人形佐七捕物帳(巻十三)
[#地から2字上げ]横溝正史
目次
女刺青師
からかさ榎《えのき》
色八卦《いろはっけ》
まぼろし役者
蝙蝠屋敷《こうもりやしき》
女刺青師
姫始め辰巳《たつみ》の聞き書き
――小雪の死体が消えよったんです
門松は冥途《めいど》の旅の一里塚《いちりづか》、なあんて、世のなかには皮肉なひともいるもんだが、お正月というものはやっぱりいいもんで。だいいち、ものに区切りがつくだけでもいい。
去年はあれやこれやと失敗つづきだったが、ことしはなんとかふんどしをしめてかかろうとか、この正月を契機として、おおいに発奮しようとか、たとえそれが三日坊主におわるにしろ、そういう気持ちになるだけでもいい。
その証拠に、ちかごろでは、江戸以来の年中行事がおいおいすたれていくなかにあって、お正月の行事だけがわりに厳重に守られているのは、まさか、年末のボーナスだけがお目当てではあるまい。
いわんや、江戸時代にはどの家でも、分相応の門松に、注連飾《しめかざ》りもすがすがしゅう、お屠蘇《とそ》雑煮におせち料理、それぞれ家風にしたがって、めでたく新年をことほいだものだが、この正月三が日のなかでも、とりわけめでたい行事というのが姫始め。
ほこ長し天が下照る姫始め
と望一宗匠の句にもあるとおり、姫始めの行事こそは、富めるも貧しきもない、人間として至高至福、男女和合の最大行事。
神田お玉が池では、まいねんこの行事を二日の晩ときめてあるが、そこはものわかりのいい佐七のこと、その夜はとくにお年玉をふんぱつして、辰《たつ》と豆六をだしてやり、どこかで姫始めをさせることにしている。
さて、そのあとでお粂《くめ》佐七のご両人、いと厳粛にか濃厚にかしらないが、とくに念入りにこの行事をとりおこなって、さて、三日の朝。
佐七は疳性《かんしょう》だから、六つ(六時)ごろ目をさますと、さっそくご近所のさくら湯へでむいていき、サバサバした気持ちになって、かえってきたのが六つ半(七時)ごろ。お粂の心づくしの支度もできているというのに、辰や豆六はまだかえっていない。
「おや、お粂、辰や豆六はまだかえ」
「あいな。少しおそいようだが、おっつけかえってくるでしょうよ」
まいねんの例だと、辰と豆六、どこで姫始めの行事をとりおこなったにしろ、三が日の雑煮は、うちで祝うことにしているのに、その日にかぎって、五つ(八時)になってもかえってこない。
「野郎、どこへしけ込みやアがったかな。お粂、いいからこちとらだけではじめようじゃないか」
「そうねえ、おまえさんが一杯やってるうちに、かえってくるかもしれないわね。それにしても、ことしに限ってどうしたというんだろう」
「なあに、ふたりきりのほうがかえっていいのさ。お粂、もそっとそばへよってお酌《しゃく》をしな」
「ほっほっほ。それもそうねえ」
ゆうべの行事のほとぼりが、まだのこっているのか、女房お粂、ボッテリと上気したような顔で、うれしそうに佐七のそばへすりよると、夫婦ふたりの水入らずで、差しつさされつという、正月そうそう、まことに情緒纏綿《じょうちょてんめん》たる風景とあいなったのはよかったが、どうしたものか、辰と豆六、午《うま》の刻(十二時)になってもかえってこない。
「野郎ども、いってえどうしやアがったかな」
「おそいといっても、少しこれじゃ遅すぎるわねえ。おまえさん、ひとあしさきに雑煮を祝って、ちょっと横になったらどう?」
「ふむ、そうしてもらおうか」
ふたりを待っているあいだについ深酒をしてしまった佐七は、雑煮を祝うのもそこそこに、お粂のしつらえてくれたおきごたつに、しりぬくぬくとひとねむり、これも正月なればこそだろう。
その辰と豆六が、やっとご帰館あそばしたのは、その日の暮れがた、ひとねむりした佐七が、つめたい水で顔を洗っているところだった。
「あらまあ、辰つぁんも豆さんも、ずいぶんごゆっくりだったじゃないか」
「あねさん、どうもすみません。いつもの時刻までにゃ、ふたりそろってご帰館あそばすつもりだったんですが……」
「それがあの妓《こ》の口説についひかされてかえ」
「あねさん、そんなんやったらよろしおまっけど、ちょっとおかしなおとりこみがおましてん」
さぞや寸ののびた顔でかえってくると思いのほか、辰と豆六、案外シャッキリしているから、佐七はおやと小首をかしげた。
「辰、豆六、ゆうべはどっちの方角だえ」
「へえ、それが辰巳《たつみ》なんで……」
「辰巳……?」
と、佐七は長火ばちのいつものところへかえってくると、
「お粂、この連中をあいてに飲みなおすから、お燗《かん》を熱くしてくんな」
「あいよ、辰つぁんも豆さんも、ちょっと待っておくれ。親分はきょういちにち、あいてほしやで、弱っておいでなすったんだから」
そこは岡《おか》っ引《ぴ》きの女房である。ふたりがなにかかぎつけてきたらしいとピンときたから、すぐ立ちあがって支度にかかる。
「ところで、辰、豆六、そのおかしなおとりこみというのは、どういうことだえ」
「へえへえ、そのことですがねえ、親分、親分も深川の小雪が、元旦《がんたん》そうそう、むごたらしい死にかたをしたのはご存じでしょう」
佐七はキラリと目を光らせて、
「おお、その話ならきのう聞いた。ふびんなことをしたもんだが、辰、豆六、それについて、なにかおかしなふしでもあるのか」
と、おもわず長火ばちのうえにのりだした。
江戸時代でも元旦はふろ屋はおやすみ。二日が初ぶろとしたものだが、きのうの朝起きぬけに、男三人、さくら湯の初ぶろへ、去年のあかをおとしにいったが、そこで小耳にはさんだ、深川芸者尾花屋の小雪が、元旦そうそう惨死をとげたというのは、つぎのようないきさつらしかった。
深川の色町はぞくに七場所といわれ、土橋、仲町、新地、石場、櫓下《やぐらした》、裾継《すそつぎ》、あひる、とわかれているが、そのなかでもちかごろとくに繁栄をきわめているのが新地である。
その新地でも大栄楼といえば、七場所きっての大見世《おおみせ》といわれている。
大晦日《おおみそか》の晩、その大栄楼へよばれた小雪は、遊びおさめのなじみの客と、そこにとまって朝はやく客を送りだすと、初日の出をおがもうと、屋上にある見晴らし台へのぼっていった。
大栄楼の見晴らし台は、楼主ごじまんのしろものである。
大栄楼は新地のはなの、海のすぐとっつきに建っている。だから、屋上の見晴らし台へのぼると、お浜御殿から、鮫津《さめづ》、品川、さては安房《あわ》、上総《かずさ》の山々まで、一望のもとに見わたせるのである。
そのとき、見晴らし台にいあわせたほかのふたりの証言によると、小雪はそうとう酔うていたそうである。それかあらぬか、小雪は足をふみはずして、大屋根から小屋根、小屋根から庭へところげ落ちたはずみに、庭石にしたたか脾腹《ひばら》をぶっつけて、むごたらしい死にかたをしたという。
「それについちゃ、おれもふしぎに思ってるんだ。大栄楼の見晴らし台なら、おれもあがったことがあるが、あそこにゃまわりにぐるりと手すりがついているから、いかに小雪がくらい酔っていたからって、そうむやみに、ころげ落ちるはずはねえんだが……」
「いえ、親分、それにはわけがおまんねん。小雪はその手すりを、乗りこえよったんだすがな」
「な、なんだと? 手すりを乗りこえたと……? なんだってまた、そんなつまらねえまねをしやアがったんだ」
「親分、それにはこういうわけがあるんです」
と、辰がひざをのりだしたところへ、お粂が支度をしてはいってきた。
「辰つぁんも、豆さんも残りものばかりで勘弁しておくれ」
と、ねこ板のうえへ酒のさかなをならべながら、
「おまえさん、お燗がそろそろできゃアしないかえ」
なるほど、長火ばちの銅壷《どうこ》のなかで、おちょうしがゴトゴト鳴っている。
「おっと、話にかまけて忘れていた。じゃ、辰、豆六、一杯やんねえ」
と、辰と豆六をあいてに飲みながら、佐七がきいた話というのはこうである。
小雪が見晴らし台へあがっていったとき、おてんとうさまはもうとっくにあがっていた。それをおがんで、小雪がひょいと下をみると、いましも新地のはなをまがって、隅田川《すみだがわ》のほうへこいでいく一隻の屋根舟が目についた。
のっているのは、いわずとしれた芸者と客、ゆうべの逢瀬《おうせ》を足れりとせず、客をおくって舟宿までいくところであろう。ひとごとながら、小雪はちょっとねたましいような気になった。
そこでなにげなく、その屋根舟を見送っていると、そのうち舟から芸者が顔をだしたが、そのふたりの顔をみたせつな、小雪はかっとのぼせあがった。客というのは、いぜんから小雪がなじみをかさねている半次郎という道楽息子。
小雪はべつに半次郎にほれているというわけではなかったが、じぶんの客がじぶんにかくれて、ほかの妓《こ》とあそんだということだけでも、ずいぶん腹の立つことだのに、さらに、あいてというのが悪かった。
辰巳芸者かずあるなかにも、双璧《そうへき》とたたえられているのが、尾花屋の小雪と竜田屋《たつたや》のお滝。
それだけに、ふたりの人気争いはものすごく、ことごとに張りあってやまなかったが、いま半次郎とむつまじくこたつにあたって舟でいくのは、なんと、その競争あいてのお滝ではないか。
しかも、ふたりがこちらをむいて、なにかささやきながら、笑っているようすだから、きかぬ気の小雪が、かっとしたのもむりはない。
その舟やらぬ……とばかりに、むちゅうで手すりを乗りこえたが、なにしろしたたかくらい酔っていたからたまらない。足踏みすべらせて、大屋根から、もんどりうって、転落していったのである。
「なるほど、そんな話があったのか」
はじめてきいた話に、佐七は目をまるくして、
「いや、お滝と小雪の張りあいは、おれもかねてからきいていた。どちらもきかぬ気性だから、いままでにも、ずいぶんいろんなうわさがあったが、とうとう、こんなことになってしまったか」
佐七は感慨無量のおももちである。
「ほんに、意地っ張りもいいかげんにすれゃいいのに、あいつらのは、気ちがいじみてましたからね。あっちが着物をつくれば、こっちは羽織をつくる。あっちが堺町《さかいまち》の役者に入れあげれば、こっちは葺屋町《ふきやちょう》の役者に肩入れする。こっちが入れ墨をすれば、あっちも負けずにやるというわけで……」
「そうそう、そういやア、お滝も小雪も、女刺青師のまぼろしお長に、入れ墨を彫らせたといううわさだったな」
「さよさよ。あれはお滝がさきにやりよったんだす」
「そうよ、女だてらにお滝のやつが、まぼろしお長に背中いちめん、相馬の古御所の滝夜叉姫《たきやしゃひめ》を彫らせやアがった。すると、小雪も負けじと、まぼろしお長に、金閣寺の雪姫を彫らせたんだ。どっちもみごとな出来ばえだったということですぜ」
「なるほど、雪姫に滝夜叉か。どっちもじぶんの名にちなんだ入れ墨だな」
佐七が苦笑するそばから、お粂が酌をしながら、
「おまえさん、そのまぼろしお長というのは女入れ墨師かえ」
「そうそう、女ながらも入れ墨にかけちゃ、江戸でも屈指の名人だといううわさだ。おれはまだみたことはねえが、お長の彫った入れ墨は、そこは女のことだから、線やわらかく、色繊細で、優婉《ゆうえん》といおうか、幽玄といおうか、まるで夢まぼろしみてえにきれいだというところから、まぼろしお長の異名がついたんだそうだ」
そこで、佐七は辰と豆六のほうへむきなおり、
「ところで、辰、豆六、おみやげはそれだけじゃねえだろうな。それだけのことを聞きだすのに、いままでかかるはずがねえ。お滝がなにかやらかしたのか」
「お手の筋といいてえところですが、お滝にゃ関係はねえんです。小雪についてへんなことが持ちあがりゃアがったんです」
「へんなことって?」
「小雪の死骸《しがい》が、ゆんべのまに消えよったんです」
「あらまあ!」
「なんだと? 小雪の死骸が消えたと……?」
佐七はおもわずまゆをつりあげたが、辰と豆六の話によるとこうである。
入れ墨に憑《つ》かれた侍
――呼吸がはずんでやがてがっくり
なにしろ、縁起をかつぐ色町で、元旦《がんたん》そうそう、変死人がでたというのだからたいへんである。尾花屋でも小雪の死体はひきとったが、正月そうそうお弔いをだすのは好ましくない。
そこで、元旦の晩、かたちばかりのお通夜をすると、二日には仏を檀那寺《だんなでら》へあずけた。
尾花屋の檀那寺は、深川寺町の法乗寺である。
そこへいったん仏をあずけて、三日にお弔いをし、すぐその足で火葬場へかつぎこむことになっていた。むろん、そのあいだ、仏のゆかりのものがかわるがわる寺へでむいて、仏のお守りをすることになっていたが、なにがさて、色町にとっては書き入れどきの正月のこと。
だれもかれも、からだがいくつあっても足りないくらいの忙しさだから、そうそうは仏のお守りもできない。そこで、ゆうべひと晩、仏は法乗寺の本堂にほうりっぱなしというかたちになっていた。
「それが、親分、けさになってみると、小雪の死体が、影も形もなくなってるんで……」
「影も形もねえって、まさか小雪が生きかえって……?」
「いや、そやおまへん。小雪はたしかに死んだそうです。そやさかい、だれかが本堂へしのびこみ、仏を盗んでいきよったんだすな」
「仏を盗んでいったア……? いったい、小雪の死体はどうしてあったんだ。むきだしのまま、ほうりだしてあったのか」
「いえ、それはちゃんと棺桶《かんおけ》におさめて、くぎまでうってあったんです。あっしらゆうべ小雪の死にかたに、なにか怪しいふしでもあるんじゃねえかと、豆六と相談して、おなじ新地で、姫始めをさせてもらったんです」
「ほしたら、けさになってその騒ぎだっしゃろ。それで、兄いとふたりで法乗寺へかけつけてみたら……」
「外からくぎ抜きかなんかで、くぎをぬいたあとがある。だから、だれかが棺桶をこじあけて、小雪の死体を盗みだしたとしか思えねえんです」
「小雪の死体は、金目のものでもつけていたのか」
「いえ、もう、あたりまえの経帷子《きょうかたびら》に紙の銭、そんなもんしかなかったそうだす」
「それで、小雪の死体はどうなんだ。あの見晴らし台からおちたとあっちゃ、さぞや、目もあてられねえ死にざまだったろうが……」
「いえ、ところが、親分、それがそうじゃねえんだそうで。庭石にしたたか脾腹《ひばら》をうたれて絶息したんだそうですから、そこにおおきな黒あざができてるほかは、かすり傷がほんの四、五カ所、顔などちっともかわってなかったそうですぜ」
「それじゃ、もしや死体ぬすっとは、小雪の死体をあいてに、姫始めでも……」
「あらまあ、なんぼなんでもそんなあさましい……」
まゆをひそめるお粂のそばから、辰がひざをのりだして、
「ところが、あねさん、さにあらず。親分、ここに妙な話がございますんで」
小雪が惨死をとげた大栄楼へ、ちかごろちょくちょくおしのびでやってくるひとりの客。としのころは四十二、三、人品骨柄、どこかご大身のお旗本か、諸藩のお留守居役といったかっこうだが、里の名を宮さまといって、いつも茅場町《かやばちょう》の舟宿、一藤《いちふじ》から送られてくるという。
宮さまはいつきても、座敷でしずかにあそぶだけで、ついぞおんなとねたことはない。しかし、それでも酔っぱらって、おんなも抱かずに泊まっていくこともある。
この宮さまがとくに目をかけているのが、尾花屋の小雪と竜田屋のお滝。ふたりを呼ぶと、かならず帯をとかせて、背中の入れ墨を鑑賞する。
「それがねえ、親分、入れ墨をみせろという客は、ほかにもたくさんあるそうです。また、小雪にしろお滝にしろ、ごじまんの入れ墨だから、客の所望でもろはだぬぐことも、めずらしくないそうですが、宮さまのばあいはちょっと変わっている……」
「変わってるって、どう変わってるんだ」
「入れ墨をなでたりさすったり、そらもう、よだれをたらさんばかりやそうだす。おまけに、息遣いがはげしゅうなって、さすがの小雪もお滝も、いやらしいような、気味悪いようないうて、いつも辟易《へきえき》してたちゅう話だすわ」
「それでいて、宮さまというその侍は、小雪やお滝をくどこうとはしねえんだな」
「そうなんですよ。ひとしきり息をはずませ、入れ墨をなでまわしていると、やがてがっくりなってそれでおしまい。だから、お滝や小雪も、気味悪がっていたそうですが、とにかく宮さまのふたりの入れ墨にたいするご執心は、ひととおりやふたとおりではねえから、ひょっとすると、死体ぬすっとは宮さまじゃアねえかというんです」
「すると、宮さまは、小雪の死体が法乗寺にあることをしっていたのか」
「へえ、そらもう。宮さまは大晦日《おおみそか》の晩から二日の夕刻まで、大栄楼にいつづけしとったちゅう話だすもん」
「ところで、小雪の顔は、生きてるときのままだというが、入れ墨のほうはどうなんだ。傷がつくとか肉が裂けるとか……?」
「いえ。ところが、そのほうもきれいなもんだったそうですよ。打ちどころは脾腹ですからねえ」
「そやそや、そやさかいに、入れ墨の雪姫は、生きてるときのまんまやったちゅう話だす」
佐七はだまって考えていたが、
「まさか、その宮さまが小雪を突きおとしたんじゃあるめえな」
「いや、それゃありません。そのとき見晴らし台にゃ、ほかにおんなと客がいたんですが、あれゃたしかに、お滝と半次郎というやつが、いっしょに舟にのっているのを見つけたからだといってます。なにしろ、あっというまのできごとで、どうしようもなかったと、ふたりとも青くなってふるえてまさあ」
「いったい、お滝はどうなんだ。小雪の客の半次郎ってやつに、ほれて横取りしたのか」
「なあに、そうじゃねえって話ですぜ。小雪との意地ずくから、ちょっかいを出したまでで、お滝にゃほかに、ぞっこんほれた男があるってことです」
「その男というのは……?」
「さあ、そこまではきいてきませんでしたが……お滝のおとこがこの一件にかかりあいがあろうたア思えませんからね」
佐七は無言のまま考えていたが、やがて顔をあげると、
「ときに、その宮さまという侍だがな、身もとは洗ってきたろうな」
「ところが、親分、それがあきまへんねん」
「あかんというのはどういうわけだ」
「その侍をいつもおくってくる茅場町の舟宿、一藤というのへ寄ってみましたんやが、一藤でもその侍を、どこのだれやちゅうことを、かいもくしっとらしまへんねん」
「なんでも、去年の秋ごろから、ちょくちょくやってくるようになったが、お名前はいうにおよばず、ご身分もお屋敷の名もしらぬ。しかし、金の切ればなれのいい客だから、いままでだいじにしていたというんです」
ここで捜査の糸はぷっつり切れてしまったわけである。
宮さまという侍が、小雪の死体をぬすんだかどうかはべつとしても、なにかしら、こんどの一件にふかいゆかりがありそうに思われてならぬ。
しかし、江戸の町からひとりの侍を探しだそうというのは、まるで、砂浜に落ちたひとつぶの真珠をさぐろうとするのもおなじことである。
こうして、小雪の死体紛失一件は、未解決のうちに、荏苒《じんぜん》として時がうつった。
小雪の死体も見付からねば、死体をぬすんだ犯人もわからない。
また、宮さまと名乗る侍も、そののち深川ヨすがたをみせず、ここに半月ほどたったが、そのうちにまたひとつの事件がおこって、小雪の死体紛失一件は、がぜん、奇怪な色彩をおびてきたのである。
出会い茶屋死体の入れ墨
――親分これもまぼろしお長です
上野の池の端の出会い茶屋、たちばな屋の奥座敷で、わかい女が殺されたということをきいて、佐七が辰や豆六とともに、とるものもとりあえずかけつけたのは、町々から松飾りもとれた正月十六日の朝のこと。
不忍池《しのばずのいけ》のおもてには、立ち枯れたはすのあいだに、薄氷が張っていた。
「ああ、お玉が池の親分、ご苦労さまで」
さきにきて詰めていた町役人があいさつをすると、
「いや、ご苦労さまはおたがいのこと。ときに、死体はどちらに……」
「ご案内いたしましょう」
町役人は玄関からおりてくると、玄関わきの枝折り戸をおした。枝折り戸のなかから飛び石づたいに、ふたつ三つはなればなれに建った小意気な座敷へいけるようになっている。
その離れのひとつのまえに、たちばな屋の奉公人が五、六人、あおい顔をして立っている。
「この離れのなかですかえ」
「さようで。どうぞおはいりなすって」
離れの雨戸が一枚ひらいて、しめきった障子のなかに、ぼんやりと行灯《あんどん》のあかりがついているのが、みょうにまのぬけたかんじである。
縁側のそとはすぐに不忍池で、むこうに弁天様の祠《ほこら》が、寒そうに朝もやのなかにけむっている。
障子をあけてなかへはいると、引きまわしたびょうぶのなかに、おさだまりの赤い夜具。その夜具のすそにおきごたつが、なまめかしい縮緬《ちりめん》のかけ布団につつまれて、こんもりと盛りあがっている。
そのおきごたつのうえにうつぶせに、もたれるようにして死んでいるのは、赤い腰のもの一枚のわかい女だが、その背中をひとめみるなり、佐七をはじめ辰と豆六も、おもわずあっと息をのんだ。
女の背中いちめんに、みごとな入れ墨が、パッと目をうばうばかりである。
それはおそらく『関《せき》の扉《と》』の小町桜の精だろう。
桜の枝をふりかぶった小町桜の精の、あでやかにもなまめかしく……それは凄艶《せいえん》とか、妖艶《ようえん》とかいうことばを通りこして、どこか夢まぼろしを誘うような、一種の妖気《ようき》をおびている……。
「お、親分、まぼろしお長の入れ墨ですね」
三人はぞうっとしたように顔見合わせた。
このあいだ惨死をとげた尾花屋の小雪も、まぼろしお長の入れ墨をしょっていた。そして、ここにもひとり、お長の入れ墨をしょった女がむざんに殺されているのである。
佐七の目は、にわかにかがやきをましてくる。
「この女は絞めころされたんですね」
「そうです、そうです」
町役人は妙なうすわらいをうかべながら、
「うしろから男に抱かれて、身をまかせているうちに、男のお楽しみがおわったとたん、ぐっとひと絞め」
町役人はこたつのそばに投げだしてあるあかいしごきをゆびさした。それはまるで、あかいへびででもあるかのように、こたつから畳のうえにのたくっている。
「ひどいことをしやアがる!」
「ところがねえ、親分、ここのおかみもふしぎがっているんです」
「ふしぎがっているとは……?」
「いつもだと、この女、客に入れ墨をみせるだけなのに、ゆうべにかぎって、どうしてそこまで話がすすんだのかって……」
「客に入れ墨をみせる……?」
佐七はふっと辰や豆六と顔見合わせて、
「もし、それはどういうことなんです。この女は、いつも客に入れ墨をみせるんですか」
「いや、そのことなら、あとでおかみからお聞きください。ちょっと妙な話で……」
町役人が顔をしかめるのをみて、
「それじゃ、おかみはこの女をしってるんですね。いったい、これはどういう女で……?」
「おまえさんがたも、この女をしらぬはずはありませんがねえ。もっとよく、顔をごらんなさいまし」
「おお、そうか。うっかりしていた。辰、豆六、女のからだを抱きおこしてみろ」
「おっと、がてんや」
辰と豆六が抱きおこす女の顔をひとめみるなり、
「ああ、これゃ両国のならび茶屋、山吹屋のお町じゃねえか」
「あっ、そうだ、そうだ。お町にちがいねえ。お町がみごとな入れ墨をしょってるってことは聞いていたが、こいつもまぼろしお長に彫らせたのか」
お町のからだを仰向きにねかせると、ついでに腰巻きのしたを調べてみたが、男に身をまかせたあとは歴然だった。
両国の並び茶屋、山吹屋のお町といえば、美貌《びぼう》とあいきょうと手練手管で、当時江戸でも評判の女だった。
そういう女であってみれば、男出入りも少なくなかったであろうが、こうしてお町が命をおとしたのは、それらの男出入りのためであろうか。
いやいや、ひょっとすると、お町がころされたのは、背中におうたまぼろしお長の入れ墨のためではあるまいか……。
「それじゃ、すみませんが、ちょっとおかみさんをここへ呼んできてくださいませんか」
町役人によばれて、すぐにおかみのお力がやってきた。いかにもこういう出会い茶屋のおかみにふさわしい、でっぷりふとった、碾臼《ひきうす》のような女である。
「おかみさんはこの女を、よくしっていなさるんだってね」
「いえ、あの、よくしってるってわけでもございませんが、去年の秋ごろから、ちょくちょくおみえになるもんですから」
「あいてというのは、いつもおなじ男かえ。それとも、しょっちゅう変わるのかえ」
「いえ、あの、いつもおなじかたでした。いつも頭巾《ずきん》をかぶっていらっしゃるので、お顔はよくわかりませんが、そうとうご年輩の、ものしずかなお武家さまでございました。そうそう、お町さんはそのひとのことを、宮さまとよんでいたようですが……」
「宮さま……?」
佐七はぎょっと、辰や豆六と顔見合わせる。
やっぱり、そうなのだ。この一件は、小雪の惨死と関連しているのだ。
「宮さまとだけじゃわからねえが、おかみさん、そのお武家について、もっとくわしいことをしらねえか」
「それが、かんじんの当の本人、お町さんさえしらなかったくらいですから……でも、ものしずかな人体《にんてい》のかたでございますし、それに、金の切ればなれのいいかたですから、お町さんも自由になっていたんです」
「自由になっていたというと、もちろん、抱かれて寝ていたんだろうな。こんなことは聞くだけやぼだが……」
「ところが、それがおかしいんですよ」
おかみのお力はまゆをひそめて、
「いままでいちども、そんなことはなかったそうで。いえ、ほんとうらしいんです。お町さんもかえってそれで、気味悪がっていたくらいでございますからね。いつもはだかにして、入れ墨をなでまわすだけなんだそうで」
「ふむ、ふむ、それで……?」
「ところが、そのなでかたがとってもしつこくって、どうかすると、その入れ墨にほおずりしたり、入れ墨の顔……小町桜の精の顔ですわね、その顔のところへ口ずけしたり、そして、はらはら泣きだすかと思うと、いっぽうしだいに息がはずんできて……そんなことをなんどもくりかえしているうちに、がっくりきて、それでおしまいになるんだそうで」
お力は妙なわらいかたをしながら、
「だから、お町さんのいうのに、はじめのうちはからだをよごさずに、それでお金になるんだから、こんないい客はないと思っていたが、ちかごろではなんだか気味が悪くって、いっそ、抱かれてねたほうが、どれだけましだかしれやアしないと、こぼしているんですけれど、まさか、こんなひどいことを……」
お力も深川芸者、小雪の惨死の一件や、その死体がぬすまれたといううわさは、とくより承知していたが、その一件に宮さまなる正体不明の侍がいちまいかんでいることまではしらなかった。おそらく、お町もどうようだったろう。
「それで、ゆうべもその客といっしょだったんだね」
「はい、ゆうべはお町さんのほうが、ひと足さきにきて待っていたんです。そこへおみえになったので、あたしが庭づたいにここまでご案内したんです。五つ半(九時)ごろのことでした」
「やっぱり、頭巾《ずきん》で顔をかくしてか」
「はい、こちらから話しかけても、こっくりおうなずきになるだけで、めったに口をお利きになることはありません。もっとも、お町さんとふたりきりになると、ご冗談もおっしゃるそうですが……それにしても、いつおかえりになったのか、ちっとも気がつきませんでした」
お力の話によるとこうである。
いままでついぞ泊まったことのない客だが、ゆうべはいっこうお手が鳴らないので、それではとうとう首尾がとおって、お泊りになるのだろうと、そのままそうっとしておいた。とにかく、金ばなれのよい客なのである。
ところが、けさになっても、いっこう音さたがないので、女中がご用をうかがいにくると、行灯《あんどん》の灯がついているのに、ひとの気配はさらにない。雨戸がいちまい開いている。
そこで、おかみを呼んできて、ふたりでおそるおそる障子をひらいてみるとこのていたらく。女中がキャッと腰をぬかしたのが、けさの四つ(十時)ごろのこと。
「それで、おかみ、宮さまというそのお侍だが、おかみに気づかれずにかえったとすると、どこからこの家をでていったんだろう」
「はい、親分さん、わたしもそれに気がついたので、さっそく、裏木戸を調べにいきましたが、木戸の掛け金が、なかから外れておりました」
「そやけど、おかみさん、履物は……?」
「履物はお玄関にございました。だから、ゆうべのあのひと、べつに草履かなんか用意していたのでは……」
おかみはいかにもくやしそうだった。
「すると、親分、ゆうべの宮さま、はじめから、お町を殺すつもりだったんですね」
「ふむ、まあ、そういうことだろうな」
念のために、裏木戸をみせてもらったが、そこは佐七のおもったとおり、霜にぬかるんだそのあたり、あわてふためいた連中が、さかんに出入りをしたらしく、さんざん踏みあらされていて、そこから特定の足跡を発見するのはむりだった。
「しかし、おかみ、宮さまというお侍が、ゆうべのいつごろ、ここから出ていったとしても、けさまでこの木戸は、開いたままになっていたんだな……」
「はい、それはそうですが、それがなにか……?」
「なあに、宮さまがでていったあとで、だれかべつのやつが、忍びこんできたんじゃねえかと思ってさ」
「親分、それゃアどういうこってす?」
辰が目を光らせるのを、
「なあに、そんなことができたかどうか、ちょっと聞いてみただけさ」
宮さまののこしていった履物をみせてもらったが、それはごくありふれた草履のうえに、まだ真新しいところから、履きぬしの履きぐせさえわからない。
「野郎、よくよく用心しやアがったな」
それでも念のために、その草履を手ぬぐいにくるみ、町役人にあとをまかせて、それからまもなくたちばな屋をでると、
「おい、辰、豆六」
「へえへえ、まぼろしお長のいどころを、突きとめてこいとおっしゃるんで」
「あっはっは、のみといえばつちだな。みつかったら、お玉が池へつれてこい」
「おっと、がってんや」
しかし、お長を見つけることはできなかった。お長は去年の秋、労咳《ろうがい》……いまのことばでいえば肺病で、この世を去っていたのである。
風流大名入れ墨隠居
――じぶんの入れ墨をみんな葬りたい
お長はあわれな娘であった。お長は入れ墨師の娘を母としてうまれた。
お長の祖父の伊之吉《いのきち》は、彫り伊之とよばれ、入れ墨にかけては、天下にならぶものなしといわれた名人だった。
その彫り伊之の娘のお喜代というのが、さるお屋敷に女中奉公をしているうちに、男とちぎってお長をうんだ。
しかし、そこにどういう事情があったのか、お喜代はおもう男とそうことができず、屋敷をさがって、彫り伊之のところに身をよせた。
彫り伊之も娘のこのふしまつに、いったんは怒ったが、根はかわいいひとり娘のことである。
それに日増しにかわいくなる孫のお長に心もとけて、それ以来、祖父と娘と孫の三人、まずしいながらもむつまじく暮らしていた。
ところが、好事魔多しで、お長が七つになったとき、母のお喜代は、かりそめの病がもとでみまかった。
そうなると、あとは祖父と孫のふたりきり、お長に対する彫り伊之のふびんはいよいよ深くなるばかり。しかも、お長は年一年とお喜代ににてきて、十六になると、母のお喜代にそっくりになってきた。
そこで、彫り伊之がかんがえた。
じぶんはおいさきみじかいからだ、いつかはお長をのこして死なねばならぬ。そうなると、ほかに身寄りのないお長は、この世にひとりぼっちになる。
そのさいのお長の心細さをかんがえて、彫り伊之はお長の手に、職をつけておいてやろうとした。つまり、じぶんの稼業《かぎょう》のわざを、お長につたえようとしたのである。
さいわい、お長は絵ごころもあり、指先も器用なほうなので、十五、六になると、もう一人まえのりっぱな女入れ墨師になっていた。
だから、十八の年に彫り伊之に死なれてからも、お長は暮らしに困るようなことはなかった。
お長は男の膚には、ぜったいに彫らなかった。
女ばかり彫ってきた。そして、入れ墨をしたいという女にとって、女入れ墨師がいるということは便利だった。だから、お長は仕事にはことかかなかった。
いや、祖父の血をうけて名人かたぎだったお長は、じぶんの気にいった膚でないと、針をとらなかったから、仕事はむしろ、ありあまるほどあった。お長が労咳を病むにいたったのは、過労のためであるといわれている。
「それで、お長はいくつで死んだ」
「二十三だったそうです」
「すると、亭主《ていしゅ》があったんだろうな」
「ところが、まだひとりもんやったそうだす。もっとも、彫り伊之の弟子で勝市ちゅうのんが、としはお長より十以上もうえやったそうだすが、お長はその男のことを、勝、勝と呼びすてで、勝市のほうでもお長のことを、お師匠《つしょ》はん、お師匠はんとよんでたそうな。そやけど、ふたりが夫婦の関係をむすんでたことはたしかやと、長屋のもんはいうてます」
「ところで、親分、お長の死にぎわには、あわれな話があるんです」
と、辰はひざをすすめて、
「お長はいよいよいけないと覚悟をきめると、勝市にたのんで、背中に入れ墨をはじめたそうです。白衣観音かなんかの図柄だったそうですが、そんなことをすれば、いよいよ命をちぢめるもとだと、勝市がどんなにいさめても聞きいれず、まいにち、少しずつ彫りすすめていったそうです。勝市は泣きの涙で針をとったが、けっきょく、それが命とりだったんですね。やっと筋彫りができたところで、とうとう息をひきとったんですが、息をひきとるまぎわに、お長は妙なことをいったそうです」
「妙なことというと……?」
「じぶんの彫った入れ墨は、いまになってみるとみな気にいらぬ。ひとめにさらすも恥ずかしい。ひとまとめにして、この世から葬ってしまいたいと……」
それをきくと、佐七はぞうっと、冷水を浴びせられたような、薄気味わるさをおぼえた。
じぶんの作品を抹殺《まっさつ》してしまいたいという欲望は、良心のある芸術家が、晩年になってしばしば感じるところだが、それが絵画や彫刻とちがって、人間の膚に彫られたものである。それを抹殺するということは、とりもなおさず、入れ墨をしている人間の命をちぢめるということではないか。
「ところが、親分、お長がそないなこといいだしたんも、ひとつのわけがあるんやそうです」
「ひとつのわけとは……?」
「お長は女の膚に、女の絵えしか彫らなんだんやそうだすが、その女の顔ちゅうのんが、みんなお長じしんの顔やったそうだす」
「あらまあ」
そばで聞いていたお粂も、おもわず息をのむ。
「お長はすごいようなべっぴんだったそうですからね。だから、いまわのさいになって、じぶんの顔をいつまでもあとにのこしておくのを後悔したんだろうと、これはお通夜の席で、勝市が長屋のもんに漏らしたことばなんですがね」
佐七はだまってかんがえていたが、
「辰、豆六、それで、その勝市という男はどうしてるんだ。としはお長より、十以上もうえだといったな」
「それやがな、親分、お長が死ぬとまもなく家をたたんで、どっかへいってしまいよった。江戸にいることはいるらしく、そのご町で会うた男もおりますけんど、どこに住んどるのんか、だアれもしりよらしまへんねん」
「なんでも、のろま牛みてえにのっそりとした男で、おまけにどもりときている。それだけに、お長をだいじにすること、神様あつかいだったそうです」
佐七はしばらくかんがえていたが、
「お長が入れ墨をした女は、そうとうたくさんいるんだろうな」
「いえ、ところがお長は名人かたぎで、あんまり仕事はしなかったから、そうはいねえんですが、ただ、困ったことには……」
「ただ、困ったことには……?」
「親分は松平の入れ墨隠居をご存じでしょう」
松平の入れ墨隠居ときいて、佐七はどきっと目をみはった。お粂もハッとしたかおいろである。
松平相模守《まつだいらさがみのかみ》は六万石、風流人としてゆうめいだったが、数年まえに、家督をゆずって隠居すると、みずから極道と号して、したいざんまいのことをやってのけた。
いろいろ逸話のおおい殿様だったが、なかでもゆうめいなのが入れ墨道楽。うつくしい腰元とみると、かたっぱしから膚に入れ墨をさせるのである。そこで、ひとよんで入れ墨隠居。
「ところが、親分、その腰元に入れ墨するのんが、いつもまぼろしお長やったそうだす」
「しかも、その入れ墨隠居が、去年の春、ポックリ死んだものですから、お腰元にはみんなおひまがでて、武家出のものは国へかえったものもあるが、町方のものは宿下がりして、いまこの江戸にいるはずだが、どんなに少なくみつもっても、五人や六人はいるだろうというんです」
佐七はそれをきくと、また、あやしい胸のときめきをおぼえずにはいられなかった。
しりぬぐい入れ墨腰元
――あ、あまり見事な、い、入れ墨で
まぼろしお長に入れ墨を彫らせた女は、かたっぱしから殺される……そういううわさがどこからともなくとんだからたまらない。
江戸の町は、かなえの沸くような騒ぎである。とりわけ、お長に入れ墨をほらせた女の恐怖はまたひとしお。
いつ、どこからくせ者があらわれて、危害をくわえるかもしれないと思うと、戦々恐々、まるで生きているそらもない。
そのなかにあって、さすがは意地と張りとの深川芸者、竜田屋のお滝だけは、平然としてまゆも動かさず。
「なにいってるんだい。そんなバカなことがあってたまるもんか。小雪さんの死んだのは、ありゃじぶんのあやまちから。お町という女の殺されたのは、きっと男出入りのせいだろうよ。そんなことが二度つづいたからって、お長さんに入れ墨を彫らせたものがみんな殺されるときまったもんか。あんまりバカバカしい話は、よしにしておくれ」
「だって、ねえさん、小雪ねえさんの死骸《しがい》がなくなったのは、ありゃどういうんです」
「お美津ちゃん、おまえさんもバカだねえ。世のなかには助平な男がうようよするほどいるんだよ。小雪さんはわかくて、あんなにきれいだったんだ。死骸《しがい》だって、石に脾腹《ひばら》をうたれただけで、べつにたいした傷はなかったというじゃないか。だから、助平な男が盗みだし、へんなまねをしたにちがいない」
「まあ」
「なにがまあだよ。そうして、さんざん楽しんだあげくのはてにゃ、どこかへこっそり埋めてしまったんだろうよ。こんなことをいうと、小雪さんにゃ気の毒だがね。しかし、これがほんとのところで、入れ墨なんかなんのかかりあいもありゃしないのさ」
だが、そうはいうものの、お滝の酒量がちかごろとみにあがったのは、やっぱり目にみえぬ魔の手を恐れているのだろうか。
いや、そればかりではないようだ。
お滝がちかごろやけ気味になっているのは、ほかにひとつわけがあった。
三年越しに、お滝がふかくいいかわした内海新之丞《うつみしんのじょう》という浪人者の態度が、ちかごろだんだんつめたくなっていくのに、お滝は気がついているのである。
お滝はそのわけもしっていた。
内海新之丞は入れ墨隠居の松平相模守の藩中だったが、先年ゆえあって浪人しているうちに、お滝となじみをかさねたのだが、その新之丞にちかごろ縁談がもちあがっている。
浪人いらい新之丞は、松平家出入りの呉服商、越前屋《えちぜんや》の長屋に身をよせて、謡と鼓の師匠をしているのである。
ところが、その越前屋の娘のお藤《ふじ》というのが、松平家へご奉公にあがっているうちに、入れ墨隠居の目にとまり、全身に藤娘の入れ墨をされてしまった。
そして、お藤、お藤と寵愛《ちょうあい》されていたが、昨年の春、隠居がご他界になったにつき、おいとまが出て、越前屋へかえっている。
お藤はまだ二十、尼にするのもふびんゆえ、しかるべき縁あらばかたづけよ、と、当主松平候のお声がかりだが、全身に入れ墨のある女など、堅気のうちではうけつけぬ。越前屋でもとほうにくれているうち、目にとまったのが内海新之丞である。
お藤もどうやら憎からずおもっているようすだから、ひとをたのんで、新之丞にお藤のことを持ちかけた。
新之丞もおどろいたが、すぐ、キッパリとことわった。新之丞はお藤が先公のご寵愛をうけたことをしっている。また、全身に、入れ墨のあることもきいている。
しかし、新之丞がこの縁談をことわったのは、それをきらったからではない。なじみをかさねたお滝に義理を立てたのだ。
だが、この話をひとづてにきくと、さあ、お滝はおさまらない。あいての女が全身に入れ墨をしているなら、じぶんだってしてみせると、新之丞のとめるのもきかず、春から秋までかかって、まぼろしお長に滝夜叉《たきやしゃ》を彫らせたのである。
そんなことをしなくても、新之丞はお滝と切れるつもりはなかったが、そのうちに、だんだん雲行きがかわってきた。
新之丞にことわられたお藤が、ろくに飯もくわずにふさぎこんでいるのをみると、越前屋でもたまりかねて、松平候に泣きついた。松平候も先殿のつくった罪のしりぬぐいには、かねてから頭をなやませている。手をつけたくらいならまだしものこと、わかい女の膚に、生涯《しょうがい》消えぬ入れ墨をさせているのだから、このしりぬぐいは手におえない。
そこで、越前屋から泣きつかれると、重役をとおして新之丞に申しわたした。お藤を妻にめとるなら、もとの家中へよびもどすと。
これには、新之丞も心をうごかした。
浪人者のわびしさは身にしみている。また、ここで家名をことわってしまえば、ご先祖にたいしても申し訳ない。なんとかして、もとの士分にもどりたいと、あせっていたところだから、殿のお声がかりのこの縁談、たなからぼたもちみたいな話である。
そこで、新之丞の心がぐらついてくる。男の心がぐらつけば、お滝の嫉妬《しっと》がたかぶってくる。お滝のやきもちがはげしくなれば、それがまたうとましくて、男の足はいよいよ遠のく……。
お滝がやけ気味になるのもむりはない。
「お滝さん、櫓下《やぐらした》の出雲屋《いずもや》さんからお座敷ですよ」
長キセルをつえに、うかぬかおをしているお滝の耳に、階下《した》から送りの声がかかったのは、初午《はつうま》の太鼓がどこか遠くからきこえてくる二月のはじめのことだった。
「いやだよ、あたし、おことわりしておくれな。あんまりおなじみのないうちだもの」
「そんなこといわないでいってごらんよ。どんなうれしい首尾が待っているかもしれませんよ」
階下からあがってきた送りのお定の意味ありげな目づかいに、お滝ははっと胸とどろかせた。
もしや……と思うと気もそぞろで、
「ああ、そう、それじゃちょっと、顔をだしてこようかしら」
と、手ばやく化粧をなおして、出雲屋へかけつけると、はたして客は新之丞。
なるほど、ふたりの女にひっぱりだこにされるだけあって、新之丞はよい男ぶりである。としは二十三、四だろうが、色白の、ふくよかな双頬《そうきょう》に、わらうとえくぼが憎いのである。
「まあ、新さん、おまえさんどうして、こんなうちへきたの。なぜいつもの山本さんから呼んでくれなかったの」
「山本じゃ、もうわたしをあげてくれないのだ」
「まあ」
と、お滝は目をみはり、
「ああ、わかった。きっと、越前屋が手をまわしているのね。ふたりを会わせないようにしているのね。畜生、いまにおぼえているがいい」
お滝はくやしそうに歯ぎしりしながら、それでも、男のひざにしなだれかかって、
「新さん、会いたかった。このまえおかえりのとき、ごきげんが悪かったから、二度ときてくださらないのじゃないかと、あたしゃどんなに気をもんだかしれやアしない。いま、おまえさんに捨てられたら、あたしゃ生きちゃいられない。だって、おまえさんのために、命をねらわれるからだになってしまったんですもの」
「わたしのために、命をねらわれるからだとは……」
「新さん、おまえさんも聞いているでしょう。まぼろしお長の入れ墨をした女は、つぎからつぎへと殺されるって……あたしゃ、おまえさんのために入れ墨をしたのだから、それで殺されても本望だけれど……」
「おお、そのうわさなら聞いている。それで心配になったから、こんやこうしてやってきたのだ」
「ああ、新さま、それじゃおまえさん、少しはあたしのことをおもっていてくれるのね」
「あっはっは、少しどころか、拙者の心はいつもかようだ」
と、お滝のからだを抱きよせると、
「お滝、久しぶりだ。そなたの入れ墨をみせてくれぬか」
「あい、みてください。おまえさんのために彫ったこの入れ墨……」
お滝はいそいそ帯をとき、ばらりと、もろはだぬいでみせる。新之丞はすこし息をはずませて、お滝の背中に目をそそぐ。
相馬の古御所のやぶれ廂《びさし》、くもの巣のなかにつったった滝夜叉姫が、うつくしいお滝の膚のうえに、まぼろしお長特有の、あやしい、なまめかしさでえがかれている。
新之丞はたまりかねたように、お滝のからだを抱きよせようとしたが、なに思ったのか、
「だれだ!」
と、どなって立ちあがると、さっと廊下のふすまをひらいた。
「あ、こ、こ、これはすみません、へ、部屋をまちがえて……」
そうとうひどいどもりである。ぺこぺこ頭をさげながら、それでいて、すぐにその場を立ち去ろうとせず、むこうむきに座っているお滝の膚の入れ墨を、まじろぎもせずみているのは、ずんぐりむっくりした男、三十五、六の太っちょである。
「おのれ、うろんなやつ!」
「い、い、いえ、もう、あ、あ、あまりおみごとな、い、い、入れ墨ですから、つ、つ、つい……そ、そ、それではごめんなすって……」
背中をすくめるようにして、廊下のむこうへ消えていくのろま牛のようなうしろ姿を見送って、新之丞はぴしゃりとうしろ手にふすまをしめた。
「新さま、どうかして?」
「うむ、怪しいやつがのぞいておった」
「きっと、おんなにふられたやつが、廊下とんびをしていたんでしょう。ちかごろは、やぼな客が多いから……それより、新さま」
お滝は男の手を取って引き寄せると、ふっと行灯《あんどん》を吹き消した。
お支度はもうできているのである。その暗やみのなかで、さやさやときぬずれの音、あまい男と女のささやき……。
それがちょっと途絶えたかとおもうと、やがて男と女のあらい息遣い。部屋のなかの空気がはげしく震動しはじめて、女の息遣いは、しだいに絶えいらんばかりとなり、はては男のおめき声と、女の絶叫が交錯して、ふたりのはなつ情痴のかおりが、パッと部屋のなかに立てこもるまで、その激動はつづきにつづいた……。
こうして、久しぶりに男と逢瀬《おうせ》をたのしんだお滝は、そのかえるさ、これも日ごろ信心するお稲荷《いなり》さまのおかげとあって、げんきんなもので、きのうの初午《はつうま》には見向きもしなかった八幡裏《はちまんうら》の、白幡稲荷へお礼参りにいったが、そのお滝がお稲荷様の境内で、半死半生の状態で発見されたのは、その翌朝のことである。
いわく因縁お滝の入れ墨
――お滝は男にいたずらされたらしい
お滝があやうく殺されそうになったときいて、とるものもとりあえず、深川へかけつけてきたのは人形佐七。お供にはれいによって、辰と豆六がひかえている。
お滝の家は、仲町の裏通り、よくみがきこんだ竜田屋の格子をあけると、
「おや、お玉が池の親分さん、もうあのことがきこえましたか」
と、そこらを掃除していた送りのお定が、こまったように顔をしかめる。
それはそうだろう。縁起をかつぐこういう家へ、朝っぱらから岡《おか》っ引《ぴ》きが顔をだしては、どこの家だってよろこばないのが当然だ。
「あっはっは、そりゃきこえるわさ。竜田屋のお滝さんといやア、深川はおろか、江戸中に鳴りひびいたねえさんだ。そのお滝さんに、もしものことがあってみねえ。飯ものどにとおらねえというのが、げんに、ここにふたりもひかえている」
「あれ、親分、ふたりとはだれのこってす」
「だれとだれだか、胸に聞いてみねえ」
「はてな、ああ、わかった。そら、お玉が池の佐七という親分はんと、その子分で、目じりのさがったきんちゃくの辰ちゃんちゅう兄いのことやな」
「なにを、この野郎」
「ほっほっほ、みなさんお世辞のいいこと」
「いや、冗談はこれくらいにして、ときに、お滝さんは……」
「二階で横になっておいでになります」
「いったい、どうしたんだえ。危うく殺されるところだったと聞いて、すっとんできたんだが、切られたのかえ」
「いいえ、あの、首を絞められたんです。でも、いいあんばいに、気をうしなっただけですみました。あいてはきっと、それで死んだものと思ったんでしょうね」
「それで、朝まで気をうしなって倒れていたのか」
「はい、それを朝参りのかたがみつけて、大騒動になったんです」
「ふうむ。しかし、ゆうべの寒さに、よく凍え死ななかったもんだね」
初午もすぎ、梅のさかりのきょうこのごろでも、夜ともなればまだ冷えこむ。
「それがね、親分、ちょっと妙なんですよ」
と、お定は声をひそめて、
「朝参りのかたがみつけたときには、お滝さんはうずたかくつもった落ち葉のなかに寝かされていたんです。からだのうえにも落ち葉をもりあげ、こもまでかけてあったそうです。おまけに、そばにはたき火までしてあって……それでまあ、凍え死ぬのをたすかったんですね」
「ふうむ」
佐七はおもわず、辰や豆六と顔見合わせた。
「そりゃ、ちょっと妙だな。まさか、首をしめたやつが、そんなまねをするはずはねえが……」
「ええ、だから、だれか通りかかったんじゃないかと思うんですが……」
「それにしても、おかしいじゃねえか。それならそれで、どこかへ担ぎこむなり、人にしらせるなり、なんとか手がありそうなものだが……」
「ええ、だから妙だといってるんです」
「お滝さんはそれについて、どういってるんだ」
「あのひとは首をしめられたとき、気をうしなってしまったから、あとのことは、なんにもしらぬといってますが……」
佐七はしばらくかんがえたのち、
「とにかく、お滝さんに会っていこう。いいだろう、会っていっても……」
「ええ、でも、おかみさんがお留守ですから……」
「いいじゃねえか。おれゃアおかみさんに会いにきたんじゃねえ。お滝さんの見舞いにきたんだ。辰、豆六、おまえたちはここで待ってろ。ねえさん、どちらだえ、お滝さんのねているのは……?」
あいてが御用聞きだけに、お定もたってことわるわけにはいかない。
「では、こちらへ……」
と、仕方なしに招じいれた二階のひと間には、佐七の声をきいたとみえて、長襦袢《ながじゅばん》のうえに半纏《はんてん》をはおったお滝が、寝床のうえになまめかしく座っていた。
「お滝さん、お玉が池の親分さんが、お見舞いにきてくだすったのですよ」
「恐れいります。ご心配をおかけしまして……」
お滝も殊勝に手をついた。
かきあわせたえりもとからのどのあたりに、黒ずんだひものあとがのぞいているのもいたいたしい。
「いや、そう固くならねえでくれ」
お定のすすめる座布団のうえにあぐらをかくと、佐七はつくづくお滝の顔色をみまもりながら、
「それにしても、とんだ災難だったな。すんでのことに名花一輪、あらしのまえに散らすところだったじゃないか。あっはっは」
佐七はがらにもなく美文を弄《ろう》すると、あらためてひざをすすめると、
「ときに、お滝さん、かげんのわるいのに、こんなことをきくのも野暮なようだが、これも、御用だと思ってかんべんしてくれ。おまえ、首をしめたやつについて心当たりはねえか」
お滝はちらと佐七の顔をみると、すぐまた長いまつげをふせて、
「いいえ、それがいっこうに……一心におがんでいるところを、だしぬけに、うしろから絞められたものですから……」
「あいての顔を見るひまもなかったというのか」
「はい……」
お滝の声は、蚊がなくようにひくかった。
佐七はじっと、そのようすを見まもりながら、
「おい、お滝さん、そりゃアほんとかい、おまえ、だれかをかばっているんじゃあるめえな」
「とんでもない、親分さん、あたしだって、こんな目にあわされて、どんなにくやしいかしれやアしません。じぶんを殺そうとしたやつを、なんでかばいますものか」
「それならいいが……ところで、お定にきくと、だれかおまえのからだを落ち葉であたためていたというじゃねえか。おまえ、それについて、なにか心当たりはねえか」
「親分さん、ほんとにあれはふしぎなんです。あたしが首をしめられたのは、賽銭箱《さいせんばこ》のまえなんですが、みつかったときには、ずっとおくのほうに寝かされていたそうです。お百度参りのひとがこなきゃア、いつまでもあたしゃ、そこに寝ていたかもしれません」
「それじゃ、だれにそこへつれていかれたか、ぜんぜん心当たりがねえというんだな」
「はい」
お滝はきっぱりいいきった。
佐七はその横顔をじっとみまもりながら、きゅうに声を落として、
「ときに、お滝さん、こんなことをきかれちゃ、さぞおまえもいやな気がするだろうが、これも御用だとおもって勘弁しろ。おまえ、気をうしなっているあいだに、だれかに……つまり、男にだ、いたずらされたような気配はなかったか」
はっと顔をあげたお滝は、びっくりしたような目の色をして、佐七の顔をみつめていたが、やがてふっと顔をそむけると、
「いえ、あの、そんなことは……」
「ねえというのかえ」
「はい」
お滝はきっぱり否定したものの、さっと青ざめた顔色といい、ぶるぶるふるえる肩の動きといい、ことばとは反対のことを物語っているのではあるまいか。
「親分、お滝はどうでしたえ」
それからまもなく、竜田屋を出ると、辰と豆六が左右からよってくる。
「ふむ、まあ、あのようすなら大丈夫だ。二、三日もすれば起きられるだろう」
「で、お滝はどないいうてまんねん、首をしめたやつについて……」
「それがぜんぜん、心当たりがねえそうだ。うしろから絞められたのだが、ふりむくひまもなかったというんだな」
「それじゃ、だれが落ち葉のなかへ埋めたか、わからねえんでしょうね」
「むろん、わかりっこはねえや。ただね」
と、佐七はにやりとわらって、
「お滝のやつ、気をうしなっているあいだに、だれかにいたずらされたらしい」
辰と豆六は、おもわずぎょっと目をみはった。
「男に……だすか」
「あたりまえよ」
「へへえ。お滝のやつ、そんなことをいうんですかえ?」
「いや、むこうからいい出したわけじゃねえが、おれがそれを切り出すと、いえ、あの、そんなことは……なんていってやアがった。しかし、その素振りというのが、どうもことばとはあべこべじゃねえかと思われるんでな」
佐七はだまってなにか考えている。
「ときに、親分、お滝のやつは、宮さまという侍のことを、なんとかいってましたか」
「そうそう、それについても聞いてみたんだが、小雪の一件があっていらい、宮さまはバッタリこの土地へは、いたちのみちだそうだ」
「親分、そやけど、ゆうべお滝をしめたんは、その宮さまちゅう侍とちがいまっしゃろか」
「そうだ、そうだ。これゃ豆六のいうとおりにちがいねえ。宮さまという侍、表むきはいたちのみちときめこんでるが、そのじつ、こっそりお滝のあとをつけまわし……」
「ゆだんを見すまし絞めころし、いや、しめころしたと思いこみ、そのあとでうまいこと、さらしよったにちがいおまへんで」
「そうよなあ、世の中はまさに百鬼夜行だから、そんなことがねえとも限らねえが……」
佐七はしかしその話には気乗りうすの顔色だった。
「ときに、親分、これからどちらへ?」
「櫓下《やぐらした》の出雲屋《いずもや》というのへいってみよう」
「出雲屋というのは……?」
「ゆうべお滝が呼ばれたうちよ。どんな客に出たのか、お滝のやつがいいたがらねえところをみると、なにかいわくがあるにちがいねえ。とにかく、ちょっとのぞいてみようよ」
出雲屋ではむろん、お滝の一件をしっていた。
いずれはお調べがあるものと、覚悟をしていたところらしく、佐七が顔をのぞけると、すぐにおくのひと間へ招じいれて、亭主《ていしゅ》の喜兵衛があいさつに出た。
「お玉が池の親分さん、ご苦労さまでございます」
「いやあ、これも役目ですから。それより、こちらさんこそ、とんだかかりあいになってお気の毒ですが、これも御用だとおもって、勘弁してください。ときに、お滝はゆうべ、こちらへ呼ばれていたそうですね」
「はい、さようで」
「お滝をよんだお客というのは……?」
「はい、あの、それは内海新之丞さんといって、ご浪人さんでございます」
「こちらへはちょくちょく……?」
「いえ、うちへははじめてでございますが、お滝さんとはふかいおなじみで、この里ではだれひとりしらぬものはないくらいなんです」
佐七は辰や豆六と顔見合わせた。
「それじゃゆうべ、どうしてはじめてのこちらさんへ遊びにやってきたんです。いずれは、なじみのうちがあるはずだが……」
「さあ、親分、それについちゃ、いろいろこみいった話があるんです。こんなことを親分のお耳にいれてよいかどうかわかりませんが、どうせこの里じゃ、みんなしっていることですから……」
と、そこで喜兵衛がうちあけたのは、内海新之丞と越前屋お藤のいきさつ。
お藤が松平の入れ墨隠居に寵愛《ちょうあい》されて、全身に入れ墨があることから、お滝が入れ墨を彫ったのも、お藤の入れ墨とはりあって、新之丞の心をつなぎとめるためであるときいて、佐七をはじめ辰と豆六、おもわずおおきく目をみはった。
「なるほど、お滝の入れ墨にゃア、そんないわくがあったんですか。そのまたお滝にはりあって、小雪のやつが入れ墨をしたんですね」
「へえ、そういうことになるんです。いや、女の心というものはわかりませんねえ」
「あっはっは、こういう稼業《かぎょう》をしているおまえさんが、そんなことをいってちゃ世話はねえ。ときに、新之丞の心はどうなんです。いったい、どちらへかたむいているんです」
「それゃアね、むこうにゃ越前屋という大身代がひかえていますし、それにだいいち、お藤さんと夫婦になれば、もとのご家中へ帰参がかなうというんですから……それで、お滝さんもだいぶじれていたそうですが、しかし、ゆうべのもようをみれば……」
「お滝のほうにも、脈がありそうなんですか」
「そうじゃないかと思います。お滝さん、とてもうれしそうでしたから」
「お滝はいつごろここを出たんです」
「さあ。八つ(午前二時)ごろだったでしょうか」
「男の方は……?」
「内海さんはそれよりちょっとまえに、お立ちになりましたんで」
「舟で……?」
「いえ、とちゅうで、駕籠《かご》を拾うからとおっしゃって、徒歩《かち》でぶらぶらと……そうそう、それについて、親分、妙なことがあるんです」
「妙なことというのは……?」
「お滝さんがここへきてからまもなくのことでした。はじめてのお客さんがおみえになって、遊ばせてくれとおっしゃるんです。いまから考えると、お滝さんのあとを追ってきたらしいんですが、そのときにはそれと気がつきませんでした。それでおんなを呼んだんですが、あとでそのおんなに聞くと、そのお客さん、妙にお滝さんのことを気にしていたというんですね。そればかりじゃなく、お滝さんがかえるとまもなく、あとを追うようにして、ここをとび出していったんです」
「へへえ。そして、その客というのはどんな男でしたえ」
「それがねえ。そうとうひどいどもりで、ずんぐりむっくりした太っちょでしたよ」
佐七と辰と豆六は、それをきくとおもわずぎょっと顔見合わせた。
どもりの太っちょ……それこそ、まぼろしお長の弟子の勝市にちがいない。
それからまもなく出雲屋を出ると、
「親分、これゃ、やっぱり勝市のしわざにちがいありませんぜ。あいつはお長の遺言をまもって、お長の入れ墨をしょった女を、かたっぱしから殺してまわっているにちがいねえ」
辰はすっかりそれときめていたが、そのとき、豆六、おさまりかえって、
「いや、待てしばし、早まりたもうな、なあ、兄い、わての考えは、それとはちょっとちがいまんな」
「豆六、おまえの考えとはどういうんだ」
「わては、こら、新之丞のしわざやと思いまんな。お滝がいては新之丞、お藤と夫婦になるのにじゃまになる。そこで絞めころして……」
「なにいってやがんでえ。それじゃ新之丞はお滝を絞めて、あとでそのからだに、いたずらをしたというのかい。バカバカしい。新之丞ならなにもそんなあさましいことをしなくても……」
「まあ、そう早まりなはんな。わてはなんにもお滝にわるさをしたんを、新之丞やいうてえしまへんがな」
「へへえ。とおっしゃいますと……?」
「つまりやな、新之丞がお滝を絞めているところへ、だれかひとのくる気配や。そこで新之丞のやつ、あわてて逃げ出しよった。お滝はそれで命が助かったんやな。さて、そこへやってきたんがどもりの勝市や。みるとお滝が気イうしのうて倒れている。そこで、勝市のやつ、へんな気イ起こしくさって、うらのほうへ抱いていき、落ち葉を寝床にけしからんことしよったにちがいない。さて、そのあとで、このまんま死なしてしまうのもかわいそや思たんだっしゃろ。落ち葉をつんだり、こもをかけたり、おまけにたき火までして逃げ出したんだっせ。親分、どうだす、わてのこの考えは……」
豆六は鼻たかだかだったが、辰はそれでも承知しない。
「なるほど、それゃアいちおうつじつまがあってるが、それじゃ、小雪やお町の一件はどうしたんだ。あれも新之丞のしわざだというのか」
「いや、あれとこれとは関係あらへん。ああしてお長に入れ墨された女が、つぎからつぎへとへんな死に方をしたもんやさかい、ここでお滝を殺しても、きっとそのほうへ疑いがいくやろと、新之丞のやつ、それを計算にいれてたんだっせ。なあ、親分、そうだっしゃろ」
それまでぼんやりと考えこんでいた佐七、いまの豆六のことばを聞くと、ぎょっとしたようにその顔を見直した。
市村座|弥生《やよい》狂言
――お玉が池にはスパイがいまんねん
「おまえさん、この調子じゃ、ことしはお花見どころじゃないわねえ」
「お粂、すまねえ。ことしの花見はあきらめてくれ。おいらどうしてもその気になれねえ」
「あれ、おまえさん、なにも催促してるんじゃないのよ。ほんとにどうしたというんだろうねえ。おまえさんのようなひとがねえ」
「あっはっは。どうやらお玉が池の佐七というやつも、ちかごろヤキがまわったらしい」
「あれ、そんなこと……」
といったもののお粂もあとがつづかず、縁側でしょんぼりとひざっ小僧を抱いている佐七のうしろ姿に目をやった。そのうしろ姿は苦悩にみちて、心なしかやつれてみえる。
元旦そうそうにはじまったこんどの一連の入れ墨怪死事件は、あちこちで花の便りをきくようになった、三月になってもまだ解決の糸口さえつかめないのである。
江戸の三座では三の替わりの弥生《やよい》狂言の景気が上々吉だという評判だが、ここお玉が池では不景気なことこのうえない。
だいいち、小雪の惨死事件からはじまって、お町の絞殺一件、それについで起こったお滝の殺人未遂事件のあいだに、はたして脈絡があるのかないのか、それすらまだハッキリとつかめていない状態である。
ただ、そこに共通しているのは、三人が三人とも、まぼろしお長の入れ墨を背中にしょってるということだが、それさえ偶然といえばいえないことはない。
お長の入れ墨をした女は、かたっぱしからのろわれると、世間ではそんな取りざたがもっぱらだが、佐七はそんな説には耳もかたむけなかった。
三つの事件に、共通点があるとすれば、そこにだれかの意志がはたらいているとみなければならぬ。
そこで思い出されるのが、まぼろしお長の入れ墨に、異常な執着をもっているらしい宮さまというふしぎな侍。それからもうひとりは、お長の事実上の亭主でありながら、お長を神様のように、あがめたてまつっていたというどもりの勝市のことである。
じじつ、内海新之丞に会ってきくと、久しぶりにお滝にあって、その入れ墨のもつあやかしくもうつくしい幻想をたのしんでいるとき、あやしい男がふすまのそとからのぞいていたが、お滝の入れ墨をみる目の光は、じんじょうではなかったし、しかも、そいつそうとうひどいどもりだったという。
お滝はそのときふすまのほうへ、背をむけていたので気がつかなかったが、あとでその話をきいたとき、そういえばあの声、あのどもりかた……と、いまさらぞうっと、おそわれたようにふるえあがった。
こうして、まぼろしお長の入れ墨に、異常な執着をもつ人物が、ひとりならずふたりまで存在することはわかっていても、さて、そのいどころとなると、これがかいもくわからない。
こうなると、下手人のつぎのでかたをみるよりほかにしかたがないと、竜田屋のお滝には辰五郎を、越前屋のお藤には豆六を、ひそかに見張りにつけてあるのだが……。
「ときに、おまえさん」
しばらくして、繕いものかなんかしているお粂が、佐七のうしろから声をかけた。
「ヤキがまわったといえば、鳥越の親分さんね。あのひとちかごろどうしてるんです」
「どうしてるって?」
「いえさ、こういう大きな一件があると、かならず海坊主みたいな憎体面《にくていづら》をだして、さかんに毒気をふっかけるのに、こんどはいやに鳴りをしずめているじゃアないか」
「ああ、そのこと……いや、あのひとも気の毒に、去年の暮れにひいた風邪をこじらせて、二カ月ばかりねたっきりだったとさ」
「あら、まあ、鬼の霍乱《かくらん》というやつかえ」
「ちげえねえ、本人もそういって、にが笑いをしていたっけ」
「おまえさん、お見舞いにいってきたのかえ」
「ああ、十日ほどまえにな。いや、もう、さかやきもひげものびほうだい、まるで丹波|篠山《ささやま》でとれた、荒くまでござアいってふうだったぜ。あっはっは、でも、もういいそうだ。三月になると起きられるって」
「それで、おまえさん、こんどの一件について話したのかえ」
「ああ、むこうから根掘り葉掘りきくもんだからね。おいらの知ってるだけのことは話しておいた」
「あれ、おまえさん」
と、お粂は危懼《きぐ》のいろをまゆねにはしらせて、
「そんなことしていいのかえ。だって、あのひとったら、なんでもかんでも、おまえさんの手柄を横取りしようとするじゃないか」
「あっはっは、兄いもそういっていたぜ。おれも二、三日したら起きられるようになる。てめえがまごまごしていると、この下手人はおれがもらったって」
「あら、まあ、憎らしい」
「なにさ、あの憎まれぐちが出るようなら、もう大丈夫だ。ほんとのところ、あのひとが出てきて毒気を吹っかけてくれなきゃ、正直いって、おいら寂しくっていけねえ」
「あら、まあ、おまえさんたら……」
鳥越の兄いというのは、みんさんせんこくご承知の、鳥越の茂平次というご用聞き。佐七より二十ちかくも大先輩だが、色がくろくて大あばた、みるからに憎体面をしているところから、ひと呼んで海坊主の茂平次、この捕り物帳の憎まれ役である。
佐七とは犬猿《けんえん》のあいだがらと思いきや、あにはからんや、碁がたきは憎さもにくし懐かしし、というところらしいと気がついて、そういう亭主がいとおしく、
「まあ、おまえさん」
と、お粂がぴったり寄りそうところへ、表から、
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
と、キリキリ舞いをするようにとびこんできたのは豆六である。
ひとめその場の情景をみるなり、
「わっ、こら、えらいとこへかえってきた。あねさん、お熱いところをすんまへんが、いちゃいちゃするのは、またこんどにしとくれやす。親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
「豆六、どうしたもんだ。こっちはお熱いどころか、大シケだが、てめえはなにをそんなに浮かれてるんだ」
「あほらしい。だれが浮かれてなんかおりまっかいな。まぼろしお長の入れ墨をした女が、またひとり殺されよった」
「なに、越前屋のお藤が殺されたと……?」
「いえ、殺されたんはお藤やおまへん。またべつくちや。それに……えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
「なんだ、まだほかにあるのか」
「あるどころやおまへんがな。海坊主の茂平次めが、その場にいあわせくさって、この一件の下手人はおれがもらったと、いばりかえって吹くわ、吹くわ……親分、はよきとくれやす」
「あらまあ!」
はっと顔見合わせるお粂佐七のご両人。
「よし、お粂、支度だ。豆六、話はみちみちきくことにする」
こうして、この一件は、海坊主の茂平次登場とどうじに、急転回をみせはじめたのである。
「豆六、殺されたのがお藤じゃねえとすると、いったいだれだ。お長の入れ墨をした女が、ほかにも見つかったというわけか」
「へえ、さよさよ、まあ、いうてみれば、お藤の朋輩《ほうばい》みたいな女だんな」
「お藤の朋輩というと……」
「ほら、松平の入れ墨隠居に入れ墨された女のひとりだすがな」
「なに? 松平の入れ墨隠居に……? そして、場所はどこだ」
「市村座の茶屋、角兵衛《かくべえ》の奥座敷だす」
そこでみちみち、豆六の語るところによるとこうである。
浅草の蛇骨《じゃこつ》長屋に住んでいた浪人者の娘お静というのが、とんびがたかをうんだようなきりょうよし、それがつてをもとめて、松平相模守の奥向きへご奉公にあがったのが六年まえ。お静十九のときである。
ところが、さっそく隠居のお目にとまってお手がつき、背中に入れ墨をされてしまった。
おそらく、入れ墨隠居が入れ墨させた女のなかでも、第一号であろうという。入れ墨師はいうまでもなくまぼろしお長、お長十七のときのしごとである。
図柄は吉野山道行きの静御前。
ところが、昨年隠居御他界につき、お静もおいとまになるところを、なにしろ彼女はかずある寵姫《ちょうき》のなかでもいちばん古参でもあり、寵愛もながかったので、ご当主も疎略にはあつかわなかった。
そこで、小石川の水道端に屋敷をあたえ、一生飼い殺しということになり、お静も神妙に切り髪にして、生涯《しょうがい》、殿の菩提《ぼだい》をとむらって暮らすといっていたが、それは当座だけのこと。
二十五といえば女盛り。お静はいつか、市村座へ出ている若女形《わかおやま》、沢村銀之助をひいきにして、ひとめを忍ぶなかになっていた。
「それで、お静はきょう、芝居茶屋の奥座敷で、銀之助とあいびきしたのか」
「さよさよ、銀之助は中幕まえにからだがあいてます。そこへお静からお座敷がかかってきたもんやさかい、いそいそ出かけていきよった。ほしたら、お静はもう行灯《あんどん》の灯を暗うして、お床のなかでお待ちかねや。銀之助も帯といてもぐりこんだら……」
「お静がころされていたのか」
「へえ、なんやようすがおかしいちゅうので、行灯にあかりをつけてみると、お静はん、首にしごきをまきつけたまんま、白目をむいてまっしゃろがな。そこで銀之助はん、キャッとばかりに腰抜かしやはった……」
「しかし、豆六、おめえはどうして市村座にいたんだ」
「どうしてちゅうたかて、親分のご命令で、お藤を見張ってたんですがな」
「あっ、じゃ、お藤も市村座へきているのか」
「さよさよ、お静はんとお藤はん、どうやら誘いあわせてのご見物や」
「そうそう、そういえば……」
と、佐七ははじめて思いあたったように、
「葺屋町《ふきやちょう》の弥生《やよい》狂言は鏡山だったな」
「さよさよ、御殿女中がぎょうさんでる芝居や。おまけに、中幕が吉野山の道行きときてまんがな」
容揚黛《ようようたい》作の『鏡山旧錦絵《かがみやまこきょうのにしきえ》』は、材を大名の奥御殿にとり、草履打ちの岩藤尾上《いわふじおのえ》をはじめとして、登場人物はほとんど女ばかり。しかも、毎年三月は御殿女中の宿下がり。そこをねらって、『鏡山』はだいたい弥生狂言ときまっていた。
「それで、鳥越の兄いも市村座へきていたのか」
「さよさよ、あいつはお藤のあとをつけてきよったらしい。ところが、親分、ここにひとつ、おかしなことがおまんねん」
「おかしなこととは?」
「海坊主のやつ、ついこないだまで、風邪でねこんでたちゅうのんに、こんどの一件のいくたてを、すみからすみまでようしってまんねん。そやさかい、お玉が池にはだれかスパイがいるんやないかと、兄いは大憤慨のプンプンプンや」
「兄いってだれだ」
「きんちゃくの辰五郎はんちゅうおかたやがな」
「なんだ、辰も市村座へきているのか」
「そらそうだす。お滝のあとをつけてきやはってん」
「それじゃ、お滝もきているんだな」
「そらそうだす。お藤はん、新之丞はんとごいっしょやもん」
佐七はすっかり豆六に翻弄《ほんろう》されたかたちだが、それもやむをえないだろう。佐七のこんどの裏切り行為には、豆六もそうとう頭にきているのである。
佐七はにが笑いをしながら、
「すると、なにかえ、お藤がきょう新之丞と、市村座見物としゃれこむということが、お滝の耳にはいったんだな」
「さよさよ。そこでお滝はん、日高川の清姫もどきに、葺屋町へかけつけてきやはった。なんせお藤のむこうをはって入れ墨しようちゅうような気の強い女だっさかいにな。それをつけてきた辰兄いと、お藤をつけていったこのわてとが、市村座でバッタリはちあわせや。こらいまに、おもろい芝居がみられるでえちゅうてたら、お門違いのひとごろし。すわこそと兄いとふたりでかけつけたら、ひとあしさきに海坊主めが、おびんずるさんみたいに黒光りするあばた面をてらてら光らせくさって、ふくわ、ふくわ……親分、これではわてらの業が煮えるのんもむりおまへんやろがな。子分の心、親分しらずとは、あんさんのこったっせ」
「あっはっは、すまねえ、すまねえ。それで、辰はいまどうしてるんだ」
「海坊主とにらみあうてまっしゃろ」
「あっはっは、それで、ご見物のほうはどうだ。さぞ騒いでいるだろう」
「いえ、ところがお客さん、まだなんにもしらはらへん。そうそう、こんなことがあったからには、だれも外へ出したらいかんと、表方や楽屋番に……」
「おまえたちが注意をしたのか」
「いえ、そうしよ思とったら、海坊主のやつがわてらを出し抜きくさって……そやさかいに、腹が立ちまっしゃないか」
「あっはっは、ともかくいそごう」
豆六もいうだけいうと、あとは佐七のさきに立って、いそげやいそげとやってきたのは葺屋町、市村座の表口である。
道行き花の静御前
――殺されてから慰まれたんだ
みると、ねずみ木戸のところで、客と表方が小ぜりあいをやっている。たぶん、客が外へでようとするのを、表方がとめているのだろう。通りすがりになにげなく、ふたりの押し問答を耳にして、佐七はおもわず足をとめた。
「親分、どうかしやはりましたか」
「しっ、あの客のことばを聞け」
外へ出ようとあせっている客は、そうとうひどいどもりである。
「あっ、親分、あら、勝市とちがいまっか」
ずんぐりむっくりした太っちょは、うわさに聞いた勝市にちがいない。
「そうらしい。いいからおさえてしまえ」
「がってんや」
表方とあらそっていた勝市も、ふたりのすがたに気がついたか、あっと叫んで小屋のなかへかけこんだ。
「勝市、御用や、御用や、神妙にしくされ」
あいかわらず、豆六はにぎやかなことである。それも見送って、佐七が小屋のとなりにある芝居茶屋角兵衛の店先に立っと、
「あら、お玉が池の親分さん、さっきからお待ち申しておりました」
のれんのおくからとび出したのは、まゆを青くそったおかみで、名はおさん。
「おお、おかみさん、とんだことが出来たってねえ。鳥越の親分がきてらっしゃるって?」
「はい、もうそれで、さっきからガミガミと……まるでわたしどもが下手人をかくしているようにおっしゃいます」
おさんは地獄で仏という顔色である。
「あっはっは、ともかく、一件ものをみせてもらいましょう」
「はい、どうぞこちらへ」
佐七が案内されたのは、二階のいちばんおくの座敷である。せまい四畳半のふすまのまえには、茶屋ものや小屋のものが四、五人、不安そうな顔をして立っている。
ふすまをひらくと、引きまわしたびょうぶのそとに、若女形《わかおやま》の銀之助が、野郎帽子に振りそですがたもなまめかしく、頭取につきそわれてふるえている。
それをしり目にびょうぶのなかへ一歩足をふみいれたとたん、のっけから浴びせかけられたのが海坊主の毒気で。
「やあ、うせたわ、うせたわ、お玉が池の色男。ヘン、真打ちはあとからってえ面アしやがって……遅いわえ」
海坊主が毒づくそばから、辰も口をとんがらせて、
「親分、親分はなんだって、こんなおびんずるめにベラベラとしゃべっておしまいなすったんで? それじゃこちとらの苦労は水のあわじゃありませんか」
おびんずる様とはなで仏。諸人が頭から顔からなでまわして、病気|平癒《へいゆ》をいのるところから、手あかがついて黒光りしているのがふつうだが、なるほど海坊主の茂平次は色が黒い。
二カ月あまり寝込んでいたというから、少しは白くなったかと思いのほか、いよいよいでていよいよ黒く、それが脂ぎっててらてら光っているところは、なるほどおびんずるさまである。そのおびんずるさん、ギョロリと目を三角にして、
「佐七、いっとくがの、病気見舞いは病気見舞い、御用は御用、この一件は茂平次さまのいただきだから、そのつもりでいてくれろよ」
「なにを、この海坊主め。うちの親分のひとのいいのをよいことにして、手柄をよこどりしようというんだろうが、だれがそんなまねをさせるもんか」
「うっふっふ、口だけは一人前にほざくじゃねえか。元日いらいの連続殺人、いまだにメドがつかねえとは、お玉が池の親分がきいてあきれらあ。おれがねこんでいなきゃ、とっくのむかしに下手人を挙げてみせていたぞよ」
「なにを、この野郎」
「まあいい、まあいい、辰、ひかえろ。鳥越の、見舞いは見舞い、御用は御用とはよくいいなすった。ひとつ、手柄にしておくんなせえ。ときに、一件ものとはこの女かえ」
目をてんじてびょうぶのなかをみれば、目にしみるような赤い夜具に、春とはいえ花冷えのするきょうこのごろ、おきごたつがこんもりもりあがっていて、それにもたれてうつむけに伏せっているのは、首をしごきでしめられた腰のものいちまいのはだかの女。
すべてが山吹屋のお町のときとおなじ状態だが、その背中に目をやったとき、佐七はおもわずウームとうなった。
吉野山道行きの静御前が、夢まぼろしのごとく、あやしくもまたなまめかしく……十七歳のしごととはいえ、お長の腕はたしかだった。
しかも、静御前のその顔は、お町の小町桜の精にそっくりではないか。お長のいまわのきわのことばを思い出し、佐七はおもわず身ぶるいしたが、
「ときに、この女、男におもちゃにされた形跡は……?」
「親分、それゃもちろんやられてるんです。下手人のやつ、女をうしろからはがいじめにして、さんざんおもちゃにしたあげく、じぶんが思いをとげたそのあとで、しごきで絞めころしゃアがったんです」
辰が口角あわをとばすそばから、
「バカアいえ、辰。だから、てめえの目は、節穴どうぜんといわれるんだ。お玉が池、おめえもいい子分をもってしあわせだなあ。わっはっは」
海坊主がまともから毒気をあびせかけたから、
「なによ、この唐変木め」
と、辰がかっといきまくのを、佐七がそばから制しながら、
「兄い、しかし、それはどういう意味で?」
「佐七、よく聞けよ。この女はな、おもちゃにされてから殺されたんじゃねえ。殺されてからおもちゃにされたんだ。なんならよっく調べてみろ。しかし、お玉が池にはそれがわかるかな。そこのみわけがつくのは、江戸ひろしといえども、このおれさまぐれえのもんだろうよ。そこの青二才にわかってたまるか。うわっはっは」
いや、海坊主のふくわふくわ。さつま芋のようなでっかい鼻から、ポッポと湯気をおったてて得意満面。
佐七はすばやく死体をあおむきにして、辰といっしょに、子細にそこをしらべていたが、やがて腰巻きをもとどおりにすると、仏にちょっと手をあわせて、
「鳥越の、恐れいりました。辰、おまえももっと修行をしなきゃいけねえな」
「辰、てめえは何年このみちで、おまんまにありついてるんだ。てめえのような青二才を、世間のひとはかかしというんだ。わっはっは!」
海坊主の勢いあたるべからずだが、こんどばかりは辰は一言もない。目をシロクロさせてくやしがるばかり。
「まあいい、まあいい、鳥越の、いいことを教えてくだすった。あつく礼をいいますぜ」
しかし、佐七はしっていたのである。
山吹屋のお町の死体が、やっぱりこれとおなじだった。お町もおもちゃにされたあとでくびられたのではなく、くびられて死体となったあとで、犯されていたのである。
そのあとで、佐七はびょうぶのそとから銀之助を呼びいれると、
「銀之助さん、おまえさんきょうここで、このひとと会う約束になっていたんですね」
「は、はい……」
銀之助は死体から目をそらしながら、青くなってふるえている。
「それで、おまえさん、約束の刻限きっちりに、ここへおいでなすったのかえ」
「いえ、あの、それが……」
まだ弱年の若女形《わかおやま》がおどおどするそばから、たすけ舟をだしたのは頭取である。
「いえ、親分、太夫《たゆう》がここへ顔をだしたのは、お約束の刻限からだいぶん遅れたようで。それと申しますのが、きょうは初日がひらいて三日目。どの幕ものびたものですから、お約束の時刻にからだがあかず、このお客さまを四半刻《しはんとき》(半時間)ほどお待たせするような羽目になっちまいまして……」
「なるほど」
四半刻あれば、いろんなことが起こりうる。
「ときに、銀之助さん、おまえここへくるとちゅうで、だれかに会やアしなかったかえ。この座敷からとび出したんじゃないかと思われるようなやつに……」
「ああ、そうおっしゃれば……」
と、銀之助が思いだしたように、
「下でこのお座敷だとおしえられたので、裏階段をのぼってまいりますと……あの、ご承知でもございましょうが、このお座敷のよこがすぐ裏階段になっております。その裏階段をのぼってまいりますと、うえからお武家さまがおひとりおりておいでなさいました」
「お武家さま……? おいくつくらいの?」
「さあ、四十二、三か、四、五というところでございましょうか。人品骨柄、そうとうのご大身とお見受けいたしましたが、わたしの顔をごらんになると、ふいと顔をおそむけになって、そのままいそぎ足で階段をおりておいでになりましたので……」
宮さまなのだ……と、佐七は辰と顔見合わせたが、そのときだった。
とつぜん、見物席のほうから、けたたましい叫び声がきこえたかと思うと、わっとなだれをうちかえすような地響きが大きく小屋をゆるがせて、市村座はうえをしたへの大騒動。
火事騒ぎ殺人騒ぎ
――藤娘が夢まぼろしを誘うように
あとでわかったところによると、この騒動の原因は、勝市にあったらしい。豆六におわれた勝市が、苦しまぎれに、
「か、か、火事だ! か、か、か、火事だ!」
と、どもり声を張りあげたからたまらない。
見物はわっと総立ちになり、われがちにと木戸へおしよせたから、たいへんな騒ぎになった。倒れるもの、踏まれるもの、倒れたうえに折りかさなって、また倒れるもの、いわゆる将棋倒しというやつである。いちじは芋を洗うような混雑だった。
しかし、さいわい、まもなく火事というのはうそとわかって、騒ぎもようやくおさまったが、さて、そのあとでまた、たいへんなことが持ちあがった。
「もしもし、お起きなさいまし。火事というのはうそでしたよ。もう大丈夫ですからお起きなさいまし。どこかおけがでもなさいましたか」
花道の揚げ幕のそとに、うつぶせになって倒れているわかい女のすがたをみて、表方のひとりが抱きおこそうとしたが、そのとたん、
「わっ、ひ、ひ、人殺しだア!」
と、すっとんきょうな声をあげたからたまらない。
火事騒ぎのあとの人殺しさわぎ、やっと落ちついたとみえた見物が、またわっと総立ちになる。
その見物をかきわけて、かけつけてきたのは豆六だ。
「おい、人殺しちゅうのはどこや、どこや」
「あっ、こ、これはお玉が池の豆六さん、ど、どこの娘さんだかしりませんが、こ、ここに土手っ腹をえぐられて……」
「どれどれ」
といっているところへ、やってきたのがきんちゃくの辰。
「豆六、どうした、どうした」
「あれ、兄い、親分は……?」
「知るもんか、いまごろは海坊主のやつと、仲よく酒でものんでるんだろうよ。それより、人殺しというのはどうしたんだ」
「ああ、そやそや、みんなどいて、どいて。いずれあとから、お玉が池の親分がおこしやさかいにな」
むらがる野次馬をかきわけて、花道へあがってのぞいてみると、うつぶせになった女のわき腹から、なまなましい血が吹きだしている。
さっきの混雑にもまれているうちに、しぜんに乱れた衣紋《えもん》のおくから、入れ墨らしいものがのぞいているのをみて、辰と豆六はおもわずぎょっと息をのんだ。
「豆六、抱きおこしてみろ」
「がってんや」
豆六が抱きおこしてみると、まぎれもなく越前屋のお藤。お藤はもののみごとに、土手っ腹をえぐられていた。
「さては、さっきの混雑にまぎれて、だれかがぐさっとやりゃアがったな」
「兄い、すんまへん。わてが見張りをおおせつかっとったのに、げんざい目のまえでやられるとは……?」
辰と豆六は地団駄ふんでくやしがったが、そのとき野次馬の背後にあたって、爆発したのは割れ鐘のような大音声。
「おお、その下手人はこのおれさまが召し捕ったあ。野郎、キリキリこちらへ出てきやアがれ」
そういう声に辰と豆六、ギョッとしてふりかえると、むらがる野次馬かきわけて、のっしのっしと現れいでたる茂平次親分。
その海坊主になわじりとられて、よろよろそこへつんのめったのは、さっきから豆六が血まなこになってさがしていた勝市だから、これでは豆六の面目まるつぶれ。
「わ、わ、わ、ほんなら勝市、おまえがこのお藤をぐさっとひと突き、えぐりくさったんか」
「と、と、とんでもねえ、兄い、あ、あ、あっしは逃げまわるのが、せ、せ、精一杯で、そ、そ、そんな暇などあるわきゃアねえ」
「いうな、ほざくな、ほえるな、泣くな」
衆人環視のなかにあって、いまや海坊主は得意の壇上、おびんずるさまみたいな顔を、いよいよ黒く、ますますてらてら光らせて、
「さっき、火事だ、火事だとさけんだのはてめえだろう。あれはたしかにどもりであったとひとぞいう」
いまや自信満々の海坊主は、そっくりかえって、えろうみやびやかなことばづかいだ。
「そ、そ、それゃ、こ、こ、こちらの兄いに追いつめられ、く、く、苦しまぎれに、か、か、火事だ、か、か、火事だと、さ、さ、叫んだのはあっしだが……」
「そうれ、みろ、そうして場内を騒がせておき、混雑にまぎれてお藤にちかづき、ぐさっとひと突き。勝市、キリキリ白状してしまえ」
「だ、だ、だって親分、あ、あっしがなんでこのひとを……?」
「お目当てはその女の背中におうた入れ墨よ。辰、豆六、その女のもろはだぬいで、この男にみせてやれ」
辰と豆六は顔見合わせた。
なんぼなんでも、衆人環視のなかで、たとえ上半身だけでも、わかい娘をはだかにするとはと思ったが、そんなことを気にするような神経を持ちあわせているような茂平次ではない。
「へえ……」
といいながら辰と豆六、それにしてもうちの親分はどうしたのかと、キョロキョロあたりを見まわしたが、情けなや、佐七のすがたはどこにもみえぬ。
「しかたがねえ。豆六、やっつけべえ」
「仏さん、かんにんしとくれやすや。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」
辰と豆六にしても、いちおうたしかめてはおきたかったのである。ふたりがかりで、死体のもろはだぬがせたとたん、そこにいあわせた一同のくちびるからもれたのは、賛嘆とも驚愕《きょうがく》ともつかぬざわめき。
玉の膚いっぱいにうかびあがったのは、お藤の名にちなんだ藤娘。
まぼろしお長とくゆうの、優婉《ゆうえん》といおうか、幽玄といおうか、あやしい夢幻をさそうように……。
しかも、藤娘のその顔は、お静の静御前や、お町の小町桜の精とそっくりである。そして、それはとりもなおさずこの入れ墨をしたまぼろしお長そのひとの顔であるという。
「あ、お、お、お師匠《つしょ》さん!」
その入れ墨をみて、とびつこうとした勝市が、なわじりとった海坊主に、ぐいとうしろへひきもどされたところへ、血相かえてかけつけてきたのは内海新之丞。
「おお、お藤どの、お藤どの……」
と、狂気のように抱きすがり、
「だれが……だれがこんなひどいことをいたしおった。だれが……だれが……?」
ものに狂ったような目を光らせて、あたりを見まわす新之丞の肩へ、うしろからきて手をかけたものがある。
「もし、内海さん、だれがこんなことをしたのか、おまえさんに心当たりはありませんか」
人形佐七である。いままでどこに雲がくれしていたのか、佐七はゆうぜんとして落ち着いている。
意味ありげな佐七のことばに、新之丞はどきっとしたように顔をあげたが、すぐその目をそらすと、
「心当たりはない。心当たりがあれば捨てておかぬ。これはやっぱり……」
「これはやっぱり……?」
「お長の入れ墨をねらうやつのしわざであろう。きょうもここでお藤どののほかに、だれかやられたというではないか」
「おお、その下手人なら、この鳥越の茂平次が召し捕ったわ。佐七、てめえがまごまごしているあいだに、手柄はおれがもらったぞよ。勝市、まえへ出ろ、ええい、まえへ出ろというのに」
と、勝市のなわじりとった海坊主は得意満面、その茂平次に小突かれて、勝市はまえへつんのめりながら、
「そ、そ、そんな無茶な……そ、そ、そんな無茶な……」
勝市はベソをかくような顔をしているが、茂平次はそんなことばに耳もかさず、
「佐七、よくみろ。これがお長の弟子の勝市だ。こいつがお長の遺言をまもり、お長の入れ墨をした女をかたっぱしから殺していたのだ。この勝市をひっとらえたのはおれさまだぞよ」
「いや、兄い、勝市をとらえたのは大したお手柄。辰、豆六、てめえたち、なにをまごまごしていやアがった」
「ちっ、なにいってるんですよう。まごまごしてたのはおまえさんじゃありませんか。このだいじな瀬戸際に、いったいどこへ雲がくれしてたんですよう」
「そやそや。それに、こないな恩知らずに、一件の機密を漏洩《ろうえい》したんは、いったいどこのだれやねん。ひとつ坊主にでもなってもらいまひょか」
さっきから海坊主の毒気に当てられどおしの辰と豆六は大むくれ。
「あっはっは、すまねえ、すまねえ。それより、内海さん、おまえさんはきょうここで、お藤さんのほかにもやられた女があるということを、どうしてご存じでございますか」
新之丞はそれをきくと、はっとしたような顔色で、
「いや、なに、さっき角兵衛で一服しているとき、そんなうわさを小耳にはさんだように思うが……」
「ああ、さようで。しかし、きょうここへ深川のお滝がきていることを、おまえさんもご存じのはずだが、ひょっとすると、お滝がやったんじゃありますめえか」
新之丞の顔色はさっと変わったが、そのときまたしても、またしても、そばからしゃしゃり出たのが海坊主の茂平次で。
「佐七、なにをバカなことをほざくんだ。そのお滝なら、このあいだ、じぶんも危うく殺されそうになったというじゃねえか。バカもやすみやすみいえ」
「あっはっは、そうでしたねえ。おいらきょうは、よっぽどどうかしているぜ。しかし、鳥越の、死んでいるとはいえ、わかい娘をいつまでもこんなところへ、はだかどうようでさらしものにしておくのはかわいそうだ。角兵衛へでも運びこんでやろうじゃありませんか」
「佐七、いちいちてめえの指図はうけぬわ。おれもいまそう思っていたところだ。やい、てめえら、なにをまごまごしてやアがるんだ。その娘を角兵衛の座敷へはこんでやれ」
「それから、兄い、そこで勝市をとっくり吟味なさいまし。あっしも後学のために、見学させていただきとうございます」
「うっふっふ。佐七、きょうはいやに神妙じゃねえか。よっぽどこんどの一件にゃ、かぶとをぬいだとみえるな。おれの吟味は手きびしいぞよ。そこんところをようくおがんでおけ」
聞いただけでも、勝市はあおくなってふるえている。
「内海さん、おききのとおり、仏はひとまず角兵衛へはこびますが、おまえさんはあっしがいいというまで、小屋をおでにならねえように」
「いうまでもないこと。お藤どのの亡骸《なきがら》をおいて、拙者ひとりでかえるわけにはまいらぬ」
と、口では強いことをいっているが、内海新之丞、なんとなく心の騒ぐふぜいだった。
このさい、いちばん意気揚々としているのが、海坊主の茂平次だ。若いものが死体をはこんでいくあとから、
「勝市、うせろ」
と、肩で風切っていくうしろすがたを見送って、
「辰、おまえにちょっと用がある」
「知りませんよ。用があるなら豆六においいなさいまし」
「まあ、そうむくれるな。いまにここへ深川から、大栄楼のお万がやってくる」
「大栄楼のおかみがどうかしたんですかい」
「お万なら宮さまの顔をしってるはずだ。宮さまが見つかったらつれてこい」
「あっ!」
「それから、豆六」
「へえへえ、わての役まわりはなんだす」
「てめえはおおいそぎでお滝をさがせ。だが、気をつけろ、お滝は刃物をもってるかもしれねえ。それから、お滝と新之丞をちかづけるな。辰もひまがあったら手を貸してやれ」
「おっと、がってんだ」
「兄い、いきまほ、いきまほ」
佐七がただいたずらにまごまごしていたのではなかったらしいと気がついて、辰と豆六がぜん勇気百倍、それぞれ散っていくのを見送って、佐七は角兵衛の奥座敷へはいっていった。
孔明楠氏《こうめいなんし》か海坊主
――勝市はお長の死体を抱いてねて
角兵衛の奥座敷では、いましも、綿のあつい緞子《どんす》の座布団を三枚かさね、そのうえに大あぐらをかいているのが海坊主の茂平次親分。まさに得意の壇上とはこのことだろう。
そのまえに、うしろ手にしばられて、しょんぼりひかえている勝市は、さしずめ屠所《としょ》の羊というべきか。
佐七がほどよいところへ座をしめると、海坊主は三枚がさねの座布団のうえで、いよいよますます反っくりかえり、
「やい、やい、やい、勝市」
そうきめつける声は割れ鐘のよう。
「てめえもひでえことをしやアがったな。いかにお長の遺言とはいえ、お長の入れ墨をした女をかたっぱしから殺してまわり、その死骸《しげえ》に変ないたずらしやアがったのはてめえだろう」
「と、と、とんでもございません。あ、あっしがなんで、そ、そんな大それたまねを……あ、あっしはただ、お、お、お師匠《つしょ》さんの入れ墨恋しさに……」
「いうな、ほざくな。吉野山の狐忠信《きつねただのぶ》じゃアあるめえし、そんなたわごとがとおると思うか。それに、てめえ口さきでは、お師匠さん、お師匠さんと神妙らしくいってるが、ほんとは夫婦になって、お長を抱いてねてたというじゃねえか」
「さ、さ、さ、そ、そ、それは……」
「そうれみろ。そればっかりじゃアねえ。てめえお長が死んだとき、三日ばかり長屋の衆にもお長の死んだをかくしておいて、こっそりお長の死体といっしょにねてたというじゃねえか」
「あっ!」
と、おもわず口走ったのは佐七である。
このことばかりは、佐七にとっても初耳だった。そして、それがじじつだとすると、はじめてこんどの一件の世にもいまわしい部分のなぞが、いっさい解明されるわけである。
「うっふっふ、どうやらどこかの間抜けなとんびは、そのことに気がつかなかったとみえるな。やい、佐七」
「へえ、兄い」
「耳かっぽじってようく聞けよ。孔明楠氏真田《こうめいなんしさなだ》という軍師はな、計略を帷幕《いばく》において講ずるという。この鳥越の茂平次さまはな、たとえ病の床にあっても、八百八町のできごとなら、すみからすみまでズーイとお見通しという親分だ。よっくおぼえておけ」
海坊主の茂平次め、どこの講釈場でおぼえてきたのか、ふくわふくわ。辰と豆六がその場にいたら、さぞくやしがったことだろう。
「いや、鳥越の兄い、まことに恐れいりました。それでは、勝市の吟味をおつづけなさいまし」
いうにゃおよぶと、海坊主は得意満面。
「やい、やい、やい、勝市」
と、割れ鐘のような声で一喝《いっかつ》くらわせると、
「お長の死体で味をしめたてめえは、初音の鼓をしたう狐忠信もどきに、お長の入れ墨をした女に、かたっぱしからねらいをつけやがった。それというのが、そこに彫ってある顔が、お長にそっくりだったからよ。どうだ、茂平次さまの目に狂いはなかろう」
「へ、へ、へえ……」
のろま牛の勝市の青んぶくれのしたような全身が、汗でぐっしょりぬれているところをみると、これまた図星だったらしい。いや、海坊主も案外やるものである。
「ところが、そこへ起こったのが小雪の災難よ。佐七、あれはだれの仕業でもねえ、小雪がかってに足踏みすべらせたのよ」
「なるほど」
「ところが、幸か不幸か、小雪の死体は、顔も入れ墨もぜんぜん無傷のまんまで寺へ葬られた。やい、勝市、てめえその死体をぬすみだし、さんざんおもちゃにしやアがったろう」
勝市の額からながれる汗がますますひどくなっていくところをみると、これまた図星だったらしい。
「やい、勝市、てめえ小雪の死体をどこへかくした。さんざんおもちゃにしたあとで、死骸《しげえ》をどこへ埋めやアがった。キリキリどろを吐いちまえ」
頭ごなしに一喝《いっかつ》くらい、気をのまれたのか、勝市はひえっとばかりに首をちぢめ、
「ほ、ほ、法乗寺の、う、う、うらの墓場で……」
「法乗寺のうらの墓場……?」
と、これには佐七も唖然《あぜん》として、
「法乗寺といやア、小雪の死体の納めてあった寺じゃねえか」
「へ、へ、へえ、さ、さ、さようで。あ、あのじぶん、に、に、新仏の墓ができておりまして、つ、つ、土もまだやわらかだったもんで、そ、そ、そこへいっしょに埋めて、は、は、墓石を、も、元通りにしときましたんで」
なるほど、この男のバカ力なら、小さな墓石ぐらい動かすのは容易だったのだろうが、これこそ灯台もと暗しというやつである。
「うっふっふ、佐七、てめえの目はどこについているんだ。いやさ、なんのためについているんだ」
「兄い、面目ねえ。こればっかりはなんといわれてもしかたがねえ」
「なんだと? こればっかりはだと……? それじゃア、あちらもこちらも、こればっかりだらけじゃねえか。わっはっは、これにこりたら、以後大きなつらアするのはよしゃアがれ。辰や豆六にもよくいっときな」
海坊主の意気、まさに当たるべからずである。
「やい、やい、やい、勝市」
海坊主の鋭鋒《えいほう》は、また一転して勝市にむけられた。
「小雪の死体でまた味をしめやアがったてめえは、こんどは山吹屋のお町のあとをつけ、池の端の出会い茶屋、たちばな屋の裏木戸からしのびこみ、お町をころしてはだかにし、うしろから羽がいじめにして、お町の死体をおもちゃにしやアがったろう」
「ち、ち、ちがいます。ちがいます。お町の、し、し、死体にいたずらしたのはあっしだが、あ、あっしがいったときにゃ、お、お、お町はもう、こ、こ、殺されていたんで」
「うそつけえ。それからこんどは竜田屋のお滝だ。てめえ櫓下《やぐらした》の出雲屋《いずもや》から、お滝のあとを追ってでたというじゃアねえか。あのとき、白幡|稲荷《いなり》の賽銭箱《さいせんばこ》のまえで、お滝をしめて気絶させ、おいてが気をうしなっているのをいいことにして、さんざんいたずらをしやアがったろう」
「そ、そ、それもちがいます、ちがいます。お、お、お滝さんを祠《ほこら》のうらへかついでいき、い、い、いたずらしたのはあっしだが、ひ、ひ、悲鳴をきいて、か、か、かけつけたときにゃ、お、お、お滝さんは首をしめられ、さ、さ、賽銭箱のまえに倒れていたんです」
「うっふっふ、世のなかにゃ親切な御仁もあったもんだな。それじゃ、てめえのねらっている女を、いくさきざきでさきまわりして、てめえがいたずらしいいように、絞めておいてくれたというのか」
「そ、そ、そういうことになりますんで」
「ふざけるな」
大喝《だいかつ》一声、十手がとんで、勝市のほおに血の筋がはしった。
「ついでのことに白状してしまえ、さっき、越前屋のお藤をやったのもてめえだろう」
「と、と、とんでもございません。あ、あっしゃあのひとが、し、し、師匠の入れ墨をしょってるとは、さ、さ、さっき藤娘をみるまで、し、し、しらなかったんです」
「うそつけ!」
「ほ、ほ、ほんとです。ほ、ほ、ほんとです。き、き、聞けば、あのひとも松平様の、ご、ご、ご隠居さんの、ご、ご寵愛《ちょうあい》をうけたとやら。で、で、でも、い、い、入れ墨隠居のお仕事は、し、し、師匠のほうから御殿へかよってやりましたから、あ、あ、あっしゃそのほうのことはいっこうに……」
「うそつけえ。だって、てめえ、お静のことはしってたじゃアねえか」
「あ、あ、あのひとは御殿をさがっても、ま、ま、松平様から扶持《ふち》をいただき、せ、せ、世間でもしってますから……」
「兄い、ちょ、ちょっと待ってくんねえ」
茂平次がなにかいおうとするのを、佐七がすばやくひきとって、
「おまえがきょうここへきたのは、だれがお目当てだったんだ。お滝か、お静か」
「そ、そ、それゃアもちろんお滝さんで……そ、そ、そしたら、桟敷《さじき》にお静さんの顔がみえたんで」
「お静はまえからしってたんだな」
「へ、へえ、お、お、お顔だけは……そ、そ、それで、こ、こんなおりはまたとねえと、よ、よ、ようすに気をくばっていたんです」
「そのお静がここの二階へ退《ひ》けたので、うむもいわさず絞めころして、またいたずらをしやアがったんだな」
「と、と、とんでもねえ、と、と、鳥越の親分。あ、あ、あっしがいったときにゃ、も、も、もう、こ、こ、殺されていたんです」
「わっはっは、またしてもまたしても、ご親切な御仁がいたものじゃのう。ふざけるのもいいかげんにしろ!」
またしても十手がとんで、勝市はわっとばかりにひっくりかえったが、左半面、みるみるうちに紫色にはれあがった。
「佐七、もうこれくらいでいいだろう。こいつはおれがしょっぴいていくぜ。勝市、キリキリうせやアがれ」
なわじりとった茂平次が、得意満面立ちあがったとき、
「兄い、ちょ、ちょっと待ってくんねえ。おいらにひとこと……ひとことでいいからきかせてくんねえ」
「うっふっふ、佐七、いまさらなにをきいてもむだだよ。だが、お情けにきかせてやろう。しかし、ひとことじゃぞよ。ひとこときいたらしょぴいていくぜ」
「兄い、かたじけねえ。それじゃ、勝市、おまえにきくが、おまえが部屋をのぞいたとき、お静はもう絞めころされていたというが、お静はどんなかっこうで死んでいたんだ。寝床のなかでねていたのか」
「い、い、いえ、あ、あの、そ、そ、それが、こ、こ、腰巻きひとつで、こ、こ、こたつのうえに、う、う、うつぶせになっていたんで」
「それをおまえがこれさいわいと、うしろから抱いておもちゃにしたんだな」
「す、す、すんません」
「いまさらすまねえもねえもんだが、おまえがおもちゃにしたとき、あの女はだれか男とふざけたような跡はなかったか」
「い、い、いえ、そ、そ、それはなかったんで」
「山吹屋のお町のときはどうだ。お町はどんなかっこうで殺されていたんだ」
「や、や、やっぱり、きょ、きょうとおんなじで……」
「腰巻きひとつで、こたつにもたれていたのか」
「へ、へ、へえ」
「それをおまえがなぐさんだんだな」
「す、す、すんません。し、し、師匠の入れ墨をみると、つ、つ、つい恋しくて……。あ、あ、あの入れ墨は、し、師匠の顔にそっくりですから……」
「それはいいが、お町のときはどうだったんだ。おまえになぐさまれるまえに、男に身をまかせたような跡は……?」
「い、いえ、そ、そ、それはなかったんで。お、お、親分、お玉が池の親分、あ、あっしを信用してくだせえ。あ、あっしは師匠恋しさに、つ、つ、つい、あんな大それたことをやりましたが、ひ、ひ、ひとを殺したおぼえはいちどもねえんで……」
お長恋しさか、それともこんな男にも、いまになって罪業感がこみあげてきたのか、勝市は声をあげておんおん泣きだしたが、ここにいたって爆発したのが海坊主の雷で。
「泣くな、ほえるな、わめくな、ほざくな!やい、やい、佐七、ひとことが過ぎるぞよ。勝市、キリキリ立ちゃアがれ」
泣きわめく勝市のなわじりとって、海坊主は意気揚々と角兵衛の座敷から出ていったが、なにしろ、いまや得意の壇上だから、これみよがしに衆人環視のなかで、勝市の肩をこづくやら、しりをけとばすやら、いやもうにぎやかなこと。
あとにひとりぽつねんと取り残された人形佐七、腕こまねいてかんがえている。
勝市のことばがじじつとすると、きょうこの角兵衛の二階の奥座敷へは、お静のあとから四人の男がやってきたことになる。
さいしょにきたのが下手人だろう。そいつはお静の入れ墨をみせてほしいという口実で、お静をはだかにしてこたつにうつぶせにさせ、ゆだんをみすまし絞めころしたか、それとも、うむをいわさず絞めころしておいて、そういうふうに工作したか……。
いずれにしても、そいつはお静の顔見知りの男にちがいない。それでなければ、お静が立ち騒ぐはずではないか。しかも、そいつの目的は、お静の命をちぢめることだけにあり、お静のからだには、なんの未練もなかったにちがいない。
さて、そのあとから勝市が立ち去ってからまもなく、約束の刻限より四半刻《しはんとき》(半時間)おくれて銀之助がやってきたが、その銀之助は裏階段のとちゅうで、宮さまらしい侍が、うえから降りてくるのとすれちがっている。
さいしょにやってきた下手人が宮さまだったとすると、宮さまは二度やってきたことになるが、これはちとうなずけぬはなしである。
佐七がとつおいつ思案にくれているところへ、顔をだしたのはきんちゃくの辰。
「親分、大栄楼のおかみがみつけてくれましたので、宮さまというかたをおつれいたしましたが……」
辰はいやに神妙である。
「おお、そうか、おかみによろしく礼をいってくれ。ときに、お滝はまだ見つからねえか」
「へえ、あのまあ、どこへ潜りこみゃアがったのか、豆六とふたりで、血まなこでさがしてるんですが……」
「それではなおいっそう念をいれてな。では、宮さまをこちらへお通しもうせ」
双面お喜代お長
――新さん、いっしょに死んでおくれ
「名前は宮部《みやべ》三十郎ともうす。藩の名はご勘弁ねがいたい」
なるほど、辰が神妙なのもむりはない。宮部三十郎はなかなかのお人柄である。としは四十二、三だろうが、男振りもよく、落ち着きはらった調子だったが、さすがに眉間《みけん》の憂色はふかかった。
「だんな、ご無礼なことを申し上げるかもしれませんが、こうなったらなにもかも正直におっしゃってくださいませんか。だんなはどうしてお長の入れ墨に、あんなに執着をお持ちになったんです」
宮部三十郎はちょっと目をつむったが、すぐそれをひらくと、目に哀愁の色をたたえて、
「佐七とやら、お長はわしの娘であった」
佐七はおもわず辰と顔見合わせた。宮部三十郎は悲しみをおもてにたたえて、
「お長の母のお喜代というのが、お屋敷へ奉公しているうちに、ふとしたことから契りをむすんだ。わしはお喜代をもてあそんだのではない。わしは藩のそうとうの家にうまれたが、次男であった」
ということは、部屋住みということである。したがって、家の跡取りにくらべると、はるかに行動が自由である。だから、お喜代にしかるべき武家の仮親をたて、夫婦になるつもりだったというのである。
「ところが、そのやさきに兄上が亡くなられた。兄上には子どもがなかったので、わしが宮部家を相続せねばならなくなった」
さて、そうなると、お喜代との仲はゆるされなくなった。三十郎は国元へ追いかえされ、お喜代はおいとまとなった。
「わしは国元でご家老の娘をめとらねばならなくなった……」
宮部三十郎のその口ぶりに、苦いものでも吐きだすようなところがあるのは、夫婦仲がうまくいっていない証拠であろう。
「その後、お喜代が女の子をうんだということは、風のたよりにきいていたが、江戸ととおくはなれていては、どうすることもできなかった。しかも、その後わしはいちども江戸詰めとなることを許されなかった。それが、去年の秋、二十三年ぶりに江戸へきてみると、娘のお長はついちかごろみまかったという。わしのふかい悲しみを察してくれい」
宮部の目には涙が光った。佐七もその悲痛な声音には、うたれずにはいられなかった。
「失礼ですが、いまの奥方様にお子さまは?」
「ない!」
宮部の声には吐いてすてるようなものがある。
「なるほど、それでいっそう、お長さんののこした入れ墨に執着をお持ちになったんですね。しかし、だんな、だんなはだれにお長さんの入れ墨をした女のことをきかされたんです」
「いまここから引かれていった勝市という男からきいた」
佐七はあっとばかりに、辰と顔見合わせた。
勝市はそのことについては、一言も触れなかったが、あの男はあの男なりに、信義をまもったのであろう。
「お滝からなにもかも聞いているであろうから、わしはなにもかくしはせぬ。男の恥をうちあけるが、娘いとしさにお長の彫った入れ墨をわしは求めてあるいたが、さいしょお滝の入れ墨をみたせつな、わしはすぐに気がついた。滝夜叉姫《たきやしゃひめ》のその顔は、いまでもまぶたのうらにのこっているありし日のお喜代の面影にそっくりだった……」
そうだったのか。
まぼろしお長の彫った女の顔は、お長じしんの顔だったという。そして、そのお長は母のお喜代に、そっくりだったというではないか。
「お滝にしろ、小雪にしろ、お町にしろ、わしが身をまかせろといえばまかせたであろう。しかし、わしにはその気はなかった。わしがこの世で愛したのは、ありし日のお喜代ただひとり、そのお喜代の面影そっくりの滝夜叉姫や雪姫、さては小町桜の精をめでいつくしみ、ほおずりし、口ずけし、抱きしめ、抱きしめしているうちに、わしはいつか情がせまって……佐七とやら、あさましいと笑わばわらえ」
宮部三十郎はかわいたような声をあげてわらった。わらいながら、その目に涙が光っていた。
思えば、まぼろしお長の彫った入れ墨は、二重の意味で、いまわしくも、強烈な魅力をこの世にのこしたのである。宮部三十郎には悲恋におわったお喜代の面影を、のろま牛の勝市には神ともあがめたてまつったお長の顔を。
佐七はいたましそうに、あいての顔を見守っていたが、やがて思い出したように、
「それにしても、きょうここへおいでになったのは……?」
「越前屋の娘のあとを慕うてきたのだ。あの娘のことは、お滝の口からきいていた。素人の娘だから、むやみにちかづくわけにもいかぬ。それだけに、いっそうその入れ墨が見たくって、ものにつかれたようにあとを慕うて……」
「お静という女はご存じでしたか」
「名前は勝市からきいていた。しかし、会うのはきょうはじめて。越前屋の娘と廊下で立ちばなしをしているのを聞いて、はじめてこれがお静という女かと気がついた」
「それで、あの女の退《ひ》けた部屋を、のぞきにいかれたんですね」
「つい、ふらふらと……ものに憑《つ》かれたようにな」
「そして、ぐっとひと絞め、お絞めになったんで……」
そばから辰が口をはさむと、
「バカを申すな、お長ののこした入れ墨は、拙者にとってはこの世の宝だ。その宝をひとつずつ、拙者からうばっていく憎いやつ」
三十郎のおもてに、そのときはじめて、はげしい憤りの色があらわれたが、それはつくりごととは思われなかった。
「ときに、だんな、お静さんの部屋をのぞかれたときのもようを、もそっと詳しくおはなし願えませんか」
「ああ、あのとき……びょうぶのなかをのぞいてみると、女は腰のものいちまいだけで、こたつのうえにうつぶせになっていた。首にまきついたしごきから、殺されていることがひとめでわかった。わしはすぐにも逃げだそうと思ったが、膚いちめんに花ひらいたあのあでやかな静御前……」
「だんな、あれはお長さん、十七歳のときの作だそうですよ」
「そうか、そうか」
宮部三十郎はあらためて目をしばたたきながら、
「あまりのあでやかさと、かつはまたその顔がお喜代そっくり、わしはその場にくぎづけになってしもうた。なおいっそう静御前のその顔をよく見ようとして一歩踏みだしたとき、だれやら裏階段をあがってくるようす。わしはハッと気をとりなおし、いそいで行灯《あんどん》の灯を吹きけすと、部屋からとびだし、裏階段をおりていったのだが、途中で女形《おやま》らしい役者にすれちがったから、そのときのことはもうすでに、そのほうの耳にはいっているだろう」
「なるほど、それじゃ、だんながはいっていかれたときにゃ、行灯の灯はついていたんですね」
それはそうあるべきであろう。勝市もお長ののこした入れ墨に、執念をもやしているのである。暗やみのなかではおたのしみも半減するわけである。勝市はことをおわると、行灯も消さずにとびだしたのだろう。
「それでさいごにもうひとつお尋ねしたいことがございますが、ことしの一月十五日の晩ですがね、だんなはどこにおいででございました?」
「ああ、お町の殺された晩のことだな」
三十郎は佐七の顔をみながら、ほろ苦くわらうと、
「一月十五日は小正月、わが江戸藩邸ではまいとし小正月のご祝儀があり、その夜は殿より御酒をたまわり、お能の催しがある。わしも家老の娘を妻としたおかげで、いまでは重臣のはしくれ。ご酒宴は六つ半(七時)ごろよりはじまり、九つ(十二時)までおよんだ」
これが事実としたら、お町殺しにかんするかぎり、完全なアリバイがあるわけである。
「だんなはもしや山吹屋のお町を、池の端のたちばな屋へちょくちょくお招きになるということを、だれか……たとえばお滝やなんかに、おはなしになったことはございませんか」
「それは話したかもしれぬ。お町の小町桜の精は、とくにみごとだったからな」
「いや、ありがとうございます。よく腹蔵なくおこたえくださいました。辰、ごていねいにお送りもうせ。それから、内海さんをこちらへ……」
宮部三十郎が悄然《しょうぜん》としてでていくとまもなく、辰が内海新之丞をつれてきた。
「佐七、拙者にまだ用があるのか」
お藤をうしなった悲しみか、新之丞の顔色はすぐれなかった。
「まあ、そこへお座りなさいまし。ひとつおまえさんにみていただきたいものがございまして」
「拙者になにを……?」
「少々お待ちくださいまし。いまひとを呼びますから」
佐七が手を鳴らすのを、辰も新之丞とどうように、ふしぎそうに見守っている。
と、いま新之丞がはいってきたと反対がわのふすまがひらいて、碾臼《ひきうす》のようにふとった女がはいってきた。女はうやうやしく白木の三方をささげている。三方のうえには紫縮緬《むらさきちりめん》の袱紗《ふくさ》がかかっていた。
辰はこの女を、どこかでみたようなと思ったが、すぐにはだれだか思い出せなかった。
女は内海新之丞のまえに碾臼のような腰をすえると、まるまるふとった両手をつかえ、
「だんなさま、いつぞやのお忘れもの、いまあらためてお返しいたします。なにとぞお受け取りくださいまし」
新之丞はふしぎそうに袱紗に手をかけひきあげたが、とたんにさっと顔色がかわった。袱紗のしたからでてきたのは、なんと、まだまあたらしい草履の一足。
このときはじめてきんちゃくの辰も、碾臼のような女を思い出した。それはお町が殺されたとされた池の端の出会い茶屋、たちばな屋のお力であった。そして、いま三方にのっかっているのは、あのとき下手人がおいていった草履である。
佐七にとってこれはひとつの賭《か》けだった。
顔面|蒼白《そうはく》になった新之丞が、さっと腰をうかしたとき、佐七も中腰になっていた。お力も一歩さがって身構えする。
辰もあなやとばかりに、腰の十手をにぎりなおしたが、そのときだった、豆六の金切り声がきこえてきたのは。
「親分、親分、お滝が……お滝が……気イつけておくれやす」
そのとたん、つむじ風のようにとびこんできたお滝は、いままでどこに隠れていたのか、返り血をあびたように、胸から帯から、ぐっしょりと血にぬれている。
「あっ、いけねえ」
辰が抱きとめようとしたがおそかった。
「あ、お、お滝……」
新之丞も気がついて、あわててからだをうしろへ反らせようとしたがあとの祭りだ。
「新さん、あたしといっしょに死んでおくれ」
たもとのしたにかくし持った匕首《あいくち》で、ふかぶかと土手っ腹をえぐられたからたまらない。
「わっ!」
とさけんで、新之丞は虚空をつかむと、朽ち木をたおすようにその場へたおれた。まだひくひくと、もがき苦しんでいるそのうえから、
「新さん、おまえひとりをやりゃアしない。わたしもいっしょに……」
と、匕首逆手にのどにあてると、がばとばかりに、お滝も新之丞のうえに折りかさなって……。
それこそ、いっしゅんのまのできごとで、まことに、あっけない幕切れといえばいえるだろう。
飛鳥山《あすかやま》花見の絵解き
――お粂はそういう亭主がいとしくて
お玉が池ではやっと花見にまにあった。
飛鳥山《あすかやま》はいま全山桜の花ざかり。その花のしたに毛氈《もうせん》しいて、あちらでもこちらでも、飲めやうたえの大陽気。
その飛鳥山のいっかくに陣取っている男三人に女ふたりの五人づれ。男三人とはいうまでもなく、佐七と辰に豆六だが、女ふたりとは、お粂のほかにもうひとり、辰の伯母《おば》のお源がつきあっているのである。
お源もこの捕り物帳のご常連のひとりだから、みなさまとくよりご承知だろうが、両国のおででこ芝居で下座の三味線をひいている芸達者。
そのお源をつれてきたのも、きょうはわっと陽気にさわぐつもりだったのだが、佐七をはじめ辰と、豆六も、もうひとつその気になれないのは、こんどの事件の印象が、まだ尾をひいているからである。
じっさい、姫始めの夜の小雪の死体紛失一件からはじまって、市村座の弥生《やよい》狂言の三日目に幕をとじるにいたるまで、この一連の殺人事件の背後には、あまりにも陰惨なかげがつきまとっていた。
だから、話題がともすればそのほうにむかうのもやむをえない。
「新之丞もお滝も、死んでしまったいまとなっては、当て推量でいくよりほかはねえが、まぼろしお長の入れ墨をした女をかたっぱしから殺していったのは、やっぱりいつか豆六のいってたとおり、新之丞だったにちがいあるめえ」
佐七は長嘆息をしながら、われとわが胸に絵解きをするような調子である。
「新之丞は色と欲とのふた筋道で、越前屋のお藤と夫婦になり、もとの士分にかえりたかったのだろう。しかし、新之丞はお滝の気性をよく知っていた」
「つまり、捨てられてだまってひっこんでいるような女じゃねえってことですね」
「そや、そや、そやさかいに、新之丞にとっては、なおのこと、お滝がじゃまになりよったんだっしゃろな」
「そうだ、豆六のいうとおりだろう。といって、お滝をころせば、すぐじぶんに疑いがかかってくる。ところが、そこへもちあがったのが小雪の最後」
「親分、しかし、あれゃほんとのあやまちだったんでしょう」
「それゃそうだ。しかし、そのあとがいけねえ。勝市のやつが妙な気をおこして、死体を盗んでかくしてしまった。しかも、その小雪はまぼろしお長の入れ墨を背中にしょってる女だからな」
「そこで、新之丞はおなじお長の入れ墨をしょってるお町を、まず血祭りにあげたんですね」
「新之丞はお町のことを、お滝の口からきいたんだろう。お滝は宮さまからきいていた。そこで、宗十郎|頭巾《ずきん》におもてをつつみ、宮さまになりすまし、まんまとお町を槍玉《やりだま》にあげてしまった。お町にしろ、お静にしろ、殺しておいてさてそのあとで、腰巻きひとつのはだかにして、入れ墨をこれみよがしにしておいたのは、いざとなったら宮さまに罪をなすくりつける魂胆だったのだろうなあ」
「そのことですがねえ、親分」
そのとき、そばから口をはさんだのはお源。
「そのことについて、いま町じゃ大評判でございますよ」
「どういうことだえ、お源さん」
「市村座の弥生《やよい》狂言は鏡山。鏡山といえば、草履打ちの芝居でございましょう。その狂言最中の芝居茶屋で、さいごに草履にものをいわせたとは、さすがはお玉が池の親分さんだと、よるとさわると評判ですよ」
これには佐七もプッと吹きだして、
「お源さん、あれゃけがの功名というやつさ。あれゃおいらより、たちばな屋のおかみの芝居がうまかったんだ。おれはあそこまで指図はしなかったからな」
「あっしもあのおかみが三方ささげて、しんずしんずじゃなかった、ずしんずしんと碾臼《ひきうす》のようなからだではいってきたときにゃ驚きましたね。はじめはだれだかわかりませんでしたが、新之丞がとった袱紗《ふくさ》のしたから、見おぼえのある草履がでてきたときにゃ、あっと肝をつぶしましたね。新之丞も顔色がかわりゃアがった」
「ああいうものを、虚をつかれるというんだろうな」
「そうしてお町さんを血祭りにあげておいて、お長さんの入れ墨をした女はかたっぱしから殺されると評判を立てさせたのは、新之丞なんでしょうねえ」
「そやそや、あねさん、そうしておいて、じぶんはよしと、ねらうあいてのお滝をころそとさらしよったんです」
「初午《はつうま》の晩、出雲屋《いずもや》へお滝をよんで、さんざんうれしがらせてゆだんをさせ、そのかえるさを待ちぶせして、白幡|稲荷《いなり》でうしろからぐいとひと絞め……」
「そやそや、兄い、そこへ勝市がやってきたもんやさかい、半殺しのまま逃げだしよった」
「だけど、お滝はそのとき、じぶんを殺そうとしたあいてが新之丞と気がついたんでしょうねえ」
「そらわかったにちがいおまへん。おまけに、新之丞に絞められて気をうしのうてるあいだに、だれかにけったいなことされてしもたもんやさかい、かわいさあまって憎さが百倍ちゅうわけだっしゃろ」
「そうだ、そうだ。そこで市村座の火事騒ぎにとりまぎれ、恋敵のお藤をぐさっとやりゃアがったんだ」
「ところが、辰、豆六、あの火事騒ぎをおこしたのは、のろま牛の勝市だろう。してみると、こんどの一件、はじめからおわりまで、勝市がお膳立《ぜんだ》てをしたようなもんだったなあ」
その勝市だが、新之丞はお滝に土手っ腹をえぐられたが、すぐ死んだのではなかった。息を引きとるまでには、そうとうひまがあったが、そのまえに、お町とお静を殺したのは、じぶんであったと告白したという。
これには立ち会った医師をはじめ、角兵衛のおかみのおさんに、大栄楼のおかみのお万、たちばな屋のおかみのお力など、おおぜい生き証人がいたので、勝市も人殺しの罪はまぬがれたが、死体を冒涜《ぼうとく》したかどふとどきなりとあって、遠島に処せられたが、それには当てのはずれた海坊主の茂平次、あわをふいてくやしがったという。
「それにしても、新之丞も執念ぶけえじゃありませんか。お静までねらおうとはねえ」
「そら、兄い、新之丞はお滝がこわかったんやな。お滝がじぶんを疑ってることをしっていた。その疑いをそらせるためには、あくまでも、まぼろしお長の入れ墨をした女はのろわれるんじゃぞよということにしておきたかったんだっしゃろ。親分、そうとちがいまっか」
「豆六、てめえのいうとおりだ。ずいぶん手のこんだやりかただが、けっきょく、まぼろしお長のねがいは通じたのかもしれねえな。お長の入れ墨をした女が五人まで、あるいは変死をとげ、あるいは殺され、あるいは自害してはてたんだからなあ」
そこにはちょっとしたうすら寒い沈黙がおちこんできたが、その沈黙をやぶったのはお粂である。
「おまえさん、おまえさんにちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「なんだえ、お粂」
「これは辰つぁんや豆さんに聞いたんだけど、お滝さんがたもとのしたに、匕首《あいくち》かくしてとびこんできたとき、それに気づかぬ親分じゃなし、また気がついたらその匕首を十手でたたきおとすぐらい朝飯まえの親分のはずなんだが……と、このひとたちいってるんだけどねえ……」
それにたいして、佐七は黙してこたえなかった。
あの一件のまえ、佐七はひそかに武鑑をしらべた。そして、西国の某大藩に、宮部三十郎という重臣がいることをたしかめた。その宮部三十郎は、去年の秋、江戸詰めになって出府している。
手をまわして調べてみると、人品骨柄としかっこう、あの宮さまにちがいなかった。
その宮部三十郎という人物、頭も切れるが、物分かりのよい、しごくおだやかな人物として、殿のお覚えもめでたく、家中でもことごとく評判がよい。
辰や豆六のいうとおり、あのさいお滝の匕首をたたきおとし、新之丞ともどもおなわにすることは、佐七にとっては朝飯前だったろう。しかし、どうせ死罪になるふたりだ。しかも、吟味中たびたび宮さまの名前がでるだろう。
佐七はおのれの手柄をすてて、あの気の毒な宮さまの名誉をすくったことを悔いてはいない。
「あら、ごめんなさい。つまらないことを聞いたりして……」
お粂はしみじみ、そういう亭主がいとおしくて、ぴったり佐七により添うと、
「辰つぁん、豆さん、なにをボヤボヤしてるんだい。お源さん、三味線をおねがいしますよ。年にいちどのお花見だもの、わたしもきょうは羽目をはずしますよ」
「待ってました。それじゃ豆六、ひとつ大陽気の大浮かれで、飛鳥山の花見の相場をくるわしてやろうじゃねえか」
「よっしゃ、ほんなら、兄い、まず口開けに、かっぽれでも踊って、おどって、おどりまくろやおまへんか」
どうやらこれで、お玉が池の一家にも花見の春がめぐってきたようである。
からかさ榎《えのき》
怪異|不忍池《しのばずのいけ》
――柳行李《やなぎごうり》の中から血まみれ衣装
「おや、豆六、ちょっと待て」
「兄い、なんや、なんや」
「あれみろ、あいつなにをしてやアがるのかな」
節分の夜のことだった。根岸へ用事があって、でむいていった辰と豆六が、そのかえるさに不忍池《しのばずのいけ》へさしかかると、暗い池のおもてに小舟が一隻、ようすありげにとまっている。
「兄い、あの舟のことかいな」
「そうよ、なんだかようすがおかしいぜ」
みていると、舟のなかから立ち上がった黒い影が、包みのようなものを、ドボーンといけのなかへ投げこんだから、辰と豆六、おもわず顔を見合わせた。
「兄い、妙やな」
「よし、舟からあがるところをつかまえろ」
と、待っているとはしるよしもなく、舟はこっちへやってくる。あいにく、池がかたかげりになっているので、よくわからないが、黒い筒そでにタッツケばかま、それにおもてをつつむ秀鶴頭巾《しゅうかくずきん》がいよいよ怪しい。やがて、秀鶴頭巾が舟をつけ、ひらりと岸へとびあがるところへ、まずとびだしたのが豆六だ。
「これこれ、あんた。ちょっと待っておくれやす」
声をかけたまではよかったが、とたんに豆六、うしろへひっくりかえっていた。
「わっ、助けてえ」
「この野郎、御用だ、御用だ。神妙にしろ!」
辰がとびだしたときには、はや五、六間すっとんで、いや、その脚の速いこと、速いこと。またたくまにその姿は、あたりのやみにとけてしまった。よほど心得のあるやつにちがいない。
「兄い、すんまへん、わての飛びだしようが早かったんやな」
「まあ、いいや、仕方がねえ。それより、さっきの包みを探してみようじゃねえか」
さいわい、くせ者の乗りすてていった小舟があったから、それに乗って、目星をつけたへんまでくると、枯れはすのあいだに、なにやらブカブカ浮いている。どうやら柳行李《やなぎごうり》らしい。
「豆六、なんだかおかしいな」
「なにが……」
「だって、池へ投げ込むのに、おもりもつけねえというのは、どういうわけだ。だが、まあ、揚げてみろ」
それはおもったとおり柳行李で、水に落ちてまもないことは、しめりかげんでよくわかる。厳重にからげた綱をきってふたをひらくと、でてきたのは男物の着物である。しぶい唐桟《とうざん》に黒つむぎの羽織、膚襦袢《はだじゅばん》から、博多《はかた》の帯まで一切そろって、まだ水にもぬれていなかった。
「兄い、へんやな」
「ふむ、なにかいわくがあるにちがいねえ」
そのいわくは、すぐにわかった。着物も、羽織も、膚襦袢も、右肩から左へかけてみごとに切られ、あまつさえ、べっとりと黒いしみがついている。
……ときたから、さあ、がぜんいそがしくなってきたのは人形佐七である。
その翌日、辰と豆六の案内で、不忍池へやってくると、池番にあずけてある衣類をみせてもらったが、ここにこうして切られた衣装があるいじょう、どこかに、切られたやつがあるはずだった。ひょっとすると、その死体も、池のそこに沈んでいるのではあるまいかと、山同心にたのんで、池の底をさらってもらったが、これは期待はずれにおわった。
「こいつはとんだむだ骨だったな」
「なあに、親分、ここになくったって、どうせ人間ひとり切られたからにゃ、いずれどっかからわかってきまさあ」
と、きんちゃくの辰はなぐさめがおだったが、はたせるかな、それから三日目のこと、血まみれ衣装をあずかっている池番の老爺《ろうや》が、お玉が池へやってきて、
「親分、あの衣装のぬしがわかりました。あれは寛永寺坂の印籠屋《いんろうや》の主人、万右衛門《まんえもん》さんの衣装だそうです」
ときいて、佐七は辰や豆六と顔見合わせた。
寛永寺坂の印籠屋といえば、当時いろんな意味でひょうばんだった。商売は書画骨董商《しょがこっとうしょう》で、かいわいきっての大金持ちだったが、あるじの万右衛門というのが、ひょうばんの因業おやじ。だから、知ってるものはだれひとり、印籠屋とまともに呼ぶものはない。あれは印籠屋ではない、因業屋だ、因業屋万右衛門だというのが通り名になっている。
その因業屋の家作のなかに長屋があるが、これがまたかいわいの鼻つまみで、なにしろ場所が坂下のくぼ地のうえに、崖《がけ》のうえにはえのきの大木がからかさのような枝をひろげているから、陰気なることこのうえもなく、また、どうせそんなところだから、ろくなやつは住んでいない。
丹波|篠山《ささやま》の荒くまだの、張り子のつり鐘をせおうて一文もらいにあるく弁慶だの、一人相撲の関取だの、からすの声色なんて妙な芸当を売り物にしているやつだの、いずれもこじき、物もらいのたぐいばかり。
これがけんか口論、小ばくちで日を送っているのだから、ひとよんでこれを化け物長屋。見るにみかねて、ひとは環境によるというから、からかさえのきを切り払い、長屋を建て直したらどうかと、忠告した人があるそうだが、そんなことで、首をたてにふるような万右衛門ではなかった。
せんだってもこんなことがあった。
からすの声色を売り物にしている勘十という男のせがれが、印籠屋のおもてにある水おけにおちて死んだ。いかに飲んだくれでも、子どものかわいさにかわりはない。勘十は狂気のていで、印籠屋へねじこんだが、それしきのことでおどろく万右衛門ではない。非常用の水おけをすえるのはお上の命令である。その水おけを、かってにあそび場所にして落ちたのは、落ちたほうがわるい。と、ケンもホロロのあいさつばかりか、きたない長屋の餓鬼に店先であそばれては迷惑する。以後は慎んでもらいましょうと、かえってさかねじをくわしたという。
「なるほど、あの印籠屋なら、殺されてもおかしかアねえが、ときにきょう、衣類調べにきたのはだれだえ」
それは番頭の徳兵衛《とくべえ》というものであった。万右衛門は、節分の日の昼過ぎに、店をでたきりかえらない。印籠屋では心配して、ほうぼう心あたりをさがしていると、近所にすむ鬼頭鉄之進という手習いの師匠が、不忍池《しのばずのいけ》の話をききつたえ、印籠屋へ知らせてやったのである。
「そこで、念のためにと、徳兵衛さんがでむいてきたんですが、あの衣類をみるとびっくり仰天、たしかに、主人のものにちがいないというんです。それでともかく、親分のお耳へいれておこうとおもいまして……」
池番の老爺は、それからまもなく、いくらかの包み銭にありついてかえっていった。
お雪と藤太郎《ふじたろう》
――わたしは下手人に礼をいいますよ
その翌日、佐七が辰と豆六をひきつれて、寛永寺坂の印籠屋へやってくると、勝手口から、ひとめをしのぶようにでてきたのは、十七、八のかわいい娘。あたりを見回し、裏道づたいに坂をのぼっていくのが、なんとなくいわくありげだった。
「親分、あれゃア万右衛門の娘ですぜ」
「そうか。よし、豆六、てめえはあれをつけろ」
「へえ。そして、親分は?」
「おれは辰といっしょに、印籠屋で待っている」
「よっしゃ。そんならいてきまっさ」
豆六がつけていくと、娘は坂のとちゅうにあるお稲荷《いなり》さまの鳥居をくぐった。しかし、拝殿のほうへはみむきもしないで、裏へまわると、枯れ草のなかにそそり立っているのが、からかさえのき。そこまでくると、
「お雪さん、お雪さん、こっちだよ」
と、からかさえのきの根元から顔をだしたのは、二十二、三の若者だった。身なりはあまりよくないが、筋骨たくましい若者だ。
「あれ、藤太郎さま」
と、駆けよる娘を、たくましい腕でひきよせると、男はそのままえのきのむこうへ消えた。豆六がそっとちかづいていくと、えのきのむこうで話し声。
「それじゃ、やっぱりその着物が……」
「はい、藤《ふじ》さま、しかもそれがななめに切られて、べっとりと血がついていたといいます。お父さんは……お父さんは……」
娘のすすり泣く声。男はおもい口調で、
「お雪さん、おまえには気の毒だが、わたしはおくやみをいわないよ。だって、あのひとは死んだほうがいいんだ。わたしだって、あのひとを、世のため人のため、なんど殺そうとおもったかしれやアしない。あのひとは死んだほうが世間のためだ」
お雪は泣いている。藤太郎もさすがにいい過ぎたと気がついたのか、
「お雪さん、ごめんよ。わたしとしたことが、仏の悪口などいうのじゃなかった。ときに、お雪さん、万右衛門さんのゆくえがわからなくなったのは、節分の日だったねえ」
「はい、あの日、お父さんは、黒門町の叔母《おば》さんのところへいって、そこをでたのが八つ半(午後三時)ごろ、それきりだれも知らないんです」
「八つ半――えっ、八つ半だって?」
なぜか、藤太郎は声をうわずらせたが、あいにくそこへひとがきたので、豆六もそれいじょう立ち聞くわけにはいかなかった。
ちょうどそのころ、佐七と辰は、印籠屋の奥座敷で、番頭の徳兵衛と、万右衛門の妹お房とむかいあっていた。お房というのは四十前後で、黒門町の生薬屋、大黒屋という大店《おおだな》へ嫁いでいる女であった。かれらが語るところによると、印籠屋の家族は、万右衛門とお雪のふたりきり。親戚《しんせき》もお房も、兄の気性が気にいらぬので、めったにいききしないという。
「それが、近ごろになって、兄がちょくちょくわたしどものほうへまいるようになりましたのは……」
お雪に縁談がおこったからである。縁談のあいては、銀町《しろがねちょう》の生薬屋、白子屋の次男で、三百両という持参金が、万右衛門の気にいった。
お雪はそれを悲しんで、そんなことになるなら、わたしは死んでしまうといっていた。お房は同業のよしみで、その男をよく知っているが、白子屋の次男はひょうばんの道楽者だった。
「そんなことから、さすがの兄も困ったとみえ、あの日も、わたしのところへ相談にまいりましたので……」
「なるほど。ところで、お雪さんがそんなに白子屋の次男をきらうのは、ほかにわけでも……」
お房と徳兵衛は顔を見合わせていたが、やがて仕方がなさそうに、
「こうなれば、なにもかも申し上げてしまいますが……」
お雪は近所にすむ、藤太郎という若者と、ふかく言い交わしているらしい。藤太郎はいまでこそ微禄《びろく》しているが、筋目もよし、人物もしっかりしているから、できることならお雪の望みをとげさせてやりたいとお房はいった。
「鬼頭先生もおなじご意見でしたが、だんながなにしろあのご気性ですから……」
「ああ、鬼頭先生というのは、不忍池の一件を番頭さんにしらせてくれた、手習いの師匠ですね」
「はい、お雪さまには手習いの師匠、藤太郎さんには剣術の先生。先生はお雪さまと藤太郎さんを、わが子のようにかわいがっているんです」
番頭の口ぶりによると、鬼頭鉄之進という人物、このかいわいで、よほど人望があるらしい。
「なるほど。ところで、こんどの一件ですがねえ、なにか心あたりはありませんか」
「親分さん、兄はほんとに殺されたのでしょうか」
「いまのところ、そうとしかおもえませんねえ」
「それならば、わたしはいっそ、下手人に礼をいいます。兄は疫病神のようなひとでしたが、このうえ白子屋の次男なんか引きずりこまれては、それこそ、この家はやみですからねえ」
お房はすごい微笑をうかべていた。
それからまもなく印籠屋を出ると、
「おい、辰、おまえ、お房という女をどうおもう」
「すごい女ですねえ。いくらなんでも、妹の身で、おもいきったことをいうじゃありませんか」
「これじゃ、万右衛門もうかばれめえな」
ふたりはそれから、鉄之進の家へよってみたが、あいにくるすだったので、引き返して化け物長屋へやってくると、さあたいへん、長屋はいましも、大乱痴気のさいちゅうだった。
化け物長屋
――赤飯たいて祝っているのさあ
とっつきの、からすの声色の勘十の家にあつまったのが、丹波篠山の荒ぐまに、張り子のつり鐘の弁慶、ひとり相撲の関取、等々、ものすごい連中が、酒気に顔をほてらせて、さら小ばちをたたきながら、飲めや歌えやの大騒ぎ。
なかにひとり、大髻《おおたぶさ》にゆって、みごとな関羽ひげをはやした浪人が、しきりに采配をふっていたが、それが佐七をみつけると、
「あっはっは、きたぞ、きたぞ、おい、勘十、八丁堀《はっちょうぼり》の手先が、きさまをしばりにきたぞ」
乱痴気騒ぎはぴたりとやんで、一同の目にさっと憎悪の色がとがった。なかにひとり、さかやきののびた血色のわるいのが、くちびるの色まであおざめて、わなわな体をふるわせていた。これがからすの勘十なのである。
「なんだ、勘十、意気地がねえ。八丁堀の手先ときいて、ふるえるやつがあるか。おい、岡《おか》っ引《ぴ》き、そんなところに立っていられちゃめいわくだ。用事があるならはいってこい」
「へっへ、たいそうな景気ですね」
「はっはっは、じつはな、因業屋万右衛門が殺されたというので、赤飯たいて祝っているのだ。きさまにもふるまってやるからはいってこい」
「へえ、それはごちそうさま」
「あれ、こいつ、いやになれなれしい岡っ引きだ。だが、岡っ引き。この長屋から下手人をあげようというならお門違いだぞ。みろ、ここにならんでいる雁首《がんくび》を。人殺しなどできそうなやつはひとりもいねえ。あっはっは、おい、弁慶、いっぱいふるまってやれ。まあ、遠慮するな。こうみえても気のいい連中よ。ことに、この勘十だが、どうせからすの声色なんて知恵のねえ商売をしている男だ。かわいいせがれが、印籠屋の水おけに落ちて死んでも、泣きねいりしてるほどの意気地なし。こいつをうたぐるくらいなら、この鬼頭鉄之進を疑うほうが気がきいている」
「それじゃ、おまえさんが鬼頭先生で」
「そうよ。天下の豪傑、鬼頭鉄之進とはおれのことだ。はっはっは。だが、さすがの豪傑も、あの万右衛門にゃアかぶとをぬいだよ。顔さえみれば金の催促。あまりいまいましいから、なんどぶった切ろうとおもったかわからねえ。はっはっは」
「なるほど。それで、とうとうおやりなすったんで」
「さあて、どうだかな。そこまでいっちゃ実もふたもねえ。ところで、岡っ引き、きさまにひとつ、いいことを教えてやろうか」
「へえ、ありがとうございます」
「このかいわいで、ちかごろ姿をくらましたのは、因業屋のおやじばかりじゃねえぜ」
「と申しますと?」
「いまひとり、町内の鳶頭《かしら》で紋吉というのが、おなじ晩から姿がみえねえ。おい、岡っ引き。きさまこのなぞをなんととく」
どろんとにごった目をすえて、鬼頭鉄之進は、佐七の顔をにらんでいたが、かれのことばにうそはなかった。
それからまもなく、化け物長屋をでた佐七がしらべてみると、なるほど、町内の鳶頭、紋吉というのが、万右衛門とどうじに失踪《しっそう》している。
しかも、この紋吉、万右衛門から金をかりて、ちかごろ首もまわらなくなっていたというから、にわかに疑いがふかくなった。
紋吉の女房お吉は、ただおろおろと泣くばかりで、亭主《ていしゅ》がなぜ姿をかくしたのか、どこにいるのか、ちっともしらぬと言い張った。お吉のことばによると、紋吉はふだん着のままでかけたというのだから、遠走りできるはずはない。そこで、かれの立ち回りそうなところをかたっぱしから調べたが、かいもくゆくえがわからない。
かくて、十日とたち、二十日とすぎ、万右衛門失踪いらいはや一カ月、印籠屋でもこうなると、いつまでも解決を待ってはいられない。
そこで、鬼頭鉄之進の肝いりで、万右衛門の四十九日とどうじに、藤太郎がお雪の婿として乗りこむというひょうばんである。
「ちっ、藤太郎のやつ、うめえことをしやアがった。こうなると、万右衛門、藤太郎のために姿をくらましたようなものじゃありませんか」
「親分、こら、ひょっとすると、鉄之進と藤太郎がぐるになって書いた狂言やおまへんやろか。お雪が藤太郎にほれているのをええことにして、万右衛門を殺して、藤太郎を婿におしこみ、印籠屋のしんだいを横領しようちゅうたくらみやおまへんやろか」
「ふむ。なんともいえねえが、そうすると、鳶頭《かしら》の紋吉はどうしたんだ。あいつはなぜ姿をくらましたんだ」
「親分、ひょっとすると、紋吉もバッサリやられたんじゃありますめえか」
「紋吉も……? それゃアどうして?」
「なにかのはずみに、鉄之進が万右衛門を殺すところをみていたか、それとも紋吉に疑いがかかるように、バッサリやって死体はどこかへ埋めてしまったんじゃありますめえか」
「なるほど、こら兄いのいうとおりかもしれん。親分、ええかげんに、鉄之進をあげてしもたらどうだっしゃろ」
「バカをいえ。証拠もねえのに、むやみやたらとひとが縛れるものか。まあ、もうすこしようすをみていようよ」
佐七はなにか考えるところがあるらしく、そのままこの一件を見送っていたが、するとここに、またもや変なことが持ち上がったのである。
「辰、豆六てめえたちもきいたろう。からかさえのきの一件を……」
「へえへえ、親分、ききましたとも。ちかごろ毎晩、からかさえのきの根元から、青白い鬼火が、フワリフワリと、燃えあがるという話でしょう」
「それよ。 いずれだれかのいたずらとはおもうが、捨ててもおけねえ。おまえたち、すまねえが、当分、ひとに知れねえように、からかさえのきの近所に張りこんでくれ」
「よっしゃ、そんなことならお手のもんや。鬼がでるか、蛇《じゃ》がでるか、親分、いまにきっと、正体つきとめてごらんにいれまっせ」
と、辰と豆六が張りこむようになってから、三日目の晩、からかさえのきの根元から、ボーッと燃えあがったのが、お待ちかねの鬼火なので……。
からかさえのきの怪
――掘りだされたのは白骨死体
怪しの鬼火は音もなくぶきみな明滅をえがきつつ、根元からひとつ、またひとつ……辰と豆六はその火をめざして、じりじりと、枯れ草のなかをはっていく、と、みれば、えのきのかげにうごめくひとかげ。火鎌《ひかま》を鳴らす音がするのは、そいつが鬼火をもやすくせ者らしい……と気がついて、辰はあっと小さく叫んだ。
あの男だ。いつか不忍池のほとりで取りにがしたくせ者。黒い筒そでにタッツケばかま、顔をつつむ秀鶴頭巾《しゅうかくずきん》。たしかにあのときのくせ者だ。
豆六もそれに気がついたのか、緊張した顔でうなずきあうと、じりりじりりと近づいていく。そして、首尾よく、あと二、三間、というところまで迫ったところで、
「は、は、はアくしょん」
と、ごていねいに節までつけてくしゃみをしたのは豆六だった。あとで聞くと、枯れ草の葉が鼻のあなへはいったのだそうで、くせ者はそれをきくと、あっとひと声、火を消すとツツーと草をすべっていった。
「くせ者、待て!」
と、駆けよったときには、はや崖下《がけした》のくらやみを、雲をかすみといちもくさん。逃げあしの速いことは、池の端でも試験ずみ。
さあ、辰のおこったのおこらぬのって、かんかんになっておこったが、いかにおこってみたところで、後の祭りだ。それに、豆六がしょげきっているのをみると、かわいそうになり、
「まあ、いいや。できたことはしかたがねえ」
と、からかさえのきの根もとに腰をおとしたが、がっかりしているので、ふたりとも口をきく元気もない。無言の行で半刻《はんとき》ばかり。後からおもえば、それがよかったのである。
何者かまたひとり、枯れ草をわけてのぼってくる。辰と豆六は、それをみると、さっと左右にわかれて、枯れ草のなかに身を伏せたが、間もなくそこへやってきたのは、さっきのくせ者とは別人で、鍬《くわ》一丁かついでいるのが妙である。
やがて、そいつはからかさえのきの根元までくると、あたりをみまわし、さっくさっくとそこを掘りはじめたが、しばらくすると、わっとひと声。
鍬をその場に投げだして、二、三間うしろへすっとんだから、それとばかりに、飛びだしたのは辰と豆六、くせ者をとりおさえて顔をみると、
「や、や、てめえはからすの勘十だな」
勘十はなににおびえたのか、草のうえにへたばって、口もきけない。ただわなわなとふるえる指で、いま掘った穴のなかを指さすばかり。
辰と豆六は火なわをつけて、穴のなかをのぞき込んだが、
「わっ……こ、これは……」
これまたうしろへ飛びのいた。穴のなかから、じいっとこちらをにらんでいるのは、身の毛もよだつしゃれこうべで、うつろの目が、人を射すくめるように、くわっと黒いのである。
「おい、勘十、これはなんだ、どうしたんだ」
「あ、兄い、あっしにも、さっぱりわからねえんで。へえ、ほんとになんにも知らねえんです」
「バカをいえ、なにも知らねえものが、どうしていまじぶん、こんなところを掘りにきた。おい、豆六、いいからひとつ絞めちまおう」
「よっしゃ。勘十、覚悟はええな」
辰と豆六にしめあげられて、勘十はたちまち本音をはいた。
「申し上げます。申し上げます。兄い、そこをゆるめて……ああ、苦しかった。じつは、兄い、あっしはほんとになにも知らねえんです。でも、あっしにわるいところもあります。兄い、聞いてください。こういうわけで……」
万右衛門が失踪《しっそう》する五日ほどまえのことである。勘十が鉄之進を訪れると、だれもいない台所に、角樽《つのだる》がひとつおいてあった。それをみると、勘十はたちまちのどが鳴りだして、ひとくちごちそうになったところでわかる気遣いはあるまいと、ありあう湯飲みでちっくと一杯。
これが一杯ですめばよいが、そうはいかない。二杯目はかけつけ、三杯目はご定法と、飲んでるうちに、あらかた角樽をからにして、さすがの酒顛童子《しゅてんどうじ》も動けなくなり、ええ、ままよ、見つかったらそれまでと、台所わきの小座敷へはいこんで、そのままぐっすり。
それからどのくらいたったのか、勘十が目をさますと、鉄之進がかえっているらしく、だれかとヒソヒソ話をしている。勘十が聞くともなしにきいていると、やがて鉄之進の声で、
「印籠屋の身代を自由にするにゃア、そんな手ぬるい手段ではだめのかわ、おもいきってすっぱりと、万右衛門をやってしまわなきゃア……」
勘十の心臓は、いっぺんにちぢみあがった。酒の酔いもいちじにさめる心地だったが、怖いものみたさで、なおも聞きすましていると、やがてまた鉄之進の声で、
「おまえさんも案外小胆だねえ。そんなことで大事ができるものか。いいから、おれにまかせておけ。こういうふうにやるのよ」
と、鉄之進は声をひそめたが、おりおり、
「血のついた衣装は不忍池に投げ込む」
「もうひとりは、からかさえのきの根元へ埋めてしまう」
「そうしておけば、あいつに疑いがかかる」
そんなことがきれぎれに聞こえてきたから、勘十は生きている空もなかったが、そのうちにやっとすきをみいだして、裏の水口から抜けだした……というのがかれの話であった。
「勘十、そして、客というのは、どんな男だ」
「いえ、それが男じゃありませんので。黒紋町の生薬屋、大黒屋のおかみさんなので」
「なんだ、それじゃ万右衛門の妹のお房か」
辰と豆六はあきれかえって、しばらくことばもでなかった。
「それで、おまえそのことを、万右衛門に知らせてやったか」
「あっしになんでそんな義理があるんです。万右衛門にゃ恨みこそあれ……」
勘十はすごい微笑をもらしたが、とはいうものの、かれもやっぱり気になったのである。それいらい、万右衛門と鉄之進のようすに気をつけていたが、すると節分の日のことである。
日が暮れてまもなく、万右衛門がこっそりと、鉄之進の家へはいっていくのをみたから、勘十はどきりとした。
そこで、ものかげにかくれて、ようすをうかがっていると、ひとめを忍んでやってきたのがお房である。
勘十はいよいよ胸をおどらせて、ようすをみていると、お房は半刻《はんとき》ほどたってからかえっていった。
すると、まもなく、家のなかからでてきたのが鉄之進で、みると秀鶴頭巾に頭をつつみ、黒い筒そでにタッツケばかま、しかも、こわきにかかえているのが柳行李《やなぎごうり》で……。
「それからあとは、兄いのほうがよくご存じですが、あっしゃあのとききいたことばが、気になってたまりませんので、今夜、こうして、えのきの根元を掘りにまいりましたので……」
「よし、それじゃもうすこし掘ってみろ」
掘りだされたのは、すっかり白骨になった死体だが、みると、紺のももひきにつっかけ草履、印半纏《しるしばんてん》に革羽織といういでたちである。
「兄い、こら紋吉やぜ。いくら探したってわからんはずや。こんなところに埋められてたんや」
「よし、豆六、すぐに親分を呼んでこい」
それからまもなく、駆けつけてきた佐七は、からすの勘十にもういちど話をくりかえさせると、あらためて白骨死体を調べていたが、そのうちになにをみつけたのか、ギョッとしたように、大きく息をはずませたのである。
修羅場《しゅらば》祝言
――二人を召し捕ってしまいなはれ
ちかごろ、辰と豆六は、はなはだおもしろくない。
「なあ、豆六。うちの親分もヤキが回ったぜ。からすの勘十の話といい、からかさえのきの根元から掘りだされた死体といい、これだけたしかな証拠がそろえやア、もうなにもいうこたあねえじゃねえか。鬼頭鉄之進と、お房がぐるになって、万右衛門をばらして、死体をどこかへかくしゃアがったにちがいねえ。それにもかかわらず、うちの親分、いまだにすったもんだとことばをそらして、あいつらをひっくくろうとしねえのは、いったい、どうしたもんだろう」
「そやそや。わてもなんべん親分に、はようあいつらをあげてしまいなはれとすすめたかわからへん。そやのに、親分、なんやしらんしりごみして、けったいな話や。まさか、親分、あの関羽ひげにおそれをなしてんのやおまへんやろな」
「まさか、そんなことはあるめえが、こうぐずぐずしていると、いつなんどき、海坊主のやつに先手をうたれねえものでもねえ。そこで、豆六、おれは決心したんだが……」
と、なにやらボシャボシャささやけば、
「そんなら、兄い、親分にはないしょで……」
「ないしょといやアわるいようだが、なにもだしぬこうというのじゃねえ。これもみんな親分に手柄をさせてえばっかりよ」
「えらいっ、兄い、よういった。よっしゃ、ほんならやっつけてしまいまほ。なんでも、あしたが四十九日、その法要がすんだとこで、藤太郎婿入りの披露《ひろう》があるという話やさかい、ひとつそこへ乗りこんで……」
「しっ、豆六、声がたかい」
いったいなにをたくらんでいるのか、辰と豆六はそれからなおも深刻なかおで、ボシャボシャ密談をしていたが、さて翌日のことである。
万右衛門の失踪《しっそう》いらい、はやくもここに四十九日、印籠屋ではあの日を命日として、四十九日の法要のあとで、いよいよ藤太郎の養子|披露《ひろう》ということになっている。
やがて、さだめの時刻がくると、正面の席にはお雪藤太郎、左右にはお房鉄之進、つづいて親類縁者から、長屋の連中まで、ひざっ小僧をそろえている。ただひとり、からすの勘十だけが、朝からすがたをみせなかった。
やがて、酒もいきわたると、婿の藤太郎が麻裃《あさかみしも》の威儀をただして、
「さて、みなさん、座がたこうございますが、ここからごあいさつさせていただきます。ご先代さまご存命のみぎりは、いろいろ行き違いもあり、気まずいこともございましたが、こうして仏になられたからは、いっさい水に流していただきとうございます。つきましては……」
と、かたわらの三方を指さし、
「ここにございますのは、ご先代さまがご用だていたしました証文、いまとなっては、あって益なき品ゆえ、この場で火中いたしとうございます」
つまり、借金に棒をひいてやろうというのだから、さあ、一同大喜び。
「また、とかくうわさにのぼるからかさえのき、あれは無用の長物どころか、ちかごろ不吉な大木となりましたから、おもいきって切りはらうつもりで、けさより職人をいれましてございます」
「へえ、ありがとうございます。これで長屋のものも、日の目をおがむことができます」
「しかし、あの大えのきを切りはらっても、長屋があれでは見苦しゅうございますから、さっそく建て直して、気持ちよく住んでいただくことにいたします」
と、そこまでいって藤太郎は、ズーッと長屋の連中を見わたすと、
「そのかわり、この藤太郎、みなさまにひとつお願いがございます。長屋が建てかわるこの機会に、みなさまにも心を入れかえていただき、たとえ貧しくとも、まじめに働く気になっていただきとうございます」
さすがの荒くま、弁慶、一人相撲の連中も、これには一言もない。恐れいってくちぐちに更生をちかうと、藤太郎もよろこんで、
「それを聞いて安心しました。では、証文はこのとおり」
と、パッと火中に投げこんだから、一同は大喜び、あとはさかんな酒盛りとなったが、おりからそこへ、転げるようにはいってきたのが勘十で、
「先生、逃げてください。いま、先生を召し捕りにやってきます。早く、早く……」
と、血相かえて勘十がご注進をしているところへ、踏みこんできたのが辰と豆六。みると、数名の捕り手をしたがえているのみならず、かねてから佐七がごひいきにあずかっている与力神崎甚五郎までひっぱりだしてきた。
「やあやあ、鬼頭鉄之進、大黒屋お房、御用だ、神妙にしろ」
なにしろ、辰は大得意。ここぞとばかり、大見得切ってそっくりかえったが、鉄之進はケロリとして、
「なんだ、御用だ? してまた、なんの御用だえ」
「いうな、いうな、そこにいるお房とぐるになりよって、万右衛門を殺したばっかりか、鳶頭《かしら》の紋吉まで手にかけて、からかさえのきの根元に埋めたやないか。それ、ふたりとも召し捕ってしまいなはれ」
豆六も負けず劣らず、そっくりかえったが、そのとき、さっと一同のまえに立ちはだかったのは、花婿の藤太郎である。
「先生、お逃げなさいまし、あとはこの藤太郎がひきうけました」
「藤太郎、なんでわしが逃げるのだ」
「先生、お隠しなすってもいけません。あの晩、万右衛門どのがお宅へ入るのを、この藤太郎も見受けました。それもみな、われわれのためをおもってなすったこと。ここはわたしが引き受けました。叔母《おば》うえもいっしょに、すこしも早く……」
裃《かみしも》はねのけ、ずらりとわき差し抜いたから、さあ、大変である。あわや、血の雨が降ろうというところへ、息をきって駆けつけてきたのが人形佐七。その場のようすをみると大喝一声《だいかついっせい》。
「辰、豆六、ひかえろ!」
めでたい四十九日
――二人でお伊勢さんへ抜け参り
「親分、親分、なんで止めるんで。あっしらはなにも、おまえさんをだし抜こうというんじゃねえんで」
「そやそや。親分、そないにひがむもんやおまへん」
「バカ野郎。だれがおまえたちにひがむものか。神崎のだんなまで引っ張りだしゃアがって、このトンチキめ。だんな、どうぞこいつらのそこつを堪忍してやって下さいまし」
「佐七、それではきょうの捕り物は、おまえがいいだしたのじゃなかったのか」
神崎甚五郎は目をまるくしている。
「とんでもない。こいつらがかってに、出過ぎたまねをしゃアがったんです。藤太郎さん、おまえさんも刀をおさめなさい。みなさんも、どうぞ、もとの席におつきになって」
辰と豆六は大不服だが、まさか、親分に逆らうわけにもいかない。面ふくらせてひかえていると、佐七は鉄之進のほうへむきなおって、
「もし、鬼頭先生、こういう騒ぎがおこるのも、もとはといえばおまえさんから。ここらでひとつ、種明かしをして下さいな」
「なに、おれに種明かしをしろとは? それじゃ、佐七、おまえ知っているのか」
「先生、あっしだって、お玉が池の佐七とひとに知られた岡《おか》っ引《ぴ》きです。そこらにならんでいるとうなすかぼちゃといっしょにされちゃ困ります」
「親分、親分、そこらにならんでるとうなす」
「かぼちゃとはわてらのことかいな」
「あたりまえよ。ねえ、先生、こうみえても、佐七には目がありまさア。証拠の衣類を沈めるのに、おもりもつけず、また徳兵衛さんをたきつけて、殺されたのは万右衛門さんと、名乗ってでさせたのもおまえさん。そうかとおもうと、からかさえのきで鬼火をたいて、鳶頭《かしら》の死体を掘りださせるようなまねもなさいます。それやこれやを考えると、これゃアどうしても、ひととおりやふたとおりでない魂胆があるとしかおもえません」
「ウフフフ、おもしろいな。そして、その魂胆とは」
「それはいま申し上げますが、先生、おまえさんほどのひとでも、やっぱり、手抜かりというものはあるもんですねえ」
「ホホウ、どういう手抜かりだえ」
「からかさえのきの根元から掘りだされたあの骸骨《がいこつ》、先生、あの骸骨は足袋を右左、あべこべにはいていましたぜ」
「げっ、足袋をあべこべに……?」
「さようさ。どこの世界に、足袋の右左を取りちがえるやつがあるもんか。だいいち、取りちがいようたって、はけやアしません。これ、すなわち、何者かがあとから足袋をはかせた証拠。それも、肉のついた足じゃ、間違ってもはかせることができませんから、骸骨になってからはかせたものにちがいない。そう気がついて、骸骨の衣装をしらべてみると、そのきこなしがまた変だ。だからあれア、骸骨に鳶頭の衣装をきせたんです」
「ム、ム、ムウン」
「さて、そう気がついたところで、おもいだしたのが万右衛門さんの衣装で。あれにもなにか種があるんじゃねえかと、調べてみると大べらぼう。襦袢《じゅばん》と着物と羽織の切り口がどうしてもピッタリしねえんです。きているところをうしろから切られたものなら、そんなはずはねえ。おまけに、血のつきかたにも変なところがあり、そこでやっとなぞがとけました。あの衣類は、脱ぎすててあったところを、いちまいいちまい切り裂いて、犬かねこの血をなすりつけたものにちがいねえ。つまり、万右衛門さんは切られたんじゃねえんです」
「なに、万右衛門は切られたのじゃない?」
神崎甚五郎はあいた口がふさがらない。
辰と豆六も目をしろくろ。
「へえ、そうなんで。万右衛門さんばかりじゃねえ、紋吉だっておなじことで。あの骸骨《がいこつ》についちゃ、おもしろい話があります。両国でひょうばんの骸骨踊り、あの見世物からひと月ほどまえ、五体そろった骸骨を買っていったやつがあるんです。しかも、買い手の人相が鬼頭先生にいきうつし」
「佐七、いったいこのご仁は、なんだって、そんないたずらをなされたのだ」
「まずだいいちに、藤太郎さんを養子にむかえ、第二に大えのきの切りたおし、第三には化け物長屋の建てなおし、まず、そんなところでございましょう。それには大だんなが生きていちゃまずい。万右衛門さんが生きていちゃ、藤太郎さんも養子の口を承知しねえ。そこで、しばらく万右衛門さんに死んだものになってもらおう。――と、そこでできあがったのがこの細工です」
話を聞いておどろいたのはお雪藤太郎。
「それじゃ、先代さまは……」
「まだ生きておいででございますか」
「さようさ。鬼頭先生とて、まさか人殺しまではなさるまい。だが、いまどこにおいでになるか、そこまでは存じません。これを知っていなさるのは、鬼頭先生と、大黒屋のおかみさんばかり。もし、おふたりさん、ここらでひとつ、打ち上け話をして下さいな」
「ああ、えらいな、佐七、よく見抜いたな。わしもつくづくかぶとをぬいだ。いかにも、万右衛門殿は生きている。いや、藤太郎、お雪坊、おまえたちの驚くのもむりはないが、じつはここにいるお房どのがな、白子屋との縁談をぶちこわし、藤太郎くんを養子にむかえたいが、なにかよい方法はないものかと、わしに泣きついてきたところから、おもいついたのがこんどの狂言。万右衛門どのと鳶頭《かしら》の紋吉は……」
「お雪、徳兵衛、いまもどったぞ」
うわさをすればかげとやらで、そういう声は万右衛門。一同あっと肝をつぶしたが、間もなくそこへあらわれたのは、旅ごしらえもげんじゅうな万右衛門。うしろには鳶頭の紋吉も、元気な姿でつきそっている。
「あれ、まあ、おまえさん」
すがりつく女房のお吉に、紋吉は頭をかいて、
「お吉、すまねえ、すまねえ。おまえに内緒で抜けだしたのはわるかったが、だんなの抜け参りのお供をすれば、借金の棒引きをしてくださろうというお話に、おらアお伊勢《いせ》さんへ抜け参りのお供をしてきた」
江戸時代には、むだんで仕事を休んでも、伊勢参りをしてきたといえば言い訳が立ったもの。それを抜け参りといったという。
佐七はハタとひざをたたいた。
「おお、それじゃだんなは伊勢参りに……」
「はい、さようで。ちかごろ、いろいろいやなことが重なるので、鬼頭先生とお房のすすめで、抜け参りをしてきました。しかし、えらいもんだな、お参りをしているうちに、すっかり心を洗われまして、こんどかえったら前非をあらため、まず藤太郎を養子にむかえ、からかさえのきを切りたおし、化け物長屋も建てなおし、借金も棒引きにしようと……あれあれ、なんじゃと、それはいますんだばっかりじゃと。あっはっは、これはまあ、夢ではないか」
と、昔にかわるえびす顔。なんともめでたい四十九日だったが、ここにひっこみのつかないのが辰と豆六で、話半ばにこそこそと、しりおっ立てて逃げだすと、こののち、けっして出過ぎたまねはやるまいぞと、たがいにいましめあったという。
万右衛門はその後、家督を藤太郎にゆずり、おのれは仏いじりの楽隠居。生まれかわったような好々爺《こうこうや》で、生涯《しょうがい》をおわったという。
色八卦《いろはっけ》
湯島の富突き
――千両当たったら役者を買う
現今でも、競馬、競輪、富くじとばくちばやりで、まるで地方の自治体がばくちの胴元をしているようなものだが、これは諸事停滞して、経済的に八方ふさがりになった時代の特徴らしく、江戸時代でも、富くじはなかなかさかんだった。
そのころの富くじは、多く、寺社修復の財源にあてるというのが名目だったから、興行元はたいてい寺か神社で、なかでも有名なのは谷中《やなか》感応院、目黒不動、湯島天神の三カ所で、これを江戸の三富といった。だから、この三カ所で富興行、すなわちくじ引きが行われるという日は、たいへんなにぎわいで、富札をかった連中が、われわれもと押しかけて、かたずをのんで当たりくじの番号が発表されるのを待ったものだ。
くじ引きの方法は、大きな箱に売りさばいた富札と同じかずだけの木札をいれ、それをがらがらまわしながら、箱の側面にあいている小さな穴から錐《きり》をいれ、その錐につきささった木札の番号を当たりくじとしたもので、だからこれを富突きという。
これはなかなか威勢のよかったものらしく、世話人によって、たからかに当たりくじの番号が読みあげられるごとに、場内はわっわっという騒ぎ。一の富の千両にあたったものなんざ、たいていはポーッとするという。
「親分、きょうは四月十八日ですね」
「それがどうした。おまえだれかいいのと会う約束でもあるのか」
「そうじゃねえんで。きょうは湯島の富突きですよ」
ここは神田お玉が池は人形佐七の住ま居。
どこへいったか女房のお粂が、昼過ぎからでかけたるすで、大の男が三人、しょざいなさそうに、体をもてあましている。表をとおる定斎屋の薬売りの声ものどかである。
「ああ、そうか。おまえ、札を買っているのか」
「買っちゃいませんよ、親分。札を買ってちゃ、いまごろこんなところにまごまごしてやアしませんや。湯島へかけつけ……」
「胸をドキドキさせてるとこやな。ねえ、親分」
「なんだえ、豆六」
「兄いときたらな、そらもうたいへんだすわ。札をわしづかみにして、目を血走らせ、小鼻をひくひく、フーフーいいながら汗びっしょりや。それで当たったためしがないんやさかい、ほんまにええ面の皮だっせ」
「なにをいやアがる、てめえはどうだ。一の富の当たりくじと、たった一番ちがいだったと、わっと泣き出しやアがったのは、いったいどこのだれだ。あっはっは、ざまアみやがれ」
「あっはっは。あのときゃ豆六、かわいそうだったな。あれが当たってりゃ、いまごろは、さしずめ豆六お大尽で、こちとら、へへえてなもんだったんだがな」
「そうだす、そうだす。これ、辰や、ちょっと腰をもんでんか。祝儀に一朱やるさかいに、おっほん、てなもんやったんに」
「あっはっは、これゃまた、けちなお大尽もあったもんだ」
と、かえってきたのは女房のお粂。いくらか上気しているらしく、ポーッとまぶたを染めているのが色っぽい。
「お粂、どこへいってたんだ」
「ほっほっほ」
と、お粂は佐七のそばにべったりすわって、
「わたしもバカだねえ」
「あっはっは、じぶんのバカがいまわかったか」
「まあ、憎らしい。もうすこし、あいさつのしようがありそうなもんじゃないか。こちらはがっかりしてかえってきたのに……」
「あねさん、あねさん、なにをがっかりなすったのさ。男でもくどいて振られたんですかえ」
「なにをつまらないこといってるのよう。これなのさ」
と、お粂が帯のあいだからつまみ出して、ひらりとそこへ投げ出したのは、なんと、いま三人がわいわいいってた湯島の富札。
「あっはっは、お粂、それじゃおまえ、湯島の富突きにいってたのか」
「あねさん、まさかあたったんやおまへんやろな」
「豆さん、それゃなんというあいさつだえ、まさかあたったんじゃないだろうなんて。うっふっふ。あたりまえだよう。あたってたら、いまごろこんなに落ちついていられるもんかね。このひとにかじりついて、そこらじゅうはねまわってるさ。ほっほっほ」
「だけど、あねさん、あねさん」
「なんだえ、辰つぁん、ひざのりだして」
「おまえさん、親分にもないしょでこっそり札をかって、あたったらどうするつもりだったんです。役者買いでもする気でいたんで?」
「バカなことをおいいでないよ。ちかごろうちのひと、すこし体がだるそうだから、あたったら箱根へでも湯治にいくつもりだったのさ。ほっほっほ」
「わっ、こらまた、貞女のかがみやがな」
「それで、われわれもご一緒に……?」
「だれがおまえさんたちみたいなうるさいの、つれていくもんかね。このひととふたり水いらずで、ねえ、おまえさん」
「なあ、お粂」
「こん畜生、あたらなくていい気味だ」
「ほっほっほ、それは冗談だが、役者買いといやア、きょうおもしろいことがあったよ」
「おもしろいってどういうんだ」
「おもしろいといっちゃなんだけど、ほら、いつか豆さんが、あたりくじと一番ちがいだって泣いたことがあったっけね」
「うむ、いまもその話をしていたところだ」
「ところが、きょうも、わたしの知ったひとが一番ちがいでね。一の富、千両のあたりくじは梅の四千六百九十二番なんだけど、そのひとの持っているのは、梅の四千六百九十三番なのさ」
富くじのかずはぼうだいなものだから、たいていは、松竹梅とつるかめ、あるいは雪月花と、組分けがしてあったものである。
「こんどはそでがねえのか」
そでというのは、あたり番号の両どなりの番号で、ときによると、両どなりの番号に心ばかりの賞金がつくのである。
「ああ、それがあればそのひともいくらかにありつけるんだが、豆さんのときとおんなじで、こんどもそでがないもんだから、一番ちがいで紙くずさ。くやしがってねえ、そのひとが……」
「それゃそうだろう。お気の毒に」
「それであたしが、千両あてたらどうするつもりだったのかと聞いたところが、そのひとがいうのに、ほら、いま湯島の境内に出てる瀬川三之丞《せがわさんのじょう》、なかなかきれいな役者だというじゃないか。あれを買って夫婦になるつもりだったんだってさ。ほっほっほ、まじめなのか冗談なのかしらないけれど」
「ああ、それじゃそれゃ女ですね」
「あたりまえさ、辰つぁん、男どうし夫婦になってたまるもんか。ほら、おまえさんたちも知ってるでしょう。いま湯島の境内でひょうばんの茶くみ女、三日月お富って娘《こ》さ。ほっほっほ、あの娘もそうとうなもんだねえ」
他人の不運をよろこぶのではないが、お粂のはなしにそれからそれへと一同興にいっていたが、いずくんぞしらん、このはなしこそ、のちに起こった事件のなぞをとくかぎになったのだ。
女易者妙見堂梅枝
――辰や豆六にとっちゃ目に毒だ
「親分、たいへんだ。たいへんだ。殺しだ、殺しだ、人殺しだア!」
と、辰と豆六が奴凧《やっこだこ》のように、キリキリ舞いをしながらとびこんできたのは、それから三日目の昼さがり。
縁側でお粂に髷《まげ》の刷毛《はけ》さきをなでつけさせていた佐七は、ギョッとしたようにふりかえると、
「殺しだと? そして、いったいだれが殺されたんだ」
「親分もご存じでしょう、ちかごろ上野の山下に店を出しているひょうばんの女易者、妙見堂梅枝が殺されたんです」
「あらまあ、あの妙見堂さんなら、わたしもいちど手相を見てもらったことがある。なかなかべっぴんさんだったけれど……」
「あれ、あねさん、あんた、なんで手相なんか見てもらはったんや」
「うっふっふ、うちのひとが浮気をしてるかどうかってね」
「そしたら、あねさん、なんて卦《け》が出ましたえ」
「気をつけなきゃあぶないってさ。ほっほっほ」
「つまらねえこというない。それより、辰、妙見堂はいつ殺されたんだ」
「親分、それがよくわからねえんで。きのうから雨戸がひらかねえので、近所のものが怪しんで、けさがた表の格子に手をかけると、これがなんなくひらいたので、ふしぎに思ってなかへはいると……」
「妙見堂が殺されてたのか」
「いや、そやおまへんねん。座敷には寝床がしいておますし、妙見堂の着物もぬぎすてておますのやが、妙見堂はどこにもみえまへん。それであっちゃこっちゃ探してると……」
「親分、親分、そんなこと聞いてるひまにゃ、いっしょにきておくんなさい。ひとめ見ればわかるこった。あねさんもいつまで親分の刷毛《はけ》さきをいじってるんです。いいかげんにしなせえよ。ええい、じれってえ」
「よし、お粂、もういい。そして、妙見堂の住ま居はどこだ」
「下谷車坂です」
下谷車坂には蓮光院《れんこういん》という寺があるが、その寺の墓地つづきに、ゴミゴミとした長屋がある。
妙見堂梅枝の住ま居は、その長屋のいちばんおくで、裏もよこもさびしい墓地。女の身で、しかも女中もおかずに、よくまあ、こんな気味のわるいところへひとりで住んでいたものと思われるくらいである。
長屋の路地口から妙見堂の家のまえへかけて、いっぱい野次馬がむらがっている。それをかきわけて、佐七の一行が家のなかへはいっていくと、むろん、もう町役人が出張していた。
妙見堂の住ま居はたったふた間で、表が四畳半のおくが六畳、その六畳になまめかしい夜具がみだれており、まくらがふたつならんでいる。
まさか女どうしで寝るはずはないから、男が来ていたにちがいない。
「それで、妙見堂の死体というのは……?」
「親分、あれをごらんください」
町役人に指さされて、佐七はギョッといきをのんだ。
押し入れの上段につみかさねられた布団のあいだから、なまめかしい素膚の女が、ぐったりと乗り出している。紫のひもでむすんだ切り髪がすこしみだれて、まゆそりおとして顔がなまめかしい。
むっちりとした乳房のふくらみ、もえるような緋縮緬《ひぢりめん》の腰巻きがすこしくずれて、白いふくらはぎのちらちらするのが、辰や豆六の目に毒だ。
妙見堂梅枝は、腰のものいちまいだけのあらわな姿で、押し入れの布団のあいだにつっこまれているのである。
「絞めころされたんですね」
梅枝ののどから首へかけて、ありありのこる紫色のひものあとをみながら、佐七はまた息をのんだ。
「そうです、そうです。絞めころしたのは、ひょっとすると、このひもじゃ……」
なるほど、夜具のまくらもとに、おあつらえむきのしごきがいっぽん、へびのようにのたくっている。
「なるほど。それで、このしごきは……?」
「梅枝のものだったそうです。ねえ、親分」
と、町役人はまくらもとを指さしながら、
「まくらもとに一升徳利と、茶わんがふたつころがってるでしょう。梅枝は寝床のうえで、男と酒をのんだにちがいございませんよ。寝床に酒のにおいがしみついてます。さて、そのあとで男とねて……よくねているところを、じぶんのしごきで……」
なるほど、町役人のいうとおりだ。
まくらもとには一升徳利がころがっており、茶わんがふたつならんでいる。徳利には一滴も酒がなく、夜具のまくらもとをかいでみると、ぷうんと酒の香りがする。
「それで、男とふざけた形跡が……?」
佐七がちらと、もえるような腰巻きからのぞいている白いふくらはぎのほうへ目をやると、
「へっへっへ、それがね、たしかに男といろいろあったらしいんで」
と、町役人はくすぐったそうに笑いながら、うすく染まったほっぺたを、つるりと逆になであげる。
どうやら、男はさんざん女をうれしがらせて、女がむがむちゅうになっているところを、うえから絞めころしたらしいのである。
「それじゃ、妙見堂にゃいろがあったんですね」
「へえ、それゃもう、近所でもひょうばんだったんです。つぎからつぎへといろんな男が……そうとうのすご腕だったようですね」
佐七はまた、押し入れの布団からのぞいているむっちりとした乳房のふくらみに目をやった。としは三十前後だろうが、いかにも男の好きごころをそそりそうな肉置《ししお》きだ。
切り髪にしているのも色っぽい。
「それで、殺されたのは……?」
「だいたい、おとついの晩からきのうの朝へかけて……ということになっております。おとついの晩、梅枝がじぶんで、むこうの酒屋へ、酒を買いにきたそうですから」
「おとついの晩来た男というのが、どんな男だかわからないんですか」
「いや、それはわかっているんです。なんでも、二十四、五の、お店《たな》の手代……といったふうな男で、まえからちょくちょく来ていたそうですが、ただ困ったことには、だれもそれがどこのどういう男だかしらないんです」
「表があいてたそうですね」
「いえ、表ばかりじゃありません。裏木戸もあいてましたよ。ひょっとすると、その男、梅枝を殺してから、裏へ逃げたんじゃないかと思うんです。表へ出るとひとにあうおそれがあるが、裏だとすぐ墓地ですからね」
町役人のことばに、六畳のおくにある台所をぬけ、裏木戸をぬけてみると、なるほど外はさびしい墓地で、風雨にさらされた墓石が、累々としてならんでいる。なるほど、人殺しをしたあとで、下手人が逃げ出すにはかっこうの場所だ。
「辰、豆六」
「へえ」
「おまえら、この墓場をよくさがしてみろ。なにか証拠になるようなものが見つかるかもしれねえ」
「おっと、がてんです」
辰と豆六が墓地へとび出すのを見送って、佐七がもとの六畳へとってかえすと、中年の夫婦ものらしいのが、町役人になにやらひそひそ話をしていた。おなじ長屋のものらしい。
町役人は佐七をみると、
「親分、ちょいと」
「はい」
「ここにいるのは、となりにすむ与次郎にお兼という夫婦もんで、おとついここへ訪ねてきたわかい男を見たというのもこのお兼さんなんですが、なにか親分におはなしがございますそうで」
梅の四六九二番
――お梅のヨロコブとおぼえていて
「ああ、そう。それで、与次郎さんにお兼さん、話というのは……?」
実直者らしい与次郎はもじもじしながら、
「合い長屋のことをとやかくいうのはなんですが、おとついの晩おそく、お兼がふろからかえりがけ、この家からひとつの影が……」
「ひとつの影って……?」
「はい、あの、それが、親分さん」
と、お兼ももみ手をしながら、
「暗がりのことですから、よくわからなかったんですが、まだ若い娘さんのようでした。それがこの家からとび出して、筋向かいの弥平《やへい》さんのところへとびこんだんです」
「弥平さんというのは?」
「山下の見世物小屋の木戸番をしているじいさんですが、そこにお梅さんという、ことし十八になる娘がございますんです」
「それじゃ、ここからとび出した影は、弥平の娘のお梅だというのかえ」
「そうじゃないかと思います。というのは、おとついの晩、まだ宵《よい》の口のことでしたが、この家の弥平さんと妙見堂さんが、なにやらえろういい争ってるのが聞こえたんです」
「あっ、ちょっと待った。それはお兼さんが見たという男のくるまえのことだね」
「いえ、親分さん、妙見堂さんはその男と、つれだってかえってきたんですよ。はい、山下のお店からのかえりのようでした」
「それじゃ、弥平と妙見堂がいさかいをしているとき、男もここへいたわけだね」
「そうだと思います。そんなに早くかえっていくはずはございませんから」
「ふむ、ふむ。それで、与次郎さん、それからどうしました。話をひとつつづけてください」
「はい、あの……なにやら長いこといい争いをしていましたが、やがて弥平さんが目にいっぱい涙をためてとび出してきたんです。それで、わたしが、どうしたのかと尋ねると、湯島の富のあたりくじ、しかも一の富、千両のあたりくじを、妙見堂さんにかたりとられたと……」
「なに、一の富のあたりくじ……?」
佐七はぎょっと息をのむ。
「へえ、そうなんです。わたしどもには、くわしい事情はわかりませんが、弥平さんは目にいっぱいくやし涙をためておりました。それですから、お梅ちゃんが夜おそく、この家からとび出したのも、その話できたんじゃないかと……」
佐七はちょっと考えて、
「それで、なにかえ。弥平というのは、人殺しでもしそうなおやじか」
「とんでもございません、親分」
と、町役人が言下にうち消し、
「あれはもうごく正直な、それになかなか世話好きな男で、よくひとの面倒をみていたようです」
「そうです、そうです。親分さん」
と、お兼もその尾について、
「せんだっても、この妙見堂さんが、風邪をひいてねているとき、弥平さんとお梅ちゃんとで、それはそれは親切に面倒をみておりました。それにねえ、親分さん」
と、お兼はちょっと声をおとして、
「お梅ちゃんにはいま、とてもけっこうな縁談がございますんですよ。ほら、広徳寺前に松前屋さんという大きな米屋さんがございますでしょう。あそこの若だんなの、米三郎さんとおっしゃるかたが、お梅ちゃんを見染めなすって……お梅ちゃん、こんなところへおいとくと、掃きだめにつるみたいな器量でございますからね。それに、親孝行で気だてがやさしく、なんでもよくおできになりますからね。松前屋さんのご両親も、すっかりお気に召して、この秋にはおこし入れと、だいたい話がきまってるやさきでございますから、なんぼなんでも人殺しなど……ただ、ちょっと、こんなこともございましたとお耳にいれておけば、またなにかのお役に立つかとおもいまして……」
お兼は立て板に水である。
おおかた、この弁舌をきかせるために、佐七のくるのを手ぐすねひいて待っていたのであろう。
「いや、わかった、わかった、おかみさん、それは親切にありがとう。ところで、親切ついでに、もうひとつ聞かせてもらいたいが、おとついの晩、ここへやってきた男だがね。若い手代ふうの男とばかりじゃよくわからないが、なにかこう、目印になるようなものはなかったかね。ほくろがあるとか、あざがあるとか……」
「ああ、ございました。ございました。そのひと、なかなかいい男なんですよ。色白のね。ところが、右のまゆじりに、うすい傷跡がございまして、そのために、ちょっと顔に険がございましたわね。それがなければ申しぶんのないよい男ぶりなんでございますけれど」
「いや、どうもありがとう。それじゃ、用事があったらまた呼ぶから……」
と、まだしゃべりたりない顔色のお兼と与次郎をそとへ出すと、
「だんな、それじゃここへ、弥平とお梅を呼んでくださいませんか。まさか逃げやアしないでしょうね」
「いや、逃げちゃいない。さっき顔がみえてたようだが……」
町役人に呼ばれて、それからまもなく、妙見堂のおもての間へおずおずとはいってきたのは、六十ちかい白髪のおやじと、まだ十七、八のかわいい娘。なるほど、さっきお兼が、掃きだめにつるといったのもむりはない。
お梅のかがやくばかりの美しさには、佐七も目をみはったくらいである。
「ああ、とっつぁん、わざわざ来てもらってすまなかったが、おまえにちょっと聞きたいことがあるんだ。おとついの晩、おまえここで妙見堂と、富くじのことでなにかいさかいをしたというじゃないか。それゃどういうんだえ。おまえの口からくわしい話を聞きたいんだが」
「はい、あの……恐れいりました」
と、弥平は実直らしい頭をさげると、
「こんなことなら、もっと早く申し上げればよかったんですが、なにぶんにも、かかりあいになるのを恐れたもんですから……」
と、弥平はちょっと息をいれ、
「おとついの夕刻のことでした。山下の小屋の木戸番をしておりましたわたしは、おんはなしを見たのでございます」
おんはなしというのは、あたりくじを触れあるく、いまの号外のようなものである。
「するとなんと、一の富にわたしの持ち札があたっているじゃございませんか」
「ふむ、ふむ。それで……?」
「わたしはすぐにもかえりたかったんですが、なにぶんにも木戸番の代わりをするものがございませんから、小屋のはねるまで辛抱しておりました。そして、小屋をしまうとそうそうにかえってきて、ここへまいったのでございます」
「ここへ来た? ここへ来たというのは、どういうわけだ」
「はい、あの、それはかようで……わたくしはその富札を、まくらびょうぶにはっておいたのでございますが、せんだって、妙見堂さんが風邪をひかれたとき、そのまくらびょうぶをかしてあげて、そのままになっておりましたので、それを取りもどしにまいったのでございます」
「ああ、なるほど。それを妙見堂がかえさぬというのか」
「いえ、さようではございません。びょうぶは素直にかえしてくれましたが、うちへかえって富札をはがそうとすると、番号がちがっているじゃございませんか。わたしはもうびっくりしました。しかも、よくよく見ると、その富札、のりもまだなまがわきで、いまはったばかりのもようなんで……」
「つまり、おまえのはっておいたあたりくじをひっぺがして、そのあとへべつの富札をはっておいたというんだな」
「へえへえ、そうとしか思えません。それで、わたくし妙見堂さんに、札をかえしてくださいと、ここへお願いにあがったんです。そうすると、妙見堂さんは、それはおまえさんのおぼえちがいであろう。たった一番の番号ちがいだから、おまえさん、間違っておぼえていたんだろうとおっしゃるんで……」
「おまえの番号は……?」
「梅の四千六百九十二番で、わたしはそれを、お梅のヨロコブとおぼえておりましたので、けっして間違いはございません」
「お梅のヨロコブか。なるほど」
佐七はわらって、
「すると、それと一番ちがいの札といえば、四千六百九十一番かえ」
「いいえ、四千六百九十三番でございます」
佐七はおもわず目をみはった。
梅の四千六百九十三番といえば、三日月茶屋のお富が持っていたはずではないか。
「とっつぁん、それゃほんとうか。間違いじゃあるまいな」
「いいえ、間違いじゃございません。その札とってございますから、なんならあとでお目にかけましょう」
「よし、見せてもらおう。それからどうした」
「どうしたといって、妙見堂さんに白をきられると、けっきょく水かけ論でございます。だれもわたしの富札の番号をしってるかたはございません。一番ちがいに血迷ったのだろうとののしられて、泣く泣くここをひきさがりましたようなわけで……」
弥平はいまさらのように、くやし涙をそででぬぐう。
なるほど、弥平のはなしが事実とすれば、くやしがるのもむりはない。そして、そのくやしさのあまり、ひょっとすると、無分別なまねをしたのではあるまいか……。
佐七はふびんそうな視線を弥平にむけ、
「ときに、とっつぁん、そのときここに若い男がいたはずだが、おまえそいつを知らないかえ」
「いいえ、親分」
弥平はけげんそうな目をあげて、
「ここにはどなたもいらっしゃいませんでしたよ。妙見堂さんがひとりで酒をのんでいらっしゃいましたので……」
佐七はふとまゆをひそめる。
お兼のはなしによると、その男は妙見堂とつれだってかえってきたというのだが、それでは弥平のくるまえにひきあげたのか。それとも、なにかわけがあって、どこかにかくれていたのではあるまいか。かくれたとすれば、どういうわけか……。
佐七の胸はあやしく乱れた。
「それで、とっつぁん、おまえその後、妙見堂に会わなかったかえ」
「いいえ、いちども……」
「ひょっとすると、あたりくじをうばわれたくやしさに、ここへ忍んできて、妙見堂をぐっとひと絞めやったんじゃねえのか」
「と、とんでもございません。そんなこと……」
「それじゃ、なぜあの晩おそく、お梅がこの家からとび出したんだ」
そのしゅんかん、弥平とお梅はまっさおになり、たがいに顔を見合わせてふるえていたが、やがてお梅がくずれるように手をついた。
「親分さん、申し訳ございません。あのときすぐに長屋のみなさんにおしらせすればよかったのでございますが、父さんが、かかりあいになっちゃいけないとおっしゃって……」
「親分、親分、お梅にはなんのとがもございません。わたしがあんまりくやしがるもんですから、もういちど、妙見堂さんに頼んでみようと、ここへやってきたところが……」
「ここへやってきたところが……? お梅、おまえの口から聞きてえ。どうしたんだ」
「はい、妙見堂さんは寝床のなかで、首にしごきをまきつけて……」
それを聞くと、佐七はギョッと町役人と顔見合わせた。
「そ、それじゃ、そのとき妙見堂は、寝床のなかで殺されて、死体はそのまんまにしてあったんだな」
「は、はい……あまりの恐ろしさに、わたしはすぐにここをとび出しました。そして、うちへかえってその話を父さんにしますと、嫁入りまえのだいじな体、かかりあいになってはいけないからとおっしゃって、きょうまで黙っていたのでございます」
「親分さん、お梅をだまらせたのはこのわたくし、それが悪ければわたしを縛ってください。お梅には縁談がきまっております。むこうさまで支度万端してくださろうとおっしゃいますが、それではお梅の肩身がせまかろうと、苦しいときの神頼み、富くじを買ったところが、その番号がお梅ヨロコブ、こいつは縁起がいいと思っていたのに、あべこべにこんなことになってしまって、わたしゃくやしいやら、悲しいやら……」
弥平が白髪頭をかきむしってなげくのももっともだった。
そこへ、辰と豆六がかえってきた。裏の墓地は、たしかにちかごろ、だれかとおった跡があるが、これという証拠も見つからぬという。
それからまもなく、佐七は弥平から、梅の四千六百九十三番をあずかって、車坂の長屋を出た。
弥平とお梅は、当分町内あずけである。
まゆに傷のある男
――まんまと千両持って逃げられた
「あっはっは、お富、いつ見てもあでやかなことだな」
「あら、いらっしゃい、親分さん。いやですよ、会うとそうそうおからかいなすっちゃ……」
片だすきに赤前垂れという茶くみ女のユニフォーム、湯島境内三日月茶屋のお富は、さすが評判女だけあって、歌麿《うたまろ》えがくとでもいいそうな、すがたのよい女である。
「まあ、いやな兄さん、辰つぁんも豆さんも、なんでそんなにじろじろわたしの顔をごらんになるの。わたしの顔になにかついてて?」
「あっはっは、お富ちゃん、このあいだはご愁傷さまだったね」
「あら、辰つぁん、それなんのこと?」
「白ばっくれちゃいけない。おまえたった一番ちがいで、千両の富をとりそこなったというじゃないか」
「ああ、そのこと……その話ならもうよしてください。わたしやっと、あきらめがつきかけているんですから。あのときは、ほんとにくやしいっちゃなかったわ」
「そらそうやろな。一番ちがいで瀬川三之丞を買いそこのうたんやさかいな」
「あら、おっほっほ、ねえさんからお聞きになったのね。あれは冗談だけど……」
と、お富もさすがにほおをそめて、
「でもねえ、親分、女だてらにお金の力で男を自由にしようというのは間違っているわね。そんな心掛けだから外れたんだと、わたしはもうあきらめてますのよ。それよりも、わたしのおもいであのひとを……」
「きっと射落としてみせまするか。あっはっは、こりゃそうとうの熱だな」
と、佐七はわらっていたが、急に思い出したように、
「ときに、お富、一の富のあたり番号と一番ちがいだということだが、するとおまえの持ってた札は、梅の四千六百九十一番かえ」
「いいえ、九十三番でございました」
なにげなくいってのけるお富のことばに、佐七はギョッと辰や豆六と顔見合わせる。
富札におなじ番号が二枚あるべきはずはない。しかも、梅の四千六百九十三番は、いま佐七のふところにある。
「それで、お富、おまえその富札をどうした。破ってすてたか」
「ああ、そうそう、親分さん、それについて妙なはなしがございますのよ。わたしなんだか気になって仕方がないんです。きいてください。こうなんです」
と、お富がひざをのりだして、
「お宅のおかみさんにわかれてから間もなくのことなんです。妙な男がわたしの肩をたたいて、その札を二分で売ってくれというんです」
「その札を売ってくれ? くじはずれの札を買ってどうするんだ」
きんちゃくの辰が目をまるくした。
「ええ、そう。だから、わたしも、いま辰つぁんがいったようにきいたんです。そしたら、あたりくじにすこしでもちかい札を持っていたら、このつぎはほんとにあたるかもしれないと、真顔になっていうんです。わたしあんまりバカバカしいから、そんなに欲しけりゃあげましょうと、ただでくれてやったんですが、あとになってみると、なんだか気になって……あれ、どういうんでしょうねえ……」
「そして、お富、そいつはいったい、どういう男だ」
佐七はおもわず身をのりだした。
「どういう男って、わたしもはじめて会った男ですからよくわかりませんが、どこかのお店者《たなもの》でしょうねえ。二十四、五か、五、六……そんな年ごろでしょう。色白のちょっといい男で、そうそう、右のまゆじりに、うすい傷跡のようなものがあったわねえ」
佐七はギョッと辰や豆六と顔見合わせると、
「お富、ちょっとみてくれ。おまえがその男にくれてやった札というのは、これじゃねえか」
佐七がとりだした梅の四千六百九十三番を見ると、お富ははっと目をみはり、それから、みるみる顔色をくもらせた。
「親分、いやだわ。なにかあったんですの。わたし、かかりあいになっちゃ困るわ」
現今でもそうだが、その時代には、とくにかかりあいになるということを恐れたものである。
「なあに、大丈夫だ。おまえは札をくれてやっただけのことだから……ちょっと見てくれ」
「は、はい……」
お富は気味悪そうに札をとって裏をかえすと、そこにくっついている紙を見て、
「あら、これ、なにかにはりつけたのかしら」
と、日にすかしてみて、
「ああ、親分さん、これです、これです。ほら、ここにおとみと、紅筆で書いてあるでしょう」
びょうぶからひっぺがすとき、びょうぶの上紙がやぶれてくっついたので、いままで佐七も気がつかなかったが、なるほど、透かしてみると、おとみという字がぼんやりみえる。
「ああ、お富、ありがとう。よくいってくれた。これでだいたい話はわかった」
「親分さん、話というのは……?」
「いまに知れよう。だが、気にすることはねえ。おまえをかかりあいにするようなことはねえから安心しろ」
三日月茶屋をとび出すと、佐七はすぐその足で、富くじがかりのところへいってみた。
「ああ、一の富ですか。あれはきのうの朝はやく、あたりくじを持って、受取人がやってきたので、渡しました」
世話人の話をきいて、佐七はしまったとくちびるをかむ。
「それで、その受取人というのは……?」
「さあ、どこかのお店者《たなもの》でしょうね。名前は聞いてくれるな。ひとにたかられると困るからと申しまして……なにかご不審の点でも……」
「いえ、あの、ちょっと……それで、そいつは右のまゆじりに傷跡がある男じゃございませんでしたか」
「ああ、そうそう、よくご存じですね」
「それで、そいつはひとりでしたか。ひとりで千両運ぶというのは……」
「いいえ、つれがふたりありましたね。男と女で……どちらも頭巾《ずきん》で顔をかくしておりましたから、どういうひとかわかりませんが、その三人でわけて持っていきました。千両といっても、いろいろさっぴかれますから、七百両とちょっとでございますけれど……」
こうして、右のまゆじりに傷跡のある男は、まんまと一の富をうばって逃げたのである。
落ち葉の死体
――さあ、わからなくなってきた
「そうすると、親分、こりゃこういうことになるんですね。まゆに傷のある男は、一の富のあたりくじが披露《ひろう》されたとき、すぐその富札なら妙見堂のびょうぶにはってあることを思い出したんですね」
「そやそや、梅のヨロコブでおぼえやすかったんやな」
「おまけに、そのびょうぶが借りものだということを知っていたから、なんとかごまかして、まきあげるくふうはないかと思案をしているところへ、お富が一番ちがいの札を持っているとしって、それをまきあげていったんですね」
「ふむ、そういうことになるようだな。それから、そいつは、その足で、山下の妙見堂の店へよってわけを話した。妙見堂もわるいやつだから、それに同意して、いっしょにつれだって、車坂の家へかえると、あたりくじをひっぺがし、そのあとへお富の札をはっておいたんだな」
「そやそや、おまけに、そいつはそのときもう妙見堂を殺す腹やったさかいに、弥平がやってきたとき、見られたらめんどうやと、押し入れかなんかのなかにかくれていよったにちがいおまへん」
「そうだ、そうだ、そして、妙見堂がしゅびよく弥平をおっぱらったあとで、前祝いとかなんとかいって、妙見堂に酒を買ってこさせ、ふたりで一升倒したあとで、いっしょに寝やアがった。そうしてあいてにゆだんをさせ、妙見堂がうれしがって夢中になっているところをぐいとひと絞めころして、まんまと、一の富のあたりくじを持って逃げたんですね」
「そやそや、そやさかい、親分、お梅がたちさるのんを待って、死体を押し入れへつっこみよったんや」
「しかし、豆六、それゃまたなぜに……」
「そら、親分、わかってますがな。千両受け取るまでは騒がれたらこまると……」
「騒がれたらこまるといって、お梅は死体を見ているんだぜ。お梅が騒がなかったからよかったものの、下手人にそんな度胸はあるまいよ」
「ほんに、そういやアそうですね」
辰もちょっと小首をかしげたが、
「しかし、親分、どっちにしても、下手人はまゆに傷のある男にちがいねえ。げんに、きのう富を受け取っているんですから」
妙見堂梅枝の死体を押し入れのなかへ突っこんでいったことについては、佐七もちょっとふにおちなかったが、その他の点では、辰や豆六と同意見だった。
「よし、それじゃ、その男を洗ってみろ。ひょっとすると、そいつ、ただのお店者じゃアねえかもしれねえ」
佐七のカンはあたっていた。
まゆに傷のある男というのは、札つきの入れ墨者で、業平紋三《なりひらもんぞう》という悪党らしかった。
そいつなら、としはもう三十を出ているはずだが、業平というあだ名があるくらいちょっとした男前で、二十四、五に見えないことはない。
それに、右のまゆじりに傷のあるところといい、いつもお店者に化けていたところといい、湯島で富突きがあった日から、だれもそいつの姿を見たものがないというところからみても、妙見堂梅枝を殺して、千両の富をうばったのは、てっきりそいつとあたりがついた。
しかし、あたりがついただけではなんにもならない。当人をつかまえなければ話にならぬが、どこへどうもぐったのか、業平紋三のゆくえはもとより、紋三といっしょに千両の富をうけとりにいったという男と女がどういうやつか、それもかいもくわからなかった。
こうして、佐七のいらだちのうちに、三日とすぎ、五日とたったが、すると、ある日、外出をしていた女房のお粂が、妙ににやにやしながらかえってくると、
「ちょいと、おまえさん、三日月茶屋のお富みちゃんね」
「ふむ、お富がどうした」
「あの娘、とうとうおもいをとげたらしいわよ。さっき池の端をとおりかかると、役者らしい男ともつれるようにして、出会い茶屋へはいっていくのがみえたが、あれがきっと瀬川三之丞という役者にちがいない」
「それがどうした。おまえうらやましいのか」
捜査がうまくはかどらないので、佐七も中っ腹なのである。おもわず毒づくと、お粂はわらって、
「なにをいってるんだねえ。ただ、お富ちゃんのすご腕に感心してるのさ。うわさによると、瀬川三之丞をいう役者、じぶんはけっして色には迷わぬ。欲いっぽうだ。じぶんをなんとかしようと思うなら、金を山とつんでこいといってるそうじゃないか。なんでも、昨年もお静というどこかの矢取り女が、さんざん三之丞にみついだあげく、板場かせぎまではたらいて御用になって伝馬町入り、さいわいお慈悲がかかって、半月ほどで出てきたのはよかったが、金の切れ目が縁の切れ目、三之丞がはなもひっかけないもんだから、くやしがって、大川に身投げをしたというはなしがある。そんな男を射落としたんだから、お富ちゃんもたいしたもんじゃないか。それとも、お富ちゃん、どこかで金を手にいれたのかしら」
「つまらねえこと気にするない。お富のことなぞ知ったことかい」
佐七がむかっ腹を立てているところへ、
「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。はよきとくれやす。妙見堂の裏の墓地から、またひとつ死体がでてきよった」
と、キリキリ舞いをしながらとびこんだのは豆六だ。
「なに? 死体が出てきた。そ、そして、そいつはいったいだれだ」
「なんでもええさかい、はよ来とくれやす。むこうに兄いが待ってます。ひとめ見たらわかるがな」
「よし」
と、豆六の案内で、蓮光院《れんこういん》の墓地へかけつけた佐七は、ひとめ死体をみると、おもわずあっと目をみはった。
「親分、そいつの右のまゆじりをごらんなせえ。うっすら傷跡がありますぜ」
辰の注意をうけるまでもなく、佐七もそれに気がついていた。
お店者ふうのつくりといい、この死体こそ、このあいだからやっきとなって探していた業平紋三にちがいない。
「辰、こ、この死体はどうしたんだ」
「そこにある落ち葉だめの底から、野良犬がくわえ出したんです。親分、この死体のくさりかたからみると、紋三もあの晩、梅枝がころされたとおなじ晩に殺されたんじゃありますまいか」
紋三も細ひものようなもので、絞めころされているのである。
佐七はおもわずううむとうなったが、そのとたん思い出したのは、いましがた家を出がけにお粂からきいたことばだ。
「うわさによると、瀬川三之丞という役者、色には迷わぬ欲いっぽうだ。おれをなんとかしようと思うんなら、金を山とつんでこいといってるそうだが、お富ちゃん、どっかでお金を手にいれたのかしら……」
佐七ははっと夢からさめたように、
「豆六」
「へ、へえ」
「てめえはこれから湯島へいって、千両の富を手渡した世話人をここへつれてこい。それから、辰」
「へえ、へえ、あっしの役回りはなんですい?」
「三日月茶屋のお富をおさえろ。あいつがなにかしってるにちげえねえ」
「おっと合点だ」
しかし、それからまもなく駆けつけてきた湯島の富の世話人にみせると、落ち葉だめから出てきた死体と、一の富をうけとりにきた男とは、右のまゆじりに傷跡があるいがい、似てもにつかぬ別人だという。
しかも、落ち葉だめのなかから出てきた死体こそ、妙見堂のもとへ出入りしていたお店者、そのじつ業平紋三にちがいないという生き証人がたくさん現れるにおよんで、佐七はぼうぜん自失のてい。
お富はそれきりゆくえがわからない。
道行き鈴ガ森
――まだ三百両はございましょう
「もし、太夫《たゆう》さん、そんなに急がなくてもいいじゃありませんか。わたしゃ足に豆ができて、もう一歩もあるけやしない」
「ああ、そう。それじゃここらで一服しましょう。さいわい、あたりにひともなし」
「えっ?」
「いやさ、落《お》ち人《うど》にひとめは禁物ですからねえ」
「もし、太夫さん、ここはいったいどこですの。ずいぶんさびしい場所ですね」
「それゃさびしいもあたりまえ。すぐむこうが、鈴ガ森のお仕置き場ですから」
「あれッ!」
と、男の胸にすがりついたのは、三日月茶屋のお富である。こういえば、あいてがだれだかわかるだろう。色にゃころばぬ、じぶんがほしけれゃ金持ってこいと放言している瀬川三之丞。
ふたりとも旅ごしらえである。
夜はもうよほど更けて、鈴ガ森の松並木を吹く風がものすごい。おりから五月時雨のひくく垂れこめた空から、いまにも雨が落ちてきそう。どこかで犬の遠ぼえがするのもきみわるい。
「太夫さん、太夫さん、はやくここを通りぬけましょう。わたしゃこんな怖いところはいや」
「まあ、いいやね。おまえさん、足に豆ができて、一歩もあるけぬといったじゃないか。まあ、ゆっくりと休んでいこうよ」
「だって、太夫さん」
お富はさぐるようにあいての顔をみながら、あおい顔をしてふるえている。
瀬川三之丞、なるほどうわきな女が血道をあげるだけあっていい男だ。しかし、涼やかなその目つきの底には、へびのようなつめたさと、残忍さがひめられている。
「ときに、お富さん、おまえ、あのとき山分けにした金をそこにお持ちかえ」
「は、はい……だいぶおまえにみついだので、残りすくなになっているけど、まだ三百両はございましょう」
「その金こっちへおよこしなさいよ。いえさ、金を身につけてると体が冷える。女はひえるのがいちばん毒だからねえ。うっふっふ」
気味のわるい笑いかただ。お富はそっとあいての顔をのぞいて、
「太夫さん、おまえあたしの金をまきあげて、どうしようというの」
「べつにどうもしないけど、冷えるといけないと思ったからさ」
「いいえ、いいえ、そうじゃない。おまえはわたしを殺す気なんだ。はじめからそのつもりで、わたしをここまで連れ出したんだ」
「これ、お富」
「いいえ、わたしはしっている。お金とくるとおまえは目のないひとなんです。業平紋三の身代わりをつとめて千両の富をうけとったおまえの仲間の雁八《がんぱち》さんも、おまえに殺されたにちがいない。わたしゃなにもかも知っている」
「ええい、それしられたからは……」
ふところに秘めた匕首《あいくち》を、抜く手もみせずに突いてでた三之丞の鋒先《ほこさき》を、お富はひらりとかわしてとびのくと、
「おっほっほ、太夫さん、おまえもよっぽどとんまだね。さっきから、お玉が池の親分さんがかけつけてきて、そこで聞いていなさるのを知らないのかえ」
「な、な、なんだと?」
これには三之丞もおどろいたが、すこしはなれた暗がりにひそんでいた佐七をはじめ、辰や豆六も、どぎもを抜かれた。
「おお、お富、それじゃおまえ知っていたのか。三之丞、逃げるか!」
その一喝《いっかつ》に、くたくたと、骨をぬかれたようにへたった三之丞に、
「瀬川三之丞、御用だ!」
と、辰と豆六がおどりかかっていた。お富はそれを小気味よげに見やりながら、
「親分さん、お手数をかけてすみません。わたしは逃げもかくれもいたしませぬ。にくいにくい三之丞を、死出のみちづれにすることができるんですから、もうこれで本望です」
佐七はあきれて、お富の顔を見なおした。
「お富、おまえはこの三之丞をにくんでいたのか」
「はい、にくんでいました。金のためには女の心をちりあくたのように踏みにじる男、こいつは女のかたきでございます。去年もこいつのためにお静という娘《こ》が、骨の髄までしゃぶられたあげく、かわいそうになわ目の恥じまでうけ、大川に身投げをしたことがございます」
「あっ!」
と、佐七は心のなかで叫んで、
「お富、おまえはお静という娘をしっているのか」
「お静は……お静はわたしのかわいい、たったひとりの妹でございました」
「あっ!」
とさけんだ三之丞、みるみる顔が土色になる。
佐七は佐七で、お粂のやつ、さてはこんどの一件の真相を見破っていやアがったんだなと、心のなかで舌打ちしている。
「わたしにとってはこの男、八つ裂きにしてもあきたらぬやつでございます。業平紋三とやらを手にかけたのは悪うございますが、あいつも妙見堂さんを殺して、千両の富をひとりじめにしようとしたわるいやつ、どうせ畳のうえでは往生できぬ身と、わたしがひと絞め、引導《いんどう》をわたしてやりました。そのかわり、親分さん」
お富は世にも凄艶《せいえん》な笑みをうかべ、
「わたしはずいぶん面白い思いをさせてもらいましたよ。こいつは金のためなら、どんなあさましいことでもするけだもの。犬かねこかをあつかうように、さんざんこいつの体をおもちゃにしたあげく、冥途《めいど》の旅までさせるんだから、わたしゃ思いのこすことはございません。これ、三之丞、かわいそうだが、どこまでもおまえを抱いていくから覚悟をおし」
意気地のないのは三之丞で、にくしみにみちたお富のことばに、もうなかば放心したような顔色だった。
うの花くだしといわれる雨が、どうやら本降りになってきたようだ。
卍巴《まんじともえ》色と欲
――梅枝は卦《け》を読みそこなったんだ
この事件のさいしょの立案者は、業平紋三だった。
妙見堂のうちのまくらびょうぶにはってある富札が、一の富を突きあてたとしってからまもなく、お富が一番ちがいの富札をもっていることをはからずしった業平紋三は、ここに悪法を思いついた。
そこで、ことばたくみにお富をあざむき、からくじをまきあげると、そのあしで上野の山下で店をはっている妙見堂のところへかけつけると、わけをはなして店を早じまいさせ、ふたりつれだって、下谷車坂の妙見堂の長屋へかえった。
紋三もあのまくらびょうぶがかりものであることを、妙見堂にきいてしっていたのだろう。そこで、てばやく本物と偽物とをはりかえてしまった。
だから、弥平がびょうぶをとりもどしにきたときも、それから偽物にすりかえられていると気がついて、血相かえて談じこんできたときも、紋三はうちのなかにいたはずだが、弥平にすがたを見せなかったのは、そのときすでに妙見堂を殺して、千両の富をひとりじめにするつもりだったのだろう。
だから、妙見堂をしめころして、一の富のあたりくじをうばって、裏木戸から外へぬけだしたところまでは、ばんじ紋三の計画どうりにいったのである。
ところが、そのあとで運命の駒《こま》がくるってきた。
からくじを買おうという紋三の挙動をあやしんで、あとをつけていったお富は、妙見堂の裏木戸からしのびこんで、かれらの悪だくみをのこらずきいた。
それのみならず、妙見堂と紋三がはだかのままで抱きあって、上になり、下になり、痴態のかぎりをつくすのをのぞき見させられては、お富の血もくるわずにはいられなかった。
妙見堂もわるい女だが、まさかあいてがじぶんを殺そうとしているとまでは気がつかなかったろう。さりとて、十六、七の娘ではあるまいし、まんまとあいての手にのって、とうとう無我夢中にされてしまうまでには、男はそうとうあの手この手と、えげつない手を使ったにちがいない。
そういういちぶしじゅうを見てしまったお富は、男にたいする憎悪の念を、いっそうつのらせたにちがいない。
まんまと妙見堂をしめころした紋三が、しすましたりと裏木戸からこっそり出てくるところを、こんどはお富が商売もののたすきでしめころした。因果応報とはこのことだろうか。
さて、こうしてまんまと首尾よく、梅の四千六百九十二番をうばって逃げたお富は、その足で瀬川三之丞を訪れると、いまじぶんのやってきたことをつつまず打ち明け、あたりくじをえさに三之丞をくどいた。
お富はおそらくこの一瞬に、じぶんの運命をかけたのだろう。妹の復讐《ふくしゅう》がなるかならぬか、じぶんの命をかけて惜しまなかったのだろう。
欲に目のない三之丞は、このかけに負けた。まんまとお富の誘いにのったのである。
そればかりではなく、悪知恵にかけてはひといちばいの三之丞は、死骸《しがい》をそのままにしておいては千両受け取るさまたげになるやもしれぬと、ばくちなかまの雁八《がんぱち》をやって、妙見堂や紋三の死体をかくさせ、翌日、雁八を紋三にしたてて、千両受けとりにいったのである。
こういう話にのるくらいだから、雁八というやつもあんまり利口とはいいかねたが、のっぺりとして、ちょっとふめるご面相のところへ、三之丞が商売柄、お富にきいたとおり、右のまゆじりの傷跡をつくっておいたのである。
この雁八は、のちに三之丞に殺されて、隅田川《すみだがわ》へ沈められたらしい。
いや、そろいもそろって悪いやつばかりだが、当時の千両といえば、現今の千万円くらいだろうから、これくらいの悪法をかくやつがいても、ふしぎはないかもしれぬ。
三之丞は江戸を立ちのくつもりはなく、お富をころして金をまきあげ、江戸へもどってすずしい顔をしているつもりだったから、雁八やお富からまきあげた金はほとんど手つかずで、自宅の床の下に埋めてあった。
それらの金は、ぶじに弥平の手にもどり、お梅もりっぱな支度ができて、めでたくその秋、松前屋の米三郎と祝言したという。
これでお梅のヨロコブという弥平の八卦《はっけ》はあたったようだが、あたらなかったのは妙見堂の八卦で、易者じぶんの身知らずというが、色と欲にこりかたまった妙見堂梅枝、どうやら、じぶんの卦《け》を読みそこなったらしい。
「それにしても、お粂」
と、一件落着ののち、佐七はお粂をふりかえり、
「おまえにゃかぶとをぬいだぜ。おまえ、こんどの一件で、どのていどまでしっていたんだ」
「あら、まあ、わたしがなにをしるもんかね」
「だって、あねさん、おまえさん三之丞というやつが金に目のねえやつだってこと、ちゃんとしってたというじゃアありませんか」
「そやそや。それに、お静ちゅう娘の身投げの一件もやな。おぼえておいでやす。ようわてらを出しぬきやはったな」
「あらまあ、たいへん」
お粂はちょっと沈んだ目の色をして、
「わたしゃお富ちゃんてえひとの気性を、わりによく知っていただけのことなのさ」
「お富の気性というと……」
「あのひとは商売柄、口でははすっぱなこといってるけれど、根はしっかりとした娘だと思っていたのさ。けっして役者狂いなどするひとじゃアないとね。そのお富ちゃんと三之丞が、もつれるように出会い茶屋へはいるのをみたとき、ハッと思い出したのが、お富ちゃんのもっていたからくじが、こんどの一件に一役買っているって話。そこで、わたしはわたしなりに、三之丞のことについて聞きあわせてみたのさ。そしたら、お金の亡者みたいなやつだというし、それに去年身投げしたお静という娘《こ》のあわれな話……そこはわたしも女だもの、つい身につまされたんだけど、まさかその娘がお富ちゃんの妹だったとはねえ」
お粂はしんみりあごをえりにうずめていたが、きゅうに心配そうな目をあげると、
「お富ちゃんはどうなるの。まさか、死罪にゃなるまいねえ」
「そこはお上にもお慈悲というものがあらあな。殺された紋三のやつが、どうせお仕置きもんだからな」
佐七もしんみりいったが、そこできゅうに気をかえるように、
「それにしても、ひとの人相をたしかめるということは、やさしいようでむつかしいもんだ。あの場合、右のまゆじりに傷跡があるというたしかな目印があるだけに、かえってだまされてしまったんだ。傷跡なんかつくろうと思やアいくらでもつくれる。ことに、役者が一枚かんでいるんだからな。いや、よく気をつけなきゃアと思ったよ」
佐七はこうして、いつも反省を忘れないのである。
まぼろし役者
人形佐七の大患い
――三人そろってこの寒空に水垢離《みずごり》
鬼の霍乱《かくらん》。――
と、悪気があっていったわけじゃなかったが、れいの口軽から、ついうっかりと、きんちゃくの辰が口をすべらせたからたまらない。
お粂はたちまち、きりりと柳眉《りゅうび》をさかだてて、
「バカにおしでないよ。うちのひとが鬼かえ。そんな非道なおひとかえ。ええ、情けない。子分のおまえでさえ、そんなことをいうようじゃ、ひろい世間のひとたちは、さぞうしろ指さしていることだろう。あたしゃくやしい。おまえさん、しっかりしておくれ、きっとよくなっておくれよ。いえいえ、辰つぁんも豆さんも見ておくれ。あたしゃじぶんの寿命をちぢめても、きっとうちのひとの命を取りとめずにはおかないよう」
と、すえは涙でおろおろ声。お粂が身も世もあらず取りみだしたというのもむりはない。
お玉が池の人形佐七のうちでは、目下、大世話場のさいちゅうなのだ。
だいじな、だいじなお粂の亭主《ていしゅ》、三国一の人形佐七が、この春のはじめごろ、ふと引いた風邪がもとで、いまじゃどっと、まくらもあがらぬ大病なのだ。
いまのことばでいえば、さしずめ肺炎とかなんとかいうやつだろう。
岡《おか》っ引《ぴ》きとて不死身ではない。
病気のまえにはふつうの人間もおなじこと、高熱を出して、うつらうつらとうわごとばかりいっているから、お粂はこのあいだから、身も心もほそる思い。
そこへもってきて、子分の辰が、鬼の霍乱《かくらん》だなどと、ついよけいな口を滑らせたのだから、これはお粂が憤慨するのもむりはない。
それでなくとも、岡っ引きにむかって鬼ということばはいちばん禁句、うちのひとにかぎって、非道な所業があるべきはずはないと、ふかく信じているものの、やはり御用聞きを亭主に持てば、世間のおもわくが気にかかる。
鬼――といわれて、お粂が前後の考えもなく、ただひとすじに立腹したというのも、まことに道理といいつべし。
「まあまあ、あねさん、待っとくれやす。あんたがそないに取り乱したら、どだい、どもならんがな。兄いやかて、なにも悪気があっていうたわけやおまへん。あほらしい。だれがうちの親分をつかまえて、鬼やなんていうひとがおますかいな。そら、あねさんが心配しやはるのもむりはおまへんが、わてらかておなじことだっせ。親分にもしものことがあってはと、兄いもわても、このあいだからどない心配して……どない心配して……」
と、上方者はそれだけに、気立てもやさしいかして、豆六ははや男泣き。
うらなりのきゅうりみたいな顔に、ポロポロ涙をこぼして手離しで泣きだせば、辰もきょうばかりは、お粂のまえに神妙に手をついて、
「あねさん、勘弁しておくんなさい。豆六もいうとおり、けっして悪気があっていったわけじゃありませんが、れいの口軽で、いえ、もうこの口軽がうらめしい。お玉が池の親分は、十手|捕縄《とりなわ》こそあずかっていなさるが、花も実もある人情親分と、世間でほめそやさぬひとはありません。それをなんぞや、鬼――いえもう、あっしゃこのほおげたがにくらしい。また豆六がいう通り、あっしゃ親分とは、とくべつふかいなじみでござんす。このあいだからもう、この身を引きさかれるように、つらい思いをしております」
「ねえさん、ほんまだっせ。いつもはだぼらばかりふいている兄いやが、いまのことばばかりはほんまだす。そら、もう、兄いの心配ちゅうたら、はたのみる目もいじらしい。この寒空に水垢離《みずごり》とって」
「え?」
「豆六、よけいなことをしゃべるじゃねえ」
「ええがな、ええがな。いうてもよろしがな。まあ、あねさん、聞いとくれやす。このあいだから兄いが、毎晩夜更けにそっと家を抜けだしよる。親分がご病気やちゅうのんに、またいつもの悪所通いか、ああ、不人情な男やなと考えると、わてはもう、腹がたってたまりまへん。そこで、ある晩、わてがこっそりあとをつけたと思いなはれ。そしたら、兄いがやってきたのは、深川のお不動さんやおまへんか。はてな、こんなところであいびきするつもりやろかと、そんなことおもてますと、なんのそれが、あんた、不動さんに願かけて、親分のご病気がいちにちもはやく直りますようにと、この寒空に、ザーザー水垢離」
「え、豆さん、そりゃほんとのことかいな」
「だれがうそなどいいますかいな。わてもそのときは泣きました。うたごうた心が恥ずかしゅうて、穴へでもはいりたいような気持ちだした。それで、兄いにたのんで、それからのちというもんは、毎晩ふたりで水垢離」
お粂はきくなり、はっとその場に手をつかえた。
「堪忍しておくれ。辰つぁんも、豆さんも、ゆるしておくれ。そんなこととはつゆしらず、毎晩ふたりが抜け出すのを、ああ、また女狂いか、ひごろは親分だの子分だのといっていても、いざとなったらやっぱり他人、頼みにならぬものだと、恨んでいたあたしのあさはかさ。堪忍しておくれ。これじゃ親分のお直りなさらぬのもむりはない」
「え?」
「まあ、つもってもみておくれ。いわば他人のおまえさんたちがそれほど親身に信心しているのに、連れそうあたしがのほほんとしていちゃ、仏様でも神様でも、むこうをおむきなさるのもむりはない。これはあたしがいたらなかった。辰つぁん、豆さん、それじゃあたしも今晩から……」
「え、それじゃあねさんも、あの水垢離を……」
「とらずにどうしよう。大事なだいじな、うちの人のためじゃもの」
と、さてその晩からは、お粂と辰と豆六が、三人三様の水垢離。
じぶんの寿命をちぢめても、どうぞ親分のご病気が直りますようにと祈ったかいがあったのか、いちじはとてもこの春を越せまいとまでいわれた佐七も、それからのちは薄紙をはぐように、しだいしだいによくなって、花の便りをきくころにはようやく本復、床上げということになった。
「いや、お粂も、辰も、豆六も、こんどはたいそう心配をかけたな。人間は病のうつわとはよくいった。うまれてきょうまで二十八年、病気らしい病気をしたことがねえものだから、丈夫だ、丈夫だと、ゆだんをしたのがいけなかった。いや、鬼の霍乱《かくらん》とはこのことよ」
「あれ、まあ、おまえさん」
と、お粂はおもわず辰、豆六と顔見あわせてにが笑い。
「まったくでげすよ。だいの男があれしきの病気に高熱をはっして、あられもねえことを口走り、はたで聞いてるあっしゃ、まったく、冷や汗がでるようなおもいがしましたぜ。なあ、豆六」
と、佐七が本復したとあって、辰五郎め、にわかに元気をだしやがった。
豆六もひざ乗りだして、
「ほんまだすとも。親分、あんたも罪なおひとやな。なんやしら、女の名前ばかり口走りなはったがな、それをまた、あねさんがきいてわっと泣きだす。えらい騒ぎだしたがな」
「げっ、豆六、そ、それはほんとの話か」
と、佐七がにわかに顔色をかえたところをみると、どうやら、脛《すね》にもつ傷に心当たりがあるらしい。
豆六はケロリとして、
「ほんまだすとも。こっちゃら一生けんめいに介抱してるのんに、あんたときたら、いやらしい女の名前ばっかり呼んでなはる。あねさんは気違いみたいに泣きだす。あないに気をもんだことおまへんわ」
「してして、おれがどういう名を呼んだえ」
と、佐七はいよいよ穏やかならぬ面持ちだ。
「さあ、なんちゅう名やったかいな。あんまり聞いたことのない名やったが、兄い、あんたおぼえてなはるか」
「さあて、おれもしかとはおぼえてねえが、おっ、そうだ。なんでも、お粂、お粂といったけ」
「こ、こん畜生!」
まんまといっぱい食わされた人形佐七、げんこをかためてどなりつけたが、お粂はジロリとそれをしり目にみて、
「ほっほっほ、だけど、おまえさんのいまの顔色じゃ、よっぽどうしろ暗いところがありそうだ。ああ、いやだ、いやだ。こんなことなら、ああいっしんに介抱なんかするんじゃなかった」
と、口ではいっても、病中佐七がじぶんの名を呼びつづけていたかとおもうと、お粂はうれしくてたまらない。
佐七の手をとり思わずにっこり。
いや、辰と豆六こそいい面の皮だが、なににしてもめでたい話だ。
まぼろし役者|失踪《しっそう》
――三枚のこった絵姿追って人殺し
さて、それからしばらく大事をとったが、もう大丈夫となると、人形佐七、いっこくもじっとしている男ではない。
なにをおいても、病中たびたびお見舞いにあずかった八丁堀《はっちょうぼり》のだんな、神崎甚五郎《かんざきじんごろう》のもとへごあいさつと出向いていったのは、もう青葉のころもすぎていたが、なにしろ、いそがしい生まれつきにできているとみえて、そこにはちゃんと事件がかれを待っている。
「おお、佐七か、ぶじに本復したとはめでたいな。わしもどれほど心痛いたしたかしれぬぞ」
「恐れ入ります。病中はたびたびのお見舞い、なんともお礼の申し上げようもございません」
「いや、その礼にはおよばぬが、ときに佐七、まだ体がほんとうでないところをつかまえて、さっそく働かせるのは気の毒だが、そのほうでなくばつとまらぬ事件がある。なんと、ひと膚ぬいではくれまいか」
「おっしゃるまでもございません。おもわぬ病気で、御用のまを欠きましたこの佐七、この埋めあわせには、骨身を粉にしてもはたらくつもりゆえ、どうぞご遠慮なく、御用をおおせつけくださいまし」
「おお、それを聞いて安堵《あんど》いたした。それではさっそく申しつけるが、佐七、そのほうは、中村粂之丞《なかむらくめのじょう》と申すものを存じておるか」
「中村粂之丞?」
ときくなり、佐七はぎろりと目をかがやかせた。
「それじゃ、あの三年まえにふしぎに消えてなくなった……」
「おお、それよ」
と、神崎甚五郎もズイとひざをすすめたが、これにはふかい子細がある。
三年いぜん、堺町《さかいまち》の芝居から、とつぜんすがたをくらました中村粂之丞という役者のなぞは、いまだに江戸中の話題となっている。
だいいち、この中村粂之丞という役者、その出現からして、はなはだあいまいもこたるなぞにつつまれているのだ。
そのじぶん、江戸一番といわれた大立て者、坂東三津蔵《ばんどうみつぞう》という役者が、上方のひいきにまねかれて上阪《じょうはん》したことがある。
そのかえるさ、伊勢《いせ》の古市でひと興行うった。
そのころ、古市の芝居というのはごうせいなもので、伊勢まいりの客をあてこんで、上り下りの役者はかならずそこでひと興行うつ。それだけに、田舎ににあわぬ見巧者《みごうしゃ》もあるというわけで、ここの芝居から発見されて、のちに京、大坂、お江戸の大立て者となった役者もすくなくない。
さて、坂東三津蔵もそこでひと興行うったが、そのとき、となりの座にかかっている芝居のなかに、ふしぎな役者を発見した。
名まえは中村粂之丞といって、まだ若年の、しかも三ガ津にはまったく、名まえをしられていない役者だが、きりょうは瀬川路考そこのけ、口跡もうるわしく、芸も田舎回りの役者としてはくさくない。
こいつはものになるとおもった坂東三津蔵、ちょうどそのころ、江戸の舞台にはこういう女形《おやま》が払底していたこととて、これをすすめていっしょに江戸へくだらせた。
それが文政四年のくれのことで、その翌年の初春興行には、この粂之丞に大役をふって、堺町の舞台から江戸の観客に初のおめみえをさせた。
このときの興行は中幕が『女鳴神』。これは市川宗家の『鳴神』を女にふきかえたもので、坂東三津蔵の女鳴神は、高貴の姫だが、これが恋のかなわぬ執念から、山奥ふかくとじこもって、法力によって、八大|竜王《りゅうおう》を岩屋のなかにとじこめる。
天下はために雨がなくておおよわり、そこで雲の絶間之介《たえまのすけ》という前髪の色若衆を派遣して、色にことよせ、女鳴神の法力をやぶらせるというお芝居。
なにがさて、一念こった女鳴神の法力を、美貌《びぼう》でもって破ろうというのだから、この雲の絶間之介という役は、なまなかの役者ではつとまらない。
それを、どこの馬の骨だか、牛の骨だかわからない、まだ若年の粂之丞にふったのだから、さあ、これが大ひょうばん。
しかも、この雲の絶間之介のうつくしさが大当たりで、芝居はために、正月から三月まで打ちつづけるというたいした景気だったが、この興行を打ちおさめた直後、中村粂之丞がとつぜん姿をくらましてしまったのである。
なにしろ、つぎ興行の役割もきまっていたところへ、このとつぜんの失踪《しっそう》だから、堺町は当時、はちの巣をつついたような大騒ぎ。古市の田舎芝居からひろわれて、江戸一番の人気役者になったのだから、むろん、本人の意志ですがたをくらますはずがない。
これにはなにか色事か、それとも、芝居ものによくある仲間の嫉妬《しっと》かと、詮議《せんぎ》はなかなかげんじゅうだったが、杳《よう》としてゆくえはわからぬ。まるで、中村粂之丞という役者は、まぼろしのごとく現れ、まぼろしのごとく江戸の舞台からすがたを消してしまったのである。
ごひいきの娘新造が、失望落胆したことはいうまでもない。
「あのじぶんは、あっしはほかの一件に追われていたので、よくは事情をしりませんが、たしか三津蔵《やまとや》もあれからすぐになくなったのでござんしたね」
「さようじゃ。あの男が病死いたしたので、いよいよ、詮議《せんぎ》の蔓《つる》がなくなったというわけじゃ。なにを申すにも、中村粂之丞の身元をくわしくしっているものは、坂東三津蔵よりほかになかったんだからな」
「ところで、だんな」
と、佐七はふしぎそうにひざをすすめ、
「あれから、はや三年たっておりますが、その中村粂之丞がどうかいたしましたかえ」
「さればじゃ、その粂之丞の一枚絵を、ちかごろ盗んでまわるものがある。しかも、それがどうやら、粂之丞自身のなすわざと思われるのじゃ」
「へへえ、そいつはどうも変ですね。ひょっとすると、粂之丞はまだこの江戸にいるんですね」
「いかにも、そうらしくも思われる。しかし、なんのために、おのが似顔絵を盗んでまわるのか合点がまいらぬ。まあ、きけ、かようだ」
粂之丞の雲の絶間之介が、パッと江戸中の人気をあつめたとき、ぬけめのない錦絵商人《にしきえしょうにん》は、すぐに画工の歌川国安にめいじて、その似顔を一枚絵にして売り出そうとした。
なにがさて、いまや人気絶頂の粂之丞、しかもその似顔絵の雲の絶間は、さすがに国安が彩管をふるっただけあって、水の垂れそうなできであったから、版元の蔦重《つたじゅう》も、これでおおいにもうけるつもりのところ、それが店へでたその当日、坂東三津蔵から使いがきて、店にあった数百枚という絵はもうすにおよばず、版木から下絵まで、すっかり買いとっていったのである。
むろん、それには莫大《ばくだい》な金をつまねばならなかったが、ふしぎなことには、三津蔵はその費《つい》えもいとわず、粂之丞の似顔絵を買いしめてしまった。
いまからかんがえると妙な話だ。
似顔絵が江戸中にパッとひろまることは、それだけ本人の役者にとっても人気のたしになるというもの。
三津蔵はじぶんのひきたてた役者が、こうして江戸中の話題になることを当然喜ばねばならぬはずだのに、版木まで買いとって、そのまま、やみからやみへと葬ってしまうというには、よくよくの理由がなければならぬ。
「あとで聞くところによると、三津蔵はそれらの絵といわず版木といわず、ことごろく焼きすててしまったと申すことだ」
「へへえ」
はじめてきく意外な話に、さすがの佐七も、おもわず目をまるくした。
「そうすると、だんな、中村粂之丞の似顔絵というのは、いちまいも残っていないんですかえ」
「いや、ところが、そうではない。ここに三枚だけ残っていたのだ。ところが、その二枚まで、もちぬしが殺され、その絵がうばわれた。しかも、その下手人というのが、どうやら中村粂之丞らしい。どうじゃ、佐七、これではうかうか病気もできまいがの」
駕籠《かご》に立つ黒羽根矢
――いやもう、その目の艶《えん》なること
まったく、神崎甚五郎のいうとおり、佐七が病気でねているあいだに、なんとも奇怪な事件が突発していたのだ。
これは事件がおこってから、どうやらこの事件が中村粂之丞の似顔絵と関係があるらしいと、甚五郎自身、版元の蔦重へ出むいて調べてみたところが、つぎのような事実がわかった。
粂之丞の似顔絵が店にでたその日、さっそく、坂東三津蔵の使いがきて、ぜんぶ買いしめていったことはまえにもいったが、そのときすでに、三枚だけは売れていた。
その三人の買い手のふたりまでは、店のものもよく顔を知っていた。
ひとりは石町の金物店|伊勢源《いせげん》の後家でおきんという女、もうひとりは小田原町の油屋の娘でお染。と、こうはっきり知っていたが、その当時、三津蔵の使いには、わざと知らぬ存ぜぬでがんばった。
うっかりそれをいおうものなら、取りかえしにもいきかねまじきけんまくだったので、わざと白をきっていたのだが、すると、その後家おきんと、油屋のお染が、佐七の病中、あいついて殺されたのである。
おきんが殺された事情というのはこうである。
芝居好きの彼女は、この春も女中をひとりつれて、堺町の芝居を見にいった。
すると、おなじ桝《ます》に、頭巾《ずきん》で顔をつつんだやさ男がすわっていて、これがそっとおきんの手を握った。おきんがおどろいてあいてを見なおすと、相手はおきんの耳に口をよせて、なにかささやいた。すると、おきんが、
「おや、まあ、あなたは中村粂之丞様」
と、びっくりしたように叫んだという。
それからどういう話になったのか、おきんは女中のまえをつくろって、その頭巾の男をじぶんの寮へつれこんだが、その翌日、むごたらしゅう絞めころされて、彼女が後生だいじにためこんでいた錦絵のなかから、ただいちまい、粂之丞の似顔絵が紛失しているのが発見されたのである。
お染のばあいも、まったくこれと同様だった。
ただちがっているのは、お染は粂之丞の似顔絵をびょうぶに張って朝夕ながめくらしていたのだが、お染が殺されたそのあとには、びょうぶの絵がむざんにひきはがされていたのである。
「佐七、そのほう、これをどう思う。わしはお染の事件のすぐあと、それはてっきり粂之丞の似顔絵と関係があるとおもうたゆえ、蔦重へ出むいたうえ、さっきのような話をききだしたのだが、ふしぎなことには、おきんが殺される数日まえ、おなじようなことを聞きにきたものがあるという。しかも、その男というのが、頭巾で顔をかくしていたところといい、衣類からものごしまで、おきんの女中のもうす中村粂之丞にそっくりなのだ」
「なるほど、それではこういうことになりますね。中村粂之丞はかねてより、おのれの絵姿が三枚だけこの世にのこっていることを知っていて、かねてよりそれを気にかけていたところ、こんど蔦重でそのありかをしり、色仕掛けでおきんやお染にちかづいたうえ、ふたりを殺しておのれの絵姿をうばいとった――と、そういうことになりますね」
「ま、さようじゃ。しかし、じぶんの絵姿がこの世にのこっていては、いったいどのような不都合があるのであろう。三津蔵が版木まで買いとって焼きすてたところといい、よくよく、ふかい子細がなくてはかなわぬ」
「さようでございますねえ」
と、佐七も腕こまねいて考えたが、これだけではどうにも思案がまとまらない。
これにはよくよく容易ならぬ一大事があるにちがいない。
そして、三津蔵はその秘密を知っていた。
知っていたればこそ、この世から粂之丞の似顔絵を葬り去ろうとしたにちがいないが、その三津蔵が死んでしまったとあっては、どこから手をつけてよいか、とんとわからない。
「ところで、だんな、ここにもう一枚、粂之丞の似顔絵がのこっているはずですが、そのゆくえはわかりませんかえ」
「ところが、そいつがわからない。蔦重でもおきんとお染はおぼえていたが、あとのひとりは混雑にとりまぎれ、男だったか、女だったか、それすらもわきまえぬというのだ」
「ふうむ。まあ、わからなくてしあわせ。蔦重でそれをおぼえていた日には、もうひとり死人が出るところでござんしたねえ。いや、ようございます。まるで雲をつかむような話ですが、ひとつなんとか働いてみましょう」
と、佐七はりっぱに引きうけたものの、さて、いまもいった通り、これこそまるで雲をつかむような捜索だった。
なにしろ、事件は三年まえにさかのぼっている。
その三年まえに姿をくらましたきり、杳《よう》としてゆくえのしれなかった粂之丞が、とつぜんふたりの女のまえに姿をあらわしたかとおもうと、やつぎばやの殺人ざた。
それにしても、三年もたったいまとなって、きゅうにじぶんの絵姿を探しはじめたのがおかしい。
そのあいだかれは、どこにどうしてひそんでいたのだろう。なぜ、じぶんの絵姿を、人目からかくさねばならぬのか。
それに、もういちまい残っているはずの絵姿、それはどこにあるのだろう。あるとしたら、ひとめそれを見たいものだがと、八丁堀のお役宅をでた人形佐七、ふかい思案にくれながら、とちゅう寄り道をして、やってきたのがお茶の水のかたほとり。
時刻はかれこれ六つ半(七時)。いかに日のながい辻《つじ》とはいえ、あたりはもうすずめ色にたそがれていた。
きょうは辰も豆六もつれてこなかったから、むだ口をたたくあいてもなく、ひとりぼんやり歩いていたが、そのとき、佐七を追いぬいて、ずいとまえにでた一丁の女乗り物。
黒塗りに金鋲《きんびょう》うったところは、ひとめでお歴々のものとしられたが、すれちがいざま、なかからのぞいた白い顔と、バッタリ目と目が合ったとたん、佐七はおもわずぶるぶると胴震いした。
なんともいえぬうつくしい女だ。
まるで海中からうきあがった人魚のように白い膚、ふかい情をふくんだくろいひとみ、紅珊瑚《べにさんご》のようなくちびる、そして白蝋《はくろう》のような左の耳たぼに、ぽっつり墨を入れたようにみえるほくろのなまめかしさ。
もとより、女にはいたって目のない人形佐七が、ぶるぶると胴震いしたのもむりはない。
ああ、世の中にはいい女があればあるもの――、と、こんなことを考えては、水垢離《みずごり》までとって看病をしてくれた女房のお粂にははなはだあいすまぬわけだが、佐七はふらふら、おもわずその乗り物のあとからついていく。
乗り物は昌平橋《しょうへいばし》のところから左へそれた。
いずれは大身の寵姫《おもいもの》かなにかにきまっている。
こんなのをつけてみたところで、およばぬ恋の滝登りとはしりながら、もったが病で、せめて名まえなりとも、いや、行き先なりともと、ついうかうかとつけていくうちに、ふいに、あれえという叫び声。
たしかに乗り物のなかからときまった。
とおもうと、お陸尺《ろくしゃく》があわてて駕籠《かご》をおろしたから、好機逸すべからずとばかり、佐七はたたたたたと駆けよったが、駆けよってみておどろいた。
駕籠のそとから、ぐさりとばかり気味悪い黒羽根の矢がささっている。
まごうかたなき呪詛矢《じゅそや》だ。
これはとばかりにおどろくお陸尺をせいして、佐七がきらりと乗り物の戸をひらくと、なかにはさっきの女が、まっさおになって震えている。
だが、さいわいにも、矢じりは女の胸までとどかなかった。乗り物のすだれをつらぬくときに、それだけ勢いがそがれたのにちがいない。きわどい二、三寸のところでとどまって、宙にぶらさがっていた。
「もし、しっかりなさいまし。どこにもおけがはございません。あっしゃお玉が池の佐七というものでございますが」
佐七がそういったとたん、女はおやというふうに目をあげたが、いや、その目のまた艶《えん》なこと。
さすがの佐七もいささか照れて、
「それにしても、妙ですね。いったい、この矢は、どこからとんできやアがったんだろう」
と、あたりを見まわしたが、蒼茫《そうぼう》と暮れゆく空のもと、どこにもあやしい姿はみられない。
顔一面赤はげ男
――すさまじい目でお絹をギロリ
その翌朝、佐七は朝から立ったり座ったり、鏡のなかをのぞいたり、そして、しきりににやにやしているのを、いちはやく見つけたのがきんちゃくの辰。
「親分、親分、いってえどうしたというんですえ。うっふ、気味が悪いなあ。朝からこれで十六ぺんも、鏡のなかをのぞいてますぜ。そしてまた、いやみな、衣紋《えもん》をつくろったりしてさ、オッホンとでも言いたそうなかっこうだ」
「辰つぁん、黙っておいでよ。親分の心はとうのむかしに、どこかへ飛んでいるんだからさ。ああ、いやだ、いやだ。病気でさんざん気をもませておきながら、よくなるとすぐこれだから、あたしゃつくづく世をはかなむよ」
「バカをいうな。御用の筋だ」
「御用の筋なら、わてらもひとつお供しまひょ」
「おっといけねえ。きょうはおいらひとりでたくさんだ。いずれかえってからゆっくり話すが、まあ、鼻毛でも抜きながら待っていねえ」
と、しきりに気をもむ三人をあとにのこしてとびだした人形佐七が、足にまかせてやってきたのは上根岸、本庄甚右衛門《ほんじょうじんえもん》さんのご寮はどちらですかと尋ねたら、すぐわかった。
それはそうだろう。
本庄甚右衛門というのは、もともと町人だが、お城の呉服御用をゆるされて、名字帯刀をゆるされていようというたいした格式。
きのうお茶の水の夕まぐれ、佐七がはからずも助けた女というのが、その甚右衛門のおもいもので、お絹という女だった。
お絹は佐七のうわさをきいていたとみえ、助けられた礼をのべたあげく、ふっとうつくしいまゆねをくもらせて、
「親分さん、ここでお目にかかれたのもなにかの因縁、おりいって、お願いいたしたいことがございます。はばかりながら、あすあらためて、上根岸の寮までおはこび願えないでございましょうか」
と、思いこんだ目の色をみたときには、お粂にはすまぬことながら、佐七はおもわずふらふらになった。
その頼みによって、きょうあらためてこの寮へやってきた人形佐七、さすがお城御用の本庄甚右衛門が数寄をこらしてつくりあげた寮だけあって、いや、その豪勢なことは目をうばうばかり。
芝居に出てくる腰元のようなうつくしい女中に案内されて、佐七はけっこうな奥座敷へとおされたが、すると、まもなく現れたのが、めかけのお絹。
「お玉が池の親分さん、よくお訪ねくださいました。さっきからどのようにお待ちしていたことでございましょう」
と、なにやら思いにしずんだ目で、じっとこう見詰められたときには、佐七はおもわず身震いがでた。
まったくお絹はうつくしい。
としは二十五か六か、そういう年増ざかりの美人が、うれいをふくんだふぜいはまたかくべつ。そして、それが、蔓草《つるぐさ》のからむように、なよなよとしたふぜいで、流し目をくれるのだから、佐七が逆上するのもむりはない。
「いや、なんだか、お話があるようなおことばでしたから、とりあえず参りましたが、して、御用のおもむきというのは」
お絹はがっくり首うなだれると、
「親分さん、おまえさん、中村粂之丞という役者をご存じじゃありませんかえ」
と、だしぬけにこうきたから、これには佐七もあっとばかりに驚いた。
「へえ、中村粂之丞のいえば、三年まえに行き方しれずになった役者でございますが、してして、それがどうかしましたかえ」
「親分さん、お助けくださいまし。あたし、その粂之丞にいのちをねらわれているのでございます」
「な、なんですって。おまえさんがあの粂之丞に? してして、それはどういう子細でございます」
さあ、こうなると、人形佐七は色の恋のというさわぎではない。ここが佐七のいいところで、おもわずこうひらきなおると、
「親分さん、まあ、ひととおりお聞きくださいまし」
と、お絹の話したところによるとかようだ。
彼女は古市のものだが、四年ほどまえ、その古市へやってきた旅役者の中村粂之丞と、ふとしたことから言いかわした。
ところが、その直後、粂之丞は坂東三津蔵につれられて江戸くだり。
あとにのこされたお絹は、粂之丞恋しさにやもたてもたまらず、親元を抜けだして、この江戸へやってきたが、恋しいそのひとは、もはやむかしの粂之丞ではなかった。
江戸の人気を一身にせおう粂之丞、むかしの女などに未練はない。けんもホロロのあいさつなのだ。
お絹はあまりの悲しさに涙もでない。
いかに浮気|稼業《かぎょう》とはいえ、これほどとは思わなかった。いまさら、親元へかえろうにも帰れぬいまの身のうえ、いっそ淵川《ふちがわ》へ身を投げて死のうか。
いやいや、それより鎌倉《かまくら》には尼寺があるということ、そこへ駆けこんで尼にでもなろうかと、かよわい身のひとりかなしく、鈴ガ森へんまできたところで、女のひとり旅とあなどられ、あわや、悪者のえじきとなろうとするところを、おりよく箱根の湯治からのかえりがけ、とおりかかった本庄甚右衛門に助けられたのである。
そうして、ふたたび江戸へまいもどり、甚右衛門のせわになっているうちに、その情にほだされて、鯱丸《しゃちまる》というかわいい子までできてしまった。
「そのごまもなく、粂之丞さんが姿をくらましたということはききましたが、恨みこそあれ、なんの未練もない粂之丞さん、かくべつ気にもとめませんでしたが、ちかごろになって、身のまわりに、ちょいちょい変なことばかり」
と、お絹は、さも恐ろしげにあたりを見まわした。
ことの起こりは、ひと月ほどまえ、おもいがけなく粂之丞から手紙がきて、じぶんを捨てた薄情女、いまにおまえはいうもおろか、おまえのだんなの甚右衛門も、ふたりのあいだにできた子どもも、みんな殺してしまうから……。
「と、それはそれはおそろしい手紙、恨みはむしろこちらにございますのに、こう言われては立つ瀬がございません」
その日から、お絹の身辺には異常なことがつづいた。
まずだいいちに、だんなの甚右衛門の茶に毒をほうりこんだものがある。つぎには子どもの鯱丸を池のなかへ突きおとしたものがあった。どちらもさいわい、手当てがはやかったので助かったが、ゆうべはまた、あの呪詛矢《じゅそや》の一件。
「粂之丞がねらっているのでございます。それもどこかあたしの身ぢかで、はい、ひょっとしたら、このお屋敷に粂之丞が……」
といいかけて、ふいにお絹は、ぎょっとばかりにかおをこわばらせた。
さあーっと血のけがいちじにひいて、ひとみが石のようにかたくなった。その変化のあまりのはげしさに、佐七はなにげなくうしろを振りかえったが、そのとたん、おもわずぎょっと息をつめた。
庭先にひとりの男が立って、じっとこちらをながめていたが、いや、その顔のものすごいこと。顔いちめん、やけどの赤むけで、額も鬢《びん》もぬけあがり、くちびるはひきつれ、目は片方、貝のむきみのようにつぶれている。
そういう男が、ものをもいわず、じっとふたりの顔を見つめているのだ。
お絹はとみると、これはまたへびにみいられたかえるのように、からだをかたくして、しかも、きれいな富士額には汗がびっしょり。
ふしぎな男は、しばらくお絹の顔をにらんでいたが、やがて、くるりときびすをかえして、むこうのほうへことことと立ち去っていったが、そのとき、佐七はふしぎなことを発見した。
正面からみるとその男、鬼のようにすさまじい形相だが、うしろをむくとこれがまた、女のようなやさ男、そのなで肩のしなやかさ、うなじの白さ、そしてまた踊りの地でもあるのか、身のこなしのかるやかさ。まえから見るのとは、ひとがかわったかと思われるばかりだ。
「もし、おかみさんえ。あの男はいったい、どういうおひとでございますえ」
「はい、あれが本庄の家のご嫡男で、金之助さまとおっしゃるお方でございます。若いころは、それはそれはきれいなお方だったそうでございますが、遊芸にこりかたまり、役者になるとかいって家をとびだして五、六年、ゆくえがしれなかったそうでございますが、旅先で火事にあったとやら、ああいうお顔になって、ついさきほど帰ってまいられたのでございます」
そういうお絹のことばはあやしく震え、なにやらもっといいたげに、涙ぐんだ目で、じっと佐七の顔をみつめた。
最後の絵姿
――金之助こそ粂之丞にちがいねえ
佐七はがぜん活躍を開始した。
お絹はそれとはいわないが、どうやら赤はげ男の金之助をうたぐっているようす。そうすると、中村粂之丞が金之助の替え玉となって、本庄の屋敷へ入り込んだのだろうか。
いやいや、それはちと受け取れない。
ああして、相好がまるきり変わっているにもかかわらず、親の甚右衛門がわが子とみとめたからには、それだけの根拠があってのことにちがいない。
そうすると、金之助はやっぱり金之助だ。
だが、そうすると……と、そこまで考えて、佐七ははたとひざをうった。
そうだ、金之助と数年来、ゆくえしれずになっていたという。しかも、若いときは水の垂れるような美男で、おまけに遊芸好き、役者になるとて家をとび出したという。
男振りじまんの、芸事じまんの、そういう若者にはよくあるならい、家をとび出して、旅役者かなにかの群れにはいっているうちに、坂東三津蔵に発見された。
と、こう考えると、粂之丞がにわかに姿をくらました理由もよくわかる。
江戸の舞台に立っているうちに、いつしかおやじのしるところとなった。
本庄のうちは町人でこそあれ、名字帯刀ゆるされたゆいしょある家柄だから、息子が舞台に立っているとあっては、そのままには捨ておけない。
そこで、因果をふくめて、身をかくさせるか、むりやりにかどわかして、どこかへ押しこめてしまった。そうして、ほとぼりのさめたじぶん、やけどと称して、顔の相好をすっかりかえ、ふたたびわが家へつれもどったのであろう。
ところで、金之助がかえってみると、むかしの女がいつのまにやら父のめかけになっている。
いったんはじゃけんにすてた女だが、こうなると心おだやかでない。ましてや、じぶんは見るかげもなく相好がかわっているのに、あいては昔ながらにうつくしい。
金之助は、未練と嫉妬《しっと》でものくるおしくなった。
げんざいの父がかたきのように憎まれる。そうだ、それにちがいないと、心にうなずいた人形佐七は、わが家へかえると、さっそく辰と豆六を呼びよせた。
「おい、辰、てめえひとつ、本庄甚右衛門のせがれ金之助という野郎のむかしの身性《みじょう》を洗ってこい。お城御用の本庄のせがれだ。こいつ、五、六年まえに家をとび出したというんだが、その当座、どこでなにをしていたか調べてくるんだ。それから、豆六」
「へえ、わてはどういう御用だす」
「てめえはな、中村粂之丞に殺された石町の伊勢源の後家おきんという女につかわれていた女中に会って、粂之丞の顔をはっきりみたか聞いてくるんだ」
「おっと、合点や」
「合点だ、豆六、いこうぜ」
ひさしぶりに歯切れのいい佐七の下知をきいた辰と豆六のふたりは、喜びいさんでとび出したが、やがてかえってきた豆六の報告は、
「親分、伊勢源の女中の話じゃ、じぶんから中村粂之丞と名乗った男は、すっぽり頭巾《ずきん》をかぶっていて、見えたのはその片目だけだったといいまっせ」
ふぅむ、と、佐七はおもわずうなった。
金之助は顔じゅう赤むけとなり、片目は貝のむきみのようにつぶれているが、のこった片目は、鈴を張ったようにうつくしい。こいつはいよいよ金之助だわえ、と、歯を食いしばってうなずいているところへ、遅ればせにかえってきたのはきんちゃくの辰。
「親分、わかりましたよ。あいつが家をとび出したのは、文化十一年の春のことですが、その当座、浅間の勘六というばくち打ちのところで居候をしていたそうです。ところが、この勘六というやつは、田舎《どさ》まわりの芝居の座元かなにかしている野郎で、それにつれられて上方のほうへ旅立ったきり、ついこのごろまでたよりが知れなかったそうで。その勘六も上方で死んじまったので、いまじゃだれもそのじぶんのことを知っているものはねえようです」
ここまでわかれば、もういうことはない。
金之助すなわち中村粂之丞なのだ。
あの似顔絵を買いしめたのも、じつは坂東三津蔵の発意ではなく、本庄甚右衛門の手がまわっていたのかもしれない。似顔絵から、せがれの身もとが露見しては一大事と、さてこそ、たいまいの金を投げ出したのだろう。
「辰、豆六も来い!」
と、すくっと立ち上がった人形佐七、すぐその足で、やってきたのは上根岸、本庄甚右衛門の寮。
だが、ひと足おそかった。
佐七の顔を見るなり、わっとばかりに泣きながら、とりすがったのはおめかけお絹。それを見るより、辰五郎と豆六は、目ひき、そでひき、うす笑いをうかべている。
佐七もこれにはめんくらって、
「おかみさん、こ、これはどうしたんで」
「親分さん、おそかった、おそかった。あたしゃどうしよう、どうしましょう、だんなさまが、だんなさまが……」
「え、甚右衛門さんがどうかしましたか」
「はい、さきほどお見えになりましたゆえ、あたしがお茶をさしあげたところ、にわかに腹痛、血ヘドをはいていまこと切れました」
これには佐七も、あっとばかりに驚いた。
「え、甚右衛門さんが。してして、金之助さんは?」
「はい、その金之助さんは、だんなさまのまくらもとにつきそって、あたしをみると怖いおかおをしてにらみ、まるであたしが殺したように、それはそれは恐ろしいけんまくでございます」
「よし」
と、うなずいた人形佐七が、おくの座敷へとおってみると、なるほど、顔に白布をかぶせた甚右衛門の遺骸《いがい》のそばには、おそろしい形相をした金之助がひかえている。
「おお、あなたが金之助さんですね。あっしゃお玉が池の佐七というものだが、ちょっとおまえさんに顔をかしてもらいたい」
ちらりと十手を見せたとたん、金之助のかおいろがさっと変わった。
やにわに腰をうかしたとみるや、そばにあった手あぶり、こいつをひっくり返したからたまらない。あたりいちめん灰かぐらだ。
そのなかを、金之助は身をひるがえして逃げていく。
「おのれ、てむかいするか」
雨戸をけやぶり、そとへとび出そうとする金之助のうしろから、弱腰をけったからたまらない。金之助は蹲石《つくばい》のうえに、うつむけざまにつんのめった。
「金之助、ご用だ」
そのうえからのしかかった人形佐七、すばやくなわをかけながら、ぐいと体を起こしたが、とたんに、あっと仰天した。
金之助はみごと舌かみ切って死んでいるのだ。しまったとさけんだ佐七は、金之助の懐中に手をいれたが、するとなにやら、指先にさわったものがある。はてなと、取りだしてみて驚いた。
この世にたった一枚しかないという、これが中村粂之丞の絵姿なのだ。
おお、それではやっぱり金之助こそ、中村粂之丞だったのか。
佐七がぼうぜんと立ちすくんでいるところへ、おりからそこへかけつけてきたきんちゃくの辰、佐七のにぎった金之助の手首をみるなり叫んだ。
「おや、親分、こいつ島破りの大罪人ですぜ。ほら、みなせえ。腕に墨がはいってまさあ」
絵姿の秘密
――あの人は幻と消えたまぼろし役者
「おかみさん、おまえさんにちょっとお話があるんですがねえ」
甚右衛門と金之助の葬式をどうじに出したその夜のこと。
佐七はお絹とさしむかいに、茶室の風炉《ふろ》のそばに座っていた。
「ああ、親分さん、なんのことですえ」
お絹は茶を立てながら、なまめかしい目をして、じっと佐七の顔をみる。
佐七はおもわず胸がふるえた。
「あっしにゃアどうもふに落ちねえことがある。金之助が粂之丞とおなじ人間だとは、どうしても思えなくなったんで」
「あら、親分さん、だって、それなら、なぜあのように逃げ出そうとしたのでしょう。また、なぜ、罪もないものが舌かみ切って死んだんでしょう」
「さあ、そこだ。そこがふしぎだから、あっしゃお奉行所へいって、いろいろ吟味書類を調べたんです。すると、三年ほどまえにお手当てをくらって島送りになった罪人に、お役者|吉三《きちざ》という男がある。こいつ、役者のようにきれいな男だが、強情なやつで、どんなに吟味をうけても、生国はおろか、親の名さえしゃべらなかった。そのまま島送りになったんですが、それがついちかごろ、島を破ってゆくえをくらました」
「まあ、いやですよ、親分。それとこれと、どういう関係があるんですの」
と、お絹はいよいよ甘えるように、佐七のひざにしなだれかかる。
佐七はゴクリとつばをのみ、
「さあ、どういう関係があるか、おまえさんもうすうすは知っているはず。そのお役者吉三こそ金之助のなれの果て。親もとを出奔して、さんざんしたい放題のことをしているうちに、だんだん悪事に足をふみいれ、とうとうお手当てをくったが、さすがに親の名は出さなかった。ねえ、おかみさん、これで金之助が相好を変えていたわけも、あっしの名をきいて舌かみきったわけもおわかりでしょう。島破りといやア打ち首獄門、そいつがあいつには怖かったのです」
「いえいえ、そんなことを、どうしてあたしが知りましょう。ああ、わかった。あのひとはきっと、あたしと粂之丞のむかしの仲をかぎつけて、それで粂之丞の名をかたり、あたしを殺そうとしたのですね。おお、怖いこと」
ぴったりと佐七に寄りそったお絹は、さも恐ろしそうに身震いする。そのたびに、女のなやましい温かさが、うずくように佐七の体につたわるのだ。
佐七はそれでも語りつづけた。
「まあ、お聞きなせえ、おかみさん。中村粂之丞についちゃ、ここにちょっと妙なはなしがある」
「いえいえ、あたしもう、あんな男の話など聞きとうもない。あのひとはまぼろしのように消えてしまった。あのひとはまぼろし役者ですもの」
「そういわずに、まあ聞きなせえ。中村粂之丞という役者は、堺町の芝居に出ているあいだ、けっしてひとには膚はみせなかった。楽屋ぶろへもはいらなかったという話だ。そして、江戸へくだったときから、ずっと三津蔵《やまとや》の家に寝泊りしていたのだが、いつも舞台のこしらえをしてから駕籠《かご》で楽屋入り、またかえるときも、こしらえのまま駕籠でかえったという話、どうしてそうまで用心したでしょうねえ」
「あれ、親分さん、そんな話は聞きとうもない」
「そうですかえ」
佐七は薄笑いをうかべながら、
「聞きたくなくばよしましょう。そのかわり、お絹さん、おまえさんに見せたいものがある」
佐七が取りだしたのは、このあいだ金之助のふところから発見した粂之丞の絵姿だった。
お絹はそれを見ると、さっと血の気を失った。
「お絹さん、よくみなせえ。これがこの世にただいちまい残っているという粂之丞の絵姿だ。粂之丞が人殺しまでして、この世からなくしてしまおうとした証拠の絵姿」
「あれ、きみの悪い、そんなもの……親分さん、おまえさん、どうしてそんなにあたしをいじめるんですの。もうよして、もうよしてちょうだい」
お絹は両手でひしと顔をおおうと、恐ろしそうに、佐七のそばからあとずさりすると、風炉のうえから、そっと茶釜《ちゃがま》を取りおろした。
佐七はつめたい目でそれを見ながら、
「気味が悪い? そうですかねえ、あっしゃまた、おまえさんがこれを見たら、さぞ喜ぶだろうとおもったんですがね。お絹さん」
「…………」
お絹は無言で、肩でおおきく息をしている。
「この中村粂之丞の顔は、ふしぎなことに、おまえさんにいき写し。おまえさんが舞台にたって、雲の絶間之介に扮《ふん》したら、こうもあろうかと思われるほどよく似ています。いや、顔ばかりじゃアねえ。ふしぎなことに、この絵姿には、ごていねいに、左の耳のしたにほくろまでかいてありまさあ。ほら、おまえさんの耳のしたにあるのと、ちょうどおなじくらいのほくろがひとつ……」
お絹ははっとしたように、左の耳のしたをおさえる。
佐七はジロリと横目でそれを見ながら、
「金之助がどうしてこれを手にいれたのかしりません。あのひとはきっと、父をたぶらかす女とばかりに、おまえさんを目のかたきにして、いろいろ素性をさぐっているうちに、とうとうどこかで、この絵姿を見つけてきたにちがいない。あっしでさえ気がつくくらいだもの、あのひともこの絵姿をみるなり、中村粂之丞の正体をさとったんだ」
「よして……よして……親分さん、もう、もうよして……」
お絹は両手で耳をおおうて、精限り、根限りからだをゆすぶって身もだえする。
うつくしい女の狂うように苦しむさまは、佐七になにかしら、いっしゅ残酷な快感をおぼえさすのだった。
「まあ、まあ、お聞きなせえよ。話はしまいまで聞かなければわからねえもんだ。なあ、お絹さん、あれほど名高かった粂之丞が、とつぜん煙のように消えてしまったなぞも、万事これでわかろうというもの。はっはっは、大笑いじゃありませんか。粂之丞というのは、じつは女だったのさ」
「ああ」
お絹はとつぜんにその場に身を投げだすと、がばとばかりに突っ伏した。
泣いているのか、肉付きのいい肩がおおきく波打って、白いうなじにおくれ毛の二、三本、はらはらとかかっているのがなまめかしいような、いたいたしいような……。
だが、佐七の心はもう動かない。
秘密を――世にも恐ろしい秘密を看破したもののみがしる快感が、かれの心を残酷にかきたてるのだ。
危ない恋の橋渡り
――あたし、もう一度水垢離とろうか
「むろん、三津蔵《やまとや》は、それを知っていたにちがいない。知っていたればこそ、粂之丞を楽屋ぶろへもいれず、だれにも女と気付かれないように苦労していたのだ。ああ、なんという危ない綱渡りだ。男と女がいっしょに舞台へあがるのはきつい法度だから、ふたりにとっちゃ、それこそいのちがけの冒険だったろう。もしこいつが露見してみねえ、ふたりともかるくて遠島、重ければ打ち首だ」
「ああ」
お絹の口からうめくようなつぶやきが漏れる。
「むろん、三津蔵もこれを知っていた。知っていたればこそ、後日の証拠になってはならぬと、一枚絵をいってに買いしめ、版木まで焼きすててしまったんだ。ところが、そうまで苦心したかいもなく、粂之丞はどうしてもこれいじょう男で押しとおせない日がやってきた。どうせ男と女だ。三月もいっしょにいれば変なことにもなろう。なあ、お絹さん、粂之丞は身重になったんだ」
突っ伏したお絹のくちびるから、そのとき、かすかにすすりなきの声がきこえてきた。
それを聞くと、佐七もさすがにものの哀れをかんずるのだが、さればとて、ここで話をよすわけにはいかぬ。
「こうなっちゃ、いかになんでも舞台を踏むわけにゃアいかねえ。といって、あれほど顔の売れている粂之丞、いまさら女にして、じぶんのそばへおくわけにもいかぬ。そこで、三津蔵は粂之丞に因果をふくめ、いったん郷里へかえそうとしたんだが、女にかえった粂之丞は、その道中で悪者につかまって難渋しているところを、通りかかった本庄甚右衛門に助けられた。――ねえ。お絹さん、おいらの話に、どこか間違ったところがありますかえ」
お絹はこたえない。
ただそでをかんでひた泣きに泣きいっている声が、押しつぶしたように漏れてくるばかり。
「お絹さん。おまえさんはさぞこのおれを、むごいやつだと思うだろう。おいらだって、おまえの罪が、男に化けて舞台へ立ったことだけなら、黙って目をつぶっていたかもしれねえ。しかし……」
と、佐七はつばをのみ、
「おまえさんというひとはおそろしい女だ。やがて甚右衛門さんの息子が島からかえってきて、じぶんの素性を探りはじめたのに気がつくと、いても立ってもいられなくなった。気になるのはこの世に三枚残っているあの絵姿、それから足がつきはしないかと、そこで蔦重《つたじゅう》へおもむいて、絵姿を買ったふたりの女を探りだすと、あろうことかあるまいことか、女だてらに人殺し……」
「ああ、もうよして、もうよして……」
お絹はふいに狂ったような目をあげると、
「親分さん、おまえさんは女の心――いいえ、母の心を知らないのです。あたしは鯱丸《しゃちまる》のためなら、どんなことでもする気になりました。あたしの秘密さえわからなければ、あの子はりっぱに甚右衛門さんの子でとおります。そうするためには人殺し……」
お絹はふとじぶんの手を見つめ、
「ああ、恐ろしい、この手でいくにん人殺し……人の血でぬれたことやら、これも……これもみんな……わが子の出世が見たいばっかりに」
お絹がよろよろ立ちあがったときだった。おりからそこへ当の鯱丸が、なにも知らずに、
「母様……」
叫びながらよちよちとはいってきた。お絹はそれと見るより狂ったように、
「おお、坊や」
お絹はひしと鯱丸を抱きしめて、ただひた泣きに泣いていたが、
「坊や、母様とよいところへいこうねえ。親分、お礼をいいますよ」
つぶやくとともに、さっと右手を振りあげた。
そのとたん、なにかしらはっとした人形佐七、本能的に座敷の外へとびだしていたが、つぎのしゅんかん、お絹の手から、梅の実ほどのものが、風炉の炭火をめがけてとんだ。
とたんに、轟然《ごうぜん》たるものおと、すさまじい火柱、もうもうたる噴煙と灰かぐら、そしてそれがようやくおさまったとき、人形佐七は鯱丸を抱きしめたまま、火薬に吹かれて死んでいるお絹の姿を発見して、ぼうぜんとそこに立ちすくんでいるじぶんを発見したのである。
佐七も胸にやけどをした。
そして、白い包帯をまいたまま、きょうもうかぬ顔で、縁側でひざっ小僧をだいたまま、一輪二輪咲きはじめた朝顔を見ている。
思えば、危ないところだった――と、思う。
なかなかどうしてりこうな女だ。甚右衛門を殺したのは、おそらく、じぶんと鯱丸の秘密があばかれそうになったからだろう。そして、将来は鯱丸に本庄の跡を継がせるつもりだったのだろう。
なるほど、母の心というものは、そんなものかもしれないが、それにしてもあまり陰険すぎる。狡猾《こうかつ》すぎる。
疑惑のすべてを、金之助のほうへむけようとするあの巧妙さ、――それに、あの呪詛矢《じゅそや》の一件からして、じぶんが通るのをしっていて、わざと駕籠《かご》のなかから突き出して、外からとんできたように見せかけ、じぶんをこの事件のなかに引きずりこもうとしたのだろう。
なんのためとは問うまでもない。
じぶんの探索をあやまらせ、じぶんに金之助を捕らえさせるためだろう。
危ない、危ない。おれはどうも女にすこし甘過ぎる。
「ちょいと、おまえさん、なにを考えごとしているのさあ」
だしぬけにお粂にかるく背中をたたかれ、佐七ははっと、夢からさめたように目をパチクリ。
「な、なに、なにも考えちゃいねえよ」
「ほっほっほ、まあ、あのびっくりしたようなかお――ねえ、おまえさん、あたしもういちど水垢離《みずごり》取ろうか」
佐七はうっかり勘違いして、
「なにさ、心配することはねえ。これしきのやけど、すぐ直るさ」
「あれさ、やけどのためじゃないよ。おまえさんの、その浮気の病を直すためにさ」
これには佐七もぐうの音も出ない。
面目なげに頭へ手をやった佐七の横顔へ、お粂は勝ちほこったような微笑をにっこり。
蝙蝠屋敷《こうもりやしき》
胆《きも》試し会夏の夜話
――いの一番は秘蔵娘で名はお露
江戸時代には夏場になると、百物語だの、肝試し会なんてものがよくはやったもので。
百物語というのは、ヒュードロドロの幽霊話の披露会《ひろうかい》、あつまったひとのかずだけろうそくをともしておいてさて、ひとりずつとっておきのものすごいところを一席ご披露する。
そして、一席すむごとに、ひとりずつ、ろうそくを消していくという趣向だが、さいごに、真打ちの話がおわったときがものすごい。
なにがさて、さんざぱら気味のわるいところをきかされたあとだから、ろうそくがことごとく吹きけされて、あたりが真のやみとなったときには、鬼気凄然《ききせいぜん》として一座をおおい、おもわずゾーッと、おそわれたような気になるという話だ。
それからまた肝試し会というのは、だれでも知ってのとおりである。
わざと雨のしょぼしょぼ降る晩に、墓場とか、お寺とか、せいぜいうす気味わるいところへ、ひとりひとり出かけていって、目印かなんかおいてこようという趣向である。
これまた、おくびょうな人間にはやれないところだが、ここに神田連雀町《かんだれんじゃくちょう》の横町で、常磐津《ときわず》の師匠をしている文字|繁《しげ》という女。
としのころは二十七、八、うばざくらはうばざくらだが、豊満な肉付きといい、もみあげの長いところといい、いかにも情がふかそうにみえるのだが、それでいてこの女、ついぞ浮いたうわさをきかない。しかし、女ひとり暮らしとあっては、いろいろみてきたような取りざたがたえないのもむりはない。
「あの器量であの体だもの、男がほっておくもんか。どこかに、だんなかいろがあるにちがいねえ」
「それをひたかくしにかくしておくところが憎いじゃないか。いってえその果報もんは、どこのどんな野郎だろう」
と、おかやきもてつだって、揣摩臆測《しまおくそく》のうるさいこと。
「ほっほっほ、そんなに気になるなら、みなさんでかわりばんこに、四六時ちゅう、あたしを見張っていれば、いいじゃありませんか」
と、そんな話になると、文字繁はいつもはぐらかしてしまうのだが、どちらにしても、ひとをそらさぬ女だから、連雀町のその横町には、まいばん、おおかみ連中が五、六人、とぐろをまいているのである。
それは、お盆もすぎて江戸の町に、ようやく秋の色がこくなりはじめたある晩のこと、例によってれいのごとく、とぐろをまいていたわかいものが五、六人。なかには娘もまじっていたが、だれがいいだしたか、肝試し会をやろうじゃないかということになった。
よかろう、やろう、面白かろうということになって、さて、くじをひいてみると、イの一番にあたったのが、錦町河岸《にしきちょうがし》の、べっ甲問屋、鍬形屋《くわがたや》の秘蔵娘で名はお露。
「あら、お露ちゃんじゃいけないよ。もういちどくじを引きなおしなさいよ」
と、とりなしがおに文字繁がいえば、
「いいわ、大丈夫いってくるから。お師匠さん、あんまり心配しないでください。あたしだってそんな弱虫じゃないのよ」
「ほんと? お露ちゃん、おまえあんな化け物屋敷へいけるかえ」
「錦町小町が、夜のひとり歩きはあぶないこった。お露ちゃん、あっさりかぶとをぬぎなさい」
と、一同ワイワイ騒いでいる。
さんざっぱら怖い物語をしたあとで、ひとりひとり出かけていこうというのは、ここからほど遠からぬ柳の馬場のかたほとりに、去年、火事ですっかり焼きはらわれて、みるからに、きつねかたぬきのでそうな場所がある。
しかも、その焼け跡にたった一軒、焼けのこった家というのが、たいへんな因縁つきの家なので。
もと、この家にすんでいたのは、慶政《けいまさ》というめくらの検校《けんぎょう》。これが世にもおそろしい強欲非道の因業おやじで、たかい利息で金をかすのが商売。
いまのことばでいえば、悪徳高利貸しというやつだが、借金の返済がちょっとでもおくれると、身ぐるみはいでいくのは朝飯まえ。
しかも、これがおそろしく色好みなやつで、当時すでに五十ちかいとしかっこうだったそうだが、大兵肥満《だいひょうひまん》の大男で、借用証文をかさに、娘であろうが、人妻であろうが、犯した女はかずしれず、なかにはじぶんの見ているまえで、女房をさんざんおもちゃにされて、憤死をとげた亭主《ていしゅ》もあるという。
そういうやつだから、最後はよくなかった。
いまから十年ほどまえのある晩のこと、ふたりづれの覆面強盗がおしいって、あり金のこらず盗んでいったばかりか、慶政検校の首と胴とを切りはなしていったが、その晩も慶政は、借金のかたにとってきた女と、いっしょに寝ていたという。
かわいそうなのはその女で、慶政とはだかでねていたところを、バッサリやられたばかりか、刷毛《はけ》ついでにこのほうも、首も胴とを切りはなされたという、世にもおそろしいいわくつきの家なのである。
そんな血なまぐさい事件があってからまもなく、あの火事騒ぎになったのだが、ふしぎなことに、この屋敷だけが焼けのこった。
因縁といえば因縁。
あとかたもなく焼けてしまえば、極悪非道の慶政のわるいうわさも消滅したかもしれないのに、ぽっつり焼けのこったばかりに、いまだにひとの口にのぼろうという、はてさて天罰はおそろしい。
さて、この屋敷に夏ともなれば、どこからともなく、こうもりがとんできて巣をつくるところから、ひとよんでこうもり屋敷。
昼間でさえもひとのよりつかぬ場所である。
このぶっそうせんばんのこうもり屋敷へ、イの一番のくじをひきあてたのがお露だから、さあ、ことはいささか重大である。
「お露ちゃん、およしなさいよ。いくらくじにあたったからって、箱入り娘をあんなところへやったことが、あとになってお店へしれると、あたしの顔がたたないもの。お露ちゃんだけはくじはずれ、くじはずれ。ねえ、みなさん、いいでしょう」
「そうとも、そうとも、師匠のいうとおり、なんならおいらがかわりにいってあげようか」
ところが、どうしてどうして、ひとり娘のわがままそだち、いいだしたらあとへはひかぬおてんばお露。
「あら、いいんですのよ。幽霊がでるなら、あって話をしてみたいわ。お師匠さん、いかせてくださいね」
「おや、おや、こうご本尊がはりきってちゃ、これゃどうにもならないねえ」
「困ったおひとだわねえ。大丈夫かしら、ねえ、みなさん」
「師匠、こうまでいってきかねえのなら仕方がない。せっかくだからお露ちゃんのみかけによらぬ肝っ玉を、ここはいちばん拝見しようじゃありませんか」
というよりほかに仕方がなかった。どうせ怖くなって逃げてかえってくるだろうから、そのとき、それごらんな、強情もいいかげんにするがよいと、たしなめてやればよい。
「じゃあね、気をつけていっておいでよ。門をくぐって、玄関をおくへとおると、ひい、ふう、三番目の座敷というのが、昔、ひとごろしのあったところだからね。その座敷の正面に床の間があるから、そこの壁に、この絵をはってくるんだよ」
と、わたされたのはいちまいの紙。そのまんなかに、墨くろぐろとこうもりの絵がかいてあり、そのそばにお露の名前をかきくわえた。
「ええ、わかったわ。それじゃ、みなさん、いってきますから、かえるまで待っててね」
「ああ、そうそう、外はまっくらだから、お露ちゃん、このちょうちんをもっていらっしゃい」
文字繁にわたされたちょうちんには、この家の定紋下がりふじ。お露がそのちょうちんをぶらさげて、連雀町の横町から出ていったのは夜の五つ半(九時)。
壁の上に紅こうもり
――足もとには生首と首なし死体
大胆といえば大胆だった。
かいわい屈指のものもちの秘蔵娘が、この夜更けにひともおそるるこうもり屋敷へ乗りこもうというのだから、お露の心臓もそうとうのもの。
お露はいざというとき、足のもつれを防ぐため、すそをしっかりたくしあげ、草履の鼻緒は指先にくいいるように注意して、さびしい夜道をただひとり、やってきたのがこうもり屋敷。
なるほど、これはものすごい。
ちょうちんの灯をかかげてみると、目のまえにむざんにくずれた門があり、塀《へい》とは名ばかりの築地《ついじ》が、かろうじて形をたもって、やみのなかにつづいている。
お露は、よっぽどこの門にこうもりの絵をはりつけて、引き返そうかと思った。しかし、それでは、お露の意地がゆるさなかった。
お露はとうとう門のなかへふみ込んだ。門から玄関までは、たいした距離ではなかった。その玄関までたどりついたとき、さすがにお露の心臓はドキドキしはじめた。
玄関とは名ばかり、まるで奥底しれぬ洞穴《ほらあな》が、ポッカリ口をあけているようである。
ちょうちんをかかげて見まわすと、軒はかたむき、雨戸はやぶれ、うえをあおぐと、屋根のうえにはいちめんに、ペンペン草が生いしげっていて、雨気をふくんだ空を背景に、ザワザワ風にそよいでいる。
いっそここから引きかえそうか。しかし、お露は引っかえさなかった。お露はことしまだ十七、大店《おおだな》のひとり娘に育てられたわがまま娘、わるくいえばおてんばだが、よくいえば女ながらも気丈夫だった。
お露はとうとう玄関をあがっていった。ツーンと鼻をつくのは、なんともいえない異臭である。それにムーッとするような温気《うんき》が、鼻も口もふさいでしまいそう。
それでもお露はひるまなかった。
おぼつかないちょうちんの光をたよりに、玄関をあがって、ひイ、ふウ、三つめの座敷をたよりにちかづいていくと、そのとき、どこかでガサリという音。お露はハッとして、おもわずちょうちんを落としそうになる。
だれがいるのかしら、この家のなかに?
ドドドドドと、音をたてて、お露の胸ははげしくおどる。立ちどまってきき耳を立てているお露の顔には、べっとりと脂汗。
だが、さいわい、物音はそれっきりきこえなかった。雨戸のない縁側から庭をみると、やみのなかに動くものといっては、ただ雑草のうねりばかり。
「風だわ、風よ。あたしもよっぽどおくびょう者ね」
じぶんでじぶんをあざけるようにつぶやいたが、いちどうしなった平静は、とりもどすのがむつかしい。
お露はいっこくもはやく、このおそろしい役目をはたそうと、三つ目の座敷へかけこんだ。用意の絵をふところから取りだすと、たかだかとちょうちんをかかげて床の間の壁をみた。
と、そのとたん、文字どおり、お露はいまにも息がとまりそうになった。
ボロボロにはげたかき色の砂壁に、だれがかいたのかこうもりの絵がひとつ、すでに大きく描いてあるではないか。
「あら、いやだ。ひとをバカにしてるわ。だれが先回りをして、こんないたずらをしていったのかしら……」
お露はじっさいそう思ったのである。
勝ち気で負けぬ気のつよいお露は、てっきり、みんなに寄ってたかって、バカにされたのだと思った。いまいましさがこみあげてきて、ちょうちんの灯でまじまじと、その絵を見つめているうちに、お露のひざがしらがガクリとふるえてきた。
そのこうもりは、べったりと、くろく壁をぬりつぶしてあるが、それから、ふた筋、三筋、すうっとしずくが壁のうえを垂れている。
しかも、たったいま描いたものらしく、まだ生乾きのまま、みょうにてらてら光っている。
お露はなにげなく、そのこうもりに手をふれてみて、つぎの瞬間、きゃっとさけんでとびのいた。
血だ、血であった。
まさしく、そのこうもりは、血でかいてあるのだった。しかも、それはついいましがたのことだったろう。血はまだよく乾いておらず、おそるおそるさわった指に、ねっとりと血のにおいが鼻につく。
さすが気丈者のお露も、あまりの恐ろしさにくらくらとめまいをかんじて、床の間のうえでおもわず二、三歩よろめいた。そのよろめいたお露の足に、なにやらかたいような、柔らかいようなものがさわった。
お露のもったちょうちんは、わなわなと大きくふるえている。ゆらめくちょうちんの火影のなかにくっきりとうかびあがったのは、なんと生首ではないか。床の間のうえに、ちょこなんと生首がひとつ。のぞいてみるまでもない、髪のかたちからして、それが女の生首であることがわかった。
あとから考えても、お露はよくあそこで気をうしなわなかったものだと、じぶんでじぶんに感心する。ふつうの娘なら、あの生首だけで気絶していたのにちがいない。
お露は生首にさわらぬように、そっと床の間からしたへおりた。怖いもの見たさとは、このときのお露のことをいうのだろう。見まいとしても、お露の目は、生首のほうへひかれるのである。
生首のぬしの女は芸人かなんからしい。髪をかつら下地のように結っている。もちろん、髷《まげ》はがっくりかたむいて、おどろに乱れた髪の毛が、額からほおへともつれていて、あごからほおへかけてべっとりと血が……。
お露はそのほうに心をうばわれていたので、つい足もとがお留守になっていた。
そのお露の足が、またしても、ぐにゃっとしたようなものにつまずいた。
お露はギョッとしてちょうちんをとりなおした。そして、足もとに目をやったとたん、
「ヒーッ!」
お露ののどから、おそろしい悲鳴がほとばしった。二度、三度、お露の悲鳴が、こうもり屋敷のなかにとどろきわたった。
そこには生首よりももっと恐ろしいものがころがっていた。
一糸まとわぬはだかの女が、あおむけの大の字になっているのだが、そのからだには首がなかった。
首のあったところから、おそろしい血が吹きだしていた。
お露の口から二度三度、やみをつんざく悲鳴がほとばしったが、そのうちに、フーッとだまりこんだ。悲鳴はお露の口のなかで凍りついてしまった。
「だ、だ、だれ……? だれかそこにいるの……?」
お露はちょうちんをたかだかとかかげて、やみのむこうにひとみをすえた。そのひとみは、狂気と失神の、一歩てまえのようである。
「だ、だれ……そこにだれかいるの……?」
お露のことばの語尾が、まだお露のくちびるのなかでたゆとうているとき、座敷のそとから奇妙な声がきこえてきた。
「ククククク、ククククク……」
それは、すすり泣いているようにもとれたし、また、笑いをかみころしているようにも受けとれた。
「ククククク、ククククク……」
泣き声とも、笑い声ともつけぬその声が、もういちどお露の耳をおびやかしたとおもうと、その瞬間、世にも奇妙なかげが、お露のかかげたちょうちんの灯をよこぎって、座敷から縁側へ、縁側から雑草におおわれた庭のほうへ出ていった。
その影が男だったか、女だったか、お露にもハッキリわからなかった。ただ、お露の目につよく焼きつけられたのは、まえかがみになったそのものの背中が、おそろしく隆起していることだった。
それはどうやらせむしのようであった。
「ククククク、ククククク……」
奇妙な声をのこして、しだいに遠ざかっていくらしく、ザザザザザと雑草をかきわけていく足音が、おいおいかすかになっていく。
お露はわれにもなく、ちょうちんかかげてそのあとを追おうとしたが、そのとたん、なにかにはげしくちょうちんをうたれて灯が消えた。
こうもりだった。
しかし、それがこうもりであろうがなかろうが、それがお露の神経の耐えうるギリギリの限界だったらしい。
お露は声もなく音もなく、雪だるまが日にとけるように、くなくなその場にくずおれると、それっきり、気をうしなってしまった。
舞い落ちた紅こうもり
――せむし男があとをつけまわして
それからひと月ほど後のことである。
佐七は外神田のほうに用事があって、そこを出たのが夜も五つ半(九時)ごろ。したがって、昌平橋《しょうへいばし》へさしかかったのは、五つ半(九時)をちょっと過ぎたころだったろう。
めずらしく、こんやは佐七ひとりで、辰と豆六のすがたはみえない。
仲秋名月ももうすぎて、秋のおひがんがそろそろまぢかという季節である。
暑さ寒さもひがんまでというが、秋のおひがんもまぢかになると、夜など、江戸の大気はぐっとひえて、ひとえでいると膚寒さをおぼえるくらい。空には二十日ごろの月がかかって、大戸をとざしたどの家も、屋根のいらかた夜露にしろく光っている。
「そうそう、俳句の季題に、白露というのがあったっけねえ」
がらにもなく、佐七がそんなことを考えながら、さしかかったのが昌平橋。と、そのとき、だしぬけにうしろから、バタバタときこえてきたのがひとの足音。佐七がおやとふりかえると、いきなりわかい女がその胸にすがりついてきた。
「あ、もし、お願いでございます。お助けください。さっきから、怪しい男が、あたしのあとをつけてまいります」
「なに、あやしい男が……?」
ふりかえって、月明かりにすかしてみると、なるほど、橋のたもとに異様なすがたがたたずんでいる。
黒地のひとえをきているせいか、顔色がくっきり白く、ちょっとした男っぷりのようだが、女が気味悪がるのもむりはない。
この男はせむしなのだ。背中が大きなこぶのように隆起している。こんな男につけられちゃ、男だって気味がわるいにちがいない。
「おい、おまえはだれだ。ふざけたまねをすると承知しねえぞ。かたわもんのくせに、身のほど知らねえやつだ。ぐずぐずしていると、番所へしょぴいていくぞ」
歯切れのいい佐七の声に、せむし男は、あいてが悪いとあきらめたのか、きびすをかえして、ことことと立ち去っていく。
「もし、おまえもどこの娘かしらねえが、わかい娘の大胆な、夜道のひとり歩きはいけませんよ」
「はい、とんだご迷惑をおかけして、すみません。黒門町におります乳母が病気で、それをみまっているうちに、つい、おそくなってしまって……」
「なるほど。それにしても、おまえはいまの男をご存じですかえ」
「いいえ、とんとしらぬ男でございます。あたしもう、気味がわるくて……ほんとにありがとうございました」
「なに、その礼にゃおよばねえが、ときに、おまえの家はどこだえ」
「はい、錦町河岸でございます」
「ああ、そうか。それじゃついでのことに送ってあげよう。なアに、心配するこたアねえ。おらアお玉が池の佐七というもんだ」
「あら、それじゃあなたがお玉が池の親分さん」
「あっはっは、おいらの名まえを知っていなすったか。それじゃ、どうでもお宅まで送りとどけにゃならねえな」
と、やってきたのは錦町河岸。娘は、あいてが佐七とわかると、きゅうに口がおもくなり、なにか思いわずろうているふうだったが、佐七はしいて詮索《せんさく》しようともしなかった。
「お嬢さん、錦町河岸まできたが、おまえの家は……?」
「はい、あの家でございます」
と、指さされた佐七は、おやと小首をかしげた。
みると、間口六間の大きな構えだ。すでに大戸はおろされているが、なにげなく、佐七がふりあおいだ屋根の看板には、
「鼈甲《べっこう》問屋、鍬形屋《くわがたや》」
佐七はおもわずギョッとして、
「それじゃ、おまえさんはこのお店の……?」
「はい、娘でございます」
「それじゃ、名前はお露さん……?」
「はい、その露でございます」
佐七がなにかいおうとすると、大戸のくぐりがひらいて、なかから出てきたのは、四十がらみの男である。
「お露かえ、おそかったじゃないか。おまえ久松といっしょじゃないのか」
「あら、叔父《おじ》さん、久松を迎えによこしてくだすったのですか」
「ああ、女の夜道はぶっそうだからな」
「それじゃ、どこかで行きちがったのでございましょう。叔父さん、こちらお玉が池の親分さん」
「ああ、これはこれは……お露、おまえどうして親分さんと……?」
「いえ、あの、ちょっと……昌平橋のところでお目にかかりまして、夜道はあぶないからと、ここまでお送りくださいました。叔父さんからも、よくお礼を申し上げてください」
「おお、それはそれは……わたしはこれの叔父で、新兵衛《しんべえ》と申します。お露がいろいろお世話になりましたそうで、ありがとうございます」
新兵衛はでっぷりとした貫禄《かんろく》で、色白の、きれいな膚をした、なかなかどうしていいだんなぶりである。
ところが、その新兵衛が、ていねいに佐七のまえに頭をさげたときである。どこから舞ってきたのかヒラヒラと、三人の足もとに舞いおちたいちまいの紙がある。お露はなにげなくそれに目をやったが、とたんに、
「あれえ!」
とさけんで、佐七にむしゃぶりついてきた。
佐七はふしぎに思って、その紙きれをひろいあげたが、なんと、これが、こうもり型に切ったまっ赤な紙。
とたんに、佐七は、いまからひと月ほどまえにおこったこうもり屋敷の、あの凄惨《せいさん》な殺人事件を思い出していた。
こうもり屋敷の殺人事件があったころ、佐七はあいにく、ほかに手のはなせぬ事件があって、ぜんぜん関係しなかった。それをあつかったのは、おなじみの憎まれ役、鳥越の茂平次だったが、海坊主の茂平次も、この一件には手をやいて、いまではさじを投げたかたちである。
上がりふじと下がりふじ
――わてら人形佐七の塾《じゅく》の優等生だっせ
その翌晩、佐七が毛抜きをつかって、ありもしないあごひげをぬいていると、ソロリソロリと格子のひらく音。のっそりとはいってきた男が、
「親分、おそくなってすみまへん。海坊主のやつが、こんどはよっぽど手を焼いたとみえて、案外すなおに、こっちへ譲るいうてます。もっとも、あいつのこっちゃさかい、ならば手柄に捕ってみろやいなんて、だいぶん毒気を吹っかけられましたけんどな」
いうまでもなく、うらなりの豆六である。どうやら、こうもり屋敷の一件について、鳥越へ渡りをつけにいってきたらしい。
「ああ、そうか。それじゃ、あの一件に手を出しても、文句はねえというんだな」
「さよ、さよ、海坊主め、すっかり潮を吹いてしもてたらしい」
豆六はそこできゅうに気がついたように、
「親分、兄いはまだだっか。あの兄いときたらしょがおまへんな。おなごはんときたら目がおまへんさかいな。またさんがり目をますますさげて、いらんことまで聞いてんのんとちがいまっか」
豆六め、じぶんのほうがうまくいったものだから、大納まりにおさまって、ぶつくさいっているところへ、
「親分、ただいま」
ガラガラガラッと、すさまじい音をさせて、おもての格子がひらいたかと思うと、糸の切れた奴凧《やっこだこ》のようにとびこんできたのはきんちゃくの辰。格子のあけかたでも、もうこれだけちがうんだそうで。
「おお、辰か。そして、首尾はどうだえ」
「へえ、だいたいのことはわかりやした」
と、汗をふきふき、
「ええと、あれは七月の二十一日の晩のこってす。連雀町で常磐津《ときわず》の師匠をしている文字繁のうちで、肝試し会があったと思いなせえ。そのくじの、イのいちばんを引き当てたのがあのお露……さて、そのお露が出かけてから、待てど暮らせどかえってこない」
「なるほど。それで……?」
「あまり長くなるので、心配になってきたほかの連中が、いっしょに探しにいったところ、お露はこうもり屋敷のひとまで気をうしなっている。それはまだいいとして、そのそばに、首と胴をチョン切られたわかい女の死体がころがっていたから、さあ大変」
「そこで、鳥越のが出向いたというわけだな」
「へえ、さようで。そこで、生首の身もとを洗ってみると、これがいま湯島の境内で、八丁あらしの人気者、水芸の松葉斎天菊《しょうようさいてんぎく》とわかったから、さわぎはまたひとまわり大きくなりましたね。なにしろ、水のたれるようないい女、おまけにひとりもんときているから、こいつはただごとじゃありませんや」
「それにしても、天菊はなんだってあんなぶっそうな場所へ出かけていったんだ。まさか、こっちも肝試し会というんじゃあるめえな」
「それがよくわからねえんです。だけど、ひとめをしのぶにゃアかっこうの場所ですからね。男と会うてよろしくやってるうちに、痴話がこうじて、ぐさりとひと突き、げんにお露も、下手人らしい男のわらい声をきいたといってるそうじゃありませんか」
「しかし、なんだって、下手人は天菊の死体をすっぱだかにして、首と胴をチョン切ったんだ」
「そら、親分、こうやおまへんか。あの家にはむかし、慶政ちゅう欲張り座頭がすんでいて、ある晩、裸で女とねてるとこへさして、二人組の強盗が押しいりよった。その強盗がふたりを切り殺したばっかりか、首と胴とをチョン切っていったちゅうやおまへんか」
「豆六、それがどうしたい?」
「どうしたちゅうたかて、兄い、あの家には慶政の怨念《おんねん》がのこっていて、それがあないな業をしよったんやないか……」
「うっぷ。それじゃ、幽霊が刃物をつかって、首と胴を切りはなしたというのかい」
「さよ、さよ」
「この野郎、笑わせるぜ。箱根からこっち、お化けと幽霊は出ねえとしたもんだ。ましてや、幽霊が刃物をつかって……? いいから、豆六、井戸端へでもいって、さっさと面を洗ってきやアがれ」
「へえ、おおけに。そやけど、兄い、これわての意見とちがいまんねんで」
「じゃ、だれの意見だ」
「海坊主の大親分さんのご高説だすがな」
「うっぷ、海坊主め、そんなバカなことをいっているのか。それをてめえが真にうけてきたというわけだな。やれやれ」
「兄い、やれ待てしばしや。わてはまさかそないなあほなこと、思てしまへん。こうみえても、わてはお玉が池は人形佐七|塾《じゅく》の優等生だっさかいな」
「あっはっは、豆六、それじゃ、その優等生のご高説というのを聞こうじゃないか」
「それはやな、親分、オッホン」
「おきゃアがれ、親分がちょっとおだてるともうこれだ。おつに気取らずにさっさと申し上げろ」
「そんならはやいとこ申し上げまっけどな。下手人のやつはあの家にまつわるいわく因縁をようしってまんねんやな。そやさかいに、この家にまつわる慶政の怨念《おんねん》がこないなことをしよったんや。あいては幽霊やさかい、十手なんかふりまわしたかてあきまへん。手え引いたほうがよろしい。そやないと、あんたはんのほうにまで、たたりがいくかもしれまへんでと、海坊主みたいなボケナスに思わせるためとちがいまっか」
「えらい!」
と、佐七はひざをたたいて、
「鳥越の兄いがボケナスかどうかはべつとして、これゃア豆六のいったとおりにちがいねえ。さすがはお玉が池の優等生だ」
「ちっ、親分、それくれえのことなら、なにも豆六にきかなくっとも、あっしにだってちゃんとわかってますよウ」
「そうか、そうか。そうすると、辰も優等生だ。おいら、こんなにアタマのいい子分をふたりまでもって、こんな仕合わせなこたアねえ」
「そのとおり、そのとおり」
「よう肝に銘じといておくれやすや」
三人が三人ともいい気なもんである。
「それじゃ、ついでのことに、ふたりの優等生に聞くが、あのとき床の間の壁に、血でこうもりの絵がかいてあったというじゃあねえか。それゃアどういうわけだろう」
「そいつはわけアねえ。下手人のやつ、すこしでも薬を利かせてやろうと、すごみゃアがったにちがいねえ」
「豆六、おまえはどうだ」
「わてもチョボチョボだっけど」
「そうか。いや、まあ、そうだろうな」
佐七はちょっと片付かぬ顔色だったが、すぐ思いなおしたように、
「ときに、湯島の天菊一座のほうはどうした」
「へえ、あんなことがあったのが、かえって人気になったかして、座頭の天菊がいなくなっても、けっこう客がきてるようです。そこで、あっしの聞いてきたなア」
と、辰はふところから帳面をとりだして、
「あの晩、天菊は五つ(八時)ごろ、ひとりでふらりと出かけたまんま、あくる朝になってもけえってこねえので、小屋のほうじゃ木戸が開けられねえという騒ぎ。その騒ぎのさいちゅうに、こうもり屋敷で人殺しがあったという話だが、ひょっとすると……と、しらせるものがあったので、まさかと思いながらもかけつけると、やっぱりそうだったので、あんなに肝をつぶしたことはありませんと、小屋の連中、いまでもきつねにつままれたような顔をしてます」
「その天菊に男出入りは……?」
「いえ、それですがね、天菊はまだひとりもんなんです。しかし、あれだけの女ですからね、男がほっとくはずはねえと思って、いろいろ当たってみたんですが、師匠にかぎって、そんなことはぜったいにありません。それはきれいなものでしたと、いっこうとりとめがねえんです。でえいち、師匠がどうしてあんなすごいうちへ出向いていったか、それさえわかりません。ひょっとすると、かどわかしにでもあって、引っ張りこまれたんじゃねえかと……」
「天菊は、あのうちをしってたろうか」
「いえ、それなんです。師匠は他国もんだから、こうもり屋敷なんてしってるはずがねえ。だから、かどわかしかなんかにあって、引っ張りこまれたにちげえねえというんです」
佐七はだまって考えていたが、やがて、豆六のほうをふりかえると、
「豆六、おまえは鍬形屋のほうのかかりだったな。お露のことについて調べてきたか」
「へえ、そら、いちおうはきいてきましたけど。親分、お露はただ天菊の死体をまっさきに見つけたというだけのことやおまへんか」
「しかし、お露は下手人の声を聞いたというじゃねえか。ひょっとすると、下手人のすがたを見るとか、下手人にとってなにか不利な証拠をにぎってるんじゃねえかえ」
「まさか、あんな小娘が……いえ、お露はお取り調べのとき、なんにもしらんいいはったそうだっせ。首と胴をチョン切られた女の死体を見たせつな、気がとおおなってしもた。ただ、そのとき、下手人らしい男のわらい声をきいたような気がするが、あとはなんにも知りまへんと、こういいはったそうだす」
「あの鍬形屋というのは、どういううちだ。新兵衛という叔父《おじ》がいるようだが……」
「そうそう、それだんねん。お露ちゅうのんはかわいそうな娘で、鍬形屋のひとり娘だっけど、幼いときに父親をうしのうたんだすな。そやけど、おふくろちゅうのんがしっかりもんで、あの大屋台をせおって立って、びくともせなんだんやそうです。そのおふくろが、去年の春のうなってしもたんでんな。あとはあの年若いお露がただひとり、そら奉公人がおおぜいいまっけどな。それで、あの新兵衛が後見にきよるんです」
「叔父というのは、どういう叔父だえ」
「お露のおやじの弟やそうだす。弟ちゅうても、お露のおやじは本妻腹、新兵衛は芸者あがりのめかけ腹、そやさかい、お露にとっちゃ義理の叔父になるわけだんな」
どうりで、かたぎのだんなとしてはあかぬけしている。
「新兵衛はあの家に、いりびたりになっているのか」
「いや、そやおまへん。新兵衛は新兵衛で、芝札の辻《つじ》にやっぱり鍬形屋ちゅう店をわけてもろてまんねん。それやさかい、月のうち半分こっちへ泊まりにきよるんやそうだす。そやけど、親分、鍬形屋はこんどの一件に、べつに関係おまへんやろ」
「それゃアまあそうだが、念のために聞いておいたんだ」
「ところで、親分、親分はきょう、どないしやはりましてん」
「ああ、おれか。おれはこうもり屋敷をのぞいてきた」
「あっ、親分、こうもり屋敷へおいでなすったんで」
「ふむ、そこでこういうものを手に入れてきた。これはあの晩、お露の提げていったものじゃねえかと思うんだが」
佐七がかたわらから引き寄せたのは、唐草模様のふろしき包み。それをひらくとなかから出てきたのは、半分以上もえてしまったちょうちんである。いわゆる弓張りぢょうちんというやつだが、わずかにもえのこった紙のうえには、上がりふじの紋が半分くすぶっている。
辰はそれを手にとってみていたが、やがてへんな顔をして、
「親分、これゃア、お露のさげていったちょうちんとちがいましょう」
「どうしてだ、辰」
「だって、親分、お露はあの晩、文字繁のちょうちんをかりていったんです。ところが、文字繁の紋は、上がりふじじゃなく、下がりふじです」
「辰、おめえどうして、そんなことをしっている」
「だって、親分、文字繁のうちの神だなに、ちっちゃな、丸長ちょうちんがふたつぶらさがっていたんです。そのちょうちんに染めてあるのが下がりふじ」
「親分、ひょっとすると、このちょうちんは、天菊のもってたやつとちがいまっしゃろか」
佐七はギョッとしたように目をすぼめたが、
「豆六、おまえいいところへ気がついた。それじゃ、辰、おまえ、あしたもういちど湯島へいって、天菊の紋を調べてこい」
「おっと、がてんです」
「それからもうひとつ、この一件にせむしが一役からんでるんじゃねえかとおもうんだ。おまえたちそんな話は聞かねえか」
「いえ、べつに……せむしがどうかしたんですか」
「いや、くわしい話はいずれするが、辰は湯島で、豆六は錦町河岸で、どちらかの知り合いに、せむしがいねえか、もういちどよく洗ってみてくれ」
佐七はそこでゆうべお露をつけていた奇妙なせむし男のことを打ちあけた。
艶色《えんしょく》つげのくし
――お楽しみのしまつをつけた桜紙
さて、翌晩、れいによって佐七がひと足さきにかえって待っていると、まず豆六がかえってきて、
「親分、せむし男のことだっけどな。あら、鍬形屋のほうやなさそうでっせ。錦町河岸をほっつき歩いてきいてみたり、鍬形屋の取り引き先なんかも当たってみましたけんど、せむし男のことはだれもしらんようだす」
「いや、おれもせむし男がかんでいるとすれゃ、天菊のほうだろうと思っていたんだ」
「やっぱりそうだっしゃろな。ところが、親分、あのちょうちんのことだっけどな」
「ふむ、ふむ、ちょうちんがどうした?」
「鍬形屋のことを聞いてまわっているうちに、道でバッタリ肝試し会の晩、文字繁のうちにとぐろをまいていたおおかみ連中のひとりにあったんです」
「ふむ、ふむ、それで……?」
「それで、そいつに、あの晩お露がどないなちょうちんぶらさげていったんか、聞いてみたんです。そしたら、きのう親分が見つけてきやはったんは弓張りだしたな。ところが、あの晩お露がさげていったんは、丸張りぢょうちんで、紋はやっぱり下がりふじだそうだす」
「ああ、そうか、それはよくたしかめてきてくれたな」
佐七はだまって考えているところへ、きんちゃくの辰がまいもどってきた。
「親分、やっぱりこのちょうちんは……」
と、持っていった弓張りちょうちんのもえのこりを、ふろしき包みから取り出すと、
「これゃアやっぱり、天菊があの晩持って出たちょうちんだそうです」
「ああ、そうか。それで、せむし男のほうはどうだったえ」
「いや、それが、親分、わかりましたよ。天菊と切ってもきれぬ縁につながる男に、せむし男がひとりいるそうです」
そこで、きょうきんちゃくの辰が、天菊一座のものに聞いてきた話によると……。
いまからざっと五年まえのことだから、天菊がまだ二十二、三のことである。
当時天菊はまだ江戸の土をふむ力がなく、もっぱらドサ回りをやっていたが、一座に清十郎というわかくて美貌《びぼう》の鳴り物師がいた。
としも座頭の天菊とほぼおなじぐらいだったが、生国はどこだかわからなかった。ことばなまりから、江戸っ子かともおもわれたが、当人はぜったいに素性を語らなかった。
そのうちに、この両人がわりない仲になった。そのままふたりが夫婦になっていれば、市が栄えてめでたしめでたしというわけだが、好事魔多し。
どこの土地だったか、乗り込み初日を出すために、小屋がけをしている最中に、天井の丸太が、ものすごいいきおいで落下してきた。
その下にいたのが清十郎である。さいわい、命だけは取りとめたものの、したたか背中を打たれて、生まれもつかぬかたわになった。
「せむしになったのか」
「へえ」
「で、その清十郎はいまどうしてるんだ」
「どうもこうもありませんや。そんなかたわを旅から旅へつれて歩くわけにゃいけませんや。その災難にあうた土地へおいてけぼり、それっきり、ゆくえがわからなくなっちまって、天菊との仲もチョンでさあ」
「親分、ほんならその清十郎が江戸にいて、天菊に昔の仕返ししたんやおまへんか」
「そうかもしれねえ。また、そうでねえかもしれねえ」
佐七は黙って考えていたが、やがてにやっと笑うと、
「辰、豆六、おらアきょう、おもしろいものを見付けてきたぜ」
「親分、おもしろいものとおっしゃいますと……?」
「ほら、これよ」
佐七がポンと投げ出したのはつげのくし、毛が二、三本からみついている。
「親分、こないなくし、どこで見つけてきやはったんで」
「こうもり屋敷で、天菊が首と胴をチョン切られた座敷でよ。しかも、辰、豆六、きのうはこんなものなかったんだぜ」
「お、親分!」
「おれはきのうもあの座敷を、はいずりまわってきたんだ。そのときにゃア、こんなくしなどなかったぜ」
「親分、そんなら、ゆうべこうもり屋敷へ……」
「だれか女がきよったんだっしゃろか」
「あっはっは、それから、おれはもうひとつ、おめえらに見せられねえものを草のなかで見つけたよ」
「親分、なんです、それは……?」
「男と女が抱きあって、さんざんお楽しみをしたあとで、しまつをつけたさくら紙、まだあたらしかったところをみると、ゆうべあたり使ったものにちがいねえ。あっはっは」
辰と豆六はあっけにとられた顔色で、しばしことばもなかったが、きゅうにふたりがせきこんで、
「そんなら、親分、あのこうもり屋敷で……」
「だれかあいびきしてまんのんか」
「そうとしか思えねえ。ひとめをしのんであいびきするにゃ、おあつらえむきの場所だアね。頼まれても、ひとのちかよる場所じゃアねえからな」
「それにしても大胆な」
「そのあいびきの男と女と、こんどの一件と、なにかつながりがおまんねんやろか」
「それゃアおれにもわからねえ」
「親分、このくしからなにか手がかりが……?」
「辰、それゃアむりだろうよ。調べてみたが、これという目印はどこにもねえ。ここにお粂のくしがあるが、どっちがどっちかわからねえくらいだもん」
佐七はさっきお粂の鏡台から、探しだしたくしと二本ならべてみせたが、なるほどこれは見わけがつかない。いわゆるお六ぐしというやつで、そのころの女はたいていこれを持っていた。
辰と豆六が二本のくしを手にとって、見くらべているところへ、外からお粂がかえってきた。お粂はふろへいってきたらしく、額をてらてら光らせている。
「あら、三人とももうおかえりかえ。遅くなってすみません」
と、お粂は鏡台のまえに座って、
「あら、おまえさん、わたしのくしは?」
「そうそう、あねさん、ここにお六ぐしが二本あるが、どれがあねさんのだか当ててごらんなせえ」
「あら、まあ、いやだ。こっちはだれのくしなんですの」
お粂は両手にくしをもったが、そのお粂にさえ、どっちがじぶんのくしだかわからなかった。
「お粂、いいんだ、いいんだ。右手にもっているのがおまえのくしだ」
「あら、そう」
お粂はくしで髪をとかそうとしていたが、ふと思いついたように、
「おまえさん、その長火ばちの、いちばんうえの引き出しをあけてみてくださいな」
「お粂、なにかあるのか」
「いいえな、さっきおふろへいこうとして、上がりがまちをおりかけたら、だれか投げ文をほうりこんでいったやつがあるんだよ。長火ばちの、いちばんうえの引き出しへいれときましたから、見てくださいな」
お粂にいわれて長火ばちの引き出しをあけると、はたして結び文が出てきた。佐七はなにげなくひらいて読んだが、とたんにさっと顔色がかわった。
一言注意申し上げ候。今宵《こよい》五つ半(九時)から四つ半(十時)へかけて、錦町河岸の鍬形屋で、大騒動が持ちあがり候。一昨夜の御返礼に、このことちょっとお知らせまで。
ご存じせむし男より
人形佐七親分さまへ
密室離れ座敷
――向こうに宗十郎|頭巾《ずきん》のせむし男が
「ああ、もし、鍬形屋さん、ちょっとここを開けてください。火急の用でまいったもの。どうぞここを開けてください」
それからまもなく、鍬形屋の表の大戸をやっきとなってたたいているのは、いわずとしれた人形佐七に辰と豆六。
「はい、どなた」
びっくり眼で、くぐりをあけたのは丁稚《でっち》の久松、そのうしろから、わかい手代が二、三人顔をのぞけた。番頭はかよいだから、もうこの時刻にはいないのである。
「おお、おわかい衆、お嬢さんはどうしました。お露さんはごぶじかえ」
佐七がせきこんでいるところへ、大戸のなかから新兵衛の声がきこえた。
「これ、和助、そうぞうしい、お客さまはどなただえ」
「はい、お玉が池の親分さんが、なにか火急のご用がおありだとか」
「お玉が池の親分さんが……? まあ、いいからなかへはいっていただけ」
「親分、どうぞこちらへ……」
佐七はくぐりをはいるまえに、辰と豆六に目くばせする。辰と豆六はすぐこころえて、佐七のそばからはなれていった。裏と表の見張りに立つのである。
佐七がくぐりのなかへはいると、叔父《おじ》の新兵衛を中心として、わかい手代が三人、丁稚がふたり、不安そうに佐七を見まもっている。
「親分、なにか……?」
「夜分、おさわがせして恐縮ですが、ちょっと気になることがあったもんですから。お露さんはいらっしゃいますでしょうねえ」
といっているところへ、ばあやと、ほかに女中らしいのがふたり出てきた。なるほど、これは大所帯である。
「お槙《まき》、お露はどうした。親分さんは、なにかお露のことを心配してきてくだすったようだが……」
「お嬢さまなら、いま離れのお寝間へおはいりになったばかりでございます。あら、お嬢さま、お行儀のわるい」
そこへのこのこ出てきたのは、おてんば娘のお露である。長襦袢《ながじゅばん》のうえに着物をひっかけて、細帯すがたで出てくると、
「あら、お玉が池の親分さん。どうかしたんですの」
「ああ、これはお露さん、それじゃおまえさん、ごぶじでございましたか」
と、佐七がおもわず口走ったから、
「あら、親分さん。それでは、あたしがどうかしたとでも思われたのでございますか」
おてんばはおてんばなりに、なんとなく不安そうな顔色だったから、佐七はハタと当惑した。それをみると、新兵衛はすかさず、
「お露、おまえは部屋へさがっておやすみ」
「でも、叔父さま……」
「いいから、おやすみというに。女たちもみんなおさがり。それから、和助たちも、帳合いがすんだら二階へいってやすみなさい。あしたはまた朝がはやいんだから。これ、お露、さっさと奥へいっておやすみというのに」
新兵衛にしかられて、お露はしぶしぶおくの離れへひっこんだ。女たちはそのあとについていき、和助をはじめ手代や丁稚は、佐七と新兵衛にあいさつして、それぞれ二階へあがっていく。
そのあとで、新兵衛は佐七のほうへむきなおり、
「親分さん、なにかあったのでございますか」
「はあ。じつは、こんな投げ文がございましたもんですから……ちょっとごらんくださいまし」
佐七がひろげてみせる投げ文をみて、新兵衛はふしぎそうにまゆをひそめた。
「親分、そういえば、ちかごろ妙なせむし男が、お露のあとをつけまわしているということですが、せむし男とお露とのあいだに、いったい、どういう関係があるんでございましょう」
「それをこちらからおききしたいんで。お露さまはそれについてなにか……?」
「いいえ、いっこう取りとめがございません。せむし男など、ぜんぜんしらぬと申しております」
「あのこうもり屋敷の一件でございますがね、あのときお露さまは、ひょっとすると、せむし男に会われたのでは……?」
「いいえ、それは初耳でございます。あのとき、お露はあんな恐ろしいものを見たものですから、そのまま気をうしなってしまったが、そういえば、気をうしなうまえに、だれかの泣き声か、笑い声のようなものを聞いたような気がすると……」
「お露さんは、声をお聞きになったばかりじゃなく、その姿をごらんになったんじゃ……そして、それがせむし男だったんじゃ……」
「さあ、それなら、お露はなぜそのことをいわないんでしょう」
「さあ、それですがね」
と、佐七が小首をかしげたとき、奥のほうからきこえてきたのは、
「キャーッ」
という女の悲鳴。
「あっ、あれはお露の声。親分、ごめん!」
と、新兵衛はあたふたと奥へかけだしていく。上がりかまりに腰をおろしていた佐七も、草履をぬぐのももどかしく、そのうしろからついて走った。離れへつうずる渡り廊下のはしまでくると、お槙や女中もあつまってきて、
「親分さん、いまのはたしかに、お嬢さまの声でございましたが……」
みんなガタガタふるえている。
「ふむ、いま、札《ふだ》の辻《つじ》のだんながとびこんでいかれたが……」
そのとき、渡り廊下の突きあたり、あかりの消えた離れ座敷のなかから、
「お露、お露、どうしたのだえ。いまの悲鳴はなにごとだえ」
と、新兵衛の声がきこえてきた。そこへ二階からわかい連中もおりてくる。
「親分さん、いまの悲鳴は……?」
と、和助がガタガタ歯を鳴らしたとき、
「お露、これ、お露はどこにいるのだえ」
と、まっ暗がりの離れから、新兵衛の声がきこえてきたが、つぎの瞬間、
「あっ、こ、これは……だれか、あかりを……だれかあかりを持ってきてくれ」
新兵衛の悲痛な声に、ばあやのお槙が身をひるがえして、いったんじぶんの部屋へかえったかと思うと、すぐに手燭《てしょく》をもってきた。
それをせんとうに立てていちどうが離れ座敷へなだれこむと、お露は長襦袢いちまいで、布団のうえに仰向けにたおれていた。長襦袢の胸が大きくはだけて、むっちりとした右の乳房がむきだしになっている。
しかも、その乳房からすこし外れたところに、ぐさっと突ったった短刀の柄《つか》が、まだブルブルとふるえている。
だが、下手人は……?
離れはいっぽう出口で、いま佐七たちがなだれこんできた渡り廊下よりほかに、下手人の逃げみちはない。あとの三方は、壁や雨戸でふさがれている。
佐七はちょっとお露の脈をとってみて、
「まだ生きている。だれか医者を……それから、ばあやさん、おまえさんはだんなといっしょに、お露さんのそばについていてあげてください。かたときもそばをはなれちゃいけませんよ」
「は、はい……」
「それから和助どん、庭木戸は……?」
「はい、渡り廊下を出るとすぐむこうに……」
佐七は足袋はだしのまま庭へとび出した。さいわい、空には二十日の月、庭木戸はすぐに見つかったが、南無三《なむさん》、かけがねが外れている。
佐七はそこからとび出したが、出会いがしらにぶつかったのがきんちゃくの辰。
「おお、辰、だれかここからとび出しゃアしなかったか」
「いいえ、親分。それより、なにかあったんですか、うちのなかが騒々しいようですが……」
「いずれあとで話す。それよりだれも、塀《へい》のうちより、とび出したやつアいねえんだな」
「へえ、あっしは親分がお店にはいるとすぐ、こっちへまわって張っていたんですがね、ねこの子いっぴき出てきやアしません。あっ、親分、むこうからだれかやってきますぜ」
なるほど、そのとき月影をけちらすように、こけつよろびつ走ってきた影が、ふたりのすがたを見ると、いっそう足をはやめて、
「あれ、あなた、助けてください!」
と、いきなり佐七にむしゃぶりついてきた女の顔を月影でみて、
「おや、おまえは連雀町の師匠じゃないか」
「あれ、おまえはお玉が池の辰五郎さん。それじゃ、こちらがいま評判の人形佐七の親分さんかえ」
と、恥ずかしそうに佐七の胸からはなれたのは、いわずとしれた常磐津《ときわず》文字繁、おくれ毛をかきあげ、衣紋《えもん》をつくろうそのしぐさの色っぽいったらなかった。
「おお、それじゃこちらが文字繁の師匠か。してして、師匠、なにかあったのか」
「おお、それそれ」
と、文字繁は思い出したように肩をふるわせ、
「いま、むこうで変なやつにぶつかって……」
「変なやつというと……?」
「はい、宗十郎|頭巾《ずきん》におもてをつつみ、道中合羽をきていましたから、ハッキリとはわかりませんでしたが、それが、親分さん、気味のわるい……」
「気味のわるいというのは……?」
「せむし男でございました」
言下に辰はかけだしたが、しかし、そのころには、もう影もかたちもみえなかった。
奇病夜歩き癖
――お露は長襦袢一枚でフラフラと
さいわい、お露は命をとりとめるらしい。あのときくせ者が、お露の左の乳房をねらっていれば、心の臓をえぐられて、それきりあえなくなったであろうが、右の乳房だったのが、不幸中のさいわいだった。
お露はまもなく意識回復した。
お露の意識回復を、だれよりも待ちのぞんでいたのは人形佐七だ。かれはお露が意識回復したときくや、イのいちばんに会ってみたが、そのとき佐七は、脳天から鉄槌《てっつい》をぶちこまれたような、大きなショックをかんじたのである。
お露の意識は回復したが、お露の記憶はもどってこなかった。
お露はわずかまだ十七、いかに勝ち気でおてんばとはいえ、うちつづく怪事の刺激は、十七やそこらの娘にとって、あまりにも負担が大きかったのだ。
お露の意識は回復しても、お露のひとみはいつもとおくをさまようて、叔父の新兵衛やばあやのお槙でさえ、それがだれであるかわからなかった。
いわんや佐七においておやである。
「親分さん、お露はあのまま、気が狂うてしまうのでしょうか」
「まあ、まあ、だんな、そんなに気を落としたものでもございません。お露さんはまだおわかい。いまのところ、あまり怖いことがつづいたので、いちじ、うつけ状態になっていらっしゃるんでしょうが、いまにもとどおりおなりなさいましょう」
新兵衛の心痛にたいして、佐七はそう、お座なりをいうよりほかになかった。
しかし、佐七の気やすめとははんたいに、お露の精神状態はよくなるどころか、ますます悪化するいっぽうだった。
傷のほうはまもなく、すっかりよくなった。しかし、お露の魂は、いまだにとおくを彷徨《ほうこう》していて、昔のことはすっかり忘れてしまったばっかりか、ちかごろではちょくちょく夜歩き病の発作におそわれることすらあった。
夜歩き病。――つまり、いまのことばでいえば夢遊病である。
ひとのねしずまる真夜中ごろ、彼女はむっくり起きなおって、離れをでると、裏木戸からふらふらと外へでていくのである。むろん、長襦袢いちまいで、足ははだしのままだった。
「なんの因果で、あんなあさましい病気にとりつかれたやら」
新兵衛がお玉が池へやってきて、そう鼻をすすったのは、九月もなかばごろのこと。そのころには、お露の夜歩き病は、もう世間にしれわたっていた。
「だんなもたいへんでございますねえ、札の辻のお店と二軒かけもちでは」
佐七が同情すると、
「いや、それはかまいません。一家のことですから、これも勤めと思っております。しかし、親分、ここに困ったことができました」
「困ったこととおっしゃいますと……?」
新兵衛は身延山《みのぶさん》の信者で、身延講へはいっている。新兵衛のはいっている身延講では、まいとしこの季節に、身延参りをすることになっている。しかも、新兵衛はその世話役をおおせつかっているというのである。
「おまいりするとなると、どうしても往復十日はかかります。むこうで、おこもりもしなければなりませんから」
「なるほど」
「錦町河岸のお店があんなふうになっているこの時期に、江戸を十日もるすにするのは気がかりなのでございますが、いっぽうからいえば、お祖師様におすがりすれば、お露の病気にもききめがありはしないかと思いまして……」
「それは、それは……しかし、だんな、それはいらしたらいかがでございます」
「それじゃ、親分もご賛成くださいますか」
「信心のことですからね。錦町河岸のお店がああなっていればいるほど、ご信心を怠られちゃいけません。留守ちゅうは、わたしどものほうでも、及ばずながら、気をつけておりましょう」
「そうおっしゃっていただくと、わたしもどんなに心丈夫かしれません。わたしの留守ちゅうは、番頭の治兵衛が泊まってくれることになっておりますが……」
その番頭の治兵衛というのは、商売にかけては抜け目がないのかもしれないが、世事にかけては、まことにうとい人物であることを、佐七もちかごろのつきあいで知っていた。
「ときに、親分」
と、さいごに新兵衛は恐縮そうに、もじもじしながら、
「例のせむし男は、まだつかまらないのでございますか」
「だんな、それをおっしゃられると、穴があったらはいりとうございます。けっして、怠けているわけじゃございませんが、いったい、どこへ潜りこみゃアがったのか……」
「いえ、いえ、おまえさんがたの稼業《かぎょう》もなみたいていではないと、じゅうじゅうお察し申し上げます。それでは……」
「いや、ちょっと。それで、だんなはいつおたちになります」
「はい、あしたの朝はやく札の辻から、講中のみなさんとごいっしょに出発することになっております」
「ああ、そう。それでは道中気をおつけになって、あとのことは、あっしが引き受けましたから、気を大きくもっていらっしゃいまし」
その翌日、新兵衛が身延講の講中、三十人ほどを宰領して札の辻からたっていったのを、辰と豆六はひそかに見送ったが、さて、それから三日目の夜のことである。
奇怪せむし男二人
――お露はこうもり屋敷へフラフラと
真夜中ごろ、手代の和助は、ふとうたたねから目がさめた。すすけた行灯《あんどん》の灯がジージー油をすう音をたて、いまにも消えそうになっている。
ふだん着のまま、一閑張りの机にもたれてうたたねをしていた和助は、ギョッとしたようにあたりを見まわした。
お露が夜歩きの奇病をおこすようになってから、鍬形屋ではかわるがわる不寝番をつとめることになっているのだが、手代のなかでも、和助がいちばん気がきいていて、性根もしっかりすわっている。
こんやは和助さんのばんだからと、ほかのものは安心して、みんな寝ているはずである。
それだけに、わずかのあいだにしろ、うたたねをしたのは大失態。油の切れかげんからみると、もうかれこれ丑満《うしみつ》の刻(午前三時)、ぞくにいう草木も眠るころである。
和助はあわてて部屋をでると、渡り廊下へいってみた。渡り廊下の雨戸がいちまいひらいている。
「南無三《なむさん》!」
和助はびっくり仰天、おそるおそる離れをのぞいてみると、はたして寝床はもぬけのから。和助はあわてて渡り廊下からそとへとびだすと、万一にそなえて用意してあった草履をつっかけ、庭木戸へいった。はたして、庭木戸のかけがねがはずれている。
「しまった、しまった。お嬢さん、お許しくださいまし。つい、和助はねぼけてしまいました。神様、どうぞお露さまをお守りくださいまし」
和助はいちもくさんに駆けだした。
和助はいったいどこへいくのか。かれとても、成算なしに走っているのではない。お露はまえに夜歩き病をおこしたとき、こうもり屋敷へふらふらと出向いていったことがある。こんやもひょっとするとそこではないかと、和助は足もそらに走っているのだ。
和助のカンは的中した。
ちょうどそのころ、お露は、あのおそろしいこうもり屋敷へさしかかっていた。お露の目はひらいているけれど、その目はとおくはるかな一点に凝結したままうごかない。
お露の足はまるで雲をふむようである。
かよわい娘の素足のうらは、木の根や小石にきずついていたいたしく血にそまっているけれど、気のくるったお露には、それさえわからないらしい。
お露はなにかこうもり屋敷に、心をひかれるものがあるらしく、破《や》れ玄関からなかへはいると、ひい、ふう、三つ目のあの恐ろしい座敷へはいってきた。
こんやは空に月も星もなかったけれど、どこかに、薄明のただようているような晩で、雨戸も廂《ひさし》ももぎとられた座敷のなかにも、かすかな明かりがただようている。
お露はその座敷のなかに立って、うつろの目をみはって、あたりを見まわしている。なにかを思い出そうとするふうで、小首をかしげて、あの生首のあった床の間から、首なし死体のよこたわっていたボロ畳のうえをながめている。
と、このとき、背後にあたって、コトリとかすかな音がきこえた。
しかし、無心のお露は気がつかないのか、飽かずあたりを見まわしている。
そのうしろからスルスルはいよったのは、ながい道中合羽を身にまとい、宗十郎|頭巾《ずきん》でおもてをつつんだ人物だが、その背中が、ラクダのコブのようにもりあがっている。
せむし男はスルスルとお露のうしろからはいよると、丸い背中をいよいよ丸めて、いきなりお露にとびつくと、左手でそのからだを抱きすくめ、右手ににぎった匕首《あいくち》を、さっとななめにふりかぶった。
間一髪とはこのことだったが、その匕首をにぎった腕を、やにわにうしろからおさえたものがある。おどろいたのはせむし男だ。
「あっ、しまった!」
と、口のうち。
ところが、せむし男の利き腕とった男のほうでも、なにかにおどろいたらしいのである。
「あっ、これは……」
と、ひるんだところが、せむし男のつけめであった。とられた腕をはらいのけると、そのまま縁側から、庭の雑草のなかへとびこんだ。
「辰、くせ者は庭へでたぞ。豆六はうらのほうをかためろ」
叫んでいるのは、いわずとしれた人形佐七だ。
「お露さん、大丈夫でございますか」
「ほっほっほ、親分さん、とうとう下手人を袋のなかへ追いつめたようでございますわね」
意外、意外、お露はどうやら正気らしい。
「しかし、いまのはいったいだれですの。わたしを抱きすくめたそのからだは……」
「そうさ。だから、あっしもびっくりしたのさ。まさか、あいつがじぶんから……あっ、あれはなんだ」
そのとき、庭では世にも奇妙な格闘がえんじられていた。雑草をかきわけて、こけつまろびつ、逃げいくせむし男のいくてにあたって、忽然《こつぜん》としてあらわれたひとつの影、辰でもない、豆六でもなかった。なんとそれがまた、せむし男ではないか。
せむし男とせむし男。
ふたつの影は、おりからの薄明のなかで、必死となってからみあっている。お露とともにその場へかけつけた佐七も、ぼうぜんとして、せむし同士の格闘を見つめている。
辰と豆六もそばへやってきて、
「親分、親分、これゃアまあ、いってえどうしたことだんべえ」
「親分、いったい、どっちのせむしがくせ者だんねん?」
辰と豆六、十手をかざして、ふたりのまわりをうろうろしている。
やがて、血みどろの格闘もおわって、ぐったりと地上につっぷしたせむし男のうえに馬乗りになったもうひとりのせむしが、バラリと宗十郎頭巾をとったその顔をみて、
「あっ、もし、おまえさんはもしや、鳴り物師の清十郎さんじゃアありませんか」
「はい、お玉が池の親分さん、いかにもわたしは清十郎でございます。こんやこそ天菊を殺した敵、いや、敵のかたわれをお渡しいたします。さあ、こいつの顔をごらんくださいまし」
辰はくみしかれたせむしの顔から宗十郎頭巾をはぎとったが、
「あれ、おまえは連雀町のお師匠さん!」
お露の口からもれたのは、世にも意外な絶叫だった。
いかさま、清十郎にくみしかれているのは、常磐津の師匠文字繁ではないか。
文字繁もお露の正気に気がつくと、まんまと佐七のわなにはまったことをさとったのか、くやしそうに歯ぎしりしていたが、日ごろのあいきょうはどこへやら、その顔はまさに悪鬼であった。夜叉《やしゃ》だった。
吉例佐七絵解き話
――新兵衛墓穴掘りくさったんやな
文字繁の白状によって、鍬形屋の新兵衛が猿橋《さるはし》の宿で捕らえられたのは、それから三日のちのことだった。
この召し捕りにむかったのは、もちろん辰と豆六をひきつれた佐七だったが、この捕り物には、佐七も意外に手をやいたのである。
新兵衛はぬけめのない男だから、講中のものに顔を売っていた。その連中には、新兵衛がそんな悪いやつとは思えなかった。三十人ばかりの身延講中の連中が、新兵衛の逃亡に力をかそうとしたばっかりか、新兵衛としても命がけである。
ここでいったん虎口《ここう》を脱すれば、甲府へ逃げても、吉田《よしだ》へもぐっても、おくはふかい。新兵衛がひっしとなって逃げまわったから、佐七がやっと講中のものを説きふせて、首尾よくおなわをかけるまでには、まるいちにちかかったのである。
こうして、新兵衛が江戸へつれもどされ、すべてを白状するにおよんで、この一件ことごとく落着したのである。
「それにしても、親分、おまえさんはこの一件、はなから新兵衛と文字繁がぐるだということを知っていなすったんですかえ」
と、れいによって、辰が絵解きをもとめるのである。
「まさか、おれは神様じゃねえからな」
「ほんなら、親分、いつごろから新兵衛と文字繁がくさいと目をつけはったんです」
「それはな、辰、豆六、この一件は新兵衛が考えに考えぬいた一件なんだ。ところが、とかく策士、策におぼれるで、あんまり考えすぎると、ついいきすぎができるんだな。つまり、勇み足というやつよ」
「親分、この一件で勇み足とは……?」
「新兵衛が壁にかいた血のこうもりよ」
「親分、あの絵がいきすぎやいわはんのんは……?」
「つもってもみねえ。天菊は旅から旅への旅芸人、湯島へでるようになってから、まだ日も浅いという話だ。その関係者が、あの屋敷にこうもり屋敷と名がついていることを知るはずがねえ。よしんばそれを知ってたところで、あの晩、連雀町できもだめしがあり、名札のかわりに、こうもりの絵型をおいてくることになっているなどとしるはずがねえ」
「あ、なアるほど」
「それを知ってるところをみると、だれかきもだめしの連中にぐるになってるやつがあるんやないかと、そこへ眼《がん》をつけはったんやな」
「そうそう、下手人は被害者の首と胴とを切りはなし、いかにも慶政検校《けいまさけんぎょう》のたたりのようにみせかけたんだ。しかし、それでもまだ物足りなかったもんだから、もっとすごみをきかそうと、つい、こうもりの絵をかいちまったんだ」
「それが、つまり、勇み足だったわけですね」
「つまり、新兵衛、墓穴を掘りくさったんやな」
豆六はガクがあるから、いうことにも含蓄がある。
「あっはっは、ま、そういうこったが、しかし、辰、豆六、ほんとをいうと、こんどの一件がばんじうまく片付いたのは、みんなおまえたちの手柄よ」
佐七にお土砂をかけられ、辰と豆六、たちまちひざをのりだした。
「へえ、へえ、親分」
「それはどないなことだんねん」
「なにさ、ふたりでちょうちんのことをくわしく調べてくれたろう。あれでおれにはだいたいの見当がついた。上がりふじに下がりふじ、天菊はひょっとすると、ひとちがいで殺されたんじゃねえかと気がついたんだ。つまり、下手人のねらいは下がりふじのちょうちん、それをまちがえて上がりふじの天菊を殺したのじゃアあるまいか。すると、下手人のねらいはお露だったのじゃアねえかと、そう気がついたのも、おまえたちふたりの働きがあったればこそ。だから、辰、豆六、この一件はおめえたちの手柄だと思え」
「へえ、ありがとうございます。なあ、豆六」
「へえへえ、兄い」
「うちの親分は、ああいってくださるからうれしいじゃねえか。それにひきかえ、海坊主は、わかいもんの手柄をみんな横取りするそうだ」
「そやそや、そやさかいに、あいつには子分がいつかんねん。それにひきかえ、わてら、ええ親分もってしあわせなもんや」
辰と豆六、まんまと佐七の手にひっかかって、鼻の下をながくしている。
「まあ、そう思って、こんごも大いにやってくれ。ところで、天菊が殺されたのがちょうちんちがいのひとちがい、下手人がほんとにねらったのがお露だとすると、これゃアもう造作はねえ。お露が死んで、いちばんトクをするのは新兵衛だ。じゃア、新兵衛の相棒はだれかといえば、下がりふじのちょうちんもたせて送りだした文字繁じゃねえかということになる」
「つまり、下がりふじのちょうちんが、めじるしだったんですね」
「そやそや、下がりふじと上がりふじ、ちょっと見ただけでは見分けがつきまへんさかいにな」
「そうすると、あのきもだめしも、文字繁がもちだしたんですね」
「そうよ。はたからみると、まっこうから反対してるようなかおをして、そのじつじょうずにけしかけたんだ。だから、お露がイのいちばんのくじをひいたも、みんな文字繁の細工よ」
文字繁は連雀町へこしてくるまえ、芝神明裏に住んでいた。そのころから新兵衛とは、ひとしれずねんごろになっていたのだが、よほどじょうずに会っていたとみえ、世間ではだれもしらなかった。
その文字繁が神田へひっこしてきたのは、お露のおふくろが亡くなって、新兵衛が月のうち半分は錦町河岸へ後見にくるようになってから、まもなくのことだというから、よくよくの深慮遠謀というよりほかはない。
「それで、親分、文字繁のやつ、こっちへきてからは、こうもり屋敷で新兵衛と会うていやアがったんですね」
「そやそや、あそこなら、ひとが寄りつく気づかいがおまへんさかいな」
「そればっかりじゃあるめえ。ああいう鬼のようなふたりだから、ああいうものすごいところで抱きあうほうが、変わった味があってよかったんじゃねえのか。ま、あそこであいびきをかさねているうちに、お露殺しの舞台として、あの家をえらぶことになったんだろう」
「そこへ、天菊がわりこんできたんですね」
「ふむ。だが、その話はあとにしよう。しかし、天菊がわりこんできたために、第一回は失敗した。そこで、おれがくしをひろってきたまえの晩、またふたりであそこで落ちあうて、第二回の計画をねりゃアがった。その計画が、あの投げぶみとなってあらわれたのよ」
「つまり、親分をひっぱり出して、親分の目のまえで、お露を殺そうとしやアがったんですね」
「そやそや、そやけど、親分、新兵衛が離れへとびこむまえに、お露が悲鳴をあげたんは、あら、どういうわけだんねん」
「お露が正気にもどったとき、イのいちばんに会ったのがおれだということを、おまえたちもおぼえているだろう。そのとき、お露に聞いたんだが、お露は叔父の新兵衛にしかられて、離れへかえってねようとした。長襦袢いちまいになって、行灯《あんどん》の灯を消そうとした。そのとき、なにげなく壁をみると、まっ赤なこうもりの絵がはってある。それでキャッと叫んだんだ」
「なるほど、悪がしこいやつですね。だれでもその悲鳴をきいたものなら、悲鳴をあげたときに、刺されたと思いますからね」
「しかも、そのとき新兵衛のそばには、ちゃんと親分がいやはったんやさかいにな。親分をアリバイの証人に、利用しようとしくさったんやな」
豆六のいうことにはますます含蓄がある。
「お露は勝ち気で気丈な娘だ。しかし、なんといってもまだ十七。しかも、天菊の首なし死体で打撃をうけている。そこへせむし男の清十郎にゃつけまわされる。すっかりおびえきっているところだから、このこうもりのはり紙はきいたろう。キャッと叫んで目をまわす。そこへいちばんにとび込んだ新兵衛のやつが、ぐさっとひとつき。しかし、お露という娘も、よくよく運がつよかったんだなあ」
「といやはりますと……?」
「キャッと叫んでたおれるひょうしに、風にあおられ行灯《あんどん》の灯が消えたんだ。おかげで新兵衛、ねらいがくるっちまったんだ」
「それにしても、親分も殺生な。お露のつくりあほう、にせ気ちがい、あの夜歩き病まで、みんな親分の入れ知恵だったとは……こっちはなんにもしらねえもんだから、ずいぶんハラハラ気をもみましたぜ」
「そら、しよがおまへんがな。敵をあざむかんと欲すればまず味方よりや。それに、兄いもわても、あんまり口が軽ないほうやおまへんさかいな」
豆六はよくじぶんを知っている。
「まあ、堪忍しろ、あれゃア千番に一番のかねあいだったんだからな。お露が正気にもどったとなれゃア、新兵衛がどう出るかわからなかったからな」
佐七はそこでひと息いれると、
「それにしても、一度ならず二度までしくじり、新兵衛のやつ、こんどはどう出るだろうと思っていると、身延参りとおいでなすった。これだっと、おれはすぐ思ったな」
「これだっとおっしゃるのは……?」
「天菊殺しの一件のときにゃ、文字繁は一歩も連雀町をはなれなかった。つまり、豆六のことばをかりれゃアリバイがある。だから、こんどお露をころして天菊とおなじように、首と胴とをチョン切っておきゃ、天菊殺しとおなじ下手人のしわざだと思われる。すると、文字繁は疑いからのがれられる。しかも、そのとき新兵衛のやつは、江戸をとおくはなれているという寸法よ」
「よう、まあ、考えよったもんだなあ」
「だから、おいらはむこうの手の出しいいように、お露にいいふくめておいたんだが、それにしても文字繁がじぶんでやってくるとはなあ。もっとも、こればっかりは、ひとに頼めねえことだが……」
佐七も長嘆久しゅうしたという。
清十郎涙の告白
――私は極悪非道の慶政のせがれ
文字繁がとらえられた翌日、清十郎がお玉が池へやってきた。
天菊がぞっこんほれこんだ美貌《びぼう》は、いたいたしくやつれて、なんとなく影がうすく思われた。かれが訥々《とつとつ》としてかたる物語によって、せむし男の清十郎がこの一件にどういう役割をはたしていたか、やっとハッキリわかってきた。
天菊は稼業《かぎょう》にあわぬ純情な女であった。
清十郎があの不慮の災難にあったとき、旅先だから、いったん清十郎をおいて旅立ったが、あとで迎えをよこすつもりであった。ところが、清十郎のほうでは、うまれもつかぬかたわになったとしったとき、天菊のためを思って、身をかくしたのである。
しかし、天菊はあきらめなかった。あいてがかたわになったとしったとき、天菊はいっそう清十郎と、はれて夫婦になろうと決心した。
かくて、別れてからそろそろ五年、天菊はこのたびはじめて江戸の土をふんだ。かねてから清十郎の生国を江戸ではないかとにらんでいた天菊は、草の根わけてさがしているうちに、とうとう清十郎が板橋の宿で、長唄《ながうた》の師匠をしているのをさがしあてた。
「あれはお盆のすこしあとでした。ひとめをさけて、板橋へたずねてきた天菊は、もとどおりになってほしいと、泣いてわたしをくどきました。そのしおらしい心根に、わたしは泣きました。しかし、天菊をいじらしいと思えば思うほど、わたしみたいなものがついていては、あれのためにならないと思いました」。」
しかし、天菊がどうしても、もういちど会って話をきいてほしいというので、あのうちで会うことにしたのである。
「ところが、わたしはこのとおり不自由なからだでございます。約束の刻限から、だいぶおくれてまいりますと、ふびんや天菊はあのとおり……」
そのしゅんかん、清十郎は一種の精神錯乱におちいったらしい。かれは悲嘆と痛恨のために、いちじ気がふれてしまったのである。だから、お露といきあったことすら、記憶にないという。
しかし、のちにきけば、天菊のあの死体をさいしょに発見したのは、錦町河岸のべっ甲問屋、鍬形屋の娘のお露だという。
だから、お露にきけば、下手人がわかるのではないかと、ひそかにあとをつけまわし、それがお露をおびやかし、ひいては犯人たちの利用するところとなったのである。
「なるほど、それでだいたい話はわかったが、天菊の一件いらい、おまえはどこにかくれていたんだ。そしてまた、どうしてお露が文字繁にやられそうになったとき、うまくあの場にいあわせたんだ」
「親分さん、わたしはずうっとあの家に住んでいました。食べ物をたくさん買いこみ、あの家のなかで暮らしていたんです。ですから、親分さんが二度あの家を調べにこられたことも、またあの家をあいびきの場所につかっている男と女があることもしっていました。しかし、まさかあいびきのそのひとりが、天菊殺しの下手人とは気がつかなかったのでございます」
これには佐七も唖然《あぜん》とした。
なるほど、灯台もと暗しとはこのことだが、清十郎としては、犯人はかならずもういちど現場へかえってくるということを、本能的にしっていたのだろう。
「それにしても、清十郎さん、おまえさんはなんだって、あんな気味のわるい化け物屋敷へ、天菊さんを誘いこんだんだ」
清十郎はしばらくだまっていたのちに、涙にうるんだ目をあげた。
「親分さん、わたしはあの家でうまれたものでございます。わたしはあの、極悪非道の慶政のせがれでございます」
佐七はあっと息をのんだ。そして、あらためて、やつれはてた清十郎の顔を見なおした。清十郎は愁然として、こうべを垂れていたが、やがてボツボツ語りだしたところによるとこうである。
清十郎は本名を権八といった。しかし、ここではまぎらわしくなるから、清十郎で語りつぐことにしよう。
清十郎は父の非道をきらって、少年時代から家を出ていた。
さいわい、かれには音曲の才能があったので、いろんな師匠のうちをてんてんとして、けいこにはげんでいるうちに、起こったのが十年まえの、あの惨鼻をきわめた慶政ごろしの一件だった。
清十郎は面目なくて、江戸にいられなくなった。名も清十郎とあらためて、旅から旅へと放浪しているうちに、天菊一座に身を投じたのである。
「だから、あの家へお菊を誘ったのも、あの家にまつわるおそろしい話をかたってきかせ、しかも、じぶんがその極悪非道な男のせがれであると打ちあければ、お菊もあきらめてくれるだろうと思ったのでございます。それが……それが、あんなことになってしまいまして……」
なるほど、これでは清十郎が一時的にしろ、精神錯乱におちいったのもむりはない。愛する女が思いがけなく、父と父の情婦とおなじように、首と胴をチョン切られていたのである。
因縁のおそろしさというものに、清十郎がショックをかんじたのもむりはない。
文字繁は死罪、新兵衛は引き回しのうえ獄門になった。新兵衛が処刑される日、佐七も小塚《こづか》っ原《ぱら》の刑場に立ちあったが、あとで辰や豆六にきくと、清十郎も矢来の外へきていたという。
それから三日ほどして、佐七は板橋の宿へいくことがあった。清十郎の住ま居をきくとすぐわかった。しかし、さがしあてたその家に清十郎はいなかった。新兵衛がお仕置きになった日いらい、音さたがないという。
佐七はハッと不吉な胸騒ぎをおぼえた。かれはその足で、柳の馬場のわきのこうもり屋敷へかけつけたが、清十郎ははたして、天菊がころされた座敷の天井から、冷たいむくろとなってぶらさがっていた。
新兵衛はひとちがいで天菊を殺してしまった。殺したあとで、新兵衛もひとちがいに気がついたのだろうが、鬼畜のような新兵衛は、さいしょのもくろみどおり、天菊の首と胴を切りはなした。
そうすることによって、新兵衛はこうもり屋敷の因縁話を強調しておくつもりだったのだろう。
じっさい、後日、文字繁がお露をころして裸にし、首と胴とを切りはなしておいたら、いよいよ慶政《けいまさ》のたたりということになったろう。文字繁はそのつもりで、のごぎりや刃物を用意していたというのだから、鬼の女房に鬼神とは、まさにこのことと、世間一統、舌をまいておどろかぬものはなかったという。
お露はその翌年、和助を引きたてて亭主《ていしゅ》にした。そして、よく和助をたすけて商売にはげんだので、鍬形屋はそのごもながく栄えたという。
お露はおてんばではあったが、けっしてバカではなかったようだ。
[#地付き](完)
◆人形佐七捕物帳(巻十三)◆
横溝正史作
二〇〇四年四月二十五日 Ver1