人形佐七捕物帳 巻五
[#地から2字上げ]横溝正史
目次
小倉百人一首
紅梅屋敷
彫物師《ほりものし》の娘
括《くく》り猿《ざる》の秘密
睡《ねむ》り鈴之助
小倉百人一首
源平|歌留多《かるた》合戦
――兄い、そらあかん、お手つきや
天の原ふりさけ見れば春日《かすが》なる
三笠《みかさ》の山にいでし月かも
これはまたどうしたことか。
七草|粥《がゆ》もいわいおわって、屠蘇《とそ》きげんからそろそろ覚めてもよい正月十日の晩のこと。神田お玉が池は佐七のうちから、朗々としてきこえてくるのは、小倉百人一首を朗詠する声である。
読んでいるのはお粂《くめ》らしく、それにつづいて、
「取ったア!」
と、野暮な声をはりあげたのはきんちゃくの辰《たつ》、まるで十手でもふりまわしているような声だが、つぎの瞬間、豆六の声で、
「兄い、こすいよ、こすいよ、それ、わてが取ったんやおまへんか」
「べらぼうめ、てめえが取ったのなら、なぜ取ったとか、ありましたとか威勢よくいわねえんだ」
「いうたよ、いいましたがな。そやけど、わての声はいたってみやびやかやさかい、兄いの胴間声に消されてしもうて……」
「なんとでもいえ、どうせおれの声は胴間声だろうよ。そして、てめえの声はみやびやかかもしれねえ。だけど、歌留多《かるた》というものはな、こうして取ったものが勝ちということよ」
「そやかて、わてがありましたアちゅうて、おさえてたんを、兄いがむりにはねのけて、横取りしたんやおまへんか。そんなんこすいよ、こすいよ。親分、あんたそないにニヤニヤしとらんと、なんとか公正に裁きをつけておくれやすな」
「あっはっは、豆六、これゃおまえの負けだな。江戸っ子は気性があらっぽいから、あいての手をはねのけてでも歌留多をとるのよ。おまえみたいにおみやびやかいっぽうじゃ、一枚だってとれめえよ」
「あれッ、親分まで兄いの肩を持ちゃはんのんかいな。よウしッ、ほんならわてにも覚悟がおます。こんど兄いがわての手をはねのけようとしやはったら、遠慮せえしまへんで。ひっかいてやりまっさかいな」
「そうそう、豆さん、せいぜいつめをといでおおき。どうせあいては、どろぼうねこみたいなおひとだからね」
「あれッ、あねさん、あなたいやに、豆六のひいきをするじゃありませんか。どろぼうねこたアなんです、どろぼうねこたア……」
「あら、ごめんなさい。じゃ、つぎを読みますよ。秋風にたなびく雲の絶え間より……」
「ありましたア!」
「取った、取った、取ったア!」
「わっ、こすい、こすい、兄いちゅうたら、またわての……」
いやはや、騒々しいことこのうえなしだが、いったいなにがはじまったのかと、そっと茶の間をのぞいてみれば、辰と豆六、いましも五十枚ずつ取り札をまえにならべて、差しむかいの源平歌留多合戦。
ふたりともへっぴり腰で両手をつき、虎視眈々と、敵陣営とわが陣営をにらんでいるのはよいとして、双方とも、そうとうお手つきがあったとみえ、額から、ほっぺたから、鼻の頭から墨くろぐろ、あたら自称色男も台無しである。読み手のお粂は、かつて吉原《よしわら》で名花一輪、全盛をうたわれた女だけあって、琴棋書画《きんきしょが》、なんでもこなす万能ぶり。その読みかたにも張りがあって、凛《りん》としてよい声である。
さて、佐七はとながむれば、これは長火ばちのまえで、手酌《てじゃく》で杯をなめながら、片手ですずりの墨をすっている。佐七はずるいから、墨塗り役のほうへまわっているらしい。
それにしても、七草も過ぎたというこの時期に、なんだって辰と豆六が柄にもなく歌留多取りにうきみをやつしているかといえば、これにはひとつのわけがある。
この十五日の小正月の晩、お玉が池かいわいのわかいものがあいあつまって、歌留多合戦をやろうという議がもちあがり、それには辰つぁんも豆さんも、ぜひご出席をという話が、町内の世話役からもちこまれた。
辰と豆六も、はじめは柄にもないとしり込みしたが、近江屋のおきんちゃんも出る。駿河屋のお花ちゃんも出る、山崎屋のお千代ちゃんも出る、横町の手習いの先生のお嬢さんの深雪《みゆき》ちゃんもでる、それから……それからと聞いているうちに、ガゼン、辰と豆六張りきった。
町内のあまっ子が総出ときいては、辰と豆六たるもの引っ込んではいられない。乃公《だいこう》いでずんばというところだが、悲しいかな、ふたりとも、こういうみやびやかなゲームにはいっこう縁がない。それでも、豆六のほうは上方うまれの、根がみやびやかにできているから、いくらか心得があるらしいが、辰ときたら江戸っ子の、いたってガサツなほうだから、千早ふる神代もきかず竜田川《たつたがわ》の竜田川を、相撲取りの名前だとばかり思いこんでいるほうである。
そこで、この道にはいたって造詣《ぞうけい》のふかきお粂にたのんで、かくはどろなわ式猛訓練、猛シゴキと相成ったわけである。
「さあ、それでは読みますよ」
「待ってました」
「なにぶんよろしゅうお願いいたします」
「長からん心も知らず黒髪の、乱れ……」
「取ったア!」
「兄い、そらあかん、そらお手つきや。あねさん、いまのんをもういっぺん、おわりまで読んでおくれやす」
「そうかえ、長からん心も知らず黒髪の、乱れて今朝はものをこそ思え、乱れて今朝はものをこそ思え……」
「ほうれ、見なはれ、それならこっちにおますがな。兄いのとった札、よう読んでおみやす」
「なんだと……乱れそめにしわれならなくに……わっ、こらちがった」
「あっはっは、辰、お手つきだ。それ、墨だ、墨だ」
佐七はおもしろそうに、筆にたっぷり墨をふくませ、悦にいっている。辰は右の目にふとぶとと眼鏡をかけられ、
「こん畜生ッ、あねさん、つぎをお願いします」
「あいよ。八重むぐらしげれる宿のさびしさに、人こそ……」
「とったア!」
「兄い、あかん、あかん、そら、またお手つきや」
「なんだと……?」
「そやかて、兄いのいまとった札、読んでごらんあそばせ」
「人こそ知らね乾く間もなし……」
「あら、ま、辰つぁん、それじゃいけないよ。八重むぐらの下の句は、人こそ見えね秋は来にけり、人こそ見えね秋は来にけり……」
「あっはっは、辰、また、墨だ、墨だ」
「こん畜生ッ」
「オッホン、ほんなら、あねさん、おつぎをお願いいたします」
「あいよ、いいかえ、辰つぁん、しっかりおしよ。あらざらむこの世のほかの思い出に、今ひとたびのおうこともがな。今ひとたびの……」
「取ったア、取った、取った。こんどこそ正真正銘……」
「あかん、あかん、兄い、そら、またお手つきや」
「なんだと? やい、豆六、てめえ、またおれにいいがかりをつける気か」
「そやかて、兄いの取った札、声を出して読んでごらんあそばしませ」
「いいじゃアねえか。今ひとたびのみゆき待たなむ……」
「あら、辰つぁん、それじゃいけないよ。あらざらむこの世のほかの下の句は、今ひとたびのおうこともがなだからね」
「それ、ごらんあそばせ、それなら兄いの鼻の下におまんがな。ちょっと失礼。オッホン」
「あっはっは、辰、またやられたな。それ、墨だ、墨だ」
「こん畜生ッ、お、お、親分、ちょ、ちょっと待っておくんなせえ。あねさん、いやさ、あねご、ちょっとまえへ出てくだせえ」
「あら、ま、辰つぁん、あたしになにか御用かえ」
「御用もヘチマもありませんよ。あねさんはなんぞあっしに遺恨《いこん》でもおありですかい。なんぞあっしに、ふくむところでもござんすのですかえ」
「あら、まあ、怖いこと。辰つぁん、おまえさん、えらいけんまくだが、それゃまたなぜに……」
「だって、さっきからつぎからつぎへと、紛らわしい歌ばっかり読んで、あっしにお手つきさせるとは、これゃタダゴトとは思えねえ。あっしになにか遺恨でも……」
いやはや、たいへんなことになったものである。
鐘にうらみはかずかずござる、ということはあるが、墨のうらみは恐ろしい。墨くろぐろと塗られた辰は、遺恨コツズイ、深讐《しんしゅう》メンメンたる顔色で、肩ひじいからせ、ことばもあらく、お粂にむかって詰めよったが、そのとき、格子のひらく音がして、
「ご免くださいまし。親分さんはおうちでございますかえ」
と、おとなう声がしたのは、ときにとっては氏神ともいうべきであった。
人気役者|菊之助《きくのすけ》
――おまえの話というのは色事だね
辰と豆六は客にあえる顔ではないので、お粂がかわって出てみると、格子先にもじもじと立っているのは、ぞろりとした絹物のうえに、黒|縮緬《ちりめん》の羽織を着た男。
顔は頭巾《ずきん》でみえないけれど、ひとめで役者としれる風体だった。
「お目にかかればわかるものでございます。もし、おかみさん、親分さんがおいででございましたら、どうぞ会わせてくださいまし。折り入ってお願いしたいことがございますので……」
なにしろ、ひろい家ではないから、そういう声が、手にとるようにおくへきこえる。
佐七ははてなと小首をかしげながら、手にした杯と筆をおいて、
「お粂、どなたかしらないが、ともかくこちらへお通ししねえな。辰、豆六、きょうのけいこはこれくらいにしておこう。ふたりとも裏へいって顔を洗ってこい」
「あいよ」
「それじゃおまえさん、少々お待ちくださいまし。取りちらかしているのを、ちょっと片づけますから」
辰と豆六がそうそう裏へ退散したあとで、お粂が大急ぎで、百人一首の読み札、取り札を片づけると、佐七もすずりをとりかたづけた。
「それではどうぞ、こちらへおはいりくださいまし。ほんとに取り乱していて、お恥ずかしいのでございますけれど……」
「いいえ、こちらこそ、とつぜん参上して失礼申し上げます。それじゃご免こうむりまして……」
と、お粂の案内にしたがって、おくの四畳半へはいってきた男が、頭巾をとった顔をみて、佐七はちょっとおどろいたように、
「おや、おまえさんは葉村屋の太夫《たゆう》じゃねえか。これはめずらしい」
と、佐七はおもわず顔をほころばせた。
「はい、親分さん、おひさしぶりでございます」
葉村屋の太夫と声をかけられた人物は、くずれるようにその場へすわると、ていねいに三つ指ついてあいさつしたが、その身のこなしのなまめかしさ。
それもそのはずである。
この葉村屋というのは、芸名を嵐菊之助《あらしきくのすけ》といって、江戸一番の人気|女形《おやま》。ほんとのとしは三十の半ばもすぎているのだろうが、役者にとしなしのことばどおり、薄化粧した顔のうつくしさは、まだ二十代としかみえなかった。
「これはめずらしい。おまえさんのような人気役者が、どういう風の吹き回しで、こんなむさ苦しいところへきなすった。まあ、いい。ひとついこうじゃないか」
「いえ、あの、それどころではございませんので……きょうは親分さんに折り入って、お願いがあってまいりました」
「まあ、いいじゃねえか。話はいずれきくとして、親分がせっかくああいいなさるんだ。ひとつお受けしなせえよ」
辰と豆六も顔を洗って、四畳半へもどっていた。
「そやそや、わてらのようなもんのお酌《しゃく》では気にいらんのかもしらんが、これもつきあいや、一杯のんで返しておくれやす」
辰と豆六に左右から、よってたかってこうすすめられ、
「それでは……」
と、菊之助はよんどころなさそうに杯を受けると、二、三度やりとりをしていたが、やがてころあいを見計らって、
「さて、太夫、どうやらこれでちかづきの印もすんだ。それじゃひとつ、おまえさんの話というのを聞こうじゃねえか」
と、佐七がひざを乗りだすと、菊之助はいまさらのようにもじもじしながら、
「はい……」
と、ひざのうえをなでている。
「で、その話というのは?」
「はい、あの、それが……」
「これこれ、太夫、どうしたものだ。さっきはあんなにいそいでいながら、いまになってもじもじするとは。ははあ、わかった。おまえさんのその顔色じゃ、話というのは色事だね」
菊之助はそれをきくと、耳たぶにぽっと朱を散らしたが、佐七はさてこそと笑いながら、
「はっはっは、お手の筋というところらしいな。しかし、太夫、それじゃおまえ、お門がちがやアしないかえ。いかにあっしが捕り物の名人でも、つやっぽい色事の裁きばかりは、十手捕りなわでもつきかねますぜ」
「いいえ、親分さん、そんなんじゃございません」
と、菊之助は必死のおももちで佐七の顔を見上げたが、やがてほっとため息をつくと、
「こうなったら、お面をかぶった気になって、なにもかも申し上げてしまいます。親分さん、わたしの話をおききくださいまし」
と、そこで菊之助がうちあけた話というのは、つぎのような一条だった。
入道前太政《にゅうどうさきのだじょう》大臣
――花さそうあらしの庭の雪ならで
いまから十年ほどむかしのことである。
そのころ、中通《ちゅうどお》りから、やっと名題に昇進したばかりの菊之助に、ひとりうつくしいひいきがついた。
あいてはむろん女で、しかも、あるご大身の娘だった。
なにしろ、そのじぶんは菊之助も若かった。
このうつくしいひいきのために、すぐ夢中になってしまった。
しかし、あいては、さすがに武士の娘で、出世前の菊之助のために、いろいろためになってはくれたが、それ以上どうしても打ちとけない。
たまにあっても無邪気に芝居の話をするだけで、それ以上進もうとはしなかった。
こうなると、男のほうがじれるものである。
菊之助は矢のように文をおくる。
それにたいして女も返事をよこしたが、あえば依然として、煮えきらない女の態度だった。
ところが、そうこうしているうちに、女のほうにはおさだまりの縁談がはじまって、女はまもなく親のきめた夫のもとへ、さっさと輿入《こしい》れをしてしまった。
「へへえ、そいつはご愁傷さま。なるほど、女のほうがあんまりあっさりしていたので、太夫のほうに未練がのこったというわけですかえ」
辰が真顔でひやかすのを、菊之助はむきになってうち消して、
「いいえ、けっしてそんなんじゃございません。まあ、おききくださいまし。お話というのはこれからでございます」
さいごに会ったとき、ふたりはこういう約束をした。
いままで取り交わした文がのこっていては、今後なにかとめんどうだから、これからかえったらさっそく、たがいの文を焼き捨てようということになった。
そこで、菊之助は約束どおり、わが家へかえると、すぐ女からきた文を探してみたが、いつのまにかすっかりなくなっているのである。
「なくなったとは……?」
「はい、盗まれたのでございます」
「盗まれた? そして、盗んだやつはわかっているんですかえ?」
「はい、わかっております。親分さんはご存じじゃございませんか、並木|一草《いっそう》という桐座《きりざ》の狂言作者を?」
「ふむ、一草なら名前だけはきいているが、それじゃあの男が……?」
「はい、そのじぶん、一草はわたしどもの男衆をしておりましたが、それがそっくり女からきた文を盗んだのでございます」
と、菊之助はいかにもくやしそうな顔色だった。
佐七はにわかにひざを乗りだすと、
「ほほう、それはまた……しかし、一草はなんだってそんなものを盗んだのでしょうねえ?」
「それはもう、いうまでもございません。わたしをゆするためでございます。いいえ、わたしばかりじゃございません。女のかたもその手紙のために、どれだけ難渋したかしれやしません」
女の夫というのは、安祥以来の旗本で、かたいいっぽうの武士だった。
たとえ、最後の一線はこえていないとはいえ、そういう手紙をみたら、ただではおかないにきまっていた。
菊之助ともども、重ねておいて四つにする……。
それくらいのことはやりかねまじき人物だった。
一草のねらったのはそこだったのだ。
「それからのちの八年あまり、それこそ、わたしは地獄の苦しみをなめさせられました。なるほど、表向きは太夫さんの立て女形《おやま》のと威張っておりますが、かげへ回るとわたしは、一草の傀儡《かいらい》もおなじことでございます。あいつのいうことなら、どんなことでもきいてやらなければなりません。それをよいことにして、一草はそれからまもなく、わたしのもとをはなれると、桐座の作者となり、まもなく、立て作者となって威張りちらします。ほかのひとに気の毒だとおもっても、かんじんのものを握られておりますから、どうすることもできません」
と、菊之助は目に涙さえうかべてため息をつくのだった。
なるほど、いま売り出しの人気女形をうしろだてにしておれば、芝居道ではどんなにでも、思う目がでるわけだった。
「なるほど、それでは太夫、おまえがきょうきなすったのは、その手紙のひとたばを、一草の手から取り返してくれとおっしゃるのですかえ」
佐七はひざを乗り出した。
しかし、それにたいする菊之助の答えは、すこぶる意外千万だった。
「いいえ、さようではございません。その一草なら、七草の晩、卒中でなくなったのでございます」
「なに? あの一草が死んだんですって?」
「はい、それについてお願いと申しますのは……」
菊之助はいままでにも、いくどか一草にむかって、あの手紙をかえしてくれと嘆願したが、そのたびに一草が笑ってこたえるには、
「まあさ、太夫さん、なにも心配したものじゃありません。あの手紙はあっしにとっちゃ、打ち出の小づちもどうようですから、けっして粗末にするようなことはありませんのさ。また、あっしも死んだのちまで、太夫に無心を吹っかけようたあ思いませんから、死ぬときにゃ、きっと太夫に返してあげます。まあ、それまで辛抱しておくんなさいまし」
と、こればかりはかたい約束ができていた。
ところが、その一草が死んだのである。
「そこで、わたしは、喜びいさんでと申しますと悪うございますが、ほっとして、一草の宅へ駆けつけたのでございます。そして、一草の娘のお琴さんというのにむかって、なにかわたしあてに、ことづかったものはないかと尋ねますと……」
「手紙が返ってきましたかえ」
「いいえ、手紙のかわりに渡されたのは、小倉百人一首の歌留多がいちまい。親分さん、これでございます」
と、菊之助が取りだしてみせたのは、なるほど小倉百人一首の読み札がいちまい。
札は入道前太政大臣《にゅうどうさきのだじょうだいじん》で、
「花さそうあらしの庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」
というあの読み札だった。
これには時が時、場合が場合だけに、人形佐七をはじめとして、辰と豆六も、あいた口がふさがらなかった。
並木一草の娘お琴
――えっ、それじゃ、あの、浪江《なみえ》様が
「そんなら、太夫はん、一草があんたにのこしたんは、この歌留多が一枚だけだっかいな」
「はい」
「手紙はとうとうもどってこなかったので?」
「はい」
「悪いやつやな。そんならまんまと一杯ペテンにかけよったんやな」
「いいえ、そうとも思えませんので……」
と、菊之助が語るには、並木一草という男は、悪いやつではあったが、いっぽう、なかなかしゃれずきな人物だった。
しゃれと地口の名人で、わけてもなぞかけときたら、もっとも得意とするところだった。
だから、この歌留多もきっと手紙のかくし場所をおしえるなぞのかぎだろうとおもう……。
という菊之助の話をきいて、佐七はにわかに興をもよおした。
「なるほど。それじゃ、おまえさんの頼みというのは……」
「はい、そのなぞを解いていただきたいのでございます」
じつは、菊之助自身もやってみたのである。
聞けば、一草は娘のお琴に、じぶんの書斎を菊之助の自由にさせてやれと遺言したそうである。だから、手紙は書斎にあるにちがいないと思うのだが、どうしてもそれがわからない。
「ぐずぐずしていて、またほかのやつの手にはいったらたいへんでございます。そこで、恥もかまわずお願いにまいりました」
と、菊之助は一生けんめいの顔色だった。
佐七はにわかにひざをのり出し、
「ようがす。それじゃおよばずながら、あっしも知恵をしぼろうじゃありませんか」
「え、それじゃお聞き届けくださいますか」
「やりましょう。しかし、ここじゃ話にならない。やっぱり、一草の書斎を見なけりゃ……」
「はい、それはいつでもよいように、お琴さんに頼んでおきました。そして、いつ……」
「いつといって、話ははやいほうがよい。これからすぐに出掛けようじゃありませんか」
「それじゃ、これからすぐに……親分さん、この通りでございます」
両手をあわせて伏しおがんだ菊之助が、それからまもなく、佐七をはじめ辰と豆六を案内して、やってきたのは和泉町《いずみちょう》、いまはなき一草の住まいである。
一草のうちでは、きのうお弔いを出したばかり。家のなかはかなりごたついていたが、菊之助がお琴を呼びだして話をすると、すぐ一同は書斎に案内された。
お琴というのは十七か八だろう、芝居者の娘だけあって、あか抜けのした小ぎれいな娘だった。
いまは涙にしずんでいるが、どこか勝ち気らしいところもみえる。
「お琴さん、師匠が死んでから、だれもここへはいったものはないだろうね」
「はい、あの、それが……」
「え? どうしたんだ。それじゃ、だれかこの書斎へ、手をつけた者があるのかえ」
「はい、じつは……」
と、お琴の話によるとこうだった。
一草が死ぬまぎわに、歌留多を娘にたくしたのは、菊之助ひとりではなかった。
もう一枚、さるお屋敷の奥方様にと、おなじ歌留多をのこしたのである。
お琴はきのう、それをこっそり届けたが、すると……。
「さきほどその奥方様が、ここへ忍んでおいでになりましたので、書斎へご案内申し上げたのでございます」
「え、それじゃあの、浪江様が……いえ、あの、そのお女中が、ここを調べていったのかえ。そして、お琴さん、そのひとは、なにか見付けていったようすだったかえ」
菊之助はひどく不安そうな顔色だった。
「さあ、あたしはむこうにおりましたから、よくはぞんじませんけれど、お帰りのときに見ますと、がっかりしたようなごようすでございました」
菊之助はそれを聞くと、やっと顔色をとりもどした。
女は手紙のかくし場所を、発見できなかったのにちがいない。
「いや、ありがとう。それじゃ、お琴さん、おまえさんはむこうへいっていておくれ。用事があればすぐに呼びますから」
「はい……」
お琴はなんとなくうらめしげな顔色で、菊之助の横顔を見詰めていたが、やがて涙ぐんだまま書斎から出ていった。
佐七はそのうしろ姿を見送りながら、
「太夫、なかなかきれいな娘さんじゃありませんか」
「はい」
「一草には、おかみさんはなかったのかえ」
「おかみさんはずっとせんになくなりました。だから、あの娘が、いっさい家のなかを切りまわしているんです。いろいろ苦労があるようです」
「ときに、太夫、いまおまえさんのいいなすった浪江さまというのが、むかしのおあいてですかえ。いえ、なに、しいて聞こうたあいいませんが、浪江さんとやらがここへきたという話を聞いて、おまえさんがあまり顔色をかえなすったから」
「いえ、あれは……あまりあいてが無分別でございますから。こんなところへやってきて、もしお屋敷へでもしれたらと、それを心配したのでございます」
菊之助が気をもむのも、いちおうはもっともだった。
佐七は笑いながら、
「いや、まあ、ようございます。それじゃ、冗談はさておいて、そろそろなぞ解きにかかりましょうか」
と、あらためて書斎のなかを見回した佐七の目は、にわかにいきいきと輝いてくる。
なぞかけ七段返し
――次から次へとなぞは解けたが
そこは、六畳敷きの小座敷だったが、いかにも狂言作者の書斎らしく、雑然乱然をきわめたものだった。
南にむかった机のうえには、狂言の台本や番付が乱雑に投げだしてあって、そのあいだに朱筆が二、三本ころがっている。
壁ぎわの書架といわず床の間といわず、さては畳のうえまでも、狂言本や浄瑠璃本《じょうるりぼん》、草双紙の類がぎっちりと積み重ねてある。
おまけに、そのあいだには、役者の似顔絵だの、羽子板だの、人形だのと、芝居に縁のあるしろものがごたごたおいてあるのだから、まるで足の踏み場もない。
なるほど、これをいちいち調べようとすれば、たいへんな骨折りだろう。
佐七はひとわたりそれを見回したが、やがて、ふと目をつけたのは、天井からぶらさがっている大きな鈴だった。
鈴にはながいひもがついていて、それを引けば鳴るようになっている。並木一草、どうやら本居宣長《もとおりのりなが》を気取っていたらしい。
佐七はにっこり笑うと、
「おい、辰、あの鈴をおろしてみねえ」
「あの、もし、親分さん、それじゃおまえさんも、やっぱりあの鈴が怪しいとおっしゃるのでございますか」
「ふむ、入道前太政大臣のあの歌は、よく福引きなどでやるやつさ。振りゆくものはわが身なりけりで、あの歌を引くと、鈴が当たろうという寸法。一草のなぞというのも、あの鈴をさしているにちがいねえ」
「いえ、あの、それならば……」
と、菊之助は失望したように、
「わたしも気がついたのでございます。それで、いちばんにあの鈴を調べてみたのでございますが……」
「手紙は見付かりませんでしたかえ」
「はい」
「いや、ようがす。こんなことでなぞが解けちゃ、あんまりあっけがなさすぎる。しかし、念のためだ、辰、ともかくその鈴をおろしてみろ」
「おっときた。豆六、おまえも手をかせ」
「よっしゃ」
と、ふたりがかりでおろした鈴を、佐七はいろいろ調べてみたが、むろん、手紙はどこにもみあたらなかった。
「なるほど、ありませんねえ。しかし、ここの割れ目を、こうこじあけたのはおまえさんですかえ」
「いえ、わたしではございません。そんなことをしなくても、手紙のないのはわかりましたから」
「すると、さっききた浪江さんというお女中かな。はっはっは、だれの考えもおなじことで、まずこの鈴に目をつけたとみえる。おや、豆六、ちょっとその行灯《あんどん》をかしてみねえ。鈴のなかに、なにやら文字が彫りつけてあるぜ」
鈴の割れ目をこじあけて、行灯の光ですかしてみると、なるほど裏側に、文字らしいものが彫ってある。
「親分、あら、縋《すがる》という字やおまへんか」
「ふむ、どうやらそうらしい。太夫、辰、おまえさんたちもみてごらん」
だれの目もおなじことで、それはたしかに縋という字にちがいなかった。
「親分さん、縋というのはなんのことでございましょうねえ」
「ふむ」
と、佐七は腕こまぬいて、書斎のなかを見回していたが、ふいにはたと手をたたいた。
「親分、なにかわかりましたかえ」
「おお、辰、縋という字はなんと書く。糸偏に追うと書かあね。つまり、糸を追うよ。ところで、みんなこの書斎のなかに、なにか糸を追っているものはないかえ」
「あっ、親分さん、それはむこうにあるあのお三輪です」
菊之助が指さしたのは、床の間にかかっているお三輪の錦絵《にしきえ》。
それはどうやら、菊之助じしんの似顔らしかった。
「はっはっは、さすが太夫は役者だ、わかりがはやい。妹背山女庭訓《いもせやまおんなていきん》のお三輪は、おだ巻きの糸のはしを恋人|求女《もとめ》のすそに縫いつけ、それをたよりに求女のあとを追っかけるのだ。だから、糸を追う、つまり縋という字は、あのお三輪の絵姿のことにちがいねえ」
そのお三輪の絵姿は、おだ巻きを右手にかざして、きっと糸のゆくえを見送った、花道への引っ込みぎわの見得だった。
「それじゃ、親分さん、手紙はあの絵姿のなかに……」
「とにかく、調べてごらんなさい」
だが、その絵姿のどこにも、手紙らしいものはかくしてなかった。
「親分さん、ございませんけれど……」
菊之助はいまにも泣きだしそうな顔だった。
「ふむ、ありませんねえ。しかし、あっしの考えかたがまちがってるとは思えねえが……豆六、もいちどその絵姿を、もとのところへ掛けておいてくれ」
「へえ」
豆六がふたたび絵姿を床の間にかけると、佐七はそのまえに立って、つくづくそれをながめていたが、やがてなにを思ったのか、いそいで書斎を見回すと、にわかにからから笑いだした。
「親分、なにかわかりましたかえ」
「ふむ、わかった。太夫、一草というのはなかなかしゃれ者ですねえ。ひとつのなぞじゃ承知しねえで、なぞからなぞへとどんでんがえし、このお三輪の絵姿がまたなぞになっているんです」
「へえ、このお三輪がなぞというと?」
「見ねえ。あの絵のしたにくろいひもが、一本左右にわたしてある。あれがなぞよ」
なるほど、お三輪の掛け軸のしたに、一寸幅ほどの黒布が、床の間のはしからはしへと渡してあった。
「親分、あのひもとお三輪とで、どういうこころになりまんねん」
「わからねえかえ。お三輪とは三つの輪だ。これを三つの丸と考えてもよかろう、三つの丸のしたに一本棒を引けば、たしか芝居で名高いだれかの紋所になったなあ」
「あっ、親分、そりゃたしか渡辺綱《わたなべのつな》の紋ですぜ」
「そうよ。ほら、そこに綱の人形があらあ」
あっといちどうがふりかえった鼻先に、なるほど、かざってあるのはもどり橋の綱の人形。
鬼女の片腕を切り落として、きっと見得を切っているところだった。
最後のなぞのかきつばた
――羽子板の裏には菊之助のバカ野郎
「あっ、それじゃ親分さん、手紙はこの人形のなかにかくしてあるとおっしゃるんで……」
菊之助がせきこむのを、佐七はかるく制して、
「いや、そうはやまっちゃいけません。これくらいのことでおさまりゃいいが、まだまだなぞはつづくかも知れません」
佐七は、人形のそばに立ちよって、あちこちからながめていたが、やがてまたもやプッと吹き出した。
さきほどから身もやせる思いをしていた菊之助は、さすがにいやな顔をして、
「親分さん、なにかおかしいことがございますんで」
「いや、これはすまねえ。一草のやつ、あまりいたずらがすぎるから、ついおかしくなりましたのさ。ごらんなさい。もどり橋の綱ならば、鬼女の片腕を持っているのが当りまえ。ところが、この綱め、片腕のかわりに、短冊を握っているじゃありませんか」
なるほど、きっと虚空をみあげた渡辺綱が、左手に握っているのは、鬼女の片腕ならで、いちまいの短冊だった。
佐七がそれを手に取ってみると、
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唐衣きつつなれにし妻しあれば
はるばる来ぬる旅をしぞおもふ
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有名な業平朝臣《なりひらあそん》の歌である。
佐七はにんまりわらって、
「豆六、てめえは草双紙通だから、この歌のなぞは解けるだろう」
「へえ、そらわけはおまへん」
と、豆六は得意になって、
「その歌なら、伊勢物語にでてますがな。業平はんが三河の国、八橋ちゅうとこまできやはると、そのへんにかきつばた、いとおもしろう咲いてます。それを見てあるひとのいわくや。かきつばたという五文字を、句のうえにすえて、旅のこころを詠めとありければちゅうわけで、業平はんの詠まはったんがその歌や、唐衣のか[#「か」に傍点]、きつつなれにしのき[#「き」に傍点]、妻しあればのつ[#「つ」に傍点]、はるばる来ぬるのは[#「は」に傍点]、旅をしぞ思うのた[#「た」に傍点]で、つまりかきつばたや。へん、兄い、どんなもんや」
豆六は、ここぞとばかりいばること、いばること。
辰はぷっとつらふくらせて、
「なにをいやアがる。それくらいのことならおれだって……」
「知ってやはったか」
「いや、知らねえ」
「それ、みなはれ。すると、親分、こんどはかきつばたを探さんならんちゅうわけやな」
「そうよ。そのへんになにか、かきつばたに縁のあるものはねえか探してみねえ」
「おっとしょ」
と、辰と豆六は競争で、そこいらにある本をかたっぱしから引っ繰りかえしたが、かきつばたに縁のありそうなものは、どこにも見当たらない。
「親分、ありませんねえ」
「ねえはずはねえんだが」
「あの歌ならたしかに、かきつばたちゅうなぞやが、どうも見付かりまへんなあ」
探しあぐねて、辰と豆六がぶつぶつとつぶやいているときだった。
さっきから、あたりをきょろきょろ見回していた菊之助が、なにを見付けたのか、はたとひざをたたいて、
「親分さん、杜若《かきつばた》に縁のあるものというのは、あの押し絵の羽子板じゃございませんか」
「どれどれ、おお、ありゃ岩井半四郎の三日月おせんらしいが、あれがどうして杜若に……」
「でも、半四郎さんの号は、杜若《とじゃく》とおっしゃいますもの」
聞いて佐七はポンとかしわ手をうった。
「そうだ、そうだ、それにちがいねえ。おい、辰、てめえその羽子板を取ってみてくれ」
「おっと合点だ」
と、きんちゃくの辰が、長押《なげし》から取りおろしたのは、杜若半四郎の十八番、三日月のおせんの似顔の羽子板。
佐七はそれをうけとると、なにげなく裏をかえしてみたが、とたんにあっと叫んだのであった。
むりもない。
その羽子板の裏面には、菊之助へと書いてあって、そのしたが馬の絵、さらにそのしたには鹿《しか》野郎という三文字。
首をひねるまでもなく、その判じ物のこころは、菊之助の馬鹿野郎。
「親分さん、これはひどい。これはあんまりでございます。せっかくここまでひきずってきながら、いまさら、菊之助のバカ野郎とはなんでございましょう。わたしはくやしゅうございます」
菊之助がボロボロ涙をこぼすのもむりではない。
あまり手ひどいこのしょい投げに、辰と豆六もあいた口がふさがらなかった。
佐七もきっとくちびるをかみしめ、しばらくこの判じ物をにらんでいたが、なにを思ったのか、またもやぎろりと目を光らせると、やにわにさっきの鈴を振った。
と、その音をきいて、やってきたのはお琴である。
「お琴さん、おまえさんにたずねるが、だれかこの書斎から、絵馬を持ち出しゃしねえか」
「絵馬? いいえ」
「はてな。それじゃ一草さんは、ちかごろどこかへ絵馬を奉納しやしなかったかえ」
「はい、そうおっしゃれば、この春、湯島の天神様へ、大きな押し絵の絵馬を奉納いたしました。十八番の暫《しばらく》の絵馬でございます」
「それだ!」
聞くなり、佐七は両手をうって、
「太夫《たゆう》、おまえさんの探しているものは、その暫の絵馬のなかにかくしてあるにちがいねえ。ごらんなさい。この判じ物のなかで、馬だけが絵になっている。これすなわち絵馬というなぞさ」
「あの、それじゃ湯島の天神様に……」
菊之助は跳びあがらんばかりの顔色で、
「親分さん、ありがとうございました。ここまでわかれば、わたしひとりでたくさんでございます。お琴さん、いずれおまえさんにも礼をいうぞえ」
と、一刻《いっとき》も時間が惜しいというように、あたふたそこを飛び出したが……。
あとから思えば、そのとき佐七は、むりにもいっしょにいくべきだった。
百人一首|文屋康秀《ぶんやのやすひで》
――吹くからに秋の草木のしおるれば
その翌朝のことである。
うまくなぞをといた愉快さに、おもわず朝寝をした佐七が、お粂の給仕でおそい朝飯をかきこんでいるところへ、糸の切れた奴凧《やっこだこ》のように、表から舞いこんできたのは、きんちゃくの辰とうらなりの豆六。
ふたりとも、朝湯がえりの帯もしめずに、佐七の顔をみるといきなり、
「親分、た、たいへんだ、たいへんだ、殺された」
「なんだ、辰、静かにしねえか。殺されたって、だれが殺されたんだ」
「だれがちゅうて、親分、ゆんべの嵐菊之助やがな」
「なに、葉村屋の太夫が」
「そうですよ。ゆうべ湯島の境内で」
「ぐさりと胸をひと突きやそうな」
と、聞くなり佐七ははしを投げ出し、すっくとばかり立ちあがった。
「お粂、支度をしろ」
「あいよ」
早飯|早糞《はやぐそ》芸のうちというが、佐七の身仕度などもじつに早いものである。
はしを投げ出したかと思うと、もうつぎのしゅんかんには、辰と豆六をひきつれて、湯島をさしてひた走り。
あとではお粂が切り火をカチカチ。
それにしても悔やまれるのは、ゆうべ菊之助をひとりで出してやったことである。
あのとき佐七は、なまめかしい女の文を見られたら、さぞ菊之助もきまり悪かろうと、わざといっしょにいかなかったのだが、いまになって考えると、それこそ一期《いちご》の不覚だった。
「辰、菊之助が殺されたのはいつわかったのだ」
「へえ、それが、けさのことだそうです。朝はやくお百度まいりの参詣人《さんけいにん》が絵馬堂へはいっていくと、そこに人が殺されている。それから大騒ぎになったんだそうで」
「それじゃ、菊之助の死骸はまだむこうにあるな」
「へえ、たぶんあるだろうと思います」
そんな話をしているうちに、一行は湯島の天神へやってきた。
まだ見世物も、芝居もはじまらない時刻だが、騒ぎをききつけて、そのへんいっぱいひとだかり。
その雑踏をかきわけて、絵馬堂へはいってみると、まず目についたのは、むざんに切りさかれた押し絵の絵馬だ。これを正確にいうと掛け額である。
「親分、手紙はあの押し絵のなかにあったんでしょうねえ」
「そやそや、菊之助がその手紙を取りだしたところを、下手人にぐさりとひと突きやられたにちがいおまへん」
なるほど、そういえばその絵馬のましたに、ひとかたまりの血がしみついている。
菊之助が殺されていたのは、たしかにそこにちがいなかった。
佐七は念のために絵馬のなかを探ってみたが、そこはもぬけのからだった。
佐七はそれから社務所へまわった。
いったい、神社寺院でおこった事件は、寺社奉行の係りということになっているが、こういう探索事件となると、やっぱり町方の手を借りなければならぬ。
だから、社務所のほうでも苦情なく、菊之助の死骸を見せてくれた。
菊之助はみごとに心臓をえぐられて、おそらく声をたてるひまもなかったろう。
「佐七、そのほうにまかせるから、一刻もはやく下手人をあげてもらいたい。とうといお社をけがすとは、不届きなやつ」
社務所の役人も、意外な珍事に、とほうに暮れているもようだった。
「へえ、およばずながら働いてみますが、なにかこの死骸のまわりに、証拠になるようなものはございませんでしたかえ」
「ふむ、証拠といってかくべつ……」
と、役人は小首をかしげていたが、ふと思いだしたように、
「そうそう、そういえば妙なものが、死骸のうえに落ちていたそうだ」
「妙なものとおっしゃいますと」
「これだ、この歌留多がいちまい、菊之助の死骸のうえにのっけてあったそうだ」
と、役人が取り出したのは、またしても百人一首の読み札だった。
しかし、きのうとはちがっていて、こんどは文屋康秀《ぶんやのやすひで》である。
吹くからに秋の草木のしほるれば、むべ山風をあらしといふらむ――。
それを見ると、三人はおもわず顔を見合わせた。
「いや、こいつはおもしろい。だんな、それじゃ、これはしばらく拝借してまいりますぜ」
と、文屋康秀をふところにした人形佐七、社務所をあとにもういちど、さっきの絵馬堂へとって返したが、なにを見付けたのか、ふとうしろを振りかえると、
「辰、豆六、おまえたち、むこうへいくお侍がみえるか」
「へえ、どれです。いま鳥居をくぐろうとする、あの前髪の侍ですかえ」
「ふむ、そうだ。ご苦労だが、おまえたち、ひとつあの若侍のあとをつけてみてくれ」
辰と豆六はけげんそうな顔をして、
「親分、あの前髪に、なにか怪しいふしがおまんので?」
「さあ、なんだかわからねえが、さっきからおいらのあとをつけているような気がしてならねえ。こんどは逆に、おまえたちのほうでつけてってやれ」
「おっと合点です」
こういう話の聞こえるはずはなかったが、気配でそれと察したのか、若侍はにわかに編み笠で顔をかくすと、鳥居をくぐって、すたすた出ていく。
としのころはまだ十六、七の、力弥《りきや》のような美少年だった。
辰と豆六がそのあとをつけていくのを見送って、佐七がひとりでやってきたのは和泉町、狂言作者並木一草の宅だった。
土岐頼母《ときたのも》の奥方|浪江《なみえ》
――下手人はその浪江の弟だろうか
「おや、親分さん、おいでなさいまし。また、たいへんなことができましたそうで」
「おお、お琴さん、湯島の騒ぎをおまえも聞きなすったか」
「はい、けさはやく聞いて、びっくりしているところでございます。おや、あたしとしたことが……さあ、こちらへおはいりくださいまし」
通されたのはゆうべの書斎、お琴は風邪をひいたといって、あおい顔をして頭痛膏《ずつうこう》をはっていた。
佐七はいたわるように、
「なにも構わねえでくんなせえよ。顔色が悪いが、気をつけなくちゃいけねえ」
「はい……きのうまで気を張っておりましたが、お弔いがすむと、きゅうにがっかりしてしまって」
「むりもねえ。これからだんだん寂しくなる。まあ、あまりきなきなしないがいい」
と、やさしくいわれ、お琴ははや涙ぐんでいた。
佐七はその顔を見守りながら、
「ときに、お琴さん、気分のわるいところを気の毒だが、ちょっとおまえに尋ねたいことがある」
「はい」
「おまえさん、葉村屋の太夫が、あれほど熱心にさがしていた代物というのをしってるだろうね」
「はい。あの……はっきりとは知りませんが、うすうす察してはおりました」
「ふむ、それじゃいうが、太夫の探していたなア、そのむかし、女と取りかわした文のひと束だ。それで、おまえに聞きたいというのは、その文のあいて、おまえそれを知ってるはずだね」
「はい……」
「こうこう、かくしたっていけねえ。おとっつぁんが死ぬときに、歌留多をことづけたお屋敷の奥方、名前は浪江さまとおっしゃって、ゆうべもここへ訪ねてきたというじゃねえか。なあ、お琴さん、そのお屋敷の名前というのと聞かしちゃくれまいか」
お琴はだまってうつむいていたが、やがてきっと顔をあげると、
「親分さん、その奥方さまがなにか……」
「ふむ、太夫が殺されたとあれば、どうでも疑いのかかるのはその奥方だ。葉村屋も葉村屋だが、奥方にとっちゃもっとだいじなその手紙、それを取りかえそうとぐさりとひと突き」
「まあ!」
お琴は恐ろしそうに鬢《びん》の毛をふるわせた。
「いや、奥方がみずから手を下さぬまでも、奥方にゃだんなもあれば、親兄弟もあるだろう。それがやったかもしれねえんだ。だから、お琴さん、詮議《せんぎ》のつるはそのお屋敷、そいつをひとつ、打ちあけちゃくれまいか」
お琴はじっとうつむいていたが、やがて涙にうるんだ目をあげると、
「親分さん、そればっかりはご免くださいまし」
「いわれねえというのか」
「はい、そういうお疑いがかかっているとあっては、なおさら申し上げるわけにはまいりません。親分さん、女は女同士、あたしはあの奥方さまがお気の毒でなりません」
「どうでもいやか」
「はい、堪忍してくださいまし」
そういい切ったがさいご、てこでも口をひらかぬお琴の顔色だった。
佐七はじっとその顔を見ていたが、やがてかるいため息をつくと、
「いや、おまえがそういうなら、むりに聞こうたあいわねえ。それじゃ、まあ、だいじにしねえ」
佐七はいったん表へ出たが、なにを思い出したのか、またひき返してくると、
「お琴さん、つかぬことを尋ねるが、おとっつぁんが亡くなったとき、診てもらった医者はだれだえ」
意外な問いに、お琴はびっくりしたように目をみはったが、
「はい、すぐそのさきの高野珍石先生でございます」
「いつもかかりつけの医者だろうね」
「はい」
佐七はどういう考えがあったのか、それから医者の高野珍石を訪れて、なにか聞いていたが、やがて得心したように、にんまり笑って、かえってきたのはお玉が池。
やがて、辰と豆六も、いきおいこんでかえってきた。
「親分、わかった、わかった。あの若侍の素性は、すっかり突きとめてまいりましたぜ」
「そればっかりやおまへん。菊之助のむかしのあいてちゅうのもわかりましたぜ」
と、得意になってふたりが語るところによるとこうだった。
さきほど、ふたりが尾行していった若侍は、本郷の森川宿、稲川半左衛門というお旗本の屋敷へはいっていった。
近所できくと、稲川半左衛門は三千五百石のご大身、先代は大目付までしたという家柄である。さきほどの若侍は、その半左衛門の嫡男《ちゃくなん》で、半之丞《はんのじょう》という前途有為の若者であることがわかった。
「ところが、親分、話というのはこれからです」
と、辰がひざを乗りだして語るところによると、その半之丞には姉がひとりあって、これが浪江というのである。
しかも、その浪江は、番町の土岐頼母《ときたのも》という旗本のもとへ、八年ほどまえに嫁していったという話だった。
「そこで、ついでに、番町までまわってまいりましたが、土岐さんというのは千五百石、三河以来の旗本で、勘定方かなにかに勤めているそうですが、なかなかよくできた殿様だという話です」
してみると、菊之助のむかしのあいては、たしかに、土岐頼母の奥方にちがいなかった。
「ねえ、親分、これで菊之助を殺した下手人も、おおかたわかったようなものです。あの半之丞というのが、姉の手紙を取りもどそうと、菊之助をぐさりと突いたにちがいありません」
「なるほど、しかし、それじゃ死骸のうえにおいてあった百人一首は……?」
佐七がふところから取りだしたのは、菊之助の死骸のうえにあったという文屋康秀。
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吹くからに秋の草木のしほるれば、
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むべ山風をあらしといふらむ
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佐七はそれを目のまえにおいて、しばらく思案をこらしていたが、やがて、がっくり肩をおとすと、日ごろに似合わず、ふかいふかいため息をつくのだった。
浪江と半之丞
――災いの根を断ち葉を枯らすまで
「半之丞はうちかえ」
本郷森川宿の稲川半左衛門の屋敷へ、ひとめを忍ぶようにやってきたのは、二十七、八の武家の奥方、まゆ毛をおとして、白歯をそめているが、みずみずしい美しさは、役者の瀬川菊之丞そっくりだった。
これが番町の土岐頼母の奥方で、半之丞にとっては姉にあたる浪江である。
「おお、これは姉上、どうしてここへ」
まだ前髪の半之丞は、おもいがけない姉の訪れに、なんとなく不安そうなおももちだった。
「はい、きょうは下谷の浄光寺へお参りしたついでに、ちょっと寄ってみました。お父上様はお留守だそうで……」
浪江は弟の視線をさけるように、おどおど目をそらしている。
青いまゆねのあたりに、消しがたい不安のいろがみなぎっていた。
「姉上」
半之丞はズイとひざをすすめると、声を落として、
「なにかまたあったのではございませぬか。ひょっとすると、兄上にあのこと……」
「いいえ、そうではないけれど……半之丞、これを見てください」
浪江がふところから取りだしたのは、一通の手紙だった。
半之丞がいそがしげにそれを開いてみると、
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一筆しめしまいらせ候、おんまえさまのその昔、菊之助へお送りいたされ候手紙のことについて、ぜひぜひ、お話し申し上げたきことこれあり候まま、今宵《こよい》五つ(八時)ごろ、神田川ひさご屋の奥座敷までおいで下されたく候。このこと必ず必ずお間違いなさるまじく取り急ぎお願い申し上げ候。
御存じより
奥方様
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半之丞はそれを読むと、はっとばかりに顔色かえて、
「姉上、これは……」
「半之丞、あたしはもう死んでしまいたい」
浪江はわっとその場に泣き伏した。
「身からでたさびとはいいながら、あまりといえば情けない。菊之助が亡くなって、ほっと胸をなでおろしたのもつかのま、まただれかがあの手紙を手にいれ、あたしをゆすろうという魂胆であろう。半之丞、あたしは……あたしはもう死んでしまいたい」
浪江はたもとのはしをくわえて、ひた泣きに泣く。
半之丞は気の毒そうにそれを見ていたが、やがてわざと声をはげまし、
「姉上、なにをおっしゃることやら。これが不義いたずらをしたというならかくべつ、ほんのままごとのような文のやりとり、体をけがしたというわけではなし、そのように思いつめて、お体に触ってはなんとなさいます」
「半之丞、おまえがそういってくれるのはうれしいけれど、世間ではそう思ってはくれますまい。これをおもえば、娘のころのあさはかな所業が悔やまれる。あたしゃいっそ死んでおわびを……」
「姉上、つまらぬことをおっしゃるものではありません。あなたにもしものことがあったら、兄上はなんとなさいます。あのようにあなたを愛し、あなたを信じていられる兄上が、どのようにお嘆きなされようもしれませぬぞ」
「さあ、それゆえにこそ申し訳がない。もし、あの文が頼母殿の目に入ったら……」
「だから、今後そのような憂いがないように、思案するばかりです」
半之丞はものすごいえみをうかべて、
「災いの根をたち、葉を枯らす工夫がだいいち。姉上、このことは万事拙者におまかせくだされ」
浪江はぎょっとしたように弟の顔をながめていたが、やがてにわかに息をはずませ、
「半之丞、おまえもしや……」
「姉上、なんでございます」
「あの、菊之助を殺したのはおまえでは……」
「バカな!」
半之丞は一言のもとに打ち消して、
「あれは拙者ではございませぬ。むろん、手にかけてもよいやつなれど、あれは拙者ではございませぬ」
「それならばよいけれど……」
と、浪江はまだ半信半疑のおももちだった。
それからしばらくひそひそと、手を取りあって姉弟はなにかこみいった話をしていたが、やがて六つ半(七時)ごろ、稲川屋敷をこっそりと抜け出した女の影。
見ると、小紋縮緬《こもんちりめん》のきものに、お高祖頭巾《こそずきん》といういでたちで、供をもつれず急いでいく。
この人影が菊坂のほうへ下りていくのを見送って、ひらりと屋敷町のものかげからあらわれたふたつの影があった。
いうまでもなく辰と豆六。
互いにうなずきあいながら、見えがくれに女のあとを追っていく。
女のほうではそんなこととは知るよしもない。駕籠《かご》もひろわずすたすたと、やってきたのは神田川、ひさご屋という料亭である。
女はお高祖頭巾のまま、打ち水をした玄関へはいっていく。
「あの、番町の土岐からまいりました。あたしをここで待っているひとがあるはずでございますが……」
と、小声でのべると、すぐに女中が出てきておくへ案内する。
そのうしろすがたを見送って、辰と豆六が顔を見合わせているところへ、ものかげから出てきた影が、いきなり肩をたたいた。
「あっ、あんたは親分」
「おまえさんがどうしてここに……」
「おれもひとをつけてここへきたのだが……辰、豆六、なんでもいいからこっちへこい」
あらかじめひさご屋へ話をしてあったのか、佐七が辰と豆六をひきつれて、忍びこんだのはひさご屋のおく、はなれ座敷のそとだった。
親の敵の菊之助
――悪いやつは菊之助でございます
こちらはお高祖頭巾《こそずきん》である。
女中に案内されて、おくのはなれ座敷へとおったが、そこに座っている人物の姿をみると、思わずぎょっと目をすぼめた。
意外にも、あいては女なのである。
女はまじまじとお高祖頭巾を見守っていたが、なに思ったのか無言のまま、すっと立って出ていこうとする。
お高祖頭巾はあわててそのそでをとらえた。
「これ、お女中、そなたはどこへいく」
「はい、あたしはこの座敷にご用はございません」
「はて、用がないとは……?」
「あたしのお呼びしたのは浪江さま、あなたは浪江さまではありません。いいえ、あなたは女ではない、男でございます」
そういう声を座敷の外で漏れきいた辰と豆六は、思わずぎょっと顔見合わせた。
「親分、あの声はたしかにお琴……」
佐七はどうやら、お琴をつけてここへ来たらしい。
「しっ、だまって聞いていねえ」
と、三人がかたずをのんで控えているともしらぬが仏の座敷のなかでは、なおも二、三度押し問答をつづけていたが、やがて、お高祖頭巾はあきらめたように、ぱらりと頭巾をとると、
「お女中、そなたがそういいはるならしかたがない。頭巾をとろう。拙者は浪江の弟で、半之丞と申すもの。姉に頼まれてここまでまいった。さあ、そなたの用事というのを聞かしてもらいたい」
お琴は、じっと半之丞の顔を見ていたが、やがてはずかしそうに顔赤らめると、
「それでは申し上げましょう。わたしは並木一草の娘、琴と申すものでございますが、浪江さまにお返ししたいと思って、ここに文のひと束を持ってまいりました」
聞いて、辰と豆六は、思わずあっと息をのんだ。
あの文を持っているとすれば、それでは菊之助を殺した下手人はお琴であろうか。
「なに、それでは、その文を返してくれると申すか」
「はい、お返しいたしましょう。しかし、それにはひとつのお願いがございます」
「願いとは?」
「菊之助を殺した下手人をおおしえくださいまし。そうすれば、この文、お返し申し上げましょう」
「なに、菊之助を殺した下手人をおしえろと?」
半之丞もおどろいたらしいが、そとで聞いている佐七もおどろいた。
それじゃ、菊之助殺しの下手人は、やっぱりべつにあるのかしら。
「はい、なにとぞおおしえくださいまし。あなたさまなら、いや、浪江さまら、きっとご存じのはずでございます。それを聞かせてくださいますれば、この文お返しいたします」
お琴は思いつめた顔色だったが、そのときだった。
「おお、その下手人なら拙者がおしえてとらそう」
と、さらりとふすまをひらいてあらわれたのは、三十前後のりっぱな武士だ。
その顔を見ると、
「おお、あなたは兄上!」
半之丞はくちびるの色まで真っ青になった。
あらわれたのは浪江の夫の頼母《たのも》である。
座敷のそとでは、佐七をはじめ辰と豆六が、これまたぎょっと息をのみこんだ。
ああ、もうこうなったら、浪江の秘密はかくし切れぬ。
頼母は、にんまりとおだやかな微笑をうかべ、
「はっはっは、半之丞、妙なすがたで会ったな。たわけものめ」
「はっ」
「浪江もそなたも、とんだたわけだ。拙者を盲と思いおるか」
「それじゃ、兄上にはなにもかも……」
「知らずにどうしよう。連れそう亭主じゃ。この年月の奥の苦労、そなたの苦労、ふびんとは思っていたが、そなたたちがひたかくしにかくしているゆえ、わざと素知らぬ顔をしていた」
「それでは、兄上には姉のふしまつをお許しくださいますか」
「はっはっは、なんの、おぼこ娘のままごとのようなざれごと、いちいち詮議をしてなんになろう。どのような新しい畳も、たたけばほこりのでるどうり、ただ憎いのはあの菊之助だ。それをたねに奥をゆする人非人。されば、このあいだ、湯島で会ったのをさいわいに手をかけた。お琴とやら、恨みがあるなら拙者に申せ」
お琴は、はっと手をつかえ、
「なんのお恨み申しましょう。かえってお礼を申し上げねばなりません。あの菊之助はわたしにとっても親の敵」
「なに? 敵とは?」
「はい、そのわけは……」
お琴は、ふいにすらりと立つと、縁側の障子をひらいて、
「お玉が池の親分さん、もうかくれているには及びません。おまえさんの口から、だんながたによくお話し申し上げてくださいまし」
これには佐七もあっとおどろいた。
お琴はちゃんと、佐七がそこにかくれていることを知っていたのである。
佐七はいくらかきまり悪げに座敷へはいると、
「お琴さん、面目ない。おまえはおれがここにいると知っていたのか」
「はい」
頼母と半之丞は顔を見合わせながら、
「して、佐七とやら、菊之助がお琴にとって父の敵というわけは?」
「それはかようでございます。あの菊之助というやつは悪いやつで、あの手紙をたねに奥方さまをゆすっていた。それをみるにみかねて、お琴さんの父親の並木一草が、そっと手紙を盗みだし、ほかへかくしたのでございます。そして、じぶんが死んだらその手紙を返してやろうと約束したところが、菊之助め、少しずつ毒を盛って、その一草さんをだんだん弱らし、とうとう殺してしまったのでございます」
佐七はそれらのことを、一草の主治医、高野珍石から聞き出したのである。
意外な話に、頼母、半之丞は申すにおよばす、辰も、豆六もおもわず顔を見合わせた。
「お琴さんもそれをしっているから、菊之助を敵と付けねらっているうちに、あの夜、あいつがただひとり湯島の境内へ出かけていった。そこで、あとからこっそりつけていくと、意外にも菊之助は絵馬堂で殺されている。しかも、下手人はあの絵馬のなかに手紙のあることは知らなかったとみえ、そのままになっていたので、お琴さんが絵馬を切りやぶり、手紙を持ちかえったのでございます。そのとき、死骸のうえに、わざとのこしておいたのが、この文屋康秀」
と、佐七は例の読み札を取りだすと、
「吹くからに秋の草木のしおるれば、むべ山風をあらしというらむ、というこの草木は、とりもなおさず並木一草、その並木一草がしおれたのはあらしのせい、つまり嵐菊之助のせいだというこの歌の心を読んで、あっしもはじめて、菊之助が一草さんを殺したことを知ったのでございます。しかし、ただひとつ、あっしも勘違いしておりましたのは、たったいままで菊之助を殺したのはお琴さんだとばかり思っていたので……」
「はい」
と、お琴も涙ながら、
「親分さんが、あたしをお疑いなすったのもどうり、あたしもあいつを殺そうと思っていました。でも、だんなさまがあたしにかわって、敵を討ってくださったのです。そのお礼には、さあ、この手紙を……」
と、お琴がふところから取りだした手紙を受け取ると、頼母はものをもいわず火ばちに投げ込んだ。
手紙はたちまち炎となり、煙となり、やがてくろい燃えがらとなった。
頼母はそれを突きくずしながら、
「半之丞、佐七も笑ってくれるな。拙者とても人間じゃ、読めばまたどんな気になろうも知れぬ。こうして灰にしてしまえば、奥のあやまちも消えたも同然。半之丞」
「はっ」
「奥にもいつかはそのほうから、このことをよく申しておいたがよい。わしの口からは申しにくいからのう。はっはっは」
頼母はどこまでもさばけた夫だった。
頼母が菊之助を手にかけたのは、まったく偶然のことだった。
あの夜、頼母は本郷の森川宿、稲川屋敷へ出向いていた。
そして、浪江の父の半左衛門と碁をかこんだが、思いのほかにときを過ごして、森川屋敷をでたのが夜の九つ(十二時)。
深夜のこととて駕籠もなく、ええい、ままよ、歩いていこうと、さいわい、冬にはめずらしく暖かい夜だったので、ぶらりぶらりとやってきたのが湯島の切り通し。
そのとき、坂の下からばたばたと、急ぎあしにこちらのほうへ、登ってくる足音。
はて、この夜更けになにものだろうと、ものかげに身をひそめてようすをうかがっているともつゆ知らず、常夜灯のそばをつと通り過ぎた人の影。
頼母はおもわずあっと息をのんだ。
常夜灯の光のなかにくっきりと浮かびあがったのは、日ごろから憎しと思うあの嵐菊之助だった。しかも、その菊之助の顔色がただごとではない。
目がつりあがり、きっと食いしめたくちびるのはしには、なにかしら邪悪な微笑がうかんでいる。
かねてから、菊之助の悪魔のような性質をしっている頼母は、時刻が時刻、場所が場所、なにかまたよからぬことをたくらんでいるのではなかろうかと、こっそりあとをつけてみる気になったのである。
それからあとは、いまさらここにくだくだしく説明するまでもあるまい。
菊之助があたりのようすに気をくばりながら、絵馬堂の絵馬を切りさいているのをみて、おのれ、神域をみだりにけがす不届きものとばかり、頼母がおもわずうしろから声をかけた。
場合が場合だけに、菊之助はのけぞるばかりにおどろいた。
これが余人であっても菊之助はおどろいたのにちがいないが、あいてはましてや、いままでさんざんゆすってきた波江の夫の頼母である。
てっきり殺しにきたのだと勘ちがいした菊之助、窮鼠《きゅうそ》ねこをはむとはこのことだ、やにわに匕首《あいくち》を抜いて突いてかかった。
「無礼者!」
ひらりと体をかわした土岐頼母、あいての腕を逆手にとって、匕首をもぎとろうと争うはずみに、菊之助はわれとわが手に握った匕首で、ぐさりと胸をえぐってしまったのである。
その匕首をそのままそこへおいてくればよかったのだが、なにげなくそれを取りあげた頼母が、鞘《さや》におさめて持ち去ったので、事件がすこしややこしくなったというわけだ。
頼母もとちゅうでそれに気がついて、匕首はお濠《ほり》のなかへ沈めてしまったそうである。
その後、佐七が調べたところによると、菊之助が佐七に話したことには、だいぶんうそがまじっていた。
なるほど、一草はあの手紙をたねに、わがままな菊之助の頭をおさえようとしていたらしいが、ゆすっていたというのはまっかなうそ。かえって菊之助こそ、一草にゆすられるという口実で、浪江をさんざんゆすっていたのである。
したがって、これが頼母に殺されたのこそ、まったくもって自業自得というべきだった。
こうして、この一件は、めでたくけりとあいなったが、さて、お玉が池歌留多大会である。
その十五日の小正月に、いと盛大にひらかれて、辰と豆六も大ハリキリにハリキッて、景品という景品ことごとく、せしめてこようッと出席したのはよかったが、ふたりともさんざん引っかかれたあげく、辰のもらってきた景品が、
まっ黒けのけで賞。
豆六のそれが、
オッチョコチョイで賞。
これにはお粂佐七のご両人、腹をかかえて笑ったという。
紅梅屋敷
お玉が池春のもめごと
――お小夜《さよ》という娘知ってはるやろ
いつもいうことだが、陽気がぽかぽかと暖かくなって、あちこちに梅のたよりをきくころになると、ぞくに春眠暁をおぼえずなどといって、朝の寝床が、まことに離れにくいもので。
ここに神田お玉が池の人形佐七、このところ、すっかり御用がひまなところから、毎日のように朝寝坊、きょうもきょうとて、五つ半(九時)をすぎた時刻になって、やっと寝床からおきだすと、あいにく女房が出かけたので、お気に入りの辰と豆六の三人で、朝のちゃぶ台にむかったが、さて、佐七の顔をみるなり、きんちゃくの辰が、
「親分、お早ようござい、へへへへへ」
と、妙な笑い方をしたから、佐七はおやと目をまるくした。
「あれ、こん畜生、気味のわるい野郎だ。おれの顔をみると、いきなり笑いだしやがった。豆六、おれの顔にお祭りでもわたっているかえ」
「へへへへ、親分、あいかわらずお達者なことや、あねさんにしれたら、しょせんひと騒動はまぬがれまへんで」
と、これまた、なにやら意味ありげな口ぶりに、佐七はいよいよ目をまるくして、
「あれ、へんなこといいやがる。するとなにかえ、おれが、また、へんな女と、かかりあっているとでもいうのかえ」
「ちょっ、あれだからかなわねえよ。なあ、豆六、なるほど、はかりごとは密なるをもってよしとするのかしらねえが、こちとらにまで隠さなくてもいいじゃありませんか。ようがす。おまえさんが、そんな水臭い了見なら、あっしも覚悟があります。なにもかもあねさんにぶちまけて……」
「おっと待ってくれ。いったい、なんのことだか、おれにゃさっぱりわからねえが……」
「へえ、そうだっしゃろ。そんならそれでよろしがな。親分が潔白なら、なにもいうことあらへんがな。いまも辰兄いのいうとおり、これこれしかじかと、あねさんにうちあけて……」
と、ふたりが妙にからんできたから、佐七は朝っぱらから、すっかり度をうしなった。
そもそも、この人形佐七というのは、捕り物にかけては三国一の名人だが、女にかけると、これがからきしだらしがない。
ときどきへんな女にひっかかって、問題をおこすところへ、女房のお粂というのが、これまた猛烈なやきもちやきときているから、おりおり、夫婦のあいだに台風の襲来はまぬがれない。そのたびに、仲へはいって苦労するのが、辰と豆六。
だから、ことこの問題に関するかぎり、佐七はふたりに頭があがらないが、それにしても、けさは朝っぱらから妙な雲行き、さすがの佐七もすっかり面食らってしまって、
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ。おまえたちのいうことはよくわからねえが、いったいどの口だえ」
と、おもわず口をすべらしたから、さあ、こんどは辰と豆六、あいた口がふさがらない。
「あれ、豆六、いまのを聞いたか。どの口とおいでなすった。これだから、あねさんが気をもむのもむりはねえ。へえへえ、親分、あっしゃなにも申しません。せいぜい盛んにおやんなさいまし」
と、辰がプッと膨れるのを、
「こうこう、辰や、朝っぱらから、そういじめなくてもいいじゃねえか。後生だからいってくれ。いったい、おまえたちは、なにを聞きだしてきたんだえ」
と、佐七はにわかにねこなで声だ。
これが手だとはしっていながら、佐七にこう出られると、いつまでもお冠をまげていられないのが辰の性分で、
「へえ、それじゃいいますがね。親分、おまえさん、お小夜《さよ》という娘をご存じでしょう」
「お小夜?」
「白ばくれてもあきまへんで。青山百人町の飯沼ちゅうお旗本のお屋敷で、腰元奉公をしているお小夜ちゅうべっぴんや」
ときくなり、佐七は、ほっとばかりに安堵《あんど》の胸をなでおろし、
「なアんだ、あの娘のことか。べらぼうめ、へんにいやみないいかたをしやがるから、おれはまたなんのことかと思ったが、あいてはお小夜か。辰、豆六、あれならおまえたちが気をまわしているような仲じゃねえのさ。あの娘についちゃ、いささかふに落ちねえことがあるんで、おりがあったら、力になってやりてえと思っていたが、それにしても、おまえたち、どうしてあの娘を知っているんだえ」
と、佐七がにわかに元気を取りもどしたから、辰と豆六、すっかりあてが外れて、ありゃりゃと顔を見合わせながら、
「しかし、親分、それじゃおまえさん、なぜまたあの娘に、あんないやみな手紙をおやりなすったんで」
「なに、手紙?」
「そや、そや、親分が書いてやらはったんやおまへんか。恋しき恋しきお小夜さままいる、焦がるる佐七より、なんて、ああ、気味がわるい。ようあんなけったいな手紙、書けたもんだすなあ」
と聞くなり、佐七は顔色かえて、
「辰、豆六、そりゃ少しおかしいぜ。なるほど、おらアお小夜という娘に、いつか力になってやろうと約束をしたことはあるが、手紙などやったおぼえは毛頭ねえ。いったい、てめえたち、どこでそんな話を聞いてきたのか、それからさきに話してくれ」
と、佐七がにわかにひざのりだしたから、辰と豆六、こいつは見当がちがったかとばかりに、まゆにつばをつけながらも、顔見合わせて目をパチクリ。
しかし、天網カイカイ疎にして漏らさず、悪事千里を走るとはこのことである。
このとき、こっそり障子の外へ、音もなく忍びよって、ぴったり座ったものがある。
あな、恐ろしや、お粂である。
思いのほか用事がはやくすんで、台所の水口からかえってくると、おくの茶の間で、大の男が三人、額をあつめてのヒソヒソ話。きき耳を立てていると、はたせるかな、耳にはいってきたのが、お小夜という女の名前。それだけでも、ひと一倍|悋気《りんき》ぶかいお粂のこと、カッカと頭にきそうなのに、佐七がその女に艶書《ふみ》をつけたとやら、つけぬとやら。
いつものお粂なら、それだけきいても、障子をけたててとびこむところだのに、きょうの彼女はすこしちがった。
思わずせきこむ嫉妬《しっと》の思いを、じっとくわえたたもとでおさえ、息をころしてきき耳立てている、いや、そのそら恐ろしさ。
額からは二本の角がはえ、髪の毛は蛇《じゃ》となって逆立つばかり。辰や豆六はだまされても、あたしゃその手に乗るものかと、瞋恚《しんい》の炎をもやしつつ、聞いているとは知らぬが仏のこちらの三人。
紅梅屋敷の殺人
――夜の梅があっしらの得意とは?
「それじゃ、親分はまったくおぼえはねえとおっしゃるんで」
「恋しき、恋しきお小夜さままいる、焦がるる佐七よりちゅう、あのあたいやらしい手紙は、あんたはんが書かはったんやおまへんのか」
と、辰と豆六に左右より詰めよられても、佐七はそのときすこしも騒がず、
「いいや、知らねえ、覚えがねえ」
と、むしろ不安そうな顔色で、
「もしも、お小夜がそんな手紙を受けとったとしたら、それゃだれかが、おれの名前をかたりやがったにちがいねえ」
(フン、だれがその手にのるもんか)
と、障子の外では女房のお粂が、たもとのはしを食いちぎらんばかりのけんまくである。
「へえ、それはちと妙な話でございますねえ」
「兄い、しっかりせなあきまへんで。この親分ときたら、捕り物にかけてもお江戸一番やけど、白ばっくれるのも名人芸だっさかいにな」
(そうよ、そうよ、そのとおりよ)
と、障子の外ではお粂もしごく同感のてい。
「バカアいえ」
佐七はにが笑いをしながらも、
「それにしても、おまえたち、その手紙というのをほんとに見たのか」
「いえ、見たようにいうのは、豆六のほらなんですが、親分、まあ、お聞きなさいまし。こういうしだいで」
と、そこで辰と豆六が、こもごも語るを聞けばこうなのである。
きのう、辰と豆六は、青山のほうへいったかえりみち、とおりかかったのが天徳寺わき、時刻はすでに暮れ六つ(六時)をすぎて、ひとどおりのないたそがれのみちには、寒い辻風《つじかぜ》がまっていた。
「ところが、そこまでくると、娘がひとり、犬にほえつかれて難渋しているんです。そこで、あっしと豆六が、義をみてせざるは勇なきなりと、おおいに侠気《おとこぎ》をだして、犬を追っぱらってやったと思いなせえ。その娘というのが、つまり飯沼《いいぬま》のお小夜なんで」
「ふふふ、犬を追っぱらったぐらいで侠気もすさまじいが、それからどうしたえ」
「いや、これからが侠気の本領や。なんせ、だんだん暮れてくるのに、女のひとり歩きは危ないちゅうわけで、兄いとわてが途中まで送ってやりました。ところが、あの娘けったいなやっちゃ。ふたりが送るちゅうと、よけい怖がりよりまんねん」
「それゃそうだろう。送りおおかみが二匹もついてちゃ、さぞ気味が悪かろう」
「まあ、そう、まぜっかえさずとお聞きなさいまし。あいてがあまり怖がるもんだから、そこで、ふたりが名乗ってやったと思いなさい。われわれはけっして怪しいものじゃない。これこれしかじかの人間だと名前を告げると、娘がにわかにほおを染めたから、あっしゃしめたと思ったね。それじゃ、あなたがきんちゃくの辰五郎さん、お名まえはかねがね承っておりました。いちどお目にかかりたいと思っていたところ、うれしゅうござんすと、いきなりあっしの胸にすがりつき、かきくどくかと思いのほか、あてがはずれてがっかりでさ」
「あたりまえよ。虫でもかぶりゃしめえし、だれがおまえなんかをかきくどくやつがあるもんか。だが、冗談はさておいて、それからどうしたというんだえ」
「へえ、それじゃまくらは抜きにして、さっそく本題にはいることにいたしますが、その娘のいうのに、お玉が池の親分さんなら、わたしもよく存じております。二、三度お目にかかったこともございます……と、そこまではよかったが、じつは、けさほども親分さんから、妙なお手紙をいただきましたとおいでなすったから、あっしも驚きましたね」
「ふむ、それじゃ、お小夜がじぶんの口から、おれに手紙をもらったというんだな。して、して、その手紙をいうのは、どんなことが書いてあったのだえ」
「さあ、それがまたなんともいえん、けったいな手紙やそうです。なあ、兄い、お小夜もよっぽど迷うていたようすやったなあ」
「そうよ、あまりへんな手紙だから、わたしも思案にあまっておりましたが、辰五郎さま、親分さんはどういうおつもりでござんしょうねえと、そこでお小夜の打ちあけた手紙のなかみというのは、なんでもこうなんです。ええと……ひとつ、そもじ様は矢がすりの着物をきて、明晩|戌《いぬ》の刻、赤坂、溜池《ためいけ》の紅梅屋敷へおいでなさるべく候……と、それから、豆六、どうだっけ」
「それからっと、つまり、紅梅屋敷には、いま、紅梅が花盛りやさかいに、そのひと枝を折りとって、その梅の木のしたに立っていなはれ。そうすると、五つ(八時)の鐘をあいずに、裏木戸からひとがはいってくるさかいに、そのひとがきたら、持ってるちょうちんをふりかざして、『おまえさん、この梅ガ枝をご存じだすか』と聞くねんやね。それから『矢がすりお俊を殺したんはだれやいな』と、こう聞きなさるべく候。恋しき、恋しき、お小夜さままいる、焦がるる人形佐七より……」
「なに、それじゃ赤坂の紅梅屋敷で、矢がすりお俊を殺したのは、だれだと聞けというんだな」
佐七は心中、あっとばかりにおどろいたが、それもそのはず、赤坂溜池の紅梅屋敷といい、矢がすりお俊といい、かねて佐七が心にかけて、いつかそのなぞ解いてやろうと、苦心している事件に関係のある名前なのだ。
さて、その事件というのはこうである。
いまからちょうど三年前、赤坂溜池の紅梅屋敷――庭に紅梅の古株があるところから、ぞくにそうよばれているお屋敷のなかで、女がひとり殺されたことがある。
殺されたのが、すなわち矢がすりお俊といって、もとは柳橋からでていた芸者だが、さるお大名のお留守居役にひかされて、紅梅屋敷にかこわれていたところが、ある朝、評判の紅梅のしたで、なにものにともなく、殴り殺されているのが発見されたのである。
異名となった矢がすりの着物をまっかに血で染め、そのうえに紅梅の花が、むざんに散っていたという。
事件をさいしょに発見したのは、紅梅屋敷の女中でお幾《いく》という中年増の女だったが、そのときお幾は、死体のそばに、血にそまった木刀をひとふり発見した。
当然の結果、その木刀の持ち主が詮議されたが、やがてその詮議の結果捕らえられたのが、緒方京馬というご家人くずれの放蕩者《ほうとうもの》だった。
がんらい、矢がすりお俊という女はたいへんな妖婦《ようふ》で、むかしから関係した男は、いちいちかぞえきれぬくらい、また、この女のために身をあやまった若者も少なくない。
紅梅屋敷にかこわれるようになってからも、お俊の不行跡はなかなかやむ気色もなく、緒方京馬というのもそういう女郎ぐもにあやつられて、身をあやまった若者のひとりなのである。
京馬は捕らえられたとき、知らぬ、存ぜぬといいはったが、木刀にほってあった名まえがのがれぬ証拠。
なおそのうえに、その前夜、お俊とものすごい痴話げんかをやったという女中お幾の証言がいよいよ不利となり、京馬はとうとう八丈島送り、こうして、さしもその当時、世間をさわがせた矢がすり殺しの一件も、おもてむきは一段落ついたかたちだったが……。
「あのじぶん、おれはまだ部屋ずみの身で、あまりくわしいことは知らなかったが、ちかごろになって、ふとしたことから、あの事件をもういちど調べなおしてみたらという気になっていたところだ。それというのが、あのお小夜。辰、豆六、お小夜というのは、島送りになった緒方京馬のじつの妹だぜ」
兄が島送りになってからのお小夜の身のうえこそ、哀れであった。
ほかに身寄りとてないお小夜は、それからのちは、すすぎせんたく、針仕事、かよわい女ひとりの身を立てかねて、両国のならび茶屋から、茶くみ女として出ているところを、青山百人町の飯沼屋敷のご後室、天香院さまというかたに救われて、いまではそこで腰元奉公をしているのである。
「おれはふとしたことから、そのお小夜と知り合いになったんだ。お小夜はおれの名をしっていたとみえ、じぶんの身のうえをくわして語ってきかせたうえ、どうぞ兄の無実の罪、晴らしてくだされと、手をあわせて頼むんだ」
「へえ、それはまあ……」
辰と豆六は意外な話のなりゆきに、おもわず顔を見合わせた。
「そこでお小夜のいうにゃあ、どうしても兄がお俊を殺したとは思えない。下手人はきっとほかにあるから、どうぞ、その下手人を探してくれと、こういうんだ」
「なるほど、そらかわいそうだんな」
豆六も、あいてがべっぴんだから、おおいに同情をもよおした。
「おれもお小夜が哀れだから、おりがあったらもういちど、紅梅屋敷の一件をむしかえして調べてやりたいと思っていたが、それにしても、合点のいかぬはいまの話だ」
「それじゃ、親分、だれかがおまえさんの名まえをかたって……」
「お小夜をおびきだそうとしているやつがおまんねんやな」
「はて、面妖《めんよう》な……」
「こっちゃなあ」
と、辰と豆六が、すっかり丸めこまれたらしいようすに、障子の外ではお粂がたもとをかんで、奥歯をギリギリ。よくもよくも、ああぬけぬけとうそがつけるもの。
いまから三年前といえば、なるほどうちのひとはまだ部屋住み、辰つぁんという子分もいなかったし、あたしという女房もいなかった。いわんや、豆さんにおいておやである。
だから、そういう一件があったか、なかったか、だれしるもののないのをよいことにして、よくもああぬけぬけとうそがつけるもの。
思うに、お小夜という女が茶くみ女をしているじぶん、なじみをかさねていたところが、そのごどういう子細があったのかしらないが、女が武家屋敷へ引き取られ、逢《お》う瀬《せ》もままにならぬところから、思わせぶりな会い状を書いてだしたにちがいないが、それが辰つぁんや豆さんに筒抜けにしれてしまったとは、これぞまことに天罰覿面《てんばつてきめん》といいつべし。
それにしても、ふがいないは辰つぁん、豆さん、うちのひとの悪知恵が、衆にすぐれていることをしりながら、よく、まあ、ああたわいなくだまされることわいなあ。
ええ、もう、こうなったら他人はたのまぬ、じぶんの手でとっちめてくれましょう。いっそこの場でとびこんで……と、心はやたけにはやれども、やれ待てしばしと、お粂はけなげにも、じぶんでじぶんを制した。
いったい、手のこんだこの会い状、いかに辰つぁんや豆さんにばれたからって、このままのめのめ手をつかねて、あきらめるようなうちのひとではない。きっと、なんとかだまくらかして、会いにいくにちがいない。
また、お小夜とやらいう女も、茶くみ女のぶんざいで、武家屋敷へ住みこむようなしたたかもの。どうせしっぽが二本も三本も生えている古ぎつねにちがいない。
それにしても、よくもよくもあのような思わせぶりな会い状が書けたもの。
いま、辰つぁんや豆さんの語るを聞けば、
「ひとつ、そもじ様は矢がすりの着物をきて、明晩|戌《いぬ》の刻、赤坂、溜池の紅梅屋敷へおいでなさるべく候……」
だの、それから、
「紅梅屋敷には、いま紅梅が花盛りだから、そのひと枝を折りとって、その梅の木のしたに立っていろ」
だの、さらにはまた、
「そうすると、五つ(八時)の鐘をあいずに、裏からひとがはいってくるから、持っているちょうちんふりかざして、
『おまえさん、この梅ガ枝をご存じですかえ』
そして、また、
『矢がすりお俊を殺したのはだれなんだえ』
と、お聞きなさるべく候」
とは、よくもよくも手のこんだ会い状かな。
こんな思わせぶりな会い状を書けるほど悪知恵のある人間は、うちのひとよりほかにない。
辰つぁんや豆さんはだまされても、あたしゃだまされてたまるもんか。
どこの古ぎつねかしらないが、この手のこんだ会い状に誘われて、会いにくるそこの現場をとりおさえ、おお、そうじゃと、お粂としてはめずらしく深慮遠謀。
こっそりその場を立ち去ると、音もなく台所の水口からぬけだし、わざとガタガタ格子を鳴らして、表のほうからかえってくると、
「ただいま」
「おや、お粂、どうした、思いのほか早かったじゃねえか」
「それがさあ、案外かんたんに話がついたからさあ。それとも、あたしが早くかえっちゃいけなかったのかえ」
「あねさん、なにもそう、おつに絡むことはねえじゃありませんか」
「あら、まあ、あたしが絡んだかしら。それとも、おまえさんたちに、なにか絡まれるような覚えでもおありかえ」
「あねさん、そのいいかたがいけまへんがな。あんたえろう上気してやはるようだっけど、なんぞ外でおましたんかいな」
「いいえ、べつに……陽気がきゅうに暖かくなったので、おおかたそのせいでしょうよ。おお、そうそう、それについて、おまえさんに頼みがあるんだけど」
べったりそばへ寄り添われ、佐七はなんとなく気味悪そうに、
「なんだ、なんだ、お粂、辰や、豆六の目もあらあな。頼みがあるなら離れていえ」
「あら、そんなじゃけんなこといわないでさ」
と、お粂は佐七の手をとって、指と指をからめながら、
「いま、出先で聞いてきたんだけど、湯島の天神様の梅が、それゃみごとなんだってさ。ことに紅梅がね」
「ええッ」
「だから、あしたの晩にでも、その紅梅見物につれてってくださいよウ」
「あねさん、サそれゃねえでしょう」
「というと……?」
「夜桜というのはきいたことがあるが、夜梅というのは聞きませんね。夜はまだ、陽気が寒うございますからね」
「そやそや、春の夜のやみはあやなし梅の花、色こそ見えね香《か》やはかくるるちゅうてな、夜の梅ちゅうもんは見るもんやおまへん。かぐもんだす」
どこできいたか豆六め、れいによってれいのごとく、お株をやっている。
「あら、そうかしら。おまえさん、辰つぁんや豆さんはああいってるけど、あれ、ほんとかしら」
「ほんとかしらとは」
「だって、夜の梅といえば、おまえさんたち三人、得意の壇上じゃなかったかしら」
「あねさん、夜の梅があっしらの得意とは……?」
「ほら、ヨバイというじゃないの。ほっほっほ……」
弾けるようなお粂の笑い声に、まんざら胸におぼえのないことのない佐七をはじめ辰と豆六、思わず顔見合わせて目をシロクロ。
それをしり目にお粂は立って、鏡台のまえへいくと、すまして顔をなおしている。
闇夜《やみよ》の銀かんざし
――ちょうちんの灯に浮かんだその顔は
さても、お粂の法界|悋気《りんき》があたっているかいないかは、おあとの楽しみとしておいて、こちらは青山百人町、飯沼屋敷の腰元お小夜だ。
お小夜がああいう奇妙な手紙を受け取ったことは事実である。
それがあまり奇妙な内容だから、お小夜もいったんはさまざまに思い悩んでみたものの、もとよりこれが偽手紙とはしらないから、ともかくイッチかバッチか、手紙の指図どおりに、やってみようと決心した。
「なるほど、読めば読むほど妙な手紙だけれど、人形佐七といえば、江戸いちばんの御用聞き。なにかきっと、深いたくらみがあるにちがいない」
お小夜はなんどもなんども、あの奇妙な手紙を読みかえし、
「それに、ゆうべ会うた辰五郎さんに、豆六さんというかたも、親分さんのおっしゃることなら、どんなへんてこなことでも、いちおう信用したほうがよろしかろうとおっしゃった。そうだわ、あたしやっぱりいってみるわ」
このお小夜というのは、お粂の想像とはうってかわって可憐《かれん》な娘。
としはまだ十七、八というところか、もと茶くみ女などという水商売をやっていた娘とは、とうていうけとれぬしおらしさ、花もつぼみのいじらしさのなかに、どこかりりしいところを秘めているのは、御家人ながらも武士の血をひいているせいか。
しかし、それとしったら、お粂の悋気《りんき》は鎮まるどころか、ますます火に油をそそぐ結果になったかもしれぬ。
やがて、心をきめた腰元お小夜が、おそるおそるやってきたのは飯沼屋敷の奥座敷。
天香院さまはお小夜の顔をみると、にっこり笑って、
「おお、小夜、みれば顔色もすぐれぬが、わたしになにか用事かえ」
そもそも、この飯沼家というのは、三百石のご大身。三河いらい連綿とつづいた家柄だが、数年まえに先殿さまがなくなられてからというものは、まだ若年の大作というのが跡目相続をして、肉親といえば母ひとり子ひとり。
当時の将軍は、十一代|家斉《いえなり》である。家斉は有名な子福者で、生涯に五十人余の子女をもうけたという。
大作もいぜんは、将軍家若君のおひとかたにお側仕《そばづか》え、お覚えもしごくめでたかったが、どういう子細があったのか、三年ほどまえ大坂勤番を仰せつけられた。
それいらい、天香院さまは寂しいおひとり暮らし。ひたすらわが子の江戸帰参を、指折りかぞえてのわびずまい。
かててくわえて、天香院さまはとかく健康がすぐれぬところから、話しあいてになるような、気立てのやさしい娘はないかと、ひそかに物色しているうちに、お目にとまったのが、そのころ両国のならび茶屋にでていたお小夜である。
きりょうなら、気立てなら、ひとなみすぐれてうつくしく、やさしく、氏素性もまんざらでなく、それになにより律気で、まめやかな性質が、ことごとく天香院さまのお気に召し、とうとう百人町のお屋敷にひきとって、いまでは腰元というより、娘どうようにかわいがっているのである。
お小夜はしおらしく、天香院さまのまえに手をつかえ、
「はい、あの……ちと心願の筋がございまして、これから赤坂の氷川《ひかわ》様へ、お参りしてきとうございます。もし、ご用がございませぬならば……」
「なに、これから赤坂の氷川様へお参りとおいやるか」
天香院さまは目をみはって、
「もうそろそろ、日も暮れようというのに、わかい娘の外歩きは、危ないことはないかえ。あしたにしたらどうだえ」
「はい、あの……でも、どうしても、今夜お参りがしてきとうございます。どうぞ、五つ半(九時)ごろまでおいとまをくださいまし」
と、思いつめたお小夜の顔をみて、
「なにやら子細ありげな……いえ、おまえがそれほどまでにいやるならぜひもない。それでは、気をつけていっておいで。しかし、かならず五つ半までには、かえってくるのじゃぞえ」
「はい。有り難うございます。それではいってまいります」
と、お小夜はようやくおいとまが出たので、いそいそと出ていこうとしたが、出会いがしらにばったりと出会ったのは若殿の大作だ。
大作はこの春、大坂からかえってきて、いまではお納戸係として、お城へ出仕している。
としは二十三、まだ独身だが、きりょうなら才知なら、いまどきの若者にはめずらしい稀者《まれもの》とあって、上役の首尾もよろしく、ゆくゆくは組頭からお側衆《そばしゅう》、順当にいけば若年寄になるであろうとうわさされていたが、どういう子細があったのか、三年ほどまえに大坂勤番に左遷された。
それがようやく、この春、江戸ヘ帰参がかなったのだが、もうひとつ、いぜんほど冴《さ》えないといううわさである。
「おや、お小夜、たいそう美しくなったが、いったい、どこへまいるつもりじゃな」
「はい、あの、ちょっとお参りに……」
「はて、いまごろからお参りとは心得ぬ。それに、なにやら顔色もすぐれぬが、なんぞ変わったことでもあったのではないか」
と、気遣わしそうに、まゆをひそめたというのもむりはない。
じつは、この大作、大坂からかえってみると、意外にうつくしい娘が、母のそばにかしずいているのを見て、それいらい、なんとやらお小夜のことを忘れかねているのである。
「いえ、あの、べつに変わったこともございませぬ。すぐかえってまいりますほどに、どうぞそこをお通しくださいませ」
「ふむ、通せともうさば通さぬこともないが、して、母上はご承知か」
「はい、ご後室さまには、ただいまお許しをえてまいりました」
「さようか、母上がご承知とあらば子細はあるまい。それでは、気をつけていったがよいぞ」
「それでは、ごめんくださいませ」
やさしい主人をあざむくのは気がとがめたが、いまはそんなことをいっている場合ではない。
お小夜はせんだって、天香院さまにつくっていただいた矢がすりの着物を着ると、かねて用意のちょうちんともして、それからまもなく、やってきたのは溜池《ためいけ》の紅梅屋敷。日はすでにとっぷり暮れて、如月《きさらぎ》の風が膚につめたい。
紅梅屋敷はあの事件いらい、住むひともなく、いまでは相馬の古御所さながらの荒れようである。
ここで、かつて、あのものすごい人殺しがあったかと思うと、お小夜もさすがに、魂も身にそわぬほどの恐ろしさ、しかし、そこは兄を救いたい一心である。
すがれた草をふみわけて、裏木戸から忍びこむと、庭には、住むひともないのに、あの紅梅が花盛り。
春の夜のあやなきやみをつんざいて、梅のにおいが馥郁《ふくいく》とかおっているが、この木のしたでお俊が殺されたかとおもうと、お小夜はなんとなく、うしろがふりかえられる心地である。
やがて、おぼろの月が空にのぼって、どこかで五つの鐘の音。――と、このときギーと裏木戸のきしる音。だれかが、この紅梅屋敷へはいってきたのだ。
お小夜はぎょっと、あわててちょうちんの灯をたもとでかくし、息をのんでひかえていたが、そのときである。
裏木戸からはいってきた人物が、なににおどろいたか、あっというひくい叫び声――どうやら男らしかった。
男はあわてて地上をすかしていたが、なにを見つけたのか、
「や、や、こ、これは……」
と、仰天するような叫び声。
これにはお小夜もとほうにくれた。
こんなことは手紙に書いてなかったから、どうしていいのかわからない。
ええ、ままよ、ともかく、教えられただけのことはやってみようと、たもとの下からちょうちんを取り出すと、折りとった梅ガ枝をかざして、
「もし、おまえさま」
紅梅の下から一歩まえへ踏みだしたお小夜のすがたに、男はびっくり仰天、あっと叫んで、二、三歩うしろへとびのいた。
「おまえさま、この梅ガ枝をご存じですかえ」
「おお! おまえはお俊!」
男のくちびるから、異様なうめき声がもれた。お小夜はまた一歩まえへ踏みだすと、
「はい、おまえさま、その矢がすりお俊を殺したのは。いったいだれでございますえ」
いいつつ、ちょうちんの灯をあいての顔にさしつけたが、とたんにお小夜は、あれと叫んでちょうちんをとりおとすと、そのまま、どさりと枯れ草のうえに倒れたのである。
意外とも意外、ちょうちんの灯にありありと浮かびあがったのは、あろうことかあるまいことか、あの大作ではないか。
亡者のように色あおざめて、額からたらたらと脂汗を流している大作の顔――お小夜があまりの意外さに気を失ったのもむりではなかったが、ちょうどそのころ――。
「辰、いまの鐘は、あれゃ五つじゃないか」
「へえ、どうやら、そうのようでございますね」
「しまった。すこし遅れたかな。なにも変わったことがなければよいが……辰、豆六、油断するな」
と、いそぎあしに紅梅屋敷の裏木戸へとさしかかったのは、いわずとしれた人形佐七にふたりの子分、きんちゃくの辰とうらなりの豆六だ。
みると、裏木戸がなかばひらいて、そのあたり、枯れ草がだいぶふみにじられているようすに、三人はおもわず顔を見合わせた。
「みねえ、お小夜のほかにも、だれかやってきたやつがあるんだぜ。おや、あの声はなんだ」
そのとたん、おぼろのやみをつらぬいて、きこえてきたのはお小夜の悲鳴。
佐七をはじめ辰と豆六、その声をきくなり、木戸からなかへおどりこんだが、このときだ、ふいになかからとびだした黒いかげが、出会いがしらに佐七をつきのけると、そのままやみのなかをいちもくさん。
なにしろ、あまりとっさのことで、さすがの佐七も手をだすひまさえなかったのである。
「しまった。あいつはいったいなんだろう」
「まだ若い侍のようでございましたね。親分、ともかく、なかを調べてみようじゃありませんか」
「そやそや、さっきの女の悲鳴が気がかりや」
裏木戸からなかをのぞくと、枯れ草のなかにちょうちんがゆらゆらと、鬼火のようにまたたいている。それを目あてに、三人はばらばらと紅梅のしたへ駆けよったが、とたんに佐七はあっと驚いて、
「おお、お小夜がここに倒れているぜ」
「へえ、お小夜がそこに倒れていますか。親分、じつはここにもひとり、女が倒れておりますんで」
「なに、それじゃ女がふたりか。してして、そっちのほうはどうだどうだ。お小夜はどうやら気を失っているだけらしいが」
「へえ、暗くてよくわかりませんが、どうやらこっちの女は死んでいるらしい。豆六、ちょっとそのちょうちんをかしてくれ、なんだか妙な手ざわりだ」
「おっと合点や」
豆六がちょうちんをもってちかづくと、なるほど、踏みしだかれた雑草のなかに、女がひとり、くゎっと白目をむいて倒れている。
さっき大作がつまずいたのは、どうやらこの死体だったらしい。
「うわっ、こ、これは……親分、見なはれ、えらい血や。胸のところをひと突きに、ぐさりとえぐられておりますがな。どえらいことしよったもんやな」
「豆六、そのちょうちんを貸してみねえ」
佐七はちょうちんの灯でつくづくと女の顔をてらしてみたが、やがてぎょっと息をのむと、
「おお、これゃお幾《いく》じゃないか」
「へえ、親分、するとこの女をご存じなんで」
「ふむ、知っている。三年まえに殺された矢がすりお俊の召し使い、お幾というのが、すなわちこの女さ」
「それじゃ、親分、これがお俊のむかしの召し使いで……」
「それにしては、ええなりしてるやおまへんか」
なるほど、ちょうちんの灯に浮きだしたその女は、三十四、五の大年増、お世辞にもよいきりょうとはいいかねるのが、断末魔の形相ものすさまじく、くゎっと大きく白目をひらき、ねじれたくちびるのあいだから、黒ずんだ舌がはんぶんのぞいているのが、いよいよもって醜悪である。
しかし、その服装はむかしの召し使いとは思えぬほど、しゃれた衣装にしゃれた帯、そうとう高価なしろものずくめ。
「そうよ。こいつ、お俊が殺されたあと、どこで金づるをつかんだのか、品川でちょっと小意気な小料理屋をやっていたんだ」
「なるほど、これゃ小料理屋のおかみというなりですねえ」
「それで、親分、あんた会わはったことおまんのんか」
「ふむ、お俊殺しについて、この女がなにか知ってるんじゃねえかと、二、三度たずねていったことがあるが、当時はまだ駆け出しのこちとらだ。ていよく鼻であしらわれちまったものさ」
「それにしても、親分、こいつが今夜殺されたところをみると、やっぱりこれゃ、三年まえのお俊殺しが尾をひいてるんですぜ」
「おっ、そうだ、豆六、ともかく、お小夜を呼びいかせ」
「おっと、がってんや」
辰と豆六が左右から、お小夜のからだを抱きおこし、
「お小夜ちゃん、やあい」
と、介抱しているあいだに、佐七はお幾の死体のまわりを調べていたが、ふと目についたのが、うずたかくつもった落ち葉や枯れ草のあいだから、なにやらキラリと光るもの。
なにげなく拾いあげると、これが銀の平打ち。そのころはやった舞鶴《まいづる》の透かし彫り、ちかごろ市井のだれでもがさしている銀かんざしである。
佐七はなぜかギョッとしたように、いそいでお幾の頭に目をやったが、お幾はべつに、ちゃんとかんざしをさしている。おなじ銀の平打ちでも、透かし彫りの模様もちがっていれば、もっと上等の品である。
なに思ったのか、佐七はあわてて、そのかんざしを懐へねじこんだ。
そんなこととは気がつかず、辰と豆六はお小夜の介抱をしていたが、お小夜はなかなか気がつかない。
「豆六、これゃいけねえ。どっかに井戸かやり水はねえか」
「おっと、そやそや、ほんならちょっと探してきまほ」
やがて、豆六がドップリ手ぬぐいに水をふくませ、かえってくると、
「やあい、お小夜坊、やあい」
「しっかりしなはれやア」
辰と豆六が左右から、手ぬぐいをしぼって口へそそぐと、お小夜はやっと目をひらき、
「あれ、あなたは大……」
といいかけて、
「えっ?」
と聞きかえす佐七の顔に気がついたのか、お小夜はさっと血の気をうしなった。
「お小夜坊、おれだ、おれだ、お玉が池の佐七だ」
「おお、あなたはお玉が池の親分さん」
「そうよ、その佐七だが、しかしお小夜さん、おまえはいま逃げていった男をしっているのかえ」
「はい、あの、いいえ……いいえ、あたしはなにも存じません。はい、あの、なにもしりません」
といいながらも、お小夜は両のたもとで、ひしとおもてをおおうと、さめざめと泣きだした。
もだえるお小夜
――虚々実々のめおとの駆け引き
それからあとの二、三日、お小夜はまるで気抜けがしたようなありさまだった。
紅梅屋敷の紅梅の木のしたで、ちょうちんの灯でみた顔は、たしかに恋しい大作ではなかったか。大作がどうしてあそこへやってきたのだろう。
また、あのとき口走った大作のことばは、いったいどういう意味だろう。
「おお、おまえはお俊」
と、大作は叫んだが、すると、あのひとは矢がすりお俊を知っていたのだろうか――。
お小夜はそれを考えると、頭がわれるように苦しくなる。
大坂勤番からかえってきて、まだ浅いなじみだったけれど、お小夜はなんとやらこのひとを、頼もしいひと、好いたらしい若殿と、ひそかに心をときめかしていたのだが、恋しいそのひとは、ひょっとするとお俊殺しの下手人では……。
と、そう考えると、お小夜はもう、世の中がまっくらになったような悲しさだった。
「それにしても、お小夜さん、おまえさん、あのとき紅梅屋敷から逃げだした男を、どうしても知らねえといいはりなさるのかえ」
「はい存じません。あたしはすぐに気を失ってしまいましたから、あいてのお顔もみずにすんでしまいました」
きょうもきょうとて、訪ねてきた佐七にむかってうそをつくくるしさ。
二、三日のあいだに、めっきりやつれはてたお小夜の顔を、佐七はあわれむようにながめながら、
「しかし、それゃちと変ですねえ。おまえさんは、あのお幾という女が、殺されていたのも知らなかったといいなさる。そうすると、なにもべつに気を失うほど恐ろしいことはなかったはずじゃありませんか。ねえ、お小夜さん、あっしはどうかしておまえさんのお兄さんを助けてあげようと、骨を折っているんですぜ。ここでおまえさんが妙にかくしだてなんかすると、せっかくのあっしの骨折りもむだになる。ひとつ、ほんとうのことを打ち明けて下さいな」
「でも……でも、あたしなにも存じませんもの」
「そうですかえ。いや、それならようがす。おまえさんがあくまでしらないとおっしゃるなら、しいて尋ねようたア思いませんが、それにしても、ふしぎなのはこのあいだの手紙だ。くどくもいうとおり、あれゃおいらの書いた手紙じゃねえ。それについて、お小夜さん、おまえさん、だれがあんな偽手紙を書いたか、心当たりはありませんかえ」
「はい、いっこうに……あたしは親分さんのお手紙だとばかり思っておりました。ほんとうに妙なことでございます」
「まったく妙だよ。だれがあんな手紙をよこしたのかしらねえが、そいつはよっぽどふかい事情をしっているやつにちがいねえ。というのが、三年まえに殺された矢がすりお俊という女は、よくあの紅梅の木のしたで、ちょうちん片手に、梅ガ枝かなんか持って、男の忍んでくるのを待っていたといいますからねえ」
「まあ、そうすると、あたしはあの晩、そのお俊とやらの幽霊の役目を勤めたわけでございましょうか」
「どうも、そうとしか思えませんね。ちょうど年ごろもおんなじだし、それに、あの矢がすりの着物……ねえ、お小夜さん、あの手紙のぬしは、おまえさんをお俊の幽霊に仕立てて、ひと芝居うとうとしていたにちがいありませんぜ」
「ひと芝居……と申しますと……?」
「つまり、お俊の幽霊を下手人につきあわせ、あいての驚くすきへつけこみ、お俊殺しを白状させようという魂胆。だから、あの晩紅梅屋敷へやってきた男がだれだかわかりさえすれゃ、おまえさんのお兄さんのむじつの罪も晴れるというもんです」
「だって、だって、あたし存じませんものを」
兄と恋人の板ばさみになって、もだえ苦しむお小夜のようすを、佐七はあわれむようにながめていたが、あいてがなんとしても口を割りそうにないのをみると、あきらめたように立ちあがり、
「いや、ようがす。おまえさんがあくまでも知らぬとおっしゃるなら、こちらでかってに探すばかり、それじゃごめんくださいまし」
佐七はなにか心に期するところあるもののごとく、お小夜と別れて、昼ごろお玉が池のわが家へかえってきたが、そこには辰と豆六が、ひざ小僧をそろえて佐七のかえりを待っていた。
「親分、わかりましたぜ。お幾というあまは、なかなか大したあばずれもんで、なんでも、むかでの七蔵という入れ墨者をいろに持っていたそうです」
「そればっかりやおまへん。あいつ、お俊が殺されてからちゅうもん、品川で小料理屋をしてたんやが、いつでもえらい金まわりがよかったちゅう話だす。いつかも知り合いのもんがうらやましがって、そのわけ聞いたら、どこかにえらい金づるをつかんでるちゅうて、だいぶ鼻高々やったといいまっけど、親分、ひょっとしたら、お幾のあま、お俊殺しの下手人を知っていて、そいつから金をゆすっていたんやおまへんやろか」
「なるほど、そういうところかもしれねえな。そして、お幾のいろのその七蔵というのは、いったいどこに住んでいるんだえ」
「へえ、そいつはなんでも、深川の弥次郎兵衛《やじろべえ》長屋に住んでいて、しじゅうばくちばかり打っているんですが、もとでがなくなると、お幾のところへ金をせびりにきていたそうです」
「よし、辰、豆六、それじゃ、おめえたち、これからしばらく、七蔵の野郎から目をはなさねえようにしろ。お幾がお俊殺しの下手人を知っていたとしたら、七蔵もその口からきいているかもしれねえ。どうせ、そういう悪党なら、こんどはお幾になりかわり、じぶんでその下手人をいたぶりにかかるにちがいねえ。ふたりとも、きっとそいつに目をつけていろよ」
「おっとがってん。それじゃ、豆六、出かけようぜ」
「よっしゃ、それで、親分はどないしやはりまんねん」
「おれか、おれは当分、お小夜のあまを見張っていようよ」
「お小夜のあまを……?」
「あの娘、なにか知っていて、かくしているにちがいねえ。なんとしてでもそれを探り出さなきゃ……」
「親分、ほんなんなら、なにも親分の手をわずらわさんでも、わてらにまかせておくれやす。兄いとわてとで、お小夜のあまがなにをかくしていくさるのんか、きっと調べてみせまっさかいに、親分はむかでの七蔵のほうへまわらはったら……」
「よせ、よせ、豆六」
と、辰はわざと憎々しげに、
「べっぴんはばんじおれに任せろというのが、うちの親分の主義だとさ。おっと、いけねえ」
と、そばにいるお粂にはじめて気がついたように、
「豆六、ぐずぐずいわずに、さっさと出かけようぜ」
「あ、さよか。ほんなら、親分、あのべっぴんのお小夜のことは、ばんじあんじょう頼みまっさ。けっけっけ」
辰と豆六が奇妙な声をあげてとびだしていったそのあとでは、お粂がせっせと、繕いものかなんかやっている。
いつもなら、こんなとき、
「おまえさん!」
とかなんとか、当然、一言なかるべからざるそのお粂が、すましかえってことばもなく、繕いもの作業にいそしんでいるのが、かえって佐七にはうす気味悪い。
そのお粂の横顔を、佐七はまじまじ見ていたが、ふと気がついたように、
「お粂、おまえのさしているそのかんざし、ちょっとこっちへ貸してみねえ」
「あれ、いやだよ、おまえさん、あたしのかんざしがどうかしたのかえ」
「まあ、なんでもいいから、ちょっとこっちへ貸してみねえというのさあ」
「へんなひとだねえ。だしぬけに……あたしのかんざしがどうしたというのさ」
口ではぶつくさいいながらも、お粂が髪から抜いてわたすかんざしを、佐七は手にとってみて、とみこうみしていたが、
「舞鶴の透かし彫りの銀の平打ち……いま、はやりのかんざしだね」
「そうよ。当今はねこもしゃくしもそのかんざしさ。だけど、おまえさん、あたしのかんざしがどうかしたのかえ」
「いや、べつにどうってことはねえんだが……だけど、お粂、このかんざし、いやに新しいじゃねえか。まるで買い立ての新品みてえに、どこもかしこもピカピカしてるぜ」
「あたしゃきれいずきだからねえ。それに、おまえさんに買ってもらった品だもの、粗末にしちゃすまないと、いつもそうしてみがき立てておくのさ」
お粂のきれいずきは、いまにはじまったことではない。佐七はギャフンとした顔色で、お粂の横顔を見守っていたが、
「お粂、ここにちょっとおかしなことがある」
「おかしなことってなにさ」
お粂はあいかわらずすましかえって、佐七の普段着の繕い作業によねんがない。
「おらアこのあいだあるところで、こういうかんざしを拾ったんだが……」
佐七が懐紙にのせてだす舞鶴の透かし彫り、銀の平打ちのかんざしを、お粂は横目でジロリと見て、
「あら、まあ、あたしのかんざしとおなじじゃない?」
「だからさ、なにかおまえに心当たりはねえかと思って、拾っておいたのさ」
「あたしになんの心当たりが……」
「このかんざしにさあ」
「それゃまたどうして?」
「あめえのかんざしとおなじだからさ」
「バカらしい」
お粂は吐いてすてるように、
「あたしのかんざしなら、ちゃんとここにあるじゃないか。それに、さっきもいったとおり、この手のかんざしならいまおおはやり、ねこもしゃくしも舞鶴だから、あたしもつくづくいやになる。ねえ、おまえさん」
お粂はきゅうに鼻声になり、繕いものを押しやって、べったり佐七にすりよると、
「ちかぢかにもっと目新しいかんざしを、ひとつ買っておくれなねえ」
このあま!
と、佐七は心中舌打ちしながら、
「それはそうと、お粂、おめえこのあいだ、おかしなことをいってたじゃねえか」
「あたしがどんな……?」
「夜の梅がどうのこうのって……あれはどういう意味なんだえ」
「ああ、そうそう、あれは湯島の天神様の紅梅がみごとだそうだから、連れてっておくれっていったのさ。おまえさん、連れてっておくれかい」
このあまめ、ああいえばこうのと、ひと筋なわでいくやつじゃねえと、佐七はまたもや内心舌打ちしながら、
「おめえあのとき、おいらのヒソヒソ話を立ち聞きしてたんじゃねえのか」
「おいらってだれさ」
「だから、このおれのさ」
「あらまあ、おまえさん、独り言をいうくせがあるの。あたしちっともしらなかったわ。ほっほっほ」
虚々実々のめおとの駆け引き、この勝負、どうやら完全に佐七の負け。
「勝手にしやがれ!」
佐七はついにさじを投げて立ちあがった。
「お粂、それじゃおいらも出かけるぜ」
「お小夜坊とやらいうべっぴんの、おしりを追っかけていくのかえ」
「そうさ、どうでもあの娘をくどきおとして、うんといわせてみせるわさ」
「そうそう、おまえさん、そのお小夜ちゃんとやらいう娘、どんなかんざしさしてたえ」
「大きな紅の古渡り珊瑚《さんご》……」
「あら、まあ、あたしもそんなのがほしいわねえ」
「勝手にしろい!」
とうとう佐七はカブトを脱いで、そうそうにうちをとびだしたが、あとに残った女房のお粂、えりにあごをうずめて思案顔だったが、なに思ったのかつと立ちあがり、にわかにあたりを見まわしたのち、つと開いたのはたんすの引き出し。
そこでまたもやあたりを見まわすと、ぎっちり詰まった着物の底から、取り出したのは小さな袱紗《ふくさ》包み。
お粂はもういちどあたりを見まわし、そっとそれを開いたが、とたんにゾーッとしたように身ぶるいをした。
それもそのはず、袱紗のなかから出てきたのは、金蒔絵《きんまきえ》の印籠《いんろう》だったが、その金蒔絵の定紋というのが……。
お粂はしばらく息をつめ、その紋所を見つめていたが、もういちどあたりを見まわしたのち、袱紗につつんだその印籠を、しっかり帯のあいだにかくし、そのままそこを出ていきかけたが、おっと、そうそうというように、そこに並んだ二本のかんざしのうち、佐七の拾ってきたほうを、
「おまえさん、ごめんなさいね」
と、口のうちでつぶやきながら、しっかり髷《まげ》の根元にさしこむと、これまたどこかへ出かけていった。
日ももうそろそろ暮れかげんだというのに……。
話かわってこちらはお小夜、その日の昼過ぎ、またもや人形佐七より、妙な手紙を受け取っていたのである。
ミイラ取りミイラ
――ああ、しょせん大作はのがれられぬ
[#ここから2字下げ]
――一筆啓上、お俊ごろしの下手人の名まえ、あいわかり候あいだ、本日七つ半(五時)ごろ、堀《ほり》の舟宿、河長《かわちょう》へおいでくださるべく候。ばんじの話はお目にかかったそのうえで。ゆめゆめ疑うべからず候。
佐七より
お小夜さままいる
[#ここで字下げ終わり]
またしても人形佐七よりの手紙なのだ。
中間がことづかってきたというこの手紙をひらいて読むなり、お小夜はじぶんの目を疑った。
佐七とは一刻《いっとき》(二時間)ほどまえに、別れたばかりである。あれから佐七は手っとりばやく、お俊ごろしの下手人を探しだしたのであろうか。
さっき別れたときの佐七は、つゆひとことそのようなことをにおわせはしなかったのに……。
筆跡もこのまえとはちがっていた。しかし、このまえのが偽手紙であったことがわかっているのだから、こんどこの手紙こそ、佐七親分の自筆かもしれぬ。
それにしても、このまえの筆跡が流るるようなみごとさだったのに、こんどのこの手紙は、みみずがのたくっているようである。
しかし、考えてみれば、岡っ引きなどという稼業のものは、みんなこのようなものかもしれぬと、お小夜が思いなおしたというのだから、佐七こそいい面の皮というべきである。
どちらにしても、お小夜にとってなによりもしりたいのは、お俊殺しの下手人のこと。お小夜はあとさきのふんべつもなく、百人町の飯沼屋敷をぬけだすと、やってきたのは堀の舟宿、河長である。
時刻は約束よりすこしおくれて、七つ半(五時)をだいぶんすぎていた。春なお浅ききさらぎのこと、あたりはもうそろそろ暮れかけていた。
「あの、もし、ちょっとお尋ねいたします。こちらに、お玉が池の親分さんはおいでになっていらっしゃいましょうか」
と、舟宿のまえに立って尋ねると、河岸で舟を洗っていた若いいなせな船頭が、
「おお、それじゃおまえさんがお小夜さんでございますかえ。お玉が池の親分は、用事があってひとあしさきにお出かけになりました。おまえさんがおみえになったら、すぐあとからご案内申し上げてくれという話でございましたから、さあ、さあ、舟にお乗りくださいまし」
お小夜はなんとなく心もとなく思ったが、せきたてられるままに、ついうかうかと舟へのりこむと、わかい船頭はにやりとすごい微笑をうかべ、ギイと竿《さお》をつっぱると、舟はそのまま岸をはなれて川上へ。
「あの、もし、船頭さん、そして、お玉が池の親分さんは、いったい、どこへお出かけになったのでございますえ」
「さようさ。なんでもお俊殺しの下手人をつかまえるとやらで、向島《むこうじま》のほうへおいででございました」
「まあ、それじゃほんとうに、お俊さんを殺した下手人がわかったのでございましょうか」
「へえ、なんでも、そんな話でございましたよ」
舟はやがて堀《ほり》をでると、大川へさしかかる。
水のうえには、こまかい縮緬皺《ちりめんじわ》がいちめんに立って、春とはいえもう日暮れどき、筑波颪《つくばおろし》が寒かった。お小夜はそでをかき合わせると、おもわず息をはずませて、
「そして、その下手人というのは、いったいだれでござんすえ。おまえ、もしやその名まえをご存じではありませんかえ」
「へえ、よく存じております。お小夜さん、おまえそれを聞きたいかえ。ふふふ、さぞ聞きたかろうな、聞きたくば、おれの口から話してやろうか」
すごい目でぎろりと川のあとさきを見まわすと、船頭はふいに櫂《かい》をすて、お小夜のそばへすりよってきたから、お小夜ははっと顔色をかえ、
「あれ、おまえさん、なにをするんだえ」
「なにをするってしれたことさ。お俊殺しの下手人の名まえをきかせてやろうというのさ。これさ、なにも怖がることはねえ。まあ、落ち着いてきいていねえ」
お小夜のそばに、どっかとあぐらをかいた男の右の手首をみて、お小夜はまたしてもあっと息をのんだ。
男は入れ墨者の凶状持ちなのだ。
「あれ、おまえさんはいったいだれだえ」
「ふふふ、おれかえ、おれゃアむかでの七蔵といって、このあいだ殺されたお幾の亭主さ」
「そして、その七蔵さんが、あたしにいったいどのようなご用がございますの」
「お小夜さん、おまえおびえているのかえ。なにもそう怖がることはねえやな。おれゃアちとおまえに頼みたいことがあるんだ。というのはほかでもねえ、おまえもおおかた知ってるだろうが、このあいだお幾のやつが、紅梅屋敷へ出向いたのは、あれゃアお俊殺しの下手人に会うためだぜ」
「まあ!」
「おどろいたかえ、お幾はお俊殺しの下手人を知っていたんだ。そして、長いあいだその下手人をいたぶって、金をゆすりとっていたんだ。おれもなんとかして、そのおこぼれにあずかりてえと、お幾にいろいろ尋ねたが、なにせだいじのかねづるのことだから、あま、なかなかしゃべりゃアがらねえ。そこで、あの晩こっそりと、お幾のあとをつけて紅梅屋敷へおもむくと、そこでお幾がだれをゆするかみてやろうと思ったが、運悪くお幾のやつに見つけられ……」
「ああ、わかりました。それでおまえがお幾さんとやらを殺したんですね」
「ふふふ、ま、そんなところさ。しかし、殺したものの、おれもさすがに恐ろしくなってきた。いったんはむちゅうで逃げだしたが、ここで逃げちゃ、せっかくの苦心も水のあわ。どうしても、下手人の顔をみてやらなきゃアと、とって返したそのとたん、出会いがしらにばったりと会ったのは若い侍だ。目の色さえもただならず、あたふたと逃げだすようすが怪しいと、こっそりあとをつけていって、そいつの素性をのこらず調べてしまったんだ。なあ、おい、お小夜さん、おまえもその若侍というのを知ってるだろうな」
お小夜はジーンと全身がしびれるような心地だった。
ああ、この男は、大作の姿をみてしまったのだ。そして、お幾にかわってその大作をゆすりにかかろうとしているのだ。
「お小夜さん、おまえなぜ黙っているんだえ。あれゃアおまえにとっちゃ兄のかたきだ。おまえ、なぜあの男を訴えて出ねえ……と、まあ、ほんとうならこういうところだが、おれゃアそんな野暮なことはいわねえつもりだ。恋のためにはうらみも忘れる。ふふふ、おまえのような娘にゃむりもねえ話よ。なにせ、あいては水の垂れそうな若殿さん。だから、おれも粋を利かせて、わざわざこうして、おまえさんをひとけのない水の上へ呼びだしたんだが、どうだえ、お小夜さん、おまえの口からあの大作を説き伏せて、口止め料に五百両、きよく出させてくれないかえ」
「あれ、そんなこと……」
「いいじゃねえか。たかが知れた五百両、お俊殺しがばれてみろ、五百両じゃすむめえぜ。お家断絶、身は切腹」
「ええっ!」
「いやさ、そんなことにもなりかねめえ。そこへいきゃア、五百両など目くされ金、聞けゃ飯沼様は御先代のお心がけがよかったにより、たいそうご裕福でいらっしゃるとか。三百や五百は右から左。どうだ、どうだ、お小夜坊、この取り次ぎはおまえにもためにならあな」
ミイラ取りがミイラになるとはこのことだろう。
「だって、だって、あたしにはそのようなゆすり、ねだりがましいこと……」
「できねえというのか」
「はい、そればっかりは……」
「それじゃ、おまえはあの若殿を、みすみす見殺しにするつもりか」
「さあ、それは……」
「お小夜坊、どうだ、どうだ」
と、ふたりが押し問答をしているときである。
「よしよし、その取り次ぎなら、おれがかわってしてやらあ」
思いがけない男の声に、ふたりはあっと叫んで、声するほうをふりかえったが、とたんにお小夜も七蔵も、くちびるの色までさっとばかりにあおざめた。
十手捕りなわ口にくわえて、すっくと舟の舳《みよし》に立ったのは、下帯いっぽんの人形佐七。
いま水のなかから、はいあがったばかりとみえ、白い膚からポタポタと、つめたい滴がたれている。
「やあ、おのれは人形佐七だな」
もうこれまでと思ったのか、むかでの七蔵が匕首《あいくち》抜いて、さっと突いてかかるのを、
「バカ野郎、神妙にしろい」
二、三合渡りあったかと思うと、佐七に匕首をたたき落とされたばっかりか、むかでの七蔵、いやというほど脾腹《ひばら》をけられて、がっくり舟底につんのめったのはだらしがない。
佐七はすばやくおなわをかけると、
「お小夜さん、さぞ驚きなすったろう。百人町からおまえさんのあとをつけ、堀までやってきたら怪しい舟にのるようす。そこで、こっそり水にもぐって、舳《みよし》にとりついておりましたのさ。危ないところでございました。こんなやつの口車にのっていると、なにをされるかしれたもんじゃございませんよ」
「親分さん……」
とはいったものの、お小夜はお礼をいってよいやら悪いやら、佐七がどこまできいていたかと思うと、胸もふさがる思いである。
「いや、これでお幾殺しの下手人はわかったが、さあ、これからがいよいよお俊殺しの下手人の詮議だ。おお、ちょうどさいわい、むこうから辰と豆六が舟でやってきた。お小夜さん、これからすぐに飯沼様のお屋敷へ引き揚げることにいたしましょう」
お小夜はそれを聞くと、さあーッと血の気をうしなった。
ああ、しょせん大作はのがれられぬ。
偽手紙は天香院様
――母が目にかなった三国一の花嫁
むかでの七蔵をとちゅうの自身番にあずけた佐七の一行が、お小夜を辻駕籠《つじかご》にのせ、青山の百人町は飯沼屋敷のほとりまでかえってきたのはもうかれこれ六つ半(七時)、むろん日はとっぷりと暮れはてていた。
一同が飯沼屋敷の通用門のほうへ角をまがったときである。通用門のなかから出てきたのが、丸に三つ鱗《うろこ》の家紋のはいったちょうちんぶらさげた中間に、あとにつづいた女がひとり。丸に三つ鱗は飯沼家の紋所であろう。
そのとたん、すっとんきょうな声を張りあげたのは豆六だ。
「あれッ、あら、うちのあねさんやおまへんか」
その声がむこうへとどいたのか、女は中間になにかささやき、さっとふたりでむこうの横町へすがたを消した。
「なにをいやアがる、豆六め、こんなところにうちのあねさんがまごまごしてるはずがねえじゃねえか」
「そやかて、そやかて、あらたしかにうちのあねさんだしたわ。わての声をきいて逃げだしたんが、たしかな証拠やおまへんか」
「べらぼうめ、まだあんなこといってやアがる」
佐七はぼうぜんたる気持ちで、
「辰、せっかく豆六がああいってるんだから、ちょっとあとを追ってみろ」
どうせいまさらあとを追ったところで、あいてがお粂だったとしたら、とっつかまる気遣いはあるまいと、佐七はお粂にまんまとしてやられた思いであった。
果たしてまもなく、辰がぶっくさいいながら、豆六といっしょにひっかえしてきた。
「親分、もうどこにもみえませんよ。豆六のやつ、目玉がどうかしてやアがるんです。でえいち、うちのあねさんなら、お中間のお供をつれてるはずがねえじゃありませんか」
「そやけど、あの横顔はたしかにうちのあねさんやと思たけんどなあ。それに、あの逃げ足の早いこと、なんや、けったいな話やなあ」
豆六はきつねにつままれたような顔色である。
「まあ、いい、まあ、いい、お小夜さん、お待たせいたしました。それじゃ、お送りいたしましょう」
駕籠をかえしてぼうぜんと、そこに立ちすくんでいるお小夜をふりかえると、お小夜のからだが、夜目にもしるくちりちりふるえた。それでもしかたなく佐七をしたがえ、お小夜が通用門からなかへはいると、屋敷のなかはなんとなく取り乱しているようすだった。
お小夜がかえってきたと聞くと、奥から用人がとんで出てきて、
「お小夜どの、いずくへ参っておられた。さきほどよりさんざん探しておったぞ」
といいかけてから、佐七の一行に気がついて、
「お小夜どの、そこにひかえているものどもは……?」
「はい、あの、それは……」
お小夜がおどおどしながら耳打ちすると、
「おお、それでは、さっきかえられたお内儀どのの……」
「えっ?」
と驚く辰と豆六。
佐七は佐七でお粂のやつ、いったいなにをやりゃアがったのかと、心の中でつぶやいている。
「それにしても、ご用人様、お屋敷のなかがなんとなく騒がしゅうございますが、なにかあったのでございましょうか」
「おお、それそれ、お小夜どの、ご後室さまが……ご後室さまが……」
「え? ご後室さまがどうかなされたのでございますか」
「ふむ、さきほど、にわかにたおれられて……医者のことばでは、今夜ひと晩がおむつかしいとやら、さきほどよりしきりにそなたに会いたがっておられる」
用人はそこでちょっと思案をしたのちに、
「佐七とやら、そのほうどもも、つぎの間までまいるがよかろう。なにかご用がおありかもしれぬ。お小夜どの、なにをぐずぐずしていられる。若殿もむこうでお待ちかねじゃぞ」
きくよりお小夜はびっくり仰天、はなれのご病室へかけこんだが、天香院さまははや臨終の虫の息。
そばにひかえた大作も、額に憂色が深かった。
「おお、小夜、母上がお待ちかねじゃ。はやく母上にごあいさつを……」
と、大作にうながされ、
「ご後室様、ご後室様、小夜がかえってまいりました。ことわりもなく屋敷をあけ、なんとも申しわけございません。どうぞお許し下さいませ」
「おお、小夜、もどりやったか」
天香院さまはかすかに目を見ひらくと、やせおとろえた手で小夜の手をにぎり、
「小夜」
「はい……」
「わたしはそなたに謝らねばならぬことがある。そなたの兄の京馬殿が島送りになったというのも、みんなわたしのせいだった」
「な、なんとおっしゃいます」
お小夜はふいに、顔をさかさになでられたような驚きにうたれた。
天香院さまの細い手をにぎった指がはげしくふるえた。なにかいおうとしたが、舌がこわばって口がきけなかった。
「小夜、そなたの驚きはもっともながら、矢がすりお俊を殺したのはこのわたし……」
「あれ、ご後室様、なんでまあ、そのようなことが……」
「小夜、そういってくれるのはありがたいが、これはけっしてうそではない。あの女のために大作が身を誤ろうとするのを、母として見かねました。わたしはあの女に嘆願した。どうぞ大作に手を出してくれるなと……ところが、あの女は、あざわらって取りあおうともせぬ面憎さ。としよりの気短さから、わたしはかっとして、そこにありあう木刀であの女を殴りました。あの女は、一撃のもとにたおれたのです。それがそなたの兄の木刀ともつゆしらず……」
天香院さまののどがごろごろ鳴った。それでも必死となって、
「わたしはあの女を殺しました。でも、すこしも後悔しませんでした。そなたの兄の京馬殿のことさえなかったら……おお、京馬殿が捕らえられたときいたとき、わたしはどのように苦しんだろう。幾度か自訴してでようかと思ったが、家名を思ってためらっているうちに、京馬殿はとうとう島送り……小夜、許しておくれ。わたしは悪いことをいたしました」
「あれ、もったいない、ご後室様、なにもかも兄の不運なのでございます。兄もご後室様のお身代わりになったのだとおもえば、きっと不服はないでしょう」
「ああ、もし、ご後室さま」
そのときまで神妙につぎの間にひかえていた人形佐七がなに思ったのかことばをかけた。
「それはあなた様の思いちがい、お俊を手にかけて殺したのは、ご後室さまではございませぬ」
「ええっ、なんといやる」
天香院さまはギョッとしたように、佐七のほうへ頭《こうべ》をむけた。
「そなたは……?」
「失礼のだん、ひらにお許しくださいますように。あっしはいま、ここをおいとまいたしました女の亭主で、お玉が池の佐七ともうすものでございます」
「ああ、それではあのお粂どのの……?」
あれあれあれと、辰と豆六は顔見合わせているが、佐七は委細かまわず、
「はい、そのお粂の亭主でございますが、女房が申し上げ忘れたことを、ちょっとお耳にいれたいと思いまして……」
「と、おいいやると……?」
「お俊を殺したと思いこみ、ご後室さまがお立ち去りになったとき、お俊はまだ死んではいなかったのでございます。そのあとへやってきて、おなじ木刀で殴り殺し、お俊の息の根をとめたのは、ほんとうはお幾だったのでございます」
佐七はそこでひと息いれると、
「これはもう間違いはございませぬ。このあいだあっしどもが紅梅屋敷へ駆けつけたとき、お幾はもう虫の息でございましたが、まだ死に切ってはいなかったのでございます。人の性は善とやら、お幾はいまわのきわに、そのことをあっしに打ち明けたのでございます。これはもう間違いはございませぬ。ここにいる辰や豆六も生き証人でございます」
あれあれ、親分、うまいこというぜ、打ち明けるも打ち明けないも、あのときお幾は死んでいた……と思ったものの、そこはノミといえばツチの親分子分。
「へえ、親分のおっしゃるとおりでございます。あっしもちゃんとこの耳で聞きましてございまする」
「へえ、わても生き証人のひとりだっさかい、ご後室さまもお心やすう思うておくれやす」
と、ふたりそろって神妙に申し立てたから、天香院さまは、苦しいなかからにっこり笑い、
「おお、妻が妻なら夫も夫、親分が親分なら子分も子分……大作、よう礼をいうてたも」
天香院さまはそこで、はふり落ちる涙をぬぐおうともせず、しばし泣きむせんでいられたが、そのとき佐七はひざをすすめ、
「ご後室さま、失礼ながら、あとはあっしが代わってお話ししましょう。あなた様はお俊を殺したと思いこんでいらっしゃった。それをタネに、お幾にゆすられつづけていらっしゃるうちに、しだいにそれに耐えかねてこられた。そこで、あいつの迷信ぶかいのをさいわいに、ひと芝居うって、あいつに白状させようとなさいましたね。それというのがあのお幾、もうひとつご後室さまの弱みをにぎっていた。その弱みがなんであるか、ここではひかえておきましょう」
うまいことをいっているが、そのもうひとつの弱みがなんであるか、佐七にもまだわかっていない。それを知っているのはお粂であろう。
しかし、佐七はすました顔で、あとのことばをつづけると、
「あなた様はお小夜さんがこのあっしに、万事を打ち明け、力添えをたのんだことをおしりになると、あっしの名まえでお小夜さんを紅梅屋敷へ誘い出された」
それにはお小夜も、あっとばかりにおどろいた。それでは、このあいだの偽手紙のぬしは天香院さまだったのか。
「お小夜さんのいまの年ごろは、殺されたじぶんのお俊とおなじくらい、これにお俊が好んできたという矢がすりの着物をきせ、梅ガ枝を持たせ、だしぬけにお幾のまえへつきだしたら、お幾はてっきりお俊の幽霊と思いこみ、あいつの握っているご後室さまの弱みのタネを吐きだすだろうというのが、あなた様の魂胆でございましたね」
天香院さまはくるしい息を吐きながら、それでもにっこりうなずかれた。
「ところが、どっこい、あなた様がお小夜さんよりひと足さきに紅梅屋敷へいってみると、お幾のやつは胸をえぐられ、すでに虫の息だったのでございますね。そして、お幾は虫の息のしたから、あなた様をおどしつづけた弱みのタネを吐いたのでございましょう」
おそらく、その間にお粂がなんらかの役割を果しているのであろうが、それは佐七にもまだわかっていない。
しかし、佐七の推理のまちがいのない証拠には、天香院さまも満足そうにうなずかれ、大作もほっとふかいため息をついた。
「そうだった。拙者もあの晩、母上のおあとを慕って、紅梅屋敷へまかりこした。拙者はお俊が非業の最期をとげるとまもなく、母上のおすすめで大坂へおもむいたが、三年ぶりにかえってみると、お俊殺しの下手人と目されている京馬殿の妹を、母上がひきとり、世話をしていられる。そのときからして、拙者は母上の秘密……いや、なに、さきほどの佐七どののことばによれば、真の下手人は、お幾という女であったそうなが、母上はそれをご存じなかった。そういう母上の苦しいご胸中に気がついたゆえ、あの晩も、なにか間違いがなければよいがと、母上のおあとを慕ってまいったのだが、それにしても驚きました。紅梅の木のしたに立っている小夜のすがたを、てっきりお俊の幽霊と思いこみ……」
「小夜」
そのとき、天香院さまがさいごの力をふりしぼって、お小夜のほうへ呼びかけた。
「こうして、すべてが明るみへ出たからは、そなたの兄も晴れてご赦免になることであろう。三年という長い年月を苦しめたわたしのあやまち、いや、運命のあやまちは、きっと大作がつぐなってくれるであろう。大作」
「はい、母上」
「小夜を頼みましたぞ。これは母の罪ほろぼしばかりではない。小夜は母がめがねにかなった三国一の花嫁御寮じゃ。きっと粗略にいたすまいぞ」
「母上、しょ、承知いたしました!」
「ご後室さま……」
小夜と大作が左右から、ひしと取りすがったとき、天香院さまはふかい、ふかいため息を……けなげな母のさいごの息を吐きだすと、やがてがっくりと目を閉じたのである。
にわかに春寒がつのってきて、粉雪がふんぷんとして降りしきる夜だったという。
お粂の離魂病
――悋気《りんき》は女のつつしむべきところ
しかし、この一件はこれで終わったというわけではない。
おさまらないのは辰と豆六で。
「あねさん、あねさん、ちょっとまえへ出てください」
天香院さまのおとむらいもつつがなくすみ、佐七は辰や豆六とともに、お出入り商人という格で、おとむらいの席にもつらなり、焼香もゆるされたが、さて、その翌日のことである。
評判の湯島の梅も散りそめて、江戸の春もようやく本格的になってきたのか、けさはうららかな春景色。
佐七は縁側に座布団を三枚しきならべ、のんきそうなゴロ寝の、ひなたぼっこを楽しみながら、草双紙かなんかを読んでいる。
その背後にあって、辰と豆六、朝からなにやらゴチャゴチャと、額をあつめて相談ぶっていたが、どうやらその相談も一決したのか、やがて辰があらたまった声で、そうお粂に呼びかけたものである。
「あら、まあ、辰つぁん、いやに改まって、あたしになにか用事かえ」
「へえ、用事があるからこそ、こうしてお呼び申してるんで。きょうはなんとしてでも、あねさんを吟味しなきゃならねえことがございますんで」
「あら、まあ、怖いこと。あたしゃ辰つぁんに、吟味されなきゃならないような悪いことをしているかしら」
「あねさん、そうとぼけんと、はよこっちへきとくれやす。そんなつまらん繕いもんなんか、いつでもよろしおまっしゃないか」
「あら、ごあいさつだねえ、豆さん。これ、繕いもんなんかじゃないわよ。新しく仕立ておろしているんだよ。しかも、おまえさんの着替えをさ」
「わっ、しもた! あねさん、おおけに。そないいわれたら、わて、もう、なんにもいわれへん」
「べらぼうめッ。あねさん、豆六なんか着たきりすずめでいいんですよウ。なんでもいいから、ちゃっとまえへ出てください」
「おや、まあ、いやにきついけんまくじゃないか。あいよ、まえへ出ましたよ。そして、吟味の筋とはどういうことだえ」
繕い物をかたわきへ押しやって、ひとひざふたひざまえへゆすり出たお粂は、さすがにボーッと瞼際《けんさい》に朱をそそいでいる。
「へえ、その吟味の筋というのは……」
とまでいったが、辰はあとがつづかない。
「豆六、ここはおめえに譲った。おめえとっくり吟味をしねえ」
「あ、さよか、こらつらい役回りやがしょがない。あねさん、ごめんやすや」
と、豆六はもじもじしながらも、ひとひざまえへしゃしゃり出ると、
「あねさん、仕立ておろしのご恩はご恩、吟味は吟味だっさかい、そのつもりでいておくれやすや」
「ええ、ええ、それゃもう、そうなくちゃいけないよ。御用の筋と私事をごっちゃにするのはなによりも禁物、それくらいのことは、あたしも御用聞きの女房のはしくれ、ようく心得ているつもりだから、辰つぁん、豆さん、不審のかどがあったら、なんなりとようく吟味しておくれ」
さて、こう開きなおられると、さすがに口の達者な豆六もあとがつづかない。目をシロクロさせていると、縁側から声あり。
「辰、豆六、なにをまごまごしてやアがるんだ。構うことはねえから、その雌ぎつねめ、情け容赦なくひっぱたいて、キリキリしっぽを出させてしまえ」
「あら、まあ、怖い、お閻魔様《えんまさま》のお声がかりだ。それ、辰つぁんも豆さんもしっかりおし」
これじゃどちらが吟味しているのか、されているのかわからない。
「よっしゃ。こうなったらしょがない。清水の舞台からとびおりた気でお尋ね申し上げまっけど、あねさん、あんさん、こんどの一件で、親分やわてらになにかかくしていやはることがおまっしゃろ」
「さあてね、こんどの一件てなんのことだえ。そういえば、おまえさんがた、このあいだから、なにやらコソコソやっておいでだったが、家を守るが女房の役と、あたしゃいつでも後生大事に、お役目大切を守ってきたから、こんどの一件なんていわれたところで、わかりっこないじゃないか」
「それ、そういうやつだ。辰、なにをぐずぐずしている。構わずそのあま、ひっぱたいてしまえ」
「ようし、きた。こうなったら破れかぶれだ。どこまでも吟味しなきゃなるめえよ」
と、辰は手ぬぐいをとりだして、キリキリとばかりに向こうはち巻き、いやはや、たいへんなことになったもんである。
「あねさん、それじゃおまえさんにお尋ねしますがね、おまえさん、このあいだの晩、何用あって飯沼さんのお屋敷へお出向きなすった」
「飯沼さん……? 飯沼さんてどなただえ」
「白ばっくれちゃいけませんよ。青山百人町のさあ」
「青山百人町……? 知らないねえ。あたしゃちかごろいっこうに、あの方角へ足をむけたことがないんでねえ」
「あねさん、あねさん」
そのとき豆六、またもやひざをゆすりだし、
「あんさん、なんにもそないに恥ずかしがらいでもよろしおまっしゃないか」
「あら、豆さん、あたしがなにを恥ずかしがるんだろう」
「あんた、こないだ立ち聞きしやはったやろがな」
「あたしが、なにを……?」
「いいええなあ、親分とわてら三人が、ここでヒソヒソ話をしてたんを。親分がお小夜ちゅう娘に艶書《ふみ》つけて、赤坂溜池の紅梅屋敷へ呼びだしたちゅう話をさあ」
「あら、まあ、そんなヒソヒソ話をしてたのかえ。まあ、憎らしい」
「まあ、憎らしいやおまへんがな。そこであねさん、例によってニューッと角を二本出し、まっくろ焦げにやきもちやいて、紅梅屋敷へ忍んでいきやはって……」
「豆さん、ひとぎきの悪いこといわないでおくれ。あたしみたいなおしとやかで、内気で、貞女のかがみみたいな女が、やきもち焼くなんて、あんまりバカバカしいじゃないか」
ぬけぬけと、お粂がいいもいったり、そのいけしゃあしゃあとした口ぶりに、さすがの佐七もプッと吹き出したが、辰は黙ってひっこんではいない。
「あねさん、それじゃおまえさん、いままでいちども、やきもちなんか焼いたことはねえとおっしゃるんで」
「そうよ、浮気は男の甲斐性《かいしょう》であるぞよ。悋気《りんき》は女のつつしむべきところ、疝気《せんき》は男のくるしむところと、女大学を後生大事に守ってきたこのあたし、そういう女がやきもちなんて、焼くはずがないじゃないか」
「ありゃりゃりゃ」
「そうよ、そのとおりよ、辰つぁん。ところがねえ、おまえさん、それについてあたし、ちかごろ、じぶんでじぶんが心配になってきたのよ」
「お粂、なにが心配になってきたんだ」
「あたしったら、あんまり悋気をつつしみすぎたのね。それでしぜん気がめいったかして、とうとう離魂病になったらしいの」
「り、り、離魂病やてえ……?」
「そうよ、豆さん、いつかうちの親分が、離魂病になったんじゃないかって、騒いだことがあったじゃないか」
「お粂」
佐七はむっくり縁側で起きなおると、
「おまえ、離魂病をおこしているうちに、なにか見たか、聞いたか、やったのか」
「それがねえ、おまえさん、離魂病をおこしてるさいちゅうのことだから、もうひとつハッキリしないんだけど、あたしのからだはちゃんとこの家にいるんだよ。あたしゃやきもちなんて焼く女じゃないからね」
「ふむ、ふむ、わかった、わかった。それで……」
「ところが、あたしの魂だけがからだをぬけだし、あれはどこだったかしら、なにしろ、あたりはまっくら、なにがなにやらサッパリわからないんだけど、そうそう、春の夜のやみはあやなし梅の花、色こそみえね香やはかくるるで、梅の花がプンプンにおっているのさあ」
「うへえッ、それであねさん、どないしやはりましてん」
「あたしじゃないよ。あたしの魂だよウ」
「そうそう、魂……魂……それで、その魂がどうしたんですウ、あねさん」
「その魂でフラフラ歩いていると、なにやらぐんにゃりしたものが、足にからみついてきたじゃないか」
「あねさん、魂が足もってまんのんか」
「豆六、黙ってお粂の話をきけ、お粂、それでどうした?」
「それがさあ、女がそこにたおれていて、女の手があたしの足にからみついてきたのさ。女はもう虫の息だったが、まだ死にきってはいなかったんだね。その女がさあ、しきりにじぶんの帯のあいだを指さすのさ。そこを探ってほしいというようにね。それで、あたしがいわれたとおり、帯のあいだを探ってやると……」
「帯のあいだをさぐってやると……?」
「出てきたのが印籠《いんろう》さ」
「印籠……?」
三人はハッとしたように顔見合わせた。
「それで、お粂、その印籠をどうした」
「それがさあ、女がなにやらくどくどいうのさ。それを決してひとに見せるなの、決してひとにいってはならぬのと、さんざんあたしをくどいたのちに、ひと知れず、これこれしかじかのところへとどけてほしい。なんとやらいう院号のついたおかたへ、じかに手渡してほしい。そして……そして……」
「そして……? そして……?」
「いままでのことは、どうぞ許してくださるように、こうして死ぬのも天罰だから……と、そんなことをくどくどいいのこしたあげく、がっくり息がたえてしまったのさ」
「それで、それで、あねさんはどうなすったのさあ、その印籠を……?」
「あたし? あたしゃなんにもしやあしないさ。悋気《りんき》は女のつつしむところと、あたしゃこの家で、おとなしくしていましたよ」
「そやそや、いままでいちども、やきもちなんて焼いたことのないあねさんやさかいにな。そやけど、あねさんの魂、どないしやはりましてん、その印籠を……?」
「それがね、あたしの魂、その印籠を持ってかえって、たんすの引き出しのおくかなんかにしまっておいたらしいんだね。すると……」
「すると……?」
「その印籠がしょっちゅうあたしを……じゃなかった、あたしの魂をつつくのさ。なんとか院様のところへいこう、なんとか院様のところへいこうって。そこで、三日ほどして、またあたしの魂が、フラフラッとあたしのからだをぬけ出して……」
「その印籠を、天……いやさ、なんとか院さまのところへおとどけしにいったのか」
「そうらしいのさ。なんしろ、魂のすることだから、あたしにもよく覚えがないんだよ。なんというお屋敷の、なんという院号のおかただったかね。でも、たいそうお上品な、切り髪のご後室さまだったわね。それがお気の毒に、その印籠のことを苦にやまれて、重い病に伏せっておいでのようだったわね」
「はてな。その印籠に、なにか目印でもついていたのかな」
「だって、りっぱな金蒔絵《きんまきえ》の、御定紋がはいっているんだもの」
「丸に三つ鱗《うろこ》か」
丸に三つ鱗は飯沼家の紋所である。
「それならまだいいんだけどねえ」
「はてな」
と、佐七はまゆをひそめて、
「丸に三つ鱗でねえとすると、どういう紋所だ」
お粂はなやましげな目をして、子細らしくあたりを見まわすと、
「こんなこと、だれにもいわないでおくれ。どうせ離魂病の女のいうことだもの、当てにゃならないさ。辰つぁんも豆さんも、きっとだよ。あたしゃ世間の物笑いの種にされるのはいやだからね。それがねえ、おまえさん」
「ふむ、ふむ、お粂、どんな紋所さあ」
「丸に三つ葉葵《ばあおい》の金蒔絵……」
とたんに、三人サーッと血の気をうしなうと、総毛立ったような顔を見合わせた。
丸に三つ葉葵は、いうまでもなく将軍家の紋所。とたんに、佐七は目のなかのほこりが、すっかり取れたような気持ちだった。
それが天香院さまの弱みだったのだ。
思うに、その印籠は、大作が将軍家若君におそば仕えしていたころ、若君様から拝領した品かなんかだろう。それを矢がすりお俊の色香に迷っているじぶん、女に巻き上げられたものにちがいない。
将軍家若君から拝領の品を、怪しげな遊び女に取りあげられたとわかっては、飯沼家の一大事である。
天香院さまはそれを取りもどしにおもむいて、もののはずみで、お俊を手にかけてしまったのだろう。しかし、肝心の品をとりもどすことはできなかった。
印籠はお幾の手にうつって、こんどはお幾が脅迫者の役割をはたしていたのだろう。おそらくあの晩、お幾はその印籠を法外な価で天香院さまに売りつけるつもりだったのだろうが、じぶんの情夫の手にかかるに及んで、罪の恐ろしさをさとったのであろう。
長いこと四人四様の思いにふけっていたが、やがて佐七がニッコリ笑うと、
「お粂、ちょっとこっちへきねえ」
「あいよ、おまえさん」
いそいそと縁側へでて、ぴったり寄り添うお粂の肩を抱きよせて、
「お粂、離魂病というものはな、思いがうちにこもりにこもると、ついフラフラと起こるもんだそうな。おまえはもうそれをすっかり吐いてしまったから、おまえの難病もなおるだろう」
「ほんとにそうならうれしいねえ」
「そのかわり、おまえの魂が見たこと、きいたこと、やったこと、みんなすっかり忘れてしまえ」
「あいよ、おまえさん」
「辰、豆六、おめえたちもだぞ」
「親分、あっしゃきょうのこの陽気で、さっきからこっくりこっくり、舟をこいでおりましたから、あねさんがなにをおっしゃったやら、サッパリきいておりませんでしたよ。豆六、てめえはどうだ」
「わてはまたこの陽気で、朝からガンガン耳鳴りがしよって、兄いとチョボチョボ。なんにもきいとらしまへん。ごめんやすや」
「うっふっふ、みんなうれしいことをいうじゃねえか」
「ほんにあたしゃ仕合わせもんだよ」
ぴったり寄り添うお粂佐七のご両人。日はうららかに、どこやらでうぐいすの声がしきりである。
彫物師《ほりものし》の娘
浮世床うわさの種まき
――いよいよ真打ちのお出ましだぜ
式亭《しきてい》三馬の『浮世床』をみると、町内の暇人たちが髪結い床におおぜいあつまって、表をとおる新造や娘の品定めやなんかやるところを、おもしろおかしく書いてあることは、みなさんせんこく御承知だろう。
なるほど、娯楽施設や、社交機関のすくなかった江戸時代では、髪結い床などが、さしずめ、いちばん安直にして、かつ、気のおけない社交場だったにちがいない。
当時は、女はめいめいてんでに、じぶんで髪を結った。だから、髪結い床はもっぱら野郎専門、女人禁制の聖地みたいなもんだから、日ごろ、かかあのしりにしかれているようないくじのない野郎でも、ここへくると矢でも鉄砲でも持ってこいとばかりに、大きな口がきけるというもの。
いい気になって、さんざん女房のたな卸しをやってのけ、亭主関白風をふかせて大いに溜飲《りゅういん》をさげたところまではよかったが、ここに卑劣なる裏切り者ありて、そのことが筒抜けに、かみさんにきこえたから、さあたいへん。
あわれ、三日三晩、飯もくわせてもらえなかったのは、まだなんとか、てんや物でまにあわせるとしても、夜、臥床《ふしど》をともにしても、くるりとおしりをむけられて、哀訴嘆願もついにおよばず、わかい身空のこととて、そのひもじさ身魂に徹し、いまさらのように山の神の御威光に恐れいったというような、だらしないのもあったそうである。
さて、ここは神田鎌倉河岸のほとり、表の腰高障子に、伊勢海老が威勢よくはねているところを大きく描いてあるところから、ひとよんで海老床《えびどこ》というのは、亭主の清七というのがめっぽう愛想がいいところから、いつのぞいてみても、暇もてあました近所の衆が三人や五人、とぐろをまいていないことはないという、野郎どものいいたまり場になっている。
きょうもきょうとて、町内の熊さん八つぁんはいうにおよばず、横町のご隠居まであいあつまり、飛鳥山《あすかやま》の桜が咲いたそうなが、向島《むこうじま》はまだはやいらしいと、いうようなところまではよかったが、そういえば、吉原《よしわら》は仲の町の夜桜がみごとだそうな、そのうちみんなで押しかけようじゃないか、ということになってくるから、世の山の神連中たるもの、おさおさ油断がならぬというものである。
こうして、ひとしきり、わやわや、がやがやと、よからぬ相談に悦にいっていたが、やがて、一同|憮然《ぶぜん》たるかおを見合わせたというのは、ないそでは振れぬ!
なあに、ないそでが振れぬことぐらいははじめからわかっている。あるそでが振れるくらいなら、だれが髪結い床などにとぐろを巻いているものか。
さすがに一同、ちょっとシュンとしたが、そこはのんきな熊さん八つぁんのこと、すぐに話題をてんじると、れいによってれいのごとく、表をとおる娘、新造のしなさだめ。
「や、きたぜ、きたぜ。おい、みんな、ちょっとみや。むこうから魚十の娘のお福がやってきたぜ」
「ああ、お福だ、お福だ。しかし、熊さん、そのお福がどうかしたかえ」
「あれ、あんなこといってるよ。それじゃ八つぁんはしらねえのか」
「しらねえのかとは、なんのこった」
「ほら、去年の秋にお福のところへ、河岸から養子がきたってことさ」
「べらぼうめ。それくれえのこと、しらねえでどうするもんか。いいじゃねえか、お福ももう年ごろ、それにひとり娘ときている。ご面相はあんまりゾッとしねえが、たで食う虫もすきずきといわあ。養子がきたってふしぎはあるめえ」
「あれ、あんなこといってるぜ。だから、てめえの目は節穴同然だといわれるんだ」
「なによ、この野郎。なんでおれの目が節穴だ。あんまりひとを白痴《こけ》にしやアがると、たとえあいてが熊公でも承知しねえぞ」
「なによ、この野郎!」
いやはや、たいへんなことになったもので、売りことばに買いことばとは、このことだろう、あわやつかみあいのけんかにならんずけんまくだったが、そこへ割ってはいったのが、あいきょうものでとおっている亭主の清七《せいしち》。
客人の髪を結いながら、
「これさ、これさ、どうしたものさ。日ごろ仲よしのおまえさんがたが腕まくりなどして、みっともねえ。それに、熊さんもことばが過ぎるよ。なぜ、八つぁんの目が節穴だえ」
「あれ、親方まであんなこといってるぜ」
「あんなこととは……?」
「ちょっとお福のおなかを見てみろよ。あれゃもう、そろそろ五月《いつつき》だぜ」
いわれて一同、あっとばかりに目をみはった。
「お、なアるほど。大きい、大きい、たしかに大きい。三月四月はそででもかくすというが、あの大きさじゃ、たしかに五月だ」
「だろう。あの養子がきたなあ、去年の秋の十月のこった。とすると、夫婦《めおと》になって五月たつやたたずにあのおなか……」
「チキショウ、養子め、はええことやりやがった。くそいまいましい」
ひとの疝気《せんき》を頭痛にやむとはこのことか、八つぁん、妙なところでくやしがっている。
「ウップ、あれみねえ。団子っ鼻をまっ白にぬたくってよ。だれにみしょとて紅《べに》かねつけよか。あれで、鼻筋がとおってみえると思っているんだからかわいいよ」
「いや、お福さん、いつみても福々しいな。ふっくらとおふとりあそばして、さぞや養子も抱きがいがあるだろう。あの、まあ、おしりのみごとなこと」
「おしりもみごとだが、あれで腹がせりだしてきてみねえ。まるでふぐだアね」
口に税はかからぬというが、ほかの客までひざのりだして、てんでかってなたな卸し。これじゃ女たるもの、うっかり髪結い床のまえは通れない。
八つぁんもいまやすっかりきげんがなおったのはよかったが、調子にのって身を乗りだし、
「なるほど、魚屋の娘だけあって、そのお名もおフグとおいでなすったか。ひとつ、からかってやろうじゃねえか。やアい。おフグやあい」
と、どなろうとするそばから、あわてて口をふさいだのが熊さんで、
「おい、よせよ、よせよ。養子というのが河岸からきたおっそろしく鉄火な男だというぜ。うっかりからかうと、向こうはち巻きで、あとからどんなしりをもちこまれるかしれたもんじゃアねえぜ」
「おっと、そいつはおっかない」
こうして、わいわいいってるところへ、かたわらより声あり、
「えへん、諸君、あれを見たまえ。いよいよ、真打ちのお出ましだぜ」
さても、真打ちとはなにごとならんか……なアんて気取るほどのことでもないが、かくて海老床の周辺は、ますます喧噪《けんそう》の度をくわえていくのである。
ふたりお信乃《しの》
――まことに珍妙な一件であアる
「なんだ、なんだ、源さん、真打ちたアなんのこった」
「あれ、八つぁん、おまえさん、あれをしらねえのか。むこうからくるふたりづれ、あれがおまえさん、いま評判のたかい伊丹屋《いたみや》のふたりお信乃《しの》だ」
「お、なアるほど、あのふたりがそうか」
八つぁんが身を乗りだしてうなれば、熊さんもそばから相づちうって、
「そうそう、そういやアうわさにゃきいていたが、お目にかかるのはいまはじめてだ。こう見たところが、いずれがあやめかきつばた……」
「そろいもそろってべっぴんだが、あれで、どちらかひとりは偽物なんだってね」
「そうよ、だから、ちかごろ伊丹屋じゃ、だんなも隠居も頭痛はち巻きさあね」
源さんいよいよ得意になり、
「なにせ、真偽のみわけがつかねえうちは、どっちをたたき出すわけにもいかねえからな」
「それゃアそうだ。たたき出したほうが本物だったひにゃ、目も当てられねえからな」
「さあ、そこだよ、熊さん。だから、みすみすひとりは偽物とわかっていながら、わけへだてのねえようにと、衣装、持ちもの、髪飾りまで、おそろいにしておくというわけさ」
「そいつは伊丹屋もとんだものいりだアな」
「それゃア、伊丹屋ほどの身上だから、それくらいのものいりはへっちゃらだろうが、いつまでたってもらちのあかねえのには弱っているとさあ」
「しかし、世のなかもおっかなくなったもんだな。あんなきれいな顔をしていて、ひとりは女天一坊たア、これまったく澆季《ぎょうき》の世だアな」
「ちっ、お株をいってやアがる」
などと、源さんを中心に、八つぁん、熊さんその他大勢ががやがや騒いでいるのを、さっきからそれとはなしに利き耳立てているふたりづれ。
このふたりづれとはそも何物ぞ……。
なアんて、ひらきなおるほどの人物じゃないが、これぞみなさま先刻ご承知の、神田お玉が池は佐七の身内、きんちゃくの辰と、うらなりの豆六であることは、いまさら、ここで申し上げるまでもござるまい。
辰と豆六は中仕切りのおくで、しんねりむっつりヘボ将棋によねんがなかったが、わいわい騒ぐ連中の声が耳にはいると、
「おい、ちょっと、源さんや、さっきからきいていると、なにやらおもしろそうな話じゃないか」
「そして、そのふたりの娘はん、伊丹屋はんの娘はんちゅうのんは、どこにいやはりまんねん」
ヘボ将棋もどうやら一段落ついたかして、中仕切りのおくから立ってくるふたりの顔をみて、
「おや、これはお玉が池の兄さんたち。おまえさんたちもそこにおいでなすったのか」
と、ふりかえった源さんというのは、このかいわいきっての金棒引き。つまり、いまのことばでいえば、さしずめ放送局みたいな男である。
なにせ、この男に聞けば、どこそこのかかあは、ことしもまた中条流のおせわになって、腹の子を水にしたらしいの、どこそこの嫁は、あんまりわきががひどいので、ちかく離縁になるらしいのと、神祗釈教《しんぎしゃくきょう》恋離別、すべてこれ、たなごころをさすがごとしという人物。
現代にいきて、三文週刊誌の記者でもやらせておけば、しょっちゅう特種賞にありつくこと疑いなしだが、そのかわり、名誉|毀損《きそん》でうったえられることもまた頻々《ひんぴん》という、まことにけんのん千万なおしゃべり男の子。
「べらぼうめ、からすの鳴かぬ日はあれど、この辰つぁんと豆さんが、海老床に錨《いかり》をおろさねえ日はねえと思いねえ」
「さよさよ。わてらのすがたがここに見えん日は、脛《すね》に傷もつ連中は戦々恐々やと思といておくれやすや」
「そうすると、きょうあたりは、天下の大悪人も、まくらをたかくして寝てるってわけかえ」
と、そばからだれかが混ぜっかえせば、
「まあ、そう思っていてまちがいはあるめえ。いや、しかし、冗談はさておいて、いまの話の娘というのは……」
辰は外をのぞいてみて、
「ああ、むこうからやってくるあのふたりづれがそうか」
と、目をとめたのはふたりの娘である。
どっちもとしは十九か二十、いっぽうは面長、いっぽうは丸ぽちゃと、おもむきこそちがっているが、どっちがどっちともいえない器量。
それが帯から着物から、頭の髪飾りから、履物にいたるまで、すんぶんちがわぬなりかたちときているのだから、これじゃ、道行くひとびとが、いちいち目をとめてみるのもむりはない。
ところで、この二人娘。
双生児のように、そろいの衣装をきているのだから、さぞ仲がよろしかろうと思いのほか、これがおおきに見当ちがい、ふたりならんで歩きながらも、おりおり顔を見合わせては、下くちびるをつき出して、ピ、ピ、ピイ。いや、いい娘のやることじゃない。
さて、その娘たちのあとからもうひとり、かわいい娘がついてくる。
これはとしごろ十四か五、まだ肩揚げもとれぬ小娘だが、髪をおたばこ盆に結っているのがあどけなく、おっとりして上品な娘だ。
さて、衆人環視のうちに、三人の娘は、海老床のまえまでさしかかったが、そのとき、どういうわけか面長娘が、石かなんかにつまずいてよろける拍子に、丸ぽちゃ娘にぶつかったからたまらない。
「あれ、なにをおしだえ、けがらわしい」
と、吐きだすような丸ぽちゃのことばに、面長娘はきりりと柳眉《りゅうび》をさかだてた。
「あれ、なんですって? けがらわしいとは何事です。あたしがなんでけがらわしい」
「けがらわしいもいいところじゃありませんか。どこの馬の骨とも、牛の骨ともわからぬぶんざいで、伊丹屋の孫娘がきいてあきれる。大かたりの大ぬすっととは、おまえさんのことだからおぼえておいでよ」
「あれ、まあ、くやしい。大かたりの、大ぬすっととは、おまえさんこそそうじゃないか。伊丹屋の孫娘、お信乃《しの》というのはこのあたしだよ。亡くなったあたしのおとっつぁんが、丹精こめてほってくだすった彫り物がなにより証拠。おまえさんこそ、化けそこなった雌ぎつねだよ。雌ぎつねめ、とっとと消えておなくなり」
「なにをいってるのさ。その彫り勝《かつ》はあたしの父さん、あたしの背中の彫り物こそ、名人彫り勝のかたみなんだよ。ええ、もう、けがらわしい、この大かたりの大ぬすっとめ」
と、いい娘が往来なかでつかみあいをはじめんばかりのけんまくに、さすがにむらがる野次馬連中も、あいた口がふさがらない。
そのとき、うしろにひかえていた小娘が、あさましそうに涙ぐんで、
「あれ、まあ、姉さん」
と、ふたりのあいだに割ってはいった。
「いったい、これはなにごとです。たかがよろけてぶつかったぐらいのことで、あまりといえばあまりのいさかい、さあさあ、きげんをなおして、仲よくあたしといっしょに、かえってください」
「おや、まあ、ほんとにあたしとしたことが……お浜ちゃん、堪忍しておくれ。あたしは胸をさすっている気だのに、この大かたりめが……」
「お浜ちゃん、そんな雌ぎつねのいうことを、ほんとにするんじゃありませんよ。ほんとのお信乃はこのわたし、さあさ、このお信乃と手をひいて……」
「いいえ、お浜ちゃん、お信乃というのはこのあたしだよ。さあ、手をひいてあげましょう」
「いいえ、あたしが……」
「いいえ、あたしが……」
「あれ、また、姉さんとしたことが。それじゃふたりで両方から、あたしの手をひいてください。さあ、少しも早うかえりましょう」
と、おたばこ盆を中心に、三人手をひいていくすがたを見送って、わいわい騒ぐ野次馬とはべつに、辰と豆六は、あっけにとられた顔を見合わせた。
「おい、兄い、あれゃアいったいなんのざまだ。いまききゃア、ふたりとも背中の彫り物がどうしたとかこうしたとかいっていたが……」
「あんな殊勝な顔をしていて、あいつら背中に入れ墨をしてまんのんか」
ときかれて、金棒引きの源さんは、ここぞとばかりにひざを乗りだした。
「まぁ、兄いたち、きいてください。これにはふかい子細があるんです」
と、もっともらしく語りだした話をきけば、これ、まことに珍妙な一件だった。
芳流閣|信乃《しの》の血戦
――あらわれいでたる二人お信乃
話はいまから二十五年の昔にさかのぼる。
鎌倉河岸でも名だかい老舗《しにせ》、伊丹屋|市兵衛《いちべえ》には子どもがふたりあって、姉をお房、弟を徳兵衛といったが、当時姉は十八、弟の徳兵衛は十一だった。
ところで、姉のお房は、かいわいでも評判の器量よしだったが、箱入り娘に虫がつきやすく、いつのまにやら男ができていた。
しかも、その男というのが、ひとの膚に墨を入れるをなりわいとする彫り物師だというのだから、おやじの市兵衛がおどろいたのもむりはない。
彫り物師といえば、いずれ火消し人足や、駕籠かきなどの膚に、彫り物をするのがしょうばい。かたぎのあきうどの婿《むこ》としては、これほどふつりあいなものはない。
そこで、親の市兵衛は泣いてお房をいさめた。かきくどいた。
しかし、恋にくるった年ごろの娘が、なんで親のいさめなどきこう。
ある日、とうとう家をぬけだし、男と手に手をとって、駆け落ちしてしまったのである。
これがいまから二十五年まえの話で、男の名は勝五郎、俗に彫り勝とよばれ、そのじぶん、二十四か五の、苦みばしったいい若者だったが、彫り物にかけては、日本一とうたわれていたという。
さて、親もとを駆け落ちしたお房勝五郎、お江戸ばかりに日は照らぬと、旅へでて、あちらに三年、こちらに五年とくらしているうちに、つぎつぎと男子が三人うまれたが、いずれも育たずに死んでしまった。
そして、さいごにできた女の子、お信乃だけがぶじにそだって、十四のとしに、母のお房は旅の空で、あわれはかなくみまかった。
それが、いまから六年まえのことである。
さて、恋女房に死なれてみると、彫り勝もきゅうに旅の空が身にしみた。故郷忘れがたしというやつである。
そこで、お信乃をひきつれて、江戸へまいもどってきたのがその翌年。すなわち、いまから五年まえ。
お信乃が十五の春だったが、故郷へかえって、気のゆるみでもでたのか、それからまもなく、彫り勝はどっとわずらいついたらしい。
そして、命旦夕《めいたんせき》にせまるというところになって、はじめて、伊丹屋へ手紙を書いたのである。
そのじぶん、市兵衛は、お店をむすこの徳兵衛にゆずって、じぶんは気散じな、隠居の身分をたのしんでいたが、忘れようとしても忘れることができないのは、娘お房のことである。
不幸な子ほどかわいいたとえで、どうかすると、老いのくりごとにでることが多かったが、そこへきたのが彫り勝の手紙である。
それによると、お房が去年みまかったこと。じぶんも命旦夕にせまっているが、気にかかるのは、お房とのあいだにできたお信乃のこと。どうかそちらで引き取って、養育してはくれまいかというのである。
それをよんで、市兵衛は、孫かわいさに、とびたつ思いであったが、やれ待てしばしと思いなおした。
氏《うじ》より育ちということがある。
うまれ落ちてから、旅から旅へと、さすらいあるいた孫娘である。
どのような人間になったかと思えば心もとなく、うっかりひとにも語られぬ。
ここはいちどじぶんの目で、よくにんていを見さだめたうえでのことと、だれにもはなさず市兵衛は、こっそり孫を見にいったが、そこでかれは、肝をつぶすようなものを見たのである。
そのころ、彫り勝は、今戸《いまど》の河岸《かし》っぷちに住んでいたが、そのあばら家のうらっかわ、やぶれたかきねからなかをのぞいた市兵衛の目にうつったのは、もろ膚ぬぎで、せんたくをしている小娘のすがたであった。
暑い夏のさかりのことだから、もろ膚ぬぎはまだよいとして、おどろいたのはその背中いちめん、みごとに彫られた彫り物である。
それはどうやら当時の評判小説、『八犬伝』の一場面、芳流閣の屋上は、犬塚信乃《いぬづかしの》と犬飼《いぬかい》現八の血戦の場の、信乃の絵らしかったから、これを見てものがたい市兵衛が、きもをつぶしたのもむりはない。
曲亭《きょくてい》主人馬琴先生が、『南総里見八犬伝』の稿を起こしたのは文化十一年だから、佐七が『羽子板娘』〔巻三所収〕の一件で、パッと世間に売り出した文化十二年のまえの年に当っている。
この『八犬伝』が当たりに当って、馬琴はついに、読み本界の第一人者にまつりあげられたのだが、それだけに、馬琴がこの大作についやした労苦はたいへんなもので、文化十一年に稿を起こし、天保十二年、全九十八巻、百六冊をもって完結するまで、じつに二十八年の長きにわたっている。
文化と天保のあいだには、文政がはさまっている。
『八犬伝』のなかでも、随一の名場面といわれる芳流閣は信乃と現八の血闘の場は、文政二年に発行された第三集に収められている。
これがやんややんやと、江湖の拍手喝采にむかえられること、あたかも現今においても『金色夜叉』の熱海《あたみ》の海岸の場が、いろんなかたちで、再現されるがごとくである。
ことに、この場は絵になる場面だから、彫り物師たちにとっては、かっこうの題材だったにちがいない。
ものがたい市兵衛は、草双紙などにはいたってうといほうだが、それでもふろ屋の流し場などで、信乃と現八の二人立ちや、あるいは芳流閣のいらかのうえで、もろ膚ぬいだ犬塚信乃が、刀を振りあげた一人立ちの場面を色鮮やかに背中に背負った若い衆をたびたび見かけたことがあるから、この場にかんするかぎり、市兵衛も『八犬伝』にたいする知識をもっていた。
市兵衛が孫娘の背中に、犬塚信乃の一人立ちの彫り物をかいま見たのは文政三年の秋のこと。
なるほど、お信乃の名にちなんで、彫り勝がこういう入れ墨を彫っておいたのかしらないが、これが男の子であればまだしものこと、女の子ときているから、ものがたい市兵衛が肝をつぶしてびっくり仰天したのもむりではなかった。
しかし、みればみるほど、その小娘は、娘のお房に生き写しだから、その子こそ孫のお信乃にちがいないとおもったものの、まえにもいったとおり、これが男の子ならばまだしものこと、背中に彫り物のあるような娘を、どうして、かたぎの家にひきとれようか……。
市兵衛はおもいなやんだ。
孫かわいさに心はとびたつ思いであった。
しかし、世間の思惑、息子や嫁にたいする義理をおもうと、やれ、待てしばしと、はやる心をおさえずにはいられなかった。
市兵衛は、あふるる涙をおさえかねながらも、心を鬼にして、そのまま、会わずにかえってしまった。
立ち去りがたきを立ち去った。
うしろ髪をひかれる思いであった。
悲しみのために、はらわたも、心も、千々に引きちぎられんばかりであった。
そののち、風の便りにきくところによると、あれからまもなく、彫り勝はこの世を去って、娘のお信乃は、ゆくえがしれなくなったという。
それがいまから五年まえ、かぞえてみれば、お信乃が十五のとしのことである。
さて、それからさらに星うつり、月かわり、夢のごとく五年の歳月がながれたが、老いの身の市兵衛、悲嘆に身をやぶったのか、ちかごろ視力をうしなった。目がみえなくなってしまったのである。
そして、とかくひと間にとじこもるようになったが、そうなってくると、いまさらのごとく思い出されるのは、五年まえにかいまみた、あの孫娘のかわいさ、ふびんさである。
いかに彫り物があるとはいえ、げんざいのわが孫を見捨ててきた鬼のようなおのれの所業が、あまりにも情けなく、そらおそろしく、かつはまた日増しに孫かわいさが身にせまり、さんざん思い悩んだすえに、とうとう、そのことを、せがれの徳兵衛にうちあけた。
これをきいて、おどろいたのは徳兵衛と、その女房である。
徳兵衛にはお里という女房とのあいだに、お浜ということし十六になる娘があるが、そのお浜がなに不自由なく育ってきたにつけても、姪《めい》のお信乃がふびんやと、女房の里にそのことを話すと、お里というのが、これまたきだてのよい女で、そんなことなら一日もはやく、お信乃さんをさがしだして引き取ってください。彫り物があろうがなかろうが、義姉《ねえ》さんのわすれがたみとあれば、伊丹屋の姪、よい婿とって、のれんをわけてあげてくださいと、まことによくわかった話に、徳兵衛もいさみたって、親戚じゅうにもわけを話して、手わけをして、お信乃のゆくえをさがすことになったが……。
「それが、いまから半年ほどまえのことなんです」
と、金棒引きの源さんはことばをついで、
「ところがどうでしょう。ひと月ほどまえに、とうとうお信乃が見つかった。さいしょにそれを見つけてきたのが、伊丹屋の親戚筋にあたる宝屋万兵衛というひとなんですが、これこそお信乃にまちがいないと、太鼓判をおして、ひとりの娘をつれてきたかとおもうと、それから五日とたたぬうちに、こんどは槌屋《つちや》千右衛門といって、これまた伊丹屋の親戚が、いや、そのお信乃は偽物じゃ、これこそ本物のお信乃でござると、またぞろ、娘をつれてきたじゃありませんか」
源さんの話に、辰と豆六は目をまるくして、
「ほほう、なるほど。それで、お信乃がふたり出現したというわけか」
「そうです、そうです。さきにきたのが面長お信乃、あとからあらわれ出でたるが丸ぽちゃお信乃。しかも、証拠の彫り物しらべをやったところが、どっちも背中に、八犬伝、芳流閣は犬塚信乃の血戦が彫ってあるんですが、なんと、おどろいたことにゃア、図柄といい、色合いといい、敷き写しにしたようにおなじなんです。だから、どっちが偽やらほんものやら見きわめかねて、伊丹屋じゃちかごろ大難渋というわけです」
と、とくいになってまくし立てる源さんの話をききながら、辰と豆六がさっきから、目ひき、そでひき、それとなく注意をはらっているのは、上がりがまちに腰をおろして、さりげなくタバコをすいながら、こちらの話へいっしんに利き耳を立てているひとりの若者。
としのころは二十歳前後か。色白のいい男っぷりだが、辰と豆六がそのほうへ目をやるたびに、そっと顔をそむけるそぶりが気にくわぬ。
若者は、もっと源さんの話を聞きたかったらしいのだが、あまりジロジロふたりが見るので、しりこそばゆくなったのか、スポンとキセルを筒におさめると、だれにともなくあいさつをして、逃げるようにでていった。
辰はうしろすがたを見送って、
「おい、いま出ていった若い衆な、あいつはこのへんのものかえ」
「あれですか。なに、あれア小名木《おなぎ》川の舟宿、川長の船頭で、篠太郎《しのたろう》というんです」
「小名木川……? 小名木川といやア深川だが、そこの舟宿のものが、どうしてわざわざ、こんなとおいところまで、髪を結いにくるんだ」
「いえ、それが、川長というのはむかしから、伊丹屋の隠居というのがだいのつり好きで、それで、ひいきにしていた舟宿で、あいつもかわいがられていたもんですから、ちょくちょく見舞いにくるついでに、この店へよるんですが、そういやア、ちかごろ、月代《さかやき》ものびないのに、毎日のようにやってくるようですね」
源さんの話に、辰と豆六は、なんとなく不審そうに顔を見合わせていた。
彫り若の行方
――床の下から白骨死体が
「……と、そういうわけで、海老床で源さんの話をきくと、あっしは豆六といっしょに、今戸までいって、彫り勝のことをしらべてきたんですが、源さんの話にゃア、だいたいまちがいはねえようで」
「なるほど、すると、親戚のうちの宝屋万兵衛か、槌屋千右衛門のどちらかが、偽物をつれてきた、ということになるんだな」
「さよさよ。それで、どっちが偽物か、みわけがつけば文句はおまへんけど、それがそうはいかんところに、この一件のややこしさがおまんねん」
あれからまもなくのことである。
鎌倉河岸の海老床をとびだした辰と豆六は、念のために、今戸河岸の、かつて彫り勝の住んでいた家の近所をしらべたうえ、お玉が池へかえってきたのである。
佐七はふたりの話をきくと、まゆをひそめて、
「しかし、辰、豆六、伊丹屋の隠居は五年まえに、いちどお信乃を見てるんだろ。それじゃなんとかみわけがつきそうなもんじゃないか」
「親分、それがあきまへんねん。伊丹屋の隠居、ちかごろ目が見えんようになってしもてまんねん」
「あ、なアるほど。そいつはおあつらえむきだ。うまく考えやアがったな」
佐七はしばらく考えていたが、
「それでなにかえ。彫り勝の娘のお信乃に、八犬伝は芳流閣、犬塚信乃の彫り物があったことは、まちがいのねえところだろうな」
「へえ、それはもう、まちがいございません。さっき今戸へいって調べてきたんです。なんしろ、五年まえの話だから、どうかと思ったんですが、近所のものは、よくおぼえてましたよ。お信乃さんの背中にゃ、たしかに、芳流閣の彫り物があったといってるんです。なんでもおやじの彫り勝が、余命いくばくもねえとさとったとき、一世一代の腕をふるって、娘の背中に、彫りのこしたもんだそうです」
「それじゃ、五年まえのお信乃をおぼえているやつが、今戸に生きているわけだな。そいつらに首実験をさせてもわからねえのか」
「さあ、それです。伊丹屋でもぬかりなく、彫り勝の住んでいたうちの近所のものをぜんぶあつめて首実験をさせたんだそうですが、あるものは、面長お信乃がそうだというし、またあるものは、丸ぽちゃこそお信乃にちがいねえというんだそうです。いずれは、宝屋万兵衛や槌屋千右衛門の鼻薬がきいてるんだと思いますが、けっきょく、これで、てんやわんや、またしても、どっちがどっちともわからなくなっちまったんだそうで」
佐七はまた、なにやらじっと考えこんでいたが、ふと思い出したように、
「ふたりお信乃の彫り物は、敷き写しにしたように、すっかりおなじにできているというんだな」
「へえ、そうなんです。だから、いっそう、わけがわからねえんで」
「ときに、辰、豆六」
「へえ、へえ、親分、なんだす」
「彫り勝が死んだときだが、いったい、だれがお弔いを出したんだ」
「へえ、彫り勝のお弔いですか。さあ、そこまではきいてきませんでしたが……」
「バカ野郎。それだから、てめえたちは抜けてるというんだ。せっかく、今戸まで出向きながら、かんじんのことを聞き落としてくるたア、これがまったく、仏つくって魂入れずよ。もっと身にしみて、御用を勤めなきゃアいけねえ。と、まあ、いまんなってしかってみたところではじまらねえ。よし、それじゃ出掛けよう」
「え? 出掛けるといって、どちらへ?」
「しれたことよ。今戸へいって、だれが彫り勝のあと弔いをしたか、それを調べてこようというのよ」
「親分、そんならあんた、この一件がなにかものになると思てはるのんかいな」
「そうよ。どっちにしても、ちょっと気になる。お粂、支度をしてくれ」
岡っ引きは、これでなくては勤まらない。思いたったら、待てしばしはないのである。
佐七はすぐに、辰と豆六をひきつれて、今戸河岸まで出向いていったが、春の日は、長いようでみじかくて、もうそのころには河岸っぷちには、そろそろ暮色がはいよって、千鳥が寒そうに餌《えさ》をあさっていた。
佐七は二、三軒あたったすえに、そのことなら、大家の治兵衛さんがしっているだろうという話に、その家をたずねてみると、
「ああ、あの彫り勝のお弔いを出した男ですか。それならばよくおぼえていますよ。あれはなんでも彫り勝のむかしの弟分だとかいう男で、おなじ彫り物師仲間の若之助、一名彫り若という男でした」
大家の治兵衛はよくおぼえていた。
「それじゃ、そいつが彫り勝のあとしまついっさいをしていったんですね」
「へえ、へえ、さようで」
「それで、なんですか。彫り勝の持ちものなんぞは、どうしたんです」
「それもいっさいがっさい、彫り若が持って、お信乃さんをつれていきましたよ。なに、持ちものたって、彫り物道具に図柄の下絵、それくらいのものでしたがね」
図柄の下絵……ときいて、辰と豆六はおもわずハッと顔見合わせた。どうやら、佐七の心中がわかったらしいのである。彫り若の持っていった下絵のなかには、芳流閣、信乃の血戦もあったにちがいない。
「いや、よくわかりました。ときに、彫り若の住まいだが、おまえさん、ご存じじゃありませんか」
「そうですねえ。ああ、そうそう、ここを引きはらっていくとき、用事があったらここへきてくれと、所書きをおいていったが、しかし、もうかれこれ五年もまえの話ですからねえ」
それでも、手文庫のなかをさぐっていたが、
「ありました。ありました。浅草田町の二丁目、源兵衛長屋というんです。しかし、まだここに住んでおりますかどうか……」
「いや、どうもいろいろありがとう。たいへんお手間をとらせました」
治兵衛の家をでると、
「親分、これから田町へまわってみますか」
「うむ、ついでのことだ、まわってみよう。なに、引っ越していれば、またそのときのことよ」
と、今戸から田町へまわったじぶんには、あたりはすっかり暗くなっていた。
そうでなくても、道幅のせまい、ゴミゴミとしたそのへんの町は、春といってもまだ膚寒く、おりから吹き出したつむじっ風をおそれて、どの家も戸をしめているので、こんなときに、夜も更けた暗がりに、はじめての家をさがすのは不便である。
それでもやっと、源兵衛長屋というのをさがしあてて、そのほうへ曲がろうとすると、むこうからやってきた男が、いきなりどんと辰の胸にぶつかった。
「やい、気をつけろ」
「すみません。つい、急いでいるものですから……」
そこはちょうど、そば屋のまえだった。
おもてにかかっている行灯《あんどん》の灯で、いきすぎようとする男の顔をなにげなくふりかえって見た辰は、ギョッとしたように目をみはった。
「おや、おめえは小名木川の舟宿、川長の船頭、篠太郎《しのたろう》じゃねえか」
そう声をかけられて、あいてもハッと辰の顔を見なおしたが、
「あ、おまえさんはきょう、海老床にいた……」
それだけいうと、篠太郎はひらりと身をひるがえして、暗やみのなかをいちもくさん、あと白浪《しらなみ》と逃げ出したが、いや、その逃げ足のはやいこと。
「おい、辰、いまの男をしっているのか」
「へえ、親分、こいつはちょっと変ですぜ」
と、辰はきょうの一件をかたってきかせると、
「あいつがこのへんをうろついているというのは、おだやかじゃねえ。なにかこんどの一件に、かかりあいがあるんじゃありますまいか」
「親分、ひとつ、あとを追いかけてみまほか」
「まあ、いいや。この夜道じゃ、いまから追っかけてみてもまにあうめえ。それよりとにかく、彫り若の住まいというのをさがしてみろ」
彫り若の住まいは、それからまもなくわかったが、いくらおとのうても返事がないので、案内に立った大家の源兵衛にきいてみると、
「それが、どうもおかしいんですよ、彫り若というのはひとりもんなんですが、ひと月ほどまえから、行方がわからないんです」
「行方がわからねえ……? どっか、旅へでも出たんじゃねえのか」
「いえ、そんなようすもないんです。彫り若のすがたがみえなくなってから、家のなかをいろいろしらべてみたんですが、商売道具もそろっており、なにもなくなってるものはなさそうなんです」
佐七はきゅうに、胸騒ぎをおぼえはじめた。
「それじゃとにかく、家のなかを見せてもらいましょうか。なにか手がかりがあるかもしれねえ」
「へえ、へえ、それはよろしゅうございます。ちょっとお待ちなすって」
大家は家からちょうちんに灯をいれてくると、
「さあ、ご案内をいたしましょう」
と、さきに立って、やってきたのは彫り若の住まいのまえ、かぎを出して格子をひらこうとして、
「おや」
「大家さん、どうかしましたか」
「だれか錠をねじきっていったやつがある」
「なに、錠がねじきってある?」
「へえ、どうもおかしい。暮れまえにもいちど見回ったんですが、そのときには、なんの異常もなく、こんなことはなかったのに……」
ゴトゴトと、立てつけのわるい格子戸をあけて、なかの土間へ踏みこんだ大家の源兵衛は、ちょうちんの灯で、あたりを見まわしていたが、なに思ったのか、きゅうにあっと叫んで立ちすくんだ。
「ど、どうしました、大家さん」
「親分、ごらんください。だれかが畳をめくっていきゃアがった」
彫り若の住まいは、土間のよこてに三畳があり、その三畳のおくが六畳になっているのだが、その六畳の畳がいちまい、めくったままになっている。
「大家さん、ちょっとちょうちんをかしてください」
佐七は大家の手からちょうちんをうけとると、ずかずかとうえへあがっていく。
辰と豆六もあとからつづいた。
めくりあげた畳の下は、床板もはがしてあって、床下からつめたい風が吹きあげてくる。
佐七はちょうちんをつっこんで、床下をのぞいていたが、ふいにギョッと息をのんだ。
辰と豆六もまっさおになって、ガタガタふるえながら、顔を見合わせている。
それもそのはず、床下の土のなかから、男の死体――というよりも、すでに白骨になりかけたやつが、無気味に上半身をのぞかせているのである。
「大家さん、大家さん、ちょっと見てください。おまえさん、あの着物に見おぼえはありませんか」
「へえ、な、なんでございます。お、親分、床下になにかありましたか」
大家もうえへあがってくると、おそるおそる床下をのぞいたが、とたんに、わっとしりもちついた。
「わっ、こ、これは……」
「大家さん、大家さん、しっかりしておくんなさい。ふるえてちゃアいけねえ。よくあの着物を見てください。あれに見おぼえはありませんか」
大家はガタガタふるえながら、もういちど、床下をのぞいてみて、
「や、や、や、こ、これゃ彫り若だ」
その彫り若の着物の胸には、匕首《あいくち》でついたような穴があり、どっぷりと血に染まっている。
「親分、それじゃ彫り若は、ひと月まえに殺されて、この床下へ埋められたんですね」
「そうらしいな。そして、ちょうどそのころ、伊丹屋へふたりのお信乃があらわれたんだ。こいつは偶然とは思えねえ。おい、豆六、なにか証拠になりそうなものはねえか。そこらじゅうさがしてみろ」
「へえ、へえ。あ、親分、あんなところになにやら切れが……あれゃ手ぬぐいじゃ……」
なるほど、見ればいちまいめくった畳の下から、手ぬぐいのはしがのぞいている。
豆六が畳をすこしもちあげて、とり出してひろげてみると、まだまあたらしいてぬぐいで、まんなかに川長という字が染めだしてある。
「親分、こら、篠太郎の手ぬぐいだっせ」
「そうだ、そうだ、それじゃ、さっきすれちがった篠太郎のやつ、ここから逃げだしたにちがいねえ」
佐七はその手ぬぐいを手にとって、しばらく考えていたが、やがてその顔には、しだいに、意味ふかい微笑がひろがっていった。
二人信乃彫り物くらべ
――雌ぎつねのしっぽをおさえて下さい
「おお、なるほど、こっちが面長のお信乃さんで、そっちが丸ぽちゃのお信乃さんか。いや、いずれを見ても花あやめ、負けず劣らずうつくしいね」
その翌日のことである。
辰と豆六をひきつれて、鎌倉河岸の伊丹屋へ乗りこんだのは佐七である。
ふたりお信乃の真偽のほどを見きわめて進ぜようという佐七の申し入れに、よろこんだのは隠居の市兵衛にあるじの徳兵衛。
なにしろ、困《こう》じはてていたおりからだけに、すぐにはなれのひと間に招じいれた。
そこで佐七の注文で、宝屋万兵衛と槌屋千右衛門が呼びよせられる。
こうして、はなれのひと間にあつまったのは、いじょうふたりをはじめとして、ふたりお信乃に、市兵衛、徳兵衛、ほかに、徳兵衛の女房お里や、娘のお浜も、不安そうな顔をつらねていた。
佐七はふたりお信乃を見くらべながら、
「辰、豆六、見ねえ。どっちをみても、虫もころさぬつらアしてるが、それでいて、このうちのひとりは大かたりの大ぬすっとだ。これだから女はおそろしい。おい、面長お信乃、かたりというのはおまえかえ」
「とんでもない、親分さん、あたしはたしかに彫り勝のひとり娘、お信乃でございます。かたりというのはむこうの女、あいつこそ雌ぎつねでございます」
「そうとも、そうとも。この万兵衛がさがし出したお信乃こそ、まことのお信乃にちがいございません。むこうにいるのがたしかに偽物」
宝屋万兵衛がことばをそえる横合いから、いきりたって、ひざを乗りだしたのは槌屋千右衛門。
「これ、万兵衛どの。なにをいわっしゃる。すると、わたしがかたりとぐるになって、伊丹屋の身代をなんとかしようともくろんででもいるといいなさるのか。ええい、なにをいうのじゃ。くそおもしろくもない。そういうおまえこそ、大かたりの大ぬすっととぐるになり、こちらの身代を横取りしようともくろんでいなさるのだ。親分、こっちのお信乃こそ、まことのお信乃にちがいございません。のう、信乃や」
「あい、あい、お玉が池の親分さん、あたしこそ、ほんもののお信乃にちがいございません。親分、お願いでございます。いっこくもはやく、その雌ぎつねの、しっぽをあらわしてくださいまし」
「ええい、なにをいう。おまえこそ雌ぎつねじゃ」
「いいえ、おまえこそ」
「おまえこそ」
と、女だてらに、またしても、つかみあいになりそうなけんまくを、佐七はにが笑いをしながら見ていたが、
「いや、その真偽は、いまにおいらが、しかと見わけてやろうが、どうだ、そのまえに、おまえさんたちの彫り物を、ひとつ、おいらに見せちゃくれまいか」
佐七のことばに、ふたりお信乃は、たがいに顔を見ていたが、やがて、面長がすすみでて、
「それはお安いことでございます。さあ、さあ、ご存分にごらんくださいまし」
と、パラリともろ膚ぬぐのをみると、丸ぽちゃお信乃も負けてはいない。
「いいえ、親分、あたしのほうから、さきにごらんくださいまし」
と、これまたパラリともろ膚ぬいで、どちらが真か偽かお信乃とお信乃。
たがいにさきを争いながら、佐七にむかって背中をむけたが、とたんに、辰と豆六、ううんと、うなってしまったのである。
玉をあざむくふたりの美女の背中いちめん、彫りも彫ったり芳流閣、犬塚信乃の血戦が、一分一厘の狂いもなく、まるで敷き写しにしたように、みごとに彫ってあるではないか。
「なるほどなア」
佐七はにっこりあごをなでながら、
「これ、お信乃、ふたりともよくきけよ。この彫り物のどちらかは、ちかごろ彫り若という彫り物師に頼んで彫ってもらったものにちがいねえ。おい、お信乃、彫り若という名をしっているか」
彫り若という名まえをきいて、面長も丸ぽちゃも、はっとしたように顔色かえたが、すぐさりげなく取りすますと、まず面長が口をひらいて、
「とんでもない。彫り若という名まえなど、いままできいたこともございません」
「おい、そっちのお信乃、おまえはどうだ」
「あい、あたしとてもおなじこと。そんな名まえを聞くのはいまがはじめて」
辰と豆六はそれを聞くと、たがいに顔を見合わせて、おもわず大きく目をみはった。
佐七の計略、図に当たったのである。
彫り勝の娘お信乃は、おやじの死後、彫り若にひきとられたはずである。
それをふたりがふたりとも知らぬというのは、どういうわけだろう。
偽物のほうは知らぬとしても、ほんもののお信乃まで知らぬというのはなぜだろう。
佐七は、しかし、にっこり笑って、
「いや、おまえたちが知らぬというならしかたがねえが、その彫り若という彫り物師はな、かわいそうに、ひと月まえにむざんに殺され、床下に埋められているのが、ゆうべはじめてわかったんだ」
ふたりお信乃は、ギョッとしたように、たがいに顔を見合わせている。
「ところが、天網カイカイ悪いことはできねえものだ。彫り若を殺した下手人は、たいへんなものを現場にのこしていきゃアがった」
「え、たいへんなものといいますと」
「親分、なんでございます」
と、面長お信乃も丸ぽちゃお信乃も、なんとなく不安そうに身を乗りだした。
「それが手型よ。しかも、血に染まったまっかな手型よ。ざんねんながら、その手型は、べったり板壁についているので、すぐに取りはずしはできかねるが、いずれ、二、三日うちにゃア、壁をこわして、手型のついた板壁をとりはずして持ってくるつもりだ。こういうたしかな証拠があるからにゃ、彫り若殺しの下手人も、きっと、そのうちにあげてみせるぜ。そうそう、辰、豆六、あの手型は、たしかに女のようだったなア」
「へ、へえ、た、たしかに……」
「おなごはんの手型に、ちがいおまへなんだなア」
と、とっさにあいづちは打ったものの、辰と豆六は目をしろくろ。
男にも女にも、彫り若の家には手型などどこにものこっていなかった。
黒装束ふたり
――豆六は押し入れのなかで胴ぶるい
「親分、親分、いったい、どうしたもんです。彫り若の家にゃア手型など、どこにものこっていなかったじゃありませんか」
「まあ、いいってことよ。ああいっておけば、思いあたるやつがあるはずだ」
「親分、思いあたるやつってどっちゃだんねん。面長だっか。丸ぽちゃだっか」
「さあ、どっちだろうな」
「親分、それより、ほんもののお信乃はどっちなんです。彫り物をみただけじゃ、どっちがどっちとも判断がつきませんがねえ」
「なに、それもいまにわかるだろうよ。そう、そう、辰、おまえ、ちょっと使いにいってくれ」
「へえ、どちらへですか」
「小名木川の舟宿、川長だ。ちょっと待ってくれ。一筆したためるから」
その日の晩方のことである。
鎌倉河岸の伊丹屋からかえってきた佐七は、しばらく思案をしたのちに、なにやら手紙をしたためると、厳重に封をして、
「いいか、これを川長の若いもの、篠太郎という男にわたしてくれ」
「親分、篠太郎になにか用があるんですか」
「いいってことよ。だまっていってこい。それを持っていけば話はわかる」
「そうですか。それじゃいってまいります」
辰が出かけると、しばらくして、佐七も身支度をして立ちあがった。
「豆六、さあ、出かけよう」
「へえ、親分、どこへでもお供しまっけど、出かけるちゅうてどこへいきまんねん」
「なんでもいいから、つべこべいわずについてこい。しかし、あんまりおしゃべりするな。なるべく目だたねえように気をつけろ」
と、佐七が豆六をつれてやってきたのは源兵衛長屋。もうそのころは、日もとっぷり暮れはてて、あたりはまっくらだった。
佐七は大家の源兵衛を呼びだして、なにやらひそひそささやいていたが、やがて、大家の手から彫り若の家のかぎを受けとると、
「それじゃ、大家さん、たのんだぜ。どんなことがあっても騒がぬように……」
「おっと、親分、がってんです」
大家とわかれて、佐七が豆六とともにやってきたのは、彫り若の住まいである。
大家から借りてきたかぎで格子をひらくと、ふたりはなかへすべりこんだ。
家のなかはむろんまっ暗。
床下の死体は、検視のために、ゆうべのうちに掘りだされたものの、なんとなく無気味なかんじはあらそえない。豆六はガタガタとふるえながら、
「親分、親分、こんなとこで、いったい、なにがはじまりまんねん」
「なんでもいいからだまってろ。むやみに口をきくんじゃねえぞ」
「親分、しかし、おもての格子は……?」
「わざとああして、かぎをかけずにおいとくのよ。おっと、そうだ。裏木戸もあけておいてやろう」
手さぐりで台所へ出て、佐七は水口の戸の掛け金をはずすと、
「さあ、これでよしだ。豆六、どこかかくれるところはねえか」
「へえ、そこに押し入れがおますけんど、あそこではいけまへんか」
「いや、結構結構。豆六、それじゃ押し入れのなかへはいろう。くどいようだが、どんなことがあっても、ぜったいに口をきくんじゃねえぞ」
押し入れのなかはくもの巣だらけ。そうでなくとも、うじのわきそうな男所帯。
よごれものやなんか、そのままつっこんであるところへ、長いあいだ締めきったままになっていたのだから、男の垢《あか》とカビのにおいで、春の夜寒とはいえ、むっと息詰まるようなかんじである。
佐七と豆六はそういうなかで、息をころして何者かを待っている。
岡っ引きとして、なにがつらいといって、こういう張りこみほどつらいものはない。
待たるるとも、待つ身になるな、ということばがある。が、待ち人がくるときまっていればまだしものこと、くるかこないかわからぬものを待ちうけているのだから、こんなじれったい思いはない。
そうでなくとも、おしゃべりの豆六は、なにかいいたくてたまらないが、ぜったいに口をきいてはならぬという佐七の厳命に、さっきから口のなかがムズムズして、つばがいっぱいたまるのである。
だが……。
そういう難行苦行も、ついに報われるときがきた。
待つことおよそ三刻《さんとき》(六時間)あまり、九つ(午前零時)ごろになって、だれやら裏手のほうへ忍びよる足音に、こくりこくりと舟をこぎはじめていた豆六も、はっとばかりに目をさました。
足音は水口のまえにとまったきり、しばらく音を立てなかったが、やがてギイと木戸をひらく音。
気のせいか、つめたい風が、押し入れのなかまで吹きこんでくる。
「お、親分……」
「しっ、口をきくんじゃねえ」
押し入れのなかで、ふたりの男が、息をころしてうかがっていると知るやしらずや、やがて、だれか台所へはいってきたらしく、ほのかな光がふすまのすきから押し入れのなかへさしこんできた。どうやら、あいては、ふところぢょうちんを用意しているらしい。
やがて、くせ者は台所から六畳の間へはいってきた。豆六がそっと、ふすまのすきからのぞいてみると、くせ者はくろい筒そでにくろいたっつけ。
おまけに、くろい頭巾をかぶっているので、どこの何者ともわからない。まるで忍びのすがたである。
さて、黒装束のくせ者は、ふところぢょうちんをかかげて、家のなかを調べてまわる。かれの調べているのが、どうやら、四方の板壁らしいのである。
あまり度胸のあるやつではないとみえて、風の音、ねずみのさわぐ音にも、いちいちびくついているのが笑止なようである。
豆六はそっと佐七のたもとをひいた。もういいかげんにとび出して、ひっとらえてはどうかという合図である。佐七はしかし、なにか考えるところがあるのか、豆六の合図にとりあわない。
と、ふいに黒装束があわてはじめた。
きょろきょろ、あたりを見まわしていたが、気がついたように、ふところぢょうちんを吹き消したから、あたりは漆のようなまっくらがり。
豆六ははてなと首をひねったが、すぐ、黒装束のあわてたわけがわかった。
そのとき、またもやこの家にちかづいてくる忍びやかなひとつの足音。しかも、こんどは表からである。
足音は格子のまえにとまって、しばらく、あたりのようすをうかがっているらしかったが、やがて、そろりそろりと格子をひらく音。
そして、またもや押し入れのなかへ、ほのかな光がさしこんできたので、豆六がふすまのすきからのぞいてみると、なんとそいつも、くろい筒そでにくろいたっつけ。おまけに、くろい頭巾でおもてをつつんで、たかだかと、ふところぢょうちんをかかげているではないか。
豆六は、あいた口がふさがらなかった。
第三の彫り物
――意外とも意外、お信乃の正体
第二のくせ者もちょうちんをかかげて、家のなかを調べていたが、そのときである。とつじょ、くらやみのなかからおどり出したのは、くせ者第一号。匕首《あいくち》さかてに、いきなりくせ者第二号の、土手っ腹をえぐったからたまらない。
「キャッ」
とさけんでくせ者第二号がその場にどうと倒れたから、おどろいたのは佐七と豆六。
「くせ者、御用だ」
と、押し入れのなかからとび出したから、びくり仰天したのは、くせ者第一号。
「しまったッ」
とさけんで表のほうへバラバラと逃げだす出会いがしらに、はいってきたのはふたりづれ。船頭、篠太郎ときんちゃくの辰である。
「や、くせ者!」
「畜生ッ」
死にものぐるいでくせ者が突き出す匕首をやりすごし、二、三合わたりあったかとおもうと、やがて、篠太郎がはっしとばかり、あいての利き腕をたたいたから、
「あっ」
とさけんで、くせ者が匕首をとりおとすところへ、躍りかかったのはきんちゃくの辰。
「くせ者、御用だ」
と、たちまちおなわをかけてしまった。
こう書いてくると長いようだが、じじつは、これらのことは、一瞬のうちに行われたのである。
佐七はくせ者第二号のとり落としたふところぢょうちんにあかりをつけると、
「やあ、辰、ご苦労、ご苦労。篠太郎さん、どこもけがはなかったかえ」
「はい、おかげさまで……出会いがしらに突いてこられたので、たいそう肝をつぶしましたが……」
篠太郎はにが笑いしながら、
「それにしても、親分、わたくしになにか御用でございますか。今夜、こちらへくるようにとのことでございましたが……」
「いや、ちょっとお待ちなさい。いま、わけを話します。辰、そいつを縛りあげたら頭巾をとってみろ」
「へえ」
辰はくせ者第一号の頭巾をとったが、とたんに、肝がつぶれたような声をあげた。
「親分、こいつは男じゃねえ。これゃアお信乃だ、面長お信乃だ」
「ふふん。おおかた、そんなことだろうと思ったよ。豆六、そこに倒れてるやつの頭巾をとってみろ」
「へえへえ、どれ、つらを見てやろか。わっ、お、親分、こいつは丸ぽちゃお信乃やがな」
いかにもそいつは丸ぽちゃお信乃、急所の深手でもう虫の息だった。
一同、これはとばかりに、あきれかえっておどろいていたが、おりからそこへ、駕籠をとばせて駆けつけてきたものがある。伊丹屋の隠居と、当主の徳兵衛。
徳兵衛はその場のようすを見ると、あっとばかりに肝をつぶして、
「や、や、こりゃ、これ、お信乃、ひとりは殺され、ひとりは下手人。どっちがほんとのお信乃にしても、これゃこのままじゃすまされぬ」
徳兵衛のことばに、隠居の市兵衛もおどろいて、おろおろそこらを手さぐりしながら、
「親分、もし、お玉が池の親分さん、これゃどうしたことでございます。用事があるから、ここまでこいとのおことばでしたが、殺されたのがほんとのお信乃か。殺したやつが孫のお信乃か。親分、どっちがどっちでございます」
うろたえさわぐめくらの市兵衛を、佐七はしずかに押しなだめ、
「ご隠居さん、ご安心なさいまし。そのお信乃はどっちも偽物。ほんとのお信乃はべつにおります」
「げっ、どっちも偽物。そ、そして、ほんとのお信乃はべつにあるとは……」
「それ、辰、豆六、篠太郎を裸にしてみろ」
「あれ、なにをなさいます」
おどろく篠太郎におどりかかって、むりむたいに、ふんどしいっぽんの裸にした辰と豆六は、おもわずあっと目をまるくした。
なんと、篠太郎の背中にも、まごうかたなき南総里見八犬伝、芳流閣は信乃の血戦が、色もみごとに彫られているではないか。
徳兵衛も、捕らえられた面長お信乃も、あっとばかりにおどろいた。
佐七はにっこり笑って、
「もし、ご隠居さん、だんなもよおくおききなさいまし。彫り勝がわが子にお信乃と命名したのは、八犬伝の信乃の名まえを借りたのだ、ということは、おまえさんたちもお察しでしょうが、では、なぜ、信乃の名まえを借りたのか、それはこうでございます。八犬伝の信乃の父親、犬塚蕃作《いぬづかばんさく》には信乃よりさきに男子が三人うまれたが、いずれも夭折《ようせつ》して育たなかった。そこで、四番目にうまれた男の子は、十五の年まで女として育てた。それがすなわち犬塚信乃です。彫り勝もお信乃のまえに三人の男子があったが、いずれも夭折したところへ、四番目にうまれたのがこれまた男子。そこで八犬伝の知恵を借り、その名もお信乃、十五の年まで女姿で育てたから、世間のものはみんなお信乃を、女と思いこんでいたんです。どうだ、篠太郎さん、それにちがいあるめえが」
いわれて、篠太郎はホロリと涙をおとしたが、これをきいて、おどろいたのは市兵衛と徳兵衛。
わけても、市兵衛は気もくるわんばかりに篠太郎のそばへさぐりより、
「親分、そ、それじゃこれがほんとの孫で」
「ご隠居さま、お懐かしゅうございます」
「おお、そういう声は船頭、篠太郎。そういえば、いぜん目があいていたじぶん、どこやら、お房に似た面差しとおもうていたが、お信乃を女とばかり思いこんでいたから、いままでそれと気がつかなんだが、それじゃおまえが孫であったか」
隠居の市兵衛は篠太郎の手をとって、見えぬ目をみはりつこすりつ、おろおろと泣きだしたのである。
篠太郎の親の彫り勝は、手紙をだしても市兵衛がこないところから、きっと外聞をはばかって、わが孫ながら見捨ててしまう気であろう。それもむりのないところとあきらめて、息子の信乃にも、その身の素性をしらさずに死んだのである。
お信乃はその後、彫り若にひきとられて養われたが、親の遺言により、十六になると同時にほんらいの男にかえって、その名も篠太郎とあらためて、舟宿、川長に奉公に出たのである。
ところが、それから五年たって、伊丹屋でこれこれしかじかの娘をさがしているときいて、悪心をおこしたのが、面長お信乃と丸ぽちゃお信乃。
面長お信乃は本名お勘、丸ぽちゃお信乃は本名お紺。どちらもなだいの莫連娘《ばくれんむすめ》で、伊丹屋のうわさをきくと、まさか競争あいてがあろうとしらず、彫り若にたのんで芳流閣をせなかに彫らせた。
彫り若は師匠のうちをしまうとき、師匠のかいた彫り物の下絵を、そっくりそのまま引きとっていたから、お勘やお紺にそういう悪心があるとはつゆしらず、師匠のつくった下絵をそのままお勘とお紺の背中に彫ったのである。
しかし、けっきょくそのことが、彫り若にとっては命取りになってしまった。
悪いやつはお勘とお紺で、お勘がまず、お信乃と名乗って宝屋万兵衛をたよっていくまえに、生かしておいては後日の妨げとばかりに、彫り若の家へ忍びこむと、出刃包丁でぐさりとひと刺し、これを刺し殺してしまったのである。
ところが、お勘が死体をそのままにして逃げ出していったすぐそのあとへ、忍んできたのが丸ぽちゃお信乃のお紺である。
お紺もおなじ目的でやってきたのだが、きてみると彫り若が殺されている。
まさかじぶんとおなじことをもくろんでいる女がもうひとりここにいるとは気がつかなかったが、死体をこのままにしておいては、後日彫り物詮議があったばあい、じぶんに疑いがかかろうもしれずとあって、ごていねいにも、死体を床下に埋めてしまった。
そうしておいて、槌屋千右衛門のところへ名乗ってでたのである。
だから、ふたりとも、佐七から血染めの手型が彫り若の家の板壁にのこっているときいて、不安をかんじたのもむりではなかった。
本人は目から鼻へ抜けるほど利口なつもりでいても、脛《すね》に傷持つ弱みには、まんまと佐七のかけたわなにひっかかり、ああいう騒動が持ちあがったのである。
お紺はまもなく息をひきとったが、こうなるとお勘は重罪である。
彫り若とお紺、ふたりまで手にかけているのだから、引き回しのうえ、獄門になったのも当然だろう。
心がらとはいえ、お勘とお紺のふたりが、そろいもそろって非業の最期をとげたのにひきかえ、こちらは船頭、篠太郎である。
愛憎祖父と孫
――血は水よりも濃いとはこのこと
「それにしても、篠《しの》さん、おまえさんもこんどの伊丹屋さんの難渋は、うわさにきいていたはずだ。なんでもっとはやく、彫り勝の娘のお信乃とは、かくいうあっしでございます、と名乗って出なかったんだ」
佐七の質問に篠太郎は、しばらくもじもじしていたが、やがて、きっとおもてをあげると、
「そのおたずねはごもっともでございますが、あっしはじぶんの祖父になるひとを、心のなかで恨んでおりました。いいえ、憎んでいたのでございます」
そばできいていた隠居の市兵衛、篠太郎のその一言に、ハッと顔をふせると、面目なげに、みえぬ目の涙を両手でおさえている。
「いいえ、ご隠居さま、そのじいさまがご隠居さまとは、こんどの騒ぎがおこるまで、わたしは夢にも存じませんでした。ただ……」
「ただ……?」
佐七があとをうながすと、
「はい、おやじは亡くなるまえに、じいさまに手紙を差し上げたはずでございます。じいさまからお迎えがあるのを、おやじは、きょうか、あすかと指折りかぞえてお待ち申しておりました。それがとうとうなしのつぶてで、お迎えがないとわかったとき、おやじは、いかにも寂しそうでございました。おまえのじいさまというひとは、いたってものがたいおひとゆえ、おれの手紙を貧ゆえの、ゆすりか、かたりのように思われたのにちがいない……と、そうきいたときのわたしのくやしさ、腹立たしさ……」
「おお、もっともじゃ、もっともじゃ。そう思われてもしかたがない」
そこにいきちがいがあったとはいえ、げんざい孫を目のまえにみながら、逃げてかえった当時のおのれの所業を思いあわせると、市兵衛が身をもみにもんで泣きむせんだのもむりはない。
徳兵衛や女房のお里ももらい泣きである。
「みなさまはどうお思いかしりませんが、おやじの彫り勝というひとは、稼業こそ卑しけれ、ほんとに心のきれいなひとでした。かりそめにも、ゆすりかたりをするような、そんなひとではございませんでした。それだけに、わたしのくやしさ、腹立たしさ。そんな不人情なひとは、じいでもない、孫でもないと……」
「なるほど、わかった。おまえの怒りがあまりはげしいので、おとっつぁんもおじいさんの名をいいかねて死んだんだな」
佐七の問いに篠太郎もうなずいて、
「いまわのきわに、おやじさまはこう申しました。おまえももう十五歳、ひとりでやっていけぬことはない。いちおう彫り若にたのんでおくが、だれもたよらずひとりでやっていけ。この世に身寄りのものはひとりもないと、そう思えと……」
「おお、かわいそうに、かわいそうに。ふびんなことをしてしもうた。篠太郎、許してくれ。なにもかもわしが悪かったのじゃ」
市兵衛があまりはげしく泣きむせぶので、見るにみかねた嫁のお里が身をのりだし、
「篠太郎さん、そんなにおっしゃるものじゃございません。おじいさまはどんなにか、あなたさまのことを案じていらしたかわかりませんのよ」
「いいえ、おかみさん、もうお恨みはいたしません。おやじがいけなかったのでございます。もっと詳しくわたしのことを書いておいてくれればよかったものを。なにしろ、筆不精で、手紙はいたって苦手なひとでしたから……」
「しかし、篠さん、それじゃもういちど聞くが、伊丹屋さんのこんどの騒ぎをしったとき、なぜ器用に名乗ってでなかったんだ」
「親分、それゃいけませんや」
「いけねえとは……?」
「だって、こちらさんじゃ信乃のことを、女だとばかり思いこんでいらっしゃる。男のあっしが名乗って出たからって、真にうけちゃもらえますまい。あっしもゆすりかたりと思われたかあございませんからねえ」
「あっ、なあるほど」
と、辰が感服すると、豆六もその尾について、
「あんたが彫り勝つぁんの息子はんやいうことをしってるのんは彫り若ひとり。それで、彫り若に身のあかしを立ててもらおうちゅうわけで、訪ねていきやはったんやな」
「いいえ、豆六兄い、それはそうではございません」
「そやないちゅうと……?」
「あっしゃ彫り若の師匠までゆすりかたりの仲間だと思われるようなことは、してもらいたくはございませんでした。ただ、ふにおちかねるのは、ふたりのお信乃のその膚に、あっしとそっくりおなじ彫り物があるらしいと海老床できいて、それについて彫り若の師匠が、なにかしっていなさるんじゃアあるめえかと、それで訪ねていったんです。そしたら、床下からへんなにおいがするもんだから、ひょいと畳を持ちあげてみると……」
「よし、わかった。それでなにもかも判明したが、しかし、篠さん、おまえさん、いまでもこのおじいさんを恨んでいるのか。いやさ、憎んでいるのか」
佐七のことばに篠太郎は、しばらくちゅうちょしていたが、やがて、きっとおもてをあげると、
「親分、あっしも人の子でございます。心の底では、恨もう、憎もうと思いながら、また、いっぽうでは、じぶんのじいというひとは、どういうひとであろうかと、思わぬ日とてはございません。おふくろを早くうしなっておりますだけに、そのおふくろのおとっつぁんというひとが、つい懐かしく、慕わしく……」
篠太郎はそこではじめて、ホロリとひと滴の涙をおとすと、
「ましてや、こちらのご隠居さまには、いぜんより身にあまるごひいきにあずかっておりまする。そのおひとがじぶんのじいさまとわかったときのあっしの驚き、そのうれしさ、親分、お察しくださいまし」
それをきいて、市兵衛はまた、ひた泣きに泣きむせんだ。
そばから徳兵衛も、目がしらをおさえて、ひざをのり出し、
「よういうてくださいました、篠太郎さん、いや、篠太郎と呼ばさせてください。それをきいて、おやじさまもどんなにお喜びかしれません。もし、よかったら、おじいさまと、ひとこと呼んであげてください」
篠太郎はさすがにちょっと、気おくれしたようにしりごみしたが、徳兵衛夫婦の哀願するような目と、佐七の視線にはげまされると、ひとひざ、ふたひざゆすり出し、市兵衛のひざに手をおくと、とつぜん、思い迫ったように、
「おじいちゃん、おじいちゃん、おいら、会いたかった、会いたかった。ずうっとせんから、会いたかったんだ」
「おお、篠太郎……し、し、篠太郎……」
血は水よりも濃いというが、こうしてわだかまりが解けてしまえば、そこは祖父と孫、ふたりはひしと抱きあって、堰《せき》をきって落としたように泣きむせんだ。
ところで、宝屋万兵衛と、槌屋千右衛門だが、かれらに欲がなかったとはいえまい。
親戚中でもいちばん羽振りのよい伊丹屋に恩を売っておけば、後日なにかにつけて好都合という胸算用があったにしても、偽者のお信乃を利用して、伊丹屋の身上をどうしよう、こうしようというような、ふかい魂胆があったわけではなかった。
ふたりともお勘、お紺にだまされていただけであるとわかって、ただたんに、しかりおくというだけで、罪をまぬがれたのは、さいわいだったというべきだろう。
彫り物師の娘、じつは彫り物師の息子であったという、れいによってれいのごとく、人形佐七の手柄話。よって件《くだん》のごとしと作者しかいう。
括《くく》り猿《ざる》の秘密
仲見世のかっ払い騒ぎ
――へえ、それは女の首です
いまもむかしもかわりないのは、浅草は観音様のご繁盛で。
ここのにぎわいばかりは時期をえらばない。
春夏秋冬、不景気ということばをしらぬのも観音様のご利益か、仁王門をはいると、ずらりと左右にならんだのが仲見世で、そのなかを新造もとおれば娘もいく。
ばあさんもいけば若だんなもいく。
おのぼりさんもあるけば、お菰《こも》もあるくというわけで、いつだって、この通りのさびれているということはないが、わけてもいまは春四月、鐘ひとつ売れぬ日はないという、江戸の繁盛をここにあつめて、いや、もう、たいした人出だ。
そのなかをぶらりぶらりといく三人連れ、と、こう書いただけで、みなさますでにおわかりのとおり、この三人とは、いわずと知れたおなじみの、人形佐七にふたりの子分、きんちゃくの辰《たつ》とうらなりの豆六だ。
きょうはべつに御用もないとみえて、三人とも、しごくのんびりとした顔をしている。
「うわっ、えらい人出やなあ。いつきてみても、この観音様に人足がたえたことはないが、いったい、どこからこないに、ひとがわきだしてきよんねんやろ」
「チョッ、バカバカしい。はえじゃあるめえし、いかに陽気がいいからって、人間さまがそうのこのことわいてたまるものか」
「そやかて、兄い、いつきてみても、ついぞおなじ顔に出会うたことがおまへん。ようまあ、こうせんぐりせんぐり、ちごうた顔ぶれがあるもんや。江戸のおかたはよっぽど暇人ばっかりやとみえまんなあ」
「べらぼうめ、そこが観音様のありがてえところだ。こうして江戸中はおろか、日本中の人間をひきつける。ご本尊はわずか一寸五分でも、これだけの大屋台をはっていかれるのは、みんなご利益のしからしむるところ、はばかりながら、大坂《おおさか》にはこれだけありがてえところはあるめえ」
「あほらしい。あんさん、ふたことめには、大坂をけなしなはるが、大坂にかて天王寺さんちゅうて、大したもんがおまっせ。いっぺんいってみなはれ、肝っ玉がひっくりかえるわ」
と、またしても、あたりはばからぬお国自慢。
毎度のことながら、佐七はほとほと持てあましたようなにが笑いで、
「これこれ、ふたりとも慎まねえか。みなさんが笑っていらっしゃるぜ。さあ、それよりお賽銭でもあげて、せいぜいかってなことをお願いするがいい」
「おっと、そのこと、そのこと。それじゃひとつ、いい女でも授かりますようにとでもお願いしようか」
「あほらしい、兄いの顔でそないなことお願いしたら、観音様が横むきなはるがな。まあ、せいぜい、今晩のおかずが好きな芋の煮ころがしでありますようにとでも、お願いしなはれ」
「こん畜生、殴られるぜ」
と、こんなむだぐちをたたきながら信心のできるのも、ここの観音さまのありがたいところだ。
だんだんをあがると、大きな賽銭《さいせん》箱がある。これがたいしたもので、仏様も欲ばっている。せいぜいお賽銭をせしめるつもりか、思いきって大きくつくってある。
その賽銭箱に、なにがしのお鳥目《ちょうもく》を投げこんだ三人が、くちぐちに、なにかおいのりをしているおりから、とつじょ、すぐかたわらで、すっとんきょうな声をあげたものがある。
「あ、どろぼう! どろぼう! だれかその男をつかまえてくださいまし」
声におどろいたのは、佐七の一行三人ばかりではない。
居合わせたひとびとがいちように、声のするほうをながめてみると、二十六、七の苦みばしったいい男が、地団太をふむように、目の色をかえてしたのほうを指さしている。
「ど、どうしたんだ、おめえさん」
「あの男が、わたしの荷物を持って逃げました。はい、お参りをするあいだ、ちょっとここへおいておいた荷物を、あれあれ、あの男が持って逃げます。どろぼう! どろぼう! だれかその男をつかまえてください」
若者はやっきとなって、叫びつづけている。
そのことばにむこうをみると、なるほど、豆絞りのほおかむりをした男が、うこん木綿のふろしき包みをかたわきに、いましもいっさんに、ひとごみのなかを逃げていくところだ。
「畜生、ひでえ野郎だ」
これとみて勃然《ぼつぜん》と勇みたったのは、いわずとしれたきんちゃくの辰。
ただひとあしで階段をとびおりると、ばらばらばら、くだんの豆絞りに追いついて、つづけざまにげんこでポカポカ、なにしろ、きんちゃくの辰にとってはとくいの壇上だ。
なんなくかっぱらいを取りおさえると、意気揚々と引きあげてきた。
「やあ、辰、ご苦労、ご苦労」
「なあに、こんな野郎の一匹や二匹」
はや黒山のように取りまいた野次馬のなかには、きれいな娘のひとりやふたりぐらいいようというものだから、辰は得意満面である。
「親分、この野郎はいかりの八といって、たいしたことはできねえが、しじゅうこんなことをやっている男です。おい、八、てめえも目先のみえねえ野郎じゃねえか。もったいなくもお玉が池の親分の面前で、つまらねえまねをするたあ、なんてえドジだ」
これには佐七も鼻白んで、
「辰、いいから、そいつを近所の自身番に引きわたしてしまえ。たかのしれたかっぱらいだ、そう痛めつけるにもおよぶめえ。ときに、ええ、おまえさん」
と、さっきの若者を振りかえると、
「おまえさんの盗まれた荷物というのは、たしかにこれでございましょうねえ」
「はい、それにちがいございません。おかげで助かりました。ありがとうございます。それでは、それをいただいてまいりましてもよろしゅうございますか」
「ああ、いいとも、どうでおまえさんのものだ。豆六や、そのかたに荷物をわたしてあげねえ」
「へえ」
さっき辰からわたされたうこん木綿のふろしき包みを、物珍しそうにのぞいている豆六は、そのとき妙なかおをした。
「どうした、はやくわたしてあげねえか」
「そやかて、親分」
「どうした。なにか変わったことでもあるのかい」
「親分、ちょっとお耳を」
「なんだ、妙な野郎だな」
すなおに耳をかした人形佐七、豆六の耳打ちを聞くと、思わずぎょっとしたように、
「豆、そ、そりゃほんとうか」
「ほんまだすとも。ほら、ちょっと、ここをのぞいてみなはれ」
豆六の抱いたふろしき包みのはしから、ちょっとなかをのぞいた人形佐七は、いよいよおどろき、あらためて若者のほうへ振りかえると、
「ちょっとおまえさんに尋ねるが、いったい、このふろしき包みのなかみはなんですえ」
「はい、あの、それは……」
と、若者はちょっと言いよどんだが、すぐことばをついで、
「べつにあやしいしろものではございません。じつは、それは首でございます」
わっと、周囲を取りまいた野次馬が浮き足だった。
これはおどろくのがほんとうだろう。
怪しいしろものでないどころか、これほど怪しいものが、ほかにあるべきはずがない。
箱の中から女の首
――お長はううんとのけぞった
「なに、首だと?」
「はい、あの、いえ」
周囲のおどろきがあまり大きかったので、若者は狼狽《ろうばい》したらしく、
「首は首でも、人間の首ではございません。じつは、わたし、浅草|馬道《うまみち》に住んでおります宗助という人形師でございますが、田原町にございますひさご屋さんという呉服屋さんにたのまれて、お店に飾る人形の首を、これから持参するところでございます」
「あ、なるほど」
佐七はなんだといわぬばかりに、
「なにね、箱のなかから、女の髪の毛のようなものがのぞいているんで、それでこの野郎が、びっくりしやがったんで。おい、豆六、べつに怪しいものじゃねえ。人形の首だとさ、はやくおわたししねえか」
「そやかて、親分」
「なんだ、てめえまだふにおちねえのか」
「いえ、そういうわけやおまへんが、どうもけったいな気がして……いっぺん中を見せてもろたらいけまへんやろか」
わかものの宗助は、他意のない微笑をもらしながら、
「さあ、さあ、どうぞ、気晴らしにごらんなすってくださいませ。わたしもそういう疑いをうけたままでは、気持ちが悪うございます。存分におあらためくだすったほうが、さっぱりいたしましょう」
「さよか、そんなら開けてみまっせ」
遠慮のないやつで、宗助のことばをさいわいに、ふろしき包みの結び目をとくと、なかから出てきたのは白木の箱、なるほど、島田に結った髪の毛がみえる。
その髪の根をわしづかみに、スッポリ首をぬきだしたとたん、わっとばかり、こんどこそ、野次馬連中、くもの子しらしに四方へとんだ。
それもそのはず、人形の首などとは真っ赤なうそ、まぎれもなく十六、七の、花のつぼみのまだうらわいかい美人の生首。
「おい、宗助さんとやら、こ、こ、これはいったいどうしたんだえ」
佐七につよく利き腕とられた宗助は、しばらく、ぼうぜんとしてその生首をながめていたが、みるみるうちに、くちびるのいろまで真っ青になった。
「あ、こ、これはお浪《なみ》さん!」
「なに、お浪さんだと、それじゃおめえ、この娘を知っているのだな。して、これはどこの娘だ」
「はい、あの、これは人形の首をたのまれましたひさご屋さんの二番娘で」
「よし」
きっとまゆをあげた人形佐七、
「辰、豆六、そのかっぱらいと宗助を、しっかりおさえてついてこい。とにかく、これから、ひさご屋というのにいってみなくちゃならねえ」
さあ、たいへんなことになった。
事件はたんなるかっぱらいどころじゃなくなった。
こうなると、災難なのはかっぱらいの八公で、こいつとんだ代物に手をつけたものだ。
なにしろ、事件はひとの出盛りの、浅草のまっただなかでのことだから、うわさははやくも、電波のように四方へとんで、このことを聞きつたえた田原町のひさご屋は、うえをしたへの大騒動だ。
そもそも、このひさご屋というのは、近年めきめき身代をふとらせた呉服屋で、店先にいつもきれいな女の生き人形をかざっておくのが評判になっている。
主人は弥左衛門《やざえもん》といって、名前を聞くとがんこおやじのようにおもえるが、これは昨年亡くなったおやじの名跡をついだのだから、いまの弥左衛門は二十四のやさ男、まださだまる妻もなく、ほかにお長、お浪というふたりの妹があった。
お長はことし十九の厄《やく》、妹のお浪は十七だったが、これが生首の本人である。
ほかに番頭手代など、奉公人がおおぜいいたが、なにしろ新店だから、屋台骨のわりには、たよりになるような古いのがいなかった。
凶事を聞きつけた弥左衛門は、まだ若年だけに、どうしてよいやら、ただおろおろとするばかり、それをそばから励ましているのが妹のお長で、これは年のわりには、なかなか気丈者らしい。
こういう騒ぎのなかへ、やってきたのが、人形佐七の一行だった。
「ごめんくださいまし、うわさはすでにお聞きおよびのことと存じますが、こちらさまのお嬢様のお身にとんだことが起こりまして、それでさっそくまいりました」
「はい、いまそのことをひとづてにきいて、家内一同、びっくりしているところでございます。でも、ほんとうでございましょうか。お浪がそんな……」
「どうぞ、おあらためなすってくださいまし。この宗助さんは、たしかにこちらのお嬢さんにちがいないと申しております」
「は、はい、では……」
差し出された白木の箱に手をかけた弥左衛門は、ガチガチと歯をならしている。
そばでは、お長がいきをつめたまま、恐ろしそうに、わき目もふらず、兄の手つきをながめている。
やがて、弥左衛門は箱のふたをとって、生首をだしたが、
「あ、お浪!」
「たしかに、妹さんにちがいありませんかえ」
「は、はい」
弥左衛門は歯を食いしばってうなずいたが、そのとき、そばからお長がふるえ声で、
「あれ、兄さん、もうひとつ、なにやら箱のなかに?」
「え?」
と、おどろいたのは人形佐七、これにはいままで気がつかなかった。
なにやら赤いものが、なるほど箱のなかにある。
つと、それをつまみあげた佐七が、
「なんだ、紅絹《もみ》でつくったくくりざるですよ」
と、ポンとそこへ投げだしたとたん、どうしたものか、お長はううんとその場へのけぞった。
うこん木綿のふろしき包み
――お高祖《こそ》頭巾のせむし娘
くくりざるというのは、よく女の子などがおもちゃにする小ぎれでつくったおさるさん、四つの手足を一つにくくってあるところから、くくりざるという。
女の子がはさみのさきなどにブラ下げている、一種のアクセサリーである。
そのくくりざるをみて、なぜお長があんなにおどろいたのか、これにはなにか、ふかい子細がなくてはならぬ。
佐七は、しかし、さりげなく、
「なるほど、これで、生首がお浪さんだということはわかりましたが、しかし、お浪さんはいつごろからいなくなったのですえ」
「はい、じつは、きのう浅草へ遊びにいくといって出たきり、かえってまいりませんので、ゆうべから家中、大騒ぎをしていたところでございます」
「なるほど。それで、浅草へはおひとりで?」
「はい、つい目と鼻のあいだですから、いつもひとりでまいります」
「ひょんなことを尋ねるようですが、お浪さんに男でも……」
「いいえ、いいえ。あれに限って、けっしてそんなこと。どなたにきいていただいてもわかりますけれど、あの娘はまだ、ほんのねんねえですから」
「それじゃ、こちらさまでは、下手人の心当たりはまったくございませんかえ」
「はい、なんとも……」
と、答えた弥左衛門のことばは怪しくふるえていた。
心当たりがないどころか、さっきのお長の素振りといい、この兄妹《きょうだい》には、たしかに下手人がわかっているのだ。
しかし、そこはものなれた人形佐七、短兵急に攻めたてたところで、あいてが口をわる気づかいのないことをよくしっているから、弥左衛門のほうはそのままにして、こんどは宗助のほうへ向きなおった。
「ところで、宗助さん、こんどはおまえさんに尋ねるばんだが、おまえさん、こんなもの、いったいどこで手に入れなすったのだ。まさか、じぶんの抱いていたものを、知らぬというわけにはいきますまいぜ」
「親分さん」
宗助は真っ青になってふるえながら、
「それが、わたしにはいっこう心当たりがありません。うちを出るとき、わたしはたしかに箱のなかへ、こちらさまのご注文の人形の首をいれて出たのでございます。それが、どうして、いつのまに……」
「かわったか、わからないというのかえ」
「はい、しかし、みちみち考えましたが、ただいちど、あのときに、すりかえられたのではないかと思うふしがございます」
「いいから、そのときのことをいってみねえ」
「はい、それはかようでございます。はなはだ尾籠《びろう》なはなしでございますが、馬道から奥山へはいりましたとき、わたくし、しきりに催したものでございますから、奥山にあるなじみのそば屋へとびこんだのでございます。いえ、なにも食べたいわけではございませんでしたが、といって、ただ厠《かわや》を借りるわけにもいかず、それでいつものはなれ座敷へとおって、そばを注文しますと、すぐそのまま、厠へとびこんだのでございます。むろん、そのあいだ、荷物を座敷のほうへおいておきましたが、すりかえられたとしたら、そのときよりほかにございません。わたし、おなかをこわしておりますので、ずいぶん長くかかりましたから、そのあいだにだれかが……」
「なるほど、そいつは調べればすぐわかることだ。そして、そのそば屋の名は?」
「はい、山東庵《さんとうあん》と申します」
「おい、辰」
「へえ」
「てめえこれからすぐにいって、宗助さんが厠へはいっているあいだ、どんな客があったかきいてこい」
「おっと、合点だ」
きんちゃくの辰はしりがかるい。
返事のなかばで飛びだしていったが、やがてのこと、目をかがやかせてかえってくると、
「親分、わかった、わかった。やっぱりだれか、ふろしき包みをすりかえていったやつがあるんです」
「ふむ、して、それはどんな野郎だ」
「まあ、そう早まりなさんな。こうです、きいておくんなさい」
辰が山東庵できいてきたはなしというのは、こうである。
宗助がとおされたはなれ座敷というのは、ふた間つづきになっている。
宗助はそのおくの部屋へとおされたが、座敷へはいるかはいらぬうちに、ふろしき包みをそこにおき、厠へとびこんだ。そのかっこうがおかしいというので、なじみのお鉄という女中は大笑いしたそうである。
ところが、宗助が厠へとびこんでからまもなく、またひとりの客があった、女である。
紫色の被布を着て、おなじ色のお高祖頭巾で顔をつつんでいたので、人相のところはよくわからなかったが、しずかな部屋をというので、宗助の座敷のとなりへ案内した。
女の注文は、花巻きそばであった。
お鉄は帳場へそれをとおしにいくと、しばらくそこで油を売っていたが、すると意外にも、いま座敷へとおったばかりの女が、ソワソワとおくからでてきて、
「すみません。きゅうな用事を思いだしましたから、そばはいただかずにまいります。お代はこれに」
と、そば代のほかに祝儀もそえて差しだすと、そのままそそくさと立ち去った。
変といえば変だったが、べつに食い逃げされたわけではなし、ままあることなので、お鉄はべつに気にもとめず、帳場で油を売っていたが、やがてはなれで手が鳴るので、いってみると、宗助のそばの催促だった。
「そのとき、お鉄は、ついうっかりしていたが、たしかにお高祖頭巾の女も、おなじようなうこん木綿のふろしき包みを持っていたというんです。なにしろ、うこん木綿のふろしきなんて、そう珍しいものじゃありませんから、お鉄も気にしなかったらしいんです」
なるほど、そういう事実があるとしたら、そのお高祖頭巾の女こそ、宗助の荷物をすりかえていったのにちがいない。
つまり、お浪殺しの下手人は、その女なのだ。
「ふむ、それでなにかえ。顔は見えなかったとしても、なにか、目印になるようなところはないのかえ、その女に……」
「それが、親分、大ありなんで」
「なんだ、ある? してして、どんな目印なんだえ」
「目印も、目印も、その女というのはかたわなんで。つまり、せむしだったそうですよ」
せむしときいたとたん、こんどはそばできいていた弥左衛門が、ううんとばかりにのけぞった。
きょうはよっぽど、うしろにのけぞるのがはやるらしい。
捨てられた娘の執念?
――お咲は生きてるに違いおまへん
「わかった、わかった、わかりましたぜ」
あわを食ったように飛びこんできたのは、うらなりの豆六だ。
その翌日の昼下がりのこと。荷物をすりかえたものがある以上、宗助の疑いははれて、ともかく帰宅はゆるされる。
かっぱらいの八は、べつにこの事件に関係もないので、これはそのまま八丁堀《はっちょうぼり》送り。
のこるはただ、怪しのせむし娘だけだが、山東庵の女中のはなしだけでは、まるで雲をつかむような尋ねものだ。
しかし、佐七にはなにか、期するところがあったかして、そのままふかくも追及せずに、いったんは宅へ引きあげたが、けさになって、豆六を田原町へ走らせ、ひさご屋の内情というのをさぐらせたのである。
きのうのようすからみると、弥左衛門兄妹は、たしかに、なにかせむし娘について心当たりがあるのだ。
まずだいいちに、あのくくりざる。
お長はあれを見るなり気を失ったが、いったい、くくりざるというやつは、背中をまるくして、ちょうどせむしのようなかっこうをしているものだ。
お長はそれを見たしゅんかん、せむし娘がこの事件に関係していることをさとったにちがいない。
弥左衛門にいたっては、山東庵の客がせむしにちがいないと聞かされたしゅんかん、気をうしなった。
さてこそ、佐七はこの一家に、せむしに関するくらい秘密があるにちがいないとみてとったが、はたせるかな。
「あのひさご屋とせむしとは、切ってもきれぬふかい因縁がおまんねん。まあ、親分、きいておくれやす。こういうことだす」
ひさご屋の先代弥左衛門というのは、上州の生まれだったが、これが江戸へ出てきたのは十三年まえのこと。
上州で機屋をしていた弥左衛門は、商売にしくじって、無一物になったばかりか、女房にまで死なれてしまった。
あとにのこったのは、弥左衛門のほかに、そのじぶん弥吉といったいまの弥左衛門に、お長、お浪の親子四人。
弥左衛門はいちじとほうにくれたが、これではならぬと気を取りなおし、江戸へでてひと旗あげるつもりで、子どもたちといっしょに故郷を捨てた。
さいわい、江戸にはおなじ村のもので、かなり成功している知り合いがあった。そのころ、横山町で呉服屋をしていた釜屋仙兵衛《かまやせんべえ》という人物。
これがまことに仏しょうで、微禄《びろく》した弥左衛門にすっかり同情して、なにくれとなく世話をやいたが、やがて田原町に小さい店を出させた。
むろん、資本《もとで》などあろうどうりのない弥左衛門のことだから、品物はみんな釜屋の店から融通してもらったのである。
こうして、弥左衛門一家は、かろうじて口を糊《のり》することができるようになったが、十二年という月日は、かなりいろんな変化を、ひとの身にもたらすものである。
さいしょ、釜屋の情けで、ようやく店を持つことができるようになったひさご屋のほうが、その後とんとんびょうしに大きくなっていったのに反して、釜屋のほうは、することなすこと手ちがいつづき。
あげくのはてには、自火をだして身代は丸焼け。釜屋の亭主仙兵衛は、それを苦に病んで首をくくって死んでしまった。
「かわいそうなのは、あとに残ったおかみさんとひとり娘や。どこかの裏長屋で、食うやくわずの暮らしをしてたそうだが、ここにひどいやつはひさご屋の弥左衛門。いや、いまのやおまへん、先代のおやじだす。もともと、どっちにしてもおなじようなもんやが、むかしあない世話になったことをケロリと忘れくさって、とんと取りあやしまへんのやそうな。しかも、あんた、釜屋のほうがまだ盛大にやってたじぶん、弥左衛門と仙兵衛のあいだに、弥左衛門の息子の弥吉と、仙兵衛のひとり娘お咲と、夫婦にしよちゅう約束までできてたのを、ふいにしてしもて、石町の大問屋の娘をもらおちゅうはなしを、かってにきめてしもたのやそうだす。さあ、こうなると、娘心のひとすじに、あまりの悲しさに、お咲はどっとまくらにつきました。さいわい母親の介抱のおかげで、お咲はどうやら命だけはとりとめましたが、かわいそうに、これがあんた、高熱がたたったかして、生まれもつかんせむしになってしもたんやそうだす」
「ふうん、すると、お咲がせむしになったのか」
「さいだす、さいだす。医者の見立てでも、このせむしばかりは、一生なおらぬいわれたそうや。ところが、あんた、お咲の母親ちゅうのんが、それをきいてから、きゅうに気が変になってしもて、これまた亭主とおなじように、首をくくって死んでしもたんやそうな。いや、もう、かえすがえすも気の毒なこって、あとにのこされたお咲のみじめさは、目も当てられまへん。べっぴんやったそうやが、せむしではどもならん。それで、とうとうこのお咲も、母親の四十九日をすませると、ふいに姿をくらましてしもたちゅうことやが、近所のひとにきいてみたら、きっとどこかで、身投げでもしたんやろちゅうはなしだしたが……」
「なるほど、そんなことがあったのか。それじゃ、弥左衛門やお長が、せむし娘を怖がるはずだな」
「そうだすとも。お咲はきっと、親のかたきのその手はじめに、お浪に手をかけたにちがいおまへんで。そして、あのくくりざるは、じぶんが殺したんやちゅう名札がわりにいれときよったんやな」
「ふむ、そうはなしがわかれば、ともかくいちおう、お咲のゆくえを探してみなくちゃならねえが、長屋の衆に心当たりはねえのか」
「へえ、だれも知らんそうだす。あんなからだで生きてられるはずあらへんで、きっとどこかでひと知れず死んだにちがいないいいよりますけど、これは証拠のないことや。お咲はきっと、どこかに生きてるにちがいおまへん」
「おおきにそんなことかも知れねえ」
佐七はしばらく腕組みをして考えていたが、
「だが、豆六、てめえいま、弥吉には石町から嫁がくるようにいったが、あいつはまだ独身じゃねえか。嫁はこなかったのかえ」
「あ、そのことだすか。いい忘れてましたが、この嫁のはなしもだいたいきまって、いよいよ結納というまぎわになって、むこうのほうでどこからか、お咲の一件をかぎつけたんやな。そんな不人情なやつのところへ、だいじな娘はやれんちゅうわけで、このはなしはおじゃんや。これには先代もひどく落胆して、それが原因で死んだちゅうことだす。やっぱり気がとがめたんだっしゃろが、これも、みんな、釜屋のうらみやちゅう世間のうわさだすわ」
「なるほど。それで、いまの弥左衛門は、まだ独身なんだな、辰」
いままで神妙にひかえていた辰のほうへ、佐七ははじめて向きなおると、
「てめえひとつ、豆六にかわって、お咲という女のいどころを探してみろ。どうで、そういう女の落ちゆくさきはわかっていらあ。物ごいでもして生きているにちがいねえ。ひとつ、非人頭のところでもまわって、せむし娘の物ごいをみたものはねえか当たってみろ」
「おっと合点だ」
辰が入れかわって、こんどはそとへとび出したが、この辰の捜索がいまだ効を奏さぬうち、すなわちその夜のうちに、ひさご屋では、またもや大事件が突発していた。
事件というのはこうである。
忍びこんだせむし娘
――投げつけていったのはくくりざる
非業の最期をとげたお浪の生首を菩提所《ぼだいしょ》へほうむったひさご屋は、その夜、宵《よい》のうちからしめりきっていた。
これがふつうの死にかたならともかく、親の因果が子にむくい、まだ花のつぼみのかわいい娘が、あたら凶刃にたおれたのだから、世間のおもわくもあり、お弔いもごくうちわに、もとより、江戸に親戚とてないうちだから、ほんの弥左衛門兄妹と、奉公人だけですましましたが、さてお弔いがすむと、兄妹ふたり、まるで気落ちがしたようなあんばい。
奥座敷でむかいあった兄妹は、とかくことばもとだえがちで、泣きはらした目を見交わしていたが、いつまでもこうしていてもきりがないと、間もなく、べつべつに臥床《ふしど》にはいった。
ところが、その真夜中のことである。
昼間のつかれでぐっすり眠っているひさご屋の裏木戸から、そっと忍びこんだ影がある。
あいにくのやみ夜のこととて、顔かたちはよくわからぬが、どうやら女であるらしい。しかも、なんとも異様なその歩きかた、背中をまるくして、のろのろと地をはうような素振りは、どうやらせむしであるらしい。
せむし娘――あのお咲だろうか。
せむしは家のなかへ忍びこむと、しばらくあたりのようすをうかがっていたが、やがて忍びよったのは、弥左衛門の寝所のまえ。なんなく雨戸をこじあけると、そっと座敷のなかへはいった。
座敷のなかでは、弥左衛門が眠っている。夢でもみているのか、おりおり、苦しそうなうめき声をたてる。せむしはしばらくじっとその寝息をうかがっていたが、やがて、ギラリと、なにやら光るものを懐中から取り出した。
短刀だ。
さては、いよいよお咲、弥左衛門を殺すつもりとみえる。
やがて、せむし娘はそろそろと、水ぐものように寝床のほうへはいよると、片手でやんわり夜具をおさえ、さっと短刀をふりおろしたが、手がふるえたのか、短刀はぐさりと弥左衛門のほおをさした。
「うわっ!」
弥左衛門は悲鳴とともにとびおきる。
「あっ、人殺し、だれかきてえ」
仕損じたばかりに、せむし娘がしゃにむに、切ってかかるのを、右によけ、左によけ、弥左衛門は夢中でとびおきると、
「人殺し、助けてえ!」
と、となりの部屋にいきかけたが、そのうしろに追いすがったせむし娘は、いきなりぐさりと、肩のうえから突ったてた。
弥左衛門はふすまをひっつかんだまま、仰向けざまにうしろへ引っくり返ったが、そのひょうしに、あいのふすまがバッタリはずれて、その向こうにたっているのは、手燭《てしょく》をかかげた妹のお長。
おおかた騒ぎを聞いて、目をさましたのだろう、ブルブル体をふるわせている。
せむし娘のからだはいっしゅん、お長の手にした燭台のあかりに浮きあがった。
紫色の被布に、おなじ色のお高祖頭巾、たしかに山東庵へあらわれた女にちがいない。
お長は、返り血をあびた恐ろしいせむし娘の顔を、ちらとお高祖頭巾のあいだからみたが、つぎのしゅんかん、
「あれえ」
と叫ぶと、手にしたあかりを取りおとした。
と、ほとんど同時に、せむし娘の手から、なにやら小さなものがお長の足下へとんだが、あとでひろってみると、これがまたまっかなくくりざるなので。
せむし娘はそれきり、ふたたび雨戸のそとへとびだして、おくびょうな奉公人どもがこわごわ起きてきたじぶんには、すでにそのへんには姿もみえなかった。
こういう騒ぎを人形佐七が聞きつけたのは、その翌日の朝のことだ。
これを聞くと、佐七はすぐさま、辰と豆六を引きつれて田原町へかけつけたが、いや、近所はたいへんな騒ぎだ。
なにしろ、ついきのう、非業の最期をとげた妹の葬式を出したばかりのところへ、またぞろこれだから、これじゃあ騒ぐのもむりはない。
「ごめんくださいまし。ゆうべはまたとんだことで」
「おや、これは親分さん、ご苦労さまで」
と、こうあいさつをしたのは、番頭の忠八という男、暗いかおをして、ため息ばかりついている。
「で、どうですえ、だんなの体は」
「はい、これがなかなかの重態で」
「重態? すると、まだ生きてはいらしゃるので?」
「さようでございます。みんな、急所はそれておりますので、命だけは取りとめるかもしれないと、お医者さまはおっしゃいますが……ま、ともかくお上がりくださいまし、お嬢さまもいらっしゃいますから」
「そうですか。では、ちょっと、おじゃまさせていただきましょう」
佐七と辰と豆六が、おくの間へとおってみると、四、五名の見舞い客のなかには、人形師の宗助のすがたもみえた。
なるほど、弥左衛門は身に数カ所の傷をうけ、こんこんとして意識不明だ。
そのそばに、まっさおな顔をして付きそっているのがお長。ときどき、ゆうべのことを思いだすのか、細い肩をブルブルふるわせている。
「親分さん、おいでなさいまし」
「お長さん、とんだことでしたね。とりこみのところを、まことにすまねえはなしだが、おまえさんの口から、ゆうべのことを、くわしく聞きたいと思いましてね」
「はい」
お長が力なくうなずくのをみて、見舞い客はみな座をはずす。お長はそのあとで、ゆうべの出来事を落ちもなく物語った。
「なるほど、それで、おまえさんはあいての顔をよく見ましたかえ」
「はい、あの、いいえ……それが、お高祖頭巾で顔をかくしていたものですから」
「でも、からだのかっこうやなにかでわかるだろう。あいてはたしかにお咲さんでしたかえ」
お咲という名をきいて、お長ははっと身ぶるいしたが、
「さあ、なんとも申し上げかねます。なにしろ、とっさのことでございましたから」
「いや、むりもねえ。それで、ああ、これがゆうべ投げつけていったというくくりざるだね」
佐七はお長の手からくくりざるを受け取ると、しばし、と見、こう見していたが、なに思ったのか、にわかにはっとしたらしく、たもとさぐって取り出したのは、このあいだ生首の箱から見付けたくくりざるだ。
このふたつのくくりざるをならべて、佐七はしばらくじっと思案をしていたが、やがてにんまりとほほえむと、
「いや、お長さん、ご安心なさいまし。いまに敵《かたき》はとってあげます。なあに、お咲のいどころは、たいがいあたりがついているんです」
「まあ、お咲さんのいどころがわかったのでございますか」
「ええ、わかりましたよ。お咲は千住の非人の溜《た》めにいるそうです。三味線がうまいそうで、よく門付けにでるとやら、ああいうからだだから、なに、すぐつかまりますよ」
お長を慰めるつもりだろう、佐七はいつになく大声でこんなことをいう。
これをきいて、おどろいたのは辰と豆六だ。
はてな、親分いつの間に、お咲のいどころを突きとめたのかと、不審そうな顔を見合わせている。
せむし娘の頭巾をとれば
――うわっ、てめえは人形佐七だな
その夜のこと。
ここは千住にほどちかい隅田川ぶち言問《こととい》の渡し場。
いましも、この渡しへついた舟のなかから、しょんぼりと降り立ったひとりの娘がある。
お高祖頭巾で顔をかくしているので、よくはわからないが、背中がふしぜんに曲がって、手にはふるぼけたボロ三味線をかかえている。
娘はその三味線をさむそうにかかえて、とぼとぼと、千住のほうへ歩きだした。
夜はもうだいぶ更けて、あたりにはほとんど人影もない。
渡し舟からあがったひとびとも、すぐ四方へちってしまった。
せむし娘は、川沿いに、うつむきかげんであるいていたが、と、そのときだしぬけに、暗やみのなかから、声をかけたものがある。
「お咲さん、そこへいくのは、お咲さんじゃありませんか」
「え?」
せむし娘ははじかれたように顔をあげると、きょろきょろとあたりを見まわし、
「あの、どなたさまで?」
と、ことばすくないひくい声。
「わたしですよ。ほら、ひさご屋のお長ですよ」
「え、お長さん!」
せむし娘はぎょっとしたように、よろよろとうしろへよろめく。その鼻先へぬっと立ったのは、まさしくひさご屋のお長である。
お長はいったい、こんなところへなにしにきたのだろう。
「お咲さん、しばらくでしたわねえ。わたしきょう、あなたがこのへんにいるということをきいたものだから、ぜひお目にかかりたくて、さっきからこのへんで待っていたの」
「まあ。そして、どんなご用」
せむし娘はあいかわらず低い声でつぶやくと、そっと顔をそむけている。
お長はその手をとらんばかりにすりよって、
「お咲さん、わたし、あなたにお願いがあるの。ぜひ、きいていただきたいお願いがあるの」
「まあ、わたくしに?」
「ええ、そうよ、お咲さん。あなた、どこかへ身をかくしてくださらない?」
「まあ、どうして?」
「わけは聞かないで。ね、後生だから、そうしてちょうだい。そうしないと、あなたの身に恐ろしいことがおこるのよ」
「あたしの身に――? 恐ろしいことが――?」
「ええ、そうよ。だから、すぐここから身をかくしてちょうだい。溜《た》めへかえっちゃいけません。そんなことをすると、あなたの命があぶないのよ」
「わからないわ、わたし」
「わからなくてもいいのよ。さあ、ここにすこしだけどお金を用意してきました。これを持ってどこかへ逃げて……あっ――」
とつぜん、お長は真っ青になって、うしろへとびのいた。
そのとき、豆絞りのほおかむりをした男が、ぬっとふたりのあいだに割ってはいったからである。
「お長、出過ぎたまねをするんじゃねえ」
「あれ、おまえさん」
お長は必死となって男の腕にすがりつくと、
「お咲さん、逃げて! はやく、はやく、早く逃げて!」
「どっこい、こいつを逃がしてたまるもんか」
豆絞りの男は、いきなり猿臂《えんび》を伸ばして、むんずとせむし娘の腕をとらえると、かくし持った短刀をぎらりと引きぬき、さっとばかり切りつけたが、そのとたん、これはまたいったいどうしたことか。
「うわっ」
と叫んで大地のうえへ投げだされたのは、せむし娘ではなく、はんたいに、切りつけた豆絞りだった。
「あれえ!」
お長がおどろいてうしろへとびのいたときだった。
「人形師の宗助、味なまねをしやアがるなあ」
意外とも意外、せむし娘の頭巾のなかから、たたきつけるようにもれたのは、思いがけなく、たくましい男の声なのだ。
地面にはった男はぎょっとして、あいてのすがたを見なおしながら、
「だれだ! そういうてめえは、いったいだれだ」
のけぞるような声なのである。
「おれだよ、はっはっは、どうだ、宗助、これでもいくらかせむし娘に見えたかえ」
いまのいままでせむしのように曲がった背が、にわかにしゃんと伸びたかとおもうと、頭巾をとった男の顔が、河原のやみにわらっている。
その顔をおりからの星明かりにすかしてみた人形師の宗助、
「わ、わりゃ人形佐七だな」
「そうよ、その人形佐七が、せむし娘にばけての茶番の一幕、どうだ、宗助、おどろいたかえ」
それを聞くより、さっきから、ぼうぜんとしてその場に立ちすくんでいたお長は、にわかにはっと身をひるがえすと、土手づたいに逃げていく。
「それ、辰、豆六、お長を逃がすな」
声におうじて、河原のやみからバラバラとおどりだしたのは辰と豆六だ。
「親分、そっちのほうは大丈夫ですかえ」
「おお、この宗助はひきうけた。それより、お長をつかまえてこい。もし、無分別なことをするようじゃかわいそうだ」
「よっしゃ。そんなら、お長は引きうけましたさかいに、悪党のほうはよろしゅうお頼みしまっせ」
辰と豆六がお長を追って土手のかなたに消えたあとでは、人形師の宗助、五体がしびれたように、その場に立ちすくんでいる。
たくらみにたくらんだ悪事も、ここにみごとに暴露したことをさとった宗助、ギリギリと歯ぎしりをしながら、
「それじゃ、お咲が千住の溜《た》めにいるといったのは、ありゃみんなうそだったのか」
佐七はせせらわらいながら、
「そうよ、てめえをここまでおびき出すためのでたらめよ。なあ、宗助、お咲にばけて、弥左衛門を殺そうとしたてめえが、お咲に化けたおれの手にかかるというのもなにかの因縁、神妙になわにかかってしまえ」
「なにをしゃら臭い。こうなりゃ破れかぶれだ。人形造りの宗助が、冥途《めいど》のみちづれに、人形佐七をつれていくのもおもしろい、覚悟しやアがれ」
逆手に持った匕首《あいくち》で、ぐさっと突いてかかるのを、たくみにはずした人形佐七、はずみをくった宗助、たたたたとまえへ泳ぐやつを、うしろからどんとけったからたまらない、宗助は思わずうわっとまえへつんのめる。
その背中からおどりかかった佐七は、匕首をけとばすと、なんなく捕りなわをかけてしまった。
おりからそこへ、糸のきれた奴凧《やっこだこ》のように舞いもどってきたのがうらなりの豆六で。
「親分、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」
「なんだえ、豆、お長がどうかしたのかえ」
「どうもこうもおまへんわ。この寒いのに、土手のうえからだんぶとばかり、水のなかに飛びこみよった」
「おお、そうして辰は」
「兄いもそれをみるとすぐあとから、これまたざんぶり飛びこまはりましたけど、この暗がりでは、しょせんお長は見っかりまへんやろ」
「そうか、お長は身投げをしたのか。宗助、これもなにかの因縁だろうが、おまえ、お長を不憫とはおもわねえのか」
「いや、親分、恐れ入りました」
と、宗助はようやく観念のほぞをきめたとみえ、捕りなわのかかった両手をついて、神妙に恐れ入ったのである。
山東庵の奇術の種
――考えたも考えたり宗助の悪計
「それにしても、かわいそうなのはお長という娘さ。悪いやつに見込まれたばかりに、しらずしらずのうちに悪事の片棒をかつがされ、あげくのはてが投身自殺、これもやっぱりせむし娘の執念かもしれねえが、ふびんなことをしたものよなあ」
その翌日、お長のあわれな死体が水のなかからあがったとき、佐七は憮然《ぶぜん》として、そうつぶやいた。
「それにしても、ねえ、親分」
「なんだえ、辰」
「おいらにゃなにがなんだか、さっぱりわけがわからねえ」
「なにがわからねえんだ」
「だってさ、あの言問の暗がりで、せむし娘に化けた親分に切りつけてきたのが、人形作りの宗助とわかったときにゃ、おいらも豆六も、あまりのことに肝をつぶしてしまいましたよ」
「そやそや、兄いのいうとおりだす。ほんなら、親分」
「なんだえ、豆六」
「お浪という娘を殺したんも、やっぱりあの人形師の宗助だすかいな」
「そうよ、お浪を殺したのも、弥左衛門を殺そうとしたのも、みんな宗助のしわざだよ」
「それじゃ、親分、じぶんで殺した娘の生首を、のこのこ持って歩いていたんですね」
「そうよ」
「そやかて、それはあんまり大胆な」
「そうだ、大胆といえば大胆だが、またこれくらい悪賢いやつもねえ。観音さまの一件だって、あいつちゃんと計算に入れておいたにちがいねえ」
「観音さまの一件というと、いかりの八のかっぱらいの一件ですかえ」
「そうよ」
「ほんなら、親分、あのかっぱらいはなれあいやったと……」
「まさか、なれあいじゃねえだろう。しかし、宗助は馬道に住んでるんだ。八の顔をしらねえはずはねえ。その八があのへんをうろちょろしてるのを見たもんだから、わざとかっぱらわせるようにしむけたにちがいねえ」
「親分、そりゃまたどういうわけで」
「兄い、そらわかってまんがな。わざとああいう騒ぎをおこして、いったんは疑いをうけておき、あとからそれを晴らそちゅうわけや。なあ、親分、そうだっしゃろ」
豆六はしたり顔である。
「あっはっは、こういうことは、万事、豆六のほうがわかりがいいようだな。宗助にゃちゃんと山東庵のからくりでいいぬけのできる用意がしてあったんだからな」
「山東庵のからくりなら、あっしにだってわかってまさあ」
辰は不平そうに口とんがらせて、
「あれゃ、親分、こうなんでしょう。山東庵なら、あっしもちょくちょくいきますから、あそこの勝手はよくしってますが、山東庵のはなれの厠《かわや》のすぐよこにゃ、裏手へぬけるしおり戸がついてます。宗助め、いったんその厠へとびこんだが、女中がいなくなると、すぐその厠からとびだして、しおり戸からそとへ抜け出したんですね」
「そやそや、兄い、それから、かねて用意のお高祖頭巾を被布を着て、せむし娘になりすましよったんだすな」
「そうよ、それからまたぞろ、山東庵の表口からはいっていったのよ。おおかた、うこん木綿のふろしき包みをもうひとつ、裏口あたりにかくしておきゃアがったにちがいねえ」
「そやそや、兄いのおっしゃるとおり、のたまうごとしや。それから、またもやすまして離れへとおると、じぶんでじぶんの荷物をすりかえ、口実をもうけて、すぐまた表へ出ていきよった」
「そうだ、そうだ、それからまた宗助に立ちかえって裏口から忍びいり、すまして離れから手をたたく……と、親分、こういう寸法だったんでしょう」
「そや、そや、兄いの明察、恐れいりましたといいたいところやが、そやけどなあ、兄い」
「なんだ」
「わてらなんでそのことに、もっとはよ気がつかへなんだやろ。せめて、宗助をつかまえるまえにやな」
「べらぼうめ、それにもっと早く気のつくようなお兄さんなら、とっくに一人前の御用聞きになってらあな。おれにしてもてめえにしてもよう」
「すると、なんだすかいな。わてらいつまでたっても、ひと山いくらの三下だっかいな」
「豆六、それがいまはじめてわかったのか」
「あっはっは、まあそういうな」
と、佐七はわらって、
「そう悲観したものでもねえ。こんどの場合は、おまえらより宗助のほうが利口すぎた。観音さまの騒ぎにしても、われわれがあそこにいることに気がついていて、それも計算にはいっていたかもしれねえ」
「つまり、人形佐七親分にひとあわふかせたろちゅういたずらごころだすな」
「そうよ、宗助は自信満々だったからな。ひと騒ぎさせるのが面白かったにちがいねえ。だけど、そういう自信が、とかくつまずきのもとになるんだなあ」
「しかし、親分はいつごろから、宗助を怪しいとおにらみになったんで。はなから山東庵のあれ、宗助のからくりだとしっていなすったんで」
「まさか、おれも神様じゃねえ。はなはおれもまんまと宗助のあのからくりにひっかかってたんだ」
「それじゃ、いつから……?」
「いや、おれが変だと思いだしたのは、田原町の弥左衛門切りの一件があってからのことだ」
「そうそう、あれやア女のしわざとしちゃ、少し荒っぽすぎましたからね」
「ましてや、かたわ娘のしわざとしたらなおのことやな」
「そうそう、おまえたちのいうとおりだ。そこで、こいつ、だれか男がお咲に化けているんじゃねえかと思ったのと、つぎにゃお長がその男をしってるんじゃねえかと考えたんだ。それというのが……」
と、佐七はそこで、ふたつのくくりざるを出してみせると、
「こっちが弥左衛門切りのあった晩、せむし娘に化けた宗助がお長に投げつけていったくくりざるだが、見ねえ、この四つの脚のしばりかたが、ふつうのくくりざるとちがっている。そのうちのふたつ、つまり二本の手にあたるのが、さるの顔、ほら、ちょうど目にあたるところで結んである。つまり、さるが手で目をかくしているんだ」
「あっ、親分、それじゃこれは、見ざる、聞かざる、言わざるの見ざるですね」
「ああ、なアるほど」
と、豆六はもうひとつの生首の箱から出たくくりざるを取りあげて、
「親分、こっちは見ざる、聞かざる、言わざるの言わざるや」
「そうよ、だから、下手人はてっきりお長のしってる男とにらんだんだ。なにごとも見るな、なにごとも言うなというのが下手人のなぞ、それがちゃんとお長にも通じていたんだな」
「なるほど、そういうところから、山東庵のからくりを見破っていきやはったんやな、やっぱり、目のつけどころがちがいまんな。見ざる、聞かざる、言わざる……だったか」
「考えるほうも考えるほうだが、それを見破るほうも見破るほうだ、なあ、豆六」
「あっはっは、おだてたってなんにも出ねえよ。そこで、まあ、下手人はお長のしってる男とにらんだから、そこでひとつハッタリをかけてやったのさ」
「お咲が千住の非人の溜《た》めにいるってことですね」
「そうそう、ここでほんもののお咲があらわれちゃ、下手人はさぞ困ることだろうからな」
「そら、そうや、じぶんの悪だくみが、みんなばれてしまいよるもんな」
「そこで、お玉が池の佐七|扮《ふん》するところのせむし娘というお茶番ができあがったんだが、それにしても、あそこへお長がとびだしたにゃアおどろいたぜ。それじゃお長は、下手人をしってるばかりじゃなく、下手人とぐるになってるのかと思ったが、そうじゃなくて反対に、お咲を助けようとして、宗助の先回りをしてきたんだ。それを思うと、お長という娘をみすみす殺してしまったのが、おれにゃどうもふびんでならねえ」
佐七はちょっとしんみりしたが、そのとき辰がひざのりだして、
「それじゃ、親分、お咲というせむし娘は、この一件にゃまったく関係はなかったんですね」
「うん、これほどの大騒ぎになっているのに、お咲という娘がでてこねえところをみると、ひょっとすると、とっくのむかしに死んでしまったのかも知れねえな」
佐七は、お長といい、お浪といい、さてはまたお咲という娘といい、あわれな娘の最後のかずかずに、おもわず長嘆息をもらしたのである。
宗助はひさご屋へ出入りをしているうちに、根が女好きのするたちだから、いつしかお長とできてしまった。
さあ、こうなるとこいつ欲がでて、兄の弥左衛門さえいなければ、お長の婿になって、財産横領できるとばかりに、たまたまお長の口からきいたせむし娘お咲の因果話をネタにして、ああいうあくどい狂言を書いたのであった。
お長はさいしょのうちこそ、なにも知らなかったとはいえ、弥左衛門が切られた晩には、はっきりせむし娘の正体を見届けたにちがいない。
見届けたからこそ、先まわりをして、お咲を救おうとしたのだろう。
お波の首なし死体は、宗助の仕事場の床下からでてきた。
お浪は宗助のところへ遊びにいっていて、そこでくびり殺されたうえ、首をおとされ、床下ふかく埋められていたのである。
宗助はそのご間もなく、引き回しのうえ処刑されたが、お長にとってはかりそめにも二世をちぎった男のそんなあわれなすがたをみるよりか、ああして水にはまって死んだほうが、どれくらいしあわせだったかもしれぬ。
弥左衛門はさいわいいのちを取りとめたものの、この事件がたたったのか、しだいに商売が左前になって、これも釜屋のたたりであろうと、一念発起、それからまもなく坊主になったということだ。
お咲の消息はそのごも杳《よう》としてわからない。
これはやっぱり長屋の衆や、人形佐七の推測どおり、どこかの淵川《ふちかわ》へ身を投げて、ひとしれず死んだのかもしれぬ。
してみると、こういう事件も、やっぱり彼女の執念のせいではないとはいえないのである。
睡《ねむ》り鈴之助
非人のけんか
――亭主《ていしゅ》が業平《なりひら》なら女房は小町
鐘ひとつ売れぬ日はなし、といわれた江戸の春のにぎわいを、ここにあつめた両国の広小路で、ある日、世にもへんてこな騒ぎがもちあがった。
橋のたもとにあるももんじ屋へ、猪《しし》の肉なんか売りにきた、年のわかい、いい男の非人が、ふうの悪い三人づれの中間《ちゅうげん》に、けんかをふっかけられたのである。
「やい、やい、やい。このどこじきめ、なんの遺恨があって、このおれさまにぶつかりやがった」
「なにもおいらのほうからぶつかったわけじゃアねえ」
「なによ」
「そうじゃねえか。おれが右へよければ右、左へよければ左と、てめえのほうから、ぶつかってきやアがった。なんの遺恨があってとは、こっちのほうからいうせりふだ」
「あれ、こいつ人別はずれの非人のぶんざいで、利いたふうなことをぬかしやアがる。それ、袋だたきにしてしまえ」
「なに、袋だたきにする。こいつはおもしろい。どこの折り助かしらないが、この鈴之助を手込めにできるものならやってみろ」
「おお、やらいでか。それ、みんな!」
と、こういうわけで、三人の折り助とひとりの非人のあいだに、大立ちまわりがはじまったから、さあたいへん、なにしろひとの出盛りの両国広小路。
「それ、けんかだ、けんかだ」
と、四方八方から野次馬がとんできて、あたりはたちまち黒山のようなひとだかり。
なかにはこのへんの顔役もいないではなかったが、なにしろあいてが悪い、たちの悪い折り助と非人のけんかだ。うっかり仲裁にはいると、あとでどんなとばっちりを食うかしれたものではないと――だれひとりとめにはいろうとするものもなかったから、けんかはいよいよ花がさいた。
そもそも、この非人は名前を鈴之助といって、浅草の非人|頭《がしら》善七の手にぞくするもの。
としは二十六、七、日ごろはいたっておだやかな気性のうえに、男振りがめっぽういい。
油壷《あぶらつぼ》からぬけでたような男、しんしんとろりとよい男、水のたれるような男振り、と、どんなことばを使ってもつかい切れぬ男振り。だから、このかいわいでも、業平《なりひら》鈴之助といえばだれひとり知らぬものはない。
わかい娘のなかには、あれが非人でさえなければ……と、ため息をつくものもあるくらいで、これが道をいくと、女という女がことごとくふりかえる。
つまり、それが三人の折り助の気にさわったのである。
「なに、あれが業平鈴之助という非人か。非人のぶんざいで業平がきいてあきれる。おい、みんな、けんかをふっかけて、袋だたきにしてやろうじゃねえか」
「おもしろい、やれやれ」
というわけで、りふじんなけんかの押し売りということになったのだが、おっとどっこい、この鈴之助というのがめっぽう強い。
みたところ、ほっそりとしたやさ男だが、どうしどうして、筋金入りの身のこなしの敏捷《びんしょう》さ。右にとび、左にかわし、たくみに三人の木太刀をさけながら、すきをみて手もとへとび込むすばやさ、袋だたきにするはずの三人が、あべこべにたじたじという形勢だ。
これを見てよろこんだのは見物の野次馬だ。このへんの連中は、みんな鈴之助びいきだから、
「えれえぞ、鈴之助、しっかりしろ」
「業平、しっかりしろ。日本一」
などというさわぎ、これには三人の折り助め、すっかりあわをくった。
ながびけば、非人のなかまがやって来ないものでもない。といって、いまさらけんかをやめて逃げだすわけにもいかぬとあって、にわかに、うろうろきょろきょろしはじめたが、そのうちに中のひとりが目をつけたのは、野次馬のなかにまじっていた魚屋のてんびん棒だ。
やにわにこれを取りあげると、いましもほかのふたりをあいてに、大立ちまわりをえんじている鈴之助のうしろから、脳天めがけてガーンと振りおろしたからたまらない。
「あっ」
とさけんで、鈴之助はあおむけざまにひっくり返った。
「ざまアみやがれ」
「それ、兄い、いまのうち」
「おっとがってんだ。ふたりとも来い」
ここが潮時とばかりに、三人の折り助、野次馬をかきわけて、こそこそと逃げていく。あとには鈴之助がただひとり、往来のまんなかにひっくり返っている。どうやら気を失っているらしい。
それをとりまいて野次馬は、くちぐちに折り助のひきょうさをののしっていたが、さりとてあとを追うものもなく、また鈴之助を介抱してやろうというものもない。なにしろ、あいては非人である。内心では同情していても、さわらぬ神にたたりなしで、ただわいわいと騒ぐばかり。
と、おりからそこへ、注進するものがあったのだろう。手に手に棍棒《こんぼう》ひっさげた非人が数名、バラバラと駆けつけてきたが、なかにまじっていたのがひとりの女非人。
鈴之助のようすを見るより、
「あれ、おまえさん」
と、血相かえてとりすがった。
「おまえさん、しっかりしておくれ、ええ、もう、だれがこんなひどいことを」
と、涙ぐんでおろおろ声。
ほかの非人は野次馬に、けんかの子細をきいていたが、あいてが逃げたときくと、じだんだ踏んでくやしがり、
「ねえさん、ひとあしおそかった。畜生ッ、折り助め、どうしてくれよう」
「そんなことはどうでもよいから、うちのひとをなんとかしておくれ。このまま死なしてしまっちゃ、わたしも生きちゃいられない」
ときいて、こちらの野次馬、
「もし、ちょっとおたずねいたしますが、あれが鈴之助の女房ですか」
「そうですよ。お小夜《さよ》といって、浅草の溜《たま》りじゃ評判の女です」
「なるほど、鈴之助もいい男振りだが、あの女もめっぽううつくしいじゃありませんか。鈴之助が業平《なりひら》なら女房は小町というところですな」
などとこごえでささやいているが、こちらは業平鈴之助、お小夜の介抱がとどいたのか、やがてぱっちり目をひらいたから、
「あれ、おまえさん、気がついたかえ」
お小夜はさもうれしげにとりすがったが、ところがそこに、世にもへんてこなことが持ちあがったのである。
鈴之助はしばらくびっくりしたように、お小夜の顔を見つめていたが、やがてあいてをつきのけると、
「お女中、おてまえはどなたでござる」
そういうことばもすっかり武家ふうだから、お小夜はもうすにおよばず、なかまの非人も、見物の野次馬も、思わずあれっとばかりに顔見あわせた。
非人侍言葉
――おまえさまは三年眠っていたので
「え、え、ええ?」
お小夜もびっくりしたように鈴之助の顔を見なおしていたが、またぴったりと寄りそうと、
「あれ、いやだよ、おまえさん、なにを言ってるんだねえ。わたしゃ、おまえの女房お小夜じゃないか」
鈴之助は顔色かえて、
「これはけしからん。この鴨下《かもした》鈴之助、いまだ女房などもったおぼえはござらぬ」
しかつめらしい侍言葉に、こんどは野次馬、どっとばかりに笑いくずれたが、その声にはじめて気がついたように、鈴之助はきょろきょろあたりを見まわして、
「これはいったいどうしたことじゃ。拙者はどうしてこんなところに寝ているのだ」
と、ふとじぶんのみなりに目をおとして、
「やあ、やあ、やあ」
と、のけぞるような驚きよう。
「この衣類はどうしたものじゃ。このむさくるしい衣類は――? おお、大小もない。これ、お女中、拙者の大小をいかがした。拙者の衣類をどこへやった」
詰めよられたが、お小夜はそれに答えない。
いや、答えようにも、ことばが出ないのである。あえぐように息をはずませ、ただまじまじと鈴之助の顔を見るばかり。
こうなると、いままでわいわいとさわいでいた野次馬も、ぴたりと鳴りをしずめてしまった。なんだかようすがへんなのである。
「どうしたんでしょう。鈴之助のやつ、気が狂ったのでしょうか」
「そうかもしれませんねえ。さっき、ぶん殴られたとき、きっと打ちどころが悪かったのですよ」
「それにしても、いやに侍言葉が板についてるじゃありませんか。それに、大小をどうしたとか、衣類をどこへやったなどといっている」
「鴨下鈴之助となのりましたねえ」
「どうもようすが妙ですよ」
などとふしぎそうに顔見合わせているが、こちらはなかまの非人だ。鈴之助のようすをみると、心配そうによってきて、
「これさ、これさ、兄い、どうしたもんだ。なにをそんなにぼんやりしているんだ。物忘れをするにもほどがあるぜ。げんざいじぶんの女房を忘れるやつがあるものか」
「そのほうはなにものだ」
「あれ」
と、非人は顔をしかめて、
「いやんなっちまうな。あっしがわからないんですかえ。あっしゃおまえの弟分、八十松《やそまつ》じゃありませんか」
「八十松――? 知らんな。拙者はそのようなむさくるしい弟分を持ったおぼえはないぞ」
「むさくるしい?」
「おお。なんでもよいから、拙者の衣類大小をこれへだせ」
「あれ、まだあんなことをいっている。伊太八《いたはち》、こりゃどうしたもんだろう」
「兄い、もし、鈴之助兄い、しっかりしてくださいよ。ねえさんもあんなに心配していなさるじゃアありませんか。よく気を落ちつけてくださいよ。衣類大小を出せなんて、おまえさんはそこに、いっちょうらを着ているじゃありませんか。それに、人別をけずられた非人に、大小などがあるはずがないじゃありませんか」
「非人――? 非人とはなんだ」
「あれ、妙だな、これは? 非人とは、おまえさんのことですよ。いや、おまえさんばかりじゃない。そこにいるねえさんも非人なら、この八十松も伊太八も非人、みんな浅草の善七親分の手下じゃありませんか」
「おのれ、たわけものめ」
鈴之助の額に、さっとあおじろい稲妻がひらめいた。
「いわせておけば無礼なやつ、品《しな》もあろうに武士をとらえて非人などとは……おのれ、言語道断。拙者は鴨下鈴之助と申してれっきとした武士。ええい、非人などとはきくもけがれだ」
バリバリバリと歯をかみならすけんまくに、八十松伊太八の両人はじめ、なかまの非人はあっけにとられて顔見あわせている。
「伊太八、こりゃどうしたもんだろう。まったく手がつけられねえ」
「ふむ、どうやら頭にきてるらしいが、このままうっちゃっておくわけにゃアいかねえ。とにかく、小屋へつれてかえらにゃ……もし、兄い、鈴之助兄い、なんでもいいから、あっしらといっしょにかえっておくんなさい。ほら、ねえさんがあんなに心配していなさるじゃないか」
と、そばへよって手をとろうとするのを、鈴之助が、
「ええい、無礼者!」
と、振りはらったひょうしに、伊太八はもんどり打って土のうえにへたばった。
「おお、いてえ、ひでえことをするじゃねえか。たいしたバカ力だ」
「ああ、もし、八十松つぁんも伊太八さんも、ちょっと待っておくれ。あの、もし」
さっきからまじまじと鈴之助の顔色をながめていたお小夜は、そのとき、つと土のうえにすわりなおすと、
「鈴之助様、それじゃあなた、気がおつきになりましたか」
と、ぴたりと両手をつかえた目から、はらはらと涙があふれてきたから、あたりの野次馬は二度びっくり。
「あれ、ごらんなさい。こんどはお小夜のようすがかわってきましたぜ」
「まったくだ。いやにあらたまったじゃありませんか。どうしたんでしょう。気ちがいというものはうつるもんでしょうか」
「しっ、だまって聞いていなさい。なんだかおもしろくなってきましたぜ」
鈴之助はふしぎそうにまゆをひそめて、
「お女中、気がついたかとはえ?」
「ああ、あなたは気がおつきになられたのです。正気にかえられたのでございます。鈴之助様、きょうという日を、この小夜は、どのようにお待ちもうしていたでしょう。あなたさまは眠っていられたのでございます。三年のあいだ――三年というながい年月を眠っていられたのでございます」
「なに、拙者が三年眠っていたと?」
鈴之助はあきれかえったように、お小夜の顔を見なおしたが、これには見物もあっとばかりにおどろいている。
「はい、さようでございます。あなたさまが眠っていられたばっかりに、わたしゃどのようにつらい悲しい思いをしたことでございましょう。あられもない汚名をきせられ、あろうことかあるまいことか、あさましい非人の境涯《きょうがい》におとされて……」
と、お小夜はわっと土のうえに泣きふしたのである。
心中お小夜鈴之助
――善七が涙ながらに物語る一条は
「――というわけで、親分、あっしにもなにがなんだかわけがわかりません」
その夜のことである。神田お玉が池の人形佐七のうちでは、きょう昼間、両国広小路をとおりかかって、あの騒ぎのいちぶしじゅうを見てきた辰と豆六が、きつねにつままれたような顔色だった。
佐七もまゆをひそめて、
「ふうん、それは妙な話だな。その鈴之助という非人が、三年のあいだ眠っていたというんだな」
「へえ、さよさよ、げんざいの女房がそういいよりまんねん」
「それで、鈴之助というのはどうした?」
「それがね、はじめのうちは、あっけにとられた顔をしていましたが、お小夜がなにやらくどくどいうているうちに、合点がいったかいかねえか、ともかく往来では話がならぬというので、お小夜やほかの連中といっしょにひきあげていきました」
「なんでも、よっぽどびっくりしたような顔色やったなあ」
「ふうむ。妙なことがあればあるもんだな。げんざいの女房の顔を忘れるさえあるに、その亭主をつかまえて、あなた、気がおつきになりましたかと女房がいうんだな」
「へえ、そうなんで。話がまったくあべこべだから妙です」
「いったい、三年のあいだ眠っていたというのは、どういうわけだろう」
と、佐七が小首をかしげるそばから、女房のお粂《くめ》もまゆをひそめて、
「そして、辰つぁん、豆さん、そのふたりというのは、腹からの非人じゃないんだね。いったいどうして、そんなあさましい境涯に落ちたんだろう」
「おっと、それそれ」
と、辰は思いだしたようにひざをすすめて、
「おれも妙だとおもったから、そばにいるやつに聞いてみましたら、そのお小夜鈴之助というのは、心中のやりそこないだということです」
「あっ、なるほど」
佐七もおもわずひざをたたいた。
享保のお定め書きによると、相対死のいっぽうが生きのこったばあいは、あらためて死罪、両方ともたすかったばあいは、三日間、日本橋でさらしものにしたあげく、非人頭の手に下げわたされ、非人の境涯におとされることになっている。
お小夜鈴之助は三年まえに、その心中をやりそこなって、ご法どおり非人の境涯におちたものだというのである。
「それにしても、おかしいじゃないか。心中をするくらいなら、よっぽどふかい仲にちがいねえが、その亭主が女房の顔を見忘れるというのは、気がへんになったとしか思えねえ」
「そやそや、それをあべこべに、女房のほうが、正気におなりあそばしたかと、涙をながしてよろこびよりまんねん。親分、こら、よっぽどふかい子細があるにちがいおまへんで」
と、四人四様にふしぎそうな顔を見あわせたが、はたせるかな、それからまもなく、お小夜鈴之助心中事件の裏面には、世にも奇怪な秘密の伏在していることが判明したのである。
それは、広小路でああいうさわぎがあってから十日ほどのちのこと。
おなじみの与力神崎甚五郎のもとから、すぐさま出頭せよとのお差し紙。
日ごろからごひいきになっているだんなのことだから、佐七はとるものもとりあえず、辰と豆六をひきつれて出頭したが、さて、座敷へとおされ、ごあいさつもおわって、なにごころなく庭へ目をやった辰と豆六は、そこに平伏している三人のすがたをみると、思わずあっとおどろいた。
「おお、辰、豆六、そのほうどもあれなる両人を存じておるか」
甚五郎のことばに、
「へえ、よく存じております。親分、あれが先日の話の、お小夜鈴之助でございます」
「おお、それではあれが……」
と、佐七の見なおす庭のうえには、むしろをしいて男と女、なるほどどちらもよいきりょうだ。うなだれがちにひかえているそばには、もうひとり、白髪まじりのおやじが矢口の頓兵衛《とんべえ》というつらがまえでつきそっている。
「佐七、そのほうたちはこのあいだの広小路のさわぎを存じておるとみえるな。いかにもあれがお小夜鈴之助、また、そばにひかえているのは非人頭の善七じゃ」
「はっ、なるほど」
「ところが、その善七がの、お小夜鈴之助の両人について、奇怪なうったえをしてまいった。それが事実とすれば、これまことに一大事。また、お小夜鈴之助の両人はまことにあわれなものである。されば、ぜひそのほうの知恵を借りたいとおもって呼びにやった。これこれ、善七」
「へえ」
「これにいるのが、さっきも話したお玉が池の佐七じゃ。そのほうお小夜鈴之助になりかわり、よく事情を説明して、佐七の力を借りるがよいぞ」
「はっ、恐れいります」
善七といえば、非人のなかまではたいした権勢である。
およそ江戸の非人のうちで、この善七か、品川の松右衛門の手にぞくさぬものはない。
つまり、このふたりが、江戸の非人の二大頭目で、市街の清掃、刑場の始末、その他いろいろと、ご公儀の役目をつとめている。
されば、ひとくちに非人頭というと、いかにもおそろしそうにきこえるが、なかなかどうして、ものわかりもよく、義理人情もりっぱに心得ている。
「お玉が池の親分さんなら、ようくお名まえは存じております。もし、親分さん、非人のぶんざいをもかえりみず、こうしてお庭先をけがしましたのも、あまりといえばこの両人があわれなゆえ、鈴之助はこの十日ほどのあいだに、三度も自害しようといたしました。このままにすておきましては、とてもながくは生きておりますまい。親分さん、どうぞこのふたりのぬれぎぬはらして、もとの真人間にしてやってくださいまし」
と、善七が涙ながらに物語った一条というのは……。
小梅の奥の一軒家
――お小夜は何者かにのどをしめられ
いまから三年まえのことである。
お小夜は当時、深川八幡まえにある三桝《みます》屋という矢場で、矢取り女をしていたが、とって十八という番茶も出花のとしごろは、天成の美貌とあいきょうとがあいまって、八幡前のお小夜といえば、そのころ深川でもひょうばんの通りものだった。
お小夜はうまれつきふしあわせな女で、ものごころついたじぶんには、すでに父も母もなく、お蓑《みの》という母方の祖母なるひとの手ひとつで育てられてきた。そのお蓑の話によると、お小夜の母は延光《のぶみつ》といって、清元の師匠をしていたそうだが、お小夜をうむと産後の肥立《ひだ》ちがわるくて、亡くなったということである。
しかし、お小夜の父なるひとについては、どういうものか、お蓑はひとことも語らなかった。生きているのか、死んでいるのか、それすらお小夜にはわからなかった。ただわかっているのは、父のことを切りだすと、日ごろやさしい祖母のお蓑が、うってかわって、なんともいえぬほどおそろしい形相になるということだった。
「おまえのおとっつぁんは鬼だ、畜生だ。二度とあいつのことは聞いておくれでない」
祖母の目つきのあまりのものすごさに、お小夜は二度と父のことを聞こうとはしなかった。
しかし、たとえにもいうとおり、親はなくとも子はそだつで、祖母の手ひとつで、お小夜はやがてりっぱな娘になった。
いわゆる箸《はし》がころげても、おかしいとしごろである。親はなくても、お小夜にはちっとも屈託にはならなかった。天成の美貌にいよいよみがきがかかり、世間の男からちやほやされるにつけても、お小夜は世のなかがおもしろおかしいばかりだった。
そういうお小夜に、まずだいいちにやってきた不幸の訪れは、祖母の死ということである。ほかに親戚のないお小夜は、祖母に死なれると、まったくひとりぽっちだった。
死んでいくお蓑にとっても、それがなによりの冥途《めいど》のさわりで、いよいよいけないと覚悟をきめたとき、お蓑は孫をまくらもとに呼びよせて、こんなことをいった。
「お小夜や、わたしゃどうしてもこんどはいけないらしいが、おまえけっして気をおとすんじゃないよ。おまえのおとっつぁんというひとが、すこしでも人間らしい心をもっているなら、きっとおまえを迎えにきてくれる。わたしやおまえのおっかさんにとっちゃ憎いひとだが、おまえはげんざい血をわけた娘だもの、きっと悪うははからうまい。おまえのおとっつぁんというひとは……おまえのおとっつぁんというひとは……」
と、そこまでいったとき、痰《たん》がのどにひっかかって、お蓑はそれきりあえなくなった。
お小夜は泣くなくのべ送りをすませたが、さて、ひとりぽっちになると、いまさらのように、祖母のさいごのことばが思いだされた。
いままで父を恋しいとも、母を恋しいともおもったことはなかったが、こうして孤児になってしまうと、親恋しの情がしみじみと胸にわいてくる。
祖母のことばによると、父はどうやら生きているらしい。きわどいところで祖母が息をひきとってしまったので、お小夜はとうとうその名をきくことはできなかったが、それでもきっと父が迎えにきてくれるだろうという祖母のことばをたよりに、お小夜はその日を待っていた。
すると、はたして。――
お蓑の初七日の晩だった。八幡裏の長屋に住んでいるお小夜のうちのかどぐちに、一丁の駕籠がついた。
駕籠屋のわたした書面によると、この手紙見しだい、駕籠に乗ってくるように、いさいのことはあったうえで――父より。と書いてあった。
お小夜はその手紙をみると、もうとびたつおもいだった。前後のふんべつもなく駕籠にのったのが、三年まえの弥生《やよい》なかば、世間が花に浮かれているさいちゅうの、宵の六つ(六時)ごろのことだった。
お小夜がかつぎこまれたのは、小梅のおくのさびしい一軒家、駕籠屋はその一軒家の冠木門《かぶきもん》のなかへお小夜をおくりこむと、そのまま引き返していった。
お小夜はあまりさびしいあたりのようすに、なんとなく胸のとどろくものを感じたが、それでも父にあいたさの一心、生いしげった雑草をふみわけ、くらい格子をひらいて、
「ごめん下さいまし」
と声をかけたが、そのとたん、なにやら真っ黒なものがお小夜の頭にかぶさって、あっと声を立てるひまもなく、つよい力がぐいぐいとのどをしめつけた。
お小夜はそれきり気をうしなったが、こんど正気にかえったときは、あろうことかあるまいことか、心中ものの汚名をきせられていたというのである……。
「ほほう、それはそれは……それじゃ、おまえさんは鈴之助さんと心中したんじゃなかったので」
佐七もこの話にはよっぽどおどろいた。おもわずひざをのりだすと、お小夜は涙ぐんだ目をあげて、
「はい。心中どころか、わたくしはこのかたに会うたことも見たこともございませんでした。また、このかたにしてもおなじこと、まったくその日まで、おたがいに知らぬ同士のあかの他人」
「しかし、それがどうして心中などと……」
「いや、その話なら拙者からお話ししよう」
そのとき、横合いからしずんだ声でことばをはさんだのは鈴之助である。あおじろんだほおに沈痛ないろをうかべて、
「あのとき、拙者がふがいなくも気をうしなったばっかりに、お小夜どのにもいかい苦労、また、拙者とてもしらぬこととはいえ、あろうことかあるまいことか、あさましい非人の境涯。――佐七殿、お聞きくだされい」
と、そこで鈴之助が語りだしたのは、いよいよいでていよいよ奇怪な物語。
勤番侍鈴之助
――眠りから覚めれば非人の境涯
鴨下鈴之助。――
かかるはずかしき境涯ゆえ、主君の名ばかりはごめん下されいとことわったが、かれはその春、はじめて江戸へ出てきたばかりの勤番侍だった。
そのとき鈴之助は二十三歳、草深いいなかの藩から、花のお江戸へ出てきたばかりの鈴之助には、見るものきくものがめずらしかった。男も女もあかぬけしてみえたし、食べ物もうまかった。神社寺院の壮麗なことにもおどろかされたし、見世物や芝居もものめずらしく、おもしろかった。
そこで、勤番のひまさえあると、かれは江戸見物にであるいた。
といっても、根が謹直な田舎侍のことだから、べつにわるい道楽にふけるわけではなく、ただ、ものの本に読んでいた江戸の名所旧跡をさぐって歩こうとしていたのだ。
その日――それは三年まえの、弥生なかばのことだったが――鈴之助は勤番にひまがあったので、隅田川をわたって、向島のほうへでかけていった。
あたかも花のさかりの向島には、花見の客がいっぱいだった。あちこちの花のしたには、赤い毛氈《もうせん》をしいて、にぎやかな三味線の音をさせているものもあったし、目鬘《めがつら》をつけて踊っているのもあった。酔っ払ってわるふざけをする中間もあったが、こちらのほうでは、ひとりしずかに発句をひねっている風流人もあった。
これを要するに、すべてが陽気でたのしそうだった。そして、ひとのたのしんでいるさまを見るのが大好きな鈴之助は、ついうかうかと日暮れすぎまで、花のしたのそぞろ歩きをつづけていた。
やがて、気がつくと、日はすでに暮れようとしている。
お屋敷に門限のあるかれは、そこであわてて家路についたが、なにしろ江戸なれない田舎侍のことだから、そのとちゅうで、つい道を踏みまよってしまった。
ひとに聞けばぞうさなくわかることだが、まだとしわかい鈴之助には、田舎侍とみられるのがはずかしかった。
じぶんのひとりがてんで歩いているうちに、いよいよ方角がわからなくなった。
おまけに、日はすっかり暮れてしまって、あたりには人影もない。鈴之助はすっかりとほうに暮れてしまったが、そのとき、むこうのほうからわかい娘が、ばたばたと急ぎあしにこっちへやってきた。
娘は鈴之助のすがたをみると、いよいよ足を早めてちかづいてきたが、まえまでくると足をとめて、
「あの、お願いでございます」
じつは、鈴之助のほうから、道を聞こうとしていたところだが、あいてにそう先をこされたので、
「はあ、なにごとですか」
と、ふしぎそうにあいての顔を見なおした。
「じつは、妹がきゅうに悪くなりまして……ほかにひととてもおりませず、わたくしひとりでとほうに暮れておりまする。ちょっとようすをみてやってくださいませぬか」
すがりつくようにいわれて、鈴之助も困った。
鈴之助はべつに医術の心得があるというわけでもないから、病人をみたところでわかろう道理がない。ことわろうかと思ったが、あいてのあおざめた顔をみると、それも気の毒におもわれた。
「悪くなったといって、どう悪いのですか」
「はい、この冬からずっと伏せっておりましたのが、さきほどよりきゅうにようすがかわってまいりまして……医者のことばによると労咳《ろうがい》とやら」
労咳ときいて、鈴之助はまゆをひそめた。労咳にはいまの季節がいちばん悪いということぐらい、鈴之助も心得ていた。
「そして、ほかにだれもいないのですか」
「はい、姉妹《きょうだい》きりのさびしい暮らし、あの、どうしたらよろしゅうございましょう」
たよりなげなおろおろ声をきくと、鈴之助の気性として、そのままほうっておくわけにはいかなかった。
「よろしい。それではともかくいってあげよう。どうせ、わたしが診てもわかりはしないが」
と、そういうわけで、娘と同道することになったが、とちゅうで鈴之助はふと、奇妙なことに気がついた。鈴之助はその娘に、たしかに見おぼえがあるのである。
さっきかれが花の下をそぞろ歩いているとき、娘もたしかに花のしたをうろついていた。この娘は、妹がそんなにわるいというのに、のんきに花見をしていたのだろうか。――
鈴之助にはちょっと怪しくおもわれたが、根がひとをうたがうことを知らぬ気性だから、だまってついていくと、
「こちらでございます」
と、娘が立ちどまったのは、冠木門《かぶきもん》のついたさびしい野中の一軒家だった。
「妹さんはどちらに……?」
「はい、この奥に――」
門から玄関まで、雑草がいちめんに生いしげっていた。玄関をはいると、むっとかび臭いにおいがした。家のなかはまっくらで、灯のいろも見えなかった。
「さあ、どうぞこちらへ」
まっくらな部屋をふたつ三つ通りぬけると、さいごの座敷には、ぽっとほのくらい行灯《あんどん》がついていた。そして、その光のなかに、なるほど、わかい娘がはでな夜具にくるまって寝ているのがみえた。娘の顔は死人のようにしろかった。
「あれが妹でございます。どうぞみてやってくださいまし」
「承知いたしました」
鈴之助は夜具のそばにひざまずいて、寝ている娘の手をとろうとしたが、そのとたん、うしろからなにやら重いものでガーンと頭をなぐられて――。
「それきり、拙者は気をうしなってしまったのでござる。そして、こんど気がついたときには、両国広小路で非人となって寝ていたのでございます」
きいて、佐七をはじめ辰と豆六、おもわずあっと顔見あわせた。
「そ、それじゃおまえさまは、三年まえに気をうしなってから、十日ほどまえに気がつくまでは、なにごともご存じじゃないので」
「むろん、知っておらば、なんでやみやみ非人の境涯におちましょうや」
「そして、おまえさまがなにも知らぬうちに、心中者にされてしまいましたので」
「いかにも」
鈴之助が無念そうに歯をくいしばったから、佐七と辰と豆六は、またもやあきれかえったような顔を見あわせた。
「親分、それにはこういう子細がございますので」
そのとき、頭の善七がひざをすすめて、
「三年まえの弥生なかばのこと、小梅の一軒家で、わかい男女の心中があるというので、大騒ぎになりました。その一軒家というのは空き家でございましたが、その空き家の奥座敷で、わかいお侍と娘とがのどをついて倒れていたので……」
それが鈴之助とお小夜だったが、だれが見てもそれは心中としかみえなかった。
しかも、幸か不幸か、このふたりは発見されるとまもなく息吹きかえし、ともに命をとりとめたのである。息を吹きかえすと、お小夜は泣いて、じぶんたちは心中者ではない、このお侍はいままで見たこともないひとだと言いはったが、だれひとり、そのことばをとりあげるものはない。
なにしろ、根が水商売の矢場女、それに祖母に死に別れたばかりのことだから、世をはかなんでの死出のみちづれに、このわかい美貌の侍をさそったのだろうということになって、お小夜のふしぎな物語に、耳をかすものはひとりもなかった。
もし、このとき、鈴之助ともどもに言いはれば、あるいは、ふたりのぬれぎぬも晴れたかもしれないが――。
「その鈴之助さまは、なにをきかれても、ただぼんやりとしておいでになるばかり。お名前をきかれたとき、鈴之助とひとことお答えになったきり、――それで、とうとうはずかしい三日間のさらし者、あげくのはてには非人の境涯におとされて――」
と、お小夜はわっとむしろのうえに泣きふした。
善七|義侠《ぎきょう》の三両
――不思議なのは三両の金の出所
きけばきくほどふしぎな話に、一同は舌をまいてあきれるばかり。
おもうに、鈴之助は三年まえに、小梅のおくで脳天をなぐられてから、痴呆《ちほう》状態におちていたのだろう。息は吹きかえしても、魂はながく眠っていたのだろう。
つまり、現代のことばでいえばアムネジヤ、記憶喪失症である。しかも、眠っているあいだの鈴之助は、おだやかですなおな若者だった。
善七の話によると、お取り調べのさいにも、鈴之助はただハイハイとこたえるばかりだったという。非人の境涯におちてからも、頭《かしら》のことばによくしたがい、なかまともよく折り合っていた。こういうふうで、いつか小屋頭にたてられ、お小夜ともずるずると夫婦になってまる三年。
その鈴之助がとつじょ眠りからさめたのは、先日の折り助とのけんかのせいだったらしい。あのとき、てんびん棒でこっぴどくなぐられた鈴之助の頭には、こつぜんとして三年まえの魂がよみがえってきたのだ。しかも、眠りからさめた鈴之助には、眠りのあいだの記憶がまるでなかったのである。
「いや、よくわかりました。お小夜さん、鈴之助さん、この一件は、ともかくあっしにまかせて下さい。きっとあかしは立てますから、ふたりとも短気なことをなさらずに――」
「なにぶんよろしくお願いします」
と、そこで三人のものは一礼してお庭から出ていったが、と思うまもなく、善七ひとりなにか用ありげに引き返してきた。
「おや、善七、なにかまだ用があるのか」
「はい、じつは、あのふたりのまえではいえぬことなので、わたしひとりもどってまいりました。親分、あのふたりについちゃ、まだ妙な話がありますんで――」
と、善七が物語ったのは――。
お小夜鈴之助が小屋へおちてからまもなくのこと、善七のもとへ妙な手紙がまいこんだ。
それによると、じぶんはお小夜鈴之助といささかゆかりの者である。ついては、ふたりのものに月々三両ずつ仕送りをしてやりたいが、直接ふたりに送るのは困るから、おまえさまに取りついでもらいたい。おまえさまは、その金を手にされたら、いっさい事情は話さずに、これがこの境涯の習慣ということにして、ふたりに渡してもらいたい――。
「と、そういうのですが、その金の仕送りかたというのが、また、まことに妙なので――」
しかし、なにをいうにも、われわれは身分ちがいだ。おまえさまに来てもらうのも困るし、こちらから出向くのもつごうが悪い。ついては、毎月、月のついたちに雑司ガ谷|鬼子母神《きしもじん》の境内にある大けやきの根もとを掘ってもらいたい。このことはおまえさまを男と見込んでたのむのだから、かならずともに余人に語らぬよう。また、かならず、かならず、じぶんの素性を探ろうなどとしてくださるな――。
「と、そんなことが書いてありますんで」
と、奇妙な話に、佐七はおもわず甚五郎と顔見あわせた。
「なるほど。それで、おまえさんはその約束を守ってやったんですね」
「はい。それというのが、その手紙には、いちめんに涙の跡がついております。それを見ると、わたしゃもう胸がふさがるような思いで、どうしても頼みをきいてやらずにゃいられなかったので」
「そして、仕送りはずっとつづいておりますか」
「ところが、はじめの一年ほどは、たしかに金が埋めてありました。それが、どういうものか、二年ほどまえからふっつりとだえて……」
「ほほう。それじゃ、お小夜鈴之助も、仕送りがとだえて困りましたろう」
「いえ、あの、それが――」
と、善七は言いにくそうに、
「さいしょ手紙でたのまれたとおり、これが非人の習慣と、ふたりに言ってあるものですから、仕送りがたえたとてわたさぬわけにゃまいりません。そこで、わたしが取りかえて――」
あっと一同は顔見合わせた。甚五郎も感服したようにひざをすすめて、
「えらいな、善七。それじゃ、そのほうは二年のあいだ、なんにもいわずに自腹を切っていたのか」
「いえ、なに、あのお小夜鈴之助というやつは、そろいもそろって気性のよいやつでございますから、ついふびんがかかりまして。しかし、親分、このことはかならずふたりにないしょにお願いいたします」
いうだけのことを言ってしまうと善七は倉皇《そうこう》としてかえっていったが、あとでは四人がまた顔を見合わせている。
善七の義侠心《ぎきょうしん》も義侠心だが、ふしぎなのは三両の金のでどころだ。
「佐七、ひょっとすると、それがお小夜の父親ではあるまいか」
「へえ、あっしもそうにちがいねえと思いますが、しかし、仕送りがとだえたのは?」
「されば、おおかたこの世を去ったのであろう」
だが、それだけでは説明しきれぬなにやらふしぎなものを、佐七は胸のうちにかんじていた。
山吹屋お藤《ふじ》
――権兵衛が種まきゃからすがほじくる
「親分、それじゃおまえさんは、お小夜の父親はまだ生きているとおかんがえで?」
「そうよ、神崎様はああおっしゃるが、おれにはそうとしか思えねえ。まあ、きけ。こうよ」
ここは雑司ガ谷の鬼子母神、その境内にある茗荷《みょうが》屋という茶店のおくで、佐七はさっきからなにごとかを待ち受けている。
きょうは三月の三十日、お小夜の父が生きていて、まだ仕送りをつづけているとすれば、当然やってくる晩だった。
「善七の話によると、手紙のうえにゃ涙のあとがポタポタとついていたという。親の身としちゃむりもねえ。名乗って出たいが、あいてはあさましい非人の境涯、世間への外聞もあるから、じっと歯をくいしばって、さてこそ、暮らしに不自由のないように、金だけしおくろうというのだろうが、それじゃなぜ、仕送りをつづけねえのだ。送れねえならおくれねえと、なにか善七のもとへ言ってきそうなもの。また、死んだものなら死ぬまえに、まとまったものをふたりに残してやろうという才覚ぐらいありそうなもんじゃねえか。それがいっさい音さたなしで仕送りをたったというのがおれにゃわからねえ」
「そやけど、親分、現に仕送りがたえてるんやさかい、しよがおまへんやないか」
「それよ。そこになにか、あやがありゃしないか、仕送り手のほうじゃいまもって、金はぶじにとどいているものと仕送りをつづけているが、そいつを横からちょろまかして、――あっ、ふたりとも黙ってろ」
そのとき、茗荷屋の店先へはいってきたひとりの男、年輩は四十五、六か、いっけん大店《おおだな》のだんなとみえるのが、供もつれずにただひとり、いかにも苦労ありげな顔色だった。
「ねえさん、またやすませてもらいますよ」
茗荷屋ではなじみとみえて、
「おや、いらっしゃい。どうぞごゆるりと――いつもご信心なことでございます」
と、女中がくんでだす茶に手をだすでもなく、男はしょんぼり考えこんでいる。まだそれほどのとしともみえないのに、小鬢《こびん》に白いものがみえ、しずんだ顔には苦労のしわがふかかった。
佐七はそっと女中をよんで、
「ねえさん、いま店先へはいってきただんなは、よくこちらへおまいりかえ」
「はい、あのかたなら、いつも月のおわりにお参りでございます。だいじなお子様をうしなわれたとかで、この三年ほど、いちどもお欠かしになったことはございません」
「そして、どこのだんなだえ」
「さあ、お名前は存じませんが、よほどご遠方のようでございます。おお、そうそう、そういえば、いちど、お知り合いのかたにここでバッタリあわれて、あいてのかたが、越前屋さんじゃありませんか、と、声をおかけになったことがございました」
その越前屋とよばれる人物は、それから半刻《はんとき》あまりも店先で首うなだれていたが、あたりが薄暗くなりかけたころを見計らって、ふらりと店をでて、祠《ほこら》のうらへはいっていった。
「ねえさん、あの祠のうらにゃ、たしか大けやきがありましたねえ」
「はい、あのかたはそのけやきがよほどお気に召したとみえて、いつも裏へおまわりでございます」
もう疑いの余地はない。
この越前屋こそ仕送りのぬし、しかも、かれはいまだに仕送りをつづけているのだ。
「なるほど、こら親分のおっしゃるとおりや。だけど、その金はどないなりよりまんねんやろ」
「いいから、もう少し見ていよう。いまにおもしろいことがあるにちがいねえ」
越前屋はまもなく祠の裏から出てくると、あとをも見ずに立ちさったが、と、ほとんど同時に境内へはいってきたのは、二十五、六のわかい男。服装もこざっぱりとして、どこかの若だんなというかっこうだが、気になるのはその目付き、きつねのようにそわそわと、あたりのようすをうかがっていたが、やがてぶらぶら祠の裏へはいっていく。
「あ、あん畜生、親分、きっとあいつですぜ」
「ふふん。権兵衛が種まきゃからすがほじくるだ。これだから、善七の手にわたらねえのもむりはねえ。よし、ひとつあとをつけてやろうじゃねえか」
まもなく祠のうらからでてきた若者は、逃げるように境内から出ていく。三人がそのあとをつけていくと、あいては音羽の通りで駕籠をひろって、やってきたのは柳橋、千鳥という意気なつくりの料理屋だった。
「野郎、こんなところへはいりやがった。ここのおかみなら、まんざら知らぬ仲じゃねえ。ひとつ名まえを聞いてやろうじゃねえか」
三人は店のなかへはいったが、やがておかみから名まえをきくと、あっとばかりに驚いた。
「あのおかたならば、札《ふだ》の辻《つじ》でも名高い呉服屋、越前屋さんの甥御《おいご》さんの与三郎さんとおっしゃいます」
「してして、その与三郎がここで会っているのはどんな女だ。まさか、ひざっ子僧をあいてに飲んでいるんじゃあるめえな」
「はい、それが――おまえさまもご存じでございましょう。芝の神明《しんめい》で名高い山吹屋のお藤《ふじ》さん、地元じゃひとめにつくというので、いつもこちらで――」
ときいて、佐七はぎっくりと目を光らせた。
山吹屋のお藤なら、佐七もよく知っている。うわべはしごくしおらしい顔をしているが、なかなかどうして、ひとすじなわではいかぬ女だ。佐七は、はっとなにかに思いあたったらしく、
「おい、辰、豆六、おまえたちこれからすぐ浅草へいって、鈴之助さんをつれてきてくれ。ちっと鑑定をしてもらいてえものがある」
「おっと、がってんだ」
辰と豆六にもすぐにようすがわかったらしく、足もそらに駆けだしたが、それからまもなくのことである。
奥のほうでにわかに男女のののしりあう声がきこえたかとおもうと、羽織をかかえてとび出してきたのは与三郎だ。なにやら捨てぜりふを吐きながら、そのまま表へとびだしてしまったから、帳場のなかでは佐七があっけにとられた顔。
「おかみ、ありゃアどうしたんだえ」
おかみは薄笑いをうかべながら、
「いえね、ちかごろはいつもああなんですよ。なんでも、与三郎さんに縁談がきまって、ちかく祝言とやらで、お藤さん、すっかりおかんむりなんです」
「それじゃふたりの仲がもめているのか。そいつはおもしれえが、お藤もそろそろかえりゃしねえか」
「どうしまして、これからお藤さんのやけ遊びがはじまるんです。いつもきまってるんですよ」
おかみのことばのとおり、お藤は芸者を呼ぶやら、末社をあげるやら、女だてらに、いやもうだいらんちきを演じていたが、そこへぬっと入ってきたのは四人の男。
「お藤、えろう派手にやるじゃアねえか」
お藤はとろんとした目をすえて、
「おや、おまえはだれだい。なんだって、ひとの座敷をのぞきゃアがるんだ」
「おれか、おれはお玉が池の佐七というものだが、女ひとりの遊びじゃさびしかろうと思ってやってきた。もし、鈴之助さん、おまえさん、あの女に見おぼえはありませんかえ」
鈴之助――と、名まえをきいたとたん、お藤の顔から、さっと酔いがさめていったが、そのとたん、
「おお、き、貴様はいつぞやの小梅の女!」
鈴之助のからだが、ひょうのようにお藤のうえにおどりかかっていた。
この物語も、ここまでくるとおしまいである。
男|伊達《だて》業平鈴之助
――たくみにたくらんだ与三郎の悪計
与三郎に捨てられて、すっかりやけくそになっていたお藤は、佐七に図星をさされると、一も二もなく恐れいって、すぐべらべらとしゃべってしまったが、それによると、事件のあらましというのは、だいたいつぎのとおりである。
ここに芝|札《ふだ》の辻《つじ》で名だかい呉服屋、越前屋与兵衛というのは、まだ部屋住みのころ、お小夜の母親清元|延光《のぶみつ》というのとねんごろになった。
そして、ふたりのあいだにうまれたのがお小夜だが、このお小夜が当歳のとき、与兵衛延光のうえに大きな不幸がもちあがった。
与兵衛のほうに、親のきめた縁談が持ちあがったのである。このとき、与兵衛は延光を捨てる気はなかったが、勝ち気な彼女はひどくそれをくやしがって、与兵衛をのろいながら自害した。
しかも、この延光ののろいをうけついたのが母のお蓑《みの》で、彼女は与兵衛をのろうあまり、孫をかかえて姿をくらましてしまったのである。
いっぽう、与兵衛は親のきめた嫁をむかえたが、延光ののろいがとどいたのか、この夫婦には子どもがなかった。そこで当然、思い出されるのはお小夜のこと。ことに、先年女房に死なれてからというものは、だれはばかるところもなく、手をつくしてお小夜のゆくえを探していたが、これをなによりもおそれたのは、甥《おい》の与三郎だった。
与兵衛に相続者がなければ、当然越前屋の身代はじぶんのものになると喜んでいたところだから、なんとしてもこの捜索をさまたげなければならぬと、警戒おさおさ怠りないところへ、届いたのがお蓑の手紙だ。
お蓑はしょせん助からぬとしったとき、はじめてお小夜のいどころを、与兵衛に知らせてやったのだが、不幸にもこの手紙は与兵衛の手にはいらずに、与三郎の横取りするところとなった。
そこで、与三郎はお小夜を小梅のおくの空き家へ呼びだし、これを殺そうとしたのであるが、ここでかれは非常に悪辣《あくらつ》な計略をめぐらした。
お小夜ひとりを殺しておいては、後日になって与兵衛がそれと知ったとき、きっとじぶんを疑うだろう。そこで、この疑いをさけるため、心中という手を考えたのである。しかし、心中となるとひとりではいけない。あいての男を物色しなければならぬ。
この選択の衝《しょう》にあたったのが山吹屋のお藤で、お藤はいくいく与三郎の女房になって、越前屋の身代を自由にするつもりだったから、一も二もなくこの計画に賛成した。そして、あの日、向島の花見のなかから、鈴之助に白羽の矢を立てたのである。
かくて、与三郎の計略はまんまと図にあたった。
その後、ふたりが生きかえったときいたときには、与三郎も内心ぎょっとしたろうが、それでも心中者ときまって、非人の境涯に落ちたとしって、ほっと安堵《あんど》の胸をなでおろした。
ところで、いっぽう与兵衛だが、これもまもなく、お小夜の居所を知るようになった。
というのは、お蓑は生前与兵衛のところへ手紙をだしたが、いつまでたっても迎えにこないので、また一通手紙をだした。
この手紙は、お蓑の死後、こんどはぶじに与兵衛の手にはいった。
与兵衛はとるものもとりあえず、お蓑のところへかけつけたが、それがお蓑の初七日の夜で、お小夜はたったひと足ちがいで、与三郎に連れだされたあとだった。
そして、それから二、三日後にわかったお小夜の消息、――おお、それは長年探しもとめていた父にとっては、なんという大きな嘆きだったろう。
お小夜鈴之助心中のうわさは、読み売りにまでうたわれたくらいだから、むろん与兵衛の耳にもはいった。与兵衛はさらしものになっている娘のすがたを、よそながらみて血の涙をながした。その娘が非人頭の手に下げわたされたときいて、はらわたもちぎれんばかり嘆き悲しんだ。
こうなっては、いかにかわいい娘でも、親子の名乗りをするわけにはいかぬ。
そこで、せめてその暮らしなりとも助けてやりたいと、善七にあてて、ああいう手紙を書いたのである。そして、三年のあいだ仕送りをつづけていたのだが、どこまでも悪いやつは与三郎で、血の出るようなその金を、あとからまわってこっそり掘り出し、これを酒色についやしていたのである。
その後与三郎は引き回しのうえ獄門、お藤は重追放を申しわたされた。
お小夜鈴之助のふたりは、めでたく非人の境涯から足をあらうことができたが、これをだれよりも喜んだのは越前屋与兵衛で、さっそくお小夜と親子の名のりをし、一件落着ののちには、三人そろって佐七のもとへ礼にやってきた。
佐七もこれをわがことのように喜んで、
「いや、みなさん、おめでとうございます。あっしもこんなに早くらちがあこうとは思いませんでしたが、これもひとえに、越前屋さんのご信心がとどいたのでございましょう。ときに、鈴之助さん、おまえさんこれからどうなさいます。やっぱり、もとの武士におなりでございますか」
とたずねると、鈴之助は首をふって、
「いや、足を洗ったとはいうものの、いちど非人に落ちたこの身、むかしにかえることはあきらめました」
鈴之助の藩のものとて、三日間、日本橋でさらしものになっている鈴之助に気がつかぬはずがない。しかし、藩の名のでることをおそれて、みんな見てみぬふりをしていたのだろう。
そういう薄情な世界へ、鈴之助がもう二度とかえろうと思わなかったのもむりはない。
「なるほど、それはやむをえますまいね。しかし、このお小夜さんは――?」
「されば、知らぬまとはいえ、かりにも夫婦の契りをむすんだ仲、それにお小夜はわたしの胤《たね》をやどしているとやら、いっそこのまま夫婦の縁をつづけていきたいと存じます」
佐七も喜んで、
「いや、それはおめでとうございます。越前屋さんのまえですが、こんなお似合いのご夫婦はまたとございませんからね」
「はい、わたしもよい婿ができて、こんなうれしいことはございません」
与兵衛はそういって、いくども涙をふいていた。
しかし、足をあらったとはいうものの、いったん非人におちたふたり、ひとに知られた越前屋へかえるのははばかりありと、べつに家をもち、間もなくうまれた子をもって、越前屋の相続をさせた。
そして、鈴之助はのちに業平鈴之助とて、江戸でもしられた男伊達《おとこだて》、りっぱな親分になったが、善七とは終生親類づきあいをやめず、その台所にはいつも非人がごろごろしていたという。
[#地付き](完)
◆人形佐七捕物帳◆(巻五)
横溝正史作
二〇〇五年六月十日