲み込んだ。
「そうなんだよ。実際あの小説のとおりなんだ。黒潮は白井の影にしか過ぎないんだ。黒潮の書くものはことごとくあの男の頭に発生したものなんだ。黒潮はただその発表機関にしか過ぎないんだよ」
黒潮はそれからしばらく黙っていたが、やがて嘲《あざけ》るようにそれに付け加えた。
「しかし、影はどうせ影に過ぎないからね。いずれそのうちに黒潮は滅びるさ。そして白井三郎がいよいよ本然《ほんぜん》の姿を現わすだろう。いや、あの男のことだから僕の思うようにならないかも知れないがね」
黒潮は深い深い溜め息とともに、もう一度畳の上にごろりと仰向けになった。
読者諸君は、この大江黒潮のことばをよく記憶していなければならない。いったいこの告白のうちにどんな謎が秘められていたのか、そしてまた、その謎の裏に、さらにどんな謎が、秘められていたのか、いずれそれを知らなければならぬときがあるに違いない。
二
白井三郎が黒潮の貸別荘へぶらりと現われたのは、その日の午後三時ごろのことだった。あんなにも問題になった白井三郎という男は、ではいったいどんな男であったか、筆者は少し、この男の人柄を説明しなければならぬ義務があるようだ。
白井三郎というのは年齢において、黒潮とほとんど同じくらいだった。そして容貌なり体つきなりにおいても、彼はどこか黒潮に似ている点があった。ただ黒潮がやや横に太っているのに比べて、この男は一、二センチだけ上背があった。性格において、この二人の著しい相違は、黒潮の八面|玲瓏《れいろう》にくらべて、この男は極端な人ぎらいだった。うわさによると白井三郎という男は、はじめての男と五、六分も話していると、必ずあとで嘔吐《おうと》を催すということである。それはむしろ精神的というよりも肉体的に人間に対して嫌悪《けんお》を感ずるらしかった。
耕作は黒潮を通してこの男をかなりよく知っていた。そしてときどきこの男の住んでいる浅草の下宿屋を訪ねることがあるが、その汚い四畳半にあるものは、奇怪な、血みどろな無残絵《むざんえ》と、古くちた仏像と、地獄極楽の子供だましのような、しかしそれだけ一層物凄い絵巻とだけであった。こういう一風変わった収集物の中で、白井三郎という男は一週間でも十日でも人と口も利かずに寝そべっているのだった。彼は東京に住んでもはや二十年になるだろう。しかし、彼の知っている東京といえば、浅草を中心のほんのわずかの範囲しかなかった。その代わり、この浅草に対する彼の興味にはむしろ肉体的な喜びがあった。
耕作は黒潮を通してこの白井三郎と知り合いになったものであるが、この人ぎらいな変人にもかかわらず、かなり耕作を好いているようだった。ときどき、気が向くと、白井三郎は彼の人生の唯一の慰安場である浅草へ耕作を引っ張って行くことがあった。ときどき彼は情熱的に安来節に凝ったり、レヴューの女に興味を抱いたりしたが、いつも長続きはしなかった。結局彼の住む世界は、自分自身の血みどろな空想的犯罪生活のほかにないように見えるのだった。
いったい、では恒産《こうさん》もなく、なんの収入もないこの白井三郎という男はどうして生活しているのだろうか。――耕作はときどき不思議に思うことがあるが、それはいつか、折江がちょっと洩らしたことばが説明になるかも知れない。
「あの人? ええ、ときどきうちから送っていますの。別に義理ってあるわけじゃないんですけれどね」
なるほど、しかし、黒潮はこの白井三郎に仕送りをしていい義理があったかも知れない。なぜならば、彼の現在の名声は、ことごとくこの男の息吹きが産んでくれたのだといってもよかったから。――
うわさによると黒潮とこの白井三郎は、小学校時代から双生児のようだといわれていたそうだ。それがともに同じ中学に入り、さらにまた同じ私立大学を出るころは、容貌ばかりではなく、思想的にもまったく一つのものを二つに割ったようになっていた。大学を出ると数年間、二人は浅草の汚い下宿に共同生活をしながら、いつも惨めな、食うや食わずの生活をしていた。もっともそのあいだ黒潮のほうはときどき、いろんな職業を求めて、持って生まれた社交的な性質からかなり成功することもあったが、いつも長続きはしなかった。そして結局もどってくるところは白井三郎のもとだったのである。
彼はもはや、白井三郎の恐ろしい呪縛《じゆばく》から永久に遁《のが》れることができないようにみえた。
そのうち大江黒潮は、毎日毎日下宿の天井の汚点《おてん》を見ながら、白井三郎と語り明かしていた空想を、ふと一篇の小説にまとめあげた。するとそれが思いがけなくも世間の好評を博して、たちまち彼は有名な小説家になりすましたのである。そして彼は、矢継ぎ早に白井三郎から影響を受けた、血みどろな空想を雑誌や新聞に発表して、あっぱれ現代の流行児に祭り上げられたのだった。
では、そのあいだ当の御本尊の白井三郎はどうしていたかというに、彼は依然として、自分一人で自分の空想を楽しんでいた。そして自分の分身が流行児になりすましたことに対して、なんの感激も持たなかった。それはまったく彼にはなんの交渉もない世界の出来事だったから。いや、そう言いきっては少しまちがっていたかも知れない。なぜならば、大江黒潮の文名があがるに従って、白井三郎の生活もかなり豊かになっていたから、彼はむしろそれを喜んでいたのかも知れないのだ。
大江黒潮の細君の折江は、この二人を結婚前から知っていた。そして彼女が黒潮と結婚したのは、二人と一年ほど交際してから後のことだった。当時黒潮はまだ小説を書き出していなかったし、したがって現在のように有名ではなかったから、彼女が二人のうち一人を選ぶとしても、なぜ黒潮のほうを選んだか、それは彼女のみが知るところである。
筆者はこの白井三郎なる人物の説明のために、やや紙数を費し過ぎたきらいがないでもない。
では大急ぎで、その日の午後から夜にかけて起こった、あの恐ろしい事件のほうへ筆を走らせることにしよう。
白井三郎は大江黒潮から今夜の計画を聞くと、なんの興味もなさそうに、青白いふきげんな笑いを浮かべた。前にも述べたとおり、この二人は幼いとき双生児とまちがえられたくらいだから、現在でもかなり共通した特徴を持っていた。ただ異なっているところは、大江黒潮の眼がいつも柔和に、人懐っこく輝いているのに、白井三郎のほうは、人を近づけない一種の冷酷さをもっていた。そしてへの字に曲げた唇の端には、ともすれば、非人情な冷笑が浮き彫りにされているのだった。
「まあ、子供だましといえば子供だましだが、みんな君を歓迎するつもりでいるのだから、仲間に入ってくれたまえ」
「うん、そりゃいいがね」白井三郎は冷たい気のない声で言った。「そんな危険な遊戯はえてして、まちがいを起こすもとだぜ」
「君にも似合わないね」黒潮は一本極めつけるように言った、「そんなことを恐れる君とは思えないが」
「いや、これは君のためを思って言っているのだよ。君が被害者の役だというじゃないか。ばかだね。いや、やるならやってもかまわないがね」それから白井三郎はふと耕作を振り返ると「君はいったい何をやるのだね」
「それは言えませんや」耕作は狡《ずる》そうに笑った。「そんなことしゃべっちまっちゃ、身も蓋もなくなりますからね」
ちょうど三人がこんな話をしているところへ、撮影をすませた一行がぞろぞろと帰って来た。みると、折江はいつの間に化粧をしたのか、いかにもカメラ向きな濃いお化粧をしていた。
「やあ、大江先生、奥さんをありがとうございました。実にすてきですぜ。奥さんはどこへ出しても立派な役者で通りますね」
折江は白井三郎をみた瞬間、なぜかはっとしたような様子で立ち止まった。そしてしばらく二人はじっと眼を見交していたが、折江のほうからつと視線をそらしてしまった。
「いらっしゃい」
そういう声が唇の中でもみ消されるように聞こえた。
白井三郎は一同の奇異な視線の中に、傲然《ごうぜん》としてそっぽを向きながら立っていた。
三
その日の夕方の出来事を筆者はできるだけ詳しく書いておこうと思う。そして、それにはやはり、由比耕作の身辺を中心に書いていくのが最も妥当だと思うのである。
仮装犯罪劇は六時きっかりに始められることになった。ところが、厄介なことには、そのころからまた少しずつ霧が降りはじめたことだった。霧は高原の向こうから、恐ろしい勢いでバベルの塔に向かって突進してきた。
「いやな霧ね」
それをみると、仲間の一人である道子が眉をひそめて不安そうに言った。
「これでもやはりやりますの?」
「やろうじゃありませんか」篠崎が横から励ますように口を出した。「僕たちは撮影がすんでしまったのだから、明日にでも引き上げなければならないかも知れませんからね」
「そうね」京子もそれに同意した。「あたしたちの最後の日になるかも知れないんだわ。思いきってやりましょうよ」
「やろうやろう」
岡田と信之助がそれに応じるように叫んだ。それで評議は一決した。
耕作は内心なるべくこの計画がお流れになればいいと思っていたのであるが、そう決まってしまった以上、もうどうすることもできなかった。
そこで、このお芝居について次のような細かいプランが立てられた。
被害者になる大江黒潮は、みんなより一足さきに、塔の展望台に登っていることにする。そして彼よりややおくれて、七人の嫌疑者は、それぞれ受け持ちの階段の下に立っていることにする。そして例によって塔の番人のじいさんにピストルで合図をしてもらうのだ。その合図によってみんなはめいめい階段を登ると、三分の二くらいの高さで待っていることにする。三分の二くらいまで上がると、塔の建物によってお互いの姿が見えなくなるからだ。つまりこれは絶対にアリバイを避けるための用意だった。むろんそのあいだに、耕作だけは階段を登って、頂上にいる大江黒潮を殺す真似をしなければならない。そのお芝居がすんで、耕作がまた三分の二くらいのところまで降りて来た時分を見はからって、今度は黒潮がお芝居のすんだ合図の空砲を放つ。
それをきいてからみんな階段を降りて行くというのだった。むろんその間は、白井三郎は塔の内部のいちばん底にいて、みんなが降りて来るまで待たねばならない。そして皆が地上に揃ってから階段を登って行って検屍《けんし》をすませ、さて一同を訊問して犯人を名指すということになった。
こういう細密なプランが立ったのは五時四十分ごろのことだった。そこで六時に芝居をはじめるには、みんな大急ぎで塔へ駆けつけねばならなかった。
「あなたどう思いますか、このお芝居を?」
道々耕作は一緒になった道子にそっと訊ねてみた。
「さあ」
と道子は青白い顔を緊張させて、
「あたし、何だか不安でたまりませんの。何かよくないことが起こりそうな気がして――」
「まあ、苦労性ね、あなたも」と、そのとき背後から京子の陽気な声がたたきつけるように言った。
「結局、子供だましみたいなもんだわ。あとでダンスでもして、今夜は大騒ぎをしようじゃありません?」
「そうそう」信之助がそのことばについて言った。「ひょっとすると、京子さんは今夜限りになるかも知れないんだね。今夜はうんと踊ろうぜ」
しかしそう言っている信之助自身の声にも、なぜか滅入《めい》りこむような陰気さがあった。
霧はますます深くなってきて、一行がバベルの塔へ行きつかないうちに、すっかり丘全体を包んでしまった。――みんなは黙々として、思い思いの考えに沈みながら足を急がせていた。そのばあい陽気だったのは京子一人だけで、彼女はときどき思い出したように歌を歌ったりしたが、だれもそれで勇気づけられはしなかった。反対に一層気が滅入り込んでくるのだったが、それでいてだれもこの計画を放棄しようと言い出さないのは、みんなが妙に意固地になっていたからだった。
「さあ、来た」
塔の下まで来ると、黒潮が緊張した顔をして一同を見回した。
「じゃ、僕は一足さきに上へ上がるよ。白井君、さようなら」
黒潮がこのとき、なぜさようならと言ったのか、だれにも分からない。しかし、このことばはちょっと別れるという意味ではなくて、永遠にさようならを意味していたことが、あとになって思い合わされたのだった。そういえば、そのときの黒潮の姿が、やがて、霧の天上に消えて行くと、さて七人の嫌疑者は別れ別れになって、自分のものと定められた階段の下へ行くことになった。
「しっかりしなさい、大丈夫、何も怖いことはありませんよ」
別れるとき耕作は道子の手を握ったが、その手は氷のように冷たかった。そして全身の震えが、指先まで伝わっているのが感じられた。
この受け持ちの階段というのは、出発前、例によってくじ引きによって定められたもので、不思議なことには、耕作の階段はその前と同じくApolloだった。そして左にはこれも昨日と同じく道子がいた。ただ右の階段には昨日と違って信之助がいるはずだったが、二人の姿は間もなくどっと吹き流れてきた霧によって、たちまち眼界から掻き消されてしまった。
やがて塔の中で突然、ズドンという砲声がした。芝居はじめの合図の号砲だ。耕作はそこで大急ぎで階段を登りはじめた。霧がまるで眼隠しをするように厚い膜を作って襲ってくるので、よほど用心しなければ足元をとられる憂いがあった。彼は今更のように、こんなくだらない芝居に一役引き受けたことを後悔しながら、他の人々も、みんな同じ思いだろうと思った。みるみるうちに、薄い浴衣の襟がぐっしょりと湿ってきた。
間もなく耕作は階段の三分の二ほど登った。ほかの人たちはその辺で休息していいのだけれど、耕作だけはそういうわけにはいかなかった。彼は一刻も早く階段を登って、黒潮を殺して来なければならないのだ。彼は慣れない迷路の階段を、手探りに登って行った。霧の中で彼は幾度となく間違った袋階段へ突き当たってはもとへもどったりした。あたりを見回したが、霧と、塔の姿にさえぎられて何人《なんぴと》の姿も見えない。
早くしなければいけない。早くすませて、合図の号砲を放たなければみんな霧の中で待ち遠しい思いをしていることだろう。――耕作は気ばかりあせるのだったが、あせればあせるほど、彼はほんとうの道を探すことができなかった。やっとのことで、それでも彼はほんとうの道を探し出すことができた。ふうふう汗を垂らし、息を切らせて展望台へ辿りつくと、望遠鏡の側に立っていた大江黒潮が待ちかねたように、くるりと彼のほうへ向きなおった。
「遅かったね」
黒潮が押しつぶしたような声で言った。しかし、ふいに、どうしたものか、そのとたん彼はぎょっとしたように、二、三歩後じさりをした。そのとき耕作が浴衣の袂からかなり大きな果物ナイフを取り出したからである。しかし、考えてみればそれはなんでもないことだった。これは芝居を一層真剣らしくするために、現場に凶器を投げすてておこうとみんなで相談をまとめて、白井三郎には分からないように黒潮の家から、耕作が持ち出して来たナイフだったのである。
しかし耕作自身も、黒潮が顔色を変えたのを見ると、思わずぶるぶると激しい身震いをした。何かしら彼は、えたいの知れぬ錯覚にとらえられて、今更のように手にしていたナイフをつくづくと見直した。
「君は――君はまさかほんとうに殺しやしないだろうね」
黒潮が押しひしがれたような声を立てた。これをきくと耕作は急に恐ろしくなってナイフをその場に投げ出した。なんだかそれを握っていると、今にも相手に襲いかかっていきそうな、不思議な衝動を感じたからである。
「よしよし、それでお芝居はすんだことにしよう。なんだ、君の顔はほんとうに人殺しでもしたように真っ青だぜ」
しかし、そういう黒潮自身の顔も引きつったように歪んでいた。耕作はそれをみると、くるりと踵《きびす》を返して逃げるように一散に階段を降りはじめた。心臓がどきどきと鳴って、額からは玉のような汗が流れ落ちた。
耕作が階段の三分の二あたりまで降りて来たときである。ふいに塔の頂辺からズドンという砲声が聞こえた。それをきくと、一瞬間耕作はぎくりとしたが、すぐそれが黒潮の放ったものであることに気がつくと、ほっと安堵の吐息を洩らしたのだった。
これでお芝居もすんだ。結局何も起こらなかったではないか! 黒潮はああして、塔の頂辺で生きている。今に皆黒潮の宅の広間に集まる、そして白井三郎が犯人を当てることができるにしろ、できないにしろ、これはあとあとまでおもしろい話の種にすることができるのだ。――耕作は急にがっかりしたように、ゆっくりと階段を降りはじめた。
しかし、耕作のこの考えはまちがっていた。この恐ろしい芝居はまだ終わっていなかったのだ。
耕作が階段の中ほどまで降りてきたとき突然、塔のうえから激しい叱咤《しつた》するような声がきこえてきた。それは確かに黒潮の声で、「何をする!」と叫んだようだった。耕作ははっとして階段の途中で足をとめた。と、そのとたん、深い霧をついて、丘じゅうに響き渡るような高い悲鳴が聞こえた。何かしらそれは聞くものの心臓を凍らせるような、無気味な、物凄い悲鳴だった。
――耕作はしばらく、同じ地点で石のように固く身をすくめていた。霧はますます深くなって日はすでに暮れかけていた。あたりは霧と濃い夕闇にすっかり包まれていた。
だいぶたってから、耕作はそろそろと階段を登りはじめた。悲鳴はそれきりで、今はただ死のような静けさが、塔全体を包んでいる。彼はがたがたと歯を鳴らせながら、一歩一歩階段を登って行った。しかし、このばあいまたしても曲がりくねった階段が、意地悪く彼の行手をさえぎった。最初は袋階段に行き当たって、当惑したように、しばらくそこに立ち止まっていた。何か叫んでみようかと思ったが舌の根がこわばってことばが出なかった。そこでまたそろそろといま来た道をとって返した。と、彼はそこでばったりと京子に出会ったのである。
「なんだったの? あれ!」
京子は耕作の姿をみると、いきなりその胸に縋《すが》りついて来た。耕作はそれに対して何か答えようとしたが、思うようにことばが口から出なかった。しばらく二人は体を貝のように密着したまま、霧の中でぶるぶると震えていた。
「行ってみましょうか」
「ええ」
そこで手をとり合った二人は、またそろそろと歩き出した。と、そのときふと行手の霧の中に当たって、ぽっかりと人の影が浮かんで来た。その人影はそろそろと忍び足で二人のほうへ近づいて来たが、京子が何気なく、
「どなた? そこにいるのは?」
と、声をかけると、やにわに身を翻して、飛鳥のごとく階段を駆け降りて行った。そして見る見るうちにその姿は霧に隠れてみえなくなった。
「あれ!」
それを見ると、京子はひしとばかり耕作の胸にしがみついた。
「あれ――知らない人だったわ。われわれの仲間じゃなかったわ」
だいぶしばらくしてから京子はぶるぶる震えながら泣き笑いをするように耕作の耳もとでそうささやいた。
そうだ、耕作も今それに気がついていたところだった。彼らの仲間はみんな浴衣がけでだれ一人洋服のものはなかったのに、いま階段を駆け降りて行ったのは確かに洋服姿の男だった! だれがいったい、彼らの仲間以外にこの塔の上にいたのだろう。この霧の濃い夕方に!
「追っかけてみましょうか。あの人を――」
「よしましょう。どうせこの迷路ですもの。それにこの霧――とてもつかまりゃしませんよ」
二人はそれきり黙って顔を見合わせていた。
「ともかく、上まで行ってみましょう」しばらくして耕作は決心を定めたように言った。「あなたも来ますか。怖ければ先に降りていらっしゃい」
「いや! あたしもついて行くわ。とても、一人で降りられやしないわ」
二人は無言のまま階段を登って行った。今度は京子が道案内に立ったので、雑作もなく展望台まで辿りつくことができた。
耕作は階段の途中から頭を出してひと目塔上の展望台をみると、すぐ眼をつむって後ろにいる京子を制した。
「いけません、上がって来ちゃいけません。あなたの見るものじゃない!」
「まあ、何があるのよ、言ってよ、由比さん、何があるのよ?」
京子が歯をがたがた鳴らせながら、今にも泣き出しそうな声で言った。
「何でもよろしい。あなたの見るものじゃありません。さあ、降りましょう!」
「いいえいいえ、あたし見ますわ。何かあったんでしょう? あたし見ますわ」
京子はだだっ子のように身をゆすぶると、耕作の体を押しのけてそっと展望台をのぞき込んだ。そのときの京子の様子は、あとから考えてもまことに不思議な態度だった。しばらく、彼女は黒い鉱石のような眼でじっと眼のまえにある恐ろしい光景を見ていたが、やがて大きく息を内へ吸いこむと、眼をつむって、ぶるぶると身を震わせた。
「大江先生ね?」
「そうです。さあ、もういいでしょう。行きましょう」
「いいえ」京子は静かに頭を振った。「よく見て行きましょう。ほんとうに死んでいるのでしょうか」
「あの血を御覧なさい――」
耕作は眼をつむりながら言った。
大江黒潮は塔の頂辺の、望遠鏡の側で、体を鰕《えび》のように曲げて死んでいるのだった。その肩あたりにささったナイフの柄が霧の中にも白く光っていた。
京子は身動きもせずに、じっと死体の様子をみていたが、そのとき、ふいに耕作の腕をぎゅっとつかんだ。
「ど、どうしたのです?」
「あれ――」
低い、咽喉に引っかかったような京子の声が霧に濡れてきこえた。
「何?」
「あれ――」
ふと、耕作は京子の視線を追ってそのほうをながめた。と、ふいに彼は体中を、荒いたわし[#「たわし」に傍点]でこすられるような無気味な戦慄を感じたのだった。展望台のちょうど反対側の階段から、まるで浮かびあがるような黒い影がはい上がってきた。あいにくの霧で、その黒い影の主が何者であるかまるで分からなかったけれど、静かに、静かに、広場のうえをはいながら、死体の側へ近づいて行く様子だった。
耕作と京子の二人は、まるで何か恐ろしい呪縛にでもかかったように、身動きをすることもできなかった。二人とも、できるだけ体を小さくして、その恐ろしい影の挙動をじっと見つめているばかりだった。
やがて、奇怪な影は死体のすぐ側へはいよった。そして、ごそごそと死体の懐中を探っている様子だったが、そのとき、二人の眼にははっきりとその恐ろしい手を見ることができた。それは大きな、ごつごつと骨ばった手で、しかも四本しか指がないのだった。
それをみると、京子はあまりの恐ろしさにとうとうたまりかねて、思わず大声で叫んでしまった。それをきくと、怪しい影は、ぴょこんと、跳び上がったかと思うと、脱兎《だつと》のごとくもとの階段のほうへかけて行った。そして瞬くうちに姿を消してしまったのだった。
耕作にも京子にも、それを追っかけて行く勇気はとてもなかった。彼らは人形のように抱き合ったまま、無言のうちに今みた不思議な手を了解しあおうと、じっと相手の眼の中を見つめているのだった。
階下から白井三郎はじめ、岡田、篠崎、中西らの男連中が彼らを探しにきたのは、それから五、六分のちのことだったが、そのとき彼らはまだ放心したように抱き合っていたのだった。
[#改ページ]
[#小見出し] 道子の失踪
一
一同が死体を展望台に残したまま、ひとまず大江黒潮の貸別荘に引き上げたのは、それから間もなくのことだった。警官のほうへは塔の番人が知らせに駆けつけた。塔の入口には全部鍵をかけてしまったから、だれも見張りをしていなくてもよかったのだ。塔の外にある七つの階段にも、それぞれとびらがあって、夜はいつも鍵をかけることになっていたのである。
道々京子は中西と岡田の肩に縋りつくようにして歩いていたが、ときどき思い出したように、激しくすすり泣いていた。
篠崎はできるだけ折江を慰めなければならぬと思って、ときどき、相手の気を励ますように、一言二言、ことばをかけたが、折江にとってはそれはかえって煩わしいばかりだった。彼女は強く下唇を噛んだまま、貝のように沈黙を守っていた。耕作は白井三郎と肩をならべていちばんあとから歩いていた。疲労と興奮と、えたいの知れぬ恐怖のために、彼はだれとも口を利く気になれなかった。
ただ一人白井三郎だけは、こういうばあいにもかかわらず、たばこをくわえたまままっすぐに前方を見つめながら、さものんきそうに歩いていた。しかし、よくみると、そのたばこはさっきから火が消えて、先が黒く灰になっているのだった。
霧はかなり深かったけれど、どこかに月が出ているとみえて、黒い丘の影に出ると、紫色の高原がはるばると海底のような静けさを保っているのだった。
一行七人は、この高原の露の多い草のうえを横切ってようやく大江黒潮の家まで辿りついた。みんながっかりして、お互いに口を利くのもいやだという風だった。白井三郎と耕作は縁側に、ごろりと足を投げ出して横になった。
そのほかの五人は隣の広間へ入ったきりで、ごそとも音を立てなかった。ときどき京子の昂《たか》ぶったようなすすり泣きの声が聞こえる。と、それによって、一層いらだたしさをかきたてられるように、折江が、引きつったような顔をして、一同の顔を睨め回していた。
すると、そのとき、ふいに中西がとんきょうな声で叫んだのである。
「おや、山添さんはどうしたのだろう?」
しばらく人々は、それを聞いてもきょとん[#「きょとん」に傍点]とした顔をしていたが、ふいにそわそわとあたりを見回しはじめた。
「由比さん、山添さんそちらにいる?」
篠崎の声がきこえた。
「いいえ、いませんよ。山添さんがどうかしたのですか」
耕作は大儀そうに立ち上がって隣の部屋へ入って行った。
「あなた、塔からこっち、山添さんと一緒ではなかったのですか?」
今度は岡田が訊ねた。
「いいえ、僕はずっと白井さんと二人きりでしたよ」
ふいにみんなが魅かれたような眼を見交わした。
「僕もみなかった」「私も知らない」「あたしも――」
白井三郎がそこへのそっと、ふきげんそうな顔を出した。もっともこれはこの男のくせで、別になんということはなくても、いつもむっつりと興味のなさそうな顔をしているのだ。
「ああ、白井さん、あなた山添さんを見ませんでしたか」
「山添さんというのは、藍色《あいいろ》の浴衣をきていた女だね?」
「ああ、そう」
「あの人なら、塔からこっちずっといなかったよ」
「まあ!」折江が急に荒々しい声で叫んだ。
「あなたそれに気がついていらしたの?」
「さよう」白井はたばこに火をつけると、悠々《ゆうゆう》と煙を吹かせながら、「行きがけにたしか九人だったからね。被害者に扮する大江黒潮と、探偵の僕、それに七つの階段から登る七人の嫌疑者と。――ところがさっき塔を離れるとき数えてみると、七人しかいない。もっとも一人は塔の頂辺で冷たくなっているが、あとの一人はどうしたのだろう――? 僕は今までそれを考えていたんだよ」
「まあ!」
京子と耕作の眼が思わず合った。折江はいらいらしたように、
「ばかばかしい、そんなのんきなことを言ってるばあいじゃないわ。だれかちょっと山添さんの宅をのぞいて来てくださらない。ひょっとすると先に帰って寝ているかも知れないわ」
折江はいかにもいまいましそうに言った。その声に信之助が立ち上がって出て行ったが、間もなく不安そうな顔をしてもどって来た。
「いない?」
「うん、まだ帰らないそうですよ」
ふいにみんなの面上にさっと恐怖の色が浮かんだ。ひょっとすると、あの塔のどこかで、大江黒潮と同じように殺されているのではないだろうか。――そういう不安が期せずして一同の頭に浮かんだ。
「ともかく」と白井が気のなさそうな声で言った。「警官が来たら、われわれ男連中だけもう一度塔へとって返すんだね。そしてみんなで手分けして捜してみよう」
「あたし、いや!」
ふいに京子がヒステリックな声をあげた。
「だれも行っちゃいやだわ。あたし寂しいんですもの。みんなに出て行かれたら、あたし心細くてやり切れないわ」
「京子さん!」折江がたしなめるように言った。「そんなわがままを言っているばあいじゃないわ。もしも山添さんが――」
「山添さんがどうするもんですか。あの女は今ごろ汽車に乗ってどこかへ逃げているに違いないわ」
「汽車に乗って?」
「そうよ。犯人がいつまでもこの辺にうろうろしているはずがありませんもの」
だれも京子がそれを本気で言っていると思うものはなかったけれども、この恐ろしいことばをきいた刹那《せつな》、ふいに皆の眼には激しい恐怖が浮かんだ。
そうだ。塔中を探しても道子の姿がみえないばあいは――あるいはそう解釈できないこともないではないか。
耕作はふと、昨夜の役割を決めるとき、折江が口走ったあの恐ろしい原稿のことを思い出した。あのときの道子の様子はたしかにただごとではなかった。それに昨日の午後、あのバベルの塔の階段の途中で、道子がしつこく訊ねていた原稿のこと。――
そうすると昨夜の折江のことばは、やはり芝居の筋書ではなくて真実のことだったのだろうか。そして、道子はそのために大江黒潮を殺害したのだろうか。
耕作はふいにぶるぶると激しい身震いをすると、だれにも気づかれぬように、乾いた唇をそっとなめたのだった。
二
塔の番人が三人の警官を引きつれて塔への帰りがけに、大江黒潮の宅へ寄ったのはそれから十五分ほど後のことだった。
そこで一同は協議の結果、岡田と信之助だけが、婦人連のお相手に残ることになって、篠崎、耕作、それに白井三郎の三人は警官のお手伝いをするためと、もう一つには道子の行方を探すために塔へ引っ返すことになった。
耕作はこのとき塔の番人という男を詳しく観察することができたのであるが、この男は六十ぐらいの体の頑丈《がんじよう》そうな、陽にやけた顔をした男だった。名前は権九郎といってこの軽井沢では随分古い男らしく、宿屋の風呂たきをしたり、町の使い歩きをしたり、土地の者にはいたって重宝がられている模様だった。無口な、いかにも正直そうな男で、今度も町の有志連中がこのバベルの塔を建築すると、さっそく雇われて番人になったのだった。
やがて一行七人が塔へつくと、権九郎じいさんは、腰から大きな鍵をとり出してがちゃがちゃとそれを鳴らしながら塔のいちばん底にあるとびらをひらいた。と、たちまち土と材木と草の匂いが薄暗がりの中で戸惑いをしているのが感じられるのだ。ちょうどその内部は大きな円錐型のお椀か何かの内部みたいに、上になるほど空間が狭くなって、そこには漆《うるし》を塗り込めたような暗やみがひっそりと覆いかぶさっていた。
権九郎じいさんは、自分の部屋になっている小さな囲いの中に入って行くと、間もなくカンテラを二つ持って出て来た。そしてその一つを警官に渡すと、あと一つは自分でさげて、黙って先に立った。他の人たちもみんな無言のままそのあとについて行った。
しばらく湿った、じめじめとした土のうえを歩いて行くと、間もなく行き当たりに、曲がりくねった階段の登り口がカンテラの灯にぼんやりと見えてきた。
「暗いから気をつけてくらせえ」
権九郎じいさんはそう言いながら階段を静かに登り始めた。
なるほど、じいさんがそう注意したのはいかにももっともな話だった。木肌のざらざらとした螺旋《らせん》型の階段は、少し力を入れて歩くと、大風にあったようにぐらぐらして、外の七つの階段よりも一層危なっかしかった。それに、手すりといってもごくお粗末なもので、うっかり寄りかかろうものなら、いつ何時ぐらっといくかも知れないのだ。おまけに灯といっては先頭に立っている権九郎じいさんと、一行の中ほどにいる警官が持っているだけだから、よほど注意していなければ足を踏み外すおそれがあった。
この恐怖はだんだん上へ登って行くに従って耕作の胸に激しく燃えあがってきた。上も、右も左も真っ暗で、その暗やみの中にかかっている、この危なっかしい螺旋階段だけが彼らの唯一の頼りだった。下をみるとはるかかなたに、権九郎じいさんの小屋の灯が、ぼっと薄墨に滲ませたように光っていた。外ほどひどくなかったが、霧はこの塔の内部にまで侵入しているとみえるのだ。
「じいさん、まだなかなかかね」
「まだまだ」じいさんは強く言った。「ここはお前さん、まだ半分も登っちゃいませんぜ」
それをきくと耕作はいよいよ気が滅入ってくるのだった。後ろを見ると、篠崎がこれも怯えたような顔つきで歩いていた。
荒削りな生木の匂いと、外部と遮断された空気の匂いが、胸の悪くなるほど鼻をつく。高原を渡る風が、ときどきこの塔全体をゆすぶっていった。するとその度にキイキイと、百も千もの小さな獣が鳴くような音を立てて、塔がぐらぐらと揺れるのだった。実際、その度に耕作は命も縮まるような思いがするのだった。
それでも彼らはやっとのことで階段を登り切ることができた。階段のいちばん上は、塔の広さいっぱいの舞台のような板の間になっていて、その板の一部をはねあげて、上へ上がるようになっていた。この板の間には三つのとびらがあって、これを開くと、外の階段に連絡するように廊下がついている。その廊下から一間ほど上に、大江黒潮の死体が横たわっている展望台があった。
三人の警官は権九郎じいさんを案内に立てて、すぐ上の展望台へ上がって行った。白井三郎もそれについて行ったが、耕作と篠崎だけは、二度と死体を見る気はしなかったので、下の廊下に残っていた。
はるかかなたをみると、軽井沢の町の灯がぼっと珠玉をちりばめたように霧の中に濡れていた。耕作はたばこに火をつけると、ぶらぶらと一人でその廊下を歩き出した。床がしっとりと濡れて、ともすれば滑りそうだったが、彼はそんなことはまったく気にならなかった。頭が冷たい霧に洗われて、ようやく物事を尋常に見直すことができるように思えて来たのだ。彼はいつの間にか、廊下を歩き過ぎて塔の裏側のほうへ来ていた。彼はふと不安を感じて上をみると、相変らず警官たちが死体を検《しら》べているとみえて、しきりにカンテラの灯が動いていた。耕作はそれで安心したようにいま来たほうへとって返そうとしながら、ふと何気なく下を見下ろした。と、ふいに彼はぎくんとしたのである。
彼のいるところから一周か二周下の廊下から、そろそろとこちらのほうへ動いて来る影がみえた。蛇のように不活発に、足音を盗んでいる様子だったが、その動く様がくっきりと霧の中に黝《くろず》んでみえた。
だれだろう? 今ごろ。――
警官だろうか。いや、警官はみんな上にいるはずではないか。権九郎じいや? いやいや権九郎じいやだって警官と一緒にいま死体をみているはずだ。まさか、白井三郎や篠崎が、あんなにあたりをはばかって登ってくるはずがない。行方不明になった道子だろうか。違う、違う! 女ではない。たしかに男の姿だ――
日ごろ臆病者にもかかわらず、耕作はそのとき不思議に気が張っていた。彼はそんなことを考えながら思わず足元の階段を音もなく降りて行った。怪しい影はだんだんこちらへ近づいて来る。耕作は一段一段と身をちぢめながら下へ降りて行く。二人の距離は次第に接近してきた。間もなく、いやが応でも、ばったり顔を合わさなければならないはずだ――
ところが、これは耕作の大きな誤算だった。彼は二人の間が最短距離に近づくまでそのことに気がつかなかったのであるが、その男の登ってきた階段と、耕作の降りてきた階段とは、まったく違っているのだった。二つの階段の間はわずか一間ほどしか離れていないのだが、そこには何百フィートという高い空間が横たわっているのだ。
「だれだ!」
耕作はその男がつい眼と鼻の先にきたとき、はじめてそれに気がついて、思わずそう声をかけた。すると、男はむっくりと彼のほうを振り返ったが、にやりと嘲《あざけ》るように白い歯を出して笑うと、くるりと背をむけて、すたすたと急ぎ足で向こうのほうへ回って行った。はっきりと見えなかったが、三十ぐらいの凶悪な人相をした男だった。
「ちくしょう、待て!」
耕作は地団駄《じだんだ》を踏んで口惜しがったが、どうすることもできなかった。普通なら一間ぐらいの距離を跳ぶのは何でもなかったが、こんな高い場所ではとてもその勇気が出なかった。耕作は急いで左へ回った。そして再び階段を降りるとその下の廊下を今度は右へ迂回した。するとそこに今、男の登って来た階段があるのだった。たった一間ばかりのところをこれだけ迂回しなければならないこの階段の構造を、そのとき耕作はどんなに口惜しがったろう。
ようやく彼が、さっき曲者と出会った場所まで辿りついたときには、むろん相手の姿は影も形もみえなかった。
しかし――と耕作はがっかりしながら、それでも落ち着いて考えをまとめようとした。――いま曲者が立ち去った方角からすれば、どうしても彼はいちばん上の廊下へ出なければならないはずだ。その廊下には篠崎がまだいるはずだが、塔の裏のほうへ回れば、相手に見られなくてもすますことができる。
だが、曲者はそこからどこへ行ったろう。まさか、そこから再び降りて行くようなことはあるまい。しかし、それから上へ行くといったところで、そこにはいま警官たちががんばっているのだから、勢い彼は塔の内部へ入って行くより他に仕方はない。内部へのとびらは三つあるのだから、篠崎の眼に触れずに忍びこむことはなんでもないことだった。
耕作はそのときふと、あの恐ろしい死体を発見したとき、そこへはい寄って来た四本指の男のことを思い出した。そうだ。今の男がそれに違いない。そして、その男は、この塔のどこかに隠れているのだ。――
耕作がそんなことを考えながら、曲者の去ったあとを辿って行くとはたしてそれはいちばん上の廊下へ出た。その他にはどこへも行きようのない一本道の階段になっていた。なるほど、曲者はよほどこの迷路に通暁《つうぎよう》しているのだ。と、すれば、彼の今の疑いは一層はっきりしてくる。しかし、その男はいったい今度の事件にどんな関係を持っているのだろうか。さすがに耕作はそこまでは想像がつかなかった。
「いったい、どこへ行ったのです」
耕作が考えこみながらもとの場所へ帰ってくると、篠崎が怪しむように訊ねた。
「いや、ちょっと頭を冷やしていたのです。検屍はまだですか」
耕作はなぜか今の出来事を黙っていた。
「もう、そろそろすみそうなものですがね」
二人がうえをみたとき、白井三郎が展望台の手すりのうえから顔を出した。
「おい、死体を運び下ろすそうだから、手を貸してくれたまえ」
三
大江黒潮の死体を今度は外のほうから担ぎ下ろすと、
「さあ、それじゃ山添さんの行方を捜そうじゃないか」
と篠崎がふと思い出したように言った。
「山添?」
警官の一人が不思議そうに訊ねるのを、
「ええ、山添道子というのです。この塔から急に行方が分からなくなったのですがね」
「ふむ、それはいつのことかね」
「この人が殺されてから相前後してです。もっとも今ごろは家へ帰っているかも知れないがね」
「そうか、じゃ一応階段を捜してみよう」
しかし、この階段を捜すということはなかなか容易なことではなかった。何しろ、何度もいうとおり、八幡《やわた》の藪知《やぶし》らずみたいにくねくねと曲がりくねっていて、しかも、いくつもいくつも盲目《めくら》道があったり、袋階段があったりするのだから、それを全部回るだけでも大変だった。うっかりしていると、一度通ったところを、知らずに二度も三度も捜しているようなことが珍しくなかった。おまけに、都合の悪い霧が一層その捜索をさえぎるのだった。
しかし、それでも、半時間ほどのうちには、七つの階段をすみからすみまで捜索することができた。しかしとうとう道子の姿を発見することができなかった。これだけ捜してみえなければ、この階段のうちにはいないとみるよりほか仕方はなかった。
「どうでしょう。一つ、塔の内部を捜してみたら」
何を感じたのか耕作がふとそう言った。
「塔の内部だって?」
警官が不思議そうに訊き返した。
「そうです。ひょっとすると、塔の中のどこかにいるかも知れませんよ」
「め、めっそうな――」
それをきくと権九郎じいやが真っ赤になって口からつばをとばした。
「塔の中になどいるものですか。もしいればおれの眼にとまらぬというはずはありませんからね」
「どうしてだ」耕作はまじまじと相手の顔色をみながら、「どうしてそんなことが言えるね。随分広い塔のことだから、どんなところに隠れていないとも限らないぜ」
しかし、この時分には警官も他の人々も、さっきからの捜索でうんざりしていた。この上あの真っ暗な、危なっかしい塔の中などを捜させられてはたまったものかという気がだれのはらにもあった。幸いに、一同のそうした心持ちを代表するように篠崎が口を切った。
「もう帰ろう、帰ろう、まさか道子さんが、鼠《ねずみ》のように塔の中に隠れているとは思えないよ。ひょっとしたら、今ごろもう家のほうへ帰っているかも知れないぜ」
「そうそう」警官の一人がそれに応じるように言った。
「今ごろは大江氏の宅でわれわれの帰りを待っているかも知れない。それとも、君は何か、その女が塔の中に隠れているという確信でも持っているのかね」
「なあに、そんなことはありませんがね」耕作はすぐ譲歩した。「ただ外をあれだけ捜したくらいだから、ついでに内部も捜したらと思っただけのことです」
「もし、捜す必要があったら、明日でもいいだろう。何しろ、あの真っ暗な中のことだから、捜したところで、何が分かるものじゃない」
下へ降りると急をききつけて駆けつけて来た屈強な町の若者が四、五人待っていた。大江黒潮の死体はそれらの若者たちに担がれて、彼の借りていた貸別荘へと帰って行ったのである。
「言わないこっちゃない。今にこんなことが起こるだろうと思っていたんだ」
「ほんとうだ。少し御乱行が目にあまったからね」
大江黒潮一派の華々しい恋愛合戦は、よほど町の人の反感を呼んでいたものとみえ、わざと聞こえよがしにそんなことを言っているのが聞こえた。
「ばか、そんなことを言うもんじゃねえ。仏が怒って跳びついてくるかも知れねえぜ」
「うへえ! そいつはごめんだ」
一行が黒潮の別荘まで引き上げてくると、そこには四人の男女がさっきと同じままの姿勢でじっと黙りこんでいた。うわさをききつけたものとみえて、つる薔薇の垣根の外には、大勢の人々が集まって盛んに下馬評をやっているのだった。
大江黒潮が奥の日本座敷に運びこまれると、さすがに、折江は良人の変わり果てた姿をみて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。しかし、日ごろから勝気な彼女は、そんなばあいにも決して取り乱した風は見せなかった。青白い、放心したような顔はしていたが涙など一滴もみせなかった。いや、こういうばあい、泣こうにもかえって泣けないものかも知れないのだ。
耕作はそのときはじめて大江黒潮の死に顔を明るいところでみた。
それは生前の黒潮とはまるで変わった相好だった。くゎっと白眼を見開いて、引きつったように歪んだ唇の間からは、白い歯が無気味に光っているのだった。すでに紫色に変わりかけた頬の筋肉は、まるで巨人の手で押しつぶしたように、険《けわ》しく歪んでいた。
それは黒潮が死の瞬間の激しい恐怖を物語るものであるらしかった。したがって彼は、何も知らないところをふいに突かれたものではなくて、凶暴な相手がナイフを持って襲いかかって来たのを、殺される瞬間意識したのだ。
そのことは耕作が聞いた、「何をする!」という黒潮のことばでも説明することができる。黒潮は犯人が自分に襲いかかって来るのをみた。そして、「何をする!」と相手をしかりながら抵抗を試みようとしたのだ。しかし、次のことばを発するひまもなく、相手の凶器に斃《たお》されてしまったのだろう。――それはあの「何をする!」ということばの直後に起こった悲鳴でも分かることだ。
「奥さん、ちょっと体を調べてみてください。何かなくなっているものはありませんか」
警官の一人が言った。折江はしばらくじっと祈るように天井をみていたが、やがて静かに良人の死体の側へ近づいた。そして、わななく指で良人の体を触っていたが、やがて低い声で言った。
「時計と紙入れがなくなっています」
「え? 時計と紙入れがなくなっている?」
警官が驚いたように反問した。
「はい、家を出るとき良人《おつと》はプラチナ側《がわ》の懐中時計を帯へ巻きつけていました。それと紙入れがなくなっているようでございます」
「ふうむ、して紙入れにはいくらぐらい入っていましたか」
「さあ、はっきりとは存じませんが、良人はどんな場合でも、五十円以下の金をかかしたことはありません。だから、今夜もそれくらいは入っていただろうと思います」
「それが見えないのですね。しかし、御主人が今夜ここを出るとき、確かにそれを持っていられたことはまちがいのないことでしょうな」
「はい、決してまちがいはありません」
警官は当惑したように顎をなでていたが、
「いや、そのことはあとで、もう一度警部におっしゃってください。さあみなさん、死体はここへ残して、あっちの広間で待っていてください。今に警部が見えましょうから」
それで、みんなは広間のほうへ引き上げた。
考えてみると、しかしこれは大変不思議なことだった。
時計と紙入れを盗んで行ったものは何者だろう。この犯罪が物盗りの目的でないことはだれの眼にも分かっていた。犯人が、犯行をごまかすためにそんなものを持ち去ったのだろうか。しかし、あのばあい犯人にそんな余裕があったとは思われない。とすれば、何者かが犯行があったときから死体の発見されたわずかの時刻にそれを盗み去ったとしか思えないではないか。
「そうだ」と耕作は胸のうちで考えていた。「あの四本指の男が盗んで行った」
しかし彼はだれにもそのことを話そうとはしなかった。
「どう? 道子さんは帰って来た?」
広間へ入ると篠崎がさっそくそう訊ねた。折江は白い眼をじろりとあげたまま、無言のうちに首を横にふった。
「もう一度だれかを走らせて様子を聞かせたらどうです。こんなこととは知らずに、家へ帰って休んでいるかも知れませんぜ」
折江は唇を曲げたまま、じっと相手の顔をみていたが、つと部屋を出て行くと、女中に何か命じているのが聞こえた。
ちょうどその時分になって医者だの警部だのがやって来た。そして広間においていよいよいやな訊問がはじまることになった。警部はひととおり今夜の仮想探偵劇の筋書から、その探偵劇がお芝居として終わらず、真実の恐ろしい人殺しに発展したいきさつをききとると、一応、みんなの姓名住所と身分を聞きとった後、
「いったい、最初に死体を発見したのはだれだね」
と、じろじろと一同を見回しながら言った。
「僕です」
耕作が、低い、しかし落ち着き払った声で言った。
「僕とここにいる京子さんです」
「なるほど」警部は二人の顔を等分に見比べながら、「君たち二人が発見したというのだね。じゃ、そのときの模様を詳しく話してくれたまえ」
耕作はそこでその当時の模様をできるだけ詳しく話した。とくに悲鳴をきいてから間もなく、あの階段の途中で出会った奇怪な洋服の男について、特別に力こぶを入れて話した。京子は黙ってきいていたが、それに対して一口も口をはさもうとはしなかった。耕作の話がすむと、警部は京子のほうへ向き直った。
「それに違いありませんか。何か付け加えることはありませんか?」
「ございません」
京子は、低い声で簡単に答えた。
「なるほど――」警部は長いあいだどじょう髭を噛みながら考えていたが、「するとなんですな、あなた方は悲鳴が聞こえてから間もなく、自分たちの仲間でない男が、階段を降りて行くのを見たというのですね」
「そうです」耕作は京子の顔を見ながら答えた。「たしかに僕たちの知らない男でした」
「いったいそれはどんな男でしたか。今度あったら思い出すことができますか」
「それは少し無理だろうと思います。何しろ、あの深い霧の中ですから、顔はまるきり見えなかったのです」
「顔を見なかった。なるほど――しかし、顔を見ないのに、どうして知らぬ男だということが分かりました」
「だから、最初はやはりわれわれの仲間だと思って、京子さんなどは声をかけたくらいです。ところが、その声を聞くと、急に相手は踵を返して逃げ出したのです。そのあとになってやっと、その男が洋服を着ていたことに気がつきました。御覧のとおり、われわれはみんな浴衣を着ていたのですからね」
「なるほど、すると、あなたがた七人、いや被害者を入れて八人のほかに、だれか塔のうえにいたものがあるというのですね。だれかほかにもその男を見た人はありますか」
それに対してだれも答える者はなかった。警部が次々に訊ねて行くと、だれも見ないと答えた。結局、その不思議な人物を見た者は、耕作と京子の二人きりしかなかった。
「よろしい。ではさっそく手配して、その男を捜すことにしましょう。ところで、その悲鳴が聞こえたとき、それがつまり凶行のあった時刻だが、そのとき諸君はどこにいました」
それについて皆、自分は階段のどの辺にいたと答えたが、さて、それを証明することのできる者はだれ一人いなかった。つまり彼らは完全にアリバイを持たなかったのである。無理もない、彼らは彼らの仮想探偵劇をできるだけ複雑にするために、絶対にアリバイの成り立つことを避けるようにしていた。ところが、そのお芝居がお芝居に終わらずに、真実の恐ろしい殺人事件へと展開したのであるが、おかげでだれ一人自己のアリバイを立証することができなかったのである。つまり彼らは、あの思いつきな遊戯のためにこしらえておいた罠《わな》の中に完全に落ち込んだのだ。
「しかし」と耕作は横から弁解するように言った。「とにかく、僕たち、僕と大江先生の芝居が終わるまでは、確かに先生は生きていたのです。なぜって、僕が階段を十五、六段降りたとき、先生の放ったピストルの音が聞こえたのですし、悲鳴の起こったのはそのあとでしたから――」
「それで、君はどうだというのだ?」
「だから」と、耕作は少し顔を赤くしながら、「僕だけは嫌疑から除かれてもいいと思うのです」
「おいおい、どうしてそんなことばが言えるのだね」そのとき横から篠崎が憎々しげな口を出した。
「だって悲鳴が聞こえてから、君が京子さんと出会うまでには相当間があったのだろう。君はお芝居をすませ、先生にピストルを撃たせておいて、それから改めて、今度はほんとうに先生を殺して降りて来たのかも知れないじゃないか」
「ばかな! そんなばかなことが――」
「いや、僕だってほんとうにそうだというわけじゃないのだ。ただ君一人いい子になろうとするから言ったまでだよ。とにかく、君と京子さんが出会ったのは悲鳴が聞こえてから二、三分後だという。二、三分あれば大急ぎで階段を降りて来ることができる。だから、君だって京子さんだって、結局アリバイを立証することはできないというのだ」
なるほどそう言われれば、そのとおりだった。彼が京子と出会うのがもう少し早ければよかったのだ。そうすれば少なくも二人だけは嫌疑者の中から除かれることができたはずなのだ。しかし、いま篠崎に指摘されたとおり、彼らが出会ったのは、凶行をすませて、大急ぎで階段を降りて来ても十分間にあう時間のあとだった。耕作はそう気がつくと急に足元が真っ暗になるような絶望を覚えたのだった。
そのとき、さっき折江が使いに出したねえやが広間の入口から顔を出した。
「あの、山添の奥さん、まだ帰っていらっしゃいません」
警部はそれをきくと不思議そうに、
「山添というのはだれだね?」と訊ねた。
「山添さんというのは、やはり私たちの仲間のうちの一人です。あの凶行のあった時分、同じく階段の途中にいたはずなのに、その後どうしたものか姿がみえないのです」
「なんだって? 君たちは七つの階段に一人ずついたという話じゃないか」
「だから、その山添さんを入れて七人です」
「しかし、ここにちゃんと七人いるじゃないか」
「ああそのことですか?」篠崎は初めて気がついたように、「白井君は探偵の役目で、だから、階段にはいなかったのです」
「なんだ。どうして君たちはもっと早くそのことを言わんのだ。仮りにも嫌疑者のうちの一人が逃亡しているというのに、なぜもっと早く言わないのだ」
「だって、そのことならお巡りさんたちはよく御存じのはずです。さっき現に、その婦人の捜索に、お手伝いをしてもらったくらいですから」
「けしからん。何にしてもけしからん。女だね。山添道子――、で、どこに住んでいるのだね」
「すぐこの裏の家です」
「一人でか。だれも一緒にはいないのですか」
「ばあやが一緒に住んでいますがね」
警部は警官を呼び入れると、山添家のばあやを連れてくるように命じた。そのついでに警官は道子失踪の報告を忘れていたかどで、うんと油を絞られていた。ばあやはすぐやって来たが、彼女の証言によると、道子は夕方――つまりあの仮装犯罪劇に加わるために家を出たきりで、まだもどって来ないという話だった。
「よし、何にしてもその女が行方をくらましたということは一応調べてみる必要がある。いったいどんな服装をしていましたか」
それには折江が自ら進んで答えた。そのことばによって警部が手帳の端に書きとめた人相書というのは次のごときものであった。
(山添道子。年齢二十七、八。色白|細面《ほそおもて》の美人。髪は束髪。藍地に秋草を白く染め出した浴衣)
警部はその手帳を破るとすぐ警官に渡した。
「こういう子を捜索するのだ。まず第一に駅へ駆けつけろ。そしてこういう人相の女が汽車に乗ったかどうか。もし、すでに汽車に乗っていたら、駅々へ電話をかけて逮捕方を命令するのだ。いいか、分かったか」
警部はそれによって、道子の行方はなんなく分かるものと思っていた。若い女がただ一人浴衣がけで旅をしていたら、それだけでもすでに他人の注意をひくことは分かりきっていた。どこかの駅で捕えられるのは必然だと思っていた。
しかし、後になって考えてみると、警部のその考え方はあまり独断的だった。しかし、そのとき他の人々にしても道子の行方を捜すのが、あんなにも困難であろうとは、夢にも考えていなかったのである。
しかしそれは後のお話。
警部は警官が立ち去ると、改めて人々のほうへ向き直った。
「で、その山添――山添道子というのだね。その女はいったい何者だね。東京のほうの、住居はどこだね」
ところが、不思議なことに、それに対して答えることのできる者が、だれ一人いなかったのである。
「あたし存じません」折江が眼を伏せたまま低い声で答えた。「たぶん良人は知っていたのだろうと思いますが、ついぞあたしに、あの人のほんとうの身分を語って聞かせたことはございませんの」
「ほう。しかし、あなた方は相当親しく行き来していられたのでしょう」
「ええ、でもあたしはほんとうに知らないのです。山添道子というその名からしてほんとうの名かどうか分かりませんわ」
「どうしてそう考えるのだね」
「どうしてってことございませんけれど」と折江は相変らず眼を伏せたまま、「あたしにはそういう風に感じられたのです。あたしが考えますところでは、あの人、何か身分のある人の奥さんではないかと思います」
「奥さん、ほんとうにあなたは御存じないのですか。知っていて隠したりなんかするのはよしたほうがいいですぞ。いったい、身分ある人妻がどうして名前を隠してただ一人避暑になど来ていたのです」
「くわしい事情はあたしもよく存じません。しかし、ただそういう風に感じられただけなのです。たぶん家庭の不和か何かで飛び出していたのではないでしょうか」
「それを、あなたの御主人は知っていたというのですね」
「ええ、たぶん知っていたと思います。あたしにはできるだけ隠していたようですけれど。そして……」
折江は思わず口ごもった。
「そして?」
「いいえ、なんでもありません」
折江は細い、消え入りそうな声で言った。
「奥さん、今は物事を隠しているばあいではありませんよ。その女と御主人とのあいだには何かあったのではありませんか」
折江は黙って答えなかった。
耕作はそのとき、ふと岡田稔のほうをみた。彼はそっぽを向いたまま、しきりにたばこを吹かしていたが、その態度には明らかに包みきれぬ焦燥《しようそう》の色がみられた。耕作はしばらくじっとそれを見ていたが、やがてふいに眼をそらした。警部に覚られてはまずいと思ったからである。
しかし、そのとき、傍にいた警官がつと前に進み出て、警部の耳に何かささやいた。警部は黙ってきいていたが、ふいに、
「岡田君!」と鋭い声で呼びかけた。
岡田はそれをきくと、ぎくり[#「ぎくり」に傍点]としたように身を震わせて、持っていたたばこをほろりと取り落とした。
「なんですか」
彼は強いて平静を装いながら答えたが、その声はあきらかに震えを帯びているのが感じられた。
「君はその山添道子という婦人と特別に懇意《こんい》にしていたという話だがほんとうかね」
岡田はそわそわと袂を探ってたばこを取り出すと、うつむいて火をつけながら、
「そうですね。一緒に踊ったり、御飯を食べたりしたのが、特別に懇意なという意味でしたら――」
「しかし、君たちのあいだは町中でも評判になっていたというぜ」
「そうかも知れません。私たちは始終一緒でしたから。それに」と岡田は急に勇気を取りもどすと、
「御存じのとおり、僕の職業が職業ですから、ちょっとしたことでも人目につきやすいのです。ことにそれが女のばあいには――」
「じゃ、君はその婦人と懇意にしてはいたが、別になんの関係もなかったというのだね」
「むろんです」
岡田は眉をあげて昂然《こうぜん》と言った。
耕作はそのとき、岡田の顔がさっと蒼白に変わったのを見逃さなかった。それは事実を隠しているうしろめたさというより、そういう事実になり得ないある事情に憤りを感じているように見えるのだった。
「ふふむ」警部は疑わしそうに相手の顔をみながら、「しかし、まあ関係はなかったとしても、そんなに懇意にしていたのなら、相手の身分ぐらいは知っているだろう」
「知りません」
岡田はそっけなく答えた。彼はすでにすっかり度胸を定めていたので、その答弁にはまったく危なげがなかった。しかし、その代わり果たしてそれが事実であるかどうか、かえって怪しいと耕作はひそかに考えていた。
「知らない?」
「ええ、知りません」岡田はたばこの灰をたたき落としながら、「むろん僕だってばかじゃありませんから、あの女が何かしら隠していることは知っていました。いま大江さんの奥さんのおっしゃったように、身分のある人の奥さんかも知れないと考えたこともありました。しかし、僕は強いてそれを知ろうとは一度だって思ったことはありません。むしろ知るのを恐れたくらいです」
「恐れた? どうしてだね?」
「相手の身分が分かると、今までどおり無邪気に交際していられないかも知れないと思ったからです。私たちはこの避暑地だけのいいお友達であればいいのですからね」
警部にはそのことばの意味が分かったかどうか、急にことばをかえると、
「では、君はこの失踪をどう思うね。何か今までそんなことをしそうな形跡があったかね」
「ありません。だから僕にもさっぱりわけが分からないのです。しかし――」そう言いながら、岡田はふと何事か思い出したようにことばを切った。警部は後をうながすようにじっと相手の顔色をみていた。岡田はそれで仕方なしに後を続けた。
「これは今度の事件――いや、今夜の失踪に関係があるかどうか知りませんが、一度妙なことがありました」
「妙なこと? その女にかね」
「そうです」岡田は警部の視線をさけるように顔をそむけながら、「それは一昨日の晩のことでした。私たち、私と道子さんとはホテルのダンスに出席していたのです。御存じのとおり一昨日の晩はホテルでこの夏最後のダンスの会がありました。僕たちは宵の七時ごろからその会に出席していて、今夜は夜中踊ろうと約束していたのです。むろんほかの人たちとも踊りましたが、おもに私たち二人で踊りました。ところが九時半ごろのことです。僕が義理でほかの人と踊って、今度また道子さんと踊ろうと思って、約束の場所へ帰ってみるとあの人の姿が見えないのです。傍の人にきくと、何だか気分が悪いと言っていま外へ出て行ったと言うのです。その前に僕たちは一緒に踊ったのですが、そのときには何のこともなかったのに、いったいどうしたのだろうと思いながら、ホテルの外へ出ると、ボーイがやって来て、『山添さんは気分が悪くて一足先に帰った。あなたによろしく言ってくれるように』と言うのです。僕は驚いてあとを追っかけて道子さんの家まで行ってみました。すると、道子さんは今までさんざん泣いていたような、腫《は》れぼったい眼をして出て来ましたが、僕の顔をみると『約束を破ってすまなかった。しかし、今夜は気分が悪いから堪忍してくれ』と言うのです。僕はなんだか心配でたまりませんでしたが、まさか女一人のところへ夜遅く上がるわけにもゆきませんのでそのまま帰ったのです」
「ホテルへかね?」
「いいえ、一人じゃつまらないので、われわれの――御存じのとおり、篠崎さんや伊達さんと一緒に私たちは一軒家を借りているのですが――そこへ帰ったのです。そして心配になるものだから、その翌日、起きぬけに私は山添さんの宅を訪問してみました。すると思ったより元気で、いろいろ昨夜のことを詫びていましたが、そのとき、ふとこんなことを言ったのを覚えています。『あたしもうそろそろ軽井沢を引き上げようかと思うの』と、そう言うのです。で僕が、『そんなに急にですか?』と訊ねると、『ええ、今日明日のうちにも引き上げたいと思っています』とそういう返事でした。それが昨日の朝のことなんです」
「なるほど」警部は何か考えながら、「しかし、まさかこんな不思議な引き上げかたをするとは言わなかっただろうね」と皮肉に言った。
「それはむろんです。だからこの話が今夜の失踪と関係があるかどうかは分からないと最初に申し上げたのです」
岡田は肩をそびやかすようにして言った。
こうして、結局山添道子の失踪は誰人《たれびと》の眼にもいかにも疑わしく映った。
もし彼女が犯人でないとすれば、いったいどういうわけで急に姿をくらましてしまったのだろう。なるほど、岡田には、近く引き上げるかも知れないと言ったかも知れないが、そのことばと今夜の失踪と関係があろうとは思われない。着のみ着のままで姿をくらましたのは、よほど重大な理由があってのことに違いない。重大な理由――それはこのばあい、彼女が犯人だと解釈してはいけないだろうか――
警部がこうして七人の嫌疑者をつかまえて、まるで雲をつかむような訊問をつづけているとき、ようやく検屍を終わった医者が、一挺のナイフを持って入って来た。
医者の報告によると、致命傷は肩胛骨《けんこうこつ》から肺臓に達する突き傷で、凶器はむろん肩に突っ立っていたナイフだった。
警部はそのナイフをそっとハンカチの上に受け取りながら、
「そのナイフに見覚えがありますか?」
と折江に訊ねた。
「ええ、知っています。宅の果物ナイフです」
「ほほう、お宅の――では、だれが持ち出したのか分かりませんか」
「それは分かっています」
折江は耕作をみながら言った。
「何? 分かっている? いったいだれがこのナイフを持ち出したのだ?」
警部の声が心持ち弾んだ。
「僕です。僕がそのナイフを持ち出したのです」
耕作が横から言った。
「何? 君だ? じゃ君が?」
「御冗談でしょう」慣れるとだんだん図々しくなるこの雑誌記者は、さっきからこの警部を軽蔑していたので、茶化すように言った。「僕が持ち出したことは持ち出したんですが、むろん、それはお芝居に使うためだったのです。僕は型どおりの芝居がすむと、それをあの塔の展望台にほうり出して降りてきたのです」
「ふふむ」警部は仕方なしに笑いながら、「それじゃ犯人は君がほうり出したナイフを拾って被害者を刺殺したんだね。ところで、君がナイフを持ち出したことはほかに知っているものがあったかね」
「それはみんな知っていたでしょう。ここにいる白井さんの他には――そういう芝居の筋書になっていたのですから」
警部があたりを見回すと一同はそれを肯定するようにうなずいた。警部はせっかく発見したと思った証拠がすぐさま無残に打ちくじかれてしまったので、すっかり落胆した様子だった。
「だが、まあ万一のために指紋をとってみよう。君の指紋は証拠にならないにしても、だれか他の者の指紋が現われるかも知れん」
「それは無駄でございますわ」折江がそのときふと口をはさんだ。
「そのナイフはいつも客間にほうり出してあったのですから、いろんな人がそれに触れるばあいがあったろうと思います。たぶん、白井さんを除いて、ここにいる方はきっと一度はそのナイフで果物の皮をおむきになったことがあるに違いありませんもの――」
「ふふむ」警部はそれをきくと、急に険しい顔つきをした。「すると、このナイフもなんの証拠にもならないというのだね」
そう言ってから彼は急にきっと一同の顔を見渡した。
「よし、君たちはお互いに何か隠していることがあるに違いない。そしておれを愚弄《ぐろう》しているのだ。しかし今にみていたまえ。おれはきっと犯人を捕えてみせる。犯人はこの中に、あるいは山添道子という女を加えた八人の中にいるに違いないのだ。今におれはそいつの面《つら》の皮をはいでやるのだ」
警部の威嚇《いかく》するようなことばをきくと、さすがに一同は思わず顔を見合わせた。今までにだって考えないことではなかったけれど、こうして警部の口からあからさまにいわれると、彼らは今更のように、その恐ろしさに身震いを禁じ得なかった。
自分たちの仲間に人殺しがいる。昨日まで仲よく笑ったり踊ったりしていた人々のうちの一人が俄然《がぜん》凶悪な殺人犯人と化したのだ。しかもそいつはいまだに、自分たちの仲間のような顔をして、この席にいるのかも知れないのだ。
そう考えるとだれもかれも、今更のごとく人の心と面とのうらはらなのに、恐怖を感じずにはいられなかったに違いない。
それからしばらく、警部と七人の嫌疑者のあいだには、なおいろいろの問答があったけれど、それらのことはすべて、諸君がすでに知っている事実の繰り返しに過ぎないからここに記述するのは控えよう。すべてこの物語には、警察方面のことは、必要以外にはなるべく書き留めないようにしようと思うのである。なぜならば、殺人事件の起こったばあい、警察のとる手続きは大てい決まったものであるし、それに、結局この物語においては、警察の活動は何ら意味をなさなかったからである。
しかし、諸君は以上の訊問を読んでいられるうちに、ただ一つ重大な事柄が抜けているのを感じられたことだろう。
それは死体を発見した直後、耕作と京子が見たあの四本指のことである。彼らはなぜそれを言い出さなかったのだろう。忘れているのだろうか。それとも故意に隠していたのだろうか。しかり、彼らは故意にそれを包み隠していたのである。
この訊問のはじまる前、耕作は京子の耳にそっとささやいたのである。
「あの四本指のことはしばらく黙っていらっしゃい。僕に思うことがあるから」
京子はそれがどういう意味であるか知らなかった。彼女は驚いたように耕作の顔を見直したが、相手の何か思惑《おもわく》ありげな眼の色を見ると黙ってうなずいたのである。
だが、耕作は何故にそんなことを京子に注意したのだろうか。このばあい、一人でも怪しい人間を加えることは、自分たちの嫌疑のパーセンテージを幾分でも少なくするというものではないか。しかし、耕作のこの不思議な態度はあとになって分かるときがきた。ただしそれは大変残念なばあいにおいてだったが――
[#改ページ]
第二章 バベルの塔
[#小見出し] 南条記者
一
大江黒潮の殺害事件は軽井沢のみならず、全国的に大きなセンセーションを巻き起こした。それが東京へ伝わると、交通機関の許す範囲の速さにおいて、たちまち新聞記者が陸続《りくぞく》と押し寄せてきた。付近の大きな町からは、判検事がやって来る。事態複雑とみてか、警視庁からは応援の刑事連が詰めかけた。
実際怪事件続出の最近においても、この事件ほどニュースヴァリューを持った事件はちょっと他に見当たらなかった。今まで小説のうえにおいてさんざん残酷な人殺しを書いていた有名な探偵作家が、今度は逆に殺人事件の犠牲者になったのだ。しかも、場所は神秘的な塔のうえ。関係者のうち、少なくも岡田、伊達、篠崎の三人は世間の人気者だった。
こういう風に、探偵作家と人気俳優という、いかにも好個の取り合わせがある上に、事件が仮想犯罪劇のうちに行なわれたというのだから、新聞記者連中がいかにこの報告を簡単に書こうとしても書き切れなかったのは無理もない。
七人の関係者は幸い拘引《こういん》から免れることはできたが、しばらくは絶対に軽井沢の町から離れることを許されなかった。駅だの、自動車の乗り場だのには厳重な布告が回されて、もし彼らのうちだれかが、一歩でもこの町を離れようとすれば、すぐさま取り押えて警官に報告するよう命令が下っていた。
幸い、七人のうちには、特別に早く町を立ち去らねばならぬ用事がひかえている者は一人もなかったので、この点まことに好都合だった。
岡田、伊達、篠崎の三人は同じ撮影所に働いているので、むろん一刻も早く映画を作りあげるために、帰京したいのはやまやまだったろうが、それかといって、人々の疑いを濃くしてまで急ごうとは思わなかった。中西信之助は学生のこと、夏の休暇はまだだいぶ残っていたし、よし休暇が切れたとしても、あまり勤勉でないこの学生は、そう急いで学校へ出る必要を認めなかった。
折江はむろん、こちらにいても東京に帰っても、良人の亡くなったこのばあい同じことだったし、白井三郎は浮浪人である。最後に由比耕作はどうかというと、彼もまた、ちょうど雑誌を校了にして出て来たので、あと一週間や十日はあまり忙しくない体だった。
したがって警官の禁足命令に対して、そう大して不平を洩らす者は一人もいなかった。もっともこういう状態で滞在を強いられるのはだれしも不愉快には違いなかったけれど。
彼らが二度目の訊問をうけたのは翌日のお昼過ぎのことだった。それは付近の町から出張して来た判検事が、改めて現場を検証したうえ、昨夜警部が聞き洩らしたことはないかとばかり形式的に取り調べたにすぎなかった。しかし、それでもこの取り調べは三時間ほどかかった。
さて、この訊問が終わると、そのあとにはさらに厄介なものが彼らを待ち受けていた。それは新聞記者という代物である。これはしかし主として篠崎が当たることになった。この場合、七人の中では篠崎がいちばん世間慣れていたし、新聞記者の中に知った顔もあったからである。
彼は警官から許された範囲内で、昨夜のいきさつを新聞記者連中に話していた。
由比耕作はこの席へ何気なくふと顔を出した。そしてしばらくぼんやりと新聞記者連中と篠崎との応対をきいていたが、するとそのとき、ぽんと肩をたたく者があるので驚いて振り返ってみると、そこにはかねて親交のある東都新聞の記者がにやにやと笑いながら立っていた。
「やあ、南条君!」
由比耕作は面食らって思わず大声をあげた。
「やっぱり君だったんだね」南条記者はにやにや笑いながら、
「関係者の中に雑誌記者がいるという報告だったからたぶん君だろうと思っていた。今朝東京を発つとき、君の社へ電話をかけてみたんだよ」
南条はかねてから大江黒潮と耕作の親交を知っていたのである。
「君も」耕作はやっと平静を取りもどしながら、
「この事件で来たのかい」
「むろんさ、特種《とくだね》だからね。しかし、君がいたのは幸いだ。どうだ、ちょっと外へ出ないかね」
「そうだね、出てもいいが――」
耕作がはたの思惑をはかりかねて渋っているのをみると、
「なあに、大丈夫、お巡りさんがなんとか言や、僕から謝ってやらあ。大丈夫だよ」
「そうだね、じゃちょっと出よう。今朝からまるきり家の中へ押し込められているのでね」
この南条というのは、東都新聞の社会部ばかりではなく、東京の新聞界では大変敏腕だという評判のある男だった。耕作より四つか五つか年上で、背はあまり高くはないが、がっちりとした体つきで、顔はやや鬼瓦に似ていていつも真っ赤な色をしていた。最初耕作が知り合ったのは雑誌の仕事のうえからだったが、それから後、ときどき銀座で会ったりすると一緒に酒を飲んだりすることもあった。いかにも評判どおりきびきびとした男で、それに第一、職業柄警官など屁《へ》とも思っていないのが、このばあいの耕作にとっては何よりも頼もしかった。
「いま町のほうで聞き込みをして来たのだが、どうも君たちだいぶ評判が悪いようだぜ」
南条は外へ出ると、耕作の顔を横眼でにらみながらにやにやと笑って言った。
「評判の悪いのは」と、しかし耕作はすました顔で言った。
「僕の関係したことじゃない。僕もはじめてこの町へ降りたとき、だいぶその話は聞かされたくらいだからね」
「うむ、何しろ大評判になっていたらしいね。今に何か起こるだろうと思っていたと、だれにきいてもそういうぐらいだから。――だけど、ほんとうにそんなに複雑な経緯があったのかね」
「さあ、僕もよく知らない」耕作はなるべくはっきりとした返答を避けるように、
「何しろ僕は一昨日の晩ここへ来たばかりだからね」
「しかし、様子で分かりそうなものじゃないか。だれとだれとがどうで、だれとだれとはどうだということくらい」
南条は子供の言うようなことを言って笑った。
「それは――」と耕作も笑いながら、
「僕にだってうすうす分かったさ。しかし、町の人が言っているほどじゃないと思うね。とかくことが恋愛に関すると田舎の人は大げさに考えがちだし、それにこちらの身分が悪かったね。探偵作家はまあいいとして、活動役者という派手な人種が関係しているのだから一層人眼についたのだと思うね」
「それじゃ君は」と、南条はやや職業気を出したような声音《こわね》で、
「この事件は結局恋愛沙汰じゃないと言うのかい?」
「そうは言わない。いや、あるいは恋愛葛藤の結果だったかも知れない。しかし、それは僕にきいてもむだだというのだよ。僕はたった二日しか彼らと交際《つきあ》わないのだから、そんな深い事情が分かるはずがないじゃないか」
南条はそれをきくと、しばらく探るように相手の顔をみていたが急に気を変えたように、
「いや、何しろおもしろい事件だね。それに第一役者が揃っているじゃないか。探偵作家に映画俳優、監督に雑誌記者――と、これだけ揃っていれば十分だよ。みんな一流だからね」
それをきくと、耕作はいやあな顔をして横を向いてしまった。いつの間にか自分までが好奇心の対象にされているのが不愉快だったのだ。
「時に――」
と、やがてまた南条記者は思い出したように口を切った。
この男は実際不思議な才能を持っているのだった。いかなる重要な質問を発する場合でも、ときどき冗談を混じえることを決して忘れなかった。そうして、軽い冗談で相手の気持ちをはぐらかしておいては、突然鋭い質問の矢を放つのである。老巧な刑事や検事にこういうのがよくあるが、彼もまた長年の社会部記者生活のうちに、いつかそのこつを心得たものとみえるのだ。この聞き出し上手がこの男の名声の由来をなすものと見られないこともないくらいだった。
「時に、女が一人行方不明になったという話だがどうしたのだね」
「うむ、まだ見つからないのかね」
耕作はそれに答える代わりに逆にそう訊き直した。
「まだ、なんの手掛かりもないようだね。警察のほうでは躍起となって捜しているらしいんだが。いったいどういう女なんだね」
耕作はそこで簡単に山添道子のことを語ってきかせた。
「なるほど、しかし、それは妙だね。だれも身分を知った者がいないというのは――」
「だけど、そんなこと避暑地なんかじゃ珍しいことじゃないだろう。だれとも知らずに恋して、なんとも知らずに別れる。――避暑地などにありがちのことじゃないか」
「そうかね。しかしおれにゃそう思われんな。警察でもこの女の行動にはよほど注目しているらしい。何しろ女の身空でだれの眼にもつかずにこんな小さな町を抜け出すなんて、なかなか容易なことじゃないよ。だから、警察ではすぐにも足どりがつかめるつもりで楽観していたらしいんだ。しかし、今までになんの証跡も発見できないところをみると、この鳥はまんまと逃げたらしいね」
耕作はそのことばをきくとなんとなしにほっとした。道子がたとえいかなる秘密をもっているにせよ、彼女をこの事件の中にひきずり出すのはあまり残酷であるように思えるのだ。あの女は結局何も知らないのだ。たといどんな事情があって姿を隠さなければならなかったにしろ、その事情はこんどの犯罪とはなんの関係もないことなのだ。――耕作は一人でそう決めているのだった。
二人はいつの間にか丘のふもとまでやって来ていた。南条記者はふと足をとめながら、
「なるほど、あれが問題のバベルの塔なんだね」
そう言いながら彼はステッキをあげて塔の頂辺を指さした。
バベルの塔は、今日は薄曇りの空に、虚《うつ》ろな、放心したような姿をわびしくさらしているのだった。
「どうだ、あの塔に登ってみようか」
「よそう」
耕作は簡単に言った。
「君登るなら登ってみたまえ」
「うん、いや、じゃおれもよそう。さあそろそろ引っ返そうかね。またどんな新事実があがっているかも知れないからね」
二人が踵を返そうとしたとき、バベルの塔のヴィーナスの階段から急ぎ足に外へ飛び出して来た人影が見えた。
「おや」
耕作は不思議そうに足をとめて、その人影を見守っていた。
「だれだね、刑事じゃなさそうだね」
「え、うん」
人影は丘を下って大またに彼らの方へ近づいてくる。耕作はようやく迫ってきた夕闇の中にしばらくじっとその長身の姿を見守っていたが、やがて、ささやくように言った。
「白井三郎だよ」
「白井三郎?」
「そうだ。行こう。ここで顔を合わせるのは都合が悪いよ」
二人はくるりと背をむけると、何気ない歩調で町のほうへ足を向けた。
「おい」南条が低声で言った。
「白井三郎って何者だね?」
「大江黒潮の旧い友達だがね。しかし、どうして塔へ登っていたんだろう」
二人はやがて道が二|叉《また》に別れているところまで来た。
「じゃ、僕はここで失敬しよう。何かまた変わったことが起こったら知らせてくれたまえ。その代わり、失踪した女の足どりが分かったらすぐ知らせてやるからね」
南条と別れた耕作は、表通りを行かずにふと狭い横小路に入った。それは、付近の貸別荘なんかの裏を通っている細い、曲がりくねった道で、あまり人通りがないとみえて、草がいっぱい生えていた。耕作は黒潮の別荘の高い煙突に見当をつけながら、その道を拾うように歩いて行った。道は荒い松林を抜けて、やがてちょっとした原っぱに出たかと思うと、その原っぱのすみに、お堂のようなものがあった。黒潮の別荘の裏門は、すぐそのお堂の向こうにあった。
耕作は何気なくそのお堂の方へ近づいて行った。
と、そのとたん、中からはっと二人の人物が飛び出してきた。それがあまり不意だったので、耕作は思わず足をとめてその場に立ちすくんでしまったのだった。二人のうち一人のほうは走るようにして黒潮の別荘の中へ駆け込んだ。白い浴衣姿だったけれど、あいにくの夕闇のために、だれだか見当もつかなかった。男だったか、女だったか、それすらも分からないのだった。
もう一人のほうは耕作のほうをみると、しばらくじっと立ち止まっているようだったが、やがて、ことこととこちらに近づいて来た。耕作は思わず身構えをするように懐中から手を出して拳を握りしめたが、それが塔の番人の権九郎じいやであると分かると、ふいにがっかりとした。
「権九郎じいさんじゃないか」
「へえ」
じいさんは厚い唇の端に薄笑いを浮かべていた。しかし、その笑いが何かしらこわばっているように耕作には感じられた。
「いったい、何をしているんだね」
「いいえ、ちょっとお見舞いにあがったところでしてね」
「いったい、今のはだれだね」
権九郎はそれには答えなかった。そして、「へへへ」と気味の悪い笑い声をたてると、そのまま、ことことと耕作の側を行きすぎたのだった。その影は物の怪《け》のように長い影を曳きながら、間もなく夕闇の中にとけこんで行った。
二
その翌日――といってもすでに昼近くだったが、耕作は寝苦しい夢から眼がさめた。夜じゅう耕作は、大江黒潮の恐ろしい死顔や、白井三郎のむっつりとした顔、さては折江や京子や道子のさまざまな苦悶や呪詛《じゆそ》や啜《すす》り泣きに責められ続けていた。
明方ごろ、彼は白井三郎の太い鉄の鞭《むち》で追っかけられる夢をみていた。場所は例の階段で、耕作はどんなにあせっても、あせっても、その階段を登って行くことができなかった。ようやく相手から逃げのびたと思うと、そこが袋階段だったりして、そのつど背後に白井三郎が恐ろしい形相《ぎようそう》をして迫っていた。はっとして身をすくめると、ふいに体がふわりと宙に浮いて、いつの間にやら塔の頂辺に立っている。と、そこには大江黒潮が白井三郎と同じように鉄の鞭をもって立っているのだった。しまいには大江黒潮と白井三郎とごっちゃになって、どちらがどちらだか分からなくなってしまった。耕作はあまりの恐ろしさに塔の頂辺から下界めがけて飛んだ。体が宙に浮いたまま、いくらたっても下へはつかない。耕作の心臓は石のように固くなっていた。――とそのとき、
「由比さん、由比さん」
と、いう声に呼び起こされて、耕作はふと恐ろしい夢から眼がさめた。見ると枕許に京子がおびえたような眼つきをしながら、耕作の顔をのぞき込んでいた。
「ああ、京子さん」
耕作は気持ちの悪い浴衣の汗を気にしながら、夜具のうえに起き直ると、もう一度あたりを見回した。午後に近い日差しがガラス戸から部屋の半分ほどまでのぞき込んでいた。久し振りで今日はいい天気らしかった。
「まあ、どうなすったの、とてもとても大変なうなされかただったわ」
「そうですか」
耕作は弱々しい微笑を浮かべると、まだ覚めやらぬ夢を追うように、ぼんやりと庭のほうをみていた。
「顔でも洗って御飯をおあがりにならない。みんなもうさっき済ませたところなのよ」
「ええ、ありがとう」
耕作は枕許にあったたばこを引き寄せると火をつけた。しかし、とてもまずくて二口とは吸っていられなかったので、すぐ灰皿の中に突っ込んだ。
「とてもお顔の色が悪いわね。まるで病人のようだわ」
「ははははは、ほんとうに病気なのかも知れませんよ。少し体がだるい」
「まあ、男のくせに意気地がないのね。それより早く起きて御飯になさいよ」
「いや、御飯ならよしましょう。何も欲しくはありませんよ」
それでも耕作は思いきって寝床の上から起き上がると、裏へ回って冷たい水で顔を洗った。そしてその足でぶらぶら庭を歩きながら築山を登って行った。すると、後ろのほうでばたばたと軽い跫音《あしおと》がするので、何気なく振り返ってみると、京子が追いすがるようにあとから登っているのだった。耕作は足を止めると黙って彼女を迎えた。
「由比さん、あたしあなたにお話があるのよ」
京子はそう言いながら、傍の石のうえに腰を下ろした。耕作は相手の思いつめた顔を見おろしながら、しばらく黙っていたが、やがてその側へ並んで腰をかけた。
「なんですか、話とは?」
しばらくしてから耕作のほうから切り出した。
「なんでもないのですけれど、一昨夜ね、警部の訊問のあったとき、なぜあなたは、あの四本指の男のことをおっしゃらなかったのですか」
「ああ、あれですか」耕作は思わず赤くなりながら、
「別になぜってこともありませんけれど」
「あたし、あのことを言ったほうがよくはなかったかと思いますのよ。だってあの男は犯行の直後、あの現場に居合わせたのでしょう。何かきっとこの事件に関係があるに違いないと思いますわ」
「そうかしら」耕作は首をかしげながら、
「僕にはしかし、そう思えないのですがね。この事件はそんなに単純なものじゃない。何か、深く、深く計画されたもののような気がして仕方がないのですよ」
「じゃ、犯人はやはりわれわれのうちにいると思っていらっしゃるの?」
京子はじっと耕作の眼を射すくめるように見ながらそう言った。
「そうです。われわれ七人――いや八人の中にいます」
「そうかしら」
京子はふいに恐ろしそうな身震いをしながら、急に声を落とすと、
「じゃ、今でもあたしたちの、すぐ身近にいるのかも知れないのね」
「いますよ。しかもそいつは何食わぬ顔をしてわれわれと一緒に飯も食い、話をしたり笑ったりしているのです」
「まあ、恐ろしい!」
京子はわざと大げさに身をすくめながら、あたりを見回していたが、やがてふと思い出したように、
「しかしね、由比さん、なるほどあなたのおっしゃるように、犯人はわれわれの中にいるかも知れないけれど、あたしまたこう思うの。あの四本指の男ね、あの男に聞けばその犯人の名が分かるかも知れないと思うのよ」
「どうしてですか。なぜそんな風に考えるのですか」
「なぜってことはないけれど、あの晩、四本指の男はわれわれより一足先に、あの塔の頂辺付近にいたのに違いないわ。だから、ひょっとすると、犯人の姿を見ているかも知れないと思うの」
「なるほど」耕作はうなずきながら、
「そんなことがあるかも知れませんね」
「それについてね、あたし昨日妙なものを見たのよ」
京子はそこで一層声を落とした。
「妙なものって?」
耕作も相手の真剣な眼つきを見ると、なぜかぞっとしながら、
「いったいどんなことです」
京子はそこでじっと考えをまとめるように空を見つめていたが、やがてかすかに頭を振りながら、
「昨日の夕方、あたしこのお屋敷の二階から何気なく双眼鏡で外を見ていたのよ。すると塔の頂辺から何か不思議なものが見えるの」
耕作は思わず体を緊張させた。
「あたしは、おやなんだろうと思いながらよくよく見ていると、だれかが展望台から白い旗のようなものを振っているのよ。その様子がまるでだれかに合図でもしているように見えるのだわ。あたし変だなと思いながら、いったいどこへ合図をしているのだろうとあたりを見回すと、ちょうどこの家の中からやはり白いハンカチを振っている人があるじゃありませんか」
「ほほう」耕作は思わず膝を前へ乗り出した。
「して、それはいったいだれなのです」
「ところが残念なことには、それがだれだかよく分からないの。というのはあたしはあの二階からよほど体を乗り出してのぞいてみたのですけれど、ヒラヒラと動いているハンカチだけしか見えなくて、体のほうは廂《ひさし》のかげになってまるきり見えないのよ。そのうちに塔のほうの合図もやんでしまったし、その手も引っ込んでしまったので、あたし大急ぎで階下へ降りてみたんです。するとそこには篠崎さんがただ一人、ぼんやりと汗をふきながら籐椅子《とういす》によりかかっていたの」
「ほほう、篠崎君がね」
「ええ、そうよ。しかも、その汗をふいているハンカチというのが、ちょうど二階から見たハンカチとよく似ているのよ。それに、その籐椅子によりかかったまま、左の手を伸ばしてハンカチを振れば、ちょうどあたしが二階から見た位置になりそうなの」
「ふうむ、そいつはおもしろいですね。じゃあとで家へ帰って実験をしてみようじゃありませんか。僕がそのとき篠崎君の坐っていた籐椅子に腰を下ろしてハンカチを振ってみますから、あなたは二階から見ていてください。もしその位置が同じだったら、きっとそれは篠崎君に違いありませんよ。で、それからどうしたのです」
「それからね、あたし篠崎さんに、『あなたお一人?』ってきいてみますと、『ええ、一人です』というのです。『あなた、さっきからずっとここにいらしたの』とそこであたしもう一度きいてみたのです。すると篠崎さんは、『いや、いま入って来てここへ腰を下ろしたばかりですよ。どうして?』と不思議そうにきき返すのです。あたしそれきりことばを濁してしまったのですけれど、どうもそのときの篠崎さんの様子が妙なのよ」
「ともかく、それは一応調べてみる必要がありますね」
「ええ、あたしもそう思っているのよ。だれかがきっと塔の中の人間と通信しているに違いないと思うの」
「それで、あなたのお話というのはそれきりですか」
「ところが、まだその続きがあるのよ」京子は耕作の顔をおもしろそうに見ながら、「あたし、それで急に双眼鏡というものに興味を覚えたのよ。それでね。また二階へ上がって窓からそっと双眼鏡であたりを見回していたの。するとそれから半時間ばかりあとのことだわ。ほら、あの裏木戸のすぐ前にお堂みたいなものがあるでしょう。あすこで――」
「ほほう」
耕作は急に興をもよおしてきた。時刻からいっても場所からいっても、それは昨日の夕方、耕作が見たあの一件であるらしかった。彼は思わず膝を前へ乗り出しながら、
「いったい、あなたは何を御覧になったのです」
「それがよく分からないの。あたし最初遠くのほうばかり見ていたでしょう。ところが別に何もないので失望してもうよそうかと思いながら、何気なくふと家の周囲をながめたのだわ。すると、あのお堂のかげから、ふいに一人の人が飛び出して来たの。そして大急ぎで裏木戸からこの家の中に飛び込んできたのよ」
「して、その人はいったいだれでした。今度こそは相手の顔を見たでしょう」
「ええ、見ましたわ」京子はぐっと息を内へ吸うと、ふいに声を落として、
「それがね、大江さんの奥さんなの」
「な、なんですって? 大江さんの奥さん?」
耕作はふいにぎょっとして腰かけていた石から跳び上がった。
「じゃ、あれは大江さんの奥さんだったんですか」
「ええ、そうよ。あなたもあれ御覧になったのでしたわね。まあ、お聞きなさいよ。あたしもおかしいなと思いながら、いったい何をしていたのだろうと、もう一度お堂のほうをみたのよ。すると権九郎じいやが、つとお堂のかげから出て来て、あなたと行き会ったでしょう。ええ、あたしあなたの姿もみましたわ。それであなたはじいやと二言三言、何か話していらっしゃいましたが、そのまま別れて、あなたはこの家へ帰っていらっしゃる、じいやは向こうの松林のほうへ行ってしまう。それであたし双眼鏡を下ろしてもうよそうと思っていたのです。するとそのとき――」
「ええ? まだ何かあったのですか?」
「ええ」と京子は相手を見上げながら、
「するとそのとき、また一人お堂の陰から出て来た人があるのよ。その人はしばらくなんだかそわそわとあたりを見回していましたが、やがてだれも見ている者がないと確かめると、安心したようにこっそりとこの裏木戸から入って来たのです」
「いったい――」と耕作はなんだかわけの分からぬ惑乱を感じながら、もう一度京子の側に腰を下ろした。
「いったいそれはだれだったのです」
「篠崎さんよ」
京子が吐き出すように言った。
「篠崎さん?」
「ええ、そうよ」
それから二人はしばらく黙ってお互いの眼の中をのぞき込んでいた。何かしら切迫した空気が二人のあいだに感じられるのだった。何か一言いうとそれが恐ろしい疑いになりそうな気がした。
「ともかく――」としばらくしてからやっと京子が言った。
「あたしこう思うの。篠崎さんはあの塔のだれかと通信しているんだわ。そしてあのお堂のところで権九郎じいやと密会しているところを、大江さんの奥さんが立ち聞きしていたんだわ」
「そうかも知れません」耕作は憂鬱な声音で言った。
「そして、あたしの思うのに、塔の中にいる人間というのは、もしかするとあの四本指の男ではないでしょうか」
「さあ」耕作は首をかしげながら、
「そうかも知れませんね。ありそうなことですね。しかし、それがあの殺人事件とどんな関係をもっているのでしょう」
「それはあたしにも分からないわ。しかし」と京子はふいに語気を強めると、
「まったく縁がないとは、ましてや思えないじゃないの」
それからしばらく、二人は黙り込んでいた。
篠崎と権九郎の奇怪な密会、四本指の男、そして折江の立ち聞き。――そんなことを考えていると、耕作はそこに漠然と、何かしら無気味なものを感ずるのだった。耕作は思わず肩をすくめて、ぶるぶると身震いをしたが、やがて、ふと思い出したように、
「それはそうと、あなたはこのあいだ、大江黒潮の小説のことについて訊ねていましたね」
「大江先生の小説?」
京子は不審げに首をかしげて相手の顔をみた。しかし、その様子はいかにも空々しく、とってつけたようだった。耕作はふいにその質問をきいたとき、相手がかすかに頬の筋肉を震わせたのを見逃さなかったのだ。
「ほら、僕んとこの四月号に出た、『恐ろしき復讐』という小説のこと――」
「ええ、あれ――」京子ははじめて思い出したように、
「あれがどうかして?」
「いや、別にどうのこうのということはないのですけれど、いったいあなたは何を思ってあんなことをお訊ねになったのです」
「あたし、どんなことをお訊ねしましたかしら」
「大江黒潮はああいう殺人の場面を空想で書くのか、それとも人に聞いて書くのだろうかと、あなたはそんなことを訊ねていらっしゃったのじゃありませんか」
「まあそう」京子は一層空々しく、そっぽを見ながら、
「あたし、そんなばかばかしいことをお訊ねしまして。よほどどうかしていたのね」
耕作は相手のそういう様子をみると、いままでなんとも思っていなかったことが急におかしく思われてきた。まさか京子があのときのことを忘れているはずがない。あのときの京子の思いつめた様子から考えると、彼女は何か心に考えることがあったに違いないのだ。それをいま、耕作から持ち出されてしらじらしく一笑に付そうというのはいったいどういうわけなのだろう。
「それで、そのことがどうかしたの?」
耕作がそれきりなんとも言わないので、今度は京子のほうからそう切り出した。
「いいや、なんでもないのです」
「あら、おっしゃいよ。言いかけて途中からよされちゃあたし気持ちが悪いわ」
「だって、あなたのほうがはぐらかそうとするんじゃありませんか。そんなにしらじらしくうそを吐かれちゃ、僕だってもう話す気にはなれませんよ」
「あら、あたしうそをついたわけじゃないわ。そう、じゃあたしきっと、子供らしい好奇心からそんなことお訊ねしたのに違いないわ。それで、どうかしたの?」
「いいえね」耕作は必ずしも相手のことばに満足したわけではなかったが、「大したことはないのですが、あの『恐ろしき復讐』という小説については、大江黒潮自身がひどく不安を感じていたらしいことを、さっきふと思い出したのですよ」
「大江先生が――? まあ! どうして?」
「どうしてだか知らない。あれは僕がここへ来た最初の夜でしたか、二人きりでいろいろな話をしているとき、ふとあの小説の話が出て、僕は極力それをほめあげたのです。すると、いつもなら子供のように喜ぶはずの黒潮が、苦りきって、ろくすっぽ返事もしないのです。その様子が、ひどく何かにおびえているようなのです。そのとき僕、なんだか影が薄いなという感じをうけたのですが、すると今度の事件でしょう。だから、何かあの小説がこの殺人に関係があるような気がして――」
「まあ!」
京子はそれきり黙っていた。しかし静かなあたりの空気の中に、彼女のごくりと生つばを飲み込む音が、はっきりと耕作の耳に聞こえた。
「随分妙な話ね」しばらくしてやっと彼女はことばを選択するように言った。「いったい、どう関係があるとおっしゃるの」
「それは僕にも分かりません。しかし、今度のこの事件は決して昨日や今日にその端を発しているのではないというような気がするのです。犯人は幾月も幾月も、いや、ひょっとすると、幾年も幾年も計画を立てていたのじゃないか――僕はそんな風な気がしてならないのです。そしてその恐ろしい計画のバックに、あの『恐ろしき復讐』がある。なんだかそんな気がするのです」
「まあ!」京子は眼をみはってかすかに身震いした。
「するとあなたは、あの仮想犯罪劇からして、一つの計画のもとになされたのだとおっしゃるの?」
「そうです。あれには何かしら邪悪なものがありました。表面、なんでもない、一つの遊戯のように見えていながら、あの底には何者かの恐ろしい意識が働いていたのです。そして、大江黒潮もそれに気がついていたのではないだろうかと思われるのです」
「じゃ、あなたは、大江先生は殺されるかも知れないということを覚悟していらしたとおっしゃるのですか」
「断言はしません。断言はしませんが、しかし、そんな気がするのです」
「そして、もしそれが事実だとすれば、いったいその張本人はだれでしょう?」
「そこまでは僕にも想像がつきません」
京子はしばらく黙っていた。が、やがて耕作の腕をぎゅっとつかむと、
「篠崎さん?」
と、ささやくように言った。
耕作は相手の燃えるような眼をじっと見返していたが、やがてのっそりと立ち上がると、
「一つ、さっき言った実験をしてみようじゃありませんか。ほらハンカチの――」
「そうね」
そこで二人は叢林《しげみ》を抜けて座敷の縁側へ出た。見ると、部屋の中では信之助と岡田の二人が西洋将棋をしていた。信之助は二人がむつまじげに帰ってくるのを見ると、ちょっと眉をひそめていやな顔をしていたが、わざと無言のまま眼を盤面に落とした。岡田は二人のほうを見向きもしなかった。
耕作はげたをぬいで座敷へ上がると、そのまま縁側にあった籐椅子に腰を下ろした。京子はそれを見ると無言のまま玄関のほうから二階へ上がって行った。やがて耕作は時分を見はからって袂からハンカチを取り出すと、汗をふくような風をしながら、左手ではたはたとそのハンカチを振ってみせた。なるほど、その庭の向こうには、はるか彼方にあのバベルの塔の頂辺が浮き出したように見えているのだった。
しばらくすると、京子が緊張した面持ちで降りて来たが、耕作に眼で合図をすると、そのままずいと外へ出て行った。耕作もさり気なくぶらりと立ち上がると、そのあとを追って行った。
表のつる薔薇の垣根のところに、京子は向こうを向いたままじっと立っていた。
「どうだった?」
耕作が近づいて行って訊ねると、京子は黙ってうなずいた。
「やっぱりそうでしたか?」
「ええたしかにあの位置に違いなかったわ。しかし、それより」と京子はふいにぐっと耕作の手を握ると、押し殺したような声でささやいたのである。
「いまもまた、だれか塔の展望台から合図をしていたものがあるのよ」
三
二人はそのまま垣根のそばを離れた。そして二、三歩あるくと、耕作はそっと京子の肩に手をかけた。
「それはほんとうですか」
「ええほんとうよ。たしかに昨日と同じように白いハンカチをひらひらと振っていたわ。それがね、あなたがハンカチを振り出したでしょう。すると間もなく向こうでもやりだしたのよ」
「すると」と耕作はごくりと息を吸いながら、
「塔の上からこちらを見ているやつがあるのですね」
「そうだと思うわ。あすこには望遠鏡があるでしょう。あれで、こちらを見ているのじゃないかしら」
耕作はふいにどきり[#「どきり」に傍点]とした。彼は黒潮の死体を発見したときしか、あの塔の頂辺へ登ったことがないので、望遠鏡のことはすっかり忘れていた。いま京子に言われてみると、なるほどとうなずける。望遠鏡と双眼鏡、この二つであの塔とこの家とのあいだには前から何かの関係があったのではないだろうか。それはあまりに神秘的な、あまりに空想的な考え方だったかも知れない。しかし、事件が事件だけに耕作の頭はすっかり混乱しているとみえるのだ。とっぴなことと妥当なこと、この二つの識別が、今の耕作の頭ではまったくできかねるのだ。彼がとっぴなことと考えているのが案外尋常のことだったり、妥当なことだと信じているものが、案外にもばかばかしくとっぴなことだったりするのだ。
「ともかく、あの塔の側まで行ってみようじゃありません?」
「そうですね」
耕作の躊躇《ちゆうちよ》しているところへ、折よく南条記者がにこにこしながら向こうのほうから近づいて来るのが見えた。
「おい、鳥はとうとう逃げたぜ」
この忙しい新聞記者は、普通のあいさつでさえまどろかしいとみえる。いきなりそうどなりつけるように叫んだ。
「鳥が逃げたって?」
「そうさ、例の山添道子という女さ。とうとう東京へ帰っちまったらしいよ」
「え? じゃ向こうで捕えられたのか?」
「何、そうじゃないのさ。それだと大手柄だがね」
そう言いながら、彼ははじめて気がついたように京子のほうへあいさつをした。
「どこかへ出かけるつもりかい? 門の外でひそひそ立ち話なんざ、あんまり見よい図じゃないぜ」
「何さ、これからあの塔へでも行ってみようかと相談していたところなんだよ」
そう言いながら耕作はふと決心を定めた。この男と一緒なら塔へ出かけてもいい。もし、塔にどんな危険があるとしても、この男がいてくれれば恐れることはない。ちょうど幸いだ。一つ三人で塔の探険をしてみようか。――
「京子さん、こちらは東都新聞の南条君、なかなか腕利きですよ。南条君、こちらは――」
「知っているよ。やぼだねえ。伊達京子さんを知らないやつってあるものか」
「ほほほほほ、怖いのね」
「ああ、怖いはよかった。京子さん、南条君はあの口で随分女をやっつけるのですから気をつけなきゃいけませんよ」
「ばか、人聞きの悪いことを言うなよ」
「ええ、あたしも気をつけますわ。うっかり由比さんとのことを書き立てられたりしちゃたまりませんものね」
「ああ怖い。こっちのほうがよほど怖いね」
しかし、この南条のおかげで、久しくかげっていた耕作の胸は急にうきうきとしてきた。彼はまるで子供のようにはしゃぎながら、
「京子さん、三人であの塔を探険してみませんか。南条が一緒だと怖いことはありませんよ。柄《がら》は小さいが、これでなかなか達者ですからね」
「ええ、行きましょう。あたし一人でも行ってみるつもりだったのですわ」
「ははははは、伊達さんは由比君より勇敢とみえますね。それで、何かあのバベルの塔に探険を要するようなことでも起こったのかい」
耕作はそこでちょっと京子と眼を見交した。そして差し支えのない範囲で彼は塔からの合図のことを語ってきかせた。
「ほほう。するとあの塔にはじいさんのほかにだれか隠れているというのだね。そいつはおもしろい、それじゃさっそく探険してみようじゃないか」
そこで急に元気を得た三人はぶらぶらと塔をさして足を運ばせた。
久し振りに晴れ渡った空は、水のように澄んで、高原のうえにはすでに秋の冷気が流れていた。すでに雪をかぶった飛騨の山々が今日は蜃気楼《しんきろう》のように空に浮かび上がっている。霧にたたられた耕作が、この土地へ来てから山を見るのはこのときがはじめてだった。
「なるほど、こうして晴れていると軽井沢もいいとこだね」
「ほんとうに、由比さんがいらしてから青い空が見えたのは今日がはじめてね」
「人間が陰気だから、この男がくるといつもお天気まで陰気になる」
南条はそう言いながらステッキでぴしぴしと道端の草を折っていた。
「時に――」と耕作は思い出したように、
「君はさっき山添さんが東京へ帰ったと言ってたね。どうして分かったのだね」
「あの女から手紙がきたのだよ。東京から――」
「ほほう、警察にかね」
「ううん、あの女の借りてた家へだ。ばあやあてにだがね」
耕作も京子もまったくそれは初耳だった。京子は何気ない顔つきをしながらも鋭く聞き耳を立てていた。
「ばあやへあてて? なんといってきたのだね?」
「長々と厄介になっていたが、急に帰らなければならないことがあったので、断わりもなしに出発してすまなかった。しかし、無事東京へ帰ったから心配しないように、払い、その他のことはこの金ですませてくれ。そして残してきた着物、その他のものは一切お前にあげるから――とそんな手紙で、中に百円封入してあったそうだよ」
「ふうん」耕作は長い溜め息を鼻から吐き出したが、
「それで、向こうの居所は分からないのかね」
「まったく分からないのだ。書留でもなんでもない普通の封書なんだからね。消印には小石川八千代町郵便局の名があるが、そんなもの当てにゃならないよ。品川からだって、小石川まで郵便を出しに行くことはできるからね」
「それじゃ、わざと自分の住所を知らせまいために、そんな危険なことをしたのね。だって百円といえば少ないお金じゃないわ」
「だから、よほどお金持ちで、しかも身分を知られたくないんだね。何にしても、この女を探し出す必要はあるよ。警察じゃ出し抜かれて大騒ぎさ」
耕作はそれでも、道子が無事に東京へ帰ったということを知って、人知れずほっと安堵の溜め息をついた。しかし、それと同時に、あの物思わしげな眼を、もう二度と見ることはできないのかと思うと、急に頼りない気がしてきた。
だが、これは耕作のまちがいだったのである。その後彼は、どんな恐ろしい場面において再びこの女に会うことがあるのか――それをまったく予期しなかったのだ。
「だが、その女も随分凄い女だね」南条は耕作のそういう気持ちには少しも気がつかないで、「あの厳重な非常線を見事突破したのだから、なかなか一筋縄《ひとすじなわ》ではいかぬ女に違いないよ」
「どうして?」耕作はいかにも不服そうに言った。
「どうしてって君、警察じゃあの女の失踪を知ると、直ちに各駅へ通知を回して警戒させたのだよ。何しろ、浴衣姿の女の一人旅というのだろう。そうでなくても人眼をひきやすいやつさ。警察じゃ、だから難なく捕まるものと思って、たかをくくっていたんだよ。それが見事背負投げを食わされたんだからね」
「しかし、それは当人が無邪気だから、かえってうまくいったのじゃないかな」
「ははははは、君は女のことだとすぐひいきをしたがるが、それにしても、その足どりがまったく分からないのだよ。駅でもそんな女が乗った覚えはないというし、それかといって自動車を飛ばせた形跡もない。まさか女の足であの霧の中を山越えでもあるまいが、警察ではそのほうも抜かりなく手を回してしらべていたんだ。どこかの百姓家にでも隠れてやしないかとね。すると今朝になって東京からの手紙さ。まったく鳶《とび》に油揚げをさらわれたというのはこのことだね」
「山添さんという人はそんな人よ」
それまで黙って聞いていた京子がそのとき考え深い声でそう言った。
「そんな人とは――?」
「なんというか――あの人きっといい人なのに違いないわ。そしてあたしなんかと違ってとても人柄で静かな人だわ。しかし、あたしが思うのに、いったんこうと決心したら、男も及ばないことが平気でできる人なんだわ」
耕作はそれを聞くと、なぜかいやな気がした。彼はあの女をそんな風に見たくはなかったのかも知れない。
「なるほど、世間にゃよくそういう女がいるものだが――おや」
南条はそう言って立ち止まった。そのとき、向こうのほうから洋服姿の紳士が急ぎ足で丘を下りて来るのを見たのである。耕作もその男を見た。そのとたん彼は思わずはっとした。紳士は側へ近づいて来ると、
「やあ!」
「やあ!」
となれなれしく南条とあいさつを交わして、その次に耕作ににっこりと笑ってみせた。
「この間は――」
「いや僕こそ」
耕作は思わずどぎまぎしながら頭を下げた。
「おや、あなたはこの男を知っているのですか」
南条がいぶかしそうに訊ねた。
「いやね。このあいだ、ここへ来る汽車で一緒だったのだよ。例によって酔っ払っていたものだから、ひどく面倒をかけた」
感謝の意味だろう、紳士はもう一度軽く頭を下げた。
「ははははは、あなたらしいですね。それでお一人?」
「いや、女房と一緒さ。珍しくもね」
「それはおうらやましい。じゃあとでお訪ねしますぜ」
紳士は当惑したように、眉をひそめながら、
「ところが残念なことにゃ、今夜帰ることになっているのでね。それで今、評判のバベルの塔を見に来たというわけさ」
紳士はそう言ってから気がついたように、
「いや、どうも飛んだことでしたね」
と耕作のほうに向いて言った。
「帰るって、何時の汽車ですね」
「夕方の汽車だ。おや、もう二時だね。あまりゆっくりはしていられない、じゃこれで失敬する。いずれ東京でゆっくり会おう」
紳士は南条の手を握ると、由比と京子のほうに軽く目礼して急ぎ足に立ち去った。
「だれだい? ありゃ?」
耕作は紳士の後ろ姿を見送りながら、南条にそう訊ねた。
「おや、君知らないのかい。でもさっき汽車の中で一緒だったといったじゃないか」
「一緒は一緒だったけれど、別に名刺を交換したわけじゃないから、名前は知らないのさ。向こうでもおそらく知らないだろう」
「ははははは、そうか、じゃ紹介すればよかったね。ありゃ、峰岸男爵の道楽息子で健彦というのだがね。僕とは乗馬クラブでの知り合いで、ときどき一緒に飲むこともある。とても手のつけられないやつだよ」
「ああ、あれか、いつかどこかの細君とくっついて問題を起こしたことがある――」
「そうそう、あれさ。あんなことは君、あいにく金の出方が悪かったので赤新聞でちょっとたたかれたが、あいつにとっちゃ朝飯前のことだよ。あれでなかなか美人の女房を持っているんだから、人間て栄耀《えよう》にゃ限りがないものとみえるね」
そんなことを言いながら二人はそろそろと丘を登っていたが、ふと気がつくと京子がいないのであとを振り返ってみると、彼女は二、三間向こうに、じっと向こうむきに立っていた。
「京子さん、京子さん」
耕作が声をかけると、彼女ははっとしたようにこちらを振り向いたが、その顔はなぜかしら真っ青だった。
「どうしたんです。いやにうっとりしてるじゃありませんか。あんな男に見惚れちゃいけませんぜ」
南条がからかうように言うと、京子は軽く頭を振って、
「いいえ」
と、口の中でそう言ったまま、それきりどういうわけか貝のように押し黙ってしまったのだった。
四
それから間もなく、三人は塔のふもとまでやってきた。この不思議な階段を持った塔は、まるでスフィンクスのように沈黙を守ったまま、急に秋らしくなった空高くそびえているのだった。
「じいさんはいるかな」
耕作はこのあいだ一度くぐったことのある塔の入口を入ると、じいさんの小屋をのぞいてみた。
じいさんはいなくて、そこには空になった一升徳利と新聞の読みさしが転がっているきりだった。
「なるほど、こりゃ大変なところだね」
耕作がじいさんの部屋をのぞいているあいだに、南条は上を仰ぎみて驚嘆したようにそう呟いていた。耕作も先夜この塔の内部を登って行ったことがある。しかし、こうして昼の明るみの中で見るのはこのときがはじめてだった。薄暗い、まるで鍾乳洞か何かの内部のように、どんよりと濁った空気の中に、さまざまな柱や、梁《はり》や、支柱が交錯しているその光景をみたとき、耕作はこのあいだ、よくもあの危なっかしい階段を登って行ったものだと、思わず慄然《りつぜん》とせずにはいられなかった。
そこには無数の太い材木や、綱や、破れ布や、蓆《むしろ》が縦横に交錯しているのだ。それはちょうど田舎の掛け芝居の小屋の内部を、さらに幾倍か拡大したような光景だった。そして、このほうが外部の階段よりはどれほどまぎらわしい迷路であるか分からなかった。
「なるほど、こんなところに隠れているとちょっと分かりっこはないね」
南条はステッキを振り振り上を見上げていたが、やがて耕作のほうを振り返ると、
「どう? この階段を登って行く?」
と訊ねた。
「そうだね。僕はいいけれど京子さんは?」
「いいわ、あたしも登ってみるわ。別に危険なことはないでしょう」
「さあ、分からないね。いつ何時、どんなやつが飛び出して来ないとも限らないから」
「かまわないわ。そのときにはあなたたちが助けてくださるわね。登ってみましょうよ」
それで間もなく三人は、その危なっかしい階段を登りはじめた。
上へ登って行くにしたがって、だんだんあたりは薄暗くなってきたが、それでも板の割れ目から、太陽の光線が縦横にさし込んでいるので、足元が見えないというほどではなかった。階段も、先夜耕作が想像したほど危なっかしいものではなくて、案外しっかりとしていた。
「まあ、まるで洞穴の中みたいね」
京子はときどき奇声をあげてあたりを見回していた。いたるところに、支柱が鍾乳石のように天井から垂れ、それらの支柱の合間合間には古びた天幕が張ってあって、もしそれらの天幕の中にだれか隠れていたとしたら、容易に捜し出すことはできなかろうと思われるほどだった。
間もなく三人は、このあいだ耕作の通った揚げ蓋を開いて、塔の頂辺に近い舞台に出た。その舞台から外の階段へはい出したとき、京子はほっとしたように溜め息をついた。
「まあ、恐ろしかった。随分気味の悪いところね」
「実際、いやな気持ちだね」南条もそれに相づちを打ちながら、「しかし、だれもいやしなかったじゃないか」
「いなかったね。しかし、まだどうだか分からないよ。僕たちはすみからすみまで捜したわけじゃないからね」
「しかし、われわれの眼に触れないところに隠れていようと思えば、それこそ生命がけだぜ」
「そうさ。その生命がけでだれか隠れていやしないかと思うのさ」
「まさかね」
南条はもう耕作のことばは信じられないように、一人で展望台へ登って行った。間もなく、
「なるほど、この望遠鏡かね。君がいま話していたのは――」
と、そういう声が聞こえてきた。
耕作はもう二度と、その展望台へ登って行く気にはなれなかったので、京子と二人でわざと下の回廊に居残っていたが、そのとき、京子がつと彼に身を寄せると、低い声でささやくように言った。
「いま、会った方ね、ほら、塔の下で――」
「だれ?」耕作は相手の顔を振り返りながら、
「峰岸男爵の息子とかいうあの男ですか」
「ええ、あの人――あなた、あの人に見覚えはありません?」
そういう京子の声は、妙に真剣で、押さえつけるような力がこもっていた。
「あの男に――? そうですね。僕はあの人と汽車の中で一緒だったのですけれど」
「そうじゃありませんわ。ほら、このあいだの晩――」
「このあいだの晩――?」
耕作はいぶかしげに相手の顔を見直したが、何のことだかまだよく思い出せなかった。
「大江先生が殺された晩よ。――この階段の途中で出会った男――」
「な、なんですって?」
耕作は思わず大声をあげて、京子の手をしっかりと握りしめた。
「じゃ、あなたは、あの霧の中でわれわれが取り逃がした男が、あの峰岸だったとおっしゃるのですか?」
「ええ、そうよ」京子は低いが、きっぱりとした声で言った。
「あたしあのとき、はっきりと顔を見たわけじゃないけれど、あの後ろ姿、歩き方など、なんだかあの人じゃなかったかと思うのです」
「なるほど」
耕作はわざとさり気なく言ったが、その心中はひどく騒いでいる模様だった。
京子にそう言われてみれば、なんとなく彼にもそれが正しいように思えるのだ。それにふとあの男に最初汽車の中で会ったときのことが思い出された。あれ以来打ち続いて起こった目まぐるしい事件のために、彼はすっかりこの男のことを忘れていたのだが、たしかにこの男も、大江黒潮に対してある関心を持っていたではないか。
では、あの男は黒潮を殺すために、この軽井沢までやって来たのだろうか。そして、あの霧にまぎれて、巧みに黒潮を殺し、だれにも見とがめられずに立ち去ったのだろうか――
それにはしかし、種々不合理な点のあるのは免れなかった。第一あの仮想犯罪劇を行なうことは、彼らの仲間以外にはだれも知らないはずだった。だから彼がこの塔の上にいたとしても、それはまったく偶然であるとしか思えない。そういうわずかな偶然をとらえて、あんなにも巧みな犯罪が行なえるものだろうか。――
「だが」と、耕作はこんな考え方もするのだった。「京子のことばが事実で、あの男が、あのとき塔に登っていたとすれば、それはいったいなんのためだろう。あの深い霧の中を、危険を冒して塔へ登るというには、何かの理由がなければならない。その理由とはいったいなんだろう。――ともかくもあれは、旅行者が、物好きや出来心で塔に登ってみようとするようなお天気ではなかったではないか」
耕作はまたしてもふえたこの疑問を、いったいどう解決していいか分からなかった。彼がいらいらしたように、激しく首を振っているとき、展望台から南条が降りてきた。そして、耕作と京子の二人にささやくように言った。
「君、君の言ったことはほんとうだよ」
「な、何が? 何がほんとうだって?」
「いま、大江氏の宅の二階から、こちらへ白いハンカチを振っていた者があるよ」
耕作と京子はぎょっとして下を見た。はるか彼らの足下に、いつか道子と並んでみたように大江黒潮の貸別荘がみえた。しかし、二階の窓はぴったりと閉ざされて、だれの姿も見えなかった。
「だれもいやしないじゃないか」
「うん、それがね」
と、南条はきまじめな顔をして言った。
「いま君たちが話をしているあいだに、僕はあの頂辺へ登って行くと、なんの気もなく、あすこにある望遠鏡をのぞいてみたのだ。すると、驚いたことには、それがちゃんと、あの大江氏の二階の窓に焦点を合わしてあるじゃないか」
「ほほう」京子と耕作は思わず顔を見合わせた。
「それでね、僕はふと君たちの話を思い出して、ついいたずらっ気から、ポケットからハンカチを取り出してそれを振ってみたのだ。そして振りながら望遠鏡をのぞいていた。すると、間もなく、向こうの二階へ人影が現われて、それが双眼鏡を眼に当てながら、こちらへハンカチを振りはじめたのだよ」
「まあ!」京子は思わずそう叫ぶと、ひしと耕作の腕をつかんだ。
「僕も驚いた。驚いたが今更よすわけにはゆかないからね。できるだけ向こうから姿が見えないように体をちぢめて、ただハンカチだけを見せていたのだよ。すると間もなく、合図が分かったものか、そのまま相手は窓を閉めて引っ込んでしまったのさ。それで僕もようやく降りてきたのだよ」
「そして、相手というのはだれだった? 君はその姿をよく見なかったのかい?」
耕作は思わずせき込んでそう訊ねた。
「見たよ。見たがそれが大変意外な人物なんだ」
南条はなぜかためらいがちに答えた。
「意外な人物って?」京子が息を内へ吸い込みながら、
「篠崎さんじゃありません?」
「違う。大江さんの奥さんだよ」
それをきいた刹那《せつな》、耕作は思わず足元の階段ががらがらと崩れてゆくような驚きに打たれた。
「何だって? 大江さんの奥さんだって?」
「そうさ」
そこで三人は眼と眼を見交わすと、まるでメジューサの首をみた人間のように、その場に立ちすくんでしまったのだった。
その三人のはるか彼方に、浅間の煙が薄白く立ちのぼっているのが見えた。
五
バベルの塔と大江黒潮の貸別荘とのあいだに、何か因果関係があることは、耕作の想像したとおりだった。
それは、大江黒潮の別荘に焦点を合わされていた望遠鏡が何よりの証拠ではないか。しかし、その関係の一端が折江だとは、どうして考えられよう。折江が、この塔に隠れている何者かと秘密に通信している。――それはどう考えてもうなずけないことだった。
「それは、何かのまちがいじゃないかね」
「まちがいじゃないよ。たしかに大江さんの奥さんだったよ」南条は強く言い張った。
「それとも君、あの家にはいま、大江さんの奥さん以外の女性がいるのかね」
そう言われると耕作もはたと口をつぐまずにはいられなかった。
なるほど、道子が姿をくらまして以来、この事件に関係している女性といえば、京子と折江の二人きりしかない。しかも、京子はいまこうして自分たちの側にいるのだ。いまあの家に女の姿が見えたとしたら、それは折江以外の人間であり得ないはずじゃないか。
「だけど、ひょっとしたらねえやかも知れないぜ」耕作はなるべくこのことを信じたくはなかったので、まだ頑強に抗弁していた。
「ねえやだってハンカチを振らないとも限らないからね」
「ばかだね、君は――」南条は哀れむように、相手の顔をみながら、
「ねえやがあんなにおしろいをつけて、髪をちゃんと結っているというのかい。ばかも休み休みに言いたまえ。第一、僕はちゃんと相手の顔を見たんだぜ。あの望遠鏡はあれでなかなか上等とみえる」
それには耕作も、もう一言も返すことばがなかった。彼は顔を赤らめながら下を見ていたが、
「まあ、そのことはあとでゆっくり研究することにしよう。だいぶ時間がたったから、そろそろ降りようじゃないか」
それにはだれも異存はなかった。三人はそこで、今度は外の階段から下へ降りて行った。三人とも妙に黙り込んで、やがて塔を下りて丘のふもとへ来るまで一言も口を利かなかった。間もなく彼らは、昨日別れた地点までやってきた。
「じゃ、僕はここで失敬する」
「そう、じゃまた後ほど」
南条は帽子をあげて行きかけたが、やがて何を思ったのか五、六歩引き返して来た。
「今のことね。ほら、大江さんの奥さんのことさ」
「うん」
耕作は相手のことばを待つように足を止めた。
「ありゃ、まだ黙っていたほうがよかろうと思うぜ。結局なんでもないことかも知れないからね。つまらないことで迷惑をかけちゃ気の毒だ」
「うん、僕のほうは黙っているが、君もしゃべりゃしないだろうね」
「大丈夫。俺やそんなおしゃべりじゃないさ。じゃ京子さん、あなたも黙っていてくださいね」
京子は白い眼をあげながら軽くうなずいた。
「じゃ、さよなら」
南条と別れると、耕作と京子はそれきり一言もことばを交わさずに別荘まで帰って来た。次々に起こる疑問に、二人とも、もうものを考えるのがすっかりいやになっていた。考えたとて、結局分かりもしないことに頭を悩ますのはばかげているとさえ思われるのだった。
塔の中の男と峰岸健彦、――バベルの塔と大江黒潮の別荘との関係、篠崎や折江の奇怪な振る舞い。――それらのことが次々と彼らの頭を走馬燈のようにかすめて走るのだった。
しかし、いったいそれがあの恐ろしい殺人事件とどんな関係があるのだろうか。――その点になると耕作には想像もつかないのだった。
二人が別荘の表から入ってくると、中から折江の甲高い声がきこえてきた。
「まあ、あなた方、いったいどこへ行ってらしったの?」
「ええ、ちょっとその辺を散歩していたのです」
耕作は相手の顔から眼をそらしながら言った。京子はがっかりしたように切戸から庭へ回ると、冷たい縁側にべったりと腰を下ろした。耕作もそのあとについて行った。
「そう、それならいいけれど」と、折江も廊下から縁側へ出ながら、
「いま刑事が来てやかましく言うんですよ。あまりのこのこ外へ出歩いちゃいけないんですって」
「へへえ」耕作は逆らう気も出ないように、「それじゃいよいよわれわれはこの邸に罐詰《かんづめ》になるんですか」
「ま、そうね」と折江は軽い溜め息をつきながら、
「お気の毒だけれど仕方がないわ。警察からの命令なんだから――それにね、また変なことが持ち上がったんですよ」
「え? 変なことって?」
「いいえ、別に心配するほどのこともないのですけれど、今日の夕方、あたしたちはまたあの塔へ登らなければならないのですって」
「まあ! それはどういうわけ。奥さん?」
京子がそのときはじめて口を出した。
「どういうわけって、つまり、あの仮想犯罪劇のお復習《さらい》をさせられるわけなのよ」
「え? お復習?」
耕作もそれがどういう意味かはかりかねて思わず相手の顔を見直した。
「ええ、警察でも何一つ証拠がつかめないので、すっかりいらいらしているのよ。それに道子さんもとうとう逃げてしまったらしいのですしね。それで、今日、この間やったとおりのことをもう一度繰り返して、あの悲鳴が聞こえた時分、あたしたちが階段のどの地点にいたか、それをいちいち調べてみようというの」
折江はそう言いながら、何かしらいまわしそうに眉をひそめた。
「へへえ、すると、僕はもう一度人殺しの真似をしなけりゃならないのですね」
耕作はわざとおどけた調子でそう言ったが、声は妙に震えを帯びていた。
「いやあね、そんなこと――」
「いやでも仕方がないわ。警察の命令とあればね」
折江は投げ出すような調子で言った。
そこへ、奥のほうから、篠崎や岡田が、白井三郎や信之助と一緒に出てきた。そしてみんな暗い顔をしながら、あの凶々《まがまが》しいバベルの塔におびえたような眼をやっていた。
[#改ページ]
[#小見出し] 犯罪劇の復習
一
警察がこんなとっぴなことを思いついたのは、もはやどうにも捜索のめどがつきかねた結果であるらしかった。
疑問の女、山添道子にはまんまと逃げられてしまったし、耕作の陳述にあった霧の中の男は、それだけでは雲をつかむような捜しもので、正体が分からないではどうすることもできない。
第一、耕作のこの陳述そのものがはなはだ怪しくはないかと説をする者もあった。彼は自分たちの嫌疑を少しでも薄くするために、別の言い方をすれば、事件を一層複雑にするために、わざとこんなでたらめな陳述をもって係官を混乱させようとたくらんでいるのではなかろうか。――疑いの眼をもってすれば、そんな風に見られないこともないのだった。
実際、嫌疑者がこんなに多くて困るという事件も珍しかった。七人の嫌疑者――警察ではこのばあい白井三郎だけまったく別に考えていた。なぜなら、この男は犯行の当時、塔の下にいたのだから――が全部その犯行の機会を持っており、しかもだれ一人、アリバイを持っていないことからして、警察の眼から見れば不都合きわまる事件だった。なんだか、彼らが寄ってたかって、警察を愚弄しているように思われるのも無理からぬ話だ。
刑事連は躍起となって軽井沢の町中を飛び回っては、種々な人からさまざまなうわさを聞き込んできた。しかし、それらの情報が集まれば集まるほど、彼らの方針はぐらついてくるばかりだった。町のうわさを総合すると、結局、七人の嫌疑者のうちの大半が大江黒潮を殺したかも知れない動機を持っているというのだ。
つまり、耕作がはじめてこの町へ着いたとき、車夫の口から聞いたあの恋愛合戦のうわさが、恐ろしい殺人の後となっては、それ見たことかとばかり、一層誇大に言い伝えられているらしかった。
こうしてとうとう、どこから手をつけていいか、さっぱり見当のつかなくなった結果、ふと彼らのうちに起こった名案というのが、この犯罪劇の復習という問題である。
むろんこれによって、直ちに犯人を指摘することができるとは思われなかったが、少なくとも、凶行のあった時刻の現場付近の様子がはっきりとつかめるという便宜があった。それに、七人の嫌疑者が、いったいどの辺にいたかということも、実際の地点について知っておく必要があった。もう一つ、警察で秘めている重大な理由としては、犯人をも一度現場付近につれて行き、そして、あの恐ろしいお芝居を繰り返して見せたら、そこに何らかの反応が現われやしないか。その結果、確証とまではいかなくも、何らかの曙光を見いだすことができるかも知れない――と、そういうのが、彼らのせめてもの希望だった。
だが、警察の希望どおり、そんなにうまくいっただろうか。
あの恐ろしい惨劇を生んだお芝居は、そのお復習《さらい》においても、またもや、何か不吉な事件を生み出すのではなかろうか。
筆者は大急ぎで、あの第一の事件よりもさらに恐ろしい、この第二の事件に筆を進めていかねばならぬ。
二
犯罪の復習は、しかしあの恐ろしい犯罪のあった夜よりは一時間早めに、つまり五時から行なわれることになった。
大勢の刑事や警部に取り巻かれた一行七人が、別荘を出てバベルの塔に向かうのを見たとき、通りがかった人々はいったい何ごとが起こったのかと眼をそばだててあとを見送っていた。一行七人、だれも口を利く者はなかった。みんな疲れ切ったような青い顔をして黙々と歩を運んでいた。このいまわしい実験に、だれの心も妙に滅入り込んで捨てばちな気持ちになっていた。いったいこれから何をしようとするのか、どんなことが起こるのか、それを考えてみる気にもなれないらしかった。
ただせめても彼らにとって幸せだったのは、このあいだの夜と違って、霧もなく、涼々しくあたりの空気が澄み切っていることだった。
やがて一行はバベルの塔に到着した。
「じゃ、おれたちは先に頂辺まで登っていよう。それでおれがあの展望台から空砲を放つから、それを聞いたら君たちは、このあいだの晩と同じように階段を登ってきてくれたまえ」
警部はいかめしい顔をして一同を見回した。
「それから、例のお芝居がすんで悲鳴の起こったころあいに空砲を鳴らすから、そのときには、諸君はそのままの位置にいてもらわねばならぬ。いずれ警官が登って来てその地点へ印をつけるはずだから、それまであまりその地点から動かないように」
この一行の中には新聞記者の南条も混っていた。この男はどう警部を口説いたのか知れないが、新聞記者としてはただ一人、この実験に立ち会うことになっているのだった。
「ふふふふふ、おもしろいね。こいつはたしかに得難い経験だぜ。人殺しのおさらいをするなんて、めったにないことだからね」
南条は一人で喜んでいた。
「君はいったいどうするつもりだね」
警部が登って行くのを見ると、耕作はふと南条のほうを振り返った。
「そうだね。君と一緒に登ることにしよう。もっとも山添道子という女が登って行った階段が今日は空いているが、やはり君と一緒の方がいいだろう」
耕作はこの男が一緒にいてくれるというので、急に気が丈夫になった。とても一人では、このあいだのお芝居を繰り返す気にはなれなかったからである。
警部の姿が見えなくなると、直ちに一同は別れて、めいめいこのあいだの受け持ちの階段のほうへ立ち去った。白井三郎だけはむっつりとして、塔の壁にもたれてたばこをくゆらしていた。他の刑事や警官たちは、七つの階段の下にがんばって、いざといえば、いつでも登って行ける用意をしていた。
間もなく、塔の頂辺からズドンという銃声が、よく晴れた空へ響き渡った。
「おい、鳴ったぜ、登らんか」
「うん」
耕作はこのあいだの晩のことを思い出しながら、できるだけ同じ速力で登って行った。右を見ると、信之助が、今日は霧にさえぎられることがないので、急ぎ足で登っているのが見えた。ただ、左の階段の主が見えないのが、そのとき耕作にはふと寂しく感じられた。その階段こそ、山添道子の登って行った階段なのだ。
やがて階段を七分通りほど登った。ふと右を見ると、信之助の姿はすでに塔に隠れて見えなかった。
「まっすぐに君はこれを登ったのだね」
耕作のあとから追いすがるように登りながら南条が声をかけた。
「うん、しかし、この辺でちょっと迷ったから、相当時間は食ったはずだ。そうそう、たしかにこの道へ最初迷い込んだんだよ」
「まさか、それまでお復習《さらい》をする必要もあるまいから、少しゆっくり登って行こうじゃないか」
間もなく二人は展望台まで辿りついた。見るとそこには、大江黒潮の代わりに警部と二人の私服巡査が待ちかまえていた。
「なるほど、こうして君は登って来たのだね」警部はそう言いながら、塔の頂辺から下を見下ろした。
「ほほう、だれの姿もみえないね。どうも故意か偶然か、この犯罪はよほどこみ入っている」
そのことばに南条もそっと首を出して下をのぞいてみた。なるほど、階段のずっと下のほうは見えたけれど、七分通りから上になると、回廊だの目隠し塀だのにさえぎられて、少しも見えないのだった。したがって、耕作をのぞく他の五人が、いまどの辺にいるのかまったく見当がつかなかった。
「それで、君はここにどのくらい長くいたかね」
警部が耕作の方を振り返って訊ねた。
「そうですね。三分とはいなかったでしょう。ナイフをそこへ投げ出すと、すぐに降りて行ったのです」
「そう、じゃ、もうそろそろ降りて行ってもいいね。それから君がこのあいだ悲鳴をきいた地点まで降りて行ったら、何か大きな声でどなってくれたまえ。そうすればおれがこの空砲を放って、みんなを今いる地点に止まらせておくから」
「承知しました」
そこで耕作はまた階段をごとごとと降りて行った。南条もすぐにそのあとに続いた。やがて、第一の回廊もすぎて、曲がりくねった、迷いやすい階段へと降りてきた。そこからはもう塔の頂辺は見えなかった。
「たしかこの辺まで来たときだと思うがね。あの悲鳴をきいたのは――」
「いい加減でいいじゃないか。どうせ、そう正確にはいかないよ」
「そうだ。それにあの霧だったからね。一つどなってみようか」
「やりたまえ」
「警部さん!」
耕作はどなった。そしてそのあとを続けようとしたときである。
突如、階段のどこかで女の悲鳴が聞こえた。それは何かしら救いを求めるような声であった。
それをきいた刹那《せつな》、耕作と南条の二人は思わずぎょっとして顔を見合わせた。
「ナ、なんだい? ありゃ?」
耕作がだいぶたってから震え声でそう言った。
「おかしいね。女の悲鳴のようだったね」
だが、南条のそのことばの終わらないうちに、再び同じ悲鳴が聞こえた。しかも、今度は前よりだいぶ間近に聞こえたのだった。
「おい、行ってみよう! 何かまた起こったらしいぜ」
二人はいきなりその場から駆け出した。
いったい何が起こったというのだ。あの恐ろしい犯罪劇のおさらいの場面で、また何か恐ろしい事件が起こったというのか。そんなばかばかしいことがあり得るだろうか。――
二人はめくら滅法に回廊を走っていた。残念なことには、その辺の回廊や階段は、この迷路を一層複雑にするために、両側に人の背よりだいぶ高い塀がめぐらしてあるのだった。したがって彼らが走っている回廊と並行に、やや上にある廊下を走っている跫音であるらしかった。
「だれ? そこを走っているのは?」
耕作が走りながら声をかけた。
「僕です。由比君ですね」
その声はたしかに岡田だった。
「ああ、岡田さん、いったい今の悲鳴はなんですか」
「僕にもよく分かりません。しかし、どうやら折江さんの声らしかったですよ」
耕作と南条はなお走りつづけた。しばらくして耕作はまた岡田に声をかけてみたが、いつの間にか、迷路によって引き分けられたものとみえて、もはや岡田の返事を聞くことはできなかった。
そのとき、またもやどこかで女の悲鳴が聞こえた。しかも今度はよほど彼らの間近に聞こえたのだった。
「やっぱり大江さんの奥さんだ」耕作がぜいぜいと肩で息をしながら叫んだ。
「君いつまでこうしていても限りがない。僕はこの道を走って行くから、君は向こうから回ってくれたまえ」
「よし!」
南条は耕作に別れると、そこから階段を登って行った。その姿はすぐ階段を左へ曲がって見えなくなった。耕作はその姿を見送っておいてさらに同じ回廊を走りつづけた。
ふいと耕作はまた、人の跫音を聞きつけた。それは彼とは二間とは離れないところを並行に走っている跫音だった。
「だれ? そこを走っているのは?」
「あっ! 由比さん?」それはたしかに折江の声だった。
「助けてちょうだい――ああ、恐ろしい! 助けてちょうだい!」
そういう声が頭の上から降るように聞こえてくる。
「よし、そこをまっすぐにお走りなさい。しばらくすると、いま僕のいる回廊へ出ますから、大急ぎでいらっしゃい」
「だって、あたし、それまでに殺されるかも知れないわ。あれ――」
折江の声に混って、すぐあとから太い男の声が聞こえた。
「折江さん! お待ちなさい、折江さん!」
それはたしかに篠崎の声だった。どうやら折江の後ろから一緒に走っているらしかった。耕作はわけの分からない錯乱に陥った。いったい何が起こったのだろう。折江が殺されるかも知れないというのはどういう意味だろう。篠崎が彼女を殺すかも知れないというのだろうか。
耕作はそんなことを切れぎれに考えながら走っていった。間もなく彼の眼前には、回廊の切れ目が見えてきた。そこは回廊と階段とが十字に交差しているところで、折江に降りて来いと教えたのはその階段のことだった。
五間、四間、三間と――耕作は次第にその交差点へ近づいて行った。と、そのとき都合よく向こうからだれかが走って来るのが見えた。薄暗いのでよくは分からなかったが南条であるらしかった。
「南条君?」
「うん、おれだ」
交差点を決勝点として、耕作と南条の距離が次第に縮まっていった。そして二人の距離が三間ほどに縮まったときふいに目の前を折江の体が薄暗い夕闇の中に白い線を作って上から来ると、そのまま下の階段の目隠し塀の陰へ鞠《まり》のごとく消えて行った。
「奥さん、お待ちなさい! 奥さん!」
耕作がそう声をかけたときである。突然、階段の上のほうから、
「ぎぁっ!」
というような世にも無気味な声が聞こえた。その声をきいた瞬間、耕作は頭から冷水を浴びせられたようにぞっとして、思わず立ち止まってしまった。向こうから走って来た南条も、同じようにつと足を止めたが、すぐゴム鞠のように身を弾ませて交差点へ飛びついて行った。耕作もやっとそれに気を取り直して南条の側まで走って行った。
耕作はまず交差点まで来ると、本能的に下を見た。
彼らから十数段下のバルコンのような広場に、折江の姿が二つに折れたように曲がって倒れているのが見えた。耕作は次に階段の上のほうを見た。と、彼は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてよろよろと南条の体にしがみついたのである。
その階段の頂辺に一人の男が立っていた。その男は塀によりかかったままうつろな眼をくわっと見開いて虚空《こくう》を見つめていたが、そのままよろよろと二、三歩こちらへ降りてきた。と、思っていると、ふいにその体が腰の辺から二つに折れた。そして頭から先に、ごろごろと階段を転げて来たのである。
もし、南条がそれを抱き止めなかったら、その体はもっと下まで転げて行ったかも知れなかった。耕作はぎょっとして飛びのくと、おびえ切った眼でその姿を見下ろしていた。南条は男を抱きとめると、すぐ頸《くび》に手をかけて、ぐっと顔を起こした。
「篠崎!」
いかにも、それは篠崎に違いなかった。しかし、なんという恐ろしい形相だったろう。くわっと見開いた白い眼、きっと噛みしめた唇のあいだからだらりとはみ出している舌、その唇の間からはたらたらと血が顎から咽喉へかけて伝わっているのだった。
ふいに篠崎は啜り泣くような呻《うめ》き声を洩らすと、激しく手足を痙攣《けいれん》させた。そしてそれきり石のように固くなってしまったのである。
「ど、どうしたのだろう」
耕作は思わず面をそむけながら呟いた。
「見たまえ、これを!」
南条が、低い、しかし力のこもった声で言った。その声に耕作がふと眼をやると、篠崎の胸には、まるで昆虫《こんちゆう》を刺すピンのように、一挺のナイフがぐさっと突き立っているのだった。
三
「今、殺《や》られたところだね」
耕作はがたがたと歯をならせながら、南条の腕をひしとつかんだ。
「そうだよ。僕たちがこの階段の下へ駆けつけた瞬間だ!」
「じゃ、――じゃ、犯人はまだこの上にいるのだろうか」
「むろん、いるに違いない」
二人の眼が、激しい恐怖を浮かべてじっと見交わされた。
そこへ、岡田と信之助が、怯えたような顔つきで、きょろきょろとあたりを見回しながら近づいて来た。二人は、ようやく濃くなってきた夕やみの中に、耕作と南条の姿を発見するとぎょっとしたように立ち止まったが、やがて岡田がすかすようにこちらを見ながら声をかけた。
「由比君?」
「ああ、岡田さんですね。信之助君も一緒ですか」
「ええ、今そこで出会ったのです」
二人は安心したように傍へ近づいてきた。
「どうしたのです。さっきの悲鳴は――? 折江さんは――?」
だが、岡田のそのことばが終わらないうちに、信之助が足元の死体を見つけた。
彼はぎゃっと、締めつけられたような悲鳴をあげると、あわてて、二、三歩後へとびのいた。
「そ、それはどうしたのです。え? いったい何ごとが起こったのです?」
岡田もそのことばに、やっと気がついた。彼は体をかがめて、斜めに死体のほうをのぞきこんでいたが、
「あっ、篠崎さんじゃありませんか。篠崎さんがどうかしたのですか?」
「篠崎君がまた、殺されたのですよ」
岡田と信之助の二人は、それを聞くとげえっ[#「げえっ」に傍点]といったような悲鳴をあげたが、
「それはほんとうですか。いったいだれが篠崎さんを殺したのです。え、そして折江さんはどうしました。さっきの悲鳴はたしか折江さんだと思ったが――」
「奥さんはあすこにいますよ」
耕作はどんどんと落ち着きを回復してくると、急に意地悪く、妙に肚が据わってきた。彼はこの、わけの分からぬ第二の殺人を前にして、もはやだれをも信じまいと思いだしていた。さっき彼は岡田の跫音をこの上の回廊できいたのだ。とすれば、あの殺人のあった刹那《せつな》、彼が現場付近に居合わせたことはまちがいがない。ひょっとすると、この男が――と、そう考えると、岡田の青白い、緊張した恐怖の色も、急になんだかとってつけたようなしらじらしさに感じられてくるのだった。彼はまた、信之助のことを考えてみた。この年若い学生は、思いがけない事件の連続に、呆然《ぼうぜん》として、棒をのんだように立ちすくんでいた。しかし、疑えばまたこの学生だって疑えないことはないのだ。ともかく、この第二の殺人のばあいにおいて現場不在証明を立証できない立場にあるらしかった。
ただ一人、折江だけがこの嫌疑者の群れから除去することができる。なぜならば、篠崎が殺された刹那、折江はそこから十数段離れた階段の下を転げるように走っていたのだから。
岡田はいよいよ濃くなってくる夕やみの中に、折江の姿を発見すると、
「あすこに倒れているのが折江さんですか」
そう言いかけて急に、彼はぐっと咽喉に大きな障害を感じたらしく、あわててつばを飲み込みながら、
「それじゃ、折江さんも、もしや――」
「いや、それは大丈夫だろうと思う」
南条はあわててそれを打ち消すように、
「たぶん、興奮のあまり気を失っているのだと思うが、とにかく、君たち行って様子を見て来てくれませんか。僕と由比君はちょっとこの上を調べて来ますから」
そこで四人は二手に別れて、岡田と信之助は階段を下のほうへ降りて行った。
南条と耕作は、それを見送っておいて、ことことと恐ろしい死の階段を登っていった。
「見たまえ、ここで殺《や》られたのだよ」
南条がそう言って指すところをみれば、なるほど階段の頂辺に近い目隠し塀のうえに、まるで紅筆をさっと振ったように血のしぶきがかかっていた。南条はそっとそれに指を触れたが、血はまだ乾き切っていなかった。
「惜しいことをしたね。あのとき、われわれにも少し度胸があって、すぐこの階段を登っていたら、犯人を捕えることができたのかも知れないね」
南条はそう言いながらあたりを見回した。しかし、その時分まで犯人がまごまごしているはずはなく、狭い、曲がりくねった回廊のどこにも、人影一つ見えなかった。
「いやだね。そんなことは――」耕作は眉をしかめながら、
「僕にはとてもそんな勇気はないね。犯人はきっと死に物狂いのことだろうから、そんなことをすればこちらの身が危険なばかりだ」
「ははははは、君は相変らず臆病だね。しかし」と南条はあたりを見回しながら、
「犯人はいったいここからどこへ逃げたのだろう」
「どこへだって逃げられるよ。ここはまるで八幡《やわた》の藪《やぶ》みたいなものだからね。一秒か二秒の隙さえありゃ、どこへでも潜り込んで、いい潮時を見計ってのこのこと出て来られるんだ」
「ふふん、君はまさか、岡田や中西のことを言っているのじゃあるまいね。まさかあいつらが――」
「どうだか分かるもんか。この事件じゃ僕は絶対にだれも信用しないことに決めたよ。どいつもこいつも、人殺しのあったときといえば、不思議にどこにいたか分からなくできていやがるんだ」
耕作は噛みつくような調子で言った。
「実際、あのときわれわれがも少し早く階段の下に駆けつけていりゃよかったのだ。そうすれば、犯人の姿を見ることができたに違いないね」
そのとき、階段の下のほうから岡田の呼ぶ声がしたので振り返ってみると、岡田と信之助の二人が、今しも折江の体を抱き起こしているところだった。
「大丈夫です。別にどこもけがはありませんよ、ただ気を失っているだけで――」
「そうですか。じゃ恐れ入りますがお二人で下へお連れしておいてくれませんか。僕たちはこのことを警官に報告しておいて降りますから」
「承知しました」
岡田と信之助が折江の体を左右から抱いて、窮屈な階段を降りて行くのを見ながら、突然、南条が思い出したように言った。
「時に、あの女は何をあんなに驚いたのだろう。助けてくれえ! と叫んでいたのは、犯人の姿でも見たのだろうか」
「あっ、そうだ!」ふいに耕作がひしと南条の腕をつかんだ。「奥さんのこと僕はすっかり忘れていた。奥さんはむしろ、篠崎よりも危険な立場にあったのだよ。あの悲鳴は犯人に追っかけられながら叫んだに違いないのだ。それを篠崎が助けようとして、逆に犯人にやられたのだね」
「すると、あの女に聞けば犯人の名は分かるわけだね」
「そうだ。だから、ひょっとすると――」と耕作は怯えたように下のほうをのぞき込んだが、急に干からびたような笑いをうかべて、「まさか、二人いるんだからね。岡田にしろ、中西にしろ、――」
「ははははは! あの二人のうちのだれかが、また奥さんを殺すかも知れないと思っているのかい? 馬鹿な! そんなことがあるものか」
「だけど、この際、われわれはできるだけ早く、下に降りて行って奥さんを保護しているほうがいいかも知れないぜ。もし、彼女が犯人を知っているとしたら、どうやらまだこのままでは済まされないような気がする。それにしても警官の××、いったいどこで何をしているのだろうな」
しかし、そのころ警察官たちとても、決して居眠りをしていたわけではなかった。彼らもまた悲鳴を聞きつけて、必死になって階段を捜していたのだった。しかし、この厄介な空中迷路は、慣れない警官たちをそうやすやすと現場へ近づけなかったのである。
[#改ページ]
[#小見出し] 塔の怪人
一
一同が塔の下に集まったのは、それから約三十分も過ぎてから後のことだった。こんなにも手間どったというのは、やはり例の迷路のおかげだった。耕作たちが警官を捜すのには随分骨が折れたし、それからまた警官連中を引っ張って死体の側へ引き返すにも、相当の時間がかかった。
なぜならば、そのころにはすっかり夕やみが塔全体を覆うて、そうでなくとも覚えにくい階段の迷路を、一層分からなくしてしまっていたからである。
警官たちは、自分たちの眼と鼻の先で行なわれたこの殺人事件に、すっかり興奮してしまって、まるでそれが耕作や南条たちのせいででもあるように、不必要に声を荒げて、二人を叱責したり、訊問したり、おどしたりしていた。
耕作はこういう警官の態度にすっかり気をくさらせてしまって、どんなことを訊かれても答えてやるものかと決心したほどだった。しかし、南条は耕作とは違って、いかにも新聞記者らしく、要領よく自分たちの経験を話したり、警官の意見をきいたりしていた。
実際、特種をあさる新聞記者として、こんな不可思議な殺人に立ち会うことは、よくよくの幸運と思わなければならない。だから彼は、この幸運のためにはどんなに感謝してもよかったし、どんなに働いてもいいほどだった。
とりあえず死体は塔の底にある番人の小屋へ運ばれることになって、そこで南条や耕作は、警官たちと力を合わせて、えっちら、おっちらと長い、迷いやすい階段を下って行った。耕作はふと、二、三日前にも、同じようにこうして大江黒潮の死体を運び下ろしたことを思い出した。すると、この不思議な因縁の恐ろしさに、ぞっと身震いをしながら、いったい今度はだれの番だろうというような気さえ起こった。彼はなんだか、この事件はまだなかなかこれきりでは終わらないぞという気が強く胸に響いてくるのだった。
第三、第四の人殺し――そんなことを想像すると、耕作は実際、自分が正気であるとは思われなかった。いや、しかし気が狂っているのは自分ばかりじゃないのだ。大江黒潮も折江も、岡田も篠崎も中西も、みんなみんな気が触れていたのだ。むろん、京子も道子もその仲間から逃れることはできない。あの大江黒潮の別荘に集まった人間のすべてが、正気を失い、どこか頭の調子を狂わせていたのだ。そうして、そうした人々の異常な精神状態につけ込んで、ひょいと起こったのがあの第一の殺人なのだ。しかも、悪運の神は一度血を見ると、いよいよたけり立ち、狂いあがった。そしてそこに第二の殺人が計画され、さらに第三の殺人さえ予想することは困難ではないのだった。
ようやく死体を番人の部屋へ寝かせると、耕作は気抜けがしたような面持ちでぼんやりと小屋の外へ出た。すると、そこで、彼は白井三郎にばったり出会った。耕作はその磨ぎ澄ましたような眼を見ると、なぜかしらはっと息を飲み込んだ。
「また妙なことが起こったね」
白井はいつになく緊張した顔つきで、耕作の様子をじろじろとながめていた。
「ええ、僕はもうすっかりいやになってしまいましたよ」
「なんだか今度の殺人は君の眼の前で行なわれたというじゃないか」
「そうですよ」耕作は肩をそびやかしながら、
「南条君が、あのとき側にいてくれたからよかったようなものの、もし、あの男でもいなかったら、僕が第一に襲われる立場ですよ」
「そんなこともあるまいが」と、白井は吸いかけたたばこを地上に落とすと、げたでそれをもみ消しながら「随分妙な事件だね君、一つそのときの経験を詳しく僕に話してくれないかね。僕もなんだかわけが分からなくなってきたよ」
耕作は驚いて相手の顔を見直した。
この男が、事件に対して、少しでも興味を持っているらしいことを示したのは、このときがはじめてだった。最初大江黒潮が殺されたときから、白井三郎は、ほかの人々が興奮したり、怯えたり、疑いあったりしている中で、ひとり超然として、むしろ冷淡としか思えないほど、無関心な態度をとりつづけてきていた。
それが今夜は打って変わって、激しい好奇心に心を蝕《むしば》まれているように思えるのだ。それは決して耕作の思い違いでもなんでもなかった。その証拠には、たばこの吸い殻を踏み消している白井三郎の顔は、真っ青に緊張して、唇の端がひどく震えているのが見えたのだった。
それにしても、何がこんなにこの男を興奮させているのか。友人大江黒潮の死に対してはあんなに冷淡だった彼が、この第二の殺人事件で、かくも取り乱しているのはいったいどういうわけだろう。――
「僕にはわけが分からないのです。まるで悪夢でもみているような気持ちですよ」
やがて耕作と白井三郎の二人は、塔の中の、あの曲がりくねった階段の下へ腰を下ろすと、ぼつぼつと耕作はそんな風に話しだした。
「実際あんな風に人が殺されるなんて、とても人間業だとは思われません。それはまるで紙一重という際どい瞬間なんです。篠崎氏がもう一、二秒早く階段を駆け降りて来るか、われわれがも少し早く階段のふもとまで駆けつけていたら、こんな事件は起こらなかったかも知れないのです。しかも犯人は、こんなわずかな隙を利用することに、まんまと成功したのですよ。実際神業としか思えませんね」
耕作はそれからさっきの血の出るような恐ろしい経験を、彼一流の能弁で語ってきかせた。白井三郎はいちいちそれにうなずいたり、ときに要領のいい質問で耕作の話の落としたところを訊き出したりしていた。
「すると君は、折江さんがその犯人を知っているかも知れないというのだね」
「そうです。奥さんは犯人に追っかけられていた。そこへ篠崎氏が飛び出してそれを救おうとしたのです。ところが、逆に犯人に謀《はか》られてしまったのでしょう」
「そうかも知れないね。いや、それがほんとうかも知れない。しかし、どうも妙だよ。僕には分からないところがあるのだ」
「分からないとは? どういう点です」
「つまり、折江さんは恐ろしい犯人の手から逃れようとして悲鳴をあげた。しかし、そのとき、なぜ、犯人の名を言わなかったのだろう。ひょっとすると、自分はそのまま殺されてしまうかも分からないばあいだ。君に、犯人の名を一言いっておいてもよかったはずじゃないかね」
「なるほど、そうも思えますね」耕作は何か考えながら、
「しかし、逆上していたばあいで、まるきりそんなことに考えが及ばなかったのではありませんか」
「それがおかしいと思うのだ。だが、しかし」と白井三郎はその考えは断念したらしく、
「この事件で少なくとも、岡田と中西は犯人じゃないね」
「どうしてですか」
耕作は反駁《はんばく》するように肩をそびやかした。
「なあに、彼らが逃げようとも隠れようともしないからだ。君の話のとおり、折江さんに知られたということを、犯人は知っているに違いないから、いずれ折江さんの唇から洩れるに違いないこのばあい、犯人がのこのこと居残っているわけがないからね」
「しかし、それじゃ結局、犯人はわれわれの仲間ではないということになりますね」
「どうして?」
「だって、だれも逃げ隠れする者はないじゃありませんか。みんなこうして揃っている」
「いや」ふいに白井三郎は厳粛な顔をしてあたりを見回した。
「ところが一人足りない人があるのだよ」
「え? 足りない、だれが――だれかいないやつがあるのですか」
「ある、一人――」
「だれです。だれがいないのです」
「伊達京子さ」
「え! 伊達京子――?」
耕作は思わず階段から飛び上がった。彼はすっかり京子のことを忘れていた。いや、忘れていたというよりも、どこかそこらにいることだとばかり思っていたのだった。
「そうさ、あの女はまだ塔を降りて来ないよ。どうも警官がこういうことに気がつかないのは、実際困る」
白井三郎がそう言いながら、袂からたばこを探り出したとき、小屋の中から警部の声が聞こえた。
「由比君、ちょっとこっちへ来てくれたまえ」
二
耕作が白井三郎の側を離れて、小屋の中へ入って行くと、警部はいま死体を調べ終わったところらしく、血のついた手をハンカチでふいていた。
「何か御用ですか?」
耕作はこの恐ろしい死体から眼をそらしながら、そう訊ねると、警部は顎で傍を指さした。
「君はこのナイフに見覚えはないかね?」
耕作がふとそのほうをみると、そこにはべっとり血に染まったナイフが置いてあった。
それを見た瞬間、耕作はちょっと妙な気がした。なぜならば、そのナイフは大江黒潮の殺されたあの果物ナイフと一分一厘も違わなかったからである。一瞬間彼は、黒潮を殺したナイフがまたもや、篠崎宏を突き殺したのだと思った。しかし、考えてみればそんなわけがあるはずがない。黒潮を殺したナイフは現在、参考品として警察の手にあるはずだから、それがまさか第二の凶器として用いられるはずがないのだ。
「なるほど、このあいだのやつと同じナイフですね。たぶん対《つい》をなしているのでしょうね」
耕作は恐ろしそうに血にまみれたナイフをのぞき込みながら言った。
「そうだ。それできくのだが、この前のは大江氏の宅の果物ナイフだと君は言ったね。あのナイフは二挺で一揃えになっていたのかね。君はこのあいだ、その一挺を持ち出したくらいだから、よく覚えているだろうが――」
「そうですね。僕はよく記憶していませんが、二挺あったのかも知れません。そのことなら、僕よりも大江さんの奥さんにお訊ねになったほうが近道でしょう」
「むろん、あの女が正気に復したら聞くつもりだが、その前にちょっと君に聞いてみたのだ。見たまえ、歯の先がちょっとかけているだろう。君はこういうナイフに見覚えはないかね」
「え?」
耕作はふいにぎょっとしたように、警部の顔をみた。そしてしばらくぽかんとした顔つきで、虚空を見つめていたが、何を思ったのか、急にさっと頬の筋肉を緊張させると、もう一度ナイフのうえにのぞき込んだ。ふいに、荒々しい息が彼の唇から洩れた。
「ど、どうしたのだね。何か変わったところがあったのかね?」
「え、そうです。おかしい。どうも分からない。しかし、たしかに――」
耕作は袂からハンカチを取り出すと、そわそわと額の汗をぬぐっていた。
「どうしたのだ。何がおかしいのだ。おい、え、何か変わったことがあるのかい?」
「そうなんです。このナイフは――」
「このナイフは――」
「僕がこのあいだの晩、持ち出したナイフです。ほら、大江さんの殺された晩に――」
「な、なんだって?」
警部も面食らったような顔をして耕作の顔を見ていた。しかし、そうしているうちに、彼もようやく、相手の言おうとしていることが分かって来たらしい。ふいに声をたかめると、
「しかし、君が持ち出したナイフは大江黒潮を殺した凶器として、いま警察の手で保管してあるじゃないか」
「だから、だからおかしいと思うのです」耕作は一層どぎまぎとしながら、「しかし、このナイフは決してまちがいがありません。僕はあの晩、こいつを持ち出すとき、先のかけていることと、ほら、この柄のところにかすかに傷のついていることに気がついていました。まさか、同じようなナイフが二挺もあるとは思われませんからね」
「すると、いま警察の手にあるナイフは、まったく別物だということになるね。君が持ち出したナイフじゃないということになるね」
「そうです。たぶんそうでしょう。何しろあのときは恐ろしくて、ろくろくナイフを調べもしなかったし、それに、自分の持ち出したナイフに違いないと、頭から決めていたものですからああいう風にお答えをしたのです。しかし、今このナイフを見ると、まちがいであることが分かりました。あれはたしかに僕が持ち出したナイフじゃありません」
この新しい事実は、事件を一層不可解なものにした。今まで、大江黒潮を殺した犯人は、耕作が投げすてていったナイフを拾って、それを凶器として使用したものだとばかり信じられていた。しかし、今そうでないことが分かると、犯人はあらかじめナイフを用意していたことになるのだ。ということは、あの事件が一層計画的であったことを示すものではなかろうか。
犯人はあの仮想犯罪劇が始まる前から、こっそりと凶器を用意していたのだ。彼は――あるいは彼女は――決してその場にあり合わせたナイフを拾って、とっさのばあい凶器として利用したわけではないのだ。――耕作はそう考えると、その事実のあまりの恐ろしさに、思わず身震いをするのだった。
「しかし、するとこのナイフは今までどこにあったのだね。犯人がこっそり隠していたのだろうか」
警部はこの新事実の発見によって、解決の糸口が見いだされるどころか、一層事件が複雑になりそうなので、いらいらしながら、たたみかけるように訊ねた。
「それは――そこまでは僕にも分かりません。しかし、犯人は何も事件と関係のないこのナイフを隠す必要なんか、まったくなかったと思われますがね」
「しかし、ではこの謎をどう解くのだ。こいつのふいな出現――しかも、この恐ろしい第二の殺人に利用された経緯を君はどう解釈するのだ」
「僕には分かりません。僕はもう何が何やらさっぱりわけが分からなくなってしまいました」
耕作は叫ぶような口調で、早口にそう言いきると、もう一度この不思議なナイフに眼をやった。
いかにもそれは奇怪な因縁だった。
耕作はたった今の今まで、自分が持ち出したナイフが大江黒潮を殺したものだとばかり信じていた。ところが肝心の当のナイフは、その間どこかに身を隠して、静かに自分の登場すべき幕を待っていたのだ。そして今、人々のまちがいをあざけり顔に、皮肉に、物凄く登場した。それは第一の殺人には利用されなかったけれど、その代わり第二の殺人では見事にその役割を初めから承知していたようにさえ思えるのだった。
私服刑事が入ってきて、ようやく折江が意識を取りもどしたと告げたのはちょうどそのときだった。
「よし、じゃさっそくここへ呼んでくれたまえ。ちくしょう! もし、あの女に聞いても分からなかったら、今度はいよいよ非常手段だ!」
非常手段。――耕作にはその意味がよく分からなかった。しかし、警部のはち切れそうな憤懣《ふんまん》の色をみると、急にぞっとするような恐怖に打たれた。警部はきっと、今までのような手ぬるいやり方をしていたことを後悔しているに違いなかった。だから、事件が一層|紛糾《ふんきゆう》してきたばあい、彼が関係者全部に対して、一種の強硬手段をとるかも知れないということは、決して耕作の妄想ではなかった。彼はいよいよ自分たちが窮地に落ちてきたことをはっきりと知って、思わず低い呻き声を洩らしたのだった。
折江は真っ青な、引きつったような顔をして小屋の中へ入ってきた。彼女は篠崎の死体をみると、ぎょっとしたように、思わず入口の柱にすがりついたが、やがて静かに眼をそらせると、あとはしっかりとした歩調で小屋の中へ入ってきた。
「いかがですか、気分は――?」
警部はさすがに、いたいたしい彼女の様子をみると、今までの憤りも打ち忘れたように、いたわるようにそう言いながら、彼女に粗末な腰かけをすすめた。
「ええ、ありがとうございます。おかげさまでどうやら――」
折江は青い静脈の浮く細い手で静かに頬をなでながら答えた。
「それは結構でした。ではちょっとあなたにお訊ねしたいことがあるのですが、答えることができますね」
「ええ、どうぞ。知っていることでしたら、なんなりと――」
「実は、さっきのことをお訊ねする前に、一つ別なことがお訊ねしたいのです。実はいま妙なことが持ち上がりましてね」
「はあ」折江はぎくりとおびえたような眼をあげて警部の顔をみて、「妙なこととおっしゃいますのは――?」
「いや、別に恐ろしいことではないのですが、実はこのナイフです。このナイフに見覚えがございますか」
折江はちらとそのほうをみたが、すぐ眼をそらせて、
「存じております。宅のナイフに違いございません」
「ほほう。すると、やはりこのナイフは対になっていたのですね?」
「ええ、さようでございます。二挺で一対になっておりました」
「なるほど、ところがここに不思議なことがあるのですよ。実は今、由比君が発見したのですが、このナイフは先だって、由比君があのお芝居に使うためにお宅から持ち出したものに違いないというのです」
「はあ」
折江はまだそれが何を意味するのかよく分からないらしく、けげんそうな瞳で警部の顔を見ていた。
「そうすると、ことがこんがらがってくるのですよ。つまりわれわれは今まで、御主人は由比君の持ち出したナイフによって殺害されたということに決めていたのです。ところがあのナイフはいま警察に保管してあるのに、ここにまた別に、由比君の持ち出したナイフが現われたのです。したがって、御主人を殺したナイフは別のものであるということになってきます。つまり――」と警部はぐっとことばに力をこめて、「あの晩、由比君とは別に、お宅のナイフを持ち出した者があるのです」
「まあ!」折江はようやく意味が分かってきた。「それじゃあなたは、ナイフが二挺ともなくなっているのに、なぜ今まで気がつかなかったかとおっしゃるのでございますか?」
「そうです、それをお聞きしたいと思っていたのです」
折江はことばを捜すように、しばらく息をととのえていたが、やがて、低いながらもはっきりとした口調で、
「そのことなら、あたし気がついていたとも言えますし、ついていなかったとも申されます。はい、ナイフが二挺とも見えないのを、昨日でしたが、ちょっと不思議に思ったくらいですから」
「ほほう、ではなぜそのことを警察のほうへ知らせなかったのですか」
「でも」と折江は一層はっきりと、ことばに力をこめて、
「それがこんな恐ろしいことを意味しているとは思わなかったのですもの。良人《おつと》を殺したナイフは、たしかに由比さんが持ち出したものだと思っていましたし、もう一挺が見えなくても、それはどこかの棚のすみにでも隠されているのだろうぐらいに、深く捜しはしなかったのです。まさかこんなこととは夢にも知らなかったものでございますから――」
なるほど、そういえばそれも無理のないことだった。凶器の問題は一時ちゃんとけりがついていたのだ。だからそれと一対をなす別のナイフが見えないといって、折江がたいして気に止めもしなかったところで、それはとがめるほうが無理だった。要は、よくよく詮議しなかった警察の手落ちなのだから。
警部は困《こう》じはてたように、しきりと髭を噛んでいたが、
「いや、じゃこの問題はこれくらいで打ち切りましょう。それではさっきの事件ですが、それを詳しく話してください。あなたはその男を見たのでしょう。いったい犯人はだれですか?」
「いいえ」
ふいに折江は激しく身震いをした。そして、低い聞きとれないくらいの声で言った。
「あたし、存じません。ああ、恐ろしい、あたしにはよく分からないのです」
「なんですって!」警部がふいに声を高めて極めつけるように言った。「あなたは犯人を御覧になったはずだ。でなければ、あんなに悲鳴をあげて救いを求めるはずがないじゃありませんか。つまりそいつが篠崎氏を殺したのですよ。あなたは今となって、その人間をかばうつもりなんですか」
「いいえ」折江はごくりと息をのむと、ふいに眼を大きく見開いて、警部の顔を見た。「はい、あたしはその男を見ました。そして、そいつがあのナイフを持ってあたしを追っかけてくるのを見たのです。だけど、あたし、そいつの名前を知らないのです。はい、あたしのまったく知らない男だったのです」
「なんだって?」雷が落ちるように警部が叫んだ。「じゃ、われわれ関係者以外に、だれかこの塔のうえにいたというのですか?」
「そうなんですの!」
折江はそのときのことを思い出したらしく、思わず細い指で襟《えり》を掻き合わせながら、
「何もかも申し上げてしまいますわね。あたしはあなたに命令されましたとおり、ヴィナスの階段を登って、このあいだいた、つまり良人の殺されたときにいたと同じ地点で合図のピストルを待っていたのです。そのとき、あたしは何気なく体を伸ばして、ふと階段から外のほうをながめていましたの。すると、ふと、塔の中から、ええあたしのいるところから三間とは離れないところでした。そこに小さな窓があって、そこからひょいと恐ろしい顔がのぞいていたのです。それは、なんと申し上げていいか、実に恐ろしい、獣みたいな顔をした男なんです。あたしは急いで顔を引っ込めればよかったのですが、なんといいますか、エレキにでも引かれたと申しますか、どうしてもその男の顔から眼を離すことができませんでした。すると、そのうちに、ひょいとその男があたしのほうを見たのです。男はあたしの顔を見ると、ぎょっとしたようにあわてて首を引っ込めたのですが、それでも窓のすみからじっとこちらをながめています。あたし急に恐ろしくなって、眼をそらせると、その階段の側から離れました。そしてしばらくしてからも一度振り返ってみると、もうその男の姿は見えませんでした」
折江はそこまで話すと、ふとことばを切って急に恐ろしそうに激しく身震いをした。
「ふん、それでどうしたのですか。その男は――?」
「あたし、その男の姿が見えなくなったので、やっと安心してぶらぶらとその辺を歩いていたのです。すると、そのとき、背後のほうから、こっそり近寄ってくる跫音が聞こえました。何気なく振り返ってみると、どうでしょう、さっきの男なのです。あの恐ろしい男が、まるで猫のように跫音を殺しながらあたしのほうへ近づいて来るところでした。見ると手にはぎらぎらと光るナイフを持っているではありませんか。そのナイフを見るまでもなく、あたしは相手の凶暴な目つきによって、すぐ自分の危険をさとりました。この男は自分を殺そうとしているのだ。――そうだ、自分はこの男の姿を見てはならなかったのだ。この男はあたしに見られたことをおそれて、あたしを殺そうとしているのだ。――とっさのあいだにあたしはそう考えました。するとあまりの恐ろしさのために、体中の力が抜けてしまって、何かこう、宙に浮いているような気持ちでした。でも、相手がいよいよそのナイフを振り上げた刹那、はっとすると同時に急に勇気が出てきたのです。あたしは悲鳴と同時に救いを求めながら男の腕の下をすり抜けると、一散にその場から逃げ出したのでございます」
「なるほど、それで――」
警部は深い興味をもよおしたらしく、大急ぎであとをうながした。
「その後のことはもう一切無我夢中でした。だれかが背後からあたしの名を呼んでいるような気もしましたけれど、恐ろしくて振り返る気にもなれません。今にもあの恐ろしい男の手が襟首へとどきはしないだろうか。今にもあのナイフが頭上に降りかかってくるのではなかろうか。――そのときのあたしの気持ちはそうした恐怖でいっぱいだったのです。間もなくあたしは由比さんの声を聞いたような気がしました。と、ふいに張りつめた気がゆるんでそのまま気を失ってしまったのでした」
折江は語り終わると、ほっと深い溜め息をついて、ぐったりと肩を落とした。あの恐ろしい出来事が、まだ覚めやらぬ悪夢のように、彼女の魂を脅やかしているらしかった。
「それじゃあなたは、篠崎氏があとから追っかけて来られたことを、まったく御存じじゃなかったのですか」
「はい、存じませんでした。何しろ夢中だったものですから、あたしの名を呼んでいるのがだれだったか、そんなことを考えるひまもなかったのです」
「いやごもっともです」警部はそう言ったが、ふいに声を落として、
「すると、篠崎氏はあなたを救おうとして、かえってそいつのために殺されたことになるのですね」
「もし、そうだったら」と折江は激しく身震いをしながら、
「あたし、こんなお気の毒なことはないと存じますわ」
しばらく沈黙がつづいた。居合わせた人々はみんな、折江のこの奇怪な物語をいったいどう解釈していいのかちょっと判断に迷ったかたちだった。だが、そのときふいに横から由比耕作がこう口を出したのである。
「奥さん、その男はもしや四本指の男ではなかったですか?」
「ええ?」
折江はそのふいの質問に、ちょっとどぎまぎしたように耕作のほうを振り返った。
「さあ、――どうでしたかしら。あたし、そこまでは気がつきませんでしたけれど」
「君、その四本指の男というのは何だね。君は何か、そんな心当たりがあるのかね」
「いや、実は――」と耕作はさっと顔を赤らめながら、
「僕も実は、この塔のうえで、いま奥さんのおっしゃったような男に会ったことがあるのです。そして、そいつの手には指が四本しかないのを見たものですから」
「ほほう、それはいったいいつのことだね。君はなぜまた、今までそのことを黙っていたのだ」
警部はふいに怪しむように耕作の顔をのぞき込んだ。耕作はいよいよ狼狽しながら、
「それが、その――あまり奇妙なばあいで、僕も実はほんとうだか幻だかよく分からなかったのですよ。それで一応僕自身でよく探偵したうえでお知らせしようと思っていたのですが」
「まあ、いい、そういう弁解はあとできくとして、いったいそれはいつのことなのだ」
耕作はそこではじめて、大江黒潮の死体を発見したときに、霧の中に現われた不思議な四本指の男のことを話した。警部はそれをきくと、まるで噛みつきそうな調子でどなりつけた。
「なんだ! 君はそんな重大なことを今まで隠していたのか。事件直後、被害者の死体の側にいたという男を、君はそんなに軽々しく見逃していいと思うのか」
「いや、それが、まったく、夢みたいな話でして――自分でも事実かどうかはっきりしなかったのです。それでいずれもう一度よくつきとめて――」
「よしたまえ。そんなでたらめをきいているばあいじゃない。君はあとでもう一度よく取り調べるから、そのつもりでいてくれたまえ。けしからん。まだどんなことを隠しているか知れたものじゃない」
もしこのとき、あの世にも恐ろしい出来事が突発しなかったら、耕作はまだこのうえ、どんなに油を絞られたか知れたものではなかった。
警部が小言の百万遍をならべているときである。
ふいに頭上から、恐ろしい女の悲鳴が降ってきたのだった。
三
警部も、折江も、耕作も、新聞記者の南条も、その悲鳴をきいた刹那、思わず体を石のようにこわばらせて上を見上げた。
「なんだい? ありゃ――」
しばらくしてやっと南条がそう言いかけたとき、その口を覆うように、再び同じ悲鳴が同じ方向から降ってきた。今にも絶え入りそうな、恐ろしい、断末魔にも似た悲鳴だった。
「京子さんだ!」
突然耕作が叫んだ。
「京子さんがあの怪物にやられているのだ!」
耕作はそういう叫びとともに小屋から飛び出していた。それに続いて、他の人たちもばらばらと飛び出してきた。みると小屋の外には、白井や岡田や中西が刑事たちと一団となって、凝結したように瞳をうえに投げていた。
底の深いすりばちを伏せたようなこの塔の上部は、すっかりやみのなかに溶け込んで、そこにどんなに恐ろしいことが起こっているのか、とても下からはうかがい知ることができなかった。
しかし、何か恐ろしいことが、またもや人の生命をそこなうようなことが、そこに起こりつつあることだけは、彼の胸にも感知することができた。
「京子さんが――」ふいに折江が啜り泣くような声で言った。
「京子さんがあの怪物にやられているのですわ。ああ、恐ろしい、早く行ってあげなければ殺されてしまうかも分かりませんわ!」
そのことばにはじめて一同は、はっとわれに返った。
「よし、みんなで手分けして行こうじゃないか」
一番にそう言ったのは、信之助だった。唇まで真っ青になった。彼の顔は地獄の猛火に焚《た》かれるように、激しい苦悶《くもん》で歪《ゆが》んでいるのだった。そのときまたもや京子の悲鳴が聞こえた。しかし、今度のは以前よりよほど気力に満ちていた。しかも、その悲鳴に続いて、どたどたと階段を揺する激しい跫音が聞こえたのだ。
「ああ、まだ生きている! 助けるのなら今のうちだ!」
とっさのうちにおのおの登って行くべき部署が定められた。そしていちばん危険な塔の内部の階段からは、警部をはじめ屈強の刑事二人、それに信之助と白井三郎が加わった。一方南条、岡田、耕作、それに残りの刑事たちはばらばらと塔の外へ飛び出すと、思い思いに七つの階段を登りはじめた。
それはまるで映画の大捕物のばあいにでもありそうな光景だった。日はすっかりと暮れ果てて、あわただしく行き交う雲の裏側を、満月に近い月が滑るように走っていた。その下にこの呪われた塔が、まるで怪物のごとく、無気味に黒々とそそり立っている。耕作は夢中になって階段をのぼって行くうちに、今にも息が切れそうな咽喉の乾きを覚えてきた。前方を見ると、南条のがっちりとした体が、いかにも敏捷な新聞記者らしく、鞠《まり》のように弾みながら走っていた。
突然どこかで激しく怒号するような声が聞こえた。それは塔の内部で警部たちが叫んでいるものらしく、妙にこもった、底響きのする声だった。それに続いて、またもや京子の声が聞こえた。それは救いの手が近づいてきたのに、勇気を得たのか、前よりは一層はっきりとした声だったが、その中にこもっている耐えがたい恐怖の音色は聞くものをぞっとさせた。ふいに南条が上のほうを指さしながら、あすこだ、あすこだと叫ぶのが聞こえた。
その声に振り仰いでみると、今しも塔の内部からはい出した京子が、気狂いのように手を振りながら走っているのが見えた。と、すぐその後から二人の男がとっ組み合いしながら、これも気狂いのように塔の内部から出てきた。
「弥吉! 弥吉!」
とっ組み合いをしている一人がそう叫んだ。その声によって、それが塔の番人権九郎じいやであることが分かった。
「弥吉! 弥吉! よさんか、こら!」
権九郎じいやの必死の声が聞こえた。しかし、死に物狂いになっている相手には一向その声が耳に入らなかったとみえて、何かしら獣のような唸り声をあげていた。南条と耕作の二人はようやく階段の中ほどまで登って来た。もうその辺からは側の目隠し塀にさえぎられて上を見ることはできなかった。耕作の胸は半鐘《はんしよう》のように激しく鳴っている。彼はふと、いったい何度こういう経験をすることだろうと思った。
たった一時間ばかり前にも、彼はこんな思いをしながら、この階段の一部を駆けずり回っていたのだ。そのときにも、彼の目と鼻の先で殺人が行なわれようとしていた。いや、実際に行なわれてしまったのだ。そして今また彼は、同じようなスリリングな気持ちを味わいながら、同じ階段の一部をこうして駆けのぼっている!
再び三度、京子の悲鳴が迷路のどこかで聞こえた。それに混じって権九郎じいやの怒号する声と、あの怪物の唸り声が、だんだん間近に迫ってきた。
もうすぐだ。もう二、三分で京子を救うことができる。それにしても警部たちはいったい何をしているのだろう――
耕作はこのときほど、人間の足ののろさと、この曲がりくねった階段を呪わしく思ったことはなかった。いつの間にやら南条は、耕作とはまったく別の道をとったとみえて、見回すとあたりには彼一人しかいなかった。しかし、不思議にそのとき彼は、なんの恐怖も、なんの不安も感じなかった。まるで機械のように階段を登りつづけているのだった。
ふと彼は広いテラスのようなところへ出た。そこで息を入れながら何気なく彼は前方を見た。と、そこには世にも恐ろしい光景が展開しているのだった。彼のいるテラスから十間ほど離れた向こうに、同じようなテラスが突き出していた。京子はいまそのテラスのいちばん端に立っているのだった。恐怖のために彼女は、もはや声も出ないらしく、まるで石になった佐保姫のように、じっと立ちすくんでいた。そういう彼女から二間とは離れていないところに、あの恐ろしい怪物が、まるで餌食《えじき》にとびかかる猛獣のような格好で、肩を落とし、股を踏ん張っているのが見えた。
「京子さん! 京子さん!」
耕作は思わず気狂いのように声をかけた。そして二つのテラスを距てている十数間の空間を絶望的な眼で測量していた。
京子にはしかし、その声が聞こえたのか、聞こえないのか、依然として塑像《そぞう》のように身動きもしなかった。ふいに、猛獣がさっと背を丸めると、京子のほうへ熊のように躍りかかるのが見えた。そのとたん、京子の体がさっと宙にういた。と思うと、テラスの手すりを踏み越えた彼女の姿が、白い線をつくるとどっと地上に落ちて行くのが見えた。
耕作は思わず、体中の血が凍えるような恐怖を感じて眼を閉じた。しかし、すぐにそれを開くと急いで自分も手すりの側によって下をのぞいてみた。ところが、なんという奇跡だろう。京子が飛んだテラスの下には、ちょうどあの風車のような観覧車が待っていたのだった。どたりと落ちて来た京子の重みで、あの壊れかかった観覧車がぐるりと大きく一回転するのが見えた。そして、京子の乗っていた車が地上とすれすれになったとき、彼女の体は再びその車からどさりと投げ出されたのだった。
「助かった!――いや、助かったかも知れないぞ」
耕作は何か、神に祈りたいような気持ちで、しばらく、真っ暗な地上をじっとながめていたが、やがてふとさっきのテラスに眼をやると、そこにはまたしても恐ろしい事件が進行していた。
それはあの怪物と権九郎じいやだった。二人はしばらく無言のまま激しくもみ合っていたが、ふいに怪物の太い二本の腕が、ぎゅっと権九郎じいやの咽喉を絞めるのが見えた。
「うわ!」
そういう、押しひしがれたような悲鳴が無気味に風を渡って聞こえてきた。それにつづいて、権九郎じいやの全身から、吸いとられるように力の抜けていくのがはっきりと感じられた。
耕作はもう、何を考えることも、何をする勇気もなく、まるで白痴のように、この恐ろしい殺人幻燈を、まじまじと見守っていた。怪物は倒れかかった権九郎じいやの首玉をつかまえたまま、気狂いのようにぐいぐいと絞めつけていたが、そのとき、ようやく警部たちがこのテラスへ駆けつけたのだった。
さすがの警部も、あまり物凄いこの場の有様に、思わずぞっとして二、三歩後ろへ退いた。と、そのとたん、怪物は奇妙な唸り声とともに、権九郎じいやの体を鞠《まり》のように軽々と投げつけておいて、さっとテラスから身を翻してとんだ。
真っ黒な肉塊が、地上百数十フィートの塔のうえから、弧を描いて高原の草のうえに落ちて行くのが見えた。むろん、そのまま落ちてしまったのでは助かりっこのないことは分かりきっていた。
耕作はぎゃっ[#「ぎゃっ」に傍点]というような怪物の唸り声が、はるか下の暗やみの中から聞こえたとたん、気が遠くなったように手すりを握りしめたまましばらく呆然と突っ立っていた。
[#改ページ]
[#小見出し] 東京へ
一
相つづいて起こったあの恐ろしい一夜の経験は、大江黒潮の宅に罐詰にされていた人々を、すっかり気狂いにしてしまったようだった。
折江と京子の二人は、あの怪物の物凄い記憶から、しばらくほんとうに気が狂ったのではないかと、傍の人々を心配させたほどだった。
二人ともあの晩、別荘へ担いで帰られると、そのまま高い熱を出して絶えずうわ言を言いつづけていた。
ことに京子にはそれがひどかった。彼女はあの観覧車のおかげで、危うく生命はとりとめたようなものの、テラスから飛び降りた瞬間から、すでに彼女は正気ではなかったのだった。それにかなり大きな打撲傷をうけていたので、精神的にも肉体的にも、彼女はまったく傷ついていた。
折江は折江で、彼女はあの怪物が塔のうえから飛び降りたところを下で見ていたのだが、彼の体が自分の眼前数尺のところで、花火のように飛散するのを見たとき、そのまま頭が変になって気を失ってしまったのだった。
無理もない。
あとになって発見された怪物の死体は、それこそ眼も当てられないくらい凄惨《せいさん》なものだった。それはもはや、一個の肉体というよりも、どろどろになった血と肉と骨の破片であるといったほうがよかった。だれでもそれを見た者は、一度はうわっと嘔吐《おうと》をもよおさないものはなかった。物慣れたはずの警部でさえが、この死体を二度と正面から見ようとはしなかったくらいだ。それにしてもわずかの間に三人の男の横死《おうし》は、軽井沢中を熱病のように揺るがさずにはおかなかった。
篠崎宏の奇怪な惨殺、それにつづいて起こった権九郎じいやの死、さらにまたこの怪物の無残絵のような死に方――こうしたうわさが軽井沢中に広がったとき、だれもかれも魅かれたように不安な顔を見合わせ、さらにまた奇怪なうわさをばらまいていた。
彼らの口から口へ伝えていったうわさというのは、例によって大江黒潮のグループに対する憎悪だった。あの連中が滞在しているあいだは、まだまだどんなことが起こるかも知れたものじゃない。あいつらこそ、この町に疫病《えきびよう》をまき散らしにきた人間どもなのだ。――そんなうわさが正直な田舎の人々のあいだにまじめに信じられ、話されていた。
もし警察によって発表されたあの事件の真相というのが、もう少し遅れたら、だから、大江黒潮の別荘に滞在していた人々は、町の人からどんな迫害を被っていたか知れないくらいだった。実際、黒潮の別荘を焼き打ちにしようという計画が、真剣に討議されていたことが分かったのは、それから間もなくのことだったのである。
しかし、それはすべて後のこと。
その夜は、三つの死体を警察へ収容すると、再び耕作たちのグループは大江黒潮の別荘に罐詰にされてしまった。しかも、そこに残された人々にとって、こんなにやるせなく、はかない数日はなかった。女中は打ち続く事件に怯《おび》えて逃げてしまったし、町の人々はもはやだれ一人この別荘に近寄るものはなかった。実際、警察の注意がなかったら、彼らはその日の食料品の買い入れにも不自由したかも知れないのだ。それまで出入していた御用聞きも、その後ぴったりと足踏みもしなくなったし、こちらから買い物に行ってもだれも快い顔をする者はなかった。
しかも炊事をすべき二人の女は、あれっきり寝込んでしまったので、今では耕作、岡田、信之助、白井三郎の四人が代わる代わる不自由な飯たきをしなければならなかった。幸い、学生の信之助は登山生活などで割合こんなことに慣れていたのと、根が器用な性質とみえて、たいていのことはこの男が片付けてくれた。
しかし、考えてみると、わずかのあいだに、この別荘もなんという変わりかただったろう。あの仮想犯罪劇に出発したときには、一行は全部で九人いたはずなのだ。それが、二人は殺され、二人は傷つき、いま一人は行方をくらまして、今では無事に語り合えるものは半数にも足らぬ四人しかないのだ。
しかも、その四人とて決して以前のごとく元気であるとはいえなかった。むろん、床にこそついてはいなかったが、だれもかれも半病人である点は変わりなかった。四人の男が、一日中顔をつき合わせながら、口も利かないということも珍しいことではなかった。この中で、しかしいちばん幸福だったのはまだしも耕作だった。なぜならば彼のもとへは毎日のように南条が訪ねてきては、元気よく慰めてくれたし、ときには警察方面の情報をもたらしてくれたりした。
「おい、由比君、もう心配することはないよ」
ある日訪ねてきた南条は、日にやけた顔に明るい微笑を浮かべながら耕作の肩をたたいた。
「ひょっとすると、君たちはここ二、三日のうちに解放されるかも知れないぜ」
「え? どうしてだね?」耕作は驚いて相手の顔を見ながら、
「じゃ、事件の解決がついたのかい?」
「うん、どうやらそうらしい。まだひどく秘密にしているので詳しいことは分からないが、どうやら目鼻がついたらしい口吻《こうふん》だぜ。今日も心安い刑事にきいたのだが、近々君たちを解放するというような話だった」
「ほほう、それじゃ、やっぱりあの怪物が犯人だったのかね」
二人は草のうえに寝そべりながら話していた。深い、露を帯びた草の中では、すっかり秋を思わせる虫が鳴いていた。
「どうもそうらしいな。何しろ死んでしまったのだからよく分からないが、警察ではそういう方針でこのあいだからあの怪物の正体を洗うために、必死になっていたようだが、どうやらそれが分かったらしいな」
「いったい、ありゃなんだい? 実際もの凄い奴だったね」
「うん、おれもあの権九郎じいさんが絞め殺されるときの悲鳴を思い出すとぞっとするね」
南条はさすがにわびしげな顔をして、はるか彼方の丘の上にそそり立っているバベルの塔を見上げたが、ふと思い出したように、
「そうそう、あれを見て思い出したが、あいつをいよいよ取りこわしにかかるそうだぜ」
「ふうん、あれをこわしてしまうのかなあ」
耕作は何かしら感慨をこめた声で言った。
「そうさ。あんな縁起でもない塔は一日も早くぶっこわしたほうがいいのだ。実際あれは呪われた塔だからね」
耕作は草のうえに膝を抱いたまま、じっとその塔を見上げていた。すると思いがけなく眼頭が熱くなってくるのを感じて、急いで横を向いてしまった。しかし、このときの彼の感情を一概に非難してしまうのは当たらないと思う。
わずか数日のあいだにあんなに数々の恐ろしい経験を人々に強いたあの塔は、それだけに今では、その冒険を頒《わか》った者には一種の魅力をもっているのだ。
大江黒潮の死――篠崎宏の死、そしてあの塔の番人と怪物の死――それらの秘密はあの塔のみが知っているのではなかろうか。警察ではどんな風に解決したか知れないが、あの不可思議な迷路に含まれた謎が、そうやすやすと解かれようとは思えなかった。もしあの塔がこわされたら、そのときこそはそれらの秘密の数々は、永遠に葬られていくのではなかろうか。
「おいおい、いやにセンチになりやがったぜ。ばかだね。あんな塔のことより君たちは自分のことをもっとよく考えなきゃならんときじゃないか」
南条が傍からからかうように言った。そしてそれはまことにもっともな意見だった。
そろそろ涼風の立ちはじめたこの軽井沢には日一日と避暑客の姿が減りつつあった。そして取り残された彼らのグループのみが、いつ解放されるとも知らぬこの別荘に、まるで俊寛《しゆんかん》みたいに物憂いその日その日を送っているのだった。
バベルの塔なんか西の海へ流してしまえ。そしてわれわれは一日も早く東京へ帰る用意をしなければならないのだ。
東京へ! 東京へ!
耕作はふいに希望を感じて草の上に起き直ったのだった。
二
南条のことばはうそではなかった。
それから二、三日後彼らはもう一度形式的な訊問を受けた後、いよいよ解放されることになった。ちょうどそのころには、幸い、折江も京子も、ようやく訊問に答えられるくらいに元気を回復していた。
京子のそのときの話というのはちょっと興味があるからここに記しておこう。
「――私あのとき――篠崎さんが殺されなすったときのことです――やはり折江さんの悲鳴をききつけて、あの階段の中をうろうろと歩き回っていたのです。するとそのとき、塔の外廓から大急ぎで内部へ入って行く男の後ろ姿が眼につきました。それを見ると私は思わずはっといたしました。なぜといって、それは大江黒潮さんが殺されなすったとき、その死骸の側でみた四本指の男の形にひどく似ていると思ったからなのです。そこで、よせばよいのに私は、そっとその男の後から塔の内部へ潜り込んでいったのです。いったいどこにあいつは隠れているのだろう。――一つその隠れ家を見つけてやろう――そういう気持ちだったのです。男はひどくあわてていたとみえて、私が後ろから見ているのにも気が付かないで、あの塔の内部のいちばん上にある、舞台のような板場――その板場をはって行きましたが間もなくその姿はどこかへ見えなくなってしまったのです。おや、いったい、どこへ隠れたのだろう。私は不思議に思って、跫音を殺しながら、そっとその場所まで近寄って行きました。そしてしばらくあたりを見回しているうちに、ふと気がついたのですが、あの舞台は塔の内部いっぱいに張ってあるのではなくて、ある部分だけは塔の内側と接していないところがあります。つまり塔の壁と、舞台のあいだに幅二間、長さ十間くらいの空間があるのです。だからうっかりそちらへ歩いて行くと、暗やみなどでは足を踏み外して、踏み外したが最後、あの高い塔のことですから生命はありません。そこで、だれもなるべくならそのほうへは近寄らないようにしているのですが、その男の隠れているのはその空間の天井裏だったのです。だれも気がつきませんでしたが、あの天井は二重になっているらしく、しかもそれが舞台の端では床とすれすれくらいに下がっておりますので、ちょっとした危険を覚悟しさえすれば、だれでもその天井にはい込むことができるのです。しかも、だれだってそんな危険な場所に人間が隠れていようとは思いませんから、それこそ最も安全な隠れ家だったともいえるのです。私はその発見にたいそう満足して引き返そうといたしました。するとそのとき、下からだれか上がってくる跫音とともに、『弥吉! 弥吉!』とあたりをはばかるような声が聞こえたのです。私ははっとして、急いで暗やみの中に身をかくしましたが、急にまたむらむらと好奇心がわき起こってきて、いったい、だれだろう、弥吉とはさっきの男のことだろうか。もし、そうだとすればいま上がってくる男は何者だろう、――とそう考えると、もはやそのままではどうしても立ち去る気がいたしませんでした。そこで最後までよくよく見届けてやろうという気になったのでした」
「――やがて舞台の下から跳ね蓋をあげる者があって、そこからぬっと一人の男が首を出しました。私はそれを見るともう一度はっとつばをのみ込んだのです。たしかにそれは塔の番人権九郎じいやでした。じいやはしばらくあたりの様子をうかがっていましたが、やがてまた、『弥吉! 弥吉!』と低い声で呼ぶのです。すると、天井裏から、『おお』という返事が聞こえましたが、それを聞くと権九郎じいやも、のろのろ同じ穴にはい込んで行ったのです。私はまた、そろそろと暗やみの中からはい出すと、彼らの会話の聞こえるところまではって行きました。そのとき、聞いた会話はおよそ次のようなものでございました。
『弥吉、お願いだから、お前一刻も早くここを抜け出してくれ』
『叔父貴、手前《てめえ》、おれにここを抜け出せといって、じゃおれを見殺しにする気か』
『そうじゃねえが、こうお上の眼が厳しくちゃ、かえってお前の不為《ふため》だろうぜ。なあ、弥吉、それに今日もまた人殺しがあったのだよ』
『そんなことおれが知ったことか、おい、叔父貴、よく聞いてくんなよ。おれは今度捕まったが最後、どうでも死刑をまぬがれねえ人間だ。おりゃまだ死にたかあねえから、ほとぼりのさめるまでここにかくまってもらうつもりさ』
『だってそれじゃおれが困る。もしやこんなことが旦那がたに分かったら――』
『よしやがれ! だから叔父貴は黙っておれの言うとおりにしてりゃいいのさ。そのうちにはまたいい目も出るというもんだぜ』
――およそ、そんな意味でございましたろうか。これを聞いているうちに私は急に恐ろしくなってきたのでございます。言葉の様子からみて、男がいかに凶暴であるか、そして死に物狂いでここに隠れているかということが分かってきたからです。私は二人に気取られないうちに、こっそりそこを立ち去ろうとしたのでございます。しかし、そのとき私は大変まずいことをいたしました。あまりあわてていたために場所も考えずにいきなり立ち上がったのです。前にも申しましたように、そこは中二階みたいに端になるほど天井が低くなっているのですから、その拍子に私の頭が天井につかえたのでした。怯えきっている上の二人にはこれだけで十分でした。次の瞬間私は、あの凶暴な男の、たくましい二本の腕がしっかり私の咽喉をつかんでいるのに気がつきました。そのときもし、権九郎じいやが妨げてくれなかったら、私は、あのまま絞め殺されていたのに違いないのです。それからあとのことはみなさまも御承知のとおりですが、ほんとうをいうと、かえって私自身は、それ以後のことはよく覚えていないのでございます」
京子の陳述というのはおよそ以上のごときものだった。
そしてこの陳述がまた、警察のそれまでの意見とぴったりと一致したのだった。
後になって発表されたところによると、あの怪物というのは前科数犯の殺人強盗犯人だったのだ。しかも最後の事件において彼は二十年の刑期を申し渡されていたのだが、二ヵ月ほど以前に、刑務所を破って、それきり姿を隠していたお尋ね者だった。しかもその脱獄に際して、彼は二人の看守を殴り殺していたから、今度捕えられたが最後、どう酌量《しやくりよう》しても死刑は免れないところだった。
通称ガラガラ蛇の弥吉といって生国《しようごく》不明だったが、それが権九郎じいやの甥《おい》であることが分かったのは、むしろ京子の陳述を聞いて後のことだった。警察ではその前からあの特徴のある死体の四本指によってお尋ね者の弥吉だと目星をつけたのだったが、思うに彼は、野越え山越え警察の目をしのびながらこの軽井沢へ逃げ込み、そこで叔父の権九郎を脅迫して、バベルの塔の中に隠れていたものだろう。
彼にとっては人に見られるということが、すでにどちらかの死を意味していた。相手を殺さなければ、自分が死刑になるのだ、そういうばあい、彼のような凶暴な半生を送ってきた者には、自分を護るために人を殺すくらい何でもないことに違いなかった。
つまり大江黒潮も篠崎宏も、折江も京子もみんなその不幸な偶然に災いされたのだ。そして後の二人は幸いにも毒手からまぬがれることができたが、前の二人は不幸にして相手の生命と引き替えに自分の生命を殺してしまったのだ。
――と、こういうのが警察の発表だった。警察でも果たしてこの解決で事実満足していたのかどうか知らないが、表面だけは至極つじつまのあった解釈だった。それに相手はどうせ前科数犯という悪党だったし、すでに死んでいることだから、今更殺人事件の二つや三つ責を負わせてもどこからも苦情が出るとは思われなかった。まったく、この男の出現は警察にとってはこの上もない救いの神だった。いささか持てあまし気味だった大江黒潮殺人事件も、何もかもこの男に押しつけることによってすっかりかたがついたのだ。
しかし読者諸君はよく知っていられるはずだ。
探偵小説の性質として、こんな思いがけない人間が犯人であってはならないということを。――
そうだ、大江黒潮を殺した人間は別にある。そいつはまだ青天白日のままこの人生を闊歩《かつぽ》しているのだ。謎はまだ今後に残されている。筆者はその謎が解けるまでこの物語を続けなければならないのである。
三
由比耕作と折江がいよいよ軽井沢を発つと決まった日は、朝から冷たい雨が降っていた。
警察から解放許可が下りると同時に、大江黒潮の別荘に罐詰にされていた人々は、われがちにと東京へ発ってしまって、結局この二人がいちばん最後まで取り残されたのだった。
折江は家の後片付けやら、良人の遺骨のことやらで、ほかの人のように気軽に発つわけにはいかなかった。しかも良人に死なれた今となっては、何から何まで全部彼女の手で始末をつけなければならなかった。見るに見かねて由比耕作は、自分からすすんでそのお手伝いに残ったのである。
もっとも、黒潮の別荘に逗留していた人々の中では、耕作がいちばん親しい仲だったし、順序からいってもそれは当然だった。
「おかげさまで助かりましたわ」
すっかり諸雑費の払いから、近所へのあいさつから、荷造りまで終わって今はもう、駅前の運送屋がやってくるのを待つばかりになったとき、折江ははじめて、ぐったりとしたように、荷造りされた荷物のあいだに横坐りになりながら、縁側で膝小僧を抱いている耕作の顔をしげしげ振り仰いだ。
「いいえ」耕作はワイシャツのままたばこに火をつけながら、
「あいにくの雨で、――」
「ほんとに、あなたは随分雨に縁があったわね」
「そうですな。僕が来てからお天気の日が何日あったかしら」
「ほほほほほ、まさか、それほどでもないでしょうけれど。――」
折江は立ち上がって縁側へくると外をながめた。細い雨にたたかれている庭はもうすっかり秋で、こんな時候まで滞在をのばさなければならなかったところに、この避暑生活がいかに変調だったかということを、しみじみと感じさせられた。
「おや、いよいよ塔をこわしはじめましたのね」
「ええ、僕もさっきから見ているのです。この雨にもかかわらず熱心なものですね」
二人は、何か、冷たいものを胸先に当てられたようなわびしさを感じていた。
しばらく、耕作は無言のままたばこを吹かせていたが、何を思ったのかふと折江の白い横顔を振り返った。
「僕このあいだから奥さんに聞こう聞こうと思っていたことがあるんですがね」
「あら、何?」
ちょっとぼんやりとしていた折江は驚いたように黒い瞳をみはった。
「いいえ、なに、大したことではないのですけれどね」
「だからよ、どんなことなの? やっぱりあれに関係のあること?」
「ええ」
折江はちょっといやな顔をした。そして縁側から離れると、座敷の中へ入って行ったが、やがてその真ん中にきちんと坐ると、耕作のほうをまじめに見た。
「どんなことなの? あたし、自分で知っていることならなんでもお答えするわ」
「ほかでもないのですがね」耕作は言いにくそうに、
「奥さんはいったいあの塔のだれと通信していたんですか?」
「まあ!」
ふいに折江の顔がぎゅっと険しくなった。彼女は二、三度大きく呼吸をうちへ吸いこむと、猫のように眼を細めて、じっと耕作の横顔を見つめていたが、ふいにぐったりと肩を落とすと、呟くような声でいった。
「あなた、御存じでしたの、あれ?」
「ええ、知っていました」
「知っていて、このあいだ、警察の取り調べのときにはおっしゃらなかったのね」
「そんなこと、言ったって仕方がありませんものね」
「それもそうだけど」折江は何か思案するように、
「そうね、結局同じことね。あの男は死んでしまったのですからね」
「あの男って? やはり弥吉とかいったあの怪物ですか?」
「ええ」
折江は眼を伏せて膝をいじくっていた。
「奥さん、じゃ、あなたは――?」
「ええ、あの男を知っていたのよ。あの男が死んだ晩より、もっと前から」
耕作は不思議な惑乱を感じた。
折江がハンカチで通信をしていた人物はあの塔の怪人だったのか。だが、それにしてはつじつまがあわぬではないか。彼女はでは、なぜあの男の姿をみて、あんなにも死に物狂いになって逃げていたのだろうか。――耕作はふいと起こった疑念に、顔を真っ青にこわばらせながら、じっと折江の横顔を見つめた。
「そんなこと話しても、だれも信じてくれないかも知れないわ、でも、これはほんとうのことなの、あたしが、あの男をはじめて見たのは、良人が殺された日の午後、――あなたも覚えているでしょう、あの午後、あたしは篠崎さんの映画のエキストラに出たでしょう、あのときなの」
「ほほう、すると大江さんの殺されるより前のことなんですね」
「そうなのよ」
折江は眼を伏せると心持ち肩をふるわせた。
「そして、あたしは、あの男の姿を見たばかりに、毎日、ああしてハンカチを振って塔へ合図をしなければならなくなったの」
「いったい、それはどういう意味ですか。もっとはっきりおっしゃってください」
「ええ、お話しするわ」
ふいに折江は吐き捨てるような調子でいった。その様子には何かしら反抗するような険しい、しかしいたいたしいかげがあった。
「あの日ね、あたしたちはバベルの塔を背景にロケーションをしたのよ。しかし、あなたも御存じのように、あたしはどうせエキストラでしょう、出る場面て、ほんの二、三カットしかないの。あとはみんな岡田さんと京子さんのラブシーンでしたわ。だから、勢いあたしは暇なもんですから、なんの気もなく、一人であのバベルの塔をぶらぶらと登って行ったの。みんなは下で撮影に夢中になっていたから、だれも気付かなかったし、もっとも気付いたところで、あんな恐ろしい男が塔の頂辺にいるとは思わないから、止めもしなかったでしょうけれど、ともかく、あたしとうとうあの頂上まで登ってしまったのよ。そして何気なくあたりを見回しているうちに、ふと、あの男の姿を見つけてしまったの。そこで――そこでどんなことが起こったかお分かりでしょう」
折江はそこまで話すと、ふいにきっと唇を噛んでうつむいてしまった。耕作はもどかしそうに、
「どうしたのですか、あの男が何か難題を吹っかけたのですか?」
折江はちょっとびっくりしたような眼をあげて耕作をみたが、
「ええ、そうなの。つまりあたしの生命を助けてやる代わりに、このことをだれにもしゃべってはならない。そして、近々にここを高飛びするつもりだから、金をくれろというのです。むろんそのときあたしお金なんか持ってやしなかったから、あとで届けるというと、男はまたあたしの頸を絞めようとするの。でも、どうやらあたしが助かったというのは、そのとき権九郎じいやが来てくれたからなのよ。権九郎じいやは一方であの怪物をすかしなだめながら、一方ではまた、それはそれは恐ろしい顔をしてあたしを脅迫するのよ。もし、このことを一言でもしゃべったら、自分がそのままではおかない、むろんおまえさんがしゃべればこの男は警官に捕えられるだろう。しかし、あとに残った自分が必ず復讐をするからそのつもりでいろと言うの。あたし二人から脅迫されてすっかり震えあがったのよ。そしてなんでもいいから、一時も早くその場を逃れたいという一心で、とうとう約束してしまったの。そしてやっと帰してもらうことができたのよ」
「なるほど、それであの塔との合図は、あれはいったいどういう意味だったのですか」
「あれはね、つまり彼らが塔のうえから合図をしたばあい、すぐにこちらからそれに応じなければ、権九郎じいやが様子を探りに来るのだわ。つまりあたしを一刻もこの家から出すまいという彼らの計画だったの」
耕作はこうして一部始終の話をきいているものの、まだそこに、何かしら腑に落ちかねたものがあった。なるほど、折江の話はいかにもつじつまがあっている。しかし、ただそれだけのことだろうか。その話の奥に、何かもう一つ恐ろしい、ぞっとするような秘密が存在しているのではないだろうか。――
「しかし」
とそこで耕作は思うままを言った。
「奥さんはなぜそのことをわれわれに打ち明けてくださらなかったのです。そうすれば、あの怪物とじいやと、二人とも同時に捕えてしまうことができたかも知れないじゃありませんか。そうすれば、彼らの復讐を恐れることは少しもなかったはずですのに」
折江はそれに対して何も答えなかった。顔色はいよいよ青ざめて、きっと噛みしめた唇のはしが微かにピクピクと痙攣《けいれん》している。耕作はそれを見ているうちに、何かしら、漠然とした恐怖を感じてきた。
「それとも、あなたは何か、しゃべってはならない弱点を彼らに握られてでもいたのですか」
そのとたん、折江は氷のように冷たい眼をあげてきっと耕作の顔をながめた。ふいにその眼からガラス玉のような涙があふれて頬を伝いはじめた。
「由比さん! あなたは随分ひどい方ね」折江はそこで両方の袂をしっかと顔に当てた。
「あたし――あたしにいちばん最後のことまで言えとおっしゃるの? いや、いや、あたしどんなに悪く思われても、そればかりは言えないわ。あたし、そんな恥ずかしいことをみんなに知られるくらいなら、いっそ死んだ方がましだわ。いや、いや、あたし――」
折江は畳の上に顔を伏せると、全身をあらしのように震わせて泣き入った。耕作はこのヒステリックな相手の様子をぼんやりとながめているうちに、ふいに、ある恐ろしい考えがさっと稲妻のように頭の中へ飛び込んできた。
「奥さん! じゃ、あなたは――あの男に」
そう言いかけた彼の眼のまえには、京子を追い駆けまわしていたあの怪物の、ただ、密告を恐れるばかりではない、――それとは別な、ある恐ろしい獣のような欲望に輝いていた眼つきが、はっきりと浮かび出してきた。
「いや、いや!」折江は子供のように頭を振りながら、
「もうそんなことを聞くのはいや! ああ、あたし、あのまま殺されたほうがどんなにましだったか分からないのだわ。あの獣のために、一思いに殺されたほうが、どんなによかったか知れやしない!」
耕作は急に眼の前が真っ暗になってきたような気がした。と、同時に、こんな辛い、こんな残酷な告白を強いた自分自身に対して、急に激しい憎悪を感じてきた。
彼はつと立ち上がると、身の置きどころもないように、そわそわと座敷の中を歩き回りながら、しきりにたばこの煙を吐き出していた。
ふと見れば、雨の中にもかかわらず、塔をこわす作業は着々と進んでいた。そして、煙った霧のような雨の中に、すでに外壁を取り払われた塔の残骸が、わびしく、白骨のごとくそそり立っているのが見えるのだった。
神話によると、バベルの塔がこわれて、それを築きあげることに努力していた人類は世界中に散らばって、種々なことばを話す人種に分かれたということだ。
いまこの軽井沢の塔がこわれると同時に、それに絡《から》まった種々な疑惑の中に住んでいた人々は、めいめい思い思いに東京へ立ち去ってしまったのだ。そこにおける彼らの生活は、もはや軽井沢におけるのとはまったく違って、同じ東京とはいえ、全然別の生活がはじまるに違いない。そして、あの大江黒潮殺しの秘密は、塔とともに完全に滅びてしまうのではなかろうか。
耕作がなぜか、重い、鉛のような溜め息を吐き出したとき、座敷の中では折江の啜り泣きがまだ低く、胸をえぐるように続いているのだった。――
[#改ページ]
[#見出し] 第二部 魔の都
[#改ページ]
第一章 屋根裏の奇人
[#小見出し] 壁図書館
一
暦のうえではすでに立秋となっているのに、都会の空気は、焼跡を渡ってくる風のようにほろ暑く重苦しかった。わけても浅草六区に近いこの松葉町付近にはいつも砂漠のように黄色いほこりが舞いあがって、そのほこりの微粒の一つ一つが電子のように重苦しい熱っぽさを持っていた。
どこからともなくどどんと地鳴りのような物音が、そのほこりと熱っぽい人いきれの空気を伝って絶えず響いてくる。それは真夜中から早朝のごくわずかな時間を除くほかは間断なくこの辺の空気をふるわせているのだった。一日に何十回となく広目屋《ひろめや》の甲高い鉦《かね》の音とトラックの立てる地響きが、バラックの安普請を根こそぎゆすぶっていった。
今も白井三郎は、そのすさまじい地響きの音に、ふと眼をさました。すると頭が一枚のトタン板のように固く張りつめて、胃の腑の中に海綿がごろごろと転がっているような、不愉快な重苦しさを感じた。気がついてみると、白いさらし[#「さらし」に傍点]のカーテンのあいだから、九月の暑い西陽が、狭い四畳半の七分通りまで差しこんで、浴衣の襟がじっとりと脂汗で濡れているのだった。
三郎はそこで、くるりと薄い夜具のうえで寝返りをうって腹ばいになると、枕元にあった敷島の袋を引き寄せてその一本に火をつけた。そして起きぬけのねばねばとねばりついている舌の先に味のない煙を吸い込みながら、はれぼったい眼を二、三度ぱちぱちさせて、はて、いったい何時ごろかなと壁のうえに斜めにさしている西陽の角度をながめた。
長いあいだの経験で、彼はこの西陽の差し具合で時間の見当がつくのだった。いま彼が見たところでは、それはちょうど五時半ごろの角度だった。そしてこれが彼の毎日の「朝」だった。
三郎は一本の敷島を吸ってしまうと、ごろりとあおむけになってしばらく汚い天井の雨漏れ模様をながめていたが、やがてまた横向きになって彼の新聞を読みはじめた。
この四畳半というのはまことに奇妙な部屋で、一方が道路に面した半間の窓になっていて、それに向かいあったところが隣室との唐紙になっているほかは、全部壁になっているのだが、その壁といわず唐紙といわず、一面に古新聞が張りつけてあるのだった。つまりこの部屋へ入って新聞の張りつけてない場所を発見しようと思えば、半間の窓にはめてある二枚のガラス戸と、四畳半の畳のうえとの二つしかなかった。そのあとの部分はよくもまあ、こう丹念に張られたと思うほど、つまりそれは新聞でできている部屋のようであった。天井でさえ、三分の一くらいは古新聞でつづくりがしてあった。むろんだいぶ時代がついていて、どこもかしこも赤茶けて、ところどころは雨漏りのしみで、活字がぼやけてしまって、そこにどんなことが書いてあるのか、さっぱり分からないところさえあった。
しかし、白井三郎は長いあいだの経験で、この部屋のこのおびただしい新聞の記事をほとんど全部そらで暗記しているのだった。それは学生時代の彼の習慣の延長であったかも知れない。この男は大変物臭太郎のようにみえていて、それでいったん何か思い立つと、急に気狂いのように熱心になる性質があった。あるとき彼は、ドイツ語を勉強しようと思い立ったことがあった。すると彼はその晩買って来た自習書で文法を勉強する一方、出てくる単語を片っぱしから短冊型に切った紙にかきつけて、それをべたべたと壁といわず、唐紙といわずいっぱいに張りつけていくのだった。そして間もなく、彼の下宿の狭い四畳半は、ドイツ語の単語のために完全に包囲されたことがあった。
いま学校を卒業して、別になんの勉強をする野心も持たない彼が、この古新聞に包まれた部屋に自分を発見するというのは何といっても因縁に違いなかった。むろん彼が、この古部屋の、一日中ミシンの音がガラガラと家中を震動させている屋根裏のようなこの二階を借りたのは、決してこの古新聞に興味を感じたからではなく、彼の人生のうちで最も愛しているところの浅草に近いために違いなかったが、さて、しばらくこの部屋に寝起きをしているうちに、間もなくひどくこの古新聞に興味を感じはじめたのだった。もっとも、一日中寝床の中に寝そべっていて、ほかに何をすることも、考えることもなかったせいもあるだろうが、彼は間もなく、この新聞を手近なところから読みはじめた。すると新聞というものは、新しいときにはあんなにくだらなくて、平凡なものでありながら、古くなるとなんとおもしろくなるのだろう。彼はにわかに興味を覚えはじめて、手近なところからだんだん手を伸ばし、ついには、この部屋中の新聞を完全に読みあげてしまったのである。そこには過去十年にわたる日本のいや世界のあらゆる方面の歴史が縮刷されてあるのだった。あるときはひどく好景気だったり、あるときはひどく不景気だったり、大臣が殺されたり、女優が駆け落ちしたり、市会議員が涜職《とくしよく》をしたり、軍人がいばったり、左翼が幅を利かしているかと思うと、右翼テロが横行したり、そうかと思うと、新橋の名妓が落籍されたり、品川の娼妓が自由廃業をしたり、株が騰《あが》ったり、軍縮会議がお流れになったり、説教強盗と称する怪賊が横行したり、本所の御隠居が殺されたり――と、白井三郎はこうした社会百般の歴史を間もなく、あの学生時代のドイツ語の単語のように、すっかり暗記してしまったのである。
さて、この夕方眼をさました白井三郎は、その壁に張りつけた新聞をまじまじとながめながら、はて今日はどの記事を読もうかなと思った。いったい彼はこの壁図書館の中で、同じ記事を何度読んだことだろうか。――だから、いまではどの辺にどんな事件が載っているか、どの辺に米騒動があるかとすっかり記憶しているのだった。そこで彼は、今日は一つ迷宮入りをした犯罪事件を読んでやろうと、というのは、ちょうどその記事が寝ている彼にとってはいちばん好都合だったので、少し夜具のうえで体をずらせると、壁の下部に張ってある十年ほど前の新聞を読みはじめたのだった。
さて、白井三郎がそのとき退屈まぎれに読んでいた記事というのは、ちょうどあの大震災の起こる一週間ほど前の事件で、したがって、大正十二年の八月二十六日の夜の出来事だった。
当時帝都座の歌劇に出て、東京中の人気をさらっていた田村時雄というバリトン歌手が射殺されたという事件があった。その夜田村時雄は帝都座の芝居を終わると、友人と一緒に銀座へ出て、しばらく酒を飲んでいたが、やがて彼だけが一足先に目黒の自宅へ帰った。ところが、その翌朝、この男はピストルをもって頭部を射貫かれて死んでいるのを自宅の書斎で発見されたというのである。何しろ被害者が華やかな世界に住む流行児だったから、新聞では社会面のほとんど全部をこの事件によって埋めていた。いろんな知名な芸術家や、女優や、興行師が次から次へと参考人として引っぱられ、そのつど、世間をやんやと言わせたものらしい。
ところが、この事件がなぜ迷宮入りをしたかというと、それは決して警視庁の手抜かりではなかった。いよいよ捜査活動が本舞台に入ったと思うころ、あの九月一日の大震災がやってきたのである。この大きな天災の渦の前には、ちっぽけな犯罪事件なんか完全にノックアウトされてしまった。そして田村時雄殺しはそのまま人々の脳裡から忘れられてしまったのである――
白井三郎が今なぜ、この記事を読む気になったか、それはここにいうまでもなく、彼の頭にあの大江黒潮殺しが、しつこくこびりついているからだった。そして、この被害者がジャーナリスチックに有名である点において共通しているところが、彼にこの事件を思い出させたに違いないが、あとから考えてみると、この二つの事件は、白井三郎がこのとき考えも及ばぬほど深い関係で結ばれていたのだった。
読者諸君! 筆者が長々と白井三郎の不可思議な部屋の構造を語ったのは、だから、決してこの小説を少しでも長くしたいなんていやしい考えではないのである。白井三郎のこの壁図書館こそ、この物語の最後において、見事に大江黒潮殺しの謎を解く鍵となったのである。
二
さて、白井三郎が寝そべったまま、この便利な壁図書館を楽しんでいるところへ、階下からミシンの手をやめた古布屋のおかみさんの甲高い声が聞こえたのである。
「白井さん! 白井さん! お客さまですよ――」
白井三郎はそれを聞くと、不思議そうにむっくりと寝床のうえで起き直った。彼のようなこの屋根裏の奇人にとっては、来客があるというのは大変珍しい現象だった。
だからいったいだれが来たのだろうと想像もつかぬ人物を考えながら、彼が手持ちぶさたに考えているところへ、あえて、取次を必要とする礼儀正しくないこの社会の習慣として、
「僕ですよ、今日は――」
と言いながら、あの中西信之助が、かわいい、子供子供した顔を、唐紙のかげから突き出したのだった。
「おや、中西君ですか、さあどうぞ入りたまえ」
白井三郎は信之助の顔をみると、この男としては珍しく愛想笑いを浮かべながら、寝床のうえに起き上がると、掛け蒲団を二つに折って信之助のほうへすすめた。
「やあ、いまお眼覚めですか。たぶんそんなことだろうと思っていました。実はもっと早く来ようと思ったのですけれど、寝ているところを起こしちゃいけないと思って、いま玉木座をのぞいて来たところですよ」
三郎はそれを聞くと心持ちうれしそうな顔を隠しながら、
「何? それには及ばないのに。起こしてくれりゃ僕も一緒に行ったのになア」
そう言いながら彼は手を鳴らすと、下の通い女工に茶とお菓子を頼んだ。
信之助がこの屋根裏へ訪ねて来たのは、実はこれで二度目だったのである。この青年は大変人懐っこい、それだけに、物に感染されやすい性質をもっていた。年はまだやっと二十二歳で、前にもいったとおりに大学の予科生で、父親はなんとか省の相当のお役人で、つまり典型的なお坊っちゃんだった。したがって軽井沢であの恐ろしい疑惑の渦の中に巻き込まれたとき、いちばん臆病で、いちばん当惑したのはこの青年だったが、さて咽喉もとを過ぎて熱さを忘れると、あの罐詰の数日に対して、いちばんたくさんの思い出を感じるのはこの青年だった。
だからあの事件の関係者がみんなこうして東京へ引き上げてくると、この青年は持ち前の人懐っこさを発揮して、次から次へとあの事件の同僚を訪問して歩いているのだった。むろん彼とてもばかではなかったから、あの事件が警察で発表したとおり完全にかたがついているとは決して思っていなかった。彼自身分からないまでも、他の人々の気振りによって、何かしら、あの大江黒潮殺しの底には、もっともっと複雑な、恐ろしい秘密があることはうすうすと感じているのだった。だから一つにはみんなの考えを聞いて回るためにも、彼はこうしていろんな人々のところを訪問して回っているのである。
白井三郎はこの青年が大変好きだった。お坊っちゃんで、人がよくて、そのくせどこか図々しいところがあって、悪党がりのこの青年が、彼の趣味に大変似合っているのだった。いや、それよりも、もっとはっきりいえば、この青年が大変美貌であることが、何よりも彼の気に入っているのである。
「どうです、その後やはりみんなのところを回っていますか」
やがて茶と菓子が出ると、三郎は自分から菓子をぼりぼりとかじりながらそう切り出した。
「ええときどき、今日もここへ来る途中郁文社へ寄って由比さんに会って来ましたよ」
「相変わらず熱心なものですなあ。それで何か変わったことがありましたか」
「由比さんのところではちょっと変わったことがあったそうですよ。しかし」
と信之助は立ち上がると半間の窓から外をのぞきながら、
「どうもこの部屋は暑いですね。どうやら日も暮れかけたようですから、またこのあいだみたいに公園を案内してくれませんか」と言った。
信之助は実は、このあいだ一度訪ねてきたばかりで、この白井三郎という男に、ひどく感染されてしまったのだった。育ちのいい彼なんかの今までまったく知らなかった空気をこの男は自分の周囲に持っている。それは何かしら膿《う》みつぶれた腫《は》れ物のように、ぞっとするようないやらしさでありながら、その一方なんともいえぬ魅力でもあった。それがまるで魔術師の発散する妖気のように、この青年の感じやすい心をくすぐるのだった。
「そうですね。僕もまだ飯がすんでいないので、どこかへ食べに行こうと思っていたところです。じゃ一つ、外へ出ましょう」
そこで間もなくこの二人は古布屋の狭い階段を下りると、公園の近所の安直な食物屋へ入って行ったのである。
「それで――?」
と、そこで二人とも飲めない口だったけれど、何かしら酒でも飲まないと座が持てないような気がしてあつらえた一本の銚子を持てあましながら、白井三郎のほうから口を開いた。
「その由比君の変わった事件というのはどんなことですか」
「ああ、そのことですか。それはこうなのです。由比さんの編集室へどろぼうが入ったというのですよ」
「へえ? 編集室にね。それはいったいどういうことなのです?」
「由比さんの話によると、どうやら大江さんね」と言いながら、信之助は急に声を落とすとあたりを見回しながら、
「大江黒潮氏の原稿を盗みに入ったらしいというのです」
「大江黒潮の原稿を――?」白井三郎は急に興味をもよおしたらしく「じゃ、なんですか、大江は死ぬ前に新しい原稿を書いていたのですか?」
「そうなんですって。由比さんもちっとも知らなかったのだそうですが、軽井沢から帰ってみると、ちゃんと黒潮氏からの原稿が編集室に待っていたんだそうです。日付をみると、由比さんが軽井沢へ発った日に投函したらしいので、つまり行き違いになったのですが、大江氏が一言もそんなことを言わなかったので、東京へ帰ってくるまで、まったく知らなかったのだそうです」
「なるほどね。しかし、それが盗まれかけたというのは――ああ、結局、盗まれたんじゃないのでしょう?」
「ええ、幸い由比さんは自分の宅へその原稿を持って帰っていたので助かったのだそうですけれど――」
「じゃ、その原稿がねらわれているということがどうして分かったのですか。おかしいじゃありませんか」
「つまりそれは、そのどろぼうというのがどうしても、原稿を盗まなければならぬある人物だったらしいからなんですがね」
「なんですって? じゃどろぼうが分かっているのですか」
白井三郎はそこで少しいらいらしたような聞きかたをした。
「そうなんです。初めからお話しするとこうなんです。つまり、これは由比さんの受け売りなんですがね。昨日の朝早く、郁文社へ女の声で電話がかかってきて、由比さんは出勤しているかどうかときいたというのです。むろん由比さんはあの社でもいちばん朝の遅い人ですから、まだですと交換手が答えると、何時ごろに、では、いらっしゃいますかと聞くので、いつも十二時前後だと答えておいたのだそうです。それが朝の八時半ごろのことで、それから半時間ほどして、九時少し過ぎに、今度は郁文社へ直接由比さんを訪ねてきた女があったそうです。受付の少女がまだいらっしゃいませんと答えると、では待たせていただきますと答えて応接室へ入って行ったそうですが、それからしばらくして、少女が応接室をのぞいてみると女の姿が見えないのです。不思議に思って編集室をのぞいてみると、女が由比さんの机の側で何か引っかきまわしているんだそうです。御存じのとおり、あすこの社は応接室と編集室ととびら一つでつながっている上に、由比さんばかりでなく、みんな出勤がおそいですからね。そのときには編集室にはまだだれも顔を見せていなかったのでしょう。それで女は図々しく編集室へ入って由比さんの机を探していたらしいんです。そこでそれを見つけた受付の少女が何か御用でしょうかと訊ねると、実は由比さんに書き残して行きたいと思ったのだけれど、ではまた後ほど参りましょうと、そそくさと帰って行ったそうですが、それからだいぶたって出勤した由比さんがその話を聞き、さて女の人相をきいてみると、てっきりそれが山添道子らしいというのです」
「何? 山添道子?」白井三郎は驚いて相手の顔を見直しながら、「あの、軽井沢から姿を隠した?」
「そうなんです。あの女なんです」
白井三郎は急にわけのわからぬ、当惑したような表情を顔に浮かべた。そして、まじまじと相手のかわいい口元を見つめていたが、
「君は今、そのどろぼうというのはどうしても大江黒潮の原稿をねらわねばならぬ人物だと言いましたね。あれはいったいどういう意味ですか。山添道子には何か黒潮の原稿をねらう理由があるのですか」
それには今度は信之助が不思議そうな顔をして相手を見返していた。しかししばらくするとふいに気がついたように、
「ああそうだ。あのときにゃ、あなたはまだいなかったのですね。そうそう僕はちょっともそのことに気がつかなかった」
「あのときとは――? それはいったいいつのことですか?」
「そうです。あれはあなたがいらっしゃる前の晩のことだった。ほら、われわれは仮想犯罪劇の役割について、みんなそれぞれ受け持ちを決めていたのですよ。つまり、殺されるのは大江さんの役、殺すのは由比さん――とそう決まったのですが、ほかの連中も何かしら大江さんを殺すような動機を持っていなければならぬというので、その動機を決めていたのですよ。ところが、そのとき山添さんの動機というのがまことに妙でしてね」
「ほほう、それはいったいどういうのです」
「つまり、大江黒潮氏は山添道子という女の秘密を、一つの小説に書いてその原稿をいま由比さんのところへ送ってある。ところがその原稿が発表されると、どうしても山添道子さんの破滅になるので、それを取り返すために道子さんは黒潮を殺す――いや、殺すかも知れない動機を持っているというのです」
「いったい、だれがそんなことを言い出したのですか」
「たしか、大江さんの奥さんでした。それがね、あの晩は実に妙な晩で、他の連中もそうして、みんな仮想的な動機をこさえていったのですが、それが決して仮想じゃないのです。たとえば僕のばあいなんかも、僕は伊達京子にほれているが、京子自身は大江さんにほれている。そこで僕は嫉妬のあまり大江さんを殺す――というのが僕に振られた動機なんですが、これは決して仮想じゃありません、真実なんですからね。こういう風に、みんな動機というのが、ことごとくお芝居というより当時の真実な気持ちをずばずばと当てすぎるので、実際恐ろしいくらいでしたよ。ところが最後にきて、道子さんの番のときに、いま言ったような動機が持ち出されたんでしょう。だからきっとこれもほんとうのことに違いない。だれも知らないけれど、大江さんは道子さんの秘密を小説に仕組んでいるに違いないと思い込んだものなのです」
「ふふん!」白井三郎はそこで、思わず鋭い眼でじっと相手の額をみていたが、「なるほど、そんなことがあったのですか。そして、そんな原稿がほんとうにあったというのですね」
「そうなんです。さすがに由比さんは小説の内容を話してはくれませんでしたが、たしかに一見して分かる山添道子らしい女の、良人の眼をしのんでの不倫な恋が書いてあるのですって。だから、編集室へ忍び込んだ女の人相を聞いたとき、すぐにそれが山添道子であり、大江黒潮氏の原稿を奪い返しに来たのに違いないと思ったそうです」
「それでその女の身元はまだ分からないのですね」
「ええ、分からないそうです」
白井三郎ははじめて聞いたこの物語には大変興味を感じたらしく、それからいちいち、他の人々の仮想犯罪劇における動機というのを信之助の口からきいていた。そして、最後に彼は、
「それで由比君の動機というのは――? 結局犯人は由比君ということになっていたのだそうだが、あの男の動機はなんだったのですか」
と、訊ねかけたが、そのとき信之助はふいにぎょっとしたように相手の顔を見直したのである。というのは、そのことばだけが、ほかの人々のばあいと違って、ひどく熱心で異様に力がこもっていたからである。
「由比さんはつまりこうだったのです」
と、そこで信之助は、由比耕作の道子に対するプラトニック・ラブなる動機というのを話してきかせたが、「しかし、あなたはまさかあの人が」
「いやわかりません。ありがとう、なるほどね、そんなことがあったのですか」
そう言いながら、彼は深い、深い考えに沈んでいたが、ふと思いだしたように、
「それで由比君はどうするつもりだろう。大江黒潮のその原稿を発表するつもりなんだろうか」
「あっ! そうそう、そのことで今日は来たのですよ」
そう言いながら信之助は袂から小さく折った新聞を取り出したが、その一部分を示しながら、
「ほら、さっきお宅へうかがう前に夕刊を買ったら、こんなことが載っていたのです」
白井三郎は指されたところを読んでみた。それは二面の下の三行広告で、そこには次のようなことが出ているのだった。
道子サン
原稿発表異存ナキヤ
アラバ電話乞ウ 由比
三
白井三郎はその晩、中西信之助と別れると、長いこと六区から観音堂の裏あたりの薄暗い公園の中を歩き回っていた。
十一時過ぎて、この歓楽境を目指して押し寄せて来た人々が引き上げたあとの浅草公園は、それまでと打って変わった不思議な存在を示すものである。それはどこの盛り場でも同じだけれど、この不思議な公園は規模が大きいだけに、一層昼と夜と、そして深夜の区別がはっきり感じられるのだった。もし、十一時を過ぎて、なおかつ観音裏の、あのごみごみとした薄暗がりを歩いている者があるとすると、それは帰るところのないルンペンか、怪しい職業を持っている男女か、それともこの都会の掃きだめに異様な興味を感じている猟奇者か、そのいずれかに違いなかった。
そして、堅気な生活をしている人々の眼から見ると、いかにも無気味に映るこの世界の住人は、反対にひどく気が弱くて、おどおどして人を傷つけるなど思いもよらぬことだった。かえって彼らは始終野良犬みたいに人の跫音を気にし、お巡りさんの佩剣《はいけん》の音が聞こえると首をすくめて口もきかなかった。
白井三郎はたいてい毎日のように、この公園の中をうろつくのであったが、何か考えごとのあるばあいは、一層そこは好都合の場所だった。この薄暗い、どこか悪の匂いのする公園の中では彼の思索を妨げるものは何一つなかったし、そして、その思索に飽きるとまた彼を楽しませるようないろんな小事件があちらでもこちらでも起こっているのだった。
さて、その晩の白井三郎の深夜の散歩ぶりは、日ごろとは大変違っていた。彼は今、中西信之助から聞いたことによってだいぶ興奮していた。大江黒潮の死に対しては、彼は別に大した関心を持っていたわけではないが、その底に流れている、一種異様な無気味さに気がつくと、じっとしていられないような興奮を新しく感じるのだった。
そこで彼は、いま改めてこの事件と、この事件の関係者を考えてみようとしているのであった。被害者と彼自身を除いて、この事件には七人の関係者がある。そしてこの七人の関係者は、いま信之助の口からきくと、ことごとく大江黒潮に対して一種の動機を持っていたというのだ。しかも、あの犯罪の前夜、それらの動機があからさまに討議されたというのだ。
白井三郎はそのことを今よく考えてみようとした。
いったいこれは偶然だろうか。それとも一種の計画的な犯罪遂行の一つの経路ではなかったろうか。もしそうだったとすれば、何のために、人を殺す前に、その動機をあからさまに、人々の前にさらけ出そうとしたのだろうか。むろん、それは犯人の巧みなカモフラージュだったに違いない。動機を持っているのはある特別な一人に限ったのではない。みんな、――みんなが動機を持っているということの一つの宣伝だったのだ。
しかし、もしそうだったとすれば、こういう巧妙な一幕物を書き下ろしたのは、あの七人の中のいったいだれだったろうか。――残念ながらその席に居合わせなかった彼にとって、信之助を通してその事実を聞くのみで、その事実に伴う空気というものを感ずることができなかった。
その夜、遅くまで公園を歩いていた白井三郎は、一時過ぎ松葉町の古布屋の二階のあの壁図書館へ帰ってくると、久し振りでぺンと原稿紙を取り出した。
その昔、大江黒潮と二人で家を持っていたころは、彼らはしばしば犯罪と探偵小説について語り合った。そして、一つの小説的なプランを発見すると、彼はそれを小説にする前に、細かくその思いつきなり、トリックなりを原稿紙へ書き留めておいたものだった。その後、彼から独立した大江黒潮が二人――いや、主として白井三郎の考えたプランによって小説を書きはじめ、またたくうちに一家をなして以来、白井三郎はすっかりそうしたことに興味を失ってしまって、このごろでは原稿紙に向かうなどということはめったにないことだった。
それが今夜、久しぶりにペンをとった白井三郎は、異常な熱心さをもって次のようなことを書き出したのである。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
大江黒潮(三十八歳)――非常に血みどろな小説を売物にしている探偵小説家。被害者。
妻 折江(三十四歳)――聡明、美貌、勝気な賢夫人なれど、最近黒潮との同棲生活に倦怠を感じつつあり。篠崎映画監督とねんごろなりしとのうわさあり。
篠崎宏(三十四歳)――折江夫人と醜聞を伝えられた相手。黒潮の死後数日にして殺害さる。
伊達京子(二十二、三歳)――大江黒潮に好意を持てるも黒潮よりはむしろ冷淡に取り扱わる。
中西信之助(二十二歳)――伊達京子に恋せり。
岡田稔(三十二歳)――山添道子なる女とねんごろなり。あるいは相愛なる仲ならんか。
山添道子(二十七、八歳)――疑問の婦人。岡田稔と懇意なれど、一方黒潮より想われていたらしい気配あり。何か秘密を持てる女にして、その秘密を種に大江黒潮より脅迫されし事実あるらし。
由比耕作(三十歳)――雑誌記者。大江黒潮と大変親密なり。山添道子にひどく同情せる気持ちあるらし。
[#ここで字下げ終わり]
白井三郎はそんなことを、乱暴な字で原稿紙の上に書きなぐった。そしてその中から真相に近いものを発見しようと、しばらく紙面のうえを凝視していた。しかし、何を思ったか、間もなくペンを投げ捨てると、ごろりとあおむけになって、まじまじと壁に張りつけた新聞をながめはじめたのだった。
結局これだけのことではさすがの彼にも、何も発見することもできなかった。何か欠けている。――そうだ、何かいちばん肝心なことがここには欠けているのだ。それはちょうど扇のかなめのようなもので、それなしには今度の事件は絶対に解決することはできない、それをだれも知らないのだ。犯人の他に何人も知らないその隠れた事実――。まず第一にそれを知らなければならない!
白井三郎はふいに人生に対してある一つの目標を感じはじめた。
そうだ、空想的犯罪生活の代わりに、一つこの事件を実際に研究してみよう。そして最後までこの犯人を追いつめて行ってやろう!
彼はそこで大きく呼吸を吸うと、さらに細かい計画を立てはじめたのだった。
[#改ページ]
[#小見出し] 峰岸夫妻
一
その翌日、いつになく午前中に寝床から起き出した白井三郎は、身支度をととのえるとぶらりと松葉町の家を出た。この男は外になんの道楽といってなかったけれど、身につける物だけは人一倍の神経をもっていた。だから、そのときも、細かい縞《しま》の分からぬような単衣《ひとえ》に、かなり上等のパナマをかぶって、ステッキはたぶん、それでも五十円近くはするだろうと思われるような籐《とう》をついていた。この男はその他、げたを買うと、必ずはく前に濡れたぞうきんでふくというくせや、着物は必ず縫いに出す前に一度水につけるという風な、まことに、通人らしい趣味を持っている男なのである。
さて、その日壁図書館を出た彼は、まず近所で腹をこしらえると、それから自動電話へ入って、郁文社の由比耕作を呼び出した。幸いにも由比耕作はちょうど出勤したところだったらしい。
「ああ、白井さんですか。どうしたのですか、ひどく早いじゃありませんか」
「うん、僕より君こそどうしたのだね。こんなに早く出て大丈夫かね」
「大丈夫って、何がですか?」
「何さ、またお天気がぐらつきはしないかということさ」
「いや、今日は特別に事情がありましてね。どうしても早く出勤しなければならないのです」
「分かっている。だから電話をかけてみたのだよ」
「ああ。じゃ御覧になったのですね。昨夜の夕刊を……」
「そうだよ、そのことで君に話したいことや聞きたいことがあるので、これからお訪ねしようと思っているのだが、差し支えないかしら」
「是非どうぞ。僕もあなたのお知恵をかりたいと思っていたところなんです」
「そう、じゃ、待っていてくれたまえ、これから行くからね」
それから半時間ほどのちに、白井三郎の姿は郁文社の応接室へ現われた。由比耕作は待ちかねていたように、彼の名前が通されると、すぐ編集室から飛び出してきた。
「やあ!」
「やあ、このあいだは――」
「大変だったろう。君はあれからだいぶ長く向こうへ残っていたの?」
「いいえ、あなたより二日ほどあとでした。何しろ、ひょんなことで――」
こんなあいさつがあってから、白井三郎はぎごちなく椅子に腰を下ろした。
「僕は雑誌社なんてはじめてだが、大変立派なんだねえ」
そう言って、感じたように彼はあたりを見回していた。この郁文社というのは最近新築して引越してきたばかりだった。
「ええ、どうも立派すぎましてね。なんだかまだ落ちつかないのですよ。それよりあのこと、よく眼につきましたねえ」
「いや、僕が発見したのではないのだ。中西君がね、ほら、中西信之助さ、あの男が見つけて知らせに来てくれたのだ。ところで、電話あった?」
「いいえ、まだです。今にかかってくるかくるかと待っているんですがね」
「それで、何なの、その婦人にとっちゃそれほど大問題なのかね、その原稿というのは――?」
「そうなんですよ」耕作は眉根にしわを寄せながら、
「なんならお見せしましょうか」
「いや、それには及ばないが、そうかねえ、大江黒潮はそんなことをする男かねえ」
二人はそこで、ふいに黙りこむと、気まずそうに二人ともたばこを取り出して火をつけた。
「それですよ、僕も大変意外に感じているのです」
しばらくたってから耕作は、ふとたばこを口から離すと、
「あの人の小説は元来、非常に血腥《ちなまぐさ》い、残虐なものですが、どの小説だって、ことごとく空想から生まれているもので、なるほど、空想的な人の悪さ、――というよりも、どこか露悪的なところがありますが、その底には一種の稚気、といった風なものがあります。ところが、今度の小説ときたら、まあ事情を知っているからでもありましょうが、あんなに人が悪く、陰険に、悪意をもって書かれているものはありませんね。実際あのモデルを知っている人があれを読んだら、すぐ気がつくように書いてあるうえに、とても、その女主人公――つまり山添道子なんですが、これが損な風に書かれているのですよ」
「妙だねえ」白井三郎も考え深そうに、
「僕もあの男がそんなことをする男とは思えないね。どんな事情があるのか知らないが、小説のうえで相手をやっつける、――そんなことをする男とは今まで少しも考えなかったね。それでいったいどんなストーリーなんだね、結局――」
「つまりね、ある人妻が避暑地で映画俳優と密会を楽しんでいる。むろん、その人妻は変名でただ一人避暑地へきているのです。そこで彼らは一人の探偵作家に会うのです。そして次第に懇意になっていくうちに、この探偵作家から、絶対に露見しない殺人法というのを聞かされる。そしてそれとなく自分たちのばあいを打ち明けて、どうすれば――、つまり毒殺か、絞殺、手段ですね、手段とあとのごまかしかた――そんなことを聞いて、実際に利用する、つまりその方法によって良人を殺す。と、まあそんな風の小説なんですね。ところが実際探偵小説らしいところはあとの三分の一くらいで、最初の三分の二ほどは不必要なまでに、その人妻と映画俳優との関係が書いてあるのです。それが実に悪意に満ちた筆法で、それを読むと、どうしてもそれが、その人妻の良人なる人にそれとなく知らせるために書かれたとしか思えないほどなのです」
「なるほどね」
白井三郎は黙ってきいていたが、やがて例の鋭い眼をあげると、
「それで、その山添道子はそういう小説が書かれていることを知っていたんだね」
「そうだろうと思います。一昨日、どうやら原稿を取りもどしに来たところをみますとね。それに、中西君からお聞きでしょうが、あの仮想犯罪劇の前の晩にも妙なことがありましたからね」
「君自身はどうだね。大江黒潮は一言も君にその話をしなかったのかね」
「それがおかしいのです。原稿は僕と入れ違いに軽井沢から投函されているのですが、大江さんは一言もその話に触れたことはないのですからね。さすがに自分でも少々気がさしたのじゃないかと思いますね」
「他人をそんな窮地に陥しいれるような小説を書きながら、気がさすもないものだね。しかし君は結局どうするつもりなんだね。その小説を発表するつもりかしないつもりか――」
「それは、山添さんに会ってみて話を聞いたうえ、大江さんの奥さんに相談してみようと思うのです。原稿は僕に所有権があるわけではなく、作者が死んだ以上、奥さんのものですからね。しかし僕としては、作者のためにも、なるべくならこんな原稿は握りつぶしたほうがいいと思うのですがね」
「それはそうだ、僕も賛成だね。しかし、山添という女が結局訪ねて来なかったら――?」
「さあ、――そのときは困りますね。しかし、あの広告を見ればきっと何か話がありますよ」
「それはそうだ。――ただ一つのばあいを除いてはね」
「ただ一つのばあいとは?」
「つまり、その女が、大江黒潮を殺した犯人でなかったらさ」
白井三郎はそのことばを、さも何気なく吐き出したけれど、それを聞いた刹那、耕作はぎょっとしたように、卓子の端を両手でつかんだ。そして、じっと相手を見つめながら、
「あなたは、まさかあの女が犯人だとは――」
「それは分からないさ」白井三郎はむしろ冷酷な平静さで相手のことばをはじき返すように、「その女はなぜああして姿を隠したのか、その説明をきかないうちはね」
由比耕作はがっくりと肩を落とすと、呟くように言った。
「ほんとうにそうだ。なぜあの女はあんな妙な姿の隠しかたをしたのだろう。僕にはさっぱりわけが分からない」
「ははははは! 君はまたひどくあの女がひいきらしいね。中西君にきくと、君のあの仮想犯罪劇における動機というのも、あの女のためだったというじゃないか」
それを聞くと、耕作は急にむかっ腹を立てたようにぐいと肩をそびやかした。そして相手を笑殺するように、ふんと鼻を鳴らしたきりわざと返事をしなかった。
――なんだ、こいつ。中西信之助におだてられて、このおれの肚まで探りにきやがったのだな――
そう考えると、大変お天気屋のこの雑誌記者は、急に貝のように口が重くなるのだった。
ちょうどそこへ、編集室から、だれかが大声で、
「由比君、電話だよ、山添さんという女のひとからだぜ」
と、そんなことを叫んでいるのが聞こえた。
それを聞いたとたん、由比耕作はぎょっとしたように腰を浮かしたが、白井三郎の鋭い眼が、じっと自分のうえに注がれているのを感ずると、わざと落ちついた態度で、ゆっくりとその応接室を出ていった。
二
その晩、由比耕作と白井三郎は、帝劇の二階の廊下で大変いらいらしながら、たばこばかりくゆらしていた。むろん二人とも活動写真を見に来たのではなく、ほかに目的があってこうしてここに人を待っているのだが、その待ち人が約束の時間をすでに半時間も過ぎているのに現われないので、二人とも廊下にかかっている時計ばかり気にしていた。
耕作は耕作でこうなると、白井三郎の存在が不愉快になってくるのであった。
彼は今日昼間、山添道子からかかってきた電話に対して、今夜帝劇の二階で会おうと約束したのだった。むろんそれは彼一人で出向くと言っておいたのであるが、この弱気で人のいい雑誌記者は、さてそのあとで白井三郎に問いつめられると、どうしてもその約束を隠していることができなかった。それのみか、相手が自分も一緒に行こうというのを、断わりきれないで、結局こうして二人で山添道子の現われるのを待っているのだった。
ところがさて、約束の相手が半時間も遅れたとなると、てっきりそれが白井三郎の罪であるような気がしてくるのだった。一人で来ると約束しておいたのに、こんな連れがあるから、逃げてしまったのではあるまいか――そう考えると、側でぷかぷかたばこを吹かせているこの男が、大変図々しく、邪魔者であるような気がしてくるのだった。
「どうも来ないね」
白井三郎も少し持てあましたように時計をみながら呟いた。
「おかしいですね。そんなはずはないのですがね。ひょっとするとあなたの姿を見て逃げたのかも知れませんよ」
「そうかも知れない。そうだとしたら大変失敗を演じたわけだね。僕はどこかへ隠れていればよかったのだ」
そんなことを言っているところへ、紫色のユニフォームを着た女給さんが、まっすぐに彼らのほうへ近づいてきた。
「由比さんというのは、こちらじゃございません?」
「由比なら私だが――」
「ああ、そう、お電話でございますが。――そういえば分かるとおっしゃっていました」
由比耕作は白井三郎とすばやく眼を見交わした。訊ねるまでもなく山添道子からの電話であることはよく分かっていた。
「じゃ、ちょっと――」
「うん、行って来たまえ」
耕作は女給さんのあとからついて正面玄関へ降りてゆくと、切符売場のわきにある卓上電話へ案内された。
「由比さんですか」
耕作が受話器を取り上げると、待ちかねたような女の声が聞こえた。
「ええ、こちらは由比です。先ほどからお待ちしているのですが、どうしたんですか」
「すみません。実はさっきそちらへ行ったのですけれど、都合の悪い人に出会ったものですから、すぐ逃げ出して来たんですの。なんとも申し訳ございません」
「都合の悪い人?」耕作はすぐ白井三郎のことを思い浮かべてそう訊き返した。「いったいだれですか」
「そのことならお目にかかって申し上げますわ。それで、あたし、どうしてもそちらのほうへ参るわけにはいきませんから、まことに恐れ入りますが、こちらへお運び願えないでしょうか」
「はあ――それでも結構です。で、どこにいらっしゃるのですか?」
「銀座裏の、ユーカリという喫茶店の二階ですの――御存じでございましょう。ここならどんな話でもできますし。――」
「ああ、そうですか。ではさっそくおうかがいいたしましょう」
「どうも、御無理ばかり申し上げて、なんともおわびのしようもございません」
「どういたしまして」
そこで電話を切ると、耕作は大急ぎで白井三郎のところへもどってきた。
「どうだった?」
「行きましょう。ここだと、なんだか都合が悪いというのです」
白井は黙って立ち上がると、由比のあとからついて来た。外へ出ると二人はすぐ自動車を拾って、西銀座の裏通りにあるユーカリという喫茶店の表へつけさせた。
このユーカリという店は、喫茶店というよりは、簡単な一品料理を非常にうまく食べさせるので有名な家で、昼飯時だの、夕方になると付近の会社員などでいっぱいだったが、夜も八時をすぎると、すっかり閑散になる。そして、はじめて落ち着いて話のできる喫茶店の面影を取りもどすのだった。
耕作と白井三郎の二人が階段を上がって行くと、見覚えのある山添道子の姿が、奥のほうのボックスの中で、白い花のようにかすかにふるえていた。耕作はちょっと緊張した面持ちで、そのほうへ近づいて行くと、わざと気軽に、
「今晩は――」
と言いながら、彼女の前に腰を下ろした。道子はちらっと弱々しい微笑を浮かべかけたが、彼の後ろに立っている白井三郎の姿をみると、心持ち顔色をかえた。
「ああ、白井さんです。御存じでしょう。今日、あなたからお電話があったとき、ちょうど社のほうへ来ていたものですから、一緒に来ていただいたのです。いけませんでしたかしら?」
「いいえ」
道子は口のうちで呟くように言ったが、耕作を見た眼の中には明らかに非難の色がこもっていた。白井三郎はしかし、悠々と耕作の隣に腰を下ろすと、
「しばらく、――お変わりありませんか」
と、さも何でもないことのようなあいさつをした。
その調子があまり平然としていたので、このばあい大変おかしく響いた。道子は思わず引きずられるような笑いを浮かべると、
「仕方ありませんわ。こうして見つけられてしまった以上は――」
「ははははは! まるでわれわれを探偵かなどのようにおっしゃいますね」
「まあ、そうじゃございませんの。あたしが何者だか、なんのために、あんな妙な姿のくらまし方をしたのか、それを調べようと思っていらしたのでしょう」
「調べる?――まさかね、ただ、奥さんの口から、ほんとうのことをいろいろとおうかがいしたいと思って、由比君にくっついて来ただけのことですよ」
「まあ、どちらでも同じことですわ。あたしもう観念しました。今更、逃げもかくれもしやしませんわ」
道子は吐きすてるようにそう言うと、ゆっくりと耕作のほうへ振り返った。
「由比さん大変失礼申し上げました。実は帝劇で知った人に会ったものですから」
「知った人? だれですか、――それは」
「京子さんですの」
「京子さん、伊達京子さんですか」
「ええ、そうなの。だからあたし逃げ出して来たの。たぶん、見られやしなかったとは思うのですけれど――」
そう言ってから彼女はゆっくりときいた。
「由比さん、お願いしたもの、持ってきてくだすって?」
「ええ、持ってきましたよ。お見せしましょうか」
「ええ、どうぞ――あたしいろんなことをお話しする前に、ぜひその原稿が拝見したいの。大江さんがあたしのことを、いったいどんな風に書いていらっしゃるか、それを第一に知りたいのよ」
耕作がポケットから茶色の封筒を取り出すと、それを道子のほうへ押しやった。道子はその封筒の中から原稿を取り出すとき、かすかに指先をふるわせていた。原稿は約五十枚くらいもあったが、道子は静かにその第一枚を読みはじめたが、間もなく彼女は、すっかりその原稿の中に魂を吸いとられてしまった。
二枚、三枚、四枚、と原稿が進んで行くに従って、彼女の面には激しい感情の動揺が現われてきた。ときどき、激しく息を内へ引いたり、呻き声を立てたり、悔しそうに唇を噛んだりしていた。
そのあいだに、冷たい飲物をあつらえた二人は、それに口をつけていたが、白井三郎はそれを飲みながらも、決して女の様子から眼をそらそうとはしなかった。そして、女の顔に移りゆく憂慮、困惑、憤慨、などのいろんな表情を、さも興味ありげにながめているのだった。
ようやく道子は最後の一枚を読み終わると、静かにその原稿を封筒に入れて耕作のほうへ返した。
「ありがとうございました」
「いいえ」耕作は原稿をポケットにしまいながら、「いかがでした?」
「なんにも申し上げることはありませんわ」道子は青ざめた顔に疲れきったような微笑をうかべながら、「あたし、まさか、こんなにまで、露骨に、大胆に、そして悪意をもって書かれていようとは夢にも思っていませんでしたわ。大江さんはこの原稿で、あたしの生涯をすっかりめちゃくちゃにしようと思っていらしたとしか思えませんわ」
「まったく、この原稿を読むと、そういう気がしますね。もしこれが発表されたら、あなたの身は破滅です」
耕作は同情の中にも幾分脅威を含んだ調子で言った。
「もし発表されたらですって? でももう発表することに決まっているんでしょう。まさか編集者のあなたが、作者に断わりもなしに握りつぶすわけにも参りますまいから」
「ところが――」と、そのとき横から急に白井三郎がぐっと体を前へ乗り出した。「由比君はなるべくなら、この小説を握りつぶしてしまいたいと言っているのですよ。むろん、作者の遺族に、相談した上のことですがね。つまり由比君は、この小説はある醜悪な悪意と憎悪のために書かれたにすぎないので、小説としては何らの価値を持っていない。こんな小説を大江黒潮の名で発表するのは、むしろ、作者のこれまでの名声を傷つけるものだという意見なんです」
「まあ!」
道子の頬にはさっと紅の色がのぼった。欺かれ、傷つけられていた彼女の眼の中には、このとき急に一縷《いちる》の希望の色がひらめいてきた。
「そんなことが、――そんなことができるのでしょうか」
「たぶん、できるだろうと思います。大江君の細君はそんなにわけの分からない女じゃないはずですから、由比君からことをわけて話せば、たぶん同意するだろうと思います。ただし、それには一つの条件があるのですがね」
「条件といいますと?」
「つまり、この原稿が大江黒潮の死となんの関係も持っていないということを、あなたに証明していただかねばなりません。でない以上は、雑誌に発表しないまでも、参考品として警察へ届けなければならないかも知れませんからね」
傍で聞いていた耕作は、白井三郎のこの巧妙な駆け引きに思わず感嘆の声を放った。道子にとってはこの原稿こそ死命を制するものといってもまちがいではなかった。それでなくても彼女は怪しげな失踪ぶりを演じて警察の注意の的となっているのだ。今こういう原稿の存在することが分かり、しかも彼女が大江黒潮の死後、ひそかにこの原稿を盗み出そうとしたことが警察の耳に入ったら、そのときこそ、彼女の疑いは決定的なものになるかも知れないのだ。
「御承知のとおり、あの事件は四本指の弥吉という男が犯人だということになって、一応はかたがついています。しかし、こういう有力な証拠があれば、警察のほうでもあるいはもう一度考え直すかも知れないと思いますが、どうでしょう」
白井三郎の鋭い、冷酷な眼の光を見ると、道子は肩をすぼめてかすかに身震いをした。しかし、すぐ次の瞬間には、昂然《こうぜん》と眉をあげて挑戦するように唇に微笑をきざんだ。
「ほほほほほ! あたしを脅迫なさろうとおっしゃるのね。それなら無用な心遣いですわ。なぜといって、あたしここへ来たときから、なにもかも正直にぶちまけてしまおうと思っていたのですもの。さあ、なんでも聞いてくださいな。何からお話しすればいいのでしょうか?」
耕作は白井三郎の横顔を見た。彼はこの男がこんなにまで熱心な態度をみせるのをはじめて見たのである。まるで裁判官のように厳しい、えぐるような調子で白井三郎は口を切った。
「そうですね。何からお訊ねしたらいいか――そうそう、第一にあなたのお名前からうかがいましょう。山添道子というのは、むろんほんとうの名ではありますまいね」
「お察しのとおりでございます」
「ではほんとうの名は何とおっしゃいますか」
「それは――それはまだ申しますまい。もっともあたしが隠していたからといって、探ろうと思えばいつでも探ることはできますわ。この原稿に書かれている良人の身分、境遇――そういうことからでも、すぐあたしの名前が分かるはずですわ」
「そうですか、ではそれは後ほどお訊ねすることにして、それじゃ、なぜあの晩、大江黒潮の殺された晩、あなたが姿を隠さねばならなかったか。――そのことをお訊ねいたしましょうか」
道子はそれを聞くと、しばらく黙ってソーダ水のストローをいじっていた。しかし、それは決して話すことをためらっているのではなくて、どこから話していいか、その順序を考えているように見えるのだった。しばらくして彼女は美しい瞳をあげると、由比耕作のほうへ向き直って、
「由比さん、あなたは、あなたがはじめて軽井沢へいらした晩のことを覚えていらして?」
と訊ねた。
「僕が軽井沢へ行った晩というと――?」
「ほら、あの晩、ホテルではダンスの会があったのですわ。あたしそれへ岡田さんと一緒に踊りに行ったのですけれど。――」
「そうそう、それを途中から急に帰っていらしたのでしたね。あのときは随分取り乱していたようでしたね」
「そうなんですの」道子はかすかに頬を染めながら、
「まったく、あのときはすっかり気が顛倒《てんとう》していたのですわ。というのが、ホテルで思いがけなくも主人の姿を見つけたものですから――」
「なんですって?」
そう叫んだのは、由比と白井三郎とほとんど同時だった。
「じゃあなたの御主人も軽井沢へいらしてたんですか」
白井三郎はたたみかけるようにそう突っ込んだ。ある漠然とした疑念がそのとたん、二人の胸にはっきりと浮かびあがってきたのだった。
「そうなんですの」道子は弱々しくうなずいたが、すぐきっと面をあげると、「でも、そのことはもっと後ほど申し上げましょう。それより、あの晩のことです。いま言ったとおり、あたしはあの晩、岡田さんと二人で夜明けごろまで踊る約束でしたの。ところが九時半ごろでしたろうか、ほかの方と踊りながら、ふとホールの外を見ると、思いがけなくもそこに主人が立っているではありませんか。あたし、はっとしてそのまま人混みの中に隠れてしまいましたの。あたしがなぜ主人の姿をみてそんなに驚いたか、また、あわてて隠れなければならなかったか、そのことは今すぐ申し上げますが、そのときはもう気が遠くなるほどの驚きに打たれたのでした。幸い、主人はぼんやりと人々の踊っているのをながめていたらしく、あたしに気がついた様子もありませんでしたし、その姿はすぐどこかへ見えなくなってしまいましたが、あたしはもうぐずぐずしているわけには参りません。もし、主人に見つかりでもすれば、それこそ大変なことになるのです。そこで岡田さんにも断わりなしに、そのままこっそりとホテルを抜け出して家へ帰ったのでした」
道子はそこまで話すとふとことばを切った。そして訴えるように二人の顔を見比べるのだったが、由比耕作もそれについてはなんとも口を出さなかった。二人ともこの思いがけない話にひどく感動している様子なのだ。道子はやがてまたぼつぼつと話しはじめた。
「その晩、岡田さんが心配して、あとから訊ねてきてくださいましたけれど、あたしはそのことについては何も語りませんでした。あの人はあたしのことについては何も知らないのですから、余計な心配をさせるまでもあるまいと思っていたのです。そして、岡田さんも帰って一人になると、あたしはつくづくとさっきのことを考えてみました。あれはほんとうに主人だったろうか。ひょっとすると、自分の勘違いじゃなかったろうか。――あたしはそういう風に考えたのですが、するとだんだんそのほうが正しいように思えてくるのでした。第一、主人がこんなところへ一人で来ているはずがありませんし、また、あたしが軽井沢へ来ていることを知っているはずがないのですから、あとを追っかけて来たとはどうも考えられないのです。そうです、あたしが軽井沢にいることを知っているものはだれ一人なかったのです。――大江先生をのぞいては――」
「ほほう」白井三郎はそのとき、笛のような奇妙な声を立てて、「奥さん、その間の事情をよくお話しくださいませんか」
「ええ、もうこうなったら、なにもかもお話ししてしまいますわ。これをお話しするには勢い、あたしたち夫婦の恥を明るみへさらけ出すことになりますけれど、今更そんなこといっても仕方がありませんわね」
道子は弱々しい微笑を浮かべると、心持ち二人のほうに体を乗り出して、
「あたしたちの結婚生活は今年でもう五年になります。しかし、考えてみるとこの五年こそ、あたしにとっては地獄の生活でした。結婚以来あたしは、一日として良人から正当な妻として待遇をうけたことがございません。良人は――名前を申せば皆さんも御存じかも知れませんが、相当地位があり、財産もある人なのです。ところで、あたしはというと、自分の口から言うのも変ですが、あたしの家は良人よりもう一段上の地位で、お金も主人の宅よりは少しばかり余計にありました。だから、あたしたちの結婚は、ほかの人から見るとまことに似合いの縁組だったのですが、それがいけなかったのです。つまり家の人々はこういう社会的な釣り合いばかり考えていたために、本人同士のことをよく調べてもくれなかったのです。あたしは主人の家へ参ってから一週間目に、主人にはもう何年越しかになる愛人があり、その他にも二、三人、いかがわしい婦人を寵愛していることを知ったのです。こんなばあい、あたしがもっと自分の心を押さえつけることができるように教育されているとよかったのですけれど、あたし自身が娘時代から相当わがままに育てあげられているうえに、結婚生活に対して、あまり高い理想を持ちすぎていたせいもあるのでしょう、良人のこの不品行を知ると、あたしはもう千仞《せんじん》の谷底へ突き落とされたような気持ちでした。そしてその日から二人の間は表面ばかりの夫婦で実際は他人――いや他人よりももっと冷たいものだったのです。それから五年間はあたしにとってまったく地獄の生活でした。むろん幾度かあたしは別れようと決心したのですけれど、その度に周囲の人に泣きつかれたり、口説かれたりして、いつも思いとどまらねばならなかったのです。女というものはなんとつまらないものでしょうね。こちらに道理があっても決してその道理が通らないのです。そして、いったん結婚した男は、どんな不品行をしても、良人として絶対に権利を持っているのですからね。こうして、それでも五年という月日がたったのですが、この春になって、また、問題が起きてきたのでした。それは良人と何年越しかの愛人のあいだに、この春子供ができたということで、その子供をあたしの子供にして籍に入れてくれというのです。それにはさすがのあたしも思わずかっといたしました。あまりといえばあまりに虫のいい話です。いかに踏みつけられることに慣らされてきたあたしといえども、このことだけは絶対に承知すまいと決心したのです。この結果、あたしと良人とのあいだの溝を、今までより一層深くしたばかりか、それまでは相当あたしに好意を示していた良人の家族とのあいだにも、救いがたい間隙ができてきたのです。今まで優しかったしゅうと[#「しゅうと」に傍点]やしゅうとめ[#「しゅうとめ」に傍点]が急に白い眼であたしを見るようになってきたのです。こうなるとあたしももうけんか腰でした。どうせなるようにしかならないのだ、それなら良人のしているようなことを自分がして悪いわけがないじゃないか、――そういう風に、あたしは自分の良心をごまかしてしまったのです。そして、盛んにダンスホールなどへ出入りをしはじめたのがこの春のことでした。そこであたしは岡田さんと知り合いになったのです」
道子はさすがにその辺の話になると、とかくことばが渋りがちだった。しかし、気丈な彼女は自分に鞭をうちながら、この話し難い話をさらに続けていった。
「今から思えば随分あたしもばかだったのですわ。しかし、そのときはいろんな男の方と自由に接触できるのがおもしろくておもしろくてたまらなかったのです。むろんその当時からあたしは山添道子と変名を使っていました。そうして、どんなに親しくなった人にも、決してほんとうの身分を打ち明けたことはございませんでした。幸い、五年間というものを、家庭の中に押しこめられていたあたしを、世間の人はまるきり忘れていてくれたとみえて、だれ一人あたしの正体をさとった人はありません。もっとも、あたしのほうでも十分注意していましたし、それに、そう頻繁でもなかったのですから。――さて、そうしているうちに、岡田さんとは特別に親しくなって、ときどき御飯を一緒にたべたりするようになったのです。言っておきますが親しいといってもその程度で、さすがにそれ以上のことになると、あたしは勇気がなかったのです。幸い岡田さんはこの程度のお友達には理想的で、それ以上のことを要求しないのがあたしの気に入っていました。だから、この人なら、いつも何も不安もなく冗談をいったり、ときには相当大胆な悪ふざけもできたのです。ところがそうしているうちに、この夏のはじめのこと、岡田さんに会うと、この夏は避暑かたがた軽井沢へロケーションに行くのだが、あなたも一緒に来ないかと誘われたのです。それを聞くとあたしの心は大変動きました。そのころ、良人は愛人のところへ入りびたりで、ほとんど家へ帰って来ることもありませんでしたので、二週間や三週間良人の眼を盗んで気楽に遊んでくることが、少しも悪いこととは思えませんでした。それでさっそく同意すると、岡田さんとしめし合わせて軽井沢へ出かけたのです。むろん、家のほうへは、京都にいる姉のところへ行ってくると態《てい》よくつくろってあったのです」
「軽井沢ではほんとうにのんきに、子供のように遊び回っていました。実際そういう経験は結婚してからはじめてでした。周囲の人々がみんな明るい、のんきな人々だったものですから、あたしは家のことも、良人のことも忘れ果てて遊んでいたのです。大江先生に紹介されたのもそのときがはじめてでした。ところが、こうしてはめを外して夢中になって遊んでいるうちに、あたしはふと、大きな失策を演じてしまったのです。それは大江先生にほんとうの身分を知られてしまったことでした。むろん、それまでに他の人々だって、あたしを何者だろうと疑っていたようでしたが、一体が避暑地のことですから、大して詮議立てもしなかったのですけれど、どうしたはずみか、大江先生はあたしのほんとうの名や、家庭のことをすっかり調べあげたようでした。ある日、先生にそのことを、それとなくあてこすられたときに、ですからあたし、すっかり驚いてしまいました。しかし、先生はすぐ慰め顔に、
『いや、このことは私一人だけが知っていることですから、何も心配することはありませんよ。だれにも洩らすようなことは絶対にありませんからね』
とおっしゃってくだすったのですけれど、今から思えば、それは先生の深いたくらみからだったのですわね。だれにもしゃべらなかった代わりに、こんな原稿にして、あたしを苦しめようとしていらしたのですわ」
道子はそこまで話すと、深いまなざしでじっと卓上の一輪挿しをながめていた。さすがに彼女もだいぶ話し疲れたらしかった。しかし、白井三郎は相手のそういう様子にはまったく同情がなかった。彼は無慈悲なくらい平静な態度で、
「そのことについて、あなたは何か思い当たることがありますか。あなたは何か大江黒潮に恨まれるようなことでもあったのですか」
「それがまったく分からないのです。あたしはむしろ、大江先生は大変あたしに好意を持ってくださって、いろいろと心配していてくださると思っていたくらいなのです。ですから、今この原稿を拝見して、悪意にみちた筆つきにはまったく驚いてしまいました」
「何か、そうですな、卑近な例でいえば、恋の叶わぬ意趣晴らし――というようなことはなかったのですか」
「さあ」道子もさすがぽっと頬を染めながら、「それは人の心ですからよく分かりませんけれど、あたしの感じたところじゃ、絶対にそんなことはございませんでした」
「しかし、あなたは、こういう原稿のあることをあらかじめ御存じだったようですね。どうして、お気づきにならなかったのですか」
「それは、京子さんからちらと聞いたからでございますの」
「何? 京子さん? 伊達京子ですか?」
「ええ、そうです。京子さんがあの事件の少しまえに、先生は最近こういう原稿を書いていらっしゃるのよと、あたしに話してくれたことがございました。それを聞くと、すっかりあたしと、岡田さんとのことなので、あたしびっくりしてしまいました。京子さんもむろんそれに気がついていて、あたしを困らせるために、わざとそんな話をしたらしいのですけれど――」
「ああ、それで僕に原稿のことをお訊ねになったのですね」
耕作がそのときはじめてそう口を入れた。
「ええ、そうですの。すると、あなたのお話では、最近大江先生から原稿を受け取った覚えもないし、また、近ごろ先生が、新しいものを書いたという話も聞かないということでしたので、やっと安心したのです。そして、あれは結局、あたしを困らせるための、京子さんのでたらめだったのだと思っていました。ところが、その晩、あの仮想犯罪劇の役割を決める席上で、大江先生の奥さんから、同じような話を聞かされましたので、あたし、今度こそ、これはほんとうだと思いました。そして、大江先生って、そんなことをなさる方かしらと、急に恐ろしくなってきたのです」
「なるほど、それで、あなたが原稿を抹殺《まつさつ》するために大江黒潮を殺した――ということになると、話はいたって簡単なんですがね」
白井三郎が唇だけの笑いを浮かべながら、冗談らしくそんなことを言った。道子はそれをきくと、ぎょっとしたように相手の顔を見直したが、すぐさり気なく笑いながら、
「ほんとうに、あたしに覚えのあることでしたら、あたしいつでも申し上げますわ。でも、残念ながら、あたしには大江先生を殺した覚えはございませんし、第一、先生が殺されたことはだいぶあとまで知らなかったのでございますわ」
「なるほど、それではいよいよ、あの晩のことをお話し願いましょうか」
道子はさすがに心が騒ぐ風情《ふぜい》だった。彼女は卓子のうえに眼を落としたまま、どういう風に語ろうかと思案している模様だったが、しばらくするとやっと心を定めたように、
「さっきも申しましたとおり、あの事件が起こる二、三日前に、ホテルで良人らしい人とあって驚いて逃げて帰って以来というもの、あたしはなるべくそんなことを考えないように、できるだけ愉快にあと二、三日の滞在日数を楽しもうとしていたのです。けれど、さすがにそれからというもの、どうしても気が浮き立たず、とかく、考え込みがちでした。ですから、あの仮想犯罪劇とやらも、あたしにとってはほんとうに苦しい、いやな仕事だったのです。しかし、そんなわがままを言って、みなさんのせっかくのお楽しみを妨げるのも、どうかと思って、いやいやながらおつき合いをすることにしたのでした。あの晩のことはみなさんも御承知のとおり、とても霧が深くて、そうでなくても、なんだかいやな事件が起こりそうな晩でした。あたしは決められた手配のとおり、階段を登って行くと、間もなく途中にあるバルコンに立ってぼんやり合図のピストルが鳴るのを待っていたのです。そのとき、ふと、だれかが下から登ってくる跫音がするのです。だれだろう? 今ごろ――この階段を登ることになっているのは、自分一人しかないはずだが――そう思いながら下をのぞいてみると、たしかに人影が、――それも洋服を着た男の姿が、こちらへ登ってくるのが見えます。あたしはなんということなしにはっとしました。たぶん、それまで、いろんないやな想像をしていたせいもあるのでしょうが、その男の姿が、なんとなく、恐ろしく危険に見えたのです。それで自分でもなんの理由もなく、つとバルコンの片すみに身をひそめたのですが、そのとき、その男の姿が一間ほど先に浮き出してきたのです。幸いあたしはバルコンのいちばん暗いすみにかくれていたのと、あの深い霧のおかげで、向こうではまったく気がつかずにいたらしいのですが、あたしははっきりとその顔を見たのです。そしてそれこそ、頭をがんと鉄槌《てつつい》で割られたような驚きに打たれたのです。なぜって、その男こそ、まちがいもなく良人だったのですから」
道子はそう言って二人の顔を代わる代わるながめたが、すぐそのあとを続けた。
「幸い良人は、あたしがそこにいるとはまったく気がつかなかったらしく、急ぎ足で上のほうへ登って行きましたが、そのときのあたしの驚きを想像してみてくださいませ。あたしの足はもう地につかぬくらい震えているのです。眼の前が真っ暗になって、今にも気を失って倒れそうになるのです。このあいだ見たのはやはり良人だったのだ! そして、今夜あたしが……ここへ来ていることを知って、あとを追っかけて来たのだ。――そう考えると、あたしの心は絶望のために真っ暗になってしまいました。せめても、そのとき良人の眼を逃れたのが何よりも幸せといわねばなりません。そこでわたしは何の考えもなく、階段をかけ降りると、そのまま大急ぎで塔から逃げだしてしまったのです。ですから、そのときあたしは、塔の頂辺で、あんな恐ろしい事件が起こっているなんて夢にも知らなかったのですわ」
「なるほど」耕作ははじめて、ほっとしたようにうなずいた。そして何かほかのことを考えながら、「それであなたが、バベルの塔から逃げ出した理由が分かりました。つまり御主人に見つけられないために、他のことは何も考えないで逃げ出したのですね。しかし、それにしても、あんなにうまく警官の目をのがれて東京へお帰りになったのはどうしてですか。参考のために、その方法というのを承りたいですね」
「それは何でもありませんわ」
道子ははじめてにっこりと晴れやかに笑ったが、すぐその笑いを引っ込めると、低い声で呟《つぶや》くように言った。
「結局あたしは東京へ帰らなかったのですわ。警察で血眼になって捜しているあいだ、あたしはずっとあの軽井沢にいたんですわ」
「ああ! そうですか」
ふいに耕作が感嘆したように叫んだ。
「分かりました。それでなにもかも分かりました。あなたは御主人のホテルへいま、軽井沢へ着いたばかりのような顔をしてお泊まりになったのでしょう」
「そうなんですの。でも、これは決してあたしの知恵じゃありませんのよ。良人がそういう風に運んでくれたのですの」
「ほほう、御主人がね」
「ええ、そうですの。詳しくお話しなければ分かりませんが、塔を脱け出してあたしは夢中になって別荘へ逃げて帰りました。幸か不幸かそのときばあやはどこへ行ったのか姿は見えませんでしたけれど、あたしは大急ぎで着物を着替えて、すぐ停車場へかけつけ、そのまま東京へ逃げて帰ろうと思ったのです。そうです、そのときあたしはちゃんと着物を着替えたのですけれど、ばあやはあたしがどんな着物を持っているか少しも知りませんでしたし、それに、そのとき着ていた浴衣を風呂敷に包んで持ち出したものですから、ばあやはあたしが家へ立ち寄ったことにはまったく気がつかず、浴衣のまま姿をくらましたのだと思っていたのですわ。このことがあたしにとっては大変幸いになったのです。さて、浴衣と手ぬぐいを二、三枚ふろしき包みにすると、あたしは大急ぎでまた別荘を飛び出したのです。その間、さあ、十五、六分もかかったでしょうか。幸い、それから大急ぎで停車場へかけつければ、ちょうど上野行の列車に間に合う時刻でした。ところが、別荘を出て、ものの二、三町もゆかないところで、いきなりあたしの肩をうしろからぐいとつかんだものがあるのです。はっとして振り返ってみると、それが良人だったのです。良人はそのとき真っ青な顔をしていましたが、あたしの様子をみると、ぎょっとしたように、大きな眼でじっと私の顔を見つめていました。そして、低い、しわがれたような声で、『おい、ぐずぐずしていると警官の手に捕えられるぞ。なんでもいい、おれのホテルへ来い』と、そう言ってあたしの手を引き立てるのです。そのときあたしはまだ大江さんのことはちっとも知りませんでしたから、良人のことばの意味がまるで分かりませんでした。しかし、こうして良人の手に捕えられた以上、もうなにもかもおしまいだ。ここでじたばた騒いだところで、もうどうしようもない。それよりおとなしく良人のあとについて行って、どうにでも裁きをつけてもらおう。――そういう風に、半ば自暴自棄の心持ちから、あたしは強いてさからいもせず、そのまま良人のあとについて行ったのでした。幸い良人は、前から妻の来ることをボーイに言ってあったらしく、それはちょうど東京からの列車の着く時刻でもあったので、あたしは少しも怪しまれることなしに、良人の部屋へ入ることができたのです。さて、部屋へ入ってから半時間あまりも二人とも石のように押し黙っていましたろうか、その間、あたしはどういうわけか、涙が出てしようがないのです。何も泣くことはない、泣くことはないと自分をしかりつけてみても、あまり激しく興奮したせいでしょう、あとからあとからと涙が出てくるのです。すると、良人が急にあたしの肩をぐいと握ると、あたりをはばかるような声で訊ねるのです。
『おい、あれはお前の仕業か、――お前がやったのか』
と、そんな風に訊ねるのです。あたしはなんのことだか分からないので、ぼんやりと顔をあげると、
『あたしの仕業ですって? なんのことですの、それは――?』
と訊ねたのです。すると良人は難しい顔をして、
『おい、こんなばあいだ。なにもかも正直に話したほうがいいぜ。大江黒潮を殺したのはお前だろう』
と、こう言うのです。あたしにとってそれはまったく寝耳に水の知らせでした。だって、つい半時間ばかり前に、大江先生の達者な姿を見ていたのですもの。その先生が殺されたなんて、どうしても信じることができません。それで今度はあたしのほうからしつっこく良人に訊ねたのです。そしてようやくことの真相が分かってきたのです。なんという恐ろしいことでしょう。あたしがたったいま逃げ出して来た塔の頂辺で、大江先生が殺されているというのです」
「ほほう、すると御主人はそのときすでに、大江黒潮が殺されていることを知っていたのですね」
「ええ、そうですの」
道子は疲れきったような声で答えた。
「あたしもそのことについて良人に問いつめました。すると、良人のそのときの答えはあたしの考えていたとおりでした。良人は二、三日まえからホテルに逗留して、あたしの動静をうかがっていたらしいんですけれど、その晩、あたしが塔に登っているということを、だれからか聞いてあとをつけて来たらしいんです。むろん、あたしを捕えてとっちめるつもりだったのでしょう。ところが、ついうかうかと塔の頂辺まで登ってみると、そこに大江先生が殺されているので、びっくりして逃げ出したのだそうです。ところが、それからホテルに帰る途中で、取り乱したあたしの姿を見つけたものですから、てっきり犯人はあたしだと思ったらしいのです。ところで、いよいよそうとことが分かってみると、急に心配になってくるのはあたしのことでした。あたしはそういうわけで、人殺しのことは何も知らないで逃げ出して来たのですけれど、他の人はそうは思うまい。きっと今ごろはあたしの行方を捜索しているに違いない。――そう考えると、あたしは急に眼の前が真っ暗になるような気がしました。こういうと、大変わがままな、利己主義なやつだとおさげすみになるでしょうけれど、そんなばあいにも、あたしたち夫婦は、お互いに名前が出ることをひどく恐れていたのです。殺人事件には結局関係はないとしても、この機会にあたしの素性が分かったら、新聞ではきっと尾鰭《おひれ》をつけてはやしたてるに違いない。――あたしたち夫婦がいちばん恐れたのはそれでした。夫婦としてはほとんど何らの愛情も持っていないくせに、妻の醜聞がひいては自分にも影響してくるということを考えると、良人の身にとってもこれは重大な問題なのです。そこで、その晩一晩かかって、二人は今後の身の処置について相談しました。そして、結局、しばらくこのまま、ホテルに泊まっていたほうが安全だろうということになったのです。それには、なるべく他人に顔を見られないように、病気と称して一室に閉じこもっていたほうがよかろうということに決まりました」
「なるほど」白井三郎が感嘆したようにうなずいた。
「すると、警官のほうで血眼になって、停車場だの、汽車の沿道を取り調べているあいだ、あなたはずっとすぐ眼と鼻の先のホテルの中に隠れていたのですね」
「ええ」
道子は低い、恥ずかしそうな声で答えた。
「しかし、ホテルではあなたの顔に見覚えがありそうなものですがね。ときどき踊りに行ったとしたら」
「ところが」と、道子は一層低い、今にも消え入りそうな声で言った。
「あたしがホテルへついたときには、帳場は大変な人だったのです、だれにも断わらずにそのまま良人の部屋へ通ってしまったのです。そして、あとからそう話が決まると、だれか知っている人があってはならないと、ちょっとした変装をしたのですの」
「ほほう」白井三郎も、耕作も、その周到な用意に思わず感嘆の声を放った。
「これは良人の考え出したことでした。ちょうどあの人が日光よけの煤色《すすいろ》眼鏡をかけていたので、それをあたしが借りてかけたのです。そして髪の結い方をすっかり変え、おしろいを落として、病人らしく首に包帯を巻いてみると、急に年齢が五つ六つも老《ふ》けて見えて、どうしても今までの自分とは思えませんでした。それに、病気ということにしてあるので、やむなく人に会うときも、部屋の中を薄暗くしていたものですから、幸い、二、三度あったことのあるボーイさんも、まるで気がつかなかった様子でした」
「しかし、随分考えたものですね」
「それはもう、自分たちの身のことですから、一生懸命でした。ですから、あんな犯罪人のようなまねでも平気でできたのだと思いますわ」
「それはそうかも知れません。窮すれば通ずといいますからね。それに、あなた方にとってはいちばん大切な名誉を守ろうというばあいですから、それくらいのことはできるのがほんとうかも知れません」
白井三郎は考え深そうに言った。しかし、すぐまた何か考えついたように、
「だが、あの手紙はどうしたのです。留守番のばあやのところへ、東京から来た手紙――あれはいったいだれが出したのですか」
「ああ、あれですか。あれも良人の考えたことで、こうしてホテルの中に隠れていたところで、警官の警戒の手がゆるまなければ、いつまでたっても東京へ帰るわけにはいかない。それで、警戒をとかすために、どうしてもあたしがすでに東京へ帰ったものと思わせなければならない。――と、そういうことから、あたしがあの手紙を書き、封筒の中へお金を一緒に入れて、それをまたもう一つの封筒に入れて、良人が東京の宅のほうへ出したのです。そしてそこから、中の封筒だけを投函するようにと言ってやったのですわ」
「なるほど、いや、実に敬服しました。悪魔の知恵でも恐らくそれには及びますまいよ。時に――これだけをおうかがいしたのですから、ついでのことにぜひ御主人のお名前を洩らしていただくわけには参りますまいか」
「そのことなら、今更あたしから申し上げなくても、由比さんにはほぼお分かりのことと思いますわ」
「ええ、分かっています。僕は御主人と行きの汽車で一緒でした。それに、あの晩、塔のうえでも、お眼にかかったように思います」
「そういう話でしたわ。だから、由比さんがひょっとしたら気がつきはしないかと、ホテルにいるあいだも、そればかりが心配でしたの」
「いや、そのことなら心配には及ばなかったのですよ。由比君は恐らく、気がついたところで、だれにも話さなかったろうと思いますからね」
白井三郎はにやりと笑いながら、耕作の横顔をながめた。耕作はそれをきくと、思わず耳の付け根まで真っ赤になった。
「あの、あたし、すっかり疲れてしまったんですけれど、もう御質問がないようでしたら、帰らしていただきたいと思うのですけれど」
「ああ、ちょっと――」白井三郎はあわててそれを制しながら「一言申し上げたいことがあります。ほかでもありませんが、御主人にお目にかかって、直接このことをお訊ねしたいのですが、いかがでしょうか」
道子はどきりとしたように相手の顔を見直した。しかし、すぐ肩をすくめると、
「ええ、どうぞ御勝手に――」と低い声で答えた。
「ありがとう。では明日にでもお目にかかりましょう」
「そうしてくだすったほうが、あたし助かるかも存じません。あれ以来、あたしたちは決してこの問題を話さないことにしているのです。そしてお互いに恐ろしい疑いを抱きあって、毎日毎日いやな日を送っているのですわ」
「お互いに疑いを抱き合って――? すると奥さんは――?」
道子はふいに椅子を立ち上がると、きっと白井三郎の顔を見下ろした。
「そうですわ。あんな恐ろしい事件にぶつかれば、どんな人だって信用する気にはなれませんわ。たとえ、良人だったところで。――ことに、あの人があたしを疑っているような顔をすればするほど、あたしのほうでも疑惑を感ずるのは当然でしょう」
道子は早口にそう言い切ると、今度は耕作のほうを振り向いて、
「じゃ、由比さん、明日良人にお会いになったら、その結果だけをあたしに知らせてちょうだいな。そして、そのときあたしに、その原稿を破棄するかどうか、はっきりおっしゃってちょうだい」
それだけ言うと彼女は、あとも見ずにさっさと階段を降りて行った。
「ふふーむ、なかなか偉い女だな」
白井三郎がそう言って鼻を鳴らしたのは、それからよほどたってからのことだった。耕作は放心したように、ポケットに両手を突っ込んだまま、ぼんやりと部屋の一隅をながめていた。
「おい、そろそろ行こうじゃないか」
「うん、行きましょう」
「君はあの女の亭主というのを知っているのだろうな」
「ええ、知っています。住所はたぶん電話帳を調べれば分かるだろうと思います」
耕作は大儀そうに答えた。
「じゃ、それは明日のことだ。ひどく君は疲れたらしいね。銀座でも散歩して帰ろうじゃないか」
彼らが勘定を払って立ち去ってから二分ばかりたったあとのことである。
奥との仕切りになっているカーテンがかすかに揺れた。と思うと、それが真ん中から二つに割れて、そのあいだからぬっと顔を出したものがあった。
それは石膏細工《せつこうざいく》のように顔を緊張させた、伊達京子だった。
京子はしばらく、燃えるようなまなざしで、じっと階下のほうを見ていたが、やがてそろそろと彼女も階段のほうへ向かって歩いて行った。
三
その翌日白井三郎が眼をさましたのは、午後の二時過ぎだった。三時までに由比耕作のところへ電話をかけるという約束だったので、彼が大急ぎで支度をしていると、そこへ、ひょっこりと中西信之助が訪ねてきた。
「おや、どこかへお出かけですか」
信之助は白井三郎の様子をみると、すぐそう訊ねた。
「うん、ちょっとね」
「どちらへです。なんなら僕も一緒に連れていってください」
信之助は持ち前の人懐っこさを発揮して、相手のおもわくなんか眼中にない。白井三郎はちょっと困った。
「いや、実は、由比君と会うことになっているんだがね」
「ああ、由比さんと?」信之助は急に眼を光らせて、
「じゃ、このあいだの広告で、何か反響があったんですか」
「うん、そのことで今日、ちょっと人に会うんだ」
「それならば」と信之助は妙にしつこく絡むように、
「一層僕も行きたいな。僕だって、あの事件の経過なら知る権利があると思うな。ねえ、白井さん、ぜひ僕も連れてってくださいな」
「うん、そりゃ僕はいいがね、由比君がなんというかね」
「いや、由比さんには僕から話をしますよ。ねえ、いいでしょう。あなた方二人だけでいいことをしなくてもいいじゃありませんか」
「別にいいことってわけじゃないがね」
こういう押しくらべになると、所詮白井三郎は信之助の敵ではなかった。子供っぽいくせに妙にわがままで、それが子供っぽいだけにどうにも扱いようのないのが、この中西信之助という青年の特徴だった。白井三郎は苦笑をしながら、
「じゃ、ともかく一緒に来たまえ。だけどよけいなおしゃべりをしたり、話の腰を折ったりしちゃいけないぜ。今日会う相手というのは、一筋縄ではいかないかも知れないのだからね」
「おっと承知。つまり僕はオブザーヴァという格ですね」
白井と信之助が田原町へ出て電話をかけると耕作はさっきから待ちくたびれているという返事だった。そこで二人はタクシーを五十銭に値切って耕作の編集部まで走らせた。
「おや、こんにちは。中西君も一緒ですか」
耕作は信之助の顔をみると、ちょっと不愉快そうに顔をしかめた。この男は、自分たちだけの計画に、第三者が断わりなしに顔を出すことをひどくきらうくせがあった。つまり一種の偏狭《へんきよう》なのだろうが、ことに今日のばあいなど、こんなおしゃべりな若者を連れて来た白井三郎の無鉄砲さが腹立たしくなるくらいだった。信之助はすぐ相手の顔色を読んだとみえて、
「ああ、こんにちは、由比さん。白井さんにお願いして、無理矢理に割り込ましてもらいましたよ。どうぞよろしく」
「ああ、いいでしょう」耕作はわざと冷淡にそういうと、すぐ白井三郎のほうへ向き直って、
「さっき電話をかけたのですがね。すると四時に工業クラブで会おうというのです」
「ああ、それは好都合だったね。いま三時半か、じゃこれからすぐ行こうか」
「ええ、そう思ってさっきから自動車を待たせてあるのですがね」
自動車に乗ると、すぐ耕作が熱心に話しだした。
「それでね、南条という男をあなた御存じでしょう。ほら軽井沢で僕んとこへ度々やって来たことのある、東都新聞の記者、あの男に今日調べてもらったのですよ。するとあの女は有名な瓜生子爵の令嬢なんですってね。本名麻耶子といって、結婚前は才媛《さいえん》で評判の女だったそうですよ。ところが亭主の峰岸健彦というのが、これまた有名な道楽者で、結婚前から新橋のなんとかいう芸者と深間《ふかま》になっていて、子供が二人か三人まであるんだって話ですよ」
「ほほう、すると、昨夜の彼女の話は、まんざらうそじゃないわけだね」
「いや、まったく真実らしいんです」
「失礼ですが」とそのとき横から信之助が口を出した。
「今あなたの話していらっしゃるのは、あの山添道子と名乗っていた女のことですか」
「うん、そうだよ」耕作が簡単に答えた。
「へえ、するとありゃ峰岸男爵の息子の奥さんだったんですか。そいつは少しも気がつかなかったなあ」
「君は峰岸健彦を知っているのかね」
「いや、知っているといっても、ときどき酒場やなんかで会うくらいのものですが、あいつは有名な不良ですぜ」
「そうだって話だね」
「それで、峰岸健彦がどうかしたのですか」
「さあ、そんなことはまだ分からないね。会ってみた上でなけりゃ」
「ああ、それじゃこれからその健彦というやつに会いに行くんですか? そいつはすてきだ」
信之助は何がすてきなのか一人喜んでいる。耕作はいよいよ不愉快そうに渋面をつくって黙りこんでしまった。白井三郎でさえが、このおしゃべりな青年を連れて来たことを少なからず後悔しはじめたのだった。
やがて自動車は工業クラブの正門についた。受付にきくと峰岸健彦は先ほどからお待ちかねだという。三人はすぐ、ぜいたくな喫煙室の一隅に通された。
「やあ!」
「このあいだは――」
喫煙室へ入ると、耕作と健彦との間に、いかにも親しげなあいさつが交わされたが、健彦はほかの二人を見ると、すぐこわばった表情になった。
「とうとう見つけられてしまったね」
健彦は三人に椅子をすすめながら、ややふきげんな声音で言った。
「だれにきいたんだね。南条のやつか、あいつはどうもおしゃべりでいかん」
「いや、南条君も南条君ですが、それより昨夜奥さんからおうかがいしたのです」
「何? 女房から!」
それをきいたとたん、健彦は思わず口にくわえていた葉巻をとり落とした。そして鼻眼鏡を外すと、そわそわとそれをふきながら、
「そうか、君たちはとうとう女房まで見つけ出したんだね」
「では、奥さんからはなんの話もなかったのでございますか」
「知らん」健彦は不愉快そうに苦笑しながら、
「女房とはあれ以来めったに口を利かんことにしているのでね」
なるほど、この夫婦では問題が起こるのは当然だと耕作は思った。そして、今更のように道子――いや麻耶子に対して深い同情を感ずるのだった。
「ところで」と健彦はまだ鼻眼鏡をふきながら、
「僕に訊ねたいということはいったいどんなことなんだね。昨夜女房に会ったのなら、たいていのことは分かったはずだが。――」
それに対して答えたのは白井三郎だった。彼はそれまで無言のまま、しきりにたばこを吹かしていたが、そのとき急にぐっと体を前に乗り出した。
「まず第一にお訊ねしたいのは、あなたが軽井沢にいらした理由です。むろんあなたは偶然軽井沢へ遊びにいらしたわけじゃありますまいね」
「むろん。そんなことは聞くまでもないことじゃないか。女房の行動を監視するためさ」
「しかし、奥さんが軽井沢にいらっしゃるということは、どうして御存じになったのですか」
健彦は黙って白井三郎をみていた。しかし、やがて大きく肩を揺すると、ポケットに手を突っ込んで中から一通の手紙を取り出した。そして、それをぽんと卓子のうえに投げ出すと、
「読んでみたまえ」と言った。
白井三郎が封筒の中から手紙を引きずり出すと傍から耕作と信之助が好奇心に輝く眼を集めてのぞき込んだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
突然書面をもってお許しください。
あなたの奥さんが軽井沢にいらっしゃることを御存じでしょうか。不思議なことには奥さん、山添道子という名前で、それこそ目にあまる御行跡です。大江黒潮と称するインチキ小説家だの映画俳優だの不良学生だの監督だのと、日毎夜毎の恋愛三昧、あまりひどいと思いますからちょっとお知らせ申し上げます。
[#地付き]親切生
[#ここで字下げ終わり]
「ほほう!」三人はそれを読むといっせいに声をあげた。そして思わずお互いの眼の中をのぞき込んだ。
「どうだね。それで分かったろう。こういう投書がきたものだから、僕は一つ実地検証と出かけたまでだよ」
健彦はボーイに命じて持って来させたウィスキーをソーダ水と割りながら、
「だけどそれを嫉妬だと思ってくれちゃ困るよ。あんなやつ、だれかとくっついていてくれたほうが俺や助かるのさ。だから、おれが出向いたというのも、あわよくば、女房の不義の確証をつかんでやろうという肚だったのさ」
「君、この字に覚えがあるかね」
白井三郎はわざと健彦のことばを聞き流して他の二人を振り返った。二人ともそれに対して首を横に振った。彼らに見覚えがなかったのも無理ではない。それはわざと筆跡をかえるためだろう――ひどい金釘《かなくぎ》流の右下りの字で、一字一字離してぽつんぽつんと書いてあるのだった。
しかし、こういう手紙がある以上、軽井沢にいたあの仲間の中には、山添道子の素性をちゃんと知っていた者があるのだ。まさか、大江黒潮がこんな下劣な、悪意にみちた手紙を書こうとは思われない。とすれば、それはいったいだれだろう。そして、この手紙によって、いったいどういうことをたくらんでいたのだろうか。単に山添道子を困らすための手段だったろうか。
「ここに書いてある不良学生というのは君のことだね」
白井三郎は信之助を振り返りながら、
「まさか、君自身がこんなばかばかしい手紙を書いたんじゃあるまいな」
「むろん、僕じゃありませんよ。僕は第一あの女の本身を今日までまるっきり知らなかったのですからね」
「いったい、だれだろうね。君たちに心当たりはないかね」
「さあ、――」
耕作と信之助は困ったように首をかしげた。疑えばだれもかれも疑えそうに思える。しかし、その中のただ一人を名指すとなると、これはなかなか困難なことだった。
「ともかく、あの仲間には、われわれの想像もつかぬ卑劣なやつがいたわけだね。一体が、無名の中傷的手紙なんて、この世の中でいちばん唾棄《だき》すべき卑劣な行動だからね」白井三郎は手紙を巻いて封筒におさめると、
「いや、ありがとうございました。これであなたが軽井沢へお出でになりました理由も分かりました。それでは、大変失礼でございますが、あの晩、つまり大江黒潮の殺された晩の、あなたの御経験をおうかがいいたしたいのでございますが」
健彦は封筒を無造作にポケットにおさめると、ウィスキーソーダーを口に運びながら、じっと白井三郎の眼の中を見つめていた。その眼つきはどこやらに、追いつめられた獣の凶暴な光を持っていた。やがて、彼はごくりとウィスキーを飲み干すと、挑戦するように言った。
「よろしい、お話をしよう。しかし、君たちが僕を犯人だと思っているのなら大まちがいだよ」
「どういたしまして。私たちはあなたの真実の話を承ればそれでいいのです」
健彦はコップをガタンと卓子のうえに置くと、新しい葉巻に火をつけて語り出した。
「あの晩僕がバベルの塔へ出向いたのは、むろん女房を捕えるためだった。なるべくなら僕は、だれも人のいないところで、おだやかに話をつけたかったのだが、それにはあの塔こそまことに格好な場所だ。そこで、君たちも知っているあの霧の中を女房を追っかけて塔まで行ったのだ。しかし、塔へさえ行けばやすやすと女房を捕えることができると思っていたのは、結局僕の大まちがいだった。塔についてなんの予備知識も持っていなかった僕は、ついうかうかと塔の頂辺まで登ってしまったのだが、すると、あの恐ろしい光景だろう?」
健彦は改めてあのときのことを思い出したように、顔をしかめて、あわてて卓子のうえのウィスキーを取り上げながら、
「実際僕はぎょっとした。こいつかかわりあいになっちゃ大変だと思った。そして――」
と健彦は急にことばを切ると、すばやい視線で一同の顔をながめながら、
「そして、大急ぎで階段を駆け降りると塔から逃げ出したのさ。その途中たしかだれかにことばをかけられたように思うが、一切夢中だった。幸いあの霧で無事に逃げて来られたようなものの、今から思えば実に危ないところさ。僕の話というのは、ただそれだけだよ。その他のことはたぶん女房から聞いて知っているだろうと思うが――」
健彦はそれでいかにも肩の荷を下ろしたように、ゆったりと皮椅子のなかに体を埋めたのだった。しかし、彼の知っているのはただそれだけだろうか。何かしら、まだ他に隠していることがあるのじゃなかろうか。――
「なるほど」白井三郎が口を開いたのはそれからだいぶたってからのことだった。
「お話はよく分かりました。しかし、奥さんの話によると、あなたは初めから奥さんを大変お疑いのようすだったという話ですが、それはいったいどういうわけですか」
それをきくと、健彦は急に狼狽《ろうばい》の色をみせた。しかし、持ち前の図々しさですぐにその狼狽を押しかくすと、
「そりゃ君、女房のやつが取り乱した格好で、ただ一人塔から逃げ出したところをみると、だれだって疑いたくなるだろうじゃないか」
「ただ、それだけでございますか」
「むろん!」
「そうですか」白井三郎は何気なくそう言ったが、急にきっと鋭い眼をあげると、
「峰岸さん、今日おうかがいしたのは、なにもかもほんとうのことを打ち明けていただこうと思ったからです。奥さんのそのときの行動は、たぶん奥さんの説明で了解がおつきのことと存じます。にもかかわらず、いまだにあなたが奥さんを疑っていらっしゃるというのはどういうわけですか?」
「何? 僕が女房を疑っている? だれがそんなことを言ったのだね」
「奥さんから承りました。そして奥さん御自身は、あなたを疑っていらっしゃるのだそうです」
「何? 妻が僕を疑っている!」
健彦はふいにウィスキーのコップを握りしめた。そして、息をはずませながらじっと白井三郎の眼の色を読んでいたが、やがて、低い声でささやくようにきいた。
「それじゃ、妻はあの事件に関して全然何も知らないというのか」
「そうです。そしてわれわれもそれを信じています。ですから、あなたに何か、奥さんをお疑いになる理由でもありましたら、それをわれわれに打ち明けていただきたいのです」
健彦はしばらく無言のまま、いまにも噛みつきそうなまなざしで三人の顔を見回していた。その胸中には何かしら、大きな感動のあらしが渦を巻いているとみえるのだ。ものの一分間ほども、彼はそうして彫刻のように身をすくめていただろうか。――ふいに彼は卓上の呼び鈴を鳴らすとボーイを呼んだ。
「君、すまないが家へ電話をかけて妻を呼び出してくれたまえ。そして、いたらすぐこちらへ来るようにそう言ってくれたまえ」
ボーイが出て行くと、そのあとには息詰まるような沈黙が四人のうえに被いかぶさってきた。白井三郎は椅子にふんぞりかえったまま天井に向かって、しきりにたばこの煙を吹いている。耕作はいらいらと組み合わせた両足を小刻みに震わせている。信之助は白い頬をこわばらせて、きょろきょろと三人の顔をながめていた。
やがてボーイが入ってきた。
「奥さんはすぐいらっしゃるそうです」
だれもそれに対して答えるものはなかった。他から見れば、この物憂い午後の退屈さに、もう話すこともなくなった連中としか見えなかっただろうが、実際は、四人ともある期待と緊張のために、神経がすり減らされるような苦痛を感じていたのだ。
ときどき、信之助がごくりとなまつばを飲む音がきこえるのだった。
時計が五時半を打った。健彦はつと立ち上がって窓の側へ寄ったが、すぐまたもとの椅子へもどってきた。と、そのとき喫煙室の入口へ、幽霊のような顔をして麻耶子の姿が現われたのである。彼女はその場にいる人々の顔をみると、一瞬間、棒のように立ちすくんだが、やがてゆっくりと良人のほうへ近づいて行った。
「何か御用ですの」
立ったまま、彼女は氷のような声で言った。健彦はそのほうを振り向きもしなかった。そして椅子に腰を下ろしたまま、もぞもぞとポケットを探ると、中からくしゃくしゃになったハンカチを取り出した。
「これに見覚えがあるかね?」
麻耶子は猫のような眼を細めて、卓子のうえに投げ出されたハンカチをながめていたが、やがて黙ってそれを取り上げた。と、そのとたん、ハンカチの中からころころと指輪が一つ卓子のうえに転げだした。それをみると、麻耶子ははっとしたようにハンカチを投げ出して、その指輪をつまみあげた。が、その瞬間、彼女の顔色がさっと紙のように真っ白になった。
「これが――これがどうしたというの?」
「確かにお前の指輪だね」
健彦が低い意地の悪い声で念を押すように訊ねた。
「だけど、それがどうしたというの? はっきりおっしゃってちょうだい!」
「その指輪とハンカチをね」健彦はゆっくりとうそぶくように言った。「大江黒潮の死体の側で拾ったのだよ。あの晩にね」
ふいにどしんと音がして、麻耶子の体が側の椅子の中に倒れかけた。耕作と信之助は思わず椅子から立ち上がろうとしたが、その前に麻耶子の体はきっと椅子の中に直立していた。
「この指輪が――死体の側に――? そ、それはほんとうですか?」
「ほんとうだとも! お前今更、自分の指輪じゃないなどとは言うまいね。たしか結婚当時おれが買ってやった指輪だからね」
麻耶子はふいに大きな息を吐くと、指輪を握りしめたままじっと虚空《こくう》に瞳を据えていた。その顔色は真っ青で、額にはいっぱい汗がにじんできた。耕作は今にも彼女が気を失うのではないかと思ったくらいだった。しかし、彼女は驚くべき自制心で、やっとその驚きを押さえると、低い、呟くような声で言った。
「はい、たしかにこれはあたしの指輪でした。しかし、これがどうして大江さんの死体の側に転がっていたか、それはあたしには分かりません!」
「何? 分からない。それはどういう意味だ?」
「それは――それはあの事件の二、三日前に、あたしこの指輪を紛失したからでございます」
麻耶子はそれだけ言うと、ふいに卓子のうえに顔を伏せてしまった。四人の眼が、やけつくようにその細く震えている肩に集まった。だれもいま彼女が言ったことばをそのまま信じようとする者はいなかった。何か彼女は隠しているのだ。犯人をかばおうとしているのか、それとも彼女自身が犯人なのか。
白井三郎は椅子から立ち上がるとゆっくり麻耶子の背後に回った。そして床の上に落ちているハンカチを拾いあげると、麻耶子の肩に手をかけて、「奥さん、このハンカチもあなたのものですか」と訊ねた。
麻耶子はぎょっとしたように、涙に濡れた顔をあげてそのハンカチをながめた。
「いいえ、それはあたしのものではありません」
「奥さん、ほんとうのことをおっしゃってはいただけませんか。あなたはその指輪をだれかにやったのではありませんか」
麻耶子はかすかに身震いしたが、それきり貝のように押し黙っていた。
「もしそうだったら、だれに差し上げたのか、それをおっしゃってくださるわけにはまいりませんか。ねえ、奥さん、これは非常に重大な問題ですよ」
「いいえいいえ、あたしには何も申し上げることはございません。さっきもいったとおり、この指輪は、あの事件の二、三日前に失ったものなんです。だれが――だれが持っていたのか、あたしには分かりません!」
麻耶子はそれだけのことを言うと、あとはだれがなんと言おうとも、一言も返事はすまいという風にきっと唇を閉じてしまったのだった。
[#改ページ]
[#小見出し] もう一つの死
一
白井三郎はその晩一晩、いろんな夢に悩まされつづけていた。
峰岸健彦だの、麻耶子だの、大江黒潮だのの顔が卍巴《まんじともえ》と入り乱れて、彼の夢を脅かすのだった。最後に彼は麻耶子が短剣を握って自分に襲いかかって来る気色《けしき》に、驚いてはっとした拍子に眼がさめた。
陽はすでに高く上がって、たった一つしかない窓からは、白い光線がいっぱいにさし込んでいた。寝間着の襟が脂臭い汗でべとべとに濡れている。白井三郎は気持ち悪そうに寝返りを打つと、枕元にあった乾いたタオルで胸から腹とふきながら、ふと水瓶をのせた盆の上を見た。すると彼は、「ふうん」と鼻を鳴らしながら、タオルを投げ出して、まずおもむろに敷島を一本抜きとり、それに火をつけると、盆の上にあったものを手に取り上げた。
それは昨日、麻耶子があんなにも驚いた問題の指輪だった。それがどうして白井三郎のこの陋屋《ろうおく》にあるかというと、彼がある研究のために借りて来たのだった。
白井三郎はしばらく眠そうな眼をじっと細めてその指輪をながめていた。細いプラチナの台に、かなり大きな猫眼石をはめこんだ、大変特色のある指輪だった。だから、健彦が一目見てそれを妻の指輪だと断定したのも無理とは思えなかった。
それにしても――と白井三郎は考えるのだ。――いったい麻耶子はこの指輪をだれに与えたのだろうか。むろん、紛失したなどというのはうその皮に決まっている。麻耶子が指輪を与えそうな人物、それはもちろん女であるはずがない。――
そう思いながら白井三郎はその指輪を左の薬指にはめてみた。すると意外なことには、ぴったりとそれがはまるのである。
「ほうら、見ろ」
白井三郎はそれを見ると、思わず独語を洩らした。
彼の指は決して細いほうではないのになんの苦もなくはまるくらいだから、最近この指輪をはめていたのは、もちろん女ではなくて男に決まっている。さて、男というと、あのばあい、大江黒潮と篠崎宏と中西信之助、それに由比耕作に岡田稔だ。さてこの五人の男の中で、麻耶子が指輪を与えそうな人物というと――それはそう長く考える必要はなかった。もちろん、岡田稔に決まっている。
そうだ、麻耶子はこの指輪を岡田へ与えたのだ。だからこそ、昨日あんなにも狼狽し、極力指輪の持ち主を隠そうとしたのだ。なぜ――? それはいうまでもない、彼女が岡田に恋しているからだ。
さて、岡田が犯人だとすると、動機はいったいなんだろう。――だが、そのことに関してもそう長く考える必要はなかった。岡田は麻耶子を愛していた。だから、彼女の秘密――ひいては自分にも影響のある秘密が、大江黒潮の手で小説に書かれたということを知って、彼は極度に狼狽した。そして、麻耶子と自分の秘密を守るために、大江黒潮を殺したのだ。
「こう考えると、なにもかもつじつまが合うじゃないか」白井三郎はそこでふっとたばこの煙を輪にふくと、
「しかし、篠崎宏のばあいはどうだろう。あの男を岡田はなぜ殺さなければならなかったのだろう?」
もちろん、白井三郎はあの前科者の四本指の弥吉が篠崎を殺したなどとは夢にも考えたことはなかった。弥吉はこの事件においては、単なる道化役を勤めているに過ぎないのだ。幸いあんな男が飛び出したために、なにもかもそいつに押しつけて、関係者一同は無事に軽井沢を引き上げることができたけれど、白井三郎は弥吉がこの事件に多少なりとも関係を持っていようとは、一度だって考えたことはない。篠崎の殺害は大江黒潮殺しの延長に違いないのだ。したがって黒潮を殺した人物が弥吉でない以上、篠崎を殺したのも、また当然他にあるべきだ。この二つの殺人事件は、必ず同じ人間によって遂行されたものに違いないのである。――
さて、では、篠崎が殺されたばあい、岡田稔はいったいどこにいたか。白井三郎はかつて由比耕作から聞いた話を思い出そうとしていた。篠崎が刺された次の瞬間を、耕作と南条という男がみていたのだ。そして、岡田と中西が駆けつけてきたのは、それから数秒ないし数分遅れている。それだけあれば、岡田は他の階段を回って、何食わぬ顔で駆けつけてくることができたかも知れない。
「すると、犯人はいよいよ岡田かな」
白井三郎はそう言いながら、指輪を盆のうえにおくと、今度は例のハンカチを取り上げた。このハンカチについては、白井三郎は昨夜から一つの疑問を持っているのだった。それは普通の麻のハンカチで、どっぷりと血に染んでいるのだったが、彼が気にしているのはそれではなかった。ハンカチのすみの方に、妙なものがこびりついているのである。それは石膏のようでもあるし、ゴムのようでもあった。ちょうどチューインガムのようなものが、小豆ほどの大きさで、ハンカチの面にこびりついているのである。白井はそれが気になって仕方なかった。彼はどこかで、こういう品物を見たことがあるような気がするのであるが、それがなんであるか、どう考えても思い出せないのだ。今も彼は、煙突のように煙を吐きながら、じっとそれを見つめていたが、やがて降参したようにそのハンカチを投げ出した。そして、はじめて枕元の新聞を引き寄せたのだが、するとなんてことだ、そこには今までの彼の思索をいっぺんにぐらつかせるような記事が、社会面の最上段に出ているではないか。
日東キネマの弗箱
人気俳優 岡田稔惨死す
そういう活字が矢のように白井三郎の眼の中に飛び込んできた。彼はそれを見たとたん、どきっとして思わず寝床のうえに坐り直したのである。
二
白井三郎はわななく指先で新聞をつかみ上げると噛みつきそうな姿勢でその新聞を読みはじめた。新聞の記事によるとそれはだいたい次のような出来事だった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
――今朝三時ごろ、府下|砧《きぬた》村にある日東キネマ撮影所の守衛某が撮影所内を巡回中、第二ダークステージにおいて撮影所第一の人気俳優岡田稔が天井より落下したライトの下敷となって惨死しているのを発見した。このライトはかねて留め金がいたんでいたもので近く修復する予定になっていたのであるが、それが昨夜突然落下して、下にいた岡田稔を殺したものらしくむろん天災というべき出来事であるが、ここに不思議なのは、岡田は昨夜十時ごろまで夜間撮影につかまっていたが、それが終わると皆と一緒に東京へ帰ったはずであるのに、それがどうして再び撮影所へ引き返して来たか、目下その点を取り調べ中である。云々《うんぬん》――
[#ここで字下げ終わり]
白井三郎はその記事を読んでしまうと、呆然として部屋の一隅をながめていた。これがはたして偶然だろうか。新聞に書いてあるように、天災と簡単に片づけてしまうべき事件だろうか。白井三郎はこの事件の背後に隠れているある邪悪な、ぞっとするような秘密をかぎ出そうとするかのように、肩をいからしてきっと瞳をすえていた。由比耕作が緊張した面持ちでやって来たのはちょうどこのときだった。
「今日の記事、読みましたか」
耕作は白井の顔をみると、さも恐ろしそうに声をひそめてそう言った。
「うん、読んだ」
耕作はそれをきくと、急にぶるぶると肩を震わせながら、
「実はそれについて、話があって来たのですがね。さっき、麻耶子さんからこんな速達が来たのですよ」
耕作はそう言いながらポケットから一通の封筒を取り出すと中身を抜いて白井三郎のほうへ押しやった。白井は耕作の顔から、その手紙に眼を落とすと黙ってそれを開いて読み始めた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
前略御免くださいませ。
今朝の新聞にて岡田稔様の思いがけなき御不幸を拝見いたし、この上はもはや何も包み隠すべきいわれなきと存じられるまま、委細のことをお知らせ申し上げます。あの指輪は私より岡田稔様に贈りたるものでございます。あの恐ろしき日より三日前のことでございましたろうか、戯れに岡田様が私の指輪をはめてみたところ、それきり抜けなくなってしまったのでございます。私はもはやなんの未練もなき指輪のこととて、そのまま岡田様に進呈したのでございます。もっとも、その翌日、岡田様にお会いしましたところ、ようやく抜けましたから、お返ししますと申されましたが、いったん差し上げたものゆえ、つまらぬものだが取っておいてくださいといって私は受け取りませんでした。したがってあの指輪の持ち主は岡田稔様に相違なく、指輪が落ちていた以上、岡田様こそ恐ろしい犯人と考えられます。いま新聞を拝見いたし、岡田様の死を知りましたので、もはやあの人に迷惑のかかることもあるまいと、以上のことをお知らせ申し上げます。ひどく興奮し頭も乱れておりますことゆえ、これだけで御免くださいませ。
[#地付き]峰 岸 麻 耶 子
由 比 耕 作 様
[#ここで字下げ終わり]
「やっぱりそうだったんだね」白井三郎は手紙を巻きながら呟くように言った。
「しかし、あの指輪の最後の持ち主が岡田だったとすると、この惨死事件はいったいどう解釈したらいいのでしょう。自殺したのでしょうか」由比耕作は興奮のためにぶるぶると体を震わせながら訊ねた。
「そうだね、むろん偶然とは考えられない。しかし、自殺とはなおさら考えられないね。自殺するにはもっと手っとり早い方法があるだろうじゃないか。ライトの下敷になるなんて、自殺者の思いつきそうなことじゃないし、第一できっこないことじゃないかね」
「そうです。僕もそう思っているのです。しかし、自殺でないとすると――」
「むろん他殺さ!」
白井三郎は吐きすてるようにそう言った。そして急に声を落とすと、
「由比君、大江黒潮を殺した犯人はまだこの東京で活躍しているのだよ」とつけ加えた。
「だが――だが、いったいどういうわけで岡田稔を殺さなければならなかったのでしょう」
「むろん、指輪さ、この指輪が原因だよ。岡田はね、きっとこの指輪をさらにまた、だれかにくれてやったに違いないよ。そして、それをもらったやつこそ犯人に違いないのだ」
「じゃ、そいつは昨日のことを知っているのですね。この指輪が出てきたことを知っていて、岡田の口から割れちゃいけないというので、先回りをして殺したのですね」
「たぶんそうだろう。それより他に考えようがないからね」
「だが、それを知っているのはだれとだれでしょう」
「峰岸夫婦と君と僕と中西――」
「それから大江さんの奥さんも知っています。昨日あれから帰りによって話しましたから」
「ふふん、すると、中西もだれかにしゃべったかも知れないね。あいつがしゃべるのはいったいだれだろう」
そう言いかけたが、ふいに白井はぎょっとしたように、もう一度麻耶子からの手紙を手に取り上げた。そして、急に声を落とすと、
「おい、麻耶子という女は、昨日はああしてひた隠しに隠しておきながら、岡田が死んでからこういう手紙を寄こしたのはいったいどういうわけだろう」
「それは、むろん、ここに書いてあるとおりでしょう。岡田に迷惑をかけてはいけないと思って――」
「それだけだろうか、ほんとうにそれだけだろうか。――」
白井三郎はそう言ってじっと耕作の眼の中をのぞき込んだのである。
[#改ページ]
第二章 憑《つ》かれた人々
[#小見出し] 恐ろしき復讐
一
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
この手紙着き次第お出でくださいまし。良人の死について重大な秘密を発見いたしました。そのことにつき、ぜひともあなた様のお知恵をお借りしたいと存じます。
[#地付き]折 江
白 井 三 郎 様
[#ここで字下げ終わり]
白井三郎がこういう手紙を受け取ったのは、岡田稔が死んでから三日後のことだった。彼はしばらく、じっとこの手紙をながめていたが、やがて支度をすると、ぶらりと外へ出た。そして自動電話へ入ると、由比耕作の編集部を呼び出して、耕作はいるかと訊ねた。すると、すぐ電話の向こうに耕作の声が聞こえた。
「ああ、白井さんですか。実は今こちらから御相談に上がろうと思っていたところなんです。実はさっき、大江さんの奥さんから妙な手紙をもらいましてね」
「実はそのことで君を呼び出したのだよ。僕のところへも来ているのだ」
「ああ、そうですか、で、どうなさいます」
「僕はこれから出かけようと思う。君も来ないか。向こうで落ち合おうじゃないか」
「そうですか。じゃ僕もさっそく出かけましょう。一足先に行っていてください」
白井三郎は自動電話から出ると、タクシーを呼び止めて池袋にある大江黒潮の宅へ走らせた。それにしても折江が発見した秘密というのはいったいどんなことだろう。大江黒潮が殺されてからすでに半月以上の時日が経過している今日となって、はたしていかなる新事実を折江は発見したのだろうか。白井三郎はそれに対して、一種の疑惑を感じないではいられなかった。
白井三郎が黒潮の宅の表で自動車を降りようとしていると、ちょうど都合よく耕作の自動車があとから追っかけてきた。
「ああ、ちょうどよかったですね」
二人は肩を並べて入って行った。その跫音をききつけたのか、折江が奥から飛ぶようにして出て来た。
「ああ、お揃いでようこそ。わざわざお呼び出しいたしましてすみません」
「いいえ」
二人は玄関を上がると、廊下を通って奥の座敷へ案内された。そこは大江黒潮が生前いちばん好んでいた部屋だったが、今みると、妙にがらんとして道具などの片づきすぎているのが何となく寂しかった。
「このあいだうちはいろいろと――」
「お寂しいでしょう」
白井三郎は軽井沢以来はじめてとみえて、そんなあいさつを取り交わしていた。
「ええ、だんだんと寂しくなりますわ。それでこのごろ、良人の持ち物なんか整理していたんですの。すると、妙なものを見つけ出したんですよ。何だかそれが今度の事件に関係がありやしないかと思いますの」
「ははあ、何ですか、それは――?」
「日記ですの。ちょっと待ってください。今お見せしますから」
折江は、部屋を出て行くと間もなく、盆にのせた冷やし紅茶のカップと、片手に、日記帳を持って入って来た。
「この日記帳なんですけれど、死ぬ前一週間ほどのところにちょっと妙なことが書いてありますの。何だか、だれかに殺されることを予期していたらしい筆つきなんですよ」
「ほほう」
白井三郎と耕作は思わず声をそろえて驚いた。
「拝見してもかまいませんか」
「さあ、どうぞ。あたしも昨日これを見つけ出してから、何だか、急に恐ろしくなってまいりましてどうしようかと思っていたんですのよ。それで、お二人に相談するのがいちばんよかろうと思いまして――」
白井三郎はそのあいだにバラバラとページをくっていた。折江が必要なところに目印をつけていたので、問題のページはすぐわかった。
次に、その不可思議な日記の必要な部分を書き抜いておこう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
八月十七日――このあいだから、自分の書いたあの「恐ろしき復讐」という小説についてたびたび聞かれると思っていたら、あいつには何か魂胆《こんたん》があるのだ。あの小説の殺し場の描写について、あいつは何かしら恐ろしい疑念を抱いているらしい。おれにはまだはっきり分からないが、何となくぞっとするような、恐ろしいことが起こりそうな気がする。しかも、その犠牲者はどうやらこのおれではなかろうか。
八月十九日――今日もまた「恐ろしき復讐」の殺し場についてあいつに聞かれた。あんなに生き生きとした、真に迫った描写は、とうてい空想によって書けるはずがないというのだ。自ら殺人に経験のあるものか、あるいはその経験者から直接聞いたのでなければ、あんな情景が書けるはずがない。あなたはいったいだれから聞いて書いたのだとあいつは言った。ああ、そのときのあいつの恐ろしい、真剣なまなざし。――おれにはどうやらあいつの真意が分かって来たような気がする。めったなことを言われないという気がする。
八月二十日――事態いよいよ切迫してきた。あいつがあの小説の殺し場の文章をそのまま暗記してるのには驚いた。あいつは威嚇《いかく》するようにその文章を暗誦してきかせた後、ちょうどこれと同じような殺され方をした人間が数年前あったというのだ。しかもそうした事実は、警察官を除いて被害者の身内しか知らない事実だ。もし、それ以外に知っている人間があったとしたら、それこそ、いまだに分からない加害者に違いない。とあいつは詰めよった。ともかく返答をしばらく伸ばしてもらう。
由比耕作から今日手紙がきた。あの男が来たら、なんとか相談してみよう。
八月二十二日――とうとう今日、恐ろしい名前を聞いた。震災直前に殺された田村時雄! ああ、なんという恐ろしい、呪われた事実だ。田村時雄の殺されたときの状況が、あの「恐ろしき復讐」の殺害の場面と、まったく一致しているというのだ。無理もない。――犯罪者というものはどんな利口なやつでも、しばしばちょっとした錯誤を演ずる。――おれはよくこんな小説を書いてきたはずだ。しかしおれ自身がそのわなに陥ろうとは、今まで夢にも考えなかった。あの小説を発表する前に、おれはもう少し、ていねいに原稿を読んでみるべきだった。しかし、九年も前の事件が、今ふいによみがえってきておれの咽喉を絞めようとはだれが思おう。おれはちょうど虫とり菫《すみれ》に捕えられた蠅《はえ》のような自分を発見する。もがけばもがくほど、おれの足は、深みへはまって行くのではないか。――
明晩、由比耕作が来るという。あの男が何かよい知恵を貸してくれるかもしれない。
[#ここで字下げ終わり]
日記はそこで突然ぽつんと切れていた。
「おや!」
と白井三郎が驚いて調べると、そのあとのページは全部きれいに破りとられているのだった。由比耕作と白井三郎は思わず真っ青に緊張した面を見合わせた。わけても白井三郎は、激しい感情を押しかくしているように、細かく肩をふるわせていた。
「奥さん!」
白井三郎は燃ゆるような眼を折江のほうへ向けた。
「このあとのページの破れているのはどうしたのですか。あなたがお破りになったのですか?」
「いいえ、あたしは知りませんのよ。あたしがこの日記を広げてみたときからすでにそこんところは破れていたんですわ」
白井三郎はごくりとなまつばを飲み込むと、絶望的なまなざしを耕作のほうへ向けた。耕作はなぜか、放心したように、ぼんやりと庭のほうを見ていた。
「この日記でみると何だね、大江君が最近書いた小説の中に九年前に起こった実際の殺人事件の場面がそのまま書かれているというんだね。しかもその場面たるや、被害者のごく少数の身内を除いては、加害者以外に絶対に知っているはずがない。――だからそれを書いた大江君は、加害者に聞いたか、それとも彼自身が加害者であったか――それをある人物から問いつめられて大江君はひどく恐れていたらしいね」
耕作が乾いた唇をべろりとなめた。折江は真っ青な顔をしてうなだれている。その横顔を白井三郎はじっと見ながら、「しかし、大江君は何を恐れていたのだろう。あの男にそんな覚えがあったのだろうか。それともその犯人というのを彼は知っていたのだろうか」
折江が、低い、しかしはっきりした声で言った。
「むろん、そんなはずはございませんわ。きっとこれは暗号に違いございません。それにもかかわらず、良人が恐れていたのは、それを問いつめた人の態度がよほど奇妙だったからではございますまいか。つまり弁解の余地がないほど、相手が思いつめていて、うっかりしたことを言うとどんな羽目になるか分からない。――それを良人は恐れていたのではございますまいか」
「そうかもしれません」
白井三郎はそう言ってからしばらく考えていたが、すぐことばの調子をかえると、
「しかし、僕にはどうもそうとは思えませんね。この日記の筆つき、絶望的な口調からおして、大江君はやはり何か覚えがあったのですよ。その犯人を知っていたか、あるいはまた、大江君自身に覚えがあったか――」
「まあ!」折江は思わず肩をすぼめると、
「じゃ、良人はむかし人殺しをしたことがあったかもしれないとおっしゃるの?」
「そして、その復讐に殺されたというのですか」
耕作が鋼鉄のようにぎらぎらと光る眼で二人を見比べながら言った。
「ははははは、なるほど『恐ろしき復讐』だね」
白井三郎は乾いたような声で笑ったが、
「しかし、それにしても相手の人物というのは何者だろうね、ここにはただ、あいつとしか書いてないから、男性だか、女性だか分からないね」
「でも、いずれ、その田村時雄という人の身内の者に違いありませんわね」
耕作はもう、唇まで真っ白になっていた。彼にはそれがだれであるかはっきり分かっているのだ。京子だ! あの京子の唇から、彼もまたあの『恐ろしき復讐』の一節を暗誦して聞かされたことがあったではないか。
「それにしても、田村時雄というのはどういう人物でしょうか。震災直前といえば、今から九年前になりますが、その時分、大江さんは何をしていたのでしょう」
「さあ――」折江は首をかしげながら、「あたしがあの人と一緒になったのは昭和二年のことで、それより一年ぐらい前までは存じておりますけれど、震災当時はね――白井さん、あなた御存じありません?」
「さあ、僕もいま考えていたところですが、ちょうどその前後一年ほどのあいだだけ、彼が何をしていたかまったく知らないのです。随分いろんなことをやった男ですけれど、震災前後の話だけは妙に、彼の口から聞いたことがありませんね」
そこで三人は急に深い沈黙の中に落ち込んだ。恐ろしい大江黒潮の過去の秘密が、今こうして偶然にも、一同の前にさらけ出されようとしているのだ。人殺しの秘密――それをあの有名な小説家は過去に背負っていたのだ。そして、その秘密の一端を、無意識のうちに、あるいは犯罪者の陥る一種の虚栄心から、ふと小説の中に洩らしたがために、彼は執拗な復讐者の刃にたおれたのだ。
「ともかく、九年前に殺された田村時雄という人を調べてみれば、その身内の人はだれだか分かりますわ。その人こそ――」
「いや、それなら分かっていますよ」
ふいに白井三郎がきっぱりした声で言った。
「由比君、帰りに僕のところへ寄りたまえ、おもしろいものを見せてあげよう」
「まあ! それじゃあなた、この田村時雄という人御存じでございますの?」
「知っています。もちろん名前だけですよ。名前なら、この日ごろ、僕は大変なじみになっているのです」
白井三郎は乾いた笑いを立てながら、
「さあ、これでどうやら目鼻がつきそうだぞ。大江黒潮を殺したあげく、さらに篠崎宏と岡田稔を殺した犯人――この恐ろしい殺人鬼をとっちめるのも、もうしばらくの辛抱だ」
そう言いながら彼は、耕作と折江の顔をじっと探るようにながめていた。
「まあ! それじゃ、あの岡田さんもやはり殺されたんでございますか」
「むろんです。この三つの殺人事件には一貫した連絡があるのですよ。もっとも犯人の意図としては、ただ大江黒潮だけを殺せばよかったのです。ところが、犯人は何かつまらない失策を演じた。そして、その尻ぬぐいをするために、篠崎君と岡田君とをどうしても殺さねばならなくなったのです。しかし」と白井三郎は急に声を落とすと、「一つの殺人より三つの殺人のほうがむずかしいということはいうまでもありません。犯人はこうして自分の失策の埋め合わせをしようと、あせればあせるほど、だんだんぼろを出しつつあるのです。そうして結局きゃつは、最後に自ら墓穴を掘るにいたるのです」
折江は恐ろしげに肩をふるわせながらきいていたが、
「岡田さんの殺されたのはやはり、あの指輪のことでございましょうか」ときいた。
「むろんそうでしょう。犯人があの指輪を死体のそばに落としてきたのは致命的な失敗だったのですよ。しかも、きゃつは、あの峰岸という男がその指輪の問題をわれわれに提供するまでは、まったくそのことを忘れていたのです。ところが、ふいにそれが出てきた。しかも、その指輪をだれが持っていたかということを知っていたのは、あの岡田より他にないのです。だから、岡田を殺しちまったのです」
「そうすると、犯人は峰岸さんという人が指輪をあなたがたに見せたということをいち早く知ったのでございますね。その晩のうちに、岡田さんは殺されなすったのですもの」
「そうです。だから、あの指輪のことを知っていたのは、だれとだれだったかというのが問題なんです。峰岸夫婦を除いて、僕、由比君、中西君、――」
「あたしも知っていましたわ」折江が笑いをふくみながら言った。「あの日、由比さんが帰りにお寄りくだすって、お話しなさいましたもの」
「そうです。しかし、われわれのまだ知らない人間で、このことを知っていたものがあるかもしれないのです」
「そして、その人が犯人だというわけなんですのね」
「まあ、今のところ、そう考えるよりほかにありますまい。いや、それではこれで失礼しましょう。僕は大至急、この田村時雄という人物の親戚関係を洗ってみなければなりませんから。由比君、行こうじゃないか」
耕作は青い、気の浮かない顔をして腰をあげた。
「御苦労様ね。でも、あたし、何だか怖くて、怖くて――この次はあたしの番じゃないかと、そんな気がしてなりませんのよ」
折江はそう言って弱々しい微笑を洩らした。
「ばかな! あなたは安心していらっしゃい。あなたに危険がふりかかるようなことは絶対にありませんからね。いずれ、そのうち目鼻がついたら、さっそく御注進いたしましょう」
「何分よろしくお願いいたしますわ」
耕作と白井三郎が外へ出ると、池袋の空はまっかに夕焼けていた。それは何かしら、不吉な、暗示にとんだ色だった。
白井三郎は無言のままこつこつと歩いていたが、ときどきステッキを振ると口の中で激しいことばを洩らしていた。ところが池袋の駅のところまできたときである。白井三郎はふいに路傍に棒立ちになってしまった。そして何かじっと考え込んでいるようすだったが、ふいにビューと激しく杖を一振り宙にふった。そして何か気狂いのように口の中で呟いた。耕作にはそのことばが、「ちくしょう!」という風に聞こえたので驚いて相手の顔を振り返ったくらいだった。
二
松葉町に白井三郎が借りている二階へ帰ってくると、思いがけなくもそこに中西信之助が待っていた。
「おや、いつごろ来たの? 長いこと待っていた?」
「ううん」信之助は寝そべったまま青い梨《なし》をかじりながら、
「さっき来たとこ。由比さんも一緒だったの?」
「うん。ちょっと用事があったものだからね」
「用事って、やはり例の一件に関係したことなんでしょう?」
「うん、まあ、そんなところだね」
白井三郎は羽織を脱ぐとていねいにたたんで、衣紋竿《えもんざお》にかけながら、
「由比君、まあそうぼんやりしていないで坐ったらいいだろう。信ちゃん、少しどっちかへ寄ったらどうだね」
「うん」
信之助は勢いよく起き直ると、食いかけの梨の皮を新聞に包んで片すみへ押しやりながら、
「さあ、どうぞ」
と耕作のほうを振り返った。
「信ちゃん、君が来ていたのはちょうど幸いだ。実はこのあいだから君に聞こうと思っていたことがあるのだよ」
やがて、狭い四畳半に座が定まると、白井三郎は胸をはだけて、ばたばたとうちわを使いながら、窮屈そうに足を投げ出していた。
「訊ねたいことって? どんなこと?」
「このあいだ――ほら、峰岸健彦に会った日ね、この日君はまっすぐ家へ帰ったかい?」
それをきくと、信之助は急に顔色を失った。彼は白井三郎の詰問するようなまなざしをみると、あわてて顔をそむけたが、
「う、ううん、ちょっと寄り道をしたけれど――」
「寄り道をして君はだれかにあのことをしゃべったんだろう。ほら、指輪の一件をさ」
信之助はすっかりしょげきった様子をしながら、
「うん」と低い声で言った。
「ばかだね。あれほど堅く口止めをしておいたのに。――だからあんな事件が起こったんじゃないか」
「あんな事件って、岡田さんのこと?」
「そうさ。ひょっとすると、ありゃ君のおしゃべりが殺したのかもしれないぜ」
信之助はそれをきくと、急に真っ青になった。そして激しく首を振りながら、
「そりゃ、違う。僕のしゃべったのはそんな人じゃない。まさかあの人がそんなことをするはずがないし」
「あの人ってだれさ」
信之助はそれを聞くと急にぐっと詰まったようにつばを飲み込んだが、すぐ思い直したように、
「伊達京子だよ。僕帰りに京子のところへ行ったの。そしてあの話をして聞かせたんだけど――」
耕作はそれをきくとぎょっとしたように二人を振り返ったが、すぐその眼を街路のほうへ落とした。白井三郎はしかし、予期していたところか、いっこう驚く気配もなく、
「伊達京子って、あの日撮影所にいたんだろう? 君はわざわざ砧村までおしゃべりをするために出向いて行ったのかい?」
「ううん、そうじゃないけど、京子さんから頼まれていたものだからね」
そう言ってから信之助ははっとしたように口をつぐんだ。白井三郎はじっとその様子を見つめていたが、急にきっと居ずまいを直すと、
「おい、信ちゃん、中西君、君は何かわれわれにかくしていることがあるね。そうだ。僕もおかしいおかしいと思っていたんだ。われわれがちょうど峰岸健彦に会いに行こうとするところへ、うまく君が来合わせたりしてさ。そして無理矢理ついて来たね。あのときも僕は偶然だろうと思っていたんだが、そうじゃなかったのだね。君は伊達京子に頼まれて、スパイの役を勤めていたんだね」
信之助は首をうなだれたまま、おずおずと膝の上をなでていたが、やがてそっと顔をあげると、
「そういうわけでもないけれど!」
「じゃ、どういうわけなんだい?」
白井三郎にたたみかけるように訊ねられて、
「実はね、あの日の朝京子さんがふいに僕んとこへやって来たの。そしてね、これから白井さんとこか由比さんとこへ遊びにいらっしゃい。そしてもし、あの人たちがどこかへ出掛けるようだったら、どこまでもついていらっしゃい。きっとおもしろいことがあるに違いないから、帰りにあたしんとこへ寄ってその話をきかせてちょうだい――とこう言うんです。で、僕はあの女の言うままに――」
「ふふん、するとあの女は、われわれが峰岸健彦に会うことを知っていたんだね」
「どうもそうらしいですよ」
「それで、君は女のいうことをいちいちはいはいと承知していたのかい。君にゃわれわれのことばよりあの女の媚《こび》のほうがうれしいのだろう」
「ううん、そういうわけじゃないけどさ」信之助はいよいよしょげながら、「京子のやつがこう言うのさ。白井さんと由比さんの二人は、われこそは名探偵みたいな顔をして、われわれには何の断わりもなしにこっそり活躍しているようだが、それがしゃくにさわると言うんです。だから、こちらはこちらで一つあの人たちを出し抜いてやろうじゃないかと、こう言って僕をおだてるんですよ。僕はばかだから、ついうっかりそれに乗っちまったのですよ」
「なるほど、そうするとあの女もばかではないね」
白井三郎は何か一心に考えをまとめようとしながら、
「それで、君はあの日帰りに砧村へ寄ったんだね。何時ごろのことだった。それは――?」
「ああ、かれこれ七時半ごろでしたろう。今夜は夜間撮影で十時ごろまでかかるからとそう言ったので、わざわざ撮影所まで行ったのです」
「それで、君の話を聞いたとき――つまり指輪の一件を聞いたとき、京子はどんな様子だった。驚いた風じゃなかったのかい?」
「さあ、別に、――何だか不思議そうに首をかしげていましたよ」
「まちがいないかね。驚いたのをわざと押しかくしていたんじゃないかね」
「いや、そうは思えませんでしたね。何だか腑に落ちなさそうな顔をしていただけですよ」
傍できいていた耕作は、それを聞くと、ほっと安心したような気持ちになった。彼にとってもいろいろな理由から、京子に対する疑いは決定的なものになっていた。しかし、ほんとうのことをいうと、それでもなおかつ、彼はそれを信ずることが恐ろしかったのだ。少しでも京子に対する疑いが薄くなるようなことがあればいい。彼はそういう風に望んでいるのである。だから、いま信之助の話をきくと、何となく、少しでも肩の荷が軽くなったような気がするのだった。
白井三郎はあきらめたように、もうそれ以上、その点について追及することはやめた。
「ええと、――それから君はどうしたのだね。京子と一緒に帰ったのかね?」
「ところが」と信之助はやや顔を赤らめながら、「そういう約束だったんだけれど、京子は急に、今夜の撮影は夜中にかかるかも知れないから、先に帰ってくれと言い出したので、僕も仕方なしに帰ってきたんですよ」
「ははははは! かわいそうに、色男台なしじゃないか」
「実際、あいつときたらいつもこの僕を子供扱いにしやがるんですよ」
信之助は急に不満そうに面をふくらせた。
「まあまあ、実際君は子供だから仕方がないよ。時に、君はそのとき岡田君に会ったかね」
「会いましたよ。ちょっとですがね。大変元気でしたよ。翌日の新聞をみるとあんなことになっているでしょう。だから実際僕はびっくりしてしまいましたよ」
「いや、ありがとう。じゃこれくらいで堪忍してやろうか? ところで君にちょっとお願いがあるんだけどね」
「なんです、この埋め合わせに僕どんなことでもしますよ」
「いや、そう難しいことじゃないのだ。むしろ、君の喜びそうなことだよ。一つ、あの伊達京子の所へ使いに行ってもらいたいのだがね」
耕作はそれをきくと、どきりとしたように白井三郎のほうを振り返った。
「へえ、これからですか」
信之助も驚いたようにそう訊ねた。
「うん、これからすぐ行ってもらいたい。行ってくれるかね」
「ええ、そりゃ行ってもいいですが、砧村の撮影所にいるんですよ」
「それなら、なおのこと好都合だ。じゃ僕がちょっと手紙を書くから、君ひと走り行ってくれないかね」
「ええ、仕方がない、行きましょう」
白井三郎はそこで、便箋とペンを取り出すと、何かすらすらと走り書きしていたが、それを封筒におさめると、ぴったりと封をして信之助の手に渡した。
「これを渡すとね、たぶん京子は東京へ出てくるだろうと思うのだ。いや、きっとやってくるに違いない。だから、そのときは君も一緒に来たまえ。何かまた、おもしろいことがあるかもしれないぜ」
そう言って白井三郎はにやりと笑った。
[#改ページ]
[#小見出し] 田村時雄兄妹
一
中西信之助が出て行くと、白井三郎ははじめて耕作のほうを振り返った。
耕作は無言のままたそがれてゆく街路をながめていたが、このときゆっくりと部屋の中へもどって来た。そしてなじるように相手の顔を見ながら、
「いったい、伊達京子のところへ何を書いてやったのですか」と訊ねた。
「いや、何でもないことだよ。実はね、中西君を追っぱらいたかったものだから、ちょっと使いを命じただけのことなんだ」
白井三郎は相手の視線をよけるように顔をそむけながら、わざと何でもないことのようにそう言った。耕作にはしかし、そのことばのでたらめであることが分かっていた。白井三郎のそういった、妙に物をひた隠しに隠そうとする態度に対して、耕作は急に一種の不愉快をおぼえた。そこで、彼は壁にもたれて、足を投げ出したまま、黙って相手の顔をながめていた。
「さあ、それじゃ、さっき約束したとおり、君におもしろいものを見せてやろうか」
白井三郎はそう言って立ち上がると耕作の側へよって来た。
「君、ちょっとすまないがそこを退いてくれたまえ。君の背中のところに、この事件の重大な機密がかくされているんだよ」
耕作は大儀そうに少し体をずらせたばかりで、別に背後を振り返ろうともしなかった。こんなばあいに相手が冗談を言っているのかと思うと、彼は何だか自分がばかにされたような気がするのだった。
「おいおい、冗談じゃない、ほんとうだぜ。君はまだ気がつかないだろうが、僕のこの部屋ときたら、どこにもない珍しい図書館さ。御覧のとおり、壁いっぱいに古新聞が貼《は》りつけてあるだろう。ところが、この古新聞というのがなかなかばかにならない。ためしに君、ちょっとおみこしをあげて後ろを見たまえ。そうすりゃ、この謎を解く鍵が一目瞭然だよ」
耕作はようやく相手のことばが分かってきた。そこで、はっとして壁から離れると後ろを振り返った。そこには、赤茶けた新聞が一面に貼りつけてあったが、その面に眼を走らせていた彼は、急にぎょっとして息を飲み込んだのだった。
田村時雄――と、さっと大江黒潮の日記で見たばかりの文字が躍るように彼の網膜へ飛び込んできたからである。
「どうだ、驚いたろう」白井三郎はにやにや笑いながら、
「僕は今までに何度その記事を読んだか知れやしない。しかし、それがまさか、われわれに重大な関係を持ってこようとは夢にも思わなかったね。一つ、これから二人でその記事を研究してみようじゃないか」
「ほほう。これは田村時雄という男が殺された当時の新聞なんですね」
耕作が驚いたように声をたてた。
「そうなんだよ。それを御親切にもここへ貼りつけておいてくれたやつがあるんだ。もっともそいつだってまさか、これが役に立つときがあろうとは思いもしなかったろうがね」
二人はそこで改めて畳に寝ころぶと、その記事を読みはじめた。
それはまことに奇妙な研究だった。あいにくなことには、その新聞は下から一尺ほどの所に貼りつけてあるので、それを読もうとするには、どうしても畳の上に寝ころばねばならなかった。しかも、五、六日続いている記事は、必ずしもどれもまっすぐに貼ってあるわけではなかった。中には斜めに貼ってあるのもあったし、ひどいのは逆に貼ってあるのだった。だから、お玉杓子《たまじやくし》のように頭をならべた白井三郎と耕作が、それを読むのもなかなかひととおりの骨折りではなかった。
「どうやら、これがいちばん最初の記事らしいですね」
耕作は五、六枚並べて貼ってある新聞を眼で捜していたが、ようやくその中の一つを捜し出した。
それは初号標題で大きく、
我らのテナー惨殺さる
田村時雄の怪死事件
そんな文字が印刷してあった。
日付を見ると、それは大正十二年八月二十七日の夕刊で、田村時雄が殺されたのはその前夜――というより、朝の一時か二時ごろのことらしかった。
その前夜彼はいつもと同じく帝都座に出勤して、持ち役を果たすと二、三人の友人と一緒に銀座のカフェーを飲み回ったが、そのうち、家で待っているものがあるからと言って、一足先に帰ったというのである。彼の家は、六十ぐらいの耳の遠いばあやと、彼との二人きりのいたって寂しい家庭だった。時雄はたいてい毎晩遅くなるので、ばあやはいつも先に寝ることになっている。そして彼自身は玄関の鍵をもっていて、ばあやを起こすことなしに、いつも戸を開いて入ることができるのだ。
その晩もばあやは十一時ごろ寝床へ入った。そして寝床へ入るやいなや、年がいもなくぐっすりと眠るのが彼女のつねだった。
翌朝彼女は七時ごろに眼をさました。そして朝の支度をして十時ごろ主人の寝室のとびらをたたいた。しかし、中からは何の返事もなかったので、まだよく寝ているのだと思っていた。夜ふかしが職業の田村時雄は、十二時ごろまで寝ていることは珍しくなかった。十一時ごろばあやはもう一度寝室のとびらをたたいた。しかし、中からはやっぱり返事がなかった。十二時がすぎた。それでも時雄はまだ起きて来ようとはしなかった。とびらには鍵がかかったままになっているのである。
ばあやはひょっとしたら昨夜は帰ってこなかったのかしらと思って玄関を見ると、ちゃんと靴が脱ぎ捨ててあった。さすが鈍感なこの年寄りも、ようやく不安がつのってきた。そこでとびらをたたいたり、鍵穴からのぞいたり、さんざん苦労したあげく、ふと思いついて庭のほうへ回ってみた。
時雄の寝室には庭に向いて窓が二つ開いていたが、ばあやが回ってみると、その一つのほうには鎧扉《シヤツター》がぴったりと閉ざしてあったが、もう一つのほうにはカーテンが下りているだけだった。しかもそのカーテンの端のほうが少し開いたままになっているので、ばあやは何気なくその隙間から中をのぞいてみた。
そのとたん彼女は、唇まで真っ白になるような恐怖に打たれたというのである。
薄暗い部屋の真ん中に、時雄の体がえびのように背中を曲げて倒れているのだった。その格好が、彼女のような年寄りにもただごとでないと思えた。そこで大声で近所の人々に救いを求めたのである。時雄の死が他殺であることはだれの眼にもすぐ分かった。致命傷は左の眼から後頭部へ抜けているピストルの貫通銃創で、凶器として用いられたピストルもその場に落ちていたが、まさか彼が、それで自殺したとは思われなかった。ただ不思議なことは凶行の時刻で、それは深夜の一時から二時までのあいだと思われるのに、ばあやが少しも知らなかったことである。もっともこの老婆は年寄りにも似あわず一度眠ると容易に眼をさまさない性質なので、同じ家の中で行なわれたこの惨劇を、少しも知らずにいたのも、無理ではなかったかもしれない。云々。――
以上がこの事件に関しての第一報だった。
白井三郎と耕作は苦心してこれだけのことを読むと、しばらく眼を見交わしていたが、すぐ次の新聞を読み出した。
田村時雄殺しの犯人いまだ判明せず
被害者の複雑なる情事関係
それにはそんな標題が振ってあって、田村時雄の日常生活などがかなりこまごまと書いてあった。それによると、彼は典型的なドン・ファンで、今までに関係した女だけでも十指に余るといったようなことが書いてあった。しかも、その女のどれも良家の娘、あるいは身分のある人妻で、したがって、今度のこの凶行も、それらの女か、あるいは女の良人によって演じられたものではないかという見込みで、警察では目下その方面を厳探中と報告してあった。
白井三郎と耕作の二人は、さらにその次の記事を読んでいった。
それは――凶行の当夜、田村時雄が十一時ごろまで数人の友人と一緒に銀座で飲んでいたことは既報のとおりであるが、そのとき彼は、今夜自宅で会う人があるといって一足先に帰って行った。不思議なことは、この訪問客をばあやをはじめ何人《だれ》も知らないことである。はたして、その人物はやって来たのか来ないのか。来たとすれば何時ごろ来て、何時ごろ立ち去ったのか。この疑問の人物こそは、この事件にもっとも重要な関係を持っているのではなかろうか。――
その翌朝の新聞の記事にはこんな事が書いてあった。
可憐なる被害者の妹
死体にすがりついて復讐を誓う
そういう標題のもとに、被害者のただ一人の肉親の妹、田村京子という今年十四歳になる少女は、二、三年前より大阪の親類のもとに預けられて、そこから学校へ通っていたが、この実兄の変死を聞くと、急遽上京、兄の変わった姿を見るとわっとばかりに泣き伏した。そして、死骸に取りすがりながら、必ずこの仇は討ってみせると、繰り返し、繰り返し叫んでいたのには、思わずあたりにいた係官に涙をもよおさせた。――とそんな風な記事の中に、かわいいお下げの少女の写真が大きく出ているのだった。
この写真を見た刹那、耕作は思わず真っ青になった。彼はどきりとして畳の上に起き直ると、ぐいと白井三郎の肩をつかんだ。
「分かったかね?」
白井三郎もやや面を緊張させながら、のそりと畳の上に起き直ると、相手の顔をのぞき込むようにしてそう呟いた。
「伊達京子だね」
耕作は何とはなしに、あたりをはばかるように低声《こごえ》でそう言った。彼の体は、細かく、ちりめんのようにふるえているのだった。
「そうだ。伊達京子だよ。あの女はこの田村という、殺された男の妹だったのだ。だから――」と白井三郎はごくりとなまつばを飲み込みながら、「大江黒潮の日記にあるあいつというのは、取りも直さず伊達京子のことなんだ」
そのことは、すでに耕作もうすうすと感づいているところだった。しかし、今この恐ろしい事実を眼の前に突きつけられると、彼は急に、この狭い四畳半が真っ暗になるような恐怖を感じるのだった。
大江黒潮が死をもっておそれていた脅迫者――それが、この京子だったのだろうか。ああ、あの美しい、年若い女優――あれが大江黒潮を殺した犯人だったのだろうか。そうだ。もはやそれに対して一点の疑いもはさむわけにはいかないではないか。当時十四歳だった彼女は、たった一人の兄を殺されて、必ずこの復讐はしてみせると誓っていたというのだ。そして爾来《じらい》幾年か彼女は、兄を殺した犯人をひそかに捜していたのだ。それがとうとう、あの大江黒潮の小説から有力な緒《いとぐち》を得たのだ。
兄が殺されたときの現場の模様と、大江黒潮の小説との恐ろしい一致。彼女はあの小説を読んだとき、夢にも忘れたことのない、兄の殺された部屋の模様を思い出したことだろう。そして、これが偶然の一致だろうか。それとも、大江黒潮が、あの事件に何らかの関係をもっていたのではなかろうか。――彼女はそう考えたに違いないのだ。そして、あの軽井沢で、大江黒潮と接近してゆくあいだに、それとなく、その疑問をたしかめようとしていたのだ。
分かった、分かった! 彼女が大江黒潮に示していたあの異様な媚は、決して好意から出ていたものではなかったのだ。反対に、黒潮の口から、あの恐ろしい秘密を聞きとろうとして、ひそかに彼のすきをねらっていたのだ。
しかし、黒潮は結局彼女に何を語ったのだろう。田村時雄を殺したのは、自分であることを白状したのだろうか、――ああ、あの有名な小説家が田村時雄を殺した真犯人だったのだろうか。――
耕作の頭には今や散々な疑問がはげしく渦を巻きながら、次第に凝《こ》ってある一点に集中しようとしていた。と、そのとき、白井三郎の低い声が耳の側でささやくように聞こえたのである。
「僕はあの『恐ろしき復讐』という小説を読んでいないのだが」と白井三郎は言った。「それは何か、この事件を暗示するようなことが書いてあるのかね」
耕作は眼をひらくと物憂げに、静かにうなずいた。
「そうなんです。そういわれれば、そういう点があるのです」
「ふふん、いったいどういうことが書いてあるのだね」
「御覧なさい」耕作は新聞記事の一部分を示しながら、
「ここに、被害者は左の眼を射貫かれていたとあるでしょう。あの『恐ろしき復讐』という小説でも、被害者は左の眼を射貫かれて殺されるのです。しかも、そのほか、もっとこまごましたことが書いてありますが、それがたぶん、新聞に出ていない、現場の模様とぴったりと一致するのではないかと思いますね」
「なるほど」白井三郎は腕をこまねくと、じっと考え込みながら、
「すると、大江黒潮はちょっとした不用意から、昔自分が演じた凶行の場面を、そのまま小説の描写に使ったのだね」
「そうだろうと思います。何しろあれから九年もたっているのですから、そんなちょっとした描写から、昔のことが露見しようなどとは夢にも思っていなかったのでしょう」
白井三郎はほっと溜め息をつくと、立ち上がって狭い窓から外を見下ろした。日はすでに暮れ果てて、街には美しい灯が入っていた。すぐ間近にある公園の空は、今日も火事のように燃えて、はてしなき騒音が、夜の空気をゆすぶりながら聞こえてきた。
「因果《いんが》なことだ」
しばらくして、彼がつぶやくのが聞こえた。
「小説家というやつは、自分の身を切って売るのも同じだというが、ほんとうのことだね。かつて自分のやった恐ろしい人殺しまで、ときには書かなければならぬことがあるのだね。そしてそのあげく貴重な人命まで失う。何という恐ろしいことだ。おれは小説家という職業を憎むよ。――呪うよ!」
耕作はそのはげしい調子に思わず相手を振り返った。
白井三郎は窓の側に立ったまま、はてしなき空のかなたに暗い瞳をじっと据えているのだった。
二
「とうとう、見つけられたのね」
京子は冷たいレモン・スカッシュのストローに唇をつけながら、白井三郎の顔を見てかすかに笑った。しかし、その笑いは半ばこわばったまま、彼女の頬に消えていった。
だが、彼女よりも、もっとこわばった表情をうかべたまま耕作は眼のやりどころに困っていた。白井三郎は案外平気で、すぱりすぱりとたばこを吹かしている。ただ、このばあい中西信之助だけが、何が何やら、わけの分からないうちにも、何かしら切迫した空気を感じて、昆虫のように神経をとがらせていた。
同じ夜の浅草付近、ルリという喫茶店の奥まった一室である。
「だが、どうしてそんなことが分かったの。あたし、それから先にうかがいたいわ」
しばらくして京子はストローから唇を離すと、弱々しい眼で白井三郎の顔をうかがった。彼女はできるだけ平静を装おうとしているらしかったが、それでもハンカチをつかんだ十本の指は、小魚のひれのようにかすかにふるえていた。耕作はそれをみると、暗い眼を床の上に落とした。
「何、それはほんの偶然だったのですよ。大江黒潮の日記がこのごろ発見されたのでしてね」
「まあ!」京子は落ち着きなく脚をゆすぶりながら、「日記の中にあたしのことが書いてあったとおっしゃるの?」
「いいえ、名前は書いてありませんでした。しかし、あの『恐ろしき復讐』という小説について、ある人から最近しつこく質問をうけているということが書いてあったのです」
京子は黙ってストローをいじりはじめた。間もなくそのストローは彼女の美しい指先で糸屑《いとくず》のようにもみくちゃにされた。京子はそれをぽいと床の上に投げすてると、突然挑戦するような眼を上げた。
「なるほど、それはあたしのことですわ。あたしがなぜそんなにしつこく、この小説について質問したか、それはあなたも御存じでしょう」
「ええ、やはり日記から分かったのです。そして、あの小説が、九年前に殺された田村時雄という人物に関係のあることを、そのときはじめて知ったのです」
京子はかすかに身ぶるいをした。そして急にぐい[#「ぐい」に傍点]と体をそらすと、
「それであなたがたは、九年前の新聞をお調べになったのね。そうそう、あの新聞にはあたしの写真まで出ているはずだから、このあたしが田村時雄の妹だということはすぐ分かるはずですわね。そうなのです。あたし、今更うそを言ったり隠したりしやしないわ。あたしは殺された田村時雄の妹なんですわ。そして、この九年という年月を、兄を殺した犯人を知るためにのみ生きて来たといってもいい過ぎじゃありませんわ。あたしはその犯人を見つけ、そしてそいつに復讐してやりたかった。それはあのとき新聞に出ていたとおりですわ。いまだにあたしの、その覚悟には何の変わりもありませんのよ」
「そして――そして、とうとうあなたはその復讐をとげられたのだ。あんな恐ろしい方法で――」
耕作が弱々しい声で呟くように言った。それを聞くと、京子は驚いたようにびくりと肩をあげた。
「由比さん、何とおっしゃる? あたしが復讐をとげたのですって?」
「そうでしょう。あの大江黒潮を殺すことによってあなたは永年の復讐をとげたのでしょう」
「まあ、あたしがあの大江先生を――」
京子は思わず高い声で叫びながら、しっかと自分の胸を抱いた。しかしそれが、真実の叫びであったか、それとも彼女の芝居上手であったかは、だれの眼にもよく分からなかった。京子はやにわに卓子の上から手を伸ばすと、耕作の腕をつかんで激しくそれをゆすぶった。
「由比さん、それはほんとうのことなの? それじゃ、やはり兄を殺したのは大江先生だったとおっしゃるの? 日記にそんなことまで書いてあったの?」
「いいえ、日記にはまさかそんなことまで書いてありはしませんでしたがね。しかし、あなたはそう信じなければ――」
「いいえ、いいえ」京子ははげしく首を振った。「あたし、そんなことは信じません。大江先生が兄を殺したのですって? ばかな! あんな善良な方が人を殺すなんて、あたしには決して信じられませんわ」
「それじゃ、大江さんはあなたに、そのことを白状したのじゃないのですか」
「いいえ、あたし先生からはとうとう何も聞かずじまいだったのです。しかし、あたしははじめから知っていたのですわ。兄を殺したのは決して大江先生じゃありませんわ。だから、あの小説は、大江先生がだれからか――、兄を殺した人から聞いて書いたに違いないと思っていたのですわ。あたし、あなたにもいつかそのことをお訊ねしなかったかしら?」
耕作はふいにはげしい惑乱を感じた。たった今まで彼は、京子が復讐のために大江黒潮を殺したのだとばかり信じていた。しかるに京子は、最初から田村時雄を殺したのは大江黒潮ではないと信じていたという。もし、それが真実だとすれば、彼女には大江黒潮を殺す動機はないわけだ。では、では――大江黒潮を殺したのはいったいだれだ。そしてなんのために黒潮を殺したのだ。
「なるほど、あなた方が、そういう風にお考えになったのも至極ごもっともですわ」
京子はハンカチをまさぐりながらしばらくして言った。
「しかし、今も言ったとおり、あたしは大江先生に対してなんの疑いも抱いていなかったばかりか、あたしはむしろ先生の亡くなられたことを大変残念に思っているのですわ。なぜといって、先生の亡くなったおかげで、兄を殺した犯人がまた分からなくなってしまったのですもの」
「すると大江君は」と、白井三郎が横から口を出した。
「あの小説の材料を提供した人物を、あなたに話してくれると約束したのですか」
「ええ、そうなんですの」京子はかすかに、悲しげにうなずきながら、「あたしが軽井沢を立ち去るまでには必ず打ち明けてくださるというお約束でしたの」
「ほほう」
白井三郎は急に緊張した面持ちで、じっと京子の顔を真正面から見据えた。京子はその視線をまぶしそうに受け止めながら、
「では、最初からすっかりお話し申し上げましょう。あたし最初のうちは冗談のように、あの小説のことを先生にお訊ねしていましたの。しかし、先生は一向はっきりとした返事をしてくださらないばかりか、かえってだんだんと怪しむように、そしてあたしを警戒するようになられたのです。たぶん、あたしがあまりしつこいのと、それになんとなくあたしの態度に危険を感じられたためでしょう。あたしそこでこれではいけないと思いました。そしていっそのこと、なにもかもほんとうのことを打ち明けて、先生の御同情にすがろうと思ったのです。そしてある日とうとう、あの小説の一部分が九年前に殺された田村時雄に関係があるらしいことをお話したのです。そのときの先生の驚きようったら、とても変でしたわ。先生はまるで、幽霊につかれたような顔をしていらっしゃいましたわ。あのばあい先生が真実、田村時雄を殺した犯人だったとしたら、あんな不用意な驚き方はなさらなかったろうと思います。しかし、先生はたしかに犯人を知っていらっしゃったのです。それであんなにはげしく驚かれたのですわ。先生はしばらく、ことばもなく呆然としていらっしゃいましたが、間もなくやっとのことでこうおっしゃいました。『しばらく待っていてください。今すぐにはお話しはできませんが、しばらく僕に考えさせてください。必ず、あなたが軽井沢をお発ちになる日までには、必ずお話しますから』――とそうおっしゃったのです。あたしはだから、その日の来るのを待っていたのです。それだのに――それだのに、あんなことが起こったために、あたしはとうとうその機会を失ったのですわ」
この新しい発見は耕作をすっかり混乱させてしまった。なるほど、そういえばあの日の筆法はそういう風にとれないこともなかった。今まではあの異常な恐怖から大江黒潮が田村時雄を殺した犯人だとばかり信じていたが、別の方向から考えてみると、あの恐怖は黒潮が何人《なんぴと》かをかばおうとしていた、その絶望的な祈りとも見られないこともなかった。そう考えてくると耕作には、突如としてまた、新しい考えが浮かんできた。
「それじゃ、その犯人が――あなたの兄さんを殺した犯人が、それをあなたにしゃべられることを恐れて、大江さんを殺したのじゃありませんか」
京子はそれを聞くと、はじめて美しい眼にかすかな笑いをうかべながらうなずいた。
「そうなのです。あたしはずっと以前からそうだと信じていましたわ」
「それで――」
と、しばらく無言のまま考え込んでいた白井三郎は、そのとき指に挟んだたばこがそのまま立ち消えになっているのに気がつくと、ぽいとそれを灰皿の中に投げすてながら京子のほうへ向き直った。
「もし、そうだとすると、あなたはだれが疑わしいと思いますか。つまりあなたの兄さんとも関係があり、そしてあの軽井沢にいた人物――あなたはそれをだれだと思いますか」
京子はしばらくためらっている風だったが、やがて思い切って言った。
「あたし、あの峰岸さんの奥さんではないかと思いますの」
「何ですって? あの山添道子だというのですか」
「ええ」
さすがに京子のことばはかすかにふるえていた。
「じゃ、あの女が昔、あなたのお兄さんと関係があったとおっしゃるのですか」
「さあ、あたしもたしかにそうだとは言えませんのよ。しかし、軽井沢にいた人々の中から、兄に交渉をもっていた人物を捜せといわれれば、あの人がいちばんそれに当てはまっているような気がしますの」
「しかし、あの『恐ろしき復讐』という小説は半年ほど前に書かれたのですよ。それだのに、峰岸夫人が大江黒潮を知ったのは、軽井沢がはじめてだというじゃありませんか。だからあの女があの小説の材料を提供したとは考えられないじゃありませんか」
「でも、それはあの人が隠しているのかも知れませんわ。大江先生とあの女とはもっと以前から知り合いになっていたのかも知れませんわ」
白井三郎は京子のこの大胆な推測に、ぎょっとしたように相手をみていたが、やがてその顔には思い出したような笑いが浮かんできた。
「なるほど、それであなたは、中西君を使って、われわれの挙動を探っていたのですね。ほら、われわれが峰岸健彦と会見することをあなたはちゃんと知っていたじゃありませんか」
京子はそれをきくとさっと顔をあからめたが、やがて、静かな落ち着いた声音で言った。
「あれは、あの前の晩、あなた方が峰岸夫人と話していらっしゃるところを全部傍から聞いていましたからですわ」
「ほほう。ああ、なるほど、あなたは帝劇であの女にあって、あとから尾《つ》けていらっしゃったのですね」
「ええ、そうですの。そしてあの喫茶店のカーテンのうしろで、なにもかも全部聞いてしまったんですの」
「なるほど、それでよくわかりました。しかし、峰岸夫人に対するあなたの考えはおそらくまちがっていると思いますね。なぜといって、僕の考えでは、大江黒潮を殺した犯人も、篠崎宏を殺した犯人も恐らく同じ人間だろうと思うのです。ところが、篠崎君が殺されたとき、あの人は塔の付近にはいなかったのですからね」
「そうでしょうか」
京子はまだ、相手のことばをそのまま信じることができないように、不承不承にそう返事をしたが、急にまた思い返したように、
「しかし、あの岡田さんの死は――? あなたはまさかあれを、新聞に書いてあるように単なる災難だとはお思いにならないでしょう?」
「ああ、それじゃあなたもそのことに気がついていたのですね。しかし、それについて、あなたは何か御意見を持っているのですか」
「持っていますよ」京子はきっぱりと言った。
「そして、一層あの、峰岸夫人を怪しいと思ったのです」
「ほほう。それはどういうわけですか」
「だって、あの女の良人が指輪を取り出したとき、あの女はひどく驚いたというじゃございませんか。そして、あなたが、だれかにその指輪をやったのじゃないかとお訊ねになったとき、あの女はそれに対して何とも答えなかったという話でしょう。あたし中西さんからその話をきいたとき、それに対して別にこれという考えもなかったのです。しかし、その翌朝岡田さんが死んだということを聞いたときには、思わずはっとしました。だって、もし、あの女が岡田さんに指輪をやったのだと言い出したらどうだろう。岡田さんは死んでいるのだし、なんの証拠もないことですからね。そうですわ、あたしきっと、そのうちにあの女のほうから、実はあの指輪は岡田稔にやったと言い出すに違いないと思いますわ。そして二人の仲を知っていた人々は、それに対してなんの不自然も感じませんものね」
京子のこの憶測をきいたとき、耕作は思わずさっと顔色を失った。事実彼のもとには、そういう手紙がきているのだ。そして、京子はそれに対して何ら知るところはないのだから、この推測ははげしく耕作の胸に疑惑をかき立てたのだった。
「いや、その点はあとでもっとゆっくり研究してみましょう。ところで、僕はあなたに一つ見ていただきたいものがあるのですがね」
白井三郎はそう言いながら懐中からていねいに紙に包んだものを取り出した。そしてその紙包みをとくと、中から一枚のハンカチを取り出した。
「あなたはこのハンカチに見覚えはありませんか」
京子はそれを手にとり上げたが、ふいにかすかに身震いをすると、
「あっ、これが指輪と一緒に死体の側に落ちていたというハンカチですのね。――いいえ、あたし一向見覚えはございませんわ」
「そうですか。そのハンカチのすみに、何やら変なものがついているでしょう。ほら、チューインガムみたいなものが、――あなたはそれがなんだか御存じじゃありませんか」
京子はそういわれて、ハンカチを引っ繰り返して、不思議そうに指されたところを見ていたが、ふいに彼女の顔色はさっと変わった。
「あっ! これは――」
「ええ? 御存じですか。いや、御存じなんですね。いったい、それはなんなのですか。なんに使うものなんですか」
京子はしばらく、打ちのめされたようにじっと虚空を見つめていたが、急にぶるぶると身震いをすると、
「いいえ、あたし存じませんわ。なんだか、ちょっと見当がつきませんわ」
そう言いながら彼女は、まるでだだっ子のようにはげしく身を揺するのだった。
[#改ページ]
[#小見出し] フィルムの語るもの
一
白井三郎と耕作は喫茶店ルリを出ると、ゆっくりとした歩調で公園の中へ入って行った。すでに活動写真はじめ、寄席だの、芝居だのは、客を吐き出したあととみえて、中にはこの不景気な折柄、少しでも失費を少なくするためか、表の電燈を消してある小屋もあった。あまり広くない六区の通りは、ちょうど洪水の引いたあとのように、紙屑だの、バナナの皮だの、その他さまざまな不潔なものが、道いっぱいに散らかっていた。
白井三郎と耕作の二人は、わき目もふらずに活動小屋の前を通り過ぎると、やがて瓢箪池《ひようたんいけ》のそばから薄暗い観音堂のほうへ足を向けた。そして、水族館の前までくると、そこからまた、裏のごみごみとしたほこりと人いきれにいじけたような木立の中へ入って行った。二人ともほとんど一言も口を利かなかった。それでいて、彼らはめいめい相手の考えていることがすっかり分かるような気がしていた。耕作は次から次へと眼前に展開されていく、新事実に当面して、謎が解けるどころか、その反対にますますこんがらがっていくのに、すっかりうんざりしていた。つい先ほどまでは、彼は京子を犯人と信じ切っていたのだった。ところが、今ではまた彼の確信はぐらつきつつあった。必ずしも彼は、京子のことばをそのまま信じたわけではなかった。しかし、少なくとも彼は京子の態度に、一種力強いもののあるのを感じないわけにはいかなかった。それは潔白な者のみが持つことのできる、朗らかさであり、率直さである――と、耕作は信じていた。
この男は一刻も早く大江黒潮を殺した真犯人を知りたいと、あせっていながら、一方ではまた、いざとなると、何とはなしにそれを怖れているのでもあった。京子が犯人だと信じ切っていたばあいでも、彼はそれによって少しも焦燥を柔らげられなかった。いや、その反対に、彼はなんともいえぬ不愉快さを感じるばかりだった。それは必ずしも彼が京子に対して好意を持っているせいではなかった。自分の知っている人物――少なくとも表面打ちとけたことのある人物が、恐ろしい人殺しで、しかもまんまと自分はそいつに欺《あざむ》かれていたのだという感じは、だれにとっても、決してうれしいことではなかったが、耕作にとっては、それが大きな精神的な打撃となるのだった。だから、いま、京子に対する疑いが幾分晴れていくに従って、彼の憂鬱はわずかながらも薄らいでいったが、その代わり、さらにまた謎に行き当たった焦燥が、再び彼の平静をかき乱すのだった。いっそ彼は、こんな探偵めいた行動から、身を引こうかとも考えるのだったが、いつ何時、白井三郎によってそれが発見されるか知れないと考えると、彼はまた、その場に居合わさないことが残念に思われてくるのだった。どのみち彼は、この事件によって受けた精神的な打撃から解放されるまでは、この地獄のような思いからのがれることはできないように思えた。そして、それはただ時日のみが解決してくれる問題だった。
二人は間もなく、公園の薄汚いベンチに腰を落ち着けていた。みると、あちらにもこちらにも宿のないルンペンたちが、丸くなって、一夜の休息をそこに見いだしている。それはいかにも、彼らがこれから語ろうとする話題にふさわしい光景だった。
「どう思いますか、あなたは――?」
耕作が思い切ったように口を開いたのは、だいぶたってからのことだった。白井三郎はそれまで、黙然として、何か深い考えに沈んでいたが、その声を聞くと驚いたように彼のほうを振り返った。その顔はまるで、今まで耕作の存在をまるきり忘れていたといったような表情だった。
「おや、君だったのか。――失礼、つい考えごとをしていたものだからね」
「今の伊達京子の話を、あなたはあのままお信じになりますか」
「そうだね。まんざらでたらめとも考えられないようだね」
「それじゃあなたは、大江黒潮氏が、田村時雄を殺した犯人を知っていると、お考えになりますか。そして、それを伊達京子に打ち明けようとしたために、その犯人に殺されたのだということを。――」
「僕もどうやらそれが真実じゃないかと思っているのだ。しかし、それにしてもこの謎はもっともっと深いところにあるよ。それは君などの思いもかけないところにあるのだ」
白井三郎はそう言って、じっと耕作の顔を見つめた。その眼の色には、耕作が今まで一度も見たことのない、深い、真剣な恐怖があった。白井三郎はなぜかぶるっと肩を震わせながら、低い、艶のない声で呟くように言った。
「なんにしても、これは恐ろしい事件だ。そして、犯人はだれにも絶対に分からない所にかくれているのだ」
耕作はそれを聞くと、思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として相手の顔を見直した。そしてあたりをはばかるような声で訊ねたのである。
「あなたは、――あなたはそれを御存じなのですか。犯人の名を――」
「うん、僕にはほとんど見当がついている。ただ一つ――ただ一つのことを除いては」
「ええ? じゃ、あなたはだれが大江さんを殺したか知っているというのですね。だれですそれは――」耕作はそこでふいに声を落とすと、
「やはり、あの峰岸夫人だとおっしゃるのですか」
「いいや、それはまだいうまい。少なくとも、いま僕を苦しめているこの謎が解けるまでは――」
耕作は相手のいやに思わせぶりな態度をみると、急に腹立たしくなってきた。
はたしてこの男は口でいっているほども、この事件の謎をつきとめているのだろうか。では、どうしてそれが言えないのだ。いったい、彼を苦しめている謎というのはなんのことだろう。
「いったい、あなたを苦しめているその謎というのはなんのことなんです。それもまだ、僕に言ってくださることはできないのですか」
「いや、それは言ってかまわない。君のすでに知っていることだから」
そう言いながら彼は、ポケットからさっき京子に見せていたハンカチを取り出した。
「僕のいう謎とは、このハンカチについているこのチューインガムみたいな不思議なこの代物なんだよ」
「ああ、それ!」
耕作は思わず暗がりの中にそれをのぞき込みながら、
「いったい、それがどうしたというのです」
「それが僕にも分からないのだ。それが分かればこの謎はすっかり解ける、僕もそれを知りたいのだ」
「しかし、伊達京子はなんだかそれに見覚えがあったようじゃありませんか」
「そうだ。あの女はたしかに知っていた。しかし彼女は、それがどんな重大な意味を持っているか気がついていないのだ。それに気づいたら、あんなにひた隠しに隠すようなことはなかろうからね」
「じゃ、なぜあなたは、もっと突きつめて聞いてみなかったのです。あの女が知っているとすれば、それがいちばん近道じゃありませんか」
「いや、そうするためには、僕がいま疑っている犯人の名をいやでも言わなければならないことになるのだ。僕はまだ、だれにもこの疑いを洩らしたくないのだよ。それはあまり恐ろしい考えだからね」
そう言いながら彼は、そのハンカチをまた大事そうに懐中へ入れると、黙然として暗やみの中に瞳をすえていた。
「おれはたしかに、こいつをどこかでみたことがあるのだ。そしてこいつはおれの知っている品物なのだ。それがどうしても思い出せない。どこで見たのか、なんに使うのか、僕にはそれが思い出せない。どこで見たのか、なんに使うのか、――僕にはそれが思い出せそうで思い出せない。僕はだから、さっきからそのことばかり考えているのだ」
白井三郎はいかにもいらいらした様子で、袂からたばこを取り出して火をつけた。何本も彼はたばこに火をつけては、いつの間にやら、それが指の先で灰になっていくのに気づかない様子だった。
そのとき彼らのベンチへ、一人の中年の男がやって来て腰を下ろした。男は何気なくあたりを見回していたが、やがて袂からたばこを取り出すと、
「失礼ですが、火を一つ――」
と、白井三郎のほうへ腰をかがめた。
白井三郎が黙って手に持っていた吸いがらを渡すと、男は火を吸いつけて、
「いや、ありがとうございました」
そう言いながら、ぶらりと立ち上がるとベンチの側から立ち去った。そのあとを見送りながら、耕作は低い声でそっと白井三郎の耳へささやいたのだった。
「刑事ですね。われわれを怪しんで探りに来たのですよ」
だが、白井三郎は、それに答えようとはしなかった。どうしたのか、彼の頬にはさっと一様の紅味がさしていた。何かしら激しい思索の渦の中に旋回しはじめたように、眼を輝やかせ、きっと噛みしめた唇は、かすかに、わなわなとふるえているのだった。ふいに彼はぎょくんとベンチから立ち上がった。そして、なおもさっきの男の後ろ姿をじっと見送っているのだった。
「ど、どうしたのですか、あの男に何かあったのですか」
耕作はびっくりしてそう訊ねかけた。
「おれは何というばかだったろう」ふいに白井三郎が吐き出すように叫んだ。「そうだった、あれだったのだ、おい、由比君、行こう、ようやく分かったよ」
「分かったとは、何のことですか」
耕作は腑に落ちぬ顔つきで相手の顔を振り仰いでいた。
「このハンカチについている品物――あれがようやく分かったのだ。今、あの男の顔を見ているうちに、はっと思い出した。ああ、間違いない。確かにあれだ! あれに気がつかなかったなんて、おれはなんという迂闊さだったろう」
白井三郎は激しく石を蹴りながら、あらしのように湧き起こってくる感情を抑えつけようとするかのように、じっと虚空に眼をすえている。その顔は恐ろしいまでに緊張していた。
いったい、今の男から何を発見したというのだ。あの男のどこが常人と変わっていたのだ。――耕作はわけのわからぬ混乱を感じながら、仕方なしに彼もベンチから腰をあげたのだった。
二
耕作はもはやこの問題で頭を悩ますのをよそうと思った。こんなことで、いつまでもいらいらしているのは愚の骨頂だと思った。しかし、そう覚悟をきめながらも、ともすれば、ぼんやりと考えがちになる彼だった。
「由比君、また考え込んでいるね」
社にいると彼は日に何度となく同僚からそう注意された。そろそろとまた忙しくなるころで、次の計画を実行に移さなければならぬ時分だのに、彼にはまったく仕事が手につかないのだった。
伊達京子から意外な告白をきいたその翌日のこと、彼はいつもと同じように十二時ごろ出社した。昨夜、いろんな疑惑に悩まされつづけて、ほとんど一睡もしなかったので、そうでなくてもやせこけている彼の頬は、げっそりと肉が落ち、眼が落ちくぼんで、まるで病人のように色艶がなかった。
「由比君、さっき電話がかかってきたよ。おや、君どうかしたのかい、ひどく顔の色が悪いぜ」
「いや、ありがとう。別になんともないんだけど、どうも体がだるくてね」耕作はいかにも大儀そうに言った。「電話はだれからだった?」
「さあ、つい聞き洩らしたが、交換手に聞いてみたまえ」
耕作は受話器を取り上げると、交換台へ、だれから電話がかかったのか訊ねた。
「ああ、白井さんという方からでした。あなたがいらっしゃったら、砧村の日東キネマ撮影所へお電話をくれるようにとのお伝言でしたが――」
「え? 日東キネマ撮影所へ――? 白井さんがそう言ったのですか」
「ええ、そうおっしゃいました。おかけいたしましょうか」
「ああ、かけてみてくれたまえ」
電話をきると、耕作は呆然として考え込んだ。白井三郎が砧村の撮影所へ――? いったいどんな用事があったのだろう。あの朝寝坊の白井三郎が今ごろすでにはるばるとあの砧村へ出向いているというのは、よほど大切なことが起こったに違いない。むろん、それがあの大江黒潮の殺害事件と何か関係のあることは想像されたが、それにしても、砧村の撮影所まで彼が出向くというのはわけがわからなかった。何かまた、京子に対して新しい疑問でも発見したのだろうか。それともあの岡田稔の事件に関係したことではなかろうか。
突然、耕作はあることを思いついた。
――そうだ。白井三郎はあのハンカチに付着していた不思議なあの代物をよほど重大視していたようだ。そして、昨夜浅草で別れる前に、彼はそれが何であるかをようやく発見した様子だったが、あれを確かめるために京子を訪問したのではなかろうか。京子はたしかにあれを知っていたらしい態度だったから。――
耕作がそんなことを考えているとき、ジリジリと卓上電話がはげしく鳴り出した。
「もしもし、白井さんがお出になりましたよ」
受話器を取り上げると、はたして交換手のそういうことばだった。
「ああ、もしもし白井さんですか、こちら由比ですが、さっきお電話をくださいましたそうで――」
「ああ、由比君、君いますぐ出られないかね」
「ええ、出られないことはありませんが、何か変わったことが起こったのですか」
「ふん、ここでちょっとした実験をしてみようと思っているのだが、ひまなら君も立ち会わないかと思って、電話をかけてみたのだがね」
「実験ですって、その撮影所でですか」
「ああ、そうだよ」
「いったい、どんなことです。その実験というのは――」
「まあ、いいから来たまえ。なあに、別に変わったことでもないのだがね」
「そうですか、じゃすぐ行きましょう。しかし、それまで待っていただけますか」
「ああ、そこから一時間半あれば来られるからね。それぐらいなら待てるだろう。しかし、あまり遅くなっちゃ困るよ。僕はいいけれど、ほかの人が気の毒だから――」
「他の人といいますと――?」
「まあ、何でもいいから来たまえ。来れば分かるよ」
耕作は電話を切ると、すぐ身支度を整えて編集室を飛び出した。省線で新宿まで、そしてそこから小田急に乗り換えた耕作は、電車の速力ののろさに、何度いらいらしながら席から立ち上がったか分からなかった。白井三郎はいよいよ最後の決勝点へ入ろうとしているのだ。それはいつになく興奮した電話の声音でも分かることだった。実験――それがどんな種類の実験であるか、耕作には想像もつかなかったが、それが成功すれば、彼はいよいよ犯人を名指しすることができるのだ。耕作はそれを考えると胸ががんがんと鳴って、今にも息が止まりそうな気がした。
電車はようやく砧村へついた。撮影所はしかし、そこからまだ十丁近くもあるのだった。駅前の広場を見回したところ、あいにくにも俥がどこにも見えなかった。
一刻も待つ気にはなれなかった耕作は、そこで道を聞くと大急ぎで歩き出した。
九月とはいえ、日盛りはまだ真夏と同様やけつくように暑かった。耕作は上衣を片手にかかえたまま、ほとんど宙をとぶようにして歩いていた。
やがて白い砂ぼこりと青い水田の向こうに撮影所らしい建物が見えてきた。耕作は何となく、その撮影所の入口こそ、この事件のゴールだというような気がした。
守衛の所で恐る恐る名前を告げると、あらかじめ通じてあったとみえて、すぐ撮影所の中へ案内してくれた。きたない、ごみごみとした構内を抜けて、バラック建てのような狭い建物の中へ入って行くと、
「ああ、いらした――」
と言った京子が笑顔を浮かべながら立って迎えてくれた。見ると白井三郎はぽつねんとたばこをくわえたまま、危なっかしい椅子に腰を下ろしている。
「やあ、どうも遅くなりました。これでもできるだけ急いで来たのですけれどね」
そう言いながら時計を見ると一時四十五分だった。
「いや、まだなのよ。まだ支度はできていないのよ。でも、もうすぐですわ」
意外に朗らかな京子の様子に、耕作は内心軽い安堵を覚えた。少なくとも白井三郎の実験の犠牲者となるのは彼女でないことが分かったからである。
「まあ大変な汗ね、待っていらっしゃい、いま冷たい飲み物を持って来てあげますわ」
京子が出て行くとただ二人きりになった。
この部屋は宣伝部か何かの部屋らしく、荒|削《けず》りの板を張りつけた壁の上には、ポスターが一面に貼りつけてある。なんの気もなくそのポスターをながめていると、中に見覚えのある風景を描いたポスターが一枚あった。
「おや、ありゃバベルの塔の景色じゃありませんか」
耕作は驚いてそう白井三郎に言った。白井三郎はそれを振り返りもしないで、
「そうだよ」
「ほほう、すると、軽井沢で映していた映画は結局撮りあがったとみえますね」
白井三郎ははじめて口からたばこをはなすと、
「いや、そうじゃないんだそうだ。僕もさっき聞いてみたんだが、あの映画は何しろ監督の篠崎が亡くなったのでそれきり。おまけに主役の岡田まであのとおりだろう。だから、あの映画はあれだけではどうにも仕様がない。つまりそれだけのむだが出たわけだね。そこで撮影所なんかには才人がいるもんだが、あれだけのネガをふいにしてしまうのはもったいないというので、あの映画のバベルの塔の映っている部分だけをうまく集め、それに新しく筋を書き加えて別の映画をこしらえるんだそうだよ。むろん、それには新しい場面を加えなければいけないというので、このスタジオの中に、あの塔の模型だの、大セットだのができているよ。あとで見せてもらいたまえ。なかなかうまくできている」
「ほほう、するとやはり伊達京子が主役をやるんですな」
「むろんそうだろう、何でも岡田の役を全然削ってしまって、喜劇にしてしまうんだそうだ」
「なるほど、映画というものはその点便利ですね」
そこへ京子が冷やし紅茶を三つ持って入って来た。
「田舎だから何もありませんのよ」
耕作は紅茶を一息にのみ干すと、それを盆の上に返しながら、
「京子さん、あなたは今日は撮影はないのですか?」
「ええ、今日は体があいているの。まだセットのほうが組み上がらないのでね、ああ、セットといえばあなたにも見せたいわ、それはおもしろいものができていますのよ」
「いま、白井さんから聞きましたが、バベルの塔を使うんだというじゃありませんか」
「ええ、そうなの。つまりあれだけの費用をふいにするのはもったいないというのと、それにあの塔そのものがちょっとおもしろいでしょう。それで、その部分だけでも生かそうじゃないかということになって、今度はすっかり喜劇にしたのよ。明日から撮影にかかりますの」
「あなたは、しかし、撮影がなくても、こうして毎日きているのですかね」
「あら、そうじゃないわ」と京子はちょっと白井三郎をにらむまねをしながら、「今日は白井さんに引っぱり出されたのよ。白井さんがここでちょっと見たいものがあるとおっしゃるので、あたしはその口きき役なのよ」
彼らがそんな話をしているところへ、若い、一見して分かるキャメラマン助手といった格好の青年が入って来た。
「あの、用意ができましたが――」
「ああ、そう、ありがとう、それじゃ白井さん、まいりましょうか」
白井三郎はたばこを灰皿の中に捨てると、黙って椅子から立ち上がった。耕作もそれにつづいてやや面を緊張させながら立ち上がった。いよいよこれから実験がはじまるのだ。だが、だがその実験というのはいったいどんなことなのだろうか。このスタジオをわざわざ選んだという理由――そこにどんな謎があるのだろう――耕作はせわしく頭を働かせながら三人のあとに続いて行った。
「由比さん、ちょっと御覧なさい、ほら、あれがバベルの塔のセットよ」
大きなダークステージの表を通るとき、京子がふと立ち止まって、耕作のほうを振り返った。そのことばに耕作がのぞいてみると、なるほど、がらんとしただだっ広いステージの中に見覚えのあるバベルの塔の展望台が、ほとんど原物と同じくらいの大きさでこしらえてあった。しかもその展望台の彼方には、彼らが幾度となく、あの恐ろしい経験をなめた、階段迷路の一部分が、かなり広い範囲において作り上げてあるのだった。
つまり塔をそのまま映すことは、場所並びに高さの関係から不可能なので、その重要な部分を幾つかに分けて造り上げてあるわけだった。映画のばあいはこれで結構間に合うのだろう。
「ほんとうだ、こいつはなかなかうまくできていますね」
「まだ、この他に例の観覧車ね、あれもこしらえるつもりなんだけれど、今日はまだできていないわね」
やがて一行はそのステージの表を通りすぎると、ごみごみとした建物の間を通って、ようやく奥まった所に建っている、小さな建物の前に案内された。それはこの撮影所の中にある試写室だった。
「じゃ、どうぞ」
先に立ったキャメラマンがとびらを開くと三人のほうを振り返った。三人は黙って中へ入って行った。狭い試写室の中はすでに、映写の用意ができているとみえて、窓という窓はことごとくぴったりとシェードが下ろしてあるので、真っ暗だった。耕作は手探りをしながら、京子の白い着物を目当てに、ようやく土間の中ほどに腰を下ろすと、きょろきょろとあたりを見回した。眼がなれてくるにしたがって、正面に白いスクリーンがぼんやりと浮き出してくる。それは一間四方くらいの小型のかわいらしいスクリーンだった。
「随分暑いわね」
「試写はいつもここでやるのですか」
「ええ、たいてい――でも、今もう少し大きいのができかかっているのよ。何しろこれだと十人くらいしか入れないので困ることがあるのよ」
そんな話をしているうちに耕作の眼は次第に慣れてきた。傍を見ると白井三郎が、口をへの字なりに結んで、一心にスクリーンの面を凝視している。それはまるで次に起こるべき事件に対して挑戦しているような格好だった。
やがて、何の前ぶれもなしに、突然スクリーンの上に白い光線がぱっと反射した。しばらく、その光線は戸惑いしたように、あちらこちらと位置をかえていたが、ようやくそれがきまると、いきなり字幕も何もなしに、京子の顔が大きく、スクリーンいっぱいに映った。と、思うと、すぐそれが消えて、石版に一二八と書いた文字が現われたかと思うと、そのあとへ見覚えのあるバベルの塔の全景が、美しいエッチングのようにくっきりと明暗を作って映し出された。塔のかなたを雲がゆっくりと走っているところまで巧みにキャメラの中に入っている。その塔の全景が消えたかと思うと、次には何の連絡もなく、岡田と京子がテニスをやっているところが映る。岡田の笑顔。――と、こういう風にこの映画は、一巻のネガをそのまま焼き付けたままでまだ編集をしてないとみえて、前後に関係のない場面が突拍子もなく次から次へと映るのである。それはまず次のようなものであった。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
――靴をはいた女の踵(路傍)。
――不審そうに何か言っている岡田の顔《C・U》。
――高原全体の景色(ゆるやかな移動)。
――高らかな京子の笑い《C・U》。
――ラケットを握った女の手。
――小川、水車。
――バベルの塔の階段《B・I・V》。
――階段を登る岡田と京子《B・I・V》。
――指輪をはめた女の手。
――塔の風景《ロング》。
――折江の顔《C・U》。
[#ここで字下げ終わり]
ここで思いがけなくも突然折江の顔が出たので、耕作は思わずはっ[#「はっ」に傍点]とした。しかし、次の瞬間、彼はああそうかとはじめてうなずいたのである。このフィルムは、大江黒潮が殺された日の午後、篠崎が最後の仕上げとして撮影したものに違いなかった。つまり折江はこの映画に急に書き加えられた京子の叔母として、臨時に出演しているのであるが、そのときのフィルムに違いないのだ。
[#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]
――折江の全身《ロング》。
――塔の階段、岡田と京子が下へ向かって手をあげている。
――折江、斜め上を向いてハンカチを振っている。
――折江の笑顔《C・U》。
――下から撮った階段、蜘蛛《くも》の巣のように交差している。
――丘を下りる三人、塔をバックに。
――夕陽《F・O》。
[#ここで字下げ終わり]
と、まずざっとこんな風なものだった。むろん篠崎はこれらの場面を整理して一編のストーリーを作りあげるつもりだったのだろうが、これだけでは何が何やらさっぱりわけが分からなかった。ただ、バベルの塔と、軽井沢の高原と、岡田と京子と折江が映っているというにすぎなかった。しかも、それらの場面が、何の連絡もなく、スクリーンの上に現われては消えて行くので、見ているものにとっては不思議な錯覚を感じさせるばかりだった。
フィルムはそれからまだしばらく続いたが、ふいに最後の切れはしが白光のように怪しくまたたいたかと思うと、ふいに狭い試写室にパッと電気がついた。耕作はそれで思わずわれに帰ったのである。
しばらく三人はほとんど無言のまま、まだ幻影の消えやらぬスクリーンの上を呆然として凝視していたが、やがて京子がほっ[#「ほっ」に傍点]としたように言った。
「いかがでした? これでいいのですか?」
「いや、ありがとう」
白井三郎はそう言いながら袂からハンカチを取り出すと、忙しく頸《くび》の汗をふいていた。なるほどこの狭い試写室の中は蒸されるような暑さだった。しかし、白井三郎があんなにも汗をかいていたというのは、ただこの室の暑さのためだけだろうか。
見ると彼の顔は真っ青になって、鋭い眼は、いまだにスクリーンの上を探るように、怪しく、陰気にまたたいていた。
「白井さん、あなたの実験というのはこのフィルムのことだったのですか」
耕作は不思議そうにそう訊ねた。
「ああ、そうだよ」
「それで」と耕作は思わずなまつばを飲み込みながら、「何か分かりましたか、このフィルムから」
「ああ、分かった、これでなにもかも解決されたよ」
「まあ、あのフィルムの上にどんな謎がかくされていたとおっしゃるの?」
白井三郎は陰気な顔をして黙り込んでいたが、やがて思いきったように椅子から立ち上がった。
「いや、そのことなら、まだ申し上げますまい。しかし、僕はとうとう見つけましたよ。犯人と、そしてその証拠を。――」
白井三郎はそう言って、白い眼でじっと京子と耕作の顔をながめたのだった。耕作ははげしく頭を回転させながら、もう一度いまみたフィルムの場面を思い出そうとしていた。しかし、彼にはどこにも、これといった変わった場面は思い出せないのだった。
[#改ページ]
[#小見出し] 仮面落つ
一
啓
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
今夜7時砧村の日東キネマ撮影所まで来られたし。何人《なにびと》にも絶対秘密のこと。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]白井
耕作がそういう簡単な手紙を受け取ったのは、砧村の試写室で、あの奇妙な実験をやってから三日目の夕方のことだった。
耕作はそれを読むと思わずはっと息を飲み込んだ。いよいよ事件がカタストロフィーに迫ってきたことが、このあわただしい走り書きから読み取ることができたのである。
それにしてもあの砧村の撮影所へ来いというのはいったいどういう意味だろう。秘密はやはりあの撮影所にあるのだろうか。
耕作はそう考えているうちに、ふいにあることを考えてぎょっとした。
――そうだ、これはやはり京子に関係していることではなかろうか。あの撮影所に関係のある者といえば京子より他にはないはずだ。このあいだはあんなにさりげなく別れたけれど、白井三郎は依然としてあの京子を疑っているのではなかろうか。そうだ。そういえばこのあいだ見たフィルムにも、いちばん多く映っていたのは京子だった。自分にはまったく気がつかなかったけれど、白井三郎はあのフィルムのなかから、京子の恐ろしい秘密をかぎ出したのではなかろうか。
耕作はまたしても胸苦しくなるほど、さまざまな疑惑に悩まされながら、それでも大急ぎで身支度をととのえると、砧村へ出かけて行った。
彼が撮影所の近所まできたのはちょうど六時三十分ごろのことだった。このあいだ通ったことのあるあの正門のほうへ行こうとすると、ふいに路傍の木立の下から、
「おい!」
と低い声で呼ぶ者があった。
はっとして振り返ってみると、そこには白井三郎がすごい形相《ぎようそう》をして立っているのだ。その顔を見た刹那、耕作は本能的に、自分を守るようにきっと身構えをした。
「ははははは!」白井三郎は乾いた笑声をたてると、
「失敬、失敬、驚かしてすまなかったね」
「ど、どうしたのです、こんな所で――?」
耕作はまだ警戒をゆるめないで、探るように相手の顔を見ながらそう訊ねた。白井三郎のそのときの様子には、それほど奇妙な、妙に人を脅かすような物すごさがあったのである。
「なあに、君を待っていたんだよ。今日はあの正門から入れないから、君が戸惑いしちゃ気の毒だと思ってね」
「そうですか」
そこで二人は歩調を揃えて、撮影所のほうへ急いだ。めっきりと日が短くなってくるころで、あたりはすでに灰色に暮れなずんでいる。屹然《きつぜん》とそびえた撮影所の正門はぴったりと貝のように閉ざされていて、あたりにはさらに人の気がなかった。
二人はこの撮影所を側面のほうへ回ると、そこにある小さなくぐりをくぐった。どうしたのか撮影所全体が、がらんと廃坑のように静まり返っていて、今しも灰色の夕やみの中に次第にその姿を沈めて行きつつあった。
「どうしたのです。今日は撮影所は休みなんでしょうか」
「ああ、何でも今日はこのスタジオの創立記念日だとかでね。お昼にちょっとお祝いがあったきり、あとは休みなんだそうだ」
なるほど、そういわれてみると、門前に旗が立っていたことを耕作は思い出した。しかし、日ごろ、あんなに活発に、精力的に動いている撮影所の内部が、死人のようにその骸《むくろ》を横たえているところを見るのは、日ごろが派手な場所だけに、一層妙に物すごかった。
「何時だね?」
白井三郎はごたごたとした撮影所の中を、いかにも慣れた態度で先に立っていたが、ふと耕作のほうを振り返ってそう訊ねた。
「七時二分前です」
「ああ、そう、じゃさっそくあすこへ行って待っていよう」
耕作には考えれば考えるほど相手の態度が飲み込めなかった。いったい彼は何をもくろんでいるのだろう。この人気《ひとけ》のない広い撮影所の中で、この男は何をしようというのだろうか。耕作はすでに、このあいだの習慣から、この男に何を訊ねてもむだだということを知っていた。相手がなすこと、それを黙って見ているより他に仕方がないのだということを、彼はいつの間にやら教え込まれているのだった。
白井三郎はやがて、とあるステージの前に立つと、驚いたことにはポケットから合鍵を出して入口のとびらを開いた。
「さあ、ここで待っていよう」
待つとは何を待つのか、いったい、何事がここで起ころうというのだ。――耕作はややうんざりとした顔つきで、その建物の中に入ったが、そのとたん彼は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてその場に立ちすくんだのだった。
それは二、三日前彼がこの撮影所を訪ねたとき、京子に注意されてのぞいたあのダークステージだった。中にはさまざまな思い出を持ったあのバベルの塔の模型がそのまま造り上げられているのだ、展望台、階段迷路、――そして今みるとあの観覧車さえも巧みにこしらえているではないか。
この人気のないスタジオの薄やみの中に、それらの模様がぼんやりと浮き上がっているところを見た耕作は、ふいにはげしい恐怖と不安を感じてきた。数人の人を殺したあの呪われた塔は、またもやこの撮影所の中で、犠牲の血を求めているのじゃなかろうか。無言の謎を秘めたあのバベルの塔は、無心な職人たちの手によってこわされたけれど、今ここにかりの姿を現わして、再び殺人の呪いを繰り返そうというのではなかろうか。――
そう考えると耕作の胸ははげしく鳴り出してくるのだった。
「こちらへ来たまえ」
やにわに白井三郎が耕作の腕をむんず[#「むんず」に傍点]とつかんだ。その手は氷のように冷たかった。
「ど、どうしようというのです。――あなたは、いったいこの僕をどうしようというのです。――」
「まあいいから、こちらへ来たまえ」
そのとき耕作の眼には、この白井三郎という男が、恐ろしい塔の化身のように物すごく映った。
――だめだ。おれはまんまとこいつのわなにはまったのだ。――こいつこそあの恐ろしい殺人者だったのかもしれない。そして最後にこのおれを同じ塔の模型の中で殺そうとするのじゃなかろうか。――
耕作は必死となって抵抗を試みようとした。しかし、彼の腕をつかんだ鉄のような指は、まるで噛み合った歯車のようにじっと肉に食い込んでいるのだ。
「ははははは! どうしたのだ、君は――何をそんなにびくびくしているのだ」
白井三郎は再び乾いた笑声を立てると、耕作の腕をつかんだまま、展望台のほうへ上がって行った。
耕作は次第に気が遠くなるような、不思議な心の甘さを感じてきたのだった。
「声を立てちゃいけないよ。どんなことがあっても驚いたり、叫んだりしちゃいけないよ」
展望台の上まで来ると、白井三郎は低声でそっとそう注意した。
しかし、今の耕作にとってはその注意はまったく無意味だった。彼はもう声を立てるにも舌がこわばっていたし、身動きするのも大儀なほど、ひどい恐怖に打たれていた。のしかかって来るような相手の威嚇《いかく》が、耕作の臆病な魂をすっかり縮みあがらせているのだ。
もしこのとき、ふいに白井三郎が腕を伸ばして、耕作の咽喉頸《のどくび》をしめようとしたところで、彼は一言も声を発することはできなかったに違いない。
「さあ、この物陰へ身をひそめていたまえ。もうそんなに長いことはないよ。少しの辛抱だ」
耕作は言われるままに展望台の片すみに腰を下ろした。
そのとたん彼は、全身の力が空気のように抜けて行くのを感じた。
いったい、どれくらい彼は魂が抜けたようにそこにうずくまっていたろうか――
ふいに白井三郎が、
「来た!」
と、低い、鋭い声で注意するのが聞こえた。
そのとたん、さすがに、耕作の全身の神経はピンと張りきって、どんな微細な物音でも聞き洩らすまいという風に身構えていた。
跫音が一つ――いや二つ――ぴたぴたとこちらのほうへ近づいて来る。たしかにこのダークステージの入口のほうから、だれかが近づいて来るのだ。不思議なことには、その跫音から考えると、たしかに二人だと思われるのに、話し声は絶対に聞こえなかった。つまり彼らは唖《おし》のように黙り込んだまま、このスタジオの奥のほうへだんだん進んで来るのだった。
間もなくその二つの跫音は、耕作たちのいる展望台の下でぴったりと止まった。
耕作は思わずごくりとなまつばを飲み込んだ。彼らはこの展望台へ上がってくるだろうか。登って来たが最後、そこにかくれている耕作たちの姿はすぐさま発見されてしまうのだ。――
しかし、幸いにも跫音は、展望台へは登らずに、すぐ向かい側にある階段迷路のほうへ登って行った。
「まあ!」
そのとき、かすかな女の叫び声が、はっきりと耕作の耳に聞こえてきた。耕作はそれを聞いた瞬間、思わずどきりと、心臓を大きく波打たせながら、展望台のかげから身を伸ばそうとした。たしかに聞き覚えのある声だったからである。しかし、彼が身動きする前に、白井三郎が袖をひっぱったので、やっと耕作は体を落ち着けることができた。
「どう、うまくできているでしょう。すっかりあのバベルの塔のとおりでしょう?」
突然そういう声が、耕作から二間とは離れないところから聞こえてきた。しかもその声はたしかに京子だった!
京子! ああ彼女はいったいここで何をしようとしているのだ。耕作は何とはなしに、荒い針金で体中を鞭うたれるような恐怖を感じた。
「まあ!」
と、最初聞いたと同じ声が、低い、弱々しい旋律《せんりつ》をつくって流れてきた。今度こそもう聞きあやまるようなことはなかった。たしかにそれは折江の声だった。
二
「まあ、ほんとうによくできていますこと」
折江の声は恐怖のためにいちじるしく震えているのが感じられた。それをきいている耕作も、今にも息づまりそうな胸苦しさを感じるのだった。
京子と折江。――
いったいこの二人はなんのためにこの人気のないスタジオなどへやって来たのだろう。そしてこれから先、どんなことが、二人のあいだに演じられようというのだ。
「京子さん」折江が低い、おびえたような声で言った。
「もうそろそろ向こうへ行きましょうよ。あたしよく拝見しましたわ。ほんとうによくできていますわね。ねえ、だからあちらへ行きましょうよ」
「ええ、行ってもいいわ。しかし、ここはいちばん話をするのに都合がいい所ですもの。だれに見つけられる心配もないし、だから、あたしわざとここを選んだのよ」
「まあ!」
「さっきもいったとおり、今日はこのスタジオ休みなのよ。だれ一人いないの。だからどんな大声をたてても大丈夫だわ」
京子の声にはあざけるような鋭い針がこもっていた。
「まあ、それはいったいどういう意味ですの、京子さん?」
「どんな意味だか、今に分かりますわ」
しばらく二人のあいだに沈黙がつづいた。耕作にとってはその沈黙が耐えがたい苦痛だった。どんなに恐ろしいことばでもいい、二人がしゃべってくれるあいだは、まだしも安心することができるのだった。
だいぶたってから折江が相変らずおびえたような声でいった。
「京子さん、それであたしに御用というのは、いったいどんなことでございますの?」
京子はそれに答えようとしなかった。しばらく荒々しい息遣いが耕作の耳まで伝わってきた。
「奥さん!」ふいに京子の鋭い声が、がらんとしたスタジオの中の空気をふるわせた。「あたし、あなたにお訊ねしたいことがございますのよ」
「まあ――だから、それはどんなことでございましょうか」
「このハンカチ、たしかに奥さんのでございましたわね」
ハンカチ――と聞いたとき、耕作は思わずぎくりとした。京子が言っているのはあのハンカチのことだろうか。
「まあ、どうしてでございますの。このハンカチがどうかしたのですか?」
「このハンカチはね、大江先生の死体の側に落ちていたものなんですわ。ねえ、奥さん、あなたこのハンカチに見覚えがございましょう?」
「あら、どうして? だってこれは普通のハンカチじゃございませんか。別にどこにも目印のない。――どうしてこれがあたしのハンカチだとおっしゃるの?」
「そう、どこにも目印はございませんわね。血がついているだけで。――だけど、あたしこれがたしかにあなたのハンカチだという証拠を発見しましたのよ」
「どんな――どんな証拠でございますの?」
「ほら!」と、京子の甲高い声が聞こえた。「このハンカチのすみに何やらチューインガムみたいなものがくっついているでしょう。あたし、これがなんだかということをこのあいだはじめて知りましたの」
たしかにそれは白井三郎があんなに知りたがっていた謎のハンカチに違いなかった。しかし、あのハンカチをどうして京子が持っているのだろう。白井三郎が彼女に渡したのだろうか。耕作は思わず白井のほうを振り返ろうとしたが、そのとき、またもや京子の声が聞こえてきた。
「白井さんもこのチューインガムみたいなものが何であるか随分研究していらっしゃいましたわ。しかし、あの人にはとうとう分からなかった様子なんですの。もっとも職業違いだから、無理もありませんけれどね。しかし、あたしは一目これを見たとき、すぐに何であるかが分かりました。だけど、そのときどうしてもそれを白井さんに打ち明けることができませんでしたの。これが何であるかということは分かったけれど、いったい、それがどんな重大な意味を持っているかということはちっとも気がつきませんでしたのでね」
「それが――それが何か大きな意味を持っておりますの?」
折江のかぼそい声が、あたりの空気をふるわしながら聞こえてくる。
「奥さん!」
ふいに京子のきっぱりした声が、何か押えつけるように聞こえた。
「あたし、二、三日前に軽井沢で撮影したフィルムを何気なく見ましたのよ。ほら、あたしたちがいちばん最後にとった写真、――奥さんがエキストラとして出演していらっしゃる、あの写真を見ましたのよ」
「それが、どうかしたのですか」
「まあ、お聞きなさい。あたしほんとうに何も考えずにあの写真を見ておりましたの。そのうちに、大変なことを発見しましたの。奥さん、あなたはあの写真をお撮りになるために、金歯をかくしていらっしゃいますわね」
「ああ!」
ふいに折江の突き上げるような声が聞こえた。
「あたし、あの写真を見るまではすっかりそのことを忘れていましたのよ」と京子はさらにことばをつづける。「このハンカチについているものが役者などの使う金歯かくしのゴムであることは一目見て分かりましたの。しかし、あのばあい、あたしだって、岡田さんだって、金歯を入れてはいないんだから、こんなものを使うはずがないでしょう。といって、これは素人の使うものじゃなし、いったいだれがこんなものを使ったのだろう。――あたしは漠然と、ただそんな風に考えていたんですの。あのときには、あなたがエキストラで出たことなんかすっかり忘れていたんですわ。ところが、このあいだ、あの軽井沢の写真をみて、あたし思わずどきっとしましたのよ。何だか、あなたの顔がいつもと違っている。――ただおしろいの加減というには、あまりに妙な変わりかただ。やはり素顔とカメラフェースはこんなにも違うのかしら――そう思ってみているうちにあたしはっ[#「はっ」に傍点]としましたの。あなたの金歯がなかったのですわ。つまり金歯かくしをしていらしたからですわ。しかもあの写真をとったのは、大江先生が殺された日の午後のこと、わずか三、四時間前でしたわね」
しばらく恐ろしい無言がつづいた。荒々しい女たちの息遣いが、切迫した空気の振動を伝えてくるのだった。白井三郎はこれらの話のあいだ、石像のように身動きもしなかった。耕作はこの意外な物語に、今にも気を失いそうだった。
「京子さん!」
しばらくして、折江の低い、哀願するような声が聞こえた。
「そのことは白井さんも知っていますの?」
「いいえ、白井さんはまだ気がつかない様子なのよ。だけど、今夜あなたのはっきりした返事が聞けなければ、あたし白井さんにこのことをいうつもりなの。あたしには、あなたが何のために先生を殺したのか少しも分からないけれど、あの人ならきっとその動機を発見してくれますわ。あたしはこの事実を白井さんに告げて、大江先生を殺したのはあなただと――」
ふいに京子の声が途切れた。と、思うと、ばたばたともみ合うような物音が聞こえた。
「まあ! 何をなさるんです!」
京子の声がつんざくように聞こえたが、と思うと、すぐ格闘の音もやんだ。
「京子さん!」
折江の声が、落ち着き払った憎々しさをもって脅かすようにひびいてきた。
「あなたはさっきなんとかおっしゃったわね。今日はこのスタジオは休みでだれ一人あたりにいないから、どんな大声で叫んでみたところで、だれに聞こえる心配もないって。ほほほほほ!」
「まあ! 折江さん!」
「いいから黙っていらっしゃい」
主客はまったく転倒した。京子の弱々しい、絶望的な声音に反して、折江はすっかり落ち着き払っていた。そして、はげしい憎悪と嘲けりをこめながら、一句一句噛んで含めるように言うのだった。
「京子さん、女だてらにおせっかいなことをするもんじゃないわ。白井三郎という男はね、あたしの敵なの。ええ、ほんとうに、ほんとうに憎い敵なのよ。あいつはあの鋭い頭で、どんなことでもできる男だわ。今度の事件でも、最初からあたしを疑っているのはあいつ一人だった。あいつはすきがあったらあたしの罪を摘発しようとしているのだわ。だけど、幸いにも今までのところ、何にもこれという証拠がなかった。――その証拠を、その証拠をあなたが見つけた。それがあなたの不運なんだわ」
「奥さん、――それじゃ、やはりあなたが大江先生を――」
「そんなこと、どうでもいいじゃないの。あたしだって自分の身は守らなければなりませんからね。ですから、白井三郎にこの大切な証拠を渡されないようにあなたを――」
「あれ! 奥さん!」
京子のおびえきった声が啜り泣くように聞こえた。
「ほほほほほほ! 京子さんだめよ、どんなに叫んだところでだれも来《き》ようはないとあなた自身でおっしゃったじゃないの。あなた、岡田さんのことを覚えていらっしゃる?」
「岡田さん――?」
「そうよ。あの人はまったく災難で死んだということになっているわね。京子さん、あなたも今にそうなるのよ、いや、伊達京子は岡田稔に恋をしていたので、あとを追って自殺したのだというかも知れないわ」
「まあ――それじゃ岡田さんを殺したのもあなただったのね。――いったい――なんのために?」
「ほほほほほ、それが聞きたいの? いいわ、聞かせてあげてもいいわ」
折江は自分の犯した恐ろしい事実の数々を、まるで何か甘美な物語か何かのように、うっとりとして話しているのだった。
「あなたは峰岸夫人のあの猫眼石の指輪のことを覚えているでしょう。夫人はあの指輪をみたとき、ただ驚くばかりで、何とも答えることができなかったというじゃないの。あたし、その話を由比さんから聞いたとき、思わずどきりとしたわ。あたしもあの指輪が峰岸夫人のものだとはまったく知らなかったのよ。あの指輪は、やはり撮影のとき、あたしが岡田さんに借りたものなのよ」
「まあ!」
「そうよ。あたしのあの役にはどうしても指輪がなければいけないというところから、篠崎さんが岡田さんから借りてくれたの。ただし、あの石はあまり仰々しすぎるから手のひらのほうへかくして、ただプラチナのほうだけを見せておくことにしたのよ。――ところが、撮影がすんでからも、あたしはあの指輪のことはまったく忘れていたの。いいえ、このあいだ由比さんから指輪の話をきくまでは少しも気がつかなかったのだわ。もともとあの指輪は男の指にはまるぐらいだから、あたしには少し太過ぎたのだわ。だからあのとき、滑り抜けたことにまったく気がつかなかったのも無理はないわ。しかし、そんな指輪をはめていたことなど、すっかり忘れていたのだから、思いがけなく由比さんからその話をきくまでまったく気がつかなかったの。――さあ、大変だ。峰岸夫人は岡田さんに迷惑がかかってはならないと思ってことばをにごしている模様だが、いずれは打ち明けずにはいられないだろう。そうすれば今度は岡田さんが調べられる番だ。岡田さんはなんというだろう。もちろんあたしに貸したというだろう。――京子さん、そんなばあいあなただったらいったいどうすると思って?」
「ああ、ああ、ああ」
京子が白痴のように呻《うめ》いているのが聞こえた。
「恐ろしい! 恐ろしい! あなたは恐ろしい人殺しだわ」
「ほほほほほほ! そんなことを今更いったところではじまらないわよ。あたしだってそうそうこんな恐ろしいことはしたくないけれど、自分の身は自分で守るよりほかに仕様がありませんからね」
折江の声はもはや、普通の人間の声ではなかった。
何かしら憑《つ》かれた人のような、低い、物すごい、冷たい声音だった。
突然、ばったりと猫がねずみに飛びかかって行くような物音がきこえた。
「あれ! 白井さん、助けてちょうだい!」
「え?」折江のぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたような声が聞こえた。「白井三郎が――白井三郎がいるの?」
「いるわ――白井さん、来てちょうだい、ああ、早く、早く――」
白井三郎と耕作が、すっと展望台の中から立ち上がったのはそのときだった。見ると彼らから一間とは離れない階段迷路の上で、今しも京子の咽喉に手をかけていた折江は、その物音にぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたように振り返った。
ああ、そのときの恐ろしい形相を、耕作は一生涯忘れることはできないだろう。それは突然、地獄の深淵の前に立たされた亡者のような、絶望的な憤怒に燃えた顔だった。しばらく、白井三郎と折江の眼と眼は鋭い火花を放ちながら、じっと薄暗がりの中でからみあっていた。そうしているうちにも折江の表情は、さまざまに変化した。
最初は怒れる孔雀《くじやく》のごとく傲慢《ごうまん》に、その次はいたずらを発見された小学生のように弱々しく、そして最後には主人の怒りにふれた奴隷のような絶望的な色が浮かんだ。突然、彼女は、青白い顔に啜り泣くような小じわを浮かべると、ふいに京子の咽喉から手を放して、くるりと踵《きびす》をかえして一散に階段を降り、スタジオを駆け抜けて行った。その姿はまるで酔っ払いのように、よろよろとしていた。
「白井さん、あとをあとを――追っかけなくてもいいのですか?」
「ほっときたまえ」
白井三郎は暗い、憂鬱な声でそう言うと、展望台を降りて階段迷路のほうへ登って行った。幸い気丈な京子は、あの恐ろしい経験にもかかわらず、気絶するようなこともなく、手すりにつかまってじっと暗やみの中に瞳をすえていた。
「京子さん、ありがとう。随分恐ろしかったでしょう」
ふいに京子は子供のように顔を歪《ゆが》めて泣き出した。
「白井さん、お芝居はあれでよかったの?」
「結構でした」
「だけど、白井さん、言ってちょうだい、やっぱり犯人は折江さんだったの?」
「そうです、今あの女が告白したとおりですよ」
「なぜ、――なぜあの女はそんな恐ろしいことをしなければならなかったのでしょう?」
「京子さん、驚いちゃいけませんよ!」
白井三郎は京子の肩に手をかけると、相手の眼の中をじっとのぞき込みながら、おごそかな声で言った。
「あの女こそ、あなたの兄さんを殺した犯人だったのですよ。あの女はかつてあなたの兄さんに欺かれた、かわいそうな恋人だったのです」
[#改ページ]
[#小見出し] 大江黒潮
一
耕作が高い熱から、ようやく正気に復したのはあの恐ろしい事件があってから三日目のことだった。
夜となく、昼となく、彼は熱のためにうわ言をしゃべりつづけていた。その傍には白井三郎とそして、ときどき見舞いにくる京子とが、一緒によく付き添っていた。
「かわいそうに、この男にとってはこのあいだの出来事はよほどの打撃だったのだね」
「無理もありませんわ」
京子は気の毒そうに耕作の肉の落ちた頬をのぞき込みながら、しんみりとした調子で言った。
「だれだって、自分の信頼している人があんな恐ろしい、――恐ろしいことをしたかと思うと、気が変にならずにはいられませんわ」
「いや、それには僕の責任もあるのですよ」
白井三郎はややがっかりとした調子で言った。
「この男はね、内々僕を疑っていたのですよ。というのは、あの『恐ろしき復讐』という小説――あれが今度の事件の根本をなしていることが分かり、そして、どうやらその材料を提供した人物が自分の昔の罪の発覚をおそれて、大江黒潮を殺したのだと決まったとき、この男がいちばんに疑ったのはこの僕だったのです」
「まあ」京子はそれを聞くと思わず美しい瞳を見はった。そして弱々しい声でそれに付け加えた。
「それなら、あたしも言わなければなりませんわ。あたし自身がやはり、そうじゃないかと思っていたくらいなんですもの」
「はははははは!」白井三郎は乾いたような声で笑った。
「無理もありませんね。大江黒潮という人間はいつも僕の夢を小説に書いていたのですからね」
二人はそこでふいと黙り込んでしまったが、それからしばらくして、また白井三郎が口を開いた。
「それにね、このあいだスタジオへこの男を引っぱって行ったとき、僕はこの男に何の説明も与えていなかったのです。それに今から考えてみると、僕は興奮のために、きっと物すごい表情をしていたに違いありませんよ。だから最初、この男はてっきり、僕がこの男を殺すのだと思ったに違いありません。それでひどくびくびくしていたところへ、あんな意外な光景を目にしたものだから、すっかり気が変になってしまったのも無理じゃないのです」
「まったく――」と京子は眼を伏せながら「あたしだって、うすうす事情は知っている上に、あなた方がすぐ側にいてくださることを承知していながら、それでもあの女がふいに態度を変えたときには、気が狂いそうなほど恐ろしくなりましたわ。あたし、いかに兄の敵とはいえ、もう二度とあんなことはしたくありませんわ」
「いや、失敬! 失敬! しかし、あなたの芝居がうまかったおかげで、あんなに見事に成功したのですよ。あれより他に、あの女の罪をあばく方法はなかったのですからね」
京子はそれをきくと、ふいにぶるぶると激しく身震いをした。
「しかし、あの女が自殺をしたということを聞いたら、由比さんはまたどんなに驚くことでしょうね」
「いや、かえって安心するかも知れませんよ。少なくとも警察へ引っぱられるよりもね」
そのとき、耕作は苦しげに寝返りを打つと、ふいにぽっかりと眼を開いた。
「ああ、あなた方だったのですか?」
耕作は憔悴《しようすい》した顔に弱々しい微笑をうかべながら、
「僕は何だか、恐ろしい夢を見ていましたよ。そして、その夢の中で聞いていたと思うのですけれど、――大江さんの奥さんは自殺したのですか」
「まあ、いいよ。君は今、そんなことを考えるのはよしたまえ。何も考えないでじっとしているのが、今の君にとってはいちばんいいのだよ」
「いや」耕作は寝床の上に半分起き直りながら、「僕は知りたいのです。世間では知っているのですか。あの人が犯人だということを知っているのですか」
「ああ、その点なら安心したまえ。だれも知りやしない。われわれがしゃべらない限りは――」
耕作はふと京子のほうへ顔をねじ向けた。
「京子さん、あなたもきっと黙っていてくださるでしょうね」
「そのことなら心配いりませんわ。あたし白井さんにはっきりとお約束したの。だからこれはわれわれ三人だけの秘密なのよ。世間ではきっと、永久に大江先生はあの脱獄囚に殺されたのだと思っていることでしょう」
「ありがとう」
耕作は安心したように枕に頭をつけた。そして再び昏々《こんこん》と眠りに落ちていった。
その次に彼が眼を覚ましたときには、だいぶ体も回復していた。彼は白井三郎が止めるのも聞かずに、無理に床を離れると、久し振りに湯を使って、ようやく人心地を取り返した。
「だめですね。僕はよほど神経がもろいんですね」
「いや、僕こそ君に対して悪いことをしたと思っているよ。まあ、堪忍してくれたまえ」
「いいえ」耕作は低い声でさえぎりながら、「ああ、久し振りでビールが飲みたいな」と言った。
「はははははは! それぐらい元気が出れば大丈夫だ。それはそうと、二、三日のうちに京子さんが来るはずになっているのだがね」
「ああ、あの人にもだいぶ迷惑をかけたようですね」
「いや、あの女にはね、君がよくなり次第、すべての謎を解いてやるという約束がしてあるので、それでああしてたびたびやって来るのだよ」
「ああ、そうですか。僕も一度あなたの口から、はっきりと今度の事件の経緯《いきさつ》を聞きたいですね。このあいだのことはみんなあなたが仕組んだ芝居だったのですか」
「そうだよ。このあいだ君と公園で話をしているとき、刑事がたばこの火を借りに来たね。あのとき、僕ははっと気がついたのだよ。刑事の金歯を見てね。……それで軽井沢で撮影した写真を見せてもらうと、折江さんが金歯隠しをしている。僕はそこで何もかも分かった。あのハンカチが折江さんのものであることも疑いない。そこで京子さんに頼んであんな芝居をやってもらったのだが……まあいい、その話はいずれするとして、一杯飲みたまえ」
白井三郎は慰めるようにそう言ってビールのせんを勢いよく抜いた。
二
「まず第一に、僕がどうしてあの女が犯人だと気がついたかというと」
と白井三郎は黙って控えている二人の顔を順々に見比べた。耕作と京子とは緊張した面持ちで控えている。耕作が床を離れてから幾日か後のことだった。
三人は今度の事件の慰労をかねて、郊外の涼しい温泉へ泊まりがけで一晩出かけたのだった。
その夕飯のあとのくつろいだ気持ちで、白井三郎はぼつぼつと事件の成り行きを説明しはじめた。
「僕がどうしてあの女を怪しいとにらんだかというと、それはほんの偶然のことだった。しかし、その偶然に、あの女の過失が加わらなかったら、僕もあるいは永久に気づかずにすんだかもしれない。だが、あの女は賢く立ち回ろうとして、ついに大きな致命的な失態を演じたのだよ」
「ほほう。いったい、その失態というのはどんなことだったのですか」
耕作は、白井三郎のまわりくどい話が待ち切れないようにそう口をはさんだ。
京子は黙って、つつましやかに聞いている。
「つまりね。その失態というのは、あの女がわれわれに大江黒潮の日記を見せたことなんだ」
「へええ、あの日記を見せたことがどうして失態だったのですか」
「いや、だから、僕には偶然が最初に恵まれていたというのだ。あの女が大江黒潮の日記を持ち出したのは、あすこで嫌疑の方向をある一点に向けようという肚だったのだ。つまり伊達京子さんにね」
「それは僕にもわかります。あの日記の中には田村時雄という名がありましたから、その名からたぐっていけば、いずれわれわれは京子さんに行き当たることはわかっていました。しかしそれがどうして、折江さんの間違いだったのですか」
白井三郎はせき込んでくる耕作を押えつけるように、
「まあ、聞きたまえ。僕が今度の事件に、大江黒潮の小説が大きく関係しているということに気がついたのは、あの日記を見せられたときがはじめてだったのだ。君はうすうす知っていたらしいが、一言も僕にいってくれなかったからね。ところで、大江黒潮の小説が殺人の原因になっていることが分かると、僕には、たちまちのように万事が氷解したのだ。なぜといって僕は大江黒潮の小説というのは、決して彼自身の筆になるものでなくて、全部細君の折江さんが書いているということを、だいぶ以前に感づいていたのだからね」
「何ですって!」
耕作と京子の二人はほとんど同時にそう叫び声をあげた。
「はははははは!」白井三郎は二人の驚き方を見ると、うつろな笑い声を立てながら、「これはうそでもでたらめでもない。あの有名な小説は全部細君の書いたものなんだ」
「じゃ、――じゃ」と耕作は喘《あえ》ぐように息をはずませながら、「それじゃ大江黒潮氏は長いあいだ代作でごまかしていたというのですか」
「代作――? いや代作というとまちがいがある。なぜといって君たちの知っている大江黒潮は、生まれてから一度だって小説なんか書いたことはないんだからね。だから、簡単にいえば、大江黒潮なる小説家は最初からあの男ではなくて、細君の折江さんだったのだ。つまり、世間に知られている大江黒潮なる男性は、だから一個の傀儡《かいらい》にすぎなかったのだよ」
耕作はわけの分からぬ惑乱に陥った。そんなことが信じられるだろうか。今まで自分が作家としてあんなにまで尊敬し、敬服していた大江黒潮が、今まで一度も小説の筆をとったことがなくて、しかもそれらの小説が全部あの細君によって書かれたものだなんて、そんな不思議な、夢のようなことが信じられるだろうか。
「しかし、もしそうだったら、なぜ折江さんは最初から自分の名で――、いや、どうせペンネームを使用するとしても、なぜ自分がその本人であると明かさなかったのでしょう」
「いや、その説明はもう少し待ってくれたまえ。それよりも、ここでは大江黒潮というのが実はあの細君だったということを信じてくれればいいのだ。さて、そう思ってあの日記を読んでみると、いったいどういうことになると思う?」
耕作は黙っていた。京子はむろんその日記を読んでいないので何とも答えることができなかった。
「大江黒潮はあの日記の中に、ある恐怖を封じこめていた。それはあの筆つきでも分かる。だから、あの日記をそのままに読むと、いかにも自分がかつて人殺しをしたことがあって、それがいま露見しそうになったその恐怖のように見えるのだ。折江さんはそれをねらって、わざとあの日記を僕たちに見せたのだった。ところが、この僕はといえば、ほんの偶然のことから――それがどんなことかを今ここに説明する必要はないが――大江黒潮のほんとうの筆者はあの細君だということをかなり以前から知っていたのだ。さて、そう思ってあの日記を見直すと、今度はまったく別の意味を持ってくるではないか」
耕作も京子も、今はもうほとんど口をきくこともできなかった。彼らは石のように体を固くして、じっと相手の話に聞きほれているのだった。
「大江黒潮は京子さんから、しつこくあの小説について訊ねられた。しかし彼はまったく身に覚えのないことだから、それがいったいどんな意味を持っているか少しも気がつかなかった。ただ、筆者の問題について、京子さんが皮肉を言っているのではないかと、そういう風に気を回して怖れていたのだ。ところがとうとう京子さんの口から、怖ろしい事実を聞いた。つまりあの小説が、昔の殺人事件に関係があるということをはじめて知ったのだ。そのときのあの男の驚きをまあ想像してみたまえ。彼は何も知らないのだ。恐らく細君が一篇書き上げると、それを一度清書するだけがせめてものあの男の仕事なのだ。ところが、自分の全然あずかり知らぬその小説によって、ひょっとすると自分の身が危うくなるかも知れないのだ。むろんそれは筆者を明らかにすれば何でもないことだったかも知れない。しかし、長いあいだ、大江黒潮で通してきたあの男に今更、そんなことができるだろうか。実は自分は今まで一度だって小説なんか書いたことはなく、大江黒潮の本体は細君だったなんていえることだろうか。――しかし、それはまだいい。それはまだいいとして、彼はそれよりも、もっと細君自身をおそれていたのだ」
白井三郎はそこでことばを切ると、ふと二人の顔をながめたが、すぐまた話をつづけた。
「君たちは、あの大江黒潮の名で発表された小説の筆者が女だといってもどうしても信じない。つまり、それほどあの小説には一種の無気味さがあるのだ。そしてその無気味さはそのままあの女の性格からきているのだ。大江黒潮はよくそれを知っていた。知っていればこそ、京子さんのことばをすぐそのまま信ずる気になったのだ。なるほどあの女なら昔そんなことがあったかも知れない。そしてその恐ろしい経験を、そのまま小説に書いたかも知れない――そう考えると彼は自分の細君ながら、彼女に向かってそれを問いただすこともできなかった。恐ろしいジレンマだ。生命がけのジレンマだね。真実を打ち明けなければ京子さんから結局自分自身が疑われて、どんな復讐を受けるかもしれない。しかも、真実のことを打ち明けようとすれば、勢い、細君の昔の罪を明るみへ出し、ひいては彼のいちばん不愉快な秘密をさらけ出さなければならないのだ。大江黒潮が日記の中であんなに煩悶《はんもん》していたのも無理ではない」
そこで白井三郎はふと耕作のほうへ向き直ると、
「君はあの日記が二枚ほど引き裂かれていたのを覚えているだろう」と言った。
「ええ、覚えています」
「あれが、どんな重大な意味を持っていたか、今になるとはっきり分かる。あすこにはきっと、すべての秘密が書いてあったに違いない。大江黒潮なる小説家はその実自分ではなく、細君であること。したがってあの『恐ろしき復讐』という小説も細君の筆になったものであること。そんなことが書いてあったに違いない。そして、それを読んだればこそ、細君は亭主を殺さねばならなかったのだ」
「自分の身を守るために――ですか」
と耕作が陰気な声で言った。
「そうだ。自分の身を守るために――だ。あるいは、黒潮はその日記の中に近々すべての事情を京子さんに打ち明けようという決心を書いていたのかも知れない。ところがそれを打ち明けられたら最後折江さんは身の破滅だ。復讐者はどんな恐ろしい方法で、自分と田村時雄の昔の関係をあばくか分からない。あるいはもっと直接的な方法で――警察などの手を借りずに、――自分の身に迫ってくるかも知れないのだ。それを防ぐには、ただ一人この秘密を知っている良人さえ殺せばいいのだ。――これがあの女の考え方だった」
「そして、それを決行したのですわね」
「そうだ、やってのけた。ここでよく承知していなければならないのは、あの女が決して常人ではなかったということだよ。あの女は気狂いだったのだ。それでいて頭は常人以上に鋭く働き、物事を見る眼は恐ろしいほど正確だった。そして天才的な巧みさでもって、あの実に際どい瞬間を利用して良人を殺したのだ。なぜあんな際どい瞬間を利用したかというと、それは嫌疑をいろんな方面に向けることができるからだ。もしあのばあい、少しでも自分に疑いがかかってくるようだったら、彼女はあの日記を利用して、京子さんを陥れようとしたに違いない。それが彼女の最後の切り札だったからね」
京子はそれを聞くと思わず身震いをした。
「すると、峰岸夫人の小説というのも……」
「そうさ。むろん折江さんが書いたのだ。あの女をやっつけるためにね」
耕作はもう口をきくのも大儀になった。
「ところが、こんなに巧みにやってのけた犯罪にも、思いがけない邪魔が入ったのだね」白井三郎はだれも口をきかないと見ると再びことばをついだ。「もっともその邪魔が結局彼女に幸いをしたのだけれど。――それはあの前科者の弥吉だ」
「ああ!」
耕作はふいに思い出したように叫んだ。
「そうだ、あの男はいったいこの事件にどんな役割を演じていたのですか」
「これは僕の想像だが、おそらくまちがいあるまいと思う。折江さんは殺人の現場をあの前科者に見られたのだと思うよ」
「ああ!」
耕作と京子の二人は思わず眼を見交わした。二人にはそのことばがすぐにうなずけるのだった。なぜならば、あの凶行の直後に、あの恐ろしい前科者が死体の側へはい寄っている姿を見たのだから。
「折江さんにとってはこれはまったく思いがけない誤算だった。いや誤算というよりもまったく勘定に入れていなかった侵入者だったのだね。ところが幸いにも、その男自身がだれにも姿を見られてはならない脱獄者だったので、二人のあいだには手っ取り早く話がまとまったのだ。つまりお互いに沈黙を守っていること、そして折江さんがあの男の逃走の費用を貢《みつ》ぐこと。――たぶんそんな相談だったらしいと思う。そしてこの二人のあいだの使者としては、いつもあの塔番の権九郎じいさんが使われていたのだ。権九郎じいさんが、詳しい事情を全部知っていたかどうか、それははなはだ疑問だと思う。おそらく、じいさんはそれほど詳しいことは知らずに、ただ恐ろしい甥の手先に使われていたのではないだろうか。しかし、それ以来、折江さんの運命はまったくあの前科者に握られてしまったのも同然だった。ところがまた、前科者にすれば彼自身の死命も折江さんの手に握られていたわけだ。そこで塔と別荘とのあの奇妙な信号がはじまったわけだよ。彼らはお互いに牽制《けんせい》し、お互いに秘密を守り合うことを、毎日たしかめなければ二人とも一刻とて安心することができなかったのだ。ところがそうしているうちに、とうとうこの秘密を篠崎君にかぎつけられたのだよ」
「ああ!」
そのときふいに耕作が思い出したように声を立てた。
「そうだ、あなたはあの篠崎の死をどう説明します。あの人こそ折江さんが殺したのではありませんよ。あのとき僕たちはちゃんとあの現場にいたんですからね」
「ところが、やっぱりあれも折江さんがやったのだ。君たちが気がつかなかったのも無理ではないと思われるほど、巧みな方法でね」
「何ですって? あれもやはり折江さんがやったのですって?」耕作は噛みつくように言った。
「いいえ、そんなはずはありません。絶対にそんなはずはありません。あの犯罪こそ、僕はこの眼で目撃したのも同然なのですからね」
白井三郎はそれを聞くとしばらく考えていたが、何を思ったのか、部屋の中から硯《すずり》と紙を持って来た。
「よろしい。では今ここにあの事件を図に書いて説明してみよう」
そう言いながら彼は紙の上に次のような図をすらすらと書きあげた。
[#挿絵(fig1.jpg、横259×縦354)]
「あの現場はちょうどこの図のように廊下と階段が十字型に交差している所だったね」
「ええ、そうです」耕作は紙の上から眼をはなさずにそう答えた。
「そうだろう。ところで篠崎君が刺された瞬間の四人の位置はこのA・B・C・Dで表わすことができると思う。Aはすなわち篠崎君、Bは折江さん、Cは君、Dは南条という新聞記者です。さて、君たちがこの十字路の交差点へ到着して、はじめて篠崎君の姿を見るやや前に、篠崎君は何者かによって刺されたらしい。しかもそのときにはすでに折江さんはBの位置にいたのだから、折江さんは絶対に篠崎君を刺すことはできなかった。――と、こうわれわれは考えたのだ。ところが、これは何でもないことなのだよ。折江さんが振り返って短刀を投げつければね」
「何ですって?」耕作と京子は思わず声をそろえて叫んだ。
「短刀を投げつけたのですって?」
「そうだよ」白井三郎は筆を置くとその代わりにたばこ盆を引き寄せて、敷島《しきしま》に火をつけた。
「僕も最初、この解決には随分頭を悩ました。君たちの話によると、絶対に折江さんが犯人だとは思えないのだからね。しかし、僕の推理によると、どうしても犯人が折江さんでないと困るのだ。そこで、このばあい折江さんが犯人だということに対して、どの点に不合理があるかを考えてみた。するとただ、AとBとの間の距離が問題になっているだけだ。そう考えると、わけもなくこの謎は解けた。人を刺すばあいには必ずしも二人が接近していなければならぬという法はない。たとえばピストルのばあいはどうだ。数間離れていても人が殺せるじゃないか。このばあい短刀がピストルと同じような作用をしたらどうだろう。それは少しも不合理なことではないことじゃないか。むしろ、短刀というものが接近していなければ使用できないと思っている、そういう習慣こそ不合理なのだ。僕はそういう風に考えたのだよ」
耕作はしかし、まだそのことばを、そのまま信じることはできなかった。彼はその現場にいたのだ。そして白井三郎は単なる空想を机上に描いているのだ。むしろ真実は自分のほうにあるのではなかろうか。
「いや、君が疑うのも無理じゃないよ。君たちは自分の面前を短刀が飛んだことをまったく気がつかなかったくらいだからね、――しかし、それはとても無理ではない。あのときはちょうどたそがれが濃く迫っている時分だったし、それに君たちはあの叫び声でひどく興奮していただろうからね」
「ああ! あの叫び声は――? じゃ折江さんが救いを求めていたのは、あの怪物に追いかけられていたからじゃないのですか」
「むろんそうじゃない。追っかけていたのは篠崎君なのだ。篠崎君はあのとき折江さんの罪をはっきり知ったに違いない。そして彼女を人気のない階段で責めようとしたのだ。するとふいに折江さんがかくし持ったナイフで――これはたぶん、あの前科者が拾ったやつを、折江さんが買いもどしたのだろう――篠崎君を刺そうとした。ところがそこは男と女の力の相違で、今度は折江さんのほうが危なくなってきた。そこで彼女は思わず悲鳴をあげて逃げ出したのだ。だからあのばあいあのナイフがうまく命中しなかったとすれば、それこそあの女の身の破滅だったのだよ」
しばらく三人は無言のままじっと考え込んでいた。ふいにどこかで虫がはげしく鳴き出した。
白井三郎はさすがに疲れたようにごろりと縁側に横になった。
「実際、あの女は際どい橋を渡って来たものだよ。たとえばあの前科者にしてからが、あいつが生きて捕えられたら、それこそ、彼女の罪はたちまち露見したことだろうからね。だから、彼女は篠崎を殺した罪を他に転嫁《てんか》しようとして、他に怪しい人物がいたように、それとなくあいまいな申し立てをしていたが、そのとき由比君が横から、『それは四本指の男ではなかったか』ときくと、びっくりして今にも気を失いそうだったよ。彼女はただ一時逃れにそんな怪人物の存在を人々に信じさせようとしていただけで、真実、あの前科者が隠れているということは絶対に隠しておきたかったからね。そこへ君がたしかに、そういう怪人物を見たことがあると言い出す。なるほど、そのおかげで、篠崎殺しのほうは全然安全になったけれど、もし、塔が捜索されて、その怪物が捕えられようものなら、それこそ彼女の苦心はまったく水のあわだからね。だから、その直後、京子さんの悲鳴が聞こえて、いよいよ怪物狩りがはじまったときの、あの女の胸中を想像してみたまえ。もし、あの前科者が生きて捕えられたら、その瞬間に彼女は自殺しようと思っていたに違いないよ。だから、あの怪物が塔から墜落したとき、一番に側へかけつけたのはあの女だったのだ。あのとき折江さんが気絶をしたのは、これこそ、まったくうそでもお芝居でもなかったろう。実際あれほど彼女を安心させたことはなかったろうからね。しかもあの前科者はごていねいに権九郎じいさんまで道連れにして行ったのだから、折江さんにとっては、こんなに好都合なことはなかったのだ。死人に口なし、――そこで、彼女はどんなうそでもつくことができたのだよ」
白井三郎はそこで耕作のほうを見るとにやりと笑った。
耕作はその笑い顔をみると、何となく、くすぐったい気がするのだった。それは、軽井沢を発つという日、折江から聞いたあの忌まわしい告白を、いつか白井三郎に話したことがあるからである。
「そうなんだ。あの女はそんなうそが平気で言える女なんだ。自分の身があの怪物によって汚された――そんなひどいうそまでつくというのは必ずしも、自分の身を守りたいばかりでない。あの女には一種気狂いめいた癖が昔からあった。そういうひどいことをいって自分の身を落とす――それはヒステリー患者などによくある癖だが、あの女がそれだ。そうしてそういう女にかかると実際それがほんとうらしく聞こえるのだね」
それきり三人は無言の行《ぎよう》に落ちてしまった。
月が武蔵野のかなたから静かにのぼりはじめて、虫の音が一層はげしくなってきた。
それをきいていると、あの軽井沢の夏の、そこはかとなく悲しい思い出が、今更のようにひしひしと耕作の胸に迫ってくるのだった。
耕作はふと、ぬるくなったビールを庭に捨てると、新しいのを注いでぐっと飲み干した。京子は静かにそれを見たが、耕作が飲んでしまうと自分でも手を出した。
「ずいぶん咽喉がかわく晩ね」
彼女は言い訳をするようにそう言った。しかし、それはその夜の気温のせいではなく、彼らの肉体のせいであることを、京子自身もよく知っていた。
だいぶたってから耕作がまた思い出したように訊ねた。
「それはそうと、あのスタジオの中で京子さんに罪をなじられたとき、折江さんは妙なことを言っていましたね。白井三郎は私の敵だって、――あれはどういう意味ですか」
それをきくと、白井三郎はぎょっとしたように体を起こしかけた。しかしすぐまた、ごろりと横になると、低い、つぶやくような声で言った。
「それを説明するには、数年以前、つまり大江黒潮なる人物がまだ小説を書き出さない前の、われわれ三人の生活をよく知ってもらわねばならないがね」白井三郎はいかにも語るのを好まぬような口調で言った。
「当時、僕たち、僕と大江黒潮は穴蔵のような所で、それこそ犯罪人の夢ばかりを語りながら暮らしていた。ところがそこへ割り込んで来たのがあの女なのだ。彼女は不思議な女で、女のくせにたちまちにして僕たちの思想に感染してしまったのだ。そして、しばしば遊びに来るあいだに、彼女はどうやら僕に恋したらしかったのだ。むろん非常に自尊心の強い女だからあらかじめ拒絶されたばあいのことを考えて、実に婉曲《えんきよく》な言い方でしか打ち明けなかったがね。いうまでもなく僕は即座に拒絶したよ。するとその翌日から彼女はばったりとわれわれの所へ足踏みをしなくなったが、それからしばらくすると、突然黒潮と結婚したのだ。そして黒潮があんな小説を書き出した。君、これがどういう意味を持っているか分かっているかね」
耕作は白井三郎の白い額を見ていたが黙って答えなかった。
「これはね、つまり僕に復讐するためだったのだよ。あの女は大江黒潮の名にかくれて、僕の考えたことをことごとく小説に書いていった。実際それは恐ろしいくらいだよ。たとえば、いま僕がある一つの事を考えているとするね。しかも僕自身絶対にだれにも語った覚えのないその考えが、いつの間にやら大江黒潮の小説になっているのだ。それに気がつきはじめたころ、僕は実際あまりの恐ろしさに何をする気にもなれなくなった。吸血鬼というものがある。あいつは死人の生き血を吸うのだが、この女は生きた人間の思想をそのまま吸いとってしまうのだ。あの女はそうしてこの僕に復讐しようとしていたのだよ。それだけに、僕にその秘密を知られるのをいやがっていたわけも分かるね」
耕作はそのことばを聞いているうちに、いつか軽井沢で大江黒潮からきいたことばを思い出していた。そしてこのことばこそ、今度の事件をはっきり説明していることに今ごろになって気がついたのである。「黒潮は白井三郎の影なのだ。そして、いつかは影が倒れ、その本体を現わすだろう」と――
彼はそのことばの陰にある秘密の、かくも恐ろしいものであったことに気がついて、そのとき愕然としたのだった。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『呪いの塔』昭和52年3月15日初版発行