トランプ台上の首
[#地から2字上げ]横溝正史
目 次
トランプ台上の首
貸しボート十三号
探偵小説講座
[#ここから3字下げ]
――横溝正史トリック評論集――
[#ここで字下げ終わり]
トランプ台上の首
一
世の中には、いろいろかわった商売があればあるものだ。
冬になると鳩の町のようなところへ、湯タンポの湯を配給するという商売がある。そうかとおもうと、売春婦たちが外で男とあうばあい、おまわりさんに怪しまれるのをさけるために、幼い子供をつれていく。その子供を貸す商売があったそうである。
宇野宇之助の商売は、しかし、それほど奇抜なものではない。昔からあった種類のものだが、それでも、ちょっと人の気づかぬ商売である。即ち、かれの|商《あきな》いというのは、|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》から、東京湾へかけてたむろしている、水上生活者にお総菜を売りあるく、いわゆるおかず屋である。
昔、江戸時代には、|喰《く》らわんか舟というのがあったそうだ。夏の屋根船屋形船、夕涼みの舟のあいまを|櫓《ろ》を|漕《こ》ぎながら、喰らわんか、喰らわんか、すしに菜飯にひややっこ、喰らわんかねえなどと怒鳴りながら、食物を売ってあるく商売である。
舟を漕ぐという点では、宇野宇之助の商売も、喰らわんか舟の流れをくんでいると、いっていえないこともないが、その客種にいたっては、ぜんぜん種類をことにしている。江戸時代の喰らわんか舟の客というのが、風流涼み舟、すなわち、当時の有産階級であったのに反して、宇野宇之助の客種は、その日、その日を、ギリギリ一杯に生活しているひとたちである。
したがって、つい先年までは、岡持ちみたいなガラスのケースに入っているのも、ひじきに油揚げの煮つけだの、こんにゃくに|里《さと》|薯《いも》の煮ころがし、あるいはうずら豆の甘辛煮などと、だいたい、そういった種類のものが多く、飯田屋という屋号を白く染めぬいた、|赤提灯《あかちょうちん》を舟のへさきに押し立てて、舟から舟へと、水上生活者のあいだを漕ぎまわる、宇之助じしんの|風《ふう》|態《てい》なども、薄よごれた|印半纏《しるしばんてん》にねじり鉢巻き、どうかすると貧乏たらしく、無精ひげをはやしてるなんてことも、めずらしくはなかった。
ところが、一昨年あたりから、その宇之助がすっかりスマートになってきた。
だいいち、舟からしてちがっている。以前はふつうの和船を漕いでいたのに、いまでは、いつもペンキ塗り立てみたいに、ぴかぴかボディーをひからせた、モーター・ボートを運転している。モーター・ボートに赤提灯はおかしいとあって、ボートのへさきに、低いアーチのようなものをおっ立てて、赤いガラスのくだで、飯田屋とかいてある。夜になるとそのくだのなかに、いくつかの豆電球がつくという仕掛けである。
服装等も以前の印半纏や、ねじり鉢巻きは|一《いっ》|擲《てき》して、いまではいつも清潔な|割《かっ》|烹《ぽう》|服《ふく》に、コックのかぶるような、白い帽子を採用している。
それではどうして、以前の無精たらしい宇之助が、こうもスマートに|変《へん》|貌《ぼう》したのか、これもひとえに食料衛生にたいする、かれの自覚のあらわれなのか……。
いくらか、それもあったかもしれないけれど、もうひとつ、宇之助変貌の大きな原因として、あげられなければならないのは、かれに新しい客種ができたからである。
新しい客種というのは、隅田川の河岸すれすれに建った、|聚《じゅ》|楽《らく》|荘《そう》というアパートの住人たちだ。このアパートはかなり大きく、四階だての各階に、十五世帯くらいずつ収容しており、したがって六十世帯という家族が、隅田河岸すれすれに、住居していることになる。
この六十世帯の全部が全部、飯田屋の|常《と》|顧《く》|客《い》というわけではない。しかし、このアパートに住むわかい夫婦ものの、ほとんど全部が共稼ぎであった。
ここには男の独身者はいなかった。男の独身者はいれぬという、規則があるわけではないが、男ひとり住むには、いささかお高いのである。しかし、女の独身者は相当いた。男の独身者にはお高いが、女の独身者には住めるというところに、売春取締り法の、むつかしさがあるのかもしれない。たとえば、二号さんの生活なども、一種の売春であるということになれば……。
それはさておき、共稼ぎの奥さんにしろ、二号さん生活の女にしろ、お料理はみんな、あまりお得意でないにちがいない。と、いって、そうたびたび仕出し屋から取りよせるほども、ふところぐあいはゆたかではない。そこで、つい眼の下をとおる飯田屋が、調法がられたというのである。
はじめのうち宇之助は、よく若い奥さんがたにしかられた。
「まあ、不潔ねえ。食物を売るんでしょう。もう少し|身《み》|綺《ぎ》|麗《れい》にしなさいよ。|髯《ひげ》ぐらいは毎日|剃《そ》るもんよ」
だとか、
「また、ひじきに油揚げ? いやあねえ、もうすこしましなものはできないの」
だとか。
こうして、宇野宇之助は聚楽荘の若奥さまがたに、すっかり教育されたのである。
食物を売るには、いつも身ぎれいにしていなければならぬこと、また、いまどきの若奥さまがたは、ひじきに油揚げの煮つけだの、こんにゃくに里薯の煮ころがしなんかより、洋食めいたものを、お好みになるというようなことを悟るにいたった。
そこで、かれのガラスのケースのなかには……このガラスのケースなども、昔から見るとずいぶんハイカラになったもので、ちかごろのは保温装置がついている――コロッケだの豚カツだの、ハンバーグ・ステーキだの、オムレツなどがならぶようになり、それがまた、羽根が生えたように売れるのである。
つまり、宇野宇之助のおかず屋商売は、聚楽荘のおかげで、がぜんうけに入ったわけだが、しかし、感心に、かれは昔のことを忘れなかった。モーター・ボートをあやつる身分にまで、出世したげんざいの飯田屋の食料品ケースのなかには、いまでもひじきに油揚げだの、こんにゃくに里薯の煮ころがしだの、うずら豆の甘辛煮などがならんでいて、それはまたそれで、結構な収入になるのであった。
さて、昭和三十×年十一月二十四日、午後四時ごろのことである。
宇野宇之助はいつものとおり、若奥さまがたの、お好みにかないそうな料理を満載して、聚楽荘の裏河岸へやってきた。そこでサイレンを、三度つづけて鳴らすのが合図になっている。このサイレンを聞くと、待ちかねたように、あちこちの窓がひらくという寸法である。
「飯田屋さん、きょうはなにがあってえ?」
と、三階あたりからでも、威勢のよい若奥さまは怒鳴るのである。
「へえ、毎度ありがとうさま、きょうはこれだけでして……」
と、心得たもので、モーター・ボートのうえには、天幕のように日覆いが出来ているが、その日覆いのうえに、その日の品と値段表が、三階あたりからでも読めるように、大きく書いてあるのである。
「飯田屋さん、こっちへ来てえ。ハンバーグ・ステーキ二人まえもらうわ」
と、二階の窓から声がかかったかと思うと、綱のさきにぶらさがった|笊《ざる》が、するすると窓からおりてくる。笊のなかには皿と、ハンバーグ・ステーキ二人まえに相当する金が入っている。
「へえ、どうも毎度ありい……」
と、宇野宇之助はモーター・ボートから手をのばし、笊を|手《て》|許《もと》にひきよせると、御注文のハンバーグ・ステーキ二人まえを皿に盛り、そのかわり、お代を|頂戴《ちょうだい》するという仕組みである。
この笊と綱は、宇野宇之助の機転のきく女房の入れ|智《ぢ》|恵《え》で、飯田屋から、アパートの各家庭へさしあげたもので、寸暇をおしんで、手内職にいそしんでいるような、若奥様がたにひどく調法がられた。
そのうちに、あちらの窓からもこちらの窓からも、飯田屋さあんと黄色い声がかかって、つぎからつぎへと笊がおりてくる。しかし、さすがに三階からうえでは、この笊の曲芸はおぼつかなく、そこいらの住人は、みずから階下へおりてきて、アパートの裏手の犬走りに出てくる。
「あら、もうコロッケはおしまい」
「あっ、どうもおあいにくさま。すっかりヤマになりまして」
「不公平ねえ、少しは四階の住人のためにも、便宜を計ってちょうだいよ。えっちらおっちら、階段をおりてきてあげているのに、お目当てのものは売り切れだなんて……」
「えっへっへ、どうも申し訳ございません」
「ほんとに申し訳ないじゃすまないわよ。うっふっふ、|憤《おこ》ってみたってはじまらないわね。それじゃ豚カツでももらっておこうっと」
「へえ、へえ、毎度おありがとうさま」
四階の客がおりてくるころには、宇野宇之助の商売は、もうあらかたおわっている。アパートむきの料理は、だいたいヤマになっていて、こんどはひじき組のほうへ、まわることになっている。
そのころになると、いつも、管理人のおかみさんが顔を出す。
「飯田屋さん、あいかわらず|繁昌《はんじょう》で結構だねえ」
「あっ、おかみさん、いま、声をかけようと思っていたところですよ。野菜サラダとオムレツが、少し残りましたから、お皿をもってきてください」
「あら、まあ、そう、毎度すまないわねえ」
おかみさんがいそいそと、うちのなかへとって返すと、宇野宇之助は念のためにサイレンを鳴らす。ひょっとすると、まだ、買いそびれているお客さんが、あるかもしれないからである。
宇野宇之助はブーブー、サイレンを鳴らしながら、さっきから気になるように、一階のいちばん隅っこの窓をながめている。宇之助はその部屋に、牧野アケミというストリッパーが、住んでいることをしっているのである。じつは、宇之助をいちばん最初に、呼びとめてくれたのはそのアケミで、アパート相手の商法について、いろいろ、指導してくれたのもその女であった。
それだけに、アケミは飯田屋がごひいきで、家にいるとかならずいちばんに、笊をぶらさげてくれるのだが、きょうはいっこう、その|沙《さ》|汰《た》がないところをみると、劇場のほうへいっているのだろう。しかし、それにしても、観音びらきの窓のガラス戸が、少しひらいているように見えるのは……?
とつぜん、ぎょっと、宇野宇之助の眼が大きく視開かれた。かれの視線はアケミの部屋の窓から、すぐその下の石垣を上下する。すると、いくらかあぐらをかいた、宇之助の鼻孔がぶるぶるふるえ、|呼《い》|吸《き》がはずんで、額にねっとりとした汗がふきだしてきた。
宇之助はきゅうに気がついたように、モーター・ボートをアケミの部屋の、すぐ下までもっていった。そして、モーター・ボートから身を乗りだして、点々として、石垣にたれている赤黒い汚点をながめていたが、
「血だ!」
と、思わず息をのむ。しかも、その赤黒い汚点は、アケミの部屋の窓からつづいているのである。
そこへ、管理人のおかみさんが欲張って、大きなどんぶりを持って出てきた。
「あら、飯田屋さん、どうかして?」
「おかみさん」
と、宇之助はおしへしゃがれたような声で、
「アケミちゃんはきょうどうしてます」
「ああ、牧野さん」
と、おかみさんは窓のほうをふりかえったが、まだ、なにも気がつかないらしく、
「そういえば、きょうはあのひとの姿を見ないわね。いつも出入りに、かならず声をかけていくひとだのに……だけど、飯田屋さん、牧野さんがどうかして」
「おかみさん、あれ、血じゃない? 窓から垂れているのは……?」
「えっ、血……?」
ぎょっとしたように、ふりかえったおかみさんは、窓から足下に眼をおとすと、
「ヒーッ!」
と、まるで、こわれた笛のような悲鳴をあげてとびのいた。
「い、い、飯田屋さん!」
「ようし!」
と、宇之助は大いそぎで、モーター・ボートからいかりをおとすと、石垣づたいに犬走りへよじのぼった。おかみさんが悲鳴をあげて、とびのいたのもむりはない。そこにはひとかたまりの血が、くろぐろとかわいている。
窓の高さはおとなの背丈で、胸もとぐらいである。観音びらきのガラス戸は、果たして少しひらいていて、そのなかに、緑色のカーテンがしまっている。
宇之助は窓枠に両手をかけ、反動をつけてよじのぼると、ガラス戸をひらき、カーテンをひきしぼってなかをのぞいた。そこは居間になっているらしく、いかにもストリッパー好みらしい、派手で、けばけばしい装飾がほどこされている。
「アケミちゃん、アケミちゃんはいないんですか」
宇之助は窓枠から体を乗り出したまま、二、三度呼んでみたが、部屋のなかはシーンとして返事もない。
「おかみさん、なかへ入ってみてもいいですか」
「はあ、あの、飯田屋さん、いちど、よく調べてみて……」
窓の下に立ったおかみさんは、歯をガチガチと鳴らしている。
「それじゃ……」
と、片脚、窓の内部へつっこんだ宇之助は、とつぜん、ありうべからざるものに視線をとられた。しばらくかれは、その世にも恐ろしいものを凝視していた。ちょっとの間、宇之助には、それがなにを意味するのか、納得がいかないような気持ちだった。
そして、それがやっとがてんがいったとき、
「わあっ、お、お、おかみさん!」
と、あやうくかれは、窓からしたの川へ|顛《てん》|落《らく》するところだった。
二
昭和三十×年十一月二十四日、午後七時。――即ち、お総菜屋の宇野宇之助が、
「わっ、お、おかみさん!」
と、絶叫して、あやうく下の川へ顛落しそうになってから、約三時間のちのことである。
|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部にともなわれて、|聚《じゅ》|楽《らく》|荘《そう》一階八号室へふみこんだ金田一耕助は、ひとめ、その場のようすを見ると、思わず、
「こ、これは!」
と、叫んで、その場に立ちすくんでしまった。
ちょうどうまいぐあいに、その日かれは、警視庁捜査一課、第五調べ室、すなわち、等々力警部担当の部屋へあそびにきていた。そこへこの事件の報告が入ったので、警部に誘われるままに、いっしょにやってきたのだが、ひとめ現場を見たせつな、ふたりとも|慄《りつ》|然《ぜん》として、そこに棒立ちになってしまったのである。
まえにもいったように、そこはストリッパー、牧野アケミの借りているフラットのうちの、居間になっているのだが、聚楽荘では各階とも、隅っこのフラットがいちばん上等になっていて、アケミの居間も、十畳じきくらいの広さはある。
そこにいかにもストリッパーごのみらしい、けばけばしい色彩の家具調度類が、なんの秩序も調和もなく、ただいたずらにごたごたとならべてあるが、その一隅に正方形のテーブルがあるのは、|麻雀《マージャン》やトランプをするときに、使用されるものなのだろう。
そのカード・テーブルのうえに、トランプのカードがいちめんに散乱しているが、その散乱したカードのうえ、テーブルのちょうど中央に、ちょこなんとのっかっているのは、なんと、血に染まった女の生首ではないか。
女の生首は、|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》のほうへむかって据えてあるので、ドアから入ったところでは、女の顔は見えなかった。ちぢれた女の電髪が、ぐっしょりと血を吸った、トランプのカードのうえに乱れており、それが|血《ち》|溜《だ》まりのうえに、ちょこなんとのっかっているのだから、それだけでも、ときとばあいによって発揮する、女の黒髪のもつあの|妖《よう》|異《い》さを強調しており、ゾーッと血も凍るような眺めであった。
金田一耕助と等々力警部は、こっそり足音をぬすむようにして、カード・テーブルをむこうへまわった。そして、はじめて、真正面からこの恐ろしいものに|瞳《ひとみ》をすえて、そこでふたりとももういちど、ううむと|唸《うな》ったのである。
牧野アケミは二十五、六というところだろう。
ストリッパーにぶくぶく肥った女はいないが、この女などもおそらくほっそりとした、均斉のとれた体をしていたにちがいない。顔なども細面で、たかい鼻がいくらか、つんとうわむいているのが、かえって魅力的である。きれいな眼を大きく視張って、唇が少しひらいており、その唇のあいだから舌がのぞいているのが、まるで、誰かをからかっているようにもみえる。厚化粧でごまかしているが、少し|窶《やつ》れが目立っている。
さっき、宇野宇之助が窓から見たのも、この生首なのである。
かれも、笑っているように見えるこの生首の表情から、しばらく、事態の真相が納得できなかったのである。はじめはアケミがばあっと自分を、からかっているのではないかと思ったくらいであった。しかし、やがて、カード・テーブルの下に体がなく、それが|斬《き》りおとされた、生首以外の何物でもないと気がついたとき、
「わっ、お、お、おかみさん!」
と、あやうく、下の川へ落っこちそうになったというわけである。
「それで、|菅《すが》|井《い》君、首から下のほうは……?」
等々力警部はゴシゴシと、掌ににじむ汗をハンケチで|拭《ぬぐ》いながら、先着していた所轄警察の捜査主任、菅井警部補のほうをふりかえった。
「それが、おかしいんですよ。警部さん」
菅井警部補はいまいましそうに|眉《まゆ》をひそめて、
「首から下が見つからないんです」
「えっ?」
と、金田一耕助もその言葉をききとがめて、おもわず、生首から視線を警部補のほうへ移すと、まじまじと、捜査主任の顔をみている。
「な、な、なんだって、首から下が見つからないんだって!」
「ええ、そうなんです。だから、おかしいんです。ちょっとこっちへきてください」
菅井警部補に招かれて、金田一耕助も等々力警部のあとにくっついて、窓のそばへよると、外はもう真っ暗で、広い隅田川をへだてた、|江《こう》|東《とう》方面に点々として灯がみえる。夜空に、大きな煙突がみえているのは、セメント工場なのだろう。
菅井警部補が窓をひらくと、ビューッと、身を切るような川風が吹きこんでくる。十一月ももう二十四日、夜の川風が身にしみるのもむりはない。
「あれをごらんください、ほら!」
と、菅井警部補が懐中電燈で照らしてみせたのは、窓の下の外壁から下の犬走りである。懐中電燈の光のなかに浮きだした、ドスぐろい、しかも、おびただしい血の跡をみて、ふたりはまた、ううむと唸らざるを得なかった。
「あのとおりの血の跡でしょう。その血の跡は、下の石垣にも点々とついているんです。つまり、それをこのアパートの住人を|上《と》|顧《く》|客《い》としている、水上のお総菜屋が見つけたおかげで、この事件の発見も、はやかったというわけです。まあ、それはさておき、犯人は生首だけをそこへ飾っておいて、首から下は川のなかへ投げすてたか、あるいは舟でどこかへ、運んでいったんじゃないかと、いうことになってるんですが……」
「そ、そんなばかな……」
「そんなばかなとおっしゃっても、げんに、このフラットのどこを探しても、首から下がないんだから、仕方がないじゃありませんか」
菅井警部補につめたく|反《はん》|駁《ばく》されて、等々力警部はううむと唇をへの字なりに曲げ、金田一耕助は金田一耕助で、雀の巣のようなもじゃもじゃ頭を五本の指で、めったやたらとかきまわした。これが興奮したときの、この男のくせなのである。
犯人が、被害者の首と胴とを斬りはなすという事件は、いままでにもたびたびあったことで、それ自体は、それほど珍しい事件でもない。その場合、犯人の目的とするところは、死体の運搬を容易ならしめることと、もうひとつは、死体の|身《み》|許《もと》を不明にすることと、だいたいこのふたつであろう。
だから、被害者の首と、胴が斬りはなされた事件のばあい、首なし死体は見つかっても、首のほうは、なかなか見つからないのがふつうである。なんといっても首なし死体よりも、生首のほうが、運搬に便利だし、またかくす手段にしても、胴のほうより簡単なせいであろう。いや、いや、それにもまして犯人が、生首のほうはとくに入念にかくすせいであろう。なんといっても、顔は人間の看板みたいなもので、たいていの場合、それによって身許が判断されるのだから。
それにもかかわらず、この事件の犯人はなんだって、人間の看板であるところの、生首のほうをここへ置きっぱなしにしながら、持ちはこびに厄介な、首なし死体のほうを、持ち去るなんて馬鹿なことをしたのであろう。
「ねえ、菅井君、それはいったいどういうわけだね」
と、等々力警部はすっかり苦りきっている。
「さあ……わたしにそんなこと、お|訊《たず》ねになってもわかりませんよ。犯人がつかまったら、訊ねてごらんになるんですね」
と、菅井警部補はつめたく、突っぱねるようにいってから、なに思ったのか、にやりとひとの悪い微笑をうかべると、
「それとも、金田一先生の名推理に、ご期待されるんですね」
どうもこの若い警部補には、金田一耕助の存在が眼ざわりになるらしく、こういういかがわしい人物(と、菅井警部補はそう思っているのである)を、警部がつれてきたということによって、大いにプライドを傷つけられているらしい。
「やあ」
と、しかし、金田一耕助はべつに照れたようすもなく、ぼんやりと、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「この被害者の体には、……つまり首から下には、なにか大きな特徴でもあったんですかな。おできの跡とか、手術の|痕《あと》とか……」
「なにを馬鹿なことを!」
「えっ?」
「いや、たいへん失礼いたしました。それではどうぞ、あの写真をごらんになってください」
皮肉たっぷりに、菅井警部補が指さすほうを振り返って、金田一耕助はおもわず大きく眼を視張った。
カード・テーブルのうえの生首に注意をうばわれていたかれは、まだろくすっぽ、部屋のなかも見ていなかったのだが、いま、警部補にうながされて振り返ると、この部屋のいっぽうの壁いちめんに、べたべたと|貼《は》ってあるのは女の写真――それも、みんなおなじ女の写真らしいが、その大半は、全裸にちかいかっこうである。
「ああ、ストリッパー……だったんですか」
かれはまだ、この被害者の身許をきいていなかったのである。
金田一耕助は反射的に壁の写真から、カード・テーブルのうえにのっかっている、あの恐ろしい生首に眼をうつして、それがおなじ人間であることを、改めて認識した。壁に貼ってあるのは、ぜんぶ牧野アケミのヌード写真である。
金田一耕助はわざわざ、その壁のまえへいくと、両手をうしろに組み、いかにも物珍しそうに、一枚一枚写真を眺めている。
それは、生首の顔立ちからでも想像されたとおり、ほっそりと|華《きゃ》|奢《しゃ》な体つきをしていて、どこかぬらぬらとしたかんじが、蛇のうねりを思わせる。だいたいそういうポーズが多かった。さすがにふたつの乳房だけが、みごとに発達し、隆起しているのがはなはだ印象的だった。
「どこに出ているんですか」
「浅草のミラノ座だそうです」
菅井警部補にかわって、藤田という刑事がこたえた。
「ストリップもヌード・ダンスも、以前ほどじゃないということだが……」
と、部屋のなかを見まわしながら、等々力警部がつぶやいたのは、それにしては、ぜいたくな暮らしだという意味だろう。
菅井警部補もその意味を察したらしく、
「なあに、パトロンがあるんですよ。となりの部屋をのぞいてごらんなさい。豪華なダブル・ベッドでさあ」
等々力警部はさっそくのぞきにいったが、金田一耕助はそれよりも、カード・テーブルのほうに興味をひかれた。
生首の下のトランプの排列は、そうとう乱されているものの、それはあきらかに、ひとり占いの、ペーシェンスの排列になっている。
菅井警部補もそのことに気がついているらしく、
「被害者はゆうべここで、トランプのひとり占いをやっていたんですね。その背後へ犯人が忍びより、背中からぐさりとひとつき……」
と、そういいながら警部補が、かたわらの、ソファのうえからつまみあげたのは、婦人用の派手なガウンである。
それは真っ赤なウール地にところどころ、五線紙にお|玉杓子《たまじゃくし》を紫と白で浮き出した、いかにも芸人らしい好みの、けばけばしいガウンである。そのガウンの左肩の下に、鋭い刃物のあとがあり、それを中心として、周囲いったい、ぐっしょりと血に染まっているところをみると、なるほど菅井警部補のいうとおりだろう。
「なるほど」
と、金田一耕助もそのガウンを取りあげて、裏表を調べていたが、
「おや」
と、いうふうに眉をひそめる。ガウンの裏がぐっしょりと、血に染まっているからである。
「どうかしましたか」
「いやね、主任さん。被害者は、素肌にガウンを着ていたんでしょうかね」
「まさか。この寒空に、素肌にガウンをひっかける馬鹿はありませんよ。……それにこいつはウールだから、素肌に着ちゃたいへんだ。体がちくちくしてたまりませんやね」
「だけど、この血の着きぐあいは……?」
「下に薄物かなんか着てたんでしょう。だから、ぐっしょり血が|滲《し》みとおったというわけでしょうよ」
「その薄物というのは……?」
「犯人が首なし死体といっしょに、持っていったんですね。このフラットには見つかりませんな」
「なるほど」
金田一耕助はそのガウンを捜査主任にかえすと、また改めて、カード・テーブルのまわりを見まわした。
正方形のカード・テーブルをとりかこんで、四つの|椅《い》|子《す》がおいてあり、その椅子から手のとどくところに、二つの小卓が対角線の位置に配してある。そのうえに、灰皿やウイスキー・グラスがおいてあるが、どの灰皿にもたばこの吸殻が二、三本。四つあるウイスキー・グラスのなかには、まだ多少ウイスキーの残っているのもある。
「この部屋のようすからみると、ゆうべここに少なくとも、三人の客があったわけですね」
「そうです、そうです。そして、少なくともそのなかのひとりは、女だったにちがいありませんよ」
「どうして、それがわかりますか」
金田一耕助はべつに、あいてをからかうつもりで聞いたのではないが、それにもかかわらず、菅井警部補はむっとしたように、
「そっちの灰皿にもこっちの灰皿にも、吸口にルージュのついた吸殻がある。しかも、たばこの種類がちがっているんだから、いっぽうが被害者のだとしたら、当然、もういっぽうのは客でしょう」
「なるほど」
と、金田一耕助はうなずいて、
「すると、その客がかえったあとで、被害者がしょざいなさに、ペーシェンスをやっていた。そこをぐさりと……」
「そうそう、そのとき被害者は、この椅子に|坐《すわ》っていたんですね」
菅井警部補がたたいてみせた椅子の背に、なすったように血がついており、床にも点々と、|血《けっ》|痕《こん》が散っている。
金田一耕助は張り子の虎のようにうなずきながら、
「ところで、ドアは……?」
「ドアには|鍵《かぎ》がかかっていて、鍵はドアの内側の鍵穴に、はめこまれたままになっていたそうです。だから報告をきいて、いちばん最初に駆けつけてきた連中は、そっちの窓から、もぐりこんだんだそうです」
「すると、その窓はあいていたんですね」
「ええ、そこからこのアパートへモーター・ボートで、おかずを売りにくる飯田屋という男が、あの生首を見つけたのが、この事件の発端というわけです」
「すると、犯人も、その窓から忍びこんできたのかな」
と、金田一耕助がなにげなく|呟《つぶや》くと、菅井警部補はいかにもあいての|無《む》|智《ち》を、|憐《あわ》れむようににやりとわらって、
「さあ、それはどうでしょうかねえ、被害者を殺してから、なかからドアに鍵をかけておいて、首なし死体といっしょに、窓から出ていったとも考えられる」
「あっ、なるほど!」
と、金田一耕助はピーンと、指でじぶんの額をはじくと、
「こういうアパートじゃ、受付にいる管理人も、いちいち、出入りのものに注意をはらわんのでしょうねえ」
「ええ、そう。ことにここは浅草にちかいでしょう。六区関係の人間が相当多いんで、時間的に不規則だから、そういうことは管理人の責任外なんですね」
「なるほど、ところで、死体を解体……つまり、首を|斬《き》りおとした場所は……?」
と、金田一耕助が聞きかけたところへ、等々力警部が寝室の横のドアから、むつかしい顔をのぞかせた。
「金田一さん、ちょっとこちらへ……」
「死体解体の現場ですよ」
と、そばから菅井警部補が|註釈《ちゅうしゃく》をいれた。
金田一耕助がはいっていくと、そこは浴場になっており、小判がたをした、タイル張りの浴槽のそばに、金属製のタライがおいてあり、そのタライのなかに、血がどっぷりとたまっているばかりか、白いタイル張りの、床のあちこちにも血が散っている。
しかも、そのタライのそばに、|鋸《のこぎり》だのノミだの|鋏《はさみ》だの、メスのように鋭い刃物だのが、血に染まって散乱しているのが、ゾーッとするほど空恐ろしい。バックがタイルの白だけに、タライのなかにたまった血や、恐ろしい死体解体道具の印象が、いっそうなまなましく強烈である。
「この鋸や鋏は……?」
金田一耕助がいいかけると、
「さあ、それなんですよ、金田一先生」
と、菅井警部補がいまいましそうに|唸《うな》った。
「せめて、こいつが犯人のもちこんだものなら、少しゃあ手がかりになったでしょうが、管理人のおかみさんの話によると、これ、被害者のものらしいというんです」
「被害者のもの……?」
金田一耕助は眼を視張って、
「ストリッパーがどうしてまた、鋏はともかく、鋸や、こんないろんな、物騒な道具をもってるというんですか」
「さあ、それなんですよ。いまむこうの居間に、木彫りのブック・エンドや、状差しがあったのに、お気づきじゃありませんでしたか。被害者はああいうものを作るのが上手で、管理人のおかみさんなども、作ったものを|貰《もら》ったことがあるそうです。なんでも、ミラノ座の楽屋ではやってるんだそうで……」
「ああ、鎌倉彫りみたいなやつ……ちかごろ、ご婦人のあいだではやっているようですね」
なるほど、それに使う刃物なのかと、金田一耕助はそこに散らかっている、恐ろしい工作道具に眼をやりながら、それにしても、この程度の道具で首を斬りおとすには、そうとう、長時間を要したことだろうと、あらためて浴室のなかを見まわした。そして、はじめて気がついたのだが、このアパートはがっちりできていて、よほど大きな物音を立てないかぎり、外部へもれる気づかいはなさそうである。
そこへ藤田刑事がはいってきた。
「ミラノ座の支配人、郷田実という男がやってきて、管理人の部屋で待っているんですが……」
三
ミラノ座の支配人、郷田実というのは五十前後の、がっちりと、岩のように固肥りした男で、浅黒い顔に、げじげじのように太い|眉《まゆ》、ギロリと眼つきが鋭くて、その|精《せい》|悍《かん》な|風《ふう》|貌《ぼう》が、テキ屋かなんかのボスを思わせる。
いうまでもなく、アパートのおかみの電話で、かけつけてきたのである。
|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部と菅井警部補、それに金田一耕助もくっついて、管理人の部屋へ出向いていくと、そこにはもうひとり、白い|割《かっ》|烹《ぽう》|服《ふく》に、コック帽をかぶった四十男が、おかみさんとなにやら話をしていた。
「なあんだ、飯田屋、おまえまだいたのか」
「まだいたのかって、|旦《だん》|那《な》、あっしゃあの生首が眼先きへちらついて、脚がすくむ思いなんです。それにこうして……」
と、コック帽の男は心細そうに窓の外をのぞくと、
「外はすっかり、暗くなっちまったし、これじゃとうてい、モーター・ボートをあやつって、川を渡る勇気はありませんや」
と、額に八の字をきざんで、いまにも泣き出しそうな顔色である。ボチャボチャと、赤ん坊のような肉付きをした、色白の四十男で、鼻下にチョビ|髭《ひげ》を生やしているのが、ご|愛嬌《あいきょう》である。以前舟を|漕《こ》いでいたせいだろう、|逞《たくま》しい腕っ節と、太いが、弾力にとんだ腰をもった男だ。
「なんだ、きさま、そんな大きな図体をしやがって、意気地のない。……そうそう、警部さん、これが事件の発見者、飯田屋こと宇野宇之助君」
「ああ、水上をお総菜料理を、売ってあるいてるという人物だね」
「へえ、へえ、あっしが飯田屋でございます。このたびはどうも……」
と、口のうちでなにやら、わけのわからぬことを呟きながら、等々力警部のうしろから、入ってきた金田一耕助を、奇妙な顔をしてみていたが、急に気がついたように、ピョコンと立ちあがると、
「旦那、あっしゃ、もう、おいとま願ってもよろしゅうございますか」
「ああ、いいよ、用事があったらまた呼び出すからな」
「へえ、へえ、お呼び出しがあったら、いつでも出頭いたします、それじゃ、おかみさん、モーター・ボートはよろしく頼みますよ」
「飯田屋、モーター・ボートをどうするんだ」
「いえ、もう、おっかなくって、とっても河のうえはいけませんから、タクシーでも奮発して、かえるつもりなんで」
「なあんだ、|臆病《おくびょう》なやつだな。そうそう、おかみさん、すまないが、あんたもここを外してくれないかな。郷田君と、ちょっと話したいことがあるんだが……」
「はあ、承知いたしました。それではどうぞごゆっくりと……」
飯田屋とおかみが出ていくと、取りあえず、そこを捜査本部ということにして、
「あんたがミラノ座の支配人ですね。わたしは……」
と、菅井警部補はみずからまず名乗りをあげ、ついで等々力警部を紹介したが、金田一耕助は完全に無視されてしまった。
「さあ、どうぞお掛けになって。われわれもここで一服しながら、いろいろ、お話をきかせて貰いたいと思いますから」
「はあ」
と、答えたものの、郷田はまだ突っ立ったきり、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》らしく、上着のポケットをまさぐっているのは、金田一耕助の存在が気になるらしい。
「さっき、ここのマダムから電話がかかってきて……」
と、じろじろ一同を見まわしながら、郷田はうしろ手に|椅《い》|子《す》をさぐりよせて、やっと|尻《しり》を落ちつけると、
「すっかりおったまげてしまったんですが、うちの牧野アケミが殺されてるんですって?」
「はあ、そのことについていろいろ、まあ、お|訊《たず》ねしたいことがあるんですが、それにしても、劇場、きょうもやってるんでしょう」
「はあ、それはもちろん……」
「だが、それにしちゃ、きょう被害者、……いや、牧野アケミが休んでいるのを、だれも問題にしなかったんですか」
「いや、それはきのうアケミ……牧野君の口から、少しからだぐあいが悪いから、あすは休ませてほしいという、申し出があったもんですから……」
「きのうのいつごろですか。その申し出があったのは……?」
金田一耕助がとつぜんよこから口を出したので、菅井警部補もおどろいたが、郷田実もぎくっとしたように、そのほうをふりかえった。
そして、このよれよれの着物に、よれよれの|袴《はかま》をはいて、頭といえば雀の巣のような、小柄で貧相なこの男を、いったい何者だろうというように、ジロジロと見まわしていたが、それでも、言葉だけはわりあい丁寧に、
「きのうの晩、十二時ごろ……われわれがここを……つまり、牧野君の部屋を出る、ちょっとまえのことでしたよ」
「えっ!」
と、等々力警部と菅井捜査主任が、いっせいに体をまえへ乗り出して、
「それじゃ、あなた、ゆうべここへ来られたんですか」
菅井警部補の眼つきはにわかに鋭くなる。
「はあ、来ました。だから、いっそうさっきの電話に、おどろいたというわけです。われわれがかえるときには、元気でぴんぴんしていたのに……いや、そりゃあ、多少、体ぐあいは悪いようにいってましたがね」
「われわれとおっしゃると……?」
「幕内主任の伊東君……伊東欣三君とストリッパーの高安晴子……牧野アケミの朋輩ですね。それからわたしの三人です。伊東君にも高安君にも、さっき話をしておきましたから、おっつけここへ来るでしょう」
「なにしにここへ来られたんですか」
「なあに、ブリッジに誘われたんですよ」
「みなさんいっしょに連れ立って、劇場からここへ来られたんですか」
またしても、金田一耕助の|横《よこ》|槍《やり》である。菅井警部補は不快そうに眉をひそめ、郷田はまた、ギロリと不思議そうな|一《いち》|瞥《べつ》を、そのほうへくれると、
「いや、わたしはちょっと用事があって、みんなより少しおくれましたがね」
「あなたのいらしたのは何時ごろ?」
「十一時ごろでしたかな」
「十一時ごろ……?」
と、菅井警部補は疑わしそうに、眉をひそめて、
「しかし、あんたがたがここからかえったのは、十二時ごろだったと、さっきおっしゃったようだが……」
「はあ」
「そうすると、一時間くらいきゃ、ここにいなかったんですか」
「はあ、それというのが最初の予定ではむろん、夜明かしするつもりだったんです。ところが、どうもアケミの顔色がすぐれないし、じぶんでも、気分が悪いといい出したもんですから、とうとう思いきって、一時間ほどで切りあげることにしたんです。われわれがここ……牧野君の部屋を退去したのは、十二時十分でしたよ」
「それからあんたがたは、すぐ解散したんですか」
「いや、わたしはそのまま、別れてかえりたかったんだが、伊東君がなんぼなんでもこのままじゃ、気が抜けたようだからって、誘うもんだから、それじゃあってんで、三人で六区にあるアザミという、夜明かしバーへいったんです。そこで二時ごろまで飲んで、わたしはひとりでさきにかえりました。あとのふたりはどうしたかしりません。わたしがアザミを出たときは、ふたりはまだ粘ってましたがね」
そこまでいってから、郷田は急に気がついたように、ジロリと一同を見まわすと、
「アリバイ調べというわけですな。わっはっは」
と、わざと|磊《らい》|落《らく》そうな笑いかたをしたが、すぐまたきまじめな表情になり、
「しかし、アケミはいったい、何時ごろに殺されたんです?」
と、やっぱり気になるふうである。
「いや、それはまだはっきりしないんだが……厳重な鑑定が必要だからね」
「首を|斬《き》りおとされていると、いうじゃありませんか」
「いや、それよりも、少しわたしの質問に答えて下さい。ゆうべ被害者のようすに、なにかかわったところはなかったですか」
「そういえばねえ。なにかこう、いつものような元気がなかったな。|但《ただ》し、それもこういう事件が起こって、あなたがたにそういう質問をうけて、はじめて思い当たるくらいのもんで、ゆうべはべつに、気にもとめていなかった。だいたいが、じゃじゃ馬というあだ名があるくらいで、ふだんからお天気やの、気まぐれな|娘《こ》でしたからなあ」
「ゆうべなにかに、|怯《おび》えてるというようなふうはなかったですか。なにかこう、危険をかんじてるというようなふうは……?」
「ああ、いや、それなんです。そうおっしゃれば、たしかに妙なことがありましたな。但し、それも、いまになって思いあたるくらいのもんで、そのときにゃ、またお芝居を、やってるくらいに思ったんですが……」
「どういうことですか、それ……?」
「はあ、ブリッジをやってる最中でした。風のためにとつぜん、川に面した窓のガラス戸が、バターンとひらいたんですな、アケミはちょうどそのほうに、背をむけて|坐《すわ》っていたんですが、いや、そのときの驚きようったら……ヒーッとかなんとか叫んで、とびあがって……伊東君がすぐ立って、ガラス戸をしめると、アケミちゃん、なにをそんなに、びくびくしてんだいとわらっていましたが、……いや、いまから思えば、あのときの驚きようは、たしかに真に迫ってましたね」
「すると、牧野アケミという娘はかねてから、何者かをおそれていたというふうに、解釈してもいいですか」
「はあ。そういっていいかもしれませんねえ。但し、これもいまになっていえることで、そのときにゃあ、アケミのやつ、またお芝居をしてやあがる、くらいに思っていたんだが……」
「元来が、芝居気のある娘だったんですね」
と、これは金田一耕助の質問だったが、
「ええ、それゃあもう……」
と、あいかわらず、郷田は不思議そうな顔をして、あいてのもじゃもじゃ頭をながめている。いくらか薄気味悪そうであった。
「いや、ところで……」
と、菅井警部補は度重なる、金田一耕助の横槍に、いらいらしたように、
「アケミをおびやかしていた人間が、どういう男、あるいは女であったか、その点について、なにか心当たりはありませんか」
「いや、それはわたしにはわからない。だいいち、アケミがなにかにおびえてるということすら、ゆうべはまだ、気がつかなかったくらいですからね。そういうことはわたしより、楽屋の連中のほうが、よくわかるんじゃないですか。ひょっとすると、高安晴子がしってるかもしれない」
「ところで……」
と、そのときはじめて、口を出したのは等々力警部である。
「牧野アケミという娘には、もちろん、パトロンがあったんでしょうな」
「ああ、そのことですがねえ、警部さん」
と、さすがに等々力警部にたいするときだけは、郷田の調子もかわっている。
「ゆうべアケミが、きょうの休演を申し出たとき、伊東君もわたしも、あっさりそれを許したというのは、あの娘も、もう、ながくないと思っていたからなんです。アケミのパトロンというのは、稲川商事といって、戦後の新興会社で、まあ、どのていどにやってるのかしりませんが、それでも西銀座のビルに、事務所をもってる会社の社長で、稲川専蔵というひとなんです。その稲川さんのご|寵愛《ちょうあい》が、尋常でないようすなので、アケミも早晩、舞台をよすだろうとにらんでいたんですが、まさか、こんなことになろうとはねえ」
「西銀座のなんというビル?」
「ヤマカ・ビルというんです。これゃまちがいありません。わたしも二、三度、電話をかけたことがありますからね」
「ああ、そうすると、あんたもアケミのパトロンと、お付き合いがあるんですか」
と、郷田をみる菅井警部補の眼が、またちょっと怪しく光った。
「いや、お付き合いというほどではありませんが、この稲川商事というのが、主として、自動車のブローカーをやってるんですな。それでひとに頼まれて、稲川さんを紹介してあげたんだが、なかなかいい自動車を世話してくれたと、わたしの頼まれた男もよろこんでました。まあ、かなり手固くやってるようですね」
「西銀座、ヤマカ・ビル、稲川商事の稲川専蔵、自動車のブローカーですね。電話番号はわかりませんか」
「さあ、あいにく、手帳をもってこなかったもんだから……」
「ああ、そう。田代君」
菅井警部補の眼配せで、刑事のひとりが、さっそく部屋を飛び出していったのは、稲川専蔵なる人物に、連絡をつけるためだろう。
「ところで、パトロン以外に男出入りは……?」
「さあ、それですがね」
と、郷田は待ってましたとばかり、ニヤニヤ笑うと、照れくさそうに|顎《あご》をなでながら、
「そういうことを、ほじくりかえしてると、きりがないんじゃないですか。面目ないですがねえ、警部さん」
「はあ」
「わたしなんかも、二、三回……いや、四、五回かな、とにかく、交渉がありましたからな。あっはっは」
と、腹をゆすって豪傑笑いをすると、すぐまた、ケロリときまじめな顔になって、
「いや、どうも失礼しました。ストリッパーのだれでもが、そうだというんじゃ、けっしてありませんよ。なかにはまじめな、感心な|娘《こ》もおりますからな。ただ、アケミという娘、あの娘はとくにあのほうの、欲求がはげしい体質だったんでしょうな。だれかれなしだという評判でした。本人にしてみると、ほんのちょっと、つまみ食いをするくらいのつもりなんでしょう。わたしなんども、つまり、その、つまみ食いをされた口で……あっはっは」
郷田はまた、腹をゆすって笑いあげたが、その笑い声のなかに、一種のむなしさがあることは否定できない。
「それで、パトロンの稲川氏というのは、いくつくらい……?」
と、思い出したように切りだす、菅井警部補の質問にたいして、郷田はまた、待ってましたとばかりにニヤリとわらった。
「わたしゃ電話で、ちょくちょく話をするくらいで、会ったなあ、たったいちどきゃないんですが、さあ、かれこれ六十というところじゃないですか。新興成金さんにしちゃお品のいい、頭はロマンス・グレーを通り越して、ほとんど真っ白ですが、それでも血色のいい、|精《せい》|悍《かん》で、精力的なかんじのする人物ですよ」
「しかし、なあ、いかに精悍で、精力的なかんじがするといったところで、よわいすでに、六十のじじいじゃねえ」
と、刑事のひとりが|呟《つぶや》くと、
「と、いうことは、当然、つまみ食いのお相手が、必要だったというこってすな」
と、もうひとりの刑事が|相《あい》|槌《づち》をうったので、くすくすという忍びわらいが、一座をちょっと、くすぐったい暖かさにくるんだ。
「いや、ところが」
と、こういう話になると郷田支配人、得意の壇上という顔色で、
「なかなかさにあらずらしいんですよ。わたしが紹介した男なんかもいってましたが、なかなか達者なじいさんだって。アケミなんかも、あのひとの世話になるようになってから、ころっと、つまみ食いがやんじまったという評判ですからな」
「郷田さんなんかどうです。ちかごろおあいては……?」
「いや、ところが、警部さん、わたしゃ、もう、とっくの昔にご用済みなんで……それについて、いつか伊東君とも話したことがあるんですが、稲川というひとですね。どうやら大陸がえりらしいんです。だから、なんか秘薬でももってるか、それとも、あのほうの技巧にひどく練達しているか……そうでなけれゃ、あのアケミが、あんなに骨抜きになるはずはねえなんて、まあ、岡焼き半分なんですが、伊東君とふたりで、いきまいたことがあるんですよ」
「大陸がえりというと、そのひと、以前はなにをしてた人物なんですか」
「いや、それはしりません。アケミにきいたことがあるんですが、アケミもしらんといってました。ま、戦後にそういうひと、たくさんあるようですねえ」
「ところで……」
と、そのときまた、横合から口を出したのは金田一耕助である。
「はあ……?」
「つかぬことをお|訊《たず》ねするようですが、ゆうべのアケミちゃんは、いったい、どういうなりをしてましたか」
「アケミの服装ですか」
と、郷田支配人は|眼《め》|尻《じり》に|皺《しわ》をたたえて、興味ふかげに金田一耕助を視まもりながら、
「素肌にガウンをひっかけてましたよ」
「えっ、素肌にガウンを……?」
と、おもわず|訊《き》きかえした菅井警部補は、かっと|頬《ほお》に血の色を走らせて、
「それ、ほんとうですか」
「はあ、なにしろ、さっきもいったとおり、芝居気たっぷりな娘ですからね、なにかひとの意表をついて、あっといわせようというわけでしょう、ゆうべなんかも、ガウンのしたからご自慢の肌をちらつかせて、大いにわれわれを、悩ませようという寸法だったらしいんです。ところが、ゆうべはとくに冷えこみましたろう。ガス・ストーヴをいくらがんがん、|焚《た》いたって追っつきゃしませんや。それ、みろ、|痩《や》せがまん張って、とうとう、風邪ひきゃあがったって、いってたんですけどね」
金田一耕助はできるだけ、菅井警部補のほうをみないようにつとめながら、
「そのガウンというのは、どういう柄でした」
「さあ……真赤なガウンでしたがね。どういう柄だったかそこまでは……そういうことなら、高安晴子がおぼえているかもしれない」
そこへ警官がはいってきて、ミラノ座から、幕内主任の伊東欣三と、高安晴子がやってきたとの報告があった。
四
郷田支配人といれちがいに、管理人室へむかえられた、伊東欣三というのは、ストリップ劇場の幕内主任としては、服装もととのっており、行儀作法もひととおり心得ていた。
年齢は三十五、六であろう、色白のちょっといい男振りなのだが、それでいて、その色の白さの底にどこか、生気に欠けるところがある。たとえば、|麻雀《マージャン》なんかで徹夜したあとの、不健全な|倦《けん》|怠《たい》|感《かん》、そういうものを、まざまざとかんじさせるいっぽう、五尺七寸くらいの長身の、しなやかな手脚に、鋼鉄のような|強靭《きょうじん》さを持っていそうな、ちょっと、複雑な印象をひとにあたえる人物である。
伊東は部屋へはいってくると、無言のままくるりと一同を見まわしたのち、警部補の指さす|椅《い》|子《す》に、これまたむっつりと腰をおろした。窮屈な椅子にながい手脚を、もてあますようなかっこうである。
「伊東欣三君……ミラノ座の幕内主任、伊東欣三君ですね」
「はあ……」
「きょうこのアパートで、どういうことが起こったか、ご存じでしょうねえ」
「はあ……」
と、言葉をきって、ちらりと上眼づかいに警部補をみると、
「さっき楽屋でマネジャー……郷田さんからききました」
「さぞ、びっくりしたでしょうねえ」
「それは……もちろん、……はじめ冗談だと思って、ほんとにしなかったんです。そしたら、さっきまた、マネジャーがここから電話をかけてきて……やっぱりほんとうだ、おまわりさんが大勢きてるっていうもんだから、もう、すっかりびっくりしちゃって……」
なんとなく、のろのろとして、けだるそうな口のききかただが、これがこの男のくせなのだろう。
「君もゆうべ、ここへきたそうですね」
「はあ、ブリッジに誘われたもんだから……」
「君は牧野アケミや、高安晴子という娘といっしょに、劇場から直接、ここへやってきたんですか」
「いえ、ぼく、いったんうちへかえって、それからここへやってきたんで……」
「何時ごろ、それは……?」
「さあ……十時半ごろじゃないでしょうか」
「劇場は何時ごろ|閉《は》ねるの?」
「だいたい、九時半でしょうねえ」
「そのとき、……君がここへやってきたとき、アケミはもうかえっていましたか」
「はあ」
「アケミのほかに誰か……?」
「いいえ、誰もいませんでした」
「ああ、すると……」
と、そのときまた、横合から口をはさんだのは金田一耕助である。
「高安晴子もアケミちゃんといっしょに、ここへきたんじゃないんですね」
だしぬけに、変な男が声をかけたので、伊東はびっくりしたように振り返り、うさん臭そうに、しばらく金田一耕助の顔を見ていたが、
「はあ、……晴んべはぼくより、ちょっとおくれてきました」
「ああ、そう、それでは主任さん、どうぞ」
金田一耕助がペコリと頭をさげると、菅井警部補は馬鹿にされたとでも思ったのか、不快そうな色を露骨にうかべて、
「ええ……と、ところで、ゆうべのアケミの態度だがね、君の眼から見てどうだった? なにかに|怯《おび》えてる。なにかを怖れてるというようなふうは……?」
「はあ、それが……こういうことが起こってみると、たしかにそうでしたねえ。しかし、だいたいが、芝居っ気のつよいやつで……」
「いま、郷田氏からきいたんだが、なんでも、窓のガラス戸が風でひらいたとき、ひどくびっくりしたとか……」
「ああ、そうそう、あれなんかもいまから思えば、ふだんの精神状態では、なかったのかもしれませんな」
「君はあの娘が、なににおびえてたかしりませんか」
「さあ、そんなことは……」
「しらないんだね」
「はあ……」
伊東欣三の応答ぶりは、かくべつ返事を忌避するとか、したがって、問答が渋滞するとかいうのではないが、とかく語尾が|不明瞭《ふめいりょう》である。
「ところで、君はアケミのパトロンというのをしってる?」
「はあ……」
「会ったことある?」
「はあ、相当たびたび……だけど、パトロンになってからは、いちども……」
「会ったことないの?」
「はあ……」
「しかし、それはどういう意味? 相当たびたび会ったことはあるが、パトロンになってからは、いちども会わないというのは?」
「はあ、それは……つまり、アケミちゃんをはっきり、じぶんのものにするまでは、よく楽屋へあそびにきて、ぼくなんかにもおごってくれたんで……だけど、アケミちゃんを手にいれて、パトロンの座に|坐《すわ》ると、小屋へもよりつかなくなってしまって……現金なもんですよ、人間てえものは……」
伊東はそこではじめて笑顔をみせたが、笑うとなかなか魅力がある。
「君はアケミのパトロンが、なにをしている人物だかしってる?」
「たしか、自動車のブローカーだときいてますが……」
「ブローカーだときいてますが……どうしたの? なにかほかにも、やってると……?」
「はあ、どうせストリッパーに、食指をうごかすようなじいさんですからね。そうきれいごとばかりじゃあるまい。相当、暗いこともやってるんじゃないかと……まあ、ぼくはそうにらんでるんですが……」
と、あいかわらず、けだるそうにいってから、急に気がついたように、
「だけど、これ内緒ですよ。名誉|毀《き》|損《そん》だなんていわれると困りますから……」
「いや、それはいいが、君はそのじいさん、稲川専蔵という人物だがね、以前なにをしていた男なのか、しらないかい?」
「さあ、それはいっこう……ながく、支那にいたらしいってことは聞いていますが……いま、大阪にいるそうですね」
「大阪に……?」
と、そばから|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部がききとがめて、
「君はどうして、それをしってるの?」
「ゆうべ、アケミちゃんから聞いたんです」
「どういうキッカケで……?」
と、体を乗りだす等々力警部を、伊東はちらりと上眼づかいで見ると、
「それはこうなんで……まだ晴んべ……高安晴子が来ないまえでした。じつは、ゆうべは徹夜をすることになってたんで……それで、徹夜をしているところへ、パトロンがきたらどうするんだと聞いたら、パパ……アケミちゃんはあのひとのことを、パパと呼んでたんですが……パパは今大阪だから、大丈夫っていったもんだから……」
「大阪へなにしに……?」
「さあ、そこまでは……いずれは、|儲《もう》け仕事なんじゃないでしょうか」
「ああ、そう」
と、等々力警部が眼配せすると、かわって警部補が乗りだして、
「それじゃ、ついでに聞くがね。君は牧野アケミとどうだったの? やっぱり関係があったのかい?」
「あっはっは」
伊東はとつぜん声を立てて笑った。
ようやくかれも、この場の雰囲気になれたというのか、あるいはその質問を期待していたのか、にわかにくつろぎをおぼえたように、にこにこしながら、
「およそ男であるかぎり、強壮な男性としての、機能をそなえているかぎり、ミラノ座の関係者で、あの娘と、そういう経験をもたなかったやつは、ひとりもないんじゃないかな」
「ふうむ、そんなでいて、それで男同士のあいだに、いざこざは起こらなかったのかい?」
「ああ薄利多売主義じゃあねえ。いってみればその|刹《せつ》|那《な》、刹那の皮膚の感触だけの問題なんです。|惚《ほ》れたはれたの、愛情なんてえもんじゃありませんからね」
と、こういう話題になってくると、この男もいくらか語尾がはっきりしてくる。
「それで、パトロンができてからも、関係したことある?」
「ああ、それが不思議なんです」
と、だらしなく、椅子のうえにのびていた伊東は、そこで急に体を起こすと、
「あの娘はまえにも幾人かの、パトロンをもったことがあるんです。それがいつも、長続きしなかったというのは、あんまり浮気がはげしすぎたんですね。だから、こんどもおんなじで、当然、ぼくなんかも従前どおり、ちょくちょく、お情けにあずかれるもんだと、たかをくくっていたところが、どうしてどうして、こんどはてんで、歯が立たないんです。はじめのうち、ぼくはそれを……」
と、いいかけてから、伊東ははたとばかりに口をつぐんで、いくらか怯えたように、部屋のなかを見まわした。
「はじめのうち、ぼくはそれを……? どうしたの?」
「はあ……いや……」
「伊東君」
と、警部補はちょっと威儀をただして、
「君がここでなにを話そうと、なにをしゃべろうと、われわれがそれを参考にするだけのことで、これこれしかじかのことを、君がしゃべったなんてことは、絶対に外部にもれる心配はないんだから、ひとつ、そのつもりで話してくれないか。はじめのうち、君はそれをどう考えたというの?」
「はあ、あの、それでは……」
と、伊東はちょっとそわそわして、
「この話、ここだけのことにしてください。いや、つまりあのじいさん、稲川専蔵ってひと、大陸がえりだというでしょう。それに、踊り子あいてに遊んでるようなときでも、それゃ、いつもにこにこしてますが、どうかすると、ひゃっとするような、つまり、|凄《すご》|味《み》なとこのあるひとなんです。しかも、いまでも中国人あいてに、なにかやってるらしいんです」
「中国人あいてに、なにを……?」
と、等々力警部もちょっと、緊張して体を乗りだした。
「いや、それをアケミちゃんに、覚られるようなじいさんじゃありませんやね。だけど、ここへもちょくちょく、中国人がやってきたそうです。まあ、そういうことをアケミちゃんに聞くもんですから、ひょっとすると、|強面《こわおもて》で浮気を封じられてるんじゃないか、うっかり浮気でもすると、リンチにでもあうおそれがあるんじゃないかと、べつに、そんな気配があったってわけじゃありませんが、ぼくはぼくなりに、そんな想像をたくましゅうしたことがあるんです。アケミのやつがあんまり、固くなっちゃったもんですからね」
「ふむ、ふむ、それで……?」
「もしそうだとすると、アケミが|可《か》|哀《わい》そうです。あの娘、多情は多情ですけれど、なかなかいいやつですからね。それで、あるときそれとなく、さぐりをいれてみたところが、そんな馬鹿なことはない。そんな心配はぜんぜんいらない。あのひとはとしに似合わず、とっても達者で、あのほうの凄いことときたら、おまえなんかの比じゃないって……。それで、そのときはそんなもんかなあ、あちらがえりだというから、なにか|霊《れい》|顕《げん》いやちこな、|媚《び》|薬《やく》みたいなもんでももってるのかもしれない……などと、まあ、そんなふうに思ったんですが。いまになってみると……」
「いまになってみると……どうしたの?」
「はあ、いや、こんなことが起こってみると、あれ、フィフティー、フィフティーだったんじゃないかと……」
「フィフティー、フィフティーというと……?」
「つまり、五分五分じゃなかったかと……あのほうがとても達者で、凄いというのもほんとなら、ぼくが想像をたくましゅうした、リンチにたいする恐怖というのも、ほんとじゃなかったか……と、そんな気がしてくるんです。アケミのやつ、首を|斬《き》りおとされてるそうだって、さっき楽屋で、マネジャーからきいたもんですから……」
「そうすると、君のかんがえでは、アケミは浮気を見つかって、パトロンにリンチにされたというのかい?」
「いや、はっきりそうとは……でも、こんな話、ここだけのことにしといてください。なんだか、ぼく、怖いんですよ、あのじいさん……」
「いや、それは大丈夫だが、もしアケミに情夫があったとしたら、それはだれだと思う?」
「さあ……」
と、伊東は|仔《し》|細《さい》らしく首をひねって、
「もし、そういうのがあったとしても、うちの関係者じゃないでしょうねえ。あの娘はそういうこと駄目なんです。じぶんでは、上手に立ちまわってるつもりでいながら、かたっぱしから、|尻尾《し っ ぽ》を出してるって性分ですから。……うちの一座の関係者だったら、ぼくにも見当がつくはずですがね。ひょっとすると……」
「ひょっとすると……?」
「中国人かなんかじゃないでしょうか。それだったら、ぼくにもちょっと……」
「ああ、そう」
そこで、菅井警部補は等々力警部と、なにやらひそひそ相談していたが、
「それじゃ、念のために、ゆうべの君の行動を、聞かせておいてもらいたいんだが……ここを出ていってから、のちのことだがね」
「はあ」
伊東もその質問を期待していたらしく、眼をあげて警部補の顔を視ながら、
「ゆうべここを出ると、マネジャーの郷田さんと、高安晴子の三人で、六区の、アザミというバーへいきました」
「それから……?」
「それから、二時ごろマネジャーはかえっていきました。そのあとぼくは晴んべを誘って、じぶんの部屋へつれてかえったんです」
「君の部屋というのは……?」
「今戸河岸です」
「晴んべ……いや、高安晴子は君の部屋へ泊ったの?」
「はあ」
「君の部屋というのは、アパートかなんか……?」
「いえ、ギャレージの二階です……」
「ギャレージの二階……? そのギャレージには、君のほかにだれかいるの?」
「いえ、いまんとこぼくひとりで……」
「と、いうのは……?」
「つまり、そこ、タカラ・タクシーという、タクシー屋だったんですが、おやじが破産しちゃって、債権者にくるまからなんから、一切合財もってかれて、住みこみの運ちゃんなんかも、そっちのほうへつれてかれて……おまけにおやじはブタ箱入り、細君は子供をつれて、田舎のほうへ逃避行ってわけで、ぼくが、まあ、留守番みたいなもんで……」
「すると、君はまだ独身なんだね」
「はあ、それは、もちろん……」
「そこで、君、高安晴子とも関係があるの?」
「関係たってそれは……それゃ、いっしょに寝たことは……ゆうべも……だけど、それだからって、べつにどうのこうのというようなことは……ああいうこと、さっきもいったとおり、その瞬間の、肉体のシビレだけの問題ですから……」
「ああ、そう、それじゃこれくらいで……」
と、菅井警部補がいいかけるのを、
「ああ、ちょっと……」
と、そばからさえぎったのは金田一耕助である。
「ぼくにもちょっと、質問させてください」
「さあ、さあ、どうぞ」
とはいったものの菅井警部補の額から、にがにがしげな色が|払拭《ふっしょく》されない。等々力警部はにやにやしている。
「それじゃ、伊東さん、たったひとつ、ぼくの質問にこたえてください」
「はあ……」
「ゆうべ、アケミちゃんはどういうなりをしてましたか」
伊東はちょっと|眉《まゆ》をひそめて、
「ガウンを着てました。真っ赤な……」
「ガウンの下は……?」
「ああ、そうそう、それが素肌にガウンなんです。だから郷田さんとふたりで、そんななりしてると、いまに風邪ひくぞといったんですけど、あれも意地っ張りなもんですから……」
「ガウンの模様は……?」
「さあ、そこまでは……たしか、大きな柄がとんでたようだが……」
「ああ、そう、いや、主任さん、どうもありがとうございました」
苦りきっている菅井警部補のほうへむかって、金田一耕助はまた、ペコリとひとつ頭をさげた。
五
伊東欣三といれちがいに、入ってきた高安晴子という娘は、まだやっと、|二十《は た ち》になるかならずという年頃だろう。アケミとちがってボチャボチャと小柄でかわいい女だが、これでも舞台人かと思われるような、もっさりとしたところを多分にもっている。つまり器量とはまたべつな、舞台人としての、洗練味にかけているのである。もっともそれは、思いがけない事件にまきこまれそうなので、|怯《おび》えきっているせいかもしれないが……眼がうわずって、唇まで土気いろをしている。
「ああ、高安晴子君だね。さあ、どうぞ、そこへ掛けたまえ」
「はあ」
と、警部補に指された|椅《い》|子《す》に、腰をおろした高安晴子は、そわそわとハンケチをもんだり、額の汗をぬぐったり、……恐怖と不安が、彼女の肉体に発汗をうながし、なんとなく、|坐《すわ》り心地が悪そうである。
「君、きょう、ここでなにが起こったかしってるね」
「はあ……」
「いつ、だれにきいたの?」
「さっき、楽屋で……ミラノ座の楽屋で伊東先生から……」
「ああ、そう、それでは、ゆうべのことを聞きたいんだが……君もゆうべ、ここへ来たんだそうだね」
「はあ……」
「誰に誘われたの?」
「アケミさんに……」
「アケミとはふだんから仲好しなの?」
「とんでもない!」
「とんでもないとは?」
「だって、あのかたはうちの一座で、人気随一の大スターですし、あたしはしがない、ワンサのひとりなんですもの」
「それじゃ、どうしてとくべつに、アケミちゃんは君を誘ったのかしら」
まただしぬけに、金田一耕助が横から口を出したので、晴子はぎょっとしたように、そのほうへふりかえった。そして、しばらく|眩《まぶ》しそうな眼つきをして、あいての顔を視まもっていたが、
「さあ、そんなことは……」
と、口ごもったのち、あわててハンケチで口をおさえたのは、あやうく失笑しそうになったのを、|噛《か》みころすためであろう。なんといっても、|箸《はし》がころげてもおかしい年頃なのである。しかし、そのことが彼女に、一種のくつろぎをあたえたことはたしかなようだ。
「ああ、そう、いや、主任さん、どうぞ」
質問の腰をおられた菅井警部補は、いまいましそうに眉をひそめて、
「それじゃ、高安君、ゆうべのことを聞きたいんだが、君の眼には、ゆうべのアケミがどううつった? なにかに怯えてるふうにみえなかった?」
「ええ、そのことなんですけれど……」
と、晴子はまた、緊張のためにかたくなったのか、両のてのひらのあいだで、ハンケチを|揉《も》み苦茶にしながら、
「あたしには、あれがお芝居だったのか、ほんとうだったのか、よくわからなかったんです。あのかた、アケミさんてかた、とっても空想力のつよいひとで、いろんなことを空想して、いかにもいまじぶんが、そういう地位にいるようなことをいって、あたしたちをかつぐのがお上手だったんです。ですから、あのことだって、あたしには、|嘘《うそ》かほんとかよくわからなかったんです」
「あのことって……?」
「いいえ、あのかた、あたしに、じぶんはいつ殺されるかしれない。いつかの女に、いつなんどき殺されるかもしれないから、そのときはあんた証人になって……なんて、ごく最近、そんなこといったことがあるんです」
「いつかの女に、殺されるかもしれない……?」
と、菅井警部補はいうにおよばず、一同のあいだに、さっと緊張の気がみなぎる。金田一耕助もおもわず、晴子の顔を見なおした。
「はあ」
「いつかの女って、どういう女……?」
「いいえ、それがあたしにはさっぱりわかりませんの。それゃいちど、会ったことは会ったんですけれど……」
「晴子さん」
またしても金田一耕助が、こんどは相手をおどろかせないように、できるだけ、やさしく、おだやかに声をかけた。
「そのときのこと……つまり、その女に会ったときのことを、できるだけ詳しく話してくれませんか。いつ、どこで、どういう状態で会ったかってことを。……」
晴子は不思議そうな眼を、金田一耕助から菅井警部補、それから、さらに|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部にうつしたが、警部がうなずくのをみると、
「はあ」
と、指に巻いたハンケチで、そわそわと額の生えぎわをこすっていたが、やがて、わりにしっかりした調子で話しはじめた。
「きょうは十一月二十四日ですわね。と、すると、あれは十一月十七日のことでした。なぜ、そうはっきり憶えているかといいますと、きょうが木曜日で、この興行の楽なんですが、その日も、このまえの興行の楽の日でしたから……あたしたちハネからつぎ興行、つまり、こんどの興行のお|稽《けい》|古《こ》をしてたんですけれど、その途中でアケミさんとふたりで、近所の屋台店へ支那ソバ食べにいったんです」
「ああ、ちょっと……」
と、金田一耕助がさえぎって、
「アケミさんとふたりで、支那ソバ食べにいったっていうけど、それ、アケミさんのほうから晴子君を誘ったの?」
「あら、ごめんなさい。あたしのいいかたが悪かったんです。あたしがラーメン食べにいこうと思って、ひとりで楽屋口を出たら、ちょうどそこで、アケミさんに出会ったんです。どちらへとアケミさんが|訊《き》くでしょう。それで、あたしがラーメン食べにっていったら、あら、あたしもよ、それじゃいっしょにってことになったんですの」
「ああ、わかりました。それで……?」
「はあ、ところが、そのかえりがけのことなんです。アケミさんとならんで歩いてると、暗がりに立ってた女がハルちゃん、ハルちゃんと呼ぶでしょう。あたし名前、晴子でしょう。ですから、てっきりじぶんのことだと思って、だあれとそっちのほうへいきかけると、失礼ですが、あなた牧野ハル子さんじゃありませんかって、暗がりのなかに立ってた女がいうんです」
「ああ、そう、それじゃ、その女が呼びとめたのは晴子君じゃなくて、アケミさんだったんだね」
「ええ、そうなんですの。あたしそのときはじめて、アケミさんの本名が、春子だってことしったんです」
「なるほど、なるほど、それで……?」
「それで、あたしはじぶんの勘ちがいだった、ってことに気がついてその場に立ちどまるし、アケミさんはアケミさんで、じぶんのことだと気がついて、どなたとかなんとかいいながら、あいてのそばへよっていったんですけれど、ひとめ顔を見ると、すぐにそれが誰だか気がついたらしく、それは、それは、たいへんなびっくりのしようなんです。ちょっとこっちへ、逃げてきそうな素振りでしたけれど、それじゃ悪いと思ったのか、それとも相手にひきもどされたのか、ふたこと三こと、低い声で話をしてましたが、やがてあたしのほうを振りむいて、さきへかえってほしい。じぶんもすぐ、あとからかえるからっていうので、あたしはひとりで楽屋へかえったんです。そしたら、それから三日ほどたって……」
「ああ、ちょっと……」
と、金田一耕助がさえぎって、
「その晩はどうだったの。アケミちゃんはあとから、楽屋へかえってきたの」
「はあ、それはかえってきました」
「そのとき、君は聞かなかったの、相手の女のことを?」
「いいえ、べつに……さっきもいったとおり、むこうさまは大スター、こっちは、その他大勢の組でしょう。いっしょに、支那ソバ食べにいったところで、偶然、落ちあっただけのことですから……」
「ああ、そう、それで三日ほどたってから……?」
「はあ……あれは日曜日の夜でした。アケミさんが楽屋のあたしんとこへきて、このあいだの晩、じぶんを呼びとめた女を、おぼえてるかってきくんです。それで、あたしそのことを思い出して、あれ、どういうひと? あなたとても、びっくりしていらしたけれどって聞いたんです。そしたらアケミさんがまた、あの女の顔を見たかってきくでしょう。いいえ、遠かったし、暗かったから、顔はみえなかったけどと、あたしがいったんです。そしたらアケミさんが、とっても怖い顔をして、ひょっとしたら、じぶんはあの女に殺されるかもしれないというんですの。だけど、あたし、ほうら、またはじまった、くらいに思って、本気にしなかったんです。でも、面白半分に、それどういうわけですの。なにかあのひとに、|怨《うら》まれるおぼえでもあるんですのって、聞いたんですの。そしたら、それはいえない。戦争中のいやな、いやな思い出……ってそれこそ、ジェスチュアーたっぷりなんですの。あたし吹き出したくなるのを、やっと我慢して、ちょっとからかってあげたんですの」
「からかったとは……?」
一同はだまって聞いているけれど、みなそれぞれ緊張していることは、眼じろぎもせずに、晴子の顔を凝視していることでもうかがわれる。等々力警部の一見柔和な|瞳《ひとみ》の底にも、かくしきれない鋭さがある。
「はあ、あたしこういってあげたんですの。あら、まあ、戦争中のいやな思い出って、あなたいったいいくつですの? いつか二十五だとかおっしゃってましたけど、戦争がすんでからだって、もう十年以上もたってますわよって」
「あっはっは、うまいことをいったね。そしたらアケミさん、なんていいました?」
「そしたらアケミさん、とっても怖い眼つきをして、あたしをにらんでましたけど、それっきりなんにもいわずに、プイとむこうへいっちまったんです。それっきり、その女のことについては、アケミさんもいわなければ、あたしのほうからも聞かなかったんです」
「それで、その女というのはどういう女?」
と、菅井警部補もきびしい顔をして、デスクのうえから乗りだした。
「それが……なにしろ、真っ暗なところに立っていたでしょう。それにちょっと距離があったので、顔はまるで見えなかったんです。でも、なんだかみすぼらしい服装をしていて、寒さにガタガタ、ふるえてるってかんじでしたけれど……」
「それきり、アケミはその女の話に触れなかったんだね」
「ええ、いちども」
「だけどねえ、晴子君」
こうなったら、いちいち警部補の顔色なんか、気にしていられないとばかりに、また、金田一耕助が横合から口を出して、
「あんまり親しくもないあんたが、ゆうべここへ招待されたのは、なにかその女のことに、関係があると思わない?」
「ええ、あたしもそう思ったんです。しかも、あたしそれを、お芝居だと思ってたでしょう。ですから、アケミさんがこんどは、どんなお芝居をするのか、もし、あたしを怖がらせるつもりなら、せいぜい、怖がってあげようと思ってたんですの、あのかた、芝居気が強くていたずらずきですけど、わりと、あたしども若い連中に親切なひとで、|騙《だま》したり担いだりすると、必ずあとで、それだけの埋め合わせをするひとですの。しかも、マネジャーの郷田さんと、幕内主任の伊東先生が、ごいっしょだということですから、これもあたしどもみたいな、しがないワンサにとっては、ひとつのチャンスだと思ったんですの」
「なるほど、なるほど、それで……?」
晴子の話しっぷりから金田一耕助は、この娘はよっぽど頭脳のよい娘なのだと、感心しながら|相《あい》|槌《づち》をうっている。
「はあ、ですから、はじめのうちあのかたが、なんだかびくびくしてるようなのを、くすぐったい気持ちをかくして、ただ黙って、まあ、みていたんですの。ところが、窓のガラス戸がだしぬけに、風でひらいたって話、郷田さんや、伊東先生からお聞きになりまして?」
「ええ、聞きましたよ。とっても、アケミちゃんがびっくりしたって……」
「ええ、そうなんですの。あればっかりは、お芝居やなんかとは思えませんでした。じっさい、|真《ま》っ|蒼《さお》になってふるえあがって……しかも、それから急に、気分が悪くなったといいだしたんですけれど、これもお芝居やなんかじゃなく、ほんとに気分が悪そうでした。しかも、それ以外には、べつにあたしをあっといわせる趣向もなく、まもなくおひらきということになったでしょう。ですから、あたし狐につままれたような気もし、かえって、なんだか気味悪くもなったんですけれど、そうかといって、まさかこんな恐ろしいことが起こるなんて……」
晴子はいまさらのように、肩をすくめて、身ぶるいをするのである。
「それはそうだろうねえ。ところで、晴子君はその女のことを、マネジャーの郷田さんや、伊東先生に話した?」
「いいえ、まだ……きょうはまだ、そんなひまもございませんし、ゆうべまでは半信半疑というよりも、むしろアケミさんのお芝居だとばかり、思ってたもんですから」
「ああ、そう、晴子君、ありがとう。主任さん、どうも失礼しました」
金田一耕助の傍若無人の|横《よこ》|槍《やり》に、苦りきっている菅井警部補なのだが、そこは、等々力警部にたいする遠慮もあるのか、
「いや、どういたしまして、先生の名探偵ぶり、名質問ぶりを拝聴させていただいて、こんな光栄なことはございませんな。あっはっは」
と、皮肉たっぷりな|挨《あい》|拶《さつ》に、高安晴子はまあというような顔をして、あらためて、金田一耕助の顔を視なおしている。
「ああ、それじゃ、高安君」
と、菅井警部補はもったいぶった調子で、
「君はゆうべここを出てから、けさまで、伊東先生と行動をともにしていたというが、ほんとうだろうねえ」
「はあ」
と、うなだれた高安晴子の耳たぶが、火がついたようにもえあがった。その耳たぶに光るうぶ毛がいじらしい。
「マネジャーの郷田氏とは何時まで?」
「ちょうど二時でした。マネジャーがかえるといい出したので、時計をみたんです」
「アザミという夜明かしバーだったそうだが、そのあいだに、郷田氏が座を外すというようなことはなかったかね。つまり、またここへやってきて、それからアザミへひきかえすというような、芸当は出来なかったろうねえ」
「まあ」
と、高安晴子は眼を視張ったが、
「いいえ、そんなことは絶対に……これはアザミでお聞きになってもわかります」
と、キッパリ否定した。
「伊東君はどうだったの。アザミで座を外したようなことは……?」
「いいえ、先生も絶対に。……それは、トイレくらいには、お立ちになりましたけれど」
「それから君は、伊東君に誘われて、今戸河岸の、伊東君の部屋へいって泊ったんだね」
「はい」
「ところでどうだろう。伊東君が寝てるまに、こっそりここへ、やってくるというような、チャンスはなかったろうか」
しばらく黙っていた高安晴子の耳たぶがまた、火がついたようにもえあがった。
「高安君、どうしたんだね、返事は……?」
「はい」
やがて、思いきったように顔をあげた高安晴子の瞳は、乾いて、強い光を放っていた。まっ赤にもえていた血の気もひいて、むしろ|蒼《あお》ざめた表情が、顔面にかたく凍りついていた。
「そんなことは、絶対に……」
「どうしてだね。どうして君は、そんなにハッキリ断言できるんだね」
「それは……それは……」
高安晴子は|喘《あえ》ぐようにいって、キリキリと、手にしたハンケチを|揉《も》んでいたが、やがて一気|呵《か》|成《せい》にいってのけた。
「あたしたちはゆうべ、一睡もしなかったんです。先生が……先生があたしを寝かさなかったんです。先生があたしを抱いて、夜っぴてはなさなかったんです。窓の外が白んでくるまで……」
だれかがパチンと指を鳴らす音が、やけに大きく、部屋のなかにひびきわたった。
「それじゃ君はゆうべ伊東先生に、夜どおしかわいがられたというのかい」
「はい」
高安晴子は真正面から、菅井警部補の顔を視すえながら、悪びれずにキッパリ答えた。
金田一耕助はその|強《こわ》|張《ば》った横顔を、興味ふかげに視まもりながら、ゆっくりと、頭のうえの雀の巣をかきまわしている。
かれはいま、伊東欣三がさっきいった言葉を思い出しているのである。
「ああいうことは、その瞬間の、肉体のシビレだけの問題ですから……」
そうすると高安晴子の肉体には、一夜のうちに、何度も何度もシビレてみたくなるような、一種特別な魅力が秘められているのであろうか。
金田一耕助はまた、伊東欣三という男のもつ、不健全な|倦《けん》|怠《たい》|感《かん》と、それと同時に、鋼鉄のような|強靭《きょうじん》さをもっていそうな、あのしなやかな手脚を思い出していた。
金田一耕助は、あの長身でバネの強そうな伊東欣三と、いま眼前にいる小柄でボチャボチャとした、高安晴子を裸にしてみたうえ、その対照的なふたつの体がぴったりと密着して、夜を徹して躍動しているところを想像しているうちに、なぜか寒気をおぼえて身ぶるいをした。
ちょっとの間、部屋のなかにはギコチない空気が流れたが、それを救おうとでもするかのように、等々力警部がおだやかに言葉をはさんだ。
「ときに高安君、君は伊東先生やマネジャーの郷田さんが、牧野アケミと関係があったことしってる?」
「はい」
と、答えた晴子の瞳は、とつぜん涙にうるんでぬれてきた。彼女はそれをぬぐおうともせず、
「警部さま。あのひとたち、アケミさんや、伊東先生や、郷田さんにとっては、ああいうこと、みんなひとつの遊戯なんです。しかし、あたしにとっては、それは死活問題なのです」
「死活問題というと……?」
「あたし、はじめて伊東先生から、お誘いをうけたとき、つい、なにげなくお断わりしたんです。そしたら、それ以来、全然、役を見ていただけなくなりました。それですから、ゆうべなども、先生のいいなりにならなきゃならなかったんです」
「ああ、いや、高安君」
と、等々力警部はいたわりをこめた、やさしい声で、
「わたしが|訊《たず》ねているのは、そのことじゃないんだよ。あのひとたち、ひょっとすると、その後もひきつづいて、アケミと関係があったんじゃないかと、それを君に訊ねているんだが……」
「さあ」
と、高安晴子はしずかに涙をぬぐうと、
「詳しいことは存じませんが、ちかごろはそういうこと、なかったんじゃないでしょうか。アケミさん、パパさん……パトロンのことですわね。パパさんが出来てから、すっかりひとが変わってしまったと、いつかも、伊東先生がおっしゃってましたから」
「ああ、そう、ありがとう」
等々力警部は金田一耕助と顔見合わせて、いままで|訊《き》きとりをした三人のうち、この女がいちばん、人間らしい感情をもっているようだと、思わずにはいられなかった。
「ところで、晴子さん、さいごにもうひとつ、訊きたいことがあるんだがね」
と、また、そばから口を出したのは金田一耕助である。
「はあ」
「ゆうべ、アケミちゃんがどういうなりをしていたか、あんたおぼえていない?」
「はあ、素肌に真っ赤なガウン……赤地に五線紙に音符記号を、緑と黄色で、交互にちらしたガウンでした」
「緑と黄色……?」
と、金田一耕助は聞きとがめて、
「それ、記憶ちがいじゃない? 紫と白じゃなかった?」
「いいえ、そんなことはございません。たしかに緑と黄色でした」
と、晴子が自信ありげに、キッパリというので、金田一耕助はいよいよ不思議そうに、
「しかし、いま、アケミちゃんの居間にあるのは……」
と、いいかけたとき、菅井警部補が思い出したように、
「ああ、そうそう、金田一先生はまだ、寝室のほうをごらんになっていなかったんですね」
「はあ、あとでゆっくり、拝見しようと思ってるんですが、寝室になにか……?」
「いや、寝室をごらんになると、緑と黄色と、紫と白との、食いちがいがおわかりになりましょう。と、いうのは寝室のベッドのうえに、おなじ地のおなじ柄の、|但《ただ》し模様の色だけちがうガウンが、もう一着ほうりだしてあるんです。わたしにも、その意味がよくわからなかったんですが、いまの高安君の話をきいて、はじめてわかりました。と、いうのは寝室にあるガウンには、酒の|匂《にお》いがプンプンするんです。だから、アケミはみんながかえったあとで、ひとりで、ウイスキーを飲んでいるうちに、したたかそれをガウンにこぼして、気持ちが悪いもんだから、もう一枚のガウンに着かえた。そこをやられたというわけでしょう」
「ああ、なるほど」
と、金田一耕助は大きくうなずいて、
「それじゃ、被害者はおなじ地の、おなじ柄の、但し、柄の色だけちがったガウンを、二着持っていたというわけですな。なるほど、なるほど、これで一挙に疑問氷解、めでたし、めでたしというわけですね。ところが、晴子さん、あんた、アケミちゃんが素肌に、ガウンを着てたってことについて、どう思いますか。いかにストリッパーだからって、裸にガウンは、ちとおかしいと思いませんか」
「ええ、でも、あのかた、なにかにつけて、変わっていらっしゃいましたし、また思い切って、大胆なこともできるかたですから……」
「ああ、そう、それでは主任さん、どうぞおつづけになって」
菅井警部補はそこでアケミのパトロン、稲川専蔵について訊ねてみたが、それについては、晴子はほとんどしっていなかった。パトロンとはっきりきまるまえ、ちょくちょく、楽屋へきていたようだが、じぶんは大部屋のことで、部屋もちがうし、また、ご|馳《ち》|走《そう》になったこともないという答えであった。
こうして、訊き取りがおわった三人の証人は、まず、あの|首《くび》|斬《き》り道具のかずかずをみせられたが、三人とも、それをアケミのものにちがいない、楽屋でアケミが使っていたのを、見たことがあると証言した。そのあとで、三人はあの恐ろしい生首と対決させられたが、ひとめそれを見たとたん、晴子が脳貧血を起こしたのもむりはない。しかし、三人が三人とも、アケミの首にちがいないと、証言したことはいうまでもあるまい。
そのあいだに、金田一耕助が寝室へ入ってみると、なるほどそこには、赤地に、緑と黄色の模様の入ったガウンが放りだしてあり、強いアルコールの匂いを、プンプンさせていた。そこにはガウンのみならず、ふだん着らしいスーツや、靴下が、乱れ箱のなかに放りだしてあり、ベッドのうえには、パジャマも散らかっていた。
パジャマはすぐそこにあったのだ。それだのに、アケミはなぜそれを着ようとしないで、素肌にガウンをはおっていたのか。それが、ストリッパーの習性というものだろうか。
金田一耕助は寝室を出ようとして、ふと、ベッドの下にころがっている、靴の|踵《かかと》に眼をとめた。左の靴が横だおしになっていて、その踵に、なにやらキラキラ光るもののあるのが、光線のかげんで、かれの視線をとらえたのである。
金田一耕助はおやと思って身をかがめたが、それは小さなガラスの粉で、かぞえてみると三粉ほど、踵にふかく|喰《く》いいっている。念のために、金田一耕助が右の靴をひっくりかえしてみると、こっちのほうの踵にも、ガラスの粉がくいいっている。これでみるとアケミはなにか、ガラスの破片を踏んだにちがいないが、それがあまり小さかったので、アケミも気がつかなかったのか、それとも、気がついてもべつに気にとめなかったのか。……
金田一耕助は注意ぶかく、フラットのなかを探してみたが、どこにも、踏みくだかれたガラスの破片は見当たらなかった。
六
この牧野アケミの、首なし死体紛失事件ほど、当時、世間を驚倒させた事件はなかったが、それから七日たった、十一月三十日にいたって、さらにそれに、追い打ちをかけるような事件が発見されて、ふたたびあっとばかりに、世間の度肝を抜いたのである。
だが、第二の事件へ筆をすすめていくまえに、アケミの首なし死体紛失事件について、もう少し、筆をついやすことにしよう。
かんじんの胴のほうが発見されないので、死因がなんであったか、また、殺害された時刻がいつごろだったか、はっきり断言するには、ちょっと不便がかんじられた。
しかしあのガウンの|疵《きず》といい、また、そこに付着している、|血《けっ》|痕《こん》の量や状態といい、素肌にガウンを着ているところを、うしろから、突き殺されたのであろうことは、疑いの余地もなく、また、その時刻は、三人のブリッジ仲間がかえってからまもなくのこと、おそらく、それから、半時間もたたないあいだの、出来事だったろうといわれている。したがって、犯行の時刻は十一月二十四日、午前零時半頃ということになる。
こうなると、三人のブリッジ仲間は、完全に白くなるわけだ。かれらは|聚《じゅ》|楽《らく》|荘《そう》のまえでタクシーを拾い、六区のアザミへ走らせて、二時ごろまでそこに粘っていたのだから。
ところで、犯人はアケミの首なし死体を、いったいどう始末したのか。それについては事件が発見された日の翌日、すなわち、十一月二十五日の朝になって、だいたいの見当がついた。
と、いうのは二十五日の朝、|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》口に|碇《てい》|泊《はく》している汽船のそばに、無人のボートが一|艘《そう》、ただよい寄っているのが発見されたからである。
それが前日の二十四日に発見されず、その翌日の二十五日になって、はじめてひとに気づかれたのは、汽船の巨体にさえぎられていたのと、また、たまたまそれに気づいたひとも、その汽船の付属物だろうくらいに考えて、かるく看過していたせいらしい。
このボートの発見が、警視庁へ報告されたとき、たまたま、金田一耕助もそこにいあわせたので、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部とともに急行したが、ボートのなかにはぐっしょりと、血にそまった女のオーヴァが一着放りだしてあった。
このオーヴァはのちに、ミラノ座の朋輩や、聚楽荘の隣人たちによって、たしかに、牧野アケミのものにちがいないということがたしかめられた。しかも、このオーヴァには、綱かなんかで|雁《がん》|字《じ》がらめに、しばられたような跡がついていて、それがはなはだ暗示的だった。
そこで、こういうことが考えられる。
牧野アケミの首なし死体は、アケミのオーヴァや、下着類にくるまれたうえ、雁字がらめにしばられて、アケミの部屋の窓から、下のボートにおろされた。それから、犯人はボートを|漕《こ》ぎだし、東京湾のほどよいところで、首なし死体を海底にしずめた。犯人はそれからふたたび、隅田川をさかのぼり、ほどよい地点で上陸したが、そのとき、ボートを突きはなしたのが、あの汽船のそばへ、漂いよったのであろうと。
このボートの出所は、その日のうちにわかった。それは両国のちかくにある『千鳥』という、貸しボート屋のボートだったが、十一月二十三日の夜八時ごろ、客が漕ぎだしたきり、かえってこなかったものである。
しかし、残念なことには、その客の人相|風《ふう》|態《てい》を、はっきりおぼえているものはひとりもいなかった。『千鳥』の店員のひとりは、相当の年輩の老人だったと思うというし、べつの店員は、女づれの青年だったように記憶していると、証言がすっかり食いちがっているのである。とかく目撃者の証言というやつが、当てにならぬものであることは、この一例でもわかるだろう。
だが、それはそれとして、犯人はなぜオーヴァを、ボートのなかに残していったのか。死体をくるんできたものなら、なぜいっしょに、海底へしずめなかったのか。いや、いや、そのまえに犯人はなぜ、生首だけを部屋にのこして、首なし死体のほうをかくしたかということが、ふたたび問題になってくる。
どうも、この犯人のすることは、わからないことばかりである。
あるいは、首なし死体のしまつをしたのち、またひきかえして生首のほうも、なんとか、処分をするつもりでいたところが、なんかの故障で、やれなくなったとでもいうのであろうか。しかし、それならそれで、オーヴァのほうも、もっと手際よくしまつをしておくべきではないか。
こうして、この事件には、いろいろわからないことが多かったが、さらにこの事件にもうひとつ、怪しいかげを投げかけたのは、アケミのパトロン、稲川専蔵のゆくえである。
二十四日の晩、菅井警部補の命令で田代刑事が、すぐさま西銀座のヤマカ・ビルにある、稲川商事へおもむいたことはまえにもいったが、残業でオフィスにのこっていた、山根という社員の話によると、社長は二十二日の晩、とつぜん大阪へたったらしい。らしいというのは、社長がみずからそういいおいて立ったのではなく、二十三日の朝十時ごろ、社長の代理と名のる男から、電話でそういってきたというのである。しかも、その男の言葉のなまりからして、日本人ではなく、中国人ではなかったかと思うというのが、山根の話である。
なお、稲川専蔵の自宅は、小田急沿線の|経堂《きょうどう》にあったが、経堂のほうへも二十三日の朝十時ごろ、中国人らしい、なまりの男から電話がかかってきて、ご主人はゆうべ大阪へたって、四、五日かえらないかもしれないが、心配はいらないといってきたそうである。しかし、事務所のほうでも自宅のほうでも、稲川が急に、大阪へ立った用件はしらなかったし、また、大阪のどこへいったのか、それも全然わからなかった。
こうして、調べていけば調べていくほど、稲川専蔵というのが|謎《なぞ》の人物であった。
誰もかれが戦前なにをしていたのか、しっているものはなかった。専蔵には花江という、二十以上も年齢のちがう妻があるが、それも、戦後いっしょになったので、しかも内縁関係だった。花江という女は、昭和二十六年頃まで、キャバレーかなんかで、ダンサーをしていた女だということである。
その花江の話によると、専蔵はながく中国にいたらしいが、中国のどこにいたのか、はっきりしらぬといっている。稲川専蔵というのが本名なのかどうか、内縁関係だから入籍のこともなく、したがって、戸籍なども見たことがないのでわからぬという。
さて、稲川商事の内容だが、西銀座のヤマカ・ビルの三階に事務所をおき、事務員を三名つかって、表向きは、自動車のブローカー業ということになっているが、そのほかに、麻薬の密輸をやっていたのではないか、いや、むしろそのほうが、本業ではなかったかという、疑いが濃厚になってきた。
もし、じじつそうだとすると、アケミに秘密をにぎられたので、邪魔者は殺せとばかりに殺害して、高跳びをしたのではないかとも考えられた。そうなると、当然、このほうへ結びついてくるのが、晴子といちど会い、しかも、アケミがひどく恐れていたらしい、謎の女のことである。
その女と、稲川専蔵とのあいだになにか関係があり、このふたりが共謀して、アケミをやったのではないか。いや、もう一歩この仮説を押しすすめて、その女とは、稲川専蔵の内縁の妻、花江ではないかとも論じられた。
そこで、高安晴子にそっと花江を見させたのだが、なにしろ暗がりのことだったから、よくわからなかったといって、否定もしなければ肯定もしなかった。晴子はかなり|悧《り》|巧《こう》な女で、こういう大事件の証人として、責任をとることを拒否したのである。
その後、二日たっても、三日たっても、稲川専蔵からなんの消息もなく、また、その居所も依然不明のままで、かれにたいする疑惑は、いよいよ深められるばかりだった。稲川の女関係についても、調査がすすめられたが、かれには|同《どう》|棲《せい》している花江と、聚楽荘にかこってあるアケミ以外に、情婦があったという線も出てこなかった。
こうして、稲川専蔵のゆくえもわからず、謎の女の|身《み》|許《もと》も判明せず、さらに、アケミの首なし死体も発見されず、いたずらに時日が経過していったが、やがてそこに、世にもショッキングな事実が発見されて、ふたたび世間を驚倒させたのである。
それはさきにも述べたように、十一月三十日のことである。
当時、大森にある松月という、|割《かっ》|烹《ぽう》旅館のはなれに、寄食していた金田一耕助は、正午過ぎ、等々力警部に電話口まで呼び出された。
「ああ、金田一さんですね。こちら等々力……」
と、警部の声はひどく弾んで、意気ごんでいた。
「ああ、警部さん、なにか……」
「アケミの生首事件が急転回したんです。あなた、おひまなら、西銀座のヤマカ・ビルの三階へやってきませんか」
「ヤマカ・ビルの三階というと、稲川商事の事務所ですね。そこでなにかあったんですか」
「いや、いま報告が入ったばかりで、わたしもこれから出かけるところなんです。ひとつむこうで、落ちあうとしようじゃありませんか」
「承知しました。じゃ、のちほど」
金田一耕助は大急ぎで帯をしめなおすと、よれよれの|袴《はかま》をつっかけ、インバネスをひっかけるのもそこそこに、松月をとび出した。
もう|師《し》|走《わす》をまぢかにひかえて、|巷《ちまた》には、身もちぢむような空っ風が吹いていた。
七
西銀座のヤマカ・ビルというのは、空襲こそまぬがれたものの、相当年代ものの、うすよごれた四階だてのビルだった。
金田一耕助が、自動車をのりつけたビルの入り口には、ちょうどお昼休みの時間のこととて、野次馬がいっぱいたかって、眼の色かえた係官の出入りがあわただしい。
金田一耕助がその野次馬をかきわけて、なかへとびこむと、出会いがしらに、ばったり出会った|顔《かお》|馴《な》|染《じ》みの小崎刑事が、
「ああ、金田一先生」
と、|呼《い》|吸《き》をはずませて、
「エレベーターは駄目ですぜ。機械が故障で運転中止なんです。ご苦労さんですが、階段をてくってください」
この一事をもってしても、このヤマカ・ビルなるものが、およそどの程度のビルか、想像できようというものである。
狭い、薄暗い階段には警察官や、このビルに事務所をもつ、会社の事務員たちが、むやみに上ったり下ったりして、ひしめいている。そのあいだをかきわけて、三階へあがっていくと、稲川商事はすぐ鼻のさきにあった。
金田一耕助がそのなかへ入っていくと、こちらに背をむけて、人垣をつくっている警官たちのむこうから、プーンと異様な|匂《にお》いが鼻をついた。経験によって金田一耕助には、それが死臭であることが、すぐわかるのである。
金田一耕助がインバネスの|袖《そで》で鼻をおおうて、
「警部さん」
と、ひくいしゃがれた声をかけると、その声にふりかえった|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部が、
「ああ、金田一さん、こちらへ……」
と、手をあげてさしまねき、ほかのひとたちも、人垣をひらいて席をゆずったが、そのなかには、菅井警部補の顔もみえている。
金田一耕助はおそるおそる、警官たちのあいだにわりこむと、床のうえに、仰向けの大の字に横たわっている、その恐ろしいものに視線を落とした。
ロマンス・グレーをとおりこして、雪のように白い頭髪が、この男の身許を示している。このあいだ、ミラノ座の支配人郷田実もいっていたが、年齢のわりには頑健そうで、ずんぐりむっくりしたその体つきが、いかにも精力の強さを思わせる。
これこそアケミのパトロン、稲川専蔵にちがいないが、それでは稲川も殺されていたのかと、金田一耕助は|慄《りつ》|然《ぜん》たる思いである。
その死体はまだ、それほどひどく|変《へん》|貌《ぼう》しているのではないが、それでもそこから発する死臭には、たえがたいものがあり、死後相当、時日が経過していることを物語っている。
「いったい、この死体はいままで、どこにあったんですか」
と、金田一耕助の声は、おもわず押し殺したようなささやきになる。
「あのなか……」
と、等々力警部が指さしたのは、部屋の隅においてある、大きくて頑丈そうな支那|鞄《かばん》である。それはおそらく、稲川専蔵が中国から持ちかえったものだろう。
「この死体は殺されてから、相当日数がたっているようですが、ここの事務員たちは、だれもいままで、これに気がつかなかったんですか」
「いや、ところがねえ、金田一先生」
と、警部のそばから声をかけたのは、ここの所轄の捜査主任で、岡村という警部補である。このひとは菅井警部補とちがって、べつに金田一耕助を邪魔にしなかった。
「話をきいてみると、むりのないところもあるんです。この鞄の|鍵《かぎ》は、稲川氏が肌身はなさずもっていて、絶対に誰にも手をふれさせなかったそうです。だから事務員たちも、まさかじぶんたちの眼と鼻のあいだに、社長の死体が、かくされていようとはしらなかったから、きょうまで、そのまんまに過ぎたんですね。ところがきのうあたりから、なんだか変な匂いがするといいだして、しかし、まさかといってたのが、とうとう、きょうたまらなくなって交番へとどけて出た。そこで警官たちが立ちあいのうえで、鍵をこわして開けてみたところが、この死体が出てきたというわけです」
「なるほど」
「とにかく、こないだの|聚《じゅ》|楽《らく》|荘《そう》の事件といい、この事件といい、こりゃ近来の大事件ですぜ。金田一先生、ひとつよろしくお願いしますよ」
と、岡村警部補は威勢もいいが、愛想もいい。
「いや、どうも……?」
と、金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「それで、殺されたのはいつ……?」
「おそらく、ゆくえ不明になった、二十二日の晩のことじゃないかといってるんですが……」
「そうすると、菅井さん、アケミ殺しよりまえということになりますね」
「ええ、まあ、そうですね」
と、煮えきらない菅井警部補の返事を、そばから等々力警部がひきとって、
「だから、これでまた、事件がひっくりかえったというわけで、ブン屋諸君がさぞや、ガアガア騒ぎ立てることだろうて」
と、|憮《ぶ》|然《ぜん》たる顔色も無理はないと、金田一耕助もそぞろ、同情を禁じえなかったが、そこへ卓上電話のベルが、けたたましく鳴り出した。
刑事のひとりが、受話器をとって耳へあてると、すぐ、
「主任さん、吉田君からです」
「ああ、そう」
と、岡村警部補が電話をきいているあいだに、金田一耕助はもういちど、床に横たわっている死体に眼をおとした。
ミラノ座の支配人、郷田実もいっていたが、稲川専蔵はヤミ屋などに見られるような、人相の|兇悪《きょうあく》さはなくて、ふっくらとした福相である。それに相当おしゃれだったとみえて、洋服の仕立てもよく、|蝶《ちょう》ネクタイも粋である。ズボンの折り目もちゃんとついているし、靴もぴかぴか光っている……と、そこまで見てきたとき、金田一耕助の眼が、とつぜん大きく視開かれた。あるものが、強くかれの注意をひいたのである。
そのものを、金田一耕助がもっとよく、見きわめようと身をかがめたとき、岡村警部補が電話をきって、等々力警部と金田一耕助に呼びかけた。
「警部さん、金田一先生」
「はあ」
岡村警部補の声のなかに、なにやら異様なひびきがこもっていたので、金田一耕助は身を起こして、おもわず強く、あいての顔を直視した。
岡村警部補は等々力警部と、金田一耕助の顔を、強い視線で見くらべながら、
「じつはここの事務員の調査によって、いつも稲川専蔵が肌身はなさず所持している、小切手帳と印鑑が、紛失していることがわかったんです。そこで念のために、いま吉田という男を取引銀行へ派遣して調査させたところ、十一月二十三日の朝、すなわち稲川が殺害されたのではないかと思われる日の翌朝、相当大きな金額が、銀行から引きだされているそうです。しかも……」
と、そこでいったん言葉を切った岡村警部補は、ひと息いれながら一同の顔を見まわすと、あとを一気|呵《か》|成《せい》にいってのけた。
「しかも、その小切手を持参して、金を引き出していったという人物が、若い女で、人相|風《ふう》|態《てい》をきいてみると、ひょっとすると、牧野アケミじゃないかと思われるというんです」
「ふうむ」
と、等々力警部は鼻から猛烈に、ふとい|唸《うな》り声を吐きだしたが、菅井警部補はちょっと|眉《まゆ》をひそめただけで、
「しかし、それは大して不思議ではありませんね。二十三日の朝だったら、牧野アケミはまだ生きていたのですから……」
「菅井君、君はいやにすましているが、それじゃ君に|訊《き》くがね、アケミは被害者なのかい。それとも稲川殺しの共犯者なのかい」
「さあ、それは……」
と、菅井警部補はちょっと口ごもったのち、
「それは今後の調査にまたねばなりませんが、時間的にいって、いま岡村君のいったことは不可能じゃないということを申し上げたんです。しかし、岡村君、それ、はっきりとアケミとわかってるの?」
「いや、まだそう確定したわけじゃないが、これはいちおう、たしかめておく必要があるからね。さっそくアケミの写真を持たせて、もういちど、銀行の係りのものに鑑定させておこうと思うんだ」
「金田一先生」
と、等々力警部はやれやれというように肩をゆすって、
「お聞きのとおりです。こいつ、ますますこんがらがってきやあがった」
金田一耕助はさっきから、なにか考えこみながら、めったやたらと、頭のうえの雀の巣をかきまわしていたが、警部の言葉をきくとうなずいて、
「岡村さん、それじゃちょっと、事務員をここへ呼んでくださいませんか。聞いてみたいことがありますから……でも、この部屋じゃ困りますかな」
金田一耕助があたりを見まわしていると、
「ああ、そう、じゃ、隣の部屋にしよう」
等々力警部はさっそく、隣室のドアを開いて金田一耕助をみちびいた。そこは社長専用の部屋なのである。
八
岡村警部補はさぐるように、金田一耕助の顔をみていたが、等々力警部の眼配せで、部下にそれと合図をする。合図をうけて、刑事のひとりが出ていったかと思うと、やがて、三人の事務員が社長室へ入ってきた。三人のひとりはわかい女である。
「金田一先生、ご紹介しましょう。右から順に山根純一君、川端宏君、石河和子君」
と、岡村警部補に紹介されて、三人は妙な眼をして、このもじゃもじゃ頭の小男を視つめている。
「いや、あんたがたに、来てもらったのはほかでもありませんがね、社長がいなくなった、二十二日の晩のことを、ちょっとお聞きしたいんだが……」
「はあ、でも、そのことならここにいらっしゃる、岡村さんにさっきも申し上げましたが……」
と、いちばん|年《とし》|嵩《かさ》の山根純一は、いくらか反抗的な口調である。
「いや、いや、山根君、ぼくはぼく、こちらはこちらだ。こちらのご質問にはなんでも、どんどん答えてあげてくれたまえ……」
「はあ、それでは……と、いっても、さっきも岡村さんに申し上げたとおり、べつにこれといって、変わったことはなかったんです。われわれは、六時ごろそろってここを出たんですが、社長だけは、なにか用事があるといって残っていました。ただそれだけのことなんです」
「なるほど、それで二十三日の朝、いちばんはやく出社したのはどなた?」
「はあ、それはあたしでございますけれど……」
と、そう答えたのは女事務員の石河和子で、彼女はもちろん固くなっているのだが、いっぽう、この和服に|袴《はかま》という男にたいして、大いに好奇心をもやしているのである。
「ああ、そう、それじゃ、石河君に聞きたいんだがね、二十三日の朝、ガラスのかけらのようなものが、この部屋に落ちてやしなかったかしら」
「あら!」
と、石河和子は口のなかで叫んで、それからにわかに|頬《ほお》を紅潮させた。
「そうそう、そういえば、あれは社長さんが、あとへお残りになったつぎの朝でしたわね。シェリー・グラスがひとつ、こなごなにこわれて、そこんとこに落ちていたんです」
と、石河和子は社長の|坐《すわ》る|廻《かい》|転《てん》|椅《い》|子《す》を指さして、
「それから、そうそう、もうひとつ、妙なものが落ちてましたわ」
「妙なものって?」
「真っ白な、コックさんがかぶるような帽子なんです。ですからあたし、社長さんはゆうべここへだれかお客をして、仕出しかなんかとって……」
「石河君」
と、そのとき、そばから言葉をはさんだのは菅井警部補である。
「君、その帽子をどうしたんだね」
と、まるで|咬《か》みつきそうな声である。
「その帽子なら、デスクのひきだしにしまってあります。コックさんが取りにきたら、返えしてあげようと思っていたんです。なんなら持ってまいりましょうか」
「ああ、持ってきたまえ。君たちそんなこと、いちいち|訊《たず》ねられるまでもなく、じぶんのほうから、申し出なければ駄目じゃないか」
「だって……」
と、石河和子が唇をとんがらせて、なにかいいかけるのを、
「ああ、いいよ、いいよ、石河君、なんでもいいから持ってきたまえ」
と、そばから取りなしたのは、岡村警部補である。
石河和子はぐいと肩をそびやかして出ていったが、まもなく純白のコック帽をもってくると、
「はい」
と、岡村警部補のほうへ差し出した。
「やあ、どうもありがとう」
と、岡村警部補はそれを手にとって改めていたが、ふっと眉をひそめると、
「菅井君、うらにイニシアルが入ってるぜ。これゃ君のほうの事件にとって、重大な証拠物件になるんじゃないか」
菅井警部補はみなまでいわさず、ひったくるようにそれを受け取ったが、そこにあるイニシアルをみると、さっと|眉《み》|間《けん》に稲妻が走った。
「菅井君、ぼくにもちょっと見せたまえ」
「はあ」
と、菅井警部補はちょっと|躊躇《ちゅうちょ》の色をみせたが、上司の命令とあらばしかたがない。不承不承差しだすのを、等々力警部がうけとって、ひとめその裏側をみると、
「金田一さん、これ……」
と、金田一耕助のほうへまわしてきた。
金田一耕助が手にとってみると、裏側に|刺繍《ししゅう》された頭文字は、あきらかにU・Uである。U・Uとは|聚《じゅ》|楽《らく》|荘《そう》事件の発見者、宇野宇之助の頭文字と一致するではないか。
「なるほど。こいつは思わざりき収穫でしたな」
金田一耕助はそれを等々力警部にかえすと、
「ときに、石河君」
「はあ」
「これ、たしかにシェリー・グラスのこわれてたと、おんなじ朝に落ちてたんですね」
「はあ」
「それで、これ、どういう状態で落ちてたの?」
「はあ、その椅子……」
と、等々力警部が坐っている、社長の廻転椅子を指さして、
「その椅子の下敷きになっておりましたの。さっきいったように、シェリー・グラスがこわれてたでしょう。それを掃除しておりますと、その丸い脚のしたから、なにやら白いものがはみだしております。なんだろうと思って、椅子をとりのけてみると、その帽子が出てきたんですの」
「なるほど、それじゃそれが、二十三日の朝だったということが、はっきり証明出来ると、いっそう有難いんですけれどね」
「あら、そんならなんでもございませんわ。これがお役にたつんじゃございません」
と、石河和子が差し出したのは、卓上カレンダーである。金田一耕助のほうへ差し出すのを、
「ああ、いや、そちらにいらっしゃる、岡村さんに見せてあげてください。そのかたがこの事件の主任さんだから」
「ああ、いや、これゃどうも……」
と、岡村警部補がうけとると、ちゃんと、十一月二十三日のところが開いてあり、そこに、
朝、七時半出社。掃除。社長室にシェリー・グラスがこわれており、床よりコックさんの帽子らしきものを拾う。
と、達筆の女文字で書いてある。
「ああ、君、ありがとう、ありがとう。こいつは完全な証拠物件だ。金田一先生、ほら、これ……」
金田一耕助もその卓上メモに眼を走らせると、
「石河さん」
「はあ」
「これ、あんたの字?」
「はあ」
「あんたなかなか字が上手なんだね」
「あら、あんなこと……」
「いや、いや、字が上手だってことはだいじなことですよ。字がへただって自覚があると、こういうメモを書くのもつい|億《おっ》|劫《くう》になりますね。ひとにみられるのが|羞《は》ずかしいなんて、ついつまらないことを考えるからね。その点、あんたは字が上手だから、自信をもって、こうして|些《さ》|細《さい》なことも書きとめておく……」
金田一耕助にお土砂をかけられて、石河和子はすっかり逆上気味で、
「自信なんてございませんけれど、変わったことがあったら、なんでも控えておくようにと、社長さんにいわれてるもんですから……」
「ああ、そう、だけどねえ、石河さん」
「はあ」
「あんたはじぶんでも気がつかないうちに、こんどの事件の捜査について、たいへんな貢献をしてるんですよ」
「あら、そんなこと……」
「いや、いや、ほんとうですよ。そのことはいまそちらにいらっしゃる、主任さんもおっしゃったでしょう。だから、この事件が解決して、首尾よく犯人がつかまったら、あんたはまず、殊勲甲というところだ」
「まあ!」
「だからね、石河君、ことのついでに、あんたにひとつお願いがあるんです」
「はあ……」
「ここで二十三日の朝、コック帽を拾ったってことね、当分、だれにもいわないようにしてほしいんです。これは石河さんだけではなく、山根純一君にも、川端宏君にもお願いしたいんですが……」
「はあ、承知しました」
これはいったい、どういう人物なのだろうと思いながら、石河和子はいうにおよばず、山根も川端も、言下に快諾して頭をさげた。
「ああ、そう、ありがとう。じゃ、これくらいで……なにかまた、気がついたことがあったらしらせてくださいよ」
三人の事務員が、ていねいに頭をさげて出ていくと、閉めきった社長室のなかには、|俄《が》|然《ぜん》、緊張の気がくわわってくる。
「畜生ッ、飯田屋のやつ!」
と、吐きすてるように|呟《つぶや》く、等々力警部の声をきいて、岡村警部補も身を乗りだして、
「警部さん、飯田屋というと、たしか聚楽荘事件の発見者でしたね」
「そう、本名宇野宇之助てえんだ。やっこさん、たしかにこれと、同じような帽子を頭にのっけてたよ。野郎、事件発見者として、ちょっぴり顔を出しておいて、あとはまんまと、|遁《のが》れようという|肚《はら》じゃなかったのか」
「しかし、警部さん」
と、そばから、ぎこちない声を出したのは菅井警部補である。この警部補はさっきから、しきりに|頬《ほ》っぺたを、ひくひく|痙《けい》|攣《れん》させているのである。
「こんなこというの、|釈《しゃ》|迦《か》に説法みたいなもんですが、飯田屋が犯人だとすると、これほど歴然たる証拠を、現場にのこしていくというのは変ですが……」
「と、おっしゃると、菅井さんのお考えでは……?」
と、そばから、すばやく口をはさんだのは金田一耕助で、これだからこの男、菅井警部補みたいな、神経質な人物に毛嫌いされるのである。はたして、菅井警部補は眉間に稲妻を走らせて、
「だから、だれかが飯田屋に罪を転嫁しようとして、わざとこんな重大な証拠物件を、のこしていったんじゃないかと……」
「そうです、そうです。わたしもそのお説に賛成ですよ。しかし、ねえ、菅井さん。誰かが、飯田屋に罪を転嫁しようとしたとすれば、飯田屋にそれだけの理由なり、条件なりがなければなりませんね。二十三日の朝といえば、アケミはまだ生きていたはずですし、飯田屋がアケミ殺しの発見者となるまえですね。そうすると、たかが出入りのお総菜屋に、罪をおっかぶせようというのでは、理由なり、条件なりが弱いとはお思いになりませんか。だから、あの男とアケミとの関係は、たんなる、お総菜屋とお得意との関係じゃなく、もっと立ち入った|絆《きずな》によって、結ばれてたんじゃなかったか……と、こういう新しい線が、うかびあがってきたとお思いになりませんか」
「つまり、飯田屋もアケミにつまみ食いされた、ひとりだというわけですね」
と、等々力警部は|憮《ぶ》|然《ぜん》たる顔色である。
「その飯田屋というのはどういう男です? アケミというのは、たいへんな|淫《いん》|婦《ぷ》だったという話ですが、金田一先生も飯田屋という男に、お会いになったことがあるんですか」
「あっはっは、いやねえ、岡村さん、これはわれわれ一同、|迂《う》|闊《かつ》千万だったんです。このコック帽をみて気がついたんですが、飯田屋という男、かくべつ好男子というのではありませんが、いかにもアケミのような女の、|食慾《しょくよく》をそそりそうな体をしてるんです。ボッテリと肉が厚くて、|逞《たくま》しく、ボチャボチャと色が白くってね」
「それにチョビ|髭《ひげ》なんか生やしゃがってね。いかにも、好きもんといった感じなんだ。こいつはまんまと一杯、|喰《く》わされたねえ」
等々力警部は感嘆これ久しゅうしていたが、そのとき菅井警部補が、むつかしい顔をしてそばから口を出した。
「それにしても、金田一先生」
「はあ」
「あなたはどうして二十三日の朝、この部屋にシェリー・グラスが、こわれていたということをしっていらしたんです」
と、まるで詰問するような調子である。
「ああ、それ、それは光線の加減なんですよ」
「光線の加減とは……?」
岡村警部補がギロリと眼玉を光らせた。
「いや、光線の加減で、みなさんは気がつかれなかったようですがね、隣の部屋に倒れてる、死体の靴の裏に、ガラスの破片……と、いうより、ガラスの粉といったほうがいいかな、非常に微細な、ガラスの粉末がささっているんですね。だから、被害者は倒れるまえに、なにかガラス製のものを、踏んづけたんじゃないかと思ったんです」
「ああ、なるほど、なるほど」
と、岡村警部補はすなおに感服し、刑事のひとりが、すぐに事実を調べに隣室へ出ていったが、しかし、菅井警部補はあくまで挑戦的である。
「しかし、金田一先生、そのことがこんどの事件の解決に、なにか役にたつとお思いですか」
「はあ、大きにね」
金田一耕助の自信にみちた顔色に、菅井警部補ははっと、警戒の色をみせたが、
「どういう意味で……?」
「いや、これは一応、綿密に試験していただかなければなりませんが、聚楽荘のアケミの寝室にある女の靴……たぶんアケミの靴だろうと思いますが、その靴の裏にも、ガラスの粉末がささっているんです」
「あっ!」
と、等々力警部と岡村警部補は|呼《い》|吸《き》をのみ、菅井警部補の|眉《み》|間《けん》にさっと、ものすさまじい稲妻が走った。
「これも光線の加減で、どなたも気がおつきにならなかったようですがね。そこでわたし、あのフラットの隅から隅まで探してみたんですが、どこにも、ガラスのかけらなんか落ちていないでしょう。ですから、大して気にもとめずにいたんですが、きょうここへきてみると、稲川の靴の裏にも、ガラスの粉末がささっている……」
「先生、先生、金田一先生」
と、岡村警部補は顔面を紅潮させて、
「それじゃ、ふたつの靴の裏にささっている、ガラスの粉末を比較研究してみて、それが、同じ性質のものだということになると、牧野アケミは二十二日の晩、この部屋へ、きていたということになるわけですね」
「はあ。……牧野アケミがこの事件で、どういう役割をしめているのか、それは別問題としても……ですね」
九
第二の犠牲者――いや、時間的にいって、第一の犠牲者だった、稲川専蔵の部屋から発見された、飯田屋の白いコック帽を発見したとき、警官たちの多くは、これでだいたい、事件も大団円にちかづいたと考えていた。
たとえ飯田屋が犯人ではなく、誰かがかれに、罪を転嫁しようとしたのであったとしても、それはそれで飯田屋に、なにか心当たりがあるはずである。第一、飯田屋とアケミの関係が、たんなる、お総菜屋とお得意の関係ではなく、もっと、ふかいものであるらしいということがわかっただけでも、捜査上の大進歩である。それにもし、ふたりのあいだに肉体関係があったとしたら、飯田屋はアケミについて、もっといろいろなことをしっているはずである。
いまにして思えば、窓から舟へ首なし死体を、釣りおろすという手段そのものが、飯田屋の商売で、窓から|笊《ざる》をぶらさげるのと、まったくおなじ手法ではないか。
畜生ッ!
よくもわれわれを|白《こ》|痴《け》にしおったが、こうなったらしめたもの、飯田屋を|叩《たた》いてしぼっていけば、事件解決もそう遠くはないであろう。……と、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部はにわかに楽観しはじめた。
そして、また、じじつ、そのとおりではあったのだけれど、しかし、それはなんという思いがけない方向へ、解決の線がそれていったことだろう。おなじ解決は解決でも、それは、等々力警部などの思いもよらぬ、世にも意外な解決だった。
聚楽荘とヤマカ・ビルと、事件がふたつの警察の管轄区域にまたがってきたので、ここに改めて、統合捜査本部が警視庁にもうけられた。
十一月三十日の夕方、飯田屋こと宇野宇之助が、その統合捜査本部へ、刑事に連行されてやってきたとき、菅井警部補は|忿《ふん》|懣《まん》の権化であった。
「おい、飯田屋」
と、のっけから、|極《き》めつける警部補の舌端は鋭いのである。
「おまえはえろう色男だってなあ、牧野アケミと、よろしくやってたというじゃないか」
「へええ」
と、飯田屋はひとたまりもなく、亀の子のように、首をちぢめて恐れいった。
「ふうん」
と、菅井警部補はにくにくしげな眼で、飯田屋の戸外の商売としては色の白い、ボチャボチャとした、きれいな肌をにらみながら、
「それじゃ、おまえ、やっぱりアケミに|可《か》|愛《わい》がられていたのか」
「へえ、まことに申し訳ございません。係りあいになるのがいやなもんですから、つい、いままでかくしておりましたんで……」
「関係ができたのはいつだ!」
と、警部補の舌端はいよいよ鋭い。
かれにとってはこの男を、たんなる事件の発見者として見のがしていたのが、口惜しくてたまらないのである。いや、口惜しいのみならず、捜査主任として面目問題でもある。それだけに、飯田屋にたいする風当たりはきつかった。
「へえ、もう、かれこれ一年になります。去年の秋以来のことですから」
「いったい、どこで|逢《あ》っていたんだ」
「へえ、それゃわたしのほうから、アパートへ忍んでいくんで……」
「ふうむ。それでいて、一年以上も誰にも気付かれなかったとは、よっぽどうまく、|逢《あい》|曳《び》きをしていたんだな」
「へえ、それゃ、うちのかかあにしれるとうるそうがすから」
と、飯田屋は額にいっぱい吹きだす汗を、手の甲で横なぐりに|拭《ふ》きながら、
「しかし、アパートのほうじゃ、二、三しってらっしゃるかたもおありのはずなんで。……窓から抜けだすところを見つけられて、しかたなしに、|挨《あい》|拶《さつ》をしたこともございますから」
「ふうむ!」
と、菅井警部補はいよいよ、いまいましそうに唸った。これだから、民衆の非協力的態度には困るといわんばかりの、忿懣やるかたなき顔色である。
「ほほう! するとあんたは、いつも川のほうから忍んでいったの?」
と、そばから体を乗りだしたのは金田一耕助で、どうも困った男である。これだから、菅井警部補が渋面をつくるのもむりはない。
「へえ、そうなんで。なんしろ|旦《だん》|那《な》ができてから、表から男を、ひっぱりこむわけにゃいかなくなったもんですからね。と、いってあの娘、これは旦那がたもご存じでしょうが、ああいう、お年を召した旦那ひとりじゃ、とっても、とっても」
「ああ、なるほど。それで表からくる情夫はシャット・アウトして、窓からこっそりの飯田屋君専門てえことになったんですな」
金田一耕助がのらりくらりとからかうと、菅井警部補の渋面が、またいちだんと深くなる。
「へえ、まあ、そんなようなわけで……」
と、飯田屋は赤くなったり、|蒼《あお》くなったり、七面鳥のように照れて、額の汗をふいていたが、
「しかし、旦那がたは、あっしが川のほうから通ってたってこと、ご存じなかったんで?」
「ああ、それゃいま初耳でしたな」
「しかし、それじゃどうして、あっしのことがお耳に入ったんで……? アパートの奥さんがたが、|喋舌《し ゃ べ》ったんじゃなかったんで……?」
「ああ、それ……岡村さん、あなたからどうぞ」
「ああ、そう、それでは……」
と、岡村警部補がそばから体を乗りだして、
「飯田屋君、はじめて。君のうわさはかねがね聞いてたんだが、そんなお|羨《うらや》ましいご身分とはしらなかったな。あっはっは」
「いえ、もう、そんなご冗談は……」
「いや、ごめん、ごめん、じつは、君にみてもらいたいものがあるんだが、飯田屋君、君はこれに見憶えがあるだろうねえ」
と、突きつけられたコック帽をみて、なるほどと、わかったようにうなずいて、
「へえ、それゃわたしのものにちがいございません。こいつがあの娘の部屋から、出てきたんでございますね」
「いや、それはともかくとして、君はこれをいつ|紛《な》くしたか、憶えていないかね」
「こうっと……」
と、飯田屋は首をかしげて考えていたが、
「ありゃたしか、今月の十五、六日のことでしたかねえ。聚楽荘へご用聞きにいくと、ちょうどアケミのやつ……いえ、あの娘がいあわせまして、なにしろ、あの娘、結構な旦那がついたもんだから、小屋のほうは勝手づとめみたいなもんで、しょっちゅうずる休みをしてたんです。それで、そのとき、笊をぶらさげてきたんですが、その笊のなかに、ご用聞きをすませたら、お寄りなんて書いた紙が入ってましたんで……」
「あっはっは、いよいよもって羨ましいな。おれもいっぺん、そういう身分になってみたいが、ふむふむ、それで……?」
「へえ、あの、それで……」
と、岡村警部補にまぜかえされて、飯田屋は|茹《ゆで》|鮹《だこ》みたいに、|真《まっ》|赧《か》になってどぎまぎしながら、
「それで、ひとまわりしたあとで、あたりが暗くなってから忍んでいったんです」
「ああ、ちょっと……」
と、そばから素速く金田一耕助がひきとって、
「そういう場合、あんたはモーター・ボートを乗りつけるの」
「いえ、まさか……モーター・ボートじゃ音がしますし、第一、図体が大きゅうがすからね。聚楽荘からちょっとのぼったところに、『都鳥』てえ貸しボート屋があります。そこで貸しボートを借りて……モーター・ボートのほうはそこへ預けとくんです」
「そうすると『都鳥』のほうでは、あんたとアケミの関係をしってたんじゃないかな」
「へえ、それゃ……|阿《あ》|漕《こぎ》の浦にひく網もって申しますからね。ですから口止め料にちょくちょく、商売もんの残りやなんか、せしめられてたんです。これゃ、聚楽荘のおかみさんなんかもそうですがね」
「なんだ、あのおかみもしっていたのか」
等々力警部はおもわず一喝|喰《く》らわしたが、そのとたん、菅井警部補の|眉《み》|間《けん》には、殺気にも似た稲妻が走った。
「あっはっは、よっぽど鼻薬が利いてたとみえますな。いや、どうも岡村さん、失礼しました。どうぞおつづけになって」
「はあ、はあ、それで飯田屋君、暗くなってから忍んでいって……? そしてどうしたんだい」
「へえ、つまり、そのとき、そのキャップを、つい忘れてきましたんで……」
「それが、十五、六日ごろのことだったというんだね」
「へえ、はっきりはしませんが、十六日だったんじゃないでしょうか。十五日は紋日ですから、いかにあの娘が勝手づとめだって、そう勝手に、休むわけにゃいきますまいからね」
「しかし、それが十六日の晩だったとすると、アケミの殺された、二十三日の晩まで一週間あるが、そのあいだに、どうして取りかえしにいかなかったんだい」
「いや、それが、そのつぎの日、ご用聞きにいったとき、アケミが笊をぶらさげてきたら、キャップをさがして、そっと投げおろしてくれるようにって、手紙を用意していったんです。ところが、その日は、アケミは小屋へいったとみえて窓があかないんです。そこでまたそのつぎの夜おそく、小屋がはねた時刻を見計らって、そっと川から忍んでいったんです」
「『都鳥』からボートを借りてだね」
と、間髪をいれず、岡村警部補が質問をはさんだ。
「へえ、まあ、そうなんで……」
「ああ、そうそう」
と、そのときまた思い出したように、金田一耕助が言葉をはさんで、
「そんな場合、旦那がきてたらどうするの。いや、旦那でなくとも、友達やなんかがきてる場合だってあるだろう」
「へえ、あの……」
と、飯田屋は|赧《あか》くなってへどもどしながら、
「旦那がお見えになっているときには、窓の外に水差しがおいてございますんで。その水差しが、一杯のときは旦那がお泊りで、半分のときは、おかえりになるという印なんで……」
「あっはっは、そいつはうまく考えたな。こんやは旦那が、半分きゃ水を差してくださらないから、あとでたっぷり、水を差しにきて|頂戴《ちょうだい》って|謎《なぞ》かい」
岡村警部補がうまい|洒《しゃ》|落《れ》をとばしたので、一座がどっと吹きだし、飯田屋の白いボチャボチャした肌が、火がついたように真赧になったが、菅井警部補の渋面だけはくずれなかった。いや、崩れないのみならず、かれの渋面はますます|兇暴《きょうぼう》になってくる。
「ふむ、ふむ、それでただのお客さんの場合は……? それも、参考のために聞かせておいてもらおう」
「へえ、そんときゃ、窓の外に折り鶴がぶらさげてございますんで」
「これゃまたなんの洒落だい、羽根があったら、飛んでいきたいって謎かい」
「いえ、そうじゃねえんだそうで」
「そうじゃないというと、なにかそれにも意味があるのかい」
「へえ、なんでもアケミの申しますのに、恋にはなまじつる(連れ)は邪魔って、謎なんだそうでして……」
「こん畜生ッ!」
「あっはっは、こいつはちっと苦しい洒落だな」
と、一座はおもわず吹き出して、しばらく、|哄笑《こうしょう》の渦がおさまらなかったが、飯田屋の話はこれからしだいに、怪奇味をくわえていくのである。
十
「ふむ、ふむ、それで……いや、ちょっと待てよ」
と、岡村警部補は、哄笑がおさまるのを待って、
「キャップを紛くしたのが十六日として、そのつぎのつぎの晩だというから、それは十八日の晩になるわけだね」
「へえ、へえ、ちょうどそのくらいになりましょう。はっきり、日にちまでは憶えとりませんけれど……で、そのとき忍んでったてえのは、べつにキャップのことじゃなくて、キャップもキャップですけれど、このほうは代わりがございますから……つまり、その、なんだかその晩、|無《む》|闇《やみ》に、あいつの肌が恋しくなったもんだから、つい、かかあをだまして出向いていったんです。どうもおのろけを申し上げるようで、恐縮でございますが……」
「いや、そんな遠慮はいらんよ。のろけなら、さっきからさんざん聞かされたよ。恋にはなまじ、つるは邪魔まできかされちゃ、みんなもう、免疫になっとるからな。それで……?」
「へえ、それが……いや、もう、そのときの驚きようたらなかったんです。いや、もう、驚いたの、驚かねえのって、あっしゃあんなに、肝をつぶしたことはございませんよ。あんな化けもんみたいな女、もう、二度と|逢《あ》うまいと思いましたね」
「飯田屋」
と、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部がむつかしい顔をして、
「その晩……つまり、十八日の晩だね。十八日の晩、なにかアケミの身のうえに、変わったことでもあったのかね」
十八日といえば、その前日の晩に、アケミは謎の女にあっているのである。そして、アケミが生命の危険を訴え出したのは、それ以来のことなのだから、警部が緊張したのもむりはない。
金田一耕助やほかの連中も|固《かた》|唾《ず》をのんで、宇野宇之助の顔を視まもっている。
「へえ、警部さん、変わったも、変わらねえも、ほんとにあいつは化けもんなんです。あっしゃ、あいつの腹に大きな|蜘《く》|蛛《も》が、それこそ、腹いっぱいの大きな蜘蛛が、吸いついてるところを見たんです」
「蜘蛛が腹に……?」
あまりとっぴな宇之助の言葉に、一同は|唖《あ》|然《ぜん》として、あいての顔を視なおした。
「そ、そんなばかな!」
と、菅井警部補がまた、|頬《ほ》っぺたをひくひくさせるのをみて、
「いえ、|旦《だん》|那《な》、そ、それがほんとうなんです。あっしゃげんにこの眼で見たんです。こんなでっけえ蜘蛛が……」
と、飯田屋はじぶんの腹部の両側に、てのひらをあてがって、
「ぴたっと、アケミのやつの腹に吸いついてたんです。いや、もう、その気味のわるいったらなかったんです。旦那、これゃ、|嘘《うそ》じゃねえんで、ほんとの話なんで……」
菅井警部補はいうに及ばず、みんなが、うさんくさそうな顔をしているのをみると、宇之助はやっきとなって、|唾《つば》をとばしていたが、
「飯田屋君」
と、とつぜん金田一耕助がそばから、世にもやさしい、世にも感動的な声で呼びかけた。その声があまり異様だったので、一同がおもわず、その顔をふりかえったくらいである。
「そのときのようすを、もっと詳しく話してくれませんか。あんたがアケミちゃんのお腹に、大きな蜘蛛が、吸いついてるのをみたときの情景をね」
「へえ、へえ……」
「あんた、そのとき、アケミちゃんといっしょに寝ていたの?」
「とんでもない。あんな薄気味わるいあまっちょと、いっしょに寝るなんて、もう二度と、まっぴらごめんでさあ。旦那、まあ、聞いておくんなさいまし。じつはこういうわけで……」
聞いてもらえるのがうれしくて、飯田屋はさかんに唾をとばしながら、金田一耕助のほうへ身を乗りだした。
「そんとき、あっしゃボートからあがって、あの犬走りに立っていたんです。ほら、あの一件がめっかったとき、警察の旦那がたが、乗り越えてお入りんなったあの窓の下なんです」
「アケミの生首がおいてあった、あの部屋の窓の外ですね」
と、金田一耕助が念をおした。
「へえ、そうです、そうです。さいわい、窓の外にゃ水差しもおいてございませんし、折り鶴もぶらさがってなかったんです。しめたってえわけで、窓ガラスをとんとん|叩《たた》いてみると、ザーザー水を使う音がきこえるんです。さてはアケミのやつ、|風《ふ》|呂《ろ》へはいってやあがるな。それじゃ、風呂から出てくるのを待とうてえわけで、窓のしたに立ってたんです」
「ふむ、ふむ、さぞ寒かったろうに、ご苦労なこったな」
と、からかったものの岡村警部補も、飯田屋の話には、大いに興をそそられているのである。
「へえ、そりゃ、旦那、|叡《えい》|山《ざん》の坊主は坂本まで、二里か三里の山坂を、|高《たか》|足《あし》|駄《だ》をはいて、お女郎買いに通うてえじゃありませんか」
と、飯田屋はちょっぴり、講談かなんかで拾った知識を披露すると、
「いや、まあ、それはともかくとして、アケミが風呂からあがってきたら、合図をして、窓を開けてもらおうと思ってたんです。そうそう、申し忘れましたが、なかにはカーテンがしまってたんですが、はしっこのほうが少しまくれてて、そこから|覗《のぞ》くと、ちょうど部屋の入り口がみえるんです。そのうちに、アケミが風呂からあがってきました。むろん、ズロースははいてましたよ。背中から湯上がりの、ガウンかなんかひっかけてたんです。だけど、まさかあっしがのぞいてようたあ、気がつかなかったんですねえ。お腹はまる出しだったんですが……」
と、飯田屋はにわかに瞳をとがらせて、ごくりと|生《なま》|唾《つば》をのみこむと、
「そのお腹んとこに、なんと、大きな蜘蛛が一匹吸いついてるじゃありませんか。ちょうど、こう、お|臍《へそ》のところを中心に、ぺたっと腹に吸いついて、八方に脚をひろげてる、その気味悪さったらありませんや。女だったら、キャッと声を立てるところでしょう。男のあっしですら、しばらくガタガタ、ふるえがとまらなかったくらいですからね。あっしゃじぶんの眼を疑いましたよ。それで、もういちどよく見なおそうとすると、アケミのやつ、いかにも、いとおしそうにお腹の蜘蛛をなでると、そのまんま、ガウンのまえを合わせたんです。あっしゃもうブルブルでさあ。色気もなにも吹っとんじまって、犬走りから、ボートへすべりおりるのがやっとでしたよ。脚がガクガクするもんですからね。ボートに乗ると、それこそ、雲を|霞《かすみ》と逃げだしたってえわけで、それ以来、アケミに会っていねえんです」
一同はしばらく、しいんと鳴りをしずめていたが、やがて、金田一耕助がごくりと|咽喉仏《のどぼとけ》を鳴らせて身を乗りだすと、
「それで、飯田屋君、その女……十八日の晩、あんたが窓の外からみた女というのは、たしかに、アケミちゃんにちがいなかったんでしょうね。まさか、ほかの女を、見まちがえたというようなことは……」
「ご、ご冗談を……誰がじぶんの女を、見まちがえてよいもんですかい。いえいえ、鶴亀鶴亀、死んじまったからいいようなもんの、あんなやつを抱いて寝てたかって思うと、ぞうっとしまさあ。だいたいがアケミという女、ふだんから、|妖《よう》|怪《かい》じみたところがあると思ってはいたんですが……」
「たとえば、どういう点が……」
と、金田一耕助が容赦なく突っこむと、
「いえ、あの、そ、そんなこと、おおっぴらにゃいえませんが……」
と、飯田屋が顔をしかめて、|赧《あか》くなったところをみると、おそらく|閨《けい》|房《ぼう》における、アケミの|嗜《し》|好《こう》についていっているのにちがいない。
「まるで、あれじゃ、男の生血を吸うのもおんなじことだと、いまになって思いあたるんで。……もっとも、|惚《ほ》れて夢中になってるときは、そうされるのがうれしかったもんですが……まあ、このくらいでご勘弁ねがいます」
と、宇之助がぐっしょり|滲《にじ》んだ額の汗を、日本|手《て》|拭《ぬぐ》いでぬぐうているのは、|羞恥《しゅうち》よりも、むしろ、薄気味悪い記憶からくるものであろう。
飯田屋のいうことは、だいたい想像できそうなので、誰もそれ以上追究しなかった。そういうことをしたり、されたりしているうちに、ついキャップを忘れたのだろう。
「ところで、どうだろう。アケミちゃんのほうでは、君にそういう重大な秘密をしられたってこと、気がついていたろうか」
「いえ、それゃしりますまいよ。それっきり、あっしゃイタチの道ですからね。それも、あんまりながくご|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》していちゃ、アケミも怪しんだかもしれませんが、それから一週間たつやたたねえうちに、あの一件でしょう。さいわい、そのあいだにいっぺんも、誘い水がこなかったもんですからね」
「それじゃ、もうひとつお|訊《たず》ねしたいんだが……」
「へえ、へえ、どんなことでも……」
「アケミちゃんはあんたに、命が危いとか、だれかに|狙《ねら》われてるとか、そんな話はしてませんでしたか」
「いえ、そんな話はいっこうに……もっとも、旦那ってえひとがそうとう、なんてえんでしょうかねえ、つまり、ヤキモチがはげしいってえんでしょうか。気をつけて|頂戴《ちょうだい》、ひとに覚られないように、気をつけて頂戴ってことは、しょっちゅういってましたが、それゃああいう立場になれば、誰だっていうことでしょうからね」
「ところで、飯田屋」
と、菅井警部補の顔は、あいかわらず、苦虫をかみつぶしたようである。
「アケミにはおまえのほかに、誰か、情夫があったような気配はなかったかい?」
「さあ、いっこうに。……なんでも|噂《うわさ》によると、せんには、一座の男だれかれなしだったてえ話ですが、あっしゃ根がぼんやりのせいか、気がつきませんでしたね。あったとしたら、よっぽど上手にかくしてたんでしょうねえ」
「ミラノ座の支配人の郷田実や、幕内主任の伊東欣三とはどうだ」
「そうそう、あのひとたちとも、せんにゃ関係があったそうですねえ。しかし、あっしとねんごろになってからは、もう、そういうことはなかったようですねえ。あのひとたちだと、どうしても、旦那にしれやすうございますからねえ」
「ふうむ」
と、岡村警部補はわざと、意地悪そうに鼻を鳴らして、
「それで、結局、飯田屋専門てえことになったわけか。おまえ、よっぽど|惚《ほ》れられてたとみえるな」
「いや、ところが、ねえ、旦那」
と、宇之助は妙にしんみりとして、
「あいつは男に惚れるってことは、なかったんじゃないでしょうか。ただ、ひと一倍|炎《も》えやすい体にできてる。旦那だけじゃとても食い足りない。だから、炎える火を消してくれる男でさえありゃ、誰でもよかったんじゃないかって、いまんなってみるとそんな気がするんです。結局、おもちゃにされてたなああっしでさあ」
「あっはっは、おまえなかなか達観してるじゃないか。よし、それじゃ最後にもうひとつ、だいじなことを聞くがね」
と、体を乗りだした岡村警部補を、宇之助もさすがに、不安そうに視まもりながら、
「へえ、へえ、なんでもどうぞ、しってることならなんでも申し上げますから」
「ようし、それじゃ|訊《き》くが、おまえアケミの旦那というのをよくしってるだろうな」
「いや、それゃしってることはしってますが、よくってわけにゃいきませんな」
「でも、会ったことはあるだろう」
「へえ、いちど聚楽荘で会ったことがあります。もちろん、むこうさんはあっしのことをご存じなかったんですが……」
「旦那って男がなにをしてるのかしってるか」
「なんでも、自動車のブローカーだって、アケミがいってましたが、詳しいことは存じません」
「最近ではいつ会った?」
「最近たってずうっとせんです。あっしが内海さん……|聚《じゅ》|楽《らく》|荘《そう》の管理人さんですね。その内海さんのところで油を売ってると、旦那がお見えになったんです。そんなとき、あれがアケミちゃんの旦那だって、内海さんのおかみさんに教えられたんで。会ったのは、あとにもさきにもそれっきりで……」
「それじゃ、もうひとつ訊くが、アケミの旦那が、どこに事務所をもってるかしってるだろうな」
「へえ、なんでも銀座のほうだとか……」
「ビルの名前は……?」
「いえ、そこまでは存じません」
たたみかけるような岡村警部補の質問に、飯田屋はしだいに不安をおぼえたらしく、きょときょと、あたりを見まわしながら、
「だ、旦那、どうかなすったんで……?」
「おい、飯田屋、しらばっくれるな!」
と、岡村警部補はまず一喝くらわしておいて、
「こっちにゃ、ちゃんとネタがあがってるんだぞ。きさま二十二日の晩、アケミとふたりで西銀座のヤマカ・ビルの三階へ、アケミの旦那の稲川専蔵を訪ねていったろう」
「そ、そんな……」
「まあ、聞け。そして、アケミとふたりで稲川を絞め殺し、|死《し》|骸《がい》を支那|鞄《かばん》につめて逃げやがったろう」
「だ、旦那……」
「そればかりじゃねえ。共犯者のアケミを、生かしておいちゃ後日のさまたげとばかり、そのつぎの晩、アケミを殺して……」
「そ、そ、そんな無茶な、そ、そ、そんな馬鹿な……」
「なにが無茶だ。なにが馬鹿だ。きさま天網カイカイ、疎にしてもらさずって|諺《ことわざ》をしってるかい。このキャップはな、きさまはアケミの部屋へおき忘れたなんて、|態《てい》のいいこといってるが、そのじつ、支那鞄のなかから出てきた、稲川の死骸がしっかりその手に握ってたんだぞ」
「ひーッ!」
飯田屋は咽喉のおくから、まるで、こわれた笛みたいな声を立てると、|椅《い》|子《す》からずりおちて、ぺったり床にへたばった。
十一
飯田屋が犯人でないまでも、かれを絞めあげたら、なんらかの端緒がつかめるだろうという期待も、アケミの腹に、大きな|蜘《く》|蛛《も》が吸いついていたなどという、愚にもつかぬ怪談以外、結局、なんのうるところもないらしいとわかってきて、捜査当局の失望は大きかった。
その後、稲川専蔵の取引銀行へ、牧野アケミの写真をもって、刑事が出向いていったが、その結果、稲川の小切手を偽造して、多額の金を引き出したのは、たしかに、この女にちがいないということになった。
また、金田一耕助のアドヴァイスによって、アケミの靴のうらにささっていたガラスの粉末と稲川専蔵の靴のうらのそれと、精密に比較調査されたが、そのふたつが、まったく、同種類の性質のものであるということが証明されて、ここに事件の|全《ぜん》|貌《ぼう》だけは、ようやくはっきりしてきたのである。
即ち、十一月二十二日の夜、アケミはだれか男とふたりづれ(あるいは三人づれかもしれないが、まずふたりづれとみられた)で、|旦《だん》|那《な》の稲川専蔵を訪れた。
そのとき、稲川がシェリー・グラスを出して、|饗応《きょうおう》したらしいところをみると、アケミの相棒がいつわって、なにか|儲《もう》けばなしを、もっていったのではないかと思われる。ところが、話が食いちがったのか、それとも、はじめから予定の計画だったのか、男同士の争いとなり、アケミの相棒が稲川を絞め殺した。その争いの最中に、シェリー・グラスのひとつが、床にころげおちて踏みくだかれた。
さて、アケミとアケミの相棒は、稲川の死体を、その場にあった支那鞄のなかに詰めて逃亡したが、問題はその支那鞄のなかに、なにがあったかということである。その支那鞄は綿密に検査されたが、そこから検出されたのは、相当量のヘロインの粉末であった。
だから、自動車のブローカーというのは、世間態を取りつくろう表看板だけで、稲川の本職というのは、ヘロインの密輸だったのではないかという、疑いが濃厚になってきた。しかも、支那鞄のなかには、もはや、一オンスのヘロインもなかったのだから、アケミとアケミの相棒は、それを奪うのが目的ではなかったか。したがって、あの小切手帳のほうは、むしろ犯人たちにとっては、思わぬ拾いものだったのではないかということになり、捜査当局の緊張は、いやがうえにもきびしくなってきたのである。
だが、さてそのあとがどうなったのか。
アケミと、アケミの相棒のあいだに、仲間われが生じたのか。そして、岡村警部補もいったように、生かしておいては、後日のさまたげとばかりに、アケミの相棒がアケミを殺してしまったのか。
いずれにしてもその相棒を、飯田屋こと宇野宇之助とみると、話ははなはだ簡単だが、宇之助の身辺を洗えば洗うほど、その可能性は薄そうだった。
不幸にして、かれは十一月二十二日の夜の、正確なアリバイをもっていなかった。女房とふたりで、江東楽天地で、映画をみていたというのだが、女房以外にだれも、かれが、映画館でひと晩をすごしたということを、証明できるものはなかった。
しかし、いかにアリバイが不正確だからといって、人間にはそれぞれ人柄というものがあり、また過去の経歴という手型もある。
飯田屋の人柄や、過去を洗えば洗うほど、このような兇悪犯罪とは、およそ縁が遠そうであった。女に甘くて、ちょくちょく他愛もないしくじりを演じるという以外には、宇野宇之助という男は、好人物の|愛嬌者《あいきょうもの》だった。いかに、アケミにうつつを抜かしていたからといって、このような兇悪犯罪の片棒をかつぐ男とはおもえないというのが、捜査当局の一致した意見であり、それに第一、人殺しに出かけるのに、じぶんの職業がひとめでしれる、コック帽をかぶっていく、馬鹿もあるまいではないか。
そこで、改めてアケミの身辺が洗われたが、もうひとつ、これという星もあらわれなかった。かつて、アケミと縁のふかかった、郷田実や伊東欣三には、アケミ殺しの当夜における、立派なアリバイがあった。それに、困ったことには、稲川専蔵殺しの正確な時刻がわからないことである。
なにしろ、殺害後一週間以上もたって、そろそろ、死体が腐敗しはじめてから発見されたのだから、二十二日ごろとは推察されても、二十二日の何時ごろと、正確な時間を立証することはむつかしかった。もし、それが真夜中だったとしたら、アリバイの|詮《せん》|議《ぎ》はむりである。
アケミの首なし死体についても、東京湾のあちこちが|浚渫《しゅんせつ》されたが、いまだに発見するに至らず、世間のごうごうたる非難のうちに、統合捜査本部では連日のごとく、捜査会議がつづけられていたが、どういうわけか、十二月一日以降、金田一耕助の姿がぴったりとみえなくなった。
あのもじゃもじゃ頭の出しゃばり男が、眼のまえに、ちらちらしないということは、菅井警部補にとってはありがたいことなのだが、またいちめん気にもなるのである。
「それはそうと、警部さん、金田一先生はその後どうしたんですか」
と、菅井警部補がその問題を切り出したのは、十二月五日のことで、稲川専蔵殺しが発見されてからでも、もう五日たっていた。
「ああ、あのひとはいま旅行中なんだ」
「旅行……?」
と、菅井警部補は眼をまるくして、
「じゃ、もうこの事件は断念したんですか」
「いや、おそらくそうじゃあるまい。なにかの端緒をつかんだので、それについて、調査にいってるんだと思うんだが……」
「端緒とおっしゃると……?」
「いや、それはおれにもわからない。あのひとは、はっきりとした確信をもつにいたるまでは、絶対に口をわらないひとだからね。おれもその習慣をしってるから、こっちから、根問いするようなことはひかえているんだ」
「旅行ってどの方面へ……?」
と、こう訊ねたのは岡村警部補である。
「いや、それもしらないんだ」
と、等々力警部はわらって、
「東京駅からハガキをくれてね。ちょっと、旅行してくるとただそれだけなんだ」
「それで、警部さんはあのひとに、期待していらっしゃるんですか」
と、菅井警部補はいくらか|詰《なじ》るような口調である。
「ああ、大きにね。そうそう、君はあのひとを誤解しているようだが、あのひと、いろいろと出しゃばるようだが、最後においては、いつも縁の下の力持ちで満足してくれるんだ。みんな手柄をわれわれに譲ってね。菅井君なんかも、いまにあのひとの真価や人柄がわかってくると、改めて|惚《ほ》れるんじゃないかな」
「あのひと、いったい、どこから収入をえているんですか。こんな事件に首をつっこんだところで、一文の得にもならないだろうに」
そういう岡村警部補の疑問ももっともだった。
「いや、それはいろいろ依頼をうけるんだね。つまり、そういう場合、おれをとおして警視庁という、この大きな機構の力を、たくみに利用してるんだね。その埋め合わせというか、また本人の趣味もあって、こういう事件が起こったばあい、身銭を切って協力してくれるんだ。まあ、相当の収入はあるようだが、なにしろ、|慾《よく》のないひとだからね、たばこ銭にも困ってることがあるよ。あっはっは、奇人といえば奇人だが、まあ、貴重な存在だね」
こういう会話があった直後に、金田一耕助から電話がかかってきた。捜査陣一同を、集めておいて欲しいという要請なので、等々力警部はさっと緊張した。
十二
「警部さん、金田一先生はいやにおそいじゃありませんか」
警視庁の捜査一課、等々力警部の第五調べ室では、菅井・岡村の両警部補に、この事件担当の刑事たちが顔をそろえて、さっきから緊張の気がみなぎっている。
「六時にはやってくるという電話だったから、もうおっつけくるだろうよ」
しかし、そこにかかっている柱時計は、もう六時半になんなんとしている。等々力警部の額には、一抹の不安がかくし切れなかった。
「しかし、警部さん、あの先生、いったいわれわれになにをさせようというんです? こうして|鶴《つる》|嘴《はし》やスコップを用意させて、まさか|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》の底をスコップで、引っ|掻《か》きまわせというんじゃないでしょうな」
と、菅井警部補の部下の私服が、皮肉るのもむりはない。そこにいる、私服のなんにんかはものものしく、鶴嘴やスコップを用意していて、それが金田一耕助の要請であることはいうまでもない。
「いや、おれにもようわからんが、しかし、あのひとのやりくちは、以前からよくわきまえている。なにか、事件解決のメドがついたんだろうよ」
「ひょっとすると、あの先生、アケミの腹に吸いついてたという、蜘蛛を退治にいこうてえんじゃないですか」
と、べつの私服がまぜかえすと、
「そうそう、そういえば金田一先生、あの話が出たとき、いやに、真剣でしたねえ」
と、岡村警部補が首をひねっているところへ、
「あっ、来た!」
と、いう刑事の声と同時に、|蹌《そう》|踉《ろう》としてはいってきたのは金田一耕助。その顔色のあまりの悪さに一同は思わずぎょっと呼吸をのんだが、わけても等々力警部は反射的に腰をうかして、
「き、金田一さん!」
と、デスクのはしを握りしめると、
「あなた、ど、どうかしたんじゃ……?」
「警部さん、すみません」
と、金田一耕助はもじゃもじゃ頭をペコリとさげると、
「まだ、脚ががくがくふるえてるんです」
「脚がふるえているとは……?」
「テキ……いや、テキたちは、ぼくが真相につきあたったことに感付いたようです。高跳びのおそれがありますから、至急手くばりをしてください」
「テキたちとは……?」
「牧野アケミと伊東欣三……」
一瞬しいんとした沈黙が、第五調べ室をおしつぶしたが、とつぜん、菅井警部補がさっと満面に朱をはしらせた。そして、なにかいおうとするのを、等々力警部が手でおさえつけて、デスクをまわって、金田一耕助のそばへやってきた。
「先生、どうぞお掛けください。それから、ゆっくりお話をうかがいましょう」
「はあ、警部さん、ありがとう」
警部のすすめてくれた|椅《い》|子《す》に腰をおろすと、金田一耕助はぐったりと、虚脱したように手足をのばした。これがいつも、事件を解決したときのこの男の状態で、疲労と|困《こん》|憊《ぱい》とがそこにある。
「金田一先生」
と、もとの椅子にもどった等々力警部は、デスクのうえに両手を組んで、
「それじゃ、あの生首は、アケミじゃなかったとおっしゃるんですか」
と、そう質問を切りだしたとき、警部の声は感動にふるえていた。
「警部さん、あれがアケミだったら、首から下をかくす必要はないはずですね」
「かくす必要はないといっても、げんに首から下は、あのアパートになかったじゃありませんか」
と、詰るようにいったものの、菅井警部補の面には動揺の色がかくしきれない。金田一耕助はにっこりそれに|微《ほほ》|笑《え》みかけて、
「いいえ、菅井さん、犯行はあのアパートで、演じられたのではないのですよ。ほかの場所で殺人が演じられて、そこで死体が解体され、生首と血と、あのガウンだけが、|聚《じゅ》|楽《らく》|荘《そう》へ持ちこまれたのです」
ガタンと大きな音がしたのは、刑事のひとりがスコップを床に倒したのである。
「そして、あそこに陳列されていた、もろもろの犯行の跡らしきものは、すべてここが犯罪の現場である。したがって、この生首はあくまでもアケミであると、思いこませるためのトリックだったんです」
ふたたびしいんとした沈黙が、部屋の空気を圧倒したが、しばらくして、|咽《の》|喉《ど》のつまったような声を立てたのは岡村警部補である。
「すると、金田一先生」
「はあ」
「ここにもうひとり、アケミとそっくり、おなじ顔をした女がいたわけですね」
「ええ、そう、それが即ち|謎《なぞ》の女。……つまり十一月十七日の夜、暗がりからアケミを呼びとめた女。……そして、その翌日の十八日の晩、飯田屋君が窓の外から目撃した女です」
また、ちょっとした沈黙があったのちに、
「だけど、金田一さん、それはいったいどういう女……?」
と、感動に言葉をふるわせたのは、等々力警部である。
「ねえ、警部さん」
と、金田一耕助はものうげに、もじゃもじゃ頭を掻きあげながら、
「十七日の夜、アケミは謎の女に呼びとめられて、そのほうへちかよっていったとき、ひとめ相手の顔を見ると、それが誰だかわかったらしいと、高安晴子はいってましたね。アケミはそこに、じぶんとおなじ顔をもった女を発見したのでしょう。しかも、その女が翌晩アケミの部屋にいたとすると、肉親かなんかにちがいない。そこで、ぼく、アケミの郷里、富山県の高岡ですが、そこへいって戸籍をしらべてみたんです。ところが案外なことには、アケミには姉も妹もありません。それでも希望をすてずに、それからそれへと、アケミの|親《しん》|戚《せき》をしらべていくと、アケミの母の里、……このほうは石川県なんですが、母の里、つまりアケミにとっては、母方の|伯《お》|父《じ》にあたるひとに、秋子という娘があり、しかも、その秋子というのが、アケミの春子と、おなじ年、おなじ月、おなじ日に、うまれたことになっているんです」
「双生児なんだな」
と、等々力警部が叫び、
「そうだ、そうだ、地方によっては、いや、家柄によっては、いまでも、双生児を忌むという風習があるから、妹のほうが、おふくろの里へ入籍されたんだな」
と、岡村警部補も|昂《こう》|奮《ふん》し、ふかい感動がこの第五調べ室を支配した。菅井警部補もその例外ではなく、かれはしだいにこうべを垂れはじめている。
「ふむ、ふむ、それで……? 金田一先生、さきをどうぞ」
「はあ、……ところが、この秋子というのが幼いときに、両親とともに満州へわたって、終戦後は一家全部、消息不明になっているんです。……と、ここまでは事実そのものですが、これからさきは、ぼくの想像になるんですが……」
「結構です。どうぞおつづけになってください」
と、等々力警部にうながされて、
「はあ。ところが最近になって、秋子だけが満州からかえってきた。そして頼るところもないままに、アケミの春子のところへやってきた。おそらくふたりとも話をきいて、おたがいの存在は、しってたのでしょうねえ。だから、十一月十七日の晩、暗がりから呼びとめられて、相手の顔を見きわめた瞬間、それが誰であるかアケミにもわかった。そこでじぶんのアパートへ、連れてきたということになるんでしょう」
「そうすると、金田一先生」
と、岡村警部補が体を乗りだし、
「腹に蜘蛛が吸いついていた女というのは、それじゃ秋子のほうだったんですか」
「そうです、そうです。あのとおりそっくりおなじ顔だから、飯田屋がまちがえたのもむりはありませんね」
「しかし、その蜘蛛というのは……?」
「ああ、それ……」
と、金田一耕助は等々力警部をふりかえり、
「警部さん、雑学問というものも、こういうときには役にたちますよ。ある種の肝臓の病気にかかると、肝臓の血管が圧迫されるかわりに、静脈がおそろしく怒張して、それが|臍《へそ》を中心にのたくり出て、ちょうど蛇が四方八方に、うねっているように見えるんですね。俗にこの病気をメジューサの首……ギリシャ神話に、メジューサというのがありましょう。ミネルバだったか誰だったか、女神と美をきそった罰に、髪の毛を一本一本、蛇にされたというメジューサ。ちょうど、その頭に似ているというところから、この病気のことを、メジューサの首とよぶそうで、そういう患者の腹部の写真を、ぼくも昔、なにかの本で見たことがあるんです。だから、飯田屋の話をきいているうちに、ぼく、ふっとその病気を連想したんです。光線のかげんであの男には、それが大きな蜘蛛にみえたんでしょう」
「わかりました」
と、等々力警部は大きくうなずいて、
「ところで、アケミはストリッパーである。と、いうことは毎日、裸を観衆のまえに、|晒《さら》しものにするのがしょうばいである。したがって、アケミにそんな病気はありっこない。しかるがゆえに、その女がいかにアケミに似ていたからとて、それはアケミではありえない。ひょっとすると、アケミにふたごの姉妹があるのではないかと……」
「あっはっは、警部さん、どうぞ、そのままおつづけになってください」
「いや、いや、いや、つまり、これが金田一先生の推理の第一歩であったろうということを、このひとたちに聞いてもらったんです。それではそのあとをぜひあなたから、この連中に聞かせてやってください」
「いや、しかし、そこまで申し上げたら、あとはもうみなさんにもおわかりになったことでしょう」
「いいえ、金田一先生」
垂れていた頭をあげて、金田一耕助を視る菅井警部補の瞳には、一種異様のかぎろいがあった。
「これはやっぱり、先生の口から、いちおうお話を聞かせてください。わたしからもお願い申し上げます」
「ああ、そう、それでは……」
と、金田一耕助はちょっと照れたように、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、
「つまり、じぶんとおなじ顔をもつ女が、もうひとりここにいる。しかも、その女の存在をしるものはひとりもない。……と、いうことがアケミの空想癖を|刺《し》|戟《げき》した。そして、それを伊東にうちあけたところから、こういう結果が、うまれたんだろうと思うんです……」
「すると、ふたりの目的というのは稲川殺し……?」
「ええ。そう、岡村さん、たぶんそれだと思いますよ。あの開かずの支那|鞄《かばん》のなかに、多量の麻薬がかくされていることを、アケミがなにかのはずみに|嗅《か》ぎつけた。そこで稲川を殺して、それを|横《よこ》|奪《ど》りしようじゃないかという計画が、ふたりのあいだに熟していったが、パトロンが殺されれば、当然、そうでなくとも品行のよくない、アケミが疑われるにきまってる……と、そういう段階でいるところへ、お|誂《あつら》えむきの、双生児の妹がとびこんできた。そこで、こいつを殺して、アケミの身替わりにしようというわけですが、おっとどっこい、秋子の腹部にはメジューサの首がある。ところが、いま警部さんもおっしゃったとおり、ストリッパーのアケミの腹に、そんなへんてこなものはなかったことを、多くのひとがしっている。そこが全身身替わりに使うわけにはいかなかったので、首だけ利用することになったのでしょう」
「いったい、秋子はどこで殺されたんですか」
「タカラ・ギャレージの地下室……」
「あっ!」
と、一同は昂奮の声をほとばしらせたが、
「しかし、金田一先生、伊東が犯人だとしても、あいつはいつ秋子を殺して、生首をアパートへもっていったんですか。先生もご承知のとおり、あいつは朝まで、晴子と行動をともにしていたんですが……」
と、そういう菅井警部補の疑問ももっともだった。
「いいえ、菅井さん、あいつは、ミラノ座から聚楽荘へいくまえに、いったん、家へかえったといってましたね。おそらくそのとき、地下室へ監禁しておいた秋子を殺して、解体し、生首や血をなにかに詰めて、ガウンといっしょに持っていったのです」
「あっ!」
と、ふたたび一同は、昂奮を面にたぎらせて手に汗握った。
「そ、それじゃ、四人でブリッジをしていたとき、生首はすでに、あのフラットにあったのか」
「そうです、そうです、警部さん、おそらく、寝室のベッドの下へでもかくしておいたんでしょう。ですから、風で窓のガラス戸が、バタンとひらいたとき、アケミがおびえて、とびあがったんでしょう。おそらく、幽霊が寝室からとび出してきたとでも、思ったんじゃないでしょうかねえ」
ふたたび、シーンとした沈黙が部屋のなかを支配したが、
「それじゃ、あの部屋のトリックは、全部アケミがやってのけたのか。そういやあ、女ひとりで出来ないことはない!」
と、菅井警部補の身ぶるいをするような声である。
「そして、高安晴子は伊東のアリバイに利用されたんだな」
と、等々力警部は|溜《ため》|息《いき》をついた。
それからまた、ちょっとした沈黙がつづいたのちに、菅井警部補が、このうえもない|畏《い》|敬《けい》の念をこめて、
「金田一先生、先生はあのとき、アケミのガウンのことを、しきりに気にしていられたが、あのとき、すでに、すでに、このトリックを看破していられたんですか」
「まさか……」
と、金田一耕助は唇をほころばせて、
「しかし、ぼくもあのまえの晩の寒さは、身にしみてしってましたからね。いかに、ガス・ストーヴをさかんにたいたにしろ、素肌にガウンは不自然だと思ったんです。しかし、血のつきぐあいはあきらかに、素肌にガウンをきていたらしい。そこで三人の証人にきいてみると、やっぱりアケミは、素肌にガウンを着ていたというでしょう。どうも変だと、思ってるともう一着、そっくりおなじようなガウンがあったので、そこいらに、なにかトリックがありはしないかと、考えたことは考えたんですが、結局、これは、こういうことになるでしょうねえ。伊東もおそらく秋子の下着のうえにガウンを羽織らせて、そこを、突き殺すつもりだったんでしょうが、秋子の下着がきたなすぎたかなんかして、そんなものをアケミのアパートへ、もっていくわけには、いかなかったんじゃないでしょうか。アケミのものでないとわかると大変ですからね。そこでやむなく秋子の上半身を裸にして、それにガウンを羽織らせて、そこを突いたんでしょう。そのことを、聚楽荘へいったとき、注意しといたもんだから、アケミは寒くとも、素肌にガウンで、辛抱しなければならなかったわけです」
「わかりました。金田一先生、それで秋子の首なし死体は……?」
「タカラ・ギャレージの地下室のコンクリートの壁が、せんだっての地震のとき、一間ほどくずれ落ちたんです。伊東がその修理を買って出て、床まできれいに塗りなおしました。その床を少しけずってみたところが、おびただしい|血《けっ》|痕《こん》が発見されたんです。ところが、ぼくが床をけずって調べたことを、伊東のほうでも気がついたらしいんですね。さっきここへくるとちゅう、すれちがいざま、ぼくの自動車へ消音ピストルをぶちこんで、逃げていった自動車があるんです」
「き、金田一先生!」
と、等々力警部はふるえあがった。
「だ、だ、大丈夫ですよ、警部さん、ぼくはこのとおり、ぴんぴんしてるじゃありませんか。それより、菅井さん」
「はあ」
「ここに、怪自動車のナンバーをひかえておきましたから、至急あなたの手で手配をしてください」
「金田一先生」
と、菅井警部補は直立不動の姿勢で、|襟《えり》をただして、
「有難うございました」
と、深く、ふかく、こうべを垂れた。
貸しボート十三号
一
金田一耕助は職掌柄、いままでずいぶんいろんな変死体を見てきている。
血みどろの惨死体、酸鼻をきわめる変死体、――常人ならば一見脳貧血でも起こしそうな死体にも、金田一耕助は経験からくる一種の免疫性のようなものを持っているはずである。
そういう金田一耕助でありながら、なおかつ、血におおわれたそのボートのなかをひとめ見たとき、思わずゾーッと総毛立つのをおぼえずにはいられなかった。全身をつらぬいて走る|戦《せん》|慄《りつ》を、しばらく抑えることができなかった。
ボートのなかには男と女が、相擁するようなかっこうで、ふたりならんで横たわっている。女は洋装の上に派手なレーンコートを身にまとうているが、男のほうはどういうわけか、パンツひとつの素っ裸なのである。
だが、金田一耕助をして――いや、いや、金田一耕助のみならず、およそこのふたつの死体を見たひとびとのすべてをして、恐怖と戦慄に眼をおおわしめたのは、男のほうがパンツひとつの素っ裸であったという、ただそれだけのことではない。また、ボートのなかが真っ赤な血でおおわれていた、というそのことでもなかった。
見るひとをして、一様にふるえあがらせ、脳貧血を起こさせ、|嘔《おう》|吐《と》を催させたというのは、相擁して横たわる男と女の死体の、見るも|凄《せい》|惨《さん》な状態にあるのだった。
すなわち、そのふたつの死体ときたら、男も女も首が半分ちぎれそうになっているのである。
むろん人間の首がおもちゃの人形のように、そう簡単にちぎれるはずはない。だから、だれかが――たぶんふたりを殺した犯人が、殺したあとでふたりの首をノコギリかなんかで、|挽《ひ》き切ろうとこころみたのだ。
ところが、首を胴体から切りはなすという作業がまだすっかり完了しないうちに、そこになんらかの余儀ない故障がもちあがって、この恐ろしい悪魔の挽き切り作業は、中止のやむなきにいたったらしいのである。
したがって、ふたりとも首はまだ胴体につながっている。
しかし、のどのほうから半分、あるいは半分以上挽き切られて、妙に安定をうしなったふたりの首が、ボートが動揺するたびに、ガクン、ガクンとうなずくように動くのが、ギリギリと歯ぎしりがでるような空恐ろしさであった。
「こ、これは……」
と、さすがの金田一耕助も腹の底からこみあげてくる恐ろしさと気味悪さとに、思わず熱いため息を吐かずにはいられなかった。気がつくと、例によって雀の巣のようなもじゃもじゃ頭の髪の毛の一本一本が、吹きだす汗にぐっしょりとぬれているのである。
「これで見ると、いっそ、すっかり首を|斬《き》りはなされた死体のほうが、見ていてまだしも安定感がありますね。あっはっは」
金田一耕助は川風にむかってむなしいかわいた笑い声をあげると、もう一度熱いため息をついて、ぐっしょり汗にぬれた|掌《たなごころ》をハンカチでぬぐい、ついでにねばつく顔から首筋の汗をゴシゴシこすった。
そうなのだ。金田一耕助のいうとおりである。
かれも首なし死体には、いままでちょくちょくお眼にかかったことがある。またすっかり胴から斬りはなされた生首の事件を扱ったこともある。
しかし、いま眼のまえに横たわっているふたつの死体のように、首なし死体にいたるまでの途中の過程をしめすような事件にぶつかったのは、これがはじめてであった。
この事件こそ、首なし死体になるまでには、途中でこういう状態になるんですよという、その恐ろしい過程をまざまざと見せつけているのである。それが首なし死体、あるいは生首事件があたえるよりも、いっそう深刻な無残さと恐怖感を見るひとに植えつけるのだった。
「畜生! ひどいことをしやあがったなあ! 畜生! ひどいことをしやあがったなあ!」
|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部はさっきから、おなじ言葉をくりかえしくりかえし吐き出している。実際、また、この事件の担当者として、それ以外の感想はもらしようもなさそうだった。
「警部さん、長生きすれば恥多しといいますが、長生きすればいろんな事件にぶつかるもんですね。新聞記者諸君はいったいこれをなんと形容するでしょうねえ」
「はっはっは、まったくそうですね。生首事件ともいえず、首なし死体とも書けず……」
「生首半斬り事件ですかね」
「生首半斬り心中事件とはどうです」
「だけど、警部さん、これ心中でしょうかねえ」
「ああ、そう、それじゃ生首半斬り擬装心中事件ですか」
「あっはっは」
「あっはっは」
こういう厳粛な現実をまえにおいて、このように笑いとばすというのはいかにも不謹慎なようだけれど、事実はふたりともあまりにも陰惨な事件に直面して、やりきれない救いのなさに当惑しているのである。その当惑の思いがこのように、ふたりに毒々しい笑い声をあげさせるのだろう。
そこは|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》の川口、浜離宮公園の沖にあたっている。
|汐《しお》|留《どめ》へんの貸しボート屋から|漕《こ》ぎだした、不幸な若いアベックの一組が、波間にただようこの恐ろしいボートを発見したのである。アベックの女の子のほうは、このボートを発見して以来というもの、数日間はほとんど気の狂ったような状態だったというが、それもむりのない話である。
所轄の|築《つき》|地《じ》署からこの報告が警視庁へはいったとき、金田一耕助は捜査一課、等々力警部担当の第五調べ室にきあわせていたのである。そこで警部に誘われるままに、いまこうして警視庁の連中といっしょに警察のランチに便乗して、現場へ見参におもむいたというわけである。
あたりはいっぱいの人だかりといいたいが、海の上だから舟だかりというところだろう。はやくもこの大事件のにおいをかぎつけた新聞社やラジオ、テレビの連中が、船を仕立ててぞくぞくと駆けつけてくる。
ボート遊びの連中もたちまち野次馬と一変して、|固《かた》|唾《ず》をのんで、この恐ろしい現場を遠巻きにしている。
気がつくとその日は日曜日であった。
写真班の連中がボートのなかの撮影をおわると、結局、その恐ろしいボートは所轄警察へ|曳《えい》|行《こう》されることになった。
「あれ、貸しボートなんですね」
|曳《ひ》かれていく恐怖のボートを追いながら、金田一耕助はランチのなかでつぶやいた。
そのボートの|舷《げん》|側《そく》には、
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ちどり屋ボート 13号[#底本ではこの部分横書き]
[#ここで字下げ終わり]
と、ペンキではっきり書いてある。
「そうのようですね。その点、ボートの出所はすぐわかりましょう。しかし、さてそれからさきが問題ですね」
等々力警部は木の枝でも折るような、妙にポキポキとした調子でこたえた。なにか心にかかることがあって、ふかく思いに沈んでいるときの、これがこのひとのくせなのである。
ボートが海幸橋から市場橋、北門橋から|采《うね》|女《め》橋へと曳行されていくにしたがって、河岸っぷちは黒山のような人だかりであった。
あいにくボートをおおうような何物も用意してなかったので、半分首のちぎれた男女の死体は、あかるい初夏の陽差しのなかにむきだしになっていた。
よせばよいのに怖いもの見たさで、その恐ろしいものを河岸から目撃したがために、二、三日、飯ものどをとおらなかったという気の毒な連中も、あちこちに、かなりたくさんあったという話もある。
さて、築地署へはこびこまれたふたつの死体は、そこで医者の綿密な調査をうけたが、その結果、いろいろとうなずけぬ節が発見されて、この事件の前途の容易ならぬことを思わせたのである。
二
ふたつの惨死体のうち、まず女の死体のほうから述べていこう。
女の年齢は四十前後、あるいは四十の坂を少しこえているのかもしれない。肉づきもゆたかで栄養もよく、いわゆる豊満な肉体というやつである。パッと眼につく器量のうえに、年齢に比して厚化粧だし、また着ているものも、レーンコートの下に着たスーツの型や色合いが、これまた年齢に比して派手であった。
だが、それにもかかわらず見たところ、玄人とは見えなかった。どこがどうというのではないけれど、全体からうける印象が中流家庭の奥様という感じである。
女はスーツの上から左の乳房、すなわち心臓をなにか鋭利な刃物でえぐられているのである。ところが、不思議なことには、それがこの女の致命傷ではなくて、彼女を死にいたらしめたのは、まだ胴とつながっている|頸《けい》|部《ぶ》に、食いいるようにのこっている紫色のひもの跡であることが、綿密な|検《けん》|屍《し》の結果判明したのである。
すなわち、女は絞殺されたのである。そして、しかるのちに、鋭利な刃物で心臓部をえぐられているのである。傷口の状態だの出血の模様などが、はっきりとそれを示している。
しかし、それだとすると、犯人はなぜこのような無意味なことをやらかしたのであろう。ひもで絞めただけでは、あとになって息を吹きかえしはしないかという不安があったので、とどめを刺すという意味で心臓をえぐっておいたというのであろうか。
さて、こんどは男のほうである。
女にくらべると男のほうは、二十ちかくも若かった。たぶん二十二、三というところだろう。身長は五尺七寸くらい、がっちりとした体格で、胸のあつい、腕っぷしのたくましそうな青年である。とくにずば抜けた|美《び》|貌《ぼう》というのではないが、十人並み以上にはけっこうとおる男ぶりである。
眼もと、口もと、くっきりと彫りのふかい顔だちで、鼻もたかかったが、ただ下くちびるの厚さが肉欲的な印象と、野性的な感じをひとにあたえる。顔も手脚もたくましく陽焼けしているが、くっきりとアンダーシャツのかたちに染めのこされた肌は、きめのこまかな浅黒さで、いささか毛深いところが男の野性を象徴しているように思われた。
さて、男のほうの死因だが、この青年ののどのまわりにも、くっきりと食いいるように、紫色のひもの跡がのこっているのだけれど、不思議なことには男のばあいは、これが致命傷とはなっていないのである。
男の致命傷は、心臓のひと突きにあった。
かれもまた、女の心臓をえぐった凶器とおなじ種類のものと思われる鋭利な刃物で、ふかぶかと心臓をえぐられているのであるが、女のばあいとは反対に、それがこの青年の生命をうばったものと考えられた。
ところで、問題の頭部の|挽《ひ》き切り作業だが、これはまだ三分どおりくらいしか進行していなかった。ノコギリをのどにあてて、五、六ぺんつよく挽いたくらいのところで、この恐ろしい挽き切り作業は中止されているのである。
なお、問題のボートだが、築地署に曳行されたのち、綿密に調査された結果、つぎのような事実が判明した。
すなわち、ボートの底には小さな穴があけられているのである。したがって犯人はあきらかに、ボートを沈めにかけようと思っていたのだ。ところがその穴が小さすぎたがために、いつかゴミや海草の|類《たぐい》がつまって、穴が穴の役目を果たさなかったのである。
だが、それではなぜ犯人はもっと大きな穴をあけておかなかったのか。その理由はいたって簡単である。
犯人はボートがあまりはやく沈むことを好まなかったのだろう。だいいち、ふたつの死体は舟底に横たえられているだけで、ボートに固定されているのではなかったから、ボートが沈むとふたつの死体は水上に投げだされるわけである。だから、ボートがあまりはやく沈むと、死体が現場からあまり遠からぬところに漂いよるかもしれぬという危険が考慮されたのであろう。
「どうも変ですなあ。いやな事件ですぜ、こいつは。……わたしゃどうも虫が好きませんよ、こんな事件は……」
築地署の捜査主任、|平《ひら》|出《いで》警部補は以上のような報告を医者や部下の刑事からきくと、真実いやなものでも吐きだすような調子でどなった。
「そうすると、こういうことになるんですかい。女のほうはなにかひものようなもんで絞め殺しておいてから、あとでぐさっと鋭利な刃物で心臓をえぐった。ところが男のほうはその反対に、心臓をぐさりひと突きで殺しておいてから、あとでひもかなんかで首を絞めた……と、こうおっしゃるんですね、先生は……?」
平出警部補はまるでけんか腰である。
「あっはっは、まあ、そういうことになるな」
「なにがあっはっはですい、なにが……だいたいねえ、先生、犯人はなんだってまた、そんなややこしいことをやる必要があるんですい。それゃ、女のほうはのどを絞めただけじゃ、あとで|呼《い》|吸《き》を吹きかえすかもしれないという心配があったのかもしれん。そこで、とどめを刺しておこうというわけで、ぐさっとひと突き心臓をお見舞い申し上げたのかもしれん。だけど、男のほうはなんでまた、あんな二重手間をやらかす必要があるんです。ああ、ふかぶかと心臓をやられちゃ、どんな不死身な男だって、ひとたまりもありませんぜ。それをまた、なんだってあとから首を絞めやあがったんです。先生、ねえ、先生、いったいなんの必要があって……」
平出捜査主任の|激《げっ》|昂《こう》した調子にたいして、
「それゃ、まあ、犯人にお伺いを立ててみるんだな。どうしてこんなややこしいことをおやりあそばしたかってね。わたしゃただ、医学的所見を申し述べただけのことだから、ひとつ、お手柔らかにお願い申し上げたいな」
と、警察医の吉沢さんはかるくいなすと、
「ついでにここで申し添えておくがね、女の心臓がえぐられたのは、死後ただちにじゃなくて、少なくとも半時間以上は経過してからのことらしいんだが……」
「ギョッ、ギョッ、ギョウッだ」
と、平出警部補はいよいよ|忿《ふん》|懣《まん》やるかたなきうなり声をあげて、
「それじゃついでにお伺いしますがね。男のほうも心臓をえぐられてから、半時間ののちに首を絞められたというんじゃないんですかい」
と、医者にむかって|咬《か》みついたが、こんどもまた吉沢さんに、
「御明察、お説のとおりじゃないかと愚考しとるしだいですて」
と、かるくいなされた。
「ギョッ、ギョッ、ギョウォッだ!」
と、平出警部補はまたしても両のこぶしを振り上げて、天にむかって長嘆息をしたが、
「金田一先生!」
と、こんどはその凶暴な|鉾《ほこ》|先《さき》を金田一耕助のほうへむけてきた。
「先生は名探偵でいらっしゃるそうですな。えっへっへ、そんなに照れなさんな。ここにいらっしゃる|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部さんなんかも、ひとかたならぬ先生の崇拝者だと伺ってまさあ。ところが、先生にお伺いしたいんですが、先生にして、経験豊富な先生にして、こんな変てこな、こんなややこしい殺人事件にぶつかったことがおありですかい。ちょっとお伺いしたいもんですね」
「いやあ、ぼくもこんな変てこな事件ははじめてですな。生首|半《はん》|斬《ぎ》り擬装心中事件なんてややこしい事件はね」
「な、なんですって? その生首半斬りなんとかなんとか事件てえのは?」
「いやねえ、平出さん、なんしろ、さすが千軍万馬の平出捜査主任さんをして、かくも混迷の|淵《ふち》におとしいれるくらいややこしい事件でしょう。だからブン屋諸公が記事の見だしに困っちゃいけないというんで、ご親切にも等々力警部さんがあらかじめ、キャッチフレーズを考えてあげたんですね。生首半斬り擬装心中事件ってね。いや、冗談はさておいて、だれだってはじめてでしょうねえ。こんな念入りにややこしい事件は……」
「そうでしょう、そうでしょう、そうでしょうとも!」
と、平出警部補はいまや興奮の絶頂にあった。
「くどいようだがねえ、金田一先生、犯人はなんのためにこんなややこしいことをやってのけたんです? これにゃひとつひとつ、やむにやまれぬ理由があってやったことなんですかい? それとも、われらが捜査主任さんのお|頭《つむ》の|舵《かじ》を、ちょいとちょろまかしてやろうてえんで、こけおどかし、はったり、|欺《ぎ》|瞞《まん》がそこに働いてるんですかい」
「それは……」
と、さすがの金田一耕助も、あいての|鋭《えい》|鋒《ほう》にいささかたじたじしながら、
「主任さんのおっしゃるあとのほう、つまり捜査方針をあやまらせてやろうという、欺瞞も多分にふくまれておりましょう。こうして、首を斬り落とそうとしたところをみるとね。由来、首斬り事件というやつは被害者の身元をわからなくして、捜査方針をあやまらせてやろうというのが主旨ですからね。だけど、そればっかりじゃなく、このややこしい殺人の手口……と、いうか、殺人のあとの死体の処理には、やはりひとつひとつ、なにか重大な意味が秘められているんじゃないですかね」
「重大な意味……? 重大な意味ってなんですい。そいつをひとつお伺いしようじゃありませんか」
「いやあ、いくらなんでも、そこまではまだぼくにもわかりませんよ。ただ、ここでわたしの知りたいのは……?」
「わたしの知りたいのは……? 先生はなにをいちばんに知りたいんです?」
「つまり、犯人はなぜ首斬り作業を中止したか。……それともうひとつ、犯人はなぜ女の首を七分どおり斬り、男の首を三分どおり斬ったか。男の首を三分どおり|挽《ひ》き切る努力を、女の首のほうに集中すれば、女の首はおそらく完全に挽き切られていたであろうのに、なぜ勢力を分散させ、どちらも未完成におわらせるようなヘマをやらかしたか。……吉沢先生」
「はあ」
「犯人はこの挽ききり作業のばあい、男の首にさきに手をかけたか、女の首にさきに手をかけたか……そこまではおわかりにならないでしょうねえ」
「はあ、そこまではね」
と、吉沢さんは苦笑しながら、
「このふたつの死体だけじゃそこまではむつかしいが、凶器が……ふたつの首を挽いたノコギリが血に染まったままの状態で発見されたら、いま金田一先生のおっしゃったこともわかるかもしれませんね。もし男の首をさきに挽きにかかって中絶し、女の首に取りかかったものなら、女の血のほかに多少は男の血も残っておりましょうからね。さいわい、男と女の血液型がちがっておりますから……」
「そうすると、先生、おまはんの知恵でわかることてえのは……?」
と、平出警部補がまた咬みついてきそうになったので、吉沢さんは立ちあがってさっさとかえり支度をしながら、
「おまえさんがカンシャクを起こしているあのややこしい殺人の手つづきと、犯行の時刻だけだあね。もう一度繰りかえしてやるかんな、その石頭によくたたきこんでおきな。犯行の時間は昨夜、すなわち土曜日の午後八時から九時までのあいだだ。わかったかね」
と、出て行こうとするうしろから、
「あっ、ちょい、ちょい、ちょい待ち、あわてなさんな。ヤブノカミ殿、まだ肝心なことをききおとしてるんだ」
「ききたいことがあったらさっさとききな。おっとわかった、おまえさんのこったからききたいというのはアノほうのことだろう。殺されるまえに男と女のあいだにアレが行われたかってんだろう。|態《ざま》あみろ」
「ご名答、ただし、態あみろだけは余計だがね」
「お気の毒だがね。女のほうにはその形跡さらになし。男のほうはわからんよ。ちょっとこいつばっかりはね。これでいいかい」
「いいよ、いいよ、もういいからさっさとかえって昼寝でもしな。この|竹《ちく》|庵《あん》め」
「昼寝しようとしまいと余計なお世話だ。ちっ、ブン屋にたたかれねえように気をつけろ。あっはっは、それじゃ、金田一先生、おさきに失礼」
吉沢先生がかえっていくと、急にあたりが静かになった。闘志満々の平出警部補も掛け合いの相手がいなくなったので、ファイトのやり場がなくなったのだろう、ぶつくさつぶやきながら、まるで|檻《おり》のなかのライオンみたいに部屋のなかを歩きまわっている。
さて、|猿《さる》|股《また》ひとつの男はもちろんのこと、スーツの上にレーンコートをはおった女のほうからも、身元を証明できるような何物をも発見することはできなかった。
女がスーツやレーンコートのほかに、なにか所持していたにしろ、それは男の着衣その他とともに、犯罪の現場に遺留されているか……いや、いや、犯人によって適当に処分されたにちがいない。
だから、現在の状態で知りうることは、四十前後の年増美人と、二十二、三のスポーツマンらしき青年と――ただそれだけのことである。
「いったい、ふたりのあいだにどういう関係があるのかな。つまり男のほうが若きつばめというやつかな」
「どちらにしてもこの青年、労働者じゃありませんね。年かっこうからいって、まだ学生じゃないでしょうかね」
「だけど、先生」
と、平出警部補はまた眼玉をギョロつかせて、
「この男の掌、相当皮が厚くなってますぜ」
「ええ、そう、でも、やっぱりぼくはこの男、労働者じゃなさそうな気がしますね。なんとなく印象からしてね」
「それにしても……」
と、平出警部補はまたカンシャクの募ってきそうな顔色で、
「女のほうはレーンコートまで着ているのに、男のほうはなぜパンツひとつの裸でいるんです。金田一先生、これにもなにか、のっぴきならぬ重大な意味があるんですかい?」
「もちろん、なにか意味があるんでしょうな」
「重大な意味……? それはいったいどういうことです?」
「平出さん、そこまではぼくにもまだわかりませんよ。しかし、ただこれだけのことは納得できると思うんですが……」
と、ここまでいってから金田一耕助がためらうのを、
「金田一先生、どうぞ」
と、等々力警部があとをうながした。
「いや、これくらいのことはすでにみなさんもお気づきになっていると思うんですが、念のために要約しますと、犯人は男と女の首を切断しようとこころみた。と、いうことは、犯人の最初の計画では、死体の身元をわからなくしようと思っていたんでしょうね。ところが、ああして、完全に首を切断しきらないで、首を胴体にくっつけたまま、ボートに乗っけて流したところをみると、当然、そこに最初の計画を変更せざるをえないような、余儀ない事情が突発したと思わざるをえませんね。その余儀ない事情とはなんであるか。……一見、複雑怪奇をきわめているこの事件ですが、そこらあたりにかえって、犯人にとってのウイークポイントがあるのじゃないか。だから、これは案外簡単に片づくんじゃないかという気もするんです。被害者たちの身元さえわかればね」
あとでわかったところによると、金田一耕助の予言は半分当たっていたが、肝心なところで半分外れていた。当たっていた部分というのは、かれが推察したところに、たしかに事件のウイークポイントはあったのである。
だが、そのウイークポイントから|手《た》|繰《ぐ》りよせられたこの事件の真相というのは、金田一耕助が考えていたより、はるかに複雑怪奇をきわめていたのであった。
三
その日の夕刻になって、この事件の最初の端緒をつかむことができた。それはあの|呪《のろ》われた貸しボート十三号の出所が判明したことである。
それは|吾《あ》|妻《ずま》|橋《ばし》ぎわにある貸しボート屋、ちどり屋の持ち舟であった。
刑事につきそわれて、捜査本部となった|築《つき》|地《じ》署へ出頭したちどり屋の若い店員、関口五郎君の申し立てをかいつまんでここにしるすと、運命のボートがこの恐ろしい犯罪に関連するにいたるまでには、だいたいつぎのような経緯があったようである。
殺人の行われたまえの晩、すなわち、金曜日の夜の八時ごろ、問題の貸しボート十三号は、ひとりの客を乗せて、吾妻橋ぎわから|漕《こ》ぎだされた。そして、それきりかえってこなかったというのである。
「それで、その客の人相風体は……?」
「はあ、それなんですがねえ」
「それなんですがねえって、きみ、客がひとりだったてえこと覚えてるくらいだから、人相なんかも覚えてそうなもんじゃないか。いまどき、ひとりとぼとぼボートを漕ぎ出すなんてえ野郎はめずらしいんじゃないかな」
「いや、まんざらそうでもございませんので……?」
「それじゃ、てめえ、どうしてもその客を思い出せねえてえのかい」
|平《ひら》|出《いで》警部補の大きな眼玉でギロリとにらまれて、関口五郎君がちぢみあがって恐れおののくかと思いのほか、逆にぷっと吹き出した。
「なんだ、なんだ、てめえ、なにがおかしいんだい?」
「だって、ぼくがこれからその客の人相風体を申し上げようとするのを、あなたのほうで勝手にごちゃごちゃおっしゃるもんですから……」
「あっはっは、そうか、そうか。それゃ失敬した。それじゃその男をよく覚えとるんだね」
「いえ、よくってわけにはいきませんが、ぼくとしても悔しかったですからね。親方にゃボロクソにいわれますし、……それであれやこれやと思い出してみたんです」
そこで、関口君があれやこれやと思い出してみた結果、かれの脳裏にうかびあがってきたというのは、金縁眼鏡をかけて、鼻下にうつくしいひげをはやした中年の紳士であるという。
「これはあとになって気がついたんですが、そいつ、はじめっからボートを盗むつもりだったらしいんです。なんだか、こう、妙に顔をかくすように、かくすようにしてましたからね。ただし、これもあとになって気がついたんですが……」
「それで、服装は……?」
「中折れ帽をかぶってたように思うんです。だけど、ひょっとしたら鳥打帽だったかもしれません。ただ、帽子をかぶってたことだけはたしかなんで、帽子のふちをぐっと下までさげて、その下から金縁眼鏡が光ってたのを覚えてますから……それからレーンコートの襟をふかぶかと立てていて……」
「レーンコートを着ていたんだね」
「ええ、レーンコートを着てたことはまちがいございません。ボートに乗るときレーンコートの|裾《すそ》が|棒《ぼう》|杭《ぐい》にひっかかったのを覚えてますから」
「レーンコートはどんな色?」
と、いう平出捜査主任の質問にたいして、
「さあ……」
と、関口君はちょっと小首をかしげて、
「ふつうのバーバリーってやつじゃなかったでしょうかねえ。特別変わった印象ものこっておりませんから」
と、その点については関口君もあいまいにしか答えることができなかった。
「それで、金縁眼鏡と鼻下のひげ以外に、その男の|容《よう》|貌《ぼう》なり態度なりについて、なにか眼につくような特徴はなかったかい」
「いえ、それがいっこうに。……ボートを盗まれると知っていたら、それゃもっと気をつけていたんですが。……ただ、金縁眼鏡と鼻の下のひげが印象にのこっているだけで……」
「上背はどのくらいあったかね。それくらいはわかるだろう」
「さあ、それも……なんせ、気がついたときにゃそのお客さん、ちゃんともうボートのなかに座ってたもんですから……」
「こんどその男に会ったら識別することができるかね」
「さあ……」
と、関口君は当惑したように小首をかしげた。
関口君はまだ盗まれたボートに関して、なにが起こったのか知っていないのである。したがって、かれが当惑そうに言葉を濁すのは、かならずしも責任回避のためではなく、真実自信がなかったらしい。
「それで、きみはどうしてたんだい? え? ボートを盗まれっぱなしでノホホンとして、手をつかねてたのかい?」
「いえ、とんでもない。主人に小っぴどくしかられましたからね。それにぼくだっていまいましかったんです。ですから、きのう一日、川筋をボートで漕いでまわって、十三号を探してあるいたんです。しかし、どうしても見つからないんで、ゆうべ橋詰めの交番へとどけといたんですが……」
それを受け付けた交番のおまわりさんも、そのことがこれほど重大な犯罪につながりがあろうとは、ゆめにも思わなかったので、つい本署への報告を怠っていたというわけである。
以上の事実からこうしてこの事件が、相当綿密に計画されていたらしいことがうかがわれる。犯人の意中には少なくとも、ボートを盗んだ金曜日以前にこんどの事件の計画がたてられ、その実行に着手されていたらしいことが想像されるのである。
その犯罪の現場がどこであったにしろ、あの恐ろしい死体解体作業はボートのなかで行われた……いや、行われようとしたことは一目|瞭然《りょうぜん》であった。ボートのなかにはすさまじい血だまりができていた。
もう一度、ここで犯人の計画のあとを追ってみることにしよう。
かれはまず金曜日の夜、ちどり屋から貸しボート十三号を盗んで、それをひと晩、どこかへかくしておいた。
その翌日の土曜日の晩、かれはふたりの男女を殺害して、ボートのなかで|首《くび》|斬《き》り作業を行おうとした。だが、その作業の途中でなんらかの余儀ない故障がおこって、かれは最初の計画を変更せざるをえなくなった。
そこでかれは、なかば首を切断した男女ふたりの死体を、そのままボートに乗っけて|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》へ流した。
土曜日の晩、東京地方は小雨がバラつく程度だったが、隅田川の上流の山間部では相当猛烈な大雷雨があり、したがって隅田川の川筋は水かさもふえ、また流れも勢いをましていたのである。
あの恐ろしいふたりの男女の死体を乗っけた運命の貸しボート十三号は、その流れに乗って浜離宮公園沖へ漂いよったのであろう。
だが、それではボートはどこから流れてきたのか。そして犯罪の現場は……?
四
この恐ろしい事件の記事は、日曜日の夕刊にはほとんど間にあわなかった。二、三の新聞のごくおそい版にごく簡単に掲載されたが、それに気づいたひとはそうたくさんはなかったであろう。
この事件の記事が大々的に新聞に報道されて、世間の耳目を|聳動《しょうどう》させたのは、その翌日、すなわち月曜日の朝のことだった。
ひとびとはこの|凄《せい》|惨《さん》な記事をよんで、みな一様にドスぐろい恐怖の思いに、おののかずにはいられなかった。
実際、金田一耕助も指摘したとおり、いっそ、すっかり切断された首なし死体か、あるいは生首事件のほうがまだよかった。
半分首を切断されかけた死体……|咽《いん》|喉《こう》部をノコギリかなにかで|挽《ひ》かれて、しかもまだわずかに胴体とつながっている男女ふたりの死体。……
それを読んだとき、ひとびとはみな一様に、おのれの肉体のその部分に、痛烈な痛みをおぼえずにはいられなかった。
さて、月曜日の朝、金田一耕助は|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部にさそわれて、この事件の捜査本部になっている築地署に、はやくから詰めかけていた。ひょっとすると、けさの新聞記事の反響がありはしないかと考えられたからである。
果たしてその反響は十時ごろに訪れた。
「こういうかたが、けさの新聞にのっているボートの件について、係りのかたに会いたいといってきてるんですが……」
と、受付のものから、捜査主任の平出警部補に取りつがれた名刺を見て、一同はぎょっとしたように眼を見かわした。
それはちかごろ、とかく世間の疑惑の的となっている役所のある省の、とくに問題を起こしやすい課の課長という肩書きをもった名刺で、名前は、
「大木健造」
と、あった。
「ああ、そう、それじゃすぐにこちらへ通してくれたまえ」
やがて、受付のものといれちがいに、殺風景な捜査本部へはいってきた男の顔や服装をひと目見たとき、|平《ひら》|出《いで》警部補はギョロリと眼玉をひからせ、等々力警部と金田一耕助はひそかに眼を見かわしてうなずいた。
大木健造。――
年齢は四十五、六だろう。色白の好男子で、金縁眼鏡をかけ、鼻の下に手入れのいきとどいたひげをたくわえている。しかも、右手に黒っぽい中折れ帽子をもち、左腕にはバーバリーのレーンコートをかけているではないか。
平出捜査主任がエヘンと|咳《せき》|払《ばら》いをして眼くばせすると、すぐ刑事のひとりが立ってさりげなく部屋から出ていった。
おそらくちどり屋の若い店員、関口五郎君をよびにいったのだろう。
この殺風景な部屋の入り口に立ってなかを見まわしたとき、大木健造の態度には一種の興奮と気おくれが|錯《さく》|綜《そう》しているようであった。
「ぼ、ぼく……けさのこの新聞を見てやってきたんですが……」
と、|上《うわ》|衣《ぎ》のポケットから折りたたんだ新聞をつかみだす手つきも、わなわなと興奮にふるえていた。
「はあ、あの、ボートの二重殺人事件について来られたんですね。どうぞそこへお掛けになって。……被害者についてなにかお心当たりでも……?」
と、さすがに平出警部補も相手によっては、すこぶるお行儀がよろしいのである。
「ああ、いや、そのまえに……」
と、大木はできるだけ落ち着こうとつとめながらも、金縁眼鏡の奥の眼が不安にくもって、声もひどくうわずっていた。
「|死《し》|骸《がい》を見せてもらえませんか。新聞に出ているこの記事だけじゃよくわからないんだが……」
「いや、ところがあいにくその死体は、いま両方とも解剖のために大学の付属病院のほうへ行っているんです。ここに写真がありますから、これでだいたいのことはおわかりになると思いますが……」
大木はまだドアのところに立ったままだったが、平出捜査主任が引き出しのなかから写真を取りだしてデスクの上にならべてみせると、ひきずられるように部屋のなかへ入ってきた。そして、デスクの上に両手をついて、食いいるようにそこに並んだ数葉の写真をながめていたが、急にドシンと地響きを立てるような音をさせて、|椅《い》|子《す》のうえに腰をおとした。
「ご存じですか、このふたり……?」
平出警部補が尋ねたが、大木はすぐに答えなかった。
いや、答えなかったのではない、答えることができなかったのだ。かれはまるで放心したような眼をして天井の一角をにらんでいたが、やがてその視線を自分を注視しているひとびとのほうへむけたとき、この上もなく沈痛な色がそこにあった。
「ご存じなんですね。このふたりを……?」
平出警部補がおなじ質問をくりかえすと、
「し、知っています」
と、大木のしゃがれた声はまるでむりやり絞り出されるようであった。その面上には怒りと屈辱がどすぐろい炎となってもえている。
「失礼ですがどういうひとたちですか。また、あなたとの関係は……?」
「女のほうは……」
と、平出警部補のほうへむけた大木の眼つきのなかには、挑戦するようなたけだけしい光がほとばしっている。
「女のほうはわたしの家内の藤子です。そして……そして、男のほうは……」
「はあ、男のほうは……?」
「娘のひとみの家庭教師をたのんである……いや、たのんであった|駿《する》|河《が》譲治君、X大学の学生で、ボートのチャンピオンとして有名な男です」
X大学のボートのチャンピオン!
殺風景な捜査本部はその瞬間、一種のどよめきとざわめきに支配された。
X大学の|短《たん》|艇《てい》部といえば、都下大学でも有名である。そこの選手といえば若い女性たちのあこがれの的となっていることを、捜査本部の連中はみんな知っている。
しかも、被害者のあの|美《び》|貌《ぼう》とめぐまれた男性美……金田一耕助はなぜかぎょっとして、思わず口笛を吹きそうな口もとをしたが、あたりをはばかってやっとのことで制御した。
「なるほど」
と、平出警部補はデスクの上から体を乗りだすと、まじまじとさぐるように相手の顔色を見すえながら、
「それで、あなたもだいたいのことは新聞でお読みになったことでしょうが、奥さんとお嬢さんの家庭教師なる学生が、いっしょに死んでいた、いや、殺されたということについて、あなた、なにかお心当たりがおありでしょうね」
「いいえ、全然」
と、大木は言葉に力をこめて、
「ただ、一昨夜から家内がかえらないので心をいためていたところが、けさのこの新聞でしょう。女中がこれを読んでひょっとすると、奥さんと駿河さんじゃないかなどといいだしたもんだから……女のほうの着衣その他、それから男のほうの|容《よう》|貌《ぼう》やなんかを読んで……わたしはまさかと思ったのだが、まあ、念のためにと思って……」
とぎれとぎれに語る大木健造の額からは、滝のように汗が流れはじめる。
そのうわずった眼の色や、不愉快そうなその語気には、妻をうしなった悲しみよりも、若い男といっしょに殺されていたという事実にたいする怒りと、屈辱のほうが大きいように見受けられた。
「女中さんが新聞を読んで、これが奥さんと家庭教師じゃないかと気づいたというのは、ふたりのあいだになにか忌まわしい関係でも……」
「そ、そんな馬鹿な!」
大木は吐きだすようにいったものの、その語気にはどこかしらじらしい、腰の弱さというようなものが感じられた。
かれはすぐ語調を改めて、
「藤子もそんな馬鹿じゃないでしょう。来年高校へ進もうという大きな娘をもった母親が、若い学生とそんな馬鹿げたことが……だれがなんといおうとも、わたしにはそんなこと信用できません」
「だれがなんといおうとも……? するとだれかそんなことをいってるものがあるんですか」
平出警部補がするどく突っこむと、大木はぎょっとしたように金縁眼鏡を光らせたが、
「けさ、女中の信子がなにかそんなことをほのめかしていたが、まさか……わたしにはそんなこと信じられない」
「失礼ですが、奥さん、おいくつでした」
「ちょうどです。かぞえ年で……」
「ちょうどとおっしゃると四十……?」
「ええ、そう」
「この駿河譲治という青年がお嬢さんの家庭教師になったのは……?」
「去年の秋からです。来年の高校受験にそなえて家内が頼んだのです」
「どういうつてで……?」
「さあ」
と、大木は金縁眼鏡の奥で眼をしわしわさせながら、
「詳しいことは知りません。家のことは万事家内まかせですから。たぶん友だちにでも紹介されたんでしょう」
「あなたも相当たびたび、この駿河譲治なる青年にお会いになったわけでしょうが、あなたの印象ではどうでした、この青年について……?」
「さあ、そういわれてもべつに……なにしろわたしは毎日役所がおそいし、駿河君は一週間に一度きり、火曜日にやってくるだけですから、めったに顔をあわすことはなかったんです。ちょくちょく家内やひとみからうわさをきくぐらいのもんで……ふたりとも教えかたが上手で親切だとほめていたので、それゃいいぐあいだと思っていたくらいのもんで……」
平出警部補は大木の妻女と駿河青年との関係について、なおも質問を進めていったが、大木はのらりくらりと言葉を濁して決定的なことは語らなかった。その言葉なり態度からみると、ふたりの関係を知っていながら、それを語るのを恥としているのか、それとも全然けさまで知らなかったのか、どっちともとれるようであった。
平出警部補は|業《ごう》を煮やして、とうとう最後の切り札を持ちだした。
「ところで、大木さん」
と、平出警部補はきっと相手の顔を見すえながら、
「失礼ですが、あなた、一昨日、すなわち土曜日の晩はどこにいらっしゃいました? おうちにいられたんですか」
この質問はなにか痛いところをついたらしく、大木はギクッとしたように警部補の顔を見なおしたが、すぐ騒ぎ立つ心をおさえるような努力をみせて、
「はあ、土曜日の晩は役所のかえりにちょっとほかへまわって、うちへかえったのは十二時ちょっとすぎだったが……」
「役所からちょっとほかへまわったとおっしゃるが、いったいどちらへ……? 念のためにお伺いしておきたいのですが……」
「いや、あの、それは……」
と、口ごもったのち、大木の|頬《ほお》に突然かあっと血の気がのぼってきた。
「ああ、きみたちはこのおれを疑っているんだね」
と、怒気を満面に走らせて、
「馬鹿も休み休みいいなさい。わたしが家内と駿河君を殺すなんて……あっはっは、そ、そんな馬鹿なことが……」
「いえ、いえ、これはほんの形式だけのことでして……こういう事件が起こったばあい、いちおうその当時の関係者の行動をお伺いしておくのが、まあ、慣らわしみたいになっておりまして……もっとも、おっしゃりたくなければ、おっしゃらなくともよろしいんですが……」
言葉そのものはおだやかだけれど、平出警部補の語気の底には、相手を冷やりとさせるようなものをもっている。
大木もそれを感じたのか、頬からみるみる血の気がひいていって、|蒼《そう》|白《はく》のおもてがそそけだったようにこわばった。しかし、かれは強いて空元気をふるい起こすと、
「ああ、そう、それじゃそういうことにしておいてもらおう。だが、ここでいっときますがね。土曜日の晩のぼくの行動は、ぜったいに家内とは関係はありません。いや、家内と関係がないのみならず、そういう家庭的な問題とはちがっているんです」
「ああ、なるほど」
と、平出警部補はひややかに、
「それじゃ土曜日の晩のことはあきらめるとして、そのもうひとつまえの晩、すなわち金曜日の晩のことは話していただけるでしょうねえ。どこでお過ごしになったかということを……」
やんわりと真綿で首をしめるような平出警部補の質問に、ふたたび大木の頬がこわばった。いや、こわばったのみならず、|痙《けい》|攣《れん》するようにびくびくふるえた。
「き、金曜日の晩がなにかこんどの事件に関係があるというのか!」
「はあ、犯人は金曜日の晩から、殺人の準備にとりかかったのではないかと思われるふしがあるのです。失礼ですがあなた金曜日の晩はどちらに……?」
「それも、いや、金曜日の晩のこともいうことはできん。しかし、信じてもらいたい。それはぜったいに家庭的なことではないんだ。藤子や駿河譲治などとは、ぜったいに関係のないことなんだ」
「すると、お役所のほうの機密に関することでも……」
突然、そばからぼそりと口をはさんだのは金田一耕助である。
それを聞くと大木ははじかれたように体をそらせて、しばらく金田一耕助をにらんでいたが、その眼にはけわしい憎悪の色が光っていた。
「いやあ、べつにそういうわけでもないが……」
と、言葉を濁したものの、大木の額からしたたり落ちる汗は滝のようであった。
「それじゃ、もう少し質問をつづけさせてください」
と、平出警部補が金田一耕助にかわって、
「あなた、こんどの事件についてなにかほかに心当たりはありませんか。と、いうことはだれかあなたの奥さんと駿河君にたいして、恨みをふくんでいるとか、憎んでいるとか……」
「いや、いや、いっこうに……さっきもいったように家のことはいっさい家内にまかせて、わたしはなにもタッチしなかったもんだから……」
「ああ、そう、それじゃ駿河君の住居は……?」
「さあ、よく知りませんな。ああ、そうそう、合宿にいるんじゃないですか。そのことならX大学のボート部にきき合わせたらすぐわかりましょう」
「ああ、そう、それじゃそういうことにいたしましょう」
それからなおしばらく、平出警部補があまり重要とも思えない質問をながながとつづけていたのは、ちどり屋の店員、関口五郎君を呼びにいった刑事がかえるのを待っていたのだろう。
その刑事がやっとかえってきたので、
「やあ、どうもながながとお引き止めして申しわけございませんでした。それじゃ病院のほうへご案内させましょう」
平出警部補が眼くばせすると、すぐに刑事のひとりが立ち上がって、
「それじゃ、わたしがご案内しましょう」
と、さきに立って出ていったが、それにつづいて大木健造がドアから姿を消すとまもなく、刑事に付き添われて入ってきたのは関口五郎君である。
「どうだい、関口君、金曜日の晩、ボートを盗んでいったのはあの男じゃなかったかい?」
「さあ、それなんですが……」
と、関口君は真実当惑したように顔をしかめて、
「きのうもいっておいたとおり、そうはっきりと顔を見ておいたわけじゃないんで……なにしろむこうは用心ぶかく、顔をかくすようにかくすようにしてましたからね」
「しかし、感じとしてはどうだい。あの帽子やレーンコート、それに金縁眼鏡やひげなんかの感じは……?」
「ええ、そうおっしゃればたしかに眼鏡のかたちやひげのかっこうは、だいたいあれに似てましたが、金曜日の晩の男はもう少し柄が大きかったように思うんですが……」
ちなみに大木健造は五尺五寸ぐらいで、中肉中背というところだった。
五
大木健造の出頭によって捜査本部は|俄《が》|然《ぜん》活況を呈してきた。
被害者の身元が判明しないあいだは、いかに敏腕で老練な刑事といえども、どこから手をつけてよいかわからなかったこの事件も、これで捜査の糸口がついたというものである。
|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部と|平《ひら》|出《いで》警部補の指令で刑事が八方へとんで、いよいよこの事件にたいする活発な捜査活動が開始された。
「それにしても、主任さん、あの大木ってえのは臭いですぜ。土曜日の晩も金曜日の晩もアリバイが成り立たないというのはおかしいじゃありませんか」
根本という|古狸《ふるだぬき》の老練刑事の進言に、
「それだよ。やっこさん、なにか役所の機密事項に関する用件のようににおわせていたが、さて、どうかな」
「それゃ、多少はそれもあったかもしれませんが、ふた晩ともそれにかかりきってたかどうですかな。ちょっくらボートを盗みだしておいて、それからどっかへまわるという手もありますからな」
「だけど……」
と、金田一耕助が考えぶかい眼つきで、
「あの省はちかごろとかく問題の多い省ですからね。それにこの課というのが台風の眼みたいな課だって評判でしょう」
「それじゃ、金田一先生は」
と、根本刑事は挑戦するような眼を金田一耕助のほうへむけて、
「あの男の言葉を額面どおり受け取って、この事件にゃ関係ないとおっしゃるんですかい」
「とんでもない。なんといってもいちばん関係のふかい人物ですからね。ことに細君と家庭教師とのあいだに、忌まわしい関係があったとしたら……」
「とにかく根本君、金曜日と土曜日の夜におけるあの男の行動について、ひとつ徹底的に洗ってみてくれたまえ」
「はっ、承知しました」
いうにやおよぶとばかり身支度をした根本刑事が、
「おい、北川、おまえもいっしょに来い!」
と、まだそこにまごまごしていた新参らしい若い私服をつれてとびだしていくと、捜査本部もいくらか静かさと落ち着きを取りもどした。
金田一耕助がその捜査本部の一隅で、猫のようにのらりくらりとしていると、そのうちにぞくぞくとして情報が入ってきた。
まず、正午ごろ解剖の結果がはっきりわかったが、その結果は吉沢医師の見解と変わったところは少しもなかった。
男は心臓のひと突きが致命傷で、首を絞められたときかれは完全に死亡していた。それに反して女のほうの死因は絞殺で、心臓をえぐられたのは死後半時間くらいのちのことであろうという。そして、ふたりの殺害された時刻については、これまた吉沢医師が推断したように、土曜日の夜の八時から九時ごろまでのあいだであろうと断定された。またふたりの首を|挽《ひ》いた凶器については、おなじものが使用されたのであろうという鑑定である。
「ちっ、なんだい、これゃ……」
と、平出警部補の|忿《ふん》|懣《まん》がまたそろそろ爆発しそうである。
「これじゃ、吉沢ヤブノカミ|竹《ちく》|庵《あん》の鑑定とちっともちがやあしないじゃないか」
「あっはっは、ちがってちゃ困るじゃないか。それとも、きみはなにかより以上のものを期待していたのかい」
「そうですとも!」
「いったいなにを期待していたんだい」
「なにをって決まってるじゃありませんか。金田一先生のサゼストによるあの一件でさあ」
「金田一先生のサゼストによる一件とは……?」
「あれ、警部さんは忘れたんですかい、ほら」
と、平出警部補は金田一耕助にむかって眼玉をギョロギョロ、ギョロつかせながら、
「きのう金田一先生がヤブノカミにきいてたじゃありませんか。男の首を挽きはじめたのがさきだったか、それとも女の首を挽きはじめたのがさきだったかってこと……」
「あっはっは、あのことか。しかし、それゃいかに医学が進歩してるからって、そいつはちょっとむりだろうねえ。だけど、金田一先生」
「はあ」
「あなたのお考えじゃ、そういうことが捜査上の重要なキイとなるとおっしゃるんですか」
「はあ……」
と、金田一耕助はあいまいな調子で、
「それもそれですがもうひとつ、犯人はなぜこの|首《くび》|斬《き》り作業を完成しなかったのか。なぜ途中で中止しなければならなかったのか……」
「それゃ、先生、なにか邪魔が入ったからでしょうが……」
「そう、それじゃ、その邪魔というのはどういう種類のものであったか。犯人が首斬りにとりかかったとき、そいつはよほど重大な決意をもっていたにちがいありませんね。首と胴とを斬りはなすことによって、被害者の身元をわからなくしよう。そして、あわよくばふたつの死体をボートとともに沈めてしまおう……と、そういう固い決意をもっていたにちがいないと思うんです。ところが実際の結果はどうです。じつに他愛なくふたつの死体が発見され、じつに他愛なくふたりの身元が明るみへ出てしまったじゃありませんか。これじゃ|竜頭蛇尾《りゅうとうだび》というもおろかなりで、なにが犯人の計画をかくも他愛なく|挫《ざ》|折《せつ》せしめたか……?」
「なにがかくも他愛なく犯人の計画を挫折せしめたんです?」
間髪をいれぬ平出警部補の質問にたいして、
「それがわかったらこの事件も万事OKというところでしょう」
なあんだ、詰まらないというように、この野性味満々の警部補は小鼻をふくらまして肩をゆすったが、しかし、いま金田一耕助の指摘したところに、この事件解決の重大なキイがあるのではないかということは認めざるをえなかった。
さて、八方へとんだ捜査係員からぞくぞくと入ってくる情報によって、その日の午前中にわかった結果をここに述べると、それはだいたいつぎのとおりである。
X大学のボート部の合宿は埼玉県の戸田にあり、ボートハウスも戸田橋付近にあるという。
X大学のボート部では秋のインターカレッジにそなえて先日来猛練習をつづけていたが、二、三日まえボートが大破損をしたので目下修理に出してあり、一方部員も猛練習の連続でいささかヘバリがきているところだったので、この機会を利用して休養をあたえようということになり、目下練習は休みで、したがって部員たちも全部登校しているということであった。
その部員のうちキャプテンの松本茂とマネジャーの鈴木太一という青年が、刑事につれられて大学の付属病院へ急行したが、ふたりとも男の死体をひと目見ると、うちの部員の|駿《する》|河《が》譲治にちがいないと証言した。ただし、このような大惨事が起こったについては、ふたりとも全然心当たりがないということであった。
こういう報告をきいて、捜査本部の方針はふたつにしぼられることになった。ひとつは大木健造の公私にわたる生活調査、もうひとつは、X大学のボート部の選手たちについて、調査をすすめていくよう指令が発せられた。
金田一耕助が等々力警部にむかって、突然戸田のボートハウスへ行ってみようじゃないかといい出したのは、こうして捜査本部の方針が決定してからのことであった。
「金田一先生」
と、たちまち平出警部補がその言葉を耳にはさんで、横から大きな眼玉をギョロつかせた。
「そうすると先生のお考えじゃ、X大学のボートハウスが怪しい、そこが殺人の現場じゃないかとおっしゃるんで」
「あっはっは、平出さん、そう飛躍しちゃいけませんよ。まだ見もしないうちからね。だけど一見の価値はあると思うんです」
「それゃそうです、それゃそうですとも。それじゃ警部さん、行ってらっしゃい。そして、男の首を挽いたのがさきだったか、女の首を挽いたのがさきだったか、ひとつよく調べてきてください」
平出警部補の冗談とも真剣ともつかぬ言葉に送られて、金田一耕助が等々力警部といっしょに出発したのは、午後ももうそろそろ四時にちかかった。自動車のなかには等々力警部腹心の部下、新井刑事も同乗している。
「なるほどねえ」
と、自動車が走りだすとまもなく、等々力警部は自分で自分に言ってきかせるように、しきりに首をふりながら、
「あの貸しボート十三号をひと晩かくしておくにゃ、ボートハウスこそもっとも屈強のかくし場所だったな」
「そうだ、そうだ、警部さん」
と、新井刑事も興奮していて、
「しかも、X大学のボートはいま破損していてボートハウスはあいている。おまけに練習も休みときてますから、だれもボートハウスにちかよるものはない。……だけど、金田一先生」
「はあ」
「そうすると、大木のやつもそれを知ってたことになりますな。あいつが犯人だとしたら……」
「それゃわかるだろうよ」
と、等々力警部が横から引きとって、
「家庭教師の駿河が一週間に一回は大木の家へきてたんだからね」
「戸田へ行ったら、ついでに合宿へも寄ってみようじゃありませんか」
金田一耕助はただひとことそういったきり、あとはいっさい無言の行で、なにかながく考えこんでいた。
入梅をまぢかにひかえた今日このごろは、一日じゅうからっと晴れわたっているのは少なく、今日も雨雲がひくく垂れさがっていて、自動車が|荒《あら》|川《かわ》の堤防沿いに戸田の町へ乗りいれたころには、まだそれほどの時刻でもないのに、この水郷はたそがれの|靄《もや》のなかに垂れこめられていた。
自動車を戸田橋付近へつけて、X大学の|艇《てい》|庫《こ》ときくとすぐわかった。
それは荒川の支流の河岸っぷちに建っている|鰻《うなぎ》の寝床のように細長い、粗末な建物で、うしろには堤防をひかえ、周囲は一面に|蘆《ろ》|荻《てき》おいしげる河原である。むろん近所隣りに人家などあろうはずはなかった。
「なるほど、これゃあ!」
と、その地形を見るとまず等々力警部がうなった。
「ああいう凶悪犯罪にはうってつけの場所だな!」
艇庫はぴったりドアがしまっており、ドアには大きな|南《ナン》|京《キン》錠がおりていた。
「錠がおりてますね」
金田一耕助はちょっと案外そうな顔色だったが、新井刑事は委細かまわず、
「なあに、構うもんですか。こうなれゃ非常手段だ。どこか窓から入ってみましょう」
新井刑事はぐるりとボートハウスの側面をまわってみて、粗末な窓をひとつひとつ調べて歩いていたが、
「金田一先生、警部さん、こちらへいらっしゃい。ここの窓が開くようです」
新井刑事が開いた窓から侵入すると、がらんと薄暗いボートハウスのなかには細長いプールが切ってあり、プールのなかにはくろずんだ水がよどんでいる。プールの水はそのまま前面の川につながっており、水門を開くとボートハウスのなかから、ボートが川へすべり出せるようになっている。水門は内部からしか開かぬようになっていた。
金田一耕助はプールのまわりを歩きまわりながら、
「これでみると外からここへボートを導入するためには、一度ボートハウスのなかへ入って内部から水門を開かねばなりませんね」
「まあ、そういうことになりますな」
と、等々力警部も水門を調べていた。
「そうすると、金曜日の晩、貸しボート十三号を盗んだ男が、ほんとにここへボートをかくしたとしたら、そいつは艇庫の|鍵《かぎ》をもっていなければならんことになる……」
「どうしてですか、金田一さん」
と、新井刑事が|反《はん》|駁《ばく》するように、
「現に窓が簡単に開いたじゃありませんか」
「しかし、金曜日の晩、ボートを盗んだ男が、このボートハウスの窓がそう簡単に開くということを知っていたというのは……?」
「それゃ、金田一先生、ここを犯罪の現場としてえらんだとすれば、犯人は一応も二応も下検分をしたにちがいありませんぜ。それに大木だったらなんかの機会に、ボートハウスってどういう構造になってるかくらいのことは聞いてるでしょうからねえ」
「なるほど」
と、金田一耕助はうなずいて、それ以上のことはいわなかったが、かれの性癖をよく知っている等々力警部は、いま金田一耕助の提出した疑問が気になるらしく、しきりにその横顔をうかがっていた。
プールのそばにはボートをのっける台があったが、むろん台の上にはボートはなかった。ただ、向こうの壁にオールが林のように立てかけてあり、すみのほうに押し入れのようなものがあった。その押し入れを開いてみるとなかにはがらくた道具が半分ほど詰まっている。
「警部さん」
と、さっきからプールのまわりを懐中電燈の光で調べていた新井刑事が、突然、押しころしたような声でささやいた。
「最近、だれかこのコンクリートをきれいに洗い落としたやつがあるんですぜ。ほら、このへん全然、泥の跡が残っていない……」
なるほど新井刑事のいうとおりで、プールサイドはまるで|舐《な》めたようにきれいに清掃されている。
「ボートハウスって、どこでもこんなにきれいに掃除ができているものかな」
「それゃわたしも知りませんが、|泥《どろ》|靴《ぐつ》の跡がひとつぐらい残っていてもよさそうに思いますね」
「しかし、ここがあの恐ろしい犯罪の現場だったとしても、|血《けっ》|痕《こん》はあまり残っていなかったでしょうね。血の大部分はあのボートのなかに流されたんでしょうからね」
「まったくうまいこと考えたな。ボートのなかで|首《くび》|斬《き》り作業をやってのけて、そのボートをそのまま沈めてしまえば、犯罪の現場はこの世から消滅してしまうわけだからな」
「ところが、最後の土壇場になってなにかの障害にぶつかった……」
と、新井刑事は金田一耕助の顔色をうかがいながら、
「つまり、問題はそれがどういう障害だったかということですね」
「まあね」
と、金田一耕助はなんとなくもの思わしげな眼つきである。等々力警部はまじまじとその横顔を見ながら、
「ところで、金田一さん、さっきあなたのおっしゃったことですね。金曜日の晩、ボートを盗んだ男がこのボートハウスの窓が、簡単に開くということを知ってたってこと……あなたはひょっとしたら、ここのボート部員に疑惑をもっていらっしゃるんじゃ……」
金田一耕助はしばらく黙っていたのちに、
「ねえ、警部さん、かりにここが犯罪の現場として、金曜日の晩ボートを盗んだ男が、ここまで|漕《こ》ぎのぼってきたとしたら、それはたいへんな努力ですよ。|吾《あ》|妻《ずま》|橋《ばし》からここまでいったいどのくらいありますかねえ。しかも、川をさかのぼるんですからねえ、ふだんボートを漕ぎなれてない男がそんなことやってのけたら、翌日は体の節々がいたくてかなわないんじゃないでしょうか。ひょっとしたら足腰が立たなかったかもしれない。ですから、金曜日の晩ボートを盗んだ男が、ここまで漕ぎのぼってきたとしたら、そいつはよほどボートに自信のある男にちがいありませんねえ」
「ようし!」
と、新井刑事は鋭く舌打ちをして、
「それじゃ、これから合宿へ行ってひとりひとり絞めあげてやろうじゃありませんか」
六
X大学のボート部の合宿というのは、戸田の町はずれ、荒川堤からほど遠からぬところにあったが、それはもう相当年代ものの、古ぼけて殺風景な建物だった。
金田一耕助は荒涼たる沼沢地を背景として、おりからのたそがれちかい曇り空のなかに建っているその殺風景な建物を仰ぎみたとき、鉛でものまされたような重っくるしい気分に圧倒されずにはいられなかった。
時刻はもうかれこれ六時、部員もおおかたかえっている時分だろうに、どの窓もほとんど灯がついておらず、妙にひっそりした感じが、なにかこう、合宿全体が|呼《い》|吸《き》をのんで世間の幻聴におののいているという印象だった。
三人が玄関へ入っていったとき、右手にある応接室で五、六人の部員が額をあつめて、なにかひそひそ話をしていたが、そのなかのひとりがだしぬけに、
「だけど、矢沢のやつがまさか……」
と、おびえたような声で叫んだのが、鋭く三人の耳をとらえた。
三人が思わずはっと顔見合わせて立ちどまったとき、応接室のなかでもそれと気がついたらしく、一瞬しいんとしずまりかえったが、
「だれだい、そこにいるのは……? なにか用かい?」
と、つっけんどんな声がして、のっそり玄関にあらわれたのは、トレーニングパンツにアンダーシャツ一枚の青年である。
「ああ、警察のものだがね。ちょっと聞きたいことがあってやってきたんだ」
新井刑事が名刺を出すと、
「警察……?」
と、相手は聞きとがめるように、
「警察ならさっきもわれわれ全員呼ばれて、いろいろ取り調べられてきたばかりですよ」
アンダーシャツは立ったまま、じろじろ三人を見おろしている。
「いや、ところがこっちは警視庁のもんでね。きみたちに会って直接、まあ、いろいろ聞かせてもらおうと思ってやってきたんだ」
「だけど、キャプテンもマネジャーもいないんですが……」
「いいよ、いいよ、きみたちに話を聞かせてもらえれば十分だ」
新井刑事が遠慮なく靴をぬぎかけるので、アンダーシャツもしかたなく|下《げ》|駄《た》箱をひらいて、スリッパを三足そこへそろえた。
金田一耕助が下駄箱をかぞえてみると二十くらいある。野球部などとちがってそうたくさん部員はいないのだろう。
玄関の右手にあるその部屋は応接室兼娯楽室になっているらしく、ラジオやテレビがそなえつけてあり、壁には部の記念写真などが一面にはりつけてある。その応接室のなかでひとかたまりになっているのは、迎えに出たアンダーシャツもくわえてつごう五人、思い思いのかっこうで|椅《い》|子《す》に腰をおろしているが、いずれもブスッとした顔をして、そこにはあきらかにきびしい警戒心と敵意とが、暗黙のうちに凍りついている。
新井刑事は立ったままずらりとひとわたり見まわすと、
「いやあ、どうも、だしぬけに押しかけてきてすまんが……ときに部員はこれだけ?」
と、アンダーシャツをふりかえると、
「いや、いまボートを修理に出してあるので、一週間ほど休養ということになってるんです。そのまに郷里へかえったやつもあるし、都内の|親《しん》|戚《せき》へ行ってるのもあります。だからいまこの合宿にいるのはこの五人と、マネジャーの鈴木とキャプテンの松本。……それから、そうそう|駿《する》|河《が》譲治のつごう八人でした」
「ああ、そう、それじゃすまんがひとつきみたちの名前を聞かせてもらおうか。名前を知ってないと話をするのにも都合が悪いからな」
五人の青年たちがたがいに顔を見合わせていると、なかにアロハを着た|獰《どう》|猛《もう》な面構えをしたのが、
「いいよ、いいよ、言っちまえよ、古川、おまえひとつ紹介しろよ」
と、ブスッとした面構えのまま言った。
「ああ、そう、それじゃ右のはしから順に紹介しましょう」
アンダーシャツは古川というらしい。
「右のはしっこのアロハが八木信作、つぎの|浴衣《ゆ か た》のおっさんが片山達吉、おつぎのセーターが児玉潤、さてまたおつぎの浴衣から|毛《け》|脛《ずね》まる出しの|兄《あ》んちゃんが|長《なが》|脛《すね》|彦《ひこ》こと青木俊六、さてどん|尻《じり》にひかえし紅顔|可《か》|憐《れん》の美少年、かくいう|吾《わが》|輩《はい》は古川|稔《みのる》であります。報告終わり」
アンダーシャツはたぶん二等兵物語の映画ででも見てきたのだろう、直立不動の姿勢で挙手の礼をしたが、だれも笑うものはなく、依然としてきびしい敵意が凍りついたままである。
「あっはっは、いや、どうもありがとう。それじゃこっちも紹介させてもらおう。おれはいま名刺をわたしたとおりの男だが、ここにいられるのは警視庁捜査一課の|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部、それからそちらの和服のかたは警部さんの親友で金田一耕助先生、私立探偵でいらっしゃる」
「あっ!」
と、いうひくい鋭い叫びがアンダーシャツの古川と毛脛の青木のくちびるからほとんど同時にもれたので、アロハの八木がギロリと獰猛な眼を光らせた。
「なんだい、きみたち、このひとを知ってるのかい」
「ああ、譲治からきいたんだよ。なあ、稔さん、いつか譲治が金田一耕助……いや、金田一先生の話をしてたなあ」
「ああ、……失礼ですが、金田一先生」
と、五人のなかでいちばん如才ないのがアンダーシャツの古川稔である。金田一耕助のほうへむきなおると、
「先生は川崎重人さん、神門産業の専務の川崎重人氏とご|昵《じっ》|懇《こん》じゃありませんか」
「はあ、いや、昵懇というほどじゃありませんが存じあげてることは存じあげております」
「それじゃ、お嬢さんの美穂子さんは……?」
「ここしばらくお眼にかかりませんが、ちょくちょく……」
「金田一先生は……」
と、長脛彦の青木も身を乗りだして、
「川崎氏の実兄で神門産業の総帥、神門貫太郎氏から絶対の信頼をうけてらっしゃるそうですねえ」
と、言葉つきも|俄《が》|然《ぜん》ていねいになる。
「いやあ、絶対の信頼というのはどうですか。まあ、一種のパトロンなんですよ、あのひとが、ぼくの……」
「それじゃ、ここへいらしたのは川崎氏のご依頼で……?」
「いや、いや、それはそうじゃないんですよ。じゃ誤解のないようにあらかじめ説明しておきましょう」
と、金田一耕助は自分で勝手につごうのよい椅子に腰をおろすと、
「ここにいらっしゃる警部さん、捜査一課の等々力警部ですね。このひとにちょくちょく力を貸してもらってるんです。ぼくの仕事の場合にね。そのうちに、こう、うまが合っちゃってね、だから暇なときにはいつも警視庁のこのおやじんとこへ行ってとぐろをまいてるんです。それで、きのうもこのひとんところで油を売ってるところへ、あの事件の報告が入ったんだね。それで警部さんに誘われるままに東京湾へあのボートを見に行ったってわけです。だけど、そのときゃまだあの青年が駿河君とはもちろん知らなかった。ところがけさがたいっしょに死んでた婦人の|旦《だん》|那《な》さんなる人が名乗って出てきて、そこではじめてあの青年が駿河譲治君であることを知って大いに驚いたというわけです。だけど、もしまちがってちゃいけないと思ったので、警部さんや新井さんにはまだいってないんだよ。一応きみたちに会ってたしかめてから、ふたりに打ち明けようと思ってたんだが、じゃ、やっぱりあの駿河譲治だったんですね、ふた月ほどまえスポーツ新聞のゴシップ欄をにぎわしていた……?」
「はあ、そうです、そうです。それですから……」
と、なにかいいかけた古川稔はそこで言葉を濁すと、ほかの連中と顔見合わせた。
等々力警部もさっきから新井刑事としきりに眼くばせをかわしていたが、ここにおいてやおら身を乗りだすと、
「金田一先生、それ、どういう話です? あなたが神門の社長や専務さんの知遇を得ていられることは知ってましたが、それとこれとはいったいどういう関係があるんです?」
「いや、どうも失礼しました」
と、金田一耕助はもじゃもじゃ頭をペコリとひとつ、警部と刑事のまえにさげると、
「いまお聞きのとおりいちおうたしかめてからと思ったもんですから、平出さんにも申し上げなかったんですが、ふた月ほどまえスポーツ新聞のゴシップ欄でこういう記事を読んだことがあるんです。つまり、神門産業の専務川崎重人氏の令嬢美穂子さんと、美穂子さんの弟さんの家庭教師で、X大学のボートの選手をしている駿河譲治君とのあいだに、このたびめでたく婚約がまとまったと……」
七
一瞬しいんと凍りついたような沈黙が、この応接室兼娯楽室のなかを支配した。
浴衣のおっさん片山達吉は両手でうしろ頭をかかえたまま、椅子のなかにふんぞりかえって、まじまじと天井の一角を凝視している。おつぎにいるセーターの児玉潤は、折り目のきちんとついたズボンの脚を組み合わせて、しきりにピースの煙を吐き出している。長脛彦の青木俊六は長い毛脛を両手で抱いて、しきりに貧乏ゆすりをやっている。アンダーシャツの古川|稔《みのる》はさっきからしきりに金田一耕助の顔色をうかがっている。アロハの八木信作は豪然として椅子に腰をおろした両脚を八の字に開いていた。
しかし、かれらの沈黙もさっきからくらべると、だいぶん雰囲気がちがってきていることを、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部のみならず新井刑事も感知していた。
この青年たちをかならずしも事大主義者というのではない。
しかし、五人が五人とも卒業を来年にひかえて、そろそろ就職に頭を悩ませなければならぬ時期にきているのだ。野球部などとちがって、ボート部は地味だから、一流会社から引っ張りだこというようなわけにはいかない。どこかによきコネはなきやと|鵜《う》の目|鷹《たか》の目というのが、この五人の青年の現状なのである。
だからここに一流中の一流会社、神門産業の社長や専務の知遇を得ているという人物が出現すれば、たとえ功利的な意味ではなくとも、おのずから態度が改まるのは当然であろう。
「ああ、いや、これは驚きました」
と、等々力警部はのどにからまる|痰《たん》を切るような音をさせて、
「それじゃ、結局この事件、川崎氏から金田一先生にご依頼ということになるでしょうな」
「いやあ、それはわかりませんが、あの青年がはっきり美穂子さんの婚約者だとわかれば、ぼくもこれから川崎家へお見舞いにあがらねばならぬと思ってるのですが……そうそう」
と、金田一耕助は思い出したように一同を見まわして、
「このこと川崎家へ報告は……?」
「はあ、キャプテンの松本とマネジャーの鈴木が行ってます」
と、答えたのは例によってアンダーシャツの古川稔である。
「ああ、そう、それじゃねえ、諸君、いまいったようなわけで、ぼくははからずもこの事件に首をつっこむことになったのだが、被害者のひとりが美穂子さんの婚約者だとすると、川崎家へたいする徳義上からしても、真剣にこの事件に取っ組まなければならぬと思ってる。それゃ、きみたちとしても母校の名誉、部の伝統ということもあるから、いろいろ言いにくいこともあるだろうが、ここはひとつ不幸なきみたちのチームメートのためにも、新井さんの質問にたいして、できるだけ腹蔵なく答えてあげてもらえないかね」
五人は顔を見合わせていたが、特別だれも異議をさしはさむものもなかったので、
「ええ、それゃ、先生、けっこうです。刑事さん、なんなりとご遠慮なく」
と、またしてもスポークスマンの役を買って出たのは古川である。
「ああ、そう、それじゃ、新井さん、あなたからどうぞ」
「はっ、承知しました」
と、新井刑事は金田一耕助のほうへ一礼して、
「それじゃ、まずいちばんにきみたちに聞きたいんだが、犯行の時刻は土曜日の晩の八時から九時までということになってるんだ。だから|駿《する》|河《が》君は土曜日の晩以来この合宿へかえっていないわけだが、きみたちそれを不思議に思わなかったかい?」
「ああ、そのこと……?」
と、古川は相談するようにみんなの顔をみて、
「そのことなら|小《お》|母《ば》さんに話してもらったほうがいいねえ」
一同が無言のままうなずいたので、
「それじゃ、小母さんにきてもらいましょう」
と、古川は応接室のドアから顔を出すと、
「小母さん、小母さん、ちょっとこっちへ来てくれませんか」
寮母もむろん三人が来ていることは知っていたにちがいない。知っていながら呼吸をころして成り行きいかにとうかがっていたのだろう。エプロンで手をふきながら出てきた彼女は顔面が硬直していて、
「あの、みなさん、お食事の支度ができてるんですけれど……」
と、そういう声もわざとらしかった。
お食事の支度ができていることは、彼女の言を待つまでもない。台所のほうからさっきから漂うてくるライスカレーのにおいが、新井刑事の腹の虫をいたく刺激しているのである。
「ああ、いいよ、いいよ、それより小母さん」
と、古川がなにかいいかけるのを、
「ああ、稔、ちょっと待て」
と、さえぎったのはアロハの八木である。
「えっ?」
「いや、小母さん、ライスカレー、こちらの三人に差し上げるくらい|捻出《ねんしゅつ》できるだろう。松本や鈴木はどうせ川崎家でごちそうになってくるかんな」
「あっはっは!」
と、|浴衣《ゆ か た》のおっさん片山達吉が吹き出して、
「信作、おまえブスッとしていながら、なかなかうまいとこへ気がつくじゃないか。どうです、みなさん、お食事まだなんでしょう」
「さっきからそちらの刑事さん、さかんに腹の虫が鳴ってるようですが、ここの小母さんのライスカレーときたひにゃ、得意中の得意の料理ですからね。ひとつ試食してあげてください」
と、|長《なが》|脛《すね》|彦《ひこ》の青木俊六も言葉を添えた。
「あっはっは、それじゃ、警部さんも新井さんも、せっかくのご好意ですから、お言葉にあまえてごちそうになろうじゃありませんか」
「けっこうですな。おい、新井、おまえすっかり学生さんに腹の中を見すかされたじゃないか」
「そうおっしゃいますけどね、警部さん、すきっ腹にライスカレーのにおいとは、ずいぶん殺生だと思ってたんです」
「よし、きた!」
と、言下に立ち上がったのはセーターの児玉潤である。
「それじゃ、こっちへ運ぼうじゃないか。なんぼなんでも食堂は見せられないや。わが光輝あるボート部の名誉に関するからな。おい、稔、おまえも手伝え」
「オーケー」
こうしてライスカレーを山盛りに盛った大皿が、つぎからつぎへと応接室へ運ばれて、ここにきくものもきかれるものもおしなべて、寮母の岩下トミさんがうんととびきり奮発したカレーに舌を焼きながらという、世にも珍妙なきき取りが開始された。
「そいでねえ、小母さん、ここにいらっしゃる金田一耕助先生というかたはね」
と、古川はカレーで口のまわりを黄色くしながらも、スポークスマンの役は忘れない。
「有名な私立探偵でいらっしゃるんだが、ところが、そればかりではなく一方、譲治のフィアンセの美穂子さんをよくご存じなんだ」
「あら、まあ」
「そのことはいつか譲治からも聞いたことがあるんだが、いま先生にうかがってみたら、美穂子さんの|伯《お》|父《じ》さんで、美穂子さんを眼のなかへいれても痛くないほどかわいがってる神門産業の大親玉、神門貫太郎さんね、あのひとがこの先生のパトロンだってさ」
「あら、まあ、まあ!」
「そういうわけで先生、こんどの事件にいたく興味をもって、警視庁のかたといっしょにここへ来られたんだから、小母さんもそのつもりで、そこでライスカレーをパクついてらっしゃる刑事さんの質問にどんどん答えてあげてくんないか」
「まあ、それは、それは……それで、どういうことから申し上げたらよろしいんでしょうか」
「やあ、岩下さん、ごちそうになったり、質問したりじゃあいすまんが」
と、新井刑事もスプーンをやすめて、
「土曜日の晩から、譲治君がこの合宿へかえらなかったのに、だれもそれを不思議に思わなかったかってえことを、いまこのひとたちにきいてたんだがね」
「ああ、そのことでございますか」
と、肥満型の岩下トミさんはうんとこしょとかたわらの|椅《い》|子《す》に腰をおろして、
「それはこうなんですの。あれは門限のちょっとまえでしたから十時半ごろでしたでしょうか。ここ門限が十一時なんですの。その門限のちょっとまえに駿河さんからお電話がございまして、急に用事ができたから信州へかえってくる。キャプテンの松本さんはじめみなさんにそう伝えてほしいといってこられたんです」
質問を切り出しておいてから、またライスカレーをしゃくいこんでいた新井刑事は、ぎょっとしたように金田一耕助や等々力警部に視線を走らせると、
「それ、十時半ごろだったというんだね」
「はあ、十時半というより十一時にちかかったかもしれません。それからまもなく松本さんがかえっていらっしゃいましたから……あのかたキャプテンですから、遅くとも門限ぎりぎりには必ずかえっていらっしゃいますから……」
と、いうことは、ほかの連中はあまり門限を守らないということを意味するらしい。
「それで、その声、譲治君に似ていたの?」
「さあ、それが……」
と、寮母は切なそうに顔をしかめて、
「そうおっしゃられてみると妙に電話がとおくて、何度も聞きなおしたくらいですから……でもそのときは駿河さんだとばかり思って、松本さんにもそのことを申し上げといたんですけれど、新聞で見るとその時分には駿河さん、もうこの世の人でなかったとか……」
寮母がエプロンを眼におしあてると、
「小母さん、小母さん、泣いてるばあいじゃないぜ。それからもう一度、譲治の名まえで電話がかかってきたってえじゃないか」
と、そばから、注意したのはセーターの児玉潤である。
「なんだ、また、電話がかかってきたというのかい。譲治君から……?」
と、新井刑事は眼をまるくして、それからまたあわててライスカレーをパクついた。ライスカレーをパクつきながらもその眼は岩下トミからはなれない。金田一耕助と等々力警部もスプーンをやすめて、寮母の顔を見つめている。
「はあ、いまから考えるとほんとうにおかしゅうございましたわね。あれは松本さんとマネジャーの鈴木さんがおかえりになって、それから、そうそう、八木さん、あなたがちょうどかえっていらしたときでしたわね。そこの電話……」
と、応接室のすみにある卓上電話を指さして、
「が、ジリジリ鳴りだしたんです。それであたしが出てみると、それがまた駿河さんなんですの。いえ、こちら駿河だ……と、おっしゃるんでございましょう。でも、そのときはべつになんとも思わず、なにかいい忘れたことでもおありだったんだろうくらいに思って聞いてたら、さっきとそっくりおんなじことをおっしゃるじゃありませんか。急に用事を思い出したから、これから信州へかえってくる。キャプテンの松本さんはじめみなさんによろしくって。それであたしついいっちゃったんです。なにをいってらっしゃるのよう、あなたさっきもそういって電話をかけてきたじゃありませんかって。そしたらなにかとてもあわてたようすで、なにかぶつくさいってらっしゃいましたが、ちょうどそこへ八木さんがかえっていらして、駿河さんからだっていったら、八木さんがお出になったんです。そしたら、電話もう切れてたんですねえ」
アロハの八木はライスカレーの皿に顔を|埋《うず》めたままうなずいた。
「ふうむ」
と、新井刑事はきれいにライスカレーをたいらげて、皿をそこへおくと、
「いや、小母さん、ごちそうさま」
と、黄色くなった口のまわりをハンケチでふきながら、
「それで二度目の電話の声、まえの電話の声とおなじだった? それともちがってた?」
「さあ、それがなんとも……二度とも電話がとても遠くて……そうそう、それに二度目の電話は東京からでした」
「あっと。それじゃ最初の電話は戸田からだったの?」
「いや、それなんですよ、刑事さん」
と、スポークスマンの古川もきれいにたいらげたライスカレーの皿をそこへおくと、
「だから、小母さん自身がいってるんです。自分がもう少し利口だったら最初の電話をきいたとき、変だと思わなきゃいけなかったって。と、いうのは土曜日は譲治のやつ、川崎家の番なんです。川崎家は小石川の|小《こ》|日《ひ》|向《なた》|台《だい》|町《まち》でしょう。だから信州へかえるのになにもわざわざ戸田までかえってきて、電話かける必要はないわけですからね」
「金田一先生」
と、新井刑事がふりかえって、
「これ、なにか意味があるんでしょうねえ」
「それはもちろん。……いや、小母さん、ごちそうさまでした」
「いえ、もうとんだお粗末さまで……」
「そうすると、犯人はふたりということになるのかな。戸田から電話をかけた男と東京から電話をかけた男と……」
等々力警部も皿をそこへおいて思案顔だったが、
「いや、小母さん、ごちそうさま。それじゃ新井君、ライスカレーをごちそうになったところで、どんどん質問をつづけたほうがいいだろ」
「はっ、承知しました。ところで、譲治君、土曜日は学校からまっすぐに川崎家へ出向いて行ったの? それともいったんこちらへかえってきてから……?」
「いえ、こちらからでした。あのかただけが早目に夕食をおすましになって、そうでしたわねえ、五時半ごろここをお出になったでしょうか」
「それでは、金田一先生」
「はあ」
「譲治君がほんとうに土曜日の晩、川崎家へ行ったかどうか、先生からたしかめていただけるでしょうねえ」
「はっ、承知しました。お伺いしてみましょう」
「ところで、どうだろうねえ。諸君。きみたちとしてはいうに忍びぬところだろうが、ああして人妻といっしょにああいうことになったろう。それで、あの婦人、……つまり、大木氏の奥さんとなにか変な関係があったんじゃないかと、いままで気がついたことはなかったかね」
この質問にたいして五人の学生はたがいに顔を見合わせていたが、そのなかから長脛彦の青木俊六がのっそりと体を起こすと、
「その質問にはぼくからお答えしましょう。われわれとしては譲治を信じたいし、現在でも信じています。しかしこれは一種の自己弁護みたいなものですから、しばらく|措《お》くとしても、譲治の品行についていちばんいい保証人は川崎重人氏だと思うんです。譲治はべつに美穂子さんをくどいて、変な関係になったから、しかたなしに両親がふたりの仲を許したというのではないんです。これは金田一先生などよくご存じでしょうが、川崎家というのはブルジョワの家庭としては非常に健全な家庭だそうですね」
「ああ、そう、きみのいうとおりですね」
「それに第一美穂子さんというひとが、そんなお嬢さんじゃありませんからね」
「ああ、きみも美穂子さんを知っているんだね」
「いや、ぼくのみならずここにいる連中はみんな知ってるんです。これはけっして変な、いやらしい意味ではなく、ここにいる連中はみんなあのお嬢さんに|惚《ほ》れてるんですよ。これゃ松本だって鈴木だっておんなじことです。なにしろ、あのとおりきれいで、|闊《かっ》|達《たつ》で、ものにこだわらないお嬢さんですからね。いわばあのひとわれわれのアイドルでもあり、マスコットでもあるわけです。だから、あのひとと譲治とのあいだに婚約がさだまったと聞いたとき、それゃもちろん友人のために大いに祝福しましたよ。だけどその反面、掌中の|珠《たま》をとられたような寂しさを感じたことも、否定できない事実なんです」
「信作なんかその|最《さい》たるもんだったなあ」
セーターの児玉がまぜっかえすと、
「ああ、もちろん」
と、アロハの八木はにこりともせずに答えた。一見|獰《どう》|猛《もう》にみえるその面構えには、なにかしら|悲《ひ》|愴《そう》なものがうかがわれた。
「だけど、信作は譲治といちばん仲よしだったからなあ。だから、いちばんよろこんだのも信作だったんですよ」
と、|浴衣《ゆ か た》のおっさんの片山達吉が一席弁解の労をとったのは、友情の発露というものだろう。
「いや、いや、話がとんだ横道へそれちまいましたが……」
と、長脛彦が一同を制して、
「ぼくの強調したかったのは、譲治と美穂子さんの仲はけっして怪しい仲じゃなかった。むしろ両親のほうから譲治の秀才ぶりと品行方正、志操堅固なところに惚れこんで、婿に懇望してこられたんだということなんです。したがって川崎家では婚約をまとめるまえに、相当詳しく譲治の品行など調査されたにちがいないと思うんですよ。これが譲治にとっていちばんたしかな身分証明書じゃないでしょうかねえ、金田一先生」
「なるほど、それゃそうですねえ」
「俊六、おまえなかなかうまいこというじゃないか。おれ、すっかり見直したぜ」
浴衣のおっさんが混ぜっかえすと、
「よせやい。じゃもうおれはよしたあっと。おい、稔さん、スポークスマンはやっぱりおまえに譲らあ」
「よし、引き受けた。俊六はそれで休息しろ」
「ああ、そう、それじゃしつこいようだがねえ」
と、新井刑事がまた体を乗りだして、
「きみたち大木の奥さんというひとに会ったことある?」
一同はそこでまた顔を見合わせて黙りこんだが、やがてスポークスマンの古川がここぞとばかりに体を乗りだした。
「いえね、刑事さん、われわれはかりそめにも譲治を疑ったりなんかしちゃいないんですよ。実際譲治というのはいいやつでしたからね。それだけにあの奥さんとああいう状態で発見されたってことについて、一種の憤りみたいなものを感じるんです。これはおそらく大木家でも同様でしょうがねえ。ですからここ当分、われわれはあの奥さんのことについちゃいっさい語りたくないという気持ちでいっぱいなんです。これはひとつわれわれ純真な学生の気持ちとして|汲《く》んでいただきたいですね。どうだい、みんな」
「ウイ、ウイ、ムッシュー。スポークスマンのおっしゃるとおりだよ。なあ、みんな」
浴衣のおっさんがいちばんに賛成し、ほかの三人も無言のままうなずいたところをみると、こういう事件が起こったあとになってみて、かれらもあるいはという疑惑をもっているのではないかと思われた。
八
「ああ、そう、いや、わかったよ」
と、新井刑事もすなおに相手の要請をいれて、
「それじゃ、いまの質問は撤回するとして、もうひとつききたいんだが……きみたち怒っちゃいかんよ。これゃこういう事件が起こったときの形式的な慣例なんだからな、ここでひとつ土曜日の晩のきみたちの行動をきかせてもらおうじゃないか」
一同はまたはっと顔を見合わせたが、こんどもまたスポークスマンがいちばんに体を乗り出した。
「承知しました。それじゃ、そう、|隗《かい》よりはじめよでぼくが口火を切りましょう。最近兄貴が郷里……と、いっても九州鹿児島なんですが、鹿児島から兄貴が上京していたので、土曜日の晩は銀座を案内かたがた、あちこちでおごってもらいました。ただしその兄貴もその夜の夜行で鹿児島へかえっちゃったんで、アリバイ調べにはちょっと手数がかかるかもしれません」
「それじゃ、こんどはわれわれの番だ。おい、玉ちゃん、おまえから話してくれよ」
|長《なが》|脛《すね》|彦《ひこ》は長い脛をもてあましたように、アームチェヤーのなかに沈没していて、すっかり大儀そうである。
「ああ、そう、じゃぼくが話そう」
セーターの児玉潤はあだ名を玉ちゃんというらしい。
「あの晩われわれ三人、すなわち長脛彦の青木俊六と、片山のおっさんとぼくの三人は池袋へ出て映画を見ました。なにしろたまの休養に土曜日ときてるもんですからこたえられなかったんです。ところが映画だけでかえれゃよかったのを、このふたりがぼくを誘惑して……」
「うそつけ! てめえがいちばんにいいだしたんじゃねえか。なあ、おっさん」
「あっはっは、まあ、どっちだっていいよ」
浴衣のおっさんの片山はちょっと仙人みたいな風格がある。
「じゃ、どっちでもいいことにして、とにかく三人でビヤホールへ入ったんです。ところがぼくこのとおり色が白い……」
「おい、ほんとかあ」
「……と、いうほどじゃありませんが、そこはいとむくつけき長脛彦やおっさんとちがって、アルコールが入るとすぐ顔に出るんです」
「それだけゃほんとだな」
「盗み酒はできねえって因果な性さ」
「ところがねえ、刑事さん」
「はあ、はあ」
と、新井刑事もにこにこ話を聞いている。
こういうきき取りの経験は刑事にとってもはじめてだったが、べつに悪い気持ちではなかった。それはかれらが自分を|愚《ぐ》|弄《ろう》しているのでないことが、はっきりわかっているからである。
「ここにいるこの|小《お》|母《ば》さん、じつにいい小母さんで、われわれにとってはおふくろみたいなもんですが、惜しむらくは口が軽い。いや、口が軽いというよりはこれも母性愛の発露なんでしょうが、われわれが赤い顔でもしてかえろうものなら、さっそく監督さんにむかってご注進ご注進なんです。すると監督さんから説諭でしょう。それじゃつまんないからあのばばあ……じゃなかった、愛する小母さんの眼をごまかせる程度まで、色をさましてかえれてんで、そこは悪知恵の発達した長脛彦ですからね。で、あの晩、われわれ三人がいちばん遅かったんじゃなかったかねえ、小母さん」
「そうですよ。もうかれこれ一時でしたよ。門限から二時間ちかくも遅れたうえに、この小母さんの眼をごまかすなんて……ほっほっほ、そこへいくと八木さんは正直ねえ。赤い顔したまんまかえってきなさったから」
「なんだ、信作もあの晩飲んだのかい?」
と、長脛彦がちょっと心配そうな眼つきになる。
「ああ、あの晩、おれつまらねえ目に会ったんだ」
と、八木はあいかわらずブスッとした調子である。
「つまらねえ目って……?」
「いやさ、おまえたちみんな出かけたろう。松本と鈴木はボートのことで部長に呼ばれていくしさ、しかたがねえからおれひとりでテレビにむかってナイター見てたのよ。巨人阪神の書き入れ試合だったかんな。そしたらそこへ電話がかかってきやあがんの。出てみたらこれが松金の君公なんだ」
「あら、あれ、松金の君ちゃんでしたの」
と、小母さんがびっくりしたように質問すると、八木はなぜか顔を|赧《あか》くして、
「そうだよ。小母さん、君公め、いやにお上品ぶった言葉使やあがんで、おれすっかり担がれてたろう。で、要するにおれひとりだってえと、それじゃすぐやってこないかってえんだろう。そいでさっそく出かけてみたら、君公め、そんな電話かけたおぼえねえってやあがる」
「その松金の君公というのはだれだね」
新井刑事の眼はなんとはなしにきびしくなる。
「|鮨《すし》|屋《や》の看板娘なんです」
「ああ、なるほど、ふむふむ、それで……?」
「そいでぼく、なんだか狐につままれたような気持ちになっちゃったんですが、それでもせっかく来たもんだからってんで、マグロのトロを四つだったか五つだったかつまんだきりで、すぐ松金をとびだしたんです。そいからふらふらそこいらを歩きまわってたんだけれど、なんだか、こう、めちゃめちゃに腹が立っちゃって、ついタコ平へとびこんで、おでんで一杯ひっかけたんです。小母さん、おれ、あの晩、相当酔ってたなあ」
「ええ、ずいぶんねえ」
と|合《あい》|槌《づち》はうったものの岩下トミの言葉はなんとなく重っくるしく、語尾がかすかにふるえたのを、新井刑事は聞きのがさなかった。
「だけど、八木君、きみはまたなぜそんなにめちゃくちゃに腹が立ってたまらなかったんだい。|偽《にせ》電話にだまされたのが|癪《しゃく》にさわったのかい?」
「もちろんそれもあります。だけど、それよりなにより、ちかごろは見るもん、聞くもんが癪にさわってたまんないんです。きっと陽気のせいでしょう。わっはっは!」
八木はかわいた声をあげてわらうと、突然|椅《い》|子《す》から立ちあがった。そして、獰猛な面構えの眼玉をギラギラ光らせて、
「みんな、おれ、ひと足さきに失敬するぜ」
「おい、信作、おまえ、どこへ行くんだ」
古川があわてて立ちあがると、
「なあに、心配するな。部屋へかえって寝るだけよ」
「だけど、おい、おまえ、そんな……」
「いいよ、いいよ、古川、ほっとけ。そいつはそんな獰猛な面構えしてるけど、ほんとうは少年みたいに感受性の強いやつなんだ。黙ってひとりにしといてやれ」
長脛彦の俊六はあいかわらずアームチェヤーにめりこんだまま、ひとりごとのようにつぶやいたが、その眼にきらりと光るものがあった。
「おい、ほんとに部屋へかえって寝るんだぞ。ふらふら外へとびだしていって、酒なんか食らやあがると承知しないぞ」
部屋の外まで追っかけて、八木の背後から注意をあたえていた古川は、部屋へかえってくると、
「金田一先生も警部さんも、それから刑事さんもあいつを誤解しないでやってください。いま青木もいったとおり、面構えこそ獰猛だが、あいつはほんとに気性のやさしいやつなんです。しかも、あいつはいま苦しいんです。いや、苦しいのはわれわれみんなおんなじですが、とりわけあいつは……あいつは……」
と、絶句して、
「苦しいんです。……」
と、腕のなかに顔を埋めて男泣きに泣きだした。
泣きだしたのは古川ばかりではない。小母さんはさっきからエプロンのなかに顔を埋めているし、児玉は鼻をすすっているし、仙人みたいな片山まで天井の一角をにらんだまま、しきりに眼をしわしわさせている。
「いや、それは諸君の気持ちはわかりますがね」
と、金田一耕助はおだやかに一同の顔を見まわしながら、
「八木君がとりわけ苦しいというのはどういうわけですか。それにはなにか特別の理由でもあるのですか」
「おい、矢沢のことを聞いてもらおうじゃないか。そうでないと……そうでないと、八木が誤解をうけるばかりだぜ」
児玉がくすんと鼻を鳴らしてひくくうめいた。
「そうだな、それがいいな。矢沢があんなばかげたことをするはずはなし。青木、これはおまえから話せ」
仙人みたいな|浴衣《ゆ か た》のおっさんが天井の一角をにらんだまま賛成すると、
「あっ、そうか。それじゃおれが話そう」
長脛彦の俊六はやおらアームチェヤーから起きなおると、
「ひょっとすると、金田一先生やなんかはさっき玄関へ入ってこられたとき、矢沢という名前を耳になすったんじゃありませんか」
金田一耕助はうなずいて、
「いずれそのことについてきみたちにきこうと思っていたんです。それ、どういう人物?」
青木はちょっと考えたのち、
「ねえ、金田一先生」
「はあ」
「警部さんも刑事さんも聞いてください。こうしてわれわれ若いものがおなじ合宿に起居し、いわばおなじ|釜《かま》の飯をくっていると、そこにはちょっと筆や言葉で表現できない、友情というか愛情というか、そんなものがうまれてくるもんです。これはもはや骨肉をわけた兄弟以上のものなんです。この気持ち、わかっていただけるでしょう」
「はあ、それはよくわかります」
「ですから、みんな仲よしなんです。だれかれなしに兄弟みたいな、いや、兄弟以上の仲なんですが、しかし、そういううちにもとくに仲のいいやつができるもんですね。ぼくの場合はさっき児玉が話したように、どこへ行くにもたいてい児玉と片山とぼくの三人です。そこで泣いてる古川は、今夜ここにおりませんが、キャプテンの松本とマネジャーの鈴木、それからこの古川が三人組なんです。ところが八木の相棒というのがこんどあんなことになった|駿《する》|河《が》譲治と、いま名前の出た矢沢文雄だったんです」
「ああ、なるほど」
「実際この三人はいいトリオでした。駿河はどちらかといえば秀才型だったし、八木はあのとおり野性味まるだしの男です。そして矢沢がちょうどその中間というところで、おたがいに長を学び短を補いあうにはもってこいの相棒だったんです。ですから出るにも入るにも三人いっしょだったといっても、かならずしも言い過ぎじゃなかったんです。ところがふた月ほどまえにこの駿河と矢沢の友情にひびが入ったんです。原因は美穂子さんでした」
金田一耕助ははっとしたように相手の顔を見なおした。|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部と新井刑事も青木の顔を見まもりながら、相手の話に耳を傾けている。
青木はしかし淡々たる調子で、
「と、いって、これ、美穂子さんに責任があるってわけじゃ絶対にありませんよ。そこは誤解しないでいただきたいんですが、つまり、矢沢と八木がいちばん緊密に駿河に結びついていたもんですから、この合宿にいる仲間のなかでは、駿河についであのふたりが、いちばん|頻《ひん》|繁《ぱん》に美穂子さんに会う機会があったわけです。そして、駿河はもとよりいうまでもありませんが、矢沢と八木のふたりが同時に美穂子さんに|惚《ほ》れちゃったんです」
青木がひと息いれるために言葉をきると、応接室のなかにはしいんとした沈黙が落ちこんできた。その沈黙のなかにただ小母さんの鼻をすする音だけが断続している。
「さっき、ぼくはここにいる連中はみんな美穂子さんに惚れてるといいましたね。その惚れかたがどういうものかわかっていただけるでしょう。われわれはただ孤独な青春にときどき華やかな色彩を点じてくれる女性として、あのひとに一種のあこがれみたいなもんをもってるだけですね。ところが矢沢と八木の惚れかたはわれわれとちょっとちがっていた。その惚れかたは駿河の惚れかたにちかかったのです。しかし、そうはいうものの八木はあのとおりで、ご面相に自信がありませんし、それにだいいち、あいつガールシャイなんです。松金の君ちゃん程度なら相手ができますが、良家のお嬢さんとなるとコチコチになってしまうほうです。それにくらべると矢沢のほうは相当自信があったらしいんですね。男っぷりだって駿河に劣らないし、第一、生家がいい。九州の炭鉱主のせがれですからね。そこへいくと駿河の生家ももとは信州の名家ですが、戦後はすっかり没落してしまって、アルバイトで学資の一端をかせがねばならぬという窮状でしょう。ですから、矢沢はひそかに美穂子さんを対象として自分の未来を夢想していたらしいんですね。ところがそこへだしぬけに、ふた月ほどまえ美穂子さんと駿河君との婚約の発表があったでしょう」
「それ、きみたちにとってだしぬけだったんですか」
「だしぬけでした。ただし、部長と監督とキャプテンの松本は知っていたそうです。駿河から内々相談をうけていたんですね。しかし、ほかの連中はみんな寝耳に水でおどろいたんですが、とりわけ矢沢にとってこれがどんな大きなショックだったか想像してください。それ以来、矢沢は練習も学校もすっかりさぼって酒浸りというわけで、さすが温厚な監督さんも腹にすえかねて、とうとうひと月ほどまえに泣いて|馬謖《ばしょく》を|斬《き》ったんですが、その間における八木の心労、苦衷を察してやってください」
「実際ねえ、夜の目も寝ないというのが、あの当時の八木の|煩《はん》|悶《もん》ぶりだったからねえ」
「そうです、そうです。いま古川がいったとおり、八木自身がおそらく失恋の苦汁に|懊《おう》|悩《のう》していたにちがいありませんね。しかし、ああいうやつですからそのほうの苦しみは、友人の幸福にたいするよろこびで相殺されたと思うんです。しかし、もうひとりの友人が堕落していくのを見ることは、その友人の苦しみがわかるだけに、あの男には耐えがたいことだったでしょう。かれはこんこんと矢沢に意見をくわえる一方、部長から監督、キャプテンからわれわれにいたるまで頭をさげて頼んだんです。泣いて頼んだんです。部から放逐することだけは勘弁してやってほしいって」
「実際、いじらしかったよなあ、あいつ……」
と、玉ちゃんこと児玉が指で眼をこすりながら鼻をすすった。
「しかし、八木がいかに奔走これつとめたところで、肝心の矢沢が全然ヤル気をうしなってるんですからねえ、それゃぼくなんかもかわいそうに思っていろいろいったんですけれど、結局だめで、とうとうひと月ほどまえにここを出ていったんです」
「あんときも信作のやつ、ポロポロ涙こぼして泣いてたよなあ」
話をきいているうちに金田一耕助も多情多感な若人の友情というものに胸をうたれて、
「それで、そういう際、駿河君はどういう態度をとっていたの」
「ああ、それですがねえ、金田一先生」
「はあ」
「由来恋の勝利者というものは、敗者にたいして冷酷なのがふつうなんじゃないでしょうか。だいいち、あの際、譲治が矢沢をなぐさめたりしちゃかえっておかしいですよ」
「そういやあそうだな」
と、等々力警部は合槌をうったが、
「それじゃ、その間、駿河君はわれ関せずえんという態度をとってたのかい」
と、新井刑事はいささか心外らしい|口《こう》|吻《ふん》だった。
「いや、そうでもなかったですよ、刑事さん」
浴衣のおっさんは|訥《とつ》|々《とつ》として、
「譲治は譲治なりにかげながら、部長さんや監督さんのあいだを奔走しとったですよ」
「ふうむ」
と、新井刑事はちょっと|膝《ひざ》を乗りだして、
「それで、矢沢文雄という男はいまどこにいるんだい? ここを出てから……?」
「池袋のほうにひとりで下宿してるんです。じつは……」
と、いいかけてから青木は急に児玉をふりかえって、
「玉ちゃん、これからさきはおまえから話せよ」
「おっとしょ」
と、このなかでいちばん気取り屋の児玉だが、それでも眼のふちを赤くして、
「じつはねえ、金田一先生」
「はあ」
「矢沢のやつ、その後学校へも出てこなくなっちゃったんです。そいでこのまま学校もやめちまう気じゃねえかって、それゃ信作が気をもむったらないんです。それゃもうはたのみる眼もいじらしいってのはあのことです。なあ、おっさん、稔さん」
うんうんとふたりとも無言のままでうなずいた。
「それですから土曜日の晩、われわれ三人が池袋へ出ていったというのも、じつは矢沢を訪ねていったんです。そしたらあいにく矢沢は留守で……留守なはずですよ、矢沢のやつ入れちがいにここへやってきたそうですから」
「あっ」
と、いうように低い叫びをあげて身を起こしたのは等々力警部である。
「土曜日の晩、矢沢君はここへ来たの」
「そうだって話です」
「何時ごろ……?」
「いや、警部さん、その話はあとで|小《お》|母《ば》さんから聞いてください。土曜日の晩、信作のやつが|自《や》|棄《け》|酒《ざけ》なんか飲んだのもそのせいらしいんですが、そのまえにぼくの話を聞いてください」
「ああ、そう、それじゃ……」
「で……われわれ三人が訪ねてくと矢沢のやつ留守でしょう。いたら三人で意見をして反省をもとめるつもりだったんです。じつはそれ、このおっさんの言いだしたことなんで、このおっさん達観したみたいな顔してますけど、これでなかなか人情家なんです」
「よせやい、ばか!」
「ね、このとおり照れてますけど、これでなかなかいいとこあるんです。それで、このおっさんがこのままじゃ矢沢も矢沢だが、信作がかわいそうで見ていられねえから、ひとつ文雄んとこへ行って、信作のためにも反省してもらおうじゃないかっていいだしたんです。ところが訪ねていったらあいにく留守。そこで世話んなってるそこの小母さんにきいてみたら、まあ、相当|荒《すさ》んだ生活してるらしいんですね。だけどほかへ泊まってくるようなことはないって小母さんがいうもんですから、そいじゃ今夜はおそくなっても待ち伏せして意見してやろうてんで、時間つぶしに映画見たんです。そしたらなあ、俊六」
「あっはっは」
「どうしたんだい」
「いやねえ、稔さん、その映画てえのがねえ、まるでわれわれに当てつけてるみたいな筋なんだ。やっぱり七人の仲のいい学生がいて、そのうちに仲間同士恋のタテヒキてえのがゴチャゴチャッとあって、あげくの果てにとうとうひとりがぐれてグレン隊になるって筋なんだ。恐れ入ったよなあ、あれにゃ……」
「つまらねえもん見やあがったな」
「ほんによ。だけどこっち映画見るのが目的じゃねえだろう。時間つぶしだからどこでもいいや、この映画、学生がおおぜい出てるようだからこいつにしよと、おっさんが決めちゃったんだ。そいで、このおっさんたら映画見ながらポロポロ泣いてんだぜ」
「つまらねえ話はよしな。みなさんお忙しいお体なんだぜ」
と、おっさんはすっかり照れている。
「いや、どうも失礼しました」
と、玉ちゃんは三人にむかってお辞儀をすると、
「そいでまあ、すっかり身につまされちゃったてえわけです。それで映画館を出てから電話かけてみたら、文雄のやつまだかえってねえというでしょう。それでしかたがねえから、こんどはビヤホールへ入ったというわけです。そこで一時間くらいねばって、十一時過ぎにまた訪ねていくと、こんどは文雄もかえってましたけど、これがもうベロンベロンに酔っ払ってて、全然歯が立たねえんです。そいでこれじゃしかたがねえからまたこんど、|素《しら》|面《ふ》のときにやってこようてんで、手をむなしゅうして引き揚げてきたってわけです」
「そのとき……」
と、金田一耕助はちょっと体をまえに乗りだして、
「矢沢君、ここへ来たってこといってましたか」
「いいえ、全然。だから矢沢が土曜日の晩ここへやってきて、八木とふたりでチャンチャンバラバラやらかしたってえ話は、さっき小母さんに聞くまで知らなかったんです」
「チャンチャンバラバラやらかしたあ……?」
と、新井刑事が眼をまるくすると、
「ああ、そう、新井さん、それじゃこんどは小母さんから土曜日の晩の話を聞かせてもらおうじゃありませんか」
「はあ、あの……」
と、小母さんはいよいよ自分の番がまわってきたので、大いに緊張のおももちで、神経質にエプロンの|裾《すそ》をまさぐりながら、
「チャンチャンバラバラったって、なにも仲が悪くてけんかなすったわけじゃないんですのよ。あんまり仲がよすぎるもんですから、つい……」
と、小母さんがもじもじするのを金田一耕助がなぐさめ顔で、
「いや、小母さん、それはよくわかってますけどね、こういうことは誤解があっちゃいけませんから、ひとつそのいきさつをできるだけ詳しく話してくれませんか。矢沢君、何時ごろここへ訪ねてきたの」
「はあ、あの、すみません。わたしはどうも頭が悪いもんですから、うまくお話ができなくて……」
と、小母さんはそこで居ずまいをなおすと、土曜日の晩のことを改めて詳しく話しだした。
九
「あれは七時半ごろでしたわねえ。みなさんお出かけになって、八木さんだけがひとりしょんぼりここでテレビを見ていらしたんです。そしたらそこへ矢沢さんがいらしたんです。わたしそのとき台所で勝子……わたしの|姪《めい》ですけれど……勝子を相手に片づけものをしてたんですの。そしたら、ああ、文雄じゃないかって、いかにもうれしそうな八木さんの声がきこえるでしょう。そこでここへ飛び出してきたら矢沢さんがいらして……そのとき矢沢さん、少し酔っていらっしゃるふうでした。でも、ベロンベロンなんてんじゃなかったんですよ。わたしも懐かしいもんですからいろいろ、まあ、話しかけたんです。でもねえ、児玉さん」
「ううん?」
「そのときのわたしの感じじゃ、矢沢さんそんなに|荒《すさ》んでるって感じじゃなかったんですのよ。それゃいくらかじゃない、だいぶ照れてはいらっしゃいましたけど、わたしや勝子に冗談いったりして……わたしこのぶんじゃ、またこっちへかえっていらっしゃるんじゃないかと思ったくらいですから。……八木さんはああいう無口なひとですから、そう口数はおききになりませんでしたけれど、とてもうれしそうににこにこしてらしたんです。そのうちに話があるからちょっと来いとおっしゃって、それでふたりで二階へあがっていらしたんです。それから……」
「ああ、ちょっと……」
と、金田一耕助がすばやくさえぎって、
「その、……話があるからといったのはどっち? 八木君? 矢沢君?」
「いえ、あの、すみません。矢沢さんのほうなんですの」
「ああ、そう、それで……?」
「はあ、それでふたりで二階へあがっていらっして、それからものの十五分……二十分もたった時分でしょうか、突然二階でドスンバタンと取っ組み合いをするような音がするでしょう。それでびっくりして勝子とふたりで行ってみると、八木さんが矢沢さんの上に馬乗りになって、両手でピシャンピシャンと矢沢さんの|頬《ほ》っぺたを殴ってるんですの。それでいて八木さんはポロポロ泣いてますし、矢沢さんは矢沢さんで眼をつむったまま、八木さんのするままにまかせてるんでしょう。それで勝子とわたしとで八木さんをとめようとすると、下から矢沢さんが眼をひらいて、いいよ、いいよとおっしゃって、それからこんな意味のことをおっしゃいました。自分はこの男の気性をよく知っている。だから、だしぬけにこんな話をもってきたら、こいつがこのとおり憤慨するのもむりはないんだ。……と、そうおっしゃって矢沢さんも眼に涙をためていらっしゃいました」
「なるほど、それで……?」
「はあ、それでもわたしどもがとめたもんですから、八木さんもおよしになって、それでもまだ憎らしそうに矢沢さんをにらんでいらっしゃいました。そしたら矢沢さんが起きなおって身づくろいをなさりながら、しみじみとした調子でこんなことをおっしゃったんです。八木、おまえにはこのおれがそんなに卑劣な男にみえるかい。おれはそういう卑劣な男になりたくないからおまえに相談にきたんだ。だけど今夜はおたがいに頭が熱くなってるからまたこんどにしよう。だけどいまのこと絶対にだれにもいうなと、そうおっしゃって階段を駆けおりていらしたんです」
「ふむ、ふむ、それで……?」
金田一耕助は等々力警部と眼くばせしながら、岩下トミさんの顔を熱心に見まもっている。
学生たちもこういう詳しい話をきくのはいまはじめてとみえて、たがいに顔を見合わせながら、これまたしいんと小母さんの顔を見つめている。
「はあ、あの、それで勝子とふたりでいろいろとおききしたんですけれど、八木さんはだまって考えこんでいらっしゃいました。なんだかとってもびっくりしたようなお顔色でしたが、突然、矢沢! 矢沢! と、叫びながらわたしたちを突きのけて、階段を駆けおりていらしたんですの」
「あとを追っかけていったんだね」
「はあ、でも、結局見つからなかったとみえて、すごすごかえっていらして、それからまたテレビのまえに座っていらしたんですの」
「そこへ電話がかかってきたんだね」
と、この質問は新井刑事である。
「はあ……」
と、小母さんはちょっと口ごもったのち、急に児玉のほうへむきなおると、
「そのときねえ、児玉さん」
「ううん?」
「そのとき、ほんとうをいうとわたし、あなたや青木さんや片山さんを憎らしいひとだと思ってたんですのよ」
「どういう意味で……?」
「いいえ、松本さんや鈴木さんは、部長さんに呼ばれていらしたんだからしかたがございませんわね。それから古川さんも遠いお郷里からお兄さんがいらして、ああして電話をかけていらしたんですから、これまたしかたがございませんけれど、青木さんやなんかどうして今夜ここにいてあげなかったのかしら。八木さんがあんなに|煩《はん》|悶《もん》していらっしゃるのにほったらかしといて、映画を見にいくなんて、なんて情愛のないひとたちだろうと思ってたんですの。あなたがたが矢沢さんを訪ねていらしたなんて、ゆめにも知りませんでしたからねえ」
「ああ、なるほど、そういう意味?」
「ごめんなさい。ほんとうに……でも、そのときの八木さんたら、ほんとにお気の毒みたいだったんですの。テレビのまえに座ってらっしゃるたって、全然、テレビなんか見てないんですものね。ときどきううんとうなったり、ひとりごといったり、わたしなんだか心配でしたから、八木さんのそばにくっついていたんですの。そしたらそこへ電話がかかってきたんです」
「その電話、いきなり八木君が出たの?」
と、金田一耕助の質問はおだやかだったが、それでも|小《お》|母《ば》さんを|狼《ろう》|狽《ばい》させるには十分だった。
「いえ、あの、それはわたしが取り次いだんですけれど……」
「それで、それ、八木君がいってるように松金の君ちゃんだったの?」
「いえ、あの、それが……」
と、小母さんがいかにも切なそうに、エプロンをひきちぎりそうにするのを見て、
「小母さん」
と、金田一耕助が厳粛な顔をして、
「こんなときにはなにもかも正直にいったほうがいいですよ。そのほうがかえって八木君のためになるんですからね」
「はあ、あの……わたし、その電話、どこかのお嬢さんじゃないかと思ったんですの。言葉つきやなんかから……」
「じゃ、むこうさん、名前は名乗らなかったんですね」
「はあ」
「じゃ、どういってかかってきたの」
「はあ、八木さんはいるか、いえ、あの、いらっしゃいますか、八木さんがいらしたらお電話口まで……って、なんだかとても声がうわずっていたようで……それで、八木さんがお出になったんですけれど、ふたこと三こと話していらっしゃるうちに、なんだかとてもびっくりしたようすで、それじゃ、すぐ行きますって電話を切ってとびだしていかれたんですけれど……」
「それで、その電話、戸田からかかってきたんですね」
「はあ、あの、そうのようでした」
「それでひょっとしたらその電話の最中に、ボートハウスって言葉、出なかった?」
小母さんはぎょっとしたように、金田一耕助の顔を見すえていたが、
「はあ、あの、八木さんがびっくりしたように、ボートハウスのそばにいるんですって? と、そう叫んだのをおぼえてますけれど……それからすぐとび出していったんです」
一瞬しいんと凍りついたような沈黙が、応接室のなかへ落ちこんできた。
四人の学生たちは突然なにかの恐怖にとりつかれたように、そそけだった顔を見合わせている。等々力警部と新井刑事は金田一耕助と岩下トミの顔を見くらべていた。
「それじゃねえ、小母さん、もうひとつ最後にきくが、門限過ぎに八木君がかえってきたとき、ちょうど|駿《する》|河《が》君の名前で電話がかかってきていたんだろう」
「はあ……」
「そのとき、八木君の顔色はどうだった? 駿河君からの電話だというと……?」
「はあ、それはそれは八木さん、とってもびっくりなすって、しばらくわたしの顔を見つめていらっしゃいましたが、いきなりわたしの手から受話器をむしりとって……」
「ああ、ちょっと!」
と、金田一耕助はだしぬけに岩下トミをさえぎると、
「古川君!」
「えっ?」
「きみ、すまないがちょっと八木君のようすを見てきてくれませんか。すこし静かすぎるようだけど……」
十
一瞬、一同はぽかんと金田一耕助の顔を見ていたが、つぎの瞬間、はじかれたように|椅《い》|子《す》から腰をうかしたのは四人の学生と新井刑事である。このときばかりは仙人みたいな片山も、いたって動作が|敏捷《びんしょう》だったのである。ぎくっと椅子から体を起こすと、
「ふ、古川! あ、青木!」
「ようし、古川、おまえもいっしょに来い!」
|長《なが》|脛《すね》|彦《ひこ》の青木俊六とアンダーシャツの古川|稔《みのる》が応接室からとびだしていき、児玉は階段の下へ、片山は応接室のドアのところでうろうろしていた。
「せ、先生!」
小母さんの岩下トミはやっと事態がのみこめてきたとみえて、大きなお|尻《しり》を椅子のなかにめりこませたまま、エプロンのはしを引き裂かんばかりに握りしめている。
「児玉! 児玉!」
と、階段の上から古川の取り乱した声が降ってきた。
「医者を……医者を……えっ?」
と、なにやら青木に聞いているらしかったが、
「外科だ、外科だ、外科の菅沼先生に……大至急だ! 大至急だぞ、わかったか!」
児玉潤が気ちがいみたいに電話器へむしゃぶりつくのをあとに見ながら、金田一耕助と|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部、新井刑事に片山達吉が二階へのぼっていくと、八木信作は寝床のなかで血だらけになっていた。
「こいつ……こいつ……|布《ふ》|団《とん》を頭からひっかぶって……われわれに声を聞かせぬために……ばか! ばか! 信作のばか!……」
畳の上に血を吸ったジャックナイフがころがっており、青木は涙で顔をくしゃくしゃにしていた。
等々力警部はその青木をおしのけると、慣れた手つきで八木の傷口を調べていたが、
「だれか洗面器に水を……それからなにか強く緊縛するような清潔な布は……」
言下に古川が部屋からとび出していった。
「警部さん、|頸動脈《けいどうみゃく》をやったんですね」
「はあ、でもさいわい刃物があんまり切れなかったので。……ああ、よし!」
古川が救急箱を、小母さんが洗面器をもってきたので、等々力警部が新井刑事に手つだわせて、なれた手つきで応急手当てをしているところへ、児玉潤があがってきた。
「菅沼先生はすぐ来てくださるそうです」
「そうか、そうか、そいつはよかった。こいつもまあ運のいいやつよ」
金田一耕助はそのあいだに部屋のなかを見まわした。そこは八木と|駿《する》|河《が》の合部屋になっていたらしく、机がふたつならんでおり、ひとつの机のうえには駿河の名前の入った参考書やノートが、いかにも秀才らしくきちんと|整《せい》|頓《とん》されていた。それに反して乱雑をきわめた八木の机の上に、手紙が三通重ねておいてある。
金田一耕助が手にとってみると部長にあてたものと、ボート部員一同にあてたもの、それから高木一雄様というあて名のが一通あった。
「古川君」
「はあ」
「高木一雄というのはどういうひと?」
「はあ、それなら八木の義兄であります。八木は両親がなくて姉さんの夫になるひとから学資を仰いでいたのであります」
古川稔の言葉はすっかり改まっている。
「ああ、そう」
金田一耕助はそれらの三通の手紙に感謝したい気持ちでいっぱいだった。八木信作はこの三通の手紙をしたためるために手間取って、自殺の決行がおくれたのである。ことに義兄にあてた手紙は相当長文らしく、これに時間をくったのであろう。
金田一耕助はそれらの手紙を机の上にもどすと、
「古川君」
「はあ」
「そこにかかってるバーバリーのレーンコートだれのもの」
バーバリーのレーンコートと聞いて、新井刑事が反射的にふりかえろうとすると、
「新井君、だめじゃないか。もっとしっかりおさえてろ」
と、等々力警部がきびしい声でしかりつけた。そういうことは万事金田一耕助にまかせておけという意味なのである。
「はあ、これは八木のレーンコートであります」
「ああ、そう」
と、金田一耕助はちょっと考えたのち、
「こんな際にこういうことをきくのはたいへん失敬だけど、これ重大なことだからよく考えて答えてくれたまえ。金曜日の晩、きみたちはどうしてた? 土曜日のまえの晩だが……」
「はっ、金曜日の晩はミーティングがありまして、監督さんの命令で部員全部、合宿に足どめされていたんです」
「部員全部……? ほんとに部員全部ここにいたの?」
「あっ、失礼しました。いまのは取り消します。駿河だけがなにかよんどころない用事があるとかで、監督さんの了解を得て欠席したのであります」
「ああ、そう」
と、金田一耕助はまたちょっと考えたのち、
「ときに、駿河君もこれとおなじような、つまりバーバリーのレーンコート持ってる?」
「いいえ、駿河はレーンコートは持っておりません。しかし……」
「しかし……?」
「はっ、八木のものは駿河のものもおんなじですから……」
「ああ、そう、ありがとう」
ちょうどそのとき手当てをおわった等々力警部は、新井刑事といっしょに血に染まった手を洗いながら、
「なあ、きみたち」
「はあ」
「きみたちはこの八木という男をよっぽど愛してるんだろ、さっきからの話を聞いてるとなあ」
「はっ、それはもちろん……」
「それだったらなあ、諸君、きみたちは金田一先生によっぽどよくお礼を申し上げにゃいかんぞ。先生のご注意がもう少しおくれたら、こいつ、出血のためにいけなくなってたかもしれん」
そのとたん、|浴衣《ゆ か た》のおっさんがわあっと声を放って泣き、いちばん冷静な青木俊六も、
「先生!」
と、その場に両手をついてのどをつまらせた。
「ああ、いや、それは八木君の運が強かったんですよ。だけどひとこと注意しときますがね」
「はあ」
「八木君はまた決行するかもしれないからね、当分のあいだは、絶対に眼をはなさないように」
「先生、しかし、八木はいったいなんだって……」
「ああ、いや、それはいまにわかりましょう。ただ、ここでひとこと言っときますがね、八木君は……」
と、金田一耕助はちょっとのどをつまらせて、
「八木君は八木君なりに、母校ならびにボート部の名誉を救おうとしたんでしょう。だから、そのやりかたがまちがっていたからって、八木君をあまり責めちゃいけませんよ。ああ、ちょうどいいぐあいだ。お医者さんがいらしたようですね、警部さん」
「はあ」
「われわれは階下の応接室で待っていようじゃありませんか。いや、きみたちはここで八木君に付き添っていてあげてください」
階段をあがってくる菅沼医師とすれちがいに、階下の応接室へおりてきた三人は、思い思いのポーズのまま、しばらくは口もきかなかった。
金田一耕助の頭脳にはいま推理の積み木がひとつひとつ積み重ねられているのである。こういう場合、ほかから余計な口出しをしないほうがいいということを、等々力警部はもとより、長年警部の部下でいる新井刑事もよく知っている。
金田一耕助はふと等々力警部の洋服に眼をとめて、
「あ、警部さん、だいぶ血でよごれましたね」
「ああ、いいですよ、いいですよ。名誉の負傷もおんなじことです。あれで人間ひとり助かりゃあね」
金田一耕助は無言のままうなずくと、壁にはってある写真を見て歩いていたが、
「ああ、警部さん、新井さんもちょっとここへ来てごらんなさい。ほら、おもしろいものがありますよ」
等々力警部と新井刑事がそばへよると、それはボート部員が旅行したときの記念撮影らしい。背景は|琵《び》|琶《わ》|湖《こ》の湖畔らしく、そこに制服制帽の部員がそろっていて、みんな自分の写真の上に署名しているが、そのなかに矢沢文雄という名前もみえた。
さっき青木もいっていたが部員全部、兄弟以上の愛情によって結ばれているが、そういうなかにもとくに仲のよい相棒ができるものだと。……
その写真のなかでも青木と児玉と片山の三人がトリオをつくっており、それとはべつに駿河譲治をなかにはさんで、矢沢文雄と八木信作の三人が肩を組んでわらっている。駿河のいかにも秀才らしい面持ちに反して、八木は野性味|横《おう》|溢《いつ》している。そのふたりとトリオを形成している矢沢文雄は、いかにもお坊っちゃんお坊ちゃんした好男子だった。
金田一耕助はその写真を見ているうちに、ふうっと胸が迫るのをおぼえ、あわてて視線をつぎの写真にうつしたが、
「あっはっは、これ学校の記念祭かなにかのときのコンクールなんでしょうねえ」
「やあ、これゃ……この|獰《どう》|猛《もう》な大女が八木信作だね。あっはっは、浴衣のおっさんがアイゼンハウァーか。これ、フルシチョフのつもりらしいがだれかな」
「松本か鈴木じゃありませんか。……あっと、金田一先生、どうかなさいましたか」
金田一耕助は暗い顔をして、この愛すべき、しかしまた同時に恐ろしい真実を啓示している、仮装行列の写真のそばをはなれると、
「警部さん、八木君の大女と手を組んでいる金縁眼鏡にちょびひげの紳士の顔を……」
それはまぎれもなく駿河譲治であった。
「金田一先生!」
新井刑事は思わず呼吸をはずませたが金田一耕助はものかなしげに首をふると、
「ねえ、警部さん、新井さんも……このふたつの写真でもわかるとおり、かつてはみんな仲よしだったんです。無邪気で天真|爛《らん》|漫《まん》だったんです。それがこんなことになるというのも、現代の日本の悲劇なんでしょうねえ」
新井刑事がなにかいおうとしているところへ、|小《お》|母《ば》さんが応接室のまえをとおりかかったので、金田一耕助が呼びとめた。
「小母さん、ちょっと……」
「はあ、金田一先生、さきほどはありがとうございました」
小母さんはもうなにかというと涙なのである。
「ああ、いや、それよりもねえ。さっきの話……土曜日の晩、八木君に電話をかけてきたお嬢さんだがねえ、小母さんにはそれがだれだか見当がついてるんでしょう」
岩下トミははっと|怯《おび》えの色を見せて、金田一耕助の顔から眼をそむけた。
「小母さん、なにもかも正直にいったほうがいいよ、そのほうが八木君のためでもあり……」
と、言葉を添える等々力警部のあとへ、
「そして、同時にそのお嬢さんのためでもあるんだからねえ」
と、金田一耕助が付け加えた。
「はあ、あの、金田一先生は……」
と、いいかけて、小母さんは涙のにじんだ眼で金田一耕助を見つめていたが、
「それじゃ、申し上げますけれど、そのお嬢さんのお声をきいたとき、すぐ川崎さんのお嬢さんだと思いました。現に八木さんも一度美穂子さん……と、電話にむかって口走ったんですの。でも、あの晩、川崎さんのお嬢さんがこの戸田にいらっしゃるはずがございませんわねえ。現に駿河さんがお宅へ行ってらっしゃるんですから……」
「ああ、そう、ありがとう、それだけでいいんですよ」
それからまもなく菅沼医師がおりてきたので経過をきくと、等々力警部の応急手当てがよかったので、大丈夫生命はとりとめるとのことだった。金田一耕助もそれを聞くと安心して、等々力警部や新井刑事をうながして合宿を出た。
新井刑事は土地の警察へ寄って、この由を連絡しておくというのでそこで別れて、ふたりは待たせてあった自動車に乗ったが、
「ああ、そうそう、運転手君、すまないがもう一度ボートハウスへ寄ってくれませんか」
「金田一先生、ボートハウスになにか……?」
「念のためにもう一度見ていこうじゃありませんか。どうやらあのボートハウスが現場であることは、もう疑いがなさそうですからね」
ボートハウスのなかにもぐりこむと、金田一耕助はまっしぐらに押し入れのほうへ進んでいった。ドアを開いてマッチをすると、がらくた道具のあいだを調べていたが、
「金田一先生、これを……」
「ああ、そう」
等々力警部からライターを借りて、なおいっそう熱心に押し入れのなかを調べているうちに、とうとうなにかを見つけたらしく、身をかがめて床から小さなものを拾いあげた。
「金田一先生、なに……?」
「警部さん、ほら、これ!」
右手にライターをかざし、ぱっとひらいてみせた金田一耕助のてのひらに光っているのは、真珠をちりばめたアクセサリー。イヤリングのかたっぽらしかった。
「あっ!」
と、等々力警部は呼吸をのみ、
「それじゃ、だれか若い女がこの押し入れのなかに……」
「警部さん、これでどうやらなぞがとけるんじゃないでしょうか」
「なぞがとけるとおっしゃると……?」
「いいえ、ふたりの被害者のうち女のほうはレーンコートまで着ていたのに、男のほうがパンツひとつの素っ裸でいたことと、犯人がなぜ|首《くび》|斬《き》り作業を中止のやむなきにいたったかということが……」
「金田一先生、それ、どういう意味……?」
と、等々力警部のその言葉もおわらぬうちに、金田一耕助は突然ライターを吹き消すと、
「だれか来た!」
金田一耕助のささやきに、等々力警部がはっと呼吸をのんで耳をすますと、なるほどボートハウスの外からこちらへちかづいてくる足音がする。ふたりはとっさに左右にわかれて、押し入れの側面にぴたっと背中をくっつけた。
やがてボートハウスの外に懐中電燈の光がして、ドアの錠前を調べているようすだったが、それが開かぬとわかると、ひとつひとつ窓を調べはじめた。とうとう懐中電燈のぬしは、いま金田一耕助と等々力警部の忍びこんだ窓へたどりついた。
懐中電燈のぬしはそこでちょっと小首をかしげているふうだったが、それでも心がきまったのか、半身窓へよじのぼって懐中電燈の光をボートハウスのなかへさしむけた。さいわいそこから押し入れまでは相当の距離があるので、光は金田一耕助や等々力警部まではとどかない。
懐中電燈のぬしは安心したのか、窓をのりこえてボートハウスのなかへ入ってくる。
その男……懐中電燈の光の反射のなかにうきあがったのは、たしかに男の姿だったが……は、このボートハウスの勝手をよく知っているとみえて、プールのそばへ寄ると、丹念にプールサイドのコンクリートを調べている。おりおりもれる荒い息使いが、この男の興奮の状態をよく示している。
男は|舐《な》めるようにコンクリートを調べていたが、そのときまたボートハウスの外から忍びやかな足音がきこえてきた。
こんどの足音のぬしは金田一耕助にもすぐわかった。おそらく懐中電燈のぬしのあとを追って、自動車の運転手がやってきたのだろう。
その足音が開いた窓の外までたどりついたのをたしかめてから、突然等々力警部が|暗《くら》|闇《やみ》のなかから声をかけた。
「きみ、きみ、きみはそこでなにをしてるんだね」
あっ! と、叫んで懐中電燈のぬしは、はじかれたように身を起こすと、いま忍びこんできた窓のほうへ駆けよったが、鈍くひかるその窓の輪郭のなかに浮きあがっているひとの姿を見ると、ふたたびあっと叫んで別の窓へ駆けよろうとした。
金田一耕助が声をかけたのはそのときである。
「待ちたまえ、矢沢君!」
「えっ?」
と、小さく叫んで懐中電燈のぬしはその場に|釘《くぎ》|付《づ》けになった。
金田一耕助は等々力警部といっしょにそのほうへちかよっていくと、
「矢沢文雄君だね。ここのボート部員だった……」
ちかよってライターの光をさしつけると、矢沢は西洋のギャングまがいに鳥打帽をまぶかにかぶり、ネッカチーフで鼻の下をくるんでいる。
「おれは矢沢だがそれがどうした」
矢沢がみずからネッカチーフをとってすごんでみせると、窓からとびこんできた運転手が、
「野郎、神妙にしろ!」
と、おどりかかろうとするのをそばから等々力警部が、
「いいよ、いいよ、ここは金田一先生にまかせておけ」
「金田一先生……?」
と、矢沢が聞きとがめて、
「それじゃ、こちら金田一耕助先生……?」
「あっはっは、きみも駿河君から聞いていたんだね。そう、こちら金田一耕助先生」
矢沢はだまって懐中電燈の光を金田一耕助にむけていたが、相手の視線を真正面からうけて、しだいに頭を垂れていった。それから、低い|搾《しぼ》りだすような声でつぶやいた。
「すみません。ぼくがやったんです」
「きみがやったって、なにを……」
「いいえ、ぼくが譲治と……駿河譲治と大木の奥さんを殺して、首を斬って……いや、斬りかけて、ここからボートで流したんです」
「矢沢君」
と、金田一耕助は自分よりたかい相手の肩に手をかけて、
「八木君もおなじことをいってるぜ」
「八木が……?」
「ああ、いってるばかりじゃなく、書き置きをのこして自殺を決行したんだ」
「八木が……? 自殺を……?」
矢沢のおもてに世にも|悲《ひ》|愴《そう》なかげが走って、思わず強く両のこぶしを握りしめた。
「ああ、しかし、心配することはないよ。さいわい手当てが早かったので助かりそうなんだ。さあ、これから合宿へ行って介抱してやりたまえ。きみの介抱が八木君にとっていちばんよい慰めになるだろう」
それから、金田一耕助は等々力警部をふりかえって、
「警部さん、ご苦労さまですがもう一度合宿へ引き返してください。このひとの身柄はボート部の諸君にまかせようじゃありませんか」
十一
|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部のいわゆる『生首半斬り擬装心中事件』が、世間に大きな話題をまきおこしたことはいまさらいうまでもないであろう。
まず発見されたふたつの死体の眼をおおわしめる残酷さが世間の耳目を|聳動《しょうどう》させ、ついでふたりの男女の身元が判明するに及んで、さらに大きな反響をよんだ。
なにしろ男はボートの花形選手であるのみならず、いまをときめく大会社、神門産業の社長の|姪《めい》の婚約者であり、また女のほうはこれまた、とかく世間の疑惑をよんでいる某省某課の課長夫人だというのだから、役者はうまくそろっていて、新聞種になるにはこれほど格好の話題はなかった。
そこに当然、いろいろと|揣《し》|摩《ま》|臆《おく》|測《そく》がおこなわれたが、これを捜査するほうのがわからいうと、これほどやっかいな事件はなかった。
なにしろ、相手が一流中の一流会社の社長、実業界切っての実力者といわれる神門貫太郎氏の姪ともなれば、参考人として呼びだすことはおろか、面会でさえ容易なことではなかった。
川崎美穂子嬢はあの事件のショックにより、目下異常興奮状態により|云《うん》|々《ぬん》、という権威ある医者の診断書が提出されてみれば、それを押し切ってまで面会を強要するということは、人道上からしても許さるべきことではなかった。
また、被害者のひとり|駿《する》|河《が》譲治の所属していたX大学のボート部にも、世間のふかい疑惑がむけられたことはいうまでもない。ことに事件後ボート部員のひとりが自殺未遂におわっているということが外部へ漏れると、いっそう疑惑はふかめられたが、こちらのほうでも当人の健康が常態に復するまではと、医者からいっさいの面会が禁止されていた。
こうして二日三日と捜査が|膠着《こうちゃく》状態のまま経過していくにつれて、|平《ひら》|出《いで》警部補は|忿《ふん》|懣《まん》やるかたなく、等々力警部をつかまえてボヤクのボヤカないのってなかった。
「ねえ、警部さん、こうなると問題は金田一先生ですぜ」
「なにが金田一先生だい?」
「だって、あのひとがこんどの事件解決のいっさいの|鍵《かぎ》を握ってるんじゃありませんかねえ」
「ふむ、そういやあそうかもしれんな」
「そうかもしれんなじゃありませんぜ。警部さんもあのとき金田一先生と同行したんじゃありませんか。そうすれゃ金田一先生とおなじものを見、おなじことを聞いたでしょう」
「ああ、そうだよ。だけどあのひととおれとは頭脳のできがちがってるからな。おれの頭脳ときたひにゃ残念ながらきみの頭脳と五十歩百歩のできばえでね」
「あれッ、それゃどういう意味です?」
「だって、きみいつか吉沢ヤブノカミ|竹《ちく》|庵《あん》先生にいわれてたじゃあないか。石頭って……」
「ちっ、あんなこといってらあ。それよりねえ、警部さん」
と、平出警部補は眼玉をギョロつかせて、
「こんどの事件の大立者、神門貫太郎氏てなあ金田一先生のパトロンですってねえ」
「ああ、そういう関係になるらしいな」
「金田一先生、まさかパトロンの圧力に屈して、この事件をもみ消そう、いや、うやむやに葬っちまおうというんじゃないでしょうなあ」
「平出君」
と、等々力警部はちょっと居ずまいをただして、
「もしあのひとがそんなひとなら、おれゃ今後いっさいあのひとと交際を断つことにするよ」
「ああ、いや、すみません」
「だいいち、一門の名誉、|面《メン》|子《ツ》のために臭いものにふたというような、そんなケチ臭い神門貫太郎氏なら、金田一耕助という人物、ああ親しく出入りはしないだろうよ。だいぶん肝胆相照らしてるふうだからね。いまになにか金田一先生をとおして神門のほうから意思表示があるんじゃないかと思うんだ」
「それじゃひとつ、金田一先生の出方を期して待つべしということにいたしますかね」
「ああ、それがいいね。それより大木健造のほうはどうなの」
「ああ、それですがね」
と、そばから|膝《ひざ》を乗りだしたのは|古狸《ふるだぬき》の根本刑事である。
「あの男の金曜日ならびに土曜日の行動はここにいる北川と……」
と、まだ駆け出しの新参刑事をふりかえって、
「ふたりで詳しく洗ってみましたが、その結果浮かびあがったところでは、大木という男、早晩挙げられるべき人物は人物のようです。しかし、残念ながらこんどの事件にゃ関係なさそうなんですね」
「早晩挙げられるべき人物とは……?」
「いや、それはこうで……。まず金曜日の晩のことから申し上げますが、その晩あいつは八時ごろから十一時ごろまで|五《ご》|反《たん》|田《だ》の『ふみ月』という待合へしけこんでるんです。しかも『ふみ月』のおかみの佐藤ふみというのが大木の情婦で、驚くなかれ、一昨年まで鳥屋の女中をしていた佐藤ふみのために、数百万円という金を投じてその待合を建ててやってるんですね」
「ふうむ」
と、等々力警部は思わず眼玉をひんむいた。
「実際驚きでさあね。あの役所の課長程度の男にそんな金があるとはねえ。しかもあいつが金を出して|妾《めかけ》同様にしてるのは佐藤ふみだけじゃなく、ほかにも二、三、バーを経営させているのや、たばこ店を出させているのがあるらしいんです。それについちゃいま北川に内偵をすすめてもらっていますがね。この事件にゃ直接関係なくとも、こっちも乗りかかった舟ですからな」
「なるほど、それじゃあの男、金曜日の晩のことをいえなかったのもむりはないね。それで、土曜日の晩は……?」
「さあ、その土曜日の晩ですがね。その晩は赤坂の待合……」
と、根本刑事が声をひそめて語る話をきいて、
「なるほど、そうするとこいつ、一大汚職事件に発展していく気配濃厚だね」
「そうです、そうです。あそこもなんしろ大乱脈らしいですからね。これじゃ、やっこさん、口が縦に裂けたって土曜日の晩のことはいえませんや」
「なるほどねえ」
と、等々力警部が感心して、張り子の虎のように首をふっているかたわらから、
「ですからねえ、警部さん」
と、平出警部補が口を出して、
「大木健造という男、なるほど、この事件にゃ直接関係はなさそうですが、この事件の遠因はあいつが作ったもおんなじことです」
「と、いうと……?」
「いや、以前の大木健造という男はそんな男じゃなかったそうです。ところがあの位置について大きな金が動くようになったもんだから、小人玉を|懐《いだ》いて罪有りで、あっちこっちへ女を作る。家へかえらない日も多くなる。細君のほうでもそれじゃおもしろくねえんで亭主への面当てに、娘の家庭教師をくどいていい仲になったてえのが、こんどの事件の原因らしいですからね」
「それじゃ、ふたりの仲にはやっぱり忌まわしい関係があったのかい」
「ええ、まあ、よっぽどうまくかくしてたんですねえ。川崎家の調査にも漏れたくらいですからね。だけど女中の信子というのはだいぶんまえから知ってたそうです」
「女中だけが知っているか。まるでスリラーの題にでもなりそうじゃありませんか」
「いや、冗談はさておいて」
と、等々力警部は沈痛な顔をしてつぶやいた。
「川崎重人氏もこればっかりは疎漏だったなあ」
十二
こうして事件以来一週間たった。
|築《つき》|地《じ》の捜査本部では、傍系の汚職事件のほうの調査は、その後もどんどん進んでいるにもかかわらず、肝心の殺人事件のほうがいっこう|埒《らち》があかないので、一同が|業《ごう》を煮やしていると、つぎの土曜日の夕方になって、|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部から|平《ひら》|出《いで》警部補のところへ電話がかかってきた。
「いま金田一先生から電話があったんだがね。例の事件の犯人が自首するそうだ」
「自首……?」
「ああ、そう、そのうえで身柄をわれわれに引き渡したいというのだが、それについてきみとぼくとに、出向いてもらえないかという電話がいまあったんだがね」
「出向くってどこへですか」
「|麻《あざ》|布《ぶ》広尾の神門貫太郎氏邸だ」
あっと小さく叫んで平出警部補は、ちょっとのま黙っていたが、
「承知しました。で、時間は……?」
「今夕六時、むこうで|晩《ばん》|餐《さん》が出るそうだ。つまり晩餐をともにして犯人たちを送りだそうという意向らしいな」
「犯人たちとおっしゃると……?」
「ふむ、どうやら犯人は複数らしいんだ。だが、そういうことはいずれ金田一先生からご説明があるだろう。とにかく、五時半ごろおれのほうから迎えにいくから、そのつもりで待っていてくれたまえ。ただ、むこうの意向では身柄がこっちへ納まってしまうまで、あまり周囲に騒がれたくないからそのつもりでといってるんだ。その気持ちわかるだろう」
「はっ、承知しました。それじゃ、五時半、お待ちしております」
これはたいへんなことになったと、平出警部補は心中の興奮をおさえることができなかった。犯人の引き渡しに実業界の大立者といわれる神門貫太郎が立ち会おうというのだから、これは平出捜査主任が興奮するのもむりはない。
それにしても……と、平出警部補は考える。こういう演出を企画したのも金田一耕助にちがいないが、いったい金田一耕助という男はなんという男だろうと心中舌をまかずにはいられない。
金田一耕助と神門貫太郎の結びつきについては、いつか平出警部補も等々力警部からきいたことがある。
その事件はまだ金田一耕助功名談にも書かれていないが、神門家の一族のある重要メンバーのひとりが、殺人の容疑者として検挙されたことがあった。その事件はあらゆる証拠がその人物を犯人として指さしており、しかも当人もおのれの犯行であることを認めたのである。もし、それが事実として、その人物が犯人として服罪するようなことになれば、名門神門一家の名声は地に落ちるところであった。
このとき、どうしてもそれを信ずることができず、この事件をあきらめることのできなかった神門貫太郎氏が、こころみに金田一耕助に再調査を依頼したのである。
結果はもののみごとに事件がひっくりかえった。検察当局の握っている証拠なるものが、ことごとく悪の天才ともいうべき人物によって設けられた|罠《わな》であることを、金田一耕助がいちいち反証をあげて証明した。また当人の自供なるものも、裏を返せば無能な検察当局に対する悲痛な訴えであることを、片言隻句の末端までとらえて解剖し指摘した。
こうして真犯人は捕らえられ、神門一族の名誉は救われたのである。それ以来金田一耕助といえば、神門一族からの絶対の信頼を博しているということを、平出警部補も耳にしており、それだけに金田一耕助のこの演出にたいして、大きな好奇心と興奮をおぼえずにはいられなかった。
等々力警部と平出警部補がひと目を避けて、麻布広尾の神門家の|宏《こう》|大《だい》な門をくぐったのは、約束の六時より五分まえのことであった。
さいわい新聞記者もこの演出には気がつかなかったらしく、屋敷のまわりはひっそりしていた。ふたりは玄関わきの応接室で三分ほど待たされたのち、
「お待たせいたしました。どうぞこちらへ」
と、品のいい老女の案内でとおされたのは、思いのほか質素な広間で、そこにロの字型に食卓が設けられ、出席者の全員はすでに席についていた。
「やあ、いらっしゃい。さっきからお待ちしておりました」
と、広間の入り口まで出迎えたのは金田一耕助である。例によって頭は|雀《すずめ》の巣のようにもじゃもじゃだが、さすがにきょうは着物も羽織も折り目立っていて、スリッパをひっかけた|足《た》|袋《び》なども汚れ目がなかった。
「みなさんにご紹介申し上げましょう。こちら等々力警部さんに平出警部補さん。おふたりにはあとでみなさんが自己紹介をなさいましょう。さあ、どうぞこちらへ」
金田一耕助がふたりを案内したのはロの字型のテーブルの短いほうの|辺《あたり》の席で、そこは三つしか席がなく、中央が等々力警部、その左が平出警部補、警部の右が金田一耕助だった。
「いや、どうも今夜はお招きにあずかりまして恐縮です。わたしが等々力、こちらが平出です」
と、等々力警部があいさつをして席につくと、真正面に座っているのが神門貫太郎氏、そのむかって左が八木信作で|頸《けい》|部《ぶ》の包帯がいたいたしく、顔色にも|憔悴《しょうすい》の色が濃かった。さて、貫太郎氏の右に座っている少女を、平出警部補も新聞の写真などで知っていた。それこそ問題の女性、|駿《する》|河《が》譲治の婚約者だった川崎美穂子である。
「やあ、等々力さんも平出さんもわざわざ来ていただいてたいへん恐縮でした。わたし神門貫太郎でございます。さて、わたしの左右にひかえているこのふたりは、たぶんおふたりともご存じでしょうが、念のため紹介させていただきますと、こちらが八木信作君、こちらがわたしの|姪《めい》の美穂子でございます。あとは各自、自己紹介といくことにいたしましょう。まず学校関係のほうから……上島先生、あなたからどうぞ」
「ああ、そう、それでは……」
と、八木信作から折れまがってすぐつぎに座っているのは、X大学の教授でボート部の部長上島亮博士であった。上島博士のつぎが監督の八波治郎、そのつぎの学生を等々力警部は知らなかったが、キャプテンの松本茂で、以下順に古川|稔《みのる》、青木俊六、児玉潤、片山達吉、矢沢文雄とならんでいて、最後がマネジャーの鈴木太一。鈴木は平出警部補と折れまがってすぐ左に当たっている。
さて、美穂子から折れまがってすぐつぎに座っているのが、美穂子の父の川崎重人、つぎが母の美枝子。以下神門家の一族のおもだったひとびとだが、それはこの物語に関係ないから省略しよう。一族のいちばん最後、すなわち金田一耕助から折れまがって右に座っているのが貫太郎氏夫人の加寿子である。
さて、一同の自己紹介がおわると、神門貫太郎氏が、席についたまま、
「いや、実はな、等々力さんも平出さんも」
「はあ、はあ」
「今夜のこの会合は金田一先生がおっしゃりだされたことでしてな。それというのがうちの|親《しん》|戚《せき》連中でも、まだことの真相をよく知っておりませんのじゃ。それをいちいち説明して歩くのもやっかいですから、ひとつおもだった連中だけ、一堂に集まってもらおうじゃないかということになったんですね。それで、それじゃいっそのこと、この事件に縁のふかい、X大学のボート部のかたがたにも来ていただいたらということになりましてな、それでかくは金田一先生にお取り計らいねがったわけです。そこでまず犯人たちに自首してもらって、それから、そのあとで金田一先生に事件の経過をご説明ねがおうと思ってるんですが、いかがでしょうな」
「はあ、けっこうでございます。平出君、いいだろう」
「はっ、けっこうでございます」
「ああ、そう、それじゃ、まず、美穂子、おまえから……」
「はい」
美穂子が席から立ちあがったとき、平出警部補は思わずテーブル掛けのはしを握りしめた。
美穂子はさすがに青ざめてはいたが、悪びれたところもなく、
「みなさんお騒がせしてたいへん申しわけございませんでした。あたしが……」
と、ちょっと絶句したのち、
「駿河譲治さんを刺しました。駿河さんを刺し殺したのはたしかにあたしでございます」
さすがに語尾はかすかにふるえたが、それでもはっきりいいきって着席したとき、一座のなかにはおどろきの叫びとすすり泣きの声がいりまじった。
「それじゃ、八木君、こんどはきみの番だ」
だれかがなにかいおうとするのをさえぎって、神門貫太郎氏が促すと、
「はっ」
と、立ちあがった八木信作は、直立不動の姿勢で、
「ぼくは……いや、ぼくが大木夫人の心臓を刺しました。それから譲治……いや、駿河の首をしめました。それから駿河の首を半分ほど斬り、ふたりの死体をボートに乗せて流しました。世間を騒がせ、また、ボート部の諸君にも心配をかけ、まことに申しわけなく思っております」
八木信作がもとの席へ着いたとき、一座には一種のどよめきとため息がいりまじって、しばらくはちょっと騒然たる空気につつまれた。
「貫太郎さん」
と、親戚のなかから体を乗り出して発言したのは、一族中の長老とおぼしき老人である。
「いったいこれはどういうわけなんだ。それじゃ美穂子とその八木君という青年が共謀したとでも……」
「いや、いや、|小《お》|父《じ》さん、ですから、これから金田一先生にこの事件の|顛《てん》|末《まつ》を逐一ご説明願おうじゃありませんか。金田一先生」
「はあ」
「それじゃ、ひとつ先生の推理の過程というようなものから聞かせてください。等々力警部さんや平出警部さんはよくご存じなんでしょうが……」
「いや、ところがねえ、神門さん」
と、平出警部補が|悪《いた》|戯《ずら》っ子みたいな顔をして体を乗りだすと、
「わたしゃそのことについて警部さんにお尋ねしたんです。警部さんはこの事件の捜査について、終始金田一先生と行動をともにしていらしたんですからね。ところが警部さんのいわくに、おれやおまえみたいな石頭には、もうひとつどうもよくわからんとおっしゃるんで……」
「あっはっは、それはそれは……」
「それですから、わたしもぜひ金田一先生の推理の過程から、聞かせていただきたいと思ってるんですが……」
「ああ、いや」
金田一耕助は満座の注視を浴びていささか照れながら、
「この事件では推理というほどのものはなかったんです。しかも、ねえ、平出さん」
「はあ」
「この事件のなぞを解く最大のキイを、最初に提出なすったのはあなただったんですよ」
「わたしが……?」
「はあ、あなたはいつかこういうことをおっしゃったでしょう。女のほうはレーンコートまで着ているのに、男のほうはなぜ裸でいるのかと……」
「はあ、はあ、それは申しましたが……」
「平出さん、その疑問のなかにこそ、この事件のなぞを解く最大のキイがかくされていたのですよ。つまり、あなたのお考えでは犯人は被害者の首を|斬《き》り落とそうと試みた。首を斬り落とすということは被害者の身元をあいまいたらしめるためですね。したがって男の着衣を|剥《は》いだのも、身元をかくすためであろう。それならなぜ女のほうは着衣をそのままにしておいたのか……それがあなたの疑問だったわけですね」
「はあ、はあ、いかにも……」
「ところが、そのときわたしはわたしでひとつの疑問を提出しておきましたね。犯人は被害者の首を斬り落とそうとしながら未完成におわっている。それにはなにか重大な障害が起こったにちがいないが、それはなんだろうって」
「はあ、それも伺いました」
「そこで、わたしはふたつの疑問をひとまとめにして考えてみたのです。あなたの提出された疑問と自分の提出した疑問とを、……それともうひとつ考えたのは、ある人物が人を殺して被害者の体を解体しようとするときには、当然、着衣をよごさぬために裸になるであろう。したがって、ふたつの死体のうちのひとつが裸でいるのは、身元をあいまいならしむるがために犯人が着衣を剥いだのではなくて、みずから裸になったのではないか。したがって、裸のほうが犯人で、女を殺して首を斬り落とそうとしたのではないか。そして、その作業が未完成におわったというのは、犯人自身がその作業のなかばにおいて生命を落としたせいではないかと……」
「あっ……」
と、いう鋭い叫びがいっせいにひとびとのくちびるから漏れた。X大学のボート部の連中でさえ、八木と矢沢をのぞいた他の七人は、おもてに恐怖の影を走らせ、沈痛の色をみなぎらせた。かれらもまだ真相をしらなかったのである。
「ふむ、ふむ、それで……」
と、一門の長老なる老人がテーブルから身を乗りだしている。
「はあ、あのふたつの死体が発見されて、吉沢さん……警察医のかたですね。そのかたの|検《けん》|屍《し》の結果をきいたとき、わたしの頭にはだいたい以上のような想定があったのです。ところがその翌日、大木健造氏の出頭によってふたりの身元が判明したとき、わたしの確信はいよいよ強くなりました。それというのが死体のひとりの駿河譲治君が、川崎重人氏の未来の|愛《あい》|婿《せい》と決定しているということを知っていたからです。ですから、これ以後は推理の問題というよりは、むしろ想像の問題ですね。駿河君のようにかがやかしい未来を保証されている青年が、もしかりに人妻と不倫な関係をもち、しかもその婦人からいつまでも付きまとわれたら、その婦人にたいして殺意を抱くにいたるのではないか。しかも、その犯罪をあくまで|隠《いん》|蔽《ぺい》しようとして、死体の解体を企てるのではないか。……推理といえばそこまでが推理で、では駿河君はなにびとによって生命をうしなったか、……それを知るためにわたしは警部さんを誘って戸田のボートハウスと合宿を訪れたのですが、あとは推理なんて問題じゃない。事実そのものが事件の経過を|明瞭《めいりょう》にわたしに示してくれたんです。それというのが、この事件のなかでは駿河君の犯罪だけが計画された犯罪で、あとは偶然、あるいはなんの準備もなく行われた犯罪であったがために、いたるところに証拠や証人がのこっていたからですね」
金田一耕助はそこでひと呼吸すると、
「それではここに、この事件の経過をかいつまんでお話することにいたしましょう」
と、さすがに|暗《あん》|澹《たん》たる面持ちで、
「駿河君はまず大木夫人との関係を清算するために、彼女を殺害し、その死体を解体して犯罪を隠蔽しようと決意しました。それにはちょうどさいわい部のボートが破損し、ボートハウスが空いたので、そこを犯罪の場にえらぶこととし、土曜日の晩八時に大木夫人とそこで落ち合う手はずをきめました。そこでその準備行為として、金曜日の夜、金縁眼鏡にちょびひげをつけ、八木君のレーンコートで|詰《つめ》|襟《えり》の服をかくして、ちどり屋ボート店からボートを一|艘《そう》盗み出しました。ここでちょっとご注意申し上げたいのは、駿河君が金縁眼鏡にちょびひげで変装したのは、必ずしも大木健造氏に罪を転嫁しようなどという、|悪《あく》|辣《らつ》な考えではなかったろうと思うのです。たまたま去年の秋の学校の運動会の際、仮装に使った小道具が手元にあったからそれを利用したまでで、大木健造氏に変装するにはふたりの体はあまりにもちがいすぎる。上背において二寸以上もちがっておりますからね」
上島部長はだまって金田一耕助のほうへうなずいたが、その|瞳《ひとみ》のなかには感謝の思いがこめられていた。自分の弟子の罪業のいくらかでも軽からんことを願う、師匠としての切ない祈りであろう。
「さて、こうして準備をととのえておいて、土曜日の晩ボートハウスへおもむいたのですが、テキもさるもの、大木夫人もまさか駿河君がそのように恐ろしい計画を胸に秘めているとは知らなかったでしょうが、自分と駿河君との密会の現場を美穂子さんに見せつけて、駿河君から手をひかせようという魂胆でしょう、この密会を美穂子さんに密告したのです。ここにその大木夫人の手紙があります」
と、金田一耕助は紙ばさみのあいだから、一通の手紙を出して一同に見せると、
「このとき、美穂子さんがご両親に相談でもなすったら、美穂子さんに関するかぎり問題はなかったでしょう。しかしことはあまりにも忌まわしすぎた。それに自分のことは自分で解決したいという、|健《けな》|気《げ》といえば健気な、無謀といえば無謀な考えから、美穂子さんは両親にも内証で土曜日の晩、指定されたボートハウスへ出向いていかれたのです」
美穂子の母のすすりなくのを、さっきから夫の重人氏がしきりになだめたしなめている。美穂子はただ青ざめてうなだれていた。
「さて」
と、金田一耕助は言葉をついで、
「ボートハウスへ着いたのは美穂子さんがいちばんさきだったそうですが、そのとき、ボートハウスの入り口のドアが開いていたところをみると、駿河君がマネジャーの鈴木君の手元から持ち出した|鍵《かぎ》で、あらかじめ錠前を開いておいたものとみえます。美穂子さんが到着してからまもなく駿河君がやってきましたが、そのとき、美穂子さんは女性の本能として、ボートハウスのすみにある押し入れのなかへ身をかくしました。その押し入れのなかで月曜日の晩、わたしがこのイヤリングを拾ったことは、等々力警部さんが証明してくださいましょう」
と、金田一耕助は真珠のイヤリングの片方を、大木夫人の手紙のそばへ添えておくと、
「さて、駿河君がやってきてからまもなく大木夫人がやってきました。美穂子さんのお話をうかがうと、ことは非常に|迅《じん》|速《そく》におこなわれたらしく、美穂子さんはふたこと三ことふたりの会話を耳にしただけで、格闘の気配も夫人の悲鳴らしきものも全然聞かなかったそうです。ただ無気味な静けさのなかにだれかが動く気配と、それからまもなく一種えたいのしれぬ物音を聞かれたのです。その物音がなんであったか、それはわざとここでは明言することをひかえましょう」
金田一耕助が言葉を切ったとき、|慄《りつ》|然《ぜん》たる空気が一座をつつみ、一騎当千のボート部の|猛《も》|者《さ》連中でさえ、|蒼《そう》|白《はく》のおもてを硬直させて呼吸をのんでいた。
「そのうちに美穂子さんは押し入れの|扉《とびら》を細目に開いて外を見ました。押し入れのなかの|暗《くら》|闇《やみ》になれた美穂子さんの眼には、わりにはやくその場の情景が理解されたそうです。その瞬間、美穂子さんのくちびるをついて悲鳴がほとばしり出たのもむりはないでしょう」
ふたたびどすぐろい戦慄が一座をつらぬいて走り、ひとびとは呼吸をのんでいたましげに美穂子の姿を見まもっている。その美穂子は……世にもいたましい試練をうけた少女は、さすがにそのときのことを思い出したのか、うつむいた肩がはげしくふるえつづけていた。
十三
「駿河君はいまや狂気だったでしょう」
と、金田一耕助は語りつづける。
「ひとに見られてはならぬ場面を、よりによってもっとも見られたくない女性に見られたのですからね。こうなると恋も栄達もありません。ただ自己保全の願望しか駿河君の念頭にはなかったでしょう。駿河君は美穂子さんを押し入れから引きずりだし、ボート台の上に仰向けにねじ倒して、両手でのどを絞めにかかりました。そのとき、駿河君からうけた|爪《つめ》の跡が、いまも美穂子さんの首のまわりに残っております。美穂子さんはもがいているうちに、ボート台から垂れた手がなにかに触れました。美穂子さんはそれがなにであるかよくわきまえもせず、自己防衛の本能から、それを握って下から突きあげました。これが駿河君の最期だったのです」
一座は水をうったようにしいんと静まりかえっている。あちこちで鼻をすする音が聞こえるのは、|親《しん》|戚《せき》がわはさることながら、ボート部の連中のあいだでもしきりであった。なかでも片山のおっさんは、こみあげてくる|嗚《お》|咽《えつ》の声をかみ殺すのに必死であった。
「さて……」
と、金田一耕助はほどよい間をおいたのち、ふたたび言葉をついで、
「そのとき、美穂子さんはちゃんと意識していたそうです。自分がやった行為は正当防衛であるということを。しかし、それがいかに正当防衛であったとしても、若い女性の身としてそのまま交番へ駆け込むには、それはあまりにも酸鼻をきわめた事件でした。ところが駿河君にはふたりの親友がありました。すなわち八木信作君と矢沢文雄君です。しかし矢沢君のほうはある理由からボート部を退き、したがって現在では合宿にいないことを知っていた美穂子さんは、当然の結果、八木君に電話をかけて救援を求めました。そこで八木君がボートハウスへ駆けつけてくることになったのですが、そのまえにここで、矢沢君がこの事件で果たした役割のことをお話しておきましょう」
金田一耕助がちょっと言葉を切ると、ひとびとの視線はいっせいに矢沢文雄にそそがれる。矢沢は|頬《ほお》を赤らめてテーブルクロスに眼をやったまま、体を固くしてしゃちこばっていた。
「いま申し上げたとおり矢沢君はひと月ほどまえ合宿を出て、目下池袋で下宿をしているんですが、金曜日の晩、大木夫人が矢沢君を訪ねてきたそうです」
まじまじと矢沢の横顔を見ていた平出警部補は、ぎょっとしたように|眉《まゆ》をつりあげた。
「矢沢君はそのときはじめて、駿河君と大木夫人の関係を知ったそうです。しかも、大木夫人はそのとき矢沢君に宣言したそうです。自分の夫には多くのかくし女がある。このままでは将来をともにすることはおぼつかないし、夫と離婚し、娘を捨てても駿河君と夫婦になるつもりであるから、その旨、あなたから川崎家へ申し入れてほしいと……」
「ふうむ」
と、ばかりに|等《と》|々《ど》|力《ろき》警部は鼻を鳴らした。身から出た|錆《さび》とはいえ、年増女のやにっこい深情けにからみつかれた駿河譲治の身の不運が、ふっといたましく警部の脳裏をかすめたのである。
「ところが、このとき大木夫人はその翌晩、すなわち土曜日の夜の密会のことについて言及しなかったそうです。しかし、美穂子さんが大木夫人からこの手紙を受け取ったのは、土曜日の午前の便だったそうですから、金曜日の夜はすでにこの手紙は|投《とう》|函《かん》されていたはずです。それを矢沢君にいわなかったところをみると、それはそれ、これはこれとして、大木夫人はあらゆる手段をつくして、駿河君と美穂子さんの婚約を妨害しようとしていたことが察しられますし、そこに駿河君をあのようなデスペレートな行為に追いやった、重大な動機があったのだろうと思われるのです」
一同は無言のままうなずいている。ああいう恐ろしい決意を固めるまでの駿河の|煩《はん》|悶《もん》ぶりが、まざまざとわかるような金田一耕助の話しぶりである。
「だが、それはさておき矢沢君のことをお話しましょう。矢沢君はもちろん大いに驚きました。相当強く大木夫人に意見をしたそうですけれど、意見をすればするほど相手がいきり立つので、しまいには持てあましてしまったそうです。しかし、そのまま捨てておくわけにもいかないので、土曜日の晩、八木君に善後策を相談するつもりで合宿へやってきたのです。ところが生一本な八木君はそういう矢沢君を誤解しました。すなわち友人の幸福を|嫉《しっ》|妬《と》するのあまり虚構の事実を設けて、友人をおとしいれようとするのであろうと。そこでふたりのあいだにチャンチャンバラバラが演じられ、矢沢君は目的を果たさずに合宿を立ち去りました。しかし、矢沢君としてはそのまま戸田の町を立ち去るに忍びなかった。そこにはかつて情熱をかたむけ、いまも愛するボートハウスがあります。矢沢君はそのボートハウスの見える堤防の中腹に寝そべって、星をかぞえていたといいますから、おそらく暗涙でものんでいたことでありましょう」
また、ボート部の連中のあいだから鼻をすする音がさかんになった。おそらく矢沢の気持ちがいちばんよくわかるのはかれらであったろう。
「それですから、当然、矢沢君は美穂子さんがボートハウスへ入るのを見ていたわけです。美穂子さんについで駿河君が忍んできました。矢沢君はそこで当然の勘ちがいをしました。見てはならぬものを見たと思ったそうです。そこでこの場をはなれると、そのまま戸田の町を立ち去るつもりでいたところが、思いがけなくバスからおりる大木夫人の姿を見かけたのです。大木夫人のほうは矢沢君に気づかなかったそうですけれど、矢沢君としては前夜のことがありますから、ふっと不吉な思いにおそわれたと言っています。そこで大木夫人のあとをつけていくと、果たしてボートハウスのなかへ入っていきました。矢沢君はまた堤防の中腹に寝そべって、ようすをうかがっていたそうです」
金田一耕助はここでちょっと言葉を切ると、一同の顔を見まわして、
「ここでさっきわたしが申し上げたことをみなさんに思い出していただきたいのですが、おなじボートハウスのなかにいた美穂子さんですら、あの恐ろしい瞬間の気配はわからなかったといっているでしょう。ですからボートハウスの外にいた矢沢君にそれがわかるはずはありませんね。矢沢君にしてもまさか自分の友人が、そんな大それたことを企んでいようとはゆめにも知りませんからね。矢沢君はそのとき、密会するのはやはり美穂子さんと駿河君で、それをかぎつけた大木夫人が嫉妬のあまり駆けつけたのだろうと思っていたそうです。ところがしばらくして美穂子さんがボートハウスのなかから駆け出してきました。そのようすがただごとではなかったので、矢沢君はボートハウスのなかへ入ってみたそうです」
一瞬またしいんと凍りついたような沈黙がそこにあった。まるですすり泣くような音を立ててため息をついたのは古川|稔《みのる》である。
「そのときのことについて矢沢君はこういっています。金曜日の晩のことがなかったら、すなわち大木夫人の告白をきいていなかったら、自分も大いに面くらったことであろう。しかし、その告白をきき、大木夫人のただならぬ執念を知っていただけに、ひと目見てその惨劇の意味がわかったそうです。ことに押し入れのドアがひらいていて、そこをのぞいてみるとこれが落ちていたので……」
と、金田一耕助は折りカバンから女持ちのハンドバッグを出して、大木夫人の手紙やイヤリングのそばへならべておくと、
「矢沢君にはいっそう事態がはっきりしてきたわけです。そこで現場は現場として気にかかったのは美穂子さんのことです。ひょっとすると、荒川へ身でも投げやあしないかと、それが心配になったので、ボートハウスをとびだして、美穂子さんの行くえをさがしていると、まもなく美穂子さんが八木君といっしょに、ボートハウスへひきかえしてくるのを見たのです。そこで、いざとなったら自分も手をかすつもりで、また堤防の中腹に寝そべって待機していたそうです」
金田一耕助はそこでまたひと呼吸すると、
「ところが、そのうちに美穂子さんだけがボートハウスのなかから出てきて、そのまま立ち去るようすですが、矢沢君にはやはりそれが気になった。そこで、ボートハウスのなかに八木君ひとりを残して、美穂子さんのあとを見えがくれに尾行したのです。もしも短気なことでもしそうだったらとめるつもりだったのですが、さて、問題はいよいよこれからです。ボートハウスのなかにひとり残った八木君の行動ですね」
平出警部補はにわかに居ずまいをなおして、自分の正面に座っている八木信作の顔を見る。八木はふかく頭を垂れ、体を固くしてかしこまっている。ほかのひとたちはその八木と金田一耕助の顔を見くらべていた。
「そのときのことについて、わたしはまだ八木君とあまりくわしく話しあっていないのですが、おそらくそのとき八木君の頭脳に最初にきたのは母校の名誉、ボート部の光栄ということだったろうと思うのです。光輝ある伝統にはぐくまれてきたボート部の栄誉に傷をつけてはならぬという思い、それでいっぱいだったろうと思うのです。だから、そのときの八木君の心理を解剖してみると、おそらくこうだろうと思います。ボート部から殺人犯人を出してはならぬ。殺人犯人……それも世の常の殺人犯人ではありません。人妻と通じ、その関係を|弥《び》|縫《ほう》し、|隠《いん》|蔽《ぺい》せんがために、相手を殺し、その首を切断しようとした男、それが自分の親友であっただけに、八木君はいっそう痛切に責任を感じたことでしょう。だから、母校の名誉、ボート部の伝統を救うために、駿河君を被害者に仕立てておこう。すなわち、ボート部から殺人犯人を出すよりも、被害者を出したほうがまだしも救われるのではないかというのが、そのときの八木君の考えかたであったろうと思うのです。それには駿河君の死体を真実の被害者であるところの大木夫人と、寸分ちがわぬおなじ状態に仕立てておこう。そして、ふたりともおなじ人間の手にかかって、首を切断されかけたという構想をつくりあげておこう。そうすることによって駿河君の犯罪を隠蔽し、母校ならびにボート部の名誉を救おう。それがそのときの八木君の思いつめた考えであり、そこで大木夫人の胸を刺し、駿河君の首を絞め、最後に心を鬼にしてかつては親友だった人物ののどにノコギリを当てたのでしょう」
突然、わあっという泣き声が起こったので一同おどろいてふりかえると、それは片山達吉であった。さっきからおさえていた|嗚《お》|咽《えつ》が、ここにおいてついに爆発したのである。しかし、だれもそれをとがめるものはなく、かえってそれを契機として、あちこちで鼻をすする音がさかんになった。
その嗚咽の声がややおさまるのを待って、金田一耕助はまた語りはじめた。
「そのとき八木君のとった行動については、いろいろ批判の余地もありましょう。わたしはべつに八木君の行動を弁解しようというのではない。ただ真実を申し上げているのです」
ひとびとはみな一様にうなずいた。八木信作はいよいよ深く頭を垂れている。
「さて、そのあとで八木君は水門を開いてボートを流したのですが、平出さん」
「はあ……?」
「あのボートの穴ですね。あれは八木君は知らんそうです。ですからあの穴は駿河君があけて、一時なにか詰め物でもして漏水を防いでおいたのが、いつかそれが抜け去り、またそのあとからゴミや海草で詰まったらしいんですね」
「ああ、なるほど」
「ところで、ここでもう一度矢沢君の話にかえりましょう。矢沢君が美穂子さんのあとを尾行したというところまでさっきお話しましたが、美穂子さんがバスで戸田の町を立ち去るまで、半時間くらいかかったそうです。美穂子さんが何度かボートハウスのほうへ引き返しそうにするので、矢沢君はそのたびにハラハラしながら尾行をつづけていたそうですが、それでもやっと無事に戸田の町を立ち去るのを見送って、矢沢君が堤防づたいにふたたびボートハウスのほうへ引き返してくると、ちょうどそのとき水門のひらく音がしたので、ぎょっとして見まもっていると、なかからボートが漂い出てきたそうです。むろん、夜目遠目で、駿河君の死体がああいうむごたらしい状態になっていることまではわかりませんでしたが、それでもおりからの星明かりで、そこにふたつの死体が横たわっていることははっきり見えたそうで、矢沢君はその瞬間、思わず堤の上で合掌したそうです。ですから駿河君の死体は期せずして、ふたりの親友に見送られて、荒川から|隅《すみ》|田《だ》|川《がわ》へと漂っていったというわけですね」
深い感動がひとびとののどをつまらせ、|涙《るい》|腺《せん》を刺激するらしく、さすが|豪《ごう》|毅《き》な神門貫太郎氏ですら鼻をつまらせていた。
「矢沢君はそのとき万事がおわったことを知りました。もう自分の出る幕でないことを|覚《さと》ったんです。そこでいたずらに八木君を驚かせないほうがいいだろうと、そのまま黙って戸田の町を立ち去りました。さて、そのあとで八木君はボートハウスのなかのプールの周囲を清掃し、駿河君のぬぎ捨てた着衣をいっさいひとまとめにし、おもしがわりに凶器の|類《たぐい》をバンドで縛りつけ、荒川の中流まで泳いでいってそこに沈めてきたというのが、こんどの事件の|顛《てん》|末《まつ》でした」
金田一耕助の話がおわると、一同はしばらく鳴りをひそめて、みなそれぞれの想いにふけっていたが、等々力警部が思い出したように、
「金田一先生、あの晩、駿河君の名前で合宿へ二度電話がかかってきたというのは……?」
「ああ、それ」
と、金田一耕助はにこにこしながら、
「まえの電話はもちろん八木君です。八木君はいっさいの仕事をおわるとまず松金へいって|鮨《すし》をつまみ、それからタコ平へ行って酒をのんだのですが、タコ平へ行くまえに思いついて、合宿の|小《お》|母《ば》さんに電話をかけたのです」
「すると、あとの電話は矢沢君ですか」
「そうです、そうです。東京へかえってくると矢沢君は、なんといっても美穂子さんのことが気にかかった。そこで川崎家へ電話をかけて、それとなく美穂子さんがかえっているかどうかを聞いてみたんですが、そのときとっさに駿河君の名前をつかったんですね。だから美穂子さんはおそらくその電話を、八木君だと思っていたでしょうねえ」
美穂子は頭を垂れたままうなずいた。
「ところが、そのとき矢沢君は駿河君の名前をつかったことから思いついて、ついでに合宿へも電話をかけたんだそうです。そこで死せる駿河君から一度ならず二度までも、まったくおなじ内容の電話がかかってきたという怪談がもちあがったわけですが、これでみると人間の考えることは、だいたいいつもおなじなんですね」
金田一耕助はそこでちょっと言葉を切ると平出警部補をふりかえって、
「これでだいたい委曲はつくしたつもりですが、疑問の点がおありでしたらなんなりと……」
「いや、よくわかりました。これ以上お尋ねすることはなにもありません」
「それじゃねえ、等々力さん、平出さんも……」
と、正面の席から声をかけたのは神門貫太郎氏である。
「はあ、はあ」
「今夜、このふたりの若いもんをあなたがたにお引き渡しするつもりですが、そのまえに、これもしばしの別れですからな、いっしょに飯を食おうということになっているんですが、ひとつあなたがたもつきあってやってくださらんか」
「はあ、ありがとうございます」
「それじゃねえ、上島先生」
「はあ」
と、上島博士は眼鏡を外して眼がしらをぬぐうていたが、だしぬけに貫太郎氏に声をかけられて、あわてて眼鏡をかけなおした。
「先生としちゃ、おたくの部員からそういう人間が出たということは、さぞや|遺《い》|憾《かん》なことだろうとお察しいたします。しかし、それについてはわれわれ一族にも責任の一半はあり、われわれは甘んじて世間の批判にまかせるつもりでいるんです。ことにこの美穂子ですがね、世間というものは冷酷なもんで、とかく他人の不幸をよろこぶという風潮がなきにしもあらずで、真実がどうあろうとも、これにいろいろ疑惑が集中し、とかくのうわさが流れることもありましょう。しかし、美穂子はそれに耐えていく決心をしておるようです。それですからおたくのほうでも、臭いものにふたなどというお考えはお捨てになって、ひとつはっきり真相を発表するよう取り計らってくださいませんか。こんなことを申し上げるのは|釈《しゃ》|迦《か》に説法みたいなもんかもしれませんがね」
「はっ、承知いたしました。それはもとよりわたしとしても望ましいことです。それゃ駿河譲治のような人間もいましたけれど、またここにいるような連中もおりますからな」
上島部長は誇らしげに監督以下部員一同をふりかえった。
「ほんとにそうです。そうです。それじゃなあ、八木君」
「はっ」
「あらかじめ言っとくがな、きみはこの際、情状が酌量されるだろうなどという甘い考えは捨ててしまえ。もちろんそうなったらけっこうなことだけれど、そうならなかった場合でも潔く罪に服してこい。どちらにしてもきみの骨はおれが拾ってやる」
「あっ、ありがとうございます」
それは単に八木信作の言葉のみならず、部長以下ボート部全員のくちびるから、期せずして漏れた声であった。
探偵小説講座
[#ここから3字下げ]
――横溝正史トリック評論集――
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ]※一部トリックをあかしてあるところがあります。
|此《こ》の間何とかいう映画雑誌に、アメリカの何とかいう男の説だとして、活動写真の筋なんてたった七つしかないものだ。即ち西部劇型、|妖《よう》|婦《ふ》|馴《な》らし型、母性愛型――等々とその七つの型を挙げて、一々その筋書を書いてあるのだが、それを読んで成程と私は感心したのである。私など一週間に二度か三度は薄暗い常設館の隅に自分を|見《み》|出《いだ》さなければ虫のおさまらない|性《た》|質《ち》だが、だからそれだけ多くの映画を見ているつもりだが、何とどう考えてもこの七つの型の他のものというものはなかなか思い当らないのである。成程成程と私は感心したのである。そこで私の考えるには、では探偵小説の型というものは一体幾らあるものかしら、やっぱり七つぐらいのものじゃないかしら。そこで種々なものを思い出してみたのだが、何とやっぱり五つか六つ以上ではなさそうなのである。ここにおこがましくも探偵小説講座を書く|所以《ゆ え ん》である。
A 一人二役型
探偵小説の八十%まで、長篇探偵小説となると百%までがこの型なのである。その代表的なものは、「813」「黄色の部屋」、「|拳《けん》|骨《こつ》」等である。此の型では、小説の冒頭に何か事件が起るのである。事件とは殺人とか、宝石の盗難とかであるが、言う|迄《まで》もなく殺人の場合には一人よりも二人二人よりも三人と被害者の多い程がよく、宝石の場合にはその値段が高い程読者は喜ぶものである。だが被害者の多い程よろしいと言っても、フランス革命みたいに、人を船に積んで沈めたって読者は何とも思わないのである。つまりその最も好い例は、「813」の殺しなのである。さて事件が起ると、探偵が出て来るのだが、探偵は警視庁附きでも私立探偵でも、|或《あるい》はその両方を出しても|宜《よ》いのだが、|但《ただ》しここに注意すべきは、探偵が二人出た場合には、警視庁附きの方がぼんくらであるが、でなかったら、彼が犯人であるかでなければならないのである。さて又長篇の場合には、ここに若い男女の恋人同志が出て来て、|而《もっと》も大ていの場合その一方が嫌疑者として拘引されるのである。しかし探偵小説に|於《おい》ては、嫌疑が濃厚なもの程、無事なのだから読者は心配無用なのである。さてかくして|波《は》|瀾《らん》重塁、ルブランだとルイ十四世やカイゼルが登場し、リーヴだと一世紀後に発明される|筈《はず》の機械が活躍し、ガボリオだと探偵が失敗を重ね、そして作者が相当の原稿料を稼いだら、ここに犯人が判明し事件は|目《め》|出《で》|度《た》く解決するのである。さてこの犯人というのが問題なのだが、昔は探偵がこの犯人をも兼ねていたのだが、その後それは|流《は》|行《や》らなくなり、現在では、探偵に次いで最も多く篇中に活躍する、しかも一番最後まで嫌疑のかからない男が、その犯人を兼ねる事になっているのである。なおこの型に於て、その犯人が覆面をして、篇中の随所に出没する場合には、これを「連続映画向型」とも|称《かな》って、この型を書いて置くと米国のパテー会社から原作料が|這《は》|入《い》るかもしれないのである。
B 純正トリック型
これは短篇小説向きなのである。世に|所《いわ》|謂《ゆる》本格探偵小説なるものは、|概《おおむ》ね此の型に属し、本格の癖にこの型に属さないのは、あんまり好い小説とは言えないのである。さて純正トリックというのはどういう意味かと言えば、これは仲々説明するのに困難なのである。純正とは次に講義する所の境遇トリックと混同する事を避けるための|謂《い》いであるがその言葉の説明をする代り二三の例を|以《も》って講義しようと思うのである。
引例1
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氷の塊を頭の上から落して殺す、氷は間もなく解けて|了《しま》うから、|兇器《きょうき》が分らなくなり、従って事件が五里霧中に|這《は》|入《い》る。(夢遊病者の死)
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引例2
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殺人をした近眼の女が逃げる時に眼鏡を落す。さて廊下には同じ模様の敷物が敷詰めてあるから、眼鏡を落して盲目同然になって近眼の女は、間違って廊下の反対の方向へ逃げる。(金縁の鼻眼鏡)
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引例3
[#ここから2字下げ] 警察へ届けられた落し物が|嘗《か》つて|如《い》|何《か》なる場所にあったかということが問題になる。その落とし物には小さな貝殻が附着しているのだが、その貝こそは、ロンドンの何とか河の何処の部分以外には、世界の|何《ど》|処《こ》からも産出されないものなのである。従ってその落とし物が、一度そこにあったものに違いないということが分るのである。(青色ダイア)
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さて以上の三つの例によって純正トリックとは如何なるものか会得されたに違いない。昔はこれ等のトリックを探偵の手によって読者の前に、打開けたものである。例えばホームズ物、ソーンダイク物等はその例なのである。だが現在ではとにかく探偵を使うことが流行らなくなり、だから作者は、このトリックに次の境遇トリックの色彩を加味して、最後に読者をあっと言わせることが流行っているのである。なおこの型の最も顕著な特徴は、焼直し絶対不可能なる点にある。例えば引例1の場合に於て、男爵邸のボーイが誤まって二階から|花氷《はなごおり》を落して、下に寝ていた小使を殺すという代りに、大臣が|淫《いん》|売《ばい》を殺すことにしても、或はクレオパトラが小酒井不木先生を殺す事にしてもやっぱり読者は、ははア「夢遊病者の死」の焼直しだなと、すぐに気が附くのである。チェスタートンのブラウン物もこの型に属すべきものであるが、但しこれはやや趣きを異にしているのである。というのは、ブラウンの場合には、普通の人からみると何でもない出来事を作者のやぶにらみ[#「やぶにらみ」に傍点]的な見方から、むやみ|矢《や》|鱈《たら》とトリックにしてしまうのである。だからこういうのは、次亜純正トリック型とも言うべきなのである。
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筆者申す。一月で書いてしまおうと思っていたのに御覧の通り長くなってしまいましたから又次の機会に譲ります。この後には「江戸川乱歩型」「甲賀三郎型」等品数取|揃《そろ》え御覧に入れますから、何卒何卒その時には御愛読の程、|偏《ひとえ》に御願い申し上げます、となん。
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[#地付き]「探偵趣味」大正十五年四月
探偵小説講座――序にかえて
探偵小説に|於《おい》てトリックが如何に重要な役目を持っているか、私はこれから、内外の探偵小説のいろいろなトリックを分析、解剖してみるつもりであるが、その前に|一寸《ちょっと》、それを読者諸君に聞いて|戴《いただ》きたいと思うのである。
それには丁度次ぎの如き適当なエピソードを引例してみるのが、最も好都合だと思うのである。
今から丁度数年前のことであった。
この欄の編集者江戸川乱歩や、当時大阪毎日新聞社にいた|春《かす》|日《が》|野《の》緑が中心になって、探偵趣味の会というのを起したことがある。
当時十数人の会員たちは毎月一回|大《たい》|毎《まい》の楼上に集って、いろいろな、各自思い思いの意見を吐いたり、議論を戦わしたり、最近読んだ探偵小説の批評をし合ったりしたものだ。そして時には、会員たちが、近く書こうとしている探偵小説の筋を話して、人々の批評を仰いだものである。
この話はそういう例会の第二回めかだった。
江戸川乱歩がふと次ぎのような話をしたのである。
「僕はこんなトリックを最近考えているのですがね。氷で人を殺すという話なのです。例えば高いところから、下にいる男の頭の上に氷の塊を落す。氷で頭を打たれた男は、そこで|脳《のう》|震《しん》|盪《とう》か何かを起して死んでしまう。しかし、その|惨《さん》|劇《げき》が発見される頃には、氷はすでに解けてしまっているから|兇器《きょうき》は分らない。しかも、被害者の周囲には犯人が近づいたらしい跡は|微《み》|塵《じん》も残っていない。つまり密閉された部屋の殺人[#「密閉された部屋の殺人」に傍点]に似たような事件になるのですな。ところが、この真相がどうして発見されたかというと、被害者の側に、一茎の根のないダリヤが落ちている。つまりその氷は普通の氷塊ではなく、花氷だったのです。で氷の方はとけてしまったが、あとにダリヤの花が落ちている。|慧《けい》|眼《がん》なる探偵はそれから糸を|手《た》|繰《ぐ》って、事件の真相を知るというのですが、どうでしょうな、こんな話は……」
と、江戸川乱歩が話したのである。
「成程、それは面白いですな」
とその席にいた、当時やはり大毎にいた大野木繁太郎が感心した。
「氷で人を殺す――。成程それは面白いトリックですね。|今《いま》|迄《まで》どうして誰もそれに気附かなかったろう」
と西田|政《せい》|治《じ》が|相《あい》|槌《づち》を打った。
ところが、その席に二人だけ、このトリックに残念ながら感心することの出来ない人物がいたのである。
その一人は当時まだ薬専に通っていた横溝正史で、このおしゃべりで出しゃばり過ぎな青年は、皆が一応感心してしまうと、その時|一《ひと》|膝《ひざ》乗出して話し出したのである。
「それは面白いですが、しかし」と彼は得々として言うのである。「そういうトリックは外国にありますよ。しかも最近読んだのですが、やはり氷の殺人なんです。|尤《もっと》も行きかたは大分違っていますが……こういうのです。氷を積んだトラックが深夜街を走っていて、多分カーヴへ差しかかった時でしょう。氷の一つを落して行くのです。するとその後から又別のトラックがやって来る。そしてこの氷を踏み砕いて走りすぎる。その時氷の小さなかけらが鉄砲玉のような勢いでとぶ。ところが不幸にもその時側を通りかかった通行人にその氷片が命中して、通行人は死んでしまうのです。さてその翌朝この不幸な変死人が発見される。そして傷跡から見て、どうしてもピストルで撃たれたとしか思えないのに、氷は溶けてしまっているのだから、|弾《た》|丸《ま》の行方が分らない。そこで事件が迷宮入りをするというのです。つまり氷の殺人というトリックが、今のお話と同じなわけですな」
すると、この話を黙ってにやにやしながら聴いていた春日野緑がその時言ったのである。
「それは僕が翻訳した話だよ。最近サンデー毎日に発表した外国の探偵小説だね」
そして、この会話はそれきり済んだのである。しかし、もし江戸川乱歩が、横溝正史からこの暗合を指摘されなかったら、彼はこのトリックをもっとねちねちと考えて、充分面白い探偵小説を書き上げたのに違いないのである。実際トリックとしては探偵小説作家の充分珍重していい程の面白味を持っていた。
しかし、外国の探偵小説に既に書かれてあることを知った江戸川乱歩はぺしゃんこになってしまった。そして大分後になって、「夢遊病者彦太郎の死」という小説で、かなり投げやりな、熱のない態度でしか、この|勿《もっ》|体《たい》ないトリックを扱うことが出来なかった。
つまりこの話によって私は、探偵作家のしばしば|味《あじわ》う不幸を諸君に知っていただきたいと思ったのである。
探偵小説は必ずしもトリックばかりではない。しかし、少くともトリックが最初の出発点になることは確かだ。そして素晴らしいトリックを考えついた時には、それだけ意気込みが違うから、出来上った小説の出来栄えにもそれだけ影響することは事実である。
ところがこの短いエピソードでも分る通り折角考えついた素晴らしいトリックが、既に先人によって取扱われていると気がついた時、作者を惨めな気持ちにする事はないのである。
トリックが作者にとって如何に大切であるか、私はその一例としてこのエピソードを話したのであるが、では次号より、いよいよこの大切なトリックについてお話しようか。
ついでに言っておくが、この|蕪《ぶ》|雑《ざつ》な一文に「探偵小説講座」という、如何にも|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な|表題《み だ し》を附したが、筆者は今のところ、開き直って諸君に講義しようという意志は毛頭持っていない。ただ、この機会に、いろんなトリックをそれぞれの系統にまとめたいと思って筆をとった次第である。
[#地付き]「探偵小説」昭和七年一月
『入口のない部屋』の巻
前号に|於《おい》て、探偵小説に於てはトリックが|如《い》|何《か》に重大なる価値を持つかを語った筆者は、これから|暫《しばら》く、種々なトリックを、種々な小説の例を引いて説明して行くつもりである。
探偵小説がエドガア・アラン・ポオに始まったことは、最早説明する|迄《まで》もなく、諸君のよく知るところであろう。
さて、ポオの異常なる空想力を|刺《し》|戟《げき》して、世界に初めて探偵小説らしい探偵小説を書かしめたものは、実にこの「入口のない部屋」という奇怪な実際に起った事件であった。
「モルグ街の殺人事件」をお読みになっている諸君には、今更この事件の内容は説明する迄もあるまいが、パリに起った二重の殺人事件、しかも犯罪現場は密閉されていて、|何《ど》|処《こ》からも犯人の逃走する|隙《すき》はなかった、と、こういう事実が、異常な才能の持主であるポオを刺戟して、この「モルグ街の殺人事件」の一篇をなさしめたものである。
従って、世界の探偵小説は「入口のない部屋」から如何にして犯人が逃走し得たかという、この|謎《なぞ》を解くために、初めて誕生したのだといっても過言ではあるまい。だからポオの|衣《い》|鉢《はつ》をついで|諸《もろ》|々《もろ》の探偵作家が、一度は必ず想いをこの謎を解くために凝らしたのも決して無理ではなかった。
ポオの「モルグ街の殺人事件」の場合では、しかし、絶対に入口がなかったわけではなかった。窓を閉じるためにさしてあった釘の折れていることに、警察官たちが気がつかなかったことと、その窓へよじ登ることの出来る動物――それは人間ではないけれど、|殆《ほと》んど人間と同じような動作をなし得る動物が存在するというトリックによって解決されている。
従って「入口のない部屋」という謎を解くトリックとしては|些《いささ》か物足りなさを感ずるわけである。
幾度もいうことだが、このトリックの解決について、最も巧妙なものはガストン・ルルウの「黄色の部屋」である。この小説に於ては事実絶対に入口がなかった。
有名な老教授の令嬢が、父教授の研究室の隣室なる寝室で深夜何者にともなく襲われ、失神する。隣の研究室では教授と召使いがまだ起きていて、令嬢の悲鳴を耳にするや、寝室の扉にかけつける。しかし扉には内部より錠と|閂《かんぬき》がかかっていて、錠前屋を連れて来る迄はどうしても開きようがなかった。即ちそれ程扉は厳重に、内部より閉じられていたものである。ところが、いざ扉を打破って内部へ入ってみると、犯人の姿は何処にも見えない。窓といっても犯人の逃走し得るような窓は何処にもない。にも|拘《かかわ》らず、令嬢は|惨《さん》|憺《たん》たる様子で床の上に失神し、|咽《の》|喉《ど》には深い|爪《つめ》|跡《あと》が残って居り、頭には何か堅い物で殴られた傷跡があり、ベッドの下には|兇器《きょうき》として用いられたらしい水牛の角が落ちている。
そして壁には犯人の血の手型さえ残っているのだ。
つまり犯人はたしかに、この部屋の中にいたことは確かなのに、それにも拘らず、教授並びにその召使いが、扉を打破った時には、犯人の姿は何処にも見えなかった。
一体、何処から彼は逃げ得たか?
これがこの小説に最初に投げられた謎である。作者はこの謎を次ぎのように解いた。
この惨劇には二つの時刻があって、令嬢が本当に襲われたのは、深夜の、教授たちが悲鳴をききつけた時ではなく、それより数時間以前の夕刻の、教授たちが散歩している間だった。令嬢はしかし、ある理由からこの惨劇を父に語るを欲せず、咽喉の傷は|襟《えり》|巻《まき》で隠していた。そして部屋の中へ残していた血の手型などは、部屋の薄暗さによって隠されていたのである。
では、深夜どうして、悲鳴をあげたか。それは夕刻の恐ろしい出来事を夢に見て、夢中に救いを呼んだのである。そして、ベッドから|顛《てん》|落《らく》する拍子に大理石のテーブルによって頭部を打ち、ここに新らしい傷が出来た。つまり、数時間あいだをおいて受けた二つの傷が、警察官には全く同一の時に受けたとしか見られず、従って、犯人のいなかった|後《のち》の場合のみを|詮《せん》|議《ぎ》して行ったために、事件は複雑になって行くのである。
この小説に於ける、令嬢の部屋こそ、全く「入口のない部屋」だった。そして、ルルウはこの謎を解くに当って、入口のない以上、犯人[#「犯人」に傍点]はその時部屋の中にいなかったという解決をもって、この事件を片附けている。
ドイルの「|斑《まだら》の|紐《ひも》」並びに「金縁の鼻眼鏡」も、入口のない部屋を取扱ったものと言える。前者に於ては、密閉された部屋の隣室から通風孔を通して、毒蛇を送り、女を殺す話である。被害者がこの蛇を見誤まり、断末魔の|間《ま》|際《ぎわ》に於て「斑の紐」と叫んだことによって、この事件は|一寸《ちょっと》迷宮に入った形になる。
後者は厳密な意味に於ては、このトリックに入るべきではないが、矢張り同じ興味から書かれたものと言って差し|支《つか》えあるまい。これは入口はあることはあるが、犯人がそこから出た形跡がない。したがって、犯人はまだこの犯罪現場にいるものという推定がなされる。
カロリン・ウエルズ女史の『フォークナーズ・フオリー』という小説でも、同じく、入口のない部屋のトリックが扱われている。しかし、これの解決は、同じトリックを扱ったものの中では最も平凡な部類に属するものである。
即ち、ある新らしく買入れた家の一|室《しつ》で、その家の主人が殺されている。犯人の逃走し得た|隙《すき》は何処にもない、ところが最後に至って、この事件の犯人は、同じ家に寄食していたある未亡人で、彼女の|良人《お っ と》というのがこの家を建てた建築技師であった。技師はこの家を建てるに当って、人に知られない秘密の通路を作っておいた。犯人である未亡人はこの通路を知っていて、そこを通って被害者をやっつけたというのである。「入口のない部屋」に秘密の通路が|予《あらかじ》め用意されていたというのでは、探偵小説の興味は殆んどなくなってしまうのである。
[#地付き]「探偵小説」昭和七年二月
探偵小説論――顔のない|屍《し》|体《たい》
探偵小説に|於《お》ける「顔のない屍体」は、「一人二役」や「密閉された部屋における殺人事件」などとともに、最も顕著なトリックの一つである。どんな作家も、一度は必ずこのトリックと取っ組んで見ようという衝動にかられるらしい。
私は偶然、この「顔のない屍体」を取り扱った小説を矢継早に四篇読んだ。フィルポッツ氏の「赤毛のレドメーン一家」と、クイーン氏の「|埃及《エジプト》十字架の秘密」、ステーマン氏の「殺人環」、それから江戸川乱歩氏の「|柘《ざく》|榴《ろ》」である。
ところで、このトリックが他の「一人二役」や「密閉された部屋の中に於ける殺人事件」に較べて、非常に顕著な相違があるというのは、他のものにはそれぞれ、いろいろな解決法があって、作者の|覘《うかが》いどころの力点が、主として、どのような解決法によって読者を驚かせるかというところにあるのに反して、「顔のない屍体」の場合には、いつもその解決法が|極《きま》っているということである。
ここに一つの屍体があって、何等かの手段――例えば首を切り取るか(埃及十字架)屍体そのものがないとか(赤毛のレドメーン)硫酸で顔の識別がつかなくなっているとか(柘榴)――によって、その顔がなくなっており、しかも、その屍体が着衣その他によってAなる人物と推定された場合には、|劫《こう》を経た読者は、直ちに、これを、Aは被害者ではなくて、むしろ犯人であることを、推定することが出来るのである。
私が最近読んだ四篇の探偵小説のうち、三篇までが、そうであった。
これは実際驚くべきことである。
探偵小説の興味の多くが、その意外なる解決法にあるにも|拘《かかわ》らず、「顔のない屍体」の場合に限って、常に解決は読者に観破されることになるのである。それにも拘らず、この問題がいつも読者の興味をとらえ、作者の|食慾《しょくよく》をそそるのは、興味の焦点が解決法にあるのではなくて、いかにして分りきった解決が、巧みにカモフラージュされるかというところにあるのである。
そういう意味では「赤毛のレドメーン一家」ならびに「埃及十字架の秘密」は、ちかごろ珍らしく成功した探偵小説である。我々はその解決を知っている。それにも拘らず、作者の巧みな煙幕にかかって、ひょっとすると違うかも知れないという場合を予想しながら最後まで引きずられる。したがって「顔のない屍体」を扱った場合には、ほかのいかなるトリックの場合よりも、煙幕の技巧に困難がある。この困難が、おそらく、作者の野心と食慾をそそるのであろう。
では、「赤毛のレドメーン」と「埃及十字架」に|於《おい》てはそれがどのようにカモフラージュされたか。そういうことを考えるのも、時にとっては興味のないことではなかろうとも思う。
私は口を極めて前者を賞讃した江戸川乱歩氏の言葉に、非常な興味を感ずるのである。言葉はちがっていたかも知れないが、だいたい、次ぎのようなことを乱歩氏は言っていられたようである。
「我々は|先《ま》ず最初に一人の探偵にお目にかかる。そして読者の誰でもが、その探偵こそシャーロック・ホームズであろうと考える。そう考えざるを得ないように書かれているのである。ところが実際はそれはホームズではなくて、単にワトソンにすぎなかったのだ、真実のホームズは小説中の|遥《はる》か後の方で登場する。そしてその人物によって事件は一気に解決されるのである。」
つまり「赤毛のレドメーン」の煙幕の最大なるものは、事実はワトソンに過ぎない人物を、ホームズだと思わせておく、その点にあるのだ。
我々はいつの間にやら、篇中の主役なる探偵に対して、絶対的な信頼をおくように慣らされている。探偵即犯人という、あの一番ショッキングな「一人二役」のトリックなどは実に読者のその心理的欠陥をついて出現したものだが、我々は常に犯人でないと分っている探偵、つまりホームズに対しては、絶大な信頼をおくのである。ホームズは間違いっこない。ホームズは絶対に失敗しない。ホームズの暗示する方向は常に真実である。殊にホームズが恋愛するとすれば、読者はその愛人に対して|満《まん》|腔《こう》の同情を寄せるだろう。
「赤毛のレドメーン」は実に巧みに、読者のこの心理的弱点を|掴《つか》んでいる。我々はホームズとばかり信じていたワトソンの、間違って示す方向を、しばらく真実として|辿《たど》るべく余儀なくされる。しかもワトソンは失敗しても構わないのである。いや、ワトソンは常に失敗すべきだ。我々はそのワトソンの失敗にかなり長い間|眩《げん》|惑《わく》されてしまう。だから「赤毛のレドメーン」のほんとうのトリックは、むしろ「顔のない屍体」よりも、より多くこの方にあるかと思われるくらいである。
だが、この場合ホームズは何故あとから登場しなければならないのか。何故ほかの探偵小説のように、真実のホームズが最初から顔を出してはいけないのか。ここにも作者の周到な用意があるのである。読者は常に二人の探偵が同時に登場する場合、どちらがホームズであるか、そしてどちらがまやかしものであるかということを、いち速く観破する本能を持っているのである。「黄色の部屋」は最も優れた探偵小説の一つであるが、二人の探偵が同時に登場するために最初から作者の意図するところが暴露しているという欠陥を持っている。対立した二人の探偵の両方が、ホームズであるということは絶対にあり得ない。どちらかは失敗しなければならぬ。賢明な読者というものは、常にホームズでない方の探偵の行動に疑惑を持つだけの能力を備えているものなのである。
ついでに言っておくが、乱歩氏がこの小説に対して絶讃を惜しまなかったということについて、私は非常に興味を感ずる。何故なれば、ホームズが後から登場するというトリック[#「ホームズが後から登場するというトリック」に傍点]、ならびに、ホームズの恋人はいつも疑惑の圏外におかれる[#「ホームズの恋人はいつも疑惑の圏外におかれる」に傍点]というこの二つのトリックは、二つながら乱歩氏が以前すでに用いているからである。乱歩氏はそこにおそらく、知己に似た感じを発見したのに違いないのである。
「埃及十字架の秘密」の煙幕はこれに較べると、もっと単純である。単純であるだけにしかし、よく考えてあると思う。
顔のない屍体A氏は、いつの場合でも、最後までその生存を|隠《いん》|蔽《ぺい》されるのが普通であるのに、この小説に於ては、非常に巧みな方法によって、篇中の途中に於て、いやが応でもA氏の存在が立証されなければならぬ仕組みになっている。読者はここで一瞬、自己の信念に動揺を感じさせられる。私にはこの小説のその部分に、非常な興味を感じたのである。
一体エラリー・クイーン氏は、現在生きている探偵小説家のうちでは、おそらく最も探偵小説家らしい物の考え方をする一人であろう。
「|和蘭陀《オランダ》靴の秘密」のトリックなども、これは「密閉された部屋に於ける殺人」の一変形にすぎないのだが、実に巧みに、言うところの読者の盲点をつかまえている。ただこの人は|遺《い》|憾《かん》ながら、それらのトリックを|如《い》|何《か》に消化すべきか、いかに装飾すべきかという点に於て、ヴァン・ダイン氏よりも遥かに劣っているようである。そしてそこに探偵小説の一つの困難さを、私は痛切に感ずるのだ。
江戸川乱歩氏の「柘榴」は、前に述べた「顔のない屍体」のトリックをもう一つ裏返したものである。そしてこういう手段は、初期の頃より、この作者がしばしば試みて来たところであるが、しかし一体一つのトリックとして存在しているところのものを、もう一度裏返して見せるということは、必然的に力の弱さを伴って来るのはやむを得ない。
「柘榴」一篇が力作であるにも拘らず、|其《そ》の他の探偵小説に比して迫力の|稀《き》|薄《はく》さを感じさせられるのは、他にも原因があろうが、作者自身がすでにそれを意識してかかっているからであろう。「顔のない屍体」の場合には、やはり被害者と加害者が入換わっているという方が、少くとも、現在では面白いようである。作家はそれをいかにカモフラージュすべきか、そこに工夫をこらすべきであるようだ。
[#地付き]六人社『真珠郎』所収「私の探偵小説論」抜粋
[#地付き]別冊宝石昭和二十五年十二月
初 出
「トランプ台上の首」
昭和48年9月 自社文庫
「貸しボート十三号」
昭和51年3月 自社文庫
「探偵小説講座」
大正15年4月 「探偵趣味」
昭和7年1・2月「探偵小説」
昭和25年12月 「別冊宝石」
*本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景を考え合わせ、また著者が故人であるということも鑑み、底本どおりとしました。
[#地から2字上げ]角川書店書籍事業部
トランプ|台上《だいじょう》の|首《くび》
|横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》
平成13年11月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Seishi YOKOMIZO 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『トランプ台上の首』平成12年9月10日初版発行