人形佐七捕物帳(巻十一)
[#地から2字上げ]横溝正史
目次
春姿七福神
血屋敷
女虚無僧
武者人形の首
狸御殿《たぬきごてん》
春姿七福神
こたつ正月
――いけないよ、その手を、その指を
年がら年中、やれ人殺しだの、やれ強盗だのと、やぼな御用においまわされているお玉が池の人形佐七も、さすがに、初春ともなればのんびりと、恋女房のお粂《くめ》とふたりさしむかいで、こたつにあたって朝っぱらからいっぱい。
ほんにことしはよい正月で、雪も降らねば風も吹かず、きょう七草も、日はうららかに暖かく、どこかで角兵衛獅子《かくべえじし》の笛の音ものどかで、空にはとびがピイヒョロロ。
「お粂、もういいだろう。それくらいにしておこうよ」
「あれ、まあ、おまえさんとしたことがこらえ性のない。もうすこしだから、辛抱おしよ」
「だって、おまえさっきから、おなじとこばっかりいじってるじゃねえか」
「それじゃといって、右をふくらませば左がちょっと……ほんに、もうすこしのところだから、辛抱しておくれ」
「それゃ辛抱しろといえば、いつまででもこうしているよ。おれだってまんざら悪い気持ちじゃねえもの。うっふっふ、お粂、こうすれゃどうだえ」
「あれ、いやだよ、おまえさん、あれ、あれ、お、お、おまえさんたら……」
「うっふっふ、こうされりゃ、おまえもまんざらいやでもあるめえ」
なにやら、こう、ごちゃごちゃと、お粂佐七のご両人、七草がゆをいわったその日のひるさがりを、いったいなにをしているのかと、そっとお玉が池の茶の間をのぞいてみると、いや、恐れいりました。
日当たりのいい縁側へ鏡台をもちだして、いましもお粂が亭主佐七の髪のかたちをなおしているところだが、なにせ鏡にうつる佐七の顔の、見ても見あきぬ男振りに、お粂はついうれしくて、おもわずボーっとして、ため息が出る思い。
念には念がはいって、もうすこし、もうすこしと、時間をもたせているところへ、佐七がうしろへ手をまわして、こちょこちょと、いたずらをはじめたからたまらない。
お粂ははやもう鼻をつまらせて、
「あれ、おまえさん、堪忍して……いけないよ、いけないよ、その手を……その指を……あれあれ、まだ日は高いんだよ」
「べらぼうめ、いいじゃねえか。日が高かろうが低かろうが、夫婦じゃねえか、だれはばかるところもねえはず」
「いけないよ、いけないよ。あれ、あれ、おまえさんたら……」
佐七の髪をなでつけているお粂は、もうほおがまっかにのぼせて、息がはずみ、
「もし、こんなところへ辰《たつ》つぁんや、豆さんがかえってきたら……」
「そうそう、その辰や豆六はどうしたい」
「あのひとたち、お昼御飯をたべるとすぐ、桜湯へいくととび出していったけど……」
「しめしめ、あいつら、なかなかかえってくるもんか。桜湯の二階であまっ子を張っているにちがいねえ。お粂、もっとまえへ出ねえ」
「あれ、いけないよ、辰つぁんや、豆さんが……」
いわせもおえず、うわさに影とはまさにこのこと。表の格子がガラガラッと、ものすさまじい音をたてたかとおもうと、
「親分、てえへんだ、てえへんだ」
「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
世に夫唱婦随ということばがあるが、辰と豆六は兄唱弟随で、兄いの辰が辰なら、弟分の豆六も豆六というところ。ふたりとも、糸の切れた奴凧《やっこだこ》のように、おもてから、キリキリ舞いをしながらとびこんできたが、ひとめ茶の間の縁側に、いまや展開されている情緒|纏綿《てんめん》たる情景を一見すると、
「うへっ!」
とばかりに、その場にひざをついた。
さすがに佐七も指のいたずらは切りあげて、すまして、お粂に髪をなでつけさせているが、
「なにがうへっだい、辰、豆六」
と、そういう声はのどにひっかかって、片付かない。
お粂もすまして、佐七の髪をなでつけているが、鼻がつまってほおはカッカ、とっさにことばも出なかった。
しかし、そこまで見抜く眼力は、あわれ、辰や豆六にはない。
まさか、このまっぴる間、夫婦の情緒大いに高揚して、あわやこうよという危機一髪の瀬戸際だったとは、神ならぬ身の気がつかない。
もっとも、それに気がつくような辰と豆六なら、いつまでもこの家の二階に、ゴロゴロしてはいなかったろう。とっくのむかしに独立して、辰五郎親分に豆六兄貴で大納まりに、おさまっていたにちがいない。
「いや、親分もあねさんも、恐れいりやした。初春早々『関取千両のぼり』というところですかえ。いやはや、おめでたいことで」
「兄い、その『関取千両のぼり』ちゅうのんは、いったいなんのことだんねん」
「なんだ、豆六、てめえしらねえのかい。稲川内の場、おとわ髪すきの段てえんだ。しらざあ語って聞かせやしょう」
きんちゃくの辰め、頭のドテッペンより、変な声を絞り出して語りだしたから、いやはやのんきなものである。これじゃまだまだ親分にはなれそうもない。
「相撲取りを男に持てば……
♪江戸|長崎《ながさき》や国々へ、行かしゃんすりゃそのあとの、留守はなおさら女気の、ひとりくよくよ思案事、夫にけがのないようにと、祈る神様仏様、妙見様へ精進も、もどらさんして顔見るまで、案じて夜をねぬ女房に、いまこの切ない苦しみを。
連れ添う女房にかくしている、おまえはそれほどつれないか」
辰が額に青筋をたて、首をふりふり語るのを聞きながら、
「ああ、よかった」
と。お粂がおもわずもらす安堵《あんど》のため息。ごていねいにも辰がそれを勘ちがいして、
「へえ、あねさん、ありがとうございます」
「うっぷ、辰、おまえの新内もけっこう聞かせるじゃないか。おらあホロッとしたぜ」
「あれ、親分、ほんならいまのんが、新内ちゅうもんだっか。わてはまた、さかりのついた雄豚が、雌豚を呼んどるんやとばっかり思てましたがな」
「なにを、この野郎、大いにそねめ、そねめ」
「あっはっは」
「おっほっほ」
「えっへっへ」
「うっふっふ」
四人四様の大笑いも、お玉が池の春景色、めでたかりけるしだいなり。
ついでに、この捕り物帳のごひいきも、栄当栄当とお願いしておこう。
恵方《えほう》の宝船
――七福神が殺されましたんやがな
「ときに、辰、豆六、その、てえへんだ、てえへんだ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃというのは、いったいどういうことだえ」
やっと髪すきをおわった佐七は、手水鉢《ちょうずばち》で手を洗って、長火ばちのまえへくると、まず一服。お粂はそのまにさりげなく懐紙をふところにはばかりへ。
ひとのよい辰と豆六は、いっこうそのけはいに気がつかず、
「おっと、そのこと、そのこと」
と、にわかにひざをのりだすと、
「親分、てえへんだ、てえへんだ」
「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
と、左右からがなり立てられ、佐七は顔をしかめながら、
「ええっ、ふたりともどぎつい声を出すない。こっちは耳はまだじゅうぶん聞こえるんだからな。それで、そのてえへんで、えらいこっちゃてえのを聞こうじゃねえか」
「親分、宝船のなかで人が殺されました」
「ぎょっ!」
「なにがぎょっ! やねん。宝船のなかで七福神が殺されましたんやがな」
「ぎょっ、ぎょっ、さあ、いけねえ。辰、豆六、おめえたち、あまり長湯をしたんで、のぼせあがったんじゃねえのか。辰、おめえ、耳鳴りがしやアしねえか。豆六、おめえ、めまいはどうだ。そういやアふたりとも、目玉がすわっている。さては宝くじがはずれて気が狂ったか」
まさか、そんなことはいやアしまいが、
「うっぷ、なにを寝ぼけたことをいってるんですよう」
「親分こそ、しっかりしておくれやすや」
「七福神たって、ほんとの七福神じゃねえんで」
「親分もご存じだっしゃろがな。この春売りに出された七福神の似顔の錦絵《にしきえ》」
「そうそう、その七人が七福神のこしらえで、柳橋から宝船をしたてて吉原《よしわら》へ、恵方参りに出かけようとしたところが……」
「とちゅうでひとりが苦しみだして、かっと血を吐いて死によったんだすがな」
「親分、これで少しは目がさめましたか」
いかにも佐七、これですっかり目がさめた。
しかし、それにしても七福神の似顔の錦絵とはなんのことか、まず、それから説明しておこう。
お江戸名物の錦絵は、毎年、春をあてこんで暮れのうちに売り出されるが、この春、ひょうばんになったのは、
『春姿七福神』
画工は当時、浮世絵界の第一人者といわれた歌川国富だが、この絵がどうして評判になったかといえば、当時お江戸の人気者、七人の似顔絵になっていたからだ。
まず、筆頭の大黒天は、そのころ十八大通の随一といわれた蔵前の札差し大黒屋|惣兵衛《そうべえ》。
この惣兵衛《そうべえ》お大尽、年齢は四十の男盛り。気っぷのよいことは、先祖の助六もはだしでにげようという人物。
当時、芸能界の人気者で、このひとの息のかからぬものはないといわれるくらいだから、歌川国富も敬意をはらって、七福神の旗頭におしたのである。
さて、二番目の恵比寿《えびす》様だが、これはちかごろ売り出しの、阪東松之助《ばんどうまつのすけ》という人気役者。
水のたれそうなうつくしい容姿と、そうかいな口跡とで、なんでもこなす器用な役者、そのうえ、女にかけても名人達者だというひょうばんがある。
さて、三番目の毘沙門天《びしゃもんてん》は、日の下開山、横綱の錣岩権太夫《しころいわごんだゆう》。
権太夫は当年とって三十三歳、一枚あばらの隆々たる筋肉は、さながら木彫りの仁王様のごとく、三年不敗の成績は古今無双とうたわれていた。
さて、四番目の布袋和尚《ほていおしょう》は、戯作者《げさくしゃ》の色即是空。是空はもと上野の坊主だったが、湯島通いに身をもちくずし、寺をおわれて戯作者になったというかわりもの。
洒落本《しゃれぼん》を書かせたら、この男の右にでるものはないといわれているが、大酒飲みの大きな腹と、坊主頭が、布袋様にはうってつけだった。
さて、五番目の福禄寿《ふくろくじゅ》、これは吉原《よしわら》でもひょうばんの太鼓持ち、桜川|三朝《さんちょう》にふられていた。
三朝はもう五十の坂をこしているが、お座敷手妻の名人で、頭がながいところが、福禄寿にそっくりだった。
さて、六番目は紅一点の弁財天、これはそのころ、柳橋きってのうれっ妓《こ》といわれた芸者のお遊。
お遊はとって二十三、きりょうもきりょうだが、すがたが無類といわれたもので、常磐津《ときわず》をよくするところから、常磐津お遊の名があった。
さて、どんじりにひかえた寿老人《じゅろうじん》だが、これは画工国富がみずから役を買ってでていた。
国富はそのとき六十三、七人のなかでもいちばん年輩だから、寿老人は役どころである。
以上七人の七福神が、宝船にのっての舟遊び。
これが、三枚つづきの絵になって売り出されると、縁起がいいというところから、とぶような売れゆきだったが、とかく世のなかは好事魔多し。
ここに、はしなくも七福神をめぐって、ひとつの事件が持ちあがったのである。
おいらん玉菊
――風流とはとかく寒いというもの
国富の七福神にかかれた七人は、大黒屋惣兵衛のきもいりで、きょう七草のおひるすぎ、柳橋の舟宿、井筒の奥座敷で顔つなぎをやった。
いずれは役者に芸者に相撲取り、絵かきに、戯作者《げさくしゃ》に、太鼓持ちというのだから、たがいに名前はしっていたし、すでになじみのものもあったが、それがこうして一堂にあつまるのは、こんどははじめてだった。
そこはあそびずき、趣向ずきの大黒屋惣兵衛。
『春姿七福神』の絵がひどく気にいって、かかれた連中にげきをとばして、七福神が一堂にあつまり、面白くあそうぼうじゃないか、ということになったのである。
なにがさて、あいては名だかいお大尽。
ごひいきになっておいて損はないから、みんなふたつ返事で井筒へきたが、そこには、七福神の衣装小道具が用意してあるのみならず、宝船までしたててあった。
そこで、さっそく一同は、絵にかかれたとおりの、七福神に扮装《ふんそう》すると、用意の宝船にのりこんだ。
大黒屋惣兵衛は上きげんで、
「いや、めでたい、めでたい、新年そうそう七福神とは、いや、歌川の師匠、よく見立てておくんなすった。この惣兵衛から礼をいうよ。きょうはこれから、吉原へ恵方参りという趣向だ。さあ、みんな無礼講だ。はめをはずして騒いでおくれ」
舟のなかには、舟宿のわかいものや、女中のほかに、惣兵衛がひいきの板前までのりこんでいて、酒肴《しゅこう》の用意にぬかりはない。
布袋様の色即是空は、むきだしの腹をなでながら、
「しかし、だんな、七福神に見立てられたのはよいが、布袋様はつろうがすな。こうして、腹をだしていなきゃあならないから、水の上じゃちとこたえます。関取など、裸になれているからいいようなものの」
「あっはっは、それはしかたがない。風流はとかく寒いものだと、辛抱するんだね。そのかわり、むこうへいったら、好きなおいらんを生け捕って、思うぞんぶん、汗をかかしてもらうさ」
「や、そいつはありがたい。それとわかったら、布袋和尚、勇気りんりん」
「おやおや、是空さんは裏門のほうが専門じゃなかったのかい」
と、寿老人の歌川国富がからかえば、
「なにさ、あっしゃ四十七士の討ち入りで、裏門表門、どっちからでも本望とげる」
などと、つまらないことをいって、みんなわいわいはしゃいでいるなかに、ただひとり、人気役者の阪東松之助だけが、みょうにうかぬ顔をしているから、弁天様のお遊が気にして、
「もし、恵比寿三郎様、どうなさいました。お顔の色がすぐれませぬが。たいでも、つりおとしなさいましたか」
と、よりそうようにして顔をのぞけば、そばから桜川三朝があざけるように、
「なにさ、いきさきが吉原ときまったので、大和屋《やまとや》の親方は、去年死んだ玉菊おいらんのことでも思いだしているんでしょう」
と、さりげなくいってのけた一言に、七福神の面上には、いっしゅん、さっと暗いかげが流れて、ぎこちなく座がしらけかけた。
それをすくうように、大黒屋がせき払いをして、
「いや、玉菊といえば、ふびんなことをしたな。大和屋との仲もひさしいものだが、それがだしぬけに自害して……あのときはわたしも、きつねにつままれたような気持ちだったぜ」
「だんなはずいぶん、玉菊さんのためにつくしておあげなさいましたからね。玉菊さんが、吉原随一とうたわれなすったのも、みんなだんなのお引き立てがあったればこそ。そのだんなに、一通の書き置きものこさず、自害したというのは、いったいどういうわけでしょうねえ」
「なにさ、玉菊が売り出したのは、おれのせいじゃねえ。玉菊売り出しのそもそもは、ここにいる布袋和尚の是空さんよ。色即是空がとくいの洒落本《しゃれぼん》のなかに、玉菊のことを織りこんで、古今無双の傾城傾国《けいせいけいこく》と書きたてたから、パッと人気がわきたったのさ」
「いや、そういわれると晴れがましいが、玉菊の売り出しは、あっしのせいじゃアありません。ここにいる歌川の師匠が、一枚絵にかいて売り出したのが、大当たりにあたっていらい、吉原随一のおいらんということになりましたのさ」
「なるほど。そういえば、ここにいるのは、みょうに玉菊おいらんに縁のあるご連中ばかりでげすな。あっしなんぞも、三朝さん、三朝さんと、おいらんにゃずいぶんごひいきになったもんで、ご恩は終生忘れません」
福禄寿の桜川三朝はがしんみりいえば、大黒屋惣兵衛も思いだしたように、
「そうそう、そういえば関取なども、いちじはずいぶん熱くなって、玉菊のもとへ通ったというじゃないか」
毘沙門天の錣岩《しころいわ》権太夫は、苦笑いをして、
「それも遠い昔のことでござんす。それに、わっちなどは、大和屋のような色男とはちがって、起請《きしょう》を取り交わすなどという意気なさたじゃごわせん。とおりいっぺんの客と女郎、宵《よい》にちらりと三日月さまで、振られてかえったことも、いちどや二度じゃありませんのさ」
「そうはいうが、おいらんも、いちじは関取にのぼせていたといいますぜ。大和屋の親方があらわれてから、牛を馬にのりかえたというはなしだが……」
「すると、関取と大和屋は、みょうにふかい因縁があるんだな。むかし、玉菊をなかにはさんで鞘当《さやあ》てしていたふたりが、いままた、このお遊をなかに……」
「あれ、もし、だんな」
と、さすがにお遊も顔をあからめる。
古今無双の横綱と、いま売り出しの人気役者におもわれて、お遊はからだがふたつほしいと思っているのだ。
「そうそう、そういえば、お遊はいつか、玉菊と義姉妹《ぎきょうだい》の杯をとりかわしたな。してみると、ここにいるのはみんな玉菊と、ふかいえにしに結ばれているんだなあ」
大黒屋惣兵衛は、感慨ぶかげにつぶやいたが、それにしても、玉菊とはいかなる女か、それをここで述べておこう。
新吉原|中万字《なかまんじ》屋の玉菊は、当時江戸の評判女であった。
遊女でこそあれ、歌俳諧《うたはいかい》はいうにおよばず、琴棋書画《きんきしょが》の諸芸につうじ、容姿のうつくしさは、いにしえの高尾|太夫《だゆう》も三舎《さんじゃ》をさけようといわれたくらい。その全盛はくらべるものもなかったが、それがとつぜん、去年のお盆の夜、匕首《あいくち》でのどをついて死んだのである。
書き置きがなかったので、原因はあきらかではないが、そのころ、阪東松之助と熱くなり、起請までとりかわしていたという評判だったから、ひょっとすると、大和屋に捨てられたのじゃないかと、くるわすずめのとりざただった。
きょうこの宝船にのりこんだ七人が七人とも、その玉菊にふかいゆかりがあるとわかってみれば、なんとなくみょうな気持ちで、一同はおもわず顔を見合わせたが、そこへだされたのが鯛《たい》の吸い物。
ところが、この吸い物をすするとまもなく、福禄寿の桜川三朝が苦しみだして、かあっと赤い血を吐いたから、一同ははっとうろたえたが、そのときだ。
のたうちまわって、もがきくるしむ三朝のようすを、血のけのあせた顔色で、さもおそろしそうにみていたお遊が、帯のあいだから取りだしたのは、小さな紙包み。
一同が三朝に気をとられているすきに、そっと川のなかへながしたのを、錣岩権太夫と、もうひとりほかに気づいたものがあったのだが……。
取りかえおわん
――あれ、あれ、とんびが魚をくわえて
「なんだ、それじゃ殺されたのは三朝か」
辰と豆六から、いちぶしじゅうの話をきいて、佐七は意外そうな顔色だ。
「へえ、だからふしぎなんで。玉菊が自害したなあ、松之助の心変わりからなんだと、これゃみんなしってます」
「そやさかいに、松之助が殺されたんなら、だれかが玉菊の恨みを晴らしたんやろと……」
「はなしもわかるんですが、毒にも薬にもならねえ三朝が、いっぷく盛られたてえんですから、まるで、きつねにつままれたようなはなしで」
「ところで、連中はどうしたんだ。そのまま吉原へくりこんだのか」
「とんでもない。そんなさわぎが起こっちゃ、吉原どころじゃありません。そこで、方角をかえて、舟を向島《むこうじま》へつけると、大黒屋の寮へかつぎこみ、医者よ、薬よと大騒ぎをしたんですが、さっきとうとういけなくなったそうです」
「すると、一同はまだ大黒屋の寮にいるんだな」
「さよ、さよ。取り調べがすむまでは、勝手にかえったらいかんと、みんな押し込められてるちゅうはなしや」
「よし、それじゃ、辰、豆六、これからひとつ出向いてみようか。こいつはちっと、おもしろい一件になるかもしれねえぜ」
と、辰と豆六をひきつれて、お玉が池の人形佐七がやってきたのは、向島にある大黒屋の寮。
みると、寮のうらての水門口には、宝船がつないである。
「辰、豆六、ちょっと、この舟のなかをしらべておこう」
と、屋形船のなかへはいると、杯盤狼藉《はいばんろうぜき》とはまさにこのことで、いかに一同がうろたえたか想像できる。
佐七はうすべりにしみこんだどすぐろい血のあとをながめていたが、そのうちに辰が鼻紙入れをひろいあげた。
「親分、あのこたつのなかに、こんなものが落ちていました」
「なんだ、、紙入れか。だれのものだえ」
辰は紙入れをひらいてみて、
「ああ、これは色即是空の紙入れですね。おや、親分、こんなものがはいっていましたぜ」
と、辰がつまみだしたのは小さな紙包み。
「なんだえ、それゃ薬かえ」
と、佐七は辰の手から紙包みをとってひらいたが、とたんにさっと顔色がかわった。
「辰、これゃ石見銀山《いわみぎんざん》だぜ」
「ほ、ほ、ほんなら親分、三朝にいっぷく盛ったんは、色即是空だっしゃろか」
「しっ、大きな声をだすない。とにかく、これはあずかっとこう」
と、紙包みを鼻紙入れへもどすと、それをふところにして佐七は舟をでる。
そして、辰と豆六をしたがえてかぶき門からなかへはいると、のっけから降ってきたのが雨あられのようなののしり声で、
「やあ、きたぞ、きたぞ。お山は雪か、あぶれがらすがまいまいと、里へ三匹、えさをあさりにきやアがった。もうここにゃえさはねえから、かえれ、かえれ、かえりゃがれえッ」
と、頭からどなりつけられ、おやとばかりに顔をあげると、むこうの縁側に、いたけだかにふんぞりかえっているのは、浅草の鳥越に住むところから、鳥越の茂平次といわれる御用聞き。
いや、もう色が黒いのなんのって、まるでおびんずる様のよう。おまけに大あばたがあるところから、一名海坊主の茂平次ともよばれているが、海坊主とはいいえて妙。まっ黒な顔から、三角まなこをギョロつかせているところは、なるほど、海坊主にそっくりである。
根性がねじけているから、子分もつかない。いつもひとりで、さしずめ江戸の御用聞きなかまの、いっぴきおおかみというところ、本捕り物帳では、なくてはかなわぬ敵役《かたきやく》である。
その海坊主の背後には、関係者一同、七福神の衣装をぬぎ、平服にあらためて、あおい顔をしてふるえている。
「野郎、はやいことやりゃアがったかな」
「兄い、こら、うちの親分、ひとあし出し抜かれやはったんとちがいまっか」
この辰と豆六。
辰には雷、豆六にへびという大のにが手があるが、それにもまして、虫の好かないのがこの海坊主で。ひょっとすると、うちの親分、海坊主に出し抜かれたのではあるまいかと、はやもう気もそぞろ。
しかし、佐七はこのときすこしも騒がず、
「おお、これは鳥越の、早いな。ところで、ここにゃもうえさはないというのは……」
「下手人がわかったのさ。いやさ、桜川三朝にいっぷく盛ったやつが、わかったということさ」
「げっ、その下手人を海坊主の……じゃなかった、鳥越の親分がつかまえなすったんで」
そういう辰を海坊主はジロリとしり目に見くだして、
「そうよ、辰、おれアぐずぐずするのがきれえな性でな。う、わっはっはっは」
海坊主め、節をつけて笑いやアがったが、佐七はあいかわらず落ち着きはらって、
「それはそれは、さすがに兄貴だ。して、その下手人というのは……?」
「よく聞け、佐七。三朝にいっぷく盛ったのは、これすなわち桜川三朝」
「げっ、げっ、げっ。ほんなら、桜川三朝は、自害したちゅうことだっかいな」
「やれやれ、これだから駆けだしをあいてにすると骨が折れるというものさ。やい、豆六、みずから毒を盛り、みずからそれを飲んだとて、自害ときまったとはいえねえ。佐七も辰も豆六も、よっく聞け。三朝は余人を殺そうとして、吸い物わんに毒を盛ったんだ。ところが、どたん場になって、吸い物わんをすりかえられた。それともしらず、そのおわんをすすったのが運のつき。ま、いってみれば自業自得というところさ。けっけっけ」
「なるほど、それがじじつとすれば、みょうな一件ですね」
佐七はなにかいおうとして、意気ごむ辰や豆六をかるく制して、
「しかし、兄貴、どうしてそのようなことが……」
「さあ、そのことだがね、お玉が池の親分」
と、ひざをすすめたのは大黒屋惣兵衛。
「いま、鳥越の親分のご吟味で、一同あのときのもようを語りあったんだが、だいたい、こういうことがわかったんで」
と、惣兵衛はじめ一同が、こもごも語るところによると、こういうことになるらしい。
艫《とも》のほうから板前が、七つの吸い物わんをお盆にのっけて、差し出すのを、屋形のなかからうけとったのは、寿老人にふんした画工の歌川国富だった。
なにしろ、舟のなかはせまいので、女中がひとりひとり、くばって歩くわけにはいかなかったのである。
さて、お盆をうけとった国富は、とおくに座っている連中から、順におわんをとってわたして、さいごにのこったふたつのおわんを、となりにいる恵比寿三郎の阪東松之助のまえに差し出した。
「さ、親方、どちらでもよいほうをひとつ」
松之助はちょっとためらっていたが、すると、ふたりのまえに座っていた福禄寿の三朝が、
「それじゃ、あっしがとってあげましょう」
と、おわんをひとつとって、ちょっとふたをなおすと、それを松之助のまえにおいた。
そこで、一同がおわんのふたに、手をかけようとしたときである。
弁天様の常磐津お遊が、だしぬけに、とんきょうな声をあげたのだ。
「あれ、あれ、とんびが……」
その声に、一同がはっと舟から外をながめると、おりしも、空から舞いおりた一羽のとんびが、銀鱗《ぎんりん》をくわえて飛び去るところだった。
一同はしばらくこれに見とれていたが、やがてわれにかえって、鯛の吸い物に手をつけたのだが、そのうちに、三朝が苦しみだしたのだ。
「ところが、いま鳥越の親分のお取り調べのうちに、関取がみょうなことをいいだしたので」
「みょうなことというのは……」
佐七がむきなおると、権太夫は顔をしかめて、
「いや、よしないことをいいだして、大和屋にも迷惑をかけましたが、じつは……」
一同がとんびに気をとられているあいだに、松之助がこっそりと、じぶんのおわんと三朝のおわんを、すりかえるのを見たというのである。
鴆毒《ちんどく》
――なに、毒は石見銀山じゃねえ?
佐七は思わず、きっと松之助のほうへむきなおると、
「大和屋、それはほんとうのことかえ」
松之助はあおじろんだ顔をあげると、
「はい、あの、ほんとうでございます」
「しかし、おまえさんはなんだって、おわんをすりかえたんだ」
「はい。それはかようで。おわんのふたをとろうとしますと、おわんのふちに、髪の毛がひっかかっております。わたくしは気持ちがわるくなり、そのままおわんを下へおきましたが、みると三朝さんが夢中になって、とんびに見とれておりまする。つい、いたずらごころから……」
佐七はじっとその顔をみて、
「それだけかえ。まさか、そのまえに、毒をほうりこんだんじゃあるまいね」
「と、とんでもない。わたしゃ三朝さんに、なんの恨みもございません」
「しかし、ひょっとすると、じぶんのおわんに、毒のはいっていることを知っていたんじゃなかったのかえ」
「それを知っているくらいなら、なんで三朝さんにまわしましょう。親分さん、わたしは恐ろしゅうございます。あれはわたしに配られたおわん、そのなかに毒がはいっていたとしたら、だれかがわたしを、ねらっているのでございましょう。親分さん、はやくその下手人をさがしてください」
「だから、今さがしだしてやったじゃあねえか。その下手人こそ桜川三朝よ」
と、海坊主の茂平次は、得意満面、サツマ芋のような赤っ鼻から、ポッポと湯気を立てんばかりだ。
「いま売り出しの大和屋が、たかが太鼓持ちふぜいに意趣をふくむはずはなかろう。それにはんして、三朝は玉菊にかわいがられて、いろいろ世話になっているんだ。その玉菊を自害させたにっくき男と、そこで、きょう大和屋のおわんをとってやったとき、とくいのお座敷手妻のはやわざで、ちょろりと毒を盛りこんだ。ところが、そのあとで起こったのがとんびの騒ぎだ。うっかり、よそ見をしているうちに、大和屋がおわんをすりかえたとも気がつかず、すすったのが運のつき。天にむかって吐いたつばきは、おのれのつらへ落ちるどうりだよ。どうだ、佐七、わかったか」
茂平次の推理はいちおううがっている。
しかし、佐七はなんとなく、ふに落ちぬものが感じられた。
「しかし、鳥越の、三朝が毒を盛ったというたしかな証拠がありますんで」
「証拠……?」
と、茂平次はせせらわらって、
「とかく駆けだしにかぎって、証拠証拠とこだわるやつよ。いや、三朝が毒をしこんだという証拠はねえよ。しかし、三朝よりほかに、毒をしこむチャンスのあったやつはひとりもねえ。これがなによりの証拠だあな」
「というのは……?」
「うっぷ、やれやれ、手数のかかるやつではあるわえ。これだから、駆けだしの青二才をあいてにするのは、いやだというんだ」
「まあ、そうおっしゃらずに、駆けだしのこの青二才にも、ひとつ教えてやっておくんなせえな」
人形佐七が、もみ手をしながら下からでれば、海坊主はいよいよそっくりかえって、
「よし、そうしたでにでるなら教えてやろう。まあ、聞け、佐七。だれが毒をしこんだにしろ、どうして毒入りのおわんを、めざす松之助にわたせるんだ」
「と、おっしゃいますと」
「まあ、きけ、こうよ。おわんをとってくばったのは、ここにいる画工の歌川国富だ」
「それじゃ、歌川の師匠が怪しいんじゃ……?」
「うっぷ、そうくるだろうと思ったよ。そこが駆けだしのあさましさ、青二才の悲しさというやつさ。よっくきけ。師匠は五人のものにおわんをわたして、残る二つを、大和屋とふたりでひとつずつ取ったんだ」
「それじゃ、そのおわんになにか目印でも……」
「いや、それゃてめえがいうまでもなく、そこに抜かりのある茂平次さんじゃねえってことよ」
海坊主は、いまにも潮を吹かんばかりのいきおいで、大納まりにおさまりかえって、
「おまえのいうように、おわんのひとつに目印がつけてあったとしたならば、師匠がみずからおわんをとって渡さにゃならぬ」
「そうじゃアなかったんで?」
「そうじゃアねえのさ。師匠はふたつのこったおわんを、盆ごと、さあ、どうぞ、どちらでもお好きなほうをといわぬばかりに、大和屋のまえへ差し出したんだ」
「あっ、なアるほど」
「ざまアみろ。もしこのとき、松之助が毒のないほうを手にとったら、毒入りおわんは、じぶんの手もとへのこるはず」
「なるほど、そんな危ない芸当をやるやつアねえでしょうな」
「そうよ、だから、国富師匠が下手人でねえことはわかったろう。ところが、そのとき大和屋が、ちょっとためらっているのを見てとると、すかさずそばから三朝が、それじゃわたしが取ってあげましょうと、おわんをとって渡したんだ」
「なるほど、わかった。それじゃ、そのとき三朝めが、お座敷手妻の奥の手をだし、チョロリと毒をしこみやアがったか」
「うっふっふ、やっとてめえにもわかったか。なあ、佐七、推理の糸というものは、万事こういうふうにたぐっていくのよ。わっはっは」
海坊主の茂平次にしては、めずらしく筋のとおった推理だから、さすがの佐七も、つっこむすきが見いだせなかった。
「いや、さすがは鳥越の兄貴だ。とても、われわれごとき駆けだしのおよぶところじゃございません」
「それがいまわかったのか。けっけっけ」
いやな笑いかたである。
「ところで、さきほどより、毒、毒とばかり聞いてましたが、いったい、どういう毒をつかったんです。もしや、石見銀山では……?」
「いえ、親分」
と、さきほどより一同のうしろにひかえていたくわい頭の町医者が、そのとき、横から口をだした。
「毒は石見銀山ではございません。鴆毒《ちんどく》でございます」
「な、な、なんだと? 石見銀山じゃねえって? もし、先生、まちがいございますまいね」
「はい、ぜったいに……」
佐七はそれをきくと、辰や豆六と顔見合わせ、おもわず目をしろくろである。
戯作者の色即是空は、むこうでにやにや笑っている……。
毒砂
――毒は毒でも鴆毒《ちんどく》じゃないな
「ちっ、いやんなっちゃうな。ことしはあんまり、運勢がよろしくねえぜ。新年そうそう、ひともあろうに、海坊主めにいばりちらされ、ぐうの音もでねえでひきさがるたア、こんないまいましいことはねえやな。ねえ、親分、なんとかしてくださいよ」
「そやそや、それちゅうのんも、親分があんまりあねさんといちゃいちゃしすぎるさかいや。ヘン、なにが『関取千両のぼり』やねん。なにがおとわ髪すきの段や。わてらあほくそうて、ものもいえまへんわ」
「豆六、なにもおれに当たるこたアねえじゃねえか。ちっ、くそおもしろくもねえ」
辰と豆六がしきりにぶつくさボヤいているのを耳にして、佐七は心中冷や汗もんである。
危ない、危ない、髪すきの場を見られただけでもこれだから、あのきわどい指先の芸当をふたりに看破られていたら、どんなに油をしぼられるだろうと、吹きだしそうになるのをやっとこらえて、
「辰、なんとかしろってどうするんだ。鳥越の兄貴もいうとおり、罪もねえ人間を、むやみにしばるわけにゃいかねえ」
「それゃそうでしょうが……ちっ、いまいましいな。海坊主め、よくもヌケヌケとぬかしゃアがった。おれはおまえなんかとちがって、いたってお慈悲ぶけえ性分で、むやみにひとを縛るのは大きれえだ、ときやアがった。ヘン、あの海坊主がなにをぬかすことやら」
「そやそや、いっつもなにか起こると、ひとを見たらどろぼうと思えで、かかりあいになる人間を、かたっぱしから縛りあげるもんやさかい、ゲジゲジみたいにきらわれているあの海坊主や。親分、あんたあんなやつに説教されて、くやしいことおまへんのんかいな」
すっかり海坊主の毒気にあてられた辰と豆六、これもあんまり親分があねさんといちゃいちゃしすぎて、骨抜きにされてしまった結果であると、佐七にたいする風当たりが、はなはだもっておだやかでない。
しかし、佐七はいささか動ずる色もなく、
「しかしなあ、辰、豆六」
「へえ、親分、なんですい、なにか用ですかい」
「親分、あんたそないねこなで声しやはったかて、それに丸めこまれるわてやおまへんで」
辰と豆六、くちびるをとんがらせて、はなはだごきげんななめである。
「辰、豆六、そうおこるなってことよ。それより、戯作者の色即是空のもっていたあの石見銀山の毒薬だがな、おまえあれをどう思う?」
「どう思うって、親分、あれゃ是空のいうとおり、ねずみ取りのために買ったんだろうじゃありませんか」
佐七がひろった紙入れをかえすとき、なかにはいっている石見銀山について尋ねると、
「なにしろ、家にねずみがおおがすからな、きょう柳橋の舟宿、井筒へでむくとちゅう、薬研堀《やげんぼり》の四つ目屋へよって、買ってまいりましたのさ」
と、ひとをくった色即是空、布袋腹をたたきながら、けろりとしていた。
薬研堀の四つ目屋というのは、そのころ名だかい生薬屋だった。
「それにしても、おりもおり、ときもとき、是空が毒薬を持っていたというのはなあ」
佐七はなんとなくわりきれぬ気持ちだった。
「しかし、親分、三朝がいっぷく盛られた毒薬というのは鴆毒《ちんどく》ですぜ」
「そやそや、石見銀山が三朝のおなかのなかで、鴆毒に化けるちゅうもんでもおまへんやろ」
すっかりおかんむりの辰と豆六、ことごとに突っかからずにはいられない。
佐七はにが笑いをして、
「そういえばそうだが、是空め、石見銀山のほかに、鴆毒ももっていたのかもしれねえ。辰、豆六、おめえたちこれから四つ目屋へよって、是空が鴆毒も買ったんじゃねえかと、きいてきてくれ」
「へえ、それゃおやすい御用ですが、しかし、親分」
「ふむ」
「石見銀山はねずみ取りだから、だれにでも手にはいりますが、鴆毒となるとちょっとやそっとで、素人の手にゃはいりますまいよ」
「そやそや、こら兄いのいうとおりや。是空がどないな口実つこたかしりまへんが、四つ目屋でそないにやすやす売るわけがないと思いまっけんどなあ」
「辰、豆六、それくらいのことは、おいらだってしってるよ。しかし、げんに、ああして鴆毒がつかわれたんだ。しかも、あの場にいあわせたのは素人ばかり。だれかがどこかで、手にいれたにちがいねえ。念のためだ、骨惜しみをしねえでいってくれ」
「へえ、べつに骨惜しみするわけじゃありませんが……それじゃ、豆六、いってみるか」
「さよか、ほんならいってみまほか。どうせむだや思いまっけどな」
と、いやみたらたら、辰と豆六がおもい脚をひきずって、ひとあしさきにいくうしろから、佐七がひとり思案にくれながら、ぶらぶらと墨田堤をやってくると、
「ああ、もし親分さん」
と、うしろから呼びとめたのは、柳橋の舟宿、井筒のおかみでお房といって、佐七とも顔なじみであった。
「ああ、井筒のおかみか。おまえも、きょうあの宝船にのっていたのかえ」
「はい、お供をいたしておりました。それについて、親分さんのお耳にいれておきたいことがございまして……」
「おお、どんなことだえ。なんでも気がついたことがあったらいってくれ」
「はい。あの親分さん」
と、お房はあとさきを見まわして、
「これはわたしの口からでたとは、どなたにもおっしゃらないで……三朝さんが苦しみだしてから、まもなくのことでした。みなさんが、そのほうに気をとられていらっしゃるあいだに、お遊さんが帯のあいだから、小さな紙包みをとりだして、そっと川へ流したんです」
「なに、お遊が? してして、どのような紙包みを……?」
「はい、あの、それがよいあんばいに、あたしのほうへ流れてまいりましたので、そっと拾っておきましたが……」
とお房が女持ちの紙入れからそっと取りだしたのは、たしかに薬とおもわれる紙包み。
佐七はきらりと目をひからせて、
「おお、ありがてえ。これはおれがあずかっておく。しかし、おかみ」
「はい」
「あの吸い物は松之助にむけられたおわんを、三朝があやまって吸ったということになっているが、お遊が松之助に毒を盛るようなわけでもあるのかえ」
「いえ、あの、それですから、あたしもふしぎでなりません。お遊さんは、ちかごろ大和屋の親方に、すっかり熱くなっているということですから」
「しかし、あれゃ横綱の錣岩《しころいわ》と、夫婦約束までできているという話じゃねえか」
「はい、それをまた松之助さんが横どりして……いえ、あの、とんだことを申し上げました。いまのはなしは、いっさい内緒で……あたしはこれで失礼いたします」
お房は、いいすぎたのを後悔するかのように、ちょっとほおをあからめて、そそくさと、大黒屋の寮へひきかえしていった。
佐七はその足で下谷|練塀町《ねりべいちょう》に住んでいるなじみの医者の良庵《りょうあん》さんのところへ立ちよって、お遊が川へ流そうとした薬をみてもらったが、その返事というのがまたまた意外。
「佐七、これゃア鴆毒《ちんどく》じゃないな。毒は毒でも毒砂といって、硫黄《いおう》と砒石《ひせき》と鉄がいっしょになったもんだ。これと鴆毒では毒の作用がまるでちがうから、どんな医者でも見ちがえるということはあるまいよ」
ここにおいて、佐七はすっかり失望した。
なお、そこへもってきて、四つ目屋を調べにいった辰と豆六の報告によると、色即是空の買ったのは石見銀山だけ。
鴆毒などは、医者以外にはぜったいに売らぬ、といったという。
佐七はいよいよ暗礁にのりあげた。
それではやっぱり、海坊主の平次がいうとおり、三朝はみずから盛った毒を、あやまちからじぶんで飲んで死んだのだろうか。
沈む猪牙舟《ちょきぶね》
――みんごと松之助を助けたりイ
こうして、この宝船殺人事件もけっきょく、三朝のあやまちということになり、そのまま、うやむやに葬り去られようとしたが、それから八日ほどのちの十六日の朝のこと。
「親分、たいへんだ、たいへんだ。ゆうべまた、七福神のひとりが殺されかけた!」
と、れいによってれいのごとく、糸のきれたやっこだこのように、とびこんできたのは辰と豆六。
「な、な、なんだと、七福神のひとりが殺されかけたと? してして、ねらわれたのは、いったいだれだ」
「やっぱり阪東松之助や、あやうく土左衛門《どざえもん》になりかけたんやそうだす」
辰と豆六のはなしによると、こうである。
松之助はゆうべ深川の大栄楼をでたのである。
ところが、舟が新地の鼻をまがって、隅田川《すみだがわ》へはいろうとするところで、きゅうに底からぶくぶくと、水が吹きあげてきたのである。
あわてたのは船頭の次郎吉だ。
大急ぎで、船底の穴に栓《せん》をかおうとしたが、もうそのときはおそかった。
舟は半分いじょう水につかっているうえに、心得のない松之助が、むやみに騒いだからたまらない。
猪牙舟《ちょきぶね》はみんごとさお立ちになって、松之助も船頭も、まっ暗な川のなかへほうりだされて……。
「船頭は泳ぎができますから大丈夫だが、松之助は、てんから金づち。そこへもってきて、あたりはまっ暗ときているから、次郎吉にもどうすることもできません。あたら人気者の松之助も、あやうく土左衛門と改名しようとしたせとぎわに、駆けつけてきたのが、親分、いったいだれだとお思いになりますい」
「いったい、だれだえ」
「ええさかいに、まあ、当ててごらんあそばせ」
「おい、辰、豆六、そうじらさずにいってくれ。やっぱり七福神のひとりか」
「へえ、そうです、そうです。いいから、だれだか当ててごらんなせえよ」
「大黒屋惣兵衛か」
「ノー、ノー」
「戯作者の色即是空か」
「とんでもおまへん」
「それじゃ、歌川国富か」
「おかどちがいでござんしょう」
「お遊じゃあるめえな」
「お遊に泳ぎができて、たまりまっかいな」
「わかった! 錣岩権太夫だ!」
「当たった! やっぱり親分だ」
なにがやっぱり親分だ。
ひとりひとりの名前をあげていって、さいごに残った錣岩、これが当たらなきゃアどうかしている。
「それで、権太夫がどうしたんだ」
「へえ、錣岩もゆうべ大栄楼であそんだそうですが、松之助よりひと足おくれて、猪牙で出たところが、新地の鼻をまがったところで、はるかにきこえる男の悲鳴、はアて、あやしやなアと、小手をかざしてながむれば……」
「わかった、わかった、修羅場《しゅらば》読みはあとでゆっくり聞こう。松之助はたすかったんだな」
「へえ、あの錣岩ちゅうのんは、土浦の漁師のせがれで、泳ぎはいたって達者なんやそうで。そこで、くるくると裸になると、ざんぶと川へとびこんで、みんごと松之助を助けたりイ……デンデンデン」
「バカ野郎、ふたりとも、なにをうかれていやがるんだ。すると、松之助は恋敵にすくわれたというわけか」
「へえ、そういうことになるんですが、ここにふしきなのは、松之助ののった猪牙舟を、あとで調べてみたところが、だれかが底に穴をあけ、そこへ紙をまるめて、つめてあったんですね。その栓が水につかってしぜんととけて、水がふきあげてきた、というわけなんで」
佐七はそれを聞くと、きらりと目を光らせて、
「ゆうべ大栄楼には、七福神のうちのだれかきてやアしなかったかえ」
「へえ、お遊と松之助と錣岩、この三人はいまいうたとおりだすが、ほかに、大黒屋のだんなと、色即是空がきてたちゅうはなしだす」
「歌川国富は……?」
「国富はちかく旅にでるとかで、その支度にいそがしく、ちかごろでは遊興どころではないそうで」
「ふむ。すると、国富をのぞいて七福神の生きのこりがぜんぶ、ゆうべ大栄楼へきていたわけだな」
じっと考えこむ佐七のそばから、
「ねえ、親分、あっしゃア考えるんですが、猪牙へ穴をあけたのは、錣岩じゃないでしょうかねえ」
「しかし、その錣岩は松之助をたすけたじゃアねえか」
「へえ、そら、いったん舟に穴をあけて、恋敵を殺そうとしたが、あとになって、じぶんの罪がこわくなってきよって、そこであと追いかけて助けたんやないか……と、そうとでも考えなんだら、錣岩の出現があんまりうもうできすぎてるやおまへんか」
「それよ。おれもそれをいま考えてるんだが……」
錣岩の出現は、たしかにあまりうまくできすぎている。
錣岩も天下の横綱、恋敵として松之助に恨みをふくんだとしても、まさか船底に穴をあけるような、そんなけち臭い小細工など、やらないだろう……。
佐七はあやしく胸をおどらせながらも、さて、これといった思案もなく、十日あまり見送ったが、ここにはしなくも、またひとつの事件が持ちあがったのである。
三七二十一日
――ああ、またあそこにとんびがと
「おや、辰、豆六、どうしたい。ばかに元気がねえじゃねえか。ふたりとも、恋わずらいでもしているのかい」
「ご冗談でしょう。それゃ元気もでませんよ。正月からこっち、ひとつもいいことがねえんですもの。正月そうそう、海坊主にゃしてやられたし。ああ、つまらねえ」
「辰、おまえも執念ぶけえな。まだ、あの一件で、くよくよしているのかい」
「いや、それちゅうのんが、つい思いだしたんやな。きょうが三朝の三七二十一日やいいまっさかいにな」
「ああ、そうか。だれにきいた」
「けさ髪結い床で、色即是空にあったんです。そしたら、きょうは三朝の三七二十一日だから、大黒屋の寮へ七福神の生きのこりがあつまるんだと、そんなはなしをしていましたので……」
「それじゃ六人があつまるのか」
「いや、国富が道中絵をかくちゅうのんで、五、六日まえに旅立ったんで、あつまるのは五人やそうだすけんどな」
「それじゃ松之助もくるんだな」
佐七はしばらくだまって考えこんでいたが、
「辰、豆六、これから大黒屋の寮へいってみよう」
と、虫が知らすか人形佐七、びっくりしている辰と豆六をひきつれて、大黒屋の寮へやってくると、
「おや、佐七、てめえはどうしてここへきた。いまの一件がお玉が池までにおうたか」
と、いきなり頭から浴びせかけられ、あっとばかりに見なおすと、なんとこれが海坊主の茂平次で。
「おお、これは鳥越の。してして、いまの一件とは……?」
「まあ、なんでもいいから、てめえなんぞの出る幕じゃねえ。足下のあかるいうちに、さっさとここから消えうせろ」
海坊主が海坊主の本性をあらわし、いまにもあわをふかんばかりのいきおいに、佐七はすばやく辰や豆六に目くばせくれると、
「まあ、いいじゃねえか、兄貴。おいらにも座敷をのぞかせてくんねえな」
立ちはだかる茂平次を押しのけて、座敷へとおると、こはいかに、座敷のすみには松之助が、血へどを吐いて死んでいる。
あたら女にさわがれた評判の美貌《びぼう》も、五臓六腑をひっかきまわす猛毒の苦痛にゆがんで、世にも醜怪なものになっていた。
そばには惣兵衛をはじめとして、錣岩に芸者のお遊、それに色即是空が、あおい顔をして、ただおろおろとするばかり。
「あっ、こ、これは……? いったい、だれが松之助を……?」
佐七の問いに、大黒屋惣兵衛が、ひとひざ、ふたひざ、まえへゆすりでると、
「それは親分、かようでございます。きょうは亡き三朝師匠の三七二十一日、ゆかりのものがあつまって、心ばかりの回向《えこう》をしようと、こうして七福神の生きのこりの五人がお膳《ぜん》についたのでございます」
「なるほど、それで……?」
「ところが、大和屋がいまそのおわんに口をつけたかと思うと、にわかに七転八倒の大苦しみ、あれよあれよと騒いでいるうちに、がっぷと血を吐き、あのていたらく。三朝のときといい、こんどといい、かさねがさねのこの騒ぎに、なにがなにやらわけがわからず、一同、あっけにとられているところでございます」
しかし、そういう大黒屋惣兵衛、たいしてあっけにとられたふうもなく、泰然として落ち着いている。
「それゃアまあ、とんだことでございましたが、鳥越の兄貴はどうしてここに?」
「はい、それは……三朝の一件のさい、この親分のお慈悲ぶかいおはからいで、だれにも傷がつかずにすみましたので、そのお礼ごころにもと……」
海坊主め、すっかりお慈悲ぶかい親分になりすまして、いい気になっておさまっている。
「なるほど。しかし、それはよい都合でございました。ときに兄貴」
「なんだ」
「おまえさんがこの席にいたからにゃ、だれが毒を盛ったかおわかりでしょうな」
「もちろんよ。それがわからねえ茂平次さまだと思っているのか」
「で、その下手人は?」
「その下手人は松之助」
「げっ、げっ、げっ」
「ぎょっ、ぎょっ、ぎょっ」
おどろいたのは、佐七より辰と豆六である。
「そ、そ、それじゃ海坊主……じゃなかった、鳥越の親分、大和屋もおわんをすりかえられたんで?」
「バカアいえ」
と、海坊主がせせら笑って、
「そんなバカな口を利くまえに、よくよくこの座敷を見まわしてみろ」
「へえ、ほんならこのお座敷に、なにか仕掛けがおまんのかいな」
「お膳とお膳のあいだの距離を、よく見ろというんだ」
「へえ……」
海坊主の毒気にあてられた辰と豆六、目をパチクリさせながら、座敷のなかを見まわすと、座敷のなかには、茂平次のぶんもふくめて、お膳が六つならんでいるが、それがひどく距離がはなれていて、畳二畳にお膳がひとつ、それだけの間隔をおいて、くばられているのである。
「どうだ、辰も豆六もわかったか。このあいだの、三朝のこともあるゆえに、きょうの膳部は、みんな毒味がしてあるんだ」
「へえ、それで……?」
「そのお膳をここへ運んだのは、いっさいおれだ。お膳をおく場所をきめたのはだんなだがな。こうしてお膳をさきに運んでおいて、それからみんなが席についた。ところが、このまえみてえに、おわんをすりかえるやつがあるといけねえと思ったから、お膳とお膳のあいだをこうして、うんとはなしておいたんだ」
「なアるほど。ほんなら、ちょっと手をのばして、となりの席のおわんとすりけたろちゅうわけにはいきまへんのやな」
「そうよ。そこいらの知恵のでるとでねえとが、おれとおまえたちの親分とのちがいだと思え」
「いや、恐れいりましてございます」
佐七がすなおにカブトをぬいだから、辰と豆六、穴があったらはいりたい。
海坊主はいよいよそっくりかえって、
「しかもよ、いったん席についてから、だアれも席を立つはおろか、居ずまいをくずしたやつさえいなかったんだ。だから、だれも大和屋のおわんに手をのばしたものがなかったとすれゃ、大和屋がじぶんでやったということにならあ。どうだ、佐七、わかったか」
なるほど、これはしごく明快な推理だから、辰と豆六はいよいよ、どこかの穴へはいりたくなった。
「なるほど、しかし、兄貴、大和屋はなんだって自害したんで」
「それよ、知らぬこととはいいながら、おわんをすりかえ、三朝を殺したことを気にしたんだ」
「なるほど。すると、大和屋という役者、女にかけちゃすご腕だときいていましたが、案外、気のちいせえ男だったとみえますね」
佐七はさっきから、座敷のたたずまいから、天井の木目と、ゆだんなく見まわしていたが、なに思ったのかにっこり笑うと、
「ときに、大和屋がおわんに口をつける前後に、なにか変わったことはございませんでしたか」
「それが、あったんだよ、お玉が池の親分」
ひざのりだしたのは色即是空。
「してして、なにが……?」
「いやな、ここにいらっしゃるだんなが、だしぬけに、あれ、あれ、あそこにまたとんびが……とおっしゃったんで、みんないっせいにお庭のほうを見たんです」
「で、いましたか、とんびが……?」
「いいや、そんなもんはいなかったようだな」
「いたんだよ、是空さん」
おだやかにたしなめたのは大黒屋惣兵衛。
「いたんだけれど、わたしが叫んだ拍子に、池のこいをくわえていったんだ。だが、こんなことは松之助の死とはべつに関係は……」
「さあ、関係があるかないか」
と、にんまり笑った人形佐七、ふところから匕首《あいくち》を引きぬくと、いきなり天井めがけて投げつけたから、一同あっとばかりに肝をつぶした。
滴る血潮
――見ざる、いわざる、聞かざるだ
「佐七、き、貴様、なにをする!」
立ちさわぐ茂平次を片手で制して、
「兄貴、あれみねえ。天井へ突ったった匕首の根もとから、黒いしみが吹きだしてきた」
「なに? 黒いしみ……?」
一同がぎょっと天井を見ていると、匕首の刃先より黒いしみが天井板にひろがって、やがてポトリとひとしずく、畳へおちたものをみて、
「あっ、こ、これゃ血!」
まっさおになる茂平次をしり目にかけ、
「それ、辰、豆六、下手人は天井裏にかくれているぞ。取り逃がすな」
「おっと、がってんだ」
さあ、喜んだのは辰と豆六、こうこなくちゃうそだとばかり、正月いらいの溜飲《りゅういん》がいっぺんにさがったかっこうだ。
「ざまア見やアがれ」
「ああ、ええ気味や」
茂平次のほうへあごをしゃくって、飛びだしたかと思うと、天井裏は大騒ぎだ。
なにしろ、辰と豆六という大ねこが二匹、頭のくろいねずみをおいまわすのだから、そのはなばなしいことといったらない。
「御用だ、御用だ。神妙にしろ!」
「御用や、御用や、神妙にしくされ!」
ドスンバタンと、天井板をふみぬきそうにあばれていたが、やがて、
「捕ったア」
と、勝ちほこたような辰と豆六の声。
お遊はあおい顔をして、天井を見上げていたが、その声を聞くと、佐七のほうをふりかえり、
「もし、親分、天井裏にひそむくせ者は、いったいなにものでございます」
「いや、いまに辰がつれてくるから、それまで待っていてくれろ」
佐七のことばもおわらぬうちに、辰と豆六が意気揚々としばりあげてきたくせ者の顔を見て、一同はあっとばかりに息をのんだ。
「おお、おまえさんは歌川の師匠!」
「それじゃ、東海道へ絵をかきに旅立ったというのはまっかなうそで……」
「天井裏へ身をひそませて、あの節穴から松之助のおわんへ毒をたらして、玉菊おいらんの仇《あだ》を討ったのは、おまえさんでございましたか」
お遊はいうにおよばず、錣岩と色即是空が、あっけにとられているときだった。
歌川国富は悲痛な笑いをうかべると、
「いや、みなさん、お騒がせして申し訳ない。しかし、これでわたしも本望をとげた。これから冥途《めいど》へいって、三朝さんにおわびをいうつもりだ。みなさん、さらば……」
腰なわうたれた国富は、かっぱとその場につっぷしたが、と、みるみるくちびるのはしから吹きだしたのは、ひと筋、ふた筋、あわのような血のかたまり。
「あっ、師匠、おまえも毒をのんだのか」
「お玉が池の親分、お手数をかけてすみません。おさらばでございます……」
にっこり笑った国富は、それきり息が絶えたのである。
「親分、それじゃ毒害の下手人は、国富だったのでございますか」
一同はまだ不審のさめやらぬ顔色である。
「そうよ。旅へいくとみせかけて、この天井裏に身をひそめ、大和屋を殺す機会をねらっているうちに、ちょうどいいあんばいに、大和屋のおわんが、節穴の真下へやってきた。そこでその節穴から毒をたらして、まんまと本望をとげたのよ」
「しかし、親分、あそこから毒が落ちたとすれば、だれか気がつきそうなものじゃありませんか」
辰のもっともな質問である。
佐七は、にんまりわらって、
「さあ、そこよ。ふつうならばだれかが気付いたことだろうが、ちょうどそのとき、大黒屋のだんなが、ああ、またとんびが……と叫んだものだから、みんなそのほうへ気をとられた。そのすきに、ポトリと毒が落ちてきたのよ」
「あっ、なあるほど。そやけど、親分、こんどの一件は国富のしわざやとわかっても、三朝のときはどないしたんだす。国富はふたつのおわんの、どちらでもよいほうをと、大和屋にとらせようとしたちゅうやおまへんか」
「ああ、あれか、あのときのこったふたつのおわんは、ふたつとも毒がはいっていたのよ」
「えっ、ふたつとも……?」
一同はびっくりして、佐七の顔を見なおした。
「いかにも、あのとき歌川の師匠は、大和屋と果たしあいをするつもりだったにちがいねえ」
「果たしあいとおっしゃいますと……?」
横綱の錣岩が大きなひざをゆすりだした。
「なにさ、ふたりいっしょに毒をのんで、大和屋とさしちがえて死ぬつもりだったんだろう」
「ああ、それで、ふたつのおわんにふたつとも、毒がはいっていたのでございますか」
お遊はあおくなって肩をふるわせた。
「そうよ。しかし、その毒入りおわんが、まちがってほかの人間にわたっちゃすまぬと、そのふたつのおわんにだけ、目印としてふたのあいだに髪の毛をはさんでおいたんだ」
「ああ、それで、髪の毛が、大和屋のおわんのなかにあったんだな」
と、はたとひざをたたいたのは色即是空、そばから惣兵衛も身をのりだして、
「そうです、そうです。歌川の師匠もそれに気がついていたら、みすみす三朝に吸わせやアしなかったろうが、しらぬが仏とはこのことだ。松之助が吸い物に口をつけるのを、いまかいまかと待っているうちに、ひとあしさきに三朝が苦しみだした」
「なるほど。そこで、歌川の師匠は、おわんがすりかえられたことに気がつき、果たしあいをまたの機会にゆずったんですね」
大黒屋惣兵衛は、くらい顔をしてため息をついた。
「そうです、そうです、みんなが騒いでいるすきに、おわんのなかみを水にうつしてしまったんでしょうな」
いちいち図星をさす佐七の明察に、一同ことごとく感服したが、ここにあわれをとどめたのは海坊主の茂平次で、おしりのほうからこそこそと座敷を出ていこうとするそのすがたを、いちばんはやく見付けたのは辰と豆六で。
「あれ、鳥越の親分、どちらへ……」
「いや、ちょっと厠《かわや》へ」
「あれ、親分、おなかでもくだしておいでになるんで」
「それとも、おとしのせいで、オシッコがちかいということだっか」
「なにを」
と、どんぐりまなこを怒らせて、
「佐七、おぼえてろ!」
と、捨てぜりふをはいて、威風堂々、足音あらく立ちさったのは、さすがに海坊主の本性たがわず、まことにあっぱれな貫禄《かんろく》というべきである。
佐七は惣兵衛のほうをふりかえると、
「だんな、これでどうやら、事件はかたづいたようですが、ただひとつ、あっしにもわからないことがあるんです」
「はて、どういうことで」
大黒屋はあいかわらず落ち着いている。
にこにこと、微笑さえふくんでいるのである。
「いえさ、ほかでもねえが、大和屋のお膳が、おあつらえむきに、天井の節穴の真下にあったり、また、いいときに、あれ、また、あそこにとんびがなどと、一同の注意をほかへそらせたり……」
大黒屋はあいかわらず落ち着きはらって、
「親分はそのなぞをどうお解きなさる」
佐七はしばらく惣兵衛の顔をまじろぎもせずに見つめていたが、
「なぞ……?」
と、せせらわらうと、
「なぞってえほどの、おおげさなものじゃないでしょう」
「とおっしゃると?」
「いえさ、世のなかにゃ、ひょんな回りあわせがままあるならい、天井の節穴のちょうど真下に大和屋のおわんがあったというのも、あいつの回りあわせが悪かったんでしょうよ。ときに、横綱」
「はあ」
「おまえさん、このあいだ、大栄楼でだれかが舟に細工をするところを見たんじゃねえのか」
「げっ」
「だから、その女を……いやさ、女か男かしらねえが、そいつを人殺しの下手人にしちゃならぬと、穴のあいた舟を追っかけ……」
「親分!」
「あっはっは、いいのさ、いいのさ。ほら、川柳にもあるじゃねえか。大男総身に知恵がまわりかねってね」
「とおっしゃると……?」
「なにさ、おまえさんのような土左衛門の水んぶくれは、三日と日がたつと、なんでもかんでも忘れてしまうんじゃねえかということよ」
「はい、そうおっしゃれば……」
と、錣岩もにんまりわらって、
「親分、それくらいでなけれゃ、三年不敗なんて、あつかましいまねはできませんのさ」
「はっはっは、そうだろう、そうだろう。ときに、是空さん」
「はあ、わしになにかご用かな」
「いや、なに、お遊さんも……」
「はい、わたしになにか……?」
「いやさ、是空さんは紙入れに、お遊さんは帯のあいだに、きょうも毒をもってやアしねえか」
「あっ!」
と叫んで、お遊はおもわず、帯のうえから胸をおさえる。
是空はけろりとして、紙入れをとりだすと、なかから石見銀山の包みをだした。
「あっはっは、こうみんなにねらわれちゃ、どうせあいつは生きちゃいられなかったな。しかし、ねえ、みなさん」
「はい」
「万事は国富がしょっていってくれました。このうえは、なにごとも、見ざる、聞かざる、いわざるよ」
「お、親分!」
四人のものがいちように絶句するのをしり目にかけ、佐七はやおら立ちあがると、
「おい、辰、豆六、いこうぜ、亀戸《かめいど》の梅が見ごろだそうだ。ひとつ、これからまわってみようじゃねえか」
「お、親分」
辰と豆六はすっかり溜飲《りゅういん》がさがって、ふたりとも目に涙さえためている。
そのふたりをつれて大黒屋の寮をあとにした人形佐七こそ、日本一のよい男。
血屋敷
七代目|菱川寅右衛門《ひしかわとらえもん》
――お由良様《ゆらさま》の幽霊が出るんです
神田お玉が池は人形佐七のいちの子分、おなじみのきんちゃくの辰五郎に伯母《おば》がひとりあって、本所の緑町に住んでいることは、いつもお話するとおりだが、この伯母は名をお源といって、両国のおででこ芝居の三味線ひきなんかやっている。
そのお源が、ひな節句の前日に、ひょっこりと神田お玉が池の佐七の家へやってきた。
「ご免くださいまし。ひさしくごぶさたをいたしましたが、みなさんお変わりはございませんかえ」
「おや、だれかとおもえば、辰つぁんの伯母さんかえ。さあさあ、おあがりなさいよ。きょうは芝居はお休みかえ」
「はい、公方《くぼう》さまのおたか狩りが、葛西《かさい》のほうでございますので、しばらく芝居は休みでございます」
両国かいわいにある芝居をはじめ見世物小屋は、将軍のお成りがあるときは目障りとあって、取り払いを命じられるのが定例になっていた。
お粂《くめ》もそれを知っているから、
「おや、まあ、そうかえ。それじゃ、きょうはゆっくりしていけるねえ。ちょっと、おまえさん、辰つぁんの伯母さんだよ。辰つぁん、おりておいでな。本所の伯母さんがおいでだよ」
「おや、お源さん、おいでなさい。そして、辰になにか御用かえ」
「これは、これは、親分さん、いつもお元気でなによりでございます。いえ、きょう参りましたのは、親分さんに折りいってお願いがございまして」
「はて、あっしに頼みというと……?」
佐七が長火ばちのまえから向きなおるところへ、二階からいきおいよくおりてきたのが辰と豆六。
「おや、伯母さん、おいでなさい。そして、なにか土産を持ってきたかえ」
「まあ、辰つぁんたら。伯母さんの顔をみると、さっそく土産の催促かえ」
「ほっほっほ、ほんにがさつもので困ります。あねさんもこんなのをふたりもかかえて、さぞ骨の折れることでございましょうねえ」
と、刷毛《はけ》ついでに豆六もいっしょにがさつものにきめてしまうと、
「はい、はい、親分さん、お口に合うかどうか、途中で目につきましたから握らせてまいりました。お茶うけがわりにでも、おあがりくださいまし」
と、差し出すふろしき包みを、辰五郎は遠慮なくひらいてみて、
「おや、すしかえ。こいつは豪気だ。豆六、さっそく茶をいれねえ」
「おっと、合点や。やっぱり伯母さんやな。そんなら、さっそくよばれまひょか」
食い意地にかけては人後におちぬ豆六が、お世辞たらたら、まっさきに手を出したのをきっかけに、みんなですしをつまみながら、
「ときに、お源さん。あっしに用事というのは?」
「はい、そのお願いと申しますのは、じつは、わたしのことではございませんので。親分、ちょっとお待ちくださいまし」
お源は立って上がりがまちにいくと、格子の外をのぞきながら、
「お銀さん、なにも恥ずかしがることはありゃしない。こちらへおはいりなさいよ」
お源の声に、
「はい」
と答えて恥じらいがちにはいってきたのは、年のころは二十か二十一。おとなしやかななかにも、どこかきりりとしたところのあるいい娘だったが、辰はその顔を見るなり、
「おや、おまえはお銀さんじゃないか」
と、目をまるくした。
「辰、おまえこの人を知っているのかえ」
「知らねえでどうするもんですか。親分にもいつか話したことがありますが、菱川流《ひしかわりゅう》の踊りの家元、寅右衛門《とらえもん》さんの養女のお銀さん、あっしとは筒井筒、振り分け髪のおさななじみでさあね」
「あ、すると、こちらが菱川流の……どうりで、豪気に美しいと思った。そして、そのお銀さんがあっしに頼みとおっしゃるのは?」
「はい」
と、手をつかえたお銀は、うれい顔のさびしいほおに、しいて微笑をつくりながら、
「それがまことに妙な話でございまして……じつは、ちかごろ、宅に幽霊が出るのでございます」
ときたから、これには一同、あっとばかりにあいた口がふさがらない。
あっけにとられて顔を見合わせていると、お銀はうすく耳を染めながら、
「こんなことを申しますと、さぞうろんなやつとおぼしめすでしょうが、ここにいるお源さんもよくご存じ、これには深いわけのあること。親分さん、まあ、ひととおりお聞きくださいまし」
菱川流というのは、宝永ごろから連綿とつづいている踊りの家元で、代々寅右衛門を名乗っている。
いまの寅右衛門は七代目で、名まえからみるとおっかない男みたいだが、じつはこれがばあさんで、先代のひとり娘である。
この七代目寅右衛門、わかい時分、死ぬほど焦がれた男といっしょになれなかったとやらで、それいらい男のことはぷっつりあきらめ、ひとすじに芸の道にいそしんできたから、跡をつがすべき子どもがない。
そこで、幼いときから引き取って育ててきたのが養女のお銀。
さいわい踊りの筋もいいので、ゆくゆくは、これが八代目を名乗るのだろうと、ひともいえば、お銀自身もそう信じている。
家族はこの寅右衛門親子のほかに、内弟子のお千ということし十八になる娘と、もうひとり去年の秋ごろ、寅右衛門がどこからかつれてきた喜久太郎という、当年とって十九歳になる若者。
ほかにお吉という女中がひとりいて、つごう五人暮らしだったが、そこへとつぜん、ことしの正月、不吉な前兆がこの一家をおそったのである。
「はて、不吉な前兆というと?」
「はい、ことしの正月の大雪に、お由良様の姿がありありと、土蔵の壁にあらわれまして……」
と、お銀がおずおず語るところによると、菱川流の家元には、つぎのような因縁話があるのだった。
のろいの血屋敷
――土蔵のうえに女の幽霊が
初代菱川寅右衛門、このひとは宝永年間に一派をたてた名人だったが、このひとは男だった。
この初代にお由良というめかけがあったが、このお由良になにか不都合なかどがあったとやらで、初代がこれを殺したあげく、その死体を、土蔵の壁に塗りこめたというはなしがある。
その怨霊《おんりょう》が、代々の家元にたたるというのである。むろん、初代のころからみると、なんども地震や火事にあって、屋敷も土蔵も建ちかわっているのだが、それでもどうかすると、土蔵の壁にボーっと血のような色で、ひとの形がしみだすことがある。
するときまって、当時の家元になにか変事があるといわれている。
「それゆえ、ご近所では宅のことを、血屋敷だなどと、悪口をいうのでございますが、さいわい、あたしが物心ついてからというものは、そういう凶事もございませんでしたので、なにをバカなと思っておりますと、正月にそのお由良様があらわれまして……」
それは大雪のあとだった。
土蔵の壁にありありと、血でかいたような、まがまがしいひとの姿が現われているのに驚いた寅右衛門は、さっそく左官を呼んで塗りつぶさせたが、それいらい、どっとまくらについたのである。
「べつにどこが痛い、苦しいというわけではございませんが、気病みというのでございましょうか、離れのひと間に閉じこもったきり、ぶらぶらいたしておりましたが、ちかごろになってその母が、毎晩幽霊が出るといい出したのでございます」
「お由良様の幽霊がかえ」
「さあ、それはあたしにもわかりません。母はただ幽霊が出るというだけで、どんな幽霊なのか、ひとことも話してはくれません。でも、夜ごと、まくらもとに立って昔話をいたしますそうで、まことにふしぎだと申しておりました。あたしもなんだか気味が悪いように思いましたが、母のようすにはべつに怖そうなふうもなく、かえって、幽霊を懐かしがっているような口ぶりでさえございますので、半信半疑でおりましたところ、そのうちにこんどは、お千ちゃんも見た、喜久太郎もさんもみたといい出したのでございます。いいえ、お千ちゃんや、喜久太郎さんばかりじゃございません。ここにいるお源さんもみなすったとやらで……」
「なんだ、それじゃ伯母さんもみたのか」
これには一同目をまるくする。お源はさすがにほおを染めながら、
「年がいもなくこんなことを申しますと、だれかに笑われそうでございますが、たしかに見たんでございますよ。ほんにふしぎでなりません」
お源の家はちょうど寅右衛門の屋敷の裏手にあたっている。
ある晩、お源がご不浄におきて、なにげなく寅右衛門の屋敷を見ると、忍び返しのついた塀《へい》のむこうに、なにやら白いものが、ふらふらと動いているのである。
おやとお源はひとみをこらしたが、そのとたんゾッとするような恐ろしさを感じた。土蔵のうえに女が立っているのである。
「かねてお千ちゃんから、うわさはきいておりましたので、てっきり一件物だと思うと、怖くて怖くて、家のなかへ逃げ込んでしまいました」
「ふうむ。そして、その幽霊というのは、いったいどんな姿をしていたんだえ」
「さあ、夜目遠目で、よくわかりませんでしたが、手ぬぐいをこう吹き流しにかぶって、まるで宙にうくように、土蔵の棟《むね》をふらふらと歩いておりました。いいえ、ふつうの人間には、とてもあのようなあぶない芸当はできるものではございません」
と、お源の話の尾について、お銀は不安らしくまゆをひそめながら、
「それにしても、親分さん、ふしぎじゃございませんか。お千ちゃんも見た、喜久太郎さんも見た、またあかの他人のお源さんまで見たという幽霊を、このあたしはまだいちども見たことがないんです。母をのぞけば菱川の家にいちばん縁の濃いあたしに姿を見せぬというのは、いったいどういうわけでございましょう」
「ふむ、それはどうもふしぎですねえ」
佐七はまゆねを曇らせながら、
「ときに、お銀さん、そのお千ちゃんだの喜久太郎さんというのは、どういう人柄ですえ」
「はい、お千ちゃんのほうは幼いときからいっしょに育ちましたゆえ、よく気心もしっておりますが、喜久太郎さんのほうは日も浅く……」
「よくわからないというんですね。そして、その喜久太郎さんというのは、寅右衛門さんのいったいなににあたるおひとですえ」
「さあ……あたしにもよくわかりません。去年の秋ごろ、お母さんがだしぬけにどこからか連れてきて、家のひとにしたのでございますよ。気立てはまことにやさしいひとですけれど……」
お銀はなにか奥歯にもののはさまったようなくちぶりだった。
「なるほど。ところで、お銀さん、このあっしに、いったいどうしろというんですえ。あいてが幽霊じゃお門がちがやあしませんかえ」
「親分さん、幽霊などというものが、ほんとにあるのでございましょうか」
お銀は思いこんだ目のいろをして、
「幽霊の正体見たり枯れ尾花《おばな》、……枯れ尾花なら子細はございませんけれど、うちにつたわる話を知って、だれかがいたずらをするのではあるまいかと、あたしゃなんだか、それが不安でなりません」
「なるほど。これゃおまえさんのいうのもむりはない。それじゃこういうことにいたしましょう。さいわい、ここにいる辰五郎という豪傑はお源さんの身内のもの、おまえさんとも幼なじみ、この辰五郎と豆六を、今晩からお源さんのうちに張りこませ、ようすを見させるということにしたらどうですえ」
「はい、そうしていただければ、こんな安心なことはございません。みなさんには、まことにご迷惑でございましょうけれど……」
「なに、そんな遠慮がいるものか。幼なじみのおまえの頼みとあらば、たとえ火のなか水のなか……そんなのはないが、まあ、こちとらにまかせておきなせえ」
と、きんちゃくの辰は大張り切りだったが、その意気込みのかいもなく、その夜のうちに、恐ろしい珍事が持ちあがったのである。
最初の惨劇
――寅右衛門が昨夜殺されよった
「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。あねさん、はよここを開けとくれやす」
その翌日の朝まだき、佐七夫婦のまだねているところを、表からはげしくたたき起こしたのは、ゆうべからお源の家へ泊まり込んでいた豆六だ。
「おや、豆さんかえ。どうしたんだねえ」
「どうもこうもおますかいな。親分をはよ起こしておくれやす。ゆんべ寅右衛門が殺されよったがな」
「なに、寅右衛門が殺されたと?」
がばとばかりに寝床からとびおきた人形佐七、すばやく身支度をして表の間へ飛びだすと、
「豆六、そりゃほんとうか」
「ほんまだすとも。だれがうそなんか言いますかいな。とにかく、はよきておくれやす」
「よし、いまいく。お粂、羽織をくれ」
「あいな。それじゃ、おまえさん、気をつけていっておいでなさいまし」
お粂の切り火におくられた佐七が、暁の星影をふんで本所の緑町へやってくると、かいわいは朝っぱらから、義士の討ち入りいらいの騒ぎだった。
そのなかをかきわけて、ふたりが寅右衛門の家へはいると、家のなかにはお銀とお千、それに喜久太郎と女中のお吉が、ひと間に青くなってふるえている。
きんちゃくの辰五郎は、佐七の顔を見ると、すぐにそのそばに寄ってきて、
「親分、たいへんなことができました。ゆうべ豆六とふたりで、伯母のところに寝ておりますと、お銀さんにたたき起こされ、駆けつけてみるとこの騒ぎで……面目しだいもございません」
「なに、おまえのあやまちじゃねえ。こんなことなら、おれが張り込みをしているんだった。お銀さん、どうもとんだことでしたねえ。そして、寅右衛門さんは」
「はい、あの……離れ座敷でございます」
お銀はなぜかあおい顔をしてうなだれている。
「それじゃさっそく、現場を見せてもらいましょう。おまえさんがたもいっしょにきてください」
やがて、辰と豆六に案内させて、奥のはなれ座敷へとおった佐七は、思わずぎょっとまゆをひそめた。
明け方のほの明かりに光をうしなった行灯《あんどん》のそばに、七代目寅右衛門がむざんに胸をえぐられて、かいまきから半身乗り出し、虚空をつかんで死んでいるのである。
まくらもとにはタバコ盆やうがい茶わん、読みかけの草双紙本が五、六冊、血潮をあびて散乱していたが、そのなかになにやら、ズタズタに破られた紙片が、いちめんにとび散っているのが、異様に混乱した印象をあたえた。
佐七はまず念入りに死体の傷口をあらためたが、目についたのは寅右衛門の右の人差し指、みるとこの指だけがべっとりと血に染まっている。
佐七ははてなと小首をかしげ、しばらくあたりを見まわしていたが、やがてお銀をふりかえると、
「もし、お銀さん。つかぬことを尋ねるが、だれもこのまくらもとに手をつけやしなかったろうね」
「はい、あの、お千ちゃん、あたしが辰五郎さんを呼びにいっているあいだに、だれもここをさわりゃしなかったろうね」
「はい……」
お千は口のなかで答えたが、佐七に顔を見られるとまっさおになってうつむいてしまう。
まだ十八、九の、器量はお銀ほどではないが、ちょっとかわいい娘である。結いたてのおしどり髷《まげ》がふるえているのも可憐《かれん》だった。
「それはようございました。現場にあるものは、どんな些細《ささい》なものでも、大事にしなければなりませんからねえ。ときに、寅右衛門さんは寝しなにいつも、草双紙をお読みになるんですかえ」
「はい、母は草双紙がなにより好きで、いつもそうして、まくらもとにおいて寝るのでございます」
「なるほど」
佐七はなにか考えながら、五、六冊の草双紙をとって、パラパラとページをめくっていたが、
「ときに、今夜のこのできごとを、いちばんはじめに見つけたのはだれですえ」
「はい、あの、それはわたしでございます。いえ、わたしとお吉さんとでございました。ねえ、そうでしたね、お吉さん」
おずおずとまえに出たのは女中のお吉。
「なるほど。それじゃ、おまえの口から、この死骸を見つけた顛末《てんまつ》を聞かせてもらおうじゃないか」
佐七の問いに、お吉がおずおず語ったところによると、こうだった。
明け方の七つ半ごろ(午前五時)のことだった。お吉がご不浄へいって、厠《かわや》の窓から、なにげなく離れ座敷のほうを見ると、まだあかりがついている。
おや、それじゃ大師匠はまだ起きていらっしゃるのかしらと、お吉は小首をかしげたが、そのとき、なんともいえぬ異様な影が障子にうつったと思うと、ふうっとあかりが消えたのである。
お吉はゾッとすると、そのまま厠から動けなくなってしまった。お由良様の幽霊の話は、かねてお千や喜久太郎から聞いている。
ひょっとすると、いまの影が、その幽霊ではあるまいかと、息をこらしてふるえていると、やがてすらりと障子をひらいて、なかから出てきたものがある。
「わたしはほんとうに、びっくりしてしまいました。ゆうべはおぼろ月でございましたので、ぼんやりと姿がみえたのでございますが、なんといったらいいのでしょう。それはまるで吉野山《よしのやま》の芝居に出てくる狐忠信《きつねただのぶ》みたいなふうをしていたのでございます。顔はあいにく見えませんでしたが、黒小袖《くろこそで》の両膚をぬいだ下には、宝珠の玉を金糸でぬいとりをした白い下着をきておりました。それがこう、すうっと離れから出てくると、そのまま庭から土蔵のほうへ、消えてしまったのでございます。あたしもう、怖くて怖くて、……厠からでると部屋へかえって、布団をかぶってふるえておりましたが、なんだか気がかりになりますので、勇気を出して若師匠を起こしにまいりました。すると、若師匠の寝床はもぬけのからで、姿が見えませんので……」
「はい、あの、そのときあたしは、ご不浄へいっていたのでございます」
そういうお銀の声は、なぜか消えいりそうだった。
「それで、こんどはお千さんを起こしにまいりました。そして、お千さんとふたりで、この離れへきてみますと、このありさまで……ふたりともびっくりしてしまいました。それで、すぐにあたしが若師匠を探しにまいりますと、ちょうど、厠のほうからぼんやりと出ておいでになりましたので、すぐこのことをお話しいたしました。それから大騒ぎになったのでございます」
お吉の話を聞きながら、佐七はしきりになにか考えていたが、やがて喜久太郎のほうを振り返ると、
「ときに、喜久太郎さん、おまえさん、なにかゆうべのことについてご存じじゃありませんかえ」
「はい、あの、わたくし……」
佐七の視線をまっこうから浴びた喜久太郎は、さかやきの跡の青々として、まだ二十まえのやさおとこ、色白の、女のようにきゃしゃな若者だった。
おどおどしながら、
「わたしいっこうに……お吉に起こされるまでは、なにも知らずに寝ていたものですから……」
「なるほど、それでなにも知らぬとおっしゃるのですかえ」
と、佐七はなにか考えながら、
「ときに、お吉つぁんのいまの話では、この離れ座敷から出てきたのは、芝居の狐忠信みたいなふうをしていたということだが、どうだえ、このあいだおまえやお千さんの見たという幽霊とはちがうかえ」
「はい、わたしの見たのは、たしかに女でございました。狐忠信など……お吉はきっと夢をみたにちがいありません」
「お千ちゃん、おまえはどうだえ」
「はい、あたしの見たのも、たしかに女のようでございました」
お千はおずおずと答えるのである。
「妙ですね。すると、幽霊がふたつ出るのですかえ。男と女と……それとも、幽霊のやつ芝居気を出して、男になったり、女に化けたりしやがるのかな」
佐七のするどい視線に射すくめられて、お銀と、お千と、喜久太郎、三人三様に、まっさおになってうつむいてしまうのである。
引き裂かれた一枚絵
――継ぎあわせると吉野山狐忠信
「親分、けったいな話やなあ。すると、この家には幽霊がふたりも出よるんだっしゃろか」
ひとまず、一同を離れ座敷から追い出したあとでは、辰と豆六、きつねにつままれたようなかおいろだった。
女の幽霊というのはともかくとして、狐忠信とはあまりにも奇抜である。
いかにここが踊りの家元でも、それではしゃれっ気がありすぎる。
「なあに、そりゃおおかたお吉の気の迷いだろうよ。怖いこわいで見た目にゃあ、きつねにもみえよう、忠信にもばかされよう。よくいう枯れ尾花というやつさ。そんなことをいちいち真にうけているやつは大べらぼうよ」
辰はしたりがおに兄い風を吹かせていたが、さっきから、座敷のなかに散らばっている紙きれを、丹念にひろいあつめていた人形佐七、なにを思ったのか、そのとき、にんまり顔をあげると、
「辰、えろうきいたふうなことをいうが、それじゃこの絵はどうしたというんだえ」
「へえ、絵とはなんです」
「いいから、ちょっとここへきてみねえ」
ズタズタに引きさかれた紙きれを、畳のうえに丹念におきならべ、継ぎあわせたやつをのぞいてみて、辰と豆六は、おもわずあっとばかりに顔色かえた。
それもどうり、なんと、これがいま問題になっている義経《よしつね》千本桜の吉野山、狐忠信の一枚絵、どうやら役者の舞台姿らしかった。
「親分、こらまた、どないしたんだっしゃろ。まさか、この絵が抜け出しよって、大師匠を殺したちゅうわけやおまへんやろな」
「なんともいえねえ。血屋敷だの、お由良様だのと、へんなうわさのあるこの屋敷、とんだ吃又《どもまた》だが、絵だって抜けださねえともかぎらねえぜ」
佐七は笑いながらつくづくと絵をながめ、
「見ねえ、これは役者の似顔絵にちがいあるめえが、かんじんの名まえのところがなくなっている。辰、おまえこの役者に見覚えはないかえ」
「さあ、いっこう見覚えのない役者ですね。ちかごろの役者なら、たいてい知っているつもりですが」
「ふむ、おれも知らねえ。この絵の古さから見ると、だいぶ昔の役者らしいな」
佐七はなにか考えながら、引きさかれた紙片を、後生大事にかきあつめ、懐紙につつんでふところへしまいこむと、おりから、あたふたと駆けつけてきた町役人に、あとは万事まかせておいて、いったんうら隣のお源の家へ引きあげてきた。
お源は寝不足の目をしょぼつかせながら、
「親分さん、朝はやくから、ご苦労さまでございました。大師匠を殺したのは、やっぱりお由良様の幽霊でございましょうか」
「さあ、なんともいえねえな。しかし、お源さん当分おいらは、ここにおみこしをすえさせてもらうことになるかも知れねえぜ」
「ええ、よろしゅうございますとも。こんなむさいところでよろしゅうございましたら、いつまででもおいでくださいまし」
お源は茶をいれて出しながら、
「ときに、親分さん、ゆうべお隣で、もめごとがあったのをご存じでございますか」
「ゆうべといって、宵《よい》のうちにかえ」
「はい」
「それゃ初耳だ。そして、そのもめごとというのは、いったいどういうことだえ」
「じつは、これはお吉さんから聞いたことなんでございますが」
と、お源が声をひくめてささやくようにいうことばによると、こうだった。
ゆうべは宵節句だったが、毎年の宵節句には寅右衛門のところで、おもだった名取り連中をあつめて、お祝いをすることになっている。
ことしは寅右衛門が病気のおりから、いったんは見合わそうかという話も出たのであるが、こんなさいだからこそ、いっそうにぎやかにやって、悪気払いをしたらよかろうという寅右衛門自身の意見で、例のとおりお祝いをしたのである。
あつまったのは、菱川流の名取りのなかでもそうそうたる古株ばかりが十五、六人、寅右衛門もひさしぶりに病気を忘れ、上きげんだったが、その席上、問題になったのは八代目のことである。
だれしも八代目はお銀と、心のなかできめていたが、これには、寅右衛門も異議はなかった。
ただ、八代目をお銀にゆずるについては、条件がひとつあるというのである。
「ふふむ。そして、その条件というのはえ」
「親分さん、それが妙なのでございますよ。ご存じのあの喜久太郎さん、あのひとと夫婦になってくれれば、お銀さんに八代目を譲るというんですが、さもなくばお千ちゃんに八代目をゆずって、喜久太郎さんと夫婦にするというのでございます」
「ほほう。するとなにかえ、もしお銀さんが喜久太郎と夫婦になるのをきらったら、八代目はお千にいくという寸法かえ」
「そうなのでございます。ところが、因果なことに、あのお銀さんが、どういうものか喜久太郎さんをきらっておりまして……それで、ゆうべ、だいぶもめたらしゅうございます。お銀さんという娘がまた、日ごろはいたっておとなしい娘でございますが、それだけにかっとすると、なにをするかわからないところのある娘で、ゆうべも寅右衛門さんをあいてに、だいぶいいつのったらしく、いちじはたいへんな悶着《もんちゃく》だったそうでございます」
「ふむ。そして、その話はけっきょくはどうけりがついたのだえ」
「それが、なんでもみなさんの仲裁で、ゆうべはうやむやに終わったらしゅうございますが、お銀さんはあとでとてもくやしがって、だれがなんといっても、八代目は自分がもらう。そして、喜久太郎さんとはけっして夫婦にならないと、泣いていたそうでございます」
「お源さん、いったいあの喜久太郎というのは、寅右衛門のなににあたるのだえ」
佐七にはそれがふしぎだった。
「さあ、わたしもよく存じません。だれもしらないらしいんです。寅右衛門さんがどうしてまた、あのひとをあんなに大事にするのか、まったくふしぎだと、みんなうわさをしていたところでございます」
喜久太郎といっしょにならない限り、八代目をゆずらないというほどかわいがらねばならぬ理由は、どこにあるのだろう。
そこにこそ、この事件の秘密があるにちがいない。
佐七はじっと考え込みながら、
「ときに、お源さん、きのううちへやってきたときのお銀さんの話じゃ、寅右衛門にはそのむかし、死ぬほど焦がれていた男があるということだが、おまえさんその男のことを知らねえかえ」
「さあ、わたしもそれほど深いおつきあいをしていたわけではありませんし、それにずいぶん昔のことでございましょうから……」
「ふむ、そりゃ、おまえさんの知らぬのもむりはねえが……それじゃどうだろう。だれか寅右衛門の若いじぶんのことを、くわしく知っている人間はあるまいか」
「そうですねえ」
お源は小首をかしげながら、
「ひょっとすると、駿河《するが》町の山崎屋のだんななら、あるいはご存じかも知れません。先代のころよりのごひいきで、ゆうべ殺された寅右衛門さんも、なにかと相談あいてにしていられたようでございます」
「駿河町の山崎屋といやあ、有名な袋物問屋だね。そりゃいいとこを聞かせてくれた。辰、豆六、おまえたちこれからすぐに、山崎屋まで出向いていって、だんなにご足労をねがってきてくれ」
「おっと合点です」
辰と豆六は、すぐその足で駿河町へ出かけたが、あいにくなことに、山崎屋のだんな、徳兵衛《とくべえ》というのは、五、六日まえから商用で、静岡のほうへ出向いて留守だった。
佐七はそれを聞くとがっかりしたが、いっぽう八丁堀《はっちょうぼり》のほうでも、たしかな証拠もないのに、むやみに人を縛るわけにもいかない。
そこで、お銀とお千と喜久太郎、それに女中のお吉をくわえた四人のものは、近所の疑惑の目に取りかこまれながら、もう一晩、寅右衛門の死体によこたわっている棟《むね》のしたで、不安な一夜をおくることになったが、その真夜中ごろ、またしても、おそろしい事件が起こったのである。
またもや第二の惨劇
――びょうぶのうえに血で血屋敷と
「お源さん、お源さん、ちょっと起きてくださいよ。お玉が池の親分さんはおいででございますかえ。たいへんなことが起きました」
俗にいう、丑満刻《うしみつどき》のことである。お源の家で雑魚寝をしていた佐七の耳に、あわただしくきこえてきたのは、たしかにお吉の声である。
佐七はそれを聞くと、がばとばかりに飛び起きると、みずから裏口へとび出して、木戸のかけがねを外したが、見るとそとには女中のお吉が、寝間着姿のままで、まっさおになってふるえている。
「おお、お吉さん、どうしたんだ。なにかまた変わったことが出来たのかえ」
「あ、親分さん、たいへんでございます。たいへんでございます」
お吉は取りのぼせて、もう、無我夢中のありさまである。
佐七は手早く帯をしめなおしながら、
「お吉つぁん、どうしたものだ。大変とばかりじゃわからねえ。いったい、何事がおこったのだ」
「はい、あの……お千さんが……」
「なに? お千さんが……? お吉つぁん、お千さんがどうしたのだ」
「はい。あの、胸をぐさりとえぐられて……」
というなり、お吉はわっとばかりに泣き伏したが、おりからそこへ騒ぎを聞いて起きてきた辰と豆六をはじめとして、お源もそれを聞くなり、おもわずあっとまっさおになった。
「お吉つぁん、そ、そりゃほんとかえ。こりゃこうしてはいられない。辰、豆六、てめえたちもまごまごせずについてこい。お源さん、お吉つぁんのことはおまえさんに頼んだぜ」
と、それからただちに人形佐七が、背中合わせの寅右衛門の屋敷へ踏みこむと、しいんと静まりかえった庭の奥に、ひとところボーっと障子の明るんでいるのが、このさい妙に哀れをそそるかんじだった。
佐七は、しかし、そんなことにはとんちゃくなく、障子をけやぶるようになかへ踏みこんだが、とたんにその場に立ちすくんでしまったのである。
お千は寝ているところをぐさりとひと突き、胸のうえからやられたらしい。派手な布団から半分体を乗り出して、がっくり首をうなだれている。
そのそばにはお銀、喜久太郎のふたりが、どちらも寝間着姿のまま、放心したようなかおをして、べったりその場に座っていた。
「だれが……だれがこんなことを……」
重ねがさねのこの惨劇に、さすがの佐七ものどの焼けるのをかんじるのだ。
そのうしろでは、辰と豆六が、ぼうぜんとして顔を見合わせている。
「お銀さん、下手人はだれだえ。だれがこんなことをやったんだ」
佐七の声に、お銀ははっと、はじかれたように振りかえると、
「いいえ、知りません。存じません。さっき妙なうめき声がするというお吉のことばに、こわごわここをのぞいてみたら、お千ちゃんがこのありさまで……あたしはなにも存じません。ああ、恐ろしい、これもきっとお由良様ののろいにちがいありません」
さすがの気丈なお銀も、身をふるわせて泣き出した。
「喜久太郎さん、もし、喜久太郎さん、おまえさんもご存じありませんか」
「はい、わたしもいっこうに……」
喜久太郎はわなわなとくちびるをふるわせながら、ちらとお銀の顔に目をやったが、すぐまた恐ろしそうに顔を伏せてしまった。
と、そのときである。いままで畳のうえに突っ伏していたお千の体が、びくりとかすかに動いたから、
「ああ、まだ生きている」
佐七が叫ぶよりはやく、喜久太郎がはっとそばへにじり寄り、
「お千ちゃん、しっかりおし」
と抱き起こすと、お千の顔はまっさおだったが、まだ死にきってはいなかった。
たゆとうような目であたりを見回す耳もとへ、喜久太郎がくちびるをよせ、
「お千ちゃん、しっかりしておくれ。喜久太郎だよ。お銀さんもここにいる。さあ、だれがこんなことをしたのだえ。いっておくれ。だれの仕業《しわざ》だえ」
その声が耳に通じたのか、お千はなにかいおうとしたが、舌がもつれてことばが出ない。いらだって虚空になにか書こうとする。
「ああ、なにか書き残すことがあるんだな。辰、そのまくらびょうぶをこっちへ持ってこい」
「へえ」
と、辰五郎がびょうぶをそばへ持ってくると、お千は長襦袢《ながじゅばん》のそでのどっぷりと血をにじませて、ふるえる手先で書いたのは、
――血屋敷
と、いう三文字。
それを見るなり、一同は、ぎょっとばかりに顔見合わせたが、お千はそれきり、がっくり首をうなだれた。おしどり髷《まげ》ががくがくと、行灯《あんどん》のしたにゆれているのも悲しげに……。
喜久太郎の素性
――似顔絵のぬしは役者の嵐雛三郎《あらしひなさぶろう》
さあ、わからないのである。
お千はなんだって、よりによって、血屋敷なんて文字を書きのこしたのであろう。
喜久太郎に下手人の名をきかれて、ああいう文字を書きのこしたところをみると、犯人はやっぱり、お由良様とやらの幽霊であろうか。
佐七はむろん、そんなとるにたらぬ伝説を信じる気にはなれなかったが、それにしてもこの事件には、あまりにも異様な要素が多すぎる。
女中のお吉が見たという狐忠信の幽霊というのからして、はなはだもって奇抜なのに、いままたこの血屋敷伝説である。
狐忠信とお由良様の幽霊、――そこにいったい、どういう関連があるのだろう。
「佐七、どうしたものじゃ。なぜ、お銀と喜久太郎を挙げてしまわないのだ。下手人はふたりのうちのどちらかにきまっている。いや、ひょっとすると、ふたりがなれあいでやったことかもしれない。なぜ、あいつらを挙げて、どろを吐かせてしまわないのだ」
おなじみの与力|神崎甚五郎《かんざきじんごろう》も、いつにない佐七の手ぬるいやりかたに、業をにやしたかたちだったが、佐七はなにを思ったのか、
「だんな、そうおっしゃらずに、もう少しお待ちくださいまし。なに、あいつらを縛ることはいつでも出来ます。しかし、あっしにはまだ、少しふに落ちねえことがありますんで。ご心配にはおよびません。どちらも逃げかくれの出来ねえようにしてございます」
これが佐七の癖だった。事件の底の底まで、納得がいくように調べたうえでなければ、なるべく、十手は振りまわしたくない気持ちなのである。
なるほど、お千が殺されたいまとなっては、下手人はお銀か喜久太郎の、どちらかに限定されてしまったかもしれない。
しかし、では、かれらがなんのために、そんな恐ろしいことをしたのか、また、狐忠信の幽霊とはなにものか、お千の書き遺した血屋敷とはどういう意味か……。
それらのことがはっきりわかるまでは、佐七はむやみに手出しをしたくなかった。
これは大事をとるというよりも、むしろ、岡《おか》っ引《ぴ》きとして佐七の一種の趣味だった。
甚五郎もそこのところをよく知っているから、それ以上はくどくもいわず、
「ふむ。それでは、そのほうのよいようにいたせ。しかし、あまり延引《えんいん》しては他の思惑もある。なるべく、はやくらちをあけたがよいぞ」
「へえ、そこに抜かりはございません」
と、甚五郎のもとを辞した佐七が、お玉が池のわが家へかえってくると、女房のお粂がなにかしら待ちわびた顔色だった。
「お帰んなさい。遅かったじゃありませんか。さきほどから、お客様がお待ちかねですよ」
「はて、お客人とはだれだえ」
「それがさ」
と、お粂は声をひそめ、
「駿河町の山崎屋のだんなですよ」
駿河町の山崎屋徳兵衛といえば、殺された菱川寅右衛門の相談あいて、このあいだから佐七がさんざんその帰りを待ちわびていた人物だ。
「お、それは……そして、辰や豆六からはなにもいってこねえかえ」
「あい、なんとも……」
辰と豆六は、佐七のいいつけで、あいかわらずお源の家に泊まりこんで、寅右衛門の屋敷の見張りをつづけているのである。
佐七は奥の茶の間へはいっていくと、
「おお、これはこれは山崎屋のだんなでございますか。はじめてお目にかかります。わざわざのお運び、恐れ入りましてございます。使いをくださりゃ、こちらから出向いてまいりますものを」
慇懃《いんぎん》にあいさつをすると、徳兵衛もキセルをその場へおいて、
「おお、それじゃおまえさんがお玉が池の親分さんで。おうわさはかねがねうけたまわっておりましたが、いままでかけちがって、お目にかかる機会もございませんでした。わたしが山崎屋徳兵衛、なにとぞよろしく、お見知りおきくださいまし」
山崎屋のだんなというのは、もう六十の坂を越しているのだろうが、色つやのよい、でっぷりとふとった、いかにも大店《おおだな》のだんならしい人品|恰幅《かっぷく》、応対もさすが物慣れておだやかだった。
「なに、岡っ引きなどとおなじみがあるようではいけません。かけちがっているほうが、ごぶじというものでございましょう」
佐七は笑いながら、
「それにしても、だんな、このたびはまことにとんだことでございましたねえ。だんなは菱川流の家元とは、だいぶ深いおなじみだそうで……」
「さようで。わたしもけさほど、静岡からかえってまいりまして、家のものに話をきき、まったくびっくりしてしまいました。それについて、親分、なにかおまえさんがお尋ねになりたいことがあるとやらいうお話で、それでさっそくお伺いいたしましたようなわけで……」
「それは、まあ、ご苦労さまでございました。お尋ねというのはほかではございません。ねえ、だんな、あの喜久太郎さんというのは、寅右衛門さんのいったいなににあたるのでございますかえ」
徳兵衛はそれを聞くと、おもわずはっと顔色をうごかしたが、そこを、すかさず人形佐七は、ズバリと突っ込むように、
「これはあっしだけの考えでございますが、もしやあの人は、その昔、寅右衛門さんが死ぬほど焦がれておりながら、とうとういっしょになれなかった恋しい男の忘れ形見ではありませんかえ」
徳兵衛はそれをきくと、ほっとため息をつき、
「いや、恐れ入りました。さすがはお玉が池の親分さん、このことは、寅右衛門とわたしのほかには、だれひとり知るものもないはずの秘密でございましたのに、よくお気付きでございました」
「それじゃ、やっぱり、あっしの申し上げたとおりでございましたか」
「そうなのです。あれを引き取るについては、わたしもだいぶ反対したのでございます。むかしのおとこの子どもを引き取ったところで、しょせんろくなことはあるまいと、たびたび意見したのでございますが、寅右衛門はどうしても聞き入れません。それというのもむりはないので、あの喜久太郎というのがまた、あれのおやじの若いころにそっくりなので……」
「そして、その喜久太郎さんのおやじというひとは、いったい、どういう男でございましたので?」
「それが……親分はご存じかどうかしりませんが、いまから二十年ほどまえに、上方からくだってきた役者に、嵐雛三郎《あらしひなさぶろう》というのがございました。地芸はそれほどではございませんでしたが、それはそれはいい男で、それに踊りは名人といってもようございました。初下りには吉野山の狐忠信、あれが出し物でございましたが、それが大当たりに当たって……」
「なんですって? 吉野山の狐忠信ですって?」
佐七はぎょっとしたように、おもわず徳兵衛の話をさえぎると、
「だんな、ちょ、ちょっとお待ちください。それじゃ、もしやここにあるこの絵姿は、雛三郎の似顔絵じゃありませんかえ」
と、たんすの地袋から取り出したのは、いうまでもなくこのあいだ寅右衛門のまくらもとで見つけたあの一枚絵、いつの間にやらたくみに継ぎあわされて、裏ばりまでしてあるのだった。
徳兵衛はそれを見ると、驚いたように、
「おお、いかにもこれは、嵐雛三郎の絵姿でございますが、これをどうして親分が……」
佐七はそれに答えようともせず、
「それじゃ、喜久太郎さんというのは、この狐忠信の雛三郎のせがれなんでございますね。はてな……」
と、おもわず腕組みをして考え込んだが、おりからそこへ表から、きりきり舞いをしながら飛び込んできたのはうらなりの豆六だ。
「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。喜久太郎が……喜久太郎が……」
「なに? 喜久太郎がどうかしたのか」
「どうもこうもおまへん。いま百本杭《ひゃぽんぐい》のあたりから、大川へ飛び込みよって、えらい騒ぎや。兄いもあとから飛び込みましたが、かいもくゆくえがわからしまへん。あの調子では、しょせん命は助かりまへんやろ」
聞くなり、佐七と徳兵衛は、おもわずはっと腰を浮かしたのである。
喜久太郎苦肉の計略
――おやじの幽霊に化けて寅右衛門を
みちみち、豆六の語ってきかせるところによると、こうなのである。
このあいだの騒ぎいらい、家のなかに閉じこもっていたお銀と喜久太郎、もともと、あまり仲のよいほうではなかったから、たがいに腹の探りあいというかっこうで、口もきかずに、陰気な日を送っていたが、それがさきほど相前後して、こっそり屋敷を脱け出したのである。
それとみるより、お源の家で見張りをつづけていた辰と豆六が、こっそり後をつけていくと、ふたりはあらかじめ打ち合わせをしていたとみえて、百本杭の舟宿、花井筒というのから、舟を仕立てて大川へこぎ出したのである。
しかも、ふしぎなことには、その舟には船頭も乗せず、喜久太郎じきじきに櫂《かい》をあやつっているようすに、てっきり高飛びと早合点して辰と豆六が、おなじく花井筒から舟を仕立ててあとを追っかけていくと、やがてまえの舟は、待乳山《まっちやま》あたりでぴたりととまった。
「そこで、はてなとこっちゃから、兄いとふたりで、向こうのようすを見ておりますと、やんがて喜久太郎は櫂《かい》を投げ出し、お銀のそばへよっていって、なにやらごちゃごちゃ、だいぶこみいった話をしておりましたが、そのうちに喜久太郎め、舷《ふなばた》を乗り越えて、ざんぶり、水のなかへ飛びこんでしまいましたんや」
「それでなにかえ、おまえがこっちへ来るまでには、まだ喜久太郎は見つからなかったというんだな」
「へえ、そうだす、そうだす。兄いと船頭が飛びこんで、さんざんぱら川のなかを探してみましたんですけど、まだゆくえはわかりまへん。あのぶんなら、いまごろは、土左衛門《どざえもん》になってるにちがいおまへん。ああ、ああ、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏や」
徳兵衛はあおざめた顔をしかめて、
「それじゃ親分、下手人はやっぱり、喜久太郎だったんでございましょうか」
「さあ、なんともいえませんねえ。とにかく、お銀さんの口から、いちおう話を聞いてみなくちゃ……」
それからまもなく、三人がとるものもとりあえず、百本杭の舟宿、花井筒へ着いたときには、あたかもよし、おりから暮れそめた河面を騒がせて、辰五郎の舟がこぎもどってくるところだった。
「おお、辰か。してして、喜久太郎はどうした」
佐七がせきこんで尋ねると、辰はくやしそうに顔をくもらせて、
「親分、いけません。このとおりです」
みると、舟底には、ぐしょぬれになった喜久太郎の死骸が、どろのようによこたわっている。
鬢《びん》の毛がべっとりと、白いほおにからみついているのが、すごいほど美しかった。
「かわいそうなことをしました。ずいぶん手当てをしたんですが、すこし引き上げるのが遅すぎました。すっかりもう、お陀仏《だぶつ》になっちまってるんで」
佐七と徳兵衛は、喜久太郎の死骸を見ると、おもわずその場に合掌した。
「そして、辰、お銀さんはえ」
「はい、親分さん、そのお銀さんなら、奥座敷でねています。なんだか、とても取りのぼせているんです」
花井筒の女中のことばに、佐七と徳兵衛が奥座敷へはいっていくと、お銀は夜具にくるまってねていたが、よほど興奮しているとみえ、あらぬかたをみつめた目は、なにかしら、ものに憑《つ》かれたようなただならぬ光を宿してふるえていた。
「お銀さん、さっきはずいぶん驚きなすったろう。お疲れのところを騒がせてすまねえが、いったい、これはどうしたのでございますえ」
「はい……」
お銀は寝床のうえに起きなおると、にわかに、ハラハラと涙をおとして、
「あたしにも、さっぱりわけがわかりません。喜久太郎さんがだしぬけに、話があるからきてくれとおっしゃるので、ついてまいりますとあの騒ぎで、あたしもびっくりしてしまいました」
「いや、それもむりのねえところだが、しかし、お銀さん、喜久太郎さんは水へとび込むまえに、なにやらおまえさんに話をしていたというが、いったいどんな話をしていたんだえ」
「さあ、それが――」
と、お銀はまたもや、ものに憑《つ》かれたような目の色を見せながら、
「まことにふしぎな話でございました。喜久太郎さんはなんでも、じぶんの父の幽霊に化けて、お母さんをだましていたのだそうでございます」
「なに、おやじの幽霊に……」
と、これには山崎屋徳兵衛、あきれて物がいえなかったが、そのとき、お銀がおぼつかなげに、ぽつりぽつりと話したところによると、こうなのである。
ことしの正月に、お由良様のすがたが土蔵の壁にありありとあらわれていらい、寅右衛門はとかく気分がすぐれず、夜分などどうかすると、物狂わしくなることがあった。
喜久太郎はたくみに、この寅右衛門の心理の虚脱状態につけこんだのである。
寅右衛門がいまだにじぶんの父、嵐雛三郎をおもいつづけていることを、かねてよりしっている喜久太郎は、さてこそ父の舞台姿、狐忠信に身をやつして、夜ごと、そのまくらもとに立っていたのである。なにしろ、あいては更年期の、しかも、いささか物狂わしくなっている女だった。
おまけに、喜久太郎のおもかげは、亡き雛三郎と生き写しだったので、子どもだましのようなこの幽霊は、まんまと成功して、寅右衛門はそのかみの恋人が、ふたたびこの世にもどってきたようによろこんで、くさぐさの物語をしていたそうである。
徳兵衛はこれを聞くと、あまりの以外な物語に、おもわず目をみはりながら、
「それにしても、喜久太郎はなんだって、そんなバカなまねをしていたんだろう」
「はい、あの……それが……」
と、お銀はなぜかはじらい勝ちに、ぼうっと耳たぶを紅にそめ、とかく返事もできなかった。
それをみると、人形佐七、おもわずにんまりほほえみをうかべながら、
「いや、これはお銀さんの口からはいいにくかろう。それじゃあっしがかわって話しますが、それはおおかたかようでございましょう。喜久太郎はお銀さんをおもっていたんです。しかし、根が内気な性分とて、それを口に出していいかねた。そこで考えついたのが雛三郎の幽霊のこと、寅右衛門さんは、雛三郎の幽霊のいうことならなんでもきいてくれる。そこで、幽霊に化けて、昔話のそのせつに、どうぞ息子の喜久太郎を、お銀さんと夫婦にしてくれと、くれぐれも寅右衛門さんに頼みこんでいたんです。ねえ、お銀さん、そうじゃありませんかえ」
「はい……そういう話でございました」
と、お銀は崩れるように手をつかえたが、その目には涙がいっぱいたまっていた。
きいていて徳兵衛はため息をつき、
「なるほど……聞けばきくほど奇妙な話だが、それにしても寅右衛門やお千を殺したのは、やっぱりあの喜久太郎だったのかえ」
「おお、そのこと、そのこと。お銀さん、喜久太郎はそのことについても、なにか白状していたかえ」
「はい、あの、それが……」
と、お銀はまたしても、ものに憑《つ》かれたような目のいろを見せながら、
「それがなんだかおかしゅうございました。じぶんが死んだら、下手人はきっと喜久太郎ときまるであろうが、わたしはそれでも本望だ。これがわたしの宿世《すくせ》の因縁、あきらめていさぎよう死にまする。そのかわり、お銀さん、わたしが死んだそのあとで、かわいそうだと思ったら、線香の一本でもあげておくれとそういって、やにわに舟から水のなかへ飛び込んだのでございます」
と、お銀はなぜか、ものにおびえるようなかおいろで、じっとあらぬかたを凝視しているのだった。
血屋敷か皿屋敷《さらやしき》か
――秘密を解き明かす播州皿屋敷《ばんしゅうさらやしき》
さあ、またわからなくなったのである。
喜久太郎がさいごにいいのこしたことばによると、かれはだれかをかばって、我が身に罪を引き受けて死んでいったらしく思えるのである。
しかし、それではいったい、だれをかばっていったのだろう。
だれの罪を引きうけていったのだろう。
寅右衛門も死に、お千も殺されたいまとなっては、喜久太郎が自分の身をほろぼしてまで罪をかばおうとする人物は、お銀をおいてほかにあろうとは思われぬ。
とすれば、下手人はお銀だろうか。
お源の家へ引きあげてきた佐七が、うっかりその疑いをもらすと、
「バカな、そんなべらぼうなことがあってたまるもんですか。なんぼ親分でも、そんなバカなことおっしゃると、あっしゃ腹が立ちますぜ。あの娘のことなら、はばかりながら、あっしがだれよりもよく知っておりますが、虫一匹殺せるような娘じゃございません。バカも休み休みおいいなさいまし」
筒井筒、振り分け髪のじぶんより、お銀となじみだというきんちゃくの辰は、ひどくお銀のひいきだし、まだ幼いじぶんからお銀をよく知っているという山崎屋徳兵衛も、そばからことばをそえ、
「こればかりは親分のお目ちがいでございます。なるほど、お銀という娘は、しんねり強いところのある娘でございますが、大それた養母殺し……めっそうもない。そんなひどいことのできる娘ではございません。だいいち、また、お銀が真実の下手人なら、なぜあんなことを申しましょう。喜久太郎はたしかに白状しましたと、そういいそうなものではございませんか。だれもほかに聞いていたものはなかったのでございますもの」
なるほど、そういわれてみれば、それももっともだった。
「そやそや、山崎屋のだんなのいやはるとおりや。喜久太郎のやつ、変に思わせぶりなことをいいよったが、やっぱりあいつが下手人にちがいおまへんで。どうしてもお銀がいうことを聞きそうにないので、やけくそになって、寅右衛門を殺しよったにちがいおまへん。いや、ひょっとすると、とうとう寅右衛門に化けの皮をはがされたので、それで殺しよったんかもわかりまへんやないか。親分、どっちにしても、こら、この一件はもうけりがついたんやおまへんか」
辰も、豆六、山崎屋のだんなも、三人そろってお銀の無罪を主張するのだったが、佐七はしかし、なぜかまだ納得のいかぬ顔付きだった。
「おおきにそのとおりかも知れねえ。しかし、そうだとすると、お千や喜久太郎、いや、あのふたりばかりじゃねえ、お源さんまで見たというあの女の幽霊はどうなるのだえ。それからまた、お千が死ぬまぎわに書きのこした、あの血屋敷という文字は……ああ、そうだ、血屋敷……あの血屋敷という文字のなぞさえ解ければ……」
佐七は歯を食いしばって、じっとある一点を凝視していたが、にわかにぼうっとそのほおに紅の色がさしてきたかと思うと、いきなりぽんとひざを打ち、
「あっ、そうだ。なんという間抜けだったろう。辰、豆六」
「へえへえ」
「お千はあのとき、血屋敷と書くのに、最初たしかに皿屋敷《さらやしき》と書いたな。そして、さいごに皿という字のうえへ、人さし指に血をつけて、べっとり点を打ったようにおぼえているが、そうじゃなかったかえ」
「へえ、そういえばたしかにそうだったと思います。しかし、それがどうかしましたかえ」
「ふむ。それこそこの事件のなぞを解くかぎよ。豆六、てめえちょっと隣へいってこい」
「へえ、隣になんぞ用がおますか」
「ふむ。隣へいって、女中のお吉に、寅右衛門がいつも読んでいた草双紙は、どこの貸本屋から差し入れていたかきいてくるんだ。そして、その貸本屋がわかったら、そこへいって、寅右衛門が死ぬまえに差し入れた本のなかに、ちかごろ評判の播州皿屋敷《ばんしゅうさらやしき》ははいってなかったか調べてくるんだ」
「播州皿屋敷――? はてな、播州皿屋敷ちゅうたら、扇亭要斎《おうぎていようさい》の傑作だすが、それがなんぞこの事件に関係がおますか」
豆六の草双紙通は、みなさま先刻ご承知である。
「なんでもいいから、おれのいうとおりにしねえ。辰、てめえもいっしょにいってやれ」
「おっと合点だ。豆六、きねえ」
と、それからふたりは連れだって、隣屋敷へかけこんだが、ものの四半刻《しはんとき》もたたぬうちに帰ってくると、
「親分、親分、やっぱりおめえさんのいうとうりです。寅右衛門の殺された朝、差し入れた貸本のなかに、たしかに扇亭要斎の播州皿屋敷もはいっていたそうです」
「ところが、きのう、そのとき差し入れた本を取りに行ったところが、どういうものか、その播州皿屋敷だけがなかったそうだす」
佐七はそれを聞くなりにっこりわらって、山崎屋徳兵衛をふりかえると、
「だんな、お聞きでございましたか。一冊欠けた播州皿屋敷、そのなかにこそ、この事件のなぞをとくかぎが、かくされているんでございますぜ」
佐七のことばに、山崎屋徳兵衛をはじめとして、辰も豆六も、まるできつねにつままれたようなかおいろだった。
解き明かされた呪いのなぞ
――老梅の根元に倒れたお銀は哀れ
その夜のことである。
菱川流の家元に、たったひとりとりのこされた養女のお銀は、世にもふしぎな夢を見た。
広いひろい野原のなかに、女がひとり立っている。顔ははんめん血にまみれ、髪振りみだした恐ろしい女――それがむこうのほうからお銀にむかって、おいでおいでをしているのだ。
「ああ、お由良様」
お銀はふらふらそのほうへついていく。
すると、まもなく、お由良様が立ちどまり、こわい目をしてにらみながら、ここを掘れといわぬばかりに、足下を指さすのである。
「はい、あの……こっちを掘るのでございますか。よろしゅうございます。仰せにしたがって掘りますほどに、どうぞ、そうにらまないでくださいまし」
お銀はぶるぶるふるえながら、お由良様の足下を掘りだした。
一寸掘った。二寸掘った。三寸掘った。
すると、なにやら手さきにさわったものがある。お銀はそれを取りだすと、はて、なんだろうと首をかしげてのぞきこんだが、とたんに、
「お銀さん、ちょっとそれを見せておくんなさいまし」
聞きおぼえのある声に呼びかけられて、お銀ははっと夢からさめたが、そのしゅんかん、お銀はのけぞるばかりにおどろいた。
いつのまにやらお銀は、長襦袢《ながじゅばん》いちまいで寝間からぬけだし、寅右衛門の殺された離れ座敷のまえに立っているのである。
見ると、目のまえに梅の古木が立っていて、その根元が三寸ばかり掘ってある。
しかも、それを掘ったのが、まぎれもなくじぶんである証拠には、両手がべっとり土にまみれ、しかも、手に持っているのは一冊の草双紙。
「あれえッ」
お銀は思わずうしろに飛びのいたが、そのとたん、ばったり顔をあわせたのは、まじろぎもしないでこちらをみつめている四人の男――。
いうまでもなく、人形佐七をはじめとして、辰に豆六、それから山崎屋徳兵衛だった。
四人とも、まるで幽霊でも見るようなかおいろで、まじまじと、お銀のすがたを見詰めている。
「まあ……あたし……あたし……どうしたのでございましょう」
「お銀さん、なんでもいいから、いまおまえが堀り出したその草双紙を、こっちへ渡してもらおうじゃないか」
「まあ! あたしが掘り出したのですって?」
お銀は手にした草双紙に目を落としたが、すると、たちまちまっさおになってしまったのである。草双紙の表紙には、べっとりと赤黒いしみがついている。
「そうやがな。あんたが掘らいで、だれが堀りますもんか。さっきからあんたの部屋の外に張り込んでいたが、だしぬけにふらふらと寝床から脱け出して……ああ、気味が悪い。お源さんのみた幽霊ちゅうのんは、さてはあんたやったんやな」
「まあ」
お銀はごくんと息をのんだが、その心臓はいまにもとまりそうだった。
なにかしら恐ろしい事実が、いまや明るみのなかに照らされてくるようで、お銀は足ががくがくふるえた。背筋がしいんと冷たくなってくるのをおぼえた。
「お銀さん」
ふいに辰五郎が悲痛な声でいうのである。
「おまえ、またはじまったのじゃないかえ」
「辰つぁん……はじまったとは、なにが……なにがはじまったのだえ」
「おまえは幼いときから、夜中になって、ふらふら夢中で歩くくせがあったじゃねえか。おっかさんにしかられたり、気をつかいすぎたりすると、夢中で夜中に歩きだす。そして、じぶんではちっとも知らないというようなことがあったおまえだ。あの恐ろしい病気が、おまえ、また出てきたのじゃねえかえ」
「ああ!」
お銀はふいに両手で顔をおさえると、よろよろ、二、三歩うしろへよろめいた。まるで千尋の崖《がけ》から突きおとされるような気持ちなのである。
そういえば、お由良様の夢を見たのは、今夜がはじめてではなかった。
ことしの正月あの壁に、ふしぎな人の形が現れてから、それが気になって、気になって……夜ごとのようにお由良様の夢をみたのを思い出す。
夢のなかでお由良様は、いつもおいでおいでをするのである。
そして、じぶんは引きずられるようについていったものだが、ああ、ひょっとするとそのたびに、じぶんは今夜のように、夢中で家のなかを歩きまわっていたのではあるまいか。
そして……そして……おお、恐ろしい、ああ、怖い!
おっかさんが殺された夜も、お千ちゃんが死んだ晩も、あたしはたしかにお由良様の夢を見ていた……。
「おお、辰つぁん、そ、それじゃあたしが、おっかさんやお千ちゃんを……」
叫んだのがこの世の名残、哀れお銀は朽ち木をたおすように、どうと老梅の根元にたおれると、それきり息は絶えてしまったのである。
あまりの驚き、あまりの恐れ、あまりの悲しみが、ふびんなこの娘の命の根を、いっしゅんにして絶ってしまったのだろう。
佐七をはじめ辰と豆六、それに山崎屋徳兵衛も、あまりにも因果なお銀のさいごに、ただ粛然と顔を見合わせるばかりだった。
にわかに寒さのぶりかえしてきた夜で、月も空に凍るばかりだったという。
「だんな、おわかりでございますかえ」
お銀のからだを離れ座敷に運んでから、佐七はポツポツとおもい口を開いた。
辰はお銀のまくらもとで、目をまっかに泣きはらしている。
「お銀は幼い時分から、夢遊病のくせがあったんです。年ごろになるうちに、いつしかそういう病も治り、自分ではすっかり忘れていたんですが、ことしの正月、あのお由良様のすがたがあらわれてから、そいつをあまり気に病んだので、またぞろ病が出てきたのを、じぶんでは少しも気がつかなかったんです」
佐七は鼻をすすりながら、
「喜久太郎やお千も、はじめのうちこそ、夜中に歩きまわるお銀のすがたをお由良様の幽霊だと思っていたが、のちにはそれと気がついた。しかし、さすがに気の毒がって、お銀にそれと打ちあけかねるうちに、あの寅右衛門が殺されました。ふたりはすぐにお銀のしわざと気がついたが、なにしろ夢中でやったこと、ふたりともお銀をふびんに思ったので、それをかくしていたんです。ごらんなさい、この草双紙を……」
佐七が取り出したのは、お銀が老梅の根元から堀りだした一冊の草双紙。まぎれもなく寅右衛門のまくらもとからうしなわれた播州皿屋敷である。佐七がそれを開いてみせると、その本の中ほどに、
――下手人はお銀
と、血潮で書いた走り書き。
「寅右衛門さんがいまわのきわに書き残したんです。あっしゃ寅右衛門さんの右手の人さし指だけが、べっとり血潮にまみれているのを見たときから、なにか書き残したにちがいねえと、それを探していたんです。お千はこの字を見たにちがいありません。そこで、お銀をかばうつもりで、こいつを老梅の根元に埋めた。そして、お銀に殺されながらも、あくまであいてをかばうつもりで、この本のことをお銀に知らせようとしたんです。最初、皿屋敷と書いて、あとでそのうえに指で点をうったのは、皿屋敷の本のうえに、指で書いた血の文字が残っているということを、お銀に知らせたいばっかり。それをあっしらが血屋敷と読んだのは、とんだ座興でございました」
「それじゃ親分、喜久太郎が身投げをしたのも、やっぱりお銀をかばうためだったんですねえ」
徳兵衛もふかいため息だった。
「むろん、そうにちがいありません。お銀が人殺しの下手人としっていても、喜久太郎はやっぱり思い切ることができなかった。といって、あいてはおそろしい夢遊病者、それやこれやを考えると、喜久太郎は生きている気もなくなり、とうとう死ぬ気になったんですが、ついでのことに、お銀の罪を一身にひきうけようと思ったんでしょう」
「なるほど。そう聞けば、お千といい、喜久太郎といい、ふびんなものでございますねえ。いや、ふびんといえあお銀もふびん、親分、すると、これもやっぱり、お由良様のたたりだったかもしれませんねえ」
山崎屋徳兵衛はあおい顔してため息ついたが、もしもこの事件をお由良様のたたりとすれば、こんどこそ、お由良様も本望を遂げたというべきだろう。
寅右衛門、お千、喜久太郎、お銀と順ぐりにうしなった菱川流は、ついに七代目において、その流れが絶えてしまったのであったから。
ここに、あわれをとどめたのはきんちゃくの辰で、あんなに威勢のいい男が、それからひと月あまりは、絶対に笑顔をみせなかったという。
女虚無僧
おおかみ若衆
――へびのような目がつりあがって
人形佐七の女房お粂は、その日、なんともかんとも、いいようのないほどおそろしい思いをした。
いったい、岡《おか》っ引《ぴ》きという稼業は、あんまりひとにかわいがられる職業ではない。
とりわけ、脛《すね》に傷をもつ連中からは、蛇蝎《だかつ》のごとく忌みきらわれ、いつ、どのような返報をうけないものでもない。
そういう亭主《ていしゅ》をもつ身であってみれば、女房にもそれそうおうの覚悟はできており、お粂もちっとやそっとのことで驚くような女ではなかったが、そのときばかりは、みぞおちあたりが固くなるような恐怖をかんじたのである。
ことの起こりというのはこうなのだ。
佐七の子分のきんちゃくの辰に、お源という伯母《おば》さんがあって、本所緑町に住んでいるということは、みなさんもすでにご存じのとおりであるが、そのお源がちかごろからだを悪くして、ふせっているときいて、その日、お粂は見舞いにでかけた。
さいわい、お源は快方にむかっていて、べつに心配するほどのこともなかったので、一刻《いっとき》(二時間)ばかり話こんで、さてそのかえるさのことである。
両国橋のあたりまできてから、お粂はきゅうに観音様への参詣《さんけい》を思い立った。そのころの女のつねとして、外出することが少なかったので、出たついでといってはもったいないが、ひさしぶりにお参りしていこうと思ったのである。
ときや春、暮れるにはまだまがあった。お参りをして、もし遅くなるようだったら、かえりは駕籠《かご》にしてもよい。そう考えて、お粂はひとあしのばしたわけだが、あとから考えると、それが災難のもとだった。
こういっちゃ、観音様の罰があたるかもしれないけれど、信心もあてにならないものである。
それはさておき、観音様にお参りして、心ばかりのお賽銭《さいせん》をあげ、亭主や身内のものの無事息災を祈って、さて、仲見世筋をかえろうとすると、
「あの、もし、そこへいくのは、お玉が池のおかみさんじゃアありませんか」
と、呼びとめられてふりかえると、春のほこりの雑踏のなかに、あおい顔をして立っているのは、十七、八のかわいい娘、黄八丈の振りそでに、赤い半えりがなまめかしかった。
お粂はしかし、とっさにあいてが思い出せずに、
「はい、あの、わたしは佐七の女房ですが、そういうおまえさんは……?」
と尋ねると、あいてはいくらかうらめしそうに、
「あら、お忘れですの。あたし、油町の喜久屋の娘のお菊ですわ」
といわれて、お粂はぽんと小手を打ち、
「おや、まあ、そうでしたわね。あたしとしたことが、きょうはよっぽどどうかしてるよ。ときに、お嬢さまはおひとりでございますか」
お粂はふしぎそうにあたりを見まわしたが、おともらしいすがたはみえなかった。
喜久屋といえば、油町でも名だかい老舗《しにせ》、古いのれんをほこる呉服屋で、そこの娘ともあろうものが、供もつれずに、浅草あたりへやってくるはずがなかった。
「はい、あの、伯母といっしょでございましたが、つい、このひとごみではぐれてしまって、あたし、心細くてなりません」
「おや、それはそれは、お心細いことでございましょう。ここでお目にかかったのがちょうどさいわい、それではお供いたしましょう」
「いえ、あの、それが……」
と、お菊は不安そうにあたりを見まわし、
「あれ、まだ、あそこに……」
「え、お嬢さま、どうかしたのでございますか」
「はい、さっきから、あれ、あのひとが、しつこくあとをつけまわしてきて……あたし、なんだか気味がわるくてなりません」
お菊はおびえたように目をとがらせて、細い肩をふるわせている。
お粂はおどろいて、お菊の指さすほうに目をやったが、なるほど、すこしはなれた歌仙《かせん》茶屋の葭簀《よしず》のかげから、男がひとり、へびのように目をひからせて、じっとこちらをみつめている。
としのころは十六、七、まだ前髪の少年だが、柄からいえばすっかり大人で、前髪を立てているのがおかしいようだ。萌黄《もえぎ》のきものに、紫襦子《むらさきじゅす》のはかまをはいているのが、柄不相応でいやらしい。
さしずめ、いまのことばでいえば、不良少年という感じである。
「お嬢さま、あなたはあのひとをご存じですか」
「いいえ、とんでもない」
と、お菊は消えいりそうな声で、
「あたしにはこの江戸に、知ったひとなどございません。それだのに、さっきあたしの肩をたたいて、いやらしいことをいうものですから、びっくりして逃げ出しましたが、すると、いつまでも、ああして、しつこくつけてくるのでございます」
「まあ、いやらしいやつ、あたしがひとつしかりつけてやりましょう」
いきかけるお粂のそでを、必死となってお菊がおさえて、
「おかみさん、そればっかりはよしてください。あんな気味のわるいひとですから、あとでまた、どのような返報を受けないものでもございません。さわらぬ神にたたりなしとやら申します。それより、どこかいっとき、姿をかくすところはございますまいか」
いわれてみればもっともである、現今でもそうだが、そのころのわかい娘は、万事かかりあいになることを、ひどくおそれたものである。
「そうね、それじゃアこうしましょう。奥山の茶屋に、わたしの知ったうちがございますから、そこへでもいって休んでいましょう」
と、やってきたのは、そのころ、奥山ではやった『たぬき』という家、ちょっとした料理もでき、奥には小座敷も二つ三つ、一種の出会い茶屋である。
お菊はそこののれんをくぐりながら、ひょいとうしろをふりかえったが、
「あら、おかみさん、まだ、あそこへつけてまいりますよ」
と、あおくなってふるえている。
「ほんに、まあ、しつこいやつでございますわねえ。お嬢さま、あなたなにかあいつに、つまらないことでもおっしゃったんじゃございませんか」
「とんでもない。あたしゃなんにも申しません」
「まあ、いいから、ここで休んでいきましょう」
こまかくからだをふるわせているお菊の手を取るようにして、お粂はなじみの『たぬき』ののれんをくぐったが、かのいやらしい若衆は、少しはなれたところにたたずんで、あいかわらず、へびのような目をして、ふたりのうしろすがたを見送っていた。
目のつりあがった、鼻のたかい、どこかおおかみのようなかんじのする若衆で、いまにもくわっと、裂けはしまいかとおもわれるくちびるが、血を吸ったように赤いのである。
それでいて、ニキビ面がてらてら脂ぎっていて、としに似合わぬ大兵肥満のからだが、いやらしいほど、精力的なかんじであった。
身代わりお粂
――しまった、駕籠《かご》の外から白刃が
お粂はそこで、ちょっとした小料理をとりよせて、四半刻《しはんとき》(半時間)ほどお菊のあいてをつとめたが、かの若衆は執念ぶかく近所に張っているらしく、ときおり女中を偵察《ていさつ》にやると、
「はい、まだ、むこうに立っているようです」
という返事に、お菊の顔色はいよいよわるくなってきた。
いまにも泣きだしそうな声で、
「おかみさん、なんとかしてください。あたしあんな気味のわるいひとに、家までつけてこられたくはございません。なんとかして、まいてしまうくふうはございますまいか」
お菊が心配するのも、むりはなかった。お菊というのは、喜久屋のあるじ、重兵衛《じゅうべえ》のひとり娘にはちがいないが、幼いときから、父の手をはなれて育った娘である。
彼女は重兵衛のかくし子で、うまれ落ちるとまもなく、母のおよしとともに、練馬の在にかくれたのである。
それというのが、重兵衛の本妻のおせんというのが、ひといちばい悋気《りんき》ぶかかったところから、お菊がうまれると同時に、母のおよしは重兵衛から因果をふくめられ、いくらかの手切れ金をもらって、練馬の在にある実家にひっこんだのである。
かくして十八年、お菊は父の名もしらず、母の手ひとつで育ってきたが、その母も昨年なくなり、彼女は伯母《おば》のお角《すみ》のもとに身をよせていた。
お角というのは、およしの兄の権十郎のつれあいだが、その権十郎はおよしよりさきに死んでいた。
こうして、お菊は、血縁からいえばなんのつながりもない伯母とともに、肩身のせまい月日を送っていたが、そこへもってきて、降ってわいたような幸運が訪れた。
喜久屋のおかみのおせんが、この春みまかったのである。
重兵衛とおせんのあいだには子宝がめぐまれず、おせんの甥《おい》にあたる十三郎という若者を養子にしていたが、おせんがなくなると、重兵衛の頭に、いまさらのように思い出されるのは、おのが血をわけた娘、お菊のこと。
いままでは、思い出してもおせんのてまえ、口に出すことさえはばかられたが、そのおせんが亡くなってしまえば、もうだれに遠慮することもない。
さいわい、養子の十三郎というのが、気立てのよい若者で、重兵衛から話をきくと、そんなことなら、ぜひとも探しだして、呼びむかえてくださいといういさぎよいことばに、重兵衛もよろこんで、ひとをたのんで探しだしたのがお角とお菊だ。
およしの死んだのはふびんだが、さいわい、お菊がぶじ成人していたので、重兵衛のよろこびはたとえようもない。
そこで、せわになった伯母のお角ともろともに、ひきとったのがこの冬のこと。もし、当人同士その気があれば、お菊十三郎、夫婦にして、喜久屋の跡をつがせてもよいと思っている。
そういう身分だけに、お菊は、父にたいして、家にたいして、とかく遠慮がちだった。
浅草へお参りにきて、伯母にはぐれたのはまだしもとして、へんな男につけられたといえば、ものがたい父にどう思われようか、それが案じられて……と、お菊は涙ぐむのであった。
そう聞くと、お粂もなるほどと同情されたが、
「さりとて、べつに悪いこともせぬやつを、町役人に引きわたすわけにもいかず、つけてくるやつを、来るなといってもはじまらないし、ほんとにこれは困ったことだねえ」
「そこをなんとか、おかみさん」
「なんとかといったところで、お嬢さま」
と、さすがのお粂も思案にあまったおももちだったが、そのうちになにを思ったのか、ふっとおもてをかがやかせて、
「それじゃ、お嬢さま、こうしたらどうでしょう」
と、お菊の耳に口をあてて、なにやらささやけば、お菊はびっくりしたように目をみはり、
「それじゃ、おかみさんが身代わりになって……」
「ほっほっほ、このとしで、おまえさんの身代わりはちとおもはゆいが、なに、お高祖頭巾《こそずきん》で顔をつつみゃアわかりゃしない。そして、わたしがひと足さきにここを出て、あいつをほうぼうひきずりまわしてやりますから、そのあいだに、あなたはここを抜け出して、駕籠《かご》でもやとって、お玉が池のわたしのうちへいっておいでなさいまし。そのうちに、わたしもあいつをまいて帰りますから、そこでまた、きものを着かえてお店へかえりゃア、だんなにもわかりゃアしない。いえもう、そんなにご心配なさらなくても、そのときには、わたしがお店まで送っていきますからさ。さあ、思い立ったらはやいがいい。失礼ながら、そのお召し物を……」
と、いささかとっぴな思いつきだが、そこは岡《おか》っ引《ぴ》きの女房だ。
とっさの思いつきで、お菊ときものをとりかえると、女中にたのんでかりたお高祖頭巾ですっぽりおもてをつつみ、しゃなりしゃなりと出てきたのは『たぬき』の表口。
みると、あのいやらしい若衆が、いぜんとして、へびのような目を光らせながら、じっとこちらをうかがっている。
「うっふふ、執念深いやつだよ。ひとつ、どうするか見てやろう」
と、うつむき加減に、そっちのほうへ歩いていくと、若衆は身をひるがえして、お粂をやりすごしたが、やがて五、六間おくれて、ぶらぶらあとをつけてくる。
「うっふふ、うまくいったらしいよ。ざまアみやがれ」
と、心の中であざ笑ったところまではよかったが、そのあとがいけなかったのである。
「お嬢さん、もし、お嬢さん、どこまでお帰りでございます。ひとつ送らせてくださいな」
と、よってきた空っ駕籠。お粂はひょいとしたいたずらごころから、よし、この駕籠に乗ってやろう。そうしたら、あの気味のわるいおおかみ若衆、どんな顔をするだろうと、つい、うっかりその駕籠にのったのが運のつき、とたんに、バラバラと駕籠わきへかけよってきたおおかみ若衆。
駕籠の外から、ズイと短刀の白刃をつっこむと、
「ふっふふ、まんまとわなにかかりゃアがった。声をたてると、この白刃がものをいうぞ。おい、駕籠屋、このままやってくれ」
お粂はあっと肝をひやした。目のまえには氷のような白刃である。うっかり声を立てたら、その白刃がのど仏めがけてとんでくるだろう……。
「畜生ッ、畜生!」
お粂はギリギリ歯ぎしりしたが、こうなっては、あいてのなすがままにまかせておくより仕方がない。駕籠のそとでは駕籠屋の声で、
「へえへえ、若だんな、ところで、駕籠はどこまでやりますんで」
「黙《だま》っておれのいくところへついてくるがよい」
あとは無言で、そのまま三人は歩いていく。おりから、黄塵《こうじん》たてこめる春の夕まぐれ、駕籠のそとから、白刃をつっこんだまま歩いていく若衆を、だれひとり怪しんだものもなかったらしい。
それからどこをどう歩いたのか、あたりがだんだん暗くなるので、お粂にも見当がつきかねたが、やがて駕籠がおろされて、お粂のひきずり出されたのは、ぞっとするような古寺の本堂だった。
駕籠屋はなにもしらずに、ただ金ずくでたのまれてきたとみえ、気味悪いあたりのようすをみると、酒手をもらうのもそこそこに逃げてしまって、あとにはおおかみ若衆とお粂のふたりきり。度胸をすえたようでもそこは女で、お粂はガタガタ胴ぶるいをしている。
日はすでに暮れなずんで、本堂のなかはほの暗い。
おおかみ若衆はその薄やみのなかで目を光らせ、舌なめずりをしながら、お粂の姿をみていたが、やがてにたりと笑うと、やにわに猿臂《えんび》をのばして、お粂の腕をひっとらえた。
「あれ、なにをするのよ」
「ふっふ、なにをするとは知れたこと。ここでしっぽり、おまえをかわいがってやろうというのよ」
抱きよせて、口を吸おうとするやつを、お粂はピシャリと、はげしく平手打ちをくらわせた。
「あっ、な、なにをする!」
「なにをするとは、こっちのいいたいことだよ。おまえさん、人違いしてやアしないかえ」
バラリととったお高祖頭巾、おおかみ若衆はお粂の顔をみて、わっと大きく目玉をひんむいた。
「ち、ち、ちがっている。き、き、きさまはいったい何者だ!」
「だれでもいいよ。だれでもいいが、わたしゃ、おまえのような色気ちがいにくどかれるようなおぼえはない。さ、人違いとわかったら、このままさっさとかえしておくれ」
「おのれ、おのれ、おのれ」
おおかみ若衆は地団太をふみながら、お粂のまえに仁王立ちに立ちはだかった。
「やらぬ、やらぬ、やらぬぞ、女。さては、きさま、さっきの娘とぐるになって、このおれにまんまといっぱい食わせたな。ようし、おぼえておれ」
おおかみ若衆は、ギリギリ奥歯をかみならしながら、
「こうなりゃ、きさまがあいてだ。さっきの娘の身代わりに、きさまを手込めにせずにゃアおかない。きさまをここでなぐさんでやる」
とびかかってくるおおかみ若衆の手をくぐりぬけ、
「なにをしやアがる。この色気ちがいめ」
お粂は銀のかんざしを、キラリとさかてに身構えたが、正直なところ、あまりにも気味のわるいあいての形相に、身内のふるえがとまらない。
おおかみ若衆はギタギタとぬれたような目でお粂の全身をなめるように見まわしながら、手ばやくはかまのひもをほどいた。
紫襦子のはかまがバサリと床におちると、したはきざな縮緬《ちりめん》の赤ふんどし。お粂はいまや若衆のからだが燃えに燃えたぎっていることをハッキリ知ってゾーッとした。
みたところまだ十六、七だが、この恥知らずのおおかみ若衆は、もうあっぱれ大人であることを誇示している。
「女、来い!」
「な、なにするんだよウ」
あいての猿臀《えんび》の下をかいくぐって、お粂はさっとかんざしをふりおろしたが、あいてもさるもの、ひらりとからだをかわすと、お粂の腕をとってさかてにねじりあげた。
「あっ、た、た、た!」
お粂の口からもれる悲鳴といっしょに、かんざしが手をはなれて床におちた。それでもお粂はひっしのおもいで、おおかみ若衆の腕をふりほどくと、やっとの思いでかんざしを拾いあげた。
それを振りかざして、まえへ出ようとするやさき、どんと一発、脾腹《ひばら》につよい一撃をくらってしまった。
勢いよくまえへ出ようとしたやさきだっただけに、この一発はみごとにきまった。
「あっ!」
と叫んで、お粂はかんざしをとりおとすと、えびのように身をまげて床のうえにつっ伏した。
そのうしろからおどりかかったおおかみ若衆、お粂の髪をひっつかんで、床のうえへあおむきにひっくりかえすと、そのうえからのしかかってきた。
おおかみ若衆のけだもののような息がほおをうち、その手がすそへかかったところまではおぼえているが、それからあと、お粂は意識朦朧《いしきもうろう》としてしまった。
あまりの恐怖に、気をうしなったのである。
ゆうれい若衆
――若衆の背中にぐっしょりと血が
その翌日、神田お玉が池の佐七のうちでは、佐七も辰も豆六も、ゆうべから一睡もしない目を血走らせ、不安におもてをくもらせていた。
きのう、本所緑町にいる辰の伯母を見舞いにいったお粂のかえりが、みょうにおそいと思っていると、日が暮れてから、喜久屋のお菊があおい顔をしておとずれた。しかも、そのお菊がすっかりお粂の衣装を着ているので、びっくりしてわけをきくと、これこれこうだという話。
それだけでも、佐七にとってはおどろきの種だったのに、いつまで待っても、お粂がかえってこないから、さあ、しだいに不安がこうじてきた。
「それで、お菊さん、おまえさん、そのおおかみ若衆というのを、どこのだれともご存じないんですね」
「はい、いっこうに……」
「そして、たぬきを出てからお粂がどっちのほうへいったのか、それも知らねえというんですね」
「はい、おかみさんのご注意もありましたので、あたしはしばらく待って、その店を出たのでございます。そのときには、おかみさんのお姿も、若衆のすがたも、どこにもみえませんでしたので……」
これでは取りつくしまもない。
お菊のはなしから想像すると、てっきりお粂はお菊とまちがえられて、おおかみ若衆にかどわかされたらしいのだが、あいてがどこの何者ともわからぬとあっては、いかに捕り物名人でも、手のつけようがないのである。
「それじゃ、おかみさんはあたしのために、ご災難におあいなされたのでございましょうか」
お菊も不安に声をふるわせ、はてはわっと泣き出したが、ここでお菊が泣いてみたところではじまらない。
それでもお菊は一刻《いっとき》あまり、佐七のうちで待ってみたが、お粂はいまだにかえらない。
あまり遅くなっては、喜久屋のほうでも心配するだろうと、
「なあに、いまにかえってきますさ。女ながらもあいつは気丈者ですから、まさかそんな青二才に、手込めにされるようなことはありますまい。それより、おまえさんこそ、おうちで心配しているだろう。辰。豆六、おまえたち送っていってあげねえ。だんなによくわけをはなして、お菊さんの落ち度にならねえようにな。こっちのほうは心配いりませんといっておけ」
と、油町までお菊を送っていかせたが、その晩、とうとうお粂はかえってこなかった。
さあ、こうなると、さすがの佐七も、ひと晩まんじりともできないのである。
お粂佐七のご両人、ときおり胸倉とっての大立ち回りもやらかすが、心底はぞっこんほれあったふたりの仲、気強いようでもそこは女、もしやなにかのまちがいが……と思うと、佐七は絞め木にかけられて、全身の脂をしぼりとられるような思いであった。
辰と豆六にしてもおなじこと。ふだんはお粂の悋気《りんき》ぶかいをさいわいに、悪くおだててやきもちげんかをやらせては、悦にいっているというふたりだが、しんはやさしい親分思い、あねさん思い、これまた佐七とおんなじで、ゆうべ一睡もしなかったのである。
こうして不安な一夜があけたが、お粂はとうとうかえってこない。
夜があけると、油町の喜久屋から、お粂の安否をたずねてきたが、それにたいするあいさつにも元気がなかった。
「いえ、まだかえってまいりませんが、どうぞご心配なさらねえように」
そういう声もしめっていた。
「親分、こうしていてもしようがありません。ひとつ、これから手分けして、探してみようじゃありませんか」
「探すといってどうするんだ。まさか、鉦《かね》や太鼓で、江戸じゅうさがして歩くわけにもいくめえよ。なにか手がかりでもなきゃア……」
「親分、しようがおまへん。ひとつ、奥山へ出むいていって、だれかあねさんをみたもんはないか、それから手をつけていこやおまへんか」
「そうよなあ」
佐七はあんまりすすまぬようで、なおも小田原評定をつづけていたが、そのとき、おもてにあたって尺八の音。
どうやら、門付《かどづ》けの虚無僧らしい。
「お通り、出ないよ。ええい、しつこいな、こっちはお取りこみがあるんだ。お通りといったらさっさと通りゃアがれ」
辰がかんしゃく声をはりあげたが、それがきこえたのかきこえないのか、虚無僧はその場を去ろうともせず、あいかわらず尺八の音はつづいている。
たまりかねて、とうとう豆六が立ちあがって、がらりとおもての格子をひらいた。
「ええい、もう、うるさいな。こっちゃはそれどころやあらへんねん。さあ、いんで、いんで。おや、おまえ、女の虚無僧やな」
なるほど、おもてに立っているのは、女の虚無僧だった。
天蓋《てんがい》をかぶっているので、顔のところはよくみえなかったが、あごのあたりのなまめかしさ、まだとしわかい女らしい。
女虚無僧は白魚のような指を天蓋のはしにかけ、なにかいおうとしていたが、そのとき近づいてきた足音にふりかえると、なに思ったのか、逃げるようにその場を立ち去った。
やってきたのは、喜久屋の養子の十三郎である。
十三郎もみょうな顔をして、女虚無僧のうしろ姿を見送っていたが、やがて豆六と視線があうと、
「ああ、これは豆六さま、おかみさんはまだおかえりではございませんか」
「へえ、それがどうも……まあ、こっちゃへはいんなはれ」
「それでは、ちょっと……」
喜久屋の養子十三郎というのは、当年とって二十一、さかやきのあとの青々とした、色白の、いい若者だった。
「親分さん、いま聞けば、お粂さまはまだおかえりでないとのこと。さぞご心配でございましょう。おやじさまもたいそう気をもんで、ぜひお見舞いにいってこいと申されるので、こうして参上いたしましたが、これというのもお菊どのからおこったこと、重々おわび申し上げようもございませぬ」
「いや、それは痛みいったございさつ。なに、まだお粂がどうした、こうしたというわけでもございません。そのうちかえってまいりましょうから、そのご心配にはおよびませぬ。ときに、お菊さまのごようすはどうです」
「はい、これもみなじぶんから起こったことだと、ご飯もたべずに泣いております」
「それはまあおかわいそうに……そして、ほかになにか変わったことは……?」
「さあ、それでございます。ゆうべ、ちょっと変なことがございまして……」
と、十三郎がひざをすすめて語るところによると、こうである。
喜久屋でもゆうべお菊のかえりがおそいので、一同心当たりをさがすことになった。
伯母《おば》のお角が仲見世ではぐれたというので、わざわざ浅草までひとを走らせたりした。
お菊はしかし、そのころすでに、お玉が池の佐七のうちへかえっていたのだから、みんな手をつかねてかえってきたが、そのなかに手代の与吉というものがあった。
与吉がかえってきたのはいちばんおそく、すでに四つ(十時)をすぎていたが、表のくぐりをひらこうとすると、だしぬけに暗やみのなかから、ふらふらと出てきたものがあった。
「あの、もし……」
声をかけられて、ぎょっとしてふりかえると、あいては萌黄《もえぎ》のきものに、紫襦子のはかまをはいた若衆だった。
ただし、顔は宗十郎頭巾でつつんでいたので、よくわからなかったという。
「は、はい、なにかご用でございますか」
与吉がおびえたように尋ねると、
「お菊さまなら、さっきおかえりでしたよ。それについて、おまえさんにことづけたいことがあるんです」
若衆の声はみょうにしずんで陰々としていた。
「は、はい、どんなことでございましょう」
「そのうちに、きっとこんやの礼にくるから……と、そう申しつたえてくださいまし」
そういったかと思うと、宗十郎頭巾の若衆は、くるりと向こうをむいたが、そのとたん、与吉はキャッと叫んでしりもちついた。
若衆の背中は、ぐっしょり血にぬれているのだった……。
「与吉の声にうちじゅうとびだし、話をきくと、そこらじゅうをさがしてみましたが、もう若衆のすがたはみえません。与吉はてっきり幽霊だというんですが……」
「へえ? すると、若衆の幽霊が、お菊さんにこんやの礼に来るといったんですね」
佐七の目がきゅうに光をおびてきた。
「はい……それからもうひとつ、けさになって妙なことがあったんです」
ついさきほど、十三郎が出かけようとしているときだった。
喜久屋のおもてに女の虚無僧が立った。いくら追ってもことわっても、いっこうに立ち去りそうにないので、奥にいた重兵衛が、お菊の伯母のお角に鳥目をわたした。
お角はそれを女虚無僧にわたそうとして、なにげなく、ひょいと天蓋《てんがい》のなかをのぞいたが、
「あっ」
なにを思ったのか、そのまま奥へ逃げこんでしまったのである。
「ところが、おかしいのはその女虚無僧で、それからまもなく、わたしどものほうから立ち去りましたが、こちらさまへやってくると、また、そこに立っているではございませんか。親分さん、ゆうべのあの若衆といい、けさの女虚無僧といい、わたしはなんだか心配でなりません」
十三郎は眉間《みけん》をくもらせ、不安そうな吐息であった。
喜久屋騒動
――忍びこんだのはふたりのくせ者
その日も、お粂はかえってこなかった。
豆六のことばもあるので、佐七はいちおう奥山から仲見世へかけてたずねてまわったが、なにしろ人出のおおい盛り場のこと、ことに陽気のよい春のこととて、おのぼりさんの参詣《さんけい》もおおく、そのなかから、たったひとりの人間を探しだそうというのは、砂浜に落ちたひと粒の真珠をさがすようなものであった。
「いったい、あねさん、どこへいきなはったんやろ。ひょっとすると、いまごろは、どこかで冷とうなっていやはるのんとちがいまっしゃろか」
「バカなことをいうない。縁起でもねえ。そうでなくとも親分がご心配だ。ちと、口をつつしみゃアがれ」
「そら、わてかてこんなことをいいとうないが、なんぼなんでも遅すぎる。達者でいるなら、ひとことぐらい、だれかにことづけしたらええやないか」
「さあ、そのことづけもできねえような苦境に立っているのじゃねえかと思うと、おらア胸が張りさけそうだ」
さすがに男で、涙こそこぼさないが、佐七も心では泣いている。辰と豆六もしいんと黙りこんでうなだれた。
こうしてまた、神田お玉が池の佐七のうちでは、眠られぬ一夜がふけていったが、すると真夜中の九つ(十二時)ごろのことである。にわかにはげしくおもてをたたく音。 豆六がびっくりして起きだすと、
「親分さん、たいへんです。たいへんです。起きてください。たのみます」
「いったい、だれや、いまごろなんの用事があるんや」
「はい、わたくしでございます。喜久屋の手代の与吉でございます。親だんなと若だんなが……」
「なに、喜久屋の親だんなと、若だんながどうしたと……」
佐七も辰もとび出してきた。豆六が格子をひらくと、ころげるようにはいってきたのは、喜久屋の手代の与吉である。
「親分、は、はやくきてくださいまし。親だんなと若だんなが、くせ者のために切られて……」
「なに、親だんなと若だんなが、くせ者のために切られたと……」
「はい、ゆうべの若衆でございます。あの幽霊のような若衆でございます。わたしはたしかにこの目で見ました。裏木戸からその若衆が、こっそり忍び出ていくところを……」
「よし、いまいく。ちょっと待ってくれ。おい、辰、豆六、支度しろ」
「へえ、もう支度はできてまんがな」
と、与吉をせんとうに立てて、油町の喜久屋へかけつけると、家のなかはうえをしたへの大騒動。
重兵衛と十三郎はふたりとも、かなりふかい手傷をおうていたが、さいわい命にべつじょうはないらしく、あおいかおをして、駆けつけてきた医者の手当てをうけていた。
さて、ふたりのかたるところによるとこうである。
重兵衛も十三郎も、それぞれひとまを占領してねているのだが、暗やみのなかからだしぬけに、首のあたりをぐさっと突かれて目がさめた。
くせ者はのど笛をねらったらしいのだが、暗やみのなかとて、ねらいがそれたのである。
重兵衛と十三郎はキャッと声を立てると、人殺しだ、人殺しだとさわぎ立てた。
それにおどろいたか、くせ者はそのまま部屋をとび出したが、十三郎のほうはいきがけの駄賃《だちん》とばかりに、横にはらったくせ者にむこう脛《ずね》をかっさらわれて、かなりの深手をおうていた。
「へへえ。すると、くせ者はふたりだったのでございましょうか。おまえさんたちを、どうじに襲うたといたしますと……」
「はい、どうやら、そのようでございました」
「それで、おまえさんたち、くせ者のすがたは……?」
「それがあいにく、暗やみのなかのことでしたから……」
重兵衛も十三郎も、あいての姿をみることはできなかったが、奉公人のなかには二、三、それをみたものがあった。
重兵衛と十三郎の声に、二階にねていた手代や丁稚《でっち》が、ドヤドヤとおりてくると、そのとき庭の裏木戸から、外へ出ていくうしろすがたがみえた。
手代の与吉は、それをゆうべの若衆だというが、べつの丁稚のことばによると、けさきた女虚無僧であったという。
それをきいて、佐七は辰や豆六と顔見合わせた。
「ときに、お菊さまは……」
そのお菊は、離れのひとまに、伯母のお角とねていたので、べつにかわりはなかったが、おびえきって佐七の問いにたいしても、ほとんど答えるすべさえ知らなかった。
こうして騒動の一夜はあけたが、すると、夜明けごろのことである。佐七をたずねて、ふたりの駕籠屋が喜久屋へやってきた。
「これはお玉が池の親分さんですか。聞けば、ゆうべこちらさんで、妙なことがございましたそうですが、それについて、ちと、お耳に入れておきたいことがございまして……」
「ふむ、ふむ。して、それはどんなことだえ」
「じつは、ゆうべの真夜中過ぎのことでございました。つい、このむこうの四つ辻《つじ》で、からっ駕籠をかついてかえるところを呼びとめられまして……」
呼びとめたのはふたりづれで、宗十郎頭巾をかぶった大振りそでの若衆と、女虚無僧だったときいて、佐七はおもわず目をみはった。
「そして、その若衆と女虚無僧がどうしたんだ」
「へえ、ふたりで相乗りで送っていってはくれまいかと申しますので、あいての申すままに送っていったのでございます。いくさきは深川の了念寺という古寺で、まことにきみが悪うございましたが、聞けば、ゆうべこちらをさわがせたくせ者というのが、宗十郎頭巾の若衆に女虚無僧とやら、それでこうしておとどけにまいりましたので……」
佐七はそれをきくと、チカリと目を光らせたのである。
死体をおおう黄八丈
――南無三! お粂が殺されている
深川の了念寺というのは、六間堀《ろっけんぼり》のほとりにあり、ながいこと無住になっていて、近所でも化け物寺でとおっている。
駕籠屋の案内で、佐七が辰や豆六といっしょに、その了念寺へかけつけてきたのは、もう夜もすっかり明けはなれたころだった。
いちめんに、あおいこけの蒸した山門のまえに足をとめると、
「駕籠屋、この寺にちがいねえか」
「へえ、へえ、親分、ここにちがいございません。なあ、相棒」
「へえ、たしかにこの寺でございました。この山門のところで駕籠をおりると、ふたりは逃げるように、寺のなかへかけこみましたので……」
「そうか、よし。よく知らせてくれた。礼をいうぜ。それじゃ、おまえたちにはもう用はねえから、これでかえってくれ」
いくらかの酒手をくれて駕籠屋をかえすと、佐七は辰や豆六といっしょに、荒れはてた寺のなかへふみこんだ。
いうまでもなく、この寺こそ、一昨日の夕まぐれ、お粂が駕籠にのせられてかつぎこまれたところだが、三人はむろんそんなことは知らなかった。
「親分、ずいぶん荒れはてた寺ですね。なんだか気味がわるいようだ」
「こら、まるで相馬の古御所やな」
「そうよなあ。江戸にゃあちこちに、こういう無住の寺があるから、化け物がはびこるのよ」
三人は用心ぶかく、庫裏《くり》のなかへふみこんだが、なかへはいってみると、その荒れかたはいよいよ言語道断である。壁はボロボロにはげおちて、天井はくもの巣だらけ。おりおり、ねずみが天井裏をものすさまじくかけめぐって、そのたびに、バラバラときたないものが降ってくる。
「ひゃっ!」
だしぬけに豆六が、すっとんきょうな声をあげたので、佐七と辰はぎくっとする。
「ど、どうした、豆六、なにかあったか」
「いえ、なに、兄い、首筋へねずみのくそが落ちてきよったんで」
「ちっ、バカ野郎、それしきのことでぎょうさんな声を立てるない。したが、親分、ここにゃかくべつ変わったこともありませんねえ」
「そうだな。本堂のほうへいってみよう」
踏めばそのままめりこみそうな渡り廊下をわたって本堂のほうへ踏みこむと、ここの荒れかたはまた庫裏いじょうである。
欄間《らんま》はかたむき、しとみはやぶれ、床ははがれて穴だらけ、いちめんに薄白いきのこが生えている。
明け方のほのぐらい空気のなかに、いんしんたる腐朽と退廃のにおいが、怨霊《おんりょう》のように立ち迷って、つうんと酸っぱく鼻をつくのはかびのにおいである。
「お、親分」
とつぜん、辰が立ち止まって、ガタガタふるえ出した。
「ど、どうした、辰、なにかあったか」
「あれごらんなさいまし。あそこに、だれやらひとが……」
辰の指さすほうをみて、佐七はぎょっといきをのんだ。
物の怪《け》のたちまようような本堂のかたすみ、はげちょろけの本尊|阿弥陀尊《あみだそん》のまえに、だれやらひとが倒れているのである。
頭からすっぽり、黄八丈の振りそでをかぶっているところをみると女にちがいない。佐七ははっとお菊のはなしを思い出した。おおかみ若衆に追っかけられた喜久屋のお菊は、浅草でお粂ときものを交換したという。そして、そのときお菊の着ていたのが黄八丈……。
佐七はぐわんと脳天から、鉄のくさびでもぶちこまれたように目がくらんだ。
「おお、お粂!」
血を吐くような声なのである。
黄八丈のきもののしたにむざんな死体となってよこたわっているお粂を想像すると、佐七は全身から骨をぬかれたような気持ちで、とてもそのきものをめくって、顔をみる勇気はないのである。
「豆六、てめえ、あのきものをめくってみろ」
「わて、いやや。兄い、あんためくってみなはれ」
日ごろのんきな豆六も、佐七の心中を察すると、しりごみせざるをえなかった。
「ちっ、意気地のねえ野郎だ。それじゃしかたがねえ。清水の舞台からとびおりたつもりで、おれがひとつめくってやる」
とはいうものの、辰もおっかなびっくりなのである。へっぴり腰で、黄八丈のそばへちかよると、ぱっときものをめくりとった。
「や! しめた! 親分!」
「ど、どうした、辰!」
佐七はガタガタふるえている。
「親分、ご安心なせえ。こりゃアあねさんじゃありませんぜ」
「なに、お粂じゃなかったか」
佐七はほっと蘇生《そせい》の思いである。そばへよって、黄八丈のしたにある顔をのぞいたが、すぐぎょっとしたようにいきをのんだ。
「おい、辰、こりゃひょっとすると、喜久屋のお菊さんをつけまわしていたというおおかみ若衆じゃあるめえか」
なるほど、目がつりあがって、鼻がキュンととがったところが、お菊にきいたおおかみ若衆の人相にそっくりである。
それにしてもふしぎなのはおおかみ若衆のかっこうで、ふんどしいっぽんのあか裸なのである。
しかも、そのふんどしというのが緋縮緬《ひぢりめん》ときているから、このさい、いっそう異様なかんじであった。むろん、死んでいるのである。
「親分、それにしても、こいつどこをやられたんでしょう」
「死体をうつむけにしてみろ」
辰と豆六がひっくりかえすと、右の背中に、胸へもとおりそうな深手をおうて、むざんな血がぐっしょりと傷口にこびりついているのである。
「親分、そんならこいつ、ゆうべ、喜久屋からかえってきて、ここで殺されよったんだっしゃろか」
「バカいえ。これがけさ殺された死体かい。よく目をひらいてみろ。もうそろそろ腐りかけてらあ。殺されてから、一日か二日はたつにちがいねえ」
「へえ、それなら、ゆうべ喜久屋へきたのは幽霊でしょうか」
辰と豆六がきみわるそうに、顔見合わせたときである。本尊阿弥陀如来のうらにあたって、あやしげなきねずれの音がしたから、三人はおもわずドキッと目を見かわせた。
だれかかくれているのである。
佐七が目くばせをすると、辰と豆六は無言でうなずき、足音をしのばせて、本堂のうらへまわったが、すぐ、
「あっ、いた、いた。こんなところにかくれていやアがった。御用だ、御用だ」
「なんや、こいつ、のみみたいなやつやな。頭かくしてしりかくさずや。さっさとこっちへ出てきくされ」
あいかわらずそうぞうしい辰と豆六なのである。
ちょっと立ちまわりの音もきこえたが、案外もろいあいてとみえて、まもなく、辰と豆六にひったてられて、本尊阿弥陀如来のうしろから出てきたのは、萌黄《もえぎ》のきものに、紫襦子《むらさきじゅす》のはかまをはいて、宗十郎|頭巾《ずきん》でおもてをつつんだ若衆すがたの人物である。
しかも、きものの背中に匕首《あいくち》のきずがあり、ぐっしょりと血にぬれているところをみると、こいつこそ、いちどならず二度までも、喜久屋をおびやかしたやつにちがいない。
「辰、豆六、その頭巾をとってみろ」
「ああ、もし、この頭巾だけは……」
「なにをいやアがる。いいから、豆六、頭巾をとってつらあらためろ」
「おっとしょ。この化け物め、どないなつらさらしてんねん」
と、いやがるあいての頭巾をとって、顔をのぞきこんだとたん、三人とも、天地がひっくりかえるほど驚いたのである。
あっぱれお粂の心意気
――やれやれ、ことしも豊年満作だ
「わっわ、わ、わりゃお粂!」
いかにもそれはお粂であった。お粂はなにか間がわるそうに、三人にとりかこまれて、鼻白んだかっこうだった。
「あねさん、あねさん、おまえさんいったいどうしたもんです。達者でいるならいると、手紙の一本くらいくれたらどうです」
「ほんまや、ほんまや。あんたがふた晩もかえらんもんやさかい、親分、えらいノイローゼや。もうちょっとのことで、首つるとこやおまへんか」
「豆六、だまってろ。それより、お粂、こりゃアいったいどういうわけだ。そして、また、おまえのそのなりはどうしたというんだ」
お粂はおもはゆげにほおをそめながら、
「おまえさん、かんにんしてください。おまえさんがさぞ心配してるだろうと思ったんだけれど、あたしもあんまりくやしいもんだから、じぶんでこの一件をかたづけてやろうと思ったんです。ちょっと、お菊さん、あんたもこっちへ出ておいでなさい」
お菊ときいて、一同が目をみはっているところへ、
「はい」
とこたえて、須弥壇《しゅみだん》のうしろから出てきたのは、豆六にとっては見おぼえのある、あの女虚無僧だった。
「お粂、このおかたは?」
「おまえさん、このかたが喜久屋さんのほんとのお嬢さん、お菊さんなんですよ」
「なんだ、このおかたが喜久屋さんのほんとのお嬢さんだと? それじゃ、いまお菊となのって喜久屋にいるのは、いったいだれだ」
「このひとのいとこで、お早というんです。お角を伯母《おば》とよんでいるが、じつはお角の娘だそうです。お菊さん、おまえさんから親分にお話をなさいよ」
「はい」
とこたえて、お菊が涙ながらにかたるところによると、それはまことに意外な話だった。
母の死後、お菊は伯母のもとへ引き取られ、いとこのお早といっしょに暮らしていたが、そこへこの冬やってきたのが喜久屋の使者。あいにくそのとき、お菊が家にいなかったので、お角はこれさいわいと、お早をお菊として引き合わせた。
そうして、いよいよ喜久屋にのりこむ時期がくると、お角はお菊、お早をともなって、練馬をたち、いったん江戸の旅籠《はたご》へおちついたが、そこでお菊をあざむいて、女衒《ぜげん》の手に売りとばし、じぶんはお早をともなって、まんまと喜久屋へいりこんだのである。
いっぽう、女衒の手で下総《しもうさ》のほうへ売りとばされたお菊は、あぶないところで虎口《ここう》をのがれ、江戸の町へかえってきたが、彼女にはお角親子のいどころはわからなかった。
練馬へいってたずねてみたが、だれもふたりの行き先を知るものはなかった。
喜久屋では外聞をはばかって、できるだけこの捜索を秘密にしていたし、お角はお角で、腹にいちもつあるのだから、なぜ江戸へいくかというわけさえもひとに語らず、また、お菊にも秘密にしていたのである。
お菊はまさかじぶんの親がじぶんをさがしており、しかも、お早がその身代わりになっているとはしらなかったが、たったひとこと、会ってうらみがいいたいと、女虚無僧になって、ふたりのゆくえをさがしているうちに、思いがけない人物に出会ったのである。
それがおおかみ若衆である。
おおかみ若衆は結城《ゆうき》大三郎といって、練馬の郷士のせがれだが、たぶんに不良性をおびていて、はやくよりお早とふかい仲になっていた。
お早は結城家の身代に目がくれて、大三郎に身をまかせたものの、そういう仲になってみて、大三郎のあまりにも精力絶倫なのに恐れをなした。ひとめを忍んであう仲だったが、あうと大三郎の要求にははてしがなかった。
かれはあうと時刻のゆるすかぎり、お早のからだを抱いてはなさなかった。女をじぶんのものにしたといううぬぼれからか、かれはお早をだいて狂態のかぎりをつくした。しかも、お早がすこしでもその意にさからうと、打ったり、けったり、殴ったり、お早がじぶんの意にしたがうまでやめなかった。
いまからこんな調子では、夫婦になったらどんなだろうと、お早がおそれをなしているところへ、降ってわいたのが喜久屋のはなしである。お早は牛を馬に乗りかえる気で、大三郎にもむだんで姿をかくしてしまった。
烈火のごとくいきどおったのは大三郎である。かれは草の根わけてもお早をさがしだし、裏切られた返報をしなければ、腹の虫がおさまらなかった。そこで、江戸へでてきて、あてどもなく、お早をさがしまわっているうちに、出会ったのがお菊である。
目的はちがっていても、さがすあいてはおなじである。ふたりは協力を誓いあって、ときどき情報を交換するために、この古寺で落ちあっていた。
ところが、おとといの晩のことである。いつものようにお菊がここへやってくると、大三郎が背中を刺されて死んでおり、そばにはお粂が気をうしなってたおれていた。
びっくりしたお菊は、お粂をよびいけて、いろいろ話をしているうちに、いとこのお早がじぶんの名をかたって、喜久屋へはいりこんでいるということを知った。お粂もまた、お菊のかわいそうな身のうえをきいて同情した。
そこで、ふたりが狂言をかいて、お早をおどしにかかったのである。
「お菊さんには、身元のあかしになるような、これというたしかな証拠がないんです。また、あるにしても、げんざいの伯母いとこ、かたりとしてお奉行所へつき出すのにしのびないというのでふたりをおどかし、むこうから身をひかせるつもりだったんです」
「なるほど。それで、おまえがその衣装を着て、おとといの晩、お早をおどかしに出かけたのか」
「ええ、そうなんです。それからまた、きのうはお菊さんが虚無僧になって、喜久屋のようすを見にいきました。お角はお菊さんの顔を見るとびっくりして、家のなかへ逃げこんだといいますが、ほんもののお菊さんが出てきちゃ、いつまでも身代わりをつづけるわけにはまいりません。そこで、お角とお早のふたりが、ゆうべ、喜久屋のだんなと十三郎さんを殺そうとしたんだと思うんです」
「ふうむ」
聞いてみると、いちいち意外なことばかりである。
「それにしても、大三郎はいったいだれに殺されたんだ」
「さあっ……」
お粂はふっと顔色をくもらせて、
「それはあたしにもわかりません。このひとと争っているうちに、脾腹《ひばら》を当てられて、あたしは気をうしなってしまったんです。お菊さんがきたときには、このひともう殺されたあとだったといいますから、だれがいつ、やってきて殺したのか、あたしにもさっぱりわからないんです」
お粂はなんとなく、しずんだ顔色だった。
それはさておき、こうして事情がわかってみれば、わるいやつはお角とお早である。そこで、佐七の一行は、すぐさま油町へとってかえしたが、そのときにはお角親子は、あり金のこらずひっさらって、逐電《ちくでん》したあとだった。
むかしもいまも、逃亡こそはもっともたしかな有罪の告白である。
そこで、さっそく、江戸の町から町へと手配りされたが、それから二日目の夕刻に、お角親子は蕨《わらび》の宿でとらえられた。そして、ふたりの白状によって、なにもかもわかったのである。
結城大三郎を殺したのはお早だった。
お粂に身代わりをたのんだものの、彼女はきゅうに気がかりになってきた。もしも、お粂が大三郎につかまって、じぶんの名をきけば、かたりの一件が暴露してしまう。
そこで、こっそり『たぬき』からお粂や大三郎のあとをつけて、この古寺へやってきたのである。そして、大三郎が気をうしなったお粂のうえに馬乗りになって、あわやけしからぬふるまいにおよぼうとするところへ躍りこんで、うしろから、たったひと突きに殺したのである。
それのみならず、後日のために、お早は、気をうしなっているお粂も、ついでに殺そうとしたのだが、そこへだれかくるようすに、目的をとげずに逃げ出したのであった。
やってきたのはお菊だった。
捕らえられたお早は重罪なので、引き回しのうえ獄門、お角は死罪を申し渡された。
こうして、事情がいっさい判明したので、お菊はあらためて喜久屋へひきとられ、その後、十三郎と夫婦になって、りっぱに喜久屋の跡目をついだという。
ところで、ここで問題なのは、お粂佐七のご両人である。
「ねえ、おまえさん、あたし、ちかごろうれしくてたまらないのよ」
「なにがさ」
「なにがって、お早が正直に白状してくれたでしょう。それで、あたし、大三郎におもちゃにされたのでないことがはっきりわかって、こんなうれしいことはないわ」
佐七はおもわず目をまるくした。
「お粂、それじゃおまえはそれを心配していたのか」
「ええ、そうよ。気をうしなっているあいだに、あいつに変なことされたんじゃないかと思うと、生きている気がしなかったんです。おまえさんにたいしても面目ないから、それがハッキリするまでは、うちへかえるまいと思ってたんですけれど……」
「お粂!」
「それに、もうひとつうれしいというのは、おまえさん、あのとき、ずいぶん心配してくれたんだってねえ。うれしいわ、あたし……」
キューッ!
「あ、いててて、おい、お粂、な、なにをするんだ。いいかげんにしろやい」
といいながらも、その声が真夏のあめのようにとろけているから、二階では辰と豆六がやけにおおきな声を立てて、
「やれやれ、ことしゃまた豊年満作だぜ」
お玉が池はこのところ、天下泰平の春景色である。
武者人形の首
人形を買いにきた女
――清七はざまア見ろと舌をペロリ
十軒店《じゅっけんだな》にずらりとならんだ人形店のなかでも、老舗《しにせ》でなだかい山形屋の店先に、金鋲《きんびょう》うった乗り物がついたのは、五月三日の昼過ぎのこと。
なかから出てきたのは三十五、六の、しいたけ髷《まげ》の奥女中だったが、どっか険《けん》のある目で、じろりと店のなかを見渡しながら、
「あの、ちょっとお尋ねいたしますが……」
「へえへえ、毎度ごひいきさまで……」
よい客とみてか、手代の清七がもみ手をしながらあいきょうをふりまくのを、奥女中は見向きもしないで、
「せんだってここにならんでおりました五つの人形は、売れましてございますか」
「さあて、どんな人形でございましたかしら」
「加藤清正《かとうきよまさ》に、五条橋の弁慶と牛若丸、それから曽我《そが》兄弟の夜討ちでございましたが」
「ああ、あれ……おあいにくさまで。あれならもう売れましてございますが、いかがでございましょう。こちらの金時や渡辺《わたなべ》の綱《つな》では……」
「いいえ、ちと子細あって、ほかの人形ではまにあいかねます。番頭殿、なんとかしてあの五つの人形を手にいれるくふうはございますまいか」
「……」
「むりは承知のうえですが、そこはなんとか……」
「とおっしゃたところで、売ってしまったものを、いまさらどうも……どうぞほかの人形でがまんねがいたいものでございますが」
「それがそうはいきませんので。ねえ、番頭殿、それでは、せめてあの人形を買ったひとの所や名前でも、おわかりではございませぬか」
それがわかれば、押しかけていきかねまじきけんまくに、清七はあきれかえってあいての顔を見なおした。
三月のひな市とともに五月の武者人形、しょうぶ太刀の市は、十軒店のかきいれどきで、道もせましと仮屋の人形店がならび、たいへんなにぎわいをていするが、それも四月いっぱいのことで、五月も三日ともなれば、いい人形は出つくして、のこるのは傷物か店ざらしばかり。
それを知っているから、気のきいた客は、四月のうちに買ってしまう。それをいまごろやってきて、売れてしまったものを未練たらしくせびるのは、あんまりものを知らなさすぎる。
それほど欲しい人形なら、見付けたときすぐ買うがいいじゃないかと、清七はいささか中《ちゅう》っ腹《ぱら》で、にがみばしったまゆを大きくしかめた。
「せっかくでございますが、わたしどものほうではものを売るのに、いちいちお所やお名前をおうかがいするわけではございませんので」
「わからぬとおっしゃるのか」
「へえ」
わざとつよくキセルをたたいて、そっぽをむいた清七の横顔を、奥女中はくやしそうににらんでいたが、それでもことばだけはていねいに、
「では、もうひとつお尋ねいたしますが」
「へえ、どんなことでございましょう」
「あの五つの人形は、おなじひとの作と見受けましたが、あれをつくった人形師は、どこのなんというものでございましょう」
清七はいよいよあきれかえって、
「もし、お女中さま、あなたはそれをお尋ねなすって、どうなさるおつもりでございます」
「どうしようとこっちの勝手。もし、番頭殿、まさかそれまで知らぬとはおっしゃいますまいね」
かさにかかった口のききかたに、清七はいよいよむっとして、
「それは存じております」
「ご存じならばお聞かせください」
「あれをつくった人形師は、瀬戸物町の中村常山というご浪人で……」
「なに、中村常山……とおっしゃるか」
と、奥女中のまゆのあたりに、ちかりと稲妻のはしるのを、清七は横目でじろりとにらみながら、
「さようで。しかし、お女中さま、それをお聞きになって、瀬戸物町へ押しかけたところで、しょせんむだでございますよ」
「むだとおっしゃるのは?」
「その常山さんは、半月ほどまえ、死んでしまいましたからねえ」
ざまアみろといわぬばかりの口ぶりに、奥女中はあっとおどろきの声をかみころしたが、そのときだった。さっきからふたりの押し問答をきいていたどこかの若いおかみさんが、そばからおずおず、
「あの……清七どん」
「へえへえ」
「お代はここへおきましたが、これでよろしいのでございましょうねえ」
「おや、これは失礼を。へえへえ、たしかにちょうだいいたしました。毎度ありがとうござい」
ふろしき包みをかかえて出ていく若いおかみのうしろから、清七はあいそのいいお世辞を浴びせかけたが、やがて皮肉な顔を奥女中のほうへふりむけると、
「もし、お女中さまえ、あなたさまは、常山の人形にご執心のようでございますが、ひとあし遅うございましたねえ」
「ひとあし遅かったとは」
「いまここを出ていったわかいおかみさん、あのかたがさいごにのこった清正公さまをお買いくださいましたので。はい、あのふろしきのなかには、常山の清正が入っていたのでございますよ」
奥女中はそれを聞くと、すごい目をして清七の顔をにらんでいたが、やがてものもいわずに表のほうへ……清七はいまいましそうに舌打ちして、
「ちっ、なんだい、あれゃア……あっはっは」
執念深い奥女中
――その人形を十両で売ってください
山形屋で清正のとら退治を買ったのは、お霜というたたき大工の女房だったが、そのお霜はしばらくいったところで、
「もし、お女中、ちょっとお待ちください」
と、うしろから呼びとめられた。
ふり返ってみると、さっきの奥女中だったから、お霜はさてはと本能的に人形の包みを抱きしめて、
「あの、わたしになにかご用でございますか」
「いま、山形屋で清正の人形を買ったのはおまえさんでしたね」
「はい」
「おまえさんもひとが悪い。さっきの話を聞いていながら、だまって逃げ出す法はありますまいに」
「あの、それでご用とおっしゃるのは……」
「たいてい、わかっているでしょう。おまえさんの買った人形を、わたしに譲っていただきたい。いいでしょう。いくらで買ったのかしらないが、三両で譲ってください。それなら損はないはずだが……」
お霜はそれをきくと、きっとくちびるをかみしめた。
お霜はすなおな女だから、あいての出ようひとつで、あるいは快く譲ったかもしれないが、のっけからひとが悪いの、逃げ出すのといわれたうえに、権柄ずくなあいての口のききかたに、さすがのお霜もむっとした。
それで、そのままいこうとすると、
「ああ、これ、あいさつもなしにいこうとするのは……ああ、わかりました。三両では不服だというのですね。では、五両はずみましょう。五両ならば……おや、まだ不服かえ。これ、お女中、おまえもあまりひとの足下を見過ぎるじゃないか。ええ、仕方がない。それじゃ十両、よもやこれでもいやとはいいますまいね」
「いいえ。いやでございます」
お霜があまりきっぱりと断ったので、さすが権高《けんだか》な奥女中も、驚いて目をみはった。
「ええ、十両でもいやといやるのかえ」
「はい、いやでございます。たとい十両が二十両でも、お譲りすることはできません。はじめてうまれた男の子に、やっと買った節句の人形、お譲りするなどめっそうな……」
「これ、お女中、おまえもよくよくわからないひとだね。十両あれば、そんな人形、いくらでも買えるじゃないか。それ、耳をそろえて十両……」
「いえいえ、縁起でもない。お祝いに買った人形を、買いかえるなどとんでもない。この相談はお断りいたします」
そのまま、足を早めていこうとするお霜のあとから、奥女中は、すごい目をして呼びとめた。
「これ、お女中、おまえ、逃げるのかえ」
「いいえ、逃げもかくれもいたしませんよ。ご用があるなら、白木のうらの、兼吉という大工をたずねてきてください。それがわたしのうちです。しかし、人形の相談ならばまっぴらですよ」
売りことばに買いことばで、お霜はついじぶんの居所をいってしまったが、あとになって後悔したのは、その晩のことである。
亭主がかえるまでにと、近所に留守をたのんでふろへいったお霜が、ふろからかえってみるとないのである。あの武者人形が……。
「ほんとにくやしいじゃありませんか。ほかのものならともかくも、初節句の人形をとられるなんて、わたしゃなんだか縁起がわるくて、それでこうしてお願いにあがったのでございます」
その翌日、お霜がたずねてきたのは、神田お玉が池の人形佐七の住まいだった。そこで前後の事情を話すと、
「いいえ、とられたといえば間違っているかもしれません。ちゃんと三両、人形のあとにおいてあったのですから……しかし、親分、金さえおいておけば、ひとのものを無断で持っていってもいいという法はございますまい。やっぱりぬすっとに違いございませんわねえ」
「それゃそうだ。譲るともいわないものを、無断で持っていきゃアぬすっとだ」
「そうでしょう。それですから、親分、あん畜生をつかまえて、うんとひどい目にあわせてください」
お霜はよほどくやしいらしく、目に涙さえためている。
「あん畜生というのは、奥女中のことかえ」
「そうですとも。あいつのほかに、だれがあんな人形を盗むもんですか。うちのひとはいうんです。その人形のなかには、きっと、金目のものが隠してあったにちがいないと……でも、わたしは金のことなんかどうでもいい。ただもう、くやしくて、くやしくて……」
お霜がいきり立っているところへ、
「親分、たいへんだ、たいへんだ」
と、あわをくってとびこんできたのは、例によって辰と豆六。さっき朝湯へ出ていったから、おおかたふろ屋でなにか聞きこんできたのだろう。
「なんだ、騒々しい。なにごとが起こったのだ」
「ゆうべ横山町の鱗形屋《うろこがたや》で、へんな人殺しがあったという話です」
「へんな人殺しというのは?」
「ゆうべ鱗形屋へ、どろぼうがふたり押し入って、ひとりがひとりを殺していきよったんです。しかも、そのどろぼうのねらったしろもんちゅうのが変わってます。なんでも五月人形やちゅう話だす」
「なに、五月人形だと?」
「へえ、それもかずある武者人形のうちで、たったひとつ、五郎十郎の曽我兄弟が盗まれたという話です」
それを聞いて、佐七はおもわず、お霜のあおい顔を見返っていた。
鱗形屋の怪盗
――殺されたのは、きのうの駕籠《かご》かき
横山町鱗形屋というのは、当時有名な正本屋《しょうほんや》だったが、そこで人殺しがあったというのは、だいたい、つぎのような顛末《てんまつ》だった。
ゆうべおそく鱗形屋の奥座敷へ、ひとりの賊が押し入って、そこに飾ってあった武者人形のなかから、曽我兄弟のふたり立ちを、ひとつ持ち出したのである。
ところが、この賊が塀《へい》を乗りこえ、表へ出ていったところを、もうひとり賊が待ちかまえていて、その人形を横取りしようとしたらしく、そこではげしい争いが起こった。
鱗形屋ではこの争いをきいていたが、なにしろ恐ろしいのである。いきをつめて聞いているうちに、わっと悲鳴が聞こえたかとおもうと、たたたたたと逃げていく足音。あとはきゅうに静かになった。
そこで、鱗形屋の店のものが、おっかなびっくりで出てみると、店のまえに中間ふうの男がひとり、みごとに土手っ腹をえぐられて死んでいた……。
と、こういう話を辰と豆六からきいた佐七は、しばらくキセルをひねっていたが、やがてふと顔をあげ、
「おい、辰」
「へえ」
「おまえこれから十軒店の山形屋へいって、清七という手代がいるかどうか調べてくれ」
「へえ、山形屋の手代を調べるんですか」
「そうよ」
と、佐七は手みじかにお霜からきいた話をかたってきかすと、
「そういうわけだから、人形を買ったさきを知っているものがあるとすれば、それは清七から聞いたにちがいねえ」
「なるほど。それで、清七という野郎がいたらどうします」
「いいからここへ連れてこい。それから、豆六」
「へえへえ、わての役回りはなんだす」
「てめえは瀬戸物町へいって、中村常山という人形作りをさがしてみてくれ。常山は半月ほどまえに亡くなったという話だが、だれか身寄りのものがあるにちがいねえ。それが見付かったら、ここまでつれてきておいてくれ」
「おっと承知。それで、親分は?」
「おれは鱗形屋へいってみる。お霜さん、すまねえが、おまえもいっしょにいってくれ」
「あい、ようございます」
ゆうべのぬすっとがつかまるのなら、お霜はどんな手伝いもいとわぬ意気込みである。
こうして手はずがととのうと、それからまもなく佐七がお霜を引きつれて、やってきたのは横山町の鱗形屋。
そこで番頭にきいてみると、あの人形は四月のおわりに、おかみさんが十軒店へいって、山形屋で買い求めたものだが、ふたり立ちの大きな人形なので、あとから山形屋のものに届けさせたという。
しかも、それを届けてきたものの人相としかっこうを聞いてみると、どうやらそれは手代の清七らしい。してみると、清七があの奥女中にむかって、買い手をしらぬといったのはまっかなうそで、かれはちゃんとそのひとつが鱗形屋にあることを、知っていたはずなのである。
佐七はなおも、ゆうべの賊についてたずねてみたが、だれひとり、取りとめた返事のできるものはいなかった。
賊の押し入ったことを知っているものはあったが、いずれも布団のなかでふるえていたとみえ、賊の人相風体を見届けたものはひとりもない。
佐七はちっと舌打ちして、そこをでると、すぐ近所の自身番へ出むいていった。ゆうべ殺された賊の死骸が、そこにあるはずなのである。
自身番の役人は、佐七の顔をみるとすぐなかへ案内して、死骸にかぶせてあったこもをめくった。みると、なるほど、紺看板に梵天帯《ぼんてんおび》、武家屋敷の中間といったふうな男で、左のわき腹をみごとにえぐられている。
「もし、お霜さん、ちょっとここへきてください」
「はい……」
「おまえ、この男に見覚えはねえか」
「はあ……」
お霜はこわごわ死骸の顔をのぞきこんでいたが、すぐにあっと口走ると、
「親分さん、これはきのうの奥女中の駕籠《かご》かきでございます」
「やっぱりそうか。そんなことだと思ったよ」
この男が鱗形屋へ忍んできたのは、むろん奥女中の指図にちがいないが、それにしても、どうしてかれは、鱗形屋に目をつけたのだろう。それには、ただひとつよりほかに考えようはない。
すなわち、かれは山形屋を見張っていて、そこから鱗形屋へ忍んできたものを、つけてきたのにちがいない。それはおそらく手代の清七であったろう。こうなると、いよいよ怪しいのは清七で、昨夜の賊もかれにちがいない……。
と佐七がすばやく頭のなかで前後のつじつまをあわせているとき、ふいとお霜がそでをひいた。
「親分さん」
と、お霜は声をひそめて、
「表の野次馬のなかに、きのうの駕籠かきの相棒がまじっております」
「なに?」
佐七がぎょっとふりかえったとき、野次馬のなかからスーッと離れて、にわかにバタバタ足をはやめて逃げ出していく中間ふうの男があった。
「待て」
佐七はそれをみると、すぐに自身番を飛びだして、あとを追っかけたが、あいてはむやみに足のはやい男なのである。
またたくまにその姿を、両国の雑踏のなかに見失ってしまった。
飛び込むお鶴《つる》
――身体髪膚これを父母にうく
せっかくつかんだ詮議《せんぎ》の手づるを、まんまと逃がした人形佐七、いちじは地団駄をふまんばかりにくやしがったが、逃がしたあとでいくら悔やんでもはじまらない。
にが笑いをしながら自身番へとってかえすと、お霜とわかれて、いったんお玉が池へ引き揚げてきたが、すると、夕方になって、ぼんやりかえってきたのはきんちゃくの辰。
「どうした、辰、清七のやつはつかまえたか」
「親分、清七のやつは、きのうからかえらねえそうで」
「おおかたそんなことだろうと思った。すると、ゆうべの賊というのは、やっぱり清七のやつだな」
「そうかもしれません。ところで、親分、いいことを聞いてきました。常山のつくったもうひとつの人形、牛若丸と弁慶のゆくえがわかりました」
「ほほう、そいつは手柄だ。そして、それはどこにあるんだえ」
「深川の六間堀《ろっけんぼり》に、梁瀬《やなせ》という旗本の下屋敷があります。そこへ手代の清七と、丁稚《でっち》の長吉のふたりが届けたそうです。で、あっしはちょっとその下屋敷へまわってみましたが、人形はまだそこにあるようです。ねえ、親分、五月五日の節句はあしたです。あしたを過ぎると、人形はどこへしまわれるかしれたものじゃありません。ですからくせ者が忍びこむとすると、きっとこんやのことですぜ。ひとつ、こんや、梁瀬の下屋敷を張ってみようじゃありませんか」
「よし、いいところへ気がついた。それじゃ、飯を食ってさっそく出かけよう」
佐七はさっきの失敗をこれで取り返した気になって、ようやく愁眉《しゅうび》をひらいたが、そのときだった。表から息を切らしてとびこんできたのが豆六だ。
「親分、た、たいへん、お鶴《つる》がかどわかされよった。はよ、きておくれやす」
「なんだ、豆六、血相かえてどうしたんだ。そして、その鶴というのは何者だえ」
「常山の娘だすがな。ほら、人形作りの……」
「なに、常山の娘がかどわかされたと? それじゃ居所がわからねえのか」
「いえ、それはわかってます。わかってますさかいに、はよきておくれやすちゅうのやがな」
「おいおい、豆六、どうしたものだ。かどわかされたというかと思うと、居所はわかっているという。いったいどっちなんだ」
「それが……その、ええ、じれったい。話は歩きながらでもできますがな」
「よし、辰、豆六がああいうから、ともかく出掛けてみよう」
と、大急ぎで飯をかっこんだ三人は、さっそくお玉が池をとび出したが、みちみち豆六の話すところによるとこうである。
瀬戸物町をさがしまわった豆六が、やっと常山の住まいをたずねあてたのは、日ももう暮れがたのことだった。
近所できくと、常山は半月ほどまえなくなったが、あとにはお鶴という娘が、雇いばあやとふたりで暮らしているという。そこで、豆六はとっさの機転、山形屋の使いになって訪ねていった。ところが、あいにくお鶴は留守で、雇いばあやの話によると、ついいましがた、早坂三十郎さまからのむかい駕籠《かご》で出ていったという。
「いったい、その早坂三十郎というのは何者だえ」
「まあ、待っとくなはれ、それをいま話すところや。さて、わてがばあやと押し問答をしていると、ちょうどそこへ、お鶴殿、ご在宅かと、こう声をかけてはいってきた虚無僧がある。年のころは二十七、八、色白の目もとのすずしい、鼻筋のとおった、口もとのりりしい……」
「わかった、わかった。人相書きはそれくらいにして、その虚無僧というのは何者だえ」
「それがつまり早坂三十郎なんで」
「なに、それじゃ、さっきの駕籠はにせ迎えか」
「そうなんで。そやさかい、さっきお鶴がかどわかされたといいましたんや」
「なるほど。で、三十郎というやつはどうした」
「どうもこうもおまへん。ばあやから話をきくと、ああら悔しや、残念やなあ……」
「よせやい、通りがかりの衆が笑っていなさるぜ」
「笑ってもかまへん。こういわんと情がうつらん。遠くはいくまい、おお、そうじゃということになって、そこでふたりで、駕籠のあとを追うていきました」
「見つかったか」
「へえ、うまいぐあいに、浜町河岸のところで追いつきましたが、さあ、それからがたいへんや。親分や兄いに見せたかったな。早坂さんちゅうひとはたいした腕や。駕籠のまわりにはつごう四人、若侍がついてましたが、またたくまにバタバタと切り伏せて、あたりいちめん死人の山や」
「おいおい、豆六、気をつけてものをいえ、四人ばかりでなにが死人の山だ。それより、お鶴はどうした」
「へえ、そのお鶴はんだすが、三十郎さんが悪侍をあいてに戦っているあいだに、駕籠のなかからまんまと抜け出しましたが、これがまた色白の、目がパッチリと、鼻筋とおり……」
「わかった、わかった。お鶴はんの器量はあとでゆっくり拝見するとして、それからどうした」
「お鶴が駕籠を抜け出したとみるや、悪侍のひとりが、それ逃がしてはとあと追いかける。そこへ横からとび出したのが、このわてや。どっこいそうはさせまへんと、みごとにこれを取って投げ……」
「えらい! 投げたのか」
「いえ、投げられました」
「ちっ、だらしのねえ。で、お鶴はどうした」
「お鶴は進退ここにきわまって、ドボーンと河岸から身を投げまして……」
「なに、飛びこんだのか」
「へえ、これにはわても驚きました。さっそくあとからとびこもうと思うたが、いや、待てしばし、身体髪膚これを父母にうく。考えてみるとわては金づちやで、あえて毀損《きそん》すると不幸のだいいち……」
「なにをいやアがる。いくじのねえ野郎だ。まさか、お鶴を見殺しにしたんじゃあるめえな」
「あほらしい。豆六さんがそんな不人情なことをしますかいな。細工はりゅうりゅう。ええあんばいに、そこに舟がつないでおましたさかいに、首尾よくお鶴を助けあげて、この伊豆倉《いずくら》はんの二階にあずけておまんねん。へえ、ご退屈さま」
と、豆六が足をとめたのは、浜町河岸の舟宿で、伊豆倉という店のまえだった。
西条藩のお家騒動
――人形の中に大事を語る密書
なるほど、豆六の能書きどおり、お鶴は人形師の娘だけあって、人形のようにかわいい娘だった。
伊豆倉のおかみの世話で、こざっぱりと着替えて、つつましく布団のうえに起きなおったすがたは、白ゆりのようにうつくしい。
豆六はもうすっかり友達気取りで、
「お鶴はん、気分はどや。そして、あの早坂さんは、どこへおいでになりました」
「はい……」
と、お鶴がいいよどむそばから、佐七はおだやかに声をかけて、
「もし、お鶴さん、あっしのことは豆六からお聞きおよびのことと思いますが、そですりあうもなんとやら、こうなったらなにもかも打ち明けてくださいな。またお力になることができましょう」
といわれてお鶴は涙ぐみ、
「有り難うございます。あなたさまのお名前は、かねてより承っておりましたが、さて、なにからお話し申し上げればよいやら」
「それじゃ、こっちからお尋ねいたしますが、さっきおまえさんをかどわかそうとしたあのにせ迎えは、いったいどこの藩中でございますえ」
「はい、あれは、西条藩のものでございます。親分さん、わたしの父も西条藩でございましたが、話というのは、その父が西条藩を浪人した時代からはじまっているのでございます」
と、お鶴の物語るところによるとこうである。
北国筋で八万石のお大名、西条|能登守《のとのかみ》家中では、数年まえより継嗣《けいし》問題について、はげしい暗闘がつづけられていた。
そのいっぽうは、ご幼少ながらも当主の嫡子、亀千代君《かめちよぎみ》をたてようとする一派で、これを俗にお為方《ためがた》と称していた。それに対抗する他の一派は、当主の異母弟、大蔵殿をたてようとする一味で、お為方ではこれを奸謀派《かんぼうは》と呼んでいた。
こうして、ふたつの党派が数年まえより、しのぎを削って争っていたが、とかくお為方のほうが旗色がわるい。それというのが、大蔵殿の内室というのが、げんざい柳営でとぶ鳥おとすいきおいにある某候の姪《めい》にあたっているので、とかく依怙《えこ》の沙汰《さた》がたえなかった。
なおそのうえに大蔵殿というのが、目から鼻へ抜けるような才物で、兄能登守をさしおいて、家中の沙汰はほとんど意のままに執り行っている。
お鶴の父、中村常山が浪人したのも、その大蔵殿ににらまれたからで、かれはお為方の首脳者のひとりだった。
「浪人してから父は、人形作りに身をやつしておりましたが、そのうちにも、お為方のひとたちと気脈を通じて、ひそかに時期を待っておりましたが、そのかいもなく……」
今春になって、とつぜんお為方の頭上に大弾圧がくだされた。常山なきのちのお為方の首脳ともくされていた五人の義士が、とつじょ国元において、切腹を申し渡されたのである。
「この便りをきいたとき、父は悲憤やるかたなく、怏々《おうおう》としてくらしておりましたが、そのうちに五人のかたの供養のためにと、あの五つの人形を作ったのでございます」
あの五つの人形の首は、五人の同志の似顔になっていた。
清正は家老早坂|主馬《しゅめ》に、曽我兄弟は駒井浪之助、市之丞《いちのじょう》の兄弟に、そして弁慶と牛若丸は、柳沢権兵衛《やなぎさわごんべえ》と金吾《きんご》父子にと、それぞれ形をかりて、その顔はあたかもそのひとを見るがごとく、生き写しにつくられていた。こうして、常山はかげながら、非業にはてた五人の義士の回向をしていたが、そのうちに、ふとした病で半月ほどまえ、不帰の客となったのである。
あとにのこされたお鶴は、とほうにくれた。
もとより浪々の身のたくわえとてなく、弔いの費用にさえことかくしまつだったが、そこへやってきたのが山形屋の清七で、かれは常山のつくった五つの武者人形をみると、それを売り物にだすようにとお鶴にすすめた。
「人形の由来をしっているわたしには、それは骨身を削られるようにつろうございましたが、なにをいうにもお弔いさえ出せぬしまつに、心ならずも清七さまに託したのでございます」
ところが、その後になってたいへんなことが起こった。
国元を出奔してきた早坂主馬の嫡子、三十郎というのが、とつじょお鶴を訪ねてきて、あの五つの人形を要求したのである。
聞いてみると、その人形のどれかひとつに、常山のあずかった大事な書面がかくしてあるとやらで、常山は死ぬまえに、そのことを三十郎にいってやったらしい。その書面というのは、お為方のつくった斬奸状《ざんかんじょう》で、それをもって、一挙に奸謀派をたたきつぶす計画だった。
「それをきいたときのわたしの驚き、知らぬこととはいいながら、そのだいじな人形を売り物にだした申し訳なさ……そこで、きのう十軒店におもむいて、清七さまにきいてみましたが、あいにくなことには三つとも売れてしまったあととやら。わたしはあまりの申し訳なさに、いっそ死んでしまおうかと思いましたが、そのようすにいたく同情してくだすったのが清七さまで、売り先はみんなわかっているから、きっと人形は取りもどして進ぜるとおっしゃってくださいまして……」
「なるほど、それで万事はわかりましたが、もうひとつ、きのう山形屋へやってきた奥女中というのは何者でございます」
「はい、そのお話は清七さまよりもお聞きいたしましたが、としかっこうを聞きますには、それは滝川という方らしゅうございます。滝川というのは、女ながらも大蔵殿の腹心で、江戸の奸謀派を牛耳っているおかたでございます」
これはのちにわかったことだが、滝川があの人形を買いにきたのは、はじめからその中にだいじな書類が隠してあると知ってのことではなかった。
ある日、奸謀派のひとりが、偶然山形屋のまえを通って、その人形を見たところが、五つが五つとも、今春非業の最期をとげたお為方の五人に似ているので、なんとやら怪しくおもった。
そこで、屋敷へかえってその話をしているうちに、いつかこれが滝川の耳に入った。
さすがは大蔵殿の片腕といわれるだけあって、滝川はそれをきくと、これにはなにか子細があるにちがいないと、さてこそ山形屋へ駕籠をむけたのである。
「いや、これでなにもかもわかりましたが、それじゃアあなたは、清七がいまどこにいるか、それもご存じでございましょうねえ」
「はい。その清七どのより、けさ手紙がまいりまして、今夜五つ半ごろ(九時)百本杭《ひゃっぽんぐい》へきてくれれば、五つの人形の顔をそろえて渡してくれるということでございましたゆえ、それでさきほど早坂さまにお願いして、いっていただきました」
と聞いて佐七はおどろいた。
おそらく、清七のつもりでは、今夜|梁瀬《やなせ》の下屋敷へ忍びこんで、弁慶と牛若丸を盗み出すつもりだろうが、もし、それをしくじったら……いや、たとえ首尾よく盗みだしたところで、かれの身辺には滝川の目が厳重に光っているはずである。
危ない、危ない、もし清七が滝川の手に落ちたら……と、そう思うともう一刻もゆうよはできなかった。
「こいつはいけねえ。辰、豆六、おまえたちもいっしょにこい」
佐七はすっくと立ち上がっていた。
大川端の血煙
――清七のために回向をしてやれ
六間堀の梁瀬《やなせ》の下屋敷から、首尾よく弁慶と牛若丸を盗みだした清七は、それからすぐに大川端へむかったが、途中いくどか立ち止まっては、おびえたようにうしろをふりかえっていた。
そのころの天気ぐせとして、宵《よい》より曇りはじめた空はすっかり雨雲におおわれて、あたりはひどい霧だった。その霧のなかを、だれやらひたひたと、あとをつけてくるのである。こちらが歩けばむこうも歩き、こちらが止まればむこうも止まる。
清七はだんだん気味悪くなってきた。
「おいおい、冗談じゃアねえ。用があるならあるといえ、黙ってあとをつけてきやアがって、へんなまねをしやがると承知しねえぞ」
声をかけたが返事はない。
霧のためにすがたが見えないだけ、いっそう気味がわるいのである。
清七はしだいに足を早めていた。
やがて、二つ目の橋を渡って、回向院のあたりまでくると、あとをつけてくる足音はしだいにふえて、まるで魚をおう網のように、じりり、じりりと清七の身辺をつつんでくる。
助けてくれえ――と、そう叫びたいのをじっとこらえて、やっとたどりついたのは百本杭。そこに一隻の屋根舟がつないである。
そこまでくると、清七はあとさきを見まわし、すばやく舟へ乗りこもうとしたが、そのときだった。さっきから無言のままあとをつけていた影が、バラバラとかけよるとみるまに、いきなりぐっと、清七の手を左右から捕らえた。
みると、覆面の武士が五、六人。
「あ、なにをしやアがる、おまえたちは何者だ」
「これ、清七、わたしの顔をお見忘れかえ」
氷のようにつめたい声で、あざわらうようにそういいながら、ずっと清七のまえへ出たのは奥女中の滝川だ。
清七はさっと青くなる。
「ほっほっほ、きのうはよくも、わたしを笑っておくれだったね。こうなってもまだ笑うかえ。笑えるものなら笑ってごらん」
ピシャッと清七のほおに平手打ちをくわせると、
「それ、みなさま、舟のなかをさがしてごらんあそばせ」
言下に覆面の武士がふたり、舟のなかへとび込んだが、すぐ人形をかかえて出てきた。
「滝川殿、やっぱりここにございました」
「そんなことだと思いました。舟の中とはよく考えたね。清七、これでも知らぬというのか」
「ええい、もうこうなっては……」
清七はやにわに捕らえられた手を突きはなし、滝川めがけてとびかかったが、とたんに、
「わっ!」
と叫んで、血煙あげてたおれていた。
「ほっほっほ、きじも鳴かずばうたれまいに」
滝川はどくどくしい微笑をうかべて、ゆうゆうと懐剣の血のりをぬぐっていたが、
「あ、だれかくる。見付からぬうちにすこしもはよう」
指図におうじて、一同があしばやにいき過ぎようとしたときだ。むこうからきた四つの影が、霧の中からじっとこちらをうかがっていたが、
「ちっ、遅かったか。滝川殿、しばらくお待ちください」
声をかけてバラリと天蓋《てんがい》をはねのけた虚無僧の顔をみて、滝川ははっと顔色をかえていた。
「おお、そちゃ早坂三十郎、――それ、みなさま、ご油断あそばすな」
「いうにはおよぶ」
と、いっせいにずらりと抜きはなった刀のなかに立って、三十郎はにっこりと、秀麗なおもてに微笑をふくんでいた。
「獅子《しし》身中の虫、奥女中滝川、ここで会うたはちょうどさいわい、かどでの血祭りにあげてくれよう。佐七どの」
と、うしろを振りかえって、
「ここは拙者が引き受けたから、そいつのもった人形を奪いかえして、お鶴どのにわたしてくだされい」
「おっと、承知いたしました。それ、辰、豆六、人形を持ったやつを逃がすな」
「おっと、合点だ」
と、辰と豆六は武者ぶるい。
そのなかにあって、三十郎はゆうゆうと刀の目くぎをしめしていた――。
その翌朝、百本杭のほとりを通りかかったものは、そこに飛びちっているおびただしい血潮に肝をつぶしたが、切られたはずの人間は、どこにも発見できなかった。したがって、ゆうべそこにどんなことが行われたか、それを知っているものは、当事者をのぞいては佐七と辰、豆六の三人だけだった。
佐七はその後、かつては柳営でとぶ鳥おとす羽振りだった某候が失脚するとともに、長らく紛糾をつづけていた西条藩のお家騒動が一挙落着におよび、大蔵殿が自滅のあげく、めでたく亀千代様が継嗣に立たれたといううわさを聞いた。
そして、それから幾日もたたぬある日、お玉が池を訪れてきたわかい夫婦づれがある。いうまでもなく、それはちかごろ帰参をゆるされた早坂三十郎と、さきごろ華燭《かしょく》の典をあげた新妻お鶴。
佐七はふたりから感謝のことばを述べられると、にっこり笑ってこう答えたという。
「いえ、こんどのことはあっしの手柄じゃありません。あっしよりもあの清七――もし、おふたりさま、おついでがありましたら、どうぞあいつのお墓参りでもしてやってください。お鶴さまのためによろこんで命をすてたあいつのことを思うと、わたしは胸がふさがりそうでございます」
狸御殿《たぬきごてん》
怪御殿美女と若衆
――辰と豆六はガタガタと胴ぶるい
おなじみの捕り物名人、お玉が池の人形佐七のふたりの子分、きんちゃくの辰とうらなりの豆六は、ある夜、なんともいえぬ奇怪なめにあった。
それは五月雨さなかの、雨のしょぼしょぼふる晩のこと、本所のおくの法恩寺のわきまで、用事があって出むいていったふたりは、そのかえるさに駕籠《かご》をひろった。
あとから考えると、これからして怪しいので、時刻はすでに四つ(十時)過ぎ、しかも雨のしょぼふるそんな晩に、駕籠屋が二丁までまごまごしていたというのからして、はなはだまゆつばものなのである。
しかし、ふたりとも酩酊《めいてい》していたから、そんなことには気がつかない。
「駕籠屋、お玉が池までやってくれるか」
と交渉すると、ふたつ返事で二丁の駕籠は雨のなかを走り出した。
あとから豆六が述懐するのに、
「法恩寺橋をわたって、入江町へさしかかったところまで、わてもぼんやりおぼえてますが、そのあとがさっぱりだす。なにしろ、酔うてるところへさして、駕籠がええあんばいに揺れよるもんやで、ついとろとろしてしもて……」
辰とくると、そこまでもおぼえていない。これは駕籠屋が息づえをあげたとたん、もう眠りこけていたらしい。ともかく、こんど目がさめると、これが御殿みたいな、けっこうなお座敷だったというのである。
「わてがまず目えさましたんだすが、あないびっくりしたことはおまへんわ。気がつくと高麗縁《こうらいべり》のけっこうな畳や。ふすまはみんな金ぶすまで、丹頂のつるがかいておまんねん。引き手には朱房がさがってます。天井の柾目《まさめ》から床柱まで、いやもうけっこうずくめで目がくらみそうや。わてもうびっくりしてしもて、口もきけまへなんだが、気がつくと、そばに兄いがグーグー寝てまんねん」
豆六はすぐに辰をゆすり起こした。
辰もしばらくはあっけにとられて、目をパチクリしていたが、やっと口がきけるようになると、
「豆六、こ、これゃどうしたんだ。ここはいったいどこだ」
「兄い、そ、そんなことがわかるくらいなら、わてなにも、こ、こないにふるえしまへんがな」
「はてな」
辰は目をこすりながら、キョトキョトあたりを見回したが、これまたガタガタ胴ぶるいをはじめた。
こういうと、いかにも意気地がないようだが、これが岡場所《おかばしょ》だとか夜鷹宿《よたかやど》とかいうのなら、ふたりともこれほど驚きはしなかったろう。
駕籠屋のやつ、変に気をきかしやアがった、ぐらいですむところだが、見たところ、ここはどうしても武家屋敷だ。
それも百石、二百石のこっぱ武士では、これだけけっこうなお座敷はかまえられまい。千石、二千石、いや、ひょっとするとそれ以上の御大身かもしれぬ。
「豆六、これゃこうしては……」
辰は立ち上がりかけたが、またべったりと座ってしまった。そのとき、障子の外からサラサラときぬずれの音がちかづいてきた。
「あ、兄い」
ぴたりとふたりが寄りそっていると、障子をひらいて手をつかえたのは、これはまた、水の垂れるようなお小姓だった。
「お目ざめでございますか」
お小姓はにっこりわらって、
「お目ざめならば、姉上がお目にかかりたいと申しております」
ソーラきたとばかり、辰と豆六、またガタガタと胴ぶるい。
「それからお小姓の案内で、奥御殿へつれていかれたんですが、とちゅうの渡り廊下のけっこうなこと。また、お庭というのがたいしたもので、てっきりお大名か、お旗本にしてもよほど御大身のお下屋敷だと思いました」
おりからの暗い雨で、よくわからなかったものの、庭の手入れがゆきとどいていた。
むこうにひょうたん池があって、池のほとりの石灯籠《いしどうろう》に灯がはいっている。
松の枝もよく刈り込まれ、白く咲きこぼれているのはあじさいだろう。
さすが佐七のお仕込みだけあって、そんな際にもふたりは観察を怠らなかったが、それにしてもおかしいのは、これだけりっぱなお屋敷でありながら、ひとけというものがさらにない。
辰と豆六はいよいよ気味が悪くなったが、まさか、逃げ出すわけにもいかないので、こわごわあとからついていくと、やがて案内されたのは、勾欄《こうらん》づきのお縁側、たかい階段《きざはし》がついていて、そこから庭へおりられるようになっている。
その縁側と座敷のあいだには、杉戸《すぎと》と障子が二重にはまっていたが、杉戸のほうは開けっ放しになっている。お小姓は障子をひらくと、
「姉上様、お客人をおつれいたしました」
「おお、菊之丞《きくのじょう》、たいぎでありました」
そういう声に、お座敷のなかをのぞいた辰と豆六、またもやぎょっと息をのんだ。
そこはさよう、十二畳敷きででもあったろうか。ふすまというふすまはこれまたすべて金地で、四季の花鳥が目もあやかにかいてある。
びょうぶがこれまた金張りで、おもてには彦根《ひこね》びょうぶふうの婦女遊興図。
そして、そのびょうぶのまえに、緋緞子《ひどんす》のしとねをかさねて座っているのが、じつになんとも申しようのない美人なのである。
年は二十四、五歳か。髪を三つ輪にむすび、江戸紫のきれをかけ、鼈甲《べっこう》のながい笄《こうがい》におなじ櫛《くし》。
白綾《しろあや》の小袖《こそで》のうえに、紫色の被布《かずき》をきて、これがしょざいなさそうに、からだをくの字なりにくずして、ひざのうえで鼓をもてあそんでいるところは、うしろのびょうぶから抜け出したかと思われるばかり。座敷のなかにはなまめかしい丁字香《ちょうじこう》のにおいがぷーんと漂うている。
辰と豆六はまた胴ぶるいをしやアがった。
目覚むれば化け物屋敷
――どこやらでにぎやかな狸ばやしが
さて、美人はにっこりかたえくぼをうかべると、
「どうぞおはいりくださいまし。あまりのつれづれに、鼓を調べておりました。菊之丞、お客様にお褥《しとね》を……」
「はい、どうぞ……」
「さあ、おくつろぎくださいまし。菊之丞、用意のものを……」
「はい」
菊之丞がうなずいてつぎへさがると、やがてけっこうな膳部《ぜんぶ》に酒さかながでる。だが、ふしぎなことには、それらの世話も、ばんじ菊之丞がひとりでやってのけるのである。
やがて、用意がととのうと、
「さあ、なにもございませんが、ひとつお過ごしなさいまし」
と、菊之丞がちょうしをとりあげたから、辰と豆六、まるできつねにつままれたような顔色だ。
「豆六、どうしよう」
「どうしようちゅて、兄い、こうなったらしよがない。ごちそうになろやおまへんか」
あとで馬のくそだとわかっても、このごちそうにはしをつけずにゃいられない。
「よし、いい度胸だ。おまえがその気なら、なに、かまうことはねえ。――ええ、ご新造さまえ、それじゃまっぴらご免くださいまし」
と、これまたたいした度胸で、けっこうなお褥のうえであぐらをかくと、美人はわらって、
「さあ、どうぞご遠慮なく。豆六さまも辰五郎さまのようにお楽になさいまし」
と、名前をいわれて辰と豆六、おもわず目をまるくした。
「おや、それじゃおまえさんは、おいらをご存じでございますかえ」
「知らずにどうしましょう。お玉が池の辰五郎さまと豆六さま、ようく存じておりまする」
と、ほおをうすく染めながら、味なながしめをくれたから、ふたりはぶるると武者ぶるい。
さて、さされるままに、つがれるままに、それからしばらく飲んでいるうちに、ふたりはしだいにおもしろくなってきた。
こうなると、あいてが何者であろうとかまうことはない。いまにお小姓の口が耳まで裂けようが、新造の首がヒュー、ドロドロと長くなろうが、そのときはそのときと度胸をすえて、
「つかぬことをお尋ねいたしますが、おまえさまがたはご姉弟《きょうだい》でございますか」
「はい、さようでございます。これはわたしの弟で、菊之丞と申します」
そういわれてみると、ふたりの面差しには、どこか似通ったところがあった。
「あの、そして、このお屋敷にはあんたがたおふたりきりだっすかいな」
「はい、父も母も先年みまかりまして……以前には家来奉公人も大勢おりましたけれど、父母がなくなってからというものが、散りぢりばらばら、いまではふたりきりの、寂しい暮らしでございます」
「それは、まあ……しかし、こういう広いお屋敷に、おふたりきりとはご不自由なことで」
「はい、それは不自由は不自由でございますけれど、これにおります弟が、なにやかやと、まめまめしく働いてくれますので……わたしはよろしゅうございますが、でも、考えてみると弟はかわいそうでございます。わたしが病身でございますから、いっそう骨が折れることでございましょう」
「へえ? ご病身とおっしゃいますと……?」
「はい、胸のほうが少うし……」
なるほどそういえば、白い膚は透きとおるようで、目のふちなど黒い隈《くま》ができている。もっとも、そのために、いっそう凄艶《せいえん》さをましているのだが……。
しかし、病のためにのどをおかされているのか、声が低くてしゃがれていた。ときどき、絶えいるようにせきこんだ。
「あれ、姉上、そのような話はおよしなさいまし。こうしておふたかたがお見えになっているのでございますから、もっとうきうきとなさいまし」
「ほっほっほ、わたしとしたことが、失礼いたしました。ほんに、ちかごろの霖雨《ながあめ》で、気がくさくさしてなりません。さあ、どうぞ陽気にお酔いなさいまし。どれ、わたしもおそばへまいって、お酌《しゃく》をさせていただきましょう」
すらりと座を立った女は、丁字香のにおいを発散させながら、辰と豆六のそばへくると、白魚のような指でちょうしを取りあげた。
さあ、それからがたいへんで、なにしろお酌がいいから酒がすすむ。飲むほどにかさねるほどに、妙にあたりが色っぽくなってきたから、辰と豆六は有頂天になった。
姉弟におだてられて、胴間声をはりあげて歌っているうちはまだよかったが、やがてフラフラ立ちあがって、へんな腰付きで踊っているうちに、ふたりともふうっとわけがわからなくなった。その場に酔いつぶれてしまったのである。
それからどのくらいたったかわからない。
ぞっと身にしむ寒風に、ふと目をさました豆六は、あたりを見回しておもわずあっと肝をつぶした。
雨はあがって、空には月が出ているとみえ、絖《ぬめ》のような月光が、座敷のなかまで差しこんでいたが、その座敷というのがたいへんなのだ。
畳はやぶれ、ふすまはボロボロ、びょうぶはがっくりかたむいて、そのまえには綿のはみだした古布団。そして、そのうえに端然と座っているのが、なんとこれが石地蔵ではないか。
「わっ! これは……」
豆六はおもわずうしろにとびのいたが、とたんに、冷たいものにほおをなでられ、驚いてふりかえると、そこにも一体の石地蔵、慈悲忍辱《じひにんにく》の温顔に、にっこり微笑をうかべているのが、このさいいっそう気味がわるい。
「きゃっ!」
豆六はまたしてもうしろに飛びのいたが、そのとたん、いやというほどけったのが辰の脾腹《ひばら》で、きんちゃくの辰もそれで目をさました。
「豆六、ど、どうしたんだ。ご新造さんや菊之丞さんはどこへおいでなすった」
「あ、兄い、それどころやおまへんがな。ば、ばかされた……」
と、豆六はいきなり辰の胸にむしゃぶりついたが、そのときどこかでポンポコポンと、いんきな狸ばやしがきこえていた。
盗みをするいたずら狸
――三笑亭福円もばかされたそうです
「――というわけで、親分、めんもくもねえ話ですが、とんだ膝栗毛《ひざくりげ》の赤坂で、まんまとたぬきにばかされました」
と、その翌朝、きょとんとした顔で、お玉が池へかえってきた辰と豆六は、きまりわるげに頭をかいていた。
佐七はお粂と顔見合わせながら、
「ふうむ。それじゃなにかえ。おまえたちが酔いつぶれているうちに、けっこうな御殿が、相馬の古御所みたいに荒れ果てたというのか」
「へえ。さよさよ。そやさかいに、親分、たぬきにばかされたとしか思えまへんねん」
「眠っているうちに、ほかのお屋敷へつれていかれたんじゃねえのか」
「ところが、親分、そうじゃねえんで」
と、辰はひざをのりだして、
「あっしも最初はそう思いましたが、豆六とふたりで調べてみると、たしかにもとの御殿にちがいねえんで。金ぶすまの模様からびょうぶの絵、それに座敷の配りまで、さっきの御殿と寸分ちがいありません。ただそいつが、いつのまにやら、ボロボロに立ちくされているんです」
「御殿ばかりやおまへん。お庭もそうだす。ひょうたん池もおますし、石灯籠《いしどうろう》も立っています。松の枝ぶりもおなじやし、あじさいも咲いてましたが、それがいつのまにやらうってかわって、なにもかも草ぼうぼうにこけ青々や。わて、あんな気味のわるいめえにおうたんはじめてや」
と、辰や豆六はいまさらのごとく、ゾッと寒気をおぼえたように首をちぢめた。
あれから辰と豆六は、御殿中をくまなく調べてまわったのだが、それはたしかにさっきの御殿にちがいなかった。
渡り廊下もあったし、そのさきには、ふたりが最初目ざめた小座敷もあった。小座敷には金ぶすまがはまっていて、ふすまのうえには丹頂のつる、朱房もさっきとおなじようにさがっていたが、ただ違っているのは、さっきはあんなにピカピカしていたのが、いま見るとなにもかもボロボロだった。
畳はやぶれて、高麗《こうらい》べりもすりきれているし、金ぶすまはいろあせて、いちめんに雨漏りのあと。床柱もゆがんで、天井にもくもの巣がいっぱい。
さっき四人で酒盛りをした座敷もおなじことで、縁側には勾欄《こうらん》もついていたし、庭へおりる階段もあった。ふすまも、びょうぶもたしかにおなじ図柄だったが、いまみるとこれまた雨漏りとくもの巣で、みるかげもなく古朽ちている。
軒はかたむき、杉戸はやぶれ、庭には草ぼうぼうとおいしげり、相馬の古御殿よろしくのてい。
これには辰と豆六が肝をつぶして逃げ出したというのもむりはない。
「フーム」
と、あまり奇妙な話に、佐七もうなって、
「それで、おまえたち、そのお屋敷の名をたしかめてきたろうな」
「へえ、そこに如才はおまへん。あんまりいまいましいさかいに、近所でたずねてみたら、そこは柳島で、御殿ちゅうんのは、矢部甲斐守《やべかいのかみ》ちゅうお旗本の下屋敷やいうはなしです」
「なんでも、矢部さんというのは三千石のご大身で、上屋敷は駒込《こまごめ》のほうにあるそうですが、そのお下屋敷はちかごろうっちゃったままになっていて、だれも住んでいるものはねえそうで」
江戸時代には、そういう空き屋敷がほうぼうにあった。そして、そういう空き屋敷を根城にして、悪者どもが悪事をはたらくというような例も、めずらしいことではなかった。
しかし、こんどのはあまり変わっている。
だいいち、辰と豆六はごちそうになったばかりで、なにをとられたというわけではない。それに、けっこうな御殿がわずかのまに、相馬の古御殿よろしく、早変わりをするというのもうなずけない。
これはやっぱりたぬきのいたずらかな。――と、佐七も思案にあまった顔色だ。
いかに腕利きとはいえ、佐七もやっぱり江戸時代の人間。たぬきがひとを化かすということを、一笑に付するほどの勇気もないから、
「あいてがたぬきじゃ、十手風も利かねえわけだが、そのうちにいちど、ひまがあったら、そのお下屋敷というのをのぞいてみよう」
と、その話はそのままになって、忘れるともなくわすれていたが、さて、それからひと月ほどのちのこと。
佐七がぶらりとやってきたのは、神田鎌倉河岸《かんだかまくらがし》にある海老床《えびどこ》という髪結い床。
「おや、珍しい、きょうはおひとりですかえ」
ここの親方の清七というのは、お世辞がいいので名高いのである。
「ふむ、きょうはひとりだ。辰と豆六はうちで昼寝をしている」
「はっはっは、辰つぁんや豆さんが昼寝をしているようじゃ、天下泰平というもんですね。さっそく、やらせていただきましょうか」
「じゃ、頼もう。きょうは珍しくすいているんだね」
「なんしろ、この雨ですからね。ことしはまったくよく降るじゃありませんか。これじゃいまに、からだにきのこが生えそうですよ」
親方が愚痴をこぼすのもむりではなく、ことしの梅雨はながくて、ひと月たっても、まだあがりそうな気配はなかった。
「はっはっは、まったくだ。こうふっちゃやりきれねえな。ときに、親方、世間になにかおもしろい話はねえか」
「そうですねえ」
と、親方は佐七の髪をすきながら、
「そうそう、親方は本所のたぬき御殿というのをご存じですかえ」
「なに、本所のたぬき御殿……?」
佐七はおもわずギクリとしたが、親方は気もつかずに、
「へえ、なんでもあのへんじゃたいしたさわぎだそうですよ。柳島の矢部様というお旗本の下屋敷で、ちかごろたびたび、たぬきがひとをばかすそうです」
「ほほう、そいつはおもしろそうな話だが、いったいだれがばかされたのだ」
「へえ、ことの起こりは、ひと月ほどまえ、間抜けづらをした男がふたり、その下屋敷でばかされたらしいんです」
と、親方の話をきいてみると、間抜けづらをしたふたりというのは、どうやら辰と豆六のことらしい。
佐七はおかしさをこらえながら、
「ふむ、ふむ。それが最初で、その後も、ばかされたやつがあるというんだな」
「そうなんです。二度目にばかされたのは、蔵前の、山口屋という札差しの番頭で、清兵衛《せいべい》さんというひとだそうですが、このひと、べっぴんのお酌《しゃく》でいい気になっているうちに、十両という金を胴巻きぐるみ抜かれたそうです」
「なんだ、それじゃたぬきが盗みをするのか」
「どうもそうらしいんで。ちかごろのたぬきは、欲張ってますからね。そのほかにも、はなし家の三笑亭福円、あいつがやっぱりやられたそうで、福円のやつ、金は少々だから惜しくはない。それよりも、たぬきでもいいからあのべっぴんに、もいちど会いたいと、ちかごろ願をかけているそうです」
「はっはっは、すると、なにか、たぬきのやつはべっぴんにばけるのか」
「へえ、そうなんで。なんでも二匹いて、一匹のほうは二十三、四の年増に、一匹のほうは前髪の若衆にばけるんだそうですが、それがどちらも、水の垂れるようにきれいだといいます。それに、えらいもんじゃありませんか、そのお下屋敷というのは、相馬の古御殿みたいに荒れているんですが、たぬきにたぶらかされているあいだは、金ピカ御殿にみえるそうで。親分、ちかごろ妙な話じゃありませんか」
親方はおもしろそうに笑ったが、佐七はもう笑うどころではなかった。
巡《めぐ》りぞ会わん福円師匠
――たぬき御殿に女が一人しょんぼりと
それからまもなくわが家へかえった人形佐七が、辰と豆六にこのことを話すと、ふたりとも驚いて、
「それじゃ親分、あれからのちもちょくちょくと、たぬきのやつがいたずらをしやアがるんですね」
「ふむ、どうもそうらしい。世間にゃおまえたちのような間抜けが少なくねえとみえる」
と、佐七は笑って、
「辰、豆六、おまえたちうっかりあのへんへ顔出しはできねえぜ。あのかいわいじゃ、間抜けづらのふたりでとおっているそうだ」
「畜生ッ!」
「そやかて親分、しようがおまへんがな。だれかてあんな目えにおうたら、顔の寸も伸びまっさ」
「そうとも、そうとも。しかし、親分、たぬきが金に目をつけるというのは、おかしいじゃありませんか」
「そこだ、こいつはなにか裏があるにちがいねえ。辰、豆六、おまえたちご苦労だが、これから駒込《こまごめ》へいって、矢部さまのお屋敷というのをさぐってみてくれ」
「おっと、合点です。そして、親分、おまえさんは?」
「おれはちょっと、たぬき御殿というのをのぞいてみよう」
と、そこで辰と豆六を出してやったあとから、佐七も唐傘《からかさ》肩にそぼふる雨のなかを、柳島まで出向いていった。
なにしろ、道のわるいのは江戸名物だが、川向こうとくるといっそうひどい。うっかりすると脛《はぎ》までどろにつかりそうである。そのなかをたどりたどって柳島までくると、たぬき御殿はすぐにわかった。ちかごろこの近所でも評判なのである。
佐七はひとわたり表からながめたが、なるほどひどい。築地《ついじ》はやぶれ、軒はかたむき、屋根にはいちめんに青い草、いかさまたぬきでも出そうである。
佐七はそこを素通りしたが、いいあんばいに目についたのは、すぐ近所にある荒物屋。店先でおかみさんらしいのが、赤ん坊に乳首をふくませていた。ちょうどさいわい、鼻緒がゆるんでいたので、佐七はその店先をかりてすげなおししながら、たぬき御殿のことをたずねると、あいてもすぐにこちらの身分に気付いたとみえ、
「ほんにちかごろ、妙なことばかりたびたびあって、気味が悪くてしようがありません」
と、おかみさんは青いまゆをしかめた。
「いったい、あのお下屋敷は、いつごろからああしてほってあるんだえ」
「さようでございます。もう四、五年にもなりましょうか。なんでも、あのお下屋敷で、不都合なことがあったとやらで、それいらい、空き屋敷同様になっておりますので……」
「不都合なことというと?」
「さあ、そこまではわたしにもわかりません」
武家の下屋敷などには、いろいろ外部からはわからぬ秘密があるものだ。
それらのことは、たいていうちわでもみ消してしまうので、おかみさんもなにか騒動があったらしいことはしっていたが、それがどういう事件であったか、そこまでは知らなかった。
ようやく鼻緒をすげおわったので、佐七は礼をいって、荒物屋の店をでると、もういちどやってきたのはあの下屋敷。と、そのときである。下屋敷の築地のやぶれから、こそこそと出てきた男がある。佐七はぎょっとして立ちどまったが、あいての顔をみるとすぐ笑い出した。
「ああ、おまえは瀬戸物町の師匠じゃないか」
瀬戸物町の師匠というのは三笑亭福円、たぬきにたぶらかされたというあのはなし家である。
「おや、これはお玉が池の親分、めんもくない」
坊主頭の福円は、顔中口にして額をたたいた。
「はっはっは、おまえさん、もういちどたぬきにたぶらかされたいと、願をかけているそうだが、どうだ、少しゃあたりがついたか」
「それが、親分、からっきしいけません」
と、福円はおおぎょうにしょげてみせながら、
「しかし、そのうちにゃきっとしっぽをおさえてごらんにいれます。やわかこのままおくべきか」
「はっはっは、ひどく思いこんだものだな。ときに、このお屋敷のなかでなにか見付かったかえ」
「いいえ、いけません。じつは、気味がわるくて御殿までいけないんです。親分」
と、福円はきゅうに目をかがやかせて、
「おまえさんがここへ来なすったのは、たぬき御殿をお調べになるためでございましょう。それでしたら、あっしもつれてってくださいな。どうもひとりじゃうす気味わるくて……」
被害者のひとりに検分させるのは、佐七にとっても好都合だった。笑いながら、
「おもう女に会おうというのに、そう気が弱くてどうするんだ。はっはっは、まあ、いい。それじゃついておいでなさい」
佐七はさきに立って、いま福円のはい出した築地《ついじ》の破れからはいっていったが、いや、屋敷のなかのものすごいこと、わがものがおにのびた雑草は腰も埋まるばかり。池も灯籠《とうろう》も草のなかにうずまって、青いこけのはえた屋根のうえには、からすが一羽とまっているのも、みょうに無気味な感じだった。
あとからついてきた福円は、きょときょと雨のなかを見まわしていたが、とつぜん、ぎょっとたたらを踏むと、
「あ、親分、あ、あれだ!」
ふるえ声で指さすところをみると、草にうずもって二体の石地蔵が、雨のなかに鎮座まします。
「おお、それじゃあの石地蔵か」
「へえ、酔いからさめると、あいつがそばに座っておりましたので」
佐七は草をかきわけて、石地蔵のそばへ寄ってみたが、べつに変わったところもない。
しっぽもなければ、毛も生えてはいない。
ただ、石地蔵としてはずいぶん小さなもので、これなら容易にもちはこびができそうだ。
佐七はなおも草をわけて、そのへんをさがしていたが、やがて見付けたものは、なまめかしい色をしたにおい袋。
雨にうたれてだいぶあせてはいたが、それでもまだかすかなにおいがのこっている。
「師匠、おまえこのにおいにおぼえはないかえ」
「あ、これは駒形の寅屋《とらや》で売り出している丁字香でございますね。そういえば、菊之丞という若衆が、たしかにこのにおいをさせておりました」
佐七はにっこりわらって、それを懐中におさめると、やってきたのは御殿のまえ。なるほど、勾欄《こうらん》つきの縁側にたかい階段《きざはし》がついている。
「師匠、おまえがごちそうになった座敷というのは、この障子のなかだな」
「は、はい、さ、さようで……」
福円はがたがたふるえている。
佐七はあたりを見まわしたが、なるほどこれはものすごい。軒はかたむき、縁はやぶれ、ぴったりとざした障子には、雨漏りのしみがいっぱい。そして、あたりいちめんくもの巣だらけだ。
佐七はそのくもの巣をそでではらいながら、つかつかと階段をのぼると、やぶれ障子に手をかけたが、そのとたん障子のうちから女の声で、
「だれだえ、菊之丞かえ」
それをきいたとたん、福円師匠、
「そら、出た!」
と、階段から庭へころがり落ちた。
佐七もさすがにぎょっと息をのんだが、まさか福円のような醜態は演じない。がらりと障子をひらいて、座敷のなかへ目をやったが、とたんに、あっといきをのんだ。
なるほど、辰や豆六がいったとおりに、金泥《きんでい》のはげたやぶれびょうぶが、いまにも倒れそうに立っていたが、そのまえに、はらわたのはみ出した褥《しとね》をしいてすわっているのは、二十三、四の水の垂れるようないい女。髪を三つ輪にゆって、江戸紫のきれをかけ、白綾《しろあや》の小袖《こそで》のうえに、紫色の被布《かずき》をきたところは、たしかに問題の女にちがいなかった。
離縁された矢部家の娘
――こちらは勝田源之助殿といわるる
女はいままで泣いていたとみえ、涙のたまった目で佐七を見ると、
「そなたはいったい何者じゃ」
いぶかしそうなことばである。
「そういうおまえさんこそだれだ。こんなところで、なにをしているんだ」
「ほっほっほ、これは異なお尋ね。ここはわたしの屋敷ゆえ、なにをしようと勝手ではあるまいか」
「えっ、それじゃおまえさんは……」
「はい、矢部家の娘で栞《しおり》というもの。おお、わかった。そなたもおおかた、たぬきにたぶらかされたひとりであろう。それならばちょうどさいわい、そなたをたぶらかした女というのは、わたしに似ているかえ」
栞のようすには少しも悪びれたところはない。佐七は一種の圧迫をかんじながら、
「いえ、あっしゃそうではありませんが、ここにひとりばかされたのがおります。これこれ、師匠、ちょいとこのおかたの顔を見てくれ。どうだ、おまえをばかしたたぬきというのはこのおかたか」
福円はおっかなびっくりで、縁側から栞の顔をながめていたが、
「へえ、似てるようでもあり、違うようでもあり……」
「おいおい、はっきりしてくれ、ここが大事なところだ」
「それが……お召し物やおつむの髪かたちはそっくりでございますが、お顔が少し……でも……いや、おいらにゃさっぱりわからなくなりました。もし、ご新造さま、おまえさまにご姉弟《きょうだい》はございませぬか」
「はい、弟ならばあります。菊之丞、これ、菊之丞」
栞がよぶと、わたり廊下に足音がして、はいってきたのはまだ前髪の若者だったが、いかにもりりしい目の色をして、足腰などもたくましい。
菊之丞はいぶかしそうに、佐七と福円をみながら、
「姉上、なにかご用でございますか」
「おお、菊之丞、そこにいるそのひとが、たぬきにたぶらかされたと申すことじゃ」
「あ、さようで。これこれ、町人、そのほうをたぶらかした菊之丞というのは、拙者に似ているか」
菊之丞はおもしろそうにわらっていたが、福円は目を丸くして、
「それじゃあなたがまことの菊之丞さまで……いえ、滅相もない。わたしがこのあいだおあいしました菊之丞さんというのは、それこそ女のように、なよなよとした体つきをしておりました」
と、どうやらこれで、ふたりにたいする疑いはすっかり解けた。
そこで、佐七は無礼をわびると、ことのついでに身分をうちあけ、この一件に関してなにか心当たりはないかと尋ねたが、姉弟ともに少しも心当たりはないという。かれらもちかごろの風評をきいて、捨ててもおけないので、姉弟で検分にきたというのである。
こうして事情がわかると、姉弟がこの下屋敷にいるのもべつに怪しいことではない。
怪しいのはむしろこっちのほうだから、佐七はおわびもそこそこに、たぬき御殿をでると、途中で福円ともわかれ、かえってきたのはお玉が池。みると、辰と豆六はちゃんと先にかえっている。
「親分、どうでした。たぬきのしっぽをおさえましたか」
「いや、大しくじりよ」
佐七はわらって、
「辰、豆六、おまえたちのほうはどうだ」
「へえ、あらかたのところはわかりました」
と、そこでふたりが語ったところによると、矢部家の内情というのはこうである。
矢部甲斐守は夫婦とも十年ほどまえに亡くなって、いまでは菊之丞が家督をついでいる。
菊之丞には姉がひとりあって栞という。この栞というのは、勝田源之助という千五百石取りの旗本のもとへいったん嫁したが、どういう子細があったのか、四年まえに離縁になって、いまでは実家でさびしくくらしている。
離縁になった原因というのはよくわからないが、なにか栞に不行跡があったといううわさである。
さて、弟の菊之丞だが、これは当年とって十六歳。わかいながらも文武にひいで、すこぶる前途有望との評判で、ちかごろ大目付|海野左衛門尉《うんのさえもんのじょう》殿のご息女、紅梅さまというのと、縁談が決まったらしいというのである。
「ねえ、親分、妙じゃありませんか。あっしゃ栞さんというのも、菊之丞さんというのも見ませんでしたが、このあいだのたぬきもたしかに菊之丞、それに、姉のとしかっこうやようすをきくと、どうしても、このあいだのたぬきとしか思えませんが……」
「さりとて、三千石のお嬢さんや若殿さんが、あないないたずらをするとは思えまへんしなあ」
と、辰と豆六は思案投げ首のていである。
そこで、佐七はさっきの一幕をうちあけると、
「そういうわけで、いたずら者が、栞、菊之丞でねえことはわかっているが、それにしても、このいたずらの当人は、よっぽどくわしく矢部さまの事情を知ってるやつにちがいねえ」
「親分、やっぱりたぬきじゃありますめえか」
「バカをいえ。おっ、そうだ」
と、佐七がふところから取りだしたのは、さっき拾ったにおい袋。
「辰、豆六、あすでもいいから、駒形《こまがた》の寅屋《とやら》へいって、このにおい袋をだれに売ったか調べてみてくれ。もしわからなかったら、おまえたち交替で、寅屋の店に張りこんでいろ。そのうち、このあいだの若衆が、また買いにこねえともかぎらねえ」
と、そういうわけで、翌日から、辰と豆六は駒形で、張りこみをつづけることになったが、すると、それから四、五日のちのことである。
佐七が日ごろからごひいきになっている与力|神崎甚五郎《かんざきじんごろう》から火急のお召し、なにごとだろうと出かけていくと、甚五郎は、奥座敷で客と対談中だった。
ゆるされて佐七がその座敷へとおると、
「おお、佐七か、よくまいった。そのほうを呼んだのはほかでもない。本所のたぬき御殿のうわさは、そのほうも聞いておろうな」
「へえ、聞いてるだんじゃございません。じつは、辰と豆六も……おっと、これはこっちのことで。だが、だんな、なにかそれにつきまして……?」
「ふむ、そのたぬき御殿について、こちらの御仁が、ぜひともそちに頼みがあるとおおせられる」
客というのは二十七、八、色白のりっぱな武士であるが、甚五郎はそのほうをふりかえり、
「いい忘れたが、このかたはな、勝田源之助殿とおっしゃって……」
と聞くなり、佐七はあっとばかりにあいての顔を見なおした。
それもそのはず、勝田源之助といえば、栞のむかしの夫ではないか。
夢? 幻? 下屋敷の怪
――あの女は果たして栞であったか
佐七のようすを見ると、甚五郎はいぶかしそうに、
「佐七、そのほうは勝田どのを知っているのか」
「いえ。じつは、あのたぬき御殿のことについて、矢部さまのご様子をさぐってみましたので……」
「はっはっは、そうか。あいかわらず早いな。勝田どの、こういう男でございます。また、いたって口のかたい男ゆえ、けっして口外するようなことはござるまい。ひとつ、あなたさまからお話しされては……」
と、甚五郎の斡旋《あっせん》に、源之助も腹をきめて、
「それでは話そう。佐七とやら、聞いてくれ」
と、そこで源之助の話した一件というのは、いまから四年まえの出来事である。
そのころ、栞はまだ夫のもとから離縁されてはいなかった。
いや、離れるどころか、愛し愛された夫婦の仲は、おしどりさえもうらやむくらい。ふたりとも満足しきった日をおくっていたが、そういう源之助のところへ、ある日、奇怪な文がとどけられたのである。
それによると、あなたの奥方栞さまは、不義をはたらいている。それがうそだとおもうなら、柳島の矢部家の下屋敷へいってみるがよい。栞様が密夫と会っているところを発見されるだろう。と、そういう意味のことが、かなりどくどくしい調子で書いてあった。
源之助はこの手紙をみるとおどろいた。なんともいえぬ不快を感じた。こういう根もないことを捏造《ねつぞう》して、愛する妻を中傷しようとする人物を心から憎んだ。
源之助はこの手紙をズタズタに引き裂くと、一刻も早くこのことを忘れようとつとめた。
だが……。
忘れようとすればするほど、心のどこからかドスぐろい不安が頭をもたげてきた。妻を信じようとする努力のしたから、いやな疑惑がわきあがってきた。
柳島の下屋敷というのは、栞の実家矢部家の下屋敷である。
勝田家も千五百石、矢部家にはおよばぬけれど、目黒のほうにりっぱな下屋敷を持っている。それにもかかわらず、栞はむかしなじみの実家の下屋敷をこのんで、ときどき保養と称して出かけていくのである。
もしや、栞には、じぶんのところへ嫁してくるまえから、いいかわした男があって、その男と実家の下屋敷であいびきをしているのではあるまいか。
だれしも嫉妬心《しっとしん》のないものはない。源之助は妻を愛することが深いだけに、嫉妬心もつよかった。
かれはしだいに平静心をうしなってきた。酒をのんで心の不快を忘れようとするのだが、それはかえって、いっそう不快をあおるばかりだった。
そして、栞が例によって保養と称して柳島へいっているある一夜、源之助はすっかり泥酔《でいすい》したあげく、とうとう屋敷をぬけ出した。
勝田家は市《いち》ガ谷《や》にある。柳島まではかなりのみちのりである。徒歩《かち》ではとてもおぼつかなかったが、さいわい辻駕籠《つじかご》がみつかったので、それに乗った。ふしぎなことに、その駕籠は、柳島の下屋敷というのをよく知っていた。
なれぬ新酒に酔いを発して、源之助がトロトロしているうちに、駕籠は下屋敷についた。あらかじめいっておいたので、そこは下屋敷の裏木戸のまえだった。
源之助は駕籠からでると、すぐその裏木戸からしのびこんだ。
それはちょうどいまとおなじように、五月雨さなかの、雨もよいのまっくらな晩だったが、その下屋敷へ以前二、三度来たことのある源之助には、よくかってがわかっていた。庭づたいに、れいの階段《きざはし》のしたまでくると、うえの座敷の障子にあかりがさして、男と女の、甘ったれたようなささやきが聞きとれた。
どうやら、ふたりで酒をのんでいるらしい。ときどき男の声で、栞《しおり》どの、と呼ぶ声がきこえるところをみると、女は栞にちがいない。
男の声は蜜《みつ》のようにあまく、それにこたえる女のことばは、よく聞きとれなかったが、息がはずんでいることはたしかである。
ときどき源之助の名がでると、男と女はあざけるように忍び笑いをした。
源之助は怒り心頭に発したが、それでもやっとおのれを制して、なおもようすをうかがっていると、やがて酒にもあきたのか、もののうごめく気配がしたかとおもうと、さやさやときぬずれの音。
男と女が着物をぬいでいるらしい。
やがて、ドタリと体を倒すような鈍い音がしたかとおもうと、
「栞どの……はやく……はやく」
と、男の声はもううわずって、せっぱつまった感情の高まりをしめしている。
「あい……」
とこたえる女の声は、蚊の鳴くように小さくて、かろうじて聞きとれるか、聞きとれぬかくらいの低さだったが、それでも切ないほど息がはずんで、声がふるえているのがハッキリわかった。
やがて、きぬずれの音につづいて、もぞもぞと、もののうごめく気配がしていたが、まもなく、
「ああ……」
と、うめくようなするどいさけび声とともに、
「栞どの、栞どの……これでよいか。これでよいか」
「あい、ああ、あなた……」
と、女の声は消えいりそうで、ろくにことばにもならなかったが、それだけ情感の深さをしめしているようだ。
やがて、抱きあった男と女のかもしだすリズミカルな震動が、あたりの空気をふるわせて、階段のしたまでつたわってきたが、しだいにそれが凶暴となり、はてはリズムもくそもあらばこそ、目茶目茶な家鳴り震動のなかからきこえる、
「栞どの! 栞どの!」
という男の連呼は絶叫にちかく、それにまじって唱和する、
「ああ、あなた、あなた!」
と、うわずったしゃがれ声は、いまにも絶え入りそうである。
ここにおいて、源之助の自制心はついに爆発した。スラリと刀を抜きはなつと、
「おのれ、姦夫《かんぷ》、姦婦《かんぷ》、覚悟!」
やにわに階段をかけのぼろうとしたが、なにしろ、酒の酔いと怒りと興奮で、足もとがさだかではない。おもわず一段踏みはずすはずみに、階段の端にしたたかぶつけたのが向こう脛《ずね》、いわゆる弁慶の泣きどころというやつである。弁慶も泣くという向こう脛を、したたかぶっつけてはたまらない。
「あっ、痛ッ、タ、タ、タ!」
おもわず放つ大声に、うえの座敷でも気がついたのか、にわかにうろたえ騒ぐけはいである。
「おのれ! 取り逃がしては……」
と、源之助は歯ぎしりし、心は矢竹《やたけ》とはやるのだが、弁慶の泣きどころをぶっつけて、片脚が苦痛にしびれているのだから、思うように体がうごかない。
一歩一歩はうように階段をあがっていくと、やっと障子にとりすがり、それを開くと、そのとたん、源之助の目にとびこんできたのは、さんざん荒らされた敷き布団のうえに、大きくけちらされた掛け布団。
朱塗りのまくらがふたつとびこうて、そのひとつは畳のうえにころがっている。むこうにみえる衣桁《いこう》には、男と女の衣装がかかっているが、女の衣装は源之助にも見おぼえのある露芝小紋の小袖《こそで》だが、それはまぎれもなく、栞がいちばん好きなきものである。
男のすがたはみえなかった。うえから女を抱いていた男は、逃げ足もそれだけはやかったのだろう。乱れに乱れた夜具から奥へかけて、もみくちゃになった桜紙の散乱しているのが暗示的である。
女はひと足逃げおくれた。
長襦袢《ながじゅばん》のすそをかきあわせながら、奥へ逃げこむその横顔は、たしかに栞にちがいなかった。髪の根もゆるんでガクガクになっている。
「おのれ、不義者!」
源之助は抜き身をひっさげ、あとを追おうとしたが、向こう脛《ずね》の痛みでからだが自由にならない。おまけに、まくらにつまずいて、ずでんどうとうつむけにその場へ倒れたのが一期の不覚。
そのまに女は奥へ逃げこんだが、ほとんどそれと入れちがいに、飛鳥のごとくとびだしてきたのは、ふんどしいっぽんの裸の男。
「これでもくらえ」
と、なにやら重いもので後頭部をしたたか殴りつけられたから、源之助は不覚にも、それっきり気をうしなってしまったのである。
気をうしなうまえに源之助の見たものは、ふんどしをしめた男の下腹部だけ。それは文字どおり、あっというまの出来事で、男の顔をみるいとまとてなかったのもやむをえない。
さて、それからどのくらいたったのか、源之助がふと気がつくと、市ガ谷のわが屋敷のまえにほうりだされており、降りしきる雨にぬれていた。
源之助はおどろいた。
ひょっとすると、いまのは一場の悪夢ではないかと思ったが、頭にのこる傷と、向こう脛の痛みが証拠で、夢ではないことはたしかだった。
その夜、源之助は栞にあてて、離縁状をかいたのである……。
「いまから思えば、早まったことをしたと思わぬでもないが、そのときは、栞の不義をゆめにも疑う気にはなれなかった。拙者はげんにこの耳できいたのじゃ、柳島の下屋敷で、栞と男がみだらな話をしているのを。あれは夢でも幻でもなかった。されば、栞のほうから、離縁されるおぼえはないと、泣いてうったえてきたのも取りあげず、つっぱねてしまったのだが」
源之助は暗然として声をのんだ。
栞を疑い、栞を離縁しながらも、まだその面影をわすれかねて、独身でとおしている源之助だった。
「なるほど、お話はよくわかりましたが、それで、あっしにどうしろとおっしゃるんで?」
佐七はぎろりと目を光らせて、さぐるようにあいての顔をみている。
「さればじゃ、のう、佐七、拙者が目撃したのは、まことに栞であったろうか。また、あの下屋敷は、はたして矢部の下屋敷であったろうか」
「なんとおっしゃいます。それじゃ、あなたさまは……」
「ふむ、ちかごろたぬき御殿のうわさをきくにつけ、思い出さるるはあのときのこと。聞けば、ちかごろ、たぬき御殿でたぶらかされた男は、みなさいしょはその御殿が、綺羅《きら》をつくした座敷とみゆるそうな。そして、目がさめると、すんぷんちがわぬ座敷でありながら、いっしゅんにして、相馬の古御所よろしくの荒れかただと申すこと。されば、佐七」
「おなじ建てかたの御殿がふたつ、この世にあるとおっしゃるのでございますか」
「えっ、そ、それじゃ、そのほうも……」
「はい、とうから気がついておりました。それよりほかに、あのなぞを解くかぎはございませんからね。しかし、勝田さま、そうすると、まことに妙なことになりますね、おなじ建てかたの御殿がふたつ、しかもそのひとつに住んでいるのは、栞様に生き写しの女ということになりますが……」
「それだ。佐七、拙者もいまになって考えるに、あのときの女は、まことによく栞に似ていた。しかし、日をふるにしたがって、はたしてあれが栞であったかという疑いが、しだいに濃くなってまいるのじゃ。いやいや、あれは栞ではない。栞であろうはずがない」
嘆くように、うめくように、しかし断固としてそういう源之助の、悩みにほうけた顔色を、佐七はあわれむように、じっとながめているのである。
まぼろし御殿の住人
――親分、三笑亭福円が殺されました
これはまことに奇々怪々なできごとだった。
おなじお江戸の、しかもおなじ本所のちかくに、建てかたから調度から、それこそ双子のようによく似た御殿がふたつあるらしいということだけでも、ぞっとするほど気味悪い事実だのに、しかも、その御殿のぬしというのが、これまた、双子のようによく似ているというのだから、さすがの佐七も、総毛立つような薄気味悪さをおぼえるのである。
「そして、御前、あなたさまはその女というのに、心当たりはございませぬか」
「ない――。見当もつかぬ」
「栞さまには、女のご姉妹《きょうだい》はございませんので」
「ない。菊之丞とふたりきりじゃ」
しかし、その女がどういう人物であるにしても、よくよく、矢部家にたいして、ふかい恨みをいだいているものにちがいないと、源之助はため息をついた。
なぜならば、四年まえのできごとは、栞を女としていちばん不幸な立場におとしいれた。
そして、このたびのたぬき御殿のさわぎはまた、弟、菊之丞と大目付|海野左衛門尉《うんのさえもんのじょう》どののご息女、紅梅さまとの縁談をぶちこわす目的で計画されているのではなかろうか――。
源之助はそういうのである。
「海野さまは評判のものがたい人物。こういうさわぎが大きくなれば、縁談も立ち消えになろうもしれず、もしそういうはめに立ちいたらば、男としてこのうえもない恥辱、菊之丞も出世の手づるをうしなうわけでござろう」
だから、あの幻御殿の住人は、矢部家の幸福をつぎからつぎへとぶっこわすために、こういうことをたくらんでいるのではあるまいか。――と、そういうのが源之助の意見だった。
しかし、どういうふかい遺恨があって、かくまで執念ぶかく、矢部家のものにあだをするのか、そこまでは源之助にもわからなかった。
「いや、よくわかりました。それでは、ともかく、もうひとつの御殿をさがすのがだいいちでございますね」
「それを、そのほうに頼みたいのだが……」
「やってみましょう。どうせ、あのお下屋敷からそう遠くはございますまいし、それに目につきやすい美人と若衆。そういうふたりが住んでいるとしたら、さがすのにそう骨は折れますまいよ」
と、佐七はなにげなく引き受けて、さっそくその日から調査にとりかかったが、さあ、これがわからないのである。
なにしろ、柳島かいわいには、武家のお下屋敷がいたるところにある。それらのお屋敷は、外から見たところ、どれもこれも似たりよったりだし、それに、かりにもあいてが武家屋敷とあれば、無断でなかをあらためるわけにもいかぬ。
とほうにくれた佐七は、こんどは方針をかえて、二十二、三の美女と、十六、七のうつくしい若衆のすんでいるお屋敷と尋ねてまわったが、これまたとんとわからない。
だれにきいても、そういうお屋敷に心当たりはないというのである。
駒形の寅屋へ張りこんでいる辰と豆六からも、なんの吉報もえられなかった。娘も若衆も、二度と寅屋へは足踏みをしないらしい。
こうして、五日とたち、十日とたったが、なんの手がかりも得られないから、佐七はしだいにあせってきた。
さいわい、たぬき御殿のさわぎは、その後ふっつりやんだからよいようなものの、勝田源之助にちかったてまえもあり、佐七はいちにちもはやく事件のらちをあけたかった。あの気の毒な栞のためにも、一刻もはやくそのぬれぎぬはらしてやりたかった。
きょうもきょうとて、佐七はあてもなく柳島から亀戸《かめいど》のあたりまで歩きまわっていた。
さすがにながかった梅雨もすっかりあけて、世間は青葉にむせるような夏になっていた。梅雨にふりすぎたせいか、夏になってからは一滴も雨がふらなかった。
かんかんと、焼けつくような日に煎《い》られながら、砂ぼこりのなかをあてもなく歩きまわるのは、まったくやりきれない気持ちだった。
ところが、こうして亀戸の天神まできたときである。佐七はふいに、おやとばかりに目をみはった。天神の境内から、汗をふきふきとびだしてきたのは、まぎれもなく三笑亭福円ではないか。
佐七はおもわず笑い出した。
「おやおや、師匠、おまえも執念ぶかいね。まだあのたぬきをさがしているのか」
「あっ、親分」
福円はどきりとしたように立ちどまると、
「いえ、そういうわけじゃございません。あのことなら、とうのむかしにあきらめました」
「あきらめた? ほんとうかえ。それなら、なぜ、こんなところをほっつき回っているんだ。いまじぶん、梅見でもあるめえ」
「いえ、じつは、客に誘われまして……親分、ごめんくださいまし。客におくれをとるとたいへんでございますから」
福円は流れる汗をふきながら、あたふたと押上のほうへ立ち去った。
「ちょっ、へんな野郎だ。逃げるようにいっちまいやアがった」
佐七はいったん天神の境内へはいっていったが、そこで、ふいにぎくんとして立ちどまったのである。
福円のいまのあの目付き。妙におどおどして、じぶんの視線をさけるようなあの素振り。――ひょっとしたら、あいつ、れいのたぬきを見付けたのではなかろうか。
「しまった!」
佐七は天神の境内をとびだして、福円のあとを追ってみたが、すでにあとの祭りで、もうどこにもあいての姿はみえなかった。
その夜、佐七はすっかりふきげんになっていた。辰と豆六も、あてのない張り込みに業を煮やして、このごろでは、とくいのしゃれや冗談もとばさない。
三人ともむしゃくしゃしながら寝てしまったが、さて、その翌朝となると、
「親分、きょうもまた張り込みですか。あっしゃアもうたいがいいやになりました」
「まあ、そういわずに、もうすこし辛抱してくれ」
「しょうがおまへん、兄い、いきまほ」
ふたりは面をふくらましてでていったが、ものの四半刻《しはんとき》もたたぬうちに、あわを食ってかえってくると、
「親分、た、たいへんだ、たいへんだ。福円のやつが、ゆうべ、たぬき御殿で殺されたという話です」
それをきくと、さすがの佐七も愕然《がくぜん》として色をうしなった。
刀をさした鼓の女
――おれはとんだ勘違いをしていた
たぬき御殿の座敷のなかで、福円はみごとに胸をえぐられて死んでいたが、傷のふかさに比較して、座敷をそめている血の量がすくないところをみると、福円はあきらかにほかの場所で殺されて、ここまで運ばれてきたのにちがいない。
佐七は注意ぶかい目で、福円の死体をあらためていたが、やがてきっとふたりをふりかえり、
「おい、辰、豆六、てめえたちはなんのために、寅屋へ張り込みをしてやアがったのだ」
「へえ?」
「福円のこのにおいをかいでみろ。こりゃてっきり下手人の移り香だが、これだけひどいにおいがするところをみりゃ、下手人のやつ、ちかごろまた、あたらしく寅屋の丁字香を手に入れたにちがいねえ」
辰と豆六はそれをきくと、あっとばかりに顔見合わせた。
なるほど、福円の着物からは、そこはかとなく、丁字香のにおいが立ちのぼっている。
「だって、親分……」
「まあ、いい。いいわけは聞きたくねえ。それより、ふたりともみねえ。この福円の着物は、左のそでだけぐっしょりぬれているじゃねえか。こりゃいったいどうしたんだろう」
ちかごろのひでりつづきに、雨にぬれたとはいえなかった。また、もし水たまりへでも落ちたとしたなら、左のそでだけぬれるというのはおかしい。いったい、片そでだけぬらすというのは、どういう場合であろうかと、佐七はじっとくちびるをかんでかんがえていたが、とつじょ、はっとしたように目を光らせた。
「あっ、そうだ」
叫んだひょうしにふと目についたのは、福円の右手のひとさし指、これがべっとりと血にそまっているから、佐七はまたもや、おやとばかり目をすぼめた。そして、あわててあたりを見まわしたが、ふと目についたのがあのやぶれびょうぶ。
まえにもいったとおり、これは彦根《ひこね》びょうぶふうの婦女遊興図で、元禄《げんろく》風俗の女が五、六名、いろいろな姿態でえがかれているのだが、そのなかに鼓をもてあそんでいる女がひとりある。
ところがなんと、その女の細帯に刀が一本かきくわえてある。しかも、ドスぐろい血をもって。
これはあきらかに、福円が息を引きとるまぎわにやったいたずらにちがいないが、福円はいったいこれでなにを示そうとしていたのであろうか。
被害者がいまわのきわに書きのこしておきたいこと、それはおそらく下手人のことだろう。したがって、鼓の女は栞に似た女を意味しているのだろう。
しかし、その女に刀をささせたとは、いったいどういう了見だろう。
佐七はきっとくちびるをかみ、しばらくこの奇妙ないたずらがきをながめていたが、とつぜん、さっと脳裏にひらめくものがあった。
「おい、辰、豆六もみねえ。福円はここへ運ばれたとき、まだ死にきってはいなかったのだ。いまわのきわに指に血をつけ、鼓の女に刀をかきくわえたんだ。おまえたち、これがなんのなぞだかわかるかえ」
「へえ、女に刀をささしたのんに、なにかわけがおまんのかいな」
「わからねえのか。女が刀をさすことはまずねえ。刀をさすのは男だ。だから、この刀をかいた福円のつもりではこうよ。鼓をもったあの女、あれはほんとは女ではなく、男であったということを、ひとにしらせるつもりだったのよ」
あっとばかりに、辰と豆六、おもわず息をのみこんだ。
「そ、それじゃ、親分、あいつはほんとうは男だったので?」
「そうよ。どうりで、いくら探してもわからねえと思っていた。辰、豆六、ここはこのくらいにして、ちょっと亀戸へいってみよう」
それからただちに三人がやってきたのは亀戸天神。その掛け茶屋の女に福円のことを尋ねてみると、いいぐあいに女はよく福円を知っていた。
「はい、瀬戸物町のお師匠さんなら、ちかごろちょくちょく、ここへお見えになりました。それというのが、この天神様へ日参するわかい娘さんにひどくご執心のようすで、いつもこっそりと、あとをつけておいででございました」
「してして、その娘というのは、いくつぐらいの年ごろだえ」
「はい、十五か十六……それはそれはきれいな娘さんですが、さあ、どこにお住まいですか。なんでも、小梅のほうとうけたまわっておりますが」
そこを出ると、辰と豆六、まるできつねにつままれたような顔色だった。
「それじゃ、親分、あの若衆というのがじつは娘で?」
「はっはっは、どうやらそうらしいな。ご新造じつは男、若衆じつは娘と二重に間違っていたんだから、これじゃいくら探してもわからねえはずよ。それになあ、おまえたち、面目ねえが、おれはもうひとつ大きな間違いをしていたぜ」
「へえ、もうひとつの間違いというと?」
「つまりな、ふたつの御殿は、すぐ近くになけりゃならぬと思っていたんだ。それというのが、男をまずひとつの御殿へひっぱり込む。そいつを酔いつぶしておいてから、べつの御殿へつれていく。そうするにゃ、あいだがあまり離れていちゃ、途中でひとに見付かるうれいがある。ところが、いままでいちども、途中ひとめについていねえんだから、ふたつの御殿は、きっと近くにあると思っていたんだ。それが大きな間違いよ」
「へえ、それじゃどうして連れていったんで?」
「舟よ」
「あっ!」
「陸地ならひとめにつくおそれはあるが、舟ならばかなりとおくても大丈夫だ」
「ああ、それじゃ、親分、福円の片そでがぬれていたのも……」
「そうよ。舟につまれたとき、片手だけふなばたから出ていたのだ。みねえ、この掘り割を。こいつをつたっていきゃ、かなりの遠くまでいけるはずよ。これだけのことがわからなかったとは、おれもよっぽどヤキが回ったぜ」
いまにしておもえば、たぬき御殿の裏側にも堀《ほり》が流れている。その堀は、向島、深川、小梅と、どこへでも通じているのだった。
三人はまず、茶店の女のことばをたよりに、小梅のほうを探してみるつもりだった。
「辰、豆六、目ざす御殿というのも、きっと堀端に建っているにちがいねえ。それを目当てにさがしていこう」
本所で堀をさがすのは、高野山で今道心をさがすより骨が折れるというが、小梅まではいるとそれほど多くはない。ただひとすじ、竪川《たてかわ》が流れているばかり。
その川沿いに、うの目たかの目さがして歩いた三人は、ふいにぎょっと足をとめた。
どこからきこえてくるのか鼓の音。ポン、ポン、――と、雨垂れの落ちるようなわびしいその音をきいたとき、三人の顔はさっとかわった。
「辰、豆六、あのお屋敷だ」
そのお屋敷というのは川沿いに建っていて、ながい土塀《どべい》が一町あまりもつづいている。そのお屋敷と川とのあいだの、せまい犬走りをはしっていくと、目についたのは、葭《よし》のなかにかくしてある一隻の舟。みると、舟底にどっぷりと赤黒いしみがたまっている。
もう間違いはなかった。
その舟のつないである近所に、お屋敷の裏木戸があった。こころみにおしてみると、なんなくこれがひらいたから、うなずきあった三人は、そのままなかへ踏みこんだが、とたんに、あっという驚きの声が、いっせいに三人のくちびるをもれたのである。
予期していたこととはいえ、それはあまりにも奇怪な光景だった。御殿の建てかた、庭のつくり、一木一草の配置にいたるまで、矢部さまの下屋敷にすんぷんのちがいもない。
なるほど、これでは、辰や豆六をはじめとして、おおくの人間がだまされたのもむりはなかった。
鼓の音はその御殿の階段のおくからきこえてくるのである。
佐七をはじめ辰と豆六は、たがいにうなずきあいながら、忍び足にそのほうへ近付いていったが、すると、プーンとにおってきたのは丁字香のにおい。そのにおいはあまりにつよくて、吐き気をもよおすほどだった。
ポン。――ポン。
鼓の音はあいかわらずきこえる。そして、それにまじってきこえるのは、世にも悲しげなすすり泣きの声。
佐七はそれを聞くと、ぎょっとした顔色だったが、いまはもうちゅうちょしている場合ではない。つかつかと階段をのぼっていくと、いきなりがらりと縁側の障子をひらいたが、とたんにその場に棒立ちになってしまったのである。
座敷のなかにさかさびょうぶが立ててあった。そのびょうぶのまえに、白布に包まれ、眠るがごとく死んでいるのは、栞にいきうつしの若者だった。そのまくらもとで泣きぬれながら、端然として鼓をうっているのは、たしかにいつか菊之丞と名乗った若者。しかし、今は娘の姿である。
娘は三人のすがたを見ると、涙にぬれた目をあげて、
「親分さん、ひとあし遅うございました。兄|喬之進《きょうのしん》は、ただいま息をひきとりました。わたしのうつ鼓の調べをききながら……」
娘はそこで、よよとばかりに泣きくずれたのである。
なぞ解けるふたご御殿
――女装をすると栞さまにうりふたつ
さて、この話もここまでである。あとはできるだけかんたんに事情を説明しておこう。
若者の名は喬之進、娘の名は奈津女《なつめ》といって、かれらは兄妹《きょうだい》だったが、なんと意外なことには、ふたりは、栞、菊之丞とは異母兄妹にあたっていた。
亡くなった矢部甲斐守《やべかいのかみ》は、栞、菊之丞の母にあたる正妻のほかに、もうひとり織江という婦人を寵愛《ちょうあい》していたが、その織江がうんだのが喬之進、奈津女の兄妹だった。
甲斐守はひじょうにげんかくな武人だったが、げんかくのうらには一種偏執狂的なところがあったらしい。
かれは織江のために、りっぱな御殿を小梅に建ててやったが、その御殿を、正妻のために建ててやった柳島の下屋敷と、すんぷんちがわぬものにしなければ承知できないという、妙な性癖をもっていた。
そのためには、一木一草といえどもゆるがせにはしなかった。ふすまの模様からびょうぶの絵にいたるまで、なにもかもおなじにした。
これほどまでに織江や喬之進兄妹を寵愛しながら、それでいて、かれらの存在を正式のものにすることを、どういうわけか甲斐守は承知しなかった。
おそらく、それは、当時|頻発《ひんぱつ》したお家騒動のようなものをおそれたのだろう。
妾腹《しょうふく》の出が、正妻の出たる栞や菊之丞をしのぐことをけねんしたのだろう。甲斐守は織江親子の存在を、家人にも世間にも、まったく秘密にしていた。
こういうところにも、甲斐守のかわった性格がうかがわれるのだが、かれが生きているうちはそれでもよかった。
しかし、甲斐守が亡くなり、織江が死んだのちの兄妹こそあわれだった。さいわい、甲斐守はかなりの金をのこしてくれたので、生活には困らなかったが、日陰の身の喬之進と奈津女は、世にもさびしい日を送らねばならなかった。
日陰の生活。――それはひとの心をむしばみ、ひとの肉体をきずつける。
喬之進はいつしか肺を病んでいた。それもふつうの病ではなく、肺のくさる病だった。いまのことばでいえば、つよい肺えそというのだろう。この病はたまらない臭気を発する。
喬之進がしじゅう丁字香を身辺からはなさなかったのは、その臭気を消すためだった。
それはさておき、世間からおきざりにされ、病のためにむしばまれた喬之進は、世をのろい、ひとをのろった。わけても、矢部の遺族をのろった。
おなじ父を父としながら、世にときめき、ひといちばいの幸福をあじわっている栞や菊之丞をみると、喬之進の心は、嫉妬《しっと》と憎悪にくるった。
かれらの幸福を破壊する――それが喬之進の目的となった。そして、そこにいままでのべたような、かずかずの怪事がたくまれたのである。
「ふしぎなことには、兄が女装をいたしますと、栞さまにそっくりでございました」
それをさいわいに、四年まえ、喬之進はまんまと勝田源之助をあざむいたのである。
あの晩、源之助がかつぎこまれたのは、柳島の下屋敷ではなく小梅のほうであった。そして、あのとき、源之助のきいた男と女の戯れごとは、喬之進が一人二役をつとめたのである。
こうして喬之進は栞を女としてこのうえもない不幸におとしいれたが、かれはまだ、それだけではあきたらなかった。
ちかごろ、大目付海野左衛門尉どのご息女紅梅どのと、菊之丞との縁談がさだまったときくと、それをぶっこわすためにかいたのが、たぬき御殿のあやかしという筋書きである。ときどき金を盗んだのも、金そのものが目的ではなく、あくまで柳島の下屋敷の評判をわるくするためだった。
この騒ぎをおおきくして、縁談をぶっこわすつもりだったのだが、ここにひとり、思いがけない伏兵があらわれた。
三笑亭福円師匠である。
女装の喬之進を女とばかりおもいこんだ福円師匠は、いちどはおもいをとげんとばかり、執念ぶかく本所のおくを徘徊《はいかい》しているうちに、とうとう奈津女を発見した。
そして、あのとき菊之丞となった若衆が、そのじつ、男装の麗人であることに気がついたまではよかったが、まさかその姉というのが、これまた女装の男性とまでは気がつかなかったのもやむをえまい。だれがこのように、異様な二重の欺瞞《ぎまん》が演じられていると思いおよぼう。
あの日、福円師匠は奈津女のあとをつけ、とうとう小梅の下屋敷をつきとめたが、あいにくそのとき喬之進は、またぞろたぬき御殿をタネに、ひと狂言書くつもりで女装していた。
それを女と思いこんだ福円師匠が、綿々としておのれの恋情を打ち明けているうちはまだよかったが、それがかなわぬとみてとると、破れかぶれの男の獣欲をむきだして、いどみかかってきたからたまらない。喬之進はつい、かくし持った懐剣で、あいてをえぐってしまったのである。そして、えぐられたそのしゅんかんに、福円師匠はあいてが男であることに気がついたのだろう。
このことは、喬之進にとって大きなショックだったにちがいない。
栞、菊之丞にたいする嫉妬《しっと》と復讐心《ふくしゅうしん》から端をはっしたたぬき御殿のいたずらは、ついにこうして、縁もゆかりもない男を殺すはめに立ちいたったのだから。
そのショックにかててくわえて、脂切った福円の死体を舟で柳島まではこぶというその過激な労働が、とうとう弱りきっていた喬之進の体から、命の根をうばっていったのだろう。
辰と豆六がいくら寅屋を見張っていても、菊之丞を発見できなかったのもむりはない。奈津女はいつもほんらいの娘のすがたで、丁字香を買いにいっていたのだから。
「兄はけっして悪いひとではございませんでした。ただ、胸を患うようになってから、気が狂ってきたのでございます。栞さまと菊之丞さまにたいする嫉妬で、心が鬼になってしまったのでございます」
奈津女はさめざめと泣いたあと、
「しかし、その兄も死ぬまぎわには、本心にたちかえって、栞さまや菊之丞さまに、悪いことをしたと申しまして、これ、このような書き置きを……」
その書き置きは三通あった。
勝田源之助にあてたものと、栞、菊之丞姉弟にあてたものであった。
佐七はそれをうけとると、すぐに辰と豆六を市ガ谷と駒込に走らせたが、手紙を読んでおどろいた三人は、とるものもとりあえず、小梅の御殿へかけつけた。
はじめてしった異母兄妹、その喬之進のなきがらのそばにすわって、栞と菊之丞は奈津女の手をとって泣いた。
「喬之進どの、いや、兄上さま。あなたさまのお恨みは、ごもっともでございます。こういうことを知っていたら、おふたりさまを世に出るよう、お世話をいたしましたものを……」
「菊之丞のいうとおり、奈津女さまのことは、きっとわたしたち姉弟がひきうけますから、なにとぞ、ご成仏くださいますよう」
栞、菊之丞はそういって、遺骸《いがい》にむかって約束したが、その約束どおり、後日、奈津女はあらためて駒込の屋敷にひきとられた。
そして、こうしてぬれぎぬが晴れたいじょう、勝田源之助がふたたび栞を妻として迎えいれるということに、なんの異存もなかったことはいうまでもない。
矢部菊之丞と、大目付海野左衛門尉どのご息女、紅梅どのとのご婚礼がとりおこなわれたのは、それから半年ほどのちのことだった。
[#地付き](完)
◆人形佐七捕物帳(巻十一)
横溝正史作
二〇〇四年一月二十五日 Ver1