[#表紙(表紙.jpg)]
わが坐禅修行記
横尾忠則
目 次
T 参禅の旅
禅に魅せられて――総持寺参禅[#「――総持寺参禅」はゴシック体]
自分自身をよく知る――竜泉寺参禅[#「――竜泉寺参禅」はゴシック体]
全てを捨てさる――永平寺別院参禅[#「――永平寺別院参禅」はゴシック体]
どこにいても自己――青苔寺参禅[#「――青苔寺参禅」はゴシック体]
心に任せて自在に――鹿野山禅林参禅[#「――鹿野山禅林参禅」はゴシック体]
全てを打ち砕く――永平寺参禅[#「――永平寺参禅」はゴシック体]
自分を掘り下げる――松原哲明老師との対話[#「――松原哲明老師との対話」はゴシック体]
天地の間を自由に生きる――東山寺参禅[#「――東山寺参禅」はゴシック体]
U 日常・自然としての坐禅
自分の脚下をみる
自然に身を任せる
旅に自然に孤り行く
もう一人の自分をみつける
地獄と極楽の間
あるがままの生
抜けた者への魅力――玉峰尼との対話[#「――玉峰尼との対話」はゴシック体]
自分の命は自分で運べ――大森曹玄老師との対話[#「――大森曹玄老師との対話」はゴシック体]
参禅のなかの時間
あとがき
文庫版へのあとがき
[#改ページ]
T 参禅の旅
[#改ページ]
禅に魅せられて――総持寺参禅
「あたりまえ」ということ
ふとしたきっかけがぼくを禅に導いた。鶴見にある曹洞宗(僧|道元《どうげん》が中国から伝えた禅宗の一派)大本山|総持《そうじ》寺の宝物館で一昨年(一九七五)の正月、個展を開いた。それにさきがけ個展会場の下見にいった時、たまたま禅堂に案内され、そこで修行中の若い雲水(修行僧)の厳しい修行生活を見たのがきっかけである。仏道一筋に打ち込んでいる雲水の姿にぼくは驚くほどの美しさを感じた。雲水の年齢は二十歳そこそこの若者が大部分だが、同じ若者でも街で見かける若者とは全く違う表情をしている。ここでの雲水の生活はわれわれが想像する以上に厳しく、そして苦しい生活の連続である。しかしそのような禁欲的な生活にもかかわらず、彼等の表情はどこか透明で清楚だった。厳しい苦行の結果到達した高い境地を彷彿《ほうふつ》とさせるすがすがしさがあった。
雲水の前では自分がどういうわけか、汚れてみえた。また小さくも感じた。だが雲水の上に自分の姿が重なっていくような気がしないでもなかった。次第にぼくの中に禅への憧れと冒険心のようなものが沸き起こってくるのが感じられた。
とにかく、雲水のような美しい顔になりたいという単純な動機と、もしこのチャンスを逃がせば一生坐禅を体験しないで終るかも知れないという理由から、ぼくはこの日に参禅(師について禅の修行をすること)の申し込みをしてしまった。
躍《おど》る心と不安な気持ちが相克する中を、いよいよ参禅することになった。一応参禅を六日間と決めた。一口にいって非常に辛かった、苦しかった、というだけで後は何もなかった。とにかく長い長い六日間だった。六日後にはじめて解放された時は思わず、その場にへたばってしまった。寺の外の空気がなんとうまかったことか。「生きている」という実感が体の中から噴出してきた。そして辺《あた》りがキラキラと光輝して見えた。総持寺の山門を出た時、ぼくは思わず後を振り向いて寺の建物を見た。ここにはじめて来た時には感じられなかった親しみと懐かしさが建物いっぱいに溢れているように思えた。六日間の出来事が一瞬頭の中を駆けめぐった。坐禅のこと、警策《きようさく》(坐禅中に姿勢が崩れると叩かれる樫の棒)のこと、作務《さむ》(事務、仕事)のこと、朝課(早朝の読経)のこと、食事のこと、風呂のこと、講話のことなどが走馬灯《そうまとう》のように。そしてさっきまでのことがまるでずうっと昔の日のことのように、総持寺から車で離れていくにしたがって遠くへ消えていくような気がした。夕方の鶴見の街の灯がまるで非現実的に映っている。車が自宅に近づくにつれて次第に、現実の記憶が甦《よみがえ》ってきた。その時ぼくの口から勝手に、
「また参禅に行きたくなった!」
と言葉が出た。
日が経つにつれてぼくの中心から禅のことが少しずつ波紋のように拡がりはじめた。
参禅はぼくにとってはじめての修行だった。そのためか非常に緊張し、多分にストイックにもなっていた。悟れるものなら悟りたいとも思っていた。坐禅をすれば悟れると考える方が甘っちょろいわけだが、やっている時は本当に真剣だったのだから笑えない。またこのような修行をしている自分が、不思議に頼もしく思えて、ひとり自己満足に酔っていた。
しかし、このような自己満足は逆にマイナスで、修行者がしばしば堕ち込む危険な罠であることもわかった。次から次に浮かぶ煩悩《ぼんのう》(迷い、惑い、苦しみ、悩み、妄想など)との闘いがぼくの禅でもあった。普段では煩悩とは思えないものまで煩悩と感じるわけだから、知らず知らず自分を見詰めることになる。しんどいといえばしんどい話だ。しかし、煩悩の流出は毒素がでるようなものだから出た後は爽快だ。
禅寺での生活は全く日常離れしている。何ひとつ頭を使うことなく、ただただ一生懸命に坐り、お経をあげ、掃除をし、また一生懸命ごはんを食べて、日が暮れると寝るのである。健康といえばこれほど健康で、しかも自然な生活は他にないかも知れない。禁欲的といえば禁欲的であるが、それはあくまでも物質的、あるいは快楽的なものに対しての禁欲で、人間が本来それほど必要としないものにわれわれは執着して生きており、そして人間を病気に追いやっているのだろう。日常生活の中で半病人的な生活を送っているわれわれにとっては、禅寺の生活は非常に単純で目的性がなく、ただ無意味で退屈なもののように映るかもしれない。
しかし、考え方を変えればここはすべての欲望と誘惑から遮断された地上の楽園でもある。目的も意味もなく生活することがどんなに解放されて楽しいかは禅寺に入ってみなければわからない。ところがそんなに楽しいところならひとつ俺も入ってみようかと思って入ったなら、こっぴどい目に合うだろう。先ず何のためにこんなに足を痛めてまで長時間坐らなければならないのだとか、塩だけでめしを食うなんてまるで捕虜収容所じゃないかとか、坊主になるわけじゃないのにどうして長々とお経を読ませるんだとか、誰のために便所掃除をしなければならないんだとか、一つ一つ腹が立つことばかりの連続である。初日にはじめて入った警策の痛さに、ぼくは思わず単頭老師(僧堂の中で最も上の人)に文句をいいに行ったくらいだ。
「警策の恐怖のため落ちついて坐禅ができません」
「そんなに強く入りましたかね?」
とにかくすごい音がするのである。自分に警策が入るより他の人に入った時の音の方が恐怖感をそそる。
しかし、やんわりと入る警策なら修行にならない。自ら求めて入った坐禅である。まあ死ぬこともあるまいと思うと別にどうってこともない。六日間も一見無意味とも思われる同じ生活をしていると、ふと自分は一体何のためにこんな所に来ているのだろう? という疑問が沸いてくる。単なる好奇心ではなさそうだ。もっとぼくの内部から突きあげてくる衝動のようなものだ。
この衝動とは一体何なんだろう? 確かに参禅を希望したのはぼくの意志である。しかし、どうもそれだけではないようだ。というのもこのたった一回の参禅が病みつきになり、再度挑戦したのだから……。そして今ぼくは三度目の参禅に行こうとしている。一度目に味わえなかった妙味が二度目にあったからだ。こうなると、ぼくは禅によって導かれているというような不思議な因縁《いんねん》(ある結果を生む原因とその結果をもたらす助けとなるもの)さえ感じるのだ。
総持寺の岩本勝俊貫首老師は禅に導かれる者は因縁の熟した者、縁の深い者、道元禅師(一二〇〇〜一二五三、曹洞宗の高祖で永平寺開山)の言葉を借りれば「昔より法のうるおいのある人」であるといわれる。しかし、このことを喜んでいいものか、悲しんでいいものかぼくは迷ってしまうことがある。禅との因縁があるために逆に修行において苦しまなければならないだろうし、しかしその反面もし自己から解放されて自由になれれば、まさに「法のうるおいのある人」だったともいえる。どちらに転ぶか、それも縁の深さで決まるのだろう。
またぼくの参禅につき合ってくれるK君とN君の二人も禅と因縁のある人達だったということになる。誰のためでもなく、彼等のために禅の世界に入っていくことになったのだろう。
「身心脱落ということは坐禅である、ひたすらに坐禅に打ち込んでおれば、五欲(財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲の五つをいう)を除き、五蓋(貪欲、怒り、惰眠、後悔、疑いの五つをいう)を離れることができる」
如浄禅師(天童如浄。一一五四〜一二二九)の言葉である。われわれの日頃の悩みや苦しみはすべてこの五欲、五蓋からきているのである。ぼくが宗教的なるものに興味を持つようになった直接の原因は、交通事故で入院した時はじめて手にした「阿含経《あごんぎよう》」(小乗の根本聖典。釈迦が鹿野苑で説いた経)だった。「阿含経」を読むに至った動機は死に対する不安感からだった。生に対する執着の強さが死を恐怖させたのだろう。生に対する執着はつまるところ五欲、五蓋だったのである。これらのものから解放されれば人間はどんなに楽に生きていくことができるだろうか、ということを考えはじめた時、ぼくは知らず知らず宗教的世界に強い関心を抱いてしまっていた。
欲望が強いせいか、何をしても満足できず、たとえ夢や目的が実現しても、その瞬間から再び不満が起こる。
一体何がぼくをこのようにさせているのかさっぱりわからなかったのだ。何をしても満たされないという不満感をぼくは常に自分を取りまく環境や他人や社会のせいにしていた。不満の原因はすべて外にあるものとして、自己反省などするということは全くなかった。ところが病院のベッドでいらいらした気持をまぎらわすために読んだ「阿含経」によって、不満の原因はすべてぼく自身の内にあるということを知らされたのである。今から考えてみるとあの事故はぼくを戒めるために計画された業《ごう》(身、口、意識の行いすべてをいう)の仕業だったと思っている。
しかし、「阿含経」の釈尊の教えに耳を貸すことができても、教えを実行することの難しさに加えて、ぼくは自分自身の矛盾と偽善性に、以前にもまして苦悩する日が続いた。
この頃、ぼくはオカルトにも強い関心を抱いていた。超常現象と宗教、そして科学の関係が非常に面白く感じられた。なんでもない現実の裏に潜む超自然の働きが、万物に大きな影響を与えていること、勿論人間の運命にも作用するという宇宙の力、その宇宙の力こそわれわれの内在する力であることなどを知った時、ぼくは人間の想念波動の素晴しさに感動し、この自己に内在する力をフルに発揮して超能力人間になりたいとさえ思ったのである。そのためにサイキック(テレパシーなど)な訓練をしたり、ヨーガを習ったりもした。しかし、このことがぼくにとってすごい欲望であることもわかっていた。この欲望がある限りぼくがいくらあがいても超能力人間になれないと思った。五欲、五蓋を離れることによって、その副産物として超能力を獲得するということも知った。
しかし、このような大それた目標はぼくの人生にとって何ほどに重要なのだろうかと、ふと考えることがあった。
それよりもっと重要なことは自分が「あたりまえ」であるということだとわかった。
今までのぼくは目覚めるためにかなりストイックであり過ぎた。そして、多くのこだわりからどうしても抜け出すことができなかったのだ。オカルトやヨーガは一見非合理にみえるが非常に論理的である。それに比較して禅はただ何も考えずに坐りなさい、そうすると悟れます、といったぐあいに、考えることを否定する。だからぼくはどうしても禅が現代的ではないような気がしてあまり興味が持てなかったのである。
ところが参禅してぼくははじめて、禅の素晴しさを知った。悟った、という意味ではない。理屈を越えてひとつひとつ体でいろんなことを教えられたのである。誰かが教えるというのではない。そこら辺りに散らばっている庭の落葉のように、自分が教えを見つけて拾っていくのだ。教えが目の前に落ちていても見えない時もある。しかし同じことを何度も繰り返している間に、自然に目が開くということもあろう。
最初の参禅はあまりきつかったので、ぼくは一日中不平をいっていた。というのも全くこちらの主体性を奪われたままだったからである。とにかく決められたことはいやでもその時間内にやらなければならないのだ。相手の主体に従うことが自分の主体でもあった。ところが相手の主体に抵抗するならば即こちらが悩まなければならなくなってしまう。自分の流れではなく相手の流れに乗るということに気がつかなかったから苦しかったのである。このことがわかるまで五日かかった。一旦相手の流れに乗れば、逆にすべての時間が自分のものになってしまうこともわかった。
このように少しずつ禅の魅力に引っぱられながらぼくはこの一年間各地の禅寺をめぐることにした。自ら選んだ道である。修行という堅苦しい考えを捨て、自分がどこまでついていけるかまたどこまで解放できるか、という不安と期待を抱いて坐り続ける気持ちである。
「なぜ?」という疑問
午前四時、闇を裂くような振鈴(起床の時を知らせる鈴)の音で目を覚ます。雲水が鈴を振りながら全速力で廊下を駆け抜けていく。総持寺の一日の始まりだ。下界のわれわれの仲間がそろそろ床に着く時間である。十一月中旬のこの時刻は真夜中のように暗く、そして真冬のように冷える。眠い目をこすりながら禅堂に向かう。冷え切った板の廊下は素足には氷のように痛い。堂内を歩行する時は叉手《しやしゆ》といって左手親指を中にして握り、手の甲を外にむけ、右の手の平を左手の甲に重ね、ミゾオチの辺に置き、人と出逢った時はその手を顔のところに持ってきて合掌しなければならない。また参禅期間中は自室以外一切の私語は慎まなければならない。
一般参禅者の禅堂と雲水の僧堂は廊下を隔てて建物が別になっている。参禅者用の禅堂の中は凹字型が向かい合った形になっており、外側にさらに二つの凹字型が部屋を囲んでいて、細長く畳が壁にそって敷いてあり、禅堂の中は昼間でも薄暗い。禅堂の出入りにも、坐り方にもすべて作法があってそれを間違いなくやらなければならない。坐禅が始まる時、止静《しじよう》(坐禅を開始すること)といって小鐘が三つ鳴る。これを合図に坐禅を開始するわけだが、少しでも姿勢が崩れていると警策《きようさく》が入る。警策は樫《かし》の棒の先を平たくしたものだが、耳元でびゅんといううなりをたてて右肩に打ち込まれる。想像していたよりかなり痛いものだ。しかし警策の後は体がしゃんとして再び坐禅に集中できる。ぼくは二度目の参禅で多少慣れているせいか雲水から坐像が美しいとほめてもらったが、同行のカメラマンのK君と編集部のN君は何しろ初めてのものだから時々警策が入っていたようだ。自分に警策が入った時より、むしろ他人に警策が入った時の方がビクッとする。何しろ禅堂いっぱいに「バシッ!」という音が反響するのだ。思わずこちらの背筋がピンと伸びる。また警策を持った雲水の影が目の前の壁や障子に映る時など思わず肩に力が入り背筋に恐怖が走る。最初の参禅の時などは警策の恐怖ばかりに気を取られ肝心の坐禅になかなか身が入らなかった。
また坐禅をすれば雑念ばかりが次から次へと湧き起こってくる。まったくどうでもいいことばかりだ。そして気になるのは放禅鐘《ほうぜんしよう》(坐禅を終わる時の鐘、一声)のことばかりで、|一※[#「火+主]《いつちゆう》(一本の線香が燃えつきるまでで、約四十分)四十分がとてつもなく長く感じられるのである。無念無想≠ネんて言葉だけであってたった一瞬たりともこのような状態になったことがない。何も考えていなかったという空白の時間があったような気がしても、それは眠っていた間のことである。何しろ朝が早く、こうして坐禅していてもいつしか睡魔に襲われる。睡魔と寒さと、時間との闘いが坐禅である。
早朝の坐禅が終わると、その足で二百メートルもあるという地下道を渡って、太祖堂(総持寺開山瑩山紹瑾禅師をまつる堂)に朝課のため入る。太祖堂のスペースはテニスコートが五つ、六つ取れる位の大広間だ。朝課はだいたい五時頃から約一時間、長い時で二時間近くかかり、この間ほとんど正坐のままである。そして四十人位の僧侶によって荒神真読《こうじんしんどく》といって般若心経《はんにやしんきよう》、荒神真言《こうじんしんごん》、伝灯諷経《でんとうふぎん》、大悲心陀羅尼《だいひしんだらに》、御両尊諷経《ごりようそんふぎん》、祠堂諷経《しどうふぎん》などのお経が上げられる。われわれ参禅者も僧侶と共に手渡された経典を読むことになっている。不思議なものでお経を上げていると心が浄化されていくような気がする。お経と共に色々な儀式が次から次へと目の前で展開していくのだが、これは毎日眺めていてもなかなか飽きがこない。中でも圧巻は何といっても六百巻の大般若経をアコーディオンを大きく開くようにして、パラパラと何やらわけのわからない、いい加減なことをいって、次から次へと読んでいくシーンで、これは朝課のハイライトである。
またぼくが好きなものに荒神真言というのがあって、これはチベットのマントラ(真言)風で、〈オンケンバヤ、ケンバヤ、ウンバッタ〉と二十一回ゆっくりと繰り返すわけだが、これはちょっとしたトリップ状態にさせられる。またこの荒神真言と共に、もう一つの真言《マントラ》風に唱える大悲心陀羅尼は〈ノラキンジー、ソモコー、モーラー、ノーラーソモコー、シラスーオモギャーヤー、ソモコー……〉という具合に、大太鼓と鐘、そして大木魚によって伴奏がとられ、まるでプログレッシブ・ロックの原形がここにあり、という感じで、魂が肉体から離脱して無限の宇宙空間を飛翔していくようだ。人を魅了し、感動させる背景にはこうした宗教的宇宙世界が必ず存在しているものだという実感がする、そんな光景である。
太祖堂の入口や窓の戸はすべて開け放たれているために堂内の空気は冷たい。しかし朝が次第に明けてくる様は絶妙である。漆黒の闇は東の空から次第に濃紺になり、やがて灰色になったかと思うと、次の瞬間水色に変わり、一条のピンクの帯が水平に引かれ、やがて手前の木々の梢が見事な影絵と化す。小鳥のさえずりが一段と騒々しくなったかと思うと、いきなり黄金の光芒が堂内の床を突き刺す。僧侶の法衣に反射した陽光が僧侶を金色に輝く四十体の仏に変身させる。高なる読経と見事な自然の演出はクライマックスに達していく。来てよかった! とつくづく思う。
約一時間半にわたる朝課が終わると、部屋に帰って先ず部屋の掃除と廊下の拭き掃除だ。これがまた長時間正坐していた後だけに、何ともいえぬ解放感である。約三十分の休憩の後、朝食が始まる。朝食は粥《かゆ》とおしんこに胡麻《ごま》塩だけのまことに質素なものである。食事一つするにもいちいち厄介な作法がある。参禅時の行法の一つである。
食事に当たっては行鉢念誦《ぎようはつねんじゆ》というお経を上げなければならない。確か三食共異なったお経を上げていたような気がするが今は忘れた。時によって粥はすでに冷え切ってしまい、水分が蒸発してまるで大和糊のようになっていることもある。おしんこ一つ食べるのもいちいち器を手で持ち上げてから箸で挟んで口に運ばなければならないので、食器の上げ下ろしに結構忙しい。音を立てないように、勿論しゃべることは禁じられている。ただ黙々と食うだけである。楽しんで食べるという感覚はまったくなく、緊張のあまり体に力が入って、何を食べているのかわけがわからない。また雲水の食べるスピードが猛烈に速い。食べ遅れたら一人取り残されえらい恥をかくので、周りの人の食器の中身を伺いながら自分のスピードを加減していかなければならない。また食べ終わるとひと切れのおしんこを残して食器にお湯(白湯《さゆ》である)をそそぎ、器の中身をおしんこできれいに洗って、それを最後に飲みほすのである。決してうまいものではない。
また箸は口でよくなめてそのまま箸袋に納める。食事当番というのがあって、食事の用意や後始末をやらなければならない。自分の食器さえ洗った経験もないのに他人の食器も洗わなければならない。妻には見せられない姿である。
朝食後はしばらく部屋で休憩し、再び坐禅が開始される。家にいる時ならすでにこの辺りで一日分の仕事が終わったような気がするのだが、ここでは一日の四分の一がやっと消化されたところだ。時間は八時になったばかりだ。まだ寝ているだろうと思われる友達の所へ電話して起こしたい衝動にかられたりもする。というのも他人に比べれば何か非常に立派なことをやっているような気になるのである。悟るどころの騒ぎではない、まったくその反対の感情が起こってくるのだ。
二度目の坐禅は腹もいっぱいになり、少しは体が暖まって、最も睡魔が襲ってくる時である。坐禅をしているというより睡魔と闘っているだけである。こんなことをやっていて何になるのだろうかと考えるのだが、「只管打坐《しかんたざ》」といって何も考えないで坐るのが禅だという。悟るという意識さえも捨ててかからなければならないそうだ。
朝食後の坐禅が終わって昼食までの間に作務ともう一度坐禅がある。作務というのは禅堂や廊下、あるいは庭の掃除をすることだが、坐りっぱなしの後の掃除は実に爽快で楽しい。働くというより遊びといった方がふさわしいかも知れない。天気がいい時などの庭掃除はまるで仕事をさぼっているような気がして、下界で働いていらっしゃる皆様方にはつい申しわけないような気がするくらいだ。またその反面、道を求めることと庭掃除がどのように関係があるのだろうか? とふとこんな疑問も浮かぶが、考えないことが禅である以上、考えない、考えない。
ある日、庭一面に黄金色に敷きつめられたいちょうの葉っぱの掃除をおおせつかった。まるで敷物のように美しい。掃除をするのがもったいない。
「こんなに美しい落葉をなぜ掃くんですか? このままの方がよほど無常感があり禅の精神を生かしていますよ」
と、ぼくは聞いたようなことを雲水にいった。
「まあ、やってください」
理解できない雲水だなあ、と思いながら掃除をすることにした。ところが、どうだろう。掃く次から次へと葉っぱが落ちて来るではないか。四、五日経ってからまとめてやりゃいいのに。
さて翌日、また作務だ。再び同じ場所を掃除しろという。何て無駄なことだろうと思ったが、
「まあ、いいじゃないですか、やってください」
といわれた時、ぼくは、はっ! と気づいた。つまり理屈を考えるな、ということなのである。われわれは何でも合理的に物事を考え、筋道の合わないことはできないと称する。そしてまたそのことで悩み苦しむ。作務の中にも禅の教えがあるのだ。このことがわかってからというもの、ぼくは疑問を持つことを止め参禅に励むことにした。
五、六十メートルもあろうかという長廊下の拭き掃除は大変な重労働である。ある日雲水がこの廊下を拭いていたので今日はここをしなくてもいいようだ、助かったぞ、と思っていた矢先、
「長廊下をお願いします」
「だってたった今雲水の人達がやっていましたよ?」
「何度でもやりましょう」
「…………」
一度やったら二度やっちゃいけないという理由もないのだ。またしても「なぜ?」という疑問を持つぼくは理屈っぽい。廊下を美しく掃除するという目的以外に、労働をするという立派な目的があったのだ。それと「なぜ?」という疑問を消すためでもあったのだろう。何だか少しずつ禅というやつが面白くなってきたぞ、と感じ始めた。
昼食はご飯にみそ汁、そしておしんこだ。だからいちいちご飯とおかずを交互に食べているとおかずがなくなってしまうので、ご飯だけをうんと沢山口の中へほうり込まなければならない。ぼくはここに来て初めて米の味を知った。おかずなしでご飯だけを食べなければならないからだ。普段はおかずの量が多いため、純粋の米の味を噛みしめることがないのだ。純粋ということがいかに精神的なものかということをぼくは米を噛みしめながら知らされた。ここにも禅の教えがある。
昼食後約一時間の休憩があり、再び坐禅が開始されるが、この時は一時間以上だ。長時間にわたる坐禅の時は経行《きんひん》といって鐘二声が合図で組んだ足を解き、台から下に降り、床面を半歩ずつゆっくり前進する寂黙緩歩《じやくもくかんぽ》の法を行なう。この経行も坐禅の一つに数えられている。しびれた足を直すためにもこの行は大変気持ちのいいものだ。床はコンクリートになっており裸足に冷たい感触が伝わり何とも心地よい。
その日によって異なるが、この長時間の坐禅の後は単頭老師の法話などがある。以前参禅した時はこの単頭老師、随分良寛さんに心酔されていて、何度も良寛さんの話を聞かせていただいた。良寛さんがいかに底の抜けた人間であったかということ、これは風鈴と同じく南から風が吹けば北に揺れて、チリンチリンと応《こた》える。打てば応えるという良寛さんの生き方が禅の心を表しているというような内容だった。だからまたしても良寛さんの話が始まるぞ、と待機していると今度は一休さんの話だった。一休さんの話の内容はどういうわけか現在ぼくは何ひとつ覚えていないので伝えることができない。ただ単頭老師のお話の最中、何度も爆笑した記憶だけが残っているだけだ。
法話の後少々休憩があるのだが、この頃になると相当疲労の色が濃くなってくる。最初の一日は緊張したまま終わる。二日目は多少勝手を知ってくる。ところが三日目に入り、まだ後二日もあるのかと思うと愕然とする。自ら参禅を志したぼくはともかくとして、まったく興味のないK君やN君にすれば無理矢理連れて来られたという意識があるから、まるで生地獄にでも合っているような、哀れとも悲愴ともつかぬ苦しい表情をして、ぼくを恨めしく見るのだ。ところがいよいよ今日で最後だとなると急に生き生きとなり、熱心に坐禅に励み、N君などは坐禅を解く合図の鐘が鳴ってもまだ止めようとしなかった。非常に深く自分の内部に入っていたそうだ。後で聞くとかえってこのように何の予備知識も関心もなく入って来た人の方が早く無心になり、そして悟るのも早いと聞いた。まことにぼくとしては羨《うらや》ましい次第だ。
夕食の前にもう一度坐禅があるが、ぼくはこの時刻が一番気持ちが落ち着くような気がする。屋外では境内で遊ぶ子供の声や、鳥の声、遠くを走る電車の音や救急車のサイレンなど一日の内で最も音の種類が多くなる時だ。このような夕暮の騒音を聞いていると、これらの音が遥か昔の子供の頃の過去の時間の中から聞こえて来るような気がして、不思議と心が安らぐ。そしてぼくが坐禅しているこの場所がとてつもなく高い場所にあるように思え、日常の世界とこことはまったくあい入れない別天地のように感じられてくる。そして今朝の朝課がまるで二日も、三日も前の出来事のように遠い。ここでは時間の流れが実にゆるやかに進行している。一日の時間がこんなに拡大されて感じるなぞ、到底日常では考えられないことだ。
ここでは、ここの規則にのっとって生活しなければならない。まったく自我意識が介入する隙さえない。もし一つ一つの事柄に自我意識を起こされるとたちまち悩み苦しむ。われわれの人生における苦悩はこの自我意識に原因している。しかしここでは少なくとも自我を捨ててかからなければならない。そうでなければ、あんなまずい食事や、便所掃除などできたものではない。ところがこのようなことでも不思議と珍しく思え、結構楽しんでやれる術《すべ》を教えられるのだ。
夕食の後就寝の九時までまだ二回の坐禅が待っている。入浴のある日は一回で済むわけだが、この入浴も坐禅の行の一つに数えられている。風呂の中では一切話をしてはならない。入浴後院内の暗くてとてつもなく長い廊下を一人で自室に戻る時がぼくは一日の中で最も好きだ。この長い廊下を渡れば一日が終わるのだという感慨を胸に抱きながらキュッキュッと泣くように軋《きし》む廊下を渡る時はちょっとしたものである。こんななんでもない事柄に感動や発見があるのもここだけである。ぼくたちがいかに日頃無感動になっているかがよくわかる。
五日間の参禅はとても長かった。ひと口にいって毎日がつらい日々の連続だった。体重が今回は二キロ減った。前回は四キロ減っていた。減量分が自分の自我の重みであったらどんなに嬉しいことだろう。
[#改ページ]
自分自身をよく知る――竜泉寺参禅
「これは何ですか?」という疑問
初めて総持寺に参禅したとき、板橋単頭老師に独参(ひとりで老師に質問し教えを受けること)して、色々と悩みを打ち明けた。ところが板橋老師は、
「わしゃ、よう答えられませんわ、あなたの悩みに答えてくれるのは井上義衍老師(浜松、竜泉寺師家)以外にはおられません。紹介状を書きますからひとつお逢いになってみられたらいかがでしょう」
なかなかこうはいえないものだ。ぼくは単頭老師をいっぺんに尊敬してしまった。そして単頭老師の御紹介と、NHKの宗教番組担当の知人の計らいによって、ぼく達三人は浜松の竜泉寺に参禅することになった。ところが運よくというか悪くというか臘八接心会《ろうはちせつしんえ》の期間にぶつかったのである。十二月八日の釈尊成道(釈迦三十歳の折り菩提樹の下に悟りを開いたことをいう)を記念して十二月一日から八日の朝までぶっ続けに坐禅するのである。
竜泉寺は浜松市内から少し離れた、茶畑と林に囲まれた質素なお寺で、境内には檀家の墓があり、ぼくたちが到着した時は、冷たい風の中で一人の雲水と一人の若者が庭掃除をしていた。さっそく井上老師に逢うことになった。単頭老師に紹介いただいた時から、ぼくの導師になる方ではないだろうかと心の中で決めていただけに、お逢いした時は興奮した。
井上老師は小柄ではあるがとても八十三歳とは思えないほどお元気で声に力がこもっていた。
「すべてのものはそれぞれにおいてそのもので解決がすんでおり、それ故にすべてのものは存在しているのだから、何ひとつ疑うものはないんですわ。そして、これほど確かな事実はないんですよ」
一度聞いたぐらいではなんのことかさっぱりわからない。怪訝《けげん》な顔をしていると、いきなりポンと両手を打たれ、
「これはなんですか?」
と聞かれる。まるで狐にだまされているようだ。
「はあ? なんですか?」
「あなたが聞こうと思わんかっても、この音はあるでしょうが?」
「……?」
「ポンという音は事実で、これ自体には意味がないのにあなたは考えようとされる。考える以前にこの音はあるでしょうが。自分が聞いておるんじゃない、ただ聞こえておるのです。つまりこの音は自分を離れた活動者なのです」
「……?」
「坐禅をすればわかります。すべての作用が観念的なものではなく、本質的に無我なものであるということが解りますよ。ひとつやってみてください」
えらいことになってきた。なんだか今日までまったく違ったものの考え方をして生きて来たような気がしてきた。しかしこの井上老師のお話もまるで雲をつかむように実体がない。大変なお坊さんに出逢ってしまったものだ。ただぼくの頭は混乱しただけでぼくにとってはまだ何の発見もない。しかし、何やら非常に重要な問題を提起されたような気がする。同伴の二人に「わかったか?」と聞いても二人共首を横に振るだけだ。ぼく一人が解らなければ馬鹿だということになるが他の二人共解らないというので安心した。とにかく一時間以上にわたって井上老師のお話を聞いたが、まったくちんぷんかんぷんである。断片的に印象に残っている言葉を五つ六つ拾ってみると、
「人は生まれながらに悟っておる」
「人には悩み苦しみといった煩悩《ぼんのう》はもともとない」
「人間的見解をするから真実がわからないのである」
「人間の身体はもともと自我のない存在者なのである」
「自分が、自分が、という自我意識がない世界が悟りである」
「坐禅をするには悟るという意識さえ捨てなければならない」
ここのお寺の振鈴は午前五時である(冬以外は四時)。部屋には火の気がないのと障子だけの仕切りのため、最初の夜はとても寒くて寝られなかった。足を縮め膝小僧を抱きしめ、まるで胎児のような格好で寝たものだから朝起きてから体中が痛む。冬の午前五時はまだ外は真っ暗闇だ。空にはとても東京では見られないような数の星が満天に冴えわたって光輝している。戦慄するような美しさだ。しかし一方背筋を走る氷のような冷気に思わず身ぶるいする。
五時二十分から坐禅が始まる。禅堂は三十六畳の和室で座布団の上に坐蒲(丸いざぶとん)がのっかっている。ちょっとここで坐り方を説明すると、背骨の下が坐蒲の中心部になるように着座して足を結跏趺坐《けつかふざ》(坐禅の坐り方で、先ず右の足を左のももの上に置き、次に左の足を右のももの上に置く)または半跏趺坐(坐禅の坐り方で、左の足を右のももの上に置くだけの姿勢)に組み、手は法界定印《ほつかいじよういん》(坐禅の時結ぶ印相。右手を下に左手を上に重ね趺坐の上に置き、両手の親指をむかわせ互にささえることをいう)を結ぶ。
先ず坐禅始めの警策が一発入った。少し打ち所がずれたのか坐禅中ずっと背骨の一角が痛んだ。坐禅中井上老師のあの奇妙な言葉がひとつひとつ頭に浮かんできたが、まるで智恵の輪がからんだように言葉の意味が謎めいておりなかなか解けない。老師のポンと叩かれた手の音がいつまでも耳に残っているために、あの音の意味の謎を解こうとしてしまうのだ。もともとあの音には何の意味もないのにこだわってしまっている。どうもすっきりしない。
坐禅中にこのような想念を浮かべ、いつまでもこの想念に引きずり廻されている自分にふと気付き、心の動きをストップさせようとするのだが、またしてもあのポンという音が気になり出す。こんな風に次から次へと浮かぶ想念が、ぼくの本性らしい。本性は本性のままで出てきてもほったらかしにしておけばいいのだと自分にいいきかせる。あんまりポンという音の事ばかり考えていると気が狂いそうになる。次に畳の目に意識を集中することにした。やがて畳の目は次第にぼやけ、どんどん畳ごと自分の体が浮上を始めた。そして一枚の畳に坐った自分が、とてつもない広い空間を飛んでいるような気になってきた。しかし、こんな想像も妄想《もうぞう》といって雑念の一種である。再び意識をもとに戻した。長い朝の一※[#「火+主]が終わった。
この後は本堂での朝課である。あげるお経は般若心経《はんにやしんきよう》と開経偈《かいきようげ》と、普回向《ふえこう》と、妙法蓮華経如来寿量品偈《みようほうれんげきようによらいじゆりようぼんげ》で約三十分で終わる。本堂全体に広がった線香の芳香がたまらなくぼくの気分を高揚させる。しかし睡眠不足と強烈な冷え込みのせいで身体が硬直したままだ。朝課が終了すると同時に朝食がいただけるのが実に嬉しい。総持寺と違ってここの食事は非常においしい。朝食だというのにおかずが沢山ついている。また粥が熱くて冷え切った身体にはまさに仏の慈悲である。
朝食後は作務《さむ》であるが、このひとときがまた嬉しい。庭と墓場の掃除である。寒さで体が縮かんでいるので、出来るだけ体の動きを激しくして飛び跳るように墓場にたまっている松葉を掃き集めるのである。墓場をきれいに掃除することでこんなにすがすがしい気分になれるものとは思いもよらない大発見だった。日頃先祖を祀《まつ》っていないぼくはこのようにして他人の墓掃除をさせてもらうことで何か許されるような気がし、奇妙に有難いという感情が体の中から湧いてきた。
掃除の後は掻き集めた松葉や、林の中から拾ってきた枯木で焚火をするのだが、これがなんとも御馳走なのである。焚火を囲んだのも何年振りだろう。田舎や子供の頃が急に懐しくなり、意味もなく顔がほころぶのだった。今回の接心会のために遠方から見えたお坊さん達や、参禅会の人達で焚火を囲んで談笑するこのひとときが一日の中で最もゆったりとした憩の時間である。焚火の中に芋をほうり込んでおいて昼の休憩時間に食べるのも楽しみの一つである。日頃自然とあまり縁のない生活をしているわれわれ三人は、掃除や、焚火や、焼芋に大感激だった。
木や、土や、火や、風や、煙や、線香や、芋の香りに、本物に触れた感動と共に自然の中に身体ごと溶けていくような感じである。このような自然に触れてぼくの体はひとりでに喜んでいるようであり、自分自身が本来自然体であるということが何の抵抗もなく自覚できた。
接心(一定の期間、昼夜不断に坐禅すること)の時期の坐禅はきつい。ほとんど一日じゅう、連続して坐禅のしっぱなしである。臘八接心会というのは釈尊の悟りにあやかって、釈尊になりきって坐禅をぶっ続けるのである。何しろ足をはじめ体中が痛い、心は乱れる、目は霞む、頭はがんがんする――こんな苦行が一体何の益になるのだろうという疑問が起こる。しかし、次の瞬間井上老師の言葉が再び頭に浮かび、「何も考えない」ことに徹しようとする。ところが何も考えないということは不可能なのである。意識がある限りぼくの心は動く。心が動くことは当たり前である。
この心の動きがぼくの本性なのだ。生きているから心が動いているのであると、また自分にいいきかせる。
ぼくの日常生活は忙しく、こんな田舎の自然の空気に触れることも、こうして静かに坐ることもない。まったくすべてがぼくにとって新しい体験であり発見でもある。こんな風に何日間も頭を休めていると今まで見えなかったものが一つずつはっきりと真実の姿を現わしてくるような気がしてくるものだ。大した事でもないのに、大げさに考えてみたり、時には欲にかられて、その結果悩んだり苦しんだりしていた日常の姿が影絵のように遠くで踊り狂っているのが見えるようである。常に頭ででっちあげた考えで生活していたことの誤りが、少しずつ知らされる思いである。
しかし、まだぼくには何が善で、何が悪かという区別ができない。人間本来のあるがままの姿になり切れないぼくはまだまだ苦悩が絶えないだろう。頭では理解できる宇宙の原理も、マインドが理解していないために、ぼくは何ひとつ知らないのも同様である。
頭で教えられたことを何もかも一度空にしなければならないのだろうか。知識や、教養が深ければ深いほど人間は概念的で人間本来の姿から遠ざかっているのだろう。現代の文明や文化はこうした知識によって形成されてきたが、ここには人間を本質的に救済する手だてがないのではなかろうか。人間が本来自然体である以上、自然体としての文明や文化を形成してこそ、この世界が初めて真の人間世界になるのではないだろうか。
坐禅をするためには仏教は必要ないかも知れないが、仏教を知るためには坐禅は不可欠であろう。仏教は釈尊が坐禅の結果認識された、人間と宇宙を結ぶ深遠な教えである。この宇宙の原理を知るためには、釈尊がなされた坐禅の道を習うのが一番近い道であり、これ以外には方法はないような気がする。仏教が学問になろうとしている現在、仏教の本質は喪失したと同じである。人間は何も坐禅をしたり、神仏をたよる宗教を持たなくても生きていけるかも知れない。しかし、真の幸福や、真の自由をこうした中で見つけるのは並大抵なことではなかろう。
ぼくは坐禅を別に宗教だとは考えていない。姿勢が正しくなり、背筋がピンと伸び、体全体の血液の循環がスムーズになり、内臓がしっかりし、心が落ちついて、いわゆる調身調息調心(身体、息づかい、心の持ち方が静かに統一されること)が決まり、心と体が一体となり健康体になると同時に平常心を保てればたとえ悟れなくってもこれで充分満足だと思っている。そういう意味では坐禅は生体科学といってもいいかも知れない。日常のストレスが解消されることがぼくの当面の坐禅の目的である。いや、このことさえも考えない方がもっと効果をあげるという。
よけいなことに心を使わず「只管打坐《しかんたざ》」ただ黙って坐ればよい! この言葉が気にいって入った禅の世界である。理屈の好きなぼくが初めて理屈抜きの世界にしびれるような魅力を感じたのはおそらく禅が初めてである。ぼくの内部で何か大きな動きが開始されたという喜びにぼくは今少々興奮気味なのである。
しかし、坐禅をしている時間はすべて自分の時間でありながら、どうにも自由にならないというまどろこしさも感じる。時間が経つにつれ、半跏趺坐に法界定印を結んだ坐禅の姿勢が次第に苦痛になってくる。ワッと大声をあげて坐禅の姿勢をくずしたい衝動にかられる。普段であれば一※[#「火+主]が四十分であるが、接心会にもなると何※[#「火+主]やらされるかわからない。一体どのくらい時間が経過し、後どのくらいで解放されるのかもまったく見当がつかなくなってくる。心を落ちつけなければならないと自分にいい聞かせる。やがて放禅鐘《ほうぜんしよう》が鳴って長時間の密閉された時間からほうり出される。この瞬間の解放感は暗い牢獄から明るい濃密な大気の中に投げ出されたような喜びと自由、そしてなんともいえぬ飛翔感――禅の醍醐味である。
しかし、坐禅の本質はこんなところにあるのではない。坐禅の真の醍醐味を知らないぼくはこんなくだらないことに期待し、感動してしまうのである。坐禅の道は長い、とつくづくと考えさせられる。
六日間の接心会は実に長かった。明けても暮れても連日同じスケジュールである。昨日のことも、一昨日のことも、いや今日一日のことさえ思い出せないほど単調な行為の連続である。色んなことを考えると疲れるので、極力考えることを止める。ただぼーっと部屋にさす日だまりを見ていたり、樹木が風でなびく音を放心したように聞きながら、生きているのか死んでいるのか判らないような空白に似た時間をぼくはあてもなく旅《トリツプ》している時が多かった。時々井上老師の幻聴のような言葉が頭の中でルーレットのようにくるくると回転しながらいつしか大きなクエッション・マークになっていった。頭で老師の言葉を考えようとしている自分がまだどこかに存在している。井上老師との出会いは本当に狐につままれたような理屈を越えた奇妙な出来事だった。
老師に再三独参して色んな質問を投げかけても返ってくる答えはいつも同じ言葉ばかりである。そしてこの言葉が何を意味しているのかさえわからない。理屈で解ろうとするからますますもって言葉は宙にむなしく霧散する。
「仏道は自己なり」と書かれた門を後にして帰路についたとたん、再び井上老師のもとに引き返し、「ぼくは一体誰ですか?」と尋ねたい衝動にかられた。一ヵ月以上もたった今でもあの六日間の一つ一つのデテイルだけが不思議とリアルに脳裏に刻まれ、未だにぼくの頭の中にはルーレットが回転し続けている。近いうちにぼく達三人は再びあの「仏道は自己なり」と黒地に白く描かれた門をくぐらなければならない運命にあるような予感がする。
[#改ページ]
全てを捨てさる――永平寺別院参禅
「バイブレーション」
十二月二十四日。クリスマス・イブ。ジングルベルの音が流れる師走の街をクリスマス・ケーキを持った人々が家路を急ぐ。何の因果(原因と結果)か知らぬがよりによってキリスト生誕の日にぼくはお寺に籠ることになった。
永平寺の東京別院に二泊三日の参禅である。このお寺は東京の中心も中心六本木とは目と鼻の先だ。お寺の周囲はさぞクリスマス・イブを迎えて浮かれていることだろう。ふと主人不在のわが家の淋しいクリスマス・イブの光景が頭をかすめる。
二人の子の親としては罪深い親である。修行にかこつけた男のエゴイズムであろうか? ――と考えてみるが、よけいな邪念だといいきかせ、坐禅に没頭する。
田中真海師の坐禅の指導は迫力があって心地よい。
「宇宙とぶっ続きの坐禅!!」
「仏とぶっ続きの坐禅!!」
「宇宙の中に溶け込む坐禅!!」
「調身、調息、調心が坐禅である!!」
「意識ははっきり、はっきりしているか!!」
「脳味噌ででっちあげた悟りを相手にするな!!」
「坐禅は苦行ではない!!」
腹の底に響き渡る真海師の喝《かつ》である。思わず背筋がピーンと伸び、頭が宇宙に突き抜けるようだ。
「ビシッ!!」
一発強烈な警策《きようさく》が右肩に入る。一瞬に邪念が飛び散る思いである。一発の警策が川の向こうの世界にぼくを突き飛ばしてくれたような気がした。しかしぼくの心はまだ川を飛んでいない。ああ、外はクリスマス・イブか……。この厳寒に火の気もない冷たい僧堂で坐りつづけなければならない。われながら物好きだなあ、と感心する。
法界定印《ほつかいじよういん》を結んだ手の親指が、あまりにも冷たいために感覚を失い、まるで消滅したようだ。
「坐禅をすると段々、段々と体があったまってくる!!」
真海師の声が聞こえる。なるほどそういわれれば確かに手足が熱く感じる。しかし、この言葉が自己暗示であることがものの二、三分もすればわかる。
現実には手足は凍るほど冷え切っている。冷たくて痛いのを暗示をかけて熱く感じさせているだけだ。坐禅のポーズは寒さに対してまったく無防備である。
素足に、素手、しかも全身から力を抜いている。首をすくめ、肩をまるめ、足を抱え、全身に力を入れるポーズがいわゆる防寒のスタイルである。
しかし、坐禅のポーズは不思議とこの身を切るような寒さの中においても、なんとか耐えられるのに驚いた。寒さに抵抗せず、寒さに身をまかせることによって寒さを超えることが可能であることを教えられているようである。抵抗したり逃げたりせずに、まかせること――ここにも禅の精神がある。
もしなんにもせずにこの厳寒の中に数時間いろといわれたら、ほんの数十分で風邪を引いてしまうだろう。しかし坐禅は有難い。
このポーズなら何時間でも厳寒に耐えられそうである。ピラミッド型のポーズからはきっと計り知れない未知のエネルギーが生まれるのかも知れない。
おにぎりでも三角形に握るとおにぎりの中にエネルギーが生じるという。だから遠足なんかには活力をつけるために最適であるという。またピラミッドの型には不思議な神秘な謎の力が内在されており、様々の奇蹟的な現象を起こす。
生命を帯びたエネルギーとして最近ピラミッド・パワーが随分世界的に関心を集めているが、きっと坐禅のピラミッド型のポーズにもピラミッド・パワーに類似したなんらかのエネルギーが働きかけているのかも知れない。
今回の坐禅はわれわれ三人組の他に特別参加したぼくの知人の女性の計四人。われわれ三人は数度の参禅で多少慣れているというものの、知人の女性はまったくの初心者である。しかもこの厳寒の中だ。相当苦しいはずである。ところが真海師の「宇宙とぶっ続きの……」という「宇宙」の二文字に彼女は大いに惚れ込んでしまった。お坊さんの口からでた「宇宙」という言葉が非常に気に入った様子である。また真海師は「バイブレーション」という言葉を盛んに口にされる。ここには古い禅のイメージがまったくない。真海師自身「まるで葉の上の露がポトンと落ちる」ように特別の理由もなくお坊さんになられた人である。以前はサラリーマンで、キリスト教がカッコイイと思い多少そちらに関心を持っておられたが、何しろ戒律がうるさいというので止め、ひょんなことで始めた坐禅が、「まるで今初めて坐禅をしたような気がしない。ずっと以前から坐禅をしていたような気がする」――というたったこれだけの理由でお坊さんになられたのである。
これも真海師の因縁《いんねん》だろう。因縁がなければいくら禅の道に入ろうと思っても入れないものだ。またたった一回の坐禅で悟ってしまった人もいるという。死ぬまで坐って悟れない人もいるというのに……。
こんな話を聞くとうらやましくなる。まったく興味のない二人を無理矢理誘ったぼくはもし彼等に先を越されればきっと焦るだろうなあ。
禅に対する先入観がない人ほど簡単に悟る可能性があるという。先入観を失くする生き方をするのが禅である。ぼくの従来の生き方は足算《たしざん》だったが、禅は引算《ひきざん》の生き方を教える。すべての先入観を引いて零にし、無限の中で宇宙と合体していくのが禅であろう。一口に「宇宙」といってもこの言葉自体観念的である。「宇宙」という言葉に酔っている以上「宇宙」がわからない。言葉や観念を超えた世界が坐禅であろう。真海師がいわれる「脳味噌ででっちあげた悟り」という言葉が実に面白い。よく「あいつは頭で物を考え過ぎだ」と観念的な人間を指していうことがあるが、では頭で物を考えなければどこで考えるのだ……。
しかし人間は頭だけでできているわけでもなく、また体だけでできているわけでもない。人間は物質的存在であると同時に精神的存在である。したがってこの両者を分けて考えることは間違っている。正法眼蔵《しようぼうげんぞう》(道元禅師の説話を弟子の懐弉が編集した仮名書きの教え)では坐禅のことを身心脱落といっているように、体と心の二つの状態から抜け出さなければならない。体と心――という考え方を否定して、この二つを超越していかなければならない。そして超越したところからこの世の中を見なければならないという。それは坐禅をすることによってのみ達成でき、人間の本来あるべき状態にもどることができるというのである。自分が自分自身になることである。坐禅している瞬間はすでに真実を得ている状態であり、われわれは仏ではないと思っているが実は一人一人がすでに仏であるという。
だからわざわざ悟りを開いた時に初めて仏になるというのではなく、われわれが釈尊の教えに従うなら誰でも自分はすでに悟っている状態であるということが知らしめられることになるだろう。そしてこの世界、この宇宙のどんな小さなものでも、それはそれなりに最高の価値を有しており、われわれの日常生活の一切合切が悟ることのできる保証を持っているといってもいいのかも知れない。
つまりわれわれの日常生活そのものが真実であるということになるのだろう。ということは宇宙全体は何も隠しておらず、一切のものがそのまま見せられており、このありのままの姿が現実の世界で、それを如何に素直につかむことができるかということが最も重要なのであろう。
ところが人間は弱いというか、ずるいというか、「俺はそんなに真実を見極めなくとも今のまま充分生きているから、真実なんか無関係だ」と考える人間が大部分である。もちろんこのように卑下というか居直って生きる方が楽だといえば楽なのだろう。
しかし、頭からこのようにいってしまうとその人間はそれ以上のところには行けず、常にそこでストップしたままで終わるだろう。このような状態で放置しておけば日常生活の中であれやこれやと苦労が多く、やっていいことと、やっちゃいけないことの区別もつかず、常に不満の人生を送ることになる。ところが釈尊は日常生活の仕方のチャンネルをちょっと切り換えただけで、やりたいことと、やりたくないことがより明確になってくるといっておられるのだ。そのためにも坐禅をすればこのような力量が自然に身につき、常に最高の状態で人生を生きていけるというわけだろう。しかし真実を表現する方法は色々あるかもしれないが、結局「これだ」というものがないために、真実を伝えることは困難なのだろう。
まあこんなことを次から次へと考え、「頭ででっちあげた悟り」を本物だと思っている間はダメで、すべてを忘れ、端的にいえば「馬鹿になって」、ただジーッと黙って坐るより仕方ないのである。
坐禅していても次から次へと絶えることなく色んな雑念が浮かんでくる。まったく取るにたりない雑念の連続である。坐禅をしていない時の方がまだしも何も考えていないように思える。
坐禅をする方がかえって雑念が浮かび、かえってこんなことをしてもなんのプラスにもならないのではないかとまたまた「頭」で考え始めるのである。
「どう? 色んな雑念が浮かばないか?」と仲間の二人に尋ねてみた。みんな同じだという。K君なんかは、目の前の板の木目がヌードに見えたり、もっと猥褻な行為をしているところに見えたりして、「結構楽しいですよ」という。
こんな話を聞くとみんなK君の場所に坐りたくなり、知人の女性がその場をK君から譲ってもらった。ぼくの隣りで彼女が今ごろ一生懸命木目に対面してあらぬ想像をしているのだろうなあ、と思いながら坐っているとなんだかおかしくなって今にも吹き出しそうになるのだ。坐禅の場で不謹慎だといわれるかも知らぬが、いくらお坊さんでもまさか人の心の中までは読めまい、と思っていたら、急に後ろから姿勢を直された。邪心が姿に現われるのである。
それにしても寒い。坐禅していてもつい奥歯に力が入る。「坐禅は苦行ではない」といわれても、これじゃまるっきり苦行だ。二日目は雨が降っていたので外の作務《さむ》はない。その代わり僧堂の拭掃除である。素足でコンクリートの上を歩くなんて、まるで氷の上を歩いているのと同じだ。雲水も飛び跳ねながら掃除をしている。僧堂の掃除もつらいが便所掃除もつらい。便器一つ一つ雑巾で拭いていくのである。
この行為そのものには我欲はない。だから汚いという点を除いてはそう大して苦にならない。きれいな所をきれいに掃除するよりは、汚い所をきれいにする方がよほど気持ちいい。自分の中がまるで浄化されたような感じがして、便所掃除の後の解放感はなんともいえぬすがすがしさだ。そして辺りには小さな光の粒子が飛びかっているようで(決して目まいを起こしているのではない)、目が開いた感じである。
二十五日の夜は雨が上がり、東京の空とは思えないほど晴れ渡り、美しい星が沢山頭上にきらめいていた。お寺の中にいるとまったく外の風景が見られないのである。本堂のある建物から僧堂へ入るわずかな空間にほんの空の一角がチラッと見えるだけである。そしてそこに光る星がどんなにぼくの心を落ちつかせてくれるか知れない。大自然と人間は通じ合っているという実感がする一瞬である。
今回の参禅は短期間だったが、連日の寒さのため非常につらかった。一瞬一瞬が苦行だったような気がする。しかし誰に頼まれたわけでもなく、自ら選んだ参禅である。別に大きな罪を犯したわけでもないのに何の因果か、こんなことをしなければならない運命に生まれた自分をつくづく嘆く。――それほど寒くて辛いのである。しかし辛いことばかりではない。昼食の熱いうどんが喉《のど》を通る時の感動は最高である。
また、やっと寝床につける時間がきた時の喜びも日常生活の中では決して味わえない感激である。日常の贅沢《ぜいたく》さの中では発見できない生命の喜びがこんななんでもない所にあるのだ。
禅寺に比較すればわれわれの日常生活の一瞬一瞬がすべて喜びの連続である。不満からくる怒りが如何に利己的であるかということを自然に教えられる。
まだ外が真っ暗闇の早朝から坐禅をする。僧侶と一緒にする坐禅は特に身が引きしまる。ここ東京のど真ん中の永平寺別院だけがこんな時間に起きて衆生(仏の救いの対象となるすべての生命あるもの)と世界の幸福と平和を祈願して朝のお務めをしているかと思うとちょっとした感動である。
そしてこのような全国の僧侶達のお祈りによってわれわれは今日もかろうじて生かされているのだ、という実感に何か胸を打つものがある。
僧堂の中の鐘や太鼓の音が漆黒の闇と静寂を破って東京の中心から波紋のように全体に拡がっていく。
僧堂の障子や窓ガラスを震《ふる》わせ、ぼくの内部へ内部へと、また東京の内部へ内部へと入っていく音は、大気の中に読経のような声を残してそれぞれの生あるものの中に浸透していくようだ。
[#改ページ]
どこにいても自己――青苔寺参禅
「あそこが地獄です」
前回の永平寺東京別院の参禅が厳寒の中で行なわれ、相当ショックを受けていたので次はできるだけ甘いお寺に行こうよ、とみんなで話していたのである。そこであれこれ考えた末、知人の竜源寺の住職である松原哲明師に相談したところ、「それでは相模湖の近くに青苔《せいたい》寺という国際禅道場を持ったお寺がありますので、私が御案内しますから一緒に行きましょう」ということになって、実は一月十八日に東京から車で中央高速を通り甲州街道に出、山梨県北都留郡上野原町にある青苔寺に向うことになったのである。
いつもと違って今回は知人のお坊さんと一緒であるということが非常に心強い。
「今から行くところは非常に厳しい所ですよ。ここは他のお寺と違って修行したからといって免許が貰えるわけでもない。みんなが誰のためでもなく自分のために修行している一匹狼の連中ばかりですから、他とは迫力が違います。うかうかしていると『殺すゾー!!』とか『濡れ雑巾のような面《つら》しやがって!!』なんて怒鳴りますから怖いですよ」
話が違うではないか。厳しい所がいやだから、松原さんに頼んで甘い禅寺を紹介してもらったはずである。
「うそでしょう。驚かさないで下さいよ」
きっと冗談に違いないと思いながらもふと自分がしごかれている姿が目に浮かんできた。青苔寺の近くで昼食を取ることになり山の上の一軒家の料理屋に入った。ここで松原さんが接心の心得をあれこれ細かく教えてくれた。
最初は松原さんがついて行ってくれることに非常に安心していたのが、今度は逆に松原さんの話を聞くにしたがって次第に怖ろしくなってきた。どうやら本気らしい。
山の上の料理屋から眺める下界の景色は心なしか誠に美しく見える。というのもいよいよこの美しい景色が娑婆《しやば》(今、現在、我々のいる世界)の見納めになるのかと思って眺めているからだ。このまま廻れ右して帰りたくなってきた。
「これが最後の娑婆の食事ですから、しっかり食べておいて下さい」
松原さんの言葉、一言、一言が恐怖を与える。次第に松原さんがにくらしく思えてきた。
青苔寺は奥相模川を下に見下す高台にあり、ここからは相模湖の一部と金剛山が真近に、そして陣馬山も遠くに眺められる。高台とあって風当りがよすぎる。だんだん行く先が思いやられてきた。
「あそこが地獄です。ハッハッハッハッ。これから横尾さん達が入る僧堂ですね」
何んという性格のお坊さんだ。腹が立ってきた。
どう見ても僧堂という感じではない。作業所か納屋としか思えない。松原さんの「地獄」という一言が恐ろしいリアリティを持ってせまってきた。
青苔寺の住職の金丸宗哲師(山梨県北都留郡上野原町にある青苔寺住職)はここの雲水から「和尚さん」と呼ばれて親しまれている方である。松原さんに連れられて、まず和尚さんの部屋に通される。松原さんは「この人達は非常に真面目に禅に取り組んでおられ、われわれ僧侶がやらなければならないことを、雑誌を通じてやって下さっている方々です」とわれわれを紹介してくれた。ぼくは自分のために坐禅をしているわけだから、この松原さんの「僧侶のやらなければならないことを……」という部分がとても気になって恥ずかしく感じた。
青苔寺に入ったのは二時頃だった。同行のK君とN君を和尚さんの部屋に残してぼくは松原さんに連れられて師家《しけ》(修行者を指導するにふさわしいすぐれた禅者のこと)の大森曹玄老師(明治三十七年山梨県生まれ。臨済宗天竜寺派高歩院住職)の所に案内された。大森老師はここ国際禅道場における禅の指導者である。以前から老師のお名前は殊に有名だから知っていたが、拝顔するのは初めてである。松原さんにさっきから、驚かされっぱなしだから、さぞ老師も恐ろしいお坊さんだろうと想像していたところ、余りにも優しい笑顔の美しいお坊さんだったからぼくは一瞬胸を撫でおろした。
そして老師がぼくの見覚えのある方だったから急に親しみが湧いてきて、今初めてお逢いしたという感じが一切しなかった。NHKの「宗教の時間」で何度かお見受けしたこの方があの大森曹玄老師だったのである。松原さんは大森老師にも「横尾さん達がやってらっしゃることはわれわれが本来やらなければいけないことだと思います」とまた同じ事を繰り返した。
青苔寺は臨済宗南禅寺派で、われわれにとっては初めての臨済宗のお寺だった。今まで参禅した総持寺も、竜泉寺も、永平寺別院も共に曹洞宗である。曹洞宗と臨済宗は共に禅宗ではあるが多少の異なる点があるようだ。まず坐り方だが曹洞宗は面壁《めんぺき》といって壁に向って坐禅を組むが、臨済禅ではお互いに向い合って坐るのである。また臨済禅には公案(すぐれた人の言動をしるして、坐禅する者に手がかりを与える問題)というのがあって、すぐれた禅者が参禅者に参究テーマを授ける。
例えば「犬の子に仏性があるかどうか?」と禅者が参禅者に問題を提起するのである。すると参禅者は坐禅をしながらこの答えを考えるのである。ぼくは松原さんに「犬の子に仏性なんてあるんですか?」と聞いた。すると、それはなんともいえないといって、教えてくれない。きっと答えがあってないのだろう。松原さんは犬になり切らなければこの公案は解けないという。禅者の前に公案の解答を持っていくと、いきなり顔をぶたれることもあるという。こんな時、「痛い!!」なんて叫ぶと、こりゃまだまだ駄目だということになるそうだ。「痛い!!」という肉体感覚があるようではまだいけないということだろうか? 犬になり切るんだったら、いきなり「ワン、ワン」と吠えたらどうだろうと考えてみたが、こんな風に頭で考える次元のものではなさそうだ。「われわれにも公案を与えられるんですか?」と心配して松原さんに聞いたら、大丈夫、といわれたので安心した。
大森老師に挨拶して、再び和尚さんの部屋に帰り、色々と臨済禅の注意事項を受けた。数息観《すそくかん》というのがあって、坐禅しながら出入の息を「ヒトーツ、フターツ」と数えながら精神統一する方法で、坐禅にとってはこうした呼吸法をしっかりやらなければ何にもならないといわれた。
僧堂での薬石《やくせき》(夕飯のこと)が済んだ後、開板《かいはん》(夜の部の始まり)が六時半である。その開板からわれわれは僧堂に入ることになった。幸か不幸か、恐らく不幸としかいいようがないが、われわれは制末《せいまつ》大|接心会《せつしんえ》というのにぶつかったのである。この期間は終日坐禅に励み、「坐って半畳、寝て一畳」という言葉の通り僧堂内の畳一畳が修行者に与えられた唯一のスペースで、ここで寝起きをするのである。接心期間中の僧侶の生活は想像を絶するものだということを以前から聞かされており、なんと恐ろしい事をするのだろうと思っていたが、まさか自分がやらなければならなくなったとは、因果なものだ――とつくづく悲しくなってきた。
今回はなんとか楽《らく》したいとあんなに望んでいたのに、完全に裏目になってしまったようだ。逃げようとすれば追っかけてくる――。逆にもっと苦しもうと思えば、もしかしたら楽な方向に行ったのかも知れないのに……とぶつぶついいながら少しずつ悲愴な覚悟をしていくより仕方なかった。やがて和尚さんのところで夕食の温かく美味しいうどんを頂くことになった。いろりを囲んで鍋《なべ》から直接食ううどんは格別に美味《うま》い。僧堂に入るまであとわずかな時間しかない。時間が刻々迫ってくるのを体が感じている。われわれとは対照的に和尚さんや松原さんはニコニコ顔だ。そんな表情がぼくにはかえって不安と絶望感を起こさせた。
まだ坐禅もしないうちから、早く明後日の昼になればいいのにと思う。二泊三日の予定である。最初は松原さんも坐ってくれるものだと思い、心強かったが、所用があってどうしても今夜東京に帰らなければならない、といって消えてしまった。最初から坐る気などなかったに違いない。松原さんがいてくれるのとそうでないのとでは、どんなに精神面に大きな影響を与えるか知れない。しかし、まだぼくは頭の中であれこれ接心の苦しい情景を想像しているに過ぎない。やってみなければわからない。意外とちっとも苦しくなく、むしろ楽しいかも知れない……。
まだ接心の現実に遭遇してもいないのに、勝手に苦悩しているぼくにふと気づいた。たった今の瞬間はちっとも苦しくないのだ。温かいうどんを頂いて今は非常に幸せなはずだ。それなのに先を案じて苦悩していたのだ。苦しむのは苦しい現実に立ち合ってからでもいいじゃないか、たった今はこうしていろりで暖を取るのがいちばんいいことだ、という考えがでてきた。すると、なんだか急に緊張感も解け、逆に早く坐禅をしたくなってきたのだから不思議である。
だいたい人間の悩みというのは取越し苦労が多く、実はそこには悩みの実体などない場合が多い。実体のないものを如何にもあるように思い込んでわざわざ悩みを作っていた自分を発見してぼくは今日はえらい時間のロスをしたと思った。いよいよ僧堂に入る時間が近づいてきたのでわれわれ三人はそれぞれたっぷり着込んで僧堂に向った。外はすっかり陽も落ち、辺りは夜のしじまに包まれようとしていた。外気がひやりと背筋を走り抜けていった。素足にひっかけたゴム草履の冷たさが、いよいよ始まったぞ、という感じを与えた。
僧堂の出入りの作法を教えられ、自分の坐る場所を定められた。僧堂の両側が一段と高くなっており、そこが修行者の坐る場所である。両側に向い合って坐るわけだが、こちらと相手側との間は約七メートルはあるだろうか。そしてそこは土間になっている。向う側の台には八人がこちらを向いて一列に並んで坐っている。N君は対岸である。
K君とぼくは並んで坐り、こちら側にはやはり六、七人坐っているだろう。何しろ電灯もなく真っ暗でよく数えられない。外灯の灯が僧堂の中に薄ぼんやり差し込んでいるだけである。対岸の僧侶の坐像がその灯でシルエットに浮き上っている。物音一つしない。時間も空間もぴたっと静止しているようだ。僧堂の中には十四、五人はいるだろう。ぼく以外の人間はまるで意識の活動を止めているかのごとく全く物と化したように凍結している。ぼくの隣のK君でさえ物のように見える。たくさん人はいるが、実際はぼく一人だけしかいないのではないかと錯覚するほどすべてが死んだように止っている。ずっと昔から坐ったままでここにいるようだ。
闇に近い中で坐禅をするのは初めてである。不思議と心が統一されている。闇の中に溶け込んでいくような感じになってくる。ところが意識の一ヵ所に小さな穴が開いており、そこから光が漏れてくるような気がする。この穴をふさげばぼくは完全に闇と化すことができるのではないだろうかと思えた。しかしどうしても穴にこだわってしまうのでなかなか闇と一つになれなかった。
宇宙的時間の中で
次第に肉体感覚が薄れてくるに従って、心がわけもなく愉しくなってくる。口元がゆるみ自然に微笑が浮かんでくるではないか。おそらく目も笑っているようだ。顔中が喜んでいるぞ! まるで自分が仏様になっていくようだ。ぼくの頭の中に優しい表情をした仏像の姿が浮かび、それと自分が同化していくような高揚した気分になってきた。こんな快感は初めてだ。坐禅するまでの不安はどこへやら完全に消え失せてしまった。
ついさっきまで和尚さんや松原さん達と話し合っていた時間がずいぶん昔のことのように思え、また和尚さんのいろりの部屋はどんどんぼくから遠ざかっていくように感じられた。ぼくの中の時間や空間は現実の尺度では計り切れないほど拡大していく。そしてこのような時間と空間の中でぼくは「自分」という意識が「何ものか」の中に吸収されていくようなとても不可思議な感動を覚えた。この「何ものか」というものの実体はもしかすれば宇宙とか、大自然とか名付けられているものかも知れない。
長いぼくの三昧(その事になりきり、他をかえりみないこと)に放禅鐘《ほうぜんしよう》が終止符を打った。一瞬我に帰った。あんなに長く感じられた時間が、こうして坐禅から解放されると一瞬の出来事のように短い。いつも|一※[#「火+主]《いつちゆう》がとてつもなく長く感じられるというのに……。雑念が湧く時は特に長い。しかし今回のように一※[#「火+主]があっという間に終ることもある。そのくせ三昧中の時間感覚は無限に長く、いや時間という概念さえないといった方がいいかも知れない。だから同じ長く感じる時間でも、雑念と闘っている時間と、三昧の時間とは全く次元の異なる時間である。前者を現実的時間、あるいは肉体的(物質的)時間と呼ぶとすれば、後者は虚構的時間、あるいは心理的(霊的)時間とでも呼ぶべきか。または前者を地球的時間、後者を宇宙的時間と呼ぶのも面白い。われわれの日常を大部分の人々が三次元的(物質的)世界としてとらえているため、どうしてもこの世界を人間の肉体感覚である五感で知覚してしまう。五感で知覚している限り、地球的時間しか体験できないため、宇宙的時間の存在を知らない。
宇宙的時間こそ人間が本来知覚しなければならない時間であろう。坐禅によって「自分」の意識が消えていく時、確かに何ものともいえない大きな存在と同化しながら、本当の世界というのはこのような五感を超えた世界にあるのではないか、と思われるほど強烈なリアリティに裏づけられているのである。なぜなら、何の理由もなく体全体が嬉しくなってくるからである。こうした歓喜と幸福感は何か偉大なものに触れた時に起こる性質のものではないだろうか。宇宙や大自然の持つ波動と気が合うというのはこのような体験を指していうのかも知れない。五感ではとらえられない恍惚とした超越感である。さっき三昧の時間を虚構的と呼んだが、むしろ真の現実と呼ぶべきかも知れない。なぜならわれわれの日常の現実にはこれほど「はっきりした現実」体験というのがないからである。
一※[#「火+主]が終わったかと思うと、五分も経たない間に、再び坐禅が開始された。今度は僧堂に電灯が灯《とも》された。三十ワット位の暗いやつである。僧堂の中央の土間が薄ぼんやりと月が傘をさしたように円を描いている。どういうわけか二度目の坐禅の開始と同時に僧堂の前後の出入口の戸が突然に開け放たれた。夜の冷気をいっぱい含んだ風が目の前を突き抜けた。ゾゾーッとする寒さだ。骨身にこたえる寒さに思わず体に力が入る。一体何をする気だろう? そろそろ恐ろしいことが起きる前触れではないだろうか? と心細くなってきた時、いきなり、「エイッ!!」という掛け声とも、罵声ともつかない大きな太い声が僧堂に響いたかと思うと、全員が一斉に台から飛び降り、足元の草履を引っかけわれ勝ちに脱兎の如く僧堂の出口から真っ暗闇の中にバタバタと飛び出していった。
びっくりしたぼくは思わず、みんなと同じように行動を起こそうとしたが、その時一人残った単頭さんがいきなり大きな声で、
「動くなッ!!」
と怒鳴った。N君は体を起こし半分土間に降り掛けていたので、さぞ単頭老師の声に驚いたことだろう。松原さんがいっていたように、やっぱりこの道場は恐ろしい所らしい。ぼくは思わず背筋をピンとはり坐像を正した。しかし、わけのわからぬ恐怖感に体が急に緊張してしまったせいか、さっきのような心身が統一した状態になかなかなれない。
それにしてもあの沢山の雲水達はどこへ駆けて行ったのだろう? 寒いから暖を取るためにそこら中を走り回っているのだろうか? もしそうだとすればどうしてわれわれだけが出口を開けっぱなしにしたこんな寒い所でじっと坐禅していなければならないのだろうか? やがて五分程経ったころ一人の一般修行者がとぼとぼと帰って来た。この僧堂の中には十人足らずの雲水とわれわれ以外に三人の一般修行者がいるが、一般の三人の内二人が戸外に飛び出していき、最初に戻って来たのがこの内の一人だった。
一体どこへ行っていたのだろう? ランニングで一等になって、いま到着したのかも知れない……。しかしそれにしては息が乱れていない。それとも落後してさきに戻って来たのだろうか。もしそうだとすればなぜ単頭老師がこの人を叱りつけないのだろう? しばらくするとまた一人の雲水が戻って来た。あんなに物凄くあわてて飛び出していった連中がなぜこんなにゆっくり歩いて帰って来るのだろう? 一人、二人、三人、四人と一※[#「火+主]の間に帰って来た。ぼくは彼等のこの奇妙な行動の謎がどうしてもわからない。二度目の坐禅中ぼくはこのことばかり考え続けていたのでどうしても坐禅に熱が入らなかった。
このお寺には全く控室というのがなく、いま坐っている一枚の畳がぼくに与えられた唯一のスペースなのである。坐禅と坐禅の間の五分に東司《とうす》(便所)に行く。足がしびれている時などうっかりすると五分以内に戻って来れない。そんな時は僧堂を出るなりズボンのジッパーをずらしながら東司に駆け込む。外はびっくりする程寒い。すでに東司の水は凍っている。寒さと、坐りっぱなしのため体がコチコチに硬くなっている。僧堂ではたとえ休憩時間だといっても立ち上ったり、体を大きく動かして運動することができない。止静《しじよう》開始の合図があってまだごそごそ動いていると、「いつまでやってるかッ!!」と怒鳴られた。
経行《きんひん》というのがあって、これは坐禅中足の疲れを休めるために立ってゆっくりと堂内を歩くことであるが、この道場では大股でしかも早足で歩かなければならない。少しでも前の人との間隔を開いていると後から「つめてッ!!」と声が飛ぶ。足がしびれている時などとってもそんな早足で歩けない。しかし体の暖を取るためにはここの経行はありがたい。堂内を一廻りすると三十メートル以上ある。そこを十回位早足で廻るのだ。これも行法の一つである。
夜の九時になると茶礼《されい》といって軽食が出る。勿論堂内の畳一枚に正座して頂く。最初の夜はうどんが出た。しかしつい三時間前和尚さんの所で腹一杯うどんを食べたばかりだ。茶礼のうどんはぼくにとっては地獄の責め苦のようだった。残すと叱られるので無理矢理|喉《のど》に流し込んだが、喉につっかえて嘔吐しそうになる。これも行の一つなのだろうか? とすればぼくにとってはかなりの苦行だ。食べ過ぎたせいか頭も体も鉛のようにドスンと鈍《にぶ》って重い。食後の休憩もなく再び坐禅が始まった。実際の健康を考えると、食後の坐禅はあまり感心できないのではないだろうか? その証拠に下腹が苦しくなってきた。ぼくは日頃から貝原益軒の『養生訓』を座右の書にしているが、ここには食後の安座はつつしむべき≠ニ書かれている。非科学的だ。
われわれ三人はすでに三時間以上坐禅している。ここの解枕《かいちん》(就寝)は午後十時である。堂内で寝るのかと思うとなんとも心細くなってきた。堂内には暖房装置が備えつけてあるが、暖房は切ったままである。堂内はしんしんと冷えてきた。永平寺別院の寒さをぼくは「厳寒」と呼んだが、ここ青苔寺の僧堂の冷え具合は酷寒《こつかん》というか極寒《ごつかん》、ようするに氷地獄である。ガラス張りでしかも土間の堂内は氷の張っている外の気温とそんなに変わらないはずだ。
参禅の回を重ねる度にわれわれはよりによってさらに厳しいお寺に導かれているようだ。苦を避け楽を求めているその反動が作用しているように思われてきた。それにしてもこの極寒の中で寝ろといっても、昨日まで暖かいこたつの入ったふとんで寝ていたのが急にこんな寒い堂内で寝るなんて……、なんでこんなことになってしまったのだろう。誰を恨むわけでもない、自らの運命を恨むより仕方ないだろう。寒い所で坐禅をしたからとて悟れるわけでもないのに、まあいってみりゃ「物好き」というよりいいようがない。今日の最初の坐禅があんなに素晴しかったのが、まるでウソのように今のぼくはただただ寒さと闘っているだけだ。
解沈《かいちん》の合図と同時に堂内の電灯が消され、みんな一斉に各自の坐っている頭上の棚からふとんを取りだし、着のみ着のままでふとんの中に丸まった。本当にアッ!! という間の出来事である。要領がわからず暗がりでうろうろしていると一人の雲水が駆けよって、
「とにかく大至急ふとんの中に入ってッ!!」と叫ぶ。
ふとんといってもせんべいぶとん一枚だ。その中に体をかしわ餅のように包んで横たわるのだ。なぜ寝るのにこんなに大あわてしなければならないのだ! まるで空襲警報の発令と共に大あわてで防空壕に飛び込んだみたいだ。横になっても心臓が高鳴り、決して人間がまともに寝るという雰囲気とはほど遠い。物の豊かな時代にこんな地獄のような寒さの中で、しかも着のみ着のまま、たった一枚のふとんにくるまって……情けないやら、わびしいやら、悲しいやら、本当に涙が出てきた。
堂内の連中は誰一人身動きしない。もう眠ってしまったのだろうか? そんなはずがない。こんな状況で眠る人間はよほど悟った者か馬鹿だ。普通の人間じゃ無理だ。横になってはいるものの寒さのため足をちぢめ、体を「く」の字に折ってかしわぶとんがパラッと開かないようにふとんの端を両手でひっぱるようにして寝る。だから寝返りは打てない。そりゃ坐っているより横になる方がありがたいが、ここで一晩寝るということになると話は別だ。このようなことが悟ることと何の関係があるのだろう? と次々と疑問が湧いてきたが、ぼくは自分自身に「何も考えるな、何も考えるな」といいきかせ、この瞬間を味わうよう努めた。おそらく今夜は寒さと冷えのため一睡もできないだろう。
まだそんなに経たないというのにどこからかいびきが聞こえてきた。一人だけではない、間もなく数人がいびきや、寝息や、歯ぎしりを立て始めた。この地獄のような寒さの中でどうして眠れるんだ。ぼくには信じられない。しかも彼等はこのような生活をすでに数日前からやっているわけである。どうして同じ人間でありながらこの苦痛に耐えて、しかも安眠できるのだろう? やはり彼等は悟った人達なのだろうか?
ぼくは完全に眠ることを拒否することにした。この寒さとうるさいいびきに波長を合わせて、ひとつゆっくりいびきの種類でも分類してやろうと思いだした。三種類のいびきと二種類の歯ぎしりがある。電気のこぎりで材木を切断するような音をたてる「製材所型」。トタン屋根の上に小豆《あずき》をばら撒《ま》くような音をたてる「擬音型」。波が海辺に打ち寄せるような音をたてる「潮騒型」。次に田んぼで蛙が鳴くような「水田型」の歯ぎしり。カスタネットを打ち鳴らすような音をたてる「フラメンコ型」の歯ぎしり。
くだらないことに意識を集中しているなと思うが、こんな馬鹿げたことにでも関心を持たなければ、とてもこの極寒を超越することはできない。体は一向に温まらない。第一ふとんが氷のように冷えている。まず体温でふとんを温め、そして温まったふとんで今度は自分の体を温めるのだ。後で聞いて驚いたがこの夜は零下十度だったという。こんな寒い所で寝るのが禅だとは思わないが、こうなってしまった以上ぐだぐだ思わない――とまたしても自分に何度もいいきかせる。
寒さとの闘いというより自分との闘いだ。しかし眠ろうとすればするほど目が冴え、他人のいびきや歯ぎしりが気になり、寒さが身を刺す。このような肉体的苦痛を精神は本当に乗り越えることができるのだろうか?
心が先で肉体は後である――と再びいいきかせた。
瞑想する聖者
遠くで鶏の鳴く声が聞こえた。もう朝が来たのか――。一睡もできなかったくやしさと焦り、そして鉛のように重い疲労感が襲ってきた。しかし朝が来て陽が昇れば気温も高くなるかと思うと一秒でも早く夜が明けてもらいたいと念ずる。
一番鶏が鳴いてしばらくたった頃谷間の川に架かった鉄橋を走る一番電車の音が、まるで耳もとで聞いているように響いてきた。すでに起きてどこかに行こうとしている人がいるんだなあ、と思うと急に元気がでてきた。しかしまだ外は真っ暗だ。起床時間は四時である。振鈴で飛び起き、起きたままの衣服でその場で坐禅に入る。僧堂の出入口は開け放たれたままだ。例によって「エイッ!!」という掛声と共にドタドタという足音を残して昨夜と同様雲水は外に飛び出していった。その後を犬が吠えながら追っかけていった。またしても彼等は一体どこへ行ったのだろう? 今までに三つの禅寺に参禅したがこんなおかしなことは初めてである。昨夜と同様、しばらくすると一人ずつトボトボと僧堂に引き返してくる。その度に別棟の老師の部屋の方でチリン、チリン、と鐘が鳴る音が聞こえる。
もしかすると彼等は老師の所に参禅しにいったのかも知れないぞ、と考えた。後で知ったのだがやはり老師から与えられた公案に対して自分の気持ちを述べる(自分の見解《けんげ》を呈する)ための参禅だったのである。
早朝の坐禅は特別つらい。骨身を切るような寒さとは正にこのことである。後で知って驚いたがこの日の朝の気温は零下十三度だった。開け放たれた僧堂では外も内も区別がない。鼻水が自然に流れる。それが唇に到達する頃には凍り始める。坐禅中鼻をかむことは禁じられているので、鼻水が流れるままにしておくより仕方ない。いい年こいて鼻水たらして坐禅している格好を誰かが見ればきっと腹をかかえて笑いころげることだろう――なんて考えながら塩っぱいものが唇を伝っていくのをただただジーッと感じているだけである。
戸外の闇が青味を帯び始めた頃、鴉《からす》が鳴き始める。また鴉の声に合わせるように犬の遠吠が聞こえる。この頃になると谷間の鉄橋を走る電車やトラックの走る音が暗闇を裂き、冷気を震わせながら谷間の底から昇ってくる。
横目で眺める戸外の風景はまるで東山魁夷の日本画の画面のように絵の具が滲《にじ》んだようなしっとりとした、しかし重量感のある色感に変ってきた。闇の中から次第に姿を現わした樹々や山の形は少しずつぼくのぼけた意識をはっきりとさせてくれる。
しかし、戸外の姿が明瞭になるにしたがって不眠と寒さのために疲労した体が重心を失っていくようだ。外の風景は目には心地よいが、意識の奥の方では、いやだなあ!! という気持が体中にベタッと張りついている。
昨夜僧堂に入ってまだ十一時間も経たないというのに、もう数日もこのような苦しい目にあっているような気がする。まんじりともしないで極寒の夜を通したことがそう思わせるのだろう。寒さから身を守る手だてといえば、全身の力を抜き、何も考えぬことである。ただただ一刻でも早く陽が昇ってくれることを願うだけである。陽が昇れば気温が上るので暖かくなり、少しは生きた心地になれる。今の状態じゃ坐禅というより肉体と精神の限界に挑戦しているも同様、まるで我慢大会だ。頭はガンガンする、喉は痛い。このままでは病気になるのではないかと心配である。すでにぼくの隣のK君は完全に風邪を引いたらしく、扁桃腺が腫《は》れ熱を出している。顔面蒼白で今にも倒れそうだ。
放禅の合図と同時にK君は前につんのめるようにして倒れた。しかしその瞬間、
「ぶざまなまねするなッ!!」
とどなられた。ぼくは小声で彼に「おい、挨拶しないで黙って帰った方がいいよ」とささやくようにいって帰らせることにした。ぼくだって時間の問題だ、いつぶっ倒れるかわからない。肉体はすでに限界に来ているが、かろうじて気力でもっているだけだ。ぼくはもともと身体がそんなに丈夫な方ではないから無理はできない。どうにも我慢できなくなれば逃げるが勝ちだ、と思いながらいつでもエスケープの用意はしていた。しかし同じ人間でありながら雲水の人達は苦痛を微塵も顔に出さないまま平然と厳しい接心に耐えている。このことを考えればまだまだ頑張らなければならない。
仲間のK君が消えたことはぼくにとってまるで歯が一本抜けたようで気力が急に落ちていくのを感じた。しかし、それでも堂内に朝の陽光が差し込んできた時にはさすが嬉しかった。こんなに太陽の熱と光を有難く思ったのは初めてである。堂内の土間のやや凹凸のある表面は陽光を受けて黄金色に輝き始めた。まるで月面を眺めているようである。そう思って見るとますます大小様々なクレーターが描き出されてくる。陽光の角度が少しずつ変化するに従って月面は、黄金色の雲海のようにも見えた。また雲海が消えていったかと思うとその下からやはり黄金色に光輝する大河の表面が現われた。この光景はインドのベナレスで見たガンジス河を染めたあの燃えるような日輪の光の粒子群を想わせた。土間はゆるやかに流れる黄金のガンジスの大河と化し、ぼくは岸辺のガートで瞑想するサドー(聖者)の一人と重なっていった。
辺りがキラキラと黄色に輝き出すと、どこからともなく雀が枯枝に集まり賑やかにチュン、チュン、チュン、チュン、とさえずり始めた。朝一番に起きるのが鶏(それより早いのがぼくであるが……)、次が鴉(始発の電車の方がやや早いが……)、三番目が犬、そして最後が雀である。こうして夜明け前から坐っていると自然の移り変わりがよくわかる。自然の胎動に触れながら、人間はやはり自然の一部だなあ……という実感が体の中から湧きあがってくる。不思議なもので体力は相当衰えているにもかかわらず、陽が昇り、気温が上ってくるにしたがって少しずつ気力が回復してきた。太陽熱にはきっと人間の「気」を高める強力なエネルギーが内包されているのだろう。ヨーガでも夜明けに東を向いて瞑想すればプラーナ(宇宙の気)が体内に巡るという。
さて朝の東司はまるで戦場だ。便所だけではない、あっちこっちで所かまわずみんながブー、ブー、と屁をする。これにはまいるというか驚いた。人の前で平気でやるというのは大いに勇気のいることだ。ぼくはふと子供の頃鬼ごっこして、十を数えるのに一、二、三、四……というのは面倒だからよく「ボンサンガヘヲコイタ」といって数えたことを想い出し、本当に坊さんはよく屁をこくものだと感心した。しかし、屁一つにしても平気で人前でやれない人間はまだまだ「人間ができていない」証拠かも知れない。
以前深沢七郎さんの家で食事を御馳走になった時、深沢さんはズボンの前を拡げたまま一発大きいのを発射したが、ぼくはこの時思わず「さすが!!」と感心し、誰にでもなかなか真似のできるものではないと思ったことがあった。
臭い話はこのくらいにして、話題を食事に変えよう。食事の作法はことにうるさいが、誰も作法を教えてくれない。見よう見まねで覚えなければならない。ある日こんなことがあった。うどんの切れ端三センチ位のをぼくは食卓の上に落とした。これをすぐ拾って食べていいものか、それとも最後に拾って捨てるべきか迷って、そのままにしていたら、食事が終ってから、常連の居士《こじ》(仏道を修行する在家の男子)の一人がすばやくぼくの目の前に落ちているうどんの切れ端を手でつまんでいきなり自分の口の中に入れた。ぼくは一瞬ドキッとしたが次の瞬間「変な人だなあ!」と思わずにおれなかった。何も自分でわざわざ他人の落としたものを、しかもぼくの目の前でわざとらしく食べることはあるまい。一言「拾って食べなさい」といえばすむことだ。どこのお寺でもそうだったが常連の居士の中には必ず禅のエリートがおり、いちいち小うるさく注意するのがいる。その点雲水は厳しいが、われわれ素人には、優しく教えてくれる。しかし相手がどうあろうとこんな風に考える自分はまだまだ未熟なのかも知れない(きっとそうだろう)。
この道場には書道の時間がある。新聞を見開き(二頁)に広げ、そこに大きな筆で文字を一字書くわけだが、みんな気合いの入ったうなり声をあげて書く。師家《しけ》の大森曹玄老師が「人間がどれだけできているかどうかは文字を見ればわかります」といわれた。そこでぼくはできるだけ気合いを入れて「人間ができている」ところを見せようとして変に力んでしまった。こんなぼくの心を大森老師は見抜かれたのか微笑しておられた。精神の統一ができていなければ書が乱れてしまう。坐禅の成果が書によって形に表われるのだろう。ごまかしがきかないだけに恐ろしいものだ。
大森老師は書く人によって墨気がそれぞれ違い、電子顕微鏡写真で拡大して見れば、墨気のすぐれたものは墨汁の粒子が活性化され、秩序整然と統一的に配列されているといわれる。巧いということと墨気が澄んでいるということは別である。墨気とはすなわち人格である。しかしそれにしても書道がこんなに楽しくて面白いものとは思わなかった。書き上げた後のなんともいえぬ充実感と爽快な気分はちょっと言葉では表現できぬ貴重な体験だった。
坐禅は書道と食事の時間を除いてほとんどぶっつづけに行なわれた。朝の四時から夜の十時までである。昼食後のわずかな休暇時間にぼくはむさぼるようにして陽に当たった。ゴム草履ばきの素足が痛いように冷える。あんまり足が冷えるので近所の犬を集め、犬の腹部に素足を突っこんでやっと暖を取ることができた。もともと犬が怖いぼくにとっては大変勇気のいることだったが、寒さにはかなわなかった。このようにして犬と一つになってぼくは畑の畦道にうずくまっていた。不眠と疲労のため体は石のように硬くなってしまっている。
脳裏をかすめるのは解放される明日の正午のことばかりだ。しかしここで修行している雲水は接心会の間は連日このような生活に耐えているのだ。どうやらぼくとは人間の質が違うようである。何やら気迫のようなものが感じられ、怖い。松原哲明さんが、僧堂を指して「地獄です」といったのが実感である。
この「地獄」でたったひとつ「極楽」気分を味わったのはこの夜風呂に入れてもらったことだった。二人がやっと入れる五右衛門風呂だ。そこに三人が肌をこすり合いながら入る。湯はほとんどあふれ出して、肉と肉のすき間に湯がある程度だが、この時ばっかりは「生きている」という実感がしみじみ湧いてきた。湯には薬草が混入されており、お尻の穴がピリピリと痛む。坊主頭のお坊さん達と肌を擦り合って入る風呂の味はなんともエロチックなものである。脱衣室には薬師如来という浴堂の仏様が祭ってあり、浴堂の出入りに三拝しなければならない。ところがぼくは衣服を脱衣場の隣の部屋で脱いできたために素裸のまま三拝しなければならなくなってしまった。仏様に向って素裸で立っている自分がなんとも奇妙に感じられたが、聖なるものと性なるものが一つに溶け合うのもいいものだ。ありのままの姿で仏様の前に立つことによって自分が正直になれるような気さえした。しかし、それにしてもやっぱり仏様に失礼だったかも知れないなあ。
翌日の朝は猛烈に寒く、新聞では東京の気温がこの冬最低の寒さに達したことを報じていた。接心からいよいよ解放されると思うと逆に今度は坐禅に身が入ってきた。そしてこの分ならまだまだいけそうな気がしてきた。人間なんてあまのじゃくである。昨日帰ったK君が多少回復して再び現われた。えらいと思った。松原さんも現われた。この御両人の顔を見るとますます坐禅がやりたくなったが、解放されることがわかっててそう思うのだからこの気持は本物ではなさそうだ。解放と同時にぼくはきれいさっぱりと髭《ひげ》を剃り落とした。帰りには大森老師から沢山の禅に関する老師御自身の著書を頂いた。髭剃り後をなぜていく大寒の風がぴりっと肌を刺し、解放後のだらけがちの心を正してくれた。
[#改ページ]
心に任せて自在に――鹿野山禅林参禅
若者のアイドル
青苔寺《せいたいじ》の国際禅道場以来ぼくは坐禅が少々怖くなっていた。あの時の接心会《せつしんえ》のことを思う度に背筋が寒くなるのだった。わずか二泊三日の参加だったが、素人のぼくには少々度が過ぎたようだった。心静かに坐禅するというようなものではなかったのだ。寒さと、不眠と、頭痛と、あらゆる肉体的かつ精神的苦痛との闘いの連続だった。これしきのことで! と、あの時の雲水や他の居士《こじ》からいわれそうだが、とにかくぼくにはかつて体験したことのない異常体験だったのである。ぼくが心配したのはこれきりで坐禅が嫌いになってしまうのではないかということだった。
だから青苔寺の後しばらくはどこの禅寺にも行きたくなかった。青苔寺に案内してくれた松原哲明さんは、ぼくの青苔寺の体験に非常に興味を持ってくれ、他の雑誌や、お寺関係の機関紙などにしばしばぼくのことを書いているのを見るが、こんな記事を見ると、やっぱりもっと続けてやるべきかなあ? と思い直し、再度松原さんに次の道場を紹介してもらうことになった。
今度は千葉県の「マザー牧場」にある禅道場「鹿野山禅林《かのうざんぜんりん》」で、青苔寺が地獄だとすれば、ここは正に極楽だった。「禅林」に訪問するなり、近くにあるゴルフ場の温泉へ招待された。これには少なからずぼくは驚かされた。いつもお寺に入ると同時に修行者として厳しく扱われているだけにこのハプニングをどのように考えていいものかわからなかった。
しかもこの禅林の師家《しけ》山田無文老師(明治三十三年愛知県生まれ。花園大学長、禅文化研究所長、妙心寺管長。『仏法の下戸』『無門関解説』など著書多数)と一緒に風呂に入ることになってしまったのである。偉いお坊さんと一緒に裸で風呂に入るなんて、まるで自分の全てを見られてしまうことのように思い、なんだか恥ずかしいような、怖いような感じだった。以前ぼくは山田無文老師が書かれた本を一冊読んだことがあり、つい一ヵ月ほど前にNHKテレビの「宗教の時間」で老師の法話を聴いたばかりだった。テレビで聴いた老師の法話はわれわれ素人にとっては非常に易しく、まるでお伽話でもしておられるように聞こえ、いつもの宗教を学問的にとらえた番組と異なり魅力的だった。老師は顎に白い長い髭《ひげ》をたくわえられ、ちょっと見たところでは仙人のように見えた。また老師の話振りが、まるで現代の人という感じがせず、遠い昔の世界からタイムカプセルか何かで現代に出現された……といった感じである。
「禅林」に着くなりわれわれは山田老師の部屋に挨拶に上がった。これは特別の計らいである。老師の個室に通されたわれわれは早速自己紹介を始めた。老師はわれわれの自己紹介をただ「ほう!」といって聞かれるだけで、われわれには別に特別の興味を示されていないように思えた。
「一昨年の秋、総持寺の宝物館で個展をすることになりまして、会場の下見に行った時、なにげなく案内された禅堂を見たとたんに坐禅がしてみたくなりまして、以後あちこちのお寺を回っているのですが……」
「ほう!」
「いいわすれましたが実はここへ参るようになりました御縁は、松原泰道先生と雑誌の対談でご一緒させて頂き……、そんなことから息子さんの哲明さんを知り、哲明さんによってここへ……」
「ほう!」
何をいっても老師は「ほう!」としかいわれない。一体どうしたのだろう? ぼくが口をきかなければいつまでだって老師は無言のままである。仕方なく、どうでもいいことだが「いい禅林ですね?」と切り出してみるのだが、「はあ」といわれたきり、また沈黙。次第にわれわれ三人が、いらいらし始めてきた。少しぐらい話してくれたっていいじゃないか! という気が起こってきた。それと同時にここにいるのが苦痛になってきた。自分は一体何しに来たのだろう? とさえ思え、一刻も早く逃げ出したかったが、ええい! ここまできたらこちらも意地だ、老師が口をきくまで無言でいてやろうと決心した。
顔を合わせたままの五、六分という沈黙は非常に長く感じられた。老師はこんな沈黙にもかまわず、ただ石のように黙って坐っておられるだけだ。どう考えても黙んまり大会ではぼくの方が負けそうだ。このままの状態で老師は永遠に沈黙を守られてもちっともおかしくないほど堂に入っておられる。
カメラマンのK君とN君の二人がイライラしている様子がよくわかるが、ぼくはいずれこの両君の一人が声を出すだろうと思って沈黙を続けていた。老師とわれわれ三人の間の沈黙がちょっと異常に思えたのか、隣室で待っていた秘書の女性がたまりかねたように襖《ふすま》を開け、
「横尾さんは若者のアイドル的存在なのです」
一瞬ドキッとした。昔はこんな風にいわれたこともあったが、今、こんな偉いお坊さんの前でいきなり若者のアイドル[#「若者のアイドル」に傍点]なんていわれると、背筋に戦慄が走る思いがした。
誰がなんといっても老師は「ほう!」と溜息のような声を発せられるだけだ。最初からわれわれが緊張していることぐらい判っておられるのだから、一言ぐらいリラックスできるような言葉をかけてくれてもいいのにとも思う。とにかく感じの悪いお坊さんだなあと思った。老師が本当に偉いお坊さんならもっとわれわれと親しく話してくれてもいいはずではないか。
ぼくは少々老師に幻滅を感じ始めた。この後早速老師と一緒に風呂に入ることになったのだが、一体風呂の中でどうすればいいのだろうと心配になってきた。また何を話しても「ほう!」じゃしようがないではないか。ゴルフ場の風呂には沢山の人が入っていた。
他の人達は老師を不思議な顔をして眺めている。異質な人物が風呂に入って来たことに驚いている様子でもあった。
白い顎髭《あごひげ》の無文老師は小柄でとても七十八歳には見えないようなまるで少年のようにすんなりした身体をしておられた。K君は老師と風呂の中で並んでいる写真が撮りたいといって、ぼくに老師の方に近づくようにいったが、なんだかおこられそうでなかなか近寄れない。ところがさっきとはがらりと変り、老師はニコニコしてK君の写真の注文に積極的に応じられる。ぼくはこんな老師を見て少しはほっとした。
「老師様は神戸ですね、ぼくも兵庫県です」
「ほう! 兵庫県のどこですか?」
老師が初めて口をきいたぞ! 万歳!
「ハイ、西脇です!」
「ほう!」
ところがこの後は再び長い沈黙である。
風呂を浴びた後クラブハウスで老師と禅林の事務所の方たちと、われわれも一緒に早い夕食の御相伴にあずかることになった。ところが老師は相変わらず独り、窓の外の風景を眺めておられるだけで、みんなの会話には口をはさまれない。老師は完全な菜食主義者で、全員老師にならって、野菜コロッケ。ぼくの前の席が老師である。何かしゃべらなければならないが、ただ「ほう!」じゃ困る。まさか食事の席で禅の問題を投げかけるのも失礼だろう。イライラしていると、N君が、
「坐禅中オナラをしてもいいでしょうか?」
と、食事の最中にドキッとするような質問をした。しかし老師は一瞬、口もとをゆがめられただけで一言も答えられず、フイッと窓の方に顔を向けられた。老師に投げかけた質問は結局自分で答えさせられてしまうのだ。
老師はどうでもいいような質問には答える必要を認められないようだ。老師に質問をする前に先ず自分に質問しろということかも知れない。それにしてもN君は馬鹿だと思ったが、彼も相当老師に頭にきていたのかも知れない。
われわれにとっては重苦しい沈黙だったが老師にとっては結構遊|戯《げ》三昧の境地だったに違いないのだ。
あの貝のように閉ざされた老師の唇を開かすためにはどうすればいいのかぼくには術《すべ》がなかった。
こんな事を繰り返し繰り返し考えていると、なかなか眠れなかった。零下十三度の青苔寺にくらべて、こちらは暖房完備のきれいな特別室を与えられ、まるで旅館に泊まっているみたいだ。ところが暖房がきき過ぎてとても暑くてなかなか寝つかれない。寒かったり、暑かったりで、禅の世界はクレイジーである。結局七時間一睡もしないまま朝を迎えることになった。これじゃ青苔寺の二の舞じゃないか。
ここには坐禅堂というのがなく、大広間の畳の間が坐禅をする場所になっている。まるで旅館の大広間でお膳を前にして坐っているような風景で、宗教的雰囲気はない。だからかえってリラックスして坐れた。この禅林は早春の房総の海が一望できる小高い丘の上にある。春先からの坐禅には最高の場所であろう。しかし三月初旬の気温はまだ肌寒い。
接心の最後の日には山田老師が居士の質問を受ける時間があった。ある人が「坐禅で無になることと居眠りしていることとは同じか、それとも違うか?」とか、「足がしびれて感覚がなくなることと、自分がなくなるということとは同じかどうか?」という一見吹き出しそうな質問をした。ぼくはこの人の素朴さと真剣さに、ちょっと感動してしまった。これらの質問に対して山田老師は物をいった。その答えはやや抽象的ですぐ理解できるようなものではなかった。しかしこちらが頭で理解しようとしているからかえって抽象的に聞こえたのかも知れない。日頃から観念で武装した生き方をしているわれわれは時としてこのようなお坊さんの言葉を全く理解できない場面にしばしばぶつかり、その度に今までの自分が崩されそうになるのである。こうした禅の教えに触れながらぼくはかつて経験したことのない未曾有《みぞう》の世界に一歩ずつ足を踏み入れつつあることを予感せずにはおれない。
現在はまだ禅の世界が奇妙に見えている段階だが、いつの日か禅の世界にもう少し明るくなってくると、今度は今まで住んでいた自分の世界がなんとも奇妙な風に映る時がきっと来るかもしれない。
ここの道場には山田老師と一緒にわざわざ岡山から来ている二人のアメリカ人女性がいた。アメリカには禅に興味を持っている人は多いのですか? と尋ねると、経済的な心配のない家庭の若者は物質的なものより、精神的なものを求める傾向にあり、アメリカでは今、多くの人達がヨーガや禅に関心を持っている。しかし禅を習うにはやはり立派な導師のいる日本に来るのが一番いい方法で、自分は岡山で焼物を勉強するかたわら山田老師に師事して禅の修行をしている――といい、般若心経《はんにやしんきよう》や他のお経を立派に暗誦していた。
現にハワイ、ロスアンジェルス、サンフランシスコ、ニューヨークなどにも多くの禅道場があって若者に人気があるという。ところが、わが日本の禅の現状はどうだろう。
今年の成人の日、NHKテレビが成人を迎えた若者を対象に意識調査をしたところ、なんと禅に興味を持っているという若者が五十六パーセントもいたのである。もちろん、禅を一度やってみたいという願望を表わしたものであろうが驚くべき数字である。しかし、現状はどうだろう? どこの禅寺も接心会や日曜参禅会以外はガラガラである。もしこの五十六パーセントの若者が全国の禅寺に押しかけるならば、何かが大きく変わることは確実である。禅寺がお坊さんの修行の場だけで終わるなら、禅は何ひとつ現状を変えることは出来ないだろう。これじゃ禅の歴史的な役割は終わったと同然だ。五十六パーセントの若者を受け入れ、彼等を指導する新しいシステムの禅が必要である。
ここ鹿野山禅林はそういう意味では一般人を対象にした道場であり、禅寺のあの抹香《まつこう》臭さはない。強い宗教色を求める者には多少の不満はあるかも知れないが、禅は自分の中身が問題である。
禅林を後にする時、誰もいない廊下でたった一人老女が坐机に背を丸めて写経をしている姿が印象的だった。
[#改ページ]
全てを打ち砕く――永平寺参禅
劇画の世界だ!
永平寺――、禅に興味を抱く者なら誰でも一度は参禅してみたい禅寺である。曹洞宗大本山永平寺は福井県にある。この寺は曹洞禅の根本道場として、その昔道元禅師が建てられたという由緒《ゆいしよ》ある建物である。なにしろ参拝者の数は年間を通じて二百万人にのぼり、修行の厳しさにおいても日本一であるといわれている。
数年前、永平寺に観光客として訪れた時、ふと坐禅に興味を持ち、受付に参禅の説明を求めたところ、係の雲水からあっさり、「ここの厳しさには耐えられませんよ」と、よした方がいいようなことをいわれたことがある。きっとぼくのいかにも軽佻浮薄《けいちようふはく》な態を見てそういったのに違いない。
なるほど音に聞いただけあって参禅は厳しいなんてものじゃなかった。まるで軍隊である。この平和な世の中でこんな厳しい生活をしているところがあるのだろうかと思われるほどだった。寒さや長時間の坐禅で相当の厳しさを体験してきたわれわれだったが、さすがここの厳しさだけには恐怖を感じた。この参禅に来る数日前からぼくは少々ヘビーな気分にかられていた。何かにつけて拘《こだ》わりの気持ちが起こっていたのである。
永平寺に向かう新幹線の中で手にしたグラフ誌に俳優で絵本作家の米倉斉加年さんが、「大物とは、決断せず、流れにまかせることができる人物をいう」といっている個所にぼくは目を奪われた。そうだ――流れにまかせることを忘れて、ぼくは流れに逆らっていたので、心が重かったのである。ぼくは目を開かされた気分になり今回の参禅には思う存分一つ打ち込んでやろうという決心も固く永平寺の門をくぐった。
「長髪は困ります。修行するためには身をきれいに整えてやってもらわなければなりません」――第一声である。
が、なんとか今回だけは穏便に許してもらうことになった。われわれ三人の他に男女合わせて約二十人の参禅者がいた。すでに十日近くも山ごもりしている者もいた。下は中学三年生から上は初老の男性までだったが彼等の表情には緊張と疲労の色が濃く、一目で参禅生活の厳しさがうかがえた。大学に進学した者、受験に失敗した者、転職した者、動機はそれぞれ異なるが心機一転を計るために参禅に来た人達がほとんどのようである。また、東京、神奈川、静岡、大阪、奈良、富山と各地からの参禅者が集まっていた。
参禅者は常時二十人から四十人位らしいが、他の禅寺に比べるとその数はうんと多い。なぜこのような厳しい禅寺にこうも参禅者が押し寄せるのだろう。やはり永平寺は禅のメッカだからか。
さて、なによりまいったのは、参禅担当の雲水の一人がどういうわけか、何かにつけ大声で怒鳴り散らすのである。まず最初に教えられるのは食事の作法である。食事は、禅堂の単(僧堂で各自の坐る座席のこと)の上に坐るわけだが、鉢《はつ》(食器)一つ一つの扱いにも細かい作法があり、これを一つでも間違うと頭の上から雷が落ちてくる。食事を始めてから終わりまでの間に二十以上の作法があり、こんなの一回位教えてもらったぐらいじゃなかなか覚えられるものではない。しかも怒鳴られながら教えられるわけだから、恐怖感が先行して一向に覚えられない。ぼくが最初怒鳴られたのは合掌した手が約三センチ位鼻より高い位置にあっただけで、
「オイッ!! そこの端(端に坐っていたから)何を聞いているか! 合掌の手が高いじゃないカッ!」
とこんな具合である。
また布巾《ふきん》の拡げ方がわからなくなったので「もう一度お願いします」といったら、「ナニッ!! どこを見ていたんダーッ!! よーく見ておれッ!! こうするんダーッ!!」
とまたまたすさまじい声が飛んでくる。もう劇画の世界だ。
生まれてかつてこんなに怒られたことはない。中学の頃よく怒る図画の先生がいたが、そんなのは比じゃない。いかにも恐ろしい顔をして怒るのである。たった数日間の食事作法を覚えたって一生の役に立つわけでもないというのに、なんだこの若僧坊主! と次第に腹が立ってくる。これでよく仏道に生き、衆生を導く聖職の立場にあるものだ、とつくづく禅のあり方に疑問さえ抱き始めた。
同じ人間でありながら、しかも素人のわれわれをつかまえて、怒鳴りちらす雲水は人間の尊厳を無視している。雲水の修行そのままを参禅者にも適用しているのだろう。しかし聞くところによると雲水の修行はしごきに近いという。おそらくこれでもわれわれには手加減をしているのだろうか。しかし参禅者でもこんなに厳しくされると、そのうち本気でお坊さんになってしまう人もいるかもしれない。われわれと一緒になった東京から来た人の息子さんなどは一ヵ月半もここで参禅したと聞く。この忍耐と根気にはぼくは人間の質の差を感じてしまった。
われわれが最も厳しく監視され、恐怖と戦慄を覚えるのは、なんといっても禅堂での食事の時である。この食事の時に比べれば肩に入る警策《きようさく》の痛みなどなんでもない。たった一回こっきりで覚えた食事作法をもとに、いよいよ本番で実践しなければならないのである。禅堂に片足を入れる時から体は緊張の余り小きざみに震えている。
いよいよ食事が始まる。目の前が真っ白になって、布巾をどのようにたたんでいいやら、箸《はし》をどのように袋から出していいやら、ご飯をどのように受けていいやら、いつ合掌して、いつ低頭していいのやら何がなんだか色々のことがごっちゃになったり、忘れてしまっていたりして、手を動かすのがただ怖く、手は震え食器はガタガタと音を立てる。
「音をたてるな!!」
と、暴力団風に凄味《すごみ》をきかせて怒鳴られる。幸いにもわれわれと同時に入った高校生の一人が、何をやってもとんちんかんなことばかりやり、彼に文句が集中していたので、その間に雲水の目を盗んで、いいかげんなことをやって、さっと食うものだけ先に食ってしまい、先輩の作法を横目で見ながら、真似ていく。しかし敵はわれわれの目の動きまで一つ一つ読んでいるので、うっかりすると、
「どこを見とるカーッ!! 目は三尺前だアーッ!!」
とやられる。三尺前を見てめしが食えるか!
われわれが入った翌日に来た大阪の青年は、相当厳しくやられ、ついに食器を土間に落としてしまった。体全体が痙攣《けいれん》を起こしたようにガタガタと震えている。後はどうなったか、想像するまでもない。
ところが、食事も二、三度経験すると次第に作法も覚えてき、叱られなくなると、今度は食事が楽しくて仕方ない。自分が叱られるのは嫌だけれども、他人が叱られれば叱られるほど、不思議とこちらに自信ができてくるのだ。たとえ雲水が怒鳴ろうとも聞き流してしまえばいいのだが、よほど腰が据っていない限り雲水を無視することは至難の技である。また坐禅中に入る警策の音はどこの禅寺で聞いた音よりも強烈だった。幸いぼくは警策を受けなかったが、ぼくの隣に坐っていた若い女性などは他人に入った警策の音によほど驚いたのか、飛び上がった。そして坐禅中ついに倒れかつぎ出された若い女性もいたが、こんなことはぼくの経験では初めてである。きっと緊張と恐怖のあまり失神したのだろう。
永平寺の指導法はまず形から入る方法である。自分の五体が満足にコントロールできずに何が坐禅だ、とでもいいたいのだろうか。しかし、それにしてももう少し人間らしく指導してもらいたいものだとか、悪事の結果叱られるのなら納得がいくが、われわれ素人は参禅を機会に禅を知り、仏教を知りたいわけだから、そのためにも尊敬できるお坊さんに出会うことが仏道に入る良き因縁《いんねん》になるはずではないだろうかと、ぼくは正直いって非常に反発を感じ始めていた。反発を感じるぼく自身がまだまだ未熟であることは認めるが、仏教の根本的な精神は愛と慈悲《じひ》ではなかったのだろうかとか、厳しさの中に愛と慈悲の心があればどれほどわれわれは坐禅に熱中できたかしれないと――こんな意識が頭の中を駆けめぐり始めると、ますます気分がヘビーになり、米倉さんの「流れにまかせる」という言葉を口の中で何度も反芻しながら自分を主張することを抑えようと努力してみた。
しかし、中学三年の男の子が、下痢をして何も食べられなくなった時、ある雲水が彼を外に連れて行き、なべ焼うどんを食べさせてくれたという話をしてくれた。
「お坊さんの給料なんて三千円ぐらいでしょう。それなのに自分は何も食べないでぼくにだけなべ焼うどんを食べさせてくれた。うれしかったなあ」
しかし、叱られながら箒《ほうき》や雑巾を持って禅堂の中を独楽《こま》鼠のように駆け廻りながらする作務《さむ》は学生時代を想い出して結構楽しかった。特に女風呂の掃除は最高に面白かった。ホースで水をまいたり、タイルを泡立てたりすることは作務を忘れて、無邪気な子供の頃に帰った思いだった。人間が本来の姿に帰っているのである。
恐怖と緊張の反面、今回の参禅はわれわれの他に大勢の人々との共同生活が非常に楽しかった。特に高校生の連中は控室に帰ると早速、恐い雲水の声色《こわいろ》で、
「いつまでボヤボヤしとるッ! 早く寝るんダーッ!!」
なんて、ふざけて仲間を叱ったりしている。彼らにはこうしたユーモラスな表現によって恐怖や緊張を客体化してしまう不思議な才能があった。ぼくなんかは怒りなれているが、怒られることにはなれていないものだから、つい反発してしまう。このような高校生の彼等を見ていると、反発している自分の側に問題があることが少しずつわかってきた。
自分という意識を中心にして物事を考えると他人の気持が読めず、例えば叱られていても相手を批判したくなる。特に参禅生活はどこでも厳しいわけだから、批判をしようと思えばいくらでも批判できる。つまり自我の重みによって反発もし、また従うこともできるのだ。「自分が、自分が……」という気持がある限り怒鳴られると腹が立つ。ぼくにはまだ自我を主張する気持が強いようである。いつか総持寺の板橋興宗単頭老師がいわれたように、風鈴の如く、風が南から吹けば北に揺れればいいのだ。怒鳴られて腹が立つようではまだまだ人間ができていない証拠である。
ぼくは参禅中恐い雲水に多少批判めいた目を向けていたが帰り間際に、禅堂の中で小声で、「どうもお世話になりました」と挨拶した時、彼もやはり小声で「どうもごくろうさまでした、お気をつけて帰って下さい」と、全く別人のような表情でわれわれを見送ってくれた。この時の雲水の表情には「色々と怒鳴って申しわけありませんでした」という気持が隠されているように思えたのである。こんな雲水の表情を見ていると逆に憎んだことが申しわけなく思えた。現にこのような厳しい参禅指導をつい一ヵ月ほど前に経験したばかりの人が再びわれわれが帰る前日に入ってきたぐらいだから、きっとあの厳しさが恋しくなり、帰ってきたのかも知れない。
実際われわれはまるで逃げるようにして予定の時間を繰り上げて山を降りてしまったわけだが、今こうして日が経つにつれて不思議とあの恐ろしかった雲水の顔がチラチラと目に浮かぶ。彼の顔はおそらく一生忘れないだろう。そしてもう一度怒鳴られてみたいという衝動にかられることさえある。社会的な地位や名誉や財産その他一切を捨てて、たった独り坐禅に打ち込め、といった指導者の言葉が今でも耳の奥に残っている。この言葉は禅堂では非常に重い意味と、しかも新鮮な響きをともなって体の中に入ってきた。
ぼくはあの叱られたことの意味を体ごと受け止めることにより、われわれの管理された怠惰で欺瞞的な日常性を超え、また自分自身の位置と存在を確認して、再びあの白々しいもとの日常の中に帰っていくことだけは食い止めなければならないとつくづく思って永平寺を後にした。
[#改ページ]
自分を掘り下げる――松原哲明老師との対話
負の意識
横尾[#「横尾」はゴシック体] 成人式の際のNHKの若者を対象にした意識調査によると、五十六パーセントの者が禅に興味を抱いているというデーターが出ましたが、実際はそんなに坐禅はしていないはずです。しかし、彼等が心の奥に精神的なよりどころを求めていることはたしかですね。ところがいざ禅の世界に飛びこむとなると、誰でもしりごみしてしまう。なんだかヤクザの世界に足を踏み入れるような恐ろしさに似た感覚を持っているんじゃないでしょうかねえ。二度と足を洗えないような。しかし、やってみるとなんてことないんですねえ。ただ、禅を始める縁がないんですよ。
松原[#「松原」はゴシック体] 若者には禅のムードに酔うみたいなところがあるのでしょうね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 若者のなかに禅に対するひとつのイリュージョンがあるんですね。ただね、運動部の強制合宿みたいに参禅してみても彼らは抵抗感をもつだけですね。
松原[#「松原」はゴシック体] 無理矢理坐らせて怒鳴ったり叩いたりしても、なんでこんな若僧に叩かれしごかれるんだと思うだけですよ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 僕は以前、ヨーガをやってたんですが、ヨーガには科学的な解説、効能書きがあるのです。ところが坐禅は効用などむしろ考えるなという。
松原[#「松原」はゴシック体] 無功徳だなどといいますね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] いまの若者は、理屈から入りますからね、こう坐ればこうなるという解説を求めるんですね。僕は、松原さんにヨーガの瞑想と禅定をミックスしたみたいな解説書をかいてもらうといいなと思うんですけどね。
松原[#「松原」はゴシック体] たとえば若い女子大生などに坐って無を体験しろと言っても、いろんなことを考えてしまう。女性なんだから胸のなかにお天とうさまみたいな暖かいもの、お月さまのように澄んだものを描かせるという、現代に合った新たな瞑想観が必要なのかもしれませんね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ヨーガはしかし、超能力者になれるかもしれないなどという効用の方ばかり考えるという危険な落とし穴がぼくにはあったですね。こういう欲がでてくると、逆に苦しくなってしまう。ところが禅は一切のそういうものを捨て、悟ることすら捨てよという。僕はそこが、面白いなと思ったんです。新鮮な発見でしたね。
松原[#「松原」はゴシック体] 私など二年間の僧堂生活だけでまだなんにもわからないんですが、人には熟した柿が落ちるような時期が一、二度はあるのじゃないですか。そのときにいい師匠につけばね……。
私どもで発心《ほつしん》というんですが、禅を始めるときに持つなにくそという気持ちですね、これが大きければ大きいほど難行苦行に耐えられる。それに願《がん》、これは欲とは違います。願は自分の中にあるよい方のささやきとでもいうか、これは一生持ち続けなきゃいけないんですけどね。禅ではこの二つが重要です。まア普通なら禅寺をのぞいてみて坐ろうかと決心したヤングが、ちょっと怒られると「なんだよ」とすぐに鼻をふくらませちゃう。
横尾[#「横尾」はゴシック体] それですね、やはり……。僕などもそれでしたね。
松原[#「松原」はゴシック体] 禅には、テキストというものはありませんけれど、そのかわりに師匠がいて、人それぞれにいちばん合った方法で指導してくれることになってるんです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 言葉で説明せずに、ただ坐れといわれても無理ですね。入門のためにはやはり言葉は必要ですね。
松原[#「松原」はゴシック体] ただねエ、禅って何だと本を読んでみても結局よけいわからなくなる場合もあるんです。最後には坐禅をしなければわからないと書いてある。確かに坐っていると「あ、よかったな」という時が時折りでてくるんですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そこに僕らからみれば、参禅の時間的カリキュラムみたいなものがあればいいな、と思うのですが、坐禅と作務《さむ》に追われて「もう帰りたいな」とつい考えてしまう。初心者にはそれなりのはいり方があると思うんです。
松原[#「松原」はゴシック体] 毎日朝四時から夜九時までの修行僧なみのコースは無理かもしれませんね。が、禅は即席ではできないという一面もありますね。坐が固まるのに三年といいますからね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] たとえわずかの精神的な時間でも禅が人に与える充実感は大きいとは思いますよ。日常生活ではただ物質的空間のなかでダーッと流されているのですからね。自然の非常にいい環境のなかで坐っていると、なんとなく自分が立派なことをやってるような錯覚にとらわれます。錯覚かもわかんないけれど、禅寺から出てくると現実の風景がやや異なって見えてきますからね。
今までの日常生活がいかに贅沢なものであったかということを新たに発見したりして、物の見方の視点が確かに変わるというところがありますねえ。このことは坐禅をしているときよりむしろ、食事や作務の中に多くの発見や驚きがあるようです。日常生活ではなにもお寺の中と同じ生き方をする必要はないと思いますが、参禅生活を体験することによって、社会と自分との位置を明確に確認することができるような気がするんですねえ。こうしたところから、個人の悩みや苦しみの問題が、少しずつ、どこに原因があるかということなどがわかりはじめるのではないでしょうか。
しかし、それにしても坐禅そのものはしんどくて、僕にはまだ楽しいものには思えませんね。雑念との戦いがすべてです。
松原[#「松原」はゴシック体] これは大森曹玄老師の言葉ですが、まず気が張る、よし坐ってやろうかと張りきるでしょう。次に雑念がわく。私などもなんでサラリーマンをやめて頭を丸めたんだと、ついサラリーマン時代を考えたりしましたね。次にそれにも疲れて、教えられたとおり数息観《すそくかん》から始めるのです。次に気が澄むのだと老師はおっしゃるのですね。静かに静かに坐っているうちに最後は冴えてきて、これが禅だということですね。パチンコに熱中しているのとは違うわけです。またボケッと頭を働かさないで沈んでいる状態とも違う。
横尾[#「横尾」はゴシック体] その冴えるということですが、自分自身が自然の一部だと感じられるようになることだと言われるけど。
松原[#「松原」はゴシック体] たとえばお月さんを見る場合、むこうにおいてただ見ているのはまだ澄んでいるという段階で、自分もああいうお月さんみたいになりたいなあという第一人称の働きが出てくると冴えてくる。相手を第二人称として見ないでね。相手と近くなるんですね。負けるもんかということになると、我ばっかりで気が張っちゃうんだけど。禅は、ただ集中したり熱中したりするのとはちょっと違うんです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 坐禅と一般社会との間に何か大きな壁というか溝というか、そんなものがあって通路がないような気もするんですよ。お寺のなかだけで、坊さんの世界だけで完結してしまうものがあるんじゃないですかね。それを一般大衆にどうやって持ちこむかもあまりなされていないみたいですよ。それに体系化された禅学は難しいしね。
松原[#「松原」はゴシック体] だから私などその溝をとびこえて僧と俗との中間に第三グループみたいなものを作らないといけない、そう思うんです。あまりに壁が高いと、一度飛び越えたが元にもどってこれない。一般の人にとって一度いっぱいに書いた黒板を消して帰ってくるような世界なんですね、禅は。宣伝してみたい気がしますよ。横尾さんがやってられるこの連載記事など、これは私らがやるべきことでしてね……。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 政治とか思想とか、これでは絶対に社会はよくならないし、自分自身もよくならない、というようなイデオロギー的要素から禅にいこうと入ってきてもこれは難しいんじゃないですかね。それよりも何か「業《ごう》」みたいな個人の問題をかかえて入ってこなければ禅に打ち込めないと思います。
松原[#「松原」はゴシック体] 確かにそれはありますね。また趣味や遊びで入っても禅はできないし続かない。
横尾[#「横尾」はゴシック体] いまの若者は物質的、現象的な面では満足してますよ。小遣いももらい恋人もいて趣味ももっている。が、なにかわけのわからない、実体のない欲求不満はもっていますね。それが政治なのか、教育なのか親子関係なのかはよくわからないが、しかしこれらの不満の原因がすべて社会にあると思っているために、自分自身の想念をチェックしてみるというようなことはなかなかやらないようですね。ところが参禅に来ている若者は、自分が本当に不幸だとか自分が苦しんでいるというような自分自身に対するある種の負の意識≠持っているんです。幸せな者はきていないのです。満たされている者が禅寺にきて、従来の生活、自己否定をする必要もないですよね。が、あれだけの数の人がわりかし判然とした理由で参禅しているというのも面白いですね。
松原[#「松原」はゴシック体] 負の意識≠ニいうか、マイナスをプラスに変えたいというなら、参禅をすすめたいですね。それに人は自己を顧みて負の意識≠もつように心がけるのも大切でしょうね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そうですね、自己洞察というのか、自分自身をもう少し深く見つめてみようという発想、世の中を深くみようということと同時に自分自身も深くという両面の発想がないといけないんじゃないかな。
松原[#「松原」はゴシック体] 横尾さんは交通事故にあったとおっしゃっていたけれど……。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そうなんです。交通事故にあって仕事ができない状態のときに自分自身の反省をせざるを得なくなった。そんな意識を持ちつづけている時、ポンと肩を叩かれて禅を知ったのですがね……。自分を知りたいという欲求を持っていた時にいいタイミングで肩を叩かれたのでストンと坐ったという感じですね。
松原[#「松原」はゴシック体] 雑誌にかかれたのを読むと七〇年ですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] むちうち症から足にきて動脈血栓になりましてね。壊疽《えそ》になりかけたんです。それまでの仕事としての創作が禁断症状を余儀なくされると、どこかにワーッと吐きだすものがない。それで宗教的な関心をもつようになりましてね……。
松原[#「松原」はゴシック体] 自分をもう少し掘り下げてみたい、己を知りたいというのは、衣をきているけれど私も同じですよ。私も日蓮宗の道場で水をかぶってみたり、天台宗の比叡山に回峰行《かいほうぎよう》にいったり、いろいろやらせてもらいましたが、己を知ることには役立ったかもしれない。が、それでも「お前さんは何者か?」と問われてもいまだによくわかりませんけれどね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 言葉で表現できないけれど、そうしてゆくあいだになにか得るものがでてきませんか。
松原[#「松原」はゴシック体] それはあります。修行自体がうれしいんですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ただしね、坐禅というのは逃避だという人がいるわけですよ。自己からの逃避だとか、社会からの逃避だとか。でも僕は全然違うと思うんです。というのは禅をやるようになって自分自身に対する関心が強くなった。自分自身に対する関心が強くなると、どういうわけか、自分の環境、あるいは社会に対する関心も同時にものすごく強くなってくるんです。
松原[#「松原」はゴシック体] 感覚が鋭くなるんですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] それは確かにある。
松原[#「松原」はゴシック体] つまってる毛穴が開くような感じだという表現をする人もいますよ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 僕は六〇年代の後半なんか政治に対してわりと関心を持っていたんです。まあ、興味本位のやじ馬的関心でしたけどね。そのころは自分自身の欲求不満の原因を、家庭がいけない、世の中がいけないと、まわりのもののせいにする、そういう発想だったわけです。ところが自分を掘り下げてゆくと自分自身に原因があるということがわかってくる。少なくとも自分をとりまいている小さな環境に対しては自分が明るくも暗くもしているという感じがわかってくるんです。そうなると逆に社会に対する関心も以前とは変わってきますね。
松原[#「松原」はゴシック体] いままで外側ばっかり向いていた目を自分の内側に向けると、自分を通してもう一度社会というものを見るようになる。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そうですね。それだから、僕はすべての人に坐禅を勧めるわけではないんです。ヨーガがいい人はヨーガをやればいいし、太極拳がいい人はそれでもいい。あるいは旅行だっていいんです。とにかくどういう方法でもいいから、自分自身に対する関心をずっと持ち続けることがとても重要ですね。これはエゴイズムかもしれないんです。けれどエゴイズムももうひとつ通り抜けていけば、自分の裸の状態をまず見てしまうっていうことです。そこから世間に対する新たな関心の芽が生まれてくると思うんですよ。
松原[#「松原」はゴシック体] 横尾さんの場合は今のところ坐禅を選んでらっしゃるわけだけれど、坐禅をする前とした後でいちばん感じることは何ですか。
横尾[#「横尾」はゴシック体] それまでは自分が欲望を持ちすぎていたということですね。自分が自分がっていう第一人称が先に立って、相手の尊厳や人格を無視して、自分の損得を考えていた。そのためにそれが満たされないと腹が立つ。そこに気がついてきたんですね。そうすると人間同士の関係がやわらかくなってくるんです。やわらかくなると、そのやわらかさをずっと外に波紋のように広げてゆけばいいじゃないかと思うようになるんですね。
松原[#「松原」はゴシック体] 自分が味わってる気持ちをなんとか広げて多くの仲間をつくりたいっていう希望はすごくありますね。さっき言った願《がん》というのがこれですね。
私の場合、坐禅をやってから自分の中にささやきみたいなものが生まれましたね。ささやいてくれるものが自分の中にもうひとりいるような気がしましてね。あいつにあんまり冷たくしすぎるなよとかそういうささやきですけれどね。いままで自分の中にあった人と人との間の壁がだんだんなくなってくるような感じです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] いま、世の中をいろいろな形で変革しようとしている人がいますね。政治運動をしている人もいるし、社会的な運動をしてる人もいる。僕はそういう人たちに水をかけようっていう気持ちは全然ありませんね。そういったものは必要ですから。そういったものと、今話している内面的なもの、この両面でいかないとダメじゃないかなあと思うんですよ。
両面っていう意味は、君は外の世界を変革しなさい、僕は内の世界を変革しますからっていうように分担するんじゃなくて、自分の中に外に向ける目と内に向ける目の両方を持ってなきゃいけないということです。どちらか片方だけになると、自分自身がますます傲慢になってゆく。傲慢になれば思想などが対立し、そこに暴力的な発想が芽生えてきますね。
イモ居士
横尾[#「横尾」はゴシック体] 頭で考えて、よし、これから自分の内部を見つめるぞ、といってもそう簡単に自分を見つめられるものではないと思います。ぼく自身、自分のいいところも悪いところも全部見てやろうということで坐禅をしているんですけれどね。
松原[#「松原」はゴシック体] なるほど、それはおもしろいですね。具体的にいうとどういうことになるんですか。
横尾[#「横尾」はゴシック体] たとえば夢の中には嘘いつわりのないありのままの自分が出て来ますよね。人をだましたら、だました人に追いかけられてる夢を見るとか。潜在意識が象徴的な姿をとって夢の中に出てくるわけですよ。
それと同じようなことが坐禅をしていると出てくるわけですね。雑念の中に出てくるんですよ。それが本性というものだと思いますがね。顕在意識では意識していない、たった今の自分やあるいは過去のことがらなどがポンポンと出てくるんですが、こうした想念自体がぼくの本性だから、これらの想念をチェックしていくことがあるいは自分を知るチャンスだなあっていう感じなんです。
松原[#「松原」はゴシック体] まったくおっしゃる通りだと思いますね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] しかし、そうやって自分の内部を見つめる事も重要だけど、山にこもって朝から晩まで坐禅三昧、これだけじゃだめだと思いますね。やっぱり山から帰ってきて、社会に向かって仕事をしていくことも必要な気がするんです。お坊さんの場合、これは布教活動とか、いろいろな教化活動になるんでしょうね。
松原[#「松原」はゴシック体] そうですね。だから布教活動をしているお坊さんというのは非常に活力があるんです。私自身、坊さんになってよかったなあと思っているんですが、やっぱり教化活動をやっているからそう感じるんだと思います。
横尾[#「横尾」はゴシック体] それは自分ひとりが悟ったってだめだということだと思うんです。ひとりひとりの人間は社会と網の目のようにかかわっていますからね。自分ひとりが悟っても決して幸せにはなれないと思いますね。
ぼくは今まで自分の作品で自分自身が願望する自分自身の内部の宗教的な世界をずっと掘りさげてきましたけれど、坐禅をしてから少しずつ外に向かった仕事をやっていきたいなあという気持ちが出てきたんです。
松原[#「松原」はゴシック体] 横尾さんみたいに、いつもいろんなものを吸収し続け、何かを表現している人は、動いてばかりいないで静かな状態も味わってみるべきだと思うんです。いちど、そういうものを捨てちゃって、静と動の両面をやっていかないとだめじゃないでしょうか。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ぼくに関してはそういうことですね。やっぱり両面をやっておかないとバランスを崩しちゃう。人間にはやっぱり秩序と調和みたいなものが必要ですね。それから健康であるっていうことも非常に重要なことです。
松原[#「松原」はゴシック体] もうとにかく肉体と精神が健康じゃないとやっていけない。横尾さんは交通事故で四ヵ月入院されたというお話でしたが、私も骨折で総計六ヵ月入院しました。最初は足に針金が入っていて正坐もできない状態で坐禅道場に行ったんです。もうめちゃめちゃに怒鳴られましたね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] いやあ、それはきつかったでしょうね。禅寺へ行って感じることですが、禅というのは結局、自己との闘いだっていうことですね。腹を立てて、誰かと闘おうと思っても相手はお坊さんです。お坊さんは警策《きようさく》を持っていて、こっちは持っていないんだから負けるに決まっている(笑い)。誰と闘うかっていったら自分と闘う以外ないんですね。自分の眠気や雑念と闘ったり、自分の足の痛みと闘ったり。スポーツなんかにしても同じでしょうね。相手と闘うのではなく、やはり自己との闘いなんでしょうね。それにくらべると、日常生活で闘うというと、編集者やスポンサーと闘ったり、まあ身近な人と闘うんですけれど、これは本当の闘いではないですね。
家で坐禅をするのもいいと思うんですけれど、ぼくの場合は、今いったように、参禅することによって教えられるものが非常に多いから、続けてるんです。
松原[#「松原」はゴシック体] じっと坐禅をするのもいいけれど、私は日常生活を通して坐禅をしたと同じようになる方法を作りたいと思っているんです。頭が空白になって、固定観念がすっかりなくなるような……。
横尾さんは、便所掃除をさせられても、もう腹が立たなくなったということでしたが、実は便所掃除というのは禅寺では非常にむずかしい仕事になっています。不浄な気持ちがあったらご不浄はきれいにならないっていうわけなんですよ。腹が立ったらそれだけで自分との闘いに負けてしまっていることになる。だから、便所の掃除は修行の長い人しかできないんですよ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] それだから禅寺では女の人には便所の掃除をさせないのかな。
松原[#「松原」はゴシック体] 業が強いというか……。
横尾[#「横尾」はゴシック体] でもこの間永平寺で女風呂を掃除させられたときはうれしかった。みんなもう一生懸命で、同行したN君なんか、ふだんは働かないのにもう湯船の中にまで入ってやってるんです。
松原[#「松原」はゴシック体] それは相当悪性の業がある人なんじゃないですか(笑い)。私も女風呂の掃除をしたことはありますが、なんか気持ちが悪かったな。純情なせいかもしれませんけど(笑い)。
横尾[#「横尾」はゴシック体] おばあさんばっかりが入った風呂だったらやる気がしないけど、我々が行ったときには若い女性の参禅者がたくさんいましたから。その女の子たちが入ったと思うと全然違うんですよ、気分が。
松原[#「松原」はゴシック体] さっき言った家の中でできる心の浄化法なんですけれど、便所掃除とか洗濯とか料理などもいいのではないかと思いますね。私は洗濯と料理がすごく好きなんです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ぜんぜん苦にならないわけですか。
松原[#「松原」はゴシック体] 菜っ葉の良い葉と悪い葉をよりわけたりしているときなんか、もう何も考えていませんね。料理を作っているときは絶対腹が立ちません。腹が立ったら味をみられないでしょう。
便所掃除とか台所仕事とか禅道場でいちばん大事だとされている仕事を日常生活では全部女性軍にまかせて、男性軍はテレビなんか見ていて、それでいいのかと思いますよ。二日に一回でもいいから、ご飯を作ってみたらどうですかね。そうすれば固定観念もなくなるし、腹が立つこともなくなるんじゃないですか。きょうもここに来る前、三十分ぐらいだけど、子どものオムツをほしてたんです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 禅寺の食事なんですけど、おかずが少ないからお米だけ食べる。お米の味ってこんなかって思いました。小さな発見ですけれどね。
松原[#「松原」はゴシック体] 単純な味を味わわせるんですね、あそこは。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 人間も単純になれっていうことじゃないでしょうか。複雑怪奇な人間、表裏のある人間じゃなく、単純になれば、世の中がいろんな意味で整理できるんじゃないかと思いますがね。
松原[#「松原」はゴシック体] 春になれば花が咲き、風がくればフワフワと吹かれているというような……。単純に単純にしてゆけばもっと楽に生きていけるんじゃないでしょうか。そうなりたいですね。横尾さんは、自分の頭の中にあるものをパッパッと落として裸になっていくというような、捨てるという行為を、これからも続けていらっしゃるつもりですか。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 幸か不幸か、ぼくはあまり学問的なことはやらなかったから、捨てる部分が多少は少ないと思ってるんです。逆に自分勝手に独学してしまった部分が邪魔になるということはあるかもしれませんが……。
禅寺でアホのようになるとか子供のようになるとかいうのは、やはりまず捨てるということでしょう。自分が作りあげた観念とか思想の中で物事を判断しようとすると、どうしても発想のスケールが小さくなりますね。大地にデンと坐ってさあこいという感じのほうがすごい発想が出てくる。火事場の馬鹿力的発想が必要ですね。あんまり情報をたくさん取り入れたりするとかえってだめですね。頭で悟ったことは理屈の世界では通じますが、今の世界は逆にこのことによって行きづまっているように思えますが。
松原[#「松原」はゴシック体] 結局、たくさん情報を集めても、使えるのはわずかですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 逆に、何も知らないっていうのは強いと思いますよ。ときどき、何も知らない人とあったとき、こっちが太刀打ちできない。堂々と生きている人なんですね。芸術のことなんか全く知らないのに、本質的な批評をしたりすることがありますからね。それが長年やって培ったこちらの考えと同じだったり、あるいはそれ以上だったりするわけなんです。そういう人を見るとうらやましいし、その世界に一回帰らなくちゃと反省するんですよ。
松原[#「松原」はゴシック体] それをつくづく感じているのは私のほうですよ。私が長年やってきた仏教の世界の感覚を横尾さんにズバッと言われちゃって。私なんか後からおっかけている感じですよ。私も仏教の学校には行かなかったから、仏教的知識は全然なかったんです。勝手に自己流のことやってるという批判もあるんですが、知識がないお陰で、かえって自由になれますね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 自由ということ、これはやっぱり最高ですからね。がんじがらめになっている自分自身をまず自由にさせる努力をして、その自由を外に拡大してゆくっていうことでないといけませんね。自分自身ががんじがらめになっているのに外にだけ自由を求めて解決を図ろうとすることは、これはやっぱり本質的には自由になれないですよ。
松原[#「松原」はゴシック体] わがままみたいなものですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 無意味な情報を集めすぎると直感力が働かなくなりますね。直感力が摩滅してしまっているから、物事にとらわれる。自由ではなくなってしまうわけです。ぼくは人間にとって直感力は大事だと思いますね。欲望にとらわれない直感力ですけれどね。欲望にとらわれているのは真の直感力ではないですからね。
松原[#「松原」はゴシック体] いろいろなことを考えすぎるとだめですね。重荷になってくるんです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ぼくも、禅をやって何になるかということは考えないことにしたんです。考えるとだめですね。ぼくは禅がいいか悪いか、今のところ全然わからないですよ。わからないけれど、日常とは違う世界で、日常とは違った生活をするということを続けていきたいという気持ちだけはあります。禅寺へ行けば、その分だけ日常生活はロスするわけです。でもそれがあっても構わないと思っています。
ただ、坐禅をやるっていうことで、逆に自分が傲慢になってしまうという危険に常にさらされているということも同時に意識していないといけませんね。
松原[#「松原」はゴシック体] イモ居士《こじ》ですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] イモ居士?
松原[#「松原」はゴシック体] 私が竜沢寺で修行しているときにはよく使われていましたね。居士っていうのは修行している一般の人のこと。イモは食べてもおならしか出ないという意味ですね。だからイモ居士っていうのは結局、屁にしかならない、くさいばかりで役にたたない修行者ということですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] よその人に対してならまだしも自分自身に対するイモ居士になってしまうともうアウトですからね。そういう意味で、いわゆる禅のエリートにはなりたくないという気はあります。
松原[#「松原」はゴシック体] それは、広い範囲にわたっていろいろなものに磨きをかけたいっていうことですか。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 言い方をかえれば、自分の仕事の専門家になりたくないっていうことです。というより、いつもシロウト的でありたいっていったほうがいいかな。そのほうが自由なんですね。ぼくはデザインの仕事やってるけど、専門家になると専門家のやることしかできない。専門家には専門家の約束ごとがあって、それを破ることが大変な勇気を必要とするんですね。シロウトは最初から約束ごとがないから自由の荒野を歩める。
松原[#「松原」はゴシック体] いいなあ。私も本当にそう思いますね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 今の若者は、禅にある種の神秘的なムードを感じていると思うんですが、禅のことはほとんど知らないのじゃないかと思いますね。ぼくだって本で読んだ禅と体験の禅ではえらい違っていたですね。なかには禅を信仰と取り違えて、否定している人もいますが、禅がいいとか悪いとかは一概にいえないと思うんですよね。その人にとって必要かどうかということが問題ですね。どっちにしても禅がムードとしてとらえられていることは確かだと思いますね。
松原[#「松原」はゴシック体] 仏教にもいろいろありまして、浄土観にしてもムード的に教えているものもあるわけです。しかし禅道場にひとたび入ってみると、とてもじゃないけどそんなムードなんてないわけですがね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 松原さんのおっしゃるムードとはちょっと違うかもしれないけれど、今の時代は、物質文明の退廃などといわれていて、精神文明的なものを求めるという、そういうのがムードとしてあるんですね。たとえば意識産業と呼ばれるものだけど、あるデパートなんかインドのポスターをドカッと出して「原点へ」なんていうタイトルをつけているわけです。これはムードだと思うんです。インドの貧しい人たちを出して、デパートが物を売るためのポスターにしているんです。それで原点へといったって、何が原点なのかっていう感じがしちゃう。実際インドへ行って、インドのすごさを見てしまうと、あの大事なインドがとても安っぽく売られちゃってるなって思いますね。写真を撮りに行った人は見てるんだろうけど……。ああいう風に意識産業の一環としてやられると、インドがムードになってしまって、だめにさせられているのがよくわかりますね。
禅にもこれと同じようなムード的なところがある。ほんの、一、二回しかやったことがない人がやったようなふりをして禅をすすめたりしてる場合があるんです。そういうムードは逆に本質を非常に不透明にさせてしまって、幻想にしてしまうんです。そして、その幻想を本物の禅とかヨーガととり違えてしまう。禅やヨーガのムードだけをなんとなく部屋の中に作ることによって、すごしている若者がずいぶんいると思うんですよ。これは、こういった人に対する批判になりますが……。
松原[#「松原」はゴシック体] そんな安易なもんじゃないっていうことですね。やっぱり、この前の話で出た負の意識=A自分が本当に不幸だという意識ですね、これを持っていないとなかなかできるもんじゃありません。
横尾[#「横尾」はゴシック体] やってみると、いかにたいへんで何もできないかっていうことがわかってくる。自分で、オレはアホなんじゃないかという感じが起こりますからね。
松原[#「松原」はゴシック体] よっぽど真剣じゃないとできないことですからね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] いまの世の中はすべてムードでごまかしてしまうところがあるけれど、ムードじゃ絶対だめですね。ぼくなんかもムードを作っているほうかもしれないけれど、やっぱり意識的に禅をやろうと思わなくては禅のポスターなんか作れませんね。
ぼくは、前に禅のポスターを一回作ったことがあるんですけれど、今から思うとすごくいい加減に作ったっていう感じがするわけです。ああいう間違ったものを作った原因にはぼくの禅に対するムードがあったと思い、いま反省していますがね。禅をやってからも作ったんですが、自分がやってるって気持ちがあったもんだから、気の入り方が全くちがいましたね。
松原[#「松原」はゴシック体] それではこんどは、私のお寺のポスターも作ってもらいたいものですね。少し図々しいかな(笑い)。
[#改ページ]
天地の間を自由に生きる――東山寺参禅
ラジニーシとカスタネダ
正直いってぼくは坐禅というものが少々しんどくなってしまっていた。永平寺に行く前あたりからそうだったが、ついに永平寺でわけもわからずこっぴどくやられたもんだから、ついに嫌気がさしちゃった、というわけだ。あの時は永平寺の坊さんが悪いんじゃなく、こっちがそう思うことがよくないんだなんて、優等生ぶってしまったが、本心はやはりそう簡単に素直にはなれなかった。こんなことできっと坐禅というものに疑問を持つようになっていったのかも知れない。だって今までだってどこの禅寺においても一瞬たりとも警策《きようさく》の恐怖から解放されたことなんてなかったんだから。
どこの禅寺だってそうだったが、参禅者はみんな神妙な顔してそして体をこちこちに緊張させて坐っていた。他人を笑うわけにもいかない、この自分だってそうだ。一見したところはいかにも求道者風なんだが……。とにかく滑稽である。リラックスしている人間なんて誰一人いないように思われた。ぼくはこんな状態で坐禅が成功するなんて思いもしなかったが、規則だから従うよりなかったのだ。肩の力を抜いて! なんていわれたって、その声が命令的で、またまた肩の力を抜くことにこんどは力が入ってしまうのだ。時たまなかなかいい調子になってきたぞ、と思うと、どこかで誰かがバシッ! と警策を入れられるもんだから、こちらもつい驚いて意識がもとにもどってしまうというわけだ。
禅はまず形を重視しなければならないといって、指導者はそのことばかりに気をつかっている。大きいお寺に行けば行くほど形式的だ。大きいお寺というのは半ば観光化されており、修行のために参禅するのではなく、話のたねに坐禅する者もいるはずだ。坐禅の形がわかれば、どこだっていい。人はぼくが永平寺に行ってきた、なんていえばそれだけで、ぼくの顔を見る目が変るんだからおかしなものだ。永平寺に行けば悟れるとでも思っているのだろうか。
ぼくが今度雪担師(川上雪担。新潟県にある東山寺住職)を訪ねてわざわざ新潟県の東山寺までやってきたのも、ここへ来れば形式的な坐禅をしなくてすむと思ったからだ。そしてそのことは的中した。東山寺は田んぼと山に囲まれた人里離れた小さな村の隅にあった。
以前浜松の竜泉寺で知り合った雪担さんのことが脳裏に焼きついていて離れず、無性に逢いたくなってやってきたのである。
「雪担さん、遊びに来ましたよ」とぼくはいきなりいった。すると雪担さんは「坐禅なんぞせんでよろしい、ゆっくり泊まっていらっしゃい」といってくれた。
「まあ、あんなこと(坐禅の連載)しても百害あって一利もないですわ。雑誌社には悪いかもしれんが、やめた方がいいんじゃねえかな」
本質をずばり突かれたぼくは苦しまぎれに、「結局坐禅は自分自身の問題で、わざわざ雑誌に連載することもなく、またどこのお寺にいっても悟れるというようなものではないということを反省し、面白かったのは便所掃除などの作務《さむ》ぐらいだったですね」といった。
「それがわかっただけでも大変ですよ、わたしはまたあんたが、永平寺はダメだよとかいいだすんじゃないかと心配していたのだが」
まるで心の中を見抜かれている。ぼくの目が確かに現象しか見ていないところがあったがけに、雪担さんのこの一言はぼくには強烈にこたえた。編集者のN君がお土産に持っていった二十数冊のマンガの本が雪担さんを大喜びさせた。あなた方も疲れているはずだ、「部屋に案内するからそこで一眠りして下さい」といって、雪担さんもマンガの本を小脇にかかえて自室に消えていった。寝る時間にしては早過ぎる。まだ昼過ぎである。しかし外は雨だ。すぐ裏山の新緑が雨に濡れて美しく光っており、冷たい空気と共にむせぶような自然の匂いが体全体を包んでくれた。
畳の上にごろんと寝ころがって外を見ていると、いつの間にか実家に帰ったような安心感が湧いてきた。坐禅のことなどはすでに頭になかった。ぼくは持っていったバグワン・シュリ・ラジニーシの『存在の詩《うた》』を読みだした。カメラマンのK君も、N君もふとんの中でマンガを読んでいる様子だ。勿論雪担さんも自室に閉じ込もってマンガ三昧にふけっているのだろう。
二泊三日の東山寺ではわれわれはまるでお客扱いだ。雪担さんの御母堂と奥様の手になる山菜料理は、東京の一流料亭でさえ決して味わえないほどの高級料理だった。翌日は雪担さんと車で信濃川に魚釣りに出かけた。結局は誰も一匹も釣ることができなかったが、ぼくにとっては最高の休養になり、久し振りに生きかえったような気分で爽快だった。坐禅は苦行ではないといいながらも、参禅の厳しさはわれわれにとっては苦行に思われる。そんな坐禅に比較するとここでの読書三昧、釣三昧、それからわらび採りなどは逆に坐禅では決して味わえないほどの解放感があった。
結局は一度も坐禅しないで引きあげることになったのだが、帰京の前夜に遅くまで雪担さんと話すことができたのは何よりの収穫だった。雪担さんは、「俺は宗教の話はニガテでねえ」といいながらも実に多くのいい話を聞かせてくれた。
雪担さんの話はすべて体験が語るもので、他のお坊さんの観念的な宗教論とは根本的に違っていた。雪担さんは悟った者のことを、あっちへ行った者、という呼び方をするが、雪担さんはまさにこのあっちへ行った者の一人である。悟る、ということは一体どのような状態のことなのだろう? この状態の説明を求めても、悟ったことのないものにいくら説明しても通じないのが事実であろう。四、五歳の幼児にセックスのエクスタシーをいくら説明しても通じない以上に、悟りの状態を説明することは不可能であるらしい。しかし、話を聞いているとどうやらドラッグによるストーン状態での知覚に非常に似た状態であることだけはなんとなく想像できた。
雪担さんは他のお坊さんのように「無」とか、「空」とか、「仏」とか、「宇宙」というような仏教用語はいっさい使わない。あっちの世界には観念は存在しないのだろう。頭ででっちあげた観念が必要なのはこっち側の者だけらしい。あっちの世界というのは別にこっちの世界と何ひとつ変っているわけでもなく、このままであるという。雪担さんのいう現象界とあたり前の世界をよりクリアーに知覚することがわれわれが俗にいう悟りの境地と呼んでいるところのものかも知れない。あたり前の世界は地球ができた時からずーっとあたり前で存在しているのだろう。われわれが生まれた時にはこのあたり前の世界をちゃんと把握していたはずだ。それがいつの間にか、この感覚を忘れてしまったようである。
だいたい観念なんていうのは、この世界に何かあるだろう、と思って探しあぐねるところから生まれてきたものかも知れない。わざわざ探さなくても、われわれは、そのことを生まれながらに知っているのである。つい二、三日前、何十キロも離れた地点に貰われた子猫が、約一ヵ月後に元の飼主のところに戻ってきたという驚異的な話が新聞にでていたが、おそらくこのことは猫があたり前の世界の住人であるために可能だったに過ぎず、何も驚くことはない。あたり前の世界とは、宇宙とか大自然と通ずる世界で、何もしなくても自然に導かれていく世界のことかも知れない。
現在から数えると十七年ほど前、ニューヨークでぼくは初めてドラッグを体験した。その時、目の前にあるグラスを掴もうとして手を伸ばした。この時不思議な感覚がぼくを捉えたのを今でもはっきり憶えている。というのは、本来ならぼくの手がグラスに近づくにしたがってその距離は縮まっていくはずだが、この時は全くそんな風には考えられなかった。ぼくの手がたとえグラスと一センチのところにあっても、グラスに手が触れない限り手とグラスの間の距離は月と地球の距離に等しいということを感じたのである。つまり、一センチも何十万キロも距離に関しては変りないということだった。距離に長短を決めたのは人間で、神の世界では距離などはないはずだ。それと同じように、時間ももともとないのかも知れない。
続いて、誰かが机の下に隠れた。本人は隠れたつもりなのだろうが、ぼくにしてみれば隠れるというそのような状態はありのままの世界ではもともとないように感じたことがある。このようなぼくの経験を雪担さんに話したところ、あっちの世界の状態とよく似てるということだった。しかし、ドラッグと根本的に異ることは一度その世界を体験してしまうと、泳ぎのコツを覚えると一生忘れないのと同じように、常にそうした状態にあるという。その状態はきっとカスタネダのいう分離したリアリティであり、われわれが存在と呼ぶところのものをいうのだろう。
いって[#「いって」に傍点]しまった世界が実はわれわれの中にすでにあり――いやもしかすればわれわれさえいって[#「いって」に傍点]いるのかも知れない――しかし、誰もそんな風には思わないから、どこかにきっと素晴しい世界があると思って、観念の世界を駆けめぐっているのである。観念はあくまで観念で、観念の中なんぞに真理などあるはずはない。
禅の本には悟りの境地が説明されているものであるが、まあ言葉でこれを説明する限り観念でしか説明できないだろうが、雪担さんは、観念でこのことをわかる必要はない、第一、観念では絶対悟ることができないから、という。また、禅の思想なんてものはなく、悟りっていうものがなんかこうあると思うから、そのことで苦しむのだという。確かに参禅して坐禅をしていると悟れるのだという期待があり、それと同時に悟ることを求めようとする。
最初のうちぼくなんかは頭がぼーっとして目の前の畳の目が霞んできただけで、いよいよきたぞ! なんて思ったりしたものだ。そしてこうした状態が、無の感覚で坐禅の醍醐味だと思っていたのだから随分といい加減な話である。また坐禅をすれば不動心が養われるというものだから、回数を重ねていると本当にそんな気になって胸をはって歩いてみたりしたものだが、本当は何ひとつ変わっていないというのが実情である。坐禅よりむしろ効果があったのは、早起きと、粗食と、作務が、その後の生活や物の考え方に多少役に立っているというぐらいだ。そして坐禅というのはこの程度のものだろうと思っていた。自分に期待をかけるより、禅寺に期待をかけているところがあった。
雪担さんは坐禅の方法を研究するなんていうことは妄想で、魚釣も、草むしりも、坐禅の方法を考えるのも結局同じことで、どれも役に立たないという。そして最後はいい老師につくことが第一で、しかしそれがどういうことかなんてさえわからなくってもよく、いつかわかる時が必ずくる、一回でもやっちゃう(あっちへ行くこと)と二度と忘れない。「俺なんか老師について十年かかったし、老師も初めにいって[#「いって」に傍点]から、本当にいく[#「いく」に傍点]まで二十年かかったといわれている」という。
「悟りっていうものは待っていても絶対にこない、自分から何かをすることをやめればいい。求めるのをやめればいいんですよ」
あっちへいった者にしかいえない言葉でこの言葉の意味は深い。雪担さんと長時間話し合っている間にぼくは自分の坐禅に何か期待がもててきたような気がしてきた。禅寺巡りなどしていても仕方ないと思ったものの、やはりこうしてここで雪担さんに再会してぼくはぼく自身の坐禅に対する不信と疑問が解けたような気になった。そして、再び坐禅に専念(この言葉はよくない)する覚悟ができてきたのは何よりの収穫だったと思う。
若者の間で坐禅が欧米の影響でまるでサブ・カルチャーか、カウンター・カルチャーのようにとらえられているが、坐禅を少しやってみるぐらいや、論じる程度のものなら、それこそ百害あって一利なしといえるかも知れない。坐禅を論じる分には他の思想と変らず、決してカウンター・カルチャーなどにはなり得ないだろう。坐禅の最終の道はやはり、いってしまう[#「いってしまう」に傍点]ことであり、そして自分がこの世に姿を現わした時の最初に立つことである。坐禅がもしカウンター・カルチャーになり得るとすれば、それはあっちの世界にいってから後に起こり得るものかも知れない。
[#改ページ]
U 日常・自然としての坐禅
[#改ページ]
自分の脚下をみる
知らずに生きている
「それじゃ、なんなりと……」
と井上義衍老師は優しい目でぼくを見られた。井上老師とお会いするのは六ヵ月振りだ。懐かしい気持ちでいっぱいである。この前井上老師とお別れした時、ぼくは再びここへ帰ってくる[#「帰ってくる」に傍点]という予感がしていた。
「別にこれといってお聞きすることもないんですが……、老師にお会いして直接|生《なま》のお声をお聞きしたいと思いまして……、初めてお会いしてお話をお聞きしたときは、まるでキツネにつままれたようで、正直申しまして何がなんだかさっぱりわかりませんでしたが、その後いろいろのお寺を廻りいろんな問題にぶつかりながら、少しずつ老師の言葉が生きてくるのがわかり始めました」
「ははあ、そうですか、仏道は他のことじゃなく、各自、自分のことを自分で本当に確実につかむ道をただ示してくれたっていうだけですからね」
仏道は自己なり――ということの意味であろうか。
「いつもながら坐禅中は雑念ばかりですが、それがどういうことなのかなんていちいち考えないでやっていればいいんでしょうか?」
「いろんなものがでてもいい。多くの人が、いろいろなものが出てくると煩悩《ぼんのう》だというが、まだ使ってないのに煩悩かどうかわからんですよ。煩悩をなくそうと思って手をつけるが、煩悩らしいものは最初からないのですわ。いろんなものが出てくるが、それがあなたの実質なんじゃから……」
ありのままの自分自身の本性を見よ、ということだろうか。
「仕方がないわけですか?」
とぼくは尋ねた。
「仕方がない、というのじゃない。それがいちばんいいんです。雑念は雑念でそれまかせにしておくのが当然ですね。そうするとはじめて、人の見解外の動きとしての自分が見つかるんですわ」
頭ででっちあげた概念ではないもうひとつの動きとしての自分とは一体どのようなものなのか。真の自分ということなのだろうか。宇宙と一つという自分なのだろうか。
「人間に悩みや苦しみがあるのは、自分の作りあげた見解で物事を見ているからなんでしょうか?」
「見解でこしらえたから苦しんでるんじゃ。もともとないものをあるように思うから苦しみはじめたんでしょう」
老師は自分の身体を指して、これ自体に対する疑問があり、自分自身で自分自身をよう信じてやらんのだろうといい、さらにこの自己というものは疑おうと、信じようと関係なくちゃんとこうして存在しており、他に問題はないではないか、といった。
しかし、頭ではわかるような気がするが、実際日常生活の場でどのように応用していけばいいのだろうという疑問が湧いてきた。
「このようなことは坐禅を続ける過程で自然にわかってくるものなんでしょうか?」
「自然にわかってくるというんじゃない。今のように何も知らんでも、ほら眼《まなこ》だってごらんなさい、自分が見ようと思わんかっていろんなものが入ってくるでしょう。あなた自身、自分が生まれたこと知らんのです。そして知らないものが知らぬ間に発生して、知らずに生きておれる。ごらんなさい、基本的にちゃんとしてるでしょう。全く問題ないんです。それに立ち返ればいいんです。そういう自分を本当に徹見すればいいんです」
喉につまったように、もうひとつスコーンとこない。老師の言葉を頭で理解しようとしているからだろうか。
「そうすると老師の言葉をそういうふうによく理解できれば、そういうふうにできるものでしょうか? それとも坐禅を続ける中で出てくるものでしょうか?」
「出てくるんじゃなくてね、いつでもそうなんですわ。始めっから」
人間は本来誰でも悟っているという意味なのだろうか。しかしなぜこんな単純なことが僕には理解できないのだろう。
「坐禅をすると大悟《だいご》するのですか? それとも老師の言葉がぼくの中でよく理解できれば、その瞬間から大悟ってことになるんでしょうか?」
「理解じゃあなくてね、事実なんです」
「事実? その事実をですね、理解っていうんじゃなくて、何といえばいいんでしょう……?」
「事実を理解することは体験ちゅうことでしょう。つまり体験することなんです」
たとえぼくが老師の言葉を百パーセント理解して、他人に同じようなことをしゃべれても、それは体験、つまり事実じゃないということだろう。大悟したというのではなく、このような哲学がわかったということに過ぎず、ぼく自身の悩みや苦しみは何ひとつ根底から失くなるということはないだろう。いくら立派な哲学や思想を持ったからといって、ぼく自身は永遠に救われないということがわかり始めた。しかし、ただ坐禅をしろといっても、何のために坐禅をしなければならないか、という疑問がわく。老師はこのために一応言葉で理解することも必要であるといわれる。
しかし大悟の事実は言葉では説明できない。世の中の多くは考え方で事実を狂わしてしまっており、坐禅する場合も事実と狂っている今の自分の考え方で修行してはいけないと説かれる。
「狂ったままの考えで修行すると、それの要求通りのことが出てくるから、結局狂ってくるわけですわ。しかし、逆に受け身になるとね、すべてがこれ(自分の体を指して)の上に現われてくる、そうするとそれはもはや必然でしょう。その必然性にまかせてそのままいっていると、本当にそうだ! ということが自分でうなずけるようになってくるのです」
ぼくは坐禅をしていて、一体こんなことをいつまで続ければいいのだろう? と思うことがしばしばある。何が一体どのようになるのだろう? とか、何がどのように変わるのだろうか? という疑問が常につきまとう。何もかも捨てた積りで坐禅をしているわけだが、全く何の変化もない。
「こんなこといつまでやればいいんでしょうかね?」と、くだらない質問だと思いながらも老師に尋ねてみた。
「そりゃ坐禅は限りないですわ」
「ええ……」
「坐禅というとただ坐るだけのように考えているけれど、そうじゃないでしょう」
「…………」
「物自体が人を立証するということですわ」
いよいよ難しくなってきたぞ。
「これ(自分を指して)が、何も持ち物もないということを立証するわけですよ。持ち物がないから、ほらみんなあるでしょう。あなたがたが用があってもなくてもみんなあるでしょう。どうしようもないでしょう。このようにちゃんとしている大きな自分があるのに、自分をどこかに尋ねてるでしょう。考え方としての小さな自分を尋ねてるでしょう」
このような小さな自分をいくら尋ねても、到達するところには到達しないといわれる。
「坐禅、坐禅とやかましく、また厳しくやっていくのが坐禅のように考えているところがあるが、ありゃ坐禅じゃない」
確かにどこの禅寺も厳しい。しかも方向性がまったくつかめないまま坐禅をさせられる。そして日常では味わえない経験が坐禅の功徳のように思いがちだ。井上老師のいわれる坐禅はもっと身近にあり、そして非常に単純なことだ。例えば雲が自分のことを雲だということを知らないのと同じように、人間はすでに悟っている存在でありながら、そのことを知らずにいるというのである。どうしてこんな単純なことがわからず、また本来の存在に立ち帰れないのだろうか。
「悟る瞬間というのはどんな時ですか? 坐禅の最中ですか? それとも徐々にくるものでしょうか?」
「それは両方来ますわ。突然の人もあるし、徐々にも来る。自分がそれを本当に要求してそういう方向に向っておりさえすれば」
「その要求というのは坐禅しながら悟ろう悟ろうと意識するのではなく、根底に求めるっていう気持ちがあればいいわけですね?」
「本当に求めたいっていう気持ちがあるから坐禅をしているわけですから、それ以上に求めるのを重ねる必要はない。そんなことしじゅう思っとるとそれがかえって邪魔して出てこないですわ」
「坐ってるんだから、|一※[#「火+主]《いつちゆう》坐ればいいという気持ちで坐ればいいわけですね?」
「いや違う、一※[#「火+主]坐ればいいということではなく、自分流の見解をすべて捨ててね、この身体中投げだしとるままです。簡単にいうと五感を本当に純粋に解放したまんまでいると、ごらんなさい、自分に用のないものまで見えたり、聞こえたりするでしょう。このような状態は人の見解じゃない。これ(自分を指して)の実質としての動きはそういうところにあるんですわ」
意識しようがしまいが確かに五感は働いている。これがありのままの自分なのであろう。それにもかかわらず、わざわざ見ようとする、また聞こうとする、考えようとする――ここに人間の見解が介在するのだろう。いやなことを見たり聞いたりすると、すぐさまそこに人間の見解が起きる。いやなこと[#「いやなこと」に傍点]ということ自体が人間の見解が差しはさまれた証拠であろう。もともといやなこと[#「いやなこと」に傍点]かどうかはわからないものだ。自分にとってはいやなこと[#「いやなこと」に傍点]でも、他人の目から見れば、それはなんでもないこと[#「なんでもないこと」に傍点]かも知れない。他人はこのことに彼自身の見解を差しはさまないためになんでもないこと[#「なんでもないこと」に傍点]のように映るのだろう。
こんなふうに、そこに起こった(在る)事実だけを事実として見ていけば、何がいやなことか、そうでないことかという区別さえなくなってくるのではないだろうか。
井上老師はよく両手をポン! と打たれる。
「すべての悩みとか苦しみも今のポンという音が聞こえたように、ただポンか……というふうにとらえればいいわけですか?」
「いや、とらえる必要ないですね。どうするんでもこうするんでもない……」
「例えば誰かがここに来てぼくの頭をいきなりコツン! とたたくとしますね、そうするとぼくは『何をするんだ!』といって反応しますね……」
「それは自分を認めとるから反応するんですよ」
「そうですね」
「それが証拠に雨が頭に降ったからとて怒りゃせんでしょ。柱にぶつかったからって、柱に文句はいわないでしょうが」
「人によって怒りたくなる人間と、場合によっては好きな人に殴られると喜んだりして……」
「その通りです。好きな人間にたたかれれば嬉しくてしようがないですわ。たたかれた痛さは同じであってもね……。ごらんなさい、事実は、喜びでもなけりゃ、恨みでもない。それですよ」
ぼくは内心、これだ! と思った。
「たとえば右を取っていいか、左を取っていいか判断に困る時がありますが、人間の常識からいえば結果が得になる方を取りますねえ?」
「目的の立て方によってじゃないのですか? 自分に都合のよいことなのか、相手あるいは公けに都合のよいことかということなんじゃないですか」
「事実がわからないと、みんなのためにといっても、これは人の犠牲になるんじゃないかという考え方に立ちますね、どうしても」
しかし井上老師は犠牲があるのではなく、考え方だけが犠牲だといわれる。「私」意識が犠牲という言葉を生むのだろうか。
「私っていうのをなくすることですか?」
「自我感は思い込みなんじゃから。幼児の頃には自我感はないでしょう。知らんものが知らんまにこの世に出てきて……」
「流れにまかせるっていうことと同じですか?」
「流れにまかすんじゃなくってね、まかすもまかされるもない……」
木の葉が水の面を流れるとき、流れにまかそうとも、まかすまいとも思っていないが、老師がいわれることはこのようなことなのだろうか?
「仏道の教えというのはなにも釈尊の教えじゃないんです。誰にでも同じように存在しているものを、自分は持っていないと思って迷ってそれを外に求めているのを見て、釈尊は人のものを学ぶんじゃなく、自分のものを自分が本当に学んで知ってゆくということを示して、これを仏道と名付けられたのですわ。確実に自分で根底に達しますとね、こんどは疑おうとしても疑うことができなくなるんです」
仏教を学んで理解したというのと、自分自身が坐禅によって根底に達したこととは天と地の差があるのだろう。
運命論と因果論
われわれの日常の行動ひとつひとつはすべて自我から出発しているように思う。無意識の中にすでに自我意識が根をおろしてしまっているとしかいいようがない。
たとえば恋愛ひとつにしてもそうだ。相手を愛しているように思っているが、その実、本当に愛しているのは自分である。すべてのケースがそうだとはいえないが大部分の人間の愛の形態は自己愛が変形したものであろう。このことは肉親の関係においても同様である。
また愛が崩壊するのも自我と自我、いいかえれば自己愛と自己愛のぶつかり合いが原因だ。もし人間に自我がなければ悩みも苦しみもなく、お互いが幸せに生きていけるかも知れない。
しかし、多くの人々は自我があるから人生が楽しく、もし自我がなければ味けない人生になるのではないだろうかと想像する。また世の中が発展するのも自我があるからだというだろう。素晴しい芸術作品が生まれるのも自我のせいだと主張するだろう。
確かに現代の文明や社会はこのような人類一人一人の自我の主張によって形成されている。文明の繁栄も戦争もすべて自我の主張からである。病気一つにしても自我が原因になっているのである。いいことも悪いこともすべて自我がなければ始まらない。
ぼくが井上老師にぜひ聞きたかったのが自我の問題である。
「実生活の中で知らず知らずのうちに自我がでて、それが自分の方向を決めてしまうわけですが、これには苦しみが伴いますね?」
「しかし、自我というものが落ちてしまうことを一度味わうと、自我のない自分を発見することができます。自我なんてのはあるという思い込みなのであって、実際はないんだから……」
「自我の起こる背後には損得関係がどうしてもつきまといますね?」
「実際にはこれ[#「これ」に傍点](自分を指して)はもともと損も得もないでしょう。損をしても得をしてもどれに対しても無条件でこれ[#「これ」に傍点]は活動するようになっとる。そう考えると生だの死だのっていう問題もなんでもなくなるでしょう」
この問題は非常に重要である。観念で理解してわかる問題ではない。積み重ねていく坐禅の過程で認識していくより方法はないのだろうか? もしぼくが生まれていなかったなら、損も得もなかったはずだ。生まれてきたために損得が存在する。しかし損得はこの世界に存在しているのではなく、ぼくの中に存在しているのだ。
ではぼくの中とはいったい何なのだろう? もともと生まれた時にはぼくは自分の誕生を損だとか、得だとか考えただろうか? このような観念は存在しなかったはずだ。
自我の問題と同時にぼくは人間の運命について老師に尋ねてみたいと思った。運命という言葉は誰でもよく使う。すべての出来事を運命で片付けてしまう考えを持った人がいる。運命論者である。ぼくも多分に運命論者的な側面を持つが、一から十まで運命が自分を支配しているとは思えない。運命は最初から決定しているのではなく自分の意志によって切り開いていくものだとも思うからだ。このことについて老師の解答は非常に明快であった。
「運命なんてものはありませんよ。仏法は運命論じゃなくて因果論です。釈尊は人間の考え方からすっかり離れて、生まれた時点まで遡《さかのぼ》られ、そこで悟られたことは、因果の実体らしいものは何ひとつないじゃないかということだったんです。作るものも作られるものもない。それが因果です。因果というのに種がない。因と思われているものも結局は因果関係によってできたんですからね。縁も結果も主体らしきものはないんです。縁にふれてただぶつかってすべてのことが次々に回転する。そのようにできておるんです」
仏法では過去の業《ごう》をひとたび犯したら必ずその業を受けるというが、これは因果の法則である。解脱《げだつ》すれば業はなくなるのかという問いに対して、老師は次のようにいわれた。
「解脱しても業の結果は当然出てくる。出てきても今まではそれが問題になっていたけれど、ことさらそれを取り上げないから業はそこで消滅するんです。取り上げないから根を張らないんですよ」
「すると消滅っていうことが因果の解脱っていうことなんでしょうか?」
「必然なんですわ。因果それ自体はどっちへころんだって、それ自体はどうっていうことない。人間がそれをどこかで人間の見解を起こしていろいろ考えるから問題が起きてくるんでしょう。しかし、このことを知ってしまうと何がどうあっても、ああそうかということですよ……」
井上老師の話は、ぼくにとってはまるで食べたことのない食物の味について聞かされているようだ。その実体はつかめないまま、まどろこしい気持ちで、ただただ老師が羨《うらや》ましく思えるだけである。
「老師も大悟される前には、いろいろと悩まれましたか?」
「無論ですわ、わけのわからんうちはもうとんでもないことをやって来たんです」
「本を読んだり仏典を開くということが修行中逆にマイナスになるというようなことはあるもんでしょうか?」
「あります」
「例えば書物によって因果の法則の理論がわかってしまうと、逆に因果の実体がわからなくなることもあるんでしょうか?」
「言葉なんかを追っかけて、なんぼ研究したって研究すればするほどわからなくなってしまうもんですわ。坐禅はそういうものを一切捨てて、この自己のまんまでいくんですからやればやるほど明瞭になるんです。本を読むというようなことは一時捨てておいて根底をたたくというようなこと、これは仏法だけではなくすべての面でそうなんじゃないですかな。自分自身で自分をよう信じんでしょう、根底がそうなっているんですよ。信じられんといったって自分自身以外に何もないんですよ。ここに大きな矛盾があるんです。だから人間がどうあるべきかといったら、もうわからなくなっちゃうんです。考えれば考えるほど……」
「考えるからですね?」
「考え方じゃないんですよ。知らんものが知らずに生まれて生きているのが実質なんですよ。ところが物心がついた途端にですね、私という観念が植えつけられて、そこからすべてのものが観念化してしまったのだね。私[#「私」に傍点]ったって、観念化した私[#「私」に傍点]だから、本当かって疑うと、自分でも見たことがないんだからどうにもならないんじゃないですか」
老師からこのようにいわれるとまさにそうである。しばしば文章を書いていて、自分で疑問に思うことは、今自分が書いているこの言葉ひとつ、ひとつが本当に自分のものだろうか? ということである。このことは実際自分でもわからないのだ。まあ自分が書いているので、自分だと思うより仕方ないだけの話で、まことに頼りない次第である。だから自分自身が信じられないのである。
「しばらくそういうことを一切やめて、二、三年本当に坐禅をやってごらんになったら、こんどは自分のものを書けるようになるんです。自分の中から湧いてくる力をね。真実を知ってるから、真実を書くことができるから大きな力になるんじゃないですかね」
「老師にそういわれると本当に二、三年文字や言葉から離れてみたくなります。読書は自分に近づくというより逆に自分から遠のく作用があるかも知れませんね」
「道元禅師が本当のことを求めて、本気になって坐禅せられたのは二年そこそこじゃないですかね。そりゃそうですよ、人間の心のあり方から離れさえすればいいんですから。もし心が自分自身をはっきり自覚したら、今度はなんぼでもどっからでも真実の言葉がでてきます。皆さんは話をする時に、内容をまとめようとするでしょうが、でもそんな作業さえ必要ない、この自己というものがすでにまとまっているんだから、何をいってもこれ(自分を指して)はみなまとまるんです」
井上老師にいろんなことを質問してみるのだが、常に返ってくる言葉は一つなのである。それはこの宇宙に存在するすべてのものは、人間の迷悟にかかわらず本来それ自体が満足な存在者であり、全宇宙とこの自分とが不離一体の状態であり、しかも何の不足もない存在であるというのである。そしてこのような宇宙と一体の自己に徹すれば、外に何も求める必要はないのだ。
老師が語られる真理をぼくは充分他者に伝えることができない。というのも真理の実質を知らないからである。老師の話を聞いていると、われわれは確かにずれた次元で物を考え、そして生きていることに気づきはじめる。
初めて老師にお会いした時は、変わった考えをするお坊さんだと思った。しかし、そのひとつ、ひとつの言葉がぼくの身体を銃弾が貫通していくような驚きと衝撃を与えてくれたのだった。
この鮮烈な体験はその後のぼくを大きく変えようとしている。しかしそれはまた新たな迷いでもあった。
「人間は生まれながらに悟っており迷いのない存在者である」というこの言葉に迷ったのである。
このことはぼくにとっては最大の問題提起だった。いきなり答えが与えられたのである。しかしこの答えが出た元の式がわからないのである。そして多くの人はぼくと同じように答えを知ることはできても式の成立がわからないのだ。
ぼくはまるで異次元のブラック・ホールの中にぽんと投げ込まれたような感覚である。坐禅を始めた以上この謎の実体を解き明かしたいと思う。そのために坐禅があるのだ。なぜ坐禅なのか? ということがぼくの中で明確になってきた。ぼくはもう坐禅のことで迷わないと自分自身に約束しなければならない。ぼくは最初坐禅は悲愴なものだと思っていた。そして坐禅をするためには禅についての多くのことを勉強しなければならないと考え、常に坐禅に向うぼくの心は緊張していた。だが、今はリラックスして坐禅を楽しむ方法を覚えた。
好きな時間に、好きな場所で坐禅をすることも覚えた。最近ぼくは毎日家で一、二回の坐禅をする。リラックスしたいと思うと坐禅をすることにしている。強制されてする坐禅は自分の坐禅ではない。
[#改ページ]
自然に身を任せる
地球外惑星の光景
永平寺以来すっかりお寺に参禅する気がなくなってしまった。というより参禅する必要がなくなったといった方がいいのかも知れない。がんじ搦《がら》めの型にはめられ、警策《きようさく》に怯えながらする坐禅が本当の坐禅だとは思われなくなったのである。わざわざ参禅しなくても半畳のスペースがあればどこででも坐禅は可能なのである。
――とまあこんな結論? に達したぼくはここ一ヵ月来毎日一回、時には二回の坐禅を自宅で実行することに決めた。お寺で強制的にやらされるのと違って、自宅でやる坐禅は時間も場所も自由で気分が高揚してきた時に坐ることにしている。そんなことがかえって深い統一に入る結果になり、今では坐るのが楽しみの一つになっている。空白の時間が少しでもあるとすぐ坐りたくなってしまうのだ。しかしぼくの家は交通量の激しい道路に面しているために、騒音と震動に悩まされながらの坐禅で、決していい環境とはいえない。
そこでひとつインドの聖者のように大自然のど真中で坐ってみたいという願望に襲われ始めた。この半年ばかり、われわれ三人はかなりハードな修行に耐えて? きた。だから折返し点であるこの辺りで趣向を変えてみるのもひとつの手だと考え、七月も半ば、三人は上野駅から信越線で長野原に向かった。いつもと違ってわれわれは非常に解放された気分で旅行の楽しみに酔っていた。
ぼくは上野を発車すると同時にお茶をズボンの前にこぼし、パンツまでずぶ濡れになるという災難にあい、長野原に着くまで冷たい思いをしなければならなかった。どうしたことか結局この旅行でぼくは三回もズボンの上にお茶をこぼす結果になってしまった。
長野原駅に着いた時、ぼくは駅の構内で見た白根山の観光ポスターの風景のあまりの美しさに心を奪われてしまった。早速車で白根山に登ることにした。ところが白根山に近づくにしたがって濃霧に覆われ、二十メートル先がまるでブラック・ホール(ホワイト・ホールか?)のように視界が忽然と消え失せてしまっていた。
運転手も気の毒がって、「いつもだったら素晴しい眺めなんですが、これではきっと白根山に登っても何ひとつ見えないかも知れませんね」とわれわれの不運に同情してくれた。
ところが濃霧のトンネルは奇蹟的にも白根山の麓《ふもと》で終り、そこは一変して別天地、抜けるような青空の下、三人は欣喜雀躍《きんきじやくやく》した。なにしろ突然この風景が出現したわけだから、われわれはまるで長い四次元空間からひょいと未知の地にテレポートしたような、なんとも奇妙な宇宙感覚を味わうことになったのである。
さて白根山の頂上から見下す火口の湖の景観は地球のものではない。彼岸の風景とでもいうか、それとも地球外惑星の光景か。
ぼくはかつてこんなに霊的な風景に出会ったことがないように思えた。こんな風景の中でじっくりと坐ってみたいと思ったが、なにしろここは観光地で人が多い。坐らなくてもこの風景を眺めるだけで充分精神が高揚した。
白根山から降りてホテル・ヴィレッジに着いたのは四時頃だった。ホテルに着くなりわれわれはホテルの裏手にあるショートコースのゴルフ場へ飛びだしていった。ゴルフは褝に通ずるスポーツだとかなんとか口実をつけながら。まるで猫の額のようなせまいゴルフ場ではアイアン一本とパターで用がたせた。ゴルフは他のスポーツと違って相手との闘いではなく、あくまでも自分との勝負である。そんな点が坐禅と同じか。いかに無心になれるかということの実践がこの日のゴルフだったようだ。しかしその結果は三人とも決して誉められるものではなかった。禅の道はまだ遠くて厳しい実感を味わったのはぼくだけではなかったようだ。
ゴルフにはその人の性格がはっきりでるので人間観察には最適だ。以前柴田錬三郎氏から聞いた話だが、ある有名な文士は必ずといっていいほど、スコアを誤魔化《ごまか》すので、柴田氏はその文士がいくらいい小説を書いてもそれ以来信用できなくなった、といって嘆いておられた。またある有名な流行作家は負けそうになると途中で止めて帰ってしまうというのだ。自我がまるだしになるゴルフはこわい。――とまあこんなことを考えながら久しぶりに土の感触を足の裏にした。
このホテルはゴルフ場の他に、ボーリング場、テニスコート、室内プール、乗馬クラブ、ローントランポリン、ターゲット・アーチェリー、ゲームセンターなどのレジャーが完備したリゾートホテルであるが、われわれを虜にしたのは室内のテレビ・ゲーム(各部屋のテレビにゲーム用のアタッチメントがついていた)だった。これに、寝食を忘れて熱中してしまったお蔭で、この日は温泉に入って一日が終ってしまった。
翌朝は雨が降っていた。部屋の外に突き出したバルコニーでぼくは瞑想[#「瞑想」に傍点]を始めた。坐禅の法界定印《ほつかいじよういん》よりヨーガのシッダ・アーサナ(完全坐)のポーズの方がリラックスできるので、そのポーズをとった。ぼくは家で坐る時はいつもこのポーズである。坐禅は三尺先に目を開いて視線を落とすが、瞑想[#「瞑想」に傍点]は目を閉じる。目を開けているとどうも意識の集中が困難なぼくは坐禅のポーズより瞑想[#「瞑想」に傍点]のポーズの方が安心感があって好きだ。目を閉じるといろんな妄想《もうぞう》が浮かんだり眠くなるから坐禅の方では禁じているようだが、ぼくの場合に限ってはその反対である。坐禅の方では呼吸法はそんなにうるさくいわないが、ヨーガでの瞑想[#「瞑想」に傍点]は呼吸法がうるさい。
山の空気はひんやりと肌寒く感じられた。糸を引くような雨が上から下に落ちていくのを六階のバルコニーからジーッと眺めていると自然に心が統一してくるように思えた。ひとつひとつの雨のしずくは耳に入らないが、大自然全体が微妙に震動しているようだ。目は閉じているが、雨の降っている情景は瞼《まぶた》に映る。雨に濡れた樹木の匂いが乙女の髪が匂うように大気に溶けてぼくの体の中にその芳香が伝わってくる。自然と人間が通じ合っているという実感を体ごと感じている。
坐禅から解放された時、ぼくは辺りの冷気に思わず身震いした。瞑想中は肉体感覚がなかったのか、全く冷気を感じなかった。一向に雨の止む気配がないので、ぼくは再び部屋の隅で坐ることにした。雑念は相変らず襲ってくるが、警策の心配がないだけに安心して坐禅に集中できた。
雑念がなく、意識が集中できるとぼくの場合いつも瞼のスクリーンに白い柔らかい光が現われ、それが水面に油を流した時のようにゆるやかに動き始める。これが現われるとぼくはなんともいえぬいい気持ちになってくるのだ。それがさらに深まると、スクリーンの中心から強い白色光が放射状になってぼくの方に迫ってくる。時には自動車のヘッドライトのように眩ゆく感じる時もある。この光が一体何を意味しているのかわからないが、一種恍惚とした気分になることだけは確かだ。
この光は意識して現わすことができない。いつも予期しない時に突然現われる。二、三日前、自宅で坐っている時もやはり同じように光の流れがオーロラ状になったかと思うと、突然ピンポン玉大の紫の柔らかい玉が目の前に現われ、やがてその玉から大きな雫が下方に尾を引くように落ちていくのをぼくは非常に明瞭に見た。頭でこの情景を想像したというのではなく、まるで肉眼で見ているようにだ。
まあこんな話をお坊さんにすれば、それは妄想《もうぞう》じゃ、そんなものを相手にするな、といわれそうだ。確かに妄想だろう。そしてこのような幻視《ビジヨン》が現われたからといって有頂天になるのもおかしい。
ぼくは以前非常にはっきりとした白銀色の文字が現われたことがある。また石仏が現われたこともあった。だが、ただそれだけのことである。一種の超常現象であろう。ただ見たことのない人にはこの様子をどのように伝えていいのかそのすべがないのである。
さて、二日目は一日中雨が降っており、外出することもできず部屋の中でテレビ・ゲームに大部分の時間を費やしてしまった。あまりこのゲームに興じたせいか目を閉じても脳裏にブラウン管のゲームのパターンが映り、どうにもならない状態になった。このホテルにこれ以上滞在していると坐禅どころか、テレビ・ゲームだけで終ってしまいそうだと思ったので、万座のホテルに移動することになった。
ところがこのホテルにもテレビ・ゲームがあり、またまたここで三人はこのゲームの虜になってしまった。N君が|一※[#「火+主]《いつちゆう》坐っただけで誰も坐ろうとする者はいない。坐っているのはゲームの前だけである。二泊三日の小旅行であるが、目的はもちろん大自然の中で思う存分坐り続けるはずだったが、結局ぼくは五回、N君が二回、カメラマンのK君が零回という成績を残してこの名ばかりの坐禅旅行は終った。
坐る回数は雨のため少なかったが、最終日の嬬恋《つまごい》高原と浅間山の鬼押出しでの坐禅はぼくにとっては最高だったといえよう。嬬恋高原での瞑想は昨夏のインドのカシミールでの坐禅とイメージがオーバーラップしていった。坐禅から解放された時、ここがインドでないことが不思議に思えたくらいだった。また鬼押出しの岩海の中での坐禅も格別な厳しさがあった。岩の上に坐りながら、ぼくは岩もろとも岩海の中に吸い込まれていくような錯覚さえ覚えた。そして、きっとその昔釈尊もこのような大自然の中で坐り続けられていたのだろうという考えが頭をよぎった。この大自然を相手に独りで向かっている気分はなんとも素晴らしいものだが、ややもすると大自然に負けているという自分が常につきまとっているような気がした。
このことはまるでステージから超満員の観衆に向かって立っているのと等しかった。超満員の観衆に圧倒されるように、ぼくは大自然の視線を身体全体に受けてたじたじとしていた。ぼくはいつかこのような大自然と互角に立ち向かってみたいものだと思った。大自然が余りにも偉大であるということはこのように対峙して初めてわかるものである。
釈尊も大自然を相手に坐られたわけであるから、われわれも釈尊に倣《なら》った方がいいにきまっている。いっそのこと禅寺も禅堂を廃して、大自然の中で坐ってみたらどうだろう。
沢山の雲水が大自然の中で坐っている光景は超越的で美しいはずだ。
[#改ページ]
旅に自然に孤り行く
「寒の地獄」
大分県に寒の地獄≠ニいうのがある。名の通りまさに寒の地獄である。その昔、九重の三保山と星生山の裾野に冷泉の湧き出るところがあった。ある日この冷泉に傷ついた猿が浴するのを土地の猟師が見て、自らも浴したところ、その効力大なることに驚き、このことを人々に伝えたのが事の始まりだったようだ。
この冷泉は非常に霊験あらたかで、医者から見離された患者が根治されるという。以前ぼくは偶然この寒の地獄≠フ冷泉に、半ばひやかし半分で入ったことがある。パンツ一つになっていきなり足を冷泉につけたぼくは驚いた。冷たいというようなものではない。まるで鉄の輪《わつか》で絞めつけられているような痛さだ。本当にこのまま逃げ出そうと思ったくらいだ。冷泉に首までつかってがたがた震えながら身を縮めている人達を見るとますます怖ろしくなってくる。
身を切るような痛さ、とはこのことである。一ミリ刻みに身体を冷泉の中につけていくこの行為はまさに苦行である。心臓麻痺を危倶しながら、ぼくはやっと五分かかって入った。
そしてこのまま二十分間微動だにしない。水面がゆれるだけでも痛い。指一本動かすだけでも切れるような痛みだ。こんなことをすると健康な者でも病気になるのではないかと思われるほどだ。
水浴中は何も考えられない。想像を越える冷たさに耐えているだけである。中には御経を唱えながら入っている人もいる。ぼくは大声をあげて入った。
冷たさに気が狂ったように笑い続けている人もいる。二十分が限度にもかかわらず延々一時間半も挑戦する人がいる。こうなると我慢大会である。
こんな寒の地獄≠フことを編集者のN君とカメラマンのK君に話したところ、二人は興味を持ち、「ぜひ今度の坐禅は寒の地獄≠ノしましょうよ」といいだした。ぼくは正直いって二度といやだった。しかし、この前この冷泉に入った時は当日まで痛んでいた足の痛みが翌日は完全に治っていたし、同行したNHKのY氏もリンパ腺の腫が取れてしまったという経験があっただけに、不眠症に悩まされているぼくとしては、多少期待感もあった。
寒の地獄≠フ冷泉に入ることが坐禅にとって代われるかどうかは疑問だが、確かに難行苦行という点では坐禅以上かもしれないと思う。そこで物好きな二人を寒の地獄≠ノ案内することになったが、別府から乗ったタクシーの運転手はわれわれが寒の地獄≠ノ行くと知って笑った。
「お客さん、若い男三人が何ごとですか、どこも悪くないのに、あげんとこは身体の悪い者がいくとこじゃが。それより宝泉寺へ行った方が面白かよ。あそこは楽しいですよ。いわゆる治外法権じゃからねエ」
なんでも旅館の女中さんが夜のおつきあいをしてくれるというのである。
三人共なんと答えていいかわからず黙りこんでしまった。なにしろわれわれ三人は立派なこと[#「立派なこと」に傍点]をやろうとしているだけに、どうもちぐはぐな気分になってしまった。タクシーの運転手からこんなことをいわれると、変に真面目なわれわれが逆に人間らしく見えなくなり、恥ずかしくなってきた。快楽の本能を拒否する自分が、まるで自分にウソをついているように思える。しかし、三人は悪魔(断わっておくが運転手のことではない)の囁《ささや》きに見向きもせずエラカッタ。
寒の地獄≠ナは三人三様、それぞれ無事難行苦行を果たした。ぼくは二度目ということもあって以前に比較すると、少しものたりないと思ったくらいだ。なにしろ冷泉に浴する人が多く、自分一人水の中で坐禅という感じではない。なんだかワイワイガヤガヤ楽しんでいるだけである。不思議とくしゃみをする人は一人もいない。冷泉から上った後の爽快感はなんともいえない。逆に身体がほてってくるのには驚いた。
結局坐禅に代わる精神修行にはならなかったようだ。
翌朝早く、K君とホテルの近くをジョギング。川添いのハイキングコースを歩き、橋の上で坐禅。川のせせらぎの音とひぐらしの激しい鳴き声を全身に受けながらの坐禅だったが、少しもうるさく感じられなかったのも、きっとこれらが自然の音であったからであろう。
音というよりまるで耳鳴りのように、自分の中を流れている川であり、自分の中で鳴いているひぐらしの声であった。
こうして自然の中で坐禅していると、時間の経つのも忘れ、いつまで坐っていても一向に苦痛にならない。禅寺と違って警策《きようさく》も、抽解《ちゆうかい》(坐禅を終わる)の鐘もいっさい気にならない。坐禅の醍醐味がここにある。現実とは別のもうひとつの時間の中をぼくは流れている。永遠にぼくの魂をつらぬいて流れている時間。この時間との出会いは「私」自身との出会いでもある。自分本来の固有の時間。現実から分離されたもうひとつの時間である。
大自然、大宇宙とひとつになるのもこの時間の流れに入った時であろう。この時間は永遠で、この時間を占める空間は広大無辺である。そしてこの空間こそ知恵の宝庫である。人間がこの時間と空間を掌握しない限り、真の「私」を発見することも、真の自由を知ることもできない。このもうひとつの現実は確かに外の現実と隣り合せに、自己の内に存在する。人間の内なる空間はまさに宇宙である。永平寺東京別院の田中真海師がいわれた「宇宙とぶっ続きの坐禅」とはこの内なる現実に立ちかえることであろう。この内なる時間と空間は観念ではなく、もっとリアル(現実)なものでありすべての人が所有しているものである。このことが「人間は本来悟っている存在」(井上義衍老師)に通じることであろう。
外と内はメビウスの輪やクラインの壺の如く表裏一体なのである。悟りとはゴムマリに針のような小さな穴をあけて、ゴムマリの内側をつまんでひょいと内側をそのまま外側にしてしまうようなものかもしれない。これと同じように人間のどこか一ヵ所に針の穴をあけて、そこから中身をつまみだして、裏返せばいいのだ。その針の役目をするのが坐禅であろう。すでにわれわれの中身は悟っているのだ。ところが知識や、教養や、自分勝手な経験にたよったり、情報によって観念に支配されており、いつの間にか内側に通ずる皮膚の表面が鰐《わに》の背のように硬くなってしまっている。容易に穴があくものではない。一度や二度くらいの坐禅で穴があくと思ったら大間違いだ。
厚い皮膚の下に真理があることさえ気づかず、たとえそのことを知っていても皮膚に穴をあけようとはしない。皮膚に感ずる外界がすべてで、そこに真実があると錯覚しているからだ。本屋さんに行けば、そこに真実があると思っている者が多い。真実について書いたものはあるが、真実そのものはそこにはない。地球に四十億の人間がいれば、そこには四十億の思想があるはずだ。四十億の思想がぶつかり合い、ひしめき合っているのが現状である。
異なった思想は自分と他人を区別する。この区別が暴力を生む母胎となる。世界がひとつになるためには心がひとつにならなければならない。思想が支配する領域はせいぜい表面意識だが、真理は魂の領域にすでに存在している。そして、人間だけではない、万物は魂の領域ですべて通じ合っているのである。魂とは硬い皮膚の内側のことである。皮膚の内側では四十億の人間はすべて「私」の一部分である。
もし四十億の人がすべて皮膚を裏返せば、何もいうことはない。世界はひとつになり、そこには真の平和と安らぎがもたらされる。自分の内部を変革しないで、外界を変えても再び、内部から崩壊していく。ちょうど油絵具が完全に乾燥しない間に、次の絵具を表面に塗るのと同じことだ。下からひび割れが生じてくる。他人が変わるのを待つより、自分が先に変われば、他人も変わってくるものだ。幸、不幸の原因はすべて自分にある。因果の法則は一分の狂いもなく宇宙を回転している。因果の法則の中にぼくは平和の原理があると思う。因果の法則を理解しない限り平和の原理も理解できないのではないだろうか。
自然は法則通りに動いている。また自然はすでに皮膚が裏返った姿である。自然はそのままで悟っている。自然の中で坐ることは自然の波動《バイブレーシヨン》を受けることだ。そして人間の中に眠っている「悟り」を開いてくれる刺激剤にもなる。東京のド真中で自然を求めるのはむずかしいのでぼくは時間がある限り、旅をすることにしている。肉体の移動が、自己の内部に深く旅することとは思わないが、未知の土地には未知の波動がある。人間は自己とその環境の波動が合わなくなった時、旅に出たがるものだ。万物すべてに波動があるといわれる。波動にはいいものも、悪いものもあるように、類は類をもって集まるのだ。ぼくが旅するのも、坐禅するのもすべて波動の問題である。人間は波動体である。自分と環境との波動が合っている時は健康である。どこか調子が悪い時は波動が乱れている証拠かもしれない。また我欲が強くなった時もどうやら波動が乱れるようだ。
自然は悟っている。だから悟ったものの波動の中に身を置くことは導師《グル》を持つことと同じかもしれない。自然の中で坐禅していてぼくはそう思った。人間が自然の一部分であるという考えは間違いない。井上老師に初めて逢った時の謎めいた言葉が少しずつこのような体験を積み重ねていく間に体で理解でき始めた。
しかし、坐禅を始めてまだ日が浅く、まだまだ未知の体験が待っている。「悟っている」本来の「私」と出会う日はまだまだ遠い。しかしこの「私」はぼくの一番近いところにいる[#「いる」に傍点]。自分の影を踏むのが不可能なように「私」を知るのも不可能に近い。すでに自分の影は自分によって踏まれていることに気づくと同じように、われわれがすでに悟っていることに気づかなければならない。答えはでているのである。その式がわからないだけの話だ。
今回の寒の地獄≠中心にした九州の旅は雄大な自然の懐《ふところ》で、都会でたまったゴミがきれいさっぱり落ちたように思えた。阿蘇の噴火口から地球の内部を垣間見た時、ぼくはこの中に指をつっこんで裏返せば、四十億の人間もろとも地球も悟れるのではないかという幻想を抱いた。阿蘇はわれわれが登山した二日後噴火して、数人の怪我人を出した。
[#改ページ]
もう一人の自分をみつける
念の世界
国立宮崎大学から夏季集中講義の依頼があったのはこの春だった。ぼくは条件も聞かずにその場で承諾した。この時ぼくの脳裏をかすめたものがあった。学生と一緒になって坐禅することだった。われながらグッド・アイデアだと思った。これで集中講義は七十パーセント成功すると信じた。そしてこの日以来ぼくは宮崎大学に行く日が待ち遠しくなった。
大学で集中講義を持つのは初めてだったが、以前シアトルの近くのプルマンにあるワシントン大学に招聘《しようへい》された経験があったので全く初めてとはいえないかもしれない。ワシントン大学ではセンセイと生徒の区別なく、まるでヒッピーのコンミューンに加わったような感じで、ぼくにとっては新鮮な体験だった。こんな想い出があっただけに宮崎に来る前から楽しみだった。
大分の寒の地獄≠フ後、仕事のために帰京したN君と別れ、ぼくとカメラマンのK君は、宮崎まで列車で行くことになった。車窓から眺める風景は、萌えるような濃い緑一色に塗りつぶされていた。赤水から宮崎まで四時間かかったが、宮崎に近づくにつれて緑のすき間から飛び込んでくる南国の蒼い海と空には旅の感動を覚えた。
よほどのことがない限りぼくは九州へ行くにも北海道に行くにも鉄道を利用する。飛行機が嫌いだということもあるが、それよりも時間をかけた列車の旅をじっくり味わいたいからである。走る列車の窓から外の風景を眺めているとぼくの頭の中にもうひとつの風景が映り、この二つの風景が重なり合いながら、ぼくはさらにもうひとつの内面への旅をしているのだ。ぼくはこのように車窓から、走っている風景を見る時、いつも不思議な精神状態にもっていかれ、旅《トリツプ》してしまうのだ。
さて、宮崎はさすが南国、うだるような真夏の太陽が容赦なく衣服の下の肌を焦《こが》す。宮崎駅にはすでに小寺先生と二人の女子大生が迎えにきてくれていた。ひとまずホテルにチェックインして小寺先生とわれわれはホテルの屋上のビアガーデンで乾《かわ》いた喉《のど》を潤おすことになった。屋上から眺める海と空はまさに南国の様相を呈していた。特にいたるところで見られるフェニックスが東京から遠く離れたところにいるという実感を起こさせた。
今回の集中講義に合わせて宮崎市内のデパートでぼくは個展をすることになっていた。集中講義と個展の掛持ちで少々忙しくなることは最初から予想されていたが、ぼくが楽しみにしていたのは学生達と坐禅しながら一緒に生活することだった。ぼくが受け持つことになった生徒は三十一名でその大半は女子学生だった。女子が多いせいか男子学生も非常におとなしく、最初は誰一人口を開く者がいないくらいだった。というのもいきなり坐禅を命じたことが、彼等をそうさせたのかもしれない。
三十一名の学生の大半が油絵とデザインの専攻だ。ぼくの考えでは創作は一種の精神統一だと思っている。極端ないい方をすれば、念の強い人間なら誰でも芸術家になれるというわけだ。頭の中にイメージしたものをそのまま形に表わせばいい。念の世界でイメージが固まったものは必ず三次元の世界に物体現象を現わすというのがぼくの信念でもある。聖書で語られている言葉――求めよ、さらば与えられん、というのは念の世界のことをいっている。念は四次元世界を一度通過して再び三次元に姿を現わすのである。だから創作は技術ではなく思念する力が強いかどうかでその大半は決定するというのがぼくの考えである。技術なんていうのは後からついてくるもので先ず思念が優先しなければならない。絵が描けないという人は頭の中に形をありあり[#「ありあり」に傍点]と描き切ることができないだけのことである。箸《はし》で米粒をはさむことのできる技術のある者なら誰でも絵が描ける。
こんなことからぼくの今回の集中講義はこのことに重点を置いた。坐禅をすることによってできるだけ心を空しくする。空しいということは何もないということではなく、むしろすべてのものを所有している瞬間でもあるのだ。原稿の〆切がくると、ぼくはいつも居直ってしまう。ぼくの場合常に絶体絶命の状態に置かれなければアイデアが浮かんでこない。つまり、集中した思念ができないというわけだ。野球でいえば投手がマウンドでボールをいじくっている間はまだ精神が統一できず、いざモーションに入ってボールが手から離れる瞬間に全神経がボールに集中されるように、濃縮された瞬間がこなければ発想が浮かばないのである。
心が濃縮された瞬間は、実は頭の中は空っぽになっているのだ。空っぽということは宇宙と通じあっている瞬間でもある。火事場の馬鹿力、というのがこの原理を応用したもので、この時は人間は一種の超能力を発揮して、常識の壁を越えることができるのである。絶体絶命の状態では、人間はあらゆる執着から離れるようだ。
柴田錬三郎氏から直接聞いた話だが、氏は戦時中輸送船に乗ってバシー海峡を南下中、突然アメリカ軍の潜水艦から発射された魚雷によって船が沈没した。海中深く投げ出された氏はやっとの想いで沈んでいく船に飲み込まれずに命だけは助かった。味方の船が救出にくるまでの四時間余り、氏は闇の中の大海原を浮き袋にしがみついて漂流していた。
「先生こんな貴重な体験をどうして小説に書かないんですか、勿体ないじゃないですか?」
「ところが、俺はあの時のことは何も憶えていないんだなあ」
「家族のことや、助かりたいということは考えなかったんですか?」
「考えなかった! 考えた奴はみんな死んじまったね。今から考えると俺は無になっていたのかもしれない。だから助かったんだと思うなあ」
創作の時もそうである。雑念というか執着が離れない限り、アイデアは浮かんでこない。たとえ、浮かんできても発想に飛躍がないのだ。発想なんていうのはこちらから向かっていくものではなく向こうからやってくるものだと思っている。宇宙はいってみればアイデアの宝庫である。心の動きを停止して頭を空っぽにした時、われわれは宇宙の真っ只中にいる。いいかえればアイデアの大海の泡のひとつになっているといえよう。
坐禅は人間を絶体絶命の真っ只中に置くことでもある。ぼくが学生に坐禅を勧めたのもこうした理由からである。創作を向こうの世界にまかしてしまえばいいのである。こちらの世界で創ろうとすると無理がある。これはぼくの体験からである。ぼくはよく冗談で編集者にいうのだが、「まだ神のお告げがないからもう少し待って下さい」といって〆切を延ばす。思念し続けて、その先でパッと空白になる時を待っているのである。
坐禅は雑念の泥沼の中を彷徨した挙句、その中に一輪の蓮の花を見つけるような作業でもあろう。この気の遠くなるような作業が即、創作に結びつくかどうかはわからないが、創作活動の一歩として坐禅があってもいいのではないかと考える。初めて経験する坐禅に学生は最初随分緊張したようだ。午前九時授業開始と同時に三十分坐禅をすることにした。たった三十分が相当長い時間に感じたそうだが、このことはぼくが最初経験した時も同じだ。
実習時間を多くとったわけだが、この間話し声が全くなかったことにはぼくは正直いって驚いた。大学生だからさぞやかましいのだろうというぼくの先入観は見事に裏切られた。また校庭の芝生の上でずらっと並んで坐禅した風景は場所がらかなり異様な感じがした。がやがや騒ぎながらやってきた他の学生もこの光景に一瞬驚いたのか、急に声をひそめその場を逃げるようにして通り過ぎていった。
確かに坐禅している姿にはどこか人を寄せつけない威圧感がある。坐禅によって三昧の境地に入ると、蚊も寄ってこないという。これは一体どういうことなんだろう。生理学的な見地からみればきっと何か理由があるのだろう。
学生が坐っている姿を見て小寺先生は「一体学生が何を考えているのかと思うと怖くなりますね」といわれた。参禅してぼくがいつも思うことは隣に坐っている人がえらい立派に見えることだ。黙々と坐り続けている姿はそばにいて確かに威圧感がある。自分はといえば、心があっちへいったり、こっちへいったりで雑念を追っかけ廻しているだけだ。だからよけいに他人が立派に見えるのだろう。また相手も同じようにぼくに威圧感を感じているかもしれない。結跏趺坐《けつかふざ》に法界定印《ほつかいじよういん》、この坐禅の形はある意味で完璧な人間の姿であり、最高の美しさでもあると思う。完壁な美というのは超越したるものに通ずる。だからそれ故に怖いのである。
禅は形を重んじる。永平寺の雲水から徹底的に形から入ることをたたきこまれた。形が精神を作るという発想であろうが、確かに禅の作法はひとつひとつがきまっていて美しい。普段、形を重要視して生活していないせいか参禅生活はかなり厳しい。参禅では形(作法)さえ守っておれば絶対音をあげるということはない。ところがこの形で大抵の人はまいってしまうのである。
学生の中の何人かは居眠りをしているものもいるし、半跏趺坐《はんかふざ》さえ組めない人もいて、決して美しい坐相とはいえないが、一生懸命坐っている姿はちょっと感動的だった。習い始めのぼくには指導者としての資格は全くないが、坐り方だけを教えてみんなと一緒になって坐ることにぼくは喜びをおぼえた。ぼくは最初学生側に抵抗があるのではないかということを少々危惧したが、誰ひとり坐禅することに疑問を持つ者もなく、非常に素直だったことに逆にこちらが驚いたほどだ。素直ということがすでに坐禅の出発点であると思う。
自分が大学にいった経験がないので大学生の気質がよくわからず、ある種の不安と恐怖のようなものを抱いていたが、こんな先入観は最初の坐禅が終わった瞬間に消えてしまった。坐禅が終わった後の学生の解放感にあふれた表情にぼくは晴々とした非常に明るいものを感じた。心の奥で通じ合うという実感であった。
六代目菊五郎の「間」
宮崎大学の集中講義の後半は教室から、日南海岸に移された。真夏の南国の太陽はたちまちぼくの肌を焦がした。光が強いせいか目に飛び込む色彩はどれもこれも鮮やかな原色である。南国特有の陽の匂いが体を包む。久し振りで味わう日本の夏の感触だ。
水を得た魚のように学生達にも活力が蘇ってきた。ここでも坐禅が一日の始まりである。体育館の床に思い思いに坐った学生達の姿は禅堂には決して見られない屈託のないどこかユーモラスな風景である。羅漢《らかん》(阿羅漢の略。小乗仏教の最高のさとりに達した聖者)さんがころころところがっているようでもある。坐るとすぐうつらうつらと船を漕ぐ居士《こじ》もいるかと思えば、いかめしい表情で全身に力を入れている者。柔らかい粘土細工のようにぐにゃっとなった者。さまざまである。
風通しがいい体育館だといっても、こうして坐っていると組んだ足が汗ばんでくる。ひぐらしの鳴く声がうるさく肌を刺す。まるで自分が鳴いているようだ。ひぐらしの声と一つになると、それはもはや声ではなくなる。静寂と同じである。
みんなは、いったい何を考えているのだろう? 一人一人に質問したい衝動にかられる。ぼくと同じようにひぐらしの声に心を奪われているのだろうか。それともただただ睡魔や足の痛みと闘っているのかもしれない。ぼくは頭の中でみんなのことが気になって、なかなか集中できない。一人一人の想念がすべてぼくに向かって発せられているのがわかる。
坐禅の後、そのまま体育館でコラージュの実技を開始。コラージュは広いスペースが必要である。そのためには体育館が恰好の場所だ。床一面に雑誌の切り抜きを散らかしてその中でうずくまっている姿はまるで幼稚園の教室のようだ。誰一人言葉を交わすものはない。ただ黙々と紙を切り続けながらイメージを構築しているのだろう。一種の瞑想行為である。
ぼくはいつの間にか床にくの字になって眠ってしまっていた。学生達がぼくのためにコラージュをやってくれているような錯覚を覚えたとたん、なんとも気持ちが安らんできて、思わず、彼等を背にその場で眠りこけてしまった。
だいたい実技は午前中に切り上げ、学生の手になる昼食をすませた午後は、海岸で自由行動というのが日課である。夕刻はきまってこの村の村会議員のソフトボール・チームと草野球が始まる。そして再び陽が落ちる頃から教室でマジメな話をすることになっていた。マジメな話の内容はといえば、四次元の話や、UFO、仏教などである。こんな場違いな話が結構受けたようである。
そのせいか学生の作品の大部分が超現実的なモチーフで、なかにはこちらがショックを受けるような作品が実に多いのに驚いた。教えているというより、教えられているというのがぼくの正直な気持ちだった。課題にコラージュや空想画を与えたわけだが、大部分の学生は初めての経験だったようである。しかし、初めてにしては驚くべきイマジネーションを発揮した。彼等はまったくなんの概念にもとらわれていなかった。
彼等の作品に触れながら、ぼく自身がいかに多くの約束事を背負いながら物を創っていたかということをこれほどまでに反省させられたことはなかった。確かに彼等の作品は未熟である。そこには破綻があった。しかし、約束事を無視した破綻がぼくの概念を崩してくれた。
先日武智鉄二氏が遊びに来られた時、〈間〉について語り合った。
「六代目菊五郎には〈間〉があるんですよ。うまいところで髪が額にパラッと落ちたり、いいタイミングで着物の袖が落ちるんですね。私はこれが〈間〉ではないかと思うんですよ」
「本人が意図しない演技でしょうかね。虚構の中に突然割り込んだ日常性が、何か超越したリアリティを出すのかも知れませんね」
「例えば印刷によるズレなどが〈間〉の効果を出すというようなこともあるのじゃないですか?」
「予期しない印刷の間違いや失敗が、こちらの完璧なまでに計算した造形を崩してくれることを内心期待しながらぼくはいつも入稿していますが……」
武智氏は〈間〉と呼ばれたが、ぼくが破綻と考えているものに通じるところがあるように思えた。この前、池田満寿夫氏と話し合った時、彼は美術とデザインの違いは、美術には破綻があるがデザインにはそれがないといった。これは彼の言葉ではなく美術評論家の中原佑介氏の指摘によるものであるらしいが、ぼくはこの中原氏の発想に、ぼくの今後のデザインの方向性を見つけたように思えた。デザインが美術化される必要は毛頭ないかもしれないが、デザインが袋小路に陥りかけている時、この発想がひとつの跳躍台になるように思えるのだ。
あくまでぼくの個人的な考えではあるが……。
学生の作品にはこの破綻があった。破綻だらけというのもあったが、それがかえってぼくにはぼく自身の作品の突破口を暗示していた。
学生はよく食って、よく遊んで、そしてよく勉強した。こだわりの多いぼくには彼等の姿が理想的に映った。彼等には坐禅などする必要がないかのようにぼくには思えたくらいだ。宮崎という自然に恵まれた土地のせいだろうが、東京から持ち込んだぼくの考えが逆に病んでいるようにさえ思えるのだ。彼等と生活しているとぼくの内部にそのことが強烈に突き刺さってくるようだった。東京の大学生とはどこか違うようだ。小寺先生は「みんな日向《ひゆうが》ぼけですたい」なんて冗談を飛ばしておられたが、彼等は実に素朴だった。
ぼくは宮崎に行く前から日南の海岸での瞑想を期待していた。海岸から二、三百メートルの所に離れ小島がある。泳いでも渡れる。この小さな無人島でわれわれは坐禅をした。した――といえばウソになる。実は写真のために全員に坐ってもらった。第一こんな炎天下で三十分も坐れば病気になるかもしれない。坐禅を始めた最初の頃はみんなぎごちなかったが、後半になるとなかなか堂に入ったものだ。こちらが逆にたじたじとするくらいだ。
ぼくはこの島の裏手の岩壁の上で坐ることにした。耳に入るのは押し寄せてくる波の音と、岩に砕ける、やはり波の音だけである。目を閉じていると恐ろしい。足下で砕けた波の水|飛沫《しぶき》は時にはぼくの全身を叩く。一瞬体が前かがみになる。ぼくは岩の先端に坐っている。波が打ち寄せてくると岩壁ぎりぎりまで水面がのし上がってくる。まるで海が生きものと化す。波が引く時水面は下方に落ちるように沈んでいく。突然水面に今まで隠れていた岩が水に洗われながら怪物が頭をもたげるように露出してくる。体ごと海の底に引きずり込まれるような恐怖感が背筋を走る。
目を閉じていてもこの光景が見える。海を相手にするにはぼくの存在はあまりにも小さい。海は容赦なくぼくに襲いかかってくる。心の中ではぼくは完全に逃げている。とても坐禅どころではない。心臓が高なっているのが自分でもわかる。押し寄せる波、砕ける水飛沫、逃げ去る波。これらのものとひとつになろうと努力するが、波動が合わない。恐れを抱いているためである。もし波とひとつになったなら、ぼくはこの生き物のような海に飲み込まれてしまうかもわからないという不安があった。自然の中に溶解できない自分を情けなく感じながら、それでもぼくははたからみれば一人前に坐っているのだ。
宮崎から帰京した翌日ぼくは御前崎の海岸で夕陽を受けて長時間坐り続けた。背の高さもあろうと思われる高波がまるで八岐《やまたの》大蛇《おろち》が口を開けたようにうねりながら襲ってくるが、ぼくの前方十メートル位の所で粉々に泡と化し、ぼくの目の前にアミーバーのように押し流されて、砂の表面に小さな穴を残し、砂の中に滲《にじ》みながら吸い取られていく。
閉じた目の中で、波は数限りなく砕ける。いつ何時、ぼくは高波に飲み込まれるやもしれない。突然、半跏趺坐《はんかふざ》を組んだ腰のあたりに波が潜り込んできた。やけに冷たい感触が脳天まで突きあげてきた。腰のあたりの砂が波でえぐられ、上体がぐらっと揺らいだ。体が一瞬砂の中に沈んだ。
やや時間を置いて再び波は砂の上を滑るようにぼくの体の下に潜り込んできた。今度は以前にも増して体の下の砂を持ち去っていった。体が左に大きく傾いた。ぼくは坐相をもとに正そうとはしなかった。傾斜したままぼくは坐り続けた。波の音はますます拡大され、しかも身近に聞こえる。次の瞬間ぼくは高波に飲まれ、無数の砂と共に海の底に引きずり込まれるかもしれないという不安が襲ってきた。
目を閉じて坐っていたので目を開けるのが恐ろしくなった。
自分の坐っている場所さえ確認できないように思えた。まるで真っ暗闇の中に坐っているような錯覚をおぼえた。本当に八岐大蛇がぼくの目の前に大きな赤い口を開けて待っているような妄想が起こってきた。
ぼくは思わず目を開けた。夕陽はすでに西に傾いて、波頭を黄金色に染めていた。波はさっきに比べるとかなり高くなっていた。だがぼくが想像していたような八岐大蛇はそこにはいなかった。ぼくの体の腰の部分はかなり砂の中にめり込んでいた。立ち上がった。ぼくの後には二つの大きな穴があいていた。骨盤のあとだ。
ぼくは立ち去ろうとしたが、なぜかこの二つの穴に執着があった。ぼくの存在の痕跡のように思えた。波が押し寄せてこの穴を消し去るのを見たいと思った。波がやってきた。そして引いていった。穴はそのまま残った。穴が消えるまで十分を要した。
「その穴は業《ごう》の重みじゃない?」
と、K君がいった。
宮崎大学の夏季集中講義は坐禅で始まって、坐禅で終わった。これでよかったのだろうかという一抹の不安と疑問を抱きながら、宮崎空港を発った。いずれ時間と共にひとつひとつの記憶は消えていくかもしれない。学生達にとっても同じことだろう。
しかし、彼等と一緒に坐禅したことだけはいつまでもお互いの中に残り続けることだろう。
[#改ページ]
地獄と極楽の間
南太平洋裸足の旅
急に南太平洋に行くことになった。仕事を山ほどかかえていたぼくは、果たして旅行の出発日までにすべて処理できるかどうか、ということが心配だった。
日月庵《にちげつあん》に坐禅をしに行ったのは旅行の三日前だった。実をいえば坐禅どころではなかった。呑気《のんき》に坐禅をしている時間があるなら、原稿の一枚でも書いたほうが少しでも仕事がはかどるはずだった。三日前に完了しなければならない仕事は、ポスターが二点、本の装幀が三点、レコード・ジャケットが一点、イラストレーションが二点、エッセイが四本、その他雑用などを考えると、到底不可能な仕事量である。
日月庵は松原泰道師がお作りになった禅道場である。ここは軽井沢に近い長野原にある。この春松原哲明さんから日月庵のことを聞かされており、ぼくはずっと憧れ続けていたのである。と、いうのも――、
「今度一度夏になったら軽井沢の日月庵に来てくださいよ」
「松原さんもいらっしゃるんですか?」
「もちろんです。家族で遊びに来られてはいかがですか?」
「遊びに……? 坐らなくってもいいんですか?」
「横尾さんたちには坐って頂きますが、お子さんたちは山の中を散歩したり、バレー・ボールを女学生たちと……」
「女学生!?」
「そうです。女学生の団体がいつもきていますからね」
「本当ですか!?」
N君も、カメラマンのK君も、もちろんぼくもそうだが、三人はお互いに顔を見合わせて、目を輝やかせた。
「坐禅もいいけど、われわれにはぜひ風呂焚きや、風呂の掃除、それからめし炊きをやらせてください」
「ぜひやってもらいましょう」
――ということで、われわれ三人は日月庵にやって来たのである。
しかし、ぼくの心は坐禅どころではない。カバンの中は仕事の資料でいっぱい。軽井沢駅で逢った松原さんは、気の毒そうに、「ゆっくり仕事をしてください」といってくれた。もちろん最初からその気である。三日三晩徹夜しても追っつかない仕事の量をかかえて、ぼくは半ばどうにでもなれという感じだった。
数日前から続いている不眠症のせいか頭が重く、また口内炎を起こして、肉体も精神も極限状態に近い。
日月庵に着いた時はすでに陽もとっぷり暮れ、辺りは真っ暗だった。松原さんが貞静学園の軽井沢寮で女学生を相手に講話をされるというので、われわれも一緒についていくことになった。だが、仕事が気になるぼくは一人別室で校正刷に手を入れていた。しばらく経った頃N君が、「横尾さん、面白いからちょっと聴きにきませんか、女高生ばかりで、部屋中がムンムンしていて、すごい熱気ですよ。松原さんの講話に女学生が狂ったように爆笑しているんですよ。こんなすごい光景はちょっとないですよ」というものだから、ぼくは仕事を止めて、早速松原さんの講話を聴きにいくことにした。
なるほど、教室に近づくにしたがって次第に聞こえてくる爆笑はただ事ではない。異常である。
「ぼくが電車に乗っていたんですよね。するとちょっと向こうで三、四人の若者が花札をやっていたの。その内の誰かが、坊主がない、なんていっているんだよね。するとそのうちの一人が、坊主なら後に乗っているよ、なんていうんだなあ、そりゃ坊主だって電車ぐらい乗りますよ。そいつは、ほら、後の坊主借りてこいよ、なんてぬかすんだなあ……」
もう大爆笑である。教室の床にびっしり坐っている女高生が波がうねるように体をゆすり合って笑っている。それが教室の窓ガラスまで震《ふる》わす。女高生の一人などは興奮したのか、半ば失心状態になって、外に運び出される始末だ。あれだけ受ければ、話していても気分がいいだろう。まして相手は女高生だ。松原さんにあやかりたいものだ。講話というよりまるで落語を聞いている感じである。あれだけ女高生の心を把《つか》みとることのできる松原さんは大したものだと、つくづく感心してしまった。
結局この夜は坐禅をしないで、ぼくは少し仕事をして十時頃床についた。午前五時の開静《かいじよう》の合図で起床。不眠症気味の重い頭と、瞼《まぶた》にふれる早朝の山の空気が妙にぼくの重心を狂わす。もう少し寝ていたいという欲求を断ち切っていそいそと禅堂に入る。
禅堂にはすでに女高生が坐蒲についている。全員女高生だ。坐蒲の数の二倍の女高生が二列になって坐っている。写真撮影の関係もあってぼくは彼女達の真中に坐らされる。数十人の女高生に囲まれてする坐禅は生まれて初めてだ。
恥ずかしい気持ちもあるが、こんな状態じゃ周囲のことが気になって坐禅どころではない。そんなことはないのだろうが、全員の意識がぼく一人に集中しているような気がしてなかなか心が統一しない。雑念が次から次へと湧いてくる。ぼくの脳波は完全に彼女達の波動によって狂わせられている。K君のカメラのシャッターがえらい気になる。すでにぼくの心は坐禅する気持ちを捨ててしまっている。
警策《きようさく》が入るが、可愛いものだ。なにしろ相手が女高生だから、お坊さんも優しいのだろう。坐禅の時間も一回がたった十五分間である。また坐禅の後、西瓜が出たのには驚いた。いたれりつくせりである。この日のぼくは仕事の疲労で集中して坐禅ができなかったが、日月庵の環境は抜群であった。
朝の坐禅がすんだ後、三人は部屋にもどって再び横になった。一度目が醒めたらなかなか眠れないぼくは、そのまま仕事の続きをすることになった。三日後に控えた南太平洋に、早く行ってしまいたいと思った。いきなり三日間が何かの拍子に消滅してくれないかと本気に願った。南太平洋はおそらく極楽であろう。しかし今のぼくは地獄である。
日月庵にくればなんとか仕事の重圧から逃れられるかもしれないと期待していたが、やはり物理的に考えても三日間にできる仕事の量はきまっている。しかし、三日後にはおそらくぼくは機上の人となって南太平洋に向かって飛び立っていることだろう。
果たしてぼくはどんな風にして現在かかえている仕事を処理するのだろう。仏のみが御存知である。すべてを仏にまかせるより仕方ない、と思ったとたん急に気が楽になってきた。
午後、松原さんと一緒に柴田錬三郎氏の軽井沢の別荘に行くことになった。だが道路という道路は車の行列だ。K君は「まるで道路が駐車場みたいだ」といったが、この表現はまさに的確である。その証拠に二キロ走るのに二時間かかった。柴田氏の別荘まで、日月庵から十キロたらずだ。普段なら三十分位で行けるところが、この分なら、十時間かかってしまう。歩けば二時間位で行ける所がだ。これが夏の軽井沢の実状である。
結局途中から引き返すことになった。松原さんはぼくが坐禅どころではないことを承知してくれてか、「どうぞ、お仕事を続けてください」とえらい気にしてくれる。坐禅に来ながら仕事ばかりしていてなんだか申しわけないが、この際許してもらうことにした。
夜になってどこかの町で花火大会が始まった。日月庵は山の中の一軒家である。遠くの林の向こうで花火が炸裂する。辺り一面に靄《もや》がたちこめており、林の上で咲く花火はまるで濡れた紙の上に赤いインキを落としたように、パッと夜空に滲《にじ》む。雲が低くたれ下がっているのか雲の中ではじける花火は、雲全体を電光のように照らす。まるで驚異の自然現象を見ているようだ。昨年インドのスリナガルで見た稲光がちょうどこんな風であった。現実の風景を見ているというより、まるでハリウッド映画のスペクタクル・シーンによくある光景を見ているようだ。ぼくは思いもかけない花火と自然が描く超越的な芸術作品にしばし陶酔していた。
日月庵で二泊し、次の朝七時に軽井沢駅に向かうことになった。十一時前の電車に乗る予定であるが、なにしろ昨日の車の渋滞のことが頭にあったために、三十分のところを四時間見て出発することになったのである。ところが今日はどうしたことだろう、昨日のことがまるで夢のようだ。道路はガラガラである。お陰で駅まで三十分で到着。三時間半を駅前の喫茶店と、ホテルでつぶす。軽井沢って変なところだ。
さて、電車に乗ってもまた仕事。森本哲郎氏の『ゆたかさへの旅』の文庫本のための解説文である。以前に読んだ本であるが、あらためて、文章を書くために読む。本を読むのが遅いぼくはこんなに急ぐ時は困る。なにしろあと二日だ。読んでいても言葉が頭の中に入る前に拡散してしまう。南太平洋行きが急に決定したために、旅行期間中の〆切のものまで繰り上げてやらなければならなくなってしまったのである。もし旅行に行かなければ、ゆっくりやっていてもいいというのに。旅行を恨むが、そうかといって断念するわけにはいかない。念が通じて行くことになった南太平洋である。
この旅行は池田満寿夫、阿久悠、浅井慎平など計十五人が参加する『南太平洋・裸足の旅』という団体旅行である。森本哲郎氏は『ゆたかさへの旅』の中で団体旅行は実存的な運命共同体であるとおっしゃる。つまり、いつ何時落っこちるかもしれない飛行機で生死をともにするところなどは一種の限界状況であり、こうした日常性と絶縁したところに人間同士の生のコミュニケーションがあるというのだ。
あまり団体旅行をしたことのないぼくは、今度の旅行に対してもある種の不安があった。森本氏ではないが中にはいやな奴もいるだろうし、口もききたくない相手もいるはずだと思うと気が重いのはあたりまえだ。ところがこの本を読んでいるうちに、著者の森本氏も次第に団体旅行に興味を持ちはじめ、ついに団体に混ってインドへゆたかさへの旅をすることになっていくのである。
不思議なもので数日間の地獄が明けると、ぼくは予定通り機上の人となって一路ハワイに向かっているではないか。まるであの地獄がうそのようだ。ぼくだけではない、全員が地獄をくぐり抜けて今、地上の楽園南太平洋に魂はすでに翔《と》んでいる。
一口にいって十五日間の南太平洋は素晴しかった。ハワイ→サモア→フィジー→タヒチ→イースター島の島々を旅して回った。ぼくの最初の計画は南太平洋の椰子の木陰で、あるいは白い砂浜で坐禅をすることだった。だが、不思議なことに、まったく坐る必要はなかったのだ。南太平洋の光の下ではすべてが許され、すべてが悟っているようだった。南太平洋そのものが「坐禅」だった。ぼくは全く解放された。不眠症も一瞬にして解消された。
しかし、帰国した夜から再び不眠症が始まった。日本にいる限り、ぼくは永遠に坐禅をしなければならないのだろうか?
[#改ページ]
あるがままの生
ピラミッド・パワー
家で坐禅する時ぼくは瞑想用のピラミッド・テントを使う。このピラミッド・テントはアメリカから取り寄せたもので、瞑想用のために作られたものである。このピラミッド・テントはエジプトのギゼーの大ピラミッドと同じ精密な比を持っており、南北軸に中心を置き、その中に入って瞑想するというわけだ。このピラミッドの模型は単にエジプトの大ピラミッドに似ているというだけではなく、実際にエネルギー場を反射し、生成、蓄積することがあるというところから、人体に効果的な影響を与えるものとして開発されたのである。
さて、ここでピラミッドの形状が及ぼすある力について触れなければならない。ぼくがピラミッド・パワーについて知ったのは、一九七〇年にS・オストランダーとL・スクローダーによって書かれた『ソ連圏の四次元科学』がアメリカで刊行されて間もなくの頃、アメリカの雑誌からやオカルトに関心を抱いていた友人達から、であった。この二人の著者は両方とも女性で、一九六八年モスクワの国際超心理学会議に出席した時、東欧をまわって四次元科学の実態を見聞し、その結果をこの本にまとめたのだった。その中でピラミッド・パワーに触れた部分が、アメリカ全土に衝撃的な驚きとブームを巻き起こす原因になったのである。そして今では、特にカーター大統領の出身地ジョージア州では六十パーセントの家庭がピラミッドを所有しており、テキサスのラレドの病院でもピラミッド・テントが病室に置かれているという。
瞑想用のピラミッド・テントはもちろん、小型のプラスチック製のものから、小さなピラミッドが沢山並んだパワージェネレーター、その他数多くのピラミッド製品が売り出されている。アメリカではすでにピラミッドの形をした建築が各地に建てられている。
では、このピラミッドがいかなる力を発揮するかということについて説明する必要がありそうだ。ピラミッドに不思議な力が存在していることを最初に知ったのはフランス人のボビーという人だった。彼はエジプトの大ピラミッドの中にあるゴミ入れの大きなカンの中に観光客の捨てたゴミと一緒に猫や他の小動物の死骸《しがい》が全く腐った形跡《けいせき》もなく、脱水状態でミイラ化している現象に驚き、帰国後、早速小型のケオプス王ピラミッドの模型をつくり、正確に南北軸に合わせて置き、その中に一匹の猫の死体を入れた。結果は大ピラミッドと同じく猫はミイラ化されてしまった。この種の実験を次々行ない、彼はある結論に到達した。つまりピラミッドには腐敗を止め、脱水を引き起こす何か未知の力が存在しているということを知ったのである。
このニュースを聞いて間もなくぼくはプラスチック製の小型ピラミッドを手に入れた。早速実験してみようと思い、生きたアサリをピラミッドの中と外にそれぞれ一個ずつ置いた。翌日見るとピラミッド内のアサリは完全に蓋《ふた》を開いて水を流していた。外のアサリはそのままだった。また買ってきたばかりの柔らかいパンを中と外で試してみた。翌日ピラミッド内のパンは硬くなり歯がたたない状態になってしまっていた。
最も驚くべき実験はカミソリ刃が再生するということである。一枚のカミソリ刃が五十回から二百回も使用できたというデーターもある。その他に、汚染された水を数日ピラミッド内に置いておくと浄化される。ミルクのヨーグルト化。ピラミッド内の水が化粧水や消毒薬の効用を表わす。ワイン、ジュース、タバコなどがマイルドな味に転化。また皮膚の傷や歯痛や扁桃腺炎などが治ったという例もある。
以前ぼくは大小さまざまなピラミッドを作り、腹の上や、額にのっけたり、頭に被ったりしていた。特に頭に被ると急に頭が涼しくなり、気のせいか気分が爽快になることは確かだった。ピラミッド・パワーがアメリカで問題になると同時に、多くの人達がピラミッドのテントを作りその中で瞑想を始めた。
ピラミッド研究家のビル・シュールは現在ピラミッド内に作用するエネルギーの本質の理解までにはまだ相当の時間を要すと前置きしながら、「エネルギーの本質をよりよく知ることは身体的、精神的にもわれわれ自身や世界を知る重要な鍵となるはずだ」(『ピラミッド・パワーの謎』)といっており、ピラミッドの研究は人間が自らかかわることを正しいとし、大ピラミッドの目的は「人間成長の器械」としてそれがつくられた可能性が強いとも強調している。
確かにあの大ピラミッドがファラオの墓として建てられたという教科書の考えは、ピラミッド・パワーの出現以来|崩《くず》れさろうとしている。しかも、学者の中には大ピラミッドが秘密伝授の場として、ピラミッドによって発生するエネルギー場が人間の意識を上昇させる目的で作られたと推測している者もいる。
実際大ピラミッドは何時、誰が、何のために建てたかということはいまだにはっきりしていないようだ。デニケンは太古に地球に来た高度に発達した地球外惑星からそそがれた知性によっているといっているが、あながち否定する根拠もない。いずれにしてもより高度な知力によるか、神の助けを受けなければあれほどの建造物は作れなかったのではないだろうか。
世界最大のピラミッド学者でもあり、大直感力の持主でもあるM・ドゥリル大師によると、ピラミッドはカバラヨーガ哲学を石の建築で示したもので、宇宙と人間との関係を表わしたものであると指摘しており、アトランチスのトスという聖王の設計によって古代の知恵を保存せんがために建てられたと伝えている。その科学的知識は現代のそれを遥かに凌駕《りようが》したものであったという。要するにピラミッドは人類の最高の知恵の宮でもあるのだ。ドゥリル大師は「ピラミッドの真の意義は、物質世界の空間から、永遠不滅の神の空間に出て行く道を示すものである。無明暗愚な世界から不死の生命と光明の中に出て行く道を示すものである」(『大直感力』)といっている。
ぼくはここでギゼーの大ピラミッドの謎に挑戦しようとしているのではない。再び「現代のピラミッド・パワー」に話題を戻さなければならない。現在、アメリカにパトリック・フラナガン博士というピラミッド・パワーの研究者がいる。ライフ誌がアメリカの十人の科学者≠フ一人に彼を選んでいる。『ピラミッド・パワー』の著者でもある、彼の理論はわれわれ素人には非常にむずかしい。彼とそのグループは過去数年間にわたって生体宇宙エネルギーと呼ばれるエネルギーの諸現象に関して研究を続けているが、まだ誰一人としてこれこそがそのエネルギーであると現実に示した者はいないという。
このエネルギーは古来からいろいろな呼ばれ方をしてきている。たとえば、生体エネルギー、磁気エネルギー、プラーナ、マーナ、クンダリーニ、気、その他で、これらのエネルギーの根源や特徴についてはほとんどが宗教的あるいは秘教的修法にかかわる見解ばかりである。ぼくがピラミッド製品を取り寄せた時、同封されていたフラナガン博士のピラミッドと、その生体宇宙エネルギーとの関係≠ニ題するパンフレットの一部分を少し長くなるが抜粋してみた。
「ギゼーの大ピラミッドの形をした最も強力な生体宇宙エネルギー発生器というのがあるが、科学の最も新しい分野はこの研究から派生してきたもので、私はこの新しい研究分野を磁気形態共鳴(Magnetic Form Resonance)と呼んでいます。現在私の研究では、生体宇宙エネルギーは磁気の特殊性質によって起こる現象であることを実験的に確認しており、このエネルギーは宇宙の諸力と密接不離に結びついています。磁気形態共鳴によって、ミクロ的次元のエネルギーはピラミッドのようなマクロ的次元の形態の中に凝集化させられていくに違いありません。電磁スペクトルに於ける周辺効果の場合には、このエネルギーはしばしば隠されてしまいますが、これと同じように、このエネルギーは不可視の次元で存在し、ただその性質だけが現われて来るのです。さまざまな物理的現象がこのエネルギーを現出せしめていても、このエネルギーの本性自体は人々の注意を引くことがないのです。このエネルギーは生体絶縁子によって引きつけられ、磁力と同じように熱や光を発生しますが、しかし、この熱や光自体がこのエネルギーの正体ではありません。これら多くの発見は、ピラミッドによってもたらされたものです」
さて、ぼくがピラミッド・テントの中で坐禅、あるいは瞑想するようになってからの実際の効果ということになると、まだよくわからない。しかし、この中で坐ると自分が完全に外界から遮断されているという意識だけは強烈に起こってくる。それと同時に非常に特殊な空間によって保護されているという安定感が得られるのも特徴のひとつだろう。また普段と違ってある種の聖なる意識を伴った上昇感がある。
こうした心身に与える影響はピラミッド内のエネルギーと人体のエネルギーの共鳴によるものかも知れない。このピラミッド・テントは常に自宅の居間に置いているため、何かというとすぐこの中に入ってしまうくせがついている。この中で横になったり、あるいは本を読んだり、来客があってもぼくはこの中に坐って話をする。長女などはこの中にふとんを敷いて寝る時もある。
お寺に参禅するのにまさかこんなピラミッドをかかえて行くわけにはいかないが、もしこの中で坐禅を組むことができれば若い人達はみんな喜んで参加することだろう。ギゼーの大ピラミッドの中にも瞑想室が設けられていたとされているが、四千年経った今こうしてピラミッド・テントの中にいるとまるで古代に帰ったような気持になり、古代の驚くべき知恵の恩恵にあずかるかも知れないと思うと胸が高なってくるのを否定することができない。
二年前の秋から始めた坐禅はとんでもないところに来てしまったように思えるが、坐禅を効果的に行なうためにはこうした古代の知恵を応用することも宇宙時代にふさわしいのではなかろうか。数年来関心を抱き続けてきたピラミッドと禅がぼくの中でこんなふうに共鳴している。
しかし、これで参禅を止めたわけではない。禅寺には禅寺の独特のパワーがある。禅寺の精神空間にはまた特殊なエネルギーの場が作用しているはずである。
いよいよ秋も深まり、坐禅の季節がやってきた。しばらく禅寺から遠のいていたような気がする。そろそろ寺の廊下も冷たくなった頃だろう。あの雑巾がけや、落葉掃きがまるで昨日のように思える。辛い参禅生活だっただけに思い出深い。
どうせ寺の門をくぐると同時に「しまった! 来るのじゃなかった!」と思うに決まっている。でも参禅から解放された時の解放感だけは金を出しても味わえないほど貴重で価値あるものだ。ぼくの人生にこんな素晴らしい瞬間があるかと思うと、しごかれるのもまた楽しい。
坐禅の形はどこへ行っても同じだが、その時のこちらの精神状態によって千変万化する。本当はどこで坐禅をしても同じ状態でなければならないはずだ。ぼくのように、あそこはきついとか、ここはらくだといっている間はまだまだダメ。自我というやつは本当にやっかいな代物である。求める心を捨てなければならないはずだ。しかし、捨てようとする心にまた自我が絡《から》みつく。自分がある限り自我は存在する。捨てるということさえ考えてはならないのだ。そのままにして、欲望のままに行動すればいいのかも知れぬ。こんな禅問答のような自問自答がぼくの人生を愉しくさせているのかもしれぬ。そう思えばまたこれもよしとしようか!
[#改ページ]
抜けた者への魅力――玉峰尼との対話
切なる求道心
この春千葉県のマザー牧場内にある鹿野山禅林に参禅したとき、知りあった安井陽子さんが剃髪して出家された(玉峰尼となる。千葉県にある仏母《ぶつも》寺住職)。女性が出家するにはよほどのわけがあってのことに違いない。多少野次馬的な興味も伴って、われわれは建立されたばかりの仏母寺を訪れた。この寺は鹿野山禅林に隣接しており、まるで東南アジアの仏教寺院を彷彿《ほうふつ》とさせるモダンなデザインだった。仏母寺の御本尊は釈尊の母親の摩耶《まや》夫人である。
玉峰尼に変貌された安井さんがわれわれの前に現われたとき、ぼくは彼女のすでに堂に入った尼僧振りに、まず驚いた。
仏門に入ってまだ二週間も経っていないというのに、安井さんの尼僧姿を見てぼくはこの姿こそ彼女の本来の姿だと思った。彼女がこの世に生を受けたとき、すでに今日の玉峰尼が約束されていたかのようだ。もちろん仏縁がなければ仏門に入ることは不可能だろうが、それにしても「なぜ?」という疑問が残る。その疑問に玉峰尼は答えてくれた。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ぼくは得度《とくど》(髪をそって出家すること)される前の安井さんも多少は存じ上げているんですけれど、以前とちっとも変わっていらっしゃらないようですね。いま、こうしていらっしゃる姿がとっても板についていらっしゃる。安井さんはずっと以前からこうしていらっしゃったんじゃないかと感じるわけです。
安井[#「安井」はゴシック体] かたちは変わりましたけど、私の心の様子はちっとも変わっておりませんね。というのも、私が仏法というものを知ったのは二十歳過ぎぐらいのころでしたからね。横尾さんが仏教に関心をお持ちになったのは交通事故に遭われてからとおっしゃっていましたね。私の場合は病気からです。
それまでは、ああしたいこうしたいと、自分が思うままに生きて来たんですね。そんなときフッと病気になって、すべてから遮断されてしまったんです。友だちとも社会とも遮断され、自分の仕事も中断されますでしょ。そういうところから、生命《いのち》の虚しさを初めて感じたんですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] おいくつぐらいのときでした?
安井[#「安井」はゴシック体] 二十二、三歳、でしたかしら。一度死にかけましてね。まだ乙女で、最高にきれいなときでございますでしょう。
横尾[#「横尾」はゴシック体] きっと美しかったと思います。そのころ会っていれば……(笑い)。
安井[#「安井」はゴシック体] そうですよ、たいへんでございましたでしょうね(笑い)。その病気をしてから、無常観というものをいろいろな面で感じてきたんですね。たとえば、恋人と初めはどんなに燃えていてもいつかは消えてしまうという、人間の心の不確かさ……。それで、仏法だけが誠であるということばがひしひしと自分の心のなかに育ったんですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 病気をされる前はどんな生き方をされていたんですか。もちろん、恋人がいらしたわけですね?
安井[#「安井」はゴシック体] わがままでしたし、恋もしておりましたし……。地唄舞をしておりましたし、踊りとかお茶という華やかな世界で生きておりました。京都でしたでしょう、松竹とか東映の方に踊りを教えてあげたり、映画の世界にもちょっと入ったことがあります。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そんなときに病気になられたわけですね。で、いちばん最初に出会われた仏教書というのは何ですか?
安井[#「安井」はゴシック体] いちばん最初は道元禅師です。病気をしたと同時に友だちと別れたとかいろんなことがありましたわね。それまではお金なんて、自分が得るということ知らなかったけど、お金というものの存在を知ったのね。なかったら困るということ。そんな悩みのなかで、道元禅師の学者の者、まず貧なるべし≠ニいう言葉に出会いましたの。本当に道を求める者にいろんなものがあっちゃいけないんだと思って、ゴルフ場の会員権を人にあげたり、ちょっと持ってたものをお寺へ寄付したりして、ひとつずつなくしていきました。
横尾[#「横尾」はゴシック体] それは病気になられたあとで?
安井[#「安井」はゴシック体] そうです。まだ、仏法というものがからだにはいっていないころです。その後で仏法というものを知ったんですけれど、仏法を知っていると、生活が非常に楽ですね。受身になるとものすごく楽だということを覚えたんです。だから、どんなことがあっても、いままでちっともしんどくなかったですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ただ仏法を知り始める時期というのは、ぼくなんかもそうですけれど非常に観念的になる部分があるんです。なるほどってわかるから、自分はその生き方をしようとする。にもかかわらず、第三者がぼくと同じような気持ちになっていないっていうことで、そこに何か摩擦が起こらないですか?
安井[#「安井」はゴシック体] それはあるけれど、私と同じ気持ちにさせようとか、そういうことを私は他人に全然要求しませんでしたね。相手がどうあろうと、私のなかを私が歩く。相手がわかってくれなければ、まだ自分がいたらないんだという……。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そういう考え方を持てるようになるまでは時間がかかりましたか?
安井[#「安井」はゴシック体] そうでもないですね。わりと早くから。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 非常に素直だったんですね。若い時期だったからでしょうかね?
安井[#「安井」はゴシック体] そうでしょうね。仏法がからだに入ってしまえば、純粋になるっていうこともありますし。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 自分で仏法を求められるようになって、それまでの芸能界的な華やかな世界との交流ということに矛盾は起こりませんでしたか?
安井[#「安井」はゴシック体] 仏法一道に生きたいという切なる求道心は、絶対消えませんでしたわ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 若い女性によくあるロマンチックな気持ちとも違っていましたか?
安井[#「安井」はゴシック体] もっと切実でしたわね。老師のところに三拝して出家したいと申し出ましたら「ぜいたくいうな」といわれまして、すごすごともどってきました。そのときはもう一度、世間で働いてやろうと思ったんですが、決してあきらめたわけじゃなかったんですよ。縁が来るまで機を待っていたような状態でしたから、私の場合は。あんまりきれいごとばかりいってもいけませんけれど、それは本当の事でございますのよ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 仏の道を求めるという方向がある一方、やはり生きていく上での欲望がありますね。そういった欲望、煩悩《ぼんのう》ですか、そういうものについてはどうお考えですか?
安井[#「安井」はゴシック体] 私は親鸞《しんらん》様(一一七三〜一二六二、浄土真宗の開祖)が好きでございましたから……。その煩悩のあるが故に人間を愛し、煩悩があるからこそ即菩提でしょ。人間を愛《いと》しいと思いますね。愛して泣いて、だけど、それにとらわれて、のめり込んで不幸になることはいけない。
私は価値転換という言葉がいちばん好きなんです。たとえば誰かに裏切られたりして、不幸な目に遭って不幸な状態にいるとき、相手を恨む前に、裏切られたこの状態をどういういいほうへもっていこうかなって思う、そういう価値転換ね。これが私の人生の処世術、処世術というのは変ないい方ですけれど……。だから、恋人に捨てられても、シュンとなるとかそういうのじゃないの。捨てられた状態をどうもってゆくか、私の場合でしたらお茶の世界で一生懸命修行するとか……。
横尾[#「横尾」はゴシック体] その価値転換ということ自体が芸術の非常に重要な根本原理みたいなものじゃないかと思うんですけど。二十代のときに病気になられて仏法の世界に出会われて、それから今日にいたるまで……えーッ、どのくらい、二十年はあったんでしょうね?
安井[#「安井」はゴシック体] そのことでございましたの(笑い)。そうですよ。二十年はございましたよ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そこから今日にいたるまでの、具体的なお話をちょっと、お聞きしたいんですが……。
安井[#「安井」はゴシック体] 仏道のこと? やはり確実に仏道を求める上で大切なのは坐禅ですね。坐禅をし始めて、一年目ぐらいに、私、からだが抜けたことあるの。あの喜びは忘れられないわ。すごい嵐の日だったんですけれど、嬉しくて、泣いてるんじゃないけれど涙がこぼれてくるの。雨の中を傘もささずに歩き回ってしまいましたの。どこをどう歩いたのかもわからないんです。風の音がすごいんです。それが音楽に聞こえてきました。そして群雲がまるで芸術作品のようにすばらしくて、私はもう歓喜してしまってどこであろうと歩いていったんです。それから人を見ましたら、ものすごく愛しいの。なんていうお坊様だったかしら、人を見たら合掌するお坊様、あの方の気持ちがそっくりわかりました。
こんなこといっちゃいけないんですね、お坊さんは。白隠《はくいん》禅師(一六八五〜一七六八、江戸時代の臨済宗の僧)は大悟《たいご》十何回、小悟数知れずっていいますからね。でも、あの嬉しさは忘れられないんですよ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そのとき抜けられたということが、いまの安井さんを作ったのかもしれませんね。おそらく言葉で表現できない世界だと思います。
安井[#「安井」はゴシック体] そう、人間とか生命とか、あらゆるものが愛しくてたまらなくなります。ふだん気がつかないことに歓びを覚えますものね。こんなすばらしい生き方ができるのに、いつも雑念で重たいものを背負って歩く必要ないと思いましたわ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 一方ではそういう経験をされて、もう一方では非常に日常的な……。
安井[#「安井」はゴシック体] 欲望とかの世界にものめり込んで……。でも私は、本当にきれいな悟りだけの世界で生きていく人には魅力を感じないですね。お坊様としても。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そこをもう少し詳しく。
安井[#「安井」はゴシック体] やっぱり地獄の底にいっぺん落ちて這い上がってきた者、地べたを血みどろになって這い回って、そして抜けた者にこそ魅力はあるでしょう。そういう意味で、悟りすました世界のお坊様には人間的魅力はないですね。泣いて笑って、土臭くて、そういうものをうんと持ってて、きれいな永遠の火、仏の世界にも目を向けられる人が私はいちばんいいと思います。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 安井さんがとくに女性であるということで、女性の業《ごう》なんかがやはり自分のなかで騒ぎ立てるということがあったんじゃないかと思いますが……。
安井[#「安井」はゴシック体] それについて、いま、私はいう資格はございません。女の業というものが全部断てたわけじゃございませんし。心のなかにあるものを全部捨てたとか、そんなんじゃないですから、自分ではまだ解決できませんけれども、いまはこういう生活をして……。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 仏教的な世界との関わりのなかで、地獄はごらんにならなかったですか? 地獄という表現は大袈裟かもしれませんけど……。地獄的世界にいる場合には、それを地獄と感じないわけですね。ところが、一方で求道というものがあると、その反対の世界を地獄と感じる。求めようとする自分を引っぱるもうひとつの自分みたいなものですね。
安井[#「安井」はゴシック体] 引っぱる力が弱いです。さっきの価値転換ということがありますから。地獄のなかでもがくことが大変損だっていう切り換えがすぐできるの。病気をする以前はできませんでしたけれど。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 道元禅師の言葉に触れ、坐禅をしながら、先ほどのような抜けた状態を経験され、そういったものが総合されて自分の生き方がはっきりしてきたわけですね。そのころ、自分の将来の人生計画をどうたてておられましたか?
安井[#「安井」はゴシック体] やはり尼僧になるんだなと思ってましたね。だけど暗いイメージのする閉鎖的な尼寺じゃなく、女の子たちが悩んだとき、すぐに来てくれるような……。でも、ただの悩み相談じゃなくお茶の世界とか、より次元の高い世界に導いてあげられるようなね。
お寺に入っただけで聖域に入ったという雰囲気で心が和《なご》む、会ってくださった人に何も申し上げなくても相手の方の心が和む。そういう形もひとつの布教だと思うんです。仏母寺に来て庵主《あんじゆ》に会って心がスッとして、元気になってくれるというような存在になりたいですね。
私自身、そういう経験を何度もしていますものね。今日こそは何かいおうと思って偉い人のところへ行くと、「あ、よく来たね」といってやさしい慈眼で見つめられ、お茶を一杯ごちそうになっただけで、内に涙が流れて心が洗われるような……。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 得度される決心をされたのはいつごろですか?
安井[#「安井」はゴシック体] 具体的に得度することになったのは二年ほど前です。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 尼さんになられる方のなかには、死ぬということの代償として出家される方もいらっしゃるんじゃないかと思うんです。そういう人に比べると、安井さんの場合、機が熟してすんなりと仏さまのところにお嫁に行かれたという感じがするんですが……。
安井[#「安井」はゴシック体] そういうふうにいっておりますが、やはりぎりぎりの気持ちから出家というものを感じましたよ。死というものが、いつも私の無常観のなかにそれがあるんです。生の裏にすぐ死でしょう。朝があればすぐ夜があり、人と会えばすぐ別れ、会者定離《えしやじようり》ですか、そういうことはいつも感じておりました。それともっとぎりぎりの死というものにも、私は切羽詰まって追い詰められましたよ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 無常観はどういったときに感じられます?
安井[#「安井」はゴシック体] この人はと信じて、向こうから去られたんではなくても、自分の心が変わってゆくんですね。あんなに燃えたのにどうして醒めたのかとかですね。ほんとに心のはかなさね。無常があるからいまが愛しくて、いまが大切なんですよね。結局、この人とあした会えるかわからない。お茶でいいましたら一期一会《いちごいちえ》ですね。これがあるからいまが大事になる。そうでなかったらぞんざいになりますね。また明日があらあなんて思ってしまいましたらね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 得度された瞬間ですね、髪がバサッと切り取られた瞬間というのはどうでした?
安井[#「安井」はゴシック体] 恐かったですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] どのように恐かったですか?
安井[#「安井」はゴシック体] やっぱり女ですからきれいでありたい。いままでは髪で雰囲気を出したり、口紅をつけてカムフラージュしたりしていたけれど、そういうことができませんね。スッポンポンで、裸みたいなもんでございましょう。心が乱れていたらもうみな見えてしまいますものね。隠れみのがないんです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] まず、顔を考えられた?
安井[#「安井」はゴシック体] そう、やっぱり女ですね。女の業が捨てされないってさっきいったのこれですね。朝起きたら、まるっきりの自分なの。ほんとにきびしいですね。だてに剃髪なんてないですよ。でも、自分の生き方が決まりますよ。修行ということがね。
落慶式の当日、山田無文老師に毛があったときよりきれいになったから、もう伸ばす必要ないって釘をさされましたの。これ慰めの言葉でしょうね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 髪があるときより、非常に明るくて、美しくなられた。僕も無文老師に同感ですね。
安井[#「安井」はゴシック体] ほんと、嬉しいわ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 下世話な話になるかもしれませんが、出家されてこういう状態になると、特別の人をエゴイズムで愛するということはなくなりますか?
安井[#「安井」はゴシック体] それはないですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ひとりの人に対する愛というのは非常にエゴイスティックですよね。相手を愛していると同時に自分を愛している。自己愛ですよね。
安井[#「安井」はゴシック体] 男と女の愛はほんとにエゴですね。それしかないもの。エゴでなかったら燃えませんものね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 出家されると多くの人を同時に愛す、エゴじゃない愛にかわるわけでしょう。燃えますか?
安井[#「安井」はゴシック体] 静かにね。白い炎。紅蓮《ぐれん》の炎じゃなくて白い炎ですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ぼくには尼さんの友達がふたりできたわけです。瀬戸内さんもぼくと知り合って間もなく尼さんになられたんです。安井さんもぼくと知り合って間もなく。ぼくが知り合う女性は皆、尼さんになるのかしら(笑い)。ぼくが歩いてゆく先々に、お坊さんがパッパッと立ちはだかって通せんぼしてるような感じがしますよ(笑い)。
[#改ページ]
自分の命は自分で運べ――大森曹玄老師との対話
人間中心主義の崩壊
横尾[#「横尾」はゴシック体] きょうは、業《ごう》とか因果とか因縁《いんねん》といったものにテーマを絞って、大森曹玄老師にお話をうかがいたいと思ってやってまいりました。
というのも、いまの若い人たちは非常に迷っているところがあると思うんです。自分がなぜ生まれ、この世の中になぜ存在しているのかがわからない。どこから来て、どこへゆくのか、自分の未来がどうなっているのかわからない。未来がわからないから、現在の生き方がわからず迷う。
そういう運命的なことに対する不安ですね。仏教では、それを因果とか業とかいう言葉で説明していると思うんですが、そのへんの深い問題をお聞きしたいと思いまして……。
大森[#「大森」はゴシック体] 仏教は因果必然論じゃないんです。因縁です。必然論ならば、何もしないでいれば、その通りになってゆくことになるわけです。そこのところが非常に誤解されているのではないでしょうか。縁が大切なんですね。縁というのは、つまり条件ですね。因―縁―果となるんでしょうね。そして縁というのは自分で選択するものなのです。
お釈迦様が因縁というものを説いたということは、すなわち創造主を否定されたということなんです。バイブルにあるような造り主ですか、ああいうものを否定したわけです。そうではない、すべてのものは原因と条件によって成立するんだということを説かれたのです。
原因と条件によって成立するものには固定した実体がない。だから、空だ。という理論なんですね。それを、原因から結果に短絡させて因果論というから、親の因果が子に報い≠ニいう考え方になってしまう。
原因に対して、その条件を選んでゆくということが、われわれが生きるということの意味じゃないでしょうか。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そのことで、具体的にわかりやすいたとえ話はないでしょうか。
大森[#「大森」はゴシック体] 名古屋に週刊名古屋≠ニいう雑誌を出している人がいるんです。この人が毎年五月ごろになると知り合いの人に、朝顔の種を送っていましてね。朝顔の季節になると、その結果を本にのせるんですよ。ところが、私なんか、ときどき机の引き出しの中に種を入れ忘れてしまってるんですね。一方では、三寸も五寸もあるような花が咲いているのに、こちらは種のままなんです。
そのとき、なるほど縁というものはこういうものだなと思ったんです。種には原因が包まれている。しかし、それをどこにおくか、どこに植えるかということで、まるっきり結果が違ってしまいますね。
原因と結果よりも、その間にあってこれを媒介する縁というものが、非常に重大なんです。それだから、われわれが自らの選択によって縁をどういうふうに選ぶかが、仏教で重んじられるのではないでしょうか。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 縁はそこらじゅうにあるわけですね。
大森[#「大森」はゴシック体] そうです。それだから、仏教では、明、知恵のことですが、これを尊ぶんじゃないですかね。愚かだと、縁をうまく生かすことができない。愚かさを明らかにすれば、最も賢明に有効に縁が得られる、ということになるわけです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] いま、若い人の間では占いなんかに凝っている人が多いんです。現在、自分が持っている悩みから抜け出たい。現在の悩みから本当に抜けられるかどうかという不安があるわけです。だから先の結果が知りたくなる。それを運命的な考え方にすりかえる。ところが、お話をうかがっていると、そうではなく、なかにいい縁を自分でセレクトすることによって、路線を変え、自分で運命を切り開くことができるわけですね。そういう意味でいえば、仏教は運命論じゃないですね。
大森[#「大森」はゴシック体] 運命論じゃない。仏教は因果論であるということで仏教を運命論にしてしまうのは誤解ですね。私自身は、性格的に、自分のこれから先の運命というものをあまり気にしないですけれど……。
運命という文字自身、命を運ぶと書くでしょう。運ぶのは自分ですからね。自分の命を人様に運んでもらわなくてもいいという考えです。どこかに何かがあって、運命を左右しているということは、私には考えられないことです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ちょっと言葉の問題になると思いますけれど、業というのと因縁というのは、どう違うのですか。
大森[#「大森」はゴシック体] 業というのはカルマのことです。行ないです。カルマというのは永久に消えないものです。死んだ人の魂が罪業をしょって、地獄へ行ったり、天国へ行ったりするという考えがあるが、あれは、仏教的な考え方のなかに何かほかの考えが入ったんじゃないですかね。仏教では、カルマというのは永遠不滅です。ずっと存続してゆくものがカルマ、つまり業です。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 人間が肉体的な存在として生きている間はもちろんずっとカルマは存続している。しかし死後もカルマは存続するということですか。
大森[#「大森」はゴシック体] もちろんです。人に影響を与えるという意味で、生きて働いています。たとえば、石川五右衛門のような者がいて、権力に反抗したんでしょうけれども、強盗として処分されていますね。その石川五右衛門が秀吉のところに忍び込んでどうしたということが、カルマとして今日まで生き、泥棒に影響を与えているでしょう。
カルマというのは池の水面に石を投げるようなものです。水面に波紋としていつまでも残る。たとえ波紋が消えても空気の振動として残っているでしょう。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そうすると、われわれは生きている限り言葉にしろ、行ないにしろ、カルマを作っているわけですね。
大森[#「大森」はゴシック体] 作っているわけです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 業イコール罪という観念がわれわれのどこかにありますが……。
大森[#「大森」はゴシック体] それはどこかで誰かが結びつけてしまっただけでしょう。本来カルマは必ずしも悪業とは限らないですよ。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 善も悪もなく、ただ行為だけがあるわけですね。業というのは何か悪い意味にとられるところがあって、生きているということが、一つの罪を作っていると思うわけですが……。
大森[#「大森」はゴシック体] それは罪を作っていますよ。第一、生きることによって、他の生物を殺しているでしょう。カルマは行ないですからそれ自体には善も悪もないが、生きるということは必ず罪を作ってゆくことになる。
米の命をとっているし、太陽光線を黙ってとっている。仏教では原罪ということはいわれないけれど、人間の持つ原罪ですね。人間は他の生物を殺さなければ生きられないという、それこそ、そういう業を持っているわけです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 人間以外の動物、犬や猫もそういう業を持っているわけですね。
大森[#「大森」はゴシック体] ええ、お互いにね。いま、科学の最先端に生態圏という考えがあるんです。すべての生物、無生物を含めてひとつの生態圏を形成しているという考え方です。生態圏の中でお互いに生きるために、他の生物を殺し合っている。それを総合して全体として見れば、生態圏が維持されるということになる。
しかし、個人として見た場合、私自身、そういう殺し合いを当然のこととして受けとめるのは情として忍びない。だから、この米はどうしてできたか、これを自分は食べる資格があるのか、ということを自分に問いかけてみる。食べ物を食べることによって、そのエネルギーが私の命になってくる。この米のエネルギーを最も有効にこの世の中にお返ししなくちゃいけない。そういうところで、われわれの日常行為が考えられるべきです。われわれは米や人参やごぼうの代表者だ。そのエネルギーによって、ある働きをしてお返しをする。そういうことになれば宗教的な報恩感謝という行為になるわけです。しかしもともとは殺し合っている。これはやはり人間そのものの原罪だと思うんです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 人間は万物の霊長だという考え方がありますね。つまり、人間のために万物が存在しているという。牛にしても、魚にしてもそれは全部人間に食べられ、利用してもらうためにある。
そのへんから、人間が傲慢になりだして、それが結局、公害とか戦争とかそういったものにつながってゆくんでしょうね。
大森[#「大森」はゴシック体] 人間中心、人間至上という、ルネッサンス以後の近代的人間観というものが、近代文明の根底ですね。これを是正するのが、いまのわれわれの任務だと思います。私はいま、仏教とか禅が世界的に歓迎されているのはその点だと思うんです。
お釈迦様の時代のように、自分の生死の苦しみを解脱《げだつ》するというレベルではなく、文明史的な意味で必要とされているのだと思うのです。
仏教では三千大千世界といいますね。ネズミにはネズミの世界がある。スズメにはスズメの世界がある。それらが総合されてこの世界がある。これが三千大千世界という考え方でしょう。すべての世界が総合されて生態圏を形成しているという、近代科学でも、最も先端的な考え方と同じなのです。
仏教の原則というものが、ずいぶん間違って受けとられているけれど、近代文明と対比して考えてみると、これを是正し、救ってゆく原理を持っていますね。いちばんの問題は、やはり人間中心の考え方を是正すべきだと思うんです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] その人間中心の考え方が、個人中心の考え方へと発展してゆくわけです。つまり自我ですね。特に個人的な世界では、愛の世界においてもエゴイズムは出てきますね。対人関係の付き合いのすべてがエゴイズムといってもよいような気がするわけです。人間中心から個人中心というヨーロッパ的発想ですね。このヨーロッパ的発想を戦後ひとつのイデオロギーとして、われわれが受けついだところがあるような気がするんですね。
大森[#「大森」はゴシック体] ヨーロッパ的発想と生物本能が重なってしまっているのではないですか。
第一次大戦の後、あんな大戦争をどうしてやったのかということを、ブーバーとかエープナーという哲学者が考えた。その結果、パスカルが人間は考える葦である≠ニいったように、人間を考える主体としてつかんだことが間違いだったといっています。考えるということは単独の個人でできることです。単独の個人中心の考え方を人生観の根本にすると、その個人は利己主義になる。利己主義が我を生んで、いまあなたがおっしゃったような戦争になる。そこで、エープナーは我と汝としての人間関係というものを立てたわけです。
我と汝としての人間関係を根本に考えたということは、人間は考える存在ではなく話す存在だと考えたということなのです。同じ地平に立たなければ、話は通じませんからね。
そういう考え方は第一次大戦以前のヨーロッパにはなかった。東洋ではどうかというと、これがあった。日本の歌舞伎で、塩原多助が青という馬と別れるときに、自分の女房と別れるように別れを惜しんでいるんです。鼻をなぜて「青よ、青よ」といって。そうすると馬の耳に念仏というけれど、青がポロポロと涙を流して泣いたというんですね。仏教の思想、神道の思想が庶民の感情の中に入りこんで生活化されていたんですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 東洋的な物の考え方には、道に咲く草一本を見て、万物の生命を感じたりするところがあった。それに対してヨーロッパ的な考え方には、なぜ≠ニいう疑問がある。草一本見ても、なぜ咲いているんだろうということで引っこ抜いて分析してしまう。なぜ≠ニいう疑問に、合理的かつ機能的な解答をしなければならない。
そういったことの反動としてなぜ≠ニいう疑問に解答したくないという動き、東洋的なものに傾いてゆく動きみたいなものが若い人の間にあると思うんです。そういう分析的な考え方では解決できないもっと大きな問題があるということを薄々、感じ始めているわけなんです。
大森[#「大森」はゴシック体] そうでしょうね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ただ、ヘタをすると、カルチャーというジャンルの中で、なにか幻想的な世界に逃げ込んでしまって、仏教などを趣味的に楽しんで、それで終わってしまうということも一方にあるような気がするのですがね。
大森[#「大森」はゴシック体] われわれも結構禅を楽しんでいますし(笑い)。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そういう楽しみ方ならいいんですが、禅とか仏教が、ただ語ることの楽しさにおきかえられてしまっている。そこには実体がない。語る楽しさと実体としての楽しさが結びつく何かが欲しいと思うんですが……。
大森[#「大森」はゴシック体] 率直にいって、仏教には神秘性はないですよ。お釈迦様という人は非常に頭脳明晰で、科学的ですね。だから曖昧模糊としたものがない。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 実際この世界には奇跡とか神秘というものは、本当はないんじゃないでしょうか。
大森[#「大森」はゴシック体] ないと思いますね。頭がはっきりしていれば。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 肉体的な感覚で知覚できないものをすべて神秘とか奇跡におきかえているのではないでしょうか。
大森[#「大森」はゴシック体] たとえば目に幽霊を見たとか、奇妙で不思議なことが起こったなどということはみんないっているわけです。これを仏教では阿頼耶《あらや》というんですね。ヒマラヤのラヤです。ヒマというのは雪ですね。ラヤというのはしまってあるということです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] それは潜在意識のことですか。
大森[#「大森」はゴシック体] 阿頼耶というのは潜在意識です。つまり人類発生以来の出来事を記録したテープがあるんです。たとえば坐禅をして自分の禅定力で自分の現在の意識を抑制してしまうと、そのテープが自動的に動いてきます。それを魔境というんです。そうすると、自分は全然記憶も知覚もしない、かつての経験のテープが回ってくるに従って現われてくることがあるんです。つまりそういったものが、神がかりとかなんかになって他力的に拝んでいると出てくるんです。ほかから出てくるのではなくて、自分の底から出てくるんですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ぼくもその魔境を体験したことがあります。最初は知らなかったから驚きました。
大森[#「大森」はゴシック体] そういうのが深層心理だということがわかれば、神秘的なものじゃないでしょう。そういう道理を知らないと、幽界というものがあるというようなことを想像するわけです。幽界は自分の中にあるわけです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] その記憶されているテープというのは、先祖から来たものではなく前世から来たものですか。
大森[#「大森」はゴシック体] ユングは、それをもっと具体的に、脳を通じて親から子へ遺伝してゆくものだといっています。仏教では無始劫来《むしごうらい》の生命識がずっと続いているといっている。
横尾[#「横尾」はゴシック体] それは、ぼく個人のものじゃなくて、人類に共通したものですか。
大森[#「大森」はゴシック体] そうなんです。
横尾[#「横尾」はゴシック体] 魂の根元のようなものがみんなに分離されているわけですか。
大森[#「大森」はゴシック体] そうなんですね。
横尾[#「横尾」はゴシック体] そうしますと、その潜在意識の世界ではぼくと老師は通じ合っているわけですね。
大森[#「大森」はゴシック体] 地下水みたいに通じ合っていてあっちに吹き出したりこっちに吹き出したりする。
横尾[#「横尾」はゴシック体] その生命の根底は人類だけではなく……。
大森[#「大森」はゴシック体] 一切の生に通じています。ただ動物には意識作用がないから、人間のものです。人間は自覚する能力を持っているから、意志的になれる。自然の法則を利用することもできる。そこに人間の能力の高いところがあるだけであって、必ずしも霊長というようなすぐれたものではないでしよう。
横尾[#「横尾」はゴシック体] ところがそういう能力が悪用されていますね。自然に流されているように見えても、動物のほうがある意味で自然のサイクルと調和している。人間と動物のどちらが宇宙的であるかというと、動物の方がより禅に近いような気がしますね。
大森[#「大森」はゴシック体] そうですね。
[#改ページ]
参禅のなかの時間
魔境
一年が終わろうとしている。「光陰矢の如《ごと》し」というが月日の流れはあまりにも目まぐるしく過ぎていく。だが、参禅のことを思えば、何故かこの一年は長かった――という実感である。参禅中は本当に一日の長さが何日にも思われた。一秒、一秒が苦しみの連続だった。自ら坐禅を求めたはずだったが、いざ参禅してみると、ぼくは常に何かに抵抗している自分を発見した。
苦しみを通して瞬間、瞬間が「生きている」という実感をいやというほど味わった。しかし「生きている」という充足感ではなかった。むしろこの瞬間から「逃れたい」という心の方が強く働いた。何もしないで坐り続けているということがこんなにまで苦痛なこととは想像もつかなかった。こうした苦痛は時間との闘いだった。現実の時間に対して、ぼくの中を流れる時間は時には停止しているのではないかと思われるほど遅滞していた。まるで地球の自転時間が遅くなったかのように。
時間との闘いがぼくの坐禅だった。なんとか時間を克服したいと思ったが、その方法が見つからなかった。ぼくの頭の中から時間の観念を切り捨てればいいのだが、このことがまた時間への執着となった。時間との闘いはまた雑念との闘いでもあった。とりとめもない雑念が次から次へととめどなく無限に押し寄せてくる。一瞬たりとも雑念の支配から自由になることさえ許されなかった。この坐禅修行記の中でぼくはしばしば自己暗示をかけて、肯定的にものを見ようと努めてきた。
この場合、そうでもしなければ本当に自分のやっていることが無駄なことのように思えたからである。たとえ恍惚とした状態があってもあのようなものはすべて幻影《イリユージヨン》である。もちろんこの世界そのものが幻影である。ぼくは当初坐禅を通じて実在の世界に到達したいという強い欲求があった。そして、われわれが住むこの日常が幻影であるということを実在の側から証明したいと思っていた。
坐禅は時間と雑念の闘いだったといったが、もうひとつ坐禅は観念との闘いでもあった。自分自身が作りあげた観念がぼくをがんじがらめに縛り上げていた。観念が邪魔して、どうしても越えられない一線があった。井上義衍老師に出会った時の戸惑いと驚きがそうである。小学生でも通じる老師の言葉が、ぼくには通じなかったのである。つまり「頭」で考えようとするから、まるでなぞなぞを掛けられているようだった。確かにわれわれは物事を観念で判断し、事実を複雑に曲げてしまっている。日本の文化そのものが観念的である。また観念的でなければ安心できないのだ。ぼくも何冊かの禅入門の本を読んでみた。一冊読めば観念的に「わかる」のだ。それが禅だと思っている人も多い。ところが坐禅してみると、このような観念など何の役にも立たない。観念では悟れないということだ。
坐禅を始めた頃は一年も経てば随分と変わるだろうと期待していたが、果たしてどうだったのだろう? 自分ではわからないが他人の目には変わったように見えるかも知れない。だが他人の目は必要ない。前半は無我夢中だった。ところが半年も過ぎた頃から参禅の必要性が次第にぼくの中から薄れていくのを感じた。心の動きに忠実に従う方が賢明だと思ったぼくは参禅をしばらく中止することにした。そして三人で旅に出た。大自然の中での坐禅はある意味で参禅より効果的だった。決められたカリキュラムによって半ば義務的に行なう坐禅は心に緊張を生み、かえってマイナス面が多いことに気づいた。
坐禅は苦行ではないと教える一方で苦行を強いられた。形を押しつけるところも納得できなかった。僧侶の言葉と行為に矛盾を感じる場合も度々あった。しかし、このような批判は自分自身の未熟さによるものであるということも知っていた。この一年に及ぶ坐禅の記録はあくまでぼく個人のものである。しかも限定された期間における記録である。坐禅には初めもなければ終わりもない。時間で計れるものでもない。
坐禅との出会いはすでに語った。ぼくの中に禅の世界に入る下地はあったとしても、本当に突然のことだった。因縁なんていうのは恐らくこんなものだろう。背中をぽんとたたいてくれるモノ[#「モノ」に傍点]との出会いがなければ何事も生起しないのである。大森曹玄老師がいわれた「条件」というやつである。
ぼくは以前から禅に多少の関心はあった。といっても日本人なら誰でもが抱いている程度の関心である。だが今まで禅の世界に入るきっかけがなかった。というより、もしかするとぼくの中で拒否していたのかも知れない。やくざの世界に足を突っ込むような恐ろしさがあった。宗教は麻薬であるという観念がぼくを支配していた。しかし禅そのものには不思議と宗教色がないように思えた。山田無文老師は信仰は天を仰ぐが、信心は心を信じるといわれた。禅は後者であろう。
禅に入る以前ぼくはヨーガを少し習っていた。また禅の難解性は、多少興味を抱いていたオカルトによって随分と助けられた。オカルトは人間を宇宙的な存在者として考える学問である。そういう意味では人間はもともとオカルト的存在であるといいかえてもよい。また、人間は不合理な存在でもある。理由づけできない行為の連続を毎日繰り返しているとはいえないだろうか。無意識の行為こそ人間の本質をついているように思う。無意識の領域では万物と通じ合っており、すべてのことを知っているのだ。われわれの表面意識が無意識と一体化していないため、どうしても五感に頼るのであろう。そしてこのような肉体感覚の信仰が観念を生む結果になる。五感がすべてではないことは坐禅で何度か経験した。いわゆる神秘体験である。禅の方ではこれを魔境という。五感を超えたある感覚が魔境を生じさせているのだろう。魔境は一種の霊的体験に近い。ぼくは過去何度か霊的体験を持った。このような体験は明らかに肉体的体験ではないことはわかる。人間が肉体的存在であると同時に霊的存在である理由である。
ヨーガはこのような領域にメスを入れていく。坐禅は違う。只管打坐《しかんたざ》。黙って坐ればいいのだ。何も考えるな、という。何も考えるな、といっても雑念は起こる。しかし、受け流せばいいのだ。こんなことをしていても「大丈夫なのか?」という疑問と不安が残るが、このことさえも考えるな、という。簡単といえばこれほどたやすいものはない。ヨーガのように全くテクニックを必要としない。
だが現代人は誰でも似たりよったりで観念的である。只管打坐といわれて「ハイそうですか」といって坐る者はない。「なぜ?」という疑問を発するのだ。このようにして理由を求めるところから坐禅に入るからたちが悪いのである。納得できないものには手を出さないのが現代人だ。科学と合理を信仰の対象としている現代人には禅は少々物たりないだろう。しかし、科学合理主義が行きづまりにきている今日、精神の荒廃が叫ばれている。
理屈を拒否する坐禅はそういう意味では現代人の意表をつく。最初のうちはまるで異次元の体験をしているようだった。それほど驚きと、ある種の新鮮さはある。坐禅生活すべてが非日常的で珍しいのだ。時間の観念が異なるといったが、昔はすべてこんな生活をしていたのだろう。インドの時間の観念は確かに日本のそれとは異なる。参禅生活の時間とどこか似かよっているところがある。一日がとてつもなく長いのだ。時間そのものが瞑想的である。
参禅生活は結構忙しい。朝の四時から夜九時まで。この間坐禅、朝課、食事、作務、風呂と、全く休む間もない。これほど忙しいのにもかかわらずなぜ一日が長いのだろう。現代人の一日は短い。心が動かされっぱなしである。心が思い煩っているのであろう。それらの心の動きはすべて欲望とつながっている。欲望が時間を短縮しているのだ。もし人間がいちいち心を動かすようなことがなければ一日は長いはずだ。
参禅生活の一日が長いのは、この間われわれは無欲になれるからだ。完全な無欲とまでいかないまでも、半ば諦めから無欲に近い状態である。日常生活では利害関係がからんでおり、なかなか無欲にはなれない。
もし参禅しなければぼくは一生公衆便所など掃除しなくても済んだだろう。だが参禅生活では作務の時間に便所掃除がある。いちいち利害関係でものを考えていると、とても便所掃除などする気はしない。
坐禅よりむしろ参禅生活の方に得るところがあった。
坐禅が面白くないのは、なんといっても警策だ。いつ警策が入るかと思うと落ち落ちしておれない。中には必要以上に強く打つ雲水もある。打ちどころが悪くぼくは二、三日肩の骨が痛んだこともあった。もし警策がなければ坐禅は最高に愉しいといえるかも知れない。最後まで警策だけはどうしても馴染めなかった。
その点家で坐りたい時間に坐るのが最高である。警策の恐怖もなく安心していつまでも坐ることができた。寺では統一ができなかったが家では何度も深い統一を経験した。大きい寺ほど観光化され、必要以上に厳しくする。人々を導くというより、坐禅を世間に宣伝しているに過ぎない。このような寺に限って写真撮影を禁止する。その点、小さな寺のお坊さんには人格者が多く、真剣に導いてくれる態度があった。
寺にも僧侶にも矛盾を感じたが、勿論自分がいちばん矛盾に満ちていた。この一年にわたる坐禅の記録はいうまでもなくぼく自身の矛盾との闘いだったといってもいい。同じ事物を肯定してみたり否定してみたり。
これでぼくの坐禅が終わったわけではない。これからが本番だと思っている。この一年は雑誌というメディアを通じた参禅報告に過ぎなかった。いかなる人生が未来に待ち構えているのか知らない。不安と期待が半々である。少なくとも坐禅は今後のぼくに大きな影響を与えるだろうということだけは確実に予感できる。もし雑誌に連載という形を取っていなければこんなに続かなかっただろう。この連載を通じてぼくは日本有数の名僧とめぐり会った。何ものとも代えがたい財産である。また連載中実に多くの方々から激励の手紙を貰った。いちいち返事は書けなかったが何度も目を通し、考え方の参考にさせてもらった。若い人達がこんなにまで禅に興味を持ち、また精神的な生き方を求めているということをこの連載を通じて知ることができた。
またぼくの坐禅に最後までつきあったくれたカメラマンK君こと倉橋正、編集者N君こと根本恒夫、両君にありがとうといいたい。
[#改ページ]
あとがき
単行本になるためもあって、最初から通して読んでみた。感想はといえば、われながらよくやったなあ、という一言である。一体なんのためにあんなことをやったのだろうか? と今思えば不思議なほどだ。どうでもいいことにえらく感動したり、腹を立てたりしているのがおかしく思える。参禅を止めて大分日が経つが、つらかったこと、愉しかったこと(あまりなかったようだが……)は、まるで昨日のように鮮やかだ。懐かしい、と思うにはまだ日が浅いのと、身体があのつらさをまだ生々しく記憶しているので、そんな気分にならない。
正直な話、もう一度やりますか、といわれれば少し考えさせてもらいたい、というのが現在の心境か。そういえば去年は厄年だった。そのせいか、あんな苦しい思いをしたのも。あれできっと厄払いになったのかも知れない。きっと人生の折り返し点だったのだろう。そんな時期に参禅できたのも貴重な体験だった。
今は小休止だが、いずれまた参禅をするのかも知れない。何ひとつ禅の知識もなく、いきなり坐禅をしたのがかえってよかったと思っている。坐禅したお蔭で、その後読む禅の書物がスコーン、スコーンと身体に飛び込んでくるのが何より嬉しい。もし坐禅をしないで、禅の世界に書物から入っていたら、観念的になって、どうにもならない「頭」を作りあげてしまっていただろう。
坐禅の効用はわからないが、何かしら「楽になった!」という気がする。「自由になった!」という気分に近いとでもいえばいいのかなあ?
『我が坐禅修行記』なんて大げさだが、ぼくにとっては確かに大げさだったような気もする。大げさではなく自然に、といっても、この自然に、ということが如何に難かしいものかが、痛いほどわかった。周辺に坐禅を批判した者もいたようだが、いいか悪いかやってみなければわからない。考えてみれば、自分の意志というより、運命的なものがそうさせたのかも知れない。仏教は運命論ではなく因果論だそうだが、いずれにしてもなぜ突然坐禅の世界に飛び込んだのだろう。色々理屈をつけてみたが、正直なところ自分でもよくわからない。
よくわからないままに生きているのだから、まあそれもよかろう。明日どうなるのかも分らない。だから期待と不安があって愉しいのだ。生きているうちに色んなことを経験しておいた方がいい。坐禅をしてひとつ悟ってみようと思ったのはどこの誰だったのだろう?
一九七八年二月二十七日
[#地付き]横尾忠則
[#改ページ]
文庫版へのあとがき
あれからもう十年になる。文庫本になることがきまって久し振りで読んでみた。読みながら随分テレた。だって大まじめにやっているんだもの。このまま坊さんになってしまうのじゃないかと思うほどだ。「若かったんだなあ」とは決していえない年齢であったけど。
あれ以来坐禅はやっていない。今のところもそういう予定もない。せっかく一年もやったのだから続けなきゃ意味がない、という声もどこからか聞こえてきそうだが、あれはあれでやっぱり大きな意味があったのだ、という声もまた別のところから聞こえる。結局は無意識が全部知っているのだから必要に応じて役に立っているはずだ。日常の行為そのものが坐禅だというその言葉に従がえば一瞬一瞬、坐禅をやっているということになる。まあ難かしく考えないようにしよう。
『我が坐禅修行記』という題名を『わが坐禅修行記』に変更した。
一九八五年十月一日 わけあって東京衛生病院にて
[#地付き]横尾忠則