人形佐七捕物帳(巻十二)
[#地から2字上げ]横溝正史
目次
化け物屋敷
雷の宿
鶴《つる》の千番
くらやみ婿
団十郎びいき
化け物屋敷
お玉が池例の騒動
――親分あのままひきつけやしねえか
人を訪問するということは、なんでもないことのようにみえてそうでない。よく間《ま》を見はからっていかないと、とんでもないばつの悪い思いをすることがある。その日、お玉が池の佐七をおとずれた伊丹屋利兵衛《いたみやりへえ》がそれで、
「ごめんくださいまし。親分さんは……」
と、格子をひらいたひょうしに、
「この野郎……」
と、怒鳴りつけられたのはまだしものこと、いきなり、がらがらがちゃんと、土瓶《どびん》が足もとで炸裂《さくれつ》したのだから、いや、おどろいたのおどろかないの。
「あ、もし、なにをなさいます……」
といいかけて、ひょいとむこうを見た利兵衛は、二度びっくり、なにしろ、夏のことだから、ふすまも障子もとりはらって、おくのおくまで見通せる茶の間のなかで、お粂佐七のご両人、いましも、はでなけんかのまっ最中なのである。
「畜生ッ、はなせッ、はなせッ、はなせったらはなさないか。これッ、浴衣がさけるわ。えりがほころびるというのに……これ、はなせったらッ」
「いいえ、はなしませんよ。えりなんかほころびたってかまわない。ほころびたら、縫いなおしてあげる。浴衣なんか、破れたってかまわない。なんだい、こんな浴衣、夜店の見切り品で買ってきたんじゃないか。ええ、もうおまえさんはなあ……」
妙なけんかもあったもので、亭主《ていしゅ》の胸ぐらとったまま、お粂は浴衣のたなおろしをやっている。
「なにが、なにがおまえさんはなあ……だ。おれが……おれが、なにをしたというんだ。と、とんでもねえ言いがかりをつけやアがって……あ、く、苦しい、息がつまるウ……キュッ!」
江戸一番の御用聞きも、こうなっちゃだらしがない。女房に胸ぐらとられて、目をしろくろ、
「ええ、まだあんなことを言っている。へんな女と駕籠《かご》をつらねて……わたしが声をかけると、いちもくさんに逃げていったのは、どこのだれだえ。ええッ、もうわたしゃくやしいッ」
「そ、それが、言いがかりというもんだ。こっちにはおぼえもねえことを……あ、く、苦しい、人殺しい、助けてえ」
いやはや、たいへんな騒ぎだが、ところでれいの辰と豆六は、どうしているかというと、これは表の間でゆうゆうと将棋をさしていようというのだから、利兵衛はあきれかえって、目をパチクリ。
「これ、辰つぁん、豆さん」
「おや、これは、伊丹屋のだんな、ちっとも気がつきませんでした。よくおこしで」
「よくおこしじゃないよ。おくの騒ぎはどうしたんだえ。いま親分が、助けてえといったようだが、ひょっとすると、あのままひきつけて……」
「はっはっは、子どもじゃあるまいし、そんな心配がいりますものか。あれはもう毎度のことで、ときどきああしてつかみあいをやらねえと、飯がのどをとおらねえというんです」
「そんなこと気にしてたら、このうちには、いちにちもおれまへん。なに、いまにしぜんとおさまりますさかい、なにか御用やったら、こっちへあがって待っておいでやす。兄い、王手や」
のんきなやつもあったもんで、おくのけんかもどこ吹く風と、辰と豆六は将棋によねんがない。
利兵衛もそれにつり込まれて、うえへあがってようすを見ていると、なるほど、辰や豆六のことばにあやまりはなかった。潮時がきたのか、けんかもだいぶ下火になってきたもようで、
「お粂、もうよそう」
「そうねえ……そうすると、あれはやっぱり、おまえさんじゃなかったのかしら」
「当たりまえよ。これ、お粂、やきもち焼くなら、よくよく吟味してからかかるもんだ」
「ほんにまちがいだったら、おまえさん、ご免なさい。わたしゃついかあっとして……」
「ヘン、いまになって、ご免なさいもねえもんだ。おお、いてえ。おい、ちょっとここを見てくれ。ヒリヒリしてたまらねえが、おまえ、ひっかいたんじゃねえかえ」
「あら、ほんと。みみずばれができているわ。つい夢中になって……ご免なさい。こうしてわたしのつばをつけておけば……」
と、打ってかわったてんめんたる情景に、利兵衛はあきれかえってものがいえない。目をしろくろさせているが、お粂はそれと気がつかず、
「それにしても、へんだねえ。駕籠に乗っていたのは、たしかにおまえさんのようだったが……そして、わたしがつけていくと、本所一つ目の、化け物屋敷へはいっていったんだよ」
聞いて利兵衛は、はっと顔色をかえたのである。
「もし、おかみさん、そ、そりゃほんとでございますか。親分さんが駕籠にのって……そして、あの、本所一つ目の化け物屋敷へ……」
にわかにのりだす利兵衛の声に、お粂と佐七ははじめて気がついた。
「おや、おまえさんは伊丹屋のだんな、いつの間に、ここへおいででございましたえ」
「いつの間にじゃアありませんよ。さっきからここに控えて、はでなところを見せてもらいましたよ。だが、そんなことはどうでもいい。それよりもききたいのは、おかみさんのいまのお話。もちっと、くわしく話してください」
子細ありげな利兵衛のようすに、辰と豆六も、将棋をやめてこっちを見ている。
「もし、伊丹屋のだんな、どういうわけでそんなことをお尋ねになるのかしりませんが、たわいのねえ話で……だが、まあ、お粂、だんながああおっしゃるから、話してあげねえ」
そこで、お粂が語るところを聞くとこうである。
すれ違い幽霊|駕籠《かご》
――駕籠の中から若だんなと女の声で
きんちゃくの辰に、ひとりの伯母《おば》さんがある。お源といって、本所緑町に住んでいるが、そのお源が、暑気当たりで寝ているということをきいたお粂は、きのう見舞いにいったのである。
ところが、そのかえりに両国までくると、むこうからきかかったのが、二丁の駕籠《かご》。すれちがうとき、お粂はなにげなく、まえの駕籠をのぞきこんだが、とたんにあっと驚いた。乗っているのは、まぎれもなく、亭主の佐七なのである。
「あれ、おまえさん」
お粂がおもわずかけ寄ろうとすると、
「駕籠屋さん、はやくやっておくれ」
あとの駕籠からのぞいた女がさけぶよと見るまに、二丁の駕籠は、宙を飛ぶようにしてかけ出した。さあ、おさまらないのはお粂である。
「畜生ッ、畜生ッ、あんな女と駕籠をつらねて……」
なにしろ、やきもちときたら天下無類のお粂だから、こうなるとなりもふりもかまわない。褄《つま》ひっからげて、駕籠のあとからいちもくさん。
「すると、あなた、二丁の駕籠は、一つ目のさびしいお屋敷へはいっていったじゃありませんか。わたしゃくやしいから、よっぽどあとから、踏み込んでやろうかと思ったんですが、なにしろあいては武家屋敷、うかつなまねもできませんから、そこで通りがかりのものをつかまえて、なにさまのお屋敷かと聞いてみると、おどろくじゃありませんか。これはこのへんで、かくれもない化け物屋敷、だれも住んじゃいないというので……わたしもきゅうに気味が悪くなったものだから、やきもちも忘れて、逃げてかえってきたんです」
「それで、ゆうべもひともめもめたんですが、それがけさになって蒸しかえしで……はっはっは。いずれ化け物屋敷のうわさにおじけて、だれも近寄らないのをよいことにして、変なやつがあいびきでもしていたのを、お粂がわたしと見ちがえたものでございましょうよ」
佐七はくすぐったそうに笑ったが、利兵衛はにこりともしなかった。無言のまま、小首をかしげてかんがえていたが、やがてひざをのりだすと、
「そして、おかみさん、その女というのは、どういう風体《ふうてい》でございました」
「さあ、ちらっと見ただけですから、はっきりとしたことは申し上げられませんが、二十七、八の年増で、どうせ素人じゃありませんでしたねえ」
「そして、その屋敷というのは、一つ目の橋をわたって、一町ほどいった右っかわ、まえに河村さんというお旗本が住んでいたところじゃ……」
「そう、そう、そんな話でした」
「もし、伊丹屋のだんな。どうしたというんです。おまえさんも、なにかこれに心当たりでも」
「もし、親分さん、それについて、ご相談にあがったんですが、じつはこちらにも、それとおなじような話があるんです。しかも、それがもうすこし気味悪くできているのでございます」
しさいありげな利兵衛のようすに、お粂と佐七もおもわず顔を見合わせた。辰と豆六のふたりも、いつか将棋をおっぽり出して、こっちへきている。
そもそも、この伊丹屋利兵衛というのは、お玉が池とは目と鼻のあいだの、松《まつ》ガ枝町《えちょう》に角屋敷をもっている大商人で、佐七もかねてから世話になっている。その利兵衛がわざわざじぶんから出向いてきたのだから、よくよくのことがあるにちがいないと、一同がかたずをのんできいていると、やがて、利兵衛はこんなことを語り出したのである。
利兵衛にはひとりの妹があって、これが小田原町の材木問屋、近江屋《おうみや》というのへかたづいている。近江屋の亭主ははやくからなくなったが、あとには、好太郎というひとり息子がのこっているので、利兵衛の妹のお篠《しの》は、これをたよりに、女手で近江屋の大きな所帯を切りまわしている。
好太郎もことし十八、さいわい器量も気質も、申しぶんのないよい若だんななので、お篠はこれをなによりの誇りとしていた。その好太郎に縁談がさだまったのはことしの春で、あいては蔵前の地紙問屋、亀屋《かめや》の娘でお町という。
お町は十七、これまた器量気質ふたつながら申しぶんのないいい娘だったから、好太郎もにくからずおもい、祝言の日を、いちにち千秋のおもいで待っていた。ところが、そのお町が、祝言の日をまえに、ポックリ死んだのである。
「へへえ、それはまことにお気の毒なことで……」
「ほんにふびんなことをいたしました。死んだお町も不仕合わせなら、あとにのこった、好太郎もかわいそうでございます。好太郎はその日から、飯もろくにのどをとおらないのでございます」
「そりゃ……ごむりもございませんな」
お町の死んだのは、夏のはじめごろだったが、それいらい、好太郎はおうおうとして楽しまない。からだもしだいに細くなっていくようすに、母のお篠が心配して、ある日、手代の与吉にいいふくめ、むりやりに隅田川《すみだがわ》の船遊びにつれださせた。ところが、そのかえるさのことである。
ふとしたことから、つれの与吉や丁稚《でっち》の長松にはぐれた好太郎が、ぼんやり両国橋のきわまでくると、むこうからやってきたのが一丁の駕籠。
好太郎はなにげなく、駕籠のなかをのぞいたが、とたんに、のけぞるばかりにおどろいた。駕籠のなかに、しょんぼりうなだれているのは、まぎれもない、夏のはじめに死んだお町のすがた。
「世のなかには、他人の空似ということもあります。また、好太郎はねてもさめても、お町のことをおもいつめているのですから、なんでもないあかの他人を、お町とばかりおもいこんだ……と、こうおもえないこともございません。しかし、いぶかしいのは、その女がすれちがいざま、若だんな、会いとうございます……と、そういったそうでございます」
「ほおう、それは……それで、若だんなは駕籠のあとをつけておいでになりましたので……?」
佐七はひざをのりだした。辰と豆六は、目をパチクリさせながらきいている。
「いえ、そのときは矢のように駕籠がとんでいってしまいましたので、つける暇もなかったそうでございますが、気がつくと、足もとに一通の結びぶみがおちております。拾いあげて読んでみると、なまめかしい女の文字で、こよい、本所のこれこれこういう屋敷へ、忍んできてくだされ、好太郎さままいる、お町よりと、そんなことが書いてあったそうでございます」
「それで、若だんな、お出かけになったんですね」
「はい、なにをいうにもわかい者のこと、それに、こがれぬいたお町のすがたを目のあたりに見たのでございますから、前後の分別もなく……」
その晩、好太郎はこっそり家を抜けだした。
化け物屋敷怪しの夢
――ふたりの舌と舌がもつれあって
好太郎はむろん、そこが化け物屋敷であろうなどとは、知るよしもなかった。いや、たとい知っていたとしても、かれはやっぱり、出かけずにはいられなかったろう。
その晩は雨もよいの、いまにも降りだしそうな空模様だったが、それでいて、どこかほのかな明るみが揺曳《ようえい》している、と、そういうような晩だった。投げぶみには、屋敷のようすがくわしく書いてあったので、好太郎はそっと裏木戸からなかへしのびこんだ。
屋敷のなかはまっ暗だったが、ただひとところ、雨戸がはんぶん繰ってあって、そこからボーッと、光の帯がこぼれている。
好太郎はそれをみると、胸をとどろかした。足も地につかなかった。ものすごいあたりのようすも目にうつらなかった。雨戸のそばまでしのびよって、そっとなかをうかがうと、座敷のなかには蚊帳がつってあって、蚊帳のなかには、お町がしょんぼりうなだれていた。
まくらもとの行灯《あんどん》の灯《ひ》が、蝋《ろう》のようなその横顔を、さびしく浮きあがらせていた。
「お町さん、お町さん」
好太郎がうわずった声で呼びかけると、
「あら、若だんな……」
なまめかしい声が、そういったかと思うと、ふっと行灯の灯が消えた。
「あっ、お町さん、なにをする」
「だって、わたし恥ずかしいんですもの」
さやさやと、蚊帳をゆすって出てきたお町は、まっくらななかで、好太郎の手をとった。
好太郎はいまさらのごとく、胸をどきどきさせながら、お町にみちびかれて、蚊帳のなかへはいっていった。
「お町さん」
「好太郎さま」
むせっぽい蚊帳のなかのくらやみで、しばらくふたりは、無言のままむきあっていたが、ふいにお町はくずれるように、好太郎の胸にからだを投げかけた。
はげしいお町の息づかいが、好太郎の血を、るつぼのように沸騰させた。汗っぽいお町のからだの感触が、うずくように、好太郎のからだを刺激した。さすがにうぶな好太郎も、おもわずお町の腰に手をかけると、ひざのうえに抱きあげた。
ふたりの舌と舌とがもつれあって、好太郎の首にまいたお町の腕にぐっと力がこもってきた。それに勢いをえた好太郎が、お町のうちぶところをさぐりにかかると、お町はそれを拒むどころか、大きく息を弾ませながら、からだを開いて、好太郎の手を迎えいれた。
お町のうちぶところをさぐっているうちに、好太郎の血は、もうこれ以上燃えようがないほど、燃えに燃えて、からだのやり場がなくなった。
好太郎はうちぶところから手をぬくと、あいての帯に手をかけた。お町は燃えるようなほおを好太郎の胸によせ、熱い息をはきながら、好太郎のなすがままになっている。
暗やみが、好太郎を大胆にした。
あいての帯をとき、着物をぬがせて、長襦袢《ながじゅばん》一枚にしてしまうと、仰向きにそこへ寝かせた。そして、じぶんも手早く帯をとき、膚襦袢いがいはなにもかも脱ぎすてると、お町のからだをうえから抱いた。
ふたりとも、あらしのような息を吐き、ふたりの血は、たぎりにたぎっているのだが、それにもかかわらず、ふたりのあいだにへだたりがなくなるまでには、そうとう手間と暇がかかった。
お町の口から苦痛のうめき声がもれ、全身が硬直したとき、好太郎は心のなかで、
「生娘なのだ!」
と、喜びの声をあげ、その生娘を一人まえの女にすることに、このうえもなく誇りをおぼえ、その生娘と喜びをわかちあうことに、全精力をかたむけた。
やがて、おそまきながら、お町のからだに反応と応答があらわれ、絶えいるように、息をあえがしはじめたとき、好太郎ははちきれんばかりの喜びにからだをいっぱいふくらませて、雄々しく、男らしくふるまっていた。
おなじようなことがもういちど、暗やみのなかで繰りかえされるにおよんで、ふたりのからだは完全に溶けあった。
化け物屋敷のあれた庭に、きつね火が音もなくもえつづけている晩のこと……。
「……と、そういうわけで、好太郎は化け物屋敷の奥座敷で、ふしぎな契りを結んだんだそうで……」
利兵衛はほっとため息をついたが、聞いているこちらの四人は、おもわず顔を見合わせた。
「へへえ、それゃ……お楽しみといいたいところだが、あいてが魔性のものとあっちゃ……ねえ。で、そののち若だんなのごようすは……」
「それが……そういうことがあってみれば、落ち着かないのもむりはございません。その後も夜ごと家をぬけだすようすに、とうとうお篠が気がつきまして、ある晩、手代の与吉にいいふくめ、あとをつけさせたのでございます。与吉、いぜんはちょくちょく、亀屋へ使いにいったことがありますので、お町の顔をよくしっております。そのお町が、化け物屋敷の蚊帳のなかに、しょんぼりすわっているところを見たものですから、びっくり仰天、その場は逃げてかえりました。話をきいて、こんどはお篠がおどろきまして、そこで、その晩、好太郎のかえりを待って、詮議《せんぎ》をいたしましたところが、はじめて、いま申し上げたようなことがわかったのでございます」
「なるほど。ところで、世間でよくいいますが、魔性のものに魅入られた人間は、しだいに精気をうしなって、やせおとろえていくと申しますが、若だんなはどういうごようすでございます」
「いえ、そんなことはございません。そういう楽しみができましたせいか、かえっていぜんより元気になり、血色もよくなったようですが、困ったことに、お金をちょくちょく持ち出すので……」
「金を……?」
「はい。なんでも、あいての女に、無心をいわれるらしいのでございます」
「へへえ」
佐七はにわかに興味をおぼえたらしく、ひとひざまえにゆすり出した。
「地獄のさたも金しだいといいますが、幽霊が無心をふっかけるとは、こいつはちょっと、年代記ものでございますね」
「それなんでございます。近江屋の屋台からいえば、好太郎が持ちだすぐらいの金は、なんでもございません。幽霊に魅入られることをおもえば、かえってありがたいくらいのものでございますが、なにをいうにも、あいての素姓がしれず……」
「なるほど、すると、だんなも、あいてを幽霊とはお思いにならないんですね」
「そうだろうじゃありませんか。幽霊が無心をふっかけるはずはありませんから、おおかた、好太郎の嘆きにつけこみ、お町によく似た女が、そんな狂言を書いているんでございましょう。それで、おまえさんに頼みというのは、ひとつ、幽霊の正体を見届けていただきたいのでございます」
「いや、よろしゅうございます。さっそく手をまわして、きっと近いうちに、らちをあけてごらんにいれますが、それまで若だんなを外へお出しにならないようになすってくださいまし」
と、きっぱり受け合って、利兵衛をかえしたあとで、四人のものはおもわずほっと顔見合わせた。
「おまえさん、伊丹屋のだんなはああおっしゃるが、世の中にそんなよく似た人間が、ふたりといるものでしょうかねえ」
お粂はどこかふにおちかねる面持ちだった。
「さあ、それよ。好太郎さんの一件だけなら、そうも考えられるが、おまえがきのうみたというおれの影武者のこともある。お粂、駕籠に乗っていたのは、それほどおれに似ていたか」
「それゃもう……わたしゃいまでもおまえさんが白っぱくれているんじゃないかと思うよ」
「バカをいうな。だが、そうなると、こいつははなはだ妙なことになるぜ。お町に似ている女があるかとおもうと、おれに似ている男がある。世のなかにそうやたらに似た人間があるはずはねえが……」
「お、親分、すると、こいつはやっぱり化け物屋敷の、化け物のしわざでございましょうか」
「あら、いやだ、辰つぁん、そうなるときのうわたしが会ったのは、化け物だったというのかえ」
お粂はぞっと肩をすくめたが、いつも元気な辰と豆六、これまた憑《つ》かれたような顔色で、おびえた目と目を見かわせていた。
陰々燃えるきつね火
――井戸のなかから女のすがたが
江戸時代にはよくほうぼうに化け物屋敷だの、幽霊屋敷というようなものがあったそうである。
本所一つ目にある化け物屋敷などもそれで、河村というお旗本が乱心して、妻女を切り殺したと評判があっていらい、住むものもなく、荒れるにまかせていたが、ちかごろそこに、毎夜怪しい光ものがするの、女のすすり泣く声がきこえるの、いや、苦しそうなうめき声がきこえるのと、とかくへんなうわさがたえなかったが、そういううわさがたかくなっていくころ、ここにひとりの頓狂者《とんきょうもの》があらわれた。
それは熊五郎《くまごろう》という割り下水に住む大工で、ある晩かれは、仲間のものと賭《か》けをしたあげく、単身この化け物屋敷へ、探検に出かけたのである。
岩見重太郎か、宮本武蔵気どりで出かけたまではよかったが、この熊五郎、れいの座敷へ一歩踏み込んだせつな、ぎゃっとさけんで腰をぬかしてしまった。
それもむりのない話で、座敷のなかにはバラバラに切りきざまれた女の生首や手や足が、血みどろになってころがっていた。
しかも、その生首がかっと目をひらいてにらんだというのだから、これじゃ自称豪傑の熊五郎が腰をぬかしたのもむりはない。
この注進をきいておどろいたのは、なかまをはじめ町役人だ。それ、人殺しだ……と、こんどはおおぜいだから威勢がいい。熊五郎をさきにたてて駆けつけたが、なんと、そこには生首どころか、髪の毛ひとすじ落ちてはいなかった。だいいち、熊五郎の話がほんととすれば、血のあとぐらいはのこっていそうなものだったが、それすら、どこにも見当たらなかった。
そこで、熊五郎はなかまのものや町役人から、さんざんわらわれたり、からかわれたり、おおいに豪傑のこけんを落としたものだったが、しかし、わらった連中も内心薄気味悪く思ったものか、そのあとはたえて化け物退治などと、謀反気《むほんぎ》をおこすものもなく、ただいたずらに本所一つ目の化け物屋敷と評判ばかり高かったが、そこへその晩忍んできたのが、いうまでもなく人形佐七に辰と豆六。
「お、お、親分、な、な、なるほど、ひ、ひ、ひどい荒れようでございますねえ」
「な、な、なんや、あ、あ、兄い、あ、あ、あんた、ふ、ふるえてるやないか。そ、そ、そない意気地のないことで、ど、ど、どないすんねん。し、し、し、しっかりしなはれ」
そういう豆六もふるえている。まったく、ふたりがふるえるのもむりはない。
屋敷の荒れようったらなかった。草生いしげり、軒はかたむき、屋根にはいちめんにぺんぺん草、それが夜風にフワリフワリとゆれている気味悪さ。あの評判がなかったとしても、あまり気持ちのよい景色ではなかった。
「わッ、お、親分ッ」
豆六がだしぬけにとんきょうな声をあげた。
「バカ野郎、なんてえ声を出しゃがるんだ」
「だって、だって、あそこに光っているのは……」
「バカ! 間抜けめ、あれゃアほたるじゃねえか」
「ああ、ほたるかいな。わてはまた人魂《ひとだま》かと思った……わっ、お、親分ッ」
「チョッ、またか……あっ!」
こんどは佐七もぎょっとして、おもわずその場に立ちすくんだ。
生いしげった草のむこうで、二つ三つ四つ――青白い炎が、音もなく燃えあがっているのである。しかも、その炎のなかに、だれやらひとが立っている。
佐七はそれをみると、丈《たけ》なす雑草かきわけて、ずかずかそのほうへかけよったが、とつぜんかれは、あっと叫んで、その場にくぎづけになってしまった。そこには草にうもれた車井戸があったが、その車井戸のうえから女がひとり、ぶらんとぶらさがっているのである。
髪振りみだし、両手をうしろにしばられて、車井戸につるされた女の死体、――風が吹くたびに髪がさやさやほつれて、ブラリブラリとからだのゆれるその気味悪さ。音もなくもえつづける燐火《りんか》の火に、女の顔は蝋《ろう》のように白かった。
辰と豆六もそれをみると、わっとさけんで、左右から佐七のからだにむしゃぶりついたが、そのうち、ふたたび豆六が、なんともいえぬ声をふりしぼったものである。
「お、親分……あ、あれゃ、あねさんやおまへんか」
「なに?」
「あっ、あねさんだ、あねさんだ。親分、あれゃあねさんですぜ」
辰と豆六のことばに、佐七はぎょっとして、目をこすって見なおしたが、いかさま、それは佐七の恋女房お粂ではないか。
お粂はまるで皿屋敷《さらやしき》のお菊のように、むざんになぶり殺されたうえ、井戸のうえからつるされているのだった。
「おお、お粂っ!」
かけよって、お粂の死体に抱きついたとたん、佐七がにわかにからから笑い出したから、さあ、辰と豆六、おどろいたの、おどろかないの。
「あ、兄い、こらいかん、親分、気がちごてしまいよった」
「むりもねえ。あんなにほれて、ほれて、ほれぬいてるあねさんだもの。親分、しっかりしておくんなさい。ここでおまえさんに気ちがいになられちゃア……」
「はっはっは、辰も豆六も心配するな。気ちがいなんかになる気遣いはねえ。これゃお粂じゃねえ。人形よ」
「え、えッ、に、人形……」
「親分、ほんまでっかいな」
こわごわそばへ寄ってみたふたりが、つくづく見ると、なるほどそれは生き人形だった。
「なあるほど。びっくりさせやがった。それにしても、親分、よくできてるじゃありませんか。人形だと思ってみても、やっぱりぞっとするようだ」
「あっ、わかった。すると、親分、好太郎がおびきよせられたお町ちゅうのんも、それから、きのうあねさんがみた親分ちゅうのも、やっぱり人形やったんやおまへんやろか」
「そうよ、おれははなからそう思っていたんだ。いつか、割り下水の大工、熊五郎というのがおどかされた女のバラバラ死体というのも、やっぱり生き人形だったにちがいねえ。これでたいがいいたずらものの見当もついたが、念のためだ、座敷のなかをしらべていこう」
化け物の正体見たり生き人形――で、こうなると辰と豆六もにわかに元気回復。そこで、ひろい化け物屋敷のなかをくまなくしらべたが、ほかにはべつに変わったこともなかった。
「フーム。すると、ずらかりやアがったな。辰、豆六、いつまでこんなところにいたってはじまらねえ。さあ、引き揚げよう」
座敷から外へ出ると、井戸のそばにはいまだに燐火がもえている。その青白い光のなかに、ブランとぶらさがった女のすがたは、人形とおもってながめてもものすごい。
「親分、あの人形は、あのままにしておくんですかい」
「ほっとけ、ほっとけ。いまにいたずらもののしっぽをおさえてやるわな」
「お……、親分、あ、あの人形、い、いま首を動かしましたぜ」
「バカをいうな」
「バカやあらへん。ほら、ほら、首を……わっ!」
豆六がとつぜんそこへへたばったのもむりはない。そのとき、井戸につるされた人形が、
「お……おまえさん……た、助けてえ……」
と、蚊の鳴くような声で呼んだから、これには佐七と辰も、五体がジーンとしびれてしまった。そら耳か。いや、そら耳ではなかった。
「お、ま、え、さーん……た、す、け、て……え。苦しい……」
佐七はそれをきくと、土をけってかけだしていた。井戸のそばへ寄るなり、
「お粂か」
「は、はい……助けてえ……く、苦しい……」
ああ、意外とも意外、さっきの生き人形は、いつのまにやらほんもののお粂にかわっている。
江戸っ子名人気質
――これぞ幽霊のとりもつ縁かいな
さあ、こうなっちゃ、佐七も指をくわえてひっこんでいるわけにはいかぬ。
いままでは、人騒がせないたずらものと思っていたが、まるで佐七をからかうようなこのやり口に、業がにえて地団駄踏んでくやしがった。
それにしても、お粂がどうしてこんなところへ出てきたか。それはこうである。
三人がお玉が池を出てからまもなく、見知らぬ男が駕籠《かご》をもって迎えにきた。その男の口上をきくと、いま佐七が大けがをしたから、すぐきてくれというのである。
お粂だって分別のない女ではない。
なんとなく、男のそぶりが怪しまれたが、怪しまれれば怪しまれるだけ、あいての誘いに乗ってやろうと決心した。そこは御用聞きの女房で、多少なりとも亭主《ていしゅ》の手助けをしてみたいと、そういう気持ちだったのだが、それがいけなかった。
お玉が池を出た駕籠が、馬喰町馬場《ばくろちょうばば》のくらやみにさしかかると、とつぜん駕籠をおろして、迎えの男と駕籠屋のふたりが躍りかかった。
「わたしもむろん用心はしていたんですけれど、なにしろあいては男三人、とうとうこんなざまになったんです」
お粂はくやしそうに歯ぎしりした。
「それじゃ、さっきおいらがあの生き人形をしらべているとき、おまえはあの付近にいたのか」
「あい、井戸のむこうのくらやみで、三人の男におさえつけられていたんです。叫ぼうとしても、さるぐつわをはめられているから声が出ない。そのうちに、おまえさんたちが家のなかへはいっていったので、そのあとで、すばやく人形とすりかえられたんです。ほんとにわたしゃくやしくて……」
「で、いったい、そいつらは何者なんだえ」
「それがねえ、話のようすをきくと、三人とも島をやぶって、江戸へ逃げかえってきた凶状持ちらしいんです。名前は仙太《せんた》、介十《すけじゅう》、初五郎というんですが、どうやら三人ともおまえさんにつかまって島へ送られたらしく、その意趣晴らしをしようというんです」
仙太、介十、初五郎――そういう名前に記憶がなかったが、数多い佐七の捕り物、きっとそのなかで、捕らえられて島送りになった悪党どもが、おのれの悪事はたなにあげ、捕らえた佐七をうらんでいるのであろう。
外道のさかうらみとはこのことだが、御用聞きはつねにこういう復讐《ふくしゅう》の危険にさらされているのである。
「ところで、三人のなかでは、仙太というのが頭分なんですが、その仙太には情婦があります。ところが、この女というのが、また、ひどくおまえさんをうらんでいるらしいんだよ。おまえさん、お種という女をおぼえちゃいなくって」
「お種……? さあ、思い出せねえな」
「なんでも、大伝馬町でも名代の呉服屋|辰巳屋《たつみや》のだんな徳右衛門《とくえもん》さんというのをだまくらかして、まんまとそこの後家になりすまし、じゃまになる先妻の娘を追い出そうとしたところを、おまえさんに見現わされて、すんでのことに御用になるところを、風をくらって逃げたという話です」
佐七はそこで、はたとばかり小手を打った。
「お粂、それなら、銀のかんざしの一件だぜ。そうか、そいつが影で糸を引いているのか」(『銀の簪』参照)
「そうなんです。きのうわたしが両国で出会った駕籠の女というのもそいつなんです。おまえさん、くやしいから、きっとこの敵《かたき》はうっておくれ」
「いいとも、いいとも、こうこけにされちゃおれだって黙ってひっこんでいるわけにゃいかねえ」
「だが、親分、そいつらのいどころについて、なにかおまえさんに心当たりがありますか」
「ないことはねえ。だが、辰、豆六、お粂も、いつまでこんな化け物屋敷にいてもはじまらねえ。そろそろ出かけようぜ」
三人が化け物屋敷の裏木戸から外へとび出したときである。むこうからやってきた五つ六つのちょうちんが、いきなりばらばらとそばへかけよってきた。みると、いずれもわかい男で、ねじりはち巻きに綾《あや》だすき、てんでに棒を持っている。
「そら、化け物屋敷からへんなやつがとび出したぞ。やっつけちまえ」
と、四方八方から棒ふりかぶって打ちこんできたから、おどろいたのは佐七をはじめ一同だ。
「これ、人違いをしちゃいけねえ。おれはけっして怪しいものじゃねえ。お玉が池の……」
「あっ、親分さんじゃありませんか。これ、みんな失礼するな。お玉が池の親分さんだぞ」
わかい者をかきわけて、まえへ出てきた人物をみると、なんと、これが伊丹屋利兵衛。
「おお、これは伊丹屋のだんな。いったいこれはどうしたんでございます」
「親分さん、じつは好太郎がまたこんや、うちを脱けだしたのでございます」
「好太郎さんが……」
「はい。しかも、こんどは三百両という大金を持ちだしたもんですから、そのままほうっておくわけにはまいりません。行く先はてっきりこの化け物屋敷と、そこでこうして店のものをつれて、駆けつけてきたのでございます」
「なるほど。しかし、だんな、その好太郎さんなら、ここにはおいでになりませんよ」
「おりませんか」
「はい、しかし、その行く先もたいがい見当がついております。まあ、あっしにまかせておいておくんなさい。こんやはきっとらちを明けますが、ひょっとすると、その三百両はかえりませんよ」
「いえ、もう金のことはどうでもようございますので……好太郎の身に間違いさえなければ……それじゃ親分、おまかせしましたから、なにぶんよろしくお願いいたします」
そこで、利兵衛の一行をひきとらせると、佐七は間もなく、お粂や辰や豆六をひきつれて、やってきたのは本所の緑町。
「親分、おまえさんどこへいくんです。まさか、おいらの伯母《おば》さんのところへ行くんじゃありますまいね」
「そうそう、お源さんの住まいはこのへんだったな。それじゃ辰、おまえちょっとひとっ走りいってきて、このへんに生き人形師の亀八《かめはち》の住まいがあるはずだから、それをきいてきてくれ」
「あっ、それじゃ、親分、あの亀八が……」
「なんでもいいから、はやく行け」
辰が走り去ったあとで、豆六はけげんな顔で、
「親分、しかし、亀八は、先年|公方様《くぼうさま》の似顔人形を作ったとやらで、遠島になったはずやおまへんか」
「そうよ。それがこんど、仙太、介十、初五郎といっしょに、島を破って逃げかえったにちがいねえ。あれだけみごとな生き人形をつくるのは、日本広しといえども、亀八よりほかにねえはずだ。あいつはいぜん両国の見世物で、化け物人形や幽霊人形を作っていたが……」
そこへ辰がかえってきた。
「親分、わかりましたぜ。亀八の家はすぐこの裏だそうです。なんでも、亀八は島送りになっていて、あとにはお加代というかわいい娘が、たったひとり留守をしているそうです」
「なに、かわいい娘がある? よし、その娘のところに、亀八がかくれているにちがいねえ」
佐七の眼串《めぐし》ははずれなかった。
亀八ははたして、お加代のもとへかえっていたが、佐七の一行が駆けつけたときには、たったいま、息を引き取ったばかりとやらで、そのまくらもとにはわかい男女が、愁然として首をうなだれていた。
女はむろんお加代だが、男というのは十八、九の、色の白い、からだのきゃしゃな若だんな、いうまでもなく好太郎だった。ふたりは佐七のすがたをみるとちょっと顔色をかえたが、べつに悪びれたところもなく、ふたたび愁然と首をたれた。
「もし、好太郎さん、いえさ、おまえさんは近江屋の若だんなでしょう。すると、おまえさんは、化け物屋敷で契ったあいてがお加代さんだということを、まえから知っていなすったのだね」
お加代と好太郎は、悲しみのうちにも、はにかみの色を見せてうなずいた。
「はい、わたしだって子どもじゃございません。じぶんの契った女が幽霊か、幽霊でないかぐらいはわかります。そこで、あるときだしぬけに、あかりをともしてお加代の顔を見たのでございます。しかし、そのじぶんにはわたしはもう、このお加代が忘れられなくなっていましたので……」
お加代と好太郎は、幽霊の取りもつ縁で、割りない仲になってしまったのである。これには一同、あきれかえって顔を見合わせたが、
「それにしても、お加代さんはなんだって幽霊の身代わりなんか勤めたのです」
「親分さん、そのこともわたしから申し上げましょう」
島を破って江戸へかえってきた仙太、介十、初五郎の一味は、ひとめを忍んでほうぼうに潜伏していたが、さきだつものは金である。
ところが、そこへ仙太のやつが、好太郎のちかごろの嘆きをどこかできいて、それを種に金をまきあげようと考えついた。それにはいっしょに島を破った亀八がなだいの生き人形作りであったから、そこでかれに、お町の人形をつくらせたのである。
「いやだといえば密訴にするとおどかします。そこで、亀八さんはいやいやながら、お町の人形をつくったのです。その人形を駕籠にのせて、わたしを化け物屋敷へおびき出しましたが、ただそれだけでは金にならないので、こんどはお加代にいいふくめ、お町の人形にかわって、わたしと契りを結ばせたのでございました。お加代もむろん悪いこととは知っていましたが、いつか情にほだされて……」
こうなると、いよいよ幽霊の取り持つ縁かいなである。
「なるほど、それでよくわかりました。しかし、お加代さん、おとっつぁんはなんだって化け物屋敷であんな騒ぎをさせたんです」
それについて、お加代はこう語った。
「父は江戸っ子でございました。江戸で生まれて江戸でそだった父は、とても島の土にはなれませんでした。そこで、悪いこととは知りながら、あの三人といっしょに、江戸へかえってきたのでございますが、そのとき父はすでに余命いくばくもないことを知っていました。そこで、この世の思い出に、江戸中をあっといわせてやると申しまして、むかしとった杵柄《きねづか》で、幽霊人形をこしらえて、あんな騒ぎをおこしては、ひそかに喜んでいたのでございます」
これも一種の名人気質であったろう。そのむかし、見世物の化け物屋敷でひょうばんをとった亀八は、むかしの夢がわすれられなかったのである。そして、それをこんどは実地にやってみようとしたのである。
好太郎から三百両まきあげた仙太、介十、初五郎の三人は、百両ずつ山わけにして、べつべつに江戸から高飛びしようとしたところを、三人とも捕らえられた。
しかし、お種だけはふしぎにも、こんどもまた、巧みに佐七の手からのがれてしまった。よくよく悪運の強い女だが、こいつがまたひと騒動起こして、とうとう年貢をおさめなければならなくなったというお話は、いずれまた稿をあらためて――。
化け物屋敷がとりもつ縁で、お加代はそのご、近江屋の嫁になったという。
雷の宿
無残絵蚊帳の中
――くわばら、くわばら、万歳楽
世の中に、およそ怖いものなしであるはずのきんちゃくの辰にも、ただひとつ泣きどころがある。
雷である。
遠くのほうでゴロゴロいっても、顔面蒼白《がんめんそうはく》、ガタガタふるえがくるというのだから、まことに因果な性分で。いや、鳴りだしてからではもうおそい。辰ぐらいの大家になると、雷のある日は朝からわかる。妙に気分がしずんで味気なく、見るもの聞くものがやるせなく、いっそ坊主になって山へこもろうか、首でもくくって死んじまおうか……なあんてかんがえていると、はたして午後からゴロゴロピカリ。
「さア、よわった、よわった。親分も殺生じゃねえか。朝から天気だってゆだんがなるもんか。こんな日に、おいらを使いにだすなんて、死ねというのもおんなじだ」
おやおや、大変なことになってきたもので。
「だからおいらはいったんだ。骨惜しみをするんじゃございませんが、きょうは空模様が怪しゅうございますからと。すると、親分め、かんらかんらと笑やアがった」
辰は情けなさそうに首をふりふり、
「なにをいやアがる。こんなに雲もなく、空もよく晴れているのに、天気が怪しいもあるもんかと、それゃアね、あのときは晴れてましたよ。だけど。一寸さきはやみの世のなか。それに、豆六も豆六だ。よりによってこんな日に、腹くだりなんかするこたアねえじゃねえか。ひょっとするとあの野郎、おれをこまらせるために……」
とうとう、おはちが豆六へまわってきた。
「といったところでおっつかず……そうれみろ、だんだん黒雲がひろがってきやアがった。いまにゴロゴロ……ああ、よわった、よわった、桑原、桑原……」
それは秋のはじめの、妙にむしむしする昼さがり、佐七の命令で深川の八幡《はちまん》まえまで用足しにいったきんちゃくの辰は、そのかえりがけ、北の空からにわかに張りだしてきた黒雲をみて、もう生きたそらもないのである。
せめてゴロゴロ、ピカリとこぬうちに、橋のむこうへ渡ってしまおうと、必死となって脚をはやめているうちに、どうやら雲足のほうがはやかったらしく、やがて、大粒の雨がポツリポツリ、遠くのほうでゴロゴロゴロゴロ。
「さあ、来やアがった。せめてあいつが頭のうえまでこぬうちに……もし、神様、仏様、どうぞ、お助けくださいまし。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、ナムアミダブツ、高天《たかま》ガ原《はら》に神とどまりまして……」
いやはや、大変なことになったもので、知ってるかぎりの念仏やのりとを、夢中になってとなえたかいも情けなや、六間堀《ろっけんぼり》のほとりまできたころには、車軸を流すような雨はまだよいとして、ゴロゴロピカリ、ピシャリガラガラと、天地もひっくりかえるような大雷になってきたから、
「キャッ、助けてえ、ひとごろしィ……」
きらいというものはしかたのないもので、夢中になってとびこんだのは、寮とおぼしきかまえの裏門。みると、離れの雨戸があいていたから、なかへとびこみ、たたみに額をこすりつけて、桑原、桑原。
おどろいたのは座敷のなかにいた人物。
「あれ、おまえさんはいったいだアれ」
声をかけたが、そんなことばが耳にはいる辰ではない。
「桑原桑原、万歳楽、南無阿弥陀仏に南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》……なんでもよいから助けてえッ」
と、しりおったてて耳をおさえ、必死となってたたみにしがみついている。
あいてもようやく事情がのみこめてきたらしく、
「ああ、それじゃこの雷様をおそれて……ほんに、このごろとしてはめずらしいお下がりでございますわねえ」
と、小声でつぶやくと、さらさらきぬずれの音をさせていたが、やがてむこうのほうから、
「もし、ちょっとおねがいがございます。雷様もだいぶ遠くなりました。ちょっとお顔をおあげくださいまし」
そういう声がやっと耳にはいったので、辰がおそるおそる顔をあげると、うすぐらい座敷のすみに、女がひとり立っていた。
この雨のなかを出ていく気か、はでな雨合羽をすそながに着て、紫縮緬《むらさきちりめん》のお高祖頭巾《こそずきん》。したがって顔はろくにみえないが、すらりと背のたかい、すがたのよい女である。
「へ、へえ……」
さすがに辰も、きまりが悪くてもじもじしたが、そのとき、またもやガラガラピシャリ。辰はわっとさけんで突っぷした。恥も外聞もないのである。
「ほっほっほ。よっぽど、雷様がおきらいとみえますね」
「へえ、もう、なんといわれても仕方がございません。こいつが鳴るともう、から意気地がねえんで。へんなやつがとびこんできたとお思いでしょうが、怪しいものではございません。後生ですから、こいつが通りすぎるまで、ここでやすませて下さいまし」
畳につっぷし、しりおったてたまま嘆願すると、
「いえ、こちらこそ、おまえさんがきてくだすったので大助かり。じつはいま、妹がきゅうに病気をおこしたので、おくにねかせてございますが、医者を呼びにいこうにも、留守番がなくて大弱り。ちょっとひとっ走りいってまいりますから、そこにいてやってくださいまし」
「へえへえ、そうねがえれば……わっ、光った!」
「ほっほっほ。では、なにぶんよろしく……」
女は褄《つま》をからげて、この大雷雨のなかを駆けだしていったらしかったが、辰はろくすっぽ姿さえみていなかった。
まったく、秋にはめずらしいお天気異変だった。
ひとしきり、大あばれにあばれまわっていた雷様も、一刻《いっとき》(二時間)ほどたつと、やっといくらかおさまって、雨はまだはげしく降っていたが、雷の音はだいぶ遠くなっていた。
さっきから畳につっぷして、生きたそらもなかった辰五郎が、蘇生《そせい》のおもいで顔をあげると、全身流れるような汗である。それをぬぐいながら、なにげなくむこうを見ると、はんぶんひらいたふすまのむこうに、雷よけの蚊帳がつってあり、だれか寝ているようすである。
辰はふっと、さっきの女のことばを思い出した。妹がきゅうに病気をおこしたから、ひとっ走り医者を呼びにいってくる……。
だが、その医者もこなければ、女もまだかえらない。女が出ていってからでも、半刻(一時間)以上もたつというのに、どこまで医者を呼びにいったのだろう。
「むりもねえやな。あの大雷だもの、医者だってたやすく腰をあげるもんか」
辰はタバコを吸おうとおもって、腰のタバコ入れをぬいたが、なにもかもぐしょぬれで、どうにもならない。こうなると手持ちぶさたで身をもてあます。そこで、敷居ごしに、蚊帳のなかの女に声をかけてみた。
「もし、ねえさんえ。それともお嬢さんかな。さっきはひどい雷様でしたねえ」
しかし、蚊帳のなかからは、うんともすんとも返事がなく、ただしずかである。
「もし、ねえさん、お嬢さま、ご気分はいかがでございますか。雷様もおさまりましたから、いまに姉さんが、お医者さんをつれていらっしゃいますよね。もし、ねえさん、お嬢さん」
しかし、あいかわらず、蚊帳のなかはしずまりかえっている。
「寝ているのかな。しかし、変だな。いかに気分がわるいたって、あの大雷のなかを、寝ていられるはずのもんでもねえが……」
辰は四つんばいになって敷居のそばまでいった。それからもういちど声をかけたが、返事がない。辰は蚊帳に額をくっつけてなかをのぞいた。
蚊帳のなかにねているのは、まだ十七、八の娘である。あたりがうすぐらいのでよくわからないが、ちょっとかわいい娘のようだ。かけ布団をあごまでかぶって、きちんと仰向けにねているが、しかし、あの顔色はどうだろう。それに、寝息ひとつ立てるけはいがない。
辰はゾーッとしたように、肩をすぼめた。娘ひとりねている蚊帳のなかへはいっていくのもどうかと思ったが、そんなことを考えていられないほど、異状なものを辰はかんじた。蚊帳をめくってなかへはいると、そっとかけ布団をめくったが、とたんに、わっとさけんでしりもちついた。
娘は長襦袢《ながじゅばん》いちまいだったが、はだけた胸から乳房がはみ出し、まくれあがった裾《すそ》からは、女のいちばんだいじなところが露出している。
しかも、さんざん男にもてあそばれたあとが歴然として、むごたらしい。さんざん犯されたあとしめ殺されたのだろう。赤いしごきが首のまわりに食いいるように……。
どんでん返し離れ座敷
――辰はまるできつねにつままれたよう
「……というわけですから、親分、はやく来ておくんなさい、早く、早く……」
それからまた一刻《いっとき》(二時間)ほどたって、やっとお玉が池へ舞いもどったきんちゃくの辰は、ふんどしまでぐしょぬれになっていた。
それにしても、話を聞いておどろいたのは佐七と豆六である。
「兄い、それ、ほんまのことだっかいな。わてが腹くだりをしたばっかりに、ゴロゴロさんに会うたその腹いせに、親分をかついではんのとちがいまっか」
「豆六、てめえが疑うのもむりはねえ。おいらだって、はじめのうちは、ほんとだたア思えなかった。それゃア、雷さんにゴロゴロピカリとやられたときにゃ、てめえを恨んだよ。だけど、こればっかりはうそじゃアねえんで」
「辰、それで、だれかにあとを頼んできたのか」
「それが、親分、寮というのががらんどうで、死骸のほかにゃ、ねこの子いっぴきいねえんです。おまけに、外へとびだしたところが、まだ大降りのさいちゅうで、人影ひとつみえません。しようがねえから、とにかく、親分に一刻もはやくお知らせしようと……」
「まっすぐここへかえってきたのか」
「それがまたいけねえんで。大川端までさしかかったところが、雷さんがまたぶりかえしてきやアがって、頭のうえでゴロゴロピシャリ。あっしゃむちゅうでご存じの舟稲へとびこむと、そこでまた半刻(一時間)あまり、親分、因果な性だが、これも病だとおもって堪忍してください」
しょんぼりしている辰をみると、おかしいやらかわいいやら。
「いや、きょうの雷にゃアおれもおどろいた。だが、そうすると、そこをとび出してから、もうかれこれ一刻(二時間)あまりになるんだな。よし、いってみよう。お粂、支度だ」
「親分、わてもつれてっておくれやす」
「あれ、豆六、てめえは腹くだりじゃねえのかい」
「ところが、兄い、雷さんはわてにとっては万病の薬や。さっきのゴロゴロピシャリで、腹くだりもスーッと治ってしもた。わてはいたって気分爽快《きぶんそうかい》」
「この野郎、殴られるぜ」
ひとしきり、がやがやわいわいあったのちに、三人がお玉が池をとび出して、六間堀へやってきたのは、もうかれこれ六つ(六時)。秋の日の暮れるにはやく、あたりにはすずめ色のもやがかかっている。
「お、親分、こ、このうちなんで……」
辰がゆびさす枝折《しお》り戸をみて、
「辰、間違いはねえだろうな。ほかのうちへ飛びこんじゃたいへんだ」
「大丈夫ですよウ、親分、とび出すときよく見ておいたんです。ほら、そこにある梅の古木と、そのしたの石灯籠《いしどうろう》が目印なんです」
「そうか。よし、それじゃはいってみよう」
はいるまえに、かきねのなかをみると、どこか大家の寮か、隠居所といった風雅なかまえ。
辰はみずからさきに立って、枝折り戸のなかへはいっていったが、みると、さっきの離れ座敷は、すっかり雨戸がひらかれて、障子のなかからもれるあかりが、ときならぬにわか雨にあらわれた庭をうつくしく染めている。
それのみならず、障子のなかから笑い声さえ聞こえてくる。
「辰、ほんとにまちがいねえのか。人殺しがあったにしちゃ、少しようすがおかしいようだが」
「いいえ、親分、まちがいねえんで。たしかに、この座敷のなかなんで」
辰が座敷のまえへまわっていくと、その足音がきこえたのか、
「おや、宗さん、裏木戸から、だれかはいってきたようだぜ」
「そんなはずはないんだがね。今夜はだれも訪ねてくる約束はないんだが……」
「でも、だれかそこへきているよ。お夏、ちょいとそこの障子をあけてみな」
「はい」
と、障子をひらいて顔を出したのは、ひとめで芸者としれるわかい女。
佐七と辰と豆六が、ぎょっとして座敷のなかをのぞいてみると、そこにはわかい男がふたり、さしむかいで酒をのんでいる。
むろん、蚊帳などどこにもつってなく、すべてが打ちくつろいだようすである。人殺しなどあったけはいはさらになかった。
ふたりの男とひとりの女は、ふしぎそうにまじまじと、こちらの三人を見守っていたが、
「あの、なにかご用でございましょうか」
と、こう声をかけたのがこの家の主人だろう。
二十四、五の、色の浅黒い太っちょだが、おっとりとしてむとんちゃくなところが、大店《おおだな》の若だんなといった人柄。
「いや、とつぜん押しかけてきて申し訳ございません。あっしゃお玉が池の佐七というもんですが、ちとお尋ねしたいことがございまして」
名まえをきいて、三人は不安そうに目を見交わした。
「お名まえはかねてよりうけたまわっておりますが、して、お尋ねとおっしゃいますのは……?」
「つかぬことをお尋ねしますが、ここはどなたのお住まいで、あなたがたは……?」
「はい、これは東新堀《ひがししんぼり》の小松屋という店の寮で、わたしはせがれの宗七と申します。この春より体をいためて、ここに出養生をしております」
東新堀の小松屋といえば、なだいの酒問屋である。
「なるほど。そして、そちらのおふたりは?」
「こちらは霊岸島の質屋、銭屋の息子さんで米三郎《よねさぶろう》さん。そちらにおりますのは、柳島の芸者でお夏と申します。きょうはふたりそろって、見舞いにきてくれたんです」
米三郎というのは、きゃしゃで、色白の若者。お夏はまだ二十まえだろう。
「ときに、この寮にはほかにどなたが……?」
「はい、仁兵衛《にへえ》というものがおりますが……しかし、親分、この寮になにかご不審の点でも……?」
不審そうな宗七の顔を、佐七は穴のあくほど見まもりながら、
「じつは、ここにいるのはあっしの身内で、辰五郎というんですが、きょうの昼過ぎ……」
と佐七がいちぶしじゅうの話をすると、三人が三人とも、びっくりしたように目をみはったが、とりわけ宗七はあっけにとられたような顔をして、
「親分、そ、それはなにかのお間違いでしょう。このうちの、しかもこの座敷に、娘の死体がころがっていたなんて、そ、そんなバカな……それに、だいいち、わたしはきょう一歩も、このうちを出なかったのでございますよ」
「な、な、なんですって!」
こんどは辰が目をまるくする番だった。
「そ、そ、そんなバカな! おらアちゃんとこの目で見たんだ、蚊帳のなかで十七、八のわかい娘が、赤いしごきで首をしめられているのを、この目で見たばかりじゃアねえ、この手で触ってみたんだ」
「しかし、それじゃわたしはどこにいたんでしょう。なにしろ、きょうはあの降りでどこへも出られず、しょざいなくここに寝ころんで、本など読んでいたんです。そしたら、さきほど米さんが、お夏をつれて見舞いにきてくれたんです。そうでしたね、米さん」
「はい、わたしがお夏といっしょにきたときにゃ、宗さん、のんきそうに寝ころんで、草双紙を読んでいました。お夏、そうだったね」
「はい」
お夏はうなずいたが、なぜかその顔色は青かった。
「バ、バ、バカな。そ、そ、そんなバカな……」
辰が熱くなっていきまくのを、佐七はそばからおさえて、
「そいつは妙な話ですね。すると、この野郎、雷様に目がくらんで、ありもしねえ夢でも見たのか」
「お、親分、そ、そんな……」
「まあ、いいってことよ。ときに、若だんな、きょうは寮番の仁兵衛もここにいましたか」
「そうそう、親分、それについて妙な話があるんです。お夏、ちょっとここへ仁兵衛をよんでおくれでないか」
仁兵衛はすぐにやってきた。もうかれこれ六十ばかりの年かっこうだが、いかにも正直者らしいおやじである。
「仁兵衛、ここにいらっしゃるお玉が池の親分さんが、きょうのことを聞きたいとおっしゃるんだ。おまえの口から申し上げておくれ」
宗七にことばをかけられて、仁兵衛はいまいましそうにまゆをしかめた。
「ほんとにだれがあんないたずらをしやアがったのか、わたしゃ腹が立ってたまりません。親分、聞いてください」
仁兵衛の話によるとこうである。
けさはやく、どこかの丁稚《でっち》らしいのがやってきて、東新堀の親だんなからのいいつけだが、お昼過ぎお店のほうへ来てくれと、それだけいって立ち去った。
仁兵衛はその子をしらなかったが、きっとちかごろ住み込んだ小僧だろうと、べつに怪しみもせず、昼飯がすむと宗七にひまをもらって東新堀へ出向いていった。
ところが、意外にも、お店のほうではそんなことはしらぬという。仁兵衛はきつねにつままれたような気持ちだったが、そのうちにあの大夕立である。それに降りこめられて、やっとかえってきたのが七つ半(五時)ごろのことだった。
「なるほど。それで、おまえが帰ってきたときにゃア、若だんなはいらっしゃったんだね」
「へえ、たいそうお待ちかねで、なにをぐずぐずしてるんだと、おしかりをうけました」
辰と豆六は口あんぐり、佐七はだまって考えこんでいる。
鞘当《さやあ》て芸者と町娘
――お妻とお夏と、そしてお組と
「親分、あっしゃこんなくやしいことはねえ。あいつらぐるになって、あっしをこけにしやアがった。雷様に目がくらんで、ありもしねえ夢を見たなんて、親分、あっしゃこんなくやしいことはありません」
それからまもなく、小松屋の寮を出たきんちゃくの辰は、くやしがって、ポロポロ涙をこぼして泣いている。
「あっはっは、なにも泣くことはねえやな。だれもおまえが夢を見たなんて思ってやアしねえ」
「だって、さっき、親分が……」
「ああでもいわなきゃ、引っ込みがつかねえからよ。しかし、辰、豆六、こいつは面白くなりそうだぜ」
「えっ、親分、それじゃおまえさんは、あっしの話を信用してくださるんですね」
「兄い、心配しなはんな。いかに雷ぎらいちゅうたかて、まるで草双紙にでもありそうな話を創作でけるほど、あんたはんは空想力が発達してえしまへんさかいにな」
「豆六、ありがとうよ。おいら雷ぎれえは雷ぎれえだけどよ、だからといって、そのために、御用のことでうそをついたと思われるのがいちばんつれえ」
「兄い、ようわかってます。そやけど、親分、そうすると宗七のやつは、なんであないなうそをつきよったんだっしゃろ」
「それよ、辰、おまえのみたお高祖頭巾《こそずきん》というのは、どういうやつだ。あの宗七じゃなかったのか」
「とんでもない。宗七はあのとおり太っちょ、あれで女に化けちゃ化け物でさ」
「するとおかしい。宗七はどうやら寮をあけていたらしいが、では、なぜ寮をあけたとすなおにいわねえんだ。寮をあけたといったほうが、じぶんにとって得じゃねえか。その留守中に、だれかが娘をひっぱりこんで、さんざんおもちゃにしたあげく、殺したのかもしれませんが、わたしは留守をしておりましたから、なんにも存じませんといってしまえばいいはずだ」
「そやそや、そしたらアリバイが成立するはずや」
「しかし、親分、それにしても、娘の死骸はどうしやアがったんでしょう」
「それよ。それが出なきゃ話にならねえ。辰、おまえこれから東新堀へいって、小松屋を調べてみろ。小松屋のしりあいのもんで、きょう昼過ぎから、すがたをかくした娘がいねえか洗ってみろ。それから、ついでに宗七の身持ちも調べてみろ。あいつ、そうとう道楽もんらしいぜ。豆六、おまえも手伝ってやれ」
「おっとがてんだ。宗七のやつ、いまに目にもの見せてやらなきゃ……」
辰はがぜん元気回復した。
六間堀から籾蔵《もみぐら》のそばをぬけて、大橋のたもとで辰と豆六にわかれた佐七は、そのままお玉が池にかえってきたが、その辰と豆六が戦果をあげて、意気揚々と引きあげてきたのは、その夜もかれこれ九つ(十二時)ごろ。
「親分、どうやら娘の見当もつきました」
「やっぱり、怪しいのは宗七のやつや」
「なに、娘の見当がついた? そいつは大手柄だが、まあ、落ちついて話をしろ」
「へえ、親分、聞いてください、こうなんで」
と、そこで辰と豆六がこもごも語るを聞けばこうだった。
東新堀の小松屋のあるじは宗兵衛といって、女房のお稲とのあいだに子供がひとり、それが宗七である。ひとり息子の宗七は、二十まえから道楽の味をおぼえた。
その道楽のお師匠株ともいうべきが、霊岸島の質屋、銭屋のせがれの米三郎《よねさぶろう》。これはもう札つきの道楽息子だった。
「その米三郎の引きまわしで、あちこち遊びほうけているうちに、宗七のやつ、柳橋のお妻という妓《こ》と、ふかい仲になったんです」
「お妻だって……お夏じゃねえのか」
「いえ、親分、きょう会うたお夏ちゅうのんは、お妻の妹分やそうです」
「なるほど。それで、どうした」
ところが、その宗七に去年の暮れから、縁談がもちあがった。
なにしろ、ひとり息子のことだから、両親としてははやく身をかためさせたく、まえからいろいろな話があったが、お妻にのぼせあがっていた宗七は、いままでそんな話に耳もかさなかった。
ところが、こんどはどういう風の吹きまわしか、宗七もまんざらでない素振りなので、両親も大乗り気だった。
「それで、あいてというのはどこの娘だ」
「それが霊岸島の俵屋という大きな米屋の娘で、お組というんです」
「霊岸島といやア米三郎のちかくか」
「ちかくもちかく、親分、おんなじ町内だっせ」
「なるほど、それで縁談はまとまったのか」
「さあ。それが、もうひと息というところで、宗七が風邪をこじらせて寝こんじまったんです」
宗七の病気は、いまのことばでいえば肺炎だろう。予後がだいじだというので、深川へ出養生ということになり、縁談はいちじ、おあずけのかたちになっている。
「ところが、親分、そのお組が昼過ぎからゆくえがわからなくなったので、俵屋では夕方から大騒ぎをしているんです」
「それじゃ、辰、おまえがきょうみた娘というのは、俵屋のお組だというのか」
「そうです、そうです。としかっこうから器量から、それにちがいございません。だから、宗七のやつが怪しいというんです」
「きっと、寮へ呼びよせよって、あの大雷をこれさいわいと、ふたりで蚊帳のなかへはいっているうちに、味な気になりくさって、お組を長襦袢いちまいの裸にしてとち狂っているうちに、なにかのはずみで、しめ殺しよったにちがいおまへん。親分、こら、やっぱり兄いの勝ちや」
「しかし、辰、豆六、それじゃ、お高祖頭巾の女というのはどうなんだ」
「あっ、なアる。それがありましたねえ」
「辰、豆六、宗七はお組を嫁にするとして、柳橋のお妻のほうはどうする気なんだ」
「さあ、そこまではわかりませんが……」
「おおかた、切れるつもりでいたんやおまへんやろか」
「辰、豆六、そのお妻という女を洗ってみろ」
「親分、それじゃお高祖頭巾はお妻だとおっしゃるんで」
「いや、そう早合点してもいけねえが、宗七とそんなふかい仲になっていたお妻が、この縁談、指をくわえてみていたか、そこんとこを洗ってみろ。しかし、なににしても、死骸が出なくちゃ話にならねえ。いったい、だれが、どう始末をしやアがったのか」
その死体は、翌朝、隅田川の川口、永代橋から少しさがった葭《よし》の浮き州に流れよっているのが発見された。それははたして俵屋の娘のお組で、彼女ははでな長襦袢いちまいで、どろのなかによこたわっていた。
秋雨|葭《よし》の浮き州
――なんでもよっぽど鉄火な女で
「親分、まちがいありません。たしかにこの娘です」
そこは永代橋からすこし下流の、秋雨けむる葭《よし》の浮き州である。女の死体が見つかったときいて、佐七が辰と豆六をひきつれてわたっていくと、同心の岡部三十郎や、町役人が出張していて、ご検視もすんだところだった。
その役人たちにまじって、秋雨のなかにぼうぜんと立ちすくんでいる四、五人づれは、うわさをきいて駆けつけてきた俵屋のものだろう、みんなまっさおな顔をしていた。
佐七が死体をあらためて立ちあがると、
「ああ、もし」
と声をかけたのは、五十前後の、ひとめで大店《おおだな》のだんなとしれる人物だった。
「もしやおまえさんは、お玉が池の親分さんじゃアございませんか」
「いかにも、あっしゃお玉が池の佐七だが、そういうだんなは?」
「わたしは、霊岸島の俵屋のあるじで、彦十郎《ひこじゅうろう》ともうします。そこに殺されている娘の親で……」
「それは、それは……お嬢さんもとんだことで、まことにお気の毒でございます」
「はい」
と、彦十郎は目をうるませ、
「それについて、親分にお尋ねいたしたいことがございますんで。じつは、ご近所にすむ銭屋さんの若だんなで、米三郎さんというかたが、けさがた駆けつけてまいられまして、きけばお組さんのゆくえがわからないそうだが、なんでもきのう、お玉が池の親分さんの身内で、辰五郎さんというかたが、六間堀の小松屋さんの寮で、わかい娘がしめ殺されているのをごらんになったという話があるが、もしやそれではないかと……こう知らせてくださいましたが、親分、それはほんとうでございましょうか」
「さあ、そのことですがねえ」
と、佐七はどう返事をしたものかとかんがえていたが、こんなとき、だまっていられないのが豆六の性分で。
「だんな、そらほんまだっせ。ここにいるのんがその辰兄いだっけど、兄いはちゃんと見やはったんです。それやのに、小松屋の若だんなは、そんなあほなことあらへんちゅうて、がんばっていやはりまんねん。若だんな、いったい、どないな了見だっしゃろな」
「そして、小松屋の寮で殺されていた娘というのは……」
「へえ、まちがいございません。そこにいらっしゃるお嬢さんでしたよ」
彦十郎は藍《あい》をなすったような顔を番頭や手代と見あわせたが、そのはなしを小耳にはさんだのは、同心の岡部三十郎である。
「佐七、それじゃなにか、この娘は小松屋の寮で殺されたのか」
「だいたい、そうのようですね」
「そして、そのあとで川へ流されたんだな」
「おおかた、そうだと思います」
「それじゃ、下手人の当たりもつくだろう、小松屋のせがれはどうだ」
「まあ、まあ、だんな、そう短兵急におっしゃらねえで。あっしにも考えがございますから。もし、俵屋のだんな」
「はい」
「おたくのお嬢さんと小松屋の若だんなとは、ご縁談がすすんでいたそうですね」
「すすんでいたどころではございません。先日、結納もとりかわし、この秋には祝言をするはずになっていました」
「お嬢さんも若だんなも、ご承知だったんですね」
「承知どころか、娘はもう大よろこびでした」
佐七は辰や豆六と顔見あわせて、
「それで、若だんなのほうはどうでしょう」
「はい、親のくちからはいいにくいが、宗さんもまんざらではなかったようで。いつかも、わたしも道楽にあきたから、ここいらで身をかためたいと思っていたが、お組さんなら願ったりかなったりだと、喜んでいるような口ぶりでした」
「しかし、小松屋の若だんなは、お妻という芸者に熱くなっていたそうじゃありませんか」
彦十郎はふっと額をくもらせて、
「その女のことならきいておりました。しかし、宗さんのほうではとっくに熱がさめていたんです。ところが、女のほうに未練があって、ほかから嫁をもらうようなら、ただではおかぬとおどかしていたそうです。なんでも、よっぽど鉄火な女で……」
「若だんながそんなことをおっしゃったんですか」
「いえ、銭屋の米さんから聞いたんです」
「お嬢さんはきのう、むだんで家を出られたんですか」
「はい。それですから、あとで大騒ぎをしたんです。まさか、小松屋さんの寮へいってるとは思いませんでしたからね。小松屋の寮へいくんなら、なにも内緒にすることはなかったんです」
「でも、若だんなから内緒でこいという手紙をもらったら、お嬢さんはそうしたでしょうね」
「それはもう……あの娘は宗さんに夢中でしたから」
「なにか、そんなようすでも……?」
「はい、きのうの朝、うちの裏木戸のところで、どっかの丁稚《でっち》らしい小僧と、お組が立ちばなしをしているのを見たものがあるんです」
丁稚らしい小僧ときいて、佐七は辰や豆六と顔見合わせた。小松屋の寮番、仁兵衛を呼び出したのも、丁稚らしい小僧だったという。
そのとき、そばから、同心の岡部三十郎が口を出した。
「佐七、さっきから聞いていれば、怪しいのはお妻という女だ。ひとつ、そいつを挙げてみろ」
ところが、そのお妻も、あの大夕立いらい、姿をかくしてしまったのである。
怪|丁稚《でっち》、福松
――あんさんの目は節穴どうよう
「親分、いけません。お妻のゆくえはどうしてもわからねえんです」
「いったい、あいつ、どこへ潜りこみよったんだっしゃろな」
あの大雷雨の日からかぞえてもう六日。足をすりこ木にして駆けずりまわっていた辰と豆六、日暮れまえ、五里霧中という顔色でかえってきた。
「やっぱりわからねえか。いったい、どこへ雲隠れしやアがったか」
お妻は自前で代地河岸に家をもち、妹分のお夏と、お吉という内箱の三人でくらしていたが、あの大雷雨の日の昼過ぎから姿をくらましたきり、いまだにゆくえがしれないのである。
「ねえ、親分、こうして姿を消したところをみると、やっぱり下手人はお妻にちがいありませんぜ。お妻というなア姿のいい女だそうですが、お高祖頭巾の女がそうでしたからね」
しかし、それならお組をもてあそんだのはだれだろう。
佐七はだまって考えていたが、
「ときに、仁兵衛やお組をだまして呼びだした丁稚《でっち》というのはまだわからねえか」
「親分、そら、むりだすわ。このお江戸には掃いて捨てるほど丁稚がおりまっさかいな」
「それゃまあそうだが……」
佐七はにが笑いである。
「ときに、親分、小松屋のせがれはどうなんです。八丁堀のだんなにあげられたということだが」
「それがいけねえ。あいついまだに、あの日どこへも他出しなかった、いちにち寮におりましたと、いい張っているんだそうだ」
「畜生ッ、強情にもほどがある。あっしという生き証人がいるのを、なんと思っていやアがるんでしょう」
「だから、それにはそれで、なにかふかい子細があるにちがいねえ。これはおれの当て推量だが、あの日、宗七が寮をあけたことはたしかだ」
「そりゃ、あっしが何度もいったとおりで」
「まあ、だまってきけ。さて、寮をあけて、どこへいったか、あの大夕立のさなかに、どこでなにをしていたか、宗七としてはそれがいいたくねえんだな。だから、宗七としては、あの日はいちにちどこへも出ませんでした。いちにち寮でゴロゴロしておりましたと、シラを切りとおすつもりで、どこからか寮へかえってきたところが……」
「寮にゃアお組が殺されていた……」
「そやそや。そこで宗七はびっくり仰天、お組殺しをしらんちゅうたら、どこでなにをしてたかいわんならん。宗七はん、そこで進退きわまらはったんやな」
「そうよ。そこで、あの大雷雨をこれさいわいと、お組の死体を流してしまった。そして、あくまでどこへも外出しなかった。いちにち寮におりましたと、がんばりとおすつもりだったんだ」
「ところが、あにはからんや、そのまえに、あっしという目先のきく兄いがとびこんで、お組の死体をちゃんと見ていた。これ、すなわち、天網恢々《てんもうかいかい》というやつでさあ」
「兄い、ちょっと待っとくれやすや。天網恢々にはわても賛成やが、その目先のきく兄いちゅうのんは、どなたのことだんねん」
「おいらのこっちゃアねえか」
「あほらしい。あんさんの目が節穴どうようやさかいに、親分、こないに苦労してはりまんねんやないか」
「なにを!」
「まあいい、まあいい。しかし、豆六、辰がお組の死体を見ておいたというのは大手柄だ。それだけは認めてやれ」
「そらそうだす。わてかてそれを認めるにやぶさかやおまへん。もっとも、犬も歩けば棒にあたる、いいますけんどな。へっへっへ」
「この野郎、いわせておけばつべこべと、口のへらねえやつだ」
「まあいい、まあいい。そこで、宗七だが、まさかお玉が池の辰つぁんという目先のきく兄ちゃんが……」
「そのとおり、そのとおり」
「死体を見ていたとは気がつかねえ。どうせ下手人が名乗って出る気づかいはあるまいと、たかをくくって死体を流した。そして、知らぬ顔の半兵衛《はんべえ》をきめこむつもりでいたところへ」
「あっしという目先のきく生き証人が出現あそばした」
「そうそう。そこで宗ちゃん大弱り、といって、いまさら前言をひるがえすわけにもいかねえ。前言をひるがえすにゃ、どこでなにをしておりましたと、ちゃんとそれをいわなきゃならねえ。それが困るから、いまだにああしてがんばっているんだ」
「だけどねえ、親分、それほどまでにして隠さねばならぬことってなんでしょう」
「さあ、それがわからねえから、おれもこんなにじれているんだ。ときに、辰、豆六、お組というのはどうなんだ。いかに結納をとりかわしたとはいえ、祝言もすまぬ男から呼びだされ、ないしょでこっそり出向いていくというのは、大店《おおだな》の娘としては、あるまじきふるまいと思われるが……」
「親分、そのことですがね」
辰はにわかにひざをすすめて、
「お組てえのはとんだ食わせもんですぜ。町内の若いもんと浮き名をながしたことも、いちどや二度じゃねえそうで」
「おまけに、銭屋の道楽息子にもいかれてるちゅう話だっせ」
「なに、米三郎と……?」
「そうです、そうです。あいつ、とんだ女たらしで、だれにでも手を出しゃアがるんで」
「銭屋というのはものもちか」
「質屋としては、まあ、そうとうにやってますが、あいつ総領のくせに身がもてず、家業は妹婿にゆずって、じぶんは近所にいっけん家をもっての若隠居、したいほうだいのことをやってるんです」
佐七はまただまって考えこんだが、そこへとび込んできたのは、六間堀の寮番、仁兵衛である。
「親分、見つけましたよ。わたしをだまして寮からおびき出した小僧を見つけてきましたよ。おい、福松、こっちへはいれ」
仁兵衛にひっ立てられてはいってきたのは、やっと十か十一くらいにかわいい丁稚だ。しくしくベソをかいている。
「とっつぁん、どこでこの子を見つけたんだ」
「代地河岸のお妻の家から出てくるところを見つけたんです」
「お妻の家から……?」
「へえ、そうなんで。おととい、若だんながひっ立てられてから、わたしゃもう、くやしくてしようがありません。わたしさえ留守にしなければとおもうと、若だんなにも申し訳ございません。それにしても、だれがこんな悪法かいたのかと、煮つめていくとお妻です。そのお妻のゆくえがわからないと聞いたもんだから、わたしゃおとといから根気よく、お妻の家を見張っていたんです。すると、さっきこの小僧がやってきたんで」
「とっつぁん、それゃ大手柄だ。そして、この小僧さんはどこの丁稚だえ」
「横山町の地紙問屋、越前《えちぜん》屋に奉公してるそうですが、じつは親分、この子はお妻の妹分、お夏のじつの弟だそうです」
「なに、お夏の……? おい福松、それじゃおまえ、お夏姉さんにたのまれて、このとっつぁんや、俵屋のお嬢さんを呼び出したのか」
「ううん、親分、そうじゃありません」
福松は泣きじゃくりながら、
「うちの姉ちゃんはなんにも知らないんです。おいら、お妻ねえさんにたのまれたんです」
やっぱりそうかと、佐七は心にうなずいた。
これでなにもかもつじつまがあうようだ。福松をつかって仁兵衛を寮からおびき出し、そのあとへお組を呼びよせたのは、みんなお妻の策略らしい。
おそらく、宗七もなんらかの手段でお妻に呼びだされたのだろう。
そうしておいて、お妻は寮へでむいていき、宗七にあうつもりでやってきたお組を殺し、お高祖頭巾で辰の目をあざむいて、まんまと首尾よく逃げだしたのではないか。
こう考えると、万事つじつまがあうようなものの、ここで大きくひっかかってくるのは、お組のからだをもてあそんだ男の一件である。
辰のみたところでは、お組はさんざん男におもちゃにされたあげく、男がおもいをとげた瞬間、絞めころされたらしいといっている。
しかも、辰の鋭い観察によると、お組が抵抗したとおぼしい形跡はどこにもなかったから、彼女は腕ずく、力ずくで男に手込めにされたわけではなく、納得ずくで帯ひもといて男に抱かれ、さんざんうれしがらせてもらったあげく、無我夢中でのけぞっているところを、ぐっとひと絞め、絞めころされたらしいという。
辰ももうこの稼業《かぎょう》にはいってからそうとう年季がはいっている。ことに、こういうきわどいシーンの観察には、ひと一倍鋭いものをもっているという鼻息のあらいお兄いさまだ。そのことばを信用しないわけにはいかないだろう。
しかし、いずれにしても、この一件にお妻が一役かんでいることだけはたしかである。そのお妻のゆくえさえつきとめれば、しぜん男の正体も判明するはず。
あとはお妻のゆくえを探すだけだと、佐七はもうこの一件を解決したものと楽観していたが、あにはからんや、そこへ外からあわただしく駆けこんできたのは女房のお粂。その一言をきいたとたん、佐七は脳天からくさびをぶちこまれたようにおどろいた。
「おまえさん、たいへんだよ。いまそこで、八丁堀の岡部のだんなにあったんですが、このあいだ、お組さんの死体がながれよった葭の浮き州に、こんどはお妻さんの死体がながれよったから、おまえさんもすぐ出向くようにって。お妻さんも絞めころされているそうですよ」
殺人二重奏
――お妻の幽霊がヒュードロドロと
さあ、話がまたまたわからなくなってきた。このあいだの大雷がうそのように、その後連日のごとくビショビショと降りつづく秋の霖雨《りんう》にさらされて、葭の浮き州のどろのなかにはんぶん埋まったお妻の死体は、そろそろ腐りかけていたが、首のまわりのひものあとや、死体が水をのんでいないところから、お妻もまた、絞めころされたうえ、川のなかへ投げこまれたらしい。
お妻の死体の腐敗状態からして、彼女がくびり殺されたのも、お組とおなじじぶんだったのではないかと思われるのだが、死体をどんなに丹念に調べてみても、絞めころされるまえ、彼女が男とふざけていたらしいという跡は発見されなかった。
お妻の死体の腰にふとい綱がむすびつけてあるところをみると、下手人はおもしをつけて沈めたらしい。それが、なにかのはずみにおもしが解けて、死体が浮かびあがったばかりではなく、偶然にも、お組とおなじ場所へながれよったのであろう。
「ねえ、親分、これでわかったじゃアありませんか。宗七がなぜ出先をいわねえのか……宗七はどこか外でお妻にあってこれを殺し、川へ沈めやアがったんです。そうしておいて寮へかえると、こっちにゃお組が待っている」
「そやそや、そこでお組を生かしといたら、寮をあけたことがばれてしまいよる。そこで、これもひと絞め、絞めころしよったにちがいおまへん」
「しかし、豆六、そうすると宗七は、お組をころすまえに色事をしたというのか」
「そら、親分、いきがけの駄賃《だちん》ちゅうやおまへんか。それに、そうでも持ちかけんことには、お組も宗七の顔色をみて、警戒しとったかもしれまへん」
「そうだ、そうだ。こら、豆六のいうとおりだ。お組はなうてのいたずら娘。色にことよせゆだんをさせ、さんざんうれしがらせておいて、そのすきに……」
しかし、それだとすると、宗七という男は、鬼畜にもまさる残忍性を持った男ということになる。佐七にはそうはみえなかったが……。
「だが、辰、そうするとおまえの会ったお高祖頭巾《こそずきん》の女というのは、どういうことになるんだ。その女はいったい何者だえ」
「親分、それだす。わてがつらつら案ずるに……」
「ふむ、ふむ、てめえがつらつら案ずるに……?」
「そら、きっと幽霊だっせ」
「ゆ、幽霊……? 幽霊って、だれの幽霊だ」
「きまってまっしゃないか。お妻の幽霊だすがな。お妻の幽霊がヒュードロドロと、宗七のあと追いかけてきて、宗七をそそのかし、あないなえげつないことさせたあげく、絞めころさせてしまいよったんや。いや、そればっかりやおまへん」
「そればっかりじゃねえというと……?」
「兄いをあそこへおびきよせたんも、これすなわちお妻の亡魂のなせるわざ」
「げっ、し、しかし、それゃまたなぜに……」
「きまってまっしゃないか。宗七がお組の死体をながしてしまうと、なにもかもやみからやみへ葬られてしまいまっしゃろがな。そこで兄いを生き証人にしよちゅうわけで、宗七がしょい道具かなんかをとりにいったそのすきに、ドロンドロンと兄いを招きよせよったんだすがな」
「それじゃ、なにか、あの日の大雷も、お妻の亡魂のなせるわざか」
「さよさよ。ひょっとすると、あの日のわての腹くだりも、お妻の亡魂のなせるわざやったかもしれまへん。ても恐ろしきィ、怨念《おんねん》よなあ」
「バカ野郎、ひとがまじめに聞いていれゃア、いい気になりやアがって。ねえ、親分、あっしのあったお高祖頭巾の女は、幽霊なんかじゃアねえんでしょう」
と、佐七に同意をもとめているところをみると、辰はいくらか気味がわるいらしい。
佐七は当時の人間としては合理主義者で、怪力乱心を語らずのくちだから、ふだんならこんな話を聞こうものなら、豆六をしかりとばすところだが、きょうは妙にしんみりとして、
「そうよなあ、そういうことがねえとも限らねえ。ひとの恨みは恐ろしいからな」
とおいでなすったから、辰はドキッと顔色をかえて、
「げ、げ、げっ、そ、それじゃあっしが見たのは、お妻のゆ、幽霊……そ、そ、そんなバカな、そ、そ、そんなバカな!」
「そんなバカなちゅうたかて、親分やかてあないいうてはるやおまへんか。これというのも、兄いがしっかりその女ちゅうのんを見とどけておかんさかいや。ああ、桑原、桑原、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏」
お妻の死体をあらためると、すぐその足で舟をかえして、代地河岸へむかうとちゅうである。ひとのわるい豆六が、おひとよしの辰をからかって、さかんに怖がらせているうちに、舟は目的の代地河岸についた。
お妻のうちは舟つき場からとおくない。みがきこんだ格子をあけると、とんで出たのはお夏であった。
「親分さん、いま福松からききましたが、ねえさんが死んだというのは、ほんとのことでございますか。そんなはずはないんですが……」
と、ついすべらせたお夏のことばを、佐七は聞きのがさなかった。
「そんなはずはないとはどういうんだ。お妻は首をしめられて死んでいた。おれはこの目で見てきたんだ」
「だって、だって、ねえさんはここを出るとき、たしかに生きていたんです。ただ、当分死んだものになって身をかくすから、おまえもそのつもりで、だれにもいうなと……」
「おい、お夏!」
と、佐七の声がつよくなった。
「おまえ、なにかかくしているな。こうなったら、なにもかも正直に、どろをはいてしまいねえ」
「すみません、親分、そこではお話もできませんから、どうぞおあがりなすって」
「それじゃ、ちょっとおじゃまをしようか」
茶の間には福松がしょんぼりすわっていた。
「そうそう、福松がなにかふつごうをいたしましたそうで、いまはじめて話をきいて、びっくりして、しかっていたところでございます。なにぶんにも、子どものことですから、大目にみてやってください」
「福松のことは引きうけた。それより、いまの話はどういうんだ」
「はい」
お夏の話によるとこうである。
あの日、お夏も、内箱のお吉も、昼からおひまが出たというよりも、追いだされたのである。夕方までかえってはならぬという、お妻のきつい命令だった。
お夏はしかたなく、筋向いにある舟宿の二階であそんでいたが、そのうちにあのにわか荒れになった。
お夏はかえっておもしろがって、外の荒れもようを見ていると、小松屋の宗七が血相かえて、じぶんのうちの方角から、両国橋のほうへ走っていった。
その顔色がただごとではなかったので、お夏もはっと胸をつかれた。ちかごろ、宗七とお妻のなかが荒れていることをしっていたからである。
お夏は舟宿をとびだして、いそいで家へかえってみると、おくの四畳半に蚊帳がつってあったが、お妻はその蚊帳の外のつぎの間で、長襦袢いちまいでひっくりかえっていた。みると、のどをしめられたのか、紫色の指のあとがついていた。
お夏もいちじは、てっきり殺されたと思ったが、それでも気丈な彼女が介抱していると、まもなくお妻は息をふきかえしたのである。
「そのとき、ねえさんが、若だんなはどうしたとききますので、さっき血相かえて、走っていったといいますと、ねえさん、とっても意地のわるい笑いかたをして、若だんなはきっと、わたしを殺したと思っているにちがいない。よしよし、それではしばらく死んだものになって、身をかくしていてやろう。おまえこのことを、ひとにいっちゃいけないよと、身支度をすると、まだ大夕立のさなかを、ひとめを避けて出ていったんです」
佐七はおもわず目をみはった。
「ねえさんとしては、そうして当分若だんなをいじめてやろうという腹だったんです。ねえさんを殺したと思いこんでいるいじょう、若だんなもお組さんと夫婦になることはできまいと考えたんでしょう」
「それで、おまえはどうしたんだ」
「あたしとしては、それでは若だんながあまりお気の毒ですから、夕立があがるのを待って、そのことを若だんなにおしらせにいったんです」
「おまえ、若だんなに気があるんじゃねえのか」
「あら、いやな親分さん」
お夏は耳たぼまでまっ赤になったが、やがてしみじみとした調子で、
「若だんなはほんとうによいひとです。鷹揚《おうよう》でこせつかず、思いやりもあるかたです。でも、ごじぶんが正直なもんですから、ひとにだまされやすいかたなんです」
「よし、わかった。いつかおまえの気持ちが通じるときもあるだろう。それで、若だんなにしらせにいくと……」
「運悪く、寮のちかくで米さんに会って、いっしょにいったもんですから、つい言いそびれているうちに、親分さんがおみえになって、ひとごろしの話になったもんですから」
「それじゃ、小松屋の宗七は、いまだにお妻を殺したと思いこんでいるんだな」
「きっと、そうだと思います」
「ところで、お妻はどこへ身をかくしたんだ」
「さあ、それについては、ねえさん、なにもおっしゃいませんでしたが、ひょっとすると、米さんとこじゃないでしょうか」
「どうして、おまえ、そう考えるんだ」
「だって、若だんなとの仲がこじれてから、米さんがしじゅうやってきて、ねえさんをけしかけていたんですもの。ほんに、あんないけ好かないやつってありゃアしない」
これでどうやらあの日辰の会ったお高祖頭巾の女というのが、幽霊でなかったらしいことがハッキリしてきて、辰はおおいに安堵《あんど》の胸をなでおろしたが、とすると、あの女は何者だったのだろう。
幽霊お高祖頭巾
――夢中にさせてぐっとひと絞め
その翌日、お組の初七日にあたっていた。
俵屋では親類縁者をまねいて、しめやかに法要をいとなんだが、その席には小松屋の夫婦や、銭屋のどらむすこ、米三郎もまねかれていた。
米三郎は俵屋のあるじにすすめられるままに、おもわず酒をすごしたが、四つ半(十一時)ごろおひらきになったので、ほろ酔いきげんでわが家へかえると、裏木戸からなかへはいった。
米三郎は道楽がすぎての若隠居、本宅のちかくに別居しているのだが、ひともおかずにやもめぐらし、気がむくと自炊もするが、たいてい本宅へ出かけたり、金まわりのよさそうな友達にたかって、酒色の席へおともをするという、まるで野だいこみたいな生活ぶり。
しかし、本宅はかなりにやっているので、米三郎も住まいだけはそうとうりっぱで、庭もひろく、茶人めいたつくりであった。
米三郎はふらふらしながら、裏木戸からなかへはいって、水口のほうへまわろうとしたが、そこでとつぜん立ちすくんだ。
庭のすみの柳の下に、だれやらひとが立っている。米三郎はおびえたようにひとみをすえて、
「だ、だ、だれだ!」
と、声をかけたが、そのとたん、さやさやと柳の枝をゆすって、ふわりと宙にうくように、ひとかげが二、三歩まえへ出た。
月がよいので真昼のようにあかるい庭に、くっきりと影をおとしてうかびあがったのは、雨合羽にお高祖頭巾の女である。
米三郎の舌は、とつぜん、上あごにくっついてしまった。ひとみが宙にういて、くちびるがわなわなふるえた。それでも虚勢を張って、
「だ、だ、だれだ、てめえは……」
声をかけると、蚊の鳴くような声で、
「わたしです、あなたに殺されたお組です」
「な、な、なんだと!」
米三郎の目が、狂ったように血走ってくる。
「ひ、ひ、ひとをバカにするな。いったい、その合羽や頭巾を、どこから探し出しゃアがった」
「ここの柳の根もとふかく、おまえさんの手で埋めたんじゃありませんか。米さん、おまえはひどいひとですね。ひとをだましてさんざんおもちゃにしたあげく、わたしを夢中にさせておいて、そのすきに、ぐっとひと絞め」
「ち、畜生! てめえはだれだ!」
土をけってまっしぐら、女におどりかかろうとする寸前、
「米三郎、御用だ!」
力強い声がかかったかとおもうと、米三郎のからだは平ぐものようにこけにはっていた。
「米三郎、御用だ」
「神妙にしなはれや」
辰と豆六がおりかさなって、すばやくなわをかけたところへ、かけつけてきたのは俵屋の彦十郎と、小松屋の宗兵衛だ。
「あっ、親分、それじゃやっぱりこの男が……」
「そうですよ、俵屋のだんな、そこに立っている女のすがたを見てください」
「あっ、そ、それはたしかに、あの日、お組が着てでた雨合羽と頭巾……」
「そうでしょう。それがこの柳の根もとに埋めてあったんだから、こんなたしかな証拠はございますまい。やあ、ご苦労、ご苦労、さすがは踊りできたえただけあって、おまえの幽霊ぶりもそうとうなもんだぜ」
「あれ、いやな親分さん」
頭巾と雨合羽をとれば、それはお夏だった。米三郎はもう魂もぬけたような顔色で、ぐったりと土のうえにへたばっていた。
板ばさみ宗七
――よい子分を持ってわたしも仕合わせ
「米三郎はまえから、お組さんとできていたんです」
それからまもなく、米三郎の身柄を番屋へ引きわたした佐七は、俵屋の奥座敷へとってかえすと、俵屋の夫婦や小松屋の夫婦をまえにおいて、れいによってれいのごとくなぞ解きである。
そばには今夜の立て役者、お夏も神妙にひかえている。辰や豆六がひかえていることはいうまでもない。
「ところが、お組さんが小松屋の若だんなのところへお嫁にいくことになったので、若だんなにぞっこんほれているお妻をけしかけ、ふたりで悪法かいたんです」
「悪法とおっしゃいますと……?」
とききかえしたのは、小松屋宗兵衛。せがれ宗七がこの一件にどういう役割をはたしているのかわからないので、まだまだ不安に声をふるわせている。
「つまり、お妻の名前で若だんなを呼びだしたそのあとへ、お組さんを若だんなの名まえで六間堀の寮へよびだし、米三郎とあやしいふるまいにおよんでいるところへ、若だんながかえってくるようにしむけておく。そして、この縁談をぶっこわそうという寸法です」
「お組がその手にのったんですね」
そうため息をついたのは俵屋彦十郎。
「そうです、そうです。お妻の使いにだまされて、六間堀へ出向いていき、まんまとふたりのわなにひっかかったんです。ところが、いってみると若だんなはいなくって、米三郎が待っていた。おそらく、お組さんはすぐにも逃げてかえろうとしたでしょう。それを米三郎にどうくどかれて帯ひもといたか……」
「そら、いくらでもくどきかたはおまんな。ここでもういちど身をまかせてくれたら、いままでのことは一切、水にながして忘れてやるとか、もしそれでもいややというんやったら、なにもかもぶちまけてしもたるとか……」
「そうだ、そうだ。それに宗さん、いまごろお妻といっしょにねて、うめえことやってるにちがいねえとか……」
お高祖頭巾の女が幽霊でなかったとわかって、辰もがぜん元気をとりもどしている。
「そやそや、こら兄いのいうのんが、いちばん近いかもしれまへん。そうして、お組はんのやきもちをかきたてて、むこうがむこうなら、こっちゃもこっちゃやという気にならせよったんかもしれまへん。どうせお組はん、米三郎に弱みをにぎられてまっさかいにな」
「辰、豆六、そこまではいわぬがいい。俵屋のだんなやおかみさんの身にもなってあげろ」
と、佐七は辰や豆六をしかっておいて、
「そこで、まあ、ふたりでいろいろやっているうちに、米三郎がお組さんを絞め殺したのは、はじめからそのつもりでいたのか、それともかわいさあまってにくさが百倍と、ついそのときのもののはずみだったのか、そこまでは、あっしにもわかりかねますがね」
「しかし、お組のお高祖頭巾と合羽が柳の根もとから出てきたところをみると、下手人は米三郎と、これだけはハッキリしているわけですね」
俵屋の彦十郎はうめくような調子である。
「そうです、そうです。そのことですがね。なにしろ外はあの大雷雨、ぬれそぼれて歩いているとひとめにつきます。そこへもってきて米三郎は女形《おやま》のような優男。そこで、女に化けて逃げだそうとしているところへ、飛びこんできたのがこの辰五郎」
そこで佐七はにやりと笑うと、
「この辰五郎も、奥であんなことがあると知っていたら、もっとよく気をつけていたでしょうが、そんなこととは夢にもしらないから、さすが目先のきく辰も、まんまと一杯くわされたんです」
「いや、ごもっともで」
と、一同が異口同音に相づちをうったから、きんちゃくの辰は、
「えへん、えへん」
豆六はニヤリニヤリと笑っている。
「と、まあ、そういうわけで、米三郎はまんまと首尾よくその場はいったん逃げだしたんですね」
「そのあとへせがれがかえってきたというわけですか」
「そうです、そうです。ところが、若だんなのほうでも、出先でひと悶着《もんちゃく》あったわけです。お妻のやつは、内箱のお吉も、ここにいるお夏ちゃんも外へ追いだし、手ぐすねひいて待っているところへ、若だんながやってきた。そこへもってきて、おあつらえむきの大雷。さっそく蚊帳をつって色仕掛け、若だんなを蚊帳のなかへ引っぱりこもうとしたが、若だんなはもうその手にのらない。いろいろやっているうちに、こっちのほうでも若だんな、お妻ののどを絞めてしまった」
「そ、それじゃ、やっぱりせがれめが……」
小松屋の夫婦は首うなだれ、ぶるぶる小鬢《こびん》をふるわせている。
「と、まあ、若だんなは思ったんですね」
「と、おっしゃいますと……?」
「まあ、お聞きなさいまし。お妻ののどを絞めあげた若だんなは、むちゅうでそこをとび出して、六間堀の寮へかえってくると、あにはからんや、そこにはお組さんが殺されている。進退ここにきわまったりというのは、そのときの若だんなのことでしょう」
「それで、窮余の一策、せがれめはお組ちゃんの死体を川にながしたんですね」
小松屋の宗兵衛は声をふるわせた。
「そうです、そうです。まさか、下手人が名乗ってでる気遣いはございませんからね。それに、そのとき若だんなは、辰のような目先のきく男に、お組ちゃんの死体を見られているとはご存じなかったもんですから」
「そのとおり、そのとおり」
辰はおおいに悦にいっているが、こうなってくると豆六はやけてくるらしい。口とんがらせて、
「えへん、えへん」
「豆六、てめえは黙ってろ。若だんながそんな思いきったことをなすったのも、ひとえに、代地河岸へおもむいたことを隠しとおすつもりでいらしたんですが、あにはからんや、そのときお妻はまだ死んではいなかった」
「な、な、なんとおっしゃる」
「あっはっは、だんなもおかみさんもご安心なさいまし。ここにいるお夏が生き証人ですが、若だんながとびだしたあとで、お妻はいったん息を吹きかえしたそうです」
「お、親分、そ、それゃほんとうでございますか」
「だから、おかみさん、いったじゃありませんか。ここにいるお夏が生き証人だと。あとでお夏にたくさんお礼をおっしゃいまし」
「それじゃ、だれがお妻を……」
「俵屋のだんな、これもお夏が生き証人ですが、お妻はそのとき、若だんながじぶんを殺したものと早合点していらっしゃるのをさいわいに、当分、身をかくしていじめてやると、じぶんが生きているということをかたくこのお夏に口止めしておいて、それから米三郎のところへ相談にいくといって、代地河岸を出ていったそうです」
「それじゃ、そいつをまた米三郎が……?」
一同はおもわず慄然《りつぜん》として顔見合わせた。
「そうです、そうです。米三郎にとっちゃ、そのときのお妻は、とんで火にいる夏の虫。だって、お組ちゃんの殺されたことがわかりゃアお妻もだまってはおりますまい。お妻だって、まさか、お組ちゃんを殺してくれとまでは頼まなかったでしょうからね」
「それじゃ、お妻はまるで殺されにいったようなものですね」
「そういうことになりますね。しかも、お妻があさはかにも、小松屋の若だんながじぶんを殺したものだとばかり思いこんでいるなどといったんでしょう。そこで、これさいわいと絞めころして、おもしをつけて川へ沈めたんです。そうしておいて、六間堀へのこのこようすを見にいったんですから、あいつもそうとう強悪《ごうあく》ですぜ」
たまりかねたのか、小松屋のお稲は、わっとその場に泣き伏した。これで宗七の無実が晴れたので、うれし涙であったろう。
「いっぽうこのお夏ですが、かたく口止めされたとはいうものの、それじゃなんぼなんでも若だんながお気の毒だというんで、雨のあがるのを待って、それとなく注意にでむいたところ、途中でバッタリ米三郎といっしょになった。それでつい切り出しそびれているところへ、あっしたちが乗りこんできて、お組ちゃん殺しの話がもちあがってきたので、そのままいいそびれてしまったんです。まさか、お妻まで殺されていようとは、夢にも思っていなかったもんですからね」
「それじゃ、親分」
と、ひざのりだしたのは俵屋の彦十郎。
「お妻はじぶんが息を吹きかえしたということを、お夏にしられてるてえことを、米三郎にいってなかったんですね」
「それですよ、だんな、米三郎がそれを知っていたら、お夏はいままで生きちゃいますまい。とっくのむかしに米三郎の手にかかり、おもしをつけられ川の底……」
「あれ、まあ、怖い……」
お夏は、いまさら、危うかりしじぶんの立場に気がついて、くちびるの色までかわっていた。
「なるほど。それで親分は、米三郎の寮の柳の根もとから、お組の頭巾と合羽を掘りだし、お夏ちゃんにひと狂言うたせたんですね」
「いや、あの頭巾と合羽だけでも、米三郎をとっちめるにゃ十分でしたが、あの幽霊芝居はそこにいる豆六の入れ知恵なんで」
「あれ親分」
と、辰が口とんがらせてなにかいいかけるのを、佐七は頭からおさえつけるように、
「この豆六は上方者ゆえ、なにかというと、幽霊がどうのこうのといいだすんで。それから思いついたんですが、あれゃなかなか効き目がございましたよ。あっしもこうして辰のような目先のきくのと、豆六のような知恵者と、そろいもそろってふたりまで、よい子分をもって仕合わせものでさあ」
とたんに、辰と豆六、異口同音に、
「そのとおり、そのとおり、エヘン、エヘン」
米三郎の罪がきまったので、宗七は許されてかえったが、しかし、死体遺棄罪はまぬがれない。六間堀の寮で、手錠三十日をおおせつかったが、その六間堀の寮へ、
「若だんな、さぞご不自由でございましょう」
と、せっせとかよってくるのがお夏で、おおいに実意のあるところをみせたから、宗七はいうにおよばず、小松屋の夫婦も憎からずおもうようになった。
そこへ粋《いき》をきかせたのが俵屋のだんなで、だんだん調べてみると、娘の不身持ちがよくわかった。そういう娘を押しつけようとしたのはこっちの手落ち、しかし、どうしても宗さんとは縁組みをしたいから、もうひとりの娘を嫁にもらってくださいと、持ちかけた娘というのがだれあろう、俵屋でひきとって娘分ということにしたお夏だった。
小松屋の親子も憎からず思っていたやさきだから、これには異議なくお嫁にしたが、これがまた、たいそうよい嫁で、宗七の道楽もぷっつりやんだから、小松屋でもよい嫁をもらいあてたとよろこんでいるという。
いや、人間の運不運なんて、どこにあるものかわからないと、当時、江戸中の評判だった。
鶴《つる》の千番
縁起くじ鶴の千番
――だんな、残りくじを買って下さい
「これ、お近、どうしたもんだ。なにをそんなに、口ぎたなくののしっているんだ」
「おや、これは浜松屋のだんな。つまらないことがお耳にはいって、すみません。いえね、どこからはいってきたのか、このひとが、富札《とみふだ》を買ってくれと、うるさくてしようがないんですよ。これ、おまえさん、ここはおまえのくるところじゃない。いえさ、こちらは富札をお買いになるような、さもしいだんなじゃないんだから」
「そんなじゃけんなことをいわないで、ごしょうだから買ってください。いちまいだけ売れ残っているんです。どなたか、二朱捨てたとおもって奮発してください。残りものに福のたとえ、万一、当たらないものでもありません」
「そんなに当たりそうな札なら、おまえが取っておくがいいじゃないか」
「いけませんよ。それはおいらだって、これが当たるときまってたら、なにをおいても買うんだが」
「それごらんな。当たるかどうか、怪しいじゃないか」
「それゃ……そこが運だめしの富くじです。そんなじゃけんなことをいわないで、どなたか二朱、奮発してくださいまし」
厠《かわや》からのかえりがけに、こういう押し問答をきいて、ふと縁側に立ちどまったのは、浜松屋|幸兵衛《こうべえ》という人物。
浜松屋といえば、蔵前の札差《ふださし》でもゆうめいなものもちで、あるじの幸兵衛は、十八大通のひとりに数えられるくらい。四十の坂を五、六年むかしにこして、酸いも甘いもかみわけた粋人だった。
「おや、富札を売ろうというのはおまえさんかえ」
「はい、だんな、ごしょうですから、どうぞいちまい買ってください」
そういう男の顔をつくづくながめて、
「富札売りというものは、たいてい、よぼよぼのじいさんか、脂のぬけたばばあばかりだと思っていたのに、これゃめっぽういい男だ。ちょいと、みなさん。ごらんなさい。音羽屋の息子に生き写しの富くじ売りがまいりましたぜ」
という幸兵衛のことばに、座敷のなかで騒いでいた客が、いっせいにこちらを振りむいた。
ここはそのころ、向島で名だかかった料亭|植半《うえはん》のはなれ座敷。
あつまった客というのは、いずれも当代の粋人、通人だったが、そこへどうしてはいってきたのか、庭先へまぎれこんだのが、このわかい富札売りなので。幸兵衛のことばに、ものずきなのが二、三人、すだれのそとへ出てみると、なるほど、めっぽういい男だ。尾上松助の息子でいま売り出しざかりの栄三郎《えいさぶろう》にそっくりそのままという男ぶりである。
「なるほど、これゃ浜松屋さんのおっしゃるとおり、いい男だ。ちょいと、お蔦《つた》、こっちへきてみねえ。おまえがひいきにしている音羽屋の息子に、生き写しの富札売りがきているぜ」
と、客のひとりが座敷にむかって声をかけると、すだれのむこうでは芸者のお蔦が、
「バカねえ。そんなこといわないで、買うものなら、さっさと買ってあげればいいじゃありませんか」
「はっはっは、買ってあげればときやがった。いい男ときくと、ことばづかいから変わるから妙だ。ともかく、お蔦、こっちへ出ておいでよ」
「いや、いや、あたしゃむりやりお酒をしいられて、頭が痛くてしようがない。あまり騒がないでくださいよ」
お蔦はどういうものかうごかない。
富札売りはすっかりてれて、
「だんな、そんなにからかわないで、ごしょうだから買ってください」
「ああ、買いますよ、買いますとも。おまえのようないい男に、富札売りをさせておいちゃ罰があたる。総じまいにしてあげよう」
幸兵衛はふところから、鬼更紗《おにさらさ》の紙入れを取りだした。
「いえ、総じまいといっても、あといちまいしか残っちゃいませんので。はい、鶴の千番」
「おや、鶴の千番とは縁起がいい。それじゃこれは祝儀だよ」
二朱のほかに、いくらかもらった富札売りは、なんとなく、あとにこころが残るふぜいでかえっていったが、さあ、そのあとがまたひと騒ぎで。
「お蔦、どうしたんだ。わたしが呼んだのに、なぜ出てこなかった。ほんとに惜しいことをした。おまえとふたり、縁側にならべてみたかったよ」
「なにをいってるんです。かわいそうに、みなさんがあまりからかうものだから、あのひと、まっかになっていたじゃありませんか」
「おや、それじゃおまえも、よそながら見ていたのか。はっはっは、からかって悪かった。どうせこちらは敵役、阪東《ばんどう》善次というところさ」
「さよう、さよう、いまの男は、富札売りじつはと番付にあるやつで、こちとらがあんまりしつこくからかうと、なにがなんとと、きき腕とって左右に投げます」
「バカねえ」
と、お蔦はしかたなさそうに笑っていたが、なんとなくかたづかぬ面持ちだった。こちらのほうでは、浜松屋幸兵衛をなかにはさんで、
「浜松屋さん、おまえさん、富くじなんか買ってどうなさいます。もし、一の富でも突きあてたら、それこそ江戸じゅう大騒ぎになりますぜ」
「ほんにそうだ。こういうことは、えてして、えこひいきになりがちなもので、こちとらのように、のどから手が出そうなやつには当たらないで、浜松屋さんのように、馬に食わせるほどお金のあるひとにあたるもんだ。もしそうなったら、貧乏人にうらまれますぜ」
等々々というさわぎ。
現今でも宝くじがあって、射倖心《しゃこうしん》をあおっているが、江戸時代にも富くじ興行というのが、さかんにおこなわれた。
名目は、寺社の修理費にあてるというのだから、いちおう大義名分はたっているが、要するに一攫千金《いっかくせんきん》をゆめみる大衆の射倖心をあおろうというのだから、当今流行のギャンブルと、なんらかわるところはない。
したがって、弊害もおおく、為政者の方針によって、ときに消長もあったようだが、これがいちばんさかんにおこなわれたのが化政、すなわち人形佐七の活躍した文化文政時代だったといわれている。
なにしろ、江戸だけでも毎年、二、三十カ所の神社仏閣で富くじ興行がおこなわれたというから、たいへんな話だが、なかでも有名なのが谷中《やなか》感応院、目黒不動、湯島天神。
これを江戸の三富といって、毎月、あるいは年に数回興行があり、一の富を突きあてると、千両ということになっているが、じっさいは千両まるまるもらえるわけではなく、なにかと名目をつけて差し引かれるから、七百両とちょっとになったそうだが、それでも当時にとっては莫大《ばくだい》な財産である。
されば、富くじといえば、江戸っ子の目の色がかわるのもむりはなく、そこにさまざまな悲喜劇が、いまに伝えられているが、さて、いま浜松屋幸兵衛が、ひょんなはめから買わされたのは、来る八月十五日に富突きがあるという湯島の富札。
一同があまりわいわい騒ぐので、幸兵衛はにっこりわらって、
「はっはっは、まさかこれが当たるということはあるまいが、それじゃみなさん、こうしようじゃありませんか」
と、なにやらいわくありげにひざをすすめた。
当たりくじひょうたんから駒《こま》
――いい男の富くじ売りが血相かえて
さて、ここで、この植半《うえはん》のはなれ座敷にあつまった顔触れを、いちおうここで紹介しておこう。
まずだいいちにお蔦《つた》だが、これは当時柳橋でも、一といって二とはさがらぬ評判女。
年は十九、器量なら、気性なら、たしなみなら、ちかごろめずらしい芸者とあって、われこそは手折りて、手生けの花とながめんと、名乗りをあげた客も多かったが、これがまただいの男ぎらい。
たとえ黄金の山をつみ、百夜通《ももよがよ》いをつづけても、いっこううんと首をたてにふらないところがいよいよ評判となって、柳橋のお蔦といえば、江戸きっての人気者だった。
こうなると、客のほうでは、いよいよ昇りつめるものである。
虚々実々の策をもちいて、お蔦を射落とさんと熱心の客もおおかったが、なかでもいちばん熱心なのが、きょうあつまった五人の男。
まず、筆頭が蔵前のお大尽、浜松屋幸兵衛。これは、まえにいったとおりだが、そのつぎは狂歌師の阿漢兵衛《あかんべえ》。
このひとは本名を本田直次郎といって、身分はひくいがともかく旗本、しかも才識ともに一世に卓絶していた。しかし、身分がひくいから登用されない。そういうところから、世をすねて、ちかごろでは、もっぱら狂歌ざんまい、通人として名が高かった。
さて、そのつぎは浮世絵師の豊川|春麿《はるまろ》。
およそ美人画を描いて、このひとほどなまめかしいのは、たぐいまれだといわれたくらいで、あまりその姿態が人情の機微にふれているところから、その当時「ほんに憎いよ、春麿さん」ということばが、巷間《こうかん》に流布したくらいである。
いじょうの三人は、ともに四十の坂をこした年輩だが、さて四人目の柳下亭種貞《りゅうかていたねさだ》というのは、まだ白面の戯作者《げさくしゃ》、ちかごろあらわした『花紫|橘草紙《たちばなぞうし》』という合巻本がすばらしい人気で、読み本なら風琴、合巻本なら種貞と、いちやく、はやりっ子になりすました。
さて、最後にひかえたのが、いささかかわった人物で、年のころ二十七、八の人三《にんさん》化け七――というのはまだひいき目のほうで、およそ世の中に、これほど念のはいった顔はあるまいという、天下ごめんのぶおとこ。職業は彫金師だが、そのみちにかけちゃ名人といわれる叶千柳《かのうせんりゅう》。
さて、この五人がお蔦をまじえて、きょうここに集まったのは、こうして、いつまでも競争していてもきりがない。それより、いっそこの五人が同盟して、みんなお蔦から手をひくかわりに、ほかのだれにもお蔦に触らせないことにしようじゃないかと、へんな同盟もあったもんで、これを称して「お蔦にふれぬ会」。
当人のお蔦にしてみると、まことにくすぐったい話だが、五人の男はおおまじめだ。
ようやく話もまとまり、酒になったところで、富札の一件が持ちあがったのである。
「へえ、そして、浜松屋さん、おまえさんの考えというのは?」
こう水をむけたのは、浮世絵師の豊川春麿、すでに酒もだいぶはいっている。
「つまりこうするんです。この富札は、わたしひとりが買ったもんじゃない。ここにいる五人が買ったのだから、これが千両突きあてたら、五人が山分けということにしようじゃありませんか」
「おや、それはありがたい。すると、この富札があたったら、さしずめわたしのふところにも、二百両ころげこむというわけですね」
戯作者の柳下亭種貞は、もう一の富をあてたように喜んでいる。
天下ごめんのぶおとこといわれる彫金師の叶千柳は、さきほどから独酌《どくしゃく》で、ぐびぐび酒をのんでいたが、これをきくと青白んだ顔をあげ、
「なるほど、そいつは趣向だが、人間は老少不定、富突きまでにはまだ五日ある。もしそれまでに、ひとり死んだらどうします」
と、いやなことをいい出したから、さすが通人ぞろいの一同も、まゆをひそめたが、そこはさすがお大尽、幸兵衛はさりげなく笑うと、
「はっはっは、そいつはおもしろいところへ気がついた。それじゃこうしようじゃありませんか。もしひとりでも死んだら、あとは四人で山分けにする」
「ふたり死んだら?」
「三人で山分けさ。三人死んだら、ふたりで山分け」
「四人死んだらひとり占めか。こいつはおもしろい。それじゃ、みんな死んでくれると、おれのふところに、千両ころがりこむことになる」
つらもまずいが口もわるい、あくまで横車を押しとおそうとする千柳の毒舌に、植半のおかみお近はまゆをひそめて、
「千柳さん、なにをいうんだね。縁起でもない。いいかげんにしなさいよ」
「おっと、忘れていた。もし、浜松屋さん、そういうおれも死んでしまって、五人がいなくなったら、この富札はどういうことになりますか」
さすがの幸兵衛も、あいてがあまりしつこいので、まゆをひそめて黙っていたが、そのときやおら、ひざをのりだしたのは、狂歌師の阿漢兵衛。
「はっはっは、そのときにゃ千両をお蔦にやってしまうがいい」
と、この一言で万事はきまった。
「なるほど、それはいい考えだ。みんながおもいをかけているお蔦のふところへころげこむなら、死んでも本望というものだ。おかみさん、この証人はきっとおまえに申しつけたぜ」
と、叶千柳はぐっとひとみをすえていたが、お蔦はそれをきくと、いやなかおをして横をむいていた。
こうして、妙ないきさつから、みょうな約束がとりかわされたが、それから五日目のこと。いよいよ富突きの当日になると、湯島の境内はたいへんなさわぎで、富札を買った連中が、われもわれもと詰めかけるから、境内は身動きもならぬ大混雑。
さて、時刻ともなれば、拝殿のうえで、富突きということがはじまる。
これは、木札をいっぱいいれた箱を、がらがらまわしながら、側面の穴から世話役が、槍《やり》で木札を突きさすのである。
この突きあてられた木札がつまり当たりくじで、そのたびに、大太鼓をうって、あたり番号をひろうする。
ふつうこれは百回ついたものだそうで、百回目を突きどめといって、これがつまり一の富、千両もらえるわけである。
されば、しだいに突きすすんで、いよいよ突きどめになると、さしもひろい境内も、ぴたりとなりをしずめ、針一本おちる音でも聞かれたというくらいだ。やがて、そのなかへ、一の富の番号が大声でひろうされる。
「一の富のごひろう、つるの千番、つるの千番」
とたんにわっと群集がなだれを打ってかえしたが、その群集をつきのけはねのけ、真っ青になって境内からとび出していった男がある。
植半で浜松屋幸兵衛に、鶴の千番をうったあのいい男の富札売りだった。
一人頭二百五十両
――みすみす千柳の体を刻むようだ
ひょうたんから駒《こま》が出るとは、まったくこのことで、うっかり買った富札が、千両の富を突きあてたのだから、浜松屋幸兵衛をはじめとして、その場にいあわせた連中は、いずれも面くらったにちがいない。
さて、富突きのあったその晩、向島の植半へ、いいあわせたようにあつまったのは、幸兵衛を筆頭として、狂歌師の阿漢兵衛、浮世絵師の豊川春麿、戯作者の柳下亭種貞、さいごにお蔦もやってきたが、あのぶおとこの叶千柳だけは顔を出さない。
やがて、いつものはなれ座敷で酒になると、おかみのお近も顔をだして、
「このたびはまた、とんだことになりましたねえ」
と、なんとなくしずんだ顔である。
「ほんに、ひょんなことになりました。だからいわないことじゃない。千柳さんも、すこし口が過ぎるから、あんなことになりますのさ。あれがほんとうに、いい出しっぺのなんとやらでございます」
浮世絵師の春麿は、杯をおくと、はなをすすった。
「やっぱり、あれは虫が知らせたんでございましょうな。千柳の毒舌は通りものだが、あの日はすこし度がすぎました」
戯作者の柳下亭も、いつになく杯をひかえめに、みょうに舌のおもい口調である。
幸兵衛も阿漢兵衛も、じっと杯のなかを凝視したきり、口もきかない。なんとなく座がしらけて、あんどんの灯芯《とうしん》のもえる音ばかりが耳につく。お蔦は横を向いてそっと目頭をおさえていた。
それにしても、千両の富を突き当てたというのに、どうしてこんなに沈んでいるのか。また、富くじ仲間の叶千柳が、なぜこの席に顔をださないのか、――それにはつぎのような事情がある。
きょうから三日まえのことだった。
彫金師の叶千柳は、稼業《かぎょう》仲間のわかいものと、芝浦から舟をだしてきすづりに出かけた。きすづりといっても、どうせわかいもののことだから、魚は二のつぎで、海のうえでさわぐのが目的である。
舟のなかに、なべかま七輪の用意もよろしく、酒はすでに舟をこぎだしたじぶんからはじまっている。やがて、舟は品川沖へでていった。
ほんとにつりのすきな連中は、そこでつり糸をたれはじめたが、多くのものはどうでもよさそうに、酒ばかりのんでいた。
千柳などもそのくちで、舟にのるまえからほろ酔いきげんだったのが、そのご飲みつづけのさわぎつづけで、品川沖へ出たころには、すっかり酩酊《めいてい》のていだった。
そこへもってきて、その日はめっぽう残暑がきびしかった。うえからはかんかん照りつける。したからは波がはげしく揺りあげる。
千柳はこれでいくらか気がへんになっていたらしい。だしぬけにくるくると帯をといて、ふんどしいっぽんの赤裸になると、
「おらあちょっと泳いでくるぜ」
といったかと思うと、ふなべりを乗りこえて海のなかへドボーン。そのまま死骸もあがらないのである。
「千柳さんはほんとうに死んだのでございましょうか。あたし、なんだか、いまにもあのひとが、悪口をいいながらひょっこりやってきそうに思えてなりません」
お蔦は懐紙でそっと目頭をふいている。
兵衛もため息をついて、
「それだといいんだがなあ」
死骸はあがらなかったが、けっきょく、死んだにちがいないということになって、きょうがそのおとむらいだった。
ここにいる連中は、とりわけ懇意のあいだだから、みなその席につらなったが、読み売りのふれてくる湯島の富の当たり番号を聞いたのは、じつにそのお弔いの席だった。
なるほど、それでは寝覚めのわるい思いをするのも無理ではなかった。
「いやもう、こんなことをいくらいっても仕方がない。さっき春麿さんもいったとおり、いい出しっぺのなんとやら、あいつは、あまりうまくいいあてた。せめて、われわれが死ななかったのがしあわせさ」
阿漢兵衛が吐きすてるようにそういうと、おかみのお近もとりなし顔に、
「ほんにそうでございますよ。死んだひとのことを、いくら悔やんでもしかたがありません。それより、あのつるの千番のかたをおつけになったら」
「いや、おかみのことばだが、この金ばかりはまことに受け取りにくい」
兵衛はいやな顔をしていた。
「あら、そんなことをいってたら、きりがないじゃありませんか。じゃ、こうしましょう、あなたがたが受け取りにくいとおっしゃるなら、わたしがかわりにいってきますわ。ねえ、それならいいでしょう」
「ふむ、万事おかみにまかせるよ」
戯作者の柳下亭は、うつむいたまま、まずそうに魚の肉をせせっている。
「そうさせてくださいまし。せっかくの千両を宙に迷わせちゃ、冥利《みょうり》にあまる話じゃありませんか。わたしがかわりに受け取ってきて、みなさんにひとりあたり二百五十両ずつ……といいたいが、手数料やなんかで、いろいろ差し引かれるそうですから、ひとりあたりざっと百八十両、そういう約束でしたね」
「約束は約束だが、どうも気がすすまないね。みすみす千柳のからだを、四人できざむようだ」
「あら、兵衛先生、そんなことをおっしゃるもんじゃありませんよ。万事はこのお近が引き受けましたから、あなたがたは黙って、わたしのいうままになっていてください」
植半のおかみお近というのは、ものわかりのいい、世話好きな女だった。
「ふむ、それじゃまあ、そういうことにしてもらおうかね。え、みなさん、どうでしょう」
「そりゃこの富札の発頭人は浜松屋さんだから、おまえさんがそういうなら……」
兵衛先生もふしょうぶしょうの顔色だった。
「ああ、それじゃわたしにまかせてくださいますね。これでやっと落ち着きました。さあ、そう話がきまったら、ひとつ精進落としに、ここでわっとお騒ぎなさいまし。蔦ちゃん、ご苦労だけど、ひとつ三味線を持っておくれな」
「あい、そうしましょう」
と、お蔦は三味線を取りあげたが、いつものようなわけにはいかない。それでも四つ(十時)ごろまでには、いくらか一同元気づいたので、そこでお開きということになって、
「それじゃ、気をつけておいでなさいまし。土手っぷちは危のうございますから……」
お近とお蔦は門口まで送ってでたが、四人のうしろすがたのそれぞれに、なんだか暗い影がつきまとっているようで、おもわずぞくりとえり元をちぢめた。
ここしばらくつづいた天気がくだり坂になったのか、空には星影ひとつみえなかった。
浮世絵師豊川春麿が、中の郷のじぶんの住まいへかえるとちゅう、隅田川へ落ちて死んだのは、じつにその晩のことである。
叶千柳生死不明
――死霊より恐ろしい生き霊の仕業
「――と、そういうわけで、親分さん、わたしは怖くてたまりません。あの千両には死霊がついているんでしょうか」
その翌日のお昼過ぎ、神田お玉が池の佐七のところへ、顔色かえてやってきたのは、植半のお近である。男まさりのお近が、ひとみをすえているところをみると、よくよくおどろいたにちがいない。
佐七は富くじの話をはじめてきいて、
「ふむ、『ほんに憎いよ春麿さん』の師匠が、けさがた土左衛門《どざえもん》になって、大川端にあがったということは、おいらもさっき、読み売りの触れ口上できいたが、そうか、そんな妙ないきさつがあったのか」
「はい。千柳さんといい、春麿さんといい、そりゃ過ちといえば過ちですみそうですが、たった四日のあいだに、富くじのご連中がふたりまでつぎからつぎへと……ねえ、親分さん、やっぱり、死霊のたたりでございましょうか」
「さあ、死霊ならいいが、ひょっとすると、死霊よりもおそろしい生き霊の仕業かもしれねえ」
お近はぞっとしたように、
「親分さん、生き霊と申しますと……?」
「はっはっは、おかみにも似合わねえ。ひとりでもよけいに死ねば、それだけ生きのこった連中の分けまえが多くなるんだ。ほら、よくいうじゃねえか、金がかたきの世のなかと」
「あれ、親分さん、それじゃ、おまえさんはだれかがわけまえ欲しさに、千柳さんや春麿さんを……」
「と、おいらに聞くまでもねえ。おかみ、おまえだって内々そう思っているからこそ、おいらのところへ来たはずだ。まさか、死霊を縛ってくれというのじゃあるめえ」
そういわれると、お近は一言もない。まったく佐七のいうとおりで、お近はけさほど、春麿が土左衛門になってあがったといううわさを聞いたときから、目にみえぬ殺人鬼の影におののいているのだった。
「しかし、親分さん、あの富くじ仲間で生きのこっているご連中といえば、浜松屋のだんなに兵衛先生、それから柳下亭さんのこの三人、まさかあのひとたちが、そんな恐ろしいことをなさるとは思われません」
「そこが、おかみ、ひとは見かけによらぬものというところさ。人間せっぱつまったら、どんなことするかわかるもんか。それに、千柳というやつがある」
「え?」
「いま、おまえの話をきけば、千柳の死骸はまだあがらぬというじゃないか、人間の最期というやつは、はっきり死骸を見なきゃわからねえもんだ」
「まあ、それじゃ親分さんは、千柳さんがまだ生きているとおっしゃるのですか」
「と、まあ、これは話さ。春麿みてえに、ちゃんと帳消しになっているやつのほかは、みないちおう疑ってかからにゃならぬ。それに、お蔦《つた》だってそうだ。聞きゃ、五人が五人とも死ねば、千両まるまるお蔦のふところにはいるというじゃないか」
「まあだって、あのお蔦ちゃんが……」
「女だからできねえというのかえ。しかし、お蔦がみずから手をくださずとも、だれかにやらせるという法もある。男ぎらいでとおっている女だが、なに、知れたものじゃねえ。どこかにいいかわした男があるかもしれねえ。そいつにとっちゃ、いずれ女房にする女のふところへ、千両転げこんだら、こんなありがたい――おや、おかみ、どうかしたのか」
「いえ、あの、親分さんがあまり怖いことをおっしゃるもんですから……」
お近はあわてていいまぎらせたが、なぜか真っ青になっている。青いまゆねがふるえている。
佐七にじっとみつめられると、お近はあわてて目をそらし、
「あの、親分さん、それではわたしはどうしたものでございましょう」
「どうしたものとは……?」
「あの千両でございます。きょう湯島へいって、受け取っておくという約束でございますけど」
「そうよなあ」
佐七も首をかしげて、
「受け取るだけは受け取っておいたらどうだ。山わけにすることは、もう少しさきへのばすとしても」
「では、そういたしましょう。どうせ、わたしがわけると申しても、お受け取りになるようなお三人ではございません」
「そうよ。のどから手がでるほどほしくても、当分そうとはいえまいな」
「あれ、また、あんな怖いことを……」
お近は肩をふるわせて立ちあがった。そして、佐七とお粂にあいさつすると、逃げるように出ていったが、そのあいさつは妙に寂しそうだった。
なんだかひどく考え込んでいて、踏む足にも力がなかった。
あとでは佐七とお粂が顔を見合わせ、
「おまえさん、なんだか怖い話だねえ」
「ふむ。死霊か生き霊か、どちらにしても、この事件はこれだけじゃおさまるまいぜ。おい、辰、豆六、おまえたち、そこにいるか」
「へえ、万事はあちらで聞きました」
「なんやしらん、けったいな話だんなあ」
と、唐紙をあけてはいってきたのは、うらなりの豆六ときんちゃくの辰である。このふたりが面をださないことには、話が進まない。
「ふむ、聞いていたとありゃ好都合だ、辰」
「へえ、へえ」
「てめえはこれから、お蔦のいろというのを洗ってくれ。男ぎらいでとおっている女だが、いまおれがそのことをいったら、お近の顔色がかわりゃがった。よっぽどうまく隠しているにちがいねえから、まゆにつばをつけておけよ」
「おっとしょ」
「それから、豆六」
「へえ、へえ、わてはどんな役回りや」
「おめえはこのあいだ叶千柳といっしょに舟をこぎ出した連中を洗ってこい。千柳が海へ落ちたのはうそかまことか、そいつらの口裏をあつめりゃ、およその見当はつくだろう」
「おっと合点や。そんなら兄い、いきまほか」
と、辰と豆六がとびだしていったあと、佐七はもういちだお近から聞いた話を、あたまのなかでくりかえしていた。
雨夜の怪燃えるちょうちん
――飛び出したのはあの富札売り
さて、『ほんに憎いよ春麿さん』の春麿が、土左衛門と改名した顛末《てんまつ》というのはつぎのとおりだ。
昨夜、植半をいっしょにでた四人のうち、浜松屋幸兵衛と狂歌師の阿漢兵衛のふたりは、植半のまえから猪牙舟《ちょき》にのった。
兵衛先生は下谷御徒町《したやおかちまち》のすまいだから、蔵前にかえる幸兵衛に、両国まで送ってもらうことになったのだ。
いっぽう、春麿と柳下亭のふたりは駕籠《かご》だった。春麿の家はまえにもいったとおり中の郷だが、柳下亭は深川の木場に住んでいる。
さて、あとになって佐七が調べたところによると、みなまっすぐに、じぶんの家へかえったのは事実らしい。幸兵衛と阿漢兵衛は、両国まで舟でいっているし、柳下亭は木場まで駕籠で送られている。
当の本人春麿さえ、中の郷のうちの路地口まで、駕籠をのりつけているのだが、それがどういうものか、翌朝になると、大川端へ土左衛門と改名してうかびあがったのである。
春麿にはお岸という古女房があるが、亭主《ていしゅ》の外泊はまいどのことなので、べつに気にもとめなかったという。
しかし、それにしても、わが家の路地の入り口まで駕籠を乗りつけながら、わが家へ立ち寄らず、春麿はそれから、どこへ出かけたのだろう。そして、どうしてああいう災難にあったのだろう。そこのところがわからないのである。
さて、その夜は春麿のお通夜だった。
なにしろ、ほんに憎いよ春麿さんと、巷間《こうかん》、女わらべの口にまでうたわれるくらいの人気者だから、お通夜の客も多かった。
れいの富くじ五人の生きのこりの三人をはじめ、植半のお近、柳橋のお蔦《つた》も顔をだしたが、いずれも青い顔をして、ろくに口もきかない。
なにしろ、きのう千柳のお弔いを出したばかりだから、ウすがの通人粋人も、ひどい衝動をうけたらしい。日ごろのだじゃれもとばなかった。
さて、このお通夜がお開きになったのは、四つ半(十一時)ごろのこと。
なにしろ、いっときに大勢の客が立つものだから、せまい玄関はひとしきり大混雑だった。下駄《げた》をさがすもの、ちょうちんをさがす者、しばらくは大騒ぎだったが、やがてひとり立ち、ふたり立ちして、ようやくその混雑もおさまると、あとには幸兵衛、阿漢兵衛、お近、お蔦の四人がのこった。
この四人は、朝までお通夜をつづけるつもりなのである。
なにしろ、いっときに立ってしまったものだから、あとはむやみと寂しい。幸兵衛と阿漢兵衛のふたりは、無言のまま杯を重ねていたが、そのうちに、ふと幸兵衛が気がついたように、
「おや、柳下亭はどうしました?」
「はい、種貞さんはお仕事のほうが忙しいから、きょうは失礼させてもらうというごあいさつでございました」
春麿の女房お岸が、酒の燗《かん》をなおしながらこたえた。
「え? それじゃ柳下亭はかえったのかい」
兵衛先生もおどろいたようにききなおした。
「はい」
「ひとりで……?」
「そうらしゅうございました」
幸兵衛と阿漢兵衛はふと目を見かわした。お蔦もにわかにおびえたような目の色をする。
昨夜のことがあるから、なんとなく不安を感じたのもむりはない。
「あの、おかみさん、柳下亭さんは駕籠でございましたろうねえ」
お近も顔色がかわっている。
「いえ、あの、それが……みなさんのお立ちがいっときになりましたので、駕籠が出払ってしまって……」
お近はそれを聞くと、すらりと立ち上がった。
「みなさん、わたしがようすを見てまいりましょう」
「あら、おかみさん」
「まさか、そんなことはございますまいが、こうしていてはきりがありません。柳下亭さんのいく道は、たいがいわかっておりますから……蔦ちゃん」
「はい」
「おまえさんはおふたりのそばを離れるんじゃありませんよ」
「あれ、おかみさん」
お蔦はいまにも泣き出しそうな顔をした。
「バカだねえ。なんにもありゃしないさ。ほんの気休めにいってくるんじゃないか。じゃ、浜松屋のだんなも、兵衛先生も、朝までこの家をお出にならないで……ね、よござんすか」
男まさりのお近はきりりとすそをからげて表へ出たが、すぐまたかえってきて、
「おかみさん、すみませんが、傘《かさ》を一本貸してください」
「あれ、降ってまいりましたか」
「ええ、なんだかポツポツと……」
傘を借りたお近は、ちょうちんをぶらぶらさせながら、本降りにならないうちにと急いでいく。
中の郷といえば、それからずっとのちに、『梅暦《うめごよみ》』の丹次郎がわび住まいをしていたところで、そのじぶんはずいぶんと寂しいところであった。
これがお近だからいいようなものの、ほかの女なら、とてもひとりで夜道はできまい。
お近は中の郷から横川へ出ると、その川沿いをすたすたいそいで、小名木《おなぎ》川の橋をわたると、やがて大工町。もうこのへんから深川だ。そのじぶんから雨はだんだん本降りになってきた。
「チョッ、悪いときには仕方がないねえ」
いわゆる秋黴雨《あきついり》で、天候のさだまらない季節である。
お近が舌をならしながら、十間川の岸まできた。この川向こうが木場である。ひろい堀割りのなかには、夜目にもくろく材木がうかんでいる。
お近はここでふと、いつか柳下亭が自慢そうに話したことを思い出した。
幼いときから、木場にそだった柳下亭は、川並み(木場の材木仲仕)のように、材木のうえをわたって歩くのが上手なのである。
これは容易そうにみえて、なかなかむずかしいもので、なにしろ水のうえに浮いている材木から材木へとわたって歩くのだから、体の中心のとりかたがむずかしい。うっかり踏みはずしたり、材木の踏みどころがわるいと、水のなかへ振りおとされる。
木場そだちの柳下亭はこれがとくいで、回り道のめんどうなときなど、材木を渡って、堀をななめに突っ切るのだと、いつか自慢たらたらで話していた。お近はいまそれを思い出したのだ。
こんやのような晩に、そんな危ないことをしてくれなければよいが……と、堀のなかを見ながら歩いているうちに、プッツリと前鼻緒を切らした。
「まあ、いやだねえ」
おりもおりとて、お近はおもわず息をのんだ。にわかに胸騒ぎをおぼえて、いそいで鼻緒を立てようとうつむいたが、そのとたん、むこうのほうがぱっと明るくなったと思うと、きゃっというひとの叫び声。
お近がぎょっとして、顔をあげたときには、堀のなかはふたたびもとのうるしのやみにもどって、なんの物音もきこえない。
お近はもう、鼻緒を立てているのももどかしくなった。片手に下駄をぶらさげたまま、びっこひきひき、声のしたほうへやってくると、堀のなかからはい出してきた男が、いきなりお近の足もとにぶつかった。
「あれ!」
お近はあわてて二、三歩うしろへとびのくと、男の顔へちょうちんをさしつけたが、そのとたん、のけぞるようにからだを反らして、
「あっ、おまえは蓑《みの》さん?」
男はそれをきくと、そでで顔をかくしながら、いちもくさんに逃げだしたが、まぎれもなくその男こそ、いつかの富札売りだった。
してみると、お近はあの富札売りを知っているのだろうか。
お近はなんともいえぬおびえた顔色で、いま蓑さんのはい出した堀のほうへちょうちんを差し出したが、たちまちあっと立ちすくんだ。
五、六間向こうの材木のあいだに、男のからだが浮いている。
顔はみえないが、きものの縞柄《しまがら》からみて、たしかに柳下亭にちがいない。そばにははんぶん燃えたちょうちんが、ぷかぷかと……。
雨がきゅうに強くなってきた。
四人目は阿漢兵衛
――こよい四つ半植半の離れ座敷で
さあ、たいへんだ。
佐七はにわかに忙しくなった。もう辰や豆六あいてに冗談どころではない。
なにもしらぬ者からみれば、柳下亭の死にかたもやっぱり過失としかみえぬ。いつものように材木のうえを渡っているうちに、足を踏みはずして脾腹《ひばら》を打ったとしかみえない。
しかし、過失というものは、そうおあつらえむきに起こるものではないことを、佐七は知っている。
叶千柳からはじまって、わずか五日のあいだに、はや三人。いいあわせたように、妙な死にかたをしたのには、そこに重大な意味があるとみなければならぬ。人間の手がはたらいていると思わなければならぬ。
佐七はやっきとなっていた。血眼で関係者のあいだを走りまわっていた。
一刻もはやく下手人をあげなければ、これからさき、何人犠牲者があらわれるかもしれない。
これが切ったりなぐったりの人殺しとちがって、いかにも過失らしくみせかけてあるだけに、下手人のなみなみならぬ奸悪《かんあく》さがおもわれて、佐七は歯ぎしりがでるほどおそろしかった。
柳下亭の凶事を耳にすると、佐七はとるものもとりあえず、木場へかけつけた。きょうばかりは、辰と豆六もつれてこなかった。ふたりはふたりで、きのういいつけられた探索に、やっきとなって駆けずりまわっているのだ。
木場へつくと、かれはすぐに、柳下亭の死骸をみせてもらった。しかし、まえにもいったとおり、だれがみてもこれは過失死としか思えない。
紫色になった脾腹のあざ以外には、かすり傷ひとつなかった。ただ、指先がすこし黒くなっているのが、ふしぎといえばふしぎだったが、それくらいのことで人間が死ぬはずはない。
佐七はつぎに、柳下亭のさげていたちょうちんをみせてもらった。ちょうちんははんぶん燃えていたが、ろうそくをみるとほとんど燃えつくして、ただ蝋《ろう》ばかりが底の金具にへばりついている。
ひょっとするとろうそくが燃えつくして、真のやみになったひょうしに、足を踏みはずしたのではあるまいか。――そんなふうにも考えてみたが、ただそれだけのことでは合点がいかぬ。すくなくとも佐七のふにはおちなかった。
けっきょく、なんの得るところもなく、佐七はおもい胸を抱いて木場をでると、その足で中の郷の豊川春麿の家へおもむいた。
春麿の家では、きょうがお弔いで、家のなかはごったがえしていたが、佐七はむりやりに頼んで死体をみせてもらった。
しかし、これまたふつうの土左衛門で、首を絞められたようすもなければ、毒を飲まされたあともみえぬ。体じゅうあらためてみたが、どこにも傷らしいものもなかった。
佐七はとほうに暮れていたが、ふと思い出して、
「おかみさん、すまねえが、師匠の亡骸《なきがら》があがったとき、身につけていた品があったらみせてくれませんか」
「はい。身につけていたものといっても、タバコ入れやなんかは流れてしまったとみえて、この紙入れだけが胴巻きに残っておりました」
お岸の出してみせたのは、そのころめずらしい革づくりの紙入れだった。
開けてみると、紙切れが二、三枚。さいわい胴巻きにはいっていたので、たいしてぬれていない。佐七はたんねんにそれをひらいてみたが、料理屋のうけとりや絵草紙屋の注文状で、べつにめずらしいものでもない。
だが、さいごの一枚をひらいてみたとき、佐七の目は思わずぎらりと光った。
「こよい四つ半(十一時)植半の離れ座敷で」
ただそれだけで、差し出し人の名もなければ、受取人の名前もない。しかし、筆跡からおして差し出し人が男であることだけはわかった。
「いや、おじゃまをいたしました。いずれまたくるかもしれないが、きょうのところはこれで……」
と、中の郷をでると順だから、その足でやってきたのが木母寺《もくぼじ》わきの植半だ。
「まあ、親分さん、よくおいでくださいました。ほんにまた変なことができまして」
と、佐七の顔をみると、とんで出たのはおかみのお近だ。
みると、あおい顔をして頭痛膏《ずつうこう》をはっている。ゆうべはとうとう寝なかったらしい。
「いや、ほんに大変だったね。おまえさんがいちばんに、あの死体をみつけたというじゃないか」
「はい、気にかかって、あとを追っかけたんです」
「そうだってね。惜しいことをした。もう少し早けりゃ、あんなことにならなかったのに」
「ほんにそうですよ。あいにく鼻緒が切れちまって……思えば、あのとき、ばっとむこうが明るくなったのが、なにかの合図だったのでしょう」
「なに? むこうが明るくなった? それはいったいどういうわけだ」
そこで、お近はゆうべのことをくわしく話してきかせたが、どういうわけか、蓑《みの》さんという男のことだけは黙っていた。
「ふうむ。すると、むこうがぱっと明るくなると同時に、叫び声がきこえたというんだね。そして、その明かりはすぐ消えちまったんだね」
佐七はしばらく首をかしげていたが、思い出したように、ふところから取り出したのは、さっき春麿の紙入れから探しだした奇妙な手紙だ。
「おかみ、ちょっと見てくれ。おまえさん、この字に見おぼえはないかえ」
お近はその手紙をみると、ぎょっとしたような顔色だったが、すぐさあらぬていで、
「いいえ、存じません」
と、青い顔して首をふった。佐七はじっとその目をみながら、
「おかみ、隠しちゃいけねえ。この字は浜松屋か兵衛先生、それとも柳下亭か、叶千柳か、まさか春麿の字じゃあるめえな」
「いいえ、決してそんなことはございません。あのひとたちのお書きになったものなら、いくらでも家にございますから、どうぞお調べくださいまし。しかし、親分さん、その手紙がどうしたのでございます」
「それがおれにもよくわからねえんだ」
ふたりが探りあうように、たがいの目のなかをのぞきあっているところへ、表のほうからいきおいよく、お近の名をよぶ声がした。ふたりが、なにげなくみると、狂歌師の阿漢兵衛が、意気揚々と、馬にまたがっている。
「あら、先生、そのお姿は……?」
「なにさ、きょうは春麿のお弔いにきたんだが、駕籠はいやになったから馬にした。どうじゃ、おれもこうしているとりっぱなものじゃろう」
兵衛先生は鼻たかだかとわらったが、そのときなにに驚いたのか、乗馬がさっと棒立ちになったとおもうと、小梅のほうへまっしぐらに……。
「おやおや、先生、あんまり上手じゃないね」
ふたりはあっけに取られてみていたが、そのうちになにを思ったのか、
「しまった!」
とさけぶと、佐七がむちゅうで駆けだしたから、お近もようやく、ただごとではないことに気がついた。
ふつうの疾走とはちがっていた。
たてがみを振りみだし、首をぐるぐるまわしながら走っていく乗馬のようすは、どうしても気がくるったとしか思えない。
このままほっておいたら、どんな一大事が起こるかもしれないのだ。
奔馬は土手づたいに寺島から須崎《すさき》をぬけ、牛島のほとりまで走ったが、あたかもよし、そのときむこうからやってきたのは辰と豆六だ。
佐七はその姿をみるとむちゅうになって、
「辰、豆六、止めろ、その馬をとめろ」
声をかぎりに叫んだが、そのとたん、奔馬がつるりと前脚を滑らせたからたまらない。
はずみを食らって人馬もろとも、堤のうえから川のなかへまっさかさまに……。
騒ぎをきいてひとびとが駆けつけてきたときには、人も馬も、みごとに首の骨をおって死んでいた――。
四人目である。
残るひとりの浜松屋
――蓑さんおまえは恐ろしい人だね
阿漢兵衛の死骸はとりあえず植半へ担ぎこまれたが、それをみるとさすが気丈のお近も、歯の根もあわぬくらいだった。
春麿の葬式に列席していたひとびとも、急をきいて駆けつけてくる。そのなかには、浜松屋幸兵衛とお蔦《つた》もいたが、ふたりとも阿漢兵衛のむざんな死にざまをみると、放心したようにそこにへたばってしまった。
あいつぐ惨事に口もきけないという顔色だった。
そこへ、ひと足おくれてかえってきたのが人形佐七。辰と豆六から小声でなにか聞いていたが、やがてお蔦と幸兵衛のすがたをみると、
「どうも大変なことになりましたねえ」
と、ふたりのまえへ座をしめた。幸兵衛はうわずった目で佐七をみながら、
「おお、おまえさんがお玉が池の親分さんですか。わたしは、もう、どうしてよいかわかりません」
と、さすが剛腹なお大尽も、すっかり度を失ったていだった。
「いや、ごもっともでございます。順にいけば、こんどはおまえさんの番でございますからねえ」
「それが、親分さん」
と、幸兵衛はぐっと息をのみ、
「じつは、わたしももう少しで、やられるところでございました」
「なに、おまえさんも?」
「はい、これでございます。親分さん、これをみてください」
幸兵衛がふところから取りだしたのは、しわくちゃになった一枚の紙。佐七はそれをひらいてみて、思わずぎょっと息をのんだ。
「印籠《いんろう》のなかの薬をのんではいけません。すぐ捨ててしまいなさい」
文句も文句だが、佐七がそれよりおどろいたのはその筆跡だ。まぎれもなく、春麿の紙入れから発見した手紙と、おなじ筆跡なのである。
「なるほど。そして、その印籠というのは……」
「これでございます。わたしは心《しん》がよわいので、持薬にこれをのんでおります。しじゅうこの印籠をはなしたことはありません。けさもこれをのもうとしているところへ、家のものがこんな手紙が投げ込んであったと、持ってまいりましたのがその手紙で……」
「なるほど。それで……」
「なんだか気味が悪うございますから、のむのをやめて、ためしにねこになめさせてみますと?」
「ねこになめさせてみると……?」
「ころりとまいって……はい、まばたきをするひまもございませんでした」
そばで聞いていたお蔦は、いきなりわっと泣き出した。あまり恐ろしいことがつづくので、ヒステリーを起こしたのだろうか。
いつもならこういう場合、なぐさめいたわるお近だが、きょうは横をむいて知らぬ顔をしている。いや、それのみならず、なんともいえぬ憎々しげな顔色だった。
佐七はこういうようすを、それとなくうかがっていたが、やがてひざをすすめると、
「お蔦、おまえに聞きたいことがある」
お蔦はそれを聞くと、ぎくりと肩をふるわせたが、それでもやっぱり泣いている。
「こう、こう、お蔦、泣いてちゃいけねえ。おまえもかかりあいのひとりだ。富くじ五人組の四人まで死んでしまった。ここで浜松屋のだんなにもしものことがあれば、千両はおまえのものになる。そうなれば、しょせん詮議《せんぎ》はまぬがれねえ。お蔦、きよくなにもかもいってしまえ」
「親分さん、それはあんまりです、あんまりです。あたしゃそんな恐ろしいこと……」
「なにもおまえが手をくだしたといやアしねえ。おまえにゃおとこがあろう。蓑助《みのすけ》といって、おまえのおとっつぁんやおっかさんが大恩うけた木更津《きさらづ》のものもちのせがれだが、いまじゃ落ちぶれて、おまえの世話になっているいい男があるはずだ」
お蔦はさっとあおざめたが、ただくちびるをふるわすばかりで、剛情に押し黙っている。すると、このとき、
「蔦ちゃん!」
金切り声で呼びかけたのはお近だ。みると、柳眉《りゅうび》を逆立てて、目には殺気がみなぎっている。
「あたしゃおまえを見損なったよ。おまえばかりはそんなひとじゃないと思った。お玉が池の親分さんに、ああ図星をさされちゃ、しょせんもう逃れっこはない。なにもかもいっておしまい」
「あれ、おかみさん……」
お蔦がなにかいおうとしたが、そのままうなだれてしまう。
お近はいよいよいきり立って、
「いわないのかえ。いいよ。おまえがいわなきゃ、わたしがいってやる。蓑さんというひとは、両親にとって恩人だから、なんとかしてくださいと頼まれて、いままで面倒みてきたのが、わたしゃくやしい。こうなったら突きだしてやるからそうお思い」
お近はあらあらしく座敷を出ていったが、やがて引きずるようにつれてきたのは、まぎれもなくいつかの富くじ売りだ。
「あっ、おまえさんはこのあいだの……」
幸兵衛は目をみはっている。
お近は憎々しげに、
「そうですよ、富くじ売りですよ。女房のひいきがあつまっていると聞いて、富くじ売りに化けて、みなさんのようすを見にきたんですよ。ところが、そのとき、じぶんの売った富くじが千両にあたったところから、くやしさのあまり、あろうことかあるまいことか……」
「あれ、おかみさん、そんなこと……」
「蔦ちゃん、おまえは黙っておいで、蓑さん、おまえというひとは、ほんとうに恐ろしいひとだねえ。このあいだ、春麿師匠が死んだ晩、おまえは四つ半(十一時)過ぎにここへかえっておいでだったねえ。そのとき、おまえの顔色は、まるで生きている空はなかった。くちびるまでまっさおになり、妙に目をきょろきょろとさせてさ。あたしゃなにごとかと思ったが、おまえはそのまま蔦ちゃんと奥の離れへお引けだから、とうとうなにも聞けなかった。ところが、その翌朝になってみると、春麿師匠が川へはまって死んだという。あたしゃ思わずぎょっとして……」
と、お近はぐっと息をつき、
「そこで、お玉が池の親分さんのところへ、意見をおうかがいにあがりましたのさ。すると、親分さんも、蔦ちゃんの情夫《いろ》が怪しいとおっしゃる。あたしゃどうしようかと思ったが、それでもまさかと思っていたら、ゆうべ、柳下亭さんが死んだとき……蓑さん、おまえはあすこでなにをしていたのだえ」
蓑助は畳に両手をついたまま、あおい顔をして黙っている。
お蔦ははっとそばへ進みより、
「蓑さん、おまえ……おまえ……」
なにかいおうとするのを、
「黙ってろ!」
蓑助はものすごい顔をしてお蔦をにらみつけた。
「お蔦、なにもいうな。なにもいっちゃいけねえ。いらねえことに口出しすると、夫婦の縁もきょうかぎりだぞ」
お蔦はそれを聞くと、わっとその場に泣き伏した。蓑助はお近のほうへむきなおり、
「おかみさん、すみません」
と、ただそれだけ。これまた、畳に額をこすりつけて男泣きだった。
ても風流な真犯人
――きょうぞこの世を阿漢兵衛する
佐七はさきほどからこのようすをながめていたが、やがて、春麿の紙入れからみつけた手紙を、もういちどお近のまえに差し出して、
「おかみ、こうなったらもういってもいいだろう。じつは、この手紙は、春麿師匠の紙入れからみつけたのだ。春麿はいったん家のそばまでかえったが、この手紙が気になるもんだから、またそっとこの近所へ引きかえしてきて殺された。つまり、これは春麿をおびき出すための手段だったんだが、いったいこれはだれの手だえ」
「蓑さんの手でございます」
お近はいよいよ憎しみに燃える目で、蓑助の横顔をにらみながら、ちゅうちょなくいった。これを聞くと、佐七はにわかに笑い出して、
「蓑助さん、お蔦も泣くことはねえ。浜松屋のだんなが、おまえに礼をいいたいとおっしゃる」
「え?」
一同はびっくりして佐七の顔を見なおした。佐七はなおも笑いながら、
「おかみ、おまえも年がよったね。そう気がはやくちゃ困る。おれがお蔦に白状しろといったのは、情夫《いろ》をかくしていることさ。こういうことには、少しでもうそやかくしごとがあっちゃ詮議《せんぎ》がしにくい。それでことばを強めたが、だれも蓑さんを下手人だとはいやアしねえぜ」
「あら、それじゃ蓑さんは……?」
「下手人どころか、浜松屋さんがすんでことで殺されようとするのを、あやうく助けた恩人だ」
「え、え、え!」
お近はびっくり仰天、目をパチクリ。
「蓑さん、おまえは下手人を知ってるな。おおかた、春麿師匠が殺される現場をみたんだろう。そこで、おまえはかげながら柳下亭をまもろうとした。しかし、下手人のほうが一枚うわてで、おまえの力もおよばなかった。どうだ、蓑さん、もういいかげんに下手人の名前をいったらどうだ」
だが、蓑助は黙っている。
こんりんざい、口を割るまいという決心が、ありあり顔にあらわれている。お蔦はそばでやきもきしているが、なにかいおうとするたびに、蓑助がものすごい目でにらみつける。
「はっはっは、これだけいってもいわねえところをみると、下手人に、なにか義理があるな。よしよし、おまえがいわなくても、おれにゃちゃんとわかっている」
そのとき、お近がひざをすすめて、
「あの……親分さん、それじゃ蓑さんは下手人じゃなかったので」
「ちがうよ、おかみ、こういっちゃなんだが、蓑さんにゃあれだけ深い悪だくみをする知恵はねえ。こんどの下手人がどれほど悪賢いやつか、ここでひとつ絵解きをしてやろう。まあ、こうだ」
と、佐七は一同をながめながら、
「まずだいいちに春麿の一件だが、下手人がどうして春麿をこの近所へおびき出したのか……それにつかったのが、すなわちこの手紙だ。これは蓑さんがいつかお蔦にやったものだろうが、下手人はこいつを手に入れていた。そして、あの日、お蔦のたもとからおちたようにみせかけて、わざと春麿にひろわせたのだ。これをみると、春麿は心中はおだやかでない。みんなお蔦から手を引くと約束しながら、こよい四つ半ここで忍びあおうというのだから、春麿がおこったのもむりはない。名前がないからだれだかわからないが、ひとつ現場を取りおさえ、うんとはずかしめてやろうと、こっそり引きかえしてきたところを、これまた家へかえったようにみせかけて、引きかえしてきた下手人につかまり、むりやりに川のなかへ引きずりこまれたのだ。どうだ、蓑さん、ちがうかえ」
蓑助は黙っていたが、そのくちびるは真っ青で、からだはこまかくふるえている。
「さて、二番目は柳下亭だが、これまた恐ろしい悪だくみだ。下手人は柳下亭がいつも材木を渡ってかえることを知っていた。そこで、ろうそくのながさを、あの堀の近所で燃えつきるように切っておきゃアがった。おおかた、そのためにゃ、じぶんで中の郷から木場まで、ろうそくつけて歩いてみたにちがいねえ。そして、お通夜のごたごたにまぎれて、柳下亭のちょうちんに、あらかじめ長さをはかったろうそくを立てておいた。そうして、もう一本新しいやつを、ちょうちんのなかにほうりこんでおいたんだ。そんなこととは夢にもしらぬ柳下亭は、材木を渡っているうちにろうそくが燃え尽きそうになった。ここで火が消えちゃ材木は渡れねえから、新しいやつに火をつけたが、とたんにぱっと火花が散った。二本目のろうそくにゃ花火が仕込んであったのよ」
お近はあっと驚いた。
そういえば、あの明るさは花火だったことに、はじめて気がついたのである。
「柳下亭ならずとも、これじゃ驚くのがあたりまえ。まさか、そんなところで花火が燃えるという思いがけねえことだから、びっくりして、とびのくひょうしに足を踏みはずした……どうだ、蓑さん、そのとおりだろう」
蓑助はまるでふしぎなものでもみるように、佐七の顔をながめている。
「おれゃア柳下亭の指にくろいやけどがあるのをみたとき、花火のやけどじゃねえかと思ったが、まさかと考えなおしていたところ、おかみにむこうがぱっと明るくなったと聞いたから、さてはと思ったんだ。なんと、よく考えやがったものじゃないか」
「そして、親分さん、兵衛先生は……?」
お近はむちゅうでひざをのりだす。
「兵衛先生か? 兵衛先生がやられたのはこれよ」
佐七が手のひらにのせて差し出したのは、丸薬ぐらいの鉛の玉。
「これを馬の耳に投げこんだんだ。こいつが耳のなかでがらがら鳴るから、馬は気がくるったように走り出す。そこで、ああいう騒ぎが起こったのよ」
「しかし、しかし……だれがそれを投げ込んだんです。あのとき、馬のそばにはだれもいなかったじゃありませんか」
佐七はそれを聞くと大声をあげて笑った。
「そんなことがあるものか。いたよ」
「だれが……だれがいました。親分さんとわたしのほかに……」
「馬のうえに兵衛先生がいたはずだ」
「えっ」
これには一同、二の句もつげずに目をみはっている。
「まだわからないのかえ。兵衛先生は、春麿と柳下亭をしゅびよく殺した。浜松屋さんもいまごろは、印籠《いんろう》の薬をのんで死んでるじぶんだと思ったんだ。そこで安心して、じぶんもああして死んでしまった。蓑さん、ここまでいえば、おまえもすなおに白状しても、もう兵衛先生に義理は立とう」
「親分さん、恐れ入りました」
蓑助がすなおに両手をつくのをみると、お蔦は、わっと泣き出した。ただし、こんどのはうれし泣きである。
そこで蓑助が語ったところによると、かれの両親は木更津の資産家だったが、わかいころに百姓|一揆《いっき》の代表みたいなことをやって、あやうく首を切られるところを、当時、代官所へつとめていた兵衛先生こと本田直次郎に救われたのである。
だから、兵衛はとりもなおさず、蓑助にとっては両親の恩人だった。
その恩人が人殺しをするところをみたのだから、かれはどんなに驚いたろう。恩人の罪をあばくわけにはいかぬ。
といって、このままみすみすほっておくわけにはなおいかぬ。
そこで、お蔦に事情を話して、兵衛先生の挙動に注意させておいた。
お蔦もさすがに、ちょうちんのからくりには気がつかなかったが、お通夜の晩、印籠《いんろう》の中身をすりかえたことに気がついたので、さっそくこのことを蓑助に知らせた。
そこで、蓑助がああいうふみを浜松屋へ投げ込んだのだが、おかげで幸兵衛は、危ないところでいのちが助かったのである
「しかし、親分さん、あの千柳さんが海へ落ちたのはどうしたのでございます。あれもやっぱり兵衛先生のからくりで……?」
お近がふしぎそうにたずねると、佐七はにわかにからから笑って、
「いや、あればっかりはおれのしくじりだ。千柳が死んだのはまったく過失らしい。だが、兵衛先生がこんなに恐ろしいことを考えたのも、きっとそれから思いついたにちがいねえ」
佐七のことばは当たっていた。
そのご、兵衛先生の書斎をさがしたところ、つぎのような、奇妙な遺書が発見されたのである。
「余、すぐる年より肺をわずらい、とうていこの夏をすごしがたきむね、医者より申しわたされ候折りから、かのう千柳のさいごをきき、心はなはだなぐさまず、いっそひとおもいに死なんと思いそうらえども、ひとりいくは寂しければ、こころあいたる友を誘いて、
豊春の浜松やなぎ植えかえて
きょうぞこの世に阿漢兵衛する」
これには浜松屋もあおくなった。いかに仲よしとはいえ、冥途《めいど》まで誘われちゃたまらない。
それはさておき、れいの千両だが、こうけちがついちゃ幸兵衛も受け取る気になれぬ。
そこで、ぜんぶを貧民救恤《ひんみんきゅうじゅつ》に投げだして、そのかわり、じぶんのふところから出したべつの千両で、蓑助の生家を再興させてやった。
それと同時に、お蔦が蓑助の女房になったことはいうまでもないが、その世話をいってにひきうけたのは植半のお近という女で、お近という女はおこるとものすごいが、まことに世話好きな女だった。
そのお近がしみじみひとに語るには、
「わたしゃ、いままで世のなかに怖いものはなかったが、こんどというこんど、お玉が池の親分にはおそれいった。あのひとはほんとうに怖いよ。おまえさんも悪事をはたらくなら、あのひとが亡くなってからにおしよ」
くらやみ婿
処女懐胎
――しかも相手の男の顔も知らずに
佐七も職業柄、ずいぶんいろいろ事件をもちこまれるが、その日、甲州屋の番頭|喜兵衛《きへえ》がもちこんできた一件ほど、奇妙な捜索ごとははじめてだった。
甲州屋というのは神田|錦町《にしきちょう》の角屋敷に、数代ののれんをほこる呉服屋で、喜兵衛はそこの一番番頭である。
その喜兵衛がなにか屈託ありげな面持ちで、佐七のもとへやってきたのは、江戸の町々にはじめて薄霜をみた十月初旬のことである。
喜兵衛はなかなか用件をきりださず、さんざん佐七をじらせたが、それでもやっとおもい口をひらいて、
「お話というのはほかでもございません。じつは、うちのお松さまのことですが……」
「お松さまがどうかなさいましたか」
と、佐七は辰や豆六と顔見あわせた。
お松というのは甲州屋の総領娘、したに吉太郎という弟があるが、二十になるのにまだひとり身でいる。
江戸時代で二十といえば、娘もとうが立っている。
それも貧乏人の娘だとか、きりょうがとくべつわるいとかいうならともかく、甲州屋は江戸でも指をおれるぐらいの分限者である。
また、娘のお松は、錦町小町といわれるくらいのきりょうよし。それが二十になるまで、嫁にもいかずにすごしてきたのは、からだが弱かったからである。
お松は両親の老境にはいってからうまれたせいか、幼いときからひよわくて、医薬にしたしみがちだった。
ことに、年ごろになってからは、どこがどう悪いというのではないが、いつも顔色がすぐれず、はっきりしない。
いわゆる、ぶらぶら病というやつである。
甲州屋ではだんなの嘉右衛門《かえもん》も、女房のお早も、これにはいたく心をいためて、医者よ、薬よ、転地よと、金にあかせて養生にことかかなかったが、こればかりは金で買えないとみえて、はかばかしい効能もみえなかった。
なにしろ、あいてはなだいの分限者、それに当人はきりょうよしときているから、からだのよわいのも承知のうえで、嫁にもらおう、婿にいこうと縁談の口はふるほどあるが、両親にしてみれば、目のなかへいれても痛くないほどのかわいい娘、あのからだで亭主《ていしゅ》をもたせて、もしものことがあってはと、年寄りのとりこし苦労がさきに立って、二の足を踏みつづけているうちに、お松はいつか二十になって、そろそろ世間の口のはにのぼりかけていた。
「はい、そのお松さまがねえ……」
と、喜兵衛はキセルをひねくりまわしながら、そこでまた話がつかえて、あとのことばが出なかった。佐七はじりじりするのをやっとおさえて、
「そういえば、ちかごろまた、お松さまの姿がみえませんが、どこかへ出養生でも……」
「さあ、それが……」
「ねえ、番頭さん、おたくのだんなやおかみさん、少しとりこし苦労が過ぎゃアしませんか。よわい、よわいといったところで、どこにご病気があるというわけじゃなし、いっそ思いきって、ご亭主をおもたせなすったら……と、うちのかかあなどもいってるんですよ。娘のじぶんにゃ弱かったが、亭主を持ってから、ずんと丈夫になったという話がよくありますからね」
「いや、ごもっともで……ところが、そういうわけにもいかなくなりましたので……」
「というのは……?」
「それが、まことにはや、面目しだいもございませんが、お松さまは、いま、そのなんでございまして……つまり、身重なんで……」
いいにくそうに打ちあける喜兵衛のことばに、佐七をはじめ辰と豆六、おもわず大きく目をみはった。
となりの部屋で縫い物をしていた女房のお粂も、ぎょっとしたようにふりかえる。
「ほほう、そ、それは……」
と、佐七も二の句がつげず、あいての顔を見なおしている。
なんのために、こんな話を持ちこんできたのか、真意をはかりかねたからである。
喜兵衛はひや汗をふきながら、
「まことに面目ない話でございますが、こんなことは遅かれ早かれ、世間にしれることですから、親分になにもかも打ちあけ、そのうえで、相談にのっていただきたいと思ってまいりましたのですが、お松さまはもう五カ月、そろそろひと目につくおからだでございますから、向島の寮へおいでになっておりますんで」
「なるほど。それで、あっしに相談というのは……?」
「はい、それはなんでございます、親分にお松さまのあいてを、さがしていただきたいんで」
「お松さまのあいてをさがせ……?」
佐七はおおきく目をみはって、
「そりゃアまた異なお頼みですが、そんなことならあっしが乗りだすまでもなく、お松さまにおたずねになったら……?」
「ところが、お松さまも、あいてをどこのどなたとも、ご存じないのでございます」
「えっ、そ、それじゃ、どこのだれとも知らずに、お松さまは……?」
「はい、まことにどうも、とんだ話で……お松さまはあいてをどこのだれとも知らぬばかりか、どんな男か、顔かたちさえもご存じないので……親分、きいてください、こういうわけで……」
忠義者の喜兵衛は汗びっしょり、穴あらばはいりたいようなかっこうで、打ち明けたのはこういう話である。
たもとの投げぶみ
――会ってくれねば病気で死にます
この春、お松はぶらぶら病がこうじて、ことのほかからだの調子がわるかった。顔色がすぐれず、寝汗がでて、食事もすすまず、からだがいよいよやせ細った。
両親も心配して、いろいろ手をつくしてみたが、一向にききめがない。そこで、医者のすすめによって、出養生をすることになったが、それも江戸の近所では、ききめがうすいというので、甲州街道の府中へ、転地療養することになった。
府中がえらばれたのは、母のお早の実家が、そこにあるからである。
お早の実家は府中の大庄屋《おおしょうや》で、あるじの甚右衛門《じんえもん》は、お早の兄にあたっている。つまり、お松は伯父《おじ》のところに預けられることになったが、おともにはお咲という乳母と、おきんという若い女中がついていた。
お松が府中へいったのは、そろそろ麦の穂が出ようという四月なかばのことだったが、はじめて暮らす田舎の空気がよかったのか、お松の健康は目にみえて回復した。
食事もすすみ、血色もよくなり、十日もすると女中のおきんを供につれて、多摩川べりをそぞろ歩きするまでになっていた。
そのころ、お松はひとりの男と心やすくなっていた。
心やすくなったといっても、そこは箱入り娘のこと、うちとけて話をしたというわけではなく、そぞろ歩きのゆきずりに、目が口ほどにものをいって、ほおをあからめるていどだったが、あいては年ごろ二十一、二、絵にかいたような美男であった。
みたところ、町人や百姓ではない。
もうそろそろ汗ばむ時候のこととて、上布の着流しに博多《はかた》の帯、月代《さかやき》の少しのびているところが、色の白さを引き立てて、水の垂れるようなうつくしさ。
いつもつり竿《ざお》片手に、魚籠《びく》を提げているところをみると、よほど無聊《ぶりょう》に苦しんでいるらしい。
お松はいつかその男を、六所明神の神官のもとに寄食している玉木新三郎という浪人者であることをしっていた。
お松がその新三郎とはじめて口をきいたのは、彼女が府中へきてからひと月ほどたった五月はじめのことである。
その日、お松はおきんもつれず、ただひとり、六所明神の境内をあるいていた。
六所明神とはすなわちいまの大国魂《おおくにたま》神社、お社の入り口から随身門へいたるまで一町あまり、道の左右には、幾抱えもあろうという大木の森が、亭々《ていてい》として天にそびえている。そして、その森のこずえに、さぎやからすがむらがっているのが名物になっている。
お松はその参道をそぞろ歩きしていたが、するとだしぬけに、森のなかから出てきたのは、玉木新三郎だった。
「お松どの、あなたはお庄屋どののところへ来ておられるお松どのでしょう」
だしぬけに声かけられて、お松はまっかになりながら、それでも、
「はい……」
と、蚊のなくような声でこたえると、新三郎はにっこりわらって、あたりを見まわしながら、
「わたしはこちらの神主様にごやっかいになっている玉木新三郎と申すもの。これを読んでみてください」
たもとのなかへ、手紙のようなものを投げこんだから、お松は驚きと羞恥《しゅうち》のために、体中が火のようにもえて、あわててその場をにげだした。
その夜、お松は乳母のお咲や、女中のおきんが寝しずまるのを待って、そっとその手紙をだして読んだが、それには、つぎのような意味のことが書いてあった。
きたる五月五日は六所明神のくらやみ祭り、おみこしがお社をでると同時に、町中あかりを消してまっくらになるから、そのあいだに家をぬけだし、宿はずれの庚申堂《こうしんどう》まできてほしい、ゆっくり話をしたいことがある。返事はいらぬが、もしこの願いがきいてもらえなかったら、じぶんはきっと病気になって死ぬだろう……。
と、べつに甘いことばは書いてなかったが、あきらかに恋文、会い状である。お松は手紙を抱きしめて、その晩眠れなかった。
「それでは、お松様はくらやみ祭りの晩、おでかけになったのでございますか」
佐七がたずねると、喜兵衛はため息をついて、
「はい、日ごろはそんなはしたないかたではございませんが、その晩は、魔がさしたとでもいうのでしょうか、ついふらふらと……」
六所明神のくらやみ祭りは、天下にきこえたお祭りで、江戸からわざわざ見物にでかけるくらい、本宿、新宿、番場宿と三つにわかれた宿も、諸国からあつまる見物のために満員になり、運のわるい客はことわられるくらいである。
祭りは五月五日の夜四つ(十時)ごろよりはじまる。
神主のうちならす太鼓の音とともにあかりがきえると、まっくらがりのなかを、おみこしがわたるのである。
そして、ぶじに式がおわって、おみこしが明神へ還幸するのが八つ(午前二時)ごろ。ふたたび、神主のうちならす太鼓の音とともに、町中のあかりがいっせいにつくのが、さきほどまでの暗やみにひきくらべて、目のさめるほどの華やかさだった。
お松は手紙を読んだものの、まだどちらとも決心をつけかねていたのが、町中のともしびがきえたせつな、ついふらふらと家を抜けだした。
あいびきほたる
――お松よう会いにきてくれたな
江戸時代の五月五日といえば、ちょうど入梅時である。
その晩も、空がくもってまっくらだったが、さいわいまえの晩、乳母のお咲や、女中のおきんとほたる狩りをして、とったほたるが籠《かご》のなかへいれてあったので、お松はそのほたる籠を、ちょうちんがわりにぶらさげていった。
宿はずれの庚申堂《こうしんどう》までくると、さすがにそのへんには見物のすがたもみえず、きつねのなきそうな寂しさだった。
お松はふるえる指できつね格子をひらいたが、そのとき、もっていたほたる籠をとりおとしたので、ほたるがパッと四方八方にとびちって、いっしゅんやみのなかに、絢爛《けんらん》たる花火をえがいた。
すると、そのほたるの光でお松の顔がみえたのか、まっくらなお堂のおくから、ものに狂ったような男の声で、
「あっ、お、お松! お松! お松じゃないか!」
お松はさすがにためらって、一瞬、そこに立ちすくんだが、男はよろこびに声をうわずらせて、
「お松! お松……! よう会いにきてくれたな。さ、さ、はやく、こちらへ……」
うわずった男の声の熱っぽさに、お松もカーッと血がのぼった。
われを忘れて、庚申堂のなかへはいっていくと、
「新さま……」
と、蚊のなくような声で呼びながら、くらやみのなかを手さぐりで、声のするほうへすりよっていくと、男がやにわに手をとって、ズルズルとひざのうえに抱きあげた。
「あれ……」
と、お松は口のなかでさけんだが、男につよい力で抱きすくめられると、ただそれだけで、お松はもう息もつまりそうなほどの切なさだった。
「お松! お松……! ようきてくれたな……よう会いにきてくれたな。こんな……うれしいことはない……」
男ははげしい息づかいをしながら、まるでものに狂ったようであった。つよい感動と、激情のあらしに圧倒されたのか、男のからだはガタガタふるえ、ひざのうえに横抱きにしたお松のからだを、力いっぱい抱きしめ、抱きしめ、なにかにつかれたかのように、お松のほうにほおずりしていたが、
「お松、口を……口を……」
と、うわごとのようにつぶやきながら、男が口をもとめてきたとき、お松はあいての息が酒臭いことに気がついた。しかし、それがかえってお松を気楽にしていた。男もしらふでは会いにくかったのだろう。酒の勢いに力をかりねば面はゆいのだろう……そういう男がいじらしくて、お松もいつか男の首に手をまわし、
「新さま……」
甘い、うわずった声でささやきながら、男のもとめるままに口をむけると、男はまるで飢えたもののように、むさぼり吸った。お松はそのうちに、男の右手がしたへのびて、じぶんのうちぶところをさぐろうとしていることに気がついて、
「あら!」
と叫ぼうとしたが、男に口をふさがれているので、声をだすことができなかった。しかも、お松は、はじめて口にした男の舌を、むげに突きはなすのがはばかられた。
お松は身をもって男の右手をこばもうとしたが、男はいっさいおかまいなしに、それがまるで当然のことのように、お松のからだをひらかせると、わがもの顔にふるまいはじめた。
そうなのだ。
そのとき、お松がたわいなく男のペースにのってしまったのは、あいてがすべて、それが当然のことのようにふるまったからである。
そこにはなんの遅疑もなく、逡巡《しゅんじゅん》もなかった。ほれあった男が女にしむけていく当然の行事として、なんのためらいもなく、段取りをはこんでいったから、お松はかえって、日ごろの羞恥《しゅうち》もたしなみも、忘れやすかったのである。
お松はしばらく男のなすがままにまかせているうちに、切ないほど息がはずみ、体内の血がたぎりにたぎって、身のおきどころがなくなった。男もおなじ思いであったろう。
「そ、そ、そうか、そうか、よいわ、よいわ」
男も息をあえがせながら、力強くつぶやくと、お松をあおむけにおしたおし、うえからしっかり抱きすくめると、これまた、当然のことのようにふるまいはじめた。
お松はいっしゅん、下半身を引きさかれるような、はげしい苦痛をおぼえたが、そんなことにはおかまいなしに、男は血気にはやりにはやって、遮二無二《しゃにむに》、短兵急である。
お松はしばらく、歯をくいしばって辛抱していたが、しかし、早熟で、早婚なその時代に、二十歳までおあずけされた女のからだの、男のあたえるたくましい鼓舞鞭撻《こぶべんたつ》にたいする感応のめざめはすみやかだった。
まもなく、お松の体内に、世にも甘美な雪崩が起こりはじめた。そして、いったん起こりはじめた女の雪崩は、男のあたえる刺激によって、急速に解けて、流れて、満ちて、あふれた。
お松はいつか膚もあらわに、
「新さま……! 新さま……!」
と、絶叫しながら息をあえがせ、男の首を力いっぱい抱きしめていた。
逃げおくれたほたるが、二匹、三匹、お堂のなかの壁にとまって、息づくように明滅している……。
「……と、まあ、そういうわけで、お松さまはとうとうその男とその晩そこで契りをむすばれたのだそうでございますが、くらやみ祭りのおわるまえ、男よりひと足さきに庚申堂をでられたので、とうとう男の顔は、見ずじまいだったそうでございます」
「なるほど、なるほど、それはまたとんだことで……」
と、佐七はおもわず、辰や豆六と顔見合わせる。
「はあ。ところが、ちょうどそのころ、錦町のお店では、そのじぶん床に伏せっていらっしゃったご隠居さま……だんなのおふくろ様のごようすが、きゅうに悪くなりましたので、手代の銀造というものを、府中まで迎えにさしむけたのでございます」
「はあ、なるほど。それで……?」
「銀造はくらやみ祭りのおわったじぶん、甚右衛門さまのお宅へたどりついたそうでございます。そして、翌六日、お松さまのお供をして、江戸へかえってまいりました。ご隠居さまはそれから三日のちにお亡くなりなさいましたが、お松さまはさいわい、おからだの調子もおよろしいので、それっきり、こちらにいらっしゃることになりましたが、そのうちに……」
と、喜兵衛は息をのみ、
「見るものをみなくなられ、酸っぱいものをお好みになるというわけで……」
「つまり、なんやな、まだねんねですの油断に乳がくろみ、ちゅうわけだんな」
豆六はこんなときでもおかぶをやっている。
「豆六、ひかえろ」
と、佐七はたしなめておいて、
「それじゃ、だんなもおかみさんも、さぞびっくりなさいましたことでしょう」
「ええ、それゃアもう、びっくり仰天もよいところで……そこで、乳母のお咲さんが、なだめたり、すかしたりして問いつめたあげく、いまお話ししたようなことがわかりましたので……」
番頭の喜兵衛は汗ダラダラだったが、となりの部屋では女房のお粂が、繕いものの針をやすめて、こちらの話にジーッと利き耳をたてている。
お小姓新三
――その夜新三は牢舎《ろうしゃ》の中なんで
「すると、番頭さん、なんですか。お松さまはたったいちどのその夜の契りで、身重におなりなさいましたんで?」
「はい、ほんとうに、弁慶さんのようなお話で……」
「しかし、番頭さん、それならなにも、あっしに相談なさることはないじゃアありませんか。お松さまのあいては、玉木新三郎という浪人者……」
「ところが、親分、それがちがうんで」
「ちがうというのは……」
「てまえのほうでも、そういうことがわかってみれば、そのまま捨ててはおけません。だんなもいったんはお怒りになりましたが、子までできたとあれば仕方がない。そうとうのものであれば添わせてやろうと、そこでわたしが府中のほうへ、こっそり調べにいったのでございます。いまからふた月ほどまえのことでしたが、すると……」
「すると……?」
「驚いたことには、玉木新三郎というのはまっかなうそ、神主さまのところにいるというのもいつわりで、ありようは、府中より一里あまりてまえに、布田《ふだ》というところがございます。そこにだるまの五兵衛《ごへえ》というばくち打ちの親分がありますが、そこへ転げこんでいたお小姓|新三《しんざ》というならずもの、そいつだということがわかったのでございます」
「ああ、あのお小姓新三か」
三人がおもわず漏らすことばをきいて、
「親分はご存じでございますか」
「しっているとも。としは若いが、手におえねえ悪党よ。そういえば、あいつはいつも浪人者のようななりをして、女をだますということだが、あんなやつに引っかかったなア、お松さまの不運でしたね。ちかごろ江戸にすがたがみえねえと思ったら、あいつ布田にいるのか」
「はい、わたしも、もう、びっくりしてしまいましたが、それでも、念のためによくよく調べていきますと、それがまたおかしいんで……」
「おかしいというと……?」
「なんと、そいつは五月五日、くらやみ祭りの朝、布田で大げんかをいたしまして、捕らえられて布田の牢舎《ろうしゃ》にはいっているんです」
「えっ、それじゃ、くらやみ祭りの晩には……」
「牢舎住まいでございます。なんでも、六月のはじめごろまで牢舎におりましたそうで……それですから、くらやみ祭りの晩、お松さまと庚申堂《こうしんどう》で会うたのは、そいつではございません。とすると、いったいどこのどういう男か……」
「お松さまはそれについて、どういってらっしゃるんです」
「お松さまもわたしの話をきいて、びっくりしていらっしゃいましたが、しかし、あいてはどこのだれでもよい。いったん契りを結んだからには、わたしの夫はそのひとよりほかにないと、いちずに恋いこがれていらっしゃいますんで」
佐七はまた辰や豆六と顔見あわせた。お粂はなにやら、じっと考えこんでいる。
「なるほど。それで、あっしに御用というのは、その男をさがしてくれとおっしゃるんですか」
「はい。それと、もうひとつのお願いというのは、いつかこのことが新三の耳にはいったとみえて、一昨日の晩、そいつがお店へまいりまして、お松さまの腹の子は、おれの子にちがいない。なるほど、くらやみ祭りの晩には会えなかったが、そのまえに二、三度、しのび会うたことがあるから、お松はおれの女房だと、店先へすわりこみましたんで……」
「くらやみ祭りよりまえにも、二、三度会うたというのはほんとうですか」
「いえ、お松さまは、決してそんなことはない。あとにもさきにも、男に膚身をゆるしたのは、くらやみ祭りの晩、たったいちどしかない、とおっしゃいますんですが……」
「そうすると、新三のやつ、お松さまが身重になったのをさいわいに、いいがかりをつけてきやアがったんですね」
「さようで。しかし、なんといってもお松さまのおなかの子の父親というのがわからぬ限り、新三のいいがかりをむげにはねつけるわけにもいかず、だんなもこれには、ほとほとお困りでございます。それで、なんとか親分におすがり申して……」
「しかし、番頭さん、ご当人ですら顔も知らぬ男を、あっしがさがすといったところで……」
「さあ、それでございます。お松さまがおっしゃるのに、わかれるときに気がつくと、鼈甲《べっこう》のくしがふたつに割れていたそうで。それをその夜のかたみにと、ふたりで半分ずつわけたそうでございます。それですから、じぶんの夫になるひとは、鼈甲のくしの半分を持っているひとだとおっしゃるんです」
それにしても、このさがしものはむずかしい。
「なるほど、それじゃ鼈甲のくしのかたわれを持ってる男をさがしてくれとおっしゃるんですね。そのくしというのは……」
「はい、これでございます」
喜兵衛が取りだしたのは、黄金でぼたんの模様をかぶせた鼈甲のくしの半分だった。
「新三はこの半分を持っていないんですね」
「はい、はじめあいつは、くらやみ祭りの晩、お松さまに会うたのはじぶんだなどといい張っていたんでございます。ところが、その晩あいつが牢舎にいたこと、それから鼈甲のくしのことを切りだすと、とうとうしっぽをまいて、いや、そのまえに二、三度しのび会うたなどと、いい出したのでございます」
「すると、新三は江戸へ舞いもどっているんですね」
「はい。なんでも、下谷《したや》の山崎町《やまざきちょう》へんにいるとかききました」
「番頭さん、このくしはおあずかりしておいてよろしゅうございますか」
「はい、どうぞ。それでは親分、お引きうけくださいますか」
「まあ、なんとかやってみますが、こりゃずいぶんむずかしい調べものだから、あんまり当てにしないでください」
「なにぶんよろしくお願いいたします」
と、それでも、喜兵衛がいくぶん愁眉《しゅうび》をひらいてかえったあとで、お粂も一座にくわわって評議まちまち。
「親分、おまえさん、ほんとうにこの一件をお引きうけなさるおつもりですかえ」
「喜兵衛さんにああ泣きつかれちゃ、引きうけねえわけにもいくめえ」
「そやけど、親分、こら雲をつかむようなさがしもんだっせ」
「そうだ、そうだ。くらやみ祭りの晩といやア、男と女があっちでもこっちでも、ごちゃごちゃやっていたのにちがいねえ。お松さんはおおかた村のわけえもんに、人違いをされたにちがいがねえが、いまになってあいてをさがすといったところで、これがどうなるもんですか」
「それにしても、お松さん、その晩の男が忘れられんとは、よっぽどあんじょう、かわいがられよったんやな、チェッ、くそいまいましい」
辰と豆六は、いささか業がにえる顔色だったが、お粂はいつになくしんみりとした声で、
「ほんに、あのお松さまというかたは、しごくおとなしい内気なかたで、そんないたずらをなさるおひととは思えませんが、これもきっと、なにかの因縁なんでしょうねえ」
えりもとにあごをうずめて、なにやら思案顔だった。
よ組の金太
――佐七とは幼なじみの纏《まとい》持ち
佐七は引きうけはしたものの、この一件、辰や豆六のいうとおり、雲をつかむような調べもので、どこから手をつけてよいかわからない。
さしあたり、府中のほうから調べていくよりほかはあるまいと、その翌朝、辰と豆六の三人づれで、お玉が池を踏みだしたのは十月七日。そのころの十月七日といえば、現今の十一月だから、日中はまだ暖かだが、朝晩はめっきり冷えこむ季節である。
日本橋から府中まで七里、男の足ではゆっくりとした一日の行程である。
朝六つ半(七時)ごろ家をでた三人は、四谷《よつや》の大木戸から内藤新宿《ないとうしんじゅく》、上高井戸から烏山《からすやま》をへて、布田へついたのが九つ(午後零時)過ぎ。布田から府中までは一里二十七町である。
昼食は、府中の宿へ着いてからときめていたが、豆六があまり腹をへらすものだから、しかたなしに道ばたの茶店へよって、かんたんな中食をしたためていると、おくから女が出てきて、
「さあ、駕籠《かご》屋さん、もういいだろ。日暮れまえには下谷までかえりたいんだから、もうそろそろやっておくれな」
ここらあたりにはめずらしい伝法な口のききかたに、ふとふりかえった三人は、おもわずぎょっと顔見合わせた。道中姿こそしているけれど、三人はその女にみおぼえがあった。
女はしかしそんなところに江戸の御用聞きがいるとは気がつかず、店先で酒をのんでいる駕籠屋をいそがせ、そのまま江戸のほうへ立ち去った。
「親分、ありゃたしかに、むかでのお六ですね」
「ふむ。どうして、あんなやつがここに来ているのか」
三人はふっと、不安そうに顔見あわせた。
むかでのお六というのは、江戸でもなだいの莫連女《ばくれんおんな》、としはもう三十を過ぎているはずだが、きりょうがよくて五つ六つはわかく見えるのをさいわいに、つつもたせからまくらさがし、小便組などと、女のできる悪事なら、なんでもやらぬものはないというしたたか者。
小便組というのは、支度金をとってめかけにあがり、その晩寝小便をたれて、おいとまとなり、支度金を搾取するという、女としてもいちばん下等な悪事である。
「とっつぁん、いまの女はちょくちょくこのへんへやってくるのかね」
茶店のおやじにたずねると、
「いえ、はじめてのようですね」
「いったい、どこからのかえりか知らねえか」
「へえ、あれはなんでも、府中からのかえりらしいんですよ」
府中からのかえりときいて、三人はまた顔を見あわせた。
「女のひとり旅とつけこまれて、ここで酒をねだられたんです」
「ときに、とっつぁん、こちらにだるまの五兵衛さんという親分さんがいなさるそうだが、お元気かえ」
「へえ、だるまの親分ならお元気です」
「その親分のところへ、この春、新三という野郎がわらじをぬいでたはずだが、とっつぁんはしらねえか」
新三ときくと、茶店のおやじは、ちらと佐七の顔をみたが、やがてタバコ盆とキセルを持って、三人のそばへきて腰をおろした。
「親分は江戸からおみえになったんですね。新三のやつがまたなにかやらかしましたか。いえ、あいついまどこにいるんです」
「いや、おれも詳しいことはしらねえが、それじゃとっつぁんは、新三をしっているんだな」
「へえ、しっておりますとも。あんなひどいやつはありません。人非人とはあいつのことです」
おやじの話によるとこうである。
だるまの五兵衛には、お袖《そで》というめかけがあった。
府中の女郎あがりで、五兵衛にひかされてからも府中にすんでいて、五兵衛が布田からかよっていた。
ところが、新三はいつのまにか、このお袖といい仲になっていたのである。
それをしった五兵衛の子分で勘次というのがくやしがって、ある晩、新三がお袖のところへ泊まっているところへ押しかけていったが、ぎゃくに新三に切られて深手をおうた。
「それがことしの五月四日、くらやみ祭りのまえの晩のことで、新三は翌朝つかまって、府中の牢舎《ろうや》へぶちこまれたんです」
佐七はおもわず辰や豆六と顔見あわせた。
新三が入牢したというのは、そんないきさつがあったのか。
「ところが、それを聞いてお怒りなすったのがだるまの親分で。いえ新三におこったんじゃありません。切られた勘次さんをしかりつけなすったんで。それというのが、親分は新三とお袖さんのなかを、まえからご存じだったんですね。じぶんは年寄り、わかいお袖がわかい男を欲しがるのもむりはない。そんなにほれあっているんなら、お袖にひまをやり、夫婦にしてやろうと、そう思ってなすったやさきへその騒動ですから、親分思いの勘次さん、ぎゃくに大目玉を食らいなすったんで」
「なるほど、するとだるまの親分というのは、ものわかりのいいおひととみえるな」
「へえ、そりゃアもう、念仏五兵衛というあだ名があるくらいで……そこで、まあ、牢舎にいる新三にもそのむねをつたえ、お袖さんには大枚の手切れ金をだし、新三郎が牢からでてきたら、夫婦にするつもりだったんです」
「なるほど。それで……」
「新三は六月のはじめに牢から出ました。そして、お袖さんにひきとられ、いっしょに暮らしていたんですが、ひどいやつじゃありませんか。先月なかごろでしたか、お袖さんのるすに、有り金かっさらって逐電したんです」
「ほほう、そいつア……それで、お袖という女はどうしたい」
「どうもこうもありませんや。面目なくて土地にいられるもんじゃありません。まもなく姿を消しましたが、なんでも新三をたずねて、江戸へいってるって話です。なに、未練があってのことじゃありませんよ。あまりくやしいから、仕返しをしようというんでさあ」
「なるほど、それで、だるまの親分は……?」
「親分もこんどはかんかんにお怒りなすった。そんなにひどいやつとしったら、お袖をくれてやるんじゃなかったというわけで、なんでも勘次さんに命をふくめて、江戸へ新三とお袖さんをさがしにやったそうです」
「なるほど。それで、まだふたりとも、新三のやつにめぐりあわねえんだな」
「そうらしゅうございます。もっとも、勘次さんとお袖さんは江戸で出あって、いまさるひとのところで、寄宿人《かかりゅうど》になっているというはなしです」
「さるひとというのは……?」
「なんでもよ組の纏《まとい》持ちで、金太さんというかしらのうちだそうですよ」
「なんだ、金太のうちに……?」
三人はおもわずあっと顔見あわせた。
それもそのはず、金太のうちは親の代から神田紺屋町、お玉が池とは目と鼻のあいだである。
金太は佐七より五つほどしたの二十四、五だが、小さいときからしっている。よ組の金太といえば、わかい娘が目の色かえるほどのいい兄いだ。
忘れた骨壷《こつつぼ》
――わたしは明き盲で字が読めません
「親分、世のなかは広いようで狭いちゅうが、ほんまだんな。新三をねらう男と女が、金太はんのとこにいるなんて、まるで芝居みたいだんな」
「ほんにそうよ。その新三のやつは、甲州屋の婿になろうと、わるあがきしてやアがるんだが、その甲州屋は金ちゃんのお出入りだろう。親分、こんなふしぎなまわりあわせはありませんね」
それからまもなく茶店をでた三人は、いまさらのようにみょうな因縁におどろいている。
「ふむ。それにしても、金太がどうしてお袖や勘次のめんどうをみるようになったのか、どうもがてんのいかねえ話だ」
佐七はだまって考えこんだが、豆六が思いだしたように、
「親分、ふしぎなまわりあわせで思いだしましたが、さっきのむかでのお六だんな、あいつもこの一件に関係があるんやおまへんやろか」
「どうしておまえそう思う?」
「だって、お六のやつ、さっき駕籠屋に、日暮れまでに下谷へかえりたいといいよったが、喜兵衛さんのはなしによると、新三の住まいは下谷山崎町やいうはなしや。ひょっとすると、ひょっとするのやおまへんか」
「まさか、そうおあつらえむきにはいくめえよ」
佐七はにが笑いをしてとりあわず、そのまま足をいそがせて、府中の宿へはいったのは、もうかれこれ八つ半(三時)。このへんはもう紅葉のみごろである。
玉川屋という宿へわらじをぬいでくつろぐと、さっそく辰と豆六がさぐりにかかる。
「ときに、ねえさん、この六所明神というのは、くらやみ祭りで有名だったな」
「はい、さようでございます」
「くらやみ祭りの晩には、ずいぶんあっちゃこっちゃで、色事ができるちゅうやおまへんか」
「さあ、どうですか、ほ、ほ、ほ」
「しらばっくれちゃいけねえ。ねえさんなんか四方八方からひっぱられて困るだろう」
「とんでもない、あたしなんか……」
「ここをせんどと奮戦して、片っ端から男をなぎたおすのんとちがいまっか」
「いやなお客さん、冗談もいいかげんにしてください……」
女中がいささかむっとするのを、佐七は笑いながらなだめて、
「そうそう、そのくらやみ祭りで思いだしたが、ことしの五月五日の晩、くやらみ祭りのさいちゅうに、宿外れの庚申堂《こうしんどう》のなかで、女と会うた男があるんだが、ねえさんおまえしらねえか」
それをきくと、女中ははっとしたように、佐七の顔を見直した。
「ああ、ねえさん、おまえしってるんだな。だれだえ、その男というのは……」
「いいえ、あたし存じません」
「おいおい、かくしちゃいけねえ。ちゃんと顔にかいてあるぜ。しってるってことが……」
「いいえ、そうじゃないんです。そのことは、あたし、ちっともしらないんですけれど、じつはきのうもお客さんから、おなじことを聞かれたんです」
佐七はぎょっとして目を辰や豆六と見合わせた。
「いったい、どんな男だい、それは……?」
「いいえ、男ではございません。女のかたです」
女ときいて、豆六がのりだそうとするのを、佐七は目でおさえて、
「女……? おい、ねえさん、その女はもしやお六といやアしねえか」
「まあ、親分さんはご存じですか」
「ふむ、途中ですれちがったもんだから……そうか、お六もそのことを調べにきたのか。そして、ねえさん、お六はそれをきき出してかえったふうか。いやさ、くらやみ祭りの晩、庚申堂で女と会うた男が、どこのだれかさぐりだしたもようか」
「さあ、そこまでは存じませんが、きのうの昼過ぎこちらへお着きになると、あちこち飛びまわっていらっしゃるふうでしたが、きょうお昼まえ、外からかえっていらっしゃると、にわかにお立ちになったんです」
佐七は辰や豆六と顔見合わせる。
きょうの午前中に、お六はなにかをつかんだのにちがいない。
「ねえさん、お六はここへかえってくるまえ、どこへいったか知らねえか」
「さあ、そこまでは……」
女中がさがると、佐七はすぐ辰と豆六をふりかえり、
「おまえたち、これからすぐにとびだして、お六がどこへ立ちまわったか調べてこい。どうせああいう目に立つ女だ。みんなよくおぼえているにちがいねえ」
「おっと、がってんです」
辰と豆六は一服するひまもなく飛びだしたが、それから一刻《いっとき》もたたぬうちに、よぼよぼのおやじを引っ張ってきた。
「親分、このとっつぁんは明神様の門前で茶店をひらいている万造さんというんだが、お六がきゅうに江戸へひきかえしたのは、このとっつぁんの話を聞いたかららしいんです」
「とっつぁん、さっきのはなしをもういっぺん、親分のまえでしてあげてんか」
茶店のあるじ万造がおどおどしながら語るところによるとこうである。
五月六日、くらやみ祭りの翌日の昼過ぎのことである。
万造の茶店へひとりの旅の男が立ちよった。
としごろは二十四、五、ことばつきは江戸っ子だったが、かなり長い旅をしているらしく、いかにもくたびれたかっこうだった。
その旅の男が万造にむかって、つぎのようなことを頼んだのである。
旅の男は、その前夜、くらやみ祭りのはじまるすこしまえ、府中の宿へたどりついたが、まえにもいったように、その晩は、諸国からあつまる見物のために、どの宿も満員で、おそく着いた客は、とうてい宿をとることはできない。
その旅の男も、あちこちの宿でことわられ、しかたなしに布田まで足をのばそうと、おもい足をひきずってやってきたのが宿外れ。ふとみると、そこに庚申堂があったので、これさいわいともぐり込んで、そこで一夜を明かしたのである。
「おっと、ちょっと待ってくんねえ。とっつぁん、府中には庚申堂がふたつあるのかえ」
「とんでもございません、庚申堂はひとつしかございません」
「なるほど。それからどうした」
「それがそのひと、夜が明けるとはやくそこを立ったのでございますが、布田のへんまでいったところで、たいへんなものを忘れてきたことを思い出したんです。それで、あわてて庚申堂へひきかえしたが、そのときには、だれが持っていったのか、もうなかったんだそうで。それで、わたしのところへおみえになりまして、もしそれを見つけたひとがあったら、江戸のこれこれというところへ届けてくれるようにいってくれ、応分のお礼はするからとおっしゃって、所書きを書いていらっしゃったんで」
「なるほど。それで、その忘れものというのは……?」
「それが……」
と、万造は顔をしかめて、
「お骨《こつ》なんです。骨壷《こつつぼ》なんだそうで……」
「お骨……?」
佐七をはじめ辰と豆六、おもわずおおきく目をみはった。
「いったい、お骨をなんだって……」
「なんでも、旅先でおかみさんに死なれたんだそうで。それで、お骨をだいて江戸へかえるとちゅう、庚申堂のなかへおき忘れておいでになったんだそうです」
「それで、その骨壷はその後見つかったのかえ」
「いえ、それが……わたしもそのひとから頼まれたもんですから、おりあるごとにひとに聞いてるんですが、だれも知ってるものがないんです。ところが、けさがたあのねえさんがいらして、五月五日の晩、庚申堂で、女と会った男をしらねえかというお尋ねがあったもんですから、そんなはずはない、その晩は旅のおかたが、祭りのはじまるまえから明け方まで、そこに泊まっていたはずだと申し上げたんです。すると……」
「すると……?」
「ねえさん、ひどくびっくりなすって、とにかくその旅の男の所書きを見せてくれとおっしゃいますんで、お目にかけたんです。そしたら、ねえさん、しばらく考えていらっしゃいましたが、この所書きを売ってくれとおっしゃって……」
「それで、売ったのかえ」
「へえ、まことにどうもすみません」
「いや、おれにあやまることはねえが、いったい、その旅の男はどこのどういうひとだ」
「それが……そのときはお名前も所もきいたんですが、あいにく忘れちまいまして……」
「だって、おまえ、所書きというものが……」
「それが、親分、わたしは明き盲なんで、字が読めないんです」
佐七はしまったと、心のなかで舌打ちした。
虚実ふたり婿
――二人ともくしの片割れを持って
その晩は府中へとまって、翌日の午前中、あちこち問いあわせてみたけれど、けっきょく、五月五日のくらやみ祭りの夜、庚申堂で女に会うたという男もみつからず、また、そういううわさをきいたものさえないらしかった。
あまり長くもいられないので、佐七はいいかげんにあきらめて、昼飯を食うとすぐに府中をたって、江戸へかえることになったが、みちみち、辰や豆六がいうことに、
「親分、これはみつからないのが、当たりまえかもしれませんぜ。万造おやじもいうとおり、その晩、庚申堂には旅の男がとまっていたんだから、そんなことありっこありませんや。お松さん、夢でも見たんじゃありませんか」
「あほいいなはんな。夢でおなかが大きゅうなってたまりまっかいな」
「ああ、そうか。すると、どういうことになるのか」
「きまってまっしゃないか。お松さんのあいてちゅうのんは、旅の男にちがいおまへん。そいつめ、お松さんが人違いして、すがりついてきたのをええことにして、うまいことやりよったにちがいない」
「あっ、そうか」
「お六のやつも、それに気がつきよったさかいに、旅の男のところがわかると、すぐ江戸へ引きかえしたにちがいおまへんで」
「そりゃまたなぜに」
「それはな、その旅の男に会うて、うまいこというて、くしの片割れをまきあげるつもりやがな。旅の男は大家のお嬢さんはらましたなんてこと知らへんさかいに、お六の口車にのってくしをわたすやろ。それをタネにひと狂言書こうちゅう寸法やがな」
「狂言書くって、どうするんだ」
「つまり、そのくしを新三にわたし、もういっぺん名乗って出させるちゅうわけだっしゃろ」
「しかし、新三はあの晩、牢舎にいたと……」
「そんなこと、なんとでもいいくるめることできまっしゃないか。牢舎をそっと抜けだして、庚申堂へしのんでいったが、そのあとでまた、牢舎へこっそりかえってきたと……どうせ田舎牢のことだすもん」
「な、なあるほど」
辰はひどく感服している。
佐七も豆六の話をきいて、同感するところがあるらしく、なにかしきりにうなずいている。
「親分、おまえさん、いまの豆六の話を、どうお思いになりますえ」
「そうよなあ。豆六としちゃよく考えたが、しかし、いちばんかんじんなのは旅の男のことよ。そいつがお松さまと契りを結んだか、むすばなかったか、それは二のつぎとしても、いったい、そいつはどこのだれだろう」
佐七はまたふかく考えこんだ。
その晩、三人がお玉が池へかえりついたのは、夜の五つ(八時)過ぎだったが、佐七の足音をきくと、お粂はなかからとんで出て、
「あっ、おまえさん、いま、甲州屋さんからお迎えがきましたよ。お松さまのあいての男というのが、証拠のくしを持って名のってでたんです。それで、おまえさんにくしの片割れをもって、すぐ来てくれとおっしゃるんですよ」
佐七は辰や豆六とはっと顔を見合わせた。
「だれだえ、あいての男というのは……?」
「あねさん、新三のやつとちがいまっか」
「そう、新三もひとりだけど、もうひとりあるんです」
「なんだって、あねさん。それじゃ、くしをもったやつが、ふたり現われたというんですかえ」
「そうなんだよ、辰つぁん。しかも、驚くじゃないか。もうひとりというのは、甲州屋の手代銀造なんです。ほら、くらやみ祭りの晩、江戸からお松さまを迎えにいったという……」
佐七はまたぼうぜんと、辰や豆六と顔見合わせたが、
「そうか。それじゃとにかくいってみよう」
と、出かけようとするうしろから、お粂がまた思いだしたように、
「ああ、そうそう、忘れてた。それから、もうひとつ話があるんです。さっきこの近所で、人殺しがあったんですよ」
「なに、人殺し……」
「ええ、柳原堤で女がひとり、くびり殺されているのがみつかったんです。下手人はまだわからないけれど、殺されたのはむかでのお六という、なだいの莫連者《ばくれんもの》だそうですよ」
佐七はみたびぼうぜんと、辰や豆六と顔見合わせた。
お六は柳原堤の草むらのなかで、荒なわで首をしめられて死んでいた。
赤いけだしのあいだから、幾人もの男をたぶらかした白いふくらはぎが、むせっ返るようにのぞいていたという。
女ふたり
――金太とお六をつけていた女は
甲州屋も甲州屋だが、佐七にとっちゃ人殺しのほうが重大である。
佐七はお粂からはなしをきくと、すぐ柳原堤へかけつけたが、そのときには、ご検視もおわり、死体は付近の自身番へかつぎこまれていた。
そこで自身番へまわってみると、殺されているのはたしかにきのう布田で会うたお六にちがいなく、お六の首には、むざんに荒なわがまきつけてある。
佐七は辰や豆六と、ぼうぜんたる顔を見合わせた。
「親分、こりゃ妙ですね。お六の殺されたのは、甲州屋の一件がからんでいるんじゃありますめえか」
「兄い、そらそうにちがいおまへんがな。きのうのきょうのことだっさかいな」
豆六の推理によるとこうである。
きのう、府中で茶店のおやじの万造から、くらやみ祭りの晩、庚申堂で夜をあかした旅の男の所書きを手にいれたお六は、江戸へかえると、その旅の男の住まいを訪れたのだ。
そして、ことばたくみにあいてをあざむき、証拠のくしをまきあげると、それを新三にわたしたのだろう。
新三はそれを持って、きょうあらためて、甲州屋へお松の婿と名乗って出たが、そのまえに、生かしておいては後日のさまたげと、お六をしめ殺したにちがいないというのである。
「つまり、お六はじぶんの情夫《おとこ》を婿に仕立てていりこませ、甲州屋の財産を、自由にしよちゅう腹だったが、新三のほうが一枚うわてで、あとくされのないようにと、お六を殺してしまいよったんだっしゃろ」
豆六としてはめずらしく筋道のとおった話だから、辰もことごとく感服して、
「おっ、こいつはすげえや。そうとでも考えなきゃ、せんにゃくしを持っていなかった新三のやつが、にわかに手にいれるはずがねえ。親分、こりゃ豆六のいうとおりですぜ」
「兄い、どんなもんや」
豆六は鼻たかだかだったが、佐七はじっと考えて、
「なるほど、豆六の話にも一理はある。しかし、手代の銀造が、おなじくくしを持って名のってでたというのはどういうわけだ」
「親分、銀造のほうは、まやかしもんにきまってまっせ。銀造のやつ、奉公人のぶんざいで、お松さんにほれていよったにちがいない。そこへ、こんな話が持ちあがったもんやさかい、にせもんのくしをこさえよって、あわよくば、お松さんと甲州屋の身代を、じぶんのものにしよちゅう腹にちがいおまへん」
「そうだ、そうだ、ふてえ野郎は銀造だ。親分、こりゃ甲州屋へおもむいて、どちらのくしがほんものか、詮議《せんぎ》をすればらちのあくことです」
きょうはどういう風の吹きまわしか、辰はすっかり豆六に共鳴している。
「ふむ、だが、もう少しこっちのほうを調べていこう。だんな、いったい、だれがこの死体をみつけたんですえ」
それにたいする町役人の返事はこうである。
きょうの夕六つ(六時)ごろ、四、五人づれで土手下を通りかかった若いもののなかのひとりが、小便をもよおし、土手をのぼっていったところが、いちめんに穂のでたすすきのあいだにその死体がころがっていたというのである。
「そこで、これをお六だとだれが知っていたんです」
「それは人殺しがあったというので大騒ぎになり、野次馬がおおぜいおしかけてきましたが、そのなかに、この女とおなじ町内に住んでいるものがいたんです。この女は下谷山崎町に住んでるんだそうですが、なだいの莫連者《ばくれんもの》で、しょっちゅう男が変わってたそうです」
辰と豆六は顔見合わせる。
甲州屋の番頭の話によると、新三も山崎町に住んでいるという。
「ところがねえ、親分」
と、町役人は息をひそめて、
「きょう、昼間、この女をこの近辺でみかけたというものがあるんですよ」
「どこで、だれが……」
「神田紺屋町二丁目の、善太郎さんの長屋に、お熊《くま》というとりあげばあさんがいるのを、ご存じじゃありませんか」
「おお、知ってる、しってる。近所でもなだいの金棒引きだ。べらべらとよくしゃべるばばあだよ、あいつは……で、あのお熊がどうかしたのかい?」
「いえね、そのお熊ばばあがこの死体をみて、おや、この女ならきょう昼間、男とふたりで、ついそこの金毘羅《こんぴら》さんの横町にあるひさご屋といううなぎ屋へはいるところを見たというんです」
「ほほう」
と、佐七は目を光らせ、
「そして、お熊ばばあは、その男というのをしらねえのかい」
「いえ、ところが、よくしってる男だそうで……親分もご存じの男ですよ」
「だれだえ、それは……?」
「よ組のまとい持ちの金太さん……あの男だそうですよ」
「なんだ、よ組の金太ア……?」
佐七はぎょっとして、辰や豆六と顔見合わせた。
こんどの一件の探索に、金太の名まえがでてきたのは、これで二度目である。
布田の宿の茶店のおやじの話によると、だるまの五兵衛のめかけお袖《そで》と、五兵衛の子分勘次のふたりは、新三をねらって江戸へでてきて、いま金太のもとへ身を寄せているという。
佐七はあやしい胸さわぎをおぼえた。
「ところがねえ、親分、お熊の話によると、もっとふしぎな話があるんです」
「もっとふしぎな話というと……」
「金太がこの女がひさご屋へはいっていくと、すぐそのあとから女がひとり、ふたりのあとをつけるように、ひさご屋へはいっていったそうです。いえ、このほうはお熊も顔をみていないんです。ただ、ちらと黒繻子《くろじゅす》の帯をしめたうしろ姿を見ただけだが、髪をくし巻きにした、そうとうの年増だったそうです。それから……」
「それから……? まだ話があるのかい」
「へえ、それからしばらくして、お熊がまたひさご屋のそばをとおりますと、金太さんと女がもつれるように、ひさご屋からでてきて、須田町《すだちょう》のほうへいくうしろ姿がみえたそうです。ところが、その女というのが、ここに殺されているお六ではなく、ふたりのあとを追っかけてひさご屋へはいった女らしかったというんです」
佐七はまた辰や豆六と顔見合わせたが、それからまもなく自身番をでると、
「辰、豆六」
「へえへえ、ひさご屋へいって、金太とふたりの女のことを調べてくるんですかえ」
「あっはっは、鑿《のみ》といえば槌《つち》だな。金太とお六のあとをつけて、ひさご屋へはいったという女が怪しい。そいつのことをよく調べてこい」
「おっ、がてんや。それで親分は……?」
「おれはそう待たせるわけにもいくめえから、これから甲州屋へいってくる。おまえらはひさご屋で待っていろ」
新三と銀造
――どちらもくしの片割れを持って
佐七が甲州屋へ顔をだしたのは、もうかれこれ五つ半(九時)ごろだった。
甲州屋ではだんなの嘉右衛門《かえもん》、女房のお早、それに番頭の喜兵衛が待ちかねていた。
佐七はすぐにおくのひと間へとおされたが、そこには右の三人のほかに、向島の寮からかえってきたとみえて、娘のお松もひかえている。
お松はもう五カ月、そででもかくしきれぬおなかをかかえて、さすがにほおを染めている。佐七はなるべくそのほうから目をそらすようにしながら、
「おそくなって申し訳ございません。ちょっと旅にでていたもんですから……」
「府中のほうへお出掛けだったそうですが、なにか手がかりでもございましたか」
番頭の喜兵衛がひざをのりだした。
「なかなか、むずかしい調べものでしてねえ。ところで、いまお粂からきいてきたんですが、くしをもって名のってでたという新三や銀造さんは……?」
「はい、むこうにひかえさせております。あいつらに会うまえに、親分の意見をきこうとおもいましてねえ。どうも業さらしなはなしで……」
嘉右衛門は口をへの字にまげて、にが虫をかみつぶしたような顔である。女房のお早は泣いている。
お松はただ恥ずかしそうに、もじもじと……。
「いや、新三のことはこのあいだ、番頭さんからもききましたが、銀造さんのはなしには驚きました。銀造さんはいったい、どうなっているんです」
「それがねえ、銀造の話も、まんざらつじつまのあわぬことはないんです」
番頭の喜兵衛の話によるとこうである。
「五月五日の朝、ご隠居さんのご容態がきゅうに悪くおなりなすったので、府中まで銀造をお松さまのお迎えにやったことは、このまえもお話し申し上げましたが」
その銀造が府中へはいったのは、くらやみ祭りのさいちゅうだった。
なにしろ、町中まっくらだから、一歩もすすむことができない。
そこで、祭りのすむまでと、銀造は宿の入り口にある庚申堂のなかへはいって横になっていると、そこへ女がひとり忍んできて、いきなり、
「銀さま……」
と、低い声ですがりついてきたのである。
「お松さまはそのとき、新さまとお呼びになったのでございますが、うたたねをしていた銀造の耳には、それが銀さまときこえたんだそうで。こんなところに、じぶんを知っている女がいるはずはないが、さてはくらやみのなかで人違いをしているのであろう。くやらみ祭りの晩には、近在の若い男と女のあいだに、いろいろおもしろいことがあると聞いていたから、この女もおもう男とここであいびきする約束になっていたのだろう。人違いをされたのも男冥利《おとこみょうり》、すえ膳《ぜん》くわぬは男の恥と、そこで銀造のやつ、お松さまとはつゆ知らず、その、なにしたんだそうでございます」
番頭の話のあいだ、お松は顔から火がでるように、まっかになって、うつむいている。
いたずらといえばいたずらだった。
しかし、二十にもなってとつがぬ娘の、ひとにもいえぬ肉のうずきをおもえば、佐七はあわれを催した。
「なるほど。ところで、番頭さんにちょっとお尋ねしたいことがあるんですがねえ」
「へえへえ、どういうことで……」
「番頭さんはせんだって、府中へ新三のことを調べにおいでになったそうですが、そのときだれかに、お松さまのことをおっしゃいましたか。くらやみ祭りの晩、庚申堂で男と会うて、そのとき身ごもったということを……」
「とんでもない。そんなことをだれが申しますものか。わたしはただ、玉木新三郎と名のっていたあいつ(新三)のことを調べてきただけで、甲州屋の番頭だということすら、ひとには漏らしませんでしたので……」
「お店のほうでもむろん、そんなことはだれにもおっしゃいませんでしょうな」
「それはもちろん、娘の恥になることですから……でも、新三という男が乗りこんできてから、すっかりばれてしまいまして……」
嘉右衛門はあいかわらず、にが虫をかみつぶしたような顔色である。佐七はひざをすすめて、
「それじゃおかしいじゃございませんか。新三のやつはどうして、お松さまが身重になっていることを知ってたんです。あいつがほんとうにお松さまと契ったのなら、それを種にゆすりにも来ましょう。しかし、かんじんの晩、あいつが牢舎にいたことは、あっしもきのう調べてきました。いわば、あいつはすえ膳を食いそこなったんです。ああいうやつですから、いくさきざきで、女を食いあらしてきたにゃちがいねえが、そういうやつだけに、すえ膳を食いそこなった女を、そういつまでも覚えてるはずがねえ。げんに、あいつは先月のなかごろ、江戸へ舞いもどっているんですが、お松さまのことをおぼえているなら、そのときすぐ因縁をつけにくるはずだ。それをいままでなんの音さたもなく、ちかごろになって、とつぜんやってきたというのは、どういうわけでしょう」
「親分、と、おっしゃいますのは……?」
嘉右衛門はふしぎそうにまゆをひそめる。佐七はにっこりしろい歯をだして笑うと、
「なあにね、このお店に、だれかお松さまのことをしゃべったやつがありゃしないかと思うんです。だが、まあ、そんなことはようがす。それじゃふたりを呼んでいただきましょうか」
呼ばれて、新三と銀造がやってきた。
なるほど、新三はお松のような、世間知らずの箱入り娘がポーッとしそうなよい男だ。
銀造は二十三、四、これまたお店者《たなもの》にはめずらしい苦みばしったよい男っぷりである。
佐七はふたりの顔を見くらべながら、
「なるほど、いずれがあやめかきつばただ。お松さまの婿がねとしちゃ、不足のねえ男ぶりだ」
佐七はせせら笑いながら、
「やい、新三、おまえおれを知っているか」
「へえ、いま評判のお玉が池の親分、知らねえでどうするもんですか」
新三は不敵なつらだましいである。
「よしよし。それで、おめえあくまでも、お松さまと契ったのはじぶんだというんだな」
「へえ、ほんとうだからしようがございません。ちゃんと証拠のくしを持っておりますんで」
「しかし、それなら、なぜこのまえ来たとき、出してみせなかったんだ」
「あのときは、つい、うっかりしていましたんで」
新三はあくまで人を食っている。
佐七はにが笑いをしながら、銀造のほうを振りかえり、
「もし、銀造さん、おまえさんもくらやみ祭りの晩、お松様と契ったというんですね」
「面目しだいもございません」
「しかし、それならなぜもっと早くいわねえんだ。いままでどうして黙っていたんだ」
「はい、お松さまにも申し訳なく、だんなさまにも面目なく、つい、切り出しかねておりましたが、そこにいる悪党が、根も葉もないいいがかりをつけてまいりましたので、とうとうたまりかねて申し上げたのでございます」
「そうか、よしよし。それじゃ、ひとつおまえたちの持っているくしの片割れというのを見せてもらおうじゃねえか」
佐七もやおら、じぶんの預かっているくしの片割れをとりだした。
婿|詮議《せんぎ》
――どちらのくしがぴったり合ったか
「それで、親分、どっちのくしがあったんです。新三のやつですか、銀造のくしですか」
金毘羅横町《こんぴらよこちょう》のひさご屋で、豆六といっぱいやりながら待っていた辰は、佐七の顔を見るなりつめよった。
豆六はながいあごをなでながら、
「兄い、そんなあほうなこと聞きなはんな。そら、新三のやつにきまってまっしゃないか。大地うつつちはずれても、わての推理にまちがいがあってたまりまっかいな」
と、大おさまりにおさまったが、佐七はぷっと吹き出して、
「あっはっは、豆六、気の毒だが、大地をうつつちははずれたぜ」
「えっ、親分、なんやてえ」
「いやさ、弘法《こうぼう》にも筆のあやまりというからな、豆六大先生の推理にまちがいがあったとしても、なにも悲観なさることはねえやな。ちょっと見や、新三が持ちだしたくしというのはこれよ」
佐七がふところから取りだしたのは、鼈甲《べっこう》は鼈甲ながら、やけに大きなくしの半分。
「親分、それ、お松さんの手にのこった半分と、あいまへんか」
「あうものか。お松さんの持ってたのはこれよ」
と、佐七はかわいいくしの半分をだし、
「大きさだって、模様だってちがってるし、だいいち、これゃア両方ともくしの左半分だ」
辰と豆六は目をまるくした。
「それで、親分、くしがあわねえとわかると、新三のやつはどうしました」
「どうするものか。血相かえて、ちきしょう、ちきしょう、お六のあまとかなんとか、ぼやいていやアがったぜ」
「それみなはれ、新三はやっぱりお六から、そのくしをわたされよったにちがいおまへん。しかし、お六はどうして、くしをまちがえよったんだっしゃろか」
豆六はふしぎそうな顔色だったが、そばから辰がひざを乗り出し、
「そんなことはどうでもいい。それより、親分、くしのほうはどうなんです。それじゃ銀造のくしがあったんですかえ」
「ところがよ、銀造の持ちだしたくしというのはこれよ。よくくらべてみろ」
佐七がまたふところから取りだしたくしというのは、新三のくしよりよほど小さく、黄金で模様をかぶせたところも似ているが、ほんもののほうがぼたんだのに、これは梅にうぐいす。
しかも、割れ目はあわなかった。
辰と豆六は目をみはって、
「親分、こりゃどうしたんです。こっちのほうも合わねえじゃありませんか」
「そんなら、親分、銀造のやつもにせ婿だっか」
ふたりともあっけにとられた顔色である。
「あっはっは、そりゃあどうだかわからねえ。しかし、このくしが合わねえとわかったときの、銀造の顔色ったらなかったぜ。目をしろくろさせやアがって、そんなはずはねえ、たしかにこれは庚申堂のくらやみで、お松さまからあずかったくしのかたわれ、いつの間にだれがすりかえたかと、いや、くやしがること、くやしがること……」
「へへえ、すると、やっぱり銀造のやつがほんものなんで」
「だから、どうだかわからねえというんだ。いったい、ほんものの片割れぐしは、どこのだれが持っているのか」
佐七は腕こまぬいて考えこんだが、そのとき、辰が思い出したように、
「ときに、親分、新三のやつはどうしました」
「どうもこうもねえやな。くしが合わねえとわかったもんだから、お六のあま、どうするかおぼえてろ、とかなんとかほざきながら、ほうほうのていで逃げ出しゃあがった」
「はてな。新三のやつはお六を殺したはずなのに」
「あっはっは、豆六さんのまえだが、推理はだいぶ狂っているらしい。あの顔色じゃ、新三はお六の殺されたことを、まだ知っちゃいねえらしいぜ」
「そんなはず、あらへんがなあ」
と、豆六がしきりに小首をかしげているそばから、辰がひざを乗りだして、
「しかし、親分、おまえさん、新三のやつを逃がしちまったんですかい。なぜ、取っておさえなかったんです」
と、いささか不平らしいかおいろである。佐七は意味ありげにその顔を見ながら、
「それよ、辰、豆六、まあきけ。おれが甲州屋へでむいていくと、まっくらな勝手口の木戸まえに、怪しい影がうろうろしている。しかも、ふたりだ。おれも変におもったから、だれだ、そんなところで、なにをしていると声をかけたところが、あいての返事というのが、怪しいものじゃございません、いまここで財布を落としたので、さがしておりますんで……と、そういうことばが甲州なまり」
「へえ、甲州なまり……?」
「そうよ。そこでおいらが、財布をさがすならちょうちんを貸してやろうとあかりとつけると、あいては男と女のふたりづれ。男は二十五、六の、遊び人といったかっこう。女は二十三、四の、小股《こまた》の切れあがった、ちょっといいごきりょうだが、おれがちょうちんとつきつけると、顔をそむけるようにして、勘次さん、財布はここに落ちてたよ、さあ、早くいこうよと……」
「えっ、勘次さんといったんですか」
「しかも、男も女も甲州なまりだ」
辰と豆六はひざをすすめて、
「親分、そら、お袖と勘次とちがいまっか」
「そうだ、そうだ、それにちがいねえ。新三のやつが出てくるのを、そこで待ち伏せしていたんですぜ」
佐七はにんまり意味ありげに笑って、
「そんなことはおらア知らねえよ。しかし、新三のやつはおれの手からのがれても、いまごろはだれかにしつこく、あとをつけられていることだろうて、あっはっは」
「なアるほど、わかった」
辰ははたとひざをたたいて、
「それで、親分は新三のやつを、わざと逃がしてやったんですね。お袖と勘次に本望を遂げさせてやろうと……」
「辰、つまらねえことをいうな。かりにも十手捕りなわをあずかるこのおれだ。ひとが罪を犯すのを手伝うようなまねをするもんか。だが、なあ、この話はこれくらいにしておいて、こんどはおまえたちの話を聞こうじゃねえか」
むきなおられて、辰と豆六、なにやら怪しい目くばせである。
尾行する女
――親分それがたいへんな女なんで
「親分、それがおかしいんです。金太とお六がこの家のひと間で、なにやらひそひそ話しをしていたことは、まちがいがねえようで……」
「うむ、うむ、それがどうしておかしい」
「親分、まあ、しまいまで聞きなはれ。ところが、金太とお六がひと間へはいるとまもなく、すぐまたべつの女がこの家へとびこんできたんやそうで……」
「お熊《くま》ばばあがうしろ姿を見たという女だな」
「へえ、そうです、そうです。ところが、その女のいうのには、金太とお六がとじこもってる座敷の、つぎの座敷を貸してくれというんだそうで」
「なるほど、それじゃ、やっぱりその女、お六と金太をつけてきやアがったんだな」
「へえ、そうらしいんですが、親分、それについてどうお思いですえ」
「そうよなあ、そいつきっと金太の情婦《いろ》だぜ。じぶんの男が変な女と歩いているもんだから、やきもち焼いて、あとをつけてきやアがったにちがいねえ。金太はあのとおりいい男だから、女にほれられていけねえ。そして、その女てえのはべっぴんかい」
辰と豆六が顔見合わせて、
「へえ、すごいようなべっぴんだったそうですぜ。もっとも、としは金太よりだいぶ上らしいというんですがね」
「どうせ、どこかの古ぎつねにちがいねえ。金太もそんな女にかかりあってちゃいけねえな。あいつは度胸もいいし、気っぷもいいし、ほんにいい若い衆だが、男振りの良過ぎるのが玉に傷だ。去年もどこかの茶くみ女といい仲になって、かけ落ちをしやアがったが、女が死んで江戸へまいもどり、やっと、よ組の親方にわびをいれ、帰参がかなったばかりだというのにな……よしよし、いまにその古ぎつねをみつけて、面の皮をひんむいてやる」
佐七は金太の身をあんじて思案顔である。辰と豆六はまた意味ありげに顔見あわせた。
「おっと、それはいいとして、それからあとはどうしたんだ」
「へえへえ、お六と金太はいっとき座敷に閉じこもっていましたが、やがてお六が、ひと足さきにかえったそうです。そうすると、となり座敷で様子をうかがっていたその女が、あいの唐紙をあけて、ずいと、金太の座敷へはいっていったそうです」
「ふむ、ふむ、そこで痴話げんかでもはじまったか」
「いえ、べつにそんなようすもおまへなんだそうな。ただ、金太とふたりで閉じこもって、こそとも音をさせないんださかい、なにをしてたのかわからんちゅう話だす」
「なにをしてたか、わからねえってことがあるもんか。どうせ男と女が閉じこもりゃ、あとはようすがしれてらあ。金太のやつ、古ぎつねめにすっかり骨を抜かれやアがったにちがいねえ」
「そうかもしれませんね。出ていくときはふたり仲よく、手を握らんばかりのありさまだったってことですからね」
「畜生ッ、古ぎつねめ、いったい、そいつはどこのどういう女だろう」
辰と豆六はまた目くばせすると、ひざをすすめて、
「ところがね、親分、いいあんばいに、この店じゃ、その女というのをよく知ってるんです」
佐七は目をみはって、
「その古ぎつねをかい?」
「そうです、そうです。古いおなじみさんなんだそうです。それで、いわれるままに、金太のとなり座敷へ案内したんですね」
「辰、豆六、してして、それはどこのなんという女だ」
「なんでも住まいはお玉が池やいう話だっせ」
「お玉が池……? それじゃうちの近所じゃねえか」
「さよさよ。しかも、その女にゃれっきとした亭主があるちゅう話だす」
「亭主がある……? それじゃ、その女、間男してるのかい。かわいそうに、亭主野郎の顔が見てえや。うちの近所で、そういう間抜けな亭主というのは……いったいだれだえ」
「それがね、親分、なんでも佐七とかいって、江戸でもなだいの御用聞きだという話ですぜ。けっけっけ」
辰と豆六、奇妙な声をあげて笑やアがったが、おどろいたのは佐七である。
それこそ青天の霹靂《へきれき》というやつだろう。
「な、な、な、なんだと!」
と、あまりのことに二の句もつげない。
そのとき、辰と豆六、少しもさわがず、
「あっはっは、親分、なにもそう落胆なさることはありませんや。男と女がひと間へとじこもったからって、なにもそう、いちいち変にかんぐるこたアねえじゃありませんか」
「そやそや、金太のやつはむかしから、うちのあねさんをほんまのあねさんみたいにおもって、なんでもいちいち相談に来よる。こら、あねさん、かげでなにやらひと狂言書いていやはりまんねんで」
「こん畜生ッ!」
佐七は夢からさめたように、
「お粂ならお粂だと、なぜはじめからいわねえんだ。こりゃ辰のいうとおりだ。男と女がひと間へとじこもったからって、変なことがあったとはかぎらねえ」
「ありゃりゃ、あいてがあねさんだとわかると、きゅうに風向きが変わりましたな」
「そやけど、ちょっと危ないもんやな。金太はあんなええ男やし、あねさんはべっぴんやし……親分、古ぎつねの化けの皮をひんむくのとちがいますのかいな」
「バカ野郎! しかし、お粂がなあ……」
佐七はしばらく黙って考えこんでいたが、やがてきっと立ちあがると、
「辰、豆六、そうとわかれば、もうこんなところに用はねえ、すぐにかえろう」
「親分、親分、まさか重ねておいて四つなどと……」
「そりゃアわからねえ。こととしだいによりけりだ。あっはっは!」
佐七はかえって上きげんだったが、それからまもなく、お玉が池へかえってみると、お粂はおらず、となりで聞くと、よ組の金太のところへいったという。
辰と豆六は顔見合わせて、
「はてなア……」
面影恋女房
――冥途《めいど》から女房が会いにきたかと
「間男、見つけたア」
「そこ動くなア」
鳶《とび》の者はご町内のやっかい者、だから身をへりくだって、住まいなども六畳のひと間っきり、腰高障子をあけると、家のなかは見とおしである。
辰と豆六に声かけられて、長火ばちのこちらに座っていたお粂が振りかえった。
「なにをいってるんだよ、バカらしい。野中の一軒家じゃあるまいし、大きな声を出すとご近所にきこえるよ」
「あねさん。ご近所にきこえたらいけまへんか」
「そりゃ豆六、いうまでもねえ。こうして夜更けに男と女が差しむかいで、泣いたり笑ったりしていちゃ、ただごととは思えねえや。おまけに、昼間のひさご屋のことがあるからな」
「あら、もう、あのことがわかったのかえ」
と、お粂はかえってうれしそう。
「わかったかえもあるもんですか。それで、親分、かんかんにお怒りなすって、重ねておいて四つにすると……」
「辰、豆六、つまらねえことをいうもんじゃねえ」
と、ふたりのあとからはいってきた佐七は、ジロリとお粂と金太を見ながら、
「おい、お粂、おめえよくも、おいらの裏をかきゃアがったな」
「あら、すみません。そういうわけじゃないんですけれど、金ちゃんがあんまりしりごみするもんだから……」
その金太は、長火ばちのむこうで、それこそ金時が火事見舞いにきたようにまっかになって、小さく首をちぢめている。
なるほど、いい男っぷりである。
柄はあまり大きくないが、色が白くて、あいきょうがあって、小ぶとりにふとったからだは筋金入りのたくましさ、大きなおしりもたのもしい。
佐七はお粂のゆずった席へあぐらをかくと、
「金ちゃん、おめえが去年駆け落ちした女は、なんという名まえだっけねえ」
金太はちょっとびっくりしたように、目をあげて佐七の顔をみたが、すぐまたそれを伏せると、もじもじしながら、
「お町と申しましたんで」
「お町さんか。なるほど」
佐七はにっこり笑いながら、
「そして、そのお町さんはどうしたんだえ。なんでも旅先で亡くなったときいたと思うが、どこで亡くなったんだえ」
「はい、あの……甲府でございました」
蚊のなくような声である。
「甲府でねえ……それで、おまえさんが江戸へかえってきたのは、いつごろだったっけ。たしか、五月だとおもうが……」
「はい、あの、五月六日のことで……」
金太は汗びっしょりである。
辰と豆六はびっくりしたように、ありゃりゃとばかり顔見合わせている。
「あっはっは、そうか、そうか。それじゃ、金ちゃん、出してもらおうじゃないか」
「出せとはなにを……?」
「お松さまからあずかった証拠のくしのかたわれよ」
「げっ」
「おい、おい、金ちゃん、かくしちゃアいけねえ。甲府でお町さんに死なれたおまえは、お骨《こつ》をだいて江戸へかえってくるとちゅう、府中の宿へさしかかったろう。ところが、それがくらやみ祭りの晩のこと。どの宿屋もいっぱい、泊まるところがねえもんだから、おまえは宿《しゅく》はずれの庚申堂《こうしんどう》で、なんとか一夜を明かそうとした。ところが、そこへお松さまが、男に会いにおいでなすった。そのくらやみの人違いに、おまえはしめたとばっかりに……」
「ちがいます、ちがいます。親分、しめたなどとはとんでもない」
「じゃどうしたんだ。おまえも男らしくねえ。正直にいっちまいねえな。けっきょく、おまえはお松さまと、うめえことやりゃアがったんだろう」
まだあどけなさの残る金太の童顔は、ゆでだこのようにまっかになった。なにせ色が白いから、赤面するといっそう目立つのである。
しばらく恐れいってひかえていたが、やがて滝のようにしたたりおちる汗をぬぐいながら、金太はきっとうるんだような目をあげた。
「親分、こうなったら、なにもかも申し上げてしまします。お松さまにはすまぬことをいたしましたが、しめたなどとはとんでもない。親分、きいてください、こういうわけで……」
恋女房、お町の骨壷《こつつぼ》を抱いてねていた金太の目には、飛びちるほたる火のなかにうかんだお松の顔が、死んだお町にみえたのである。
それほど、時刻といい、場所といい、わかい娘が出現するには異様でもあり、また、飛びちるほたる火の明滅というロマンチックなふんいきが、その場の情景や情緒に、一種の神秘性を付与したのかもしれない。
それに、金太は宿はずれの酒屋でのんだ一杯の酒に、いくらか酔うてもいたのである。
金太はてっきり冥途《めいど》からお町が会いにきてくれたのだと思いこみ、
「お町!」
と、おもわずはなったひと声が、お松にはお松とじぶんの名をよばれたようにきこえ、しかも、お松のさけんだ、
「新様!」
と、いう声が、金太の耳に金様とひびいたというのも、運命の神様のいたずらだったろう。
「お町、お町、よう会いにきてくれたなあ。さあ、はやくこっちへ……」
「あい……」
はじらいながらもすりよってくるお松の手をとって引きよせたとき、ほたるはあらかたきつね格子のそとに飛び去って、庚申堂のなかはまっくらがり。
そのくらがりのなかで、女をひざにだきあげたとき、金太はもう、ものに狂ったようであった。女もあつい息をはきながら、金太のなすがままにまかせている。女のかぐわしい柔膚の、ねっとりとした訴えが、金太の男をいやがうえにもふるいたたせた。
「お町! お町! おまえもおれが恋しかったんだな。おお、そうか、よしよし」
女をあおむけに押しころがした金太は、あとはくらがりの情熱に身をまかせ、女のからだの奥ふかく、金太の男は雄々しくたけだけしく、ふるまいつづけた。ふたりのからだに、春のうず潮がみちあふれるまで……。
佐七はあきれたように、金太の顔を見まもりながら、
「それでなにか、おまえはばんじが終わったあとも、それを恋女房のお町さんだと思っていたのか」
「いえ、あの、それは……」
金太はしたたり落ちる額の汗を手の甲でぬぐいながら、
「そ、それゃア、さすがにふたりとも、血の騒ぎがおさまったときにゃア、人違いだと気がつきました。しかし、そう気がついたときにゃア、もうあとの祭りだったんです」
「それで、そのときどうしたんだ。お松さまはおまえに、くしのかたわれをくんなすったということだが……」
「へえ、お松さま……とは知りませんでしたが、お女中さまはさめざめとお泣きなさいました。それで、あっしは手をついて、いろいろおわびをいったんです」
「なんといってあやまったんだ」
「へえ、こんやのことは、一切なかったことにいたしましょう。あっしアおまえさまがどこのどなたか存じませぬ。また、知ろうとはいたしませぬ。また、おまえさまもこのあっしを、どこのだれともご存じない。また、知ろうともお思いまさいますまい。悪い夢でもみたと思って、こんやのことはなにもかも忘れてしまってくださいまし……と、こうあっしが申しますと、お松さま、いえ、あの、そのお女中さまはまたひた泣きに、お泣きなさいました」
金太は声をしめらせている。
お粂はもらい泣きに目がしらを指でソッとおさえている。辰と豆六でさえ、日ごろの茶目っ気も忘れたように、シーンと顔を見合わせて、がらにもなく鼻をすすっている。
「それで……」
「ふむ、それで……」
「それで、あっしがもういちどあやまって、ひと足さきに庚申堂を出ようとすると、お松さま……いえ、あの、そのお女中さまが呼びとめてこうあっしにおっしゃいました」
「ふむ、ふむ、お松さまはどうおっしゃったんんだ」
「はい、あなたさまはこんやのことを、一切忘れてしまえとおっしゃいますが、女の身としてどうしてこれが生涯忘れられましょう。しかし、それではかえってあなたさまにご迷惑。それですから、お名前もお所も聞こうとは申しません。しかし、せめてもういちどここへきて、力いっぱい抱きしめて、口づけでもしてくださいまし……と」
「ふうむ。それじゃ、お松さまは、たったいちどのその出会いで、すっかり金ちゃんにほれておしまいなすったんだな」
「そらそや、兄い、金ちゃんのこのからだで、コッテリかわいがられてみなはれ、たいていのおなごはん、骨抜きになってしまいまっしゃろ」
「あれ、ご冗談を……」
「辰、豆六、おまえらは黙ってろ。それから、金ちゃん、どうしたんだ」
「はい、それから……」
金太はゆでだこのような顔からポッポと湯気をたてながら、
「お女中さまのおっしゃるように、もういちどひざのうえに抱きあげて、口づけしながら、力いっぱい抱きあいました。もうお女中さまは、泣いてはいらっしゃいませんでした。まもなく、あっしのひざからおりると、あなたさまはここにいてください。わたしがひと足さきにここを出ますと、身づくろいをしていらっしゃいましたが、そのとき、くしがまっぷたつに割れてることに気がおつきなさいまして……」
「それで、そのかたわれをおまえにくだすったんだな」
「はい」
「なんといってくだすったんだ」
「はい、こんやの思い出のかたみとして、じぶんは生涯膚身はなさず、このかたわれをもっています。おまえさまもよかったら、このかたわれを持っていて、たまにはこれを出してみて、こんやのことを思い出してくださいましと……」
金太はポッポと湯気を立てながら、ほろりと声をしめらせた。
「なるほど、それでお松さまは、ひと足さきにそこを出ていかれたんだな」
「はい」
「それからおまえはどうしたんだ。朝までそこにいたのか」
「はい、いたことはいたんですが、とてものことに、眠れたものじゃアございません。朝までまんじりともしませんでしたが、そのうちにだんだん、そら恐ろしゅうなってきました。そのときは無我夢中でしたが、あとで気がつくと、生娘じゃアなかったかと……」
「ふむ、ふむ。それで……」
「もし、そうだとすると、とんでもない罪つくりをしたんじゃないか……それに、おことばづかいといい、庚申堂を出ておいでなさいましたとき、空が晴れて利鎌《とがま》のような五日の月がでていたのでございますが、それに浮かんだうしろ姿からして、どこかそのへんのご大家のお嬢さまじゃないかと思ったんです」
「なるほど、それで……?」
「それでございますから、こんなところにまごまごしていて、そのお女中さまに傷でもついちゃアならぬと思ったもんですから、東の空が白むのを待ちかねて、そこをとびだしたんです」
「そのとき、お骨を忘れていったんだな」
「はい」
「どのへんまでいって気がついたんだ」
「布田へ着いてからでした。それで、あわてて引きかえし、庚申堂をのぞいてみましたが、どなたが持っていかれたのか、お骨はもうそこにはございませんでした」
「それで、茶店のおやじにたのんだんだな」
「はい」
「おまえ、茶店のおやじに所書きをわたしたというが、どこの所書きをわたしたんだ」
「はい、鍋町《なべちょう》の親方のところでございます」
お六はおそらくそこへいって、金太のところを聞いたにちがいない。
「そのお骨はどうした。その後どこからかでてきたか」
「いえ、それがいっこう……これというのも、お骨をまえにおいてのあの不始末、お町にもすまず、お女中にも申し訳なく、その天罰があたったのかと、そら恐ろしゅうございました」
おもわれお松
――お松様とお町ちゃんはうり二つ
これで庚申堂のいきさつ、お松懐胎のてんまつは、いっさいがっさい分明したが、ここにわからないのはお粂である。
佐七はお粂をふりかえり、
「お粂、おまえはこの話を、まえから知っていたのか」
「おまえさん、すみません」
お粂は鼻をつまらせながら、
「じつは、金ちゃんが江戸へかえってからまもなく、あたしゃその話をきいたんです。ねえ、おまえさん、辰つぁんも、豆さんも……」
「へえ、へえ、あねさん」
「なにかわてらに用だっか」
「いまの金ちゃんの話をきいて、おまえさんたちはうろんに思うかもしれないけれどね、お松さんを死んだお町ちゃんだと思いこんだという話を……」
「ふむ、ふむ。それがなにか……」
「あたしも金ちゃんからその話をきいたとき、まゆつばもんだと思っていたんだよ。金ちゃんにゃすまないけどさ。ところが、それがお松さまじゃないかと気がついたとき、あたしゃゾーッとしたわねえ」
「ゾーッとしたといやはりますと……?」
「いえね、おまえさんたちはお町ちゃんを知らないんだけど、あたしゃそのひとに三度会っているんだよ。金ちゃんと駆け落ちするまえに」
「あっ、あねさん、それじゃお町という娘……」
「お松さまに似ていやはったんかいな」
「いえ、うりふたつというほどではないんだが、たしかにこう、似たところがあるんだねえ。だいたい、お松さまというひとは、錦町小町などとさわがれながら、縁遠かったせいかもしれないけれど、どっかこう憂い顔の、さびしいお顔立ちでいらっしゃいましょう。お町ちゃんというひとが、やっぱりそうでしたわねえ。だから、あたしはじめて、お町ちゃんというひとに会ったとき、ハッと思ったんです」
「ハッと思ったとは……?」
「いえさ、これゃひょっとすると金ちゃん、甲州屋のお嬢さんにほれていて、それでつい、お松さまに似ているこの子にほれたんじゃないかって……」
「あねさん、うそです、うそです。そ、そんな滅相なこと……親の代からおせわになってるお出入りさきのお嬢さんにほれるなんて、そんな……そんな……それに、お松さまというかたは、年ごろにおなりなすってからは、出養生つづきでしたから、おいらめったに会うことはねえくれえで……」
ゆでだこ金太は大ゆでだこにうであがり、ポッポと湯気を立てながら、流れる汗は滝のごとし。
辰はわざと意地悪そうな目で、ジロリとそれに流し目をくれ、
「あれ、金ちゃん、あんなこといってるぜ。おまえが甲州屋のおかみさんのお供で、箱根の湯治へいったなあ、あれゃアたしかにおととしの秋。あんときゃアお松さまも、ごいっしょだったときいてるぜ」
「そやそや、あらたしかに、ひと月あまりの長逗留《ながとうりゅう》やったなあ。さてはあのとき……」
「あっはっは、そんなことがあったのか。しかし、ここで金ちゃんをいじめるのは堪忍してやろう。それより、お粂、おまえの話をきこうじゃねえか。これじゃア金ちゃん、こっちへかえってからまもなく、おまえにだけは庚申堂のいきさつをこっそり打ち明けたんだな」
「ああ、そうそう、そのこと……金ちゃんとしては、あいてのお女中が生娘だったんじゃないかと気がついたんですね。それで、とんだ罪つくりをしたんじゃないかと、気がとがめていたんです。それで、あたしにだけは打ち明けてくれたんですが、これがまるで雲をつかむような話でしょう。それに、六所明神様のくらやみ祭りの晩には、わかい男と女といろいろあるって、うわさにゃ聞いていましたからね。おまえさん、とんだおこぼれに預かったんだろうが、こんなこと、めったにひとにいうもんじゃないよと、あたしのほうから口止めしといたくらいなんです。ところが、おととい、甲州屋の番頭さんがおみえになっての打ち明け話。それを聞いたときのあたしの驚き、ゾーッとしたというのは、そのときの話なんです」
「つまり、お松さまとお町ちゃんて娘の似ていることを思い出したんだね」
「はい」
「ところで、金ちゃんはお松さまが、あっちのほうへ出養生にいってらっしゃるってことは知らなかったんだな」
「はい、あっしゃもう一年の余も、江戸にごぶさたしておりましたから……まさか、あんなところにお松さまがいらっしゃろうとは……」
金太はまたしても滝の汗である。
「ああ、そうそう、ここで金ちゃんにきいとくが、おまえ布田の宿の、だるまの五兵衛さんて親分のみうちで、勘次さんというのをしってるかえ」
「はい、よく存じております」
「どういう縁だえ」
「はい、去年お町と駆け落ちして、甲府へいくとちゅう、布田の宿でお町がわずらいついたとき、ふとした縁でだるまの親分さんのおうちで、半月ほどおせわになったことがございます。そのとき、勘次さんとおちかづきになりましたんで」
「その後、勘次さんと会ったことがあるかえ」
「はい、くらやみ祭りの翌朝、庚申堂をはやだちして、布田の宿へさしかかったとき、去年お世話になったてまえ、素通りもできません。ちょっとごあいさつによったところ、勘次さん、だれかに切られてふかでとやら、それでお見舞いにあがったことがございます」
佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせた。
人間の運命というものは、どこでどうもつれるかしれたものではない。そのとき勘次にふかでをおわせたのが新三である。しかも、その新三の身代わりとなって、金太がお松と契ったのだから、運命の神様もとんだ粋人でいらっしゃる。
しかし、そのことはまだ金太にいわないほうがよいと、佐七は辰や豆六に目くばせした。
「その後、勘次さんには……?」
「はい、江戸へまいもどったのち、あちこちおわびがかなって、ここへ落ち着きましたとき、布田の親分や勘次兄いに、そのむね知らせておきました。そしたら、いまからひと月ほどまえ、勘次兄いがひょっこりと、ここへ訪ねておみえになりました。なんでも、この江戸にたずねるひとがおありだとか……」
「そのとき、勘次さんはおひとりだったか」
「いえ、あの、お袖さんというひとがごいっしょでした」
佐七はまた辰や豆六に目くばせしながら、
「それで、おまえそのおふたりの世話をしたのか」
「いえ、お世話といったところで、ごらんのとおりの六畳ひと間。ひと晩お泊めしましたが、それからあとはいっこうに……しかし、親分、勘次兄いがどうかしたんですか」
「なあに、いいってことよ。おまえとはただそれだけの縁なんだな」
「はい……そうそう、それで思い出したんですが……」
「思い出したとはなにを……?」
「いえ、布田の親分からお町のことを聞かれましたんで。それでハッとお骨をわすれてきたことを思いだし、勘次兄いを見舞ったあと、大急ぎで庚申堂へひきかえしたんです」
「ああそうか。それじゃアそれまでにゃア、そうとうひまがかかったわけだな」
「はい、庚申堂へひきかえしたときにゃ、もうそろそろ昼でした」
そのあいだにだれかが骨壷《こつつぼ》を持ち去ったわけである。
「ところで、お粂はどうしたんだ。お松さまの契ったあいてが金ちゃんだと気がついたとき……」
「そうそう、だから、きのうおまえさんが旅立ちしたあと、さっそくここへやってきて、金ちゃんにその話をしたら、さあ、金ちゃんの驚きようったら! 親の代からおせわになった甲州屋のお嬢さんに、そんなことしたとあっちゃ、生きてはいられぬという騒ぎなんです」
「なんだ、金ちゃんも意気地がねえ。そんとき、お松さまは身ごもられたんだぜ」
「そやそや。ということはな、そのとき金ちゃんにいろいろしてもろたことが、お松さまにとっては、心から底からうれしかったちゅう証拠やないか」
「辰兄いも豆さんも、もう堪忍してくだせえ」
金太はまたもや頭から湯気ポッポの、額から汗タラダラである。
「あっはっは、辰も豆六もいいかげんに勘弁してやれ。お粂、それで……?」
「あい、金ちゃんが生きるの死ぬのと騒ぐのを、やっとなんとかなだめてかえってくると、けさになって金ちゃんがやってきて、へんな女が証拠のくしをほしいといってきたが、どうしようという相談なんです。どんな女だって聞いてみたら、いままで会ったことも見たこともない、そうとうあばずれらしいというんでしょう。それで、とっさの思いつきで、表通りの紅屋さんでちょっと似たくしを買ってきて、それをふたつに割って、そのかたわれをつかませるようにすすめたんです。その女というのがお六なんですよ」
お粂、でかしたというところである。
「金ちゃん、おまえそのにせものを、お六のやつにわたしたのかえ」
「はい、ひさご屋であってわたしました」
「そのくしは、このふたつのうちのどっちだえ」
佐七がふところから取りだしたのは、新三と銀造のもちだしたふたつのくしのかたわれだったが、金太とお粂がちゅうちょなく、
「あい、このくしですよ」
と取りあげたのは、なんとも意外、銀造の持ちだしたくしではないか。
これには佐七をはじめ辰と豆六、ありゃりゃとばかりに顔見合わせた。
嘉右衛門《かえもん》夫婦
――どろぼうは舌かみ切ってからくれない
甲州屋の嘉右衛門《かえもん》お早の老夫婦は、その晩、おそくまで寝つかれなかった。
新三はいやみな捨てぜりふをのこしてかえっていき、銀造は銀造で、うらめしそうに奉公人の部屋へひきさがり、けっきょく、その晩の詮議《せんぎ》はうやむやのうちに幕になり、佐七もひきあげていったあと、奥座敷へまくらをならべて寝たふたりだが、ともすれば、夫婦の口をついてでるのは老いの繰り言。
こんなことなら、お松をもっとはやく、お嫁にやっておけばよかったのに……というのが、いつもながらのお早の愚痴。
お松の弟の吉太郎はことし十六、お松より夫婦がさらに老境にはいってからうまれた子だが、このほうはお松とちがってからだも達者で、性質もテキパキとして、なかなか利口者である。それにもかかわらず、嘉右衛門がお松を嫁にだししぶったのは、健康も健康だが、それよりも世間によくある嘉右衛門の、男親としてのエゴイズムだろう。
老境にはいって、もう恵まれないものと、あきらめていたところへうまれた子宝のお松が、玉のようにかわいいきりょう、世間から小町娘とさわがれてみれば、親として、目のなかへいれても痛くないほどかわいいのはもっともなところへもってきて、それにくらべると、あとからうまれた吉太郎は、二番せんじの感はまぬがれがたく、お松にくらべると、かわいさもだいぶん劣った。
だから、吉太郎を養子にだすか、のれんをわけて分家させてでも、お松に養子をとっていついつまでも手もとにおいておきたいというのが、よくある男親のエゴイズムである。
それについて、これまでたびたび、お早や親戚《しんせき》のものと衝突してきたのだが、その結果がこういうことになったいまとなっても、嘉右衛門はじぶんが悪かったとは思わない。いや、思っても口にだすのが業腹なのである。
それにしても、かわいいお松をはらませたのはどこのどいつか、たったいちどで身ごもるほども、お松を無我夢中にさせてしまったのは、いったいどこのどういう男か……それを考えると、嘉右衛門は業が煮えてたまらない。
それにもまして、嘉右衛門の業が煮えてたまらないのは、じぶんをはらませたその男……どこのだれとも、眉目《みめ》かたちさえわからぬ男を、お松がいちずに恋いこがれているということである。
それを思うと、娘がふびんであると同時に、こうまでつよくお松の心をとらえてしまった男にたいして、嘉右衛門の業が煮えてたまらないというのは、これが男親の嫉妬《しっと》だということに、嘉右衛門じしん、まだ気がついていないのである。
それにしても、わからないのはひとの心である。いったい、銀造はどういう了見で、あんなことをいいだしたのかと、それをかんがえると嘉右衛門は、また業が煮えてくる。
銀造はしらくも頭の丁稚《でっち》小僧の時代より、このお店の子飼いである。いぜんは実直につとめていたので、手代にまでひきあげたが、ここ一年ほど性根がすこしぐらついている。夜こっそり、お店をぬけだしたりするのは、あれも年ごろだからと大目にみていたが、ちかごろすこし目にあまってきた。いつかみっちり意見をくわえなければと思っていたやさきに、こんどの一件である。
府中の庚申堂でお松と契ったのが、しんじつあいつならば、できたことはしかたがないと目もつぶろう。しかし、お玉が池の親分にチクリチクリといびられて、青くなっていたところをみると、あいつのいうことも当てにならない。だいいち、証拠のくしもちがっていた……。
と、とつおいつ、そんなことを思い悩んでいるものだから、嘉右衛門の寝つかれないのもむりはない。そばではおなじ思いの女房お早が、これまたしきりに鼻をすすりながら、寝がえりばかりうっている。
「お早、もう寝よう。いくら考えてもらちのあくこっちゃアない。夜でも明ければ、またよい思案もうかぼうぞ」
と、女房をしかりつけるようにして、やっととろとろしはじめたのが九つ半(一時)ごろ。それからどのくらいたったのか、まくらもとでがたりという音。はっとあさい眠りからさめた嘉右衛門は、寝床のうえに起きなおり、
「だれだ!」
と声をかけて、くらやみのなかでひとみをすえた。まくらもとには銭箱がおいてある。
と、そのとたん、くらやみのなかでさっと空気が動いて、だれかがおどりかかってきたかとおもうと、嘉右衛門は左の腕に焼けつくような疼痛《とうつう》をおぼえた。
「わっ!」
と、おもわずはなったその悲鳴に、女房のお早も目をさまし、
「ど、どうなさいました、だんな……」
といいかけて、まくらもとの気配に気がついて、
「あ、ど、どろぼう! だれかきてえ……」
金切り声をはりあげたから、
「ちっ、畜生ッ! このクソばばあ!」
足をあげてお早をその場にけたおすと、銭箱かかえてくせ者は障子の外へとび出した。
「どろぼう……どろぼう……だれかきてえ……だんな、だんな、だ、大丈夫でございますか」
「お、おれは大丈夫だ。左腕をやられたが、どうやらかすり傷ですんだようだ。それより、お早、おまえはどうだ。どこにもけがはないか」
「は、はい、わたしは大丈夫でございます」
と、たがいにいたわりあうのも夫婦なればこそ。そういう声をうしろにきいて、くせ者は雨戸をけやぶり、庭へおりたが、そのとたん、
「この野郎!」
という声がきこえたかとおもうと、くせ者は目から百千の火花がちった。もののみごとに、目と目のあいだをぶんなぐられて、
「あっ!」
と叫んでよろめくところを、腰車にかけられて、いやというほど地面にたたきつけられ、そのままかえるのようにへいつくばってしまった。
そこへお早の悲鳴をきいて、かけつけてきた番頭はじめ奉公人が、てんでにあかりをさしつけながら、
「あっ、そこにいるのは、鳶頭《かしら》じゃないか。それじゃア、どろぼうというのはおまえのことか」
「番頭さん、冗談いっちゃいけません。どろぼうはここに取りおさえておきましたから、だんなやおかみさんをみてあげてください。こいつ、刃物を持っておりますから」
しかし、さいわい、嘉右衛門は傷もあさく、お早といっしょに縁側へでてくると、
「金太、おまえがどうしてここに……?」
「いえ、その子細はあとで申し上げますが、それより、だんなもおかみさんも、おけがは……?」
「いや、傷はほんのかすり傷……それより、金太、どろぼうというのはいったいだれだ」
そのどろぼうは、金太に組みしかれたまま、大の字になって伸びている。
「へえ、じゃアひとつ面をあらためてみましょう。番頭さん、あかりをかしてくださいまし」
「あいよ」
と、番頭の喜兵衛が気味悪そうに、あかりをまえへ差しだすと、
「やい、どろぼう、おもてをあげろ」
と、金太が首っ玉をとって、どろぼうの顔をひきおこすと、とたんに一同は、
「わっ!」
と叫んであとじさりした。
どろぼうの顔はからくれない、みごとに舌かみ切って死んでいた。
「あ、き、金太、そ、それゃア銀造ではないか」
嘉右衛門がびっくりしたのもむりはない。舌かみ切って、世にも凄惨《せいさん》な最期をとげているのは、まぎれもなく手代の銀造。
しかも銀造は高飛びでもするつもりだったらしく、旅ごしらえもげんじゅうに、わらじまではいている。
いったいこれはどうしたことと、一同がびっくりして、目をパチクリさせているところへ、
「いや、そのわけはわたしからお話し申し上げましょう」
と、植え込みをわけて出てきたのは、いうまでもなく人形佐七。辰と豆六がついていることはいうまでもない。
かたみの骨壷
――先妻の回向をするのは後妻の役
「おお、これはお玉が池の親分。これはいったい、どういうことで……?」
「いや、それはいずれ、ゆっくりお話しいたしましょう。それより、だんなもおかみさんも、かすり傷でなによりでした。こういうこともあろうかと、鳶頭《かしら》に張りこんでおいてもらったんです」
佐七は舌かみ切った銀造の死体をあらためたのち、かるく手を合わせると、
「番頭さん、だれかをやって、自身番にこのことを届けておおきなさいまし。それから、だんな、おかみさんも。深夜なんでございますが、ちょっとお耳にいれておきたいことがございますんですが……」
「ああ、そう。それじゃお早、むこうの座敷へ……」
「番頭さん、おまえさんもつきあってください。鳶頭、おまえさんもくるんだぜ」
「へえ……」
といったものの、金太ははやもうゆでだこである。
「あっはっは、いい男が、なにをもじもじしているんだ。辰、豆六、おまえたちはここにいて、町役人がおみえになったら、しかるべく申し上げておいてくれ」
「へえへえ、こっちのほうは大丈夫です」
「金ちゃん、しっかりやりなはれや」
辰と豆六、すっかり喜んで、ゆでだこ金太をけしかけている。
「あっはっは、まあいい、まあいい。おっと、お松さま」
この騒ぎに起きだしてきたお松に佐七は声をかけると、
「おまえさまも顔をかしてください。なあに、ご心配なさることはございません。たいへんおめでたいお話でございますから」
こうして、ひとしきりざわめいたあと、おもての座敷へ席がきまると、
「もし、お玉が池の親分さん、おめでたいお話とおっしゃいますのは……?」
と、さっそく切り出したのはお早である。お早はさすがに女で、なんとなく金太の存在が気になるようすであった。
「いや、それを申し上げるまえに、あの銀造さんのことですがねえ。あいつがじぶんで舌かみ切って死んでくれたのは、お店にとっちゃ仕合わせでした」
「親分、それゃまたどうして……?」
「いえね、だんな、あいつはだんなに手傷をおわせたばかりじゃアなく、お六という女を殺しているんです」
「えっ、あの、お六を……」
番頭の喜兵衛が目をまるくするのをみて、
「番頭さんはお六をご存じですかえ」
「ええ、知っております。悪いやつで、いまから一年ほどまえのこと。お店で万引きをはたらきました。わたしはそれに気がつきましたが、店先を騒がせるのもなんだからと、銀造にいいふくめ、あとをつけさせたのでございます。ところが、一刻《いっとき》(二時間)あまりもたってかえってきた銀造の申しますのに、番頭さん、あれはあなたの思いちがいでした。あの女はなにも持ってはおりませんでしたと……」
佐七ははたとひざを打ち、
「なるほど、それでわかりました。そのとき、銀造はお六の色仕掛けにかかって、いっしょに寝るかなにかして、まんまとたらしこまれたんですね」
「そうおっしゃれば、そのじぶんから銀造は性根がうわついてきたようです。いま親分にそうおっしゃられて、思いあたるんでございますが」
「親分、そのお六というのはどういう女で……?」
と、だんなの嘉右衛門はふしんそうな顔色である。
「なあに、むかでと異名のある、江戸でもなだいの莫連女《ばくれんおんな》、お小姓新三の情婦《いろ》なんですよ」
「あっ!」
と、一同は息をのみ、わけてもお早は顔色かえてひざのりだした。
「親分さん、そして、そのお六とやらを銀造が手にかけたとおっしゃるんでございますか」
「へえ、おかみさん。ですから、銀造さんが舌かみ切って死んでくれたのは、ご当家にとってはお仕合わせだったと申し上げたんです。まあ、お聞きください、こういう話になりそうですね」
佐七はそこでひと息いれると、
「お六は新三というおとこをもちながら、銀造さんとも怪しい関係をつづけていた。その銀造さんの口から、お松さまのこんどのいきさつを耳にした。それを新三のやつに話したところが、妙なところでひっかかりがある。そこで、これさいわいと、新三のやつが乗りこんできたんですが、かんじんの晩に牢舎にいたこと、それから、証拠のくしがねえことにはどうにもならぬとわかったので、お六はとうとう府中まででむいていって、あの晩、お松さまと契った男をさがしだし、証拠のくしのかたわれを、ことばたくみにまきげたんです」
「えっ、親分、それじゃ、あの晩の男というのがわかりましたか」
嘉右衛門も、お早も、番頭の喜兵衛も、はっとばかりに顔色がかわった、お松がぎょっとしたように、胸をかきいだいたのもむりはない。
「そうです。わかりました。しかし、それを申し上げるまえに、もうすこしあっしの話をお聞きくださいまし。お松さまと契った男は、お六が考えてるより、ちっとばかり利口だったんですね。だから、にせのくしをお六にわたしておいたんです。お六はそれをにせとはしらず、新三はもうダメと見きりをつけ、こんどはそれを銀造さんにわたしました。銀造さんはそれをにせとは知らないから、それを証拠に、甲州屋の婿になるつもりだったんでしょう。それにゃお六を生かしておいちゃ、のちのちまでたたりになりますから、そこで柳原堤へおびきだし、ひと思いにしめ殺したんです」
「まあ、こわいこと……」
一同はいまさらのように息をのんだが、そのとき、いそがしくひざをのりだしたのはだんなの嘉右衛門。
「してして、親分、あの晩、お松と契った男というのは……」
その顔を佐七はきっと見すえるようにして、
「それを申し上げるまえに、だんなにもういちど、おききしておきたいことがございます」
「親分、そ、それはどういうこと……?」
「だんなはおっしゃいましたね。こうして子までなしたからには、あいてがまっとうな男ならば、身分ちがいなどはとやかくいわぬ。きっとふたりを添わせてやると……だんなはキッパリそうおっしゃいましたね」
「そ、それゃそういったが……」
「だんな、およろこびなさいまし。そいつは男振りなり、度胸なり、男のなかの男一匹、もっとも、ちっとばかり血の気のおおいのが玉に傷かもしれませんがね。それじゃ、お松さま」
「はい……」
「さっきおあずかりしたくしのかたわれ、いまあらためてお返しいたしますが、これにピッタリ合うかたわれを所持しているのが、あの晩の殿御でございますね」
「はい、あの、さようでございますが……」
お松はあおざめてふるえている。むりもない。女としては一生のだいじの瀬戸際なのだ。嘉右衛門も、お早も、番頭の喜兵衛も、手に汗にぎって、その場のなりゆきを見まもっている。
佐七は金太をふりかえり、
「それじゃ、鳶頭《かしら》、あの晩、お松さまからおあずかりしたくしのかたわれお目にかけなせえ」
「げっ、そ、そ、それじゃこの金太が……」
「あれ、まあ、それじゃこの鳶頭が……」
「だんな、おかみさん、面目しだいもございません」
畳に額をこすりつけたゆでだこ金太は、またしても、またしても滝の汗。
「あれ、まあ!」
と、お松は息をはずませて、
「それじゃ、あの晩の殿御というのは、金太……さまでございましたか」
とたんに、お松のからだに火がついた。まっかにもえたお松の顔は、ゆでだこ金太にまさるとも劣るまい。身分ちがいとへだてられていたものの、お松もひそかに、金太におもいをよせていたらしい。
「それ、鳶頭《かしら》、なにをぐずぐずしてるんだ。お松さまがお待ちかね、はやくあのくし、出してお目にかけろ」
「はい、それではお松さま、これを……」
金太がふところから出してわたしたくしのかたわれを、お松はふるえる指でうけとって、じぶんのくしのかたわれと合わせてみたが、それがピッタリ合うのをみると、ホロリと落とすひと滴。
やがて、なに思ったのか、つと立って座敷を出ていったが、すぐ引きかえしてきたところをみると、なんと、小さな骨壷《こつつぼ》をかかえているではないか。
お松は金太のまえに手をつかえ、
「金太さま、これはもう、おまえさまにお返しはいたしませぬ」
「あっ、そ、それじゃこの骨壷はおまえさまが……」
「はい、あの翌日、府中を立つまえ、もういちどおまえさまにお目にかかれはしまいかと、庚申堂へいってみました。おまえさまのお姿はみえませんでしたが、このお骨がのこっておりました。これをおまえさまのかたみと思って……そこにはお亡くなりなさいました仏様の俗名と命日が書いてございますので、毎月ご回向いたしておりました」
「あ、ありがとうございます、お松さま」
「なんの……先妻のあととむらいをするのは、後添いのつとめ」
「鳶頭、なにをぐずぐずしているんだ。お松さまのおなかのややは、おまえさんのタネだ。かまうこたアねえから、お松さまを抱いてあげなせえ」
「それだといって、親分……」
ゆでだこ金太がためらうそばから、嘉右衛門だんなが目をしばたたきながらことばをはさんだ。
「金太……じゃなかった、鳶頭《かしら》、お玉が池の親分さんのおっしゃるとおりだ。しっかりお松を抱いてやってくれ」
「鳶頭、わたしからもお願いします。お松、鳶頭に力いっぱい抱いておもらい」
お早も涙ながらにことばをそえた。
身分ちがいさえいわなければ、金太なら申し分ない男だということを、嘉右衛門夫婦は子どものときから知っている。
「だんな、おかみさん。ありがとうございます。それじゃアお松さま」
「金太さま……」
ひしと抱きあうふたりを見て、
「だんな、おかみさん、おめでとうございます。お玉が池の親分さん、ありがとうございました」
番頭の喜兵衛が目がしらをおさえながら、ふかくこうべをたれたとき、どこかで一番どりのなく声がきこえた。
その翌朝、三味線堀《しゃみせんぼり》のほとりで新三が切られて死んでいるのが発見されたが、下手人もわからず、佐七もまた、その下手人をさがそうとはしなかった。
新三こそいい面の皮で、お六は新三に見きりをつけ、あたまからにせと承知の、くしのかたわれをわたされていたのだろう。
団十郎びいき
辰と豆六大口論
――お国自慢観音様に天王寺さん
「ちょっ、いわせておけばべらべらと、豆六、なるほど、てめえは上方もんだから、大阪《おおさか》びいきもむりはねえが、なんといっても江戸は天下のおひざもと、大阪なんかにねえもんがいくらでもあらア」
「こらおもろい。お江戸にあって、大阪にないもんちゅうたら、兄い、どんなもんや」
「そうよ、まずだいいちが浅草の観音さまよ。ご本尊は一寸八分の小粒でも、玉のいらかの本堂は、東西十七間二尺、南北十五間五尺四寸というごうきなもの、昼夜宗旨のさべつなく、ご参詣《さんけい》の善男善女がたえねえというにぎやかさ。豆六、こんなけっこうなお寺が大阪にあるかえ」
「あほらしい。大阪には四天王寺さんちゅうて、そらありがたいお寺がおまんがな。境内はまず東西が八町、南北が六町、二万一千坪にあまるというひろいもんや。なかには金堂、講堂、五重の塔、仁王門に回廊、猫門《びょうもん》、太子堂に鐘楼、石の舞台――と、ああ、しんど。それはそれはけっこうなもんや。兄い、どんなもんや」
「こん畜生、口のへらねえ野郎だ。それじゃ、豆六」
と、さあ、こうなるときりがない。
おなじみの神田お玉が池の佐七のうちでは、ふとしたことから、江戸大阪の自慢くらべがはじまって、きんちゃくの辰とうらなりの豆六の両雄が、口角あわをとばし、舌端火花をちらしている。
自慢のたねは名所くらべからはじまって、食べ物くらべ、衣装くらべ、さては四季の遊山くらべと、いよいよ高潮にたっしたが、やがて、辰はせせらわらい。
「こうこう、豆六、いわせておけばべらべらと、かってな熱をふきゃアがるが、それじゃきくが、大阪にゃ三座のような芝居があるかえ。芝居といやア江戸のはな、役者もあまたあるそのなかで、市川の団十郎といやア、日本第一、荒事の開山だ。そんな役者が大阪にあるかえ」
「あほらしい。いま江戸で日の出の人気役者中山歌七、あれはいったいどういう役者や。もとはといえば、大阪役者、あの歌七が大阪からくだってきてからちゅうもんは、江戸の役者はかたなしや。荒事の開山かなんかしらんけど、顔じゅうべたべた塗りたくって、あらなんだす。まるで唐人の化けもんやおまへんか」
「なによ、こん畜生」
「わっ、兄い、なにすんねん。口でいいまけたさかいちゅうて、手をだすという法がおますかいな」
「あるもねえもあるもんか。よくも団十郎をけなしゃアがった。こうしてくれるわ」
と、たいへんなことになったもので、お国自慢がこうじたあげく、あわや、つかみあいがはじまろうとするのを、見るにみかねて女房のお粂。
「辰つぁんも、豆さんも、なんだねえ。バカらしい。子どもじゃあるまいし、たいがいにおしなねえ」
「だって、あねさん、こいつ生意気じゃありませんか。お江戸のおまんまをくいながら、よくも団十郎の悪口をぬかしゃアがった」
佐七もわらって、
「まあ、いいからさ。そんな手荒なまねをしちゃアみっともねえ。豆六も豆六だ。お国自慢もいいが、郷にいっては郷に従えということもある。あんまりなことはいわねえもんだ」
「へえ、すみまへん。つい調子にのりすぎました。兄い、気にさわったらごめんやすや」
「はっはっは、なに、てめえがそういうんなら、おいらもなにもいうことはねえ。豆六、おたがいに、お国自慢もいいかげんにしようぜ」
と、そこは気のあった同士の兄弟分、親分夫婦の仲裁で仲直りが成立すると、あとはさばさばしたものである。
佐七はわらいながら、
「ひいき役者のためにゃアとかくけんか口論もおこりがちなものだが、それがひいきのひきたおしで、かえって役者のためにならねえ。それに団十郎と中山歌七も、ついこのあいだまでは人気争いがひどかったが、こんどはいよいよ和解して、市村座で初顔合わせをするというじゃねえか」
「そうそう、狂言もきまって、看板もとっくに上がりましたが、しかし、親分、こう初日がのびのびになっているのは、どういうわけでございましょうねえ」
「ほんにそれや。なんやまた、ごたごたがあったちゅう評判だっせ」
と、三人のふしぎそうなうわさ話もむりはない。
そもそも、中山歌七と、団十郎の人気争いは、ちかごろ劇界でのうわさのたねだった。
中山歌七というのは、さっき豆六もいったとおり、もとは大阪役者だったが、十年ほどまえにくだってくると、たちまち江戸の人気を独占してしまった。
大阪役者にはめずらしく、歌七の芸はさらりとしていて、踊りでござれ地芸でござれ、行くとして可ならざるなき達者さだったから、これが江戸の人気にとうじて、当時日の出の人気役者、芝居道の清盛入道とさえ評判された。
なんとかして江戸役者をおしたてて、歌七に拮抗《きっこう》しようとあせったが、あいにく当時の江戸には、歌七とはりあえるような役者はひとりもいなかった。
江戸随一市川の団十郎も、歌七がくだってきたころはまだ十九歳、団十郎の名跡をついでいるとはいえ、芸もわかく、舞台の貫禄《かんろく》もひくかった。
かくて、歌七は十年間、江戸の舞台に君臨してきたが、そのうちにようやく頭をもたげてきたのが、江戸っ子のホープ団十郎、いまや押しもおされもせぬりっぱな役者になったから、さあ、こうなるとふたりの人気争いはものすごい。
団十郎には代々のよしみで、魚河岸の連中がしり押しする。
歌七のほうには上方出身のおおい小田原町あたりが後援するというわけで、両優のあいだには、火花をちらす競争がつづけられたが、それがこのたび、仲にはいるものあり、いよいよこんどの顔見世狂言で、初顔合わせという段取りとなって、狂言もきまって児雷也《じらいや》。
団十郎の児雷也に、歌七の大蛇丸《おろちまる》と役もおさまり、市村座はたいした前景気だったが、それがいつまでたっても初日がでない。
いったい、江戸の三座は、毎年、十月に役者をいれかえ、翌年度いっぱい興行する一座で、はじめて開ける芝居を顔見世狂言といって、毎年十一月ときまっていた。それが十一月の三日になっても、五日になっても初日があかないから、そろそろ妙なうわさがたちはじめた。
いまもいまとて、三人がそんな話をしているところへ、
「ごめんくださいまし」
と、入ってきた男が、
「わたしは市村座の帳元、勝五郎と申すものでございますが、こちらの親分に、おりいってのお願いがございまして――」
と、うわさをすればかげのあいさつ。
佐七をはじめ辰と豆六、おもわずおやと顔見合わせた。
両優番付争い
――団十郎ゆかりの品がズタズタに
「おお、これは親分さんでございますか。とつぜんでございますが、じつは少々芝居のほうに困ったことがございまして――」
と、苦労ありげな勝五郎のかおいろに、佐七もひざをすすめた。
「帳元さん、じつはいまも、こいつらとうわさをしていたところですが、市村座はどうしてこんなに初日がおくれているのでございますえ」
「じつは、そのことでございまして――なにがさて、あのとおりの人気さかんなおふたりさん、ひいきもむつかしゅうございますので、番付などもひととおりの苦労ではございません。やむなく、番付をふたつにわりまして、いっぽうの座頭は歌七さん、もういっぽうは団十郎さんの座頭と、これでようやく納めましたが、さて、絵番付という段取りになって困りました」
狂言が児雷也だから、絵番付には児雷也の妖術《ようじゅつ》、がまを大きくかくのがふつうである。
ところが、そこへ歌七のひいきから槍《やり》がでて、大蛇《だいじゃ》ががまを巻いているところにしろと、ねじこんできたのである。
ところが、これをきくと、団十郎びいきのほうでもだまっちゃいない。
「べらぼうめ、児雷也の狂言でがまを大きくかくのはあたりまえのことだ。いいから、ひとつ、大蛇を踏んまえているところにしたまえ」
と、こわ談判。
困ったのは座元だ。
「どちらの顔をたてましても、こうなっちゃひと騒動まぬがれませぬ。すったもんだといってるうちに、初日が延引《えんいん》いたしまして――」
と、勝五郎は暗いかおをした。
「なるほど、それはお困りでしょうが、しかし、帳元さん、いかにひいきとはいえ、番付にまで口をいれるというのはどんなものでしょうか。いったい、そんなわからないことをいうひいきというのは、どこのだれでございます」
「それが、歌七さんのほうは小田原町の浜辰《はまたつ》さん、団十郎さんのほうは魚河岸の伊豆寅《いずとら》さんで」
ときいて、佐七は辰は豆六と顔見合わせた。
小田原町の浜辰というのは、浜田屋辰右衛門《はまだやたつえもん》という道中師の親分、魚河岸の伊豆寅というのは伊豆屋寅五郎《いずやとらごろう》といって、これまた魚河岸きっての顔役。
どちらも血のけのおおいわかい者をおおぜいかかえている親方のこと、どちらの顔をつぶしても、しょせん、ひと騒動はまぬがれぬ。
「なるほど、それゃお困りのことはじゅうじゅうお察しいたしますが、しかし、帳元さん、いったいこのあっしにどうしろとおっしゃるんで。いかにあっしでも、魚河岸と道中師のなかに立って口をきくほどの顔じゃありませんからねえ」
と、佐七がわらうと、
「いえ、お話というのはまだこれからで」
と、勝五郎が顔をしかめて語るところによると、こうしてひいき役者のことから、浜辰と伊豆寅がすったもんだのいがみあいをつづけているおりから、ゆうべ、たいへんなことが起こったのである。
「ゆうべ、伊豆寅さんがお切られなすったんで」
ときいて、佐七もおどろいた。
「えっ、伊豆寅さんが切られたと。そして、死んでしまったんですか」
「いえ、さいわい傷は浅手でございますが、お聞きくださいまし。かようでございます」
伊豆寅にはお町というおもいものがあって、これを鐘突新道《かねつきしんみち》にかこってあった。
伊豆寅はほとんど毎夜のようにそこへ出むいて寝とまりすることになっているが、ゆうべの真夜中、その妾宅《しょうたく》へしのびこんだくせ者があった。
がさごそと、うちのなかをかきまわす物音に、めかけのお町がまず目をさまして、さっそく伊豆寅を呼びおこした。
伊豆寅はもとより気丈な男、おのれ生意気などろぼうめと、くらがりのなかで組みついたが、あいてはやにわに切ってかかって――。
伊豆寅に二、三カ所薄手をおわせて、そのまま逃げてしまったのである。
「なるほど、それじゃくせ者がどういうやつか、わからないのでございますね」
「はい。しかし、ばあいがばあいゆえ、浜辰さん一味のものにちがいないと、朝からたいへんなけんまくで――」
「しかし、それゃすこし早がてんがすぎるんじゃありませんか。なにもどろぼうがしのびこんだとて、浜辰さん一味とはかぎらないでしょう」
「いえ、ところが少々おかしいことがございますので――」
伊豆寅というのは有名な団十郎びいきで、その妾宅なども、すっかり成田屋にちなんだ造作にしてあるくらい。団十郎に縁のあるものならば、絵であろうが字であろうが、かたっぱしからあつめて喜んでいるという熱心家。
「ところが、朝になって気がついてみますと、その団十郎さんにゆかりのある品が、かたっぱしからぶっこわしてあるんだそうで――」
「へへえ、それは――」
と、佐七はにわかに興をもよおしたらしく、ひざをすすめた。
「なるほど。それで浜辰さん一味のいやがらせと、こう思いこんだわけですね」
「へえ、さようで。ですから、この返報はきっとせにゃアおかぬと、魚河岸はけさからたいへんな騒動。これをきいて浜辰さんのほうは、身におぼえのないことだが、あいてが殴り込みをかけるというならおもしろい。こっちにも覚悟があると、これまた朝からものものしい気配。こんなことで血の雨でもふろうものなら、親分さん、それこそ芝居はめちゃくちゃでございます」
と、勝五郎は思案投げ首。
そして、いっこくもはやく、伊豆寅さんを切った下手人をとらえて、このでいりを未然にふせいじゃくれまいかと、佐七にむかって泣くように頼むのである。
紛失した博多《はかた》人形
――お町の顔色がさっと変わった
「親分、おまえさん、こんなことを引き受けて、大丈夫でございますかえ。あとで引っ込みのつかねえようなことになりゃアしませんか」
「そやそや、こら、やっぱり伊豆寅が疑うてるように、浜辰一味のもんのしわざにちがいおまへんで。もしそうやったら、親分、兄いもいうとおり、引っ込みのつかんことになりまっせ」
と、辰と豆六が気をもむのを、
「なに、いいってことよ。おれにゃおもう子細もある。それに、あの伊豆寅にゃ、わけえころひとかたならぬ世話をうけたことがある。りっぱな男だが、こんな子どものけんかみてえなことで、世間からうしろ指をさされるようなことがあっちゃ気の毒だ」
と、やってきたのは鐘突新道。なるほど、魚河岸のわかい衆が張りこんで、あたりはものものしい空気だった。
佐七がそのなかをとおりぬけ、伊豆寅の妾宅にあいさつすると、
「なに、お玉が池がきたと、そいつはめずらしい。まあ、こっちへあがれといえ」
と、おくのほうで伊豆寅の声。
佐七をはじめ辰と豆六は、わかいものに案内されてあがったが、なるほど、この妾宅は凝《こ》っている。
まず上がり口は六尺四方の三升《みます》形、団十郎の紋所にかたどってある。
そして、そのうえには、先々代の団十郎が男之助に扮《ふん》したときのかみしもでこさえあげた揚げ幕がつるしてあり、おくへとおるとどの部屋も、畳に三升模様が織りだしてある。
天井をみると、これまた三升組みの網代《あじろ》天井、そのほか障子の骨にいたるまで、三升ならざるはなく、ふすま、畳のへりには団十郎が『暫《しばらく》』に着用した柿色素袍《かきいろすおう》をつかってあるというのだから、もって伊豆寅の団十郎びいきが、いかに猛烈であるかわかろうというもの。
さすがの佐七もあきれかえって、にが笑いをかみころしながら奥へとおったが、みると伊豆寅は、いましもめかけのお町をあいてに、冷や酒をあおっているところだった。
「おお、お玉が池か、よくきてくれた。おまえの地獄耳もひょうばんもんだが、こんなつまらねえことが耳にはいって面目ない」
伊豆寅というのは五十がらみで、でっぷりふとった大男で、膚のぬけるように白い、いいかっぷくだ。
佐七はまだ名をなさぬまえの三下時代に、この伊豆寅にいろいろめんどうをかけたことがあるので、いまだに頭があがらない。
「ええ、親方、そのごはとんだごぶさたいたしました。きけば、おけがをなすったという話で、それでこうしてお見舞いにあがりましたが、お元気でなによりで」
「はっはっは、なに、かすり傷よ。わざわざ見舞ってもらうほどのことはねえ」
伊豆寅は、左の腕や股《また》のあたりに、二、三カ所、しろいきれを巻いているが、あたるべからざる元気だった。
「それはなによりで。ときに、親方、こちらがお町さんで」
「おお、そうそう、おまえにゃはじめてだったな。お町、これが人形佐七といってな、見るとおりのいい男だが、これで十手捕りなわをとると、江戸一番といわれる男だからゆだんがならねえ。はっはっは、お町、おまえもうしろ暗いことがあったら、うっかりこの男のまえに出るな」
伊豆寅はおもしろそうにわらったが、そのとたん、お町の顔色がなんとなくくもったのを、佐七ははやくも見逃さなかった。
お町というのは二十五、六、小股《こまた》の切れあがったいい女だが、どこかしずんだ顔色が気になった。
佐七はさりげなく伊豆寅のほうへむきなおると、
「ときに、親方、ゆうべの賊は成田屋に由緒のあるものをかたっぱしからぶっこわしていったといいますが、それはほんとでございますか」
「ふむ、そのとおりよ。なに、考えてみりゃたいした代物でもねえが、こうなっちゃアこっちも意地づくだ」
「それじゃ、やっぱり浜辰一味のしわざだとお思いで」
「それに違いねえだろうじゃねえか。それとも、お玉が池、おまえになにか考えがあるのかえ」
「いえ、べつに考えといっちゃアございませんが、親方、どうでしょう。ひとつゆうべ賊のしのびこんだ座敷というのを見せちゃもらえますまいか」
「おお、いいとも、おやすいご用だ」
伊豆寅がびっこをひきながら立ちあがると、すぐにお町が寄りそった。
「はっはっは、とんだ箱根山の勝五郎よ。さあ、こっちへきねえ」
お町と伊豆寅に案内されたのは、わたり廊下のむこうにあるはなれ座敷。ごたぶんに漏れず、この座敷も三升ずくめの造作だったが、なるほどあたりは足の踏み場もないほどの取りちらかしよう。
「この座敷にゃ成田屋にちなみのある品を、かたっぱしからあつめておいたんだが、見ねえ、このとおりのざまだ」
伊豆寅が激昂《げっこう》するのもむりはない。
団十郎にゆかりのある隈取《くまど》り、扇面、錦絵《にしきえ》、羽子板、人形、色紙、短冊と、そういうものが片っぱしからうちこわされ、ひっさかれて散乱している。
「なるほど、こいつはひどいことをしやアがったもんですが、ときに、親方、このなかから、なにもなくなったものはございませんか」
「そうさなア。まだよく調べてもみねえが」
と、伊豆寅は立ったまま座敷のなかを見渡していたが、やがてお町をふりかえると、
「そういやアお町、あの博多人形がみえねえようだが、おまえ知らねえか」
「あい、あの――ほんにそういえば、みえないようでございますね」
お町はなんとなくおどおどした目の色だったが、はじめてきいたそのことばには、つよい上方なまりが耳についた。
「はてな。そうすると、あの博多人形だけを持っていきゃアがったのかな」
「親方、その博多人形というのはなんですえ」
「ふむ。じつは、昨年長崎へいったとき、かえりに博多へたちよって買ってきたものだ。団十郎の『暫《しばらく》』でな。なかなかよくできたしろものだったが、まさかあんなものをねらってきたわけじゃあるめえ」
佐七はそれとなくお町のようすをうかがっていたが、やがて伊豆寅のほうへむきなおると、
「親方、あっしのような若僧が口出しをするのもおこがましゅうございますが、浜辰さんとのこのでいり、ひとまずあっしに預けちゃアくださいますまいか」
「なに、このでいりをあずけろと」
「はい、ゆうべの賊が浜辰一味ときまりましたら、あっしもいさぎよく手を引きます。しかし、そのまえに少々、詮議《せんぎ》いたしたいことがございますので」
伊豆寅はじっと佐七の顔をみつめていたが、
「よし、ほかのやつのいうことなら、おれアけっして聞くことじゃねえが、ほかならぬおまえのことだから、なにか思う子細もあるんだろう。いかにもあずけてやろう」
「えっ、それじゃアあずけてくださいますか」
「だが、お玉が池、長くはいけねえぜ、あすの朝の六つ(六時)までだ。それまでにおまえのあいさつがなけりゃ、おれア浜辰へ殴りこみをかけるぜ」
「よろしゅうございます。しかし、親方、もしそれまでに、ゆうべの賊が浜辰さんとなんのかかりあいもないとわかったときには」
「おお、おれも男だ。そのときにはいさぎよく、浜辰のまえに手をついてあやまらあ」
そのときまたもや、お町の顔色が、憂わしげにかげったのを、佐七はやはり見のがさなかった。
おうむの舌を切る男
――世の中には変なやつもあるものだ
「親分、おまえさん、あんな約束をしていいんですかえ。下手人が浜辰一味とわかったら、いさぎよく手をひくといいなすったが、まさか、ああそうですかという調子にゃアまいりますめえ」
「そやそや、坊主にでもなっておわびせんならん。こら、ひょんな約束しやはったもんやなあ」
と、辰、豆六が気をもむのを、
「なに、いいってことよ。なんとかならあ」
佐七はなにか思うところがあるらしく、ふたりをうながし、鐘突新道から通りへでたが、すると、そのとき、うしろから、
「あの、もし、お玉が池の親分さん」
と、声をかけたものがある。
振りかえってみると、六十ちかいばあさんが、もじもじしながら、
「わたくしは伊豆寅にごやっかいになっているばあやのお鉄というものですが、親分さんにちっとお耳にいれたいことがございまして――」
と、なんとなくあたりに気をかねるようすに、佐七はふたりに目くばせしながら、
「おお、どういう話かしらないが、さいわいむこうにそば屋があるから、ひとつあそこへまいりましょう」
と、もよりのそば屋へばあやをつれこんだ佐七が、
「そして、お鉄さん、話というのは」
と尋ねると、お鉄はつぎのような話をはじめたのである。
昨夜お鉄が目をさましたのは、伊豆寅のけたたましい叫び声をきいたからだった。
お鉄は目をさますと、すぐはなれ座敷のほうへかけつけたが、そのとき、伊豆寅のわっという叫び声とともに、くせ者が匕首《あいくち》片手にとび出した。
これにはお鉄もおどろいて、暗やみのなかに立ちすくんでいたが、それともしらずくせ者は、お鉄のまえを疾風のようにかけぬけていった。
と、間髪をいれず、はなれ座敷をとびだしたのがお町で、これまたお鉄に気がつかず、すそをみだしてくせ者を追うようすに、お鉄もはたととほうにくれた。
伊豆寅も伊豆寅だが、お町のほうもすててはおけぬ。どうしようかと迷っているところへ、座敷のなかから、伊豆寅が、
「お町、大丈夫だから引き返してこい」
と、そういう声は手負いともおもえぬ元気さ。
お鉄もこれに安心して、あらためてお町のあとを追っかけたが、みるとお町は裏木戸のあたりで、ひとりの男に組みついているところだ。
男はお町の手をふりほどこうと、しきりに、
「ひとちがいだ、はなせ、はなせ」
と叫んでいたが、そのうちにお町はあいての顔をみたらしく、
「あれ、おまえは仙《せん》さん」
と、ふかいおどろきの声が、お町のくちびるからほとばしった。
あいてもこれにはおどろいたらしく、
「おお、そういうおまえはお町さん。おまえがどうしてここに――」
といいかけたが、そのときおくから伊豆寅が、お町の名をよぶのがきこえたので、
「お町さん、委細はいずれまたのちほど――」
と、むりやりにお町の手をふりほどき、あと白波と逃げてしまった――。
と、そういうお鉄の物語に、佐七もおどろいてひざをすすめると、
「すると、お町さんは、ゆうべの男を知っていたんだね」
「はい、そのようでございました」
「そして、そのことをだんなにゃだまっているんだね」
「はい。それですから、わたくしも、いってよいやら悪いやら。親分さん、どうぞこのことはおまえさんの胸ひとつにおさめて――」
と、お鉄はくらい顔をした。
「いったい、あのお町さんというひとはどういうひとだえ。だんなとはふるいなじみかえ」
「いえ、あの、それが――昨年だんなが長崎へおいでになりましたみぎり、どっからか連れておもどりになりましたので、わたくしもどういう氏素姓のかたか存じません」
そういってから、お鉄はまたあらためて、
「だが、親分さん、こういうことを申し上げると、わたくしがお町さんを讒訴《ざんそ》するようでございますが、けっしてそうではございません。お町さんというかたは、たいそう気立てのよいかたで、だんなにもしんからつくしておいでになります。もし、ゆうべのくせ者がお町さんのしりあいといたしましても、これにはきっとふかい子細のあること。どうぞ、親分さん、お町さんにも、だんなの身にも、ともに、けがあやまちのないように――」
と、お鉄はしんじつこめて涙さえ浮かべていた。
だが、お鉄のこの注文はむつかしい。
伊豆寅にこの無分別なでいりから手を引かそうとするには、どうしても、ゆうべのくせ者を捕らえねばならぬ。そうなれば当然、お町との関係もあかるみへ出るだろう。
お町にどういうかくしごとがあるのかしらぬが、さっきのしずんだ顔色を思い出すと、そこによういならぬ事情が伏在しているように思われてならぬ。
佐七はしかし、いいかげんにお鉄をなだめてかえすと、じぶんは辰と豆六をひきつれて、やってきたのは小田原町。浜辰にもいちおう、仁義を通じておこうとおもったのである。
「なるほど、それじゃ、向こうでは、あすの明け六つ(六時)まで、このでいりを待とうというんですね」
佐七からいっさいの話をききとった浜辰は、おだやかな口調でそういった。
これまた五十がらみの、さすがに苦労人らしい、いい親分だ。
「いや、ようがす。ほかならぬおまえさんが仲に入ろうというんなら、わたしのほうにも異存はありません。しかし、お玉が池の、あしたの明け六つまでといやア、もうあといくらも時刻はないが、それまでに、おまえさん、きっとらちをあけるつもりですかえ」
「へえ、およばずながら、何とかこぎつけたいとおもっております。それについて親分、おまえさんにお尋ねいたしますが、ゆうべの一件は、たしかにこちらさんじゃないんでしょうねえ」
「お玉が池」
浜辰は銀の延べギセルをおだやかに吸いながら、それでもきっと佐七をみて、
「わたしがそんなけちなまねをする人間とみえますか」
「いや、おまえさんはご存じなくとも、もしやお身内のかたのなかに――」
「それも考えました。だから、けさあのうわさをきくと、さっそく若い者をきびしく詮議《せんぎ》いたしましたが、だれも知らぬといっております。もっとも、ここにひとり、ゆうべからかえらぬ男がありますが、まさかそいつが――」
「で、その男というのは」
「なに、そいつだって、そんなことをする道理がありません。ちかごろ転げこんできたばかりのわかい者で、うまれは長崎、名は仙之助《せんのすけ》」
佐七はあっと辰や豆六と顔見合わせた。
うまれは長崎、名は仙之助。――それこそまさしく、ゆうべの仙さんではあるまいか。
浜辰はしかしそれと気もつかず、
「なに、そいつが逃げた子細もたいがいわかってるんです。野郎、せんだってへんなまねをしやアがったので、こっぴどくしかりつけてやったんです」
「へんなまねと申しますと?」
「おうむの舌を切りゃアがったんですよ」
浜辰はおもしろそうにわらったが、佐七をはじめ辰と豆六は、あきれたように目をまるくした。
さあ、話がわからなくなったのである。
「親分、おうむの舌を切ったというのは、そりゃまた、どういうわけでございますえ」
佐七がひざをすすめると、浜辰はいよいよおかしそうに、
「なに、こういうわけですよ」
浜辰のうちには一羽のおうむが飼ってあった。
それはかれがひいきにしている中山歌七からもらったものだが、人語を解して、人まねを上手にしゃべった。
仙之助はそれがふしぎであったらしく、このうちへころげこんでくると、いつもおうむのそばを去らず、熱心にそのことばに耳をかたむけていたが、ある日、なにを考えたのか、おうむの舌を切りとってしまったのである。
「世のなかにゃアへんな野郎もあればあるものじゃありませんか。みたところ、しごくおとなしそうな若者でしたがね」
浜辰はおおきく腹をゆすって笑ったが、佐七はなぜか笑えなかった。そのまま、じっと考えこんでしまったのである。
博多人形秘伝のゆくえ
――なぞのスウツエン・ドバンシラン
「親分、わかりました。一件のおうむというのは、もと、長崎奉行付き与力をしていた長尾|弥十郎《やじゅうろう》さんから歌七がもらったもんだそうです。長尾さんのところも聞いてきましたが――」
あれからまもなく歌七のところへ、おうむの出どころをききにいったきんちゃくの辰が、お玉が池へかえってきての報告に、佐七はおもわず目をすぼめた。
なにもかもが長崎をさしている。
伊豆寅のうちからなくなった博多人形は長崎土産、お町と仙之助はどうやら長崎者らしい。
そして、いままた、仙之助に舌をきられたおうむというのも、もとの長崎奉行付き与力のもとから出ているのだ。
「豆六、こんどはてめえご苦労してくれ。八丁堀《はっちょうぼり》の神崎《かんざき》さまのところへいって、長尾さんへの添書を書いていただいてくるんだ」
「おっと、合点や」
豆六はしりに帆かけてとびだしていったが、それからまもなく、佐七は長尾弥十郎のお屋敷で、あるじの弥十郎と差し向かいになっていた。
「おお、佐七とはそのほうか。名まえはかねてより聞きおよんでいるが、して、きょうはどういう用件だの」
神崎甚五郎からの添書を巻きおさめながら、そういって、佐七のほうへむきなおった長尾弥十郎は、としごろ四十二、三、与力などによくみられる、いかにもさばけた人柄だ。
「へえ、じつは少々お尋ねしたいことがございまして。というのはほかじゃございません。だんなから役者の歌七にくだしおかれました、あのおうむでございますが、あれのでどころをお尋ねいたしたいので」
それをきくと、弥十郎はにわかにひとみをすぼめたが、やがてひざをすすめると、
「佐七、それじゃあのおうむの申すことがわかったのか」
「え?」
「いや、あれはな、博多のなだかい人形づくり、紅屋勘三郎、いちめい紅勘ともうす名人の飼い鳥だったが、その紅勘についてはいちじょうの物語がある」
博多人形の名人ときいて、佐七はまたもやはっとした。
「だんな、その物語というのは、どういうことでございます。差し支えがなかったら、ひとつ、聞かしちゃくださいますまいか」
「ふむ。じつはわしもながく気にかかっていたところだが――佐七、きけ、こうよ」
そこで弥十郎が物語ったのは、つぎのような因縁話である。
博多人形師の紅勘は、名人のほまれが高かったが、その紅勘の身に、昨年ひじょうな不幸がもちあがった。
紅勘のつくった博多人形の白衣観音、それが、摩利耶観音《まりやかんのん》をかたどっている、という疑いがかかったのである。
摩利耶観音とは、とりもなおさず聖母マリヤ。
禁制の切支丹を信奉するものは、おおっぴらに聖母の像を信奉するわけにはいかないので、ひそかにそのすがたを観音像に仮託《けたく》して信奉する。
その摩利耶観音をつくったとあっては、紅勘の身がぶじにすむわけはなかった。
紅勘は捕らえられたうえ、長崎奉行のまえにひきだされ、吟味をうけたあげく、とうとう、切支丹として斬罪《ざんざい》に処せられた。
そのさい、吟味にあたったのが長尾弥十郎だった。
「紅勘の罪はもう疑いの余地はなかった。だが、罪をにくんでひとを憎まずということもある」
「はあ。それで……?」
「わしは紅勘の腕をおしんだ。博多人形師もかずあるなかで、紅勘のつくった人形だけは、とくべつのさえをみせる」
「なるほど」
「そういう秘法も、紅勘が死なば、やみからやみへとほうむられてしまうわけだ。わしにはそれが惜しまれたので、いよいよという際におよんで、紅勘にたずねたのだ。そのほうの秘法は、なにものかに伝授してあるかとな。すると、紅勘のこたえがかわっている」
「かわっているとおっしゃいますと?」
「わたしの秘法なら、おうむのやつにきいてくださいましと……」
佐七はおもわず目をまるくした。
「へへえ、それじゃあのおうむが紅勘の秘法を知っているというのでございますか」
「さよう。ところが、そのごふとした縁で、わしは紅勘の飼っていたおうむを手にいれた。そこでいろいろおうむのことばに耳をかたむけたが――」
「なにかわかりましたか」
弥十郎はにっこりわらって、首をよこにふると、
「わからぬな。そのごよくよく考えてみたが、むつかしい人形造りの秘法などを、いかに利口とはいえ、おうむごときがしろうはずはない。おおかた、紅勘は気でも狂っていたのであろうと、そうおもったゆえ、江戸へかえってくるとまもなく、おうむは歌七にくれてやった」
佐七はがっかりしたが、また思いだしたように、
「ときに、だんなは、仙之助、お町という名をご存じじゃございませんか」
それをきくと、弥十郎はおどろいたように、
「佐七、そのほうがどうしてそれを知っている。お町というのは紅勘のひとりむすめ、仙之助は愛弟子《まなでし》で、たしかふたりはいいなずけだったと思う」
佐七はやにわにひざをのりだした。
「だんな、ひとつ思いだしてくださいまし。おうむはほんとに、なにもしゃべりゃアしませんでしたか。なにかこう、わけのわからぬようなことでも――」
「そうさな」
弥十郎は首をかしげていたが、やがてポンとひざをうち、
「そうそう、そういえばひとつ、ふうがわりなことばをおぼえていたな。ときどき、スウツエン・ドバンシランと叫んだようだ」
きいて佐七は目をパチクリ、
「だんな、それアなんのことでございます。唐人のねごとでございますか」
「はっはっは、そのほうにはわからぬのも無理はないな。いかにもそれは唐人のことばじゃ。市川団十郎というのを、唐人ふうに読めば、スウツエン・ドバンシランということになる」
みなまできかずに、佐七ははや、すっくとその座をたっていた。
やみの中にふたりのくせ者
――師匠のかたき覚悟しろと
わかった、わかった。これでなにもかも明白になったのである。
そこで、佐七は弥十郎の屋敷をでると、辰と豆六をひきつれて、やってきたのが鐘突新道。夜ももうよほど更けて、おりから石町の鐘が四つ(十時)を打った。
と、このときである。
いましも、鐘突新道の横町を曲がろうとしたとき、伊豆寅の妾宅《しょうたく》の横路地から、だしぬけにばっととびだしてきた男が、であいがしらに、いやというほど佐七の胸にぶつかった。
「あっ、なにをしゃアがる」
佐七は体をひらいてやりすごしたが、そのとき、ふと目についたのは、あいてが左のこわきにかかえているしろもの。
「あっ、辰、ありゃア博多人形じゃねえか」
「あっ、親分、そやそや、あら、たしかに『暫《しばらく》』だっせ」
それをきくと、くせ者はだしぬけにバタバタと逃げだした。
「畜生ッ、それじゃあいつがゆうべのくせ者だ。おい、まて、てめえは仙之助だな」
辰と豆六が追いすがりざま、左右から猿臂《えんぴ》をのばして、くせ者のえり髪をひっとらえようとしたが、そのときである。
思いもよらぬことがそこに起こった。
天水おけのかげから、バラバラととびだしてきた若い男が、スルスルとくせ者のそばへ走りよると、
「師匠のかたき!」
匕首《あいくち》さかてに土手っ腹をえぐったから、博多人形をかかえた賊は、
「わっ」
とひと声、虚空をつかんでのけぞった。
おどろいたのは佐七をはじめ辰と豆六、いっしゅん、あっけにとられて棒立ちになっていたが、やがて佐七がかけよって、
「どういうわけかしらねえが、人をあやめたうえからは、てめえにも覚悟はあるだろうな」
声をかけると、あいてはすなおに匕首を投げ出した。
「はい、親分、けっしてお手向かいはいたしませぬ。そのかわり、親分、おなわをちょうだいするまえに、ひとつのお願いがございます」
「ふむ、よく神妙にいった。おれの身にかなうことなら、聞きとどけてやろうが、そして、そのねがいというのはどういうことだ」
「はい、そこの伊豆寅さんのご新造、お町さんに、ひとめ合わせていただきとうございます」
涙にしめったその声に、佐七はおもわず月の光であいての顔を見なおした。みれば、色白の小意気な男で、悄然《しょうぜん》とした顔色がいかにもいたいたしかった。
「なに、お町さんに会わせろ? そして、そういうおまえさんは――」
「はい、わたくしは仙之助というものでございます」
これには佐七もおどろいて、辰や豆六と目を見交わした。
たったいままで、博多人形をかかえてそこに死んでいる男を仙之助だとばかり信じていた三人には、これはまったく寝耳に水だった。
そこで、辰がたおれている男をひきおこしてみると、なるほど、浜辰のいった人相とは似てもにつかぬ五十男。
「おお、それじゃおまえさんが仙之助か。しかし、それじゃこの男はなにものだえ」
「はい、わたくしにとっては師匠のかたき、紅葉屋勘右衛門《もみじやかんえもん》という博多の人形造りでございます。おなじく紅勘を名乗っておりましたが、わたしの師匠の紅屋勘三郎とは、月にすっぽんのへたくそでございます。そこで、師匠にたいするねたみのあまり、これを訴人いたしましたあげく、師匠の秘法までうばいとろうとしたやつでございます」
佐七にはこれではじめて、なにもかもわかった。
「おお、すると、ゆうべ伊豆寅の親方を切ったというのも――」
「はい、こいつでございます」
「いや、よくわかった。仙之助さんとやら、まア悪くははからわねえから、ともかくあっしといっしょにおいでなさい。辰、豆六、おまえたち、とりあえずこの死骸を、伊豆寅の庭へかつぎこんでおけ」
「おっと、合点」
こうして佐七は、仙之助をひきつれて、伊豆寅の妾宅《しょうたく》をたたきおこしたが、おもいがけなくその妾宅でも、ひとつの騒動がもちあがっていた。
「おお、お玉が池か」
伊豆寅は佐七の顔をみると、いつになくあわてた口調で、
「たいへんなことができた。お町がのどをついた」
それをきくと、仙之助、あっと叫んでまっさおになったが、伊豆寅はふしぎそうにそれをみて、
「お玉が池、このかたは――?」
「いや、それはいまお話しいたしますが、お町さまはご自害なすったんで」
「いや、一命はとりとめるらしいが、それにしてもおれにゃわからねえ。お玉が池、まアこの書き置きをみてくれ」
伊豆寅がとりだした書き置きには、これまでの厚情にたいして、こまごまと感謝のことばをつらねたうえ、どうしてもだんなに申し訳のないことができたゆえ、自害するというむねが、涙ながらにしたためてあった。
「お玉が池、おれに申し訳のねえことというのは、いったいどういうことだろう」
「いや、それもこれもよくわかっております。親方、こちらは仙之助さんといって、お町さんにとっては、親のゆるしたいいなずけでございます」
さすがの伊豆寅も、それをきくと、ぼうぜんとして息をのんだのである。
仙之助二代目紅勘
――わらじとたこでも書くがいい
そこで、佐七が仙之助の助けをかりつつ、伊豆寅にうちあけた物語というのは、だいたいつぎのとおりである。
紅勘が斬罪《ざんざい》に処せられたのちの、お町の身こそあわれであった。
頼みにおもういいなずけの仙之助も、おなじく切支丹のうたがいで吟味牢《ぎんみろう》入り、名人気質の、たくわえとてない紅勘のうちでは、たちまちその日のくらしに困った。
お町は、あらゆるものを売り食いしたが、さいごまで手ばなさなかったのは、父がさいごにつくった団十郎の『暫《しばらく》』。
これこそ、紅勘が捕らえられる直前につくったものである。
まさか、そのなかに父の秘法が封じこめられていようとは、さすがのお町もしらなかったが、父がさいごにいったことば、この人形をおれのかたみとおもって、だいじにしろというそのことばをまもって、お町はこれだけは手ばなす気にはなれなかった。
しかし、貧はなにものをも犠牲にしてやまない。
お町はついに、泣く泣くその人形を手ばなしたが、それが江戸の客、伊豆寅の手にはいったときくと、お町はもうやもたてもたまらなかった。
父の霊にひかれるごとく、伊豆寅のあとをしたって、ついふらふらと女のひとり旅。
「ほほう、そいつはとんだ吉野山《よしのやま》の狐忠信《きつねただのぶ》だ。それならそうと早くいやアいいのに」
と、伊豆寅はわらったが、しかしその目には涙が光っていた。
とかく女のひとり旅は、悪者の手にかかりやすい。
お町もすでに危うくみえたところを、したってきた伊豆寅の手にすくわれて、ともに江戸へくだってくると、いつか伊豆寅のせわになる身になったのである。
こうして、お町はいつまでも、父のかたみといっしょにいられることをよろこんだが、しかし、いっぽう、心にかかるのは仙之助のこと。
伊豆寅にも、ふかく身分をかくしていたが、いいなずけのことはかたときも忘れなかった。
さて、その仙之助だが、これは半年ほどの入牢ののち、切支丹のうたがいははれて出牢したが、そのときには、お町のゆくえはわからなくなっていた。
だが、ふと耳にしたのは、師匠の紅勘が、いまわのきわに弥十郎にいったことば。
わが秘法はおうむにきけという遺言である。
そこで、おうむのゆくえをたずねたそのあげく、さいごにつきとめたのが浜辰のもと。
しゅびよくそこにすみこんだ仙之助は、とうとうおうむの舌から、秘法のありかのかぎをにぎった。
ちょうどそのころおこったのが、浜辰、伊豆寅の番付争いである。
そんなことから、仙之助は、浜辰の子分の口から、伊豆寅がもうれつな団十郎びいきで、団十郎にゆかりの品をたくさんあつめているということ、また、昨年長崎で、団十郎の博多人形を買ってかえったということまで耳にした。
そこで、もしやとしのんでいった伊豆寅の妾宅《しょうたく》には、意外にもひとあしさきににせ紅勘がしのびこんで、ひと騒動おこしたところだった。
しかも、さらに意外なのは、伊豆寅のめかけというのが、いいなずけのお町であるとしったおどろき。
お町はお町で、伊豆寅を切ったのはてっきり仙之助と、思いあやまったのもむりはない。
しかも、博多人形の秘密をしらぬお町は、仙之助が伊豆寅を切った原因がじぶんにあると早合点して、だんなにもすまぬ、またいいなずけにも申し訳ないと、みずからのどをついたのである。
さて、にせ紅勘がどうして秘法のありかをしったのか、これは勘右衛門が死んだいまとなってはしるよしもないが、おおかたかれははじめの夜、しゅびよく人形を盗みだしたものの、お町には追っかけられる、仙之助にはゆくてをはばまれる。そこでやむなく、いったん庭のすみに人形をかくしておいて、翌晩それを取りもどしにきたのだろう。
そして、仙之助の手にかかったのである。
こういう話を仙之助から涙ながらにきいた伊豆寅は、かさねがさねのふしぎな因縁に、しばらくはことばもなかったが、やがておもむろに口をひらくと、
「いや、よくわかりました。お町は仙之助さんにもすまぬ、またおれにもすまねえと、さてこそのどをついたんだな。もし、仙之助さん、お町はなるほどむかしのきれいな体じゃねえ。しかし、あんな気立てのよい女もまたとありません。むかしのことは水に流して、ひとつ女房にしてやってください」
「親方さん、そのお情けはありがとうございますが、人を切ったこの仙之助、とても生きちゃいられません。お町さんはゆくすえなごうおまえさんがかわいがってあげてくださいまし」
仙之助はしんみりいったが、それをきくと、伊豆寅はだしぬけに、声をあげて高笑いした。
「なに、おまえさんがひとを切ったと。ふざけちゃアいけねえ。あのにせ紅勘なら、いちどならず二度までもどろぼうにはいったふらちなやつ、ゆうべの返報に、この伊豆寅が殺しましたのさ。ここにいるお玉が池が、なによりの生き証人でございますよ」
それをきくと、佐七もあっと、伊豆寅の顔を見なおした。
その夜が明けると、伊豆寅は、浜辰のほうへはいちおうのあいさつを通じておいて、すぐ奉行所へ自首してでた。
しかし、江戸時代でも正当防衛は認められている。
それに、佐七のことば添えもあって、伊豆寅はごくかんたんな吟味だけで、おかまいなしということになった。
かくて、青天白日の身になると、伊豆寅はあらためてわび証文をたずさえて、浜辰のもとへ出向いていったが、浜辰も男だ、それを受けるような男じゃなかった。わび証文は灰にしてしまうと、
「いや、伊豆寅さん、委細の話はお玉が池からきいた。こんどはおまえさんとあっしとは、妙にこんがらがった縁でむすばれたじゃないか。これもなにかの因縁だろうから、いままでのことは水に流して、ここでひとつ、ふたりでお町仙之助を夫婦にしてやろうじゃないか」
むろん、伊豆辰にいなやのあろうはずはなかった。
こうして、お町は本服すると、めでたく仙之助の女房となり、ふたり仲よく、あの博多人形をいだいて故郷へかえったが、そのご天下にその名をしられた二代目紅勘、これはいうまでもなく仙之助のことだった。
さて、こうして一件ことごとく落着したが、さいごにのこったのは絵番付の問題だ。
いったい、こんどの初日の延びているわけを、かんじんの本人中山歌七は、さっぱりしらずにいたのである。
そこで、ある日中山歌七は、帳元の勝五郎を呼びよせてきびしく尋ねたが、勝五郎がおそるおそるそのわけを話すと、歌七はしばらくあいた口がふさがらなかった。
そしてあきれかえったように、こういったということである。
「勝五郎さん、浜辰の親分がそういってくださるのは、それゃアもう身にしみてありがたいが、しかし、そうかといって、道中師や魚河岸がいちいち番付に口を入れるというのはどんなもんでしょう。道中師と魚河岸の芝居なら、わらじとたこでもかくがいいが、これは児雷也《じらいや》の芝居だ。団十郎《なりたや》の役のがまを大きくかくのが、ご定法じゃありませんか」
この一言で万事きまったが、これをきいてひどく感服したのが、いままで歌七ぎらいで押しとおしてきた伊豆寅だ。
あらためて歌七に引き幕をおくり、浜辰とともにさかんな景気をつけたから、この顔見世は大当たりで、帳元の勝五郎もきのうにかわるきょうの喜びに大ほくほくで、佐七のもとへ礼にきたという。
[#地付き](完)
◆人形佐七捕物帳(巻十二)
横溝正史作
二〇〇四年一月二十五日 Ver1