人形佐七捕物帳 巻十
[#地から2字上げ]横溝正史
目次
猫屋敷
蛇使い浪人
狐の裁判
どくろ祝言
黒蝶呪縛《くろちょうじゅばく》
雪達磨《ゆきだるま》の怪
猫屋敷
飼いねこ二十匹
――ことごとく江戸川へぶちこんで
七夕といえば、いまでこそ真夏の行事になっているが、江戸時代の暦でいけばもう秋で、芭蕉《ばしょう》の句にも、七夕や秋を定めるはじめの夜――というのがあるくらいである。
その七夕もすぎて、十一日のことだった。
神田お玉が池の人形佐七は、かねてからごひいきにあずかっている与力神崎甚五郎どのからお呼び出しがあったので、さっそく、でむいてみると、座敷にはひとりの客があった。
客というのは、三十二、三、色の浅黒い、まゆのふとい、いかにも物堅そうなお武家で、一見してそうとうのお旗本とうけとれたが、どことなく、まゆのあいだに愁いのかげがみてとれた。
甚五郎の紹介するところによると、このお武家は、番町に住む三百五十石取りのお旗本で、佐七に用事があるというのは、どうやらこのひとらしかった。
「じつはな、佐七、こちらにおられる仙石十太夫殿《せんごくじゅうだゆうどの》が、そなたにぜひとも、頼みたいことがあるとおっしゃるのだが、いささか妙な一件で、外聞をはばかるところだから、くれぐれもそのつもりでな、いっさい他言無用にしてくれ」
甚五郎は、いっぽん、佐七にこうくぎをさしておいて、さて話しだしたのは、つぎのような、世にもへんてこな話であった。
仙石十太夫にはひとりの妹がある。萩江《はぎえ》といって、ことし二十二、少しわけがあって縁がおくれたが、この春、西江戸川べりにすむお旗本のもとへとついだ。
あいては緒方|伊織《いおり》といって、三百石取り、お納戸方かなんかつとめて評判もわるくない。性質もおだやかなほうで、夫婦仲もどうやらぶじにいっているらしく、十太夫も安心していると、おととい、とつぜん、萩江が番町の屋敷へかえってきた。
そして、もう二度と緒方の家へはかえらない。気味が悪くてかえれないというのである。
とつぜんのことに驚いて、十太夫がだんだん問いつめると、はじめのうちは、なにかとことばをにごして、なかなか口をわらなかった萩江も、とうとう包みかねてうちあけたが、それがまことに意外な話であった。
夫にはねこがとりついている。いや、ねこがとりついているのみならず、夫はねこになった、緒方伊織はねこになったというのである。
これには佐七もびっくりして、おもわず目をみはると、
「それはまたとんだ話でございます。しかし、どうして緒方さんにねこがとりついたんです。なにかねこがとりつくような、いわれでもあるんでございますか」
「さあ、それがな……」
甚五郎が心苦しそうに口ごもるのを、横から十太夫がひきとって、
「いや、それからさきはわたしからお話し申そう。恥をいわねばならぬことだが、どうせ世間にも知れわたっていることだから……佐七、聞いてくれ。かようじゃ」
と、そこで、十太夫が代わって語るところによると、緒方伊織は当年とって三十五歳、義兄の仙石十太夫より二つ三つ年長だが、それがこの春まで、独身を余儀なくされてきたのにはわけがあった。かれに妙な道楽というか、趣味があったからである。
伊織はねこが好きなのである。いや、ねこ好きというよりも、ねこ気ちがいであった。世にねこ好きはめずらしくないが、伊織のはいささか、それが常軌を逸していて、屋敷のなかにはつねに、十五、六匹のねこがゴロゴロしていた。そして、伊織がそれをかわいがることといったら、まるでわが子にたいするようで、いわゆる、なめるようなかわいがりかたなのである。
いったい、大の男がむやみにねこをかわいがるのは、どこか異様で気味のわるいものだが、しかも、それが一匹や二匹ではなく、少ないときでも十五、六匹、多いときには二十匹をこえるというのだから、これでは、だれしもまゆをひそめずにはいられまい。
伊織はほかに道楽のない、少し神経質なところはあるが、そのかわりいたって品行方正で、実直な人物だから、婿としては申しぶんのない男だが、なにぶんにもあのねこがなあ……。
というわけで、いままで縁がおくれていたのを、ふとしたことから、萩江とのあいだに縁談がはじまり、これが思いのほか、とんとん拍子に話がすすんで、ついにこの春、輿入《こしい》れということになったのである。
「わしの口からいうのも変だが、萩江はいたって勝ち気な女でな、緒方のねこ好きも承知のうえで、じぶんが輿入れしたら、きっと夫のねこ好きもあらためてみせると意気込んでいったのだが……」
果たせるかな、萩江がどういう手をもちいたのか、それとも女房かわいさに、しぜんと好みがかわったのか、伊織はこの五月ごろ、当時飼っていた大小二十匹のねこを、ことごとく始末したのだが、そのやりかたというのが、少し極端であった。降りつづく五月雨に、水かさました江戸川へ、二十匹の飼いねこを、ことごとくたたきこんだというのである。
「それはまた、思いきったことを……」
佐七はなんとなくおそわれたような気持ちで、ゾーッと肩をふるわせると、気味悪そうにまゆをひそめた。なんといっても、あいてはねこである。
「ふむ、わしもそう思ったから、そののち、萩江がやってきたとき、あれを責めてみたが、これはあれも知らぬことで、ばんじ緒方の一存でやってのけたそうだ。萩江もあとからその話をきくと、ゾッとしたといって、あおい顔をしてため息をついていた。ところが……」
「いや、ちょっとお待ちくださいまし」
佐七はあいてをさえぎると、
「それにしても、緒方さんは、なんだってそんなにきゅうに、気がおかわりなすったんでしょう。そんなに無残なことをなさらなくとも、ひとにくれてやるなり、また、捨てるにしても、捨てようがある。いままでわが子のようにかわいがっていらしゃったねこを、川へたたきこむとは、よくよくのわけがなければならぬはず。それについて、なにもお心当たりはないのでございますか」
「さあ、それがわからぬ。萩江にもわからぬという。ただひとこと、ねこはやっぱり魔物であったと、そう伊織がつぶやくのを、きいたことがあるそうだが……」
「ねこは魔物――? それは昔からよくいうことでございますが、なんだって緒方さんが、きゅうにそんなことを思いつかれたのでございましょう」
「さあ、それがわからぬのじゃ。そうそう、それで思い出したが、緒方がねこを川へぶちこんだまえの晩、萩江は身どものところへきて泊まっていった。なに、はじめから泊まるつもりではなかったが、日暮れごろからひどいあらしになってな。とても女の脚ではかえれそうになくなったので、つれてきたお杉《すぎ》という女中とともに、身どもの屋敷へ泊まることになったのじゃ。むろん、緒方が心配するだろうと思ったものだから、屈強の若党を走らせて、そのことは緒方の屋敷へ通じておいた。緒方もかえってそれをよろこんで、なにぶんよろしくというあいさつだったそうじゃ。ところが、その翌朝、あらしのおさまるのを待って、萩江がお杉をつれて、西江戸川べりへかえったところが、緒方はひどく顔色がわるく、気分がわるいといって、伏せっていたそうじゃが、その晩、だれにもつげずに、じぶんでねこをもちだし、これをことごとく、裏の江戸川へ投げ込んだということじゃ。だから、なにかあったとすれば、萩江の留守中に起こったことであろうな」
「そして、緒方さまはそのことを、奥さまにおっしゃいませんので」
「いわぬ。なんとしても語ろうとはせぬそうだ。しいて萩江が聞こうとすると、目をギラギラ光らせて、物狂わしいようすになる。それで、つい萩江も気おくれがして、ふかく追求することができなかったのじゃが、そのうちに、緒方のようすがだんだんかわってきてな」
仙石十太夫はそこまで語ると、くらい顔をして、ほっとため息をついた。
障子に映る影
――萩江はキャッと叫んでつっ伏した
がんらいが神経質で、疳癖《かんぺき》のつよい緒方伊織は、まいねん、木の芽立ちごろから、梅雨どきにかけて、ゆううつ症にかかるのが例であった。
いまのことばでいえばノイローゼ、なんとなく気分がしずんで、世の中がおもしろくなくなるのである。
しかし、そのために、勤めをおこたるというようなことは、いままでいちどもなかったのに、ことしはねこの一件があるせいか、かくべつそれがひどいらしく、勤めのほうもやすみがちで、毎日ひと間に閉じこもったきりで、むつかしい顔をして口もきかない。
こうなるとつらいのは萩江である。夫婦になってまだ日のあさい彼女には、なんといって夫をなぐさめてよいかわからない。
毎日、ハラハラと腫《は》れものにでもさわるような日を送っていたが、すると、いまから五、六日まえ、お米《よね》という女中が、とつぜんひまをくれといいだした。
お米というのはことし十七で、緒方家の女中のなかではただひとり、萩江より年下の女中であった。それだけに、外から新しくはいってきた萩江には使いやすくもあり、また、江戸うまれだけあって、機転もきくので、たよりにもなっていた。
そのお米がとつぜんひまをくれといい出したので、萩江はおどろいて、いろいろとめてみたが、お米はどうしてもききいれなかった。
それではなぜそんなにきゅうに、ひまがほしいといいだしたのかと尋ねても、お米はことばを濁して、はかばかしくはこたえなかった。
そして、無理矢理にひまをとって出ていってしまった。
萩江にはなんとなく、それがふにおちなかった。ことに、なにかしらお米がひどくおびえているらしかったのが、萩江にはふしぎであった。
きのうまで、お米はきげんよく立ち働いていたのである。それが、なぜけさになってだしぬけに、しかも、ひどくおびえたようすで出ていったのか。
――萩江はとつおいつ思案にくれていたが、そのうちに、ふと思い出したことがあった。
昨夜おそく、めずらしく伊織が酒でも飲もうといいだした。伊織はかくべつ酒好きでもなく、また酒量も多いほうではなかった。
だから、なぜきゅうにそんなことをいい出したのかと、萩江はなんとなく心もとない気がして、夫の顔を見なおしたが、伊織はちかごろになく上きげんで、
「いや、なにも心配するにはおよばぬ。酒でも飲めば少しは気分が晴ればれしようかと思うのだ。そちにも気づまりな思いをさせてすまなかった」
と、いつになくやさしいことばに、萩江も心うれしくさっそく離れの小座敷に支度をさせて、ひさしぶりに夫と差しむかいになった。
まえにもいったように、伊織はかくべつ酒好きでもなく、また酒量も多いほうではなかったが、どういうものか、その夜はいくらでも飲んだ。
萩江が心配して、
「あなた、もうそれくらいでおよしになっては……」
と、そばから注意しても、
「まあ、いい、心配するな。どういうものか、きょうはたいへん酒がうまい。それに、久しぶりに心が晴ればれとしてよい気持ちだ」
と、真っ赤にそまった顔を、にこにことほころばせていた。
ときどき、おちょうしのお代わりを持ってくる女中のお米なども、
「まあ、だんなさまのご血色の、よくおなりあそばしたこと。ほんにときどき、こうして御酒を召し上がればよろしゅうございますわね」
と、いかにもうれしそうなのにつけても、萩江もつい心をゆるして、夫のおあいてをつとめていた。萩江はのめばのめる口だった。
こうして、ふたりともおもわず酒をすごしたが、そのうちに、何本目かのおちょうしのお代わりをとりにいったお米が、渡り廊下をわたって、離れ座敷へひきかえしてきた。そして、障子の外までくると、何思ったのか、とつぜんキャッと叫んで、その場につっぷしてしまったのである。
その声におどろいて、萩江が障子の外へ出てみると、お米は縁側にひれふして、わなわな肩をふるわせている。
おちょうしがこっぱみじんとなって、その場に散乱していた。萩江がたしなめるように声をかけると、お米はきゅうに立ち上がって、わびごともせずに、逃げるようにいってしまった。
そして、じぶんの部屋へひきこもったまま、どんなに呼んでも出てこようとしなかった。
お米がとつぜん暇がほしいといい出したのは、その翌日のことだから、ひょっとすると昨夜のことがなにか関係があるのではないかと考えてみたが、さて、どういう関係があるのか、萩江には見当もつかなかった。だいいち、お米がなにをあのように驚きおびえたのか、それすら萩江にはわからなかった。
それからなかいちにちおいた七夕の晩のことである。かたちばかりの色笹《いろざさ》を、離れ座敷の軒にかざった伊織は、おとといの晩のことを思い出したのか、また酒を飲もうといい出した。
酒を飲むと夫の気分が晴れるらしいことがわかったので、萩江もよろこんで同意した。
そこで、このあいだとおなじように、離れ座敷に支度をすると、しばらく夫のおあいてをしていたが、そのうちに酒がきれたので、萩江はみずから立って、ちょうしをとりにいった。
ところが、ちょうしを持ってわたり廊下をひきかえしてくるとちゅう、ふと、離れの障子をみた萩江は、そこに世にも恐ろしいものを見たのである。
離れの障子にはくっきりと夫の影がうつっている。その影は、縁側の外にまつった色笹がさやさやと風になびくたびに、見えたりかくれたりした。
そして、それがはっきりと見えたとき、萩江は世にも恐ろしいものをそこにみた、夫の顔がねこになっているのをみたのである。
萩江はいっしゅん、おのが目をうたがった。色笹にむすびつけた色紙や短冊《たんざく》の、いたずらではないかと思った。しかし、そうではなかった。影にうつった夫のすがたは、からだは人間だったけれど、首からうえがねこになっているのである。
さすがに萩江は、お米のようにはしたなく取り乱したりはしなかったけれど、それでもあまりのことに、気が狂いそうであった。
いっしゅん、棒をのんだように立ちすくんでいたが、するとそのとき障子のなかで、
「あっ!」
というような声がしたかと思うと、夫の影がさっと動いて、つぎのしゅんかん、行灯《あんどん》の灯が消えた。夫が吹き消したのである。
それからがらりと障子をひらいて、伊織が外をのぞくと、おそろしい顔をして、そこに立ちすくんでいる萩江をにらんだ。
「萩江、なにをそこでぐずぐずしている」
じかにみる夫の顔は、べつにねこにはなっていなかったが、しかし、目がギラギラと血走っていて、いまにもくわっと、口が大きく裂けるのではないかと思われてきて、萩江は立っているのもせつないくらい、ひざがしらがガクガクふるえていた……。
話しおわって十太夫はしばらくもじもじしていたが、やがてぎこちないからぜきをすると、
「いや、もう、だいの男がたわいのない話をすると思われようが、萩江はたしかに夫の顔がねこになって障子にうつっているのをみたといい張ってきかぬのじゃ。それのみならず、そのまえに、お米がひまをとったというのも、やはり夫の影を見たからにちがいない。お米も夫の顔がねこになって障子にうつっているのを見たのであろう……と、そういうわけで気味が悪くてたまらぬと、番町のうちへ逃げてきたのじゃ」
十太夫の話をきいて、佐七はしばらく考えていたが、
「それで、萩江さまはその後どうなさいました」
「どうもこうもない。そんなたわいのない話で、夫婦別れもできんじゃないか。いやがるのをむりやりに、緒方の屋敷へつれていった」
「そして、伊織さまにおあいになりましたか」
「むろんあった。なに、ねこになったなどとはバカげたことだが、なにさま妙なことがある。顔色のわるいのや、目の血走っているのは、病気のせいで、いたしかたがないとしても、そういえば、話のとちゅうでちょっと変なことがあってな」
「変なことといいますと?」
「どこかでねこが鳴きだしたのじゃな。すると、伊織め、なに思ったのか、いきなり刀をとって、すっくと立ちあがったが、いかさま、その血相というのがじんじょうではない。ものに憑《つ》かれた目つきというのは、ああいうのであろうか。まるで気ちがいじゃ」
十太夫はそこでほっとため息をついたが、さて、かれが佐七に頼みというのはこうである。
この一件には、どうもふに落ちぬところがある。あれほどかわいがっていたねこを、川のなかへたたきこんだり、ねこの鳴き声にいきり立ったり、さてはまた、伊織の影がねこにみえたり、ねこのたたりといえばすむことかもしれないが、十太夫はそういう怪談めいた解釈では満足できなかった。
「表にあらわれた事実のうらに、なにかしら、けしからぬ陰謀がたくまれているのではあるまいか……と、そんな気がしてならないのだ。佐七、そこをひとつ突き止めてみてはくれまいか」
それが十太夫の頼みであった。
笛の竹之丞《たけのじょう》
――緒方のねこ屋敷といえば評判物でさ
ふつうの物取りや人殺しとちがって、こういう探索ごとは、まことにやりにくいものである。ことに、あいては武家屋敷だ。みだりに手をつけるわけにもいかない。
佐七はちょっと当惑したが、ほかならぬ神崎甚五郎のことばぞえもあり、むげに断るというわけにもいかない。
そこで、いちおうともかくと引き受けて、お玉が池へかえってくると、おなじみのきんちゃくの辰と、うらなりの豆六をそばへ呼びよせ、
「辰、豆六」
「へえ、へえ、親分、神崎様の御用というのは、どういうことでございました」
「それがちょっと妙な一件で、おれも当惑しているのだが、おまえたち、西江戸川べりに、緒方伊織という旗本屋敷があるのをしらないか」
西江戸川べりの緒方伊織ときいて、なにか思い当たるところがあるらしく、辰と豆六は顔見合わせていたが、やがて、豆六がひざを乗りだして、
「親分、西江戸川べりの緒方はんちゅうたら、あのねこ屋敷とちがいまっか」
「おや、それじゃおまえたち、緒方の屋敷をしっているのか」
「なに、知ってるってえわけじゃアありませんが、緒方のねこ屋敷といやア、だいぶんせんから評判もんですからね、なんでも、ひところは、大きいのや小さいのがうじゃうじゃと、二十何匹もいたというじゃありませんか」
「そやけど、ちかごろそのねこを、緒方の殿さんがどういうわけか、じきじきみんな江戸川のなかへたたきこんだちゅう話だっせ」
「それよ。それについて、おまえたち、なにかかわったうわさをききゃアしねえか」
「へえ、まあ、いろいろなこというてまんな。緒方の殿さんはこの春、わかいご新造をもろたばっかりだすが、なんぼご新造がかわいちゅうたかて、あんなむごいことせんでもええやろ。二十何匹ものねこを川の中へたたきこんで、いまにきっと、ねこのたたりがあるにちがいないちゅうて、あのへんではもっぱらの評判だすわ」
「ふむ、それゃアまあそうだろうが、なにかほかに変わったうわさはねえか。だれか緒方の殿さんを、うらんでいるとかいうような……」
「そうそう、それについちゃおもしれえ話があるんです」
と、ひざを乗り出したのはきんちゃくの辰。
「いったい、緒方のねこについちゃ、近所から苦情がたえなかったもんです。緒方の殿さんがねこをおかわいがりになるのはかってだが、そのねこというやつが、家のなかばかりいるとは限りませんや。いくらうまいものをあてがっても、そこが畜生のあさましさでさアね。つい、のこのことご近所へ出ていく。そこで、そら、魚をとられたの、飼い鳥をくわえたのと、それが一匹や二匹ならまだいいが、なんしろ、二十何匹という大所帯だから、やられるほうでもこれゃおおきい」
「なるほど、とんだ近所迷惑だな」
「そうですとも。そこへもってきて、ほら、さかりの時期にでもなってごらんなせえ。これがまたたいへんな騒ぎだ。ニャーゴ、ニャーゴと、緒方のねこだけでも、二十何匹いるところへ、それをめざして、何十匹というねこがあつまってくる。ねこのほうでも、緒方の屋敷へさえいけば、落ちこぼれはねえというわけで、押し寄せてくるんでしょうが、こいつらが巴《ともえ》になってトチ狂うんだから、そのすさまじいことといったらありませんや。ねこの恋だなんて、風流どころじゃありません。赤ん坊はひきつける。産婦は早産する。お鍋《なべ》と権助がへんな気を起こしてまちがいをやらかす。というわけで、あのかいわい、緒方のねこ屋敷といやア恨みの的になっていたんですが、とりわけそれを憎んだのが、隣屋敷の殿さんなんで」
「隣屋敷というのは、どういうおかただえ」
「北村右京といって、三百石取りのお旗本ですがね」
「その北村右京さんがどうかしたのか」
「へえ、北村右京も緒方さんとおなじ三百石取りですが、緒方さんのほうは、お役がついて羽振りがいい。それに、ご先代が心がけのいいひとだったので、御内緒などもいたってご裕福のほうです。それに反して、北村のほうは小普請組で、勝手も楽じゃねえ。そこへもってきて、代々道楽者がそろっているので、家のなかは火の車だ。そこで、内職にうずらや、金魚やなんか飼っているんですが、そういうところから、ひがみも手伝って、緒方さんを目の敵にしているんです。ところが、そのうちに大変なことがおこった」
「たいへんとはなんだ」
「緒方さんのねこが隣屋敷へしのびこんで、北村の殿さんが、とらの子のようにだいじにしているうずらをとって食っちまったんです」
「ふうむ」
「さあ、北村右京カンカンになって緒方さんのところへ掛け合いにいったが、いったいが緒方さんというひと、根は悪い人じゃないんですが、いたって疳癖《かんぺき》のつよいひとで、いったん曲がりだすと始末におえない。ちょうどそのとき、虫のいどころでも悪かったのか、それとも、北村さんの掛け合いかたが気にくわなかったのか、こっぴどく突っぱねて、あいてにならなかったから、さあ、いけねえ。緒方と北村、隣同士でいよいよ、角つきあう仲になったんですが、そうしているうちに、緒方さんのねこがいっときに五匹いなくなった」
「そうそう、その話ならわてもきいた。緒方さんのほうで目の色かえて、ねこのゆくえをさがしていると、どこからかねこの皮を五枚、鞣革《なめし》にして緒方はんの屋敷へとどけてきたちゅう話やないか」
「北村右京のやったことか」
「だろうじゃありませんか。しかし、証拠のないことだから、緒方さんもうかつなことはいえない。けっきょく、泣き寝入りになってしまったんですが、だいたいが北村右京というやつは、腹のよくねえやつです。そこへもってきて、弟の竹之丞《たけのじょう》、こいつはまだ部屋住みで、兄貴の屋敷に居候をしているんですが、こいつがまた、手におえねえ道楽者だ」
「北村竹之丞……?」
佐七はふいとまゆをひそめて、
「北村竹之丞といやア、ひょっとすると笛の竹之丞じゃねえか」
「そうそう、その竹之丞ですよ。笛をよくするところから、芝居のおはやしなんかによく出るようです。世間じゃみんな知ってますがね。のっぺりとした、ちょっといい男だが、こいつがどうしてどうして、なかなかひと筋なわでいくやつじゃねえんで」
江戸時代も末期になると、物価はあがるいっぽうだのに、禄高《ろくだか》は先祖いらいきまっている。
だから、旗本のくらしは苦しくなるいっぽうで、北村右京のように内職に、うずらや金魚を飼っているやつがあるかと思うと、竹之丞のように芸のあるやつは、内緒で芝居のおはやし方に出たりしたものである。
「あの竹之丞がなア……あいつが緒方さんの隣に住んでいるとは知らなかった」
北村竹之丞というのは、佐七もいちど会ったことがあるが、年は二十六、七だろう、のっぺりとしたやさ男だし、芝居者ともつきあいがあるだけに、口先はうまいが、腹のなかはへびのように冷たい男であると、いつかひとからきいたことがある。
その竹之丞が、ねこ屋敷のとなりに住んでいるときいて、佐七はなんとなく、あやしい胸騒ぎをかんじたが、さてその翌日のことである。
佐七のいいつけで、西江戸川べりへ、ようすをさぐりにいっていた辰と豆六が、昼過ぎになって、顔色かえてかえってきた。
「親分、いけねえ。たいへんなことが起こった」
「ど、どうした、辰、緒方さんの屋敷になにか起こったのか」
「なにか起こったどころやおまへんがな。緒方の殿さん、ゆうべ、とうとう気がちごて……」
「えっ、緒方の殿さん、とうとう気が狂いなすったというのか……」
さすがに、佐七も顔色がかわっていた。
「そうです、そうです。そればっかりじゃありません。ご新造さんとご用人をバッサリ切って、ごじぶんは江戸川へとびこんだといううわさで、なにしろえらい騒ぎです。むろん、お屋敷では外聞をはばかって、ひたかくしにかくしていらっしゃいますがね」
「なに、ご新造が切られなすったと? そして、ふたりとも死んでしまったのか」
「いえ、ご新造さんのほうは、さいわい薄手でたすかったそうですが、ご用人はたったひと討ち、みごとに切られて死んだそうです」
「そして、川へとびこんだ緒方の殿さんはどうした」
「それがまだ、わからないらしいんですよ。なんしろ、緒方さんのほうでは、できるだけ内分にことを運ぼうとしているんですから、死体探しもはかばかしくいきませんや。それに、ことしの雨で江戸川もたいへんな増水で、死体をさがすのも骨だろうといってます」
「それじゃ、緒方の殿さんは、川へはまって死んだという見込みなんだな」
「さよさよ、緒方の殿さん、わてとおなじかなづちやったそうな」
「それにしても、親分、おそろしいのはねこのたたりだ。緒方の殿さまの、とびこんだ場所というのが、せんだって、殿さまがねこをたたきこんだところだそうです」
佐七は黙ってかんがえていたが、
「よし、それじゃともかく出向いてみよう。辰、豆六、おまえたちもご苦労だが、もういちどおれといっしょ来てくれ」
佐七はなぜか浮かぬ顔をして立ち上がった。
伊織乱心
――他人の不幸はわが喜びの北村兄弟
緒方の屋敷で、この一件をひたかくしにかくしているのも無理ではなかった。こういうことが公になれば、緒方家はお取りつぶしにきまっている。
江戸時代には、跡目相続すべき子どもがなくて、当主がきゅうにみまかったばあいは、お家断絶という定めであった。
だから、子どものない当主が病気などして、もう助からぬということになると、おおあわてで、ほかから養子をとるのである。
また、それもまにあわなくて、当主が急死などしたばあい、しばらく喪を秘し、養子をもって跡目相続を願いいで、お許しがあるのを待って、はじめて喪を発表するならわしであった。
佐七がくらい顔をしているのは、それを知っているからであった。緒方伊織にはまだ子がなかったから、したがって、まだ定まった相続人もいないわけだ。だから、ここでうっかり伊織の死体があがろうものなら、緒方家断絶は、火をみるよりもあきらかであった。
さりとて、死体捜索をさせぬわけにもいかぬだろうし、緒方家の親類一統の苦衷、察するにはあまりありというところだ。
佐七はなにも、緒方家にこれといって恩顧があるわけではないが、きのう、十太夫に手をつかぬばかりにして頼まれてみれば、そこは人情で、なんとかして、お家に傷をつけたくないものだと考えるのもむりではなかった。
緒方の屋敷で、いかにひたかくしにかくしたところで、世間の口には戸が立てられぬ。
ねこ屋敷の殿さんが、ねこのたたりで気がくるい、妻と用人を切ったあげく、ねこをたたきこんだおなじ場所から、身を投じたといううわさは、もう近所かいわいにひろがって、怪談ずきの江戸っ子をよろこばせた。そして、西江戸川べりの緒方の屋敷の近所は、野次馬で大にぎわいだった。
川沿いに、佐七が緒方の屋敷の裏門のあたりまでくると、人足をさしずして、死体捜索におおわらわになっている仙石十太夫の姿がみえた。
「おお、これは番町のお殿さまではございませんか。どうかなさいましたか。この騒ぎはいったいなんでございますか」
佐七がわざとそらとぼけると、十太夫も心得顔に、
「おお、佐七か、とんだことができてな。ゆうべ緒方の若党が、用人の吉田忠兵衛というものといさかいを起こしたあげく、きゅうにとりつめ、あいてを切り殺して、ここから川へとびこんだというのだ。いや、やくたいもないことじゃて」
「それで、その……若党のなきがらは?」
「まだ見つからぬ。なにしろ、この流れではなあ」
十太夫はくらい顔をして、滔々《とうとう》とうず巻く流れに目をおとしたが、そのときだった。
むらがる野次馬のうしろから、毒々しい笑い声がきこえたので、ふたりがぎょっとしてふりかえると、笑い声の主は二十六、七の、のっぺりとした色白の侍だった。
ふたりがふりかえるのを見ると、色白の侍はまたどくどくしい笑い声をあげた。
十太夫は顔色をかえて、
「佐七、ここでは話ができぬ。屋敷へ寄っていかぬか」
「へえ、お供いたしましょう」
一同が緒方の屋敷の裏門からなかへはいっていこうとするとき、みたび、どくどくしい高笑いの声がきこえてきた。
「殿さん、あれゃアおはやしの北村竹之丞ですね」
「ふむ、隣屋敷のご舎弟じゃ」
十太夫がくらい顔をしてため息ついた。
緒方の屋敷はかなりひろく、庭には江戸川の水をひいた大きな池がある。池のむこうには、ならだのけやきだのの大木が、うっそうと茂っているなかに、あじさいの花がこぼれるように咲いていた。なんとなく、住みふるしたかんじの陰気な屋敷だった。
佐七は池のそばを通るとき、なにをみつけたのか、おやというように足をとめた。池のむこうの木立ちの奥で、大きな赤犬が、しきりに、土を掘っているのをみとめたからである。
「佐七、どうかしたか」
「いや、なに……」
なんとなく犬の挙動が気になって、そのほうを見ながら歩いていると、だしぬけにとんできたつぶてが犬にあたって、赤犬はキャンキャンと、けたたましい悲鳴をあげながら逃げだした。
その物音に一同がふりかえると、隣屋敷とのさかいの築地《ついじ》のうえから、四十前後の黒あばたの男が、顔だけ出して、こちらをのぞいているのが見えた。黒あばたの男は、一同の顔をみると、にやっと意地のわるい笑いをうかべて、そのまま築地のむこうへ姿をかくした。
「あれは……」
「隣屋敷のご主人、北村右京どのだ」
十太夫はまたため息をついた。佐七は辰や豆六と顔見合わせた。
やがて一同は池をまわって、離れの小座敷へ出た。その小座敷のまえの土には、どっぷりと赤いしみがついていて、そのうえに白い砂がまいてあった。
「佐七、用人の忠兵衛が切られたのはここよ。萩江は座敷のなかで切られていた」
十太夫の語るところによるとこうである。
ゆうべも伊織は、この小座敷で、萩江をあいてに酒を飲んでいた。お米がひまをとっていらい、そういうときの取りはからいは、いっさい萩江がやることになっていて、奉公人はよせつけなかった。
ところが、五つ半(九時)ごろのことだった。離れのほうからだしぬけに、女の悲鳴と男のののしる声がきこえてきたので、母屋のほうから女中や若党がとんでくると、血刀さげて裏木戸から外へとびだしていく伊織のうしろ姿がみえた。
おどろいた女中と若党は、離れのまえまできてみると、萩江がひと太刀肩を切られてたおれている。
このほうはさいわい薄手で、いのちに別条はなかったが、用人の吉田忠兵衛は、みごとに袈裟《けさ》切りに切りさげられて、これはもう息はなかった。
女中も若党も、あおくなってふるえあがったが、捨てておくわけにもいかないので、おりから駆けつけてきたふたりの中間《ちゅうげん》とともに、裏木戸から主人のあとを追うて出ると、さんばらに髪ふりみだした伊織が、たかく血刀をふりまわしながら、まっさかさまに川の中へとびこむのが見えた。
「と、そういう知らせが、ゆうべおそく、番町の屋敷へとどいたので、とるものもとりあえず駆けつけてきて、ただちに川筋をしらべさせたが、いまにいたるも発見できぬというのは……」
と十太夫は声をくもらせた。
「なるほど、ところで殿さん、緒方のお殿さんはどうしてきゅうに、気がお狂いなすったのでしょうね」
「萩江の話によると、なんでも昨夜はとくべつに、ねこの鳴き声がやかましかったそうで、緒方は宵《よい》からじりじりしていたが、酒を飲んでいるうちに、それがきゅうに頭へきたのじゃな。とつぜん、刀をとると、ひと太刀、萩江に切りつけた。その悲鳴をきいて忠兵衛がやってきたので、これまた、一刀のものに切りすてたのだそうだ」
「そして、御新造さまはいかがでございますか」
「ふむ、あれはさいわい浅手で、いのちは取りとめるらしいが……」
おおくはいわず、十太夫はまた、ほっとくらいため息をついた。
化けねこ新造
――寝床にはねこの抜け毛がいっぱい
伊織の死体はついにあがらなかった。しかし、これはあがらなかったほうが、よかったかもしれない。なまじ死体があがって、検視をうけなければならぬようなことになると、始末がわるい。
緒方の屋敷では親戚《しんせき》一同あつまって、鳩首《きゅうしゅ》協議の結果、伊織を不興と発表し、おおいそぎで親戚から七つになる男の子をつれてくると、養子願いをとどけて出た。
そして、そのお許しのあったのちに、伊織の喪を発表しようという寸法である。
さいわい、十太夫のほうの親戚に、要路の大官がいたので、そのほうから手をまわした結果、万事うまくいきそうだった。
伊織の一件は、かいわいではだれしらぬものはないのであるが、それらはみんな、陰でこそこそうわさするだけであって、表立って訴えて出るようなもの好きもいなかったから、御公儀でも、こういうばあいの前例にもれず、万事承知のうえで、ほおかぶりでとおしたのである。
それにしても、佐七にとってちょっと不審に思われたのは、このさいにおける北村兄弟の態度である。
右京と竹之丞が伊織を憎んでいることは、火を見るよりも明らかである。
しかも、かれらは伊織が狂死したことを知っているのだから、妨害しようと思えば、いくらでもできたはずである。
それをしないで、手をこまぬいて、ぶじに緒方家の跡目が立つのを傍観しているのには、なにか理由があるのではあるまいか……。
佐七はなんとなく、奥歯にもののはさまったようなものをかんじたが、そのうちに十日とたち、二十日とすぎると、ひとのうわさも七十五日で、伊織の件もようやく世間から忘れられそうになってきたが、するとこんどはまたしても、緒方の屋敷に伊織の幽霊が出るというひょうばんが立った。
「なんだ、化けねこのうわさも消えぬうちに、こんどは幽霊のうわさか。なんぼ夏場でも、あんまり怪談がいりこみすぎるじゃないか」
佐七は苦笑いをしていたが、きゅうにドキリと目をすぼめると、
「おお、そうだ、ひょっとすると、そんなことかもしれねえ」
と、辰と豆六をひきよせて、なにやらヒソヒソささやいた。
「いいか、おれの考えどおりだとすると、ひと晩やふた晩ではらちがあかねえかもしれねえ。幾晩でも張り込みをつづけてみろ」
「おっと、合点です。ときに親分、お米という女中の居所が、やっとわかったんですが、こっちのほうはどうしましょう」
「そうか、よし、そのほうはおれがいく」
緒方の屋敷からひまをとった女中のお米は、下谷薬研堀《したややげんぼり》の伯母《おば》のうちにいたが、佐七が訪ねていくと、妙におびえた顔色になって、
「はい、わたくしがひまをとったのは、あまり気味が悪かったからでございます。あの晩、離れの小座敷へ、おちょうしをもってまいりますと……」
「だんなの影がねこにみえたのか」
「はい」
お米はまっさおになって声をふるわせた。
「ときに、お米さん、緒方のだんながかわいがっていたねこを、江戸川へたたきこんだのはどういうわけだ。おまえなにか思いあたるところはねえか」
お米はそれを聞くと、いよいよ顔色をうしなったが、ひょっとすると、あれが原因ではあるまいか……といって、つぎのような話をした。
五月のおわりであった。萩江はお杉という女中をつれて、番町の実家へかえったが、その晩がひどい土砂降り。そこで、番町から使いがきて、今晩ひと晩とまってかえるとことづけがあった。
ところが、その翌朝のことである。伊織の寝床から手が鳴るので、お米がいってみると、伊織はぼんやり寝床のうえにいて、
「萩江はどうした。萩江のすがたがみえないが……」
というのである。
これにはお米もおどろいた。
奥様はゆうべ番町へお泊りではございませぬかというと、いいや、奥はゆうべおそくかえってきた。お杉もつれずに裏木戸から、たったひとりでかえってきて、臥《ふ》し床《ど》をともにしたのだが、けさになってみると姿がみえぬ。どこへいったのだろう……。
と、小首をかしげているところへ、萩江がお杉をつれて、かえってきたのである。
奥様は、ゆうべかえってきたなどとはとんでもない。雨に降りこめられて、ずっと番町におりました……と。
「そういわれたときの殿さんの驚き。それだけならばよいのでございますが、殿さんの寝床をあげようといたしますと、ねこの抜け毛がいっぱい……ええ、それはいちばん年とった雌ねこ、玉の抜け毛でございました。殿さんもそれをごらんになると、のけぞるばかりに驚かれて……殿さまが飼いねこをことごとく江戸川へ投げこんだのは、その晩のことでございました」
お米は肩をふるわせている。
佐七はそれをきくと、ひどく興味をもよおして、
「すると、なにかえ、奥様の留守中、玉という古ねこが、その姿をかえて、殿さんといっしょにねて、契りを結んだというのかえ」
「はい、殿さんも、そうお思いなされたのではございますまいか。それ以来、とかくご気分がすぐれぬごようすでございましたから」
お米のはなしに佐七はふかく興味をおぼえたが、それから四、五日のちのことである。
佐七の命令で、あれ以来、毎晩、緒方の屋敷に張りこみをつづけていた辰と豆六のふたりが、血相をかえてかえってくると、
「親分、やっぱりそうです。緒方の屋敷にでる幽霊というのは、隣屋敷の竹之丞です」
「離れの小座敷へしのんでいくのを、わて、はっきりとこの目で見ました。畜生、あら、きっと緒方さんの後家さんと」
佐七はそれをきくと、目をつむって、ほっと暗いため息をついたのである。
不義者成敗
――女さかしゅうして牛売りそこなう
仙石十太夫の手もとから、緒方伊織の後室、萩江の急死がその筋にとどけられたのは、それから三日のちのことである。
それとどうじに緒方の隣屋敷、北村右京からも、弟竹之丞の急死がとどけ出されたから、世間の口はとかくうるさく、そのじぶん、いろんなことがいわれているが、しかし、事件の真相をしっているものは、ごく少数の関係者以外にはなかった。
萩江はけっして腹からわるい女ではなかったが、勝ち気で、いわゆる出過ぎる女であった。
彼女はなんとかして、じぶんの分別と才覚で、夫のねこ好きをあらためようと試みたが、そのためにとった手段というのが、非常に思いきったものであった。
なんと、彼女はみずから、化けねこの役をやってみせたのである。
あらしのために、番町の屋敷へ降りこめられた晩、彼女はこっそりそこを抜けだし、駕籠《かご》をやとって、ひそかに西江戸川べりへかえってくると、夫とまくらをかわしたのである。
そして、いつものとおり、夫が満足の吐息をもらしたのち、ぐっすり寝入るのを待って、飼いねこの抜け毛をいっぱい寝床へばらまいておき、また、ひそかにそこを抜け出し、駕籠をやとって、こっそり番町の屋敷へかえってきて、なにくわぬ顔をして翌朝までねてしまった。
このことは、西江戸川べりの伊織の屋敷でも、番町の仙石十太夫の屋敷でも、だれひとり気がつくものはなかったのである。そして、翌朝はやくお杉をつれて、萩江はそらっとぼけた顔をして、西江戸川べりへかえってきたのである。
このときの伊織のおどろきはどんなであったろう。
そうでなくとも、小心で、神経質なかれは、まんまと萩江の計略にひっかかってしまった。あろうことか、あるまいことか、ねこと契りをむすんだと、いちずに思いこんだ伊織は、その翌日、飼いねこをことごとく江戸川のうずのなかへたたきこんだのである。
こうして、萩江の計略はまんまと図にあたったが、そのあとがいけなかった。思いがけないふたつの結果が現れたのである。
ねこといっしょにねたと思いこんだ伊織は、わが身をけがらわしいものとして、それいらい、けっして妻の肉体にふれようとはせず、しかも、しだいに物狂わしくなってきたのである。
それともうひとつ、もっとわるい結果が起こったというのは、あの晩、化けねこになって夫とまくらをかわしたのち、萩江がこっそり緒方の屋敷をぬけ出そうとするところを、運悪くも、ばくち場がえりの竹之丞に見つかってしまったのである。
竹之丞のようなやつに、弱みをにぎられたらもうおしまいである。
竹之丞はそれを種に萩江をゆすった。萩江としては、ああいういまわしい細工をしたことを、夫にしられたくない一心から、竹之丞のゆすりをこばむことができなかった。
わかい男がわかい女をゆする場合、さいごにいきつくところはわかっている。
ましてや、竹之丞は名ての道楽者である。
とうとうかれは萩江の肉体を要求した。萩江もむろんはじめのうちは、はねつけていただろうが、そのうちに、とうとう破局がやってきた。
ある日、萩江は竹之丞に強要されて、上野池の端のうれし野という、あやしげな出会い茶屋へ出向いていった。ひと足さきにきて待っていた竹之丞は、奥の離れでひとりで酒をちびりちびりと飲んでいた。
この離れというのは、母屋からまったく独立した一戸建てになっていて、まわりには竹が植えこんであり、遣《や》り水《みず》の音がたえまなく、滔々《とうとう》と音を立てていた。
わずかの風でも竹はざわめく。竹のざわめきと遣り水の音が、離れのなかで演じられる男と女の、種々様々な演技から生ずるであろう物音や、感きわまって発するであろう声々を、かき消す仕組みになっているのである。
こういう離れが点々として、広い庭のあちこちに建っているらしかった。
萩江が庭づたいにそういう離れのひと棟《むね》へ案内されていくと、竹之丞が喜色満面、にこにこにしながら立ってむかえた。
萩江はもちろん、お高祖頭巾《こそずきん》でげんじゅうにおもてを包んでいたが、竹之丞はこういう場所にもなれているとみえて、つらまる出しで恬然《てんぜん》としている。女中が去ると、萩江もいやおうなしにお高祖頭巾をとらされた。
離れは四畳半のふた間つづきになっていて、奥のほうには雨戸をしめて、わざと暗くしてあるなかに、おさだまりの二枚折りびょうぶ。
行灯に灯がいれてあって、目もさめるばかりあでやかな色をした夜具がのべてあり、まくらがふたつ。竹之丞がわざとあいのふすまを開けておいたので、いやがおうでも萩江の目にはいった。
竹之丞はねこ脚のお膳《ぜん》をひかえて、ちびりちびりとやっていたが、まず一杯と萩江にすすめた。萩江はもちろん断った。
まっ昼間、旗本の奥方があかい顔をして表も歩けまいと、これは竹之丞もあっさり撤回した。そのかわり、そばへ寄ってきて、甘いことばをならべはじめた。しきりに目顔で奥の四畳半へさそった。
萩江はもちろん頑強《がんきょう》にそれをこばんだ。
萩江がきょうここへやってきたのは、ほかのことならどんなことでもきくが、それだけは堪忍してほしいと頼みにきたのだ。
あいても人間、しかも武士のはしくれ、こちらが誠意を披瀝《ひれき》して頼みこめば、わかってくれるだろうと、あいてを甘くみていたのが愚の骨頂だったということを、萩江はまもなく、骨のずいまで思いしらされた。
さんざん甘い言葉を並べたてていた男は、とうとう奥の手をだしてきた。萩江はやにわに男のひざのうえに抱きすくめられた。
萩江はもちろん全身をもって抵抗した。男の手を、口を、渾身《こんしん》の力をふりしぼってはらいのけた。すると男は戦法をかえて、だしぬけに萩江の帯の結び目に手をかけた。
あっというまに萩江は帯をとかれてしまった。男は萩江からはぎとった帯をくるくると丸めると、ポイと奥の四畳半へほうりこんだ。それから萩江をひざからおろし、また、ちびりちびり飲みはじめた。
萩江はわっと畳に泣きふした。悲しくて泣いたのではない。悲しくて泣くような女ではなかった。屈辱とくやしさとで、腹の底がにえたぎるようなのである。
男はちびりちびりとやりながら、まるでねずみをもてあそぶねこのような目で、帯をとかれた萩江の腰のあたりを、なめまわすように見ていたが、やがてそろそろそばへにじりよってきた。
そして、うしろからやさしく女の肩を抱くと、耳もとへ熱い息を吹っかけた。歯のうくようなお世辞と甘言をならべはじめた。それでも萩江がいやいやと首を左右にふっていると、とつぜん男がつよい力で、女のからだを仰向きにひっくりかえした。
そして、また屈辱とくやしさで、たもとをひしと顔に押しあてている女のからだをうえから抱いて、竹之丞はゆうゆうとして思いを遂げてしまった。
こうなるともうおしまいである。
そのあととうとう萩江は、奥の四畳半へひっぱりこまれたあげく、ぴったりとふすまもしめきった二枚折りのびょうぶのなかで、まるはだかにされてしまったうえ、一刻《いっとき》(二時間)あまり、男にすき放題なことをされてしまった。
しかし、狡猾《こうかつ》な竹之丞は、そのあいだ、ひとことも女の自尊心を傷つけるようなことはいわなかった。
終始一貫、萩江の虚栄心をくすぐるようなことばを、あるいは鋭く、あるいは甘く、柔らかく、叫びつづけてやまなかった。
一刻(二時間)ほどして、男がやっと女のからだをはなしたとき、萩江はすっかり竹之丞の術中におちいっていた。
萩江の心に悪が芽生えたとしたら、おそらくそれいらいのことだろう。
まえにもいったように、化けねこの一件があってから、伊織はぜったいに、妻の肉体にふれようとはしなかった。かれはげんじゅうに妻と臥《ふ》し床《ど》をわかってしまった。
あのうれし野に誘い出されたころ、萩江のからだはもうすでに飢えていたのである。
そこへもってきて、女心の秘密を知りつくした道楽者の竹之丞に、あの手この手と、秘術のかぎりをつくされたのだから、萩江がひとたまりもなく、竹之丞の自家|薬籠中《やくろうちゅう》のものにされてしまったのも、むりはないかもしれない。
朴念仁《ぼくねんじん》の伊織がいちどだって、してくれたことのないことを、竹之丞は手をとって、ていねいに教えてくれた。
口の重い夫が、いちどだって口走ったことのないことばを、竹之丞は臆面《おくめん》もなく叫びつづけて、萩江の虚栄心をくすぐった。竹之丞は萩江のからだをほめたたえてやまなかったのである。
器量については、萩江はもうひとつ自信がなかった。しかし、からだのことはじぶんではわからない。
竹之丞に……女という女のからだをしりつくしているはずの道楽者の竹之丞にそれをいわれて、萩江はあるいはそうかもしれぬと自信をもち、そういう自信をもたせてくれる竹之丞に、いちずに心をひかれていったのもむりはない。
こうして、それからのちは、萩江はみずからすすんで、うれし野で竹之丞と忍びあっていたが、そのうちにふたりのあいだで、しだいに熟していったのが、伊織殺しの計画だった。
しかも、その計画はかなり手のこんだものであった。なにしろ、みずから化けねこになって、夫とまくらを交わそうというような女だから、萩江はなかなか作者であった。そこへもってきて、竹之丞が芝居者ときているのだから、お膳立《ぜんだ》ては、できあがっているようなものである。
まずはじめに、お米が離れの小座敷でみた化けねこの影は、伊織ではなく竹之丞だった。
そのころ、しだいに大胆になっていた萩江は、あまり酒のつよくない伊織を酔いつぶしておいて、ひそかに竹之丞を離れ座敷へひっぱりこんだ。
そういうときのふたりのあいびきのあいずが、ねこの鳴き声である。
そうして、酔いつぶされた夫の伊織が、高いびきでねているつぎの間で、萩江は竹之丞に抱かれるのであった。
あの晩も、障子のなかでは、伊織がいぎたなく眠っていたのだ。そして、いつも伊織の座るところへすわった竹之丞が、芝居の小道具のねこの首をつかって、わかいお米をおびやかしたのである。
萩江が兄にはなした話は、むろんうそであった。伊織が極端にねこの鳴き声をおそれるところから、萩江が筋をかき、芝居者の竹之丞が実演したというわけだ。
こうして機熟せりとみるや、ふたりで伊織をころし、池のむこうの木立ちの根元に埋めた。
そして、竹之丞が伊織に化け、どうやらふたりのなかを感づいたらしい用人の忠兵衛を殺し、疑いをさけるために、萩江に薄手をおわせておいて、江戸川へとびこむところを、わざと若党や女中に見せたのである。
なにしろ、夜のことだし、そんなたくらみがあろうとはゆめにもしらぬ女中や若党が、さんばら髪のその侍を、いちずに伊織だと思いこんだのもむりはない。
こうして、伊織がねこにたたられて、乱心のうえ用人を殺し、妻に傷をおわせて、江戸川へ投身自殺したという芝居は、まんまと成功したかにみえた。
事実、佐七というものがいなかったら、かれらはまくらをたかくして、ながく不義の快楽《けらく》にふけることができたかもしれぬ。
佐七の注意で、このあいだ、赤犬が掘っていたところをひそかに掘りかえしてみた十太夫は、そこにむざんな伊織の死体を発見して、はじめてことの真相をさとった。
そして、その晩、幽霊に化けてしのんできた竹之丞と、萩江の不義の現場をおさえて、その場で成敗してしまったのである。
ここにひとつ問題なのは、竹之丞の兄の右京であるが、かれがどのていどまでこの事件に関与していたのかわからない。
緒方家の跡目相続を妨害しようとしなかったところといい、また死体を埋めたところを掘っていた赤犬を追っぱらったところといい、右京もたしかに、真相をしっていたことと思われる。あるいは、弟をけしかけて、緒方の家をめちゃめちゃにしようと試みた元凶は、右京であったかもしれない。
しかし、十太夫もそこまでは、ことを荒立てるわけにはいかなかった。うっかり荒立てると、緒方の家に傷がつくからである。
そのかわり、右京のほうでも、弟を殺されても、泣き寝入りをするよりほかはなかった。かれは十太夫の申し入れどおり、竹之丞を急死としてとどけることに同意したのである。
こうして、さすが世間を騒がせた緒方の屋敷の化けねこ騒ぎも、ひとのうわさも七十五日で、いつか世間から忘れられていったが、ここにひとつ佐七にもどうしても解せないふしがあった。
竹之丞は女に不自由するような男ではない。しかも、萩江はお世辞にもよい器量とはいえなかった。それにもかかわらず、竹之丞がなぜあそこまで深入りしたのか……。
「だから、男と女のなかというものはわからねえ」
と、佐七は心ひそかにつぶやいたが、あるいは竹之丞が萩江を抱くとき、いつもうわごとのように叫びつづけた萩江のからだの秘密というのは、ほんとうだったかもしれぬ。
「いや、女さかしゅうして牛売りそこなうというが、あまり女のさかしら立てするのはよくないものだ。萩江さんも、いかにご亭主の悪趣味をこらすためとはいえ、あんな小細工さえしなかったら、こんなことにはならなかったろうに、いや、これもやっぱりねこのたたりかもしれねえな」
この一件は、いつまでも、佐七の胸にいやな後味をのこしたという。
蛇《へび》使い浪人
雷よけのお守り
――お目当ては鯉《こい》のあらいにうなぎの中ぐし
七月十日は浅草の四万六千日。
この日いちにちお参りすれば、四万六千日お参りしたもどうようのご利益があるというところから、真夏の日盛りにもかかわらず、浅草境内は善男善女の参詣《さんけい》がひきもきらず。
それらの善男善女のむれにまじって、汗をふきふきやってきたのは、これはまためずらしい、神田お玉が池の辰と豆六で。
さては辰と豆六、商売柄とはいえ、ひとをしばる殺生さに後生気をだして、有り難屋連に転向したかとおもうとさにあらず、この日、浅草寺では雷よけのお守りを売り出すのを、毎年の例としている。
いい若いもんのくせに、雷とくるとから意気地のないきんちゃくの辰。なにをおいてもこのお守りを授からぬことには、雷のおおい江戸の夏を、いちにちも安閑として暮らせない。
「兄い、それで安心しやはったろ」
「ふむ、これでどうやら胸のつかえがおりたようだ」
「そんなら、もうゴロゴロいうても大丈夫やな」
「おい、よせよ、よせよ。いくらお守りを授かったからって、むやみに鳴られてたまるもんか」
「むやみに鳴られてたまるもんかちゅうたかて、おてんとさんのことやさかい、しよがおまへんがな。きょうこの暑さでは、一天にわかにかきくもり、やんがてのこと、西の空よりゴロゴロピカピカッ……」
「キャッ! 助けてえ!」
だらしのない話もあったもんで、豆六が雷のまねをしただけで、辰は頭をかかえて音をあげている。
「あっはっは、そのようすでは、雷よけのお守りも、あんまりあてになりまへんな」
「豆六、おぼえてろ。ようし、てめえがそんなにおどかすなら、おれはもうかえる。かえって蚊帳《かや》をつってねちまわあ」
憤然として引きかえそうとする辰のそでを、豆六はしころ引きのかっこうよろしく、へっぴり腰でひきとめた。
「わっ、兄い、そらいかん。そら契約違反やがな。なんのためにこの暑い日盛りを、汗だくだくでついてきたんや。かえりに奥山で、一杯おごるちゅう約束にひきずられて、ここまでついてきたわけやおまへんか」
「いくら約束だからって、おれが雷ぎらいだってことは、てめえもよく知っているはず、きょうあたりゴロゴロ、ピカピカ……桑原桑原。そんな話をきいちゃ、一刻もぐずぐずしちゃいられねえ。あばよ。おれはもうかえるよ」
「わっ、兄い、かんにんや、かんにんや。いまのはうそや。あほらしい。この上天気に、なんのゴロゴロ……いや、なに、そんなことあらへん。大丈夫や、大丈夫だす。さあ、いきまほ。そして、約束のこいのあらいに、うなぎの中ぐしで、熱いやつできゅうっと一杯……えっへっへ。兄い、あれ、みなはれ。一点の雲もなく、空は日本晴れやがな」
あきれたもんで、豆六のやつ、辰が一杯というのをお目当てに、この暑い日盛りを、汗だくでお供をうけたまわったものらしい。
「あっはっは、ざまあみやアがれ、二度とゴロゴロのゴの字でもいってみろ、こいのあらいも、うなぎの中ぐしも逃げちまうんだからな」
と、一本くぎをさしておいて奥山へまわると、世のなかにはよっぽど暇人がおおいとみえて、あちこちに大道芸人や物売りが、それぞれひとを集めているなかに、ひときわおおぜいの野次馬がたかっているのがある。
「おい、豆六、あそこに出てるのはありゃなんだろうな。たいそうひとがたかっているじゃねえか」
「あにい、そんなこと、どうでもよろしおまっしゃないか。それより、こいのあらいに、うなぎの中ぐし……」
豆六はあくまで、こいのあらいに、うなぎの中ぐしにこだわっているが、辰はそんなことはおかまいなしに、
「ああ、そうだ、わかった。あれゃ、ちかごろ評判のへび使いだ。豆六、ちょっと見ていこうじゃねえか」
「兄い、よしなはれ、よしなはれったらよしなはれ。わてはまた、長虫ときたら……」
「大好物だったな。あっはっは」
「わっ! もう、殺生な、これからうなぎを食いにいこうちゅうやさきに、へびをみたら……」
「それがこっちのつけめよ」
「えっ!」
「いや、なに、こっちのことよ。とにかく、ちょっとみていこう。なにも後学のためだ。こちとらみてえな稼業《かぎょう》をしてるもんは、なんでも見ておかなきゃいけねえからな」
と、腹にいちもつのきんちゃくの辰。いやがる豆六をむりやりにひっぱって、野次馬のうしろからつまさき立ってのぞいてみると、
「あいや、お立ち合い」
と、ふとい声を張りあげたのは、三十二、三の浪人者、けいこ着に小倉のはかまをはき、月代《さかやき》ののびた額に白はち巻きをしめているのはよいが、首に一本、両腕に一本ずつ、さらにふところに一本、青大将のふといやつを抱いているのをみると、豆六はもうガタガタブルブル。
辰における雷同様、豆六にとってはへびが大の禁物なのだ。
白痴娘
――ようよう、日本一の世話女房だ
「あいや、お立ち合い」
と、声はりあげたその浪人は、色こそ渋紙色にやけているが、なかなかどうして、いい男っ振りである。
まゆはふとく、目は大きく、たかい鼻はかっきりとして、顔の造作全体が男らしくできているうえに、にこにことわらう笑顔にあいきょうがあり、白い歯並みがうつくしい。腕も腰もたくましく、けいこ着の胸もとからのぞいているふさふさとした胸毛も男性的である。
「あいや、お立ち合い、世のなかにへびというと、おぞ毛をふるっていやがる御仁もあるが、それこそ大まちがい。毒も使いようによっては薬になる。へびもあつかいによっては、これほどかわいいものはないな。そうれ、ごろうじろ、この首にまきついているやつは、縞衣《しまぎぬ》というへびのなかでもべっぴん、お職じゃ。このお職の縞衣め、ぞっこんわしにほれおって、寝ても覚めても、こうしてわしに巻きついてはなれん。人間でもこれほど情の濃い女はあるまいがな。あっはっは。これ、縞衣……あい、あい……」
と、浪人がじぶんでへびの声音を使うかとみると、首にまきついた青大将が、むっくりとかま首をもちあげて……。
「わっ、豆六、あれ、みろ。へびがペロペロ舌をだして、浪人者の口を吸ってるぜ。なんと、まあ、かわいいもんじゃないか」
「わっ、兄い、かんにんしとくれやす」
豆六は下うつむいて、歯をくいしばり、ガタガタ胴ぶるいをしながら、汗びっしょり。
「あっはっは、まあ、いいから見ろというに……あっ、こんどは、ふところのやつがにょろにょろと……」
なんとかして、うなぎの中ぐしから逃れようというきんちゃくの辰。おもしろそうにへびの動作を、いちいち豆六にとりついでいる。
いずれは傷薬か、虫よけの薬を売るのであろうが、へび使いの浪人者が、五、六匹のへびをからだに巻きつけて、口上いろいろあるところへ、ひとの輪をかきわけて、ちょこちょこばしりに出てきたのは、土瓶《どびん》をさげた小娘である。
それを見ると、野次馬が、
「ようよう、おきんちゃん」
「日本一の世話女房」
と、どっとまわりからはやし立てる。
みると、まだ十五、六の、ほんの小娘だが、もう、二、三年もたてば、どんなにべっぴんになるだろうと思われるようなよい器量。ただ、惜しいことには、顔の表情にしまりがなく、ひとみもいささか濁っている。
それでも、
「先生、水、持ってきたよ」
と、浪人者を見る目つきには、いじらしいほどの媚《こび》がうかんでいる。
浪人者は、いたわるようににこにこしながら、
「ああ、おきんちゃんか、すまん、すまん。ご苦労だな。ちょうどわしの情婦《いろ》が、水をほしがっていたところだで」
「まあ、先生の情婦ってだあれ?」
おきんは目をまるくする。
「だれって、この縞衣よ、あっはっは」
浪人者はくったくのない笑い声をあげると、土瓶の水を口にふくんで、プーッとへびどもにも虹《にじ》を吹く。
「まあ、いやらしい先生、くちなわを情婦だなんて……きらい!」
小娘が肩当の当たった肩をゆすぶって、プーッとふくれてみせたので、野次馬はまたわっとはやし立てる。
「あっはっは、おきん、やいたな」
「そうだ、そうだ、うんとやけ、へびなんかに負けるな」
「おきんちゃんは、へびなんかに負けやしねえやな。ひとつ、へびみたいに、くねくねとからだをくねらせて、先生にからみついてみろ。先生きっとかわいがってくださらあ」
まわりから、野次馬がわいわいとはやし立てると、おきんはくやしそうに地団太ふみながら、
「バカ、助平、男の助平!」
「あっはっは、じゃ、その先生も助平かい!」
と、野次馬のひとりがからかうと、
「ううん、ううん、この先生だけは助平じゃないんだもの」
「ご愁傷さま」
野次馬はまたどっと笑いころげた。
辰がふしぎに思って、
「あれゃいったいどういう娘で……」
と、そばに立っている男にたずねると、
「いいえね、あれは吉原《よしわら》を流してあるく辻うら売りで、おきんというのですが、すこし足りないんですね」
「へへえ。かわいそうに、ええ器量やのにな」
娘のこととなると、豆六もへびを忘れるらしい。
「そうなんですよ。あの器量で、しかも足りないときてるもんですから、悪いやつがいろいろいたずらをするんですね。いつかもどこかの悪者がふたり、土手八丁の暗がりで、手取り足取り草のうえへ押しころがして、すでにあわや……というところへ通りかかったのがへび使いで。あれでなかなかできるとみえて、悪者ふたり、土手の下へとって投げた。それでおきんはあやうく難をまぬがれたんですが、それ以来というもの、足りないながらも、へび使いにぞっこんほれこんで、ああしてつきまとうているんです。根が足りないもんだから、人目があろうがなかろうが、見境がつかぬというわけですね」
「それはまたかわいそうに」
おきんの出現で腰を折られたかっこうで、へび使いはつづらに腰をおろして、一服ということになったが、そのへび使いに対するおきんの心遣いのかいがいしさといったらない。汗をふいてやるやら、けいこ着のえりをあわせてやるやら、はかまのちりを払ってやるやら、どんな世話女房も、これほど、かゆいところへ手はとどくまい。
野次馬はまわりから、わいわいはやし立てるが、へび使い浪人は、いっこう平気で、にこにこしながら、おきんをいたわっている。おきんはまたそれがうれしそうで……。
辰はふうっと白痴娘のあわれさが身にしみたが、そのとき、
「畜生ッ!」
と、ひくい舌打ちがきこえたので、なにげなく振りかえると、どこかの折り助とみえる風の悪いのがふたり、じろりとにくにくしげな一瞥《いちべつ》を、おきんとへび使いの浪人にのこして、そのまますたすたと立ち去っていく。
そのうしろ姿を見送って、辰と豆六はおもわず顔を見合わせた。
つづらの中
――うなぎの中ぐしを棒に振ったその遺恨
「それで、親分、いちばんバカをみたんはこのわてや。そんなへびのくねくねしてるとこ見たら、うなぎなんて食べられしまへんやないか。こいのあらいも、うなぎの中ぐしも、とうとうお流れだす。この兄いみたいにこすいひとおまへんぜ」
食べ物の恨みはおそろしいというが、あれから三日たつのに、豆六はいまだに愚痴たらだら。
佐七は笑って、
「あっはっは、そいつはずるいな。辰、なんとかいわねえか」
「へえ……」
とこたえたものの、辰はあとがつづかない。さっきから、膚につけた雷よけのお守りを握りしめたまま、から意気地がないのである。
辰のようにきょくたんな雷ぎらいになると、ちょうどあまがえるが雨を予知するように、雷のある日がわかるらしい。
きょうは朝から元気がなく、できれば蚊帳《かや》でもつってねていたいところを、御用とあればしかたなく、佐七のおともで千住のむこうまで出向いていったそのかえりがけ。
時刻は夜の四つ半(十一時)、まっくらな小塚《こづか》っ原《ぱら》の刑場付近へさしかかったところで、虫がしらすか、辰はしだいに無口になった。
「辰、どうした。いやに元気がないじゃないか」
「えっへっへ、兄いは雷よけのお札を握って、さっきからおっかなびっくりだすがな。いまにゴロゴロピシャリときやアせんかと……」
「ま、ま、豆六……」
「ああ、ええ気味や。ひとをペテンにかけるようにして受けてきたお札に、なんのご利益がおますもんかいな。いまにゴロゴロ、ピカピカドカン、ピシャリ……」
と、調子にのった豆六が、声はりあげたそのとたん、西の空からものすごい稲妻が、大気をさくように光ったから、
「わっ、きた! 助けてえ!」
と、辰は頭をかかえてしゃがみこんだが、その稲妻の光のなかに、佐七と豆六ははっきりみたのだ。前方から大きなつづらを背負ってくる男のすがたを。
「あっ、お、親分、い、いまのはなんだっしゃろ」
一瞬にして消えた稲妻のあとの暗がりで、豆六は棒をのんだように立ちすくむ。
「おお、豆六、気をつけろ。なんだかうろんな風体だったが……」
佐七は辰を振りかえったが、これは路傍にうずくまって、頭をかかえて桑原桑原……とてもものの役に立ちそうもない。
佐七と豆六は左右にわかれて、前方からくるひとの足音に耳をすましていたが、そのとき、遠くのほうからゴロゴロ……ひとしきり、雷鳴が天地をゆるがせたかとおもうと、またしてもものすさまじい稲妻が、さっと地上を掃いていったが、そのとき、佐七と豆六は意外な情景をまのあたり見た。
つづらを背負うた男は、佐七の前方、十間ぐらいのところまで迫っていたが、稲妻があかるく地上を照らしたせつな、ものかげからとび出したふたつの影が、ばらばらっと、その男にとびかかっていったのである。
稲妻は一瞬にして消えたが、暗やみのなかから男のののしる声がきこえる。
「いまごろつづらを背負うてうろんなやつだ。そのつづらをおろして開いてみせろ」
それにたいしてあいてはなにやらひくい声でこたえたが、こんどはべつの声で、
「ええい、四の五のいわずに、つづらを開いてみせればいいんだ。それ、兄い」
「よし、腕助、やっちまえ」
だが、そのことばも終わらぬうちに、おりから光った稲妻に、あとからとび出した男のひとりが、もののみごとに、とって投げられるのがみえた。
「それ、豆六!」
佐七の合図に、
「おっと、がってんや」
と、ばらばらとかけだした豆六が、
「御用や、御用や、神妙にしくされ」
と、わけもわからずに黄色い声を張りあげると、
「しまった!」
と叫んだのはつづらの男。うしろからひとり、むしゃぶりついてくるままに、ずるずるとつづらをそこにおろすと、身軽になって、豆六をどんとつきはなし、ばらばらと暗がりのなかを逃げていく。
「あっ、親分、そっちゃや。そっちゃや、そっちゃへ逃げましたぜ」
豆六はだらしなく、土のうえにしりもちついたままさけんでいる。
「御用だ! 神妙にしろ!」
やみのなかからとび出した佐七の十手の下をくぐって、くせ者はまた二、三間すっとんだが、だしぬけにあっとさけぶと、もののみごとにまえへつんのめった。
雷をおそれて路傍にうずくまっていた辰が、とっさの機転で脚をはらったのだ。
「しまった!」
とさけんで起きあがろうとするところへ、とびこんできたのは佐七と豆六、それからさっきのふたりも手つだって、とうとうそいつをしばりあげてしまった。
「ご苦労、ご苦労。いや、辰、手柄だったな」
「えっへっへ、どうだ、豆六、ざっとこんなもんだ……わっ、またきた!」
そのとたん、またしても地上を掃いていく稲妻に、辰は頭をかかえてしゃがみこんだが、豆六はその稲妻の明かりのなかに、しばりあげられた男の顔をみて、
「あっ、お、おまえは……」
「おっ、豆六、どうした、おまえ、この男を知っているのか」
「お、親分、し、知っているどころやおまへん。こいつのおかげで、わてはうなぎの中ぐし棒にふった……」
「なんだ、うなぎの中ぐし棒にふったと?……」
「へ、へえ、こいつ、へ、へ、へび使いの浪人やがな」
「なんだ、なんだ、へび使いの浪人だと?」
ことの意外に、むくむくと辰も地上より起きなおる。
豆六がいそいでちょうちんをつけると、いかさまそこに、がんじがらめに縛られて、観念したように目を閉じているのは、このあいだ奥山でみた、あのへび使いの浪人ではないか。
しかも、その浪人を捕らえるのを手つだったふたりというのも、あのとき、おきんと浪人者に、にくにくしげな一瞥《いちべつ》をのこして立ち去った、ふうのわるい折り助ふうの男である。
辰と豆六は、おもわずぎょっと顔見合わせる。
佐七はそこまでは知らないから、
「いや、おまえさんたち、ご苦労でした」
と、労をねぎらうと、
「へえ、こちとら今晩、小塚《こつ》へ遊びにいったかえりがけ、ここまでくると、この男が大きなつづらを背負うてくるので、なんだか怪しいと声をかけたんです。なあ、腕助」
「へえ、そうなんです。そしたら、こいついきなり、おいらを地面へたたきつけやアがった。ああ、いてえ。まだひりひりすらあ」
「いや、おまえさんたちのおかげで助かりました。ときに、どちらのお屋敷で……」
「へえ、下谷の内藤様のお屋敷に、とぐろをまいております。あっしゃ熊五郎《くまごろう》、こいつは腕助というんです」
どうせ渡り者の折り助だ。これといって定まった主人もないらしい。
「ああ、そう。それじゃひとつ、つづらというのを改めてみましょう。辰、豆六、そいつを逃がすな」
つづらにはげんじゅうに綱がかかっていたが、それを解いて、ふたをとった瞬間、佐七をはじめ辰と豆六、おもわずあっと息をのんだ。
つづらのなかには女の死体がおしこんである。女は着物をきていたが、それはただ、そでに腕をとおしているというだけのことで、細ひもひとつしめてなく、はだけたまえから、あかい腰巻きがこぼれている。
佐七は髪のかたちを見て、
「あ、こりゃまだ小娘のようだが……辰、顔をあげてみろ」
がっくりと、うなだれた死体のあごに手をかけて、辰が顔をもちあげたとたん、豆六ははじかれたように浪人者をふりかえった。
なんと、それは白痴の娘、つじうら売りのおきんではないか。おきんは手ぬぐいかなんかでしめられたらしく、のどから首へかけて、いたいたしいあざのあとが……。
浪人者は無言のまま、観念したように目をとじている。
洗い髪のお葉
――わたくしは人殺しをいたしました
「ねえ、親分、おきんを殺したのは、ほんとにあのへび使いの、萩原《はぎわら》六平太でしょうかねえ」
昨夜おそくなったので、すっかり朝寝をした佐七のうちでは、正午ちかくなって、朝飯の膳《ぜん》についたが、さっきからなにか考えごとをしていた辰が、思い出したように箸《はし》をやすめて、ぼそっとつぶやいた。
あのへび使いの浪人者は、萩原六平太といって、浅草|山谷《さんや》の裏長屋に、たったひとりで住んでいた。おきんの死体を発見すると、一同はすぐにそこへおもむいたが、そこにはおきんのちょうちんもあり、また奥の間にのべられたせんべい布団のまくらもとには、おきんのかんざしも落ちていた。
まくらがふたつ出ているところを見ると、おきんは腰巻きひとつでだれかと寝ていたにちがいないが、そこをしめられたらしいのである。げんに、おきんの死体には、さんざんおもちゃにされたらしい形跡がのこっていた。そこで、こういうことになる。
足りないながらも、六平太にほれていたおきんは、ゆうべ訪ねていって思いをとげたが、そのさなかかそのあとで、六平太にしめ殺されたのではないか。
六平太はどういうはずみか、おきんを殺してしまったが、さて、そのあとで死体のしまつに困り、とりあえず裸のからだに着物をきせて、つづらにつめて、小塚《こづか》っ原《ぱら》の刑場か、それとも火葬場へすてにいくつもりのところを、熊五郎と腕助にみつかったのであろう。
だいたい、こう考えるのがふつうだが、それにたいして六平太の抗弁するところによるとこうである。
ゆうべ六平太は、宵《よい》のうちから家を出ていた。そして、四つ(十時)ごろかえってみると、思いがけなくつじうら売りのおきんが、寝床のなかでしめ殺されている。
六平太の話によると、そのときおきんの姿は、目もあてられぬほど、無残なものであったらしい。寝床のうえに腰巻きひとつで倒れているおきんのからだには、首といわず手足といわず、数匹のへびがからみついていたという。
六平太は茫然自失《ぼうぜんじしつ》した。おきんが今夜ここへきているとは、夢にもしらなかった。ましてや、だれがこんなむごいことをしたのか、見当もつかなかった。
六平太はおきんをかわいがっていたのだ。おきんが要求するような意味ではなく、かわいそうな白痴の娘として、目をかけてやっていたのだ。だから、六平太はすぐにへびどもを箱のなかへぶちこむと、おきんを抱きおこして呼びいかそうとした。
しかし、すでにこと切れて、息吹きかえしそうにないのをしると、きゅうにじぶんの立場の危険さに気がついて、そこでつづらにつめて運び出そうとした……と、こう六平太はいうのである。しかし、この六平太の言い訳には、たぶんにうしろ暗いところがある。身におぼえのないことならば、なぜ、近所のひとにそれをしらさないのか。なぜ、死体をかくそうとしたのか
それに、もうひとつ、六平太の申し立てのあいまいなのは、宵《よい》から外出していたといいながら、その行き先を明かさないのだ。どんな事情があるにしろ、人殺しの疑いにはかえられない。ほんとうに外出したものなら、行き先を明かさぬというのはおかしい。
六平太の家は長屋のいちばん奥にあり、裏はそのまま田んぼにつながっていて、六平太はよくそちらのほうから出入りするが、そうすると、長屋のものにはわからない。
ゆうべも六平太はそっちから出て、そっちからかえったといっているが、だれもその姿を見たものがないので、はたしてかれが外出したかどうか、証明するものはない。それに反して、おきんがやってくるところを見たものはある。
おきんは五つ(八時)ごろ、ちょうちんをぶらさげてやってきた。そして、それきりかえったようすもないので、近所では当然、六平太も家にいるものと思いこんでいたのである。
だから、けっきょく、六平太が情痴の果てのはずみから、おきんをしめ殺したとしか思えないのだが……。
「辰、それじゃ、だれかほかに、おきんを殺したものがあるというのか」
「いえ、そうじゃありませんが、ちょっと妙なことがありますんで。ゆうべも豆六と話したんですが、あの熊五郎と腕助ですね。あいつらがあそこへ通りあわせたというのが、ちょっと……なあ、豆六」
「そうだす、そうだす。あいつら小塚《こつ》のかえりやいうてましたが、それにしては、なんや話がうますぎますがな」
と、そこで辰と豆六が、四万六千日のかえりにみたちょっとした情景をうちあけると、佐七はまゆをひそめて、
「すると、あいつら六平太とおきんを、まえから知っていたというんだな」
「知ってるどころじゃありません。なんだかこう、遺恨を抱いているような顔色でしたぜ」
「すると、なにか。ふたりがおきんを殺して、その罪を、六平太になすりつけようとしているというのか」
「まさか、そんなんじゃあるまいと思いますが、すこしどうもおかしいと思うんです」
「よし、それじゃおまえたち、これから内藤様のお屋敷へいって、ふたりがいつごろそこを出たか、それから小塚《こつ》へはほんとに遊びにいったか調べてみてくれ」
「おっとがってんです」
岡《おか》っ引《ぴ》きはしりがかるくなければつとまらない。辰と豆六はすぐさま家をとび出したが、すると、それと入れちがいに、
「親分さんはおいででございましょうか。おいででございましたら、ちょっとお目にかかりたいのですけれど……」
と、格子の外に立ったのは、年のころは二十五、六、洗い髪をつぶしに結った、目のさめるようにいい女である。
「おや、お葉さんじゃないか。さあ、さあ、お入りなさい。ちょいと、おまえさん、柳橋からお葉さんがおみえだよ」
と、お粂の案内ではいってきたのは、洗い髪のお葉といって、いま柳橋でも一といって二とはさがらぬはやりっ妓《こ》。もとは武士の娘だとかいう評判だけあって、行儀作法もわきまえた女だのに、きょうは佐七のまえに手をつくなり、
「親分さん、わたくし、人殺しをいたしました」
と、それだけいうと、わっとその場に泣き伏したから、佐七はぎょっと、女房のお粂と顔見合わせた。
お葉六平太
――お葉とおきんがどうじにほれて
「お葉、どうしたというんだ。だしぬけに……泣いてちゃいけねえ。人殺しをしたというが、いったいだれを殺したんだ」
「はい、布袋屋《ほていや》の若だんなを殺したんです。わたしがこの手で若だんなを、川の中へつきおとしたんです」
お葉はまたそでをかんで泣きむせぶ。
「布袋屋の若だんな……? 布袋屋の若だんなというのは、いったいだれだえ」
「はい、新川筋の酒問屋の布袋屋さんの若だんなで、綾二郎《あやじろう》さんというかたです。六平太さんはそのわたしをかばうつもりで、ゆうべの行き先をいわないんです」
「な、な、なに、六平太……? おいお葉、六平太というのは、へび使いの、萩原六平太のことか」
「は、はい……」
しょんぼりうなだれたお葉の耳たぶが、ぽっと火のついたように赤くなるのをみて、佐七はまたお粂と顔見合わせた。
「お葉、それじゃおまえはあのへび使いと……」
「はい、末は夫婦と……」
と、お葉は心をきめたのか、きらきらと涙の光る目を真正面から佐七にむける。これには佐七もお粂も、驚かずにはいられなかった。
たで食う虫もすきずきというが、あいてはひとのきらうへび使い。しかも、お葉は、のろうと思えばどんな玉の輿《こし》にでものれる売れっ妓《こ》芸者。
それがひそかに、夫婦約束をしているというのだから、これでは佐七とお粂があきれるのもむりはない。
お葉の話によるとこうである。
この春、お葉は客のおともで吉原へいったが、そのかえりがけ、駕籠《かご》をもらってただひとり、土手八丁へさしかかったところで、女の悲鳴を耳にした。
武士の娘だけあって、お葉は勝ち気な女である。また悪いやつが、女をつかまえていたずらをしているのであろうと、駕籠からおりてかけつけると案の定、けだもののような折り助がふたり、小娘をつかまえて、あわやというところにぶつかった。
お葉はいくらか金をやって、その場のあつかいをするつもりだったが、けだもののような折り助が、それで承知するはずがなかった。小娘のほうはおっぽり出して、お葉にむかってとびかかってきた。
勝ち気なようでも女は女だ。餓狼《がろう》のような男ふたりにかかっては、かなうはずがない。あやうくじぶんがけがされようというところへ、駆けつけてきたのがへび使いの六平太で。
もののみごとに、ふたりの折り助をとって投げた腕前に、お葉がぞっこんほれたのである。
「なるほど。それで、おまえのほうからくどいて、いい仲になったのか」
「はい」
と、お葉はほおをそめる。
こうして、お葉と六平太は、夫婦約束をするなかになったが、じぶんのような情夫《おとこ》があるとわかっては、お葉の人気にさわろうからと、ふたりの逢《お》う瀬《せ》は、できるだけ秘密にしていたのだ。
「ところで、お葉、そのときおまえが難儀をすくった小娘というのが、つじうら売りのおきんじゃねえのか」
「はい、あの、さようで」
どうやら、その夜の一件で、へび使いの萩原六平太は、お葉とおきん、ふたりの女の心をつかんだらしい。
「それで、そのときのふたりの折り助だが、おまえどういうやつだかしらねえか」
「はい、あの、それはどこのお屋敷にいるのか存じませんが、熊五郎に腕助といって、柳橋あたりへもちょくちょくゆすりにくる、とても悪いやつでございます」
熊五郎に腕助ときいて、佐七はお粂と顔見合わせる。
これでは、辰や豆六の目星が当たっているのではあるまいか。
「よし、それじゃゆうべの話をきこう。おまえが布袋屋の若だんな、綾二郎を殺したというのは、どういうんだ」
「はい、あの、それは……」
と、お葉が悄然《しょうぜん》として語るところによるとこうである。
布袋屋の綾二郎は、まえからお葉をつけまわしていた。お葉がどんなに振ってもすげなくしても、綾二郎はあきらめなかった。
手をかえ、品をかえ、金にあかして、あらゆる手段で攻め立てた。それこそへびのような執念ぶかさで、お葉をつけまわしてやまなかった。
「あのひとのことでございますから、わたしはいっそう、六平太さんとの仲をかくしていたんです。そんなことがわかると、あのひと、六平太さんにどんな仇《あだ》をするかもしれぬと……」
ところが、とうとうその綾二郎が、六平太との仲をかぎつけたのだ。
昨夜、柳橋の料理屋の、川に沿った離れ座敷で、お葉六平太がひとめをさけてあいびきしているところへ、理不尽にもふみこんできたのが綾二郎。
綾二郎はさんざんふたりをののしったあげく、六平太をひとまじりのできぬ非人だと毒づいた。そして、そういう非人と契りをむすんだお葉を畜生だとののしった。
気の大きな六平太は、しじゅうにこにこ笑っていたが、畜生とののしられたお葉はかっとした。くやしまぎれに、綾二郎の胸にむしゃぶりついて、つきはなしたところが、綾二郎は手すりをこえてあおむけざまに、川の中へ転落したのである。
これには六平太もおどろいて、すぐあとから川へとびこんだが、綾二郎のすがたはどこにも見えなかった。ゆうべ川上に大夕立があったとみえて、水かさも多く、流れもつよかったのである。
けっきょく、綾二郎の姿をみつけることができなくて、六平太は川からあがってきたが、これをおおやけにすると、ひょっとするとお葉は、人殺しの下手人になるかもしれない。
さいわい、離れ座敷のできごととて、だれひとり、この騒ぎをしっているものもなかったので、当分なりゆきを見ようということになり、お葉は六平太とわかれたのである。
「それですから、六平太さんは、ゆうべの出先をいわなかったんです。親分さん、人殺しをしたのはこのわたし、六平太さんは、とてもおきんちゃんをふびんがっていましたから、殺すなどとはとんでもない」
お葉はそこでまた、そでを目にあてて泣きむせんだ。
お葉の話が事実とすれば、六平太がゆうべの行き先を秘密にしている理由もうなずける。それをいうと、お葉の人殺しがばれるかもしれないからだ。
六平太は恋人が人殺しをするところを目撃して、それをなんとかかくすつもりでかえってみると、家にはおきんが殺されている。
それを騒ぎ立てると、いきおいじぶんがどこにいたかということを、いわねばならない。それではお葉に迷惑がかかるかもしれぬと、そこでこっそり、おきんの死体のしまつをしようとしたのではないか……。
そう考えると、六平太の行動もつじつまがあわぬこともない。
「それで、お葉、布袋屋のせがれの死体はあがったのか」
「いえ、そんな話はまだ聞きませんが、けさ、布袋屋さんへそれとなくようすをききにやったところが、ゆうべからかえらないと……」
お葉はまだしくしく泣いている。
「それじゃ、まだ人殺しをしたものときまっちゃいねえ。お粂、おまえ柳橋まで送ってやれ、お葉、無分別なまねをするんじゃねえぞ」
お粂にお葉を遅らせたあと、佐七はひとりぼんやり考えこんでいたが、そこへ辰と豆六がかえってきた。
「親分、熊五郎と腕助が、小塚《こづか》の切見世《きりみせ》へあそびにいったのはほんとのようです」
小塚っ原の切見世というのは、もっとも下等な売女《ばいた》のいるところである。
「ところが、親分、ふたりともまんまと女にふられて、四つ(十時)ごろそこを出てまんねん」
「女にふられたふたりが、四つから四つ半まで、あんなところをうろうろしていたというのが、おかしいじゃありませんか。ひょっとすると、やっぱりあのふたりが……」
佐七はちょっと考えて、
「よし、思いきってあいつらを挙げちまおう。だけど、辰、豆六、そのまえにもうひとつ、新川の酒問屋、布袋屋のせがれの綾二郎というやつを洗ってみてくれ。ひょっとすると、そいつはもう土左衛門《どざえもん》になっているかもしれねえのだが……」
と、佐七はさっきのお葉の話を、辰と豆六に語ってきかせた。
まむしの毒
――毒は毒でもかまれた毒だあな
布袋屋のせがれの綾二郎は、まだ死んではいなかった。
お葉に川につきおとされた綾二郎は、一町ほど流されたところで、やっと陸《おか》へはいあがり、なじみの船宿へとびこんだが、そのまま熱を出して寝こんでしまって、辰と豆六がそのいどころをつきとめたときには、頭もあがらぬ重態だという。
それを聞いて、佐七はふっとまゆをひそめた。もし、ここで綾二郎が死んでしまうと、お葉は下手人ということになる。
「綾二郎にはもちろん、医者がついてるんだろうな」
「へえ。それはもう、新川から両親が駆けつけてきて、すぐに長者町の良庵《りょうあん》先生を呼んだそうです」
長者町の良庵先生なら、佐七もかねてからおなじみである。
「よし、辰、豆六、それじゃひとつ、良庵先生のとこへ出向いてきいてみよう」
良庵先生はあいかわらず貧乏ぐらし、くもの巣だらけのきたない座敷で、貧乏徳利をひきよせて、ちびりちびりとやっている。
「あっはっは、佐七か。しばらく顔をみなかったが、元気かな。どうだ、一杯やらねえか」
と、欠け茶わんをつきつけられて、佐七もしかたなく受けながら、
「ときに、先生、きょうはひとつ、お尋ねしたいことがあってやってきたんです」
「うっふっふ」
と、良庵先生はうす気味悪い笑いをもらすと、じろりと佐七の顔をみて、
「いま、柳橋の舟徳にねている布袋屋のせがれのことじゃねえのか」
図星をさされて、佐七はぎょっと辰や豆六と顔見合わせた。
「先生、そ、それがどうしてわかるんです。綾二郎の容態になにかかわったことでも……」
「うっふっふ、いずれ、そういうて、おまえがくるじゃろうと思うていたよ。ありゃいかんな」
良庵先生はくわい頭をふりながら、顔をしかめる。
「いかんというと、もうだめで……」
「ふむ、手おくれのようじゃ。しかし、佐七、わしがいかんというのは、なにもあいつの命のことじゃない」
「それじゃ、なにがいけませんので」
「あいつうそをついてるよ。本人は女に川へつきおとされたというてるが、それはまあ、それにちがいないとしても、それだけのことで、あんなにからだが紫色にはれあがり、熱を出すはずがない」
「からだが紫色にはれあがり……」
佐七はまたぎょっと息をのみ、
「そ、それじゃ毒でものまされたとおっしゃるんで」
「ふむ、毒は毒でも、のまされたんじゃない。かまれたんだな」
「な、なんですって、かまれたというと……?」
「佐七、おまえも察しがわるいじゃないか。まむしにかまれたのよ。それを本人、かくしていたもんだから、全身に毒がまわってしもうたんじゃ。しかし、あいつ、まむしにかまれたということをどうして、ああ、ひたかくしにかくしていやアがるんかな」
「お、お、親分……」
佐七をはじめ辰と豆六ははっと顔見合わせた。
それからすぐに三人が柳橋の舟徳へかけつけたときには近親者にとりかこまれた綾二郎、全身、紫色にはれあがり、すでに虫の息だった。
「これ、綾二郎、おまえも極楽へいきたいと思うなら、なにもかもいってしまえ、けっして両親に迷惑をかけるようなことはしねえから」
佐七にさとすようにいいきかされて、綾二郎もすでに覚悟をきめているのか、虫の息ながらかすかにうなずく。
「浅草山谷の萩原六平太お家へ、つじうら売りのおきんを呼びだし、しめ殺したのはおまえだろうな」
綾二郎はかすかにうなずく。
「おまえ、そうして六平太に人殺しの罪をおっかぶせ、お葉を手に入れようとしたんだな」
綾二郎はまばたきでうなずいている。
「おまえ、そのとき、おきんをなぐさんだのか」
これには綾二郎もおどろいたらしく、びっくりしたように目をまるくする。
「ああそうか。おきんをおもちゃにしたのは、おまえじゃねえんだな。それで、そのとき、おまえ、まむしにかまれたのか」
綾二郎はまたかすかにうなずいた。
「よし、わかった。綾二郎、心静かに成仏しろよ。このことはけっして、世間に漏れねえようにしてやるからな」
それを聞くと、綾二郎は目にいっぱい涙をうかべていたが、それからまもなく、苦しい息をひきとったのである。
綾二郎はお葉に川へ突きおとされたが、すぐはいあがると、つじうら売りのおきんを六平太のうちへ呼び出し、それをしめ殺して、その罪を六平太におっかぶせようとしたのである。そして、じぶんはいま、川からはいあがったばかりのようなふうをして、舟徳へころげこみ、アリバイを構成しようとしたのであった。
おきんの死体をおかしたのは、熊五郎と腕助だった。
かれらは小塚っ原へあそびにいくとちゅう、おきんが六平太の家へいくのをみかけた。しかし、六平太の腕前をしっているので、そのときはそのまま見のがしたが、女にふられた腹いせに、こっそり六平太のうちの裏木戸から、なかへ踏みこんでみると、おきんが殺されている。
そこで、ふたりは、鬼畜のような冒涜《ぼうとく》を死体に加えたうえ、六平太のかえりを待って、それを人殺しとして告発しようと考えたのだ。そのころの折り助などには、おうおうにして、こういうけだものみたいなやつがあったものだ。
ただ、ここにふしぎなのは綾二郎がかまれたまむしで、これは、六平太があたらしくとりよせたへびのなかに一匹まじっていたのだが、それが六平太をかまずに綾二郎をかんだところに、天網|恢々《かいかい》疎にして漏らさずという、聖賢のおしえのありがたさがあるのだろうと、さかしらだって説くものもある。
六平太はまもなくへび使いをよして、お葉と夫婦になり、遊侠《ゆうきょう》の徒として名を売ったという。
狐の裁判
素焼きの狐《きつね》
――それじゃこれが化けまんのんか
「ごめんくださいまし。親分さんはおいででございましょうか」
神田お玉が池は佐七のすまいの格子のまえへ、いきな女客がすらりと立ったのは、七月十日の昼の八つ半(三時)ごろのこと。なにせそのころの七月十日といえば、現今の八月下旬にあたっているから、まだ残暑のまっさかりというころである。
女のとしは三十二か三、まゆは青くおとしているが、越後透綾《えちごすきや》のいきな着こなしといい、細からず広からぬ帯のたかさといい、ひとめで粋筋《いきすじ》のお内儀とみられたが、透綾をとおしてみえる肉置《ししお》きの、むっちりとした豊かさが、残暑のなかでむせっかえるようである。
それでいて、すらりと姿をよくみせるすべをしっているのは、踊りの地でもあるのだろう。目鼻立ちとかっきりとした、ふるいつきたいほどいい女とは、こういう女をいうのだろうが、目の色がいささかおだやかでない。
「へえへえ、親分はおいででございますが、そういうおまえさんは……?」
あいてをべっぴんとみて、辰があわてて浴衣のえりをかいつくろいながら、いやに神妙にもみ手かなんかしながら尋ねると、
「はい、わたくしはいま、葺屋《ふきや》町の芝居に出ております歌川歌十郎の家内で、お縫というものでございます。親分さんがおいででございましたら、ちと、お願い申し上げたいことがございまして……」
と聞いて、辰は目をまるくした。
「あっ、それじゃおまえさんはさぬき屋さんの……少々お待ちくださいまし」
と、辰があたふたと奥へかけこむと、こちらはこの暑さにふすまも障子もとりはらい、葭戸《よしど》で涼をとっているところまではよかったが、佐七も豆六も藍《あい》の浴衣のもろはだぬぎ、ふんどしもまるだしの大あぐらで、うちわをバタつかせながら、ヘボ将棋のまっ最中とは、あんまりひとに見られたくない図である。
お粂はどうやら留守らしい。
「親分、親分、さぬき屋のおかみさんが、なにかおまえさんに話があると、目の色かえてやってきてますぜ」
と、辰が息せき切ってご注進におよぶと、佐七ははてなと小首をかしげた。
「なに、さぬき屋のおかみが目の色かえて……それは妙だな。おれゃアべつにあそこに義理のわるい借金はねえが……それとも、辰、豆六、おまえたちまた飲み倒してきゃアがったんじゃねえのか」
「と、とんでもない。そら、ぬれぎぬや。もしそれやったら、兄いだっせ。兄いはこないだも……」
「親分、豆六、そりゃいったいなんのこった」
「なんのこっちゃいうて、角の酒屋のさぬき屋のおかみさんが、血相かえて借金取りに来てんねんやろ」
「ぷっ、バカなこといをいうな。べらぼうめ、あんなばばあがなんにん来たって驚くもんか。親分、そうじゃねえんで。あっしのいってるのは、いま日の出の人気役者、歌川歌十郎のおかみさんが来たっていってるんですよう」
「なんや、役者のさぬき屋か」
豆六はほっと胸なでおろして、
「それならそうと、はよういうておくれやすな。わて寿命が三年がとこ、ちぢまったやおまへんか」
「ちっ、さては豆六、てめえは角のさぬき屋に……?」
「あっはっは、まあいい、まあいい。それより、豆六、はやえとこ将棋をかたづけろ。辰、なにをまごまごしてるんだ。お客人をあんまり待たせるもんじゃねえ」
「だって、親分のそのなりじゃ……」
「だから、いまはだをいれるところだ。なに、ふんどしがみえてると……? いちいち世話をやくない」
いやはや、たいへんな騒ぎで、これだけの手数をかけて、やっと座敷へ通された歌十郎の女房お縫が、お願いの筋というのを聞かれて、額の汗をふきながら、たもとのなかから取り出したのは、素焼きづくりの一個のきつね。
「お願いというのは、これ、このきつねでございます」
と、おいでなすったから、佐七をはじめ辰と豆六、きつねにつままれたような顔をして、はてなとまゆにつばきをつけた。
お縫もそれに気がついたか、あわててことばをついで、
「いえ、だしぬけにこんなことを申し上げては、さぞうろんなやつとおぼしめすでしょうが、ごらんくださいまし。このきつねの額を……」
「なるほど、眉間《みけん》に傷がついておりますな」
「さあ、それですからわたしは心配でなりません。なにをかくそう、このきつねは、ただのきつねではございません」
「へえへえ、そんならこのきつねが化けまんのかいな」
豆六め、つまらないことをいっている。
「いえ、そうではございませんが、これは千代太郎の身代わりも同然、それをこうして無残にも、眉間をぶちわったものがあるとすれば、とりもなおさず何者かが、千代太郎をのろうているとしかおもえません。わたしはそれが心配で……」
と、お縫が声をふるわせて、語るところによるとこうである。
いま市村座の夏狂言では、『芦屋道満大内鑑《あしやどうまんおおうちかがみ》』が出ているが、そのなかへこんどあたらしく書かれたのが『保名物狂《やすなものぐる》い』の一場面。これは踊りで、保名はいうまでもなく、座頭の歌十郎だが、その保名に、十二匹のきつねがからむことになっており、その役が十二人の子役にふられた。
そこで子役たちは申し合わせて、素焼きのきつねをひとつずつ、市村座のお稲荷《いなり》様へ奉納した。ところが、ほかの十一個のきつねに、なんのさわりもないのに、千代太郎の奉納したきつねだけが、眉間《みけん》をわられているとあっては、なんとなく気がかりであると、お縫は心配そうにかたるのである。
佐七はちょっとあきれ気味で、
「ところで、その千代太郎さんというのは……」
「はい、あの、うちのせがれで」
と、お縫はちょっと口ごもったが、やがて思いきったようにかたるところによると、千代太郎と、お縫はなさぬ仲で、それゆえにこそ千代太郎のためには、ひと一倍、気をくばらねばならぬのであると、お縫は豊満な肉体にもにあわぬ、心細そうなため息をついた。
それというのが千代太郎、座頭のせがれというのを笠《かさ》にきて、威張りちらすところから、幕内での憎まれものになっている。ことにこんどは下回りのせがれといっしょになって、縫いぐるみをきるのが不足なのか、舞台で毎日、ほかのきつねをいじめ抜くのだ。
そのために舞台をしくじるきつねも少なからず、そのつどかれらは歌十郎に呼び出されて、大目玉をくらうところから、ちかごろ十一匹のきつねたちは、千代太郎にたいして、遺恨骨髄に徹しているという評判がある。
「先日も梅丸が千代太郎に足がらめにされ、舞台ですってんころりところんで、大恥をかきましたので……」
「梅丸さんというのは……?」
「はい、わたくしのせがれでございます。千代太郎にとっては腹こそちがえわが弟。それにこんな恥をかかせるくらいですから……」
他はおしてしるべしとお縫はなげいて、
「それですから、みんなして、いつか千代太郎に返報してやらねばならぬといきまいておりますが、とりわけ鯉之助《こいのすけ》さんなんかは、ひと思いに千代太郎を殺してやると……」
鯉之助というのは、かつて歌十郎と覇《は》を争った人気役者、中村三右衛門のわすれがたみで、千代太郎とおないどしだが、このふたりが当時子役の双璧《そうへき》といわれていた。
「昨年、三右衛門さんがなくなられてからは、鯉之助さんはうしろだてもなく、楽屋でもとかくおろそかに扱われます。梅丸は気のやさしい性質ですから、年下ながら影になりひなたになり、鯉之助さんをいたわってあげているようですが、それにひきかえ千代太郎は、親の威光を笠にきて、ことごとに鯉之助さんをいじめます。鯉之助さんも腹にすえかね、千代太郎を殺してしまうといきまいているとやら」
と、お縫は声をしめらせて、
「そこへ、こうして千代太郎のおさめたきつねの眉間《みけん》がわられているものですから、わたしはなんだか気がかりで……」
結局、お縫のやってきたのは、千代太郎をまもってやってくれまいかというのであったが、さりとて、なんの事件もないのに、十手を持って飛び出すわけにもいかない。
「まあ、そりゃいちおう話はきいておきますが、おまえさんも、そう取り越し苦労をしねえで、もう少し気を大きく持つんですな」
と、その場はそれでかえしたが、あとで佐七は辰や豆六と顔見合わせた。
「なんや、あれ、少し気がおかしいのんとちがいまっか」
「いや、そうじゃねえ、はたから見ればおかしくとも、当人にしてみれば、真剣なのかもしれねえ。あの世界ときちゃ別だからな」
とはいえ、さしあたってどうしようという法もないので、佐七はそのままにしておいたが、さて、その翌日の日暮れごろ。
「親分、たいへんだ、たいへんだ。市村座できつねが一匹殺された」
とあわを食ってとびこんできたのは辰と豆六。
「な、な、なんだと。それじゃ千代太郎が殺されたのか」
「いえ、それがおかしまんねん。殺されたんは千代太郎やおまへん。腹ちがいの弟の梅丸が、舞台で背中をえぐられて、そのまま死んでしまいましたんです」
きつねごろし
――舞台で鬼ごっこしてるんじゃねえ
知らせを聞いて佐七が駆けつけると市村座は上を下への大騒動。佐七の顔を見ると、頭取がとんで出て、
「これはこれはご苦労さまで。ただいま、鳥越の親分さんがおみえになっているところで……」
「なに、鳥越の茂平次が……」
「ちっ、また、あの海坊主が出しゃばっているのかいな」
と、辰と豆六が口をとがらせるのを、
「これ、よけいな口をたたくな」
と、たしなめながら、頭取に案内されて、佐七が舞台へやってくると、役者たちは、まだ扮装《ふんそう》のままでうろうろしている。
みると舞台の中央には、保名のつくりの歌十郎が、ぼうぜんとしてわが子の死体を見おろしている。
そして、その向こうには縫いぐるみの子ぎつねが十一匹、ひとかたまりになってふるえており、そのまえに立って、居丈高になっているのは、いわずとしれた鳥越の茂平次。
色が黒くて大あばたのあるところから、海坊主の茂平次とよばれて、げじげじのように、ひとからきらわれている岡《おか》っ引《ぴ》きである。
「やいやい、てめえら子どもだと思って、やさしくされりゃいい気になりゃアがって、知らぬ存ぜぬとしらを切りゃアがる。だれだと思う、茂平次さまだぞ。大地を打つ槌《つち》ははずれても、茂平次様のにらんだ目にゃ狂いはねえんだ。さあ、白状しろ、だれが梅丸を刺し殺した。きりきり白状しやアがれ」
これじゃいいたいこともいえなくなる。子ぎつねたちが青くなってふるえているのを、どんぐり眼でねめまわしながら、
「うぬ、いわねえな。白状しねえな。ようし、さては子ぎつね十一匹、みんなぐると覚えたわえ、どいつもこいつも数珠つなぎにしてひったてるぞ」
と、海坊主がポッポッと、湯気を立てていきり立ったから、子役のひとりが、わっと声を立てて泣き出した。
「おいらはしらねえ。梅丸ちゃんを殺したのは、鯉之助さんにちがいねえ。舞台へ出るまえ、鯉之助さんは縫いぐるみの下に短刀をかくしていたよ」
聞くなり茂平次、どんぐり眼を光らせた。
「おお、よくいった。そして、鯉之助というのはどいつだ」
「いちばんはしに立っている、背の高いのが鯉之助さんだい」
言下に茂平次は子役のひとりにおどりかかった。
「やい、こりゃ鯉之助、わりゃふとどきなやつだな。さあいえ、白状しろ。てめえ、なんで梅丸を殺した。なんの遺恨で……や、や、見付けたぞ、見付けたぞ、こりゃどうじゃ」
と、茂平次が得意の鼻をうごめかし、鯉之助の縫いぐるみのしたから、無理無体にひきずり出したのは白鞘《しろざや》の短刀である。
「う、ふ、ふ、こういうたしかな証拠があれば、いまさら知らぬとはいえめえ。やい、鯉之助、きりきりうせろ」
鯉之助は青くなって、きっとくちびるをかんでいたが、そこへつかつかとおそれ気もなく、すすみでた子ぎつねがある。
「おじさん、違うよ。梅丸を殺したのは鯉之助じゃねえ」
「な、な、なんだと。てめえはいったいだれだ」
「おらア千代太郎という子役だが、鯉之助は下手人じゃねえ」
「な、な、なんだと。てめえはいったいだれだ」
「おらア千代太郎という子役だが、鯉之助は下手人じゃねえ。その証拠にゃ、おまえの持ってる短刀だ。おじさん、見ねえ。梅丸の背中にゃ、まだ短刀がつっ立ってるんだぜ。鯉之助が下手人とすりゃア、短刀を二本も用意していたのかい」
いわれてぎっくり、茂平次は梅丸の死体をふりかえったが、なるほど、その背中にはまだ短刀が突っ立っている。
「ぶるぶるぶる! それじゃ鯉之助はなんだって、こんな短刀を持ってやアがった」
「そりゃアおおかた、おれを殺そうと思ったのよ。鯉之助はおれにこそうらみはあれ、梅丸にゃなんのうらみもねえはずだ。それがどうして梅丸を殺すもんか」
それをきいて茂平次は、かんらかんらと打ち笑った。
「あっはっは、小僧、よくいった。それでよくわかったぞ。鯉之助が梅丸を殺したわけがわかったぞ。鯉之助は人違いをしゃアがったんだ。みんなおなじような縫いぐるみ、しかも舞台の暗がりで、鯉之助はてめえとまちがえ、梅丸を刺し殺したんだ。どうだ、小僧、わかったか」
こんどはぎゃくに千代太郎が、かんらかんらと打ち笑った。
「おじさん、おまえは芝居を知らねえな」
「なにを」
「おじさん、芝居の踊りというものはな、鬼ごっこをしてるんじゃねえんだぜ。ちゃんときまったふりがあるんだ。十二匹の子ぎつねはでたらめに、舞台を走りまわっているんじゃねえ。下座の三味や歌にあわせて、いつだれとだれがからむか、いつだれとだれとがもつれるか、ちゃんときまったふりがあるんだ。だから、目をつむってても、そこにいるのがだれだか、みんな互いに知っているんだ。素人じゃあるめえし、人違いなどあってたまるもんか」
いや、子供ながらもあっぱれな度胸である。
さっきから舞台のそでで、この押し問答をきいていた辰と豆六は、すっかりうれしくなってしまった。
「よう、さぬき屋ア、大統領!」
「へん、海坊主め、ざま見なはれや」
そういう声に、こちらをふりかえった海坊主の茂平次は、柄にもなく鼻じろんで、
「やっ、てめえは辰と豆六、おお、佐七も……ちっ、悪いところへ……ぶる、ぶる、ぶる」
海坊主が、われとわが身の毒気にあてられたか、とうとう口からあわを吹いた。
光る縫いぐるみ
――梅丸殺しの下手人召し捕ったア
さて、海坊主がすごすご引き揚げていったあとで、佐七はあらためて死体を調べる。
梅丸は千代太郎とはひとつちがいの弟で、ことし十三、内気でやさしい性質は、役者としては、いささか不向きといわれたが、そのかわり、幕内のだれからも愛された。それだけに、かれのむごたらしい横死には、涙をしぼらぬものはなかった。
佐七が死体をしらべると、梅丸は縫いぐるみのうえから背中をえぐられ、短刀はまだそこに突っ立っている。おびただしい血が、縫いぐるみを染めていた。
佐七は歌十郎をふりかえり、
「おまえさん、さぬき屋の親方だね」
「は、はい、さようで……」
「とんだことが起こったが、どうしてこんなことになったのか、ひとつ話しておくんなさい」
「はい……」
と、歌十郎が語るところによるとこうだ。保名の踊りは二段になっていて、いったん、保名が上手へ入ると、つくりをかえるあいだの時間を、十二匹の子ぎつねが踊りでつなぐのである。
ところが、そうして踊っているうちに、梅丸の足もとがみだれたかと思うと、ばったり倒れて、そのまま動かなくなってしまった。
驚いたのはほかの子ぎつねだ。ばらばらと駆けよってみると、背中に短刀が突っ立っている。そこで、わっ、人殺しだということになり、楽屋も客席も、うえをしたへの大騒動になったのである。
「なるほど、そして梅丸が倒れたとき、いちばんそばにいたのはだれだえ」
「あい、それならおいらでございます」
進み出たのは千代太郎。
「おお、おまえか。しかし、まさかおまえがやったんじゃあるめえな」
「冗談じゃねえ。おいらが梅丸を殺すわけがねえ。梅丸はおいらのかわいい弟だもの」
「しかし、そのかわいい弟を足がらめにして、舞台にころがしたのはいったいだれだ」
「それはおいらさ」
と千代太郎はけろりとして、
「しかし、おいらは梅丸が憎くて、あんないたずらをしたんじゃねえ。かわいいから、ついふざけたんじゃアねえか。役者はだれでもあんないたずらをするもんだよ」
「よしよし、それじゃおまえがやったんじゃねえとして、だれがやったか心当たりはねえか。おまえがいちばん近くにいたのなら、いちばんよく知っているはずだ」
千代太郎はさかしげな目をくるくるさせて、しばらく考えていたが、
「いいや、知らねえ、心当たりはねえ。だしぬけに梅丸がふらふらと倒れたので、おいらもびっくりして駆けよったんだ。あいにくそのとき、舞台がいつも暗くなる場で、よくはわからねえが、梅丸のそばにゃだれもいなかったよ」
「舞台がいつも暗くなる場……?」
佐七はちょっと考えたが、なに思ったのか十一匹の子ぎつねにむかい、
「おまえたちすまねえが、もういちど踊っちゃくれまいか。なに、梅丸が倒れた前後のふりだけでいいんだ」
子ぎつねたちは顔を見合わせていたが、
「ああ、いいとも、そんなこたアわけはねえ」
と、千代太郎の音頭取りで踊り出したが、
「ここだよ、おじさん、このときだ、梅丸はここでこうして踊っていたが、それがだしぬけにこういうふうによろめいて……」
さすがは役者だ。たくみな仕方話で説明されて、佐七は目を光らせた。
「なるほど、それじゃそのとき梅丸は、客のほうに背をむけていたんだな」
「そうだよ、そうだよ。あっ、そうだ、思い出した、おじさん。そのとき梅丸の背中が、薄暗がりのなかできらきら光っているもんだから、おやと思ってのぞこうとしたら、とたんに梅丸がふらふらと倒れたんだ」
「なに、梅丸の背中が光っていた?」
佐七はなにかはっとしたように、もういちど梅丸の背中をあらためていたが、やがて幕をあけて客席のあちこちを見回した。
それから辰を呼びよせて、なにやら耳にささやくと、辰はすぐに合点して、舞台からとび出していったが、そのとき舞台裏からきこえてきたのは、またしても海坊主の声である。
「つかまえたぞ、つかまえたぞ。梅丸殺しの下手人は、茂平次様が召し捕ったぞ」
と、胴間声を張りあげながら、茂平次がむりむたいに引きずってきたのは、四十五、六のみすぼらしいみなりをした男だった。
「あっ、薬研堀《やげんぼり》のおじさん」
それをみると、鯉之助はまっさおになる。
小判三枚
――おれの渡した三両がなぜいけない
「鳥越の、その男が下手人とは……?」
佐七が不審そうに尋ねると、茂平次は得意の鼻をうごめかし、
「まあ、聞け。こいつは歌川吉五郎といって、以前はそこにいる歌十郎の弟子だったが、酒癖の悪いところから、ついこのあいだ破門になり、芝居をクビになった男だ。役者が芝居から締め出されちゃ飯は食えねえ。おまけに、こいつの娘の袖《そで》というのが、当年とって十四歳、それがいま大病だから、家のなかは火の車だ。それやこれやで吉五郎はふかく歌十郎をうらんでいるが、さりとて、歌十郎には歯が立たねえから、かわりにせがれの梅丸を殺しゃアがったんだ」
「なるほど。しかし、鳥越の。吉五郎はどういうふうにして、梅丸を殺したんです。舞台へとび出せば、大勢のひとの目にふれるはずだが……」
「さあ、それよ。そこがこいつの悪がしこいところだ。いま千代太郎はなんといった。梅丸の背中が暗やみのなかで、きらきら光ったというじゃねえか。それが、なによりの目印だ。吉五郎は舞台のそでから、その光を目当てに短刀を投げつけたんだ。どうだ、吉五郎、恐れ入ったか」
海坊主に毒気を吹っかけられて、青くなってふるえあがったのは吉五郎。
「と、と、とんでもない。滅相もないことおっしゃりますな」
「なにがとんでもねえだ。なにが滅相もねえことだ。それじゃてめえなんだって、舞台裏をうろついていたんだ。芝居をクビになったやつが、なんの用事で楽屋へやってきやアがった」
「はい、あの、それは……」
「こりゃ、やい、吉五郎、四の五のぬかさず、きりきり白状しやアがれ!」
と、海坊主の猛毒にあてられたか、吉五郎ははっとことばにつまったが、そのとき、ふたりのあいだに割ってはいったのは鯉之助。
「おじさん、それはちがうよ。吉五郎のおじさんが、きょう楽屋へやってきたのは、きっとおいらを止めるためだよ」
「なに、てめえを止めるためとは……?」
「さっき千代太郎さんもいったとおり、おいらきょうここで千代太郎さんを殺すつもりだったんだ。それで、楽屋入りをするまえに、おじさんやお袖さんに、それとなく別れをつげにいったんだが、おじさんはおいらの顔色から、それと察してとめにきたにちがいねえ。おじさんが、なんで梅丸を殺すものか」
必死となって抗弁する鯉之助の顔色を、佐七はそばからじっと見守っていたが、
「おい、鯉之助、おまえはよっぽど、この吉五郎と懇意とみえるな」
「はい、あの、それは……」
と鯉之助はちょっと言いよどんだが、
「おじさんやお袖ちゃんが、あんまり気の毒だから……」
「鯉之助さんはいつも親切にしてくださいます」
と、吉五郎もそばから鼻をすすりながら、
「芝居をクビになると、だれひとり寄りつくものもないなかに、鯉之助さんだけがよく見舞いにきてくださいます。このあいだも、三両という金をめぐまれて……」
「なに三両……?」
と、海坊主の目がぎろりと光った。
「はい、ところが、おかしなことには、すぐそのあとへ千代太郎さんがおみえになり、さっき鯉之助のわたした三両をかえせ。そのかわり、この三両をやろうとおっしゃって、鯉之助さんのおいていかれた三両を、むりやりにとりかえしていかれました。それをわたしが黙っていればよかったものを、つい鯉之助さんに話したもんですから、鯉之助さんがたいそうくやしがり、おれのわたした金がなぜいけねえ。なんでもかんでも、おれのすることに水をさす千代太郎、生かしちゃおけぬと、鯉之助さんの血相が、あまりものすごかったものですから、もしものことがあってはならぬと、きょうもようすを見にまいりましたので……」
吉五郎は鼻をすすって涙をふいたが、そんなことで心を動かす海坊主ではなかった。
「こりゃ、やい、鯉之助、ここへ出ろ、きりきりとここへ出やアがれ」
「は、はい……」
鯉之助の顔色は、藍《あい》をなすったように青くなっている。
「てめえはたいそうお慈悲ぶかくていらっしゃるんだな。いやさ、たいそうなお金持ちでござりますな。やい、三両といや少ない金じゃねえぞ。親もない子役のぶんざいで、その三両をどこからチョロマカしてきやアがった。きりきりそれを白状さらせ」
頭からきめつけられて、鯉之助はわっとその場に泣き伏した。
「ご免くださいまし。ご免くださいまし。盗んだのでございます。あまりお袖ちゃんが不愍《ふびん》だから、つい、盗みを働いたのでございます」
「なに、盗んだと? いったい、どこから盗んできやアがった」
「はい、あの、それは……」
と、鯉之助が涙ながらに語るところによるとこうである。
このあいだ、大黒屋喜兵衛という室町の両替屋のだんなに招かれて、鯉之助は深川の福村という家へいった。
大黒屋喜兵衛はことし四十の男ざかり、はでな気性で、まえから梅丸を寵愛《ちょうあい》していた。その夜も梅丸、千代太郎の兄弟に鯉之助、ほかにおおぜいの芸者や太鼓持ちがはべっていたが、酒宴のとちゅうで喜兵衛お大尽が厠《かわや》に立った。芸者や太鼓持ちはお供に立った。梅丸や千代太郎のすがたもみえなかった。ただひとり座敷にのこった鯉之助が、なにげなく床の間をみると、胴巻きがひとつおいてある。しかも、その胴巻きは、かえるをのんだへびのようにふくらんでいる。
ああ、金というものはあるところにはあるものだ。それに引きかえ、お袖ちゃんは、病気というのに薬ものめない。かわいそうなことだと思っているうちに、ふと悪心がきざして、胴巻きのなかから小判を三枚……。
「つい、抜いてしまったのでございます」
鯉之助は悄然《しょうぜん》として首うなだれた。
海坊主の茂平次は、それを聞くとせせら笑って、またもや毒気を吐き出そうと、舌なめずりをしていたが、そのときよこから佐七が乗り出して、
「兄い、ちょっと待ってくれ。そのまえに千代太郎にきくことがある。おい、千代太郎」
「は、はい……」
「おまえはなんだって鯉之助がめぐんだ三両を、あとからいって取り返したんだ」
「はい、あの、それは……いつも鯉之助がお袖ちゃんに親切にして、いい子になろうとするから、それがいまいましかったんで……」
「あっはっは、つまり、やきもちやいたんやな」
「豆六、てめえは黙ってろ。千代太郎、ただそれだけのことか」
「は、はい、それだけのことなんで……」
「しかし、千代太郎、おまえは鯉之助がお袖に、三両めぐんだということをどうして知ったんだ」
「はい、あの、それは……だれかに聞きましたんで……」
「だれかってだれだ」
「はい、あの、それは……忘れました」
問いつめられて、千代太郎はしだいにしどろもどろとなる。佐七はじっとその顔色をみつめていたが、たまりかねたのは、そばで見ていた海坊主の茂平次だ。
「そんなことはどうでもいい。怪しいのは吉五郎に鯉之助だ。さあ、きりきりとうせやアがれ」
海坊主の茂平次が無理無体にふたりをひっ立てていったあとへ、血相かえてとびこんできたのは、歌十郎の女房お縫だ。梅丸の死体を見ると、わっと泣きながら取りすがったから、市村座の楽屋はまたしてもてんやわんやだ。
千代太郎切られる
――駕籠《かご》のちょうちんばっさり切って
「親分、親分、ちょっと待ってくださいよ」
それから間もなく、市村座を出た佐七と豆六が、ぶらぶら歩いていくうしろから、息せき切って追ってきたのはきんちゃくの辰。
「おお、辰か。そして、どうだったえ」
「へえ、やっぱり親分のおっしゃるとおりで。茶屋へいってきいてみると、二階の東桟敷《ひがしさじき》の、いちばん舞台よりにいた客が、あの騒動の起こった直後、あたふたとかえっていったというんです」
「ふうん。そして、それはどういうやつだ」
「それがね、宗十郎|頭巾《ずきん》をかぶっていたので、顔はしかとはみえなかったが、黒縮緬《くろちりめん》の羽織を着て、でっぷり太った大男だったというんです」
「黒縮緬の羽織を着て、でっぷり太った大男……」
佐七が腕こまぬいて考えこむのをみて、
「親分、そんなら、あの短刀は、見物席から投げられたんやとおっしゃるんで」
「そうよ。縫いぐるみのうえからぐさりと、梅丸の背中にささっていた短刀は、その角度から投げたんじゃなくっちゃ、ああいうふうにはささらねえのよ。ふうん、黒縮緬の羽織を着て、でっぷり太った大男なあ……」
佐七はもういちどおなじことをつぶやいて、しばらく黙って歩いていたが、きゅうに顔をあげると、
「辰、豆六、おまえたちに頼みがある」
「へえ、へえ、親分、どんな御用で」
「千代太郎はまだ市村座にいるだろう。おまえたちこれから引きかえして、今夜いっぱい、こっそりあいつのあとをつけてみてくれ」
「へえ、親分、千代太郎のあとをつけますんで」
「親分、そんならあいつがやっぱり臭おまっか」
「なんでもいいから、おれのいうとおりにしろ。いいか、だれにも気取られちゃいけねえぜ」
「おっと合点だ」
と、辰と豆六はそこで佐七にわかれると、こっそり市村座へひきかえしたが、その夜の真夜中過ぎになって、きりきり舞いをしながら、かえってきたのは豆六だ。
「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、ちょっと起きておくれやす」
「ちっ、まだ寝てやしねえよ。騒々しいやつだ。お粂、表をあけてやれ」
「あいよ」
と、お粂が表の格子をあけると、のめりこむようにとびこんできた豆六が、
「親分、たいへや。千代太郎がやられよった」
「なに、千代太郎がやられたと? そ、それじゃ殺されたのか」
「いえ、あの危うく殺されるところだしたが、いいあんばいに、わてらがつけておりましたさかいに、深手は深手だすけれど、どうやら命は助かるらしい」
「そして千代太郎はいまどこにいるんだ」
「柳橋の舟宿にあずけておます。兄いがつききりで介抱してまんねん」
「よし、それじゃすぐに案内しろ。話はみちみち聞くとしよう。お粂、支度だ」
と大急ぎで身支度をととのえた佐七が、みちみち豆六に聞いたところによるとこうである。
千代太郎はこんや、ひいきの客に招かれて、柳橋の茶屋を二、三軒まわった。人気|稼業《かぎょう》の悲しさには、弟があんなことになっても、ひいきの客によばれると、顔を出さぬわけにはいかないのである。
そして、いちばんさいごの茶屋を出たのは、もうかれこれ真夜中ちかく、むろん駕籠《かご》で送られたが、その駕籠が大川端の寂しいところへさしかかったとき、突如、暗がりのなかから抜き身をさげた男があらわれ、ばっさりと駕籠のちょうちんを切っておとした。
駕籠屋なんてものは、もとより意気地のないものである。
「わっ! 出た!」
とばかりに駕籠を投げ出し、雲をかすみと逃げだした。
宵《よい》から佐七の命令で、千代太郎のあとをつけまわしていた辰と豆六は、叫びをきくと、すぐにその場へ駆けつけたが、その足音をきいて、くせ者は川のなかへとびこんだ。川の中には舟の用意がしてあったらしい。
「と、いうわけで、くせ者は取りにがしてしまいましたんやが、千代太郎のほうは、どうやら命をとりとめるようすだす。わてらが駆けつけるんのが、もうひと足おくれてたら、とどめを刺されるとこだした」
「なるほど、それですぐに舟宿へかつぎこんだんだな。さぬき屋のほうへ知らせてやったか」
「いえ、まだどこにも知らせてえしまへん。親分がおみえになるまで、だれにもいうたらあかんと舟宿のものにも口止めしときました」
「そうか、それはよかった」
ふたりが駆けつけると、ちょうど医者の手当がおわったところだった。
身代わり梅丸
――障子のなかには喜兵衛とお縫が
千代太郎の傷はかなり深手だったが、さいわいいずれも急所をはずれているので、命には別状なさそうだった。
それに千代太郎は気性のきつい少年とみえ、青ざめてはいたが、べつに取り乱したようすはなかった。
「千代太郎、とんだことだったな」
佐七がまくらもとに座って見舞いをのべると、
「親分、ありがとうございました。兄さんたちが、つけていてくだすったんだそうで、おかげで危ないところを助かりました」
「そんなことはどうでもいいが、千代太郎、これでだれかが、おまえの命をねらっているということがわかったろう」
「はい」
「それから考えると、梅丸の一件も、おまえと間違えたんだということがよくわかる。千代太郎、おまえどうして梅丸と、縫いぐるみをとりかえたんだ」
千代太郎ははっとして、佐七の顔をふりあおいだが、やがてしょんぼりうなだれた。
「千代太郎、かくしたっていけねえ、おれゃ知ってるぜ。梅丸の縫いぐるみはだぶだぶだった。それにひきかえ、おまえの着ていた縫いぐるみは、たいそう窮屈そうだったじゃねえか。どういうわけで縫いぐるみを取りかえて着ることになったんだ」
「恐れいりました」
千代太郎は苦しそうに顔をしかめて、
「あれは梅丸がとりかえてくれといい出して、むりやりに、わたしの縫いぐるみを着てしまったんです。そこで、わたしはよんどころなく、梅丸の縫いぐるみを着て出たんですが、あんなことになろうとは……」
千代太郎はそっと指で涙をおさえた。
「いや、よくわかった。ところで、もうひとつききたいことがある。千代太郎、おまえ、どうして鯉之助が、吉五郎にめぐんだ金をとりかえしにいったんだ」
「恐れいります。親分、じつはわたしは鯉之助が、大黒屋のだんなの胴巻きから、小判を三枚抜きとるところを見たんです」
「ああ、そうか。しかし、それじゃなにもわざわざ小判をとりかえなくてもいいじゃねえか」
「いえ、ところが……いつか大黒屋のだんなが、こんなことをおっしゃっていたのをおぼえておりますので。おれの持っている小判には、だれにもわからねえが、ちゃんと目印がついているから、うっかり手をつけるとすぐばれるぞと……そうおっしゃったのをおぼえているんです。だから、もし、吉五郎がうっかりその金を使って、鯉之助の盗みがばれてはならぬと、じぶんで三両くめんして、その金をとりかえしてきたんです」
「とりかえした小判はどうした」
「それはその翌日、大黒屋さんにお返ししました。ゆうべ座敷のすみで拾ったといって……」
だが、そういう千代太郎の顔色が、なんとなくくもっているのを、佐七は見のがさなかった。
「千代太郎、そのときなにかあったのか」
「いえ、あの、べつに……」
「おい、千代太郎、なにもかもまっすぐに申し立てろ。おまえどこで大黒屋にあったのだ」
「はい、深川の富貴楼でした。奥に大黒屋のだんなが来ていらっしゃると聞いて、なにげなく障子を開いたんです。そしたら……」
「そしたら……?」
「親分、それはいえません。口がたてに裂けても、こればっかりは……」
千代太郎はわっと泣き出した。
佐七はびっくりしたように、辰や豆六と顔を見合わせていたが、急にはっと目をみはると、
「千代太郎、障子のなかにゃアほかにだれかいたのか」
「…………」
「そして、それはおまえのおふくろの、お縫さんじゃなかったのか」
「ちがいます。おっかさんじゃありません。それに、だいいち……それにだいいち……」
「それに、だいいち……? どうしたんだ。千代太郎、それにだいいち……どうしたんだというんだ」
千代太郎は泣きじゃくるばかりで、なかなか口を割らなかった。それを佐七がなだめすかして、やっと聞き出したところによるとこうである。
なにげなく障子をひらいた座敷のなかは、杯盤|狼藉《ろうぜき》たるそのかたわらに、軽羅《うすもの》のもろはだぬいだ女が、肉付きのよい膚もあらわに、畳のうえに突っ伏していた。
女の腰はたかだかともちあげられているうえに、透綾《すきや》のすそが、腰のあたりまでまくりあげられているので、豊満なふたつのおしりのふくらみから、つややかなまたからひざまで、まぶしいまでにむき出しにされていた。
そして、これまたもろはだぬぎの四十男が、広い肩幅、厚い胸板、両の腕《かいな》の隆々たる筋肉の盛りあがりを、これみよがしにがっきりと、うしろから女の腰を抱いていた。
及び腰になった男も、まえを大きく左右にかっさばいているので、豊かに盛りあがった女のふたつのしりの割れ目と、脂ぎった男の下っ腹を埋めつくした、黒い巻き毛がピッタリと、水ももらさぬばかりに密着していて、たがいにはげしく躍動していた。
男は真っ赤に充血した顔を、もろはだぬいだ女の背中にうずめ、ピタピタ舌を鳴らしながら、ふとい左の腕《かいな》はうしろから、むっちりした女の乳ぶさを握りしめ、右の腕ははだけた女のまえから下へのび、二本の指が、たくみにそこらじゅうをうごめいている。
畳に顔をふせているので、千代太郎にも女の顔はみえなかったが、男は大黒屋喜兵衛だった。
男も女もはげしく身をそよがせていて、突っ伏した女の口から、絶えいりそうな声がもれていた。前後からくわえる男のたけだけしい攻撃に、女の声はもう悲鳴にちかかった……。
「そうか、いや、そうだったのか。よし、わかった。それじゃ、さっきおまえのいいかけていた、それにだいいち……といったのは、それにだいいち、おいらにゃア女の顔はみえなかったと、そういいたかったんだな」
「はい……」
しかし、顔はみえなかったにしろ、千代太郎には、体つきや着物から、それがだれだかわかったにちがいない。
千代太郎はまだすすりあげている。佐七はまた、辰や豆六と顔見合わせて、
「よし、それじゃ女のことは忘れてしまえ。それより、小判はどうした、大黒屋のだんなにかえしたのか」
「はい、そのときはびっくりして、いったん障子をしめて逃げ出しましたが、それからしばらくしていってみると、だんながひとりでお酒を飲んでいらっしゃいました。そこで、わたしが小判を出しますと、だんながとてもこわい顔をなさいまして、この小判がどうしておれのものだとわかったと、それはそれはひどいけんまくでございました。わたしはいまでも大黒屋のだんなが、なぜあんなにお怒りになったのかわかりません。それは、あの……わたしがあんなところを見てしまったせいでもございましょうが……」
佐七はそれを聞くと、みたび辰や豆六と顔見合わせて、きらりと目を光らせていた。
佐七はそのとき、事件が思いがけない方角へ飛び火していくのを感じたのである。
子役むざん
――菊花を散らせて女の代用品に
日本橋室町で大捕り物があったのは、それから三日目のことである。捕らえられたのは大黒屋喜兵衛はじめ一味十数名。かれらはさかんに偽金をつくって、江戸の経済界をかきみだしていたのである。
喜兵衛一味が捕らえられたときくや、歌川歌十郎の家でも、お縫がのどをかき切って自害した。こうして、この一件はことごとく落着したのである。
「驚きましたね。親分、それじゃ大黒屋喜兵衛は偽金づくりだったんですかえ」
「そうよ。それをしらずに、鯉之助がちょろりと三枚小判を盗んだ。千代太郎もまたそんなこととは知らなかったが鯉之助の身にまちがいがあってはならぬと、その小判を取りかえし、喜兵衛のところへ返しにいったが、そこは脛《すね》に傷持つ身だ。ひょっとすると千代太郎に、偽金を見破られたんじゃあるめえかと、そこで殺す気になったんだ」
「それをお縫が片棒かつぎよったんだすな」
「そうよ。お縫はまさか喜兵衛が偽金づくりとはしらなかったが、千代太郎に、変なところを見られているから、生かしてはおけぬと思ったんだろう。それに、親まさりといわれるほどの千代太郎に、継母《ままはは》としてのねたみもあったんだろうな」
お縫が腹をいためた梅丸は、女のようにやさしい子であった。それを喜兵衛がひいきにして、閨《ねや》の伽《とぎ》をさせるのである。
かぞえどしで十三といえば、いかに早熟なその時代でも、生理状態がやっとおとなになったばかりだろう。
そんな子を寝床のなかに呼びこんで、なにもかも脱がせたうえで、さんざんちっぽけな体をもてあそんでやると、ちかごろやっとおぼえたばかりの歓喜にからだをうちふるわせ、はては無我夢中になって、
「だんな……だんな……」
と、力一杯むしゃぶりついてくるそのいじらしさ。そこに四十男の残忍なよろこびがある。
その代償として、こんどはおのれが裸の身をよこたえて、梅丸にサービスさせるのである。あいてが年端《としは》もいかぬ子どもと思えば、どんな臆面《おくめん》もない要求もできるというもの。
梅丸は梅丸で、その年ごろの子のつねとして、おとなの秘密につよい好奇心をもっている。
ましてや、あいては筋骨たくましい四十男、なにもかもじぶんと比べものにならぬほど、ケタはずれのたくましさ、たけだけしさだから、どんなえげつない要求にもよろこんで応じた。
教えられるままに、強いられるままに、あらゆる手段をつくしてサービスした。そして、ケタはずれのたけだけしいそのものが、最後の様相を示しはじめると、とっさにそこへ、顔を埋める潮時さえも身につけていた。
うつぶせになった梅丸の首っ玉を、喜兵衛は下からがっきりと、両の太股《ふとまた》ではがいじめにして、大きく息をあえがせながら、けだもののようにほえつづけるのである。
こういう子役がもう少し長ずると、いつか千代太郎が深川の富貴楼の奥座敷でかいま見たような体位になり、菊花を散らせて、女の代用品を勤めるようになるのである。
しかも、こういうことは当時のこの社会としては常識とされ、ことに女形《おやま》にとっては、必要欠くべからざる修行のひとつとさえ考えられていた。少なくともお縫はそう信じていたようである。
だから、役者としては少し気のやさしすぎる梅丸に、喜兵衛のような有力なうしろ盾ができたことをよろこんでいた。よろこんでいるうちはまだよかったが、つい喜兵衛の誘いの水にのってしまった。
お縫としてはこれもわが子の出世のためと、おろかな母性愛から、観念のまなこを閉じたのだろうが、喜兵衛のような海千山千の悪党に、いちど抱かれてしまうともういけない。お縫はついわれを忘れて乱れにみだれ、彼女のもつ女の本性の奥底まで、あいてに見透かされてしまったのである。
お縫は千代太郎のことがあるから、もうひとつ、亭主との仲がうまくいかなかった。そこへもってきて、亭主《ていしゅ》の歌川歌十郎、いま日の出の人気役者だから、女出入りも多かった。
こんなことは当時の役者としては、かくべつ取り立てていうほどのことではなく、あの世界ではありきたりのことだったが、ひと一倍自我のつよいお縫は、かねてから腹にすえかねていた。
そこへ精力絶倫で、ケタはずれのたくましさと、たけだけしさを誇る喜兵衛のからだの味をしってしまったのだからもういけない。ひとつには、じぶんによそよそしい亭主にたいする面当てもあったのではないか。
あいてをだいそれた偽金づくりともしらず、つい道を踏みあやまったのである。
「そこで、喜兵衛の入れ知恵で、千代太郎の縫いぐるみに薬をぬって、やみでもボーッと光るようにしておいて、それを目印に、喜兵衛のやつが桟敷《さじき》から短刀を投げて殺すてだてになっていたんだ」
「それをどたん場になって、梅丸が身代わりになったんですね」
「まあ、そういうこったろうな」
佐七は暗然たる顔色だった。
「しかし、親分、それゃまたなぜに……?」
「そら、兄い、聞かんかてわかってまっしゃないか。梅丸はおのれのおふくろと喜兵衛の悪だくみを、こっそり盗み聞いたんにちがいおまへん。そこで、気性のやさしい梅丸は、じぶんの身を犠牲にして、兄貴を助けよちゅうわけだっしゃろ」
「それもある。おそらく、それがだいいちだろう。しかし、梅丸が死を決心したにゃ、もうひとつ、わけがありゃしないかと思うんだ」
「親分、そのもうひとつのわけとおっしゃると……?」
佐七はしばらく黙っていたのちに、暗然たる顔色になって、
「梅丸には喜兵衛のほかにももう五、六人、喜兵衛とおなじような、ひいきの客があったそうだ」
「えっ、それじゃ梅丸はあのとしで、五人いじょうの男に身をまかせて……」
「男地獄みたいなこと、やっとったんでっか」
「それもこれもお縫の差し金よ。なんといっても役者は人気がだいいち、それにはいまからためになるひいきをつくっておかなきゃならぬと……」
「しかし、親分、あの細っこいからだで、おなじ晩に、ひいきとひいきがかち合ったらどうするんで」
「だからさ、さるお茶屋のおかみにむかって、梅丸は泣いていったそうだ。こんなあさましいことをやらなきゃ、りっぱな役者になれないようなら、わたしゃ役者にならなくてもいいって……」
「そらまたかわいそうに。女さかしゅうして牛売りそこなうちゅうのんは、お縫みたいな女のことをいうんだっせ」
豆六はお株をやっている。
「まあ、そういうこったな。そこへもってきて、じぶんのおふくろと喜兵衛の仲をしってみねえ。気の弱い子なら、たいてい死にたくもなりますね」
「そやそや、母と子がおなじ男に、おもちゃにされてたんやさかいにな」
「しかし、親分」
と、辰は思い出したように、
「お縫が眉間《みけん》のかけたきつねを持って、ここへやって来たのはどういうんで」
「あっはっは、あれか、あれは豆六大先生のおっしゃるとおりよ」
「と、いやはりますと……?」
「なあに、女さかしゅうして牛売りそこなうで、おれをこけにしようとしやアがったんだ。千代太郎にもしものことがあってみろ、いちばんに疑われるのはじぶんだ。だから、予防線を張って、だれかが千代太郎をのろうていると、吹きこみにきやアがったんだ。あのときのお縫の口ぶりじゃ、鯉之助に罪をきせるつもりだったんだろうな」
「それにしても、親分、千代太郎というやつは、えらいやつじゃありませんか。競争あいての鯉之助をかばったばかりか……」
「継母《ままはは》のことなんども、ひたかくしにしてましたなあ」
「そうよ、なかなか腹のすわったやつだ。あいつはいまに大物になるぜ」
佐七の予言ははずれなかった。
千代太郎はのちに、二代目歌十郎をついで、古今のまれものといわれるほどの名優になったが、これはずっとのちの話である。
どくろ祝言
朝帰り辰と豆六
――六本指の骨なし子
「なあ、豆六、ありゃほんとに、薄っ気味のわるい話だなあ」
「ほんまにイな。わてもう気色がわるうて、ゆんべはろくに、寝られしまへなんだがな」
「おれだってそうよ。やっと、とろとろ眠ったかと思うと、六本指の骨なしの化け物が、胸のうえからおっかぶさってきて……目がさめたときはぐっしょり汗よ」
「ほんまにけったいな話やなア。親の因果が子にむくいいいまっけど、いったい、どないな因果がおますねんやろなア」
「ふむ、こりゃアなにか、よっぽど深い子細があるにちがいねえぜ」
もっともらしく首をふりふり、真顔になってこんな話をしているのは、いわずとしれた辰と豆六。
開けっぱなしたとなりの部屋では、佐七とお粂《くめ》が、ともすればにやつきそうになるのを、たがいに目顔でたしなめながら、わざとむつかしい顔をして、ふたりの話を聞くでもなし、聞かぬでもなし、という態度をとっている。
辰と豆六は情けなさそうな顔をして、おりおり、となり座敷に目をやりながら、
「でも、兄い、あの男、ちょっと男前だったやないか、それに、たんかもよう切れよった。兄い、ひとつ、あのたんかのまねしてみなはれ」
「おお、そうそう、なんだか、おだやかならぬことをいやアがったな。てめえら深雪《みゆき》さまを座敷牢《ざしきろう》におしこめて、干し殺してしまうつもりだろ。もし、そんなことがあったら、ただじゃおかねえから、そのつもりでいろと、すごいけんまくなのはよかったが、あとでおいおい泣き出したのは、ちょっとだらしがなかったな」
辰と豆六は、そんな話をしながらも、しきりに、となり座敷をうかがっている。
しかし、当のとなりの座敷では、佐七はあいかわらず、せっせと十手をみがいているし、お粂はお粂で、冬物の支度によねんがなく、てんでとりつく島がない。
辰と豆六は情けないかおを見合わせて、ほっとふかいため息である。
辰と豆六がなんでまた、こんな情けない破目にたちいたったかというと、それはこうである。
きのう、ふたりで、王子へ用たしにいったのはよかったが、おそくなったのを口実に、かえりに根津の怪しげな家へ泊まってしまった。
佐七もお粂も野暮ではない。
まだわかいのだからと、たまに遊んでくるぶんには、なんにもいわないばかりか、ときには気を利かして、小遣いを出して遊びにやることもある。
ところが、ここんところへきて、辰と豆六の外泊がつづいた。
「ちょっと、おまえさん、すこし目にあまりますよ。たまにゃお灸《きゅう》をすえなきゃ……」
と、お粂が佐七をけしかけているところへ、またぞろゆうべの外泊である。
「よし、あしたかえってきたら、うんととっちめてくれる。お粂、おまえも甘い顔見せるな」
と、夫婦がしめしあわせて、待ちかまえているところへ、かえってきた辰と豆六にしても、はじめから、はなはだ敷居が高いのである。
しかし、そこはなんとかあやまって……と、いささかたかをくくっていたところが、てんでいけない。
お粂も佐七も、ろくすっぽ口をきいてくれないのである。
佐七はジロリと、ふたりのおもてに目をくれたきり、せっせと十手の研摩作業にいそしんでいるし、お粂はお粂で、冬物縫いあげ工作にいそがしい。
しかも、お粂の縫っているのが、どうやら辰の着物らしいから、ふたりはいよいよ申し訳がない。
そこで、なんとかおふたりさんのごきげんをとりむすばんものと、つぎの間から、ちょいちょい顔色をうかがいながら、かくは辰と豆六のかけあいばなしとなったわけである。
「どっちにしても、うすっ気味のわるい話よ。六本指の骨なしっ子……ぶるぶるぶるッ、とうとうゆうべは、うなされどおしで寝ずじまいよ」
「わてかてそうやがな。あんな話、聞いたら寝られまっかいな。そこらじゅうから、六本指の骨なし子が、うじゃうじゃ、ほうてくるような気がして、夜っぴて、まんじりともしやしまへんがな」
辰も豆六も、さかんに六本指の骨なし子と、ゆうべろくに寝なかったということを強調している。
佐七はおかしいやらかわいいやら、またいっぽう、さっきから大いに好奇心もあおられて、よっぽど口をききたくなっているのだが、そばからお粂が目顔でたしなめるものだから、わざとしかつめらしい顔をして、
「えへん、えへん」
辰と豆六は、また情けなさそうにため息をついたが、これではならじと、
「だけどなあ、豆六、深雪という娘のうんだ六本指の骨なし子な、その子の親てえのは、やはりあの色男の、五郎三郎という野郎だろうか」
「そうだっしゃろ、兄い、そやかて、五郎三郎のやつ、いうてましたやないか。深雪さまのうんだ子はおれの子や、せめてその子に、ひとめ会わせてくれちゅうて……」
「そうそう。すると、五郎三郎というやつは深雪という娘のうんだのが、そんな因果もんで、しかも、死んでうまれたってこと知らねえんだな」
「そら、そうやがな、ゆんべの按摩《あんま》の話では、取りあげばばあに金やって、かたく口止めしてあるちゅう話だすさかいな」
「それにしても、深雪というのは、小藩にしろ、もとは家老の娘だというのに、とんだ因果もんをうんだもんだ」
「そやさかいに、兄い、これにはよっぽど、ふかいしさいがあるにちがいおまへんぜ」
と、辰と豆六はしたり顔に小首をかしげたが、ここまできくと、佐七もこれ以上辛抱ができない。
がらりと十手を投げだすと、
「辰、豆六、ここへ来い。いったい、六本指の骨なし子だの、座敷牢だの、家老の娘だのと、そりゃアいったいどういう話だ」
「へ、へ、へえい!」
やっとおことばがかかったから、となりの部屋へとびこんだ辰と豆六。
「お、親分、あねさん!」
「堪忍しとくなはれ、これから気イつけまっさかいに……」
ふたりとも、手ばなしで泣きだしたところをみると、きょうのお灸《きゅう》は、よほど身にこたえたらしい。
深雪《みゆき》五郎三郎
――うまれたのは六本指の骨なし子
さて、さっきから、思わせぶりににおわせていた辰と豆六が、佐七にたずねられて、あらためて語るところによるとこうである。
きのう王子へ出かける途中、辰と豆六が通りかかったのは根津清水谷。
そのへんはちょうど、町と村とがいりまじったようなところで、町家がならんでいるかと思うと、すぐそのむこうは、田んぼや植木屋の植えだめがつづいている。
その町はずれに、ひときわ目立つ大きなかまえの家があったが、その家の通用門のまえまでくると、そこに五、六人、百姓や物売り、植木屋の下職らしいのが立っていて、門のなかをのぞいている。
しかも、門のなかから、ののしり騒ぐ声がきこえるので、なにごとだろうと、辰と豆六が足をはやめて近づいたとたん、門のなかからつき出されたのは、二十二、三のいい男だ。
髪を撥鬢《ばちびん》に結って、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と大きくちらした縮緬《ちりめん》のあわせを着ているところをみると、ひとめでしれる遊び人、そうとういい顔らしい。
つき出された男は目を血走らせ、くやしそうに歯ぎしりしながら、
「おのれ、よくもおれを手ごめにしやアがったな。さてはおのれら、深雪さまを座敷牢におしこめて、干し殺しにするつもりだろうが、そうはいかねえ。この五郎三郎がついているからにゃ、このままじゃすまねえからおぼえていろ!」
たんかを切りつつ、もういちど門のほうへひきかえしたが、その鼻先へ、ばたんとなかから戸がしめられて、ほうりだされたのは駒下駄《こまげた》だ。
「畜生ッ、ひとをこじきか非人のように……」
と、くやし涙をうかべながら、それでも、はだしの足に駒下駄をつっかけると、しばらくしょんぼり思案をしていたが、やがてまた門の戸にとりすがり、
「もし、ご用人さん、安達《あだち》さま、あっしが悪うございました。声を荒立てたのは、あっしの不調法、あやまります。かんにんしてください。そのかわり、ひとめ……ひとめでよろしゅうございますから、深雪さまに会わせてください。深雪さまに会うのがいけなければ、ひとめ子どもに……深雪さまのおうみあそばしたのは、あっしの子どもにちがいございません。もし安達さま、ご用人さま。ひとめ子どもに……」
野次馬はおいおい多くなってくる。
五郎三郎の狂態に目ひきそでひき、ひそひそ話をかわしている。
辰と豆六は顔見あわせた。
しかし、五郎三郎はひとめの関もなんのその、通用門にとりすがって、男泣きに泣きながら、しばらくくどくどかきくどいていたが、なかからはなんの返事もない。
そのうちに、五郎三郎も気が落ち着いたのか、それとも野次馬の目に気がついたのか、しょんぼりと首うなだれて立ち去った。
そのあとで、辰が野次馬のひとりをつかまえてたずねてみると、その若者は六字の五郎三郎といって、根津から本郷小石川へかけて、そうとう顔を売っている、いわゆる男伊達《おとこだて》というやつらしかった。
「なるほど、それで、辰、その五郎三郎というのが、そこの娘の深雪という娘とねんごろになって、子どもまでもうけたというんだな」
佐七もひざをのりだしていた。
「へえ、そうらしいんです」
「ところで、そのうちというのはどういううちだ。ご用人さんがいるところをみると、お武家かえ」
「いえ、親分、それがそうじゃねえんで。もとはお武家だったそうですが、いまは浪人しているんで。親分、こういう話なんですよ」
いまから五、六年まえにお取りつぶしになった奥州|棚倉《たなくら》五万石、五島|山城守《やましろのかみ》の家中に、萩原《はぎわら》作之進という人物があった。
わかいころ、江戸にいたことのある作之進は、主家がつぶれて浪人すると、江戸へでてきて、根津清水谷いったいに、そうとうの地所家作をかって、いちやくそのへんの大地主になりすました。
それいらい、あんのんに日を送っていたが、昨年作之進夫婦はあいついで、はやり病かなんかでなくなって、あとにのこされたのがひとり娘の深雪《みゆき》で、そのとき、深雪はまだ十七、作之進の遺言によって、用人の安達十右衛門夫婦が、それいらい、守りそだててきたのである。
「なるほど。ところで、その深雪というのが、六本指の骨なし子をうんだというのはどういうんだ」
「へえ、親分、それはこうなんです」
と、辰と豆六が、首をひねりながら語るところによるとこうである。
きのうふたりが使いにいったのは、王子の喜三郎という親分のもとだったが、そこでおそくなったので、喜三郎のおかみさんが気をきかして、かえりに根津であそんでおいでと、いくらかつつんでくれた。
そこで、辰と豆六は、しめたとばかりに、根津の増田屋といううちへあがった……。
「が、悪いことはできねえもんで、まんまと振られて、おんなはきやアしません。ぼんやり待ってるのもつまらねえから、部屋へ按摩《あんま》をよんだんです。豆六もちょぼちょぼで、あっしの部屋へあそびにきておりました。ところが、その按摩というのが沢の市といって、清水谷の萩原の家作に住んでいるというんで……」
「萩原というのは、つまり深雪のうちだな」
「そうだす、そうだす。作之進さんの身代は、みんな深雪のもんになるわけだす」
「ふむふむ、なるほど。それで……?」
「それで、あっしゃ、萩原のうちのことを聞いてみたんです。深雪という娘があるそうだが、子どもをうんだというのは、ほんとの話かってね」
「ふむふむ。それで沢の市がなんといったんだ」
「はじめはなかなか、はかばかしく返事をしませんでした。しかし、なにかわけがありそうなくちぶりなんで、豆六とふたりで、いろいろ聞きほじっているうちに、とうとうそいつが漏らしたんです。深雪はいまから三月ほどまえ、すなわち六月のおわりに子をうんだんですが、それがなんと、両手の指が六本ずつある骨なしで、そりゃもう、ふためとみられぬ化け物が、それでもいいぐあいに……といっちゃなんだが、死んでうまれたそうです」
佐七もおもわずお粂と顔を見合わせて、
「しかし、辰、沢の市という按摩は、どうしてそんなことをしってるんだ。あのかいわいじゃ評判なのか」
「いや、それがそやおまへんねん。萩原のうちでは、用人安達十右衛門のいいつけで、ぜったいに内緒にしてまんねんけど、沢の市の女房のお角というのが、取りあげばばあで、その骨なしっ子を、取りあげたんやそうだす」
「まあ、しかし、深雪さんという娘、よく血がのぼらなかったことだね」
「いや、血はのぼらなかったそうですけれど、それいらい、みずから座敷牢みたいなところにとじこもって、十右衛門夫婦以外には、ぜったいだれにもあわないそうです。たぶん、そんな因果もんをうんだのを、恥じたんでしょうね」
「ところで、その子の父親が五郎三郎だとすると、ふたりはいい仲だったんだな」
「へえ、それも沢の市の話なんですが、深雪のおやじの作之進というのが、五郎三郎の気っぷをかわいがって、なにかと、うしろ盾になってたそうです。だから、五郎三郎は作之進さんの生前もその死後も、よく萩原のうちへ出入りをしてたといいますから……」
「いったい、その五郎三郎というのは、どういう素姓のもんだ」
「さあ、それは……そこまでは聞きませんでした」
「萩原のうちにゃ親戚《しんせき》はねえのか。深雪のたよりになるような」
「さあ、それも……」
と、辰と豆六は頭をかきながら、
「つい、聞きもらしました」
佐七とお粂はにが笑いをして、
「ところで、辰、豆六、それからおまえたち、どうしたんだ」
「どうしたとは……?」
「ほっほっほ、増田屋へあがって、按摩をとっただけで、かえってきたかということだよう」
と、お粂と佐七にからかわれて、
「いや、もう、あねさん、親分」
「ええかげんに、かんにんしとくれやす」
と、辰と豆六が頭をかかえて、畳にひたいをこすりつけたところをみると、ゆうべの首尾は、まんざらではなかったらしいのである。
按摩《あんま》沢の市
――人殺しだア、だれかきてえ!
辰と豆六の話をきくと、なるほど、うす気味わるい話にはちがいないが、さりとてかくべつ、犯罪のあったというわけでもない。
ただ深雪という娘が座敷牢に押しこめられているというのが気になるが、それも、あさましい因果者をうんだところから、いささか逆上しているとすれば、これもむりのない話だ。
けっきょく、佐七はその話を、忘れるともなく忘れてしまったが、それから半月ほどたって、こんどはじぶんで王子の喜三郎のところへ出向いていかねばならぬ用事ができた。
喜三郎というのは、佐七にとっては古い先輩で、むかしは谷中《やなか》から根津、日暮里《にっぽり》あたりへかけて、ひろいなわ張りをもっていた御用聞きだが、いまではそれを子分にゆずって、老妻のお常とともに、王子のへんで楽隠居、御用聞きあがりというより、お店《たな》のご隠居といった人柄である。
「おや、お玉が池の、きょうはひとりか。辰や豆六はどうした」
「へえ、あいつらはほかに用事があったもんですから、きょうはあっしひとりです」
「そうそう、このあいだ、辰と豆六がきてこぼしてたぜ。いつかここからのかえりがけ、根津へしけこんだら、えろう親分やあねさんにしかられたって、あっはっは。まあ、あいつらも若いんだから、勘弁してやんねえ」
「なあに、たいていのことは、大目にみてるんですが、あのころ、ちょっとつづいたもんだから、お灸《きゅう》をすえてやったんです」
「あっはっは、辰と豆六、ご乱行とおいでなすったかな。ところで、お玉が池、きょうは……?」
「へえ、じつは……」
と、佐七が持ってきた用事は、かくべつむつかしいものではなく、小半刻《こはんとき》ほどの談合で話はきまったが、喜三郎はあいてほしやで、
「お玉が池、久しぶりだから、きょうはゆっくりしていきねえ。かえりに根津で、あそんでいけとはいわねえから。あっはっは」
「いや、親分がいいなすったからって、ひとつうわきをしていきますかな」
「およしなさいよ。お粂さんにしかられるよ。おまえさんもばかだねえ。お玉が池もまだ若いんだから、そそのかすようなことをいうもんじゃありませんよ」
このあいだのことがあるから、お常はやっきとなってとめている。
佐七は笑って、
「それはそうと、親分は根津清水谷にある萩原さんってうちをご存じですか」
と、佐七が切りだすと、喜三郎はまゆねをくもらせて、
「そうそう、その話だが、おれも、辰や豆六に話をきいておどろいた。深雪って娘がててなし子をうんで、座敷牢に入ってるってな」
「親分はあのうちを……?」
「ああ、よくしってる。作之進さんがお亡くなりなすったときも、おれゃいろいろ、お手伝いをしたもんだ」
「それじゃ、かくべつ怪しいことのあるうちでもねえんですね」
「そんな話はきかねえな。作之進さんてえのが、物のわかったいいひとでな、そりゃもとがお武家……それも小藩にしろ、ご家老の家筋だから、大小捨てても、いくらか格式ばったところのあるひとだったが、それもつとめてこちとらと調子を合わせるようにしていなすった」
「それにしても、思いきったもんですね。いかに主家がつぶれたからって、かりにも家老ともあろうものが、すぐに大小捨てて、江戸へでてきて地主様になろうとは……」
「まあ、目先が見えたんだろうな。こちとらにゃわからねえが、お家再興などおぼつかねえってこと、しってなすったんだね。それに、そうそう、お家がつぶされたときにゃ、すでに仏になっていなすったそうだが、先殿の……なんとかいいなすったな。そうそう、景之《かげゆき》様といいなすったかな。そのかたと年輩もおなじくらいだし、うまもあって、主従というより、仲のよい友だちみてえなもんで、江戸にいる時分、よくお忍びの野がけのお供をしたもんだと、とてもお懐かしがりなすって、その景之様がご病気で、お亡くなりなすったときに、すでに武士を捨てたいと思ったと、いつか述懐していなすったが……まあ、ああいうところも、いろいろ面倒なことがあるんだろうよ」
「ときに、萩原様にはご親戚《しんせき》がねえんですか。用人の安達十右衛門さんというのが、深雪さんの面倒をみているそうだが……」
「いや、作之進さんの腹ちがいの弟がひとりあるんだ。おなじ家中のもんのところへ養子にいって、池田伝二郎というんだが、やはり浪人して、下谷へんで占い者なんかしているらしい。作之進さんは、このひとが出入りするのを、あんまりよろこばなかったようだな」
「ところで、用人の安達というのはどんなひとです」
「ああ、これはもう実直な忠義もんでな。かりそめにも主人のお嬢さんを座敷牢へいれなきゃならんとすると、よくよくのことにちがいない。おれもこのあいだ、辰や豆六からはじめて聞いておどろいたが、いちど見舞いにいってみようと思っている。それにしても、六本指の骨なし子をなあ」
喜三郎はまゆをひそめて、ため息をついた。
「ところで、親分、深雪さんに、そんな因果な子をうませた五郎三郎というのは、いったいどんな男です。きけば、作之進さんがごひいきにしていなすったとか」
「ああ、ありゃりっぱな男だ。男っぷりはいいし、度胸はよし、若いににあわず分別はあるし、作之進さんもだいぶほれていなすったようだが、それにしてもふしぎだな。あのふたりのあいだに、因果もんみたいな子ができるとは……よっぽどいい子ができそうなもんだのに……」
喜三郎も小首をかしげていたが、とはいえ、五郎三郎がどういう素姓のものか、そこまではしらなかった。
「お玉が池、おまえがそんなに気になるなら、いちど萩原さんのところへ見舞いにいって、それとなく、ようすをさぐってこようか」
「へえ、べつに気になるってんじゃありませんが、もし、そうしていただければ……」
その日、佐七はおそくまでひきとめられて、王子を出たのが五つ(八時)ごろ。
「ほんとに、おそくまで引きとめてすまなかったね。うちのひとときたら、あいてほしやで困るんですよ。駕籠《かご》でも呼ぼうか」
「いいんですよ。月がいいから、ぶらぶら歩いてかえります。おおきにごちそうさんでした」
「お玉が池、根津は鬼門じゃぞよ。粂ちゃんにわるいからな。あっはっは」
「ご冗談でしょう。では、ちょうちんかりていきます」
ほんのりと酒に酔うたほおに、秋の夜風がこころよかった。
空は秋らしくさわやかに晴れて、ちょうちんもいらぬくらいの月の夜道を、それからまもなくやってきたのは根津清水谷、萩原家の大きな門のまえを通りすぎて、暗い横町へ入ろうとするとき、とつぜん、路地のおくから、
「人殺しだア、だれかきてえ!」
佐七が思わず立ちどまったところへ、路地のおくからとびだしてきて、どすんとまともにぶつかったのは、ひとめで按摩《あんま》としれる盲人である。
しかも、そのうしろから、
「沢の市さん、沢の市さん、どうしたんだ。人殺しだって、いったいだれが殺されたんだ」
と、くちぐちにさわぐ長屋の連中の声をきいて、佐七は、ぎょっと盲人の顔をみなおした。
六字五郎三郎
――あっしゃ深雪さんと祝言する気で
殺されたのは、沢の市の女房お角、いうまでもなく、深雪のうんだ六本指の骨なしっ子をとりあげた取りあげばばあである。
四畳半と六畳のふた間ある、わりに小ぎれいなおくの六畳でお角は手ぬぐいででも絞められたのか、虚空をつかんで、あおむけにひっくりかえっていた。
縮れっ毛の、みにくい四十女が、くわっと白目をむいているところがものすごい。
「沢の市さん、これはおまえが見つけたのか」
佐七がたずねると、沢の市は見えぬ目をくしゃくしゃさせながら、
「は、はい……こんやは下腹がしくしく痛みますので、早じまいにしてまいりますと、なんだかようすが変でございます。それで、手さぐりにさぐってみると、お角がつめたくなっておりまして……」
お角はまだ床にはいってはおらず、客でもあったのかうすい座布団に湯飲み茶わんが出ている。
しかし、客は茶わんに手もかけなかったらしく、出がらしの番茶がくろく濁っている。
「沢の市さん、今夜、客があるというようなことを、おまえさん、聞いちゃアいなかったかえ」
「いいえ、わたしゃなんにも聞いておりませんが……」
「どなたか今夜このうちに、客のあったのをご存じじゃございませんか」
佐七が格子のそとへ声をかけると、さっきからそこに立って、ひそひそ話をしていた、長屋の連中のひとりが、おそるおそる、
「はい、あの、一刻《いっとき》ほどまえに、ひとりおみえになったようです」
「男かえ、女かえ、おまえさん、それがどういうひとかしらないかえ」
格子のそとの連中は、不安そうに顔を見合わせていたが、なかのひとりが思いきったように、
「はい、あの、よく存じております。いえ、ここにいる連中はみんなしっているひとです。あのひとがどうしてお角さんを訪ねてきたのかと、みんなふしぎに思っているんです」
「あのひとって、いったいだれだえ」
佐七がじれったそうに尋ねると、
「はい、あの、六字五郎三郎の親分で……」
佐七はそれをきくと、ぎょっとしたように目をみはった。
「五郎三郎がどうしてここに……」
「はい、あの、それですから、わたしどももふしぎに思っているんです。ひょっとすると、萩原さんのお嬢さんのおうみなされたお子さんのことについて、お尋ねにこられたのではございませんでしょうか」
かくすより現るるはなしで、深雪のうんだ子どものことについては、もう、みんなしっているらしい。
「それで、五郎三郎のようすは、いったいどんなふうだったえ。お角を殺しそうなけんまくだったのか」
「いえ、べつに……わたしゃかえっていくところを見ましたが、なんだか、とってもしょんぼりしておいでなさいました」
「どうだえ、そのとき、お角はまだ生きていたろうか」
「さあ、それは……」
一同は顔を見合わせている。
死体のようすからみると、お角はたしかに、だれかと対座をしているところを、だしぬけにおどりかかって、絞めころされたらしいのである。
「五郎三郎がかえってから、ほかにだれか、訪ねてきたようすはねえか」
「さあ、それはいっこう……」
ほかにだれか訪ねてきたとしたら、きっと、こっそりやってきたにちがいないと一同は答えた。
お角は取りあげばばあのほかに、中条流の堕胎もやっていたらしく、ひとめをさけて、こっそりやってくる客も、めずらしくなかったらしい。
「沢の市、おまえ、五郎三郎のほかに、だれかお角を殺すようなやつに心当たりはねえか」
「はい、あの、それがいっこうに……お角とわたしは、夫婦ぐらしをしているというものの、金のことやなんかはまったくべつで……金のことになると、お角はそれはそれはきびしい女でございましたから」
佐七はもういちど、お角の死に顔に目をやった。
その顔はいかにも因業そうで、物欲のたくましさをしめしているように思われる。
こころみに佐七が、五郎三郎の住まいをきくと、すぐわかった。
五郎三郎の住まいは須賀《すが》町で、ここからあまり遠くないところにある。
おりから駆けつけてきた町役人にあとをまかせて、佐七はことのついでに須賀町へまわった。
五郎三郎はまだひとりものの、としも二十二か三だというのに、住まいはかなりりっぱで、わかい者もそうとう大勢いるらしかった。
佐七が名前を名乗って、五郎三郎にあいたいとい、と、わかいものは、うさん臭そうな一瞥《いちべつ》を佐七にくれて、そのままおくへひっこんだが、二度めにあらわれたときには、かなり態度がかわっていた。
「どうぞ、こちらへ……親分がお目にかかるとおっしゃてでございます」
と、ていねいにとおされたおくの座敷で、待つまほどなくあらわれたのは五郎三郎。
「いや、お待たせいたしました。ちょうど床に入っておりましたもんですから」
応対もみごとで、なるほどよい男っ振りだ。
色白の小太りにふとった肉付き、背もたかく、それに膚のきれいなことは、羽二重のようにつやをおびて光っている。
「いや、夜分に押しかけてきてすみませんが、おまえさんは今夜、取りあげばばあのお角を訪ねておいでなすったそうですね」
五郎三郎は、ちょっとまゆをひそめたが、
「はい、まいりました。それについて、なにかご不審の点でも……」
「どういうご用件で……?」
五郎三郎は佐七の顔色をさぐるように見て、
「あるお女中のうんだ子どもについて、いろいろ風評があるもんですから、それをたしかめにまいりましたんで」
「あるお女中というのは、萩原さんのお嬢さん、深雪さんのことですね」
五郎三郎は、また佐七の顔をみて、
「はい、さようで」
「で、お角はなんと申しておりました」
「みつくちで、六本指の骨なし子、化け物のような赤ん坊が、死んでうまれたから、そのまま葬ったと……」
五郎三郎はさすがに声をふるわせた。
「五郎三郎さん、それがおまえさんの子どもなんですね」
「はい」
五郎三郎は顔もあからめずにきっぱり答える。
「しかしねえ、五郎三郎さん。こんなことをいっちゃなんだが、おまえさんは、萩原さんのだんなには、ひとかたならぬお世話になったという話。若気のいたりとはいえ、祝言もしねえで、そんなことをしていいんですかえ」
「親分、そういわれると恐れいりますが、あっしゃ若気のいたりなどとは申しません。あっしゃ深雪さんが好きなんです。深雪さんもあっしよりほかに男はないといってくれます。それに、お亡くなりなすっただんなも、その気でいられたんじゃねえかと……もちろん、だんなの一周忌がすんだら、祝言するつもりでおりました。それだのに、そんな子がうまれて……」
五郎三郎は暗涙をのむような語調である。
佐七はまじまじその顔をながめながら、
「ときに、五郎三郎さん、おまえさんがかえるとき、お角は生きていましたか。おまえさん、まさか怒りにまかせて、お角を絞め殺しゃしなかったでしょうな」
五郎三郎はびっくりしたように目玉をむいて、
「親分、お角が……どうかしたんですか」
「お角は殺されましたよ。じぶんのうちで、絞め殺されていたんです」
五郎三郎はぼうぜんとして、佐七の顔をみつめていたが、なに思ったかその面上には、むらむらと怒りの色がこみあげてきた。
畜生道
――あわれ深雪はみずから座敷牢《ざしきろう》へ
「やあ、お玉が池、このあいだは、おそくまで引きとめてすまなかった」
王子の喜三郎がまたぶりかえした残暑のなかを、わざわざお玉が池へやってきたのは、それから三日目のことだった。
「おや、親分、わざわざどうも……御用があれば、こちらから出向きましたのに……」
「あっはっは、そう年寄りあつかいしなさんな。おれだって御用とあれば、骨惜しみはしやアしねえ。これでもむかしとった杵柄《きねづか》でな」
「親分、御用とおっしゃると」
「しらばくれなさんな。取りあげばばあのお角が、殺されたというじゃないか。まさか、ほかのことで殺されたというんじゃあるまいな」
佐七はだまって、喜三郎の顔を見ていたが、やがてにんまり笑うと、
「親分、深雪さんのうんだのは、ほんとに、六本指の骨なし子だったんですか」
「ああ、それはまちがいないようだな。きのう萩原さんのとこへいって、安達さんやお内儀のお岸さん、それから、当の本人の深雪さんにも聞いてみたが、みんなおじけをふるってな。それはそれは、薄っ気味わるい赤ん坊だったそうだ」
「深雪さんにも、お会いになったんですか」
「ああ、会ったよ」
喜三郎は顔をしかめて、
「かわいそうに、あの娘はみずから、座敷牢《ざしきろう》にとじこもって、安達さん夫婦のほかには、だれにも会わぬことにしてるそうだが、食事もろくろくとらぬそうで、それこそ、骨と皮にやせ細って、あのかわいい娘がまるで骸骨《がいこつ》だあね」
「まあ」
お粂もそばで息をのんで、
「いくらそんなかたわの子をうんだからって、なにもそんなじぶんから、座敷牢に入らなくても……」
「ふむ。それがおかしい。それで、わしはむりに、座敷牢へ押しかけたが、あの娘はわしの顔をみるなり、おじさん、わたしは畜生道におちました。その天罰であんな因果な子をうんで……と、わっと泣きだしたんだが、佐七、おまえ、これをどう思う……?」
「畜生道……?」
佐七はおもわず、お粂と顔を見合わせた。
「親分、それじゃ、深雪さんと五郎三郎は……?」
「うむ、そういうことになるな」
喜三郎はけろりといったが、きゅうにまた改まって、
「いや、お玉が池、じつをいうと、おれも深雪さんのことばにゃ驚いたんだ。そこで、安達さん夫婦を責めて、どろを吐かせた……といっちゃなんだが、きいてみたところが、あの五郎三郎というのは、作之進さんが若いころ、江戸にいたじぶん、さる女にうませた子らしいということが、作之進さんの死後になってわかったんだね。深雪さんはそれを聞いたとき、のけぞるばかりに驚いたそうだが、ときすでに、五郎三郎のたねを宿していたというわけだ」
「親分」
佐七はじっと、喜三郎の顔をみながら、
「どうして、そんなことがわかったんですか」
「池田伝次郎……ほら、このあいだも話した、作之進さんの腹ちがいの弟な。そのひとが調べたんだそうな。どうして作之進さんが、五郎三郎をあんなにかわいがるのか、それがふしぎだというわけだな」
「そして、親分、そのことは間違いないんでしょうねえ」
「ふむ、おれもそれをきくと驚いた。それでさっそく、きのうからきょうへかけて、じぶんの手で調べてみたが、いまのところ間違いはなさそうだよ」
喜三郎は暗澹《あんたん》たる顔色だった。
かれの話によるとこうなのだ。
五郎三郎の生母は、染井の植木屋の娘でお美代《みよ》といったが、いまから二十二、三年まえ、ふとしたことから、武士とちぎってみごもった。
あいての武士は奥州|棚倉藩《たなくらはん》の家中で、萩原作之進と名乗っていたが、五郎三郎がうまれるまえに、参勤交代で帰国した。
帰国してからも、作之進からはたよりがあり、おりおり金子もとどいた。
そのうちに五郎三郎がうまれたので、お美代は作之進のまたの出府を指折りかぞえて待っていたが、そのうち、作之進が主君のおとりもちで結婚したといううわさが、風のたよりにきこえてきたので、お美代は悲嘆のあまり、とうとう落命してしまった。
五郎三郎の数奇な運命は、それからはじまる。
お美代がなくなったのは、五郎三郎の三つのときだったが、それからまもなくお美代の両親、すなわち五郎三郎の祖父母があいついでなくなった。
五郎三郎はしばらく、伯父夫婦のもとにやしなわれていたが、五つのとしに本郷森川宿にすむ、ひといれ稼業《かぎょう》、だるまの金兵衛というもののもとへもらわれていった。
それがげんざい、六字の五郎三郎として売り出すさいしょの足がかりとなったというのである。
佐七はだまって話を聞いていたが、
「親分はその話を、だれからお聞きでございました」
と、話がおわるのを待って、おだやかに尋ねた。
「むろん、さいしょは安達さんに聞いたんだが、念のために五郎三郎のじつの伯父《おじ》、松蔵というものにあってたしかめてみた」
「しかしねえ、親分、それなら五郎三郎自身、じぶんの素姓を、しってるはずじゃありませんか。しってるとしたら、腹ちがいとはいえ、じぶんの妹とちぎるようなことは……」
「いや、ところが、松蔵のいうに、五郎三郎はそれをしるまいというんだ。いままでいちども五郎三郎と、そんな話をしたことはない。じぶんが話さなければ、だれもほかに、しってるものはないはずだ、と、こう松蔵はいってるんだがな」
「それを深雪さんの叔父《おじ》さんの、池田伝次郎さんが聞き出したというんですね」
佐七はだまって考えこんでいたが、
「ときに、親分、深雪さんのお産のときにゃ、安達さんご夫婦は、立ちあったんでしょうね」
「そりゃ立ちあったろうよ。だいじな主人の娘……というより、いまじゃご主人だからな」
「いえ、あの、ほんとに子どもが、おなかから出るところを、その目でふたりは、ごらんになったんでしょうかねえ」
喜三郎はびっくりしたような顔色で、
「さあ、それは……お内儀のお岸さんは立ち会ったろうが、十右衛門さんは男だから、どうだろうかな」
「親分、そこんところをもういちど、たしかめてみてくださいませんか。お内儀は化け物のような骨なし子が、ほんとに深雪さんのおなかからうまれるのを、その目でごらんになったかどうか……」
喜三郎は大きく目玉をひんむいて、穴のあくほど佐七の顔をみつめていたが、せきこんで、なにかいおうとするところへ、辰と豆六が、いきおいよく駆けこんできた。
「親分、親分、わかりました。萩原の深雪がお産をするまえの日に、やはりお角がとりあげた……あ、こ、これは王子の親分、おいでなさいまし」
喜三郎は、どきもをぬかれたような顔色で、佐七をはじめ、辰と豆六の顔を見くらべていたが、きゅうにあっと口のうちで叫ぶと、
「辰、いいからそのあとをつづけねえ。お玉が池、おれが聞いちゃいけねえか」
「いえ、かまいませんとも。辰、どうした、いってみろ」
「へえ、下谷の車坂にすむ権助というもののかかあが、深雪さんが子をうむまえの日に、やはり赤ん坊をうんで、お角がとりあげているんです。ところが、この権助てえのは青んぶくれの土左衛門《どざえもん》のような男、かかあのおかんは小塚《こつ》かなんかで商売をしてた女で、子どもができるのがふしぎだ。できるにしたところで、どうせ因果者のような子ができるだろうと、近所でうわさしてたところが、なんと、うまれた子をみると、これが玉のような男の子で……」
「辰、豆六……!」
佐七はきっと目を光らせて、
「そ、そして、その子は……?」
「うまれた翌日、死んだといって……」
「畜生!」
「親分、親分、ふしぎなんは、それだけやおまへんぜ。権助おかんのすんでいるおなじ長屋に、深雪さんの叔父《おじ》の池田伝次郎がおりまんねん」
「お、お、お玉が池!」
喜三郎がなにかいおうとするのを、佐七はちょっと片手でおさえて、
「辰、豆六、それで車坂の長屋では、おまえたちが調べにいったということに、気がついているんだろうな」
「へえ、あいにく長屋のなかに、あっしどもをしってるやつがいたもんですから」
「親分、いけまへなんだやろか」
「いや、いいんだ。王子の親分」
「うむ、うむ、お玉が池の」
「こいつはちょっと、おもしろい芝居が見られそうですぜ」
佐七はいかにも楽しそうに笑っていた。
悲恋の仮祝言
――それはどくろの祝言のようだった
「もし、池田のだんな、いやさ、池田さん、伝次郎さん、おまえさん、いったいあっしをどこへつれていらっしゃるんです。吉原へつれてってやるとおっしゃるから、ついうかうかとお供をしたが、吉原ならちょっと方角がちがいましょう。いくらあっしが酔っ払ってるからって、それくらいのことはわかりますぜ。ここは小塚《こづか》っ原《ぱら》のお仕置き場、こんなところへつれてきて、いったいあっしをどうしようとおっしゃるんです」
ひょろひょろと千鳥足で、舌もまわりかねるふぜいだが、それでも生酔い本性たがわずとやら、土左衛門の権助は案外性根がしっかりしていた。
「あっはっは、これはすまない。吉原へいこうと思ったが、ちょっとぐあいの悪いところがあってな」
権助はギロリと、あいての顔をぬすみみて、
「えっへっへ、ご冗談でしょう。ふところぐあいの悪いのは、いまわかったことじゃありますめえ。並木で一杯のんでるときから、ちゃあんとわかっておいでなすったはず。それをわざわざ小塚っ原の、ひとっ気もない暗がりまで、あっしをしょびいておいでなすったにゃ、なにか魂胆がおありのはず」
「権助、その魂胆というのはなんだろうな」
池田伝次郎というのは三十五、六。
色白のちょっとすごみないい男で、よほど心掛けがよくないかぎり、これじゃ、身が持てまいと思われるような人柄だ。
「えっへっへ、あっしゃバカだから、いたって血のめぐりは悪いほうだが、かかあはあれで、目から鼻へぬける女でしてね」
「ふむ、そのおかんがどうした」
伝次郎のまゆに、ふっと不安なかげが走った。
「いえさ。そのかかあに、このあいだから注意されてることがあるんです。取りあげばばあのお角さんが、だれかに絞め殺されたという話だが、こんどはこちとらの番かもしれねえ。おまえさん、池田のだんなに気をつけておくれよってね。あっはっは」
酔っぱらいとくゆうの胴間声が、やみの小塚っ原にこだまする。
池田伝次郎はきっとあたりに目をくばって、
「おかんがそんなことを申したか」
「ええ、申しましたよ。おっしゃいましたんで。しかし、ねえ、だんな、あっしゃそのとき、おかんにいってやったんです。べらぼうめ、こちとらなにも池田のだんなに命をねらわれるおぼえはねえ。おまえがうんだ骨なしの、六本指の赤ん坊の死体を、だんなとお角さんにさしあげたかわりに、つぎの日、かわいい赤ん坊の死体をもらっただけのことじゃねえかとね。ところが、おかんのいうにゃ、あの赤ん坊があやしい。お角さんの話じゃ。死んでうまれたというけれど、あれは池田のだんなの命令で、うまれるとすぐ、鼻と口をおさえて殺したにちがいねえと……ちぇっ、なにをしやアがる」
土左衛門の権助が、さっとひと足うしろへとびのいたので、池田伝次郎は抜き身をもったまま、たらたらと、二、三歩まえへよろめいた。
「おい、伝次郎さん、おまえさんはその腕で、おれを切る気でいなすったのか。おれはもう少し、できると思っていたよ」
「おのれ」
姿勢をととのえ、また切ってかかるのを、こんどもうまく体をかわして、
「もし、伝次郎さん、もすこし落ち着いて話を聞きねえ。おまえさんが、そうとうできると思いながらも、ここまでのめのめしょびき出されてきたというのは、おれにゃアちゃんと、守り神がついているからさ」
「守り神とは……?」
「あっはっは、悪党らしくもねえ、無用心なおかただ。並木の料理屋を出るときから、お玉が池の親分さんが、見えつかくれつ、ふたりのあとをつけてくださるのを、伝次郎さん、おまはん、気がつかなかったのかねえ」
それを聞くと、伝次郎は紙のように真っ白になり、半信半疑で、暗やみのなかをすかしていたが、とつぜん、身をひるがえして逃げだそうとする。そのうしろから佐七の声で、
「それ、五郎三郎さん、おまえさんの子どものかたきだ。ただし、命をとっちゃいけませんぜ」
「おのれ、池田伝次郎」
伝次郎はもちろん、五郎三郎の敵ではなかった。
五、六合わたりあっていたが、すぐに刀をたたきおとされ、逆腕とってねじ伏せられたところへ、
「池田伝次郎、御用だ!」
と、辰と豆六がおどりかかっていった。
さて、そのあとのことは、簡単に述べておこう。
五郎三郎は作之進の子供ではなかった。
五郎三郎の母のお美代がちぎったのは、作之進の主君、景之だった。
そのことは、守り袋にはいっているへその緒書きによって、五郎三郎もしっていたし、また作之進にも話をきいていた。
だから、そのことを、安達十右衛門や深雪に話しておけばまちがいは起こらなかったのだが、とつぜん、作之進が死亡したので、そのひまがなかったのである。
景之は作之進をつれてお忍びの野がけで、お美代を見染めてちぎったが、はじめのうち、作之進の名前をかりていたので、お美代の両親は、あいてが大名とはしらなかった。
景之は参勤《さんきん》交代で帰国したが、お美代をそのままにするつもりはなく、なんとかしようと思っているうちに病気で死んだ。
しかも、そのあと、お家騒動やなんかで、ごたごたしたあげく、お家がつぶれてしまったので、お美代も絶望のうちに、世を去ったのである。
作之進がこの土地に地所を買いしめ、地主となって落ちついたのも、仲のよかったご主君の、ご落胤《らくいん》の五郎三郎のうしろ盾になるつもりだった。
ここにあわれなのは深雪で、兄妹でちぎりを結んだとばかり信じた彼女は、うまれた子が、あさましいかたわものだったので、これも畜生道におちた罰かと、みずから座敷牢にとじこもり、食をたって死のうと決心していたのだ。
危ないところで、佐七の発見がもう少しおくれたら、深雪はほんとうに餓死していたろう。
悪いやつは伝次郎で、畜生道におちいったといえば、深雪が自害でもするだろうと思っていたところが、そういう気配も見えないので、さらに大きなショックをあたえるために、お角に命じて、うまれた子を取りかえさせたのだ。
目的はいうまでもなく、萩原家の財産にあった。
真相をしったときの深雪のよろこびは、いまさらここに申し述べるまでもあるまい。
骸骨《がいこつ》のようにやせ細った手で、深雪は五郎三郎に取りすがって泣いた。
佐七も喜三郎も、その場にいあわせたのだが、さすがに喜三郎は苦労人だ。
「ほんとの夫婦のかたらいは、深雪さんの体がよくなってからとしても、さしあたって祝言の杯をなすっては……」
それは深雪に、生きる希望を持たせるためだったが、だれもそれに異存はなく、その夜、さっそく仮祝言の式があげられたが、それはさながら、どくろの祝言のようで、ひとびとの涙をしぼらせたと、当時、世間で評判がたかかったという。
黒蝶呪縛《くろちょうじゅばく》
草双紙を読む佐七
――ことしのベストセラーやがな
「もし、親分、いったいどうしたものでござんすえ。朝っぱらから、草双紙ばかり読んでいるんじゃ、おてんとうさまにたいしても、申しわけありますめえ。親分、チョッ、いやんなっちまうなあ。読みだしたら、ひとのことばも耳に入らねえんだから――。ちょいと、あねさん、なんとかいっておくんなさいな」
朝湯のかえりとみえ、ぬれ手ぬぐいをぶらさげたまま、いましも表からとび込んできたのは、おなじみのきんちゃんくの辰。格子をひらくか、ひらかぬうちから、れいの早口でがなりだしたから、お粂はちょっとまゆをひそめて、
「おや、辰つぁん、どうおしだえ。いやにのぼせているじゃないか。お湯でも熱すぎたかえ」
「べらぼうめ、豆六じゃあるめえし、熱湯にゃ不死身のこちとらでさあ。そんなことじゃねえんで、一大事なんですよ。一大事|出来《しゅったい》」
「また、一大事かえ」
と、お粂はいっこうにおどろかない。
「おまえさんの一大事は、当てにならないからねえ。きのうなんかも、一大事って騒ぎたてるから、なにかとおもったら、おとなりのねこが子を産んだが、いったい、どこのだれが産ましたんだろう……なんて、バカバカしくてお話にならないよ」
「うっふっふ、いや、あれは冗談でげしたが、きょうのは正真正銘の一大事、まったくもって一大事なんで」
「どうだかねえ。とにかく、ここ当分はだめだろうよ。なにしろ、親分ときたら、あの本に夢中で、あたしがいくら話しかけても、まるで馬の耳に念仏なんだから」
と、お粂もじれったそうに、物指しでがりがりと、やけに頭をかいてみせる。
じつは、お粂も、ふたりっきりのさしむかい、このときとばかりにさきほどから、さんざ鼻声で甘えてみたのだが、本に気をとられた亭主の佐七が、いっこうにあいてになろうとしないから、業が煮えてたまらぬところなのだ。
「あれ、ごらんな、ああして読みながら、ひとりにやにや悦にいってるんだから始末におえない」
と、あてつけがましいお粂のことば。
なるほど、みれば人形佐七、縁側で、十月の日にぬくぬくと、しりをあたためながら、草双紙のページをめくっては、しきりに、にやにやほくそ笑んでいる。
お粂ならずとも、あんまりいい図とは申されない。
「チョッ、いやんなっちまうなあ、親分、もし、親分え、あれ、まだきこえねえのかな。ええっ、じれってえ、女こどもじゃあるめえし、だいの男の、しかも十手|捕《と》り縄《なわ》をあずかろうてえ身で、草双紙にうつつを抜かすなんて、みっともねえはなしだ。もし、親分――こいつはいけねえ。まるで夢中だ。おい、うらなり、てめえもすこしなんとかいいねえな」
「へえ」
と、まのぬけた返事をしたのは、大阪うまれの豆六という男。あおくて、長くて、しなびた色をしているところから、口のわるいきんちゃくの辰が、うらなり[#「うらなり」に傍点]なる異名を奉ったが、これもいま辰といっしょに、朝湯につかってきたとみえ、のっぺりとした顔を、てらてらと光らせている。
「へえ、わてがなにか、いわんなりまへんか」
と、辰とちがって、これはまた、いたってのんびりとした性分だ。
「そうよ、あんなに夢中になってちゃ、御用にもさしさわりがあらあ。いいからおめえ、あの本を取りあげてしまいねえ」
「そらいけまへん、そら殺生だす」
「殺生? なに、いいってことよ、親分がおこったら、おれがかわりに謝ってやらあ」
「いや、いややおまへん。わてがしかられることは、なんでもおまへんが、せっかく、おもしろそうに読んでいやはるもんを、横取りするなんて、そら殺生だすわ」
「なにをいやアがる。てめえ、やに親分の肩を持つじゃアねえか」
「いや、そういうわけやおまへんけどな。まあ、あねさんも、兄さん――やなかった、兄いも聞いておくれやす」
豆六め、ぬれ手ぬぐいをわしづかみにして、にわかにひらきなおったものだ。
「あんさんがたは、どうも、趣味ちゅうもんがのうていけまへんな。趣味のあるおかたやったら、そないな無茶なこといやはらしまへん。草双紙ちゅうたら、そらアおもしろいもんだっせ。親分さんが、あないに夢中にならはるのも、むりおまへん。だいいち、あの『胡蝶御前化粧鏡《こちょうごぜんけしょうかがみ》』ときたら、いま大人気の本や。つまり、ことしのベストセラーやな。読みだしたらしまいまで、いっきに読まんとおられんちゅう傑作だすねん」
「な、な、なんだと?」
豆六の逆襲に、辰ははとが豆鉄砲をくらったみたいにおどろいたが、そばできいていたお粂も、目をまるくしてあきれた。
「おや、豆さん。おまえさん、いやに詳しいねえ。どうしてそんなこと知っているのさ」
「どうしてちゅうて、あの本はわてがこのあいだ貸本屋から借りてきたもんだっさかいにな」
豆六がすましていったもんだから、これにはお粂も辰も、あっとばかりに二の句がつげない。
「そら、おもろい本だっせ。胡蝶御前ちゅうのんは、大名のお姫さんだすが、かわいそうに、とてもみっともない顔をしてはりますのんや。その胡蝶御前に、求女《もとめ》とやらいう恋人がおますのんやが、この求女はまた、胡蝶御前の腰元で雛鳥《ひなどり》ちゅうおなごにほれてます。それがつまり、騒動の原因だしてな、さて、それから……」
と、豆六は、ほっておけば『胡蝶御前化粧鏡』全三編を、あますところなく語ってのけかねまじき気色だったが、幸か不幸か、ちょうどそのとき、
「ご免くだされ。人形佐七どののお宅は、こちらでござろうか」
と、格子のそとからおとなう声がした。
「あい」
と、お粂がたって出迎えれば、表にたったのは、宗十郎|頭巾《ずきん》に顔をかくしたりっぱなお武家。
「おお、これはお内儀でござったか。佐七どのご在宿ならば、ちと御意えたいことがござって……拙者は麻布|市兵衛《いちべえ》町に住まいいたす、服部十太夫《はっとりじゅうだゆう》と申すもの」
ときくなり、家のなかではきんちゃくの辰、にわかにはっと顔色かえると、
「親分、あの一件ですぜ」
「しっ! だまってろ!」
と、草双紙をズイとかたわらにおしやった人形佐七、辰と豆六にめくばせしながら、
「お粂、お客さまを、こちらへおとおししねえ」
石になった花嫁
――おお、三蔵かえとふるえ声で
さて、服部十太夫という名をきいて、辰がにわかに顔色かえたのは、ひとつのわけがある。
ちかごろ江戸中で、大ひょうばんの花嫁紛失事件、それが、この服部十太夫という名に、おおいに関係があるのだ。
ところで、その花嫁紛失事件というのは――
牛込矢来町にすむ、白井弁之助というお旗本、これが業平《なりひら》のようにいい男で、弓衆をつとめて、お上のおおぼえもめでたく、将来は亡父の跡目をついで、組頭にも昇進しようという前途有為な若侍だが、これに良縁があって、婚礼というだんどりになった。
あいての花嫁というのは、山吹町にある老舗《しにせ》、山吹屋善吉というものの娘お綾《あや》といって、近所でもなだいの小町娘だが、しかし、なにしろお綾は町家の娘だ。
町家の娘が旗本へ、じかに輿入《こしい》れをするわけにはいかない。そこで、お綾の仮親となったのが、白井の家と縁つづきになっている服部十太夫。
お綾は十太夫の養女になって、麻布市兵衛町から牛込まで輿入れをすることになったが、そのとちゅう、どこでどうまちがったのか、駕籠《かご》のなかからけむりのように消えてしまったのだから、さあ、大騒ぎだ。
「なにしろ、娘がひとりみえなくなったが、そのまま捨ておくわけにもまいらぬ。佐七どの、なにかよい思案はござるまいか」
と、十太夫は、佐七に相談にきたのだった。
「へえ、あっしもその話なら、耳にしないでもありませんが、それにしてもみょうな話で。いったい、また、どういうふうにして、花嫁が消えてしまったんで?」
「さあ、それだ。それからして拙者には、とんと合点がいかんのだが――」
と、ため息まじりに、十太夫が説明したところによると――
輿入れの一行が市兵衛町をでたのは暮れの六つ半(七時)ごろ、そのとき、花嫁が駕籠のなかにいたことはまちがいなかった。げんに、十太夫が手をとって、お綾を駕籠にたすけのせたのだから。
さて、その花嫁の駕籠をなかにはさんで、仮親の十太夫に仲人夫婦、四丁の駕籠をつらねて、牛込矢来町は白井屋敷へとついたのが五つ(八時)過ぎ。
玄関の式台までかつぎこんで、さて花嫁の駕籠をひらいてみると、おどろいたことには、なかはもぬけのから。――いや、ちょうど手ごろのつけもの石と、白無垢《しろむく》の裲襠《うちかけ》が、ふうわりと脱ぎすててあるばかり。
かんじんかなめの花嫁のすがたは、けむりのように消えてなくなっているのだった。
「なるほど、それは妙ですねえ。花嫁が石に化けるなんて、きいたこともありませんが、で、とちゅう、変わったことはありませんでしたかえ」
「ふむ、それがじつはあるのだ」
と、白髪まじりの小鬢《こびん》に、ふかい憂色をただよわせながら、十太夫がかたったはなしは――
輿入れの一行は、矢来へたどりつくまえに、築土八幡《つきどはちまん》のそばを通りかかったが、あいにく、その晩が築土八幡の秋祭りで、付近いったい、ごったがえすような大混雑。
そういうなかへ、いっけん、輿入れとしれる駕籠をかつぎこんだのが、不覚のいたりだった。
「やあ、嫁入りだ、嫁入りだぞ!」
二、三人がよべば、それにわっと野次馬が雷同する。
なにしろ、祭りの酒に気がたっている連中だからたまらない。駕籠をたたきこわして、花嫁を引きずりだしかねまじきいきおいに、おどろいたのは駕籠かき連だ。
駕籠ひっかついだまま、てんでの方向に逃げまどう。
そのなかでいちばん逃げ足のはやかったのが、花嫁の駕籠で、これは三蔵、吉助といって、服部家のお陸尺《ろくしゃく》がかついでいたのだが、すわ一大事とばかり、ほかの連中をおっぽりだしてにげだしたが、野次馬のなかにしつこいのが 二、三人いて、どこまでもあとを追っかけてくる。
やむなく、いちじ駕籠を小暗いものかげにかくしておいて、三蔵と吉助のふたりは、たくみに野次馬をまいてしまったが、さてそれからまもなく、もとの駕籠のそばへかえってくると、ちょうどそこへ、服部十太夫、仲人夫婦も血相かえて、かけつけてきたところだった。
「おお、ふたりともここにいたか。してして、花嫁の駕籠はいかがいたした」
十太夫が息せききってたずねると、
「なに、大丈夫でございますよ。ほら、お嬢さまは、あそこにおいででござんす」
と、三蔵が指さしたところをみれば、なるほど、小暗いものかげにおいた駕籠のなかから、白無垢の晴れ着のそでが、すこしばかりはみだしている。
三蔵は駕籠のまえに手をつかえると、
「お嬢さん、お嬢さん」
と、呼んでみた。
すると、なかから、
「おお、三蔵かえ」
と、すこしふるえをおびたひくい声で、
「気分がわるうてなりませぬゆえ、すこしもはやくやっておくれ」
「ようがす。それじゃすぐに参りましょう」
と、そこでまた、まちがいがあってはならぬと、こんどは服部十太夫と仲人夫婦が、駕籠にものらず、花嫁の駕籠のまわりにつきそって、矢来の白井屋敷へたどりついたのだが、なんとまえにもいったとおり、花嫁はけむりのように消失していたのである。
貞寿院様の腰元お綾《あや》
――お綾に艶書《えんしょ》をつけた息子の武平
「なるほど、それであらかたようすはわかりました。花嫁が抜けだしたとすれば、その騒ぎのさいちゅうよりほかにありませんねえ。そのときあなたは、駕籠の戸を、ひらいてごらんになりませんでしたので?」
「いや、駕籠はひらいてみなんだが、花嫁がなかにいたことはたしかじゃ。げんに、拙者はこの耳で、花嫁の声をきいたのだからな。いや、拙者ばかりではない。三蔵も、吉助も、仲人夫妻も、たしかにきいたと申している」
「だんな、ひょっとすると、お嫁さん、駕籠から抜けだし、どこか近所にかくれていて、声だけきかしたのじゃありませんかえ」
と、きんちゃくの辰がひざをのりだしたが、それは辰ならずとも、だれしも、いちばんに考えつきそうなことだった。
「いや、そのようなことはない。そのとき、拙者と仲人夫婦は、駕籠の両側に立っていたのだから、外で声がしたとすれば、すぐにも気がつかねばならぬはず」
佐七はしきりに小首をかしげていたが、なにおもったかにやりと笑うと、
「ときに、そのときお嬢さんが、駕籠のなかからおっしゃったおことばというのを、もういちど、いってみてくださいませんか」
「おお、それはなんでもないこと。『おお、三蔵かえ』とはじめにいって、『あたしは気分がわるうてなりませぬゆえ、このままはやくやっておくれ』と、たしかにそう申したようであった」
「なるほど『おお、三蔵かえ』ですな。それから、『気分がわるうてなりませぬゆえ、このままはやくやっておくれ』でしたね。いや、わかりました。ときに、だんなはどういうご縁で、お綾さんの仮親ということにおなりでございますえ」
「ふむ、それを話すには、この縁談のなりたちから打ちあけねばならぬが……」
と、そこで十太夫の話したところによると、花婿白井弁之助には、貞寿院さまという叔母《おば》がある。
この貞寿院さまは、かつて大奥につかえて、なかなか羽振りをきかせたかたで、ご先代さまのお手がついたとか、つかぬとかいううわさもあったくらい、たいした権勢家《きけもの》で、先将軍が他界とどうじに、大奥をさがって、いまでは染井に隠居している。
お綾はその貞寿院さまのもとへ、行儀見習いとしてご奉公にあがっていたが、そこへちょくちょく遊びにくるのが、甥《おい》の白井弁之助。
どちらも美男美女だから、いつしかおもいおもわれるようになった。そこで、弁之助が叔母の貞寿院さまに、この恋をうちあけてそでにすがった。
貞寿院さまは、さっそくそのことを引き受けると、縁のはしにつながる服部十太夫を呼びよせて、お綾の仮親になるよう頼みこんだ。
「なるほど。それで、お綾さんは、ながらくお宅においででございましたか」
「いや、いや、お綾にもりっぱな親元のあることゆえ、貞寿院さまのおひざもとをはなれるとすぐ、そのほうへさがったので、拙者の屋敷へまいったのは、婚礼の日の朝のことであった。仮親とは申せ、それはもう、ほんの形式だけのことでの」
「なに、それじゃたった一日きりで……? それまでいちどもお屋敷のほうへ、おみえになったことはございませんので」
「ふむ。ない、じつは、それにもひとつのわけがあるのだが……」
と、十太夫はにがいものをのみくだすように、顔をしかめて、
「じつは、拙者に武平と申すひとりの息子がある。はなはだ申しにくいことながら、この武平めが、貞寿院さまお住まいへ、ちょくちょくお伺いするうちに、いつしかお綾に懸想して、あろうことかあるまいことか、付け文までいたしおったと申すこと。そういうことがあってみれば、武平めに疑いのかかるのも理の当然……それに」
十太夫は首うなだれ、
「じつは、だれにも語らなんだが、あの騒ぎのさいにも、ちらりと息子のすがたをみかけたので、もしや武平めが恋に目がくらんで、だいそれたことをいたしおったのではあるまいかと、そればっかりが心配のたね……佐七どの、お察しくだされ」
なるほど、服部十太夫がわざわざ佐七をたずねてきたには、そういうふかい子細があったのだ。
「いや、よくわかりました。それでは、さぞご心痛のことでございましょう。しかし、だんな、あなたにおたずねするのもどうかと思いますが、武平さんとおっしゃるかたは、そういうことをなさりそうなおかたでございますか」
「されば」
と、十太夫はきっとまゆをあげ、
「親の口からこのようなこと、まことに話しにくいが、あれにかぎってと拙者はかんがえている。武平めは元来、気性あらく一徹者じゃが、根は竹をわったような性分、よもやとはおもえど、しかし、これも、親の欲目といわれてみればいたしかたがない。じつは、鳥越の茂平次とやらもうす御用聞きが、お綾の親御から、付け文のいきさつを聞いたとみえて、どうでも武平めが誘拐《ゆうかい》したものにちがいないとにらんでいるようだ」
と、十太夫は老いの目に涙をうかべ、しわばんだほおに、さびしい微笑をきざんだ。
佐七はじっとその顔をながめていたが、
「いや、ようがす。そういうことなら、ひとつあっしが働いてみましょう。あっしゃべつに、鳥越のにたてつくつもりはねえが、どうもすこしふにおちないところがあります。ひとつ、およばずながら、探りを入れてみますから、まあ、安心していておくんなさい」
と、力強くも引きうけたものである。
草双紙読めとの忠告
――『胡蝶御前化粧鏡』を読んでみろ
「親分、親分、あんなことをいって大丈夫ですかえ。この勝負は海坊主の勝ちのようにおもえますがねえ。チョッ、くそおもしろくもねえ、豆六、これもみんなおめえのせいだぞ」
これがほかの御用聞きならともかくも、鳥越の茂平次にせんを越されたとあっては、辰も腹の虫がおさまらない。
鳥越の茂平次、色が黒くて大あばた、一名海坊主とよばれていて、この捕り物帳の憎まれ役であることは、みなさま先刻よりご承知である。
「あれ、兄さん……やなかった、兄い、それはまたどういうわけだす」
「わけもへちまもあるもんか、このうらなりめ、てめえがつまらねえ本を借りてくるもんだから、親分も御用がおるすにならあ。海坊主みてえなとんびに油揚げをさらわれてよ、へん、いいざまだアな」
「そやかて、兄い、わてはなにも親分に読まそおもて借りてきたんやおまへんで。読まはったんは、そら、親分のかってや。それに、まだ海坊主に負けたときまったわけやあるまいし、あほらしい、あんまりつんつんいわんとおくれやす」
「なによ、このうらなりめ、ああいやこうと、だから贅六《ぜいろく》はきれえよ」
「これ、静かにしねえか、みっともねえ。歩きながらけんかをするやつもねえもんだ」
佐七は、服部十太夫を送りだしてから数刻のち、にわかにおもうことあって外へでたが、このままじゃ、どこまでかみ合うかもしれぬふたりに、どうやら思案を変えねばならなかった。
「辰、こうして金魚のうんこみてえに、三人つながって歩いていても仕方がねえ。ひとつ、手分けしていくことにしようじゃねえか」
「へえ、それがようがす。で、あっしはどっちへいくんで」
「てめえはこれから、麻布市兵衛町へいって、服部屋敷の、三蔵という野郎の素性を洗ってこい」
「え、三蔵? あのお陸尺《ろくしゃく》のですかい。あいつがどうかしましたかえ」
「辰、それだからてめえは、いつになっても一人前になれねえんだ。さっきの服部さまの話をなんときいた。お綾は駕籠のなかから、『おお、三蔵かえ』といったというじゃねえか」
「ええ、そうですよ。三蔵だから、三蔵かえというのにふしぎはありますめえ」
「チョッ、てめえはどこまで勘がわるいんだ、お綾という娘は、あとにもさきにも、あの日、服部の屋敷へいったのがはじめてだぜ。それも用人か若党ならともかく、お陸尺、中間《ちゅうげん》などの名をどうして知っているんだ。それが、駕籠かきふぜいの名をしっているばかりか、『おお、三蔵かえ』と、したしそうに呼んだのにゃ、それだけのわけがなくちゃならねえ」
「ああ、なるほど」
「へん、やっぱりちがいまんな。いくら兄いが威張っても、そう血のめぐりがわるうてはどもならん。やっぱり草双紙でも読もうというおかたは、おつむの働きがちがいまんな」
「おい、豆六、ずいぶんつべこべいうじゃねえか。けんかはあとにして、てめえにもひとつ、やってもらいてえことがある」
「よろしおます。で、わての役目はどういうことだす」
「そうよ、てめえにゃ築土八幡へいって、あの晩、騒ぎだした発頭人というやつを探りだしてもらいてえ」
「へえ、そらまた、どういうわけで?」
「豆六、てめえも辰とちょぼちょぼだな。あの晩、築土八幡でああいう騒ぎがあったのは、みんなしょてから筋書きがかいてあったのよ。だから、あの晩、騒ぎたてたやつをたたいてみれば、張本人もわかろうというもの。さあ、いってきな」
「はっはっは、ざまあみやアがれ、いくら草双紙を読んでいたって、血のめぐりのわるいのはなおらねえとよ」
「ええい、もう、うるせえ。けんかはあとのことにして、ふたりともはやくいきねえ。おれはこれから、白井屋敷へ探りを入れて、それから矢来の藪蕎麦《やぶそば》で待っているから、御用がすんだらふたりともきねえ」
と、こうして三人三方へとんだが、それからまもなく、矢来の白井屋敷のほとりまで、やってきたのは人形佐七、近所でたずねるまでもなく、すぐそれとわかるりっぱなお屋敷は、さすがに貞寿院様という権勢者《きけもの》を叔母に持っているだけのことはあるとうなずける。
なにしろ、あいては町方の手のとどかぬ旗本屋敷、しばらく、塀外《へいそと》をうろついていると、そのとき、門のなかから、早足にでてきたひとりの若侍がある。
年のころは二十五、六、まゆのふとい、月代《さかやき》の濃い、骨太の、いかにも武骨いっぽうの若侍だが、ふしぎなことにこの若侍、目にただならぬおびえのいろをうかべ、逃げるように立ち去っていく。
と、このとき、つとものかげからでてきたひとりの男――鳥越の茂平次なのである。
茂平次も佐七のすがたに気がついていたとみえ、海坊主のように黒光りのする顔で、にやりとあざわらうような視線をこちらに投げると、それからすたすたと、あの若侍のあとを追いはじめた。
してみると、あの若侍こそ、服部十太夫の一子、武平にちがいない。
佐七が、どうしようかと思案しているところへ、中間《ちゅうげん》がひとりそばへ寄ってきて、
「もしもし、お玉が池の親分じゃありませんか」
と呼びかけたから、佐七もちょっとおどろいて、
「おお、いかにもあっしや佐七だが、そういうおまえさんは」
「わたしはこちらのお屋敷にご奉公しているものでございますが、ちょうどよい都合でございました。だんなさまがぜひ親分さんに、お目にかかりたいとの仰せでございまして」
「だんなさまというと、弁之助さまですかえ」
「さようで。わたしが親分さんのことを申し上げると、それはぜひ、お目にかかりたいとおっしゃいますんで……ちょうど貞寿院さまもごいっしょでございます」
佐七にとって、こんなありがたいことはない。
これこそわたりに舟、おまけに貞寿院様もいっしょというのだ。
佐七が案内されたひと間には、弁之助と貞寿院が、妙にしらけたかおをしていた。
貞寿院様のおとしは四十ちかいのだろうが、みたところ、三十そこそこにしかみえぬ若々しさ、切り髪にして、豊満なからだは肉付きもゆたかに、白綸子《しろりんず》の着物に、紫色の被布をかさねて、ふるいつきたいくらい色っぽい。
「おお、そちらがお玉が池の佐七か。うわさはかねてより聞きおよぶが、お屋敷のちかくへすがたをみせたは、おおかた、綾のことであろうな」
「恐れいりましてございます」
「なにか手がかりがありましたか」
「それが不調法でございまして、なかなか――」
「手がかりがないと申すか、困ったことよの」
弁之助はうつくしいまゆをひそめて、ふかい息をついた。
「それについて、佐七、そちにちとみせたいものがあっての、それでわざわざ呼びいれたわけだが……じつは、さきほど、なにびとともしれず、このようなものを、お屋敷に投げこんでいったものがある」
と、弁之助が懐中をさぐって取りだしたかみきれに、書かれてある文字を読んだ佐七は、おもわずビクリとまゆをうごかした。
[#ここから2字下げ]
ひとふでしめしまいらせ候、わたしこというにいわれぬ深い子細あり、このまますがたをかくし申し候まま、かならずゆくえお尋ねくださるまじく、わたしことしょせんお嫁になれぬ悲しき身のうえ、ふびんとおぼしめし候わば、なにとぞお見過ごしくだされたく願いあげまいらせ候
あや
弁之助さま まいる
[#ここで字下げ終わり]
「ほほう、こりゃお綾さんからですね、いったい、だれがこのようなものを持ってきたので」
「さあ、それがわからぬ。気がつかぬまに、屋敷のなかへ投げこんであったのだが、佐七、そのほうこれをどうおもうぞ」
「はて、わたくしにも、いっこう見当がつきませぬが、これはしんじつ、お綾さんの手跡でございますか。そういたしますと、お綾さんは、じぶんで身をかくしたということになりますが、それほど深い子細とはいったい、なんでございましょう。また、嫁になれぬ身というのは、どういうことでしょうねえ」
「さあ、それがわたしも合点がいきませぬ。綾にかぎって……」
と、さすがの貞寿院様も、ぽっとほおにくれないをちらした。
佐七はそこで、弁之助のほうへむきなおると、
「ときに、つかぬことをお伺いいたしますが、さきほど、このお屋敷からでていかれたのは、あれはたしかに服部さまのご子息、武平さんでございましたね」
貞寿院様は武平ときくと、すぐひらきなおって、
「おや、武平がこちらへまいりましたか。弁之助、そなたはなぜ、それをわたしにかくしていやる」
「いや、かくすというわけではありませんが、武平が内密にいたしてくれと申しましたので」
「ほっほっほ」
貞寿院様はあでやかにうち笑うと、
「武平も気のよわい、いつぞやの付け文のとき、わたくしがうんといいこらしめてやったのが、いまだに腹にあるとみえる。して、武平がいったいどのようなことを申しました」
「綾をおもいきれ。おもいきらねば、かならずおん身に不祥のことがおこるだろうと、まじめになっていうかとおもえば、だしぬけに草双紙を読んでみろなどと申します」
「草双紙? はてな。いったい、どんな草双紙なんで」
佐七はおもわずひざをすすめた。
「そう、なんとか申しおったな。おお、そうそう、『胡蝶御前化粧鏡』とか申して、いま売り出しの草双紙じゃそうな。いや、もうたわいのないことばかり申しおったが……」
だが、それを聞いたしゅんかん、貞寿院様の顔色がさあっと朽ちていくのを、佐七はみのがさなかったのである。
手紙の中から黒い蝶《ちょう》
――とたんにお綾は真っ青になった
「おお、豆六、首尾はどうだったえ」
それから半刻ほどのち、約束の藪《やぶ》で待っていた人形佐七、意気揚々とはいってきた豆六に、いきなりそう問いかけた。
「おや、親分さん、お早いおこしで。なあに、この豆六にまかせておかはったら、親舟に乗ったんもおんなじや。首尾は上首尾、親分さんのいうとおりだす。あの晩、騒ぎをおこした張本人ちゅうのんを二、三人すぐみつけましたが、そいつらのいうのには、ばくち場で知りあった三蔵ちゅう男にたのまれて、あんな騒ぎをおっぱじめたんやちゅう話だす」
「ふむ、やっぱり三蔵だな」
「そうだす、そうだす。それでわて、さっそくその三蔵ちゅう男の身もとも調べてきましたんやが、なんでも、もと寄席《よせ》へでてたことがある、芸人のなれのはてやちゅう話だっせ」
「ほほう、そいつはおおきに機転がきいたな」
「へえ、そらもう」
と、豆六はとくいの鼻をうごめかし、
「それが、飲む、打つ、買うと、三拍子そろった極道のはてが、からだに墨が入り、それから、このかた江戸じゅうの寄席はおかまい、仕方なしに渡り中間だの、お陸尺だのと、ほうぼうを渡り歩いてる、なかなか悪のきいたやつやちゅう話だす」
「なるほど。で、寄席にいるときの芸名というのを、聞いてこなかったかえ」
「そこに抜かりがおまっかいな、風羅坊《ふうらぼう》三蔵ちゅうてな、けったいな芸名が売りもんやったちゅう話だっせ」
あっと、佐七はおもわず息をのんだ。
風羅坊三蔵――その男なら、佐七もたしかに知っている。
五、六年まえまで、どくとくの芸がうりもので、人気のあった芸人だ。
「ふむ、わかった。豆六、てめえなかなか如才がねえから、いまにきっと、いい岡《おか》っ引《ぴ》きになるぜ」
「へえ、わてもそうおもてまんねん」
と、豆六め、しゃあしゃあとして、そっくりかえったものだが、おりからそこへ、あわをくったように、おどりこんできたのはきんちゃくの辰。
「親分、親分、一大事|出来《しゅったい》、はやく、はやく」
と、これまた、あいかわらずいそがしい男だ。
「なんやねん。兄さん、すこし落ちついたらどや」
「なにをぬかしゃアがる。これが落ちついていられるもんか。いま三蔵の野郎が、このさきを通るところなんで、はやくきておくんなさい」
「ほほう、三蔵が?」
「そうなんで、音羽に山猫《やまねこ》お角といって、海千山千の女衒《ぜげん》がありますが、これが三蔵の情人《いろ》だという話で、あっしゃてっきりお綾さんは、このお角の手にかかって、どこかへ売りとばされたにちがいねえとおもうんで」
「よし」
と、きくなり佐七はさっと立ち上がった。
山猫お角のすまいは、音羽のはし、小さな銘酒屋と銘酒屋とのあいだで、そのうらがわの油障子のかげに、こっそり忍んだのは、佐七をはじめふたりの子分。
なかでは、ぼそぼそとひくい話し声がきこえていたが、やがて、その声がしだいにたかくなってくる。どうやら、ふたりの間にいさかいがはじまったらしい。
「知らないよ、知らないったらしらないよ。バカらしい、ひとをうたぐるもいいかげんにおしよ」
と、かんばしった声はお角らしい。なにかよっぽど、腹にすえかねることがあるとみえる。
「わたしがなにかえ、あの娘をかってに売りとばして、しらぬかおの半兵衛をきめこんでいるとでもおいいかえ。バカも休みやすみおいいなね。わたしゃあの晩、八幡下の約束の場所で、足をすりこぎにしてあの娘を待っていたんだよ。ところが、四つになっても、四つ半(十一時)になっても、娘はおろか、犬の子一匹みえやしない。ほんとに、ねえ、三蔵さん、わたしこそおまえを疑ってみたいよ。おまえさん、いざとなって、きゅうにあの娘を、わたしにわたすのが惜しくなり、どこかへこっそり、かくしているのじゃないかえ。なにしろ、山吹小町といやア、たいしたしろもんだからねえ」
ここまできけば十分だった。
佐七はがらりと油障子をひらくと、
「おい、風羅坊三蔵、どうも派手なことだな」
「ああ、お玉が池の親分」
三蔵とお角は、悪党らしくもなく、たちまちまっ青になってしまった。
「はっはっは、むかしなじみだ。いやなかおをすることはあるめえ。おい、三蔵、あのころはずいぶん手を焼かせたもんだが、その後、うわさを耳にしねえから、いいあんばいだとおもっていたが、またぞろ持病がでてきたとみえるな。それもよ、むかしとったきねづかで、腹話術の茶番狂言たあ、よく考えたなあ」
「げっ!」
と、三蔵はみるみるくちびるまでまっ青になる。
「はっはっは、図星だろう。おれアいまでも、おめえの高座をおぼえているぜ。おめえは口をつぐんで、腹のなかで話ができるんだ。それも、いろいろな声でな。舞台に人形をかざってよ、そのそばでおめえが口をつぐんでよ、腹のなかから声をだす。すると、まるで人形が口を利いたようにみえたもんだが、そいつを使って、からの駕籠《かご》のなかからお綾さんの声をきかせるなんざ、どうしてどうして、考えたもんさね」
「親分、いや、恐れ入りました」
こうまであざやかに図星をさされては、もはやどんないいぬけもだめだと観念したのか、三蔵はそこに手をつくと、
「いかにも、親分のおっしゃるとおり、腹話術をつかって、みなさまの目をごまかしたのは、こういうあっしでございますが、けっしてわるい考えからじゃございません。みんなお綾さんからたのまれたので、やむなくやったことでございます」
「はっはっは、さっきあんなけんかをきかせながら、いまさらわるい考えがなかったもねえもんだぜ。お綾さんにたのまれた、てなアほんとうかも知れねえが、そこを付け込んで、お角とぐるで、あの娘をどこかへ売りとばそうとしやアがったんだろう」
三蔵もお角も一言もない。
「まあ、いいや。しかし、三蔵、おめえどうして、お綾さんを知っていたのだ。まえからのなじみかえ」
「いいえ、そうじゃございません。親分、こうなったらなにもかもお話しいたしますから、どうかきいておくんなさいまし」
と、そこで三蔵がかたった一条とは――
あの日の朝、三蔵がお屋敷の表を掃いていると、見知らぬ子どもがやってきて、これをお嬢さんにと、ことづかったのが一通の手紙。
三蔵はなんの気もなく、それを奥庭にいたお綾に手渡したが、お綾はふしぎそうにそれをひらいて、とたんにまっ青になったのである。
「はい、そのおどろきようというのが、尋常ではございません。疫病にでもとりつかれたように、くちびるまでまっ青になって、しばらく、わなわなとふるえていなさいましたが、やがてあっしのいるのに気がつくと、このこと、かならず、だれにも内緒にしていてくれとの頼み、それからだんだんと話しているうちに、わたしはどうしても今夜の祝言はできぬ。といって、このお屋敷からにげたのでは、服部さまにご迷惑がかかろうもしれず、なにかよい工夫はないかと持ちかけられ……」
「これさいわいと、あんな狂言を書いたんだな。すると、お綾さんは、あの騒ぎに、じぶんでそっと駕籠を抜けだしたのか」
「はい、あっしが吉助をひっぱって、逃げているあいだに、抜けだす手はずでございました。しかし、それからあとどうなすったか、いっこうに存じませんので」
「ふむ。――ところで、問題はその手紙だが、なにかよっぽど、こみいったことが書いてあったにちがいないな。三蔵、てめえ、それを知りゃしないかえ」
「ところが、親分、その手紙というのは白紙なんで。いえ、まったくの話が。お綾さんがおどろきのあまり、その手紙を取りおとしたところを、あっしが拾ってわたしましたので、よく存じております。紙にはなにも書いてありませんでしたが、なかに妙なものが包んでありましたんで」
「はて、妙なものというと?」
「それが親分、まっくろな蝶《ちょう》の死骸《しがい》なんで」
「はてな、黒い蝶?」
佐七はおもわず目をそばだてたが、そのときふいに、いままでだんまりでひかえていた豆六が、頭のてっぺんから、奇妙な声をだしたものである。
「黒い蝶やて? 親分、黒い蝶におびえるなんて、『胡蝶御前化粧鏡』の趣向と、まったくおんなじやおまへんか」
とたんに、佐七もぎっくり、おもわず豆六の顔を、世にもふしぎなもののようにみなおした。
女の執着黒蝶縛り
――『胡蝶御前化粧鏡』が解いたなぞ
「――と、こういうわけでございますから、この事件ばかりはせっかくながら、この佐七の手にもおいかねるかと存じます」
と、ことばすくなに語っているのは人形佐七。
あれから三日後のことで、ここは佐七がかねてひいきにあずかっている与力神崎甚五郎のお役宅、座敷には甚五郎のほかに、招きによって服部十太夫もつらなっていた。
しばらくはふたりとも無言、いま佐七の話した物語のあまりの意外さに、ことばのつぎほも切れたかたちだったが、やがて、やっと口を切ったのは十太夫。
「お綾は貞寿院さまお屋敷にいると申すのだな」
「はい、大地をうつ槌《つち》ははずれても、あっしのにらんだ目にまちがいはないつもり。貞寿院さまお屋敷へ、踏みこむことさえできれば、なんにもいうことはありませんが、なにしろ、あいてはご先代さまのお手がついたという、うわささえあるくらいのおかたですから、これはどうしても大目付さまか、若年寄さまのご支配、この佐七ごときが、逆立ちしたところで、およぶことじゃございません」
佐七はべつにくやしげもなくいった。
「しかし、佐七、いまそのほうの語ったところによれば、貞寿院さまとて、べつにわるいことをなされたわけじゃなし、これは大目付としても、どうにもなりかねるとおもうの」
と、神崎甚五郎も思案にくれた面持ちだ。
「さようでございます。この事件には、罪とか罰とかいうものは、なにひとつないのでございます。しかし、あっしにゃ、世間ふつういうような罪よりも、もっとおそろしく、いやな気持ちがいたします。これこそ、人道にはずれた仕儀で」
「ふむ」
と、甚五郎と十太夫も、おもわずいまわしそうにまゆをひそめた。
「しかし、考えてみればむりもないことで、貞寿院さまは大奥に、十何年というながいあいだ住んでおられたおかた、大奥と申せば、男子禁制の女護ガ島で、そこには、あっしなどの考えもおよばぬような、いろいろな習慣があるとやら」
「ふむ」
と、服部十太夫と神崎甚五郎は、ため息まじりに顔を見合わせた。
「なんでも聞くところによると、女同士で抱きついたり、吸いついたりなさるとやら」
と、佐七もほろ苦くわらうと、
「貞寿院さまはそういういまわしい風習が、平気でまかり通っている大奥から、おさがりになったばかりのおかたでございます。そこへとび込んできたのが、小鳥のようにかわいい、だれでも抱きしめて、なでさすってやらずにはいられないような、かわいい、いじらしいお綾さん……」
「それじゃ、貞寿院さまとお綾とのあいだに、いまわしい関係が……?」
「あったと考えちゃおかしいでしょうか。ふとどきでしょうか」
佐七につよく念を押されて、十太夫が、
「うーむ」
とうなったきり返事がなかったのは、かれにもなにか、おもい当たるところがあったにちがいない。
「こうして妹のように、いや、妹よりももっとちかしい、いってみれば恋人のように、愛《め》でいつくしんでいるところへ、甥《おい》の弁之助さんがあらわれて、いとしいものをさらっていこうとする。貞寿院さまもいちじはやむないこととあきらめられたが、さて、お綾さんがいなくなると、きゅうに寂しさがこみあげてくる。満ち足りないものが身に迫ってくる。そこで、とうとう、祝言の日に、黒い蝶を送ったんです」
「いったい、その黒い蝶というのは、なんのまじないだの」
神崎甚五郎がふしぎそうに尋ねた。
「さあ、それでございますよ。だんながたは、ご存じかどうかしりませんが、ちかごろ柳下亭が著した三冊本の合巻本に、『胡蝶御前化粧鏡』というのがございます。筋をお話しすると、胡蝶御前というのは、さる大名の姫君だが、容貌《ようぼう》がみにくいために、縁組みがなく、髪をきって行いすましているが、これがふと求女《もとめ》という色若衆を見染めてくるいだす。ところが、この求女は胡蝶御前の腰元|雛鳥《ひなどり》といいなかで、とどふたりが、手に手をとって道行きとしゃれこみます」
「なるほど、それで……?」
「さあ、おさまらないのは胡蝶御前で、もろもろの悪鬼魔人に願をかけて、しまいには、じぶんの名にちなんだ黒い蝶となって舞あがり、これがふたりにつきまとって、さまざまな障碍《しょうげ》をなすという、いわば芝居の女鳴神を合巻本でいったような筋立てなんです」
「なるほど、そういえば貞寿院さまは、大奥にいられたころから、草双紙がお好きでいられたそうじゃ」
と、十太夫はにがにがしげにまゆをひそめた。
「しかも、その貞寿院さまに、草双紙を読んでおきかせするのが、お綾さんの役だったというじゃありませんか。だから、ことのついでに、『お綾、おまえもわたしを捨てて逃げると、この胡蝶御前みたいに、黒い蝶になって、おまえをとり殺すよ』ぐらいのことは、おっしゃったにちがいありませんや。これが胸にあったもんだから、お綾さん、黒い蝶をみるとまっさおになった。じぶんもじぶんだが、いとしい弁之助さんの身に、もしものことがあってはとおもうと、矢も盾もたまらない。とうとういけにえになる気で、ひそかに、貞寿院さまのところへかえっていったんです」
まったくそれはいまわしい執着、人道にはずれた、罪ならぬ罪だった。
いや、罪以上の罪だった。しかも、こればかりは、ご公儀の手もとどかない。
お綾は誘拐《ゆうかい》されたのではなく、みずから、黒い蝶の縛りにかけられて、身をかくしたのだから。
それにしても、牛込の築土八幡付近から染井まではそうとうの距離、女の足ではむりである。
それに、あの日の夕刻、染井から貞寿院様のおそばにつかえる老女|江浪《えなみ》というものがやってきて、お綾としばらく話していったというから、そのとき打ち合わせがしてあって、築土八幡のちかくのどこかに、乗り物が待たせてあったのだろう。
その乗り物に身をまかせ、お綾がかつぎこまれた屋敷の奥には、いったいなにが待っていたのだろうか。
おそらく、貞寿院様のあの豊満な肉体が、膚もあらわに、道ならぬ欲望に血をたぎらせて、褥《しとね》のうえで身をあつくしていたにちがいない。可憐《かれん》なお綾は、この貞寿院様にいざなわれると、抵抗するすべをしらないのだろう。
彼女はへびに魅込まれたかえる、わしにつかまれた小すずめのように、貞寿院様のみだらな欲望の、えじきにされてしまうのだろう。
あわれなお綾は、おそらく貞寿院様に、身につけているものすべてを、はぎとられてしまうだろう。そして、貞寿院様もみずからお脱ぎになると、その豊満な肉体のなかに、可憐《かれん》なお綾のからだをつつんでしまうのだろう。
こうして、お綾はいつか、貞寿院様の術中におちいっていき、われにもなく乱れにみだれ、のたうちまわり、そして、そして……。
そこまで想像すると、三人は、ふうっとふかいため息をつき、いたましそうに顔見合わせたが、しかし、世のなかには、ときにはふしぎな運命の手がはたらいて、それがどうかすると、人の世のおきてのかわりを勤めることがある。
それから四日のちのこと、染井の貞寿院様お屋敷に、たいへんなことが起こった。
火事が起こってお屋敷は全焼する。貞寿院様はじめ老女の江浪、女中の三人が焼死体となって発見されるで、染井のあたりはたいへんな騒ぎだったが、おなじ夜の明け方ごろ、服部十太夫の市ガ谷の屋敷では、せがれの武平がもののみごとに腹かっさばき、みずからのど笛をかききって、自害しているのが発見された。
そして、ふしぎなことには、その離れ座敷のひと間には、憔悴《しょうすい》しきったお綾が、昏々《こんこん》として眠りつづけていた。やつれはてたその顔色をみると、この三日間を、彼女が貞寿院様と、どのような暮らしをしていたか、想像されるようであった。
おもうに、武平は愛する女を黒蝶の呪縛《じゅばく》から解放するために、貞寿院様をころして屋敷に火をはなち、みずからはいさぎよく割腹してはてたのだろう。
ここに哀れをとどめたのは、海坊主の茂平次である。
貞寿院様お屋敷が焼けおちて、付近を大騒ぎさせた夜の引き明けごろ、あとからおもえば武平が割腹してはてたとおなじころ、貞寿院様お屋敷から、一町ほどはなれた林のなかで、さるぐつわをはめられ、両手をうしろにしばりあげられ、けやきの大木につながれて、目を白黒させているのが発見された。
しかし、さすがに茂平次もバカではない。
かれは武平が火を放ち、お綾を助けだすところを、縛られたまま見ていたのだが、ここにいたって、やっとことの重大さをさとったとみえ、だれにも真相をはなさなかったから、そのころ海坊主がたぬきに化かされたと、江戸中もっぱら評判だった。
お綾はまもなく、飄然《ひょうぜん》として親元へかえって、そこからあらためて服部十太夫を仮親として、弁之助のもとへ輿入れしたが、りこうな彼女は、身をかくしていらいのことを、ひとこともひとに語らなかったから、このいまわしい秘密をしるものは、世間にたえてなかったという。
雪達磨《ゆきだるま》の怪
浮世床うわさの聞き書き
――雪達磨《ゆきだるま》の目がピカリと光って
三馬の浮き世床を見てもわかるとおり、江戸時代の髪結い床といえば、町内のクラブみたいになっていたものだが、ここに神田|鎌倉《かまくら》河岸の海老床《えびどこ》という髪結い床、親方の清七というのが評判のあいきょう者で、店はいつでも大繁盛。
人形佐七のふたりの子分、きんちゃくの辰五郎とうらなりの豆六も、ご多分にもれずここのご常連で、暇さえあれば入りびたっていることは、いつもいうとおりだが、きょうもきょうとて火ばちをかこんで、ゆうべの大雪のうわさをしているところへ、がらりと油障子をひらいて飛び込んできた男がある。
「おや、紋次じゃねえか。しばらく姿を見なかったが、どこへふけていたい」
と、辰五郎が声をかけると、相手はぎょっとしたように振りかえり、
「おや、これはお玉が池の兄い、明るいところからとびこんできたので、すっかりおみそれいたしました。豆さんはあいかわらず、草双紙に夢中だね。みなさん、お寒う」
と、火ばちのそばへ寄ってきたのは、藍微塵《あいみじん》の素袷《すあわせ》から、はだにかけた掛け守りがのぞいていようというひとめでしれる遊び人。両腕におかめとひょっとこの面を彫っているところから、お神楽《かぐら》という異名のある、この町内の若い者である。
「そうだ、ここで兄いに会ったのもなにかの因縁だろう。ねえ、兄い、聞いておくんなさい。ゆうべ、ちょっと妙なことがありましてね」
と、こういう男のつねとして、お上の御用を聞いている人間をひどく恐れるのである。おもねるようにそういうから、
「はて、妙なことというと、なにかおいらの働きになるようなことかえ」
「さあ、そこんところは兄いの判断にまかせますが、聞いておくんなさい。こういう話なんです」
と、紋次が語り出した一条というのは……。
「兄いもしってると思うが、あっしの姉が下谷で常盤津《ときわず》の師匠をしております。そこへあっしがゆうべ顔を出したと思いなさい」
紋次の姉は常盤津|文字繁《もじしげ》といって、下谷の三味線堀《しゃみせんぼり》のそばで常盤津の師匠をしている。
道楽者の紋次は、そこへときどき、小遣いをせびりにいくのだが、そこは肉親の情で、文字繁もたいていのことなら工面してやる。ゆうべもゆうべとて、紋次は無心にいったあげく、湯豆腐でいっぱいごちそうになって、さて帰ろうとすると、お蝶《ちょう》ちゃんがちょいと紋次さんと呼びとめた。
「はてな。そのお蝶というのはだれだえ」
「へえ。御徒町《おかちまち》の奈良屋《ならや》という葉茶屋の娘で、姉にとっちゃためになるお弟子なんです。ゆうべもけいこにきたまんま、油を売っていたんだが、あっしが帰ろうとすると、じゃ途中までということになって、いっしょに出たのが五ツ半(九時)」
まったく、この年は、師走《しわす》にはいってから雪がおおくて、一日おきくらいに大雪である。
まえに降った雪が、まだ解けやらぬところへ、またぞろ、あとから白いものが舞うのだから、江戸はこのところ、連日のように銀世界。
さて、その雪のなかへでたふたり、しばらくは芝居のうわさなんかしていたが、そのうちにお蝶がふと、紋次にむかってこんなことをきくのである。
「紋次さん。おまえ来がけに、三味線堀のそばをお通りだったろう」
「へえ、通りました」
「あの堀《ほり》のそばに火の見やぐらがあるわねえ」
「へえ、ございます」
「その火の見やぐらちかくに、雪達磨《ゆきだるま》ができてたかどうか、おまえさん気がつかなかった?」
と、お蝶は妙なことをきくのである。
「雪達磨が? はてね、気がつきませんねえ」
「そう……たしかにできてるはずなんだけどね。いいわ、気がつかないのなら。じゃ、ここで」
お蝶はそういうと、くるりと身をひるがえして、雪のなかをずんずんいってしまった。
あとにのこされた紋次は、きつねにつままれたようなかんじである。火の見やぐらだの、雪達磨だのと、さっぱりわけがわからない。
べらぼうめ、丁稚《でっち》小僧じゃあるめえし、だれがいちいち、雪達磨に気をつけて歩くもんかと、いささか中っ腹でやってきたのが三味線堀。
問題の火の見やぐらは、堀のむこうにそびえているが、雪達磨はどこにあるのだろうと、紋次はきょろきょろむこうをみながら、横歩きに歩いていたが、ふいにぐしゃっと冷たいものにつきあたって、あわててうしろへ飛びのくと、
「あっ! こんなところにありゃがった」
雪達磨は意外に手ぢかなところに立っていた。堀端の枯れ柳のしたに、夜目にもしろく雪達磨が、堀にむかって鎮座ましますのである。
「あっしはなにげなく、そのまえへまわってみたが、とたんにあっと驚きました。というのがね」
と、紋次はにわかに声をひそめると、
「その雪達磨の目というのが、雪明かりのなかでギロリと光ったんですよ」
「なに、雪達磨の目が光ったと?」
「そうなんです。まるで鬼火みたいに光っているんです。これにゃあっしも肝をつぶしたが、よくよくみると、もっとおかしなことがあるんです」
「フン、もっとおかしなことちゅうのは!」
と、豆六もいつのまにやら聞き耳たてている。
「その雪達磨の胸にね、銀のかんざしがこう、プツリと刺さっているんです」
「へへえ。銀のかんざしがね」
「あっしもこれにはぞっとしました。ほかのしろもんとちがって、なまめかしいかんざしだけにいっそ気味がわるいんです」
「フンフン、それからどうした」
「それからが妙なんです。たとえにもいうとおり、怖いもの見たさでさ。あっしがそのかんざしを抜こうとすると、だしぬけにうしろから、いやというほど、ついたやつがあるんです」
「はてね」
「ふいを食らっちゃ、あっしだってたまりませんや。雪達磨の土手っ腹へ、もろに頭を突っ込んで、目も鼻も口も雪だらけ」
「おやおや」
「いまだからこうして話をしていられるが、そのときの苦しかったこと。息はつまるし、冷たいし、それでもやっとのことで、頭をぬいて息をついたときにゃ、銀のかんざしはおろか、くせ者の姿も見えません」
「へへえ」
と、一同が感にたえたように顔見合わせたときである。戸口のほうで、
「おい、紋次、てめえのせりふはそれだけかえ」
と、冷たくせせら笑う声。
一同がはっとして振りかえると、いつの間に入ってきたのか、油障子をうしろにして、十手片手に、ぬっと仁王立ちになっているのは、鳥越の親分で茂平次という御用聞き。色が黒くて、大あばたがあって、見るからに憎ていらしいところから、ひとよんで海坊主の茂平次という四十がらみの大男だ。
辰と豆六はおどろいて、
「おや、おまえは鳥越の親分。して、なにか御用ですかえ」
「おお、だれかと思えば辰と豆六か」
海坊主は気味のわるい笑いをうかべながら、
「おまえたちのなわ張りを荒らしてすまねえが、そこにいる紋次をもらっていくぜ」
「へっ、そらまた、どういうわけだんねん」
「わけはいま、紋次が話したとおりだ。おい、紋次。ゆうべ三味線堀の雪達磨のそばで、奈良屋の娘をぐさりとひと突き、このかんざしでえぐり殺したのは、たしかにきさまだろうなあ」
聞いて、辰と豆六は申すにおよばず、当の本人お神楽紋次も、あっとばかりに顔色かえたのである。
後ろ向きの雪達磨
――雪のうえには足跡が一つだけ
「というわけで、親分、あっしはこんなくやしいことはありません。知らぬうちならともかく、げんざいの目のまえから、よその親分に下手人をつれていかれちゃ、この辰五郎の男が立ちません」
「それに、あの海坊主め、調子にのって、さんざん親分の悪口いうていきよった。ほんまにわても、こんなくやしいことはおまへんわ」
と、あわをくってかえってきた辰と豆六が、くやし涙をポロポロこぼしているのもむりはない。まるで、とんびに油揚げをさらわれるように、重大事件の容疑者を、目のまえからスーッと持っていかれたのだから、これではまったく男が立たなかった。
佐七はふたりの話をこもごも聞いて、
「はてな、紋次というやつはちいさいときから、おいらもよく知っているが、小ばくちこそ打つものの、人殺しなどする男じゃねえ。こいつはなにか間違いじゃあるめえかな」
「そうですとも。あの海坊主のげじげじに、なにがわかるもんですか。それに、だいいち、じぶんがゆうべそんな大それたことをしたのなら、あっしらにむかって、あんな話をするはずはありません」
「ふむ、雪達磨の目が光ったというんだな」
「さよさよ。それから、銀のかんざしが、雪達磨の胸につき刺してあったちいいまんねん」
「なるほど、でたらめとしてはこしらえすぎるようだな。紋次の頭でつくれるような話じゃねえ。こりゃ鳥越の兄貴にゃ悪いが、ひとつ雪達磨の解けねえうちに、現場というのを見てこようか」
と、佐七がおみこしをあげたから、喜んだのは辰と豆六、いまに見ろ、海坊主にほえ面かかさずにゃおかねえと、やってきたのは三味線堀。
まず自身番へよって、事件発見の顛末《てんまつ》というのを聞くとこうである。
御徒町の奈良屋というのは、かいわいきっての老舗《しにせ》だが、ひとり娘のお蝶というのが、年ににあわぬおてんばで、とかくに世間の口にかかるほうであった。
そのお蝶が、ゆうべ文字繁のところへいったきり、夜更けてもかえらないので、大騒ぎをしていると、けさになって三味線堀のそばの雪達磨にもたれて、冷たくなっているのが発見された。
これをさいしょに見つけたのは、広徳寺前の隆光寺門前で、花屋をしている亀吉というおやじ。
その亀吉が、朝の六ツ(六時)ごろそこを通りかかると、雪達磨のかげからはでな着物がのぞいている。ふしぎに思ってちかづくと、女がひとり雪達磨によりかかって、しかも盆のくぼに銀かんざしが突ったって、流れだした血が雪達磨を真っ赤に染めているから、じいさん、きゃっとばかりに腰を抜かした。
この女がお蝶だったことはいうまでもないが、ここにひとつ、ふしぎなことというのは、亀吉じいさんがここへきかかったときには、雪のうえにはお蝶の足跡しかなかったというのである。
とすると、これははなはだ妙なことになる。お蝶の足跡がのこっている以上、彼女がそこへきたのは、雪がやんでからにちがいないが、とすれば、お蝶を殺した下手人の足跡も残っていなければならぬはずである。
それがなかったというのだから、下手人はいったいどこからやってきて、どうしてその場を立ち去ったのだろう。幽霊じゃあるまいし、足跡がのこらぬはずはないと、一同、まことに奇異な思いをしておりますとの町役人の話をきいて、佐七はにっこり、
「なるほど、それはおもしろそうな事件ですね。それじゃひとつ、現場というのを見てまいりましょう」
と、やってきたのは堀端だ。むろん、死骸はすでに取りかたづけてあったが、ものみだかい野次馬は、いまだにあちこちに群がっている。
佐七はその野次馬をかきわけて、雪達磨のそばへちかづいていった。問題の雪達磨は、そろそろ頭のほうから解けかかっていたが、目玉には朱塗りの椀《わん》が二つ、ギロリと光っている。
「なるほど、この目玉が光ったというんだな」
と、佐七はこつこつ、そのお椀をはじいていたが、やがて、それを取りはずすと、ふところから紙を出して包んだ。辰はふしぎそうに、
「はて、親分、なにかそれに不審がありますか」
「ふむ、よくはわからねえが、この目玉のむきが気にくわねえ。辰も豆六もよくみろ。この雪達磨は堀端から一尺ぐらいしか離れていねえ、こんなところへ雪達磨をつくるとすれば、ふつう目鼻は、往来のほうへつけるのがあたりまえだ。ところが、こいつは反対に、堀のほうをむいているじゃねえか」
「そうです。そいつはあっしもふしぎに思っておりました」
「それに、この雪達磨の胸のところに、こうして血がこびりついているところを見ると、お蝶が死んでいたのはここにちがいねえが、お蝶はまたなんだって、こんな危なっかしいところへ入りこみやがったのだろう」
と、佐七が首をかしげているときである。
「おや、おや、だれかと思えばお玉が池の佐七か。へん、遠いところをご苦労なこった」
と、そういう声をだれかとみれば、鳥越の親分、海坊主の茂平次である。
「おや、これは鳥越の兄い、ご苦労さまで」
「なに、ここはおいらのなわ張りだから、ご苦労といわれるわけはねえ。おまえこそ、ご苦労なこったが、下手人があがっているのに、なにをちょっかい出しにきた」
と、この茂平次という男、ちかごろとかく佐七に押されて振るわぬところから、年がいもなく、なにかにつけて目角がたつのである。
佐七はしかし、あくまでしたから出て、
「そうそう、下手人は紋次だということだが、それにゃなにか証拠があってのことかえ」
「証拠?」
海坊主はせせら笑って、
「なにもそんなむずかしいものはいらねえのさ。ゆうべ、お蝶と紋次は、文字繁の家をいっしょにでたというが、それいらいだれも、お蝶の生きているところを見たものはねえ」
「ヘン、そんなことでいちいち疑われたら、うっかり娘といっしょに歩けまへんなあ」
「なにを」
海坊主はものすごい目で豆六をにらみながら、
「そればかりじゃねえ。紋次はゆうべ文字繁のところへ、金の無心にきたんだが、文字繁もつごうがわるくて工面がつかなかった。ところが、お蝶の死体からは、持っているはずの三両という金がみつからねえんだ。どうだ、これでもなにかいうことがあるかえ」
「ほほう、三両といえば大金だが、それじゃお蝶はそんな大金を、ゆうべ持っていたんですかえ」
「そうよ。これは文字繁も見たというから、間違いはあるめえ」
「しかし、鳥越の親分よ。紋次がその金をとったとはかぎりますめえ、あいつは三両も入ったら髪結い床なんかへくる男じゃありませんや」
「辰、黙ってろ。しかし、兄い、足跡のなぞは? 紋次が殺したとしても、足跡のなかったのはどういうわけで?」
「はっはっは、そんなことわきゃねえ。紋次は雪の降っているうちにここへきて、お蝶を待ち伏せしていたんだ。そのうちに降りつむ雪で足跡は消えてしまわあ。やがて雪がやんでお蝶がくる。そこを紋次がよびとめて、雪達磨のかげへよびこみ、ぐさりとひと突き」
「なるほど。しかし、逃げるときは?」
「この堀よ。堀をつたって逃げたんだ。どうで水は浅いし、足跡ののこる心配はねえからな」
といわれて、辰と豆六は、あっとばかりに感服した。なるほど、それよりほかに、説明のしようはなさそうに思えるのである。
おてんば娘のお蝶
――白木の位牌《いはい》に線香のにおいが
「親分、親分、しっかりしておくんなさいよ。ここで海坊主にしてやられちゃ、末代までの恥辱ですぜ」
「さよさよ。わて、なんや心細うなってきた。なあ、親分、紋次が下手人ときまりそうやったら、なるだけはよう手を引かんと恥だっせ」
と、海坊主の毒気にあてられた辰と豆六、しきりに心細そうな音をあげている。
佐七は笑いながら、
「いいってことよ、おいらに少々考えがあるから、まかせておけ。ときに、ここまできたついでだ。文字繁の家へ寄ってみよう」
と、やってきたのは三味線堀からほど遠からぬ文字繁の住まい。
おさだまりのご神灯に、よくみがきこんだ細目格子、がらりとそれを開いたとたん、佐七はおやと顔をしかめた。線香のにおいがプーンと鼻をついたからである。
「おや、これはお玉が池の佐七つぁん、よくまあ。やっぱり、奈良屋さんの一件かえ」
と、足音をきいて、奥からとんで出たのは文字繁である。
佐七と文字繁はともに神田っ子で幼なじみ。文字繁のお繁は、せいぜい若づくりにしているが、むかしをしる佐七に年はかくせない。三十四という女の小じわが、おしろいのしたから浮いている。それに、この文字繁、若いころ大けがをして、いまでもびっこをひいている。そうとうのちんばなのだ。
「あいよ。それについて、おまえにききたいことがあってやってきた。お繁さん、だいじないか」
「ええ、構いませんとも、どうしてさ」
「だって、線香のにおいがするから、なにかとりこみちゅうじゃないかと思って」
「まあ、佐七つぁんのあいかわらずよく気のまわること。なに、きょうは古い仏の命日で、思い出して線香をあげてみましたのさ。さあ、辰つぁんも、豆さんも、おあがりなさい」
口では元気にいっているものの、まゆねの憂色は消しがたい。文字繁はしょんぼりとして、なんとやら元気がなかった。
「お繁さん、紋ちゃんがあんなことになって、おまえさんもさぞ心配だろうな」
「あい、佐七つぁん、察しておくれ。道楽者でも弟は弟、あたしには紋次が、あんな大それたことをしたとは思われません」
「それゃあっしだってふしぎに思っているのさ。だが、心配することはねえ。身におぼえのねえ罪なら、いつかは晴れるさ」
「そうでしょうか」
「そうとも。おいらもおよばずながら、ひとはだぬぎたいと思っているのさ」
「なにぶん、よろしく頼みますよ」
お繁はその場に両手をついたが、ことばにも態度にも、なんとなく力がなかった。
「ふむ。それについて、おまえに聞きたいのだが、お蝶という奈良屋の娘、年ににあわぬ莫蓮者《ばくれんもの》だということだが、情夫《おとこ》でもあったふうはないかえ」
「さあ、ずいぶんいろんな評判もあり、じぶんでもひとかどの莫蓮者のようなことはいってましたが、べつにこれという情夫はなかったようです。いまどき、あんなのははやらないから、男のほうであいてにしないのでしょうよ」
わが弟子ながら、お繁もあまりいい感じを、お蝶にたいして持っていなかったらしい。
「なるほど、しかし、聞けばゆうべお蝶は三両という金を、ふところに持っていたそうじゃないか。三両といやあ大金だ。いったい、なににつかうつもりか、いやアしなかったかえ」
「さあ……あたしもよく知りませんが、その金がなくなったのがふしぎでなりません」
「ふしぎとは?」
「だって……」
お繁はなぜかはっとした様子で、
「紋次がそれをとるはずはありませんもの。おや、あたしとしたことが、話にかまけてなにもあげないで、ちょっと待ってくださいね」
「いや、お繁さん、その心配ならいらねえぜ」
と、佐七がとめたが、お繁はあわててその場を立つと、やがてととのえてきたのは酒肴《しゅこう》。
「なんにもありませんが、かにが少々ありましたから」
「おや、こんな心配はしなくてもいのに」
「まあ、いいじゃありませんか。ねえさんがせっかくの心尽くしだ。遠慮なくごちそうになろうじゃありませんか」
「さよさよ。それがよろし、かにはいまが食べどきや。さっそくよばれまひょか」
「ほっほっほ、辰つぁんも豆さんものんきでいいね」
お繁はなんとなく寂しそうな声で、
「まあ、ゆっくりしておいでなさい。今夜あたり、また雪になるかもしれないから」
佐七はその声の調子に、なんだかぞっとするようなものを感じながら、
「ときに、お繁さん、奈良屋のお弔いはいつだろう」
「なんでもお許しがでたら、あすにでもやりたいといってましたよ」
「あすとはまたはやいが、そして寺は?」
「広徳寺前の隆光寺です。ほんにまた雪にならなきゃいいがねえ」
と、櫺子窓《れんじまど》から空をあおいだお繁の横顔から、ふと奥のほうへ目をやった佐七は、なにをみつけたのか、ふいにおやと首をかしげた。
きょうは古い仏の命日と、お繁はたったいまいったが、ふすまのむこうにかざってあるのは、まだ真新しい白木の位牌《いはい》、そのまえにゆらゆらと、線香の煙がたゆとうている。
お墓を拝む文字繁
――小さな墓標の表には俗名くみと
「親分、大変だ。大変だ。娘ひとり、また雪達磨に殺された」
「場所は下谷《したや》の六阿弥陀《ろくあみだ》や。親分、はよ、起きておくれやす」
その翌朝、お繁の案じたとおり、また雪になったその晨《あした》の、暖かい寝床が離れにくく、さっきからうつらうつらしている人形佐七のまくらもとへ、糸の切れた奴凧《やっこだこ》のように飛び込んできたのは辰と豆六。
「なに、娘がまた雪達磨に殺されたと。よし、お粂、飯の支度をしておいてくれ。大急ぎでかきこんで出かけるから」
早ぐそ早飯芸のうちというが、そこは早いものである。またたくまに着替えをすませ、飯をかきこむと、
「さあ、出かけよう」
と、辰と豆六をひきつれて、雪のつもった表へ飛び出した人形佐七。そこでみちみち、辰と豆六がいまきき込んできたことを聞くに、だいたいつぎのとおりである。
第二の犠牲者は、広徳寺前にある井筒屋という法衣屋《ころもや》の娘で名はお品、これが六阿弥陀のそばで、お蝶とおなじく銀かんざしでのどをえぐられ、雪達磨にもたれて死んでいたのだ。
しかも、ふしぎなのはそれだけではない。このたびもお品の下駄の跡よりほかに、雪のうえに足跡は、ひとつもなかったというのである。
「というわけで、あのへんじゃ、てっきり、雪達磨が娘に魅入るのだといってまさ」
「べらぼうめ。バカもやすみやすみいえ」
と、やってきたのは六阿弥陀。なにしろ、きのうのきょうだから、あたりはいっぱいの人だかりで、みな気味悪そうに息をひそめている。
そのなかを割ってとおると、なるほど、大きな雪達磨が目についたが、死体はすでに取りかたづけたのか、どこにもなかった。
「おや、死体はどういたしました」
あたりにいた町役人に尋ねると、
「ああ、これはお玉が池の親分さん、死骸はいま、鳥越の親分が持っていきましたので」
これをきいて、辰と豆六、さっそくがなり出そうとするのを、佐七はしっと制しながら、
「さようでございますか。しかし、なにかその死骸に、変わったことはございませんでしたかえ」
「さあ、わたしどもにはよくわかりませんが、お品さんのふところから、五両という金が出てきましたそうで、下手人が、それを持っていかなかったのがふしぎだと、鳥越の親分は申しておりました」
「なに、お品の死骸が五両持っていたと? なるほど、それで、そのほかには?」
「はい、なにか手紙のようなものがございましたが、それも鳥越の親分が持っていかれましたので……」
「さようでございますか。いや、ありがとうございました」
きくだけのことをきいてしまうと、佐七は現場の調査にとりかかったが、なんとしてもふしぎなのである。
三味線堀のときとちがって、ここには堀もみぞもない。問題の雪達磨の周囲、五、六間のあいだはいちめんの雪で、その雪のうえに足跡をのこさずに、雪達磨のそばへいくのはぜったいに不可能だ。
これには佐七も困りはてて、おもわずフームと腕こまぬいたが、そのとき頭のうえでカーオカーオと、あざけるようなからすの鳴き声。いったい、からす鳴きというやつはいやなものだが、場合が場合だけに、佐七もしゃくにさわったのである。
「畜生ッ!」
舌打ちしながら木立のむこうに目をやったが、とたんになにをみつけたのか、あっと叫ぶと腕をほぐして、ふしぎそうに小首をかしげた。むこうに見えるは火の見やぐら。
「親分、なにかありましたかえ」
「ふむ、こいつは少々おもしろいぜ。ときに、おまえさん、井筒屋の寺というのはどちらですえ」
「はい、たしか広徳寺まえの隆光寺だと思います」
きいて、佐七をはじめ辰と豆六、おもわずあっと顔見合わせた。
「隆光寺といやア、奈良屋もそうでしたね」
「はい、さようで。きょうの昼過ぎから、奈良屋さんのお弔いがあるはずです。井筒屋さんも奈良屋さんも、隆光寺の大檀家《おおだんか》ですが、こんなことではやっちゃ、お寺も寝覚めがわるいでしょうね」
「ほんに妙なまわりあわせですねえ」
と、その場はさりげなく調子をあわせた人形佐七、それから途中で飯を食って、時刻をはかってやってきたのは隆光寺。
門前にはかたのごとく花屋があって、会葬者はそのへんまであふれている。そのあいだを、お茶をくばったり、火ばちに火をついだり、かいがいしく働いている白髪のおやじを指さして、
「親分、親分、あそこにいるのが、きのうお蝶の死骸《しがい》をみつけた亀吉《かめきち》というじじいです」
佐七はそれをきくと、はっと思い出したようすで、
「そうそう、そういえば、あいつは隆光寺まえの花屋のおやじだったんだな。辰、豆六、こいつはへんだと思わねえかな。なにもかも隆光寺に関係がある」
「ほんに、こら、けったいな話やなあ」
「よし、こりゃどうでもこの寺を洗ってみなきゃ!」
と、三人が寺内へふみ込むと、いましも読経の真っ最中。なにしろ、奈良屋といえば名代の老舗《しにせ》だから、あたりはいっぱいの会葬者だ。佐七はひとまずその混雑を避けて、やってきたのはうらの墓地。
みると、女がすみのほうで、小さな墓をおがんでいたが、足音を聞いてはっと立ちあがった。その顔をみて、三人はあっとおどろいた。
「おや、おまえはお繁さんじゃないか」
「あら、佐七つぁん」
お繁はばつがわるそうに、いそいで墓のまえを離れた。
「お繁さん、あれはゆかりの仏かえ」
「いえ、あの、べつに……それじゃ佐七つぁん、お経がはじまったようだから、またのちほど」
と、あいさつもそこそこに、ちんばをひきひき、逃げるように立ち去るお繁のうしろ姿を、ふしぎそうに見送った人形佐七、いま文字繁のおがんでいた墓を探しあてると、将棋の駒のような石の表に、
俗名くみ    十七歳
とあって、亡くなったのは去年の暮れ。
寺小姓の弁之助
――哀れおくみは井戸へ身投げして
「はてな、このおくみというのはだれだろう」
佐七はかなり詳しく、お繁の一家を知っているつもりだが、おくみという名前は思いあたらない。十七といえば、お繁、紋次の妹にあたる年ごろだが、そんな姉妹があったことは聞かぬ。
「妙だなあ」
と、首をかしげている折りから、がさりと土を踏みくずす音。おやと振りかえってみると、石塔のかげから、だれやらこちらをうかがっている。
「ああ、もし、お尋ねいたします」
「はい、あの、わたくしでございますか」
あいてははっとした模様だが、いまさらかくれるわけにはいかない。おずおずと、石塔のかげから出てきたが、そのすがたを見て、辰と豆六、おもわずフームとうなってしまった。
それもそのはず、あいては七段目の力弥《りきや》そこのけの美少年。前髪もにおやかに、長いたもとがふるいつきたいほどなまめかしかった。
「おまえさんはここのお小姓でございますね」
「はい、弁之助と申します」
「それはちょうどさいわい、お尋ねというのはほかでもありません。このお墓のくみさんというのを、おまえさん、ご存じじゃありませんか」
「はい、それは門前の花屋の娘さんでございます」
「なんですって。花屋の娘といえば、あの亀吉の娘なんでございますか」
佐七はここのところ、驚くことばかりだった。すべてが、あんまり入り組んでいて、なにがなにやら、さっぱりわけがわからない。
「はい、さようでございます」
「そして、亡くなったのは去年の暮れとありますが、なにか急病でも……」
「はい、あの、それがまことにふびんなことでございました」
「ふびんなことというと?」
「井戸へ身を投げて死んだのでございます」
「なに、身投げ? それはまたどうして……」
と、佐七がなおも問いつめようとするおりから、木戸を押しあけ、のっしのっしと入ってきたのは、海坊主の茂平次。わざと佐七には目もくれず、弁之助のそばにつかつかと歩みよると、
「弁之助さん、ちょっとそこまできてもらおうか」
と、いきなり腕をつかんだから、おどろいたのは弁之助。美しい顔をしかめながら、
「あれ、わたしになにかご用でございますか」
「用があるから呼びにきたのだ。おい、弁之助、奈良屋のお蝶や、井筒屋のお品を殺したおぼえがあろう。お情けに、おなわだけは許してやる。素直においらについてくるんだ」
と、聞いておどろいたのは辰と豆六。
「もし、鳥越の親分、それじゃ下手人は、この弁之助さんだとおっしゃるんで」
「あんた、よう考えてからものをいいなはれや。またあとで、赤っ恥かくのんと違いまっかいな」
「やかましいやい。おまえたちの出る幕じゃねえ。おい、佐七、てめえまたおれのしくじりをみて、笑ってやろうときたのだろうが、そうはいかねえ。おい、弁之助、おまえこれに覚えがあろう」
と、ふところから取り出したのは一通の手紙。弁之助はそれをみると、おどろくかと思いのほか、ただけげんそうにまゆをひそめただけだから、海坊主はいささか当てがはずれたかたちで、
「フン、この場におよんで、しらを切ろうとしてもそうはいかねえ。けさがたお品のふところから出た手紙、おいらが読むからまあ聞けよ」
と、茂平次が読みあげた手紙というのは――
「取り急ぎ一筆しめし参らせ候。このあいだよりのたびたびのおん文、身にしみてうれしく、数ならぬわたくしをさほどまでに、お慕いくだされ候あつきお情け、筆にもことばにもつくしがたくただただ有り難く存じ候……それほどまでのおことばに、甘えて申すではござなく候えども、私ことよんどころなきわけあって、さし迫って金子五両、ぜひとも入用にござ候……今夜五つ半(九時)六阿弥陀までおいでくだされたく、雪達磨のそばにて相待ち申し候。つもる話はこの雪の熱き情けにとけるその節。弁の字より、お品さま参る……どうだ、どうだ、弁之助、これでもなにかいうことがあるかえ」
勝ちほこった茂平次のことばに、あっとばかりに驚いたのは辰と豆六だ。
「それじゃ親分、その手紙で娘を呼びだし、弁之助さんがぐさりとやったというんですね」
「そうよ、奈良屋も井筒屋も大檀家《おおだんか》だ。たびたび出入りをしているうちに、お蝶やお品は弁之助の色香に迷い、やいのやいのをきめ込んでいたんだ。おい、弁之助、それにちがいあるめえ」
「おっと、待ちなはれ、鳥越の親分。そんならなにも娘を殺すことはおまへんやないか。それに、あの足跡のなぞはどないしまんねん」
豆六もここを先途と食い下がる。
海坊主の茂平次はせせら笑って、
「そんなことはわきゃあねえ。三味線堀のときは、このあいだもいったとおりだが、ゆうべはこうよ。ひと足さきにやってきて、雪達磨のかげに待っていた弁之助は、そのうちに降りつむ雪に、じぶんの足跡は消えてしまう。そこへお品がやってくる。そこをぐさりとひとえぐり」
「それで、かえりは? 三味線堀とちごうて、六阿弥陀には堀なんかおまへんで」
「堀などいらねえ。弁之助はお品の下駄《げた》をはき、雪のうえに残っているお品の足跡を踏んで、うしろむきに歩いてかえったのだ。こうすりゃ、足跡はただひと筋しか残らねえわけだ」
「へへえ」
と、辰と豆六は目をパチクリ。茂平次はいよいよとくいになって、
「そして、ほどよい場所までいくと下駄をはきかえ、お品の下駄は死体のそばへ投げておいた。だから、お品の死骸《しがい》がみつかったときにゃ、下駄は両方とも雪まみれになって、ひっくり返っていたという話だ。おい、弁之助、これでもなにかいうことがあるかえ」
あっぱれ明察……? と、さすがの辰と豆六も、度肝をぬかれて息もつけない。
佐七はそのあいだじゅう、弁之助のようすいかにと、じっとかたわらよりうかがっていたが、その弁之助はしだいにうなだれて頭もあげない。はては両肩をぶるぶると、小刻みにふるわせはじめたから、ここにおいて、茂平次のとくいその絶頂に達した。
「おお、とうとう恐れ入ったとみえる。恐れ入ったら素直についてくるがいい」
茂平次が手をとろうとしたとたん、それを払ってひょいと顔をあげた弁之助、その顔をみて、茂平次はのけぞらんばかりにおどろいた。
なんと、弁之助は泣いているかと思いのほか、肩をふるわせ、歯をくいしばって、笑いをかみ殺していたのだ。
「やあ、こいつが、こいつが。なにがおかしい。なにがおかしくて笑うのだ」
「鳥越の茂平次どのとやら、これがおかしゅうのうてどうしよう。なるほど、おまえのいうことは、ほんとうらしゅうできているけれど、いちばん肝心なことを忘れている」
涼しげにいい放った弁之助のことばに、茂平次は目をパチクリさせながら、
「はて、おれがなにを忘れているというんだ」
「されば、ゆうべわたしがどこにいたかをお調べか。それを忘れては、百の証拠もむだになりましょうぞ」
「げっ、それじゃおまえ、ゆうべはどこに……」
「八王子におりました。いえ、ゆうべばかりではございませぬ。三日まえから八王子の竜泉寺へ修行にまいって、さっきかえってきたばかり。お疑いなら当寺でなりと、八王子へ使いをやってなりと、お調べになったがよい。茂平次どの、これでもわたしにご用がございますかえ」
さすがの茂平次も、これにはわっと頭をかかえたが、それをみて辰と豆六、いや喜んだの喜ばないの。ふたりがいかに辛辣《しんらつ》な舌をふるったか、あらためてここに述べるまでもあるまい。
裸にされた娘おくみ
――鼈甲《べっこう》のくし差して来て下さるべく
「はっはっは、ざまアみやがれ。これで三斗の溜飲《りゅういん》が、いちじにさがった思いですが、それにしても、親分、あの呼び出し状は、だれが書いたんでしょうねえ」
「さあて。なんだか妙にこんがらがってきた」
と、それからまもなく墓地を出た三人が、通りかかったのは花屋のまえ。お弔いもおわって、会葬者もあらかたちった花屋の店には、老爺《ろうや》の亀吉がひとりしょんぼり、火ばちをかかえている。
佐七はそれをみると、つかつかなかへ入っていった。
「おや、これはお玉が池の親分さん」
亀吉がなんとなく狼狽《ろうばい》したように、腰をあげようとするのを、佐七は両手でおさえながら、
「立たなくてもいい、とっつぁん、おまえに少々尋ねたいことがあるんだ。三味線堀の事件を、さいしょにみつけたのはおまえだったね」
「は、はい、さようで……」
「そのときおまえが、お蝶《ちょう》のふところから抜きとったものを、ひとつここへ出してもらいたいのだ」
「えっ、な、なにをおっしゃいます」
「おい、とっつぁん、しらばくれるのもいいかげんにしろ。お蝶のふところにゃ三両の金と、男からきた呼び出し状があったはずだ。それをここへ出してもらおうか」
これには辰と豆六は、あっとばかりにおどろいた。いつもながら、意表にでる佐七の明察、様子いかにとうかがっていると、亀吉ははっとばかりにその場へ両手をついた。
「恐れいりました。親分、おまえさんは、評判にたがわぬ恐ろしいおかたじゃ。こうなったらなにもかくしはいたしませぬ。どうぞお受け取りくださいまし」
と、花桶《はなおけ》の底からとりだしたのは油紙包み。それを佐七にわたしながら、
「しかし、親分、わたしがこの金をかくしたのは、決して、さもしい心からではございませんので」
「わかっている。おおかた、弁之助をかばうためであろう」
「はい、それもございました。だが、それよりも、あの憎いにくいお蝶のあまを、よくも殺してくれたその下手人、いつまでもわからねばよいと思ったからでございます」
と、ハラハラと涙を落とす亀吉の顔を、佐七はじっとながめながら、
「はて、憎いにくいお蝶というと……」
「親分、あいつはおくみのかたきでございます。おくみは井戸へ身を投げて死にましたが、それというのもあいつゆえ。親分、聞いてくださいまし」
と、悲憤の涙をしぼりながら、そこで亀吉が語った一条というのはこうである。
隆光寺門前に住んでいるおくみは、寺にことがあると、いつも手伝いにいくならわしになっていたが、去年の暮れのこと、その隆光寺の住職に代変わりがあって、新住職の披露《ひろう》がはなばなしく寺で行われたことがあった。おくみもむろん手伝いにいったが、その席上でたいへんなことが起こったのである。
「はて、大変なことというと……」
「はい、おくみが裸にされたのでございます」
と、亀吉が歯ぎしりをして語るには、
「その前日のことでございました。奈良屋、井筒屋、それに宝屋という、隆光寺でもいちばん有力な檀家《だんか》が三軒連名で、あすのお手伝いご苦労さまと、仕立ておろしの着物を、おくみに届けてきたのでございます。そこは若い娘のこと、おくみは大喜びでそれを着てまいりましたが……」
さて、披露の宴いよいよたけなわなるころ、ずらりと居並んだ檀家のひとびとへ、おくみがお膳《ぜん》を運んでいると、そこへやってきたのがお蝶、
「あら、おくみちゃん、ご苦労さまね」
と、ポンと背中をたたいていったかと思うと、こはいかに、おくみの右の片そでが、糸を抜かれたようにスーッと落ちたから、おどろいたのはおくみ、お膳をもったまままごまごしてると、そこへやってきたのが井筒屋のお品だ。
「まあ、おくみちゃん、どうしたのよ」
と、またもやポンと背中をたたいたが、するとこんどは左のそでがバラリと落ちた。
こうなると、おくみは身動きもできない。あまりの恥ずかしさ、悲しさに、真っ青になって立ちすくんでいるところへ、
「あらあらあら、おくみちゃん、大変だわ」
と、やってきたのは宝屋の娘でお米《よね》という、お蝶やお品に劣らぬおてんば娘だ。親切ごかしにおくみのそばへ寄ると、スーッと腰のへんをなでていったが、そのとたんに……、
「あろうことかあるまいことか、おくみのすそがバラリと落ちて、満座はどっと高笑い、おくみはわっとその場に泣き伏しました」
おくみが井戸へ身を投げたのは、その晩だった――と、はじめてきいた意外な話に、
「なるほど。それじゃ、お蝶やお品、お米の三人が、おくみに恥をかかそうと、仕掛けのある着物をきせたというんだな」
「はい、それにちがいございません。それというのが、あいつらは、まるでさかりのついた犬みたいに、弁之助さまを追っかけまわしていたのでございます。しかし、道心堅固な弁之助さまが、なんであんないたずら娘を構いつけましょう。それにひきかえ、おくみにはいつもやさしくしてくださるものですから、ねたましさにたえかねて、あんないたずらをしたのでございます」
と、語りおわって、亀吉は男泣きに泣くのだった。なるほど、おくみの身にとって、それはどれほど悔しく、悲しいことだったろう。井戸へ身を投げたおくみのうらみは、執念の炎となって、三人の娘につきまとっているにちがいない。
――と、事件の輪郭はつかめたが、さて下手人はとなると、いまだにこれが五里霧中。
「とっつぁん、それで、おまえはだれがお蝶やお品を殺したのか、心当たりはねえかえ」
「はい、存じません。わたしではございません」
と、そういう顔色にうそはなさそうだった。佐七は困りはてたように、しばらく考えこんでいたが、やがて、亀吉からうけとった油紙の包みをひらいて、取りだしたのは一通の手紙。
いうまでもなく、弁之助の名前で、お蝶を呼び出した手紙で、内容はさっき茂平次が読みあげたのと一言一句ちがわなかったが、ただ最後に、ひと言妙なことが書いてある。
[#ここから2字下げ]
――追白。なおこの手紙に同封いたし候|鼈甲《べっこう》のくしは、わたしにとってはなつかしい母の形見、これを差し上げ候ほどに、今宵《こよい》は間違いなく、このくしさして来てくだされたく候。
[#ここで字下げ終わり]
危うし宝屋のお米
――南無三《なむさん》、佐七は血相かえた
その二、三日、佐七はすっかりくさっていた。
手にとれば、とれそうなところにありながら、すくえば逃げる水の月で、すっかりこじれた事件のなぞに、佐七がじれきっていると、みるにみかねた女房のお粂が、
「おまえさん、そうじれても仕方がない。まあ憂さ晴らしに、いっぱいおあがりな」
「ふむ、へたな考えやすむに似たりか。それじゃいっぱいもらおうか。おや、お粂、雪になったのじゃないかえ」
「おや、ほんとうだ。今夜はまた積もりそうだねえ」
「雪は豊年の貢ぎというが、ことしのように降るたびに、人殺しがあっちゃたまらねえ」
と、佐七がにが笑いしているところへ、のっそり、かえってきたのはうらなりの豆六だ。
「親分、ただいま」
「おお、豆六か。ご苦労ご苦労。どうだった」
「へえ、やっぱり親分のおっしゃるとおりや。海坊主の見つけた文にも、追って書きのところに、くしのことが書いておました」
「それじゃお品にやった手紙にも、くしを入れておいたから、これを差してこいと……」
「さよさよ。そのとおりだす。だけど、親分、それがどないしたんだす。たったそれだけのことやけど、海坊主のやつ、いやみばっかりいいくさって、こんな気色のわるい使いおまへんわ」
と、豆六が愚痴たらたらこぼしているところへ、威勢よくかえってきたのはきんちゃくの辰。
「おや、こいつはうまいことやってますね。おいらもひとついただきましょうか」
「おお、さむかったろう。豆六も遠慮をせずのみねえ。で、宝屋の娘にかわりはねえかえ」
おくみをいじめ殺した三人のうち、宝屋のお米だけがまだ生きている。佐七はそれが心がかりで、この二、三日、辰に命じて、ずっと警戒させているのだった。
「へえ、べつに変わりはございません」
「弁之助や亀吉はどうしている」
「へえ、亀吉は念仏|三昧《ざんまい》。弁之助のほうも寺ではしごく評判がいいんで。なんでもちかく、いよいよ剃髪《ていはつ》するとかいうことです」
「それじゃ、人殺しをしそうなやつは、ひとりもいねえわけだな」
と、佐七も持てあましたようなにが笑いだ。
「へえ、まあ、そうで。おっと、忘れてました。親分、お神楽《かぐら》のやつが出てきましたぜ」
「なに、紋次が出牢《しゅつろう》したと?」
「へえ、あいつが吟味牢へ入っているあいだに、またぞろ、おなじ手口でお品が殺されたので、疑いが晴れたんだそうで。いやはや、海坊主のやつ、面目まるつぶれでさあ。それで、きょう三味線掘の近所でバッタリ会って、いっしょに文字繁のところへよって、ごちそうになってきました」
「なに、文字繁のところへよってきたと?」
「へえ、ところで、紋次のやつがへんなことをいうんです。このあいだ海老床《えびどこ》であいつのいったこと。ほら、雪達磨の目が光るの、銀かんざしが突っ立っていたのという話、あれはうそだというんです」
「なに、あの話はうそだと?」
佐七ははっとしたようすだったが、お粂はそれと気がつかず、
「辰つぁん、お繁さんとこにごちそうあったかえ?」
「へえ、それがおかしいんですよ。ねえ、親分、あの女はよっぽどかにが好きですね。きょうもまた、かにをくわされてきましたよ」
「なに、かにを……?」
佐七はなにを思ったのか、はたとひざをたたくと、
「お粂、このあいだ持ってかえった雪達磨の目玉があるだろう。あれをここへ出してみてくれ」
「あいよ」
と、お粂が取りだしたのは、あれっきり忘れていた二つのお椀だ。佐七はそれをためつすがめつながめていたが、なに思ったのか、
「豆六、その行灯《あんどん》を消してみてくれ」
「へえ」
と、豆六が行灯を吹き消すと、あたりはいちじに漆のやみ……だが、そのときである。四人の口からいっせいに、あっという叫びがもれた。
なんと、そのお椀から、ごくかすかではあったけれど、青白い光が燃えあがるのだ。
「これだ! 辰、これでも紋次はこのあいだの話をうそだというのかえ」
「ほ、ほんにこいつはふしぎですねえ。なんだって、いまになって、あの話を打ち消しゃアがったのかな」
「いや、そのわけはいまこそわかった。お粂、支度だ」
「へっ、親分、雪のなかをどこへ出かけるんで?」
「どこへってしれている。こうなると気がかりなのはお米の身だ。辰、豆六もついてこい」
と、佐七の血相が変わっているから、なにがなにやらわからぬながら、辰と豆六があわをくってお玉が池をとび出すと、やってきたのは宝屋だ。
ところが、その宝屋でもいま大騒ぎのさいちゅうで、
「へえ、へえ、そのお米なら、さっき、鳥越の親分といっしょに出かけました」
と、おやじの万兵衛も顔色がかわっている。
「なに、鳥越の兄いと? それはどういうわけだ」
「はい、さっきの隆光寺の弁之助さんの名前で、妙な手紙がまいりましたので。奈良屋さんや、井筒屋さんのこともございますから、そのことを鳥越の親分にお知らせしますと、これはおもしろい、ひとつだまされた気になって、お米さん、出かけたらどうだ。おれがきっと守ってやるからと……」
佐七はそれをきくと、南無三《なむさん》とばかり血相かえて、
「してして、その出かけたさきというのは?」
「はい、お舟蔵のそばに、雪達磨がこさえてあるのだそうで……」
と、みなまできかずに人形佐七、はや雪をけたててまっしぐらに走っていた。
恨みは深し火の見やぐら
――おお、われゃお神楽紋次だな
ちょうどそのころ。お舟蔵のそばでは……、
大きな雪達磨のそばに、さっきからもぞもぞと動いているふたつの人影。いうまでもなく、お米と海坊主の茂平次だ。
「寒いこと。親分、もう何刻《なんどき》ごろでしょうねえ」
「しっ、あんまり口をきくなというに。さっき上野の鐘が五ツ(八時)を打ったから、もう、かれこれ約束の刻限だろうよ」
「来るなら早くくればいいのにねえ。あたしゃ寒くてしかたがない」
と、おてんばのお米は、むしろ待ち遠しそうな口ぶりだ。お米は怖いどころか、じつはおもしろくてたまらないのだ。
もしここで下手人を捕らえれば、きっと江戸じゅうの評判になるだろう。読み売りにも歌われよう。一枚絵にもかかれるかもしれないと、お米は胸がわくわくするくらい。これには、さすがの茂平次もあきれ返って、
「まあ、なるべく、気をつけていてもらいたいね。おまえにもしものことがあっちゃ、この茂平次が頭を丸めなくちゃならねえ。ときに、お米さん、おまえ、あのくしはどうしたえ」
「おお、そうそう、忘れていた。それで下手人がこないのかしら」
と、お米がふところを探っているときだ。四、五間むこうで、がさりと雪を踏みくずす音。だれやら雪のなかにうずくまっている。
それとみるより、海坊主の茂平次、なにしろ、さっきから気の立っているおりからだ。
「だれだ」
とばかり、背中を丸くしておどりかかっていた。
しばらく真っ白な煙が八方にとんで、ふたつの体が組ずほぐれつ、こまのようにもつれあっていたが、それでも茂平次の力がまさったのか、やっとあいてをおさえつけると、さいわいむこうにみえる常夜灯。そのほの明かりで顔をすかして、茂平次はあっとばかりに驚いた。
「おお、われゃお神楽の紋次だな」
呆然《ぼうぜん》として立ちすくんでいるところへ、雪をけたててやってきた三つの影。
「おお、鳥越の兄い。してして、お米さんは」
と、息せき切ってたずねる声に、海坊主の茂平次はせせら笑い、
「おお、そういう声は佐七だな。なにしにうせたかしらねえが、下手人は取りおさえたからまごまごするな。お米坊、お米坊、おまえのぶじな顔をみせて笑ってやれ」
と、雪達磨のそばへちかよった茂平次は、お米の肩に手をかけたが、とたんに、
「わっ!」
と叫んでうしろにとびのいた。それもそのはず、お米の首にはぐさりと銀のかんざしが……。
佐七はその声をきくよりはやく、雪達磨のそばへとんでいったが、と、みれば怪しむべし、お米の頭にさした鼈甲《べっこう》のくしが、鬼火のようにボーっと光っているではないか。
「辰、豆六もみろ。これが下手人の目印だ」
「へえ、しかし、親分、その下手人というのは……」
「その下手人というのはな」
佐七はひらりとどぶをこえると、近づいていったのはそこにある火の見やぐら。佐七はそれをきっとあおいで、
「お繁さん、お繁さん、おまえ、まだそこにいるかえ」
と声をかけたから、おどろいたのは辰と豆六だ。
「親分、文字繁がどうかしたのですかえ」
とたずねる声も耳にいれず、佐七は悲痛な声をしぼって、
「お繁さん、おまえの悔しさはよくわかる。おくみというのは、おまえの娘だったんだな。襁褓《むつき》のなかからくれてやっても、産みの娘にかわりはねえ。その娘が三人のいたずら娘に辱められて死んだと聞いたときのおまえのくやしさ、それゃもう毛頭むりとは思わねえ」
佐七がことばを切ると、しんとした雪のなかから、とつぜん、すすり泣きの声がきこえてきた。まぎれもなく、火の見やぐらのうえにだれかいるのだ。
海坊主の茂平次も、目をパチクリとさせている。
佐七はふたたびことばをついで、
「だがよ、お繁さん、天下の法はまげられねえ。おいらだって、おまえばかりは縛りたくはねえが、こればかりはしかたがねえ。いずれお慈悲はねがってやるから、かならず悪く思ってくれるな」
佐七が火の見やぐらに片足かけたときである。
「親分さん」
と、うえから顔を出したのは、まぎれもなく常盤津文字繁。
「花も実もあるいまのおことば、お慈悲を願ってやろうとのご親切はうれしゅうござんすけれど、首尾よくうらみを晴らしたからには、なんでこの世に未練がございましょう。お騒がせした罪は、どうぞ許して……」
と、いいもおわらず常盤津文字繁、あいくち逆手にのどにあてると、火の見やぐらからまっさかさまにとびおりて……あわれ、降りつむ雪を真紅に染めて、みごとに自害を遂げたのである。
「いや、あのときの海坊主の顔ちゅうたら、おまへなんだなあ。しかし、考えてみると無理もない。文字繁が下手人やとは、さすがのわてにもわかりまへなんだわ」
「なにをぬかしやがる。おいらにわからねえものが、てめえにわかってたまるもんか。それにしても、火の見やぐらのうえから、かんざしを投げて殺すとは、文字繁も考えたもんですねえ」
と、一件落着ののち、れいによって辰と豆六は、佐七からなぞ解きの講義をきくのである。
「そうよ、文字繁は若いころ、白刃投げの太夫《たゆう》をしていたことがあるんだ。そこで考えついたのが、ああいう奇妙な人殺し。それというのが、文字繁、足がわるい、ひどいちんばだ。まともにぶつかっちゃ、若い娘にゃかなわない。よしんば勝てるにしても、雪のうえにちんばの足跡がのこるだろう。そこで、ああして遠くのほうから殺す工夫をしたんだ」
「なるほど、しかし、それにゃ夜のことで、ねらいが狂っちゃならねえというので、ああして光るくしを、あいてにささせる工夫をしたんですね」
「そうよ。そこにもう少しはやく気がつけば、せめてお米だけでも救うことができたんだが、下司《げす》の知恵はあとからだ。辰が、かにのごちそうのことをいうまでは、おれもてんでわからなかった」
「へえ、かにがどうかしたんで?」
「おや、てめえにゃまだわからねえのか。かにの甲らをすりつぶすと、夜でもポーッと光るものだ。それをくしに塗りつけておいたのよ」
「あっ、なるほど……」
「お神楽紋次も、あとになってそれと気がついた。そこで、雪達磨の目の光ったことを、打ち消そうとしたんだ」
「そうそう、雪達磨といえば、なんでまたあの目を光らしましてん」
「それはな、お繁にもはたしてうまくいくかどうかわからなかったので、雪達磨でいちどためしてみたのよ」
「あっ、なある。しかし、親分、ためしはいっぺんでよろしやないか。お品やお米を殺すのに、なんでいちいち、雪達磨をこさえよったんだっしゃろ」
「そこがお繁のかしこいところさ。三人が三人とも、火の見やぐらのそばで殺されたということになれば、いずれひとの注意をひかあな。そこで、火の見やぐらから注意をそらすために、持ちだしたのが雪達磨だ。みねえ、そいつが図にはまって、世間じゃいまだに、雪達磨の精だのなんだのと、騒いでいるじゃねえか」
佐七は、そうことばを結ぶと、幼なじみのお繁のあわれなさいごを思いやり、暗然と目を閉じるのだった。
お繁はわかいころ、さるお店《たな》の若だんなとちぎって、おくみを産んだが、おくみが産まれるまえに、若だんなが病気で亡くなった。
若だんなの家ではおくみを、せがれのタネと信じることを拒否したので、お繁は涙ながらにおくみを、生涯《しょうがい》親しらずということにして、花屋の亀吉にもらってもらった。
お繁が三味線堀にすんでいたのは、少しでも娘のそばにいたかったからである。
思えば、哀れなのはお繁の一生だった。
さて、ここにひとつ、哀れをとどめたのは海坊主の茂平次で、世間からわらわれる、宝屋からはうらまれる、ことごとく面目を失って、とうとうくりくり坊主になったが、そのために、いよいよ海坊主らしくなったとは、とんだお笑い草だった。
弁之助はその翌年の春|剃髪《ていはつ》して、間もなくりっぱに善知識になったということである。
[#地付き](完)
◆人形佐七捕物帳◆(巻十)
横溝正史作
二〇〇五年六月十日