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なぜぼくはここにいるのか
横尾忠則 著
目 次
●仕事[#「●仕事」はゴシック体]
死と創作
霊感の源泉
千年王国への旅
物質界と精神界
九州のデザイン
広告と偽善
変容の自覚
捨心無量
色即是空
●批評[#「●批評」はゴシック体]
秘めたる楽園=ポール・デルボー[#「=ポール・デルボー」はゴシック体]
時の凍結=アンリ・ルソー[#「=アンリ・ルソー」はゴシック体]
負のエロス・死への憧憬=竹久夢二[#「=竹久夢二」はゴシック体]
テレパシーが交感した!=ポール・デイビス[#「=ポール・デイビス」はゴシック体]
素朴画家への求道者=ポール・デイビス[#「=ポール・デイビス」はゴシック体]
燈台の灯=田中一光さんとの出合い[#「=田中一光さんとの出合い」はゴシック体]
ピープル=和田誠君と似顔絵[#「=和田誠君と似顔絵」はゴシック体]
晴れた日=篠山紀信の写真[#「=篠山紀信の写真」はゴシック体]
霊界通信=伊坂芳太郎さんの死[#「=伊坂芳太郎さんの死」はゴシック体]
瓢湖の白鳥=羽賀康夫氏の世界[#「=羽賀康夫氏の世界」はゴシック体]
妄想のなかの終末=ビートルズ[#「=ビートルズ」はゴシック体]
わが魂の兄弟=カルロス・サンタナ[#「=カルロス・サンタナ」はゴシック体]
●故郷[#「●故郷」はゴシック体]
人生、輪廻、わがふるさと
ぼくの神様
父はいずこに
ジンタとともにぼくのサーカスは
灘本唯人の中の神戸
東京アレルギー
●家庭[#「●家庭」はゴシック体]
奥様は日本一
家哀歌
豆ごはんは母の味
食べるということ
玄米と菜食
節約論
子供は神様
●旅行[#「●旅行」はゴシック体]
旅の原点
インド紀行
御嶽行
あだし野にて
風景を求めて
参禅記
●思索[#「●思索」はゴシック体]
自然美
遅れている科学
直感力
山陰の空
充実した一日
自分自身を変えよう
宇宙の法則
オカルト・ブーム
〈無〉の瞬間
●宇宙[#「●宇宙」はゴシック体]
宇宙とぼく
神の選民
夢について
死について
自然について
グレゴリオ聖歌
霊魂の歌声
終末観
UFOと救済
円盤に乗りたい!
シャンバラ伝説
ぼくの空飛ぶ円盤物語
●宗教[#「●宗教」はゴシック体]
新たなる「旅」の途上にて
●トリップ[#「●トリップ」はゴシック体]
もう一つの旅
●あとがき[#「●あとがき」はゴシック体]
[#改ページ]
[#1段階大きい文字] 仕事
死と創作
ぼくはぼく自身の死について考える時、ぼくは最も想像的になる。ぼくの生き方や創作の原点というものは全て死の観念から出発しているように思われるからだ。ぼくが最も恐れるのは死そのものではなく、死の観念である。ぼくは一日とて死について考えない日はない。言い方を変えれば死はぼくの生きがいであり、創作を初めとするぼくの全ての行動は死の証を立てているようなものである。
ぼくはぼくの周辺を常に死の色でべったり塗りたくっていなければ生きていくことができないのだ。ぼくが死の観念から超克するためにはぼく自身が死そのものになり変わらなければならないのである。ぼくの最大の欲望はぼくから死の観念を永遠に抹殺してしまうことである。ぼくは生ある限り永遠に不可能と思われる難問に挑戦することになるのだろう。だからぼくの全ての苦しみはこの死の観念から起っているといえよう。
ぼくはこうしたぼくの欲望を最大の罪だと思っている。そしてこの罪がぼくを生かし、創作を続けさせているのである。しかしぼくは一日も早くこの罪から逃れて永遠の平和の中に生きたいと願う。ぼくが神を求めるのもこのような理由からである。ぼくはぼく自身に執着している。この執着がぼくをますます死の観念から逃れ難くする。ぼくがぼく自身から離れた時、ぼくは真の自由と永遠の平和を得ることができるかも知れない。
ぼくが真の自由と永遠の平和を得ない限りぼくの創作は苦の種から生れた罪の産物に過ぎないのである。ぼくは芸術の源泉は肉体を超えた魂の世界に実在しているものであると信じている。だからもう一つの世界と通じることのできる数少ない天才のみが真の芸術家である。芸術はすでにこの宇宙の中に実在しているのである。だからわれわれはこの実在している世界の扉さえ開けばいいわけだ。しかしそれは神の助けがなくては不可能であろう。
万物の存在は全て神の想念の結果である。ぼくを創ったのも神である。ぼくの親も神によって創られた。神は土も火も水も風も空も創られた。またこの地球も創られ、引力も、自転のエネルギーも、そして太陽も、この広大な宇宙さえも創られた。何一つ神の手以外のもので創られたものはない。ぼくが生かされていることを知ったり、創作する時、ぼくはどうしても創造主である神のことを考えないではおられないのである。
しかしぼくがなぜ神の存在を肯定しながらなお一方で死を恐れるのだろう。死を観念としてとらえていると同様、ぼくは神さえも観念として考えているのかも知れない。死が存在すると同様神も存在しているはずだ。ぼくがぼく自身を肉体的存在として知覚している限り、ぼくは死を恐れ、神を信じられないのである。しかしもしぼくが霊的存在としてのぼく自身を知覚すれば、ぼくはその瞬間から、新しい世界が開け、ぼくは神と共にあり、真の自由を得て、神の手になる創作ができるようになるかも知れない。
ぼくはあまりにもぼく自身を愛し過ぎているようだ。この自己愛が我執となり、ぼくの全ての煩悩を生んで、肉体としてのぼく自身を肯定する結果になっているのかも知れない。肉体への関心は、即、死へ結びつき、物欲を生む。愛が自己に向いた時、それは最終的に死と結ばれるとすれば、もし愛が他者に向いた時、愛は一体どのような様相を呈するのだろう。
神が万物を創造された時、その根底に愛が存在していたとすると、愛が自己に向いた時それは破滅し、愛が他に向いた時、愛は神に変り、全てを可能にするのかも知れない。また東洋には「無」の思想があるが、無に帰った時、人は仏の心と一体になるといわれている。愛にしても無にしてもつまり自己放棄という意味ではないだろうか。多くの芸術家は自己執着という自我によって創作活動をしているのが現状である。また芸術家の自我が多くの傑作を残したことにもなる。この世で芸術家という人種ほど自我の強い人種もちょっと見当らないような気がする。ぼくはいつも芸術家が死ぬと、彼等の行く場所は地獄だろうと想像する。
この世に神が存在するとすれば悪魔も存在するかも知れない。神が万物を創造すれば悪魔はそれを破壊するエネルギーを持っているかも知れない。われわれが神の味方を得るか悪魔の手を借りるかは、われわれの魂一つにかかっているのではなかろうか。自我が強ければ悪魔のエネルギーによって自己とそれをとりまく環境を破壊するだろう。ぼくの耳に悪魔が囁く時、ぼくはこの世界の終末を喜々として描くだろう。実際多くの人々が現在悪魔の手によって動かされている。この世界が暴力と性の荒廃によって今、終末へと確実に歩を進めている。死に対する恐怖が人類を終末へと追いやっているのである。
ぼくはぼくの個人的現実と、この歴史的現実によっていい知れぬ終末感を抱かされている。ぼくがぼくの生活の中や創作の上で、人間の存在を超えた未知なる存在に大いなる関心を抱くのも、ぼく自身が神の創造物である宇宙の一部分であると信じるからである。ぼくは本当に神の救いを求めたいのである。ぼく自身が、もはや自分の手ではどうにもならないような気がする。われわれは、神は汝等の中にあると教えられている。しかしぼくの神はぼく自身の粗雑な自我により足の裏で踏みつけられているのである。
ぼくは恐らく目に見えない神を求めて死ぬまで生きる[#「生きる」に傍点]のだろうが、果してこのことに、創作するということは如何なる力や助けになるのだろうか、という疑問が湧いてくる。ぼくにとって創作活動は、単に人生の目的への願望表現に過ぎないのかも知れない。しかし創作も一つの変った形態の瞑想であり、求道の小旅行とでもいえるかも知れない。今までのぼくは人生の最大目的を全て創作に託しており、成功の結果だけを夢想していた。このためには如何なる精神的損失をもいとわなかった。しかしこのことはぼく自身を自ら縛る結果になった。創作をぼくは人生の第一義に置いたのが間違っていた。創作はぼくの人生における想念の結果であればよかったのである。エゴイスティックな創作活動がぼくの人生を支配するのではなく、静かで、落着いた安らかな、しかもでき得る限りの単純な人生設計の必然的な結果が創作になればよかったのである。
現在ぼくの最大の関心事は、「ぼくが何者であるか」ということを知ることである。「ぼくはどこから来て、どこへ行くのだろう」というぼく自身のカルマ(因果)が少しぐらい見えてくれればぼくはそれで充分なのである。またぼく自身の宗教的な作風がぼく自身をいつの人生(来世)かに必ず神の国へ導いてくれることを信じながら現在の仕事を続けて行くことになるのだろう。
霊感の源泉
ぼくにとってインスピレーションの根源は「死」からやってきているように思われます。ぼくのデザインはぼくの生活や物の考え方が反映した結果です。それらは時には現実の姿であったり、願望や夢を描いていたりすることもあります。だから日頃の言動に矛盾した形で、非常に理想的に美化した世界を描いてしまうことさえあり、このような時は自分自身が大変恥しいと同時に、自らの偽善性に悩んでしまいます。最近のぼくの作品の大部分は宗教色の濃いデザインが多いのも、できるだけ日頃の二律背反したような自分のエゴイズムから解放されたいための願望が、このような作品を生んでいるのですが、ぼくがここでますます聖なる世界を素材にすればするほど現実の自己とのギャップを拡げてしまうという皮肉な結果を作ってしまうのです。だから、ぼくと作品とは切っても切れない関係にありますが、ぼく自身の在り方よりもぼくの作品の世界の方によりぼくは憧れます。
こうした宗教色の濃い作品はぼくの目から見れば、本物ではなく偽物の宗教的世界にしか見えず、ぼくは自分がインチキな人間と思えて仕方ありません。デザインという広い世界にこのような個人的な悩みや考えを持込むということは許されないことかも知れませんが、ぼくにとってはデザインはぼく自身でしかないため、どうにもならないのです。だから、ぼくはどのような仕事を依頼されてもすぐ個人的な世界を描いてしまうくせがあります。
ぼくの作品はぼくの心の理想像であると同時に今日の世界が最終的に到達してもらいたい平和な神の世界でもあるのです。ぼくは神を信じています。しかし本心から信じているのかどうかわからない時があります。もしかしたら苦しい時の神頼みかも知れません。もしぼくが本当に心の底から神を信じているのなら、ぼくには多くの悩みや苦しみがないはずです。しかし、色々と悩みや苦しみが多いことは、やはり、どこかで神の存在を疑っているのでしょうか? ぼくが神を信じているのは理屈の上でのことかも知れません。ぼくは宇宙的なものに大変興味を抱き、また魅かれます。そしていつの間にか宇宙への興味は神への関心に移ってしまったのです。われわれが住むこの宇宙には神が関わっているとしか考えられない多くの事実を発見します。しかし今日の科学はただ単に神を認めようとはしないようです。この世界に起る不可思議な超常現象や奇蹟をできるだけ合理的な方法で解釈しようとつとめていますが、人間が真理を把握しない限りこうした人間の存在を超越した何者かの存在の発見は不可能なように思います。
われわれの大部分は真理を知らず、それに背を向けて生きていくため、常に苦悩の人生を送って、自由をこの現実の社会の中に、つまり自分の外側に求めて終始しているようです。真の自由は真理を知った時から得られ、真理は神の意志と繋《つな》がっており、それは自分の内部にしか存在しないことなどを、ぼくは多くの教典から教わりました。そしてこの神の存在をオカルトの世界において理解することができました。
ぼくの作品はイエス・キリストや仏陀や、クリシュナ神の他にUFO(空飛ぶ円盤)やピラミッド、マンダラ、ヨーガ、禅、そしてアトランティスやムー大陸などの失われた古代文明がでてきますが、こうした素材は全てぼくの宇宙感覚の波長上に並ぶ一連のイメージです。またこれらのイメージは、一方で死後の世界とも関わっています。ぼくは生きることを考えると同時に常に死ぬことを考えています。輪廻《りんね》転生を堅く信じているぼくは、前生のことや死後の世界(霊界)、または来世のことまでをひっくるめて、今の人生(今生)のことを考えます。ぼくの中には仏教の因果の法則が非常に根強く生きています。原因があれば必ず結果があるというこの単純な法則こそ、人生の法則であり、運命の法則であると考えるところからぼくは輪廻転生を信じ、また信念の魔術をも理解しています。信念(想念)はこの宇宙の中でも最も強いエネルギーではないかと思っています。ぼくがたった今ここにいること自体がぼくの過去における想念の結果であり、この今という瞬間が、未来を作る原因であると思っています。だから常にこの「たった今」を最も大切にしなければならないと考えます。
以前のぼくの作品は暴力や、性や、政治や、花形スターなどが入混ざったごった煮のデザインで、こうしたポップアートから受ける影響と日本の前近代的な土着感覚の中で無国籍な頽廃を描いていました。このことは西洋の合理的機能主義のきれいごとにおさまった戦後のグラフィック・デザインへの挑戦と嫌悪の証明でもあったと思います。またこのことは反面ぼく自身の知的コンプレックスや、あるいは田舎者のコンプレックスへの居直り的反動でもありました。当時ぼくは各ジャンルの前衛芸術に最も強い関心を抱き、貧しかったせいもあって政治的にも反体制の立場を取り、世の中の古い概念を混乱させることを目的としていました。またそれと同時に、ぼく自身さえ何が何だかわからない立場に置くことにより、自らを混乱させ、狂気の沙汰の中で唯一孤立した安堵感を求めたかったのです。あの当時のぼくの作品はこうした状況から生れた結果で、今はあの当時の自分や作品が何だか他人のもののように見えます。
勿論当時は現在のような宇宙感覚など毛頭興味なく無神論者の最たるものでした。こうしたぼく自身の変容の最も大きな理由のひとつは交通事故に遭って二年近くデザインを休業したことです。実際四ヵ月入院し、自宅療養の四ヵ月の計八ヵ月の間にぼくはいつの間にか仏教書に取囲まれた生活をしていました。肉体の苦痛や創作の禁欲がこうした書物へ導いて行ったのです。しかし、こうした精神主義的な方向はぼくを以前にも増して苦しめ始めました。今までなるべく自分を見つめることを、避けてきただけに、自らの想念観察は自分自身を完全に解剖するようなものだったのです。こうした作業がいつしか、生とは? 死とは? という難題にぶつかり、今では後に引けないほどこうした哲学的課題の虜になっています。
およそぼくの作品は一口にいって死にささえられながら、やっと生の証をたてているようなものです。ぼくにとってインスピレーションの根源は「死」からやってきているように思われます。死は生を考える以上にぼくの中で重要な要素を占めています。もしかするとぼくは他界に真の幸福を願っているのかも知れません。いずれにしてもこの現実の中で幸せを求めることがほとんど不可能なように思われるせいからでしょうか。ぼくが神の世界や他の星の世界や、または霊界や四次元の世界の風景を描きたくなるのも、よほどこの現実にいやけがさしているからかも知れません。しかし、ぼくがあくまで肉体的存在である以上、肉体のままこのような他次元の世界に行くことは不可能なのです。ところがぼくは肉体の他に魂を持っています。もしこの魂の存在を肉体の価値と同じように考えるならば、魂はもっともっと身近なものとして、いずれは、本当の自分は肉体ではなく魂であるということに気づくはずです。
ぼくの描く世界は肉体的世界(物質現象界)ではなく魂の世界、つまり真の自分[#「真の自分」に傍点]の世界です。だからぼくの作品は魂の風景と呼んでもらってもさしつかえないと思います。もしも本当にぼくが魂の世界と行ききできるようになったなら、今のぼくの作品は他次元というような呼び方ではなく現実、それも真の現実と呼ばれる風景になります。ぼくが今後何回ぐらい転生を繰返すかわかりませんが、ぼくの最後の肉体の人生が一日も早く来ることを切望しています。つまり、輪廻の鎖から解放されたいのです。ぼくが肉体を脱捨てて永遠に神の国に入るようなことがあれば、その時こそぼくは真の芸術家になる時だと思っています。なぜなら神の国そのものが実体であり、芸術的存在であるからです。
千年王国への旅
五年程前、交通事故に遭って二年ばかり仕事を休んだことがある。ぼくは元来芸術家というより職人的なタイプの人間だから交通事故のため入院し、仕事が禁じられた時はくやしくって仕方なかった。というのも毎日仕事をしていなければ技術が低下するのではないかという心配があったからだ。とにかく仕事が遊びで、遊びが仕事でもあるように心の底から仕事を愛していたし片時も仕事のことは忘れたこともないくらい仕事が好きでたまらなかった。だから当時は依頼される全ての仕事を引受け、過密化した時間の中で時には超人的なスピードで多量の仕事を消化しなければならなく、こうした仕事が一掃できた時は得意になったものだ。それは精神的なものよりむしろ肉体的なスポーツのような技と勘を必要とし、心と身体は一体になって運動[#「運動」に傍点]の途中でいちいち考えるというようなことはしなかった。走っている途中でなぜ右足の次に左足が出るのだろうと考えたらその場で走れなくなってしまうことを知っていたので、心と身体を分離させるようなことは絶対にしなかった。
ところが病院のベッドに四ヵ月も縛られてしまうと心と身体はシンクロナイズしなくなってしまい、いちいち理屈をつけなければ物事がスムーズに運ばなくなってしまった。行動が起せないため心が肉体を代弁しなければならなかった。心の中だけであれやこれやと考えをめぐらすだけで実際の行動がなく、まるで夢の中で走っているようなものだった。そんな意味でもぼくにとっては何とも非現実的な生活で肉体の苦痛よりむしろ精神の苦痛の方が大きかった。ぼくの心は肉体とのバランスに注意を向けていればよかったはずのものが、いつしか心自身の内部に目を向けなければならないようになってしまった。だからこの日から〈自分とは一体何者なのか?〉という哲学的なテーマにぶつかってしまった。そしてついに底なし沼のようなところに足をつっこんでしまい、右足の次にどちらの足を動かした方がこの沼から脱出できるだろうかと考えなければ肉体が運動を起せない状態になってしまった。
思想イコール肉体の関係は崩れ、両者は全く他人同様の冷酷な関係でしかなくなった。思考と行動の矛盾が次第に暴露され、ついには自らのエゴイズムと闘わなければならない最悪の状況に追いこまれていった。自分自身が自分の敵になろうとは考えもしなかった。
このようなことから本能のおもむくままの欲望がぼくを苦しめ、ますます惨めにしていくのがわかった。自分を苦しめる原因が全て自分であることが次第に火を見るより明らかになってきた。こんな時ぼくは何度か開き直り再び自らの外に出ようとしたが、あせればあせるほど沼の中に足はめり込む一方だった。
藁をも把む気持で救いを求めた仏典は、ますますぼくを深みに突落してしまった。仏典がダメなら聖書、聖書がダメならバガバッド・ギーターと次から次へとあらゆる聖典にかじりついた。俗なるものの存在しか認めなかった者が聖なるものの存在を知った場合、俗なる欲望は聖なるものまで欲しくなってしまったのだ。俗なるものと聖なるものの中間地帯は食人種の股裂きの刑にあっているようなもので死ぬより苦しい。
そこで思切って聖典の教えを実行してみることにした。あるところまでは問題なく進めた。ところが、どうしたことかある地点まで行くと他人の欠点ばかりが目立ってきた。自分は善行を施しているのに相手は自らの欠点に少しも気づかず、こちらに苦痛を与えるだけで一向に魂のレベルアップをする様子もないではないかと他人を批判するだけで、以前にも増してぼくは逆に粗雑な自分自身を退化させていった。
しかし面白いことにはこのようなことも繰返している間に少しずつ他人への関心より自らへの関心に興味が湧き、自分自身が大きく変わりつつあることが実感できるようになった。このことは一種の恍惚感に似た喜びでもあり新しい発見でもあり、真の自由への入口に立ったような気さえした。そして自らへの愛が正しく問直されようとする一瞬でもあった。他人を愛する前に自分を愛することの重要性が単なる自己愛を越えた生命のレベルで考えられるような気がしてきた。仏教にカルマの法則というのがあるが、原因があれば必ず結果があり、それは再び自らに帰ってくるものと説かれているが、ぼくはこの教えを常に潜在意識にたたみこむよう訓練した。人間の幸、不幸もカルマの法則の結果であり、聖書の「求めよさらば与えられん」も想念の結果をいった言葉であり、求める心が強ければ時には奇蹟も起り得るかも知れない。
ぼくが超常現象に興味を持つようになったのもこれらの現象の裏に必ずといっていいほど心の問題が関係しているからである。想念はエネルギーであり、四次元を通過して再び三次元に物体現象を起す。このようなことは神秘でもなんでもない、科学の領域で説明できることだ。もともとアトランティスやムー大陸が存在していた一万二千年前の古代文明の科学は人間自らが宇宙的存在であることを知り肉体や心を制御し、我々が今日解決できない多くの問題をすでに解決していたはずだ。
現代のコマーシャルナイズされた終末思想はヒステリックではあるが何とも楽観的な感じがする。合理主義にささえられた終末意識はいくら合理的な方法で解決を求めても不可能だろう。我々人間は不可知の巨《おお》きな非合理の力によって支配されていることに無関心であるならばそれは大きな罪でもあり、人間の本来の在り方にさえ反しており、もし終末を迎えるようなことにでもなるならそれは自らの責任だろう。
ぼくは自分のささやかな経験の中から宇宙の巨きな意識を感じることができたし、また、それは神と呼んでいい存在だろう。有限が無限の世界に通じ合った時、そこには永遠の平和と自由があると信じる。
ぼくは宗教そのものは嫌いだ。しかし心を科学することにより自分自身と宇宙の関係を知ることができるはずだ。ぼくが今後描続ける世界はこうした四次元的な宇宙意識の世界である。輪廻転生の思想に裏づけられているぼくは至福千年王国の実現を信じ永遠に魂の旅を続ける覚悟でいる。そしてこのアクエリアスの時代に生れたことを心から幸せにさえ思っている。
物質界と精神界
ぼくはデザイナーのくせに自分の生活空間を、気のきいたインテリアで飾りたいという気持を全く持ちあわせていない。ぼくの自宅や仕事場を訪問された方なら誰もその事実を認めているはずだ。どれひとつ気のきいたデザインのない、ごく普通の日常品だけが乱雑とした部屋で、仕事をしたり、食事をしたり、寝たりしているわけである。ちょっとした小奇麗な生活をしている人から見れば、ぼくのところがあまりに非デザイン的なため不思議に思われるかも知れない。いくら乱雑にしていても、統一された趣味で選択された物で空間を作っている場合は、それはそれなりに美しいのだが、ぼくの部屋の品物はそういう意味では特にセンスのない物ばかりの集りで、およそデザイン感覚というものからは遠い存在といえそうだ。
何もこうした空間が気に入っているわけではなく、統一した美しいインテリアで飾った部屋に住むのが理想なのだが、どうも住いに特別の愛着を抱いていないせいか、一向にこのことは実現しない。しかも、買物にほとんど興味がなくなったため、あるもので間に合せようとするから、ますます生活臭の強い生活空間になってしまう。このことはいいことなのか、それとも困ったことなのか自分でもよくわからない。いくらなんでも、もう少し気のきいたインテリアで囲まれた空間で生活しなければ、このままでは無感覚になって創作の方に多大な悪影響をおよぼすのではないかという多少の心配もあり、今度引越した時には、もう少し自分の趣味に合せて、インド風に飾ってみようとか、部屋の雰囲気を宗教的空間として演出してみよう、などのプランはあるのだが、一体いつのことになるのだろう。
人間が肉体という物質的存在である以上、どうしてもこの世界を物質で満し、物質を崇拝しようとするのが人情だろう。ところが人間は単に物的存在だけではなく、同時に心的、霊的の三つにおいて存在しているわけである。だから、たとえ物的エクスタシーに満されても、残る心的、霊的に充分満されなければ人間は不満感を抱く。
物質的なものに精神的なものを求めようとして自分の気に入った品物を買う人がいるが、これも最終的には精神の充足を物質で解決しようとしているだけで、問題解決にはならない。このような苦渋は誰でも大なり小なり経験していることである。だからというわけではないが、ぼくもこの苦々しい経験者の一人であるため、できるかぎり物を買うことだけはさけようとしている。このような考えを持始めると、もはやデザイン的という観念は受けつけなくなってしまうのである。
物質的なものへの価値ではなく精神的なものへの価値に移行する時、ぼくはどうしても宗教的な方向に魅かれ、無形の存在に心を奪われてしまう。だからこうなれば終日、神のことばかり想起していればいいのだろうが、情ないことに人間はどうしてもこの肉体が存在する三次元的物質世界から離れることはできないのである。もし肉体から遊離し四次元アストラル界に行くことができるまでぼくの魂が浄化されれば、もはや肉体への執着から解かれ、ぼくは物質界に用はなくなり、デザインのことなど考えなくてもすむのである。しかし、悟りに達しない限り、せめても物質界と精神界の中道を行くことを理想的目的としなければならないと思っている。このことは釈尊の教えでもあるが、ぼく自身にとってもかなり厳しい難行苦行である。人間は肉体がある以上死を怖れ、こうした恐怖感が物質的欲望に走らせる。ところが、こうした物欲がさらに死の恐怖を増進させることになる。このような人間の弱点をカバーするために生れたのがデザインではなかろうか。
われわれの生活環境をデザインで塗りつぶすことは死をごまかすことでもある。デザインの合理性はあくまで物質世界の肯定であり、心的、霊的なものの否定の上に立っているのではないだろうか。だからぼくは自分のデザイン創作の上において、極力合理性を無視する方法をとっている。たとえそれが結果として合理的であり機能性を果していたとしても、このことはぼくの知ることではない。そういう意味ではもはや世間的な呼名でいうデザインではないかも知れない。なぜなら、ぼくのデザインはぼく自身のためにのみ創作されたものであるから、むしろ絵画の方法に近いかも知れない。デザインによって商品を主張するという考え以前に、ぼくはぼくの個人的考えを主張しようとする。商品の宣伝あるいは包装(装幀)は単なる商品のイメージであり、それ自体が決して商品ではないということになっている。しかしぼくはデザインはイメージという名の商品だと考えている。デザインがイメージという商品である以上、イメージメーカーであるデザイナーがどのような個人的解釈のもとでデザインしようがそれは自由である。
ぼくのデザインはその日その日の日記であると同時に自伝でもある。だからぼくにおけるデザイン空間はぼくの外部にあるのではなくぼくの内部にあるのだ。したがってぼくの日常の物質空間のデザインなどはっきりいってどうでもいいのである。ヨーロッパのアンチークに飾られたしゃれた空間でもよし、とにかく最初にもいったように、仕事ができ、食事ができ、安眠できる静かな空間があれば、貧富を問わず万事OKである。
九州のデザイン
デザイン展の審査をしたのは、今回が二度目で、一回目もやはり九州の熊本だった。熊本の時もそうだったが今回の九州沖縄グラフィックデザイン展へは特に大きな期待を抱いて来た。
ぼくがデザインを始めた十八歳の頃、ぼくにとって最も親しみを感じたのは九州のデザインだった。この頃ぼくは兵庫県の西脇という山間部の町におり、グラフィック・デザインのことをまだ商業美術と呼んでいた。この頃のデザインはほとんどが具象的で、非常に単純でわかりやすいものだった。デザインにまだ思想性が云々される以前で今からみれば大変おおらかな時代だった。
そしてぼくはこんな中で特に観光ポスターが好きだった。このことはいまだに変わらず、現在のぼくの全ての作品はいつも観光ポスターを作るような気持でデザインしているので、画面の中にはたいてい風景を描く。
当時の観光ポスターの傑作は北は北海道、南は九州という具合に日本列島の両端がその主流を握っており、中でも九州の作家は目白押しに観光ポスターの傑作を続出していた。だからぼくが一番最初に名前と作品を憶《おぼ》えたのは九州の作家だった。九州の人達の顔は一目見れば九州人とわかるように、作品も非常に個性的だった。
そして今回熊本に次ぎこの展覧会のための応募作品を審査したのだが、驚いたことに大部分の作品が東京のそれらと区別することができないほどの変容ぶりを呈していた。応募者のほとんどが、十代や二十代の若者が中心であることが、東京と九州の距離を一つにした大きな理由だろうが、応募者の若者を見て九州男児という印象はどこにもなく、どう見ても新宿や原宿を歩いている若者と、その風俗において全く区別がつかなかった。
さらに審査会場の窓から博多の風景を見て驚いたことに、そこには東京そっくりの風景があるではないか。まるで東京都博多区といったってちっともおかしくないくらいだ。だからこの発達した情報化社会の中で、ぼくが九州色を期待したり要求したりするのは無理なことだったのかも知れない。
審査時にもできるだけ九州色の濃い作品を取上げるように努力したのだが、最終的に上位賞を獲得した作品は東京色の強いものとなった。入選あるいは落選の中に九州的な個性を表現した作品もたくさんあったが、テーマと造型がうまくマッチしなかったため、あるいは表現が未熟なためにやむなく入賞入選を逸した作品もあった。
デザインの中に人間性を求めながら、これに成功した作品はどこか粗雑になってしまい、それに反して的確な造型処理した現代的な上手なデザインにはどこか人間性が欠如しているという具合に、この両者が結びつくということはなかなか困難なことのように感じられた。
まあ今回のテーマが『人間性豊かな社会にするために、グラフィック・デザインは何をなしうるか』という難題を与えたことに応募者は振回された感が強く、文章《コピー》とデザインの関係が絵解きになって、思わずふき出しそうなものに出くわしたりもした。
応募用紙には『単なる技法に終始することなく、新しいものへの転機を示す主張と表現を持った作品』と記されているにもかかわらず、入賞作品の一部は、その内容より技法に重点を置いた作品を取上げざるを得ない結果になったものもあった。この展覧会があくまで新人発掘という意味も兼ねているため、充分にテーマが消化しきれていなかったが、技術面において高度な水準に達したものは、ややテーマ性において甘い採点で入賞したのもあった。
今回の人間性云々のテーマはあえてこのように社会的なものを主題に取上げなくても、本来デザイナーに確固たる社会意識が内在していれば、たとえ石ころひとつ描いても、そこにその作家の思想が表現されるはずである。デザインに思想や人間性を求める以前にデザイナーは一人の人間としての成長が要求されなければならない。そしてそこから初めて『グラフィック・デザインは何をなしうるか』というテーマに答えることが可能になってくるのだ。若い人達の作品は確かに現代感覚にあふれた新鮮な要素を持っていたが、訴求力という点では鑑賞者の魂を揺動かすまでには至らなかった。
テーマが物質文明を否定しているにもかかわらず、その造型感覚がどうも物質文明的所産という感じがしてならない。しかしぼくがあの九州の観光ポスターを想う時、九州から次なる巨きな精神文明の胎動を感じとるのだが、今一度虚弱な東京の精神を九州男児の手でことごとく叩直してもらいたいと、大いなる期待を抱いている。
広告と偽善
ぼくはまず朝目覚めると一番に新聞を寝床で見ながら、徐々に意識を回復させていく。新聞の中でぼくが最も興味を持つ欄は、書籍と雑誌の広告欄である。以前は書籍雑誌広告に限らず、他の広告を見るのも楽しみのひとつだったが、最近はこれらのものに関しては全く興味を失ってしまった。
というのもあまりにもこれらの広告が魅力に欠けているからである。俗悪な週刊誌の広告が魅力的だというわけではないが、まだここには不思議なリアリティがあるだけましだ。特に大企業の乙にすましたデザイナーのきれいごとに終ってしまったような広告を見ると背筋が寒くなる。このような広告に限って世界の平和や人類の幸福を謳っているからどうにもおかしくって仕方ない。
この物質文明の頂点でさらに物を売ろうとする側の後ろめたさが、このような偽善的な広告を作る理由になっているのかも知れないが、もしかすると、この後ろめたささえもなく、本気で物を売ることに命を賭けているのかも知れない。
ぼくがこの種の広告より書籍広告に関心があるのは少なくとも精神を商売にしているからである。そりゃ中には金儲け主義者を相手にした本の広告もあるかも知れないが、それはそれなりに嘘はついていない。ことに正月の企業広告に至ってはもう破廉恥としかいいようのないものがある。伸びゆく明日の日本!≠ニかなんとかいって空に鳩が飛んでいたり、日出の海の風景があったり、家族だんらんの笑顔の写真を堂々と掲載し、一方何食わぬ顔をして、公害を撒散らしたり、兵器を製造していたりするわけだ。
ぼくも以前大企業の新聞広告を作るデザイナーの一員として参加した経験もあったが、スポンサーにしても制作スタッフにしても、大衆を彼らより一段と低い位置において見ているところがあったようだ。だから常に大衆の望んでいるものを与えなければならないという優越的な立場から広告を制作していた。だいたいここに大きな誤りがあるのだがこのことに一向気づいていない。
「大衆が何を求めているか」というただこのことから頭が離れないのだ。「大衆が何を求めていない[#「いない」に傍点]か」ということを考えたなら、もう少し異なった広告もできるはずだろう。また、大衆が何を求めようが、そのようなことと無関係に自分が一体何を求めているか、という質問を自分に投げかけてみる広告人が果して何人いるのか。
ぼくの考えは広告作製に際して大衆のことなど考えなくてもいいという意見だ。広告人自身が大衆の一員である以上、たった一人の自分自身のために広告をすればいいと思う。人はエゴイストにできており最も自分を愛しているのだから、この愛している自分のために作った広告が最高に素晴しいはずだ。最初からいきなり大衆、大衆といってみても、それは制作者の傲慢で、結果として偽善的な広告を作る羽目になるだけである。このようないい方はかなり極論かも知れないが、このようにして作るより他に、方法はないのではないか、またこれでいいと思う。
最も愛する自分のために作った広告が最終的に他人のためになり得ることだってある。大衆というのは不特定多数の異なった個性の集団だから、この大衆すべてに一つの心を話しかけようとしてもそれは不可能なことだ。だからその大衆の中のたった一人の人間を選んで、そのたった一人のために広告をすればいいのだ。それは最も愛する自分であり、恋人であり、妻であり、子であり、親であってもいい。とにかく愛ほど強いものは他にない。
大衆を愛せよといっても、この中には悪人も善人もおり、好きな人間もいるかと思うと、嫌な奴もいる。こんなに多くの人間を一様に愛することができるキリストや仏陀のような広告人がいれば別だが、ぼくが知る範囲にはこのような聖人はいない。他人は愛さなくとも自分は愛するという人は、自分のため、また恋人なら愛することができるという人は恋人のために、愛する人のことだけを頭の中に描きながら広告を作ればいい。ただこのことだけが最終的に大衆のための広告になり得るのである。
最近のどんな広告を見ても、そこには心が感じられない。心の感じられない広告を作って大衆という心に訴えようとしているその心に、何か大きな欠点があるのではないか。美術や文学や音楽にわれわれが感動し、それにお金を払うのは作者の心に感動し、心を買っているからである。広告が文化である以上、心が存在しなければならない。もっと独善的な広告があって初めて文化となり得るのである。
変容の自覚
ある週刊誌(週刊読売)の、表紙デザインを始めた。あっという間に二ヵ月が過ぎた。実はこの仕事は、昨年末(1974)に依頼され、今年の新年号からスタートする予定であったが、なかなかアイデアがまとまらず、延び延びになっていた。年末から二十日ばかりインドに旅行し、この間に案を練る予定だったが、帰国後のぼくは完全にインドに呑込まれ、茫然自失という感じで、何ひとつ意欲がわかなくなっていた。
まだ結果を出すのは早急かも知れないが、このインド旅行により、ぼくの内部の何かが変容しはじめたような気がしてならない。だからこのような時期の仕事は大変つらい。変容の自覚があるために、今までの延長の発想がことごとくパターンに思え、過去に行くこともできず、そうかといって未来の予感さえなく、ただ無重力な現在の中で、あえぎ苦しんでいるだけだ。
この週刊誌の仕事を始める時、心に誓ったことがある。それは本塁打か三振バッターになることだった。ところが開けてみると、今年(1975)の開幕ジャイアンツとそっくりで、全く最下位を低迷しているという感じだ。B5という週刊誌のサイズにまだ慣れていないという事もあるが、それより何より、ぼくが従来の即製イメージを完全に否定しきれない弱さが、変にサービス化しているようだ。
それと最近ぼく自身が強く抱いているイメージがあるが、このイメージが逆に想像力の幅を縮小しているのではないかと考える。ここ数年間、ぼくは超自然現象への関心が急に高まり、宗教的世界に接近しつつある自分を知るのだが、このことが時には依頼された仕事の対象物とぶつかりあい、なんとも陳腐な作品になってしまう事さえある。この事はぼくの精神の未熟さをもろに露出した結果として、なんともいたしかねない。
事実、ぼくはこの週刊誌の表紙の事で連日悩んでいる。明快なコンセプトが立たないのだ。失敗を恐れるあまり、ついつい失敗を繰返しているのだろう。このことは週刊誌という巨大なマスプロダクションの、のしかかるような重力のせいも、ぼくに大きく原因しているに違いない。そんな証拠にぼくは毎週編集者に前号の売行を聞いている。売行を気にする時は、ぼくとしてはいつも最低の心理状況で、つまりスランプの時期なのだ。
スランプというのは、必ず定期的に容赦なくやって来る。ぼくの場合、いつも三年単位で訪れてくる。今年がその三年目に当る年だ。この事は昨年から、うすうす予感していたから、今年あたりは仕事を休んで、どこかのお寺にでも、籠るか、原始の旅にでも出るつもりでいたのだが、この事とは裏腹に、ついついこの仕事を引受け、ただいま悪戦苦闘中というところである。
まるで仕事場は居ながらにして、苦行場と化している。これではお寺に入らなくてもいい。ただいつ開眼するともわからぬこの苦行は、本当に投出したくなるほどだ。こんな文章を週刊読売の編集長が読まれると、ぼくに対する信頼度が急に薄れ、不安の材料を提供するだけになり販売部の人達は恐怖を抱かれるかも知れないが、そのうち近い将来、立直る事もあろう。
だいいち、ぼくがいま書いている事は、口外すべき事柄ではなく、ぼくだけが心の中でじいっと耐えていればいい事なのだが、こうして活字にしてしまったほうが、ぼくとしては解毒作用になって、一日も早く回復するのである。だから編集部や販売部の人達は、こんなぼくの文章に影響を受けず、自らの判断や評価にたよってもらいたい。「作者はあんなことをいっているが、売上が、こんなに伸びているということは、きっと表紙が成功している証拠だ」とでも考えていただき、売上の悪い週は、内容のせいにしていただきたい。
従来の週刊誌の表紙を見れば、いいとか悪いとかいう判断を越えたところで存在しているので、たとえぼくが失敗作を発表したとしても、「今週の内容はいいが、表紙が悪いから買うのはよそう」という人は、恐らくあまりいないと思う。まあこんなことから離れて、ぼくが一番嬉しく思うのは、週刊読売が、ぼくに表紙の仕事を依頼してくれたことだ。しかも、「好きなように自由にやってください」とまでいわれているのである。そこでぼくは、本当になんとかしなければならないのだ。今ぼくは、ぼく自身に大きな期待をかけている。何かが、ぼく自身の中で胎動をし始めたのだ。
捨心無量
最近、ものを創るということはつくづく大変なことであると同時に苦痛な作業だなア、と考込むようになった。
今さら創作が大変で苦痛なことは当り前なことだが、ぼくがいわんとすることはちょっと違う。つまり創作の純粋行為における苦悩ではなく、創作の動機についてである。
この間友人の詩人である高橋睦郎君と道を歩きながら、ぼくは日頃気になっている創作の動機について怖る怖る聞いてみた。
「君の場合、物を創る動機に他人を意識する競争心などあるかい? 例えば、ライバルへのジェラシーや、または憎悪、それから権威主義への指向など……」
すると、高橋君はためらいもなく即座に、
「全くそれだけのためにやっているようなものだよ! イヤンなっちゃうよ」
という返事が返ってきた。
ぼくは一瞬はっとした解放感に襲われた。高橋君とぼくはジャンルが異なるせいか、それとも親しい間柄のせいか、ぼくには安心して彼の本心をうちあけてくれた。このようなことは創作者同士では絶対に口にしないで、お互の腹をさぐり合い、かえって競争心を露骨に出してしまうものだ。
そこで高橋君にぼくはもうひとつ尋ねてみた。
「競争心や権威指向がエネルギーになったからいい作品ができるかどうかということは少し疑問に思うのだが、もしそのようなものがなくっても、創作の純粋行為だけでやった方が、よけいな苦しみもなくかえって純度の高いものができるのではないか……」
高橋君は、その通りだと思う、と答えた。するとわれわれは全く無用な想念のために苦痛を味わっているのであって、己自身の中にライバルがいることを忘れていることに気づく。こんな粗雑なエゴイズムから生れてくる作品はたとえ評価されたとしても、それは人間本来の生き方を逸脱したところの産物のため、おそらく低いバイブレーションを持った、自然の法則を無視した作品に違いないのではなかろうか。
子供の頃、好きで描いていた絵がいつの間にかお金になるようになったが、この瞬間からぼくは我欲のために創作を始めだしたような気がする。ストレスが蓄積されて病気になることがあるが、これ全て我欲が原因しているようだ。仏教に捨無量心という言葉があるが、世の中の悩みや苦しみはみなこの捨てる心がないところから起ると説かれている。人間いずれ近い将来死ぬんだと思えば捨てることなどなんでもないことだが、誰しも自分の死の現実感がないため今日も我欲に生き、自らの苦悩を他人や社会のせいにしているようだ。
ぼくが今最も強い関心を抱いていることは、自分自身を徹底的に変えてしまいたいということだ。つまり運命の軌道を変えてしまいたいのである。
色即是空
少し前までのぼくの美の観念といえば、自然の産物より人工的なものの中にこそ本当の美があると考えていました。だから林立する大都会のビルディングや盛場の、どぎつい原色のネオンや派手な流行のファッションや化粧等に、ぼくはいつも今日的な美を感じていたのです。こうした今日的な美は、どこか頽廃と快楽の匂いを漂わせていて、とても淋しくて悲しくて、哀れな感じでいいなあと思っていたのです。
つまりこうした負の美というか、ネガティヴな美、もう少し言い方を替えると人間の欲望が作った美とでもいうのでしょうか。秩序とか調和を乱した状態を、ぼくは本気で美しいと考えていたのです。だから移りゆく春夏秋冬の自然を美しいという人たちがいても、なかなか理解できなかったのです。ところがいつの間にか、年を取始めたせいもあるのか、最近では自然ほど美しいものはない、と思うようになりました。
このように考えるようになった原因は色々あると思いますが、その中でも一番大きな理由は、自分自身をもっともっと深く知りたいと思い始めてからです。ぼくには多くの悩みや苦しみがありますが、こうしたものの大部分がぼく自身のエゴイスティックな欲望から生じたものばかりだったのです。あれが欲しい、これが欲しいという欲望にまで発展してしまったのです。
こうして生れた死の恐怖が、いつの間にか人工的な物質を崇拝する考えになり、物質こそこの世界で最も尊く、美しいものであるという考えにまでなってしまったのです。だから無形の神や仏などは毛頭信じられなかったのです。目に見え、手で触れる五感のみに頼って、人間の存在を超越したような大きな存在などは非現実的なものとして、考えたくなかったのです。
しかし、自分自身の想念観察を始めるようになってからというものは、夜空に光輝する星を眺めながら、宇宙のこと、地球のこと、この太陽系のこと、人類の発生のこと、人間の小さな細胞のことなど、ミクロからマクロに至るこの大宇宙と人間の関係について、さまざまなことを考えるようになりました。
このようなことを考始めると、自分の身体やその機能がとても不思議に思えて仕方なくなり、小さな虫けらまでが生きていることがとても面白く見え始めたのです。勿論、草や木までが今までとまったく違う姿でぼくの目に映るようになり、こうした自然を見ていると、とても楽しくなって何とも平和な気分になってくるのです。もし花や虫に語りかければ、相手が答えてくれるのではないかとさえ思えるような時があります。
そして耳を澄ませば、地球が自転している音が聞えるのではないかとさえ思われることがあります。ぼくはしばしばヨーガの方法による瞑想をしますが、心臓に心を集中すると心臓の鼓動が聞えます。普段はまったく聞えないこうした自分の内部の音が聞えるということに、ぼくは最初大変驚きました。自分を知りたいという気持が、いつの間にか今まで見失っていたような小さな事柄に、目や耳が敏感になろうとしているのかも知れません。
われわれは、物質社会の中で生活している以上、これらを否定して生きていくことは今や非常に困難になっています。物質文明は自然を否定することによって存在しているようなものです。しかし、人間自身が自然の産物であり、一部です。人間を創造したのは人間でなく、この大宇宙を創造した創造主の作品[#「作品」に傍点]です。だからわれわれは、創造主の芸術作品の一部なのです。われわれが美しいものを創るためには、この創造主の意識に焦点を合せて創作するのが最も正しいあり方のような気がします。ところが、いつの間にか創造主の意志に反した方法で美を創ろうとしているのではないでしょうか。
顔にどぎつい化粧をすることも、ジェット機が空を飛ぶのもすべて自然の流れに逆らった人間のエゴが生んだものです。化粧もそうですが病気もそうです。人間の内面にそのすべての原因があるのではないでしょうか。美しくなるためには、その人の心が美しくなれば、それは自然に外に現れるはずです。人間が自然の一部であるということを強く認識することが、真の美を創造する唯一の方法ではないかと思います。
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秘めたる楽園=ポール・デルボー[#「=ポール・デルボー」はゴシック体]
ポール・デルボーの絵の前に立ってジーッと画面を見ていると、いつの間にかこれらの絵がまるで自分の描いた絵のような気になってきた。というのは、これらの絵の世界はかつてぼくが遠い昔、あるいはたった今、いやもしかすると近い未来に経験するかも知れない予感として、すでにぼく自身のものになってしまっているからだ。だからこれらの作品の中にはポール・デルボーが存在しているのではなく、ぼく自身が存在しており、この世界はすでにぼくの所有物になってしまっている。潜在意識の世界でデルボーとぼくは共通しており、それは全ての鑑賞者とも共通しているはずである。
デルボーの絵は、ぼく自身の魂の記憶であり、何回ともなく繰返してきた肉体の生死の中で、常に永遠の存在であったような気がする。アダムとイブの時代から、古代文明の時代を経て、現代そして来世へと無限に繰返す輪廻《りんね》転生の記憶でもある。
時間の凍結を感じさせるデルボーの絵は、また無限の時間の流れをも表現しており、われわれが知覚できる物理的時間の流れではないもうひとつの時間の中にあるのだ。こうした心理的な夢の世界を形成する内的時間は無限であり、われわれはこの時間の中でこそ真の自由を得ることが可能である。日頃この時間帯は意識されないが、物理的時間と隣合せに存在するこの時間こそ、われわれが支配されている時間ではないだろうか。もしわれわれが、この時間を逆に自由自在に制御することができれば、どんなに素晴しいことだろう。過去に帰ることもできるだろうし、未来に旅することもでき、あるいは他人の心さえ読むこともいとも簡単にできるかも知れない。
ぼくは数年前から夢日記をつけている。このことはぼくにとって秘めたる楽園への旅なのである。肉体から解放され、自由自在に飛翔《ひしよう》できる、この王国はぼくだけが知る惑星であり、魂のトリップは、ぼくに昼と夜の二つの人生を与えてくれる。
デルボーの世界もぼくにとってはぼく自身の夢の王国であり、いとも簡単に画面の中に飛込んで行き、そして画面のすみずみまで歩回り、子供のように無邪気に遊回ることができる。昼と夜、光と影が同居したこの不思議なライティングの楽園には、生と死、此岸と彼岸のバルド(生死の中間)地帯が存在し、これはまさにぼく自身の夢の世界でもある。
幼児期におけるセクシュアルな体験は、デルボーの裸像の数々の下腹部のヘアで時空を超えて今現実化される。この豊饒《ほうじよう》な茂みは、単に性的なものを超えて、ぼくに永遠の安らぎさえ与えてくれる。女性のヘアがこんなに精神的な安らぎを演じてくれるとは、デルボーの数々のヘアに囲まれて初めて経験した実感である。こんな風に考えるとデルボーの女性のヘアは、デルボーの絵の世界と、いやぼく自身の夢の世界とは決して無縁ではないようだ。
また建築的パースペクティブな空間に配置された裸像群は、まるで蝋《ろう》人形館の舞台を彷彿《ほうふつ》させるように演劇的であり、何か胸をわくわくさせるような興奮と感動を呼起してくれる。遠くのものから手前のものまですべての事物にピントを合せて細密描写されているため、画面に描かれているすべてのものが主役を演じる。だからぼくは女性のヘアとも語ることができるし、細長い影を投げている路上の小石とも、遠くの丘の上にある神殿の柱の模様とも、あるいは水平線の彼方とも語ることができる。このことは空間においても、物理的なものではなくあくまで心理的なものになっている。
デルボーの時間と空間は地球の時間と空間ではなく宇宙間における時間と空間の内に存在しているため、われわれの知らざる未知の潜在意識の流れと調和するのだろう。こうした心理的な宇宙の流れ、波動にチャンネルを合せた時、われわれはデルボーの世界と一体になり、そしてデルボーの絵をわがものにすることが可能なのだ。
時の凍結=アンリ・ルソー[#「=アンリ・ルソー」はゴシック体]
ぼくは時々こんなことを考える。もしぼくが年老いたら、アンリ・ルソーのような絵を描こうと。ぼくは現在あまりにも日常的な繁雑さに追われ過ぎている。こんな生活から一日も早く脱して、ルソーのように美しい自然や想い出の人々を絵にしたいと考えている。一切の社会的な習慣や束縛から離れ、独り自分自身の内部への旅だけをじっくりと楽しむことができたならどんなに幸せなことだろう。その頃には子供もわれわれから独立し、経済的な面倒もみることもなく、教育することも管理することもなく、お互に親子の関係から自由になっているかも知れない。だからぼくはルソーのような油絵を趣味で描きたいのだ。社会のためでも、コレクターのためでもない、自分自身のために、そうだ、ぼく自身の信仰のために。
そしてそれは神の愛のために。
しかし、果してこんな精神的な余裕がぼくの人生にたった一日でも訪れることが本当にあるのだろうか。ぼくは何となくぼくの未来が予知できるような気がするのだが、それによると、ぼくの一生は何かにかりたてられながらどんどん追いつめられていくようなそんな姿が目に浮ぶ。真の安息が欲しいというこの贅沢な欲望を追続けながら、ぼくはますます自我の虜《とりこ》になってゆくのだろうか。こんな予感がぼくをますますルソーに憧憬させるのかも知れない。ぼくがルソーの絵が好きで、好きでたまらないというのではなく、こんな絵が描けるルソーの魂に魅かれるのだ。
ぼくはルソーがどのような人物でどのような一生を送ったのかは何も知らないのでルソーの内面までは理解できない。こんな不思議な絵が描けるルソーは素朴で純粋な子供のような心を持っている人ではなかろうかと想像するのだが、どうだったんだろう。ルソーの絵は子供の直感力とテレパシックなパワーによって、ものの見事に対象物を自分の内部に転位させ、そこに無限の時間と空間の四次元的世界を展開させ、過去、現在、未来をひとつの画面内に同居させ、われわれをいつまでもトリップさせてくれるのだ。
ルソーが真の素朴画家であるか、どうかという議論はしばしば耳にするが、そのようなことはぼくにはどうだっていい。ルソーの絵を見ることによって、ぼくのすでに失われた子供時代の素朴な感覚が引出され、一瞬でも世俗的な時間からこのルソーの素朴な王国に幽体離脱してくれればそれだけでしめたものだ。
ルソーの絵を見ているとぼくはいつもこのような風景を実際に見たいと思う。しかし、仮にもしぼくがこのモデルになった風景の中に佇《たたず》んだとしても、ぼくは恐らくルソーの絵からくる狂わしいような恍惚とした観念を体験することは不可能だと思われる。ルソーは現実の風景を描きながら、われわれには幻の風景を見せているのだろうか。もしそうだとすればなぜぼくは幻の方にこんなにも恋慕しなければならないのか。世の中には、眼には素晴しいと感じる美しい絵は沢山あるが、ルソーのようなタイプの絵(他にも沢山あるが)は、肉眼にではなく、心の眼に訴える種類のものでルソーとぼくは互いの潜在意識で共通の意識を共存してしまうようだ。この共通の意識こそ万物全てに存在する宇宙意識波動である。
ルソーの絵はシュールレアリズムではないが、画面から伝わる不思議な空気感はシュールレアリズムに共通した潜在意識の空間を有し、われわれを神秘的な奇妙な世界に誘惑する。同じシュールレアリズムのサルバドール・ダリのように奇怪な事物こそ登場していないが、それだけにルソーの絵のごく日常的な事物の影にこそ何か得体の知れない心のお化けが隠れ棲んでいるのではないかと思わせる。それ故にかえってわれわれをイマージュの暗闇に引きずり込んでしまう。この一見のどかな田園や河岸のある風景の背後に夜の世界がひっそりと隠れているのかも知れない。この夜の世界こそわれわれの未知の現実であり、魂の棲処《すみか》であり、そして真の世界なのだ。真の世界はいつの場合でも決して表にはその姿を現さず、ただひっそりと物陰に隠れたまま、そして昼間の世界を操っているのだ。
ぼくがたとえルソーのような絵を描きたいと望んでみても、ぼくにルソーと同じようなカルマが働いていない限りそれは望めないことかも知れない。これは前世からの仕組でどうすることもできない。しかし、ぼくがどこかルソーに魅かれるところがあるということは、もしかすると目に見えない魂の糸で繋《つな》がれているのかも知れないぞ、とかんぐりたくもなり運命に逆らって至上なる神の自由意志によって、運命の転換を計ってやろうかとさえ考えてしまうのだが……。
どうしたことかぼくは悲哀のカルマに泣かされているような気がしてならない。だからこんな悪魔のカルマを断切り、呑気にオプティミズムな生き方をしたいと望むのだが、ルソーは果してぼくを救ってくれるのだろうか。まあ気休めにでもなってくれればいい、とそんな風に軽く考えた方がいいのかも知れない。
ぼくはここまで書いたところで少しルソー感が変って来たのではないかとぼく自身を疑いたくなってきた。するとルソーはもしかするとぼくと同じように悲哀なカルマの人なのかも知れないということだ。どうやらぼくがルソーに魅かれる本当の気持はこの悲哀な感じが、ルソーの絵の中にあり、それが二人の波長を結んでいるのではなかろうかということに気づきはじめたからだ。
ぼくがさっきいった魂の深い部分でルソーと共存するなら、これはやはり悲哀の部分でかも知れないということになってきた。そうすると、ぼくがルソーのような心の人物になるということはちょっと危険なことだ。ぼくはもっとぼくと反対の人物を求めなければならないのだ。ぼくが魅かれる作品や人物はどこか悲哀に満ちているということになりそうだ。ぼくが欲しいのは安息だったのだ。するとルソーはぼくにとってやはり幻の安息だったのだろうか。
こんな考えが頭をもたげ始めると、ルソーの人物画の表情がなんと恐しく見えてくるではないか。中でも特に子供の表情にその恐しい情念を見てしまうのだ。子供でありながら子供ではない、自らの人生を知りつくしたかのような表情には老人の憎悪さえ浮彫りにされているようだ。それはあるいはルソー自らが子供の肉体を借りてその中に入込んでしまったのかも知れない。大人が子供の心になるということはもしかするとこのような形を借りない限りそれは不可能なのかも知れない。子供の肉体に大人の心が入込むことによって、せめて仮そめの純真を得たかった……あるいはこれより他に方法は見つからなかったのかも知れない。
今生に於いてわれわれは再び子供になり得るということは全く不可能なことなのだ。死という関門をくぐり抜けて再び来世に転生しない限りそれは全く不可能なのだ。人生の終りと共にわれわれは子供に帰ろうとする。このことは死の心構えと同時に再生の準備を始めているのかも知れない。するとルソーは人間や自然を描きながらもそこに常に死との対決があったのだろうか。ぼくはこのエッセイを書く以前にもっとルソーの文献を調べてみる必要があったのかも知れない。というのは、ぼくはルソーについておよそ誤った見方をしているのではないかという不安が起ってきたからだ。しかし鑑賞者は往々にして自分勝手な解釈をするものだから、ぼくの身勝手な見解を許されたい。
人は年と共に幼き頃を回想し、人生の未来を過去に求めたがる。ルソーの絵もそういった意味で古い写真帳を繰っているようなところがあり、ぼく自身の過去の古い記憶と結びつきながら、それは不思議と未来への姿と変化していく。われわれは現実に生きながら同時に過去と未来にも生きている、そんな体験がルソーの絵を見ているとより強く知覚される。そういった意味でもルソーはわれわれが夜見る夢にどこか似ている。時間の動きが停止したような画面には過去、現在、未来がコラージュされ、不思議な内面世界を創上げている。夢は一瞬の間に多彩なヴィジョンを経験するらしいが、なぜこのような器用なことができるのかぼくはよく知らないが、ルソーは夢の時間とは逆に、時間の流れを永遠にある一点に閉込め、そして凍結させてしまう。空を飛ぶ飛行機は空の中に塗込められ身動きひとつできない。また歩を運ぶ人物は股を開いたまま前に進むことも後にもどることもできない。忙しく動廻る夢の世界と微動だにしないルソーの世界がどこか意識の世界で共通しているのはなぜだろう。
われわれは常に物理的時間の流れの中に生きている。そしてもうひとつ全く別の時間の流れが確かに存在することも知っている。この後者の時間はわれわれの前世から脈々と流れる不変の時間であり、死後も存在する時間である。ルソーはこの時間内に起る様々なヴィジョンをこの世にもたらす画家であり、そういう意味でも真の芸術家である。
負のエロス・死への憧憬=竹久夢二[#「=竹久夢二」はゴシック体]
どういうわけかぼくはよく竹久夢二のことについて文章を頼まれる。以前、あまりにもよく頼まれるので、「ぼくはもうこれ以上絶対夢二のことは書きたくない」と宣言? したくらいだ。ところが、またこうして頼まれてみると、やはりぼくと夢二は何か不思議な縁で結ばれているのではないかと思い、またまた引受けてしまった。
何度書いても、ぼくは夢二をこれでもか、これでもかと拒絶してしまう。上手だと思うが、とても好きになれない。夢二の絵が嫌いなのではなく、夢二自身が好きになれないのかも知れない。つまり、あんな[#「あんな」に傍点]女を描く作者が嫌いなのだ。言葉をかえれば夢二の女性観が好きになれないのである。
しかし、ぼくが初めて夢二の絵を見た時、ぼくの体中に一瞬電気が走ったほど、痺れた記憶がある。もういつのことか忘れてしまったが、恐らく、童貞の頃の話だったろう。
夢二展の会場に展示されていた、夢二自身が撮った、女のポーズが彼の絵の女のポーズそっくりに演出した写真を見てぼくはいよいよ夢二という人が嫌いになってしまった。そして聞くところによると夢二の女になった人はみんな指をつめていたそうであるが、もうこのような話にいたっては、夢二という文字を見ただけで嘔吐する。本人がつけたのか、親がつけたのか知らないが「夢二」という名前さえ嫌いだ。
何ひとつとっても女々しく、女の同性愛的な感じがする。頽廃もここまでくれば本物かも知れないが、ぼくには関係ない。
しかし、告白すると、もし夢二のような女が現実に現れたら、恐らくこの女の魔性に取付かれ、死を共にしなければならなくなるかも知れない。
夢二の死は、夢二自らの絵の女に導かれたものと思う。だから夢二の女は幽霊のように生気がなく、まるで死後の世界からやってきたようで怖がりのぼくなぞ背筋が冷たくなる。だから死を恐怖するぼくは、必死になって夢二を拒否しているのかも知れない。
夢二がグラフィック・デザイナーとイラストレーターの走りであるということの関心事より以前に、ぼくは夢二の霊的なものを拒否してしまうので、どうも客観的に夢二を評価することができない。
うっかりすると毎日が死の不安で過ぎているというのに、これ以上夢二に関わると死を呼ぶだけである。夢二の好きな人は、よほど死にたい人か、楽観的な強靭な精神の持主に違いないと思う。
夢二は彼の時代のスーパースターだったらしいが、夢二のどこに、そんな社会性があったのだろう。むしろ夢二の絵は非常に個人的な情緒の世界のものだけに、没社会性のはずである。このような個人的な世界の表現に人気があったこの時代は一体どのような時代だったのだろう。そしてまた今回の夢二展が連日満員であったことと、てらしあわせて考えてみると、ぼくは何だかあまりいい予感がしないのである。
夢二のロマネスクは最終的に死への憧憬である。現代のような終末的ムードの中にあって、まるで同病相哀れむという感がしないでもない夢二展の評判が気になるのだ。
夢二の女には確かにある種のエロティシズムを感じる。しかしそれは死にささえられたエロティシズムで、あまりにも文学的過ぎる。
死とエロティシズムはしばしば文学のテーマになって非常に高級なものらしい。ところが現代のように死の不安にささえられた時代に、死がどうしてエロティシズムなのかぼくにはわからない。まあ、ぼくも以前は死をエロス的なアングルから見つめていた時があったが、あの頃は世の中もぼくの肉体も精神も、健康だった。だから呑気に死をエロス的に見ることができたのかも知れない。
ぼくにとってエロスは死よりむしろ生でなければならないような気がする。だからフィージー諸島の土人のあのギラギラした太陽の下のエネルギッシュな踊りに、ぼくは自然とエロティックなものを感じるのだ。
ぼくは夢二を必死に拒否するのも、ぼく自身の生きる証にしたいからである。うっかりすると夢二は死神となって憑依《ひようい》しかねない。このぐらい拒否すれば向うも寄りつかないだろう。
夢二は一歩一歩と自分の絵の女に導かれながら死に近づいていった。ものを創る人間は、自作に導かれるところがあるような気がする。創作の思念は必ず近い将来、形となって現実化するものである。この宇宙の法則は正しい。
テレパシーが交感した!=ポール・デイビス[#「=ポール・デイビス」はゴシック体]
昨年の暮、三年ぶりにポール・デイビスに逢った。彼があるデザイン学校の招聘で来日した時だった。三年前ニューヨークで逢った時の彼は今よりもずっと髪も長く、そして髭を伸ばしていたので、今回のすっきりした彼を見てぼくは少々とまどった。またポールもぼくの短くなった髪や失くなってしまった髭を見て、やはりとまどった表情を浮べた。
ぼくが最初ポールに逢ったのは今から九年前で、その後三年前まではほとんど毎年逢っていた。ところが三年前サッグハーバーの彼の家で逢った時、彼は長髪で髭を伸ばし、ヒッピーのような格好をしていた。彼が変わったのかアメリカが変ったのか知らないが、彼の姿や、彼がマンハッタンを去って田舎の港町に移った新しい生活がぼくにはとても新鮮に映り、ぼくは内心うらやましく思った。
彼はこの時マクガーバンの選挙ポスターを作っており、政治に大変興味を抱いている様子だった。当時のぼくはといえば、すでに政治への関心は薄れており、空飛ぶ円盤にとりつかれたばかりの時だったので、円盤以外の話にはまったく興味が持てず、だから彼の政治の話にもどうしても深くのっていくことができなかった。ポールの現実的なものへの指向と、ぼくの非現実的なものへの傾斜にお互の友情が傷つかなければいいがとぼくは多少危惧しながらニューヨークを去った。
そしてこの時以来ぼくはニューヨークに行かなくなってしまった。だからその後彼がどのように変っていったのかはさっぱりつかめなかった。また彼を知ることのできる雑誌のイラストレーションもほとんど見なくなってしまい、その後彼は一体どうしているのだろうと少々気にしていた。
ところが昨年と今年の春の二度の来日で、久しく多くを話すことができ、彼とぼくが非常に近い考え方をしはじめようとしていることがわかり、われわれ二人は大いに感動し、彼の言葉で表現すれば、二人の間にはテレパシーが通じ合っているということだった。
彼は昨年来ほとんどのコマーシャルの仕事をやめ、今後アーチストとしての活動を始める意志を固め、すでに実現し始めている。そして現在では政治に対する関心は薄れ、社会的なものから個人的なものへと関心の対象が移ってきたという。家族や友人、そしてごく身近な自然や環境に興味があるという。このような個人的領域への関心が、イラストレーターからアーチストへの変貌を余儀なくさせたのではないだろうか。
彼の作品を最初に見た感動は、タブローの精神がイラストレーションの中にうまく合体しているということだった。また別の言い方をすれば、タブローの成立っている秘密をイラストレーションの中にばらばらに解体して暴いたともいえるのではないだろうか。彼が最も大きな影響を受けたと思われるものにアメリカのナイーブアートやアンリ・ルソー、そして一九二〇〜三〇年代と五〇年代のイラストレーションの様式、またイタリア・ルネッサンスやあるいはアメリカのコミック・ストリップなどがあるが、彼はそれらの多様な表現や技術をひとつの坩堝《るつぼ》の中で消化し、ここにまったくオリジナルなポール・デイビス・スタイルを作り上げた。こうしたパロディックな表現はおのずから、社会諷刺的な様相を呈し、時間の羅列を混乱させ、われわれを奇妙な現実に投出してしまう。この奇妙な現実は過去、現在、未来が相克しながら、また同時に共有しているという、まるで夢のような世界である。
彼がコマーシャルなイラストレーターからアーチストに転向することにより、彼はより自由になり、計り知れない過去の眠れる記憶の中から、われわれをますます奇妙な彼の夢の王国に誘《いざ》なってくれることだろう。現に彼自身のオクラホマ時代の子供の頃の記憶を絵にしたいといっているように、ますます彼はいま個人的世界に深く根ざしはじめた。今までの彼はイラストレーターとして、あるいはジャーナリスティックな感覚で外部世界を表してきた。しかし、外部を描写することが必ずしも外部を表現し得ないことに気づいたのか、彼がより内面世界を掘下げ、自己の何たるかを自身に問いかける時、そこには外部世界のより明確に浮彫りされたリアリティがさらけ出されるはずだ。
ポールのタブローへの転向はぼくに二度目の打撃を与えた。しかしこのパンチはぼく自身がタブローへ傾斜しはじめていることへの大きな自信に繋がっている。彼に初めて逢った一九六七年に二人で共作の本を出すことを決めて、その後数回にわたって打合せながら、ついに十年近くなったが、今回はいよいよ機が熟し、具体的な制作にかかろうとしている。ぼくはこのよき友人を持ったことを神に感謝している。
ぼくがイラストレーターを志望したのも、ポールのテレパシックな影響だったし、今またタブローを始めようとしているのもポールのテレパシーによるものかも知れない。
この前ある雑誌で彼と対談した時、彼は、「この世の中で一番幸せな人間というのは、心の穏やかな人ではないでしょうか、私はそういう人間ではないのですが、そうなりたいと思う……」といった。この言葉はぼくにとって最も印象的であった。この言葉の背景には何か宗教的な救いを求めようとする彼の姿が、ぼく自身とオーバーラップしているのを熱く感じた。また宗教の話をした時、「私は如何なる宗教活動も信じない、ただ一杯の水をおいしくいただくことが自分の宗教だ」といった。まさにこの通りであって、神は自分の中にあり、自分自身が自分の教祖として自分を導けばいいわけである。だから彼の宗教は個人的なものでなければならないという考えは正しい。一杯の水をおいしくいただける≠ニいうこの心境そのものが宗教的境地だと思う。
ポール・デイビスとの出逢いは、前世からのカルマ(業)によるものだとぼくは今では堅く信じている。
素朴画家への求道者=ポール・デイビス[#「=ポール・デイビス」はゴシック体]
ポール・デイビスがコマーシャル・アートのイラストレーターをやめてタブローのアーチストになりたいと語った時、ぼくは少からず驚いたが、しかし考えてみれば彼の今までの活躍や制作過程を忠実に眺めるならば、そこには何ら不思議なこともなく、むしろ彼が到達すべく最も自然なあり方が非常に明確に表れていると思う。
そして今度の版画の制作ということになったわけだが、彼の初めてのリトグラフにもかかわらず、何ら技術的な困難も見せず、見事に版画家としてスタートを切った。もともと彼は印刷を前提としたイラストレーションやデザインの経験が豊富なため、改って版画を特別視したところもなく、この作品を見る人は彼が初めて版画に挑戦した処女作とは決して想像できないほどの技術を駆使した見事な出来栄えである。
版画に関していえばポールよりぼくの方が少し先輩であるが、ぼくの場合はシルクスクリーンという形式だから、デザイン的な延長での方法がとれるので非常にたやすいのだが、彼はいきなりリトグラフという本格的な形式で処女作を完成したのだから全く驚いてしまった。
作品を見ると、未知の体験にもかかわらず、伸び伸びした描法で仕上げている。誰でも最初は非常に緊張して堅くなるものだが、そういった堅さはどこにも感じられないのには感心した。われわれはリトグラフといえば何か緊張して仲々手をつけるまで相当の覚悟と決心がいるのだが、彼にはそうした気負いが全くないようだ。彼がプリミティブな表現方法を取るのも、そうした気負いがないからかも知れない。
ぼくが初めてポールの作品に触れた時、彼がアメリカのプリミティブ・アートの様式を借りて今日の世界を描いていたことに驚いた。プリミティブ・アートといえば非常に個人的な世界に終始したどちらかといえば非社会的な世界を描いたものである。ところが彼はこの非社会的な衣を着て、社会的な場でイデオロギーを叫んだのだから、われわれはこのちぐはぐな彼の方法にびっくりしてしまった。もともと政治的関心が強かった彼は、この方法で一挙にアメリカのエディトリアル・イラストレーションの方向を変えてしまった。こうした彼の作品はユーモラスに見えたが、その中には鋭い諷刺が込められ、何より強い発言力を所有していた。
そんなポールが、突然住みなれたマンハッタンからサッグハーバーという海の近くの田舎町に引越してしまった。そしてその頃から彼の考えは徐々に変わり、自然を愛し、家族や友人を愛するようになった。こうした生活環境が彼をイラストレーターからアーチストへ変身させていったようである。
そして作品のモチーフも社会的なものから個人的なものへとその視点は移されて来た。プリミティブ・アートはある意味でアーチストが最終的に落着く安住の地でもある。如何にシンプルになり、そしてプリミティブになるかということは、人間がこの世に生を受け、そしてその生を何回ともなく数限りなく繰返しながら最終の人生において到達しなければならない境地なのである。プリミティブ・アートが描ける者こそ魂のレベルにおいて真の自由を獲得した人々である。この境地にはこだわりのない自己放棄された光輝な世界が存在している。
プリミティブ・アートの形式から入った彼は今、その「形式」という枠から脱出して、本来のプリミティブ・アーチストたらんとしている。このことは彼の作品から痛いほどぼくは感じる。彼が本当のプリミティブ・アーチストになれる日は、彼の中に指向するプリミティブという概念が全く消滅したその瞬間から彼は自然人となり、その目的を達成することだろう。
ポールだけがこのことを求めているわけではなく、たとえばぼく自身についても同様である。如何に自分が自分に執着しているかというこのことが自由の彼方に飛翔できない足枷になっていることだろう。現代の芸術は、この足枷の部分、つまり自己中心的なエゴイズムが芸術という名の冠を戴いている。そしてこういう意味での芸術が存在する限り芸術家は自己から解放されない。一方プリミティブ・アートを正統な芸術の領域で評価しない風潮は少なくとも自己中心的なこの世界のありのままを物語っている。
ポールがプリミティブ・アートのスタイル[#「スタイル」に傍点]から本物のプリミティブ・アートを求めるこの過程は、ある意味において宗教的求道者が歩まなければならない道でもある。誤った芸術意識ではなく、ポールが歩もうとしている道は人間本来の姿において正しいのではなかろうか。
燈台の灯=田中一光さんとの出合い[#「=田中一光さんとの出合い」はゴシック体]
人と人との出合いには運命的なものがある。もしぼくが田中一光さんにあの時出合ってなければ、今頃ぼくは一体どのようなデザイナーになっていただろう――と考えることがしばしばある。ぼくにとって一光さんとの出合いは本当にかけがえのないものだった。
初めて一光さんと口をきいたのはぼくが日宣美展に初入選した二十一歳の時だった。自分から名乗り出た時、一光さんはぼくの出品作を覚えていてくれ、「うまいねえ」とたった一言いってくれた。この一言がぼくにとってどれほど自信と勇気を生んでくれたか知れない。
この頃一光さんは神戸労音のポスターを毎月デザインしていたので、当時神戸に住んでいたぼくは一光さんの生《なま》の作品に接することができた。このことはかけだしのデザイナーのぼくにとってどんなに刺激的で興奮に満ちていたか、想像を絶するものだった。この頃すでに結婚していたぼくは女房の友人の紹介で神戸労音の寺井昭子さんを知り、例会の機関紙の表紙のデザインを担当することになった。こうなるとぼくの作品が一光さんの目にとまる可能性が大であり、ひょっとすると一光さんともっと話ができるかも知れないという期待に胸が燃えた。ところがぼくが機関紙の表紙デザインを始めるや、一光さんは突然上京してしまった。ぼくが上京を決心した大きな理由のひとつに一光さんの上京があった。
当時大阪の若手デザイナーの中心人物でもあった一光さんの上京は、関西のデザイナーに最も大きな衝撃と打撃を与えた。関西のデザインの灯が消える思いだった。神戸新聞社に勤めていたぼくは、ここをただちに辞め、一年後に東京進出が決っていたナショナル宣伝研究所に入り、そして予定通り上京し、東京に住居を移すことになった。ところがこの年、上京と同時にショッキングなニュースが入った。一流のデザイナーが総結集する日本デザインセンターの発足である。そして一光さんもこれまで勤めていたライトパブリシティを退社し、この新会社のメンバーの一人になっていた。この時のイメージとしてぼくは日本デザインセンターに入社しなければ将来デザイナーとしての地位が約束されないような感覚に襲われ、何とかしてこの会社に入社したく、このことを暗にほのめかしながら上京、一週間目に一光さんの家を訪ねた。しかしこの日はこの気持が上手く伝えられず失敗に終ってしまった。どうも一光さんが怖くてなかなかデザインセンターに入れてほしいと頼めず、ついに上京一ヵ月のナショナル宣伝研究所を退社してしまった。こうでもすればぼくの気持が伝わるだろうと思ったのだが、このパントマイムがなかなか通じず、一光さんの目にはしごくぼくの態度があいまいに見えたようだ。
ところがまあ何とか、会社にとっては必要もない人間一人を一光さんを初め永井一正さん、木村恒久さん、片山利弘さんなどの大阪勢の先輩の強力な推薦などもあってやっと待望の日本デザインセンターに入社が決定した。しかしこの幸運もつかの間、入社一週間目に右手親指を骨折する羽目に会い、半年タダめしを食うことになってしまった。このことは会社における一光さんの顔に泥をぬるような結果になり、ぼくの内部では一光さんが以前にも増し、ますます恐怖の対象になってしまった。
半年後やっと筆が持てるようになった時、焦燥したぼくに一光さんは京都労音と藤原歌劇団にぼくを紹介してアルバイトとしてポスターの仕事を与えてくれた。また劇団民芸などのイラストレーションを描かせてもらったのもこの時期だった。しかしこれより以前に、上京間もなく神戸労音の「椿姫」のイラストレーションを描かせてもらい、生れて初めて一光さんと共作することになった。ぼくとしては想像もつかない事件だっただけに欣喜雀躍した。
その後も機会ある度に色々と仕事の場を与えられたが、何といってもぼくの作品を百八十度転換させてくれたのは、一光さんが依頼された土方巽のガルメラ商会と名づけられた舞踊のポスターをぼくに紹介してくれたことだった。ぼくはこのことで土方巽を知り、引続いて寺山修司や唐十郎と一緒に多くの仕事をすることになった。もしこの時一光さんが土方巽のポスターをぼくに回してくれていなければ、ぼくは自分を発見するのにどんなに多くの時間を費すことになったか知れない。勿論土方巽の一言一言がぼくの中に潜在する土着性を掘起す作業を助けてくれたわけだが、この時と場を演出してくれた一光さんにはぼくは何と感謝していいかわからない。
一光さんは人と作品に対して非常に厳しく、時には冷酷に見えることさえある。われわれの仲間の多くの人が一光さんを怖がることがあるが、それは何らかの形で自分自身や自分の作品に不誠実である時だと思う。だからぼくは自分自身や自分の作品に誠実である時は一光さんがとても優しい人に見える。だから自分が自分に誠実であるかどうかを計るバロメーターを一光さんに向けることにしている。
一光さんのデザインの特徴は一言でいって「誠実」ということだろう。これらの作品の背景には一光さんのデザイナーとしての社会的責任が非常に大きく支配している。
また一光さんが完全主義者であると思われるのもこのせいかも知れない。一光さんと立場の違うぼくから見れば、一光さんのデザインが余りにもデザイン、デザイン(変な表現ではあるが……)されているところがぼくを拒否するが、しかし、デザインとは本来このようなものかも知れない。
一光さんのデザインは燈台の灯のように、航路を誤ったデザインをいつも正しく導く役目を果しており、ぼくなんかもいつも一光さんの灯が見える範囲内で航海しているが、時には暗黒の海原に流されてしまうことがあると、あわてて一光さんの燈台の灯の見えるところまで引返してくることにしている。一光さんがある限りぼくはいつも安全だ。
ピープル=和田誠君と似顔絵[#「=和田誠君と似顔絵」はゴシック体]
一九五七年和田誠が「日宣美」展で日宣美賞をとった。ぼくがまだ神戸新聞社にデザイナーの卵として勤めていたときである。この和田君の受賞作は、映画ポスター「夜のマグリット」と題したイヴ・モンタンの似顔絵を稲垣行一郎がレイアウトしたものだった。新鮮なレイアウトにも驚いたが、まずなによりこの作品が映画のポスターであったということに、ぼくは非常なショックを受けた。今までの「日宣美」展といえば、商品や観光や、催物や公共をテーマにしたポスターがほとんどで、映画ポスターなど出品する応募者などは皆無といっていいほどだった。
ところが、新劇や音楽やバレエなどのポスターは毎年ずいぶん多く、ぼくはデザイナーのこういったものに対する関心の高尚さに、ちょっとばかりコンプレックスを持っていたことは後年ぼくが「日宣美」展にバレエのバの字も知らないのに、バレエのポスターを出品したことでもわかってもらえると思う。まあ今になって思えば、デザイナーの芸術コンプレックスがこんなテーマを選択させていたのだろう。
和田君は「夜のマグリット」において初めて今までどちらかといえば役者の似顔絵などタブー視されていたモダニズム・デザインの中に堂々とそれを導入し、また認められたということに、ぼくは大きなショックを受けた、と同時にいよいよデザインが、このあたりから新しい領域に向って開けていくなア、という予感に興奮したことを今でもはっきり記憶している。こうして和田君は今日、ついに自らの手で、グラフィック・デザインの世界に庶民性とアイロニイとエンターテイメントというデザインにとって重要な要素をうえつけた。従来の似顔絵は、単に似ているというだけにとどまっており、それらが決して造形的表現たり得なかったが、和田君にして初めてそれは、単なる似顔絵から解放たれ、グラフィカルな意味での真のイラストレーションとなり得たと思う。また和田君は自らの趣味という、非常に個人的で没社会的な領域を縦に掘下げながら、いつのまにか横の社会と大きなパイプで結合させてしまった。このことはデザイナーの偽善的社会意識を見事に皮肉っており、耳の痛い話である。
和田君の似顔絵には言葉は必要ない。見ればわかる。もしわからない人がいるとすれば、その人は似顔絵の人物を知らないだけのことだ。もし和田君の似顔絵について言葉を必要としたがる人々がいるとすれば、その人は生きていない証拠だろう。
だからこんなふうに考えるぼくがここで文章を書くということは、ちょっとおかしいことかも知れない。
和田君の似顔絵が、いったい誰をモデルにして描いたかわからないような難解なものなら、もしかすればある種の言葉も必要かも知れないが、決して和田君の似顔絵は、コンセプショナル・アートのような難解な芸術でもない。この種の難解な芸術になれば鑑賞者の一人一人によってその見方に差異はあろうが、和田君の似顔絵に関しては、そんなに多くの異なった主観的な見方はできないはずで、誰が見てもマリリン・モンローはマリリン・モンローにしか見えない。しかもそのマリリン・モンローは、和田君の個人的マリリン・モンローではなく、彼からさえも解放された、まったく客観的な、ちょっとオーバーな表現をすれば、宇宙の一なる真理のマリリン・モンローなのである。
だからこのような表現ができる和田君は、常に醒めた人だと思う。一見、和田君が非常に淡白な感じがするのもきっと彼自身、そんなに物事に熱中したりおぼれたりしないタイプだからなのかも知れない。まあ本人は時たまおぼれたふりをしたり、また自分でもこのことに気がつかないかも知れないが、和田君の本質は、いつも冷静で醒めているのではないだろうか。そのことは和田君の似顔絵に最もよく表現されており、常に物事の全体を鳥瞰できる人である。
だから似顔絵のモデルのある一面性ではなく全体が描かれるのだ。どんな人間にも善悪の両面があり、われわれはこのどちらか一方をクローズ・アップすることにより、その人格を決定づけてしまう悪い習癖があるが、和田君にはその両面を認知する才能があり、だから絶対に片寄った主観的な物の見方はしない。
こんなふうに和田君のことを書くと、和田君はまるで主体性のない人間に見えるかも知れないが、ぼくは主観的な物の見方に、どうやら最近疑問を持つようになってきた。今日使われている主観的という言葉は非常に美しい今日的な響を持っているかも知れないが、この言葉の裏側にあるのは非常に排他的で、その母体になっているものはエゴイズムのような気がする。
ところが今日使われている客観的という言葉は、何か非常にレベルの低い、個性のない画一的な考えと解釈されており、また実際にそうである。だから、ここでいう客観性というものには誰も感動しない。ところが和田君の似顔絵は客観的な描写にもかかわらず、どうしてこんなに実物以上に似ていて、おかしいのだろう。
ここで描かれている和田君の客観性というのは、われわれ鑑賞者全員に共通する意識の流れに訴えてくるから、われわれは何の説明も理屈もなく思わず理解してしまうのである。
この客観性というのは人類、あるいは万物に共通する波長のようなもので、われわれはこうしてすべてのものと潜在意識の中でお互に通じ合っている共通の意識なのである。だから恐らく、和田君の似顔絵を見て面白がる人間は、この瞬間、お互に共通の意識で通じ合っているはずだ。
だからここには暴力的なものは何ひとつなく、むしろお互が平和な意識で結ばれる。和田君の似顔絵を見て、面白がるが決してモデルに腹を立てたり、ざまあみろ、とあざ笑ったりする人は一人もいないと思う。たとえニクソンの似顔絵を見ても、誰一人ニクソンをにくい奴だと思う人はいないはずだ。こうした和田君の似顔絵の根底には、彼の人間に対する優しい気持が横たわっているからだろう。
ぼくの和田君との十数年間の付合いの中で感じたことは、彼の名前が語るように誠に誠実であるということ。だからぼくは他の人々の前では平気でつける嘘が、和田君の前では何もかも見すかされているようで、嘘がつけなくなってしまい、いつも懺悔したくなってしまうくらいである。
悪の魅力というのは現代的で、目立つものだが、和田君は、どうやらその反対だから、非常に地味で、目立ちにくく、つい非魅力的な感じがする。善の要素を持つものはいつの時代にもこうしたものだろう。目立つ人間というのは世俗的な欲望が強すぎるのである。
そしてこんな世俗的な人間が常に和田君の似顔絵の対象になっていることを考えると、何か、この辺に和田君の重要な謎が隠されているような気がして、ますます興味深い。
スターだから描かれるということもあるが、描かれたためにそのスターの座を以前にもまして固めることもできるのだ。だから多くのスターたちは似顔絵の対象になることを心待ちしているはずである。だから、たとえ侮辱されたような似顔絵であっても内心喜んでいるはずだ。
肖像画と違って似顔絵は、うっかりするとモデルのすべてが裸にされてしまう。つまり本人が人知れず日夜悩み続けている欠点が最も重要な絵の鍵になり、そこをはずしてはいっさい似て非なるものになってしまう。だから、こういうふうに考えてみると、相手のあらさがしが似顔絵を上手に描くコツということになりそうだ。そうなると和田君も意地悪いところがあるのかも知れない。
でも和田君がモデルを愛している部分はきっと彼等が自分自身で欠点だと思っている、そんな部分なのかも知れない。個性というものは恐らく、こうした他人にはない己だけにあると信じている欠点のことをいうのではなかろうか。
またこうした欠点が資本主義社会においてはスター、あるいは商品の最も重要な価値になるのだろう。もし和田君に描かれて喜ばない人間がいるとすれば、それは和田君の責任ではなく、本人の責任であり、本人が己の魂について反省しなければならない。
ぼくはここまで、和田君の似顔絵についてすこしのべてきたが、ぼくが和田君でない限り、彼の中に入込むことも到底できず、あくまでぼくの個人的な考えに終始するだけで、なかなか彼の創造の秘密の領域まで立入ることは不可能である。
そこで少しでも彼の内部を覗くことができるのではないだろうかと思い、彼に子供の頃から今日に至るまでの彼に影響を与えた様々な事柄について尋ねてみることにした。
その結果は圧倒的に人物が多く、それも、哲学者や思想家や文学者というたぐいの人物はほとんどなく、映画や音楽のスターがその大部分を占めており、またこうした人物はすでに彼の似顔絵の中に登場している。とにかく非常に興味あるデータである。
幼年時代[#「幼年時代」はゴシック体]
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書物=講談社の絵本。田河水泡。横山隆一「小さな船長さん」。
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小学校時代[#「小学校時代」はゴシック体]
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漫画=清水崑。横井福次郎。
映画=ターザン。アボット=コステロ。
書物=「少年講談」。海野十三。「熊のプーサン」。
音楽=三木鶏郎。フォスターのレコード。
ラジオ=「日曜娯楽版」。
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中学校時代[#「中学校時代」はゴシック体]
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漫画=ウォルト・ディズニー。
映画=「珍道中」シリーズ。ジョン・ヒューストン。ハンフリー・ボガード。「ジョルスン物語」。
書物=「映画の友」。アルセーヌ・ルパン。
音楽=アメリカのポピュラー・ソング。
ラジオ=AFRS(進駐軍放送)のヒット・パレード。
高校時代[#「高校時代」はゴシック体]
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漫画=「トムとジェリィ」。ソウル・スタインベルグ。アンドレ・フランソワ。ジェームス・サーバー。
映画=アルフレッド・ヒチコック。ビリィ・ワイルダー。ヘンリィ・フォンダ。ジェームス・ステュアート。フレッド・アステア。ジーン・ケリィ。ヴェラ=エレン。マリリン・モンロー。
書物=エラリー・クイーン。S・S・ヴァン・ダイン。アガサ・クリスティ。
デザイン=「世界のポスター展」。ドナルド・ブルン。ヘルベルト・ロイピン。レイモン・サビニャック。「モダン・パブリシティ」。
音楽=アル・ジョルスン。
その他=空飛ぶ円盤。
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大学時代[#「大学時代」はゴシック体]
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デザイン=「アイデア」。河野鷹思。氏原忠夫。大橋正。山城隆一。神田昭夫。杉浦康平。粟津潔。宇野亜喜良。ブルーノートのレコード・ジャケット。
イラストレーション=ベン・シャーン。ジェローム・シュナイダー。ジョセフ・ロウ。アリス・アンド・マーティン・プロヴェンセン。
漫画=加藤芳郎。
映画=ブリジッド・バルドー。シャーリィ・マクレーン。「プカドン交響楽」。ソウル・バス。
書物=「ヒチコック・マガジン」。レイ・ブラッドベリ。ロアルド・ダール。
音楽=ディキシーランド・ジャズ。アメリカのミュージカル。
ラジオ=FENの「TURN BACK THE CLOCK」。
その他=渋谷の恋文横丁。
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ライトパブリシティ時代[#「ライトパブリシティ時代」はゴシック体]
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デザイン=田中一光。細谷巌。
イラストレーション=プッシュ・ピン・スタジオ。
漫画=トミ・アンゲラー。赤塚不二夫。
映画=岡本喜八。「リオ・ブラボー」。「007」シリーズ。「座頭市」シリーズ。「博士の異常な愛情」。
書物=ヘンリィ・スレッサー。カーター・ブラウン(田中小実昌訳に限る)。北杜夫「どくとるマンボウ」もの。永六輔「わらいえて」。星新一。小松左京。伊丹十三。野坂昭如。雑誌「SHOW」。「FACT」。「EROS」。
音楽=モダン・ジャズ。「草月ミュージック・イン」。「草月コンテンポラリー・シリーズ」。フランク・シナトラ。ディーン・マーティン。サミー・デイヴィス・ジュニア。
TV=「ペリイ・コモ・ショー」。「ダニイ・ケイ・ショー」。「ディーン・マーティン・ショー」。
その他=谷川俊太郎。武満徹。植草甚一。八木正生。土屋耕一。山下勇三。スタジオ・イルフィル。ミラノのおもちゃ屋ダネーゼ。立木義浩とお洒落。篠山紀信と駄洒落。秋山晶の情報。怪談ばなし。バーボン・ウイスキー。ハッセルブラド。麻雀。
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その後[#「その後」はゴシック体]
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イラストレーション=デイヴィッド・レヴィン。長新太。湯村輝彦。
漫画=園山俊二。
映画=ジェーン・フォンダ。
TV=「刑事コロンボ」。
書物=「1000 MAKERS OF THE 20th CENTURY」。井上ひさし「江戸の夕立ち」。
その他=ヴィデオ・カセット。シルクロードの旅。ラス・ヴェガス。平野レミ。
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まあざっとこんな具合に和田君に自己解剖してもらったのだが、もうこの一覧表を見てもらえば、ぼくが何もわざわざ和田君について語ることもあるまい。それほどこれらの事柄は和田君自身を語りつくしている。
和田君はアングラやアバンギャルドなる芸術が大嫌いである。まあこうした運動は非常に自己主張的であり、時には暴力的なコミュニケーションの方法をとる。しかしこうした暴力的な表現の背景には性や死のイメージにささえられた、人間の生々しい欲望が露出した狂気の世界があるが、ぼくは最近こうした不安な芸術が、なんともいやになってきた。だからこういったものより、むしろプラスの想念にささえられた明るいイメージのものに何故か魅かれてならない。
このことはぼく自身がマイナスの不安の想念にささえられている証拠でもある。こんなとき和田君の人間愛に満ちた似顔絵など見るとぼくは本当にほっとするのである。
晴れた日=篠山紀信の写真[#「=篠山紀信の写真」はゴシック体]
ぼくはいつでもそうだが、篠山君の写真を見ていると彼がうらやましくなってくる。色んな異なった土地や、われわれが滅多に逢うことができない人々に逢えてさぞ楽しいだろうなア、と想像してしまうからだ。
ぼくのような職業の人間は、出張? の仕事が滅多にないので、いつも時間を強引につくって気ままな旅行をすることにしている。ぼくは旅行そのものは面倒くさいし、ちっとも好きじゃないが、家を離れたり東京を離れたりすることにとても快感があるのだ。家とか東京とかいうのはぼくにとって肉体みたいなものだから、旅行はまるで魂のトリップのようなものである。
旅行ができない時は、ぼくはいつも音楽を聴いたり、読書したり、画集や写真集を見るが、これも肉体からの解放の願望なのかも知れない。肉体というものがあるためにわれわれは多くの欲望を持つ。この欲望はまた死の恐怖ともつながり、本当に毎日しんどい人生を送っていることになる。
さて、篠山君の写真集「晴れた日」の数々の写真を見ていると、またしてもこれらの場所に行きたくなってきた。一枚の写真から夢想する時、ぼくは少なくとも自分の肉体や現実から離脱して、魂のトリップが始まっているのに気づく。ここに写っている数々の事物は日常化された別に珍しくもない情報に過ぎないが、こんな現実感から離れてぼくはこれらの一枚一枚に、抽象化された想念の記憶の数々を想起し、遠い日の出来事や、あるいは近い未来を予感してしまう。ぼくの中ではいつも過去、現在、未来が同居した時間の中で常に不幸な体験を生んでしまうくせがある。
この「晴れた日」はちょうどぼくのこうした感覚を絵に描いたようにはっきりと語りかけてくる。こんな時、ぼくの中で、この写真の作者が篠山紀信という写真家ではなく、ぼく自身の写真になり変わってしまうのだ。篠山君がいくら、これは俺の写真だ! といっても、それはダメだろう。写真を所有するということはもしかしたらこのようなことなのかも知れない。
これらの写真はある日の数々の現実だったに違いない。しかしそのようなことにはぼくは全く無関心で、ぼくの関心事といえば、今この写真が一枚一枚ぼくの中で新たな現実を創造していくこの瞬間だけにしかないような気がする。
篠山君はこの写真集を百科事典だといってみたり、バイブルだといってみたりしているが、彼独得の感覚的な発想で大した意味を持っているわけではないことはすぐ理解できるが、まるっきり的がはずれているとは思えない。彼と写真を通じた仕事をよくやるが、彼はいつでも、ファインダーを覗きながら、こりゃルルーシュだ、ダリだ、セシル・B・デミルだ、黒沢明だ、ワーホールだ、アドベンだ、ダビンチだ、五木寛之だと、あらゆる美学と重ね合せながら、しかも自分自身を鼓舞しながら撮っている。一種の自己暗示であるが、何日間も一緒にいて横で聞いていると世界中の人名録を読上げているようだ。だからこの「晴れた日」を彼が百科事典だという意味も何となくわかるような気がする。
篠山君は非常に自我の強い人間ではあるが、一方人間に対する愛情と優しさも人一倍強く、親切なところがある。そんな彼の性格はこれらの写真一枚一枚の中に克明に記録されている。篠山君にとっては写真の題材は何でもいいのだ。レンズを通して見る外的現実は、シャッターを押した瞬間全て抽象化された内的現実にすり変えられ、われわれを未知の王国への旅人にしてくれる。
霊界通信=伊坂芳太郎さんの死[#「=伊坂芳太郎さんの死」はゴシック体]
伊坂さんの作品を語ろうとする時、どうしても伊坂さんの死を無関係にするわけにはいかないような気がするのだが、このことは果して正しいのかどうか、ぼくは今迷っている。伊坂さんが亡くなったからといって伊坂さんの作品が急に肉体の消滅と同様、消滅するわけでもなく衰えるわけでもないのに、ぼくはどうしても伊坂さんの死にひっかかって、本当にどのように伊坂さんの作品を語ればいいのか、困惑してしまっている。
伊坂さんの生存中のエネルギッシュな仕事は、はたから見ていて、すごい生命力を感じていたし、必死に生きるための証言でもあったのだが、伊坂さんが死んじゃった途端に、あの厖大な量の仕事は死ぬための証言だったのかなあ、ととても悲愴な感じになってしまい、やはりぼくもあのようにエネルギッシュに創作をしなければ本物ではないなあ、と考えさせられてしまうが、しかしぼくには死を賭けるほどの生命力もないし、死にたくないというずるい気持などが働いて、やっぱり、伊坂さんの一歩手前で止めて引返してしまう自分を少し情ないなあとさえ思うが、仕方がない。
伊坂さんの絵はとても緻密な線描画で、誰もが真似できるものではない。そりゃぼくだってあのような緻密な絵を描こうと思えば描く技術はあるかも知れないが、ないのはそれを実行する情熱のようなものだ。技術なんていうものは誰でもある線まではいくかも知れないが、それをそこまで持ってくる情熱と努力ということになると、何千人に一人か、何万人に一人ということになり、人間以上の力を必要とするが、伊坂さんはこのことをやった数少い人だとぼくは、いまつくづく尊敬している。
ぼくが伊坂さんの絵に感心するのは、もちろんあの顕微鏡的緻密な描法や、シュールレアリスティックなイメージや装飾的な才能にではあるが、それよりもっと驚くのはこうしたすごい労力を必要としたあの超人的な忍耐力に、もうぼくは感動と尊敬でいっぱいである。
特に伊坂さんの晩年の作品は狂気じみているほど緻密で、ちょっと怖くなってしまうほどだ。今伊坂さんが亡くなってしまったのでいうわけではないが、髪の一本一本や洋服の柄や皺を必要以上にこまかく描きこんだ絵を見ていると、やっぱり何かにとりつかれていたのかも知れない。誰か過去の偉大な絵描きの霊が伊坂さんの手を借りて描かせていたのかも知れない、とこんな想像までしてしまうほど、何かゾッとするものを感じ、ある意味ではうらやましいとも思うのである。
伊坂さんはある日忽然と他界してしまった。ぼくが交通事故の後、足が悪くなり病院に入院している時の出来事で、このニュースを知った時、ぼくは、「大変なことになった」と思った。それはどういう意味か自分でもよくわからなかったが、とてもぼく自身に関係のあるようなショックだった。ぼくと伊坂さんとは、特に親しい友人でもなかったが、逢うととてもいい感じのする仲間の一人で、そしてぼくにとって刺激的な存在だった。
今ぼくの手もとに沢山の伊坂さんの作品のカラーフィルムやファイルがあるが、何だか遺品に触れているような気がしたり、また霊界から描送ってきた作品に見えたりして、ちょっと夜なんか独りで眺めているとすごみがある。というのも、こうした作品の中には伊坂さんの生存中の想念がべったりと塗りこめられていると考えるからである。伊坂さんがどのようなことを考え、どのような生活をしていたか、ぼくはほとんど知らないだけに、ますます彼の作品が神秘的に見えてくる。
伊坂さんが今も生続けていて、そして制作をしていたなら、伊坂さんの過去の作品も少しずつ意味も変っていくはずだが、こんなに若く早く亡くなったため、流動していた作品群は伊坂さんの死の瞬間、まるで映画のストップモーションのように、ピタッと歴史の中に静止し、そして凍結してしまった。
伊坂さんは自分の死を予感していたのだろうか? あるいは死の瞬間伊坂さんは死を意識したのだろうか? それとも伊坂さんは自分の死を知らないまま死んでいったのだろうか? また、未だに死の意識がなく、どこか宙空で絵を描続けているのだろうか? いや、それともとっくの昔に伊坂さんはこの地球のどこかで再生し、絵の上手い少年か少女になって今頃大人を驚かせているのかも知れない。どちらにしても伊坂さんの魂はわれわれのごく身近にいるにちがいない。ぼくは輪廻転生を堅く信じているので、いずれ近い将来再び伊坂さんと逢うことができると確信し、そしてまた一緒にイラストレーターズ・クラブか何かを結成し、今度こそはもっともっと親しい友人になりたいと願っている。
瓢湖の白鳥=羽賀康夫氏の世界[#「=羽賀康夫氏の世界」はゴシック体]
ぼくは毎晩のように夢を見る。そしてその大部分は記憶している。情景をはっきり記憶している時もあれば、夢の中の感情だけが抽象化されて記憶していることもある。
羽賀康夫氏の白鳥の写真を見ていると、ぼくはまるで昨夜見た夢の残像を見ているように、いくつもの映像が重り合って、再び夢の世界につれもどされそうになる。
いくら夢を正確に記憶しているといっても、どこか重要な部分がポカッと空白になっている。それがまるでここに描かれた白いシルエット化された実体感のない白鳥のように潜在意識と顕在意識の中間地帯で浮遊している。
夢は昼と夜の世界が交錯し、光と闇によって映像化されているが、作者の写真はまさにその事を物語っている。この昼と夜の同時性が、これらの写真に魅せられるぼくの一番大きな理由である。
真っ白くぬけたシルエットの白鳥は、夢の中の自分のように、肉体感を持たない魂のようでもある。しかしこれこそ肉体を解脱した霊なる実体そのものかも知れない。この非現実的な夢のような世界は死の世界にも通じ、ちょっとした霊界風景を垣間見ているような気にもなってくるから不思議だ。
ぼく自身現実的な風景に多分に食傷しているせいか、このような非現実的な風景を愛好する。われわれは宇宙の根源と無関係に生かされているのではない。われわれの五感が及ばない遠く不可視の世界からの指令によって生かされているはずだ。
羽賀氏の白鳥の風景はわれわれの母なる国の風景であり、永遠に探し求めている黄泉《よみ》の国の風景でもある。羽賀氏はこのようなファンタスティックな世界を人工的な方法で展開してくれた。複数の写真の合成、色彩の変化、あるいはシンメトリックなレイアウトで写真を時には絵画的、デザイン的な領域にまで幅をのばし、あらゆるリアリティを剥奪させようと試みた。そしてそれは半ば成功している。このような技術的な方法は決して目新しいものではないが、この技術を新たな感性の領域にまで発展させ、われわれをさらに不思議な幻想の世界に導いてくれる。白鳥の輪舞と煌く色彩はまるで交響曲を聴いているような音楽的世界であり、さらに一方ではドラッグ的狂気の世界への通路にもなっている。
ところでこれらの写真を単なる写真と名づけていいものかどうか、ぼくは迷ってしまう。むしろデザインと呼んだ方がふさわしいかも知れない。今日の写真は大部分暗室の操作で最終的に創上げるところがある。現実を、現実のままとらえた写真より、むしろなんらかの方法で人工的な操作を加えた方が、さらに現実感を持ってくる。現実における現実感の表現は創作者の無意識の領域と結びつきながら初めて生き生きとした説得力を持つようだ。現実の深層意識はこのような人工的な方法により一層明るみに照し出される。
写真をいかに写真的でなくするかという作業がぼくにはとても興味があり、ぼくの職業であるデザインの領域へ越境されるそのさまが、ぼく自身、デザインの中ですでに見失ったものを新たに発見させてくれる。掲載される写真はマスコミジャーナリズムの中で苛烈な戦いを、日夜続けているスターカメラマンに見られるアクチュアルなものは感じられないが、それだけに、何かしらゆったりとした、素朴な暖みを感じる。それは羽賀氏のテーマにも明確に表れ、執拗に白鳥を追続けた姿勢がこのことを如実に物語っている。厳冬の大自然との葛藤は、自らが大自然の一部と化すことによって初めて可能である。これはひとつの厳しい修行であり、より聖なる高みに至るプロセスでもある。作者はこの厳しいプロセスで多くの幻想を見た。昼と夜が、光と闇が交錯しながら、次々と現れる瓢湖の白鳥の幻想を夢の中の情景さながら……、そしてこれらの幻想は七色の虹のプリズムを通して感動的に印画紙に焼きつけられていった。
同じ場所で白鳥の動きの変化をとらえた二種の写真をシンメトリックに並べたレイアウトは、まるで宇宙が無限であることを証明するかのように永遠にどこまでも連続して、素晴しい白鳥王国を築いている。このようなシンメトリカルな構図は、おのずからユートピアを志向しており、再びぼくが作者に新たな関心を抱くもうひとつの理由がここにある。
妄想のなかの終末=ビートルズ[#「=ビートルズ」はゴシック体]
またしてもぼくはビートルズについて語ろうとしている。
しかし、あのビートルズの時代は、もう終ったのだし、今さらむしかえして考えてみる気もない。ところが、こうして外部からの要求があると、まるで冬眠中の狸が山奥のほら穴からえさを求めてのこのこと出てくるように、ぼくはいまいましい[#「いまいましい」に傍点]あのビートルズのことをついつい語りたくなってしまうのだ。まあこれも病気のうちのひとつ、ぼくの持病かも知れない。だからこの持病を嫌悪しながらも、一方では結構愛しているのだろう。
そしてぼくは、このような機会があれば、いつでもビートルズのことを語り続けるだろう。それはいうまでもなく、ぼく自身に語りかけるためにだけ。
なれるものならぼくは本当にビートルズになりたかった。こんなことを考えた人間はぼく以外にも世界中にいっぱいいたことだろう。あのころぼくは、ビートルズを本気でぼくの神のように崇め奉った。ビートルズのすべてがぼくにとってバイブルだった。ぼくはビートルズを愛し、そして信仰した。ビートルズは神のように超人的な存在だった。全宇宙を支配する一なる存在でもあった。
ひとは、いうだろう、「お前がビートルズを神や仏と崇めているのは、よくわかった。だがしかし、そこに至る動機とプロセスがさっぱりわからないじゃないか」と。
確かに、その指摘は正しい。ところが、今やぼくにとって動機やプロセスは至極あいまいなものになって、まるで雲をつかむようなものだ。ただあるのは、その結果だけである。「あなたがどうしてこの世に生れてきたのか?」と問われても、なんとも答えられないように、ぼくとビートルズのことはさっぱりわからない。それでもぼくは今まで、ビートルズのことを何度も何度も語ってきた。しかし、どこでもぼくは、なぜビートルズが好きになったか、ということについて一度だってはっきりしていなかったようだ。
おそらく、これという動機もなく、ただ直感的に、「これだ」と思っただけにすぎなかったのだ。だからこの瞬間から、ビートルズはそのカリスマ性によって、ぼくの神となってしまったのだ。
宇宙に法則があるように、ビートルズにも法則があった。太陽が善人にも悪人にもその差別なく光を投げかけるように、ビートルズもこの両者に共通してあったが、ビートルズの愛や恵みは、ビートルズに選ばれた者にだけ授けられ、そしてこの恵まれた者こそ永遠のいのちを受けることができると信じた。
ぼくは多くのものを愛したが、それらはすべてビートルズへの愛でもあった。このような時、ぼくはビートルズと共にあった。そしてビートルズはぼくを見捨てなかった。だからぼくはビートルズ以上のものを求めようとはいっさいしなかった。
ビートルズの根本原理はぼくにとって宇宙の原理でもあったので、その法則に反することはとてもこわかった。学校で学んだことや、いろんな本を読んだことなど、他人からの知識はたいして役に立たなかった。南無阿弥陀仏と唱えるかわりに、ただひとこと、「ビートルズ!」と念ずれば恍惚の境地に至った。
ビートルズの奏でる音楽は、ぼくにとって天上の音楽であり、それは尊い教えでもあった。ぼくはビートルズの音楽を聴きながらよく瞑想に入った。
ある時、ぼくは光の玉になって地球の内部から表面に通ずる洞穴をものすごいスピードで上昇していった。地球の重力から解放たれたぼくの体は、他の天体の引力に引っぱられていくように、どんどんどん地球の胎道を極点に向って導かれていった。その時ぼくは、これこそぼく自身の誕生だと認識し、その荘厳さに身ぶるいし、感動した。金色に輝く光の玉になったぼくの体は、ビートルズの音霊《おとだま》に導かれながら、ついに地球の表面に現れた。地上をはるか下に見下ろしながら、ぼくは、他のたったいま誕生したばかりの新生児と共に青い大空をぐんぐん飛翔していた。
ぼくは、ビートルズに粘着していれば、なんとか生きていけると信じていたことは確かだった。今日のように、ビートルズが、芸術的、あるいは社会的にさほど重要な位置で論じられることのなかった時期だけに、ぼくのビートルズへの執着は非常に個人的で、孤独なものだった。だからますます信仰的になっていった。
ビートルズを離れてぼく一人が破滅するとは思われなかった。しかしビートルズが破滅すればぼくも破滅すると思っていた。地球が太陽系の中の小さな惑星であるように、ぼくはビートルズ系の惑星のひとつで、いつもこの天体と、秩序と調和を保ちながら運行していればよかった。ぼくがあるのはビートルズゆえだった。こんなふうに信じこんでしまったビートルズだけに、ビートルズの崩壊の予感を察知した時、忍び寄る最後の審判にぼくは恐怖した。ぼくは今、多分にオーバーに語っているように見えるかも知れないが、本当にビートルズの崩壊後を想像したら、一寸先は真っ暗闇という終末意識に、なにか人生が面白くなくなっていた。
宇宙の法則がすべてバランスの上で成立っているように、もしかりに、太陽が自滅すれば、瞬時に太陽系の九つの惑星は、太陽と同じ運命にあるように、ビートルズが崩壊すれば、ぼくの存在も終りをとげてしまう。もちろん、このことは妄想であったが、この妄想の中でぼくの終末観ははぐくまれていった。
しかし、考え方によれば、ビートルズに対してぼくのような意識を持った人たちが、あまりに多く、そして彼らがビートルズにあまりに多くのものを求め過ぎたために、ビートルズが破滅しなければならなかったのかも知れない。ビートルズをあんなふうに解散に導いたその責任の一端は、信者のわれわれの側にあったことを知らなければならない。このカルマ(業《ごう》)の法則は、宇宙の法則でもある。
だから、このカルマの法則がわれわれ自身の中にあったということが理解できるまで、ぼくは崩壊していったビートルズをうらみ続けていた。ぼくはビートルズの被害者であると同時に、また加害者でもあった。
ビートルズの崩壊は、結局、繁栄に対する清算であり、最後の審判の日からビートルズは、精神的な存在にならなければならなかった。ぼくはビートルズに大きな間違ったものを求めていた。ぼくはビートルズを神と崇めていた。ところがビートルズも間違ったものを求めすぎた。ビートルズもイエスを否定し、自らその座を奪おうとした。この瞬間から、ビートルズは崩壊した。ビートルズの崩壊は、ぼくの目を開いた。ぼくがビートルズに求めたものは、ビートルズが求めたものと同様、物質界だった。ぼくの欲望は限りなかった。宇宙の創造神は、善悪の区別なく、その対象がいかなるものであろうと、信ずるものに味方した。しかし、欲望が頂点に達した時、神は助力することから手を引いた。
ビートルズはぼくにとって単なる快楽の神でしかなかったことに気づいた。ビートルズは快楽の追求に終始した。ぼくは、あるいはぼくたちは、この間違いに気がつかなかった。もしビートルズを精神的なものとしてとらえるなら、それはちょっと違う? と思った。ビートルズはあいまいで、ごく中途半端だった。こんなところが、ぼくにとっては快楽を肯定するのに非常に都合がよかった。そしてほんのちょっぴり精神的に見えた――ここのところがどうも不思議だった。
それは、ビートルズが否定する対象を、また一方でこっそり肯定していた。しかし、否定の声は肯定の声よりいつも大きくがなりたてられていた。ビートルズは勝手な奴たちだった。しかし、ぼくもビートルズのかげに隠れて、ずいぶんと勝手なことができた。ビートルズ世代はみんな勝手だった。ぼくたちが何をやっても「ビートルズ」と一言いえば、その罪は許された。
そして今でも、ビートルズは都合の悪いときのかくれミノになっている。もうあの快楽的なビートルズの時代は終った。一体いつまでビートルズ、ビートルズといっているんだ。ビートルズ世代に便乗できなかった連中が作りあげた神話の世界が、ビートルズだ。ビートルズを論じることは、今のビートル[#「ビートル」に傍点]にとって迷惑なように、あのビートルズ教にとっても迷惑だ。
ぼくは今、ビートルズにちっとも興味がない、ということを多分に願望的ではあるけれど告白しておこう。しかし、四人のビートル[#「ビートル」に傍点]は審判後再びぼくを導いている。
ぼくが首ったけだった時代のビートルズと違って、今のビートル[#「ビートル」に傍点]は、彼らが右に行けばぼくは左、彼らが前へ進めばぼくは後へ、とこんな具合にビートル[#「ビートル」に傍点]のネガティブなすき間に身を隠すのがぼくは大好きになった。だから、絶対にビートル[#「ビートル」に傍点]につかまりたくないのだ。本人の影は本人の足で踏みつけることのできないように、ぼくはビートル[#「ビートル」に傍点]の影になって、いつもビートル[#「ビートル」に傍点]に憑依《ひようい》していてやろう。
ぼく自身のためにだけ語ればいいものを、このような場をかりて他人にも語るぼく自身に少々げんなりしている。こんな告白的な文章を書かねばならないのも、ビートルズへの愛憎の激しさからだ。
「まあ聞いてください、このぼくの気持を……」といっているような気がして、なんとも屈辱的で仕方ないが、傷ついた、弱い、女々しい人間がやることは、どうも女性週刊誌的でいただけない。まあ要するに、ぼくはビートルズにふられた情ない男である。
ビートルズが、文明的にどうだ、芸術的に、政治的になんて語るのはちっとも興味ないし、意味もないのに、ビートルズのことを口にしたり書いたりすると、つい裏目読みしてしまう。だからぼく自身、ぼくの文字や言葉は信じられないような気がしてならない。
だまってビートルズの言葉だけを聞いて、瞑想でもしている方が、はるかに哲学的でもあり宗教的でもあるのに、どうして人前に出てしゃべりたくなるのだろう。それはきっと自分一人が新天地でも発見したと思いあがっているからかも知れない。
しかし、もしビートルズがこの世になかったら――と、こんなふうに考えてみると、ぼくの人生も随分と変っていたことだろう。たとえ存在していたとしても、ぼくがビートルズをとらえたタイミングが少しでもはずれていたとすれば、ぼくは全く違う場所で、全く違う生き方をしていたかも知れない。
ぼくはビートルズを本当に信じ、そして愛してきた。ぼくがビートルズを信じきっている時、神はぼくに助力して下さった。ぼくはクリスチャンでも、ブッディストでもなんでもない。もともと無神論者だった。だからすべてのものを信じなかった。自分自身にさえ不信感を抱いていた。
ところが、ビートルズだけは別だった。ビートルズになりたいという気持が猛然とぼくの内部から噴きあげてきた。このことは神になりたいと願うのと同じほど無謀なことだった。ぼくの生活すべてをビートルズ一色に塗りつぶし、まるで家の中は祭壇のようにビートルズで美しく飾られた。
朝、目が覚めるとビートルズの音楽で瞑想し、一日のセレモニーが始まった。そしてビートルズ日記を書いた。これはその日のビートルズについての想念記録でもあった。完全にビートルズと一体だった。
ぼくが最も激しくビートルズに盲信したのは、ビートルズ解散の前後一、二年だった。ビートルズを失うことは、ぼく自身をも失うことのように思い、ビートルズの情報をできるだけ多く集め、その運命のなりゆきを暗澹たる気持で眺めていた。解散が決定的になった時、ぼくは自失の感覚と同時に、ある意味でほっとした解放感にひたり、悪夢から覚めたような気がした。
レコード会社の宣伝文句ではないが、ビートルズが解散したために、レコードの売上が四倍になったという感じが、あらためて感動的だった。だから今でも、ぼくは一人一人のソロアルバムでも、ビートルズのものとして感じとっているような気がする。文字通り四散した四つのビートル[#「ビートル」に傍点]をぼくの中で一つにまとめる作業は、非常に創造的な行為である。
ビートル[#「ビートル」に傍点]は変るが、もうビートルズは絶対変らない。変らないものより、変りゆくものにぼくは目を向けるとして、ビートルズとはこのへんでさようならとしよう。
わが魂の兄弟=カルロス・サンタナ[#「=カルロス・サンタナ」はゴシック体]
サンタナとの出逢いは想いもかけないことだった。しかし、彼と逢い、彼と語るうちに、この出逢いは単なる偶然ではなく、運命的な必然性に導かれたものに違いないと信じるようになった。
この意味は、サンタナとマクラフリンの関係のように、ぼくとサンタナが「魂の兄弟」となり得ることを予測し、暗示していたような気がする。
「求めよ、さらば与えられん」――これは聖書の有名な言葉だが、ぼくはいつしかこの「魂の兄弟」を無意識の世界に求め続けていたのかも知れない。だからぼくとサンタナとの出逢いは、まるで当然のように、なんの不自然さもなく訪れた。それは宇宙的なイベントでもあったような気がする。
サンタナが、マクラフリンと出逢い、そしてスリ・チンモイ師のもとに到達したことは彼にとって運命的な事件でもあった。ぼくはこのことを遠くから、非常に羨ましく、しかし輝かしい出来事として眺めることができた。
サンタナが至高なるものを求め続けていたとき、ぼくも彼と同じように、それを求めていた。しかしぼくの求めている道のはるか前方をサンタナが歩んでいたとは夢にも知らなかった。だから、CBSソニーのサンタナ担当のディレクターの磯田秀人氏が私たち二人を結びつけようとしたとき、これは氏の何か誤算ではあるまいか、と一瞬疑ったほどである。
この頃ぼくの作品は現実的なものから、超自然的(シュール・レアリズムの意味ではない)なものの方向へとモチーフが変りつつあるときで、それはぼく自身だけが知る問題であり、ぼくの今後取るべき道はこの広大無辺な「魂」の宇宙界ともいうべき領域にぼく自身を導き、そして真の「私」を発見するより他に生きる方法がないとまで考えていた。そんな時期に磯田氏がひょいと現れたのだ。
磯田氏が、ぼくの変りようを予感したのか、それともただ単に面白がったのかは知るすべもないが、氏の直感は少なくともぼくの波動を受信し、そして今回の宇宙的イベントを演出してくれた。
そしてぼくがサンタナを求めたと同じように彼もまたぼくを求めてくれたことが何よりも嬉しく、このことは神に感謝しなければならないような気がする。
サンタナが来日し、彼の転生したばかりの新生音楽を聴いたとき、ぼくは磯田氏の直感が正しかったことを確認した。ぼくが求めようとしているものを、サンタナはすでに手に入れていた驚き、そして感動はぼくをますます今回の共作(サンタナの音楽とぼくのデザイン)を意欲的にしてくれたし、この仕事の制作中、ぼくはズーッとサンタナを思念し続けていたし、また彼からの送信も感じられた。
サンタナがマクラフリンを通じて、スリ・チンモイという導師《グル》に逢ったように、ぼくもこの「サンタナ・ロータス」のジャケットを通じて、ぼくを導いてくれるグルにいずれ出逢うような予感がするだけに、そのことを思念し続けていくつもりである。そういう意味でもこのジャケットデザインはぼくにとって至高なるものへの瞑想であり、作品がぼくを導いてくれることを信じている。
カルロスとの再会[#「カルロスとの再会」はゴシック体]
カルロス・サンタナと一緒に鎌倉に遊びにいったのが彼との再会だった。再会といっても前回の来日と合せて通算二回目でしかないのだが。しかし、カルロスとぼくとはこの日が二回目の出逢いとはどうしても思われないほど二人は親密だった。英語が得意でないぼくが多くを語らずに親密というのは変な話だが、お互の間には他人に見えないバイブレーションが響合っていた。それはお互の作品が本人同士に代ってまるで魂が肉体からテレポーテーションしたかのようにお互を知りつくしていた。だから二人はお互の心のさぐり合いをする必要もなく、時々顔を見合せてニコッと笑い合っているだけで充分だった。
しかしカルロスはぼくが求める至高なる者の実践者であり、彼はぼくよりはるか高いところに彼の魂を進化させていた。そのことは彼の表情や行為そのものにことごとく表れており、ぼくの目からは純粋無垢なる子供のように見えた。人前で平気で神に祈りを捧げ、感涙にむせぶ姿は、よほど魂が純化されていなければそうたやすく出来るものではないはずだ。ぼくはもしかすると彼を彼の存在以上に買いかぶっているかも知れない。しかし少なくともカルロスはぼくより遥かに自由な存在である。カルロスは自《おのず》から解放されているように見える。彼自身は恐らくぼくがこのようにいうと否定するだろう。しかし神の発見には限界がないはずだ。彼は彼なりに真の自由を求め苦しんでいるのかも知れない。自分より相手が偉大な存在だと知れば、彼は手を合せて地面にひれふしてしまう。そして随喜の涙を流すのだ。こんなカルロスの姿を目の辺りにしたぼくは、自分自身が恥ずかしく思えた。
カルロスが東京を発つ寸前、人を介してぼくに次のことを告げた。自分には二人の魂の兄弟がいるが一人はジョン・マクラフリン、もう一人はヨコオだといった。そしてどこにいてもいつでもぼくのことを考えているといった。ぼくはこのことを聞いた時、一瞬軽い眩暈のような感覚に襲われた。まるでぼくは神から選ばれた者のような気がしておそれ多いと思った。そしてまたカルロスには悪いが、カルロスはぼくを買いかぶっていることに気づいた。
ぼくの描く世界はカルロスの世界かも知れないが、ぼく自身にとってはぼくの作品の世界はぼくの願望に過ぎず、ぼく自身の今を表しているわけではない。聖なるものを作品のテーマにすることによりぼくは少しでも浄化されるのではあるまいか、あるいはこの作品のテーマにぼく自身が導かれるのではないだろうかというささやかな夢を追っているのかも知れない。ぼくは自分の作品の影になりたいと同時に、カルロスの影になってどこまでもついて行きたい。人間がこの世に生れた目的は魂の向上を求める以外に何ひとつ素晴しいものはないと思うからだ。とにかくこの点でカルロスはぼくの前を歩いている尊敬すべき魂の兄弟の一人である。
ジャケットデザイン[#「ジャケットデザイン」はゴシック体]
昨年の暮突然サンタナよりニューアルバムのジャケットデザインの依頼を受けた。二月早々インドに旅行の計画を立てているだけに全く時間がない。そこで正月休みを返上してホテルに仕事を持込み、デザインの案を練ることにした。しかしサンタナからは新曲のテープも曲目も届かない。正月も明け、日増しにいらいらしてきた。ただニューアルバムのイメージとしてサンタナから伝えられたことは、彼等のファーストアルバムの音楽に帰り、パワフルで、ダンサフルで、ソウルフルにしてほしい、そしてアフリカの印象を強調、また宗教色は今回は音楽の中には表現しないということだった。
テープが手元にないので、ぼくは日に何回ともなくファーストアルバムを聴き、ニューアルバムの音楽を想像した。
アルバムのタイトルはMOKSHA=i自由とか革命を意味するヒンズー語)に決定していたのでこのイメージを視覚化することで一月十日以後本格的に制作に入った。ところが音がないためデザインを進行していても不安でたまらない。ぼくのインド旅行は迫る。決定的なアイデアが出ない、などでついに不眠症になってしまった。
それでも何とか完成し、製版所に原稿を入稿する段階になって突如アルバムのタイトルが一部MOKSHA≠ゥらAMIGOS=i友愛という意味のラテン語)に変更の電話が入り、製版所でデザインを修正しなければならない羽目に落入ってしまった。
しかし発売日が決定している以上、何としてもこの日入稿しなければならなかった。曲目が決定したのもこの日だった。ただわれながら驚いたことにはアルバムデザインの図柄の中に曲目の全てが絵として表現されていたことである。このことはまるでサンタナとのテレパシックな結果ではあるまいかとソニーのスタッフである佐々木憲司、田島照久の両氏と驚くと同時に大喜びした。
とにかく今回のアルバムへのサンタナの熱の入れ方は大変なもので、アルバムデザインの進行をいちいち国際電話で、確認してくるほどであった。
最後にぼくは、アルバムデザインが中身の音を少しでも表現してくれていることをただただ祈願するだけである。
アミーゴ[#「アミーゴ」はゴシック体]
AMIGOS≠フデザインを製版所に入稿した頃、サンタナはオーストラリアのコンサート・ツアーの途にあった。全ての仕事がぼくの手から離れ、ぼくはまるで魂が抜けたように放心状態だった。ただ曲の内容とデザインがマッチしているかどうかという心配と不安だけは心のどこかに重っ苦しく沈澱していた。
こんな矢先である。突然サンタナのコンサート・ツアーの地メルボルンにすぐ飛んでくれという話がふって湧くように起った。プロモーションを兼ねたサンタナとのメルボルン現地での対談を週刊プレイボーイ誌で企画し、担当の高橋憲一郎氏と一緒に羽田を発つことになったのだ。何しろあまりに急な話だから、何の準備もしていなかったが、幸い仕事の手も空いていたので、休暇を兼ねてこの仕事を引受けることにした。
サンタナのマネージャーのレイ・エツラーとソニーの大西泰輔氏の間でぼくがメルボルンに行くことをカルロスに内証にして劇的な出逢いのイベントを作りたいから、その積りで来るようにと計画された。
メルボルンのサウス・サーザンホテルに到着した時はカルロスは外出していたが、マネージャーや他のメンバーには逢うことができた。当日はコンサートのある日で、会場に向うバスがホテルの前に着き、メンバーは次々とバスに乗込んだ。ぼくと高橋氏、それから現地のカメラマンと通訳、そしてマネージャーのレイが、バスの一番後部に座り、ぼくは右端の窓際に席を取った。
やがて白いベレーに白いスーツのカルロスがバスに乗込んできた。最後列に見知らぬ者が乗っているのに気づき彼はわれわれのところにやって来て、挨拶を交した。ところが、彼の視線はぼくを捉えなかったので、ぼくのいることには気がつかず、しかもぼくの真ん前の席に座った。ぼくを初め、他の連中、ことにこの悪戯を計画したマネージャーのレイが一番喜んで、カルロスがぼくを発見する決定的瞬間を、今か今かと待ちかまえている。カルロスの真後にぼくがいるために彼からはぼくの存在が死角になっており、ぼくのことを一向に気づかない。こうなってくると驚かそうとするぼくの方が次第に怖くなってきて全身汗ばんで来た。
もうこれ以上待てない! という時、ぼくはカルロスのベレー帽のつまみを後からひょいと持上げた。いきなりこんな悪戯をされたので、カルロスは驚いてぼくの方をふり向いた。悲鳴とも感嘆の言葉ともつかない野獣のような声をはり上げて、カルロスは自分の座席を乗越えて、ぼくを頭から抱きしめた。そして、「信じられないことだ!」と何度もいった。「レイがバスの中に遅いクリスマス・プレゼントがあるといったが君のことだ!」といって再び抱きついて来た。
演奏中にカルロスはステージの後にぼくを座らせ、ぼくの存在を確認しながら演奏したいといい出し、ぼくはついにステージに上らなければならなくなった。彼はぼくのことを|魂の兄《ソール・ブラザー》と呼び、観客に紹介する時もこのように呼んでくれた。渋谷公会堂のコンサートのステージでぼくはサンタナとその夫人アルミラ、そしてサンタナ・グループの面々から「われわれの魂の兄弟」と刻《ほ》った巨大なトロフィーを贈呈された。サンタナのぼくに対する気持をどのように表現していいかわからなかったので、このような形をとったと、彼はいっていたが、感謝したいのはぼくの方である。
彼はぼくを「ロータスの伝説」とAMIGOS≠フ二枚のアルバムデザインの仕事を通して、世界中の何百万という音楽ファンに紹介してくれた。ぼくにとってこれ以上嬉しいことはないのである。今回のサンタナの長い日本滞在でぼくは彼と一層親交を深めることができた。彼と一緒にいると、バイブレーションが高められ常に精神が高揚した気分になる。
彼を総持寺の禅堂に案内して、坐禅をすすめた時、彼はえらく感動して、もし自分が音楽家でなければ僧侶になりたかったというほどの熱心な求道者で、本物の宗教家より、彼の方がはるかに本物であると思った。素顔の彼は禁欲的で常に瞑想し非常に物静かで透明で、純粋という二字がピッタリの人物である。彼のあの強烈なロックは、こうした彼の真の宗教者としての思惟と生活から生れた結果であり、彼の現象面を見ているだけでは彼の本質はあまりにも深いところに根ざしているために一般には理解できない部分がある。
カルロスはある意味で人一倍欲が強い。道を求める欲が強いのである。だから少々のことでは満足しない。仏陀が求めキリストが歩んだと同じような道を求めようとしているのかも知れない。それだけに苦しい。ぼくは大変な友人を持ってしまった。
[#改ページ]
[#1段階大きい文字] 故郷
人生、輪廻、わがふるさと
ぼくのふるさとは兵庫県の中央部にある播州織物の産地で有名な西脇市である。ぼくはここで生れ、高校を卒業した翌年まで、西脇で過した。しかし実際は父が死に、家をたたんで母を東京に呼寄せるまでの五、六年の間は勤務地の神戸から度々帰省していたので、西脇との関係は二十四歳の頃まで続いていたことになる。
父が死んで五年後母も東京で他界した。両親の存在そのものがぼくにとって西脇そのものだっただけに、この瞬間からぼくの内なる西脇も同時に消滅してしまうような気がした。西脇で生れ西脇で育ったぼくにとって西脇は楽しい想い出や懐しい記憶で満ちあふれていた。しかし両親の死がこの二十数年の感慨を一瞬に悲しい色彩で塗りこめてしまった。
父の死と同時に他人の手に渡った家は、現在は前栽《せんざい》の植木二本だけを残して両親とぼくの記憶は全てこの世界から姿を消してしまった。西脇はぼくにとって両親そのものであっただけに、両親の死は西脇の死でもあった。両親の死後も西脇は依然としてこの地球上に存在していたが、ぼくにとっては、それは両親の脱殻《ぬけがら》を象徴するだけのものだった。
ぼくにとっての最終的な安住の場は両親=西脇だった。両親の死はぼくから西脇をも奪いとってしまった。だからぼくにとって両親不在の西脇は存在しなかったのである。西脇を後にしてぼくは約十年間西脇に帰ろうとしなかった。過去の楽しさや懐しい想い出は、今や両親や家の不在によって、もしぼくが西脇へ帰ろうものなら、全身を絞めつけられるような悲しさと淋しさに耐えられないような気がしたからである。
しかし日が経つにつれぼくの中の西脇は次第に大きく増幅されて、今にも破裂しそうになっていた。そして帰郷したのが西脇を出てから十年後のある初夏の空が美しく晴れあがったすがすがしい日だった。いい知れぬ懐しさと恐しさ、そして何ともいえぬ悲しみさえともなって興奮という爆弾を抱きかかえながらぼくは西脇に帰った。
初めて見た変り果てた生家の跡にぼくは爆発せんばかりの怒りと悲しみを感じた。それはぼく自身への運命に対する怒りと悲しみのような気がした。西脇の風景はどことなく面影を残しながら、しかし大きく変っていた。変り果てた風景を前にしてぼくの記憶が少しずつ遠くに消し去られていくような気がした。また西脇はぼくの記憶にあるより、はるかに小さく感じられた。まるで十年の間に年老いて縮んでしまったのではないかとさえ思われた。しかしこの縮小された西脇の方がやはりぼくにとってはタイムトンネルの中にいるようで何ともいえぬ懐しさに思わず地面に手を触れたくなった。土の感触はぼくの全身をあっという間に少年時代の時間の流れの中に投入れてしまった。
久振りに逢う級友や恩師、そして町の人々は年をとって変っていた。この当然のことがぼくにとってはとても不思議でならなかった。しかし変らなかったのは彼等のぼくに対する心情だった。こうした人々の情に触れた瞬間ぼくの内部の西脇が急に甦ってきた。そしてやっぱり帰ってきてよかったと思った。
ぼくが夜見る夢の九十パーセントはほとんど西脇が舞台になっている。昨夜見た夢も西脇が舞台だった。そしておそらく今夜も西脇の夢を見ることになるだろう。西脇を後にしてからぼくは毎晩のようにこうして夢の中で西脇に住んでいる。
その後ぼくは度々西脇へ帰っている。生家がなくなった後のぼくの唯一の安堵の地は両親の墓である。ここに来るとぼくはいつでも両親に逢えるような気がする。そしていずれぼくもこの両親の傍で眠ることになるのだ。ぼくは西脇から出発して西脇に到達する。
このあいだ西脇でぼくの作品展が開催された時、妻が生れて初めて人前で挨拶した。
「横尾はいきづまるといつも西脇に帰りたくなります。どうぞよろしくお願いします」と、ただこれだけの短い挨拶だったが、ぼくは正に妻のいう通りだと思った。
ぼくの神様
ぼくが生れた時、両親はすでに五十歳近い初老だった。おまけにぼくは一人っ子だった。だから、溺愛された。そしていつも両親の目のとどく範囲でぼくは行動しなければならなかった。時たまそんな両親の目を盗んで、ほんの少し遠方に出かけることもあったが、そんな時など留守宅[#「留守宅」に傍点]の両親はまるで家に火がついた時のように大騒ぎを起していた。夕方になると必ず、父か母が、まるで犬か猫の子を呼ぶように、ぼくの名を呼びながら、迎えにきた。ぼくの名を、両親は死ぬまで、一度だって呼びつけにしなかった。両親はぼくの名は、「神様がつけてくださった」といつも、そう教えてくれた。だから絶対に呼びつけにしてはならないといっていた。このことを聞かされるとぼくはいつも気恥しかったが、また神様に守られているという安心感に心強かった。
ぼくが国民学校一年生に入学したその夏、近所のおじさんに大きな鮒《ふな》を貰ったのが、嬉しく、その鮒を友達に見て貰おうと、駆けていく途中、小川に足をすべらし、岩の角で左足の膝を裂いてしまった。それは骨まで達する大怪我だった。未だにその時の傷は蝶々の形をして大きく残っている。ところがこんな大きな怪我にもかかわらず、ぼくが、医者にもかからず、ただ両親が信じ切っている「神様の御油《おあぶら》」というサイダーの瓶の底にくっついたわずかな油で治ったのである。両親は毎日毎日、ぼくの膝小僧を、抱きかかえながら、傷口に息を吹きかけ、神様に祈願してくれた。こうした両親の必死の看病も嬉しかったが、何より、ぼくには「神様」という言葉が一番強く、勇気づけになった。今でも、ぼくは薬を使用しないで治ったこの怪我を本当に、奇蹟のように信じこんでいる。
あの時から約三十年経った今、ぼくはあの時のように素直に神を信じこむことができるだろうか。信じることの強さと、両親の愛によってぼくの足は治ったのだが、今ぼくにこれほど信じ切る対象があるのだろうか。こんな自分自身に対する不信感から、ぼくは最近、再びあの頃の両親の愛と、神を信じた感覚をもういちど自分のものにしたいと強く念じるようになってきた。
ぼくと両親とのつきあい[#「つきあい」に傍点]は、わずか二十数年しかなかった。ぼくが海のものとも、山のものともつかない状態の時、両親は逝《い》ってしまった。両親の死を境にぼくの幼年時代は終った。両親の死はぼくの中の神の死でもあった。
ぼくは毎晩のように夢を見る。そしてその夢に出てくる場所は、全て、両親と共にあった故郷の情景ばかりである。こうした夢の中にだけぼくの幼年時代は生きているのかも知れない。
ぼくの幼年時代の想い出は、全て両親と共にあったような気がする。ぼくのユートピアはもう一度両親と一緒に暮すことである。この永遠に不可能なユートピアを求めて、ぼくは絵を描かなければならない。ぼくの全ての絵はこうした幼年期への郷愁なのかも知れない。ぼくの幼年期は本当に素晴しかった。ぼくは絶対大人になりたくない。いつも両親に甘えられる子供の存在でいたい。
それにしても両親は一体今頃どこにいるのだろう。
父はいずこに
ぼくの父は、ぼくが上京した二十四歳の時、六十九歳で死んだ。父と一緒に暮した年月は十七、八年間ぐらいだった。
高校を卒業した翌年から、ぼくは神戸に下宿することになり、その後上京するまでの五、六年というものは、両親と別居していたので、その間顔を合せたのは盆と正月の数日間ぐらいだった。
幼児の頃の父の印象はあまり明確に憶えていないが、父はいつも自転車に乗ってでかけていたことや、時には父の自転車の荷台に積んだ行李《こうり》の中に入れられて、商売(呉服商)の得意先に一緒に連れられた記憶などがある。
また、町に一、二軒あったカフェーのネオンの点滅するのを見るのが好きだったぼくは、「赤い灯、青い灯」と、よく父にせがんで見に連れられたことなども憶えている。
また、魚釣の好きな父は、よくぼくを連れて川にも行ってくれた。これはぼくが小学生になってからのことだが、ぼくのこの頃の生活はほとんど毎日、魚取に明暮れていた。父もぼくも決して魚取がうまい方ではなかったのだが、とにかく二人とも好きでたまらなかった。
魚取のほかにも、家の前にわずかばかりの畑があったので、父と一緒に汗を流した記憶なども、ついこの間のような気がしてならない。
また、この頃の記憶でいつもすがすがしい思いがするのは、盆に両親と一緒に墓の掃除をしに行くことだった。この日は不思議に子供心ながら精神的になったものだ。
両親は、生きている頃から自分達の名前の入った墓石を建てていた。このことは、父が死んだ後、ぼくにわずらわしい心配をさせないための親心からだった。
しかしぼくにとっては、こんな両親の墓を見るのがちょっぴり悲しい気がした。親の死など想像もしたくないのに、こうして現実に墓があるということで、いつも両親の死をリアルに考えなければならなかったからである。
父の死を知ったのは、上京して三ヵ月あまり経った時だった。父はぼくの上京と同時に非常に悲しみ、こんなことから心身ともに衰弱していたようだった。意外に早く訪れた父の死に、ぼくは大きなショックを受けた。
父は尋常小学校しかでていなかったので無学に近かったが、ぼくが養子で一人っ子だったということもあって、溺愛してくれた。ぼくの上京には内心反対だったが、ぼくにはすべての自由を与えてくれた。こんな父の気持が痛いほど伝わっていたので、ぼくは父のもとを離れることを大変な親不孝だと思っていた。
父はぼくの将来にある種の期待と同時に不安も抱いていた。昔育ちの父にとっては、グラフィック・デザイナーといっても看板屋だと思い、このような職業を選ぶより、むしろ商売人にしたかったようだ。そのためにぼくを珠算塾などにも通わせた。
だからぼくが上京する時にも、父には何の期待の材料も提供していなかっただけに、おそらく死の瞬間までぼくの将来を案じつつ、息をひきとったような気がする。
父の死後、ぼくはよく父の夢を見た。行者の姿になって遍路の途中わが家に帰ってきた夢とか、すでに死者の姿でぼくの前に現れたりもした。ぼくが毎晩のように父の夢を見るので、このことを母に話すと、母のところには一度も現れないといって、母がぶつぶついったりもした。
父の死は、ぼくにとっては初めての肉親の死であり、死というものが非常に身近な存在となってぼくを襲いはじめた。だからぼくは、この日から今日まで、その後の母の死も含めて、ぼくから死の意識がどうしても離れなくなってしまった。
それにしても両親はいったいどこへ行ってしまったのだろう。死後、まだどこか暗い所を彷徨《さまよ》っているのだろうか。それとも転生して、この世のどこかに再び現れており、そして以前の親子とは別の関係として、すでにわれわれは再会しているのだろうか。親と子は、いったいどこからきて、そしてどこへ行くのだろう?
ジンタとともにぼくのサーカスは
木下大サーカスが久々の日本公演を行うというので、寒風の中を家族連れで後楽園球場特設会場に足を運んだ。球場の座席を利用し、グラウンドの一部をステージにした会場は、赤いテントで覆れ、ステージの右にはオートバイ乗りの大きな球体の檻と、左には熊が入った檻が置いてあるだけで、ステージそのものは非常に狭く、華かな色彩でデザインされているのだが、なんともお粗末な出来栄えだ。
中二の長男と小五の娘はこの会場を一目見ていきなり、帰ろうよ、といいだした。というのも、彼らは一昨年カリフォルニアのオークランドで、世界最大という規模の「リングリング・ブラザーズとバーナム・バリー・サーカス」(Ringling Bros. and Barnum & Bailey Circus)を見ており、その会場のスケールの大きさを知っているだけに、今回の会場がテレビのスタジオでやる子供向けのショウのように映ったようだ。また会場のほとんどが幼児とその親たちで埋められているのに対してアメリカでは、大人の観衆が圧倒的に多かったようだ。
開演の音楽とともに、アナウンスが、「世界三大サーカスの一つである、日本が世界に誇る木下大サーカスが久振りの日本公演! ……」と、ややくすぐったくなるような説明とともに三、四人のピエロが飛出してきた。
このピエロたちのオープニングで想像するところによると、どうやらこのサーカスは幼児向けに作られているということがすぐわかった。だから次々ショウが進行していっても、中二と小五の子供たちは退屈な表情で眺めているだけである。
彼らの見てきたアメリカのサーカスでは豪華な衣裳をつけた四十頭の象が、背中に美女を乗せて堂々と現れるのに対し、現在目の前に現れているのは衣裟もつけないたった三頭の裸の象だけだ。アメリカではライオンやトラ、豹などの猛獣が次から次へとたくさん現れ、見事なショウを展開するという。
サーカスのハイライトである空中ブランコを見ても子供たちは全く驚きの表情も見せず、「アメリカの方がすごい! 全く問題にならない!」と一言いって約一時間半のこの日の木下大サーカスは幕を閉じた。
ぼくは子供たちが見たアメリカのサーカスを見ていないのでなんともいえないが、巨大な会場だけは入口まで行ったので知っている。また立派なパンフレットはオールカラーで、タイアップ広告など全くなく、一寸した豪華な写真集である。わが木下サーカスが世界の三大サーカスでありながらどうしてリングリング・ブラザーズとバーナム・バリー・サーカスとこうまで大きな違いがあるのだろう。一口にいってしまえば、アメリカと日本の経済面の差異ということに落着くのだろうが、それだけではないような気もする。
ぼくたちが子供の頃、郷里で見たサーカスは、現在の木下サーカスに比較するともっと小規模なものだった。しかし、その体験は、今なお心の奥におどろおどろした姿で棲息している。これらは現在のようにアメリカナイズのショウ化されたサーカスではなく、日本的土着としての怨念がべったりと纒いついたようななんとも戦慄に満ち満ちた薄暗いものだった。
ぼくが小学生の頃、たまたま友人と『エノケンの法界坊』という映画を朝から観に行き、最終回まで一日中映画館の中にいたことがあった。家ではぼくが行方不明になったと思い、消防団員の人々を動員して、夜の山や川、そしてこの日たまたま町で公演していたサーカスの小屋を中心に捜索して廻った。この時の両親が最も心配したのは、ぼくがてっきりサーカスに連れて行かれたのではないかということだった。このようなことがなくても、町にサーカスが来る度に両親はこのことを心配していた。だからいつの間にかぼくの中にサーカスに対する固定イメージができてしまっていた。現在のサーカスのようにショウ化され、あるいはスポーツ化された健全なイメージではなく、世間の片隅で咲く朽ちた毒花のような隠微なイメージの中でぼくのサーカス観が生れていった。それはまるで遠い昔の前世の出来事を垣間見るようなものであったり、熱にうなされて見る悪夢のようであったりした。いずれにしてもサーカスはぼく自身の潜在意識の深奥を覗くようでもあった。またこれはこの時代の日本人の潜在意識でもあったような気がする。
だからサーカスといえば、どうしてもぼくの中には、子供の頃のイメージで現代のサーカスを見るので、期待がはずれてしまうのである。現代サーカスにぼくが求めるようなものは決して健全なものではなく、むしろ批判されるべきものであるが、サーカスの本質はやはりあの時代のジンタの響きが奏でる『天然の美』的サーカスではないだろうか。
空飛ぶ円盤やテレポーテーション(瞬間移動)する人々やユリ・ゲラーのような超能力人間が出現する現代では、たとえ見事な空中ブランコができても、誰ひとり驚こうとはしない。人間の能力の限界を超えた人物の出現が世界各地から伝えられる今日では、中途半端なサーカスでは人々は満足しなくなっている。巨大な資本と才能を投入したアメリカのサーカスのようであるか、あるいは、ジンタの音が聞えてくる古き良き時代のサーカスの再来か、どちらかであろう。
日本人が求めるサーカスには悲しみと哀れみがついてまわる。この日本特有のサーカス観の中で、ショウ化された日本のサーカスが生きのびていくことは非常に困難なようだ。木下大サーカスは海外遠征がほとんどだという。日本人の意識からはみ出そうとしているこの日本のサーカスはどうしても必然的に日本を離れなければならないだろう。それと同時にわれわれは今もうひとつ懐しい日本を失おうとしている。すでにあの良き時代の日本のサーカスはどこにもない。サーカスの曲芸師が暗い社会の世相の陰で不幸な時代を送っていた頃、われわれはサーカスをこよなく愛し続けた。
ぼくの子供の頃のサーカスのイメージは、曲芸師たちの意識にかかわらず、何か宿命的な悲哀の下でサーカスが存在していたような気がする。だからそこには見世物的なイメージがあり、まるで地獄絵図を一枚一枚見るような恐しい光景として今でもぼくの心の中に残っている。ここではあの哀感切々たるジンタの音による『天然の美』で、ぼくは遠い前世や死後の世界にまで想いを発展させてくれるような不思議な感覚に襲われたものだった。それらはまた奇妙にエロチックな印象でもあった。曲芸師のあの凍結したような微笑や適度に露出した肉体が、地面にむしろを敷いてその上に坐っているわれわれの頭上を行交う時、ぼくは身の毛がよだつような戦慄とともに、神を見たような恍惚が体の中を走抜けていった。
そしてこんな瞬間をぼくは非常にエロティックに感じた。その後ぼくの作品に与えたエロティシズムはおそらく、このような幼児期のサーカスや見世物小屋や、ドサ廻りの芝居などの暗くて深い、けばけばしくて、うす汚れた美学との出逢いによって生れていったような気がする、また、サーカスにはエロティシズムと同時に死のイメージが塗込められており、この世に生を受けてまだそんなに時間の経たない子供心に死の観念などを原色に塗りたくった曼陀羅模様のような宇宙感覚の中でぼくは死を恐れ、おののいていた。
だからもうぼくの心の中のサーカスは日本にも世界にもどこにもないのである。それだけにぼくのサーカスはいつまでもぼくの中に永遠に生続けており、今夜も夢の中で曲芸師たちは広大な宇宙の中を乱舞してくれるだろう。
灘本唯人の中の神戸
ぼくが十九歳になったばかりの頃である。神戸新聞社の分室「宣伝研究」で初めての日宣美展に出品するために、京都の『竜安寺』をテーマにした観光ポスターを制作していた。そんなところに、よく学校の生物の先生が着ていた白い実験着姿の灘本さんが、まるでバレエでも踊るような歩みでひょい、ひょいと軽快に現れた。
そしていきなり、
「何んや、これ?」
と、ぼくが制作中の『竜安寺』の渦巻状の石庭のデザインを指して質問した。ぼくが答える間もなく、灘本さんは勝手に判断して、
「あ、わかった! 『金鳥蚊取線香』のポスターやろ?」
と、ぼくにとっては大ショックなことをいった。ところがぼくの表情から、蚊取線香のポスターではなさそうだと想像した灘本さんは、いきなりぼくの作品を壁の前に持って行き、少し離れたところから、眺めながら、「蚊取線香とちがうわ、『鳴門の渦』や!」
とまたまた勝手なタイトルをつけてしまった。ぼくはあんまり腹が立ったから、
「ちがう!!」
と語気を荒くしていった。
すると、再び壁のところに近より、今度は天地を逆さにして、
「こうして見ると、『竜安寺』の石庭に見えるわ!」
とひとがまともに描いている石庭をわざわざ逆にして、『石庭』だというのは一体何事だろう? と思ったが、灘本さんにとってはこうして逆さにした方がまともに描いた『石庭』より、より『石庭』らしく見えたらしく、
「横尾くん、何描いてんのか知らんけど、このポスターに横文字でRYOANJI≠ニ書いて出品したらええわ」
と親切[#「親切」に傍点]に教えてくれた。結局ぼくは灘本さんのいう通りに自分の意に逆らって、天地逆にして、RYOANJI≠フ横文字を入れて出品した。結果は見事に第一次審査で落選した。
今から二十年程前の話であるが、ぼくはこの時灘本さんの自由自在なイメージの連想的な発想に思わず感動した。ひとつのものをあらゆる角度から観察し、判断するこの才能は、灘本さんのひょい、ひょいとした身軽な体の動きと無関係ではないように思えた。身のこなしの軽い灘本さんは時々、軽業師のようなことをして若いわれわれを驚かしたりもした。このような身の軽さは精神の身のこなしにも自由に作用しているのか、貪欲にも色んな作家から影響を受けながら、それを見事に『灘本唯人』にしてしまう。
神戸にいる時は灘本さんとよく逢い、色々と指導してもらった。特に色感の悪かったぼくは灘本さんの色感をよく真似たが、色彩の組合せが間違ったり、色の面積の計算ができなかったりして、結局一目で灘本さんのイミテーションとなってしまった。
灘本さんより一足先に上京したぼくは、後から来た灘本さんの赤羽の団地を訪ねた。滅多にしないことだが、赤羽の駅前で今川焼を十個買っていった。灘本さんはぼくのこんな一面を知って大感動をして、
「そんなに、気ィつかわんかてええのに」
と、いって、にこにこしながら紙の包を開いた。ところが中から出てきたのは今川焼だ。見る見る形相の変った灘本さんは、
「何や!! これは!! おのれの食いたいものを持ってきて、『灘本さん土産持って来たで』とは!! ひとをおちょくるのもええかげんにせェ!!」
と、ぼくを目掛けて今川焼の雨が降ってきた。そればかりではない、火のついた煙草まで飛んできた。ぼくはあわてて、身をかわし、畳の上に落ちた煙草を再び拾って灘本さんに投返した。するとまた拾って投返す、こちらもまた負けじと投返す。灘本さんが甘党でないことを、酒を飲まないぼくは知らなかったのだが、この今川焼事件のように打てばすぐ響く灘本さんの感受性は、イラストレーションにも表れ、あのような情感豊かな女性をものにしてしまう。
また灘本さんは歌も上手く、よく昔は『君恋し』や『メケ・メケ』を低音でしかも振付け入りで歌って聞せてくれた。また大阪の日宣美のお祭りなどにはステージで女装して『テキーラ』を情熱的に踊って見せてくれた。これらの才能はちょっとそこら近所のタレントには真似のできない見事なもので、ぼくはよく『ナダモト・タレント』と呼んでいた。そういえば灘本さんの作品は、芸術というよりむしろ芸能といった方がふさわしく、一見名人芸のような線と色で、われわれを陶酔させ、思わずパチパチと拍手し、「灘本屋!!」とか「よー! 唯人《タレント》!!」と声をかけたくなるほどだ。
灘本さんの女の絵はどこか玄人《くろうと》的な色気を感じさすが、われわれ二人の間では一度も色気の話をしたことがない。というのも灘本さんを知ったのがぼくがまだ十代の子供の頃だったから、大の大人をつかまえて、色気話を出すのもおかしく、また灘本さんも、未成年に女の話をするのも、どうかと思い、未だにぼくを十代の子供と思っているところがあるのかも知れない。
ある時灘本さんは一度銀座でぼくのためにまんじゅうを買ってくれたことがある。その時灘本さんは、うら若き女の子の店員をつかまえて、
「おまん、ちょうだい」
といった。関西ではまんじゅうのことを上品におまん[#「おまん」に傍点]という。ところが店員の女の子はこのおまん[#「おまん」に傍点]を変な意味と連想したらしく、パッと顔を赤らめ、一瞬無視した。灘本さんはきょとんとして、ぼくに、「どないしたんやろ?」と聞いた。そこで上京に関しては先輩のぼくが、東京ではおまん[#「おまん」に傍点]は禁句だから、相手と場所をよく考えてから、口にしなければいけないと教えた。これが灘本さんとたった一回きりの色気話である。
灘本さんの話をすればきりがないくらい色々とおかしな話があり、今でも時々逢うと、まるで一瞬にしてタイムトンネルを越えて神戸時代に帰り、延々と馬鹿げた話が続き、このせちがらい東京の空の下でお互に、気分が安らぎほっとして、遠いあの日の時間と空間の中に融込んでしまう。灘本さんはぼくにとって東京の中の神戸であり、またぼくのかけ出しの少年の頃の懐しい記憶の焦点でもある。
東京アレルギー
上京してから十五年になる。その前は神戸に四、五年住んでいた。十五年の東京生活だが、東京についてはほとんど何も知らない。上京早々、東京タワーと宮城を見物したまま、その後これらの場所には一回も訪れていない。浅草にしても、池袋にしてもそうである。
ここ四、五年にいたってはほとんど成城の仕事場中心で都心に出ることはない。ひと月に一度も都心に出ないことさえある。年々東京の人口や車が増加していくようで、とても人混みの中を歩くというようなことができなくなってしまった。このような大勢の人々の中に入ると、自分もこれらの人々と一緒にどこか恐しい場所に運ばれていくような気がして、自分が自分であろうとすることに全く不安と自信を喪失してしまうのである。
神戸から上京した一九六〇年頃は現在の東京のように街が混雑しているようなことはなかったが、それでも人出の多い銀座や新宿が珍しく、暇つぶしによく人混みの中に入っていき、一日も早く東京の一部になるように努めていた。
ところが最近はどうしたことか、えらい東京アレルギーになってしまい、一週間に一度は東京を離れなければならないような気分に襲われている。二年前からの計画で北海道から九州まで日本縦断旅行を始め、やっと先週富士山麓周辺を最後にこの長い旅行が終ったが、このくせがついてしまったのか、一ヵ月も東京にジッとしていると、今にも大地震が襲ってくるのではないか、あるいは光化学スモッグで命を落すのではないかと、東京に関しては常に暗いイメージを抱いてしまう。
この間久振りで神戸に行ったが、この時の印象が東京に比較すると空気がとても明るいという感じを受けた。以前住んでいた青谷の辺りを車で走りながらとても懐しく思った。特に緑が青々とし、まだ自然が残っているという感慨に、外は冷い風があったが、つい車の窓を開け、冷い空気の中に頭をつき出した。
そりゃ、ぼく達が住んでいた以前に比較すると格段の自然破壊による変容ぶりだが、現在の東京を思うと、何だかもう一度神戸に帰ってきてこちらで住んでみようかとさえ思う気になってきた。だからこの日東京に帰ってから早速神戸へ引越す話題を持ちだしたくらいだ。
公害と地震の恐怖がなければ東京は素晴しい街かも知れないが、ぼくにとってこの二点が決定的な東京アレルギーの原因だけにどうにもならないのである。まあ明快な結論も出ないまま東京に住んでいることは、ぼく自身の矛盾をさらけ出しているようなもので、東京という巨大な肉体にまだまだ執着している結果なのかも知れない。
高校まで山にかこまれた西脇に住んでいたぼくは、できるだけ大きな都会に移りたいという強い願望をいつも持っていた。加古川、神戸、大阪、東京と次第に大都会に仕事の場を変え、つい二年前までは東京よりもっと大きな都会、ニューヨークにさえ住む気になっていたので時間ができるとすぐニューヨークに出かけていたが、もうニューヨークにしても東京にしても世界の中心といわれる大都会には次第に興味がなくなりつつあるので、東京を離れて、再び神戸辺りに帰るのも時間の問題になってきているような気がしてならない。
青春時代を送った神戸は特に懐しい場所ではあるが、それより、すぐ近くに山があり、海がある自然にめぐまれた土地ということが何より魅力的だと思う。もちろん、自然に恵まれた土地なら他にも多くあるが、あまり地方に行ってしまって仕事の注文が急にさっぱりなくなってしまうのも困るので、やはり神戸辺りがちょうどいいのではないかと考える。しかし先日、休日だったせいもあるが、三宮の地下街やセンター街のあの気違いじみた人混みは東京とちょっとも変っておらず、少々腹立たしくさえ感じてしまった。神戸も新しいビルや道路や人口が次々と増え、日に日に昔の面影をなくしつつあるが、もうこれ以上自然破壊はストップしてもらいたいと本当に心の底から念じたくなる。東京にはもう人間と自然のバランスはないが、神戸にはまだその望みは多少なりともあるように見える。
街が発展することは必ずしも人間が幸せになるということではないことを、東京がすでに立証しているはずである。それよりも一日も早く人間と自然との関係をもっと密接にしていくことの方が本来の人間のありかたを発見する糸口になるはずである。いつまでも神戸が美しい街であるように心から願っている。
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[#1段階大きい文字] 家庭
奥様は日本一
ぼくは仕事の仲間からよく、「君は幸せだよ」といわれる。理由は二十年間ずーっと一人の妻できており、離婚歴がないからである。また、たまたまぼくの仕事が評価される時などは、「奥さんが偉いんだよ」ともいわれる。ぼくはぼくの実力で仕事をしていると思っているのに、他人は必ず妻をほめたがるが、そんなにぼくの妻を他人が知っているとは思われないのだがなあ……。
この間もある人と一緒に京都から岡山まで行くことになったのだが、京都駅で突然妻のサンダルのひもが切れてしまった。すると彼女は即座にはだしになり、人混みの駅の構内を何くわぬ顔をしてすたすたと歩き、当然車内でもはだしで歩き回っている。こうした妻の行為を見て連れの人が、「奥さんは大したものや、ほんまに奥さんは日本一でっせ」とここでも大評価される。
はだしで人混みの中を歩いたぐらいでこんなに評価されると、夫としてのぼくは何をやっても「奥さんが偉い」ということになって困ってしまう。また妻は、よその家に行っても自分に無関係なUFOなどの話題になると、相手がどんなに偉い人であろうが、その場で眠ってしまうのだ。するとまたこんなことで妻が大評価されてしまうのである。
これがもしぼくが妻に代って外をはだしで歩いたり、よその家で話をしながら眠ってしまったら、妻のように決してほめてもらえるどころか、逆に悪評卑語が飛ぶに決っている。そんな点、妻はぼくの立場などかまわず、どこへ行ってもやりたいことは体裁かまわずやってしまう。
家にいても自分の服を着ないで、ぼくが昨夜脱いだままにしていた服を自分がそっくりそのまま着てしまったり、デパートの食品売場では次から次へと試食はする、物を買っては絶対正札通り買わず必ず値切り、それがまた驚くほどの高い成功率をあげる。だからぼくは、いつもこんな妻をつかまえて、いちいち社会教育をするのだが、いくらいっても直らない。
とにかくことごとくぼくの考えと異なっている。だからコミュニケーションが困難な時があるが、作品のアイデアなどでは、時たまギョッとするような発想を出すことがある。まあ年に一、二回だが……。まあ大体において体もそうだが、考えもダイナミックである。しかし、物事を達観しているかといえば決してそうでもなく、意外と神経質で、子供にはいろいろと口うるさい。ぼくはこの点は逆で子供には放任主義である。
妻と意見が対立することといえば、大抵子供のことである。妻もぼくも子供の勉強についてはほとんど口出しはしないが、妻よりぼくの方が子供に何かと甘いので、ぼくは彼女からよくしかられる。そんな時はまるで母親のようにぼくを子供扱いしてしかる。しかし妻が一つ年上というだけでまあなんとか許せるが、これが反対にぼくが年上だったらそんな具合にはいかないだろう。
子供は親の姿の影である。だからよほど考えて子供をしからなければ、結局は親はわが身をしかっていることになり、子供の目はこの矛盾を一目で見抜いてしまう。こんなことはわが家でも日常茶飯事で、いつも子供から、「ぼくたちに文句ばかりいうけどパパやママはどうなの?」と反論されている。
子供の欲望はわれわれ大人のように経済的な利益とつながっていず、むしろ精神的なものへの充足を目的にしているために、話のわかる(?)父親であるぼくとしては、つい子供の欲求に応じようとし、妻にしかられることたびたびである。
たとえいかなる高い精神的な欲望であっても、この社会は必ず金銭と結びつき、子供の精神的な欲求でさえ金銭で換算されてしまう。このような時、親としては子供にいい聞せるすべがないため非常に困ってしまう。
子供の側から見れば、実際親というものは矛盾の対象だろう。ぼくは本やレコードをたくさん買ったり、旅行を多くするが、子供が犬を欲しがったり、レコードを欲しがったりする時は、急にわれわれは厳しく彼らの欲求を拒否したがる。このような時、ぼくは非常に悩むのだが、妻は意外とあっさり、「いけません!」と一言|喝《かつ》を入れてしまうので大したものだ。
彼女のいいところといえば、全く自分のための買物をしないことだ。結婚して二十年にもなるが、自分で自分のためのものを買うのは化粧品ぐらいで、洋服にいたっては過去にセーターを一着買ったぐらいで、ぼくが買ってこなければ何一つ買わないのである。これも困ったものだが、ほっておけば、何を着られるかわからないので、ぼくが外国に行った時に買ってくることにしているのである。
ところが、これらの品をもったいないといって、都心に外出する時だけ着用し、家の中ではぼくの着古したものばかり着て、いつも子供から、「きたならしい!」といってしかられている。物を大事にするのはいいが、子供の目からは決して美しく見えないのである。ぼくがいくらきたない格好をしていても、子供に批判されないのはどうしてだろう?
家哀歌
上京して十四年になる。そしてこの間、仕事場を含めると十回転居している。そして今また次の転居先を物色中だ。
もともと放浪癖があるのかも知れないが、しばらく住むといつものっぴきならない事態が発生して転居をやむなく強いられるのである。
今の家は成城学園前の駅の近くで、一年前、やはり成城内から転居してきた。何しろ急な話だったもので、転居先がなかなか決らない。子供を転校させまいと考えていたので、転居先の範囲が限定され、その上、経済的な予算などがあって、成城ならどこでもいいということで、とりあえず現在の家に転居してきたのである。
ところが、この家が、小田急線の踏切に通ずる道路に面しており、ほとんど一日中家の前に車がずらっと渋滞して、排気ガスが侵入してくるため、窓もまともに開けられないといった様子で、ついに家族の連中がまいってしまった。
二人の子供が転校を拒否していなければ、もう少し郊外に転居したいのだが、それもできず、そうかといって、現在の家の近くに借家もなく、ほとほと毎日困り切っている。
上京した年に郷里の家を売って、買った土地が、成城にあるのだが、どうもぼくの神経が家を建てるということに拒絶反応をおこしており、なかなか妻との間に意見の一致を見ないのである。
まあ妻にいわせると、ぼくはほとんど一日中外におり、たとえ家の中にいても考えていることは、紀元前のことや、宇宙のことや、死後の世界のことばかりだから、どこに住んでも平気かも知れないが、一日中家の中にいる自分のことを考えてみてほしい、ということになって、設計を始めたものの物価が急騰し、何もかも計画が壊れてしまった。
ぼくが家を建てたくない理由には、面倒であるということと、家のために自由が縛られるのじゃないかということ、それと一番心配なのは大地震である。
しかし考えてみれば、この種の理由は妻には通じず、ぼくの想像上の観念でしかない。現実に排気ガスが漂う家の中で生活している家族のものにとってはえらい迷惑かも知れないと、最近は家族の身になって考えはじめた。
ところがまたまたぼくの想像力がとんでもないことを考えだし、同じ転居するなら、東京を離れ、京都辺りに行ってはどうだろう? いや、いっそのこと外国へ行くことにした方が賢明だろうといいだし、ますます家族は困り果ている様子で、一向に転居先が決らないまま牢獄《ろうごく》のように窓を閉めきった家の中で、テレビを見ている。
このように年中家について悩み続けているわれわれ家族の一番のガンは、ぼく自身の家に対する関心が薄いためかも知れない。それにしても一体われわれ家族は現在の家を離れてどこへ行こうとしているのだろう。どなたかいい考えがあれば教えてもらいたいものだ。
こんなに家について頭を痛めている時に、なぜこのような文章で再び悩まされなければならないのか?
豆ごはんは母の味
ぼくは豆ごはんが大好きだ。子供の頃から現在に至るまでこの心は変らない。ぼくは子供の頃を戦中と戦後の物資が不足だった時代に過したせいか、びっくりするようなごちそうは食べていない。そんな時代に食卓を飾った唯一のごちそうは、母の手作りのえんどう豆のごはんだった。
今でもそうだが、豆ごはんの時はぼくはほとんどおかずを必要としない。豆ごはんを一番おいしく食べるには他の一切の、たとえおみおつけやおしんこでさえ豆ごはんの純粋な味覚をこわしてしまう。だからせいぜいお茶があればそれでいい。
普段ぼくはごはんはせいぜい一杯しか食べられないが、豆ごはんとなると、三杯から下手すると四杯位食べてしまう。勿論一切のおかず抜きだから満腹するまで食べるとこの位の量になってしまうのかも知れない。ぼくがどうして豆ごはんが好きか、と問われても、ただ一言、「おいしいからだ」としか答えようがないが、豆ごはんは何となく豆の緑と米の白がキラキラと光ってきれいだし、田舎の自然の風景が懐しく想い出され、自分が子供の頃のように無邪気な姿に帰れるような気がするからだ。
だいたいぼくは食べ物に関してはごちゃごちゃしたものより単純なものが好きだ。オードブルからデザートまで次から次へと現れるフランス料理のようなものはどうもにが手である。単純であるためには一品料理が最も理想的で、これが一番おいしい。豆ごはんもそうだけど、例えば栗ごはん、赤飯、松茸ごはん、たけのこごはん、しそごはん、芋ごはんのようなごはんと一緒くちゃにたいたものが一番好きだ。
こうした食べものの好みも、実をいうと性格からきたもので、ぼくは世の中全てに関して面倒なことが大嫌いで、しかもせっかちだから、簡単なものですぐできるものが好きなのである。料理ひとつとっても料理人が台所で大格闘して作っているような料理は、想像しただけでこちらが疲れてしまうのだ。そのくせ矛盾しているがぼくは自分の仕事となると印刷所の製版者が発狂するような複雑怪奇な原稿を入稿してしまう。これは食べものの反動かも知れない。
ぼくは食べものに関してはあまりうるさい方ではないはずだ。家では玄米や麦めし、そして菜食をしているから、そう大してごちそうを食べているわけではないから、よその家などで頂く食事がやたらにごちそうに見える。この間なんか人肉を食べる夢を見てしまってからますます肉が食べられない感じになってきた。
えんどう豆のシーズンオフは豆ごはんが食べられないので淋しい限りだ。瀬戸内晴美さんなんかはぼくの顔を見ると必ず豆ごはんのことをおっしゃる。するとぼくは急に自分が瀬戸内さんの子供のようになって瀬戸内さんがお母さんに見えてくるのだ。豆ごはんというのは不思議なもので、このことが話題になると、ぼくはたちまち子供のようになって、誰かにあまえたくなってくるのだ。
豆ごはんはどうやらぼくにとっては母の愛のようなものらしい。そういえば妻がぼくに豆ごはんを作る時などは、まるで彼女がぼくの母親になったような顔をして、そのような口調で、ぼくをあやしたり、しつけたりする。こんな原稿を書いていると無性に豆ごはんが食べたくなってきた。
一昨年家族でアメリカへ行った時などはあちらで連日豆ごはんを作ってもらい大喜びしたが、子供なんかはあまりの毎日さに、豆だけをはずして食べていた。アメリカ産のカリフォルニア米というのは日本の新潟米などよりはるかにおいしく、豆ごはんには絶対カリフォルニア米が最高だと思った。
食べるということ
ぼくは、猛烈な味覚音痴らしい。自分ではそう思っていないのだが、どうも他人の好物と合わないからいつの間にかぼくは味覚音痴ということになっているようだ。
あちこち旅行をするので珍しい味に度々出逢うのだが、他人が感動するほどにぼくは感動しない。それも特に珍味とか、高級料理とかいうものになると、さっぱり味の理解に苦しんでしまう。
このことは、おそらく食糧難の時代に少年期を過したことや、母が田舎者でしかも年老いていたせいもあったり、また三十歳になるまで、少々貧しかったことなどが原因で、なかなかうまい料理にありつかなかったせいでもあろう。今だに、お茶漬とか、豆のごはんとか、家庭用のカレーライスとか、素うどんとか、そういったものが大好きだ。
時たま仕事の関係で高級レストランや、料亭に席を設けられることがあるが、ただ物珍しいものが次々と現れるだけで、ぼくにとってはもったいない話であるが、ちっとも味覚を満足させてくれない。
だから、自らこのような場所に足を運ぶというようなことは滅多にない。
だいいち料理の名前がわからないので、注文しても何がくるのかさっぱりわからない。
まあ要するに、腹が満たされればいいわけだから、よほどまずいものでない限り、文句もいわないでイタダキマス。
どちらにしても大した好ききらいがないのだから、最近は、食べたいものより体にとって必要なものを食べるようにして、玄米と菜食に切りかえてしまった。
そして、魚はPCBを含んでいるというので、ほとんど食べないが、カルシウムの必要性から、北海の魚は時々食べることにしている。
もともと牛肉は好きだが、家では滅多に食べない。外出した時は、玄米と菜食というわけにはいかないので、この時ばかりは例外で少々の肉は食べることもある。
主食の他に、ぼくはよく間食をする。これは果物であったり、やきいもであったり、おはぎであったり、ぜんざいであったり、アンパンであったりするのだが、これさえやめれば体調は最高なのかも知れないが、生れつき甘いものが好きだから、酒の好きな人にやめるようにいっても無理なように、ぼくから甘いものをとりあげると、病気になって死んでしまう。
玄米と菜食
ぼくは二年ほど前から家庭では菜食と玄米を励行している。ぼくはもともと白米と肉類が好きで野菜はあまり好きな方ではない。ところがこのような食生活に切りかえてからというものは、以前好物だったものが少しずつ口に合わなくなりつつあるようだ。
本当は徹底した自然食をしたいわけだが、これは少々面倒なことだから、しばらくは現状のままで自然食は近い将来の理想としている。
五、六年前、動脈血|栓《せん》というやっかいな病気にかかり、両足首から先に血液が循環しにくくなって大変苦しんだことがある。そしてこれは鍼《はり》と灸《きゆう》、按摩《あんま》で完治したが、これを契機に食生活を改善することにした。
まず血液を浄化させることが健康の第一歩と考え、血液内にコレステロールを造る肉類を避け、逆に増血剤の役割として野菜類を多く取るということで、多少心理的な効果もねらった。野菜にしても玄米にしても農薬を使用している限り本来の効用は皆無ということになるかも知れないが、少なくとも生活が自然の方向に向いているということだけで気分は爽快になるから不思議だ。
病気をしてからというものは、人工的なものより自然への関心が強くなり、食生活以外の生活を少しずつ自然化してきたような気もする。このことは闘病生活中に手当り次第に読んだオカルト関係の書物の影響が非常に大きく左右しているようだ。人体を宇宙的存在と考えるようになってからは、なるべくその法則に従い、自然の流れに乗るということの重要性を感じるようになった。まあそれでもなかなか徹底できず、欲望が優先して外食の際などにはついステーキを注文してしまい、後から後悔することがある。
しかし、自分を導くのは政治でもなく、科学でもなく、自分自身を制御できる精神しかないのではなかろうか。
節約論
戦時中から終戦後の物の不足な時代に少年期を過したせいか、今日になってもどうも貧乏性が抜けきらず、ぜいたくな生活のしかたがわからない。
まあ潜在的にはぜいたくな生活にあこがれているのだろうが、現象としてはヒッピーのような生活にもひどく心が魅かれる。もしぼくが現在のような仕事をしていなければ、一方的にぜいたくな生活を享受する方向に走ったかも知れない。
ところが、物を創作する場合、原点になるようなものが豊かすぎると、どうも強烈な作品が生れないような気がし、ついなにかに欠乏していたほうがいいと考え、自らぜいたくに背を向けようと努力しているようなわけである。
最近は特殊な本とレコード以外はほとんど物らしい物も買わなくなった。物を買わなくなると癖になって? ほんとうに何も必要としなくなるようだ。意識的に節約しているわけでもないが、実のところ何を買っていいのやらわからないのである。まあもともとたいへんなものぐさだから、自ら体を動かそうとすることは珍しい。ぼくの場合は家庭内でもそうだが、仕事の面でも他人がハッパをかけてくれなければ右のものを左に動かすのも面倒なくらいの性格である。
だからくつ下の底が破けても、新しいものを買うのが面倒だから、そのままにしておくといつの間にか、ツギがあてられており、そのツギはぎのくつ下をはくことにも別になんの抵抗もないのだ。だから他人がぼくのツギのあたったくつ下の底を見ながら感心してくれるが、ぼくにはこのことが節約の意識に少しもつながらないので、感心されてもちょっと困ってしまう。
いつの間にか物を求めるより他に別のものを求めるようになったから、ついつい生活そのものが自然に節約されるようになったのかも知れない。節約といっても、外出のときはほとんどタクシーだし、ちょくちょく外国にも旅行するし、仕事場のスペースは広くなければならないので、つい家賃の高い家に住むようになり、これじゃちっとも節約ということにはならないかも知れないが……。
生活がやっと豊かになりはじめたのは五、六年前からだ。だから当時外国に旅行したさいなどあり金[#「あり金」に傍点]全部を洋服やアンチークの買物に使い果していたが、現在はそんな趣味はピタリと止まってしまった。目下、宇宙のことや古代文明への関心が日ましに強くなってきているので、ただただ頭の中でいろいろ想像するだけで、未来へも過去へも行け、それを絵にするだけで結構楽しめるので、別に物を必要としなくなったのかも知れない。
しかし人間なんてもともと欲望に弱いものだけに、ちょっと油断するとそのとりこになってしまう。こうした人間の弱さを知っているだけに、ぼくは自らをこの欲望で失いたくないので、常に自分を客観的にながめるように気をつけている。宇宙的なるものへ関心を抱くようになったのも、自らの悪に対する歯止になるのではないだろうか、と考えるからである。
このエッセイのテーマは節約論[#「節約論」に傍点]であるが、現在横行している節約ブームに便乗しろとは決していわないが、人々がもし苦しんでいるならば、それは個々の欲望に原因しているのではないだろうか。貧しい人々だけが悩みがあるわけではない。大金持になればなるほど、失いたくない財産に執着する巨大な悩みがあるはずだ。
節約ということばの中には、何か強制めいたものを感じて、ぼくはあまり好きではない。自らが精神的なものと物質的なものとのどちらにウエイトをかけるかによって節約ということばも自然に活性化されてくるはずである。
子供は神様
いつの間にか子供が中学一年生と小学四年生(1974当時)になってしまった。アルバム帳の写真を見ると一年前と今年でもう随分違って見える。長男は一・六四メートルの女房の身長と同寸になり、おそらく後二、三ヵ月で彼女を追越し、ぼくの一・六八メートルに迫り、これも時間の問題でいずれ息子に見下され、われわれ親共は下から見上げながら子供の機嫌を取らなければならなくなるのは必至だ。
子供ができるまではかなり精神的に自由だったような気がするが、子供が生れ、そして次第に成長してくるにしたがって、いつの間にか子供に対する所有欲が強調され、子供を自分の考えの枠内に納めようとする、非常に保守的な考え方に変ってこようとしている。世間のことに関しては開いた視点を持っている積りでも、こと自分の子供に関しては驚くほど封建的な父権を行使してしまう。
このことはよく考えてみれば明らかに親のエゴイズムで、子供に対する愛情というより、親であるぼく自身から子供が解放され、自由になることを最も恐れている証拠らしい。だからぼく自身が子供への執着を抱いている限り、自由になれず、結果的に、子供も絶対自由になることは不可能だろう。
一方、子供を自由に振舞わしたところで、このことが、かえって親であるぼく自身を苦しめるようなことになるなら、これも、真に子供を自由にさせてやったわけではないはずだ。子供を親のものであると考える以上、子供と親との関係は、後々まで非常に醜悪な状態から脱出することもできないだろう。このような状態になった子供にしてみれば、何も頼んで生んでもらったわけではないので、えらい迷惑なことかも知れない。
時たま子供と対立した場合、子供は、「生れてこなければよかった!」と言うことがあるが、こんな言葉を耳にした時、ぼくは背すじがゾーッとして、神の罰を受けるのではないかと恐れることがある。子供の言葉には、どこか神の意識に通ずる真理が隠されているような気がする。
自分が子供の親になって初めてわかったことは、子供は全て親を鏡にして育っているということだ。ぼくが子供に対して拒絶反応を示すことがある時は、それは結局自分自身を拒絶していることなのだ。
大人と若者がディスコミニュケーションの現代、どちらが間違っているかという議論に出合う時、親であるぼくと子供の関係に置きかえて考えてみると最も理解しやすい。子供が親の鏡であるように、若者の鏡は大人である、ということがぼくは実感としてわかる。こうなると、いくら大人に考え方を変えろと言ってもそれは不可能に近い。だから大人の考えを変えさせるためには、若者自らが自己変革をするより方法はないようだ。大人のそれを待っていると、本当に地球はあと二十年後に滅びてしまうだろう。今や親であるぼく自身も含めて、子供に教育されなければならない時にさしかかっている。
だからわれわれの世代の親が生んだ子供くらいは、本当に、真の魂から自由にさせてやりたい。
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[#1段階大きい文字] 旅行
旅の原点
ヒルティだったかエマーソンだったかが、旅に出るということは自分自身から遠く離れることだといっていますが、ぼくは一概にそう言えないような気がします。毎日の生活が忙しいせいもあって自分のことをなかなか内省しない傾向にあるため、旅はそのチャンスです。日常生活の中で解決できなかった難題がいとも簡単に解決の糸口を発見したり、またストレスが東京を離れると共にまるで夢のように解消したりすることがあります。それはあたかも肉体から霊魂が離脱していくように、精神がよりクリアーになって光り輝くのに非常によく似ています。つまり、東京や日常生活はわれわれの肉体と同じように、魂を解放させるためにはどうしても足|枷《かせ》になっているものかも知れません。
すると旅は日常という肉体感覚からの脱出であり、その点からいってもより自分自身に深く関わるチャンスでもあるため、やはり旅はより自分自身に近づくことになるのではないでしょうか。
しかし、旅はぼくにとっては面倒なことです。というのも、ぼくは大変なものぐさであると同時に危険なものに対する恐怖感が強いせいか、旅先ではなかなか大胆になれないのです。旅に出るとぼくは自分が非常に矛盾に満ちた人間であることがよくわかり、自分自身が情なくなることしばしばです。ぼくが恥しがり屋なのか、それとも失敗や恥をかきたくないといういい格好《かつこう》しいのプライドの高い人間なのか、その辺がどれが本当なのか自分でもよくわからないのですが、ともかく、自分ひとりじゃ全く旅先でも何もできない人間です。いろんな物を見たり、尋ねたりはしたいのですが、ひとりでは億劫《おつくう》になってひどい時など一日中ホテルの一室に閉じこもってテレビを見ているというようなこともあります。このようにしてテレビを見ていても決して楽しくはなく、むしろつらい方が強いのです。しかし、こうした間もぼくはぼく自身と猛烈に葛藤しているので、より内的な時間の中を旅しているともいえるのです。
ぼくは、旅することは天国や地獄を見ることでもある、と以前書いたことがありますが、まさにこのような状況は地獄そのものです。このような時、天国も地獄も自分の中に存在しているという実感が起ります。だからぼくの旅は肉体の旅ではなく、心の旅といった方がふさわしいかも知れません。心の旅といえば大変聞えがいいが、ただ五感が鈍いのか、旅から帰った後、あまり旅先の情景の印象が強くないのです。風景を観ていてもただボーッと見つめているだけでは何ひとつ明確な物の形や色を記憶していないのです。絵を描く仕事をしている者としては観察力は乏しい方でしょう。だからぼくは絵を描く時、物か写真を見なければ何ひとつ上手に描くことができません。
というのもぼくは物の形や色を目で写実するより、それに触れた時の感動に重点を置いているため、どうしても外的な物の印象が希薄になってしまうのです。そうした内的な感動をどんどん積重ねていくうちに、自分の考えや創造が個性化してくるのではないかと思います。
例えば、山の中に入って匂ってくる草木や土の香りなどが、過去の体験を想起させてくれたり、現代の都会生活を反省させてくれたり、将来への夢を抱かせてくれたり、また自然や人間への愛の観念を呼|醒《さま》してくれたり、急に創作を開始したくなったりする、こうした情感がぼくの旅の本質ではないだろうかと思うのです。
ぼくは日本中を二年がかりで旅行したことがあります。この旅行の目的は「芸術生活」という雑誌に〈日本原形旅行〉というタイトルで日本の観光地の風景を描くためでした。そしてこの旅行でわかったことは、日本中どこの観光地もコマーシャリズムで俗化され、まるで歩行者天国さながらの人の波で、このようなところではぼくの感情はひどいバッドトリップで、東京にいるのと同じような終末意識に襲われるだけでした。だからこのような場所では自然との交歓など何ひとつ期待されず、ただ定められたコースをぞろぞろと数珠《じゆず》につながれたように足元だけ見て歩く旅が大部分で、また大部分の若い人たちがこのようなパックされた旅に満足しているように見受けられました。どこのお土産屋も食べ物屋も満員で、これはこれなりの旅の哲学があるのかも知れませんが、少々淋しい限りです。
旅の目的はあくまでも旅のための旅でなければならないのではないでしょうか。それが観光地などの名所旧跡などを見ることに目的を持てば、その場所に行ったという自己満足だけでそれ以上の収穫は何ひとつないのではないでしょうか。
ぼくは以前ヨーロッパに多人数でパック旅行したことがあります。乗物やホテルや食事や言葉の心配何ひとつない、しかも安いというまるで天国のような旅行の企画にとびついて参加しました。旅行中一人になれるのはトイレくらいのもので、他の大部分は同行の日本人多数と一緒で、まるで外国にいるという印象が非常に薄く、映画館の座席からスクリーンに映る外国の風景を見ているのとちっとも変らないというなんともけったいな旅行の経験があります。
それに対して一人旅は常に孤独とある種の危険が伴いますが、一日中同じ場所で立売のピザとコカコーラで日が暮るまでパリのサクレクール寺院の石段やニューヨークのセントラルパークの芝生の上で寝ころがっていた旅の充実感などは、一日が一ヵ月も、二ヵ月もの感じがして、ぼくの頭の中は宇宙の果てまでも行ったのではあるまいかと思われるほどの想像に満たされていました。
たしかにパックされたような旅なら、冒頭の哲学者がいったように自分からますます遠ざかることになるかも知れません。だからこのような旅の仕方なら、まだ音楽を聴いたり本を読んだりしている方がよほど旅の本質に近いかも知れません。
面倒であまり好きでもない旅をぼくが好んで沢山するのは、日常を一時ストップさせ、空想の世界に生きるためです。音楽や絵を鑑賞したり本を読むことも空想の世界で遊ぶことですが、見知らぬ土地で異邦人としての強烈な孤独な体験は、例えば水の流れを見ても、道端の石ころ一つ見ても、そこに自分の感情移入ができるほど感覚が鋭敏になっています。この鋭敏な感覚から生れる空想力は非常に強烈なものとしてぼくの潜在意識に焼きつけられ、いずれこうした旅の後遺症が創作に大きなゆるぎない影響を与えるのではないかと考えると、旅は創作のための栄養でもあるようです。
ぼくにとって過去の内外の旅は、その都度作品の傾向を変えてしまうほど大きな影響を与えてくれました。そうした中でも一九六七年のサイケデリック・ムーブメントの最高潮のニューヨークでの四ヵ月の生活はぼくにとって革命的な旅でありました。また現在のところ徐々に後遺症を現しつつあるインド旅行は恐らくぼくの後半期の人生を決定する大きな要因になることは確かなようです。ぼくが生きている限り、毎年一回ずつインドに旅するつもりです。今年(1976)も来月にインドの旅を控えています。
インドは一口にいって想像の世界を超越した感動的なクライマックスの連続です。インドはぼくに無限の質問を投げかけてきます。「一体おまえは何者であるか?」という質問です。インドでの旅は四六時中内省の連続です。だから物凄く疲れます。しかし自分自身を閉じないでオープン・マインドになればぼくはまた無限の自由を得られます。インドに行けばマリファナもLSDも必要としません。インドがぼくにとってまさにドラッグによるトリップの世界なのです。
とにかくぼくは旅の最終コースはインドではないかと思います。ぼくはまだまだ世界の多くの国や土地を知りません。だからあまりえらそうなことはいえませんが、この国には言語を越えたとらえがたい神秘的な大きな力が支配しており、ぼくのような虚弱な精神の持主など一口に飲込んでしまうような怪物に似た、しかし一方、母のような大きな愛でぼくを包容してくれる安心と平和があります。
インドはぼくにとって想像力そのものの世界で、ぼくは想像力の大海の中を漂っているだけでいいのです。だから旅には何の下調べも予備知識も必要ないのです。旅を研究する人は旅そのものの本質を知らないはずです。旅は頭でするものではありません。旅は魂でするものです。インドに行けばこのことがよくわかります。インドはぼくの旅の原点であると同時に、創作の原点でもあり、いずれぼく自身の全ての母なる原点になるかも知れません。
あまり人生の早い時期に決定的なものに出逢うのは不幸かも知れませんが、すでに人生の半ばを過ぎたぼくには、このインドとの出逢いは暗闇に光を見たようなものです。しかし、この光も小さな点に過ぎません。人生の後半の旅はインドの旅に導れながら、ガンガー(ガンジス川)の水の流れのように悠々《ゆうゆう》と生きていきたいと思っています。
インド紀行
昨年の暮から今年の正月にかけて三週間のインドとネパールの旅から帰って来た。帰国後色んな人々からインド旅行の感想を求められるのだが、なかなか適切な言葉や表現が見つからず、ただ一言、「すごいところです」としか答えることができなかった。旅行前にインドについての旅行記を二、三依頼されていたのだが、帰国後何やら失語症のようなものにかかってしまい何ひとつインドを言葉に置きかえることができず、ついに原稿の依頼を断ってしまった。
この旅行に出発する前に色んな人々が書いたインドの紀行記を読んだり写真を見ていったが、それらはインドの現実の前では一瞬見るも無残に褪色し、結局インドは来てみなければその真実は伝えることが無理なのではないだろうかと早々に結論を出してしまった。
オールドデリーの雑踏の中で[#「オールドデリーの雑踏の中で」はゴシック体]
先ず驚いたのは着いた翌日訪れたオールドデリーの雑踏だった。この喧噪《けんそう》と足の踏場もないような雑踏を何と表現していいのやらぼくには全くその術がわからなかった。ただぼくの目にはそれがパニック状態以外の何ものでもないように写った。突然車から降されたぼくは無数の視線を全身に受けた。インド人の深く窪んだ大きな人を射るような目がたまらなく恐しく見えた。ぼくの目の表情一つで今にもぼくは殺されるのではないだろうかと思い、つとめて心を平静に保とうと懸命に努力した。ぼくを取りまく無数の人間の他に、自動車、荷車、自転車、力車、牛車などが犇《ひし》めきあうように人間の中に雪崩《なだ》れ込んでくる。歩道と車道の区別がないため歩くのに慣れないぼくはやっと見つけたグリーンベルトづたいに歩いていった。グリーンベルトといっても芝生などあるわけがなく、そこは人や車の洪水を逃れた避難場所といった方がふさわしい。この避難場所には頭からすっぽり毛布を被った人間が端から端まで横臥し、中には生後間もない幼児まで混っていた。そして彼等は全く微動だにせず、大地の一部と化しどこにも人間であるという証拠さえないように見えた。
ぼくはこんな世界に足を踏入れたことを後悔しながら、何ひとつ視点の定まらない自分に不信と不安を抱きながら、今にも大声をあげて泣叫びたくなった。一瞬でもある個所に視線を止れば、ぼくはその対象から攻撃されそうな恐怖感に、常に視線をあちこちキョロキョロとまるで映画のカメラがパーンするように常に流し続けていた。しかも恐怖映画のクライマックスシーンを見る時のようにうんとピントをソフトホーカスに甘くしていた。とにかく何も見たくなかったのだ。しかしもしある個所に視線を固定したならば、それは大変な作業になってしまいそうだった。実際ぼくは何でもない道端にころがっている木片の木目に目が落ちた時だった。どうしたことか木目がぼくの目を捕えて離そうとしない。木目は見る見るその図形をはっきりさせ始め、徐々に拡大させながらぼくに向って近づいてくるように見えた。辺りの喧噪が一瞬静り返ったと思った瞬間ぼくは木目の中に飛込んでいくような幻覚に襲われた。
以前ぼくはアメリカで十分余りの短編映画を観たことがある。その映画は宇宙の果と思われる場所からカメラが移動し始め、われわれの知っているアンドロメダを通過し、銀河系から、さらにわれわれの太陽系に入り、いよいよ地球に近づき、地球の大気圏を突入してアメリカ大陸に大接近し、そしてカメラはついに五大湖のひとつを写し出し、さらにカメラはその湖のほとりに浮ぶ一艘のボートを捕え、そこに乗っている若い男女の女性の方に関心を持ち、ついにその女性の左腕に迫り、その腕に留っている一匹の蚊をクローズアップし、最後には蚊の吸った女性の血液の中の細胞の超クローズアップになったかと思うと、カメラは再び後ずさりしながらもと来た宇宙の彼方まで消えてゆく……という巨視と微視の世界を描いたものだったが、ぼくはまさに木目と対面しながらこれに似た体験をしているのだった。
車道から両側に商店が並んだ路地に入ったぼくは、多少気持が落着いてきたものの、歩いている後からどすんどすんと背を押すものが放置された白い大きな牛の鼻の頭だと気づいた時は本当にびっくりした。人間の次に、木目、そして今度は牛か、と思いながら、あてもなくとぼとぼと路地を抜けていった。路地を抜けた所は再び人間の洪水で、さっきの車道にもまして人間があふれていた。この埃まみれの裸足の群衆を何と呼んでいいのだろう。これこそまさに曼荼羅界の姿ではあるまいか。
群衆の頭越しに崩れかけた建物の壁面に巨大な産児制限の看板が上っている。この皮肉な取合せが簡単に笑えないような何とも空怖しいインドの現実をぼくはまざまざと見せられた。後から押されるようにしてこの人間の波の中を流れながら、ぼくは何だか悪い夢を見ているような気がしていた。
この時何気なく見た頭上に昼間の月が白く輝いていた。それはぼくにとってとりあえずこの場を逃れる避難場所でもあった。月まで届く梯子でもあれば本当にこの場を逃れたいと思った。しかしこの月が東京で見れるものと同じ月であるということに非常に安心し、やっぱりここも地球の一部分なんだなあとつくづく思った。このオールドデリーの雑踏は一口でいってしまえば味けないかも知れないが、ここには時間はなく永遠とか無限とかいうものがあり、過去、現在、未来、そして生死が同居した、われわれのこの世界[#「この世界」に傍点]の根源というようなものがあるのではなかろうか。
エローラとアジャンタの石窟寺院[#「エローラとアジャンタの石窟寺院」はゴシック体]
ボンベイから飛行機で一時間たらずのところにオーランガバードというところがあり、さらに車で三時間位のところにエローラとアジャンタがある。ここは丘陵の岩塊を刻んで造られた石窟寺院で、ひとたびこの中に足を踏入れるとその瞬間から、この気の遠くなるような作業を想像して、宇宙の彼方は一体どうなっているのだろうと考える時、ある種の眩暈に襲われるが、まことにこれに似た感覚がぼくを捕えて離さなかった。
巨大な岩塊の内部に何階建もの建造物を想定して、それを外部から刻みながら、その実体を明瞭にしていく作業である。実体というのはすでにわれわれの中に存在しているわけだから。
それにしてもこの無限の創造力とエネルギーの背景にもし宗教的なものが存在していなければ、たとえ権力によったとしても、到底これだけのものを創ることは不可能だろう。これはまさに魂の王国の神殿である。
この石窟寺院を見ていると、ぼくは人間が人間を超越した偉大な存在、つまり神になることさえ不可能ではないということをつくづく感じた。この偉業を果すためには人間が人間だけに頼っていたなら到底不可能だっただろう。人間が未知の巨きな力の援助なくしてアジャンタもエローラも存在しなかったのではなかろうか。ぼくはつくづくこれらの石窟寺院の内部で人間と神が一体となる時が絶対あるのだということを強烈に信じさせられた。
石窟寺院の内部に立つ時、ぼくは自分自身の肉体の内部にいるような気持がしてとても安心した気分になれた。ぼくを取囲んだ周囲の天井や壁を見ていると、いつしかそれらは宇宙の天井や壁に一変し、ぼく自身が宇宙的存在であることを知らされるようだった。ぼくの内部宇宙は外部宇宙にも繋がり、つまりは外も内もひとつであるという実感がぼくを強く支配するようだった。
アジャンタの石窟寺院にある一部がどうしたことか突然工事が中止されたらしく、寺院の内部の柱や床や仏像が未完成のまま放置されているところがあった。まるで今しがた休憩時間で作業員が外出しているようにしか見えないのだが、この未完の寺院内に入ると、不思議な時間意識を体験する。ストップモーションされたこの永遠の時間はぼくに無限の想像を喚起させてくれる。一体何がこの作業を中止させたのだろう。この未完の空間には当時のアカシヤ(空間に記憶された想念)が憑依《ひようい》したように無言の歴史的事実を現代に伝えているはずだ。
この四次元空間に記録された事実をもしぼくがこの次元の振動率と一致させれば、アカシヤの記録が解読され一挙に古代の謎が解けるかも知れない、という欲求が湧いて来たが、どうやらぼくにはそんな芸当はどだい無理なことに気づいた。だから今になってはただただ凍結された時間と空間を前にしてあれこれ当時の模様を想像するに過ぎない。しかしこの静止した時間に耳を傾ける時遠い過去がまるでぼく自身の記憶として蘇ってくるような気がし、ぼく自身の生命が永遠の存在であることを教えてくれるようだ。ぼくの遠い過去生においてぼくがインドにあったのではなかっただろうか。またこの石窟の作業に参加していなかったという証拠はどこにもない。なぜぼくがこのように考えるかというと、この石窟をあまりにも懐しく感じるからである。この石窟に限らずインドの土地そのものがまるで母の匂のようにぼくを恍惚とさせてくれるのだ。こうした追体験はおそらくぼくの因果《カルマ》に導かれて再びこの地に帰って来たとしか考えられないのである。
インドの生と死[#「インドの生と死」はゴシック体]
デリーから少し南にあるピンク色の都市として有名なジャイプールへ車で向う途中、思いもよらず轢死体に遭遇してしまった。道路を横切るようにして細長く横たわった男の死体は枯木のように痩衰えていた。体に巻付いた布切もその男の死体と同じように道路にへばりついていた。どうやら轢逃げらしい。そして一条のそれは血と呼ぶにはあまりにも白に近いピンク色の血が道路を完全に横切っていた。そしてその死体の周りには小さな小石がまるでストーンサークルのようにきれいに並べられ、他の車が再び轢かないための目印の役目を果していた。またこの死体の傍にはその連れと思われる一人の男が頭からすっぽり毛布を被り、無表情のまましゃがみ込んで、通過ぎる車を目で追っていた。
この道路は畑の真ん中を走る国道でこの辺りには一軒も家が見当らなかった。そればかりか誰一人として車を止めてこの哀れな男に手を貸そうとする者はいないようだ。ぼくを乗せたインド人の運転する車もその例にもれず、一瞥しただけでスピードさえ落そうともしなかった。
ぼくは思わず声を上げて同行のインド人に驚いた表情で言葉を求めた。しかし彼はこの交通事故には全く無関心らしく、これから向うジャイプールの街の説明に余念がなかった。
その後ベナレスではあちこちでむき出しの死体を担いだ葬式の行列を見たり、ガンジス河へ集る死体や、間もなく息を引取る断末魔を見ているうちに、ぼくもいつしか冷淡になってしまったのか、さほどこんな光景にも驚きもしなくなってしまった。勿論インド人にとってはこのような風景はごく日常的らしく死体が横たわる横で目もくれず平気な顔をして野菜や果物を売っていた。ここには生者と死者の境界も区別もなく、生きながらにして死に、死にながらにして生きているという輪廻転生の思想が強烈に生きている証がされているように思えてならなかった。
インドの田舎道を車で走るとわかるのは、歩行者が車をなかなか避けないことである。まるで真正面から車に向って歩いて来るようにしか思えなかったり、車の前を間一髪で横切って見たりする。その度にぼくは何度も恐怖しなければならなかった。こうした情景は客観的に見て彼等が車をからかっているという見方ではなく、宗教上自殺を禁じられている関係、自ら死は選べないが事故死に見せかけるような死の機会を作っているのではないかとさえ勘ぐりたくなるほど、彼等はぼくの目に命を軽く見ているようにしか見えてならなかった。こんな見方は恐らく日本人であるぼくの偏見に違いないが、大変奇異に感じたのである。
一方こうして彼等の恐怖心のない生き方こそ本来の人生であり、われわれ文明人が日夜死の恐怖に怯えながら生活していることの方こそ不自然で、唯物的なのである。彼等は永遠の生を信じ、人間が霊的存在であることを知っているために、自分の死にも他人の死にも興味を示さないのではないだろうか。
こうして数々のインドの死に触れながらぼくはひとつひとつぼくを取りまいている拘《こだわ》りが払落されていくような感覚がして体が少しずつ軽くなっていくのをおぼえた。因果《カルマ》の法則と輪廻《サムサーラ》の法則が少しずつぼくのものになっていく実感にぼくは嬉しくてたまらなかった。今生《こんじよう》だけの生を考えているために人は物質的存在になり、その結果物質的快楽を求めようとするのだろう。人間が物質的存在だけではなく霊的存在であることを知れば、おのずから因果が如何に重大で輪廻転生が事実であるかがわかってくる。インドの村では星占術師によって作製された天宮図によって知らされた前世の因果に導かれて淡々と人生を愉しく生きていくという。もはやここには何のこだわりもないのだろう。
人間は数限りない輪廻転生を繰返しながら、最終的に覚者になっていく。われわれは今その途上にあるわけだが、この最終ゴールの人生に到達するまで果してどの位の異なった人生を経験しなければならないか想像だにできない。ところがこうしたインドの拘りのない人々にとっては、もしや今生の人生が肉体を持った最後の人生ではないだろうか、とぼくはふと考えてみた。こうして現象界の最後の人生を終え肉体を脱捨てた後は霊体としてより高い次元に入り、人類の指導に当る資格を得るようになるのだろう。ネールが不可触賤民を神の子と呼んだのもこんなところに根拠があったのではなかろうか。
インドの人々と自然[#「インドの人々と自然」はゴシック体]
以前カリフォルニアのディズニーランドのテラス風のレストランで食事をした時、人々の足もとに沢山の雀がやって来て床に落ちたパン屑などをあさっている風景に大いに驚いたことがあった。ここの雀には誰もいたずらをしないらしく、一向に雀は人間を恐れない。こんな風景はアメリカでもディズニーランドだけで他の場所には見られない風景だ。ここにやってくる人々は一様に童心に帰るせいかここでは生きものや植物を愛しているのだろう。
ところがインドではこのような風景は街の中でも見ることができた。デリーからタジマハール宮殿のあるアグラに向う途中朝食を摂るためにドライブインに立寄った。ドライブインといっても田舎道にある掘立小屋のようなもので床几のような手製のテーブルが外に並んでいるだけの非常にお粗末なものだ。こんな街頭の食事が慣れてしまえばしごく口に合ってうまいのである。このドライブインで食事をしているのはほとんどが長距離運送のトラックの運転手たちで、われわれがここに来た時、先着のアメリカ人が数人いたが、あまりの汚さに、遠まきにこの風景を写真に撮っただけでついに引上げてしまった。
泥でもこねるようにして作ったチャパティに、野菜カレーをつけて食うこの味はまさにインドの味で全くこたえられない。また食後独特の作り方でガラスのコップで飲む熱い紅茶の香りがインドの土の匂にあって何ともいえない心の落着きを取りもどしてくれる。
ふと気がつくと足下に何羽もの雀が集っており、中にはぼくが腰かけている台の上まで上っているのもいる。そのうちどこからともなく鴉もやってきて何の警戒もなく平気で台の上に舞降りて来たのにはさすが驚いた。雀や鴉だけではない豚や牛までやってくるではないか。ぼくはまるでディズニーの動物の出る漫画映画のようなシーンの中で人間と自然の交流が最も理想的な形で展開しているのを見て、何ともいえぬ悦びを感じた。そしてぼくはこんな風景が平和というんだろうなあと胸の内から湧起る幸福感にしばらく恍惚としていた。この人間と動物の共存にぼくは真の愛と神を感じた。ぼくはとんでもないこの汚らしいドライブインで心ゆくまでインドの根源を満喫していた。
またインドの夜明は素晴しい。このことについてはベナレスの沐浴のところでふれるとして、ここでは夜明に劣らず、インドの神秘的な夕暮の状況について書くことにする。インドの夕暮の素晴しさは天下一品である。色々なところでインドの夕暮に立合った。アジャンタの石窟寺院からの帰途、デカン高原を走る田舎道を挾んで西に日没、東に満月。西の地平線は黄金の巨大な太陽がまるで日本の海軍旗のような光芒を放って西の空を真紅に染めている。一方東の空はこれまた西の空と対照的に目も鮮かなスカイブルーの中に白銀色に光輝した満月が鎮座しており、岩肌を露出した丘陵は西日を受けて紅色に染まっている。
ぼくはこんな壮絶な夕暮を過去に一度だって見たことがなかった。この大自然のドラマの演出に神が関わっていないとは、もしこの光景を目の辺りにした者なら誰一人として否定することはできなくなるのではなかろうか。この超越的な光景をぼくは言葉で表現することができないもどかしさを感じる。この大自然の偉大な演出の前ではぼくの存在など無に等しく、神の側から見ればただの肉片にしか映らないかも知れない。
しかし、ぼくはこの瞬間ぼく自身が大自然の一部分であるという感覚を太陽と月、そしてこの地球から溢れるばかりの精霊《プラーナー》が体内に流入るのを感応した。この何もかも飲込んでしまいそうな黄金の落日風景の中でぼくは眩むような宇宙感覚に酔いしれていた。
ベナレスの沐浴[#「ベナレスの沐浴」はゴシック体]
ベナレスに来た以上、朝のガンジス河岸の沐浴風景だけは見なければ、という案内役のインド人サニーさんの意見にしたがいわれわれ一行五人は四時に起床してホテルの前からタクシーを拾った。
辺りはまだ夜の闇と濃い霧に覆れていた。タクシーの中から見る外の風景はまるで照明の消えた芝居のセットが怪物のように黒く立並んでいるだけで、街燈さえなく、何とも心もとない感じだった。河岸の近くの大きな交差点でわれわれはタクシーを降りた。数人の男が焚火を囲んで暖を取っていたが、一体何の用で彼等がこんな時間に起きているのかぼくにはわからなかった。ベナレスの一月は日本のこの頃に比較すればずっと暖いが、やはり早朝というだけで体を堅く閉じていなければ、とても寒く感じられた。
タクシーを降りて初めてわかったのだが、真っ暗な街路にはちょっと驚くほどの沢山の人々が荷物のように横たわっていた。この中には婦人も幼い子供も混っていた。また人々の中に混って数頭の牛も岩のように横たわっていた。人と牛がこうして星の天井の下で一つになっている風景はちょっとユーモラスでほのぼのとした一見平和な情景に見えるが、これらの人々は住処のない最も下層階級の不可触賤民と呼ばれる人々の群なのである。ぼくの足下で乳幼児が絹を裂くような泣声をあげた。その傍の母親が、あわてて大声で泣声を静止しているのだが、この親子の声は何か宿命的な悲運な響きをもってぼくの胸に刺って来た。ぼくはあわてて歩を早め、この声の主から遠ざかった。
ガンジス河の沐浴の場所は、度々写真で見ていた階段のあるガートである。まだ辺りは暗く、わずかな裸電球が部分だけを照しており、どこからか大きなマイクでしわがれ声の男の真言《マントラ》を唱える声がうるさくがなりたてている。ぼくは少々このマイクの真言《マントラ》には驚いたが、今から展開しようとしている日出と沐浴の劇的な光景を演出するには充分な効果はあった。薄闇の中を目を凝らして見ると黒い人影が一つ、二つ階段を下りて墨のように黒く見える河の中に身を沈めていくのが、水の音とともにわかった。ぼくは思わず身震いして首のマフラーを目の下まで持上げた。川面から吹く夜風は冷く、ぼくは川に突出した大きな石の台の上で小さく足踏をして体に熱を送続けていた。日出の五時過ぎまではまだしばらくあるが、少しずつ、辺りの闇が、黒から青に変化しながら、事物の存在を次第に明確にし始めたようである。
写真家の篠山紀信君は日出の決定的瞬間を撮るために慌てて三脚を設定し始めた。ぼくは急に落着きがなくなり、ガンジス河の日出と如何ように対決すればいいものかと、まるで運命的な出逢いの瞬間に立合った時のような気分に襲れ始めた。写真の現像液の中から画像が少しずつ浮出してくるように辺りの事物のデッサンがしっかりしてくると、ガンジス河岸に並んでいくつもの貧相な巡礼宿が姿を現し、またガートの上方には寺院が濃紺の空に塔や屋根の一部をつきさしているように、寺院の上部と空は一つの色に溶込んでおり、そのさらに上方に一つの強烈に輝く金の星があった。
ガンジスの対岸は濃い霧に覆れたままで、灰色のスクリーンを眺めているようなものだった。いつの間にかわれわれの立っている石台の周辺にも外人の観光客が現れ、カメラを取出し日出の瞬間を待ちかまえている。また巡礼たちの数は次第にその数を増し、河面に傾斜した石段をつたって冷い河の中に入っていく。老若男女を問わず、ある法式にのっとって次々と沐浴礼拝が始まる。五時を少し廻ったというのにまだ太陽は姿を現さない。すでに辺りは青から白に変り、ガートのある河岸の全貌をわれわれの前に現した。しかし対岸は依然として霧に包まれたまま、謎である。
突然足もとの石台の下から数羽の鳥が音をたてて飛びたった。またそれが合図のように後方の高い寺院から奇妙な動物の鳴声が聞えた。見上げると寺院の屋根を沢山の猿が飛びまわっていた。再び目をガンジスの上に立込める霧の中に返した時、そこには無数の小さな鳥が霧の奥から湧出るように、こちらに向ってその数を増やしていった。急に河面は色んな鳥で賑い出した。これらの鳥の出現は明らかに日出を予知した行動だった。日出はいきなり半円の形で現れた。ローズ色でおわんをふせたような半円の太陽は不思議に光を伴っていない。何だか巨大なプリンが丸い容器から逆さにこぼれたような形で、想像していたよりずっと上方にあった。ぼくはこの突然の日出に少々あっけにとられたまましばらく事のなりゆきを眺めていた。篠山君のカメラは急速に作動を開始した模様である。巨大なローズ色のプリンは徐々にオレンジ色を増し太陽らしくなってきた。ガートやそこにいる人々の色彩が次第に黄金色を帯び、太陽の真下の河面は輝くような黄金の絨毯をぼくの足もとまで敷いてきた。もしぼくがこの黄金の波の絨毯の上を歩いて行けば、このままあの真紅の太陽まで到達するのではないかと思われた。
敬虔なヒンズーの信者でなくとも、思わず合掌したくなるようなガンジスの壮絶な日出が今われわれの前で演出されようとしている。ただこのままつっ立っていることがぼくにとって何だか神に背いているような気がしたので、ぼくは皆なに知れないようにコートの中でそっと合掌し、少し恥しかったが、「人類が永遠に平和でありますように……」と神願した。
御嶽行
この夏、家族と共に知人の講に加えてもらい御嶽山に参ることになった。御嶽山の名は子供の頃からよく耳にしていたがぼくにとってはおよそ遠い存在だった。それだけに御嶽山に参るようになった時ぼくはわれながら随分変ったなあという気持だった。信仰心の強かった両親がもし生きていたらきっと腰を抜かして驚いたことだろう。
ぼくが御嶽山に参ろうとした理由は別にない。ただ知人が十数年来の御嶽山の熱心な信者で以前から何度も御嶽山についての神秘な話を聞されていただけに、機会があれば一度参ってみたいと考えていた。最近のぼくの創作の方向はかなり強い宗教色をおびてきているが今だにこれといった特別の信仰の対象を持っていなかったので、実をいうとこのような修験山に登ることにより、よりもっと深く創作や生活が宗教的なものとかかわってくるのではないかと想像していたことは確かだった。
ぼくの作品が次第に宗教色を帯びるようになってきたのはしばらく仕事を休んだ後に再開した楽園のシリーズからである。この楽園の一連はどこかの航空会社の観光ポスターのようなものだったが、ぼくはこの南の島の大自然と一体の人間の姿を想像し、ここに神の存在性を結びつけたかったのである。この南の楽園シリーズは、その後宇宙からインド的になり、具体的な神仏の登場から光のシリーズへと変化してきたが、ぼくの内部には少しも神の存在を知覚することができなかった。作品が宗教的になればなるほどぼくの自我がよりはっきり姿を現し、この内と外との矛盾にぼくは引裂かれるような想いをしなければならなかった。
だから作品の宗教的なものを支えるためにぼくは信仰の力が欲しかった。しかし、ぼくの中にはまだ信仰を求める単純な素朴さが準備されていないことを知っていた。各種の教典から神は汝の内に存在することを知ったが、その神を生かす術《すべ》がどうしてもわからなかった。神を知る教えは沢山あるが、どれひとつ実行できない自分が情ないような気がした。こんな時ぼくは一層のこと宗教的な世界の事柄などに頭をつっこまなければよかったのではないかとさえ後悔することがあった。
頭で神を求めるのではなく、理屈を超えた内なる行為が欲しいのだが、この欲しい[#「欲しい」に傍点]という欲望がまた心を曇らすのである。宗教書ばかりにかじりついていることがいつの間にかムードになってしまいまるで宗教マニアという最悪の泥沼にいる自分を発見して愕然としてしまうのだ。
少し話が外れたが御嶽山参りにしたって宗教趣味といえばそうかも知れない。しかし次の段階は別として現在のぼくにとっては身の周りを宗教的なもので埋めつくすことがぼく自身から離れることの第一歩になるのではないだろうかと考えている。こんなぼくを他人から見ればまるで頭が変になったのではないだろうかと思われるかも知れないが、人一倍我執の強いぼくがたどらなければならない過去生からのカルマ(因果)の道だから仕方ないとあきらめている。
しかし御嶽山参りは趣味にしては非常に厳しいものだった。たかが山登りくらいと思っていたのが実際大間違いで、ついに足の爪を剥すに至るほどの苦痛を味わなければならなくなった。カルマを多く背負った者ほどこの山は苦しいという。時には死者が出るというだけあって、途中で何度挫折したくなったかわからなかった。われわれの講の人達は皆熱心な御嶽信仰に裏づけられているだけあって音を上げている人は誰もいない様子だ。山を登るにつれて首の数珠までが重くなって来た。これはいよいよ大きなカルマを背負ったせいだと観念し、何とか六合目までたどり着かなければならないと思った。六合目まで登れた人はカルマの荷が落ちて後は頂上まで楽に行けるというのだ。このことは実に不思議で、六合目から宿泊予定の九合目までは本当にスムーズに登ることができた。
その夜ぼくは九合目の山小屋で不思議な夢を見た。この夢はビジョンをともなわない観念だけのものだった。その内容は、〈ぼくが現在この世に生を受けているのも偶然ではなく全て必然のなせるわざで、ぼくの過去生からのカルマと先祖、そしてあらゆる時間と空間がからんだ結果である〉といった内容のものと〈時間には長短がなく、したがって時間が存在しないともいい、例えば幼児の死と老人の死の時間にはその差異はなく、人の一生内では皆同じ時間分量が働いているといい、今後は時間の単位が少しずつ変り、季節感さえ混乱し始めるだろう〉という少々予知めいたものだった。
山小屋から拝む御来迎《ごらいこう》は格別だった。まだ下界は雲海の下で夜のとばりに黒く塗りつぶされたままだった。濃紺の空にはまだ沢山の星が残っている。やがて東の空の一部が血を流したように一筋の赤い帯を空と雲海の境に引始めると、足もとの岩肌が濃い紫から虹のようなオレンジ色に変っていった。ぼくのすぐ前の大きな岩陰から一羽の鳥が影絵のように飛びたった。下界の綿のような雲海が次から次へと万華鏡を見るような不思議な波状を光の中に展開している。突然光線銃を浴びたような眩しい光が雲海の彼方からぼくを目がけて撃って来た。一瞬辺りは黄金色に包れ、無数の小さな光の粒子が飛散った。御嶽山の劇的な夜明である。ぼくは来てよかったと思った。
頂上を越えての下山は登りよりも厳しかった。足の爪を剥したので体重がかからないために始終後向きになって下りなければならなかった。登りに七時間、下山に四時間かかった。下山して頂上を見ると二、三十分で走って登れそうに見えた。御嶽山から立去るのが何だか惜しいような気がしたが、一方早く体を横たえたい気持でいっぱいだった。握りしめたままの杖を見ると二、三センチ短くなっていた。ぼくの作品がぼくをここまで導いたという実感が急に起って来た。
あだし野にて
死体置場、あるいは火葬場で「死」について語ってもらえないかという最初の編集部からの依頼に、ぼくはある種の誘惑と同時に拒絶反応が起った。
死について語ることは、ぼく自身を語ることでもあり、よりぼく自身を知ることでもあり、要するにこのことはぼくのテーマでもある。だからぼくはこの仕事を引受けたくて仕方がなかったが、訪ねる場所があまりにも現実的で、ぼくにとって少々むごたらしい感じさえしたのだ。ぼくはこんな死臭のたちこめている場所より、むしろ山とか、高原とか、海などの美しい自然の中で死を語ることを希望した。
このことは、明らかにぼくが死を避けている証拠でもあろうが、もし美しい自然のバイブレーションの中で死を語り始めたら、ぼくはきっと「生きること」を積極的に考え、そして死を恐れない考えが湧起ってくるに違いないと察したからである。
京都の嵯峨に「あだし野」という所がある。そしてここに念仏寺という、数千の無縁仏が境内に眠っている寺がある。ぼくは編集者とそこへ行くことになった。京都駅からタクシーに乗ると、不眠症気味のぼくはすぐウトウトと居眠りを始めたらしい。どのくらいたったのか、ハッと目を覚すと、眼前に青々とした緑の山がフロントガラスいっぱいに映り、その濃い緑と対照的に、真っ赤な「たこやき屋」ののれんが目に飛びこんできた。
ぼくは咄嗟に運転手さんにストップを命じ、たこやきを編集者に要求した。別にたこやきが食べたくて車を止たわけではないということが、たこやきを口にしてはじめて気がついた。目が覚めた瞬間、突然襲いかかった緑と赤の強烈な原色が、ぼくの意志と無関係に、反射的に口が勝手に、「たこやき!」と叫んでしまったようだ。
念仏寺の小さな山門をくぐると、すぐ目の前に無数の小さな石仏が、午後の低い日ざしを浴びてキラキラと、そのアウトラインをまるで後光のように燃やしていた。若葉の香りとともに、一瞬フッと目まいを起すような、何ともいえぬ恍惚とした線香の臭いがぼくを包んだ。
以前、線香の臭いはぼくの中で常に死のイメージと結びつき、とても不快なものだった。ところが最近、ぼくは線香の臭いを嗅ぐととても気持が落着いて、安心するのだ。簡単にいえば宗教的雰囲気の中で無限の時間を感じるのである。そこには生死の境界もなく、ただ永劫の流れの中にあるぼくを発見し、なんともいいがたい幸福を実感するのだ。ぼくは何度も何度も線香の煙を手ですくいあげ鼻の頭にもってきた。
しだれ桜が美しく咲く下で住職の原辨雄さんの話をきいた。
死についてなど考えない方がいい、くよくよ考えたって死はいつか必ず誰もが経験しなければならないことなのだから、それより、インドの話をしましょう、ということになり、ついつい厚かましく家の中に上り込み、住職さんのインドやソビエト旅行のアルバムを拝見しながら、話題はいつしかヒマラヤの壮絶な夕焼の美しさに移った。ここ数年インドにあこがれ、インドを思念し続けながらもまだインドを知らないぼくがとても恥しい気がした。
毎年インド行きの計画を立てるのだが、その直前になると急に怖くなってやめてしまうのだ。もしインドに行けば、ぼくのインドへの夢は破られ、そして仕事ができなくなってしまうのではなかろうか、というケチな料簡からだ。恐らくインドの現実は、ぼくの想像力さえも凌駕し、ぼくを粉々に解体させてしまうに違いない。求めながらも、一方で拒否するぼくの内部には、ますます非現実的なインドが増殖するばかりである。
インドを想うことは死を想うことであるぼくにとって、インドとの出逢いができるだけ劇的で運命的でありたいと願うし、またそれと逆に、大河ガンジスのゆうゆうとした流れの一部分のように、静かに混りたいという気もあって、いまだにインドを知らないのだ。しかし、ぼくの魂は確実にインドに歩み続けているし、いつかインドは必ずぼくを必要として招き入れてくれると確信している。
いつの間にか陽も沈み、あたりは暗い紫色一色に染めぬかれ、境内のしだれ桜だけが青白く印象的だった。ついさっき、家に入る前出逢ったばかりのチベットの僧侶が立っていた境内のその場所に、あの、僧侶が着ていた燃えるようなオレンジ色の聖衣が、今なお強烈な残像となって紫色の風景の中に浮びあがっていたので、ぼくは一瞬びっくりした。
住職の原さんに見せられた数枚の宗教画に憑依《ひようい》されたぼくは、これらの作品に導れるように、原さんの御案内で、近所にお住いのその絵の作者、杉本哲郎氏を訪ねることになった。ぼくはこの絵を見た瞬間、本当にぼくの未来が決定したような気になった。ぼくが追求めていたものがここにあったからだ。ぼくはこの瞬間から宗教画家になろうと決意した。
お話の中で杉本氏は言われた。
「芸術から宗教を取れば一体何が後に残るだろう」
このたった一言の杉本氏のことばがぼくをいかにふるいたたせ、勇気づけ、ぼくを開いてくれる糸口になったかは想像におまかせする。実際ぼくはいたく感動し、ここに創作の原点があり、これ以上求める何ものもないことを悟ったような気になった。
ぼくが宗教的なるものに関心を抱始めた直接の原因は、恐らく死の恐怖を避けたいからだったと記憶する。それは、いつまでも生続けたいという肉体に対する執着があまりに強過ぎるため、いつしか死ぬことが怖くて仕方なくなってしまったのだ。ぼくが最も欲しいものは、いうまでもなく死の覚悟である。ぼくを救済するのはぼく自身でしかなく、それは死を覚悟することにより達成されると思う。恐らくこのことはぼくが生きている限り続くテーマであり、もちろん創作もこのことを抜きでは考えられない。
ぼくが宗教的なるものを創作の素材にしながら一番悩むことは、画面の内側と外側の世界の、あまりの矛盾についてである。宗教的なるものを描くことは、いうまでもなく自我との激しい葛藤であり、矛盾の露出であり、偽善的行為でさえある。しかし、ぼくはもうこのバルド状態(生死の中間状態)から身を引くことさえできない深みに立ってしまっている。聖なるものを求めると同時に本能的なるものを求める――このどちらともつかないバルド状態が、ますますぼくを死の恐怖に追いたてる。
杉本氏は、「死の恐怖は死の側ではなく生の側にあることを知ればちっとも怖くないではないか。死とは今日から明日に移りゆく午前零時の一瞬に過ぎず、しかもこのような一瞬は無いことと等しい。死の恐怖の克服は愛の精神以外にない」と語られ、ぼくは本当に感心して聞いたものだった。今のぼくにはまさにこのことを知覚し実感すること以外にないのである。しかし、この簡単な真理がなぜ、ぼくのものにならないのだろうか。ゴールが見えているのだが道が見えないのである。
杉本氏が宗教画家になられたのは、宿命的なものが大きく支配している、というようなことをおっしゃった。ぼくは現在、宗教的なるものを愛している。このこともぼくにとって宿命なのだろうか。
ぼくは死後の世界も来世も信じている。だから、宗教的なるものを愛することもできるし信じることもできるのだろう。今生で達成できなくとも来世で達成したいと願うし、今生におけるさまざまなことは来世にその結果が現れるとすれば、今生の宗教的なるものとの出逢いは、ぼくにとって最高に喜ばしいことででもある。
カルマの法則を信じれば、ぼくの来世には今生以上の苦しみが待っているような気がして死後の世界も来世も恐しいが、ぼくは「チベットの死者の書」に導れ、自分の宗教画に導れて、杉本氏流に表現すると、自由席から指定席の乗客になりたいものだ。
杉本邸をあとにしたのは、夜も十時をまわった頃だった。あだし野の空には星がいくつもきらめいていた。この夜、ぼくはどうしたことか朝五時近くまで寝つくことができず、ホテルの窓から京都の夜景をいつまでも眺めていた。夜が白み始めた頃、東山の上に一段と輝く金星が現れた。ぼくは急に疲労を感じ、あわててベッドにもぐった。
睡眠不足のまま、瀬戸内晴美さんの家を訪ね、秋から連載が始まる新聞小説の挿絵の打合せと、ちょっとした取材の真似ごとなどかねて嵯峨野あたりをぶらぶら。瀬戸内さんの法衣姿が目に沁みるように美しく感じられた。ぼくは惚れ惚れと、瀬戸内寂聴尼をいつまでもしげしげ眺めながら、とてもうらやましく思った。
夜は大好物の「大一」のすっぽん料理を食べに行き、ついに味付用の酒に酔っぱらい、寂聴尼の法衣のすそに横たわってしまった。
風景を求めて
ぼくは子供のころから風景が大好きだ。風景は白いキャンバスのように、ぼくの想像力の源泉となっている。そういう意味では音楽と似ているところがある。
想像力の活性化は、肉体から魂が離脱した瞬間に起こる。白いキャンバスや音楽が瞑想の対象になるように、風景もぼくを肉体の重力から切離して、意識と無意識の狭間を彷徨させてくれる。この時、ぼくは風景の生命力に触れ、宇宙の根源に向おうとしている自分を発見し、ぼくの肉体から切離された魂の実体は、それ自体が想像力であり、この時風景と一体化され、ぼく自身も自然の一部分になってしまう。想像力が枯渇する時、それは肉体に固執しているからである。例えば、夢の世界での肉体感はほとんど希薄である。その証拠に夢の世界全てが想像的であり、芸術的である。
ものを創造する時、ぼくはでき得る限り意識と無意識の中間地帯から栄養を補給するようにつとめる。そのためには常に瞑想が必要で、風景はぼくにとって瞑想をより深く掘下げてくれる。
ぼくは子供の頃から日本の田舎の風景の中で育った。この日本の風景は貧しかったが、どこか美しい。しかしこの貧しさが逆にぼくのイメージをかきたててくれた。こうした風景の中でぼくはいつも都会を夢見てきた。そしてぼくは今憧れの都会に住んでいる。この都会はぼくの想像の産物であり、過去の思念の結果としての土地でもある。ぼくは今都会を想像する必要がなくなった。この都会はいつの間にかぼくの肉体になってしまった。ぼくは今この都会という肉体を脱捨てなければ生きていけないところまできているように実感する。
二年程前からぼくは、時間の許す限り日本の田舎を旅行している。この旅行の仕方は観光旅行的で決して正しい旅行の方法ではないかも知れないが、少なくとも東京という肉体を脱出するだけで、もうこれは充分に想像的である。肉体の移動は風景の移動でもあり、また想像力の旅でもある。
しかし、この二年ばかり日本中を旅行し、ぼくは非常に幻滅した。というのはどんな場所にいっても、そこは東京的感覚で汚染され、もはやぼくのイメージの中の日本の風景はどこにも発見されない。風景画のコツとして、風景の中に人間を描写すると、画面の風景は急に生き生きとする。それと同じように、もともと人間と風景は素晴しい関係にあり、この両者の関わりが、風景を美しく創上げている。
ところが今日、人間は風景と関わり過ぎてしまったような気がする。風景の中に人間があるのではなく、人間と人間の隙間に風景が閉込められてしまったような状態である。日本各地どこへいっても人間、人間、人間である。想像力をかきたててくれる風景なんてほんの一部である。昔の人々は風景と人間の関わりの美学を知っており、ある一線を越えようとしなかったはずだ。現代人の欲望をかき乱し、そして想像力まで自らの手で破壊してしまった。
ぼくは今、本来風景画として成立しにくい人間を描写しない自然のままの風景を描いている。これはぼく自身の才能の問題もあろうが、とても至難の業である。料理に調味料を使用しないで味をつけようとする作業に似ており、非常に困難であるが、人間がかつて地球上に立つ以前の風景こそ、今ぼくは最も美しい風景だったのではなかろうかと考える。(この考えが間違っていることを願いながら……)
バートン・ホームズの撮った古い日本人の写真を見ると、そこには、人間がまるで木や土や草で創られたような自然で素朴な姿をしている。今日的なアングルで眺めれば決して美しいとはいえないかも知れないが、それだけに彼等は自然や風景の中に溶込み、それこそその一部分であったことを証明しているような気がする。
想像力の根源は自然や風景の聖霊に触れることにより活性化される。だが、もしこのまま日本の自然破壊が続くなら、日本人は一人残らず、心を持たない機械の一部になり下ってしまうこと必定である。
参禅記
ぼくが一度坐禅をやってみたいと思うようになった最初は昨年「芸術生活」誌の取材で福井の永平寺に立寄った時からである。案内役の若い雲水僧が、「ここの参禅はなかなか厳しいですよ」といった時、ぼくはすでに心の中で来年の夏の参禅を堅く決心した。そして参禅申込書をもらって帰った。
その後色々な人々から参禅の話を聞いていくうちに、参禅生活の厳しさが手に取るようにわかり、次第に億劫になっていった。そして禅のことも完全に頭から離れてしまったある日、川崎にある総持寺の宝物館のオープニングに個展をやってほしいという話が舞込んで来た。早速総持寺に下見に行くことになり、監院《かんにん》と逢ったり、精進料理を頂いたり、禅堂を見学している間に、ふと永平寺で決意した坐禅のことが想い出され、その場で参禅を申込んでしまった。こうして発作的に決めてしまったのも何かの因縁があるのかも知れない。
一人で入るのも何だか心もとないので友人の人形師四谷シモン君を誘って六日間の参禅を決めた。いよいよ寺に入る当日になって急に女房も参加することになった。われわれ三人の他に、ぼくの個展を企画してくれた関係の二人を加え計五名が一つのグループとして個室を与えられた。皆な坐禅の未経験者ばかりで、一体どのような生活が始まるのか誰一人予期できず、ただわれわれは毎回の指示に従って行動するだけだった。ここでは全く個人の自由もなく、全て参禅係の雲水の意志に従わなければならなかった。こうした経験はぼくにとっては全く初めてのものだっただけに最初は何だか楽しく、自由意志を持つことができないということがすでに悟りへの道に違いないと決めつけて勝手に喜んだりしていた。参禅期間は自室以外一切の私語は慎まなければならなかった。また院内を歩行する時は叉手《しやしゆ》といって左手親指を中にして握り、手の甲を外にむけ、右の手の平をもって左手の甲に重ね、ミゾオチの辺に置き、人と出逢った時はその手を顔のところに持ってきて合掌しなければならなかった。だからここでは全く雲水達と同じ作法に則って非常に厳格に生活しなければならないと教った。
われわれの生活は先ず午前三時半に雲水の廊下を全速力で疾走する鐘の音で起床する。この時間はわれわれの下界の仲間が床に着いてそろそろ眠りに入る頃だ。この時間に起きると不思議に優越感などあって、何か非常に立派な事をしているような気になるものだ。坐禅は四時から始まるわけだがこの間はまるで戦場のようだ。他の数十名の団体参禅者に奪れないように、起床と同時に洗面場に駆込み朝の用を足し、部屋に戻って寝床を片づけ、三階から一階にある禅堂に時間がないので走るようにして行く。
一般参禅者と雲水達の禅堂は廊下を隔てて建物が別になっている。禅堂の中は凹字型が向い合った形になっており、その外側にさらに二つの凹字型の部屋を囲むように細長く畳が壁にそって敷いてあり、禅堂の中は昼間でもなお薄暗い。向いの建物にある雲水の僧堂(禅堂)は、ここが彼等の生活の場で、坐禅が生活の中心になっており、食事も寝起きもすべてここで営れ、一人の雲水が占有するスペースは畳一枚で、それに函櫃《かんき》という物入がついているだけだ。
禅堂に入るのも坐り方にもすべて作法があってそれを間違いなくやらなければ、雲水の容赦ない言葉が飛出し、われわれはいつも気を抜くことができない。坐禅が始まる時|止静《しじよう》といって小鐘が三つ鳴る。これを合図に坐禅を開始するわけだが、少しでも姿勢が崩れていると容赦なく警策《きようさく》が入る。警策は樫の棒の先を平たくしたものだが結構痛いのである。最初叩かれた時などは五分位痺れたままだった。女房などは紫色に斑点ができた。そこで彼女は参禅係の単頭老師に、「私達はプロのお坊さんになるために坐禅をしにきたのではありません」と厳しい警策に抗議を申込みにいった。そのせいか二度目からはそんなに強い警策は入らなかった。しかし警策を構えた僧の影が目の前の壁に映る時など思わず肩に力が入り背筋を恐怖が走る。だから最初のうちは警策の恐怖ばかりに気を取られ坐禅に身が入らなかった。早朝の坐禅は四十分で終り、この後長い地下廊を渡って大祖堂に朝課(朝のお務)のため入る。ここは畳の数だけでも千畳近くあり、板間まで合せると二千畳は優《ゆう》にあると思われる大広間である。
朝課はだいたい五時頃から七時頃までかかり、この間荒神真読といって般若心経、荒神真言、伝灯|諷経《ふぎん》、大悲心陀羅尼、御両尊諷経、祠堂諷経などのお経が四十人位の僧によって上げられる。われわれ参禅者も僧と共にお経を上げなければならない。お経と共に色々な儀式が次から次へと目の前で展開していくのだが、これは毎日見ていてもなかなか飽きがこない。ひとつひとつの動きは、大太鼓と鐘、そして大木魚によって伴奏がとられ、次々とまるで能舞台でも見ているように見事に朝課が進行して行く。特に経典を運込む雲水僧のすり足の動きが、美しく何ともいえない清楚なエロティシズムさえ感じる。そしてこれに伴って見事な演出は、何といっても六百巻の大般若経をアコーディオンを大きく開くようにして、パラパラパラと何やらわけのわからないいい加減なことをいって、次から次へと読んでいくシーンは何といっても朝課のハイライトとして圧巻である。ここに至っては能や歌舞伎に匹敵するひとつの芸能として独立した美学になり得るのではないだろうか。
またぼくが好きなものに荒神真言というのがあってこれはインドのヨーガのマントラ(真言)風で、〈オンケンバヤ ケンバヤ ウンバッタ〉と二十一回ゆっくりと繰返すわけだが、このマントラはまるで地底王国のシャンバラから聞えてくるアデプト(超人)達の波動音のようにぼくの体の中に重々しく響渡る。このマントラは地球を包み、そして太陽系の星々に輪を展げ、ついには宇宙の果まで波紋を展げていっているのではないだろうかと思われるほど大きなエネルギーを持っているのではないだろうかと思われるほどだ。
荒神真言と共にもう一つ真言《マントラ》風に唱える大悲心陀羅尼というのがあるがこれまた〈ノラキンジー ソモコー モーラー ノーラーソモコー シラスーオモギャーヤー ソモコー……〉という具合に、この二つの真言はその辺に転がっているプログレッシブ・ロックなど足下にさえ及ばない素晴しい演奏と共にぼくの魂を震撼させる。音楽にしろ何にしろそうだが、魂を震撼させるその背後には何か精神が強く凝縮した非常に高次な宗教的ともいえる高揚がなければならないような気がする。
約二時間に渡る朝課が終る頃十月中旬の朝が白々と辺りの物の存在を明確に描き始めるのだ。部屋に帰って先ず部屋の掃除をし、約三十分の休憩の後食事が始まる。朝食は粥《かゆ》とおしんこに塩。食事も参禅時の行法の一つと心得て待たなければならない。食事に当っては行鉢念誦《ぎようはつねんじゆ》というお経を上げなければならない。粥はすでに冷えきって水分もなくまるで大和糊のようになっている。おしんこ一つ食べるのもいちいち器を手で持上げてから箸で挟んで口に運ぶので、食器の上げ下しに結構忙しい。また食べ終ったらひと切のおしんこを残して食器にお湯をそそぎ、器の中身をおしんこできれいに洗ってそれを最後に飲みほすのである。
食事当番というのがあって、この時は他の団体客の食事の用意や後仕末をやらなければならない。自分の食器さえ一度も洗ったことがないぼくはここで生れて始めて他人の食器をしかも膨大な量を洗わなければならなかっただけに、これには少々参ってしまった。
朝食後はしばらく部屋で休憩し、再び坐禅が開始されるが、家にいる時ならすでにこの辺りで一日分の仕事が終ったような気がするのだが、ここでは一日の四分の一がやっと消化されたところだ。時間は八時になったばかりである。二度目の坐禅が始まるのだが、いつもこの時に急に睡魔が襲ってきて瞑想の邪魔をする。また瞑想中に起こる想念といえば、全く想像だにしなかったくだらない事柄が想起され、気がつくと長々とこの想念に引きずられていることが実に多い。それも我欲に関係のある想念がほとんどで自分がつくづく情なくなってしまう。禅の高い境地を体験したことのないぼくにとってはこんな低俗な煩悩ばかりでうんざりしてしまうのだが、こうして坐っているだけでもう一人の自己が露出してくるだけでも自分を知ることになるわけだから、考えようによっては潜在している粗雑な自我の放出には少しは役に立っているのではなかろうかと思うのである。なかなか無心になるということは難しいが、しかし訓練によってこのことも可能になるのかも知れない。時たま異次元にいるような体験をすることがあるが、これは覚醒状態における体験なのか、それとも睡っている状態なのかその辺りが自分では判断できなかった。
ぼくは少し以前からヨーガをやっているのだが、ヨーガの瞑想法と異なる点がかなり多く、ぼくにとってはやはりヨーガの方が上手くいきそうな気がするので、こうして坐禅をしていてもどこか身が入らないのである。禅がヨーガより劣るというのではなくぼく自身の中身の問題で、もっと禅に対して素直な気持にならなければたとえ何時間坐っても何にもならない。こんなことを考えながらいつも警策や放禅鐘(坐禅が終る時の鐘)を気にしながら坐っていた。
朝食後の坐禅が終って昼食までの間に、作務ともう一度坐禅がある。作務というのは禅堂や廊下、あるいは庭の掃除をすることだが、これは子供心に帰れるチャンスであり、作務が終った後のすがすがしい気分は、まるで心が洗われたようで、またしても大したことをしたような気になってしまうのだ。如何に日頃、他人のために奉仕をしていないかという証拠だ。
昼食はご飯にみそ汁、そしておしんこだ。みそ汁とおしんこだけではどうしてもどんぶりのご飯が全部食べられないのでぼくはいつも半分残すことにした。残す場合は先ず最初にどんぶりの縁に取って置かなければならない。この残したご飯は餓鬼のためのもので、境内の鯉や鳥や虫にあげるのである。食事の開始と終了は全員が一致しなければならないのでどうしても全員が早く食べることになる。終った後はご飯の器の中に他の食器を入れて、目の高さに薬指と小指を器に触れないようにして、両手で顔の高さまで持上げて台所まで運ぶことになっている。薬指と小指は不浄とされているようだ。
昼食後約一時間の休憩があり、再び坐禅が開始されるが、この時は一時間以上になる。長時間にわたる坐禅の時は経行《きんひん》といって鐘二声が合図で組んだ足を解き台から下に降り、床面を半歩ずつ前進する寂黙緩歩の法を行う。この経行も坐禅の一つに数えられている。しびれた足を直すためにもこの行法は大変気持がいい。床はコンクリートになっており裸足に冷い感触が伝わり何とも心地いい。
この長時間の坐禅の後は講堂に集って単頭老師の講話がある。この老師の講話はきまって良寛の話で、良寛がいかに底の抜けた人間であったかということ、これは風鈴と同じく南から風が吹けば北に揺れるが如く、打てば応えるという良寛の生き方が禅の心を表しているというような内容で、この老師は大変良寛に心酔しておられ、老師自身どこか底が抜けているようにわれわれはお見受けした。
講話の後少々休憩があるのだが、この頃になるとわれわれも相当疲労の色が見え部屋に帰るなり全員横になってしまう。また糖分が欠乏するのか、甘いものが欲しくなるのだ。二、三日経った時同室の幡磨さんという七十三歳の方が売店でアメを買って来られた。ぼくはこれを見るなり咽から手がでるほど欲しかったが、何だかここで誘惑に負けたらおしまいだと考え、折角のこの老人の好意をお断りした。しかしついに四日目には全員がそれぞれ都合のいい理由をつけて甘いものを口にしてしまった。
夕食の前にもう一度坐禅があるが、ぼくはこの時が一番気持が落着くような気がした。屋外では境内で遊ぶ子供達の声や、鳥の声、遠くを走る電車の音や救急車のサイレンなど一日の内で最も音の種類が多くなる時だが、不思議と心が落着く。ヨーガの方で重要視するのだが、日没には地上のプラーナが充満して辺りが活動的になり、瞑想に最も適した時間になる。この時間になると今朝の朝課がまるで一日も二日も前のように遠い気がする。ところが夕方の坐禅の後夕食があり、就寝の九時までまだ二回坐禅が待っている。入浴のある日は一回で済むわけだが、この入浴も坐禅の行の一つに数えられている。風呂の中では一切話をしてはいけないことになっている。また浴室に入る時は入口の賢護大士に三拝して入浴するのが法になっている。入浴の後、院内の暗くてとてつもなく長い廊下を一人で自室に帰る時がぼくは一日の中で一番好きだった。この廊下を渡れば長かった今日一日が終るのだという感慨を胸に抱きながらキュッキュッと泣くように鳴る廊下を渡る時はちょっと感動的だ。もう辺りはすでに暗くなり昼間沢山いる鳩の姿も子供の影も何ひとつなく、風呂上りに心地よい夜風が顔を撫ていくだけで、この場所が地上から離れた遥かな高い所にあるような気がして、奇妙に心が高揚するのである。
六日間の参禅はわれわれにとっては非常に長い時間だった。ひと口にいって毎日がつらい日々だった。体重が四キロ減ったが、これがぼくの自我の重さであってくれれば何より嬉しいのだが、やはり脂の目方だったのだろう。参禅中ぼくは何度も何のためにこんな生活をしなければならないのだろうという疑問がわいたが、このことについては深く考えぬことにした。理由《わけ》を考えないことが禅の道でもある。明日からまたぼくはヨーガの瞑想に帰るかも知れないが、心と肉体をひとつにすることにおいては両方共同じことだろう。今回の参禅生活に於てぼくは全て受身になることができなかったことがぼくの内に葛藤を起し少々苦痛を生んだが、次の機会には徹底的に風鈴のように受身になってやろうと心に決めている。
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[#1段階大きい文字] 思索
自然美
ここ一年ばかり、ある雑誌の企画で全国を旅行し、各地の風景を絵に描く仕事をしている。
北海道には北海道の風景、九州には九州の風景があるにはあるが、それらはごく限られた場所だけで、おおむねどこへ行っても同じだ。
車が通れそうな道はすべて舗装され、東京の道路の延長を走っているという感じで、車窓から見る風景も、いわれなきゃ、北海道か九州かさえ区別がつかない。
全国各地に一キロおきぐらいにボウリング場はあるし、同じ形の建売住宅が並んでいるし、ミニスカート、ジーパン、長髪は東京と変らないし、これじゃわざわざ旅行して絵を描く必要がない、とさえ考えてしまう。
まあ、それが証拠に、実際帰京して絵を描くときは、お土産屋で買ってきた絵はがきを参考にして描くのである。第一、絵はがきの場所さえ、現地でさがすのはむずかしい。ひどいのになると二十年程前の風景が絵はがきになっており、現在の密集した家がどこにも写っていないのである。
最初の絵の発想は、いまのうちに日本の自然を描いておかねばあと数年もすると描けなくなってしまう、と思って旅行に出たはずだったが、もうすでに自然破壊はどうにもならないところまで進展してしまっている。風景画のコツとして人間を描きこまない風景画は、なかなか絵になりにくいのである。ところが現実の風景はどうだろう? 人間が風景の中に入過ぎてしまったために絵にもならないような風景になってしまった。
スモッグで山はかすみ、夜空の星もない。道路のために山は切りくずされ、山の頂上にはドライブインや展望台、海岸線には工場が建並び、海水は廃液で色が変ってしまっている。
ぼくが求めていた風景は、古い絵はがきの中にしか存在していないようだ。だから、この古い絵はがきを見ながら、ぼくの心の中にある、太古の風景を描くことにした。つまり人間が風景の中に現れる以前の風景である。ここには人間がいないので、欲望もない。
少し以前までは人工的な美が美しいと思った。しかし、今ぼくはこの旅行の終りに近づき、自然の美に勝るものはないという確信を持つようになった。
遅れている科学
先日のテレビ放送でのユリ・ゲラーの超能力ぶりをブラウン管を通して多くの人々が目撃した。そしてあの時の興奮と感動は今でも生々しくぼくの全身を電気のように駆けめぐっている。
そしてまた、その数日後やはり日本の超能力少年といわれる関口淳君に逢う機会があり、そこで淳君がぼくの目の前で見せてくれた光景は、もはや神の力が作用しているとしか信じられないようなこの世の奇跡の数々だった。
四本のスプーンに前後左右と書いたものを同時に宙に投げ、「前後左右に曲れ!」と命令すると、スプーンは目にも止らぬ超スピードで一瞬に指示通りの方向に曲って落下してくる。
これだけではない、数本の針金を同時に投げて、「輪になれ!」というと、オリンピックのマークのように連結した輪になって再びぼくの足もとに落下してくる。このような調子で次々、針金が指示通りの横文字になったり、飛行機になったりするのだ。ぼくはあまりの驚きに思わず目から涙をあふれ出したほどだ。
淳君が心の中に描いたイメージを、念力によって一瞬の間に何の人工的な方法も加えずに形象化してしまうのだ。この現代の奇蹟ともいうべき出来事は、いまだ科学者がだれ一人として解明しておらず、われわれの前にはただ、不可思議な超常現象の一種としてしか存在していない。
淳君の奇蹟[#「奇蹟」に傍点]は彼の心の働きが物質に影響を与えたものと考えられるが、淳君に限らずわれわれの日常生活の中でも、知らず知らずのうちにこの心の働きを応用して念願をかなえたり、あるいは危機を脱したりしているはずだ。ただこの宇宙の力ともいうべき偉大な力が人間の内部に潜んでいるという事実を認知し、意識化していないだけの話である。
現代の科学は物質繁栄のための科学になり下ってしまい、真の人間の幸福のための科学が、心の探究にあるということを忘れてしまっているのではないだろうか。
というのも大部分の科学者が超常現象を何かの錯覚であるとか、幻覚である、という具合にいとも簡単に彼らの固定した合理主義的な概念で片づけてしまい、なかなかそうした非合理の世界にメスを入れようとしない。それは彼らがあまりにも学会を意識した出世主義的人間の集りであるからではなかろうか。
今や科学がこの世の中で最も遅れた存在になっているような気がしてならない。
直感力
三年ほど前からぼくは夢日記をつけている。こんなことを始めたそもそもの原因は、父の死を暗示する夢を見てからである。このような夢によってぼくはいろいろの未来に起こる出来事を予知させられた。父の死をはじめ、実母の死、近くの家の火事、爆発事故、自分の交通事故、あるいは仕事のアイデアなど、ぼくは夢によって随分と導れているような気がする。
このように考えてみると、夢はまるでぼくの守護神のような気になってくる。夢は日ごろの願望の具現化だということらしいが、すべてそうではないような気もする。かりに親の死を願望していたとしても、死のタイミングと夢が合うというようなことがあるだろうか。
無意識の世界はこうして眠っている間でも活動しており、他人の無意識と常に通じ合っているような気がしてならない。起きている間は無意識はむしろ顕在意識の陰に隠れ、その効果はなかなか現れにくいが、それにしてもわれわれの日ごろの行動にはかなり無意識が作用していると思う。
特に直感が働く時などは無意識からの通信だと思えばいいのであって、この無意識は、だいたいわれわれの味方をしてくれ、時には危険や災難から身を守ってくれるようだ。仕事の時などすばらしい発想が浮ぶことがたまたまあるが、これなんかも無意識の領域からの直感で、なんらかのかたちでわれわれを援助してくれている。
こんな時、知識や情報だけにたよっていると、折角の宇宙からの援助も見逃し、逆に状況判断を誤ってしまうことになる。動物が本能的に身を守っているのも、この直感力であるように、われわれ人間も起きている時はこの直感力にたよれば、いろいろの難事から身を守ることができるはずだ。
そして夜は夢の中で未来を予見し、この終末の世の中をできるだけ物に捉《とら》われず、精神だけをいつも宇宙の中に自由に泳がせていれば、何ひとつ怖いものもなく、くよくよしなくても、金が必要な時には、必要なだけ、転りこんでくるようになっている。物への執着、あるいは顕在意識への執着が何よりも人間を堕落させ、恐怖と絶望と不安に追いこんでしまっている。
終末感がくるのもこうした無意識の世界への関心が薄いため、またしても合理的なものだけを信仰するようになるのである。
山陰の空
空飛ぶ円盤に興味を持っているぼくは外にいる時はいつも空を見上げている。円盤を発見する目的で空を仰ぐわけであるが、東京の空がきれいだなあと思うことは、一年に一、二度台風が去った翌日ぐらいのもので、あとの大部分の日は、本当に空を見上げるのが憂うつになるほど空が薄汚れており、青色というより、白色、もしくは灰色といった方がふさわしい。
小学生の使用するクレヨンの青色には「そらいろ」と標示してあるが、このことはむしろ灰色のクレヨンに「そらいろ」と標示した方が正確ではないかと思われるくらいだ。
夜は夜でやはり空飛ぶ円盤を発見するために、外に長時間立って夜空をながめるわけだが。
都内でもまだ少しは空がきれいだといわれている成城でさえ、数えることのできる星の数といったら、二十数個あればいい方。時には二、三個という日もあるくらいで、こんな現象は世界中のどんな大都会にいっても見られない。二階にある天体望遠鏡でさがしまわってやっと薄ぼんやりの星ともいえない星を発見して、大喜びするのだが、随分淋しい話だ。
また夜だから空気がきれいだろうと思って思い切り大きな深呼吸をするのだが、どこからともなく排気ガスの臭いが鼻をつき、あわてて息を止めてしまうのだ。
緑の樹木も美しい自然ではあるが、特に夜空に点在する無数の星をながめていると、それらと心が一つになり、人間が本当に大自然の一部分であると同時に、宇宙的な存在であることを知覚し、魂が喜びに震えることがある。しかし、このような感覚を東京ではなかなか体験できない。だからぼくは色々と理由をつけてできるだけ地方に旅行することにしている。
先日も二週間ばかり山陰地方を旅行していたのだが、毎晩旅館の外に出て夜空の星をながめていた。ここには子供のころ見た夜空があった。本当に宝石箱をひっくりかえしたように、東京の空と比較すると、山陰の空はまるで宇宙空間にでもいるのではないかと錯覚するほどの無数の星で、ぼくのイマジネーションは無限に広がり、魂までが浄化されるような気がした。そしてついに東の空が白むまでぼくは星と戯れていた。
充実した一日
「お化けを守る会」の平野威馬雄氏から電話がかかってきて、
「あんた、明日大地震があるの知っている?」
といわれてぼくは腰が抜けるほどびっくりした。
大阪のある宗教団体の教主が六月十八日午前八時に、大地震があると予言し、このことが新聞の記事になったことがことの起りなのだ。
あわてたのは、ぼくばかりではない。平野氏から電話があったとき、居合せた数人の編集者や事務所の者たちも、びっくり仰天して、全く仕事が手につかなくなってしまった。
ぼくは早速、ホテルに罐詰《かんづめ》になって仕事をしている柴田錬三郎氏に、
「先生、明日の朝八時に大地震があるそうです。逃げてください」と電話すると、
「ああ、そうですか。私は東京が潰滅《かいめつ》するのをこの目で確かめますヮ」といたって冷静だ。
「ぼくは大阪にでも逃げようかと考えているのですが……」
「あ……?! 本気ですか?」
「もちろん本気ですよ!」
こんな電話をかわしている間に、ついに柴田氏も半ば本気になられてしまった。
ぼくはあちこちと、直感の鋭い人や、この情報の出どこなどに電話して、正しい情報集めに大あわてした。地震の震源地は大阪だとか、静岡だとか、やっぱり東京だとか、いろいろの情報が乱れ飛び、結局どこにも逃げられないまま、この日は終り、いよいよ十八日になった。
夜半過ぎても、あちこちから新しい情報が入り、そのたびに、また柴田氏に電話したりしている間に、ついに朝になり、あと一時間で待望[#「待望」に傍点]の大地震の時間を迎えることになった。
中学一年の長男は食物だけを用意し、四年生の長女は西城秀樹の写真の切抜きを山ほどかかえ、今か、今かとテレビの前で人類滅亡の瞬間を待っている。女房といえば、ばかばかしい騒ぎといわんばかりに寝たきり起きてこない。
結局何も起らずにほっと胸をなでおろしたのだが、当の予言者は責任を感じて自殺を計ったと聞いて、ぼくは再び地震以上にびっくりした。大抵の予言ははずれるのが常識だが、予言がはずれたからといって自殺を計った予言者は初めてではなかろうか。オカルト・ブームでいいかげんな予言が多い中で、ぼくはこの人こそ本物ではないかとふと感じた。悪い予言ははずれた方がいいのであって、ぼくが大あわてしたこの日は、最近の中でも最も充実した一日であった。
自分自身を変えよう
ぼくはいつもこの原稿の締切日を迎えると、憂鬱《ゆううつ》になる。つまり何を書いていいのかさっぱりテーマがないのだ。この「論壇」の内容は単なるエッセィではなく、何か世間や他人の不正を見つけて、一言、二言文句をいう場なのである。
そこでいつもあれこれ社会への批判をやろうとするのだが、よくよく自分のことを考えてみれば、結局自分自身にその責任の一端があるのに気づいてしまい、急に意気消沈してしまうのだ。
ある事柄に関しては批判することができるかも知れないが、別の事柄においては自分が批判の対象になっていることがある。
公害や物価の上昇という身近な問題について考えてみても、社会に対して腹の立つことだらけである。しかし、これらの問題の解決をわれわれはあまりにも政府にだけ頼りすぎているのではなかろうか。公害に対してもわれわれは平気で車を乗りまわすだろうし、たいして必要でない物まで、買ってしまうことだってあるはずだ。
こんな風に考えてみると、世の中を変えるためには、まず自分自身を変えなければ、どうにもならないようなところまできているのではなかろうか。結局はわれわれのエゴイズムが今日の社会を形成してしまったのであるから、もしこのような社会に不満を抱くのなら、この社会から手を引くようにするより仕方ない。
人間の幸せは物質の繁栄にあると勘違いしていたことに最近の若い人達の一部は気づいているはずだ。そして彼らは、ほとんど物を必要としないような生活を送りはじめている。ぼくはこのような若い人達を何人も知っているが、彼らは非常に明るくて平和的だ。今まで多くの物を外に求めていたが、このような人達は無限の物を自分の内部に求めようとしている。
もし、このような人達が日本中を埋めつくせば、日本は世界にとり残され、どこの国も相手にしてくれないだろう。日本中の都市は雑草におおわれ、国中が緑一色になって、野鳥や昆虫の王国になってしまうだろう。
そしてこんな日本にはどこの国からも攻撃を加えてくることはないに違いない。
宇宙の法則
ぼくは飛行機が大きらいである。
飛行機が怖い原因には一時毎日のように続発したハイジャックや、墜落事故のためであるが、それより何よりも飛行機そのものを信用できなかったからである。
というのも空飛ぶ円盤のことや古代文明のことに関心を抱くようになってから、現代の科学への不信がますます増大し、今の科学は決して人間のための科学ではないという結論に達してしまったからだ。
現代科学は確かに人々の生活を物質的には豊かにしてくれたかもしれないが、一方では逆に精神的な不安感を強調することも忘れなかったようである。
アトランティスやムーの時代の古代科学は現代のそれよりはるかに進んでおり、それらの科学は宇宙の法則を応用した科学でもあったようだ。ところが現代の科学は素人のぼくが考えても、どうも宇宙の法則に反しているようなものばかりに思えて仕方ないのだ。
物質の科学ばかりが繁栄し、心の科学の追求がどうも遅れているようだ。その証拠に、ユリ・ゲラーやスプーン曲げの少年達の超能力を手品かなにかのようにあつかい、まじめに彼等の能力を科学的に研究しようとする科学者の態度が全く見られないことでもわかる。
ある日本の有名なノーベル賞物理学者に、ある雑誌の編集者が、スプーン曲げの件について意見を求めたところ、彼は、「私は科学者ですよ!!」
と一言いって電話を一方的に切ってしまったという話を当の編集者から聞いた。
もうこうなると、科学を科学者だけのものにしておくことがなんとも空恐しいものに感じてくる。
だからぼくは自分自身の肉体の科学を知るために、いまヨーガのことに夢中になっている。
人間の体は非常に宇宙的であり、この小さな宇宙の中にはすべてを変える巨きな未知の力が存在している。自分について知ることはこの宇宙の法則を知ることでもあり、新しい科学を創造することにもなる。
このようなことを考えるようになったのも、空飛ぶ円盤への関心と、飛行機が怖いためでもある。
オカルト・ブーム
昨日、あるオカルト関係の本ばかりを出版している編集者にあった。一連のユリ・ゲラー現象で、一時はものすごいオカルト・ブームを起した日本中も、例の「週刊朝日」事件? 以来四次元のものの書籍の売行がめっきり減少したとその編集者は嘆く。
ぼくはこの話を聞いて、――やっぱりあれも単なるブームだったのかと、またしても日本人の底の浅さを痛感した。
ぼくは少なくともあのブームは単なるブームではなく、大衆の眠れる潜在意識下の合理主義に対する不信が、あのような非合理な現象や世界を信じることにより、過去の概念を否定した全く新しい生き方を求めようとするエネルギーの表れだろうと考え、日本人もまんざらではないぞ、と日本の未来に大いに明るい希望を抱いていたのに、今ではユリ・ゲラー効果やスプーン曲げのことを口にする人々はほとんど見当らなくなってしまった。
何もブームになることがいいということではなく、むしろこのことは逆に危険なことではあるが、あの「週刊朝日」の超常現象否定キャンペーンのせいで、いとも簡単に再び惰性的な日常生活に帰っていった多くの大衆は非常に重要なものを目前にしながら見失ってしまったような気がする。
ぼくはあの一連の超常現象ブームは日本を大きく変革させてしまうのではないかと思ったくらいだった。このために今まで出逢わなかった新しい友人達も随分沢山増えたし、この非合理な世界の意識の輪を社会的に拡大していくための大きなチャンス到来だとさえ思った。
このことは終末を迎えた人類や地球を再びもとの素晴しい新天地にさせる力になるとさえ本気に考えていただけに、ぼくや新しい仲間はがっかりしてしまった。
しかし、あのブームがきっかけで多くの少年や若者達が、本気で自分自身の問題として超常現象に取組もうとしている姿勢をあちこちに見ることができるのがせめてものなぐさめである。
だから、これからがいよいよ期待できる時代に入ろうとしているのにもかかわらず、大人の世界があまりにも可視の世界だけを信じこんでいるのが、非常に腹立たしい。
〈無〉の瞬間
ぼくはいつも仕事の締切ぎりぎりのところまでやってこなければ創作のアイデアが浮ばない。時には時間を決めて編集者が前に現れているにもかかわらず、画用紙は真っ白のままということがしょっちゅうだ。
実は内心こうした絶体絶命の瀬戸際まで追込まれるのを待機していることさえある。まあこんな状態は非常に苦痛なことだが、アイデアが浮ばない時はどうしても駄目だ。
高輪のホテル暮しの柴田錬三郎先生としばしば一緒に仕事をすることが多いぼくは、柴田先生の誘いなどあってよくこのホテルに罐詰《かんづめ》になる。
毎朝きまって柴田先生から昼食を兼た朝食の誘いの電話があり、一緒に食事とお茶を飲む。これが完了するまでざっと三、四時間かかる。時にはこのまま夕食時間になり、その後再びお茶を飲み、別れて部屋に帰るのに延々十時間以上かかることさえざらにある。
二人共時間をもてあまして退屈しのぎにこんなことをやっているわけではない。お互に死ぬほど忙しい日もある。ところが、アイデアが浮ばなければいくら頑張ってみてもないものはでてこない。
表面的には二人共、よほどの暇人かホモに見えるが、実は内心時間がなくなっていくのを命を縮める思いで待っているのだ。つまり自らを絶体絶命の状態にもっていって後は神の啓示ともいうべき直感力にたよろうとしているのだ。
人間はよくしたものでこのような身の危険を感じた時には、とてつもない方法で、ある未知の巨きな力が味方してくれる。
この間、竜源寺の松原泰道師にお逢いした時、このような話をしたところ、師のおっしゃるのには、絶体絶命の瞬間は人間は無になっておりエゴイズムから解放されている状態で、もっとも直感力が働く一瞬でもあると説明された。
だらだらと一日中仕事をして能率があがらないより、自らを切迫した状態に追込んで、瞬間的な集中力によって従来の時間の概念を超えたわく内で完了してしまう方が、逆に過去の経験や体験にこだわることもなくかえって新しい発見と自由を獲得する結果になるのではなかろうか。
本当は意識的に危険感を生み、締切り間際まで時間をのばさずに無になる瞬間が作れるようになれば、ぼくは超人になったと同様だ。
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[#1段階大きい文字] 宇宙
宇宙とぼく
ぼくが子供のころ、両親は熱心な神仏の信仰者だった。何しろ家中神仏だらけで、そんなに大きな家ではなかったが、各部屋に色々の神仏が祭ってあった。その数は二十もあったろう。そんなことからいつのまにかぼくも祝詞のひとつぐらいはあげられるようになっていた。
しかし、ぼくの神仏への信仰は、困った時の神頼みで、まるで遊び半分の形式的なものだった。というのも、ぼくはこんな日本的土着が不気味に見えて全く肌に合わなかった。まあ頭から拒否しているわけでもなかったが、何しろ自分の内部への関心より、外部への関心の方が強かったものだから、自分が成長するためには、宗教は邪魔なものだと考えていた。
――そして十五年か二十年が過ぎた今、ぼくは、どうしたことか宗教的なるもの[#「宗教的なるもの」に傍点]に魅《ひ》かれて仕方ない。このことにはいくつもの原因があるようだ。そのひとつは交通事故により四ヵ月ばかりの闘病生活中、毎日が苦痛と不安といらだちでどうにもならず、ふと開いた宗教書が、わずかながら、ぼくの心をいやしてくれた。苦痛の原因が外部にあるのではなく、ぼく自身の内部にあると考え始めたからである。
もちろん宗教書の教義の影響である。そして不思議に宗教的なるものに関心が高まるにつれ、ぼくの病状も回復の一途をたどり始めた。しかし病状の回復と宗教書との関係には、まだまだ不信感を抱いていたことは確かであり、いつしか全快とともに宗教書のことも忘れてしまった。
そして二年ばかり仕事を断ち、海外旅行や、読書などに時間のほとんどをつぶした。読書はもっぱら、精神科学的なものが多かったが、どこかで、宗教的なるものと深いつながりがあることを発見し、再び宗教的なるものに関心を持始めた。こうしてぼくの少しずつの変りようの中で、ついに決定的な体験をしてしまった。これはLSDによる超長時間のトリップ体験だった。ぼくはこの時間のない空間で、ぼく自身の誕生と死を、時には極楽のように、時には地獄のように、めくるめく悦楽と狂気の中で、いやというほど見せられた。この体験を通じてぼくは、ぼく自身の魂の超常的な素晴しさを知ったが、一方、粗雑極まりない自我の醜さも同時に見せつけられた。ぼく自身も知らなかった自分が、目の前で次々と具現化されていくさまは、何と表現していいのかわからない。
とにかく、この体験はぼくを未知の素晴しい世界に案内してくれたが、その半面、潜在意識を現実という短時間内でアッという間に露呈させられてしまったため、その後の日常生活でぼくは自分自身の多くの欠点と対決しなければならない後遺症に、随分悩まされなければならなかった。
この体験の後、ぼくは自分自身の潜在意識に非常に関心が強まり、自分の夢の研究を始めるようになった。過去に見た多くの夢が未来を予知していたという経験も何度かあり、ぼくは自分がグラフィック・デザイナーであるということさえ全く忘れてしまうほど、心の科学の研究に傾倒していった。世の中の超常現象の謎の解明は、ぼく自身の心の謎への解明の糸口にもなり、ぼくという一人の人間は、この世のあらゆるものと密接に関係しながら生かされているということなどが、ぼくの物の見方を少しずつ変えていくような気がして嬉しかった。
ぼくが空飛ぶ円盤に強く魅かれるのも、一年ほど前から、毎晩のように夢の中に円盤が現れ始めたからである。それまでは別に興味の対象でもなかったはずの円盤だったが、研究を始めだすと、実に多くの重要な問題が次から次へと明らかになってきた。そしてぼくの小さな心はいつも大宇宙と通じており、ぼくがたった一人でこの地球に生かされていないという、ごく当り前ではあるが、こんな宇宙の法則に欣喜雀躍しており、また今ぼくはアトランティスやレムリアやムーの失われた古代文明と、現在ここにいるぼくとの関係に何かありそうな気がして、毎日このことばかり考えている。空飛ぶ円盤がぼくにとって何故重要であるかということは、ぼくの生き方とも多少関係してくるので、次回でもう少しくわしくのべる。
この欄は「宗教」欄であるため、もっと本題を宗教の方に持っていかねばならないのだが、ぼくにとってもし仮に宗教というものがあるとすれば、それは自分と宇宙との関係について洞察することにつき、もしこの関係が心で認知できれば、ぼくは必然的に宗教者になるだろう。
ぼくが空飛ぶ円盤に対して最も強い関心を持つ理由は、それらがいったいどこから、しかも何の目的でこの地球に飛来してくるのか、ということである。ぼくは過去数回それらしき物体を目撃しているが、このことと関係なく、ぼくは空飛ぶ円盤の実在を信じている。おそらく、円盤の推進力の問題については、現代の科学では想像の域を出ないことだろう。しかし、たとえそれが何を原動力にしているか知らないが、われわれ人類の未踏の科学力によって操作されていることだけは確かなようだ。そしてこの円盤の乗員こそわれわれの知性をはるかに凌駕した生命体であることも確かだろう。
もし、われわれ人類が、現代において、このような科学を持ったならば、果してどうなるだろう。多くの未解決な問題を残した進化途上の地球人がこれを悪用しないとはだれが保証できるだろう。地球の引力を中和して飛行するとしか考えられない円盤の推進力は、おそらく、われわれがいまだ知らない宇宙の法則の応用によるものに違いない。われわれは宇宙の法則によって生かされている宇宙の中の小さな小さな惑星のひとつであり、またわれわれの肉体は、大宇宙に匹敵する広大なものであろう。
宇宙の法則は何種類もあるのではなく、ただあるのは客観的な大真理が一つである。もし仮に、円盤が宇宙の法則により機能していると仮定すれば、おそらく、円盤を有する生命体は、他のすべてにおいても、この宇宙と自らをも支配していると考えられるのではなかろうか。われわれは宇宙どころか、自らさえも支配することができない。
ぼくは熱心な素人円盤研究家のひとりかも知れない。しかし、何がなんでも円盤とコンタクトを持ちたいというような狂信的な者ではない。決して円盤を宗教と考えてはいないが、円盤を研究することは、ぼくにとって宇宙を知ることであり、自分が何であるかということまでさかのぼって考えられる機会を与えてくれる媒介のひとつである。円盤の乗員は宇宙人であるともいわれ、あるいは一万二千年程前に海底に没したアトランティスやレムリアの子孫が地底からやってくるともいわれているが、とにかく相当の高度な知性の持主であることだけは確かだろう。それだけに、彼らの住む世界のすべての難問はとっくの昔に解決されており、ぼくの想像するところでは、正にユートピア世界を形成しているのではないだろうかと、この汚染された地球と比較して、ただただうらやましく思うのである。
ぼくにとって円盤は空想の産物ではなく、現実であるだけに、もう少し、地球はなんとかならないだろうか、あるいは自分の粗雑な自我がなんとかならないだろうかと、考えてしまうのだ。しかしいくら考えて悩んでみても、今日、ここにあるこのぼくは、過去の想念の結果の具現化されたものであり、いいかえればカルマ(業)の結果なのだ。だから今の自分が気にいらねば、この自分を責めるより仕方ないだろう。こう考えてみると、カルマの法則は宇宙の法則により作用されているのかも知れない。公害による汚染にしても、われわれ一人一人の過去のカルマの結果の集積ということになるのではないだろうか。われわれはあまりにも物質を求過ぎたような気がする。このことが今、カルマとなってわれわれを終末に追込もうとしている。
最近は宗教ブームである。あらゆる滅亡が語られ、マスコミ、ジャーナリズムの間では終末論ブームだ。終末論の流行というか、いいかたを変えれば終末論のコマーシャリズムである。ここで語られる人類や地球の将来は絶望的である。恐怖や不安や絶望が商品化される中で、どうせ死ぬなら、最後の審判をこの目で確めるのもよかろうと、居直ってしまった生き方も横行している。人間らしく、やりたいことをやって生き、そして死ぬ。こうした考えは、果して本来の人間らしさに忠実なのだろうか。
人間は本来生れながらにして広大無辺な能力を持っているのではなかろうか。われわれの日常生活の周辺でわれわれは自分で気がつかないまま、テレパシーや予知能力を発揮して多くの危険から知らず知らず身を守っていたりしているはずだ。ぼくはこうした人間本来の超常感覚にめざめ、人間の不思議な能力に関心を持続けることが本当に重要ではないかと思う。
またこうした感覚は個人的なものではなく、多くの人々と潜在意識の領域でお互に通じ合っており、自分一人で生かされているということは決してないはずだ。
こういうことはぼく自身にも何度か経験があり、人間の想念のエネルギーの強烈さにただただ驚くことがある。こうした人間関係は個々の主観ではなく、大きな客観的世界に支配された、一なるものであると思う。いつでも、どこにでもあるこの大真理をぼくは本当に知りたい。こんな文章を書けば書くほど、ぼくは自己欺瞞に落ちてしまう。それはまさにダンテの「地獄の入口」である。
神の選民
数年前、交通事故でしばらく入院することになり、これを機会に仕事の方もしばらく休んでみようという気になったことがあった。ぼくにとって仕事を休むということはとても楽しいことだと考えていたのに、全くその反対で毎日が死ぬほど苦しかった。何もしなくなると考えることといったら、自分の死のことや死後の世界のことばかりで、こうした実相がはっきりつかめないだけに、ぼくはわけのわからない恐怖感にいつも襲れるようになってしまった。
こんなことから、地震や公害がとても恐しく、ついには地球そのものが恐怖の対象になってしまい、このままでいると重症のノイローゼ患者になりかねないと考え、先ず救いを仏教書に求めることになった。そして、この日からぼくは宇宙のとりこになってしまったのである。
宇宙について考えることは恐怖を超え、安心立命の世界に入ることであったが、宇宙の概念があまりにも広大無辺なためにかえって恐しくなることもあった。しかし宇宙のとりこになってから不思議なことには、今まで何でもなかったものが大変美しく見えたり、また反対に美しいと考えていたものが、実は宇宙的なスケールから見ればちっとも美しくない、と思うようになった。
例えば人工的なものより自然が美しく見えるようになったことはぼくにとっていちばん大きな収穫だったような気がする。またいつの間にか夢の世界が生き生きとして昼の世界に通じあっているという感覚や、世の中全てに起こる超常現象がちっとも不思議に思えず、まるで当然のような気さえするようになった。こんなことから合理的なもの全てに拒絶反応を起すようになってしまい、この点で都会生活がとても困難になり、現在の自分に大きな矛盾を感じてしまい、まだまだ宇宙意識がぼくの中で完全に作動していないことを知ってがっかりもするのだ。
神や、愛や、自然や、死や、夢や、宇宙空間や、空飛ぶ円盤や、シャンバラや、失われた大陸などは全てぼくにとっては宇宙の焦点であり、生命の根源でもある。
地球自体がいまだかつて我々が経験したことのないような大きな転換期を迎えようとしており、その時期は恐らく今世紀に起こるだろうという予感に、ぼくは何ものかに追ったてられるようにあせっている。聖書の予言を信じるぼくは当然神の選民でありたいと希求するし、その資格たらんと努力しなければならないと思うが、この求める心こそエゴイズムではなかろうか、とまたまた悩むのである。
終末の世に終末を信じないで生きることの方が困難だが、ぼくは宇宙の全てを信じることによってなぜか救われるような気がするのである。宇宙はぼくにとって救世主である。神も、愛も、死も、夢も、自然も、空飛ぶ円盤も、ぼくをとりまく全ての想念が救世主である。そしてぼくの宇宙観は来世にまで続き、そして恐らくそこで達成できるであろう宇宙との合体のために、ぼくの魂は少しずつその準備を始めようとしている。
ぼくの次の生はおそらく二十一世紀にあり、この世紀はかつて人類が迎えたことのない輝ける光明の世界になることと確信しているだけに、来世のカルマの原因になる今生をできるだけ素晴しく生きたいと思う。そして願望は無限に続き、いつかあの空飛ぶ円盤に乗ってくる異星の人々の子として転生したいと心から望んでいる。
夢について
ここ数年来ぼくは夢日記をつけている。朝、目が覚めて、記憶にある夢を枕もとのノートにすばやく書きとめている。時には夜中に夢を見たショックで目が覚めた時など、朦朧とした意識の中で、ノートを取らなければならないのだが、日夜、こんなことのせいで不眠症になってしまっているぼくにとっては、このノートを取る時間ほど腹立たしいことはない。
目を閉じれば、ほとんど夢を見ているようだ。だから、朝目が覚めた時など、あちこちと旅行をしてきた時のように、夢の体験が、まるで現実の体験のように心に影を残し、その感動や興奮にしばし、茫然としていることがある。時には恐しい夢を見ることがあるが、昼間の生活に比べれば夢の生活の方が遥かに超現実的で、スペクタクルズで、芸術的だ。
夢の世界ほど想像力に富んだ世界はちょっとどこにも見当らないのではないだろうか。この世界では誰でも超一流の芸術家になれる資格が与えられている。ということは、われわれの潜在意識がいかに顕在意識より秀れているかということの証拠である。夢の中では、空でも飛べるし、英語もペラペラしゃべりまくれるし、美人とセックスもできるし、そうかと思うと殺されてしまうことさえある。
ところが、折角こんなに素晴しい体験をしながらも、夢は夢として再び潜在意識の奥へ置忘れてしまうために、ちょっとも顕在意識の中に再生して活用しないのである。古代人は夢を生活の中での重要な位置において、夢を媒介に未来を予知したり、自分自身を知ることに役立てた。つまり潜在意識と顕在意識が一体になって、より多くのことを知ったのだ。
潜在意識は生命の宝庫である。一生かかっても図書館の本を読みつくすことはできない。われわれの潜在意識の中には図書館の蔵書など比較にならない程多くの知識や経験が埋蔵されているのだが、このことに目を向けようとすることは非合理なことのようにされ、まだまだ一般的な人々の場での研究はされていないような気がするが、われわれの日常生活の大部分は実は、知らず知らず、こうした潜在意識から発する直感力によって生かされているはずである。
過去のわずかな経験や知識、そしてマスメディアの情報だけにたよっている限り、その人はとんでもない過ちを犯してしまうことがある。潜在意識というものは、他人や、あるいは動物、植物、地球上の全てのものと、その深い部分で通じ合っているはずだ。だから、われわれが、時たまふと想像を絶する考えが浮ぶ時があるが、このようなものは、自分の考えではなく、遠くにいる、または極論すればもうすでにこの世にない人々が生きていた時の想念から発する他人の考えだったりすることがあるのではないだろうか? つまり、この宇宙の中には無数の考えが漂っており、それが何かの拍子に意識の中に飛込んでくるのである。
だから夢の中での体験だって他人の体験が映される場合があるのではないだろうか。次のたとえは的確かどうかわからないが、ぼくは今朝火事の夢を見て目が覚め、その夢の話をしている真っ最中、近所に火事が起った。ところがぼくだけでなく、三年生になる長女までが、火事の夢を見ていたのだ。これは単なる偶然の一致としてすましてしまえば、それっきりだろう。
火事が起ろうとしているその瞬間の空気、あるいは磁気の変化が、空中を伝わって潜在意識に信号を送ってくるということは考えられないだろうか。われわれはあまりにも自分自身にこだわり過ぎており、いつの間にか最も重要なものを失おうとしているのかも知れない。
死について
ぼくがいつどのようにして死ぬか、ぼく自身も全く知らない。しかしぼくの人生においてこれほど重大な関心事も他にないことは事実だ。わかっていることはぼくは確実に死ぬということだけである。老衰によって人生を全うするか、あるいはそれまでに病死、または横変死するかのいずれかである。そしてその瞬間はこうして原稿を書いている最中にも刻一刻と近づいている。
そしてこの瞬間はすでに神の計画によって定められているのかも知れない。ただぼくはそのことを知らないだけである。ぼくは別に運命論者でもなんでもないが、ただひとつ解るのはぼくが死ぬのも、生きるのも、因果の法則という宇宙の計り知れない大きな未知の力の働きによって支配されているということだけである。
前世の行いの結果が今生であると信じているぼくは、どのような苦渋に満ちた人生に遭遇しても耐えなければならないと考えている。前世の結果が今生であれば今生の結果は来世へと続き、悪人は永遠に悪人ということになって絶対救われないことになる。このような論理では全く個人の自由意志は否定され、全てが運命という流れの中に吸収され、人間は何のためにこの世に生を受けているのか全く理解に苦しんでしまうことになる。
しかし、人生のどんな場合においても、われわれは何かを試されているような気がしてならない。例えばある問題に直面した時、われわれには常に二つの道が与えられていることに気づく。それはその人間の欲望のバロメーターによって決定される。もしここで自らが欲望によってその道を選ぶなら、その人は定められた自分の運命の流れにしたがうことになるのではないだろうか。こうした欲望の積重ねからはカルマ(絶対業)は断切れないだろう。すると欲を捨てることが唯一解脱できることになるのだが、この難題が解決できない限り、人間は救われず、再びこの地上に転生してこなければならないことになる。この地上に生を受けるということは、欲望から解脱していない証拠である。もし完全に解脱した人がいるなら、その人は恐らく今の人生が肉体としての最後の人生であり、死後彼は二度と再びこの地上に転生することなく、より高次な惑星に再生するか、あるいは仏の世界に魂だけになって実在するかどちらかであろう。
ぼくが肉体としてこの地球にある限り、ぼくは死を避けることはできない。もしぼくが死ななければならない時が来たなら、これこそわが人生で自らが作上げた運命として安らかに死を迎えようと思っている。そのかわりもし神が決めた死が近づいていなければ、それ以前にぼくがどんなに努力しても死ぬことはあり得ないとも思う。
欲望から解放され、善行を施すことによりぼくは一日でも寿命を延ばし、そして安楽死に至り、さらに来世は神と共にある人生を迎え、最後に二度とこの試練の場である地球には再生したくないと願っている。しかし、考えてみればこれほど罪深い欲もちょっとやそっと他に類をみないのではなかろうか。恐らくけがれ多いぼくは地球が壊滅した後の塵の上にまで再生しかねないような気がする。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
自然について
ぼくは最近人間は本当に自然の産物であり、自然の一部分であるという強い認識を持つようになってきた。ぼくは現在家では玄米と菜食をしている。これにはちょっとした理由がある。以前ぼくは動脈|血栓《けつせん》という恐しい病気にかかり、あわや足の切断をまぬがれたわけだが、これが鍼《はり》、灸《きゆう》、按摩《あんま》という東洋医学によって完治した。入院中の病院では半ば治療にサジを投げかけており、ただただ連日の血液検査と多種多様の投薬によるだけで、これという決定的な治療法は見つからないまま、ぼくは不治のまま退院せざるを得なかった。そんな時ぼくはある友人の紹介により東洋医学の先生を知り、鍼、灸、按摩という自然治療により救われたのである。
こんなことからぼくは西洋医学に対する不信と絶望を抱くようになり、その後どんなことがあっても薬だけは飲まなくなった。入院中、ぼくは苦痛をまぎらわすために仏教書を読むきっかけを持ち、人間と自然のあり方に現在の自分の生活を大いに反省させられると同時に、人間は常に自然の一部分であり、この大自然の法則にかなった生き方をすれば人間は真の健康と自由を得るということを教えられた。病院での薬がケミカルである以上自然物としての肉体に合うはずがない、それより、一切の薬剤を使用しない鍼、灸、按摩による一見非合理とも思われるが、西洋医学より歴史も古い東洋的な治療の方がよほど自然の法則に合っている。
この考えは全く正しく、この治療法にかかるようになってからは日増しに、ぼくは自然のサイクルとかみ合うようになってきた。今まで好物だった肉を極力避けるようになった。それからは仏教や、インド旅行などからの経験により、意外と好物の肉を止めることに苦痛を感じなくなった。肉を止めることによりぼくの肉体の血液は以前より多少は浄化されたような気がする。そしてあんなに嫌いだった野菜や玄米が主食になってしまった。こうした食餌の転換には仏教が非常に大きく影響していた。不思議なもので味覚さえも、思想に影響されることを知った。今では肉がまずく、野菜がうまく感じられるのだから実に面白い。
こうした影響は、以前から、アメリカの若者のヒッピー・ムーブメントを中心とした、自然と共存するというライフ・スタイルに大いに憧れていたという下地がさらに仏教やインド指向によりぼくをたやすく変えたのかも知れない。
菜食と同時にぼくはまたヨーガを始めることになった。ヨーガは心身の統一を計り、自らを大自然あるいは宇宙的バイブレーションと一体とさせ、己を解放し真の自由を獲得することを目的とするのである。こうしたぼくのライフ・スタイルは徐々にぼくの作品のスタイルを反文明的な方向に変容していった。そして常にぼくの心や体が今何を要求しているかということが少しずつわかるようになってきた。仕事がオーバーになると、ぼくの心は旅を要求し、自然の中に自分を解放させてくれる方向に導いてくれる。
この原稿が活字になる頃、ぼくは恐らくインドにいるはずである。インドに一ヵ月、その後、いったん帰国後、スペインの田舎、夏の二ヵ月はヨーロッパとアメリカの旅に出、再び秋には三度目のインドへの旅が待っている。こうした集中的な旅への欲望もぼくの内からの自然への呼びかけでもある。
今度のインド旅行ではぼくはどこかの小さな村か寺院で生活してみたいと考えている。そしてゆるやかに流れるインドの大自然の時間の中にぼく自身を大いに解放してみたいとも考えている。ぼくの考えでは、大自然こそ最高の知恵で、もし人間がこの大自然に波長を合せるなら、流れるごとく大自然の知恵を受け、この森羅万象の秘密というか真理を授けられ、永遠の生と平和をわがものにできるはずだ。
仏陀が悟ったのもこうしたインドの大自然の中で自らを放棄することによって大いなる真我を得たわけで、人間と自然とは切っても切れない一体物であることを物語っている。ところが現代のわれわれの生活や考えといえば、あふれるばかりの物質と情報の社会の中で、いつの間にか物質崇拝の唯物観にささえられて、非常に反自然的な生活を送っている人が大部分である。
人間が環境に順応することは確かである。しかし現代のような限界を超えた人工的環境に適応させようとする方向を誰が正しいといえよう。敏感な人達、つまり人工的な都会生活のバイブレーションに背を向る人達は次第に都会を去り、自然の中にその居を移しつつある。都会を去って自然の環境に移ることのできる数少ない人々は、精神生活を優先し、自己執着から解放された人々である。大部分の人達は物質を崇拝する生活に自らの幸せを求めているために、欲望から解放されないでいる。ぼくの知人の中にも、今までの安定した経済生活に終止符を打って、家族共々大自然の中で新しい生活を始めた人達が何人かいる。
近い未来のぼくの夢はこのような人々と同じ生活をすることだ。夢に終るか実現できるかは今のところヒフティ・ヒフティだが、これもぼくのカルマ(因果)によって決定されるものだからあせってみても仕方ないと思っている。ただ想いが強ければ必ずそのことは実現するという信念の魔術に従って、ぼくは日々この想念を強めていくのみである。
グレゴリオ聖歌
この間伊勢丹デパートで「千年王国への旅」と題して過去四年間のポスターと版画を中心にした作品展を開いたが、その時会場に流したレコード音楽が「グレゴリオ聖歌」だった。展覧会の鑑賞者の大部分は若い人たちだったが、この聴きなれない神秘的な音楽に相当数の人たちが興味を持ち、レコードの題名と会社名を教えてほしいという間合せが連日相次いだ。
ぼくの作品の主題がインドや宇宙や古代文明、それから仏教的なものから聖書の世界に至る超常現象から宗教的なものが中心になっているので、よりこうした世界を音楽で立体的に表現できればと思い、なるべく透明感があり浄化作用のある音楽ということで、直感的にグレゴリオ聖歌を選ぶことにした。
四年前友人のデザイナーである植松国臣さんの家でぼくはこの「グレゴリオ聖歌」三枚組《キング》を聴いて、驚くほど感動した。以前にもヨーロッパ映画の中などで度々聴いた記憶はあったが、こうしてステレオからじかに蔽《おお》いかぶさるような圧倒的な迫力に、ぼくの背骨は引っこ抜かれるほどの電撃的なショックを受け、身体がこのまま音の世界に溶解していくのではないかと思われたくらいだった。ロックや現代音楽には絶対ないある不思議な未知の力を持っており、音楽以上のものを感ぜざるを得なかった。部屋の空気が振動して微妙な波動を起し、何か霊的な体験でもしているような気分でもあった。聴覚ではなく、魂に直接訴えるこの天上の響きは、言語的機能を超え音魂の波動となってぼくの内省宇宙にひろがっていった。
「グレゴリオ聖歌」はぼくをたちまちギュスターブ・ドーレやウィリアム・ブレイクが描くダンテの神曲の世界に案内してくれた。天上から下降し、再び大地からゆるやかに上昇していく祈りと叫びは、まるで地球の引力から解放されたような恍惚《こうこつ》感を呼び、ぼくの魂に霊感の息を吹込んでくれるようだった。
こうした植松家の「グレゴリオ聖歌」体験により、ぼくの作品が現実世界から分離し始めたわけだが、これほど端的にものの考え方に大きな影響や変化を与えた音楽は人生のうちにそう何べんもあるものではない。
今までにも何度かの人生の分岐点があったが、不思議なことに必ずこの時期の立会人としての音楽があったような気がする。美空ひばりから始まって、石原裕次郎、高倉健、ビートルズ、プログレッシブ・ロック、インドのアリアクバカーン、そして今「グレゴリオ聖歌」ということで、いつの間にか俗なるものから聖なるものへと好みが変容してきた。
植松家で「グレゴリオ聖歌」に感涙したせいか、植松さんはこの三枚組の「グレゴリオ聖歌」をその場でぼくにくれた。早速持帰ったぼくはこの夜再び床の中でこの霊験あらたかな音の中に深く永く瞑想《めいそう》した。そしてこの音楽のような世界をなんとかして作品の中に表現させたいという念願がこの日から続いた。ぼくにとってグレゴリオ聖歌は単なる音楽ではなく、宇宙の波動音と考えている。だからぼくの想念の波動とグレゴリオ聖歌のそれが一致した時、ぼくはぼく自身の肉体から解放され、魂における真の自由を獲得することができるに違いないと考えている。ぼくはそれでもまだ耳でこの音を知覚している。ぼく自身がこの音と一体になる時がいつか来ると信じ、今日もまたこのレコードをかけている。最近は「グレゴリオ聖歌集大成」(ロンドン)という二十枚組の超豪華版を手に入れた。全部聴くには十三時間を要する。しかしひとたび音の世界に入ってしまえば、現実は分離され、時の流れはストップする。
霊魂の歌声
初めて「サード・イヤー・バンド」の音を聴いた時、これは絶対ぼくの音だと思いました。だって、ぼくはこの世に生れてきてズーッと「この音」ばかりさがしていたような気がするんです。それほどこの音は懐しいのです。でもなんだかこの音を聴いていると、急に怖くなってしまいます。というのも「この音」のところにいつか帰らなければならないからです。「この音」はズーッと前に聴いた記憶があるのです。それは夢の中だったか、母の胎内だったか、それともこの前の世界にいた頃だったか、とにかくぼくの細胞の中に「この音」の記憶がちゃんとあるのです。
だから「この音」は以前ぼくが死んだことがあることを想いださせてくれました。ぼくはいつも心の中でぼくの前世を懐古していたのかも知れません。そしてまた今度ぼくが去《い》く世界も「この音」のあるところです。「この音」を聴いていると死んでもいいような気がします。というより、たった今、死んでいるような気がするのです。丁度この状態と同じ状態が以前にもあったからぼくは「この音」をこんなに懐しがっているのかも知れません。ぼくは死ぬのが非常に怖いのです。それは肉体の消滅の恐怖で霊魂の死滅ということではないのです。霊魂だけになってしまうのが怖いのです。でも「この音」はぼくを肉体から切離して霊魂だけにしてくれます。そして、現界から次現界、そして幽界、霊界へと霊魂だけになったぼくを飛ばしてくれます。こんな時、ぼくは宇宙意識というか、神意識に到達するような錯覚を憶え、もう少しで、神界の光のシャワーに濡れてしまうのです。しかしここまで去《い》くのに、ぼくは地球の時間で何百年も何千年も何万年もかかってしまうのです。でも「この音」は、霊魂だけになっても、現界にいた頃の想念をひっさげたままです。ぼくの想念は大部分がマイナスの想念が支配していた自我がほとんどだったので、霊魂は大暗黒の宇宙に彷徨ったままです。なんていうか、扁桃腺にルゴール液を塗付されたような、苦々しい味、そんなイヤーな想念です。でもぼくの死後の世界はきっとそうなんです。勿論以前に死んだ時だって同じような苦い味だったのです。
ぼくは死と仲良くするのが大好きです。というのも、それほど死ぬのが怖いからです。死の恐怖をさけるためにはぼく自身が恐怖の対象である死になってしまえばいいのです。そういう意味では「この音」は、ぼくを安心させてくれます。だからぼくは生きていてもいつも死を味わっていたのです。ぼくの生は死の連続です。ぼくの生は死の一部分です。だから反対に生のことを死といってしまいたいのです。ぼくは死後の世界はそう大して嫌いではありません。以前は非常に怖かったけど、今はほんの少ししか怖くありません。でも霊魂が肉体から離脱する時の肉体の苦痛が怖いのです。つまり死の瞬間が怖いのです。
ぼくはいつだか三度死んだことがあります。その最初は首を切断された時です。一瞬氷のような冷さを首に憶えましたが、次の瞬間は火のような焼けるような熱さに変りました。でもそれもほんの一瞬で、その後は、やはりルゴール液を口にした時のあの苦々しさと同じイヤーな気分でした。首が切断されると同時にぼくの霊魂は肉体から離脱して、暗い、暗い暗黒の井戸のような宇宙に落下していきました。しかも首に受けたあのルゴール液の苦々しい味の痛みを憶えながらです。ぼくの霊魂は死後なお肉体の痛みを記憶しているのですから、ぼくは本当にいやになってしまいました。永遠不滅の霊魂がこんな肉体の痛みを永遠に記憶するなんて、ぼくはよっぽど運が悪いのです。霊魂の落下がどのくらい経ったでしょう? ふと気がつくと、ぼくはぼくの守護霊に連れられて、墓石屋の裏を流れる小川のわきの畦道を歩いていました。この時に聴いた音が、「この音」とそっくりだったのです。
次にぼくが二度目に死んだ時は、深い川の中に何か大事な品物を落した時です。ぼくはその大事な品物を拾うために川底深く深くもぐりました。いくらもぐってももぐっても川底に到達しません。そのうちにぼくは次第に息苦しくなってしまいました。そこで慌てて水面に浮上しようとしました。ところが、いくらたっても水面に浮上できません。よほど深くもぐってしまったのでしょう。ついにぼくは水面に到達するまでに息が切れてしまいました。どのくらい時間が経ったのか、気がついてみるとぼくは川底近い水中に浮いたままでした。ところが不思議なことに、水中にもかかわらず辺りには水が全くありません。そのくせぼくは、まるで水中を泳いでいるような格好で、水のない川底の空間をスイスイ浮遊しているのです。この時、ぼくは初めて、自分が死んでいることに気がつきました。ふと暗い川底の岩陰を見ると、そこに一人の女性が裸で仰むけになったまま、まるでぼくの体を待受けるようなポーズで横たわっているのです。早速ぼくはこの女性に抱きついていきました。ところがどうしたことか、この女性にも、ぼくにも性器がないのです。それでもつきあげてくるような情欲にぼくはなおも激しく重なっていきました。どのくらい時間が経ったのかわかりません。ふと背後に人の気配を感じて振返ってみると、そこには沢山の霊人達がずらっと一列に遠くの川底まで並んでいました。この時に聴いた音も「この音」そっくりでした。
そして最後に死んだ時は、ぼくの肉体は全くどこにも見当りませんでした。あるのは霊魂だけで、宙に浮いているような感じでした。辺り一帯はほとんど白い靄に被われていました。しばらくすると、前方の靄が一瞬フッとかき消され、そこに山肌の一部が現れました。それはまるで秋の紅葉のように、赤茶けて見えました。肉体のないぼくはなんともいえない不安感のまま何かに寄りかかっていなければなりませんでした。以前の二回の死の時もそうだったが、今度もぼくは自分が死んでいるということにすぐ気がつきました。ところが以前は死んだことに怖れたり後悔はしなかったのに、どうしたことか今度の死だけは、本当にシマッタと思ってしまいました。何ともいえない恐怖です。もう現界に帰ることができないという、物質世界に対する執着に、ぼくは本当に発狂してしまいそうになりました。そしてついにぼくは大声をあげて泣出しました。ところがこんなに悲しく泣いているのにどうしたことか涙が一滴もでないのです。少しでも涙がでてくれれば、ぼくはこの巨大な悲しみから少しは救われたのですが、ついに涙は頬を濡らしてくれません。ただ帰りたい、という一念だけがぼくを津波のように大きな波動を帯びて襲ってくるのです。やがて、目の前の空間に妻と二人の子供の顔が浮び上りました。ここに至ってぼくの現界への執着は一層激しくなりました。この物質界への拘りとの葛藤に少々疲れてしまったぼくは、しばらくウトウトと眠ってしまったようです。次に目を覚した時は辺り一帯が暗黒の世界です。地球から約五万フィートの地点にいるナと感じました。この辺りは空飛ぶ円盤の母船が滞空している位置なのです。地球人の肉体から離脱したぼくの霊魂は今こうして他の惑星の生物の肉体に、憑依《ひようい》したような気がしました。もうぼくの頭の中には地球のことなどこれっぽっちもなくなってしまいました。この時に聴えてきた音も「この音」だったような気がします。
こんな具合にぼくの始めと終りには「この音」が必ず現れるのです。だから「この音」はぼくの霊魂の音なのかも知れません。この大宇宙には、無数の音があります。太陽が奏る音、地球や月や金星や土星や火星や、その他太陽系の九つの惑星からそれぞれ違った音を出しています。この太陽系から他の太陽系へと、島宇宙全域に音が充満しています。これは皆なそれぞれの物質の持つ霊魂の音なのかも知れません。「この音」を聴いている時、ぼくはぼくの生が無限であることを知ります。しかし、それでもぼくは怖いのです。無限が怖いのではなく、肉体の有限が怖いのです。残念ながら今のぼくは肉体そのものが魂なのです。自由自在に宇宙の彼方まで飛翔する霊魂よりも、このガンジガラメの不自由な肉体の方を愛しているからでしょう。だから「この音」は残酷な音です。霊魂の音なんてとんでもない、物質界のエネルギーの音です。本当にぼくはどうかしています。「この音」はぼくをまるで幻覚剤のように狂気させてしまうのです。とにかく変な音です。スーッと延びた一直線の道を、どこかで、その端と端をヒョイと結んでしまうのです。それはまるでメビウスの輪のように表裏一体になってしまうのです。そしてぼくはこの空間と時間の永遠の奴隷になってしまうのです。そこは四次元の世界です。メビウスの輪に落込んだぼくは初めてぼくの輪廻を知りました。それにしても「この音」のレコードの音は初めと終りがあります。再び繰返して聴くために、ぼくはいつもベッドから降りてプレイヤーのところまで行かなければなりません。そしてレコードの針を元の頭のところに持ってきてやらなければならないのです。一体これはどうしたことなのでしょう? ぼくにはよくわかりません。
死後の世界はぼくの意志通りにいきません。ぼくの肉体や官能、それから物欲、こうしたエゴなどの物質的エネルギーが死後の世界を生きていた時と同じように支配するのです。困ったことです。しかしこの物質界でぼくは自分を向上させる自信があまりないのです。どうも霊魂の向上のためには肉体が邪魔するのです。ぼくはときどき、夢の中でこのエゴの化身と闘わなければなりません。夢の中でぼくは少なくとも次現界という現界より少し高いところに行くことができます。もちろん肉眼では見えない世界です。物理でいうとおそらく、分子ということになるかも知れません。でも時には、分子よりさらに小さい粒子でできた原子、いやもっと小さい電子の世界、もうこの辺まで来ると幽界に近づいているのかも知れません。「この音」はどうもこの辺から聴えてくるのです。でも天界の音というより地底から聴えてくる悪霊の音のような気がします。
「この音」は広大な太陽系の彼方から聴くと、他の惑星の発する音より恐しい響きを持っている地球の音なのです。地球の全体が抱いている想念の音です。そしていつかこの地球の音が太陽系のバランスを崩してしまうかも知れません。その時は太陽系の崩壊、そして島宇宙全体の崩壊にもなりかねません。「この音」はぼくの音でもあり、人類の音でもあり、地球の音でもあり、そしていつか太陽系、そして島宇宙の音になる恐れがあるかも知れません。決していい音ではありません。どちらかというとマイナスの想念の音です。今、「この音」がぼくを警告し、人類、そして地球を警告しています。それほど危険な音です。音自体は危険ではないのですが、この音が今、こうして聴えて来たということが危険なのです。
ぼくはいつか死ななければなりません。そんなことは考えたくありません。でも「この音」がそのことを考えさせてしまうのです。そのためか最近は、死のことばかり考えます。今度再生する時は他の惑星に生れ変りたいです。恐らく他の惑星には「この音」もなく平和だと思うからです。死はもともと平和なものだと思います。ところで地球上で死ぬ限り、どう考えても平和な死後というのは存在しそうにないと思います。他の惑星までの生は、死の安らぎと同等か、それ以上のような気がします。生そのものの長さも地球の時間にしたら二千年位はあるはずです。キリストや釈迦の時代の人が今なお宇宙の彼方で深遠な長老として宇宙の兄弟から崇められています。ぼくの魂はいつもこうした宇宙の兄弟に波動を送っています。しかし、ぼくの音が「この音」のように悪魔的で不安と恐怖に充ちているせいか、あまりかんばしい交信が得られません。それでも二、三度ぼくは夢の中で彼等とコンタクトを持つことに成功しました。しかしこのいずれも、決して平和なものではなく、不安と恐怖に充ち充ちていました。それはきっとぼく自身が作りあげた恐怖と不安だったからだと思います。彼等に対してこのような潜在意識を持続けているぼくの魂は、哀れで貧しいものです。だからってのも変な話ですが、「この音」はぼくと同じように哀れで貧しい地球人のための音です。
こんな不気味な音が好きなぼくには平和な気分なんてほど遠いのかも知れません。「この音」に魅かれますが、もし「この音」そのものの世界に去《い》くことになった時は、ぼくはたまらなくなってしまうかも知れません。「この音」を聴けば聴くほどぼくは「この音」をぼくの霊魂の中に引込んでしまいます。「この音」から始まって「この音」で終るぼくはどうしても「この音」から逃れることができないのでしょうか。本当に「この音」はぼくの霊魂を痛めつけます。肉体を強く刺激されると痛いように、「この音」を聴くと霊魂がチクチクと刺すように痛いのです。
ぼくは一体ここまで何を語ってきたのでしょう? 「この音」に関ったためにぼくはまるで夢を見ているような変な感じです。「この音」について語ることはぼくをますます混乱させてしまうことになります。それにしてもぼくの霊魂は本当に「この音」を絵に描いたような姿、形をしています。
終末観
水俣湾の水銀汚染に端を発し、PCBや光化学スモッグによる公害問題がにわかに新聞やテレビのトップニュースになり、神経過敏な文化人の間に一大終末論が、終末を論じない人間はまるで生きる資格のない人間かなにかのように語られ、当人以外の人間が全て加害者扱いにされた記憶はまだ新しい。
そして、そこへ今度は「日本沈没」と「ノストラダムスの大予言」の出現で、いやがうえにも己の終末をつきつけられるような状況に追込まれ、ちょっとした精神的なパニックが起り、藁をもつかむ気持から、各種宗教書や、オカルト書に、救いを求める人種が増大し、今や日本も西洋並にやっと本気で終末を考えるようになったようだ。
もともと、人間は生れながらに誰でも終末観が本能的に潜在しており、日夜この本能に立向っているわけだが、なかなかこの実感が死の瞬間まで乏しいようだ。
光化学スモッグにしてもPCBにしても、よほどの自覚症状がない限り、公害に対する恐怖が、終末意識となって襲ってこない。
ところが「日本沈没」とかノストラダムスになると、これは半ば空想の世界であるが、逆にイマジネイティブに恐怖し、まるで現実意識のようにとらえてしまうのだ。
「日本沈没」にしてもノストラダムスにしてもかなり現実的なデータが用意されているので、普通の空想の物語とはこの場合少し違うが、現実に起りつつある公害の危険より恐怖心が大きく働いているようだ。
というのも、いくら公害だと叫んでもわれわれの日常生活は一見平和であるため、そういった現実感が非常に薄いのである。
それともうひとつ、毎日のように世界中に各種の死が報道され、映画、テレビ、小説までが死を商品化しているため、逆に死、本来の明確なイメージがぼけてしまっているのではなかろうか。
ところが「日本沈没」とかノストラダムスになると、日本全土、あるいは地球全域にわたったスーパースペクタクルズな死だけに、われわれは逃げ場所のないことに気づき、愕然としてしまうのだ。
現実に起っている日常的な死については、まだまだ逃げ場所があるような気がし、決して最終的なピリオドが打たれているわけではない。
かりにノストラダムスのように一九九九年七月とピリオドを打たれた場合、かりにその日まで生きのびられず、他の病気か事故かで死ぬかも知れないのに、とりあえずこうした日常的な死は計算に入れず、国家とか人類とかの組織化された死を己の死と考えているところが、すごくこっけいだ。このことはもちろん、ぼく自身にもあてはまることで、おそらくぼくは己の永遠の生を考えているからこのような地球単位の死に恐怖するのかも知れない。
流行の終末論にしてもおかしなもんだ。
公害が原因で突如終末論が栄えたわけだが、このように終末が思想になってくると、これは学問の範疇で、観念的で、ちっとも実感がともなわないから、なかなか大衆はついていかない。
あの[#「あの」に傍点]終末論が挫折したのもおそらく、このへんが原因になっているのかも知れない。
ぼくが考えるには終末観というのは、こうした社会的な風潮の中でとらえた共同体験ではなく、もっと個人的な歴史の中での体験でなければ、それは決して実感をともなわないし、まして他人の死を己の死と同様に考えることは不可能であり、このようなところからは決して真の終末論など生れようはずがない。
終末感は、人間が生に執着した時生れるものである。
だから、現代社会のように欲望が頂点に達した時、社会そのものが終末を迎えるのは当然のことで、この社会の一員である国民も、共にこの裁きを受けなければならない。
いいかたをかえれば、個々人の欲望が日本を沈没させ、人類を滅亡させることになるのだから、他人を責めてもはじまらない。これは個々のカルマの結果であり、宇宙の法則でもある。
このカルマの法則がわかれば、決して死を恐れることがないはずだが、つい目前の欲望の虜になって、その結果が現れた時、大あわてしなければならない。だから欲望の強い人間ほど終末観を恐れる。
こうした終末観をのりこえるための一つの手段としていまオカルトが大流行である。この現象はアメリカではもう十年も前から起り、ぼくが一九六七年に初めてニューヨークに行った時、書店にはすでにオカルト関係のコーナーが特設されていた。
ところがこの頃、日本では経済成長路線まっしぐらで、西洋的合理主義の導入に拍車がかけられていた。
一九六七年といえばサイケデリックの黄金期でヒッピー文化が最も栄え、その頂点にあった年である。
一方ベトナム戦争はますます激烈の途にあり、アメリカは幻想の平和と戦争の中で複雑な表情をしていた。
そしてこの時、アメリカはすでに終末観を迎え、魂のよりどころをいちはやく東洋に求めていた。このアメリカの状況は約十年遅れた今、日本の若い人達の間で息づきはじめている。
この肉体の終末を日本沈没やノストラダムスにまかせずに、自分自身で確認し、そして毎日を死の証と考え、せいいっぱい明るく[#「明るく」に傍点]生きたいものだ。暗いイメージの中での終末ではなく、明るいイメージの中での終末を考えたい。
UFOと救済
ぼくはUFOの存在を信じます。今さらこんな風にあらためていうのもおかしいほど、最近では多くの人々がUFOを目撃し、その存在を信じ、UFOとのテレパシックによるコンタクターや宇宙人目撃者や或いは円盤同乗者まで現れ、日々われわれの周辺は円盤ラッシュの状況を呈している。
ぼくが初めてUFOを目撃してから二十数年経つが、特にここ四、五年集中的に再びUFOを目撃するようになった。UFOへの関心が強くなった直接の原因は五、六年前から頻繁に夢の中にUFOや宇宙人が現れるようになってからである。当時はまだ今日のようにUFOがマスコミでこんなに騒がれていなかったし、誰ともこのことについて話をする事はなかったので、この頃発行されているすべてのUFO関係の書物や二、三のUFO研究団体からの資料を頼りに、独りで研究? するより方法はなかった。
UFOの問題を深く掘下げてゆくにつれて、ぼくはいつの間にかアトランティスやムーなどの超古代文明の世界に足を踏入れなければならなくなっていた。現在でこそUFOと古代文明は定説になっているが、この二つの関係を当時初めてぼくの中で結びつけることができた時、ぼくは大変な発見をしたものだと内心興奮したものである。UFOと古代文明の関係はさらに各国の聖典や神話、伝説へと発展して、ついにぼくは宗教的世界へ入っていく自分を発見したのである。
ぼくの当初の考えはUFOを目撃し、そしていつか彼等とコンタクトを持ちたいという願いが非常に強かった。今でも、多少ともこの考えは残っているが、最近ではUFOとコンタクトするより先ず自分自身をもっと深く知り、根底から己を解放し、粗雑な欲望から自由になることの方にぼく自身の真の生き方があるような気がして来たのである。このような考え方になったのも元を正せばUFOへの関心からである。
UFOのお蔭? でぼくは仏典や聖書に魅かれるようになった。特に難解だといわれる聖書を宇宙人とのコンタクト・ストーリーとして読んでいくと、ぼくは不思議にあの説教じみた教えがとても楽しく聞かれ、物語自体がとてつもない宇宙的スケールとなってまるでサイエンス・フィクションを読んでいるような気になってくるのだった。教会や寺院で説かれる神や仏には全く興味がなかったが、UFOの問題を根底にして聖典を読んでいくと、つまる所は人間は宇宙の一部であり、自ら宇宙的知覚の扉を開けばわれわれはいつでもニューバイブレーションの中で真の自由を得るといっていることがわかってとても嬉しかった。
さて誰もが一番知りたいのはUFO飛来の目的である。ぼくの集めた色んなデーターから推測すると、どうやら人類自体のカルマにより、この地球がアトランティスやムーが海底に没したようにあの二の舞ともいうべき大いなる悲劇を迎えようとしている運命の予告と、人類の精神的向上の促進をわれわれの想像を絶した方法と技術によって宇宙人が人類に援助の手として差しのべているような気がしてならない。こうした彼等のスペース・プログラムは今さら始まったわけではなく人類の創成期時代から彼等は人類を観察してきていることは、多くの記録の中に残されていることである。
いつまでも円盤の信憑性を云々したり、いつまでもデニケン的発想に留らず、自らを宇宙的存在として考える時期に来ているのではないだろうか? 人間の存在を考えれば考えるほど、これほど神秘的存在はちょっと他にないような気がする。人間だけではないこの大自然、大宇宙の一つ一つの出来事自体、われわれの存在を超えた何か偉大な力が加わっているとしか考えられないのである。われわれが生かされていること自体不思議である。地球を造ったのも、人間を造ったのも、われわれではないことは確かである。人間の細胞ひとつにしても、われわれの関知しない次元の産物である。人類が真に謙虚になった時、この宇宙の大神秘や法則が理解できるはずだ。人類は確かに間違った方向を歩んでいるような気がする。そしてこの方向に適応していく科学や心も宇宙の法則に反しているはずである。われわれにとっては、未知の存在としか考えられないUFOをこの際もっと身近に考えてみることにより、われわれは思いもよらない発見をすると同時に、大いなるあやまちを犯していることに気づくはずである。恐らくUFOやその搭乗者である宇宙人は、われわれと全く異なった生き方をしているはずである。UFOの動力にしても、人類が未発見の宇宙的エネルギーにより、宇宙の流れを利用して飛行しているのだろうし、またわれわれの時間とか空間という観念では計れないレベルで、彼等自身が宇宙そのもの[#「宇宙そのもの」に傍点]として存在しているはずだ。とにかくわれわれ地球人は多くの点で反宇宙的存在であり過ぎる。
円盤に乗りたい!
ぼくが空飛ぶ円盤に興味を持ちだした直接の原因は、四年前はじめて見た円盤の夢からだ。どうしたわけか連日のように円盤が夢の中に現れ、夢の中の出来事が鮮明な現実感となって頭のすみに強烈に焼きついた。こんなことから円盤の本に関心を持ち少しずつ読始めた。
中でもぼくが最も感動した本はジョージ・アダムスキーというアメリカのアマチュア天文学者の『空飛ぶ円盤実見記』と『空飛ぶ円盤同乗記』だった。彼はアリゾナの砂漠で円盤から降りて来たオーソンと名乗る金星人と会見し、その後円盤に乗って大気圏外に停泊する巨大な母船内で長老から深淵なる宇宙哲学を教わることになるのだが、なんといってもぼくを魅惑したのはこの長老の宇宙の法則を説いた宇宙哲学だった。
今にしてみれば円盤と宇宙哲学の関係がちっとも突飛なことではないし、むしろ当然のことだが最初は随分とまどった。しかし読進むにつれてぼくはこの長老の語る深淵な宇宙哲学に大いに感動し、影響されてしまった。
当時ぼくは仕事を休んでおり、疲れた心身を癒《いや》すために内外あちこちを旅行しながら各種の聖典を読んでいたので、このアダムスキーの本の内容がストレートに理解できた。この頃すでにぼくは自分自身がいやになっていたので、機会があればなんとか自分を変容させてしまいたいという非常に強い欲求を常に抱いていた。そんなところに出会った本がアダムスキーの円盤の本だった。宗教書ではどうももうひとつ理解できない厚い壁のようなものがあって混迷していたところだっただけに、ぼくにとってアダムスキーは本当に救世主的役割を果してくれた。
そして円盤への関心は日増しに強くなり、ぼくの生き方の根源的な部分になりつつあった。従来のものの発想の根底には過去の経験や体験を原点にしたものや、あるいは合理的なものに頼るところがあったが、円盤についていろいろ研究していくにつれて、ぼくの今までの概念が次第に覆《くつがえ》されていった。ぼくをささえてきた従来の主義主張がいかに個人的な狭い範囲のものであるかということが、広大な宇宙から来る円盤によって教えられると同時に自分自身の存在の矮小《わいしよう》さに愕然《がくぜん》としてしまった。こうしてとりつかれたように円盤の研究を始めだした。最初のうちは円盤の推進力や動力に興味を持ち、学生の頃大嫌いだった科学に頭をつっ込まなければならなくなり、こりゃ大変なことになってきたわいと思いながらやっているうちに次第に面白くなってしまった。しかし円盤をただ単なる科学面から研究していこうとする時、どうしても科学では理解出来ない問題と重なっているような気がしてきた。つまりわれわれの未知の超常現象と円盤が大いに関係しているような気がしてならなかったのだ。円盤は何か非合理な力によって存在し、またわれわれ人類と関係しあっていると考えざるを得なくなった。
円盤はわれわれ地球人が考えているエネルギーを動力としているようにはどうしても思われなかった。円盤の科学はどうやら地球の科学をはるかに陵駕《りようが》したもので、この搭乗者はわれわれの想像を絶する知的な人類であることは、円盤のあの飛行法や推進力を見ただけでもわかるはずだ。
また円盤の大部分のコンタクターが円盤人とテレパシーによる交信を経験しているところから考えてみても、どうやら心と何らかの関係があることがわかる。想念はエネルギーであり、この力は宇宙における最も強力なエネルギーとして、時には不可能を可能ならしめるほどの無限力を持っている。この人間の心が発するエネルギーをもし科学化すれば円盤の存在などちっとも不思議ではないはずだ。本来人間は神に等しい能力を持っているはずだ。それがいつの間にか文明の発達とともに顕在意識だけに頼るようになり、本来の超能力は退化し、動物や昆虫以下の下等動物になってしまったのではあるまいか。
一万二千年前に大洋の底に沈没したムーやアトランティスの両大陸には、現代の文明など及びもしない古代文明が栄えていて、彼等はすでに今日われわれが知る空飛ぶ円盤のような空艇《くうてい》を持っていたことはどうやら疑いのない事実である。このことは世界各国の神話や伝説の中に記されていると同時に、各地の巨石文明やピラミッドなどの遺跡がこの事実を証明している。われわれの科学や知識はせいぜい今から二千年前からのもので、それ以前の古代文明からの知識は何ひとつ受けついでいない。むしろそうしたものを無視したところから今日の科学は出発したもので、人類の重要な秘密には全く触れようとさえしていないのではなかろうか。
円盤はぼくに古代文明の存在を教えてくれ、また古代文明を知るために神話や伝説にも関心を持たせてくれた。神話や伝説は人類や地球の起源の謎にも挑戦させてくれた。人類や地球の謎は自分自身の心を見つめることを指導してくれた。また心は神や仏の存在について貴重なヒントを与えてくれた。このようなことから最終的に神の問題がぼくの大きなテーマになろうとしており、ぼく自身の心身を科学的に知ろうとする意識がぼくをヨーガの道に進ませようとしている。こんな方向に導いてくれたのもいうまでもなく円盤だった。そういう意味で円盤はぼくの最高のグル(導師)でもある。
ぼくは円盤についてのすべてのことを知りたいので、今後ますますこの方向に根ざすことになるだろうが、ぼくは決して円盤研究家にはなりたくない。ぼくは円盤を通して「ぼく自身の研究家」になりたいのだ。円盤を深く知るということは自分自身を深く知ることに通ずるし、自分自身を深く見つめることはぼくをとりまく社会的現実をより的確に知ることにもなる。ぼくは、自分自身の生き方を決して消極的なものとは考えておらず、むしろ自分自身に挑戦する意味で積極的な生き方だとさえ自負している。
ぼくの夢はいずれ円盤に乗せてもらいたいことだ。しかしこれが実現するのは今生ではなく来世になるかも知れない。またぼくの来世には、地球や人類が一変して、地球がかつて迎えなかったほど素晴しい黄金の光明世界が待っているかも知れない。このことは現在アクエリアスの時代に突入したことが十二分に物語っている。
シャンバラ伝説
ぼくの中には「シャンバラ」願望というのがある。「シャンバラ」とは地球の内部の空洞に存在するというアガルタ王国の首都の名前である。この「シャンバラ」にはアトランティスが海底に沈む前に逃れた古代アトランティス人種が住んでおり、ここの住民は全て超人《アデプト》で、みんな最高の知恵に到達しており、地球人の科学を遙かに凌駕《りようが》した科学を所有し、地表への出入りは自由で他の星への飛行も可能な空艇を持ち、異星人と交流をしているという。
またこの地下世界には四次元エネルギーの大ピラミッドがあり、その頂点は太陽と相対しており常に磁流を放出している。また「シャンバラ」には地上の人々の魂の状況が一目でわかる特殊な装置と方法があって、もし精神的展開の進歩がある人に対しては、積極的な働きかけにより魂のレベルを向上させようと試みられる。つまり「シャンバラ」は地上一切の進歩を促す動力因であると同時に、もしわれわれが狂愚の行為に走るならアデプトの力によって破壊も可能だという。「シャンバラ」は実在しているが、われわれの肉体で行くことは特別な許しがない限りほとんど不可能で、もし行けるとしてもそれはアストラル体(四次元体)でしか行くことができない。
つまり「シャンバラ」への道は空間のゆがみによって遮蔽されており、アデプト以外、人類は誰一人として行けないようになっているが、「シャンバラ」に通じる地上の入口は地球上に七個所ある。
「シャンバラ」には地球神サナート・クメラが君臨されているが、クメラは宇宙意識の神といわれ、地球の破壊と創造を司り、人間に秘伝をさずけて下さるという。サナート・クメラの存在は超電磁力的存在で、今から六百五十万年前にレムリア大陸に住む人種を進化させるために金星から火の車で天下ったと伝えられ、この時丁度天体の排列に大変化が起り、地球磁力が膨起したのであるが、このことが、金星からの来訪に極めて好都合だったらしい。そしてそれ以後サナート・クメラは「シャンバラ」にあって地球の統治者となられた。
このことは京都の鞍馬山の尊天として祀られているサナート・クマラ[#「クマラ」に傍点]ことクメラでもある。鞍馬山ではサナート・クメラのことを魔王尊《サナート・クマラ》と呼び千手観世音と大聖毘沙門天と魔王尊《サナート・クマラ》を「尊天」として三身御一体として奉安してある。サナート・クメラはゴビ海にあった当時白島という美しい島に天下られたが、同時にまた鞍馬山にも出現され、今ではこの山は霊地となっている。
ぼくが「シャンバラ」に強い関心を抱くようになった直接の原因は密教ヨーガからである。ヨーガへの関心は実をいうと八年前初めてニューヨークへ行った時から始まり、インドへ旅行するに至り、現在ではヨーガはぼくの生活の一部分となろうとしている。ヨーガは「シャンバラ」への瞑想であり、「シャンバラ」はヨーガの最高中心としてぼくの中に毅然として存在している。宇宙意識に目覚めることは「シャンバラ」意識に焦点を合すことであり、その時人間はアストラル体として「シャンバラ」に行くことが可能である。
ぼくが今生こうして「シャンバラ」を観想することができるのはぼくを導く前世からのカルマ(因果)によるものと自覚している。またヨーガと「シャンバラ」はぼくの中では空飛ぶ円盤とも結びついている。空飛ぶ円盤が地球内部の空洞から飛来してくるという説があるが、あながち否定することはできない。「シャンバラ」にはアデプトによるグレート・ホワイト・ロッジ(純正大同胞団)があるというが、ここはまたさそり座のアンタレス星の宇宙ホワイト・ロッジとも通じ合っているという。すると現在この地球に飛来している空飛ぶ円盤はこの地下の空洞からと、宇宙の星々からの両方から訪問しているとも考えられる。
また聖書に書かれている神々エホバはやはり円盤搭乗者ということになるかも知れない。というのも、エホバは人類がこの地球に誕生した日からわれわれを見守り指導して来た「シャンバラ」のアデプト達とどこか共通したものが感じられるからである。「シャンバラ」には星間飛行のできる空艇があるというが、これこそわれわれが現在目にするあの空飛ぶ円盤ではないだろうか。「シャンバラ」伝説と聖書のエゼキエルが見たビジョンや、ノアの箱舟などはどこか一本の糸でつながっているような気がしてならない。「シャンバラ」には創造と破壊の力が在るという。だからこのわれわれの文明が頂点に達した現代、そこには神の制裁が加えられた聖書のソドムの街のように、またアトランティスや、ムー《レムリア》大陸が海底深く没したあの洪水伝説のように最後の審判の日が神によって着々と計画されているのではないだろうか。
ぼくはこの終末の予感と空飛ぶ円盤がどうしても頭の中で結びついて仕方がない。ぼくがここまで書けば何を言おうとしているかがわかってもらえると思う。科学者や宗教家、そして世界の予言者が予知する人類の終焉は意外と近いところまで来ているのかも知れない。
しかし終末が必ずしも死と結びつかない。聖書には空に印が現れた時、家にいる者は屋上に、外にいるものは高い所に行くようにと書かれている。この空の印こそ現代のノアの箱舟が大挙飛来して来る時ではないだろうか。随分甘っちょろい虫のいい話だが、聖書が語るように選ばれた人は幸いである。果してノアの箱舟の選民になれる資格があるだろうか、と考える時ぼくは全く自分に自信がない。ぼくの中に選ばれたいという欲望がある限りぼくはその資格がないかも知れない。
我執を捨ててこそ、ぼくは「シャンバラ」に通じ、そしてノアの箱舟にも通じ、来たる光明の世紀に生きることが可能になるのだろう。
それにしてもぼくはあまりにも多くの荷物を背負い過ぎているようだ。
ぼくの空飛ぶ円盤物語
ぼくが初めて空飛ぶ円盤を目撃したのは、郷里の西脇(兵庫県)でだった。今から二十五年も前のことである。二、三人の友人達と英語の夜学からの帰路だった。市内を流れる杉原川の豊川橋の近くに自転車で来た時だった。川向うの家の屋根から二十メートルぐらいの低空に洗面器ぐらいの不思議な発光体があった。中心がオレンジ色で周囲が白銀色のように見えた。ぼくは最初花火が炸裂する瞬間だと思った。しかし花火にしては停止時間が少し長過ぎる。いつからこの発光体があったのかは気がつかなかったが、ぼくが目を止めた瞬間から数秒後に、この発光体は急に川の上流に向ってスーッと音もなく空を切るように移動して再び停止した。この時この発光体は細長い光の尾を引いたが停止と同時に物体に尾は吸収された。そして数秒後にこの発光体はフッとかき消すように消滅してしまった。
そしてこの時から約二十年が経った一九七〇年頃、ある夜夢の中に突然空飛ぶ円盤が着陸し、その中から宇宙人が次から次へと降りて来て、ぼくの目の前で姿を消していった。この最初の円盤の夢から今日までの間にぼくは数知れないほどのこの種の夢を見るようになった。二十五年前に見た発光体が後に母船から発射された偵察用のリモートコントロールによる小型円盤であるということがわかったのも、このような夢を見るようになってから後に知ったことで、この連続して見る円盤の夢が一体何を物語っているのかぼくには皆目理解できなかった。
まだ現在のように日本に円盤ラッシュが到来する以前だっただけに、ぼくは一体どうなったのだろうと思った。しかし不思議なことに、今後絶対円盤が人々の関心の的になってくるに違いないという確信だけは非常に強く持てた。そしてこの円盤がぼくの今後のものの考え方や創作に何らかの形で影響を与えるかも知れないという予感さえし始めた。そこでぼくはこっそり円盤の本を集めに走った。そして感動の書アダムスキーの「空飛ぶ円盤同乗記」に逢った。ここには円盤の全てが語られているような気がして信じ切るようになった。この書に語られているように円盤が精神主義的な問題と関わっていることが不思議なような気がしたが、ブラザーズ(宇宙人)が語る宇宙哲学に謙虚に耳を傾けるなら円盤が精神的なものと大いに関係があることが理解できる。
円盤はわれわれ地球人の三次元的科学では解明できない謎に包れているため今だに多くの科学者達は否定している。円盤の機能は誰が見てもわかるように、われわれの想像の領域を超えている。一瞬に方向転換をやってみたり、ジグザグ飛行をやってみたり、一つが複数に分裂したり、透明化したり、とにかくこのような機能を挙げればきりがない。
だからこのような円盤の機能を目撃した人々はまるで円盤を生物か幽霊のように思い怖れる。われわれは日頃人間は肉体的存在であると考えているために、五感以外の経験を信じようとしない。つまり唯物的な発想を基盤にしているために、物質世界だけを肯定し、物に頼り、そして死後の世界を否定するのである。もし人間が肉体的存在であると同時に霊的存在であることを知ったなら、われわれはテレパシーやテレポーテーション(物体移動)やプレコグニション(予知・予言)やクレヤボヤンス(透視)を単なる奇蹟と思わず人間本来が有している宇宙力として理解することができるはずである。
現代の科学者の中でもこうした四次元の世界を探求する動きがあるが、もし彼等がこの三次元的世界に立脚した状態でこの異次元を探求するならば絶対この謎を解くことは不可能に近いだろう。つまり四次元世界の解明はこのわれわれの心の中に存在しており、われわれが肉体的存在であると同時に霊的存在であることを認め、そして宇宙意識に目覚め、これと一体になった時、この宇宙の神秘は解明できるのである。如何にわれわれがピュアーになれるかということが四次元世界の解明につながり、そしてその結果が偉大な精神文明をこの地上に築きあげることになるのである。
われわれの肉体は大宇宙を縮小した雛型の小宇宙である。われわれが引力や空気、そして地球の自転や公転を意識することなく生きているのもこの大宇宙の秩序と調和のバランスがとれているためである。しかしわれわれがこの宇宙の法則に反した時は、病気になったり事故に遭ったりする。この宇宙の法則は大いなる神の意識でもあり、われわれがこの宇宙意識と焦点を合す時、われわれは四次元体(アストラル体)となり四次元界(アストラル界)のことがわかる。
だから四次元の解明は科学者自身の魂の問題にかかっているのである。もしこの地球上にわれわれが円盤を持つようになった時は、人類が初めて目覚た時であり、ここで初めて異星人と交流できることになる。アダムスキーの逢ったブラザーズの深淵《しんえん》な宇宙哲学や円盤も彼等が目覚た結果得た宇宙法則の産物である。
ヨーガでは人体をひとつの宇宙と考え、人体に生命の活動の場として七つのチャクラを持ってきており、色んなヨーガの技法によりこの眠れる生命の場を活性化していく。このチャクラが活性化すれば、いわゆる超能力を発揮したり、アストラル界の出来事などを見ることもできるが、ヨーガはそういった超能力人間になることではなく、自分の中で神と合一することが目的である。円盤がまるで生命体のような機能を果すのはおそらくこのヨーガのチャクラを開発した状態に近いのではないだろうか。また円盤の操縦は操縦者の想念によって機能しているともいわれている。想念のエネルギーはこの宇宙を創造した創造主の「最初に言葉ありき」(聖書)といった想念と同質のものではないだろうか。もしそうだとすると、円盤が想念エネルギーによって機能しているということが納得できる。
念の力によってスプーンが曲ったりテレポーテーションができるという人々がいるが、このことは仏教のカルマ(因果)の法則にもあてはまる。想いという原因があれば、それは必ず実現する。念は一度四次元空間を通過して再び三次元に物質化現象を起す。この想念エネルギーの果した事実を見るならば、誰でもわれわれが四次元と通じる霊的存在であることに納得し、神の概念が身近に感じられるはずである。このことはもし円盤の不思議な機能を目撃したことのある人ならおおよそ理解できるかも知れない。よく円盤は信じる人にだけ見えるといわれるが、このことは当っていると思う。信じるという強い思念がある限り、それはこの三次元の空間に物質現象となって現れてくれる。勿論信じない人でもその人が宇宙意識に通ずる波動《バイブレーシヨン》を有していれば見ることが可能である。
しかし円盤は時にはこのように人を選ぶ場合があるが、もともと可視の存在で、場合によっては不可視状態をとることもできる。宇宙の全てのものは波動からなっており、人間においてもそれは個人差があり、特に四次元現象に遭遇する人は三次元以上の波動の持主として、聖霊や幽霊や円盤や他の超常現象に出食わすことが多々あるようだ。だから数人いてもその中のたった一人だけが円盤を見ることだってあり得るわけだ。というのも円盤が三次元波動より、より高い波動で空中に停止して皆なの目に見えない方法を取っていても、たまたまそのレベルの波動の持主に見られた場合は現実に円盤は存在しているということになる。しかし時たま多数で円盤を見ることがあるが、この時は円盤は三次元波動に下げている時である。
もし円盤と特別なコンタクトをしたい人があればテレパシーを送ればいい。ところがテレパシーも波動だから低い次元の想念波動だったらいくら一晩中送ってもそれは無駄であろう。たとえ見たとしてもそれはその人のために飛んだのではなく、円盤自体が他の目的のために飛んでいたに過ぎず、これはコンタクトになり得ないかも知れない。テレパシーの強弱はその人が如何にピュアーであるかということと関係があるようだ。粗雑な欲望が支配する限り、テレパシーは通じないだろう。もしその人が無になることが容易な人なら円盤のコンタクトもそんなに難しいものではなかろう。要はその人がソールマインドであるかどうかということにかかっている。
ぼくが円盤に興味を抱くのもアダムスキーと同じく精神的存在として円盤を考えているからである。もし現代の円盤が悪魔的であるとするならば、この地球はとっくの昔にたった一機によってでも征服されたかも知れない。現代円盤がなぜ地球上に頻繁に出現しているのかこの理由はわからない。ただ円盤とコンタクトしている人々に逢うとこの人達はきまって素朴で純粋で気持のいい人達ばかりである。このことを考えてみる時、ぼくは円盤に何か素晴しいことを期待するのだが、それ以前にぼく自身がこのような素晴しい地球人の仲間入りができるように心の用意をしなければならない。円盤が地球人に何を求めているかということはこれらのコンタクターに接すればそこに全て解答があるような気がする。この人達について共通することは我欲がないということだ。彼等は現在ぼくが最も素晴しいと思っている人々である。
円盤がどこの星から来ているかということは大して重要ではない。それより彼等があのような素晴しい科学を持得た背景の精神にこそわれわれの関心がなければならないのではなかろうか。円盤ラッシュといわれるほどこのように頻繁に来ていることの背景には何か非常に重大な問題が隠されているのかも知れない。予感できることはこの誤った物質機械文明が生んだ公害汚染と精神の堕落の極に達した人類や地球が、このままスムーズに運ぶとは考えられないということである。こうした終末的時期と円盤のラッシュを単に偶然と見ることができるだろうか。
円盤をノアの箱舟と見たてることは容易《たやす》いだろう。このことはすでに旧約聖書において充分説明がつくからである。もし仮に円盤がノアの箱舟であったとしても一体誰を救うというのだ。もし現代の地球人全てを救うことができても、再び地上に降りて来た時はまた同じことを繰返すだけだろう。するとここに当然選ばれる人々が出てくることになる。もし彼等が選ぶとすれば彼等と波動のあったピュアーな人々を選ぶかも知れない。ブラザー達は宇宙の法則にかなったものを良しとしているはずだ。現代の人類や地球のあり方は決して宇宙の法則にかなっているとは思えない。月ロケットにしても宇宙の法則を無視した科学だ。ジェット機にしても同じことがいえる。人類や地球の危機はわれわれにとって以上に他の星の人々にとっても危険なはずだ。地球の汚染も結局人類の想念の結果である。もしたった今でも人類一人一人が悔改めるなら遅いかも知れないがもう少し何とかなり、未来に光が見えるかも知れない。円盤はそのためにわれわれに接触を開始しだしたのではなかろうか。円盤と無関係においても今こそわれわれ一人一人が心を洗わなければどうにもならないところに来てしまっているような気がしてならない。
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[#1段階大きい文字] 宗教
新たなる「旅」の途上にて
ぼくは今、「宗教」という非常に現実感のとぼしい形骸化された無用の長物といわれているものに対面している。この「宗教」という言葉はある人々には憎悪と敵意を、しかしまたある人々には絶対的な価値として迎えられており、なぜこのように「宗教」が両者を分裂させ、そして対立させているのだろう。
そこで一体ぼくはこの「宗教」というものと果してどのようにかかわっているのか、あるいは無関係なのか、そのへんのことについて少し考えてみようと思う。
ぼくが初めて「宗教」を経験したのはやはり両親からだったと思われる。ぼくの家には至る所に神仏が祀ってあって、それらを両親は朝晩熱心に祈祷していた。祈願は大抵「家内安全、商売繁盛」そしてぼくの「学業向上」と「立身出世」がその主な内容だったようだ。また「神」についての概念は、日本にいずれ神風が吹いて第二次世界大戦の勝利をもたらすという教訓を受けていた。このことは事実敗戦色が濃くなった時期でも非常に強い信念としてぼくの頭の中にあった。だから終戦と同時にぼくの中からも国民の中からも「神」の存在は永久に消えてしまったのではないかと思われた。
しかしぼくの両親はそれでも依然として信仰の手は休めようとはしなかった。そして六十九歳で脳溢血で死んだ父も、七十四歳で膵臓癌で死んだ母も死の床まで神仏と共にあったようだ。特に癌に巣くわれた母の最期は壮烈なもので、彼女の信仰と裏腹に神仏の存在さえ疑わしいありさまだった。だからぼくが神を考える時、ぼくはいつも母の最期を想像して首をかしげてしまうのだ。一体母にとっての信仰は何であったのだろうと。母に限らず、信仰者の答は常に死の床で結論がでるような気がしてならないのだ。客観的には母は確かに地獄の責苦を味わっていたとしか考えられなかった。しかし、ぼくの知らない母の内部では全く別の事態が起っていたかも知れず、その証拠に母の死顔は母の若かりし頃を彷彿させる美しさがあった。ぼくはこの母の死顔を見て、母が御仏のもとに嫁がれていったように感じ、せめて心が救われたような気になった。
しかし、その後母が一度ぼくの前に幽霊の姿をとって現れたり、霊聴を囁いたり、またしばしばぼくの夢の中に幽霊として現れ、自ら写経を書いたりするビジョンを見せられるに至っては、あの美しい死顔を残して逝った母がなぜ成仏できなかったのかが、ぼくには理解できなかった。「チベットの|死者の書《バルド・ソドル》」によると死から再誕生への中間状態《バルド》に死者は自らの体を探求め、体への欲望が捨切れないためいつまでもバルドから解放されない魂のあることを告げているが、幽霊としての母はまだこのバルドに留っているのだろうか。死後母は、自らのカルマによってこのバルドを経験して、再びこの現世に帰ってくるはずだ。
母が癌で死ななければならなかったのは母のカルマの結果とすることはとても残酷なことになるのだが、このことは宇宙原理としてほぼ過ちがないようだ。母の長年にわたる熱心な信仰の結果があのような苦渋に満ちた死とすると、何か母にとって信仰が真の信仰と結びついていなかった部分があったのではなかろうかと疑問を持ってしまう。確かに母は数知れない悩みを抱き、それ故に宗教を求めたのかも知れない。しかしそれは母の死の瞬間まで問題は未解決のまま魂の中に記憶されてしまったのではないだろうか。もし母が神仏と一体化する想念に反する負の想念を潜在意識に抱いていたとすると、それはカルマの法則に従って負の結果を起すことになるだろう。母の生き方を見ているとぼくはどこかに信仰の非論理的な部分で負の働きが起っていたような気がするのだ。母は想念のエネルギーが宇宙的力の場において正負両極に平等に働きかけるという原理に気づかず、信仰を単なる形式と考え、潜在意識にはより強烈な負の想念を抱続けていた可能性が伺えるのだが、このことは母に聞いてみなければわからない。
ぼくが母の死から学んだことはやはり運命的なカルマの法則が人に大きく作用しているということだった。この原因結果の法則が母に作用したと同じようにぼくにも作用しているはずだ。しかしぼくの一生を決定する巨きなカルマはぼくが前世を記憶していないためその因になるものが判らない。ヨーガにはこのカルマを離脱する力が解かれているが、これは容易なことではない。カルマの法則が少しずつ判ってくると自分の存在は全て己にかかっており、今日の自分は昨日の反映であり、明日の鏡ということになる。だから幸、不幸さえも自らが蒔いた種ということになり、これを摘むのは他ならぬ自分である。
しかし、生れたばかりの幼児や、子供の不幸は一体どのように考えれば納得いくのだろう。多少占星術に興味のあるぼくは自分の天宮図を作成してもらい、それによって自分の大まかな運命を知ることができた。これによるぼくの過去や性格はかなり当っている。未来についてはまだその時が来なければわからないが、ここで不思議なことにぼくが予感する自分の未来図がほとんどそのまま示されていることだ。これは一体どういうことだろう。この疑問にぼくは一つの解答を得ることができた。それは未来はすでに決定しており、それ故にぼくは自分の未来のビジョンを薄々予知している結果ではないかと思うのだ。生年月日と時間、そして生誕場所によって計算するこの古代科学ともいうべき占星術が、なぜぼくの半生をこんなに正確に言当てるのだろう。過去のデーターの正確さは、ぼくが万一自分のカルマを解脱し、運命の路線のレールを敷きかえない限り、過去と同様ぼくの未来は天宮図が示す通りに確実に実現することになるだろう。
しかしもし人間の運命がこのまま天宮図に従うなら、あまりにも味けなく人間の自由意志は一体どうなるんだということになり、人生の目的さえつかめなくなってしまうではないかという疑問にぶつかるはずだ。もしこの宇宙に絶対的な至上なるものが存在している限り、それを万物の創造主、あるいは神、または宇宙根本原理といえばいいのか――それは人間の自由意志と結合されるものであると思う。だからこの自由意志が至上なる存在と一にする時、ぼくはその人のカルマには何ら影響されず、彼の自由意志による行為全てが善に働き、この宇宙をわがものにできるのではないかと考える。そして彼は自分の運命を自由自在に操り、自らの運命の主人公となるだろう。
そしてもし人がこのことを望むなら、ここに何らかの形で「宗教的なるもの」の介入と存在を受入れなければならないのではないだろうか。このぼくがいう「宗教的なるもの」とは世間でいう「宗教」とは異なり、彼に内在する宇宙意識との統一による実在の知覚をいうのだ。ドラッグの経験者であれば大抵このインスタントによる実在感を体験しているはずである。確かにこの状態は一種の解脱であり超越的境地にあるわけだが、この体験は限定された時間内での「悟り」で、決して永遠のものではなく、ここにはその後における魂の浄化や進化は全く望めない。ところが、ぼくの内部ではどこかこのドラッグ体験と「宗教的なるもの」がかすかに重りあっていた。
数年前ニューヨークで初めて体験したLSDによってぼくは至上なる者との統一|幻覚《ビジヨン》を見た。これに伴い各種心霊的体験も起った。また肉体意識の喪失感、時間、空間観念の破壊、意識内|瞬間移動《テレポーテーシヨン》、離魂現象、非物質の物質化などの現象も矢継早に体験しなければならなかった。この体験からぼくはこの現象界とあきらかに隣合せにあるもうひとつの異次元世界の存在を知った。そしてこの別の世界は、ぼくがふだん知覚している現実感をさらに凌駕《りようが》する生々しい現実であったことも事実だった。むしろこの世界を現実と呼ぶべきではなかろうかという疑問がぼくの中に起った。この明確な実在感の前では物理的現実は、色褪せた幻の世界、虚の現実としか映らなかった。するとわれわれは常に他次元の影である現実を真の現実として知覚しているという大きな錯覚世界に生きていることになる。またぼくはこの物理的現実と心理的現実との両側に立った時、ぼくは初めて狂気を体験した。他次元の記憶をそのままこの現実に持帰った時そこに初めて狂気的世界が出現するようだ。
それは全く悪魔《サタン》的世界であり、自由意識を剥奪された宙ぶらりんのどうにもならない状態といえる。
そしてこのドラッグの世界があまりにも「チベットの死者の書」にそっくりなことにぼくは驚いてしまった。非幻覚体験者はこの書を読んでも恐らく正しく理解することは不可能ではないかと思う。LSDはそういった意味では意識が拡大された状態を示しそこに真の現実《リアリテイ》の在ることを教えてくれるが、再び覚醒した時には体験以前の現実よりはるかに色褪せた脱落したような現実の中にある自分しか発見できない。それは回数を重ねれば重ねるほどこの現実が虚構としてしか存在しなくなってくるはずだ。
ぼくは再びここで「宗教的なるもの」と出逢うことになる。LSDによる神秘体験はぼくの内なる神への呼びかけの糸口になったことは確かである。この体験により、ぼくはさらに人が宇宙的存在であることをより強く認識することができた。そしてこの体験はすさまじいばかりの自我《エゴイズム》との葛藤だった。白昼に晒けだされたぼくの眠れる自我はその檻を破って欲望の牙を剥き出し、虚飾のぼくに襲いかかってきた。しかしそれは疑いもなく真実《ありのまま》の自分の姿だった。ぼくはこの真実の自分を必死で見つめようとしたが、それは何と悲しく、また侘しく、そして哀れな姿だったか知れなかった。この欲望の化身となった自我を観察していると、ぼくは次第に落着きはらってきた。そして次の瞬間ぼくの内部から噴出する非常に大きな喜びに思わず恍惚としてしまった。ぼくの内部で何かが崩れ、そして何かが誕生するという喜びであった。これは「宗教的」体験ともいえるものだった。
この体験があって二、三年後からしばしばぼくの夢の中にマリヤ像やキリストや仏陀、そして聖者が現れるようになった。このころぼくは、さかんにいろいろな聖典を読んでいたので、こうした日常生活が夢に反映したと思えるのだが、この種の夢に関しては不思議な現実感を伴い、その日一日中ぼくは何ともいえない平和な気分を味わうことができた。またこうした霊夢的なビジョンからぼくはぼくを取巻く終末意識を予感せざるを得なかった。またこのころから空飛ぶ円盤が連日のごとく夢の中に現れ始めたのも単なる偶然ではないような気がしてならなかった。ぼくが最初空飛ぶ円盤を目撃したのは十代のころだった。しかし当時はそれが一体何物であり何を意味するものか全く理解できないままでいた。ぼくが空飛ぶ円盤に強い関心を抱くようになったのは夢がその原因だった。アダムスキーの書物を読むようになったのはそれから少し後からであり、空飛ぶ円盤が人類に好意的であり、また円盤搭乗者達が非常に知性の優れた人類であると同時にわれわれ地球の科学をはるかに凌駕していることを知り、彼等が聖書に現れた神々エホバではないかと想像し始めたが、このことは多くの円盤研究者たちの間でも問題にされているようだ。聖書によるとエホバは人類の創成時代からわれわれを観察し、そして何らかの方法で援助と指導をして現代に至っているようだ。またぼくは、三百六十万年前に金星から火車でこの地球に降誕したというサナート・クメラが今なお地球内部のシャンバラなる地底王国に棲んでいるという伝説になぜか強く魅かれるし、あながち否定することはできないような気もするのだ。というのも一万二、三千年前これまた伝説のムーやアトランティス大陸が大洋深く沈没した時、彼等の古代科学は現代のそれとは比較にならず、すでに現代の空飛ぶ円盤に匹敵する乗物を所有して、その国の僧侶や科学者だけが地球内部に通ずる洞窟からシャンバラに入り、そして今なお超人《アデプト》として棲み、地表の人類の精神的指導をするために超科学的な方法で日夜活動していると聞く。そして彼等の所有する空艇は、すでにわれわれがしばしば目撃する空飛ぶ円盤の一部かも知れない。ぼくの考えでは円盤は地球外惑星とそしてシャンバラを首都とするアガルタ国からの訪問ではないかと想像するのだ。またシャンバラは実在することはするのだろうがおそらく三次元的世界ではなく、もっと高次元|振動率《バイブレーシヨン》の世界に存在し、それはわれわれの高い意識層のアストラル体においてのみしか立入ることは許されないものと考える。だからといってシャンバラが存在しないという風には否定できないはずだ。われわれの日頃知覚する世界は最も低い振動率の世界であり、たまたまこれより高い振動率と波長を合せた人が、神や天使を、また心霊現象、あるいは特殊な状況[#「特殊な状況」に傍点]の円盤さえ目撃することになるようだ。人々はこの現象を客観的に奇蹟と呼んでいるのではないだろうか。
ところがわれわれは幸いにしてほとんど毎夜奇蹟に立合っている。それは夢においてである。夢の中では人は超能力者である。瞬間移動《テレポーテーシヨン》から他の動物や植物に化身さえでき、時には死の瞬間さえ体験でき、場合によっては啓示を受けたり、未来を予知したりもできる。つまり肉体意識から離脱し、真《まこと》の自由人として宇宙全域において行動できるはずだ。数年前から夢日記を書いているぼくはかつても古代人がしたように、この無意識の世界にぼくの心の教師を見つけることに現在何らかの意味を求めている。
ぼくが霊夢を見る時は、いつも道徳的倫理的な問題に引っかかっている時だった。そしてこの夢がある決意を促す結果にもなったようだ。ぼく自身自分の周辺に「宗教的」な環境を作上げようと計画したが、いつも何か世俗的な欲望の自我がぼくの計画を邪魔しようとした。宗教書をかじりながらもどうも顕教《けんぎよう》だけでは心の底からの道徳的倫理観というやつはもうひとつ実行できない何か偽善的な矛盾に常に悩まされていた。ぼくが先ず最も悩まされた煩悩のひとつは情欲だった。これさえ断切ることができればぼくはぼく自身がもっと自由になれると考えた。こんなある日ぼくは夢の中で光り輝く一人の老人に逢った。そして彼は強くぼくに情欲を抱くことを戒めた。この夢は、後にぼくを情欲の虜から解放してくれる最も大きな理由のひとつとなった。
そしてやはりぼくに道徳、倫理を強いたもうひとつの存在がある。それは空飛ぶ円盤だ。ただ単に夢に現れる円盤であったが、彼等はいつもぼくの想念観察をしているような気がしてならなかったからだ。しばしば現実に目撃する|UFO《未確認飛行物体》が円盤である場合もあったからだ。夢の中からと円盤の中からと、この両者の視線を感じるようになってからのぼくは常に自分の想念観察を始めるようになった。粗雑な自我をひとつずつチェックしながら出来るだけ単純《シンプル》になることを理想とした。このこともすでに、ぼくにとっては「宗教」の始りだったのかも知れない。
こうした行為と同時にぼくの作品も現実的なものから、「楽園→インド→宇宙→神」という具合にイメージが固定してきた。しかしそれより以前に一九六七、六八年、サイケデリック・ヒッピー・ムーブメントの最盛期のニューヨークとサンフランシスコの旅行がぼくの意識を大きく変えるきっかけになった。ここでのサイケデリック体験は、ぼくにロックとインド指向、そしてオカルトへの関心を決定的なものにした。初めて聴いた「クリーム」の生演奏、ラビ・シャンカールやアリアクバ・カーンのインド音楽、そしてラダ・クリシュナへの興味、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーのフラワー・チルドレン達の自然讃歌などがぼくを呑込むように変えていった。この年の数ヵ月のアメリカ生活には目に見えない大きなカルマの力がぼくに作用しており、来るべくしてアメリカに来ていたというより他に理由はなかった。
後にぼくは交通事故に遭い四ヵ月の入院生活の後、二年間の休業という形をとって再び目的のない海外旅行に出るのだが、この休養のきっかけになった事故にしても大きなカルマが働いていたとしか考えられない。アメリカでのサイケデリック体験が下地になっていたこともあり、この間の肉体的苦痛がぼくをいよいよ強く「宗教的」な方向に導く結果になった。最初は禅への興味が強かったが、次第に密教に関心を抱始め、さらに、この辺りからヨーガへの異常なる力に引かれ始めている自分にどうすることもできなかった。それにはビートルズの「リボルバー」が口火を切り、次にグリニッチ・ビレッジにおけるラダ・クリシュナ寺院への接触、ラビ・シャンカールとアリアクバ・カーンの二人の奏者、そしてマハリシ・マヘシュ・ヨギやスワミ・サッチダナンダ、グル・マハラジ、ヴィヴェーカーナンダ、ヨガナンダ等の聖者の他に、クリシュナ・ムルチイや、リバイ・ドーリング、さらにM・ドーリル等の教えによるところが多く、次第にぼくは「インド」から呼ばれているような気になっていった。このことは無理に理由をつけるならやはり運命的なカルマの作用としかいいようがないだろう。
ぼくが「インド」を自分の作品に現した最初は、一九六八年に出したエッセイ集「一米七〇糎のブルース」の背表紙のヒンズーの女神だった。そして二度目は、三島由紀夫氏の割腹自殺の直後出版された、氏の「薔薇刑」の畳《タトウ》の内部だった。このような形でぼくは自作の中に次第に「インド」を取入れ始めた。そして一九七三年、「聖シャンバラ」の版画シリーズ、七四年のダンテの神曲とタントラの結合でできた「クリアー・ライト」のシリーズと進んできたわけだが、この創作行為はぼくにとってのヨーガへのアプローチであると同時にそれは瞑想《メジテーシヨン》でもあった。
過去インドへの旅は再三計画されながらそれらはいつも出発寸前に障害が起り、中止になってしまった。だから昨年の暮から一月にかけてのインドとネパールへの旅はぼくをどんなに喜ばしてくれたか知れない。今回のインドへの旅でぼくの心の垢の一部が流されたような気分で、旅行中常に高揚していた。前世からの因縁か、それとも来世への繋がりか、とにかくインドとぼくは深い絆で結ばれているような予感がしてならない。インドはぼく自身の宇宙の焦点であり、ぼくの「宗教」の核でもある。そしてこの母なるインドはヨーガという宇宙の根本原理をぼくに授けてくれた。
ラージャ・ヨーガを始めて間もないが、ぼくの内部ではいい知れぬ感動が起り、巨きな「宗教的なるもの」へ焦点を絞始めた。このことをぼく自身の第二の誕生として予感されるだけの信念がぼくの背後で大きく脈打っている。朝夕の瞑想は明らかにぼくを超越存在の領域に送る何らかのエネルギーが作用を始めていることを薄々知ることができる。現象界の粗雑な状態は微妙な状態へと変質しながら、存在へと進行するのだろう。この時、万物は我がものとなり、人は宇宙と共にあるだろう。この大いなる存在を、単なる「宗教」と呼ぶにはあまりにも宗教の概念の器が小さ過ぎる。自らが宇宙的存在になれば「宗教」のための宗教はもはや不必要だ。「宗教」という言葉が存在する限り「宗教」は存在しない。ヨーガは「宗教」を超越した人間科学として、古代の超人《アデプト》を生んだ古代科学である。
ぼくはヨーガに早くから目をつけながら、それを始めるのに余りにも躊躇し過ぎた。というのもヨーガにおける禁戒《ヤーマ》と勧戒《ニヤーマ》を征服してからでなければヨーガに入れないと考えていたために、随分無駄な時間を浪費してしまった。つまり禁戒《ヤーマ》と勧戒《ニヤーマ》の二つの道徳的戒律を解決しなければ一歩も前に進まないと考えていたからだ。だから前にも書いたように煩悩の問題の解決にぼくは余りにも時間を使過ぎてしまったのだ。人間の欲望なんてそう簡単に頭で考えたぐらいじゃ解脱しないものだ。瞑想の実践の中で自然に禁戒と勧戒が溶解していけばいいのだった。
しかしヨーガはその人に最もふさわしい時期が到来しない限り、それをスタートすることは困難であり不可能なことだ。そしてヨーガはその人のカルマによって押進められて行くものかも知れない。幸いぼくはぼくの占星術によってスタートのタイミングを知ることができたような気がする。そしてぼくが次に求めるものはぼくの導師《グル》だ。果してぼくはぼくの導師と出逢うことができるのだろうか。心細い気がするが、その時はぼくの導師になるべき導師をはっきり決定する運命的な瞬間を逃さないようにしなければならない。この時期がいつであるかぼくは知らない。それまではぼくの導師はぼく自身でなければならないと心に決めている。
ぼくが人生の後半からヨーガの道を選ぶことになった数々の理由の中でも、最も深く関わってきた問題は両親の死後常につきまとっていた死の恐怖だった。そしてでき得ることなら死を避けたいと願うようになった。この頃の考えは多分に唯物的だったが、後に考えは次第に変り、われわれの生命は永遠の海の中に生かされていることを多くの事柄から知るようになったが、真の自分は肉体ではなくその内部に存在する魂であるという考えは頭では理解できてもなかなかその実感が伴わなかった。しかし深い瞑想に入った時しばしばこの実感を体験する。こんな時自分の存在はより固有のものになり、時間、空間を問わず万物全てが自らの支配下にあることを観想し始めるようになった。
自分を取巻く世界を知るためには、自分が何者であるかということを先ず知らなければ、この世界と自分の関係の謎は解けない。自分自身を知ることはこの宇宙の神秘を知ることであり、人が宇宙的存在であることを認識する瞬間、われわれは神意識にあり、真の実在を獲得し得るはずだ。「宗教」がもし存在するならば、この実在を「宗教」というのかも知れない。世間でいう「宗教」は、すでにその歴史的役割は終っており、ただ形骸だけが横たわっているだけだ。
われわれの時代と世界は、こうした過去の「宗教」ではなく、もっと別の「宗教」を求めているはずだ。物質的存在が「宗教」の役割を果してくれなかったことも悟った。今われわれは全く新しい形の精神的ルネッサンスが破滅と創造の予感の彼方に到来する足音を聴いている。ヒンズーのシヴァ神はぼくの胸のペンダントの中で宇宙の周期の終末を前にして、舞踊を踊り始めている。このターンダヴァと呼ばれる舞踊はこの現象界を消滅させ、そして絶対界の中に回復させ、人間を幻影から離脱させるという。またサナート・クメラも世の終末にシャンバラから地表に現れるという。聖書にも同じくその時が近づいたら空に印を見せるという。この印はすでに多くの人々によって目撃されているあのUFOではなかろうか。しかし世の終末は決して永遠の終末ではない。かつて地球上に存在しなかった全く新しい文明の到来の前触れではないだろうか。創造のためには破壊が伴うものだ。旧形態が破壊され、新しい形態が出現するなら破壊は喜ぶべきだろう。破壊と創造の神シヴァ神はきっと、われわれ人類に輝かしい未来を約束してくれている。ユリ・ゲラーの出現だって、歴史的必然のもとに出現するべくして出現したようだ。ゲラー現象ひとつ取っても古い人間と新しい人間の二つに分離できる。これからの新人類は宇宙的存在としての「宇宙人」でなければならない。幸い現代は宝瓶宮《アクエーリアス》の時代に入っている。今後二千五百年間はこの星の影響を受けて人類は急速な発展を遂げ、目ざましい霊的進化をなすという。そしてこの時期はすでに始まっており、われわれは様々な宇宙的な力《パワー》を受けている。これによって現代の若い世代は非常に敏感になっており、既成の社会や概念内では生きていけないところまで来ており、大きな転換を強いられているようだ。若い世代にオカルトの関心者が増加しているのもただ単なる流行現象ではなく、内発する強い自己探求の欲求の表れかも知れない。また、このことは人類全体に関わり始めた巨大なカルマのなすところともいえそうだ。
人類全体が大きな転換にさしかかっている如く、ぼく自身もこの兆候を受けている。合理と非合理とのひずみが起きつつある中で、われわれは今そのどちらか一方の選択を強いられている。そういう意味ではこの人類の歴史的過渡期に立合うことができ、そして生き方を決定できるこの状況はわれわれにとって最大のチャンスである。これこそ神が人類に与えた試練であると同時に最高の贈物である。ぼくはこうした時期に生れてきたことを感謝すると共に、この最後のチャンスを是非我がものとしたいと思っている。人間は絶体絶命の状況に置かれると神の力を発揮するという。つまり「無の」体験が神に通ずるわけだ。われわれが素直になり、謙虚になった時、「無」はわれわれを宇宙的存在にしてくれる。人類の傲慢が物質文明を築き、公害を生んだとすれば、二十一世紀の文明は精神文明にならなければならず、「物の科学」から「心の科学」への研究に切換えなければならない。物質科学は人類の始原的な本能を磨滅させ、動物以下の存在になり下らせたのではあるまいか。混乱した現代を救うには、現代の科学ではない全く別の科学によってしか不可能ではないだろうか。そのためには人類一人一人が魂のレベルにおいて進化しない限り、いつまでたっても反自然的、反宇宙的な科学に終始するだろう。人が自分自身を知ることによって宇宙的存在になった時、その人は万物をあやつる科学者なのだ。
ぼくが最終的[#「最終的」に傍点]にヨーガを始めることになったのもぼく自身を知り、ぼく自身の粗雑なカルマの影響から「自由」になるためだった。そして永遠の命を知覚し、さらに大いなる「宗教」を求めるためである。
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もう一つの旅
腹の底からつきあげてくるような息苦しさが続いている。もうそろそろストーンの状態になってもいい頃だ。昨夜に比べると今夜のケーキの量は相当なものだ。煙草の煙を吸込むことのできないぼくは、マリファナをケーキと一緒に混合せてストレートに胃の中に押込んでしまった。多量にケーキを取過ぎたことが少々不安になってきたが、昨夜のような奇妙な想念もなかなか起りそうにもない。しかし聴覚だけはかなり敏感に感応を始めだしているようだ。スピーカーからは金属的ではあるが宇宙的なサウンドがまるで生きもののような動きと形に姿を変え、目には見えないが、ぼくの内部に入込んでくるのが実感としてとらえられた。音に色や形や時間や空間があるのがまるで手に触れるように知覚できるのだ。ぼくの肉体の全細胞が聴覚と化したかのようだ。ぼく自身が耳であると同時に、音でもあるようだ。しかしこの音はぼくが日頃聴いている耳から入る音とは全く異質のもので、ぼく自身の内部から発する音といった方が正しいかも知れない。
ケーキを食べてから約三十分が経った。しかし敏感になったのは聴覚だけで、昨夜のようにチンパンジーになって部屋中を駆けめぐるというようなことはまだ起らない。夕食をたっぷり取過ぎたせいか、マリファナも酒と同様すきっ腹には強烈に作用するというから、今夜のぼくはきっとこの程度の軽い状態が続くのだろうと、多少の不満はあったが、ことのなりゆきにまかせることにした。
こんなぼくの欲求不満な表情をすばやく読みとったのか、この家の主《あるじ》のビルが、どこからともなく白い粉を用心深く小さな紙片に入れてぼくの目の前に差しだした。ぼくは一瞬、いい知れぬ恐怖に身を引いたが、彼の穏やかなブルーの瞳が、大丈夫であることを物語っていた。五センチ位の長さに切ったストローを鼻の穴に軽く差込み、彼の指示にしたがって、紙片の中の粉を思切り吸上げた。一瞬軽い眩暈《めまい》のようなものを感じたが、苦痛にはならなかった。
音楽家のビルの居間の中心には大きなピアノがあり、部屋のインテリアは彼自身の手になる素朴な木の地肌を生かした壁や床からなっており、夕食に招待されたわれわれ四人とビル夫妻の計六人が、ソファーや床におもいおもいの姿勢で瞑想を始めているようだった。日本人であるビル夫人とぼくと一緒にニューヨークに来た写真家のDさんだけは、マリファナ入りのケーキも白い粉のLSDもとらなかった。
ぼくのLSDに関する知識といえば、例えば鳥になったつもりでビルの窓から飛出し、そのまま天国に行ってしまったとか、殺人を犯したとか、気違いになった者がいるとか、恐怖する事柄が余りにも多かったが、しかし別の体験者によると、自分の前世や来世を知ったとか、地球の創成期に立合ったとか、神を見たとか、何でも非常に壮大な宇宙観に裏付けされた旅行ができるということだった。恐怖することより好奇心の方が先に立ったぼくは、物は試しだと思い、勇気を出して脳天にLSDを吸上げた。
まるで時限爆弾を脳天に仕掛けて、その爆発時を今か今かと恐怖と期待で待っているような気分に襲われ始めた。スピーカーからはビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」が色彩的な音となって部屋の中に流込んでいる。まるでチューブから絵具を次から次へとしぼり出しているように感じられた。
その時ソファーに腰を下したぼくの前で寝そべっているマンスールがいきなり、「ラビ・シャンカールがシタールを演奏している」といいだした。ビートルズのメンバーにラビ・シャンカールが加っているはずなどないのに、一体どうしてラビ・シャンカールが演奏しているのだろう? とぼくまでそんな風に思ってしまった。ところが、この時ぼくはわれながら自分の眠れる脳細胞の一部が活性化し始めたことに気づき欣喜雀躍した。ビートルズのこのレコードは、今まで百回以上も聴いているもので、今さらラビ・シャンカールがシタールを演奏しているなんてこんな馬鹿げた考えが起ったことの方が不思議な位だ。ところが、次の瞬間この謎が解けた。このアルバムでシタールを演奏しているのはビートルズのジョージ・ハリスンであるが、シタール奏法を学んだ師がラビ・シャンカールであるために、シタールの音が瞬間的にラビ・シャンカールのイメージに結合してしまったのだ。このように書けば、なんだ、つまらないことに感心するな! といわれるかも知れないが、この印象が銃弾で撃たれたような強烈な衝撃でぼくを内部から説得するのである。このような意識が働き始めるとそろそろLSD効果の現れに違いないと、ぼくは次に起ってくる想念を待った。
どの位時間が経ったのか全くわからないが、ぼくは突然黄金色に輝く回転する大きな光の玉になって空洞の中をものすごい速度で上昇している。空洞の壁はぼくの発する光で、ぼくと同様|眩《まぶ》しいほど輝いている。これは一体どうしたことだろう。さっきまでビートルズの曲を聴きながらソファーに坐っていたはずだ。いくら大きく目を見開いても、ぼくに見えるのは頭上に小さく光る空洞の円い出口だけだ。ぼくは最初ここが地球の内部から地上に通ずる長い洞穴だと思ったが、やがてこの状況はぼく自身の生命の誕生の瞬間だということに気づいた。宇宙空間に吸収されていくような、金属的な音とともに今まさにぼく自身が誕生しようとしているのだ。かつて経験したことのないような感動的な瞬間だ。ぼくは思わずぼく自身が神の存在であることを悟った。大声で、「これはすごい!」と叫んだ。それと同時に上昇中の光だった自分はもはやそこにはなく、現実の肉体をもった自分にもどり、ソファーの中で、「すごい!」と叫んでいた。さきほどの金属音は、部屋のスピーカーから流れているレコードの音で、今は異った音に変っていた。
「さっきの神の音楽は何ですか?」とビルに聞いた。「ワグナーだ」と彼は答えた。ワグナーなんて一度も聴いたことはなかったが、ぼくはこの全くすばらしい音楽家を自分一人が独占していることがもったいないような気がして、他の五人の人々に、ワグナーの素晴しさを語り始めた。
ワグナーの賛辞の言葉はぼくの口からほとんど無意識的に、スピーディに、しかも尨大な言葉としてあふれ始めた。とどまることを知らない言葉の洪水に、ぼくは疲れ始めた。
辺りを見回したところ、誰もぼくの話を真剣に聞いているような様子はなく、それぞれが自分の内面の旅に飛びたっているのか、痴呆的な表情さえしている。この人達を相手にしても仕方がないと思ったぼくは、正気のビル夫人に紙とボールペンを要求して、ワグナーのポスターを作ってもっと広く、しかも多くの人々に宣伝することに考えを切変えた。『ワグナー』という文字だけを書いたポスターが、最も訴求力のあるものだという考えに落着き、このポスターを部屋の入口のところに貼ろうとした。
ところがここで不可思議なことが起った。ポスターを入口のところに貼ろうと思った瞬間に、今坐っていたソファーから四、五メートルも離れた入口にぼくが立っていた。一体これはどうしたことなのだろう? ソファーから立上がって入口のところまで歩いて行った記憶が、一切ないのだ。このテレポーテーション(瞬間移動)は想念と同時に起った光よりも早いスピードだった。この一瞬の奇蹟的な事実に、ぼくはある種の恐怖さえ感じ、ぼくの横に坐っていた写真家のDさんに、どのようにしてぼくはこの入口に来たのかと質問した。すると彼はぼくが確かにソファーを立って入口のところまで歩いていったと説明した。しかしぼくは自分の行動の記憶がないために、彼のいうことを信じることはできなかった。
他の四人にも同じことを尋ねた。答えはDさんと同じだった。
ワグナーのことはもうぼくの頭から去っていた。今は喪失した記憶だけが問題になっていた。記憶喪失した時間のことだけがぼくの頭の中に拡大化され、この空白の時間と空間を埋合せる意識作用に全てが集中し、この謎が解明されない限りぼくは狂気してしまいそうになった。いや、ぼくはこの時、自分が確かに気が狂ったのではないかと感じた。そしてぼくは大声で、「ぼくは気違いになった!」と叫んだ。その自分の大声でわれにかえったぼくは、LSDによる幻覚作用が働いていることに初めて気づいた。
LSDがこんなに現実感を喪失させてしまうとは想像以上のことだった。
昨夜のマリファナや、不眠症で睡眠薬を呑み過ぎた時や、飲めないアルコールを無理に飲んで大変な目にあった過去のどのトリップ状態よりも、このLSDの与える脳への刺激は想像を絶する強烈なメカニズムをともない、ぼくの脳細胞の配列を変えてしまったようだ。しかしまだこのような状態が序の口であるということが次に起る数々の状態によって示される。
話は喪失された時間と空間にかえるが、ぼくとしては何とかソファーから入口までの行動の軌跡の空白部分の記憶を回復しなければ、ぼくの今日まで生きてきた長い時間がたったわずかな喪失部分により一旦断絶してしまうのではないかというような絶望感に襲れ、どうにもならないような気になってきた。
部屋の柱時計を見ると、午後九時三十分だ。時計は確かに作動しており現実の時間を示しているようだが、ぼくにはこの時計の示す現実の時間をどのように読み、どう時間というものを理解していいものか全く困り果ててしまった。というのも先ほどのぼく自身の誕生からワグナーの件に至るまでの時間が現実の進行する時間とどうも異っているように思えたからだ。それはぼく自身の時間と現実のそれとがどうしても重り合ないのだ。ぼくは明らかにこの現実の時間帯から離れたもうひとつ別の次元の時間内を通過して、今再び現実の時間内にもどって来ているとしか考えられないのだ。このように二つの時間の流れがわれわれの周囲にあるということを、どのように知覚し説明すればいいのだろう。
そこでぼくは日頃よくやる方法だが、さっきまで記憶していたことがふとした動作などで忘れることがあると、このような時は、再び数秒前と同じ動作や状況を設定して記憶を回復させるのだが、これと同じ方法を今回もとってみようと思い、もといたソファーに再び坐り、そして入口のところに向って歩いてみようと考えた。
ところが又々ぼくは大きな難問にぶつかり悩まなければならない羽目に落ちいった。ソファーから立上がろうとした瞬間、ぼくの肉体がついてくるのだ。肉体を動かさなければ動作が起せないのは当り前の話だが、このことがどうしても理解出来なくなってしまったのだ。立上がろうとするのはぼくの意識である。ところが肉体まで一緒に動き始めるということは一体どうしたことだ。実は何度も何度もぼくは意識だけ立上がらせようと試みたが、何度試みても肉体がついてくるのだ。この動作を繰返すことにより、やっとこの肉体がぼく自身の意識が宿っている場所だということに気づくまでかなりの時間を要した。
今まで自分の認識は五感で感じる肉体を優先していた。だから想念と共に肉体が動きだしたときには、これは一体どうしたことだろうと不思議に思ったくらいだ。意識だけは研ぎすまされた刃物のように鋭敏に活性化しているが、肉体に関しては机や椅子と同じように物としてしか知覚できなくなっているようだ。
だから机の足が人間の足のように動き出せば不思議なように、ぼくの肉体の一部が動き出すとどうも奇妙に感じるのだった。肉眼では自分の肉体は見えるが、心の目には肉体として映らない。本当の自分は肉体ではなく、肉体に宿る魂こそぼく自身であるということがありありと実感できた。そしてこのことと同時に、自分自身の想念(思想)イコール肉体という観念も明白となった。どのような想念でもそれは肉体を通じて必ず三次元の場に実現する。奇蹟の科学の秘密は、どうやらこの考えを発展させたところにあるのではなかろうか。思念はエネルギーとなってわれわれの未知の次元に存在する波長を帯びて再び三次元に物体現象を起すのではなかろうか。さらにこの理論を押し進めるとカルマ(因果)の法則が成立するのではなかろうか。
誰かがぼくの顔を見て、ぼくの顔の皮膚の下を流れる静脈が解剖図のように見える、といって驚きの声をあげた。ぼくは相手の顔の中にそれを見たいと思ったが、それは見えなかったが、床の上に寝そべる数人の人達が、大自然の一部に見えた。ぼくの坐っているソファーから二メートルたらずのところにいる人達が山や野に見えた。そしてぼくは山や野の大自然も、人間と同じように顔や肉体や心を持っていることに感動した。寝そべっている人達は、ぼくの方を見つめながらとても優しい表情をしている。このことは次の瞬間、大自然がぼくを見つめて優しく微笑んでいる姿に変るのだ。誰かが手足を動かすと、人間の姿をとっている大自然の手足が動いたと感じる。ぼくのところから彼等のところまでの距離が何十キロも何百キロもあるように感じ、その間に美しい空気が存在し、しかも目に見えないはずの空気が見えるのだ。それは何ともいえない透明度をもった愛の感覚にも似たような清らかなものだった。ぼくはこの奇妙な感覚の世界を隣に坐っている素面《しらふ》の写真家のDさんに、絶賛しながら彼にもLSDを勧めるのだが、彼はそれを拒否するばかりだった。たった今体験しているこの素晴しい贅沢な感覚を彼にも分ちたいという気持が強く支配し、ぼくはかなり執拗に彼を口説いたが、どうしても彼の強硬な意志を曲げさせることは不可能だった。
ストーン状態になって当初から、ぼくは湧起る想念をいちいち言葉にしてしゃべり続けているのだ。ぼくの唇は数秒の沈黙もなく、ただただ機関銃の如くありあまる言葉の洪水に押流されんばかりに動きっぱなしだ。声は変り、喉は痛み続けているのだが、どうしてもぼくの口から言葉を封じることは不可能だ。あまりの苦しさに意識的に止めてみるのだが、ほんの二、三秒さえももたないのだ。沈黙すると発狂するのではないかと思い、そうかといってしゃべり続けているこの状態こそ発狂そのものではあるまいかと考えだすと、全ての想念がこの一点に集中し、このことから逃れることが不可能にさえ思えてきた。一瞬ぼくはこの言葉の暴力により死ぬのではないかと思始めた。突然襲いかかった死の不安は益※[#二の字点、unicode303b]求心的にある一点にぼくを向わせた。それは誰か早く病院に電話をして救急車を出してもらいたいということだ。
ところが、このことを口にするのが非常に恐しかった。もしこのことを口にすれば、ぼくの想念は救急車の一点に絞られ、このことを実現させなければ承知できないような気がしたからだ。するとぼくは麻薬患者として逮捕されるに違いない。素面《しらふ》のビル夫人は心配し、ぼくに水を飲ませたり、意識の軌道修正をしたりして、このバッドトリップから何とか解放させようと努力してくれるが、何ともならない。ぼくはなおもしゃべり続けながら、人間に言葉を与えた神について神を罵倒しはじめた。今ぼく自身を支配しているのは魂の無意識界であって、顕在意識は無力に等しいはずだ。ところがぼくの魂の声を言葉という単なる機能が勝手に作動しているに過ぎないのだ。もしぼくが言葉を知らなければこんなに苦しむこともなかったはずだ。胸に手を当て心臓の鼓動を調べた。早鐘のごとく激しく乱打している。死は近いと悟った。
依然としてぼくの唇からは言葉が濁流のごとくひしめきあい、のたうちあいながら飛び出しているが、さっきに比較すると少し心が落着いてきたようだ。安心したぼくは辺りを眺めた。もうここには部屋もなく皆なは姿を消していた。目の前に紅葉した山が見える。ぼくの足元には濃い霧か雲がかかっていて、山だけしか見えない。時々、雲間からC字型に曲った山道のようなものが左下の眼下に見える。何ともいえない奇妙な不気味な光景だ。静寂そのもので物音ひとつしない。まるで死後の風景だ。
と、思った瞬間ぼくは取返しのつかないことをしてしまったと思い、慌てふためいた。ぼくは本当に死んでしまったのだ。どこからともなく、「お前は死んだ」という声が聞えてきた。ぼくはあわててぼくの肉体の存在の確認を急いだ。ぼくの手と思われるものが、ぼくの足と思われるものを撫でまわしながら、ぼく自身の生死を確認している。しかしぼくの肉体と思われるものを自分の肉体であるという知覚と保証がどこにもなく、ぼくは全く不安と絶望に途方に暮れてしまった。肉眼にはぼくの肉体が見えるのだが、このことが自覚できないのだから、まるで肉体が喪失してしまったことと同じなのだ。かりにこれが自身の肉体だとわかっても、実感がないためにぼくが生前記憶していた肉体の理念の映像化ぐらいにしか思えないのだ。
いよいよ胸がはりさけるほどの悲しみに襲われ始めた。そして大声で、「ぼくは死んでしまった!」と泣叫んだ。周囲の人達はこんなぼくの狂乱状態に驚きと心配はしてくれたものの、ぼくの死についての理念は自制不可能になってしまった。悲しくって泣くのだが、どうしたことか一粒の涙も流れない。やはりぼくの魂と肉体は直結していないのだ。泣いているのは魂であって、肉体ではない。ついに肉体から離魂して、真のぼくは今霊界にいるのだ。
「どうしてぼくは死んでしまったのだ!」今となっては悔んでも悔み切れない生への執着がどっと襲ってきて、ぼくをますます悲しみのどん底につき落してしまった。赤茶けた山と曲りくねった道が雲間から姿を現した霊界の風景と、皆なのいる部屋の風景が、交互に展開するのだが、部屋の風景が見えたからといってぼくはまだ死んでいないという証明にはならず、霊界にあっては現界の風景を見ることなど容易なことで、ぼくは決してこの現実的な部屋の風景を現実とは思えず、赤茶けた山の風景の方こそ今のぼくにとっては現実であると確信している。これが分離されたもうひとつの現実であるということさえ理解できなくなっていた。
突然目の前に家族の顔が並んだ。ついに悲しみが頂点に達し、ぼくは辺りかまわず、「家族に逢いたい! 日本に帰りたい!」と大声をはりあげて泣叫んだ。誰かが、「家族をこんなに愛しているなんて素晴しいね」とぼくの狂乱状態を見ながら話合っている。この言葉を聞いた時、今までの恐怖が一瞬ほんのわずかだが軽くなったような気がした。この時ぼくは完全に死んだのではない、まだ生きているのではないかと察した。LSDの力でぼくは振りまわされているのだ、ということが少しずつわかり始めたようだ。
ぼくは完全にLSDの支配下からまだ解放されていなかったが、ぼくは二度とこんな恐しい体験はしたくないと心に誓いながら写真家のDさんに、「LSDは絶対にやっちゃいけないよ」とLSDの恐怖を説明した。Dさんは笑いながら、「さっきはこんなに素晴しいLSDをどうして拒否するんだ、なんていってたじゃない」と複雑な顔をしながら答えた。
しかしまだ完全に死の恐怖から解放されたわけではなく、周期的に霊界の光景が眼前に展開し、その度にぼくは現界と霊界のバルド状態(中間状態)の中で苦しみ続けている。ところがこうした状態がLSDが誘発した錯乱であるということが次第に自覚されてきた。こうした考え方がまとまってくると少しは落着いてくるのだが、また発作が起るとたちまち自己制御ができなくなり、誰かに助けを求めるのだ。こうしてぼくは死後の世界から再び現実に戻るためにはぼく自身の不信感と闘わなければならなかった。誰かがぼくが死んだのではないと説明してくれても、他人の言葉が容易に信じられなかった。現実と虚構の区別が全く判断できなくなってしまったぼくは、三次元と四次元の二種類の時間と空間の流れの中で確実に自分の破滅だけを信じながら、途方もない長い孤独の道を歩み続けていた。現実なら現実、狂気なら狂気のどちらか一方だけ見える世界にある自分なら、その場を真の現実と思えばいいのだが、今のぼくには両者の世界が重り合っているため狂気を自覚しなければならず、このことは死より恐しい。
次に肉体感を喪失しているにもかかわらず、小便がしたいという生理的欲求が起ってきた。トイレに行こうとして部屋の外の廊下に出た。アルコールに酔ったように足元がふらつく。廊下の床が恐しく傾斜して空間がよじれて反転しているように感じた。ふと前方にある台所の食卓を見ると、どうしたことか食卓の足がなく食卓面だけが宙に浮遊している。またその食卓の足元から下は断崖絶壁になって岩や木が辺りに生い茂っている。この光景を見たぼくは、一瞬たじろぎあわてて、もとの部屋に帰ろうとした。振返った真正面に等身大の鏡があり、そこにぼくが映し出された。すぐには鏡の中の人物が自分だと判断できなかったが、やはり見慣れた自分の姿に間違いなかった。どうしたわけか鏡の中の自分を見るのが恐しいような気がして見たくないと思った。鏡の中の自分はまるで魂の抜けたボロ布のような乾ききった肉片にしか見えなかった。ぼくは自分の顔の筋肉を動かしてみたり頬の肉をひっぱってみたりした。鏡の中のぼくがぼくでなければならない自信が全くないような気がした。鏡の中のぼくにはぼくがいないような気がした。他人同様の鏡の中のぼくとはもうこれ以上対面していたくなかった。
部屋にもどったもののトイレに行く当初の目的を忘れてしまったぼくは、再びソファーに腰を下した。いつの間にか死の恐怖からは完全に解放されていた。そしてこのことをぼくは皆なに伝えた。もうぼくの声は、まるで声帯が破れたようなガラガラ声に変っていた。湧出る想念はひとつ残らず言葉になってぼくの口から放出されているのだ。時計時間で少なくとも五時間はしゃべり続けていることになる。しかしこの間ぼくはぼく自身の誕生から出発して死までの長い旅を体験したが、この大部分はぼくの内なる宇宙を流れる無限の時間の中にあった。拡大された時間でもあり、光速以上の時間でもあり、静止した時間でもあった。あるいは時間の存在しない空間にあったのかも知れない。
依然として写真家のDさんは、数時間も同じソファーに身を沈めたまま、わずらわしそうにぼくの話相手をしている。ぼくはさかんに彼に時間についての話をしている。ぼくが落込んだ時間の穴は、平面に流れる現実の時間に対して縦に流れる時間だったことや、この魔の時間が目の前のテーブルとわれわれ二人が腰を下しているソファーの間に存在しており、もしDさんが魔の時間を見たいならテーブルとソファーの間の空間を見ればいいと説明し、彼にこのことを強制した。テーブルとソファーの間を彼と一緒に覗込んだぼくは、遥か下方に美しい青空が見えるのに驚いた。この青空はどこまでも深く地の底に展がっていた。このようなところに青空があることに気づいたぼくは、得意になっていつまでも覗込んでいた。
すると空の下方から何やら赤い玉がぼくの方に上昇してきた。よく見ると、それは丁度野球のボール大にもつれ合った糸ミミズのかたまりのようなものだった。そしてそれがぼく自身のエゴイズムのかたまりであるということもすぐ察することができた。この時ぼくは自分自身のエゴイズムと闘う用意ができているような気がしたので、ぼくはボクシングのポーズをとって目の前まで上昇してきたエゴイズムにパンチを食らわした。エゴイズムは個々の糸ミミズになって何千何万にも拡散して辺りに飛散った。ぼくはエゴイズムに勝ったと思った。今までの想像を絶する苦痛は全てエゴイズムとの闘いだったことに気づいた。ぼくは自分のエゴイズムに勝利して小躍りして喜んだ。今日限りぼくはエゴイズムから解放され真の自由を獲得できると感じた。
ところがこんな恍惚感もつかの間、再び糸ミミズの玉がテーブルとソファーの谷間から浮上ってくるではないか。それが一つだけではない、次から次へと連続して上昇してくるのが見える。それをひとつずつ強打していくのだが、エゴイズムの玉は無限に続く。
ぼくは次第に悲しくなってきた。「もうやめてくれ!」と何度叫んだかわからない。しかし、この部屋の人達はぼくを助けることができなかった。ついに悲しみと絶望が頂点に達した時、ぼくはかたわらにあった電話のダイヤルを廻して、出た相手に助けを求めようと思った。受話器の向うから眠そうな男の声で英語が聞えてきた。ぼくは思わず、もうこれ以上エゴイズムを来させないようにしてほしいとこの男に頼んだ。しかし相手の男は突然の意味不明の電話の主に当惑している様子だった。ぼくが見知らぬ他人と電話をしているのを知ったビル夫人は、あわててぼくから受話器を奪い、鄭重に間違い電話であったことを相手に詫び電話を切った。終始ビル夫人がぼくのそばでぼくをリードしてくれており、時には逆らうぼくを上手になだめたり、或はぼくの狂的な世界まで入込んでぼくの理解に極力つとめてくれたりした。
時計は午前三時を過ぎていた。ぼくは一体いつまでこのような異常な状況を続けなければならないのだろう。再び不安が襲ってくるのがわかった。そして、又トイレに行きたくなった。さっきトイレに行くつもりで部屋を出たのだが、台所が山中の絶壁になっていたことの方に気を奪われ肝腎の用はたさずに部屋にもどってきたのだ。ここはニューヨークのマンハッタンのど真ん中で、山などあるはずがない。このようにかたく信じて、ぼくは再び廊下に出た。前方の台所を見るのが恐しく、自分の足元だけを見ながらトイレのドアを開けて中に入った。便器の前に立って変に萎縮した逸物をズボンの中からつまみ出し、放尿の体勢に入ったところで、ぼくは思いがけないものをぼくの周囲に見た。いつの間にか居間にいた五人の仲間がぼくの周囲をとりかこんでいるではないか。
ぼくは恥しさにあわててズボンの中に逸物をしまいこんだ。そして周囲を見渡した。しかし、トイレの中にはぼく以外誰もいないのに気づき、今のは幻覚だった、と思いなおし、再びズボンのジッパーを下して、同じ物をつまみ出した。するとどうだろう、再び五人の仲間が眼前に現れぼくの逸物に注目しているのだ。またあわててしまいこんだ。しばらくぼくはこの場でつっ立ったまま考えることにした。そしてその結果、ぼくの目にはこの場がトイレに見えるが、実はここは居間で、本当のトイレは、あちらの居間の方に違いないと解釈した。居間に帰ったぼくは、皆なに、トイレだと思って行ったところが居間だったので、今ぼくの目には居間に映っているこの場がトイレに違いないと思うから、ここで用をたしてもいいかと断って、ぼくはズボンのジッパーを下し中から逸物をつまみ出そうとした。その時誰かが大声で、「ここはトイレではない止めなさい」と叫んだ。
ズボンの中に手をつっこんだままぼくはあっけにとられて辺りをじっと見まわした。トイレだと思った場所が居間だったのだから、居間がトイレに違いないと信じているぼくを、今の声はますます複雑にさせてしまった。
現実の風景と、内部から湧起こる印象の風景との相違ははっきり意識の上では認識できるのだが、魂の世界ともいうべき実相はむしろ幻覚の側にあるため、今のぼくにとっての現実は幻影の方なのである。肉体と心は同居しており、この両者の関係は意識化できるのだが、もうひとつ無意識のさらに奥にある深層意識が魂であり、この意識は宇宙意識ともいわれ、万物の意識の母体であり、この意識を開かなければ物の根元である真理に到達できず、お互が主義主張をはり合っているだけでは真の自由と平和は獲得できないはずだ、とこのような意味の言葉が次々とぼくの口から勝手に流れだした。
ぼくは何だか物の本質が透視できるような気がして、勝手にしゃべりまくる自分の口を閉じようともしなかった。ぼくがしゃべっているというより何か他の力がぼくの口を借りてしゃべりまくっているような気がして、われながら、いいことをいうぞと感心して、この考えをいつまでも心の奥に留めたいと願った。
幻覚化された世界が真実の世界であり、この肉眼で見える現実こそ虚の世界であり、もちろんこの肉体は真の自分ではなく、真の自分は魂そのもので、われわれはこの存在を知らず、顕在意識にたより過ぎている。ぼくの魂は今活性化し、ぼく自身を超えた人類の創成期から蓄積された記憶の中にいる。何とか自分自身の内部を見つめてほしい、そして自由になってもらいたいと、又々ぼくの一方的なある種の真実と矛盾に満ちた説教が始まった。ぼくは得意になってトイレのことを忘れしゃべり続けた。
誰かが話の途中で突然ぼくにトイレのことを質問した。するとその途端にぼくの想念はトイレのことに切りかわった。トイレと居間の関係はすでに頭の中でいつの間にか整理され、今度は無事に用がたせると思い、再び便器の前に立ちはだかって逸物をつまみ出した。すると次の瞬間ぱーっと目の前に見渡す限りの美しい草原が展開した。あちこちに乳牛が点在し、のんびりと草を食べていた。ここで小便するとこの草を食べた牛が可愛そうだと思うと、どうしても放尿ができなくなってしまった。この牧場の風景は幻覚であって、生理的な欲求は肉体の世界での出来事だから、現実の便器の中に放尿すれば事は完了するのだと、何度も自分の魂にいい聞かせるのだが、魂は一向に理解してくれない。一体このLSDはいつまできいているのだろう。居間の三人はどうしてあんなに大人しく瞑想できるのだろう。やはりぼく一人が本物の気違いになってしまったのだろうか。そろそろ夜が明ける時間になっているはずだが、無事にホテルに帰ることができるだろうかと、ぼくにとっては珍しく現実的な想念が働き出した。そろそろLSDの効果が醒め始めたのかも知れない。いや、実はとっくの昔に効用は完了しているにもかかわらず、後遺症が幻覚を生んでいるのかも知れない、とぼくはまだまだぼく自身に疑いを抱いた。
突然飛行機の爆音が頭上をかすめていった。これは現実音である。しかしぼくのいるこの部屋は現在宇宙空間にあるはずだ。それなのに地球からこんなに遠く離れたところをどうして飛行機が飛んでいるのだろう。いよいよ地球に近づいてきたのかも知れないぞと考えた。この部屋が宇宙空間にポッカリ浮いているのが感じられた。ぼくは余りにも遠くへ行っていたようだ。今そろそろ地球に接近し始めたのかも知れない。ぼくの心は次第に落着いてきた。しかしそれでも時々発作が起った。無事にマンスール夫妻とDさんがホテルまで送ってくれるかどうかという心配だ。ぼくはホテルで何か恐しいことを口にしないだろうかとか、安全にエレベーターに乗って自室に入り、小便ができるだろうか、とさまざまな小さなデテールが気になってきた。
LSDから完全に解放されないままマンスール夫妻とぼくと同じホテルに宿泊しているDさんとぼくの四人は、朝の五時にビル夫妻のアパートを出た。心地よい十二月初旬の早朝の空気がぼくの頭を強く冷した。やっと正気にもどれる自信ができた。マンスールの運転する車はハドソン河ぞいのハイウェーをグリニッチ・ビレッジに向ってつっ走った。
対岸のジャージーシティーの街の灯が夜露で濡れたガラス越しににじんで水晶のように美しく輝いている。ぼくは無言のままこの不夜城の灯に意識の焦点を合せながら、今夜の奇怪な体験を回想しながら、ぼくは、時間という現実の概念からほうり出された宇宙空間に浮く球体の表面を流れるような不思議な無限の時間の旅からの帰途を着実に実感することができた。
ぼくの宿泊しているフィフスアベニューホテルのネオンが見えてきた時、何ともいえぬ疲労感が体全体をなぜまわすようにへばりついてきた。
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あとがき
ここにまとめた文章は一九七三年以後に発表したものと、新たに書下ろした数篇からなるぼくの五冊目のエッセイ集です。過去の四冊のものと比較すると随分ヘビーな内容が多いが、これは、ぼくが以前のぼく自身をとてもいやだと思い、何とか自分を変えたいという一念で書いたものを集めたからです。ぼく自身のために書いたようなものばかりです。だから全体を通読してみると、あきれるほど何度も同じ言葉や内容がとびだしてきて、自分でもうんざりしてしまいました。
この文章が印刷所に入稿している頃、ぼくは再度インドの旅に出ています。今年はどういうわけか、内部からつきあげてくる旅の欲求にぼく自身、抗することができず、思い切って旅の中に身を投げ出すことにしました。このことがぼくに少しでも解放への道を切り開いてくれる結果にでもなってくれればどんなに喜ばしいことかと期待しているのです。
もし勝手な言い方を許していただけるなら、ぼくはこのエッセイ集を上梓したことによって、何か一つの大きな重荷が取れたような気がしてならないのです。この本の企画があってざっと一年以上、次から次へと心変りするぼくに終始くっつきながら最後まで色々と助力いただいた講談社の広田真一氏には特にお礼を述べたいと思います。
一九七六年五月三日
[#地付き]横尾忠則