梶山季之
朝は死んでいた
目 次
第一章 朝は死んでいた
第二章 遊 軍 誕 生
第三章 二つの疑惑
第四章 犯人はアベック?
第五章 縮れ毛の男
第六章 バー「A&B」
第七章 死んだ刺青師
第八章 千七百万円の船火事
第九章 す り か え
第十章 破られた壁
第十一章 逮 捕
第一章 朝は死んでいた
一
――代々木千駄ケ谷といえば、体育館や野球場のある神宮外苑の所在地としてよりも、むしろ〈温泉マーク〉の代名詞として、東京のサラリーマン達には親しまれている。
現在では、この界隈《かいわい》に、数百軒の旅館がひしめき、お客の争奪戦をくりひろげている。
各室バス・トイレ付きというのは常識で、なかにはホテルに較べて遜色《そんしよく》のない豪華な設備をもった旅館もある。冷暖房はもちろん、室内にはテレビから電気冷蔵庫まであり、百円銀貨を入れると、チリ紙・衛生サック・強精剤がワンセットになって転がりだす器械まで置いてあるところも、決して珍しくない。
いわばデラックスな情事が、その密室の中では愉しめるようになっているのだ。
しかも客は夜ばかりでなく、朝のうちから訪れてくる傾向にあるそうだから、〈温泉マーク〉は大繁昌である。
午前中にやってくるのは、人妻と大学生、歌手とか映画俳優といったカップルだそうだ。
〈昼下りの情事〉を愉しむのは、重役と女秘書、若い高校生たち。
夕刻から午後十一時ごろまでは、B・Gとサラリーマン、商店主と女事務員、道ならぬ恋に悩む人妻と学校教師、あるいは課長とB・Gといった時間決めの客が多い。
そのあとが泊り客で、いわずと知れた水商売の女性と客の男性とのカップルである。キャバレーのダンサーや、バーの女給たちが、金になりそうな男をくわえこんで、一夜の恋愛を愉しむわけだ……。
もっとも、千駄ケ谷を利用するのは、一夜の泊り料金が高いせいもあって、客も高級である。また泊る女給も、銀座、渋谷、新宿といった一流の店に勤めている女性たちが、ほとんどであった。
最近は警察の取り締りがやかましくなったためもあって、銀座のキャバレー、バーなどは、午後十一時半になると閉店する。そのため夜の十一時過ぎには、銀座では、めったにタクシーは拾えない。
そこで気の利いた客になると、思召《おぼしめ》しのある女給を誘って、地下鉄で新宿に出るのだそうだ。そして握り寿司でもつまみながら、じっくり相手の女性を口説く。これは外人が、うまい料理を食ったあと、カクテルを飲み、ダンスに誘って女性を口説く手口に、いささか似かよっている。
交渉が成立するころ――新宿では、空車のタクシーがうろうろしている。それをつかまえて乗り込めば、あとは黙っていても、運転手の方で気を利かせて〈千駄ケ谷〉に連れて行ってくれるであろう。
タクシーの運転手は、商売柄、客の懐ろ工合を見抜く才能を持っている。そしてまた、それぞれ何軒かの、顔の利く旅館を知っているものである。
「どこか、静かなところ……」
と一言告げただけで、運転手は、バックミラーに映った客の服装、女の態度を見て、しかるべき旅館の玄関先まで運んでくれるのだから、重宝な存在といわねばなるまい。
また旅館の女中も、こうした一夜の情事客の扱いには馴れている。客の顔は見ないで、靴と服装とで案内すべき室の値段を、ちゃーんと判断する。これも見事な眼力といわねばなるまい。
――あとは密室の中で情事が待っているだけだった。
二
……東田|迪夫《みちお》は、ゆっくり目覚めた。沼の底に沈んでいた重い木片が、メタンガスの助けを借りながら、やっとこさ水面に浮き上れたような、そんな不快な覚め工合だった。
かれは枕を抱えこむようにして、うつ伏せの姿勢で寝ていた。これは酔って寝たときの、かれの癖である。
頭は、ひどく重かった。
大脳のある部分に、消え忘れたネオンが、朝日を浴びながらチカチカと明滅し続けているような、そんな疼《うず》きを伴った重苦しさである。あまり感じの良い、目覚め方だとはいえなかった。
かれは枕に顎《あご》を埋めたまま、そっと何度か首をふってみる。今朝もまた、二日酔だった。しかし、いつもとは少し勝手が違っている。
〈ひどく飲んだらしいな……。新宿まで流れて来たのは、覚えてるが……何軒ハシゴしたんだろう?〉
まるで厚い鉛の箍《たが》を、頭の内側にはめ込まれ、締めつけられるように、頭はズキン、ズキンと疼いている。それでいて、まだ寝足りないのか、目を瞑《つむ》っていると、その浅い眠りの靄《もや》の中に、すーっと引き入れられそうな感じもあった。
枕許《まくらもと》の方へ手をさしのべた。
毎朝の習慣で、ピースの罐を、探そうとしたのだ。下宿の万年床には、いつも枕もとに、灰皿と煙草とマッチが置いてあった。
どんなに眠い朝でも、寝床の中で、煙草を一服すると、決って頭がハッキリしてくる。
――だが、今朝は様子が違っていた。
意外にも、枕許から「カチャッ!」という聞き馴れぬ小さな物音が、かれの鼓膜に響いてきたのだ。かれの左手は、戸惑いながら、その動きを止めた。
ピースの罐が、灰皿に触れた音ではない。
明らかに、かれの下宿では聞き馴れない物音だった。なにか、ガラス容器と容器が触れ合って、発生する音だった。
〈変だな?〉
東田迪夫は、急いで身を起そうとした。
でも、身を起すまでもなく、柔かいベッドの軋《きし》みと感触とが、高円寺のかれの下宿ではないことを教えてくれた。
慌《あわ》ててかれは、頭を左右に強く振った。そうして何回か瞬《まばた》きしてみた。かれの目に写った枕もとの光景は、しかしかれを、さほど駭《おどろ》かせなかった。
……小さな花模様の入った、クリーム色の壁紙。窓の日射しを厚く遮《さえぎ》っている、暗緑色のカーテン。
枕許にはデコラ貼りのサイド・テーブルがあった。そして切子細工の碧《あお》い水差しがあって、その口には、同じ細工模様のコップがかぶせてある。
東田迪夫には、なんどか経験のある道具立てであった。間違いなく、ここは連れこみホテルの一室だった。それも千駄ケ谷界隈の、高級な温泉マークらしい。
かれは室代の支払のことを思い、反射的にぎくりとしながら、傍《かたわ》らに首を捩《ね》じ向けた。もちろん、かれの傍《そば》には、かれ以外の異性――つまり女性の、こんもりと盛り上った膨《ふくら》みがあった。
女は毛布を、頭からすっぽりとかぶるようにして、寝ている模様である。
かれは俄《にわ》かにまた、頭の中が重苦しく疼きはじめたのを知った。かれは、淡い悔恨めいたものが、胸の中に発生しはじめたのを確認しながら、頭を強く左右に揺すった。
〈そうだ。思いだしたぞ……〉
かれは、心に小さく呟《つぶや》いた。
……昨夜おそく、かれは、自分の隣で眠っている女性を、新宿伊勢丹前で拾ったのだった。顔立ちは、よく憶えていない。しかし面喰いと定評のあるかれが、一緒に泊りに来たぐらいだから、そんな不美人ではない筈だった。
昨日の夕刻、生産性本部の視察団に加わって、欧米旅行に出かける上司の送別会が、築地の料亭で行われた。
そのあと東田は、部長と連れ立って、銀座のバーを何軒かハシゴして、新宿へ流れて来たのだった。
新宿の二幸裏のクラブで、部長と別れたところまでは、明瞭な記憶がある。しかし、そのあとの記憶が、不明確だった。
かれはホテルの柔かい枕に、自分の顔を埋めるようにして考えこんだ。枕カバーからは、かれのポマードの匂いがした。
東田迪夫は、F相互銀行本店の、貸付課に勤務しているサラリーマンである。
月給は手取り二万二千円で、ボーナスは年に三回でた。入社して七年目だから、決して高い給料とはいえなかったが、貸付課にいる恩典で、小遣いには不自由しなかった。これが東田を、典型的な酒飲みにさせた原因だともいえる。
〈ああ、そうだ……。俺は部長と別れてから新宿東宝裏のバーヘ行こうと思ったに違いない……。そして伊勢丹の角で、こいつに会ったんだった……〉
かれはベッドに腹這いになったまま、サイドテーブルの水差しに手をのばした。
その瞬間、わずかに毛布がめくれて、柔かそうなウエーブをもった女の髪の毛と、香油の芳香とが、彼の視覚と嗅覚とを擽《くすぐ》った。
かれはコップに注いだ水を、一気にごくごくと咽喉《のど》へ流しこんだ。水は、うまく口の中へ入らずに、溢れた水が顎の先から胸もとへと伝わった。その冷たい感触が、ようやく東田を睡気から離別させてくれた。
かれは、ぼんやり昨夜の情景を、思いだしていた。
酔うとハシゴ酒の悪癖のある東田迪夫は、昨夜も部長と別れてから、千鳥足で新宿三丁目の方向に歩いていたのだ。
そして角の伊勢丹まで来たとき、自分に寄りそうように歩いている、一人の女性を発見したのだった。いつごろから、肩を並べて歩いていたのかは、はっきりしない。
東田は、おやと思って、女を見た。女は白い歯をみせて、かれに微笑《わら》いかけた。酔眼には、その女性の顔立ちが、ひどくなまめかしく写った。
「どう? どこか飲みに行かない?」
最初に声をかけたのは、かれの方だった。飲みに誘ったのは、彼女の服装から判断して、バー勤めの女性と睨《にら》んだためだろう。街娼には、かれは一切声をかけない習慣である。
「そうね。うんと酔わせて下さるなら!」
女は、腕時計をみて答えた。
東田迪夫は、〈面白い!〉と思った。バー勤めの女給が、帰り途に、小さなアバンチュールを愉しもうとしている! 男ならば、これに応じない方がどうかしていた。給料日のあとで、まだ二、三軒飲み歩いて、ホテルヘしけこむ位の金の余裕はあった。
かれは顔馴染みの、東宝裏のバーヘ、女を誘った。それからあと、二軒ぐらい、女に連れられてバーを歩いたような気がする。勘定は女が払ったか、自分が払ったか覚えていない。
そしてタクシーを拾うと、女は運転手に囁《ささや》いたのだった、「どこか静かなとこへ……」と――。
運転手は、にやりとして頷《うなず》いた。
〈変った女だな……。男にでも振られて、自棄酒《やけざけ》の相手が欲しかったのか?〉
東田は、かすかに苦笑した。行きずりの女性と、こんな性交渉をもったのは、はじめての体験である。
かれは急になぜか、強烈で、粘っこい昨夜の感覚を蘇《よみがえ》らせた。
……女は、二十九歳のかれの、厚い胸の下でのたうち廻り、かれの髪の毛を掻きむしるように悶《もだ》えつつ、喘《あえ》いだのだ。喘ぎながら、のけぞり、口では絶えず囈言《うわごと》のようなものを口走った。
「ああ、ああ」と、女は呻《うめ》いた。そして東田の肩を噛んだ。
「ああ、殺して! 首を、首をぐッと絞めて……」
女は髪の毛をふりみだし、かれの裸の背中に爪を立てた……。
東田迪夫は、自分と同年輩だと思われる、その女給風の女性に、最後までリードされる恰好で精液を吐きだした。快感よりも、屈辱めいた疲労感が、体の芯をつらぬいた。かれはぐったりした。
夥《おびただ》しい汗が、一匹の雄と雌との、触れ合った皮膚を濡らし、シーツを湿らせていた。
雌はそのままの姿勢で、かれの体を動かさずに、しばらくじいーっとしていた。いや、自分の尻を浮かせるようにして、快感の残り火を、あますところなく吸い取るような、そんな貪婪《どんらん》さすら示したのだ。
〈男に飢えていたのだ〉
と、かれはそのとき、酔った頭で考えていたような気がする。
ややあって、恥しそうに女は、かれの首に自分の顔を埋めた。そして囁いた。
「あなたって……女を夢中にさせるわ。女殺しね……。あたしを、こんなに取り乱させるなんて……悪い人! でもあたし……後悔なんか、してなくってよ……」
東田迪夫は、苦笑を洩らしながら、枕許の電気スタンドに右手をのばした。
「いや! そのままにしていて……。電気を点けられると、恥しいわ……」
女は言った。
「煙草が吸いたいんだ……」
かれは答えた。
「煙草なら、あたしが点けたげる」
女は、深い溜息とも吐息ともつかぬものを彼の耳朶に吐きかけると、器用にお互いの体の始末をやってのけた。そして白い裸のまま、ベッドを降りた。
暗闇の中で、ライターの焔《ほのお》が朱く蠢《うごめ》き、やがて火のついた煙草が、仰向けに寝ているかれの唇《くちびる》にさしこまれた。
「これ……外国の煙草よ? これを吸いながら待ってて下さるわね。あたし、ちょっと汗を流してきたいの。でも、眠っちゃ嫌! もう一度……あたしを夢中にさせてくれなくっちゃァ……」
女は甘ったるく、媚《こ》びるように言った。東田は頷いた。
しばらくすると、浴室の中で、シャワーを浴びる音が聞えだした。快《こころよ》い昂奮が去ると、さすがに酔いと疲労とが襲ってきた。そして煙草も、ひどく口に苦く感ぜられる。でも東田は、起きていよう、眠るまいと努力していた。
女は、なかなか戻って来ない。
かれは睡魔と戦いながら、いっしんに、苦い煙草をふかし続けた。だが、二十九歳の肉体は、深酒と疲労の攻勢には勝てなかった。かれは、浴室から聞える微かなシャワーの音を聞きながら、そのまま寝入ってしまったのである。そして不覚な朝を、迎えたということになる。
――東田迪夫は、どうにか記憶の糸が、漠然とした形ながら繋がると、一種の安堵《あんど》を覚えると共に、体の中に、精気が漲《みなぎ》ってくるのを知った。
熟睡したせいか、疲労はほとんど消えている。頭の片隅に、二日酔が残っている程度だった。かれは、そっと毛布を持ちあげて、女の様子を窺《うかが》った。
女は彼に背中を向けて、よく寝ていた。
頭から毛布をかぶって寝ていた為か、頬のあたりが赤く上気している。かれは指先で、女の髪の毛に触れた。女は身じろぎもせず、静かに眠っている。
シャワーを浴びてベッドに戻った女は、かれを目覚めさせようと努力したに相違ない。しかし酔っぱらって寝込んだが最後、ちっとやそっとのことで東田迪夫は、目覚める筈がなかった。
女はきっと、煙草をもったまま寝入っている東田を、恨んだことであろう。そして火の始末をしてから、立腹しながら、かれに背中を向けて寝入ったのであろう……。
東田迪夫は、腕時計をみた。八時十分すぎだった。
出勤は午前九時だが、貸付課員のかれには、調査という重宝な仕事がある。だから、一軒ばかり調査してから出勤すると、電話さえしておけば、正午ごろまでは大丈夫であった。
かれは、その手を使う肚《はら》をきめると、腹這いの姿勢を変えた。隣で眠っている女の体に、少からぬ未練を感じはじめたのである。
体中が火照ってくるような気持がしたのは、昨夜の、あの女のなまなましい喘ぎが、鼓膜の底で幻聴のように甦って来たからであろうか。
かれは浴衣の裾の方から、女の体に触れて行った。浴衣の糊が利いているせいか、なぜか女の体は冷んやりと硬《こわ》ばって感じられる。しかし、パンティは穿《は》いていない様子だ。かれは、自分の男性が、痛いほど怒張するのを感じた。
「ねえ、きみ……」
かれは、囁いた。声がかすれた。
「もう朝だぜ? 起きないのかい?」
その東田の言葉は、ある行動に移ろうとする時の、男性が女性に対する儀礼的な挨拶というべき性質のものだった。むかし、寝起きのわるい女性と同棲していて、よく暁け方の求めを拒絶された苦い体験が、かれにそんな前戯的な言葉を教えこんだのかも知れぬ。
しかしかれの指先は、もはや大胆な動きを開始していた。乳房の膨みから、なだらかな下腹部へ――。でも、女は寝返りすら打たなかった。
苛立ったかれは、こんどは浴衣の襟をはだけて、直接に胸の膨みに触れた。そして下腹部へと指の位置を移行させようとした……。
だが、不意に、かれの指は動きを止めた。異様な感覚が、かれの背筋を硬ばらせたのである。
〈そ、そんな筈はない!〉
東田迪夫は、愕然としながら、でももう一度、女の下腹部に掌をさしこんだ。体温は、全くないと言って良かった。冷え切っていた。
〈死んでるのか? まさか!〉
毛布をはねのけながら、かれはベッドの上に坐り直した。そして女の体を凝視した。
〈重富荘〉という文字の入った浴衣をきて、女は太腿を剥《む》きだしにして眠っている。両腕は不規則な形で、ベッドの外に投げ出されていた。
足首のあたりと、手の先が、やけに蒼白かった。
東田迪夫は、不吉な予感に支配されながら、おそるおそる、女の足首に自分の掌を持って行った。そして顔色を変えた。
血の凍るような一瞬とは、かれのその場合のために考え出された文句のようであった。女の足首の冷たさは、それが生きている人間の皮膚ではないことを、彼に教えた。まるで大理石の像にでも触れたような、冷たい硬い感触だったのだ。
――信じられなかった。東田は、震える手を再び足首にさしのべて、太腿へと撫で上げてみた。が、結果は同じことだった。次の瞬間、かれは、ぶざまな悲鳴を上げて、ベッドから転がり落ちたのである。
――女は、死んでいた。それは既に、生体機能を停止し、物体にと化身してしまった女性の皮膚だったのである。
三
〈落ち着け! 落ち着くんだ、東田迪夫!〉
かれは何度も、自分で自分の心にいい聞かせた。しかし、あまりの事の意外さに、すっかり動顛《どうてん》し切っているかれの気持は、いっかな冷静さを取り戻せなかった。
……女は白眼をむき、髪の毛をふり乱して絶命していた。
顔だけが、赤鬼のように鬱血《うつけつ》しているのは、気道閉塞による〈窒息死〉の特徴である。
頸部には、加害者の両手の指痕と思われる、赤褐色の斑痕が、鮮やかに浮き上っていた。これは両手を使って、血管と気道を圧迫し、死に至らしめた証拠である。つまり女は、扼殺《やくさつ》されていたわけだった。
それにしても、なんと怨めしそうな断末魔の表情であろう!
口は大きく開かれ、歯の間から、これまた変色した舌先がとびだしている。そして白く剥いた眼は、あらぬ虚空《こくう》の一点を睨んで、動かない――。
昨夜……かれの背中を抱きしめ、悦楽の頂上で爪を立てたしなやかな両手も、蛇のようにくねり、娼婦のような巧みな動きを示した白い腿も、いまでは紫赤色の死斑を描きだしているのだ。
蒼白く硬直した足首。両手の爪に施された朱いマニキュアだけが、なぜだか毒々しい。
〈ど、どうしたのだ、一体これは!〉
〈な、なぜ、女は死んでるのだ!〉
東田迪夫は、いいようのない寒気を覚えた。歯の根が合わなかった。オコリにでもかかったように、ガチ、ガチと歯は鳴り続け、体の震えが止まらないのである。
恐ろしい夢を見て、うなされているような感じだった。でも、目の前にあるのは、夢ではなく、現実の死体なのである。かれの拾った女が、かれと寝た女が、死んで横たわっているのだった。
しかも、女は自殺したのではない。
誰かに殺されたのだ。それは幼稚な推理小説ファンであるかれにも、歴然とわかるような殺され方だった。頸部に残された扼圧痕《やくあつこん》は、無言のうちに〈他殺〉であることを立証している。
……となると、当然、犯人が存在しなければならない。
東田迪夫は、二日酔の頭の片隅に、悪夢のように女の言葉が浮き上って来たのを知って、蒼白となった。
女は取り乱し、喘ぎながら叫んだのだ。〈ああ、殺して! 首を……首をぐッと絞めて……〉と!
〈ああ、殺して! 首を、首をぐっと絞めて……〉
東田迪夫は、泣き出しそうな表情で、自分の両の掌を凝視した。
〈こ、この手が、この指先が、あの女の頸を絞めたのか? 俺が無意識のうちに、女を殺したのか?〉
「信じられん!」
かれは、声に出して低く叫んだ。信じられないことだった。たしかに、女は〈首を絞めて……〉と口走った。そのことは、鮮やかな記憶に残っている。
しかし、かれが首を絞めたという行動は、全く身に覚えがないのである。
かれが女の首を絞めるとしたら、それは二度目の交接のときでなければならない。かれには、その記憶がなかった。いや、泥酔して女を待ちながら、不覚にも寝入ってしまったほどのかれに、そのような体力が残っていたとは思えないのだ……。
「罠《わな》だ! だれかが、俺を罠にかけやがったんだ!」
東田迪夫は、低く呻いた。
〈罠! そうだ……これは罠なのだ! 俺が熟睡しているとき、誰かが部屋に忍びこんできて、この女を殺したのだ!〉
そう考えると、かれの表情には、僅かに生気が浮き上ってきた。東田は立ち上ると、部屋の入口に駈け寄った。
誰かが忍びこんで来たものなら、ドアの鍵はかかっていない。おそらく開け放しになっている筈だった。かれは、そのことを確認しようとしたのである。
しかし、ドアの鍵を調べた東田迪夫は、顔色を変えた。
ドアは押しても引いても、一向に開かなかったのだ。どういうわけか、そのドアには、鍵穴もなかった。ドアの把手の中央に、直径一センチ位の、装飾がついているだけであった――。
かれは頭のなかに、急速に血が昇ってくるのを知った。大脳が熱っぽく火照り、口の中が乾いてきた。
〈大変だ……。俺は、閉じこめられた密室にいる!〉
東田迪夫は、本能的に、自分がいま重大な危機に直面していることを嗅ぎつけたのである。推理小説で覚えた〈密室〉という単語が、このときほど恐怖の念をもって、かれの心を凍らせたことはあるまい。
かれは狂ったように、窓の方へと駈け寄った。犯人の逃走口を探すことが、かれの無罪を証明する唯一つの手段なのだ。ドアが閉ざされたままだとなると、あとは窓しか、犯人の出入口はない。
室は、八畳ぐらいの居間と、同じ広さの寝室にわかれていた。そして浴室と便所とは、寝室から入るようになっている。
廊下からドアをあけて入ると、居間があるわけだが居間には窓がない。窓のあるのはその奥の寝室だけである。
東田迪夫は、床の上にずり落ちている毛布を拾うと、女の死体にかけ、なるべく見ないようにしながら、寝室の窓に近寄った。
暗緑色のコール天地のカーテンをあけると、薄いレースのカーテンがあって、スチール・サッシの窓が見えた。窓にも、内部から鍵がかかっていた。
東田は、目を疑った。
まだあきらめ切れずに、かれの手は、その窓を押し上げていた。すると、かれを嘲嗤《あざわら》うように、太い鉄格子が、ガッシリと窓の外にとりつけられてあるのが見え、そして道路の風景が目に入って来たのである。
〈だ、だめだ! 窓から犯人は、逃げ出せない! すると矢張り、犯人は廊下から入って、廊下から逃げたことになる……〉
かれは、居間のソファーに、力なく腰を下ろした。そして必死になって考えこんだ。
〈落ち着け! 落ち着くんだ!〉
かれは、自分に言い聞かせた。かれは、拳《こぶし》をつくり自分の頭をなぐりつけた。そして、自分の膝を大きく振った。できるだけ、冷静になることが、必要だった。
テーブルの上に、灰皿とマッチがあるのに気づいたかれは、煙草を目で探した。愛用しているピースは、居間に造り付けになっている洋服ダンスの中の、かれの背広のポケットに入っているらしい。
かれは立ち上ろうとして、テーブルの下に、女の朱いハンドバッグが、きちんと置かれてあるのを見た。記憶に間違いがなければ、女はバッグの中に、外国煙草とライターを入れている筈である。
東田は、手をのばして、バッグを膝の上に拾いあげた。留め金をはずす。安っぽい香水の匂いが、中から漂《ただよ》ってきた。
貝殻細工の薄いコンパクトと、国産品らしい金色の口紅ケースが目に入る。なまめかしいチリ紙と、香水を沁みこませてあるらしいレースのハンカチ。赤いセルロイドの櫛。銀色の鈴のついた鍵が一本。それだけが中身の全部だった。外国煙草もライターも、見当らなかった。
〈変だな……。たしか、自分で火を点けてくれた筈なのに……〉
東田迪夫は首を傾《かし》げたが、不意に、〈そうだ!〉と思い当った。ふつう、室に入ると、女中が鍵を手渡してくれるのだが、この室には、その鍵もないのである。
〈……ということは、犯人が鍵を使って、逃げた……ということではないのか?〉
〈そういえば、女中は鍵を手渡さなかったぞ……宿帳とチップは、どうなっているのか?〉
かれは、次第に事情がわかりかけてきた、と思った。とにかく、かれは罠にかかったのだと考えた。それ以外に、女が死体になる理由はない。
東田迪夫は、そう考えた瞬間、逃げ出さなければと思った。それは、なぜだか判らない。警察に届けるのは、不利だという気持がした。
かれは、バッグを置いて、立ち上った。そのとき、かれの足の下で、微かな金属と固いなにかが触れあう音が聞えた。
みると、黄色のプラスチックの板に、鎖と鍵がついている。東田の指は、それを拾い上げた。見ると、プラスチックの板に、菊の花の模様が彫りこんであり、裏返すと〈 Kiku-no-Ma 〉〈 Hotel Sigetomiso 〉というローマ字が刻み込まれていた。
〈菊の間……ホテル重富荘か!〉
東田はぼんやり、そのローマ字を判読していたが、プラスチック板の鎖の先に、銀色に重苦しく光っている鍵に気づいたとき、かれは唖然《あぜん》となった。
鍵は、室の中にあったのだ。
……となると、犯人は鍵を使ったのではない。逆にいえば、誰もこの室に入って来なかった、ということになるではないか。
東田迪夫は、へなへなと床の上に坐りこんだ。化繊らしい真ッ赤なジュータンの色が、かれを嘲嗤《あざわら》っているように見える。
躰中のすべての力が、不意に抜け切った感じだった。おそらく大地震の最中に、津波がやって来たとしても、かれはそれほど混乱はしなかったであろう。
体の関節は、意味もなく、電気のショックを受けた時のように、ガクガクと震えはじめたのである。そして大脳の働きは、ピタッと動きを止めて、途方もない恐怖にだけ東田を誘いこんで行った……。
四
洋服ダンスは、居間につくりつけてある。デコラ貼りの、なかなか洒落《しや》れた感じの洋服ダンスだった。
扉をあけると、その扉の裏側に、小さな鏡が取付けてあった。
ワイシャツの袖に腕を通しながら、東田迪夫は、その鏡の中を覗《のぞ》き込んだ。
顔は土気色だった。瞳は、恐怖のためにひきつり、唇はワナワナとふるえ続けている。額には膏汗《あぶらあせ》が噴き出ていた。
指先は、いうことを利かなかった。かれは泣きそうに顔を歪め、歯を喰いしばって、ワイシャツの釦《ボタン》を、なんとかはめ終えた。
ネクタイを探す。
ネクタイは見当らなかった。東田は、乱れ箱の中を引っかき廻した。
ナイロン製のピンクのスリップと、蝉の羽根のようなパンティがあった。肉色のストッキングが、乱れ箱からかれの足許に垂れ下っている。爪先と踵の部分だけが、うす黒く汚れているのが、へんに肉感的である。
〈ネクタイは、どうしたんだろう!〉
東田迪夫は、必死になって探した。自分の靴下はあったが、ネクタイはない。かれは絶望的な瞳を、鏡の中に向けた。死んでいる女の首に、もしや自分のネクタイが、巻きついているのではないか、と思ったのだ。
しかしネクタイは、折り畳んで、ワイシャツの胸ポケットに入れてあった。東田迪夫は安心すると共に、どっと急激に汗が噴き出てくるのを感じた。
〈落ち着くんだ……。遺留品はないかどうかを確かめねばならん!〉
かれは、このホテル重富荘の忌わしい〈菊の間〉から、人に気づかれずに逃げだすことだけを考えていた。いま、かれに残された最良の方法は、ただそれだけのように思えた。
空想するだけでも、そら恐ろしいことだが、東田は、泥酔していた自分が、無意識のうちにあの女の頸を絞めたのかも知れぬという妄想にとりつかれていたのだ。
女の死体に残された、歴然たる扼圧痕をみれば、それが自殺ではないことは明らかであり、誰かが頸を絞めたことも明らかだった。
しかも、室の中にいたのは、彼ひとりであった。鍵もそのまま室に残されているし、犯人が侵入したとは考えられない。怪しいのはかれ自身だった。
〈だが、俺じゃない! 決して、俺ではないんだ!〉
かれは、そう心にいい聞かせながら、ネクタイをしめ、ズボンをはき終った。洋服ダンスの中に、女のものと思われる緑色のコートが吊されてあった。上衣をとる。
かれは上衣は着ずに、小脇に抱えた。そして室の中を血走った眼で見渡した。忘れ物はないか、を確かめるためだったのだ。
〈よし! 忘れ物はないな。これからが、大変だぞ……〉
東田迪夫は、大きく息をのんだ。心を落着かせようと、かれは必死だった。
居間を見廻す。テーブルの上の灰皿が、目に映った。〈そうだ!〉かれは、こわごわ寝室へ入ってゆき、サイド・テーブルの灰皿に近寄った。死体には、なるべく眼を向けないように努力しながら、灰皿をのぞきこむと、昨夜たしかに吸った筈の、煙草の吸殻がないではないか。彼は、自分で火を消した記憶はない。従って、その吸殻は、女が始末したと思われる。それにしても、吸殻はともかく、こぼした灰までが消えているのは、一体どういうわけだろうか?
東田迪夫は、首をひねった。
煙草の吸殻からも、血液型を割り出せることを、なにかの週刊誌で読んで、記憶していたのである。
〈現場に残された犯人の唾液、糞便、精液などからも、血液型は検出可能である……〉
そんな文句を思い浮かべながら、かれは、〈煙草の吸殻がないのは、ありがたい〉と満足げに呟いた。だが、急に顔色は変った。
〈精液? そうだ!〉
かれは煙草の吸殻以上に、大切な遺留品を、女の体内に残していることに気づいたのである。
しかし、すぐ東田は安堵した。
見知らぬ女性と交渉をもつとき、かれはどんなに酔っていても、ゴム製品を使用する。そして昨夜は、相手の女の方から、それを使用することを要求したのだ。
女は丁寧に身じまいしたあと、浴室に立っている。そのとき、きっとトイレに、その使用済のゴム製品や、チリ紙などを流したに相違ないのである。
……東田迪夫は、苦笑した。ようやく冷静さを取り戻せたようであった。かれはドアに近づいた。
鍵穴がない。ドアの鍵は、きちんとかかっている。かれは、ドアを丹念にみつめた。
〈このドアには、鍵穴がないのか? それなのに、なぜ鍵はかかっているのだ?〉
かれは、頭にまたもや血が昇りだしたのを知った。でも、前と違って、いまの東田迪夫には、思考するという心の余裕があった。
鍵穴は見つけられなかったが、半球状の把手の中央に、小さなボタン状のものが存在していることを、かれは認めた。把手をつかんで左にひねると、小さな音と共に、そのボタンは隆起した。そしてドアは、すーっと開いた。かれは大きな息を吐いた。
いわゆる〈ボタン・ロック式〉の、新しい形式の鍵だったのである。ボタンを押してドアをしめると、必然的に鍵がかかるシステムなのだ。
かれは廊下をのぞいた。人の気配はない。赤いジュータンを敷きつめた階段へ、かれは足音を忍ばせて歩いてゆき、階下をのぞいた。泊っていた室は、どうやら三階であったらしい。
〈大丈夫だ……。誰もいない!〉
かれは二階へ下りた。そして、さらに一階へと下りようとして、急に「あッ」と咽喉の奥で叫んだ。
かれは、自分が重大な誤算をしていたことに、気がついたのである。誤算とは――履物だった。
こうした連れ込み専門のホテルでは、客の履物を、帳場で預かる習慣がある。客に逃げられないための用心かも知れないが、東田迪夫は、ホテルの人間と顔を合わさずに、靴をはいて逃げることは不可能だと悟ったのだ。
〈しまった! 靴をどうしよう?〉
靴を出して貰うためには、帳場《フロント》に声をかけなければならない。すると当然〈菊の間〉の客だとわかるし、そのとき顔や服装を、観察される危険があった。
〈どうしよう?〉
東田は、階段の途中で立ち停って、考えこんだ。
「あら、お帰りでございますか」
女の声がした。ぎくッとして声の方をみると、一階から一人の女中が愛想笑いをしながら、昇ってくるところである。かれは、肚を決めて言った。
「靴を出してくれないか」
できるだけ落着いて、声を吐き出したつもりだが、語尾はかすれて、膝頭がだらしなく震えるのだった。女中は、〈おや、まあ!〉という表情をした。
「あのう……お連れさまは?」
「まだ、眠っている。靴を出してくれ」
とつぜん、女中は悪戯《いたずら》っぽく、謎めいた笑顔を浮かべた。そして、足早やに階段を昇ってきた。手に雑巾を持っている。
「どうしたんだ? 俺の靴だ……。聞えないのか?」
東田迪夫は、顔から血の気が、急速に退いてゆくのを意識しながら、慌てて女中を怒鳴りつけた。女中は、ニンマリと笑った。
「聞えてますわよ……。あなた、〈菊の間〉のお客さまでしょう?」
「………」
「一人で帰ろうなんて、冷たい方! だからあの人、チップまで下さったんだわ……」
「なんだって?」
かれは、小さくよろめいた。チップが一体どうしたというのか? かれは、冷や汗が背中を伝わるのを感じた。そのあいだに、女中はもう二階へ昇ってきて、かれの傍をすり抜けていた。そして三階への踊り場から、彼を見下ろしながら、また謎のように笑った。
「ご存じなかったの? 今朝は、どうしても貴方と一緒に帰りたいから、必ず起して欲しいって頼まれてるの。貴方の彼女にさ!」
かれは眩暈《めまい》を覚えた。
これは、どういうことなのだろうか。女は殺される予感に怯《おび》えていて、そんなことを女中に依頼したのだろうか?
〈罠だ! 二重にも、三重にもはりめぐらされた、罠なんだ!〉
愕然《がくぜん》として東田迪夫は、階段を駈け下りていた。女中に、死体を発見されたら、万事休すである。
かれは長い廊下を走った。
しかし、その方向は、客室で行き詰りだった。
〈玄関は、反対の方角だ!〉
東田は体のむきを変えると、また走り出した。やはり玄関は、その方角にあった。
〈もう靴を出して貰っている余裕はない! ハダシで逃げ出すんだ!〉
かれは、水を打って掃除の行き届いた、鉄平石の玄関に靴下のまま飛び下りた。そして戸をあけようとすると、そこにも錠が下ろされているではないか!
「はい、只今……」
物音を聞きつけたのか、女将らしい、和服姿の女性が、すぐ右脇の帳場から出てきた。そして目を瞠《みは》った。濡れた鉄平石の土間に、靴下のまま佇《たたず》んでいる東田の異様な気配に、気をのまれたらしいのである。
「靴を出して、戸をあけてくれ!」
東田は、青い顔のまま叫んだ。四十年配の女将風の女は、蔑《さげす》むように微笑した。
「ご冗談は、お止しあそばせ、お客さま――」
東田は笑おうとした。だが蒼ざめた顔の筋肉は、硬ばったまま、いうことを利かなかった。
「帰りたいんだ」
かれは怒鳴った。
「菊の間のお客さまでございましょ?」
「………」
「お逃げになるなんて、それは良くないお考えですわ」
「なにィ? 逃げるだって?」
心の中を見透されて、かれは慄然となる。女将は、〈あらあら!〉というように、肥えた肩を揺すった。
「このホテルのお泊り時間は、午前九時までということになってますの。それ以後は、一時間ごとに五百円の超過料金を頂いているんですけど――」
かれは腕時計をみた。
時計は、十時三十分を示していた。
〈おれはあの室に、起きてから二時間以上もボンヤリしていたのか!〉
かれは内心驚きながら、しかし女将が〈逃げるな〉といった言葉の意味を知って、安心した。千円ぐらいの金なら、まだ上衣の内ポケットに残っている筈である。
張りつめていた緊張から、不意に解放されたせいか、腋の下や背中に、どッと汗が噴き出してきた。かれは肩で大きく息をしながら、抱えていた上衣の内ポケットに右手を突込んだ。
なにか厚いものがあった。
かれの指は、無造作に、その厚い紙片を引き出していた。
「まァ、お金持ですこと!」
女将の声に、かれは目を疑った。右手の指は、手の切れるように真新しい、一万円の札束を掴んでいたのだ。
〈こ、この金は……〉
東田迪夫が呆然となって立ちすくんだとき、三階のあたりから、
「キャーッ! 誰か来てぇーッ」
という、女中のけたたましい悲鳴が聞えた。
かれの指から、一万円札の束が落ち、東田迪夫はそのままへなへなと、その濡れた玄関の土間に坐りこんでしまっていた……。
〈やっぱり、逃げられなかった……〉
かれは心にそう呟き、目の前が赤と黒の渦の輪で塗りつぶされて行くのを、ぼんやり感じとっていた。
第二章 遊 軍 誕 生
一
狭い会議室には、すでに十名近くの編集部員が集っていた。
部員たちは、思い思いの姿勢で、よその週刊誌の特集記事を読みくらべたり、新聞の切り抜きに目を通したりしていた。なかには、日本シリーズの予想について、賭け金を集めている勝負好きな連中もいた。
西岡良吉は、地方新聞を読みながら、ものになりそうな記事に、赤鉛筆でしるしをつけていた。次週の特集プランを考えていたのである。
新聞に出る広告のゲラを持ったまま、北川謙一が入ってくると、急に彼の名を呼んだ。西岡は、〈なんだい?〉と顎をしゃくった。
「次長が呼んでるぜ……」
北川はいつもの調子で、ぶっきら棒である。西岡はうなずいて立ち上った。もうそろそろ、編集会議がはじめられてもよい時刻である。北川は西岡の耳に口を寄せた。
「おい、西岡……」
「なんだよ……」
「お前さん……取材費の清算が、まだ済んでないのと違うか?」
西岡はちょっと考えてから、不審そうな瞳の色を北川に向けた。北川は、丸っこい顔を崩して、
「実は、俺も呼ばれてるんや」
と言った。彼は、編集部の室を出るとき、中薗《なかぞの》編集長の席で、次長の白石がなにやら熱心に話しこんでいたのを思い出し、首をすくめた。
「なんだ、北川。お前だって、まだ清算が終ってないんだろ?」
「うん。そうなんだ……。だから、心配してる。昨夜、飲まずにやっとけば良かったと思うよ。なにしろ二カ月も溜ってる」
「二人とも、ごってり脂を絞られるぞ? 次長も、あれで案外、こまかいとこあるからなァ……」
「とにかく行こう。どうせ叱られるんなら、早い方がええ」
仲間ができたことを、北川謙一は喜んでいるような顔つきだった。
部員たちは取材にあたって、自分で判断して取材費の仮払いを請求し、取材が終了してから一週ごとに、清算書を提出することになっている。
こまめな部員は、一週分ずつ清算したが、取材に追われている特集班の人間たちは、どうしても、ついつい仕事の方が先になって、清算がのびのびになってしまう。
二人は肩をぶっつけ合うようにして、会議室を出た。廊下をへだてた向い側に、〈ウイークリー・東京〉の編集部があった。
編集部には、三つの班がある。
特集班、セクション班、グラビヤ班の三つであった。
〈特集班〉は文字通り、週刊誌の表看板ともいうべき特集記事、ニュース・ストーリイなどを担当する部門で、編集部員の人数も、いちばん多い。〈セクション班〉というのは連載小説、漫画、対談などの決りものの他、一頁ものの解説記事、読者欄など、雑多な欄を担当している。〈グラビヤ班〉は、表紙とグラビヤ、記事中の写真を受け持っていた。
〈ウイークリー・東京〉は、今年の春で、創刊三周年を迎えていた。北川も西岡も、次長の白石と共に、〈特集班〉に創刊以来所属している記者だった。従って、日は浅いがベテラン記者の部類に入る。
編集部の中は、相変らず雑然としていた。とくに特集班の机の上は汚い。借りて来た資料だの、地方紙や業界紙の切り抜きだの、ラーメンの丼だのが雑居している。
しかし部員たちは、室には少かった。
「おう、来たな!」
奥の方から、編集長の中薗が、肥った体を動かして、ダミ声をはりあげた。次長の白石は、椅子の背を前にして、編集長と対いあって坐っている。
二人は近寄っていった。
中薗は、北川の手から、新聞出稿のゲラをとりあげ、しばらく睨んでいたが、
「ま、こんなとこやろな」
と独りごとを言った。
「なにか、ご用でしょうか」
北川は低姿勢だった。西岡良吉は、ふッと苦笑した。
「うん。まァ坐れよ」
白石次長は、二人の部下を見較べて、そう言った。どうも風向きが違っている。清算を早く済ませろという、説教ではなさそうだと悟って、西岡は安心した顔になった。北川はさっさと近くの椅子を二つ寄せて、坐っている。
「なんです?」
西岡は言った。
「うむ……。実はやネ、今日から君たち二人に、ちょっと変った仕事をして貰おうと思うてるんや……」
中薗編集長は、京都の生れだった。しかし言葉は、むしろ大阪弁を使うことの方が多い。彼が大阪弁を使うときは、機嫌のいい証拠だった。
「変った仕事ですか?」
二人は異口同音に問い返していた。次長の白石は、それが癖の、ロイド眼鏡をぐいと指先で押し上げる仕種をして、微笑しながら頷いている。
「まあ……なんちゅうたら、ええやろな。要するに、二人に遊んで欲しいんや」
「遊ぶ? ははあ、日本全国の赤線のルポか何かですね?」
西岡は早呑みこみする悪い癖がある。中薗は、ちょっとあきれたような顔をした。
「白石君……これや! 遊ぶいうたら、本気で遊べると思うとる! 考えてみい、月給払って、社員を遊ばせる出版社があるかい……。遊ぶちゅうのは、今日から二人に〈遊軍〉になって貰おうちゅうっこっちゃ!」
「なるほど……。では新聞社の〈遊軍記者〉のような仕事を、ぼくたちが……」
次長の白石は、言葉を引き取った。
「そうなんだ。今年入社して、〈特集〉に来た連中も、どうにか取材できるようになったしな。そこで君たち二人に、じっくり時間と金をかけて追えるような、そんな特集記事を担当して貰おうと思うんだ……」
西岡良吉は、目を輝かせた。五日間という時間的な制約のため、取材が思うように出来なかったことが、しばしば過去にあったからである。
北川も同感らしく、ニコニコしている。北川謙一も、どちらかというと、じっくり足を使って取材するタイプの記者だった。それだけに、新聞社の社会部のような、遊軍記者という制度が生れたことは、大いに喜ばしいことなのである。
昭和三十四年の秋を頂点として、マスコミ界にくりひろげられた週刊誌合戦も、三年後の今日では、どうやら戦塵もおさまり、それぞれの雑誌の性格によって、その勢力分布図が完成したかの感があった。
なにしろ一年間に発行される週刊誌の部数は、ざっと五億冊である。週刊誌は、いまや都会のサラリーマンの生活に、はっきり定着してしまっている。
なかでも新聞社系の週刊誌は、はっきり部数が安定しているが、これは販売店という強力なルートを持ち、六割以上が固定読者だからであった。
これに較べると、駅の売店、街の書店に頼っている出版社系の週刊誌は、販売の面では弱かった。従って、連載小説の魅力よりも、特集記事のプラン次第という結果になる。つまり特集記事で、その週の売れゆきが、ぐッと違ってくるのである。
〈ウイークリー・東京〉は、どちらかといえば硬派の、娯楽週刊誌だった。しかし四十万部から出発して、現在七十万部の発行部数を保っているのは、一つには週刊誌ブームの波に乗ったということもあろうが、その特集記事が、毎号インテリ・サラリーマンにうけて来たからであった。
そのタイミングの良さ、料理工合の巧みさ、記事の正確さでは、群を抜いている。つねに話題となる記事を提供することでは、すでに定評があった。
この独特の特集プランを完成したのは、次長の白石の功績である。白石は統計狂で、しかも用心深い性格だった。
彼は代表的な週刊誌七種類を選んで、売れた号と特集プランを比較し、読者の関心度の高いものを、幾つか探し当てていたのだ。
一般に週刊誌の読者は、政治ダネや外国ダネはあまり歓迎しない。読者が求めているのは、話題であり、人間的な興味なのである。
だから世間を賑わした事件、話題の人物クローズ・アップなどは毎号欠かさず、その他にスポーツ、芸能、会社ものといった関心度の高い特集記事を配置する。これが白石の編みだした編集方針であった。
週刊誌は、毎号、毎号が勝負である。
連載小説が当っているときは別だが、そうでないときは、特集記事にすべてのウエイトがかかってくる。
かりに特集を三本並べるとして、そのうち一本だけがヒットしても、週刊誌は売れないのだ。金を出して買う読者は、少くとも二本以上、読みごたえのある面白い特集記事が並んだ雑誌を選ぶのである。
白石の功績は、他誌の過去の戦績を綿密に検討し、最初から幾種類かの変化球を配合して、毎週、安定したピッチングを続けてきたことにあった。いわば統計の勝利である。
そのお陰で、〈ウイークリー・東京〉は順調に発展して来たわけだが、三年目から四年目を迎えたここ半年、〈ウイークリー・東京〉は、一つの壁にぶつかっていた。七十万部発行して、返品率一割以内という目標を、どうしても達成できないのである。
各週刊誌とも、いずれも伸び悩んでいた。なかには廃刊した雑誌も、いくつかある。
週刊誌の平均返品率は、三割というのが常識だから、一割二分から一割五分のあいだを上下している〈ウイークリー・東京〉は、決して成績の悪い方ではない。むしろ優秀な部類に属していた。
だが、この壁を打ち破らねば、〈ウイークリー・東京〉としては、部数を飛躍させることが出来ぬのも事実である。他誌が伸び悩んでいる時こそ、チャンスなのだ。
おそらく中薗編集長と次長の白石は、そんな点を考慮して、〈遊軍記者〉を部内に配置することを決定したのであろう。
それというのも、一週間という時間的な制約があるからだった。
〈ウイークリー・東京〉は、月曜日に発売されている。印刷、製本、発送に、どうしても三日かかるから、逆算すると、木曜日が校了日ということになる。
そして金曜日に編集会議を開いて、次週号のプランを決定し、土・日・月・火・水と五日間取材して、水曜の夜は、ほとんど徹夜で原稿を書く……という繰返しになるわけだ。
木曜日の出張校正、金曜日の編集会議と、計二日間を奪われるから、実際に動き廻れるのは、わずかに五日間――ということになる。
たった五日で、百数十頁の内容をもつ週刊誌をつくり出すのだから、考えてみれば大変な仕事であった。
しかも連載小説と違って、毎週、特集記事だけは、事件や話題の人物を探してプランを立てねばならない。このネタ探しが、実は苦心させられる辛い仕事なのだった。
せっかく良いネタを掴んでも、五日間では取材できない場合がある。そんなときは、止むを得ず次週のばしにするのだが、予備の特集原稿がないときは、不満を承知で、今週号に掲載しなければならぬ場合だって生じてくる。
次長の白石が考えたのは、返品率一割の〈壁〉を破るために、五日間という制約に支配されず、じっくり足と金を使った特集記事の〈ワイド版〉というプランだった。
新聞社の社会部には、十年近く警察廻りを続けてきたようなベテラン記者が、遊軍という特殊な役割で配属させられている。これは閑職を意味するのではなく、ふだんは世間に知られない、埋もれた特ダネを探したり、連載の〈続きもの〉を調べて執筆している記者なのである。
そして大事件が突発すると、事件現場に若い記者を連れて飛び、キャップとして重要な仕事をするのだった。軍隊でいえば、准尉か特務曹長のような存在である。ふだんは下士官として勤務しているが、いざというときには士官として指揮をとるのだった。
「ええか、二人とも! よその週刊誌に、真似のでけん記事をつくるこっちゃ! 一カ月にせいぜい一本か二本でええ。特ダネを拾うてきて、じっくり調べて書くんや。金はかかってもええ。とにかく、読者をあッといわせるようなネタを探すんやなあ」
中薗は、ダンヒルの自慢のパイプをとって、やたらに鼻の脇にこすりつけて磨きながら、こともなげにそんなことを言うのである。
西岡と北川は、顔を見合わせた。
〈特集班〉の中では、一番の古株であり、光栄ある初代の遊軍記者に指名されたのは嬉しいのだが、どうやら編集長の言葉を聞いていると、不安になってくるのである。
特ダネが果して、一カ月に一本も二本も拾えるか、どうか――。
二人が当惑して、返答に窮しているとき、中薗は威勢よく立ち上った。
「よっしゃ! それで話は決った。しっかり頼むで!」
彼はもう、忙しそうにせかせかと歩きだしていたが、不意に立ち停ると、振り向いて二人を鋭く指さした。
「そうや……。遊軍になった記念に、いままでの清算をしといて貰おうかい!」
二
企画編集会議には、病気や出張中でない限り、特集班の十五人の記者は、全員出席しなければならないことになっている。
西岡と北川は、白石次長に続いて、どことなく浮かぬ顔つきで会議室に戻った。
中薗編集長は、今週から二人が、遊軍記者になった旨を報告したあと、
「さあ、始めよう! ここ二週間、返品率はまた一割五分が続いとるそうや……。なんぞ、どかーんとした、凄いネタはないか?」
と、怒鳴るように言っている。
――会議は、いつもこんな調子で、はじめられるのだった。
編集長の中薗は、早大出身の小柄な体格の男だった。レイテ作戦に参加した勇士だというのが、この四十七歳の精力的な大物の自慢のタネである。茫洋《ぼうよう》とした顔立ちだが、目付きだけは厳しかった。
よく部下を叱りつけるが、その割に憎まれないのは、その大阪弁のせいかも知れぬ。
この編集長と対照的なのが、次長の白石だった。慶応を出た長身の紳士で、蝶ネクタイの愛用者だった。寡黙《かもく》だったが、決断は早い方である。プロ野球のファンで、酒場へ行くと、猥談上手な男として、評判が高かった。
あと一人、セクションとグラビヤを統轄《とうかつ》している香川次長がいたが、八月から胃潰瘍で入院していた。従って、白石が〈ウイークリー・東京〉のすべてを、切り廻しているといっても過言ではなかった。
編集部員たちは、それぞれの情報網というか、一種の〈ツボ〉を持っている。そのツボは、部員によっては業界紙記者だったり、興信所員だったり、右翼系の情報屋だったりするが、そんな情報網から、耳寄りな特ダネがもたらせられる確率が高いのだった。しかしそれも、年に一度あるかなしかである。
西岡良吉は、部員たちの提出する、さまざまなプランを聞きながら、編集長のいった〈特ダネを探せ〉という言葉に、こだわっていた。
どうやって、その特ダネを捜し出せばよいのか……。彼には自信がなかった。
掘り下げれば問題の大きい事件、読者の興味を呼びそうなキャンペーンもの、地方で起った猟奇犯罪、部員たちは、次から次にと、プランを提出している。
それを一つずつ討議して、すぐ決定して取材に移すもの、保留するもの、落すもの、と三つに分類しながら裁決して行くのである。
残されたプランの中から、さらに発売日の早い競争誌の動きや、記事のとりあわせなどを検討して、最後に三つの特集プランが決定されるのだった。
今日の会議で決定したのは、ある球団の監督引退の内幕ものと、某女優の離婚についての特別手記、それに秋田県下で起った火葬場の猟奇事件の三つのプランだった。
時間にして、二時間たらずである。
「今日は早かったな。さ、みんな、食事にしょうやないか……」
中薗は、手許のメモ用紙をのぞきこみ、満足そうに言うと、また小柄な肩を揺すって、せかせかと会議室を出て行くのである。忙しい男だった。
午後からは、セクション班、グラビヤ班の企画会議、そして夕方には営業会議があるのである。
部員たちも、それに釣り込まれたように、ぞろぞろと椅子から立った。
だが、西岡も北川も、椅子に坐ったまんまである。もう一人、立ち上らない男がいた。次長の白石であった。
「二人とも、ひどく考えこんでるな」
白石は、ハイライトをくわえながら、ガス・ライターの焔を近づけた。
「そりゃァ深刻に考えますよ。特ダネだけを探せといったって……一体どうやって探せばいいんです?」
西岡は、反問した。
「ばかだな。中薗さんが言ったのは、なにもそんな意味じゃァない。世間の人々に、さすがは〈ウイークリー・東京〉だと、感心されるような、ネタを探せということなんだ……」
白石は煙草の煙を、すーっと吐いて、一語一語、噛みしめるように言った。
「遊軍というのは、そんなことで良いんですか? だったら、気は楽だ……」
西岡が、がっかりした口調で呟《つぶや》いた。彼は張り切っていた気分を、次長の言葉で壊されたといった不服な表情である。根が楽天家なのかも知れない。
どういうわけか、二人は、よく組んで仕事をする機会が多かった。そして仕事を離れても、仲のいい飲み友達であった。
年齢は北川謙一の方が、一つ年長である。大学を五年かかって卒業したためだった。しかし、同じ昭和三十年の入社だから、仕事の上では北川も西岡も、同期生である。
この二人は、仕事でも私生活でも、良いコンビだった。が、性格も、体つきも、全く正反対の二人だった。この対照は、編集長の中薗と、白石次長ぐらいの違いではない。
北川謙一は、背が高く、背広がよく似合う青年である。都会人としての洗練されたスマートさが、この青年にはあった。アラン・ドロンに横顔が似ているというので、酒場へ行っても人気がある。
頭の回転が早く、取材にあたっては、できる限り資料を集めて読み、短時間にキビキビと要領のよい取材をやってのける。
ところが西岡良吉ときたら、色は浅黒くて、小柄でずんぐりした男であった。
ただ、その風貌は、初対面の人間にも、決して警戒心を起させない、奇妙な人懐《ひとなつ》こさをもっていた。これは彼の魅力でもあり、取材にあたって大きな武器である。
どちらかといえば体当り主義の、いわば勘で行動するタイプだが、足を使って粘り強く取材をつづける彼の姿は、どこか刑事の辛抱強さに似たところがあった。それでいて、楽天家で、なんでも早合点する癖があるのである。
二人はよく、仕事が終ったあと、連れ立って飲みに歩いた。北川謙一はバーでもてたが、西岡の方は、いわゆる縄のれんでもてた。北川は酒はウイスキーと決めていたが、西岡は夏はビール、冬は日本酒と決めている。こんなところにも、二人の違いがあった。
この二人を、初代の〈遊軍記者〉に任命したというのは、やはり白石次長が、そうした二人の性格の違いが、コンビとしての仕事を、円滑にチーム・ワークを保たせる原因となることを、見抜いていたからに他ならない。
「まあ、焦ることもないさ。創刊以来、きみたちにはよく働いて貰ったからな。内地留学のつもりで、のんびりやってくれよ……」
白石は、眼鏡越しに、柔和な目をのぞかせた。そして曖昧な顔つきになった。
二人とも、そんな次長の思索的なポーズが好きである。編集部では、よく机の上に踵をのせて、ぼんやり本を読みふけっている白石だった。だがその瞳は、書物の活字に向けられているより、宙を彷徨《さまよ》っていることの方が多い。考えごとをしているのだ。
そのときも白石は、二人を見詰めながら、次第に瞳の焦点をぼやけさせて行き、ふッと考えこむ姿勢になった。指の先から、長い灰をつけたハイライトが、すーっと煙を立ち昇らせている。
西岡も北川も、次長がなにを考えこんでいるのかは、わからなかった。
白石の顔には、創刊以来三年半の疲労が、にじみ出ているようだった。
戦国時代は終ったというものの、やはり週刊誌同士の、競争は激しいのである。というよりは読者が、似たり寄ったりの特集記事のネタ、記事の文章のスタイルに、飽きてきた……ということなのかも知れない。
従って各誌とも、なにか新しい手を狙っているのだ。しかし、確立された週刊誌のスタイルは、一朝一夕では崩れないものなのである。
「なあ、二人とも……」
白石は、不意に呟くようにいった。
「なんですか!」
西岡が応じた。
「いま、ふッと考えたんだが……特集の三本立てというスタイルなあ……」
「ええ」
「思い切って、一本だけで勝負するというのは、どうやろな」
「一本だけで勝負するって……二十二頁を全部使うという意味ですか?」
北川謙一は、目をまるくした。
〈ウイークリー・東京〉では、特集記事はトップが八頁、あとは七頁が二本という、わりふりになっている。つまり、特集記事で埋めるスペースが、二十二頁あるということである。
「映画では、ワイド版が流行っている。週刊誌の特集だって、ワイド版があっても、いいじゃァないか……。月に一度ぐらいはね」
白石は、そんなことを言った。
「面白いかも知れませんね。しかし、それ一本だけで、完全に読者を満足させるネタがないと……」
北川謙一が、考え考え答えた。
「うん、そうだな。となると、やはり事件ものか?」
西岡良吉は、遠くを見るような目付きをした。彼は、素晴しい〈事件〉にぶつかって、独占記事をかいたら、どんなに胸がせいせいするだろうかと、考えたのである。
でもその事件は、マスコミの気づかない〈特ダネ〉でなくてはならない。それでなくては、一誌でそのネタを独占できないのだ。
「結局、なんやなあ。中薗さんのいう、どかーんと凄いネタしか、ないちゅうわけや」
北川が、わざと大阪弁を使って、悲しそうに首をふった。遊軍記者として、時間に拘束されずに、好きな取材ができるのは嬉しいけれど、果して白石次長の考えているような、〈ワイド版・一本立て〉でゆけるような事件が転がっているか、どうか――。
三年あまりも週刊誌記者をやっていれば、それが想像しただけで困難なことは、よくわかるのである。
三
バー〈石器時代〉は、新橋烏森のビルの地下にあった。マダムは、未亡人で、ヤン坊と定連の客から呼ばれている人気者の女の子と二人で店を経営している。
なんでも亡くなった主人が考古学者で、それで〈石器時代〉という名前をつけたのだそうであった。洞窟のような暗い店を連想するが、決してそんな店ではなく、カウンターだけの気さくな酒場である。
ただ壁には、大きな月輪熊の毛皮が貼りつけられ、大昔の石の庖丁や、石のやじりなどが巧みに配置されて、石器時代らしい装飾はしてある。もっとも熊の毛皮の方は、客が毛をむしるので、ほとんど原形をとどめていない。
北川と西岡は、この〈石器時代〉の定連である。というよりも、ここはジャーナリスト達の溜り場といった感じであった。
二人は疲れたような表情をして、この酒場のとまり木に肩を並べている。
――遊軍となってから一週間が、またたく間に過ぎ去っていた。
「お代り、なさる?」
ヤン坊が、二人の前にきて聞いた。
「ああ、頼むよ……」
北川が答えた。西岡は、熱燗《あつかん》にした日本酒を、コップでちびりちびりやっている。
「二人とも、どうしたの? ヤケにぐったりしてるじゃない?」
ヤン坊は、明るく笑った。
「そうなんだよ。仕事がなくてね」
西岡は、浅黒い顔の皮膚を、厚い掌でなで廻した。そして顎のあたりに剃り残した髭を一本、指先でつまんで引っぱっている。
「仕事がなくて、ぐったりしてるの?」
ヤン坊は、大きな目をくりくりと動かした。
「男の人って、勝手ね! 仕事のあるときは、なにもせずに十日間ぐらい、ぼんやりしていたいなんていってる癖に!」
西岡は、「ふ、ふ、ふ」と口だけで笑った。
「違ぇねえや! 一週間……仕事を探して歩いたがな。だめなんだ、どいつも、こいつも! なあ、北川……」
北川は、新しく運ばれたオン・ザ・ロックを口に運んだ。
「遊軍失格か! 白石さんは、ゆっくりやれというけど、辛いよなあ……」
北川謙一は苦笑していた。
思えばこの一週間、二人はいろんな人間に会っている。内閣調査室の調査官、院外団に属する政治ゴロ、兜町に巣喰っている総会屋、右翼のボス、映画界を追い出された某マネージャー、テレビの社会番組担当のプロデューサー、新宿のテキヤの親分、プロ野球のスカウト、警視庁の外事犯の刑事、百貨店の守衛、婦人探偵社の社長、落選代議士……という風に数えあげたら、きりはなかった。
世間に知られない特ダネを、握っていそうな人物は、ほとんどシラミ潰しに当っていたのだ。
一日に平均三人の人物に会うとしても、一週間では北川と西岡で、ざっと四十名ちかい人間に、インタビューしているのである。
もっとも、収穫はないこともなかった。
だがそれは、いずれも八頁か七頁ていどのネタで、次長のいう〈ワイド版〉には到底むりだった。それだけの重量と、社会的なひろがりを持った材料ではないのである。
めぼしい情報源を、あさりつくしてしまった現在、西岡も北川も、次の行動に思い悩んでいるのであった。
〈どうやったら、特ダネを探りあてることができるだろうか?〉
〈どんな人間が、特ダネを握っているというのだろうか?〉
二人が考えついたのは、浅草山谷とか釜ケ崎に潜入するとか、留置場で一週間暮すというような、とっぴな方法ぐらいのものであった。
まさか特ダネを求むという新聞広告もできないのである。
店の中は、ひとしきり客が立て混み、やがて帰って行った。残ったのは、カウンターの端に坐っていた中年の紳士と、西岡たちだけである。
「やっと静かになったわ……」
未亡人は今夜も和服だった。
「そうだね」
北川が、お代りの注文をしながら、相鎚《あいづち》を打った。未亡人は、若い二人の相手をヤン坊にまかせて、自分は隅にいる紳士の方へ体を寄せている。
西岡たちは、ヤン坊を相手に、映画の批評などに話の花を咲かせだす。マダムは、中年の紳士と、なにか話しこんでいる。
西岡は途中でトイレに立った。そして戻ってきてみると、中年の紳士が帰りかけようとしているところだった。
「それで弁護士さんは?」
カウンターを潜って送りに出たマダムが、壁のスプリング・コートをとって、その客にかけてやりながら、そんなことを聞いている。西岡は、職業柄やはり聞き耳を立てた。
「だめなんだよ……無罪は証明できないって言うんだ……」
紳士は答えている。
「まあ……」マダムは驚いた声だった。
「仕方ないさ。近頃では私も、弟が嘘をいってるんじゃないか、なんて疑いだしてる」
「そんな可哀想なこと、仰有《おつしや》るもんじゃありませんよ、東田さん……。弟さんのためじゃァないですか……」
紳士は、ヤン坊に手を上げた。勘定はツケといてくれ、という意味だろう。マダムは、よほど親しい間柄だとみえて、その客を送って外へ出て行った。
西岡良吉は、北川とまた肩を並べながら、東田と呼ばれた紳士とマダムの会話のことが気になった。弁護士とか、無罪とか、弟さんとか、とびとびの単語だけが、彼の耳の中に残っている。
会話の様子では、その紳士の弟が、なにか犯罪を犯して、弁護士に無罪を証明させようとしたに違いない。だが、それが無駄だったというのであろう。
「ヤン坊! いまの人は?」
彼は、興味をもって訊いた。
「ああ、東田さん? N生命の支社長をしている方」
彼女は、こともなげに答えて、また北川謙一と洋画の話に熱中している。どうもヤン坊は、北川に気があるらしかった。
西岡良吉は、またコップ酒を口に運びはじめたが、どうにも気になるのだった。不思議なもので、西岡には動物的な嗅覚があるらしいのである。ピーンと第六感をくすぐる、なにかが、その思わせぶりな二人の会話の中に潜んでいたとでもいうのか。
マダムは、すぐ戻ってきた。
西岡は、人懐こい瞳を、その和服の未亡人に向けた。
「ねえ、ママ……」
「なあに?」
マダムは意味もなく微笑した。
「東田さんの弟さん……どうかしたのかい?」
彼は言った。マダムは吃驚《びつくり》したような表情になって、西岡の顔をまじまじと見た。
「あら、西岡さん……東田さんをご存じなの?」
西岡は肩を竦《すく》めた。どちらにも受けとれる仕種だった。
「こいつ! 調子がいいなあ!」
北川謙一は、彼の肩を小突いた。
「ママ、西ちゃんが東田さんを知ってるわけないじゃァないの。いま、私に聞いたから、教えてあげたの」
ヤン坊も言った。西岡は照れ臭そうに笑った。笑うと目尻に大きく皺がよって、男性的な豪快な顔つきになる。マダムは、安心したような顔で、
「そうでしょうね。東田さん、めったにお店にお見えにならないし……」
と煙草を吸いつけた。
西岡良吉は、いつのまにか自分に、週刊誌の取材記者としての風変りな習性が、しっかりと身についてしまったのを知って、なんとはなしに憮然とした。
ヤン坊に紳士の素性をきいておきながら、外から帰ったマダムには、さも知人のような口を利く。つまり、それで相手を安堵させ、口を軽くさせてしまうという、一種のハッタリ戦術なのだった。
「ママ。西岡はね、ママが今の紳士を送って行ったから、ヤキモチ焼いてんだよ……」
北川謙一は、そんな冗談を言った。
「あら、光栄だわ。西岡さん……こんなお婆さんに、ヤキモチ焼いて下さるの? 情熱家ねえ!」
マダムも商売柄、そんな口を利いて二人を笑わせてみせる。西岡良吉は、ふと真顔になって言った。
「ねえ、ママ。ちょっと小耳に挟んだんだけど……なにかあったのかい? あの人の、弟さんがさ」
「気になる?」
マダムは謎めいた微笑を浮かべた。
「ああ、ちょっとばかりね。弁護士だの、無罪だのと話してたから――」
「ああ、そのことなの?」
彼女は、しばらく考えてから、話しだした。
先刻の紳士は、東田孝夫といって、亡夫の大学の同級生だったのだそうである。
「東田さんに、弟さんが二人いらっしゃるの。末の弟さんが、迪夫さんと仰有って……ほら、先月だったか、新聞で大きく書き立てられた事件があったじゃない? 千駄ケ谷のホテルで……」
マダムは、彼の記憶を呼び覚まそうとでもいうように、「ほら、ほら……」と促した。
西岡はうなずいた。
「ああ、わかった! 一緒に泊った女を絞殺して……五十万円だったか、盗んで逃げだすところを捕った……」
「そうなの。その人が、弟さんなのよ」
「俺も思い出したぞ!」と、北川謙一が二人の方に向き直った。
「銀行員か、なにかで、丁度おれたちと同じ年配の男だ。逮捕されてからも、無罪を主張して、送検されたバカな男さ……」
「うん、そんなこともあったようだな。いくら無罪といったって、あれだけ証拠が揃っているのに……。いまの新刑事訴訟法では、自白しなくたって、物的証拠や人的証拠があれば、起訴できる。それを知らなかったのかなあ……」
西岡は首を傾げた。
「ちょっと、待ってよ……」
マダムは言った。
「お兄さんはね、弟さんの無罪を信じてらっしゃるのよ!」
四
北川謙一は、そのマダムの言葉をきくと、面白そうに笑いだした。
「あの男が、無罪だって?」
マダムは肯いた。
「そうよ。東田さんは信じてるわ。だから苦労して、弁護士を三人も頼んでらっしゃるのよ……」
北川は、白く整った顔を左右にふった。
「そいつは、まァ無駄ボネだろうね。実は……僕はちょっと、知ってるんだ」
北川はその事件を、たしか取材して、二頁ものの〈ニュース・ストーリイ〉に執筆したのである。
「……どう考えたって、無罪なんかじゃァないよ。あの男は! 第一、動かせない証拠もある。それに犯行の動機だって、あるんだからね」
「………」
マダムは、口惜しそうに顔を歪めた。秀才タイプの北川に、そう高飛車にいわれると、相手はムゲに反対できないような錯覚に陥ってしまうのだった。
「あの男が無罪なら、目の前で殺人を犯しても、みんなノット・ギルティになるだろうよ。刑務所は、アパートに転向さ、そうなると……」
西岡は、北川の肩を敲《たた》いた。
「おい、北川。貴様はちょっと、ヤン坊と話をしててくんないかな。俺は面白そうだから、ママさんにその話を聞くから」
「こいつも、もの好きだなあ……。肉親ならば、誰だって弟のしたことは正しい、無罪だと思いたいさ。ま、ひま潰しに、聞いてみたらいいだろう」
北川謙一は、そんな憎まれ口をきいて、ヤン坊の方に向きを変えた。西岡良吉は、苦笑した。
「ママ……もう少し委《くわ》しく、話をしてくれないかな。無罪か、有罪かは、べつにしてさ」
彼は、カラになったコップを、彼女の方にさし出した。
「あたしも、委しくは知らないんですよ。でも、東田さんから突然、電話がかかって来ましてね。……そう、先月の二十日すぎだったかしら?」
マダムは、考えながら話しだした。
店に電話してきた東田氏は、「お宅の店には、ジャーナリストの客が多いそうだから、刑事事件専門の優秀な弁護士を、紹介してもらって欲しい」と言ったのだそうである。
マダムは、店にくる新聞社の人に、適当な弁護士を紹介して貰い、東田氏に教えた。そのときマダムは、十日ぐらい前に、夕刊の社会面を賑わした殺人事件の主人公が、東田孝夫の実弟であることを知ったのであった。
東田氏は、弟の迪夫が頑強に〈無罪〉を主張していることを告げた。
酒に酔って、夜の新宿の巷で、行きずりの女を拾い、ホテルに泊りに来たのは事実であるが、殺人も、まして上衣の内ポケットに入っていた札束も、全くあずかり知らない。東田迪夫は、そう強く主張しているのだそうであった。
考えてみると、東田家は、静岡の素封家であった。戦後、農地は失って財政的には苦しいが、十町歩の杉の山林を所有している。迪夫名義の山林は、二町歩ばかりあった。
金が必要ならば、その山林を売れば良いのだった。だから、五十万円の現金に目がくらんで、行きずりの女を殺すようなことはない。
……兄の孝夫氏も、犯行の〈動機〉の点で、弟の無罪を確信していた。
だが、警察の捜査によると、すべての証拠が揃っている。だから東田迪夫は、真犯人だというのであった。そして彼は、否認のまま送検された。
「ふーん。金に困らないから、無罪だというのでは、少し甘いなあ……」
西岡良吉は、また剃り残しの髭をまさぐった。
「そうらしいの。それで、お世話した弁護士さんは、みんなおりてしまったわ……。いまたしか三人目の筈よ」
マダムは、コカコーラを飲みながら、同情しているような口ぶりだった。
「それで弟さんの東田氏……事件の主人公は、どういってるんだい……」
「ホテル側が仕組んだ罠だって、いってるそうよ……」
「ほほう!」
彼は、目をきらりと光らせた。
「ホテルの仕組んだ罠ね――。それ、どういうんだい?」
マダムは、かぶりをふった。
「よく聞かなかったわ。もし、西岡さんが興味があるなら、直接、東田さんをお訪ねになってみたら?」
「うん、そうだね……」
「N生命の中央支社長だったかしら。事務所は田村町の角……」
「ああ、知ってるよ。……でも、どっちの言い分が正しいのかなあ」
「東田さんも、そう言ってたわ……。弟の無罪を信じて努力してるが、もし、弟が自分に嘘を吐《つ》いているのだとしたら、大変なことになるって……」
「腕利きの刑事弁護士が、二人もサジを投げるようでは、見込みないのかも知れないね」
「そうなの。だから東田さんも、心配してるわけなのよ……」
「しかしだね、ママ……」
西岡良吉は、不意にバック・バーの洋酒瓶を凝視しながら黙りこんだ。
「もし……弟さんという人が、本当に無罪だとして……それが証明できたとしたら、どうなるんだろう?」
マダムは、しばらく彼を眺めていたが、首を微かに左右に揺すった。その仕種《しぐさ》は、それが不可能な仕事だといっているのではなくて、もし実現できたら素晴しいことだと、彼女は言っているのであった。
「なんだって?」
ヤン坊と笑いあっていた北川が、二人の話の中に、また割り込んできた。
「無罪を証明するだって?」
「うん……そうなんだ。もし、彼が無実ならばね」
「ばかなこと、いうなよ……。そんなこと、できるもんか」
「だって判らない。八海事件のような例だってあるしな」
「夢物語さ!」
「なぜだい?」
西岡は、むきになった。
「なぜって、先ず大前提が狂っている」
「じゃァ北川は、彼が真犯人に間違いないというんだな?」
「うん、まァね。考えてみろよ……いくら酔っぱらっていたって、一緒のベッドで寝てるんだぜ?」
「………」
「犯人が入って来て、女を絞め殺すあいだ、その殺されかかった女が身動きもしなかったと思うかい? 多少は暴れる筈だよ……。そうだろうが?」
「ふむ。そういえば、そうだな」
「隣に寝ていたら、それに気づく筈さ。夢うつつでもね」
「でも、彼はぐっすり寝込んでいたんじゃないかな? だから犯人は、彼は殺さずに逃げた……。もし目を覚ましたとしたら、彼だって殺されてたろう。ということは、彼が熟睡していて犯行に気づかず、また犯人は、それを奇貨として、彼に犯行をなすりつけた……という仮説もなり立つ」
「仮説としてはね。でも、現実性には乏しい……」
「どうしてだ?」
「だって西岡……お前が犯人になったときのことを、想像してみろよ」
「うん……」
「なんで殺そうと思ったのかは知らん。五十万円という大金を、その女は持ってたから、物盗りでもいいや。あるいは動機は、怨恨だっていい」
「………」
「とにかく、ある女を殺そうとする。その場合だなあ、女が他の男と連れ立って、ホテルに入るのを尾行してだ……そして、男と一緒にベッドに入っている時を狙うかい?」
「なるほどな……」
「殺すなら、いくらでも方法はある。なにもホテルの鍵のかかった室で、男と眠っているような時を狙わなくたって、いいじゃァないか……。第一、どうやってホテルの室に忍びこむんだ、犯人は!」
マダムが、すかさず口をはさんだ。
「もし犯人が、ホテルの人間だったら、北川さん、どうなるの?」
「ホテルの人間?」
北川謙一は、〈ふーむ〉というように、顎に手を当てた。
西岡は勢いづいた。
「そうだ、そうだ。犯人がホテルの人間だったら、合鍵を使って、自由に室に出入りできる。真夜中の、ぐっすり寝込んでいる時を選んで、入って行けるぜ?」
「そして女を絞め殺す……」
「ばか。殺された女は、ストッキングや、ロープで絞め殺されたんじゃァないんだぞ。両手だ。手で扼殺されているんだ。ベッドはふわふわしている。その上に人間をおいて、両手で首を絞めて一思いに殺すというのは、よほど力の要る仕事だ……。隣に寝ていて、それに気づかぬ筈がないよ……」
ヤン坊が、話のとどめを刺すように、笑いながら言った。
「そうね。ベッドの上なら、馬乗りにならねば、むずかしそうね」
西岡良吉はマダムと顔を見合せた。ヤン坊のいう通りだった。ベッドに寝ている人間を一人だけ、両手を使って絞めるということは、よほど困難な作業に違いない。殺人を目的とするのならば、短刀のような鋭利な刃物で、心臓を一突きした方が簡単である。そのあと刃物の柄に、寝てる男の指紋でも押し付けておけば良いのだ……。
「まァ、くだらぬ空想は止めて、明日からまた特ダネ探しに歩こうじゃないか。もっと現実的な事件をな……」
北川謙一は、にやにや笑って、彼の肩に手をかけるのであった。しかし西岡良吉は、黙りこくって、また洋酒の瓶を凝視しつづけていた。
第三章 二つの疑惑
一
――田村町の交叉点を渡りながら、西岡良吉は、どうしたものかと、まだ心の中ではためらっていた。
黄ばみはじめたプラタナスの街路樹の向こうに、N生命の赤い看板が見えている。新築のビルの一、二階を、N生命は占領しているのだった。
彼は、そのN生命に、支社長の東田孝夫を訪ねてみる積りなのである。そう思って、社を出て来たのだが、彼の心の中では、昨夜おそくまで北川とやりあった、無罪論のことが口惜しさと共にまだ巣喰っていた。
どう考えても、真犯人が、ほかにいるとは思えない。彼は今朝から、五階にある資料室に陣どって、〈千駄ケ谷女給殺人事件〉に関する新聞、週刊誌などの資料を、読み漁《あさ》ったのだった。
この事件が、マスコミを一時なりとも騒がした理由は、二つあった。一つは、逮捕された東田迪夫が頑強に〈無罪〉を主張している点である。もう一つは、殺害された女給の、勤め先やアパートは判明しているにも拘《かかわ》らず、偽名を使っていて、確実な身許がわからないことである。
この二点が、マスコミに大きく採り上げられた原因であった。
もっとも犯人として警察に留置された東田迪夫が、無罪を叫ぶのは、あまりにも物的証拠の裏付けがあるところから、逆に〈図々しい男〉とか、〈精神分裂症〉という風にきめつけられて、マスコミからは一笑に附されていた。
問題は、偽名を使っていた女性の身許である。しかし考えてみると、警視庁鑑識課には、身元不明の無縁仏が、一万五千体も登録されているということだった。指紋照合や家出人票で身許をわりだし、なおかつ身許の確認できぬ不明死体が、昭和二十六年からこのかた一万五千体にも及んでいる点を考慮すれば、彼女の身許がつかめないのも、無理からぬことかも知れない。
〈兄の東田支社長は、弟の無罪を信じているという……。しかし、資料を読んだ限りでは、東田迪夫は犯人としか思えない!〉
西岡良吉は、交叉点を渡り切ったところで、立ち停ってN生命の看板を見上げた。
〈北川のいうように、無駄なことかも知れないな……。ある週刊誌が書いていたように、泥酔した東田が、性的な昂奮を誘いだすために、夢中で女の首を絞めたのかも知れない!〉
彼は煙草の火をつけた。そして歩きだした。
N生命中央支社という金文字が、よく磨かれた大きな硝子のドアの中央に、浮き出ている。西岡はそれを横目で見ながら、通りすぎた。そして急に廻れ右をすると、つかつかとドアに近寄って行った。不意に気が変ったのだ。
〈無駄だったって、良いじゃァないか。どうせ遊軍だ……。締切に追われながら、ネタを探してるわけじゃァない!〉
ドアを押すと、長い応接用のカウンターがあって、制服をきた女事務員が、忙しそうに仕事をしていた。
彼は、受付と書いた窓口に、名刺をさしだして、支社長の東田氏に面会したいと言った。
「しばらくお待ち下さいませ」
女事務員は、電話のダイヤルを廻して、彼の名刺を読み上げた。
「ウイークリー・東京編集部の、西岡さんとおっしゃる方が、面会を求めておられますが」
事務員は返事をきくと、笑顔で立ち上っていた。
「どうぞ。支社長室へご案内いたします」
東田孝夫の室は、二階の一番奥だった。
東側の明るい窓際に、スチール製の事務机をおいて、ワイシャツ姿の中年の男が執務していた。 昨夜バーで見かけた顔と、別人のように見えたのは、眼鏡をかけているせいかも知れない。
女事務員は、彼の名刺を手渡して、すぐ支社長室を出て行った。西岡は一礼した。
東田孝夫は、机から名刺箱をとりだしながら、彼を見詰めて、〈おや?〉という表情になった。西岡は微笑した。
「昨夜、〈石器時代〉でお目にかかりました」
「ああ、そうでしたか。道理で――」
相子は眼鏡をとり、手早く背広の上衣をつけて傍にやってきた。
「東田です」
以前は血色が良かったような皮膚の色であった。弟が送検されて以来の心労が、その頬のあたりを蒼白く変化させたのであろう。眉が濃く、口髭を生やしているために、余計にそう見えるのかも知れなかった。
東田孝夫は、応接用のソファーにと彼を誘った。西岡は遠慮せずに、腰を下ろした。
「ご用件は?」
相手は、名刺に改めて目を落した。
「……昨夜〈石器時代〉の中川さんから伺ったのですが、実は弟さんの事件のことでちょっと……」
支社長は、厳しい目付きになった。そして言った。
「弟を笑い物にするような、記事のためでしたら、お断りします」
「いいえ、違います。実はマダムから、あなたが弟さんの無実を信じて、いろいろ奔走されているという話を伺ったんです……」
「なるほど」
「それで、その信じておられる根拠といいますか、理由はなにかをお聞きしたいと思いまして……」
相手は疑うような瞳の色を、ちらッと彼に向けて、唇を前歯で噛みながら頷《うなず》いた。
「なるほど。で、それを聞いて、どうなさるおつもりです?」
斬りつけるように、鋭い言葉だった。
「もし、それをお聞きして、私にも納得できるものがあったら……もう一度、調べ直してみたら、と考えてるんです」
「ほう? 納得できたら、調べ直す?」
「ええ、そうです」
「中川さんからお聞きになったかも知れんが……弁護士が二人とも、弁護に自信がないと言って、手をひいた事件ですよ?」
「ええ、知ってます」
「三人目の弁護士も、泥酔上の過失――つまり酩酊して精神錯乱に陥っているときの事故という風に申し立てて、情状酌量を狙ったらどうか、なんて言ってる」
「なるほど……」
「そんな不利な事件なんです。おわかりでしょうね」
「ええ。ここへ伺う前に、事件に関する資料は、克明にメモして来ました」
「で、あなたはどう思います? 弟が、無罪だと思いますか?」
西岡は、相手の貼《は》りついてくるような粘っこい視線に、射竦《いすく》められるような気がした。彼はためらい、しかし矢張り首をふった。
東田は不意に微笑した。
「あなたは、正直な方らしい。客観的にいって、私だって他人なら、彼が真犯人と思います」
「………」
「だが、彼は私の弟です。私は、弟のことはよく知っているつもりだ……。酒は好きです。だが、金欲しさに、行きずりの女を殺すようなバカではない」
「………」
「いつだったか……そう、松川事件のときだったか,被告の目が澄んでいる。犯人の顔ではないといって話題になった作家の方があったが……私のも、どうやらそれに近いのかも知れません」
東田孝夫は自嘲めいた笑いを頬に刻んだ。
「結構です。ただ、私が知りたいのは真実なんです。真実は一つしかありませんからね」
「その通りですよ、西岡さん。私は弟に、何度も面会してます。私はそのたびに言っています。〈お前が真犯人なら、そう言って欲しい。こちらも、そのように弁護の方法を考えるから〉と言ってる」
「弟さんの答えは?」
「ノウ、です。兄さんまでが信じてくれないなら、このまま死刑になった方が気が楽だと、この間も言ってました……」
「そんなことを、弟さんが……」
「ただ迪夫は口惜しそうに言ってます。〈自分が死刑になるのは、あきらめるにしても、自分を罪に陥れて、のうのうと暮している奴が憎い〉と――」
「まさか、死刑にはならないでしょう」
西岡は慰めるように言った。
支社長は、鼻髭のあたりを、指の腹でこすってから、「そうですな……」と言った。
「いまは執務中ですから、くわしい話もできません……。今夜、私のために時間をあけて下さませんか」
西岡良吉は、うなずいた。
「ええ、喜んで――」
「では五時十五分ごろ、車で、お宅の社まで迎えに上ります」
東田孝夫は一瞬、侘《わび》しい表情を窓の方に投げやってから、また、彼の名刺に視線を落すのだった。西岡は、〈なにかある〉と思った。そして、矢張り訪ねて来たのは、徒労ではなかったと考えた。
二
編集部に戻ると、北川謙一が、大きな分県地図をひろげて、なにやら調べものをしているところだった。
「どこへ行ってたんだい?」
北川は彼の顔を見るなり言った。西岡はなにも答えず、街をぶらついてきたと答えた。北川が見ているのは、鹿児島県の地図である。
「鹿児島に、なにかあるのかい?」
彼は、地図を覗きこんだ。
「うん。この姶良《あいら》郡あたりに、女ターザンが出没しているそうだ。しかも、姉妹のね」
「ほほう!」
西岡は笑った。
「あるテレビ局のカメラ・マンが、十日間、山の中をうろついたが、無駄だったそうだ。なんでも、終戦からこの方、山の中で暮してるらしい……」
「食物や着物は?」
「食事は木の実。それにときどき、里に降りてサツマ芋を盗んで食ってるそうだ。着物は腰にボロボロの日の丸の旗を巻いている」
「本当かい? どこから来たネタだい」
「九州のテレビ局の友人が、電話で教えてくれたんだが……」
「どうも、ガセネタ臭いなあ」
西岡は笑った。
「俺も、そう思うがね。しかし、敗戦を信じない女ターザン姉妹というのは、ちょっといけるぜ?」
「ワイド版には無理だよ……」
「そうかなあ」
二人が話しているのを見て、次長の白石が立ってきた。そして北川謙一の話をきくと、案の定笑いだした。
「ワイド版だぜ、ワイド版! そんな女ターザンが仮に実在しているとしてもだ、二十二頁も特集できるか! 人気スターが誘拐されたのなら、話は別だがな」
白石は、北川の頭を小突いた。そして附け加えた。
「遊軍になった途端に、二人とも頭がボケてきたようだなあ……」
それは冗談だったが、西岡には、皮肉にうけとれた。彼は、次長に言った。
「次長。ちょっと話があります」
「前借りなら、駄目だぞ?」
白石の眼は、微笑っていた。
「いや、ネタのことなんです」
「ほう?」
白石は周囲を見渡して、二人の肩に手をおいた。〈応接室へ行こう〉という合図であった。
応接室に入ると、白石は、窓をきちんと閉めて、ソファーに腰を深く埋めた。北川も、仕方なしに畏《かしこ》まって坐って、西岡の顔を見詰めている。
「先月の十二日……千駄ケ谷の〈重富荘〉というホテルで、身元不明の女給が殺された事件がありましたね」
次長はうなずいた。北川は、なぁーんだ、という顔つきをした。西岡は構わず続けた。
「その犯人と思われてる男……東田迪夫という銀行員ですが、いま、その東田のお兄さんに会って来たんです……。兄は、弟は無実だと言ってます」
白石は、眼鏡をぐいと指先で押し上げた。そして片膝を曲げて、両手で抱えるようにした。
「今夜、くわしく話を聞くことにして、一応は戻って来たんですが……どうも、それが本当じゃないかなという気がするんです。そういうと北川は、反対するんですが」
「なるほどね。そいつが仮に無実だったら、面白いな」
「でしょう? もしそれが証明できたら、ちょっとしたスクープだと思うんです」
北川謙一は腕組みをして、しげしげと彼を見つめた。あきれた奴だ、というような目の色だった。
白石は、膝の上に顎をのせて、しばらく足をぶらぶらさせていたが、俄かにその姿勢を崩して西岡を見た。
「思いだしたぞ……。実は、あの事件が起きたとき、新聞を読んでて、不審に思ったことがあるんだ……」
この白石次長の発言は、西岡を駭《おどろ》かせた。なぜなら、彼は午前中かかって、それらの資料を読み漁っていたからである。彼が、不審を感じた点は、どこにもなかった。
「なんですか、それは――」
そう問い返したのは西岡ではなく、北川の方だった。白石は重々しく頷いた。
「たしか二つ位あったな。そうだ、資料室へ行こう」
次長はそう言うと、ドアをあけて、エレベーターの方へと歩きだしていた。
五階の資料室は、週刊誌が発行されるようになってから充実した機構になった。従来は図書室だったのである。それを中薗編集長の提案で、二人の女の子を雇い、新聞の切り抜きまで保管整備するようになった。次長は、女の子に事件の切り抜きを持って来させ、点検していたが、「これだ!」と叫んだ。その切り抜きは、〈中央日報〉のもので、活字のところどころに、赤エンピツの棒が引いてある。
「ここのところだ。読んでみろよ」
白石は二人にその紙片を手渡した。〈中央日報〉は軟派の夕刊紙だけに、他紙にくらべて、とりわけ大きく丹念に取材して、事件を報道している。次長が指さしたのは、女中の談話であった。
『重富荘の女中・谷部絹子さんの談話「ええ、あのアベックのお客さんは、昨夜午前一時すぎにお見えでした。室に案内する廊下の途中で、〈明日の朝は一緒に帰るから、必ず起してくれ〉とおっしゃったので、よく記憶しております。朝になって、私が掃除をしているとき、男の方が青い顔で下りて来たんです。それで私は、昨夜の約束を思いだして、起しに参りますと、ベッドの上で、お連れさんだった女の人が死んでいました。なんですか、その男の人は、靴もはかずに玄関を飛び出そうとしていたそうです。宿代は、女の人がお払いになりました。そのとき、私は女の人のハンドバッグに、札束が入っていたのを見ております。ですから、あの男の方が、犯人だと思いますね」』
二人は読み終って、首を傾《かし》げた。
「これが……どうかしたんですか?」
次長は微笑した。
「いいかい? この東田という男は、真夜中に新宿で女を拾ったと言っている。いまもって、女の身許が割れないところを見ると、それは本当なんだろう……」
「ええ、そうですね」
「その初めて泊る男女が、だ、〈一緒に帰るから〉と女中に頼むというのは、ちょっとおかしいじゃァないか?」
「それは……大金を持ってたから、盗まれないようにしようと……それで女中に頼んだんでしょう」
北川謙一が言った。
「しかし、五十万円といえば大金だ。どこでどうした金か判らないが、そんな大きな金を持っている女が、たとえ一夜の浮気にしろ、男を拾ったりするだろうか。誘われて、見ず知らずの男と、のこのこホテルに泊りに行くと思うかい?」
白石は煙草を咥《くわ》えたまま、二人の顔を交互にみつめるのだった。西岡良吉は、力強く肯いた。
「その通りですね。普通の女性ならば、家に帰るとか、宿に預けるとかするでしょうね」
「それに、この記事を読むと、女の死体には乱暴に毛布がかけてあったが、上半身は剥《む》き出しになっていたという。そして、ドアには鍵がかかってない」
「………」
「殺人犯なら、できるだけ死体の発見を遅らせたいのが人情だ。つまり犯人の心理としては、女の死体に毛布をかけて寝ているように偽装し、ドアにはきちんと鍵をかけて、それから逃げだすと思うんだが……これは、どうだろう? 違うかい?」
「なるほど!」
北川謙一は、小さく唸《うな》った。
「私が変だな? と思ったのは、この二つさ。なぜ女は金を宿に預けず、恋人同士のように〈一緒に起こしてくれ〉と女中に言ったのか。そしてなぜ、ドアの鍵をかけてから、男は逃げ出さなかったのか。……私は記事を読んでいて、それを疑問に思ったわけだ……」
白石次長は、鼻孔から煙をすーっと吐き出して、得意そうに小声で笑った。
三
約束通り、午後五時十五分かっきりに、東田孝夫は、大型のハイヤーを社の玄関に乗りつけた。陽は沈みかけていたが、まだまだ夕方とはいえないような明るさである。
次長と相談して、赤坂の中華料理店を予約してあったが、東田支社長は、今夜は自分の招待だからと言って、車を清洲橋に向けるようにと命じた。
「私……同じ編集部の北川と申します」
北川謙一は、車の中で名刺をさしだしていた。彼も、ようやくこの事件に対して、興味をもちはじめたのである。ただ、西岡の場合と違って、次長の疑問の言葉をきいてから、〈そういえば少し変な点もあるな〉と考えはじめた程度らしい。それだけに、まだ半信半疑な気持が強かった。
車は鎧橋を渡って、清洲橋へと向かっている。そして橋の袂を左に折れて、洒落れた門構えの料亭の前に停った。
すぐ女中に案内されて、川に面した座敷へ入る。夕凪《ゆうなぎ》で、川には落日が赤く照り映えていた。しかし縁側のガラス戸をあけると、川風のせいか、うすら寒い感じだった。
二人を床の間に坐らせて、自分は下座に席をとった東田は、熱いお絞りで顔やら頭を丹念に拭い、酒と肴が運ばれるまで、仲居と軽い時候の挨拶をかわしている。言葉の口ぶりでは、月に一、二度、商用で利用している店らしかった。
前もって言いつけてあったらしく、仲居は客にそれぞれ酌をすると、一礼して座敷を出てゆく。
東田は、鞄を膝の上にとり寄せて、大きな大学ノートをとり出した。
「さて……なにからお話しますかな」
支社長は、ノートを拡げて頁をめくっていた。それは弟が逮捕されてから、弁護士と相談したときの心覚えや、反証を集めて廻ったときのメモが、書きこまれてある模様である。
「迪夫は……私とは十二歳も年が違う、末の弟です。終戦後……県会議員だった父が死亡して以来、私が親代りとなって、面倒をみて来ました……」
テーブルの上に指を組んで、東田孝夫は弟の生い立ちから、ぽつり、ぽつりと語りだした。その真意は、育ちはそう悪くはなく、性格も酒好きではあるが、金に困っての犯行とは思われないという点を、先ず強調したいからだと受けとれた。
「……ここに迪夫名義の、山林の登記権利書を持って来ていますが、これを半分売ったって、五百万や六百万の金になるんです。また抵当に入れれば、銀行だって喜んで貸してくれます……」
西岡良吉は、話をきいていて、いささかイライラして来た。いくら東田迪夫の性格や、育ちの良さを聞いたって、なんにもならないのだ。
「東田さん。あなたは、弟さんに会われましたか?」
北川謙一も、やはり同じ気持だったらしく、そう言って相手の話題を変えさせた。これは取材記者としては、賢明な処置だった。きくべき話の本筋に、できる限り早く入って貰った方がいいからである。
「ええ、五度ばかり会いました。もっとも〈接見禁止〉の処分がとけて……つまり送検されてからですが」
殺人罪などの重い罪で逮捕された容疑者には、〈接見禁止〉といって、弁護士以外は誰にも会わせない処分がとられる。たとえ肉親でも面会できない。この処分がとかれるのは、犯人が自供して地検送りになってからであった。
「なるほど、五度もですか――」
西岡は感心したように言った。事件以来、一カ月以上経っているから、肉親としては当然な回数かも知れない。しかし小菅刑務所の面会室の風景を思い浮かべると、やはり西岡は感心せずには居られないのである。
「そのたびに迪夫は、〈私は無実だ〉と繰り返しています。私も弟の言葉を信じたいのです……」
東田支社長は、はじめて気づいたように、二人にビールを奨《すす》めた。コップは既に空だったのだ。
「すみませんが、弟さんの仰有《おつしや》っていることを、具体的にくわしく教えて頂けませんか」
北川は、メモ・ノートを構えている。
東田は、ゆっくりした口調で、大学ノートを見ながら話して行った。
「迪夫の話によりますと、その夜は上司の送別会があって、銀座で飲み、新宿へ流れて来たのが十時ごろだったといいます」
「店の名前は判りますね?」
「ええ、ここに住所と電話番号、それに飲んだ大体の量も、控えてあります。本人は、女と性的な交渉をもてた位だから、それほど酔ってはいなかったと言っています……」
兄の孝夫氏の口吻《くちぶり》だと、迪夫はなかなかの酒豪らしかった。一般に大酒飲みというものは、性的な面では淡白である。
――その夜、東田迪夫は、ウイスキーの水割りとビールをちゃんぽんに飲んで、千鳥足で夜の新宿の街を歩いていた。まだ、飲み足りなかったのだ。
ところが伊勢丹の角までくると、自分と肩を並べるようにして歩いている美人の姿が彼の目にとまった。「飲みに行かないか」と声をかけると、女は喜んでついて来たのだという。そして何軒か記憶はないが、とにかく女と飲み歩いて、千駄ケ谷のホテルヘ行ったのだそうだ。
「ちょっと待って下さいよ? 部長さんと別れて、一人になったのは何時ごろです?」
西岡は言った。
「さあ。新宿で一時間ぐらい飲んだとか、部長が言ってましたから、別れたのは十一時すぎじゃァないでしょうかね」
〈すると午後十一時から午前零時半ごろまで、飲み歩いたことになる。一時間半か!〉
西岡は、彼が女と飲み歩いたという、その一時間半のあいだに、なにか謎が隠されているのではないか、と思った。
「そうして女と寝て……翌朝には女が死体となっていた、というわけですか?」
「そうです。弟の主張を説明しますとね……大体、次の三点に疑問があるんです」
「ほほう!」
二人は膝を乗りだした。
「変な話になって恐縮ですが……迪夫は、商売女に限らず、女性とそのような交渉をもつときは、衛生器具……例のサックというやつですね。あれを必ず使うそうです」
「酔っぱらっていても?」
「ええ、そうです。なんですか、近頃では百円入れると、サックやゼリーが出てくる器械が、ああしたホテルの室にはあるそうですねえ……」
北川謙一は擽《くすぐ》ったそうな表情をした。彼もバーの女の子と、何度か利用したことがあるのである。
「その夜は、相手の女の方から要求したそうで……」
「え?」
西岡良吉は、愕然となって問い返した。彼は新聞記事に、〈女の膣内から、AB型の精液が発見され、容疑者の血液型と一致した〉という報道があったことを、思いだしたのである。
支社長は、苦笑しながら、驚いている彼を見詰め、意味ありげに肯いてみせた。
「驚かれるのは、無理もありません。迪夫はサックを使ったと言っている。しかし、女の体からは多量に、AB型の精液が発見されているんです……」
「そ、それは、どういうことですか?」
西岡は、せきこんで訊いた。そんな裏の事実は、どの新聞、どの週刊誌にも報道されてなかったのだ。
「可笑しいでしょう? しかし警察では、百円銀貨を入れて、サックを使用したのならば、紙包みや、他の薬品が室の中に残っている筈だというんです」
「なるほど……」
「どこを探しても、使った形跡がない。だから弟が、虚偽の主張をしていると言うんですね」
「女が水洗か何かに、流したということは考えられませんか」
「私もそう言ったんですが、調べようがありません。逆に弟は、一回目にサックを使って、二回目には使用しなかったんだろう、などと刑事にからかわれたと言ってました。女が拒んだので、かーッとなって弟が絞め殺したという風に、解釈している刑事もあるようです……」
「しかし、弟さんの主張通りだと……二回目の交渉が持たれたとしか、考えられませんね? この点は、どうなんです?」
北川謙一は冷静に質問した。本人は器具を使用したと主張している。にも拘らず、女の膣内には彼の精液が残されていた。この矛盾した二つの事実を、満足させる答案は、ただ一つだった。サックを使用せず、二度目の性交が行われたということである。
「でも迪夫は、一度目が終って、煙草を吸いながら女が浴室から戻るのを待っているうちに、寝入ってしまったと言ってます。だから二度目は、全く記憶がないというんです」
西岡と北川は、思わず顔を見合わせた。北川は疑うような瞳の色だった。兄の東田氏も二人の気持を察したらしい。
「失礼ですが、お二人とも、丁度私の弟と同じ位のご年輩と思うんですが……かなりの量の酒を飲んだあとで、二時間内に二度も、女性となにできますか?」
「え? それはどういう意味です?」
西岡が、狼狽しながら反問した。東田孝夫は微笑して、ビールを一気に呷《あお》った。
「弟と女が、ホテルに入ったのが午前一時です。そして女の死亡推定時刻は、午前二時から三時のあいだ。この間、ざっと二時間しかないわけですね」
二人は、合点した。そして兄の東田氏の質問の意味が、かなり深刻な決め手の一つであることを悟ったのである。泥酔していたら、若い男でも二時間以内に、続けざまに性交渉をもつことは困難だろう。まして容疑者の東田迪夫は、満年齢で二十九歳の男である。昔風にいえば、三十歳だった。
「警察医は、弟の健康状態、独り者であることから、不可能ではないと鑑定しました。しかし、弟は二回目は記憶がないと言います。こうなると、誰しもサックを使わなかったのだろうと、疑うのが当然でしょうねえ」
淋しそうな笑い声をあげてから、東田氏は壁の呼び鈴を押した。
四
女中が新しい肴と、ビールを運んできて、また座敷を出て行くと、東田氏は鼻髭を指の腹でこすって、また語りだした。
「次の疑問の点はですね……自分では全く記憶がないのに、上衣の内ポケットに、五十万円の札束が入っていた、ということなんですよ。しかも、釦《ボタン》までかかっていたそうです」
「ほほう?」
「その金は、明らかに女が持っていたものなんですね。ホテル代を支払うとき、女のハンドバッグから、札束が見えたと女中が証言している。だから間違いないでしょう。しかしそのとき弟は、トイレに立っていて、女が室代を払ったということすら、朝まで知らなかったんだそうです。それなのに、洋服ダンスにかかっていた弟の背広の上衣に、その札束が入っていた……」
北川謙一は首を傾げた。〈そんな馬鹿な話はない!〉とでも言いたそうな顔つきであった。
「不審に思われるでしょう? 私は、弟の言葉を信じます。しかし警察では、行きがけの駄賃に、金を奪ったのだと見ています。全くの話が、五十万円の札束が頼みもしないのにノコノコと、上衣の内ポケットに入り込んできたとは、考えられませんからね」
「東田さん。ちょっと待って下さい。仮に、その弟さんの話が真実だとするとですよ? ……誰かが、二人の泊っている室に、入って来たことになる」
西岡良吉は言った。
「そうなんです……。ついでに、最後の疑問を話してしまいますとね、煙草なんです」
「煙草?」
「ええ。迪夫の話だと、女は浴室に立つ前に、自分のバッグから煙草をとりだして、自分のライターで火を点けてくれたんだそうです……。名前は判りませんが、キングサイズの外国煙草だったとか……」
「それがどうかしたんですか?」
「ええ。朝起きて、女のバッグの中身を調べたときには、煙草もライターもなかったというんです。警察の調べでも、なかったということですがね」
「ほう……不思議な話だなあ」
「しかも煙草の吸殻は、迪夫がたしかに吸ったと主張しているのに、灰皿には、灰のかけらもない。そして女のバッグには、煙草もライターもなかった。ということは、誰かが入って来て、女を殺し、煙草とライターを盗んで、灰皿の始末をして、それから出て行った……と考えられませんか」
東田氏は、ビールを飲んで、髭についた泡を手の甲で拭った。目が輝いている。二人の相鎚を期待しているような、輝き方だった。
「ついでに、札束を内ポケットに入れて……ですか」
皮肉めいた口調で、北川が言った。
――考えてみると、それは奇妙な話ばかりだった。殺人者が入って来たのなら、なぜ五十万円の札束を残して、煙草やライターのようなケチな品物を盗んで行ったのだろう?
また、東田迪夫を目覚めさせずに、どうやって女を扼殺したのだ? その動機は、なんなのだろう。金を残して行ったところをみると、物盗りではない。残されたのは〈痴情〉か、〈怨恨〉の、二つの動機しかなかった……。
「この三つの疑問を、いずれも警察では、苦しい作り話だと思っているらしいですね。しかし迪夫は、ホテルの連中が怪しい、といってました」
「ほほう、ホテルの連中ですか……」
西岡は、いよいよ本題に入ってきた、と思った。声もわずかばかり弾んでいる。
「ホテルの連中が怪しいという根拠はですね、こうなんです。靴を呉れと女中に言ったとき、女中は大急ぎで連れの女を起しに行ったんだそうですよ。女中の証言だと、千円のチップを女から貰って〈必ず起してくれ、一緒に帰る〉と言われていたからだというんですが……」
西岡は、大きく頷いた。
「うちの次長も、はじめて泊りながら、そんなことを女中に頼んだのは変だな、といってました」
「そうでしょう?」
東田氏は、満足そうにまた両指を組み合わせた。
「まだ、変な点があるんですよ。靴を出してくれないので、ハダシで逃げ出そうとしたら玄関のドアは、錠がかかったまんまだったそうです。そしてすぐ女将がでてきて、〈逃げるのは悪い料簡だ〉というようなことを、迪夫に言ったそうです」
「逃げるのは悪い料簡だ? 女将が、そんなことを言ったんですか? 死体が発見されない前に?」
「ええ。もっとも女将の言い分では、超過料金を払って貰おうとした、というんですけれどねえ……」
「ふーん。それは面白いですね!」
北川謙一は、ついそんなことを口走っている。西岡は、膝で小突いた。週刊誌記者根性が、あまりにも剥き出しになりすぎると、取材に協力して貰えなくなるのだ。まして相手は容疑者の実兄であった。
「迪夫は、だからホテル全体が仕組んだ〈罠〉のような気がするとすら、言っているんです。女中は死体の発見者、女将は弟の逃亡を防ぐ……。うまく出来ていますよ……。それに、ホテルの人間なら合鍵をつかって、いくらでも出入りできますからねえ!」
兄の東田孝夫は、現在でもホテルの人間を疑っている模様である。そして弁護士に依頼して、ホテルの人間――経営者や従業員を洗わせたが、一向に良い線が出て来ないと愚痴った。
〈ホテルぐるみの犯罪!〉
西岡良吉の胸は躍った。ホテルの経営者、従業員がすべて共謀者だとしたら、なにもかも円滑にことが運べるではないか!
しかし、そのアイデアも、犯行の動機を考えたとき、俄かに崩壊して行った。一体ホテルの内部の誰が、その死んだ女性に怨みがあったというのか!
〈待てよ……。女の身許は不明だ。となると、東田迪夫がホテルの誰かから、恨まれていたのではないか? それで連れの女を殺して、その罪をなすりつけられる……〉
「東田さん」
彼は勢い込んで言った。
「なんですか」
「弟さんは……どなたかに恨みを持たれたりするようなことは、過去になかったでしょうかね」
「恨みをですか? さあ……友人関係ではないようです。勤め先の関係で……あるといえばあるかも知れませんねえ。迪夫は銀行で貸付係をしてましたから……」
「貸付係? では融資関係で、たとえばホテル〈重富荘〉と取引きでも?」
「いや、ないようですよ、ホテルには。弟が担当してましたのは、資本金一千万円以上の、工場が多かったようです。特にガラス、ゴム、玩具などですね」
「なるほど。すると、そうした工場の経営主で、弟さんに恨みを抱いている者が、なきにしも非ずというわけですか……」
北川謙一は、西岡良吉の顔を覗きこむようにしながら、そう呟いた。彼自身も、どう判断してよいのか、迷っている風情である。
「とにかく、状況は弟に不利です。警察でもホテル関係は、一応あたってみてはくれたらしいんですがね。なにも怪しい点はない、と言ってます。いや、全部、弟の妄想だというんです。なんとか罪から逃れるために、でっち上げた嘘だというわけです……」
東田氏は憤慨したように、そう言って上衣を脱いだ。
だが西岡の正直な感想では、やはり警察の方に、分《ぶ》がありそうに思えた。ホテルぐるみの犯行という着想は面白いが、それだと〈なぜ女が殺されねばならなかったか〉という動機の点が、すこぶる曖昧となる。
いろんな点を綜合して、東田迪夫が女を殺した……と推定するのが、妥当な様であった。
その方が、なに一つ矛盾したものが、生じて来ないからである。
東田は、また鞄の中を探って、大きな封筒をとり出した。そして中身を、テーブルの上に並べた。同じような構図の写真ばかりであった。
「なんです?」
二人は覗き込んだ。
「偶然とは、面白いもんですね。この写真はあの夜、重富荘の奥にあるホテル〈夢楽〉を張りこんでいた秘密探偵社の尾行調査員が撮ったものなんですがね……」
苦笑しながら、東田は一葉の写真を示した。
それは〈重富荘〉という大きなネオンの下で、タクシーから降りた一組の男女のスナップである。
「これが弟です……」
東田氏は先に立って歩いている男の後姿を指さした。女はネッカチーフを頭からかぶっている。そしてタクシーの運転手から、釣り銭をうけとっているような、手つきであった。
「この写真を撮った探偵社の男は、ホテル〈夢楽〉に入った、ある日本橋の問屋の主人の素行調査を、奥さんから頼まれていたんだそうです。その主人が、店のタイピストと出来ているのを、奥さんが嗅ぎつけたんですね」
探偵社の男は、二人がタクシーでホテル〈夢楽〉に入るところまで尾行した。そして、証拠写真として、タイピストと問屋の主人が、そのホテルから仲好く出てくるところを、キャッチしようとしたわけである。
ところが狙う二人は、午後九時にホテルに入って行ったきり、姿を現わさない。その先は袋小路だから、当然、〈重富荘〉の明るいネオンの下を通らねばならぬ筈だった。
物陰に隠れている二人の探偵は、退屈しのぎに、重富荘に入るアベックの写真をパチパチ撮りまくっていたわけだ。二人が狙っていた依頼主の夫とタイピストは、午前二時半ごろ出てきて、通りでタクシーを拾って帰った……。
「そんな訳で、偶然にも午前一時に、ホテルに入った弟の姿が撮影されていたわけなんですがね。事件を知って、さっそく兄の私のところに、一万円で買えといって、ネガを持って来たんです……」
「抜け目のない連中ですね」
「ホテルに入って行くときの、決定的瞬間の写真だなんて言いましてね」
東田氏は苦笑を洩らした。
「弟の無罪を証明できる写真なら、十万円でも買いますが……これでは何にもならない。弟の後姿と、女のネッカチーフ、それにタクシーのナンバーが判るだけでしょう? そういったら、千円でも良いというんですよ、連中は! 仕方なく、このネガだけ買ってやりました。なにかの足しにならないかと、引き伸ばしたりしてみましたが、なにぶん、ネオンの光だけですから……」
なるほど、大きく引き伸ばしされた写真を見ると、ただ人影がぼうッと映っているような感じで、よほど目から遠ざけないと、人の形は判らなかった。
しかし、この偶然の写真スナップが手に入ったことは、西岡良吉にある勇気を与えた。〈偶然だが二人は、こうしてホテルに入るところをカメラに納められている! この調子で探せば、まだまだ有力な証言なども、出現しないとも限らないではないか! いずれにしても、彼が有罪か、無罪かの決め手だけは、掴めるかも知れない!〉
西岡は張り切って言った。
「この写真は、警察には?」
「いや、弁護士がよせというので、提出するのは止めました」
「売りに来た探偵社の人間の氏名は?」
「ここに名刺がはさんであります。また、タクシーの運転手の名前も、調べてあります。しかし……なにも得られませんよ?」
兄の東田孝夫は、力無く微笑って、また呼び鈴を押した。
「私の知っているのは、これだけです。今夜は一つ、仕事を忘れて飲みましょうか」
そう言ったときには、壮年の、やり手らしい生命保険会社の中央支社長の顔に戻っていた。二人は黙りこくって考えこんでいた。
第四章 犯人はアベック?
一
――千駄ケ谷の、連れ込みホテル街は、ようやく夜の静寂をとり戻しはじめたようだ。ひとしきり、遅い泊り客を運んでは立ち去るタクシーの音が、騒がしく続いていたが、いまはもう、その車の音も聞えては来ない。
北川謙一は、窓をあけて、明治神宮外苑の、こんもりと黒い森の方を、じいっと眺め続けていた。星が美しく輝いている。爽やかな秋の夜空である。
〈だが、無実かも知れぬある一人の男が、拘置所で眠れない夜を迎えている……〉
そんなことを考えると、北川謙一にも、流石《さすが》に一種の同情心が湧いてくるのだった。それはなにも、東田迪夫の兄にご馳走になったという義務感から、起きるのではない。また〈無実〉だという確信があるわけでもない。ただ漠然と〈もし無実だったら?〉という、ある正義感みたいなものが、彼のジャーナリストとしての良心を刺戟しているだけの話だ。
ホテル〈重富荘〉は、やや高台に位置していた。規模としては、あまり大きなホテルではないが、設備では一流の旅館に属する。鉄筋三階建の、スマートなビルだった。隣には高い塀をへだてて、ホテル〈夢楽〉が並んでいた。
「お待たせいたしました……」
軽くドアをノックして、女中が入ってきた。三十一、二の、ちょっと垢抜けした年増の女である。二重|瞼《まぶた》の手術でもしたのか、左目の瞼が微かな傷になっていて、上目遣いに見るとき、ぎょろりと大きな目になるのが、ちょっと気になる。
女中は部屋の中を見渡し、
「あら、まだお連れさまは……」
と、驚いたように言った。
北川謙一は、女の方を振り返って笑ってみせた。
「うん。どうやら、振られたらしいね。酒が飲みたいんだけど、支度できるかい?」
彼は居間のソファーに戻って、ゆっくり腰を埋めた。
「あら、お酒でしたら冷蔵庫の中に、ビールが入ってますのよ?」
女中は不思議そうに言った。彼は、首をふった。
「日本酒が飲みたいんだよ……」
北川謙一は、めったに日本酒は飲まない。彼は〈これは西岡のセリフだな〉と思った。そう思いながら、北川は、その大きな眼で、女中の顔をじいーっと覗きこんだ。モーションをかけるときの、熱っぽい目付きである。
バーの女給たちから、〈ぐっとシビレちゃう……〉
と、お世辞をいわれている、その目付きだった。北川は意識して、その年増の女中にモーションをかけたのである。
「あら、あら、自棄酒《やけざけ》ですの?」
女中は、たじろいだように微笑した。そして白皙《はくせき》の顔をもったこの長身の男性に、少からず興味をもったような表情になる。
彼は、ワイシャツの胸に入れて用意していた五千円札を、素早く女中の帯のあいだに挿し込んだ。
「とにかく、頼むよ……。ね?」
女中は、そのチップが五千円だと知って、微かに動揺していた。なにかを、ためらって怒ったような表情をしてみせた。
「変な意味に、とらないで欲しいな。ぼくはただ、酒が飲みたいんだよ。熱燗でね。板前さんは火を落して寝たろうし……それが悪いと思ってさ……」
「まァ……そんなこと、なんでもありませんわ……」
女中は、やっと安堵したように、笑い顔を見せた。
「これ……頂いてよろしいんですの?」
「もちろんだよ……。できたら、なにか料理が欲しいね」
「ええ、台所へ行って探してみます」
女中は腕時計をみた。午前二時だった。
「それから……三階、あいてないの?」
北川謙一は言った。三階の室と、最初に指定したのだが、そのときは空いていなかったのだった。
「あいてますわ。二組ほど、お帰りになりましたから……」
「じゃァ、三階に移りたいな。ぼく、高いところが好きなんだ……」
「では、どうぞ……」
女中は〈変った客だわ〉というように、彼を見詰めて、すぐ電話で帳場にその変更を通し、自分から先に立って外に出た。北川は上衣をかかえて後に続いた。
「三階は、室代が少し高くなりますけど、よろしいんですか?」
階段を昇りながら、女は言った。北川はうなずいた。
「ああ、結構。金は持っているよ」
三階には、中央に赤いジュータンを敷きつめた廊下があり、等間隔にドアが三つずつ、左右に並んでいた。全くのホテル形式である。
それなのにドアの右手に、「松・竹・梅」「菊・萩・藤」という日本風のネームが掲げられてあるのだった。室の名前だけが和式なのである。
事件の起きた菊の間は、一番奥の右手の室らしかった。ドアに〈使用禁止〉と書いた、赤い紙が貼られている。
「あの室は?」
〈松の間〉に入りながら、北川謙一は、女中の肩にそっと手を触れて、とぼけて訊いた。女中はさりげなく、
「ええ、ちょっと事件があったんです」と言った。
三階の室は、高級なアベック客を狙って設計されたものらしく、部屋代も五千五百円であった。先刻の二階の室に較べると、間取りもゆったりしていて、居間と寝室が別になっている。
入口のドアをあけると、モダンな格子の目隠しのある靴ぬぎがあって、すぐジュータンを敷きつめた居間だった。居間には豪華なソファーのセットが置かれ、テレビ、電気冷蔵庫がおいてある。
天井には換気装置がしてあった。夏は冷たい風を、冬には暖かい空気を送りこむ仕掛けである。
居間の奥が、問題の寝室となるわけで、女中の話では、いずれも同じ間取りなのだそうであった。
「しばらくお待ち下さいませね」
女中は言った。北川は熱っぽく囁いた。
「なるべく、早くね? 女にふられた可哀想な男を、慰めてくれるだろ?」
女中は嬉しそうに笑いだした。
「もう二時ですから、少し位なら、お相手したげるわ……」
いそいそと女中が室を出て行ったあと、北川謙一は、しばらく間をおいて、廊下に出てみた。すぐ目の前にある〈菊の間〉に、入って見ようと思ったのだ。しかし、ドアには鍵がかかっていた。
ドアの把手の中央に、鍵穴がある。珍しいが最新式のホテルなどで、大いに使われている〈ボタン・ロック式〉の鍵だった。この方式だと、外から帰って、ドアを開けるときだけに鍵が必要なのだった。従来の鍵のように、外出のとき、いちいち鍵をかけなくても済むのである。外出の場合には、内側にある把手のボタンを押して、ドアを閉めれば自動的に鍵がかかるような、精巧な装置になっているのだった。
仕方なく室に戻った北川は、寝室の方へと行ってみた。
正面が明かり窓になっていて、カーテンが下ろされている。その前に、清潔なシーツと派手な毛布をかけたダブル・ベッドが、窓際に寄せて据えられている。居間よりに、小さなドアがあって、その扉をあけると、左に浴室、右に水洗便所があった。つまり、浴室、便所、それに両側から使える洋服ダンスとが一列に並んで、居間と寝室との境の壁の役目を果しているのだった。
〈こんな構造だと、寝室に寝ているとき、居間に誰かが入ってきても、廊下のドアのあく音に気づかないかも知れないな……〉
彼はそんなことを考えたりした。事実、その通りだった。寝室に立って、あれこれ仔細に検分していた北川は、いつ女中が居間に入って来ていたのか、気づかなかったのである。もっとも、ドアは開け放しにしてはあったが……。
「やあ、済まないね」
北川は、居間のテーブルの上に、徳利や料理の皿を並べている女中の姿を発見して、そんな声をかけた。
「どう致しまして。でも、たいした肴がなくて申し訳ありません」
それでも、板わさ、ハムの角切り、雲丹《うに》で和《あ》えた烏賊《いか》の塩辛など、日本酒むきな料理が並んでいた。やはり五千円の効力は大きい。
「さ、どうぞ……」
「ありがとう」
北川は、わざと女中の隣に腰を下ろした。近くで見ると、毛の濃そうな、うけ口の女である。うけ口の女は性欲的で、おしゃべりだということを、彼はかねがね聞いていた。
〈一つ、口説いてみるか?〉
彼は女中に酒を奨めた。
「あら、私はだめ」
女は意味なく笑った。
「女にふられるような男の盃は、うけられないって言うの?」
「まあ、そんなこと……」
「じゃァ良いじゃァないの。一杯ぐらい」
「では、頂きますわ」
北川謙一は、彼女の唇が、とてもセクシイで魅力的だと賞めてやった。そして襟足が美しく、母を想いだすと言った。大学時代、演劇青年だった北川には、そんな歯の浮くようなセリフを、もっともらしく喋《しやべ》ることなど朝飯前である。
取材のためには、先ず女の心を解きほぐし、警戒心をなくさせておく必要があるのだ。しかし女中は、彼のお世辞に他愛もなく参ってしまって、嬉しそうに浮き浮きした口調になるのであった。
二
三度目に徳利のお代りを持ってきたとき、すでに女中は、彼の愛撫を期待しているような、情欲が内側から滲み出てくるような目つきになっていた。
女中は、常子という名前だった。
北川は、巧みな誘導訊問を重ねて、ホテルの経営者については、かなり深いところまで常子の口から聞き出していた。
その陰口めいた話を綜合すると、女将《おかみ》というのは、もと赤坂の芸者であった。保守党の某代議士がパトロンで、三年前にこの旅館を買い、潰して新しく洋館に建て直したのだという。
人使いは荒い方で、そのため女中は一年ぐらいも続かない。一番古株が、絹子という女中で、次が常子だった。
その代議士というのは精力絶倫で、女将の寝室には、マムシの粉末、オットセイの睾丸、スッポンの血の入った酒など、十種類もの強精剤がおいてある。そして一週に二度訪ねてくるなり、その薬をつぎつぎに飲んでは、女将に挑むのだそうであった。
女中は六人いた。勤務は二交替で、早番は午前二時になると、風呂に入って寝ていいことになっている。三人の夜勤の女中のうち、一人が遅番で、明け方まで起きているのだそうであった。
そのほか下足番の老人と、やはり老いた板前が一人、八名がこのホテル重富荘の従業員だった。
帳場の会計は、四十三歳の女将が一切とり仕切っていた。
「ところで、この前の室……一体なにがあったの?」
北川謙一は、常子の肩に手をかけた。女の体が火照って、首筋まで酔ったように赤くなっているのが感じられた。
「あら、知らないの?」
「ああ僕は大阪にいるもんだから、東京のニュースには無関心でね」
彼の職業は、テレビ局のディレクターということにしてあった。常子は、なるほどというように頷いて、事件のことをくわしく語りはじめた。
その話しぶりには、〈ホテルぐるみの犯罪〉を感じさせるような、なにものもない。ただ自分の勤め先に起った、珍しい殺人事件を、なまなましく記憶しているというだけの、そんな話しぶりである。彼は失望した。
「……でもねえ、ちょっと変なこともあるのよ?」
常子は盃をうけながら言った。
「変なことって、なんだい?」
「うん……死んだ女の人のことなんだけど……」
「ほう。どうかしたのかい」
「だってさ……まだ、身許が判らないって言うじゃないの」
「うん……そうらしいね?」
「警察は何度も調べに来たわ。だって、夕方の五時ごろ、電話で室を予約して来たの。男の声でさ……」
「なんだって? あの〈菊の間〉を、男が予約していたんだって?」
「そうなの……。絹子さんの話だと、玄関に入ってくるなり、女の人の方が、そう言ったそうよ?」
「女が、どういったの?」
「夕方に、三階をお願いしてある筈ですけど、空いてますわね、って……」
「ふーん。変だなあ……」
北川謙一は考えこんだ。室は夕方五時ごろ、電話の男の声で、すでに予約されている。そして、女もそれを知っている。これは一体どういう暗合なのか。
東田迪夫は、誰か女と泊る積りで、予約していたというのか? そしてそれを、街で拾った女に話したのだろうか?
「私はね、あの晩、遅番で、朝七時に寝たでしょう? だから、事件のことは、一番あとになって知ったんだけど……絹子さんの話だと、あの男が、女の身許を知らない筈がないっていうのよ……」
「ほう? それはどうしてだね?」
北川は、女の体を抱きよせて、軽く唇に接吻した。女は妖しく身をよじって、謎めいた笑顔を浮かべた。
「だってさ……室を予約して泊りに来て……女の人は、絹子さんに千円もチップを渡して何度も念を押したのよ? 明日の朝、あの人と一緒に帰るから、きっと起して欲しいって……。なんでも、男の人に先に帰られたことがあるような、そんな口吻《くちぶり》だったって」
「ふーん?」
「男の方は、道で拾った女だ。名前もおろか、住所も知らないなんて言ってるの。図々しいと思うわ」
「………」
「そんな女と泊りにくるのに、夕方から室を予約したり、女の人が〈あの人〉と言ったりするかしら。起してくれって、千円のチップを出すと思う?……絶対、知らない仲じゃァないわよ……」
「だけど……予約する位なら、以前に何度か、このホテルを使ったりしたことがあるんだろうね」
「それを警察からも聞かれたけど……ほら、一番古い絹子さんで一年ちょっとでしょう。誰も顔を覚えてないのね。男の方も、女の方も……」
「予約の電話では、男はなんと名前を名乗ってたんだい?」
「名前は言わなかったそうよ。どうせ偽名でしょうし、名前は聞かないの。ただ、女将さんは、五時からだと料金が七千五百円になるが、それでも良いかって念を押したんだって」
「すると相手は?」
「構わないって、言ったそうよ。三階の奥の室がいいって言ってたから、女将さんも安心してたのね」
「三階の奥の室って、特に先方は指定したのかい?」
「ええ。女将さんは、警察の人に、そういってたわ」
北川謙一は、女中の常子の話に、いたく心を動かされてしまっていた。サラリーマンにとって、一晩に七千五百円の金を投じることは、決して容易ではない筈である。その場の成り行きで、女とホテルに泊りにゆくことはあっても、目的なしに室を予約することは先ずあるまい。
「どうも変だな……」
「どうして変なのよ?」
「だって一晩七千五百円の金を、サラリーマンが出せると思うかい?」
「あら、金は女の方が払ったのよ? 男は平気じゃないの」
常子の口にかかると、そんなことは疑問の余地がないかの如くであった。
〈男は、三階の奥の室と、特に指定して予約している! その男とは、果して東田迪夫本人なのか?〉
〈そうだ……。女の恋人が、一緒に予約したとも考えられる。しかし、女はその恋人にふられた。それで東田迪夫に誘われて、その室に泊りに来た……〉
北川謙一は、うっとりと彼に頬を寄せて、荒い息遣いになっている女中の肩を強く抱きながら、宙の一点を凝視していた。
「あのね、傑作な話があるのよ……」
常子は思い出したように言った。
「傑作な話って?」
「女の人の内股のところに、変った刺青《いれずみ》があったんですって……」
「え? 刺青?」
「そうよ。なんでもね、蛇が蛙を呑んでいるような、小さな刺青らしいんだけど……傑作でしょ?」
女は、彼の肩に自分の体をぶっつけるようにした。北川には、女の言葉の意味が、猥褻なあることをさしているのだと分っていたが、とりあわなかった。彼の脳裏には、そんなことよりも、白い女の内股に、くっきりと描かれた小さな刺青の構図が、くるくると渦を巻きながら大きく拡がりはじめていたのである。
それは悩ましい構図であった。欲情をそそる姿である。彼は刺青師が、女の柔かい内股の肉に向かって、銀の針を突き刺している姿も、併せて想像した。女は苦痛に呻く。
……そんな体の部分に刺青があるとすれば、身許不明の女の正体が、なんとなく北川には判ってくるような気もするのである。過去において自堕落な生活か、あるいは犯罪に関係があったのではないか、という気がした。
北川謙一は、腕時計をみた。
いつのまにか、時計の針は、午前四時を廻っていた。
「さあ、ぼつぼつ寝ようか?」
彼は言った。もちろん、女中を帰す積りであった。でも女の方は、すでに酒に体を火照らせ、抱擁やら接吻によって完全にその気になっているらしく、嬉しそうに言った。
「誰にも内緒よ? あたし……あのベッドの上で、一度寝てみたかったの……」
三
東京都に監察医務院が置かれたのは、昭和二十三年三月のことだ。変死者の死因をあきらかにするために、検屍および行政解剖を行う機関である。
東田迪夫が同衾《どうきん》していた女性の場合、扼殺――つまり他殺ということが明瞭だったので、監察医が検屍したのち、東大の法医学教室で司法解剖に附されていた。
その日の午前中、西岡良吉は、東大の法医学教室を訪ねていた。去年の夏、『スリラー・法医学』という特集記事をかいたので、内部に何人かの知人がいた。彼女を司法解剖した後藤という若い医学博士も、顔見知りの一人だったのである。
だから西岡は、その後藤博士に、死んだ女性のことを聞こうと考えて、訪ねて来たのであった。
大学構内の鬱蒼《うつそう》たる樹木は、すでに秋の凋落《ちようらく》に色どられて、銀杏は完全に黄ばみはじめている。西岡は、そんな象牙の塔の中の風景が好きであった。
法医学教室の建物は、古ぼけた木造の二階家である。この中には、消毒薬と屍臭との入り混った、独特の臭気が漂っている。
受付で名刺を渡し、しばらく待っていると、黒いゴムの執刀衣を脱ぎながら、博士は奥の解剖室から姿を現わした。
「やあ、君か……」
博士は、ちょうど一体ほど解剖が終ったところだと語り、二階の自分の研究室で待っていてくれ、と言った。西岡はいわれた通りにした。
博士はすぐやって来た。体からフォルマリンの匂いがしている。
「実は先生……先月の十二日に起った、千駄ケ谷の女給殺しのことについて、お尋ねに上ったんですが……」
彼は言った。博士は、煙草の箱を手にして、軽く首をふった。
「資料は全部、鑑識に渡してあるよ……」
「はあ、分ってます。ちょっと二、三の疑問の点について、お聞きしたいんです」
彼はライターの焔を、博士にさし出した。
「疑問の点?」
「ええ。容疑者は、未だに犯行を否認しているそうですね」
「そうらしいね」
「どう思われますか? 容疑者が無実だということは、考えられませんか?」
「さあ。それはどうだろう」
博士は、深く煙草を指にはさみ、煙を天井に向かって吐き出すようにした。
「なにしろ、私たちは死体を解剖して、その結果だけを報告するんでね。推理や臆測は、一切許されない」
「たとえば東田迪夫は、女と、なにする時、サックを使用したと主張しています。しかし、女の体には彼の精液があった。これは、どういう風に、解釈されますか?」
博士は苦笑しながら、鑑定書の綴りを一冊抜きとった。そして頁をくった。
「警察でも、その点を念入りに調べてくれというので、綿密に解剖したんだが……残された精液の量は、一回時の排出に伴ったと思われる程度の量で、AB型だったな。サックを使ったかも知れないが、それはよく判らない」
「そのAB型の精液は、まちがいなく彼のものですね?」
「ええ。間違いはない。分泌型に属するAB型だったからね」
「本人はサックを使ったと主張する。そして女の体内には、彼の精液がある。本人が嘘を言っていないとすると、性交は二回行われたということになりますが……」
「私は、本人の記憶違いだと思うよ……。また不可能ではないが、二時間という限られた時間の中で、泥酔した二十九歳七カ月の男性が、二回も行為をもつとは考えられない」
「なるほど。ということは、サックを使用したか、どうか記憶にないほど、本人は泥酔していたと考えていいわけですね?」
「まあ、善意に解釈すれば、そうなる」
後藤博士は、鑑定書の頁をめくって、なにやら覗きこんでいたが、不意に苦笑を洩らした。西岡良吉は、その微妙な変化を見逃さなかった。
「なにか、あるんですか?」
相手は首をふった。そして唐突に訊いた。
「ときに、この事件の被害者の女だけど、身許は割れたのかい?」
西岡は、心でためらった。身許が割れたという話は、まだ聞いていない。しかし、「まだです」と答えることは、不利だというような直感力が、強く働いていた。これは週刊誌記者として、いつしか身に備った職業的な勘の働きである。
「たしか、割れたと聞きましたが」
彼は、とぼけて答えた。その彼の言葉をきくと、博士は満足そうに肯いた。
「すると、やっぱり刺青が、決め手になったのかな?」
「え、刺青? 女に、刺青があったんですか?」
「うん……ここにスケッチがある」
相手は、鑑定書の頁をひらいて、そのスケッチを示した。とぐろを巻いた蛇が、蛙の体を呑みこんでいるところが、スケッチされてある。下半身を呑み込まれて苦悶する蛙と、らんらんと輝く蛇の目とが、戯画的に描かれてあった。
「ほほう……変った絵柄ですね」
博士は、また苦笑を洩らした。
「どこにあった刺青だと思う?」
彼は首を傾げた。首を傾げながら、彼は死体検案書の外表所見の項を、素早く読みとっていた。
〈……体格・小柄の方。身長一五一センチ、栄養良……〉〈上下肢ともに死体硬直が認められ死斑は……〉〈表皮剥脱の部分は赤褐色に革皮様化し、扼圧の跡顕著なり……〉
「こら、こら……盗み読みするんじゃない」
博士は、机の抽出しから、一枚の写真をとり出すと、彼が読み耽っている頁の上においた。西岡良吉は、その写真に目を吸いつけられてしまった。
それは刺青の部分を拡大したものだが、写真の上部にある黝《くろず》んだ皮膚の色と、縮れた毛の存在とは、その刺青の施された位置が、人体の特殊なところであることを教えている。
「私も五百体ちかく司法解剖を手がけてきたが、こんな変ったところに刺青をしていた女には、はじめてぶつかったね」
そういって、若い医学博士は笑った。〈身許が割れた〉と、彼が嘘を吐いたので、安心して披露する気になったものらしい。
「これは……左の内腿ですか?」
「そうですよ。陰部から五センチ位下方だった。俗に云う白粉彫りというやつだが、あまり名人の手で彫られたものじゃァないらしい」
「なるほど……」
西岡良吉はその写真を押し頂くような恰好をすると、さっさとポケットに納いこんだ。相手に有無をいわせない動作である。こんなとき下手に断ったりすると、貸し渋ることが往々にしてあるからだった。
「明日、お返しに上ります」
彼は澄ました顔で、次の質問に移った。
それは、誰かわからないが、女に恨みでも持った殺人者が、寝室に入ってきた場合のことだった。泥酔した東田迪夫は、前後不覚に眠りこけている。殺人者はベッドの傍に立ち、女だけを扼殺して逃亡する……。
「そいつは常識では考えられないね。君が言いたいのは、寝ていた男は、その殺人に気づかなかったのではないか、ということなんだろう?」
「そうです……」
「死体の頸部に残された扼圧痕をみるとだね……これは女の体に馬乗りになって、自分の体重をかけながら両手で絞めたもの……と推定されるんだ。これは推測ではなく、十中八九まで間違いがないでしょう。とすると、いくら泥酔していたって、誰か別人が女に馬乗りになって格闘してれば、目が覚める筈でしょう?」
「ははあ……そういうことになりますかね」
「そんな殺人の状態で、隣に寝ていて気づかないということは、先ず麻酔薬でも嗅がされない限り、ないことだろうね。従って、男が病的な酩酊状態に陥っていて、女を絞め殺したのではないか、と考えるのが、いちばん妥当のようだ」
後藤博士は、そんなことを淡々とした口調で言ってから、鑑定書の綴りを机の上に戻した。規則では、こうした検案書、鑑定書などは、公開できないことになっているのである。
「先生……ちょっと待って下さい」
彼は急いで言った。
「もう少し委しく、死んだ女性のことを、教えて頂けませんか?」
「なにが知りたいんだね? 身許は、割れたんだろう?」
相手は言った。
「はあ……そうなんですが、実は彼女がどんな生活をしていたのかが、知りたいんです」
彼は、苦しい弁解をした。
「生活といったって君……」そう言い澱みながら、博士は再び綴りを手にとった。
「私が解剖したのは、死後十四、五時間を経過した死体なんだからね。生活はない」
「しかし、胃袋の中身などで、生活の水準はわかると思うのですが……」
西岡は粘った。
「うん。そんなことか。たしか、握り鮨《ずし》を食べていたようだね。うん……死亡する四時間位前だ。つまり午後十時ごろ、握り鮨を食べて、ビールか何かを飲んでいる。胃壁が相当に荒れていたよ。爪には真ッ赤なマニキュアをしていたし、水商売の女性だということは、間違いなかったようだ……」
博士は、記録を読みながら、ときどき難しい学術用語を使って説明した。
……結局、西岡良吉は、かるい失望を味わいながら、その法医学研究室を辞さなければならなかった。
少くとも、執刀した後藤博士の口ぶりでは、東田迪夫という銀行員の、無罪を証明できるような手がかりは、何一つ得られなかったのだ……。
そういえば、隣に寝ている女が殺されるのに気づかないという、その仮説自体が非常識なのである。まして衛生器具の使用の問題、五十万円の札束の件など、すべて東田迪夫の供述には不審な点が多いのだった。
〈やはり、彼はクロなのか?〉
西岡は、昨夜おそく、ホテル〈重富荘〉に泊りに出掛けた北川謙一も、きっと自分と同じような失望を味わっているに相違ないと思った。そして憂鬱になった。
いわば、〈見込み違い〉だったのだ。
特集を担当していたら、こうした見込み違いのネタにぶつかることも、再三再四ある。だから腹は立たないが、温厚な紳士である東田氏が、弟の申し立てを、頭から信じこんでいた姿を想像すると、なにか無性に気が滅入ってくるのである。
四
西岡が編集部に戻ると、編集長の中薗が、彼を手招きした。彼は暗い表情で、その席の前に立った。
中薗はダンヒルのパイプを、鹿のなめし皮で、きゅっ、きゅっと音を立てて磨きながら、笑顔で「おい……」と言った。
「はあ、なんでしょうか?」
彼は怪訝《けげん》そうな視線を相手に据えた。
「白石君から聞いたが、えらい面白《おもろ》いネタを掴んだそうやないか! 金と時間は、いくらかかってもええ。一つ頼むでえ!」
西岡良吉は、言葉につまった。次長の姿は見えなかった。
「それが、その……」彼は悲壮な声をだした。
「どうも、巧く行きそうもありません」
「嘘つきィな! 巧く、行っとるやないか」
「いえ、本当なんです……」
編集長は、彼の顔をまじまじと見詰め、それから大口をあけて哄笑《こうしよう》した。
「おい、西やん! わいは編集長やで? なにも隠さんかてええがな……」
「しかし、編集長……。まだ私には、どうも自信がありません。本当なんです……」
「よし、よし。それぐらい慎重にやる気やったら、うまいこと行けるやろ……。白石君たちが応接間で、あんたを待ってるぜ……」
編集長は折からかかってきた電話に手をのばし、〈早く行けよ……〉というように、もう一度笑顔で顎をしゃくるのだった。
〈変だな?〉
西岡はその足で、すぐ応接室へ行った。中には次長の白石と、北川謙一の二人がいた。
「どうだったい、解剖の方は?」
北川は威勢よく聞いた。その言葉つきで、彼は北川が〈良いネタ〉を入手してきたことを知った。現金なもので、取材が順調なときには、言葉つきに一種の張りが感じられるのである。
「うん……駄目だったよ」
西岡は、刺青の写真をとりだし、二人の前に置いた。土産はこれだけだったのだ。
「ホテルの方は?」
彼は低い声で訊いた。白石が意味ありげな笑いを唇の端に浮かべると、手にしていたメモ帳をひろげた。
「まァ、悪くはない。東田迪夫がシロではないか、という強い線が出てきた」
「えッ。本当ですか?」
北川謙一は、〈そうなんだ〉というように何度も頷いた。次長は説明しだした。
「シロではないかという理由はだね、泊った室が夕方五時ごろ、男の声で予約されていたということなんだよ……」
「その男は……東田迪夫ですか?」
「違う。十一日の彼の行動を、調べて貰ったが、午後五時十分までは銀行で執務している。そして同僚たちとタクシーで、宴会のあった築地の料亭に出かけている……」
「電話で予約するヒマはなかった、というわけですね?」
「そうだ……。もっとも警察でも、電話で予約したのは、東田ではないだろうと言っている」
「それなのに、なぜ彼を釈放しないんです?」
「女の男友達が、予約していることだって、考えられるだろうが?」
次長は、北川が常子という女中から、聞き出してきたことを、すべて委しく話して聞かせた。西岡は羨《うらや》ましそうな目付きをした。女中と寝た北川の色男ぶりが羨ましいのではなく、そんな良いネタを掘り出してきた北川謙一が、ねたましかったのである。
「まァ、結論を出すのは早すぎるが、室を予約してあった事実、一緒に帰るから起してくれと、死んだ女が女中に千円のチップをやった事実などから考えると、兄の東田氏のいうように、仕組まれた〈罠〉のような気がしないこともないね……」
白石は、折り目のピンと入ったズボンを、見せびらかすように膝を組み替えた。
「すると怪しいのは、ホテルの内部ですか?」
西岡は、次長と北川の顔を見較べた。
「それは分らない。女中の話だと、どうもホテルの連中の仕業とは思えないなあ……。一応、経営者のことなど調べて来たがね」
北川謙一は、ノートをとりだした。そして経営者の氏名や経歴、パトロンの代議士の名前などを披露した。女中の常子が、徳利の代りをとりに立つたびに、大急ぎでメモしておいた貴重な資料である。
「ホテル側の犯罪だとすると、死んだ女の身許が、なぜ割れないかが問題になる。金を盗んでいない点をみれば、痴情か怨恨だろう? 東田迪夫に恨みがあるとすれば、問題は別だがね」
北川が言うと、白石が決めつけるように応じた。
「女に恨みがあって殺害する場合、ホテルの内部の人間が犯人なら、自分の勤めているホテルは使わないんじゃないか? よその旅館に引っぱり出すだろう?」
〈なるほど〉と、西岡良吉は思った。白石次長は、非常に適切な、人間の心理の捉え方をする男である。彼のいう通りだった。東田迪夫が犯人でないならば、これは偶然か、もしくは計画的な犯行だった。偶然だとするならば、幾つもの偶然が重なり合わなければならない。
「後藤博士も言ってましたが……女の体に馬乗りになって、体の重味をかけながら両手で首を絞めたものだそうです。ですから、ホテルの女中の犯行とは思えませんね」
「しかし、重富荘の中には、下足番兼夜警のお爺さんと、板前の男しかいない。板前は夜十二時に、火を落して帰るし……下足番のお爺さんじゃァ、どうもね……」
北川謙一も言った。しかし、一応ホテルの内部を洗ってみることにした。東田迪夫に恨みをもつ人間が、いるかも知れないからである。二人は、それぞれの持ち場を決め、すぐに街に散って行った。
西岡良吉が担当したのは、ホテルの従業員関係である。
彼は区役所の出張所に行って、米の配給を受けている六名の女中の、氏名と年齢、それに昔の住所を台帳から調べた。本籍は、いずれも秋田県だった。
〈重富荘〉のパトロンが、秋田県選出の代議士なので、その縁故からなのであろう。これは取材する記者にとって、ありがたいことであった。
下足番の爺さんと、板前の男とは、ホテルの住所では寄留届が出されていない。近所に住んでいるのかも知れなかった。
彼は、千駄ケ谷の旅館組合を訪ね、ホテル〈重富荘〉の内部にくわしいという、ホテル〈夢楽〉の主人を紹介して貰った。そしてその足で、重富荘の奥隣にあるホテルを訪ねた。
……結果から先にいうと、ホテルの女中たちも、下足番の爺さんも、シロだった。板前の男は夜十二時すぎに帰っているから、問題はない。下足番の爺さんは、七十二歳の高齢だった。目と耳に衰えがないのが自慢だとはいえ、腰の曲った老人に、若い女を扼殺できる能力があろうとは思えない。
となると怪しいのは六人の女中だが、隣のホテルの主人の話をきくと、いずれもパトロンである代議士の郷里から連れてきた田舎者ばかりで、銀行員である東田迪夫に恨みなどもつ女がある筈がないという。
西岡はそれでも念を入れて、夢楽の古い女中頭に会わせて貰い、隣のホテルの女中たちが、事件後どんな話をしていたかについて、聞かせて貰った。やはり、同じことだった。
夕方、もう薄暗くなりかけたころ、西岡は編集部に帰った。北川謙一も、すでに帰っていた。
北川は経営者である女将の方を、洗ってみたのだった。ホテルを建築した設計事務所、パトロン代議士の秘書、同じ選挙区のライバル代議士、それに女将のもといた赤坂の置屋、さらに取引銀行まで聞いて廻ったが、なにひとつ怪しい線は出て来ないという。
「すると……ホテル側が完全にシロだとすると、誰が殺したんだろうね?」
西岡は言った。北川は、外人のように肩を竦《すく》めてみせた。
「東田迪夫でなければ、誰か別に真犯人がいる訳だ。そうだろう?」
怒ったような、西岡の口調だった。
「その通りだよ……」
北川は、発走前のいきり立つ馬を騎手がなだめる時のように、彼の肩を軽く敲《たた》いた。
「その犯人は誰か? そして動機と、殺人の方法はなにか?」
北川はニヤニヤ笑っていた。
「犯人は東田に恨みを持っていたんだろうかね? それで彼を罪に陥れるために、あんなことをしたのだろうか」
西岡は、机の上のザラ紙に、無意味な三角形や円を描きはじめる。
「そうじゃァない。あの銀行員に恨みがある人間の犯行としてもだ……彼があの夜、泥酔して新宿で女を拾うとは、犯人の計算には入っていないだろう?」
「……もし、彼を犯人が尾行していたとしたら?」
西岡は、手を動かすのを止めて、鉛筆で北川の鼻をさしながら鋭く言った。
「なるほど、尾行か……。尾行ねえ!」
「尾行されていたら、東田が女とホテルに入るところも、ちゃーんと判るわけだろう?……それから客に化けて、中へ入ってゆく」
「それから」
「ああ。客ならホテルは泊めてくれるだろうからね。犯人は、寝静まるのを待って、〈菊の間〉へ行く。きっと女中に、先刻のアベックはどこに泊ったかを聞き出していたに違いない」
「で、どうやってあけるんだ? 帳場へ忍びこんで、鍵の束を盗んだのか?」
「うん……そうだな。俺の勘では、むかし、同じホテルの同じ室に泊ったことのある奴だと思うんだ……」
「電話で予約していたからかい?」
「それもある。だが、俺の言いたいのは、そのとき犯人は、〈菊の間〉の鍵の型をとっていたのではないか、ということなんだ。つまり、合鍵をもっていた……」
「ほう、合鍵をね。……すると犯人は、夕方その室を予約していた、ことになる。合鍵を使うために、ね」
北川が皮肉じみた例の口調で呟くと、西岡は不意にたじろいだように考えこんだ。
五
新橋界隈は、焼き鳥の煙と、ネオンと、雑踏とで今夜も埋まっていた。広場のあたりには、はずれの馬券が散らばっている。競馬の特設売場があるからだった。
西岡は、レインコート兼用のスプリングを肩にかけ、踵を引きずるようにして歩いている。北川はポケットに両手を入れ、口笛を吹いていた。
〈犯人が、東田迪夫でないらしいことだけは、次長も、われわれも意見が一致している………。だが、犯人は、どうやってホテルに入り、どんな方法で逃げたのだろうか?〉
〈菊の間が予約されていたことと、犯人とは無関係なのか? 殺された女は、なぜ、重富荘をタクシー運転手に指定し、女中にそう言ったのか?〉
〈室が予約されていた……。しかも、夕方五時に! このことに、なにか事件のナゾが隠されている!〉
西岡良吉は、前からやって来た一人の酔漢にぶつかりそうになって、慌てて身をよけた。考えごとをして、歩いていたからだった。
〈やっぱり、明日にでも、例の写真を撮った探偵社の男に会ってみよう。……そうしたら、東田と女がホテルに入った直後に、入って行った男のことが、聞き出せるかも知れない……〉
〈それにしても、室を予約した男と、殺された女との関係は、なんだろうか?〉
――不意に彼は立ち停った。ちょうどバー〈石器時代〉のあるビルの前だった。
「おい、北川……」
彼は、低く言った。
「なんだい?」
北川謙一は微笑した。しかし瞳の色は、なにかを期待しているような感じだった。
「わかったぞ! なぜ、女が殺されたか!」
「えっ?」
相手は愕いていた。
「わかったんだ、俺には……。犯人と、殺された女とは、恋人同士なんだよ!」
「どうして、それがわかる?」
「問題は、例の五十万円さ!」
「ああ、東田のポケットに入っていたという……あれか」
「そうなんだ……。二人は、その夜、ホテル重富荘に泊る約束をした。男は、女の目の前で電話をかけた……」
「なるほど」
「警察の調べでもわかるように……」
西岡良吉は、自分たちがバー・ビルの地下階段の入口に立って、出入りの客を邪魔していることに気づいて、赤い顔をした。そして喋るのを止めて、地下の店へと駈け下りて行った。
〈石器時代〉は、今夜は珍しくヒマである。
マダムの未亡人は、客に鮨屋《すしや》へ誘われたとかで、ヤン坊だけが留守番をしていた。二人は、隅っこのカウンターに腰を下ろした。
「先刻《さつき》の続きを話せよ……」
北川謙一は、水割りとビールを注文してから、彼に催促した。
「ああ、勿論だ……。二人はその夜、泊る約束をした。そして別れた……。というのは、女には勤めがあるからだ。警察の調べでは、彼女は新宿歌舞伎町の〈パール・ハーバー〉というキャバレーに勤めていた」
「名前は、大久保千代……と名乗っていた。キャバレーに出した履歴書では、本籍は滋賀県になってるらしいな」
北川はうなずいて答えた。
「女はその夜、五十万円の金を手に入れた。客から盗んだのか、手切れ金として貰ったのかは判らない……。が、とにかく五十万円という金を手に入れて、気が変った」
「なんだい、気が変ったというのは?」
北川は、ウイスキーの水割りに口をつけて目だけを光らせた。
「女は、男と泊る気がしなくなったのだ。それで約束をすっぽかした……」
「なるほど、なるほど」
「しかし途中で東田に会い、酒を飲み廻っているうちに、予約したホテルのことを思い出した。それで、もしや男が来ていないかと、行ってみた……」
「少し変だが、まァいいだろう。それで?」
「案の定、男は来ていない。そこで、行きがけの駄賃に、東田と泊ったわけだ……」
「なるほどね」
「ところで一方の恋人の男はだな……」
「ちょっと、待てよ」
「なんだい?」
「部屋を予約したのは、夕方だぞ?」
「そうだよ?」
「恋人同士だったら、予約したら、すぐ泊りに行くだろ? キャバレー勤めが終ってから、泊りに行くために、そんな早い時刻に、予約するかなあ……」
「なるほどね。うん、そうか」
「金がありあまってるのなら、ともかく、キャバレー勤めの女性と、その恋人が……」
「わかったよ。どうも、こじつけめいた解釈だったようだね。いまの解釈は、撤回する」
西岡良吉は、ビールを一気に呑み乾して、渋面をつくった。ちょっと、口惜しそうな顔をしている。
「どうしたのよ、二人とも! 入ってくるなり、話に夢中になってさァ」
ヤン坊が、不服そうに割り込んできた。
北川謙一は、整った顔を彼女にむけて、かるく微笑っていたが、不意に思いついたように言った。
「ヤン坊、メンタルテストしてやろうか?」
「メンタルテスト?」
「うん、そうだ」
「面白いわね」
「いいかい。ここにホテル式の部屋がある。アベック相手の温泉マークだ……」
「なんの話? 私を口説く積り?」
「よせよ。黙って聞いてくれ」
「はい、はい」
西岡良吉は、苦笑した。
どういうものか北川は、毒舌家でありながら、若い女の子にもてるのである。
北川は、紙とエンピツを借りると、〈菊の間〉の、かんたんな見取図を描いた。
「このドアの鍵はね、〈ボタン・ロック式〉といって、外出のときには、把手の中央についたボタンを押して、ドアをしめたら鍵がかかるんだ。だがら、外から入るときだけ、鍵が必要になる」
「知ってるわ。私の、こんどのアパートが、その〈ボタン・ロック〉だもの」
「ところでだ……。この室に泊っていたアベックのうち、女の方が、男の知らない間に、殺されていた……」
「ああ、東田さんの弟さんの事件ね」
ヤン坊は、目をくりくりと動かして、首を傾げてみせた。北川は、うなずいた。
「鍵は、二本ある。一本は、ホテルの帳場に、そしてもう一本は、室の中に残されている」
頭の中の疑問を整理しながら、北川は、ゆっくりした口調で言った。
「しかも、室は三階にあって、窓には鉄格子がはまっている。さて、犯人は、どのような方法で侵入したのでありましょうか?」
北川は、弁士口調で、おどけて言った。
「そんなの、かんたんよ。犯人は、合鍵をもっていたのでありまーす!」
笑いながら、ヤン坊は答えた。
「合鍵はダメだよ」
「そう? だったら、犯人が室の中に、隠れていたんだわ」
「なるほどな。犯人は、すでに室の中で待機していた……」
「おい、北川!」
西岡は、目を輝かした。
「それだ、それ! 犯人は、〈菊の間〉を予約している! だから、先に入って、女が来るのを待ってたんだ。ところが、待たせた挙句、違う男とやって来たから、それで女を殺したんだよ……」
北川謙一は、コップの氷を口に含んで、考えこんでいたが、やがて首をふった。
「いや、忍びこめないね」
「なぜだい?」
「俺は、二階と三階の室をみたが、空室にはみな鍵がかかっていた。案内したときに、はじめて女中が鍵をあけて、客を入れる習慣らしい」
「そうか……」
西岡は、浅黒い顔を、また口惜しそうに歪めた。
「それにだぜ……」
北川は、考え考え言った。
「犯人が、運よく忍びこんでいたとしても、どうやって逃げだすんだ?」
「泊り客として、やって来てるんだ。表から、堂々と逃げだせるじゃないか」
「しかし……一人だと、怪しまれる」
そう答えたあと、北川謙一は、コップをおいて、あわてて背広の内ポケットを探った。そして取材ノートの頁をくって、覗きこんでいたが、残念そうに首を強くふった。
「どうしたんだ?」
西岡はきいた。
「残念でした。事件の夜は、全部アベック客ばかりだ。俺みたいに、一人で泊るような、野暮な客はいませんでした……」
とつぜん、ヤン坊が、
「あらァ!」
と、叫んだ。しもぶくれした白い顔が、抗議するように二人を見つめている。
「なんだい、ヤン坊?」
「ねえ、西岡さん。犯人は一人だとは、限らないわよね」
「な、なんだと?」
西岡と北川は、顔を見合せた。
「だって、そうじゃないの。アベックだったら、怪しまれずに、それこそ堂々と出られるわ」
ヤン坊は、唇をとんがらせて、〈頭がいいでしょ〉というように、片目を瞑ってみせる。
西岡良吉は、笑おうとして、ふと顔の筋肉を硬ばらせた。
〈そうだ……。犯人は、なにも単数でなければならぬということはない! アベックという可能性もあるのだ!〉
彼は、心の中で叫んだ。左手から、コップが落ちて、薄い褐色の液体が、カウンターの上に散った。
だが、西岡は、そのままぼんやりしていた。
彼の頭の中では、東田迪夫の長兄が、探偵社の男から買いとったという、数葉のアベックの写真のネガが、俄かにいきいきと、回転しはじめていたのである。
第五章 縮れ毛の男
一
〈石器時代〉のヤン坊の、何気ない言葉は、西岡良吉を興奮させた。そして、事件のナゾを解きほぐす、ある一つの手懸りを、彼らに与えることになった。
……それは、いうまでもなく、犯人が、ホテル〈重富荘〉に泊っていた、アベック客ではないかという想定である。
ホテルの人間の次に、自由にホテルの中を歩き廻れるのは、泊り客であった。
西岡と北川とは、あの事件の夜、同じ三階に泊っていたアベック客を、追及すべきだという結論に達したのである。
犯人たちが、どのようにして、〈菊の間〉に侵入してきたのか、その方法はわからなかった。
ただ、その謎をとく鍵は、〈菊の間〉が予約されていたことと、やはり、残された五十万円の札束であろう。
「よし、俺はホテルの泊り客を洗うよ」
北川謙一は自信ありげに言った。頬が赤らんでいるのは、少し酔って来たのか、興奮しているのかの、どちらかであろう。
「洗えるかな?」
「それは、わからない。馴染みの常連客ならともかく、ふつう泊り客は、正直に住所氏名は書かないもんだからね」
「あの晩は、何組、泊っていたんだろう?」
「五組だそうだ……」
「ほら、例の写真の……」
「ああ、N生命の東田孝夫が買った写真か」
「あれを撮った探偵社の男に、会ってみたら面白いな」
「しかし、奴さんが張りこんでたのは、隣の〈夢楽〉というホテルだぞ」
「でも、午前二時半ごろまで、彼らは粘っている。女の死亡推定時刻は、二時から三時のあいだだ……」
「なるほど、殺してすぐ、のこのこ出て来たアベックが、怪しいというわけか」
「そういうことになる」
「よし、わかった。ホテルの泊り客、探偵社の男、みんな一通りあたってみよう」
北川は、うなずいた。
「すると、俺の仕事がなくなるぜ?」
「バカだな、こいつ! 仕事は、女だよ、女!」
「なんだって?」
「死んだ女の身許が、まだわかっていないじゃないか……」
「しかし、警察で調べても、わからないものを……どうやって洗ってゆくんだい?」
「キャバレー〈パール・ハーバー〉さ」
「偽名の大久保千代を洗うのか?」
「そうさ。同僚、支配人、住んでいたアパート……」
「よせ、よせ。それ位のことは警察がやってる」
「それに……刺青があるだろう?」
「ふーむ、そうだな」
西岡良吉は、頭に指を押しあてて、考えこんだ。殺された女の、身許が不明である点が、捜査のカベになっていることは事実である。
「ねえ、西岡さん、北川さん!」
ヤン坊が、かん高い声で言った。
「なんじゃい!」
西岡は、思考を中断させられたので、低く怒鳴り返した。
「いま、何時だと思っているの? 午前一時すぎよ?」
ヤン坊は、他の客が帰ったあと、酒も飲まずに、二人が話に熱中しているので、いささか腹を立てていたものらしい。
「当節は、警察がうるさいんですからね」
「わかった、わかった。もう、帰るよ」
北川謙一は、にやにやした。
「寿司でもおごろうか、ヤン坊!」
「あら、ほんと?」
「現金なもんだ。とたんに、ニコニコしてやがる!」
「ちょっと待って。私も、帰る支度するわ」
ヤン坊は、前かけをはずして、カウンターを潜って外に出ると、穿いていた毛のソックスを脱いだ。
「カウンターの中では、サンダルをはいてんのかい?」
西岡良吉が言った。
「あたり前よ。水仕事で濡れて、それに冷えるから、毛の靴下をはいてんの」
「ふーん、そうか」
ヤン坊は、コンパクトを出して、顔をちょっとはたくと、カウンターの隅から、黒のハイヒールをとりだして、はきかえた。
「お待ちどおさま……」
彼女が、そう言って、二人にニッコリ笑いかけたときだった。
北川謙一は、低い声で叫んだ。
「おい、西やん!」
その声が、あまり真剣だったので、ヤン坊は怯えたように立ち竦《すく》んだ。
「なんだ?」
「靴だ……靴だよ!」
「え?」
「ホテルの、常子という女中が、話していたのを思いだした……」
「なにをだい?」
「殺された女の靴だよ……」
「え? それが、どうかしたのか?」
「ホテル重富荘に、まだあるんだ」
「彼女の靴が?……まさか!」
「いや、あるんだ。人間、死体や服などには気がつくが、はいていた靴なんか、うっかりするらしいね」
「警察も、死体を運びだしたあと、部屋の中の衣類や遺留品は、一切、証拠物件として押収して行ったらしいが……」
「うん、なるほどね。死体に靴をはかせて、運び出しはしないからなあ」
「あの靴は……手がかりにならないもんだろうか。なあ、ヤン坊……」
北川謙一は、立ち上りながら、壁のスプリング・コートを手にとった。
「さあ、靴なんて、手がかりになるかしらね。みんなデパートや、大きな靴屋さんで買うでしょう? メーカーぐらいは、わかるでしょうけど」
ヤン坊には、せっかくの北川の名案も通じないようだった。彼は、舌を歯のあいだに押しあてて、唾をチュッと床に吐き捨てた。西岡は笑った。
「まあ、いいさ、警察が、うっかり手をつけなかった処女地が、一つだけでも残っているなんて、夢みたいな話だよ……」
「慰めるない!」
北川も笑いだした。ヤン坊は、店の中の、ガスの元栓を切って、電気を消す用意をして待っていた。
――翌日から、二人は、新しい足場を中心にして、取材を開始した。
西岡良吉は、先ず事件の管轄署である、原宿警察署へ行った。
これまでに、警察で調査したかぎりの資料を、貰おうと思ったのである。
一般に、捜査が進行中の事件については、警察は口が堅いものだが、東田迪夫事件は、犯人が直ちに検挙され、ただ殺された女の身許がわからないという、変則的なケースだけに、意外と協力的だった。
なにしろ、一カ月以上もたっている事件だから、その点で、先方も安心していたのかも知れない。
西岡は、捜査係長を、あまり刺戟しない程度に、「身元不明の死亡者が、東京都内だけで一万五千体もあるときいて、特集記事にしてみたいのだ……」と、用件をきりだした。
むろん、これは作り話である。ただ、口の堅い役人や、刑事たちから取材するには、こうした独特な〈入口〉が必要なのであった。
焦点を少しずらせて、相手の警戒心をゆるめ、口をゆるめてやるための便法である。決して感心できる方法ではないが、取材のために、こうした狡い戦術をとらねばならないことも、ままあるのだった。
捜査係長は、警官から叩きあげたような肩のはった、陽焼けした顔の四十男だった。言葉には、東北の訛《なま》りがある。
「なるほど。それで?」
係長は、名刺にもう一度、視線をあてると、それを裏返して、来訪の日時と、用件をかんたんにメモしている。
「一カ月ぐらい前に、たしか千駄ケ谷のホテルで事件がありましたね。そのとき殺された女性も、まだ身許がわからないということを、警視庁の広報課で聞いたのですが……」
それだけ彼がいうと、捜査係長は、急に微笑して、部下に資料をもってくるように言いつけた。本庁の広報課という嘘をきいて、すっかり安心したのである。
係長は、東北訛りの言葉をまじえながら、女の身許割りだし捜査の経過について、語ってくれた。
それによると――。
女性の勤め先は、新宿歌舞伎町の〈パール・ハーバー〉というキャバレーである。店に提出した履歴書には、本籍は滋賀県彦根市、現住所は文京区駒込林町××番地・吉田方となっていた。
年齢は二十九歳。氏名は大久保千代と名乗っていたが、本籍地照合の結果、偽名だと判明した。
パール・ハーバーに勤めだしたのは、今年の五月からだが、その以前は、上野、浅草のキャバレーに勤めている。そして、いずれも大久保千代という名前を名乗っていた。
支配人や、同僚たちの話によると、たいへん口数の少い女で、ダンスが上手なのが、とりえだったという。商売柄、好きな客に誘われれば、泊りに行くこともあったらしいが、特別に熱を上げていた男もいない。どちらかというと、淋しい翳《かげ》のある小柄な女性だったという。
この夏、店の従業員たちと、伊東に慰安旅行をしたが、彼女だけは休んでいた。おそらく、内股の刺青を、同僚たちに見せたくなかったのであろう。
十二時で閉店すると、客に送って貰わない限り、国電で帰宅している。駒込林町の吉田方に間借りするようになったのは、去年の秋であった。電話と、家族風呂を使わしてもらう条件で、間代は七千円である。
でも、その電話も、こちらからかけることはあっても、外からかかってくることは、めったにない。
ただ最近――吉田家の老主婦の話だと、シマダとか、シカタとかいう男が、ひんぱんに電話してきていた。キャバレー時代の、なじみ客だと思い、調べてみたが、手がかりは得られなかった。
問題なのは、五十万円という金だが、預金通帳には六十万ちかい預金があり、その大半が新規預け入れとなっていて、日付けは昭和三十六年五月になっている。
ということは、彼女が去年の五月に、金をもって、上京してきたことを意味しているのではないか。
東京にくる前には、どこにいたのかは不明だが、洋服に大阪の百貨店のネームのものが二、三点あり、比較的に新しい流行の服であるのを見ると、関西地方と推定される。
指紋その他を、全国の警察署に手配してみたが、前科はなかった。目下のところ、人相書を配布して、一般の協力を求めている段階である……。
だいたい、そのような捜査経過だった。
「ほかに体に、なんらかの特徴は?」
西岡は、人懐こい眼をむけて、係長に言った。刺青のことだけ、話したがらない様子だからであった。決め手として、最後まで隠しておく肚づもりらしい。
「さあ……特徴といっても、虫歯の治療したあとがあるだけで、ほかにないんです。顔にソバカスが、そう、目の下あたりに少しある。手配写真があるから、一枚あげますよ」
「手術のあとは? 盲腸かなにかの――」
「ありません。至って健康だったようですよ。身長は、五尺ちょっとと、いうところですかなあ」
「その……六十万ちかいという預金ですが、取引銀行は?」
「上野駅前のM銀行上野支店です」
「所持していた五十万円の金は、どうしたんでしょうね?」
「銀行の帯封でもあれば、手がかりが掴めるんですけんど、バラの札束でしてね」
「胃の中に、鮨を食べた痕跡があったそうですが?」
その質問をきくと、係長は、ちょっと目を光らせた。西岡良吉は、口をすべらせすぎたかな、と自重した。東大の後藤博士の解剖の結果は、くわしく新聞に発表されていなかったのである。
「ああ、鮨屋も、一軒ずつ、シラミ潰しに歩きましたよ。新宿、上野を中心にね」
「だめだったんですか?」
「ああ、だめでした」
……西岡は、捜査係長から、聞きだせるだけの資料をもらうと、厚くお礼をいって、原宿署を出た。
彼は、駒込林町の、彼女の下宿先を訪ねてみようと思っていた。それからM銀行上野支店、そのあと、キャバレー時代の親しかった女給を探すことだ……。
それにしても、東京は、不気味な街だった。巨大な怪物の胃袋のように、なにもかも飲みこんでしまう……。現実に、死体となって発見された女性がありながら、その身許を洗う決め手すら、この怪物の胃袋の、消化液に浸されると、たちまちかき消えてしまうのであった――。
二
北川謙一は、ホテル重富荘に電話して、女中の常子を、代々木駅前の喫茶店に、呼びだした。
常子は、むしろ彼の電話を、期待していた様子で、いそいそと出てきた。
数日前の夜――ホテルで見たときとは、打って変った顔だちで、どことなく泥臭い感じである。
斜視がかって、イット≠感じさせた目も、今日は気味わるく見える。
北川は、心の中で苦笑しながら、しかし表面は、体の魅力にひかれて、呼びだしをかけた恋の虜《とりこ》めいた男を演じて見せた。
「ほんとに、電話してくれたわね」
常子は、嬉しそうに声を弾ませる。急いで来たらしく、鼻のあたまに、汗が浮きでていた。
「うん、きみのピチピチした体が、忘れられなくってね」
「あら、嘘、嘘!」
「ほんとうだよ。嘘だったら、なにもまた、大阪から高い汽車賃を使って、出て来やしない……」
「まあ。あんた、わざわざ出て来たの?」
「ああ、そうだよ。君に会う、仕事の口実をつくってね」
「なによ、それ?」
「ほら、この間の晩、きみから話をきいたろう? 刺青のある女さ。殺された……」
「ああ、あのこと」
「部長に話したら、ドキュメンタリー・ドラマにならないか、というんだ。あの女……いまだに身許が、わからないんだろ?」
「そうらしいわね」
「だからさ……では取材して来ますって、出張の許可をもらったのさ」
「だったら、仕事じゃないの」
常子は、二重瞼の手術をした方の目で、ぎょろりと彼を優しく睨んだ。北川は、背筋にかるい悪寒が走るのを覚えた。
〈仕事、仕事!〉
彼は大胆に、女の手をとった。
「ばか。仕事は口実さ。今夜……つきあえよ」
「何日ぐらい、東京にいるの?」
「今日と明日の二日だ……」
「そうね。女将さんに、話してみるわ」
「それとも、これから、どこか行こうか?」
「いやな人!」
女は、また彼を睨んだ。顔といわず、肩の先にまで、媚びが滲み出ている。映画俳優のように整った顔立ちの北川が、自分に夢中になっているのが、なぜか合点できないまま、しかし機会を逃すまいとしている感じであった。
喫茶店の勘定を払って外に出ると、北川は常子と肩を並べて歩きだした。
「それだから……やはり、仕事をしてきたという証拠を、もらって帰らなくちゃァならないんだ……。わかるだろ?」
彼は、テレビのディレクターの生活のことを思い出しながら、それらしく振舞おうと努力していた。
「部長さん、わりとうるさそうね」
「そうなんだよ……。だから、君に協力して欲しいんだがなあ」
代々木から千駄ケ谷にかけて、ホテルは多かった。舗道には、銀杏や、プラタナスの葉が、散りはじめている。もう秋であった。
街路樹ばかりでなく、この界隈一帯が、黄ばみはじめて、秋の匂いに埋まっている。午《ひる》まえのせいか、陽の光りも柔かく、風も爽やかだった。
「協力って、なによ?」
女は言った。彼は、女の腕をとった。常子は、日和下駄の音を気にしながら、平気で体を寄せてくる。
「靴と、宿帳が欲しいんだ……」
「靴と宿帳?」
「ああ。警察が、取りに来ない女の靴だよ。どうせ、捨てるんだろ?」
「ええ、いずれはね。取りに来ないから、納《しま》ってあるけど。でも、持ち出せるわよ?」
「そいつは有難い。それから、あの事件の晩の宿帳……とくに、三階に泊った客のことが知りたいんだけどな」
「警察が、持って行ったんじゃないかしら?」
「宿帳を?」
「ええ。でも、警察で、いろいろ聞かれたから、覚えてるわよ、私だって――」
「ほう?」
北川謙一は、舗道からそれて、道を右手にとった。ひっそりとした、車が一台入れるぐらいの道幅だったが、その奥には、旅館が何軒もあることを、彼に教えてくれる。
常子は、彼が自分を誘うのが、当然であるような顔つきをしていた。
室に入るなり、女は待ちかねていたように、彼に武者ぶりついてきた。北川は辟易《へきえき》しながら、女をなだめた。
「僕は、ここで待っている。だから、女将さんに言って、休みを貰ってこいよ。ついでにハイヒールと宿帳を、頼む……」
女の方も、慌しい媾合よりも、その方が賢明だと悟ったらしい。上気した顔で、化粧を直し、着物の裾の乱れを気にしながら、部屋を出て行った。
だが、女は戻って来なかった。
三十分して、宿の方に、電話がかかってきた。
「あ、川北さん? あたし。常子……。女将が、歌舞伎座のご招待で、出掛けることを忘れてたのよ……」
常子の声は、情なさそうだった。
北川は、背広の裏に、横に刺繍した〈北川〉という文字を、逆にして、〈川北〉という姓を、名乗っていたのである。
「で、靴や宿帳は?」
彼は、女の体よりも、その方が気がかりだったのだ。常子は、声をひそめた。
「あったわ、二つとも――」
「それじゃァ、今からそっちへ行くよ。室をとっといて呉れないかな?」
「はい、畏《かしこま》りました。二階のお室で、よろしゅうございますね」
女は、とつぜん事務的な口調になる。その気配では、女将がいまから、外出する模様らしかった。彼は、苦笑しながら、電話を切った。
取材費は、今朝、仮払いして貰ったばかりなので、潤沢にあるが、一時間千円のその旅館の室代を損をしたという気持がないでもなかった。
取材の最中には、思わぬ無駄金をつかうことが、よくあるのだ。
事件の渦中の人物と、目星をつけ、料亭に招待して、速記者も用意したのに、見込み違いだったり、相手から核心にふれた証言をとるために、バーを四軒も五軒も、梯子して歩くこともある。そして収穫がゼロに等しいことだって、あるのだった。こんなとき、取材費の清算は、気が重かった――。
彼は、秋晴れの千駄ケ谷を、散歩するような調子で、ゆっくり歩いた。途中、袋物屋に寄って、ナイロンの、小さな旅行力バンを買った。
旅行者とみせかけ、靴と宿帳を、怪しまれずに持って出るためである。
彼が、ホテル重富荘の玄関に立つと、帳場から、すぐ常子が飛びだしてきた。
「どうぞ……」
彼女は、目だけで微笑って、すました顔つきに戻ると、さっさと案内に立った。鍵を手にもっているところをみると、彼が来るのを待ちかねていたのだろう。
彼は、ドアの把手の、ボタン状の隆起を押し、鍵をかけると、女の体を抱いた。
そして、ベッドの上に投げだした。女は甘え声をあげると、嬉しそうに笑った。
「待って……。いま、お茶と菓子を持って来るから」
「そんなものより、例の品物だよ」
「あら、現金な人!」
常子は、ちょっと拗《す》ねてみせた。手をすべりこませると、すでに濡れて欲情していた。北川謙一は、目を瞑《つむ》って荒々しく接吻すると、その指先に、技巧の力をこめた。女は喘ぎながら、脚の力を少しずつ抜いて行き、やがて尻を浮かせはじめる。
彼は、不意にすべての動きを止めると、女にささやいた。
「怪しまれると困る。ゆっくり出来るようにして来てくれよ……。僕は、シャワーを浴びている……」
裸になって、シャワーの滝に、体をまかせているとき、なんどか女が出入りする音が聞えた。そして、彼が浴室から出てきたときには、ドアの鍵はかかり、女はベッドの中で彼を待っていた。
テーブルの上に、新聞紙にくるみ、糸でゆわえた靴の包みと、〈三十七年七月〜九月〉と表紙に書かれた宿帳が置かれてある。
彼は、バスタオルを腰にまきつけたまま、宿帳をとりあげた。そして事件の当日の、日づけを繰った。
警察で貼ったのか、赤い標識票が、その頁にはあった。
「これ……借りれるかい?」
「ええ、女将さんが帰ってくる、夕方までだったら大丈夫よ」
女は、白い彼の肩や胸を、うっとりとして眺め廻し、あわててつけ加えた。
「四時ごろまで、私はいいの。あなたのこと……私の彼氏だって、言っといたから」
「口止め料に、チップを弾んでおくよ」
笑いながら北川謙一は、新聞包みの方を開いた。先のとがったイタリアン・カットの、白いエナメル革のハイヒールが出てきた。
かなりの期間、はいたものらしく、中の白い敷皮には、黒ずんだ女の足の型が残され、三寸もある踵の先の部分は、少しささくれ立っている。
北川は、その二つの証拠品を、ナイロン製のカバンに詰めこみ、チャックをかけた。
「なにしてるのよ……」
女は、じれったそうだった。
彼は厚いカーテンを下ろし、室の中をうす暗くすると、観念したように、ベッドヘ這入りこんだ。女は、全裸だった。そして、燃えたぎっていた。何度も、欲望を中断させられたからであろう。
北川謙一は、学生時代から、プレイ・ボーイだった。アラン・ドロンに似たマスクが、若い女の子には、魅力だったのであろうか。
その意味では、年増女にばかり好かれる西岡良吉とは、好一対だった。しかし、セックスの面では、淡白な技術しか持っていない。
事件当夜の、三階のアベック客のことを聞き出そうとしながら、充分に果せず、知らず知らず、粘っこい常子の情熱に圧倒されて、主客|顛倒《てんとう》したのは、みじめであった。
北川謙一は、取材を忘れて、背中に汗の玉を浮かせ、浅黒い肌の女のテクニックに、飜弄《ほんろう》されたのである。
女は、途中でしばしば休むことを要求し、その執拗なくり返しは、北川を苛立たせた。
そして彼は、一匹の獣となったのである。この調子では、取材を終えた瞬間から、彼女の体の虜になりそうな予感がしていた……。
三
都内二十三区のなかでも、文京区という地域は、珍しい区に属する。同一町内でありながら、地番がとびとびになっており、郵便屋泣かせの地帯でもあった。
空襲にも幸いに焼け残った、古い家屋が多く残っている点でも、文京区より他にはない。明治時代の名残りは、いま、この一区に集中されているといってもよかった。東大を最高峰とする学園区でもあり、寺や、名庭の多いことでも有名である。
その文京区の、駒込林町というのは、ちょうど文京、台東、荒川、北の四区が、接点となっているところで、国電の日暮里駅と、田端駅とのほぼ中間に位置していた。
戦前の、格式のある家屋と、戦後のバラック住宅が、雑居しているような、古びた感じの街で、雑然としている割には、落ち着いた風格もある不思議な町だった。
大久保千代という仮名の女性が、間借りしていた吉田家は、向ケ丘の高台にある、古い二階建だった。
以前は、庭も広かったらしいが、いまは総二階のモルタル・アパートに占領されて、母屋は小さくなって恐縮しているように見える。
老夫婦が、収入むきに建築し、さらに母屋のあいた部屋を、間貸ししていたものらしい。
〈月収七、八万というところかな?〉
水を打った、格子戸の玄関先で、案内を乞いながら、西岡良吉は、そんな計算をしていた。
名刺をさしだして、来意をのべると、彼は都電通りで買ってきた、果物のカンヅメ籠を上り框《がまち》において、人の善さそうな、小柄な老夫人に向き合った。
「なにも、お話しするようなことは、残っていませんけど……」
彼女は、そのカンヅメ籠と、彼とを、等分に見較べる。
「だと思いますが、もう一度、おさらいして頂きたいんです」
彼は、上り框に腰を下ろした。
「これ……お口にあわないでしょうが、どうぞ――」
包みを、相手の膝もとに押しやると、西岡はメモ・ノートをひろげた。老いた夫人が、当惑したような表情になるのを構わず、彼は質問して行った。
「警察では、彼女の所持品は、全部、調べたんでしょうね」
「ええ、さようでございます」
「その品物は?」
「警察に、引き取って頂きました」
「彼女……自炊していたんですか?」
「ええ、二階の廊下に、かんたんな台所がございますので」
「二階は?」
「一間きりでございます。いまは、女子大に通っている学生さんが、二人で、やはり自炊しておられます」
「大久保千代さんに、手紙は来ませんでしたか?」
「さあ……覚えておりません。一年ほど、うちにいらっしゃいましたが、手紙や電話も、めったに――」
「そうですか? 警察では、よく男から電話があったと、話してましたがね」
西岡良吉は、切りこんだ。
「ええ、亡くなられる半月前からでございます。警察の方からも、何度も聞かれたんですが、シマダと申しましたか、シカタと申しましたか、とんと物覚えが悪うございましてね」
「最後にかかって来たのは、いつか覚えてませんか」
「ええ、記憶がございません」
「その男性のことが、どうも気がかりなんですがね。思いだして頂けませんか?」
吉田夫人は、困ったように微笑した。
「さあ……そう言われると申し訳ないんですがね。そうそう、ちらっと電話を聞いた工合では、大久保さん、そのシマダとかシカタという人を、好きなようでしたよ。どうして、早く電話を下さらないのかって、甘えていたようで――」
西岡良吉は、奥歯をかみしめ、考えこんだ。
〈好きな男、か! どうも、なんだか匂ってくる!〉
「ほほう……そうでしたか。彼女の惚れていた男ねえ……」
「いつもは、家をあけるときは、たいてい前もって電話があるんですけど……いつだったか、珍しく二日も帰って来ないときがありましてね」
「二日も、家をあけた?」
「そうなんです。やっぱり、亡くなられる半月前ぐらいか、二十日前ごろですよ。帰って来たとき、熱海へ行っていたと、弁解してました」
「熱海へ? その男とですか?」
「それは存じません。ただ、お土産は、熱海の温泉饅頭と、魚の干物でしたよ。そして、いつになく浮き浮きして、『あたし、お店を出すように、なるかも知れません』だなんて話してましたっけ――」
「店を出す?」
西岡良吉は、東田迪夫の上衣に残されていた、五十万円の札束のことを鮮やかに思い描いた。それは、はじめ小さな点であったが、みるみる彼の脳裏で、大きく膨んできた。そして、ぐるぐる回転しはじめる。
〈男と熱海に泊りに行って、二日も帰って来なかった……〉
〈そして、店を開くようになるかも知れないと、浮き浮きして語っていた……〉
〈現場に残されていた五十万円は、その店を買う手付金ではないのか? シマダとか、シカタとか名乗る男が、彼女に出した金ではないのか?〉
〈いや、待てよ……。重富荘を予約したのは、その男ではなかったのか?〉
吉田夫人は、彼が黙りこんだので、気がねするような表情で、見守っていた。彼は、それと気づき、相手に笑いかけた。
「失礼しました。その話は、とても参考になりますよ」
「そうですか?」
彼女は、安心したように弱々しく微笑を返した。
「警察では、他になにか言ってませんでしたか? 彼女のことで……」
「関西あたりに住んでたようだ、と申しておられましたね。洋服や靴に、大阪のデパートのマークがあったとかで――」
「なるほど。預金のことは? 彼女に六十万近い銀行預金と、体にイレズミがあったことはご存じですか?」
「あとで刑事さんに、伺いました」
「その後、警察の人は来ませんか?」
「ええ、このところ……。葉書が来てますので、届けに行ったらと、主人と話してはいるんですけれど」
「葉書? 彼女あてにですか?」
勢いこんで、彼は訊いた。
「見せて下さいませんか」
「昨日の午後の便で、参ったんでございますけどね」
夫人は奥に立って、まもなく引き返してきた。手に、葉書をもっている。
差し出し人は、池袋の不動産屋だった。
彼は、素早く、その住所や名称と、電話番号をメモして、裏の文面を読んだ。
&tab;『前略、秋冷之段、如何お過し候や、お伺い申し上げます。扨て、先日、ご来訪の折には、お気に召すような物件も無之、失礼申し上げました。二、三、推薦できる物件が手許に届きましたので、御高来の上、ご検分下さる様、鶴首致して居ります。不尽』
西岡良吉は、二度ばかり、繰返し文面を読んで、頭の中に叩きこんだ。
〈店を買う気だった……〉
彼は、愕然とした。大久保千代は、嘘は言ってなかったらしいのだ。
〈すると、あの五十万円は……〉
西岡良吉は思いがけない収穫があったことを喜びながら、やはり歩いてみるものだと、つくづく考えた。
事件の直後には、警察やマスコミが、あの手この手で、さんざん掘り荒らして、鉱脈は枯れてしまったように見えても、こうして事件も忘れられかかった一カ月後に、思わぬ新しい鉱脈に、ぶつかることだってあるのである。
果物のカンヅメは、無駄ではなかったのであった。
彼は、立ち上りながら、言った。
「この葉書……ぼくが、警察に届けましょうか?」
すると、相手は、さほど怪しみもしないで、かえって恐縮するような表情で、喜んで言った。
「さようでございますか? でしたら、大久保さんが、近くの靴屋さんに染め変えにだした、ハンドバッグも届いてますから、ついでに届けて下さると有難いんですけど……」
「ハンドバッグの染め変えですか?」
「ええ。几帳面な、物を粗末にしないお方でしてね。よく着物や、靴なども、染めに出していらっしゃいました」
西岡良吉は、彼女が利用していたという、都電通りの靴屋と、呉服屋の名前をきき、ハンドバッグを持たされて、吉田家を出た。彼は道を歩く人が、女物のバッグを持っている自分を、じろじろ見るのも気にならなかった。心が弾んでいるせいである。
西岡は、しばらく考えて、やはり原宿警察署へ行くことにした。バッグの土産を口実に、もう一度、捜査主任に会ってみる積りだった。しかし、タクシーに揺られているうちに、気が変った。
葉書とバッグを届ける前に、不動産屋にあたってみるべきだと、考えたのである。
「池袋へ行ってくれないか」
彼は、タクシーの運転手に、行き先の変更を告げた。
――戦後、東京の盛り場のなかで、池袋ほど、目ざましい変貌をとげたところもあるまい。取材のおり、ときどき通過するだけであるが、そのたびごとに、なにかしら変っていた。
うす汚いマーケットの立ち並んでいた駅前には、美しい広場ができ、百貨店、銀行などが、にょきにょきと聳《そび》え立っている。そしてどうやら池袋の地図も、最終的な彩色に仕上がった感じである。
〈西部不動産〉は、盛り場を少しはずれた、区役所の近くの広い大通りにあった。間口一間、奥行二間たらずの店舗である。
入口に、バネの飛び出そうな、ビロードのすり切れた長いソファーがあり、その奥に、ニスの剥げた事務机があった。帳簿が並び、黒い電話がおいてある。
そして、頬の肉のこけた、六十すぎの老人がぼんやり坐っていた。頭を丸刈りにしているが、ほとんど頭髪は銀色であった。
「西部不動産ですね?」
彼は言った。老人は、重々しくうなずいて西岡をみた。偏屈者らしい、第一印象だった。
「実は、大久保千代さんの、代理で伺ったんですが――」
「大久保……千代さん?」
「実は、お葉書をいただきまして……」
西岡良吉は、名刺をとりだす代りに、葉書をとりだした。相手は、老眼鏡をかけて一読するなり、やはり重々しく微笑した。
「ああ、店を探しておられたんでしたな」
「そうなんです。ところが、彼女は急に死亡しまして……」
「ほほう、死んだ?」
「しかも、殺されたんです」
「なんじゃと? 殺された?」
老不動産屋は、思わず腰を浮かせていた。
よほど驚いたらしいが、それは死を悼《いた》むというより、客を失ったためのように思われた。
「彼女が、お宅に来たときの模様を、うかがわせて頂けませんか」
相手は、老眼鏡をとり、彼の顔をしげしげと見詰めるのだった。
「それはまた、どうしてだね?」
「犯人が、あがってないんです?」
「なるほど。それで、あなたは?」
西岡良吉は、ちょっと抵抗を感じたが、名刺をさしだしながら言った。
「大久保千代は、私の従姉なんです」
「ほほう。それで?」
「犯人の心当りを探してます」
相手は、自分の机の抽出しから、大型の名刺を出して、手渡した。西部不動産・代表者・鶴谷鶴吉と書かれてある。
「犯人の心当り?」
「彼女は、お宅には一人で参りましたか? そして、それはいつごろでしょう?」
鶴谷は、彼が自分の書いた葉書をもって来たので、従姉弟同士だということは、一も二もなく信じたらしい。そして、業務日誌とかいた厚い日記帳をとりだした。
――大久保千代が、この池袋の不動産屋を訪れたのは、九月七日である。ちょうど、死亡する五日前であった。西岡良吉は、緊張した。
「……来られたのは、二人ですな。背の高い、肩幅のがっしりした、四十年配の男の方だったが……」
「その男の名前は? シマダとか、シカタとか言いませんでした?」
「さあ、なんという名だったかな。この千代さんという方の、パトロン風な感じやった……。縮れッ毛で、横柄な男じゃった。店を探しとるというての」
「酒場ですね?」
「うん。ここに予算三百万から四百万、と書いてある。ところが、その頃には、いい物件がなくて……」
「それで葉書を……」
「あれから、一カ月あまり経っとるが、もし買ってなければと思うての。三軒とも、ええ店じゃ」
「男の方は、名刺かなにかは――」
「いや、あまり教えたくないふうじゃった。女の方が、積極的でな。自分の住所を、ここに書きこんで……」
鶴谷は、老人のせいか、記憶の糸を辿るのは時間がかかるが、しかし記憶は正確のようだった。
彼は、連れの男が、体格のいい、縮れ毛の好男子だったことを思いだし、左手のクスリ指に、三文字の印形をかねた、太い金の指輪がはめられており、上衣をぬいでワィシャツの袖をめくったとき、二の腕に刺青があったことまで、記憶から甦らせてくれた。
「刺青ですか?」
「うん。そうじゃ。よくアメリカの水兵が彫っているような、そんな横文字のじゃった」
「なるほど……」
西岡良吉は、陽焼けして、がっしりした肩幅をもった謎の男が、もしや船乗りではなかったのか、と思った。死んだ〈大久保千代〉の、体の恥しい部分にある刺青も、なにかそういえば、犯罪ではなく、海の匂いがしてくるような気もする。
〈三百万円から四百万円の予算で、大久保千代と、謎の男は、盛り場にバーを物色していた……。あの五十万円は、手付金として、男から手渡されたものに違いない!〉
西岡は、そう直感した。
〈大久保千代は、殺された九月十一日の夜、勤め先のパール・ハーバーを休んでいる。胃の中から、鮨がでて来たというが、二人は都内のどこかの鮨屋で会い、金を渡したのではないか?〉
〈それにしても、相手の男が、警察に名乗り出ないのは、なぜだろう。西部不動産でも、身分をかくしたがっていたらしいが……妻子があり、大久保千代は二号なので、外聞をおそれて届け出ないのか?〉
西岡は、不動産屋を出ると、わけもなく駈け出したいような衝動に迫られた。事件のナゾをとく緒口が、いくつも現われてきた感じで、どれから手をつけてよいのか、判らないのである。
〈彼女と、バーを探して歩いていた男。体格のいい、縮れ毛で、二の腕に刺青のある好男子。怪しいのは、この男だ……〉
四
〈ウイークリー・東京〉の編集部に入ると、彼の姿を認めた北川謙一が、次長の白石に指を鳴らして合図をした。
「おう、行くか!」
白石は、読みかけのニューズ・ウィークを投げだすと、ピースの罐とライターを持って立ち上った。西岡は、にやりとした。
北川謙一も、張り切っている。北川も、獲物をくわえて帰っていることが、彼にはピーンと感じられた。
「西岡さん。いま、なんの取材をしてらっしゃるんですか?」
後輩の記者の一人が、いささか羨望をこめた口調で、彼にきいた。遊軍記者の二人と、次長の白石とが、なにかにつけて、応接室でこそこそ密談するのが、目立っているのであろう。
「麻薬事件だよ……」
西岡は笑いながら答えた。秘密を守るために、二人がなにを追っているかは、編集部内でも公表されていないのである。
応接室で、三人は、いつものように、テーブルを囲みあった。そして二人の取材記者は、それぞれの獲物を、ノートを見ながら、鵜《う》のように吐き出しあった。
白石は、メモをとりながら、そしてときどき質問をさしはさみながら、熱心に耳を傾ける。
「これが、重富荘の宿帳なんだ。写真部で、複写して貰って、返しに行ったんだが、また例の女中にとっ捕まって困ったね」
「悪い奴だな! 取材と、色恋とは、ケジメをつけてくれよ」
次長は、エンピツで北川の白い額を、ぽんと敲《たた》いて、写真をのぞきこんだ。
――当夜、ホテル重富荘の、三階の泊り客は、東田迪夫たちを含めて五組ある。
〈松・竹・梅〉〈菊・萩・藤〉の六部屋のうち、藤の間をのぞく五室に、泊り客があったことになる。
廊下をへだて、左右に、三つずつ室が並んでいるわけだが、事件の起きた〈菊の間〉は、右手の一番奥で、〈松の間〉と向かいあっていた。北川が最初に泊ったのは、この〈松の間〉であった。
白石と、西岡は、その写真を一枚ずつ、覗きこんだ。
〈宿泊票〉は、客が住所氏名を書き入れ、ホテルではそれを、もう一度、宿泊簿に書き写すか、そのまま貼りつけて保存するという方法をとっているらしい。はじめから宿帳に記入させないのは、税務署の目をごま化す目的らしかった。〈菊の間〉の泊り客は、女の文字で、〈文京区駒込|蓬莱《ほうらい》町・大久保一郎・千代〉と記入されてあった。
「これは死んだ女が、自分で書いた字だね」
白石次長は言った。
「そうです。とっさに嘘は書けないもんなんですね。女は、都電のいちばん近い停留所の町名を、記入してます。名前の方は、正確です。正確といっても、偽名なので、安心して書いたんでしょうが」
写真は、五枚あった。客の記入した宿泊票を、一枚ずつ接写したものである。
北川は重ねて言った。
「この宿帳で、すぐ被害者の身許がわれたんですが、住所や勤め先が判っても、どこの誰か判らないというのですから、刑事がアタマにくるわけですよ……」
西岡は、大きくうなずいた。
「でも、手がかりは掴んだわけだ」
「そうだな。この四組の泊り客は、警察が洗ったんだね?」
次長も、胸の中に、いっぱい、なにかが詰めこまれている表情である。いつもの貧乏ゆすりも、影を潜めていた。
「ええ。証言をとろうと、刑事が当ったそうですが、みな嘘っパチだったそうですよ。もっとも、常子という女中や、絹子という一番古い女中にきくと、一度や二度は来たことあるお馴染みさんが多いとか言ってましたね」
「みな馴染み?」
「ええ、死んだ大久保千代も、前に来たことがあるような気がする、といってました」
「ふーん。それは面白いな。あの事件から、偽名をつかった常連客の、この四人は来ないのか」
「一組だけ、最近やって来たそうです。事件の夜、竹の間に泊ってた客だとか――」
「本名は判らないのか?」
次長はきいた。北川謙一は、くッくッと笑いだした。
「どうしたんだ?」
西岡良吉は言った。北川は、まだ独りで笑いながら、
「悪いことは、できないもんですね」
と言った。
事件の夜の、〈竹の間〉の泊り客は、大阪市中区堂島××番地・山形裕という偽名を使っている。ところが最近、水商売風の女を二人連れて、昼間、休憩に来たのだそうである。
そして二時間ばかり、室に閉じこもって、出て来なかった。重富荘の女中たちは、アベック客には驚かない。
だが、一対二というケースになると、別である。これは、高校生たち以外には、めったにないことだった。しかも男一人に、女二人という組合せである。
「いやらしい男ねえ!」
「女たちも、女たちだわ。まるで獣じゃないの!」
と話し合っているところに、男が、くたくたに疲れた女二人をともなって出て来た。それで絹子という女中は、あの夜の客だと、男の顔をみて思いだした。
その玄関先に、女将のパトロンである代議士が、やって来たのである。二人の、精力絶倫の男は、玄関で顔をバッタリ見合せたことになる。とたんに〈山形裕〉の方は、ぺこぺこお辞儀をしながら、帰って行った……。
「女将のパトロンの知り合いだったわけか」
西岡良吉は、じれったそうに言った。
「そうだ。ほらいま流行のガス・ライターのメーカーがあるだろう? あそこの社長なんだそうだ」
「ふーん、ガス・ライターか!」
「ホテル界では有名な助平社長らしいな。しょっちゅう、女を変えて泊りに来て、露出狂だという話だ。それで正規のホテルからは、シャット・アウトを食ったという男だ」
「やれ、やれ!」
白石次長は、噴き出したが、すぐ真顔になって、
「まァ、念のために、事件の夜のことを、本人から聞いてみるさ」
と言った。
もう一つの貴重な遺留品である、白のハイヒールの方は、西岡が預って靴屋をあたってみることにした。
ピースを吸いつけて、メモを覗きこんでいた次長は、足を大きく組んで、貧乏ゆすりをしはじめた。
「宿帳の収穫は、その助平社長だけだな。問題は、西やんの掴んできた、不動産屋の情報だ……」
西岡良吉は、うなずいた。北川が、首を傾げて、反問するように切りこんだ。
「しかし、この体格のいい、刺青の男だって、雲をつかむような話ですよ? 彼女と、店を探して歩いたのは事実かも知れないが、どこの誰やら判らない」
「だから、俺は、池袋の不動産屋を、シラミ潰しに当ってみたらどうかと思ってるんだよ。この男を洗う以外に、手がかりはない」
西岡は、意気ごんで言った。
「単なるパトロンかも知れないぜ?」
「しかし、二の腕に、刺青のある男だ。まともな男じゃないだろう」
白石は言った。
三人は、しばらく黙りこんだ。北川の方は、〈竹の間〉の客が、偶然の機会から、身分が明らかになったように、時間をかけて洗ってゆけば、身許が判明するのではないか、と考えているらしかった。それというのも、他の三組の泊り客が、なんとなく怪しいと感じられるからである。
「東田迪夫をのぞいて、他の四組のアベックは、翌日の午前四時から、八時ごろまでのあいだに、姿を消している」
北川謙一は、未練そうに言った。
「時刻は、正確にはわからないが……八時ごろ帰ったのは、例のガス・ライターの社長さんだ。四時すぎに帰ったのは、〈松の間〉の、赤い服のアベック……」
西岡は、不意に目を輝かせた。
「おい。四時には、まだ国電は走ってないぜ?」
「車でも拾って帰ったのさ……」
こともなげに、北川は答えた。西岡は、低く叫んだ。
「おい、それだ……。タクシーの運転手だよ!」
「え?」
「真夜中の午前一時すぎに、営業できるのは、深夜タクシーの車ばかりだ。九月十一日、いや十二日の朝、重富荘の附近で、車を拾って帰ったアベックの客のことを、運転手たちに問い合わせてみたらどうだろう?」
「一カ月以上も、前のことだぜ?」
「しかし、事件のことは、まだ記憶している筈だ。呼びかけて、賞金をだすといったら、協力者がでるかも知れない……」
白石は、煙草を灰皿につき刺した。
「まァ待てよ、二人とも。犯人の特徴も、わかっていないのに、呼びかけたって無駄だろう。しかし、北やんの言うのも、一理ある」
「………」
「もう少し、今の持ち場を、洗い続けてみたらどうかな? 北川君は、アベック客。西岡君は、不動産屋に現われた男と、彼女の関係。このまま、二日間洗ってみて、思わしくないときは、また方法を考えようじゃないか」
次長の言葉は、いかにも適切な判断のように思われた。そして二人は、力強くうなずいた。
――二日たった。
北川謙一は、四組の客のうち、身分の判明した、ガス・ライター社長にあい、一方、重富荘の女中たちにあって、残り三組の客について聞きこんだ。
西岡良吉は、池袋の不動産屋を歩き廻って、ナゾの男の正体を探ろうと必死だった。
でも、結果は、二人とも芳《かんば》しいものではなかったのである。
第六章 バー「A&B」
一
バー〈石器時代〉を出ると、このところ、めっきり冷えて来た夜風が、三人の体を押し包んだ。
「もう一軒、廻るか?」
白石は、誰にともなくそう言って、コートの襟を立てて歩きだした。
西岡も北川も、一歩おくれて、次長のあとに従いながら、酔いになじめぬ今夜のお互いの身を、感じとっていた。
「そう、くよくよするなよ。どうせ最初の一カ月は、君たちの慰労休暇のつもりでいたんだ……」
次長は、もうこの事件の調査をあきらめて、捨ててかかっている口吻だった。二人には、それが歯痒《はがゆ》いような、口惜しいような気持なのである。
東田迪夫という、未知の銀行員が、計算された罠にかかった、憐れな、そして善良なサラリーマンであるという、確信が強まっているだけに、いま、調査を断念するのは、人道上からも許されないと思うのだった。
それも反証がないのではない。
ホテル重富荘の〈菊の間〉は、十一日の夕方五時ごろ、男の声で予約されている。そしてその時刻に、東田迪夫は、まだ銀行で執務していた……。
東田と一緒に泊った女は、そのホテルの一室が予約されていたことを知っている。そして、彼を案内したではないか……。
この二つの事実だけでも、東田迪夫という酒好きなサラリーマンが、〈罠〉にかかったとしか、考えられないのである。
しかし、警察が主張するごとく、ホテルの予約を別問題にして、犯行の動機が、五十万円の金だとなると、せっかくの反証も、脆《もろ》く崩れ去ってしまうのであった。
〈しかし、怪しい謎の男がいる!〉
西岡良吉は、思うのだった。
……そのナゾの男を洗うために、彼は二日間、池袋の不動産屋という不動産屋を、歩き廻ったのである。
そして得られた結果というのは、まことに惨憺《さんたん》たるものだった。
わずか三軒の不動産屋が、それらしき男女の客をみたようだと言い、そのうち一軒の若い女店員が、近くの売りに出た喫茶店に、案内している。
〈大久保千代〉と〈謎のパトロン〉とは、お礼を言って、まだ営業中の喫茶店に入ってゆき、それっきり店に戻らなかった。多分、気にいらなかったのだろう。
〈西部不動産〉でも、店先のガラス窓に、べたべた貼りつけた売店舗の広告をみて、ふらりと入って来たというが、それは他の三軒とも同じだった。
しかし、不動産屋の広告というものは、客を吸い寄せる手段であって、なにも、その広告した物件が、存在しているとは限らないのである。
西岡良吉は、短くなった煙草を、唇にくわえたまま、吹いて地面に飛ばすと、〈池袋地区の不動産屋だけを、調べようとしたのがまずかったんだな〉と、反省していた。
バーを営業しようと思ったら、なにも池袋だけが盛り場ではないのである。三、四百万の予算では、銀座に店をもつことは不可能だろうが、新宿、渋谷、上野あたりなら、その程度の譲渡権利の店は、ごろごろしていた。
〈もう一度、盛り場を当ってみるか……〉
彼は、いささか、自分でもうんざりした気持であった。池袋で、まる二日かかったのだ。都内の盛り場に、不動産業者は、何軒あることだろうか……。
西岡が、そんなことを考えているのと同様に、北川謙一もまた、この二日間の失敗をかみしめていた。
彼は、例のガス・ライターの社長を訪ね、事件当夜のことを聞き出そうとした。相手はとぼけて、シラを切った。
こうなると北川も意地である。彼は、ホテルの女将のパトロンである代議士から、聞いてきたのだと嘘をいった。これがいけなかった。社長は、議員会館に電話して、彼の嘘を看破ると、逆に攻撃してきた……。
「事実無根のことを、週刊誌に書き立てる気か!」
と、威丈高になる社長の剣幕に、辟易して彼は逃げだした。社に帰ると、営業部から文句をいわれた。助平社長が、広告出稿を中止すると、電話でいきまいたというのであった……。
こうなると、頼みの綱は、ホテル重富荘の女中たちである。
だが、常子という女中の方も、彼が、執拗に他の泊り客のことを聞きたがるので、
「あんた、本当にテレビ局の人?」
などと疑ってくる始末。
わずかに聞き出せたのは、その夜遅番だった常子が、明け方、靴をそろえて送り出した〈松の間〉の客の、服装ぐらいのものであったのである。
「あんなコートが欲しいなって、むかし思ったことがあるんで、覚えてるのよ。赤い、サマー・ウールのコートだったわ。それに朱のハイヒール。美人だったわよ」
常子は、女の服装しか、記憶してない。そして男の客が、流しのタクシーを拾ってきた彼女に、千円のチップをくれたことだけが、記憶のすべてである。
〈あの助平社長め!〉
北川謙一は、脂ぎった皮膚と、大きな鼻と、チョビ髭を生やした立志伝中の実業家を思い浮かべ、舗道に唾を吐き出した。
〈でも……まだタクシーの運転手に、呼びかける方法は、残っている。これとても、協力者が出るか、どうかは疑問だが……〉
二人の部下の、そうした思案をよそに、酒に弱い白石次長は、ひとり陽気だった。
「新しく開拓した店だが、ちょっと変ったマスターがいる。あまり、うちの連中に、言いふらすなよ?」
店のドアの前で、白石は、二人にそう釘をさすと、重そうな樫の扉を引きあけた。ギィーッと、鉄の軋《きし》む音がした。
カウンターだけの酒場であった。しかし、〈石器時代〉よりも明るい。客は、二人しかいなかった。
西岡は、店の中をきょろきょろ見廻した。カウンターの内側には、四人の女の子が入っている。
「マスターは、いないんですね、今夜は!」
彼は、次長にささやいた。
白石は、低い声で笑った。
「目の前にいるよ」
「ええ?」
西岡は、自分の目の前で、艶然と微笑みかけている、二十七、八歳らしい和服の美人を、穴があくほど凝視した。
「女そっくりだろう? しかし、男なんだ。彼女が、ここのマスターだ」
白石が笑って教えると、彼の目の前の美しい女性は、
「いらっしゃいませ」
と一礼した。
しなやかな指をしている。そして、物腰も女性のそれであった。しかし、声だけは、歌舞伎の女形の、似せてつくってはいるが、男とわかる声音である。
あとの三人の女の子は、正真正銘の女性だそうで、その点が、ふつうのゲイ・バーとは趣を異にしている。
西岡は苦笑した。そして、次長もなかなか隅におけない、と思った。
北川謙一は、白石の悪戯を、ニヤニヤして聞いていたが、矢庭に手をのばして、西岡の肩をつかんだ。
「なァ、おい!」
「なんだ?」
「犯人の女……もしかしたら、女装した男じゃないのかな」
「ばかなことを言うな。なぜ、二人とも男である必要がある?」
西岡は反問した。
「だったら、忍びこんで、二人で楽に仕事できるじゃないか……」
次長の白石は、あきれた奴等だ、という顔つきになった。そして叫んだ。
「まだ、あきらめ切れんのか! 一週間かかって、なにも掴めなかった! 警察は、延べ何千人という刑事を動かして、どうにもならなかったんだぞ? あきらめろ、あきらめろ! いいか、二人とも!」
「しかし、次長……」
西岡良吉は言った。
「無罪の人間が、殺されても平気なんですか?」
「それを言うな。ただ、俺たちだって、時間と金とをかけても、どうにもならない事件ばかりを、追いかけるわけには行かない、ということだ……。そうだろうが?」
「それは判ってますよ、次長!」
北川謙一も言った。
「しかし、だからと言って、〈真犯人はどこにいる?〉というような、なまやさしい疑問をぶつけた、五頁ぐらいの特集記事では、読者は説得できません。それぐらいなら、いっそ、特集記事にしない方が、ましだと思うんですが」
次長は、二人の反駁にあって、やや、たじろいだ恰好だった。
彼は、二人の部下の報告をきき、これまでに集ったデータをもとにして、中薗編集長を混えて、四人で討議したのだった。その結果、〈警察でも洗えない、女の身許を明らかにすることは、不可能に近い〉という断定を下したのだ。
ただ、事件を調べて、いろいろ出て来た疑問――東田迪夫が金に困っていないことと、ホテル予約にはアリバイがある点などを列挙して、〈真犯人はどこにいる?〉というキャンペーン記事に仕立てたらどうか、と結論したのである。
これはある意味で、二人に対するいたわりであり、また無罪かも知れぬ東田迪夫に対する救いの手でもあったのだ……。
「すると、なんだな……」
白石は、考え考え言った。
「二人とも、まだ無罪を証明できる、という考えは、捨ててないのだな?」
「もちろんです、次長!」
北川も、西岡も、口を揃えて言った。このまま、チョンにされるのでは、やり切れない気持であった。
「そうだったのか……」
白石は、頸をなでて、気づいたように酒を注文した。
「なにか、むずかしそうな話ですこと」
女装したマスターは、つけ睫毛《まつげ》をしばたたきながら、媚びを含んだ瞳の色で、三人を眺めている。口を利かないと、女以上の色気が惑じられた。
「よし、仕事の話は、これで止めだ……。明日、中薗さんには、俺が交渉してみる。しかし……きっと条件つきだぞ?」
白石は、そんなことを言って、湯気の立つお絞りを、ゆっくり使いはじめた。西岡良吉は、にやにやして、その耳にささやいた。
「なんでも、途中で止めると、体によくないというのは、次長の十八番でしょ?」
「こいつ!」
次長は、顔にお絞りをあてがったまま、浅黒い顔立ちの部下の肩を、自分の肩で小突いた。
二
白石次長がいった通り、中薗は、二人に一つの条件をつけた。それは、〈あと一週間しか、調査を許さない〉という、期限の条件である。
「ええか? 遊軍記者というたかて、遊び専門やない。会社は、金を払うて、君たちに働いて貰おとるんや。なんぞ、大きな獲物をひっかけて呉れなんだら、遊軍制度も、廃止されかねん瀬戸際や……。これだけは、わかっとるやろな?」
……そういえば、遊軍制度が生れて、二週間がすぎ去っていた。
中薗編集長は、ここで一週間をムダにつぶしてしまったら、残り一週間しかないことを言っているのである。やはり、大きな口を利いた手前、新設の遊軍記者が、大手柄を立ててくれないと、困るのであった。
西岡も北川も、この期限のついた条件を、のむことにした。そうするより、方法はないからである。
二人は、社の近くの喫茶店に行って、相談しあった。正直なところ、この一週間動き廻って、どうにもならなかった事件である。あと一週間と、期限を切られても、自信はない。
「どうする?」
西岡良吉は、ぶっきら棒な口をきいた。
「俺にだって、わかるもんか。ただ、今までの方法では、埒《らち》があかないことが、わかってるだけさ」
北川は、眉をしかめた。強情をはったばっかりに、大役を背負いこんだ……という情ない表情である。
「正攻法では、だめだということかな?」
「うん、そう思うな。しかし、他にどんな調べようがあるんだろう」
「それだよ、問題は!」
「俺たちが、調べ残してるのは?」
「先ず、池袋をのぞく都内の不動産屋だ。それから、深夜営業の許可をもった運転手」
「まだほかになかったか?」
「ないだろう?」
「ある、ある!」
「なんだよ?」
「刺青だ……。それから、彼女の靴!」
「よし、わかった。刺青の写真……まだ返さずに持ってたな? 築地にいる刺青師に、きいてみよう……」
「そうしてくれるか? 俺は、靴をあたることにするよ」
二人は、こうなったら、なんでも手あたり次第に、あたってみる肚であった。
喫茶店から戻ると、西岡良吉は、白いハイヒールを紙袋に包んで、社から飛び出した。タクシーを拾うと、彼は、
「駒込蓬莱町!」
と、運転手に怒鳴った。
〈大久保千代〉が、靴やハンドバッグを、染め変えていたという、近くの靴屋に、あたってみようと思いたったのである。
その靴屋は、店頭に婦人靴や紳士靴を飾り、右の壁に修理の仕事場のある、間口二間ぐらいの店であった。
眼鏡をかけ、背中を病的に曲げた中年の男が、靴の半張りに精だしているところである。
「ご免なさい」
西岡は、その仕事場に、雑然と積まれた修理依頼の、おびただしい靴の数に目を瞠《みは》りながら、手にしていたハイヒールをとりだした。
「なんですか?」
靴屋は、口に含んだ釘を、掌にペッと吐き出した。
「吉田さんのところにおられた、大久保千代さんを、ご存じですね? 亡くなられた?」
「ああ、知ってますよ」
靴屋は、彼の顔を、下からしげしげと見上げている。
「では、この靴を、修理なさったこと、ありませんかね」
相手は、ぶこつな手をだして、靴の先や、踵のあたりを丹念に眺めてみたが、不意にぶこつな拇指と、人差し指をつかって靴の文数をはかる仕種になった。
「この靴を、ここで修理したことは、ありません。それにこの靴……死んだ大久保さんのものじゃありませんよ」
靴屋は、台の上に、その白いハイヒールを並べておくと、吸いさしの煙草に火をつけた。
「なんですか? 彼女の靴じゃない?」
「ええ、お馴染みさんでね。頼まれて、二足ほど作ったこともあるけんど……こんな大きな足じゃない。これは九・七ですよ」
西岡良吉は、なんども生唾をのみこんだ。
とっさには、相手の言葉の意味が、よく呑みこめなかったのである。
「しかし……しかしですね」
彼は、どもるような調子でいった。
「この靴は、彼女が……あの殺されたホテルに、残して行ったもんなんですよ?」
靴屋は、煙を大きく吐きだした。
「そいつは変だね。こいつは、イタリアン・カットだから、十文の人の足には合うかも知れないが、九・三の女性にゃァ、ガボガボですぜ?」
「大久保さんは、九・三でしたか?」
「オーイ、母ちゃん!」
靴屋の主人は、帆布のような厚い前掛けをはたいて立ち上ると、奥に声をかけた。そして、妻を呼び、客の足型帳をもってくるように命じた。ひどい猫背であった。
「いいですか。ここに大久保さんの足型がある。計ってごらんなせえ」
相手は、物差をとりだして、白い帳面の上にのせた。そこには、二つ並んだ足の形が、エンピツで縁どられて残されている。
小柄な女性にふさわしく、小さな可愛らしい足の形であった。
「こっちの靴は……」
主人は、右靴をとりあげ、白く汚れた底革を、用心深く剥ぎとり、その右足の型に、並べておいた。べったりと、白い底革には、足の形が残されている。
「どうです。こっちの方が、大きいでしょうが? こんな脱ぎ易いイタリアン・カットを、足の小さい大久保さんが買うわけがねえ。第一、歩けませんよ……」
西岡良吉は、その紙と革との、対照的な女性の足型を見詰めながら、ある恐怖に包まれはじめた。
〈足だけが、別人! そんなことって、あるだろうか!〉
西岡は、靴屋に残された〈大久保千代〉の足の型と、白い靴の底革にくっきり残されている足の型とを、物差ではかって較べてみた。なるほど、猫背の靴屋の主人がいうように、足の大きさが違っていた。
「女の靴てえものはね、お客さん。微妙にできてるんだ。男の靴のように、ヒモで加減するってわけには行かないんですよ。この白のハイヒールは、九・七仕立てだが、ほれ、ごらんなさい……」
主人は、紙の足型の踵と、底革の踵とを揃えてみせながら、講釈しはじめた。言葉つきは、ぶっきら棒だが、自分の仕事に情熱をもっている人間の、態度である。
その話によると、女のハイヒールというものは、踵《かかと》と爪先で、引っかけているといっても誇張ではなく、従ってサイズのぴったりしたものでないと、すぐ脱げかかって歩きにくい。その上、革は、履いているうちに、少し伸びてくる傾向をもっている。
……それらの意見を綜合すると、靴屋の主人が断定するように、ホテル重富荘に残されていた白のハイヒールは、死んだ〈大久保千代〉の靴だとは考えられないのだった。
つまり、誰か他人の靴なのである。
〈……変だな。北川の話だと、ホテルの帳場には、室の名称ごとに区切って、保管する靴バコがあるといってたが……これは菊の間の客、つまり大久保千代の遺留品ではないのだろうか?〉
〈どこで、どうして入れ替ったのか?〉
店の主人は、仕事場に戻って、いちど剥がした底革に、ゴム状の糊をつけて、風にあてていた。もと通りに、貼り合わせる気なのであろう。
「別誂《べつあつら》えのいい靴を、乱暴にはく人だな。二年の寿命が一年でだめになる」
相手は、踵や、靴の内側を、手にとって仔細に点検しながら、そんな独りごとを呟いた。西岡は、ふと思いついて訊いた。
「この靴の、メーカーは判りますか?」
「ああ、わかるよ。ローマ字で、〈シカゴ〉と入っている。これは、神戸のメーカーだな」
「シカゴ?」
「サンノミヤ・コーベ。神戸の三ノ宮だ」
彼は、誂え靴のメーカーの商標が、左の靴の内側に印刷されていることを、はじめて教えられたのである。
「ところで、このハイヒールを履いていた女性ですが……」
彼は、ちょっと照れながら言った。
「どんな女性だったか、この靴だけでわかります?」
まさか、靴を見ただけで、人物の性格、体格が想定できるとは、彼も思っていなかったのである。ところが、三十年ちかく、靴の修理を手がけている相手には、靴からみた一種の人相みたいなものがあるらしく、面白い意見を吐いたのだ……。
「この女の人は、背は五尺三、四寸。見栄っぱりで、そのくせ、だらしのない女だ。まァ水商売の人だね」
西岡良吉は、唖然となった。
「え? なぜ、そんなこと、わかります?」
主人は目を細めた。
「この女は、十文の足をもってる。それなのに、九・七の靴を、むりして履いてるよ。だから、この小指のあたるところなんか、革がふくらんでるだろ? それに、足幅もひろい。十文の足をもった日本人の女なら、だいたい五尺四寸はあらァね。だらしがないと言ったのは、ほれ、五本の指の跡が、ぺったり残ってるだろ。素足で履いた証拠だ。靴下をはけば、脂性《あぶらしよう》の女だって、こう黒くは汚れない。それに、この革の傷……」
猫背の主人は、靴というものは、その履いている人の性格をあらわす鏡だとでも、言いたげであった。
そんな話は、とても面白く参考になったが、しかし話の途中から西岡は、ほかのことを考えるようになっていた。
つまり、なぜ靴が替っていたかである。そして、その疑問は、次第に彼の心をゆるがし、どす黒いもので塗りつぶして行った……。
三
西岡良吉は、その白のハイヒールを持って、銀座の有名な婦人靴の専門店を訪ね、やはり神戸市三ノ宮にある、〈シカゴ靴店〉の製品であることをたしかめてから、社に帰った。
その専門店の話では〈シカゴ靴店〉というのは、市販もするが、注文の誂え靴が専門で、小さなメーカーだということだった。優秀な職人が多いので、高級なイヴニング・シューズなどは、客の足型と、写真を撮って東京から送り、下請けさせることもあるという。
彼は、なにか、手がかりが掴めそうな気がしていた。ただ不安なのは、その靴が、死んだ〈大久保千代〉のものではない、ということである。
築地に住んでいる、六代目の彫辰という老刺青師を訪れた北川は、ニコニコしながら、彼と同時ぐらいに編集部に戻ってきた。
「どうだい?」
西岡は言った。
「うん、面白い情報が、手に入ったよ」
「なんだい?」
「どうも、この刺青は、関西で流行《はや》ってたらしいね。しかも、素人に毛の生えた程度の、未熟な腕前だそうだ」
「法医学教室の、後藤博士もそう言ってたな」
西岡は、煙草をくわえた。それから、北川謙一の肩を小突いて、応接室へ行った。編集部の中では、話すことを避けた方がよいのだった。そうでなくとも、二人の遊軍記者が、なにを調査しているかは、他の部員たちの興味の焦点になっている。
その意味で、北川謙一は、無頓着な方であった。西岡はもっさりしたタイプだが、神経質だったのである。
「……どうしたんだ、急に!」
北川は、不服そうだった。
「あの室では、まずいと思ったんだよ」
「なんだ、そんなことか……」
北川謙一は、すぐ納得して、刺青師の話を嬉しそうにしだした。
……六代目〈彫辰〉の許には、事件直後と、それから一週間後の二度ばかり、警視庁の刑事が訪れている。しかし〈彫辰〉は、素人技術だということを、看抜いただけで、なんら手がかりを与えることは、できなかった。
商売柄、〈彫辰〉の許には、いろんな暗い職業の人種が集まってくる。それで刺青師は、〈蛇と蛙〉の、変った図柄を示しながら、
「こんな彫り物を見たことはないか」
と、客に訊いていた。
すると、九月の末ごろだったか、遊びに来ていた関西のヤクザ者が、
「こらァ風巻伝次の、つくった図柄やがな!」
と、教えてくれたというのである。
風巻伝次なら、彫辰も知っている。
たしか脳溢血で倒れ、五年ぐらい前から、仕事はしていない筈だった。
関東の刺青師は、背中いっぱいに彫り上げる壮麗な図柄を好んだが、風巻伝次は、神戸で外国人の船員を相手に、奇妙な図柄のイレズミばかり彫って来た男だった。
いわゆる隠し彫りというやつで、これは高度の技術を要する。風呂上りとか、酒に酔ったりして、体が汗ばんでくるとき、はじめて刺青の全貌が皮膚に浮き上ってくるのである。
従って、風巻伝次の手がける部分は、胸だとか、内股だとか、腕のつけ根だとかが多い。
西岡は、変った刺青師もいるものだ、と思った。北川は得意そうに、こう言った。
「彫辰は、風巻伝次に会ってみたら、事情がわかるのではないか、と言ってたね。だから今から、神戸に行こうと思ってる……」
彼は、慌てて煙草を灰皿に投げこんだ。
「待てよ、おい!」
「靴の方……どうだった?」
「実は、そのことなんだ」
「え?」
「あの靴……きっと彼女のものか?」
「どうしてだい? 事件以後、〈菊の間〉は使用を禁じられてる。そしてあの白のハイヒールは、〈菊の間〉と書かれた靴箱に入ってたんだぞ……」
「誰か、間違えて、履いて帰ったんじゃァないか?」
「まさか。靴の出し入れは、女中がしているんだよ」
「すると、女中の誰かが、こっそり、すり替えたんだな」
「なに言ってるんだ。東田迪夫とやって来た大久保千代が、白のハイヒールに、緑色のコートを着ていたのは、女中たちも証言している。新しい靴ならともかく、あんな草臥《くたび》れたインネンつきの靴を、誰が欲しがるものか……」
「そういえばそうだなあ。しかし、変だな」
西岡は、死んだ〈大久保千代〉が、五尺一寸そこそこの小柄な体であり、足の文数が九・三であったこと、そして残された靴は、九・七であり、靴屋の推理では、五尺四寸前後の女だと思われることを説明した。
北川謙一は、おどろいていた。信じられない目の色になっている。
「どうしてだろう?」
「俺にも合点がゆかないんだ。しかし、どうせ神戸に行くのなら、この靴を持って行って、三ノ宮の〈シカゴ靴店〉を訪ねてくれないか?」
「うん、引き受けた」
「注文誂えだから、住所氏名もきいて当ってみてくれよ」
「どうだ、西やん? 一緒に行かんか?」
「いや、俺は東京に残って、彼女の、キャバレー時代の同僚を、あたってみるよ」
「悪いなあ、俺だけ……」
「キャバレー関係をあたって、大久保千代の身許がわれるとは思わんが……なにか、出てくるかも知れないしね」
「できたら、タクシーの運転手も頼む。どうも気がかりなんだ……」
「犯人アベック説かい?」
西岡は、目だけで微笑った。
彼も一緒に神戸に行きたい気持はある。しかし、あと一週間と期限を切られた以上、だれの持ち物かわからないハイヒールを調べに、二人とも神戸へ行くのは気がひけるのだった。ところが、後になって判ったのであるが、その〈シカゴ靴店製〉のハイヒールは、重要な決め手をもっていたのである。
「どうせ行くなら、早いほうがいいなあ。いまからだと、日航の一〇九便に間にあうぜ!」
「そうだな。この際だから、少しゼイタクをさせて貰おう」
「取材費……持って行けよ。俺は、仮払いがきくから」
西岡良吉は、ズボンのポケットから、くしゃくしゃになった紙幣をつかみだした。
「ありがとう……」
北川謙一は隅に行って受話器をとると、飛行機の切符を申しこみはじめた。
編集部には、いつでも旅行に出られるように、取材ノート、写真機、地図などが、ボストン・バッグに入れて用意されてある。
西岡は、バッグを片手に飛び出してゆく北川を見送ったあと、編集部の自分の机に帰って坐った。女の子に、熱い番茶を請求して、この二、三日、目も通さないでいた自分宛の来信を、整理していると、見覚えのある書体の封筒が見つかった。
裏を返すと、鶴谷鶴吉とある。池袋の〈西部不動産〉の店主であった。
『前略、先日は奇縁にて来駕下さり、恐縮至極に存じました。さて、大久保千代様と同伴せる男性につき、その後いろいろ思惟に及びしところ、二、三、記憶が甦《よみがえ》り候に付、一筆|認《したた》め御報告します。
背丈は五尺七寸ぐらい。縮れ髪にて、髭濃き方。煙草は、フィルターつきを吸い居り、そのとき、弁当を届けがてら来店せる愚娘の言によれば、外人俳優のトニー・カーチスなる男に、そっくりなる風貌《ふうぼう》の由。
娘の記憶では、ワイシャツの袖に、〈R・S〉なる刺繍あり、背広はポーラ地のグレイなりしとか。
また、店を出るとき男は、「あけみ、行こやないか」と呼びかけた故、娘は不審に感じたと申しております。千代なる名前が偽名とせば、あけみが本名ならんか、あるいは源氏名ならんか、小生には判断もつきませんが……。
右、取り急ぎ。乱筆お許し下され度』
便箋四枚に、鉛筆でしたためた手紙であった。達筆だが、言葉づかいは古めかしい。彼と鶴谷鶴吉との間に、年代のへだたりを感じた。
しかし、この親切さは、やはり明治の時代に生れた、律義な人間のものである。
〈五尺七寸。トニー・カーチスに似た、R・Sという頭文字の男……〉
〈あけみ、行こやないか……〉
西岡良吉は、便箋を読み返しながら、手がかすかに震えてきた。
彼は、〈シマダ〉とか、〈シカタ〉という名前で、大久保千代に、男から電話があったことを思いだしたのである。
〈R・S〉という頭文字は、その男が、同一人物であることを、教えているではないか。
〈電話の主と、この縮れ毛の男は、同じ人物に違いない!〉
彼は、俄かに視界が、さッと明るくなって来たのを感じた。もやもやしていた霧が晴れて、迷っていた道が発見できたような感じである。彼は、その手紙をポケットに突っこむと、〈この男を探しだすんだ!〉と、心に誓った。
だが、一千万人もの人口がひしめいている東京で、どうやって探し出せばいいのだろうか? かなり、いろいろな特徴は、出て来たにしても、どうにもならないではないか……。
西岡良吉は、唇をかみ、じいーっと考えこんだ。そんな彼の姿を、次長の白石は、目の片隅で意識しながら、黙って雑誌に読みふけっていた。
四
新宿にほど近い、大久保、東中野という一帯には、どういうものか、バーや小料理屋で働く女性たちが、多く住みついている。そのため、ある週刊誌などは、〈女給街〉などというタイトルで、特集記事をつくりあげたほどだった。
西岡良吉は、そうした女給街のなかにある、清明荘という一軒のアパートを探して歩いていた。
キャバレー〈パール・ハーバー〉の支配人から、死んだ大久保千代が、浅草から移ってくるとき、一緒だったという筒井秋子という女性を、紹介して貰っていたのである。そして彼女は、東中野の近くの、清明荘十一号室に住んでいたのだった。
そのアパートを捜しだしたのは、午後四時ごろだった。青いモルタルのアパートだったが、どの窓にも見た目にも悩ましい、ピンクだの、ブルーだの、ブラックだののナイロン製の下着が、秋の日差しを浴びている。
西岡は、入口の管理人室で、筒井秋子の室の号数をたしかめ、二階へ昇って行った。
十一号室は、階段のすぐ右手である。
ノックをすると、蓮ッ葉な声が、
「どなたァ?」
と、反応してきた。
その声の工合から、彼は、気さくな女の性格を想像して、内心ほッとした。そして事実、筒井秋子は、そのような女性だった。
シュミーズ姿でドアをあけた彼女は、化粧の最中だったらしく、片方の目だけ、目ばりを入れている。
「あら、酒屋さんかと思ったわ。ご免なさい……」
あわてて、入口のカーテンを引くと、体になにかを羽織っている気配だった。出勤前の化粧中に、訪れたのだと知って、西岡はなぜか悪いことをしたような気がした。
「どうも、すみません……」
彼は、丁寧に詫びを言った。
「いいのよ。ウイークリー・東京か……。週刊誌の記者さんね?」
名刺を読みながら、筒井秋子は着換えをすませて、顔をだした。
「実は、先月殺された大久保千代さんのことについて、お伺いに上ったんですが」
「ああ、千代ちゃんのこと?」
「そうなんです」
「あたしだって、よくは知らないわ。浅草のグランド・パレスで一緒に働いてて」
「いつごろです?」
「去年の秋ごろから」
「そして今年の春に、新宿のパール・ハーバーに移ったんでしたね」
「まァ、お上んなさいよ。あたし、化粧のやりかけだから……」
「申し訳ありません、どうも――」
「さ、汚いとこだけど」
秋子は、同じようにカーテンで仕切った台所に入ると、ガスに火をつけた。お茶でも沸かす気らしい。カーテンの下から、白い素足がみえている。
「悪いけど、化粧しながら、質問に答えることにするわね」
彼女は大きな三面鏡の前に坐った。六畳の広さだが、出窓があるせいか、広く感じられた。洋服ダンス、整理ダンスが並び、三面鏡とテレビは、出窓を利用して置かれてある。
西岡は、遠慮せずに室にあがった。
「どんなことが聞きたいの?」
女は、鏡に顔を近づけながら言った。
「あなたと彼女とは、かれこれ一年の交際《つきあ》いになるわけですが、大久保さん……自分の本名だとか、前歴について、なにか洩らしたことはなかったですか?」
女は、鏡の中で、妙な笑い方をした。
「刑事さんと、同じ質問をするのね? でもあの人、無口だったし、あまり喋らない方だったから――」
「昔から、東京ですか?」
「さあ。神戸や、大阪のことは、よく知ってたから、関西の生れじゃないかしら」
「なぜ、東京へ出て来たんです?」
「結婚してて、旦那さんが死んだからだと、自分で話してたことがあるわ。結婚のことや、死んだ旦那さんのことは、あまり言いたがらないの。なにか、いやな思い出でも、あるんじゃないかしらね」
女は、顔を鏡に近づけたり、また離したりしながら、目ばりの工合をたしかめている。
「彼女、結婚してたんですか……。知らなかったなあ。でも、なぜ、東京へ出て来たんでしょうか?」
筒井秋子は、台所のヤカンの音に耳を傾け、立ち上ってきた。そして、彼の前に坐ると、真顔でこう言った。
「だれも信じないけど……千代ちゃん、だれか男の人を探しに、東京に出て来たんじゃないかと思うの……」
「男を探しに? 恋人ですか」
西岡は、その恋人らしい、シカタとか、シマダとかいう男のことを思いだした。
「千代ちゃん、あんな無口でしょ? 自分の口から、それとは話さないけど、働いていて、感じでわかるじゃない?」
「というと?」
「たとえばさ、踊りながら、他の客の顔ばかり、きょろきょろ見詰めてたり……入って来た見知らぬお客さんでも、はッと立ち上りかけたりさ……」
「なるほど……」
西岡は、あぐらをかいた。その方が、思考にゆとりができてくる。秋子は台所の方に姿を消して、ごそごそ物音を立てていたが、やがて紅茶の用意をして出て来た。
どうやら家庭的な女性らしい。年のころは殺された〈大久保千代〉と、ほぼ同年配であろう。あまり厚化粧をしていないのが、好感がもてた。
「あたしは、千代ちゃん、男に欺されたか、捨てられたかして、それで東京に追って来たと思うの。半年ごとに、上野、浅草、新宿と勤めを変えてるのも、そんな気がするわ」
「ははあ……」
「パール・ハーバーに勤めるときだってさ、私が移るといったら、それほど親しくもない千代ちゃんが、自分も紹介して欲しいといって来たのよ? 給料は同じだけど、なにも遠いところに勤めなくたって、いいじゃないの……」
「そういわれると、変ですね」
西岡良吉は、その彼女の捜し求めていた男が、あの縮れ毛の、トニー・カーチスに似た男なのではないか、との確信を深めた。
それで彼は、男の人相を説明して、そんな人物が店に来なかったか、と訊ねた。
秋子は、紅茶を口に運んでいたが、不意に手の動きをとめた。そして、なにかを思いだす目の色になった。
「なにか、思いだしましたか?」
「ちょっと待って? そんな男……たしか一度だけだけど、見たことがあるような気がするわ……」
彼女は、首を傾げ、紅茶をすすった。それから、小さく、「そうだわ!」と叫んだ。
「そうだ……千代ちゃんが、お客さんの膝にビールをこぼしたときだわ!」
……秋子はその夜、千代と一緒に、同じテーブルに、本番でついていた。客は社用族らしい、二人の中年の紳士だった。客は、仕事の話に夢中なので、二人の女給は退屈していた……。
千代は、ボーイの運んできた新しいビールを、カラになった客のコップに注ごうとした。ちょうどそのとき、別のボーイが、通路に客を案内してきたのである。客は、三人連れであった。
「千代ちゃん、その案内されて来た客の方ばかり、眺めてるの。それでもって、ビールを注いでるんでしょう? コップから、ビールが溢れちゃって……」
筒井秋子は笑った。
「なるほど。その三人連れに、そのトニー・カーチス野郎が?」
「奥の隅に席をとったけど、横顔が、そっくりだったわ。彫りが深くて、逞しい体つきで……」
千代は、自分の粗相に気づくと、泣きだしそうになり、慌てて客のズボンを拭きだした。ボーイがすぐ飛んで来た。
「お客さんは、笑って許してくれたけど、千代ちゃん、なんだか、そわそわして落着かずに、後ろばかり振り返ってたわ。そう、それで私も覚えてるの」
「そのときの三人連れは……」
「二人は、店によく見える不動産屋さん。一人だけ知らない顔が混ってるし、美《い》い男だったから、印象に残ってるのね」
西岡は、その常連だという、不動産屋の名前を聞いてメモした。いずれも新宿で、開業している連中らしかった。
「それから、彼女は、どうしました?」
「どうしたんだったかしら? そうそう、急に席を立って、それっきりテーブルに戻って来なかったのよ。あとでボーイさんにきくと、マネージャーに早退を申し出たんだって……」
筒井秋子は、矢庭《やにわ》に手を打つと叫んだ。
「そうだわ。彼女が二日続けて、無断欠勤したのは、その翌日からだわ!」
――西岡良吉は、目を輝かせた。
〈大久保千代は、誰か男を探すために、東京へ出て来た……。そして、秋子のいう通りに、男を探すべく、キャバレーを転々としていたのかも知れない〉
〈やがて、その男とめぐりあった。翌日から、無断欠勤して、熱海に行ったことでも、それは証明できる!〉
彼は、いままで雑多に積み込まれていた資料が、まるでIBMの器械に乗せられたパンチ・カードのように、めまぐるしく活動しはじめたのを感じた。そしてそれは、やがて頭の中で、あのナゾの男に焦点をしぼって、統一されて行くのを知ったのである。
〈やはり、怪しいのは、あの男だ……。彼が事件のカギを、握っている!〉
西岡は、店に出勤するという筒井秋子を、タクシーで新宿まで送りながら、苦心してアパートを探し訪ねて来たことが、決して無駄ではなかったと悟っていた。
でも、男が、東田迪夫を罠におとし入れ、大久保千代を殺害した犯人か否かについては、自信がなかった。
ただ目下の急務は、そのナゾの男の、住所氏名や、前歴を探ることである。死んだ女性とを結ぶ糸を、発見することである。
西岡は、ふッと、北川謙一はいまごろ、神戸の街を歩いているだろう、と思った。
東京の街では、陽が沈みかけている。神戸は西だから、まだ陽は高いのではないか……。彼は、そんなことを車の中で考えた。
五
事件のカギを握る謎の男と、パール・ハーバーに現われたのは、角筈のビルにある〈みどり不動産〉の社長と、新宿二丁目に店舗をもつ〈羽根田商事〉の経営者であった。
西岡は、職業別電話帳で、住所を調べると、駅から近い〈みどり不動産〉を訪れた。
それは駅の中央口の、ビルの二階にあった。彼が入ってゆくと、社員たちは、帰り仕度をしているところだったが、緑川社長は、幸いまだ店の中にいた。
「ほう、なんですかな」
彼の名刺を、眼鏡の玉だけあげて読み下すと、でっぷり肥えた社長は、愛想笑いをした。
壁に、伊東や軽井沢の地図が貼られてあるところをみると、分譲地で大いに当てているらしく、店内には活気がある。
「実は、つかぬことで、お伺いに上ったのですが……八月の二十七日か、二十八日ごろ、羽根田商事さんと、キャバレーへいらっしゃいませんでしたか?」
「八月二十七日か、二十八日ですか?」
緑川社長は、手帳をとりだし、仔細らしく眺めていたが、
「記憶ありませんなあ。羽根田さんとは、こんど那須の分譲地を、共同でやるので、よく飲み歩いてますが……」
「パール・ハーバーという店です」
「ああ、行った、行った! 日付は覚えとらんが、よく行きますよ」
「そのとき、ご一緒した客がありますね?」
「わしと羽根田君のほかに?」
「ええ。覚えてませんか?」
「さあ誰だろう?」
相手は、考えこんだ。
「背の高い……縮れ毛の、三十位の年齢で……。横顔が、トニー・カーチスに似ているそうですが」
「トニー・カーチス?」
「映画俳優ですよ」
「さあ、わしは洋画はあまり見ないんでな。誰かな。誰がそう言ってました?」
「パール・ハーバーで聞いたんですよ」
緑川社長は、近くにいる社員を手招きして、うちの客で、外国俳優に似た人はいないか、などと質問している。西岡は、顔かたちを説明した。
若い社員は、うなずいた。
「社長……。〈A&B〉の竹田さんじゃないですか? うちで渋谷のビルを紹介した……」
「ああ、竹田さんのことか! そう、そう。竹田さんの店に寄って、三人でパール・ハーバーに行ったことがある、ある!」
肥った社長は、指を鳴らした。
西岡良吉は、その指よりも高く、胸が高鳴るのを覚えた。彼は、勢いこんで言った。
「その竹田さんは、どこにいます?」
「渋谷ですよ。道玄坂ビルの地下で、バーを経営してる方だ。若いが、株で儲けたとかで、なかなかの財産家でしてな……」
「店の名前は?」
「たしか、〈A&B〉という名です。そうですね、社長?」
若い社員は言った。社長はうなずいた。
「羽根田君と二人で、渋谷へ行ったついでに、その竹田さんの店へ寄って、那須の分譲地の話をしたんだ。そうしたら、一万坪買う話がまとまって……いや、那須はこれから発展しますぞ! 東京から、急行電車で一時間半ですからな。第二の軽井沢です……」
緑川社長は、那須分譲地について、熱弁をふるいはじめている。西岡は、慌てて質問の矢を放った。
「竹田というのは本名ですか?」
「本名でしょう。店は、奥さんの名義で、登記してありますが」
「奥さん?」
「ええ。これは美人ですぞ。美男美女のご夫婦ですわい。すらりとして、胸といい、尻といい、脚といい、素晴らしい体格でな……」
相手は、目を細めた。マダムの体つきを思い描いているらしい。
西岡は、お礼を言って帰りかけたが、ちょっと気がかりになったので、好色そうな緑川社長に、
「竹田さんには、私が来たことは、黙っていて下さい。お願いします……」
と、念を押した。
相手は、怪訝《けげん》そうな顔つきで、しかし曖昧にうなずいた。
日の暮れかかった新宿の街には、一日の仕事を終えたサラリーマン達が、溢れていた。映画へ行くアベック、パチンコ屋に入る独り者、飲み屋を探す中年男たち。それぞれ目的は違うが、一日の疲れを癒《いや》すために、みんなこの盛り場を訪れてくるのだった。
西岡は、その流れに逆って、新宿駅へと入って行った。
彼の頭の中には、いま教わった、道玄坂ビルの地下にある、バー〈A&B〉のことだけがあった。
〈竹田という名前は、本名だろうか。竹田なら、ワイシャツの縫取りは、R・Tでなければならないのだが……〉
〈しかし、みどり不動産の社長も、社員も、男の人相をいったら、すぐ竹田の名前を出している。嘘をついているとも、思えないけれど……〉
国電は、満員だった。
渋谷駅へ着くまで、西岡は、入口のドアに押しつけられながら、久しぶりに、ラッシュ・アワーの感覚を味わった。出版社は、勤務時間がルーズなので、めったに満員電車に揺られることもないのである。
渋谷駅の階段を下りながら、彼は、空腹を覚えた。考えてみると、朝から、なにも食事していないのだった。
しかし、その割に疲労していないのは、仕事が俄かに順調に、はかどりはじめたからであろう。
〈こんなことなら、なぜ刺青とキャバレーを先にあたらなかったのだろう!〉
西岡は、あるいまいましさを感じる。だが、そこに到達するまでの苦労は、決して無駄になってはいないのだった。それまで、足で歩き廻って、小さな資料を積み重ねたからこそ、筒井秋子に、質問して、貴重な手がかりも得られたのではないか。
でも、時間に追われて走りだした現在では、たとえば池袋の不動産屋を歩き廻った二日間が、しごく徒労だったように感じられてならないのも、事実である。
西岡は、駅の近くのラーメン屋で、焼そばを食べた。
いまから〈A&B〉という酒場に、出かける積りなので、金を節約しておかねばならなかったのだ。取材費の大半を北川謙一に手渡していたので、彼のポケットには、三千円とちょっとしか残っていなかったのである。
バー〈A&B〉は、思っていたよりも、立派な店だった。
ビルの一階は銀行で、その脇に、地下の酒場へ下りてゆく専用の入口がある。階段には朱いジュータンが、敷きつめられていた。
階段を下り切ったところに、クロークがあり、左手に、ステンド・グラスを嵌《は》めこんだ入口がある。ドアは透明なプラスチックだった。
「いらっしゃいませ……」
バーテンの威勢のよい声に迎えられて、西岡は、おそるおそる店の中に入った。そしてカウンターに腰を下ろした。
彼らが通っている、新橋烏森のバーとは違って、豪華な雰囲気である。財布のかるい西岡は、カウンターに坐っても、どことなく落着かなかった。
店の中は広い。十坪以上あるだろう。ボックスも、十幾つあるようだった。彼は、ビールを注文した。
「いらっしゃいませ。ボックスに、いらっしゃいません?」
ひとりの女給が、彼のそばへ寄って来た。見ると、カウンターに坐っているのは、西岡だけである。
「いいんだ、ここで」
そう断ると、女給は立ち去りかけたが、思い直したように、彼の隣に坐った。そして、ビールの酌をしてくれた。
「悪いな……」
彼は言った。
「いいのよ。まだヒマだから。お店……はじめてね?」
「うん。マダムがすごい美人だという話をきいてね。それで、ネオンをみて入って来たんだよ……。マダムって、どの人?」
笑いながら、西岡は話しかけた。支那服をきた女給は、首をふった。
「マダムは、いないわ。でも、そろそろ来る時間だけど……」
彼は、隣に坐った女給の年齢が、幾つぐらいなのか、判断に苦しんだ。瞼に青い、アイ・シャドーを塗りたくっている。なにか不健康な感じである。
西岡は、さりげない世間話をしながら、一本のビールを、時間をかけて飲んだ。しかし二本目が、半分カラになる頃になっても、マダムは姿を現わさない。彼は、少しいらいらした。
「どうしたんだろう、マダムは……」
彼がそう呟くと、隣の支那服の女は、西岡の肩を小突いた。
「失礼ね。私がいるのに……」
「そう怒るなよ。顔を見たら、帰ろうと思ってるのさ。どこに住んでるんだい?」
「顔も見ない先から、ご執心ね」
「ああ。俺は、マダムが美人の店にしか、通わないんだ……」
「あたしじゃ駄目?」
女給は、拗《す》ねたような顔をした。西岡は、彼女に、ビールを注いでやった。そして耳朶《みみたぶ》に、口をつけて囁いた。
「はじめに聞いとくが、マダムには、旦那はいるんだろうね」
「もち、よ」
女は囁き返した。
「あたしは、空家よ?」
西岡は笑った。
「どうだかな? 旦那って、いい男か?」
「ええ、いい男」
「なんて人?」
「知らないわ。マダムに叱られちゃうもの」
「かくすなよ……。トニー・カーチスばりの美男子だとか、噂をきいたぜ?」
女給は、驚いたように、彼を凝視した。西岡は、慌てて片眼を瞑った。北川謙一の、ウインクの仕種を真似たつもりだが、うまくゆかない。女は、嬉しそうに笑った。
「よく知ってるわね。マスター、月に一、二度しか店に来ないのに……」
「この店に、シマダとか、シカタという名前の男が、飲みに来ない?」
「さあ、知らないわ。私、先月入ったばかりだもの。バーテンさんに、聞いてみましょうか?」
「いや、いいんだ……」
西岡は、慌てて言った。女給が、また肩で小突いた。
「来たわよ、ママ……」
西岡は教えられて、入口の方をみた。和服姿の大柄の女性が、ボックスの、常連らしい客に、愛想をふりまきながら、更衣室へ入ってゆくところである。
「どうしたのかしら、ママ……。このごろは着物ばかりだわ。ご自慢の脚が、夜泣きしないかしら!」
独りごとのように、女給が呟いた。
「あれが、マダムか。なるほどね。思ったほどでもないじゃないか……」
彼は女給にささやいた。
「あら、美人よ。近くで見てごらんなさい。神戸のキャバレーでナンバー・ワンだったんだって……」
「神戸で?」
西岡良吉は、目を光らせた。
カウンターの中のバーテンが、一瞬、睨むような目付きで、彼の方を眺めている。西岡は、急いで言った。
「神戸っていい街だよな。もう一度、行ってみたいと思ってる」
「お客さんも神戸でっか?」
案の定、バーテンが口をはさんできた。西岡は、編集長の中薗の口調を思いだしながら、首をふると椅子をすべり下りた。
「いや、僕は京都や。京都の河原町の生れやが……」
バーテンの顔色には、警戒心をゆるめるものが動いた。
「お愛想してくれ!」
「あら、もうお帰り? ママ、呼んでくるわよ……」
支那服の女給は言った。
「いいんだ。今日は偵察。来週は、仲間をつれて飲みにくる……」
勘定書は、二千七百円だった。ビール三本と、オードヴル一皿。西岡は、目の玉がとびでるほど驚いたが、黙って支払った。
領収書を書いて貰うあいだ、まだマダムは客席に姿を現わさなかった。
しかし、目鼻立ちのはっきりした、どこかバタ臭い感じのあるマダムの顔だけは、彼の脳裏のフィルムに、しっかり焼きつき、定着していたのである。
第七章 死んだ刺青師
一
――早朝の編集部は、人ッ気が少い。校了日の翌日などは、みな、十二時すぎにならねば、出勤して来ないほどであった。一般に、週刊誌の編集部とは、そんなものである。事実、午前九時に出社したって、仕事にならないのも、たしかだった。
ところで西岡良吉は、九時前に姿を現わして、自分の机の前で待機していた。北川謙一から、電話があることになっていたのである。
電話は、九時十五分ごろ、かかってきた。
「ああ、俺だよ。どうだった?」
彼は弾んだ声で言った。北川謙一は、自分の泊っている旅館の電話番号と、名前と住所を教えたあと、俄かに声をひそめた。
「おい、大変だ……。風巻伝次は、十日ほど前から行方不明になってた……」
「ええ? 行方不明? 脳溢血で倒れた男がかい?」
西岡も、固く受話器を握りしめた。
「そうしてだ……驚くなよ? 一昨日の朝、神戸港で土左衛門になって、発見されたんだ……」
「土左衛門? じゃァ溺死か?」
「解剖の結果では、一週間ぐらい前に、海に落ちて死んだらしい……」
「変だな、それは! で、刺青の方は?」
「手がかりなしだ。家に行ったら葬式の最中でなあ。ろくろく話も聞けなかった。弟子が一人いたらしいが、これも行方知れずだ」
「なんだ。それでは、行き損じゃないか……」
西岡は、落胆しながら叫んだ。
しかし、女の身許わりだしの手ががりとして、警察でも発表を伏せている刺青だった。その構図を得意としていた、風巻伝次という刺青師の突然の死は、これは果して偶然なのか? 彼は眉をピクリと動かした。
疑惑は、雲のごとく湧いてくる。
「そんなわけで、刺青の方は失敗だったが、ハイヒールの方はわかったぞ……」
「ふーん。そうかい」
彼は、さして気乗りせずに答えた。
「きみが話してた通り、高級誂え専門の店でね、シカゴ靴店は……」
「ほう。それで?」
「一年に三足以上、誂えた客の足型は、全部保存してある。あのハイヒールは、去年の一月の注文で、依頼したのは竹田さゆりという女性だったよ……」
西岡は、受話器にしがみついた。
「なんだって? 竹田さゆり? タ、ケ、ダだな?」
「おい、どうしたんだ……」
北川は、驚いたように聞き返した。
彼は、池袋の〈西部不動産〉の主人からの手紙が奇縁で、キャバレーの女給―緑川社長と糸をたぐり、〈A&B〉というバーに辿りついたことを、早口にしゃべった。
「そのバーのマダムが、竹田というんだ。そして亭主が、トニー・カーチス野郎らしいんだよ……。マダムは、三十前後の美人だ。神戸のキャバレーで、ナンバー・ワンだったというぜ?」
「そいつだ!」
北川の声は、叩きつけるほど烈しかった。
「シカゴ靴店のお得意先の名簿では、住所は元町のキャバレー〈ナポリ〉となってる!」
「待て、待て!」
西岡は、混乱した頭を鎮めようとした。
――思いがけない、符合である。
〈菊の間〉で死んでいた〈大久保千代〉のものだとばかり信じていたハイヒールは、あの〈A&B〉のマダムが一年前に注文した靴であった!
推理の糸は、一挙に乱れはじめた感じである。竹田さゆり……大久保千代。シカゴ靴店。風巻伝次の溺死体。五十万円。
〈これは、どうなってるんだ?〉
西岡は、なにがなんだか、さっぱり訳がわからなかった。
「おい、西やん? その竹田って男が、大久保千代と、池袋を歩いてたんだろ?」
「うん。R・Sの頭文字は違うが、どうもそいつ臭いんだ」
「すると、竹田さゆりの方は?」
「新宿の〈みどり不動産〉の話では、彼の女房らしい……」
「わかった。三角関係だ! 竹田は、大久保千代を捨てて、さゆりという女と東京へ逃げてきた。そして、バーを経営した……」
「千代の方は、竹田を追って上京。そして竹田にめぐりあう。しかし、竹田の心は、すでに千代から離れている……」
「邪魔になったんだよ、昔の女が……。それで殺したんだよ!」
「思いだした。竹田は、大久保千代のことを、〈あけみ〉と呼んでいたそうだ……」
「あけみ?」
「うん。彼女も、関西にいたらしいから、竹田とは、そっちで知り合ったんだろう……」
「すると、ホテルに残された靴は? どうなるんだ、この方は……」
「俺も、それを考えてる。とにかく、考えることが、いっぱいあるんだが……どこから手をつけて良いのか、判らなくなったな!」
受話器からは、十分間の通話時間の区切りを告げる、ツー・ツーという断続音が聞えてきた。
二人はしばらく黙りあっていた。
「なあ、西やん!」
北川の声が、受話器の底から響いてきた。
「なんだ? 東京で調べることがあったら、言ってくれ!」
西岡良吉は、眉根を寄せた。かるい頭痛がしはじめている。
「そうじゃないんだ。きみも、こっちに来ないか?」
「ええッ?」
「バーを経営してる位なら、竹田さゆりも、その亭主野郎も、すぐには逃げやしないだろう?」
「それはそうだが……」
「だから、神戸に来いよ。キャバレー〈ナポリ〉あたりから調べて行ったら、大久保千代のことも、判りそうな気がするんだ……」
「なるほど……」
「白石さんに言って、すぐ飛んで来いよ。取材費を持って――」
「わかった。そうしよう」
「俺は今から、水上警察に行って、夙巻伝次の死因なんかを、くわしく調べてくる。唯一の決め手だからな、刺青は……」
「よし! 一〇七便か、三〇五便でそっちへ飛ぶよ。遅くとも、三時までには、神戸の旅館へ行く!」
「じゃァ待ってる」
「ああ……」
電話の切れる音がした。
西岡良吉は、受話器を握りしめたまま、そのまましばらく、ボンヤリしていた。
局面が、突如として大変化をきたしたのである。風巻伝次の死。竹田さゆりの靴。それらの新発見の材料は、事件のナゾを解明するための前進ではなく、かえって混乱させるための後退のような、苛立たしさを西岡にあたえている。
〈しかし……ホテル重富荘に、A&Bのマダムの靴が残っていたということは、これは偶然じゃない。明らかに作為がある!〉
彼は、女の子に、熱い番茶を運んできてもらうと、それを口で吹きながらゆっくり飲んだ。
ぽつぽつ、編集部の仲間たちが、出勤してきはじめている。みんな西岡が、珍しく早く出ているので、ビックリしたような顔をしていた。
西岡は、電話で飛行機の予約をすると、旅行の用意をしはじめた。念のため、映画雑誌から、トニー・カーチスの写真も切り抜いた。フィルムも六本ばかり、詰めこんだ。
……あとは、次長の白石が出勤するのを待つばかりである。彼は、取材費の仮払い請求書に、はじめ五万円と書きこんだが、破って捨てると、思い切って十万円と書いた。
旅先で、金がなくなると、不安なものである。ククシーにも乗れず、バスで走り廻ったため、一日に二人の人物にしか会えなかった、という苦い経験もあった。田舎のバスは、一日に二便か、三便しか出ていないからであった……。
十時かっきりに、次長の白石は編集部に姿を現わした。時間に正確なのは、彼の性格である。彼は、机の上の請求書をのぞきこみ、西岡の顔をみると、黙ってサインしながら、経理係の女の子を手招きしている。
「これ……たのむ」
次長は、目で合図した。
西岡は、旅行力バンをもって、応接室へ行った。
「なにか、掴めたのか?」
「ええ、刺青師が、神戸港で溺死体になって発見されたんです。それに、ナゾの男の経営しているバーは発見しました。実はその渋谷のバーのマダムのハイヒールが、重富荘に残されていたんですよ……」
「ふーん?」
「そのマダムの竹田さゆりは、神戸のキャバレーに勤めていました。ですから、神戸に行けば、大久保千代と、ナゾの男との関係が、つかめると思うんです」
「なるほどね。大久保千代、竹田さゆり、ナゾの男……この三人は、神戸で知りあってるわけだなあ」
「そうです。その関係がわかると、彼女がなぜ東京に出て来たか、なぜ殺されねばならなかったかも、わかると思うんですよ」
「まるできみは、竹田というこのマスターが、彼女を殺したような口を利くね」
「ええ、なんとなく、予感がするんです。どんな方法で、なぜ殺したかは、皆目《かいもく》わかりませんが……」
「よし、行って来いよ。頼んだぜ……」
「バー〈A&B〉の所在地は、ここです」
西岡は、ビール三本で、二千七百円もとられたことを思いだしながら、酒場のマッチをとりだした。
「なにか、こっちで調べることはあるかい?」
彼は、しばらく考えて、首をふった。
ほんとうをいうと、竹田さゆりと例の男が、どこに住んでいるかを探して欲しかったのだが、この仕事を他人にゆだねるのは、なんとはなしに惜しい気持がして、首をふったのである。
西岡良吉は、取材費をもって社を出ると、新橋から国電に乗った。蒲田まで行って、それからタクシーで羽田へ飛ばした方が、近頃はぐんと早く着く。カー・ブームで、京浜国道はものすごく混雑しているからであった。
日航一〇七便は、定刻に、乗客の案内を開始した。結婚シーズンのせいか、新婚らしい男女の姿も、ちらほら混っている。
西岡は、改札口を出ると、大股で歩いた。いい席をとろうと思うからだが、その気持は他の乗客も同じであろう。すばらしい秋晴れで、雲ひとつない、絶好の飛行日和だからである。
彼は、二人掛けの席の、窓に近い方に位置を占めた。翼がよく見える、昇降口近くの席である。
九分通り満員になったとき、遅れてやって来たらしい、一組のアベックが入って来た。並んで掛けられる席は、どこにもない。
そのアベックは、女性が彼の隣に、男性が通路をへだてて、その彼女の隣に坐った。
ベルトをしめる合図が出て、スチュアーデスが、乗客のベルト点検に歩きはじめた。
西岡は、気を利かして、通路をへだてている男の方に、
「席を代りましょう」
と、声をかけて立ち上った。新婚らしいと察して、席を譲ってやる気になったのだ。
新妻は恐縮し、新郎はなんども彼に礼を言った。
まもなく飛行機は、離陸した。
西岡良吉は、新婚の夫婦に、席をゆずってやったことで、なんとなく善根を一つ施したような、良い気持になった。
〈アベックに、席を譲って一人旅〉
そんな川柳とも、標語ともつかぬ文句が、彼の頭の中に浮かんだ。彼は苦笑した。
――だが、不意に彼は、ぎくりと背筋を硬ばらせた。
〈そうだ……。わかったぞ!〉
西岡良吉は、スチュアーデスが、お絞りを差し出しているのも気づかずに、宙を睨んで考えこんだ。
それは、席を入れ替ってやったことから、彼の頭の中に、稲妻のように閃き、貴重なナゾをとく鍵となって、白い閃光を熱っぽく放ちはじめたのである。
〈わかった! あの二人は、共謀だ!〉
彼は、なんどか確信をもって、自分の心に強くささやいたのであった。
二
……北川謙一は、失望に似た気持を味わいながら、水上警察署を出た。風巻伝次の死は、事故死であろうという結論だったのである。
それは、体の皮膚には、さほど外傷がなく、解剖の結果、胃袋には神戸港に棲息するプランクトンが、大量にあったことが、証明されたからだった。
だが、家族に言わせたら、脳溢血で倒れてからこのかた、近くを散歩することはあっても、港の方に出かけることなど、めったになかったというのだ。
北川は、この点に疑問をもっていた。
だが、それにしても、刺青師とは、奇妙な職業であった。
風巻伝次の家は、二階建の洋風建築で、入口に小さな、横文字の看板が出ているだけであった。ローマ字で、〈KAZAMAKI〉と書かれ、その周囲に、旗や、ハートや、星や、舟や、刀剣などの図柄が、散りばめられてある。
あとで知ったことだが、日本人が背中から胸、両腕のあたりにかけて、大きな図柄――それも伝説とか、歴史上の人物の紋様を好んで彫りこむのに較べて、欧米人の刺青は、局所的、散在的なのであった。つまり、旗、ハート、星、刀剣、人名といった刺青が多いのである。
刺青は、いつの頃から、流行しはじめたのであろうか。〈魏志倭人伝《ぎしわじんでん》〉には、〈男子は大小となくみな黥面文身《げいめんぶんしん》す〉とあるから、かなり古い時代からあるのであろう。
その方法は、古くは、貝殻、黒曜石などで皮膚を傷つけ、色素を沈着させたらしい。
江戸時代に入って、刺青師という職業が生れ、人々は華麓な紋様を競うようになった。
先ずスミで下絵をかき、絹針を数本たばねて竹の棒の先に絹糸で縛りつけた、幾種類かの彫り道具で皮膚を刺す。この道具は、筋彫用、ボカシ用など何種類かあって、針は一回使用するごとに砥石で研《と》ぐのだそうである。刺し方にも、「突き針」「はね針」など、いろいろな技術があるが、要するに針で皮膚を刺し、その上に色素をすりこむのであった。
色は、墨汁のほか、朱、ベンガラ、白粉、ロクショウなどがあって、科学的にいうと、それらの色の溶液が、皮膚組織の中に、沈着するわけである。
痛みを伴うのはもちろん、時によると発熱したり、化膿したりするので、よほどの勇気と忍耐とが必要とされている。従って、江戸時代の火消し、鳶職、ヤクザといった連中が、刺青をイナセなものとしたのも、一理あるわけであった。
さいきんは、電気針というものが発明されて、刺青もスピード・アップされたが、しかし風巻伝次のように、指の芸術師として、海外に知られた人間も、少くないのである。
明治から大正にかけては、朱の「唐草権太」、ボカシの「達磨金」「ちゃり文」、錦絵の「彫岩」、名人「彫兼」「彫宇之」「彫金」、二代目「彫宇之」などという名刺青師が続出している。しかし、戦後ではすっかり影をひそめてしまった。従って「彫辰」とか風巻伝次のような存在は、貴重だったともいえる。
……ともあれ、シンガポールの陳、香港の謝、神戸の風巻と、東洋の三刺青師と、戦後、外国船員たちに評判をとった彼も、深酒が祟《たた》って脳溢血で倒れた。
一年ほど安静して、ふたたび針をとった風巻伝次は、自分の指が、自分の意志通りに動かないことを悟った。そうして引退を声明した。
にも拘らず、彼の許を訪れる客は、少くなかった。しかし、名人気質の彼は、病気を理由に、いっさい断り続けたという。
だが、これは世間体であって、北川謙一が家族から聞きだした話では、ときおり、拒みきれなくて、針を執《と》ることもあったということであった。
〈もしや、大久保千代の、素人っぽい内股の刺青は、風巻伝次が、病気で倒れてから以後の作品ではなかろうか?〉
北川は、そう考えたのである。
弟子が一人いたという話だったが、この弟子が姿を消したのは、風巻伝次が倒れた直後である。伝次が惣れこんだという位だから、腕はかなりすぐれていたものと想像できた。
従って、東京の彫辰に、素人に毛が生えた程度の技術――と笑われたあの刺青は、伝次の病後の作品ではないかと北川は推定したのである。
……旅館へ帰る道の途中で、北川謙一は、かなり大きな外科病院に、大きな営業項目をかかげた看板が出ているのをみた。
それは市電に面した四つ角の病院だった。彼が目をとめたのは、〈整形外科〉の項目のなかに、〈二重瞼。豊頬。降鼻術。乳房手術。皮膚移植……〉と並んで、〈イレズミ除去〉という文句が並んでいたからである。
北川は腕時計をみた。
一〇七便は、伊丹に十二時五十五分に到着する。タクシーを飛ばしてきても、生田区の旅館までは、たっぷり一時間はかかるから、時間の余裕はあった。
彼は、その病院に入って行った。
一方では、刺青を施す職人がおれば、他方には、それを消す医師がいる。北川は、それを面白いと思ったのである。幸い、昼休みだったので、病院長は、快《こころよ》く会ってくれた。
「イレズミの話を伺いたいんです」
北川謙一は、率直に言った。
人あたりの良い、五十年配の院長である。医学博士の肩書のほかに、外科学会評議員だの、医師会関西地区評議員だのと、幾つもの肩書が名刺には並んでいた。
「どんなことです? イレズミの話といっても、いろいろありますが」
「風巻伝次という人を、ご存じですね?」
「ああ、知ってます。新聞に、死んだとか出てましたね」
相手は、やっと週刊誌記者の狙いが、のみこめたという顔をした。
「私のところでも、あの人の刺青を、消してくれといって来られた方が、幾人かいらっしゃいますよ……」
北川謙一は、〈ついている!〉と思った。なにげなく飛びこんだ病院で、こんな話が取材できることなど、めったにない。
「ほう? 何人ぐらいです?」
「三人か、四人でしょう。それというのも、あの人の彫り物には、特徴がありましてね」
「図柄ですか?」
「いや、それは客の注文ですから、どんなものだって彫ります。ただ、変った図柄というよりも、彫る技術に特徴があるんです。彫りが深いんですね」
「ははあ。では、それを消すには……」
「そう、大変ですな。皮膚を削ってとるだけではだめで、移植するんです」
「特徴は、それですか?」
院長は、とつぜん、ニヤリとした。
「うちに来られたお客さんは、ぜんぶ、女性ですよ」
「ええ? 女ですか!」
「ご婦人というものは、どうして、ああアサハカなんでしょうなあ。旦那ができた。絶対に別れない。よし、それでは証拠をみせろ……てなことで、腕の内側だとか、太腿なんかに、刺青を彫るんですねえ。本質的にサジストなのかも知れませんなあ、女性は……」
「なるほど、なるほど! すると、大半は玄人の女性ですね?」
「ええ、祇園の芸者もいますし、大阪のバーのマダムもいますよ。みな、水商売ですね。ところが旦那の方も、意地が悪い。わざと風巻伝次に彫らせる。彼の刺青は消えないという伝説があるのを、知ってるわけでしょう……」
北川謙一は〈大久保千代〉の内股に残っていた、蛙と蛇の奇妙な刺青を思いだした。彼女もまた、男に貞節を誓い、その証拠として風巻伝次の門を潜ったのでは、ないだろうか……。
「ところが、男と女の仲というものは、なかなか永続きはしませんね。男と別れ、次のパトロンを探すためには、刺青を消さなきゃならない……」
院長は、笑顔で椅子から立ち上ると、書棚からアルバムをもって来てみせた。イレズミの除去の、手術前と手術後の写真であった。
北川謙一は、思いついて、ポケットから例の写真をとりだした。
「こんな刺青をした女性を、みたことはありませんか?」
院長は、写真に目をあてていたが、首をふった。
「ありませんな。ただ、これと似たような刺青は、見たことがあります。ほほう……これは女性の、会陰部のすぐそばですなあ」
「似たような刺青といいますと?」
「よく判りませんが、これはたしか、組み彫りだと思いますよ」
「組み彫り?」
「つまり、一人だけでなく、二人以上の人間が、ある姿勢をとると、絵がつながるわけです。しかし、こんな奇妙な位置では、どうなんでしょうか……」
院長は、眼鏡の玉をみがいて、もう一度、写真を見つめていた。北川は、一礼をした。
「どうも有難う存じました……」
「いや、少しはお役に立ちましたかな?」
「とても参考になりました」
北川は微笑した。
刺青には、装飾的な意味ばかりでなく、江戸時代の罪人に課せられた刺青のような、変った働きがあることを知っただけでも、収穫である。
彼は朝がた、東京の西岡良吉と、電話で交換しあった情報のことを、思い出していた。
竹田と名乗っている、背の高い、縮れ毛の男も、たしか刺青があったという。
〈大久保千代は、その男の情婦だったのではないのか? それで、自分から離れなくさせるため、お互いに刺青を彫りあったのではないだろうか?〉
北川謙一は、なんとなく、そんな気がした。
――旅館に帰って、彼は、東京の編集部に電話を入れた。やはり西岡は、一〇七便でこちらへ着いているらしい。北川は、次長に刺青から、大久保千代の身許をわりだすことは、時間がかかりそうだと告げて、電話を切った。
編集長から申し渡された期限は、今日を含めて、あと六日間である。まごまごしてはおれない。
北川は、女中に電話帳をもって来させ、キャバレー〈ナポリ〉の電話番号を、調べはじめた。西岡が、姿をみせたのは、ちょうどその頃である――。
いつも見馴れている西岡だが、こんな旅先で顔を合わせると、やはり懐しい。北川は、微笑した。
西岡良吉は、旅行バッグを。畳の上にほうりだすと、彼の前に胡坐《あぐら》をかき、そして彼の膝をピシリと叩いた。
「いたッ!」と北川は叫んだ。
「おい、北さん! 凄いんだ!」
西岡の浅黒い顔は、わけもなく綻《ほころ》びている。
「なんだ。どうしたんだ?」
「凄いんだ、とにかく、俺は、ナゾを解いたぞ!」
「え? ナゾを解いたって?」
「なぜ、赤の他人の靴が、重富荘に残されていたか、というナゾさ!」
「ああ、あれか――」
北川は、床の間においてある、白のハイヒールの包みをみた。
「つまりだな、東田迪夫は――」
言いかけて西岡は、宿の女中が、まだ座敷にいるのに気づいたらしい。あわてて、口を噤《つぐ》んでしまった。北川は首をふって笑いだした。
三
神戸は、外国船が出入する、国際的な港町だけに、ふつうの都市とは違って、エキゾチックな情緒に溢れている。それはただ、外国船の船員が多く歩いているとか、歓楽街が多いとかいうのではなくて、この港町の歴史が、いつのまにか、そんなバタ臭さを身につけてしまったということだろう。
キャバレー〈ナポリ〉は、歓楽街の中心である三ノ宮のガード近くにあった。外国人の経営で、神戸では一、二を争う大きな店である。
地元の新聞記者の話では、裏では麻薬などの密輸品を扱っているらしいとのことだったが、真偽のほどは判らない。
開店前のキャバレーの入口では、ハダシになったボーイが、ホースで水を流しながら、玄関からフロアに続く大理石の床を洗っていた。
テーブルに、キャンドル式のスタンドが灯り、天井のシャンデリアに、七色のライトが旋回しはじめると、豪華な雰囲気が店内に充満しはじめるのであろうが、開店前の、テーブルと椅子がただ並んでいる姿は、暗い穴倉のような感じであった。空気も湿っぽく、うす汚れているようである。
支配人は、まだ出勤していなかった。北川と西岡は、相談して、待たせて貰うことにした。
店の中のフロアを中心に、馬蹄形にボックスが並び、正面にはショウの舞台がある。中二階を含めると、テーブルの数は三百もあるそうであった。
〈千人の美女・千円の料金〉という謳《うた》い文句で、サラリーマンにも人気がある店だときいていたが、あるいは千人ぐらいの女給がいるかも知れない。店の端から端を見渡すことはできても、テーブルの客の顔は識別できそうもないほどの広さである。
三十分ぐらい粘っていると、支配人はやってきた。指にカマボコ型の金の指輪をはめた、四十半ばの男であった。顔はニコニコしているが、眼だけは油断なく光らせているというタイプである。
北川が、来意を述べると、支配人は、二人の週刊誌記者を自分の室に案内した。
それは二階の、ちょうど舞台の右手にあった。左手は女給の更衣室らしい。三坪ぐらいの支配人室には、三方の壁にグラフが貼られ、統計がとられている。
女給の売上金だったり、出勤率だったりするのであろうが、二人には関心はなかった。
「竹田さゆり……ですね?」
黒い上衣をぬぎ、ワイシャツの袖をまくって、支配人は帳簿をしらべだした。昭和三十七年の給料支払簿には、その名は見当らなかったらしい。三十六年の古い帳簿を探しだして、頁をめくっていた支配人は、
「ああ、三十六年二月いっぱいで、店を辞めてます」
と言った。
「いつごろから、こちらへ勤めておられたんでしょうか?」
北川は言った。
「私が、この店へ来たのが昭和三十三年で……その年のクリスマスには、さゆりさんは、もう店にいましたからね。さあ、どの位いたんでしょうなあ」
支配人は、椅子に坐ると、肘かけに両手をおいて、二人を交互に見詰める。
「なにか、あったんですか?」
「いや、実は彼女の友達のことを知りたいんです。行方不明になったもんですからね」
西岡が、口をはさんだ。
「ほう、行方不明か。いま、流行ですな」
「竹田さゆりさんの、当時の住所は、わからないでしょうか?」
「わかりますよ?」
支配人は、先刻の名簿をみて、住所を教えてくれた。
「彼女、ここでは、ナンバーワンだったそうですが……」
「ええ、悪い方じゃなかったでしょうね。いつも、売上げでは、五本の指に入っていたと思います」
「どうして辞めたんです?」
支配人は、ニヤリとした。
「こんなところに勤めている女が、店を辞める理由は、かんたんですよ。引き抜かれるか、男に欺されるかです」
「欺される?」
「ええ、判り易くいうと、金とか、結婚という餌に目がくらむんですなあ」
「竹田さんの場合は……結婚ですね?」
「さあ、どうですか。とにかく私には、東京で店を開くといってましたが、手紙もないところをみると……」
支配人は、乾いた笑い声で、肩をゆすった。西岡は、A&Bのことを話そうとしたが、止めることにした。
「竹田さんの彼氏というのは、どんな人か判りませんか」
「さあ、私は、店を一歩外へ出たら最後、私生活には干渉しません。だから、どの男と寝ようが、誰と結婚しようが、お構いなしです。女から相談をうければ、別ですがね」
「では、ぜんぜん……」
「ええ、知りませんね。さゆりさんと仲の良かった子が、何人か残ってますよ、まだ。夜でも店に遊びに来て、聞かれてみるんですなあ」
「なんという人たちでしょう?」
北川は、ノートを構えた。
「仲のよかったのは、百合ちゃんだな。一番古いのでは、サクラさん……」
「お客の中で、シマダとか、シカタという人はいませんでしたか?」
「いるでしょうね。一晩に、何千人とお客が来るんだから……」
「いや、竹田さんの馴染みでですよ」
「さあ、判りませんな。いちいち、客に挨拶しませんからね、私は」
西岡は重ねてきいた。
「背は五尺八寸ぐらいで、縮れ毛……トニー・カーチスに似てます」
支配人は、ニヤニヤした。
「私だって、シャルル・ボワイエに似ていると言われてる。似た人間は、ごろごろいるもんだ。ねえ、そうでしょう?」
そういわれれば、支配人の顔立ちには、裏町に住む、貧相なボワイエのような感じがあった。北川は苦笑した。自分だって、アラン・ドロンに似ていると、言われているからである。
だが、こう突き離されては、どうにも手が出ない。二人は支配人から、これ以上なにも聞き出せないと悟った。
「どうも有難うございました。暗くなったら、店の方に伺いますからよろしく――」
北川は、如才なく挨拶した。〈裏町のボワイエ〉の顔は、はじめて嬉しそうに綻《ほころ》んだ。
「あ、そうだ……」西岡は、思いついて訊いてみた。
「お宅に、あけみさんという女の人、いませんでしたか?」
「いまでも、いますよ? いま、何代目のあけみか、忘れたが」
「いや、辞めた人です」
「私がここへ勤めたころ、辞めたのがいたなあ。小柄な子で、踊りの上手な女だったけれど……あれも、たしか、あけみという名でしたよ」
西岡は、〈小柄でダンス上手〉ときいて、胸を躍らせた。その弾む胸をおさえ、唾をのみ下しながら、彼は言った。
「なぜ、辞めたんです?」
「うん……あの子は、そう、結婚ですよ。どこかの船長と、結婚するといって辞めたんだったな。年が違いすぎるので、失敗するから止めろといったんだが……こんな水商売にはむかない子でね」
〈年が違いすぎる船長と結婚!〉
西岡は、首をひねった。あのナゾの男は、三十代だと、筒井秋子は話していたのである。彼は、落胆した。
「その次の、あけみさんは?」
彼は執拗に喰い下がった。支配人は、不機嫌に言った。
「もう堪忍してくれませんか。女の子たちにでも聞いて下さい。ただし、お店のテーブルでね」
二人は、階段を下りて玄関へ出ると、もう一度、がらんとした客席の方をみた。ボーイたちが、テーブルに白い布を手際よく掛けたり、椅子の位置をきめたりしていた。
歩きながら、北川謙一は話しかけてきた。待ち遠しいほど、その機会を待っていたような口調である。
「どう思う?」
「まだ、わからん!」
西岡は答えた。
「竹田さゆりの、この住所をあたってみるか?」
「そうした方がいいな。夜になったら、百合とサクラという女給に会おう……」
――二人は、タクシーで、三十六年二月ごろまで、竹田さゆりが住んでいたという、葺合《ふきあい》区のアパートを探して訪ねて行った。
山の中腹を切り拓いた住宅地で、なかなかわかりにくい所だった。二人は、夕陽を浴びながら、長い石の階段を下りたり、横丁の坂を昇ったりした。
〈六甲荘〉という名前も洒落れているが、建物も緑色の屋根で、しかも長屋式の小綺麗なアパートだった。
部屋は少いが、台所、水洗便所、風呂も完備していると思われる、家賃の高そうな独立式のアパートである。各戸の玄関には、標札が下っている。
管理人は、そのアパートから百米ほど離れたところに住んでいると教えられて、また二人は坂道をのぼって行った。
柿本耕造という名前の、頑固そうな老人が〈六甲荘〉の管理人である。縁側で、小鳥の餌を調合しているところへ、二人は庭先から入って行った。
「竹田さゆり? ああ、五号室にいた人やな。だいぶ前に引越して行ったがな」
「三十六年二月ですね?」
「うん。去年じゃった。寒いころやったさかい、その頃やろ」
「竹田さんは、ずっと独身で?」
「さあ、知らんわな。キャバレーに勤めてて独身ちゅう女子が、いまどき居るんかいな? みな、男がありよるわ」
「ご存じありませんか、こんな男――」
西岡は、雑誌のグラビヤを切り抜いた、外国俳優の顔写真を、相手に示した。
「外人かい?」
「いえ、日本人です。背が高く、縮れ毛だそうです」
柿本耕造は、両手を払って、その写真をためつすがめつ眺めていたが、
「うん、これと似とる。竹田さんの引越し荷物を、荷造りしてた男だわな」
と、言った。
「二人で東京へ引越して行ったんでしょうか? どこへ移ったか、判りますか」
「さあ、明渡しに立ち会って、敷金を返しただけやよって、よう判らんわ。でも、送り先はなんや新橋か、どこかの駅止めになっとったような気がするが」
老人は、摺り鉢の餌を、巣箱に配りはじめた。さまざまな小鳥を飼っていた。鳥の種類によって、餌の調合も違うのであろう。
「その……彼女の彼氏のことですが、なにか判りませんか? 職業とか、名前とか……」
「さあ、どうかのう。彼女は、なんとか、呼んでたな。忘れてもうたな……」
「シマダとか、シカタというんじゃ、ありませんか?」
老人は、小鳥カゴに手を載せて、考えこんだ。そして二人を、じろりと見た。
「シバちゃん。そうや、シバちゃん言うとったわな」
〈シバちゃん? 頭文字はSだ!〉
西岡は目を輝かせた。
「ただ、シバでしょうか?」
「さあ、知らんがな。こっちは、家賃をきちんきちん納めて貰えば、それでええ商売や。泊りにくる男の名前まで、聞かれへん!」
北川が、西岡の腕を引っぱった。老人の額に、不機嫌さを示すタテ皺が、くっきりと刻みこまれだしたからであった。
四
フロアでは、第一回のショウがはじまっていた。名前は知らないが、肌の白い外人のストリッパーが、妖しい微笑を暗い客席に投げながら、くねくねと体をくねらせている。
フロアの中央には、真紅の寝椅子がおかれ、紗を張った二枚屏風が、背景におかれていた。
ストリッパーは、踊りながら、身につけていたものを屏風に、ひとつひとつ掛けてゆき、ブラジャーと、パンティ姿になる。長い脚には、煽情的な黒のストッキングと、朱い靴下どめがついていた。
彼女は、その大胆な姿で、寝椅子に横になると、長いパイプをくわえて、煙草をくゆらせながら、客席に脚をひろげてみせたり、足をばたばたさせたりしている。
――客席は、沸き返っていた。
彼女は、体のこなしと、表情とで、誰かに靴下をぬがせてくれと、訴えかけているのである。
と、一人の下僕に扮した男の踊り手が現われた。そして、彼女の脚に接吻をする。
踊り手の下僕は、うやうやしく、彼女のハイヒールを脱がせにかかった。右を脱がせて、左にかかると、ストリッパーは、右足で男の肩をける。下僕は、大仰に倒れる。
ストリッパーが、また煽情的な仕種をするので、下僕は気をとり直し、左靴をぬがせにかかる……。
大体、こういったくり返しで、靴下から、ブラジャーまで剥ぎとって行くのだが、まるで白人から蔑視されていることを、露骨に示したショウのような、不愉快なシーンの連続だった。
だがこれも、港町ならばこそ、許されるのであろう。そういえば、客席には、外人も多いのである。
「くだらねえショウだな……」
北川謙一は、ささやいた。西岡は、黙ってビールを口に運んでいた。
二人の隣には、指名された〈百合〉と〈サクラ〉という源氏名の女給が坐っている。テーブルに着くや否や、ショウがはじまったので、なにも話を切り出すいとぐちがなかったのである。
……それから五分後に、ショウは終り、暗い客席は明るくなった。
北川の隣にいるサクラは、もしかしたら四十を越えているのかも知れない。若づくりな顔立ちだが、よく見ると、目の下に無数の小皺があった。
百合の方は、若いといっても、三十を一つか二つ越えているだろう。二人とも、この水商売には、年季が入っている様子で、客扱いは巧みだった。
「サユリちゃんのこと、聞きたいんだって?」
サクラが言った。北川は、〈姥桜《うばざくら》〉という単語を連想しながら、「うん」と頷いた。支配人が、話してあったらしい。
「あら、あけみちゃんのことじゃないの?」
百合は西岡に、ビールを注いだ。
「二人のことを聞きたいんだよ」
「どんなことが、聞きたい?」
「さあ、なにから聞こうかな」
北川と西岡とは、顔を見合わせた。すると、和服姿のサクラの方が、襟を直しながら、すまして言った。
「二人のことよりも、シバちゃんのこと、聞きたいんでしょ?」
西岡は、緊張した。小鳥の餌をやりながら、柿本老人が、「シバちゃん」と男の名を言っていたことが、明らかに脳裏に甦ってきたのである。
彼は、ズバリといった。
「そうだな。シバちゃんのことも、聞きたいな。彼女と、どんな工合に知りあったか」
サクラは驚いたような顔をした。
「あら。こちら、シバタさんをご存じ?」
「なんだ。シバタというのが本名なのか」
「そうよ。なにか、むずかしい名前」
「縮れ毛で、トニー・カーチスに似ているだろう」
北川が、口をはさんだ。二人の女は、うなずいた。
「そう、とてもいい男。あけみちゃんの最初の彼氏」
〈なに? あけみの彼氏だと?〉
西岡は、百合の顔を凝視した。心が躍っていた。体中が、嬉しさのあまり、震えて来そうであった。
〈わかったぞ! シバタというのが、男の名前だ。そして、やはり三角関係くさい!〉
正直にいうと、彼は、大声をあげて、キャバレー中を走り廻りたいような、衝動に駈られていた。
やっと、男の名がつかめたのだ。そして、漠然とだが、二人の女と、男との関係が、つかめそうなのである。
――ただ問題は、その〈あけみ〉という女が、殺された大久保千代であるか、どうかということだった。それを、たしかめねばならないと、西岡は思った。
北川謙一も、やはり同じ考えであるらしく、目を輝かせながら、しかし落着いた口調でサクラに話しかけている。
「しかし、あけみちゃん、そのシバタという男と結婚したんだろ?」
「ちがうわ」
「じゃァ、同棲か」
「ちがうのよ。あけみさんが結婚したのは、万年さんよ。五十八のお爺ちゃんの方……」
「万年さん?」
「ええ、あけみさん、万年船長の熱心さに負けて、結婚したの。でも、不幸な人よ。三年後に、行方不明になったんだって、旦那さんが――」
「なに、行方不明?」
「なんにも知らないのね、この人たち。いったい、なにを調べてるのよ」
二人の女給たちは、ある種の優越感を、顔にあらわしながら、得意そうに話しだした。
その打ち明け話は、北川や西岡が、期待している以上のものであった。事件の、微妙な核心に触れる、重要なポイントが、いくつかその中には隠されていたのである。
そして、顔かたち、背恰好などから、そのあけみという女が、死んだ大久保千代であると、確信を持てるようになったのは、大きな収穫である。
――四年前、あけみは、このキャバレーで女給をしていた。野村あけみというのが、本名だった。小柄ではあるが、温和しく愛想がいいので、彼女めあてに、通ってくる客も少くなかった。
堺市に住み、仕事で神戸にやってくる〈万年丸〉の船長、万年賢一郎も、そんなあけみの客の一人だった。
ところが、彼女には、やはり船の機関士で、新発田《しばた》六助という恋人がいた。新発田は美男子だけに、浮いた噂のたえない男で、それでもあけみは彼と別れられないでいた。
「シバちゃんは、なんていうんやろか、いわば床上手なのね。うまいのよ、テクニックが……。気が遠くなりそうだって、彼女、よくのろけて話してたわ」
百合は、そんな表現の仕方で、あけみが別れられなかった理由を、話してくれた。
しかし、万年賢一郎の方は、積極的に働きかけてくる。結婚して欲しいと、老船長は言ったのである。その言葉で、あけみの気が変った。
「風采のあがらない男だけどさ、船は持ってるし、自分の家もあるでしょ? だから、結婚する気になったのね。三十以上も、年が違ってて、父娘みたいな夫婦だけど、可愛がってくれたらしいわよ? でも、ときどき、シバちゃんとは附合ってたみたい……」
サクラは、そう言った。
結婚して三年後、万年船長は、〈万年丸〉が沈没して、それっきり行方不明となった。そして万年あけみは、寡婦となったのである。
このあけみと同じく、竹田さゆりの方も、この〈ナポリ〉の女給だったが、勤めはじめたのは彼女が辞めた年のクリスマスからである。従って、あけみとさゆりは、わずか半年の違いで同僚であったこともなく、お互いの顔も知らない筈であった。
ただ、顔を合わせる機会があったとすれば、それは新発田六助を通じてである。なぜなら、竹田さゆりに、この美男の機関士は、夢中だったのだ。
「さゆりの奴、ちょっと美人で、気位が高かったからね。たいていの男なら、のぼせてしまうわ。シバちゃんも、その一人よ……」
サクラは、意地悪そうな目つきになって、吐きだすように言った。すると百合が、羨ましそうに口をはさんだ。
「でも、望み通り、東京で店を出したらしいじゃないの」
「あら、ほんと?」
「そんな噂よ。銀座じゃないけど……」
「だって、シバちゃんに、そんな金があるわけないよ。大きなこと言ってるけど、クリスマスの券だって、一枚きり買わなかったよ、あいつ!」
「だから、パトロンがいるのよ。さゆりちゃんなら、二、三人の男ぐらい、平気で手玉にとるものね」
二人の女給の話しぶりから、竹田さゆりが同僚たちから、反感を買われる種類の女であったことが、よくわかった。そして新発田六助と、去年の三月はじめに、彼女が上京して行った事実も、キャッチできたのである。
西岡良吉は、神戸に飛んできて、つくづく良かったと思った。いくら東京を動き廻っても、身許が割れない道理である。
万年あけみは、それにしても、なぜ上京してから、〈大久保干代〉という変名を、名乗る必要があったのだろうか? これは、隠された黒いナゾの部分であった。
気前よく、二千円ずつのチップを握らせると、西岡は、ふと思いだして訊いた。帰りぎわである。
「それはそうと、あけみさん、刺青をしてたろ?」
「そんなことないわ。よく泳ぎに行ったり、風呂にも一緒に入ったけど、そのころは刺青なんか、してなかったわ」
百合は、強い口調で、否定した。キャバレーの客席は、また、暗くなりかかっていた。二度目のショウが、開かれるらしかった。
第八章 千七百万円の船火事
一
大阪地方は、朝から小雨だった。冬が間近に迫っているせいか、雨までが冷たく感じられる。
レインコートの襟を立てると、西岡良吉は、堺市役所の玄関口で、憂鬱そうに、鉛色のどんより垂れこめた空を見上げた。
彼はいま、市役所の戸籍課で、万年あけみの戸籍謄本を、交付してもらってきたところなのである。
〈いやな雨だな……。やっと仏の身許が、割れたばかりだというのに!〉
西岡は、煙草をくわえると、マッチを探した。今朝、神戸を発つと、彼はそのまま堺市にやって来たのである。北川謙一は、昨夜、キャバレーの女給たちから聞きだした、新発田六助という機関士を洗うために、同じように活動を開始している筈である。
タクシーの空車を待つつもりだったが、雨のせいか、なかなかやって来ない。西岡良吉は、複写した戸籍謄本をとりだして覗きこんだ。……それによると、彼女は、昭和七年に滋賀県彦根市で生れ、昭和三十三年五月に、堺市に住む万年賢一郎と結婚、入籍している。
そして万年賢一郎は、去年の一月末に、死亡していた。
その死亡の事由は、戸籍の記載では、次のようになっている。
『昭和参拾六年壱月弐拾九日時刻推定午前四時三十分、愛媛県越智郡弓削町沖で死亡。同居の親族万年あけみ届出。同年参月拾九日、弓削町長受付。同月弐拾九日、送付除籍』
人が死亡すると、戸籍法に定められた届出義務者が、死亡届を出すことになっている。だが、万年賢一郎の場合は、海難によって死亡したことは確実とみられるが、死体が発見されないという珍しいケースで、戸籍課の係員の話では、おそらく同乗の生存船員などの現認証明書、その他の証拠書類、物件などを添付して、死亡届をしたのだろうということであった。
係員は、〈ウイークリー・東京〉の愛読者だと笑って、日本の戸籍法では、行方不明となった場合に、どのような処理の方法があるかを教えてくれた。
万年賢一郎の場合だと、ふつう管区内の海上保安庁に調査を依頼し、行方不明者の親族から死亡認定の申出により、除籍されるのだそうであった。この場合には、除籍までに四カ月以上かかる。
そのほか、民法第三十条の、失踪の宣告にのっとる方法もあるが、これだと裁判確定まで死後七年の歳月が必要とされていた。
万年賢一郎の死亡届は、弓削町長が、法務局長の指示で、それを受理した形となっていて、これだと戸籍の抹消が、わずか二カ月ぐらいで行われるのであった。
〈なぜ、海上保安庁に届け出なかったのだろうか? 一刻も早く、戸籍から除く必要があったのだろうか?〉
西岡は、戸籍課員の言葉を思いだしながら、またそんなことを考えた。その疑問は、最初、なにげなく心の中に忍びこんできたのであるが、市役所の玄関で佇《たたず》んでいるうちに、次第に大きな波紋を描きはじめたのである。
ようやく客を乗せたタクシーが、市役所の前に乗りつけてきた。
西岡は、客と入れ違いに乗りこむと、万年賢一郎とあけみの夫婦が住んでいた、南田出井町一丁目の町名を告げた。
二人が暮していたのは、小さな門構えの平家で、木肌の感じからいうと、二、三年前に建てられたものらしい。もしかすると、老船長が、新妻のために、新築した家なのかも知れなかった。
そしてその家は、すでに人手に渡っていた。
近所の人々の噂だと、万年賢一郎氏は、〈万年丸〉という、木造だが八十五トンの機帆船を、所有していた。丙種船長の資格もあるから、自ら船長として、万年丸に乗り組み、瀬戸内海を中心に〈不定期船《トランパー》〉として、荷の運搬に従事していたのであろう。
西岡が面白かったのは、隣近所の主婦たちが、あけみが神戸でダンサーをしていたとか、万年船長が娘夫婦とケンカしてまで、彼女と再婚したとか、かなり立ち入った家庭の事情まで知っていたことである。
そして、ときどき、従兄だと称する人物が、船長の航海中に訪ねて来ていた、と耳寄りな情報も教えてくれた。
「その従兄という男は、背の高い、縮れ毛の男でしょう? トニー・カーチスに似ているんじゃないですか?」
西岡は、隣家の主婦にきいた。
少し反っ歯の、お饒舌《しやべり》らしい彼女は、待ってましたとばかりに、水を得た魚のように、しゃべりだした。
「そうですわ、そうですわ。外国航路の船員だとか、話してましたけど、なにが従兄なもんですかいな。その証拠に、万年さんが死なはって、初七日も済まんうちから、男はもう亭主気取りでっしゃろ?」
「ほほう、そうですか?」
「三日にあげず、訪ねて来ては、泊って行きますねン。まァ、万年さんとは、親子ほども年が違いますし。女盛りやから、無理もないと思うてましたけど、ちょっと酷《ひど》うおましたわな……ところが、どういう風の吹き廻しですやろ、三月になると、急にバッタリ男の姿が、見えんようになりましてん」
「去年の三月ですね?」
「へえ、そうだすわ。あけみはん、ヒステリー起しはって、欺された、口惜しいいうて、泣いとったの覚えてます……」
「彼から、捨てられたんですね?」
「そうでっしゃろ。女は馬鹿ですよって、いい男から、うまいこといわれると、コロリと欺されよりますわ」
隣の主婦は、嬉しそうに声をたてた。西岡は苦笑した。
でも、新発田六助が、老船長の留守中、人目を忍んで会いに来ていたという事実は、なにか重要なことのような気がする。あけみは結婚後も、かつての恋人を思い切れず、交渉を持っていたのだ……。
それは彼女の方から求めたのか、新発田の方からいい寄ったのかは判らない。ただ、二人の糸が切れずに繋がっていたという事実の方が、重大なのだった。
万年賢一郎が死亡したのは、一月二十九日の明け方に、船火事が発生したことが、直接の原因らしい。老齢の船長は、自分の唯一の財産である〈万年丸〉が、火災を起したことで気が動顛したのか、あるいは消し止めようとしている中に煙に巻かれるかして、殉職したのだという話である。
海上保安庁は、二日間も海上を捜索したが、遂に万年賢一郎の死体を発見できなかったということだった。
〈男に欺された、と万年あけみは、ヒステリーを起して泣いていたというが、一体なにを欺されたのだろうか?〉
〈二月いっぱい、亭主気取りで入り浸っていた新発田六助は、なぜ、三月になると姿を消したのか?〉
西岡良吉は、考えこんだ。
万年船長の死亡後、新発田が、あけみの家と、竹田さゆりのアパートとを、色男ぶって往復していたのだということは、想像がつく。
あけみは彼に夢中だったが、男の方の本心は、竹田さゆりに移っていたのではないか。
〈新発田は、あけみを利用して、なにかを企んでいたのではなかろうか?〉
彼は、渋谷道玄坂の、バー〈A&B〉を思いだしながら、ある確信をもって、男が求めていたのは〈金〉だ、と推理した。
〈そうだ、家だ!〉
西岡は、隣家の主婦に、あけみが家を売ったときの模様について質問した。相手は、不審そうな表情をつくって、
「その家のことですねン。借地ですさかいに、まァ建物だけの値段でっけど、どう安く踏んでも二百万円以上しますわなあ。ところが、高利貸の担保に入れてあったとかで、あけみさんの手許に残ったんは、たったの六十五万円やいうてました……」
「ほう? 六十五万円!」
「あけみさん、その金を持って、家財道具は古道具屋に叩き売って、さっと東京へ行かはりましてん。さばさばした人やな、と、うちのお父ちゃんも感心してはりましたわ!」
彼は、首をふった。
家は、抵当に入っていた。〈不定期船〉だから、収入の少ない月もあったのであろう。老船長は多分、惚れて結婚した妻に、金の苦労をさせたくないと思い、こっそり高利貸から金策して貰っていたのではないだろうか。
〈彼女が、M銀行上野支店に、預金していたのは、この家を売った代金だったんだな……。だが、新発田六助は、家を売った金が目的ではなかったのか?〉
お礼をいって、外に出た西岡は、雨に濡れながらタクシーを探して歩きだした。
結婚後も、情夫と別れられなかった女。
老船長は、妻の不貞に、気づいていなかったのであろうか。
彼は、俄かにぎくりとして、立ち停った。小雨が、彼の頭や、顔を濡らしている。
〈忘れていた! 生命保険だ!〉
西岡は、雨の中を走って、引き返しはじめた。彼は、戸籍の抹消が、素人とは思われない、一番早い方法で行われていることを、記憶に甦らせたのである。
……だが、その思いつきも、どうやら失敗だった。万年賢一郎は、大の生命保険ぎらいで、いくらあけみが口を酸っぱく奨めても、頑として加入していなかった模様なのである。
西岡は、失望した。多額の保険金でもかけてあって、新発田という恋人は、受取人であるべき彼女をだまして、その金を横領したのではないか――と空想していたからだった。
二
無情にも雨は、ますます激しくなりはじめていた。堺港は、その雨のために、霧にでも包まれたように、けぶって見えた。
〈あと四日だな!〉
船員組合と船主協会の合同事務所を出ながら、西岡良吉は、かすかに苛立っている自分に気づいていた。
取材は軌道に乗り、まァ順調といってよい程度に、進行している。だが、この事件を洗いはじめてから、わかったことは、万年あけみという女の身許だけのような、あとは底知れぬ闇に包まれているような、そんな頼りない気持に陥《おちい》るのである。
それは、取材中によく感じる、共通した不安ではあった。たえず締切日に追われているからでもあろう。そしてこんどは、中薗編集長から、七日という期限を切られている……。
彼の心の中に潜む焦燥感は、こんな悠長な調査の方法で、あの銀行員の無罪を、はたして立証できるかと、囁き続けるのであった。
〈仕方ないじゃないか。とにかく、調べるより方法はないんだ〉
と、西岡は思った。
新発田六助という人物については、北川謙一が、同じように神戸港の近くを歩き廻って、調べている筈である。
万年あけみと、彼の関係がわかり、また上京した経緯もだいたい判明している。あとは東京に戻って、誰が、なんの目的で、どんな方法で彼女を殺したかを、調査すればよいだけであった。
だがしかし、西岡はやはり、万年あけみが隣家の主婦に、「欺された、口惜しい」と言っていたという、その点にこだわっているのであった。新発田六助が、なにを欺したのか、それが知りたいのだ。
生命保険もかけていない。家を売った代金も、彼女の預金通帳に入っている。
ただ、結婚しようという約束を反古にして男が他の女と駈け落ち同様に姿を消したとしても、水商売の経験のある彼女が、それほど口惜しがるとは思えない。
まして家まで整理して、男を追いかけて上京するとは、考えられない。
従って、そこには、もう一つ理由があるのではないかと思うのである。人間は、複雑な感情をもった動物だった。決して、単純ではない。
よく新聞記事などでも、失恋でガス自殺などと、簡単に理由づけてあるが、失恋だけで自殺する人間は少い。生活苦だの、失業だの、病気だのと、いくつかの原因が重なって、その人間に死を選ばせてゆくのである。
西岡良吉は、〈欺された〉という理由を知りたいのだった。それが判れば、なぜ彼女が殺されねばならなかったかも、判ってくるのではないか……。
事務所の人が、電話で呼んでくれたタクシーが間もなくやって来た。それに乗って、彼は、
「大阪へやってくれ。木津川のそばだけど」
と、元気のない声でいった。
気がついてみると、彼は朝から、なにも食べていないのであった。
彼が、これから行こうと考えているのは、〈万年丸〉の機関長だったという、清水計之助という人物の自宅である。
船員組合の人の話では、万年船長とは、十年来のコンビだということだったので、なにか耳寄りなニュースでも聞きだせるかと考えたのであった。
以前は、堺市に住んでいて、さいきん大正区の三軒家浜通に引越した清水計之助の家を、探しだすのは容易な仕事ではない。
なんでも自動車学校の近くだということだったが、番地も不正確で、しかも標札が出ていないのだった。区役所の出張所へ行っても、転入届が出されていない始末で、西岡良吉は、タクシーを捨てて探して歩いたため、すっかり濡れネズミのようになってしまった。
空腹と疲労とが、彼を虐《さいな》んだが、西岡は意地でも探しあてる決心をしていた。
交番を訊いて廻った挙句、やっと清水計之助の引越し先は見つかったが、それはすぐ隣の町で、三軒家町二丁目だった。
西岡は知らなかったのだが、この界隈には似たような町名の地域が、入り組んでいるのである。
くたびれた玄関の戸をあけて、案内を乞うと、夕餉の支度なのか、奥の方から、油揚を焼く香ばしい匂いが、彼の鼻につーんと漂ってきた。とたんにお腹が、グゥーッと鳴って、彼は顔をしかめた。
清水元機関長は、幸い在宅中であった。
神経痛の持病があるとかで、赤銅色の皮膚をもった、いかにも船乗りらしい清水計之助は、足を投げだして、手でさすりさすりしながら、なんども彼の名刺に目を当てている。
「へえ、船長はんのことで、わざわざ、東京から来られはったんだっか……」
元機関長は、頭を嬉しそうに下げ続けた。
〈万年丸〉の沈没以来、船乗り稼業から、足を洗ったのだそうである。息子夫婦と、いっしょに暮しているとのことだが、家計は苦しそうであった。
清水計之助は、純朴そうな五十男で、問われるままに、万年船長のことや、結婚のいきさつを語ってくれた。
ただ、取材していると、よく経験することであるが、肝心の質問にはズバリと答えず、ながながと遠廻りして語りはじめる人間がいる。清水計之助も、そんな言語迂回症の傾向をもった人物だった。
空腹のため、お腹は鳴りつづける。それを我慢しようとして、西岡は生唾をのみ、タバコをふかすのだが、相手の話が、だらだらと際限のない、自分の身の上話に発展しそうなので、彼はひどくイライラした。
彼はなんども、相手の話の腰を折って、そのたびに新しい質問の矢を放った。しかし、そんな努力を重ねても、万年賢一郎・あけみの夫妻について、元機関長が知っているのは、堺市の隣家の主婦の知識と、どっこいどっこいであったのだ……。
西岡良吉は、内心、舌打ちをした。が、顔には出さず、新しく煙草をつける。
「それで……最後にですね」
「へえ、なんだんねン」
「万年船長の亡くなられたときと申しますか……遭難されたときの模様を、お伺いしたいんですが」
彼のその言葉をきくと、元機関長は、悲しそうに首をふった。話せない、という意味らしい。西岡は、かすかに緊張した。
「話して頂けませんか?」
「それが、だめだんね。わし……あの時に限って、乗ってえしまへん」
「ええ? 本当ですか!」
「へえ、ほんまだす。わしが行ってたら、あんな火事など、起してまへんわ。あの若僧が……船長を殺したも同然だす」
「若僧?」
「へえ、新発田六助いう男だすわ。三十五、六だっしゃろな。二等機関士の免状をもっとる、インテリやとか、万年はんは言うてはりましたけど……」
……西岡良吉は、元機関長の言葉を、聞いていなかった。胸が、張り裂けんばかりに、大きく膨み上って、頭の中では、七色の虹のようなものが、嵐のように吹き荒れている感じである。
〈新発田六助!〉
〈あのナゾの男が、万年丸沈没のときには、乗船していた!〉
〈万年丸の沈没と、老船長の死とは、決して偶然ではないのではないか? これは、計画された、犯行ではなかったのか……〉
彼は、体中が、ぞくぞくと震えるような気持がしていた。清水機関長の言葉は、事実、そんなショックを与えるほどの、重大な意味をもっていたのである。
「なぜ、あなたの代りに、新発田が乗ったんです?」
西岡はきいた。
「さあ、事情はよく判らんのだすわ。万年船長は、ただ、〈なにも言わんと、今度だけ船を下りてんか。頼む……〉と、まあ、こない言うとりました。それでわしも、なんぞわけがあるんやろ思うて、承知したんでっけど……しかし、まさか船火事おこすとはなあ」
「今度だけ、船を下りてくれ?」
「そうだすわ。船乗り仲間にゃ、その一言で、話が通るようになってまんね。次の航海は、休んでくれということだす」
元機関長は、二等機関士の新発田には、港で一度会ったことがあるだけだった。もちろん住所も知らない。
西岡は、〈万年丸〉の乗組員たちの、住所と氏名を聞いたが、事件後、一年以上も経っているので、消息はわからないということであった。同じ船に乗り組んでいるときは、お互いに連絡がとれるようになっている。が、母船が沈むと、はなればなれになるのは、人情として当然なのかも知れない。
「そうだ……清水さんは、風巻伝次という男を知ってますか?」
現金なもので、いつしか西岡は、空腹を忘れていた。
「ああ、神戸の刺青師だっしゃろ」
「ご存じなんですね?」
機関長は、苦笑めいた表情となった。
「知ってますわ」
「万年船長は、どうです?」
「わしが教えたんですねン。どうか、したんでっか?」
「奥さんのあけみさんに、刺青があったのをご存じでしょうか?」
「へえ。船長は、なんせ、六十に手が届く老人でっしゃろ? それで、奥さんが逃げやせんかと、それをいちばん、怖がっとったんだすわ……」
「なるほど……」
「それで、二度と他の男と、なにでけんように、刺青をさせたいといわれますさかいに……風巻先生を紹介したんだす」
西岡良吉は、うなずいた。
自分の余生のすべてを賭けて、結婚した年若い妻。その妻に、いつか自分は捨てられるのではないか、という不安は、老船長の心の中に、絶えず巣喰っていたのだ……。
あるいは、自分の航海中に、妻が男を引き入れているのを、本能的に嗅ぎとっていたのかも知れない。
〈妻を誰にも渡したくない〉という欲望は、恥部のすぐ傍に、刺青を彫るという形で、現われたのだ。
……西岡は、老船長の心情を思い、そしてその愛情を平然と裏切っていた、あけみという女にある怒りを覚えた。
「堺町の家は、なんでも抵当に入っていたそうですねえ?」
「抵当に? そんなこと、おまへんやろ」
「どうしてです? 売り払ったとき、借金をさし引いたら、六十五万円しか残らなかったそうですよ?」
「可怪しいな。船長の一番きらいなもんは、借金と生命保険だした。家を担保に、金を借りるくらいなら、和歌山のミカン山でも、売って金つくるんと違いまっか?」
「ミカン山?」
「へえ、娘さん名義になっとるそうでっけどな。毎年、五百貫くらい穫れるいうてはりましたで」
木津川べりの清水計之助の家を出たときには、日が暮れていた。雨は、小降りになっていたが、彼は、空腹も疲労も忘れて、ただ、がむしゃらに歩きはじめている。寒さは感じなかった。
〈なぜ万年船長は、遭難した航海に限って、新発田を乗船させたのだろう? 妻あけみの情夫と、知らなかったのか?〉
〈そして船火事は、偶然の事故だったのだろうか?〉
西岡は、不意に、ある怯えを感じて、歩調をゆるめた。そして、レインコートの襟のあたりを、掌で強く拭った。
もしかしたら、万年賢一郎は、妻の情夫と知っていて、殺害するために乗船させたのではないか――。彼が、ぎくりとしたのは、その発想が、心の中に黒い怯えの粉を、まきちらしたからである。
〈そして、老船長は、逆に殺された……。その証拠を湮滅《いんめつ》するために、新発田六助は、万年丸に放火した……〉
三
旅館の窓からは、神戸港の風景が、手にとるように展望できた。沖のあたりに、白い船体の外国船が浮いている。
昨日の、いやな雨は、嘘のように晴れ上っていた。
新しいワイシャツに着替え、ネクタイを結んだ恰好のまま、北川謙一は、濡れたズボンがプレスされて、届けられてくるのを待っている。
西岡良吉は、まだ食卓の前に坐って、熱いお茶をすすっていた。朝刊に読みふけっているのである。
新聞は、風変りな刺青師だった風巻伝次の死因は、事故死だと見られていたが、彼が高浜岸壁で突き落されるのを、目撃した二人の高校生が現われたことから、他殺事件として捜査が開始された――と報じてあった。
それは夜十時ごろだったが、高校生たちはモーターボートに乗って、海上にいた。そして岸壁から、一人の男が突き落されるのを、ボートから目撃したのである。
夜遅かったが、舟遊びができる位だから、海の水は冷たいといっても、心臓麻痺を起すほどではない。高校生たちは、ケンカかなにかだろうと思って、安心していた。まさか中風病みの老人だとは知らなかったのである。
高浜岸壁は、川崎造船所と中突堤との、ほぼ中間に位置しており、鉄道の操車場のあるところだった。昼間はとも角、夜は人通りのない淋しい場所である。
〈万年あけみの刺青は、老船長の独占欲を象徴していた……。そして、風巻伝次の作品だった……。あけみは、この刺青について、新発田六助に語ったに違いない……〉
〈警察では、まだ彼女の身許を割っていないらしいが……この刺青師の殺害事件は、万年あけみの死と関連がないのだろうか?〉
西岡は、ごしごしと頭の中を掻いた。雪のように、白いフケが食卓に散っている。
「おい、西やん! 支度しろよ」
「ああ、そうする」
「今日は、忙しいぞ……。あと三日だからなあ!」
「あと三日と十六時間だ。そうがつがつするなよ」
「だって昨日おれは、一日を無駄につぶしてしまってる!」
北川謙一は、面目なさそうだった。
彼は、新発田六助という船員のことを、港を歩き廻って調べたのだが、二等機関士の免許をもち、本籍地が九州の熊本県で、六年前ごろ、長田区にある市民グランドの近所に住んでいたことぐらいしか、調べだせなかったのである。
新発田は、予想していた以上の女蕩《たら》しで、ほとんど定った住所を持たず、航海から帰ると、女の家を泊り歩く趣味だったという。外国航路の船員と称していたが、その実は、フィリッピンと日本を往復する定期貨物船であった。それも、身持ちの悪いせいか、間もなくクビになり、鉱石船や、タンカーなどに、仕事をみつけては乗りこんでいたらしい。
「まあ、いいじゃないか。新発田六助が、殺人ぐらいやりかねない男だと、わかっただけでも大きな収穫だよ……」
「しかし、名前も職業もわかっているのに、だらしのない話さ!」
「長いあいだには、いろんなことがあるものさ。今日はとにかく、万年丸を調べようよ。なにか、どうも納得できないものが、いくつもあるような気がするんだ……」
「そうだな。なぜ、新発田が乗り込んでいたのか――」
「船火事は、俺は、万年賢一郎を行方不明に仕立てるために、つまり、犯行を隠蔽《いんぺい》する目的で、やったと思うなあ」
「だったら、他の乗組員は? みな、犯行を知ってながら、沈黙しているのか?」
「さあ。買収したのか、共犯者に仕立てられているのかだろうよ。それでみな、黙っている。口裏を合わせてるんだ」
「俺……弓削町まで行ってみようか? あのあたりの海上保安庁は、どこの管轄になるんだろうな」
「よせ、よせ。弓削町といったって、尾道の沖にある島なんだぜ。因島の隣にある、小さな島なんだ……」
「なんだ離れ小島なのか!」
「とにかく、清水機関長の話では、万年賢一郎は生命保険と借金は嫌いだったが、万年丸に船舶保険はかけていたそうだ。俺は、この保険が怪しいと思うよ……」
「うん……。なにか他に理由が、もう一つあるな。万年あけみが、欺されたとヒスを起して上京したり、家が抵当に入っていたり……」
「問題は、新発田六助さ。あけみが死んでしまった以上、彼がなぜ万年丸に乗り組んだか、その理由を知っている人間は、彼以外にはないからなあ……」
女中が、二人の背広を持って、部屋に入ってきた。西岡良吉は、食卓の上にあった一枚の写真を、あわてて裏返した。それは、北川謙一が、新発田の友人だった男から、借りてきた写真だった。
女蕩しの機関士は、ダンス狂で、かつて地元の新聞社が主催したコンクールで、万年あけみと組んで出場し、二等に入賞していたのである。写真には、背の高い新発田と、それに寄り添って抱かれているあけみの晴れ姿とが、焼き付けられていたのだった。
旅館の勘定をすませて、二人は国電で、大阪に出た。そして地下鉄で難波まで行き、南海電車に乗った。
――行き先は、堺港にある船主協会堺支部である。
ここに行けば、〈万年丸〉が、どれくらいの船舶保険に加入していたのか、わかるのであった。
ところが、西岡の見込みは狂っていた。
たしかに万年丸は、日本木船相互保険組合に加入しており、その金額は六百万円であったが、まだ受取人の名義変更も、行われていないのである。
船体のみならず船の機関、器具、燃料など、船が航行するに必要な一切のものに、かけられるのが船舶保険であった。
その保険は、衝突とか、座礁とか、火災などといった海難で、船舶が蒙った損害に対して、支払われるのである。〈万年丸〉の場合は、全損なので、保険金額は、まるまる支払いを受けることになる。
「万年さんの奥さんは、名義変更すれば、保険金の支払いがうけられることを、ご存じなかったんでしょうな。そうですか、亡くなられたんですか……」
と、支部長は、たんたんとした口調であった。西岡は、受取人がなく、宙に浮いている六百万の保険金の処分のことが、ちょっと気になった。
〈六百万の保険金が、そのままだった!〉
二人の週刊誌記者は、顔を見合わせた。こうなると、やはり万年あけみと新発田六助とが、共謀して、二人の結婚のために万年船長を殺害したとしか、考えられない。その結婚の約束を破った上に、他の女と逃げたので、あけみは赫怒《かくど》したのであろう……。
「そのう……船火事になったときの模様が、知りたいんですけどね。どうしたらいいんでしょう? 万年丸の乗組員だった人たちの、行方もわからないし……」
北川謙一は言った。
「待って下さいよ……。海難報告書の写しが、あったと思います」
しかし、支部長と書記の青年が、いっしょうけんめいに探してくれたが、保険の略式精算書だとか、損害協定書が出てきただけで、海難報告書は見つからなかった。
二人が、がっかりしたような顔になると、支部長は同情したのか、ふと思いだしたように言った。
「そうだ、そうだ。御堂筋の、大阪火災海上に行ってごらんなさい。あそこには、なにか資料がありますよ。たしか、積荷の保険のことで、査定課の人が、聞きに来たりしてましたからね」
「大阪火災海上ですね?」
「ええ。なんでも万年丸は、ステンレスを積んでましてね」
「ほう? それでは、沈み易かったわけですねえ」
西岡は、元気のない冗談を言った。生命保険、船舶保険と、みなアテがはずれたので、彼は落胆していたのである。
来たときと同じように、電車と地下鉄を利用して、二人は淀屋橋に下りた。御堂筋を、保険会社を探して歩きながら、西岡も北川も、口を利かなかった。
〈大阪火災海上〉は、ガスビルの近くの四つ角のビルだった。六階建の、ジュラルミンで銀色に構成されている、変ったビルである。
「おい、どうする?」
北川謙一は言った。彼はおそらく、万年丸の海難の内容を調査しても、また無駄になるのではないかと、言いたいのであろう。
時間が限られているだけに、こうして二人で並んで歩いていることも、苛立たしいのであった。
「やはり、調べてみよう。今日一日、動いてみて、だめだったら、東京へ帰ろう……」
「そうするか?」
「うん。乗りかかった船さ!」
西岡は、唇の端を、ちょっとばかり舐《な》めるようにして笑った。
彼の性分であった。少しでも、事件にひっかかりがあると知った以上、どこまでも首をつっこんで、追及してみないと気がすまないのである。
むだ足になるかも知れないと、彼は内心では思っている。しかし、その銀色の、キラキラと秋晴れの空に輝いているビルの建物をみたとき、自分の意志ではどうにもならない、一種の執念の糸のようなものが、西岡良吉を惹《ひ》きつけたのであった。
受付で、海難関係の資料を閲覧させて欲しいというと、三階の海上査定課へ行ってみてくれと、教えられた。
課長に面会を求め、来意をのべると、相手は小さく頷いて、すぐ近くにいた部下を手招きした。
「桑垣係長!」
「はい……」
係長は、太いロイド眼鏡をかけた、武者人形のように髭の濃い男だった。肥えているが、キビキビした動作が、なにか頼母しさを感じさせる。
「この方たち……〈万年丸〉の海難報告書をみたいんだそうだ」
「はあ、なるほど」
「きみが、どうも臭い、臭いといってたのを思いだしてね。ちょうどいい機会だから、説明してあげてくれないか……」
「わかりました」
桑垣は、そう答えると、二人に名刺をさしだしながら、
「なにか、あったんですね?」
と、低い声で言った。
「いや、なにも――ただ、万年丸の船長の奥さんが、殺されただけですよ」
相手は、きらッと目を光らせたが、一礼すると、どうぞと言った。そして課をでると、エレベーターの方に、二人を案内して行った。
海難報告書を含めた、万年丸の関係書類は、六階の資料室に保存してあった。それは一冊のファイルに、分厚く綴じこめられてある。
それを抱えて、二人が待っているテーブルのところに戻ってくると、桑垣係長は、それを手にしたままソファーに腰を落した。
「……実はですね」
「はあ」
「課長がいっていたように、私ははじめから、この万年丸は臭い、と思ってたんです」
「臭い、といいますと?」
「火災を起した理由ですよ」
「やはり放火だと、おっしゃるわけですね」
「じゃあ、ないかな、と思ってます。しかし、私も査定に歩いたんですが、なかなか証拠がつかめませんでね」
「証拠? 船長を殺した証拠ですか」
係長は、小さな苦笑を浮かべて、太いロイド眼鏡を、指先でぐいと押し上げた。
「船長とは関係ありませんよ、うちは損害保険の会社ですから――」
「すると、なんの証拠です?」
「わかりませんか? 積荷に、保険がかかっていたんです。お蔭で、千七百万円がとこ、いかれてしまいましたわ!」
「ええッ、千七百万円!」
二人の週刊誌記者は、唖然となって、同時に叫んでいた――。
四
海運局に提出された〈海難報告書〉によると、万年丸は、去年の一月二十九日未明に遭難していた。
万年丸は、船籍堺市、九十二馬力の発動機をもつ、沿海に従業する総トン数八十五トンの機帆船である。
船舶所有者と、船長とは、同一人の万年賢一郎であった。そして遭難時の機関長は、二等機関士の新発田六助である。住所は、六年前の、神戸市長田区の住所が書かれてあった。
〈事件のてん末〉という欄には、おそらく報告者の新発田の書体と思われる文字が、ぎっしり並んでいた。右肩上りの、くせのある書体である。
『本船は昭和丗六年一月二十一日、大阪港においてステンレス厚板・松山向け四十トン、大分向け三十トン、合計七十トンを積載し、同日十九時ごろ、同港を出発、二十三時ごろ、機関修理のため、神戸港に入港した。一月二十六日、機関修理を完了したので、二十七日出港、松山港にむかったが、途中、船員補充交替のため、香川県高松港に同日十九時ごろ入港した。船員整備の上、二十八日二十時ごろ、仕向地松山港に向かった。
翌二十九日三時十分ごろ、愛媛県越智郡弓削町沖南東約三マイル附近を航行中、本船機関長が、備付の手提ランプにより、機関運転見廻り中、足をすべらせて転倒し、所持した手提ランプが、機関室床上に倒れ、運わるく附近にあった使用済みウエスに着火し、燃え上った。
機関長は、すぐに大声をあげて、仮眠中の他の乗組員に知らせたが、機関騒音のため、操舵室には聞えなかった。やむなく手近の、新しいウエス類で叩き消そうとしたが及ばず、消火器も使用したが、燃えひろがるので、機関長はエンジンを停止の上、機関室外に脱出して、助けを求めた。船長以下、全乗組員の協力により、注水消火にあたったが、火勢はますます拡大する一方であった。
三時五十分ごろ、エアタンク、燃料タンクなどの爆発の危険を感じたので、船長の退船命令により、一同伝馬船に移乗せんとした。ところが、燃料タンクの油管が切損し、船内に重油が流れて、火は全船内に廻り、伝馬船を下ろすと同時に、一同は海に飛びこんだ。
四時十分ごろ、附近航行中の汽船大宝丸が来援、万年船長をのぞく本船乗組員は救助されたが、船長の姿は見えなかった。そこで、船長を捜索する一方、一部の本船乗組員も協力して、同船のポンプで消火作業に努めたが、同日四時三十分、沈没した。
万年船長の捜索は、同日夕刻まで、海上保安庁、弓削町消防団、その他の暖かい救援によって続けられたが、船長の着衣、靴などが発見されたのみで、遺体を発見するに及ばなかったのは、残念である。思うに、船長は、伝馬船の移乗を命じた直後、貴重品をとりに引き返し、火に包まれて、老齢のため脱出できず死亡せしものと推定される。救助された五名の乗組員を代表して、故船長の冥福を祈りたい。
出火当時、天候はくもりで、南南西の風、風力三位であった。今次、遭難にあたり、前記大宝丸ほか、船名不詳の漁船、および弓削町消防団、海上保安庁の、熱烈な救援をうけたことを深く感謝する。
上記の通り、報告する』
――その報告書の古めかしさは、ふと、西部不動産の店主の手紙を、西岡良吉に連想させた。
要するに、万年丸は大阪港で、ステンレスの厚板七十トンを積み、松山・大分の二港に向かう途中――弓削島沖で、火災を起して沈没したというのである。
「いかがです? 火災発生の模様は、おわかりになりますか」
桑垣係長は、微笑しながら二人を見くらべている。
「ええ、大体はわかりました。しかし、少し訳のわからない所がありますな」
「そうでしょう?」
相手は、意を得たりとばかり、大きく頷いて、右手をぐいとつき出して、指を折った。
「まずですな。私が不審に思ったのは、一時間半たらずで、沈没していることです。まァ水の上のことだから、世間の人は、船火事は少しも怖くないと思ってるようですが、これほど恐ろしい物はない。あんまり水をかけると、つまり注水すると、船が浮力を失ってしまうんです……」
「なるほど、なるほど」
「船火事の原因は、積み荷からの発火によるものが多いんですな。引火しやすい油とか、石炭の自然発火。綿類の場合には、梱包してある鉄のバンドが触れあって、発火したりするんです。しかし、この万年丸の場合は、あきらかに機関長の過失です」
「ええ。誤って足をすべらし、石油ランプを床に落したという点も、怪しいですね」
「先ず、発火してから、沈むまでの時間が短いこと。過失で火災が発生していること……」
「ははあ……」
二人は、いつしかメモ・ノートに、鉛筆を走らせはじめている。
「その次に、不審に思ったのは、大阪を出てからエンジン修理と称して、神戸港に六日間、それから船員の交替を、高松港で行ったことです」
「ええ、私もエンジン修理にしては、えらい長逗留だな、と思いましたよ」
北川謙一も、相鎚を打った。桑垣は、またロイド眼鏡を、指先で押し上げる仕種をしてから、声をひそめて今度は上半身を乗りだした。
「もう一つ……この点が、私のいちばん気に食わなんだことなんですがね。事故が起きて、保険金の請求があり、それから私どもの査定の仕事がはじまるわけですけど……問題は、この万年丸の沈没した位置です」
「といいますと?」
「瀬戸内海でも珍しく、水深六十米以上の場所なんですよ……」
「それは、どういうことですか。説明して下さい」
「つまりですな。うちだって、少い掛け金でまるまる保険金を支払うのは損ですから、たとえば積み荷のいくらかでも回収したいわけです。この万年丸の場合、十八クロームのステンレスです。俗に、ベースものと呼んでいる厚板ですな」
「ははあ……」
「トン当り二十四、五万円の相場ですから、七十トンのステンレスは、千七百万円前後です。保険金額としては、妥当ですね」
「なるほど、なるほど」
「ステンレスですから、海水に浸っているとしても、引き揚げれば、一千万円ぐらいは回収できる。サルベージするんです」
「それが、できなかったんですね?」
「ええ、その通り。水深六十米もあると、サルベージ代金の方が高くつくんです。ですから、不可能に近いということでしょう?」
「わかりました。すると、火災の原因、沈没地点、沈没に要した時間……エンジン修理と船員の交替と、五つの疑わしい点があるわけですね」
「そうですなあ」
桑垣は、武者人形のようなヒゲ面を、ゆっくり撫で廻した。
海上保険というものは、紀元前四百年ごろ、地中海の商人のあいだに誕生した〈冒険貸借制度〉を母胎として、発展したといわれている。
当時は、造船技術が進歩してなかった上に、海賊も跳梁《ちようりよう》していたので、荷を海上運送することは、一種の冒険であった。従って、荷主や船主は、金主から金を借り、航海中に災難にあったときは金を返却しない。その代り無事に着いたときは、高利をそえて借入金を返す……という制度を考えだした。
それが、現在のような船舶、貨物、運賃といった海上保険制度となったわけである。
〈大阪火災海上〉を保険者として、万年丸の貨物に保険を契約したのは、ステンレス七十トンの出荷主である〈日の丸物産〉という商事会社であった。つまり被保険者は、日の丸物産である。
……このような海難が発生すると、保険会社に対して、契約者から〈事故通知〉が行われる。そこで、その通知によって、担当の海上査定課員が、調査にのりだし、損害の支払い金額を査定することになるのだが、それはふつう、次の三点にしぼられる。
事故発生が、保険契約申込みの後であるか、どうか。
事故の原因は、なにか? 故意や、過失ではなかったか。
相手側の要求金額と損害程度には、値開きがないか。――貨物保険は、家屋や船舶などと違って、その航海のつど、契約される一時保険である。
たとえば百万円の貨物に、二百万の保険をかけていても、調査の結果、百万の値打ちしかないとわかれば、半金しか支払われないのが損害保険の特徴である。また安く保険をかけていたら、そのレートで支払金額も差し引かれる仕組みだった。
「私どもとしては、かなり怪しいと睨みまして……つまり保険金詐欺ではないか、と考えたわけです。ですから、ぎりぎりの期限まで、時間をかけて調査しました」
桑垣は、口惜しそうに言った。
「ぎりぎりの期限とは?」
「ご存じないんですか? 保険金というものは、通常、契約者から保険金支払いの請求があった日から、一カ月以内に支払う義務があるんですよ、会社には……」
「えッ、一カ月?」
西岡良吉は、ぎくッとして叫んだ。
彼は、新発田六助が、万年あけみの家に、二月中入り浸っていたという話を、俄かに記憶から甦らせたのである。
〈一カ月! 新発田は、密かに、その保険金を、待っていたのではないのか?〉
西岡は、額や頸筋に、急に噴き出てきた汗を手の甲で拭うと、勢いこんで言った。
「その千七百万の保険金は、誰に支払ったんですか?」
「本件の場合は、実際には受荷主に所有権があったんですが、委任状を出させて、出荷主の日の丸物産に支払いました」
「新発田という機関長は、関係ないんですか?」
「さあ……多分、日の丸物産とは、関係ないでしょう。この会社とは、何年か前から保険契約を結んでおりますし、まァ信用のできる会社なんです。ですから、まさか、とも思ったんですが、怪しければ調査するのが、われわれ査定マンの仕事で……これは仕方ないんですが……」
西岡は、首を傾《かし》げた。
新発田六助が、この千七百万円の保険金が目的でないとすると、どうも狙いが崩れてくるのであった。
〈いや、そんな筈はない! なにか、大金をつかんでいる! 不動産屋の話では、那須の土地を一万坪も契約したとか、いっていた。それに渋谷道玄坂に、高級なバーを買いとっている!〉
〈しかし、日の丸物産に対して、保険金は支払われたという。それなのに、関係のない新発田が、大金を所有していた……〉
いらいらしながら、西岡良吉は、そのファイルの査定報告書の頁をくった。
「私の調査では、最初のカンとは違って、なにも不審な点は、出て来なかったのですよ。残念ながら……」
「どんな調査をなさるのですか?」
「先ず出荷主である日の丸物産が、本当に受荷主と商取引しているか、どうか。ステンレス七十トンを、どこから買い、大阪港にどうして運搬したか。そして船積みをした倉庫会社はどこか……」
「ははあ。かなり厳格な調査ですね」
「それは当然ですよ。わずかな保険金と引き換えに、千七百万もの大金を支払うんですからね。鑑定人《サーベヤ》にも当りましたし、今治海上保安部、海運局、万年丸の乗組員から、救援した大宝丸の船長……。会った人間は、三十人以上にもなるでしょう」
桑垣係長は、その当時のことを思い出したのか、瞼《まぶた》をなんどか瞬《またた》かせている。西岡も北川も、自分たちとよく似た仕事だな、と感心していた。
「それで……結局、怪しい点はないんですね?」
「ということです。海運局の、レッキとした海難証明書はあり、五名の乗組員の証言にも、喰い違いはありませんしね。それに日の丸物産から提出された証拠書類も、事実を裏づける立派なものでした」
「ははあ……」
「もっとも、私が首を傾げたのは、なにもかも、きちんと書類や証拠が、揃いすぎていたからでもあるのですよ」
「揃いすぎていた?」
「ええ。ふつうの会社の業務ですと、仕事の馴れから、必ず書類の手落ちがあるものですよ。そうじゃないですか?」
「そんなことも多いでしょうな」
北川謙一は、相手をおだてるような口を利いた。
「ところが、この一件には、運送店の送り状に対して発行した、受取証まで添付してあるんですよ。ふつう、運送店の送り状に、受取りを出しますか? 向こうの帳面に、ハンコを捺して済ませる位が、常識なんですけれどね」
「ははあ……」
西岡良吉は、また目を輝かせた。
……なにかが、匂ってくるのだった。たしかに、なにかが匂ってくる。
それは犯罪の匂いだった。しかも、知能犯罪の、歯車と歯車のかみあったような、精緻な機械のような犯罪の匂いである。
「しかし、一カ月はすぐ経ちました。万年丸の場合は全損ですから、千七百万円を支払ったわけです」
「それは、いつですか?」
「この受取証をみると、三月二日になっていますね」
竹田さゆりが、キャバレーを辞め、六甲荘を引き払ったのが、たしか二月末である。
西岡は、ある確信に、到達していた。
〈間違いない!〉
彼は、北川謙一に、めくばせしながら、心の中で強く叫んでいた。
〈千七百万円の保険と、新発田六助は、なにか関連性をもっている!〉
しかし、千七百万のステンレス七十トンを購入したのでは、保険金の支払いをうけても、トントンとなる。つまり、なにひとつ利益は生れないのだ……。
西岡良吉は、そのことに思いあたって、強く眉をひそめた。黒い雲に似た新しい疑惑が、またしても胸の中に拡がりはじめた。それはあたかも、万年丸の船火事のように、どす黒い煙と、朱い焔を混じえながら、彼の胸の中で燃え熾《さか》るのであった――。
第九章 す り か え
一
梅田新道の交叉点は、相変らず、車、車、車の波であった。十月も下旬だというのに、今日の陽ざしは、初夏のそれのような烈しさである。
北川と西岡は、その交叉点の角にある喫茶店に入って、奥まったボックスに席をとっていた。
「俺は、どうも千七百万円が、臭いと思うんだが……」
アイスコーヒーを注文したあとで、北川謙一は言った。
「ああ、そうだ。たしかに怪しい。しかし、保険金の受取人は、日の丸物産だぜ?」
「だからさ、新発田は、日の丸物産から、船を沈めてくれと、頼まれてたのさ……」
「なんの目的でだい?」
「わからん奴だなあ。もちろん、保険金サギさ!」
「すると積荷は? 七十トンのステンレスの厚板は、どうなるんだい……」
「そこだよ! 万年丸は、神戸港に、エンジン修理と称して、六日間も碇泊している。ここに秘密がありゃしないかな?」
「すると北さんはだ……」
「うん」
「大阪では、たしかに積込んだが、神戸で荷を下ろした。そして、空っぽのまま火をつけて沈めたと……」
「違うかな? エンジンの修理って、そんなに日数を食うものかい?」
「さあ、それは判らん」
「とにかく、神戸港における万年丸の行動を、調べてみる必要があるな」
「よし、わかった。北さん……悪いけど、神戸港を洗ってくれるか?」
「よっしゃ!」
「おれは、日の丸物産から、糸をたぐって行ってみるよ……」
「すると落ち合う場所は?」
「神戸の、あの旅館でいいじゃァないか」
「しまったな。それじゃァ清算するんじゃなかった。荷物を、大阪駅のロッカーに預けたりして、損したなあ」
北川謙一は、額に垂れた髪の毛を、指先でかき上げていたが、冷たい褐色の液体を、ストローで一気に吸い上げた。
「じゃァ、行くぜ!」
「ああ、俺も一緒に出る」
西岡は、コップに口をつけて、咽喉を鳴らした。
二人は、梅田新道の交叉点で、右と左にわかれた。西岡は、ちょうど通りかかったタクシーに手をあげ、走って追いつくと、
「江戸堀にやってくれ」
と、行先を告げた。
〈日の丸物産〉は、土佐堀川にほど近い、四丁目のビルの二階に事務所をもっていたのである。社員は、全部で七、八名ぐらいであった。商事会社としては、規模も小さい方であろう。
西岡良吉は、正攻法は、ちょっと不安な気もしたが、時間が切迫しているので、正面から体当りで行く肚を決めていた。
社長の山崎浩市は、痘痕《あばた》のある、バセドー氏病のように、病的に出目金の男だった。四十七、八というところであろう。大阪弁を使っているが、生れは、大阪とは違う感じだった。
「ははあ……万年丸のことですか。それをなぜ、〈ウイークリー・東京〉さんが、こと新しゅう記事にしやはるんだっしゃろな」
相手は、あきらかに警戒する目の色である。
「実はですね……この沈没のとき、万年船長は行方不明になってますね」
「へえ、そうだんね。積荷は沈むわ、船長の死体は消えるわ、なんやこう……けったくその悪いこってすわ。お蔭で、去年から、うちの会社は曲ってまんね」
西岡は、微笑した。
「ところが……一年あまりの後、こんどは船長夫人が殺されたんですよ。ご存じですか?」
「いえ、初耳ですわ!」
「なにか因縁があるのではないか。万年丸の祟りじゃないか、と思いましてね……。それで面白い話でも聞けたらと思って、お伺いしたわけです」
彼は、意識してニコニコ顔をつくった。でも山崎は、警戒の瞳の色を崩さなかった。
「私の会社が、関係がある……つまり、荷主だということを、どこで聞かはったんだっか?」
「誰だと思います?」
「そんなこと、知りますかいな! 誰だす。どこの誰に、聞きよりました」
「シバちゃんですよ」
西岡は、ずばりと言った。
相手の瞳の色に、あるなにかが動いた。とっさの判断に迷っている目である。
「お忘れですか」
「シバちゃん……。聞いたこと、おまへんなあ」
「ご存じありませんかね。縮れ毛の……背の高い美男子、新発田六助氏ですよ」
山崎社長は、しばらく口を利かずに、逡巡しながら彼を凝視していた。が、やっと心を決めたらしく、硬い表情のまま、
「聞いたような名前やが……覚えてまへんなあ」
と、とってつけたように答えた。
〈嘘だ! 貴様は隠している!〉
西岡は、直感的にそう思ったが、おくびにも出さず、素直にうなずいてみせた。
「そうですか……。本人は、山崎さんをよくご存じのような口吻でしたけども、思い違いなんでしょうね。それで……たしかお宅は、万年丸が沈んで損をされたんでしたね」
「へえ……。まァ、保険をかけとったさかいに、先方の受荷主には、迷惑かけんとすみましたわ。この時ばかりは、保険の有難味が、よう判りましたわな」
「保険をかけてあったんですか?」
「もちろんです。それよりも……その新発田たらいう男、ちょっと気になりますのやが、なにしてはる人でっか?」
「万年丸の機関長だったんじゃァ、ないんですか?」
「ええ? 本人が、そういってまっか!」
「ええ。そう話してましたよ?」
西岡は、心の中で快哉を叫んでいた。語るに落ちるとは、このことである。だが、日の丸物産社長は、その失言に気づいていないのであった。
「ほいで……いま、なにしてまんね?」
「東京にいます」
「東京……。やっぱり、東京やったか。そうでっか……」
「おや、ご存じだったんですね?」
西岡は皮肉をいった。相手は、かるく狼狽した。
「いや、その……万年丸の機関長といわれましたさかいに、思い出したんですわ」
「ああ、なるほど!」
「東京で、なにしてますねん」
「大きなバーを経営したり、郊外の土地に投資したり、大変な勢いですよ……。凄い財産家の御曹司なんだそうですね」
彼は、反応をためすために、わざとそんな風な言い方をした。どういうわけか、山崎浩市の口調には、新発田六助の現況を知りたがる気配が、濃厚に感じられたからである。
案の定、相手は口惜しそうな、腹立たしそうな表情をした。なぜか、理由は西岡にもわからない。だが、なにか事情があることは推測できた。
「どうか、したんですか?」
「いや、なんでもありまへん。財産家の息子やと聞いて、驚いただけだす。ただ、それだけですわ」
「ちょっと心配しましたよ……」
西岡は微笑すると、もっともらしく、メモ・ノートをとりだした。
「万年丸が沈没したというニュースを聞いたとき、社長さんは、どこにいらっしゃいました?」
「ここですわ。会社だす」
「現地には、行かれましたか?」
「いいえ、行かなんだんですわ」
「保険を全額かけておられたのは、なにか沈むような予感がしたからですね?」
「いや、商慣習に従っただけのことだす」
「では、まさか沈むとは――」
「へえ、そうだんね」
「そうですか。それでは因縁話も、できそうにありませんなあ」
西岡良吉は、メモ・ノートを納って、立ち上った。慌てて、社長は言った。
「あのう……新発田の現住所、ご存じやったら、お教え願えまへんやろか」
「なぜです、社長さん?」
彼は、逆襲した。満を持して引きしぼっていた攻撃の矢を、いまこそ放った感じであった。
「なぜって、その……いろいろ、昔話もしとうなりまっしゃろ?」
「へえ。昔話ですか!」
「それに、ここだけの話でっけどな。ちょっと貸しがおまんね」
「貸しが?」
「いや、小さな金だすけどな」
西岡は、坐り直した。
「社長さん。あなたは、嘘をついてますね」
「な、なに言うてんねン!」
「隠したって、駄目ですよ。新発田と、なにかあるんじゃないですか?」
「あんさん、言うてええことと、悪いこととおまっせ! ご存じやろけど、な」
「まあ、いい。そのうち警察が、お宅にもやって来ますよ……」
「警察?」
山崎浩市は、はじめて愕然となった。顔色から血の気が退き、痘痕《あばた》だけが茶色に浮き上っている。出目の大きな眼球は、瞠《みひら》かれたまんまだった。
「新発田六助は、殺人容疑で、指名手配中です。万年丸の船長夫人を殺害した容疑なんですよ……」
「そ、そ、それは、本当だっか!」
息を呑むより、声を何度も呑むような、苦しそうな言葉の吐きだし方だった。
「では、失礼します」
「あのう……」
よろよろと相手は立ち上り、社員たちの視線に気づいたのか、やっと唾をのみ下して威厳をとり繕《つくろ》うと、社長は低い声で言った。
「あのう……夕食でも、どうだっしゃろ」
「結構です。しかし、なにかお話しされたいことがあったら、今夜八時ごろに、ここに電話下さい」
西岡良吉は、ポケットから、神戸の旅館のマッチをとり出して、テーブルの上にゆっくり置いた。
二
西岡も、そして恐らく北川もそうであろうが、彼らは、海上運送という仕事が、実は単純のように見えて、複雑な機構下にあることを、こんどの取材ではじめて知ったのである。
たとえば、万年丸の場合を、例にとろう。
〈日の丸物産〉は、松山市の受荷主である松浪産業と、大分市の和泉鋼材に対して、十八クロームの厚板《ベース》もの(キロ当り二百四十円)の、それぞれ四十トン、三十トンの売買契約を結んだ。
ステンレスは、大手の五大メーカーで、ほぼ独占的に生産され、五社によって販売価格が協定されていた。そして厚板は、三尺に六尺の大きさであり、一|梱包《こんぽう》は半トンと定められてある。
〈日の丸物産〉は商事会社だから、売買する製品のすべてを、自社で保有しているわけではない。当然、どこからか仕入れて、相手に売るわけだ。
こんどの場合、仕入れ先は、西成区の鉄鋼問屋である〈西鋼〉であった。
〈西鋼〉では、契約の手付金と、三カ月後の手形を受取ると同時に、大阪港の埠頭《ふとう》にある〈いろは倉庫〉に、ステンレス七十トンを運搬している。この運搬にあたったのは、〈西鋼〉の下請けをしている、〈武田梱包運輸〉という会社だった。
〈いろは倉庫〉に保管されているステンレスを、万年丸に積みこむのは、乙仲とよばれる沖仲仕たちの仕事で、この労働者たちは廻漕店に所属しているのだから、ややこしい。
一方、〈万年丸〉の方は、〈日の丸物産〉に対し積荷をいくらで運ぶと、運賃の契約をして、その海上運送を引き受けている。運賃は、前払いが常識だった。
……そこで、出荷主である〈日の丸物産〉は、〈大阪火災海上〉と、ステンレス七十トンの海上保険契約を結ぶ。そして保険料の払込みと同時に契約書は、発行されるのであった。
図式にすると簡単だが、沿海輸送でも、これぐらいの手間がかかるのだから、外国貿易ともなると大変だろう。貿易が複雑なことは、想像できるが、二人の週刊誌記者は、国内でも、それほど幾多の関門を潜り抜けねばならないとは、考え及びもしなかったのである。そして、これは勉強になった。
江戸堀通四丁目の、日の丸物産を出てから、西岡良吉は、保険会社の集めた証拠書類に従って、西成区にある〈西鋼〉を訪ね、運送会社から倉庫会社、そして廻漕店……という風に四軒の会社を歴訪した。
そしてそれは、海上査定課の、ヒゲの濃い桑垣係長が述懐していたように、完璧なものだと知ったのであった。
たとえば鉄鋼問屋の帳簿には、手付金百五十万円の入金、三カ月期限の支払手形が明瞭に記載されてあり、出荷伝票、倉庫会社の入庫の日時、量とも、狂いはないのである。
これによって、西岡良吉は、一つの断定を下さねばならなかった。
〈少くとも、大阪港で積み込まれるまで、ステンレス七十トンは、実在していた〉と――。
すると問題は、やはりエンジン修理という名目で、六日間も碇泊していた神戸港に、潜んでいると言わねばならぬ。
暗くなった大阪港に佇みながら、西岡良吉は、ある失望と同時に、またもや焦燥惑に駈られるのだった。
「あと二日か!」
彼は、中薗編集長と、次長の白石の顔を思い描きながら、口に出して呟いた。
途方もなく廻り道をつづけてきたような、苛立たしさが彼の躰を虐《さいな》みはじめている。
頭の片隅では、写真の中で、万年あけみを抱き、誇らしげに笑っている新発田六助の、映画スターのような整った顔立ちが、浮かんでは消え、浮かんでは消えしている。
〈なにか、悪事を働いている筈だ……。俺はきっと、貴様のシッポをつかんでやる! 万年あけみを殺したのは、貴様だという証拠をみつけ出してやるぞ!〉
西岡良吉は、冷たい潮風が、夜の黒い化粧と共に襲ってくるのを知って、小さなくしゃみを一つした。そして歩きだした。
――神戸の旅館に着いたのは、夜七時をすぎていた。北川謙一は、まだ帰ってなかった。風呂に入り、夕食をすませても、北川は帰って来ない。
季節には少し早い、青い皮の蜜柑を、西岡が剥いて口に運んでいるとき、旅館の女中が来客を告げてきた。
「お客さんだって?」
西岡は驚いた。だが、相手の名前を聞くまでもなく、客は、女中の背後に立って、一礼しているのだった。
「やあ。あなたでしたか!」
――客は、〈日の丸物産〉の山崎社長だったのである。
「失礼して、よろしゅうおますか」
山崎は、昼間とは、打って変って、丁寧な口を利いた。
「どうぞ、どうぞ!」
西岡良吉は、この痘痕面の商事会社の社長が、昼間彼がかませたハッタリに、ひどく怯え切っているのを看て取っている。
「電話しようと思うてたんですけど、家が近くですさかいに、寄せて貰うたんだす」
山崎は、熱いお絞りを、瞼の上におしあてて、何度か眼球を、手でもむような仕種をしている。
「なにか、ご用でしたか?」
彼は、煙草の火をつけた。
「へえ、さいでんがな。……昼間のお話ですと、なんでも新発田は、殺人容疑で指名手配中やとか……」
「ああ、そのことですか!」
「あれ……ほんまでっしゃろか」
「指名手配は、少しオーバーですが、逃亡すれば近く、そうなるでしょうね。警察では、いま、証拠を集めるために、犯人を泳がしているわけです……」
「やっぱり、万年丸のことだすか?」
「らしいですね」
冷たく西岡は言った。山崎社長は、ふうーッと溜息をつき、考えこんでいる。彼は、山崎が、なにか情報を探り出すためというより、自分と新発田の関係について、弁明に来たのだということを、ぼんやりまさぐりとっていた。
「実はですな……昼間、ちょっと新発田に貸しがあると言いましたがあれのことでんね。そのことで、伺ったんだす」
「ははあ……」
「新発田は、私と同じ熊本県の天草の生れですねン」
「なるほど。同郷ですね」
「そんな関係で、ときどき会社にも、遊びに来よりました。というても、年に一度か、二度でっけど」
「ははあ」
「それが……そう、たしか一昨年の暮ごろやったと思います。韓国と密貿易したら儲かるそうやから、一つ協力して欲しいと、こない言うて来よりましたんや」
山崎浩市は、額ににじみ出た薄い汗を、色もののハンカチで拭った。
……その〈日の丸物産〉の社長の告白は、ある意味で、西岡には面白かった。というのは、新発田六助の、綿密な計画力というか、知能犯ぶりが、手にとるように感じられるからであった。
新発田六助は、韓国に売れば、ステンレスの厚板が、キロ当り三百五十円に売れるのだと言い、取引きは対馬で行われるから、なに一つ不安はないと計画を説明した。山崎社長は、彼が船員であるところから、この計画に疑問を持たなかったという。
社長が乗り気だと見てとると、二等機関士は言った。
「あとで密貿易だとばれて、〈日の丸物産〉が送り荷主だとわかると、うるさいですからね。適当な売り先を教えて下さい。そこで積荷をおろしたように、工作しときます。……ですから、私が、〈日の丸物産〉の名義を借りて、商売したと考えて貰ったら、いいんです。もちろん、〈名義料〉は、利益の半分をさし上げます。一トン当り六万円の名義料なら、悪くないでしょう……」
数日後、新発田は、ステンレス七十トンを購入する手付金だと称して、百五十万円を現金で持参した。
「この百五十万の金みたときに、私は相手が本気だと悟ったんだす。それでつい、信用したんだすな」
山崎浩市は、苦笑して述懐した。
〈日の丸物産〉から、松山市の松浪産業、大分市の和泉鋼材に、取引契約が結ばれたように工作される一方、正規のルートでステンレス七十トンは、〈万年丸〉に積み込まれた。
山崎社長は、問屋の〈西鋼〉に、三カ月の約束手形を切っているので、念を押しがてら大阪港へ行き、その積み込みに立ち会っている。
「ほう。では、間違いなく、ステンレスは積み込まれていたんですね?」
「さいだすわ。間違いおまへん。そやけど……あないに立派な、保険金をかけとるとは、知りませんでしたわな。新発田が、念のため、自分で払い込む言うとったさかいに、あまり気にもしとらなかったような始末で――」
「待って下さい」
西岡は、慌てて言った。
「保険をかけたのは、あなたではなく、新発田なんですね?」
「そらァ〈日の丸物産〉の名義を貸してますさかいに、うちの会社の名目になってまっけどな。かけたのは、新発田だす」
「なるほど。するとやっぱり、彼は保険金が目的だったんだ……」
彼は、大きく合点をした。
自分の周囲が、俄かに明るくなり、事件の全貌というか、からくりが俯瞰《ふかん》できたような気持である。胸は、ゆっくり弾みはじめていた。
「こっちは密貿易やとばかり思ってたさかいに、船が沈没しよったと聞いて、ビックリしたんだす。まず、手形のことが、気になって気になって……」
西岡良吉は、ヒザを乗りだした。
「すると新発田は、こない言いよりますねン。船長が死によったさかいに、生命保険金が七百万円入る。船舶保険が六百万ある。それに船長の堺の家が二、三百万に売れるさかい、千五百万の借金は払えるよって、二カ月ほど待ってんか。弓削島の役場に、死亡届を出したさかい……と、こない言いよりました」
「ははあ」
「わしかて、子供やおまへん。新発田のいうことが、ほんまか、どうかを確かめに、堺市の船長の家に行きよりました」
「それは、いつごろです?」
「二月のはじめ……そうや、節分すぎでしたわ。訪ねて行ってみると、新発田のやつ、船長の奥さんやったという三十ぐらいのオナゴと、夫婦気どりですわ。そしてオナゴも、『シバちゃんが迷惑かけて済みません。家を売った金と保険金とで、必ずお金は返しますから……』と、こない神妙に言いますよって、手形は三カ月先やし……まァ、安心して帰って来たんだす」
「なるほど。すると、それっきりだったわけですね?」
「へえ……それから一カ月ぐらい経って、新発田がやって来よりました。そして、雀の涙ほどの貨物保険金が入るさかいに、ハンコ持って大阪火災海上へ来て欲しいと、言うんだす」
「雀の涙ですか、千七百万円が!」
「いや、そんな大金をかけとるとは、私も知らなんだよって、経理の女の子に、ハンコ持たせて一緒に行かせたんや……。あんな嘘つきやと知ってたら、もう!」
山崎社長は、当時の腹立たしさが蘇《よみがえ》ってきたのか、歯軋りするように、低く吐き捨てた。
経理の女の子は、応接室に待たされていた。そのあいだに新発田六助は、〈日の丸物産〉の社員になりすまし、保険金額の支払いをうけたのであろう。十分ほどで、応接室にやってきた新発田は、二百万円の札束と印鑑とを、ついて来た女の子に手渡した。そして自分で領収書をかき、そこに命じて印鑑を捺させると、
「山崎さんに、よろしく言って下さい。二、三日中に、また会社に行きますから――」
と、微笑しながら立ち去っていった。
経理の女の子は、彼が手に、旅行用のスーツケースを持っているので、不審には思ったが、さほど怪しまず会社に帰り、札束を社長に見せたのだった。
「なかなか誠意のある男や。やっぱり、同県人やと思うたほど、私はそのとき感激したんだすが、エビで鯛を釣りよったんですなあ……」
歯痒《はがゆ》そうに、〈日の丸物産〉の社長は、大きな舌打ちの音を響かせた。
その舌打ちが合図でもあるかのように、女中が大きな足音をさせて、階段を昇ってきた。そして、金切り声で叫んだ。
「東京のお客さん! 大変です。お連れさんが、血だらけで戻らはって!」
西岡良吉は、飛び上った。北川謙一が、大怪我をして戻って来たというのである。
女中の言葉は、嘘ではなかった。
上衣をなくし、ワイシャツやズボンを血と泥とで、どろどろに汚した北川謙一が、タクシーの運転手に助けられながら、宿の玄関にふらふらと這入って来て、そのまま昏倒したのであった。
唇が裂けて、大きく膨れている。鼻には青い痣《あざ》ができ、額や頬に、血がこびりついていた。そして青黒く顔全体が腫れ上っていた。
大勢の人間に、殴打された模様である。
「なにを愚図々々しとる! 医者だ、医者だ!」
西岡は、傷の原因を、訝《いぶ》かしみながら、大声で叫んでいた。
三
――傷の症状は、外科医に言わせると、大したことはなかった。唇の中が切れ、顔や肩が打撲傷のため、内出血しているということだった。
「一晩中、冷やすんですな。そうしたら、明日の夕刻までには、腫れが引きます」
医者は、手当をすませると、さっさと帰って行った。
口の中の傷や、唇の腫れのためか、北川謙一は痛そうに顔をしかめて、寝たまま、
「すまんな……」
と、西岡に詫びを言った。
その北川の左の瞼は、山崎社長に負けぬほど、青黒く膨れている。北川は、見知らぬ男の客のことを、気兼ねしているのだった。
「こちら……日の丸物産の、山崎社長さんなんだ。やっぱり、新発田六助の狙いは、保険金サギだったぞ!」
西岡は、傷のため、別人のようになった友人の顔をのぞきこんだ。山崎も、話の途中で怪我人がかつぎこまれたせいか、わずかに興奮している様子で、立ち去らないで座敷に坐っている。
「ちがう……だろ……」
北川は、顔をしかめて、首をふった。
「なにが違うんだ。山崎さんが、ちゃんと証言してる。千七百万円のうち、二百万だけ社長さんに渡したが、そのままドロンしてるんだぞ?」
「ふーん?」
北川は、起き上ろうとして、小さく呻いた。そして、枕に頭をつけると、指を二本だした。
「なんだ、それは?」
「ふたつ、やってる。保険と、荷の、すりかえだ……」
唇の腫れのせいか、声がくぐもって、〈ホケン〉というのが、どうしても〈オケン〉と聞えるので、西岡はなんども聞き返した。
じれったくなったのか、北川は、紙とエンピツを呉れといい、それに、
『サギ二件・保険金と、貨物のすり替え』
と書いて示した。
「貨物のすり替え?」
西岡は、反射的に〈日の丸物産〉社長の、痘痕面を見詰めた。
「社長さん。荷物は、たしかステンレスでしたね?」
「さいでんがな。私が、ちゃんと立ち会ってます。……そのステンレスが、すり替ったとでも、言やはったんだっか?」
「そうらしいんです」
北川謙一は、またメモしはじめた。
二人は、両側から、そのメモを覗きこんだ。そして信じられない瞳の色になって行ったのである。
北川は、西岡と梅田新道で別れてから、すぐ国電で神戸港へ行った。新発田六助を探すために、一日を棒にふった苦い経験のある神戸港だけに、彼は張り切って取材にかかった。
神戸港には、現在、十一本の突堤がある。
大型船舶の繋留能力は、五十五隻。港内の碇泊能力は六百隻以上と、いわれていた。
その岸壁の延長は、一〇、九四三米。立ちならぶ埠頭の倉庫だけでも、三一一棟もあって、国際港にふさわしい雄大な規模をもっていた。
しかし、内国航路の場合には、利用されるのは、中突堤にメリケン波止場とよばれる限られた部分である。
――北川謙一は、〈万年丸〉がエンジン修理のため入港したのは、この中突堤か、メリケン波止場であるとにらみ、先ず港の小さな修理工場を歩き廻って、
「去年一月二十一日から二十六日のあいだに、〈万年丸〉という機帆船の、エンジンを修理したことはありませんか?」
と、訊いて廻った。
すると、神戸市場の近くで、焼玉エンジンを専門に扱っている〈詫摩造船所〉の職工が、その事実を思いだしてくれた。
「ああ、万年丸なら知ってる。火事で、沈んだ船だろ?」
と、その職工は言った。
修理を手がけて、数日後に、沈没したという小さな新聞記事を読んだので、深く印象づけられていたらしい。北川謙一は、元気づいて質問した。
「その万年丸ですけどね……修理に行ったときは、いつごろです?」
職工は、手の油をボロ布で拭いとりながら、考えこんでいたが、
「たしか、二度行ったな」
と、組立中のエンジンを見ながら呟いた。
「二度ですか? すると、本当に故障だったんですね?」
「いや、最初に行ったときは、荷の積みかえで、陸揚げしとる最中だったもんで……二日後に来てくれと、断られたんだったよ、たしか――」
「陸揚げしてる最中?」
「ああ。小栗海運の小頭をしてる寅さんが、仕事の邪魔だって言うもんだからね。それで俺、むくれて帰って来た」
「小栗海運の寅さんですね?」
「ああ、沖仲仕の小頭だ。気の荒い連中だから、こっちも黙って帰って来たけど……荷揚げの邪魔になるだなんて、聞いたこともないよ。こっちは、エンジンを修理すりゃァいいんだろ?」
〈詫摩造船所〉を出た北川は、その足で波止場町にある〈小栗海運〉を訪ねた。
ところが、帳簿をみて調べてもらうと、去年の一月下旬に、万年丸の荷揚げや、船積みを請負ったことはないという返事である。
「変ですね。エンジンの修理に来た、造船所の職工は、寅さんという小頭が、仕事の指揮をしていたと言ってましたよ?」
廻漕店の若い専務は、小さく舌打ちした。
「寅のやつ、その頃からアルバイトをしてやがったんだな!」
北川謙一は、さっそくその言葉尻に、食いついた。
「アルバイトと申しますと?」
「沖仲仕どもが、倉庫会社と船とに直接交渉して、会社を通さずに、内職するんですよ。酒手欲しさにね」
「なるほど。すると倉庫会社は、どこでしょうか?」
若い専務は、「さあ」と首をひねった。
「うちで働いている寅というのは、篠田寅吉という男ですがね。よく〈おわか倉庫〉のあたりで、油を売ってます。本人に、直接、きいてみたらどうですか……」
詫摩造船所を探しだし、次の小栗海運の事務所を出るころには、もう日が沈みかかっていた。
北川謙一はその足で、教えられた〈おわか倉庫〉を、訪ねた。
幸い、徹夜で船積みの仕事でもあるのか、倉庫の屋根から、探照燈のようなスポットが幾筋もの光を地面に放ち、真昼のように明るかった。独特の服装をした沖仲仕たちが、倉庫の近くにむらがっている。
彼は、その中で、手に帳簿のようなものを持って、人員をチェックしている人物に、目をつけた。倉庫会社の主任クラスの男と、判断したからである。
倉庫へ入ってゆくそのジャンパーの三十男を呼びとめて、北川は名刺をさしだした。そして去年一月末のことを、丁寧にきいてみた。
「万年丸ね? さあ、記憶はないが……倉庫の帳簿で調べてみますか?」
「お願いします!」
彼は、頭を下げた。
倉庫の中の事務所は、中二階のような位置にあった。だだっぴろい倉庫には、梱包された機械類だの、巨大な丸鋸《まるのこ》だの、鋼材だのが積まれ、整然と並んでいる。中には、鋼と油の匂いが充満していた。
三棟ほど倉庫が並んでいるが、各棟によって保管の種目が異なっている感じであった。
倉庫主任は、去年の一月の帳簿を、棚から抜いてきて、
「いつごろですか?」
と言った。彼は日付を告げた。
「このあたりですねえ……」
そのとき、電話がかかってきて、倉庫主任はその方に行った。それで北川は、勝手に帳簿をのぞきこんだのだが、俄かに目を輝かせねばならなかった――。
一月二十二日の項に、〈一時預り、期限五日〉として、
△ステンレス・頁四十梱包(篠田扱い)
△ベニヤ板・百四十梱包(篠田扱い)
という文字が並んでいたのである。
その同じ百四十梱包という二行の文字は、北川謙一に、ある懸念を起させた。彼はいそいで、次々と日付を追って、こんどは出庫の方を見て行った。
彼の予感は、恐ろしいほど、適中していたのである。
同じ百四十梱包の、ステンレスと、ベニヤは、同じ日付の一月二十六日に、倉庫を出ていたのであった。
念のため、電話を切って、彼の方に戻ってきた倉庫主任にきいてみると、ベニヤも、ステンレスの厚板も、三尺に六尺の大きさであり、重さは違うが、ほぼ木箱の梱包は似通っているということである。
「この篠田扱いとは、寅さんの口利きということですね?」
「ええ。代金を前払いで、四、五日たのむといわれると、現場で働いている以上、いやともいえないんです。もっとも、料金は規定通りに貰ってます。こうして、帳簿につけてるんですから……」
主任は、弁解するように言った。北川は、皮肉な笑い方をしてから、
「このステンレスと、ベニヤが、船積みのとき、入れ替るというような事故は、考えられませんか?」
と、ズバリと言ってのけた。相手は、かすかに、たじろいだ。
「多分、そんなことは、起り得ないと思いますが……でも、どうしてです?」
「いや、ちょっと聞いてみたんです」
「なにか、うちの手落ちがあった、とでも仰有《おつしや》るんですか?」
「そうではありませんよ。ときに、この同じ日に出庫したベニヤの方ですが……これは、どうなってます」
倉庫主任は、明らかに不快な顔になった。なにかを疑われていると、悟っているからであろう。誰しも、痛くない肚を探られるのは、いやなものである。急いで、北川はつけ加えた。
「勝手なお願いですみません。ちょっと、事件がありましてね。調べてるんです。協力して下さい」
主任は、その言葉で、機嫌を直したらしく、口の中でぶつぶつ呟きながら、伝票整理帳を調べだした。ややあって、主任はその分厚い整理帳を両手で抱え持つと、机に戻ってきた。
「万年丸ですね。船舶番号六一五九号です」
「ええッ? ベニヤの方ですよ?」
北川は、膝頭が小刻みに、ぶるぶる震えだすのを意識した。失禁しそうな、取材していて最高の緊張を覚える一瞬である。
「ええ、そうです。ベニヤです」
「すると、ステンレスの方は?」
「矢田運送店のトラックですね。ここに、受領印があるから……」
〈やっぱりだ! やっぱり、ステンレスとベニヤは、入れ替っていた!〉
彼の背筋を、ある戦慄が、走り抜けた。
やはり、神戸港に六日間も碇泊していたのには、意味があったのである。ベニヤ板が、どれほどの値段のものか、北川には見当もつかなかったが、おそらくそれは、ステンレスと比較できまい。
新発田六助は、神戸港において、〈おわか倉庫〉を舞台に、荷物をみごとにすり替えてみせたのであった。彼がその話をすると、実直そうな倉庫主任はおどろいて、呆然となった。
そして、どもりながら弁解した。
「しかし……寅さん扱いの臨時貨物でしょ? こちらは、出荷主や運送店の送り状があるわけではなし……このベニヤは万年丸のだ、こっちは矢田運送だといわれると、その通りに荷を積んじゃうですよ……」
「ええ。ですから、お宅の倉庫には関係ありません。連中は、臨時預りという盲点、ルーズな所を逆に利用して、千七百万円のステンレスと、百万円たらずのベニヤ板とを、すり替えたんですね」
「さっそく、寅を呼んで聞いてみます」
「いや、寅さんも共謀でしょう。そして、彼の入れ知恵かも知れない。だから聞いても、むだでしょう。ただ、この帳簿や伝票は、厳重に保管していて下さいますね?」
「それは結構ですが……」
「万年丸の乗組員だって、自分で扱うわけじゃなし、同じ梱包の大きさの、同じ容積のものが積まれていたら、まさかベニヤだとは思わなかったんでしょう……」
「私どもでも、早速、調査します」
倉庫主任は、この現場にいて七年になるが、これほど知能犯的な事件は、はじめてだと告白した。
北川謙一は、矢田運送店の住所を教えてもらい、訪ねて行った。それは〈小栗海運〉と道ひとつ隔てた、海岸通りにある店である。
店の主人は留守で、トラックの運転手たちも帰宅したあとだった。水商売あがりらしい、ヒステリックな運送店主の妻と、一年前の帳簿を見せろ、見せないと押し問答したが、埒《らち》があかない。北川は、明朝また来ることにして、店の外へ出た。
――その直後である。
彼の周囲に、三人の男が音もなく忍び寄ってきた。三人の男たちは、左右と背後から彼の体をとりかこみ、
「おい。逃げるなや!」
と、口々に言った。
北川謙一は、咄嵯《とつさ》に、小頭の寅と呼ぶ、暴れ者の沖仲仕の一味だと悟った。体を硬ばらせて、駈け出そうとすると、倉庫の並んだ暗い露路から、足がのびて、北川は前のめりに倒れた。
相手のお膳立て通りに、北川は料理されたわけである。敵は、わざと三人で、その暗い道へ、彼が駈け出すように仕組んだのだ。彼は首をつかんで引き起され、その露路の奥へ追いやられた。
そこで待ち構えていたのは先刻彼に足をかけた男だった。男は、彼の胸ぐらをとると、酒臭い息を彼の顔に吐きつけ、
「おい、トップ屋! まごまごせんと、母ちゃんのとこに帰れよ……。それとも、神戸の海の水が、甘いか、しょっぱいか、教えたろか!」
と凄んだ。
そして、鼻にガーンと強い衝撃。優さ男の北川は、ぶっ倒れた。何度も抱き起され、そして何度も殴りつけられた。気がついたときには、彼は地面にながながと伸びていたのである。
四
「すると、新発田のやつ……保険金千七百万円だけでは、あきたらんと、安いベニヤを積んで船を沈めよったんだすか!」
〈日の丸物産〉の社長は、あいた口がふさがらない有様で、額から湯気を立てはじめている。むりもなかった。
手付金と保険金――つまり三百五十万円だけ支払って、残りの千三百五十万円は、踏み倒されたのである。そしてそのため、〈日の丸物産〉は、創業以来、はじめての不渡手形を出す仕儀となり、苦しい金繰りに追われるようになったのだった。
一方、新発田六助の方は、七十トンのステンレスを転売した代金と、保険金とで三千万円近い現ナマを、濡れ手で粟のごとくつかんで、悠々と逃亡したのである。
「それにしても山崎さん。あなたは、なぜ新発田を告訴しなかったんですか?」
西岡良吉は、この二股をかけた、恐るべき知能犯罪の事実に怯えながら、痘痕面の社長にきいた。
「ところが、相手の行先がわからんよって、告訴しようにも、どうにもならん! もっとも、利口な男のことやさかいに、保険会社の応接室で、自分で金額を書き入れた二百万の領収書を、うまいこと改竄《かいざん》して、法律ではどうにもならんように、してますやろ。そう思うてますわ……」
「なるほど。それ位のこと、やりかねない男のようですね。頭はいい!」
西岡は、唸るように言った。
「しかし……東京にいる場所は、あんさん、ご存じでっしゃろ?」
山崎浩市は、病的な目を、ぎょろりと剥いて粘っこく彼を凝視している。西岡は、人間の金に対する執念のおそろしさを、ふと感じた。商事会社の社長は、新発田から金をとり戻したい一心で、この旅館まで訪ねてきて、打明け話をしたに違いないのである。
しかし西岡は、「自分はなに一つ知らなかった、騙《だま》されたのだ」と弁解している、この痘痕面の社長も、その実は、新発田の犯行を知っていたのではないか、という気がしていた。
それは保険金ではなく、多分、ベニヤとステンレスが入れ替るという、完全犯罪だったのであろう。そして、船が火災を起して沈没することも、諒解ずみだったのではないだろうか……。それでなければ、このせち辛い世の中に、同県人だからという理由だけで、千五百五十万もの手形を切る人間はいないのである。
西岡は、そのことも洗ってみたいような気持だった。でも、それはいずれ司直の手に委ねればいい。彼は、そう思い直した。
ただ、未だに判らないのは、万年あけみのことだった。彼女が、男に〈欺された、口惜しい〉と泣いていた理由だった。
「新発田六助が、どこに住んでいるのかは判りません。しかし、渋谷で経営しているバーは知ってますよ」
「教えて下さい。お頼みしますわ!」
相手は、頭をかがめた。
「その前に……二、三、お訊ねしたいことがあるんですが」
「へえ。なんでんね」
「死んだ万年船長の夫人と、新発田との関係ですが、昔から関係があったんでしょう?」
「さあ、二人のことは、よう知りまへん。しかし、堺の家に二人が暮しとるんを見たときには、あの奥さんがそそのかして、船長を殺したんやないか……ちゅう気がしましたな」
「二人は結婚する気だったようですか?」
「へえ。そない聞きましたけど」
「でも新発田は、彼女を捨てて、竹田さゆりという新しい情婦と、東京へ逃げだしてます。その原因は?」
「さあ、船長の奥さんが夢中になってるほど、新発田の方は、熱を上げとるとも見えなんださかい……。あの奥さん、家を売って東京に行くというて、一度ほど、挨拶に来よりましたで」
「ええ? それはいつです?」
「さあ……三月やったか、四月やったか。とにかく陽気もよろしゅうおましたな。自分と結婚すると約束したさかいに、旦那《だんな》さんに黙って、家を担保に金を借りてやった。……その借金も返さんと、他のオナゴと逃げるとは、どういうわけや、いうて、えらい泣きよりましたわ」
「すると、手付金の百五十万円は、彼女が家を担保にして借りてやってたのか……」
西岡は、これでなにもかも、理由がわかったと思った。〈欺された〉と万年あけみが言っていたのは、実は、このことだったのだ。
……おそらく新発田は、年老いた夫にあきたりなくなっているあけみを、うまく口説き落したに違いない。
「船を沈めて、万年船長を殺してやる。そして船の積荷保険で、ごっそり儲けるから、一緒になろうじゃないか……」
きっと、そんな計画を、打ち明けたのであろう。
夫が死んで、生命保険が入るというのならば、世間から怪しまれるが、しかし口うるさい世間も、船の積荷の保険のことまでは気づかない。
万年あけみは、男の言葉を信じ、こっそり家を担保にして、資金をつくってやったのだ、彼と結婚する期待に、胸を躍らせながら――。もしかしたら、それは自分の肉体の、羞しい部分に、淫猥な刺青をほどこしてまで、自分を独占しようとした、老船長に対する、復讐であったかも知れない。
新発田六助は、保険金の交付が、請求後一カ月であり、万年船長の戸籍が抹消されるのは、届出から二カ月後であることも計算していたのであろう。つまり、家を売るためには、万年あけみは、彼が大阪から姿を消して後、少くとも一カ月は、堺市を動けなかったことになる。それは、彼と竹田さゆりの出奔のニュースが、彼女の耳に入るのを、遅らせるに役立っている。すべてが正確に、そして一分の狂いもなく計算されてあった。
〈だが、新発田六助よ。お前ほどの知能犯が、一つのミスを犯した! それに気づいたとき、貴様は地団太を踏んで、口惜しがるだろう!〉
西岡良吉は、体いっぱいに闘志が漲《みなぎ》ってくるのを感じつつ、未だ対面せぬ犯人に呼びかけていた。
「そのう……新発田のやってる、バーというのは、どこでっしゃろ?」
山崎社長が、時間を気にしながら言った。西岡は、ちょっと沈黙してから、とつぜん、
「山崎さん!」
と顔を綻《ほころ》ばせた。
「なんだんね?」
「あなたは……警察に行っても、新発田からサギにかかったと、主張できますね?」
「へえ。そらァ勿論だすがな」
「ではですね……私たちと一緒に、東京へ行きませんか?」
「いつだっか?」
「明日の飛行機です。切符は、こちらで用意しますが……」
「さいだすなあ……。明日はちょっと、都合が悪うまんねやけど、明後日では、あきまへんか?」
「結構です。飛行場に、直接行って下さったら、わかるようにしておきます」
「へえ……」
「僕と北川は、明日の飛行機で、東京に帰って、新発田と竹田さゆりが、どこに住んでいるか、探しだしておきます」
「わては、どないしたら、よろしゅうおまんね」
「羽田に迎えに行かせます。宿の手配もしておきますから、新発田六助を、サギで告訴して頂きたいんですよ、警視庁に――」
「はあ、警視庁にだっか」
「すると、私どもで工作して、新発田六助をパクらせます。一応、サギの容疑でね」
「一応といいますと、やはり他に……」
「そうですとも。殺人二件……いや、三件かも知れません」
西岡良吉は、刺青師のことを思い出すと、なんだか空恐ろしい、犯罪の連鎖反応のようなものを、まざまざとまのあたりに目撃しているような気持がした。
「よろしゅうおま。憎たらしい男から、金をとり戻すためや。なんなと、あんさんのいう通りに、動きまっせ!」
西岡良吉は、でも、最後には逃げを打たれるような気がして、あくまでも渋谷のバーの名前は教えなかった。
〈仕方ない。北川を残して、この痘痕面の被害者を、東京に引っぱって来させよう。その方が賢明だろうから……〉
廊下へ出てゆく客を座敷から見送って、西岡はそんな作戦を立てていた。傷ついて顔を腫らせた北川謙一は、息苦しそうに、口をあけて寝入っていた。
第十章 破られた壁
一
――伊丹を十一時に離陸した〈一一〇便〉は、定刻通り一時間四十五分後に、羽田飛行場についた。
タラップを駈け下りて、改札口ヘの通路を、西岡良吉は小走りに歩いた。誰かが、手をふっていた。白石次長である。わざわざ出迎えに来ていたらしい。神戸から、電話で、かいつまんだ報告をしてあり、〈一一〇便〉で帰京すると、知らせてあったからだろう。
「おい、やりよったな!」
白石は、彼の背中を、ドンと叩き、肩を並べながら、こんどは心配そうに、
「北川の怪我は、どんな様子だい?」
と、話しかけてきた。
「心配ありません。今朝は、まだ瞼のあたりが腫れてましたけれどね」
「連絡がないから、心配してたぞ? なぜ、一日に一度は連絡しないんだ」
「申し訳ありません。時間が勿体ないから、朝早く旅館を出るでしょう? 昼間は取材でそんなヒマはないし、夜はいつも八時、九時ですよ。一晩だけ、キャバレーで取材がてら飲んだぐらいで……今度はよく働きました」
「そうか、そうか。それはご苦労だったな。でも、連絡は、必ずとってくれよ……」
白石次長は、社の自動車をパークさせた位置にと歩きながら不意に言った。
「いけるな?」
言葉は短いが、特集班の記者には、その一言だけで十分に意味が通じた。西岡良吉は、自信をもって答えた。
「もちろん、いけます!」
「ワイド版か?」
「三十頁ぐらいでも、楽ですよ」
「よし。安心して任すぞ」
「はあ、大丈夫です。ただ、問題は二、三残ってますがね」
車に乗りこむと、白石は、運転手を気にしながら、低く囁いた。
「二、三残ってることって、なんだ?」
「はあ、先ず二人の住居を、つきとめることです」
「なるほど」
「次に、山崎社長から、サギ容疑の告訴状を出させ、主犯の新発田を警察に留置することですね」
「うん。それも、なんとかなる」
「最後は、残ったマダムの方です」
「竹田さゆりだな?」
「ええ。決め手は、彼女に自白させること以外に、ないんですよ。しかし……これは、警察にやらせたくない」
「なにか良いアイデアでも、あるのか?」
西岡は、あいまいな微笑を浮かべると、首をふった。
「目下のところ、ありません。しかし、男さえいなければ、なんとかなると思うんです」
白石はうなずいて、
「編集長は、大喜びだ。それで、今週の特集にどうか、と言ってる」
「今日は、日曜日でしたね」
「ああ。でも、半分以上は出勤してる」
「月、火の二日か――。告訴さえできたら、なんとか行けると思いますよ、次長!」
「大丈夫か?」
「まあ、大丈夫です。北川が粘ってますからね」
「すると取材は、東京での裏づけだけ、というわけだなあ」
「ええ。いま特集班は、誰と誰の手が、あいてます?」
「佐竹と、池内だな」
「じゃァその二人を、貸して下さい」
「よっしゃ……。他には?」
日曜日のせいか、京浜国道は、車が少かった。ふだんなら、そんなスピードは出せない。車は、もう品川駅にさしかかっていた。
「マダムの顔写真が撮りたいんですが、なんとか怪しまれずに、撮れませんかね」
「バーだったな?」
「はあ。道玄坂です」
「あのあたりなら、日曜でも営業してるだろう……。どうだ、誰か映画スターか、文化人にわけを話して、飲みに行って貰ったら?」
「で、どうするんです?」
「うちのカメラが、そのサクラを撮りに出かけるんだよ。〈店の記念に、マダムも一緒にどうです?〉といったら、喜んでカメラに入るんじゃないか?」
「なるほど、フラッシュを焚かないと、どうにもならないぐらい、店の中は暗いんです。それが一番いいですね」
「どうだ、名案だろ?」
次長は名案を自慢したが、実は、カメラマン達のあいだでは、囮《おとり》撮影によく使われている手だった。Aの顔をとるふりをして、実は本命のBの顔を盗み撮りするときに、使われるのである。
……社に帰ると、中薗編集長は、これ以上ニコニコできないような笑顔で、西岡良吉の肩を抱いた。
「おう! とうとう、やったそうやないか! これで、ウイークリー・東京も、どかんと部数がのびよる! 来週号は増刷や。宣伝、宣伝で売りまくったる!」
どうも中薗の頭の中には、部数の伸びしか存在していないらしい。もっとも編集長の仕事を簡潔に言えば、ただそれだけ考えていれば、よいのかも知れなかった。
例によって、応接室に三人ははいった。
彼は、ホテル殺人事件の背後に、いかに入り組んだ色と金の人間関係があり、新発田六助という男の、綿密な犯罪設計図が隠されていたかについて、過去二週間に洗い立てた資料をもとにして説明してゆく。
編集長の中薗も、次長の白石も、〈万年丸〉の積荷すり替えと、保険金サギの二つの手口を聞くと、ただ声もなく唸り続けていた。ややあって、中薗は言った。
「西岡君! こらァ世紀の、大知能犯罪やぜ!」
次長は、そのオーバーな表現の仕方に、苦笑していたが、
「いや、それ位の頭のある男でなくては、あんな巧妙な殺人計画を、実行できませんよ。おそらく奴さんは、神戸港での、ベニヤとステンレスの手口を利用したんだなあ」
と、感心したように言った。
「おう、そうや。佐竹と池内を呼ぼうやないか。仕事、手伝わせるんやろ?」
中薗は、ソファーの傍の受話器をとったが、日曜日で交換手が休んでいることに気づくと、自分からせかせかと、二人の部下を呼びに行った。相変らずだな、と西岡は微笑していた。
佐竹も池内も、三年前に入社した編集部員である。週刊誌は二年目だが、西岡自身を手をとって、取材の方法を教えこんだ後輩たちだった。その意味では、気心もわかっているので、使い易い部下ともいえた。
「ええか。ここに新発田六助ちゅう男がいたんや。二等機関士の免状もった船員で、トニー・カーチスに似た、ええ男やった。この写真の男やがな……」
得意そうに中薗は、二人の部下に、写真を示して、自慢のダンヒルのパイプを、鼻の脇にこすりつけはじめている。白石次長は、黙って貧乏ゆすりをしていた。
「こっちの女は、万年あけみいうて、このあいだ新宿……いや、千駄ケ谷のホテルで殺されよった、可哀想なおひとや。この写真でもわかる通り、二人は恋仲やった……」
編集長の口にかかると、この残虐な、そして悪質な犯罪も、なにか悲恋のラブ・ロマンスに化けそうな気配である。
あわてて西岡は、話をひきとった。
二人の部下は、彼の口から、事件の全貌を教えられると、期せずして同じ言葉を吐いた。
「信じられないなあ!」
「でも、事実なんだ。事実は、小説より奇なりなんだよ」
彼は、佐竹と池内の顔を見較べた。
「つまり、この間のホテルの事件は、昔にさかのぼると、〈万年丸事件〉に結びついているわけなんですね?」
池内が、唇を噛みながらうなずいている。
「きっと万年あけみは、自分を裏切って捨てた男を探すために、上京してきたんだなあ。新発田はダンス狂で、女好きだ……。だからきっと彼はキャバレーに現われる……彼女はそう確信していた」
白石が、首をふりふり、そんな推理を述べた。
「だから、上野、浅草、新宿と、キャバレーを転々としていたわけだ。そして、二人はめぐりあった……」
佐竹は、遠くを見るような目付をしている。
この小説家志望の佐竹は、多分に感傷癖をもった、ロマンチストである。池内の方は、法科出身だけに、リアリストで感覚も冷やかなところがあった。
「新発田は、あけみと再会したときから、殺意を持っていたと思うんだな。もしかすると、頼まれて万年賢一郎を、船火事のどさくさで、殺してたのかも知れん。それで過去の古傷を、にぎっているあけみという女を闇に葬ろう……と決心したんだよ」
そんな白石の見解を、場に居合せた四人は、誰しも妥当だと思った。
知恵のまわる新発田六助は、殺人計画をねりつつ、表面では女を愛しているように見せかけながら、池袋あたりの酒場を検分して歩いたのであろう。
女は単純にも、自分と店をもつという男を、信じすぎたのだ。それともそれは、神戸のキャバレーの女給が話していたように、離れられない閨《ねや》のテクニックのためであったか――。
ともあれ、銀行員の東田迪夫は、新発田が張りめぐらした黒い女郎蜘蛛の糸にかかって、いくら無罪を立証しようともがいても、どうにもならない生贄《いけにえ》となったのである。
……そして今、西岡良吉たち〈ウイークリー・東京〉の編集部に残された仕事は、憎むべき縮れ毛の犯罪者を、この広い東京から探しだし、
「万年あけみを殺したのは自分だ……」
と、供述させることだったのである。
二
筒井秋子は、西岡の手から、その写真をうけとって眺めていたが、
「そうよ。この人……間違いないわ。もう少し、老けた感じだけど」
と言った。
今日は、この前のように、アパートの部屋のなかに、彼を招じ入れないところをみると、誰か男でも来ているらしい。西岡は、満足そうに肯いた。それは北川が、神戸で手に入れた、あけみと新発田の、ダンス競技の記念写真だったのだ。
「こちらは、大久保千代さんですね?」
「そう。じゃァあの二人、昔は恋人同士だったわけなのね」
「らしいんですよ」
西岡は、彼女から写真をとり返すと、もう一つ聞きたかったことを質問した。
「変なことをお訊ねしますが、大久保さん……靴はどんなものが、多かったんでしょう」
「どんなものって……あたし達は夜の商売ですもの、ハイヒールが多いんじゃない?」
「いいえ、色ですよ。彼女……白のハイヒールは?」
「そうね。一足ぐらい持ってたみたいだけど、先にリボンのついた靴だったわ」
「ははあ……」
「でもあまり、白は履かなかったみたい……。汚れるから嫌いだって……」
「たしか、エナメルだと思ったんですけれどね」
「あたしは、知らないな。お店では、見たことないわね。あの人が好きだったのは、赤よ。服だって、バッグだって、赤が多かったみたい……。私みたいな女が着ると、色気違いと思われるでしょうけど、ほら、あの人、小柄でしょう……」
「いや、どうも有難うございました」
彼は、用意してきた二千円の談話料を手渡して、そのアパートを出た。
近くの道路で、社の車が待っている。
「千駄ケ谷のホテル重富荘だ……」
運転手にそう告げてから、西岡良吉は、自分の思い通り、ピシピシと布石がかためられて行くので、すこぶる満足だった。将棋でいえば、自分の読み筋どおりに、駒が、一歩一歩、詰めに向かって進んでゆく感じである。
筒井秋子は、新発田六助が、キャバレー〈パール・ハーバー〉に現われていることを、はっきり証言しているのだ。あとは、ホテルの女中の証言が、|あること《ヽヽヽヽ》を裏書きしてくれれば良いだけである。
〈たしか新発田は、あの夜、重富荘に泊っている筈だ……〉
彼は、自分の推理が、もしかしたら、最後の土俵際で覆《くつがえ》されるのではないかと、そんな不安に怯えた。ホテルの女中の記憶があいまいだったりしたら、根底から疑惑はゆらいでくるのである。
西岡は、「九|仭《じん》の功を、一|簣《き》にかく」といった古人の言葉を思いだし、ひそかに神に祈らずにはおれなかった。
日曜の午後四時ごろの、千駄ケ谷界隈には、ある物憂さが漂っている。客足が途絶える頃なのであろう。
ホテル重富荘も、やはり、ひっそりしていた。西岡良吉は、名刺をとりだすと、経営者である女将に、さっそく面会を求めた。
「実は、お宅で殺された女性がいましたね? あの女性の身許が、やっと割れたんです。それで〈菊の間〉の係だった女中さんに、この写真を鑑定して頂きたいんですが……」
女将は、彼の名刺と写真とを見較べた。
そして小肥りした体を、ちょっと揺すって眉をひそめた。これ以上、かかりあいになりたくない風情だった。
西岡良吉は、微笑してみせた。
「お願いします。実は、スクープできるか、どうかの境目なんです」
「仕方ないわね……」
気のない調子で女将が引っこむと、やがて一人の痩せぎすの女が玄関にやってきた。
「あたし、絹子ですけど……」
「どうも済みません。一つ、この写真をみて下さい。あの事件の前夜のこと、覚えてますね?」
「ええ。刑事さんに何度も聞かれましたから――。あの夜、私は早番で三階を担当していましたので……」
「すると〈菊の間〉の客も……」
「ええ、私がご案内しました」
「この写真のカップルには、見覚えがありますね?」
絹子は、写真を手にすると、なにか記憶をたどるような、真剣な瞳の色になった。意外と細い手首が、なんとなく、いたいたしい。
〈思いだしてくれ! 頼む、憶えていてくれ!〉
西岡は、ふたたび神に祈った。息を詰めて彼は、絹子を凝視している。彼女の横顔に、ようやく血の気がさしてきたと思うと、絹子はきっぱり言った。
「あの夜の、お客さまですわ。でも、男の人のほうは、ちょっと自信がありません」
「自信がない?」
「ええ、この方たち、たしか〈松の間〉に案内したと思うんですけど、男の人は、黒メガネかけてたみたい……。顔はよく覚えてませんわ」
「背が高く、縮れ毛なんですけどね」
「さあ、そういえば、そんなお連れさんだったような気もしますけど――」
いらだたしくなって、西岡良吉は、きめつけるようにいった。
「とにかく、この女性には、見覚えがあるんですね」
「ええ。お二人連れで、夕方からいらしたと覚えてます。そうそう……十時半ごろ、出前の握り鮨を注文したんだわ、この女の人?」
「ほう、よく覚えてますね?」
「だって、夜の九時、十時といったら、一番忙しい時でしょう? それなのに、室にメニューを届けさせて、ああでもない、こうでもないと、うちのメニューにさんざんけちをつけたんですもの……。忘れられないわ」
絹子は、八重歯をのぞかせて笑った。痩せてほっそりした顔立ちだけに、その八重歯はよく目立つ。水のように静かな顔をしているが、燃えたときは凄いのだろうと、西岡はそんなことを考えたりした。
事件の核心をつかむ瀬戸際にあって、そんなことを考えたりするのは不思議な気持がするが、それは事実だったから仕方がない。
「では、この女性は、〈菊の間〉ではなく、〈松の間〉の客ですね?」
西岡は、低い声で念を押した。女中は、うなずいた。
「ところで、翌朝――〈菊の間〉の死体を発見したのは、貴女だという話ですが」
「ええ、そうですけど」
「この女性が……実は、〈菊の間〉で死んでいた人なんですよ?」
絹子という女中は、しばらくは、彼の言葉の意味が、理解できないらしかった。「は?」と、彼女はまた八重歯をのぞかせ、眉をしかめるようにしている。
「よく、見て下さいよ? 東田迪夫という銀行員と泊りに来て、〈菊の間〉に貴女が案内した女の顔と、違ってませんか?」
「………」
「死んでいたのは、〈松の間〉に泊っていた筈の、この万年あけみじゃないですか?」
女中は首をふった。そして叫んだ。
「そんな、そんな筈はないわ!」
「でも、殺されたのは、貴女が〈松の間〉に案内したと証言している、この女性の方なんです。万年あけみ。本籍滋賀県。昭和七年生れ……」
「だって、死んでいたのは、たしか〈菊の間〉にお泊めした、女の人ですもの!」
西岡は、じれったくなった。
「人間はね、首を絞められて窒息死すると、顔がむくんで鬱血《うつけつ》するんですよ。見た目には別人のようになります。だから僕は、あなたが勘違いしたんだと思いますがね……」
玄関先で、二人が押し問答めいたやりとりをしているのを聞きつけて、奥から二人の女中が出てきた。
「女将さんが、どこかの室で話して下さいって……。こんなところで、立ち話されたら営業妨害よ……」
年嵩《としかさ》の方が、そんな皮肉めいたことを言った。あとで判ったのだが、その少し目のおかしい、うけ口の女中は、北川謙一に熱をあげている常子であった。
「すみません……」
西岡は、玄関のすぐ近くの室を借りることにして、靴をぬいだ。絹子は、その年嵩の常子に向かって、写真をみせながら、こういっている。
「ねえ、つねちゃん。あの〈菊の間〉の事件があったとき、あなた、遅番だったわね?」
「うん、そうよ」
「だったら、〈松の間〉のお客さん達が、帰った時間……覚えてる?」
「ええ、四時ごろよ。あたし、電話で無線タクシーを呼んでやったもの……」
西岡は、目を輝かせた。
「電話で、無線タクシーを呼んだって……それ、本当ですか?」
「ええ、〈グリーン・スター〉だわ。うちはお得意だもの……」
常子は、こともなげに言った。絹子は、西岡を玄関近くの室に案内した。常子も、入ってきた。
「この方……週刊誌の人なんだけど、この写真の女を、〈松の間〉にあの夜案内したといってるのに、死んだのはこの人だって、きかないのよ……」
絹子は、低い声でいった。
常子は写真に強い視線をあてていたが、
「そうね。この男の人は、松の間だわ。自動車を呼んでやったら、門のところで、千円チップ呉れたもの。赤いコートの、女優みたいな人と一緒よ。ね、そうでしょ?」
その言葉をきくと、絹子は、勝ち誇ったように言った。
「それみてごらんなさい。常子さんだって、ちゃんと覚えてるじゃない? 私のいったことに間違いないわ」
……でも西岡は、そんなことよりも、常子という女中が、新発田六助を記憶していたことの方が、重大だった。
〈良かった! 証言者が発見できた!〉
彼は、その感激でいっぱいだったのである。
「あなたの名は?」
「常子よ……」
「では、常子さん。この男が、午前四時すぎに、赤いコートの女と、〈グリーン・スター〉のタクシーで帰って行ったことは、証言してくれますね?」
「ええ。千円チップを貰ったことは、女将さんに内緒だけど……」
「一緒だった女性は、たしかに、この人だと思いますか?」
彼は、写真を顎でさし示した。
常子は暫《しばら》く考え、首をふった。
「わからないわ。だって、黒メガネかけてたもの。だから、女優さんじゃないかと、思ったの私――」
西岡良吉は、竹田さゆりの写真が、手許にないことを残念だと思った。
三
東京都内を、〈無線車〉と呼ばれるタクシーが、いつごろから走りだすようになったのか、西岡は明瞭に記憶してはいない。しかし、たしか五、六年前ごろから、あったような気がした。
いまでは二十社近くが採用しているらしい。そのタクシー会社の中でも、〈グリーン・スター〉は、無線車の創始者として名高い。
緑色の車体に、西部劇の保安官のような金の星を浮かせ、銀色のアンテナを輝かせたこのタクシーは、電話一本で、街角からでも、アパートからでも呼び寄せられる特長をもっている。そしてその重宝さ故に、サラリーマン達からも、親しまれていた。
ただ、客を求めて、むやみに走り廻ってガソリンを消費するよりも、電話で注文があると、本社から現場附近を走っている自社のタクシーに無線で指令できるのだから、まことに合理的である。都内の一日走行キロ数を、三百六十五粁と規定された現在では、ガソリンも、やたらに消費できないのだった。
〈グリーン・スター〉は、無線を各営業車にとりつけているが、もう一つの武器は、深夜営業の許可をもらっていることである。
千駄ケ谷あたりの連れこみホテルにとっては、これは便利だった。電話一本で、真夜中でも、客の注文に応じてタクシーが呼べるからである。
――西岡良吉は、大塚にある〈グリーン・スター交通株式会社〉の本社に、車を走らせた。
そして、事件のあった午前四時ごろ、千駄ケ谷のホテル〈重富荘〉から、アベックの客を乗せた運転手を、探しだして欲しいと頼んだ。でも、本社の守衛は、
「今日は日曜スからねえ。明日、出直して来てくれませんですか……」
と、にべもなく断った。
日曜で社員はいないし、しかも夕方なので、守衛の言葉は当然であった。でも、一刻も早く新発田六助の、現住所をつきとめたいと思っている西岡は、容易にそんなことでは、引き下らなかった。
しまいには守衛も悲鳴をあげて、
「営業所をあたってみて下さい。とにかく、本社では、どうもならんスから……」
と、むくれて言った。
だが、グリーン・スター交通の都内営業所は、きいてみると十二カ所もあるというのだ。
西岡は編集部に電話して、待機している佐竹と池内の二人に、タクシー会社の各営業所に、調査を依頼するようにと命じた。
腕時計をみると、六時をすでに廻っている。
そろそろ、道玄坂のバー〈A&B〉に行かねばならぬ時刻である。
大塚駅前で、車の運転手と、かんたんな夕食をすませて、西岡はふたたび車に乗りこんだ。用心のため、社旗はとりはずしてあった。
銀行のすぐ手前のあたりにパークさせて、ぼんやり坂道の商店街をみていると、まもなく中年のアベックが、肩を並べながら、きょろきょろとやってくるのが見えた。
文芸評論家の田熊孝行と、作家の有沢和歌子である。新聞やテレビで、共に顔の売れている文化人であった。
次長の白石が、この二人が渋谷の近くに住んでいることを思いだし、事情を打ち明けて、飲みに誘ったのである。
西岡は、車から飛びだすと、
「ウイークリー・東京の者です。今夜は、とんだお願いを……」
と挨拶した。
渋いツイードの替え上衣をきた田熊は笑って、
「いいんだよ。後学のため、見ておきたい。盗み撮りというやつをね」
「あたしも、楽しみよ……」
女流作家も笑っている。西岡はすかさず、
「私は、今夜は、テレビ局のプロデューサーということになってますので、どうかよろしく」
と念を押した。
三人が入ってゆくと、案の定、酒場の中の視線が、一斉に集中した。
この前、彼がカウンターに坐ったとき、傍についていた支那服の女が、めざとく彼をみつけて立ち上ってきた。
「この間は、どうも――」
「田熊先生と、有沢さんじゃない? 凄いメンバーね?」
女給は、驚いたような顔だった。
「今夜は、ボックスでゆっくり飲むよ」
西岡はにやにやした。奥のボックスから、和服の女性が立ち上っている。彼は、小さく緊張した。竹田さゆりであった。
彼女は、西岡と話していた女給に近づき、なにかを質問している風情だったが、うなずいて西岡たちのボックスにやって来た。
「いらっしゃいませ……」
二人の文化人は、如才なく「やあ」とか、「どうも」とか挨拶を返している。マダムは彼に向かって、
「いつも御世話になるそうで……」
と感謝の意をこめて一礼してきた。
「田熊先生……マダムですよ。僕のいった通りでしょう?」
西岡は、言外に、この女性が〈本命〉であることを告げた積りだった。評論家は、微笑している竹田さゆりをしげしげと眺め、
「うん、美人だ……」
と、調子を合わせてくれた。西岡は、ほッとし、〈この按配《あんばい》なら、うまく行きそうだ……〉と安心した。
三十分後、田熊孝行に、外から電話がかかってきた。
なにもかも、打ち合わせ通りである。
ボックスに戻ってきた田熊は、誰にともなく、
「ある雑誌のカメラマンが、写真をとらせて欲しいと言ってきた……」
と言った。西岡は、はじめて〈A&B〉にきた田熊のことを思い、なぜ雑誌社が、そのことを知っているのかと女給たちが怪しまないか、背筋に冷や汗を流した。でも、誰もその疑問に気づかない様子だった。
――次長の白石が、カメラマンを連れてやって来たのは、それからまた半時間の後である。
撮影がはじまると、田熊孝行は、マダムと女流作家の間にはさまって、カメラに納まってくれた。
白石は、図々しく、
「マダム……宣伝料を払ってくれなきゃ困るよ……」
などと、冗談を言っている。
このあたり、やはり西岡とは連って、面の皮も厚く、芝居にも年季が入っている感じだった。
すべての事情を知っていて、演技しながらなおかつ、自分で愉しんでいる感じなのである。やはり年功というものは恐ろしい。
カメラマンが帰ったあと、白石は、マダムも誘って、みんなで赤坂のナイト・クラブに行こうと言いだした。踊りながら、住所を聞き出そうという肚だったのだろう。
しかし、その狙いは、巧妙に肩すかしを食わされた。
「だめですわ。営業中ですもの……」
「じゃァ、カンバンになってから行こう。心配しなくても、家まで送ってやるよ……」
「ありがとう。でも、またこの次に。今夜は先約がありますよってに……」
「そうか。じゃァまたの機会にしよう」
白石は、こだわらなかった。
十時ごろ、〈A&B〉を出た。マダムは外まで送ってきた。
四人で、ぶらぶら歩きだすと、軽く警笛を鳴らして、社の自動車が四人を追って来た。西岡は、軽く舌打ちした。車はそのまま停めておき、店の前から、帰るマダムを尾行してやろうと、計画していたからである。
ふり返ると、竹田さゆりは、舗道から伸び上るようにして、手をふっていた――。
しばらく歩いてから、今夜の二人の客を、その車で自宅まで送り届けることにして、白石と西岡は、近くの喫茶店に入った。
「ホテルの方……どうだった?」
次長は言った。
「やはり、新発田は、あの夜泊っています。見込み通り〈松の間〉でしたよ。しかも、〈グリーン・スター〉を呼んで帰っているんです……」
「ふーん? 深夜営業の許可をもった、タクシー会社に問い合わせた時には、うんとも、すんとも返事はなかったがなあ」
次長は、ちょっと肚立たしそうに首をひねり、でもすぐ酒場の撮影成功のことを思い浮かべたのか、小さく含み笑った。
「面とりは成功だったが、問題は、二人のスイート・ホームだな」
「いま、タクシーの営業所をあたらせてるんですけど、今夜中には埓あきそうもありません」
「どうする? 尾行するにしても、西やんも僕も顔を覚えられてるから、佐竹たちにさせたらどうかな……」
「そうですね。写真の現像ができてるし……着物の柄で判断つくでしょうから、そうさせますか!」
西岡は、身辺俄かに慌しくなって来たのを感じた。
――明日の朝早い日航機で、北川謙一は、〈日の丸物産〉の社長と共に、帰京してくる筈である。だが、山崎社長に、告訴させるためには、新発田六助の現住所をつかみ、本人がいるかどうかを確認する必要があるのだった。
そのあと、捜査二課の刑事が、〈万年丸〉の保険金サギ容疑で、新発田を連行する。それも、なるべくなら同棲している竹田さゆりに、気づかれないで連行留置してもらった方がいいのだ……。
〈事件は、大詰めに来ている! あと判らないのは、二人の住所だけだ!〉
西岡良吉は、次長と、喫茶店で対い合っていても、尻が落ち着かず、ただやたらに苛立たしい自分を感じている。白石も同じ心境らしく、貧乏ゆすりの癖がはじまっていた。深夜喫茶の店内には、甘ったるいジャズ音楽が、二人の焦燥感を駈り立てるように、低く奏でられていた。
四
「申し訳ありません、どうも――」
佐竹と池内の二人は、済まなさそうに、ただ頭を下げた。いつになく白石は、むっつりと応対している。
「いいよ、いいよ。車の故障で、追えなかったのなら、仕方ないよ……」
西岡は、二人の部下を慰めた。
佐竹と池内は、昨夜、バー〈A&B〉のマダム・竹田さゆりの尾行に失敗したのである。
スタートしてまもなく、車が運悪くパンクしたのだ。従って、彼女と女給二人をのせたタクシーが、道玄坂を同じ方向に下って行くのを見送ったのみである。
「だから、俺はなにも車の故障のことは、責めてやせん。それならそれで、なぜ相手の乗ったタクシーのナンバー位、控えておかないかと文句いってるんだ……」
次長は、またしても説教をはじめた。西岡は、手をふった。
「次長。時間がないんですよ。でも、なんとか他の方法で探しだしますから……」
白石は眉根を寄せた。
「探し出せるのか?」
「ええ。バーやキャバレーは、保健所の届出のほかに、警察の風俗営業の許可をとっていると思うんです。ですから、渋谷署と、保健所をあたれば……」
「なるほど、経営者の住所氏名が出ているというんだな」
「そうです。違いますか?」
西岡は、二人の部下の肩を叩いた。
「さあ、佐竹君は保健所だ。池内センセイは、渋谷署へあたってくれ」
しょげ返っていた二人は、俄かに元気づいて編集部から駈け出して行った。
――西岡は、昨夜撮った竹田さゆりの写真を手にすると、面会の許可を求めてあった小菅拘置所に、東田迪夫を訪ねて行った。
兄のN生命の支社長と、顔だちは似ているが、頬がやつれ、眼窩《がんか》は窪《くぼ》んでいた。無実の罪に問われながら、それを晴らせないでいる人間の、病みついた神経が、皮膚のどこかしこに剥きだしになっている。
人を見る目も、ぞッとするほど冷たく、なにもかも猜疑《さいぎ》をこめて見詰めるような瞳だった。そして絶望した人間の、投げやりな口の利き方である。
「なにが聞きたいんですか、いまさら――」
東田迪夫は、バンドのないズボンを、片手でたくし上げながら、金網ごしに、西岡良吉をにらんだ。唇の端には、自嘲めいた色が、鮮やかに浮かんでいる。
「東田さん……ちょっと、この写真をみて下さい」
西岡は、看守の許可をとってから、もってきた竹田さゆりの写真を見せた。
「見憶えありませんか?」
「ありますよ」
「本当ですね?」
「ああ。僕の殺したっていう女だ……」
彼は、小さく息をのんだ。
「この女性と、飲み歩いて、それから泊りに行ったんですね?」
「そうだよ。なんべん、同じことを聞くんだ! でも、殺したのは、俺じゃァない!」
「彼女は、あの夜、洋装ですね? 緑色のコートに、白いハイヒールだったの、覚えていますか?」
「うるさいなあ。もう、帰ってくれよ!」
東田迪夫は、ぷいと顔をそむけた。西岡良吉は、金網に顔を近づけた。
「東田さん……」
「………」
「あなた、助かりますよ!」
「え?」
東田迪夫は、キッと彼を見詰めたが、鼻白んだ笑いを浮かべた。〈なにを言ってる!〉という瞳の色だった。〈ヌカ喜びは、もう沢山だ……〉という表情でもある。
「弁護士は、三人とも、だめだといってる。助かるもんか!」
「でも、あなたは殺してない」
看守が、もっと大きな声で、会話するようにと西岡に注意した。西岡は、腕時計をみた。面会時間の三分が、そろそろ切れかかっている。
「東田さん。この女は、生きてるんだ。だから、あなたは無罪なんだ……。わかりますか?」
でも、西岡のその言葉も二カ月ちかくも拘置所生活を続けてきて、拘禁性ノイローゼにかかっている銀行員には、とっさに意味が呑み込めない様子であった。
――編集部に戻ると、次長の白石が、北川と山崎社長とが、無事、羽田に着いたことを知らせてくれた。それから、眉をしかめて、
「保健所も、警察も、失敗らしいぞ……」
と言った。
「なぜです?」
西岡は、喰いつくように言った。
「竹田さゆりの名前はないんだよ。新宿区下落合二丁目の……深見奈津子という名義になっている」
「深見奈津子?」
「そうなんだ。念のため、二人に下落合まで行かせとるが、届出の日付から推すと、どうもこれは前の経営者らしいなあ。つまり、名義変更もせずに、竹田さゆりは、モグリ営業をしているらしいんだ……」
「うーん、畜生!」
西岡は、頭をかかえた。
だが、深見奈津子という女性から、竹田さゆりが店の譲渡権利を買うとき、不動産屋が立ち会っている筈である。彼は、新宿の〈緑川商事〉の名刺を探して、電話した。
「さあ……うちは、ただの仲介ですからね。売買契約書の控えなんか、ありませんよ。そんなことなら、登記所へ行った方が、早いんじゃないですか……」
〈緑川商事〉の方では、そう教えてくれた。
西岡は、とつぜん強烈なパンチを食って、目が醒めた思いであった。大切なことを忘れていたのである。
バー〈A&B〉の権利は、四百五十万円だったという。そんな高額な店舗を買う以上、誰しも権利の保存登記をするのが、当然ではないか。しかも、登記には、印鑑証明が必要なのである。保健所の届けのように、他人の名義を使うバカはいないのだ……。
〈なぜ早く、そのことに気づかなかったろう!〉
彼は次長に、渋谷区の登記所へ行ってくると告げると、社を飛びだした。まもなく、北川謙一と、日の丸物産社長とが、社にやってくる時刻だけに、西岡は焦っていたのである。
代官山の登記所で調べてみると、竹田さゆりは、四月に住民登録を東京に移し、渋谷区役所で印鑑証明の交付をうけていた。
……渋谷区代々木山谷町一九××番地、という住所をメモしながら、彼の手は震えた。
やっと、突き止めたと思ったのだ。その代々木山谷町に、新発田六助と竹田さゆりは住んでいる! 彼は、そう信じた。
だが、車をとばして調べてみると、その該当番地には、〈新発田〉という家も〈竹田〉という家も、存在していなかったのである。
仕方なく交番に行って、調べて貰うと、たしかに去年の四月ごろ、竹田さゆりという女性は住んでいたという記録があった。その居住者名簿によると、彼女が住んでいたのは、〈山桂荘〉というアパートだった。
「えツ? アパートですか?」
三千万円もの大金を、手に入れている新発田は、家ぐらい買っていると、西岡良吉は早合点していたのである。
〈山桂荘〉は、広い環状道路から、道を入った突き当りにあった。このあたりは、谷が多いが、どうもその斜面を切り拓いて、建てられたものらしい。
西岡は、玄関をあけた。
すぐ右手に階段があり、左手に郵便うけが並んでいた。十部屋ぐらいあるらしいのだが、その郵便ポストの名前をみても、〈竹田〉というネームはない模様である。
〈変だな?〉
彼が、首を傾げていると、階段の入口にある管理人と書かれたガラス戸があいて、
「どなた?」
と、一人の男がのぞいた。腰が悪いのか、戸に手をかけたまま、及び腰になっている。
「あのう……こちらに竹田さんという方が……」
西岡は、知らず声が低くなっていた。
「なんですか?」
彼は、管理人の耳に、口を近づけた。
「ああ……」うなずいた管理人の老人は、しょぼしょぼと口を動かして、こう宣告したものである。
「あの方なら、去年の夏ごろ、引越してしまいましたよ……」
「ええ? 引越した!」
「ええ、引越されました」
「行き先は? どこへ越したか、わかりませんか!」
彼の声は、途端に大きくなる。
「さあ。判りませんが……」
西岡は唇を噛んで立ち竦んだ。地団太を踏むとは、このことである。住民登録を移して、印鑑証明をとると、敵はそのまま、行方をくらましたのであった。
おそらく区役所の出張所に行ってみても、住民登録は、そのままであろう。きっと悪がしこい新発田のことだから、転出届など出していない筈である。
西岡は、郵便物の転送願いが出ていないかと、一縷《いちる》の希望を託して、配達課に問い合わせてみたが、それも無駄だった。
管理人の爺さんの話では、引越しのとき、二トン積みの三輪トラックが来たというので、西岡は編集部に電話して、佐竹と池内の応援を求めた。
その界隈の運送店に、
「去年の夏ごろ、代々木山谷町の〈山桂荘〉から、竹田という女性の荷物を、運んだことはないか」
と聞いて廻る作戦以外に、相手の行方を探しだす方法がなくなったのである。
山谷町から初台、幡ケ谷本町、笹塚町……という風に、三人の記者は、各町の運送店をシラミ潰しにあたった。
でも、午後三時になっても、〈山桂荘〉八号室の住人の、荷物を運んだという運送店は探しだせなかったのである。
「どうします?」
「運送店に、口留めしてあるんじゃないですかね?」
と、二人の部下も、暗い表情をしていた。
西岡とても、思いは同じである。
目の前に不意に厚い巨大な壁が、立ち塞がった感じである。窒息しそうなほど、底知れない絶望が、彼らを虐みはじめていた。
「きっと、引越し先の近くから、三輪トラックを雇って来たんだろうな。引越し先をわからせないようにするには、これが一番の方法だ……」
西岡は、疲れた二人の部下と共に、車の中で一息ついた。動くのも億劫なほど彼は疲労し切っていた。
これから先、どうして探し出せばよいのか、自分でも見当がつかない。
〈グリーン・スター交通〉には、調査を依頼してあるが、運転手の引き抜き合戦が激しく行われている昨今では、その運転手が動いてしまえば、どうにもならない。また、ホテル〈重富荘〉に駈けつけた運転手の名前が判明しても、アベックの行き先を記憶しているか、どうかは疑問である。
〈仕方ない。今夜、尾行することにするか――〉
そう決心して、運転手に、会社に帰るように命じたときだった。彼の目に、なにげなく電気屋の店先から、一台のテレビが小型オート三輪車に運び出される風景が映った。
西岡は、それで自分のアパートの、トランジスターラジオの電池が切れていたことを思いだし、それから俄かに目を輝かせた。
「いや、もう一度、〈山桂荘〉に帰ってくれ!」
……それは、修理ずみのテレビを、店員が配達に出かける風景を目撃して、もしやと思いついたのである。
彼は、環状道路で車を飛び下りて、アパートの管理人室へと走って行った。
「ああ、竹田さんばかりでなく、このアパートの人は、近くの大沢電気商会を使っていますよ……。電話一本で、すぐ来てくれますしねえ」
管理の老人はそう言って、八号室の竹田さゆりが、大沢電気商会から、電気洗濯機とテレビを買ったことを、思いだしてくれた。
その電気屋は、初台の駅から、甲州街道へ抜ける右手にあった。西岡は、〈だめかも知れない〉と心の中で思いながら、その明るい店先を入って行った。
でも考えてみると、こんどの取材では、なんどそう思ったか知れないのである。〈だめかも知れない〉〈やはりだめだろう〉という、不安と期待のない混った、予感の連続だった……。しかし、もう大詰めに来ているのだ。
「つかぬことを、お伺いしますが――」
西岡は、名刺をとりだしながら、店の主人らしい温厚そうな人物に一礼した。そして、来意を告げた。店主は微笑しながら、大きく頷いた。
「ああ、竹田さんの引越し先ですか? 縮れ毛の旦那さんとご一緒の――」
「そうです!」
西岡は、息が詰りそうになった。足の爪先が震え、背筋が硬ばった。
「あの方なら……待って下さいよ? たしか青山の墓地下のあたりです。よくテレビが故障したとか、蒸気アイロンが壊れたとか、お叱りばかり来ましてね……」
店主は、住所ばかりでなく、丁寧に地図まで描いてくれたのである。
〈勝った! 勝ったぞ!〉
西岡良吉は、その地図を手に、なんどもお礼を言ってから、外へ駈けだした。喜びのあまり彼は、踏み切りを渡って走ってきたスクーターに、危うくはね飛ばされるところであった。
彼が考えた通り、竹田さゆりは、女らしい細かさで、買い入れた電気屋に、テレビや洗濯機などの修理を、命じていたのである。
いわば〈アフター・サービス〉の特典が、知恵をふりしぼって転居先を不明にした筈の、新発田六助の計算をゆるがしたのだ。
女性は細かいところにケチだと俗にいわれているが、新発田六助の、この完璧に近い知能犯罪を、白日のもとに曝《さら》けだすきっかけとなったのは、実は、竹田さゆりの、本人すら気づかない、その小さな吝嗇《りんしよく》にあったということは、皮肉な結果である。
第十一章 逮 捕
一
――編集部の電気時計が、午後七時をさし示した。外はもう、すっかり夜だった。そして銀座には、赤や、青や、黄や、とにかくさまざまな色彩と、意匠をもったネオンが、明滅して夜を謳歌しはじめている。
「そろそろ、電話してみますか」
捜査第一課の矢野刑事が、催促するように言った。
「そうですね」
西岡良吉と北川謙一とは、顔を見合せた。なにかを祈りあうような瞳の色が、お互いのあいだで確認される。二人の顔は、緊張のため、蒼白く硬ばっていた。
「よし。かけるぞ!」
決心したように、そう言うと白石は、机の上の受話器をとって、ダイヤルを廻しはじめた。バー〈A&B〉に、電話する為であった。
同じく一課の佐藤刑事と並んで、日の丸物産の山崎社長が、その彼らから、少し離れた編集長の席で、心細そうな表情をしている。
代々木初台の電気屋から、竹田さゆりの現住所がわかったので、直ちに佐竹と池内とを、張りこみにやらせる一方、予定通り山崎社長は、警視庁に告訴したのであった。
告訴すると、山崎浩市はただちに、被害調書をとられて、さっそく新発田六助に対する逮捕令状の請求が地検に提出された。それで、裁判官は令状を発行する手続きをとってくれるわけだ。
……こんなケースを、刑事仲間では、〈ひきネタ〉と呼んでいるが、ある大きな犯罪で検拳したいと思っていて、しかし確証がつかめない場合に、交通違反とか、寸借サギなどの拘留のつきやすい罪名で、容疑者を引いてくるのであった。そうして、拘留して取調べながら、事件の核心にふれてゆくのである。これを、〈ひきネタ〉でパクる、などと称するのであった。
新発田六助の容疑は、実際には万年あけみに対する殺人事件である。しかし、さしあたっての確証もないので、山崎社長からのサギに対する告訴状をとり、それを〈ひきネタ〉として、一課の刑事が逮捕してくれるわけであった。サギは、ふつう二課の管轄だが、背後に殺人事件があることを、白石次長がほのめかして、一課の協力を求めたわけである。
このような次長の、事前の連絡があったので、すぐ一課の刑事は、ウイークリー編集部にかけつけて来てくれたのである。
警察では、サギ容疑で、ただ新発田六助を連行すればよいのであるが、西岡たちの狙いは別にある。
……それは、竹田さゆりであった。
そこで、彼女がバーに出勤するのを待ち、墓地下の〈愛の巣〉が、襲われることになったのである。そして、六時三十分ごろ、アパートの張り込みをしている佐竹たちから、彼女が出かけたという報告が、編集部に届いたのだった。
「やあ、〈A&B〉かね? うん、マダムいるかな?」
白石次長は、落着いた声で話しだした。すでに竹田さゆりは店に出ていたらしい。
次長は、矢野刑事に、目でうなずいてみせた。
「……いや、別に用でもないんだが、例の写真ができたんで、届けようと思ってね。なかなか美人に撮れてる。うん……そうだなあ。昨夜の今夜じゃ、気がひけるが、ちょっと覗くよ。うん……うん……」
白石は、適当に冗談をはさみながら、やがてその電話を切った。そして、昂奮を鎮めるように、頬のあたりを掌でなんどか撫で廻してから、力強く周りを見渡した。
「よし、出発だ! 矢野さん、一つ頼みますよ。いういろと余罪のある男だから、先が楽しみですな……」
矢野刑事は、附近の見取図をかき、パトカーを停める位置や、佐竹と池内の二人の記者が、張りこんでいる場所をたしかめて、
「では、最初に山崎氏にドアをノックさせます。新発田が出てくる。……彼がそのまま、山崎氏を招じ入れたら、私たちが入って連行を求めます。いいですね?」
と、作戦を指示しはじめた。
「もし、逃げたら?」
北川謙一が言った。
「いや、逃げられない。裏は深い崖と墓地になっているし、この横の窓から飛び降りる危険性があるだけだ。……あるいは、突きとばして表から逃げるか……」
西岡はまだ明るい頃、そのアパートの附近を見てきていたが、おそらく新発田は逃げないだろうと確信していた。あれだけの、知能犯罪を巧妙にやってのける男である。逃げれば、逆に怪しまれる材料をつくることを、知っているに違いないのだ。
社の外では、一台のパトロール・カーと、二台の乗用車が待っていた。
新発田六助を、とにかく逮捕して貰わねば困るのだ。逃亡されては、今までの苦心が、水の泡である。
暗くなった街を三台の車は、六本木に向けて走りはじめる。車の中では、誰も口を利かなかった。
警視庁の刑事の協力で、犯人を逮捕させ、特集記事を仕立てることなど、創刊以来はじめてのケースである。それだけに白石も、北川や西岡も、緊張していたのであった。
暗い青山墓地の中で、三台の車は、ゆっくりパークした。そして人々は、黙りこくって車の外へ出た。
「山崎さん。ご面倒なことをお願いして、申し訳ありませんね」
西岡は、痘痕《あばた》面《づら》の社長に言った。
「いいですよ。あんな悪い奴を許しておいたら、熊本県人の名折れになりますよって――」
山崎浩市は、頬の肉をピクピク痙攣《けいれん》させている。西岡は、山崎社長と肩を並べた。
その墓地下のアパートは、四戸建の、長屋式のアパートだった。だから、独立家屋が、上下に二軒ずつ並んでいるような感じである。
鉄の手すりのある、コンクリートの階段を昇って、ベランダを兼ねた廊下の突きあたりの奥のドアが、竹田さゆりと新発田六助の〈愛の巣〉であった。階下の家は、玄関燈がついているのに、留守のようである。
気配をさとって、佐竹が足音を忍ばせながら、到着した一行の方にやって来た。
「奴さん、いますよ。テレビの音がしています!」
西岡は、硬《こわ》ばった顔をさらに緊張させた。
刑事たちは、うなずいた。アパートは、高台の墓地の中腹に建てられている。東側の出窓のあたりに、人影が動いているところをみると、まちがいなく新発田は在宅していた。
二人の刑事は、靴をぬぎ、そっと二階へ昇って行った。そして、ドアの影になる部分に貼りつく。靴をはくと、矢野刑事が小さな懐中電燈を明滅させた。
コツ、コツと靴音をひびかせて、山崎社長が昇ってゆく。そして、〈竹田〉と名札の出たドアを、力強くノックした。中からは返事がしない。
テレビの音が消え、電燈が消えた。そして窓をあけて、外をのぞく気配がしている。西岡は、舌をまいた。用心深い男だと、知ったからである。
山崎は、またノックをくり返した。
玄関の電燈が点いた。
「どなた?」
低い女性的な声だった。
「わしや。山崎や……」
「ええ?」
鍵をはずす音がした。そしてわずかにあいた隙間から縮れ毛の、派手なセーターを着た男が顔を覗かせた。
「ああ、山崎さん……」
相手は、さすがに驚いたらしい。
「中に入らせて貰っても、ええかい?」
新発田は、ためらいがちに頷いた。山崎社長が、ドアをひらくのと、二人の刑事が入れ代って飛びこむのと同時であった。
「新発田六助だね? サギ容疑で、署まで同行を求める」
矢野刑事の大きな声が、アパートの外に待機している人々の耳に、はっきり響いた。
あとで聞くと、新発田は、逃げようとする素振りを一瞬みせたが、すぐあきらめ、
「用意しますから、待って下さい」
としごく神妙だったそうである。
おそらく彼は、日の丸物産から、千三百万円あまりの借金の支払いの件で、山崎から告訴されたのだと、甘く判断したのであろう。だから逃げなかったのだ。もし、自分の容疑が殺人だと知っていたら、逃亡を企てた筈だった。
まもなく、二人の刑事にはさまれて、新発田六助の長身が玄関の光に照らされて現われた。背広をつけ、きちんとネクタイまでしめているその姿は、夜のせいか堂々と見えた。
その横顔をみると、あのような知能犯罪も、凶悪な殺人事件も、全く彼には無縁であるかの如く思えた。
西岡たちは、刑事の指示通り、物蔭にかくれたまま、パトカーに乗せられる容疑者を見送ったのである。
十分後に、またパトカーは引き返して来た。
新発田の身柄は、とりあえず近くの麻布署に預けて来たらしいのだが、署に入って留置取調べを申し渡されると、電話をかけさせて欲しいと言いだしたのだという。
「うっかり、警官が許したんですね。まァ、拒否する理由も、ないわけですが」
残念そうに矢野刑事は、舌打ちしていた。
「すると……竹田さゆりが、戻って来ますよ、きっと!」
西岡は、新発田が〈A&B〉に電話を入れたのだと直感した。「いま、麻布署に連れて来られた……」といっただけで、相手には通じるのだ。
「竹田さゆりって、誰です?」
佐藤刑事は言った。
「標札は竹田だったでしょう? あの男の彼女ですよ」
北川が説明した。
一行は、しばらくその位置で、どうするかを相談した。刑事たちは、万年あけみ殺しのことをくわしくは知らないので、情婦はサギ事件に無関係だと思っている。それが西岡たちには、困るのだった。
「仕方ないな……」
白石次長は、決心したらしく、手短かに千駄ケ谷の女給殺人事件のことを、一課の刑事に語った。
「ですから、私たちの狙いは、東田迪夫という銀行員の無罪を証明することにあったんですよ。そして新発田の情婦も、その殺人事件の共犯者なんです……」
矢野、佐藤の両刑事は、愕然となった。
「もしかしたら、竹田さゆりは、渋谷のバーから、そのまま逃走するかも知れません。私は部下をつれて、渋谷へ行きます」
白石は、てきぱきと話をきめ、矢野刑事と、西岡と北川の二人を現場に残して、渋谷へ急行して行った。
二
夜になると、流石に外は寒かった。思わず足ぶみしたくなる。三人は肩を寄せあうようにして、アパートの物蔭に、佇んでいた。
矢野刑事は、竹田さゆりの帰宅を待つあいだ、ポツリ、ポツリと二人から事件の全貌を聞いて、
「凄い知能犯だ……」
「天才じゃないかな」
などと感嘆している。正直にいって、この一課の刑事にも、まだ、それが真実だとは信じられないような風情である。完全犯罪という言葉があるが、それは小説の上だけで、現実に起り得るとは考えてもいなかったらしいのだ。たしかに、新発田六助は犯罪の天才だった。
次長たちと佐藤刑事が、渋谷に急行してから一時間近くなるのに、どうしたのか、竹田さゆりも帰宅せず、またパトカーも連絡して来なかった。
三人は、不安になりはじめた。
新発田は、情婦に連絡したのではないのか? もし、そうだとすると、竹田さゆりは、店から駈け戻って来なければならない筈なのである。二人は、冷えのせいもあって、いらいらした。
だが、あとできくと、竹田さゆりは、そのとき常連の客と、新しく開店した近所のクラブに出かけていたのであった。それで、電話をとったバーテンは、彼女が帰ってくるまで、連絡できなかったのである。
そのバーテンの報告をきくと、彼女は、血相を変えて、店を飛びだし、タクシーを拾った。そして真ッ直ぐ、墓地下のアパートに帰ったのである。
外で待機していた次長たちは、それを目撃して、やっと安心したということだった。彼女は、尾行されているとは気づかないのか、タクシーの中で、一度も後をふり向かなかったそうである。
「あ、帰って来た!」
北川の声で、三人は首をすくめた。タクシーが停まり、和服姿の竹田さゆりが、青白い横顔を、街灯にくっきり浮き上らせて、道へ下りたったのだ。
「お釣りは、いいわ!」
そう言い捨てると、バタ、バタと草履の音をひびかせて、彼女は階段を昇って行った。なにか急いではいるが、新発田が、警察に連行されたことを知っているだろうに、さほど警戒もしていない様子だった。
〈なにかを始末しに来たんだな?〉
西岡はそう思ったが、案の定だった。
ドアの鍵を、ガチャガチャ言わせると、竹田さゆりは家に飛びこんでゆく。そして押入れのフスマの戸があけられるような物音が聞える。
血気にはやって、西岡が飛び出そうとした。それを一課の刑事は、手でそっと制した。
「どうしてです?」西岡は不服だった。
「まあ、見てなさい」
刑事が低くささやいた。
やがて、紙包みをつくる音がして、ドアがあくと、また竹田さゆりの姿が出て来た。こんどは、すぐには階段へと歩かず、ちょっと周囲を見廻している。女の荒い息づかいが、妙になまなましく、夜気を震わせて聞えた。草履の音が、ゆっくり響きはじめる。階段を下りてくる和服の裾が見える。女が、地面に下り切ったところを見澄まして、刑事はとびだした。
「警視庁の者です」
「ああッ!」
女は大きくのけぞった。逃げるというより、不意討ちに駭いたような恰好だった。その瞬間、手にしていた紙包みが下に落ち、ばさりという大きな音を立てた。
「竹田さゆりさんですね?」
女は答えず、低く喘《あえ》いでいる。
「そ、そうでっけど……」
「ちょっとお話を伺いたいことがあります。署まで来て頂けますか?」
「あのう……家では、いけまへんか」
怯え切っているせいか、竹田さゆりは大阪弁になっていた。なにを考えていいのか、自分でも判らない様子である。矢野刑事は、ちょッと考えてから、うなずいた。
「まあ、いいでしょう。さ、どうぞ――」
紙包みを素早く、西岡は飛び出して拾った。竹田さゆりは、一緒にいる男が、昨夜、店にきた彼だと知って、眉を曇らせた。
「さ、どうぞ――」
刑事に促されて、竹田さゆりは、観念したように、階段を昇りはじめた。ためらい、戸惑い、そして思い迷っているような、重い足どり。
彼女を先頭にして、三人はアパートの室に入った。香水かなにかの、柔かい匂いがしている。
アパートの中は、八畳の洋間に、六畳の日本間だった。台所も広い。家賃は優に三万円を越えるだろう。そして台所には、電器製品がズラリと並んでいた。
「あのう、何のご用でっしゃろか」
竹田さゆりは、襖のあけたままになっている押入れを横目で気にしながら言った。
「先ず、この包みを改めさせて貰いましょうか」
刑事は、西岡から紙包みをうけとって、ゆっくり縛ったヒモをほどいた。慌てて包んだらしく、紙ヒモは縦横無尽といった感じで、ぐるぐると巻きつけられてあった。いかにも、急いで始末するという工合である。女の感情の起伏が、にじんでいるようで憐れだった。しかし、西岡には開けなくても、なにが入っているのか、判っていた。
新聞紙の中からは、赤いコートと、赤のハイヒールが出て来た。
「ほう? これは?」
矢野刑事は怪訝そうに言った。
「友達にやろう思うたんです……」
硬ばった表情で、竹田さゆりは急いで答える。西岡は笑った。
「嘘でしょう? 始末するつもりだったんでしょう? 埋めるとか、捨てるとか――」
竹田さゆりは、一瞬、鋭く目を光らせた。
「よく見て下さい。まだ新しいのに、誰が捨てるもんですか!」
「これ、マダムのですね?」
「……ええ」
竹田さゆりは、曖昧にうなずいた。
「本当ですか?」
「嘘はいいまへん」
「では、この靴……はいてみて下さい」
ずばり、と西岡は言った。矢野刑事は、わけのわからぬ表情である。
「はけますか?」
「もちろんどす。でも、なぜ?」
「それを聞く前に、ちょっと履いてみて下さい。多分、神戸のシカゴ商会で誂えた、白のエナメルの靴のようには、行かないと思いますがね……」
その彼の言葉で、竹田さゆりは、突然、体をぶるぶると震わせはじめた。今は恐怖と、不安と、混乱とに包まれている。
「どうです? ホテルから履いて帰ったぐらいだから、無理すれば履ける筈ですがね?」
女は小鼻をふくらませて、大きく喘いだ。懐疑に塗りたくられていた表情は、いまや混乱と絶望とに満たされている模様である。鼻翼が、きゅッ、きゅッと収縮し、唇と目は凍りついていた。美人だけに、その表情はひどく凄艶なものとして、三人の目に映った。
「それとも、ホテルに残した、ご自分の白エナメルのハイヒールを履いてみるのなら、取り寄せますよ?」
「な、なんのこと、かしら……」
女は、歯をガチガチ鳴らせた。それが精一杯の言葉であった。反抗であった。
「とぼけなくてもいい。可哀想に、あなたに誘惑されて、ホテルに泊りに行った銀行員は、いま小菅の拘置所にいる。新発田六助と、あんたの罪をかぶってね」
――その北川謙一の、きめつけるような言葉をきくと、女は矢庭に立ち上って逃げ出そうとした。北川が、自分が神戸の街でやられた要領で、さっと右足をとばした。竹田さゆりは、大きな音を立てて床に倒れた。
矢野刑事に腕をつかんで身を起されると、彼女は泣きながら、体を左右に大きくふって、いやいやをした。なにかが崩壊したことを悟った、そして空恐ろしい記憶が甦った証拠である。そして女は、号泣しつつヒステリックに叫んだ。
「知らない! 私は、なんにも知らない……みんな、あの人がやったことだわ!」
西岡良吉と北川謙一とは、思わず、お互いの顔を見詰めあった。二人の三週間の苦労は、ようやく実ったのだ。酬いられたのである。二人は抱きついて、本当は「バンザーイ」と、叫びだしたいところであった。
三
警視庁に連行された竹田さゆりは、その翌日の午後、万年あけみ殺しの共犯者であることを認めた。西岡と北川のカンは、狂わなかったのである。
……それとも知らず麻布署に留置中の新発田は、サギの事実すら頑強に否定しているそうであった。二人を別々に拘留して訊問するなど、警察も、なかなかイタズラをするものである。
竹田さゆりの自供によると、新発田六助はやはり、万年賢一郎を殺して、あけみと一緒になると約束していたらしい。
あけみはその男の言葉を信じて、金策に力を貸し、夫に彼を紹介して〈万年丸〉に乗り込ませたのだった。ところが、ステンレスの商売をすると偽っていたが、実は新発田六助は、万年船長を殺害するのは二の次で、積荷のすりかえと、保険金サギという、一石二鳥の知能犯罪を計画していたのである。
犯罪はスムーズに運ばれた。そうして二千六百万円の金が、予定通り、一カ月後には彼の手に入ったのだ。新発田は、金をにぎると、竹田さゆりと東京へ逃げた。まさか、あけみが探してまでやって来ないと、考えていたのであろう。
ところが執念ぶかく、女は東京まで追ってきた。ダンス狂で、しかも大金を握った彼が、必ず盛り場のキャバレーに現われると信じて、女はキャバレーを転々としながら、男を探し求めていた。〈大久保千代〉と偽名を使ったのは、夫を殺害したという罪の意識と、男に気づかれまいとする用心のためだったという。そして今年の夏、再会。あけみは新発田六助に、
「よくも人を欺したわね。警察に、夫を殺した犯人だって、密告するわよ」
と、脅したのであった。
それで新発田は、自分の過去の古傷を知りすぎている、万年あけみを消す必要を感じたのである。
彼は女に店を買ってやると、池袋や新宿の不動産屋を連れ立って歩いたりして、安心させる一方、新発田は殺人の計画をねった。
その完全犯罪のヒントを与えたのは、ホテル重富荘の、ボタン・ロック式のドアであった。
『室を出るとき、ボタンを押してお締めになれば、鍵をかける必要はありません。内側から閉めるときも、ボタンを押せば鍵がかかります』
というプラスチックの文字板が、ドアの内側にとりつけられてあるのを見たとき、彼の心に、二組のアベックが、女だけすり替る……というアイデアが浮かんだのである。それは神戸港で、百四十梱包のベニヤ板と、ステンレスを交換したトリックが、基礎になっていたのかも知れない。
つまり、あらかじめ〈菊の間〉を予約しておく。そして夕方、新発田は、赤いコートに赤い靴をはかせ、目立つ服装をした万年あけみと一緒に、向い側の〈松の間〉に入るのである。
――一方、竹田さゆりは、新宿の街で、適当な〈犯人〉を探し求める。そのメガネに叶ったのが、不幸な東田迪夫であった。
彼女は、酔った男を連れて、予約してあった〈菊の間〉に入る。女中には、チップをやって、朝一緒に起して欲しいと頼んでおく。
向いの〈菊の間〉に、客が入ったのを合図にして、新発田六助は、あけみを誘って風呂に入る。そしてシャワーを全開にしておいて、女の頸を絞め、殺害したのであった。
竹田さゆりは、東田にサックを使うことを要求し、行為のあと、麻薬入りのタバコを与えて眠らせてしまう。そして、サックに残った精液を、注射器に吸いとる。
――これで準備完了である。
ドアの鍵は、外からのみ必要であって、内から外に出るのには、一向にさしつかえない。
竹田さゆりは、東田が眠っていることをたしかめて、彼の背広の内ポケットに、五十万円の札束を入れる。そして、新発田の待っている〈松の間〉へ入ってゆく。
新発田は、あけみの死体を丁寧に拭き、浴衣を着せて待っていた。(浴室を殺人場所に選んだのは、絞殺するとき、女が失禁する恐れがあったからである。また、悲鳴を、シャワーで消すつもりであった)
二人は、足音をしのばせて、〈菊の間〉のベッドに、万年あけみの死体を運びこんだ。そしてコートを残して下着類や洋服をとり替えた。
新発田は死んだあけみの膣に、注射器をつかって、用意してある東田の精液を注入した……。
これで死体――いや、女の入れ換え作業は、完全に終ったのである。
そのあと、午前四時すぎに、万年あけみの赤いコートを着て、黒メガネをかけた竹田さゆりは、情夫と共に〈松の間〉の客に、なりすまして帰って行ったのである。
警察でもうっかりしていた、ホテルに残された靴のことも、新発田はちゃんと計算していた。ただ竹田さゆりは、どうせホテルに捨ててくるものならばと、古い白のハイヒールを履いて出かけたのである。そして万年あけみの赤い小さな靴を、顔をしかめながら履いて帰った。
その古い、イタリアン・カットの靴は、神戸時代に彼女が、〈シカゴ商会〉で誂えたものだった。そのため、勤め先だったキャバレー〈ナポリ〉が割れ、彼女と彼の素姓も、割れてしまったのである。
いわば、竹田さゆりの吝嗇《りんしよく》が、引越し先の墓地下のアパートをわり出させたように、この場合にも、彼女の女らしい吝心が、すべてを暴露するキッカケとなったのだった。
もし竹田さゆりが、デパートで新しい靴を買って履いていたら、おそらく東田迪夫の無罪は、証明できなかったであろう。
……ただ、判らないのは、なぜ彼女が、自分にはけぬ赤のハイヒールと、赤のコートとを、処分せずに納っておいたかである。彼女が、それを処分していれば、なにも慌てる必要はなかったのだから……。
西岡良吉と、北川謙一の二人は、手わけしてまる一日ががりで、その特集記事を書きまくった。警察の好意で、〈ウイークリー・東京〉の発売日までは、この事件は、公表されないことになっている。ある意味で、警察は黒星を一つつけたが、それは新発田六助という男の知恵の勝利だったともいえた。
また、その知恵も、共犯者である竹田さゆりによって、敗北の端緒をつくったのである。
万年船長の殺人も、そして多分、あの風変りな刺青師・風巻伝次の殺人も、新発田六助によって行われたのであろう。なぜなら、竹田さゆりは、新発田がある日、「どうも気がかりだから」と言い残して、関西へ行ったと証言しているのだ。それは、風巻伝次が行方不明になる、二日ほど前のことだった。
その自供は、いずれ時間の問題だと、警視庁では見ていた。北川も、西岡も、またそれを信じていた。
二十二頁のワイド特集というと、四百字詰の原稿用紙で、ざっと正味百枚である。しかし、二人の記者には、千枚も二千枚も書くことがあるような気がした。
それを書くときは、スクープだという功名心も、長い三週間の取材の苦労も、二人の念頭にないかの如くであった。
〈了〉
初出誌
週刊文春/昭和三十五年十月十日号〜
昭和三十五年十一月二十八日号
単行本
昭和三十七年十一月、加筆して文藝春
秋より刊行
底 本
文春文庫 昭和五十四年一月二十五日刊