那覇心中
梶山季之
目 次
那覇心中
スワッピング心中事件
ケロイド心中
綱島心中
紀伊浜心中
初出一覧
那覇心中
倉地一平が、はじめて那覇《なは》空港に降り立ったのは、沖縄が日本へ返還されてから、一ヵ月あまり後のことである。
別に、観光ではない。
むしろ商用と云った方が、よいだろう。
倉地は、不動産会社に勤めていた。
肩書は、造成部用地課長である。
彼の会社は、マンションの経営で、急速にのし上った会社で、ここ数年は、分譲別荘地の宅地造成、ゴルフ場の建設などに乗りだし、事業を拡大していた。
社長の日高は、変った経歴の人物で、バクチ好きで有名だった。
ひまがあれば、韓国のウォーカー・ヒルだの、マカオなどに出掛けている。
倉地も一度、マカオへ供をして行ったことがあるが、実に大胆な賭け方で、それでいて殆《ほと》んど負け越したことがないと云う。
日高社長の事業は、その勘の冴えと、大胆な行動力によって、もたらされたものに違いなかった。
戦争中は、禅僧だったのだそうだ。
そして日本が敗れると、
〈宗教で、人は救えない!〉
と、翻然《ほんぜん》と悟り、闇屋に転向したと云うのだから、奇妙な男だった。
いわゆるカツギ屋から出発し、小さな洋食屋をひらいたのが大当りの原因である。
日高は、この時、
〈もっと金を掴むには、どうしたらよいだろうか?〉
と日夜、考えて、三つの結論を導きだしたのだった。
その結論とは、一つは、合法的に税金を支払わない方法の発見である。
次は、店舗をふやし、原材料の一括購入によって、単価をダウンさせることだ。
そして最後は、人件費の問題だった。
彼は、会社を設立し、洋食店を担保にしてさらに一軒の店を買い求め、会社名義にした。
夫婦者のコックを雇い、店に寝泊りさせる。
これだと、裏切られる心配がないし、
――三年後に、この店が買えるようにしてやるから、必死になって働け。
と命じてあった。
人間、欲が出てくると、誰しも血眼《ちまなこ》で働くようになるものだ。その辺の心理を、うまく衝《つ》いたのである。
二軒目の店を担保に、三軒目を買い、さらにまた四軒目……と云う風にして行って、三年後に会社を倒産させた時には、九軒の支店があったと云う。
会社であってみれば、五年間の赤字は、大目にみて貰える。
また肉にしろ、卵にしろ、ビールにしろ一括購入であるから、値はぐッと安くなり、支店には市価より割引いて、しかも配達して貰えるのだから喜ばれた。
一方、別会社をつくっておいて、そこから最初の会社は借金したことにし、代物弁済の登記をする。
かくて倒産の時には、自動的に十軒の店は新しい別会社の所有となり、税金は逃げられたのだそうだ……。
考えようによっては、かなり悪質な手口だが、ここで日高はアパート経営に乗りだしてゆく。
それが鉄筋アパートへ、マンション経営へと飛躍して行った……と云うのが、成功の原因らしい。
まあ、そんなことは、どうでもいいのであるが、グアム島から帰国したばかりだと云うのに、
「今度は、沖縄へ行って呉れ……」
と云うのだから、人使いは荒っぽい。
倉地一平は、沖縄の海の……なんと云ったらよいか、エメラルドのような珊瑚礁《さんごしよう》の海を機内から俯瞰《ふかん》した時、
〈あ……これは、いけるかも知れないな〉
と直感した。
日高は、沖縄の海辺に、リゾート・ホテルを建てられないか、検討して来い……と彼に命じていたのだった。
税関はなかったが、荷物を受け取るのに手間取り、空港の外へ出た時には、カンカン照りで目が眩《まぶ》しかった。
しかし、風は爽《さわや》かである。
一ヵ月は滞在しろと云うことなので、グアムへ携帯した大型トランクを提げている。
あいにく、タクシーの空車がない。
ホテルは予約しておいたが、どこにあるのか見当もつかなかった。
ハンカチで汗を拭いているとき、通りかかった人物が、彼のトランクに躓《つまず》いた。
その拍子に、鍵でも壊れていたのか、蓋《ふた》があいて、中身が散乱したものである。
「あッ、失礼しました……」
若い男は、そう詫びて、散乱した衣類を拾うのを手伝って呉れた。
ビートルズみたいに、髪の毛を長くした青年だった。
そればかりか、自分で駈けて行って、客をおろしたばかりのタクシーを、せき立てるようにして呼んで来てくれたのだ……。
これが、山口敬三との出会いである。
目許《めもと》の涼し気な人物であった。
予約したホテルは、飛行場から、タクシーで十四、五分の位置にあった。
彼が、宿泊カードに、つい外国のような錯覚に陥ち入って、ローマ字で、イッペイ・クラチと書き込むと、フロントの女の子がクスクス笑いだした。
なぜ彼女が笑うのか、彼には合点《がてん》がゆかない。
部屋に入るなり、鏡を眺めたが、別に顔にスミがついているわけでもなかった。
〈失礼な女の子だな……〉
彼は、内心、憤慨したものだ。そして次には、
〈あ、そうか。沖縄は、もう日本なのだ……。それなのに、ローマ字でサインしたから笑ったんだな!〉
と思い当った。
売店で、沖縄全島の地図や、那覇市内図を買い求め、冷たいビールを貰って、地理を先ず頭に叩き込んだ。
那覇市は、沖縄本島の南に位置している。
そして米軍のお蔭で、ハイウエイも全島にはりめぐらせている模様だった。
〈よし……明日はレンタカーでも借りて、八ミリ・カメラと登山靴を積み込んで、先ず島内見物だ……〉
彼は、プランを練った。
用地を買収するには、いろいろと難しいコツがある。
ホテルを建てるなどと云うと、値上りを見越して、なかなか売って貰えない。
かと云って公園地帯は買えなかった。
戦跡公園、海岸公園、与勝海上公園など、四つの指定地がある。
それを避けて、景勝地で、飲料水がたっぷりあり、ヨット・ハーバーなども作れるところと云うと、まったく限られてくる。
すでに大資本のホテル進出は終っていた。
こちらは、後手からのスタートだ。
……まったく頭が痛い。
ともかく市内見物でもしようと、ホテルを出た。
彼は、土地鑑はよい方である。
いつしか仕事上の習性となった為か、地図を三十分も見ていると、平気で独り歩きできるようになるのだった。
倉地は、先ず平和通りへ行ってみた。
ここは日用品雑貨から、食料品を扱う店が立ち並んだところだ。
国際通りを、官庁街から歩いてゆくと、右手に、露店風の公設市場がみえて来た。
彼は、劇場から右に折れて、さらにその裏道にあるマーケット街を冷やかして歩いた。
その土地に住む人々の生活を知るのは、用地買収の第一歩である。
美味《おい》しそうな香気を放っている果物屋で、バナナを買ってみた。
少し短いが、匂いはプーンと鼻を撲《う》つ。
そして肉は柔かくて、思わず目を細めた位だった。
道のついでに壺屋まで行って、伝統的な工芸である製陶風景を見学し、桜坂を素通りしてホテルへ帰って来た。
桜坂は、バー、キャバレー街である。
フロントで、キイを貰おうとすると、先刻の女の子が、またクスリと忍び笑った。
バナナを手にして戻って来たから、可笑《おか》しいのだろう……と彼は、その房をさしだし、
「一本、食べない?」
と云ってみた。
女の子は、素直に受けとり、
「ありがとうございます」
と皓《しろ》い歯をみせる。
倉地一平は、部屋に入ると、シャワーを浴びてから夕食まで仮眠をとった。
ステーキを食べたあと、桜坂へ行く。
あまり大きな店は少いが、数は多く、四百軒は越えているものと思われた。
彼は、銀座の高級クラブと同じ名前のスタンドの看板を発見したので、何気なくふらりと入ってみた。
客が七人も入ったら一杯になってしまうような、暗い感じのバーである。
服装だけ、やけにケバケバしい女性が、ぽつんと一人いた。
これがマダム兼バーテンらしい。
ビールを注文して、
「沖縄は暑いねえ……」
と云う気候の話から、二人の会話は始められた。
「本土の方ね?」
女は訊《き》く。
「ああ……そうだよ」
「なにしに来られたの? 基地騒動か、なにかの取材?」
「いや、ただの観光さ。なにか、面白いことないかい?」
「ほら、やっぱりブン屋さんじゃないの」
「冗談じゃアない。僕は、骨董屋《こつとうや》だよ……」
「へーえ、骨董屋さん……」
「うん。仲間が荒らさないうちに、掘り出し物でもあったら買おうと思ってさ」
「むかしはあったらしいけれど、随分と。でも戦争でしょう? それからアメリカさんが買い漁《あさ》ったから、首里《しゆり》の博物館に、ちょっぴりあるだけらしいわよ……」
「ふーん、そいつは残念だなあ」
彼は口惜しそうな芝居をする。
そんな話をしながら、土地の人から、いろいろな情報を仕入れるのも仕事のうちだ。
「ねえ、マダム……日本へ復帰してから、どうだい?」
彼は質問してみた。
「そうね……少しは経済的には、よくなりそうだけど……また、ヤマトンチュの餌食《えじき》になるでしょうね……」
「ヤマトンチュ?」
「本土の人のこと」
「ふーん……」
「本土の人は、商売上手でしょ。琉球時代は、島津から搾取され、戦争で島の人は大勢死に絶え……アメリカ人からは奴隷あつかいでしょ?」
「うーん……苦難の歴史ばかりか」
「日本へ復帰したら、こんどは、お客さんのような人が押しかけて、琉球時代の美術品を買い漁ろうとなさるし……」
乾いた声で、マダムは笑った。
なかなかインテリであるらしい。
彼は、彼女にビールを奨《すす》め、
「では、復帰しない方が良かったかい?」
と云ってみた。
「あたしは、復帰でなく、独立論者なの」
「ふーむ、沖縄独立ねえ……」
「ホテルを誘致して、カジノを作ったら、みんな沖縄に金を落してゆくじゃアない?」
「なるほど、なるほど」
「いちばん判らないのは、米軍基地で働いていた労働者の人たちだわ……」
「どうして?」
「ヤンキー・ゴーホーム! 基地反対! なんて騒ぎに騒いで、やっとアメちゃんが撤退をはじめたわけでしょ」
「うん、うん……」
「基地がなくなれば、働く人もいなくなるのが当然じゃアないの……。それなのに今度は、クビ切り反対と、大騒ぎなのよ」
「うーん……どこか、ちょっと矛盾しているようだなあ……」
倉地一平は苦笑した。
「ところで、マダム……レンタカーは、どこへ行けばいい?」
「ホテルで訊いてごらんなさいな……」
「それから、面白いバーはない?」
「ゲイ・バーのこと?」
「いや、昔のことや、あまり観光客が行かないで、景色のいいところなどを、知りたいんだよ……」
「だったら、辻町のおヨシさんがいいわ……」
「辻町の、おヨシさん?」
「そこで旅館を経営している人なの。なかなかの物知りよ」
マダムは、地図やら、電話番号を書いて呉れた。
彼は礼を云って立ち上った。
三日間を費して、倉地は、コザ、名護《なご》などに泊りながら、あらましの海岸線を伝って廻った。
勝連《かつれん》半島の屋慶名《やけな》。
これは金武《きん》湾に面したところで、湾内に点在する小島へ、釣りに出かける人たちで賑わうところだ。
読谷《よみたん》村の長浜海岸も美しいところである。とくに残波《ざんぱ》岬の断崖がすばらしい。
恩納《おんな》村の、仲泊《なかどまり》と谷茶《たんちや》の両部落の中間にある白砂と、コバルトの美しい海岸をもつ月の浜は、絶好の場所だったが、あいにくと公園指定地であった。
多野岳から内海の夕景を見下す、絵に描いたような光景にも心を魅かれるが、電電公社のアンテナ塔があってはどうにもならぬ。
結局、沖縄本島の候補地は、屋慶名と、長浜海岸の二つに絞られるようだった。
疲労|困憊《こんぱい》して、那覇市に戻った倉地は、翌日、昼ごろ電話して、元遊廓の所在地だったと云う辻町の旅館に、南風《はえ》原《ばら》ヨシを訪ねて行ってみた。
その土地にはその土地の習慣がある。
先ず、それを知らねばならない。
若い人たちは、上手な標準語と英語とをあやつるが、古老たちはそうはゆかない。
老人たちの話を聞いていると、琉球言葉であり、さっぱりチンプンカンプンだった。
旅先で、宿の女中さんから、いろいろと方言を教わり、手帳にメモして来たが、これでは判らないのも当然だった。
祖父のことを、タンメーと云うと云う。これは短命から来たのだろうか。
父は、ターリーであり、母はアヤー、兄と姉はシージ、弟と妹はウットウと云うのだそうである。
男はウィキガで、女はウィナグ。
顔のことは、チラと云う。これは、ちらッと見るから、顔だと覚えた。
尻も、比較的にすぐ覚えた。
よく糞をチビるなどと云うが、尻のことはチビだ。
私は、ワンで、これも頭にすぐ入った。私は、一人だからである。
驚いたのは、着物のことを、チンと呼ぶことだった。
塩がマースで、油がアンダである。
単語だけで、本土とは、かくも大きな違いがあるのだ……。
それを駆使されて、会話をやられたのでは外国語を聞いているのと同じだった。
ただ、その三日間の旅行での収穫は、ホテルのフロントの女の子が、なぜクスクス笑ったか……と云うことだろうか。
宿の女中も、はっきりと教えずにいたが、彼の名前の一平≠ヘ、どうやら大変に≠ニ云う意味らしい。
そして、ご馳走さまでした≠ニ云うことは、クワチーサビタン≠ニ云うのだそうである。
イッペイ・クラチと云うローマ字をみて彼女が笑いたくなったのも当然だろう。
これは倉地の臆測だが、彼の名前は、大変なご馳走≠ニ云うことになる。
――ところで。
南風原ヨシは、五十前後の、さぞかし昔は美人であったろうと思われる女性だった。
戦前の辻遊廓は、美妓三千人とすら云われて、昼夜をわかたず、弦歌がさんざめく歓楽郷であったらしい。
とくに一月二十日は、尾類《じゆり》馬行列の日で、美妓が妍《けん》を競い、辻町を歌ったり踊ったりすることで有名だった。
那覇近隣の人々は、これを二十日正月と称して仕事を休み、見物に押しかけたものらしい。楽しい年中行事だったわけだ。
「むかしのことを聞きたいそうですが、学者さんですか?」
彼女は云った。
「いいえ、違うんです……」
倉地一平は、マダムに告げた時と同じような自己紹介をして、
「むかしの話でも、伺いながら、酒でも飲ませて貰おうと考えまして……」
と云った。
「おや、そうですか。それでは、なんですから二階の座敷に……」
ヨシは、案内して先に立つ。
プーンと良い匂いがするのは、琉球がすりの山藍《やまあい》の染料の香りなのであろう。
鮮かな紺色の着物であった。
やがて、女中が酒肴を運んで来る。
頭に珊瑚の簪《かんざし》をさし、この方は紅型《びんがた》の和服姿である。
ヨシは、青い蜜柑《みかん》の汁を小皿にかけてくれて、
「ミミガーです」
と云った。
豚の耳を茹《ゆ》でて、薄く切った酢の物だ。
小皿の方は、耳の刺身であった。
ミミガーとは、耳皮と書くらしい。
彼女は、酒をたしなまないらしく、もっぱら注ぎ役だった。
なかなかの奨め上手である。
彼は自然と、土地の値段だとか、売買上のしきたりだとか……と云った話を聞きだす方向に誘導してゆく。
ヨシは自分の見聞きしたことを、ポツリ、ポツリと語って呉れた。
いま琉球大学のある首里は、むかしは琉球王家の城があり、商業の中心だったこと。
それが第二次大戦中、日本軍の第三十二軍司令部を置かれたため、古城は廃墟と化し、海側へと発達するようになったと云う。
いま沖縄の繁華な土地は、なんと云っても那覇で、中心地などは、坪いくらしているか見当もつかないのだそうだ。
彼はホテルは高くつくから、アパートにでも引き移りたい……と冗談を云った。
すると南風原ヨシは、
「よろしかったら、あたしの建てたアパートへ来ませんか。一部屋あいてますし、管理人夫婦に頼めば、食事ぐらい作って呉れますしね……」
と親切に云う。
〈そうだ。土地の人と暮していたら、良い知恵を借りれるかも知れない〉
倉地は、そう判断した。
また言葉だって、憶えられるではないか。
その夜、彼は東京の社長に電話を入れて、
「石垣島あたりまで行って調査したいので、ホテルを出て個人のアパートに移ります」
と報告した。
そのアパートは、木造モルタル塗りで、辻町の隣りの町にあった。
海も近く、閑静なところである。
彼は一目で気に入った。
すぐ部屋代を支払って、管理人に交渉し、朝夕食代の契約を結んだ。
ホテルから、トランクを車で運び、部屋へ入ろうとして、ふっと階段の方を見ると、この間の親切な青年が、上から降りてくるところではないか。
「やあ、きみは……」
倉地一平は、叫んだ。
相手も吃驚《びつくり》したような顔をしている。
「僕……二階で暮してる山口です」
彼はそう挨拶して来た。
「下の空き部屋に越して来たので、よろしく頼みますよ……」
倉地一平も挨拶を返した。
多分、大学生だろう……と、倉地はにらんでいた。
かくて南風原荘の住人になった彼は、石垣島、宮古島、西表島《いりおもてじま》の三島への、旅行計画にとりかかった。
なにはともあれ、実地に調査をしておきたかったのである。
日高社長は、出発前に、
「台風銀座で、あまり芳しくないかも知れないが、安くて、将来性があるようなら、土地だけでも買っておこう……。土地は、なくならないからな」
と豪快に笑って云っていた。
それで島めぐりする気になったのである。
幸い飛行便があって、その点では、便利だった。
でも、三つの島をつぶさに調査するとなると、矢張り六日間はかかったのである。
しかし地価は、本島よりぐッと安く、投資の対象にはなりそうである。
アパートへ辿《たど》り着くと、管理人が、
「二階の山口さんが、警察のブタ箱に、抛《ほう》り込まれましてね……」
と、さも大事件が起きたように告げた。
「へーえ。どうして、また?」
「ちょっと、ゴタゴタが起きたんですよ」
「ははあ……」
「若気の過ちは、誰にもあることだけれど、相手がわるい……」
管理人は、なぜか唇をひん曲げて、そう云い、自分の部屋に入って行った。
なにか複雑な事情があるのだろう……と思いはしたが、大して気にとめなかった。
それより屋慶名、長浜の攻略だ。
先ず部落の有力者、古老たちに、接近しなければならぬ。
それも、こちらの目的には気づかれずに、仲好くなることであった。
これには、ジャーナリストを利用するのが、一番よい方法であった。
彼は、桜坂でジャーナリストがよく集まるバーを調べ、毎夜のように通った。
そして、考古学の研究家として、地元民に親しまれている沖縄新報社の、当間氏と知り合うのである。
当間部長は、中部地区の出身で、また全島くまなく歩き廻っているだけに、どんな村へ行っても知人が多い。
まさに恰好の人物であった。
彼は、昼間は博物館へ行って、文化文政年間製と伝えられる三彩網代文面取抱瓶だの、赤絵碗だの、宝暦年間につくられたという対瓶だのを研究し、夜は桜坂のバーへ出没したのである。
古美術商と云う触れ込みなので、付け焼刃で勉強したのだ……。
当間文化部長は、それとは知らず、
「流石《さすが》に本土の人は、勉強している!」
と感心し、一週間ほどで、肝胆《かんたん》相照らす仲となったのだった。
人間とは、面白いものだ。
当間氏は、彼をいろんな料理屋へ連れて行って、本格的な琉球料理を食べさせてくれたのだった。
水煮した豚肉を、味醂《みりん》、醤油、砂糖、酒などで煮込んだラフティーだの、エラブウナギの吸い物だの、ドルワカシだの……いちいち覚え切れない。
ある夜、酔って南風原荘へ戻ると、グデン、グデンに泥酔して、アパートの前で嘔吐している山口敬三の姿にぶつかった。
やっと釈放されて来たらしい。
いったい、どんな罪を犯したのかは知らないが、久し振りなので懐しく、
「やあ、山口君……部屋まで送ろう」
と肩に手をかけた。
「触らないで呉れ!」
山口は、そう叫び、
「僕は、どうにもならない莫迦《ばか》だ!」
と手を振り払う。
しかし、彼は、山口を抱きかかえるようにして、二階の部屋へ連れて昇った。
そして水を飲ませ、床をのべて寝かしつけてやったが、その時になって、
「倉地さん……済みません」
と礼を云った。
そして、それっきり泥のような眠りに陥ち入ってしまったものだ。
――翌朝、彼が外出の仕度をしていると、
「昨夜は、申し訳ありませんでした」
と、丁寧《ていねい》に挨拶に来た。
一般に、沖縄の人は、礼儀正しい。
「やあ、ひどく酔ってたね……」
彼は微笑した。
「泡盛を、ガブ飲みしたんです」
「しばらく姿をみなかったね……」
「親父とケンカして、怪我させてしまって」
「へーえ、それでブタ箱に?」
「いえ、もう一人も怪我させたんです。仲裁に入った女性を……」
「ふーん、なるほど。そうだったの」
倉地一平は肯《うなず》いた。
となると、山口は傷害罪で、ぶち込まれていたことになる。
以来、倉地は若い大学生の山口敬三を、なにかと面倒をみてやるようになった。
山口は、大学を中退したとかで、昼間はブラブラしている。
だから、昼食に連れだしたり、長浜海岸へ行って泳いだりした。
でも、夜十一時ごろになると、夢遊病者のように、ふわりとアパートから出ていき、明け方ぐらいに帰ってくるのだった。
「きみは、生活費はどうやって、稼ぎだしてるの?」
ある日、倉地は訊《き》いた。
たしか屋慶名にドライブしている時であったろう。
山口は、なぜか怒ったように、
「ある人に、出して貰ってるんです!」
と答えた。
「それは両親かい?」
「いいえ、違います……」
「まさか、女の人じゃアないだろうね?」
「ところが、そうなんです」
「なるほど、それで夜中になると、外出するのか……」
彼は肯《うなず》いた。すると山口敬三は、
「もう、泥沼なんです。阿片中毒者が、阿片から逃げられないように……」
と、悲しそうに呟いたのだった。
「まだ、きみは二十三じゃないか。ヒモみたいな生活をせずに、本土へ来て、大学を卒業して、まともに就職したらどう?」
倉地一平は、そう忠告した。
それから暫くして、彼は本土へ帰った。
日高社長が、彼の報告した候補地を、
――ぜひ、見たい。
と云うので、スケジュールの調整にとりかかっている頃、ひょっこりと、山口から手紙が来た。
自分の住所を、南風原荘を引き払う時に、教えてあったのである。
『この儘《まま》では、僕はダメになりそうです。本土へ行って、再出発したいのです。あることから逃れるためにも……。
大学へ行くよりは、板前になりたいので、どこか御紹介いただけませんか。心の底からお願い致します。
山口敬三拝』
ハガキには、そう書いてあった。
板前になりたいとは、変った志望である。
しかし多忙にかまけて、すぐには山口の就職口を探すところまでには、ゆかなかった。
そんな手紙を貰って、一ヵ月ぐらい経ったころ、彼は日高社長と共に、ジェット機の人となった。
すぐホテルに着き、沖縄新報社に電話を入れて、当間氏に来て貰うことになる。
彼は、やっと自分の身分を打ち明け、
「欺《だま》していて、申し訳ありません。こちらは社長の日高です」
と紹介した。
当間文化部長は、哄笑して、二人が沖縄へ来た目的をきくと、
「むずかしいでしょうが、なんとか御力添えしてみましょう……」
と約束して呉れた。
翌日から、強行軍で視察がはじまった。
屋慶名、長浜海岸の両面作戦でいき、どちらか希望通りになる方を、大々的に買収することに決定したのは、五日後だ。
社長は彼を残して、遽《あわただ》しく東京へと戻って行った。
倉地は、やっと肩の荷をおろしたので、南風原荘へと、山口を訪ねた。
しかし、昼間なのに、留守である。
彼は置手紙をした。
知人の紹介で、築地の料亭で、働けることになっているから、いつでも上京なさい。あと半月ぐらい、当地に滞在する……と云う趣旨の手紙である。
山口からは、度々、ホテルに電話がかかって来たらしい。
しかし用地買収のため、旅行に出ていた倉地は、応対に出られるべくもなかった。
商談は難航し、一先ず中断して、東京へ帰ることに決める。
飛行便まで、時間の余裕があったので、彼は東京から持って来た菓子折を持って、南風原ヨシの店を訪ねて行った。
ところが、本日休業の札が出ている。
それなら、山口に預けておこうと、アパートへ赴《おもむ》いた。
昼間のアパートは、深閑《しんかん》としている。
みんな共働きの夫婦ばかりで、託児所に子供を預けて外出中だからだ。
二階への階段を昇りかけて、倉地一平は、ふッと聞き耳を立てた。
女の泣き声がしているのである。
しばらく佇《たたず》んでいて、それは夜雁《よがり》啼きの女の声だと知った。
その泣き声がしているのは、どうやら山口敬三の部屋らしい。
しかも誰憚《はば》からぬ夜雁声だ。
倉地は、跫音《あしおと》を忍ばせて、山口の部屋の前に、伝言を書いた名刺を菓子包みの上に置いて、そっと階段を降りた。
そして、それっきり、その真ッ昼間の出来事は忘れた。
グアムに新築するホテルの起工式に出席したり、ゴルフ場の竣工式を設営したりして、忙しい毎日がつづいた。
ある雨の夜のことだ。
帰宅すると妻が、玄関先で、
「あなた、沖縄の山口さんと云う人、ご存じなの?」
と小声で訊いた。
気づくと、見覚えのある靴が、玄関に置いてある。
「ああ、知ってるよ。来てるのかい?」
「朝から待っているの……」
「そりゃア悪いことしたなあ」
彼は、応接間へ通った。
「やあ、出て来たね?」
倉地は微笑してみせる。
「やって来ました……」
山口敬三は緊張した表情だった。
「紹介状……いま、書こうか?」
彼は訊く。
すると相手は、頭を掻いて、
「実は、財布を電車の中で、落したか、スラれたか、したらしいんです」
と云う。
「じゃあ、今夜はうちに泊って、明日訪ねて行くとよい」
無一文なら食事もしていないだろうと、妻に夜食を用意させた。
山口は、ガツガツ食べ、その夜は応接間のソファーベッドに眠ったようだ。
翌朝、倉地は紹介状を書いて、築地の板前見習いを求めている料亭まで、連れて行ってやった。
その折に、
「きみの恋人って、凄い声を出すんだなア。南風原荘の建物全体に、轟《とどろ》き渡っていたぜ」
と冗談を云うと、山口は赧《あか》い顔をして、
「心配なことが、一つあるんです。どんな女性が訪ねて来ても、決して勤め先だけは、教えないで下さい……。奥さんにも、よろしくお願いします……」
と早口で告げた。
「わかってるよ……」
倉地一平は、料亭の裏口を教えてやり、
「じゃあ、元気で働くんだよ……」
と云って、手を挙げて別れた。
そして、それが実質上の別れとなった。
……半年ほど、経った。
紹介した以上、一度は行かねばと思い、料亭でお客を招待し、仲居さんに訊いてみると、なかなか筋がよくて、山口は元気で働いているとのことで、なんとなく安心していた倉地だった。
ところが、住み込んで四ヵ月目ぐらいに、沖縄から母と称する女性が上京し、アパート暮しに入ってから、ズル休みをよくするようになったと云う。
料亭の板前頭からの電話では、
「……なにしろ、裕福な家らしくて、金に困ってないらしいんで、始末がわるいんです。いま、基本を覚える大切な時なんで、少し注意して叱ってやって下さい」
とのことだった。
電話しよう、電話しようと思いつつも、ついつい打ち忘れていたある日、沖縄新報の当間文化部長から、小包みが届いた。
封を切ってみると、一冊の大学ノートと、五、六日前の沖縄新報が同封されて、当間の手紙が入っていた。
『前略。
心中事件が発生し、男性のアパートの部屋に、貴殿に宛てた遺書形式のノートが残されているのを発見いたしました。警察の許可を得ましたので、同封の新聞と共に、御送付申し上げます。
例の土地の件は、海洋博の問題もあって、一応、計画は中止せざるを得ないでしょう。
取り急ぎ』
手紙は、達筆であった。
倉地一平は、新聞をひろげた。
社会面の第二トップあたりで、その記事は扱われていた。
『七十の老女と無理心中』
大きな活字が、目に飛び込んで来た。
記事は、次のようなものである。
『昨七日午後三時ごろ、辻町の割烹旅館南風原≠フお手伝い、糸満克子さんが出勤したところ、女将の南風原ヨシさん(七〇)が、血だるまになって倒れ、その傍らで死亡している若い男性の死体があるのを発見、直ちに届け出た。
克子さんの証言では、この若い男は、山口敬三(二三)で、日頃からよく出入りし、ヨシさんから可愛がって貰っていたと云う。
上京した山口を、ヨシさんが那覇に連れ戻したがため、怨みに思った山口が、ヨシさんを刺殺、自分も睡眠薬を飲んで、自殺したものと考えられる』
……一読し、再読し、倉地一平は愕然となった。
〈あの山口君が、女将を殺して、自殺するとは!〉
とても信じられないことであった。
そして大学ノートには、これまた常識では考えられないような事柄が、淡々たる筆致で書き連ねられていたのである。
『倉地一平さま。
東京では、本当にお世話になりました。
心から感謝いたしております。
……さて、なにから書いたらよいのか、頭が混乱していて、よくわかりません。
先ず、僕のことから書くのが、順序のようです。
僕は、十五のとき両親を喪《うしな》って、とうとう孤児になりました。
仕方なく、働いて自活しなければ、ならなくなったのです。
中学の先生が、可哀想だと云って、辻町の料理屋の下働きの仕事を探して呉れました。
住み込み、三食つきで、月五ドルの月給でした。
野菜の水洗い、出前持ち、皿洗いなどの仕事です。
入って二ヵ月目だかに、料亭南風《はえ》原《ばら》≠フ女将が、
――よく働く子だね。うちへ来ない? 高校へ通わせてあげるよ。
と云ったのです。
高校進学!
僕は、その一言で、フラフラと南風原≠ヨ鞍替《くらが》えする気になったのでした。
思えば、それが僕の人生を、大きく変えてしまったのです。
勤めの条件は、ひどく良好でした。
――物騒だから、夜は、女将の部屋で一緒に寝ること。
――高校に通わせてやる代りに、忙しい時は板前さんの手助けをすること。
この二条件だけなんです。
当時の辻町は、米兵の歓楽街みたいなものでしたから、よくケンカがあったり、ピストルを発射する者などあって、まったく物騒でした。
それで僕は、女将の言葉を、素直に受けとったのです。
十五歳なんですから、無理もありません。
客を帰し、女中さんが戸締りして帰って行ってから、女将は湯に入ります。
――あんたも、入っておいで。
と云うので、僕も入浴しました。
そして出てくると、女将は、香水をプンプンさせながら、電灯をうす暗くして、先に床に入っています。
――あのう、僕の寝床は?
と質問しました。
――そんな余分なもの、置いてないよ。
女将はそう答え、
――しかし、タタミでごろ寝もできないわね。座布団を枕代りにして、あたしの傍で、寝《やす》みなさい。
と、あでやかに笑うのです。
僕は、オズオズと床の中に入って、端の方に体を寄せ、女将に背中を向けました。
しかし、香水の匂いがつよくて、とても寝つかれません。
しかし、気疲れしたので、いつのまにか、ウトウトしたのです。
そのうち、なにか奇妙な気分なので、目覚めると、女将の指が、僕の胯間に触れているではありませんか。
ビックリして飛び起きると、女将は、
――気持いいだろ? もっと気持のよいことをしてあげる。そのあと、ぐっすりと眠るがいいよ……。
と布団を剥《は》ぎ、いやがる僕の下着を取り去って、しまったのです。
倉地さん。
あなたには、その夜、なにが起きたかは、おわかりでしょう。
僕は、我慢し切れなくなって、女将の口の中に、ある物を洩らしてしまったんです。
その夜は、それで終りでした。
次の日も、おなじことをされました。
僕が怒って拒むと、翌朝は、食事の仕度をして呉れない許《ばか》りか、前夜の食べ物の残りをゴミ箱に捨ててしまうのです。
育ち盛りでしたから、食欲で苛《いじ》められるのは、とても辛いことでした。
女将――南風原ヨシは、まるで条件反射で動物に芸を教え込むように、少年の僕を飼育して行ったわけです。
一ヵ月後、女将のヨシは、
――明日は休みだから、うんとご馳走してあげるからね。黙ってされるままに、なっているんだよ。
と若やいだ声で云いました。
休日に、三度の食事ヌキでは、堪《たま》りませんから、僕も暗闇の中で、されるままになっていました。
そして、童貞を完全に喪ったわけです。
しかし、この時の快感は、僕を変貌させたと云えるでしょう。
それは、なんと云ったらよいのか……。
ソロモンの洞窟にでも挿入したと云うような感じでした。大袈裟に云えば、です。
終ったあと、ヨシは私を抱いて、唇に接吻しながら、チョコレートを食べさせて呉れました。
それは催淫剤入りのチョコレートだったと、あとで知りました。
そしてヨシは、また右手を使って、僕を昂奮させ、こんどは僕を上に乗せたのです。
一度、セックスの味を知ると、僕は少年のこととて夢中になりました。
逆に、夜が待ち遠しい位でした。
暗闇。そして香水の噎《む》せるような匂い。
毎晩、僕は昂奮し、二度も、三度も求めたことがありました。
その都度《つど》、ヨシは、
――ほどほどに、おしよ。
と嬉しそうでした。
僕は、彼女の若やいだ顔や、黒い髪、大きな乳房などから、彼女をせいぜい四十歳前後と考えていたのです。
つまり、母のような年齢の女性と、セックスしていることに、心の抵抗を感じてはいたのでした。
だが、童貞を喪ってから半年ぐらい経ったころ、ショックな事件が起きたのです。
ヨシは、セックスが終ると、必らずどう云うものか、ぴっちりと腿に食い込むような、パンティ型のコルセットを穿《は》いて眠っていました。
それには、秘密があったのです。
彼女は、
――なぜ、そんな窮屈なものを穿いて、寝るの?
と云う僕の質問に、
――敬ちゃんの男性ホルモンを、一滴残らず吸収したいからさ。
と答えたのですが、ある明け方、彼女の下腹部に手をあててみると、どう云うわけか、コルセットをしていない。
とたんに僕は欲情し、布団を剥《は》いで、躰《からだ》を乗せかけようとし、何気なく下腹部をみると、なんと白毛女のように、真ッ白い繁みではありませんか!
僕は目を疑い、呆然となったのです。
真ッ白いのも当然で、彼女はその時、すでに還暦の齢《よわ》いを越えていたのでした。
ヨシも、下腹部を見られたことに気づき、
――驚いたかい?
と照れ臭そうに云ってから、
――マラリヤを患ってから、毛と云う毛は白くなっちまったんだよ。敬ちゃんに、知られたくなかったのさ。
さあ、その夜から、性欲は減退です。
すると、また食事での残酷な、復讐がはじまるんです。
そればかりか、
――高校を止《や》めて、この店を出てゆく気かい?
なんて脅かすんです。
あとで判ったんですが、ヨシは半月に一度は髪を染め、乳房と顔は整形していたのでした。
大人の客でも欺《だま》されるんですから、僕が欺されたのも当然でしょうね。
自分の祖母のような女性に、飼育されてしまった僕。
大いなる嫌悪感でした。
でも夜になると、白い陰毛のことを忘却してしまうんですから、変な話です。
僕は、人間のセックスとは、わからないものだ、永遠の謎だと思いました。
現に、二十三歳の僕は、七十歳のヨシの肉体が忘れられずに、ずるずると、またヨリを戻してしまったのですから――。
この祖母と、孫との関係を絶つには、死しかありません。
……無理心中を決心したのは、この忌わしさから逃れたい一心なのです。
こんどは、南風原ヨシの、身の上話の方に移りましょう。
彼女の告白によると、家が貧乏で、子沢山のため、十三の時から、あの辻町にあった遊廓で、働かされたと云います。
なんでも三十円の前借だったそうです。
おわかりでしょうが、なかなかの美人だったらしく、十四歳の春に、当時の沖縄県知事に水揚げされたのだそうです。
ヨシには、生来、男なしでは眠られないような、好色の血が流れていたらしく、メンスの日など寝苦しく、自分で張型を使ったものだと云っていました。
十九の時に、長崎に移り、友人と終戦まで遊廓ばかりを転々としていた由です。
彼女は、
――三十年間も、若いころから、毎晩、違った客と眠っていたんだからね。この年齢になっても、雀百まで……で、血が疼《うず》いて仕方ないんだよ。
など機嫌のいい時に、真剣な顔つきで話して呉れました。
つまり彼女の肉体は、一万人以上もの男性の精液を、吸い取りながら、生き抜いて来たわけですね……。
敗戦になってからは、しばらく東京の渋谷で夜の女として働いて金を貯め、それで辻町に戻って店を開いたのだと云ってました。
米兵相手のバーが最初で、よく白人兵と、黒人兵のものの違いを、話して呉れたりしたものです。
ですから、世界各国人の精液が、彼女の躰に注ぎ込まれたわけですね。
僕は、そんなヨシの告白を聞くと、途方もなく嫉妬するのでした。
これまた、どういう心理なのか、よくわかりませんが。
まあ、それだけ男の肉体を知っているためか、彼女はテクニシャンでした。
僕が、彼女から逃げ出そうとすると、その習い覚えた技術を、小出しにして、僕を夢中にさせて引き止めるのです。
あの白い陰毛を見られた時には、たしか、玉転がしでした。
ホーデンを口に含んで、刺激するテクニックです。
筆を小道具に使って攻めたり、躰中に接吻したり、アヌスに舌を入れたり、一年がかりで四十八手を教えたり……とにかく、千変万化です。
若い僕が、ついつい彼女のテクニックに夢中になり、溺れ切ってしまったことは、お判り頂けるでしょうか。
セックスの享楽。
その上、物質的な援助。
ずるずると、その安易な生活の上に、アグラをかいてしまった僕は、意気地のない男だと思います。
でも、大学を出るまでは――と、考えていたのです。
しかし過去に僕は、三回、ヨシからの脱走を図っています。
一回目は大学に入り、住み込みの家庭教師のアルバイトの口が、見つかった時でした。
僕は、
〈今こそ、独立のチャンスだ〉
と思い、彼女に、
――いつまでも、こんな生活をしていたら僕自身、だめになるから。
と云ったのです。
すると南風原ヨシは、決定したアルバイト先に押しかけて、
――この話は、伯母の私が断ります。他の人を探して下さい。
と、話をぶち壊したのでした。
僕が怒ると、
――敬ちゃん。あたしは、あんたの他に、身寄りはないんだよ。財産は、すべてあんたに譲るつもりなのに、それでも、あんたは、これまでにして貰ったあたしを、捨てる気なのかい?
と、泣くんです。
どうも、男は女の泪《なみだ》に弱いようですね。
二回目は、世間体は、伯母と甥と云うことになっていたのに、それがいつしか、
〈あの二人は変だぞ? あれは、若いツバメだ……〉
などと、噂を立てられ、ユーウツになって大学を退学した時でした。
彼女が、僕を昂奮させる戦術として、セックスの時、あらぬ言葉を口走りはじめたのです。
近所の耳に入らぬわけはありません。
なにしろ、沖縄方言――土地の人ですら、とても口にできない原語を、大声で連呼するんですからね。
これで、バレなかったら、どうかしています。
この時の引き留め戦術は、金でした。
それで南風原荘を買わせて、僕は二階の一番よい部屋を提供させたのです。
つまり、別居でした。
そして、僕が気が向いた夜だけ、料亭に泊りに行くという約束をとりつけたのです。
倉地さんも、管理人の奥さんに、食事の世話をして貰いましたね。
僕も、そうだったんです。
ところが、毎夜、抱かれて寝ていた数年間のうちに、いつしか、それが習慣となったらしくて、夜になると、ヨシの肌が恋しくてたまらなくなる。
僕は、
〈これでは、いけない!〉
と痛感しました。
それで間に人に入って貰い、将来のことを話し合ったんです。
その仲介者とは、僕を辻町に紹介して呉れた中学校時代の恩師なんです。
はじめは、おとなしく話しあっていたんですが、ヨシは次第に激昂して来て、
――孫ほど年齢が違うと云ったって、恋人同志なんだから良いじゃあないか。山口敬三をこれまでにしたのは、このあたしだよ!
と、台所から果物ナイフを持ちだして、いきなり恩師に突きかかったんです。
それで、僕がナイフを|〓《も》ぎとろうとしているうちに、彼女の腿にナイフが刺さったわけですね。
そのヨシの血をみると、どう云うわけか、僕は逆上して、恩師に、
――もう帰れッ! 二人の間のことは、二人でつけるッ!
と抜いたナイフで切りつけてしまったんです。
仲介を依頼しておきながら、その人間に怪我を負わせるとは怪しからぬ奴……と云うので、恩師は、僕を告訴したのです。
倉地さんには、あの時、
――父を刺した。
と云ったと思いますが、孤児の私に、父がいるわけがない。実は、父と慕う恩師だったのです。
警察では、先方の訴えと、僕の供述が食い違っていると云うので、十日間も留置したんですね。
……そのうち、倉地さんと、知り合いになりました。
そして忠告を聞いているうちに、
〈そうだ……手に職をつけよう。そして彼女から逃げ出すために、本土へ渡ろう!〉
と考えるようになったのです。
そしてハガキを書き、倉地さんの再度の来島のさい、職があると知った時の嬉しさと云ったらありませんでした。
東京と、那覇に離れたら、お互いに諦めもつくと思ったのです。
彼女から買って貰った品物を、ひそかに売り払い、身の廻りの物だけを持って、僕はジェット機に乗りました。
そして、お宅でご厄介になって、無事に板前見習に住み込みました。
しかし、ヨシの執念は、物凄かった!
あるだけの預金を引き出すと、
〈東京へ行ったに違いない!〉
と目星をつけて、上京したんですね。
そして、とうとう四ヵ月目に、僕の勤め先を突きとめたんです。
彼女の顔をみると、僕も泪が零《こぼ》れてしまって、主人に、
――母が上京したので休みを下さい。
と云い、大きな宴会があって、忙しいのを百も承知の上で、強引に休暇をとり、ヨシが泊っているホテルへ行って、それこそ愛欲にただれ切ったのです。
三日三晩、ベッドの中……と云うような、二人の再会でした。
僕は、
――東京から帰らない。
と主張しました。
すると彼女は、
――だったら、それでもいいわ。
と、店から遠くないところに、アパートを借りてしまったのです。
そして秘術を尽して、僕にサービスしてくる。白い恥毛も、自分で黒く染め、ネグリジェを着ると云う泪ぐましいサービスです。
〈これが、七十の老婆だろうか?〉
僕は、彼女に圧倒されました。
人生の最後の情熱を、もろに叩きつけてくるヨシでした。
僕とて、木石ではありません。
彼女は、恩人です。
そして、僕にとっては、セックスと云うものを開眼させてくれた唯一の女性です。
店も休みがちとなり、店の敷居が、次第に高くなって行きました。
そのうち、彼女の有り金もなくなり、
――どうしようか?
と云うことになります。
ヨシは、しきりに、
――那覇へ帰ろう。
と泣きます。
僕は、仕方なく決心しました。
彼女の宝石を売って金をつくり、店の主人にも、倉地さんにも挨拶せずに、この土地に帰って来ました。
非礼の段、お許し下さい。
しかし懐しい那覇へ戻ったものの、やはり世間の口に戸板は立てられません。
狭い街ですし、学友たちもいます。
――よう、ハネムーン帰り!
と冷やかされたのは、空港でした。
――お前よく、あんな婆アと、一緒になってるな? 財産目当てか?
と云われたのは、帰った翌日でした。
毎日、朝から酒を飲むことが、多くなります。アパートの外へ出ると、白い眼が四方から、ギョロッと向けられて来るようです。
僕は、ノイローゼになりました。
恋は自由だと、格言にはありますが、やはり程度問題のようです。
ヨシは、
――外国では、八十歳の爺さんと、二十歳の娘さんが結婚してるじゃアないの。世間の思惑なんか吹っ飛ばして、あたしたち、結婚式を挙げよう。
などと提案してくる。
だが、二十三歳の僕の身にも、なってみて下さい。
それは、いくら長生きすると云ったって、僕よりは彼女の方が先に死ぬでしょう。
すると僕は、
〈あいつは財産目当てに、七十の婆アと結婚しやがった卑劣な男〉
と云うレッテルを貼られて、これから先も生きてゆかねばならない。
その上、ヨシは一万人を越える男性に、肌を許して来た娼婦なんです。
これまた、僕の生涯の、負い目となることでしょう。
でも倉地さん、これだけは、はっきり憶えておいて下さい。
二十代の男性が、七十代の女性と、奇妙な経緯《いきさつ》からにしろ、肉の味の虜《とりこ》となって離れられなくなり、次第に愛しはじめてゆくような事実が、この世に存在することを――。
愛憎は紙一重だそうですが、僕はやっと、ヨシから離れようと憎みながら、その実は愛していることに気づきました。
世の中の人々は、
――そんなバカな!
と笑うでしょうが……。
明後日の夜あたり、決行します。
ヨシ本人には、知らせてません。
しかし、これは無理心中ではなく、明らかに情死なのです。そう信じて下さい。
遺書も残さずに、決行する積りでいましたが、あの雨の夜、金がなくて行き場所もない僕に、暖かい思いやりを示して下さった、倉地さんにだけは、本当の二人の姿と、死にいたる遍歴を知って頂きたく、昨日、今日と大学ノートに向かった次第です。
ご親切な奥さまにも、よろしくお伝え下さい。
また築地のご主人には、
――あの阿呆は、那覇で心中した。
とお伝え下されば幸甚です。
アンセーイカビラウー(さようなら)
山口敬三拝
倉地一平様
追伸
いつでしたか、ドライヴした時に、長浜海岸あたりに、土地が欲しいと、申して居られましたね。
実は、南風原ヨシの名義の土地が、その近くに二万坪(地目は山林)ある由です。
僕から、本人にその土地の売買交渉をしておきましょう。
白紙委任状と、権利書は、恩師宅に郵送しておく積りです。
どうせ彼女も、僕も天涯孤独なのですから相続人はありません。
なにかのお役に立てば――と思い、出過ぎたことを致します。
せめてもの、御恩返しに。』
10
倉地一平は、大学ノートを置くと、
「ふーッ!」
大きな溜め息を吐いた。
……あの南風原ヨシと、純情そうな山口敬三とが、八年間も同棲していたとは!
片や七十歳、片や二十三歳。
〈あの時、アパートで耳にした夜雁啼きはあの女将だったのか!〉
彼は、頬桁を拳固で、乱打されたような思いであった。
しかし、考えてみれば、男女の仲とは、全く図り知れぬ深淵みたいなものだ。
どんな組合わせがあるか、判らない。
倉地一平は、女性がセックス可能なのは、せいぜい四十代までだと思い込んでいた。
ところが、受身の女性には、男と違って無限の可能性がある。
まして一万人を越える客をとったと云う娼婦ならば、男なしでは夜を過せなくなるだろうと云う気もしてくるのだ……。
ただ、南風原ヨシが、十五歳の孤児を引き取ったのは、もしかしたら、自分がその年齢のころ、県知事閣下に水揚げされた……と云うことの、裏返しの心理が働いていたのではなかろうか。
そして残った余生の情熱を、山口敬三に集中したのでもあろう。
山口青年は、性的、物質的には、ヨシによって満たされながら、精神面ではコンプレックスを抱いていた。
その癖、別れようと思っては、かえって深みに陥ち込んでいる。
これは不思議な、あまりにも不可思議な、男女の絆《きずな》と云うよりないではないか。
ほかに、解釈の仕方がない。
最後に、山口敬三は、
――これは無理心中でなく情死である。
と、ハッキリ云い切っている。
倉地一平は、男女の業《ごう》と云うものを、つくづくと感じた。
翌日、彼は、なんとなく浮かぬ表情で、沖縄便に乗っていた。
長浜海岸の山林の件について、たしかめに行くためである。
新聞社の当間部長に会い、社会部を通じて山口敬三が、果物ナイフで刺したと云う、恩師の名前を調べて貰った。
それは、すぐわかった。
新城《あらぐすく》先生である。
勤務校に電話して、用件を伝えると、
「ああ、彼が心中する前日の夕方、私の家に来ましてね……郵送する余裕がないから、東京から、倉地と云う人が訪ねて来たら、直接わたして欲しいと、封筒を預けて行ったんですよ……」
と明快に答えてくれた。
その夜、新城先生と、当間部長との三人で食事をした。
新城先生は、温厚な人で、中学では国語を教えていると云う。
「山口は、よく出来る子でしたね。作文も上手だったし……」
と、先生は目をしばたき、
「郵送する余裕がないとは、金の余裕がないと云うことかな……と、その時は、思ったんですよ。人を傷つけておきながら、ノコノコ頼みごとにやってくる……。その当時、私はまだ告訴を取り下げてませんでしたから、変な奴だなと思いました」
と、云い、それから、しんみりと、
「結局は、郵便局は閉まっているし、その夜に心中する気なんですから、時間の余裕がないと云うことだったんでしょうなア……」
と呟いた。
「でも、大学ノートを見て、正直のところ、信じられませんでしたね」
倉地は告白した。
「世の中には、いろいろなことが、起こるもんですな」
当間部長は苦笑して、
「でも、思い切った絆の、断ち切り方ですなあ……。今の若い人は、大胆だ」
と云っている。
「ところで、預り物を、お渡しします」
新城先生は、カバンの中から、大事そうに大きな角封筒をとりだした。
「長浜海岸の山林なんですよ……」
倉地一平は、当間に云った。
「へーえ!」
当間部長は感心したように、
「あの女将……辻町でも有名な、吝《けち》ん坊《ぼう》だったから、まだ相当に財産を、残してるだろうにな……。死んで、相続人がないとなると、それらはどうなるんだろう?」
と、首を傾《かし》げた。
登記権利書は、地目は山林で、二万二千坪の面積であることを教えてくれた。
「このあたりの地価相場を、調べて頂けませんか。そして、その値段で譲って頂きましょう……」
倉地は云った。
「しかし、本人は、あなたにタダで呉れてやると、書いていたんでしょう?」
当間は、
〈欲のない人だな……〉
と云う表情になる。
「いいえ、死人に口なしとは云っても、そんなことはできません」
彼は首をふった。
髪の毛を長くして、どこか愁いを含んだ山口の顔が、瞼にちらついている。
「どうせ、金を支払うのは会社です」
「なるほど」
「二人のお墓も、つくって上げたいし……それで残ったら、孤児の救済資金にするとか……適当に、新聞社で考えて下さい」
倉地一平は、云った。
日高社長はがめついから、
――そいつは、シメコの兎だ。
と有頂天になるかも知れない。
だが、二人の死者を知っている人間としては、そんなことは彼には出来なかった。
「わかりました。二人の冥福を祈る碑を立てて、あと残金があれば、新聞社の方でプランを練ってみましょう……」
当間文化部長は肯いた。
……その時、蛇皮線の音が、隣り座敷から聞えて来た。
恩納《おんな》松下に
禁止の碑の立ちゅし
恋しのぶまでの
禁止やないさめ……。
なんとなく、哀調のある節廻しである。
だが、聞いている倉地一平には、意味どころか、唄の文句がわからなかった。
「いったい、どう云う唄です?」
彼は、訊いた。
当間部長が、
「ああ、恩納節《おんなぶし》です」
と云って笑った。
すると、新城先生があとを受けて、
「恩を納《しま》うと書く、恩納村と云うところがありましてね……」
と解説して呉れる。
「その恩納村の松の木の下の遊び場に、禁止の高札が立った……」
「ははあ……」
「しかし、禁止令だとは云っても、まさか男女が恋し合ってはならない、と云う禁止の札ではなかろうな……と云ったほどの意味なんです……」
「すると、山口君の恋も……この唄みたいなもので……」
倉地一平は、そう云って、思わず泪ぐんでしまった。
「そう、そう。恋には、年齢の隔《へだた》りも、貴賤《きせん》もないんだ……」
当間部長は、大声で肯きながら応じる。
「思えば、不憫《ふびん》なことをしましたな。結局、二人をあの世に追いやったのは、世間の口だったんですかね……」
新城先生も呟いた。
また隣の座敷から、別の唄が聞えて来る。
伊野《にわふあ》波の石くびれ
無蔵連《んぞち》れて登る
にやへも石くびれ
とさはあらな……。
倉地は、なんとなく憮然とした表情になって、グイ、グイと手酌で、泡盛を口に運びはじめていた――。
スワッピング心中事件
こどもの日――五月五日の午前中のことであった。
新聞記者の高瀬は、妻と、二人の子供の供をして、那須へ遊びに来ていた。
ゴールデン・ウイークだの、なんだのと云っているが、この四日間の連休は、サラリーマン亭主にとっては、苦痛な時間だった。
「パパは、年中、遊んでるんだから、連休のときぐらい、遊んでよ」
と子供たちは云う。
中学生一年の長女と、小学生五年の長男の主張である。
妻は妻で、
「たまには、子供たちと付合ってやれば?」
と云う。
それで仕方なく、新聞社の厚生寮を予約して、那須へやって来たのだった。
皇室の御用邸の近くで、場所はいいところにあるのだが、そのため、連休めあてに、ワンサと人間が押しかけていて、サービスの悪いこと夥《おびただ》しい。
管理人に訊《き》いてみると、新聞社の人間は、彼の家族を含めて三組ぐらいで、あとは紹介による縁故者、知人の類だと云う。
一泊三食つきで、千八百円であった。
新聞社の人間と家族は、八百円の補助が労働組合から出るから、実質は千円だ。
いまどき、千円で、三食たべたうえ、新しいシーツの布団で寝られる旅館が、この日本に存在するだろうか?
浅草の山谷、大阪西成の釜ケ崎だって、素泊りで五百円はしているはずである。
高瀬は、サラリーマンとしての恩典に与《あずか》りながらも、なにか不愉快であった。
朝食のあと、姉弟たちは、トランプ遊びに興じていたが、不意に、
――ワラビ摘《つ》みに行きたい。
――蝶々の採集をしたい。
と云いだした。
なんでも学校の宿題だという。
高瀬はいっそう不愉快になった。
連休にまで、宿題を生徒に課しながら、自分たちはノウノウと遊んでいる教師の在り方が、不満だったのである。
現代の日本の教師たちぐらい、いい加減なものはあるまい。
なかには立派な人も混っているが、八割はデモ先生だ。職がないから、先生にでもなろうかと就職した給料泥棒ばっかりである。
だから自分たちの利益のことばかり考えていて、教育は二の次である。
教育とは、教え、そして生徒の個性を伸ばすように、育《はぐく》むことであろう。
しかし現在の教師は、教えはするが、育んではいない。
そして、ある時には聖職者を気取り、またある時には労働者であると主張する。高瀬は、もう一度、国家試験をして、程度のわるい教師をフルイにかけて落すべきだと思っていた。
なにしろ、大学の先生が、人殺しをしたり強姦をする時代なのだ。
いかに教師の質が、低下しているかが、判るではないか。
にもかかわらず、世のバカな母親はそんなデモ先生の云い分を信じて、子供を一流校へ進学させようと血道をあげている。
「連休の宿題だって?」
高瀬は、眉根を寄せた。
「だって仕方ないじゃン!」
長男が、口を尖《とが》らせて云う。
「阿呆。蝶を手で掴えられるか? 捕虫網もないのに、そんな芸当ができるか!」
彼は、そう怒鳴りつけたが、妻が、
「とれても、とれなくても、とにかく天気はいいのですから、外へ出て、たまにはブラブラしましょうよ……」
と云うので、ついつい、その気になった。
まさか奇妙な心中死体に、ぶつかろうとは夢にも思わなかったからである。
二人の子供は、はしゃいで、ワラビだ、蝶だと騒いでいる。
舗装された道路から、脇道にわけ入って、五百メートルも来た時分だったろうか。
高瀬は、なんとなく疲労感を覚えて、子供たちに、
「パパとママは、ここにいるからね。あまり遠くに行くんじゃないよ」
と云って、手頃の石をみつけて、腰をおろした。
妻も、それに従った。
「久し振りね、あなた」
妻は、爽かな五月の陽光を仰いでいる。
「結婚生活……十五年か」
高瀬は、タバコを咥《くわ》えて、ライターを探した。しかし、宿のテーブルの上に、置き忘れて来ていた。
彼は軽く舌打ちして、何気なく背後の繁みを眺めやった。
そんなところに、マッチがある道理はないのだが、なんとなく――である。
すると、繁みの中に、ビニール袋が転っていたのだった。
〈おや?〉
彼は、そのビニール特有の光沢を凝視し、その中に黒い物体が入っていることを知ったのである。
高瀬は妻に、
「変なものがある」
と云いながら、立ち上った。
椎《しい》と、楢《なら》の雑木林の繁みに、入ってゆき、拾い上げてみると、ビニール袋が固く縛ってあって、その中にハンドバッグ――それも、オーストリッチの高級皮革を使った製品が、封じ込められてある。
「おい、見ろよ……バッグだぞ」
彼は妻に告げた。妻は、見るなり即座に、
「盗品でしょ。触っちゃダメ!」
と叫んだものだ。
こんな場合、誰だって、そう思うだろう。しかし、高瀬は盗品にしては、変だな……と思った。
盗品を、ビニール袋に入れて、人目に立つところに捨てる莫迦《ばか》はない。
〈開けたものか……届けたものか……〉
と迷っている時、二人の子供が、殆ど泣きッ面で駈けて来て、
「人が、死んでる!」
「パパ! 怖いッ!」
と彼に抱きついたのだった。
……これが、事件の発端である。
高瀬は、自分の子供に案内させて、その事件現場に行った。
誰か、浮浪者でも自殺しているのだろう……ぐらいに考えていたのだが、現場を教えられて自分の目で視《み》たとき、彼は思わず、
「ママと、警察に知らせなさいッ!」
と叫んでいた。
その死体を、子供たちに、見せたくなかったからである。
――死体は、二つあった。
それも、女同士である。
仏《ほとけ》は、まだ新しかった。死後、二日目ぐらいだろう。
山躑躅《つつじ》の咲く小さな窪みに、毛布を敷き、二人はお互いの腰を、ベルト状のもので縛り、固く抱き合って死んでいた。(あとで判ったことであるが、これは乗用車の安全ベルトと判明した)
二人とも、洋服である。
年齢《とし》のころは、三十代の後半ぐらい。
仮に、AとBという呼び名で、二人を区別するなら、Aは断髪に近いヘア・スタイルであった。Bの方は、ごく普通の人妻風の髪型である。
Aは、紫色の上下の服を着ていて、パンタロン姿である。
Bは、紺と白の水玉模様のブラウスと、紺色のミニ・スカート。首に、グリーンのネッカチーフが巻きつけてある。
靴は、窪みに脱いであって、お互いに素足であった。
〈ほう! レズ心中か!〉
高瀬は、そう思った。
心中現場の附近を見たが、遺留品は靴だけで、他の品物は見当らない。
これでは、身許の確かめようも、ないのである。
彼は、二足の靴のメーカー名をメモした。新聞記者とは、因果な商売だ。
紺と白のコンビの婦人靴は、サイズ25であった。いわゆるクイーン・サイズだ。
残りの濃紺のハイヒールは、サイズ23。どこにでもある靴である。
少しく屍臭が漂っていたが、高瀬は我慢して、二人の所有品を調べようと試みた。
パンタロンの方の上衣の右ポケットに、駐車場のカードが見つかった。
五月一日の午後九時のタイムが、カードには記録されてある。
Bの方――つまり、ミニ・スカートの方は全く所持品、なし。
高瀬は、また何気なく、その短いスカートをあげてみた。
そして一瞬、ギクリとなった。
なにか白いものが、B女の胯間から、A女のパンタロンの中へ走っていたからである。
それは、白い筒状のものだった。
なんだか、よく判らない。
高瀬は、慌ててスカートをおろした。
彼だって新聞記者である。
いまは学芸部だが、社会部に配属されて、サツ廻りの経験もある人間だ。
〈ふむ! 相当、アツアツの仲だったんだな、この二人……〉
彼は、その時になって、先刻、拾ったハンドバッグのことを思いだした。
平常なら、それだけでも、ちょっとした事件なのに、同性心中とあっては、とんと忘却してしまったのである。
高瀬は、妻と休んだ場所へ引き返した。
彼が腰をおろした石の脇に、そのビニール袋は置かれてあった。
妻も、子供も姿はない。交番へと走っているのだろう。
彼は、ビニール袋の結び目をほどき、黒革のオーストリッチのバッグを取りだした。
留め金を、はずす。
プーンと良い匂いがした。香水の匂いだ。
どうやら外国製品らしい。
中には、レースの刺繍のついたハンケチ、折り畳んだ京紙、金色の飾り彫りのついたコンパクト、口紅、白い財布……そして分厚い封筒が入っていた。
その封筒には、宛名が書いてある。
彼はまたメモしておいた。
財布の中には、鍵が一本、入っているだけだった。
高瀬は、その封筒をあけてみたい衝動に駈られたが、信書開封の罪は重い。それで断念した。
……その頃になって、交番の巡査が、でこぼこ道を、自転車のペダルを必死になって踏みながら、姿をみせた。
荷台に長男が乗っかっている。
「やあ、どうも!」
彼は、自分の方から挨拶した。
「現場は、どこです?」
巡査は云った。
休日なのに、御苦労な話である。
「私が、案内します。あまり、教育上、よくない心中でしてね」
高瀬は、自転車を押して歩く巡査に、道すがら、自分が見た限りのことを話した。
そして、
「あの状態では、きっと睡眠薬の合意心中でしょうな。しかし、とにかく同性愛の挙句に心中するのだから、よっぽど深い事情があるんでしょう……」
と親切な注釈を加えた。
若い巡査は、一本気だけに、そんな彼の口吻《くちぶり》に反感を覚えたらしい。
なにも云わないが、むッとした表情で、それっきり口を利かなくなった。
……となると、高瀬は、案内人の役をつとめたあと、黒磯署へ出頭して、口頭での陳述書を取られるよりない。
高瀬は、すかさず本社へ、
『女性同士の心中死体発見』
と、ニュースを送っておいた。
そして、その記事は、連休あけの夕刊に、小さく片隅で報道されたのである。
なにかしらないが、さんざんな連休であった。子供と妻に付合い、心中事件に捲き込まれ……では、とても骨休みどころの騒ぎではない。
高瀬は、八王子に住んでいる。
仕事の関係上、都心に住みたいのだが、家賃が高くてそれも出来ない。
八王子といっても、かなり奥の方だから、勤めの往復には、自動車を利用している。
駅前の有料駐車場と契約して、そこに車を預けて、中央線で通うわけだ。
……その日は朝から雨だった。
こんな時は、車の方が便利である。
彼は、車に乗って八王子駅まで来たが、そこで有料駐車券が期限切れになっていることに気づいた。
それで、中央線を利用せず、そのまま、車で都心に飛ばすことにしたのである。
新聞社のビルの地下には、社員専用のガレージがあるのである。
夕刻、学芸部を辞めて、結婚することになった婦人記者の送別会が、虎ノ門の中華料理店でひらかれることになっていた。
高瀬は、
〈あ、傘が入用だな……〉
と思い、地下のガレージに降りて行った。
そして後部トランクをあけ、傘をとり出そうとすると、この間、那須で発見したバッグ入りのビニール袋が、トランクの片隅に転っているではないか……。
〈あッ、いけねえ! こっちの方を、届けるのを忘れてた!〉
彼は、舌打ちをした。
あの、妙になまなましい、女性同士の肉体に行き交った、白い筒棒のために、とんと、その方を忘れてしまっていたのである。
しかし、考えてみると、今更、届けるというのも、なにやら後ろめたい。
それに、使用してはあるが、オーストリッチである。
世界でも、珍重されてる高級品だ。捨てるのは惜しい。
彼は、ネコババすることにした。いわば着服である。
その夜は酒を飲んだので、車は置いて帰って、翌日、社から車を運転して帰った。
三畳の狭い書斎に例のハンドバッグを持ち込み、仔細に調べてみると、コンパクトはフランス製で、しかも、
『K・Nへ。Tより』
という文字が裏に彫ってある。
ハンドバッグの留め金は、驚いたことに十六金製であり、なにやら図案かな……と思っていたものは、よくよく見れば、
『To Kyoko. From Your Slave』
という横文字を図型化したものだった。
日本流に云うと、
『京子へ。あなたの奴隷より』
という文句になる。
高瀬は、猛然と好奇心に駈られて、ためらわずに宛名だけを書いた封筒を、ビリビリと引き裂いていた。
宛名は――野上春司という人物である。
『あなた。あたしは、殺されるかも知れません。その理由は、おわかりでしょう。
あなたが、あんなことを、云い出さなかったならば、あたし達は、倖《しあわ》せに暮していたはずなのです。
でも、あなたのために、なにかが狂ってしまいはじめました。
表面では、仲好く振舞っているものの、思えば、ここ二年ちかく、二人のあいだには、冷たい風が吹き荒れてましたね。
悲しいことです。なぜなのでしょうか。
ほんのちょっとの刺戟を求めた結果が、夫婦の不和を招くだなんて……あたし、田中さんに申し訳ないと思っています。
でも、あたしは、光江さんが怖いのです。近頃、だんだん、おかしくなって来て、主人と別れて、あなたと暮したい≠セの、あたしを捨てたら自殺する≠セのと、不気味なことを口走るんです。
あたし、ほとほと困っています。
あなたが海外に出張中だというので、いま那須の旅館に来ています。
光江さんから、強引に誘われたんですの。
断ると、例の件を持ちだすでしょう? 本当に困ってしまいます。
いま、彼女は酔って熟睡しています。
それで気になるから、この手紙を書いているんです。
でも、その酔いっぷりが、尋常ではないので、あたし不安でたまりません。
強いウイスキーを、昨夜も、今夜も、ガブ飲みでした。
宿から一歩も、あたしを出させないし、湯に入るのも一緒です。
ホテル式の旅館なので、一日、閉じ籠って気が重いったら、ありません。
帰って来られたら、会社を辞めてもよいから、はっきりしましょう。このままでは、あたし達、駄目になります。
あなたは今夜あたり、シスコかしら?
明後日は会えるわね。
なにか心細いので、こんなセンチな手紙を書きました。
でも、あなた。本当に愛しているのは、あなただけなんですよ。信じて下さいね。
あなたの杏子より』
……手紙を一読、二読して、高瀬は、これは大変な手紙かも知れない、と思った。
なにやら、思わせぶりな文章である。
彼は、冷静に文意から、要点をかいつまんで、整理してみた。
第一にハッキリしていることは、杏子という女性が、野上春司という男性に宛てた手紙であり、どうやら二人は、夫婦らしいということである。
第二には、手紙を書いた本人が、光江という女性と旅行に来ており、その旅先で、相手の女性に殺されるのではないか……と不安感を抱いているということだ。
第三には、野上夫婦のあいだに、二年前あたりに、なにかが起り、それが田中≠ニいう人間に関連がある模様であること。
第四は、野上春司という男性が、おそらく商用で、アメリカへ旅行中であること。
大体、以上である。
ただ、謎《なぞ》として残るのは、手紙(と云えるものか、どうか判らないが。女性は、しばしば自分への鎮静剤として、手紙をしたためたりするものである。投函するか、否かは、この場合、問題ではない)の文面の中にある、例のこと≠ニいう文句だった。
そして次には、なぜ彼女が殺されるかも知れない≠ニ書きその理由は、お判りでしょう≠ニ明快に云い切っている点だ。
高瀬は、改めて手紙を読み返してみた。
そして、自分がある先入観から、もしかしたら誤謬《ごびゆう》を犯しているらしいことに、気づいたのである。
彼は、野上春司という一人の男性をめぐって、二人の女性が三角関係となり、その縺《もつ》れから可怪《おか》しくなった……と考えていたのだった。
それは、手紙の中に、主人と別れて、あなたと暮したい≠ニあるからである。
彼は、このあなた≠、野上春司だと解釈していたのだった。
でも逆に、そのあなた≠ェ、杏子だったらどうなるのか?
高瀬は、愕然となった。
彼は思いだしたのである、あの「こどもの日」に発見した同性心中の死体を――。
〈あの、ミニ・スカートの女性が、野上杏子だ!〉
彼の直感力は、そう閃いた。
なぜ、ハンドバッグが、ビニールの袋に包まれて、そんなところに捨てられてあったのかは判らない。
高瀬は、明朝早く、また警察へ出頭しなければならぬ、と思った。
新聞記者の生活は、配達された朝刊を読むことから始まる。
いま、高瀬は学芸部だが、社会部でサツ廻りをやらされている頃には、毎朝、他紙の第三面(社会面である)をひらく時、
〈どうか、特オチがありませんように!〉
と祈ったものだ。
特オチとは、記者用語で、特ダネを落すことである。
大体、自分の社の新聞を読むのは、一番あとであった。自分が、スクープした時には、別であるが――。
ところで、その朝も、彼は妻が枕許に置いて行った幾種類かの朝刊を、寝床の中で拡げて読んでいたが、ある記事を発見して、ギクリとなった。
……それは都内のマンションで、中年男の死体が発見されたという記事だった。
その記事によると、原宿にあるマンションで、犬がやたらと吠えるので、隣室の人々から苦情が出て、管理人が仕方なく部屋に入って行ったところ、借り主であるS商事の取締役営業部長の、田中栄次郎がベッドの中で死亡していた、という。
検死の結果、他殺と判断されたが、解剖をしないと死因は判らない。
ただ、彼の興味を惹いたのは、
『死体は、下腹部を鋭利な刃物で抉《えぐ》り取られ、妻の光江さん(四一)は、数日前から消息を絶ち、兄から捜索願いが出ている』
とあった一節である。
高瀬は、跳ね起きた。
S商事と云えば、日本の貿易商社の中でも五指に入る大会社だ。
そこの重役が、下腹部を抉り取られて死亡し、妻が行方不明となれば、大ニュースであった。
〈あれだ! あれに違いない!〉
彼の脳裏には、あの奇妙な心中死体が、グルグルと渦巻きはじめた。
高瀬は証拠品であるオーストリッチのハンドバッグを持つと、妻に、
「おい。社へ電話して、今日は出られないかも知れぬ、と云っておけ」
と云って車に乗った。
久し振りに、社会部記者時代の感覚が、甦《よみがえ》って来はじめている。
行先は、云わずと知れた那須だ。
二時間あまりで、警察へ着き、この前、調書をとった刑事に面会を求めた。
鎌田という中年の刑事である。
そして、その後の事件の模様をきくと、二人の素性は、未だに知れないと云う。
「しかし、パーキングのカードがあったんでしょう?」
彼は、ズバリと鎌田刑事に切りつけた。
「それが……東京からの、レンタ・カーでしてねえ。普通なら、免許証を預るとか、名前を控えるとか、するはずなんですが……」
鎌田は首を傾《かし》げて、
「あたしも、すぐ仏の身許は割れる、と楽観してたんですよ」
と苦笑した。
レンタ・カーを乗り廻しながら、どんな方法で身許を判らないように工作したのかは知らないが、現代とは複雑怪奇である。
「それで……死因は?」
彼は訊いた。
「一人は、服毒自殺です……」
薄いが、縮れた髪の毛を、掻き上げながら鎌田は答えた。
「すると……もう一人の方は?」
「それが、判らんのです」
「解剖したんでしょうね」
「はい。解剖したんですがね……一体、なんで死んだのか、訳がわからない」
「変ですな……」
「ここだけの話ですが、ポックリ病で死んだんで、同情心中ではないかと……」
鎌田は、ポケットから煙草を取り出した。
〈しかし、あの死体の状況は……〉
彼は、相手を見詰めて、
「前にも申し上げましたが、二人の下腹部には、なにやら変な筒がありましたね?」
と、強い口調で云った。
「ええ、ありました」
相手は、悪びれない。
「どうなってました?」
「……記事に、するんですか?」
刑事は、眉根を寄せた。
「記事には、しません。でも、聞きたいのですよ……」
「わかりました」
鎌田は、自分の机から事件の書類綴りを取って、彼に見せてくれた。
警察用語だから、かなり、いかめしい文句であるが、要約すると、二人を連結していたのは、長さ十五センチほどのホースに、真綿を丹念に巻きつけて、両端からコンドームをかぶせたものだった。
俗に云う千鳥≠ナある。
そして驚いたことに、服毒死と断定されたパンタロンの女の膣の中には、血まみれになった男根が奥深く挿入されていたという。
高瀬は、その記録をみて、
〈間違いない!〉
と思った。そして鎌田に、
「パンタロンの女性は、田中光江、四十一歳です。そして、ペニスを抉り取られたのは、彼女の夫である栄次郎という人物です」
と教えた。
相手は、唖然となり、
「どうして、それが!」
と叫んだ。
高瀬は、持参したバッグと、M紙の朝刊をとりだし、
「もう一方の女性は、野上杏子という女性だと思います」
と云い切ったのだった。
こうして同性心中の身許は確認された。
そして田中光江が、夫を殺害したあと、下腹部を抉り、親交のあった夫の部下の妻――野上杏子(三三)を誘って、那須へ旅行し、二泊したあと、無理心中を図ったらしい……という事件の全貌もわかりかけて来た。
しかし、田中栄次郎と、野上杏子が、どうして殺されたのか、その死因については、謎のままに残った。
S商事は、東京丸の内にある。
高瀬は、そのS商事の燃料第一課長をしている野上春司を、訪問してみた。
野上課長は、はっきり迷惑そうな表情で、彼を応接室に迎え入れ、
「妻のことだったら、ノーコメントです」
と頭から宣言した。
彼は、ニヤニヤしながら、
「いいえ、あなたのことで伺ったんです」
と云ってやった。
先ず、反応をみるためである。
「あたしのことを」
「……そうです」
「あたしが、なにか、しましたか?」
野上春司は云っている。
年齢は四十歳ぐらいだろう。
あまり美男子とは云えないが、髪はきちんと七・三にわけ、着ている洋服だって、高瀬よりも数倍の値段であろうことが、一目でわかる。
「実は、奥さんが亡くなられる時……あたしも、家族づれで那須へ行ってましてね」
「ははあ……」
「そう云えば、お判りでしょう。あなたは、奥さんの遺書を、お読みになったはずだ……」
「それは、慥《たし》かに――」
「あのハンドバッグを届けたのは、なにを隠そう、この私なんですよ?」
彼がそう極めつけるように云うと、流石《さすが》に相手の反応が変って来た。
なにか、眩しそうな目付になっている。
「記事には、しません。しかし、真相を知りたいのです」
高瀬は告げた。
「約束してくれますか?」
野上は彼を凝視した。真剣な眼差しであった。なにか怖い目の色でもあった。
「ペンにかけて、約束しましょう」
「わかりました。今夜……青山の社宅に、お越し願えませんか……」
相手は、そう云った。
夜七時――高瀬は、青山へ赴いた。
社宅とはいっても、七階建てのマンションである。
会社が建てたものだが、一、二階は商店街になっている。
彼は、ブランデーを一本買い、五階にある野上春司の部屋を訪れた。
野上は、すでに戻っていて、薄手のカーディガン姿で彼を迎え入れてくれる。
「先ず、酒を飲みましょう……。その方が、お互いにリラックスできる」
高瀬は提案した。
ビールを一人で飲んでいた野上には、むろん異存あろうはずもなかった。
持参したブランデーの栓をあけ、彼はオンザロックスで、野上はストレートで飲みながら、しばらく世間話をした。
野上は、今回の石油危機は、石油カルテルを握っているユダヤ人の陰謀のためで、アメリカが中国と日本の頭越しに和平外交を試みたことも、中ソの対立を深めるためだと云い、日本を孤立化させるためだったと云った。
野上は、S商事では、石油系統を専門に扱っているらしく、その観察も、なかなかに鋭く、参考になった。
たとえば――。
「アメリカには、二億人ぐらいの雑多な民族が犇《ひし》めいて生活してますが、このアメリカを支配しているのは、実は十パーセントにも満たないユダヤ資本なんですよ……。そして、この連中が世界を、将棋の駒《こま》を動かすみたいに、自由に操っている。キッシンジャーは、ユダヤ人ですからね。日本がドルを大量に持ち過ぎたので、なんとかしなければ危ないと思って、奴さんはソ連へ飛び、ある密約をしたんです。そしてアラブ紛争が起きた。その結果、石油危機の、ドル吐き出しの、日本国内における物価高が起きた……。連中の作戦は、成功したわけです」
「おそらく次は……中ソ紛争でしょうね。アメリカは、中国とも、ソ連とも握手してる。しかし、狙っている敵は、目下のところ資源の多い中国なんです。
なにしろ七億の民を抱えている。それに世界で二番目という広大な国土がある。誰だって、目をつけますよ。
その証拠に、アメリカは徹底して、極東軍事ラインを敷いている。韓国、日本、台湾、フィリッピン、ベトナム……と、ね。ソ連をけしかけて、中ソ戦争を起し、国連憲章をふりかざして仲介に入り、中国をドイツや、朝鮮のように分割して、ソ連とアメリカで分割統治する……なんて筋書が、もう出来ているんでしょうよ。
ニクソンなんて、いわば傀儡《かいらい》にすぎませんな……」
てな、調子である。
アメリカに駐在しただけあって、感覚はシャープであり、洞察力にもすぐれている。
しかし高瀬としては、そんな国際問題の講義を聞くために来たのではない。
いい加減のところを見計って、
「そろそろ、本題に入りましょう」
と彼は催促した。
すると、野上春司の顔に、思いなしか一種の苦渋と、ためらいの色が泛んだ。
「野上さん……いったい、なにがあったんですか?」
彼は訊いた。
野上は、しばらく答えなかった。そして、云い辛そうに、
「私が……田中部長に、つまらないことを云ったのが、いけなかったんです」
と呟いた。
……その頃、野上春司は、燃料第一課の主任であった。
ちょうど、三年前のことである。
外国からの客があって、それを接待したあと、野上は、田中部長と一緒になった。
「六本木にでも行かんか」
と部長が云い、
「お供しましょう」
と彼は応じた。
ここまでは、サラリーマンとしては、よくある姿である。
ところが、連れて行かれた小料理屋で、田中部長は意外なことを、彼に向かって告白しはじめたのだ。
「夫婦には、倦怠期というものが、あるそうだが……どうやら、わしも女房も、それに陥っているらしい」
と――。
野上は、単なる冗談だと思った。
田中部長は、当時四十五歳。いわば、働き盛りである。
「そんなこと、ないでしょう?」
と云うと、部長は深刻な表情で、
「わしの女房は、三十八歳だよ。男の味を覚えて、面白くてたまらない年齢だ……」
と答えた。そして沈痛に、
「ところが、他の女とは出来るのに、女房に接すると、どういうわけか、インポになる。それで光江は、カリカリしてな……」
と告げたのだった。
この時、野上春司が、くだらないアメリカ知識を披露しなかったら、あんな悲劇は起きなかったかも知れない。
だが、彼は云ってしまったのだ。
「アメリカには、倦怠期を切り抜ける手段として、スワッピングが流行してますよ」
と――。
田中部長は、すぐ喰いついて来た。
「スワッピング? なんだね、それは!」
「つまり、夫婦交換です」
「離婚して、再婚するのかい?」
「いいえ。籍はそのままで、合意の上で、二組の夫婦が、夫と妻を交換するんです」
「夫と、妻を交換する?」
「たとえば、私には杏子という妻がありますね?」
「……うむ」
「部長には、光江さんという奥さんが、いらっしゃる」
「うむ、うむ」
「四人で話し合って、納得したら、部長が私の妻を抱き、私が奥さんを抱くわけです」
「ふーむ?」
「目の前で、自分の妻が他人に抱かれて昂奮しているのを見ると、男なら誰だって、カーッとなるでしょう」
「なるほど、な」
「そこで選手交代して、本来の夫婦のセックスに入るわけです……」
彼は説明した。
すると、田中栄次郎は目を輝かして、いきなり、
「わしは、女房を説得できる自信はある!」
と云い、ついで声を潜めて、
「きみ……きみの奥さんを、なんとか説得してくれんかね?」
と、囁《ささや》いたのだった……。
この時から、悲劇は芽生えたのである。
流石に、野上はためらった。
お互いの夫婦のあいだに、子供はない。
しかし野上も、妻の杏子も、まだ若いのである。
だが、田中部長は、その夜の会話を執拗に覚えていて、彼の顔をみると人前でも、
「例の件……どうなってる? こちらは、オーケイなんだが?」
と云うのだった。
これには、参った。
あまり度重なるので、思いあまって彼は、妻の杏子に、実は、これこれなんだが……と打ち明けた。
彼と杏子は、ロスアンゼルスで知り合い、そして結婚した仲だ。
杏子は、
「二、三日、考えさせて!」
と云い、それから条件をつけた。
第一は、そのことが、彼の出世を約束するものであるなら――というわけだ。
第二は、事前にお見合いして、好きな人物であれば……ということ。
第三は、コンドームの使用だった。
数日後――二組の夫婦は見合いをした。
ホテルで食事し、ナイトクラブへ行って、別々のカップルで踊り続けた。
そして、杏子の返事は、承諾だった。
彼は、口惜《くや》しい反面、吻《ほ》ッとしたような気持になった。
正直に云って、彼は部長夫人に、好感を持てなかったのだ。
第一に、彼よりは年上である。
それに、ボーイッシュであった。声もハスキーだし、筋肉質である。
顔には雀斑《そばかす》があるし、反《そ》ッ歯《ぱ》だった。
次の日曜日、四人は有楽町のレストランで待ち合わせて、昼食をしたあと、ホテルへ行った。
最初なので、隣り合わせて二部屋をとり、交互に妻と夫を交換し合って、それぞれ別室に入る。
……これから先は、野上春司の体験にのみ頼らねばなるまい。
部長夫人――田中光江は、乳房も薄っぺらで、骨ばった体格であり、なにかギスギスした感じであった。
恥毛も疎《まば》らで、恥骨が角ばっている。
彼は、幻滅の悲哀を覚えた。
妻の杏子とは、肉体といい、容貌といい、雲泥《うんでい》の差である。
ベッドに入ったが、彼女は、じいーっと彫像のように、動かない。
「いいんですか?」
と、野上は、云った。
「どうぞ……」
光江は、冷たく応じた。
乳房を吸った。しかし、反応はない。
疎らな恥毛に触れる。
すると、イヤ、イヤというように、身を捩《よじ》って応《こた》える。
仕方なく、毛布を剥いで、下腹部に顔を埋めた。
すると、少しく反応があった。
結局は彼の唾液で潤して、それからインサートしたようなものであった。
二人が、性交を終え、別々にバスに入り、ロビーに降りて行っても、部長と妻の杏子とは、なかなか現われなかった。
十分……二十分経っても、現われない。
三十分ぐらい経つ頃には、野上はすっかりイライラして来た。
〈あの部長が、杏子の体の上に乗って、ぐい、ぐい腰を使っている!〉
そう思っただけで、彼は気が狂いそうな感じになる。
野上は、タバコを吸い付けては、すぐ消して、また吸いつけるという動作を、意識せずに繰り返した。
すると光江が、冷ややかに、
「よほど、奥さまを、愛してらっしゃるようですわね」
と云った。
その時、彼はついつい、云わずもがなのことを口走ったのである。
「むろんですよ。でも、このことは、部長の倦怠期を切り抜けるために、涙を呑んで承知したんですからね……」
と――。
この言葉が、どうやら後になって考えると田中光江の感情を歪めたらしい。
それは、野上は気づかなかったが、人間の性格を捻じ曲げる要素を、多分に含んだものだったのだ……。
プリズムを通すと、光線は、複雑な屈折を示す。
それと同じことで、彼の一言が、プリズムの役を果してしまったのである。
田中、野上の二夫婦のスワッピングは、第二回目から、原宿の田中部長のマンションで行われるようになった。
居間と寝室の、境のドアをあけ放ち、それぞれに性行為をもつ。
この時には、野上は昂奮した。
居間から、杏子が、
「ああ! あなた! あなた!」
と叫ぶ声が聞えてくる。
しかし、光江夫人の方は、無言で、微動だにしない。
「あなた! 来て! ああ!」
「もう駄目よ! あなた! 早く!」
その妻の叫び声を耳にしながら、不覚にも彼は射精していた。
そして若干、光江夫人の方にも、手応えはあった感じである。
第一、第三土曜日の夜、野上は妻を伴って部長宅を訪れるのが、習慣となった。
そして主任であった彼は、係長を飛び越えて、課長補佐の辞令を貰った。
田中部長の推輓《すいばん》によるものである。
二組の夫婦のスワッピングぶりは、刺戟を求めて、次第にエスカレートして行く。
居間のソファで、妻の杏子が部長とファックしているのを眺めながら、ジュウタンの上で光江夫人を自分の膝の上に乗せて、接吻し合うとか……。
光江夫人を四つん這いにさせて、ドッグ・スタイルで交媾しているのを、妻と部長とに観察させるだとか……。
最後は、夫婦同士で抱き合うのだが、まるで獣同士のような営みであった。
――ところで。
ここで一つの異変が起きた。
田中栄次郎が、会社の命令で、六ヵ月間の出張を命じられたことである。
S商事では、社の内規によって、一年以上なら妻子の同伴を認められるが、半年やそこいらでは、単身赴任であった。
部長の妻――光江夫人が、足繁く新しく建った青山の社宅に、通ってくるようになったのも当然だろう。
思うに、光江夫人には、レスビアンの傾向があったらしいのである。
野上春司の妻は、彼がセックスを求めると必ず、
「優しく、触って……」
とか、
「たっぷり舐めて……」
などと、要求するようになった。
また時には、夫婦の営みを、拒むこともあった。
「疲れているから――」
というのだが、その日は決まって、部長夫人のマンションを訪れた直後だった。
〈どうも、変だなア……〉
とは、思った。
しかし、人妻同士である。
野上は、大して気にかけなかった。
部長は、半年後に、ニューヨークから帰国して来て、取締役に就任し、野上も課長に昇進した。
田中部長は、
「きみ……例の遊びを復活しようじゃアないか……」
と云った。
妻の杏子は、
「あなたの出世のためなら――」
と快く応じたが、なぜか今度は、部長夫人の方が承知しない。
部長としては、光江夫人に性的な満足を与える起爆剤として、スワッピングの刺戟を求めているのだ。
ところが、夫人がイヤだというのでは、どうにもならなかった。
田中部長は、深刻な顔をして、
「きみには、内緒にしていたが……実は、きみの奥さんと、アレする時……わしは、コンドームをせずに、四回ばかりやって、精を洩らしたことがある……」
と告白した。
野上春司は愕然となった。
お互いに、コンドーム使用というのが、ルールだったからだ。
部長は顔を赧らめて、
「面目ない。きみの奥さんのアソコは、絶品じゃ。それで、ついつい、素肌で味を知りたくなって……」
と云う。
「それが、どうかしたんですか?」
野上は訊いた。
「わしは知らなかったが……奥さんは、妊娠したらしいんじゃ」
「ええッ!」
彼は、耳を疑った。
なにか脳天を、棍棒でガーンと、打ちのめされた感じだった。
〈知らなかった!〉
野上春司は、そう思った。
しかし、思い起してみれば、妻の杏子が部長の海外出張中に、二日ばかり加減がわるいと云って、寝ていたことがある。
〈なるほど、そうだったのか〉
彼は、低く唸った。
「わしの子供かも知れん。きみのタネだったかも知れぬ。しかし、奥さんは、思い余ってわしの女房に相談したらしいんじゃ……」
「ははあ……」
「それ以来、女房は、以前にもまして、わしに冷たく当るようになった。……きみ、なんとか説得してくれんか……」
人の妻を妊娠させ、そして堕胎させておいて、自分の女房を説得しろというのも、図々しい限りだが、野上春司としては、スワッピングをした以上、一蓮托生という感じの方が強い。
そこで、ある日、光江夫人に電話した。
彼は云った。
「私は、部長が妻を妊娠させたことを、別に怨んではいません。ですから、また楽しくゲームをしませんか……」
と――。
すると光江夫人は、即座にいった。
「あたし、主人が憎いんです! あたしには妊娠もさせてくれないくせに、杏子を妊ませるだなんて! あの人、愛情がないんだわ!」
と……。
それから言葉をついで、
「あたし、男とのセックスなんて、もう卒業しましたわ。どうでも、いいんです」
とも云った。
この時、野上春司が神経をよく配って、この捨て台詞《ぜりふ》を聞いていたならば、あの心中事件は未然に防止できたかも知れぬ。
……はっきり云っておこう。
スワッピングという異常な体験を通して、知り合った光江夫人と、妻の杏子とは、お互いの夫を通しての連帯感を持った。
そして、光江夫人は、自分の夫がニューヨークに滞在中、孤閨悶々として眠られず、野上の社宅を訪れる。
そして杏子の妊娠を知り、堕胎すべく医師まで紹介した。
彼女には、レスビアン的な趣味があった。
そこで光江夫人は、これを奇貨として、杏子を脅迫し、同性愛へと進行する。
これでは疲れ果てて、杏子が夫の愛撫を拒むはずであった。
男女の営みとは異なり、女同士の性愛には終末がない。
涯《はて》しない空のごとく、どこまでも、どこまでも続くのである。
それは飽くことのない、本能を剥き出しにした世界の営みだった。
杏子は、それから逃れたいと思い、夫の春司に、
――田中部長の子供を妊って、堕胎手術をした。
と告白した。
野上は、部長から告白されていたから、さほど愕かなかった。
だが、光江夫人は、意地になって、杏子を引き留めようと思い、二人の愛の交歓の有様を、録音テープに取って、勤務中の野上春司に電話して、それをとっくりと彼の耳に納めさせたのだった。
そして彼女は、いったのである。
「あたしは、もう、男なんか要《い》りません。あなたの奥さんで、満足なのよ」
と……。
だが、一方では、意外なことが、起きていたのである。
帰国後の田中部長は、やたらと彼を海外の出張に赴かせ、その留守のあいだ、彼の妻と愛欲にただれていたのだ。
これは、彼の知らぬことだった。
杏子は、田中部長に対しては、
〈夫の出世のため――〉
と思い、光江夫人に対しては、レスビアンの云うに云われぬ、あの恍惚のため、ずるずると引き込まれて、変則的な三角関係を、かたちづくって行くようになったのではないだろうか?
それが、悲劇の結果を招いたのである。
高瀬は、そんな野上春司の告白を聞き終えたあと、
「スワッピングが、夫婦の交情を深めるのに役立たず、裏目に出たんですな」
と云った。
それは素直な感想である。
「まあ、そうですね……」
野上は頷いて苦笑し、
「あたしが、莫迦だったんですよ……」
と呟いた。
「なぜ、ですか? そのお蔭で、あなたは三十代で燃料第一課長になれた!」
高瀬は、皮肉をこめて云った。
「たしかに、出世はしました。でも、妻はいません」
野上は、しょんぼりした口調で、そう告げてから、
「部長は、妻を好きになっていたようです」
と、ポツリと云った。
「そうでしょうな……。高価なプレゼントもあったようでしたし……」
高瀬は、同情する口調になる。
「杏子は、私という夫がありながら、田中部長とスワッピングではなく、一対一で浮気をしているという負い目を、感じていたのではないでしょうか……」
「かも知れませんね。そして、同性愛の関係にある光江夫人は、それを気づいて……」
「いえ、彼女は、子供をひどく欲しがっていました。だから部長が、ルールを破って、杏子を妊娠させたということに、物凄い嫉妬を覚えていたようですね」
「なるほど、なるほど」
高瀬が、相槌《あいづち》を打つと、
「光江夫人は、所詮は、杏子の肉体は愛しながら、やはり心の底では憎んでいたんでしょう。なにか、それを思うと、ゾーッとします」
と云った。
「自分には妊娠させないで、他人を妊娠させた……というので、彼女は旦那さんのペニスを抉り取ったのでしょうか」
高瀬がそう云うと、野上春司は気落ちしたように肯いて、
「部長のペニスが、よっぽど腹立たしかったのでしょう」
と云い、
「でなかったら、自分の夫のペニスを他人に渡すまいと、膣の中に納《しま》い込んだりはしないでしょう」
と苦笑した。
高瀬は、なにか不妊症の人妻の、そんな心情は、わかるような気がした。
また、レスビアンに走ってゆく、その気持も――。
光江夫人は、夫を憎み、杏子を憎んでいたのであろう。だから、夫を殺し、下腹部に傷を負わせ、そのあと杏子を旅に誘いだしたのだ。
そして杏子を殺し、二人を結びつける千鳥≠挿入し合って、服毒したのだろう。
高瀬は、ふッと思いついて、疑問になっている点をきいた。
「部長や、奥さんは、どうやって殺されたんでしょうか?」
と――。
すると野上春司は、首を垂れて、
「多分……青酸ガスだと思います」
と云った。
「えッ、青酸ガス?」
「そうです。ナチスが、ユダヤ人を虐殺したあの青酸ガスです。あれだと、数秒たらずに死亡して、痕跡は残りませんからね」
野上は、そう云って、
「光江夫人に、そのことを教えたのは、私なんです。だから、この私が、部長と杏子を殺したのも同然です……」
と拳をわななかせた。
高瀬は、スワッピングというものが、いま日本で流行しつつあることを知っている。
しかし、それは単なる倦怠期の切り抜け策ではなくて、もっと他に、別の毒素を含んだ芽があることを教えられたのだった……。
ケロイド心中
スパイク・タイヤの調子は上乗だった。
生まれて始めて、この北海道へ来て、スピンを打ったスノー・タイヤを使用してみたのだが、この調子なら、なんとか一週間ぐらいは過せそうだ……と筧《かけい》誠一は思った。
「どうだい、このあたりで?」
筧は、助手席で望遠レンズを重そうに抱いている児島《こじま》に声をかける。
「うん……もう、ちょいだな」
児島は駒ケ岳を凝視《ぎようし》して、彼の方を見ようともしない。
雪の北海道を撮影に来ているのであった。
駒ケ岳は、函館《はこだて》の北方――大沼国立公園の中央にある。
この駒ケ岳が噴火したとき、堰止《せきと》めたのが大沼、小沼と云う二つの沼で、冬季はスケート場や、氷の上のワカサギ釣りで賑わうところだ。
スケートや釣りは吹雪に関係なしに出来るが、風景の撮影となると、そうはゆかない。
カラリと晴れて呉れないと困るのだった。
幸い、その日は朝から快晴で、二人は車を駈って、雄大な駒ケ岳の姿を、フィルムに納めるべく走り廻っていたのである。
駒ケ岳は、不思議な山だった。
四方からの眺めで、姿を変えるからだ。
ある時には巍峨《ぎが》たる男性的な山容であり、ある時には優しい女体のごとく見えたりするのである。
二人は森《もり》の港で、明太魚《めんたい》の陸揚げを見学して、砂崎から沼尻を廻って来たところだったのだ。
「よし……そのあたりで駐めてよ」
児島は云った。
「ほい、来た!」
筧はブレーキを踏み込んだ。
あたり一面は雪である。
おそらく春から秋にかけては、畑になっているものと思われるが、雪野原の中に一本の道が走っているだけだった。
雪が深い故為《せい》か、車も通らない。
「本当に、筧ちゃんの云う通りだね。幾つもの顔をしてやがる」
児島は、長靴で雪を踏みかためると、望遠レンズを構えた。
筧も児島も、週刊誌の編集部員である。
児島はカメラマンで、筧の方は、そのグラビヤ担当であった。
二人がコンビを組んでから、早いもので、もう三年目になる。
たしかハワイでコンビを組んだのが、最初であった。
児島が仕事している間、彼は魔法瓶のコーヒーを、カップに注いで飲みはじめた。
ハンドルを握っていると、コーヒーも飲めない。
況《ま》して雪道では、煙草を吸うことも、覚束《おぼつか》ないのである。
筧誠一は、コーヒーを啜りながら、駒ケ岳と反対側の方向をみた。
雪原の上に黒い点が蝟集《いしゆう》している。
〈なんだろう?〉
彼は、カップを片手に車を降りた。
よく判らないが、黒い点々が飛びはねているところをみると、なにか生物であろう。
不図《ふと》、上方をみると、数羽の鳶《とび》が大きな輪を描いている。
「おい、児島ちゃん……」
彼はカメラマンを呼んだ。
「なんだよ……」
相手は、しきりにシャッターを鳴らしつづけている。
「ちょっと、変なんだよ……」
「なにが?」
カメラマンは振り向かなかった。
「あれ……あそこさ」
彼は指さした。
ようやく児島は振り向いて、
「え、あれ?」
と望遠レンズを向けた。
そして、つまらなさそうに、
「カラスだよ、カラス」
と教えたものだ。
「なぜ、あんな雪の上に、カラスが何十羽も固まってんだい?」
筧誠一は訊いた。
「そう云えば、変だな……」
児島は、道の端に佇《たたず》んで、望遠レンズを覗いていたが、
「おい……ハンドバッグが見えるぞ」
と不意に云った。
「えッ、ハンドバッグだって?」
「うん……あれはズボンかな……とにかく、誰か寝てるんだ」
カメラマンはそう云い、
「あッ!」
と大声で叫んだ。
「カラスがあれだけ集ってて、誰かが寝てるもないもんだ……」
筧は紙カップを雪に叩きつけた。
「そうだ……行き倒れか、なにかだぞ?」
そう云うと児島は、駈け出している。
膝までズブズブ入り込む雪であった。
二人が近づく気配を知って、数十羽のカラスが、羽音も凄まじく舞い上ってゆく。
筧も児島も、五|米《メートル》近くまで辿《たど》りついて、それからは釘づけになったように、雪の中で動けなくなった。
息を嚥《の》んだまま、口も利けなかった――と云った方が正確だろうか。
……ややあって、筧が、
「心中だな」
と呻《うめ》くように呟いた。
「うん……抱き合って、死んでる」
児島が歯をガチガチ鳴らして叫んだ。
「眼球が、ない」
筧は震え声で呟く。
「耳朶《みみたぶ》もないぞ……」
と児島カメラマン。
「どうしよう?」
筧は、云った。
「どうしようって、警察へ知らせなければ、ならんのだろう?」
児島は、泣きださん許《ばか》りの表情である。
男女が、抱きあって横に倒れている。
手前が女で、向こう側が男だった。
それは判るのだが、顔がなんとも凄まじいのである。
大袈裟に云うと、シャレコウベだった。
髪の毛だけ附着したミイラの顔だった。
「とにかく、知らせよう……」
児島は、体の向きを変えようとして、尻餅をつくと、ウヒャア! というような奇声を発して、両手を使って逃げだした。
むろん筧もあとを追ったが、車のある位置までが、恐ろしく遠く感じられたことだ。
……雪の中で発見された男女の死体は、さっそく警察署に移された。
医師の推定では、死後二日|乃至《ないし》三日であろうと云うことだった。
男女とも首から下は損傷はなかったが、男は左顔面、女は右顔面をカラスや鳶の鋭い嘴《くちばし》で引き裂かれ、肉や眼球を抉《えぐ》り取られていて惨澹《さんたん》たる有様で、二目とみられない。
そして正常な顔半分には、どういうわけか二人とも醜いケロイド状の瘢痕《はんこん》があって、生存中の容貌が殆んど推測できないのだった。
つまり二人は、醜いケロイドの顔半分――男は右側、女は左側を下にして、抱き合い心中を遂げたものと思われる。
二人が覚悟の自殺であることは、女のバッグの中に睡眠薬の空瓶があり、頭の近くにコーラとウイスキー瓶とが散乱していたことでも判った。
その上、二人はお互いの足首を縛り合い、左手と右手を固く握りしめ合っていたのだ。
誰の目にも、心中であった。
ただ、身許が判らなかった。
男は背広のネームも、洋服屋のネームも、綺麗に切り取ってある。
女のバッグの中にも、氏名を知る手がかりは何一つ残されていなかった。
だから遺留品《いりゆうひん》として残った男のマフラー、オーバー、背広、ネクタイ、ワイシャツ、下着、短靴などと、女の方も同じような衣類だけが手懸《てがか》りである。
あとは、男女の数本の歯の金冠、肉体的な特徴しかない。
……筧誠一と児島とは、そんな新聞の報道を読んで、ちょっぴり首を傾《かし》げた。
心中する者が、名前を隠すケースは先ずなかったからだ。
犯罪者ならイザ知らず、心中者は十人が十人、住所氏名を記し、それに遺書を残してゆくものなのである。
「まさか、他殺じゃあないだろうなあ」
筧は云った。
「ちょっと警察を覗いて、解剖の結果を聞いてゆくか」
児島も云った。
こういう時、週刊誌記者の肩書は、なにかと便利である。
解剖の結果は、明らかに睡眠薬による中毒死であり、死後五十四、五時間くらい、と云うことだった。
そして女性の方が、妊娠六ヵ月であったことも教えて呉れた。
「妊娠したので邪恋を清算……と云うところかな?」
と児島が云った。
「しかし、子供を堕《お》ろす手段は、いくらでもあるぜ?」
筧誠一は反駁《はんばく》した。
男女の年齢は、男は四十前後、女は三十五ぐらいと云うことである。
「とにかく、男も女も、ケロイドの顔をもってましてねえ。反対側をカラスにやられたのなら、助かるんだが」
担当の刑事は残念そうだった。
「それで、持ち物は?」
児島は訊いた。
「持ち物は、雪に濡れただけですから、大丈夫、保管できています」
刑事は云った。
「ちょっと、見せて頂けませんか」
児島は図々しく訊いている。
刑事は、二人が発見者と云うことで、なにか手懸りでも掴めると思ったのか、
「どうぞ、どうぞ――」
と別室に案内して呉れた。
児島は、その別室に入り、グリーンの女物のコートと、黒のレースのショールを見るなり、
「あッ! あの時の女だ!」
と叫んだ。
「えッ、あの時の女?」
筧と刑事とは、顔を見合わせた。
児島は、もどかしそうに、
「ほら……定山渓《じようざんけい》のホテルで……」
と云った。
筧は、女の服装に関心がない方である。
だから、児島からそう云われても、咄嗟《とつさ》には思い当らなかった。
その点、児島はカメラマンだけあって、目は鋭い。
「そら……ホテルの玄関で、タクシーは違うが、一緒になった女がいたじゃないか……新品の膝の上まである長靴を履いて……」
「ふーん? そうだったかなあ」
筧は首をひねっている。
「女が、この黒のレースを、やけに深く顔にかぶっていたから、覚えているのさ……」
児島は教えた。
そう云われてみると、なんだか、そんな女客にホテルの玄関で一緒になったような気もしてくる。
「定山渓の、なんと云うホテルで?」
刑事は色めき立った。
児島は警察を出ると、
「筧ちゃん。悪いけど、中山峠を廻って、定山渓へ戻って呉れないか……」
と云ったものだ。
「なにするんだい?」
と訊くと、
「うん……どうも気になるんだよ」
と児島は呟き、
「あの二人……夜っぴて、俺たちを悩ましたカップルじゃないかと思うんだ」
と告げたのである。
夜っぴて二人を悩ましたカップル。
それなら筧にも大いに怨《うら》みがあるのだ。
……それは二人が夕食をとっている頃から始まった。
はじめ、あまり時間が早いので、二人は夫婦喧嘩かと思った位である。
先ず女の泣き叫ぶような声が聞え、それは瞬時にして熄《や》んだ。
男が女を殴るとか、抓《つね》るとかして、折檻《せつかん》しているような感じであった。
「夫婦喧嘩か?」
ビールを呷《あお》りながら児島が云った。
「いや、痴話喧嘩さ」
筧誠一は応じた。
本当に喧嘩だと思ったのである。
ところが、女の泣き声は次第に大きく、金属的なものにと変って行った。
「ヒイーッ!」
と叫んだかと思うと、
「あうッ! あッ、あッ、あッ!」
という言葉に変化する。
また、
「ああ! 虐《いじ》めないで!」
「死んじゃう!」
などと云う言葉も、途切れ途切れに入って来るのであった。
……こうなったら、その女の悲鳴が、喧嘩ではないことが歴然として来る。
二人は、どちらからともなく顔を見合わせて、苦笑し、
「自棄《やけ》に派手だな!」
「こんな宵の内から、畜生め!」
などと語り合ったことである。
夕食が済んでも、まだ女の悲鳴は終ることを知らなかった。
二人は向かっ腹を立て、ホテルの外へ飲みに出たものだ。
そうして、良い加減酔っぱらって、部屋に戻り、耳を澄ますと、
「あッ! あッ! あ……」
という低い女の叫び声が、微《かす》かに聞えているではないか。
「畜生! 二回戦か!」
と筧は云った。
「寝よう、寝よう!」
と児島が提案し、ベッドに入ったが、壁をへだてて隣りから聞えて来る女の嬌声《きようせい》は、ますます酷《ひど》くなって行くのだった。
二人とも寝つかれず、筧の方はベッドに胡坐《あぐら》をかき、児島は腹這いになって、タバコを吸いながら男女の狂宴の終焉《しゆうえん》を待った。
午後十一時ごろから、なんと午前一時ごろまで、それは続いたのである。
二人が頭に来たのも当然だろう。
やっと寝入り、うとうとしたと思う間もなく、また女の嬌声である。
筧は、その声を暗闇の中で聞きながら、自涜《じとく》せずには居れなかった。
それほど、凄まじかったのだ。
筧は一回の放出を終えると、眠りについたが、児島の話では、明け方にも女の泣き声を耳にしたと云う。
なんと一晩に四回である。
普通の男女では、ちょっと考えられない回数であり、我を忘れ、恥も外聞もかなぐり捨てた男と女の、いや、獣と獣の咆哮《ほうこう》だったのだ……。
児島カメラマンは、定山渓まで引き返し、心中した男女が、五日前の夜、どこに部屋をとったか、確認しようと云うのであった。
彼の言によれば、心中する男女の多くは、死の恐怖を忘れるためか、夜っぴて獣行為に耽《ふけ》るのだそうである。
「……驚いた」
筧誠一は云った。
児島の勘は、適中していたのだ。
グリーンのコートに、黒レースのショールをかぶり、長い靴を履いた女性は、たしかに五日前の夜、二人が泊った部屋の隣りに、宿泊していたのである。
名前は――男が佐村隆男。女は、妻・芳子と宿帳に記帳してあった。
住所は、東京都西久留米市である。
職業は男がサラリーマン、女が保母と記入してある。
年齢は書いてない。
「むろん、変名だろうな」
児島は云った。
洋服のネームを引きちぎるような男女が、本名を書く道理がないからである。
「なるほど……心中する決心だから、一日中セックスしてたのか」
筧誠一は苦笑した。
「だろうな」
児島は肯いて、
「男女とも顔にケロイドがある……そして女は妊娠六ヵ月……一体、なぜ、身許をかくして心中したんだろうな」
と云った。
云われてみると、その通りである。
まるっきり原因がわからない。
しかし、そうなると筧誠一には、むかし特集記事を追いかけ廻していた時の、いわゆる取材記者魂がムラムラと湧いて来た。
原因がわからない物を、取材して追い詰め真相を明らかにする時の醍醐味《だいごみ》が、ふッと湧き起ったのである。
「調べて、みるか」
筧誠一は何気なく云った。
「うん、いいね」
児島はニヤリとして、
「案外、四頁ぐらいにはゆけるかも、ね」
と云ったのだった。
つまり四頁組みの特集記事になるかも知れない、と云っているのだ。
筧は、児島に頼んで、宿帳の筆蹟をフィルムに納めておいて貰った。
なにかの時に、役立つかも知れない、と考えたのだった。
たとえ偽名であっても、筆蹟――つまり字の癖はなかなか脱却できないからである。
このハプニングな事件のために、二人のスケジュールは、すっかり狂った。
いや、狂わざるを得なかったのだ。
定山渓のそのホテルで、フロント係や従業員からきいた話を総合すると、次の通りである。
部屋の予約は、旅行社を通じて、年末に既にしてあった。
予約申込者の名は、宿帳に記入したのと同じく佐村≠ナある。
三泊の予定だったが、二泊して二人は何故かホテルを引き払っている。
筧と児島が悩まされたのは、どうやら、その二泊目の夜だったらしい。
筧誠一は、部屋に案内したボーイに、
「二人の持ち物は?」
と訊いた。
「外国人がよく持っている、大型のトランクが一個、あとは奥さまのバッグだけです」
ボーイは答えた。
トランクは重く、
〈本でも入れてあるのかな?〉
と思ったと云う。
部屋係のメイドは、
「お泊りの間、お二人は部屋から一歩も外へ出られず、お食事も、お部屋の方へお運びしました」と証言した。
出発の朝、コーヒーと果物が欲しい、と云う注文があったので、メイドが早速、運んでゆくと、佐村隆男≠ヘ、
「いろいろと有難う。達者で暮しなさい」
と云って、五千円のチップを呉れた。
あまりに大きな金額なので、辞退すると、
「いいんだよ。もう金は要らないんだ」
と云ったのだそうだ。
「……あたし、変なこと、云う人だなあッて思ったんですよ」
部屋係のメイドは云った。
五日前の夜に、筧たちは佐村夫婦≠フ凄まじい愛歓の声を聞いている。
そして二人は、四日前の朝――十一時ごろに、タクシーを呼んで出発したのだった。
「そのタクシー会社は?」
児島が訊いた。
フロント係が、すぐ会社の名前を、そしてドア・ボーイが、岩城という運転手の名前を教えて呉れた。
電話で問い合わせてみると、岩城運転手は札幌へ行っていて、いつ戻るか見当もつかないと云う。
〈岩城運転手にきけば、少しは事情がわかるかな?〉
と筧は判断した。
死後五十四、五時間ということから逆算してゆくと、定山渓に二泊した翌日の真夜中に二人は睡眠薬を嚥《の》んだことになるのだ。
つまり、定山渓を出て、二人は岩城運転手のタクシーで死の現場近くまで、送って貰ったことになるのであった。
筧たちは、ホテルに部屋をとって貰い、その日は泊ることに決め、部屋係のメイドを呼んで質問攻めにした。
二人が、二日間をどのように過していたかを、知るためである。
「僕たち……隣りに泊っていて、宵の内から凄い声に悩まされたんだけど、きみは聞かなかったかい?」
筧誠一は、先ず、そんなくだけた質問の矢を放つ。
メイドは苦笑して、
「私も結婚しておりますから、多少の分別はございます。私は聞かぬふりをしておりましたが、夜中に廊下をウロウロされる泊りのお客さまがいたのは、事実でございます」
と答えた。
「部屋に食事を運ぶと、二人はどうしていたね?」
「そうですね。ドアをノックしますと、奥さまは直ぐ浴室へ入られるらしくて、一度もお姿を見かけませんでした」
「シーツの取り替えや、掃除は?」
「構わないから、と仰有って断られました」
「でも、ゴミ位は捨てるだろう?」
「はい。一度だけ……」
「そのゴミは、あれかい……あのあとの、チリ紙ばかりかい?」
カメラマンの児島は、ニヤニヤしながら云った。
メイドは首をふり、
「いいえ、なにか書きかけの便箋を破ったような、紙クズばかりでした」
と云った。
〈ふーむ、遺書でも書いたのかな?〉
筧はそう思った。
メイドの話だと、女は自分のケロイドの顔を、他人に見られるのを酷《ひど》く嫌がっていたようで、ホテルを出る時も、黒のレースのショールを頭からかぶり、左の顔面を隠していたそうだ。
そして男は、必ず彼女の左手を歩いて、カバーしてやっている感じだったと云う。
しかし男の方は、自分の顔の傷を、隠そうとしていない。
〈よっぽど醜い顔だったのかなあ〉
筧誠一は首を傾《かし》げた。
ところで、タクシーの岩城運転手に会えたのは、その日の夜九時ごろである。
岩城の方から、わざわざホテルへ雪の中を訪ねて来て呉れたのであった。
岩城は、五十歳ぐらいの朴訥《ぼくとつ》そうな人物である。
「いやね……この間、乗せたお客が、駒ケ岳で心中したって聞いたもんでね、びっくらして飛んで来たスよ……」
岩城運転手はそう云い、
「やっぱり、なあ……」
と呟いたのだ。
筧誠一は、そのやっぱりと云う言葉に、すぐ喰いついた。
「なぜ、やっぱりなんですか?」
そう云ってみると、岩城は、首をひねり、
「いや……なんちゅうか、死ぬんじゃないのかなあ、と云う気がしてたんです」
と答えたものだ。
岩城は、若いころ、兵隊にとられて、中国大陸で敗戦を迎えたが、その時分に、なぜか奇妙な体験をした。
健康そうな戦友の顔が、鏡に写ったのを見て、
〈あ、死神がいる!〉
と思い、
「おい、気をつけろよ……」
と何気なく注意したところ、翌日、トラックを運転していて敵の地雷原に突込み、その戦友は爆死した。
上官が髭を剃っているので、湯を持って行ったところ、上官の顔が鏡に写っていない。
ビックリして洗面器を落し、上官からブン殴られたが、その上官はピー屋へ出かけた帰り、なに者かに襲われて連れ去られ、三日後に山の中で死体となって発見された……。
岩城は、そんな若い頃の奇妙な体験を語ったあと、
「あのお客さん達……大沼へ行きたいと仰有るんで、後部トランクに荷物を入れて、すぐスタートしたんですがね……」
と話しだしたのである。
定山渓から大沼公園にゆくには、中山峠を越え、洞爺湖から礼文華峠《れぶんげとうげ》を抜けて、内浦湾沿いに走ってゆけばよい。
女は岩城運転手の背後に坐り、隣りに座った男の肩に黒レースのショールで包んだ左顔面を押しつけるようにしていた。
男の方も、女の方も口をきかない。
中山峠を下りはじめた時、岩城運転手はたまりかねて、
「北海道は始めてですか?」
と訊いた。
すると男は、
「うん、まアね……」
と云う曖昧《あいまい》な返事をした。
「冬の北海道は、寒いでしょう」
と訊くと、これまた、
「うん、まアね」
という返事である。
「大沼はお泊りですか?」
と質問すると、また同じ返事だった。
これには、岩城運転手も肚を立てて、
〈こん畜生め!〉
と思い、バック・ミラーを覗き込んだ。
ところが、男の肩に顔を凭《もた》せかけている筈の女の顔が見えない。
流石《さすが》に、はッ! となって振り向くと、女の顔はある。
〈気の故為《せい》かな?〉
と思い直し、もう一度、バック・ミラーを掬《すく》い上げて見ると、今度は、男の顔が消えていた。
それで岩城は、戦場での不愉快な記憶を呼び醒まされて、背筋に水でもかけられたようにゾーッとなる一方、
〈この二人……事故か、なにかで死ぬんじゃないかな?〉
と思ったのだそうである。
長万部《おしやまんべ》を過ぎたところで、男が、
「大沼の傍に、温泉があったね」
と云った。
「ああ、留《とめ》の湯ですか」
岩城は答えた。
「そう。そこへやって呉れない?」
男が云った。
車中で交わされた会話は、ただそれだけである。
留の湯の宿の前で、二人は降りた。
荷物を出してやると、料金のほかに、二千円のチップを呉れて、
「お大事に、ね」
と男は云った。
岩城は、バック・ミラーのことを思い出しながら、
「お客さんも、どうか……」
と挨拶を返した。
すると、女の方が淋しそうな微笑を泛《うか》べ、
「さようなら……」
と云ったと云う。
「あたしの知っているのは、ただ、それだけなんですがね……」
岩城運転手はそう語って、
「やっぱり、死神が憑《つ》いてたんだなあ、あの二人……」
と憮然《ぶぜん》として呟く。
「その留の湯の宿の名は?」
筧誠一は訊いた。
「さあ……名は忘れましたが、行けば直ぐ判りますよ」
岩城はそう云って、実直そうな笑顔になりゆっくり立ち上った。
「いろいろと、有難う」
筧は礼を云ってから、
「途中で休憩するとか、手紙を出すとか、そう云うことはありませんでしたか?」
と思いついて質問した。
運転手は首をふり、
「ありませんでしたね」
と云った。
岩城が帰ったあと、筧は東京の編集長の自宅へ電話を入れた。
編集長は留守だったが、ある心中事件を追って、数日間行動することだけは、伝言して貰えたのである。
筧と児島とは話し合って、明日は早くホテルを飛び出し、先ず留の湯の宿を訪《おとの》うてみることを決めた。
佐村隆男・芳子≠フ二人が、心中行に出かける寸前の消息を知るには、それ以外にないからである。
そして若しかしたら、宿に遺品となった大型トランクがあるかも知れない……と考えたのであった。
留の湯の宿へ行ってみると、すでに警察が訪れ、事情聴取したあと、証拠として遺留品のトランクを押収して帰った直後である。
流石に、警察であった。
あとで聞くと、駒ケ岳の麓で、他国者が手ぶらで心中する筈がないとみて、附近の温泉宿を聞き込みに歩き、
――函館へ出てくるから。
と云った儘、数日間、帰らないアベック客がいることをキャッチしたのだった。
二人は、宿を出るとき、
「函館に四、五日泊って、また戻って来ますから、荷物は預っていて下さい」
と云い、小雪の舞う中を、自信たっぷりな足取りで踏み出して行ったと云う。
宿の者は、引き留めた。
夜道だし、大雪になりそうな気配だったからだ。
しかし、男の方は、
「いや、迎えが来ていますから」
と云い、引き留めるのを振り切るようにして、出て行ったのだった。
そのあと、二人が近くの雑貨屋で、コーラを買ったことだけは判明している。
筧と児島は、函館へ向かった。
遺留品のトランクから、遺書でも出て来たのではないか、と考えたからである。
ところが、結果としては失望であった。
大型トランクの中から出て来たのは、二人の衣類と、洗面道具、それに印刷用の紙型だけだったと云う。
紙型と云うのは、活字を組み、鉛版を鋳込《いこ》むための型紙のことだ。
つまり特殊な紙を貼り合わせた紙型用紙を組版に押しつけて型をとり、これに活字合金を鋳込むわけだ。
商売柄、筧には印刷用の紙型ときいて、ピンと来るものがあった。
「ちょっと、見せて頂けませんか」
と係官に頼むと、
「なにか、小説みたいな感じですよ……」
と云いながら、別室に案内して呉れた。
筧は、その紙型を手にとり、第一頁を探して読みはじめた。
係官が云うようにB6判で印刷するつもりの、小説の書き下しのようであった。
印刷しようとする、と云うのは、その紙型にまだ活字合金が流された形跡がないからである。
つまり、印刷前の紙型なのだ。
第一頁には、
『歪《ゆが》んだ恋の物語』
という標題と、
『佐藤隆夫』
という作者名があった。
〈ふーむ! 死んだ男の名に、似ているじゃないか!〉
佐村隆男と、佐藤隆夫。
どう考えても、同一人としか思えない。
第二頁には、
『第一章 発端』
と云う見出しがあり、
『それは、空が途方もなく青く澄み切った夏の朝のことであった……』
という書き出しの文章が続いている。
筧誠一は、第三頁まで辛抱して読んだが、なにか平和な家庭の朝餉《あさげ》の模様が、くどくどと描いてあるだけで、読むものを引きずり込む力がない。
ただ朝餉が、粥《かゆ》であることが、ちょっぴり気になっただけである。
しかし貧しい地方では、今日でも、朝夕を粥で済ませるとか聞いている。
だから、筧は三頁まで……つまり第一章の書き出しを読んだだけで、抛《ほう》り出してしまったのだった。
ただ二百頁を越えるその紙型が、なぜそのトランクに納められていたのかは、大いに興味があった。
筧は云った。
「死んだあの男は、出版社に勤務していたのかも知れないな……」
と――。
「なぜ、そう思うんだい?」
児島は訊いた。
「だって、印刷寸前の紙型を、こうやって大切そうに持っているじゃあないか」
「紙型は、印刷所の人間だって、持ち出せるぜ?」
「うん……そりゃあそうだが、印刷会社の人間が、紙型を持ち出すのは、よくよくの場合だぜ? たとえば、取引していた出版社が倒産するとか、さ」
「差し押えかい?」
「うん……紙型というのは、再版のための保存用的な役目もあるからね」
「しかし、この〈歪んだ恋の物語〉は、印刷されてない」
「だからさ……出版社に勤めていた人間が、なにか勤め先に、よからぬ感情を抱いて、印刷寸前の紙型を持ち出し、最後の復讐をした……と云うのは、どうだい?」
筧誠一は笑った。
「だが、単行本だろう?」
児島は云った。
「うん……紙型で十四枚あるから、二百二十四頁かな」
「いや、頁数のことじゃあない」
カメラマンは首をふって、
「単行本てえのは、初版せいぜい二、三千部じゃないのかい?」
と云った。
「それでも、再版のために、紙型はとっておくさ」
筧は教えた。
「そうか。俺は十万部以上じゃないと、輪転機にかけないから、紙型は要らないのかと思ってた」
児島は頭を掻いて、苦笑している。
「つまり、この紙型はだな……〈歪んだ恋の物語〉という単行本を印刷する目的で、つくられたもの……と考えてよいわけだろう?」
筧誠一は、考え考え云った。
「そう云うことだな」
カメラマンは肯いている。
「先ず、心中した男の方が、この作者である佐藤隆夫と考えよう」
「……うむ」
「彼は、恋をした……しかも、歪んだ恋を、だ……」
「なるほど、私小説と云う訳か」
「それを小説に書き、上梓《じようし》寸前……と云う時に、なにか予想しないことが起きた」
「相手を妊娠させたことかい?」
「それもあるだろうが、心中した芳子≠ニ云う女性が、たとえば上司のワイフか、なにかでさ……姦通していることがバレて、出版を中止せざるを得なくなった……」
「ふーん、なるほど」
「それで二人は、手に手をとって心中行と来たが、なんとしても自分の作品には、未練がある。それで、トランクの中に納《しま》い込んで、やって来た……」
「しかし、佐藤隆夫じゃなかったら、どうなるんだい?」
児島は反論した。
「うーん……それだ」
筧誠一は頭を掻いて、
「なぜ、この紙型にこだわるのか、わからないなあ……」
と呟くよりなかった。
不愉快なものなら、焼き捨てるなり、沼に投げ込むなりすればよいのだ。
にも拘《かかわ》らず、最後まで持ち歩き、宿にすら嘘をついて残している。
刑事たちも、その点がよく判らぬらしく、盛んに首をひねっていた。
……結局、心中者たちの身許は判明しないで終った。
児島カメラマンと、筧誠一は、また撮影の仕事に戻って、予定より三日遅れて、東京に戻ったものだ。
ところが、帰京した翌日、思いがけないことから、その心中した男の方の手がかりが掴《つか》めたのだから、世の中は面白い。
……それは、筧誠一が編集部の同僚と、神田の大衆酒場へ行き、焼鳥を肴に、一杯やっている時に、なにげなく彼が、その北海道の事件を同僚に打ちあけたことから起きた。
その仲間の名は、香川と云うのだが、筧誠一が白一色の大雪原で、不吉な烏が群がっていて、心中死体の眼球や顔の肉を毟《むし》り喰っていた……と云うショッキングな話をした時には、さほど感情を示さなかったのに、彼が〈歪んだ恋の物語〉の作者、つまり佐藤隆夫の名前を出すと、不意に、
「なに、佐藤隆夫?」
と目を光らせ、
「その男の名なら、知ってるぜ……」
と云ったのだった。
「えッ、知ってる?」
彼は駭《おどろ》いて叫んだ。
「ああ、知ってる。ときどき、文学雑誌の同人雑誌評で、とりあげられている男だよ」
香川は、こともなげに教えて呉れた。
「ふーん。佐藤隆夫だぜ?」
彼は、字を書いて示した。
「うん、その通り……。たしか〈物情騒然〉の同人だよ」
香川は、大きく肯いた。
きいてみると、香川も、ある文学同人誌に関係しており、年に一作か二作、カミュばりの小説を発表しているが、一度も同人雑誌評で取り上げられたことはない。
しかし、〈物情騒然〉の同人である佐藤隆夫≠ヘ、香川によると、このところパッとしないが、五年前は文学賞の候補になったこともあると云うのだった。
〈ふーむ!〉
筧誠一は、酒場を出たところで、香川と別れると、会社に戻って、資料室に駈け込んだものだ。
そして、五年前の新聞の縮刷版の頁を繰《く》ってみた。
なるほど、間違いなく佐藤隆夫≠ェ、同人雑誌〈物情騒然〉に掲載した小説〈あわれ吾妹《わぎも》よ〉が、文学賞の候補作品となったことが報ぜられている。
彼は、その年の純文学雑誌を探し、選考委員たちの寸評を読んだ。
五人の委員たちは、〈あわれ吾妹よ〉について、次のように述べていた。
A氏――原爆のケロイドのため、婚期を失った姉の姿を描いた〈あわれ吾妹よ〉は、作品の狙いはよいが、あまりにも描き方が暗く感心できなかった。題名も一考を要す。
B氏――私は〈あわれ吾妹よ〉の、これでもか、これでもかと、お泪《なみだ》頂戴を狙ったようなストーリーと文体には共感できない。
C氏――私は、当選作と、この〈あわれ吾妹よ〉しかないと思っていた。ところが作品が暗く、イージイすぎるというので、真ッ先に落されてしまった。しかし私は、こう云う原爆の傷痕の描き方があってもよいと思う。暗いのは当然ではないのか。
D氏――〈あわれ吾妹よ〉の作者は、ときどき同人雑誌で名前にお目にかかる方ですが、候補作品は、いつもより出来栄えが劣っているように思われました。私は、この作者の小説を三つか四つ読んでいますが、リリシズムが掻き消え、突如として陰惨《いんさん》になったのは、どう云うわけなのでしょうか。
E氏――題名からして気に喰わない。大時代的である。こう云った種類の小説は、もっと筆をおさえて、対象を鋭く見詰めながら肉迫しなければならんと思う。
……つまり、五人のうち、佐藤隆夫の〈あわれ吾妹よ〉を推したのは、C氏――船田耕吉だけ、ということであった。
しかし、筧誠一には、その五人の選考委員の批評から、大いに得るところがあったのである。
第一に、あの心中した男女のケロイドは、原爆によるものではないのか、と云うことである。
第二に、あの紙型の小説――〈歪んだ恋の物語〉の作者は、紛《まぎ》れもなく〈あわれ吾妹よ〉の作者、つまり佐藤隆夫らしいと云うことだ。
次に、若し心中した男が、佐藤隆夫だとしたら、相手の女性の身許もハッキリしてくる、というメドが立つ。
そうなれば、心中の原因がわかるのではないか……と筧は考えたのだ。
翌日、彼は、その文学賞を取り扱っている出版社を訪ねて、担当者に会った。
〈あわれ吾妹よ〉という五年前の候補作品を読みたい、また佐藤隆夫≠フ住所を知りたい……と云うのが、彼の用件である。
〈あわれ吾妹よ〉のコピーは貰えたが、佐藤隆夫の住所は判らず、〈物情騒然〉の発行所は教えて貰えた。
発行所は、東村山市である。
主宰者は、林田と云う人物で、戦後、文芸時評で鳴らした男であった。
電車の中で、彼は〈あわれ吾妹よ〉という作品を読んだ。
批評してある如く、暗く、陰惨な小説であった。
ストーリーは、私小説風な文体で、展開している。
弟の目から、ヒロインの姉の生い立ちを眺めたもので、弟が物心ついた時、すでにヒロインは、原爆のケロイドのために、無残な容貌であった。
弟は、それを知らず、同級生たちと、お化け、お化けと云って姉を揶揄《からか》う。
貧乏のために、姉は顔の整形手術もできずに、とうとうピカソの描くところの歪んだ醜い顔で思春期を迎える。
父が死に、母は若い男と逃げ、幼い弟と二人きりになった姉は、昼間は工場で働き、夜は内職をしながら弟を高校に通わせた。
むろん浮いた噂一つすら立たない。それは醜い容貌のためだ。
その姉が、恋に陥ち入る。
相手は、背の曲った中年男だった。
弟は、姉の恋人を、ノートルダムのせむし男の名をとって、カシモドと渾名《あだな》する。
姉とカシモドの恋は進行するが、貧乏のため結婚できない。
しかし、姉は妊娠してしまう。
弟は反対するが、姉は反対を押し切って子供を産む。
生まれた子供は、産婆がギョッとなったほどの奇形児《きけいじ》であった。
カシモドは逃げ、姉は気が狂ってしまう。
弟は、姉と奇形児の赤ん坊を殺し、警察に自首して出る。
……大体、そんなストーリーだった。
読んでみて、率直な筧誠一の感想は、
〈救いがないな〉
と云うことだった。
小説なのだから、救いがないと云われようと、それは作者の勝手である。
しかし読後感に、なにかドロドロして生腥《なまぐさ》いものが付き纏《まと》い、芸術という感じがしないのであった。
〈なぜ、こんな陰惨なテーマを選んだのだろうか?〉
筧は、文学青年ではないが、ちょっぴり不快であった。
東村山市の〈物情騒然〉の発行所は、ある孔版《こうはん》印刷屋で、主宰者の林田は、その孔版屋の社長である。
背の低い、片眼の男で、わざとダヤン将軍のように、穴あき銭を片眼にあてていた。
それが、なにか酷くキザに目に写った。
筧誠一は、ズバリと用件を切り出した。
「お宅の同人の、佐藤隆夫さんにお会いしたいのですが」
彼は云った。
林田は、穴あき銭に指をあてがい、
「彼なら、一年前から同人を辞《や》めてますよ」
と云いながら、ぐいと上にずりあげる仕種《しぐさ》をした。
「すると、もう、同人じゃあないんですね」
「ええ、そうです」
林田はそう云い、
「でも、住所は判りますよ」
と云った。
その住所は、立川市であった。
あとで知ったのだが、東久留米市と東村山市とは隣り合わせで、立川市のすぐ近所であった。
そして西久留米市という町名は、地図にも存在しなかったのである。
明らかに、宿帳の住所は、ニセだったのである……。
立川市の佐藤隆夫のアパートを訪ねた筧誠一は、またしても失望させられた。
管理人の話では、十二月二十五日ごろ、どこへとも知れず引っ越して行った……と云うのである。
「よく判りませんがね、広島へご夫婦で帰るんだと仰有ってましたよ」
管理人の小母さんはそう云った。
「すると、奥さんも――」
筧は、ギクリとなった。
「ええ、ええ。お二人とも、原爆で顔に火傷《やけど》がありましてねえ。広島の方なんですよ」
「えッ、火傷……」
彼は、自分が描いていた空想が、ガラガラと音を立てて崩れ墜ちるのを知った。
佐藤隆夫と、相手の女性が、不倫の恋に陥入り、女が妊娠し、自分の作品が出版できなくなったりしたので、自棄《やけ》を起して心中した……と云うような、漠然とした空想をしていたのだ。
管理人の小母さんの話をきくと、どうやら二人は夫婦≠ナあったらしい。
夫の方が顔の右半分、妻の方が顔の左半分に火傷のあとがある……と云うことを聞いても、それは明らかだった。
「佐藤さんは、どこへお勤めでしたか?」
と訊いてみると、
「さあ……よく知りませんが、小石川あたりの印刷会社にお勤めだったそうです」
という返事だった。
〈ふむ! 印刷会社か!〉
筧誠一は、それでトランクの中に、自分の作品の紙型があったことが、なんとなく呑み込めるような気がした。
……小説への愛着を捨て切れない男。
その男は、自分の小説を書き、上梓の日を夢みて、紙型をとらせる。
おそらく、どこか出版社に、上梓の話を持ち込もうと考えていたのではないだろうか。
それとも、自費出版を考えていたのかも知れない。
そして、印刷する機会もなく、妻と心中してしまったのだ。
白分の最後の作品だけに、捨てるに忍びなかったのかも知れない。
その心理は、マスコミの世界に働く人間として、よく判るような気がするのである。
夫婦の仲は睦《むつ》まじい方で、妻の芳枝は、立川市内の工場へ女工として勤めていた。
夫婦のあいだには子供がなく、あるとき、管理人の小母さんが、
「どうして子供をつくらないの?」
と訊くと、芳枝は、
「欲しいんですけど、白血病の子供が産まれるんじゃないかと、心配で……」
と語ったと云う。
なるほど、被爆者としては、当然の心配であろう。
「あたしはね、あのご夫婦、従兄妹《いとこ》同志じゃないかって気がするんですよ……」
小母さんは、そんなことを云った。
その理由は、目鼻立ちがよく似ており、隣室の人の話では、セックスの時、妻の芳枝が凄まじい声をあげ、
「あッ、兄ちゃん、もう駄目!」
なんて口走っていたからだそうだ。
〈そんなことも、あるかも知れないな〉
筧誠一は思った。
被爆者同志の結婚。
それは、お互いに肉体なり、心なりに傷を持った人々の、自然な結びつきであろう。
そしてその場合、血の似通った者同志の、いたわり合っての結婚という形も、ごく自然なのである。
筧誠一は、たとえ従兄妹同志、被爆者同志の結婚にしたって、子供を欲しがっていて、妊娠六ヵ月で夫婦が心中するというのは、なんとなく解せないような気がした。
なぜ、心中する必要があるのか。
彼は、その点について、管理人の小母さんに質問してみた。
彼女の話では、佐藤夫婦は、人の世話になると云うことを、極端に嫌っていたようで、借金はない模様だったと云う。
生活ぶりも、まあまあで、妻の芳枝が働きに出るのも、家にいたら退屈だから……と云うことらしかった。
まして、犯罪に関係があるなんて、想像できないと、小母さんは断言した。
「部屋の中は、いつもキチンとしてましてねえ……。ただ、近所づきあいは、悪い方でしたね。なにか、私生活を覗かれるのが、とっても不愉快そうでしたよ」
小母さんは、そんな風に云い、
「ただねえ……あの時に、派手な声をあげられるので、困りましたがねえ」
と、淫《みだ》らな笑顔をつくったものだ。
立川市のアパートにおける佐藤隆夫、芳枝夫妻(いずれも本名)の生活ぶりは、平凡の一語に尽きた。
人と変っているのは、夫が同人雑誌に関係して、暇があると原稿用紙に向かっていたことぐらいだと云う。
大都会では、隣り近所の交際をしない人は意外と多いものだ。
同じアパートに住んでいたって、隣りがどんな会社に勤めているのか、知らないと云ったケースは多い。
だから筧は、別段、気にしなかった。
アパートを出て、市役所の出張所へ行き、佐藤夫妻の住民登録を調べてみると、
『佐藤隆夫・昭和八年五月五日生・本籍・広島市吉島本町××番地』
と云う記録はあるが、妻の芳枝の記入はないのだった。
〈おや、変だな?〉
筧は思った。
従兄妹同志で、親兄弟の反対を押し切って同棲――と云うケースもある。
筧は、本籍地に対して照会依頼の手紙を書く一方、佐藤隆夫、芳枝夫妻を知る人々を探して、仕事の合間にコツコツ歩き廻った。
彼が第一に訪れたのは、佐藤隆夫が勤めていた小石川の印刷会社である。
それは、〈物情騒然〉の主宰者である林田から聞いたのだった。
Nという、都内の印刷会社としては、二流の上といったところの会社である。
訪れて、
「佐藤隆夫さんに会いたい」
と云うと、
「去年、退職しました」
と云う返事である。
辞めたのは、十二月二十四日であると云うことだった。
「佐藤さんのお仕事は?」
と訊いてみると、
「植字関係です」
と云うことだ。
筧は吃驚《びつくり》して、
〈まさか食事関係ではなかろうな?〉
と思った位である。
文学に志す位だから、もっと知的な頭脳労働に従事していたのかと考えたのだ。
しかし訊いてみると、植字工としてはベテランで、N印刷でも重宝《ちようほう》していたと云う。
無口で、仕事熱心で、人と争わず、模範的な工員であったらしい。
ただ右頬のケロイドについては、語りたがらず、また家庭のことにも、一切、人前では触れなかったと云う。
筧は、〈歪んだ恋の物語〉の紙型について訊いてみた。
すると会社では、初耳だと云った。
ただ佐藤隆夫が植字工なので、自分で活字を拾って、紙型をひとりで取ることは、考えられると云うことであった――。
本籍地に照会した戸籍謄本が届いたのは、N印刷を訪ねて三日後である。
そして、筧誠一は、その謄本をみて、愕然《がくぜん》となったのだ。
と云うのは、父母は八月六日の原爆によって死亡しており、佐藤隆夫は戸籍筆頭者で、その次には、妹・芳枝・昭和十二年六月十日生――という文字が並んでいたからだ。
筧は、立川のアパートの管理人の小母さんが、従兄妹同志ではないか、と云っていたことを思いだしながらも、暫らくはその文字が信じられなかったのだ。
〈あの二人は、兄妹だった!〉
彼はそれを知ると、なにか慄然《りつぜん》となり、ついで〈あわれ吾妹《わぎも》よ〉と云う小説の題名を思い浮べたのだった。
たしか選考委員のA氏が、題名は一考を要す、と書いていたようであるが、吾妹というからには、正確には、吾妹《わぎも》子《こ》の意であろう。
吾妹子とは、妻を親しんで云う言葉なのである。
小説のストーリーから考えると、弟がケロイドの姉を観察しているのだから、吾妹というのは可怪《おか》しい。
あわれ吾妹よ、という題名は、あわれ吾が妻よ、とか、あわれ恋人よ、と云う意味になるからだった。
それを佐藤隆夫が、敢《あ》えてそのような題名にしたと云うのは、やはり自分と妹の芳枝とが、兄妹でありながら、夫婦とおなじ生活をしていることに対する懺悔《ざんげ》ではないのだろうか?
筧は、そして事実上の妻である芳枝が、妊娠六ヵ月であったことを思い出したのだ。
兄と妹とが、夫婦の交わりを結ぶ。
それだけでも異常なのに、その間に子供が出来たのであった。
二人は恐らく被爆者であろう。
だから、原爆症にかかっていると考えられた。
その近親相姦の二人の間に、生まれた子供はどうなるのか?
兄の隆夫は、昭和八年五月の生まれだから昭和二十年八月六日には、数えで十三歳であった。
妹の芳枝は、昭和十二年六月生まれだから数えで九歳である。
筧は、そうした事実を知ると、編集長に、
「済みませんが、この事件をもう少し調べさせて頂けませんか」
と申し出た。
編集長は、
「ケロイド心中の男女、実は兄妹夫婦か!」
と、暗澹《あんたん》とした表情で云い、
「なにか、複雑な事情がありそうだな」
と呟いた。
そして筧に、仕事を休んで、追ってみろと許可して呉れたのである。
筧は、先ず広島に飛んだ。
隆夫、芳枝の生い立ちを、洗ってみようと思ったからである。
吉島本町と云うのは、広島の刑務所の近くで、佐藤家の消息を知る人は、その近所にはいなかった。
だから、兄妹の生い立ちを調べるのには、いまだ嘗《かつ》て味わったことのない、苦心を要したのである。
でも、その努力の甲斐あって、大雑把《おおざつぱ》ではあるが大体の目安はついた。
佐藤隆夫、芳枝の兄妹は、吉島本町で官吏である父と、その平凡な妻である母との間に生まれた。
原爆投下の日――父は、水主《かこ》町の広島県庁へ出勤し、母は家屋|疎開《そかい》で勤労奉仕に参加していた。
兄の隆夫は、学童疎開で双三郡三良坂町におり、当時小学校六年生である。
そして妹の芳枝は、小学校二年生で、吉島小学校へ通っていた。
当時、広島では、国民学校三年生以上は、県内北部に学童疎開させられていたのであった。
(ここで疑問になるのは、兄の隆夫が右頬に、醜いケロイドを持っていたことである。学童疎開していた兄の彼は、被爆していないのだが、なぜケロイドがあったか? そのことは後に触れる)
こうして、運命の一瞬が訪れる。
父は県庁で死亡し、母は勤労作業中に熱線を浴びて焼死した。
そして妹の芳枝も、左顔面から腕、頸筋《くびすじ》にかけて熱線を浴びたのである。
数え歳九つで、肉親を喪い、しかも焼土に被爆したまま抛り出された芳枝は、さぞかし淋しかったことであろう。
彼女が助かったのは、学校の女教師が、彼女たちを連れて海の方へ逃げ、船で五日市まで運んで呉れたからだと云われている。
芳枝は、水ばかり欲しがり、井戸水をガブガブ飲んだ。
嘘か本当か知らないが、放射能を含まない地下水を飲むことによって、体中の毒素が人より早く体外に排泄されたから、助かったのだと云う。
五日市の寺に収容されたが、傷が癒《い》えると比治山《ひじやま》の小学校に芳枝は移された。
むろん、左上半身の火傷は、醜いケロイドとなって痙《ひ》き吊ったのである。
ところで、兄の隆夫の方は、みんな級友たちが帰ってゆくのに、一向に自分だけ迎えが来ない。
いろいろ先生たちが問い合せた結果、父母も妹も、ピカドンで死亡した……という話を聞いて、目の前が暗くなった。
そうして隆夫は、翌二十一年二月、五日市の元農事試験場につくられた広島戦災孤児育成所に収容され、ここで死んだと計り思っていた妹の芳枝の、恐ろしいケロイドの顔と再会するのである。
この孤児育成所に入った者は、満十八歳になると、ここを出なければならなかった。
満十八になると、児童福祉法による生活保護を受けられなくなるからである。
兄の隆夫は、昭和二十五年の春、育成所を出て、印刷会社に勤めた。
活字に親しむと云う生活環境が、隆夫を詩のグループに入会させ、やがては文学への道を志させたのであろう。
当時、隆夫を引き取って面倒を見ていた、広島市内のS印刷会社の職工(現工場長)のF氏は、
「孤児らしくない、いい子でしたよ。妹想いで、休暇になると、土産物を買っては、五日市の施設へ訪ねてましたなあ」
と云っている。
隆夫は、なかなかのハンサムで、女工たちの間に人気があった。
F氏は、それで、
「男は、女で一生を台無しにすることが多いんじゃぞ。気イつけえよ」
と、つねづね説教していたと云う。
F氏は、俳句をたしなみ、また読書家でもあった。
隆夫が、文学青年となってゆく影響の一斑は、F氏にあったのかも知れない。
昭和二十九年、妹の芳枝は、孤児育成所を出て、千田町の貸間に引越していた兄の隆夫の許に引き取られることになる。
そして、同じS印刷に勤めた。
仕事は、製本であった。
芳枝は、なぜかS印刷に勤め出すと、今までの仏教を捨てて、クリスチャンに転向している。
五日市の戦災孤児育成所は、真宗の本願寺派の経営であったのだ。
その信仰を捨てて、キリスト教に走った芳枝は、三十年四月、自殺を図っている。
そして三十一年二月、兄と二人で、広島を捨てて上京するのであった。
……筧誠一は、隆夫の引き取り親であったF氏に、
「隆夫さんは右頬に火傷がありましたが、あれは原爆のケロイドではありませんか」
と質問している。
するとF氏は首をふり、
「それが違うのです。たしか三十年の暮ごろでしたか、鋳型に使う活字合金の、ドロドロに溶けて熱いやつの中に、よろけて顔を突込んだと本人は云ってましたがね。しかし、滅多《めつた》にそんな事故は起らないんですが」
と云ったのだった。
〈なるほど、それで隆夫の右頬に、ケロイドがあったんだな……〉
筧は納得した。
一般には、ケロイドと云うと、原子爆弾の熱線によるものと考えがちだが、しかし何も原爆でなくとも、ケロイドは出来る。
早い話が、溶鉱炉でドロドロに溶けた鉄で火傷すれば、醜いケロイド瘢痕が皮膚に生じるのであった。
つまり、兄の隆夫の右顔面のケロイドは、活字合金の煮え滾《たぎ》った鍋の中に顔を突込んで、そのために生じたものなのである。
こうして、佐藤隆夫、芳枝の兄妹が、孤児となり、孤児育成所で育ち、上京するまでの過程は判ったが、あとのことが判らない。
この兄妹が、忌《いま》わしい肉体関係を結んだのは、なにか理由があるのだろうか。
そして、妹の芳枝が、自殺を図った理由とは、なんだろう?
更にまた、二人が心中にまで追い詰められた原因は?
……近親相姦などと云われて、最近よく騒がれているが、これは同性愛などと同じく、世の表面に出ないからであって、実際には、かなりケースは多いと考えられている。
東北の貧しい地方では、親子丼と云って、父が娘を犯し、母が息子と通じる……といった例が、絶えなかったと云われる。
動物たちは、親子で平然と性の営みを行うが、これは自然の姿であって、子供が大人になれば、そこにあるのは、雄と雌と云う関係だけなのであった。
だから――原爆孤児となった隆夫・芳枝の兄妹が、思春期を迎えて、つい道ならぬ道に踏み込んだとしても、さして駭《おどろ》くにはあたらないのである。
……そうは思っても、筧誠一には、なにか釈然としないものがあった。
定山渓のホテルで、夜っぴて聴かされたあの凄まじい嬌声と、烏に喰い散らされた二人の顔の恐ろしい形相《ぎようそう》とが、強い記憶として残っているからであろう。
勤めていた広島のS印刷を辞め、上京したのは昭和三十一年の二月である。
そして小石川のN印刷に隆夫が勤めたのは、昭和三十三年四月であった。
この間に、二年余の空白がある。
二人の兄妹が、立川市の二間続きのアパートに、夫婦と名乗って移り住んだのは、三十九年九月であった。
その間、二人はどこに住んでいたのであろうか。
この疑問を解くために、筧誠一は再び〈物情騒然〉の林田を訪ねた。
林田は、彼の質問を聞くと、
「それだったら、船田先生を訪ねてみたら、収穫があるかも知れません。彼は、船田耕吉に私淑《ししゆく》していましたから……」
と云ったものだ。
かくて筧誠一は、船田を訪ねることになるのである。
戦前から、私小説作家として知られている船田は、すでに齢七十であったが、老眼鏡も入歯も使わず、矍鑠《かくしやく》としていた。
筧はざっくばらんに、駒ケ岳の撮影に行っていて、身許不明の心中死体を発見し、トランクに残された小説原稿の紙型から、佐藤隆夫・芳枝の兄妹であることをつきとめた……と云う事実を打ち明けた。
「聞き及びますと、佐藤氏は、船田先生に私淑していたとか……。それで、なにか佐藤氏が、死ぬことについて、先生に悩みを打ち明けたりしていないかと存じまして……」
筧誠一は云った。
船田耕吉は顔を曇らせ、
「やっぱり、死にましたか」
と深い溜息を吐き、
「クリスマスの晩、はじめて奥さんを連れて遊びに来て、広島へ帰りますが、春ぐらいになったら、開けて見て下さいと、なにやら預けて行ったので、変だなあ……と家内と話していたんですよ」
と告白したのであった。
「エッ、なにを預けて行ったんです?」
彼は訊いた。
「判りません。ハトロン紙で、厳重に封がしてありましてねえ」
船田は、妻を呼び、佐藤隆夫から預かった品物を持って来させた。
鋏《はさみ》で、十文字に結んだ麻紐を切り、セロハンテープを剥がす。
ハトロン紙をほどくと、大学ノート二冊と一通の封書が出て来た。
船田は封を切って読みはじめたが、次第に眉根を険《けわ》しくしてゆき、一枚目を読むと、その便箋を黙って筧にさし出したのだ。
『敬愛する船田先生。
先生に〈あわれ吾妹よ〉を賞めて頂いてから、私は、なんとか文学によって、自からの涜《けが》れた罪を贖《つぐな》おうと、必死になって精進《しようじん》して参りました。
しかし、それは所詮、才能もなく、運もない私には、徒労だったようでございます。
先生。私は死にます。
その死ぬ前に、一目だけ私の愛する吾妹――血肉をわけた本当の妹であり、そして私の現在の妻である芳枝を、先生にお目にかけたくて参上した次第です。
私と妹が、なぜこんな不倫の仲となったのか。
そして、なぜ二人して死を選ぶのかに就《つ》いては、二冊の大学ノートに記しておきます。
誰にも知られず、ひっそりと死ぬ覚悟は出来ていますが、死に臨んで、矢張り未練が起きました。
私たち兄妹の、苦しかった二十五年の戦後の生活を、せめて敬愛する先生にだけは、ご理解いただきたく、非礼も省《かえり》みず、同封いたしました。
お読み捨てのあと、お焼き捨て下さろうと小説の素材として使われようと、それは先生の自由意志にお任せします。
ただ誰にも、佐藤隆夫の妻が、実は妹であったことは、伏せて頂きたく、この一点のみお願い申し上げます。
死ぬ場所は、吾妹がかねて行きたがっていた北海道の函館の近くと決めてあります。
二人の死体は、雪解けの頃、私の顔のケロイドのように醜い姿となって、発見されることでありましょう。
しかし、それでいいのです。
私は、吾妹を愛し、彼女ひとりだけしか知らずに死んでゆきます。
思えば、可哀想な妹でした。
でも、私には妹である前に、彼女は私の妻なのです。
〈歪んだ恋の物語〉と題する自叙伝風な小説を書き、仕事の合間をみて、自から活字を拾い、紙型までとりましたが、やはり生きているうちは、発表の勇気がありません。
妹が、ますます憐れになるからです。
紙型は持って旅に出ますが、チャンスがあれば、先生の目に留まることがあるかも知れません。
若し(おそらく、そんなことはないでしょうが)上梓の話でも出たら、先生に序文をお願いしたく、また印税が入るようでしたら、しかるべき施設に寄附して下さい。
では先生、お別れです。
でも悲しまないで下さい。私たちは、心の底から愛し合って、死出の途を辿《たど》ったのですから――。
ご自愛のほど、お祈り申し上げます。
船田先生。
佐藤隆夫拝。』
10
――以下、大学ノートに綴られた佐藤隆夫の日記を抜萃《ばつすい》しながら、二人がどんな運命を辿ったか、紹介しておく。
日記は昭和二十九年三月末、妹の芳枝が、千田町の彼の借りている部屋へ、引き移ってくる時から始まっている。
『三月二十一日。
芳枝が、孤児育成所を追い出される日だ。会社を休んで、迎えにゆく。宮島線を五日市で降りるのも、今日が最後であろう。
芳枝のほか、六名が出所するらしい。
思えば、昭和二十一年二月から、八年あまり妹を育てて呉れた施設だ。
所長さんはじめ、先生方にお礼を云う。
芳枝も十八歳。
左上半身の醜いケロイドがなかったなら、女優にだってなれる美人なのに!
可哀想だが、どうにもならない。
芳枝の就職は、Fさんの尽力《じんりよく》で、俺とおなじS印刷の製本部で働くことに決まった。
明日からは、二人でやってゆくのだ。
この広い地球上に、肉親と呼べるのは、俺たち兄妹しか、いないのだから!』
……このとき、佐藤隆夫は二十三歳であった。
被爆してない隆夫は、どこか暗い翳《かげ》はあったが、健康な青年だった。
それに引き換え、妹の芳枝は、放射能を浴びたためか、躰の発育もどこか遅い感じで、性格もひねくれているように思えた……と保証人のF氏は語っている。
思春期だけに、左顔面のケロイドを人の目に曝《さら》すことを嫌がり、出勤の時には、必らずネッカチーフを愛用したらしい。
二十九年三月と云えば、焼津《やいづ》市に帰港した第五福竜丸の乗組員が、原爆症と判明し、世界的に注目を浴びはじめた時である。
それだけにケロイド娘の芳枝には、世間の目がたまらなかったらしい。
『四月七日。
日本が原子兵器禁止決議案を、参議院で可決したら、その翌日、アメリカは今年三回目の核実験を行った。
ここに敗戦国と戦勝国との大いなる差がある。実に不愉快である。
芳枝も怒っていた。
これまでも毎月一回、比治山のABCCへ診察のため強制的に連れていかれたが、血を取ったり、肉を削《そ》いだりするだけで、一度も治療して呉れない、と――。
〈あたし達、生きた人間モルモットじゃ〉
と芳枝は云って泪ぐんだ。
可哀想なやつ!
なんとかしてやりたいが、今の俺には、どうにもならない』
『五月五日。
……自分の誕生日を忘れていた。
芳枝から、
〈おめでとう、兄ちゃん〉
と、祝いをプレゼントされてから、始めてそれに気づいた。
俺にも誕生日が、あったんだっけ。
芳枝の誕生日には、あいつが驚くような品物を贈ってやろう。
外へ出て食事しよう、と云ったが、芳枝が拒《こば》むので、俺の手料理で祝いをした』
『五月十五日。
原水爆禁止広島市民大会ひらかる。
俺は出席できなかったが、今日、芳枝の喜びそうなニュースをキャッチした。
流川の教会に、芳枝のような被爆者たち――それも年頃の娘ばかりが集まって、原爆乙女の会をつくっているが、このグループに参加したら、近くアメリカで無料治療を受けられるかも知れないと云うのだ。
俺は、芳枝を説得した。
俺たち貧乏人には、唯一のチャンスだ。
アメリカ人は、福竜丸ばかりでなく、芳枝たちのケロイドを治療すべき義務があると思う。
戦争に負けた日本だって、賠償に応じているではないか。
ましてアメリカは富める国、輝ける戦勝国なのである。
だが、芳枝はイヤだと云う。
〈これ以上、見世物になりたくない。日本にいたって、じろじろ見られて、うち、死にそうに辛いんじゃ〉
と云う。また、
〈お医者さんに聞いたけど、ケロイドちゅうものは、外科手術をしても、全癒《ぜんゆ》したケースは世界に例をみないそうじゃけん、うち、あきらめとるんよ〉
とも云った。
莫迦、科学は進歩しとるんだ、当然の権利だから、その乙女の会へ入れ、と叱りつけてやったが、なんとも釈然としない様子なり。
まあ、いい。
説得をつづけよう。
神の信仰で、肉体や精神の傷が癒やされるなんて、決して思わないが、ロハで治療を受けられるのは大きな魅力である。
芳枝は、〈兄ちゃんと、ひっそり世の中の片隅で暮せたら、それでええ〉と云う。
可愛いい奴なり。可哀想な奴なり』
……この日記でわかる如く、兄の隆夫は、アメリカで治療を受けるチャンスを掴むために、自分の方から原爆乙女の会へ入会し、クリスチャンになれ、と妹の芳枝を説得したものの如くである。
両親もなく、この世にたった二人っきりの貧乏な印刷工の兄の心情としては、なにがなんでもチャンスを利用させてやりたい一心だったのであろう。
むりもない話である。
その結果、芳枝は乙女の会に加わり、熱心なクリスチャンとなった。
『六月十日。
芳枝の誕生日である。
時の記念日だから、無理して腕時計を買ってプレゼントし、ケーキを用意した。
早退けしたのは、その用意のためだ。
いま、午後五時半。
もう直ぐ帰って来るだろう』
……この日の日記は、ここで終っているが翌日には、その続きが書かれてある。
『六月十一日。
……昨日は驚いた。
芳枝が七時になっても、八時になっても帰って来なかったからだ。
九時過ぎに、芳枝は蒼い顔して戻った。
部屋へ入るなり、
〈兄ちゃん、電気消して!〉
と云う。
訝《いぶ》かりながら、電気を消してやると、なにやらゴソゴソやっていたが、蒲団を引っぱりだして、寝てしまった。
びっくりして電気を点《つ》け、
〈どうしたんなら!〉
と訊くと、
〈兄ちゃん、うち、死ぬかも知れんよ〉
と云う。顔色も悪い。
熱はないようだが、心配で、いちいち病状を訊くが、さっぱり要領を得ず、
〈兄ちゃん、うちが死んだら、髪の毛の短い女の人を、奥さんに貰ってね〉
などと云う。
ケロイドを隠すために、芳枝はいつも肩までかかる長い髪の毛をたくわえ、仕事中はその髪の毛で顔をカバーしている。
だから、そんなことを云ったのだろうが、気になってならず、芳枝が寝ついたのを見図らって、そっと押入をあけてみた。
新聞紙にくるんでいたものを、引っぱりだしてみると、つくった許りの白のスカートが血だらけで出て来た。
丸めたパンティも真ッ赤である。
俺は、ちょっと駭いたが、気持が鎮まると笑いだした。
メンスだったのである。
芳枝は、満十八歳の誕生日のその日、やっと女≠ノなったのだ……。
芳枝は、突如、メンスになり、その血がとまらないものだから、トイレの中で泣きつづけていたのだった。
スカートを汚したことも恥しく、それで暗くなるまで会社のトイレで時間を過していたのだそうな。
俺は、薬局へ走って、脱脂綿と生理バンドを買って来たが、その時の恥しかったことったらない。
蒲団をあげさせて、誕生祝いのパーティを行った。
芳枝は大いに照れて、
〈血が流れ続けるけん、ピカの時の病気が出たと思うたんじゃ〉
と云ったが、なんと可愛いい奴!
しかし、芳枝がやっと大人になったのだと思うと、なんだか感動する反面、芳枝の顔が眩しくてならなかった』
11
この年、兄の隆夫に縁談が持ち上り、妹の芳枝がヒステリーを起して、兄を悩ませる状態が日記には克明に記されてある。
その文面から想像するのに、妹の芳枝は、唯一の肉親であり、また、かなりのハンサムである実の兄を、すでに一個の異性として眺めていた気配がある。
その証拠に、日記には、兄の縁談を知った芳枝が、
〈兄ちゃんが結婚したら、うちは、ここから出て行かなきゃならんのね。そんなことになったら、うち、死ぬかも知れんよ〉
と云ったり、泣いて取り縋《すが》り、
〈兄ちゃん、芳枝を捨てないで!〉
と哀願するセリフが、しばしば出てくるのである。
兄の隆夫は、
『芳枝が、原爆乙女の中から選ばれて、治療のためにアメリカへ渡ったら、最低一ヵ年は帰られない。その間に、俺は妹想いの妻を娶《めと》り、芳枝を暖かく迎えてやればよいのだ。一年間の空白が、芳枝の気持をきっと柔げてくれるだろう。一応、縁談の件は、Fさんを通じて社長に断って貰うことにした』
と書いている。
つまり、彼は妹のために、社長からもたらされた有利な縁談を断念するのだ。
隆夫は、妹が原爆乙女の中から選抜されてアメリカへ行き、治療を受けることを信じて疑わなかった。
それは彼にとっては、愛する妹の顔半分から醜いケロイドを掻き消させて貰うことであり、そして自分がその期間に結婚し、家庭を築く……と云う、人生の大きな転機となる筈であった。
事実、そのために隆夫は、いろいろと走り廻っている。
昭和三十年四月一日、東京で、原爆乙女の渡米治療のための第一回打ち合わせ会がもたれた。
そして四月十二日から十四日まで、広島市民病院でその選考診断が行われ、二十二名が選ばれて発表された。
だが――その選に、佐藤芳枝は皮肉にも洩れてしまったのである。
兄の隆夫は、その発表の夜、日記に叩きつけるように、怒りをぶちまけている。
『俺は、診断にあたった医師に、面会を求めた。どういう基準で、妹が落ちたのかを知りたかったからだ。
しかし医師は、
〈なにぶんアメリカさんが決めることで〉
と逃げる一方である。
糠《ぬか》に釘、ノレンに腕押しとは、まさにこのことである。
俺は肚が立ってならなかった。
芳枝は、ただただ泣き続けている。
〈兄ちゃんがいけんのよ、お前ぐらい酷いケロイドなら大丈夫だって云うけん、芳枝も一所懸命だったし、旅行トランクも買ったのに!〉
と芳枝は云った。
アメリカの医者は、本国へ連れて行けば、すぐケロイドの癒りそうな奴ばかりを、連れて行く気に違いない。
だから芳枝も選からはずしたのだ。
なんと云う卑劣な!
しかも選ばれたのは、親のしっかりしている娘たちばかりだと云う。
芳枝みたいな原爆孤児は、一人もいないらしい、畜生!
生まれて始めて自棄《やけ》酒を飲む。
貯金をそっくり下ろして、アメリカで恥をかかないように、パジャマや、靴や、洋服を買ってやったと云うのに、すべては水の泡となった!
なにもかも肚立しいことばかりなり』
……隆夫、芳枝の兄妹は、この選考の日にすべてを賭けていたのだった。
ところが、翌日の日記は、さらに深刻なドラマを展開する。
『四月十六日。
今日、会社で、選考された原爆乙女たちの何人かは、関係者に金品を贈って、工作運動をしていたらしいと聞かされる。
愕然たる思いがした。
世の中は、すべて金なのか!
就業中、芳枝が会いに来て、なんでも、あと数名、追加発表されるらしいと、淋しそうな笑顔で報告した。
俺は、芳枝には悪いと思ったが、ヌカ喜びさせまいと、
〈だめだ、諦めろ。選に入る奴は、いろんな筋に金や品物をバラ撒いてるんだ。なにしろ、エビで鯛が釣れるんだから、連中にとっては安いものさ。しかし俺たちには、そのエビもない。だから諦めろ〉
と云ってやった。
芳枝は、しょんぼり製本部へ戻って行ったが、人々の善意を信じた俺が、甘かったのである。
諦めよう。人生とは、諦めなり、か?
いま、夜十一時。
どうしたのだろう、芳枝はまだ帰らない』
この日から一日おいた四月十八日、選洩れの原爆乙女三名の追加発表があった。
そしてその夜、佐藤芳枝は比治山で、睡眠薬自殺を図るのである。
幸い発見が早かったために、一命はとり止めたが、兄の隆夫は、この自殺未遂事件に大きなショックを受けた模様であった。
『助かった芳枝は、なにも語らない。
いや、語りたがらないのだ。
とにかく十六日の夜、あいつは帰って来なかった。
帰って来たのは明け方、五時ごろだ。
ちょうど一年前の誕生日の夜のように、蒼い顔をして、あいつは戻って来た。
しかし、俺には判るのだ。
十六日の夜、芳枝が一生に一度の賭けをしたことが。
俺たち貧乏な兄妹にとって、値打ちのある物があるとしたら何だろう?
肉体である。
芳枝は、僥倖《ぎようこう》を願って、その肉体を誰かに捧げたに違いないのだ。
しかし、賭けは、はずれた。
いや、相手は狼のように、芳枝の処女を奪い、蹂躙《じゆうりん》しただけで、はじめから芳枝を追加して呉れる気持はなかったのではないか。
それを考えると、その相手の男を、殺してやりたい。
肉体を、ただ一つ残った自分の誇りある価値を賭けた芳枝が、いじらしくてならぬ。
芳枝を殺して、俺も死にたいくらいだ。
ああ、可哀想な芳枝よ!
俺は世間の奴等を呪ってやるぞ!』
12
このあと、兄の隆夫は、折に触れて、妹の芳枝に四月十六日の夜のことを、あれこれと訊いた形跡がある。
そして、妹を奪った男(それは今もって判らない)を憎み、芳枝を二度と他の男の手に渡したくない……と思い込んでゆく。
そのことが隆夫に、芳枝を溺愛《できあい》のあまり、妹ではなく、一個の女≠ニして眺めるようにさせてゆく。
夏から秋にかけて、日記は空白になっているところを見れば、その時期に隆夫は、妹と肉体関係を結んだと推定される。
十月十日から、日記は再開されている。
『原爆乙女の治療経過の中間発表が新聞に出ている。
大部分の患者の容姿は、前よりは良くなる筈だが、完全に元通りになるか、現時点ではわからない、だって。
ざまアみろだ。
……しかし、考えてみると、俺と云う男は犬畜生だ。
芳枝が、どうしても男の名前を云わぬものだから、
〈じゃア処女か、どうか調べてやる!〉
と、あいつを裸にしたのが、今から考えるといけなかった。
そして俺は、獣になってしまったのだ。
思いだすのも厭なことだが、芳枝は詫びる俺に抱きついて、
〈兄ちゃん! どんなことされても、芳枝は平気じゃけん、ずーっと一緒にいて!〉
と泣いたのだった。
その夜から、芳枝は妹ではなくなり、もっと無口な女になった。
そして俺も、いけない、いけないと思いながら罪を重ねている。
芳枝よ! 許して呉れ!
お前の一生を台無しにしたのは、ピカドンではなく、この俺だ!』
……と云う一節を読めば、その辺の事情がわかるだろう。
そして十月末、また隆夫に縁談が起り、妹ではなく、愛人となった芳枝との間に、またぞろ冷たい戦争がはじまる。
隆夫は、こんどの縁談には乗り気だったらしいが、芳枝のヒステリーには手を焼き、縁談を諦める一方、異常な決意をするのだ。
『十二月十八日。
俺は、罪の子だ。
俺は芳枝を一生、自分の刑罰のための茨《いばら》として、背負ってゆかねばならぬ。
しかし、どうしても迷いが生じる。
それは俺が人並みの健康な顔を、持っているからだと思う。
芳枝のような顔だったら、縁談だって起らないし、芳枝を一生愛し続けられるだろう。
俺は、断乎《だんこ》たる決意をせねばならぬ』
……日記には、そう書いてある。
そして佐藤隆夫は、事故を装って、自からの右頬を、溶けてドロドロになった鉛の熱い液体に浸し、大火傷を負うのである。
そして、その傷の癒えた翌年二月、兄の隆夫だけ転出届を出して、芳枝と共に上京するのだった。
パチンコ屋の住み込み店員として働き、二年あまり勤めて、二人はやっと松戸市に一間のアパートを借りて独立する。
おそらく小石川のN印刷に就職が決まったのも、その頃だと思われる。
佐藤隆夫は〈物情騒然〉の同人となり、植字工として働く傍《かたわ》ら創作に専念した。
この頃の日記には、文学に対する野心と抱負が語られ、ついで芳枝が女として成熟してゆく過程が克明に綴られている。
その中の一節――。
『昨夜、芳枝は前戯のさなか、啜り上げて泣きだした。
なにが悲しいのかと問うと、あまりの気持のよさに泪がポロポロ出て来たのだと云う。
ああ、すでに兄と妹ではなく、男と女、獣と獣なり。
ああ、業深きものよ、性とは!
神よ、お許しあれ。
われ、生涯、吾妹のみ守りゆけば……』
……なんと、悲壮な決意ではないか。
芳枝の処女を、渡米治療を餌に奪った男の罪に較べたら、この兄の隆夫の罪の方が、まだしも軽いと云わねばならぬ。
彼は、芳枝と不倫の仲になるや、生涯、自分の妹を守り抜くべく、自からの顔面を醜いケロイドに変えたのである。
これは、ちょっと真似のできることではない。
隆夫の生涯で、もっとも充実していたのは上京後、三年目ぐらいからであろう。
創作活動も活溌で、そして世間の人々も、仲のよい夫婦として認めて呉れていたからである。
ところが、芳枝が閨房で発する悲鳴が次第に大きくなり、やがて、それが言葉に変ってゆく頃――日記から推定すると、三十八年の秋ごろ――から、世間の目が二人に厳しく光りはじめた。
芳枝がアクメの際、無我夢中で、
「兄ちゃん、駄目! ああ! 兄ちゃん!」
と叫ぶのを、近隣の人々に聞かれたのが原因である。
〈どうもあの二人は、夫婦じゃなく、兄妹らしい〉
と云われ、次第に噂が拡がってゆく。
お蔭で芳枝はノイローゼとなり、近所へ買物にもゆけなくなる。
そこで松戸市とは正反対の、立川市の二間続きのアパートに引越したのであった。
三十九年九月の日記に、漠然とだが、そのことが書かれてある。
『引っ越し完了。
芳枝に、今度からは、決して兄ちゃんと云ってはならぬ、いかなる場合も、あなたと云えと厳しく申し渡す』
……わずか数行だが、充分、その辺の事情が窺《うかが》えるではないか。
昭和四十年上半期に、〈あわれ吾妹よ〉は文学賞候補となった。
しかし、ここを頂点として、次第に創作活動は鈍《にぶ》りはじめてゆく。
日記も、つけたり、つけなかったりで、変化のない毎日がつづくのだ。
四十三年の元旦に――。
『今年こそ、〈歪んだ恋の物語〉を書き上げる決心をする。
単行本一冊分を書き上げたら、会社の目を盗んで紙型をとり、自分で紙を買い、そして自分で印刷するのだ。
装丁《そうてい》と製本は、芳枝にして貰おう。
そうして、この二人の愛の結晶を世に送ってから、二人はこの世から、こっそり消えてなくなるのだ。
多分、〈歪んだ恋の物語〉は、いつ、どこで、誰が書いたか判らない、印刷所も製本所も発行所もない、幻の文学書として喧伝《けんでん》されるだろう。
怪文書的小説集と云うわけだ。
芳枝には、まだ話してないが、多分、賛成してくれるだろう。
雪山で、醜い顔の部分を下にして、しっかり抱き合って、俺は罪深き生涯の幕を閉じるのだ。四十歳にならないうちに……』
佐藤隆夫は、そう書いている。
〈歪んだ恋の物語〉は完成し、紙型もこっそり取り終えた。
その矢先、異変が起きた。
妹の芳枝から妊娠を告げられたのだ。
芳枝は、どうも日記から推すと、産みたがったらしい。
しかし、隆夫は反対し、堕せと云った。
実の兄妹だし、しかも芳枝は被爆者手帳をもった女性なのである。
隆夫は、生まれて来る子供の体質その他を心配したのだろう。
心中のほぼ一ヵ月前の日記に、隆夫は次のように書いている。
『芳枝、やっと同意するなり。
〈兄ちゃん、親子三人で死ねるのね〉
と芳枝は云った。
俺はただ、吾妹の躰を犇《ひし》と抱きしめて、慟哭《どうこく》するよりなかった。
許せ、芳枝よ。
芳枝は、北海道にて死なむ、と云う。異存なし。
なにか、すっきりした感じである』
と――。
こうして、二人は身辺を整理して行く。
大学ノート二冊の日記は、焼き捨てようと迷ったが、誰か一人ぐらいは死の真相を知って貰いたいと考えて、敬愛して私淑している船田耕吉に、それとなく吾妹――芳枝を連れて別れを告げに会いにゆき、ハトロン紙に包んで託したのであった。
雪の北海道を撮影に来た筧誠一と、カメラマンの児島は、偶然、定山渓のホテルで隆夫と芳枝兄妹と隣り合わせに泊り、そしてまた偶然にも、二人の心中死体を発見したと云うことになる。
そのことが、二人の心中の真相を、知るキッカケになったのだった。
カメラの児島は、筧からすべてを教えられると、
「ケロイドを気にしていた芳枝さんが、死んだあと、健康な方の顔半分を烏にやられるだなんて、つくづくついてない一生だったんだなあ……」
と、憮然として云った。
「本当だ……」
筧は肯いて、
「とにかく、俺はもう一度、函館へ行って、わけを話して、あのトランクの中の紙型を借りてくるよ。そうして、良い物だったら、追悼《ついとう》のためにも、本にしてあげたいんだ」
と云った。
その時、筧の瞼《まぶた》の中に泛んでいたのは、あの髑髏《どくろ》のような二人の醜い死に顔ではなく、愛し合った兄妹が抱きあって死の接吻をかわしている、なにか崇高《すうこう》な表情であった。
〈でも、佐藤兄妹をこのようにしたのは、いったい誰の罪なんだろうか?〉
筧誠一は、唇を噛みしめたまま、しばらく宙に視線を游弋《ゆうよく》させていた。
綱島《つなしま》心中
昭和二十四年の九月上旬のことである。新聞社に勤めている上坂は、その日も冷えた芋《いも》御飯をひとりで食べて、出勤の仕度をはじめた。妻は子供を連れて、千葉の実家に遊びに行っている。田舎の方が、食糧事情がよいので、子供たちは帰りたがらないのである。留守中の彼の食事は、女子大に通いはじめた、上坂の妹が面倒みてくれていた。
上坂の家は、東横線の綱島駅から、歩いて七、八分の距離にある、農家の離れを借りていたのである。
庭先には、彼が植えたサツマ芋の、ハート型をした葉が、こんもりと畑の表面がみえないくらいに生い繁っている。そうして三つ四つの実をつけた南瓜《かぼちや》が、トタン屋根の上で色づきはじめている。
大切な出勤前の四、五分を、家庭菜園の工合をみて過すというのも、ここ数年の間に身についた悲しい習性であった。
上坂は、新聞社の整理部に身をおいていた。よく記者と間違えられるが、整理部員なのである。朝刊を担当しているため、午後三時ごろから出勤するのだ。
これは寿司詰めの満員電車に揺られて行かずに済むので、その意味では有難かった。当時の東京急行電鉄の、TKKという略号は、とっても、こんで、こまる、の略号だという冗談があったほどなのである。
……駅に着いたとき、ちょうど渋谷行の上り電車が、発車したところだった。三、四人ばかり、ホームの階段を下りて来る人影がみえる。上坂は、ふと立停った。
綱島駅の改札口を出て来たのが、目のさめるような外国の女性であったのだ。映画女優の、グリア・ガースンに似た、大柄の女性である。
上坂が見惚《みと》れていると、その女性がなにか苛立ったような表情で、階段の方を振向き、
「ロクロー!」
と叫んだ。
見ると、スーツケースを提げた日本の青年が、ポケットのあちらこちらを探しながら、階段を降りてくるところだった。
〈彼女のボーイか? そして、この男は切符でも、なくしたのか?〉
上坂はそんなことを思い、駅員に定期券を示した。
そのころの綱島駅は、現在のように高い位置になく、東横線は路面を走っていた。
細長いプラットホームは一段高くなっており、その両側を上り下りの線路が走るようになっている。
降りる客が、ホームの端にある出・改札口に達するには、階段を下りなければならなかった。改札を出ると、左右に踏切遮断機があり、その前に駅舎があって、そこが切符売場である。
駅としては、いささか変則な建て方であるが、なにかの都合で、そうなったのであろうと考えられた。
だから乗客は、踏切遮断機が上がるのを待って、切符を買い、反対側の改札口に向かうことになる。そして、上り電車側に、駅と線路をはさんで、公衆便所があった。
彼は階段の下で、そのロクローと呼ばれた青年とすれ違ったが、青年は手に切手の貼ってない封筒をもち、出札を通り抜けながら、駅員に、
「近くに郵便局は?」
と質問していた。
〈なんだ。手紙を出す所を探してたのか〉
彼はゆっくりホームを歩いて行った。ホームの端に近い方に、水呑み場があり、そこで生温い水を飲むのが、上坂の習慣だったのである。
ジープが数台、急停車する音がした。GIたちが、ジープを乗り廻す風景には馴れているので、上坂はさほど気にとめなかったが、
「オウ! ノウ!」
という、外人の婦人の悲鳴を聞いたときには、流石《さすが》にギョッとなって振り向いた。
駅舎の方を透かして見ると、下りの踏切りを渡ったところに、二台のジープが駐《とま》っており、MPの白い線の入った鉄兜と、MPの腕章をつけた背の高い兵士が、上坂が目を瞠《みは》った外人の女性の腕をとらえ、なにやら早口にしゃべっているところだった。
「プリーズ! プリーズ!」
婦人は、その兵士に掴まれた腕を、ふりほどこうと必死になっている。ロクローと呼ばれた日本の青年は、改札口のところで、ただ呆然と突立ち、その方角を凝視している。それは肩から上しか、彼の位置からは見えなかったが、はっきりそうと判る青年の後姿であった。
「MPだよ」
「なんかあったのかい?」
パンパンらしい二人連れの女性が、ロングスカートを翻《ひるがえ》しながら、ホームを駈けて行った。上坂も、それにつられるように、小走りに駈けて行った。
呆然と佇んでいる青年の顔は、土気色であった。そうして、案の定、その足許にはスーツケースが落ちている。
MPの兵士は無表情に、ジープに乗って下さい、という言葉を繰返している。外人女性の顔も、土気色だった。
〈どうしたんだろう?〉
上坂は首を傾《かし》げながら、二人を見較べる。はじめ米軍の将校か、下士官の夫人と、その召使いという間柄で、漠然と二人を見ていたのだが、掴まれた腕を離そうと藻掻《もが》いている女性の、憐れみを乞うような、青年に対する瞳の色をみたとき、〈どうも変だぞ?〉という気持になったのだ……。
「シルビア!」
青年は叫んだ。そして、弾かれたように、彼女の方に駈けて行った。そうして、MPの手を振りほどこうとする。小柄な青年と、背の高いMPとは、アメリカ婦人を挟《はさ》んで揉《も》み合った。
「止めて!」
婦人は日本語で叫び、それから腕をつかんでいない下士官クラスのMPに、なにかを早口にしゃべった。ようやく若い兵士は、婦人の腕から手を離した。
「ロクロー……」
アメリカ婦人は、青年に呼びかけると、反対側へ歩みだした。そうして、線路を渡ってすぐ左側にあるWCに入って行った。
青年は、婦人に従った。
広告看板があるため、その粗末な建物に入った二人の姿はみえないが、二人がその中で抱擁し、接吻し合っていることは、その物音でわかった。それほど派手なキッスの音だったのである。
〈ふーん? あの二人……愛人同士だったのか! しかし、女の方が年上だなあ〉
上坂は、ちらッと下り線の踏切りを見た。MPたちは、集った弥次馬に、「帰れ、帰れ!」というように、手をふっている。
「ロクロー!」
「シルビア!」
絶叫に近い男女の声。上坂は、はッと身構えた。その肺腑《はいふ》の底から、しぼりだすような音声は、決して尋常なものではなかったのである。
上坂は改札口を出ると、駅のWCに駈け込んだ。手洗いの水道の蛇口が、ひねりっぱなしになっており、その下で二人は苦悶していた……。
だが、二人の手が固く、握り合わされていたことと、苦痛に歪んだアメリカの婦人の、凄惨な美しさだけは、未だに上坂の瞼《まぶた》に灼《や》きついている。二人は――シルビアとロクローは、毒を仰いで、白昼堂々と、人々の眼前で死んだのであった。
上坂は、新聞社に電話を入れた。
「綱島駅で、抱き合い心中です。日本の若い男と、アメリカさんらしい女性とです……」
彼の電話を受取った社会部のデスクは、息せき切って報告する上坂に、
「アメリカ兵と、日本の娘の間違いだろう?」
と笑って言った。
昭和二十四年といえば、日本はまだ占領下で、米軍からプレス・コードを強いられていたし、日本の男と、アメリカ女性とが、心中するなんて、考えられない時代でもあったのだ……。
「違うんです。アメリカ女性……大柄の美人で年齢は三十前後でしょう。男は中肉中背……二十三、四歳です」
「おい、本当なのか?」
デスクは俄かに噛みつくような声音になって、すぐ支局に手配を依頼してくれ、上坂からの第一報をメモしはじめた。
「待てよ……MPが捕えたのを、ふり切って二人で、駅の便所に入ったんだな?」
「そうです……水道の水が流れ出てましたから、水で毒薬でも……」
「クスリの種類は?」
「わかりません」
「女の名前は?」
「シルビアと呼んでました」
「男の方は?」
「六郎です。苗字の方は、わかりません」
「それで、現場は?」
「MPが、群衆を追い払ってますが、死体はそのままです……」
「よし。すぐカメラと応援が行く。アメリカの女と、抱き合い心中か……。近来にない痛快な話題だな……」
デスクは、そんな風に言って、電話を切るのであった。
三人のMPたちは、公衆便所の前に立ちはだかって、群衆を追い払おうとしていた。男の姿は、まるっきり見えず、ただ女の左足の足首から先だけが見えた。
多分二人は、上坂がみた時と同じ姿勢で、便所のコンクリートの床の上に、倒れているのだろうと思われる。
ジープを駈って、一人のMPが二人ばかり警官を同乗させて来たが、綱島警察署から連れて来たものらしい。
なにやら話し合っているうちに、MPたちはジープを横づけにして、丁寧に女性の死体を後部座席に運び入れ青年の死体はほったらかしで、どこへやら走り去る。
二人の警官は、便所の入口に立って、群衆を阻《はば》んだ。
「新聞社のものですが女性の遺体はどうしたんです!」
上坂は言った。
「わかりません。とにかく、警察へ行くというので、勝手にして貰ったのですが」
「男の死体は?」
「いま、警察医を呼んでます」
警官は空腹そうな声で答えた。
一時間ほど待つうちに、警察医が現場にやって来たがそれと時を同じくして、各社の記者も、ぞくぞく詰めかけて来だした。間もなく、遺体は担架で、警察署に運ばれたが、明らかに毒薬による中毒死で、心中は間違いないと発表された。
しかし、青年の身許もわからず、ましてや警察に運ぶと称して、ジープで運び去られた女性の正体もわからない。
記者たちは、さっそく近くの米軍キャンプに飛んだが結局は徒労だった。
米軍側によって発表されたのは、シルビアが「某将校夫人」であったことと、「ノイローゼ状態」だったと言うことだけである。
上坂は、応援に来た支局の記者と交替して、本社に出勤し、そこで待機していたのだが、発表されたのは、たったそれだけであり、しかも、
「この事件は情死ではない。従って、情死に似た表現を使ってはならない」
と、一本釘をさされた。
そうして夜九時ごろ、米軍当局から、記事差止めの緊急通達が、各社に出されたのであった。つまり事件は、完全に闇から闇に葬られたのである。
……偶然ではあるが、その壮烈な抱き合い心中の目撃者だけに、口ではデモクラシーを唱えながら、報道の自由をみとめない占領軍の横暴さに対して、彼は大いなる腹立ちを覚えたことであった。
いつも整理部の机に、くすぶっているばかりなので、久し振りに活躍したという気持が一層、彼を怒りに駈り立てたのだろうか。
その反面、上坂は米軍が報道を禁じても、あのアメリカ婦人と日本青年の正体だけは、ぜひとも突きとめておきたい……という気持になったのである。
終電車で綱島まで帰り、警察をのぞいてみると、やっと本人の身許が、わかったところであった。
青年は一切、身許を証明するようなものを所持しておらず、米軍の方に、再三再四申し入れて、やっと死者が米軍キャンプに勤めており、桑田六郎という名前だと言うことを、教えて貰ったのだそうである。すべてが占領軍に、ひっかき廻されていた時代だった。
「現住所は?」
「池田山だというんですが、なんでも交番にきくと、桑田の屋敷は、米軍に接収されていて、日本人の家族は住んでいないと言うんです……」
刑事は、睡《ねむ》そうな顔つきである。
「では、遺族と連絡は、とれてないんですね?」
「ええ、まだです……。多分、明日の朝までには……」
そんな心細いことを刑事は呟いたあと、
「アメリカさん……全く横暴ですなあ。こっちの管轄なのに、さっさと女だけ持って行って……」
と愚痴を言うのであった。
「将校の奥さんらしいね」
彼が、カマをかけると、相手は頷《うなず》いて、
「陸軍少佐だそうですよ。少佐夫人なら、なに不自由ないでしょうになあ」
と、大きな欠伸《あくび》をするのであった。
桑田六郎の葬式は、世田谷区東松原の兄の家で行われた。
上坂は、通夜にも顔をだし、葬儀にも参列したが、顔に見憶えのある、化粧の濃い二人の女性を参列者の中に見出して、ビックリしていた。
彼と綱島駅の改札口の中に並んで、一部始終を眺めていた、パンパン嬢であったからである。
「きみたち……よく、ここが判ったね」
と彼が言うと、ゴム毬《まり》のように肥った方が大きな朱《あか》い口をあけて笑い、
「あんたア、新聞の人だろう? うちたち、警察で聞いたんだよ。だって、一緒に心中したのに、アメちゃんのやり方が、あんまり汚いからね……」
と言った。
あとで判ったのだが、桑田の父親は、大財閥系の倉庫会社の社長であった。十人の子福者で、女三人男七人、心中を遂げた六郎は、その六男にあたる。
麻布中学から、上野の美校に入ったのが、終戦の一年前の年だったから、大正十五年生れであった。
昭和二十年に、特攻隊にとられたが、訓練中に内地で敗戦を迎えた。
復員してくると、桑田六郎は、
「なにもかも、わからなくなった。もう学校なんか戻りたくない……」
と言って、楠や樫の古材を持ちだしては、ノミと鎚《つち》ばかりをふるっていた。亡くなった朝倉文夫に師事して、彫刻家を志望していたのだそうだ……。
上坂は、そんな話を、通夜の席で耳にしたのだが、遺族たちにも、シルビアと心中したという事件は、寝耳に水であったらしく、誰に聞いても、
「横浜のキャンプに勤めだしたのは知っているが……」
という返事ばかりだった。
上坂は、仕事の合い間を見て、死んだ桑田六郎の兄に会ったり、友人を探して話を聞いたりした。そうして、周囲から、ボツボツと真相を固めて行った。
……終戦まで、桑田家はなに不自由なく暮していた。
だが、敗戦と共に、大きな転機が訪れる。
一つは財閥解体で、父親が社長の椅子を追われたことである。そうして翌二十一年には、池田山の邸宅を米軍に接収された上、財産税という重圧が、桑田家にのしかかって来た。上坂の調べでは、このとき桑田家は、財産税のため、その九割近くを毟《むし》り取られたのであった。
長男は、茅ケ崎に住んでいるので、東松原の次男の家に一家は移ったが、むろん父親は追放令にひっかかって働き口もなく、タケノコ生活を強いられた。
こんな一家の窮状を見ては、桑田六郎も、自分ひとり美校へ通う気にならなかったのではなかろうか。むろん、これは上坂の臆測であるが――。
美校時代の友人から誘われ、横浜の米軍キャンプに働くようになったのは、昭和二十三年一月からであった。
桑田六郎を誘ったのは、田宮という一級上の先輩で、学習院から美校へ入学したという変りダネでもあった。
「ブラブラしていても仕方がないから、どこかに勤めたいというんで、じゃア僕の勤めているキャンプに来ないか……」
と奨《すす》めたと、田宮は上坂に言った。
仕事の内容は、キャンプ食堂の雑用係。ナプキンを折り畳んだり、洗われたナイフやフォークを仕分けして保管したり、ときには皿洗いも手伝わせられた。
「アメリカ兵は、そりゃア日本人には厳しいんですよ。ちょっとでも懶《なま》けていると、すぐ飛んで来て、幅の広い革バンドを首に巻きつけて、ぎゅうぎゅう締めたり、腕立て伏せをやらせるんです……」
田宮は、そんなことを話した。
「それで、彼女と知り合ったのは?」
上坂は質問した。
「ああ、それは私たち二人が、画家の卵だということが判って、将校集会所の壁に、絵を描くように命ぜられたときです……」
田宮は、きっぱりした口調で言った。
「はじめ食堂に、アメリカの風景を描かされたんですがこれが好評でしてね。ぜひ将校集会所にも……ということになったんだと記憶してます」
「なるほど。その知り合ったのは、どういう風に?」
「絵を描いていた桑田に、彼女の方から声をかけて来たんですよ」
「ふーん」
「桑田の話だと、彼女はアメリカン・スクールで、絵を教えているんだそうです」
「なるほど。趣味が一致したわけか」
上坂は頷いた。異国に来ている人妻にとって、自分の好きな絵の道にいそしむ人物は、さぞかし懐しかったに違いない。
しかも絵画は、音楽と同じく、民族の血や言葉を超越して、だれにでも理解できる芸術なのであった。
「それから?」上坂は催促した。
「彼女が、シルビアという名前だということも、僕は事件のあとで知ったくらいでしてね、彼は、あまり彼女のことを、話したがりませんでした……」
「なるほど?」
「ただ彼女に、我流で油絵を覚えただけだから、週に一度、家に来て絵を教えて呉れないかと言われた……というのは、桑田から聞きました。どうしようか、と考え込んでましたね、その時――」
上坂は、大して収穫がなかったので、がっかりしながら、今度は米軍関係をあたりはじめた。六郎の兄弟は多かったから、兄弟に会って行くうちに、次第に桑田六郎という人物の性格は、浮彫りにされて来ていた。丸顔で決して美男子ではないが、女性に言わせると、不思議にセックス・アピールのある顔立ちであった。
兄弟の間では、無邪気で、滑稽な人物で通っていたが、善良な、可愛い坊ちゃんタイプだったと友人たちは語っている。
それでいて、ときどき乱暴な言葉を使ってみたり、急に沈み込んで泣きベソをかいてみたりする。お洒落ではなく、いつも不精髭を生やしていたが、昭和二十三年の八月から、急に生れ変ったように、服装に気を配りはじめたという。
〈夏に、なにかあったんだな?〉
上坂はそう判断したが、家族たちにも、むろん一緒に勤めていた田宮にも、その理由は判らなかった。
上坂が、シルビアの夫であるラルフ少佐の存在を、やっと確認できたのは、星条旗紙の記者によってである。
通訳して貰いながら、話を聞いたのだが、ジョンソンという記者は、
「われわれだって、ちょっぴりしか報道させて貰えなかったさ。もっとも、アメリカ本国では、デカデカと扱ったがね。なにしろ、現役の将校夫人と、敗戦国の男性とが、公衆の面前で心中するなんて、こいつは同じ占領下のドイツだって起きない事件だからなあ……」
ジョンソンはそう言って笑い、片目を瞑《つむ》ると、
「彼女は、性に飢えていたのかも知れない」
と言った。
「なぜです?」上坂は訊き返した。
「ラルフ少佐は、銀行マンだ。シドニーに本店をもつ銀行の、オーストリヤ支店長だったらしい。ウィーンにいた……」
「二人は、アメリカ人?」
「ああ、二人とも米国で生れ、米国籍をもっている」
「少佐の年齢は?」
「五十八だった。主計少佐で、二人のあいだには、十歳の娘がある」
ジョンソンは明快に教えて呉れた。
「桑田六郎と、シルビアとの仲は、いつごろから?」
上坂は質問した。
ジョンソンは微笑して、また片目を瞑ると肩をすくめた。
「彼女と一緒に暮していた、ラルフ少佐さえ知らないのに、なぜ我々にわかる?」
……それは冗談にも聞きとれたが、新聞記者の顔は、本当にわからないのだということを彼に教えた。
「しかし……」
ジョンソンは、静かに唇を舌の先で湿《しめ》し、
「我々の知り得た情報では、去年の七月の下旬ごろ、キャンプ内に住む将校夫人たちが、米海軍のモーターボートで、大島沖にカツオ釣りに行ったことがあるそうだ……」と言った。
「そのときシルビアは、将校夫人たちに、桑田を私の絵の先生だと紹介し、主人の肖像画を描いて貰っているとも、つけ加えたと言われる……」
「なるほど」
「そうして将校夫人たちは、桑田が船に酔って、港からジープで、ラルフ少佐の家にまで夫人同伴で送られて行ったと、証言しているね……」
「船に酔ったんですか?」
「ああ、相当荒れたらしい。それで初島沖あたりで、釣りをしたそうだがね」
「なるほど……」
上坂は、八月に入ってから、桑田六郎が急に服装に神経を遣いだしたという、兄妹の証言から考えて、きっとその日に、二人の間になにかが起きたのだろう……と推測した。
「そのカツオ漁は、夫人たちだけで?」
「その通り。ウィーク・デイだった」
ジョンソンは、大きく頷いて、
「その辺の事情になると、誰にも臆測しか許されないが残念ながら、シルビアの方が桑田に熱をあげていたらしい――」
と、耳寄りな情報をもたらした。
「その確証は?」
「メイドの証言だ。娘が、お休みを言って、少佐と共に二階の寝室に昇って行ったりすると、彼女は桑田の肩に手をかけて、なにかを囁いたり、あるときは接吻していたそうだ。そうして、桑田は青くなって、ブルブル顫《ふる》えて、夫人から逃れようとしてた……」
「ほほう……」
「ラルフ少佐は年が年だし……シルビアを満足させられなかったのかも知れない」
「夫婦の仲は?」
「だいぶ取材したが、一度だって喧嘩したのをみた者がいない。夫婦仲は、ふつうだったようだ……」
「ふーん?」
「きみたちは知らないだろうが、シルビアの背中には、Rという文字が、そうして桑田の胸にはSという文字が焼いてあったんだ。バンソウ膏でも貼って、海で日光浴したんだろうね……」
「それは、いつ?」
「死ぬ三日前だ……。江の島へ、桑田と彼女と娘の三人連れで行っている」
上坂は星条旗記者に、お礼を言って別れたが、二日後にそのときの通訳から、
「ラルフ少佐が厚木から帰国するそうだ……」という情報を貰い、さっそく飛んで行った。
ふつうでは面会できないのだが、ジョンソン記者が同行したので、基地の中に入り込めたのである。
ジョンソンは、シルビアが夫と、桑田六郎の母あてに遺書二通を残していたことを語ってくれた。
「貴女の可愛い息子さんを連れてゆく、私の罪をお許し下さい……」
と、桑田の母への手紙には書いてあったそうだが、これは米軍の手で保管されたままであった。
米軍では、この事件の主役を、六郎という風に考え、六郎の兄弟の家や、友人の家を家宅捜索した。
そうして、桑田六郎の日記やら、シルビアをスケッチしたエスキースなど計三十点を押収したという。
むろん、二人が飲んだ薬も、アメリカ製の毒薬であったし、すべての証拠からみて、シルビアの方が桑田に夢中であり、積極的にリードしていたことがわかり、最後には唖然としたのだそうだ……。
アメリカ女が、日本の青年に惚れ込むなんて、考えられなかったのだろう。
シルビアの遺体は、すぐ本国に冷凍されて送られたらしく、ラルフ少佐は、本国で葬儀を済ませたのち、事務引継ぎに日本へ来ていたものらしかった。ラルフ少佐は銀行家らしく、神経質そうな人物だった。しかも妻の情死という予期しない事件に遭遇したためか、五十八という年齢よりは、老いこんでみえた。
ジョンソン記者は、ラルフ少佐に悔《くや》みをのべたあと、
「この男は、桑田の友人で、事件の真相を知りたがっている……」と云った。
ラルフ少佐は険しい顔つきになって、
「そのことは、思いだしたくない」と答えた。
ジョンソンは強《し》いて、それ以上に真相を聞き糺《ただ》そうとしなかったが、上坂は通訳を介して、
「あなたは、奥さんと桑田の仲を、知ってましたか?」
と質問した。
少佐は、かるく頷いた。
「知っていた。だから、彼女の遺書を発見したときにも、彼女だけを連れ戻して、病院に入れようとしたのだ……」
ラルフ少佐は、悲しそうな目つきをして、
「シルビアは、妊娠していたのだ。彼女は宗教的に堕胎できないので、死をえらんだのだろう……」
と、低くかすれ声で呟いた。だが、妻を日本の青年に奪われたアメリカ将校は、そのあと、上坂がいくら質問しても、なんにも言わなかった。
そして輸送機がくると、別れの挨拶もせずに、とぼとぼと歩いて行き、やがてその太い機体に呑まれた。
紀伊浜《きいはま》心中(放送劇)
■登場人物
岡田(39歳ぐらい)
英子(29歳ぐらい)
妙子(29歳ぐらい)
安田未亡人(45歳、金満家の未亡人)
宿の女中
医師(老人)
S.E 海辺――打ち寄せる波。爆音をあげて滑走しだした水上飛行機。〜B.G
英 子 あ、モーターボートかと思ったら……
岡 田 水上飛行機だろ? 伊丹《いたみ》から、ここ紀伊浜までを、往復しとるんだろ……
英 子 そう……知らなかったわ。
岡 田 天気はええし、正月だから、飛行機もかき入れどきらしいなア。
英 子 ねえ、伊丹からって云ったけど……
岡 田 うん、なんだい?
英 子 伊丹は陸地でしょ? どうして、水上飛行機が降りられるの?
岡 田 阿呆だな……陸に下りるときは、ちゃーんと車輪が出てくるように、なっとるんだよ。
英 子 なあんだ、そうなの……
S.E 飛行機、離水して飛び立つ。
英 子 あ、上ったわ!
岡 田 あたり前だ……沈んだら飛行機にならん……
英 子 どうして、そうあたってばかりいるの? やっぱり、私より、あのパトロンのお婆さんと、紀伊浜へきたかったのね?
岡 田 ばか……それより帰りは飛行機で帰ろうか?
英 子 え、帰りは? (含み笑って) そうね、できたら、それもいいわね……(低く笑い続ける)
S.E 笑い声――UP(エコーしつつ)――B.G
英 子 (独白)かわいそうにこの人……この紀伊浜から生きて帰れるつもりでいるんだわ……飛行機で帰れるのはこのあたしだけなのに……
S.E ダブって波の音入ってくる――やがて波だけのB.G
英 子 (独白)きっとうまくやってみせるわ……この方法なら誰にも怪しまれず岡田を殺してしまえる……そうだ……あたしが彼に殺意を抱きはじめたのはいつごろからだろう……彼が新しい仕事をはじめて女ができてからだわ……私には店を持たせてくれないで……私が欲しかったのは、たった一軒の店だったんだ……
バーに勤めている女には、二つの夢がある、一つは、結婚の相手を探すことで、もう一つは、店を持ってマダムになることだ……岡田には妻子があった……だから結婚はできない……きっと店を持たせてやると約束したくせに……二十九になるまで働かせづめだった……
S.E 波の音――UP――DN――B.G
英 子 (独白)彼があたしに、してくれたことといえば、私が受取人名義になっている、たった四百万円の生命保険だけ……その掛け金だって、このあたしが払っているんだわ……でも、そうだ……事故死の場合は、倍額の八百万円がころがりこんでくると知ったとき……あたしは、岡田を殺す決心をしたんだわ……だって八百万円の金があれば、立派なお店が持てるんだもの……
S.E 消えて――
--------------------------------------------------------------------------------
M  入ってくる――(回想)――B.G
妙 子 ねえ、英子……
英 子 うん……
妙 子 岡田さん、どう言ってた?
英 子 だめだって……男のくせに、化粧品の会社か、なにかに夢中になっちゃってさ!
妙 子 あたしの方も、ダメなのよ……三百万円しか、出せない。しかも、手形だって……ねえ、手形で店が買える?
英 子 手形でも、出してやろうというだけ、妙子の旦那の方が実があるよ……うちのは、からっきし、ケチなんだから!
妙 子 ヒスイの指輪に、目が昏《くら》み……か! (笑う)
英 子 ほんとよ……この指輪だって、ニセ物かもわかんないわ……
妙 子 でも、惜しいわね……いまどき、あんな店が、六百万円じゃ買えないわよ? 場所はいいし、さ……
英 子 でも、六百万円じゃねえ……
妙 子 とにかく、三ヵ月は待ってもらうことにしたんだけど……だから二月までに、岡田さんにさ……
英 子 うん……
妙 子 ねえ、二人で店を持とうよ……出資も利益も半々でどう?
英 子 そうね……
妙 子 うちのオヤジ、ぽっくり交通事故でなくなると、うまいんだけどね。
英 子 あら、なぜ?
妙 子 だったら、生命保険が二倍になって入ってくるからさ……もっとも、五十万ずつ四口だから、病気なら二百万円。
交通事故だと四百万円……(笑う)
--------------------------------------------------------------------------------
M  ゆっくり消える。
S.E 波の音〜襖《ふすま》があく。
女 中 ご免下さいませ……
岡 田 ああ……
女 中 お片付けしてよろしゅうございますか?
英 子 いいわ……
女 中 おミカンをどうぞ……今年は、あまり甘くございませんけど……
S.E 皿小鉢を片付けだす――B.G
岡 田 ねえ、女中さん……
女 中 はい……
岡 田 白浜の町には、映画館はないのかい?
女 中 ございますけど、汚《きた》のうございますよ? あのう……千畳岩や水族館は……
英 子 去年きたとき見たの……春ごろだったかしらね、あなた……
岡 田 うん、五月だったなあ……
女 中 遊戯場にいらして、ボーリングでもなさったら?
岡 田 ボーリングか…… (苦笑して) よほど貧乏性にできてるんだね、正月の二日間、こうして何もしていないでいると、お尻がむずむずしてくる……
女 中 (笑って) 海底温泉は、ごらんになりまして?
英 子 ええ、昨日入れて頂いたわ……ねえ、あなた。
岡 田 うん……海の底で魚が泳いでいるのを見ながら、中へ這入《はい》っているなんて、ちょっと奇妙なもんだね……
女 中 よく存じませんが、海底十メートルの深さなんだそうでございます。
英 子 あの魚は?
女 中 ああ、あれは浴室の外に、コンクリートの水槽をつくりましてですね、その中に放《はな》ち飼《が》いにしてあるんでございますよ……
岡 田 そうだろうな……いくら鯛やコチなどだって、人間が風呂に入っているのを珍らしがって、覗《のぞ》きに来ないだろうと思ってたよ……(笑う)
女 中 魚は逃げないように、水槽の上には網がはってございます……伊勢海老もいるんでございますよ。
岡 田 しかし……海の底へおりてゆく、細いコンクリートの通路は、気味がわるいみたいやねえ……
英 子 まるで、深い深い地下防空壕へ入ってゆくみたい……
岡 田 女中さん……
女 中 はい……
S.E 片付け物。ミカンをむいて食べる二人。
岡 田 なぜ、途中の通路で、番頭さんが鉄のドアにカギを下ろすんだい?
女 中 なんでも水圧と気圧の調節のためと……それに一時間ずつ買いきりの家族風呂になっているからでございます。
英 子 そうよ、あなた……カギをかけなかったら、海の底でおちおち風呂へ入っておれないじゃない?
岡 田 しかし、出るのには不便だよ……
英 子 そうかしら?
女 中 夜の十二時すぎますと、ご自由に入れることになっています。でも、水槽の蛍光灯が消えますので、魚が泳いでいるところは見えませんけど……
英 子 ねえ、今夜、入ってみない?
女 中 (笑って) 気味がわるうございますよ。
英 子 平気よ……ねえ!
岡 田 おれはご免だね……
英 子 あら、どうして? (ギクリ)
岡 田 大浴場で、のびのびと入っていた方がいいよ……
女 中 失礼いたしました……
岡 田 ああ、どうも……
女 中 遊戯場は、大浴場の上になっておりますから……
英 子 どうも、ありがと……
S.E 波の音、入ってきて――B.G
岡 田 (独白)英子はなぜ、海底温泉に入りたがるのか? しかも真夜中に……。だが待てよ……もしかしたら、これはチャンスかも知れないぞ……
S.E 波の音、UPしてDN――B.G
岡 田 (独白)真夜中だと、誰にも姿を見られず、あの海底温泉へ行ける……湯につかったまま、毒入りジュースを飲んで自殺……翌朝、英子の姿が見えないと、おれが騒ぎ立てるころには、彼女は冷たくなっている……そうだ……英子が自殺したがっていることを、誰かに吹聴《ふいちよう》しとかねばならない……
そのための芝居を……うん、室の女中がいい……わざと金をやって、それとなく英子の監視をたのんでおくんだ……これだと誰も俺を疑わない……かえって女中が、俺の無罪を証言してくれる……英子と別れなければ、あの婆さんは金を出してくれない……でも英子は、別れるぐらいなら、俺を殺して自分も死ぬと言いやがった……
おれを殺して、自分も死ぬ……ふーん、心中未遂という手もあるなあ……彼女の買ってきたジュースを一口のんだら苦かった……そのうち英子が苦しみだして……俺が慌てる……息もたえだえで、素ッ裸で急を知らせる……
S.E 波の音、UPして消える――
--------------------------------------------------------------------------------
M  回想風に入って――B.G
岡 田 (独白)おれが目をつけた新しい事業というのは、女性の化粧品――シワの寄らない栄養クリームだった……化粧品店や薬局にたよらず、セールスマンが団地や家庭を訪問して宣伝販売する。いわば直販システムで、急速にのびてきた会社があって、これで俺はヒントを得たのだった……おれは熱弁をふるって、安田未亡人を口説いた……
岡 田 よろしいですか、奥さん。日本には五千万人の、女性がいるんです。このパンネという栄養クリームの会社はですね、日産一万ケースからスタートして、一年後には五万ケースの売上げにのびているんです。しかし、五千万の女性人口から考えますと、わずか〇・一パーセントなんです。よろしいですか、たったの〇・一パーセントです。
未亡人 岡田さん……でも、これだけ「パンネ」の名が売れているのに、同じような会社をつくって、大丈夫かしら?
岡 田 奥さん……柳の下にドジョウは二匹いるんですよ……パンネの資本金は三千万円、こちらもそれと同じぐらいの資本と工場設備をもってスタートすれば、大丈夫ですよ……幸い、奥さんのお持ちになっている二万坪の土地に工場をつくり、オートメーションで生産に入りますと……
未亡人 あなたは気易くおっしゃるけど、そんな三千万円なんて大金は、とてもとても……
岡 田 あなたはご自分が、どれだけの財産をお持ちか、ご存じないんですよ、奥さん……
未亡人 ええ、そりゃア……死んだ主人が残してくれた不動産、動産を、そっくりうけついだだけですもの……
岡 田 だからなんですねえ。いいですか、銀行の評価によりますと、この赤坂のご邸宅だけで、ざっと五千万円の価値があるんです……
未亡人 あら、ほんとう?
岡 田 本当ですよ……お子さんはいないし、これから先、なにかお仕事でもお持ちにならないと、老けこむ一方ですよ? (笑って) 奥さんが社長で、私は常務……そういうコンビで、この事業に着手しましょう……世の女性がたの、ためにもなることです……
--------------------------------------------------------------------------------
M  UPして〜DN〜B.G
岡 田 (独白)おれは、四十五歳になる安田未亡人を口説いた。銀行の定期預金だけで六千万円、金利だけで毎月二十五、六万円ある金持の未亡人だった……でも、女は用心深い……おれは仕方なく、別の作戦にでた……
S.E 荒い息づかい、接吻……しばらく息ぐるしく聞かせて――
未亡人 ねえ……
岡 田 なんです?
未亡人 あんた……
岡 田 ええ……
未亡人 私が目あてなの?
岡 田 え?
未亡人 それとも、お金?
S.E 接吻――
岡 田 きまってるじゃあないですか……
未亡人 どっち? ねえ。
岡 田 奥さん……あなたですよ……
未亡人 うそ!
岡 田 なぜです?
未亡人 だって、あんたには……
岡 田 女房子供があると言いたいんでしょう? (笑う)
未亡人 それに……
岡 田 え?
未亡人 英子さんという、恋人もあるわ。新宿のバーに勤めてらっしゃるって、ほんとう?
--------------------------------------------------------------------------------
M  コード
岡 田 奥さん……
未亡人 あたしを、こんな風な悪い女にさせたのは、岡田さん、……あんたよ?
岡 田 わかってます……でも、愛してるんです――
未亡人 あなたのお仕事に、投資しなくても?
岡 田 ええ? (おどろくが、すぐ) ええ、もちろんです……そりゃア仕事も大切ですが、奥さん……あなたには代えられません……
未亡人 (ウットリ)まあ……
岡 田 好きです。愛してます……
未亡人 六つも年上の、こんなお婆さんでも?
岡 田 美人ですよあなたは……私と同じ年かと思ってました……
未亡人 お口がお上手ね……
岡 田 奥さん……
未亡人 その、奥さんと呼ぶのは止めて。和江と呼んでちょうだい、二人だけのときは……
岡 田 和、江……どうも照れ臭いな。
未亡人 ねえ、あなた……
岡 田 はい……
未亡人 その英子さんという人とは、長いおつきあいなの?
岡 田 六年ぐらい……ですか。
未亡人 別れてちょうだい。
岡 田 え?
未亡人 奥さんのことは、仕方ないわ……
岡 田 …………
未亡人 でも、私とこんなことになった以上、その英子という女の人とこんな真似をされるの、いやだわ……
岡 田 はあ……
未亡人 きっぱり別れて! そうしたら……
岡 田 え?
未亡人 あなたのお仕事のお手伝いするわ……
岡 田 えッ、本当ですか! (歓喜)
未亡人 でも、きっぱり別れないうちはダメ。その証拠を見せて頂くわ……
岡 田 別れます……奥さん……
未亡人 和江、でしょ?
岡 田 あ、和江だ……(苦笑)
未亡人 あなたのお仕事のこと……銀行の方に相談したら、パンネのほかにもう一社や二社、競争メーカーがでても大丈夫だって……
岡 田 そうでしょう? (勢いづいて) なにも五千万人の女性を、パンネ一社に独占させておく必要ありませんよ! ……世界には十億の女性がいて、ざっと七億人が顔にシワが寄ることを心配してるんですからね……これを対象にして、将来輸出も……
--------------------------------------------------------------------------------
M  UPして〜F.O
S.E 波の音〜B.G
英 子 いつのまにか夜になったわね……みてごらんなさい……ネオンがきれいよ……どこかしら?
岡 田 さあ……
英 子 ダンスにでも行かない?
岡 田 うん、行こうか……先に行っといてくれよ。すぐ行く……
英 子 じゃア下のホールで待ってるわ。
岡 田 ああ……
S.E フスマの開閉。でて行く。
岡 田 問題はこれからだな……
S.E 電話をとる。
岡 田 あ、フロントですか。ちょっと、お部屋の係の女中さんを呼んでいただけませんか? いえ、ちょっと個人的にお願いしたいことがあって……
S.E 波の音。(ブリッジに使用)
--------------------------------------------------------------------------------
M  ペギー葉山の「爪」
二人暮した アパートを
一人一人で 出ていくの
済んだことなの いまはもう……
S.E ダンスする人々(スリッパである)
英 子 あんたとこうやってダンスするの、久しぶりね……
岡 田 そうだな……
英 子 こんどは、いつかしら……
岡 田 どうしたんだ……やけに、おセンチなこと、云ってるじゃないか……
英 子 あたし、いけない女だわね……せっかくのお正月なのに、あんたを白浜へ引っぱり出したりさ……
岡 田 いいよ、いいよ、女房たちはどうせ故郷へ帰ってんだから……
英 子 あたし、悪い女?
岡 田 さあ…… (当惑して) どうかなあ……
英 子 でも、別れるのはいやよ?
岡 田 う……うん。
英 子 ぜったいに、いや。
岡 田 わかってるよ……ダンスしてる人に聞えるよ……
英 子 ごめんなさいね……
岡 田 いいさ……この白浜にいる間は、英子の云いなりになってやるよ……
英 子 ほんとう?
--------------------------------------------------------------------------------
M  同じくペギー葉山の唄。――B.Gとなる。
……とてもきれいな 夢なのよ
あなたでなくて 出来はしない
素敵な夢を もつことよ……
英 子 (独白)そうだわ……私でなくては、あの店はできないわ。……そのためには、きっと、今夜こそ……
岡 田 (独白)なにも知らずに嬉しがってやがる! でも、やらねばならん……女中には電話しといたし……あとは、ジュースを英子に買わせるだけだな……
英 子 ねえ、あんた……
岡 田 ん、うん?
英 子 私のいうこと、きいて下さるの?
岡 田 ああ……新宿の、あの店以外のことならね…… (笑って) 真夜中の、海底温泉にだって、つきあうぜ……
英 子 うれしいわ…… (笑う)
岡 田 お安いご用さ…… (笑う)
英 子 あたし、ひとりでも、入りに行こうと思ってたの。
岡 田 ふーん?
英 子 だって、ちょっと、ロマンチックでしょう……
岡 田 ロマンチックか……
--------------------------------------------------------------------------------
M  ダンス音楽――セグエして、深夜。無気味にUPしてC.O
S.E 廊下をゆくスリッパ。――B.G
岡 田 先に行ってるよ……。瓶入りのジュースだぜ?
英 子 わかってるわ……
S.E 石ころ道を、歩いてゆく下駄の音。とまる。
岡 田 (独白)やっぱり、だ……カギの束は、ここにかけてやがった。
S.E 重い鉄の扉、ギイーッ。階段を下りてゆく下駄、少しずつ反響してゆく。途中で廊下……とまって、カギをがちゃがちゃさせる。鉄の扉あくと、換気装置の低いモーター音。また、階段を下りてゆく……
――しばらく、間――
S.E 下駄の音、下りてくる。
英 子 (心細そうに) あんた……
岡 田 …………
英 子 あんたア……
S.E 浴室のドアあいて――
岡 田 おう……いい湯加減だよ、早くおいで……
英 子 あら、あんた……メガネかけて入ってるの?
岡 田 ひどい近眼だから、メガネをとるとこわくてな……
英 子 いいわよ、私がついてるから……ジュースは買ってきたわ……
岡 田 はやくおいで……
S.E ドア、しまる。湯につかる音……
岡 田 (欠伸《あくび》) ああ、いい湯だ……
S.E 換気のモーター音――B.G
岡 田 (独白)英子が入ってきたら、ドアのカギをしめると言って、外に出よう……そして青酸カリをジュースに入れて、彼女に飲ませるんだ……
S.E ドアあいて、入ってくる英子……
岡 田 危いぜ……その石、コンクリートがはずれて、ぐらぐらしてるから……
英 子 知ってるわ、そんなこと……
S.E 石をとって床におく。ザブリと入る……しばらくパチャ、パチャ。そのうち、立ち上る岡田。
英 子 ……もう、上る気? (語気するどくなっている)
岡 田 (苦笑) ドアのカギをしめてくる。ゆっくり入れないから…… (笑って)
S.E 出てゆく岡田。浴室のドア、しめる。換気のモーター音――B.G
英 子 (独白)昨日だったわ……このプランを思いついたのは……。このガラスを叩き破ったら、どうなるだろう……と考えたことだった……あの岡田は、ひどい近眼だし、泳ぎができない……叩きこわして浴室のドアをしめてしまえば、もうこっちのものだわ……宿の人に岡田がふざけて石を投げたと云ったら……私は疑われない……
S.E 石を動かす……
英 子 (独白)彼が入ってきたら、メガネをとらせて、それから石をぶつけよう……海水がどっと入ってきたら、彼の体をつきとばして……
S.E (OFFで下駄、下りてくる) そして、浴室のドア、ひらく。
岡 田 さあ……これで安心だ……だれも入って来ない……
S.E 湯に入る。ブルブルとやって。
岡 田 おい、英子……
英 子 あ、メガネがくもってる。貸してごらんなさい……
岡 田 いいよ……それより、ジュースを飲まないか?
英 子 少しだけね……でも、メガネを貸して……
S.E 湯の音。
岡 田 半分のんだら、ぼくが飲むよ……
英 子 そーお?
S.E ゴクリ、ゴクリ……
岡 田 (低く、叫ぶ) ああーッ……
英 子 さ、メガネ貸して……
岡 田 おい、なにをする!
S.E 湯の中でもつれあう。やがて、石が投げられる。ガチャーン、バリバリ……ザアーッ……と海水。
岡 田 あッ、英子……メガネが、おい、入口がッ……
--------------------------------------------------------------------------------
M  混乱〜UP〜F.O
S.E 苦悶する英子……
英 子 (喘ぐ断末魔) うッ……苦しい……よくもジュースに毒を……カギが、カギが……
--------------------------------------------------------------------------------
M  入って〜UP〜C.O
S.E 波の音――B.G 検屍する医師。
医 師 どうも、無理心中らしいですなあ……女が男を殺したあと、自分も青酸カリの入ったジュースを飲んだんでしょう……
女 中 そういえば先生……おつれの男の方が、なんでも女が自殺しそうだから、気をつけていてほしいとか、おっしゃってましたえ……
医 師 そうやろな……男は溺死……女は中毒死か……
女 中 なにも海底温泉の、ガラス窓を破って溺死させんかて、外はみな海ですのに……けったいな死に方でんなあ……
医 師 それが無理心中ちゅうもんや。おおかた、男に妻子があって、いっしょになれん……それならいっそ……と、思いつめたんやろが……正月早々、縁起のわるい話やなあ……
女 中 ほんまだすわ……
医 師 じゃア失礼……
S.E 車のドアしまり、去る。波の音、ひときわ高く聞こえ、F.O
初出一覧
那覇心中       小説現代 昭和49年8月号
スワッピング心中事件 小説宝石 昭和49年7月号
ケロイド心中     小説現代 昭和46年3月号
綱島心中       別冊文芸春秋 昭和40年9月秋季号
紀伊浜心中      NHKシナリオ(昭和38年1月24日放送)