人形佐七捕物帳(巻十七)
[#地から2字上げ]横溝正史
目次
松竹梅三人娘
鬼の面
花見の仮面
身代わり千之丞《せんのじょう》
戯作《げさく》地獄
松竹梅三人娘
江戸の美人投票
――好事魔多し、ここに一つの騒動が
いまでもあちこちでやっているようだが、美人投票という年中行事がある。
新聞や雑誌の音頭とりで、全国あるいはその地方地方で、ミス日本とかミス東京、あるいはミス大阪とかミス神戸、もっとスケールが大きくなると、ミス・ユニバースなどといって、器量自慢の娘さんのなかから、とくにまたすぐれてうつくしい美人をえらんで、これを何年型のミス何々などと称するのである。
こうしてえらばれたミス何々のなかには、そのとききりで消えてしまったのもあるが、それを機会に映画入りかなんかして、いまだに美人投票の余沢をこうむっているご婦人もある。
ところで、諸君のなかにはこういう催しを、ちかごろになってはじまったものであると思っていられるかたがあるかもしれないが、それは大きなまちがいである。
美人投票は、かならずしも現代の産物ではない。いまから百年まえの江戸時代にも、ちゃんと美人投票のおこなわれた記録がある。しかも、いちどきりではなく、前後九年のながきにわたって、年々歳々ミス江戸がえらばれたのである。
もっとも、その当時のことだから、ミスなんて舶来語はまだなかった。では、えらばれた美人をなんと呼んだかというと、当世お江戸小町。――
なるほど、ミスなどという外来語より、このほうがよっぽど風流気があってよろしい。
さて、では、このお江戸小町はどういうふうにしてえらばれたか、また主催者はどこのなにものかというと、それはこうである。
そのころ、浅草矢大臣門外にあった錦絵《にしきえ》の版元、蓬莱屋万右衛門《ほうらいやまんえもん》、それがある年の春売り出す錦絵に、なにかかわった趣向はないかと、さんざ頭をひねったすえ、はたと思いついたのがこの美人えらびである。そこで、秋のうちから、お江戸八百八町に散在する絵草紙屋の店さきに、目安箱もどきの投票箱をぶらさげると、そのしたに「憚乍口上《はばかりながらこうじょう》」というようなビラをはりださせた。
口上というのは、こうである。
来春、蓬莱屋から売りだす江戸名物錦絵について、ぜひともみなさまのご協力をえたい。
錦絵も年々歳々、遊女や役者の似顔ばかりでは興味がうすい。このたびはひとつ趣向をかえて、ズブのしろうとから美人をえらんで、その艶姿《あですがた》を一枚絵として売りだしたいとおもうのである。
ついては、ぜひぜひみなさまご存じの娘さんのなかから、あの娘こそという美人の名をかいて、この箱のなかへいれておいていただきたい。
また、われとおもわん娘さんが、みずから名乗りをあげるもけっこうである。
蓬莱屋ではそれらの入れ札のなかより、もっともおおきもの十名さまをえらび、柳橋の『亀清《かめせい》』で審査会をひらくことにする。
そして、審査の結果、最高にえらばれた美人を、当世お江戸小町として、だいだい的にその艶姿を一枚絵にえがいて、市民諸君におわかちしたいかんがえである。
というようなことを、当時のことだから候文かなんかでかいて、さいごにずらりとならんでいるのが、イロハ順の審査員先生、いずれも当時名だかい文人墨客のなかに人形佐七親分もはいっている。なにしろ、佐七もいまや江戸の名士だが、なにがさて、めずらしもの好きの江戸っ子のこと、わっとばかりにわき立って、さあ、これがたいへんな人気。
「おい、豆六、おまえはだれに入れる気だ。おれは表通りの近江屋《おうみや》の、おきんちゃんに投票するつもりだが、おめえもそうしろ」
「あかん、あかん、あんなんペケや。わては横町の手習いの先生のお嬢さん、深雪《みゆき》さんがええ」
「ちっ、てめえはあんなのがいいのかい。なんだい、あいつ。リャンコの娘だと思って、いやにお高くとまってやあがる。あんなのどこがいい」
「そら、兄いはそうだっしゃろ。振られた恋の恨みは恐ろしいちいまっさかいにな」
「なにを、この野郎、てめえいまなんといった」
「いいええなあ。あんさんいつか深雪さんの袖《そで》ひいて、ピンシャン跳ねられはったやおまへんか」
「あらま、辰《たつ》つぁん、おまえさん、そんなことがあったのかえ」
そばからお粂《くめ》がまぜっかえせば、
「うそですよ。うすですよ。豆六のやつがホラ吹いてるんですよう」
「まあ、まあ、よろし、よろし。兄いは兄い、わてはわてや。いかに兄いやかて、個人の自由意志を束縛はでけしまへん。そないなことしたら、選挙違反で告発されまっせ」
いや、大変なことになったものだが、お粂はお粂でえりにあごをうずめて思案顔。
「それはそうとして、辰つぁん、豆さん、親分は大丈夫だろうかねえ」
「大丈夫かとおっしゃいますと……?」
「審査員だなどといって、あごをなでておさまっているが、きれいな娘さんをおおぜいまえにおいて、ひょっとすると、ひょっとするんじゃないかと、あたしゃ気が気でないんだよ」
「そりゃそうだ。そりゃあねさんが気をもむのもむりはねえ。うちの親分ときたらはしっこいからねえ」
「ほんまや、ほんまや、こらまるでねこにカツオブシだんな」
と、ちかごろお玉が池では辰と豆六が、張り切っているのと反対に、お粂はとつおいつ取り越し苦労である。
なにがさて、辰と豆六でさえこのとおりだから、このふたりより知能指数のひくい大江戸八百八町の熊さん八っちゃんたちがわっとばかりにわきにわいて、めいめいひいきの娘の名をかいて投票する。心臓のつよい娘のなかには、じぶんの名をかいたのを十通も二十通も、暮夜ひそかにほうりこむやつもある。
また、娘じまんの親バカが、近所まわりを戸別訪問して、ジャンジャン投票買収にかかるというしまつで、どこの絵草紙屋でも投票箱がひとつでたりず、三つも四つもぶら下がるというしまつ。
さて、やがて締め切りの日がくると、それらの投票箱をひとつにあつめ、厳重審査の結果ベストテンをえらび、さらにあらためてこのベストテンを柳橋の『亀清』に招待して、佐七をはじめイロハ順の審査員先生お立ち会いのうえで、みごと第一等にえらばれたのが、広徳寺まえの数珠屋の娘で名はお福。
そこで、このお福の艶姿《あですがた》を、当時名だかかった浮世絵師、喜多川|蔦麿《つたまろ》にえがかせて、これを当世お江戸小町として売りだしたところが、なにがさて、趣向が趣向、モデルがモデル、えかきが当世美人画家中、右にいずるものなしといわれた蔦麿先生のことだから、いや、売れるわ売れるわ、羽根がはえてとぶように売れたから、蓬莱屋万右衛門、たちまち蔵をおったてた。
これにあじをしめて、蓬莱屋では以後ひきつづき年々歳々、小町えらびを行事として、ますます身代をふとらせたが、好事魔多し、九年目にいたって、ここにはからずも、たいへんな騒動がおこったというのはこうである。
松竹梅三人小町
――若竹の雪に折れたるすがたかな
「親分、たいへんだ、たいへんだ。とうとう呉竹屋《くれたけや》のお竹がかどわかされた」
初東風《はつこち》の空にうなる奴凧《やっこだこ》のように、両手をひろげてあたふたと神田お玉が池は佐七の住まいへまいこんできたのは、いわずとしれたきんちゃくの辰にうらなりの豆六。
きょうはちょうどお飾りのとれる日で、佐七はお粂のてつだいで、お鏡もちを切っているところだったが、それを聞くとおもわずぎょっと、包丁の手をやすめた。
「なんだ、呉竹屋のお竹がかどわかされたと」
「親分、すみまへん。わてらけっしてなまけてたわけやおまへんけんど、あいてのほうが役者が一枚うわてだした。まんまとわてらの目のまえから、お竹はんをかどわかしていきよりましてん」
「これ、見ておくんなさい、親分、お竹のかどわかされていったそのあとにゃ、例によって、こんなものがおいてあったんです」
と、きんちゃくの辰が、いまにも泣きベソをかくような顔をして、その場にだしてみせたのは、一枚の色紙である。色紙のうえには、
若竹の雪に折れたるすがたかな
筆跡はかなりみごとだが、俳句のほうはなんだか意味がわからない。そして、色紙のすみには、福寿草の絵が小さくかいてあるのである。
佐七はそれをみると、おもわずふうむとうなったが、それにしても、佐七がなぜこの色紙にうなったか、また、呉竹屋のお竹とはなにものか、それを説明するためには、前章にひきつづき、そのとしの小町えらびからお話ししておかねばなるまい。
蓬莱屋の小町えらびは、まいねん江戸じゅうの春の人気をさらいつつ、めでたく九年つづいたが、九年目のこの春、――というより去年の暮れのことだが、ここにちょっとした異変がおこったのである。
というのは、れいによって市民諸君の投票の結果、えらばれたベストテンを、柳橋の『亀清』にあつめて、佐七もまじえて審査員諸公があれかこれかと評議をしたが、そのとしにかぎって、どうしてもひとりの娘がえらび出せない。というのは、十人のなかにとび抜けてうつくしい娘がいることはいたが、なんとそれが三人いるのである。
この三人だけは、ほかの七人よりとびぬけて美しいから、これを選にのこすことは、だれも異議はなかったが、さて、三人のうちからだれをひとりえらぶかという段になって、審査員のなかに大悶着《だいもんちゃく》がおこった。
なにしろ、この三人が甲乙なしの美人ときているから、そのなかからひとりをえらび、ふたりを振るいおとすということになると、大問題がおこるのである。
甲も美人だが、乙も愛くるしい。さりとて、丙のあいきょうもすてかねる。
というわけで、深更におよぶも審査員の審議けっせず、すったもんだという騒ぎ。
これに困りはてた主催者の蓬莱屋万右衛門が、なにげなく三人の娘の名前をきいてみると、なんとこれが、松葉屋のお松さんに梅花堂のお梅ちゃん、呉竹屋のお竹坊とみごとに松竹梅がそろっていたから、さあ、万右衛門はよろこんだ。
小町えらびも回をかさねて、ちかごろはだいぶ飽かれぎみである。つまり、マンネリのそしりをまぬがれがたくなっていた。ここらでなんとか趣向をかえねばなるまいと思っていたところへ、ことしはまけずおとらずの三小町、しかもその名が、お松お竹お梅ときていたから、いっそこれは三人とも売りだそうじゃないかということになって、さてこそ、蔦麿《つたまろ》が彩管をふるったのが、吉例お江戸名物、松竹梅の三小町。
これは当たった。
まえにもいったように、蓬莱屋の小町えらびも、ちかごろいささか食傷気味で、以前ほど人気がたたなくなっていたところだが、ことしはめずらしく甲乙なしの三小町がえらばれた。
それをえらぶについては、審査員のあいだにあわや血の雨が降ろうという大論争があったそうなと、こういううわさは、とかく尾ひれをつけて宣伝されるものである。
暮れのうちからPRがゆきとどいて、寄るとさわるとこの話で、ぱっと人気が立っていたところだから、初春早々三小町の絵が売りだされると、さあ、これが羽根がはえてとぶような売れ行き。
おれはやっぱりお松がいい。ちょいとみや。意気で、高等で、つんとすましたところがたまらねえじゃねえか、と、うれしがるものがあるかとおもうと、いや、おれはお梅だ。春にさきがけて咲く花の、においゆかしいお梅のりりしさ、これにかぎると随喜の涙をこぼすやつもある。
そうかと思うと、おぬしたちはまことの美人をえらぶ目がないとみえます。雪にも折れぬお竹のけなげさ、これぞまことの美人というものでござる。おっほん、などとおさまり返る通人もあるというわけで、めいめいひいきが負けずおとらず買いまくるから、三小町の錦絵《にしきえ》は売れにうれて、お松、お竹、お梅の名は、江戸じゅう知らぬものもないくらいになったが、そうしているうちにたいへんなことが起こった。
松葉屋のお松。――これは本所の油屋の娘だったが、これが七草の晩にうちを出たきりかえらない。家のものが心配していると、いつだれがほうりこんでいったのか、松葉屋の店さきに、一枚の色紙がおちている。
なにげなく拾いあげてみると、
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末の世は松も操をかえるちょう
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発句だかはっくだかわからぬものが書いてあって、すみのほうに福寿草の絵がひとつ。
松葉屋では、さあ、おどろいた。
なんとなく意味ありげなこの色紙。
ひょっとすると、お松のいなくなったのは、たんなる神隠しなどではなくて、だれかがかどわかし、松も操をかえるちょうというのは、むりむたいに操をうばおうというのではあるまいか。――
と、にわかに騒ぎがおおきくなったが、するとなか二日おいた十日の晩、こんどはお梅のすがたがみえなくなった。
梅花堂のお梅は、浅草並木のまんじゅう屋の娘だったが、これがまた十日の晩から、行きかたしれずになってしまった。そしてまた、その晩、梅花堂の店さきに投げこんであった色紙には、
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むざんやな梅の花打つ玉あられ
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例によって、例のごとく、色紙のすみには福寿草のサインがひとつ。
さあ、これでいよいよ、騒ぎがおおきくなったのである。
お梅、お松ふたりとも、おなじ人間によってかどわかされたことは、これでほぼたしかになった。
そして、お松とお梅がかどわかされた以上、こんどは松竹梅のもうひとり、呉竹屋のお竹の番ではあるまいか、という評判がぱっと立ったから、じっとしていられなくなったのが人形佐七である。佐七も審査員のひとりである。毎年目じりを下げてきたくちだ。
それに、まえの二件、松葉屋と梅花堂は、本所と浅草で佐七のなわ張りとちがっているから、さのみ心にとめなかったが、呉竹屋というのは、神田|鎌倉《かまくら》河岸にあるおおきな酒屋である。
すなわち、佐七のなわ張りもなわ張り、おひざもとともいうべき場所である。ここでもしものことがあっては、佐七の名にかかわる。また、呉竹屋のほうでも、まえの二件のことがあるから気をもんで、佐七のもとへなんとかしてくれと駆けこんできた。
そこで、辰と豆六をこのあいだから呉竹屋へ住みこませ、お竹の出入りに、いちいち気をくばらせていたのだが、そのかいもなく、お竹がとうとうかどわかされたというのだから、佐七たるもの、おどろかざるをえない道理である。
身代わり女こじき
――一足ちがいで女こじきは消えていた
「へえ、あっしらにもさっぱりわけがわかりません。ゆうべ、寝るときまではたしかにお竹だったんです。ところが、それが、けさ目がさめると、むざんやな、見るもきたない女こじきにかわっていやアがるんです」
「呉竹屋の女中は、きゃっちゅうて腰を抜かすし、わてら面目まるつぶれやし、こないにびっくりしたことあらしまへんがな」
と、辰と豆六が汗をふきふき語るところによると、呉竹屋のお竹|失踪《しっそう》のいきさつというのはこうである。
呉竹屋の箱入り娘のお竹は、いつも店からずっとはなれた奥のはなれにひとり寝ることになっている。ところが、このあいだからのお松、お梅のさわぎいらい、それでは不用心であるというので、となりの部屋に女中のお仲というのがねることになった。
そして、さらにそのつぎの間には、二、三日まえから、辰と豆六が、不寝番というわけにはいかなかったが、とにかく、用心棒として寝ることになっていた。
ところが、けさは、女中のお仲や辰や豆六が目をさましてからも、いつまでたってもお竹が起きてこないのである。そこで、お仲がふしぎに思っておこしにいくと、お竹は布団をあたまからひっかぶって寝ている。
「もし、お嬢様、お起きなさいまし。もし、お嬢様、どうなすったのでございます。なんて、まあ、寝ぞうのわるい……もし、お嬢様」
ゆすぶってみても、うんともすんともいわないから、お仲はふいと不安をかんじた。
そこで、おそるおそる布団をひっぺがしたが、とたんにお仲は、きゃっとさけんで腰をぬかしてしまったのである。声におどろいて、辰と豆六、つぎの部屋からとびこんだが、これまたあやうく腰を抜かすところであった。
むりもない、そこに寝ているのは、あの花のようなお竹とはうってかわって顔中|膏薬《こうやく》だらけの、ぼろをさげた女こじき、なんともいえぬ異臭がプーンと鼻をついたが、当の本人の女こじきは、そんなことは白河夜舟のたかいびき、いっこう目がさめそうにないのである。
「いやもう、肝をつぶしたのつぶさないのって。――おまけに、ひょいとまくらもとをみると、この色紙が落ちているんでしょ。そこで、ともかく、いっこくもはやく親分のお耳にいれなきゃアと、あとはうちのものに頼んでおいて、すっとんでかえってきたんです。親分、どうもすみません」
辰は、青菜に塩というていたらくである。
豆六もうらなりツラの寸をいよいよ伸ばしている。
「ふうむ。すると、ゆうべ寝るときにゃ、たしかにお竹だったやつが、けさ起きてみると、女こじきにかわっていたというんだな」
「へえ、さよさよ、かわるが早いかおててこてんや。わてら、きつねにつままれたような気持ちだすがな」
「それにしても、夜中のうちにひとが替わったとすれば、それそうとうの物音がしたはずだが、おまえたち、それに気がつかなかったのか」
「それなんですよ。親分、そいつがふにおちねえから、かえるみちみち豆六と話をしたんですが、ああ正体もなくぐっすりねむりこむというのはがてんがいかねえ。ひょっとすると、ゆうべ飲んだ酒に、なにか薬でも仕込んであったんじゃあるめえか……と」
「なんだ、おまえたち酒を飲んだのか」
「すみまへん。そやけど、親分、飲んだちゅうほどのことやおまへんねん。あそこへ泊まりこむようになってから、お退屈だっしゃろちゅうので、いつもお竹が、銚子《ちょうし》を一本ずつつけてくれまんねん。いままで、なんともおまへなんださかい、ゆうべもべつに気にもとめんと、兄いといっぽんずつ飲んだだけだす。それしきの酒に酔いつぶれるようなふたりやおまへんのンに……」
豆六は、しきりに小首をかしげている。
「ふむ。すると、なんだな。おまえたちの飲んだ酒に、薬が盛ってあったとしたら、呉竹屋のうちにだれかいたずらをしたやつがあるわけだな。そりゃアいったいだれだろう」
「へえ、それについて豆六とも話をしたんですが、お竹がそんなまねをするわけはなし、ひょっとすると女中のお仲が……と思うんですが、お仲だってあそこのうちへ子供のときから奉公している、なかなか忠義者らしいから、そんなバカなことするはずはなし、けっきょくなにがなにやらわけがわからねえんです」
「それで、なにかえ、きのうなにかかわったことはなかったかえ。いや、夜にならねえうちでもいい。昼のあいだでもいいんだが、お竹の身のまわりに、なにか変わったことは起こらなかったかえ」
「へえ、べつに……なあ、豆六、べつになにもかわったことはなかったなあ」
「へえ、まあ、変わったことといえば、蓬莱屋《ほうらいや》からお竹の絵がとどけられたくらいのもんだっしゃろ」
「蓬莱屋から絵がとどけられた……?」
「へえへえ、ほら、れいのお江戸小町の絵なんです。あれを別刷りにして、ちゃんと表装したやつを、蓬莱屋の小僧がとどけてきたんです」
「なるほど、ただそれだけのことかえ」
「へえ、まあ、それだけのことだす。その絵に、手紙みたいなものがついておりましたが、お竹はそれを読むと、すぐぐるぐるまきにして、ふところへいれよりましたが……しかし、兄い、いまから思うと、あのときお竹の顔色が、ちょっと変わりよったんやおまへんか」
「そうかえ、おらア気がつかなかったが……だけど、そうだ。そういやア、あの絵がとどいてから、お竹はなんだか妙にそわそわしていたな」
佐七はしばらく考えこんでいたが、
「いや、ここで思案していてもはじまらねえ。その女こじきというなア、まだ呉竹屋にいるんだな。よし、それじゃこれから出むいてみよう。そいつの口から、なにかきき出すことがあるかもしれねえ」
それからすぐに三人は鎌倉《かまくら》河岸の呉竹屋へ出むいたが、なんとそのときにはひと足ちがいで、女こじきのすがたは消えていた……。
手紙の主は松と梅
――呉竹屋お竹さままいる
女こじきの消えたてんまつというのはこうである。
辰と豆六がお玉が池へ引きあげたあと、呉竹屋では大騒動、すぐにこのよしを、町役人にとどけて出る。
そこで、町役人が駆けつけてきたが、れいの女こじきは、まだ眠りからさめていなかった。しかも、これがたぬき寝入りでない証拠に、額に汗をびっしょりかき、いかにも苦しそうな息づかいからでもわかるのである。
そこで、このほうはしぜんに眠りからさめるのを待つことにして、家の戸じまり、木戸のようすなど調べてまわっていたが、そのあいだに、女こじきがいなくなったのである。
「あんなによく寝ていましたから、よもやと思ったのがこっちのゆだん、なんとも申しわけのないことができました」
と、町役人はあおくなっている。
「ふむふむ。すると、おまえさんたちが木戸のあたりを調べているうちに、目がさめて逃げだしたというんですね」
「へえ、そうとしか思えません。しかし、親分、あの女こじきにしさいがあろうとは思えませんねえ。あれは天神こじきといって、いつも湯島の境内にいる女こじき、このへんへもちょくちょくまわってまいります。すこし気が変なようですが、いたっておとなしいやつなんで」
だが、そのおとなしい女こじきが、なぜまたお竹の身代わりに寝ていたか、それについては町役人にもてんで見当がつかないらしい。
「いや、ようがす。逃がしたものを、いまさらどうこういったところで仕方がねえ。せめて素性がわかっているだけ見つけもの。ところで、ここがお竹さんの寝間ですね」
そこはいかにも大家のはなれらしく、数寄をこらした構えだったが、佐七は部屋のなかを見まわしているうちに、ふいにギロリと目を光らせた。
「おい、辰、豆六、あれはどうしたんだ。きのう蓬莱屋からとどけてきたお竹の絵というのは、あれだろうが、そのときあの絵はあのように、ズタズタに切りさかれていたのかえ」
「えっ、な、なんですって?」
辰と豆六も佐七の指さすほうをみて、思わずあっと息をのんだ。
お竹がかりに掛けておいたのだろう。きのう蓬莱屋からとどけられた一枚絵が床の間にかかっていたが、なんとその顔はみるもむざんに切り破られているのである。
きんちゃくの辰は息をのんで、
「親分、こりゃおかしい。けさあっしらがここを出ていくときにゃア、あの絵はべつに破れちゃアいませんでしたぜ」
「そやそや、わてもはっきりおぼえてますが、花のようなお竹の顔が、にっこり笑うておりましたのんに……」
女中のお仲も町役人も、そのことについては、いままで気がつかなかったという。
とすれば、それを切りさいていったのは、女こじきよりほかにないわけだ。
こうなると町役人の意見もあてにならない。
あの天神こじきこそ、なにかしらこの事件に重大な関係を持っているのではあるまいか。
「ときに、この絵は、なにに入ってきたんだ。まさか、むき出しじゃなかったろう」
「へえ、それは、ほら、そこにあるきりの箱に入ってきたんです」
なるほど、床わきのちがいだなに、白木のきりの箱がある。
佐七はその箱をひらいてみたが、急にまたきらりと目を光らせた。
「親分、なにかありましたかえ」
「ふむ、ちょっと見ねえ」
佐七は声をひそめて箱の中をなでていたが、やがて差しだした指を見ると、黄いろいキラキラする粉がいっぱいついている。
「親分、そりゃア……」
「眠り薬じゃあるめえか……と思うんだ。それから、もうひとつ妙なものがあるぜ」
佐七が取りだしたのは、ズタズタにひきさいた巻き紙のひとひら。
「きのう、この絵といっしょにきた手紙というのは、これじゃねえかと思うんだが、ズタズタに引きさいて、たったこれしか残っていねえ。だが、辰、豆六、これをみねえ、よっぽどこいつは妙だぜ」
しわくちゃになった紙をひらいて、そこに書かれた文字を読んだとき、辰と豆六、しばらくあいた口がふさがらなかった。
そこにはなまめかしい女の文字で、
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呉竹屋お竹様まいる
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松葉屋お松
梅花堂お梅
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お松とお梅の名前が、ちがった文字で書かれているところをみると、ふたりがめいめい名まえを書いたものらしい。
辰と豆六、なにがなにやら、さっぱりわけがわからなくなったものである。
般若《はんにゃ》の目に涙
――親分が目じりをさげた娘だすがな
「親分、ありゃアやっぱり、お松とお梅の筆にちがいございません。松葉屋でも、梅花堂でも、たしかに娘の字だというんです」
その夕刻のことである。
お玉が池へかえってきた辰と豆六、いよいよこんがらがってきた筋道に、はとが豆鉄砲をくったようなかおつきだった。
「ふむ、それじゃ、お松もお梅も、まだ無事にいることだけはわかったわけだな」
「そうだす、そうだす。松葉屋でも、梅花堂でも、それで大喜びだすが、さて、親分、ここにもうひとつおもろいことがおまんねん」
「おもしろいこととは?」
「あの女こじきのことですがねえ。松葉屋と梅花堂できいてみると、れいの色紙が投げこまれたじぶん、たしかに女こじきが店さきをうろうろしてたというんです。しかし、日ごろから顔見知りのこじきのことだから、いままでだれもべつに気にとめなかったというんですね」
「そういうところからみると、親分、こら、あの女こじきのやつが、三人をかどわかしよったにちがいおまへんで」
「ふむふむ。それで、おまえたち、女こじきの素性というのを調べてこなかったのか」
「いや、それも調べてきましたが、こいつがまた妙なんですよ。あの女こじきというのは、どこから流れてきたのか、去年の夏ごろより、湯島の境内にものもらいに出るようになったそうで、だれも詳しいことは知らねえんですが、ときどきその女こじきのところへ、わざわざ施しをしにくるやつがあるんです」
「ほほう、それはどういう人間だえ」
「それがおかしおまんねん。ほら、橋場に般若《はんにゃ》の秀蔵《ひでぞう》というばくち打ちがおりまっしゃろ。年は三十ぐらいやが、ちょっとええ顔になってます。あいつだんねん。あいつがときどき施しにきては、どうかするとホロリと涙ぐんでることがあるそうだす」
般若の秀蔵――ときいて、佐七はなぜかぎょっとした面持ちだった。
その男なら、佐七もよく知っている。ばくち打ちのならずものだが、もののわかった人物で、仲間のうちでは兄い兄いと立てられている。
「あの般若の秀蔵が涙ぐんでいる……? すると、なにか女こじきにかかりあいがあるんだろうか」
と、佐七はにわかにひざをすすめるのである。
「親分、そこだ、そこがどうも変だから、こりゃア、般若のやつをあらってみれば、ひょっとすると、女こじきの素性がわかるんじゃあるまいか。――そう思ったもんだから、足をのばして橋場までいってきました」
「ふむ、ふむ。それで、なにか変わったことがあったか」
「へえ、たいへんなことがわかりました。秀蔵のやつはいませんでしたが、若いもんにかまをかけて、あいつの素性をしらべてみたんです。すると……」
「すると……?」
「あの秀蔵ちゅうのんは、もとは広徳寺まえの仏具屋の若だんなやったそうだす。それが身を持ちくずして、ばくち打ちになってしもたんちゅうのんは、親分、お江戸小町が関係してまんねん」
「はてな、それはどういうわけだえ」
「というのはこうです。この秀蔵には、いいなずけの娘があった。ところが、その娘が初代のお江戸小町にえらばれたんです。ほら、広徳寺まえの数珠屋の娘でお福という……」
「ほら、ほら、九年まえに親分が目じりをさげた娘だすがな」
「お福……お福……えっ、あのお福が……?」
佐七はぎょっとした顔色である。
「そうなんです。ところが、そのお福という娘は、元来はごくおとなしいうちきな娘だったそうですが、お江戸小町にえらばれたのが運のつき。なんしろ江戸中のものがよってたかって、江戸一番の小町娘だ、古今無類のべっぴんだとほめそやす。当人もそれでボーッときたところへ、ふたおやがまた高望みをはじめた。いままで仏具屋のせがれの秀蔵に嫁にやるつもりだったのが、きゅうに惜しくなってきたんです。なにしろ、諸方から縁談はふるようにある。それで、とうとう秀蔵をそでにして、ほかへ嫁にやったんですが、この嫁入りさきというのがどうもはっきりしねえ。田舎の大金持ちだともいうし、お大名のめかけになったんだという話もある。いずれにしても、秀蔵のやつ、おもう女にすてられて、やけのやんぱちになっての身の放埓《ほうらつ》、とうとうばくち打ちに落ちてしまったんです」
話をきいているうちに、佐七はなんだかソワソワしていたが、やがて弾かれたように立ちあがると、
「辰、豆六、こりゃこうしてはいられねえ。ひょっとすると、三小町のいのちがあぶない。いや、三小町ばかりじゃねえ。蓬莱屋のだんなや、画工の蔦麿《つたまろ》も……」
「え? 親分、そ、そりゃどういうわけです」
「おらアきょうあれから、矢大臣門の蓬莱屋へ出むいてみたんだ。すると、だんなはけさがたはやく、画工の蔦麿さんとふたりで、箱根へ湯治にいったという。しかも、ふたりの用心棒としてついていったのが般若の秀蔵とやら。般若の秀蔵はばくち打ちだが、気っぷを買われて以前から蓬莱屋のだんなにかわいがられていたそうだ。おらアどうも変だとおもったが、いまの話ですっかりわかった。箱根へ湯治というのはうそで、江戸のどこかにかくれているにちがいねえが、それにしても気づかわれるのは、三小町とふたりのいのちだ。みんなあの秀蔵にだまされているにちがいねえ。辰、豆六、こりゃア今夜は正月早々、とんでもねえことが起こるかもしれねえぜ」
佐七は、すっかり顔色をうしなっているのだった。
煮え立つ鉄なべ
――万右衛門も見い、蔦麿も見い
本所のおくふかく、法恩時よりさらに東へよったところに、蓬莱屋の寮がある。
付近は森や林にとりかこまれ、古池がどろんと濁っていようという、いかにも寂しいところである。
いまは冬だからそのさたもないが、夏から秋へかけては、たぬきばやしが夜ごときこえ、とかく怪しいうわさのたえぬという物騒なところだ。
蓬莱屋でも冬じゅうはしめきったまま留守番もおかぬこの寮に、今宵《こよい》はめずらしくちらほらと灯のいろが見えるとおもったら、しめきった雨戸のなかでは、いましもものすごい光景が展開されようとしているところだった。
数寄をこらした八畳のまんなかに、大きな七輪がもちだされ、七輪のうえには鉄のなべがかかっている。
なべのなかには、ぐつぐつと、油が煮えくりかえっていた。
そのなべを、おびえたようにみつめている三人の娘、いうまでもなく、お松、お竹、お梅の松竹梅三人小町である。
三人ともさるぐつわをかまされ、うしろ手にしばりあげられた体を、座敷のすみにすりよせて、いまにも気をうしないそうな目で、なべの油をかきまわしているひとりの女をみつめている。
なべの油をかきまわしている女――なんとそれは、あの天神こじきではないか。
天神こじきは、灯心のようにやせほそった手で、なべのなかをかきまわしながら、
「おお、おお、おお、煮えてきたぞ、煮えてきたぞよ。ぐつぐつ煮えてきましたぞよ。この油がな、いまにおまえさんたちのきれいな顔にそそがれる。ほっほっほ、そうなったらもうおしまいじゃ。小町娘の花のかんばせも、これ、あたしの顔とおなじように……ほっほっほ!」
みにくい女こじきの顔が、油の湯気のなかで、鬼女のようにゆがんでわらった。
うつくしい三人小町は、それをきくと、おびえのために気の遠くなりそうな顔をしながらもがいた。
のたうちまわった。
しかし、いくらもがいても、うしろ手にしばられた身は自由にならない。
いくら叫ぼうとしても、さるぐつわをはめられた口から、声となっては出なかった。
「ふふふ、もがくがいい。叫ぶがいい。かわいやのう。美しゅううまれたが、そなたたちの不運だぞよ。わたしはな、なにもそなたたちに恨みがあるわけではないが、お江戸小町に恨みがある。ああいう催しさえなかったら、わたしゃ幸せにくらしていたのじゃ。それを……それを……お江戸小町だの、日本一の美人だのと騒ぎたてられたばっかりに、心の駒《こま》がくるいました。うらめしいのは、そういう催しをした万右衛門と、わたしの顔をいやがうえにもうつくしゅうかいた蔦麿じゃ。見い、万右衛門、これを見い。蔦麿も見い」
骨の髄までこおりつくようなするどい声。――
その声に、ゾーッと身をふるわせたのは、三小町ばかりではない。
さっきからとなり座敷で、ガタガタと歯をならしているふたりの男。
いうまでもなく、蓬莱屋万右衛門と、浮世絵師の喜多川蔦麿。
ふたりとも、身も世もあらず身をもんでいるのだが、いかんせん、かれらのすぐそばにすっくと突ったっているひとりの男が、ギラギラするような刀をつきつけているのだから、手も足もでないのである。その男とは、いうまでもなく秀蔵である。
秀蔵はしずんだ声で、
「だんなも、喜多川の師匠も、よくごらんなせえ。いや、三人の娘じゃねえ。油を煮ている女こじき。あの病みくずれたかおを見てやってください。あれこそ初代お江戸小町のなれのはて、数珠屋のお福のかわった姿だ。――」
「そうじゃ、わたしはお福じゃ。わたしをこのようにあさましい姿にしたのも、みんな万右衛門と蔦麿じゃ。いやいや、わたしばかりではない。お江戸小町にえらばれた娘で、末を全うしたものはひとりもないといううわさじゃ。おのれらの利欲のために、無垢《むく》の娘に高慢の毒気をふきこみ、器量自慢の増長慢をおしえこんだは、みんな万右衛門と蔦麿じゃ。それじゃによって、わたしはこの娘たちの顔に油をそそいで、みにくうしてやるのじゃ。身にあわぬ高望みをして、わたしのようなふしあわせな境涯《きょうがい》におちぬようにしてやるのじゃ。さ、さ、だれがさきだえ。お松か、お竹か、お梅か、これ、みんな、おとなしゅうしておいで」
まったくそれは、地獄絵巻さながらだった。
逃げまどう三人の娘をおっかけて、女こじきのお福はよろばうようにはいまわる。
「これ、おとなしゅうしていぬと、油が冷えてしまうわなあ」
「あれッ」
もがくはずみにさるぐつわがはずれたのか、ひと声たかく叫んだのは、松葉屋のお松だった。
「だれじゃ、いまさけんだのは……おお、お松じゃの。よしよし、それではそなたからいちばんに料理をしてあげよう。これ、おとなしゅうしておいでというに……」
「あれ、お助けくださいまし、あれえッ……」
つまずいて倒れるお松の髪の毛を、すりよって片手でぐっとにぎったお福が、
「これ、顔をあげぬか。これ、顔をおあげというに……」
あまりむざんなありさまに、蔦麿と万右衛門はひしとそでで顔をおおうたが、そのときだった、凍るような霜夜の寒気をつらぬいて、ひと声たかくひびいた悲鳴。ああ、もうだめかと蔦麿も万右衛門も、いっしゅん、ふうっと気がとおくなりかけたが、そのときだった。
「御用だ、御用だ、秀蔵、神妙にしろ!」
「御用や、御用や、お福もおとなしゅうおなわちょうだいしたほうがよろしおまっせ!」
降ってわいたようなするどい気合いに、いったん気のとおくなりかけていた蓬莱屋万右衛門、また正気にひきもどされて、はっとして顔をあげると、いつどこから飛びこんできたのか、秀蔵の左右に立っているのは、いわずとしれた辰と豆六、うしろには人形佐七もひかえている。
「しまった!」
と、するどく舌打ちした般若の秀蔵、
「お福、逃げろ、逃げろ、ここはおれが引きうけた。かなわぬまでも、この場は逃げろ」
しかし、お福は逃げなかった。
執念にこりかたまった女こじきは、じぶんの目的をはたすためには、御用聞きなど問題ではなかった。いや、お福はこののろいをとげるためには、じぶんの命さえ問題ではなかったろう。
「さあ、お松、神妙におし、さいわいお客さんがお見えになった。お客さんの目のまえで、おまえのそのきれいな顔がどう変わるか、ひとつみなさんに見ていただこうじゃないか」
片手にお松の髪をひっつかみ、片手で煮えたぎる油を鉄のひしゃくですくいあげたお福の顔は、さながら夜叉《やしゃ》である。悪鬼である。
飛びこんできたものの、これでは佐七にも手が出せない。うっかりするとお福の行動を刺激するばかりだ。
「お福、よせ、蓬莱屋のだんなも蔦麿師匠も後悔していらっしゃるだろう。罪もない娘にそんなむごいことを……」
「いいや、よさぬ。わたしはよさぬ。お玉が池の親分、そなたもわたしを選んだひとりじゃ。小町娘の成れの果てをみておくがよい。お松、覚悟しや」
お松の髪をひっつかみ、その顔を仰向けにしようとしたときだ。
だしぬけに横からとび出してきたのは呉竹屋のお竹。窮鼠《きゅうそ》ねこをかむとはこのことだろう、両手をうしろに縛りあげられたまま、こちらのほうへ突進してきたかと思うと、うしろからお福の弱腰めがけて、力いっぱい頭突きをくれたからたまらない。
そうでなくてもお福は体の動きが不自由なのだ。そこをうしろからふいをつかれて、お福は体のバランスをうしなった。
鉄のひしゃくをもったまま、た、た、た……と、二、三歩たたらを踏んだかと思うと、はずみをくらって鉄なべをけっとばし、しかもごていねいに、すぐそのそばへ仰向きざまにひっくり返ったからたまらない。
くるくるくると二、三度宙におどった鉄なべが、お福の体のうえにおっかぶさって、煮えたぎる油がお福の顔から上半身へかけてザーッ。
「キャーッ!」
松竹梅の三人娘は、おそらく生涯《しょうがい》、そのとき聞いたお福の悲鳴を忘れることができないであろう。そして、そこにのたうちまわるあの凄惨《せいさん》なお福の断末魔の苦しみを、死ぬまで忘れることはないであろう。
さっきから呆然《ぼうぜん》としてこのありさまを見ていた般若の秀蔵、
「親分、ごめん」
とさけんだかと思うと、お福のそばに駆けよって、
「お福、覚悟!」
かくし持った匕首《あいくち》の鞘《さや》をはらうと、のたうちまわるお福の胸をひとえぐり、ふたえぐり。
「お福、おまえひとりはやりゃアしねえ。おれもこれから追っていく。来世はしあわせに添いとげようぜ」
もういちどつよくお福の胸をえぐっておいて、かえす刀でわれとわがのどへつっ立てた……。
身も心も凍るような、世にも凄惨な霜夜のできごとであった。
松竹梅の三人娘は、お松がほんのちょっぴり、肩のあたりにやけどをおうただけで、ほかにこれというけががなかったのが、せめてもの不幸中の幸いで、佐七にとってはせめてもの罪滅ぼしだったろう。
卒塔婆《そとば》小町
――見る人、涙をしぼらぬはなかりしとなん――
「こういうことなら、はじめから親分さんにご相談申し上げればよかったのでございます」
それからまもなく、あのむざんなお福秀蔵の死骸《しがい》をとりかたづけたあとで、蓬莱屋万右衛門はほっとふかいため息とともに、
「それを、店の名前だの、売り出した絵の人気だのをかんがえて、なるべく内緒にことをすまそうと思うたばかりに、たいへんなことになりました」
と、ため息まじりに打ちあけた一条というのはこうである。
蓬莱屋万右衛門と喜多川蔦麿は、ことしの正月のはじめに、なにものともしれぬ人物から、おそろしい手紙を受け取ったのである。
それには、松竹梅三人娘をかどわかし、三人の娘をふためと見られぬみにくいものにしてやるという、のろいのことばを書きつらねてあった。
万右衛門も蔦麿も、のろいのぬしが何者であるか、また、なんのためにそのようにのろっているのか見当もつかなかった。
ただ、のろわれている相手が、三人娘よりもむしろ自分たちであるらしいことに気がついた。
そのとき、これを娘の親たちやお奉行所に報告すればよかったのだが、それでは店の信用や、絵の人気にかかわると思ったので、先手をうってひそかに三人娘をじぶんたちの手でかどわかし、保護をくわえるいっぽう、そのあいだにのろいのぬしを探しだそうと思ったのである。そして、そのことを、知らぬこととはいいながら、よりによって秀蔵にたのんだのであった。
秀蔵はむろん腹にいちもつ、万右衛門や蔦麿の手で三人をかどわかしてくれるなら、かえって手数がはぶけてよい。
かれらの手でかどわかしたところで、そっくり三人をちょうだいして、お福ののろいをとげさせようとしていたらしい。
「そういうわけで、かどわかしと申しましても、けっしてむたいなことをしたわけではなく、お松さまもお梅さまも、みななっとくずくで、ここへ来ていただいたのでございます。また、お竹さまには、お松さまとお梅さま連名の手紙を書いていただき、それをねむり薬といっしょに差し上げ、こっそり家をぬけだしたところを、師匠とわたしとふたりで、ここへご案内したのでございます」
「なるほど、おおかたそんなことであろうと思いました。しかし、お竹さんのぬけだしたあとにお福が寝ていたのは、どういうわけでございますえ」
「はい、それはなんでも、さっき秀蔵とお福の話していたところによると、お竹さんがぬけだしたあと、お福が例の色紙をおきに中へしのびこんだのだそうで。すると、そこにねむり薬のはいった酒がまだのこっていました。お福はそんなこととはつゆ知らず、寒さしのぎのつもりで飲んだんだそうで、そこで朝までぐっすり眠ってしまったんだそうでございます」
「なるほど。すると、あの色紙は、みんなお福のしわざだったんですね」
「はい、お福のほうでは、秀蔵の口から、わたしたちのやりくちをつつぬけに承知しておりましたから、わたしたちが三人をかどわかすと、あとへまわってはああいう色紙をおいてきたので、つまり、わたしたちは知らずしらずのうちに、お福の道具に使われていたのも同然でございました」
万右衛門はそこでまたほっとため息をついた。
「いや、よくわかりました。あの福寿草の絵は、つまり、お福の落款《らっかん》がわりだったのでございますね」
佐七はそこで、万右衛門や蔦麿、さてはお松、お竹、お梅の三人を見くらべると、
「それにしても、みなさんはさっきのお福のことばをなんとお聞きなすった。悪気があってしたわけじゃなかろうが、お江戸小町のもよおしが、お福をどのように不仕合わせな目に遭わせたか、よくおわかりでございましょうね。いや、こんなことはいえた義理じゃございません。あっしも片棒かついだひとりですからねえ」
佐七はしみじみとため息ついたが、それにたいして万右衛門と蔦麿は一言もなく、ただ愁然とうなだれるばかり、松竹梅の三人娘は、声をはなって泣きだした。
三人の娘にとっては、この一夜の経験は、生涯《しょうがい》ぬぐいけすことのできぬ深い教訓となったであろう。
正月以来、うわついて狂いかけていた三人の娘は、ふたたび心の駒《こま》の手綱をとりなおして、そのごまもなく、平凡ではあるが、幸福な結婚をしたという。
その春、蓬莱屋から風変わりな一枚絵が売りだされた。
それは行き倒れとなった卒塔婆《そとば》小町のすがたをかいたものだが、そのあわれぶかいすがたには、見るひと、涙をしぼらぬものはなかったという。画工はいうまでもなく喜多川蔦麿、この絵が売り出されると同時に、万右衛門は頭をまるめて、お福の供養に余念がなかった。
お江戸小町の催しが、その年きりでやんだことはいうまでもない。
鬼の面
酔いどれ駕籠《かご》
――駕籠のなかから血がたらたらと
「わっ、こらいかん。兄い、ちょっと待っとくれやす」
「ど、どうした、豆六」
「むこう鼻緒が切れよった。すぐすげまっさかいに、このちょうちん、持ってておくれやす」
「ちっ、ざまアみやアがれ。これだから、ゼイ六はいやだというんだ」
「あれ、ふたこと目にはゼイ六、ゼイ六と、そう心やすういうてもらいますまい。鼻緒が切れたんとわてのうまれと、なにか関係がおまんのかいな」
「あたりまえよ。豆六、まあ、よく聞けよ。江戸っ子というものは、なにをおいても履物にはみえを張るもんだ。ところが、てめえときたらどうだ。いつだってしりの切れた冷や飯草履、鼻緒も切れるどうりよ」
「えらいすみまへんな。そないお思いなはるなら、あんたも兄貴分や、草履の一足ぐらい、たまには買うてくれはったらどうや」
「ちっ、口のへらねえやつだ。さあ、ちょうちんをみせてやるから、さっさと鼻緒をすげちまえ。もう何刻《なんどき》だと思う、そろそろ五つ半(九時)じぇねえか」
「へえ、えらいすみまへんな」
そこは永代橋のうえなのである。
春とはいえ、夜がふけると川風が身にしみる、橋のうえのくらがりで、ぶつくさいってるこのふたりづれを、いまさらどこのだれそれと開きなおって説明するまでもあるまい。
きんちゃくの辰《たつ》とうらなりの豆六であることは、みなさまとっくにお察しのはずである。
こんやは佐七のいいつけで、深川の八幡前《はちまんまえ》まで出向いたが、そのかえりがおそくなって、出先でかりたちょうちんぶらぶら、永代橋までさしかかったところで、豆六が鼻緒を切らせたというわけである。
「ぶるぶるッ、おお、寒い、やけにまた川風が身にしみゃアがる。豆六、まだかえ」
「まア、兄い、そうせかせかいわんといておくれやす」
「せかせかいうなって、おまえの好きなようにさせておいたら、夜が明けちまわア。おらア寒くてかわなねえ。おまえもまた、よりによって橋のうえで鼻緒を切るこたアねえじゃねえか」
「ええ、もう、わてがちょっと鼻緒を切ったかて、そうがみがみいうことはおまへんやないか。ああ、やっとできた。お待ちどおさま」
豆六は鼻緒をすげおわって、草履をつっかけようとうつむいたが、ふいに、
「おや」
「豆六、ど、どうした。犬のくそでもふんだのか」
「兄い、ちょ、ちょっとちょうちん貸しておくれやす」
と、豆六は左手にちょうちんかかげ、右手の指を橋のうえにこすりつけて、それを鼻先へもっていってかいでいたが、
「あ、やっぱりそや。兄い、こら血だっせ」
「なに? 血だと? 豆六、ちょっとちょうちんをかしてみろ」
辰はちょうちんをうけとって、橋のうえを調べてみたが、なるほど、しめった土のうえに、点々として血の滴がたれている。しかも、それは深川のほうからひと筋ながく橋をわたって霊岸島のほうまでつづいているらしいのである。辰と豆六はおもわず顔を見あわせた。
「豆六、この血はまだ新しいな」
「さよさよ。いま垂れたばっかりとちがいまっしゃろか。兄い、ひとつ、こいつをつけていってみよやおまへんか」
「つけるって、豆六、こいつどっから来て、どっちへいったのかわかるのか」
「そら、兄い、深川のほうからきて、こんにゃく島のほうへ渡っていたにきまってますがな。この滴のたれぐあいをようみなはれ」
なるほど、豆六にいわれてみればそのとおりである。
「よし、それじゃどうせ道順だ。ひとつあとをつけてみよう」
永代橋は長さ百十四間、それをわたって堀《ほり》沿いに、北新堀へさしかかっても、血のあとはまだ点々とつづいているばかりか、しだいに量がふえてくる。
「豆六、もし、これが人間の血だとしたらただごとじゃねえぜ。これだけ血を流しちゃ、とても生きちゃいられめえ」
「へえ、わてもそう思てたとこや」
なおもちょうちんの光をたよりに足をいそがせていくと、血のあとは箱崎橋《はこざきばし》をわたったところで右に折れ、稲荷堀《とうかんぼり》のほうへつづいている。
辰と豆六はいよいよ足をいそがせたが、やがて稲荷堀へさしかかると、むこうにぼっとあかりがみえた。
どうやら駕籠《かご》がいくらしいのだが、ひどくちょうちんのゆれているのがおかしい。
「兄い、あの駕籠やおまへんか」
「よし、いそいでみろ」
ふたりの急ぐむこうから、男のだみ声がきこえてきた。
「も、もし、ね、ねえさん、そ、それともお嬢さんかな。い、いったいどこへ着けるんです。と、と、稲荷堀までいけばわかるということでしたが、こ、こ、ここはもう稲荷堀でげすぜ」
「ちっ、いやんなっちゃうな。さ、さ、さっきからいくら尋ねても返事もねえ。も、もし、お嬢さん、ね、ね、ねえさん。ううい」
ちょうちんがひどくゆれると思ったら、駕籠かきはふたりとも、めっぽう酔っぱらって千鳥足。
「兄い、やっぱりあの駕籠だっせ。ほら、血のあとが千鳥がけについてますがな」
「よし、呼びとめて調べてみよう」
辰が声をかけようとしたときである。
「あ、もし、駕籠屋さん」
だしぬけに、暗がりのなかから出てきた男が、駕籠のまえに立ちふさがって、
「ちょっとお尋ねいたしますが、この駕籠はどちらへおいでになりまする」
なんだか声がふるえているようなので、辰と豆六は四、五間てまえで立ちどまると、顔見合わせてふっとちょうちんを吹き消した。
くらがりのなかで、しばらくようすを見ていようというのである。
「さあ、そ、それがわからねえんで」
と、先棒はふらふらしながら、
「稲荷堀までいけば、お客さんが指図をするということでしたが、さっきからいくら尋ねても返事がねえんで」
「返事がないというのはどういうわけでしょう」
「おおかた、寝てるんでしょうねえ。ずいぶん酔っぱらっていたようだから」
駕籠かきは駕籠をかついだまま、しかし、酔っぱらっているから、ひとつところにとまってはいられない。あっちへふらふら、こっちへふらふらしているうちに、駕籠を呼びとめた男が悲鳴をあげてとびのいた。
「あ、そ、それはなんです。駕籠から垂れているそれはなんです。そ、それは血じゃありませんか」
「じょ、じょ、冗談をいっちゃいけねえ。駕籠から血なんかたれてたまるもんか」
「いいえ、いいえ、ほら、そこに……地面のうえに血だまりが……駕籠屋さん、なかを見せてください。ちょっとお客さんを見せてください」
と、むりやりに駕籠をおろさせ、垂れをめくってひとめなかを見たとたん、
「あっ、お、お蝶《ちょう》さま!」
そこへ辰と豆六がとび出した。
「どうした、どうした」
辰と豆六のすがたを見ると、駕籠を呼びとめた男が、ぎょっとしたようにあとじさりする。
二十二、三の色の白いいい男、みなりをみるとお店《たな》の手代といったかっこうである。
じろりとそれにしり目をくれて、駕籠のなかをのぞいてみると、黄八丈の振りそでを着た女がひとり、ぐったりと駕籠にもたれている。
「豆六、そのちょうちんをはずしてみろ」
「おっとしょ」
駕籠の棒鼻にぶらさげてあるちょうちんを豆六がとってさしつけると、女はくろいお高祖頭巾《こそずきん》をかぶっているので、顔はよく見えないが、胸もとからぐっしょりと血があふれている。
「わっ、こ、これは……」
それを見ると、ふたりの駕籠かき、わっとばかりにうしろへとんだ。
「おい、逃げちゃいけねえ。こうして死人を乗っけてるからにゃ、どうせおまえたちも掛かりあいはまぬがれめえぜ。豆六、傷はどうだ」
豆六はてばやく胸をひらいてみて、
「左の乳房の下をぐさりとひと突き、匕首《あいくち》かなにかでやられたんだな」
「おい、駕籠屋、これはどうしたんだ」
「へ、へえ」
駕籠かきたちはすっかり酒の酔いもさめて、まるできつねにつままれたような顔色だったが、そのときである。
死体に気をとられている辰と豆六の背後にあたって、ドブーンと大きな水の音。
はっとして振りかえると、さっきの若者のすがたがどこにも見えない。
「しまった、野郎!」
あわてて堀端《ほりばた》へかけつけた辰と豆六、ちょうちんをさしつけてみたが、どすぐろい堀の表面に大きな波紋がゆれているばかり、若者の姿はどこにもみえない。
「畜生、潜りゃアがったな、豆六、おまえもちょうちんをつけてみろ」
豆六もあわててちょうちんに灯をいれると、堀沿いにあちこち水のうえをさがしてみたが、ちょうちんの明かりはそう遠くまでとどかない。あいにくのやみで、ちょうちんの光の外はまっくらである。じっときき耳を立ててみたが、どこにも水の音はきこえない。
「畜生、よほど水練の達者なやつとみえる。ときに、豆六、あいつ駕籠のなかの女をみてお蝶さんと言ったな」
「そうそう、わてもきいた。あいつはきっとあの娘を知ってるにちがいおまへん」
「そうよ。だから逃がしたのが残念だ。しかし、こんなことを言ったところではじまらねえ。それより、駕籠屋をたたいてみようよ」
駕籠のそばへひきかえしてくると、
「おまえたち、いまの男を知っちゃアいねえか」
「いえ、いっこうに。――いまから思うと、あの男、どうやらそこの塀《へい》に吸いついて、あっしらのくるのを待ってたようですがね」
「おまえたちはどこから来たんだ」
「へえ、洲崎《すさき》からまいりましたんで。あっしは権三《ごんざ》、こっちは助十というんです」
「この女はどこからのせた」
「へえ平清《ひらせい》の近所でした。あっしら石切り場に住んでるんですが、こんやはいいかせぎがあったので、いっぱい飲んでうちへ帰ろうとしているところを、くらがりに立っていた男と女のふたりづれに呼びとめられたんです」
「ほほう、すると、この女、立っていたのか」
「へえ、それが……女はもう正体がなく、男の肩につかまって、抱かれるようにして立っていたんで。それで、男のいうのに、ひどく酔うているから、気をつけてやってくれ、稲荷堀《とうかんぼり》までいけば、女が行き先をおしえるからと、駕籠のなかへ抱きこみましたんで……暗がりでよくわかりませんでしたが、羽織袴《はおりはかま》に宗十郎|頭巾《ずきん》をかぶって、どうやらお武家のようでした」
「豆六、とにかく女の頭巾をとってみろ」
「おっとしょ」
豆六が頭巾をとったその顔へ、辰はちょうちんをつきつけたが、そのとたん、一同おもわず目をまるくした。
黄八丈の振りそでという衣装から、まだ十七、八の小娘とおもいきや、頭巾のしたからあらわれたのは、二十五、六のつぶし島田、ひとめで芸者としれる女だ。
駕籠かきふたりはその顔をみて、
「わっ、こ、こりゃ花車屋のおしゅんねえさん!」
「おい、権三、助十」
それからふたたび権三と助十に死骸《しがい》をかつがせ、洲崎へひきかえすみちすがら、
「花車屋のおしゅんといえば、おいらも名前をきいているが、洲崎きっての売れっ妓《こ》というじゃねえか」
「へえ、もう、そりゃアたいした人気で」
「花車屋の抱えだな」
「いえ、せんに花車屋から出ていたので、いまでも花車屋のおしゅんといわれてるんですが、ほんとは自前で、一軒かまえているんです」
「おしゅんの家にはほかに抱えがあるのか」
「いえ、いまんところねえさんひとりで、ほかにお定といって、内箱兼女中みてえな中ばあさんがいるきりです」
「いや、兄い、そうじゃねえぜ。ちかごろ兄貴というのが、ちょくちょくやってくるじゃねえか」
「そうそう、あの次郎吉か。あれにゃねえさんも泣かされるな」
「なんだ、その次郎吉というなあ……」
「おしゅんねえさんのじつの兄貴なんです。以前は舟宿の船頭をしていたんですが、なにか江戸にいられねえことがあったらしく、六、七年もわらじをはいてたんですが、昨年ひょっこり舞いもどってきて、ねえさんところへよく無心にくるようです」
橋をわたって駕籠が洲崎へはいるとまもなく、
「兄い、おしゅんねえさんが侍姿の男に抱かれて立っていたのはここなんです」
そこは洲崎弁天のほどちかく、なるほど寂しいところである。
「よし、あとで調べてみよう。しかし、おしゅんはなんだって小娘みてえなみなりをしていたんだろうな」
「さあ、それはあっしどもにもわかりません」
やがて、おしゅんの家のちかくまでくると、
「あっ、兄い、むこうに立っているのが、いまお話しした次郎吉とお定です」
「よし、おまえたち、ここに待ってろ」
辰と豆六がちかづいていくと、次郎吉がじろりとこちらを振りかえった。
藍微塵《あいみじん》の素あわせに、月代《さかやき》を伸ばしているところが、いかにも妹を食いものにしている無頼漢の風体である。
「ええ、ちょっとお尋ねしますが、花車屋のおしゅんさんの家はこちらですかえ」
辰に声をかけられて、次郎吉はうさん臭そうにじろじろ見ながら、
「へえ、おしゅんの家ならここですが、なにか御用でも……」
と、ことばだけはていねいである。
「ちょっとお尋ねしたいことがあるんですがね。おまえさんはおしゅんさんの……?」
「兄貴ですよ」
「そりゃア好都合だ。ちょっとねえさんに取りついでもらえませんか。会って聞きてえことがあるんですが……」
「ところが、あっしどもも締め出しをくらって弱ってるんです。ほら、このとおり」
なるほど、みれば細目の格子に、外から錠がかけてある。
「ああ、すると、ねえさんは留守なんで?」
「そんなはずはないんですがねえ」
と、内箱のお定が、
「ねえさんはお留守にしても、お蝶《ちょう》さんがいるはずなんだから……でも、灯が消えてるところをみると、お蝶さんも出掛けたのかしら」
お定のことばに、辰と豆六ははっと顔を見合わせた。
「そのお蝶さんというのはどういうおひとで」
「いえ、なに、ねえさんのお知り合いで、ちょっとおあずかりしているんです」
お定はなんとなくことばをにごしていたが、そのときだった。豆六が口のうちであっと叫んで、
「あっ、あらなんや! あの声……家のなかから、うめき声がきこえるやおまへんか」
一同はぎょっと息をのんだが、なるほど、なかからきこえてくるのは、絶えいるばかりのうめき声。それをきくと、次郎吉が格子にとりついてがたがたゆすった。
「兄さん、それじゃだめ、裏へまわってみましょう」
お定のあとについて路地へかけこむと、勝手口もなかから締まりがしてあった。
次郎吉がそれをこじあけて飛びこむあとから、辰や豆六もつづいてはいった。
勝手知った家のこととて、お定はすぐに台所の行灯《あんどん》に灯をいれる。
それを持って中座敷へ入っていくと、さるぐつわをはめられたわかい娘が、腰のものいちまいで柱にしばりつけられている。もっとも、その肩から、おしゅんのものらしい着物がかぶせてあったけれど……。その顔を見るなり、
「あっ、お、お、おまえはお蝶さん、こ、こりゃいったいどうしたんだ」
次郎吉は雷にでも打たれたような驚きようだった。
駆け落ち娘
――芸者になっておもう情夫を養わん
「……と、そういうわけで、おしゅんはお蝶をはだかにして、その着物を着て出かけたところを、だれかにえぐられたらしいんです」
辰と豆六がお玉が池へかえってきたのは、もう真夜中をすぎていた。
すでに寝床へはいっていた佐七は、ふたりにたたき起こされて、はなしをきくと目をまるくした。
「犬も歩けば棒に当たるというが、そいつはとんだ一件にぶつかったな。花車屋のおしゅんといえば、おれも名前をきいているが、しかし、辰、豆六」
と、佐七はひざをすすめて、
「おしゅんはなんだって、お蝶という娘の着物をきて出かけたんだ。いや、それより、お蝶というのはいったいなんだ」
「親分、それですがね。お蝶というのは、駆け落ちものの片われなんです」
「駆け落ちものの片われ?」
「そうなんですよ。親分もご存じでしょう。四日市町に、三河屋という大きな米屋があります。お蝶は三河屋の娘なんですが、店の手代の清七というのと駆け落ちして、おしゅんのところへころげ込んできたんだそうで」
佐七はまた目をまるくした。
「ほほう、あの三河屋の娘が駆け落ちしたのか。しかし、おしゅんとはどういう関係があるんだ」
「それがね、去年亡くなった三河屋のあるじ与兵衛《よへえ》というのが、その昔、おしゅんの世話をしていたことがあるんですね。そういう関係で、お蝶はおしゅんを知っているんです」
「すると、おやじのむかしのめかけのところへ、駆け落ちしたというわけか。しかし、いかになんでも、堅気の娘が芸者のところへ駆け落ちするというのは……そりゃアどうせ駆け落ちするくらいの娘だから、いたずらものにゃアちがいねえが……」
「あっしもそう思ったもんだから、きいてみたんですがね。すると、お蝶の返事というのはこうです。お蝶は芸者になりたくって、家を駆け落ちしたんだそうで。つまり、芸者になって、情夫《おとこ》を養っていきたいというんです」
「そいつはまた……それじゃ、あいての清七というのも、おしゅんのところにかくまわれているんだな」
「いえ、はじめはいっしょだったんですが、半月ほどまえにいたたまれなくなって、とうとうひとりでとび出したんだそうです」
「いたたまれなくなったというのは?」
「そら、親分、おしゅんのやつが横恋慕して、清七をくどいてしようがなかったさかいやそうだす」
「へへえ、それで、清七はいまどこにいるんだ」
「稲荷堀《とうかんぼり》の安藤様の中屋敷で、清七のおふくろというのが、折助たちの飯炊きなんかしてるそうです。清七はそこへ逃げていってるんですよ」
「それじゃ、稲荷堀で駕籠《かご》を呼びとめた若者というのは……」
「さよさよ、清七にちがいおまへん。お蝶にくわしく人相風体をきいてみましたが、堀にとびこんだんはたしかに清七だす」
「すると、清七はお蝶のくるのを知っていたのか」
「そうなんですよ。親分、お蝶と清七のあいだには、打ち合わせができていて、今夜お蝶はこっそりおしゅんの家をぬけ出し、清七のところへ逃げていくはずだったんです。それをおしゅんがかぎつけたから、さあたまらねえ。おしゅんのやつ、阿修羅《あしゅら》のごとくたけりくるって、お蝶をはだかにしたうえ、柱にしばりつけ、なおそのうえにひとが助けにこぬようにと、外から錠をおろしていったんです」
「そいつはまた、思いきったまねをしゃアがったな。そして、お蝶に化けて清七に会いにいくつもりだったんだな」
「さよ、さよ、お高祖頭巾《こそずきん》で顔をかくして、清七をだましてどこかへつれこみ、今夜こそきっとものにしてみせると、出がけにお蝶に毒づいていったそうです」
「ふうむ、おしゅんはよほど清七にのぼせあがっていたんだな」
「そりゃアもう、清七がいるあいだたいへんだったそうです。お蝶の目のまえで、男にすがりつくやら、しなだれかかるやら、あげくのはてにゃ、じぶんのことばにしたがわねば、お蝶さんを殺してしまうと、剃刀《かみそり》をふりまわすやら、そりゃアもう見ちゃアいられない狂態ぶりだったそうで」
「なるほど、それじゃ清七がいたたまれねえのもむりはねえな」
佐七はだまって考えていたが、
「それで、おしゅんの殺された場所はわかったか」
「わかりました。宗十郎頭巾の男がおしゅんをかかえて立っていた洲崎《すさき》弁天のなからしいんです。格闘したらしい跡もあり、血のあとも残っているんです。ところが、親分、そこに妙なものが落ちていたんですよ。豆六、あれを出してみろ」
「へえ」
と、こたえて豆六が、ふろしきづつみをといて取り出したものを見て、佐七はおもわず目をみはった。
それは、節分の日に物もらいがかぶってあるくお面のような、厚紙でつくったそまつな鬼の面である。
「辰、豆六、これはしかし、たまたまそこに落ちていただけのものじゃねえのか。それとも、こいつがおしゅん殺しの一件になにか関係があるという証拠でもあるのか」
「へえ、そら、親分、こうだす。洲崎弁天の境内でこいつを見つけてから、わてらまたおしゅんの家へひきかえして、みんなにこの面を見せたところが……」
「お蝶のやつが血相かえて、それじゃ、下手人はこれをかぶってねえさんを……と。それで、あっしが問いつめると、お蝶はにわかに気がついたように、言を左右にして、なにも知らぬと打ち消すんですが、あの顔色じゃお蝶はたしかに、なにかに気づいているにちがいございません」
「さよ、さよ、あのときのお蝶のおびえかたは、たしかにひととおりやおまへなんだな」
佐七は面をとりあげたが、まえにもいったように、それは粗悪な厚紙を鬼のかたちに切りぬいて、そのうえに赤い絵の具をべたべたとなすりつけたもので、かくべつそこに重大な秘密があろうとも思われなかった。
「ときに、三河屋のほうはどうなんだ。娘が駆け落ちしたのを、まさか指をくわえて見てるわけじゃあるめえ」
「へえ、それはもちろん、お蝶が洲崎にいることがわかると、再三再四使いがきて連れもどそうとするんだそうですが、お蝶がどうしても承知しねえんです。おしゅんはおしゅんで、お蝶がいちゃ清七がじぶんのものにならねえから、出ていけがしにするんですが、それでもお蝶はじっと辛抱していたんですね」
「お蝶のおやじは亡くなったんだな。すると、三河屋のあとは……?」
「さあ、くわしいことはまだわかりません。夜が明けたら、さっそくそのほうを洗ってみなきゃアならねえと思ってるんですが、次郎吉やお定の話によると、なんでもお蝶のおふくろというのはまま母らしいんですね。それで家にいづらいんじゃねえかという話です」
「ときに、おしゅんの死骸《しがい》を駕籠屋にあずけた宗十郎|頭巾《ずきん》の男のことだが、それについちゃなにも心当たりはねえのか」
「それですよ、親分、次郎吉やお定、それにお蝶なども、そのはなしを聞くとただびっくりするばかりで、だれも心当たりはねえというんです。そいつが下手人としても、いったい、どうして死体を稲荷堀までかつがせたのか、それがさっぱりわからねえ」
三河屋一家
――複雑にして怪奇なる店の内幕
その翌日、佐七が洲崎へ出向いていくと、さすがは土地きっての売れっ妓《こ》だけあって、おしゅんのうちは悔やみ客で混雑していた。
佐七は次郎吉のまえにいくらかの香典をつつむと、
「おしゅんさんの兄さんというのはおまえさんかえ。このたびはどうもとんだことでしたねえ」
と、あいさつをしながら、それとなくあいてのようすを見る。
次郎吉はさすがに気落ちしたようすで、
「これはお玉が池の親分ですか。ゆうべはまた辰つぁんや豆さんにお世話になりました。きょうは姿が見えねえようだが、どうかしましたか」
「あいかわらずいそがしく走りまわってるよ。ときに、お蝶さんという娘の姿がみえねえようだが……」
「へえ、じつは、三河屋さんから番頭さんがきて、二階でみっちり意見してるところなんです」
「お蝶さんというのは、まま母にかかってるんだってね」
「へえ、そういうはなしですが、あっしゃくわしいことは存じません」
「ときに、おしゅんを殺した下手人だがね。おまえ、なにか心当たりはねえか」
「へえ、それが……兄貴といったところで、いっしょに暮らしてるわけじゃなし、あいつはあいつ、あっしはあっしという暮らしですから、あいつがいったいどんな男と掛かりあってるのか、さっぱり存じません。それに、ながいあいだ、あしかけ七年、江戸を離れてたもんですから、兄妹《きょうだい》とはいえ水臭くなってますからねえ」
「そうすると、おまえはおしゅんさんが三河屋の先代、与兵衛さんの世話になってたじぶんのことは知らねえわけだね」
「へえ、存じません。でも、ごくわずかのあいだだったそうじゃありませんか。いつかお定に聞きました。そうそう、そのお定で思い出したんですが、ねえ、親分」
「ふむ、お定がどうかしたかえ」
「そのお定がいうのに……いや、こりゃああっしの口から話すより、お定からじかにお聞きなすったほうがいいでしょう。おい、お定」
「あい、次郎さん、なにか御用かえ。わたしゃアいま忙しいんだけど」
佐七がふりかえってみると、内箱のお定は仏のまくらものに座って、悔やみにきたどこかのおかみさんとみえるわかい女をあいてに、しきりに話しこんでいる。
女のひざには五つ六つのかわいい男の子が抱かれていた。
「そっちはおれが代わろう、親分がゆうべのことについてお尋ねになりたいってよ」
「あら、そう、それじゃお亀《かめ》さん、ちょっとご免ね。才二郎ちゃん、よくおばさんを拝んであげるんですよ。そして、顔をよくおぼえておきなさいよ」
次郎吉といれちがいにやってきたお定をみると、目にいっぱい涙をためている。
場合が場合だけにふしぎはないようなものの、佐七はちょっと異様な感じで、
「お定さん、あのお女中はどこの?」
「あれはお亀さんといって、亡くなったねえさんの幼いときからのお友だちなんです」
「ひざに抱いてるのはじぶんの子かい」
「ええ、才二郎ちゃんといって、ねえさんがとてもかわいがっていたもんですから、あの子をみると、つい、ねえさんのことが思い出されて」
「いや、嘆きのなかを野暮な用事ですまねえが、次郎さんにいうのに、ゆうべのことについて、なにかおまえに心当たりがあるとか……」
「いえ、あの、心当たりというほどでもないんですが……駕籠屋の権三さんと助十さんにきいたんですが、ゆうべ洲崎弁天のそばで、ねえさんを駕籠《かご》にのっけたのは、紋付きの羽織|袴《はかま》に、宗十郎|頭巾《ずきん》をかぶったお武家だったということですね」
「そうそう、おれもそんなはなしをきいた。それについて……」
「じつは、ゆうべ、そういう風体のひとを見かけたので、ひょっとすると、あのひとじゃないかと思うんですが……」
「だれだえ、それは……おまえ、その男を知っているのかい」
「はい、酒井|多仲《たちゅう》さんといって、まえからねえさんにほれて、しつこくかよってくるどこかの藩のお留守居役なんです」
佐七がそれについてもっとくわしく聞こうとしているところへ、三河屋の番頭と駆け落ち娘のお蝶が二階からおりてきた。
「これはこれは、みなさん、おとりこみのところを、じぶんの勝手ばかりいたしまして、あいすみません」
三河屋の番頭は、勘十郎といって年のころ三十五、六、やせぎすの、色の小白い良い男である。
三河屋ぐらいの大きな店の番頭になると、やはり多少男ぶりはわるくとも、でっぷりふとった人物がのぞましい。
その点、勘十郎は損をしている。
やせているので貫禄《かんろく》がなく、男ぶりがいいので、軽薄にみえる。
「番頭さん、はなしはどうつきましたえ」
「はい、お嬢様もどうやら納得してくださいました。わたしといっしょに、お店へおかえりくださることになりましたので」
「お嬢さん、それじゃあなたはほんとうにお店へおかえりになりますか」
「お定さん、すみません。いろいろご心配をかけましたが、あたしはやっぱり四日市町へかえります」
「そうですか。そりゃアもう、それに越したことはありませんが、それならそうと、もう一日はやくその決心をしてくださったら、ねえさんもこんなことにはならなかったのに……」
「お定さん、すみません」
「なにさ、お蝶さんがお店へかえるの、かえらないのということと、おしゅんが殺されたこととは、べつになんの掛かりあいもありゃしねえ。お蝶さんも気にやむことはありませんぜ」
「だって、次郎さん、ねえさんはお蝶さんの着物をきていたため、お蝶さんとまちがえられて……」
「バカをいえ。いかにお蝶さんの着物をきていても、また、いかにお高祖頭巾《こそずきん》で顔をかくしていたところで、おしゅんとお蝶さんでは、体つきからかっこうからまるでちがわあ。人殺しをしようというほどのものが、かんじんのあいてをまちがえてたまるもんか。おしゅんを殺したのは、やっぱり酒井多仲とかいうどこかのお留守居役にちがいねえ」
と、次郎吉はむきになってしゃべているじぶんに気がつくと、ほろ苦くわらって、
「ほい、これは勝手なことを申しました……もし、番頭さん、ここはようございますから、ちっともはやくお嬢さまをお連れなすったら……またもや御意のかわらぬうちにということがございますからね」
次郎吉と勘十郎のあいだには、ひとしれず目くばせがかわされたようである。
お蝶と勘十郎が駕籠《かご》をつらねて出ていくうしろすがたを見送って、
「ちょっ、いやなやつ」
と、おもわず口をついて出るお定のつぶやきを、佐七はふと小耳にはさんで、
「いやなやつって、お蝶のことか、それともあの勘十郎のことかえ」
「勘十郎のことですよ。なんだい、のっぺりとした面アしやがって、ことばだけはいやにていねいだが、腹のなかはへびみたいに冷たいやつですよ」
「へびみてえに冷てえか、冷たくないかしらねえが、三河屋のような大店《おおだな》の番頭には、ちと不似合いな人柄だな」
「あら、親分さんはご存じじゃございませんか。勘十郎さんはいまのおかみさん、お吉さんのいとこになるんです。そして、お吉さんは三河屋の家つき娘だから、どんなことでもできるんですよ」
佐七は目をまるくして、
「しかし、いまのおかみさんは、去年死んだお蝶さんのおやじさん、与兵衛さんの後添いだという話だが……」
「ええ、そうですよ。そもそも、与兵衛さんのほうがご養子なんです。お蝶さんのおっかさん、お富さんのところへ、入り婿にはいったんです」
「なるほど。しかし、後添いのお吉さんまでが家つき娘というのは……」
「だからさ、三河屋さんには、お富、お吉とふたりの娘があったんですが、その姉娘お富さんのところへ、与兵衛さんを養子に迎えたんです。与兵衛さんはなんでもお店の手代かなんかだったのを、先々代に見込まれたんですね。ところが、お蝶さんが三つのときに、お富さんが亡くなったので、その後添いとして妹のお吉さんをめあわせたんです。だから、お吉さんは後添いとはいえ、家つき娘にゃちがいないから、だんなの生きてるじぶんでも、そりゃア威張っていたもんです」
なんとなく複雑な三河屋の内情に、佐七はふっと興味をそそられた。
「なるほど、それじゃお蝶さんは、まま母とはいえ、じつの叔母《おば》にかかっているわけだな」
「ええ、そういうことになりますね」
「後添いのお吉さんというのにゃ子供はねえのか」
「それがあるんですよ。お町さんといって、お蝶さんとは三つちがいの妹があるんです」
「三つちがい……? だって、お蝶のおふくろは、お蝶が三つのときに死んだんだろ。それから妹を後添いになおしたとして……ああ、そうか、勘定があわねえこともねえが、ずいぶん際どくできた子どもだな」
「ほんとにねえ。なんしろ、与兵衛のだんなというひとが、仏様のようなおひとでしたからねえ」
お定はどこかトゲのある口ぶりだった。
「それで、なにかえ、じつの叔母でもまま母となると、お蝶はやっぱりいづらいのか」
「どうも、そのようですねえ。お蝶さんはめったにお店のことはいいませんでしたが……おや、お亀さん、もうおかえりかえ」
さっきから、仏のまくらもとにしょんぼり座っていたお亀という女が、子どもといっしょに立ち上がったので、お定はいそいでありあう菓子を紙につつんで、
「才二郎ちゃん、じゃ、これを持っておかえり。お弔いのときには、おっかさんといっしょに、ぜひ来ておくれよ。それから、お墓参りも忘れないでね」
「ええ。お定さん、あすはまたこの子をつれて、きっとお見送りにまいります」
才二郎という子どもをつれてかえっていくお亀のうしろ姿には、なんとなく哀れな色がふかかった。佐七はしかし、それをふかくも気にとめず、
「ときに、お定、さっきの話のお留守居役、酒井多仲とかいったな。それはいったいどういうんだ。おまえの考えじゃ、そいつがおしゅんを殺したというのか」
「いえ、そういうわけじゃありませんが、なりといい、時刻といい、駕籠屋のはなしにそっくりですから……」
「おしゅんにほれて口説いていたんだな。すると、恋のかなわぬ意趣晴らしというわけか」
「さあ、そういうお人柄とも思えないんですがねえ。とてもさばけたおもしろいおかただと、ねえさんのほうでもまんざらではなかったんです。しかし、ひとは見かけによらぬといいますから……」
と、お定はことばを濁したが、そのときだった。
「親分、た、たいへんだ、たいへんだ」
と、きりきり舞いをしながらとびこんできたのは辰と豆六である。
「な、なんだと。辰、豆六、なにがどうしたというんだ」
「お蝶さんがここからのかえりがけ、まんまと番頭をだしぬいて逃げてしまいましたぜ」
それを聞くと、佐七をはじめお定と次郎吉、おもわず顔を見合わせた。
お留守居役
――夫婦のかたらいさすことならぬ――
あんなに家へかえるのをいやがっていたお蝶が、思いのほかかんたんに番頭に口説きおとされたと思ったのは、やはりそこに魂胆があったのである。
いつ、どこで、どうして打ち合わせができていたのか、駕籠《かご》が黒江町のほとりまでさしかかると、
「あの、駕籠屋さん、ちょっと……」
と、お蝶がなかから声をかけて、
「なんだか、めまいがしてなりません。すこし風に吹かれたいから、ここでおろしてくださいな」
駕籠屋が番頭の勘十郎に相談すると、
「少しのあいだならよかろう。それじゃ、おれもお付き合いにあるこうか」
と、そこで二丁の駕籠をあとにしたがえ、お蝶と勘十郎は肩をならべて、ぶらぶらと黒江町の掘割《ほりわり》沿いに歩いていった。
時刻はまだ昼を過ぎたばかりだが、だいたいが寂しいところなのである。
堀ぶちにもやった舟に、ほおかむりした男がむしろをかぶってねている姿がみえた。
「お蝶さん、気分はどうだえ」
ふたりきりになると、勘十郎のことばつきががらりとかわる。
さっきまでの悪ていねいさはどこへやら、まるで目下のものでも呼ぶような横柄さなのである。
「ああ、少しはよくなったけれど……」
お蝶も伝法な口の利きようである。
「そうか、それは結構。もしなんなら、すこし後もどりになるが、八幡前《はちまんまえ》へでもいってやすんでいこうか」
そのころ、深川の八幡前には、怪しげな出会い茶屋がならんでいたものである。
「あら、あんなこといって……おっかさんにしれるとしかられるよ」
「なあに、おまえさんさえ黙っていりゃわかりゃしない。駕籠屋には金ぐつわをかませておくからさ」
「うっふっふ。番頭さん、おまえもいい度胸だね。わたしを口説こうというのかい」
「ま、そうさな。お蝶さん、おまえも芸者になろうというほどのかい性がありながら、なんだい、清七みたいな青二才に血道をあげたりしてさ。あんまりバカらしいから、おれが抱いてねて、ほんとの男の味というのを教えてやろうというのさ」
「おっほっほ、そのほんとの男の味とやらで、おっかさんを夢中にしてるんだろうけど、あたしゃまっぴらだね」
「なに」
「番頭さん、あたしゃもう子どもじゃないんだから、つまらないいたずらはよしておくれ。鬼の面なんかにだまされやアしないよ」
「なにを」
勘十郎の顔色がさっと紫色にかわって、お蝶のたもとをとらえようとしたときだった。
「番頭さん、あばよ、おとといおいでだ」
お蝶がさっと身をおどらせたのは、堀のなか、土手ぶちにもやってあった舟のなかへとびこむと、
「清どん、お待ちどお、はやくやっておくれ」
「しまった!」
勘十郎があわてて土手っぷちへ駆けよったときには、舟ははや岸をはなれて、竿《さお》を持った清七の顔がわらっている。
「ちきしょう、ちきしょう」
勘十郎がじだんだ踏んでくやしがっているのをしり目にかけて、またたくまに堀をわたると、お蝶清七はむこう河岸の大島町へすがたを消した。
「ああ、よかった。けさおまえがそっと手紙をとどけてくれたから、なんとかしてあの家を抜け出したいと思ってたんだけど、おしゅんさんがああなってるのを、ほうっておいて逃げ出すのもあんまり不人情だし、どうしたものかと思案をしているところへ、うまいぐあいに勘十郎が迎えにきたじゃないか。これさいわいと口車に乗ったような顔をして出てきたが、はたしておまえが約束のところに待っていてくれるかどうかと、どんなに気をもんだかしれやしないよ」
お蝶はまるで伝法はだである。ことばつきなども、大店《おおだな》のお嬢さんのようではない。ひと月あまり深川に身をひそめているうちに、すっかりその風にそまったのであろうか。
清七はしかし無言のまま、青白んだ顔をうなだれて、ひと足おくれてついてくる。
「どうしたのさ、清どん、あたしにばかりしゃべらせて、なにをそんなに考えこんでいるのさ。ああ、わかった。おまえ、おしゅんさんのことを考えてるんだね」
「冗談いっちゃいけません」
清七はしずんだ調子で、
「わたしはこんなことしなきゃアよかったと、いまさら後悔してるところなんです」
「こんなことって、なにさ」
「おまえさまをあのまんま四日市町までお返ししたほうがよかったんじゃないかと……」
「バカなことをいっちゃいけないよ」
お蝶はせせら笑うように、
「いまさらあの家へかえれるもんか。バカらしい、毎晩鬼の面でおどかされ、出ていけがしにあつかわれて……清どん、あたしにゃアもう家はないものと思っておくれ。深川がだめなら、どこの土地からでも芸者に出て、きっとおまえは立てすごす。だから、おまえもそのつもりでいておくれ」
大島町をぬけると万徳院、人っ気のない広い境内で、お蝶は清七によりそったが、そのふたりをさっきから、ひとり、ふたり、三人と、つけている人影があろうとは、お蝶、清七、夢にも気がつかなかったのである。
「お嬢様、いったい、鬼の面というのはなんのことでございます。なんだってそんなものでお嬢さまをおどかすのでございます」
「あたしにもそれはわからない。だけど、去年お父さまがお亡くなりになったとき、鬼の面と書いた紙を握っていらっしゃたことは、おまえだって知ってるだろう」
「はい。そのはなしならあとで聞きました。なんでも、だんなさまの直筆で、ひきちぎられた巻き紙に、鬼の面と片仮名で書いてあったとやら。いったい、だんなさまはなんだってあんなことをお書きのこしになったんでしょう」
「さあ、それがわからないから気がかりなんだよ。お父さまのご臨終のお苦しみというものは、それはたいへんだったから、なにかよくよく気がかりなことがおありだったにちがいない」
亡き父のはなしをするときだけは、さすがにお蝶もしおらしく、しょんぼりとうなだれて、
「それについて、世間では三河屋には鬼の面がたたるなどと……」
「そして、お嬢様のまくらもとに、ときおり鬼の面をかぶったものが、夢ともなくうつつともなくあらわれるというんですよ」
お蝶は寂しそうに笑うと、
「その鬼の面のからくりなら、あたしにもちゃんとわかっている。お父さんの書き置きのオニノメンという文字を、あたしが気に病んでいるのを知っていて、だれかがおどかしにかかっているのさ。その正体だってわかってる。つまりは、あたしを追い出すためのからくりなのさ。だから、あたしはその手に乗ったとみせて、わざとこうして家を出たんだけれど、その道連れにされたおまえさんには気の毒だね。べつになんの関係もないのに、不義者のようにみられて、ほんとに気の毒だと思っている」
「いいえ、そんなこと……お嬢さまのおためになることなら、どんな悪名もがまんしますが、ゆうべのようなことがあると……」
清七はおびえたように身をふるわせる。お蝶も思い出したように、
「ほんに、おしゅんさんは気の毒だった。あたしの着物をきていたばかりに……」
「お嬢さま、それじゃおしゅんさんは、やっぱりお嬢さまとまちがえられて……」
「それはそうじゃないか。殺されたあとに鬼の面が落ちていたというんだもの。だけど、いったいだれがあたしを……」
お蝶はさむざむと肩をすくめて、
「そりゃ、おっかさんにしろ勘十郎にしろ、あたしが死ねばよいと思ってることはたしかだけど、まさか手をくだして……」
お蝶はおもわず身をふるわせたが、そのときふっと気がつくと、いつのまにやらふたりのまわりを五、六人の男が取りまいている。
みんな折助ふうの男である。
さびしい寺内の墓地のほとり、あたりにはほかに人影もなかった。
勝ち気なようでもお蝶は娘、それに清七も、色男としては腕っ節の弱いほうではなかったが、なにしろあいてはあらくれ男が五、六人。
「なにをする!」
というひまもない早業で、よってたかって縛られて、さるぐつわをはめられると、二丁の駕籠にほうりこまれ、
「うまくいったな。だれも見ているものはねえだろうな」
「見てたってかまうものか。だんなのおいいつけだ。こちとらの知ったことじゃねえ」
と、二丁の駕籠はいだてん走り、お蝶もいったんはおどろいたが、根がだいたんな娘である。
駕籠のなかで度胸をすえると、さて、いったいだれが、なんのために、こんなことをするのかと考えてみる。
勘十郎はいままいてきたばかり、あいつが先回りをするはずはなし、よし、また先回りをしたところで、折助などを仲間にかたろうはずがない。
お蝶はまるで見当がつかず、ひょっとすると人違いしているんじゃないかと考えたが、そうでなかった証拠には、それからまもなく、どこやら大きなお屋敷へかつぎこまれて、どんと駕籠がおろされると、
「だんな、うまくいきました。いいぐあいに、お蝶清七つるんで泳いでいるところを、ばっさり網をうってきたんです」
と、そういうところをみると、人違いではないらしい。
「いや、ご苦労ご苦労。さぞ驚いているだろう。はやく駕籠から出してやれ」
幅の広い、ゆったりした声である。
お蝶はそれをきくと、ほっと胸をなでおろした。
すくなくともそれは、それほどひどい敵意をふくんだ声とは思えない。
駕籠から出ると、武家屋敷の奥庭といったところで、縁のうえにはお武家がひとり、ゆったりと脇息《きょうそく》によりかかっている。
年のころは四十二、三、色の浅黒い小ぶとりにふとった人品のいい侍である。
「お蝶、清七とは、おまえたちか」
そういう侍の目もとが笑っている。
「は、はい、さ、さようで……」
清七はがたがたふるえているが、お蝶はあいてに害意のないのをしると、すぐ持ちまえの伝法はだが頭を持ちあげる。
「そのお蝶はわたしですが、そういうあなたはどなたなんです。そしてまた、なんだってこんな理不尽なまねをなさるんです」
「あっはっは、こりゃア年はわかいが、なかなか気のつよい娘だな。これじゃおしゅんが持てあましたのもむりはない」
侍は目をほそめて、
「拙者は酒井多仲といって、さる藩中のお留守居役だ。おまえたちをここへつれてきたのは、おしゅんがあまり哀れだから、当分おまえたちに夫婦のかたらいさせぬためだ」
妙なことをいい出した。
酒井多仲……ときいて、お蝶は思い出した。おしゅんにほれて、付きまとうていた男……そういう先入観念から、お蝶はもっと憎らしい、芝居の安敵みたいな侍を想像していたのに、案に相違の、これはまたいかにもさばけたわけ知りらしい人柄である。
いったい、お留守居役というのは大名の外交官、渉外係ともいうべき役目で、それだけにさばけた粋人が多かったものである。
しかし、見かけでだまされてはならぬ……とお蝶はきっとまぶたを染めると、
「ああ、それじゃ、おしゅんさんを殺したのは、やっぱりあなただったんですね。いいえ、かくしたっていけませんよ。お定さんがゆうべ洲崎であなたの姿を見ているんです。駕籠屋をだまして、おしゅんさんの死骸《しがい》を運ばせたのもあなただったんでしょう」
酒井多仲はおだやかに笑みをふくんで、
「いかにも、おしゅんの死骸を稲荷堀《とうかんぼり》まで送らせたのはこのわしだが、おしゅんを殺したおぼえはない」
「あれ、あんなことをおっしゃって、お侍ともあろうものが、ひきょうではございませんか」
「あっはっは、これは手きびしいな。いかにも、わしが手にかけたものなら、なんでことばを左右にしようぞ。しんじつ、わしはなんにも知らぬ。悲鳴をきいて駆けつけたときには、おしゅんは胸をえぐられて、もう虫の息だった」
「しかし、それなら、なぜその死骸《しがい》を稲荷堀(とうかんぼり)まで送らせたんです」
「それがおしゅんのいまわのきわの頼みだった。それほど清七を慕うていたおしゅんの心中を察すると、みすみすおまえたちふたりに、恋のささやき、夫婦のかたらいをさすことはならぬ。野暮なようだが、おしゅんにかわって、わしがこの恋さまたげるのだ」
お蝶は声を立ててあざ笑うと、
「おっほっほ、それはまたとんだご粋狂。それより、殿様、おしゅんさんの悲鳴をきいて駆けつけたのなら、なぜ下手人を捕らえようとはなさらなんだ。おくびょう風に吹かれたのでござんすかえ」
「むろん、わしは下手人を追おうとした。しかし、おしゅんが引きとめたのだ。おしゅんは下手人を知っていた。知っていて下手人を逃がしたのだ。これ、清七、そのほうまさか、ゆうべ洲崎へやってきたのではあるまいな」
清七のほうへ振りむけた多仲の目には、ふかい疑惑がこもっている。
お蝶もそれに気がつくと、さっと顔から血の気がひいていくのをおぼえるのである。
今様玉手御前
――ほれたと見せたはおしゅんの苦肉――
おしゅんのお弔いは、深川の法善寺で行われた。
喪主はおしゅんがまえにつとめていた花車屋のおかみのお倉といって、深川きっての大ねえさんだった。
おしゅんは当時、評判女であったうえに、気前のよい女で、新参のわかい妓《こ》の面倒などもよくみたので、お弔いはなかなか盛大だった。
佐七もお弔いにつらなったが、そのあとで庫裏のほうで振る舞いにあずかった。
三河屋からは勘十郎のかわりに、中番頭の宇之助《うのすけ》というのがきていたが、佐七はしぜんこの宇之助と口をきくようになっていた。
「ときに、三河屋さんでは、鬼の面がたたるというがほんとうですか」
「世間の口に戸は立てられぬといいますが、親分のお耳にもそんなことがはいりましたか」
「なんでも、与兵衛のだんながお亡くなりなすったとき、鬼の面と書いた紙を握っていられたそうですね」
宇之助はくらい顔をしてうなずくと、
「どうしてだんなはあんなことを書かれたのか、わたしどもにもさっぱりわけがわかりません」
「その字は、だんなの筆にちがいなかったんですね」
宇之助はまたくらい顔をしてうなずいた。
「しかし、聞きゃあだんなは中風で、手足が自由にならなかったというじゃありませんか。それでよく、そんな字が書けましたね」
「ですから、片仮名で書いてございました。まるで、みみずののたくるような字で、オニノメン……と」
「しかし、その紙はそこで引きちぎられていたというじゃありませんか。だれが引きちぎったのかしらないが、だんなのお書きになった文句はもっと長いんじゃなかったんですか」
「そうかもしれません。しかし、どちらにしても、鬼の面とはなんのことだか……」
佐七はだまってかんがえていたが、そのときだった。むこうのほうで、
「な、な、なんですって。そ、そ、それじゃ、これがおしゅんの子ですって?」
と、弾けるような声がしたので、佐七がふりかえると、声のぬしは次郎吉だった。
佐七にも見おぼえのある才二郎という男の子を目のまえにおいて、次郎吉はあきれかえった顔色である。
「ほんに、おまえさんが知らないのもむりはない。ありゃおまえさんが江戸にいなかったじぶんのことだからねえ」
才二郎をひざにおいて、しんみりと言いきかせているのは、花車屋のお倉である。
佐七はなんとなく胸騒ぎをかんじて、杯を持ったままそのほうへ聞き耳を立てている。
「そして、おかみさん、この子のおやじというのは、いったい、どこのどういうやつです」
次郎吉のようなならずものでも、血は水よりも濃いのである。
おしゅんに子どもがあったということは、ひとかたならぬショックだったらしい。
「さあ、それがねえ。いままでだれにもかくしていたが、もうふたりとも亡くなったからいいだろう。この子のおとっつぁんというのは、去年お亡くなりなすった三河屋のだんなだよ」
「おかみさん、そ、そりゃほんとですか」
「ほんとだともさ。こんなだいじなこと、だれがうそをつくものか」
「畜生、それじゃ、三河屋のおやじは、おしゅんに子までうませながら、それっきり捨ててしまやアがったんだな」
「次郎さん、そうじゃないよ。三河屋のだんなは、そりゃアおしゅんちゃんをかわいがっていなすったんだ。おしゅんちゃんも、としこそちがえだんなにゃほれていた。しかし、なにぶんにもおかみさんがねえ」
「え? おかみさんが……? おかみさんがどうかしたんですかえ」
「次郎さん、それだよ。だんなのせんのおかみさん、お富さんというひとは、それはそれはよくできたおひとだったということだが、いまのおかみさんのお吉さん、あのひとはせんのおかみさんの妹だが、きょうだいとはいえ雪と炭、だんなとおしゅんちゃんのことがわかると、そりゃアもう、たいへんなけんまくであばれこんできて、おしゅんちゃんの髪の毛とって引きずりまわし、そりゃたいへんな騒ぎだった。だんなはなんしろご養子の身、それに、もともとおだやかなおひとだから、とうとう涙をのんで、おしゅんちゃんと切れることになったのさ。そのとき、おしゅんちゃんはみごもっていて、まもなくうみおとしたのがこの才二郎ちゃん」
お倉はふっと声をくもらせ、
「わたしが世話をして、お亀さんにもらってもらったんだが、三河屋のだんなにとっちゃ、生涯《しょうがい》この子のことが心がかりだったろうよ。だんなにとっちゃたったひとりの男の子、おかみさんがもう少しなんとかしたおひとなら、まさかほうっておきゃアしないだろうに……」
次郎吉の顔色が、しだいにけわしくなってくる。ぶるぶるとひざにおいたこぶしをふるわせ、
「いいや、いいや、だんなだって、だんなだって、この子のことは忘れていやアがったにちがいねえ。それでなけりゃ、いかに養子だって、いかにひとがいいたって……」
「いいや、次郎さん、だんなは死ぬまでその子のことを思いつめていなすったようだよ」
そう声をかけたのは佐七である。
佐七はひとをかきわけて、そっちへいくと、
「もし、花車屋のおかみさん、この子のことは、お蝶《ちょう》さんも知らなかったんですね」
「さあ、たぶん知らなかったろうねえ。いっさい内緒ということになっていたんだから」
「いや、それでなにもかもわかりました。おい、次郎さん、おまえも鬼の面のことは知ってるだろう。三河屋のだんなが死ぬまぎわに、鬼の面と書いた紙を握っていなすったということは……」
「それがどうしたというんだ」
「まあ、聞け。だんなは中風で口がきけず、手もまた不自由だったから、書き置きも片仮名でお書きなすったんだが、それはたぶん、才次郎の面倒たのむというような、文句だったにちがいねえ。それを片仮名で書いたから、才二のメンドウタノムとなった。それをだれかが……おおかたおかみさんだろうが、半分引きちぎったもんだから、だんなの手にのこったのは、オニノメンという字ばかり。それをなにも知らない連中が、鬼の面と読んだんだ」
あっというような叫びが満座を圧した。次郎吉は呆然《ぼうぜん》として目をみはっている。
「次郎さん、これをみても、だんながいかにこの子のことを思うていたかわかるじゃねえか。中風で口のきけなかっただんなは、死ぬまぎわに必死の思いで筆をとって、この子のことをおかみさんに頼んだんだ。ところが、そのおかみさんは邪険にも、だんなの遺言を引きちぎったばかりか、みんなが勘違いして、鬼の面と読んだをさいわい、三河屋には鬼の面がたたるなどと、じぶんからいいふらして、才二郎ちゃんのことはいっさい握りつぶそうとしたんだ」
血の気のうせた次郎吉の顔が異様にゆがんで、ひざにおいた両のこぶしがはげしくふるえる。
佐七はそれを興味ぶかくみつめていたが、そこへ風のようにとびこんできたのは辰と豆六。
「親分。わかった、わかった。お蝶と清七は酒井多仲につかまって、小名木川の下屋敷に押し込められているんです」
それを聞いてびっくりしたのは、佐七よりも花車屋のお倉である。
「な、な、なんだって。酒井の殿様が、なんだって、お蝶さんや清七さんを……?」
「そら、こういうわけです。おしゅんがあれほどほれてた男を、みすみすほかの女と添わせたら、あんまりおしゅんがかわいそうやと……」
お倉はあきれはてたように目をみはって、
「冗談じゃない。おしゅんちゃんが清さんにほれてたなんて、そんなバカなことがあるもんかね。あれはみんなおしゅんちゃんの芝居じゃないか」
こんどは佐七や次郎吉があきれかえる番である。
「おかみさん、おしゅんが清七にほれてたのが芝居だったというのは、どういうわけだえ」
「親分さん、次郎さんもよくお聞き。おまえさんがたは、玉手御前の芝居を知ってるだろう。玉手御前はまま子の俊徳丸にほれたとみせて毒をのませた。しかし、あれはみんなつくりごとで、じつをいえば、俊徳丸を助けるための苦しいはかりごとだったじゃないか。おしゅんのはそれとはちがうが、なんとかしてお蝶さんをもとどおり三河屋さんへお返しして、よい婿とって家をつがせたいというのが、おしゅんちゃんの本心だった。それには、清どんというものがいてはお蝶さんの目がさめないから、おしゅんちゃんがわざと横恋慕して、ふたりの仲を裂こうとしたんだよ。おしゅんちゃんのような売れっ妓《こ》が、ましてや三河屋のだんなにほれてたような女が、なんで清どんみたいなひょっとこにほれるもんか」
佐七にとってもこれは意外な事実だったが、次郎吉にとってはそれ以上の、気も転倒するばかりの驚きだったらしい。
しばらくかれは真っ青な顔をして、わなわな体をふるわせていたが、
「そうか、そうだったのか。おしゅんは清七にほれてたわけじゃなかったのか。そして……そして、三河屋のおかみが、おしゅんの子どもをててなし子にしやアがったんだな」
ただならぬ次郎吉の顔色に、佐七はふっと辰や豆六と顔見合わせたが、お倉はそれに気もつかず、
「とにかく、わたしゃこれから小名木川のお下屋敷へいってくるよ。酒井の殿様は話せばわかるおかただから、おしゅんちゃんの本心を打ちあければ、お蝶さんや清さんをかえしてくださるだろう。お蝶さんもおしゅんちゃんの苦衷がわかったら、思いなおしてくれるかもしれない」
そそくさと立ちあがるお倉にむかって、
「おかみさん、なにぶんにも、よろしくお願い申します」
悄然《しょうぜん》と首うなだれた次郎吉だったが、その目のなかにただならぬ殺気がほとばしっているのを、佐七はわざと見てみぬふりをしていたのである。
その翌日、四日市町かいわいはたいへんな騒ぎだった。
三河屋に強盗が押し入って、ひとつ寝床に裸でねていた後家のお吉と、番頭の勘十郎を惨殺して立ちのいたのである。
佐七は、辰や豆六からそれをきいても、ただひとこと、そうかといったきり、お神輿《みこし》をあげようともしなかった。
三河屋の強盗はなかなかつかまらなかったが、まま母が死んだので、お蝶はまもなく家へかえった。
しかも、かえってきたのはお蝶ひとりではなかった。
才二郎というかわいい子どもをつれてきて、それを三河屋の跡取り息子と、親類中に披露《ひろう》したのである。
「わたしはこの子が一人前になるまで後見します。そして、この子に嫁が来るような年ごろになったら、尼になって暮らすつもりです」
「尼になるって、それじゃ清どんはどうするつもりだ」
親戚《しんせき》総代にたずねられて、お蝶はさびしく笑うと、
「清どんとはなんでもなかったんです。あたしひとりで家出をしたら、おっかさんにいびり出されたと世間の評判になろうかと、わざと清どんを誘ったんです。清どんには気の毒でした」
「姉さん、すみません、おっかさんの心得ちがいから、姉さんに苦労をさせて……」
わっと泣き伏したのは妹のお町である。
「いいえ、わたしの苦労なんかなんでもない。それより、わたしのために命をおとしたおしゅんさんのことを思うと、お気の毒で……」
お蝶が尼になろうと決心したのは、ひとつにそれがあったからだろう。
こうして三河屋で才二郎の披露《ひろう》があってまもなく、法善寺のおしゅんの墓のまえで、みごとに腹かっさばいて死んでいる男があって、またもや世間をおどろかせた。
切腹しているのは次郎吉だった。
辰や豆六からそのはなしを聞くと、
「それでいいんだ。それでばんじ勘定があうんだ」
佐七はほっとため息ついて、
「お蝶のことで三河屋と掛け合っているうちに、次郎吉はお吉や勘十郎からことばたくみにお蝶殺しをほのめかされたんだろう。それともうひとつには、おしゅんがほんとに清七にほれていると思いこんでいた次郎吉は、妹のために恋敵を亡きものにしようとしたんだろう。それが、ああして間違って妹を殺したばかりか、そういう間違いを犯させたお吉や勘十郎こそ、妹にとって敵だったとわかったので、とうとう乗りこんでふたりを殺してしまったんだ。お吉勘十郎、ひと思いに殺されてよかったかもしれねえ。生きていてもどうせお上の手にかかりゃ死罪はのがれられねえふたりだ」
佐七はそれきり口をつぐんで、この一件について多くを語らなかったという。
清七はその後、妹娘のお町と夫婦になって、のれんをわけてもらったが、それがお蝶の清七にたいするせめてもの謝罪の心持ちだったのだろう。
花見の仮面
花の飛鳥山《あすかやま》
――おまえさん、思い出すわねえ
花曇り鐘は上野か浅草か――。
花時ともなれば、いずこもおなじほこりっぽさ、しかしそのなかでも、わけて飛鳥山《あすかやま》のにぎわいときたら、昔からそれはたいへんなもの。いまの言葉でいおうなら、さしずめ殺人的風景というやつだ。
芸づくし、踊りづくし、江戸中の遊芸の師匠という師匠が、これ見よがしに社中のものをひきつれて、わっとばかりに押し出すのだから、あちらでもこちらでも、どんちゃんかどんちゃんか大騒ぎ。そこをまたねらって、八笑人もどきの茶番も出ようというわけ。気の弱いものなら、たちまち頭痛のしそうな景色だが、そのなかにあって、
「まあ、思い出すわねえ」
と、にっこりと佐七の顔をふり仰いだのは、ほかならぬ女房のお粂《くめ》。
「ふっふっふ」
と、佐七もまんざらではない顔で、にやにやとあごをなでているから、おさまらないのは子分のきんちゃく辰五郎。
「これこれ。あねさん、そばにゃ生身の男がいっぴきひかえているんですから、ちとお手柔らかに願いとうございますねえ」
と、プッと面をふくらませたから、お粂ははじめて気がついたように、
「おや、辰つぁん、おまえそこにいたのかえ」
「そこにいたかは情けないね。はい、おりますよ、おじゃまになっていけませんでしたね。ヘン、くそおもしろくもねえ、雪だるまじゃあるめえし、消えてなくなるわけにもいきませんのさ」
「おまえ、なにもそうつんけんいわなくてもいいじゃないか。なにかきょうのお花見に気に入らぬことでもあるのかえ」
「大ありでさ。そりゃおまえさんたがは楽しかろう。去年のことを思えばね。しかし、このあっしゃどうしてくれるんで。ねえ、親分、あのじぶんには、おまえさんとおいらとふたり、仲よくひざっ小僧を抱いていたもんだが、いまじゃおまえさんにゃれっきとしたあねさんがある。それにひきかえこの辰五郎、かわいやいまだに独りもの、――と、そう考えりゃア、ちっとばかり遠慮ぐらいしたって損はいきますめえ」
「辰、おつにからんできたな」
「からみもしまさあ。思い出しますわねえ、ふっふっふっ、ここまで聞かされちゃ、おいらだってこう、胸がもやもやしてきますぜ。ああ、どこかにあねさんみてえないい女はおちていねえもんかしら」
このじぶんはまだ豆六は弟子入りしていなかったので、さっきからひとりちびちびやっていた辰五郎、酒がそろそろまわったか、しきりにくだらない愚痴をこぼしているが、これにはひとつわけがある。
佐七がはじめてお粂を見染めたのは、やはりこの飛鳥山のお花見どき、指をくって勘定すると、ちょうどきょうでまる一年、まさかそのじぶんのことを思い出すためでもあるまいが、きょうは夫婦づれでなれ初めの飛鳥山へと花見にきたんだが、なるほどこれではきんちゃくの辰、いたって損な役回りで、はなっから中っ腹でいたところへ、
「思い出しますわねえ」
「ふっふっふ」
ときたもんだから、にわかに業が煮えてきたというわけだ。
「辰、まあ、そういうな。いまにおまえだって、どのようなべっぴんがほれてこねえでもねえ。そのときにゃ、おれがおおいに取りもちの役をかって出るから、きょうのところは不承しろ」
「ほんに、辰つぁん、おまえさんらしくもない野暮なさただよ。年にいちどの楽しみじゃないか。気にさわったら、目をつむっていておくれ。ねえ、おまえさん」
と、お粂はいよいよご亭主により添ったから、これには辰五郎もかぶとをぬいだ。
「いや、こいつはたまらぬ。あいてのほうが役者が上ときてやアがら。ええい、どうとでも勝手になさいまし。おいらの情人《いろ》は、これだこれだ」
と、辰五郎はひとりでひょうたんをかたむけていたが、
「それにしても思い出しますねえ。あんとき、親分とあっしとはここで詰まらなく花をみていたもんだが、するとそんとき、あねさんは、ほら、むこうで幕を張ってよ、ひと待ちがおに桜をみていなすったが、あのじぶんあねさんはきれいだったねえ」
「おや、辰つぁん、いやなことをおいいだよ。すると、近ごろはきたなくなったかえ」
「ほい、しまった。いえさ、今でもおきれいでいらっしゃいますよ。だけど、あのころはまたかくべつ。親分がね、ここからあねさんの顔を、こうじいっとにらんでさ。よだれをたらたら……」
「バカ、なにをいやがる」
「いいじゃありませんか。うそじゃねえもの」
「ほっほっほ、辰つぁん、それからどうしたの」
お粂はうれしそうにひざをのり出した。
「それからどうもこうもありませんやね。よだれを一升五ン合もたらしたあげく、ほっとため息をついていうことにゃ、ああ、世の中にゃいい女もあればあるもの、おれも男と生まれたからにゃ、たといひと晩でも、ああいう女としみじみ話がしてみたい、なあ、辰――」
とんだところですっぱ抜かれて、佐七はすっかり亭主のこけんを落としてしまったから、おもわずプッとふくれあがった。
「紺屋高尾の文句じゃあるめえし、だれがそんなことをいうもんか。こんなお多福としみじみ話がしてみてえ。フン、へそが茶をわかすぜ」
「おや、おまえさん、変なことをいうわねえ。お多福でわるかったね。そんなにおまえさんの気に入らぬなら、どこかのお面屋へいって、もっときれいなお面でも買ってこようか。ええ、くやしい」
と、売りことばに買いことば、いままで喋々喃々《ちょうちょうなんなん》たるご両人のあいだが、にわかに荒れ模様になってきたから、驚いたのはきんちゃくの辰。
「おっと、待ったり、待ったり、ご両人。面といえば、あのときも、へんなひょっとこの面をかぶったやつがあらわれて、とんだ修羅場《しゅらば》とあいなったが、思い出せば、おお、それよ」
「なにをいやアがる」
佐七がおもわずぷっと噴き出せば、お粂もあのときのことを思い出したか、
「そうそう、あのときはほんとに怖かった。おまえさんがきてくれたからよかったものの、あのお面にはおどろいたよ。――おや」
やっときげんの直ったお粂が、そのときふいに佐七のそでをひいた。
「おまえさん、あのひとどうしたんだろう」
「なんだえ」
「ほら、むこうの幕のなかから、お面をかぶった男が、ひょろひょろ出てきたよ。酔っているのかしら、妙に足元があぶないよ」
お粂のことばにひとみを転じてながむれば、なるほど、おどけた面をかぶった男がひとり、おどるような足どりで三人のまえを駆けぬけていったが、と、それからまもなく。
「あれえ、だれかきてえ」
とただならぬ男女の悲鳴。しかも、いまお面をかぶった男がとび出したあの幔幕《まんまく》のなかからだ。
すわこそとばかり立ちあがった佐七は、草履もはかずにむしろのうえからとび出すと、たたたとむこうの幕へかけよって、ぐいとそいつをまくりあげたが、とたんにあっと立ちすくんだ。
幕のなかには大店《おおだな》のだんなとおぼしく、五十がらみの品のいい男がひとり、血へどをはいてのたうち回っている。そして、そばには、いずれ劣らぬきれいな娘がふたり、いずれも土色になって、左右からしっかり抱きついていたが、やがて男はがっぷりと、またもや大きな血の塊を吐いて、そのままぐったりと息絶えた。
お面の男はこのわたし
――ふたりとも信心が過ぎるんです
「親分、どうも妙ですね。去年人殺しのあったのも、ちょうどこのへんでございましたが、してみると、この場所にゃなにか因縁でもついているんですかねえ」
「そういうわけでもあるまいが、これもなにかの回りあわせであろう。それにしても、さっき面をかぶって逃げた男、あいつをうっかりやり過ごしたなあ大しくじりだったなあ」
騒ぎをききつけて町回りがくる。このへんをなわ張りにしている岡《おか》っ引《ぴ》きの、滝野川の忠太というのも駆けつけてくる。そこでとりあえずかんたんなお取り調べがあったが、それによるとこうなのだ。
そこに血へどをはいて死んでいるのは、王子へんに穀物問屋をひらいている越後屋《えちごや》の治右衛門《じえもん》といって、近所でもひとにしられた資産家で、そばにくっついて泣いている娘のひとりは、治右衛門のひと粒種で名はお藤《ふじ》、もうひとりのほうは亡くなった女房の姪《めい》でお玉という。
お玉は両親に死にわかれてまったくの孤児となったところから、治右衛門があわれんで引きとってやったものだが、年はお藤よりふたつうえの、どちらも負けず劣らずの美人ぞろい。王子のふたり小町といえば、だれひとりしらぬものもないくらいだ。
さて、この三人がきょうしも飛鳥山の花見としゃれこんで、朝から例の場所へ陣取っているうちに、さきほどの面をかぶった男が、ふらふらとひょうたん片手にあらわれたのである。
「よお、こいつは越後屋のだんなじゃありませんか。これはめずらしい。ひとついかがです」
面をかぶった男は、よろよろしながら、朱塗りの杯を治右衛門にさしだした。
「はて、おまえさんはどなたでしたかねえ」
「だれでもいいじゃありませんか。どうせこういう場所だ。無礼講と願って、ひとつきゅっと干していただきやしょう」
花の山にはよくあるならわしだ。
面をかぶっているのでだれだかわからないが、おおかたご近所の衆ででもあろうと、治右衛門はふかくも怪しまず、さされるままに杯をうけたのだが、それがわるかったのか、面をかぶった男がひょろひょろと立ち去ってまもなく、にわかにキリキリ横腹がいたんで、やがてカーッと血を吐いたのである。
「なるほど。して、その男というのを、おまえたちだれだか見当がつかねえのか」
「はい、なにしろ面をかぶっていましたから、いっこうだれやらわかりませぬ。なあ、お藤さん」
「はい」
と、お藤のほうはとつぜんのできごとに、ただおろおろと泣くばかり、返事もろくにできなかった。
「しかし、声や言葉つきで、およそだれだかわかりそうなもの。だれかこのひとに恨みをふくんでいる人間があるんじゃアありませんか」
「めっそうな、伯父《おじ》さまにかぎってそんなことがあってよいものですか。ご近所でもきいてくださいまし。仏とあだ名をとった越後屋の治右衛門伯父さま、これはきっとなにかのまちがいでございます。はい、まちがって殺されたのにちがいございませぬ」
姪《めい》のお玉は年ににあわぬ気丈者、きっとかたちを改めて、取り調べの定回りのものにも食ってかかるように反抗するのだ。
で、けっきょくはこの一件、例によって迷宮入りである。
あの怪しい面をかぶった男でもつかまればともかく、なにせこの花かひとかの飛鳥山。まして、あいてにうしろ暗いところでもあるとしたら、どうしていまごろまごまごしていよう。
けっきょく、治右衛門はなにものともしれぬ人物の、毒酒の詭計《きけい》であたら命を落として殺され損、あとにのこされたお藤がただよよと泣くばかり。
佐七も気まぐれなお花見からまたぞろ奇怪な殺人事件に足をふみこんだものの、考えてみればここは滝野川の忠太のなわ張り、あまり深入りしても悪かろうと、その日はそのまま立ちかえったが、しかし、事件はそのまま佐七の手からはなれはしなかった。
その日からかぞえて三日目の夕刻、佐七が近所のさくら湯からブラリと外へ出ると、むこうの角に立っていた男が、ハッとしたように顔をそむけたから、
「おや、野郎、変なまねをするぜ」
佐七はちょっといやな気がしたが、そのまましらぬ顔をして行きすぎると、男はなにかしらおどおどしながら、見え隠れに佐七のあとからつけてくる。
「チョッ、こいつあ妙だ。岡っ引きのあとをつけるなんて、世のなかにゃ気まぐれなやつがあるもんじゃねえか」
さっきちらと見たところでは、めくら縞《じま》に黒前垂れ、どうみてもお店者《たなもの》というかっこうだ。佐七はそしらぬ顔でお玉が池のわが家へかえると、からりと格子をひらいて、
「お粂、いまもどったぜ」
「あい、お帰りなさい」
と、手ぬぐいを取ろうとするお粂へ、
「お粂、表にお客人がおいでだ。ご遠慮なさらず、こちらへお入りなさいましと言いねえな」
その声がきこえたのか、表ではあっという叫びがきこえたが、やがておどおどと格子のまえに現れたのは、さっきのお店者である。
「恐れ入りました。親分さん、けっして悪気があって後をつけてきたわけじゃございません。親分さんにお願いの筋がございますんですが、つい気おくれがいたしまして」
「はっはっは、おおかたそんなことだろうと思った。なにもそう怖がることはございません。岡っ引きだって鬼じゃあるまいし、取って食おうたあいいやしません。むさ苦しいところですが、まあお上がんなさいまし。お粂、座布団をあげねえか。で、あっしに御用とおっしゃるのは」
「はい、親分さん、どうぞあたしを助けてください」
「なに、助けろ」
あまりだしぬけだから、さすがの佐七も驚いた。
「それはまた、いったいどういうことでございます」
「親分さん、わたしは越後屋のだんなに毒を盛ったおぼえはございません。それに、なんぞや世間のうわさでは、このわたしがしたことにように。――わたし、おそろしゅうて恐ろしゅうて」
と、お店者はいかにも恐ろしそうに青白んだ顔をふるわせる。佐七はいよいよ驚いて、
「チョ、ちょっと待ってください。いったい、おまえさんはどういうおひとだね」
「はい、わたくしは越後屋の親類筋、やはり王子に金物店をひらいております山加の手代で弥吉《やきち》と申しますもの、そして、親分さん」
弥吉はきゅうに声をおとすと、
「あのとき、越後屋のだんなにお酒をすすめたお面の男というのは、じつを申すとこのわたしでございます」
聞いて佐七はびっくりした。いや、佐七ばかりではない。そばで聞いていたお粂まで、おもわず弥吉の顔を見なおした。なるほど、そういえば顔こそみえなかったが、姿かたち背かっこう、どうやらこのあいだの酔漢に似ている。
「それじゃ、おまえさんが……しかし、それならなぜいままで黙っていなすったんだ。身にうしろ暗いことがないならなおのこと、すなおに名乗って出ればよいじゃないか」
「はい、わたしもそう思いましたが、世間には親分さんのような目明きばかりはおりませぬ。名乗って出て、つまらぬ疑いをうけるのもおそろしく、きょうまでひかえておりましたが、それではやっぱり気がすみませんので、きょうはこうして親分さんにおすがりにまいりました」
一心こめて語るおもてには、みじんもうそいつわりがあろうとは思えぬ。
「なるほど、それでも、まあ、よくきてくんなすった。しかし、弥吉さん、おまえさん、じぶんでは気がつかなくとも、だれかしらぬ間に、おまえさんのひょうたんのなかへ毒をほうりこんでおいたやつがあるんじゃないかえ」
「はい、それもわたし考えました。しかし、あのときのことをよくよく考えてみるに、越後屋のだんなに杯をさしたあと、わたしもおなじひょうたんからお酒をいただきましたから、もしあのなかに毒が仕込んであるとすれば、わたしもやっぱり生きていられぬ道理でございます」
「なるほど、そいつは理屈だ。してみると、毒を盛ったやつはほかにあるにちがいねえが」
佐七も困《こう》じ果てたように、腕こまぬいて考えていたが、にわかに思い出したように、
「そうそう、いまおまえさんのいった言葉によると、おまえさんの勤めていなさる山加さんとやらは越後屋さんと親類筋とか。とすれば、おまえさんも越後屋さんの内幕を少しはご存じであろうが、いったいどういうおうちですえ」
「さあ、べつにどうといって――」
「なにかうちにいざこざのあったようなうわさは、耳にしたことはありませんかえ」
「はい」
と、ひざに手をおいた弥吉はしばらく言いよどんでいるふうだったが、やがて思い決めたように、
「じつは、それについて、ちょっと話がございます」
「ほほう。すると、思い当たるふしがあるんだね」
「はい、しかし、それがこんどの事件にかかりあいがあるかないかはわかりませんが、じつは半月ほどまえ、越後屋のだんなが、うちのだんなのところへ、娘を追い出してしまおうかと、相談にみえたことがございます」
「なに、娘さんを追い出す? してして、それはどっちの娘さんだえ。お藤さんか、それとも姪《めい》のお玉さんか」
「はい、おふたりともでございます」
「ふたりとも……? ふうん、それはまたどういうわけだえ。なにかふたりが男狂いでもするというのかえ」
「いいえ、おふたりさまの信心がすぎるとおっしゃいますので」
「信心がすぎる? そいつは妙だ。神信心ならこんな結構なことはねえはずだが、なんでそれがまた気に入らねえのかな」
といいかけて、佐七ははっと気がついたように、
「おまえさん、それじゃもしや、その信心というのは、いま評判のたかいあのはだら教では」
「はい、さようでございます」
いいにくそうな弥吉の言葉に、佐七はおもわずウームとうなった。
女房お粂のにわか信心
――いい男にゃゲップが出るんだよ
そのころ、王子名主の滝あたりに、みずから高貴のご落胤《らくいん》としょうして、怪しげな加持祈祷《かじきとう》をこととする男があるといううわさは、いつか佐七の耳にもはいっている。
名前は芝園|梅渓《ばいけい》といって、みずからはだら教教祖としょうしているそうだが、これが三十二、三の、それこそふるいつきたいほどのいい男とやら。したがって、新造や娘のなかには、この怪しげな祈祷に血道をあげているものも少なくないという話だ。
江戸時代でも、やはり邪教のとりしまりはきびしかったから、このはだら教とやらも二、三度手入れがおこなわれたが、かくべつとがむべき筋合いもなかったかして、ちかごろではいよいよ信者もふえ、ますます盛んになっていた。
「なるほど。それじゃ、越後屋のふたりの娘は、そのはだら教の信者なんだね。いや、ちかごろは信心ごとも色ずくでないとはやらぬとみえる。はっはっは。ところで、弥吉さん、越後屋から相談をうけたとき、おまえさんところのご主人はなんといいなすったえ」
「それが……」
と、弥吉はいいにくそうに口ごもりながら、
「うちのだんなと申しますのが、これまたやっぱり信者の口でございまして」
「なんだ、おまえさんのご主人もか。それじゃ、ひょっとすると、おまえさんもそうじゃねえのか」
「わたしでございますか。めっそうもない。わたしゃあんなもの大きらいでございます」
弥吉の言葉には思いがけない強さがあったので、佐七はおもわずあいての顔を見直した。
弥吉はそれからもくどくどと念を押して、どうかじぶんがかかわりあいにならぬようにと頼んでかえったが、そのあとで、ぼんやり腕こまぬいて考えこんでいた佐七は、なにを思ったのかポンと手をうつと、お粂のほうを振りかえり、
「お粂、おめえいくつになる」
と、妙なことをきき出したから、驚いたのはお粂だ。
「あらいやだ。どうしたのさ、おまえさん」
「あらいやだという年はあるめえ。これ、おかみさん、当年とっておいくつにおなりですかえ」
「プッ、バカにおしでないよ。丑《うし》だからもうずいぶんの婆さんだわ」
「丑というと三十六か」
「あれ、かわいそうに、ひとまわり下ですよ」
「そうか、ばあさんだというから、おれア三十六かと思った。ひとまわり下というと二十四だね。いや、さすがはおいらの恋女房、四とはどうしてもみえねえ。まあ、せいぜい二か三かだな。それでいて、まゆを落として白歯を染めたところなんざ、岡っ引きの女房にゃもってえねえくらいだ」
「あれ、気味の悪い。して、あたしに頼みというのはえ」
「おっと、すげえ。さすが鬼の女房に鬼神だ。よくも見破ったりな、でかした女房。で、お粂、おめえひとつ信心をしねえか」
「はだら様かえ」
「いよいよすごい。どうだ、ひとつ信心してみる気はねえか。なんしろ、むこうは役者にもねえほどの美男だというから、御用にしても損はいくめえぜ」
「そうねえ。そりゃおまえさんの言葉ならやってみないこともないけれど、あたしゃちかごろ、いい男にゃゲップが出てるんだよ」
と、きゅっと佐七の太ももをつねったから、
「あ、いてっ、て、て」
と、佐七が驚いてとびあがった拍子に、表に声あり、
「ハックシン、いまいましい、野中の一軒家じゃあるめえし、親分もあねさんも、ちとたしなまっしゃい」
仏頂面ではいってきたのはきんちゃくの辰。
「おお、辰か。それじゃおまえ、いまのをきいていたか」
「聞いていたかじゃありませんぜ。あねさん、いい男にゃゲップが出るそうですが、それじゃひとつ胸すかしに、おいらのようなまずいのと浮気をしてみようじゃありませんか」
「お気の毒さま、わたしゃまだ虫はかぶっておりませんからね。ねえ、おまえさん」
ときたから、これじゃ辰五郎も手がつけられない。
佐七は笑って、
「辰、まあ勘弁しろ。なにしろ、陽気が暖かすぎるからな。しかし、お粂、いまいったのは冗談じゃねえぜ。おめえほんとにやってくれるか」
「あいよ、あたしも岡っ引きの女房さ。きっと、しっぽはつかんでお目にかけます」
「あねさん、ぎゃくにしっぽを出さねえように頼んますぜ」
「お黙り、おまえさんじゃあるまいし」
一年ちかくも佐七に連れ添ってきたが、まだおおっぴらに亭主《ていしゅ》の御用を助けたことのないお粂は、時節到来とばかりに、あたるべからざる鼻息だ。
さて、こういうわけで、その翌日から、お粂はどこのご大家のお内儀かと見まがうばかり、みがきをかけて王子へ日参ということになったが、べつにその当座はなんということもない。
「お粂、まだ当たりはつかねえか」
「そうさね。まだ新入りだから、なにがなんだかわけがわからないが、ご教祖の梅渓というのが、おりおり変な目つきをするよ」
「変な目つきってどういうんだ」
「ご祈祷するときにね、あたしの手を握って、じっとこう変な目でみるんですよ」
「ふうん。そろそろおいでなすったな。なんしろ、あいてはいい男だというから、おまえ、まんざらいやな気じゃアあるめえ」
「そうさ、とても胸がワクワクしてね。あたしゃうれしくてたまらない。そうそう、きのうだっけ、ご信心なことでござる、いつか夜分にお運びねがいたいなんていったよ」
「夜分にどうする気だろう」
「どうする気かはしらないけれど、なんだかうれしいことがあるらしいのさ。あたしいちど、夜分いってみようかしら」
と、妙にソワソワしてみせるから、佐七よりまずさきに、辰のほうが気をもみだした。
「あねさん、大丈夫ですかえ。ミイラとりがミイラになるようなことはありますまいな」
「さあね。なんしろ、むこうはあんないい男だから、こればっかりは請け合えないね」
お粂はしゃあしゃあとしていたが、その翌日かえってきたときには、
「おまえさん、きょうは、あたし、越後屋の姪《めい》のお玉という娘にあってきたよ」
「ふん、それじゃあの娘、まだ出入りをしているのか」
「ええ。それもなかなかあそこじゃ幅がきくらしい。きょうあたしの顔をみると、いきなり、ご信心なことで、いつもとくべつごていねいなご祈祷をいただいて、さぞおうれしゅうございましょうなんて、へんないやみをならべたよ。どうしてどうしておまえさん、あの娘は食わせもんだよ」
「お藤のほうはどうだ。やってきねえか」
「ええ、あの娘もくるけど、なんだか妙におどおどしててねえ。それでいて、あたしをみると、へんに怖いかおつきをするから妙さ」
「はっはっは、みんなやいているんだぜ。おめえがあんまりご教祖にかわいがられるからだ」
「ほっほっほ、バカにしている。しかし、おまえさん」
お粂はふいに真剣な表情になって、
「あすの晩、いよいよなにかあるらしいよ。あたしのような新入りにはよくわからないが、お玉もお藤も妙にソワソワしていたっけが、あたしゃあしたの晩、かもうことはないから乗り込んでやろうと思う」
と、お粂はいよいよいきおいこんだが、さてその翌晩、とくべつきれいにめかしこんだお粂は、出ていったきりいたちの道、翌朝になってもかえってこない。佐七が胸をいためているところへ、ゆうべどこかへしけ込んだきんちゃくの辰が、血相かえておどり込んできた。
「親分、あねさんはかえりましたか」
「それがまだかえらねえんだが、辰、どうかしたのか」
「じつは、親分、けさがた滝野川に行李《こうり》づめの死体があがったそうです。あっしゃひょっとするとあねさんじゃねえかと思って――」
と聞くより佐七は、真っ青になって立ちあがった。
美男教祖に駕籠《かご》一丁
――死体が握ったはお粂の櫛《くし》
「おお、お玉が池の兄い、ずいぶん耳が早いな。もうあの一件が神田まできこえたかな」
王子の番所でにこにこしながら、あおざめた佐七を迎えたのは、滝野川の忠太だった。
「うむ、滝野川の、じつは少々心当たりがあってやってきたんだが、行李《こうり》づめの一件な、女の身分は分かったかい」
「おお、わかったよ。いや、わかったもわからぬも、このへんじゃだれしらぬものねえ娘さね」
「娘?」
佐七はやっと胸なでおろし、
「してして、どこの娘だ」
「それがよ、兄い、少しおかしいんだが、おめえもしってるだろう、ほら、飛鳥山の一件な。あのとき殺された越後屋の姪《めい》で、お玉という娘さ」
「え? それじゃお玉が……? してして下手人の目星はついたか」
「いや、そこまではわからねえが、なあに、わけはねえ、すぐわかるさ。というのは、兄い、お玉の死体というのが、れっきとした証拠を握っていたのさ」
「ほほう、そいつは好都合だったな。そして、その証拠というのは、いってえなんだえ」
「櫛《くし》さ、鼈甲《べっこう》の櫛さ。おおかた、殺されるときあいての頭からむしりとったのものだろうが、こいつを手繰っていきゃア、すぐに下手人はわかる道理だ。みねえ、兄い、この櫛だ」
忠太がふところから出した櫛をみて、佐七はあっと仰天した。その櫛こそは、まぎれもなく、ゆうべお粂がさして出たものではないか。
「兄い、どうかしなすったか。この櫛に見おぼえでもありますかえ」
「いやなに、そういうわけじゃねえが、おまえもたいへんだな。飛鳥山の一件がまだ片もつかねえのに、またぞろこんなことが起こっちゃ、さぞいそがしいことだろう。まあ、せいぜい働いて手柄にしねえ。ときに、滝野川の、越後屋はその後どうなっているんだえ」
「ああ、あそこもとんだ災難つづきだが、さいわい、近所に山形屋加兵衛といって、死んだ治右衛門と縁つづきの家があるから、そこでいっさい切り盛りをやってるんだ。なんでも、山加の手代の弥吉というのを娘の婿にしてあとをつがせるという話もあったが、なんしろ治右衛門がああいうことになったので、いまだにのびのびになっているようだ」
「ああ、そうか。それじゃ、あの男、そんなうまい話があったのか」
なるほど、それで、はらだ教をあのように目の敵にしたわけもわかるというものである。おおかた、お藤が梅渓とやらに血道をあげ、じぶんを構いつけぬところから、業が煮えてたまらないのだろう。
「したが、滝野川の、ちかごろこのへんじゃ妙なものがはやるというじゃねえか。ほら、はだら教とやらいって、めっぽういい男のご教祖さまが、若い娘を信者にあつめているとやら」
「ああ、あれか、あいつはべつに悪いことをするようでもねえというんで、お上からお目こぼしにあずかっているんだが、どうも世も末になると、おりおり妙なやつがとび出すものさ。おっと、うわさをすれば影とやら、むこうから、はだら教祖の梅渓というのがやってきたぜ」
忠太の言葉に自身番からのぞいてみれば、なるほど、一丁の駕籠《かご》をあとにしたがえて、総髪のいい男が、しずしずとこちらのほうへやってくる。
うわさにたがわずいい男だ。年は三十二、三であろう。色が白くて、目もと涼しく、にっこりと微笑をたたえたくちびるになんともいえぬあいきょうがあって、なるほどこれでははすっぱな娘が血道をあげて騒ぐのもむりはない。
梅渓はゆきずりに、ジロリと自身番のなかをにらんだが、べつに顔色をかえるでもなく、そのままゆうゆうと行きすぎる。そのあとから豪勢な黒塗りの駕籠がつづいたが、思いなしか駕籠かきのあしぶみが自身番のまえでいささか乱れた。
「はてな、駕籠のなかにゃアいったいだれが乗っているのかな。いつもなら、梅渓のやつが乗る駕籠だが……」
なにげなくつぶやく忠太の言葉をきくと、佐七はなんとなくはっとした。もしや、あの駕籠にのっているのはお粂じゃあるまいか。
「滝野川の、いずれまたくるぜ。まあ、せいぜい働きなせえ」
佐七はパッと外へとび出すと、みえがくれにまえの駕籠をつけていく。怪しの駕籠は、それと知ってかしらずか、ゆうゆうと横町へまがると、やがて黒板塀《くろいたべい》のくぐり戸から、とある家のなかへズイと通った。
(はてな、この家はいったいなんだろう)
佐七はそばへ寄って塀越しに家のなかをうかがうと、忍び返しのむこうの土蔵には、山形屋の紋所、それはまぎれもなく、山形屋加兵衛の宅の裏木戸だった。
くらやみ祭りの秘密
――恋を取りもどすとんだ魂胆
佐七はもう気が狂いそうだ。
かわいい女房は夜にいたるもかえらない。てっきり梅渓のわなにおちたにちがいないが、いったいどこにいるのだろう。ひょっとすると、すでに梅渓の毒手にかかって、殺されてしまったのではないだろうか。
それにしても、お玉の死体がお粂の櫛《くし》を握っていたというのが気にかかる。
まさかお粂がそんなことをするとは思えないが、なにをいっても心のせまい女のこと、どんなはずみで大それたことをせぬとも限らぬ。お玉を殺したその弱みで、梅渓の言いなりになってしまったのではあるまいか。
どちらにしても、佐七にとっては骨のずいまで焼かれる思い。いっそお粂が殺されたときまっていたら、構うことはない、梅渓の祈祷所《きとうしょ》へふみこんでみるのだが、もしまだ生きているとしたら、あまり早まったまねもできぬというものである。
佐七はほとほと困《こう》じ果てたが、こうなると頼みに思うのはきんちゃくの辰ひとり。
「辰、すまねえが、おめえ今晩ひと晩、梅渓の祈祷所へ張りこんでくれないか」
「親分、水臭いこといいっこなしにしましょうよ。親分にとっちゃかわいいおかみさんかもしれませんが、あっしにだってだいじなあねさんだ。いっそ思いきって踏みこんだらどうです」
いつも冗談口のおおい辰も、きょうばかりはしんみりしている。
「辰、そういってくれるのはありがたいが、おれアまだお粂が死んでいるたア思えねえ。もし、とらわれの身になっているなら、あんまり手荒なまねはできねえのさ。辰、未練だとわらってくれるなよ」
「だれがわらうもんですか。それが夫婦の情愛というもんでさ。ようがす。胸をさすってようすをうかがってきますが、親分はどうなさるんで」
「おれか、おれア山加のほうへ張りこんでみる。どうもきょうの駕籠が怪しく思われてならねえのさ」
そこでふたりは手分けをして、べつべつに張りこみをつづけることになったが、さて、その晩の丑満時《うしみつどき》、山加の裏木戸をギイとひらいて、なかから出てきた男がある。黒鴨《くろがも》仕立ての折助姿、おまけに豆しぼりの手ぬぐいでほおかむりをしているので、人相のところはわからないが、怪しいのは背に負うたつづらだ。
佐七ははっと息をのみこんだが、胸をさすってやりすごすと、あとからこっそりつけはじめる。
怪しの男は、それと知ってかしらずか、堀船稲荷《ほりぶねいなり》の横をぬけ、やってきたのは荒川堤。そこまで来ると、にわかにきょろきょろあたりを見回し、背に負ったつづらをどっこいしょとおろしたのは、どうやら堤から川に沈めるつもりとみえる。
ここまでみれば佐七も猶予はできない。
「御用だ!」
いきなり声をかけたから、おどろいたのはくせ者だ。あっと叫んであとずさりするはずみに、バラリととけたほおかむり、その顔を見て佐七はあっと驚いた。
くせ者は山形屋加兵衛!
「やあ、てめえは山形屋のおやじだな」
「ええっ、それを知られては」
加兵衛はいきなりドスを抜いて、さっとばかりに突いてかかったが、そんなやせ腕に料理をされるような佐七ではない。
「御用だ、神妙にしろ」
ひらりとからだをひらいて、あいてがよろめくそのすきに、どんと弱腰けったからたまらない。
はずみをくらってよろよろと土手のうえをつんのめった山形屋加兵衛、なにを思ったのか、にわかにきびすをかえすと、さっとばかりに川の中へとび込んだ。
「しまった!」
佐七はおもわず歯ぎしりしたが、気になるのはさっきのつづら、いそいで綱をといてふたをとれば、中から出たのはまぎれもなく女房のお粂だ。
「おお、お粂」
あわててさるぐつわといましめの綱を解いてやれば、
「あれ、おまえさんかえ」
うれしやお粂は死んではいなかった。ひしとばかりに佐七に抱きついたが、いやもう、佐七にとってはこんなうれしいことは二度となかった。
「お粂、すまねえ、とんだ思いをさせたなあ」
「おまえさん、なにをおいいだね。そんなことより、一刻もはやく、あの梅渓というやつをつかまえておくれ。あいつがお玉さんを殺したんだよ」
「よし、こうなりゃ百人力だ。あいつを捕らえずにおくものか」
お粂の手をとった佐七は韋駄天走《いだてんばし》り、ふたたび王子へとって返したが、途中までくると、むこうにポーッと火の手がみえる。
「お粂、ありゃ梅渓の祈祷所じゃねえか」
「あら、ほんとだよ。ちくしょう、火をかけてずらかるつもりにちがいないよ」
近づくにつれて、いよいよ火元は祈祷所としれた。あたりいちめん野次馬でたいへんな騒ぎ、その野次馬をかきわけて、祈祷所のそばまでくると、いきなりむこうからドンと佐七にぶつかったものがある。
「あ、親分さん」
という声に、すかしてみればあいては弥吉《やきち》だ。片手にお藤の手をひいていたが、ふたりとも火事場から抜け出してきたとみえて、髪も着物もボロボロに焼けて、おまけに弥吉は胸から腹へと、いっぱいに血を浴びている。
さすがの佐七もぎょっとして、
「おお、弥吉さん、いったい、そのなりはどうしたんだえ」
「親分さん、しばってくださいまし」
「え?」
「わたしは人殺しをいたしました。梅渓のやつを殺してしまいました」
そういったかと思うと、弥吉はわっと地上に泣き伏した。
弥吉の言葉によるとこうである。
その晩、梅渓はお藤をそそのかし、祈祷所に火をつけ、いっしょに逃げようとはかったのだが、そこへいきあわせたのがお藤におもいをかけている弥吉だ。これを見るとかっとして、おもわず梅渓を殺してしまったのだという。
「ふふん、それじゃあ、あの悪党も死んでしまったのか」
さすがの佐七も、張りつめた心がゆるんだか、おもわずがっかりしたように長大息をしたのである。
かんじんの梅渓は、弥吉に殺されたあげく、灰になってしまったが、さいわいお粂という生き証人がいたので、梅渓の悪事のかずかずはすっかり露顕したが、それによるとこうである。
梅渓というやつは悪いやつで、出入りの女とかたっぱしから関係をつづけていたが、なかでもいちばん深間になったのは越後屋のお玉、末は夫婦と約束までできたが、そのうち梅渓はお藤のほうへ目をつけ出した。
「いいじゃアねえか。治右衛門はどうせ長いことはねえ。お藤と夫婦になって、あの財産を手に入れたら、あんな女は追い出して、おめえと晴れて夫婦にならあ」
そんなことをいってお玉の嫉妬《しっと》を封じていたが、困ったことに治右衛門が大の梅渓ぎらいときている。
二度とあんなところへ足踏みすれば、家へはおかぬというきつい託宣。そこで、お玉がいっぷく盛って、飛鳥山で伯父を殺してしまったのだ。
ところが、これほどまでに心中立てをしたその男は、ちかごろ出入りをはじめたお粂にうつつを抜かして、てんでお玉を相手にしなくなったから、さあ、こうなるとお玉は業が煮えてたまらない。
ところが、このはだら教には、おりおりくらやみ祭りというのがある。このくらやみ祭りにはひとりのいけにえがいるのである。いけにえといってもべつに殺すわけではなく、女を神の祭壇に供えるのだが、あの晩、お玉はみずからそのいけにえを志願したのだ。
「ほんに、思い出してもゾッとする。お玉さんは女だてらに大きな祭壇のうえに横になったんですよ。するとどうでしょう、梅渓のやつ、なにかしら怪しげな呪文《じゅもん》を唱えていたが、やがてぐさっとお玉さんを殺してしまったんですの。そして、立ち騒ぐひとびとをおさえつけるように、もしこのことが外へもれたら、ここにいる人間はみんな同罪だとおどしつけたんですよ。ほんにふしぎな男で、そんな悪いことをしながら、なにかしら妙にひとをおさえつけるところがあるもんですから、いあわせたひとびとはぐうの音も出ません。でも、あたしゃ違います。あたしゃくらやみにまぎれて隠れていたんですが、あまりの恐ろしさにきゃっと叫んだものだから、とうとうばれてしまって……いまから思えば、どうして梅渓のやつがあたしを殺さなかったのかふしぎでならないのさ」
「ふふふ、おおかた梅渓のやつ、おめえにぞっこんほれこんでいたんだろうよ」
「あらいやだ、いけすかないこと」
「しかし、お粂、お玉のやつがおめえの櫛《くし》を持っていたなあ、ありゃどういうわけだい」
「ああ、あれ」
お粂はポッとほおを染め、
「なんでもね、ああしていけにえになると、いったんはなれた男の心が、ふたたびじぶんにもどってくるんですとさ。そして、もし、この男がほかの女に心を移しているとしたら、あいての女の持ち物を身につけていると、その女の力がじぶんに乗り移り、男をひきつける力ができるというんですから、ほんとにバカバカしいじゃありませんか」
お粂はいやらしそうに肩をすくめたが、急に思い出したように、
「あたしゃいっとき、ずいぶん怖い思いもさせられたが、けっして落胆はしなかった。だって、おまえさんというひとがついているんですものねえ」
と、ぴったり佐七により添ったから、きんちゃくの辰め、
「ハックショイ」
と、やけに大きなくしゃみをしたものである。
山形屋加兵衛はその後、死体となって荒川の下流からあがった。大して悪い男でもなかったが、くらやみ祭りに立ちあったのが運のつき、お粂の始末を頼まれて、ついああした大それたことをやってのけたのである。
弥吉はひと殺しの下手人ではあったが、あいてがあいて、場合が場合だったので、なんのおとがめもなく、その後、心を入れかえたお藤と、めでたく夫婦になって越後屋の家をついだということである。
身代わり千之丞《せんのじょう》
湯島の境内劇中劇
――中村|千之丞《せんのじょう》、御用だ、御用だ
江戸時代には、公許の芝居は三軒しかなかったが、そのほかに湯島の境内や、芝の神明などに、いわゆる宮芝居というのがあって、これはごく簡単な葭簾張《よしずば》り。
雨天のさいはむろん興行を休むばかりか、なにかのときにはすぐお取り払いを命じられるという、しごく安直な仕組みになっていたが、そういう見世物芝居にも、どうかすると、おりおり素晴らしい役者があらわれることがある。
そのころ、湯島の境内にでていた中村|千之丞《せんのじょう》などもそのひとりで、しばらく上方で修行してきたというだけあって、仕打ち万事が物柔らかで、これが前髪のお小姓かなにかになると、まったく水もしたたるばかりのうつくしさ。
なにせ、宮芝居の客などは、どうせ芸を見にくるのではなく、役者の色がめあてだから、この千之丞はたいした人気だ。
おかげで芝居は連日満員、太夫元《たゆうもと》もおおほくほくだったが、その千之丞がいましも、とくいのお小姓のこしらえで舞台へ出たかとおもうと、いきなり御用の声がかかった。
「御用だ。中村千之丞、神妙にせい」
あっという間もないのである。
平土間から舞台へかけあがった捕り方のめんめんが、十手をかざして、ずらりと千之丞を取りかこんだから、さあ、小屋のなかは大騒ぎ。子どもは泣くやら、ばあさんは腰をぬかすやら、娘新造は逃げまどうやら、そういうなかにあって、舞台の千之丞もはっと顔色をかえ、
「あれ、おひとちがいではございませぬか。わたくし、御用になるおぼえはございませぬ」
「ええい、申すな、ほざくな千之丞、いやさ、むささびの半次、島送りになる途中、あらしに乗じて舟を脱け出したる重罪人、訴人するものあってわかったぞ。申し開きがあるならお白州でしやあがれ」
いたけだかになってがなるのは、みなさん先刻ご存じの鳥越の茂平次親分。としは四十がらみだが、色が黒くて大あばた、おびんずる様のような顔をいつもてらてら光らせているところから、ひと呼んで海坊主の茂平次。この捕り物帳にはなくてかなわぬ敵役である。
その海坊主の毒気にあてられ、千之丞ははっと顔色をうしなったが、あくまで白を切るつもりか、それとも身におぼえのないゆえか、こしらえものの梅の木立を盾にとり、
「とんでもない。なにをおっしゃります。むささびとやら、半次とやら、わたくしいっこうおぼえのないこと、おひとちがいでございます。おひとちがいでございます」
「ええい、この場におよんでとやかくと。それ、からめとって引っ立てろ」
「あれ、理不尽な」
向かってくる捕り方のそでの下をくぐりぬけた千之丞、腰のわき差しすらりと引きぬくよと見るまに、さっとひと太刀、横にふったからたまらない。
もとより刃引きのしてある小道具だが、力まかせに肋《あばら》のうえを横なぐりに引っぱたかれた捕り方のひとり、わっと叫んで舞台にのけぞってしまったから、
「おのれ、お上にむかって手むかいするか」
こうなっちゃ、芝居もなにもあったものじゃない。
見物はわっと総立ち、ほかの役者は色をうしなって、舞台うらへと逃げこんでしまった。
あとには千之丞ただひとり、わき差しを下段にかまえ、向かってくる捕り方のひとりふたりその場に突きたおすと、いきなりたたたたたと、高脚二重の舞台へとびあがり、きっとこちらを振りかえると、
「おひとちがいでございます、おひとちがいでございます。わたくし、身におぼえはございませぬ」
なおも絶叫しながら、金襖《きんぶすま》をうしろに、こう、きっと見得をきったところは、いやもう、千両役者もはだしの男振りである。
白皙《はくせき》のおもてに、さっとくれないの血がさして、ばらりとかかったみだれ髪のうつくしさ、きっとかみしめたくちびるには血がにじみ、まなじりもさけんばかり。さすが手なれた捕り方のめんめんも、おもわずこれはとしりごみするのを、
「こりゃ、やい、手間どってとり逃がすな」
海坊主のはげしい下知に、やむなくばらばらと駆けあがろうとする捕り方のひとりを、
「ええい、こうなってはもうこれまで」
袴《はかま》のもも立ちきりりととった千之丞、足をあげてちょうとけたおすと、いきなりさっと身をひるがえすよとみるまに、かみてのふすまをけやぶって、はや舞台裏へといちもくさん。
「おのれ、おのれ、逃げるぞ」
と、海坊主があわを吹いてウロチョロしているところへ、見物席からひらりと舞台へとびあがったふたりづれがある。
「海坊主の親分、この騒ぎはどうしたんで」
「てめえたちはお玉が池の辰に豆六、よいところへきた。おまえたちも手をかせ」
「へえ、そらお手伝いせんこともおまへんけど、いったい、この騒ぎはどないしましてん」
いうまでもなく、このふたりは、お玉が池の人形佐七のかわいい子分、きんちゃくの辰《たつ》とうらなりの豆六である。なにげなく、いまこの付近を通りかかったが、騒ぎをききつけ、なにごとならんと駆けつけてきたのである。
「詳しいことは話しておれねえが、この小屋へ出ている中村千之丞というのはお尋ねもの。舞台姿のまま飛び出したから、遠くはいくめえ。おまえたちも手をかしてくれ」
おぼれるものはわらをもつかむとはこのこと、日ごろ虫の好かぬ辰と豆六だが、苦しいときの神頼みである。
「おっと合点だ」
辰と豆六も海坊主はいただけないが、こういう騒ぎがなにより好物。
ほかの捕り手にうちまじり、どっとばかりに小屋から外へおどり出したが、そのじぶんには中村千之丞、はや楽屋からとびだして、逢魔《おうま》がどきの切り通し、あとしら波と走っている。
女易者梅花堂千春
――いっぱい食わされた辰と豆六
「あ、もし、なにか変わったことでもございましたかえ。この騒ぎはいったいなんでございますね」
こぼれるような色を含んで、それでいて凛《りん》と張りをもった女の声に、ふと足をとめたのは二、三人の町人、声のほうをふりかえって、
「あ、梅花堂さん」
と、その中のひとりが、
「捕り物でございますよ。湯島境内の宮芝居で、いま捕り物がございましたので」
「危ないから、おまえさんもはやく店をおしまいなすったらよろしかろう。あいてはなんでも大どろぼうだそうで」
「そうそう、島破りの重罪人とやら、いやもう湯島の境内は死人の山、とやらだそうでございますよ。とばっちりを食っちゃつまらねえから、おまえさん、はやくお逃げなさいよ」
と、いいすててばらばらばら。
町人どもがいちだんとなって走り去ったあとで、べつにあわてもせず、深編《ふかあ》み笠《がさ》のはしに、ちょっと手をかけた女の指は、まるで白魚のように細くてきれいであった。
運勢判断 梅花堂千春
そういう文字を書いた白木綿、それをブラ下げた台のうえには、おさだまりの算木、筮竹《ぜいちく》、天眼鏡。
そういうものが並んでいるところは、なんのへんてつもない大道易者だが、その台の向こうにすわっているのが、これは奇態、めっぽう美しい女である。
深編み笠におもてをつつんでいるものの、その下からちらりとみえるあごの美しさ、丹花のくちびるのいろっぽさ、みどりの黒髪をプッツリと惜しげもなしに切り髪にして、むらさきの被布をきたすがたは、どこのご後室様かとうたがわれるばかり、まことに臈《ろう》たきうつくしさなのである。
梅花堂千春。
いつのほどよりか、この切り通しのみちばたに店を出して、当たるも八卦《はっけ》、当たらぬも八卦、腕よりも色で客を呼んでいるという女易者。
「なあに、当たらなくてもいいじゃねえか。あの白魚のような指でよ、ちょっとこう手を握られるだけでもたまらねえ」
なアんててあいがぞくぞくと押しかけるから、お鳥目もそうとう集まろうというもの。
ばらばらと、捕り物におびえた町人どもが、ひとしきり砂煙をあげて走り去ったあとは、あたりはしんとすずめ色にたそがれかけて、うしろは権現様の土塀《どべい》、その土塀のなかから、かぶさるように枝をさしのべた葉桜が、暗い影をしっとりと落として……。
一瞬、人影のとだえた千春のそばに、バサリと大きな音をさせて、ふいにとびおりた者があるから、千春はきっとしてうしろを振りかえった。
とびおりたのは、いうまでもなく千之丞である。
うしろの土塀を乗りこえてきたとみえて、みどりの葉桜が、風もないのにわらわらとゆれている。
千之丞、抜き身を口にくわえたまま、平ぐものようにパッと地にはったが、すぐ体をおこすと、そのままバラバラと行きすぎようとするのを、
「あ、もし、お待ちなされませ」
編み笠をとって、こう呼びとめたのは千春である。
「はい、あの、なにかご用でございますか」
「そちらへまいっては危のうございます。しばしのあいだ、この台の下へ」
「え?」
千之丞ははっと怪しむようにあいての顔色をうかがったが、梅花堂千春はすましたもので、
「それそれ、足音が近付いてまいりました。窮屈でも、しばらくのあいだこの下へ。さあ、はやくお隠れなさいまし。あとはなんとかあたしがこの口で、いいくるめてごらんにいれましょう」
千之丞は無言のまま、女の顔を見ていたが、そのままズイと台の下にもぐりこむ。
いいぐあいに台のまわりには掛け布がまいてあるから、これですっぽり姿は見えなくなってしまった。
千春はこれを見定めると、にっこりわらっていきなり髪をかき乱し、被布のまえをはだけると、膚もあらわに、
「あれ、だれかきてえ!」
と、ひと声たかく叫んだ声に、むこうの角からばらばらとあらわれたのは、辰と豆六をせんとうに立てたさっきの捕り手のめんめんだ。
「おや、ねえさん、どうかしたかえ」
「あ、あなた」
千春はいまにも倒れそうに台のうえに片手をつくと、おおきく胸を波立たせて、
「怪しいやつがいま、この土塀を乗りこえて、ああ、恐ろしいこと」
「してして、ねえさん、その怪しいやつちゅうのんは、どっちのほうへ逃げていきよった?」
「はい、あの……いきなりあたしを突き倒して、それ、その横町へとびこみましたが、いったいあれはなんでございましょう。役者のようにおしろいをいっぱいつけて、ほんに気味の悪いやつでございました」
「そいつや、そいつや。それ、みんな追っかけなはれ」
まんまといっぱい食った辰と豆六、ほかの捕り手をひきつれて、まっしぐらにむこうの横町へとびこんだが、あと見送って、ペロリと舌を出したのは、梅花堂千春。いや、大胆な女もあればあるものである。
辰と豆六大恐縮
――折りから訪ねてきた桜茶屋のお組
「というわけで、あとから考えてみると、どうやら、その梅花堂千春という女が臭いんですが、そう気がついたときはあとの祭りで」
「面目しだいもおまへんが、まんまといっぱい食わされて、とうとう千之丞ちゅう役者、取り逃がしてしまいましてん」
さすがに辰も豆六も、じぶんたちのしくじりからかんじんの鳥に逃げられたと気がつくと、面目ないやら恥ずかしいやら。親分にあわせる顔もないと、おおきに恐縮したまでは上出来だが、さて、そのあとがいけない。
恐縮がすぎてなんとやら、お玉が池の敷居がたかく、その晩はとうとうやけ酒のんでどこかへ泊まりこんでしまったあげく、けさになってしょんぼりかえってきたのである。
佐七はふたりの話を聞きおわると、
「バカ野郎!」
と、一喝《いっかつ》くらわして、
「てめえたちは、なんという間抜けだ」
「へえへえ、すんません、親分」
「いや、その千之丞とやらを取り逃がしたことをいうんじゃねえ。人間そりゃア、だれにだってしくじりはあらあ。だが、そう気がついたら、なぜまっすぐにかえってこねえんだ。ゆうべのうちになぜそうと、おれのところへ知らせてこねえんだ」
「親分、かんにんしとくれやす」
「かんにんもへちまもあるか。これがおれの事件なら、子分のしくじりは親分のしくじりと、なんとか埋め合わせをつけてみせるが、いまききゃ鳥越の兄いのかかりとやら、おまえたち、なんといって茂平次親分にあやまるんだ。このおれもどの面さげて兄いに会えるというんだい」
「へえ、なんとも申し訳ございません。じゅうじゅうあっしが悪いんで。豆六の野郎もそういって、いっこくもはやくかえろうとすすめたんですが、あっしがついかえりそびれて……親分、あっしはどんなお仕置きでもうけますから、豆六だけは、どうぞかんべんしてやっておくんなさいまし」
「なにいうてなはんねん、兄い、そらあべこべやがな。親分、まあ聞いとくれやす。兄いはいっこくもはやくかえって、このよしを親分にお知らせせんならんといい張ったんやが、わてが、もうこうなったらやけくそや、どうせ油をしぼられるんやったら、ついでのことに今晩はおもいきり遊んでこまそやないかいうて……」
「あれ、豆六、なにをいやアがる。てめえは黙ってすっこんでろ。親分、まったくあっしが悪いんで」
「いや、兄いやおまへん、わてが悪いのだす」
日ごろはけんかばかりしているが、これでなかなか兄弟分思い、たがいにあいてをかばいあうさまを見ると、佐七もついほろりとして、もうそれ以上つよくはいえない。
「おまえさん、いじらしいじゃないか。ああしてふたりでかばいあっているんだから。きょうのところはこれくらいで、かんにんしてやってくださいよ」
お粂もそばからとりなせば、それをしおに、佐七もいくらか気がおれて、
「まあ、いいや、おまえたちのあやまちは、このおれがあやまちだ。鳥越のには、おれからよろしくあいさつしとこうが、しかし、辰と豆六、千之丞を逃がしたのは、まったくその梅花堂千春という女にちがいねえか」
「へえ、それはもう違いございません。あとでそれと気がついて、もういちどあの寺の外へかえってみると、千春の姿はみえませんでしたが、そいつが店を張っていた台の下あたりに、これ、このようなものが落ちておりましたんで」
と、辰が取り出してみせたのは、芝居の小道具につかう梅の花びら。
「千之丞のやつ、海坊主に追いつめられたとき、舞台で白梅をこだてに取っておりましたが、そのとき、この花びらが頭か着物にくっついていたにちがいございません」
「そればっかりやおまへん。たしかにそこにだれかかがんでいたように、手のひらのあとが土のうえについてましてん」
「なるほど。そして、その千春というのは、いったいどんな女だえ」
「さあ、それが、小股《こまた》のきれあがった、どこかすごみなほどよい女なんで」
「ほっほっほ、辰つぁんも豆さんも、それでその女の口車に乗せられたんじゃないかえ」
お粂ははたからひやかしたが、きょうばかりは辰も豆六もそれに応酬することばもなく、ひたすらあたまをかくばかり。
「それにしても妙だな。千春という女易者は、まえから千之丞をしっていやアがったのかなあ」
「さあ、そこまではわかりませんが、あんまり面目ない話だから、豆六と相談して、けさははやくから、千春というのを探してみました。切り通しのちかくをさんざんたずねて回ったんですが、だれひとりそいつの身元はおろか、住まいさえしってるものはねえんです」
「ふうむ、すると、どうでも臭いのはその千春。まあいいや、探索はまたあとのことにして、とにかくこれから、鳥越へあいさつにいこう」
佐七が立ち上がったときである。
「ごめんくださいまし、お玉が池の親分さんはお宅でございますか。折り入ってのお願いがあってまいりました。お宅でございましたら、どうぞお目にかからしてくださいまし」
子細ありげにおとのう声に、お粂はたって格子をひらいたが、
「おや、おまえさんはお組ちゃんじゃアないか」
訪ねてきたのは、お粂もかねてかおなじみの、湯島の境内に桜茶屋というのを出している茶くみ女のお組という女だった。
むささび半次と千之丞
――符節のあわぬふたりの年月日
「親分さん。お願いでございます。お願いでございます。どうぞ中村千之丞さんを助けてくださいまし」
座敷へ通ると、お組はいきなりそういって畳のうえに手をつくと、こらえかねたように泣きくずれたから、驚いたのは佐七をはじめ辰と豆六、おもわずあっと顔見合わせたが、
「お組さん、それじゃおまえ、千之丞と……」
「はい、ふかくいい交わした仲でございます」
お組はさすがにはじらいがちに、薄桃色にほおをそめたが、やがて涙にぬれた目をあげると、
「親分さんもお聞きおよびでございましょうが、きのう湯島の境内で、千之丞さんに捕り手のかたがむかいました。さいわい、千之状さんはあやうく逃れたようなものの、どうせお尋ね者となったいまでは、いつまでも逃げていられるものではございません。遠からず捕らえられるにきまっております。親分さん、どうぞ千之丞さんの疑いをはらしてあげてくださいまし」
お組はまたもや、よよとばかりに泣きくずれるのである。
「これこれ、お組さん、おまえそう泣いてばかりいちゃアらちがあかねえ。じつは、あの一件はおいらの係じゃねえから、いったいどういう疑いで千之丞が追っかけられているのかしらねえんだ。おまえに聞きゃア少しはわかるだろう。いったい、千之丞はなにをしたというんだえ」
「あのひとがなに悪いことをいたしましょう。みんな間違いでございます。はい、間違いでございますとも。そして、こういう間違いがおこったのも、みんなあたしが悪いゆえ、親分さん、どうぞお聞きくださいまし」
涙ながらにお組の話したところによると、それはまことにへんてこな話なのである。
お組千之丞のふたりの仲は、きのうやきょうのことではなく、四、五年以前、お組が深川からいやしい稼業《かぎょう》で出ていた時分からのことである。
ふたりはそのころから、ふかいなじみをかさねていたが、三年ほどまえに、千之丞はふいにゆくえがしれなくなった。
江戸から姿を消してしまったのである。
お組はなにか恋人の身に間違いがおこったのではなかろうかとしきりに胸をいためていたが、それから半年ほどたつと、大坂から手紙がきて、修行のためにこちらにきている、二、三年みっちり修行したのちかえるから、それまで待っているようにといってきた。
「そして、去年の秋、成駒屋《なりこまや》の親方さんをたよって、江戸へくだってきたのでございます」
こうして、ふたたびお組千之丞がむかしの仲にもどったことはいうまでもないが、そのうちに妙なことをいい出したものがある。
「あたしの店へ、このごろ、しげしげやってくるお客のなかに、かまきりの権六という入れ墨者がございます。そいつがいつもいやらしくわたしにいい寄るのを、よいかげんにあしらっておりますと、その権六がこのあいだから妙なことをいいだしたのでございます」
おまえのいい交わしている千之丞というのは、あれは島破りの重罪人だ。むささびの半次というお尋ねものだ。もしおれのいうことを聞かなければ、恐れながらとそのことを、訴人して出るというのである。
「もちろん、そんなバカなはずがありっこございませんから、あたしも鼻であしらっておりますと、その権六の申しますのに……」
おれもむささびの半次とおなじ舟で八丈島へ送られたのだから、あいつのことならなんでも知ってる。半次の左の腕にはおしろい彫りで花札の桜の短冊がほってあり、その短冊には「おくみ」と女の名が書いてある。
と、こういうのである。
「それを聞いて、あたしもびっくりいたしました。なぜといって、千之丞さんとかたくいい交わしたとき、おたがいに、そういう隠し彫りをしたのでございます」
と、お組のかたる話をきいて、
「なるほど、そういう証拠があるからにゃア、おまえさんもあきらめるよりしかたがあるめえ。千之丞と半次とやらは、やっぱりおなじ人間にちがいねえ」
佐七が気の毒そうにいうのを、お組はやっきとなって打ち消すと、
「いいえ、いいえ、それが間違いなのでございます。親分さん、まあ、しまいまでお聞きくださいまし」
お組もなんだか心配になってきたから、そのつぎ千之丞にあったとき、それとなくその話をすると、千之丞はわらって取りあわない。
それでもお組は不安がとけず、そのつぎ権六がやってきたとき、むささび半次というものの話をくわしくきいてみて、やっと安堵《あんど》の胸をなでおろしたのである。
「親分さん、きいてください。こういう話なのでございます」
お組の語るところによるとこうなのである。
むささび半次という凶状持ちは、去る文政三年六月に捕らえられ、それからずっと牢《ろう》にいて、お調べののち、島送りになったのが文政四年一月のこと。
ところが、中村千之丞はそのじぶん、湯島の宮芝居に出ていたというのである。
「お疑いなら、そのころの芝居の番付をごらんになればおわかりでしょうが、文政三年の十月まで、千之丞さんは、欠かさず舞台をつとめております。六月に捕らえられて入牢したものが、どうして十月まで舞台に出られましょう。それだけでも、千之丞さんと半次とやらが別人であることがわかるじゃございませんか」
なるほど、お組のいうのももっともである。
半次が入牢してからも、千之丞が舞台に出ていたとすると、これほどたしかな反証はない。
千之丞と半次はまったく別人ということになる。
「お組、そりゃ間違いなかろうな。文政三年の十月ごろまで千之丞が舞台に出ていたというのは……」
「はい、けっして間違いございません」
と、お組がはじらいがちに語るをきけば、げんにそのころ、まだ深川にいたお組のところへ、千之丞は毎夜のように通ってきたが、その十月にお組は千之丞にひかされて湯島の水茶屋の株を買ってもらったのだから、こんなたしかなことはないという。
「なるほど、それは妙だ。ときに、千之丞が急にいなくなったのは、いつごろのことだえ」
「はい、それはあたしが湯島で水茶屋のお披露目《ひろめ》をしてからまもなく、たしか、その年の十一月だったと思います」
なるほど、お組の語るところを聞けば、半次と千之丞とが別人であることはたしかなようだ。
しかし、それにしてもふしぎなのは千之丞、お組という女が深川でどのていどの妓《おんな》だったかしらないが、妓ひとりを身請けして、水茶屋の株を買ってやるには、それそうとうの金がいるはずである。
いかに人気役者かしらないが、三座の立て者ならいざしらず、宮芝居の役者ふぜいにできる芸当ではない。
そこに綾《あや》がある。
そこになにかこの間違いの秘密のからくりがあるはずだが――と、人形佐七が黙然と腕こまぬいている横顔をお組は不安そうに見つめていたが、やがてまたもやひざをすすめると、
「親分さん、それからもうひとつ、ここにふしぎなことがございますの」
と、お組がまたもや語るには、千之丞は去年、大坂からかえってきたが、どうかすると、浮かぬ顔で考えこんでいることがある。
そこで、お組が問いつめると、
「お組、わたしの身には、いつなんどき、どのようなことが起ころうかもしれぬ。もし、わたしの身になにか変わったことが起こったら、おまえこの中を見ておくれ」
そういって、千之丞がわたしたのは金襴《きんらん》の掛け守り。きのうお組がふとそのことを思いだして、掛け守りをひらいてみると、
「すると、なかから出てきたのがこれでございます。親分さん、これはいったい、どういうわけでございましょう」
と、お組が取りだしてみせたのは、いちまいの袱紗《ふくさ》である。
佐七はそれを両手で開いてみて、おもわずあっと小声で叫んだ。
袱紗にそめた奇妙な紋――、それは割れ鍋《なべ》にぐさりと一本、矢がつっ立っていようという、世にもふしぎな紋なのである。
「お組さん、この袱紗はどうしたんだ」
「はい、掛け守りのなかにあったのでございます」
佐七はなんと思ったか、いそいで袱紗をたたんで懐中すると、
「お組、千之丞のことはおよばずながら働いてみようが、そのかわり、この袱紗はしばらくおれが預かっとくぜ。このこと、決してだれにもいうな」
と、なにやら思いあたるところありげな顔色に、お組もやっと蘇生《そせい》の思いで、それからまもなくいそいそとかえっていったが、あとでは佐七が腕こまぬいて、しばらくじっと考えこんでいた。
前代未聞の大事件
――奇々怪々、牢内《ろうない》で囚人すりかえ
「そういうわけで、だんな、千之丞とむささび半次がおなじ人間でもあるようだし、そうかと思うとまたまったくの人違いとも思えるんです。それについて、少々だんなにお願いがあってまいりました」
お組を送り出してからまもなくのこと、佐七が供をもつれずにやってきたのは八丁堀《はっちょうぼり》、かねてごひいきにあずかっている与力|神崎甚五郎《かんざきじんごろう》の役宅だった。
甚五郎も話をきくと驚いて、
「なるほど、それはよほど妙な話だな。佐七、そのほうだから打ちあけるが、中村千之丞を訴人して出たのは、たしかにかまきりの権六という男だ。話を聞くといちおう筋がとおっているから、鳥越の茂平次をさしむけたわけだが、それにしても、そんな妙なところがあるとはしらなかった。して、そのほうの願いというのは?」
「へえ、ほかでもございません。むささびの半次というやつのお調べ書きがございましたら、ちょっと見せていただきたいので」
「おお、さようか。それならばいとやすいこと。さっそく取り寄せてつかわそう」
甚五郎は手をならして小姓を呼ぶと、すぐさま調書を持ってこさせると、
「佐七、これでよいか」
「へえ、『むささび半次吟味一件調書』。へえ、へえ、これでよろしゅうございます。それじゃ、ちょっとここで読ませていただきます」
佐七はしばらくお調べ書きのページをめくっていたが、読みおわると、なんともいえぬ妙なかおいろで、
「どうもいけません。いよいよ、こんがらがってまいりました。むささび半次というやつは、人をあやめたかどで捕らえられたが、吟味のさい、身元素性はいうにおよばず、生国、親の名前、そのほかいっさい申し上げなかったようでございますね。ところで、こいつが捕らえられたのは文政三年六月二十三日――ええと、だんな、なんだかこんがらがってまいりましたから、すみませんが、筆と紙をかしてくださいまし」
と、そこで佐七が書き上げたのは、つぎのような一覧表である。
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むささび半次
文政三年六月――入牢。
同四年一月――吟味終了、島送りときまって佃島《つくだじま》より舟にて出発(このとき、かまきりの権六、半次の腕に入れ墨を見る)。
同  二月――途中あらしにあい、舟の難破するに乗じ脱出、爾来《じらい》行方不明。
中村千之丞
文政三年六月――芝居出勤中。
同  十月――お組落籍(出所不明の大金を得たるもののごとし)。
同 十一月――お組水茶屋をはじむ。千之丞、行方不明となる。
同四年五月ごろ――大坂よりお組に手紙くる。爾来大坂の芝居出勤。
同五年 秋――江戸へ下る。
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佐七はしばらくこの表をひとみをすぼめてながめていたが、やがてなにかわかったのか、ぽんと軽くひざをうつと、
「なるほど、そうだ、そうかもしれねえ。いや、きっとそれに違いねえ。それよりほかに、このなぞを解くすべはありゃアしねえ」
「佐七、なにをぶつぶつ申しているのだ。そのほうなにかわかったか」
「へえ、どうやら目鼻だけはつきました」
「してして、千之丞とむささびの半次とは同一人か、それともまったく別人か」
「それが、だんな、ふたりは別人でもあり、またおなじ人間でもございますんで。いや、だんなのまえだが、こいつはよっぽど重大事件でございますよ」
「なにを申しているのだ。別人であったり、おなじ人間であったり、そんなバカなことがあるものか。佐七、それはいったいどういうわけだ」
じれったそうにひざをすすめる甚五郎を、佐七は涼しい目できっと見すえて、
「それでは、だんな、申し上げましょう。まず、この表をごらんくださいまし」
「どれどれ」
「その表をごらんになるとおわかりになりますが、むささび半次は文政三年の六月に入牢しておりますのに、そのじぶん、中村千之丞はまだ舞台に出ております。だから、そのじぶんにゃア、このふたりまったく別人だったことは、疑う余地はございませんね」
「そりゃアそうだ」
「ところが、その千之丞は十一月ごろ行方不明になってるんですが、それからふた月のちの文政四年の一月には、半次の腕には桜の短冊のおしろい彫りがありました」
「すると、そのときの半次は……?」
「いや、いや、もう少しお聞きくださいまし。じゃ、文政四年の一月ごろ、千之丞はどこにいたのか、それを知っているのはだれひとりいない。とすれば、そのときの半次が千之丞でなかったという反証はどこにもない」
「佐七」
「いやいや、あやしい点はまだあります。半次があらしに乗じて舟を脱出したのは文政四年二月のこと。ところが、それからみつきのちの五月には、千之丞のやつ、ちゃんと大坂へあらわれておりますよ」
「佐七、佐七、それはいったい……?」
「いや、まあ、お聞きくださいまし。中村千之丞、文政三年の十一月に姿をくらましていらい、翌四年五月に大坂へあらわれるまで、どこでなにをしていたか、女房同様の女でさえしっちゃアいないんです。しらねえはずだ。千之丞は半次と名乗って、牢屋から八丈島へ送られかけていたんですからね」
甚五郎にはまだわからない。きけばきくほど頭がこんがらがるばかり。
「佐七、どうしたものだ。拙者にはさっぱりわからぬ。そのほうのことばをきいていると、入牢当時、千之丞と別人だった半次が、途中からきゅうに同一人物になったように聞こえるが……」
「聞こえるだんじゃございません。まったくそのとおりなんで。だんな、千之丞が行方をくらましてから島送りの舟が出る日までのあいだに、半次と千之丞はどこかですりかえられたにちがいございません」
「なに、すりかえられたと……?」
甚五郎はどきりとしたように佐七をみる。
佐七はすましたもので、
「そうですよ。だから、これは重大事件だと申しているんで。だんな、おしろい彫りというやつは、なるほど、酒を飲んだり、お湯へ入ったりしなきゃアはっきり現れねえもんですが、さりとて、まったく見えねえものじゃアありません」
「ふむ、ふむ、なるほど」
「むささび半次は入牢のみぎり、ご法どおりからだじゅうくまなく調べられたにちがいありません。ねえ、そうでしょう」
「そりゃア、もちろんそうだ」
「それにもかかわらず、このお調べ書きにゃア、入れ墨のことはひとことも書いてございません。とすりゃア、そのとき半次のからだにゃ、入れ墨はなかったとしか思えますまい。それにもかかわらず、島送りの舟のなかでは、ちゃんと入れ墨がしてあったとすりゃア、これ、まったくの別人としか思えません」
「そういえばそうだ。揚がり屋でおしろい彫りをするやつはあるまいからな」
「そうです、そうです。ところで、いっぽう千之丞ですが、こいつ文政三年の十月ごろ、お組を請けだし、水茶屋の株まで買ってやっております。そういう金はどこから出たか。これすなわち、半次の身代わりをつとめるという約束でもらった金じゃありますまいか。だんな、千之丞と半次はきっと、うりふたつほど似ているにちがいございません」
甚五郎はあっとばかりに驚いた。なるほど、これが事実なら、前代未聞の怪事件だ。
「しからば、佐七、むささび半次というのは、いったい何者だえ。千之丞とてなまやさしい金ではいうことをきくまいが、それだけのことをするからには、うしろによっぽど大物がひかえていると見なければならぬが」
「さようでございます。それについて、だんなに少々、見ていただきたいものがございますので」
いいながら、佐七がふところから取り出したのは、さっきお組からあずかった袱紗《ふくさ》一枚、それをぱっと甚五郎のまえにひろげると、
「だんな、ここに妙な紋どころがございますが、だんなはこれに見おぼえはございませんかえ」
甚五郎はひとめその紋をみるより、はっとばかりに顔色をかえた。
鍋矢《なべや》の紋所由来
――家門の誉れ、おちまき献上の重大役目
「だんな、これはたしかに勝田様のご紋でございましたね」
「ふむ。しかし、佐七、この紋がなにかこんどの事件に掛かりあいがあると申すのか」
「そうなんで。むささび半次のうしろだてというのは、もしやこの勝田様ではないかと思いまして……それで、だんなにおうかがいにまいったのでございますが、だんな、ちかごろ勝田様のお家に、なにかかわった話はございませんか」
きくより、甚五郎のおもてはみるみる暗くくもってきたが、それにしても佐七や甚五郎があの紋をみてなぜあのように驚いたか、それにはひとつの理由がある。
鍋《なべ》に矢があたっている紋どころなんて、およそ世間に類のないもの。類がないだけに、ふたりははたと思いあたるところがあったのだ。
ここに麻布|飯倉《いいくら》に、勝田|主水《もんど》というお旗本がある。
三千石というご大身で、三河以来、連綿とつづいた名家だが、この勝田家の先祖、主水之助重勝《もんどのすけしげかつ》、天正十二年四月九日の長久手の戦いに、兜《かぶと》をうしない、農家から徴発してきた鍋をかぶって奮戦したところが、この鍋のおかげで、あやうく敵の矢を防いだばかりか、抜群の手柄をあらわしたところから、神君|家康公《いえやすこう》はことごとくおよろこびたまい、それいらい鍋に矢のあたっているところを、家の紋所とせよとのご諚《じょう》。
俗にこれを鍋矢《なべや》の紋といって、妙な紋だから旗本のあいだではだれ知らぬものはない。
されば、佐七も甚五郎も、この紋をみるなり、はたと思いあたったというわけだが、それにしても、勝田家といえば旗本のなかでもご大身。ことにそういう由緒のある家柄だから、もしこれがじっさいに関係しているとすれば、それこそゆゆしき一大事である。
甚五郎がおもてを曇らせたのもむりはない。
「されば、べつにかわったうわさもきかぬが、そういえばきたる五月五日の端午の節句には、勝田家の当主、主水殿が、西の丸の将軍家若君におちまき献上のお役目にあたられるはず。まあ、かわったことといえば、それくらいのものであろうな」
「へへえ、そして、そのちまき献上というのはどういうことですえ」
「そうだな。これはそのほうにわからぬのもむりはない。毎年五月五日の端午の節句には、将軍家若君のお召しあがりになるちまきを、旗本のうちよりとくに名家をえらんで献上することになっている」
「なるほど、それがことしは勝田家に白羽の矢が立ったんでございますか」
「そうだ。このおちまき献上というのは、三代将軍|家光公《いえみつこう》ご幼少のおりから起こったと申すことだが、それだけに、この献上番にあたるものは一代の名誉、一世の面目」
「それだけに、当日不首尾があったとなれば……?」
「家門の恥辱このうえもない。されば、勝田家においては、おそらく目下|親戚《しんせき》一同はいうにおよばず、ご家中のかたがたもひとかたならぬご心痛とおもわれるな」
「なるほど。そして、勝田様のご当主、主水様とおっしゃるのは、およそ幾つぐらいのかたでございます」
「さよう、たしか当年とって二十と五歳になられるはずだ」
「なるほど、そうしますと、中村千之丞とおない年でございますね」
「これこれ、佐七、なにを申す。それではそのほう、千之丞が身代わりをつとめたむささび半次と申すのは……」
「いえなに、まさかそんなバカなことはございますまいが、なんにしても千之丞がこの袱紗《ふくさ》を持っていたのがひとつのふしぎ。ときに、その主水様には、奥様やお子様はおありなさらないので」
「いや、一昨年の春、若年寄、河内播磨守様《かわちはりまのかみさま》のご息女をめとられて、たしか、昨年、男子出生されたはずだとおぼえているが……」
「さようでございますか。いや、よくわかりました。しかし、あいてが勝田様とあれば、あっしも手を引くよりほかにしようがございますまい。なにしろ、あいては町方の手のおよばぬ武家屋敷、しかも、三千石のご大身、若年寄のご縁辺とあれば、われわれごときがさかだちしたところでおよばぬこいの滝のぼり。だんな、この一件はそっくり、だんなと鳥越の兄いに返上いたします」
と、佐七はなにが気にさわったのか、あいさつもそこそこに神崎甚五郎のもとを辞して、かえってきたのはお玉が池。
ほんとうにこの一件から手を引いたのかと思ったら、なかなかそれがそうではない。
甚五郎のまえでああいいきったのは、もし間違いがおこったばあい、甚五郎にめいわくをかけないためで、ぜんぶの責任は、わが身ひとつに引き受けるつもりだ。
それはさておき、お玉が池のわが家へかえってくると、さっそくそばへ呼びよせたのは、きんちゃくの辰とうらなりの豆六のふたりだ。
「ちょっと、おまえたちに聞きたいことがある」
「へえへえ、どういうことでございますえ」
「ほかでもない、れいの梅花堂千春という女易者、たいそうきれいな女だったということだが、そいつ町方のもののようだったかえ。もしや、武家屋敷の女らしくはみえなかったかえ」
「そうですねえ」
と、辰と豆六は顔見合わせて、
「そういやア、ことばつきなどどこか張りがあって、まんざらの町方のものとはおもえませんでしたねえ。豆六、おまえどう思う」
「そやそや、声なんかも凛《りん》としてたなア。あら、きっと、薙刀《なぎなた》のひと手二手は使えるちゅう女にちがいおまへんで」
「よし、わかった。それじゃア、おまえたちにひとつたのみがあるんだが……」
と、ふたりの耳になにかひそひそとささやくと、辰と豆六、目をまるくして、
「それじゃ、親分、麻布飯倉の勝田の屋敷へしのびこむんで……?」
「しっ、バカ野郎、大きな声をするない。まかりまちがったら笠《かさ》の台がとぶ仕事。辰、豆六、どうだえ、怖いか」
「べらぼうめ、豆六じゃあるめえし、こんなことでしり込みする辰つぁんと辰つぁんがちがいまさ。あっしゃもうちかごろ、つくづく世の中をはかなんでいるところでさ。三千石を抱きこんで死ねるなら、こんなありがたい死に場所はねえ。だが、豆六、おめえはよしたほうがよかろうぜ」
「なにいうてんねん、このあほう。わてはな、兄いみたいにそない死にたいことはおまへんけど、兄いひとりで死んでみなはれ、寂しゅうてしょがおまへんがな。なに、わてやない、兄いのほうがや。冥途《めいど》へいても、わてみたいなええけんかあいてはおまへんで。しょがない。これも因縁や。あいてにとって少しふそくやけど、まあ、いっしょに死んだげまっさ」
「まあ、そう死ぬ死ぬと、むやみに死にいそぎすることはねえが、万一のことがあったら、骨だけはひろってやらあ。気をつけていってこい」
「おっと合点だ」
「そんなら、兄い、いきまほか」
と、辰と豆六のふたりは、勇み立って、その晩、麻布飯倉の勝田の屋敷へ忍びこんだが、さてこれがどうなったか、いっこうなしのつぶて、つぎの日も、またつぎの日もかえってこないから、こりゃアどうやらふたりはバッサリ……。
そう考えると、佐七は飯ものどへとおらないのである。
座敷牢《ざしきろう》の気違い囚人《めしうど》
――お組と佐七は命掛けで飛び込んだ
「お組、いるか」
湯島の境内桜茶屋へ、いましも青い顔をしてはいってきたのは、いうまでもなく人形佐七。
いつも元気であいきょうのいいこの男が、きょうはすごいまでに目を血走らせているのは、なにかよくよくの決心があってのことと思われる。
「あれ、親分さん」
と、とび立つように出迎えたお組も、これまた目をまっかに泣きはらして、みれば仏壇には線香さえもたててある。
お組はあれいらい商売もやすんで、ひたすら恋しいひとの安全を、神や仏にいのっているのである。
「親分さん、なにか千之丞さんについて心当たりがござんしたかえ」
「ふむ、そのことについて、お組、おまえにちょっと話があってやってきたんだ。おまえ千之丞に会いたかろうな」
「はい、会いとうござんす、親分さん、それじゃ、あのひとの居どころをしっておいででござんすかえ。もし、しっておいでなら、そうじらさずとおしえてください。親分さん、千之丞さんはいまどこに……?」
「ふむ、その居どころはしっている。しかし、お組、千之丞に会おうとおもやア、おまえ、命を捨ててかからにゃならねえぜ」
お組ははっとしたようすで、思わずうしろに身を引いて、穴のあくほど佐七の顔をみつめていたが、やがて、にっこり寂しいえくぼをほおにきざむと、
「うれしゅうござんす。親分さん、ひとめあのひとに会うことができるなら、もとより命はいりません。さあ、親分さん、千之丞さんはどこにおいででございます。どうぞあたしをつれていってください」
「ふむ、よい覚悟だ。それじゃ、お組、これからおまえを連れていくが、どんなことが起こっても、かならず驚いちゃアならねえぜ」
と、その日もくれて夜になると、人形佐七がお組をつれてやってきたのは、飯倉の勝田屋敷の裏っ側。
佐七はしばらくあたりのようすをうかがっていたが、やがてなにやらお組の耳にささやくと、お組ははっと驚いて、
「まあ、それじゃ、親分さん……」
「しっ、だから、驚いちゃいけねえといってある。黙っておれについてきねえ」
佐七はひらりと土塀《どべい》にとびあがると、上からするするおろした綱へ、お組もすがってのぼっていく。
こうしてふたりは、なんなく土塀をのりこえると、おりからの五月《さつき》やみ、ほのぐらい木立のやみをかきわけて、やってきたのは奥庭のはなれ座敷。
灯も消えてまっくらなはなれ座敷のかたわらを、ふたりはなにげなく通りすぎようとしたが、そのときである。なにやらゾッとするような薄気味わるいうめき声が、思わずふたりの足をとめさせた。
「あれ! 親分、あの声はなんでしょう」
「しっ、静かにしねえか」
お組をたしなめながら、なにげなく佐七はそのはなれ座敷をのぞいてみたが、とたんにあっと驚いたのである。
はなれ座敷のまわりには、厳重に格子がはめてあって、そのなかにだれやらひとがうごめいている。
いわゆる座敷牢《ざしきろう》なのである。
それにしても、なかにいるのは何者だろうと、佐七はそっとそばへすりよったが、とたんになかの囚人がひょいとばかりに顔をあげた。
おりから、むら雲をかきわけてあらわれた月の光に、あいての顔をはっきり見た人形佐七、おもわず、骨も凍るかと思われるばかりの驚きに打たれたが、それもそのはず、なんという気味悪さ。
囚人はあきらかに気が狂っているのである。
髪はさかだち、目はつりあがり、ほおはたえず痙攣《けいれん》しながら、くちびるからはひっきりなしによだれを垂らしている。落ちくぼんだ目、げっそりとそぎおとしたほお、紫色のくちびる――。
なんともいいようのない、気味悪い、すさまじい相貌《そうぼう》だった。
狂える男も、佐七をみると、よろよろとよろばいながら、格子のそばへ立ちよって、両手を差し出しなにかいおうとするが、のどがつぶれているのか、舌がもつれるのか、声はことばとなって口から出ない。ただ、ああああとうめくばかり。
お組もひとめその姿をみると、
「あれえ!」
とばかりに顔をそむけた。
「しっ」
佐七もおもわず胴震いしながら、
「こんなところに長居は無用だ。さあ、お組、いこうぜ」
まだなにやらうめいている狂人をあとにのこして、ふたりがそれから忍んできたのは、長局《ながつぼね》の奥にある、そこばかり灯の色のもれている座敷のまえ。
やり水のほとりに身をしのばせて、ふたりがそっとようすをうかがっていると、障子のうちからぼそぼそと、ひくい話し声が聞こえてくる。
ふたりはそれを聞くと、おもわずきっと聞き耳をたてた。
「そなた、それではこれほど頼んでも、あくまでいやじゃとおいいかえ」
そういう声は女である。
なにかしら、ひどく困っているような、いらだたしげな声だった。
「おゆるしくださいまし。おゆるしくださいまし。あまり恐ろしゅうございます。こればかりは、どうぞおゆるしくださいまし」
それにたいして泣くように謝っている声をきくと、お組ははっと胸とどろかせ、思わずなにかいおうとするのを、佐七がそばからあやうく片手で口をふさいだ。
「しっ、いいから、もうすこしきいていねえ。大丈夫だ。けっして悪いようにはしねえ」
耳もとでささやかれて、お組も黙ってうなずいたが、そのひとみにはただならぬ恐怖のいろがうかんでいる。
「なにもそのように怖がることはないではないか」
こんど聞こえてきたのはしわがれた老人の声。
「当日になれば、拙者も後見役についていて、ばんじ指図をいたすほどに、そなたはただ拙者の申すままにいたしておればよいのだ。のう、千之丞、勝田家の浮沈にかかわるだいじな場合、この河内播磨《かわちはりま》が手をついて頼む。なにとぞ聞きとどけて、この役目を果たしてくれい」
これには佐七もあっとばかりに驚いた。
河内播磨といえば勝田|主水《もんど》が妻の里親。いま若年寄として、飛ぶ鳥も落とすといわれたそのひとではないか。
しかも、播磨守に手をついてなにごとかこんこんと頼まれているのは、まぎれもなく宮芝居の河原こじき中村千之丞なのだから、あまり奇妙な取りあわせに、さすがの佐七もしばし呆然《ぼうぜん》とした。
千之丞はこれほど頼まれながらも、なおしりごみするらしく、
「あれ、もったいない、お手をおあげくださいまし。みなさまがどのようにおっしゃっても、こればかりは、わたくしには荷が勝ちすぎまする。役者ふぜいの大胆な、公方様《くぼうさま》若君様へのちまき献上……いえ、いやでございます。恐ろしゅうございます。あのかたのお身代わりはもう沢山でございます。どうぞおかえしくださいまし。お願いでございます。このままかえしてくださいまし」
「千之丞」
ふいに、女の声がかん走った。
「そのほういやじゃと申せば、このまま無事にかえれると思いおるかえ。このようなお家の大事をうちあけながら、それもそなたがこちらの頼みでもきいてくれることか、それもきかずに、このまま無事にかえされるか、そなたもとくと考えたがよい」
「えっ」
と、千之丞はのけぞったようすだが、これを聞くより人形佐七、お組の耳になにかささやくと、そのままつぎのことばを待っている。
「いかにも、萩乃《はぎの》が申したとおり、千之丞、そのほうがあくまでいやだといいはるなら、この播磨も堪忍袋の緒が切れたわ。それへなおれ、ええ、それへなおれ、手討ちにいたしてくれるわ」
「あれ!」
と、千之丞の叫び声とともに、障子にうつった三つの影が、走馬灯のように右左、おいつおわれつする姿をみるよりはやく、
「それ、お組」
とうながしながら、人形佐七は障子をけって、矢のように座敷のなかへおどり込むと、千之丞をうしろにかばい、
「まあ、まあ、殿様、しばらく待ってくださいまし。主水様になりかわってのおちまき献上、この役目、きっと千之丞につとめさせますほどに、しばらくご猶予くださいまし」
「や、や、そのほうはなにものじゃ。どうしてここへ……」
と、播磨守と老女萩乃があっけにとられているところへ、あとからとびこんできたのはお組だ。
「千之丞さま」
「あれ、おまえはお組」
お組はひしと千之丞に取りすがると、
「千之丞さま、どうぞみなさまのお頼みをきいてあげてくださいまし。あたしからも頼むほどに、このお役目、どうぞりっぱに果たしてあげてくださいまし。もし、お殿様、ご老女様、仰せのおもむき、このお組からきっと千之丞に申しつけますほどに、どうぞ待ってくださいまし」
お組はわっとそこに泣き伏したのである。
囚人の辰と豆六
――天下に怖いもののないふたりだ
「佐七、まことに奇妙なことがある」
端午の節句もおわった七日の朝、人形佐七が八丁堀の神崎甚五郎の役宅におうかがいすると、甚五郎はなんとなく割り切れぬ顔色だった。
「はて、奇妙なことと申しますと」
「さればじゃ、いつぞやそのほうの申していた中村千之丞の一件だが、ちかごろ大目付様より奉行所へお沙汰《さた》があって、千之丞の詮議《せんぎ》いっさい打ち切れとのご諚《じょう》だ。はてさて、世の中には妙なこともあればあるものだな」
「なるほど、それはちかごろ変な話でございますねえ」
佐七はわざとそらとぼけている。
甚五郎はさぐるようにその顔を見まもりながら、
「まったく奇妙な話だて。たかがしれた役者ふぜいの詮議について、大目付よりおことばがかかろうなどとは前代未聞、鳥越の茂平次などはだいぶボヤいているようじゃ。はっはっは、ときに、佐七、端午の節句もぶじにすんでめでたいな」
「はてな、端午の節句がどうかいたしましたかえ」
「おや、そのほう、急にものおぼえが悪くなったではないか。さきごろやってきたときには、ひどく気になるもようだったが……。まあ、よいわ。そのほうが忘れているとあれば申してきかせよう。勝田主水殿にはりっぱにおちまき献上の役目を果たされたぞ」
「ああ、そうそう、たしかこのまえお伺いしましたとき、そんな話が出ましたっけねえ」
「出たとも、出たとも。ところで、この主水殿だが、じつを申すと拙者もないない心をいためていたのじゃ。いや、勝田家にとくべつの縁故があるわけではないが、なにしろ三河以来の由緒ある家柄、なるべくならお家にきずをつけたくないとな。しかるに、当主主水殿といわるるは、とかく粗暴のふるまいおおく、ちかごろはまたご乱心……いや、ご気分がお悪いといううわさをちらと小耳にはさんだゆえ、はたしてこのお役目いかがあろうかと、ひそかに気をもんでいたところが、いや、案に相違の上出来だ。みごともみごと、水の垂れそうな殿御ぶりとはまったくあのこと、立ち居振る舞いなら、弁舌なら、さすがはやっぱり役者……」
「え?」
「いやなに、役者のようにきれいだったと申すこと。いやなに、佐七、めでたいな。これというのもそのほうの手柄」
「へえ? つかぬことをお伺いしますが、勝田様の上首尾が、どうしてあっしの手柄なんで?」
「おや、これは拙者の失言じゃ。そうそう、そのほうはなにも知らぬことであったな。ともかく、これで勝田家も万々歳じゃが、ここにひとつふしぎなことがある」
「へえ」
「主水殿はあのお役目がすむと、即日、病身のゆえをもって隠居ねがいを若年寄まで差し出され、家督は当年二歳になったばかりの鶴之助《つるのすけ》どのに譲られることになったそうじゃ」
「なるほど。しかし、それはだんな、おおかたこうでございましょう。おちまき献上であまり気を張りつめたので、所労が出たのでございましょう」
「ふふふ。なるほどそうかもしれんなあ」
甚五郎は意味ありげに笑っている。
佐七もいいかげんにして役宅を辞したが、さすがに甚五郎の慧眼《けいがん》には舌をまいて感服していた。
勝田家の当主、主水というのは、若いときから身がおさまらず、いちどは家をとび出して、あろうことかあるまいことか、三千石の若殿がむささび半次と名まえをかえ、市井無頼の徒に身を投じていたが、ついにこれが捕らえられて入牢。
やがて島送りときまったので、おどろいたのは勝田の屋敷だ。ほうっておけば家督が絶える。といって、これを表ざたにするわけにはいかない。そこで、主水の半次といきうつしの千之丞をさがしだして、これを揚がり屋ですりかえたのである。
むろん、千之丞もなっとくずく、遠からず赦免をねがってやろうという約束もあり、それにお組を苦界から救うのもこのときと承諾したので、まんまとこの前代未聞の囚人すりかえの一件は成功したのである。
そして、半次はふたたび勝田家へかえり、もとの主水となってお家の相続をして、妻もめとり一子もできたが、おちまき献上という大役をまえにして、とつぜん発狂したのである。
驚いたのは勝田の老臣をはじめ、妻の里親の播磨守だ。
目前にせまったおちまき献上、いまさらこれを様変えするわけにもいかない。といって気違いを登城さすなどもってのほか。そこで思いついたのが窮余の一策、かつて主水の身代わりをつとめた千之丞に、もういちど身代わりをやらそうというわけだ。
そこで、老女の萩乃が梅花堂千春と名乗り、千之丞|誘拐《ゆうかい》の機をねらっているところへ起こったのがあの騒動、あとは万事すでに述べたとおりである。
千之丞はみごとに身代わりの役目を果たしてからは、河内播磨守にひきとられて一生そこで飼い殺し、むろん、お組もいっしょについていったことはいうまでもない。
こうして万事めでたくおわったが、さいごにきんちゃくの辰とうらなりの豆六はどうしていたかというに、首尾よく勝田の屋敷に忍びこんだものの、千春の萩乃にまんまと捕らえられ、奥のひと間へ押しこめられていたのだが、のちになってふたりのいうことには、
「あんな捕らわれびとなら、なんどでもなりとうございますよ。朝から晩まで、美しいのにずらりと取りまかれ、辰五郎さま、ご飯をおあがりあそばせだの……」
「豆六さま、ご退屈でございましょうから、草双紙でもお読みあそばせ、なんていわれたときは、迦陵頻迦《かりょうびんが》の声きくようで、わてもう天にものぼる心持ちやった。極楽とはほんまにあのこと、親分、あんな捕り物のくちは、ほかにおまへんやろか」
これだから、およそ辰と豆六には天下に怖いものはないのである。
戯作《げさく》地獄
人殺しこれあり候
――かずかずの惨劇の発端にてござ候
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一筆啓上、お玉が池の親分さんにひとことご注意申し上げ候。明日、未《ひつじ》の刻、吉原《よしわら》は仲の町において、恐ろしき人殺しこれあり候まま、必ずかならずご油断なされまじく、このことお疑いあって、悔いを後日に残さぬようご注意申し上げ候。なお、この人殺しと申すは、恐ろしき執念のなすわざにて、今後あいついで起こるべきかずかずの惨劇の発端にてござ候。右取り急ぎご注意まで申し上げ候。 敬白
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さすがの人形佐七も、この奇妙な密告状には、唖然《あぜん》としてあいた口がふさがらなかった。
それもそうだろう。うそかまことかわからぬが、いままでずいぶん変わった事件をあつかってきた人形佐七も、人殺しの予告をされたのはこれがはじめて、いや、まったく前代未聞の出来事といってよかった。
「お粂、この手紙はだれが持ってきたのだえ」
半信半疑のおももちで、佐七は女房をふりかえったが、お粂はもとより気がつかず、
「さあ、それが皆目わからないんですよ。さっき、そこを掃除していたら、落ちていたんですもの。おおかた、通りがかりのだれかが、格子のあいだから投げこんでいったんでしょう。辰つぁんも豆さんも、気がつかなかったかえ」
「さあて、つい、うっかりしておりましたが、そして、親分、なにか変わったことでも書いてありますか」
そういって乗り出したのは、あぐらをかいて、さっきからつまらなそうに鼻毛をぬいて、手の甲へ一本一本植えつけていたきんちゃくの辰、いや、いい男のすることじゃない。
そのそばで、うらなりの豆六が、例によって寝そべりながら、一生けんめい草双紙に読みふけっていたが、これまたなにかことあれかしと、むっくり頭をもちあげた。
なにしろ、このごろの天気ぐせとして、五月雨の降るともなく、やむともない空模様に、いまに体中かびでも生えるかと、すっかりじれきっていた三人だった。
「変わりも変わり、大変わりよ。辰、豆六もくだらねえ草双紙ばかり読んでいねえで、ちょっとこいつを読んでみろ」
ばっさりと、畳のうえに投げ出された、意味ありそうな封じ文。これに目を走らせたふたりは、おもわずあっと顔見合わせた。
「なるほど、こいつは変わっている。親分、こりゃほんまのことでしょうか」
「それをおれが知るもんか」
「あほらしい。こら、おおかた、だれかのいたずらだっせ。あんまり親分の評判がたかいもんやさかい、どいつか、こないなことして担ぎよったにちがいおまへん」
「そうよなあ。おいらもそんなことじゃねえかと思うんだが」
「お粂、おまえはこれをどう思う」
「あれ、あたしなんぞにわかりゃしないが」
といいつつ手紙を引きよせたお粂は、読むなりちょっと顔を曇らせ、
「おまえさん、あすといえば五月五日だね」
「そうよ、それがどうかしたかえ」
「さあ、どうということはないけれど、五月五日は端午のお節句、その日には毎年|花魁《おいらん》の顔見世道中があるはず、ひょっとしたらその騒ぎにまぎれ……」
「人殺しがあるというのかえ」
「はい、あのお里ばかりは、ふつうではわからぬことがままございますからねえ」
「ふつうとちがうというのかえ」
「おまえさん、思いすごしか知らないけれど、あたしにゃこの手紙はただのいたずらとは思われません」
いわれて、佐七はポンとひざをたたいた。
それもそのはず、このお粂というのは、もとしののめ[#「しののめ」に傍点]と名乗って吉原では全盛をうたわれた太夫《たゆう》、あの里の人情なら、手管なら、うら表、あますところなく知っているはずだった。
「なるほど、おまえにそういわれてみれば、おれもどうやら気にかかる。ええ、どうせだまされたところで、元手のいることじゃねえし、辰、豆六、それじゃひとつ出かけてみようか」
と聞いて、よろこんだのは辰五郎と豆六だ。
「てへへ、こいつはありがてえ。ひさしぶりで目の保養ができらあ、なあ、豆六」
「そやそや、こんなことなら、なんぼだまされたかて文句はおまへん」
と、にわかにいそいそ勇みたったやつを、ジロリとしり目にかけた女房お粂、ズイと佐七のそばへすり寄ると、
「ああ、つまらないこといわなきゃよかった。おまえさん、あたしの言葉をよいことにして、出かけるのは構わないが、このふたりにそそのかされて、浮気なんかすると承知しないよ」
と、ギュッと太ももをつねったから、見ていたふたりは首をちぢめて、
「ハークショイ、やれ、やれ」
花魁《おいらん》顔見世道中
――手に下駄《げた》はいて吉原とは風流な
さて、その翌日は、五月雨どきにはめずらしい上天気。
なにがさていま全盛をうたわれる吉原でも一流の花魁《おいらん》衆が、きょうを晴れと装いきそって、仲の町を練りあるくというのだから、大門のなかは、錐《きり》を立てるすきもないほどのにぎやかさ。
この端午の節句の顔見世道中というのは、いつごろからはじまったかつまびらかでないが、天保の初年ごろまで続いたという。
なにがさて年にいちどの行事だから、江戸っ子は申すにおよばず、勤番のお侍から近在のお百姓まで、わざわざ見物に出かけたというくらい。
また、花魁衆のほうでも、それだけに、ひとにおくれをとってはならじと、きょうの衣装にはひどい工面で、なじみというなじみの客に、無心状を出すやら、なかには年季を増すものさえあるくらいだ。
「うわっ、えらいひとやなあ。なるほど、こないな人出やったら、ひとのひとりやふたり殺されたってわからしまへんなあ」
「べらぼうめ、大きな声を出すんじゃねえ。ひとに聞かれると、縁起でもねえと殴られるぜ」
「そやかて、兄い、こんなかに殺されるときまった人間がいるねんやなと思うと、なんやけったいな気がするやおまへんか。いったい、どいつやろ。あいつやろか、それともむこうへいくお侍やおまへんか。みんなそんなことともつゆしらず、あほうみたいに鼻のしたをなごうして、てへっ、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」
「バカ。よさねえか、そういうてめえこそ、鼻のしたがなげえぞ」
「はっはっは、ちがいねえ。それにな、豆六、気をつけろよ、あの手紙にゃ、殺されるのはどこのだれとも書いてなかった。ひょっとすると、てめえのことかも知れねえぜ」
「うわっ、親分、そら殺生や」
と、ワイワイいいながらも、人形佐七にふたりの子分、油断なく、あたりのようすに気を配っている。いかさま、豆六もいうとおり、芋を洗うようなこの混雑、いずれも鼻のしたを長くしているが、まもなくこのなかから死人が出るのかと思うと、半信半疑でいながらも、なんとなく無常の感じだ。
と、このとき、辰がぐいとばかりに佐七のそでを引いた。
「親分、ちょっと見なせえ、変なやつがやってきましたぜ」
「変なやつってなんだえ」
「ほら、むこうからやってきたいざりでさあ。手に下駄《げた》をはいて善光寺てえのはしってますが、いざりが吉原へ繰り込んでくるなんてえのは、ちょっと風流で、めずらしいじゃありませんか」
なるほど、みれば押しあいへしあう人込みのなかを、ゆうゆうとやってくるのは、ひとりのいざり。おあつらえのいざり車にすわって、両手にはいた下駄で、のろのろとはっている。
さすがに場所柄を思ってか、あかこそついていなかったが、月代《さかやき》は伸び、ひげぼうぼうと生えて、どうみても物もらい。しかも、どこが悪いのか、げっそりと肉をそぎ落としたようにやせおとろえ、つく息さえも苦しげなのが、いかにもこのさい無気味にみえる。
さすが陽気に浮かれていたひとびとも、これを見ると目を丸くしてとびのいた。
「ちょっ、物好きなやつやおまへんか。なに思てまた、こないな人出の中へ出てきよったんだっしゃろ」
「まあそういうな。いざりだって人間だあな。やっぱり、きれいな顔をおがみてえにちがいねえ」
みているうちに、いざりの姿は群集のなかへ隠れてしまったが、おりからわっとあがるどよめき、いよいよ花魁の道中がはじまったのだ。
まずさいしょに現れたのは、お定まりの金棒引き、チャリンチャリンと鈴虫の音をひびかせながら、こいつが露払いで通りすぎると、イのいちばんは玉屋の花扇。
としは十八、碁、将棋から、歌俳諧《うたはいかい》から、なんでもできぬことはないという、吉原きっての名花一輪。これが芝居にあるとおりで、八文字を踏みながらいきすぎると、二番目は扇屋の葛城《かつらぎ》。としは花扇より二つ三つうえだが、いずれ劣らぬ花あやめ。さて、三番目につづいたのが大したもので。
いままでワイワイざわめいていたのが、これをみると、ピタリと鳴りをしずめたが、それもまことにむりではない。
いま江戸中でしらぬ者もないといわれる、姿海老屋《すがたえびや》の傾城《けいせい》奥州、一枚絵になると飛ぶように売れるといわれるくらい、一世の巨商|奈良屋《ならや》文七が、ついこのあいだ投身自殺をとげたのも、この女のために家産を蕩尽《とうじん》した結果とやら、それいらい嬌名《きょうめい》ますます一世にたかい文字どおりの傾城傾国。
さて、奥州この日のいでたちといえば、紫繻子《むらさきじゅす》に金糸銀糸で、ぼたんに唐獅子《からじし》をあしらったうちかけ、帯は日輪を争う双竜図《そうりゅうず》、いやそのみごとなことといったら、筆にもことばにもつくせぬくらいだ。
さすがの人形佐七も、あまりの美しさに恍惚《こうこつ》として見とれていたが、やがてこの奥州が、引き手茶屋|山口巴《やまぐちともえ》のまえまできたときである。
どうしたことか、八文字を踏む足が、にわかによろよろとよろめいたかと思うと、がっくりまえにのめりそうになったから、驚いたのはふたりのかむろだ。
「花魁《おいらん》え、どうしなまんしたえ」
と、左右からとりすがったが、つぎの瞬間、
「あれえ、人殺し!」
とさけんで飛びのいたひょうしに、奥州のからだはよろよろと、崩れるようにまえへ倒れた。
さあ、たいへんだ。
いままで鳴りをしずめていた見物衆も、わっとばかりに浮き足立つ。奥州のそばへは、バラバラと廓《くるわ》のものが駆けつける。
これをみて、ぎょっとばかりに息をのんだのは、人形佐七に辰と豆六の三人だ。手紙にあった人殺しとは、このことだろうか。
「辰、豆六もこい」
わっとなだれをうつ野次馬をかきわけて、バラバラと奥州のそばへ駆けよった人形佐七。
「どいた、どいた。お玉が池の人形佐七だ、ちょっとそこをどいてみろ」
と、新造|遣《や》り手《て》をかきのけて、奥州のからだを抱きおこしてみると、むざんやな、雪をあざむくのどのあたりに、プッツと突っ立ったのは一本の銀かんざし、こんこんとあふれる血潮は、はやうちかけのえりを唐紅に染めている。
「親分、こいつは」
と、さすがに物なれたきんちゃくの辰も、おもわずぎょっと顔色をかえた。
それにしても、何千何百という目の見ているまえで、いつのまに、だれが――と、ふと顔をあげた佐七の目に、そのときハッキリうつったのは、山口巴の二階から、のりだすようにこちらを見ているひとりの男。佐七とかっきり目と目があうと、男はあわててなかへ引っ込んだ。
「辰、豆六、いまの男をしょっぴいてこい」
「おっと、合点だ」
と、かけだしていく辰と豆六のうしろ姿を見送って、にったりと無気味な笑みをもらした人物がある。
ほかでもない、さきほどのいざり車のいざり男。
ひと知れずにたりと笑うと、そのままのろのろと、両手をあやつりながら、人込みをぬうて立ちさったが、そんなことは、もとより佐七は知るよしもない。
当代一の流行作家
――あんたはんが米彦《よねひこ》先生だっかいな
吉原のなかは、うえをしたへの大騒動だ。
「奥州が殺されたそうな。どこからか飛んできた銀かんざしにぐさっとのどをえぐられて、そのまま息は絶えたそうな」
という者があるかと思うと、
「いや、さいわいねらいが外れたので、あやうくいのちはとりとめたが、深手のために、気を失っているということだ」
と、打ち消すものもあって、なにがなにやらわからぬながら、廓《くるわ》すずめの騒がしいこと。
わけても、姿海老屋の騒動はひととおりではない。だいじな玉にもしものことがあってはと、すぐさま家へ担ぎこむと、医者よ薬よと大騒ぎ。
さいわい、だれかもいったように、ねらいがわずかに外れていたので、奥州はあやうくいのちは助かったが、急所の深手に正体もない。
「親分さん、どうぞ敵をとってくださいまし。こうしておそばにいなされたのも、なにかの因縁でございましょう。どうぞ奥州の敵をとってくださいまし」
と、狂気のようにとりすがるのは、姿海老屋の亭主《ていしゅ》の甚兵衛《じんべえ》。
むりもない。ここで奥州のからだにもしものことがあったら、姿海老屋は火の消えたのもどうぜん、亭主が気をもむのもむりはない。
「ご亭主、おまえさんにいわれるまでもなく、おれも骨は折るつもりだが、それにしても、まるで夢のようだ。いったい、どこからこのかんざしがとんできたのだろう。だれかおまえたちのうちに気がついた者があるかえ」
奥州のそばについていたかむろ新造、遣り手ばばあや男衆たちを調べてみたが、だれひとり気づいた者はない。
「花魁があっといってうつぶせにならんしたゆえ、驚いてふり返ってみると、そのかんざしが――」
と、ふたりのかむろはただ泣くばかり。人殺しとしてはじつに奇々怪々な手口だった。
「ご亭主、こんなことを尋ねるのは少し野暮かもしれねえが、花魁がこういうことになるについて、なにかおまえさんに心当たりはありませんかえ。どうでこういう里に勤めていれば、いろいろな事情があるにちがいねえ。色恋ざたとか、朋輩《ほうばい》のねたみ、なにかおまえさん、思い当たることはありませんか」
「はい、それが奥州にかぎって……そうしたことはつゆございませず、はい、わたしにもとんと見当がつきかねます」
「だが、世間ではいろいろいうぜ。ほら、あの奈良文《ならぶん》の一件にしてもなあ」
奈良文ときくと、亭主の甚兵衛はおもわず顔の色をかえ、
「いいえ、親分、それはちがいます。奈良屋さんがああいうことになられたのは、けっして花魁のせいではありません。花魁はそれはそれは奈良文さんを大事にいたしておりました」
蔵前の札差し奈良屋文七、三十歳の血気にまかせて、この里のみならず、あちこちでいろいろと浮き名を流したものだったが、ついに家産を蕩尽《とうじん》して、大川に投身自殺、死骸《しがい》はついにあがらなかったが、読み売りにまでうたわれて、江戸中のひょうばんになったのは昨年の暮れのこと。
「世間の口はうるそうございまして、それについて花魁をとやかくいうひともございますが、それではあんまり花魁がかわいそうでございます。ほかの女はいざしらず、花魁ばかりは奈良文さんに真実まことをささげておりましたものを」
「そうかえ、おまえさんがそういうなら、そういうことにしておこうよ」
佐七はまだ納得しきれなかったが、おりからそこへ、やってきたのは、きんちゃくの辰と、うらなりの豆六だ。
見ると、さっきの男を連れている。
「親分さん、わたくしにどのようなご用でございましょう」
と、おどおどしたようにいうその男の顔をみて、姿海老屋の亭主はびっくり。
「おや、あなたは木場の師匠、おまえさんがどうしてここに」
「ご亭主、おまえさん、このひとをご存じかえ」
「はい、存じておりますとも。このひとはいま名高い戯作《げさく》の大家で、笹川米彦《ささがわよねひこ》さんとおっしゃるおかた、なにかこのひとにご不審の点でも」
と聞いておどろいたのは豆六だ。
なにしろ、豆六ときたら草双紙の愛読者だが、わけてもこの笹川米彦のだいの崇拝者。
この米彦も二、三年まえまでは、ろくなものは書かなかったが、昨年あらわした『怪談|啄木鳥塚《きつつきづか》』という三冊本が大当たりで、こいつが芝居に仕組まれるやら、浄瑠璃《じょうるり》になるやら、たいした評判。
笹川米彦の名はいちはやく天下に喧伝《けんでん》されたが、そこへ追っかけて、ことしの春あらわしたのが『色競い三枚絵草紙』という、これはまだ上巻だけしか世に出ていないが、こいつがまた前作に劣らぬ傑作とあって、いまではだれひとり知らぬ者ない戯作の大家だった。
「へへえ、すると、あんたはんが米彦先生だっかいな。これはこれは、わては先生のファンだす。こんど本持ってきまっさかいに、ひとつサインしておくれやす」
まさかそんなことはいやアしないが、豆六め、いやにチヤホヤしている。
「はい、わたしがその米彦ですが、親分、なにかご不審の点でも」
「いやなに、そういうわけじゃありませんが、奥州さんが倒れたとき、おまえさんも山口巴の二階から見ていなすったようだから、なにかお気づきの点でもありはしないかと、それでちょっときておもらい申しましたのさ」
「あ、さようでございましたか」
米彦はほっとしたように、
「そういうことでございましたら、わたしよりもここにいる桜川の師匠のほうが、よく存じておりましょう。あのとき、わたしのそばにいたのでございますから。師匠、おまえさん、なにか見やアしなかったかえ」
と、米彦がふりかえったのは、あとからついてきたひとりの男、これは桜川寿孝といって、この土地生えぬきの幇間《ほうかん》だから、佐七も顔だけはしっていた。
「さようでございますねえ。わたしもいっこう気がつきませんで」
と、日ごろ陽気な桜川寿孝、このときなぜかくらい顔をしていった。
またまた飛んだ銀かんざし
――あれはたしかに笹川米彦ですぜ
さすがの人形佐七も、こんどばかりはすっかりまいった。
せっかく予告までされながら、下手人の目星もつかぬとあっては、末代までの恥辱とばかり、やっきとなって調べてみたが、だれひとり、かんざしの出所を知っている者はない。
さいわい、奥州は命をとりとめて、傷の治るまで、入谷《いりや》にある姿海老屋の寮で保養することになったが、これまた、かんざしがどこからとんできたのか、見当もつかぬという。
かんじんの当人がそのとおりだから、さすがの佐七もすっかり困《こう》じ果てたが、と、それから二十日あまりたって、またもや、お玉が池の家へまい込んできたのが奇怪な予告で。
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またまたご注意申し上げ候。明日は両国の川開きにて候が、この川開きのさい、ふたたび恐ろしき人殺しこれあり候まま、必ずかならずご用心ご用心。
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「畜生!」
これを読んで、歯ぎしりしたのは人形佐七。それはそうだろう。この文面では、親切ずくで知らせてくれるのか、それともいたずらでからかっているのか、さっぱりわからない。
「お粂、この手紙はだれが持ってきたのだ」
「おや、また来たんだねえ。こんなことなら、もっとよく気をつけているんだった。このまえの通りですよ。だれかが格子のあいだから投げ込んでいったんです」
「親分、どうします。また出かけますかえ」
「仕方がねえ。物笑いの種となろうとも、こうなりゃ出かけずにはいられめえ」
「なんや知らんけど、親分、わては気味が悪うなってきた。なんでまたこないなこと、いちいち知らせてくるんだっしゃろ」
「それがわかっているくらいなら、だれもこんな苦労はしやアしねえ」
「おまえさん、ほんとうにしっかりしておくれ」
お粂もなんだか心細そう。
佐七もいままでずいぶんおおくの事件を扱ってきたが、こんどほどいやな気になったことはない。最初の手紙には、なおこの人殺しと申すは、恐ろしき執念のなすわざにてとあったが、なんだかじぶんがその執念にのろわれているような気がする。
「仕方がねえ。これも御用だ。恥をさらす覚悟で出かけてみようよ」
と、翌晩になると、またぞろきんちゃくの辰とうらなりの豆六をしたがえて、代地河岸から舟をこぎ出した。
江戸時代の川開きは、だいたい五月二十八日ときまっていたが、そのにぎわいはいまも昔もおなじこと、げんげん相摩し、じくろ相ふくむとはまったくこのこと、さすが広い大川もぎっしり舟に埋められて、身動きならぬありさまだ。
「ちょっ、いやなところへ舞台をとりやがる。これじゃどんなことが起こっても、ちょっとやそっとでは手も出やアしねえ」
暗い水のうえにひしめいている屋形屋根船を見回して、佐七はいまいましそうに舌打ちする。
まったく佐七のいうとおり、このまえとはちがって、こんどは水のうえの、しかも暗い夜のこと、どんなことが起こるにしても、その探索にいよいよ骨の折れることは、あらかじめはっきりわかっている。
やがて、お待ちかねの花火が暗い夜空にパッとひらいて、玉屋、鍵屋《かぎや》のほめことば、こればかりは、江戸ならではみられぬにぎわいだが、今夜の辰は、日ごろのお江戸自慢も口へは出ない。
ここで万一しくじっては、親分一世一代の恥辱とばかり、きっとくちびるをかみしめて、うの目、たかの目であたりを見ている。
豆六とても同じ思いか、日ごろの口軽がことばもなく、ふなべりにしがみついたまま、うろんなやつやあるとばかりに、きょろきょろと金つぼ眼を光らせている。
むろん、あたりの舟では、そんなことは知るよしもなく、花火をよそに芸者とふざけちらしているのもあれば、また、しずかに酒を飲みながら、発句なんかひねっている風流人もある。
やがて、花火の番組もおいおいすすんで、いよいよ当日呼び物の連続打ち揚げからかさ花火、ドカンドカンとつづけさまに、夜空に七彩の虹《にじ》がひらめいたが、このときだ。
「あ、親分」
とさけんで、きんちゃくの辰がふなべりからのりだした。
「辰、どうした、なにかあったかえ」
「親分、むこうを見なせえ。あの屋形船に乗っているなあ、たしかに戯作者の笹川米彦ですぜ」
「なに、米彦だと」
佐七もおもわずふなべりからのりだした。
それもそのはず、このまえの一件のおりにも、なんとなく臭いと思いつつも、れっきとした証拠がないばかりに、そのまま見逃しておいた米彦だ。
「ほんまや、あら、たしかに米彦先生や」
と、豆六も相づちうったが、残念なことには、そのしゅんかん、ひしめく舟にさえぎられ、米彦を乗せた舟のすがたは見えなくなった。
「ちょっ、いまいましい。それにしても、あいつがまたぞろ来ているなあ、ただごとじゃねえぜ。辰も豆六も気をつけろ」
と、佐七のことばも終わらぬうちに、きゃっという悲鳴、どうした、どうしたという叫び、二、三名の芸者をのせたとなりの屋形船の中が、にわかに騒がしくなってきたかと思うと、
「あれ、だれか来てえ、人殺しイ」
という女のさけび声。
聞くなり、佐七はひらりと身をおどらせて、となりの舟へ飛びうつった。
「ど、どうした。どうした。なにかありましたかえ」
「おや、お玉が池の親分さん、ねえさんが、ねえさんが」
見ると、さっきからさんざん客と騒いでいた若い芸者が、がっくりとふなべりにうなだれている。佐七はあわててそのからだを抱き起こしたが、とたんに、あっと顔色をかえた。
女ののどには、またしても、銀のかんざしがぐさりとのどぶかく――。
「ねえさんや、この芸者はなんという妓《こ》だえ」
「はい、親分さん、それは柳橋のお喜多ねえさんでございます」
「柳橋のお喜多、それじゃあの花屋のお喜多か」
「はい」
きくなり、佐七の顔色はさっとかわった。
柳橋の花屋のお喜多は、吉原の奥州とどうように、奈良屋文七と浮き名をながした仲だった。
色競い三枚絵草紙
――草双紙の筋を追っかける殺人事件
「親分、わかった、わかった」
と、だしぬけにうらなりの豆六がすっとんきょうな声を立てたから、佐七はおもわず顔をあげた。
「豆六、なにがわかったんだ」
「なにがて、親分、まあ、これを読んでみなはれ」
と、豆六がさしだしたものをみれば、これが一冊の草双紙。これには佐七も立腹した。
「バカ野郎、よさねえか、おれはそれどころじゃねえんだ」
佐七は少なからずおかんむりである。
それもそのはず、川開きの一件も、ついにまたもや迷宮入り。かわいそうに、お喜多は、奥州とちがって、みごとにのどをえぐられて、たったひと息であえなくなっていたのだが、さあ、その下手人がわからない。
お喜多といっしょに乗っていた客は、石町の伊勢屋十右衛門《いせやじゅうえもん》という大だんなで、ほかの芸者も素性はよくわかっていたが、だれもお喜多を殺しそうなやつはいなかった。
「はい、花火を見ているうちに、ふいにお喜多があっとさけんで、ふなべりにつっぷしましたので、気分でも悪いのかと抱き起こしてみると、あのとおりで」
と、十右衛門はあおくなって語っている。
舟の中に下手人がいないとすると、かんざしはだれか舟の外から投げつけたものとしかおもえないが、そこで思い出されるのは笹川米彦のこと。
奥州の場合といい、またこんどといい、いちどならず二度までも現場付近をうろついていた米彦に、疑惑の目がむけられるのは当然だった。
そこで、佐七はときをうつさず、木場にある米彦の住まいをおそったが、奇怪にも米彦は、その夜から家へかえらぬという弟子の話。米彦はまだひとりもので、家には米員《よねかず》というわかい弟子がいるきりなのだ。
こうなると、いよいよ疑わしいのは米彦だが、それにしても、米彦がどうしてそんなことをするのだろう。
調べてみると、米彦は、奥州にもお喜多にもなじみはおろか、会ったことさえないという。
もうひとつふしぎなのは、ふたりの女がふたりとも、投身自殺をとげた奈良文のふかいなじみということだ。
まえにもいったとおり、奈良文は身投げをしたということになっているが、死骸《しがい》があがったわけではないから、ほんとうに死んだのかどうかわからない。
家財を蕩尽《とうじん》した奈良文は、しばらく微禄《びろく》した身を本所の裏長屋に横たえていたが、人情紙よりうすいのたとえ、だれひとり寄りつくものもなく、かつて世話した芸人どもにも手のひらかえすあつかいをうけ、あげくの果てにはわるいやまいに悩まされ、とうとう遺書をのこして大川に身を投げたのだが、死体はついに出なかったのである。
ひょっとすると、その奈良文が生きていて、薄情な昔のなじみ女を殺したのではあるまいかと、そうも考えられるが、すると、あの笹川米彦は、なぜ姿をくらましたのだろう。
考えると、なにがなにやらわからなくなる。
さすがの佐七も少なからず中っ腹なところへ、豆六がしかつめらしく草双紙を差し出したのだから、これは憤るのもむりはない。
「豆さん、なんだねえ、親分があんなに苦しんでいなさるのに、草双紙なんてバカバカしい。冗談もいい加減にしておくれ」
お粂もはなはだごきげんななめだ。
「ところが、あねさん、これが冗談やおまへんねん。まあ、親分、ひとつこれを読んでみはなれ。こんどの一件は、たちどころに氷解や。題して『色競い三枚絵草紙』作者はおなじみの米彦先生、このなかにちゃんと、こんどの事件が書いてあります」
「なにを」
ぎょっとして顔をあげた人形佐七、しばらくあっけにとられたように豆六を見ていたが、あわててその手から草双紙をうばいとると、むさぼるように読み出した。
色競い三枚絵草紙。――まえにもいったとおり、これはまだ上巻だけしか刊行されていなかったが、読んでいくうちに、佐七の顔色はみるみる変わった。
なるほど、この中には、こんどの事件と酷似した場面が、いちどならず二度まで出てくる。
まずさいしょは吉原の花魁《おいらん》殺し、陸奥《みちのく》と名乗る遊女が、道中のとちゅう、銀かんざしで殺される。
ついでは両国の川開き、ここでは桜屋お滝という芸者が、これまた舟のなかで銀かんざしで殺されるのだ。
奥州と陸奥、桜屋お滝と花屋のお喜多、名前までが酷似している。
ただし、これは上巻だけだから、下手人はまだわからない。
「豆六」
「へえ」
「この本はまだ下巻が出ないのかえ」
「残念ながらまだ出てえしまへん。そやさかい、下手人がだれになってんのんか、それは米彦先生の胸三寸、こんなことなら、このあいだ米彦先生に聞いといたらよろしおましたなあ」
さあ、わからない。
いったい、この草双紙とこんどの事件と、どういう関係があるのだろう。
評判小説の読者がその小説をまねて人殺しをするということも考えられないこともないが、それにしても、陸奥だの、桜屋お滝だのという名前の符合していることがいぶかしい。
「どうだす、親分、これで米彦先生の立場がわかりましたやろ。先生、じぶんの書いた草双紙とそっくりおなじことが起こりよるもんやさかい、びっくりして姿をくらましやはったんや。それにしてもなあ、親分、わてもうひとつふしぎなことがおまんねん」
「なんだい、なにがふしぎだ」
「ほかでもおまへんが、この『色競い三枚絵草紙』というこの題や。三枚絵草紙というからには、もうひとり女が出んならんと思いまんねん。そして、そのうちのふたりが殺されたからには、きっと、もうひとりのやつも殺されよんねんやろ思いまっけど、それはいずれ下巻のほうで……わっ、あねさん、どないしなはった」
豆六が驚いたのもむりはない。いつのまに席を立ったのか、女房のお粂が表のほうで、
「おまえさん、早く早くきておくれ。どうもようすがおかしいと、さっきからうかがっていたら、やっぱりこいつだよ。ほら、またこんな手紙を投げこんで」
「なに、手紙」
すっくと立った人形佐七が、やにわに表へとび出すと、いましも必死となってお粂の手を払いのけようと争っている男。
佐七はその顔をみるなり、ぎょっとばかりに声を立てた。
「あっ、てめえは桜川寿孝」
いかさまそれは吉原の幇間《ほうかん》、桜川寿孝にちがいなかった。
「おまえさん、こいつを知っているのかえ」
「おお、知っているとも。豆六、そいつを逃がさねえようにしろ。お粂、手紙を出しねえ」
「あいよ」
お粂の手から受け取った手紙を佐七がさらさら開いているところへ、息せき切ってとんでかえったのはきんちゃくの辰だ。
「親分、いけねえ、またひとりやられました」
「な、なんだって、だれがやられたんだ」
「水木|歌仙《かせん》という女役者で、さっき舞台のうえで、銀かんざしを投げられて、たったひと息で死んでしまいました」
「なんだと、水木歌仙といやア……」
「さようでさ。やっぱり奈良文のむかしの情婦《いろ》のひとりでさ」
佐七は、きっと寿孝のほうへふりかえると、
「おい、寿孝、てめえこの文をだれから頼まれてきた。強情はっても仕方がねえ。痛い目をせぬうちに、さっさと申し上げてしまいねえ。これ、顔をあげねえか。こいつ、強情な野郎だ。豆六、そいつのしゃっ面をあげさせろ」
「おっと、合点や」
うつむきになった寿孝のあごへ手をかけて、ぐいと顔をあげさせたとたん、そこにいた四人の者は、思わずわっと、うしろにとびのいた。
寿孝は舌をかみ切って、もののみごとに死んでいる。
「しまった。こいつを殺しちゃ、また手がかりがなくなった」
「親分、いってえ、この桜川がどうしたというんです」
「辰、まあ、この手紙を読んでみろ。こいつを寿孝のやつが投げこみやがったんだ」
佐七の出した手紙をみて、お粂も豆六、辰五郎もおもわず顔を見合わせた。
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三度ご注意、女役者水木歌仙にご注意が肝要、いつまた飛ぶとも知れぬ銀のかんざし、重ねがさねご注意までに申し上げ候。
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「とうとう、これで三枚絵草紙そろいよったなあ」
豆六先生得意の壇上
――ばんじこのわてに任せておきやす
佐七は地団太踏んでくやしがった。
せっかく、探索の手づると思われた桜川寿孝を殺してしまっては、もうどうにも手がかりはない。佐七は寿孝が下手人そのものとは思われない。
寿孝の背後に、きっと黒幕がひかえているにちがいないとにらんだが、死人に口なし、寿孝が死んでしまったいまとなっては、それが何者だか、想像もつかないのである。
さすがの人形佐七もこのときばかりは、掌中の玉を落としたように、がっかり気落ちがしてしまったが、それをなぐさめるように、豆六が、
「親分、まだそないに落胆することはおまへんがな。ここにもうひとつ、手がかりがおまっせ」
「豆六、手がかりとはなんだ」
「さ、それがやな、この『三枚絵草紙』の下巻を読んだら、きっとまた、なにかわかるにちがいないと思いまんねん」
「なるほど、それはそうかも知れねえが、その下巻はまだ出ていねえし、笹川米彦をひっ捕らえて腹案をきこうにも、あいての居どころがわからねえじゃしようがねえ」
「ところが、しよがおまんねん。親分、この奥付けをみなはれ、下巻は五月の終わりまでに刊行すると書いておますやないか。そうすると、もう草稿が版元のほうへ渡っているじぶんや。これからひとつ版元の蔦重《つたじゅう》へ出かけて、そいつを見せてもらおやおまへんか」
なるほど、いわれてみれば、こいつは理屈だ。おぼれる者はわらをもつかむ。いまはもうすっかり豆六におぶさった気になった人形佐七、それからただちに辰と豆六をつれて、本町の版元、蔦屋重兵衛《つたやじゅうべえ》の店へ出かけたが、来意をきいた蔦重の返事というが、
「ああ、あの『三枚絵草紙』草稿でございますか。あれならもう、えかきの歌川|国貞《くにさだ》さんのほうへ回っておりますので」
「ああ、さよか。いや、草稿はどうでもよろしおまっけど、あんたはん、その筋をご存じやおまへんか。ご存じやったら、ちょっとそれがお聞きしとおまんねん」
「はい、それがおあいにくさまですが、なにしろ、笹川の師匠の草稿が遅かったものでございますから、読まずに歌川さんのほうへ回してしまいましたので。なんなら、そちらのほうへおいでになってはいかがでございましょう。歌川さんのお住まいは、亀戸《かめいど》のほうでございますが」
「さよか、そんなら仕方おまへん。親分、それでは亀戸までいてみよやおまへんか」
草双紙とくると目の色がかわるうらなりの豆六、御用も御用だが、ほんとうをいうと、一刻もはやく下巻が読みたくてたまらないのだ。
「ちょっ、仕方がねえ、きょうばかりはよろしくお引き回しを願います、だ」
「よしよし、わてにまかせておきなはれ」
豆六のやつ、いい気なもので、親分気取りで亀戸の歌川国貞の宅まできたが、草稿はここにもなかった。
「はなはだお気の毒さまですが、草稿はここにもございません。いまさっき、持っていかれたところでございまして」
「へえ、持っていかれた? いったい、だれが持っていきよってん」
「それが、作者の笹川米彦さんでございます」
「なに、米彦? 自身でやってきたのか」
佐七の目がにわかに鋭くなってくる。
「はい、さようで。なんだか書き直したいところがあるとかいう話でございました」
「師匠、師匠、ちょっとお聞き申しますが、あんた、その草稿を読みなはったやろな」
「はい、みなまでは読みませんが、はじめのほうを少しばかり読みました」
「そんなら、そんなかに、女が殺されるところはおまへなんだか。殺されるのは女役者や。そして、舞台のうえで銀かんざしにぐさりとやられて……」
「へへへへ、よくご存じで。いや、もう近ごろはあの合巻本のとおりのことがちょくちょく起こるので、それで、おおかた米彦さんも気味が悪うなったのでございましょう。今夜もなんだかお顔の色もすぐれず、まるで幽霊のようでございました」
「そして、これからどこへ行くともいわなかったか」
「はい、まっすぐに木場のお宅へおかえりのように申しておりました」
「よし、辰、豆六もこい」
にわかに元気を取りもどした人形佐七、それよりふたたび木場へ出向いていったが、そのころには夜もよほどふけ、雨さえパラパラと落ちてきた。
木場へついて、米彦の家をのぞいてみると、なかはまっくら、おとのうてみたが返事がない。
どうやら弟子の米員もるすらしい。
「はてな。すると、こちらへかえるというのは、うそだったのかな」
「親分、どうも変ですぜ。なんだかキナ臭いにおいがするじゃアありませんか」
辰のことばに気がつくと、なるほど、紙の焦げるようなにおいがする。
「もし、おるすですか。なんだか燃えているようですが、火の用心は大丈夫ですかえ。もし、米彦さん」
それでも返事がないので、むりやりに戸をこじあけてなかへ踏みこんだ三人は、そのとたん、思わずあっと立ちすくんだ。
むりもない。火ばちの中には草稿が、すでに半分以上も灰になって、そして、そのほの明かりですかしてみれば、座敷の天井から、ひとりの男がぶらさがっているではないか。
「わっ、こ、こら、米彦先生や」
まさしく、笹川米彦は、草稿をみずから焼いて、首をくくって死んでいるのだった。
さあ、いよいよわからない。
米彦はなぜ縊死《いし》したのだろう。まさか、小説の模倣者が現れたぐらいのことで自殺しようとは思われぬ。してみると、やっぱり下手人は米彦だったのだろうか。
佐七もさすがにとほうにくれたが、そのとき、ふと目についたのは、雨にぬれた長屋の路地に、くっきりついた奇妙な跡。
それを見たとたん、佐七の目はにわかに烈々たる光をおびてきたのである。
「辰、豆六もみねえ。てめえたち、あの跡をなんだと思う?」
「へえ」
と、表をのぞいたきんちゃくの辰、
「どうやら、車の跡らしゅうござんすね」
「そして、その車の跡の両側に、けったいやなあ、下駄《げた》の跡が片っぽずつついてるやおまへんか」
「てめえたち、まだわからねえのか。ありゃたしかに、いざり車の跡だぜ」
あっ、と辰と豆六は息をのんだ。思い出されるのは、いつぞやの日、吉原の雑踏で見かけたあのいざり車。
「親分、そうすると、あのいざりが……」
「なにか関係があるにちがいねえ。どうであいてはいざりのことだ。遠くはいくめえ、ひとつ、あと追っかけてみようぜ」
雨はようやく激しくなったが、さいわいこのへんのぬかるみに深く印した車のあとを消してしまうほど強くはない。
「親分、どうも妙ですぜ。このいざり車は、だれかひいているやつがあるにちがいねえ。ほら、ふたつの輪のあいだに、下駄の跡がついてまさア」
「ほんまや、ほんまや。しかも、みなはれ、こら女だっせ」
「ふむ、こいつアとんだ勝五郎だ。初花は、いったいだれだろう。ともかく、いそいで追っかけろ」
三人はいよいよ足を急がせたが、やがて、どきりとしたように、三人そろって立ち止まったのは、はるかむこうの堀端《ほりばた》に、いざり車がしょんぼりと、雨に打たれてとまっているのを見たからだ。
しかも、そのいざり車のそばには、ひとりの女がうずくまって、さめざめ泣いているようすである。
いったん足をとめた三人は、これを見るより、た、た、た、とそばへかけよったが、その足音がきこえたのか、女がひょいとふりかえると、
「お玉が池の親分さん、ひと足遅うござんした。下手人は、いま息を引きとられたばかり」
その声を聞くと、三人とも棒をのんだように立ちすくんだ。
「お、おまえは姿海老屋の奥州じゃねえか」
「あい」
と、雨のなかに立ちあがった奥州のすがたは、凄艶《せいえん》ともなんともいいようがない。
恨みの戯作《げさく》のろいの復讐《ふくしゅう》
――だんなは米彦さんに作を盗まれて
「花魁《おいらん》こりゃどうしたというんだ。そして、そのいざりというのは、いってえなにものだえ」
さすがの人形佐七も、このときばかりはどぎもを抜かれた。奥州はしずかに涙をぬぐいながら、
「はい、このひとこそは、蔵前の大通といわれた奈良文さんのなれの果てでございます。奈良文さんは満足して目をおつむりなさんした。首尾よくうらみを晴らしたゆえに、満足してお死になさいました」
「うらみ? うらみとは、花屋お喜多と、水木歌仙のことかえ」
「いえ、いえ、それもありんすが、もっと深いうらみはあの笹川米彦さん。米彦さんが首をくくるのを見とどけてお死になさんした」
「花魁、もっとくわしく話してくんねえ。奈良文さんが、どうして笹川米彦にうらみがあるんだ」
「はい、米彦さんは奈良文さんの小説を盗んだのでござんす。親分さん、米彦さんがにわかに売り出したあの『怪談|啄木鳥塚《きつつきづか》』は、奈良文さんの作でござんした」
それは世にも奇怪な遺恨だった。
一代の驕児《きょうじ》奈良文は、微禄《びろく》して本所の裏長屋に逼塞《ひっそく》したころ、戯作《げさく》をもって立ちあがろうと、書きあげたのが『啄木鳥塚』。
さて、書きあげたものの、版元につて[#「つて」に傍点]のない奈良文は、その紹介を、以前に一、二度会ったことのある笹川米彦に頼んだ。ところが、米彦は卑劣にも、それをじぶんの作として、世に発表してしまったのである。
憤慨したのは奈良文だ。
いくどか米彦にかけあったが、あいてもさる者、木で鼻をくくったようなあいさつ。あげくの果てには、いいがかりをつける悪いやつと、さんざん打ちちょうちゃく、そのために、奈良文は腰も立たぬ病となった。
奈良文は世をのろい、人をのろった。
だれに話しても、奈良文のいい分を信用するものはない。それはそうだろう。栄耀《えいよう》栄華にくらした奈良文に、そんな文才があろうとは、だれひとり知るものなかったのだから。
「奈良文さんは、そこで敵討ちを思いつきました。それも、世にもふしぎな敵討ちでござんす」
その敵討ちの第一歩として、奈良文はふたたび戯作を書きあげたが、その戯作のなかで、奈良文はじぶんのなじみをかさねた三人の女を殺すことにした。
その草稿を米彦にあずけておいて、じぶんは狂言自殺で姿をくらましたのである。
喜んだのは米彦だ。またぞろ、これをおのれの作として発表したが、それこそ奈良文の望むところ、この小説が大いに世にもてはやされることを見計らって、小説の筋書き通り、女を殺してしまったのだ。
「おどろいたのは米彦さん、もしこの小説の詮議《せんぎ》がきびしくなれば、他人の作だということも白状しなければなりません。戯作者の面目としても、どうしてそんなことができましょう。恐れにおそれ、悩みになやんだあげくが、とうとう今夜くびれて死んだのでございます」
なんというふしぎな話、なんというふしぎな復讐《ふくしゅう》、さすが草双紙通の豆六も、このときばかりは、あいた口がふさがらなかった。
「そうすると、なにかえ。奈良文は米彦にうらみを晴らそうばっかりに、罪もない女を殺したのかえ」
「いいえ、あのひとたちに罪がないとは申せません。奈良文さんにひとかたならぬ恩義をうけながら、微禄をなさると鼻もひっかけず、奈良文さんはなんぼうかくやしかったでござんしょう」
「ふうむ。そして、そういう花魁は?」
「あい、わたしもその罪深い女のひとりでござんした。いつぞやの日、奈良文さんが訪ねてきて『啄木鳥塚』を盗まれたそのくやしさを打ちあけなさんしたとき、すなおにわたしが信用して親身になってお慰めさえしていたら、こんなことにはならなんだのに、わたしがついつい疑ったばっかりに……」
奥州は声をのんで、奈良文の死体のうえに泣きくずれたのである。そのうえに、冷たい雨が霏々《ひひ》として降りしきる……。
奥州はあの銀かんざしを投げつけられたとき、群集のなかのいざり車に、はっきりと奈良文の面影を見たのである。しかし、彼女は黙っていた。
奈良文の恩義を思うゆえに、その心情の哀れさゆえに……そして、のどの傷が癒《い》えると、さっそく奈良文を探しにかかったが、そのときには、ほかのふたりの女は、すでに奈良文の手にかかっていたのだった。
人情紙のごとくうすい芸人仲間で、桜川寿孝のみは、奈良文にたのまれて、最初はわけも知らずに手紙を佐七のもとへとどけていたが、それとわかると、舌かみ切って、あわれな奈良文をかばったのであった。
[#地付き](完)
◆人形佐七捕物帳(巻十七)
横溝正史作
二〇〇四年九月十日 Ver1