人形佐七捕物帳(巻十五)
[#地から2字上げ]横溝正史
目次
梅若|水揚帳《みずあげちょう》
謎《なぞ》坊主
お時計献上
当たり矢
妖犬《ようけん》伝
梅若|水揚帳《みずあげちょう》
春の雪解け
――雪だるまのなかから裸の死体が
その年はどういうものか雪が多かった。
年の暮れに五寸ほど降りつもった雪が、まだ解けやらぬきょう、七草にまたこの雪である。
七草がゆのあたたかみが、まだ腹の底からきえやらぬお昼まえから降りはじめた雪が、根雪のうえにふりつもって、吹きだまりではゆうに一尺はこえたであろう。
だが、その雪も五つ(八時)ごろにはからりと晴れて、空には皎々《こうこう》たる月がすごいようである。
「兄い、ことしはえろう雪がおおいやおまへんか。雪もなんやな、雪見酒としゃれられるようなご身分ならよろしおまっけど、わてらみたいな素寒貧には、ただもう、冷えこむばっかりだんな」
「まあ、そういうな、豆六、雪は豊年のみつぎといってな、お百姓はおおよろこびよ」
「あれ、あんたにはわてのなぞが通じんのんかいな」
「なぞたあなんだ」
「豆六、おめえのいうのももっともだ。それじゃどっかでキューッと一杯……と。あんたいま、そないいうてくれやはるおつもりやったんだっしゃろ」
「あっはっは、豆六、草双紙やなんかだと、そういうものわかりのいい兄貴分がでてくるのかもしれねえが、現実はそうはいかねえ。現実はきびしいものよ」
「兄い、現実はきびしいといやはると……?」
「からだも冷えるが、財布もひえてる。だから、まあ、あきらめてくれ」
「あれ、そんなんこすいよ、こすいよ。そんなら兄い、あんたはんあの金、ネコババしやはるつもりかいな」
「豆六、あの金たあなんのこった」
「そやかて、兄い、さっき緑町の伯母《おば》さんが、豆さんとどこかで一杯のんでおくれと、おひねりをソーッと」
「あれ、この野郎、てめえあれをしってやアがったのか。いやらしいやつだ」
「なんといわれたかてかましまへん。それをもし、ひとりでネコババしやはったら、伯母さんにたいして、契約違反になりまっせ」
「うっぷ、契約違反だっていやアがらあ。いいよ、いいよ。どっかこぎれいな店があったら、一杯ひっかけていこうと思っていたところだ。葺屋町《ふきやちょう》の芝居のそばに、牡丹《ぼたん》という店があったな」
「そやそや、あそこなら酒はうまいし、ねえちゃんはきれいや」
どっかできいたようなせりふだが、一杯ありつけるとわかって、豆六はおおはしゃぎ。辰《たつ》は思い出したようにあたりをみまわし、
「こいつはまた、やけに雪だるまができやアがったな」
そこは浜町から人形町へぬける通り、俗に、へっつい河岸とよばれるところだが、なるほど、雪におおわれた河岸っぷちに、にょきにょきと雪だるまが立っている。
時刻はかれこれもう四つ(十時)。
このへんは葺屋町や堺町《さかいちょう》という。芝居町にほどちかく、踊り子などがおおく住んでおり、ちょっと色っぽいところだが、雪にひえこむ四つともなれば、さすがにあたりに人影もない。雪におおわれた白銀の世界は、凍りついたようにしずまりかえって、どこかで聞こえる按摩《あんま》の笛の音がいんきである。
「兄い、兄い」
とつぜん、豆六がなに思い出したのか、いくらか感慨ぶかげに、
「この雪だるまで思い出したんやけど、去年の梅若の一件、あれ、どないなってまんねんやろ」
「そうそう、そういえば、梅若のはだかの死体が雪だるまのなかから出てきてから、もうかれこれ一年になるんじゃねえのか」
「あれは去年の二月十九日、彼岸の入りの日だした。あとひと月と十日あまりでまる一年。あれいらい、下手人のやつ、雪のふるたんびに犯した罪におびえているんやおまへんやろか」
ほうとため息をつく豆六の耳に、またもや聞こえてくるのは按摩の笛の音。
「そういえば、豆六。あのとき、梅若殺しの下手人とうたがわれ、きびしいお取り調べをうけた、玉虫お蝶《ちょう》という芸者は、たしかこのへんだったなあ」
「さよさよ。お蝶のうちはすぐこのさきの裏通り。あのときは、お蝶もだいぶんしぼられたちゅう話や」
「なにせ、あいてが海坊主の茂平次ときたからな。あのとき、海坊主にしぼられたなあ、玉虫お蝶ばかりじゃねえ。堺町の中村座の芝居茶屋、いちょう屋の看板娘のお久、それに薬研堀《やげんぼり》の料理屋、さぎ亭《てい》のおかみのお重なども、海坊主のやつにずいぶん油をしぼられたという話だ」
梅若というのは、そのころ浅草の奥山で八丁荒らしといわれた人気者、たかが大道のこままわしだったが、そのたぐいまれな美貌《びぼう》は江戸中の評判になり、かれが曲ごまをあやつるとき、そのまわりは十重二十重。かれの一顰《いっぴん》一笑に、わかい娘たちは身も心もしびれたという。
としは十七だったというから、いまのかぞえかたですると、十五歳そこそこだったろう。
いつも金糸銀糸で、大きく源氏車をぬいとりした紫|繻子《しゅす》の小袖《こそで》をもろ膚ぬぎ、したにはこれまた源氏車を白く染めぬいた緋《ひ》ぢりめんの膚じゅばんに、萌黄《もえぎ》のたすきをあやどっているところから、だれいうとなく源氏の梅若。
とうとう、そのころ人気のあった浮世絵師、歌川|清麿《きよまろ》の目にとまって、角前髪《すみまえがみ》のそのあですがたが一枚絵になって売り出されたから、さあ、人気はいよいよふっとうして、江戸一番の色若衆とうたわれていたのもつかの間……。
その源氏の梅若が、去年の春殺されたのである。いや、死体となって、妙なところから発見されたのである。
ことしほどではなかったが、去年も暮れから、そうとうたびたび雪がふって、正月から二月のお彼岸のいりにかけて、江戸の町には、白いもののたえまがなかった。
源氏の梅若は暮れ……すなわち一昨年の十二月二十八日の夜から、ゆくえ不明になっていたのだが、それが年も明けた二月の十九日、彼岸のいりの日になって、浅草雷門まえの雪だるまのなかから、死体となって発見されたのである。
発見されたときの梅若は、一糸まとわぬすっぱだか。梅若はふだん、緋ぢりめんのふんどしをしめていたそうだが、それさえもはぎとられ、みるもむざんなあかはだかであった。
梅若の死体をのんでいた雪だるまは、暮れの二十八日にふった大雪で、近所のお店の丁稚《でっち》小僧がつくったもので、その後解けそうになると、あとからふった雪でおぎない、おぎない、二月の十八日まで、つくったときの形のまんまで、雷門のまえに鎮座していたのである。
それが、二月の十九日の昼過ぎ、にわかに訪れた春の陽気に、ぐずぐずと解けくずれたかとおもうと、なかから源氏の梅若が、あられもないはだかの絞殺死体となって発見されたのである。
梅若水揚げ帳
――なぜまた、ふんどしまではぎとったのか
「それにしても、豆六、あのときはおどろいたな。梅若め、とんだものを残していきゃアがった」
「さよさよ、あれにはだいぶんあっちこっちで、夫婦げんかがもちあがったり、家出娘が続出したりで、いや、もう、ひとさわがせな梅若だしたなあ」
梅若がとんだものを残して、世間をさわがせたというのは、つぎのようなしだいである。
梅若が女をしったのは、かぞえで十五の春――というから、いまのかぞえかたでいうと十三歳と何カ月。むろん、女に買われたのである。
そののち、清麿《きよまろ》の麗筆にえがかれて、一枚絵として売り出されていらい、ひいきの客はひきもきらず、夜ごとのように梅若は、女のあいてをつとめていたらしい。
それをなんと、梅若は克明に書き記しており、題していわく、
『梅若水揚げ帳』
そこにはおのれの関係した女の名まえはいうにおよばず、器量から肉体的な特徴、さらに閨房《けいぼう》における肢態《したい》から好みまで、ことこまかに書きつづってあったのが、よりによって鳥越の茂平次という岡《おか》っ引《ぴ》きの手にはいったからたまらない。
鳥越の茂平次とは、みなさま先刻ご承知のこの捕り物帳での敵役。色が黒くて大あばた、海坊主の茂平次という異名があり、世間からゲジゲジのように忌みきらわれている男である。
よりによってその海坊主の手にはいったのだからたまらない。水揚げ帳に名まえをつらねた女たちは、情け容赦もあらばこそ、つぎからつぎへと調べられたから、江戸の女の秘めごとが、いっぺんに明るみにでてしまって、夫婦わかれをするのもあれば、まとまっていた縁談を破談にされる娘もでる。
その影響するところ、あまりにも甚大《じんだい》なので、お奉行所では海坊主をしかりつけ、水揚げ帳をとりあげてしまうと同時に、この捜査のうちきりを申しわたした。
お奉行所でこの捜査を断念せざるをえなくなった理由のひとつは、梅若の殺害された日が、正確につかめなかったからでもある。
梅若が失踪《しっそう》したのは、一昨年の暮れの二十八日である。そして、その日ふった大雪で、雪だるまがつくられたのだが、これをつくったのは、かいわいの丁稚《でっち》小僧。だから、去年の二月十九日の雪解けで、死体が発見されるまで、そのかん約五十日。そのあいだのいつの日に、死体が封じこまれたのか、当時の医学的知識では、解明する手段方法がなかったのである。
なにしろ、雪詰めにされていたのだから、死体はほとんど腐敗しておらず、まるで生けるもののごとく、うつくしい膚をしていた。だから、ゆくえ不明になった暮れの二十八日の晩殺されたのか、また、何日間かどこかへ閉じこめられていて、さんざんおもちゃにされたあげく、しめ殺されたのか、なにしろそのかん約五十日あるのだから、それがこの捜査を困難なものにしたのである。
そのとき、もっとも重大な容疑者として、海坊主の毒気にあてられたのが、へっつい河岸の芸者、玉虫お蝶と、堺町は中村座の芝居茶屋、いちょう屋の看板娘のお久。お久はまだ十九という弱年ながら、いちょう屋を切ってまわしているというしっかりものなのである。
それから、いまひとりは、薬研堀にある料理屋、さぎ亭の女房お重。水揚げ帳によると、さいきんではこの三人が、もっともしばしば梅若とあそんでおり、三人いっしょに梅若をおもちゃにしたこともあるらしい。
だから、梅若の殺害されたのがいつ幾日と、はっきりわかっていれば、この三人のなかから犯人を指摘できたかもしれないのだが、あいにく、それが明確でないうえに、暮れの二十八日から、二月の十九日まで、五十日間にわたる三人のアリバイを、正確に追及するということは、ちょっと不可能にちかかった。
こうして梅若殺害の一件は、ついにうやむやのうちに葬られざるをえなかった。
「豆六、梅若の一件のときにゃ、うちの親分、ほかに忙しい御用があったので、とうとう掛かりあいなさらなかったが、われわれも死体を見るだけはみたなあ」
「へえへえ、雪だるまのなかから梅若の死体がでてきたという知らせをきいて、すぐに駆けつけたら、海坊主のやつがひと足さきにきていくさって、さんざんいやみをならべよったがな」
「いや、海坊主のことはどうでもいいとして、あのとき、うちの親分、しきりに首をかしげていなすったが……」
「へえ、うちの親分、どないいうてはりました」
「おまえは聞かなかったか。親分はこうおっしゃるんだ。雪だるまのなかへ人間一匹かくすというのは、容易なわざじゃねえ。なぜ、死体をそのままおっぽりださずに、雪だるまのなかへかくしやアがったかと……」
「そやけど、兄い、そら下手人にとっては、死体の見つかるのんがおそければおそいほど……」
「おれもそういったんだが、それじゃなぜ、なにもかも……ふんどしまではぎとってしまやアがったかと……」
「それも、兄い、身もとがわかったらこまるさかいに」
「いや、おれもそういったよ。ところが、親分のおっしゃるにゃ、そんなら、なぜ顔をめちゃめちゃにしておかねえんだと」
「それやかて、兄い、下手人のかんがえでは、そのうち雪のなかで腐ってしもて、顔のみわけもつかんようになるやろと……なにせ、見つかるまでに五十日の余もかかってまんねんさかいにな。まさか、雪のおかげで、生身どうようのまんまで見つかるやろとは、気イつかなんだっしゃろ」
「豆六、おれもそういったんだが、それがいけねえとおっしゃるんだ。辰、つもってもみねえ。あの雪だるまが五十日の余ももつと、下手人はどうしてしっていたんだ。雪だるまは三日で解けるか、五日でくずれるか、しれたもんじゃねえ。それにもかかわらず、死体になんの細工もしてなかったところをみると、下手人にとっては、死体が梅若だとわかってもかまわなかったにちがいねえ。それじゃ、なぜ雪だるまのなかへかくしたか。それはもちろん、二日でも三日でも、見つかるのをおくらせるためだろうが、身ぐるみすっかりふんどしまではぎとったわけがわからねえとおっしゃるんだ」
「なるほど、そういえばそうだんな。兄い、そのわけちゅうたらなんだっしゃろ」
「べらぼうめ。親分にわからねえもんが、こちとらにわかってたまるけえ」
「そらそうだんな」
「ときに、豆六。あの梅若にゃお冬という姉があったな。曲ごまの三味線をひいていた女だが……」
「そうそう、わてもいま、それを思い出してたところだったけど、そのお冬なら、いつかうわさをきいたことがおます。うそかほんとかしりまへんが、吉田町《よしだちょう》から出てるちゅう話や」
「なんだ、吉田町へおちたのか」
辰はおもわず目をまるくした。
吉田町というのは、もっとも下等な売笑窟《ばいしょうくつ》で、夜鷹《よたか》とたいして変わりはない。
「親の因果が子にむくいやのうて、弟があんまり羽根をのばしすぎたんで、そないなことになったんでっしゃろ」
豆六がため息まじりにつぶやいたとき、按摩《あんま》の笛の音がちかづいてきて、
「お寒うございます」
と、小腰をかがめていきすぎたのは、としのころは二十七、八、いがぐり頭に、めくらじまの着物をしりはしょり、下に浅黄《あさぎ》のももひきをはいていて、どこかひと癖ありげな面魂。
「おっ、お寒う、ご精がでるねえ」
と、辰はなにげなくやりすごしたが、五、六歩いってから豆六が立ちどまり、
「兄い、兄い。いまむこへいく按摩のついてるつえ、あら仕込みづえやおまへんやろか」
「仕込みづえ……?」
辰はおもわず目をまるくしたが、すぐ吐きすてるように、
「バカなことをいっちゃいけねえ。按摩が流してあるくのに、そんな物騒なものを持っててたまるもんか。おまえの見まちがいよ」
「そうだっしゃろなあ」
豆六は首をかしげて、むこうへいく按摩のうしろすがたを見送っていたが、くだんの按摩はべつに足をいそがせるふうもなく、笛を吹きながらゆうゆうと入江《いりえ》橋のほうへ消えていった。
怪しきは按摩《あんま》
――あいつがシャーシャーやらなんだら
「あっはっは、豆六、ちょっとみねえ。これ、さっきの按摩がやりゃアがったにちがいねえぜ」
そこはへっつい河岸をうしろに背負う、ふいご稲荷《いなり》のまえ。大きな雪だるまのすそが黄色くよごれている。
「あっ、ほんまや、ほんまや。あたりに人影がないとこみると、さっきの按摩がやりよったんやな」
「豆六、ちょっと待て。おいらもここで……」
「兄い、よしなはれ。そないなひとの悪いこと。按摩は目が見えへんさかい、しょがおまへんけんど……」
豆六はとめたが、そのときにはもう、水の走る音がきこえていた。
「ちょっ、行儀のわるいおひとやなあ」
豆六はちょうちんぶらぶら、人形町のほうへまがろうとして、ふとうしろをふりかえると、すでに用をおえた辰が、雪だるまの根元にしゃがみこんでいる。
「兄い、どないしたん。財布でもおとしやはったか」
「ま、豆六、ちょ、ちょっとこっちへもどってこい。そ、そのちょうちんをみせてくれ」
辰の声がふるえているので、豆六の頭にはさっと不吉な予感が走った。
「へっ!」
と、足ばやにとってかえした豆六が、へっぴりごしで辰のゆびさす雪だるまの根元にちょうちんをつきつけると、とたんにふたりのくちびるから、声にならない声がほとばしった。
黄色くよごれて解けている雪だるまの根元から、にょっきりのぞいているのは、まさしく人間の足首。その大きさや肉付きから、女であることはまちがいない。
「あ、兄い……ひとつ雪だるまをこわしてみまほか」
「ちょっと待て。雪だるまをこわすなら、町役人に立ち会ってもらおうじゃねえか。ここへくる途中、辻番所《つじばんしょ》があったな」
「そうそう、入江橋をこっちにわたったとこに」
「よし、じゃすぐに呼んでこい。この雪だるまは、おれが番をしている」
「よっしゃ」
豆六がふたりの町役人と番太郎をつれてひきかえしてきたのは、それからまもなくのことだった。番太郎は雪かきを肩にかついで、水っぱなをすすっている。
辰と豆六もてつだって、雪だるまを頭のほうからくずしはじめた。町役人も手をかした。雪はもう凍《い》てついているので、この作業はおもったよりもひまがかかった。
それでも、うえのほうから雪をおとしていくと、やがてがっくりくずれた女の髷《まげ》があらわれた。女はつぶし島田に結っている。
やがて顔が見えてきたので、ていねいに雪をおとして、さて、ちょうちんをつきつけると、
「あっ、こ、これア玉虫屋のお蝶《ちょう》ねえさん!」
と、おったまげたように叫んだのは番太郎。
ああ、やっぱり……と、辰と豆六は顔見あわせた。
としは二十六、七だろう、玉虫お蝶は雪だるまのなかで、一糸まとわぬあかはだか。首のまわりには、細ひものあとが紫色にくっきりと。
玉虫お蝶はあきらかに、しめ殺される直前に、さんざん男にもてあそばれたのである。勝ち気なお蝶はそうとう抵抗したらしく、玉の膚にはあちこちにかすり傷や黒いあざができていた。ひょっとすると、あいてはひとりではなく、複数だったのではないか……。
「そうすると、あの按摩が怪しいということになるのかえ」
その夜おそく、お玉が池へかえってきた辰と豆六の報告をきいて、佐七はまゆをひそめている。
「へえ、あっしは気がつかなかったんですが、豆六のいうのに、そいつのもっていたつえは、仕込みづえじゃなかったかと。そういえば、ひとくせありそうな面魂でしたね」
「それに、親分、按摩があそこでシャーシャーやらなんだら、兄いやかてその気にならしまへなんだやろ」
「しかし、豆さん」
お粂《くめ》はいそいで長火ばちに火をつぐと、寒さしのぎのお燗《かん》の用意をしながら、
「じぶんで殺して埋めたものなら、これみよがしにそんな粗相をするはずがないと思うがね」
「そやさかい、按摩が下手人とはいいまへん。そやけど、あいつなにかしってるんやないかとおもてまんねん。偶然にしては、できすぎてまっさかいにな」
「なるほど、それじゃいちおうその按摩を考慮のうちへいれておくとして、お蝶はいつごろからいなくなったんだ」
「四日の晩、堺町の可祝《かしく》という料理屋の座敷へ招かれて、そこを出たのが九つ(十二時)ちょっとまえ。駕籠《かご》もよばずにふらっと出たっきり、ゆくえしれずになってたんですね」
「それで、問題の雪だるまだが、いつごろからそこにあるんだ」
「へえ、それは暮れにふった大雪で、近所の若い衆がおもしろはんぶんつくったんだそうで」
「それじゃ、まえからあった雪だるまを、死体のかくし場所につかやアがったんだな」
佐七はしばらくかんがえていたが、
「それで、お蝶がさいごに出たお座敷の可祝の客というのはどういう男だ」
「へえ、なんでも、馬場|五郎兵衛《ごろべえ》といって、肥前|岩槻《いわつき》藩のお留守居役だそうです」
「肥前の岩槻といやア、堀田候《ほったこう》。伽羅《きゃら》屋敷で有名なお屋敷だな。それで、そのお留守居役というなあ、お蝶とおなじみかえ」
「へえ、ここ半年ほどお蝶をひいきにして、ちょくちょく遊びにきやはるそうだっけど、べつにふかい子細はないらしい」
「それで、辰、豆六、この一件、去年の梅若の一件と、なにかつながりがあるというのかえ」
「それア、親分、あるとみるのがほんとうじゃありますめえか」
「それじゃ、辰つぁん」
と、お粂はほどよくできたお燗《かん》で、三人に酌《しゃく》をしてやりながら、
「去年殺された梅若さんの身内のものが、敵討ちにお蝶さんを殺したというのかえ」
「そうとしか思えませんねえ。梅若もさんざん女におもちゃにされたあげくが、しめ殺され、雪だるまのなかでつめてえ思いをさされたんだ」
「あねさんのまえだっけど、お蝶のからだはさんざんでしたわ。あげくのはてにはしめ殺し、梅若がなめたとおんなじつめたい思いをなめさせたろいうわけだっしゃろ」
「まあ、いやだ。それにしても、下手人は、梅若さんを殺したのはお蝶さんだと、ハッキリとした手証でも握っているのかしらねえ」
「親分、そのこってすがねえ。あのせつ梅若の書きのこした水揚げ帳というやつですが、親分はごらんになったことがございますか」
「いや、あれは鳥越の兄いがおさえちまって、だれにもみせなかったからな。そのご、お奉行所へとりあげてしまったという話だが……」
「親分、それいっぺん神崎《かんざき》のだんなにでもおねがいして、みせてもらやはったらどうだす。海坊主にはわからいでも、親分がにらまはったら、なにかまたわかるかもしれまへんで」
「そうよなあ。こととしだいによっては、神崎様におねがいしてもいいが、ときに、梅若にゃ姉があったな」
「へえ、お冬というんですが、さっき豆六に聞くと、吉田町へおちて、夜鷹《よたか》みてえなことをやってるそうで」
「吉田町……?」
「へえ、そう聞いてます。そやさかいに、あしたにでも吉田町へ出向いていって、お冬にあたってみよやないかと、兄いとはなしてきたんです。お冬のしわざやないにしても、按摩の心当たりがあるかもしれまへん」
「辰、豆六、その按摩がやったにしろ、これアひとりの仕業じゃあるめえよ。去年の梅若の一件のときもそう思ったんだが、梅若をしめ殺したのは女にしても、女ひとりでああいう細工はちとむりだからな」
「とおっしゃると……?」
「だから、その女にゃ手足となってはたらく手下のようなものがおおぜいいるにちがいねえ」
辰と豆六はぎょっとしたように顔見あわせ、
「それじゃ、お蝶じゃねえとおっしゃるんで」
「さあ、そこまでわからねえが……どちらにしても、おめえらあした起きぬけに、吉田町へいってみねえ。おれはともかく八丁堀《はっちょうぼり》へいって、神崎様におねがいしてみよう。水揚げ帳というのをみせていただけるかどうか……」
「親分、そうしておくんなさい。ひょっとすると、これからおいおい糸をひいて、去年の梅若殺しの一件がばれてくるんじゃねえでしょうか」
「そうなったらしめたもんや。あの海坊主のやつに、初春そうそうほえ面かかしたろやおまへんか」
辰と豆六は勇みたったが、佐七はだまってにがそうに、お粂の酌《しゃく》する杯をなめていた。
荒磯《あらいそ》と勝の市
――嬲《なぶる》という字になって寝よるのんか
まえにもいったように、本所の吉田町といえば、もっとも下等な売笑婦がたむろしているところである。
その吉田町のちかくにある自身番には、まだ松飾りがのこっている。そこでお冬のことをきいてみると、町役人はふたりの風体をみながら、
「ひょっとすると、おまえさんがたはお玉が池の身内で、辰つぁんと豆六さんじゃないか」
「へえ、いかにもあっしら辰と豆六だが、だんなはどうしてあっしらのことをご存じで」
「いやね、さっきおまえさんがたに、ことづけをおいていったひとがあるんで。ふたりがきたらこういえと」
と、町役人はひと息うちへすいこむと、
「やい、辰、豆六、本所くんだりまでご苦労だったが、御用はおれがもらったから、とっととここから消えてなくなれ……いや、あの、これはわしがいうんじゃないよ。ことづけをおいていったひとが、そういえといいのこしたんで……」
「な、な、なんだと……? いってえ、どこのどいつがそのような……」
「生意気なことをぬかしくさってん」
「あっはっは、むこうからやってくるあの親分がいったのさ」
町役人が指さすかたをふりかえって、辰と豆六、あっとばかりに、あいた口がふさがらなかった。
野次馬をいっぱいうしろにしたがえて、意気揚々、むこうからやってくるのは、なんと海坊主の茂平次ではないか。雪を背景にしているから、そうでなくともおびんずるさまみたいな顔が、いっそうてらてら、黒光りに光っている。しかも、その海坊主になわじりとられて、はだしのまんまやってくるのは、ゆうべのいがぐり頭の按摩《あんま》ではないか。
按摩はそうとう抵抗したらしく、めくらじまの着物に、ところどころかぎ裂きができ、額に血がにじんでいる。それだけに、海坊主の得意のほどやおもうべしである。
それにしてもふしぎなのは、いがぐり坊主のくだんの按摩で、自身番のまえまでくると、ひと癖ある面魂に、にやりと不敵な微笑をうかべた。どうやら、ぜんぜん見えないのではないらしい。
海坊主はそんなことには気がつかない。辰と豆六をしり目にかけると、さつまいものような鼻うごめかし、
「わっはっは、かわいや、とんびに油揚げをさらわれたそうな。あのほえ面をみやいの。これ、勝の市。キリキリあゆめ」
腹をゆすってわらいあげると、按摩をしばったなわじりつかんで、ユッサユッサといきすぎた。あと見送って辰と豆六、しばしことばもなかりけり。
やがて、ふたりのすがたがむこうの横丁に消えていくと、辰と豆六、はじめてわれにかえったように、
「ちきしょう、ちきしょう、海坊主め、はやえことやりゃアがった」
「そうすると、兄い、やっぱりあの勝の市ちゅう按摩が、お蝶のやつをしめよったんだっしゃろか」
「それにしちゃ、こちとらに死骸《しがい》のありかを教えるようなまねをするのはおかしいじゃねえか」
「そやそや。それに、いまわてらの顔を見て、にやっとわらいよったな。あら、なにか言いひらきがある証拠だっせ」
「そうだ、そうだ、いまにほえ面かくのは、海坊主のほうかもしれねえ。とにかく、お冬というのをあたってみようじゃねえか」
あらためて町役人に、お冬のいどころを聞くとすぐわかった。染の井という家である。
この下等な売春町にも、まだ正月の名残はのこっていて、家ごとにおもいおもいの門松にしめかざり、それはそれなりに春めいたおもむきだったが、道は迷路のようにまがりくねっていて、なんとなく小便臭かった。
めざす染の井はすぐわかった。
表に朝がえりらしい野次馬が、五、六人むらがっているうえに、おかみとおぼしい女が、片手に枡《ます》をかかえていて、
「さあ、もう散った、散った。うちは見世物じゃないんだよ。ええい、朝っぱらから縁起でもない」
八つ当たりとはこのことだ。枡からわしづかみにした塩を、ところかまわずまきちらしている。そのさわぎのなかへ、面つきだしたのは辰と豆六。
「おまえが染の井のおかみかえ。えろうはでに八つ当たりをするじゃねえか」
「えっ」
と、ふりかえったおかみのお鉄は、辰と豆六の風体をみると、
「そういう兄さんたちは……?」
「お玉が池の、人形佐七親分の身内のもので、おれが辰五郎、こちらが豆六というんだ」
「あら、まあ、おうわさはかねがね承っております。いえねえ、さっきの鳥越の親分さんが、あんまり理不尽なことおっしゃるもんですから、つい気が立って……そして、兄さんがたもお冬ちゃんのことで……」
「おかみ、海坊主のことなら気にしなはんな。あいつは威張るのが商売みたいにおもてけつかる。それより、お冬ちゃんのことでちょっと聞かせてもらいたいことがおまんねん」
「ええ、ええ、ようございますとも。そうことをわけていってくだされア、なんでお上にお手向かいいたしましょう。立ち話もなんですから、さ、さ、なかへおはいりになって」
うってかわったものごしは、海坊主にたいする面当てだろう。
やがて、ふたりがとおされたのは、四畳半ばかりのおかみの部屋。お寒いおりからでございますからと、酒さかな、いたれりつくせりのもてなしも、海坊主への面当てというべきだろう。
「そして、お尋ねとおっしゃいますのは……?」
「それより、いま海坊主にしょっぴいていかれた按摩は、お冬という妓《こ》のなじみかえ」
「はい、むかしからのお知り合いだとかで、ちょくちょく通うておいでになります」
「お冬とはもちろん、ふかい仲やろな」
「さあ、それは……お冬ちゃんのところへは、もうひとり、むかしなじみだといって、通うてくるかたがございます」
「そりゃまた、どういう男だ」
「荒磯《あらいそ》さんといって、相撲の三段目あがりだそうで」
「それで、勝の市と荒磯と、ふたりでお冬を張りあっているのか」
「いえ、そうでもなく、ふたりともむかしなじみらしく、どうかするとここで落ちあうことがございますが、そんな晩は三人で、夜っぴいてしんみり……」
「なんだとオ。そんなら、ふたりの男が、ひとりの女を抱いて……」
「嬲《なぶる》という字になって寝よるんかいな」
「さあ、そこまでは存じませんが、どうせここらへくる客は、物好きなかたが多うございますから、お冬ちゃんさえその気になれば、そんなことだってないとはいえませんでしょうねえ。なにしろ、お冬ちゃんというのがかわってますから」
「お冬というのが、どうかわってるんだ」
「あのひとなにも、こんなところへ身を沈めなくとも、けっこう暮らしていけるご身分なんですよ」
「そらまた、どういうわけで?」
「ほら、梅若さんの一枚絵をかいて、パッと売り出した歌川|清麿《きよまろ》さん、あのかたがなんとかしてやろうというのをことわって、わざとこんなところへ身を落としたんです」
「それゃまたなぜに」
「弟の梅若さんが、おおくの女をおもちゃにしたばかりか、死んだあとまでめいわくかけた。その罪滅ぼしに、こんどはじぶんがおおくの男におもちゃになろうと……」
辰と豆六は顔見あわせた。
いかに因縁因果とか、因果応報とかいう仏教思想に支配されていたその当時とはいえ、これはすこし極端すぎる。
「それで、おかみは歌川清麿という絵かきをしっているのか」
「それはもちろん。ちょくちょく、お冬ちゃんのところへ、通うておいでなさいますから。ほんとによくできたかたで、くるといつでも大枚のご祝儀をおいていかれて、むりな勤めはささないようにと。ですから、うちでもけっしてむりじいはしないことにしてるんですが……しかし、ここでこんな話をしているより、お冬ちゃんに会って、じかに話をお聞きになったら……」
「おお、それはもとより望むところだ。じゃ、おかみ、案内してもらおうか」
辰と豆六は杯おいてみこしをあげた。
浮世絵師清麿
――暮れからおとといまで町内預けさ
お冬というのははたち前後、梅若の玉のような美貌《びぼう》にくらべるとだいぶん落ちるが、それでもぽっちゃりとした器量は十人並み以上で、こういう稼業《かぎょう》をしている女としては、膚のきれいなのは天成だろう。どこか愁いがおで、さびしい影を背負ったような女である。
「お冬、おまえはわれわれが、なぜここへきたかしってるだろうな」
「はい、それは……さっき、鳥越の親分さんから聞きましたから」
「そんなら、玉虫お蝶《ちょう》が殺されて、雪だるま詰めになってたこと、しってんねんやな」
「さっききいて、びっくりしていたところでございます」
「おまえ、玉虫お蝶をしっていたのか」
「会ったことはございませんが……たいそう梅若を恨んでおいでだったとか……ほんに梅若がとんだものをのこして世間をさわがせ、申し訳なくおもっております」
「おまえのいうのは水揚げ帳のことらしいが、おまえはあんなものがあることをしっていたのか」
「とんでもない。あんなものがあるとしっていたら、とっくに焼きすてたでございましょう」
「ほんなら、あれ、だれが見つけよったんや」
「鳥越の親分さんでございます。梅若の死後、鳥越の親分さんがうちへおみえになって、柳行李《やなぎごうり》の底からお見つけになったのでございます」
そのときの海坊主のとくいのさまは、そのごのかれの傍若無人な捜査のすすめかたからでもうかがわれるというものである。
「ときに、さっきしょぴいていかれた勝の市だが、ゆうべここへ泊まっていったのか」
「はい」
「おまえ、海坊主のやつがなんで勝の市をしょぴいていたか、しってるやろな」
「はい、お蝶さんを殺したとか……」
と、そこでお冬はきゅうに気がついたように、
「ときに、兄さんがた、お蝶さんはいつ殺されたのでございます」
「だいたい、四日の晩じゃねえかということになっているんだが……」
「あら、それなら……」
と、お蝶はしずんだひとみをかがやかせて、
「勝の市さんは無実でございます。あのひとは五日の夕方まで、伝馬町のお牢屋《ろうや》に、いたはずでございますから」
「えっ!」
と、辰と豆六は顔見あわせて、
「お冬、それはたしかだろうな」
「はい、まちがいございません。あのひと、去年の暮れにひとを傷つけ、ちょうどひと月、伝馬町にいたのでございます」
なるほど、さっきすれちがうとき、勝の市がにたりとわらっていったのも、そういうたしかな言いひらきのみちがあるからだろう。
「そやけど、お冬、そらちょっとおかしいやないか。ゆんべこないなことがあったんやぜ」
と、ゆうべのへっつい河岸のできごとを語って聞かせると、お冬はあきれたように、
「いいえ、そんな話は出ませんでした。しかし、勝の市さんがなにかしっていたとしたら、荒磯さんにおききになったんじゃございますまいか。荒磯さんが伝馬町まで迎えにきてくれたといってましたから」
「そうそう、その荒磯についても聞きてえのだが、その荒磯と勝の市、それからおまえとは、いってえどういう関係になっているんだ」
お冬は色の白い膚に、ポッと血の色をはしらせながら、
「はい、おふたりとも梅若の生前、こま回しの前座をつとめてくだすったかたでございます」
お冬の話によるとこうである。
勝の市も荒磯も、ともに浅草奥山の大道芸人、勝の市は居合い抜き、荒磯は力持ち、ふたりとも奥山では人気のあった芸人だった。
ところが、梅若のこま回しがでるようになってから、そっちへ人気をとられているうちに、歌川清麿の一枚絵が出てからというもの、完全に食われてしまって、ふたりのまわりは閑古鳥が鳴くしまつ。
「それで、おふたりさんからいろいろいやがらせがあったりして、わたしもずいぶん怖いひとだと思いましたが、そのうちに、今戸のお師匠さんがなかへはいって、仲裁してくだすったのでございます」
「今戸の師匠というのは、歌川清麿のことだな」
「はい、そのお師匠さんが、三人を浅草のお料理屋さんへ招いて、お取りもちしてくださいましたが、そのとき梅若が、調子のよいことでも申したのでございましょう。ふたりとも、すっかり梅若のとりこになって、じぶんのほうから梅若の前座をかって出られたのでございます」
「とりこというのは、梅若の色香に迷うたということか」
「はい」
「そんなら、ふたりとも梅若を抱いてねて、おもちゃにしよったんやな」
「とんでもない」
お冬はキラキラうるんだような目をあげて、
「おもちゃにしていたのは梅若のほう、荒磯さんも勝の市さんも、梅若のいいなりほうだい、いい若い衆があの子の手玉にとられて……ほんにわが弟ながら、梅若は悪魔の申し子のような子でした」
お冬は顔にそでをおしあてると、さめざめと泣きむせんだ。
「なんでも、荒磯と勝の市とは、嬲《なぶる》という字になって、おまえを抱いてねるちゅうやないか」
「あのひとたちは……いいえ、あのひとたちばかりじゃありません、今戸のお師匠さんなんかも、わたしのからだをとおして梅若をしのんでいるのでございます。わたしはあのひとたちのいいなり放題になってあげねばなりません」
「ときに、話をあとへもどして、それじゃ勝の市や荒磯は、玉虫お蝶をねらっていたのか」
「いいえ、あのおふたりも今戸のお師匠さんも、お蝶さんが梅若を殺したとは思うておいでではございませんでした。ただ、お蝶さんがなにかしっているのではないかと……」
「それで、お蝶にどろを吐かせて、ほんまの下手人がわかったらどないする気やったんや」
「ただではおかぬ、きっと梅若の敵を討ってやると……わたしは、そんな罪の上塗りをするようなこと、よしてほしいというのですが、三人とも梅若のことになると、ひとがちがったようになって……」
よく衆道の契りは、男女間の愛情よりもこまやかだというが、閨房《けいぼう》における梅若の生態には、女のみならず男まで夢中にさせるような、あやしいなにものかがあったにちがいない。
三人は梅若にたいして、下僕《しもべ》か奴隷みたいに仕えていたという。
それについて、辰がなにか聞こうとしたとき、したに当たってあわただしい物音。それにつづいて男の声。それをきくと、お冬がおもわず顔色をかえて、
「あら、あれは今戸のお師匠さん」
と口走ったから、辰と豆六はおもわずハッと腰をあげた。
階下ではおかみが注意したとみえて、そのまま男の声はやんでしまった。
辰と豆六が顔見あわせていると、やがてミッシミッシと階段をふむ音をさせて、あがってきたのは十八貫はあろうかという巨漢である。
「お師匠さん、どうかなさいましたか」
お冬の声に、辰と豆六、またあらためて顔見あわせた。
お師匠さんとよばれたからには、これが歌川清麿だろうが、みたところ浮世絵師とは似てもにつかぬ風体だ。
としは三十五、六だろうか、大兵肥満の大男で、総髪の髪をたばね、縞物《しまもの》の着物をきた布袋腹《ほていばら》には、白ちりめんの帯をむぞうさにまき、とんと男伊達《おとこだて》といったかっこう。清麿は立ったまま、あいきょうのある目で辰と豆六を見くらべていたが、やがてゆったりそこへ座ると、
「お初にお目にかかります。わたしは歌川清麿という浮世絵師。なにとぞお見知りおきくださいまし」
ひとを食っているというのか、清麿はゆったりとして、落ちついている。辰と豆六が気をのまれて、目をキョロキョロさせていると、そばからお冬が不安そうに、
「お師匠さん、さっき、なにやら大声でおっしゃっていたようですけれど、なにかかわったことでも?」
「おう、そうそう、お玉が池の兄さんがた。おまえさんがた、またひとつ雪だるまのなかから死体がころがり出したのをご存じですかえ」
「げっ、そ、それじゃ玉虫お蝶のほかに……」
「はい、ここへくるみちみち耳にしたんですが、堺町の雪だるまのなかから、いちょう屋の看板娘、お久さんの死体がみつかったそうですよ。さんざんおもちゃにされたあげく、しめ殺されていたそうですが」
こんな恐ろしいことを口にしながら、清麿はあいかわらず落ちついている。
かえってお冬のほうが色をうしなって、
「お師匠さん、あ、あなたは大丈夫なんでしょうねえ。あなたにお疑いがかかるようなことは……?」
お冬も清麿には愛情をもっているのか、ひそめたまゆのあたりには、恐怖と不安の色がきざまれていた。
「お冬ちゃん、心配してくれてありがとう。だけど、わたしは大丈夫。そんな大それたこと、やろうにもやれない事情になっていたのさ」
「やれない事情というのは……?」
辰がひざをのりだすと、清麿はにこにこわらいながら、
「お冬ちゃん、おまえさんにゃ内緒にしていたけれどな、わたしゃ暮れにしくじってな。去年の秋、ちょっとかわった絵をかいたところが、それがばれて町内預け、暮れからおとといまで、手錠をかまされていたのさ。わっはっは」
清麿は、だれかの迂愚《うぐ》をあざわらうかのように、おおきな腹をゆすって笑いあげた。
におう白紙
――男女和合の絵が百鬼夜行のように
去年殺された梅若といろいろ掛かりあいのふかかった玉虫お蝶が、一糸まとわぬはだかのすがたで、雪だるまのなかから発見されたというのだから、江戸中があっとおどろいたのもむりはない。
こういううわさは、ひろがりやすいもので、その翌日の昼過ぎまでには、もう江戸中にひろまったばかりか、かわら版にまで刷られて、あちらの辻《つじ》、こちらの町角で読みあげられているしまつ。
「ちょいと、おまえさん、いま表へきている読み売りは、玉虫お蝶さんの一件らしいが、あれをきくと、梅若さんに掛かりあいのあったお女中たちは、さぞうす気味わるいことだろうね」
「ふむ、まあ、そういうこったろうなあ」
佐七はなま返事をしながら、長火ばちのむこうで、なにやら帳面のようなものを繰っている。
時刻はかれこれ暮れの七つ(午後四時)。冬のこととて、そろそろ小暗くなりかけている表の町角から、きこえてくるのは当時人気のかわら版売り、早耳三次の読み売りらしい。さびのきいたよくとおる声で、
「さあさ、評判じゃ、評判じゃ。みたか、きいたか、へっつい河岸の大騒動……」
ああ、やっぱり……と、お粂は聞くともなしに聞きながら、台所のほうで夕飯の支度をしていたが、ふと思い出したように、
「それにしても、おまえさん、辰つぁんと豆六さんは、いやにおそいじゃないか。朝出ていったきりのなしのつぶて。もうそろそろ日が暮れようとしているのに、いったいなにをしてるんだろう」
「なにもそう気をもむことはねえやな。おおかた、むこうでなにか聞きこんで、ついでにそっちへまわってるんじゃねえか」
そういう返事もうわの空、佐七はなにか丹念に、半紙横とじの帳面をくっている。
佐七もけさ辰と豆六がでかけたあと、すぐ出向いていって、八丁堀からお奉行所へまわり、たったいまかえってきたばかりである。
佐七は丹念に、一枚一枚丁を繰っていたが、ふいにおやとまゆをひそめると、帳面を鼻のさきへもっていった。そして、小鼻をひくつかせ、紙のにおいをかいでいたが、きゅうにむっくり顔をあげると、
「お粂、お粂、ちょっとここへきてくれろ。これ、いったいなんのにおいだろうな」
「あれ、においって、いったいなんのにおいさ」
前垂れで手をふきながら、台所からでてきたお粂は、長火ばちのまえへすわって、亭主からつきつけられた帳面の片面へ目をやると、パッとおもてに朱をはしらせて、
「あら、いやだ、おまえさん、宵《よい》の口からこんなものをもち出して……」
と、お粂の息がすこしはずんだのもむりはない。
佐七の差しだした帳面の、片面のほうは白紙だが、片面のほうには裸の男女が抱き合った男女和合悦楽の図が、ろこつに、なまなましくかいてある。細い筆の線がきで、稚拙といえば稚拙だが、それだけにかえって扇情的で、急所急所は薄桃色に染めてある。
「バカをいえ。宵の口からこんなものをみせて、おまえの気をひこうてえんじゃねえや。これをみろ」
表紙をかえすと、
「梅若水揚げ帳」
「ああ、これが当時評判の……」
「そうよ、さっき神崎様のおことばぞえで、お奉行所からお借りしてきたんだ」
「わたしもあのじぶん、辰つぁんや豆さんからこういう帳面があることはきいていたが、こんな絵まではいっていたのかねえ」
「いちいち見ちゃいられねえよ。ほら、ちょっとみろ」
パラパラと繰ってみせたどの紙面にも、女と男の和合の絵が、ろこつで扇情的な筆でかいてある。それはさまざなま姿態にわたっており、さながら百鬼夜行である。
しかし、そこに共通しているものは、男が女のおもちゃになっているのではなく、まだとしはもゆかぬ前髪の若衆が、さまざまな責め道具を使って、年上の女を責めて、責めて、責めぬき、女のあさましさと淫靡《いんび》さのすべてをそこにさらけ出させて、おのれはつめたくほくそえんでいるという、ゾーッとするようなサディスト的興趣によってつらぬかれていることだった。
なかにはさすがの佐七も目をおおいたくなるような、すさまじくもみだらがましい姿態をとらされている女もあり、女はあきらかに、
「もうかんにんして……許して……」
と、息もたえだえに哀願しているようだった。それにもかかわらず、梅若はつめたくせせら笑いながら、責め道具を駆使している……。
佐七は暗い目をして、この陰惨な絵を繰りながら、
「そのうえ、女の名まえからとしかっこう、会うた場所から時刻まで書きこんであるんだから、これじゃ、いけにえにされた女たちはたまるめえよ」
「だけど、梅若はなんだってこんなものをつくっておいたんだろう」
「はじめはうまれつき、絵心があるのをさいわいに、おもしろ半分かいていたらしいんだが、のちにゃこれを種にゆすっていたらしい」
「まあ、あんなに幼いものが……」
「きょう八丁堀やお奉行所できいてきたんだが、これを種に呼び出しをかける。呼び出しに応じなきゃ、これを世間にしらせるとおどかす。それがこわさに会いにいくと、ますますふかみへはまるという寸法。だから、いちどでも梅若とあそんだ女は骨の髄までしゃぶられていたらしい」
「まあ、おそろしい」
「そう、おそろしいやつよ。この絵でみてもわかるとおり、梅若は女たちのおもちゃになっていたんじゃねえ。女をおもちゃにしていたんだ。梅若というやつは、としこそ若けれ、顔かたちこそ玉のように美しけれ、心は鬼か蛇《じゃ》のようなやつだったらしい」
さすがは姉弟《きょうだい》である。お冬の見当は当たっていたらしい。
お粂はさむざむと、総毛立ったような顔をしていたが、ふと思い出したように、
「ときに、おまえさん、いまなにかにおいがどうとかいってたが、あれゃなんのことだえ」
「おお、そうそう、ここにこうしてところどころ白紙のまんまのがとじこんであるんだが、白紙のやつにかぎって、なんだかにおうような気がするんだ。これ、いったいなんのにおいだろうな」
「におい……? どれどれ……?」
お粂もみょうな顔をして、白紙のページを鼻へもっていくと、ひくひく小鼻をひくつかせていたが、
「ほんに、なんだかにおうわねえ。なんだかいいにおいじゃないか」
「一年たってもこんなににおうぐらいだから、梅若が殺されたじぶんには、もっとつよくにおっていたにちがいねえ」
「変だねえ。それにしても、いったいなんのにおいだろう」
お粂が小鼻をひこつかせ、なにかいおうとするのを、佐七はしっと制止して、
「お粂、早耳三次のあの読み売りをきいてみろ」
「えっ?」
と、お粂が首をのばして、聞き耳を立てていると、
「さあ、評判じゃ、評判じゃ、へっつい河岸の騒動にひきつづき、またまた堺町は町角の雪だるまのなかから死体がひとつ、あられもないはだかの死体はだれあろう、中村座の芝居茶屋、いちょう屋の看板娘で名はお久……」
きいて佐七の血相がかわった。
「お粂、ちょ、ちょっとあのかわら版を買ってきてくれ」
「あいよ」
お粂はいそいで表へとびだすと、すぐかわら版を買ってきて、
「おまえさん、いけないよ。どうやら、いちょう屋のお久さんも……」
「どれ、どれ、畜生!」
佐七がいそいでかわら版へ目をとおしているところへ、表からころげこむようにとびこんできたのは辰と豆六。
「親分、いけねえ。またふたりめがやられました」
「おお、その一件なら、いまかわら版で読んでいたところだ。ときに、おまえたち、現場をみてきたか」
「へえ、吉田町でうわさをきいたんで、かえりによってきましたが、なにもかも玉虫お蝶といっしょだすわ」
「それで、お久はいつからすがたがみえなかったんだ」
「五日の晩からだそうです。なんでも、お久がさいごにでた座敷の客は、横山町でも名だいの唐物屋《とうもつや》、肥前屋のだんなだったそうですから、これは素性がしれてます」
「それで、その死体はいったいだれが見つけたんだ」
「そうそう、あれ、豆六、あいつはどうした。あの関取は」
「表に待ってんのんとちがいまっか。ちょっとみてきまほ」
と、豆六は気軽にしりをあげると、表のほうで声がして、
「なんや、荒磯《あらいそ》。そんなとこに立っていんと、はよこっちゃへはいってきたらええやないか」
三人は一心同体
――これが推理の精妙というものよ
豆六が引っ立てるようにしてつれてきたのは、総髪の大いちょう、身の丈五尺六寸くらいだが、体重は三十貫になんなんとするだろう、筋骨隆々たる筋金入りの大きなからだを、あらい滝縞《たきじま》の素袷《すあわせ》にくるみ、としのころは三十前後か、それが佐七のまえへ出るなり、大きなからだを小さくして、
「親分、助けてください。わっしはなんにもしらねえんです。ほんとになんにもしらねえんで」
と、畳に額をこすりつけた。
「辰、豆六、このひとは……?」
「荒磯といって、三段目あがりの力持ちで、去年殺された梅若の前座をつとめていた男です」
「この荒磯ばっかりやおまへん。よんべへっつい河岸でおうた座頭の勝の市も、やっぱりおんなじ前座やったそうです」
「親分、そればっかりじゃねえんで。あねさんのまえでなんですが、この荒磯と勝の市、歌川清麿の三人は、すっかり梅若の色香にまよい……」
「三人とも、梅若の念者やったそうです」
念者というのは衆道、すわなち若衆道、つまり男色関係のあいてのことをいうのである。
佐七はいよいよ目をまるくして、
「それじゃ、三人で恋の鞘当《さやあ》てをやっていたのか」
「とんでもねえ。三人で梅若をおもちゃにしていたのか、されていたのか、ここにいる荒磯なんざ、梅若にさんざん慰みものにされて、よだれをたらして、うれしがっていたそうです」
「いや、梅若というのが女にたいして、としににあわぬすご腕だったということは、きょう八丁堀できいてきたが、それじゃ大の男のこの連中まで……?」
「親分、なんといわれても仕方がございません」
荒磯は畳にこすりつけた顔を、耳までまっ赤にして、
「梅若は悪いやつでした。女のおもちゃになるとみせかけて、逆にあいてをいたぶり、舌なめずりをしているようなやつでした。あっしどもも、さんざんあいつに慰まれ、あいつの目のまえで、勝の市とふたりで、男どうし、あさましいまねもさされました。しかし、あっしはいまでも梅若が恋しいのでございます。あいつがかわいくて、かわいくてならねえんでございます。これは今戸の師匠や勝の市とておんなじことでございましょう」
佐七はあきれたような顔をして、うつぶしている荒磯の巌《いわお》のような肩のそよぎをみつめていた。
「そして、辰、豆六、いちょう屋のお久の死体を雪だるまのなかから見つけたのは……?」
「へえ、ですから、それがこの荒磯なんで……」
佐七はちかりと目を光らせて、
「それゃおかしいじゃねえか。お蝶もお久も、梅若といろいろうわさのたかかった女だ。それがふたりとも梅若と縁のふかい男に見つけだされたというのは……」
「ですから、親分、だれかがあっしどもにこの罪をおっかぶせようとしているにちがいございません。兄い、親分にあれを……」
「おお、そうそう、親分、ゆうべ荒磯のうちへ、だれかがこんなものを投げこんでいったんだそうで」
辰がふところからとり出したのは、粗悪な紙にかいた結び文。佐七がひらいてみると、
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いちょう屋のお久の居所を知りたくば、堺町の町角にある雪だるまをこっそり調べてごらんあれ。
[#ここで字下げ終わり]
ただそれだけで、差し出し人の名前もなければあて名もない。筆跡をくらますためだろう、わざととおぼしい金くぎ流である。
「それで、おまえ、堺町へいってみたのか」
「へえ、町角の雪だるまをしらべてみると、なかに死体があるようす。あっとおもって逃げ出そうとするところを、運悪くひとにみつかり、自身番へしょぴいていかれて、いろいろお取り調べをうけているところへ、兄いたちがきてくだすったんで……」
「しかし、ゆうべのへっつい河岸はどうしたんだ。勝の市も、あそこに死体のあることをしっていたのか」
「それが……あいつは五日の夕方、伝馬町のお牢《ろう》屋から出てきたんですが、あっしが迎えにいこうとして、家をでると、門口におなじような文がおいてあったんで」
「勝の市は伝馬町の牢屋にいたのか」
「親分、それはほんとらしいんです。お冬もおなじようなことをいってました」
「よし、それは調べればすぐわかることだ。それで、その文にはなんと書いてあったんだ」
「へえ、それとおんなじで、玉虫お蝶の居所をしりたくば、へっつい河岸のふいご稲荷《いなり》、そのまえにある雪だるまを調べてみろ……と」
「その文はどうした?」
「破ってすてました。あんまりバカバカしいと思ったもんですから」
「それで、おまえその話を勝の市にはなしたのか」
「へえ、まさか勝のやつが真にうけるとは思わなかったもんですから……しかし、親分、これだけは信用してください。これゃてっきりなにやつかが、あっしどもに罪をおっかぶせようという魂胆。あっしゃほんとうになにもしらねえんです。ほんとうになにも……」
小山のようなひざのりだして、必死となって弁解する荒磯の大きな盤台面に、佐七はきっとひとみをすえて、
「しかし、荒磯、ひょっとすると、おめえたち三人は、心をあわせて、お蝶さんやお久さんをねらっていたんじゃねえのか。かわいい梅若の敵として……」
図星をさされたのか、荒磯はしばらく黙っていたのちに、
「恐れいりました、親分」
と、すなおにその場へ両手をつくと、
「じつは、いまおっしゃったふたりのほかに、もうひとり薬研堀《やげんぼり》の料理屋、さぎ亭のおかみのお重を、三人でひそかにねらっていたんです。しかし、親分、あっしどもはあの三人を殺そうとまでは思っていなかったんで。だいいち、あっしどもは、あの三人を梅若殺しの下手人とは、はなからおもっていなかったんで」
「じゃ、どうおもってたんだ」
「梅若を殺したなあ、女にゃちがいございませんが、女ひとりの手で死体を雪だるまのなかに埋めこむなんて、とてもできるもんじゃございません。だから、梅若殺しの下手人は、おなじ女でも、もっと大物だろうとおもうんです」
「大物というと……?」
「たとえば、お大名の御後室様とか、ご大身のお旗本の姫君様とか……」
佐七ははっと、辰や豆六と顔見あわせた。お粂もぎょっとした顔色である。
「おまえなにか、そんな心当たりがあるのか」
「いいえ、ございません。それがあるくらいなら……」
と、荒磯はひとみに殺気をはしらせて、
「ただでおくもんじゃございません」
「ただでおかぬとはどうするんだ」
「へっへっへ、それは親分、真言秘密。まあ、ご想像におまかせいたしましょう」
荒磯は肉のあつい赤ら顔に、不敵の微笑をうかべた。
佐七はゾーッと、鳥膚の立つのをおぼえながら、
「それで、そのことは、今戸の師匠や勝の市も同腹というわけか」
「へえ、そのことにかけちゃ一心同体。三人が三人とも、梅若にはゾッコン首ったけでございましたからね」
「それなら、荒磯、おめえらはなぜ、お蝶やお久、それからさぎ亭のお重をねらってたんだ」
「それゃ、あの三人が梅若殺しのほんとの下手人を知っているんじゃねえかと思ったからで」
「荒磯、おまえたちはどうしてそうおもうんだ」
「へえ、それは、あの三人がときどき寄って、なにやらヒソヒソ談合してるらしいんです。それに……」
と、荒磯がなにかいいかけたとき、表のほうから割れ鐘のような声。
「お玉が池、いやさ、佐七、いるか」
と、わめいたかとおもうと、返事もまたずに格子をおしあけ、ヌーッと面をのぞかせたのは、いわずとしれた海坊主の茂平次だ。
「あっ、おまえは鳥越の兄い。どうしてここへ……」
「どうしてもヘチマもあるもんか。この相撲くずれのあとを追って、ここまでつけてきたんだ。荒磯、キリキリおなわにかかりゃアがれ」
海坊主の茂平次は仁王立ち、さつまいものような赤い鼻からポッポと湯気を立てながら、はや捕りなわをしごいているから、勝ち気なお粂はだまっちゃいない。
「これ、鳥越の親分さん、なんぼなんでも、それは理不尽というものでございましょう。こうして一家をかまえておれば、一国一城のあるじもおなじこと。それをことわりもなしに踏みこんで……」
「うっぷ、なにが一国一城のあるじだよ。ねこの額のようなこの家が一国一城とは、へそがきいて茶をわかさあ。それに、お粂、よっく聞けよ。人殺しの罪人をかくまわば、かくまうほうも同罪じゃぞよ」
「それじゃ、親分、この荒磯が下手人だというなにかれっきとした証拠でも」
「そやそや、あんさん、けさもそないなこというて、勝の市をしょぴいていきやはったが、勝の市は五日の夕方まで、伝馬町の牢屋《ろうや》にいたんや。ちゃんとアリバイがおまっせ」
「うっふっふ、辰、豆六、そこが駆けだしのあさましさよ。こいつら三人ぐるになって、たくみにたくんだこんどの狂言。四日の晩に殺されたお蝶は、こいつがやったのよ。五日の晩にゃお久が殺されたが、その夕方、勝の市が牢屋を出ている。それから、さぎ亭のおかみのお重は、六日の晩からゆくえがしれなくなっているが、かわいや、お重もいまごろは、どこかの雪だるまのなかで冷たくなっているにちがいねえ。しかも、その日、清麿は手錠をとかれて自由の身だ。こうして三人が三人で、たがいにアリバイをつくりつつ、ひとりがひとりずつ殺しゃアがったんだ。どうだ、辰、豆六、恐れいったか。こういうのが推理の精妙というものよ。てめえたちの親分みてえな青二才にゃ、およばぬ鯉《こい》の滝のぼりだあな。それ、荒磯、キリキリおなわにかかりゃアがれ」
海坊主は得意満面、平仄《ひょうそく》のあわぬ毒気をはきながら、そっくりかえったところまではよかったが、それだけからだにすきができた。
首うなだれて、恐れいったかにみえていた荒磯が、とつぜん躍りあがったとみるや、海坊主の胸板めがけて頭突き一発。
「わっ!」
仰向けざまにひっくりかえった茂平次は、そのまま気を失ってのびてしまったとはだらしがない。
「これ、荒磯、神妙にしろ」
「親分、このいいひらきはいずれまた……」
「荒磯、待てえ」
「逃げるとかえってためにならへんぜ」
辰と豆六は左右から荒磯の腰にとりすがったが、なにせあいては怪力を売りものの力持ち、辰と豆六を引きずって、そのまま表へとび出すと、
「おふたりさん、かんにんしておくんなさいよ」
大物浦《だいもつのうら》の知盛《とももり》よろしく、左右の腕でがっきりとふたりの首をしめつけたからたまらない。おもわず辰と豆六が手をはなすと、そのままそこへつきはなし、あと白波の逃げ足は、相撲取りあがりとはおもえぬ速さだった。
浮気女房
――三十三ちがいの亭主《ていしゅ》と若女房
また降りだした粉雪をついて、佐七が辰と豆六をひきつれて薬研堀《やげんぼり》へやってきたのは、その夜の五つ(八時)ごろのこと。
みると、あちらの辻《つじ》、こちらの町角に、おおぜい野次馬がむらがって、なにをやっているのかとみると、雪だるまをこわしているのである。
佐七はおどろいて、
「辰、なにがあったのか、ちょっときいてみろ」
「へえ」
と、辰は気軽に駆けだしたが、すぐかえってきて、
「親分、さぎ亭のご亭主《ていしゅ》の命令で、雪だるまをこわしてるんだそうで。おかみさんがどこかに埋められてるんじゃねえかってわけです」
佐七はハッとまゆをひそめたが、
「よし、辰、豆六、おまえたちはそのほうを手伝え。さぎ亭はおれひとりでたくさんだ」
「おっと、がってんや」
辰と豆六がバラバラとそっちのほうへ駆け出していくのを見送って、それからまもなく佐七は、さぎ亭の玄関先に立っていた。
「ごめんくださいまし。ちと御意えたいことがございますんですが……」
と、おとのうと、
「あの、どなた様で……」
と、奥から出てきた中年増が、そういいかけて、佐七の風体をみるとハッとした。
「はあ、あっしは神田お玉が池の佐七というものですが、おかみさんがいらしたら、ちょっと……」
「あらまあ、お玉が池の親分さん。少々お待ちくださいまし。だんなに伺ってまいりましょう」
女中は奥へひっこんだが、すぐまた出てきて、
「さあ、どうぞおあがりくださいまし。だんながお目にかかるとおっしゃってでございます」
「ああ、そう。それでは……」
女中のあとについて通されたのは、帳場のおくのひと間だが、そこでぬくぬくこたつにあたっているのは、もうそろそろ六十ちかい老人だった。
真っ白な髪を小さくむすんで、あたたかそうな綿入れのうえに羽織をかさねて、こたつのうえでチビリチビリと、独酌《どくしゃく》を楽しんでいるところだった。
半間の床の間には、松に日の出の細物の軸、三方にもちが飾ってある。
「ああ、これはようこそ」
と、老人はあいそよく目で会釈をして、
「どうぞそちらへお当たりください。おうわさはかねがね伺っておりました。お仙《せん》、親分さんにもお杯を……」
「いえ、どうぞお構いなく。あっしはこちらのおかみさんにお目にかかりたいと思いまして……」
と、佐七がそらっとぼけると、老人はひたいにしわをよせ、
「いや、そのことなんですが、ひょっとすると、あれもいまごろ雪だるまのなかにいるんじゃないかって、いま大騒ぎをしてるところで」
「あれ……とおっしゃいますと……?」
「いや、わたしの女房のお重《じゅう》のことで」
あっと、佐七はあいての顔を見直した。
さぎ亭のおかみのお重というのは、まだ三十まえときいている。いま目のまえにいるのが亭主だとしたら、三十以上もとしがちがっていたのではないか。
「いや、これはどうも失礼いたしました。それでは、あなたがこちらのだんなでございましたか」
「あっはっは、わたしがお重の亭主の喜兵衛《きへえ》です。お重とは三十三ちがいの夫婦でしたよ」
「夫婦でしたとおっしゃいますと……? だんなはさっきも妙なことをおっしゃいましたが……あれもいまごろ雪だるまのなかにいるんじゃないかと……」
「親分」
と、喜兵衛は佐七の顔をまじまじみながら、
「きのうの晩、お蝶さんがへっつい河岸で、雪だるまのなかに封じこまれているのを見つけだしたのは、たしかお宅の若い衆とやら」
「へえ、さようで」
「ところが、けさまた堺町の雪だるまのなかから、いちょう屋のお久さんの死体が出てきたとやら。それですから、ひょっとするとうちのお重も……」
と、喜兵衛はべつに悲しそうな色もみせずに、
「じつは、お重もおとといの晩からかえらないんです。わたしはまた浮気の虫が起こったのかと思いましたが、それが夫婦になるときの約束ですから、じっと辛抱しておりました。ところが、あちこちから妙なうわさがきこえてくるもんですから、ひょっとするとうちのお重もと、いまこのご近所の雪だるまをシラミつぶしに調べさせているところなんで……」
その報告のくるのを、喜兵衛はここで、ゆうゆうと酒をのみながら待っているのである。
「だんな、いまあなたは妙なことをおっしゃいましたね。それが夫婦になるときの約束だからと。それ、浮気のことでございますか」
「あっはっは。いや、としがいもない愚痴をお聞かせいたしました。じつは、五年まえにばあさんにさき立たれたとき、わたしは五十五で、お重は二十三でした。お重は浪人者の娘で、ここが忙しいときにゃ、よく手伝いにきてたもんです。そのお重をくどいたとき、じぶんはもうとしがとしだから、おまえをじゅうぶん満足させることはむつかしかろう。だから、わたしで物足りない思いをしたら、役者なりなんなり買って、埋め合わせをつけるがいい。わたしに不自由な思いさえさせなければ、世間がなんといおうとも、じぶんは目をつむるつもりだからと、そういう約束で夫婦になったんで」
佐七はあきれたように、そういえばとしのわりには血色のいいあいての顔を見なおした。
「それじゃ、だんなは梅若との関係なども……」
「もちろん、しっておりました。しかし、それだけに、お重はわたしによくしてくれました。いやな顔ひとつせず、この年寄りのいいなりになってくれましてな」
三十三もちがう夫婦の夜の生態がどんなものであるか、佐七には想像もつかないところだが、それがおそらく、世にもえげつないものであろうことはうかがわれる。
喜兵衛はそれをヌケヌケといってのけると、
「ですから、わたしのほうでも梅若とのことは、みてみぬふりをしてやりました。お重はじょうずに立ちまわり、少しもわたしに不自由な思いをさせませんでした。だから、それはそれでよかったのですが、さすがのお重も、梅若ばかりは見そこなったようです」
「とおっしゃると……?」
「いや、お重もさすがにくわしい話はしませんでしたが、たかが十五や十六の小僧っ子となめてかかったのがまちがいのもと、梅若にはだいぶんしぼられていたようで」
喜兵衛はさすがにため息をつくと、
「それも、銭金でゆすられているうちはまだよいとして、あの年若い小僧っ子に、さんざんからだをもてあそばれたようで、それが悔しかったのか、ついいちどだけ、わたしに打ち明けたことがございます」
おもちゃにしているつもりが、いつのまにか逆におもちゃにされたうえ、ゆすられていたらしいとすると、としこそ若けれ、梅若は悪魔の申し子みたいな若衆だったにちがいない。
「ときに、お蝶やお久も梅若にしゃぶられていたくちじゃございませんか」
「どうも、そうらしゅうございます。梅若の生前、よくこの家へあつまって、なにやら相談していたようですが、たぶんどうしたら梅若からのがれることができるかと、対策をねっていたものと思われます」
佐七はきっと喜兵衛の顔にひとみをすえ、
「それじゃ、だんな、ひょっとすると、三人が力をあわせて梅若を……?」
「いや、それはそうじゃありますまい。あのじぶんそういうお疑いをうけ、身からでたさびとはいえ、こんなくやしいことはないと、そこは気の勝ったお重のことゆえ、歯ぎしりかんでくやしがっておりました。これはお蝶さんやお久さんなども、おなじことだったようで……」
「とおっしゃいますと……?」
「あれいらい、三人はときどきここで落ち合い、なにかひそひそ相談していたようで」
「相談とはなんの相談……?」
「梅若を殺しておきながら、ヌケヌケどこかにかくれている女が憎い。そいつを探しだし、面の皮をひんむいてやらなきゃ、腹の虫がおさまらぬと……」
佐七はぎょっとしたようにひとみをすぼめ、
「それで三人には当たりがついたようでしたか」
「さあ、お重もそこまではしゃべりませんでした」
佐七はしばらく黙って考えていたのちに、
「ときに、だんな、おかみさんは六日の晩から姿がみえなくなったんですね」
「はあ、さようで」
「その晩、おかみさんになにか変わったことは?」
「いえ、べつに。五つ半(九時)ごろまでは、ふだんとかわりなく、座敷に出ておりましたが……」
「おかみさんがさいごに出たお座敷のお客というのは……?」
「なんでも浅蜊《あさり》河岸に道場をひらいていらっしゃる浅見|武兵衛《ぶへえ》さんという、やっとうの先生で」
佐七がなにか考えているところへ、表のほうで騒々しい声を立てているのは豆六らしい。
「親分、親分、はよきておくれやす。こちらのおかみさんの死体が、柳原の土手下の雪だるまのなかから……」
「えっ、やっぱり……」
と、喜兵衛はこたつのなかで眼をとじ、佐七はさっと腰をうかした。
佐七が駆けつけてみると、柳原の土手の下、枯れ柳の枝のしたに、雪だるまがひとつこわされていて、そのなかからはだかの死体が乗りだしていた。
「親分、これを……」
辰がさしだすちょうちんの灯に、女のむっちりとした下半身に目をやったとき、佐七はおもわず顔をしかめた。ひとり、あるいは複数の男のおもちゃにされたらしい跡が歴然である。
佐七は死体をしらべていたが、きゅうに、おやと目を光らせると、ひくひく小鼻をひくつかせ、死体の髪や、膚のにおいをかいでいたが、
「辰、この死体は、なんだかいいにおいがするじゃねえか」
「それゃ親分、女ですもの。おしろいもつけてましょうし、髪油のにおいもしましょう」
「そういえば、お蝶もお久も、これとおんなじにおいをさせとったが、すると三人、おんなじおしろいや髪油をつこうてたんやな」
なにげなくつぶやく豆六のことばを、佐七はハッと聞きとがめ、
「辰、豆六、もういっぺんかいでみろ。お蝶やお久も、これとおんなじにおいをさせていたか」
「へえ、へえ」
と、辰と豆六はあらためて、犬のように小鼻をひこつかせて、お重の死体をかいでいたが、
「兄い、やっぱりこれやな。これとおんなじにおいでしたなあ」
「たしかにそれにちがいねえが、親分、それが……? これ、おしろいや髪油のにおいじゃねえんですか」
佐七はだまって答えなかったが、かれはハッキリ思いだしているのである。あの水揚げ帳の白紙のにおいが、これとおなじらしいということを。
伽羅《きやら》屋敷
――姫君様は疱瘡《ほうそう》をわずろうて
去年殺された梅若と、因縁浅からざりし女が三人、つぎからつぎへと殺されて、雪だるま詰めにされたといううわさは、すぐに江戸中にひろがって、そこにひとつの恐慌状態をまき起こした。
ことに、梅若の生前関係をもった女たちは、おそらく生きたそらもなかったろう。戦々恐々だったにちがいないが、そのごは変わったこともなく、三日とたち、五日とすぎたが、ここに怒り心頭に発したのが、ほかならぬ海坊主の茂平次。
下手人は歌川清麿に勝の市、荒磯の三人ときわまったアり、とりわけくさいのは荒磯なアり。その荒磯をとり逃がしたのは佐七の不始末、召し捕って詮議《せんぎ》されたしと、おのれのだらしなさをたなにあげ、八丁堀へ訴え出たが、こればっかりはお取り上げにならなかった。
だいいち、清麿がけしからん絵をかき、手錠三十日のうえ町内預けをおおせつけられ、その手錠がとけたのが正月六日であることは、今戸の町役人が証言している。また、勝の市が暮れのけんかでひとを傷つけ、正月五日の夕刻まで伝馬町につながれていたことは、これまた記録が立証している。
下手人の交互ににせのアリバイ工作説は、説としては奇抜だが、これははなはだまゆつばものであると、八丁堀でもおとりあげにならなかったから、いや、海坊主のくやしがること、くやしがること。
そのかん、佐七はあちこちの唐物屋《とうもつや》や、香具店に当たってみて、あの水揚げ帳にたきこめられたにおいが、伽羅《きやら》の香であるらしいことを突きとめた。
とすると、お蝶ほかふたりの女の髪や膚からにおった香りも、伽羅のにおいということになる。伽羅とはおよそ高価なもの、平素|下賎《げせん》のもちいるべき品でない。では、あのにおいは、いったいどこで移ったか。
「おまえさん、きいてきましたよ」
それは正月三十日の夕まぐれ、外からかえってきたお粂は、ちょっとほおを上気させて、
「あの浅蜊《あさり》河岸に道場をもっておいでになる、やっとうの先生の浅見武兵衛さんというかただけれどね」
「ふむふむ、さぎ亭のおかみのお重が、さいごに出たお座敷の客だな」
「そうそう、そのかたやっぱり、おまえさんのお察しのとおり、肥前|岩槻藩《いわつきはん》のご家中の出で、いまでも岩槻藩のご家来がおおぜいおけいこにこられるそうですよ」
「ふむ、ふむ。それで、ひょっとすると、岩槻藩のお留守居役、馬場五郎兵衛さんは、おみえにならねえか」
「その馬場さんてえかたは、めったに道場へはおでにならないそうだけど、浅見さんとはご昵懇《じっこん》とかで、ちょくちょくお遊びにいらっしゃるそうです」
「やっぱりそうか」
お粂、佐七の両人が目を見合わせているところへ、
「わかった、わかった、親分、やっぱり、あんたはんのいわはったとおりや。横山町三丁目の、肥前屋の亭主というのんは……」
と、わめきながら、とび込んできたのは豆六だ。
「これ、静かにしねえか。壁に耳ある世のならいだ」
と、佐七にひと言たしなめられて、
「おっと、と、と」
と、あわてて口をおさえた豆六は、畳のうえに四つんばいになり、佐七の耳に口をよせ、
「親分、やっぱりあんたの目はたかい。いちょう屋のお久がさいごにでたお座敷の客、肥前屋藤兵衛ちゅうのんは、岩槻藩のお出入り商人、岩槻藩とはだいぶんややこしい関係らしい」
佐七があらかじめ調べておいたところでは、肥前岩槻は、堀田近江守《ほったおうみのかみ》で四万石、大名としてはあまり大きなほうではないが、それにもかかわらず内緒が裕福なのは、海外との交易を許されているからである。
むろん、これには幕府に冥加金《みょうがきん》、いまのことばでいえば税金をおさめて、公にゆるされているのであるが、問題はその数量である。
年間の交易額には、げんじゅうな制限がもうけられていて、その制限の範囲内における取り引きのみが公正なものとしてゆるされ、その取り引き額に応じて、冥加金を上納しているのである。
もし、それをこえると、抜け荷買い、いまのことばでいえば密貿易ということになる。
「ところが、親分、ここにちょっとおかしなことがおまんねん」
こんどは豆六、やけに声を落として、
「だいたい、岩槻藩の交易品、金銀|珊瑚綾錦《さんごあやにしき》やのうて、鼈甲《べっこう》、玳瑁《たいまい》、珊瑚《さんご》、伽羅《きゃら》、白檀《びゃくだん》と、そんなもんらしいんだすけど、そないな品はみんな、お城御用の唐物屋、日本橋の山城屋が、御公儀立ち会いのうえ、一手にあつこうてるちゅう話だす。とすると、横山町の肥前屋が割りこむすきはないように思いますけんどな」
「いったい、肥前屋はいつごろから堀田家へお出入りしているんだ」
「この三、四年のことやいう話だす。なんでも、お留守居役の馬場五郎兵衛さんに取り入って、食い込んでいったらしいちゅう話だす」
すべてが岩槻藩のお留守居役、馬場五郎兵衛を指している。いったい、お留守居役というのは、諸侯の渉外係で、他藩とのつきあいにあたる外交官だから、世情に通じ、浮き世の表裏につうじ、よきにつけあしきにつけ、腹のすわった人物が多かった。
馬場五郎兵衛という人物がどういう人柄かしらないが、三人の女がゆくえ不明になるまえの座敷の客が、みんなそれぞれ岩槻藩に因縁あさからざる人物というのは……?
「ときに、お粂、堀田の殿様が伽羅《きゃら》の下駄《げた》の一件で、御公儀からおとがめをおうけなすったのは、あれゃ何年くらいまえだったけな」
「そうそう、あれはいまから十年まえ」
「そうそう、あのじぶんわてはまだ大坂だしたけど、あの一件は、上方でも大評判だしたなあ」
堀田の殿様の伽羅の下駄の一件というのはこうである。
いまからちょうど十年まえ、お忍びすがたで吉原《よしわら》へかようてくる御大身とおぼしき殿様があった。廓《くるわ》での通り名は、月様ということになっていたが、これぞ肥前岩槻の領主、堀田家の先代、堀田駿河守政員《ほったするがのかみまさかず》であった。
大名の身として吉原がよいの放蕩三昧《ほうとうざんまい》、これが御公儀にしれると、おとがめをくうは必定。その弱みにつけこんで、土地の無法者が数名、土手八丁で政員の帰途を待ち伏せ、ゆすりがましいことを吹っかけた。
そのとき、駆けつけるものあって、政員はあやうく難をまぬがれたが、乱闘のさい、下駄を片っぽ脱ぎすてたまま逃げ去った。
のちにこれを拾った土地の番太郎が、なにげなく火にくべると、えならぬ芳香を発したので、おどろいてとりだして調べてみると、なんと、この下駄は、伽羅の名木によってできていたのである。
伽羅といえばこのうえもなく高価なもの、それを下駄にしてはくとは、僣上《せんじょう》の沙汰《さた》もはなはだしいと、俄然詮議《がぜんせんぎ》がきびしくなり、とうとう堀田政員の非行が明るみに出た。
「そうそう、それで、殿様は押し込めお隠居、叔父様《おじさま》にあたるひとが、あとをお取りになったんだわねえ」
「そやそや。あら叔父さんの陰謀やったんやと、あのじぶん上方でも、もっぱら評判だしたがな」
「あの一件以来、中橋の堀田家の上屋敷に、伽羅屋敷とあだ名がついたんだったな」
三人が顔見合わせて、意味深長な目くばせをしているところへ、まいもどってきたのはきんちゃくの辰。
「親分、だいたいのことは聞き込んできましたがね」
と、長火ばちのまえににじりよると、いやに声をひそませて、
「いまの岩槻藩の殿さんは、堀田近江守|政成《まさなり》といって、ほら、いまから十年まえに、伽羅の下駄の一件で押し込め隠居になったせんの殿さんの、叔父さんにあたるんだそうです」
「兄い、じつはこっちも、いまその話をしてたとこやがな」
「それで、辰、いまの殿さまはいくつぐらいだ」
「押し込め隠居になったせんの殿さんが、あのさい二十二でしたから、いま生きていれば三十二歳。ただし、あれから二年のちに、叔父さんをうらんで憤死なすったそうです。ところが、叔父甥《おじおい》といっても十六ちがい。だから、いまの殿さんは四十八歳。ところが、親分、ここにちょっとおもしろい話があるんです」
「おもしろい話というのは……」
「いまの殿さんに苅藻姫《かりもひめ》といって、当年とって二十四か五になる姫《ひい》さんがひとりあるんですが、それがいまだにいかず後家で、本所も東橋《あずまばし》をわたったすぐとっつきの下屋敷で、あるにかいなき日を送ってるそうです」
「辰、その、あるにかいなきというのはどういうんだ」
「いえね。これも憤死なすった先殿さんのたたりだろうということになってるんですが、姫さんいまから六、七年まえ、疱瘡《ほうそう》をわずろうたんですね。それで、あたら花のかんばせが、まるで化け物みたいになってしまった。これじゃお嫁にいけませんや。それで、いまでも本所原庭町の下屋敷で、あるにかいなき日を送ってるってえわけです。ところが、ここにもっとおもしろい話をきいてきたんですが」
「兄い、おもしろい話てなんやねん」
「いえね、原庭町かいわいではもっぱら評判なんですが、そのお屋敷のそばを通ると、ぷうんと、よいにおいがするんだそうで。なんでも、その姫さん、伽羅のにおいがむしょうに好きで、伽羅をくすべては、その香を聞いてるんだそうで。だから、ちかごろじゃ中橋の上屋敷よりこっちのほうに伽羅屋敷という名がついているそうですぜ」
きいて一同は、おもわず顔を見合わせた。
お家大切
――化け物姫と玉のような美少年
物語もここまでくるとおしまいである。二十四、五のいかず後家といえば、からだがうずくとしごろである。その姫のもえさかる火を消すために、梅若がちょくちょくお招きにあずかっていたのではないか。
その下屋敷の奥御殿で、化け物のような姫様と、玉のような美少年とのあいだに、どのような情痴の場面が展開されたか、外部からしるよしもないが、さすが狡兎《こうと》のごとき梅若も、あいての身分や、化け物のような器量をはばかって、この苅藻姫のことだけは、水揚げ帳へ書きしるすのはひかえたのだろう。
そのかわり、姫のくすべる伽羅のにおいをひそかに白紙にたきしめて、それを姫に会うたしるしとして、水揚げ帳にとじ込んでおいたのだろう。
梅若が姫をゆすっていたかどうかわからない。ゆすられた姫がくゎっとして、梅若をしめ殺したのか、それとも情痴のきわみの激情が、姫をかってそんな凶暴な行為に走らせたのか、そこまでは外部からはしるよしもない。
しかし、どちらにしても、梅若をしめ殺したのは姫だったろう。
そこで大恐慌をきたしたのが家中のものである。こんなことが外部へもれると、岩槻藩の大恥辱である。わるくすると、お家の命取りにもなりかねない。
そこで、だれか知恵者が知恵をしぼって、梅若の死体をひそかに遺棄することになったが、こまったことには、梅若の衣類には、伽羅《きゃら》のにおいがしみついている。いや、衣類のみならず、梅若のからだにも、伽羅のにおいがしみついていたにちがいない。
このことは、のちに佐七がお冬から聞きだしたところによっても裏づけされた。朝かえってきた梅若が、全身から馥郁《ふくいく》たるにおいを発散させていたことがあったという。
そこで、身ぐるみはいだ梅若の死体を遺棄するにしても、すこしでも発見をおくらせるように工作しなければならなかった。その道具につかわれたのが、雪だるまだったのだろう。
むろん、これを考案した人物も、あの雪だるまがあんなにながくもつものとは思っていなかっただろう。かれのかんがえでは、たとえ三日でも五日でも持てばよかったのにちがいない。一日たてば一日だけ、伽羅のにおいもうすらぐわけである。
すべてはお家大事、家名大切と、そうとう多くの侍が、このことに協力していたにちがいない。
計画はうまくはこんだ。雪だるまは思いのほかながくもって、発見されたとき梅若のからだからは、伽羅のにおいは消えていた。衣類はべつに焼きすてられたにちがいない。
ところが、ここにひとつ、さすが奸智《かんち》にたけたこの計画者にとっても、思いもよらぬ事態がもちあがってきた。
梅若が世にも忌まわしきものを書きのこしておいたことである。
それからひいておおくの女がつぎからつぎへと槍玉《やりだま》にあげられたとき、岩槻藩ではおそらく肝をひやしたにちがいない。
さいわい、梅若が姫の名前だけははばかっておいてくれたおかげで、あやうく難はまぬがれたが、しかし、そのままではすまなかった。
身からでたさびとはいえ、この一件で、いちばんめいわくをこうむった、お蝶、お久、お重の三人は、三人そろって勝ち気な女だった。
身におぼえのないぬれぎぬをきせれられたじぶんたちが、世間からものわらいの種にされたのにもかかわらず、かんじんの下手人がどこかにぬくぬくとかくれているのはけしからん、なんとかして、その女を明るみにひきずり出して、赤っ恥をかかせてやりましょうと、三人しめしあわせて梅若の生前の行状をさぐっているうちに、本所の伽羅屋敷をかぎつけたのではないか。
姉のお冬でさえ気がついていたくらいだから、抱きあってふざけている梅若の膚から、ときどき、えならぬにおいが発散していたのに、気がつかぬはずはなかったろう。
そこで三人はどうしたか。姫に思いしらせるために、岩槻藩をゆすりにかかったのではないか。
岩槻藩にはふたたびお家の大事がふってわいた。あいてをたかがよわい女とあなどってかかるわけにはいかなかった。悪くするとお家の命取りである。
この災いの根をたつには、あいての口を封じてしまうよりほかない。
佐七も当時の人間だから、そこまでは肯定できなくもない。
すべてお家大事が優先するのである。お家大事ということは、ひっきょう、わが身かわいさということである。お家あってのわが身なのだから。ことに、女だてらに三人が、大名あいてにゆすっていたとすれば、女のほうにも大いに非がある。
しかし、それかといって、かれらのとった処置については、佐七ははげしい憤りをかんじずにはいられなかった。
かれらはおそらく手をまわして、梅若の身辺をさぐったにちがいない。そして、歌川清麿と勝の市、さらにもうひとり荒磯の存在をさぐりあてたにちがいない。
この三人の梅若の崇拝者が、いまだに梅若の移り香をわすれかね、梅若殺しの真の下手人にたいして、深讐綿々《しんしゅうめんめん》、復讐《ふくしゅう》の寝刃《ねたば》をといでいるということをしったのにちがいない。そして、こんど起こったこの連続殺人事件は、すべてこの三人に罪を転嫁するためにねられた計画にちがいない。
しかし、上手の手から水のもれるたとえのとおり、どたん場になって、清麿が手錠三十日をおおせつけられ、町内預けになっていたことや、勝の市が伝馬町に入牢していたことを見落としていたにちがいない。
もし、この見落としがなければ、三人はまんまとかれらのわなにおちて、海坊主の茂平次みたいな岡《おか》っ引《ぴ》きにあげられて、無実の罪でお仕置きにされていたことだろう。
それを思うと、佐七は、この一件の首謀者の武士にもあるまじき卑劣さに、憤りをおぼえずにはいられなかった。
ことに、三人の女をしめ殺すまえ、もてあそんだのがだれであったにしろ、それは口さがない下衆下郎などではなく、身分正しきれっきとした武士だったにちがいない。それがいかにお家のためという美名のためにおこなわれたにしろ、あまりに下劣|陋劣《ろうれつ》である。
それを思うと、佐七はヘドが出るような怒りにもえずにはいられなかったが、しかし、いかにかれが憤慨したところで、あいてが大名屋敷とあれば、しょせんは蟷螂《とうろう》の斧《おの》、ごまめの歯ぎしりでしかなかったようにみえた。
しかし、はたしてそうであったろうか。
この一件で、佐七がどのようにうごいたか、ここでは省略することにするが、その年の三月三日、すなわち、桃の節句の晩のことである。
その夜は、季節にはめずらしい大雪だったが、その大雪をついて本所に義士の討ち入りいらいの大事件がもちあがり、江戸中をあっとばかりにおどろかせた。
岩槻藩の下屋敷に、とつじょ、御公儀の手がはいったのである。それはかなり大掛かりな捕り物だったので、原庭町いったいは、上を下への大騒動だったという。
手入れの理由は、岩槻藩の悪質な抜け荷買いが露顕したためといわれているが、それかあらぬか、それからまもなく、岩槻藩はお取りつぶしになってしまった。
ところが、のちに巷間《こうかん》つたうるところによると、このお手入れの騒ぎにまぎれて、下屋敷から苅藻姫のすがたがみえなくなったという。
では、苅藻姫はどうなったのか。
三月三日の大雪で、いつのまにやら、去年、梅若の死体が発見されたおなじ雷門のまえに、おおきな雪だるまができていた。春の雪のとけやすく、四日の昼過ぎには頭からとけはじめたが、そのなかから全裸の女の死体があらわれて、またまたひとびとを驚かせた。
それは、むせっかえるような豊麗な肉体と、大あばたのひきつった世にも醜怪な容貌《ようぼう》とをあわせもった二十五、六の女だったが、しめ殺されるまえ、単数あるいは複数の男に、さんざん、もてあそばれたあとが歴然としていた。
この死体はついに引き取りてがあらわれなかったので、どこのだれと身分もわからず、やむなく町役人の手で荼毘《だび》にふされ、無縁寺へ葬られた。
歌川清麿はそのごお冬を引き取り、夫婦となって、浮世絵師としてますます売り出したが、勝の市と荒磯のふたりは、杳《よう》としてゆくえがわからなかった。
しかし、佐七はあえてそれを追及しようとはしなかったという。
謎《なぞ》坊主
なぞ坊主春雪
――かければ解けるなぞの春雪
俗にいう化政度――。
すなわち文化から文政へかけての時代は、江戸文化の爛熟期《らんじゅくき》で、芸苑《げいえん》芸界あらゆる方面に、名人雲のごとく輩出したが、そのなかにあって、いっぷうかわった名人というのは、神田お玉が池の人形佐七。
これが当時、江戸ひろしといえども、その右にでるものがないといわれたくらいの捕り物名人。
捕り物の名人なんていうと、あんまりありがたくないようなものだが、この佐七にかぎって、当時、江戸っ子のあいだにわくがごとき人気のあったのは、まことにふしぎなくらいである。
それというのが、この男、人形という異名でもわかるとおり、男でもほれぼれとするような男振りをしているうえに、としが若く気前がよくて、しかも、捕り物にかけちゃ人形どこのさわぎじゃない、鬼神もはだしのものすごさで、それでいてまた、やることが人情をはずれない。
わるいやつは遠慮容赦もなくふんじばるが、あやまって罪をおかしたような不幸な連中には、いつも涙のあるはからいで、つまり酸いも甘いもかみわけたそのやりくちが、めっぽう江戸っ子をうれしがらせたわけ。
なるほど、これじゃ、ひとにきらわれる職業をしていながら、みょうに人気のあったのもむりではない。
さて、この佐七がにわかにぱっと売り出したのは、文化十二年春のこと。
したがって、まだ女房ももたず、辰《たつ》や豆六という子分もいなかったころのことである。
そのころ、浅草の奥山に、ふしぎな盲の坊主があらわれて、満都の人気をさらっていた。
ひと呼んでこれをなぞ坊主。
葭簀《よしず》がけの小屋のおもてには、「とんちなぞ」の看板をかかげ、見物ひとりから十文ずつの木戸銭をとる。
本人はまだ十六、七の小坊主だが、これが高座にあがって机をひかえ、拍子木をうちながら、見物よりなぞをかけさせ、当意即妙、どんななぞでもとけぬということがない。
そのさまあたかも春の雪のとくるがごとしであったから、いつしかひと呼んで春雪坊。
たまたま、解きそこなうことがあると、景品として、蛇《じゃ》の目《め》の傘《かさ》などだしたというから、さしずめ、こんにちの大道将棋、あれとおなじやりくちで、欲もからんで、ずいぶん客がつめかけたらしい。
いまでも、この春雪坊のあらわしたなぞ解題集という本がのこっているが、そのなかには、かなりふるったやつがある。
こころみに、いまその二、三を書き抜いてみると、
[#ここから2字下げ]
両国橋とかけて 菖蒲刀《しょうぶがたな》と解く
心は 人がきれぬ。
座頭の小便とかけて 川端柳と解く
心は みずに垂れる。
比丘尼《びくに》の簪《かんざし》とかけて ひと飲みの酒と解く
心は さすところがない。
鍋《なべ》のなかの氷とかけて なぞ解き坊主
心は かければ解ける。
[#ここで字下げ終わり]
その当時のことだから、しもがかったのや、いかがわしいのがおおいのが残念だが、これだけでも、春雪坊のとんち振りは想像されよう。豊芥子《ほうかいし》筆記によると、
[#ここから2字下げ]
――春雪もと奥州二本松の産とか、本名を順三《じゅんぞう》といいしが、容貌《ようぼう》すこぶるうるわしく、黒縮緬《くろちりめん》の羽織に、小紋の衣類を着して、高座に座れるところは、まんざらの素姓とはおもわれず、さればはじめは、そのとんちをめでてあつまりし客も、いつしか、うわさがひろがれるにや、のちにはようやく、婦女小娘の客がおおくなりしが、目につきたり、うんぬん――
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とあるところをみても、かれの人気の推移のさまが想像されよう。
このなぞ坊主春雪は、文化十一年の秋から、翌十二年の春ごろまで、江戸の人気をあつめていたが、ここにはしなくも、かれをとりまいて事件がもちあがり、俄然《がぜん》、佐七の売り出しということになったのである。
二枚のなぞ絵馬
――めくら坊主のふしぎな注文
本所松坂町にすむ花房千紫というのは、もと狩野派《かのうは》の画工で、わかいころ旅絵師として、北は奥州、南は九州のはてまでも遍歴したことのある男だが、中年をすぐるころより、江戸におちついて、五十の坂をこしたこのごろでは、たのまれれば扇面などに筆をはしらせることもあるが、それはほんの手内職で、もっぱら書画|骨董《こっとう》のめききなどして、世をおくっている男である。
この千紫のもとへ、出入りの道具屋で佐兵衛《さへえ》という男、これは骨董の才取りどをしている人物だが、それが、
「ごめんくださいまし。先生はおうちでございますか」
と、ぬっとくろい顔をだしたのは、文化十二年、二月もあとのこりすくなになって、にわかに目立ってあたたかくなってきた陽気に、子ねこが縁先でぬくぬくとひなたぼっこをしていようという昼下がりのことだった。
「おや、佐兵衛さんかえ。おひさしいな」
縁側の日だまりにでて、おもとの手入れをしていたあるじの千紫は、眼鏡越しにジロリと佐兵衛をみると、なんとなくいやなかおいろだった。
「なに、久しいことがありますものか。つい四、五日あとにも、お伺いしたばかりじゃアありませんか」
「それはそうだが……」
と、千紫は苦しそうな顔をして、
「佐兵衛さん、あのことなら、もうすこし待っておくれ。まだらちがあかないんだから」
「へえ、そりゃア待てとおっしゃれば、あっしゃいつまでも待ちますがね」
と、佐兵衛はスポンとキセルの筒をぬきながら、
「ただねえ、なんしろあれは、あっしのものじゃねえんで困るんです。あれをあっしに頼んだご浪人というのが、すっかり尾羽打ち枯らして、いちにちも早くあいつを売って金にしたいというんです。だもんだから、毎日のように、まだかまだかという催促、仲にはいったあっしも、だから、この節じゃだんだん切なくなってやりきれません。なんしろ、おまえさんに、あれを預けてからでも、もうかれこれひと月になりますからねえ」
「そりゃアわかってるよ、佐兵衛さん、しかし、すこしゃ考えてくれなくちゃア困るねえ。いかにわたしがいいお得意さきをもっていたところで、かりにも探幽という名のついた掛け軸、そう右から左へ売れるわけのものじゃアないよ」
「そりゃア、まあ、そうでしょうがねえ」
佐兵衛はいくらか皮肉な口調になって、
「そのことも、あっしはよくいってあります。しかし、貧すれば鈍するっていいましてね。ご浪人というのが、みょうに疑いぶかくなっているんで困るんです。こう長くなるのは、仲にはいった者がいかさまをやってるんじゃないかと、ちかごろじゃあっしにむかって、へんないやみをならべるんです。あっしも、まあ、おなじ長屋のもののことだし、むこうの気の毒なようすもよくわかってるんで、なるべく、腹は立てないことにしてるんですが、ちったアつろうございますよ」
道具屋の佐兵衛はこのあいだ、おなじ長屋にいる浪人からたのまれて、狩野《かのう》探幽筆としょうする掛け軸を、この千紫のもとへ持ちこんだのである。これがしんじつの探幽ならば、その当時の値段にしてもひと財産はあろうというもの。
浪人にとっては、おそらく、先祖からつたわったものであろうが、それを手放そうというのには、よくよくふかい事情がなければならぬ。
ところが、預かった千紫のほうでは、どこかへ売りつけてやると約束したまま、いまもってらちがあかない。
売れないならば返してくれといっても、さあ返そうともいわない。
まあ、もう二、三日、まあ、もう二、三日で、はやひと月もたってみれば、持ちぬしの浪人はいうにおよばず、仲にはいった佐兵衛まで、なんとなく不安をかんじてきたのもむりではなかった。
「佐兵衛さん、おまえさん、みょうなことをおいいだねえ。それじゃなにかえ、このわたしがあの探幽を瞞着《まんちゃく》するとでもおいいかえ」
「いや、そういうわけじゃありませんが……」
「よしてもらいましょう。こうみえても、花房千紫は、骨董《こっとう》の鑑定にかけちゃちっとは江戸でしられた男だ。ずいぶん高価な品物をあずかっても、いままでついぞ、そんないやみをいわれたことはない。いいよ。そんなに信用がないのなら、なにも頼まれたくはない。探幽ならあの床の間にあるから、さっさと持ってかえっておくれ」
こういわれると、道具屋の佐兵衛も、それいじょう押していうわけにもいかない。
「まあ、まあ、いいじゃアありませんか。なにもあっしがおまえさんを疑っているというわけじゃなし」
「疑われてたまるもんか」
「はっはっは、それじゃ、この話はまアこれくらいにしておいて、じつはきょうきたのは、そのことじゃありませんのさ。ほかにちょっと、おまえさんにお願いしたいことがありましてね」
「なんだい、まだほかに、わたしに用事があるというのかい」
千紫はながい女持ちの朱羅宇《しゅらう》をひねくりながら、まだ腹のおさまりかねる顔色だった。
「へえ、それがまことに申しにくいことでござんすが」
佐兵衛はうこん木綿のふろしきをひらきながら、
「まあ、バカにすると怒らないでおくんなさいまし。じつは、絵馬を二枚ほど、おまえさんに書いていただきたいんで」
と、削りたての二枚の絵馬をとりだした。
「絵馬?」
「へえ、そうなんで。子どもだましみたいな仕事で、バカバカしいんですが、つい近所のものにたのまれましてね。だれかいい絵かきさんはあるまいかときかれたもんだから、おまえさんのことをおもいだして、つい、安請けあいに引きうけたんです。たんとのお礼もできゃアしませんが、そのかわり、絵も筋さえとおってりゃいいんで、ザッとでけっこうでございます」
「ふむ、そりゃ書いてあげないこともないが、なにか図柄にお望みでもあるのかね。まさか、めの字一字というわけにもまいらんだろう」
「ご冗談でしょう、それならあっしでも書いてやりまさあ。ちょっとかわった図柄でございますがね」
と、佐兵衛の話すところによると、一枚は曽我《そが》の鬼王が節季の債鬼に責めたてられているところ。
歌舞伎《かぶき》の世界が常識として世間にしみわたっていたそのころでは、曽我の鬼王といえば、貧乏人の代名詞みたいになっていたから、その鬼王が債鬼に責められている絵は、そうめずらしいことではなかった。
しかし、それを絵馬にしてあげるというのは、どうも解せない。
しかも、いま一枚というのは、さらにふしぎである。
お小僧と画工が碁を打っていて、そのお小僧が画工に切りつけているという図が所望だというのである。
「なんだえ、佐兵衛さん、それは判じ物かえ」
話をきいて、千紫はおもわず顔をしかめた。
「あっしにもよくわかりませんが、おおかたそうだろうとおもいます」
「それで、願主の名は?」
「春雪とねがいます」
「あ、春雪?」
千紫もはじめて合点がいったように、
「春雪というのは、ちかごろ評判の、あのなぞ坊主のことじゃないかね」
「へえ、おまえさんもご存じですかね」
「いや、まだみたことはないが、たいした評判だからさ。すると、これもきっとなぞだね。いったい、なんと解くのだろう」
千紫はしきりに頭をひねってみたが、春雪のようにとんちにめぐまれていない千紫には、そのきみょうななぞを解くすべもなかったし、また、しいて解こうという気持ちもなかった。
まさか、そのなぞがじぶんの身に関係があろうとは、おもいもかけなかったからだ。
売れっ子春雪
――年齢のちがう夫婦のかけひき
「それじゃ、おまえさん、引き受けてくれますね」
「ああ、ほかならぬおまえさんの頼みだから、まあ、かいてあげよう」
千紫が気軽にひきうけると、佐兵衛もよろこんで、
「そいつはどうもありがとう。それで、いつごろできあがりますね」
「なあに、こんなもの、なぐりがきすりゃアすぐだわな。あしたにでも取りにきさっしゃい」
「ええもう、どうせむこうは盲のこってすから、かっこうさえついていりゃいいんで。ざっとでよござんすよ。それから、先生、探幽のほうも、なるべくらちをあけておくんなさいよ」
「おっと、みなまでのたもうべからず」
佐兵衛が案外はやく腰をあげそうなけはいに、千紫もいくらかうきうきとして、
「もうおかえりかえ。あいにく家内がるすで、おもてなしもできず、ごめんさっしゃい」
佐兵衛は、ふろしきをたたんでかえりかけたが、そのことばに、ふとおもいだしたように、
「そうそう、ご新造さんはどこへおでかけになりました」
「女中をつれて朝から寺参りさね」
「それはそれは、ご殊勝なことで。そういえば、ついこのあいだも、奥山でお目にかかりましたっけ」
と、佐兵衛のつい口走ったことばに、千紫ぎっくりとしたように聞きとがめた。
「はて、それはいつのことだね」
「さあ、あれはたしか戌《いぬ》の日でしたから、さきおとといのことでしたかね」
と、なにげなくいってのけてから、さっとかわった千紫の顔色に、佐兵衛はしまったと心のうちで叫んだ。
花房千紫は、五十の坂をこえているうえに、ちかごろはもっぱら欲にこっているから、年もいっそう老けてみえるのに、女房のお千代というのは、まだ三十をこえたばかりの姥桜《うばざくら》。
江戸者ではないといううわさだが、色の白いいい女で、それだけ千紫の嫉妬《しっと》もじんじょうでないという話を、佐兵衛もうすうすしっていたから、つまらぬことをいってしまった、するとこのあいだの浅草参りは、だんなには内緒ごとであったのかもしれないと、あいさつもそこそこに、かえってしまったのである。
あとで千紫は、なんとやら胸のおちつかぬようすで、しきりにいらいらしていたが、こんなときには、いっそ仕事でもしたほうが気がちるかもしれないと、絵筆をとりあげ、さっそく二枚の絵馬に、あのきみょうななぞ絵をなぐり書きしたが、ようやくそれを書きあげ、願主、春雪と名前もはいったところへ、女房のお千代が、としわかい女中のお米《よね》をつれてかえってきた。
「ただいま。遅かったでしょう」
そういうお千代の顔をみると、ほんのりと汗ばんで、なるほどこれなら、千紫がやきもちをやくのもむりはないとおもわれるようないい女。
千紫はさっきからムシャクシャしているのを、わざと色にもださず、
「なにさ、おまえこそ疲れたろう」
「ええ、もうすっかり春になって。それに、ほこりのひどいこと」
まゆのあおいお千代は、なんとなくすぐれぬ面持ちだった。
「そりゃもう春だもの。ひとふろあびてくりゃアいい、疲れがおちるぜ」
「ええ」
と、お千代は手ばやく着替えをすませると、
「おや、お仕事。めずらしい絵馬ですね」
と、机のそばへよってきた。
「佐兵衛のやつに頼まれたのさ。あいつ、ろくな仕事は持ってきやがらねえ」
「おや、佐兵衛さんがきたの」
お千代はギクリとしたいろをみせたが、すぐそれを押しつつむように絵馬をとりあげ、
「まあ、みょうな絵ですこと。これ、なんの場面ですの、いったい」
「なんだか、おれにもさっぱりわからねえ。なぞ坊主の春雪に頼まれたというんだから、おおかた、これもなぞだろう」
なにげなく千紫のいった春雪という名まえをきいたとたん、お千代はどうしたのか、さっと顔色をかえて、おもわず手にした絵馬を取りおとした。
千紫はびっくりして、
「お千代、ど、どうしたんだ」
「いいえ、なんでもありません」
お千代はきっとくちびるをかみながら、
「なんだか急にふらふらとして……また、血の道がおこったのかもしれません」
と、消えいりそうな声だった。
千紫は、疑いぶかそうな目で、じっとお千代の横顔をみつめていたが、ことばだけはそれでも殊勝に、
「なにしろ、時候のかわり目だから、気をつけなくちゃいけねえ。まあ、ふろへでもいってきて、はやく横になりな。また、いつかのように、寝込まれちゃたまらねえからな」
「はい、そうしましょう」
なんとなく、夫のそばにいるのも耐えられぬふぜいだったお千代は、そのことばに、ほっとしたように立ちあがると、いそいそと、近所のふろ屋へでむいていったが、そのあとで、千紫は、女中のお米を呼びよせると、きっとことばをあらためた。
「お米、おまえ、まっすぐにいわなきゃいけねえぜ。おかみさんはきょうどこへいったんだえ」
「はい、寺町の妙臨寺でございます」
お米はあらたまった主人のただならぬ顔色に、おびえたような目のいろをした。
千紫はそれをたたみかけるように、
「妙臨寺はわかっているが、それだけじゃあるまい。どこかほかへまわったろう」
「はい、あの……」
「つつまずいってしまいねえ。お千代はこのごろ、寺参りにかこつけてちょくちょく出歩くようだが、いったいお目当てはどこなんだえ」
「ええ、でも……」
「おまえ、お千代に口止めされたな。いわなきゃただじゃおかねえぜ」
嫉妬《しっと》にくるった主人の目つきに、お米はおどおどしながら、
「はい、あの、おかみさんはいつも、かえりには奥山へおまわりでございます」
そのじぶんの奥山には、不義の男女の仲宿になるような曖昧茶屋《あいまいぢゃや》がたくさんあったから、五十男の千紫は、いよいよ嫉妬に血相かえて、
「ふうむ。それで、あいての男というのはどんなやつだえ」
「あれ、そんなんじゃございません」
お米はいまさら主人の邪推に気がついて、びっくりしたように、
「おかみさんが、いつもみにおいでになるのは、奥山のあのなぞ坊主でございます」
「なに、なぞ坊主?」
千紫はあきれたような顔をした。
「はい、おかみさんは、たいそうあれがお気にいりのごようすで、いつもかえりにお寄りになるのでございます」
これはまた、あまり意外なお米の告白に、千紫はおどろくというよりも、むしろあきれはてたもようで、いまさらながらあの奇怪な絵馬に目をやって、ウームとうなってしまったのである。
首なし死体
――はこびこまれた葛籠《つづら》のぬしは
それからおよそ十日ほどのちのこと、松坂町にひとつの事件がおこって、かいわいは義士の討ち入りいらいの大さわぎとなった。
事件というのはほかでもない。
花房千紫夫妻が、なにものにともなく惨殺されてしまったのだ。それを発見したのは道具屋の佐兵衛で、れいの探幽を催促がてらにいってみると、座敷の縁側に、お千代が血まみれになってたおれている。
ぎょうてんした佐兵衛が、腰もぬかさんばかりに自身番へとびこんだから、さあ、さわぎはにわかに大きくなった。
しらせによって、役人がさっそく出張してみると、お千代は乳房のしたを、なにか鋭利な刃物でえぐられて死んでいるのだ。
血がすでにくろくかわいて、こびりついているところをみると、凶行は前夜の四つ(十時)じぶんに演じられたものにちがいない。
それにしても、亭主《ていしゅ》の千紫はと、家のなかをくまなく捜索してみると、庭のすみにある井戸のなかから、みおぼえのある十徳すがたの千紫の死体があらわれたが、それをひとめみたとたん、町役人のひとりは、
「ウワッ!」
とさけんで、腰をぬかしてしまったのである。
それもそのはず、千紫の死体には首がなかった。
「いい陽気になりました。なにかご近所がそうぞうしいようで」
事件が発見された日の昼下がり、松坂町の自身番へひょっこり顔をだしたのは、神田お玉が池の人形佐七だった。
このへんは横網にすんでいる鶉《うずら》の介十郎《すけじゅうろう》のなわ張りだったが、介十郎と佐七は、兄弟分の杯をしたあいだがらだったので、見舞いかたがた、なにか助けることはないかと、顔をだしたのである。
「ああ、お玉が池の。いいところへきてくんなすった。どうも、いやにこみいった事件で、すっかりてこずっているところだ」
八丁堀《はっちょうぼり》の与力《よりき》、神崎甚五郎《かんざきじんごろう》と額をあつめて、ひそひそ話をしたいた鶉の介十郎は、佐七の顔をみると、そういって歓迎の意をしめした。
「佐七か、いいところへまいったな。ひとつ、介十郎をたすけて、はたらいてみてくれないか」
神崎甚五郎もそばからことばをそえた。
「恐れいります。なに、横網の兄いがこうして控えてるんですから、あっしなどが手だしをするがとこはねえとおもうんですが、なにも場ふさぎ、ひとつはたらいてみましょう。ところで、兄い、目星はものとりかえ、遺恨ですかえ」
「さあ、それがよくわからねえんだ」
介十郎の話によると、だいたいつぎのような事情がわかった。
花房千紫は骨董《こっとう》の鑑定やなにかでそうとう裕福にくらしているもようだが、さりとて、その家構えはとくべつに大きいというのではないから、あれだけの大事件が、だれにもしられずに演じられたというのは、ふしぎというほかはなかった。
もっとも、女中のお米は、昨夜主人からひと晩ひまをもらって宿元へかえっていたから、凶行はそのるすをねらって演じられたのである。
「ところが、近所のうわさをきいても、また家の暮らしむきをみても、そうとうたまっているだろうとおもわれるのに、家のなかにゃ一文もねえんだよ。それに、もうひとつ、たしかに家のなかになけりゃならぬはずの、探幽の一軸というのがなくなっているんだ」
探幽の軸というのは、いうまでもなく道具屋佐兵衛があずけたもので、凶行のあった前日、佐兵衛はその軸が床の間にあるのをみたというのだが、それがなくなっているのである。
「だから、ものとりとみられねえこともねえんだが、それにしても、なぜ、主人の首を取っていったのか、そいつがひとつのふしぎで、敵討ちじゃねえかとおもわれる節もあるんだ」
なるほど、そのじぶんの習慣として、首がないというところから、ただちに敵討ちを連想するのもむりはなかった。
「すると、なにですかえ、千紫は敵持ちなのかえ」
「さあ、なんともわからねえんだが、かなりあくどい商売もしていたし、わけえころにゃ絵筆いっぽんで旅まわりもしたというから、どこでどんな種をまいているかしれやアしねえよ。それに、あの女房のお千代というのも、どっかの旅先で拾ってきたのだという話だ」
「なにか、そのほかに、手掛かりになるようなものはねえですかえ」
「いや、それが、ここに妙なものがあるんだが」
昨夜、凶行が演じられたとおもわれる四つ(十時)すこしまえに、一丁の駕籠《かご》が千紫のすまいの裏門にとまって、駕籠のなかから、おおきな葛籠《つづら》が庭のほうへはこびこまれるのをみたものがあるというのである。
「その葛籠というのがからになって、女房の死体のそばにほうりだしてあったんだが、そんなかから、お玉が池、こんなものがでてきたんだ」
介十郎が差しだしたものをみると、それは春雪著すところの、なぞ解題集である。
「なんだえ。こりゃ奥山でいま評判の、なぞ坊主の本じゃありませんか、それでなんですか、駕籠屋のほうは当たりがついているんですかえ」
「そこに抜かりはねえ。いま、のろ松の野郎がさぐっているから、おっつけそのほうは目鼻がつくだろうよ」
「そうか。そりゃいい手回しですね」
佐七はしばらく考えていたが、
「それじゃひとつ、お米という女中をここへ呼んでもらえませんか。すこしききたいことがある」
「おっと、よし、それじゃあっしがひとっ走り、いってまいりましょう」
岡《おか》っ引《ぴ》きはしりがおもくてはつとまらない。
介十郎はすぐかけだしていったが、まもなく目をまっかに泣きはらしたお米をつれてきた。
「お米さんというのはおまえさんかえ。こんどはとんだことだったが、おまえさんになにか心当たりはないかえ」
佐七はすぐこう切りだしたが、すると、それにたいするお米の答えは、まったく意外だった。
「このあいだから、こんなことが起こるのではないかと、内々心配していたのでございます」
「なんだえ。それじゃ心当たりがあるんだね」
佐七も介十郎も、おもわず目を光らせたが、お米の話というのはこうである。
主人の千紫はこのあいだから、口癖のように、なにかしらじぶんの身にまちがいがおこるかもしれないといって、ゆううつなかおをしていたが、つい二、三日まえ、じぶんの身に万が一のことがあったら、これを本所割り下水にすむ兄の天運堂|其水《きすい》というもののもとへとどけてくれと、一通の封書をお米にことづけたというのである。
「それで、おまえ、その手紙を届けたのかえ」
「いいえ、けさ変事をきくと、すぐ、割り下水へいってみたのですけれど、其水さんは、このあいだから旅へでておるすとのことですから、手紙はまだ持っております」
「いったい、その其水さんというのは、なにをするおひとだえ」
「はい、一、二度、うちへもみえたことがありますけれど、なんでも、旅まわりの易者とやら。あまり工面のいいほうじゃないらしく、いつも金の無心ですから、兄弟とはいえ、だんなさまはお兄さんがみえると、あんまりいい顔はしませんでした」
その其水へあてた手紙というのを手にとった佐七は、与力の神崎甚五郎の顔をみて、
「だんな、ひとつ、なかをあらためとうございますが、よろしゅうございますか」
「よかろう。どうせそういう男なら、いつかえってくるかわかったものではない。あけてみろ」
神崎甚五郎の許しに、佐七は手ばやく封をきって、なかみを読みくだしたが、みじかいその一文を読むと、おもわずあっと顔色をかえた。
「ひと筆書きのこし申し候。わたくしこといつなんでき凶事にあうや計りがたく、万一わたくし身にまちがいこれあり候節は、下手人はなぞ坊主春雪とお訴えくだされたく、このだんひと筆書きのこし申し候。千紫」
与力の神崎甚五郎と鶉の介十郎も、おもわずあっと顔見合わせたが、あたかもそこへ、あわをくってとびこんできたのは、下っ引きののろ松である。
「親分、わかりました、わかりました。あの葛籠《つづら》のなかにしのんで、千紫のうちへ担ぎこまれたのは、なぞ坊主の春雪でございますよ。下手人はあの坊主にちがいありませんぜ。さっき踏み込んで、むりやりにしょぴいてきましたが、ごらんなせえ、野郎の着物は、血まみれでございまさあ」
そういうあとから、まっさおになって、引っ立てられてきた春雪の衣類をみれば、なるほど、そで口といわず、すそといわず、いちめんに血がついているのだが、盲の悲しさ、いままで気づかずにいたのであった。
葛籠の内外
――春雪坊の世にも不思議な物語
ここで春雪がすなおに恐れいってしまえば、佐七が腕をふるう余地もないわけであったが、かれの話すところをきくと、まことに妙なのだ。
なるほど、ゆうべ葛籠《つづら》にはいって、千紫のうちへ忍びこんだのは、たしかにかれにちがいなかったが、それはだいたい、つぎのような事情によるのだ。
人気|稼業《かぎょう》のかれとしては、ときどき招かれて、客席へはべることもめずらしくない。
ちかごろ、春雪の衣装もちもの、身のまわりの品々が目にみえてよくなってきたのは、それだけ収入がふえた証拠だが、その収入はかならずしも小屋の木戸銭とはかぎらない。
小屋がはねてからの、夜の収入が大きいのである。
夜の収入といっても、ふつうの座敷へよんで、春雪のとんちをたのしもうというものずきな客はごくまれである。
そのおおくは、奥のはなれの四畳半、まくらの席の客であった。
豊芥子《ほうかいし》筆記にも、容貌《ようぼう》すこぶるうるわしくとあり、また、のちにはようやく婦女小娘の客がおおくなりしが目につきたり、うんぬんというのが、このかんの消息を物語っている。
うわきな後家や年増には、春雪はよいおもちゃだったにちがいない。
目のみえないのが、かえってよかった。
目のみえるあいてだと、さすがに切りだすのをはばかられるようなしぐさでも、めくらの春雪には要求できた。
めくらの春雪があいてだと、女たちはどんな恥知らずにでもなれるのだった。
太夫元《たゆうもと》に強請されて、はじめて春雪がそういう席へでたのは、なぞ坊主のうわさがそろそろひとの口の端にのぼりはじめた去年の暮れのことだった。
客は大伝馬町へんの大店《おおだな》の後家で、うちには春雪ぐらいのとしごろの娘もあろうという大年増だった。
そういう席へよんでみて、その後家は、春雪を意外な堀りだしものであることに気がついた。
春雪はそのときまだやっと十六、うぶで、しおらしくて、万事におどおどとした、めくらながらも美貌《びぼう》の少年だったが、裸にしてみると、そのからだはすっかり大人になっていた。
後家はその晩、一刻半《いっときはん》(三時間)にわたって、春雪のからだをもてあそんだ。
はじめは顔をあからめ、おどおどしがちだった春雪も、いったん女を知ってしまうと、腹がすわった。かれは女のどんな求めにもみずからすすんで応じて、ひるむところがなかった。
この一夜にして、春雪の性情はがらりとかわった。それからのちの春雪は、そういう席というと、よろこんで出向いていった。
盲のかれはカンがよかった。
女の急所をすぐ会得した。女を七転八倒させるあらゆる技術を身につけた。
ふしぎなことに、春雪はわかい女を好まなかった。かれがよろこんで招きにおうじる客といえば、きまって、親子ほどもとしのちがう大年増だった。
春雪には、マザー・コンプレックスがあったらしい。じぶんの母のような年増女に、おもうぞんぶんあまえてみたいという欲望と、その年ごろの女をいじめて、いじめて、いじめぬいてやりたいという欲望が、同居しているらしかった。
ゆうべ千紫の女房、お千代の招きにおうじたのも、あいての年かっこうをきいたからである。しかし、それにしても、その招待というのがみょうだった。葛籠《つづら》にはいって、忍んでくれというのである。
春雪は、千紫の名も、お千代の名も、聞くのははじめてで、なんとなくおぼつかなくおもったが、そこは稼業柄《かぎょうがら》、いちいち客のみょうな注文を気にしては、いいお座敷も外してしまう。
そこで、注文どおり、葛籠にはいって忍んでいったのだが。
「それがみょうなのでございます。お座敷へはいってからも、だれも葛籠をあけてくれるものがございません。それで、そっと葛籠から外へはいだしたのでございますが、なんせめくらの悲しさ、あたりにどんなことがおこっているやらちっとも気付かずに、そこらじゅうをなでまわしていると、そのときそばで、きゃっというような声がきこえましたので……」
それはたしかに女――それも、わかい女の声だった。
春雪は、それが客のお千代であろうと、あいさつをすると、女はいきなり春雪の手をとって、
「春雪さん、こんなところでまごまごしてると、とんでもないことになりますよ。さあ、外まで手をひいてあげるから、ぐずぐずせずにすぐお逃げ」
女はそういって、むりやりに春雪の体をひったて、外まででると、かれをのこして、いずこともなく立ち去ってしまったというのである。
これは意外な新事実であった。
すると、あの凶行に前後して、ここにひとりのわかい女が登場してきたことになる。いったい、そいつは何者であろう。そいつが犯人なのだろうか。
春雪のくちぶりをみると、まさかうそをいっているとはおもえない。佐七はおもわず与力の神崎甚五郎と顔見合わせたが、
「春雪さん、おまえさん、うまれは奥州の二本松だそうだね」
「はい、さようでございます」
「お米さん、おかみさんは江戸者じゃないというが、どこのうまれか知らないかえ」
お米はなにかしらおもいあたったように、
「そういえば、おかみさんのことばには、ときどきあちらのなまりがでたようでございます」
春雪はそれをきくと、きゅうにせきこんだ模様で、めしいた目をみはりながら、
「あの、つかぬことを伺いますが、それで、おつれあいというのは、絵かきさんではございませんか」
「春雪さん、絵かきさんだと、なにか心当たりがあるのかえ」
春雪はそれを聞くと、まるでおこりにでもかかったように、血相かえて身ぶるいしたが、それっきり、あるともないとも答えなった。
千紫の書きおきによると、あきらかに春雪が下手人だとうったえている。
してみれば、千紫と春雪のあいだに、なんらかの掛かりあいのあることは明白だったが、しかし、春雪のようすをみると、かれはいままで千紫のことには、まったく気がついていなかったらしい。
神崎甚五郎はそれでもゆいいつの容疑者として春雪をひったてようといったが、佐七はなにをおもったのか、ひとまずそれを押しとどめ、春雪はいちじ町内預けということにして、かれはそれから現場へおもむいて死体をあらためたが、べつに得るところもなく、その日は失望のうちに、お玉が池の自宅へかえった。
ところが、その翌朝のおきぬけに、鶉の介十郎が、あの道具屋の佐兵衛と、もうひとり若い娘をひきつれて、風のようにおどりこんできた。
「お玉が池、わかった。春雪はやっぱり下手人じゃねえらしい。ここにいる娘が生き証人だ。お玉ちゃん、さっきの話をもういちどここでしてくれ」
お玉というのはまだ十六、七、みなりは粗末だが、どこかきりりとしたところのあるのもどうり、彼女は佐兵衛や春雪とおなじ長屋にすむ浪人、石田|弥兵衛《やへえ》というものの娘だと、みずから名乗った。
「佐兵衛さんにきいていただけばわかりますが、わたしはあの晩、千紫さんにかけ合いがあって、まいったのでございます」
お玉はわるびれずに話した。
あの探幽斎の一軸というのは、じつはお玉の父、石田弥兵衛の手からでたものである。
石田弥兵衛はもと中国筋のさる大名につかえて、そうとうの身分だったが、ながの浪々にかててくわえて、ちかごろは足腰もたたぬ病気に、ついたくわえも使いはたし、よんどころなく、先祖からつたわっている探幽の一軸を手放すことにきめ、これを佐兵衛にたのんだのだが、その佐兵衛はまた、そいつを千紫のもとへもちこんだ。
それが、いつまでたってもらちがあかぬので、佐兵衛をつうじていったんあの一軸をかえすよう交渉したが、とかく言を左右にして、千紫はそれをきこうとしない。ごうをにやしたお玉は、そこであの晩、病中の父にかわって、みずからかけ合いにいったのである。
「すると、あのおかみさんの死体でございます。あまりのおそろしさに、気も遠くなるばかり、ぼんやりそこに突っ立っておりますと、そのとき、かたわらにある葛籠《つづら》から、おなじ長屋の春雪さんが、そろそろはいだしてまいりましたので、びっくりして、いっしょに逃げたのでございます」
お玉はこのことをだれにも話さぬつもりでいたが、気の毒な春雪さんに疑いがかかっているようすに、矢もたてもたまらなくなって、名乗りでたのだという。
「それにしても、春雪さんと千紫さんは、みょうな縁がございます。このあいだ、春雪さんにたのまれた絵馬を、じつはあっしが千紫さんのところへ持ち込みましたので」
佐兵衛はそういって、あのきみょうな絵馬のいきさつを、佐七のまえで物語った。
「ふうん、それはみょうな絵馬だな。そして、その絵馬は、いったいどこにあるんだえ」
「はい、できるとすぐ、浅草の観音さまの絵馬堂へ奉納したようでございますから、いまでもそこにあるんでございましょう」
解けるなぞ絵馬
――春雪坊の世にも哀れな物語
お玉のはなしによって、どうやら春雪の疑いはとけたが、それにしても、千紫と春雪のあいだに、どんなかかりあいがあるのだろう。
お米のはなしによると、お千代はかねてから、春雪に血道をあげていたらしいから、千紫はとしよりの嫉妬《しっと》から、いちずに春雪を憎んだのかもしれないが、しかし、お千代と春雪のあいだに、とくべつの情交があったらしいとはおもえない。
だいいち、あの日まで、春雪はお千代の名前さえしらなかったというのに、千紫の書き置きは、その二、三日まえに書かれているのである。
それにしても、お千代はなぜ、春雪にたいして、とくべつの関心をもっていたのだろうか。
どうやらふたりは同郷らしいから、そこになにか、つながりがあるのではなかろうか。
佐七はそののち、たびたび春雪を呼びだしてたずねたが、春雪は頑強《がんきょう》に、しらぬ存ぜぬのいってんばり、お千代のつれあいが画工ときいたときのとりみだしたようすなど、気振りにもみせなかった。
ごうをにやした佐七は、お米を呼んでたずねてみたが、それまでいちども、春雪がたずねてきたことはないという。
千紫の兄の其水も、まだ旅からかえってこない。
ここですっかり捜索の糸のきれたのに当惑した佐七は、ある日、蔵前のほうへ、用があってまわったついでに、浅草まで足をのばして、あの絵馬堂をのぞいてみた。
それはもうあの一件があってから一カ月ほどのちのことだった。
春雪の奉納した絵馬は、たずねるまでもなくすぐわかった。佐七はしばらく、千紫の筆になるあの奇妙ななぞ絵とにらめっこをしていたが、はたとひざをたたくと、その足で、町内あずけになっている春雪のもとへやってきた。
「春雪、おまえ、その目がつぶれたのは、どういういきさつからだ」
いきなりズバリときかれて、春雪ははっと顔色をうごかしたが、佐七はすかさず、
「春雪、お千代はおまえのおふくろだな。かくしてもだめだぜ。あの鬼王の絵馬は、歳暮(生母)にうらみがあるという心。また、碁打ちのほうは、目のかたきという心だろう」
図星をさされた春雪は、はっと両手をつくと、はらはらと涙をひざへおとした。
「恐れいりました。もうなにもかも申し上げます」
そこで春雪のはなしたところによると、かれはまことにあわれな身の上だった。
春雪は二本松の庄屋《しょうや》のひとり息子で、お千代(本名はお新)はその母であった。
ところが、いまから十二、三年まえのこと、かれの家へわらじをぬいだのが、当時、雁金《かりがね》紫紅と名乗っていた旅絵師の千紫である。
江戸の水であらいあげただけに、千紫はさすがにあけ抜けしていた。
また、お千代もいなかでめずらしい美人、いつしかひとめを忍ぶなかになったふたりは、まもなく、夫や子どもを振りすてて逃げたのである。
「そのとき、わたしは五つでございました。母のただならぬようすに、いっちゃいや、いっちゃいやと、取りすがると、絵かきの紫紅がなにをしやがると、絵の具ざらを投げつけたのでございますが、そのとき絵の具の朱が目にはいって……」
朱には水銀がまじっているからたまらない。春雪はそのときから、目がつぶれてしまったのである。
「しかし、わたしの目などどうでもよろしゅうございます。かわいそうなのは父で、それからどっと患いついて、まもなくあの世へ旅立ち、家はそれっきりつぶれてしまいました」
その日からおよそ十年、春雪は母のことを、忘れた日とてなかった。ところが、去年の秋、かれのふしぎななぞ解きの才能が、旅まわりの興行師のみとむるところとなり、そのつてで出府したのだが、かたときも忘れられない無情の母と、ふたつにはじぶんの目をつぶしたかたきの紫紅にめぐりあいたいと、ああいうきみょうな絵馬を奉納したのだった。
しかも、かれは、その絵馬を書いてくれた画工こそ当の紫紅とは、ゆめにもしる由がなかったのである。
「なにしろ、わたしはこのように目が不自由なうえに、ずいぶんむかしのことゆえ、にくい紫紅の顔もおぼつかなく、ただ手掛かりとなるのは、紫紅の左の腕にある大きなぼたんのかたちをした痣《あざ》だけでございました」
春雪はそういって、またしてもみえぬ目より、はらはらと涙をおとすのである。
「なるほど、すると、紫紅の左の腕には痣があるのかえ」
「はい、ぼたんのかたちをした痣がくっきりと……」
「よし、いいことを聞かせてくれた。春雪さん、いずれ礼はあとでするぜ」
なんとおもったのか、佐七はいきなりそこを飛びだすと、千紫のもとの住み家へやってきたが、あたかもよし、そのときお米が、おびえたようなかおをして、表にたたずんでいるところだった。
「ああ、親分さん」
お米は佐七の顔をみると、いきなり、
「ちょうどよいところでございました。いまむこうへいくのが其水《きすい》さんで、旅で顔に大やけどをしたとかで、それはそれはおそろしい顔になって、わたし、すっかり見ちがえてしまいました」
それをきくと人形佐七、ギクリとした面持ちでむこうをみると、いましも総髪の男が、みるからに尾羽うち枯らしたふうていで、とぼとぼと両国橋へさしかかる。
佐七はすぐにそのあとを追っかけた。
証拠のぼたん
――その顔はまゆもなければまつげもない
「あ、もし、そこへおいでになるのは、天運堂さんじゃございませんかえ」
両国橋のうえだった。
うしろから佐七にこう呼びとめられた天運堂其水は、つかれたような足をとめると、ぼんやりあとを振りかえったが、ひとめその顔をみたとたん、さすがの佐七も、おもわずぎょっと息をのんだのである。
なるほど、これじゃお米がおびえたのもむりはない。
其水の顔には、まゆもなければまつげもない。
顔いちめん赤くやけただれて、小鬢《こびん》はむしりとったようにはげあがり、片目は引きつり、ものすごいともおそろしともいいようのない醜怪さなのだ。
「はい、わたしになんぞご用でございますかな」
佐七の顔をみても、其水のおもてにはなんの感動もあらわれない。
ぼんやりと、放心したようなまなざしは、旅先であったおのが災難をくやんでいるのか、それともじぶんのるすちゅうにおこった兄弟の不幸をいたんでいるのか。
「おまえさんが、あの千紫さんの兄さんですね」
「はい、さようで」
其水は水銀でものんだようながらがら声でそういうと、さすがにひとみをおとして足もとを見る。
「こんどはまた、とんだことになりましたねえ。千紫さんご夫婦も、まったくお気の毒なことになったもんですが、おまえさんもさぞ驚きなすったことだろう。お力落としでもありましょうねえ」
「驚いたかとおっしゃるので? はい、それはずいぶん驚きました。しかし、力落としかどうか、じぶんでもわかりません」
「へへえ、それはまたどうして?」
「なに、どうしてってわけじゃありませんが、千紫とわたしとは、もともと、あまり仲のよい兄弟じゃありませんので。あいつはいたって不人情なやつで、兄のわたしが困っていても、めったに助けてくれたことはありません。こんなことになるのも、日ごろから兄を粗末にした天罰でございましょうよ」
其水はのどにかかったような声で、気味わるく笑うのだが、なにせあの化け物みたいな顔だから、いや、そのものすごいこと。
「なるほど、それじゃ、おまえさんがた兄弟は、日ごろ、あまり行き来をしていなかったので?」
「行き来? わたしのほうから訪ねていけば剣もほろろのあいさつだし、千紫のほうから訪ねてくることはまちがってもありませんから、行き来していたなんて、義理にもいえません」
「ふむ、そうすると、おまえさんはこんどのことについて、下手人の心当たりはありますまいね」
「下手人の心当たり?」
其水はひとりごとのようにつぶやいて、
「むろん、わたしに心当たりなど、あろうはずはございません。しかし……いま、お米にきいたところじゃ、千紫のやつは、わたしになにか書き置きを残していったというじゃありませんか」
いいながら、其水はじっと佐七の顔をみる。
「ふむ、その書き置きだが、これはお上の手でひらいてみたんだ。そのなかに、じぶんの身に万一のことがあれば、下手人はなぞ坊主の春雪だとかいてあるんです。おまえさん、それをどうおもいますね」
「どうおもうも、こうおもうもありません。千紫がそう書いているのなら、その春雪とやらが下手人にちがいありますまい」
「おまえさんは春雪を知っていなさるかね」
「さあてね、どこかできいたような名前だが」
「いや、その春雪について、おもしろいことがあります。春雪というのは、いまでこそめくらだが、そのむかし、まだ幼いじぶんには、りっぱに目があいていたんです。そのじぶん、春雪は千紫さんをよく知っていたそうだが、いまでもはっきりおぼえているのは、千紫さんの左の腕に、ぼたんがたの痣《あざ》があったそうで」
「…………」
「ところが、おもしろいじゃありませんか。このあいだ井戸からでてきた首なし死体には、痣なんかこれっぽっちもなかったんですぜ」
「あの、なんの話か存じませんが、わたしは少々急ぎますので、これにてごめんこうむります」
「いや、もうすこし待っておくんなさい。おまえさんも兄弟のことだから、よくしっていなさるだろうが、千紫さんの左の腕に、ぼたんがたの痣があったか、なかったか……」
「さあ、なにしろ長いことあわないので、そんなことは忘れましたが……では、これにてごめんこうむります」
「おっと、ちょっと待ちねえ」
行きすぎようとする其水の左の腕を、やにわにむんずとつかんだから、おどろいたのは其水だ。
「あ、なにをする」
「なにもへちまもあるもんか、おまえの左腕をみてえのだ」
ぐいとまくりあげた其水の左の腕には、まごうかたなく、ぼたんがたの痣がありありと……。
「あ、なにをしやアがる」
「其水、いやさ、千紫、うまく狂言書きゃアがったな。あの井戸からでてきた死体こそ、きさまの兄貴の其水だろう」
「畜生ッ」
叫ぶとみるや、やにわにふところから抜きはなったのは匕首《あいくち》だ。そいつをさか手にしゃにむに突いてかかるのを、
「なにをしやがる」
二、三合渡りあっているうちに、匕首をたたきおとされ、もうこれまでとおもったのか、あっというまもない、とっさに橋の欄干をおどりこえると、ざんぶとばかりに、川のなかへとび込んでしまったのである……。
千紫のからだはそれからまもなく、土左衛門《どざえもん》となって浮きあがったが、悪人のおおいなかに、これほどわるいやつもなかっただろう。
なぞ坊主春雪からたのまれたあの二枚のなぞ絵馬、そのなぞを解い千紫は、いっぽう女房お千代のそぶりから、春雪こそじぶんをねらうかたきとしったから、さあ、恐ろしくてたまらない。
いまにお千代が手引きして、春雪にじぶんを討たせるのではあるまいかと、そこは脛《すね》に傷をもつ身の、みょうに邪推したかれは、先手をうって、女房お千代をころしたのだが、それではじぶんに疑いのかかるおそれがある。
そこで、日ごろから仲のわるい兄貴の其水をおびきよせ、これを殺して、こいつをじぶんの身代わりにたてたのである。こうしてじぶんは、死んだものになって、身をかくしたのだが、これにはもうひとつ目的がある。
というのは、すなわち、お玉の父の弥兵衛からあずかった探幽の一軸である。
いうまでもなく、あの一軸はほんものだったから、その当時の値段にしても莫大《ばくだい》な財産だったにちがいない。
おおかた、其水に化けてほとぼりのさめるのを待ち、上方へでも立ちのいて、ひそかにこれを売り払おうという魂胆だったのだろう。
それにしても、わるいことはできないもので、女房を殺してしまえば、だれしるものもないとおもっていたあの痣《あざ》の秘密を、当のかたきの春雪がおぼえていて、それから罪が露顕したのだから、けっきょく、千紫は首尾よくかたきを討たれたかたちになった。
春雪があの晩、葛籠《つづら》にはいって呼びこまれたのも、お千代はすこしもしらぬことで、みんな春雪に罪をきせようという千紫の魂胆、いや、どこまでもわるいやつかしれなかった。
そののち、一軸はぶじにお玉親子の手元へかえったが、縁というものはふしぎなもので、このことがあってから、おなじ長屋のお玉と春雪、みょうに心と心がかようて、それからまもなく夫婦になったという。
母のあわれな最期をしった春雪は、おそらく、マザー・コンプレックスから解放されることだろう。
お時計献上
柳の下の女
――お高祖頭巾《こそずきん》の下からほの白い顔
「公達《きんだち》のきつね化けたり春の宵《よい》――ちゅうのんはだれの句やったかいな。今晩あたり、ちょうどそんな感じやおまへんか」
「バカあいうな。むやみにきつねに化けられてたまるもんか」
「あっはっは。兄い、おじけづきよったんやな。構へんがな。こんな晩には、ちょっときつねにだまされてみるもんや。きっとおつなもんやぜ」
「つまらねえこというない。馬の小便のまされて、なにがおつなもんか。おや」
と、蔵前から柳橋へかかるくらがりで、ひくいとんきょうな声をあげて立ちどまったのは、おなじみのきんちゃくの辰。へっぴり腰で、むこうのやみをすかしてみながら、
「こうこう、豆六、おまえがつまらねえこというもんだから、うわさをすれば影とやらで、むこうに出やあがったじゃねえか」
「兄い、出たとはなにが……」
「ほら、むこうの柳の下に立っている女……豆六、まゆげにたっぷりつばをつけておきねえ」
なるほど、ねっとりとした春の夜の、あやなきやみの梅ならぬ、ちかごろやっと芽吹いてきた柳の下に、女の影がひとつ、しょんぼりと肩をおとして立っている。
陽気がきゅうにうわむいてきて、空にはぽっかり、八日ばかりのおぼろ月。春もややすがたととのう梅と月――そんな句がピッタリするような夜のことで、辰や豆六みたいな若いものには、むしょうに女の膚の恋しい宵《よい》である。
「兄い、あら身投げやおまへんか」
「バカをいえ。身投げならすぐむこうに大川がある、こんなところでまごまごしてるもんか」
「そんなら夜鷹《よたか》か」
「ふむ。どちらにしても、もう少しそばへいってようすを見よう」
片かげりの陰をひろって、近づいていくふたりの足音に気がついたのか、女はぎょっとこちらを振りかえると、そのまますたすたむこうのほうへいきかける。
「ねえさん、ねえさん、ちょっと待ってくれ」
見つかったらもうこれまでと、辰がうしろから声をかけると、
「はい、あの、なにか御用でございますか」
と、女はしずかに答えて立ちどまる。
見ると、お高祖頭巾《こそずきん》をかぶっているが、そのあいだからのぞいた顔が、やみに咲いた白梅のようににおやかである。
「おまえ、こんなところでなにをしているんだ。見ればまだ若い女のようだが、こんなところでまごまごしていると、おおかみにかみつかれるぜ」
「そやそや、このへんにゃ送りおおかみちゅうやつがうろうろしてるさかいにな。わてらやったら大丈夫やけどな」
豆六がさっそく売りこみにかかるのをきいて、
「あら、そういう声は、お玉が池のにいさんたちじゃアありませんか」
と、女のほうから名をさされて、辰や豆六はぎくっとした。
「えっ、そういうおまえは、いったいだれだ」
「あたしですよ。茗荷屋《みょうがや》のおきんですよ」
と、お高祖頭巾をばらりととった顔を見て、
「おお、なるほど、おまえはおきんだな。しかし、こんなところでなにをしてるんだ」
「ほっほっほ、野暮なことをおたずねになるもんじゃありませんよ。あたしゃこれでまだ若いんですからね。にいさんがたこそ、どちらからのお帰りですの。きっと北のほうでお楽しみの筋だったんでしょう」
「そんなんじゃねえや。しかし、おきん、おまえほんとにこんなところで……?」
と、辰が疑いぶかい目をむけるのを、
「ほっほっほ。どうやら今夜も待ちぼけらしいわ。片思いはつらいわねえ。にいさん、ごめんなさい」
艶《えん》なながし目をふたりにくれると、女はちょっと天文屋敷の横町に心をのこして、そのまますたすた柳橋のほうへ消えていく。
この女は、両国にずらりとならぶ水茶屋のなかでも、一といって二とはさがらぬ人気者。茗荷屋のおきんという茶くみ女である。辰と豆六は、ちょっと鼻づらとって引きまわされたかたちで、ぽかんとおきんのうしろ姿を見送っていたが、
「兄い、それじゃおきんはここで、情人《いろ》と待ち合わせしていよったんかいな」
「ふむ、そうだとすると、その情人は、天文屋敷の横町からやってきやアがるんだな」
いくらか中っ腹の辰と豆六が、天文屋敷の横をのぞいてみたとき、むこうからすたすたと急ぎあしにやってきた男が、ふたりの姿に気がつくと、きゅうにぎくりと足をとめた。
そして、透かすようにこちらのようすをうかがっていたが、なにを思ったのか、にわかにくるりと身をひるがえすと、そのままむこうへ駆けだした。
「おや、変なまねをしやあがる。おい、豆六」
「よっしゃ」
ふたりが追っかけてくると知ってか、怪しの影はいよいよ足をはやめて、元鳥越から三味線堀《しゃみせんぼり》へと、一目散に走っていく。なにやら四角い箱のようなものをかかえているのが、おりからあがった月の光ではっきり見えた。
「待てえ!」
と、辰が声をかけたが、あいては待つどころか、反対にいよいよ足を早めて、三味線堀のほとりまできたときには、とうとう影を見失ってしまった。
「ちぇっ、いまいましい。しかし、兄い、あらいったい何者だっしゃろ。まだ若い男のようだしたなあ」
「そうよなあ。どうせひとのすがたを見て逃げだすやつだから、ろくな人間じゃアあるめえ。惜しいことをした。案外大物だったかもしれねえ」
「兄い」
豆六が思い出したように、
「ひょっとしたら、おきんの待ち人ちゅうのんは、あいつやったんやおまへんやろか」
「そうかもしれねえ。だけどよ、こちとらのすがたを見て、いきなりきびすをかえして逃げだすとはうろんなやつだ。あいつたしかに天文屋敷のほうからやってきたな」
「さよさよ。かたわきになにやら四角い箱みたいなもん、かかえこんでましたなあ。走るたんびにカタカタ音がしてましたぜ」
「なににしても怪しいやつだ。豆六、もういちど天文屋敷のほうへひきかえしてみようじゃねえか」
そこはさすがに佐七のお仕込み、怪しいとみれば、捨てておけないのがこのふたりの性分なので。
「よっしゃ、どう考えてもけったいなんはいまのやつの振る舞いや。なんぞあったにちがいおまへん。それにしても、いまのやつ、おきんとなんぞ関係がおまんねんやろか」
豆六はあくまでおきんにこだわっている。
「よしゃアがれ、おきんおきんと。おきんのことなどどうでもいい。それより、いまのやつ、どこからとび出してきやあがったのか……」
ふたりはブツクサいいながら、天文屋敷のほうへひきかえしてくる。
天文屋敷というのは幕府の天文方のあるところで、もと牛込の藁店《わらだな》にあったのを、天明二年に、浅草の新堀《しんぼり》と三味線堀のあいだに移した。天文方とは読んで字のごとく、天文、暦術、測量、地誌などをつかさどる職掌をいうのだが、それがこちらへ移されてから、そのへんいったいを天文原とよんでいた。
そばにそういう科学的なお役所があるせいでもあるまいが、そのへんにはこまかい細工をする職人が多く住んでいたという。
辰と豆六がおぼろの月影をふみながら、天文屋敷のほうへひきかえしてくると、果たせるかな、だしぬけにきこえてきたのは、
「人殺しい! だれかきてえ!」
という女の叫び声。つづいて、あわただしい下駄《げた》の音がちかづいてくる。
密室の殺人
――甚内《じんない》の胸に立ったは時計の針
辰と豆六はいったんぎょっと立ちどまったが、すぐ声のするほうへ駆けだしていく。新堀をわたって横町へ曲がると、老婆がひとり髪振り乱して、気違いのように路地からとび出した。
「あッ、おっかあ、ど、どうしたんだ」
「ああ、おまえさん、きてください。せがれが殺されているんです」
老婆について路地へはいると、おくから二軒目の右がわに、格子のはまった窓がある。
「見てください。せがれがこのなかで殺されて……」
窓の戸は五寸ばかりあいている。そこからなかをのぞくと、ほのぐらい行灯《あんどん》のそばに、男がひとり、くわっと目をむいたままたおれている。おそろしく出目で、目玉がいまにも眼窩《がんか》からとびだしそうだ。
「あッ、兄い、あら、からくり甚内《じんない》やないか」
「はい、あの、さようで。わたくしのせがれの甚内でございます」
「よし、それでおっかあ、入り口はどっちだ」
「はい、こちらでございます」
窓のそばにある格子戸をはいると、そこは三畳と六畳になっていて、六畳のおくにがんじょうな観音びらきの戸がしまっている。
「この戸のおくがせがれの細工場になっております。せがれは仕事をするところを人に見られるのをきらいまして、いつもなかから閂《かんぬき》をおろします。今夜わたしが外からかえってくると、この戸がなかからしまっております。声をかけたが返事もございません。変におもって表へまわり、窓からのぞいてみるとあのありさまで……」
なるほど、なかから閂がしまっているとみえて、がんじょうなかしの戸はびくともしない。
「おっかあ、それでこの仕事場には、ほかに出入り口があるのかい」
「いいえ、ここだけでございます。さっきの窓はございますが、ごらんのとおり格子がはまっておりますし……」
辰と豆六はおもわず顔を見合わせた。
「おっかあ、それじゃおかしいじゃないか。下手人はいったいどこから逃げたんだ」
「兄い、とにかくこの戸を破って、なかへはいってみよやないか」
そこへ、さわぎを聞きつけて、近所のものが五、六人やってきたので、それに手伝わせて戸をたたきこわすと、
「おっと、ここからはいっちゃいけねえ。大事な証拠があるかもしれねえからな」
仕事場のなかは雑然として、さまざまなからくりが壁いちめんにぶらさげてある。
そのなかでも、辰と豆六の目をひいたのは、正面にかざってあるやぐら時計だ。
その時計には針がなくて、めしいたような文字盤が、行灯《あんどん》の光にしらじらと光っている。
下手人がどこかにかくれているのではないかと、ふたりは仕事場のなかを見まわしたが、どこにもそれらしい影はない。
「おかしいなあ。下手人はいったい、どっから逃げよったんやろ」
「それより、豆六、甚内はほんとに殺されたのか。ちょっと調べてみようじゃあねえか」
辰と豆六はぬきあしで甚内のそばへよると、そっとそのからだを抱き起こしたが、そのとたん、ふたりはぎくっと、ひとみをふるわせた。
甚内の胸に妙なものが突ったっている。それは透かし彫りの唐草のような形をした金属で、きらりと黄金色に光っている。
短刀にしては握りの幅がひろすぎるし、こしらえも華奢《きゃしゃ》である。いったい、これは……と、辰は首をひねったが、はっと気がついたように、そばにある針のない時計に目をやった。
「おい、おっかあ、甚内の胸にささっているこのしろものは……」
「はい、それはこのあいだ、阿部《あべ》様のお屋敷へおさめました献上時計の針でございます」
甚内の母のおりくは、仕事場の外に立ったまま、恐ろしそうに顔をそむけて、歯をがちがちと鳴らしていた。
からくり甚内
――わが子ながらも悪いやつで
からくり甚内《じんない》というのは、当時有名なからくり師であった。
もとは柳営御用のお時計師、近江暁雪《おうみぎょうせつ》の弟子で、師匠まさりといわれるほどの名人だったが、持ってうまれた名人気質がわざわいして、師匠から破門されたのちは、ちまたのからくり師として、その技量と奇行が評判だった。
おそろしく醜男《ぶおとこ》で無愛想で、目玉がとび出しているところから、出目の甚内という異名があるが、その作るところのからくり仕掛けの精巧さにいたっては、ほとんど類とまね手がない。
その腕前にほれこんで、召し抱えよう、扶持《ふち》しようという大名もおおかったが、当人はあくまでちまたのからくり師でおわる所存か、妻もめとらず、ひょうひょうとして、おふくろとふたり暮らしの清貧に甘んじていた。
「ときに、おっかあ、阿部様へおさめた献上時計というのは、いったいどういうんだえ」
それからまもなく、豆六の注進によって駆けつけてきた佐七は、現場のようすから、甚内の死体をくわしく調べおわったのち、改めておりくのほうへむきなおった。
「はい、あの、それはかようでございます」
おどおどと、おりくが語るところによるとこうである。
ちかく将軍家の姫君におよろこびがあるので、諸大名は献上物にひとかたならぬ苦心を払っていたが、そのなかで備中岡田《びっちゅうおかだ》で十万石の阿部対馬守《あべつしまのかみ》様は、お祝いとしてお時計を献上することになった。
そのお時計御用の一切をまかされたのが、石井大蔵というお留守居役。なにしろ、他家の献上品におくれをとらぬようにとの殿のおことばだから、大蔵さんの苦労もなみやたいていではない。
そこで白羽の矢を立てたのが、柳営御用のお時計師近江暁雪。
大蔵さんがあたってみたところが、老人の返事に、じぶんはなにぶん老体のことゆえごめんこうむりたい。
しかし、そういう事情ならば、弟子の菊之丞《きくのじょう》に作らせましょう。若年ながらも菊之丞、じぶんの見こんだ腕に間違いのあろうはずはない。かならずご満足のいくような品を作りましょうという返事だ。
大蔵さんはよんどころなく、いったんはよろしく頼むと引きさがったが、なんといっても若年の弟子では心もとない。そこで、念のためにもうひとりの人物に注文した。
それがからくり甚内である。
大蔵さんの腹では、こうしてふたりのつくった時計のうち、すぐれたほうを献上しようというずるい腹だったが、悪いことはできないものだ。
ある日、まず菊之丞ができあがった時計を持ってやってきた。機械のことはよくわからなかったが、見たところりっぱなできだった。五尺のやぐらの頂上には、鳳凰《ほうおう》が羽根をひろげていて、その羽根にちりばめた七宝の見事さ。
これなら案ずることもなかったと、大蔵さんもよろこんで、労をねぎらってかえしたが、そこへやってきたのが甚内だ。
ふたりはむかしの相弟子である。
その甚内が大きな時計をはこんできたのだから、菊之丞ははっと顔色をかえたが、そのままなにもいわずにかえっていった。甚内も座敷に飾ってある時計を見ると、不快そうに顔をしかめたが、こうなると大蔵さんもかくすわけにいかない。
やむなくいままでのいきさつを話すと、
「それじゃ、だんなはまんまとわれわれに競争させたというわけですね」
日ごろ、偏屈でとおっている甚内のことだから、どんなにおこるかと思いのほか、ただ菊之丞の時計を調べただけで、黙ってかえっていった。
ところが、甚内がかえってからまもなく、菊之丞が引き返してきた。甚内の時計を見せてくれというのである。大蔵さんもいなむわけにはいかなかった。甚内に菊之丞の時計を見せているのだから、菊之丞にこれをこばむのは不公平だと思った。
菊之丞は甚内の時計をあらためていたが、しだいに顔が青ざめてきた。額に汗がうかんできた。
「どうだ。菊之丞、甚内のからくりがわかったか」
「はい……」
菊之丞はことばをにごしたが、やがてあいさつもそこそこにかえっていった。
こうしてふたつの時計がそろったので、日をあらためて殿の御前でふたりがからくりの説明をして、優劣をきめるということになっていたが、それから三日目の晩、くせ者がしのびこんで、時計の針をもぎとっていったのである。
「えッ、時計の針を……? してして、おっかあ、どちらの時計の針だえ」
「それが両方なのでございます。菊之丞さんの時計も、甚内の時計も、両方とも朝になると、針がもぎとられていたのだそうで……」
おりくは声をふるわせた。
佐七は甚内の胸に突っ立った時計の針に目をやりながら、
「そして、この針をどっちの時計の針だえ」
「さあ……甚内のつくった針ではございませんから、ひょっとすると菊之丞さんの……」
おりくはまた声をふるわせる。
佐七は辰と豆六と顔見合わせながら、
「それからどうした。ここに時計があるようだが、これは献上時計とちがうのか」
「いえ、あの、それがそうでございます。なにしろ、どろぼうが針を持っていったものですから、もういちど針を取りつけてまいるようにと、菊之丞さんも甚内も、いったん時計をさげわたされましたので……それがきょうの昼間のことでした」
佐七はだまって考えていたが、
「ときにおっかあ、甚内さんは師匠から破門されたということだが、なんかわけがあったのかえ」
おりくはそれを聞くと、はっと顔色あおざめたが、やがて蚊の鳴くような声で、
「近江のだんなさまには、お嬢さまがひとりございます。お妙《たえ》さまといって、とてもきれいなお嬢さまで、甚内とは乳兄妹《ちきょうだい》になります」
「ああ、そうか。それじゃおまえさんは、お妙さまというお嬢さんのお乳母さんだったんだね」
「はい」
「そのお妙さまというのがどうしたんだ」
「あろうことかあるまいことか、甚内めがそのお嬢さまに恋慕いたしまして、そでを引いたとやらくどいたとやら……それで、だんなさまがお怒りなさいまして、甚内めは破門、わたくしも放逐されたのでございます」
おりくはほろりと涙を落とした。
佐七は辰や豆六と顔見合わせたが、すぐまた老婆のほうにむきなおり、
「ときに、おっかあ、おまえ両国の水茶屋に出ているおきんという女を知らないかえ」
「はい、おきんさんならよく存じておりますが、あの娘がなにか……?」
「いや、なんでもいいが、おきんとはどういう関係があるんだえ」
おりくはちょっと目をうるませて、
「甚内めがあの娘に手を出したらしゅうございます。それいらい、あの娘は甚内めを慕って、お嫁にしてほしいと、ちょくちょくここへくるんですが、甚内めは剣もホロロに寄せつけず……わが子ながらも悪いやつでございます」
たまりかねたように、おりくはわっとその場に泣き伏した。
怪しの老婆
――親分、ばばあをたたいてみましょうか
佐七はもういちどあらためて、献上時計と甚内の胸に突っ立っている時計の針を見くらべたが、どうみてもこの時計にこの針はあわない。
そうすると、これは菊之丞のつくった時計の針なのだろうか。菊之丞のつくった時計の針も盗まれたということだが、それではそのどろぼうがしのんできて、甚内を殺したのであろうか。しかし、それではなんのために……?
佐七は甚内の胸から時計の針を抜きとると、血をぬぐってふところにいれた。
それから念のために、献上時計のなかをのぞいたが、そのとたん、思わずぎょっと息をのんだ。時計の内部のからくりは、めちゃめちゃにたたきこわされているのである。
それでは、下手人はこの時計をたたきこわしにやってきたのか……?
佐七はきっとおりくのほうを振りかえると、
「おっかあ、おまえさんは今夜どこへいっていたんだ」
「はい、わたくしは甚内にたのまれて、宵《よい》から浅草のほうへ、用事にいっておりました」
「そして、かえってきたら甚内さんが殺されていたというんだな。それは何刻《なんどき》ごろのことだ」
「はい、五つ半(九時)ごろのことでした」
「おまえはあの窓からのぞいて、甚内が殺されていることを知ったんだな」
「は、はい、さ、さようで……」
おりくの目はふいと、不安の色にかげった。
「もし」
と、佐七は仕事場のそとにいる近所の連中に声をかけて、
「今夜ここへだれか訪ねてきたものがあるのを、どなたかご存じじゃありませんか」
「はい、あの、それならば……」
と、ちょっと体をのりだしたのは、四十前後のうすあばたのある男である。
「わたしはこのとなりにすむ吉兵衛《きちべえ》というもんですが、たしか五つ(八時)過ぎ、たれか客がきたようでした。甚内さんはその客と、だいぶん長く話をしていたようすですが、五つ半(九時)ちょっとまえ、その客とつれだって出かけたようでした。しかし、まもなく甚内さんだけがかえってきて……それから、しばらくしてこのおっかさんがかえってきたんです」
「甚内がかえってきてから、なにかこの家で物音がしやあしなかったかえ」
「さあ、それは……甚内さんがかえってきたので、わたしゃるすをたのんで、おふろへいったもんですから……」
あいにく吉兵衛は男やもめで、かれがふろへいくとあとは空き家も同然だった。
「それで、その客というのをおまえ見やアしなかったかえ」
「それが、あいにく」
「男か、女か」
「男のようでしたね」
「そうとう長く話していたとしたら、甚内の知ってるものだろうな」
「たぶんそうだと思います」
「おっかあ、おまえその客に心当たりはねえか」
「さあ、いっこう……ひょっとすると、わたしをその客にあわせたくなかったので、わざと用事をこしらえて、家から出したんじゃございますまいか」
「ふむ。そんなことかもしれねえな」
ほかにだれもその客を見たというものもなかったので、佐七はまもなく、あとを町役人にまかせてそこを出た。
「辰、豆六、おまえたち、おっかあのはなしをどう思う」
「へえ、どう思うとは?」
「おっかあは外からかえってきて、仕事場の外からせがれを呼んだが、返事がないので表へまわって、窓からなかをのぞいたら、甚内が倒れていたので、人殺しと叫んだというんだろ」
「へえ、そのとおりで」
「しかし、おまえたち窓からのぞいたとき、甚内の胸にささっている針がみえたか」
「あっ、そういえば……」
と、辰と豆六はぎっくり顔を見合わせて、
「そういえば、親分、もっとおかしなことがあります。あのかしの戸をたたきこわして、仕事場へはいっていったのは、あっしと豆六のふたりきりなんで。おっかあは仕事場の外にのこっていたんですが、あっしが甚内を抱きおこして、この胸に突っ立っているしろものは……と、尋ねると、おっかあはそくざに献上時計の針だとこたえましたぜ。なあ、おい、豆六」
「そやそや。そんなら、あのばばあ、はじめから甚内が時計の針で殺されてるちゅうこと、知っていよったんやなあ」
「親分、もういちど引きかえして、あのばばあをたたいてみましょうか」
「まあ、よせ、よせ。それより、だれがどうして甚内を殺したあとでまんまと部屋から抜けだしたか……」
「親分、ありゃ窓の外から、手裏剣みたいに投げつけたんじゃねえんで?」
「それにしちゃアこの針は軽すぎる」
「親分、ひょっとしたら、自害やおまへんか」
「バカをいえ。あそこは仕事場だ。自害するならいくらでも刃物があらあ」
佐七は黙って考えこんでいたが、やがてふたりをふりかえると、
「辰、豆六、とにかく茗荷屋のおきんを洗ってみろ。あいつなにか今夜の一件に、かかりあいがあるにちがいねえぜ」
しかし、おきんのゆくえはその晩から、わからなくなってしまった。
名人の嫉妬《しっと》
――お師匠さまは甚内さんに嫉妬して
「親分、たいへんだ、たいへんだ」
「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
あいかわらず騒々しいのが辰と豆六で。ふたりが奴凧《やっこだこ》のように大手をひろげて、キリキリ舞いをしながらとびこんできたのは、それから三日めの昼さがり。
「なんだねえ、辰つぁんも豆さんも騒々しい。わたしゃもう少しで、親分の顔を切るところだったじゃないか」
陽気はいよいよゆるんで、どこやらで初午《はつうま》の太鼓がきこえようというのに、もう弥生《やよい》なかばの暖かさ。その日当たりのいい縁側に耳だらいを持ち出して、佐七はいま恋女房のお粂に顔をあたらせているところだった。
「うえへっ、親分、えろうおめかしですが、なにかお目当てでも」
「そうさ、きょうあたり、おめえたちがおきんのいどころを突きとめて、たいへんだ、たいへんだ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃと、とびこんでこようと思ったから、あらかじめこうして男前をあげておくのさ」
「へへえ。それをまたあねさんが素直に手伝うていやはりまんのんかいな」
「それゃそうよ、豆さん、おきんさんといえば両国の並び茶屋でも一といって二とはさがらぬ手取りもの、たいそうなべっぴんときいているから、わたしゃ親分に恥をかかしちゃならぬと思って、せいぜいみがきあげているところさ。だから、静かにしていておくれな。まかりまちがうと、親分を切られの与三《よさ》にしてしまうかもしれないよ」
「わっ、お粂、われアそんな了見で、顔をあたってやろうといい出したのか」
「そうさ、きょうあたりおきんの居所がつかめそうだと、おまえさんたら、朝っぱらから立ったり座ったり、その心掛けが憎いから、わたしゃこうして剃刀《かみそり》もって……ほっほっほ、おとなしくしていてくださいよ、じたばたすると、三十四カ所の刀傷ってことになりかねないわよ」
「わっわっわ、辰、豆六、助けてくれえ!」
いやはや、だらしない親分もあればあるもんで、右手に剃刀をふりまわされ、左手に鼻をつままれて佐七は目をシロクロ。お粂のやきもちはまいどのこととはいいながら、きょうの作戦アッパレというべきである。
辰と豆六は顔見合わせていたが、やがて豆六は意味ありげに、ホッとふかいため息である。
「やれやれ、お気の毒な。それじゃ親分の女泣かせのその鼻も、きょうを限りのいのちともがなだっかいな」
「豆六、な、なにをいう……」
「そやかて、おきんが一刻《いっとき》もはやく親分にあいたいと、さっきからお待ちかねだすがな。なあ、兄い、そうだっしゃろがな」
豆六がパチパチと怪電波を送れば、こんなことにかけては辰もさとりがはやく、
「そうそう、親分、はやく来てくださいよ、おきんに約束してきたんです。そんなにおまえがこがれるなら、これからかえってすぐに親分をつれてくるってね、えっへっへ」
「辰つぁん、そして、おきんさんはどこで待ってるんだえ」
「へえ、それが築地《つきじ》の方角なんで」
「築地だけじゃわからない、築地のなんといううちだえ」
そのころ、築地には怪しげな茶屋がならんでいたから、お粂の声が巽《たつみ》あがりにはねあがったのもむりはない。
「それがその、辻《つじ》……なんとかいったなあ、豆六」
「ああ、わかった。辻村だね。辻村といえば一流の茶屋、まあ、あんなところで……」
「おい、辰も豆六もなんにもいうな。話は顔をあたってから……」
「いいえ、あたしゃいま聞きたいよ。さあ、いっておくれ、おきんさんは親分に、いったいどんな用事があるんだえ」
「た、辰……ま、豆六……」
「親分、ごめんやすや。そやかて、これがいわずにいられまっかいな。おきんはだいじな証拠をもってまっさかいにな」
「豆さん、証拠ってなんの証拠さ」
「甚内殺しの証拠の針、おきんもおなじ時計の針を……」
「胸にしっかり持ってまんねん。柄《つか》をも通れ、やなかった、根元までとおれとばっかりに、ふかぶかと胸に突きさされ……」
「げえっ!」
「だから、築地の辻番所《つじばんしょ》へかつぎこんでおいたんです。あねさん、これで……」
「得心がいきやはりましたかいな」
「あら、まあ!」
「なんだとう、それじゃおきんも殺されたというのか」
「だから、親分、たいへんだ、たいへんだ」
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
どうやらこれで話は振り出しにもどったようだが、それだけいうのに、これだけ手数がかかるのだから、いやはや、手間のかかるお玉が池の一家ではある。
「それじゃ、おきんのやつも殺されたのか」
「へえ、しかも、親分、おきんのやつも、時計の針でえぐられてまんねん」
「なんだと? おきんも時計の針でえぐられて……してして、場所はどこだ」
「それが、築地鉄砲洲《つきじてっぽうず》なんで。こちとらきょうも木挽町《こびきちょう》の近江暁雪の住まいを張っていたところが、寒さ橋のしたに、こも包みの女の死体が浮きあがったというんで、もしやと思って駆けつけたところが、果たしておきんで……」
「そして、時計の針でえぐり殺されているんだな」
「いえ、親分、死んだのは首をしめられたためらしいんです。ところが、そのあとでどういうわけか、時計の針でえぐったんですね」
「そして、死体は……」
「へえ、築地の辻番所へかつぎこんでおきました」
「よし、それじゃとにかく出かけよう。お粂、支度だ」
「おまえさん、ごめんなさい。そんなこととはつゆしらず……」
「いいから、はやくその剃刀《かみそり》をしまいねえ」
と、三人が取るものも取りあえず、やってきたのは築地鉄砲洲、小笠原長門守《おがさわらながとのかみ》様の塀外《へいそと》にある辻番所である。
おきんは殺されてから海に投げこまれたらしく、水はそれほど飲んではいなかったが、そうとうながく水につかっていたとみえて、皮膚が白くふやけて、見るもむざんなありさまである。
佐七はその胸に突っ立った針を抜きとると、
「辰、豆六、ひょっとすると、これが甚内のつくった時計の針かもしれねえな」
「へえ、あっしもそう思うんですが。そうすると、時計の針を盗んだやつが……」
「ふむ、なんともいえねえが……とにかく、ここを出よう」
三人は辻番所を出ると、
「親分、場所からいっても、おきんは近江暁雪の屋敷でやられたにちがいありませんぜ」
「そやそや。それからこもにくるんで、鉄砲洲から海に投げこみよったにちがいおまへん。してみると、下手人は菊之丞……」
「これ、大きな声をするない。どっちにしても、これはいちおう菊之丞に当たってみなきゃなるめえな」
近江暁雪のすまいは木挽町|采女《うねめ》ガ原《はら》のそばにある。その玄関に立って案内をこうと、出てきたお弟子らしい若い男が、
「お師匠様はご病気で、どなたにもお目にかかることはできません」
と、つっけんどんなあいさつである。
「それじゃ、お嬢さんにでも……」
「ところが、そのお嬢さんもご病気なんです」
佐七はそれを聞くと、おもわず辰や豆六と顔見合わせる。父も娘も病気というのは、そこになにかいわくがなければならぬ。
「それは、それは……それじゃ、菊之丞というかたがいらっしゃるはずだが、そのかたにちょっと……」
「菊之丞さんなら、この裏に一軒借りて、そこを仕事場にしていらっしゃいますが、いまおいでかどうかわかりませんが、なんならいってごらんなさい」
なにが気にさわったのか、若い弟子は剣もホロロのあいさつである。
佐七はにが笑いをしながら裏へまわったが、なるほど、そこに粗末ながらも細工場がある。なかをのぞくと、菊之丞はるすだったが、戸締まりもしてないところを見ると、すぐかえってくるつもりだろう。
三人は上がりがまちに腰をおろして待っていたが、なに思ったのか、佐七はつかつか細工場のなかへはいっていった。
そこには鳳凰《ほうおう》のついたりっぱなやぐら時計が、あたりに不似合いな豪華さで立っている。針はもぎとられたまま、まだついていなかった。佐七はしばらく時計をにらんでいたが、やがてうしろの戸をひらくと、なかの機械をあらためた。
精巧な時計のからくりは、素人に理解できるものではなかったが、それでもしばらく調べているうちに、佐七のほおには微笑がうかぶ。
「親分、なにかありましたか」
「ふむ、ちっとばかり……」
戸をしめて佐七がもとの席へかえったところへ、菊之丞がかえってきた。二十五、六のいい男だが、三人の姿を見ると、はっと額をくもらせた。
佐七は笑いながら、
「いや、これはお邪魔しました。菊之丞さんでしょうね」
「はい」
「さあ、どうぞおはいりなすって。ちっとばかり、お尋ねしたいことがあるものですから」
佐七にうながされて、菊之丞はおずおずうえへあがったが、履物をぬぐそのひざがしらが、いまにもくずおれそうにふるえている。
「わたしにおききになりたいというのは……」
「いや、そのまえに、菊之丞さん、おまえさんにあやまらねばならぬことがある。あっしゃいまその時計のなかをのぞいたんですがねえ」
「え、えッ!」
「あっはっは、たいそうな驚きようですね。しかし、菊之丞さん、妙ですね。名人の考えはだれもおなじかも知れませんが、それにしてもその時計の中のからくりと甚内さんの工夫がぴったりおなじだというのは、どうもふしぎですね」
菊之丞は無言のまま首をうなだれる。
「ごらんなさい。ここにある見取り図。これは甚内の細工場で見つけたものです。ここにちゃんと甚内さんの筆跡で、献上時計機巧図と書いてありまさあ。ここにあるその時計のなかのからくりが、この絵と一分一厘もちがわねえのは、菊之丞さん、これはいったいどうしたもんです」
菊之丞の肩がぶるぶるふるえる。
佐七はきゅうに語調をかえて、
「おい、菊之丞、黙っていちゃわからねえ。おめえのほうでいいにくけりゃ、おれの口からいってやろう。おめえ甚内の細工におよばねえことをしって、阿部様のお屋敷へしのびこみ、時計の針をもぎとったんだろう。そうしてふたつの時計がもういちどめいめいの細工場へもどったところを見計らって、甚内の細工場へ忍びこみ、あいてを殺して時計のからくりをすりかえたんだ。おい、菊之丞、なにかいわねえか」
たたみこまれて、菊之丞はいよいよまっさおになったが、それでも必死のおもてをあげると、
「親分、それはちがいます。時計の針をもぎとったのは甚内さんです」
「なに? 甚内だと?」
「はい。そして、甚内さんが承知のうえで、ふたりのからくりを取りかえてくれたんです。いいえ、ほんとうです。親分、聞いてください。こういうわけです」
こんどの献上時計が甚内との競作であると知ったとき、だれよりも怒ったのは暁雪だった。しかも、甚内の細工のほうが、菊之丞より数等うえだときいたとき、暁雪は怒りのためにたけり狂った。
「しかし、菊之丞さん、お師匠さんはなぜそのように甚内さんを憎むんです。お妙さんのそでをひいたためですか」
佐七は思わず口を出す。
暁雪の憎しみが、あまりに尋常でないように思えたからだ。それにたいして菊之丞は、しばらく黙ってうなだれていたが、やがて涙にうるむ目をあげて、
「親分さん、甚内さんがお妙さまのそでをひいたというのは、おそらくうそだと思います」
「えッ?」
「甚内さんはお妙さまを思っていました。しかし、そんな理不尽なことをするようなかたではございません。あれは、お師匠さまが難癖つけて、甚内さんを破門したんです」
「それゃまたなぜに?」
「お師匠さまは上手です。しかし、甚内さんはもひとつうえの名人です。お師匠さまは甚内さんに嫉妬《しっと》を感じていられたんです」
佐七ははっと辰や豆六と顔見合わせる。
なるほど、それですべてがわかったようだ。こういう名人上手の嫉妬というものは、ふつうの人間よりも人一倍激しいものにちがいない。
「なるほど、わかった。それで……?」
「いくらお師匠様にしかられても、甚内さんには及びませぬ。わたしは覚悟をきめておりましたが、そのうちに針を盗まれたからといって、時計がいったん下げ渡されました。わたしも妙なことがあるものだと思っていると、甚内さんから手紙が来て、時計のからくりを持ってくるようにと……」
「菊之丞さん、甚内のその手紙を持っているかえ」
「はい」
と答えて、菊之丞が机のひきだしから取りだす手紙に、佐七は注意ぶかい目をはしらせると、
「菊之丞さん、この手紙はあっしが預かっておく。それでおまえさん、出かけたんだな」
「はい。出かけました。すると、甚内さんが、からくりの取りかえっこをしようとおっしゃったんです。わたしもそんなひきょうなまねはいやですから、いったんお断りしたのでございますが、甚内さんのおっしゃるには、それではお妙さまがかわいそうだ。この腕くらべにおまえが負けたら、お妙さまは生きちゃいないとおっしゃって……」
「ああ、それじゃ、お妙さまが甚内さんにお頼みになったんですね」
「そうらしゅうございます。それで、甚内さんが時計の針を盗み出し、時計をいったん取りもどして、からくりの取りかえっこをしようと思いつかれたんです。わたくしそのとき、ふたりの作った針を見せていただきました」
「すると、なにかえ、おまえがかえるときにゃ、甚内はまだ生きていたんだね」
「はい、途中まで送ってくださいました。別れるとき、お妙坊によろしくと、寂しそうにいった声が、まだ耳に残っております」
さあ、わからない。
そうなると、甚内を殺したのはいったいだれか。あれはやっぱり自殺だったのか。
だが、そのときだ。転げるように表からはいってきたのは、さっきのあの若い弟子である。
「菊之丞さん、たいへんです、たいへんです。お師匠様がお嬢様を切りころして、自分も御切腹なさいました」
「なに、お師匠様がお嬢様を……?」
一同が駆けつけたときはおそかった。
おくの離れのお妙の部屋で、お妙は一刀のもとに切り殺され、そのそばには暁雪がみごとに割腹、みずからのど笛をかき切って死んでいるのであった。
意外な下手人
――恐るべきは名人上手の嫉妬《しっと》
暁雪が死んだので、はじめておりくが真実を語った。そして、それによってなにもかも明白になったのである。
おりくはあの晩、家の近所で血相かえて逃げていく暁雪のすがたを見たのである。
はっと胸騒ぎをおぼえたおりくが、いそいで家へかえってみると、せがれの甚内が時計の針で突き殺されていた。いや、じつはそのとき、甚内はまだ死にきってはいなかったのだ。
いくら師匠でも、これではあんまりひどいとおりくも怒った。おりくも暁雪の息子にたいする嫉妬《しっと》を知っていたのだ。そこで、お上へ訴えて出るといきまくのを、甚内は苦しい息のうちにひきとめた。
そして、つぎのような秘密を打ちあけたのである。
こんどの献上時計が、甚内と菊之丞の競作であるとしった日、お妙はひそかに甚内のところへ会い状をよこしたのである。甚内はその会い状にそそのかされて、お妙の指示する場所へ出向いていった。
そこは木挽町《こびきちょう》の芝居茶屋の奥座敷で、甚内が案内された部屋のおくの、半分ひらいたふすまのかげから、もえるような真っ赤な夜具と、まくらがふたつ、意味ありげにならんでいるのがうかがわれた。しかも、お妙はかなり酔うていた。
お妙は甚内の弱点をよくしっている。子どものころからいっしょに育ったお妙甚内。その甚内がじぶんに対して、たぎり立つような恋情をいだきながら、おのれの醜きに恥じて、じっと歯をくいしばって控えているのを、お妙はふびんと思うよりも、笑止とばかり内心あざけっていた。身のほどしらずと、心の中でせせらわらっていた。
しかし、いまや菊之丞の危急存亡の境目であるとしっては、そんなことはいっていられなかった。菊之丞を勝たせるためには、どのような非常手段をも辞さぬという気の勝ったお妙であった。
そこまでにしなくとも、お妙がただ口先で、菊之丞に勝ちを譲ってほしいと頼んだだけでも、甚内はうべなったであろう。それにもかかわらず、お妙がからだを張ってきた。じぶんのいちばんの弱点をついてきた。それが甚内には憎かった。
甚内はとうとうお妙の誘惑に負けたとみせて、さんざんあいてのからだをもてあそんだ。おくの褥《しとね》へ甚内をみちびいたのはお妙だったが、そのお妙を素っ裸にして、そこへ押しころがしたのは甚内だった。甚内はみずからもなにもかもかなぐりすてると、ゆうゆうとしてお妙のからだをうえから抱いた。
最初の一撃によって、お妙がすでに生娘でないことをしったとき、勃然《ぼつぜん》として甚内は怒りにもえてきた。あいては菊之丞にきまっている。ひとりの男にからだを許しながら、いかにその男のためとはいえ、ほかの男にこういうことをさせる女の心情が憎かった。じぶんを菊之丞の立場におきかえてみて、その屈辱が甚内の怒りの火に油をそそいだ。
甚内の要求にとめどがなくなったのは、さいしょの戦いがおわってからである。
天二物を与えずというが、甚内のごときはそれであったろう。天は甚内にこのうえもなく醜い容貌《ようぼう》をあたえたもうたが、そのかわり、比類もない頑健《がんけん》なからだを造りたもうた。
甚内の要求にははてしがなかった。はては裸のお妙をあおむけにおしころがし、大の字にからだを開かせ、全身のすみからすみまで指や舌でもてあそんだ。そのあとではみずから仰向けの大の字になり、お妙に舌で全身を愛撫《あいぶ》することを命令した。
甚内は強力な切り札を握っている。尋常の勝負では、菊之丞はじぶんにぜったいに勝てないのだ。それゆえにこそ、お妙はどんな理不尽な要求にも応じなければならなかった。裸のお妙が雌犬のようにはいずりまわりながら、じぶんの全身をペロペロなめまわし、しかも、それによっておのれも興奮していくさまをみると、甚内は残忍なよろこびにふるえながら、いっぽう百年の恋もさめていくのを感じずにはいられなかった。そのとたん、甚内は生きていく希望をうしなった。
「だから、おっかさん、わたしがこうなるのも天罰です。師匠のことはくれぐれも内密に……」
と、甚内は母を仕事部屋から立ち去らせ、みずから戸に閂《かんぬき》をおろして、最期の息をひきとったのだが、果たしてそれは師匠をかばうまごころからだったろうか。そこにも嫉妬《しっと》ぶかい師匠にたいする残忍なよろこびがあったのではないか。
これで、甚内殺しの下手人はわかったが、わからないのはおきんのことだ。おきんがもう死んでしまったいじょう、あとは想像でいくよりほかはないが、ただ辰と豆六の調査によって、つぎのようなことが判明した。
甚内が木挽町の芝居茶屋へお妙に会いにいったとき、甚内のすぐあとから入ってきたお高祖頭巾《おこそずきん》の女があったという。お高祖頭巾の女は、甚内とお妙が会うているすぐつぎの座敷で、ひとりで酒をのんでいったというが、それはおそらくおきんであったろう。
そして、そのことを暁雪につげ、そのために暁雪の怒りをかい、殺されたのではあるまいか。
暁雪は娘が甚内におもちゃにされたことをしらず、したがって甚内が菊之丞とからくりのとりかえっこをしたことには気がつかなかった。
暁雪がしのびこんだのは、甚内が菊之丞を送って出たあとにちがいない。嫉妬に目のくらんだ暁雪は、そこにあるのが菊之丞のつくったからくりとはゆめにもしらず、それをうちこわして逃げようとするところへ、甚内がかえってきたので、そこにあった時計の針で突きころし、もうひとつの針をなにげなく持ちかえったのであろう。
ところが、あとになって、娘が甚内のおもちゃになったときき、時計のからくりがとりかえられたとしったとき、暁雪は甚内にたいする敗北感から、発狂してしまったのだろう。そして、おきんのみならず、娘まで手にかけて、おのれも自害してはてたのだろう。
お妙というのは勝ち気な女で、菊之丞を勝たせるためには手段もえらばなかったが、たとえにもいうとおり、女さかしゅうして牛売りそこなうというやつで、けっきょく三人のいのちを賭《か》けてしまったのである。
献上時計は菊之丞の手によって組み立てられ、首尾よく阿部家へおさまったが、製作者の名が甚内になっていたから、お妙の死はまったく犬死にというよりほかはない。
それにしても、女のやきもちもおっかないが、それにもまして怖いのは、名人上手の嫉妬《しっと》だと、佐七はその後もよくひとに語り、じぶんの戒めともしたという。
当たり矢
おかん富五郎
――おいおい、わざわざ見せつけに来たのか
権五郎のおかんが土蔵屋敷のなかで殺されたときには、さすがの佐七もおどろいた。驚いたというより、激しい憤りをかんじずにはいられなかった。
なにしろ、そのとき、佐七もおなじ家のなかにおり、つい四半刻《しはんとき》(半時間)ほどまえまで、おかんとおもしろおかしく話していたのだから、それがじぶんの鼻先で殺され、しかも下手人がわからないとあっては、佐七の面目まるつぶれである。
さて、おかん殺しのてんまつをかたるまえに、おかんに権五郎といういさましいあだ名のある、そのいわれというのを語っておこう。
おかんというのは、深川やぐら下の売れっこ芸者だが、背中いちめんに、鎌倉《かまくら》権五郎|影政《かげまさ》の彫り物をしているのが、世にもみごとであった。
鎌倉権五郎というのは源|義房《よしふさ》の家人だが、後三年の役に義房について奥州へおもむいて、そのさい、敵の射込んだ矢を左目にうけたまま奮戦したといういさましい記録がのこっている。
おかんの背中に彫った彫り物も、髪振りみだした権五郎が、左目に矢を突ったてたまま奮戦している図柄である。
このみごとな彫り物が評判になって、権五郎のおかんといえば、当時、深川ではだれ知らぬものはないというはやりっ子だ。
さて、そのおかんが殺されたてんまつというのはこうである。
そろそろ町々に苗売りの声が聞かれようという四月もおわりのある晩のこと。深川は木場のほとりにある白木屋の寮で、あるじ茂左衛門《もざえもん》の還暦祝いが、いとも盛大に催された。
白木屋というのは、当時江戸でも一といって二とはくだらぬ材木問屋だが、あるじ茂左衛門というのが、いかにも江戸っ子のだんならしい豪放寛濶《ごうほうかんかつ》のお大尽で、よくかせぎ、よく遊び、よく散じ、江戸の芸人たちでこのひとの息のかからぬものはないといわれるくらい。
しかも、このひとの息がかかると、芸人たちはふしぎに芸がのび、人気がでるといわれ、そのかわり、ひとたびこのお大尽から見放されると、どんな人気ものでもしだいに落ち目になるといわれ、そういう例はいままでにいくらでもあった。
それくらいのお大尽の還暦祝いのことだから、その盛んなことといったら、筆にもことばにもつくしようがない。集まったのはいずれも当代一流の芸人ばかり、入れかわり立ちかわりごあいさつに参上するなかに、当の茂左衛門大尽は、おきまりの赤いちゃんちゃんこに赤い頭巾《ずきん》をかぶり、左右にあまたの芸者末社をはべらせて、いかにもうれしそうににこにこしている。
一代でいまの身代をきずきあげたというだけあって、大兵肥満のお大尽のからだは筋金入り、色つやもみずみずしく、とてもことし還暦とはおもえぬくらいの若々しさ。それでいて、にわか分限者のいやしさのないのが、このお大尽の人気のあるゆえんかもしれぬ。
佐七もこの一座にいた。
佐七は芸人ではないけれど、捕り物の名人として、当時、一流の人物にかぞえられ、茂左衛門大尽にもなにかと目をかけられていたので、辰と豆六をひきつれてお祝いに参上し、その席につらなっていたのである。
さて、おかん殺しが発見されたのは、夜の五つ半(九時)ごろだったが、そのころ白木屋の寮の大広間は、主客入りみだれての無礼講、杯盤狼籍《はいばんろうぜき》、男女とりまぜて三十人あまりが、大陽気の大乱痴気の、てんやわんやのありさまになっていた。
あとになって、佐七が思い出したところによると、権五郎のおかんは席を立つまで、佐七のそばにいたのである。おかんはことし二十三、いささかトウが立っているものの、深川の代表芸者といわれるだけあって、勝ち気でおきゃんな女であった。
そのおかんが席を立つちょっとまえ、佐七のそばへやってきたのは、役者の中村富五郎。この中村富五郎などもごたぶんにもれず、茂左衛門大尽に目をかけられるようになってから、急にメキメキ売り出して、いまでは若手の人気役者の筆頭といわれていた。
「親分、ひとつわたくしにもお杯をいただかせてください」
「ああ、これは成駒屋《なりこまや》か、おまえさんもいい役者になったな。そうか、では、ひとつ受けてもらおう。おかん、お酌《しゃく》をたのむぜ」
佐七と富五郎が杯のやりとりをしていると、
「親分さん、わたしはちょっと……」
と、おかんが席を立ちそうにした。
それを見ると、富五郎がわざと口をとんがらせて、
「おかんさん、わたしが来たからって、なにもそうこわいもののように逃げなくてもいいじゃないか。ひとつわたしの杯もうけておくれな」
「いやな兄さん、今夜はいやにからむのね。ほっほっほ。じゃ、ひとついただくわ」
と、富五郎とおかんが差しつ差されつしているのをみて、おさまらないのは辰と豆六。
「おい、おい、成駒屋もおかんもつつしまねえか。なにもわざわざおいらのまえまで来て、見せつけるこたアねえじゃねえか」
「ほんまにいな。わてらちゃんと、あんたがたのこと聞いてまっせ」
豆六もぶうぶう不平を鳴らす。
「あら、ごめんなさい。それじゃ、兄さん、わたしむこうへいくわ。少し酔ったようだから、どこかで風に吹かれてきましょう」
おかんはすそをさばいてすらりと立ちあがったが、生きているおかんの姿をみたのは、それが最後になってしまった。
土蔵の中
――権五郎の彫り物のうえに矢がぐさりと
おかんが席を立ってからも、富五郎は佐七のそばにのこっていて、辰や豆六といっしょに、芝居のはなしや捕り物のはなしに花を咲かせていた。
佐七と富五郎、岡《おか》っ引《ぴ》きと人気役者と、稼業《かぎょう》はそれぞれちがっていても、どっちもいい男の人気者なので、まわりにはいつも二、三人、わかい芸者がついていて、辰や豆六のふたりもまじえ、おもしろおかしく騒いでいたが、そのうちに、むこうのほうでわっとはやしたてる声がきこえた。
一同がふりかえってみると、いましも芸者やたいこもち、取りまきの芸人たちに、わいわいはやしたてられながら立ちあがったのは、赤いちゃんちゃんこの茂左衛門お大尽である。
「あっはっは、おまえたちがあんまりからかうもんだから、こんなことになってしまった。さあ、お駒《こま》、せっかくみんながああいってくれるんだから、ちょっとむこうへひけようじゃないか」
茂左衛門お大尽に手をひかれ、顔をあからめはずかしそうにうじうじしているのは、いま深川で権五郎おかんと並び称せられるはやりっ子のお駒。去年の秋、茂左衛門お大尽のお手がついて、いまではご寵愛《ちょうあい》このうえもないという果報者だ。
お駒は上気した目をキラキラうるませ、
「あら、だって、だんなさま、なんぼなんでもそれではあんまり……」
「あっはっは、ねえさん、ねえさん、なにもそんなにご遠慮さならなくても、よろしいじゃございませんか。だんなはすっかり若返っていらっしゃるんです。こっちにかまわずむこうへいって、ひとつしんみりかわいがっておもらいなさいまし」
太鼓持ちの桜川|仙橋《せんきょう》にはやし立てられ、
「そうだ、そうだ。仙橋のいうとおりだ。赤いちゃんちゃんこを着せてもらって、おれは赤ん坊にかえったんだ。うんとだだをこねるから、そのつもりでいてくれろ。まあ、みんな見て見ぬふりをしていておくれ。あっはっは、さあ、お駒、いこう、いこう」
と、臆面《おくめん》もなくお駒の手をひいて、出ていく茂左衛門のうしろから、
「よう、よう、ご両人」
だの、
「やけますねえ」
などと、芸人たちの野次が乱れとぶ。
佐七もにやにや笑いながら、
「あっはっは、こちらのだんなもお達者なことだ。急に味な気におなりなすったとみえる。成駒屋、おまえやけやアしないか」
「いえ、もう、とんでもございません。あれくらいのお元気でないと……いえ、あれくらいのお元気ですからこそ、あのかたにごひいきにしていただくと、しぜんと精気が乗りうつって、どの芸人衆も芸がのびるんでございましょう」
「ほんとに、あれくらいのだんなは、ちょっと江戸にも見当たらねえな。成駒屋、おまえもあのだんなをだいじにしなきゃいけねえぜ」
「それはもう、おっしゃるまでもございません」
お大尽がみずから手本を示して、からだをぼってりほてらせながら、ご寵愛《ちょうあい》の芸者の手をひき、奥の離れへひけていったのだから、さあ、あとの広間ではいよいよもって大乱痴気。
勇将のもとに弱卒なしというわけで、てんでになじみの妓《こ》をそばへ引きよせ、抱きつくやら吸いつくやら、文字どおりの無礼講だから、これにはさすがの佐七もまゆをひそめた。
さて、こちらはお大尽だ。
お駒の手をとり離れ座敷へやってくると、びょうぶを立てまわした座敷のなかには、絹行灯の色もなまめかしく、赤い縮緬《ちりめん》の夜具にまくらがふたつ、ちゃんとお支度ができていた。
「だんな、なんぼなんでも、あたしゃきまりが悪うございます」
「あっはっは、いいわさ、いいわさ。おれとおまえのなかはみんな承知のうえのこと。それに、物分りのいい連中ばかりだ。野暮なことをいうやつアひとりもいないよ」
「それはそうでございますけれど……」
お駒がためらいがちにまだうじうじしているのを、茂左衛門お大尽はいさいかまわず、赤いちゃんちゃんこのひもをといて裸になると、たくましいよいからだをしている。
腹のなかからのおんば日傘《ひがさ》そだちではなく、腕一本、脛《すね》一本でこんにちの身代をきずきあげた茂左衛門お大尽は、わかいころ木場の荷揚げ人足をしていたということである。
そのころ、鍛えにきたえこんだからだは筋金入りで、口のわるいのがかげへまわると、衝立《ついたて》お大尽と陰口きくのもむりはない。隆々と筋肉の盛りあがった肩幅は衝立のようにひろく、猪首《いくび》がそのなかへめりこみそうである。
うしろからみると、その大きな背中はまるで壁のようだった。
衝立お大尽は、うしろからお駒の着せてくれるまだ藍《あい》の香もあたらしい仕立ておろしのあらい藍弁慶の浴衣に手をとおすと、帯をまくのもそこそこに、寝床のなかに身をよこたえて、
「さあ、お駒、はやくこちらへおいで。あんまりじらすもんじゃないぞ」
「はい……」
お駒もはじらいがちに帯をといた。着物をぬぐと、したはもえるような緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》、お駒が懐紙を口にくわえてはいってくると、お大尽はうむをもいわさず女の胸をぐっとくつろげ、むっちりとした乳房をひきずりだすと口にふくんだ。
いっぽう、襦袢のしたへ左手をとおし、素膚の背中を抱きしめると同時に、右手はしたへのびていくと、すそを左右にかっさばき、たくましい右の太股《ふともも》を梃子《てこ》につかって、女のからだをひらかせると、すばやく指をすべりこませた。
舌と指とのたくみなあしらいに、お駒はもう気もそぞろで、みずからたおやかな柔膚を燃えさかる男のからだにこすりつけ、
「だ、だんなさま……」
大きく息をあえがせながら、男の首にまきつけた両のかいなに、ぐっと力がこもってくる。
「おお、そうか、かわいいやつ」
男も息をはずませながら、女のからだを仰向けにして、衝立《ついたて》のようなからだでそのうえからのしかかっていったが、まもなくふたりのくちびるから、満足のため息と、よろこびの声がほとばしったのは、ふたりのからだがひとつになった証拠であろう。
ここでむかしの戯作者《げさくしゃ》の表現をかりると、布団のかたは亀《かめ》の甲、あとはまくらのきしる音のみというところだが、それにしてもまくらのきしる音のただならぬのは、これが還暦の老人のなすわざかと、怪しまれるばかりのものすさまじさ。
女はいくどか絶えいるばかりの声をはりあげ、力いっぱい男の首を抱きしめ、抱きしめ、女の真情を吐露してあますところがなかったのは、それだけ男のそれが豪のものだという証左。
なりかたちが豪のものであるのみならず、丈夫で長持ちするのがこの衝立お大尽のもちまえだから、お駒はもういまはたまらず、気がくるったように荒れに荒れながら、死を叫ぶことすでにいくたび、女のはなつ情熱の香がびょうぶのなかに立てこめて、妙音たからかに鳴りわたった。
かくて鉾《ほこ》をまじえること四半刻《しはんとき》(半時間)。さすがに丈夫で長持ちするお大尽のからだにも潮時がきたのか、傍若無人な勝鬨《かちどき》がそのくちびるからもれはじめたとき、男も女もぐっしょり膚に汗ばんでいた。
あとは男も女もゆめうつつ。
やっと息遣いが平常にかえったとき、お大尽は女のうえからおりながら、
「お駒、食べ立ちでどうもすまんが、それじゃわしはむこうへいくぞ。お客人をあんまり待たせるわけにもいかんからな」
「はい、だんなさま……」
お駒はまだなごり惜しそうに、とろけるような甘い声で、
「あたしはあとからまいります。なんぼなんでもこのままじゃ……おふろをつかっていきますから、お座敷のほうで待っていてください」
「おお、そうするがよい。女はとかく受け身じゃからな。うっふっふ」
まだ寝床のなかにいる女をそこにのこして、茂左衛門お大尽が赤いちゃんちゃんこのひもを結びながらもとの座敷へかえってくると、わっとあがる歓声は、まるで凱旋《がいせん》将軍を迎えるようである。
「だんな、おめでとうございます。しゅびよくお神輿《みこし》がわたりましたかえ」
太鼓持ちの仙橋は、ひざのうえに抱いた女のうちぶところに手をいれたまま、きょうばかりは無礼講と、臆面《おくめん》もなくしゃあしゃあしている。
「あっはっは、渡ったも渡ったも大渡り、お駒がようしてくれるのでな」
「これはこれは、手放しで恐れいります。ときに、ねえさんはどうなさいました」
「あれはおふろへはいっているよ。あの妓《こ》、なかなか身だしなみがいいからな。あっはっは、おっつけここへくるだろう」
といいながら、茂左衛門お大尽は、ふと、じぶんの左のてのひらをみて、
「おや」
というふうにまゆをひそめた。
「だんな、どうかなさいましたか」
そばにいた佐七が茂左衛門の左のてのひらをみると、ほんのり藍色《あいいろ》に染まっている。茂左衛門はあわてて右のてのひらをだしてみたが、このほうにはなんの異常もみとめられなかった。
「だんな、そのてのひらはどうなすったのでございます」
佐七も不審そうにまゆをひそめた。
「さあ……いったいなににさわったのか……」
藍といえば、さっきおくの離れ座敷で、藍弁慶の浴衣を着てねたが、お駒を抱いていかに大汗かいたにしろ、あの藍弁慶の染料がむやみにはげるはずがない。
茂左衛門お大尽は、ちょっとふしぎに思ったが、すぐ気をかえるように、
「まあ、いいわさ、おおかた、安物のふろしきにでもさわったのであろうよ。おや」
と、これまたそばからふしぎそうに、藍にそまったお大尽のてのひらをみていた富五郎に目をとめると、
「おや、成駒屋、おまえ、いやに寂しそうじゃアないか。おかんはどうした」
「へえ、おかんさんはさっき、風に吹かれてくるといって出ていきましたが……」
「あっはっは、そんなことをいって、おかんもどこかでお楽しみじゃないのかな。そうそう、だいぶまえ、おくの土蔵屋敷のなかへはいっていくのがみえたが、ひょっとすると、おかんもだれかとお楽しみじゃないのかえ。あっはっは」
おかんと富五郎の仲をしっている茂左衛門お大尽は、おもしろそうにからかっている。
「えっ、そりゃたいへんだ、成駒屋、おまえ油断はならねえぜ。早くおかんを探してきたらどうだえ」
佐七もそばからおもしろはんぶんあおり立てた。その尾について辰や豆六、さてはまわりのものまでが、わいわいはやし立てたから、富五郎はすっかり顔をあかくして、もじもじしながら立ちあがった。
「みなさんがそんなにおっしゃるなら、ひとつ探してまいりましょう。それじゃ、蔦《つた》ちゃん、おまえさんいっしょに来ておくれな」
お蔦というのは、おかんの妹芸者である。
「あれ、兄さん、なにもわたしがいかなくても……」
「いや、そうじゃない。わたしひとりでいって、あとでまたなんのかんのとからかわれると困るから。後生だから、わたしといっしょにきておくれ」
と、むりやりにお蔦の手をとってひったてる。
座敷から土蔵座敷まではかなりある。そのあいだに、暗いわたり廊下をわたらねばならないので、お蔦が雪洞《ぼんぼり》にあかりをつけて、富五郎とならんで歩いた。
土蔵座敷のまえまで来ると、なかにだれかいるらしく、半開きになったとびらのすきや、小さなのぞき穴から灯の色がもれている。
「おかん、おかん、おまえここにいるのかえ」
とびらのそとから声をかけたが返事はない。
富五郎はのぞき穴からなかをのぞいて、しげしげなかのようすをみていたが、とつぜん、
「わっ、こ、これは……」
と、のけぞるような声である。
「兄さん、兄さん、どうかなさいましたか」
「蔦ちゃん、あれを……あれはいったいどうしたんだろう」
富五郎がふるえているので、ふしぎにおもったお蔦も、富五郎のはなれたのぞき穴から、なにげなくなかをのぞいてみたが、とたんに、
「あれえ!」
と、金切り声を張りあげた。
お蔦がおどろいたのもむりはない。
土蔵といっても、そこはふつうの土蔵ではない。なかはりっぱな座敷づくりになっていて、床の間もあれば長押《なげし》もついている。その座敷のなかにびょうぶが立ててあり、びょうぶのうちがわにはほんのりと行灯《あんどん》の灯もついている。
その行灯の灯にありありとえがき出されたのは、世にも奇怪な情景だった。
布団がしいてあったけれど、掛け布団はすそのほうにけりかえされていて、敷き布団のうえには、うつぶせになった女がひとり、おしりをすこしおっ立てるようにして、まくらに顔をおしあてている。
しかも、身につけているものは、目にしみるような緋色《ひいろ》の腰巻きただひとつ。おまけに、その腰巻きがおしりのところまでまくりあげられているのが、男と女のからみあいの、ある種のポーズを連想させた。
うつぶせになっていたけれど、富五郎にもお蔦にも、それがだれであるかすぐわかった。絖《ぬめ》のような膚いちめん、色あざやかにうきあがっているのは、おかんが自慢の鎌倉権五郎の彫り物である。
しかし、富五郎やお蔦をおどろかしたのは、ただそれだけではない。
鎌倉権五郎の彫り物のうえには、ほんとうに矢がぐさっと突っ立っていて、そこからあわのような血が吹きだしているのである。
「つ、つ、蔦ちゃん。おまえはここにいておくれ。わたしはちょっとなかへはいってみる」
雪洞《ぼんぼり》をお蔦にわたして、半開きになったとびらから、あたふたと土蔵のなかへとびこんだ富五郎は、ちょっと女の体を抱きおこしてみて、
「あっ、つ、蔦ちゃん、いけない。おかんがだれかに殺されている」
「に、に、兄さん!」
「おまえすぐにこのことを、お玉が池の親分さんに……」
「は、はい……」
お蔦は足をがくがく。まるで宙を踏むようなかっこうで、やっとのことで渡り廊下をわたって、もとの座敷へかえってくると、
「だ、だ、だんなさん、親分さん、た、た、たいへんでございます。ねえさんが……ねえさんが……」
といったが、あとがつづかない。お蔦は腰が抜けたようにその場にへたばった。
「えっ、おかんがどうかしたのかえ」
「あっはっは、蔦ちゃん、おどかしちゃいけねえ。おまえ、おかんや成駒屋とぐるになって、われわれを一杯はめようというんだろう」
「いいえ、いいえ、そんなんじゃございません、ねえさんが……ねえさんが土蔵のなかで、矢で射殺されて……」
お蔦はわっとそのまま泣き伏したから、その口からだいたいの事情をききとるまでには、そうとうの手間がかかったのである。
赤い蝋《ろう》
――成駒屋とうれしい首尾でもするのだろうと
おかんの死にようは、なんともいえないほど、あやしくもなまめかしかった。
赤い腰のものいちまいで、うつぶせになって死んでいるその死に顔には、なんの苦痛の色もなく、かえってうっとりと、なにかにあこがれるような表情がうかんでいる。
そのうつくしい、きめのこまかな背中の膚いちめんに、色あざやかに彫られた鎌倉権五郎景政の彫り物のみごとさ。
さすがに名人の名のたかい彫兼が、腕をふるって彫っただけのことはある。
この権五郎の左の目、すなわち彫り物でも矢が突っ立っているその左目に、いまはほんものの矢がつっ立って、その根もとからあわのような赤い血がぶくぶくと吹き出しているのである。
びょうぶのこちらがわには当人が脱いだか、それとも下手人が脱がせたのか、おかんの衣装が、におうようにこぼれている。
これには佐七も、ううんとうならずにはいられなかった。
「親分、こりゃいったいどうしたんです。おかんはじぶんで衣装を脱いだんでしょうか」
「さあて、それがおれにもわからねえ」
「親分、ひょっとすると、おかんはここで、だれかとお楽しみをしようちゅうわけで……」
「バカあいえ。春とはいえ夜になったらまだこう冷えるのに、おかんがなんぼ物好きだって……それに、かなり離れているとはいえ、向こうには大勢ひとがいるんだ。そうおおっぴらにできるもんか。あっちにいらっしゃるだんなとはちがうんだ」
「それじゃ、親分、下手人が脱がせたということになりますか」
「ふむ、まあ、そうとしか思えねえが、なんのために着物をはいだか」
「親分、そら、きっとこうだっせ。着物のうえからやと、うまく権五郎の目玉がねらえまへんやろ。それで、着物を脱がせよったんや」
「しかし、豆六、なんのために権五郎の目玉をねらわなければならないんだ」
「さあて、それはわてにもわかりまへんけど」
豆六も閉口|頓首《とんしゅ》、小首をかしげている。
「それに、辰、豆六、下手人が着物を脱がせたとしたら、いや下手人が脱がせたにゃアちがいねえが、おかんはなんだっておとなしく、下手人のするがままにまかせていたんだ。また、下手人が権五郎の目玉にねらいをさだめて矢を突っ立てるまで、おかんはどうして声を立てなかったんだ」
「ほんとに妙ですね。ここからあっちの大広間まで、かなりあいだがあるとはいえ、声を立てりゃア聞こえるはずですからね」
「それにおかんのようすにゃ、ちっとももがいたような形跡がおまへんな。顔かてなんやこう、うれしい夢でも見てるような顔つきやおまへんか」
「ふむ、それがおれにも合点がいかねえ。とにかく、辰、豆六、そこらになにか下手人の残していったものはねえか調べてみろ」
「へえ」
土蔵座敷のなかはわりにきちんと整頓《せいとん》してあるので、探しものをするにもあまり手間はとれなかった。すみのほうに古びた大きな姿見があり、そのまえにひとかたまりの赤いものが落ちている。
豆六がなにげなく拾いあげてみると、それは赤い蝋《ろう》のかたまりで、ごていねいにそのうえに赤いものがぬってある。
赤いものはまだ乾ききっておらず、豆六の拾いあげたとたん、にちゃりと指が赤く染まった。
血か……?
豆六がにおいをかいでみると、それは血ではなく、なにか赤い染料らしかった。
「親分、親分、こらまた、なんだっしゃろ」
「なんだえ、豆六、なにかあったか」
「へえ、鏡のまえに、ほら、このように蝋のかたまりが落ちてましたが、その蝋のうえに、なんやら赤いもんが塗っておまんねん」
「どれどれ」
佐七はひとかたまりの蝋をてのひらにうけると、おなじようににおいをかいでいたが、
「豆六、こりゃ血じゃアねえな」
「へえ、血とはちがいまんな。そやけど、まだぬれているところをみると、ごくさいきん、だれかがここへ落としていきよったんだすな」
佐七はしばらく考えていたが、
「とにかく、これはおいらが預かっとこう。辰、ほかになにかねえか」
「へえ、べつにこれといって……」
「そうか、それじゃとにかくここは引きあげよう。いつまでも仏を裸にしておくのはかわいそうだ。だんなにお願いもうして、座敷のほうへ引きとっていただくことにしよう」
三人が土蔵をでて大広間へとってかえすと、さっきの大陽気、乱痴気騒ぎにひきくらべ、みんなしゅんとしょげこんで、不安そうな顔をみかわしている。
あるじ茂左衛門お大尽のそばには、湯上りのお駒がさむざむとそそけ立ったほおをこわばらせ、恐ろしそうに寄りそっている。青い顔をして、しょんぼりとうなだれている中村富五郎のそばには、お蔦が真っ赤に目を泣きはらして座っている。
「親分、なにか当たりがつきましたか」
赤いちゃんちゃんこの茂左衛門お大尽は、さすがにこんなばあいでもゆったりとした口の利きかただったが、それでもその顔にはいきどおりの色がみられた。
「いや、いまのところかいもく見当がつきませんが、だんなはおかんが土蔵座敷へ入るところをごらんになったんですね」
「ふむ、これと……」
と、お駒のほうへあごをしゃくりながら、
「あっちの座敷へひける少しまえ、厠《かわや》へ立ったところが、おかんが雪洞《ぼんぼり》を持って、土蔵のほうへいく姿がみえたんだ。そのとき、わたしゃおおかた成駒屋と、土蔵のなかでうれしい首尾でもするのであろうと、わざと黙っていたんだが……」
「成駒屋はずっとあっしのそばにいたんだが、ほかにだれか、おかんが土蔵座敷にいることを知ってたひとはありませんか」
「わたしが厠へ立ったときにゃ、仙橋が雪洞を持ってついてきてくれたんだが、仙橋、おまえはおかんに気がつかなかったかえ」
「いいえ、わたしゃいっこう……気がつきませんでしたねえ」
坊主頭の桜川仙橋は、深川でもゆうめいな幇間《ほうかん》で、茂左衛門お大尽の腰ぎんちゃくだが、場合が場合だけに、とくいのしゃれもでなかった。
けっきょく、おかんが土蔵にいることをしっていたと名のって出るものはひとりもなく、それにあの大乱痴気のおおさわぎの最中だ、いつだれが座敷を立ったか立たなかったか、ひとりひとり調べてみたところでしかたがない。
ただわかっているのは中村富五郎だけで、かれはずっと佐七のそばにいたのである。
盗まれた下絵
――お駒も彫り物をしたいといって
「師匠、いるかえ」
薬研堀《やげんぼり》の裏店《うらだな》にすむ彫り物師兼松のところへ佐七が声をかけてはいってきたのは、白木屋の寮であの大騒ぎのあった翌日のことである。
仕事場で鳶《とび》のものらしいわかい男の膚に朱をさしていた彫兼は、上がりがまちのむこうに立った佐七のすがたをみると、
「おや、お玉が池の親分、いらっしゃいまし。ゆうべはまた、たいへんなことがございましたそうで」
「ふむ、師匠はもう聞いてるのか。いや、もう大騒ぎよ。それについて、師匠にちょっと聞きたいことがあってやってきた」
「へえ、少々お待ちくださいまし。いまこちらの兄さんがすみますから」
痛さをこらえて、歯をくいしばっている若者の背中へ、彫兼はしばらく針をさしていたが、
「金ちゃん、きょうはこれくらいにしておこう。あんまり根をつめると熱が出るから」
「ああ、そう、それじゃあしたまた来る」
若者が膚をいれてかえっていくと、彫兼はそこらを片づけながら、
「さあ、どうぞおあがりくださいまし。取り散らかしておりますが……」
「じゃ、ごめんこうむって……」
と、佐七が席へつくと、彫兼は茶をすすめながら、
「ほんとにけさうわさをきいてびっくりしてしましました。あのおかんさんが殺されるなんて……親分もおなじ席にいらしたんだそうですねえ」
「そうよ、だから面目丸つぶれというところだ。それで、おまえさんにききてえんだが……」
「へえ、へえ、どういうことでございましょう」
「鎌倉権五郎だがね、あれにゃなにか、こう、いわくでもあるのかね、よく児雷也《じらいや》と大蛇丸《おろちまる》をいっしょに彫っちゃいけねえとか、彫り物にゃよくそんな因縁話みてえなものがあるようだが……」
「いえ、とんでもございません。権五郎の彫り物にゃ、べつにこれといって話はございませんが……」
「ありゃおかんがじぶんの好みで彫ったのか。それともだれかほかから、権五郎を彫るようにすすめたものでもいるのかえ」
「いや、ありゃ、おかんさんがじぶんでえらんだんです。下絵を見せると、これがいいって……ところで、親分、それについて、ちょっと妙なことがございますんで」
「妙なことって?」
「権五郎の下絵がちかごろなくなりましてね」
「権五郎の下絵がなくなった?」
と、佐七は妙な顔をして彫兼をみる。
「へえ、そうなんです。ちかごろ権五郎を彫りたいといってやってきたひとがあるんで、下絵をさがしたところが、あれ一枚だけが見えなくなっているんです」
「ふむ。そして、いつごろまであったんだね」
「ひと月ほどまえまではたしかにありました。そうそう、いつか白木屋のだんなが、お駒さんをつれていらしたことがあるんですよ」
「なに、白木屋のだんながお駒を……そりゃまたどういうわけで?」
佐七はぎょっとしたように彫兼をみる。
「いや、だんながすすめて、お駒さんにも彫り物をさせようとなすったんですね。そのとき、あれかこれかと下絵をふたりでごらんになったんですが、そんときにゃアたしかに権五郎の下絵もございました。げんにお駒さんが、ああ、おかんさんの彫っていなさるのはこの図柄ね、なんておっしゃってたくらいですから」
「それで、お駒も彫り物をはじめたのかね」
「いえ、それが、もうすこし暖かくなってからにしようということになったんですが、けさ、深川から使いがまいりまして、彫り物はやめにすると、お駒さんからことづけがあったんです。わたしゃその使いのひとからゆうべの一件を聞いたんですが、たぶんお駒さんはああいうことがあったから、気味が悪くなったんでしょうね。なにもわたしの彫り物をしてるからって、殺されるたアかぎらねえが、やっぱり女だから縁起をかつぐんでしょうね」
彫兼はみずからあざけるように笑ったが、佐七はだまってその話を聞いていた。
それからまもなく、彫兼のうちを出た佐七が、そのまままっすぐお玉が池へかえってくると、辰と豆六が待ちかまえていて、
「親分、妙なものを見つけましたぜ」
と、出してみせたのは、長さ六寸くらいの矢である。
むろん六寸なんて短い矢があるはずはないから、それは矢じりのほうを切り落として、矢羽根のほうだけ六寸くらいの長さにのこした矢である。
しかも、その切り口が一寸あまりぴかぴか光っているのは、蝋《ろう》でも塗ってあったらしい。
佐七はきらりと目を光らせると、
「辰、豆六、この矢羽根はぬれているようだが、いったい、これをどこで見つけた」
「へえ、白木屋の寮の池のなかに浮いていたんです。ほら、渡り廊下をわたっていくと、左手に池が見えるでしょう。あそこんなかに浮いていたんです」
「ゆうべの人殺しに使われたのも矢だっしゃろ。それで、これもなんかこんどの一件に関係があるんやないかと、そう思ったもんやさかい、ひろてきたんだすけど……」
佐七はゆうべ土蔵のなかで拾った赤い蝋《ろう》のかたまりを取り出すと、それと折れ矢をみくらべて、しばらく黙って考えていたが、そのうちに、一種のはげしい驚きと怒りの色が、さっとかれのおもてを紫色に染めた。
「親分、なにか……」
「ふむ、辰、豆六、耳をかせ」
佐七がなにかささやくと、辰と豆六もぎょっとばかりに目をまるくする。
蝋と矢
――こんな悪がしこいやつははじめてです
おかんのお弔いもすんで、こんやは初七日。
茂左衛門お大尽はおかんの最期をあわれんで、あと弔いをいっさいじぶんでしてやったばかりか、初七日の供養も因縁のある木場の寮でやることになった。
だから、こんやは男も女も、あの晩いた連中はぜんぶ顔を出しているのである。
さて、回向もすんで、やがて酒肴《しゅこう》となったとき、茂左衛門お大尽は佐七のほうへむきなおって、
「どうじゃな、お玉が池の親分、あれからちょうど七日になるが、おまえさんにもまだ下手人の目星はつきませんかな」
「それがね、だんな、すっかりわかっておりますんで」
佐七が落ちつきはらって答えたから、一同はぎょっとしたように顔を見合わせる。なかでも桜川仙橋はびっくりしたようにひざをすすめた。
「親分、そ、そりゃほんとでございますか」
「ああ、ほんとうだよ、仙橋さん、おれアなにもかも知っているんだ」
「それじゃ、親分、なぜそいつをひっくくってしまわねえんで」
「あっはっは、だからこんや、この場でひっくくろうと思っているのさ」
一同はまた、ぎょっとしたように顔見合わせた。
「それじゃ、親分、下手人はこの席にいるというのかえ」
さすがの茂左衛門お大尽も、おどろいたようにひざをのり出した。
「そうです、そうです、だんな、あっしゃアいろいろ悪いやつを手がけてきたが、こんな悪賢いやつははじめてです。ちょっと、蔦ちゃん」
「は、はい……」
お蔦はおびえたように肩をすくめた。
「おまえは成駒屋のにいさんといっしょに、土蔵のなかの死体を見つけたんだが、そのときおまえは、土蔵のなかへはいっていったのかえ」
「い、いいえ、どうしてそんな恐ろしいことが……」
「それじゃア、土蔵のそとから見ただけなんだね」
「は、はい、あののぞき穴から……」
「そのとき、おまえはうつぶせになっている女の顔を見たのか」
「いいえ、あの……それは見えませんでした。だって、親分さん、おかんねえさんは、まくらに顔を伏せておいでなさいましたから」
「顔を見ねえで、なぜそれがおかんとわかった」
お蔦はすっかりおろおろして、
「だって、親分さん、権五郎の彫り物が……」
佐七はにっこり笑って、茂左衛門お大尽のほうをふりかえると、
「だんな、これなんですよ。あっしもはじめは下手人がなぜおかんを裸にしたのかわからなかったんですが、そいつはあの彫り物を見せることによって、そこに倒れているのがいかにもおかんであるように見せかけたんですね」
「親分さん、そ、それじゃ、あれはおかんねえさんじゃなかったんですか」
お蔦は茫然《ぼうぜん》たる目つきである。
「そうだ、おまえの見たのはおかんでもなく、また、死んでいるんでもなかったんだ」
「だって、あのとき成駒屋のにいさんは……」
さっきから、顔を青ざめてぶるぶるふるえていた中村富五郎と、芸者のお駒が、さっと座を立とうとするところへ、
「中村富五郎、御用だ」
「お駒、御用や、神妙にしなはれや」
と、辰と豆六がおどりかかったから、一同はびっくり仰天。はとが豆鉄砲をくらったように、目をぱちくりさせているうちに、富五郎とお駒は辰と豆六に縛りあげられた。
「親分、なにかまちがいじゃないか。富五郎とお駒がなんだって……」
さすがの茂左衛門お大尽も驚きのあまり、目をしろくろさせている。
「だんな、このふたりは出来てたんです。こんな悪いやつアいねえ。大恩あるだんなのおもいものに手を出しゃアがった。それをおかんにさとられて、おおかた意見でもされたんでしょう。そこで、おかんにしゃべられて、だんなに見はなされちゃ、せっかく築きあげた人気も台なしになる。そう思ったもんだから、お駒とぐるになり、あっしというものの鼻さきで、みごとにおかんを殺しゃアがった。こんな悪がしこいやつは、あっしもはじめてです」
「それじゃ、親分、土蔵のなかでおかんのまねをしていたのはお駒だというのか」
「へえ、そうです」
「しかし、お駒にゃア彫り物はないが……」
「いえ、あれは彫り物じゃアなかったんです。ただかいてあっただけなんです。だんなはひと月ほどまえ、この女をつれて薬研堀《やげんぼり》の彫兼んちへいらしたでしょう。あのとき、こいつが権五郎の下絵をぬすんできて、そのとおり富五郎にかかせたんです。富五郎に絵心があることは、だんなもよくご存じのはずですが……」
茂左衛門お大尽はいよいよ目をまるくする。一座のものもあまりのことに、あきれかえって口も利けなかった。
「だから、あの晩、お駒はどうしてもふろへはいらなきゃアならなかったんです。うちへかえるまえに、背中にかいた権五郎の絵を洗いおとさなきゃなりませんからね。そこで、だんなをそそのかして、ああいう首尾へもっていったんですね」
「ああ、そういえば、あの晩、お駒と首尾をしたあと、この座敷へかえってきたとき、てのひらが藍色《あいいろ》に染まっているので、おれもふしぎに思ったが……」
「あれは絵の具だったんですね。あっはっは、あの晩、だんなはお駒をお抱きになったとき、お駒の背中へ、じかに手をおやりなすったばっかりか、ふたりともだいぶん汗をおかきなすったんですね」
さすがの茂左衛門お大尽も赤くなる。
「いや、失礼いたしました。さて、だんながこちらへおいでになると、お駒はふろへはいるといって、あの土蔵へいき、背中へ蝋《ろう》でこの矢をくっつけて、うつぶせになっていたんです」
と、佐七がふろしき包みをひらいて取り出してみせたのは、六寸ばかりに切りおとした矢と、赤く染めた蝋のかたまりである。
「あの土蔵にゃ、おあつらえむきに姿見がございますから、うまく権五郎の目のところへくっつけたんですね。この赤く塗った蝋のかたまりが、お蔦にゃ血のあぶくにみえたんでしょう。そうして、お蔦がこっちへあっしを呼びにきているあいだに、お駒はふろ場へかけこんで、背中にかいた権五郎を洗いおとす。富五郎は土蔵のすみにかくしてあったおかんを引きずり出して裸にし、お蔦が見たとおりのかっこうにおかんを突き殺しゃアがったんです」
「しかし、そのあいだ、おかんはどうして声を立てなかったろう」
「おかんは眠っていたんですよ。ここを立つまえ、おかんと富五郎は二、三度杯のやりとりをしていましたが、そのとき、富五郎が眠り薬を盛ったんです。おかんは富五郎にだまされて、土蔵のなかで首尾するつもりで、待っているうちに薬の効き目で眠ってしまった。そのからだをお駒のやつが、びょうぶのむこうにかくしておいて、じぶんはああいうかっこうをしていたんです。だから、おかんの死に顔はうれしい夢でも見ているように、うっとりとしていたんです」
佐七のいうところには一分の狂いもなさそうだった。
一同はいまさらのようにぼうぜんとして、縛られたお駒と富五郎を見つめていたが、そのとき、悲痛な声をふりしぼったのは茂左衛門お大尽である。
「富五郎、おまえはバカだ。そんなにお駒にほれているなら、なぜひとことおれに言わねえ。おまえがそんなに欲しいのなら、おれはのしをつけて、お駒をおまえにくれてやったのに」
「だ、だんな!」
そのとき、うつぶしていたお駒の口から、苦しげなうめき声がもれてきたので、豆六があわてて抱きおこすと、お駒は舌をかみきって……。
富五郎はしばられたまま、ぼうぜんとして凄惨《せいさん》なお駒の最期をみまもっていた。
妖犬《ようけん》伝
化けて出る犬
――毎夜悲しそうな犬の鳴き声が
「おや、だれかと思ったら亀《かめ》さんか。ちっとも気がつかなかった。しばらく顔を見なかったが、また病気が出たんじゃないかえ。いつもおかみさんがこぼしてたぜ。うちのも、しんはごくいい人なんだが、酔うとだらしがなくなって……」
「ご冗談でしょう。ご隠居さん、そんなのんきな沙汰《さた》ならいいが、それどころじゃねえんで。なんしろ大世話場でさア」
「なにが?」
「なにがって、ご隠居さんは知らねえかな。かかあの兄貴が根岸のほうにいるんです。兄貴ったって、かかあより十三もうえだから、ことし四十二の厄《やく》ですがね。まったくよくいったもんで、まんまと厄にはまりゃアがった」
「はてな。おはまさんの兄さんといやア、屋根屋をやっているとかいう……」
「そうです、そうです。名前を権四郎というんです。ご存じですか、ご隠居さん」
「そうそう、屋根権……権さんなら一、二度あったことがあるよ。あのひとがどうかしたのかえ」
「なにね、普請場の屋根からころげ落ちたんですよ。だらしのねえ話ですがね。それで、あなた、したたか腰の骨をうったとやらで、ここひと月ほど、身動きもできねえんで」
「おやおや、それはお気の毒な。ちっちも知らなかったよ。もうひと月にもなるのかえ」
「へえ、先月の二十三日のことですからね。駆け出しの職人じゃあるまいし、いい年をして、なんだってそんなヘマをやらかしたものかねえ」
「それゃアおまえ、災難というものは仕方がないさ。いつ、だれの身にふりかかってくるか知れたものじゃない。権さんにはたしか息子さんがひとりあったね」
「へえ、竹蔵といって、ことし十八になるせがれがあるんですが、こいつがまたいけねえんで」
「いけないというと?」
「抜けてるんでさ。つまり、バカなんですね」
「バカってことはあるまいが……」
「いえ、ほんとうに。身内のことを悪くいいたかアねえが、ほんとに抜けてるんです。あのへんへいって、バカ竹ときいてごらんなさい。知らねえものはねえくらいだから、そこへもってきて、姉さんというのが、気がよいいっぽうで、シャッキリしたところがみじんもねえというひとだから、いやもう家のなかは火の車でさあ」
「それゃアまあ、かんじんのかせぎにんに病みつかれちゃア、どこでも同じことだが、しかし、それじゃおまえさんもたいへんだな」
「へえ、仕方がねえから、かかあとかわるがわる看病に出かけてんですが、おかげでこのひと月ほど仕事もあがったりでさ」
「それはまたお気の毒な。いや、ちっとも知らなかった。権さんならまんざら知らぬ仲でもなし、いちどお見舞いにあがらなきゃア……」
「とんでもない。お見舞いなんかどうでもようがす。そんなつもりでお話ししたんじゃねえんで。そうそう、それについておもしろい話があります」
「おもしろい話ってなにかね」
「ご隠居さんはガクがあるからご存じでしょうが、なんですか、犬でもやっぱり化けて出ますか」
「犬が化ける! おいおい、亀さん、それゃアいったいなんの話だね」
「いえね、根岸じゃちかごろもっぱら評判なんで。なにがって、犬の幽霊が出るってんで。あのへんは大騒ぎでさ」
「犬の幽霊が出る……? 亀さん、そりゃアほんとかね」
「ほんとうですとも。げんに、あっしなども、兄貴のうちに泊まってて聞いたんですからね。夜が更けるときこえるんです。それがまた、とても悲しそうな犬の鳴き声なんですがね。なにさ、あたしなんざ声をきいただけなんですが、姿を見たというものもたくさんあります。なんでもね、体中ボーッと光ってるんだってさ。いえさ、犬の体がさ。そういう犬がお行の松のへんの、やみからやみへと、いかにも悲しそうな鳴き声をあげながらとんでくというんで、あのへんじゃ大騒ぎでさ。女こどもはおびえきってねえ」
「へへえ。それが犬の幽霊だというのかえ。だけど、亀さん、なんだって犬が化けて出るんだろ。なにか因縁ばなしがあるのかえ」
「さあ、それですがね。わけを話さなきゃアわからねえが、お行の松のほとりに、白井|隆磧《りゅうせき》というお医者さんがある。としは三十五、六だが、男っぷりはいいし、腕はたしかときてるんで、あのかいわいじゃ評判の医者ですがね。この隆磧さんのご新造さんのお妙《たえ》さん、これがまためっぽういい女ですが、そのご新造が犬を一匹飼っていた。シロという雄犬なんですがね」
「なるほど」
「ところが、このご新造のシロのかわいがりようときたら、いささか尋常じゃねえんで。それゃア、ま、子どもがねえからむりもないようなものの、すこし度がすぎるんですね。夜などもご亭主《ていしゅ》をほったらかしといて、犬とねるというぐらいだそうで、せんからご近所でも評判もんで、まるで犬姫のようだと陰口をきいてたそうです。それがちかごろいよいよ目にあまってきたもんだから、隆磧さん、やきもちやいたか、それとも薄気味悪くなったのか、お手のものを一服盛って、とうとうコロリと犬を殺してしまったんです。つまり、その犬が化けて出るというんですね」
さくら湯の流し場なのである。
ちょうど潮時とみえて、客がいっぱい立てこんでいるなかで、横町の隠居をつかまえて、むちゅうでそんな話をしているのは、おなじ町内のうらだなに住む亀吉《かめきち》というわかい大工の下職だったが、話がここまで来たときである。
さっきから、聞くともなしにこの話をきいていたふたりづれが、ぎくりとしたように顔を見合わせた。
さくら湯のお京
――ちっ、あま、しゃべりゃアがったな
「ああ、いや、卒爾《そつじ》ながらちとお尋ねいたしたい」
だしぬけに声をかけられて、おどろいてふりかえったのは亀吉である。
みると、芋を洗うような流し場のすみから、からだを乗り出したふたりづれ。ひとりは年のころ三十五、六、色の浅黒い、たくましい肉付きをした人物である。
いまひとりは二十五、六の、色の白い華奢《きゃしゃ》な若者。
どうせそんな場所だから、ふたりともすっ裸だが、それでも髪の結いよう、口の利きかた、ひとめで武士とわかるものごし、声をかけたのは年嵩《としかさ》のほうだったが、ふたりともなんとなく、目つきがけわしかった。
「へ、へえ、なにかてまえにご用で……?」
「ああ、いや、いまの話だがの、白井隆磧とかもうす医者が犬を殺したという話だが、それはいつごろのことであろうか」
「さあ」
と、亀吉はふしぎそうに、ふたりの顔色を見くらべながら、
「かれこれ、もうひと月にもなりゃアしませんか。詳しいことはおぼえてませんが、あなたがた、なにかそのことについて……」
「ふむ、ちと心にかかる節があるのだが、すると犬の殺されたのは、もうひと月もまえのことだというのだな」
「へえ、そうですよ。犬の幽霊のうわさももう久しいもんですから……あっ、そうだ、思い出しましたよ、白井さんが犬を殺したなア、兄貴が屋根からころげおちた翌日のこってすから、先月の二十四日になりますね」
「なに、先月の二十四日?」
ふたりはまたぎくりとしたように顔を見合わせ、なにやら意味ありげにうなずいていたが、
「いや、かたじけない。手間をとらせてすまなかった」
と、からだを流すのもそこそこに、いそいで流し場から出ていったから、大工の亀吉はポカンと口をひらいて、
「なんだい、あれゃア……」
「亀さん、だから滅多なことをいうもんじゃないよ。あれゃアひょっとすると、白井隆磧というひとと知りあいかもしれない。あまりずにのって、いまのような話をふれあるいていると、白井隆磧さんから名誉|毀損《きそん》、プライバシー侵害でうったえられるよ」
まさか、そんなことはいやアしない。
「ご隠居さん、おどかしちゃいけません。あんなこと、根岸へいけばだれ知らぬものはねえうわさだ」
口をとんがらして抗弁している亀さんの背中を、そのときまたもやうしろから、ポンとたたいたやつがある。
「おお、兄い、いまの話な、いずれ改めてゆっくりききにいくぜ」
「あっ、おまえはお玉が池の……」
亀吉はあわてて口にふたをしたがまにあわなかった。
うしろをすりぬけ、すうっと流し場から出ていったふたりづれ、いうまでもなく辰と豆六である。
ふたりはいそいで流し場からとび出したが、さっきの侍のふたりづれは、どこにも姿が見えなかった。
「兄い、こないはよ出ていくはずがない。ひょっとすると二階やおまへんか」
「ふむ、おおかたそうだろう。ひとつあがってみようじゃねえか」
そのころ、湯屋の二階はいっしゅの喫茶店みたいなものになっていて、かんたんな茶菓もでれば、渋皮のむけた女もおり、その女目あてにくる客もあるという寸法で、なかには、近所のそば屋からそばかなんかとりよせて、いちんちごろごろしているやつもある。
そして、ふろへ入るときには、そこへ着衣から、武士ならば大小まであずけていくのである。
さくら湯の二階にいる女は、お京、お藤《ふじ》というふたりだが、お京は色の小白い、ちょっとあか抜けのした女で、かいわいでも評判ものだった。
辰と豆六が二階へあがっていくと、果たしてさっきのふたりづれが、着物をきて、帯をしめながら、額をあつめてなにやらヒソヒソ話をしていた。
辰と豆六はさあらぬ体で、少しはなれたところに腰をすえたが、それをみるとお京という女が、いやなやつが来たといわぬばかりに、まゆをひそめてつと立ち上がると、ふたりづれにちかよった。
そして、若いほうの侍になにやら耳打ちをすると、ふたりづれはギクリとしたようにこちらをふりかえったが、やがて、年嵩《としかさ》のほうが、
「おい、いこう」
と、刀をとって立ち上がった。
若いほうの侍は、なんとなくあとに心がのこるふぜいで、すぐには立ちかねたが、辰と豆六の視線に気づくと、やっとしぶしぶ立ち上がった。
お京はだまって見送っていたが、ふたりの姿が階下へ消えたころ、
「ああ、ちょっと、ちょっと」
と、思い出したようにあと追いかけて、そのまま階段をおりてしまった。
「ちっ、阿魔《あま》、あいつらにこちとらのことをしゃべりゃアがったな」
辰がにが笑いをしているところへ、お藤が茶をくんで持ってきた。
「おい、お藤、いまのお侍はちょくちょくここへ来るのかい」
「ええ、せんだってから、ちょいちょいおみえになります」
お京とちがって、いたって平凡なきりょうのもちぬしであるお藤は、気だても同様平凡な女とみえて、かくべつ辰の質問を怪しいとも思わぬふぜいだった。
「どこのご家中だえ。江戸のお侍のようじゃねえな」
「はい、西国筋のご浪人とかきいております。年嵩のほうを津島|源太夫《げんだゆう》、おわかいかたは青柳静馬《あおやぎしずま》さまとおっしゃって、なんでも義理のご兄弟とかうけたまわっております」
お藤はきかれぬことまでべらべらしゃべった。
「お住まいはどちらだえ」
「さあ……なんでも馬喰町《ばくろちょう》へんの旅籠《はたご》とかきいておりますが、あまりくわしいことは存じません。お京さんなら知っているかもしれませんけれど」
「お藤、お京はあのわかいほうの侍にいかれてんのんとちがうのか」
豆六が尋ねた。
「さあ、それはどうだか……まあ、よいようにご推量くださいまし」
お藤は気のいい笑いかたをしている。
「しかし、お藤、おふたりはなんだって江戸へ出てきなすったんだ。ご浪人なら勤番というわけでもあるめえ。江戸になにかお目当てでもおありなさるようすかえ」
「さあ、そこまではこのあたしも……」
「それもお京にきいてくれか。はっはっは」
ことのついでにお京を待って、もう少しくわしいことをききたいと、辰と豆六は小半刻《こはんとき》(小一時間)ほどねばっていたが、どうしたものかそのお京は、ふたりづれを追って出たまま、とうとうその日はさくら湯へかえってこなかった。
根岸お行の松のほとりで、侍ふうの男がひとり、むざんに切りころされているというしらせが佐七のもとへとどいたのは、その翌日のことである。
隣屋敷は普請場
――死骸《しがい》を見つけたのは、バカ竹です
辰と豆六はおどろいた。
根岸お行の松のほとりで人殺しがある。
殺されたのは侍ふうの男であるときいて、佐七といっしょに駆けつけてくる途中、もしやと思わぬことはなかったが、まさかこうまでうまく的中しようとは思わなかったのである。
「辰、豆六、たしかにこのお侍にちがいねえというんだな」
「へえ、親分、ちがいございません。なんなら、さくら湯からお京やお藤をよびよせて見させてもようがす。これアたしかに津島源太夫という年嵩《としかさ》のほうの侍なんです。なあ、豆六、それにちがいねえな」
「さよさよ。それにちがいおまへん。だけど、兄い、もうひとりの若いほう、青柳静馬ちゅうのはどないしたんやろ。もし、ちょっとお尋ねしますが、殺されたんはこのひとひとりだけだすか」
「そうですねえ。ほかに死骸《しがい》が見つかったって話はききませんがねえ」
そこはお行の松からだいぶはなれた、小川にそうた寂しい草むらのなかなのである。
津島源太夫――と、お藤から名前をきいたその男は、身に数カ所の手傷をおうて、さいごに土手っ腹をえぐられたのが致命傷になったらしい。
佐七はその傷口をあらためていたが、やがて辰と豆六をふりかえると、
「辰、豆六、これゃア相手はひとりじゃねえな。みねえ、背中の傷は刀傷だが、土手っ腹をえぐったのは匕首《あいくち》だぜ。あいてはふたりか、それ以上だな」
「なアるほど。それに、親分、ころされたのはここじゃありませんぜ。血の跡もすくねえし、それにもみあらした跡もねえ」
「そやそや、こら、どこかほかで殺されて、あとからここへ運んでこられたんやな」
これは辰や豆六のいうとおりである。
そんなすさまじい死闘が演じられたと思われるような痕跡《こんせき》は、付近いったいどこにもみられなかった。
「ところで、この死骸《しがい》ですがねえ。いったいだれがいちばんさきにみつけたんです」
そばにいる案内の町役人に尋ねると、
「へえ、それがね、バカッ竹といって少々ぬけた若者なんで。そいつがけさ早く、人殺しだ、人殺しだとさわぎ立てるもんですから、はじめはあのバカがなにをいうことやらと、半信半疑でやってきたんですが、来てみておどろきました。このていたらくなんで……」
バカ竹ときいて、佐七は辰や豆六と顔見合わせる。
バカ竹といえば屋根権のひとり息子。
佐七は根岸へきたついでに、屋根権をたずねてみようと思っていたところである。
「しかし、そのバカ竹が、なんだってこんなところへきたんでしょう。ここはこのとおり、往来筋から遠くはずれているし、めったに人のくるところじゃなさそうだが……」
「へえ、それがね、なんでもどじょうをしゃくいにきたとかいうんですが、なに、どうせ相手はバカだから、取りとめはありませんのさ」
佐七はしばらく考えていたが、
「ときに、根岸にゃ白井隆磧さんといって、よくはやるお医者さんがあるということですが、このご近所じゃありませんか」
「へえ、白井さんなら、ほら、むこうにみえてる松の木のある家ですが……しかし、白井さんがなにかこんどの一件に……」
「なに、そういうわけじゃありませんが、ちかごろこのへんじゃ、妙なうわさがあるというじゃありませんか。白井さんの殺した犬が、毎晩化けて出るとか……」
「ああ、あの話ですか。まさか犬が化けて出るとは思われませんが、しかし、どうもふにおちぬ話で……」
町役人は顔をしかめる。
佐七はわらいながら、
「それじゃ、おまえさんも見なすったのか、犬の幽霊てやつを……」
「いえ、姿は見たことはありませんが、声は毎晩のように聞いております。どうも陰気な声でしてねえ。聞いていると、えり元がゾクゾクするような気持ちなんです。だから、ちかごろじゃ夜になると、男でもめったに外へでるものはありません。困ったことだ、なにかよくないことがおこる前兆じゃないかと、そんなことをいってるやさきにこの一件で……だから、みんなふるえあがって気味わるがっているんです」
町役人はあおい顔をしてため息をついた。
「ところで、白井さんの奥さんというひとは、その後どうしてるんです」
「ああ、お妙さんですか。お妙さんはあのじぶんから、ちっとも外へお出にならぬようですね。なにしろ、世間の口がうるそうございますから。それに、体ぐあいもよろしくないそうで……ふざけたやつが、シロが殺されたんで、愁嘆のあまり、気がへんになったんだろうなんて申しますが、いや、世間の口には戸が立てられませんや」
「白井さんにはご家族は?」
「へえ、ご夫婦のほかに、直助といって、薬持ちとも下男ともつかぬ男がひとりいるきりで。いたってものしずかなご家族で、シロが死んだのも、白井さんが一服盛ったなんて、ほんとかどうかわかりませんや」
佐七はちょっと考えたのち、
「ときに、話はちがいますが、このへんに屋根屋の権四郎というものがいるはずですが、ご存じじゃありませんか」
「屋根権? 屋根権ならさっきいったバカ竹のおやじで、その家なら、白井さんちのまえの道をまっすぐいって、三つ目の路地を右へまがった突き当たりですが、なにか屋根権にご用でも……?」
町役人が妙な顔をするのを、
「なあに、これはあっしの用事ですがね。いや、ありがとうございました。それじゃ、またのちほど……」
町役人と別れると、佐七はぶらぶら歩き出した。
草原をわけて、やっと道らしい道へ出ると、野次馬がいっぱいたかって、ヒソヒソこんどの事件の話をしている。
そのなかにバカ竹はいないかと見回したが、それらしい姿はみえなかった。
「親分、やっぱり、こんどの一件と犬の幽霊とのあいだにゃア、なにかつながりがあるんでしょうかねえ」
「さあ、なんともいえねえが、隆磧《りゅうせき》が犬を殺したときいて、源太夫や静馬の顔色がかわたっというのがおかしいな。おや、辰、豆六、あれをみろ」
「親分、なんでございます」
「ほら、むこうに見えるのが隆磧の住まいだ」
「へえ、そらわかってまんがな、さっき町役人がそういいよった」
「ちっ、おめえたちはそれだからあきめくらだといわれるんだ。よくみろ、隆磧の家のとなりには、新しい家ができかかってらア」
白井隆磧の家は、白い築地《ついじ》にかこまれて、そうとうの構えである。
庭内に生えている松の大木が、亭々《ていてい》と空にそびえて、それがよい目印になっている。
ところが、その塀《へい》の外には、いま大きな家が建ちかかっているのである。
丸太組みの足場がまだとりはらわれておらぬところをみると、普請は半分もすすんでいないらしいが、屋根がわらだけはふいてあった。
「親分、あの普請場がどうかしましたかえ」
辰はふしぎそうな顔色である。
「なんだ、おまえにゃアまだわからねえのか。豆六、てめえはどうだ。あっはっは、おまえも祭りのちょうちんで門並みか。ちっとは頭を働かせろい。こうしてあたりを見回したところ、ほかに普請をしてるようなところは一軒もねえ。だから、先月二十三日、屋根権が足をふみすべらしたというのは……」
「あっ、親分!」
辰と豆六はぎょっとしたように顔見合わせる。
「あっはっは、やっとわかったか。屋根権が屋根から落ちたのが二十三日で、シロが殺されたのがその翌日。辰、豆六、よく見ねえ。あの屋根へあがってみれゃア、隆磧の庭はまるみえだぜ。こいつはなんだかおもしろくなってきやアがった」
おびえる屋根権
――暑い日でございます故目がくらみ
「親分、そうすると、屋根権はあの屋根から隆磧の庭でなにかかわったことのあったのを見やアがったんでしょうか」
「と、まあ、考えられるな。四十二といやア職人としちゃそうとう甲羅《こうら》が生えてるはずだ。むやみに足をふみすべらすはずはねえからな」
「すると、屋根権の見た一件ちゅうのんは、よくせきのことやおまへんな。そないに甲羅をへた職人がびっくりして屋根から足をふみすべらしたちゅうことになると……」
「そうよ。だから、屋根権があの屋根からいったいなにを見たのか、それがわかれば、あとはぞうさはねえと思うんだが……」
佐七はそこできゅうに気がついたように、
「おっと、おいらとしたことが、屋根権が足をふみすべらしたのがあの屋根ときまったように……それからまずたしかめてかからなきゃアならねえ。辰、豆六、道順だ、隆磧の家のまえを回ってみようじゃねえか」
それからまもなく、三人が白井隆磧と看板のかかった門のまえをとおりかかると、ちょうどそのとき門のなかから、三十二、三の、ちょっと小意気な男がとび出してきた。
その男は、出会いがしらにぶつかった佐七の風体をみると、ぎょっとしたように立ちすくんだが、すぐ顔をそむけていきすぎようとする。
とっさに佐七が呼びとめた。
「ああ、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですがね」
「へえ、なんですかえ」
男はふたたびギックリとして立ち止まる。
「屋根屋の権四郎さんというのが、このご近所にいるはずですが、ご存じじゃアありませんかえ」
「ああ、屋根権ですか、屋根権なら……」
相手はいくらかほっとしたように、
「ここから三つ目の路地を、右へまがって突き当たりですよ」
つっけんどんにそういうと、あとをも見ずにスタスタ歩きだした。
「親分、いまのが直助ですね」
「そや、そや。下男とも薬持ちともつかぬあのみなり。しかし、あいつなんであんなにソワソワしてんねんやろ」
佐七も小首をかしげながら、直助のうしろすがたを見送っていたが、
「そうよなア。まるで脛《すね》に傷持つというかっこうだ。うっふっふ、こいつだんだん面白くなってきやアがったぜ」
それからまもなく、三人がさがしあてた屋根権のうちというのは、呉竹《くれたけ》は根岸の里とうたわれた風雅な土地にも、こんな生活があるのかと思われるような、九尺二間のみじめな住まいだった。
なかへ入ると、土間のすみにふちの欠けたすりばちがころがっており、すりばちのなかにはぬたにでもするつもりか、小さい貝がいっぱいすりつぶしてあった。
佐七の名をきくと、屋根権ははじめからおびえきって、はかばかしい返答もできなかったが、それでもかれの足ふみすべらした屋根というのが、佐七のにらんだとおり、隆磧のとなりの普請場だということだけはわかった。
大工の亀吉の話では、屋根権はことし四十二の厄《やく》だというが、貧にやつれた面影は、どうみても五十より下にはみえない。
女房のお兼もボロのなかから抜け出したような女で、家のなかをひとめ見ただけで、なるほど大世話場だとうけとれた。
夫婦とも、人のいい、正直者らしいかおつきをしているが、それだけに小心者らしく、なにかひどくものにおびえた目のいろだった。
「だって、おかしいじゃないか。おまえのような年季をいれた職人が、足をふみすべらすというのは受け取れねえ」
と、佐七が気をひいてみても、
「いえ、それがたいそう暑い日でございましたので、つい、目がくらみましたので……」
と、権四郎はあくまで過失であるといい張るのである。
「そうか、おまえがそういうのならそうしておこう。ときに、せがれはどうしたい」
権四郎とお兼の夫婦は、そこでまた、はっとしたように顔を見合わせたが、
「さあ、あれは朝から出ていったきり、かえってまいりませんが……なにかあの子にご用でございましょうか」
「なに、大したことじゃねえんだが」
「親分さん、なにをいうにもあのような半人前の子のことですから、少々のところは大目に見てやっていただきとうございます」
「あっはっは、とっつぁん、なにもそう取り越し苦労をすることはねえのよ。ちっとばかりききたいことがあってな。とにかく、それじゃしばらく待たせてもらうぜ」
しかし、いくら待っても竹蔵はかえってこなかった。
佐七はとうとうしびれを切らして立ち上がると、
「それじゃ、また出直してくることにするが、しかし、とっつぁん」
「はい」
「おまえ、なにか心に抱いてることがあるなら、まっすぐに申し立てたほうがいいぜ。ものいわぬは腹ふくるるわざなりだ。いずれもういちどくるが、それまでにとっくり考えておきねえよ」
表へ出ると豆六が、
「親分、あいつたしかに、なにかかくしているんだっせ。まるでどぶねずみみたいに、きょろきょろした目つきをしよって、どうもあの目つきが気に食いまへん」
「そうだ、そうだ。しかし、親分、かくしているとしても、あいつ、いったいなにをかくしていやアがるんだろ」
「さあ、それはおれにもわからねえ。しかし、このことと、あいつが屋根からおちたこと、そのあいだになにかつながりがあるにちがいねえ。いったい、あいつ、なにを見やアがったのか」
しかし、それは権四郎の自白を待つよりほかに、さぐりようのないことだった。
「辰、豆六、とにかくここはいちおうひきあげよう。いずれ今夜また、出直してこなきゃアなるめえが、おまえたちはこれからかえって、青柳静馬という侍を洗ってくれ。お京をたたけばきっと居所がわかるだろう」
「ええ、ようがす。なんとかこぎつけてみましょう」
神田までかえってくると、辰と豆六は佐七と別れて、さくら湯へ出向いていった。
しかし、お京はきのう静馬を追ってでたきり、きょうはまだ顔も出さぬという。
そのさくら湯でお京の住まいをきくとすぐわかった。
お京はかよいで、さくら湯のすぐ近所にある路地のおくに、おふくろとふたりで住んでいるのである。
しかし、そこにもお京はいなかった。
母のおかやがおろおろして、
「あの、娘がどうかしたんでしょうか」
「おっかあ、なにも心配することはねえのよ。ちっと聞きてえことがあってな」
「はあ、あのどんなことでございましょうか」
「青柳静馬という浪人者のことだが、おっかあ、青柳さんはここへもくることがあるかえ」
「はい、あの二、三度……それじゃなにか青柳さんが……」
「はっはっは、おっかあ、なにもそういちいち、さきくぐりして心配することはねえのよ。べつに青柳さんがなにをしたってわけじゃねえけど、ちっとあって話したいことがあってな。どうだ、ゆうべはやってきたか」
「いいえ、ゆうべはお見えになりません。しかし、お京のほうが……」
「お京さんがどうかしたのか」
「はい、お京のほうから出向いていって、会ってきたらしゅうございます」
「すると、お京さんのほうでも、そうとうのぼせているんだな」
「はい、それですからわたし、ちかごろ心配でなりません。もし、親分さん、ほんとに青柳さんがなにかしでかしたのじゃ……」
年寄りのつねとして、とかく取り越し苦労になるのを、辰と豆六がかえってなだめて、とにかく青柳の居所がわかったらすぐ知らせるようにいいのこして、ひとまずそこを出たが、その晩、根岸では、またまた恐ろしい事件が持ち上がったのである。
躍り出した妖犬《ようけん》
――お妙は顔を滅茶に切り刻まれ
宵《よい》からくもりだした空は、夜が更けるにしたがっていよいよ本曇りとなり、呉竹《くれたけ》の根岸の里はすっかり雨雲におおわれていた。
上野から吹きおろしてくる風が、お行の松のこずえをならして、なんという鳥か、いんきな声をあげながら、暗い空をわたっていく。
時刻はすでに丑満過《うしみつす》ぎ。
――と、とつぜん、夜のしじまを破ってきこえてきたのは、世にも気味のわるい犬の鳴き声。
泣くがごとく、うめくがごとく、すすりあげるがごとく、陰々滅々たるその鳴き声は、なるほど五臓|六腑《ろっぷ》にしみわたって、腹をかきむしるようである。
「わっ、出よった!」
「親分、やっぱり隆磧の家の方角ですぜ」
「よし、いってみよう」
お行の松の根元よりするりと滑りだした三つの影、いうまでもなく、辰と豆六をひきつれた佐七である。
犬の鳴き声は、遠くなり、近くなりつつ断続している。一陣の風がまたお行の松のこずえをならして、ねぐらにいる鳥のバタバタと羽ばたきするのがきこえた。
佐七は今宵《こよい》このときを待っていたのである。
怪しげな犬の怪談とけさの殺人、そのあいだになにか因縁があるらしいとにらんだ佐七は、幽霊の正体を見破ることによってのみ、けさの殺人のなぞもとけると思っている。
とつぜん、豆六が立ちどまった。
「お、親分、あ、あ、あら、なんだっしゃろ」
「なに、なにがどうしたというんだ」
「ほら、ほら、あの草むらのなかに光っているやつ……あっ、だんだんこっちへ近づいてきよるがな。わ、で、で、出たア」
豆六が腰をぬかしたのもむりではない。
草むらからおどり出したのは、全身から青白い炎をあげた犬である。
妖犬《ようけん》は暗やみのなかに青白い虹《にじ》をまきちらしながら、あっというまもない、三人のそばをすり抜けて、さながら宙をいくごとくむこうのほうへ走り去った。
さすがの佐七も、とっさのこととて気をのまれて、とらえる才覚もでなかった。
「お、親分、ありゃアいったいなんでしょう。やっぱり犬の幽霊で……」
だが、佐七はそれに答えるまえに、またしてもきこえてきたのは、世にもいんきな犬の鳴き声。
「おっ、むこうのほうではまだ犬が鳴いてるぜ」
「お、お、親分……」
豆六め、ガタガタとふるえていやアがる。
「はっはっは、おかしいじゃねえか。犬の幽霊はむこうへいっちまったのに、まだあっちで鳴き声がしてるぜ。すると、幽霊め、二匹いやアがるのかな。辰、豆六も気をつけろ。音を立てて気取られるな」
声をたよりに近づいていくと、犬の鳴き声は隆磧の宅のうらっかわ、ふかい草のなかからきこえるのである。
佐七は足音をしのばせて、二、三間手前までちかづくと、
「この野郎!」
だしぬけに、身をおどらせて、声のぬしにとびついた。
と、そのとたん、
「わっ、だ、だ、だれだ!」
意外とも意外、犬の鳴き声のぬしは人間だった。
「こん畜生、ふざけたまねをしやアがる。おおかたこんなことだろうと思っていたんだ。辰、豆六、あかりをみせろ」
「おっとしょ」
あいてが人間とわかると、辰と豆六も勇気がでる。
火なわをともして顔をみると、あいては柄こそ大きいが、まだ十七、八の、どこかまの抜けた若者だった。
「あっはっは、やっぱりてめえだったな。おい、竹蔵、てめえはバカ竹だろう」
「おらアなんにも知らねえ。おらアなんにも悪いことはしねえ」
「悪いことはしねえ? ふざけちゃいけねえ。おい、竹蔵、犬のからだに変な薬をなすりつけて、人をおどかしたり、犬の鳴き声をしてみせたり、それでもてめえ、悪いことをしねえというのか。てめえなんだってこんないたずらをやるんだ」
「おらア知らねえ。おらアなんにも知らねえ」
バカッ竹は手ばなしでおいおい泣き出したが、そのときである。
隆磧の宅の裏木戸が音もなくひらくと、だれやらそっとなかから出てきた。
そいつはバカッ竹の泣き声をきくと、ギクッとしたように立ち止まったが、すぐ、くるりときびすをかえして逃げようとする。
佐七にもこの人物の出現は思いがけなかったので、ちょっと気をのまれたかたちだったが、あいての怪しい素振りをみると、
「それ、辰、豆六」
「おっと合点だ」
五、六間追っかけて、ふたりはあいてに追いついた。
「この野郎」
うしろから豆六がとびついたので、あいては腰がくだけたか、二、三歩ひょろひょろひょろつくところへ、
「くせ者、御用だ」
まえへまわったきんちゃくの辰、大手をひろげておどりかかったが、とたんに、
「わっ!」
とさけんでもんどり打ったのは、てっきりくせ者と思いきや、これがなんと辰と豆六なんで。
ふたりは芝居の捕り手みたいに、派手にとんぼを切ると、ダア! いやはやだらしのないことではあった。
「しまった!」
これをみると、佐七はもうバカッ竹などかまっちゃいられない。
佐七の手からさっと投げなわがとんだかと思うと、こいつがみごとにくせ者の足にからみついて、くせ者は仰向けざまにひっくりかえった。
「それ、辰、豆六」
佐七の声に、辰と豆六、腰をなでなで起きあがると、へっぴり腰でおどりかかって、
「くせ者、捕ったア!」
いやはや、たよりない捕り物もあったものである。
佐七はにが笑いをしながらちかよって、
「ち、だらしのねえ。大の男がふたりかかって、まんまと手玉にとられやアがった」
「そやかて、親分、相手のほうが強いんやさかい、しよがおまへんやないか」
豆六は諦観《ていかん》しているからえらい。
「親分、すみません。しかし、こいつにこんな力があるたア思わなかった」
「こいつ……? 辰、それじゃ、てめえこの男を知ってるのか」
「知ってるだんじゃございません。こいつこそ、きょうさんざんさがしまわった青柳静馬という浪人なんで」
「なに、青柳静馬だと?」
佐七はぎょっとして、あわてて火なわに火をつけると、改めてあいての顔を見直したが、そのとたん、三人は思わずあっと息をのんだ。
静馬は全身、血にぬれているのである。
「しまった、やりゃアがったな。辰、豆六、そいつを引っ立ててついてこい」
佐七はさきにたって、いま静馬がとび出した裏木戸からなかへふみこんだが、はたせるかな、隆磧夫妻は寝床のなかでズタズタに切り殺されているのである。
しかも、とりわけひどいのは女房のお妙で、いったい、どういう意趣があるのか、顔面をズタズタに切りきざまれ、相好のみわけもつかぬほどの惨状を呈しているのであった。
愛憎|女讐討《めがたきう》ち
――三月待ってとお妙は泣きくずれ
「親分、すみません。また、とんだことができましたそうで」
夜中たたき起こされた町役人が、青くなってやってくる。
騒ぎをききつけて野次馬がねぼけまなこをこすりながらわやわやと押しよせてきて、根岸かいわい、またしてもたいへんな騒ぎだ。
佐七はその野次馬をつかまえて、
「ちょっとお尋ねいたします。ここの下男の直助が見えねえんですが、どなたかご存じじゃアありませんか」
「ああ、その直助なら宵《よい》に会いましたが、こんやはだんなやご新造からひと晩おひまが出たから、あの妓《こ》のところへ遊びにいくんだと、めかしこんでいきましたぜ」
「あの妓ってどこにいるんです」
「さあて……おっと、そうそう、おい、久作、てめえいつか直助といっしょに遊びにいって、さんざん見せつけられたといっていたが、直助のレコはどこにいるんだ」
「やいやい、勘太、つまらねえことをいうない」
「もし、久作さんとやら、これはお上の御用ですよ。直助はいつもどこへ遊びにいくんです」
「へえ、それが……上金杉《かみかなすぎ》の炮烙《ほうろく》長屋で、おしんというのが直助の女なんで」
上金杉の炮烙長屋というのは、下等な売女《ばいた》の巣窟《そうくつ》である。
「なるほど、それじゃどなたかすみませんが、ひとつ使いやっこになって、直助を呼んできてくれませんか」
「おっと、ようがす。あっしがいってきましょう。久作、おまえは案内者だ。いっしょにこい」
勘太と久作がバラバラと駆け出していったあとで、佐七は辰と豆六をふりかえり、
「おまえたちは屋根権のところへいって、バカッ竹をしょっぴいてこい。さっきおもわず取り逃がしたが、いまごろは家へかえってるにちがいねえ。おっと、そうだ、ついでにおやじのほうもひっぱってこい」
「おっと、がってんだ」
一同がそれぞれ手分けしてでていくと、佐七はあらためて静馬のほうをふりかえった。
「青柳さん。こうなったら仕方がねえ、なにもかも打ち明けてくださいな。おまえさんがだんまりでいると、手数がかかるばかりだ。青柳さん、おまえさんはここの夫婦と、いったいどんな関係があるんです」
静馬はあおじろんだ顔をしていたが、こうなってはのがれぬところと観念したのか、
「ご主君のお名前だけははばかりあるゆえ、なにとぞお許しくだされい」
と、こう前置きをしておいて、語り出したところによるとこうである。
かれはもと西国の某藩の家中のもので、お妙は静馬の姉、また、さきに殺された津島源太夫はお妙の夫であった。
ところが、お妙はいつか同藩の医者、白井隆磧とねんごろになり、手に手をとって出奔したのである。
こうなると、源太夫もだまってはいられなかった。
男の顔にどろをぬられたまま、家中にとどまっているわけにはいかない。
そこで、お妙、隆磧をさがしだして討ち果たす覚悟でおいとまをねがった。いわゆる女讐討《めがたきう》ちというやつである。
こうなると、お妙の唯一の肉親である弟の静馬もだまってはいられない。家名を傷つけた憎い姉、これまた討ち果たす所存で、義兄と行をともにした。
こうして、あるいは東、あるいは西と、不義のふたりをさがしもとめてさすらい歩くことまる三年、やっと先月、ふたりの居所をつきとめたのである。
「そのと隆磧はるすで、姉ひとりきりでした。われわれは隆磧の帰宅をまって、ふたり同時に討ち果たす所存でしたが、そのとき姉が涙をながして、もう三月待ってくれとたのむのです。三月たったら夫隆磧も手引きをして、ともどもきっと討たれようと、涙ながらにたのむものですから……」
「しかし、青柳さん、それゃ少しおかしいじゃありませんか。討たれるのに三月のばすという法はない。また、おまえさんにしたところで、相手のいうままに三月待つというのはのんきすぎる。いったい、それゃアどういうわけで」
「さあ、それです。姉はそのときみごもってちょうど七月。姉は後悔していました。隆磧という男にだまされて、津島源太夫どのをふりすてたものの、おいおい地金をあらわした隆磧という男は、ひとかたならぬ悪党――としったときから、姉は泣きの涙で日を送ってきたのです。しかし、たとい悪人のたねにしろ、腹の子どもに罪はない。産みおとすまで待ってくれ、ぶじに子どもを産みおとしたら、きっとふたりに討たれよう。また、われわれを手引きして隆磧を討たせようと、泣いてたのむのもむりはないと、そこで源太夫どのとも相談して、三月のばすことにしたのです」
「なるほど、それはもののわかったやりかたですね。しかし、源太夫さんがきのうこのへんへやってきたのは?」
「さあ、それです。ぶじに子どもを産みおとすまでは、わたしどものことは隆磧にかくしておくようにと、姉にいいふくめておきました。それでないと、隆磧がいつなんどき逃げだすかもしれないからです。ところが、きのうさくら湯できいたところでは、隆磧が姉の愛犬を殺したという。しかも、その日が先月の二十四日、わたしどもが姉にあってから三日目のこと。ひょっとすると、姉の身になにか間違いがあったのではないかと、にわかに不安をおぼえたので、ゆうべ、源太夫どのがひそかにようすを見に来られたのです。そのとき、わたしも同行すればよかったのを、つい、女の涙にひきとめられ……」
さくら湯のお京は、愛する男をそういう危ないところへやりたくなかった。
また、静馬もそれをふりきってまで、源太夫と同行する誠意にかけていた。
そこで源太夫が単身やってきたのだが……。
「それが、けさきけば非業の最期をとげられたとやら。隆磧のためにかえり討ちにあったのであろうと思うと、わたしは源太夫どのに申し訳なく、腹も煮えくりかえるばかり。そこで、今夜こうして忍んできて……」
「とうとうふたりをやったんですね」
「いいえ、それはちがいます。ふたりを殺したのはわたしじゃありません。わたしが来たときには、ふたりはすでに殺されていたのです。それとはしらず、暗やみで死体につまずきころんだために、このように血だらけになったが、ふたりを殺したのはわたしじゃないのです」
「もし、青柳さん、それはしかし……あなたも武士じゃありませんか。この期におよんで……」
「いいえ、ちがいます。だいいち、隆磧はともかくも、わたしがその女を殺すわけがありません」
「えっ、なんとおっしゃる」
「顔をズタズタに切られているゆえ、わたしもはじめは姉だと思いました。しかし、からだを調べてみて姉でないことがわかったのです。その女は妊娠してはおりません」
意外な静馬のことばに、佐七はあっとおどろいた。
掘り出す死体
――お妙はひと月まえに殺されて
辰と豆六が、バカ竹とおやじの権四郎をひっぱってきたのは、それからまもなくのことである。
ずうたいこそ大きいが、知能は六つ七つの子どもにも劣るとみえて、バカ竹はふとい青っぱなをたらして、手ばなしでわあわあ泣いている。
おやじの権四郎はまっ青になっておろおろしていた。
「やい、竹、てめえはふとい野郎だぞ。犬のからだに怪しげな薬をぬりつけ、諸人をおどかしたのは貴様だろう」
「おら、知らねえ。おら、なんにも知らねえ」
「知らねえことがあるものか。さっきもへんな犬の鳴き声をまねていやアがったじゃねえか。おい、竹、てめえはなんだってあんなまねをするんだ」
「おら、知らねえ。おら、なんにも知らねえ。ちゃん、なんとかいってくれ。おら、なんにも知らねえのに……」
「もし、親分、どうぞ勘弁してやってくださいまし。どういう不調法をいたしましたかは存じませぬが、根がこのような足らぬもの、どうぞ勘弁してくださいまし」
「おお、権四郎、よくいったな」
佐七はそのほうにむきなおると、
「なるほど、おまえのせがれは少し足りねえようだ。しかし、足りねえからといって、それですむと思っているのか。せがれが足りなければ足りねえように、親の監督がたいせつだ。それを野放しにしておいて、こんなことをしでかしたからにゃア、おまえも罪はまぬかれめえぜ」
「はい……」
権四郎はあおい顔して、小鬢《こびん》をふるわせている。
佐七はあざけるようにそれを見ながら、
「おい、権四郎、竹はなんであんなまねをするんだ。犬のからだにあやしい薬をぬったり、また、犬の鳴き声でひとを驚かしたり……あれゃ竹ひとりの知恵じゃあるめえ。おまえが知恵をつけたのか」
「と、とんでもない。わたくしはなにも知らぬことで……」
「それじゃ、竹が一存でやったことだというんだな。よし、それじゃ、ま、そういうことにしておいて、しかし、権四郎、竹はなんだってあんなまねをするんだ。竹は隆磧になにかうらみがあるのか」
「はい、あの、それは……」
「おい、権四郎、なにをそんなにきょときょとしているんだ。てめえ、かかりあいになるのをおそれて、知らぬ存ぜぬでとおすつもりだろうが、こうなりゃアしょせんかかりあいはまぬかれめえぜ。先月二十三日、となりの普請場の屋根のうえから、てめえはいったいなにを見たんだ。ひょっとすると、隆磧がお妙を殺すところを見たのじゃねえのか」
「げっ、お、親分」
屋根権はのけぞるばかりにおどろいて、
「そ、そ、それじゃやっぱり、あの死体はご新造さんでございましたか」
「じゃなかったかと思うんだ。それじゃ、おまえは死人を見たというんだな」
「は、はい……」
「おい、権四郎、こうなったら、なにもかも申し上げてしまえ。そのほうがおまえもよっぽど肩の荷がおりるぜ」
「はい……」
権四郎はそれでもまだしばらくちゅうちょしていたが、やがて、思い切ったように顔をあげると、
「恐れ入りました。親分、それじゃなにもかも申し上げてしまいます。おききください。かようで……」
と、そこで、かれの打ち明けたところによるとこうである。
先月の二十三日、となりの普請場の屋根のうえで、屋根をふいていた権四郎は、隆磧のうちの庭から悲しそうな犬の鳴き声がきこえてくるので、なにげなくそのほうを見ると、シロがしきりに松の根元を掘っていた。
おやおや、シロめ、あんなところを掘ってなにをしようというのだろう……。
ふしぎにおもって権四郎がみていると、そのうちに、シロが松の根元から掘り出したのはなんと死骸《しがい》……それも女の死骸だったから、屋根権はびっくり仰天、のけぞる拍子に足踏みすべらして、屋根のうえからまっさかさまに落ちたのである。
権四郎はしかし、その死体がだれであるかわからなかった。
女であることは間違いなかったが、遠くからちらと見ただけだったから、顔まではわからなかった。
しかし、シロのあの悲しそうな鳴き声からして、ご新造のお妙じゃないかと思われた。
ことに、その翌日、隆磧がシロを殺したといううわさをきいて、いよいよそれにちがいないと考えた。
ところが、ふしぎなことには、そのご直助にきいたところでは、お妙は達者で生きているという。
シロの一件を面目ながって、ひとに会わぬようにしているが、たしかに生存しているというので、権四郎の疑惑はまたぐらついた。
そこで、ともかく、これは黙っているにしくはないと考えた。当時の人間のつねとして、かかりあいということを極端におそれる。
権四郎は女房にだけその話をしたが、けっしてこれをひとにしゃべってはならぬと口止めした。
女房のお兼も亭主《ていしゅ》におとらぬ小心者だから、ふるえあがって無言を誓ったが、幸か不幸かこのささやきを、せがれの竹蔵にきかれてしまったのである。
バカはバカなりに、竹蔵はこの話に興味をおぼえた。
そこで犬の怪談をでっちあげ、隆磧をおどかそうとしたのである。あるいはそうすることによって屋根からおちたおやじの復讐《ふくしゅう》をしているつもりだったのかもしれぬ。
こうして権四郎の話をきいてみると、お妙はすでにひと月まえに殺されているらしいのである。それではいま、そこに切り殺されている女は何者か……。
佐七はにわかに興味のわき起こるのをおぼえたが、折からそこへ、ころげるようにとびこんできたのは直助である。
直助はむざんに切り殺された隆磧夫婦の死体をみると、棒をのんだように立ちすくんだが、つぎの瞬間、狂気のようにふたりの死体にとりすがり、
「あっ、だんな様、ご新造様、いったいだれがこんなむごたらしいことをいたしました。わたしがそばにおりますれば、むざむざこんなご最期はとげさせないものを……悪うございました。今夜おいとまをいただいたのが悪うございました。もし、だんな様、ご新造様……」
かわるがわる二つの死体をかきくどく直助のようすを、佐七はだまってながめていたが、やがてにんまりほほえむと、
「おい、直助さん、いまさら嘆いたところであとの祭りだ。仏が生きかえるものでもねえ。それより、おまえに尋ねたいことがある」
「はい、親分、なんでもおききくださいまし。そして、いちにちも早く下手人をつかまえて、ご主人の敵を討って下さいまし。お役に立つことなら、どんなことでもいたします」
「よし、よく神妙にいってくれた。それじゃ尋ねるが、おまえが家をでたのは何刻《なんどき》ごろだったな」
「はい、五つ(八時)ごろのことでございました」
「そのときにゃ、隆磧さんもご新造のお妙さんもまだ元気だったんだな」
「へえ、それゃもう……」
「しかし、ご新造のお妙さんは、ちかごろだれにもあわねえということだが、おまえはたしかに顔を見たのだろうな」
「もちろん、わたしはうちの者ですから、毎日、お顔を見ております」
「そして、そのご新造はお妙さんにちがいなかったというんだな」
直助の顔色がだんだん怪しくなってくる。
しかし、すぐに気を取り直すと、
「それは、もちろん、お妙さまにちがいございません。どうしてでございますか」
「いや、それはどうでもいいが、それからおまえはまっすぐに炮烙長屋へいって、いままで遊んでいたんだな」
「へえ、さようで」
「おまえ、途中でいちど引き返してきやアしなかったかえ」
「と、とんでもない。わたしはずっと女のそばにおりましたので……」
だが、そのときだった。とつぜん、座敷の一隅《いちぐう》から、すっとんきょうな声が爆発した。
「うそだい、うそだい、うそいってらア!」
それはバカ竹だった。
バカ竹は目をいからせ、地団太をふみながら、
「おら、ちゃんと知ってるぞ。九つ(午前零時)ごろにこっそり外からかえってきて、四半刻《しはんとき》ほどしてまたこっそりと出ていったのを、おら、ちゃんとこの目で見ていたぞ。おまえ、そのときむこうの小川で、手を洗っていたじゃないか」
「畜生ッ!」
直助がさけんで、ふところから匕首《あいくち》をひきぬくと、佐七が、
「それ、辰、豆六」
と、合図をするのとほとんど同時だった。
直助はまたたくまに匕首をたたきおとされ、辰と豆六にとりおさえられていた。
直助の白状によってすべてはわかった。
源太夫、静馬がたずねてきたことをしった隆磧は、お妙を殺してそのかわり、べつにかこっていたおさわというめかけをつれてきて、当分それをお妙の身代わりとして世間をごまかしていたのである。
むろん、下男の直助には多額の口止め料をあたえて仲間にひきいれ、源太夫がやってきたときも、この三人でなぶり殺しにしたのであった。
この一件で味をしめた直助は、ここで隆磧おさわを殺しても、その罪を静馬になすりつけることができるだろうと考えたのである。
そこで、炮烙長屋へ遊びにいき、女が寝入ったところを見計らい、ひそかに抜け出してかえってくると、隆磧とおさわを殺し、有り金のこらず持ち出して、庭の一隅《いちぐう》に埋めておくと、こっそり炮烙長屋へとってかえし、なにくわぬ顔をして、女といっしょに寝ていたのである。
おさわの顔をズタズタに切りきざんだのは、むろん、お妙の身代わりとして押し通すためだったが、そのお妙が懐妊していることをしらなかったのと、ひそかに舞いもどってきたところをバカ竹に見られたのが運のつきだった。
しかし、直助がお妙の懐妊に気がつかなかったのも、まんざら無理とは思えなかった。
松の根元から堀りだされたお妙の死体は、妊娠していたことはしていたが、とうてい七月とはおもえないほど小さな腹だった。おそらく、お妙はつもる苦労で、妊娠はしたものの胎児の発育はおそろしくわるく、これではぶじに分娩《ぶんべん》できたかどうかも疑問であると思われた。
直助は主殺しの重罪だから、引き回しのうえ獄門となった。
さて、青柳静馬だが、源太夫をかえり討ちにされ、しかもじぶんの手で隆磧夫妻を討つこともできなかったかれは、ふたたびもとの藩へかえることもならず、武士を捨てるよりほかにみちはなかった。
しかし、このことはけっきょく、かれにとって、さのみ不幸ではなかったであろう。なぜならば、さくら湯のお京がなによりそれを望んでいたのだから。
「それにしても、親分、親分はあの犬の幽霊のからくりをバカッ竹の細工だと、いつごろから気がおつきになったんです」
「それゃア屋根権の長屋を訪ねていったときよ」
「親分、屋根権の長屋になにかおましたかいな」
「なあに、土間の片すみにすりばちがおいてあったろう。すりばちのなかに、貝がらがいっぱいすりつぶしてあるのに気がついたんだ。貝によっちゃア、その裏っかわがどうかすると夜光ることがある……」
「あっ、親分、バカッ竹はそれを知っていたんですね」
「そうだろう、あの子はひとがバカにしてだれも遊んでくれねえから、ひとりで遊んでいるうちに、かえってひとの知らねえことをしっていたんだろうな」
「そうすると、親分。バカが利口か、利口がバカかわかりまへんな」
「そういうこった。利口ぶってた直助が、バカにされてたバカッ竹に、まんまとしっぽをおさえられたんだ。こんどの捕り物のいちばんの手柄もんといえば、さしずめあのバカッ竹ということになるだろうな」
[#地付き](完)
◆人形佐七捕物帳(巻十五)◆
横溝正史作
二〇〇四年四月二十五日 Ver1