梶山季之
女の警察
ある追跡
……鎌倉は、暖かい陽ざしに恵まれていた。
休日でもないのに、カメラをぶらさげた若い男女が、目を瞠《みは》るほど多く、ぶらぶら歩いている。
篝《かがり》正秋は、そんな平和な風景に、冷たい視線を送って、ゆっくり煙草屋の前を離れた。
彼の足は、煙草屋のお婆さんが教えてくれた方角に、向けられている。
〈瑞泉《ずいせん》寺、か……〉
篝は心の中で、そんな意味のない言葉を、繰り返した。
瑞泉寺は、夢窓国師がひらいたと伝えられている禅寺であるが、鎌倉名物の大仏ほどには世間に知られていない。
小さなせせらぎに沿って右に折れると、道は次第に狭く、ゆるやかな登り坂になってゆく。
椿《つばき》は、散り、白い木蓮の花が、咲きかかろうとしていた。
篝は、ことさら大股《おおまた》に、しかも一歩一歩、踏みしめるように歩いてゆく。別に疲れていたわけではない。ただ、気が重かったのである。
瑞泉寺ではその日、篝の大学時代の友人の、納骨式が行われることになっていたのだ。
優秀な才能をもった友人だった。
彼とおなじく、仏文科であったが、親しくなったのは、ある同人雑誌に関係してからである。
篝は、事情があって、大学を中途退学したが、その友人は卒業後、有力な出版社に入っていた。二人は珍しく、しばしば顔を合わせる機会があった。篝が、あるキャバレーに勤めていた為である。
一カ月ほど前、その友人は、自動車事故で死んだ。
篝は、通知は貰ったが、通夜にも告別式にも行けなかった。
それで、せめて納骨式にでも……と思って鎌倉を訪れたのである。
瑞泉寺は、鎌倉市のはずれの山の手にあった。すりちびた石段を昇ると、小さな門があって、入ると左手に鐘楼がある。散りかかった梅の花が、馥郁《ふくいく》と咲き乱れている姿が、篝の眼に写った。
おそらく夢窓国師の弟子が、精魂こめて造園したものであろうが、京あたりにある岩の多い庭組みと違って、樹木を主体にしたところが、なんとなく好ましい。
篝は、梅の木の間を歩きながら、〈やっぱり、来てよかった〉と思った。彼のように、複雑な、神経を使う仕事をしている者も、またとあるまいが、それだけに早春の暖かい陽ざしに包まれた禅寺の庭は、心のやすらぎを与えてくれるのである。
だが、篝はたちまちにして、心のやすらぎを奪われていた。
本堂での式が終ったらしく、白い骨箱を胸に抱えた、友人の未亡人が、双方の両親ともども姿をみせたからである。これから、墓地へ納骨に向かう処《ところ》らしかった。
篝は慌てて目礼し、まもなく親戚《しんせき》関係の人々の群に従った。
庭を横切り、竹藪《たけやぶ》のある小径《こみち》をだらだら下ったところに、墓地はあった。
鬱蒼《うつそう》たる竹藪が、その窪地《くぼち》の墓の群を、彎曲《わんきよく》した形でとり巻いている。墓地には、かなり強い風が吹き溜《たま》っていた。
墓掘り人足は、無表情に未亡人から遺骨を受けとり、石の蓋をあけて、その壺を納めるのだった。篝は、友人の名前を呼び、〈さようなら……〉と心の中で呟《つぶや》いた。
死というものは、いつ襲ってくるか、図り知れなかった。
篝は旅先で、その玖島《くじま》太郎という友人の死を知ったのだが、会社の同僚から、電話でそれを教えられても、暫《しばら》くは信じられなかった。旅に出る前日に、玖島とは会っていたからだった。
交通事故というので、彼は突然の死を納得したが、でもなぜか篝は気になった。
玖島は、大学時代に車の免許をとっていた。篝もときどき、友人の車に乗せて貰って、自由ヶ丘のアパートまで送って貰ったことがある。篝は三十二になるのに、未《いま》だに独り暮しであった。
遺族のあとに親戚、知人がつづいて線香をあげた。
黒の喪服に身を包んだ未亡人は、四歳になる男の子を抱いて、声もなく泪《なみだ》で頬を濡らしている。
篝は、墓の前から立ち去り難い風情の、未亡人に近寄って、
「奥さん。さあ、行きましょう」
と言った。
玖島千代子は、篝を夫の悪友だ……と思い込んでいる一人である。篝が、銀座でクラブやキャバレーを経営している、〈暁興業〉に勤めているからだった。
どうも世間の人は、とかく水商売だというと、白い眼で見勝ちだった。篝には、それが不満でならない。
クラブとか、キャバレーとか言っても、ホテルや旅館とおなじく、サービス業の一種なのである。
しかし、ホテルに勤めている人間と、キャバレーに勤めている人間とでは、あきらかに世間の評価は違うのであった。
「さあ、もう泣かないで」
彼は、未亡人の手から、雪夫という友人の遺児を抱きとり、
「仕事で、葬式にも行けず、失礼しました」
と、低い声で詫《わ》びを言った。
玖島千代子は、その挨拶には応じないで、
「篝さん、あとで話があります」
と、きっぱりした口調で言った。
「あとで話……。なんでしょう?」
篝正秋は、怪訝《けげん》そうな顔になる。
「夫は……玖島は、殺されたんです!」
未亡人は、そう叫ぶと、やにわに彼の胸に倒れ込んできた……。
納骨式のあと、本堂の脇にある別室で、心ばかりの食事が出た。
彼と同じように、遅れてやって来た、大学時代の友人が二人ほどいた。
篝は、屈託なく挨拶したが、先方は大学を中退して、水商売の世界に入っている彼を、どことなく敬遠したがっているようであった。それが篝には、敏感にわかるだけに、なんとはなしに後めたい気持になる。
〈ふん、どうせ俺とは、住む世界が違うと言いたいんだろう。その通りだよ……〉
篝は自嘲《じちよう》しながら、隅っこの膳の前に坐って、冷や酒を飲んだ。
二合|瓶《びん》が残り少くなった頃、玖島の父親が、どことなく悄然《しようぜん》と彼の傍《そば》に来て、
「篝さん……よう来て下さった」
と、よろめくように坐り込んだ。
篝正秋は礼儀正しく、悔みの言葉を述べた。玖島の父親は、タクシー会社を経営していて、なかなかの遊び人だった。たしか愛人も二人いて、一人は銀座で酒場をやっている筈である。
これは篝しか知らない秘密らしいが、もう一人の愛人はアパートを持ち、子供が一人いる様子であった。つまり、死んだ玖島の、異母兄妹がいるわけである。
「わしはなあ、もう働く気がせんわい……太郎だけが、わしの生き甲斐《がい》じゃったのになあ……」
玖島の父は、教養がなく、また街の雲助といわれるタクシー会社をやっていることを、愧《は》じているような所があった。それで格別、篝正秋には親しみを感じているのでもあろうか。だとしたら、それは篝にとって、迷惑なことではあったが……。
「わしは、会社を売ろうと思うとる」
ポツンと玖島の父は言った。
「なにを仰有《おつしや》いますか。雪夫ちゃんが、いるじゃあないですか」
篝正秋は、慰めるではなく、半ば揶揄《やゆ》するように言って退《の》けた。本当は、腹違いの子供がいるじゃあないですか……と言いたかったのである。
「いや、本気なんじゃ。近いうちに、あんたに相談に乗って貰うかもしれんでよ」
玖島の父は、帰る客を引きとめるために、立ち上って去って行った。
酒が出ているのに、お客の気勢はあがらなかった。一つには、双方の親戚の質が、あまりに違いすぎているからであろう。
玖島の父は、瀬戸内海の小さな島に生まれ、線路工夫から叩き上げた人物だった。金はあるが、教養はないというタイプである。
それに引き換え、未亡人の方は、父親が大学の文学部の教授で、母親は家庭裁判所の調停員をしているような家柄だった。これでは月とスッポン、水と油で、両者が噛《か》み合う道理がない。
一時間ぐらいで、追悼宴は終った。
篝正秋は、最後まで居残っていた。玖島千代子が、〈夫は殺された〉と口走った言葉は、彼の鼓膜に灼《や》きついている。
とっさの感情で、そんな台辞《せりふ》は、口をついて出るものではない。なにか、確信あり気な、未亡人の訴えぶりであった。
〈玖島が殺される……。そんな莫迦《ばか》なことがあるだろうか〉
篝はそう思った。
死因は、玖島太郎の酔っぱらい運転だと聞いている。ジャーナリストである玖島は、よく酒場に出入りしたが、車があるので、決して泥酔はしなかった。また、かなり酔っていても、車の運転はたしかであった。
篝は立ち上り、玖島千代子の方に歩いて行った。客で残ったのは、彼ひとりである。
「さあ、お話を伺いましょうか」
彼は切り口上になった。
「車がありますの」
未亡人は言った。女性は喪服が似合うというが、それは本当だ、と篝は思った。小柄ではあるが、派手な感じのする顔だちの玖島千代子である。その女性が、黒の和服に身を包んでいると、清楚《せいそ》な匂いすら感じるのであった。
「では、車の中で、伺います」
彼は、友人の遺児を抱きあげ、梅の咲き乱れた禅寺の庭を、大股に通り抜けた。寺の下に、狭い車寄せがつくられている。
千代子は、助手席に息子の雪夫を、座席に固定した幼児用の椅子に乗せ、安全ベルトで締めつけた。
二人は、後ろのシートに、並んで坐った。車は、玖島の父親の会社の、ハイヤーであるらしい。
車は坂道を静かに下ってゆく。
「なぜ、玖島君が殺されたと思うんです?」
彼は口を利いた。
玖島千代子は、ハンケチを弄《もてあそ》びながら、
「だって、そうとしか、思えないんですもの……」
と答えるのだった。
「理由は?」
篝正秋は、たたみかけて訊《き》く。
「あのウ……玖島は、かなり前から、危険な取材をしていたらしいんです」
「危険な取材?」
彼は眉をしかめた。
玖島太郎は、月刊の総合雑誌の編集部にいた男である。週刊誌ならともかく、月刊誌の記者が、取材に走り廻ることなどは、めったにない筈なのである。
「通夜の晩に、編集長が、もしかしたら、と言われたんです」
……なんとも要領を得ない話しぶりであった。第一、〈危険な取材〉と彼女は言うが、それが一体なんであるかも、知らずに発言しているのである。
彼女の話を総合すると、玖島太郎は、編集長にだけ報告して、あることをコツコツと取材していた。死ぬ一週間ほど前の夕方、編集部に外から電話がかかって来て、
「玖島という男はいるか」
と、男の声で、乱暴な問い合せがあった。玖島はあいにく外出していたので、編集長の田村が、その旨を伝えると、
「命を大事にしろ、と言ってくれ」
という捨て台辞で、電話が切れたという。
ただ、それだけの話であった。
「しかし、死因は、自動車事故だったんでしょう?」
篝正秋は言った。
ハイヤーは北鎌倉を抜けようとしているところだった。
「そうなんです」
「乗っていたのは?」
「玖島だけですわ」
「……だったら、玖島君が、殺される訳はないじゃあないですか」
篝は、未亡人となった玖島千代子が、夫の突然の死を、酔っぱらい運転による単なる事故死ではなく、それをもっと美化して考えたがっているのだと思った。
むりもないことである。敬虔《けいけん》なクリスチャンの家庭に育った彼女にしたら、夫が仕事のために他人から殺された、つまり殉職したと思い込みたいのであろう。
しかし、なぜ篝に、彼女がそんなことを訴えたのか、動機の点ではよく判らなかった。
篝正秋は、それを聞こうとしてためらい、ちらッと車の窓の方をみた。
「あッ! 停めて!」
やにわに篝はそう叫んだ。
白のセーターを着て、コッカスパニエルを抱いた若い女性が、車とすれ違ったのである。
「え、なんですか?」
運転手が問い返した。
「停めて下さい」
彼は、すれ違った女性を、改めてたしかめるように、躰《からだ》を捩《よじ》った。
華やかなフレヤー・スカートの裾から、白のヒールを穿《は》いた、形のいい脚がのびのびと交互に動いている。その脚は、黒のストッキングで包まれていた。
〈あいつだ……〉
篝正秋は、瞬時のうちに、職業意識に支配されていた。
彼の眼は、獲物を見つけた獣のように、鋭く光りはじめている。
車は、しばらく行き過ぎてから駐《とま》った。
「奥さん、済みません」
篝は、玖島千代子に言った。
「どうかしたんですの?」
若い未亡人は、驚いた顔である。彼の突飛な言動が、呑み込めない風情であった。
「なんでもありません。ちょっと、急用を思いだしたものですから……」
「あら、どこへですの?」
「そのう……つい、この近くなんです。急ぎますので、失礼……」
篝の躰は、もう車の外に出ていた。
「用事は、長くかかりますか? なんでしたら、お待ちしてましょうか?」
親切に玖島千代子は声をかける。
「いや、結構です。いずれまた、お伺いしますから……」
彼は苛立《いらだた》しそうにドアをしめ、運転手に手をふってスタートを命じた。車が動きだすまでが、まどろっかしいような感じである。
車を見送った篝は、レインコートの襟《えり》を立て、ついで背広の胸ポケットからとりだした黒メガネをかけた。
彼の追わんとする獲物は、すでに百五十メートルぐらい先にあった。
篝は、ほッとした顔つきになると、足早やに女を追って行った。
尾行に気づかぬ女は、通行人に、胸に抱いたコッカスパニエルを見せびらかすようなポーズで、いとも軽やかな足取りである。
早春の陽ざしを浴びながら、散歩を楽しんでいるといった感じが、白のセーターの肩先にも、たっぷりと滲《にじ》み出ている。
〈たしかに、あいつだ。もう、逃がさないぞ……〉
篝正秋は、五十メートルぐらいにまで追いつくと、安堵《あんど》した表情で、ピースを口に咥《くわ》えた。
彼の記憶の手帳の中には、その女性のことが、正確に納《しま》い込まれてある。もし、それを公開すると、多分、次のようなものになるだろう。
≪自称・福江美智子。二十四歳。本籍不詳。昭和四十年二月入社。六十万円。新宿区四谷三丁目のアパート居住。四十年六月十日、転居≫
記録の中でも、六十万円という金額だけは、おそらくゴシック活字で組まれているに相違なかった。
〈九カ月ぶりだな。……これも玖島の、納骨式にやって来た功徳か……〉
篝正秋は、そんなことを考えながら、自分も散歩を愉しむ人間のように振舞い、福江美智子の尾行をつづけるのだった。
〈いくら探しても、判らなかった筈だ。奴《やつこ》さん、鎌倉とは、良い所に目をつけやがったな……〉
篝は、口笛を吹きたい心境だった。玖島千代子の奇怪な訴えのことは、すっかり忘れてしまっていた。
だが篝は、後にそのことを、どうしても思い出さずにはおかなくなるのである。でも、現在の篝正秋には、福江美智子の黒いストッキングを追うことしか、関心はなかった。
[#改ページ]
憎い小娘
篝正秋が、水商売に入ったのは、いわば偶然の機会からである。
たしか九年前の夏のことであった。
大学生であった彼は、夏期休暇にあたっていたのを幸い、新橋のキャバレーのボーイの仕事をした。むろん、夏休みだけのアルバイトの積りだったのである。
客席に行き、客の注文を聞いて、それを運ぶだけの仕事だったが、片手で銀盆を捧《ささ》げ持つというのは、素人にはなかなか難しい芸当であった。
篝は、運動神経が発達していたとみえ、アルバイト三日目から、粗忽《そこつ》もせずに、客席のあいだを蝶のように潜《くぐ》り抜けることができた。
動作も珍しく機敏であり、ちょっとした男前でもあったので、当然彼はホステスたちの人気を集める。そこに経営者は、目をつけたのである。
ある夜、支配人は帰ろうとする篝を呼び止めて、
「ちょっと話があるから、残って下さい」
と言い、彼を新宿に誘った。
連れて行かれたのは、貧乏な大学生である彼などが、滅多に入れないような高級な酒場であった。
そこで支配人は、社長の寸志だと言って、熨斗《のし》袋に入った金をくれ、
「どうかね、大学へ通う金は、店で援助するからね、うちで続けて働いてくれないかね?」
と篝を口説いたのである。
夏休みだけの積りだった篝は、逃げ口上の意味で、
「二、三日、考えさせて下さい」
と返辞をした。
下宿に帰って、熨斗袋をあけてみると、五千円入っていた。九年前の五千円といえば、ちょっとした魅力である。
あとで考えてみると、篝は、その臨時ボーナスの額に、多分に心を動かされたらしいのである。つまり経営者は、先《ま》ず金という餌《えさ》で、篝を釣りにかかったのだ……。
夏休みが終ろうとする一週間前に、店での懇親旅行があり、彼も誘われた。誘ったのは、ボーイ仲間ではなく、ホステスのマスミという年増女であった。
篝は、酒は少し嗜《たしな》むが、煙草も博奕《ばくち》もしない石部金吉の方であった。
もちろん、その時まで童貞だったのである。
異性に興味がないこともなかったが、余裕な金もなく、また病気も恐ろしくて、まだ存在していた赤線にも、登楼《あが》ったことすらなかった。
四国の田舎から、親戚中の期待を担って、上京して来た貧乏大学生にとっては、それは当然なことだったのかも知れない。
しかし、新橋のキャバレーでアルバイトしたことによって、彼の人生の歯車は、そこで狂いはじめたのであった。
懇親旅行は、土曜の夜、店がはねてから大型バスで伊東に向かい、そこで一泊して帰京するという計画だった。
マスミは、バスで彼の隣りに坐り、
「あたし、酔うと気が大きくなる性質《たち》だから、これ預ってて……」
と囁《ささや》き、篝に朱皮の財布を握らせた。
仕方なく彼は預ったが、これは一つの罠《わな》であった。
財布は、ズシリと重く、この旅行の幹事であるマスミが、みんなが積立てた金を保管していることは、臨時ボーイの篝も承知だったのである。
伊東での一夜は、篝にとっては、童貞を喪《うしな》うという、記念すべき夜となった。
酔って寝ている彼の部屋に、マスミが侵入して来たのである。
童貞の大学生と、男を知りつくした年増のホステス。この組合わせが、どのような結果をもたらせるかは、誰しも想像がつく。
篝は、マスミの粘っこいテクニックに翻弄《ほんろう》され、はじめて知った女体の味に陶酔して、飽くことなく快楽を追い求め、また彼女もそれに応じたのである。
明け方ちかく、篝は快い疲労と共に、泥のように昏睡《こんすい》した。
目が覚めたのは、みんなが海水浴に出掛けたあとである。マスミは、彼の傍で寝入っていた。
彼は、なんとはなしに腹這《はらば》い、枕の下を探ってみて、愕然《がくぜん》となった。マスミから預った財布の中味が、やけに薄くなっていることに気付いたからである。
「マスミさん、大変だ! 起きてくれよ」
篝は、女を揺り起した。
マスミは、なにを勘違いしたのか、白い太腿《ふともも》をからませてくる。
彼は、マスミの肩を掴《つか》み、強く揺さぶった。そして、ようやく目覚めた女に、篝は、財布の中味がいつの間にか、抜き取られている旨を告げたのである。
「えッ、本当?」
マスミは、さほど驚きもせず、なんとなく篝を疑うような顔つきである。
「嘘じゃない。五百円札だけを残して、あとは全部やられている」
「だって、財布がどこにあったかを、知っているのは、あんただけなんでしょ?」
「それはそうだけど、しかし……」
篝は不意に口ごもった。
自分が、誠に不利な立場にあることを知ったからである。マスミは大仰に顔を顰《しか》めてみせ、
「あたし、どうしようかしら! 篝さんと、一緒だったと言ったら、私まで変な眼で見られる……」
などと愚痴を言いだすのであった。
篝は、旅館の主人に、枕探しに遭ったことを告げ、ついで海岸にいる支配人に、報告に行った。支配人は、彼の正直な報告を聞くと、ニヤリとして肩を敲《たた》いた。
「さては昨夜、マスミと猛烈に、いいことをしたんだろう。だから寝過して、枕探しにやられたんだよ。現金だけ抜き取るのは、玄人の仕事だ。犯人は、おそらく探し出せまい。いいよ、いいよ。宿の支払いは、店の方で立替えとく。あとは、君とマスミとが、店で働いて、毎月少しずつ返済してくれれば、それで済むことだ……」
篝は、支配人の温情に打たれた。
……その財布の盗難事件が、実はマスミと支配人とが、共謀して仕組んだ罠であったことを、篝正秋が知った時には、彼はもう大学にも行かなくなっており、酒と女とバクチに明け暮れるキャバレーの人間になりきっていた。
支配人は、彼を自分たちの世界に引きずり込むために、一芝居を打ち、借金≠フ返済という形で、彼の躰を束縛したのである。
経営者にとっては、篝のように客やホステスに可愛がられ、しかも頭のよい人間が、必要だったに過ぎない。
大学からの知らせで、彼が無断で欠席していることを教えられた父親は、上京して来て彼の荒廃した生活を知り、カンカンに怒って勘当を宣告したものだ。
マスミのアパートに転がり込み、すでに同棲《どうせい》生活を送っていた篝正秋は、勘当を宣告されても、どうとでもしろ、という荒《すさ》みきった心境であった……。
ドアボーイから、副支配人格に抜擢《ばつてき》された頃、関西から東京進出を狙っている〈暁興業〉から、彼に誘いがかかった。
丁度、六年前のことである。
〈暁興業〉は、大阪と神戸で、アルサロ・キャバレーを経営している、新しい型の業者であった。
彼を引抜こうとしたのは、現在、暁興業の専務をしている神崎正之輔で、当時は営業部長であった。
神崎は、彼にこう言った。
「私たちは、キャバレーを水商売だとは考えていない。それは古い業者の考え方だ。私たちのシステムは、女給を一個の商品とすることから出発している。女は商品なのだ。それを求めて、男は群がってくる。つまり、私は東京に新形式の、商品価値をもった女ばかりを集めた、高級なデパートをつくりたいのだよ」
と――。
なるほど神崎は、当時としては斬新なプランと理想をもった人間だと言えた。
キャバレーの業者には、三国人やヤクザが多いが、ホステスも、いずれも新聞広告をみて集まって来たような、泥臭い女性ばかりであった。早くいえばセンスがないのだった。
だが神崎は、
「女こそは、店の売上げを支配する商品なのだから、銀座の一流のバー、キャバレーから、支度金を出しても引き抜け」
と言い、また、
「新しい店は、超豪華な装飾を施して、会員制のクラブにする」
と言い切ったのだった。
篝正秋は、そんな神崎の考え方に、共鳴を覚えた。ひとつ、この水商売と呼ばれる世界を、正規の営業として、世間から認められるように、及ばずながら努力してみたいと思った。
神崎は、篝に向かい、半年後のオープンの予定で、銀座の名の売れたホステスを、七十人ばかりスカウトするように、依頼したのだった。
「なぜ私に、そんな大役を――」
怪訝《けげん》そうに彼が神崎に質問すると、相手はニッコリ笑って答えた。
「きみに目をつけていたんだ、二年ほど前からね」
神崎は、背広の胸ポケットから、黒メガネをとりだし、ついで鳥打帽をかぶった。
「あッ、鈴木社長……」
篝は驚いて叫んだ。
鳥打帽をかぶり、黒メガネをかけたその顔は、神戸で鉄工所をやっているという触れ込みの、鈴木という客だったのである。
「きみは、女性から警戒されない風貌《ふうぼう》の持ち主だ。実に、当りが柔かい。言葉遣いも丁寧だし、また趣味も悪くない。だから、スカウト役に適任なんだよ……」
神崎正之輔は、なぜ彼に白羽の矢を立てたかについて、そんな風に説明したが、その口吻《こうふん》によれば、二年前からすでに、東京を研究していたらしかった。用意周到なのである。
……こうして篝正秋は、〈暁興業〉に正式に入社した。所属は、営業部の人事課で、彼には係長というポストが与えられた。
現在、暁興業は銀座に四軒の店を、経営している。
篝正秋は、新規開店のたびごとに、派手な引き抜きをやり、銀座のバーの経営者や、マダム達から密《ひそ》かに恐れられる存在となった。
しかし、マスコミには、その名は知られていない。いや、存在すら、知られていないといってよいだろう。
篝正秋の、現在の仕事を、その職名で現わすなら、暁興業の保安部長である。
水商売に、保安部とは奇妙に聞えることであろうが、つまり店に勤めるボーイ、ホステスなどを、管理する部門なのだ。
従って、女性をスカウトしたり、借金したまま、逃げたホステスを探しだすことも、篝の部の担当の仕事であった。
一流のバーで、大勢の客をもつ売れッ子のホステスは、当然のこととして、その客たちへの売掛け金を持っている。
とつぜん店を辞める場合、その売掛け金は、勤めていた店への借金の形で残る。
この借金を清算するためにも、スカウトする側の店では、ホステスに支度金を出してやらねばならなかった。
〈福江美智子〉は、去年の二月、新宿の高級酒場から、彼の手でスカウトされ、六十万円の借金を残したまま、姿を隠していた女性だったのである。
篝正秋は、福江美智子の形のいい、すらりとした脚のあたりに、自分の視線を落していた。女は、白のハイヒールを、戞然《かつぜん》と鳴らしつつ、犬をあやす風情で歩みつづける。
黒のストッキングに包まれた脛《はぎ》の肉が、歩むたびに微《かす》かに揺れているのは、彼女がまだ若い証拠であろう。しかし、どことなく、なまめかしい風景ではあった。
〈畜生め……九カ月も姿を昏《くら》ましやがって! とんでもない女だ……〉
篝は、靴下のシームを睨《にら》み据えながら、尾行をつづける。
たしかに福江美智子は、その意味では、〈とんでもない女〉と言えた。
彼の部下が、新宿の酒場に勤めているのを発見し、篝自身が口説いて、スカウトしたのであるが、これほど早く話の決まった女性も、またとなかった。
普通は、なんどかその酒場に飲みに行き、店が終ってから寿司屋などに誘い、小当りに当ってみる。
それで脈がありそうだったら、昼間あらためて呼び出して、正式に話を進めるのである。また素人のBGをスカウトするには、別の手口で、長い時間をかける必要があった。
しかし、福江美智子は、はじめて飲みに来た篝が、
「なにか御馳走しようか」
と誘ったら、初対面なのに、一人でのこのこ蹤《つ》いて来たし、
「きみのような美人を、新宿においておくのは勿体《もつたい》ないなあ」
と、水を向けると、
「本当は、銀座に憧《あこが》れているんですけど、店に借金があって抜けられないんですの」
と応じた。
脈あり、と悟った篝が、
「ほう、どの位だね?」
というと、素直にハンドバッグを出し、手帳を覗《のぞ》き込む仕種《しぐさ》よろしく、
「どうしても払って貰えないのを含めたら、六十七万三千円もありますのよ?」
と、鮮やかに回答して来た。
〈よし、いける!〉
篝は、彼女を四谷荒木町の待合に連れて行き、そこで始めて名刺を出した。
「私の店で、働いて頂けませんか」
彼は丁寧に言った。
「でも、借金が……」
福江美智子は、首を傾《かし》げる。
篝は、ふと谷間に咲いている、百合の花を連想した。
バーに勤めて、半年目だという言葉は、決して嘘ではあるまいと、玄人の彼が信じたほど、彼女は純情にみえた。また、その客ずれしていない点が、魅力なのでもある。
「支度金として、六十万円……いや、七十万円お出ししますよ。この金は、貴女《あなた》が新宿の店のお客から、借金を取り立てて、その都度、私共にお払い下されば結構ですが」
福江美智子は吃驚《びつくり》したような表情で、
「本当に、それでよろしいんですの?」
と、嘆息するように言うのであった。
「それが私共のシステムです」
篝は、胸を張って答えた。
翌日の午後、福江美智子は、暁興業に履歴書を持って来た。
篝は部下に命じて、該当番地のアパートに、彼女が住んでいるか否かを調べさせ、二日後に七十万円の小切手を手渡した。
口説いてから四日目には、福江美智子は、暁興業の経営する高級サロン〈コスモス〉のホステスとして、勤めはじめたのだった。
日給三千五百円、あとは歩合収入という契約だった。
はじめの二、三カ月ばかりは、比較的、真面目に勤めた。ところが、五月に入ると休みが目立ちはじめ、六月になると病気だと称して、一日出勤しては四、五日つづけて休むという繰り返しになる。
〈おや、警戒警報が出たぞ?〉
と篝は思い、営業部に問合わせてみると、案の定、前借金にあたる支度金も、十万円しか返済せず、彼女の売掛けも、大部分が焦げ付いているではないか。
篝は、履歴書の綴りをみて、さっそく四谷三丁目の彼女のアパートを訪ねた。出て来た管理人は、
「福江さんなら、時の記念日の日に、引越して行きましたよ。あんた、福江さんの知り合いなら、丁度いい。彼女の口車に乗って、月賦の保証人のハンコを捺《つ》いたばっかりに、困ってるんですよ……」
と、まくし立てるのであった。
篝は、附近の運送屋を歩いて、彼女の家財道具を運んだ者はないかと、シラミ潰《つぶ》しに当ったが、無駄であった。
彼の店や、新宿のもとの店のホステス達に、心当りはないかと訊いて回ったが、誰もその行方は知らない。
本籍地の役場にも問合わせた。
しかし、返って来た回答は、
「当役場の戸籍簿に、福江姓の該当者なし」
という、冷酷なものであったのである。
〈畜生! 純情そうな顔をしやがって、戸籍も嘘っぱちなら、名前まで、偽名を使ってやがった!〉
篝正秋は、地団太を踏んだ。
新宿の、もと勤めていた酒場のマダムに、念のために訊いてみると、
「あの娘は、辞める時、うちには借金は一銭もなかった筈ですよ」
という返辞だった。
篝正秋は、低く唸《うな》り声をあげた。六十万円を見事に騙《だま》し取られていたのだと、その時まで気付かないでいたからである。
彼を一杯喰わせた、その純情そうな小娘が、いま目の前を軽快な足取りで、歩いているのである……。
[#改ページ]
露出する女
〈福江美智子〉は、鶴ヶ岡八幡宮の手前を右に折れた。道は、かなり急|勾配《こうばい》の傾斜になっている。そうして、人通りも少い。
篝正秋は緊張した。
こんな人通りのない、しかも行き詰りになっている道に入り込むところをみると、どうやら彼女の知り合いか、自分の棲《す》み家があるらしいと睨んだからである。
こうした人通りのない、淋しい坂道などの尾行が、一番つらいのだった。尾行を気づかれ易いからである。
坂の入口で立ち停り、新しくピースを吸いつけていると、〈福江美智子〉が抱いていたコッカスパニエルを、そっと地面におろす風景が眼に入った。
〈ハハア、この近くに住んでるんだな!〉
篝正秋は微笑した。
大きな耳を垂らした愛玩《あいがん》犬は、地面に鼻をこすりつけるようにしながら、よたよたした足取りで、その癖、意外に速いスピードで、坂道を駈け登ってゆく。
「ペペ! ペペや……」
〈福江美智子〉は、犬の名を呼びながら、なにが嬉しいのか、低い笑い声を立てながら坂を追って登ってゆくのだった。
彼女が姿を消したのは、石垣を築き、鉄平石の門柱と石段をもった、かなり宏壮《こうそう》な邸宅である。石垣の一部分は、ガレージになっているらしく、鉄の鎧戸《よろいど》が下りていた。
門柱には、大理石の標札があって、
〈城戸崎侍良〉
という草書体の文字が、彫り込まれてある。
篝には、記憶のない姓名だった。
〈あいつ……こんな家に、どうして住んでいるのだろうか?〉
門柱を見上げながら、篝正秋は、しばらくピースをふかしながら考え込んだ。飼犬が自分で帰ってゆく処を見れば、少くとも犬はこの城戸崎家の飼犬であろう。そうして彼女もこの家とは、無縁ではない。
福江美智子という名前は、篝の調査でも明らかなように、偽名であった。だとすると彼女は、この城戸崎家では、なんという名前を使っているか、見当もつかないのである。
篝正秋は、腕時計を眺め、ちょうど城戸崎家と道を隔てて相|対峙《たいじ》している、四賀|辰之助《たつのすけ》という標札の家の階段を、静かに昇って行った。
獰猛《どうもう》なグレートデンが玄関脇にいて、彼をみると盛んに吼《ほ》えかかったが、篝はこんな犬扱いには馴れている。ためらわず、玄関のベルを押すと、間もなく女中らしい二十七、八の小柄な女性が姿をみせた。
「とつぜん、失礼いたします。実は、映画会社の者なのですが……」
篝はそう言って、相手の反応をためした。女中の表情には、なにがなし好奇心めいた匂いが、泛《うか》び上って来ている。彼は安堵して、
「そのう、お宅の前の城戸崎さんですね」
と畳みかけるように言葉をついだ。
「はあ。それが何か――」
「あのお宅に、二十三、四のお嬢さんが、いらっしゃいますね?」
「お嬢さん? ああ、いらっしゃいますが」
「あの方は、城戸崎さんの娘さんですか? ちょっと良いフェースをお持ちなので、それで関心を持ったのですが……」
篝は、店に来る映画人の、どことなくキザッぽい言動を思いだしながら、女中の眼を見詰め、話した。
相手は、彼の用件を呑み込んだらしく、思いがけず雄弁に語りだすのである。
「私もよく存じませんけれど、その方でしたら、下宿されている方だと思いますよ。たしか去年の夏ごろ、引越して来られました。城戸崎さんの娘さんではありません」
〈去年の夏? すると、失踪《しつそう》して間もない頃だな?〉
篝は眼を光らせ、続いて突込んだ。
「城戸崎さんは、なにを御商売にしている方です? また御家族は?」
「たしか城戸崎さんの御仕事は、製薬関係の方面だと聞いております。奥さまが逝《ゆ》かれて、旦那さまと婆やさんの二人暮しで……」
「ほう、奥さまが居ないんですね?」
「ええ。一昨年の春、肺炎をこじらせて、心臓|麻痺《まひ》でなくなられましたの」
「では相当な御年配で?」
「いいえ、まだ四十そこそこでした。でも、前から胸を患っていらっしゃったそうで、これが命取りになったとか……」
「そうですか。どうも突然、参上しまして、失礼申し上げました」
篝は礼を言って、四賀家の玄関を出た。沈丁花《じんちようげ》の大きな株があって、匂いの褪《あ》せた花弁が、根本にこぼれ落ちている。
篝は、おそらく〈福江美智子〉が、妻を喪った城戸崎と深い仲となり、それで姿を昏《くら》ましたのだろうと見当をつけた。これは、よくあるケースなのである。
水商売の女性には、結婚を目指すタイプと、独立して店を持とうというタイプと、二つの型があった。
篝の観察では、水商売に入ってくる女性には一種の周期があるようで、三年、七年、十一年という三つのヤマがあるのだった。
つまり、入って三年目に辞めてゆくのは、男を見つけて結婚するタイプが多い。七年目に辞めるのは、独立して店をもつ女性が殆んどだった。そうして十一年目に辞めるのは、結婚もできず店も持てず、後妻になったり妾《めかけ》になったりする、いわば失意型の女性が多いのである。
〈福江美智子〉は、その三つのタイプに属さない新しい型とも言えるが、篝にとってはそれはどうでもよいことだった。
要は、彼女が〈暁興業〉に与えた、六十万円の被害を埋め合わせてくれればよいのだった――。
城戸崎家は、ちょっとした資産家らしく、庭などもよく手入れされていた。樹木は少いが、金網の低い柵には、よく繁った蔓《つる》バラが巻きついており、手入れの行き届いた芝生がある。そして芝生には、ゴルフの白い球が、三つ四つ転がっていた。
玄関のブザーを押すと、犬の吼える声と共に、「ハアーイ」と陽気な若い女の声がしている。篝は、〈さあ、捕えたぞ〉と、心の中で呟いた。
玄関のドアが、用心深く控え目に開けられた。押し売り撃退用の、短い鎖がついている。篝は素早く、靴の尖《さき》をそのドアの隙間に押し入れていた。
「ちょっと失礼します」
篝は、黒メガネを取った。〈福江美智子〉は、はッと小さく息を嚥《の》んだ。
「久し振りだね」
彼は高飛車に出た。
「あのう……帰って下さい!」
女は、喘《あえ》ぐように叫ぶ。
「帰れ? 六十万円の金を、持ち逃げしておきながら、帰れですって?」
篝は、大きな声で、いやがらせのように言ってやった。〈福江美智子〉は、ちらッと背後をふり返り、観念したように、ドアの鎖をはずした。
四賀家の女中が言っていた、婆やさんらしい女性が、彼女の後ろに佇《たたず》んでいたのである。
「失礼しますよ……」
篝は、玄関の三和土《たたき》で、悠然とレインコートを脱いだ。
〈福江美智子〉は、拗《す》ねたような、膨れッ面《つら》をしている。その顔は、彼がスカウトをした時の純情そうな表情と異なり、不貞腐《ふてくさ》れたアバズレ女のそれであった。
「あのう……娘が、なにか……」
婆やの女性が、不審そうに言った。
「娘さん? この方は、貴女の娘さんなんですか?」
篝は、しめた、と思った。
なぜ彼女が、城戸崎家にいるのかと、それが不思議でならなかったのだが、どうやら彼女は、母親が女中をしている城戸崎家に、ころがり込んだらしいのだった。それであれば、話は早い。
だが、彼女が答えようとするのを、口を封じるように、〈福江美智子〉は腹立しそうに叫んだものだ。
「婆やさん! なにを冗談言ってるの! あんたは、引っ込んでなさい!」
……あきらかに芝居である。
篝は、彼女を相手にせず、彼女の母親らしい女性に向かって、名刺をさしだし、鄭重《ていちよう》に挨拶していた。
「実は、娘さんが、六十万円ばかり会社に借金されたまま、姿を昏まされましたので、行方を探していたのです。やっと、当家にいらっしゃると言うことが判明しましたので、こうしてお伺いしたのですが……」
母親の表情には、狼狽《ろうばい》と驚愕《きようがく》の色が、つよく滲《にじ》み出はじめた。〈福江美智子〉は、プイと頬を膨ませ、ただ白い眼だけを、彼に向けている。
「……たつ子。お前、なぜそんな大金を……」
喘《あえ》ぐように、母親なる人は言った。
〈ほう。|たつ子《ヽヽヽ》というのが、本名らしい〉
篝は微笑し、
「私共の会社では、福江美智子さんという偽名をお使いでした。本名は、なんと仰有るのですか?」
と切り込んだ。
「まあ、偽名を……」
「本籍も、出鱈目《でたらめ》でしたし、月賦屋の支払いも踏み倒されたまんまですし……」
「まあ、そんなことが……」
「もとのお店に、借金があるということで、七十万円をバースしたんですが、お返し頂いたのは、たったの十万円。ほかに売掛け金の未収もございます……」
彼女の母親は、篝の言う言葉の意味が、よく呑み込めないらしく、
「ひとまず、お上りを――」
と、やたらにペコペコしはじめるのだった。
玄関脇の応接室に招じ入れられたが、篝は逃げたホステスが先に入るまで、廊下の外にわざと突立っている。こういう話は、本人を目の前において、話合わないと効果がないからである。
篝は、改めて事の経過を、くわしく説明して行った。
すると、やっと事情が呑み込めたらしいのだが、純情そうにみえた〈福江美智子〉は、なんとネリカンにご厄介になったこともある、立派な経歴の持ち主だったのである。
本名は、赤松辰子。本籍は、東京の深川で、年齢は二十二歳であった。父親は早く死亡し、母親のヤスが家政婦をしながら育てたが、中学三年生の春からぐれだした。中学校の社会科の教師に、処女を暴力で奪われたからだった。
中学校を卒業と同時に、ある保険会社に勤めたが、上司の財布を盗んで、説諭の上クビとなる。
喫茶店に勤め、睡眠薬遊びで、なんどか警察の補導を受け、デパートで万引きして、この時は始末書。
勤め先を馘《くび》になり、完全なズベ公生活に入った。勤め帰りのBGを恐喝し、金品を捲《ま》き上げたことが発覚して、練馬の鑑別所に送られたのが、十六歳の夏である。
出所後は、しばらく母親のヤスと同居していたが、ヤスが鎌倉の城戸崎家の住み込み女中となったと同時に、行方不明となる。
「……それが去年の夏ごろ、ひょっこり訪ねて参りまして、健康を害したと申しますものですから、こちらの旦那様にお願いして、一緒に暮させて頂いておりますわけで――」
赤松ヤスは、ただただ恐縮したように、鼻の頭の汗を拭うばかりであった。
赤松辰子が家出した十七歳の春から、二十歳ごろまでの間、彼女がなにをしていたのかは明瞭でない。判っているのは、彼女が二十歳の夏から、新宿の酒場に勤めていたことであり、翌年の二月から六月上旬まで、暁興業チェーンのサロン〈コスモス〉に在籍していたという事実であった。
「……私共としましては、娘さんが、暁興業に前借り金として、借金されている六十万円を、返済して頂けばよい訳です。辰子さん、いかがですか?」
篝が、母親の愚痴を中断するように、彼女の方に向き直ると、赤松辰子は、
「金なんか、使っちゃって、ないわ」
と、ぞんざいに答えた。
「それでは、困るんですがねえ」
篝は喰い下がる。
こういう交渉は、腹を立てた方が、莫迦《ばか》をみるのだった。決して興奮せずに、じりじりと相手を追い詰めてゆき、
「借金は、こんな方法で、いつ支払う」
と、相手に言わせなければ駄目なのである。
「私だって困るわ。なにも私が動きたくないのを、来てくれ、来てくれと、四谷の待合に連れ込んで、口説いたのは、あんたじゃない?」
「それは事実です。しかし、それはそれ、契約は契約です」
「わかったわ。城戸崎さんが帰って来たら、お母ちゃんが迷惑するから、とにかく、外へ出ましょう……」
赤松辰子は切りだした。
「それもそうですな」
篝は、母親のヤスに、住所と電話番号とを聞いて控えると、あっさり立ち上った。
辰子は、ちょっと奥に引っ込み、外出の用意をしてくると、さっさと白のハイヒールを穿《は》き、三和土を蹴《け》るように歩きだしている。
赤松ヤスは、おろおろしながら、篝に三つ指をつくのであった。
「どこへ行きます?」
篝正秋は、辰子に肩を並べながら、ニヤニヤして訊く。
よく苦し紛れに、支払うあてがあるからと、外に連れ出され、国電の駅などで撒《ま》かれるケースがあるのだった。
「東京よ。決まってるじゃないの」
彼女の口吻《くちぶり》には、店で客にみせていた純情ぶりとは、がらりと変った蓮《はす》ッ葉《ぱ》なところがある。母親から、ズベ公だった前歴を、暴露されたがため、憤慨しているのか、自棄《やけ》ッ鉢《ぱち》になっているのかの、どちらかだろう。
篝は、それっきり口を利かず、鎌倉駅からピタッと彼女に密着して、電車に揺られた。
新橋に着くと、赤松辰子は、
「渋谷に行くわよ」
と言い、地下鉄への階段を、平然と降りてゆく。
生憎《あいにく》、ラッシュ・アワーであった。
〈逃がさないぞ。この小娘めが!〉
篝正秋は、彼女の脇に位置して、いったい赤松辰子がなにを画策しているのだろう、と考えつづけた。
ドアがあくたびに、何度か彼女は、逃げ出したいような素振りをみせるが、篝が必ず入口の方に陣取るため、あきらめたらしい。
渋谷駅を出ると、辰子はタクシーに手を上げて、
「話合いをつけましょう。来て頂戴」
と篝に、切口上で言った。
「結構ですな」
篝は、彼女につづいて、車に乗り込む。すると彼女は、運転手に、道玄坂の近くにある有名な割烹《かつぽう》旅館の名前を、告げるのであった。
〈おや?〉
篝正秋は首を傾《かし》げた。ちょっと、話合いするには、似つかわしくない場所だったからである。
タクシーが、その旅館の前につくと、赤松辰子は、
「払っておいて!」
と言い捨てて、さっさと門を潜るのである。
篝は慌てた。しかし彼女は、逃げる積りはないらしかった。
離れ風の別室に、二人は女中に案内されたが、部屋は二つに分れており、奥の六畳には蒲団がのべられてある。
「呼ぶまで、来なくていいわ」
辰子は、女中に五百円のチップをやる。女中は、冷蔵庫の鍵《かぎ》をあけて、
「どうぞ、ごゆっくり……」
と、顔を見ないようにして、出て行く。
〈なるほど、色仕掛けか……〉
篝は、にやッと顔を歪《ゆが》めた。
辰子はビールをとりだし、グラスを二つ並べる。栓を抜き、ビールを注ぐ。終始、無言であった。
「お話を、伺いますかな」
ビールには手をつけず、篝は冷たく言い放つ。
「お金は、払うわ……」
赤松辰子は、怒ったように言葉を叩きつけるのだった。
「それは当然ですよ。問題は、いつ、どこで支払ってくれるかです」
「いま、ここで、よ」
「ほう?」
「ねえ、部長さん。あたいの躰《からだ》に、魅力はないこと?」
やにわに、赤松辰子は立ち上ると、白のセーターを脱ぎ、ついでフレヤー・スカートを取りはじめるのだった。
[#改ページ]
キイ・クラブ
……篝正秋は、赤松辰子の唐突な、それでいて何か奇妙にすがすがしい、服の脱ぎっぷりに聊《いささ》か度胆を抜かれた。
色仕掛けで、女から攻められたことは、マスミという年増のホステスに童貞を捧げて以来、しばしば経験している。だが、こんな風に淡々として、爽やかなのは始めてだった。
「どう? 魅力ない?」
ブラジャー姿の辰子は、ファッション・モデルのように、くるりと一回転してみせた。白のセーターの下には、白のブラジャーしか着けていないのである。
そうしてパンティも、ガーターベルトも、靴下とおなじく黒一色である。眺めていると、そのコントラストが思いがけず、なまめかしく感じられてくる。篝が見惚《みと》れたのは、小麦色のなだらかな腹部に、ポツンと靨《えくぼ》のように凹《くぼ》んでいる彼女の可愛い臍《へそ》の形だった。おそらく夏のあいだ、鎌倉の海辺で肌を焦がし、オリーブ油で磨き上げたものに違いなかった。
篝正秋が、反応を示さないので、赤松辰子はちょっぴり口惜《くや》しそうな表情になり、ブラジャーを脱ぎ捨てた。ふっくらと隆起した、思いがけず白い乳房が姿を覗かせる。
「きみは、大した女だよ……」
篝は口を利いた。
「僕は独身だが、それほど女に飢えちゃあいない。それに、君みたいに、パッパと裸になられたんでは、ムードもへちまもないよ」
「そうかしら?」
赤松辰子は、パンティを今にも、ずり下ろしそうな風情をみせた。
「止《や》め給え。処女ならともかく、きみの躰を六十万円で買う気はない。もっとも、貯金もないがね……」
篝は、厳しい口調で極《き》めつける。
だが、信じられない反応があった。女が、とつぜん笑いだしたのである。
「なに言ってんのよ、部長さん……」
女は笑いつづけた。
「いつ、私が部長さんに、躰を買って欲しいと言って?」
「………?」
「私は、私の躰を、あんたに値踏みして貰っただけだわ……」
篝正秋は、低く鼻を鳴らした。
「だって君は、さっき私に、いま此処《ここ》で借金を支払うと言ったぜ?」
「言ったわ。でも、部長さんにとは、言わなかったわよ」
「ふむ!」
篝は、小癪《こしやく》な女だ、と思った。
つまり赤松辰子は、篝に、ポン引きの役目をしろ、と言っているのだった。彼女の均整のとれた、二十二歳のピチピチした躰に、六十万円を投じる物好きな客を、探して来いと主張しているのだった……。
篝は唇を噛《か》んだ。
赤松辰子の前歴を隠して、彼女に純情娘を演じさせるならば、六十万円はおろか、百万円でも投げ出す金持客はなくもないだろう。
しかし問題は、彼がそうした客を、彼女に斡旋《あつせん》した事実を、赤松辰子自身の口から、警察に密告《たれこ》まれるかも知れぬ、ということだった。
その場合、彼は売春を斡旋したかどで、警察に連行される。しかも、この斡旋によって彼が、会社のために得た六十万円の金は、当然のこととして当局に押収されてしまうのだ。
赤松辰子のケースは、前に勤めていた新宿の店に、彼女の責任の売掛け金がないにも拘《かかわ》らず、六十数万円もあると偽って、暁興業から前借したというものだった。だから、これは明らかに債務である。また書類にも、〈契約金〉としてではなく、〈前借金〉と記載されてある筈なのだった。
従って、六十万円は暁興業が貰ってもよい理窟《りくつ》なのだが、これが売春斡旋料という名目に解釈されると、ガラリと風の向きが変ってくる。
また、このことを、新聞や週刊誌の記者に嗅《か》ぎつけられると、〈暁興業〉は大金をとってホステスに売春させているとか、前借金を支払わせるために売春を強要したとか、一斉に書き立てられるに違いなかった。
たとえ彼の方に、正当な理由があったにしろ、売春斡旋という不名誉な罪名の前では、しょせん蟷螂《とうろう》の斧《おの》であった。
篝は、用心深く訊いた。
「きみの方の条件は?」
赤松辰子は、冷たく表情を引き締めて、
「百万円。ただし、前金で全額よ」
と応じた。
篝は、低く鼻で嗤《わら》った。
「大きく出たね。しかし、まあ止めとこう。警察に知れると、店に傷がつく」
「そう。……だったら私、支払える|あて《ヽヽ》はないわ」
「いや、支払って貰う。店の売掛け金の方は、あきらめるとしても、前借金だけは、私は取り立てる。それが仕事だからね」
彼がそう言うと、女は不貞腐れて、
「ないものは、ないわ」
と、斬りつけるように叫んだ。
「だったら、店で働けばよいだろう。鎌倉で居候しているよりは、健康だよ……」
少しばかり皮肉をこめて、篝はビールを静かに口に運んだ。乳房を剥《む》き出しにした、若い女体を前にして、ビールを飲むなんて、珍しい体験である。篝は苦笑しながら、
「値踏みは終ったぜ。商品に風邪を引かせないように、そろそろ納《しま》ったらどうだい……」
と、へらず口を叩いた。落着きを取り戻した証拠である。
阿婆摺《あばず》れだとはいっても、そこはまだ二十歳《はたち》を出たばかりの女であった。
おそらく彼女は、渋谷の旅館で自分のヌードを見せびらかしたら、篝がきっと飛びかかって来る……と計算していたのであろう。しかし篝は、食指を動かさず、売春斡旋の難題にも応じなかった。
赤松辰子としては、鎌倉の隠れ家を突きとめられ、本名から前歴まで知られた以上、もう仕方ないと、あきらめるよりなかったのであろうか。
彼女は、篝に連れられて、そのまま温和《おとな》しく銀座まで蹤《つ》いて来た。そうしてその夜から、ふたたび高級サロン〈コスモス〉に勤めることを承諾したのだった。
篝は、コスモスで働く女性のなかで、かなり売上げ成績のよい小金井|蓉子《ようこ》というホステスに、
「しばらく彼女を、きみのアパートに泊めてやってくれないか」
と頼み込んだ。赤松辰子が、また逃げ出さないための用心である。
「いいわよ、部長さん」
蓉子はそう請合ってくれたあと、
「専務が探してたわよ」
と彼に教えた。
「有難う。彼女の荷物は、明日、会社の車できみのアパートまで運ばせる。別にお礼はするから、監視をたのむよ……」
篝正秋は、隣りのビルの八階にある〈暁興業〉の事務所に行った。
暁興業は、資本金こそ一千万円だが、株式会社として一通りの組織は持っている。
社長の下に専務と常務がおり、その下部に営業・総務・経理・事業対策・保安という五つの部があった。部長は、篝をのぞいて、みんな取締役である。いずれも社長の小平賢治や神崎専務と、関西で苦労して来た連中であった。
このほか関西に三軒、銀座に四軒ある店には、それぞれ課長待遇の支配人がいる。七人の支配人は、篝とおなじく外様で、他の店で働いていて、神崎正之輔にその手腕を見込まれ、引き抜かれた人物ばかりだった。
……篝正秋は、戦前のカフェーや、バーは知らない。しかし、この道の識者にきくと、戦前から現在にかけて、だいたい三つの時期というか、タイプがあるようであった。
むかしの酒場というのは、ホテルとか、外国航路の船で長いことバーテンダーを勤め、それから独立して自分の店をもつという型が普通であった。
だからマスターが経営者であり、またチーフ・バーテンも兼ねた。店の造作はイギリス風で、どっしりと重厚な様式が多く、客も静かな雰囲気《ふんいき》のなかで、カクテルの味を楽しむ……という風情であったという。
ところが戦争に負けると、いわゆるマダムが経営者となり、バーテンとホステスを使って、華やかに客を歓待するという風潮があらわれた。酒の味や雰囲気よりも、ホステスのサービスが店の特長となったわけである。
このマダム時代が十数年つづいたわけであるが、夜の銀座の地図を、新しく塗り変えたのは、〈暁興業〉の神崎であった。
神崎は、マダムとパトロンで成立している小規模な酒場や、泥臭い娘ばかり集めたキャバレー、アルサロの経営方式に慊《あきた》りず、新しい大資本による系列店方式を考えだしたのである。
つまり、それが篝正秋を感動させた、商品価値のあるホステスを集め、できる限りデラックスな雰囲気の店をつくり、客も一流人だけを会員制にしぼって制限する……というアイデアだったのだ。
篝正秋は、神崎のプランに従い、銀座のバーやキャバレーを歩いて、美人で男を魅了する女性を五十人、さほど美人ではないが、一流の会社を多く得意先にもつベテランを二十人ほど、スカウトしたのである。
篝正秋は、その仕事に半年を費したわけだが、いざオープンしてみると、これが当りに当った。第一に、東京人の好みに合ったのは、一流の客しか会員にしない、というシステムである。つまり、その店の定連だということは、日本の政財界、あるいは文化界でのエリートである、ということになる。
これが客の優越感を、擽《くすぐ》るのであった。それに勘定も、飛び切り高かった。だが、客の方には、自分たちは選ばれたる一流人だという気持があるから、決して値切らなかった。
〈暁興業〉は、こうして東京進出に成功したのである。なにしろ店舗の装飾費、スカウト代などをひっくるめて、七カ月で原価償却できたというのだから、いかに利潤があがったかが想像できよう。
この暁興業の成功ぶりを、目のあたりに見ては、他の利に敏《さと》い連中が黙っていない。おなじく関西系である〈大宝観光〉をはじめ、北海道の資本背景をもつ〈本田興産〉などが、大量の資金を用意して、夜の銀座に殴り込みをかけて来たのだった……。
豪華な室内装飾に資本を投下することは、誰しも同じだったが、悩みの種はホステスだった。美人で、客あしらいの巧い女性となると、人数は限られてくるのである。
果然、スカウト合戦がはじまった。
篝正秋が半年かけて品定めをし、口説き落した女の子が、大宝観光のクラブにごっそり引き抜かれる。すると体面上、どうしても粒の揃《そろ》った女性を、どこからか集めて来なくてはならない。
篝は、大阪や博多に飛び、しまいには札幌《さつぽろ》や広島あたりにまで、スカウトに狂奔したのであった。
大宝観光に攻撃されて間もなく、暁興業では銀座に第二店を出した。これは、歩合制のホステスを中心にした、売上げ目当てのクラブである。このとき、篝は、大宝観光のクラブ〈ジュニア〉から、復讐《ふくしゆう》の意味で、二十三人ばかり引き抜いている。目には目を、歯には歯を、という気持からだった。
事務所には、神崎専務の姿はなかった。
経理の女事務員が、疲れたような顔つきで、算盤《そろばん》を弾いている姿が目についた。
事務所の広さは、十坪あまりだが、ここで働いているのは、重役を含めて二十名にすぎない。それでいて、月間に二億円内外の売上げがあるのだから、効率から言えば、日本でも比類のない会社だとも言えた。
「専務はどうした?」
篝は声をかけた。女事務員は顔を上げ、鉛筆の先で髪の毛を掻《か》きあげながら、
「ああ、〈コンテッサ・クラブ〉で、社長とお待ちしているそうです」
と言った。
「社長と? いつ、来られたんだね?」
彼は愕《おどろ》いたように訊き返す。
社長の小平賢治は、二カ月に一度ぐらいしか、東京に姿を見せない。生粋《きつすい》の大阪人で、東京を嫌っているのだった。
資本を投下するだけで、あとは一切、神崎専務まかせなのである。神崎正之輔が、自分の娘婿だけに、裏切られないという安心感があるのだろうか。
〈コンテッサ・クラブ〉は、神崎専務夫人――つまり小平社長の娘である神崎道子の、いわば道楽ではじめたキイ・クラブだった。銀座七丁目のビルの六階にそれはある。
入会金は五万円で、毎月の会費は五千円だった。ありきたりのキイ・クラブと異なり、会員の資格にも厳しい制限があり、一般人は会員に伴われない限り店内には入れない。ただし、ビジター料金をとられる仕組みであった。
会員は、自分の好みの酒を、定価で買って自由に預けておく。そして必要に応じて、その酒を飲む。つまり酒の料金だけは、自前で済むわけである。
神崎道子は、中学生の子供があるとは、決して思えないような美人である。眼が大きく、笑うと片頬に、針の尖《さき》で突いたような深い靨《えくぼ》ができた。
篝は、その専務夫人の笑顔をみると、白い牡丹《ぼたん》の花が、咲きこぼれている姿を、連想せずには居られない。裕福に育った所為《せい》かも知れないが、年齢に似合わず、初々しいところがあった。
「家の中に、閉じこもるのが嫌になった」
というのが、彼女のキイ・クラブ経営に乗り出した動機だという。
篝に言わせたら、贅沢《ぜいたく》な話であったが、不景気な世相にマッチする、こうした新形式の店のアイデアを考えだすあたり、やはり社長の血筋は争えなかった。
エレベーターで六階に昇ると、左手が〈コンテッサ〉の入口である。
入口の正面には、馬蹄《ばてい》形をしたカウンターのキッチンがあり、ここで和風、洋風の二通りの、簡単な料理がつくられるのだった。入口の右手はクローク、左側にはレジがある。
クラブには厚い絨毯《じゆうたん》が、ふかふかと敷きつめてあり、コの字型にゆったりと、これまた白い毛皮を貼《は》りめぐらしたような壁面が、面白い起伏状につづいている。
店の中心には、会員の洋酒を保管してある、小さなボックスがあり、蛍光灯《けいこうとう》の照明でそれが浮き上って、あたかも船室の中に坐っているような錯覚を人々に与えた。
一番奥には、麻雀《マージヤン》やトランプ、碁、将棋などができる特別室があり、時には大事な商談などにも使用された。
このキイ・クラブが完成したとき、
「お嬢さん道楽にも困ったもんだ。三千万の予算でやれと言ったのに、千七百万円もオーバーしやがった。頭が痛いよ……」
などと、愚痴をこぼしていた神崎専務も、蓋をあけてみると意外な盛況ぶりで、
「この調子なら、まあまあだろう」
と近頃では、妻のアイデアに目を細めている|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》であった。
篝には、このキイ・クラブが繁昌しているのは、当然のように思える。それは、幾つもの理由があった。
第一に、クラブの内部が、豪華な客船の一等ロビーにいるような、立派な、金のかかった設計になっている。そうして、椅子もテーブルも、ゆったりと配置されてある。これは、クラブの会員に、ある優越感を与えるのに役立っている。
次に、プレイボーイ・クラブの模倣《もほう》ではあるが、ホステスにバニィガールのような美女を、四人配置したことだった。体格のいい、溌剌《はつらつ》とした四人の娘たちは、赤と白の制服をつけ、網目のタイツを穿いて、太腿《ふともも》を剥き出しにして、クラブ内を闊歩《かつぽ》している。
これは、中年過ぎの会員たちの、眼の保養にもなる反面、給料の高いホステスを無理して雇うわけではないから、人件費で苦労しなくて済むのだった。人件費こそは、夜の銀座を維持する商売人にとって、頭痛のタネなのだ。
第三に、平日は午後四時、土曜日は午後二時から、クラブがあいているということだった。とくに、半ドンの土曜日などは、ゴルフに行くのも億劫《おつくう》だし、そうかと言って映画を見る気もしないという人々が多い。
そんなとき、このクラブを覗いて、ぼんやり雑談したり、麻雀をしたりして、夜の到来を待つわけである。ちょっと洒落《しやれ》た食事もできるし、女性との待合わせにも、恰好な場所であった。
だが、なんと言っても、このキイ・クラブを利用する会員にとって、有難いのは、豪華な雰囲気のなかで、しかも経済的に安上りに客を接待できるということだった。不景気のため、各社とも交際費の制限をしている折柄、こうした超一流のキイ・クラブの出現は、ちょっとした福音だったのである。
篝正秋は、エレベーターを待ちながら、ふっと喪服に包まれた親友の妻の姿を、なぜか思いだしていた……。
[#改ページ]
≪日本春秋≫
篝の顔をみると、ホステスは微笑し、なにも言わずに、クラブの奥の部屋にと、彼を案内して行った。黒い網状のタイツに包まれた、踊り子のような太腿の肉が、目の前でぷりぷりと躍動している。網の|縫い目《シーム》が黒い一本の線となって、臀部《でんぶ》の丘から踵《かかと》までを、悩ましく縦走している。
〈ふむ。悪くない眺めだ……〉
篝正秋は、なんとなく情欲の火を、掻き立てられる思いで、特別室に足を踏み入れる。
社長の小平賢治の、精力的に禿《は》げ上った頭が、すぐ目に入った。体格はさほど大きくはない。標準以下であろう。しかし、それなのに篝は、この小平の前に出ると、なにかなし威圧されるものを覚えるのだった。小平の躰が、衝立《ついたて》のように大きく見える。
神崎専務と、夫人の道子の姿も、同じテーブルにあった。
「一人、捕えたそうだね」
神崎正之輔は、彼がなにも言わないうちに、自分の方から口を利いた。
「はい。偶然ですが、|六〇《ロクマル》の娘《こ》です」
篝正秋は、社長に丁寧に挨拶して、一つだけあいていた椅子に腰をおろした。テーブルの上には、氷と水とブランデーの瓶《びん》があった。
ホステスが気を利かせて、ドアを閉めて出てゆく。これで奥の特別室は、完全な密談室となる。篝は緊張した。
彼は、神崎専務とは、仕事の上で、毎日のように顔を合わせ、意見を戦わせている。しかし、社長の小平賢治とは、暁興業に勤めて六年にもなりながら、まだ膝《ひざ》を突き合わせて仕事の話をしたことはないのだった。彼が緊張したのは、滅多に東京に来ない社長が、不意に姿をみせ、愛娘《まなむすめ》とその婿とを呼び寄せた席に、彼の同席を求めたという異常さのためであった。
「実は篝君……。いま社長から教えられて、驚いたのだが、〈中京観光〉の宝部《たからべ》が、〈ミューズ〉を手放す気持があるらしい」
神崎専務は、低いが、よく透る声音でそう言った。
「ミューズが? まさか……」
篝は、半信半疑で目を光らせる。
〈ミューズ〉は、東洋一のレストラン・シアターを目指して、名古屋のパチンコ王といわれた宝部三吉が、赤坂に建設した店であった。パリのナイトクラブから、一流の踊り子たちを三十人も招き、多少のことには不感症になった東京ッ子を、あッと言わせたオープニングの鮮やかさは、篝正秋も口惜しさも手伝ってよく記憶している。たしか三年前のことであった。
外国のナイトクラブのように、ショーを見ながら食事ができるというので、〈ミューズ〉はたちまち東京の名物となり、夜の観光コースとして、外人客が毎晩、バスで大量に押しかけて来た。これは企業としては、はっきり採算ベースに乗ったことを意味する。
……篝正秋が、その幾分、濃い目の眉根を寄せて、小首をひねったのも、そうした実情を見聞きしていたからである。
「まさか、ではない。宝部が昨日の夜、儂《わし》に会いたいと言うて来たんや」
小平は、分厚い唇を、ゆっくり動かした。
「それで?」
神崎は、促すように聞いた。
「会うたったわ。するとやな、宝部は〈ミューズ〉を担保に、二億円ばかり金を貸せちゅうんや……」
「二億円ですか?」
「ああ。そんな余裕ないわい、と言うとやな……ミューズを手放すという条件をつけてもええ、どこぞで二億円の工面つかんか、こない言いよる」
「ははあ、それで社長が、わざわざ上京された訳ですか……」
篝は小さく頷《うなず》いた。
「その用件もあるんやが、気に喰わんのは、宝部が〈明日、博多に行く〉と、ぬかしよったことや」
「博多へ?」
神崎が瞳《ひとみ》をきらりと光らせ、
「すると宝部は、蒋《しよう》宗元に……」
と、わずかな怯《おび》えを混えた口吻《くちぶり》で、反芻《はんすう》するように呟《つぶや》いた。
「としか、考えられへんやろ? 蒋と、わいとに両天秤《りようてんびん》かけよったんや。蒋なら、それ位の金を寝かせとる」
小平は、グラスに氷塊をとり、ブランデーを注いだ。指には、毛蟹《けがに》のように剛《こわ》い毛が、密生している。小平は、酒だけは、自分の手で、自分の好みに合わせてつくる。決して人任せにしない。自分の健康の状態を知っているのは、本人だけであるという持論からである。
蒋宗元という名前でも判る通り、この人物は台湾人であった。前歴は判らないが、現在は博多の東|中洲《なかす》に、三軒のキャバレーと四軒の劇場とを所有している。
この蒋が、かねてから東京進出を目指しており、札幌の〈本田興産〉が去年の春、その目的を果した時には、地団太を踏んで口惜しがった……という噂《うわさ》もあった。
それかあらぬか、博多でバーを開いていた蒋の妾《めかけ》は、二人とも東京に出て来て、新しくバーを開店したものだ……。これは、東京進出のための、有力な拠点とみることができるのである。
〈だが、なぜミューズの宝部が、二億ぐらいの金策に、奔走しているのだろうか?〉
篝には、その方が不思議だった。
宝部が、業界にその名を知られたのは、名古屋に物凄《ものすご》く大規模な、マンモス・パチンコ・キャバレーを創設した時からである。
一階、二階がパチンコ場になっており、地下がキャバレーで客はパチンコの景品の代りに、チケットを貰い、それでキャバレーで遊べるというシステムであった。
この風変りな商法は大いに当り、一躍、宝部三吉の名は、マスコミに鳴り轟《とどろ》いたのである。宝部は、その余勢を駆って、東京へ乗り出して来た。レストラン・シアターという、これまた日本に馴染《なじ》みの薄い、大胆なアイデアで……。
「社長……。私には、どうもよく判らないことがあるんですが」
篝正秋は率直に言った。
「ん?」
小平は、その特長のある三白眼を、ジロリと彼の方に向ける。
「なぜ、宝部は金に困っているんです? ミューズは、たしか自己資本で建設した筈ですし、予定よりは三、四割、下廻る売上げですけれど、決して赤字じゃない筈だと思うのですが……」
彼がそう言うと、小平はニヤッと片頬だけを崩し、
「だから、君に来て貰ったんや」
と、娘の道子の顔を盗み視た。
「と申しますと?」
「なぜミューズの宝部が、金策に奔走しているのか。なぜ銀行に相談しないのか。それを篝君、あんたに調べて貰いたいんやが」
「ははあ」
「宝部ほどの男や。銀行にかて、顔は利く。高利貸しかて、彼奴《あいつ》になら二つ返事で、金を貸しよるやろ」
「……だと思いますが」
「それをやな……商売|敵《がたき》のわいの処《ところ》にまで、頭を下げて来よった。ええか、商売敵やで、儂たちは……」
「本当ですね。しかも社長に会われたあと、博多の蒋社長に会いに行ったとなると――」
「きっと用件は、おなじやろ。東洋一の〈ミューズ〉を手放しても、宝部三吉は二億円の現ナマが欲しい。こらあ、ちょっと変な話やないかい……」
小平賢治は、また毛むくじゃらな指を使って、氷塊を自分のグラスに運んだ。高血圧で、医師から酒は禁じられているのに、小平は平気でブランデーのオン・ザ・ロックを、水でも飲むように呷《あお》るのであった。
「パパ、少し控えた方が……」
さすがに娘の道子が、そう言ってたしなめている。しかし小平は、豪快に笑い飛ばすだけであった。
「阿呆《あほ》。自分の躰《からだ》のことは、自分がよう知っとるわい」
若い頃、大|喀血《かつけつ》をして、医師からも見離された時期があった小平賢治であった。そのとき彼は、医師が禁じたことを、すべてやって退《の》けた。夜ふかしで花札をやり、酒も煙草ものみ、ついで女郎買いもやった。どうせ死ぬのなら、人間のなし得る、すべての快楽を味わってから死のう、と考えたのだそうだ。
「ところが、どうや。一年たっても、二年たっても死なへん。それで医者に診て貰うたら、二銭銅貨ぐらいの大きさがあった空洞が、影も形もなくなっているやないかい。絶対安静した患者が死によって、無茶苦茶した|わい《ヽヽ》はケロリと癒《なお》りよる。人生ちゅうもんは、けったいなもんやで、全く。その時、儂は思うたわ。人間にかて、犬や猫とおなじく、自分で自分の病気を癒す力があるんや、となあ。要するに、図々しい神経をもった人間が、生き残るというこっちゃ。くよくよする病人は、自分で自分の命を縮めてるようなもんやぜ……」
――それは聊《いささ》か、自己弁護めいた匂いがなくもなかったが、篝正秋には、小平の言葉が判らなくもなかった。人の命なんて、全くあやふやなものだった。たとえば、親友の玖島太郎のように……。
「とにかく、宝部がなにを考えとるのか、それを知りたいんや。ええな、篝君――」
「畏《かしこ》まりました。すぐ当ってみましょう」
篝は、私立探偵のような口を利いている自分に気づいて、苦笑していた。だが最近の彼の仕事には、なにか刑事じみた傾向が、濃くなりはじめているのも事実だった。
それというのも、ホステスのスカウトの仕事は、大して経験がなくとも、根気と熱意さえあれば誰にでも出来る。しかし、前借金を踏み倒したまま、姿を昏《くら》ました性悪女たちの行方を突きとめ、借金返済の交渉をするのは、この道で鍛え上げたキャリアを必要とするのだった。
篝は、他の重役たちが、彼のことを〈夜の署長〉とか、〈女の警察〉などと、陰で渾名《あだな》していることを知っている。逃げたホステスを、たとえ草の根をわけても探しだしてくるからであった。
仕事の話が終ってから、しばらくは雑談になった。小平社長は、娘の道楽ではじめた〈コンテッサ・クラブ〉が、予想以上の繁昌ぶりだと聞くと、
「どうや、もう一軒出したら……」
などと、神崎専務に言っている。
「柳の下の泥鰌《どじよう》ですか?」
神崎は、あまり乗り気でもなさそうだった。
それと知ってか、小平は篝の方に躰を乗りだし、
「どうだね? 日本橋あたりに、もう一軒出すというプランは?」
と珍しく標準語で話しかけてくる。
「そうですね。外人のバニィガールをおいて、外人客を専門にやってみたら、面白いかも知れませんね」
何気なく篝正秋は答えた。
東京にいる外国人は、思いがけず多い。しかし連中は、銀座の酒場には、出入りしたがらなかった。勘定が高い所為《せい》もあるが、外国語のわかるホステスが尠《すくな》いからだった。遊んでも、つまらないからである。
「おい、道子。篝君のアイデア、ちょっといけるかも知らへんで。検討してお見……」
小平賢治は、グラスに残ったブランデーを一気に飲み乾《ほ》し、禿げ上った額の汗を、手の甲で拭った。
「篝君、用件はそれだけや。あ、そうそう……なんや知らんが、今度ソ連から、オットセイの睾丸《こうがん》を干したんが、輸入されたそうやなあ。あれ、手に入れて送ってんか。この間もろうた鹿の骨の粉末、あれ効かへんわ……」
小平は娘の顔と、彼の顔とを見較べながら、その時だけ照れ臭そうに言った。神崎道子は聞えない風情を装っていた。
夜九時まで事務所にいて、あと篝は、四軒の系列店を散歩するのが、ここ数年の習慣となっている。
四軒の店は、いずれも西銀座の五丁目から八丁目の間にあった。
毎晩のように、夜の銀座を歩いているから、花売り娘にしろ、流しの楽士にしろ、みんな彼と顔馴染みである。篝は、ときどき花を買ってやったり、屋台の饂飩《うどん》を奢《おご》ってやったりして、いろんな情報を貰っていた。
どこのバーに綺麗《きれい》な新人が入ったとか、あそこのバーは代替りするらしいとか、貴重なニュースを流しの楽士や、花売り娘たちは、彼にもたらしてくれるのである。
また時には、商売敵の店にも出掛けて行き、気前よくチップを弾んで来たりするが、これも仕事のうちだった。
敵情視察――というよりは、逃げたホステスたちのその後の行方を探ったり、スカウトしようと考えている女性の、客種を見極めたりする為である。
むろん、相手の店の支配人からは、極度に警戒された。しかし、現金のお客として来る以上、彼の出入りを拒絶できないのである。
暁興業のチェーン店に顔を覗《のぞ》かせるのは、やはり大切な仕事であった。保安部長の彼にとって、いちばん必要なことは、働いているホステス達を完全に把握《はあく》する、ということだったのだ。
つまり、他の店から引き抜かれないように警戒しつつ、よりよき働きの場を形づくってやる必要があった。それには、やはり科学的なデーターと、観察とが、重要なポイントになってくる。
たとえばA子をとりあげるとすると、彼女の収入、売掛け金の状態、生活費のバランス、男関係などについて、絶えずチェックしておかねば、A子を完全に把握したとは言えないのである。
四谷に住んでいたホステスが、とつぜん青山とか麹町《こうじまち》の高級アパートに移転する。
この場合、その敷金や権利金は、彼女の貯金ではなく、男から出ているとみて差支《さしつか》えない。
なかには、アパートを移ると称して、数人もの男から金を欺《だま》しとり、ちゃっかり車まで買い込む女性もいた。
また数人のパトロンを手玉にとり、若いヤクザに入れあげているホステスだっている。
彼女が、どんな暮しをしているかは、その日常生活を眺めていたら、大体の見当はつくものだった。不意に新しい洋服や着物を、次から次にと取り換えて店に来るようになったり、宝石などの装飾品が増えはじめたら、それはパトロンが変った証拠である。
これと反対に、服や靴を新調する度合が、以前と較べて控え目になり、店も休みがちになるのは、恋人か、ヒモが出来た証拠である。
また家族に、病人が出たりした時にも、こんな傾向が現われてくる。
ホステスが、前借金をそのままにして、ドロンをするのは、そのホステスが赤松辰子のように性悪のこともあるが、多くの場合、男にそそのかされるからだった。
そうして十中八九までが、ヤクザがかったヒモであり、男は女を焚《た》きつけ、店を移らせては支度金を吸い上げるのである。つまり、男の喰い物にされる訳だ……。
篝は、女の働きぶり、言語動作の端々から、ヒモがついたと悟った時には、食事などに誘い、
「早く手を切らないと駄目だぜ……」
と、それとなく忠告する。
彼は、ホステス個人を、一個の独立した会社《ヽヽ》だと考えている。悪い男から、喰い物にされたのでは、ホステスは倒産するばかりなのだ。
そこでなるべく早く、会社《ヽヽ》の再建策を授けてやる。
たとえば、男と別れるために、アパートの敷金を貸してやったりするわけだ。ホステスの立場を親身になって理解し、救済のための処置を早く講じてやるのが、親心というものだった。むろん、この場合は、ホステスという名の会社≠再建でき、債務を弁済させる見込みが立つケースに限られているのではあったが……。
その夜、篝正秋は例によって、チェーン店の散策に出かけたが、一軒廻ったばかりの所で、ある商事会社の係長と、並木通りでばったり顔を合わせた。
〈三星物産〉に勤めている藤代《ふじしろ》という人物で、よく暁興業のチェーン店に、姿をみせる男であった。
なんでも、鉄鋼関係の担当だということを耳にしていたが、扱っている製品に似合わず、なかなかの遊び人のようである。
藤代係長は、神経質そうな表情をした、四十三、四の人物と一緒だった。
「やあ、今から、あんたの店でも行こか、言うてた所やねん。席、あいたるか?」
藤代は、社長の小平より、どぎつい大阪弁を使う男である。篝は笑顔になった。
「どうぞ、どうぞ。私も、これから参りますので――」
彼は、案内する意味で、先に立った。
すると藤代は、それを遮《さえぎ》るように、肩を大きく敲《たた》いた。
「なんや知らんが、新しいキイ・クラブ出来たてなあ。そこ、使わせてんか」
篝は、コンテッサ・クラブの会員名簿の名前を思い浮かべたが、むろん藤代係長の名前がある筈もない。それで躊躇《ちゆうちよ》しているのを、藤代は心を看透《みすか》したように話しかけた。
「ええがな、ええがな。そのうち、法人会員になるさかい……。それより、この人な……〈日本春秋〉の田村さんやねん。編集長やってはる……」
篝は、太い眉を動かした。死んだ玖島太郎が勤めていた、雑誌社の名前だったのである。
[#改ページ]
大川作之助
東横線の田園調布駅を降りて、北に向かって五、六分ばかり歩くと、右手に刑務所のように高いコンクリート塀《べい》が、いやでも眼に入ってくる。
しかも、そのコンクリート塀の上には、鉄の針が植え込まれてあって、夜間には自動的に高圧電流が流れているという話であった。
西南に位置するところに、その大邸宅の正門がある。
一見、木製の格子戸風で、なかなか洒落《しやれ》た門構えであるが、近づいてみると、それはなんと鋼鉄でつくられた格子戸で、右に引くと同時に、仕掛けを知らない人なら、卒倒せんばかりの凄いベルの音が鳴りひびく。
気の弱い押売りなら、そのベルの音だけで、退散してしまうのではないかと思われた。ベルの音ばかりではない。格子戸をあけると、ベルの騒音につづいて、二匹のグレートデンが、邸内のいずこからともなく立ち現われて、訪問客に吠えつく二段構えである。
屋敷の中は広かった。
さよう、八百坪あまりはあるであろうか。
田園調布駅の一帯は、高級住宅地として、東京でも名の売れた存在であるが、その中でも、この高い塀をめぐらせた大川邸は、異彩を放っている。
近所の人々は、この屋敷のことを刑務所≠ニ渾名しているらしかった。
所有者の大川作之助が、悪名高い金融業者であることも、刑務所と名づける理由であろうが、たしかにその高い塀の構えは、なるほど刑務所と呼ぶのにふさわしかった。
大川作之助は、百万単位の金は貸さない。つねに一千万円単位の仕事しか、しないという噂だった。時には、十億円ぐらいの金も貸した。
大川が、どこにそんな金を隠し持っているのかは、国税庁あたりでも未《いま》だに謎《なぞ》とされている。本人の金か、どうか判らないからである。
だが本当は、大川には特別の金融筋がついているのであった。世間には、あまり知られていないが、その金融筋とは、ラサールとヤッスーンという上海《シヤンハイ》から流れて来たユダヤ人である。
この二人のユダヤ人は、めったに人を信用しないが、大川作之助だけは全面的に信頼しており、彼の手形一本で、何億円という現金を用立てた。
大川が未だかつて、不渡りを出したことがないからである。大川は、ラサールや、ヤッスーンから月三分の金利で借り、日本人のお客には、調査料、危険分担金などの名目で、月一割二分の金利をとって貸しつける。
差し引き九分の利益だった。しかも金利分は、頭から引き去ってあるから、月一割以上の利益になった。
年間に百億の金を動かすとなると、十数億円の金が、大川の懐ろに流れ込む寸法で、この手口で金が儲《もう》からなかったら、その方が可怪《おか》しいと言えた。
大川作之助は、大正七年生れだから、まだ五十歳には手が届かない働き盛りである。
前歴は明らかではないが、陸軍中尉の肩書がある処《ところ》をみれば、やはり当初は、インテリの歩むコースを辿《たど》っていた人物のようであった。
彼の自慢は、税務署では評価しにくい財産を、所有していることだった。
それは書画|骨董《こつとう》の類から、宝石をはじめ、刀剣|甲冑《かつちゆう》、庭石にまで及んでいる。とくに八百坪の邸内の、いたるところに散在する庭石の見事さは、好事家《こうずか》の垂涎の的であるといわれた。
北海道の神居古潭《かむいこたん》石、めったに手に入らない空洞をした名寄《なよろ》石、三十貫もある十勝石、時価二千万円といわれる佐渡の赤玉石、岐阜の本巣郡からとれた菊紋石、加茂川の真黒石……といった風で、その数と種類だけでも、目を瞠《みは》るほどである。
おそらく庭師の目からは、数億円もの財産として感じられるであろうが、税務署員には、それは価値のないただの岩であった。つまり評価の基準がないのである。
……大川作之助は、その朝も、七時ごろに目を覚ました。
枕許《まくらもと》のブザーを捺《お》すと、間もなく二人の若い女性が姿を現わした。
一人は新聞と湯上り用のタオルを持っている。もう一人は、お盆の上に、幾種類かのグラスを載せて、捧《ささ》げ持っていた。
彼は十畳の座敷に、昔ながらの蒲団をのべて、冬でも全裸で眠る。マットレスとか、ベッドは嫌いな性格であった。
大川作之助は未だに独身だった。
だが、特定の愛人がいないわけではない。その愛人は、いずれも彼の金に飼われた存在であった。
その好みは一定していて、彼より背が高く、肉づきがよくて豊満で、しかも毛深い女性に限られている。
彼が秘書と称している戸川隆子も、大館昌子も、いずれも百六十センチを越えるグラマーであった。屋敷の中には、もう一人、秘書がいた。この方は折悪しく、生理日で休んでいる。
大川は、その若い三人の秘書に、月十万円の給料を支払っていた。
給料……というよりは、それは毎月のお手当に近い金だったろうか。
三人の秘書は、毎朝、彼の臥床《ふしど》で同性愛めいた行為を強いられる。
精力の根源は、異性の愛液であると信じ込んでいる大川が、その愛液を吸い取るために、そうした異常な行為を要求するからであった。
大川の述懐によると、彼は学生時代、ある未亡人の家に、ロハで下宿していた。その下宿代は、その未亡人に週二回、彼の精液を吸い取られることだったのだそうだ。
その未亡人は、五十を越えていたが、皮膚の色艶《いろつや》などは、三十代のそれのように若々しく、つるつるしていたという。若い異性の体液を、摂取しているとそうなるのだそうだが、四十歳を越えて大川作之助も、そんな昔のことを憶《おも》い出したのかも知れない。
……大川は裸のまま、蒲団に俯向《うつむ》けに横たわった。
大館昌子は、そんな彼の裸体にまたがり、首のあたりから背骨を指圧しはじめる。
大川には古風なところがあって、整体術に凝っているのであった。
秘書が、腰骨あたりを揉《も》みほぐす頃、彼は枕許の新聞に目を通しはじめている。
朝刊を読みながら、彼の左手は、お盆の上のグラスに、ときどき延べられた。
ニンニクと人蔘《にんじん》のジュース、卵の黄味とレモンと蜂蜜《はちみつ》のミックス、ガラナと蝮《まむし》と朝鮮人蔘の混合……といった、大川の創案になる精力剤ばかりであった。
彼の愛欲の対象となるのは、屋敷にいる三人の秘書ばかりではない。アパートを借りてやり、毎月お手当を出している女性だけでも、都内に七人もいた。
女性はいずれも、一流の酒場に勤めているホステスや、赤坂や新橋の芸者であった。
この愛人たちは、大川の風変りな性戯の対象となるばかりでなく、政財界人たちの情報をもたらす大川のスパイでもある。
つまり彼は、待合や高級酒場にまで、情報網をはりめぐらせているのであった。
足先までのマッサージが終ると、大館昌子はバスタオルを敷いて、その上に自らの躰を仰向《あおむ》けに横たえる。
「頂かせて下さいませ……」
女は低い声でそう言った。
――数分後、二人は獣じみた声を、上げあって絡み合っていた。
そのあと大川は、腰にバスタオルを巻きつけて、寝室を出て、長い廊下を浴室まで歩いてゆく。
浴室は、総檜《そうひのき》ばりの、金にあかせて造られた豪華なものだった。
大川は、この浴室で歯を磨き、髭《ひげ》を剃《そ》り、ゆっくりと湯に浸る。
湯につかっていると、自然に躰に精気が漲《みなぎ》ってくるような感じがした。
大川作之助には、この朝の入浴が、その日の仕事あけと言ってよかった。
大川は原則として、朝食は摂らない。精力剤と独特な液体だけが、彼の朝食であった。
風呂に入り、洋服に着替えると、ちょうど八時半頃となる。迎えの自動車が、玄関脇に待っている時刻であった。
車の中には、彼の姪《めい》にあたる大川久美子が、その日のスケジュール表を膝にして待機している。
「お早ようございます」
久美子は怒ったような顔つきで挨拶する。かつて彼女も、大川の秘書をつとめた時代があったのである。
「ああ、お早よう。今日は、どんな按配《あんばい》だね?」
大川は平然と久美子と並んで坐り、スカートから覗《のぞ》いている可愛らしい膝小憎に、乱暴に触れるのだった。
「今日は、九時に加藤さまが面会に来られます」
加藤というのは、大川が金を出して興信所をやらせている男である。
高利貸しという職業には、調査はつきものであった。たとえ一流の会社でも、彼のような人物に、手形を割って貰おうとするからには、なにかそれだけの理由があるのだ。
たとえば水産会社を例にとると、船団を南氷洋に派遣するため、給料の前渡金が大量に必要になることがある。この場合には、船団が遭難でもしない限り、先《ま》ず安心だった。
しかし、株の買占めに対抗するため、急場の資金に追われる場合だってある。こんなとき、大川はむろん金を貸すが、一方ではその会社の株を裏で買い漁《あさ》り、金利と株価の操作で、二重に儲けることができるのだった。
これも、加藤に興信所をやらせており、なぜ金が必要なのかを、調査させるからなのだ。大川はそう思っている。
加藤のあとは、融資関係の依頼人が、午後二時ごろまで、びっしり詰まっている。
昼食は、事務所で摂《と》る習慣であった。客と対談しながら、血のしたたるようなビーフ・ステーキを食うのである。
事務所は京橋のビルの六階にあった。
なかなかスマートな建物である。しかし、エレベーターの速度は、ビルと不釣合なぐらい遅かった。
「お早ようございます」
彼が入ってゆくと、受付の女事務員が頭を下げた。
「ああ、お早よう」
彼は通りすがりに、女事務員の乳房を、指先で軽く突いている。女をみたら触る、という奇癖の持ち主なのである。
若い頃は、金儲けだけに専念していた。しかし財産ができた今日では、女だけが唯一の道楽なのだ……。
社長室に入ると、すでに加藤がやって来ていた。手に書類カバンを持っている。
「この間の報告書が出来上りました」
加藤は彼とは対照的に、色の蒼白《あおじろ》い、痩《や》せた長身の男である。年齢はまだ三十代だが、頭の切れる人物でもあった。
兜町《かぶとちよう》で予想屋をやっているのを、大川が掘り出して、興信所をつくらせたのだった。
「ほう。どうだったね、按配は?」
大川は久美子の淹《い》れたクコ茶を啜《すす》り、ゆっくりケントを口に咥《くわ》える。すかさず加藤の右手に、ライターが鳴った。
「有望だと思います」
加藤は答えた。
「そうか。そらあええ」
大川は脂ぎった額のあたりを、ハンケチで拭い、どうしたものか、といったように指先でハンケチを弄《もてあそ》んでいる。
取引きのない某食料品メーカーから、融資の依頼があったのだった。いま流行のインスタント食品で当て、毎日のようにテレビで宣伝を行っている新興メーカーである。
なんでも工場の拡張のため、繋《つな》ぎの資金を七千万円ほど用立てて欲しい、というものだった。期間は五十日間。金利は日歩二十銭までという条件である。
「どうするかな……」
大川は、そんな迷ったような口調であったが、別に迷っている訳ではなかった。
金庫には、いつも一億円ぐらいの現ナマが寝かせてある。彼しか開け方を知らない、特別|誂《あつら》えの金庫であった。
「次の御用件はありますか」
加藤は丁重な口を利く。
「今のところ、ないな」
「さようでございますか。では……」
興信所長は立ち上りかけて、不図おもいだしたように、
「あのウ……ミューズの宝部三吉という人物をご存じでしょうか」
と訊《き》いた。
「ああ、知っとる。名古屋の男だろう」
大川はこともなく応じた。
「宝部が、どうかしたのかね?」
加藤はしばらく戸惑っていたが、ややあって、
「実は大きな金策に走り廻っているらしいんですが」
と言った。
「ほウ、金策に?」
「はい。なんでも二億とか、三億という金だそうで……」
「ふーん……」
大川作之助は上衣をとった。久美子が素早く背後に廻っている。
「宝部なら担保もあることだし、貸してやってもええが、話があったのかね?」
彼は何度か招待されて赴いた、赤坂の〈ミューズ〉の外人の踊り子の姿を、なまなましく記憶から甦《よみがえ》らせる。
「いいえ、直接、宝部から話があったわけではないのです」
「じゃあ、何だ?」
「あるところから、調査の依頼が舞い込みましたので……。金が必要な、真因を探って欲しいとか……」
「ふーむ。そいつは面白そうだな」
大川は煙草を揉み消して、
「結果がわかったら、儂《わし》にも知らせてくれんかね?」
と言い、あとは加藤を無視したように、机の上に溜《たま》った未決の書類に目を通しはじめた。
大川作之助も、宝部三吉の金策の理由が、奈辺《なへん》にあるかは見当もつかなかった。
[#改ページ]
ミミズ千匹の女
秘書役の大川久美子が言っていたように、来客は午後二時まで続いた。融資の依頼、手形書き換えの依頼、それに投資の依頼など、来客の用件はさまざまである。
大川作之助は、紹介者なしには、初対面の客には会わない。一度、客が暴漢に変じて、危うく短刀で斬りつけられる……といった体験があるからであった。
午後三時になると、大川は事務所を出る。朝と違って、今度は一人だけで車に乗るのである。
運転手は極く平然とした口調で、
「どちらへ?」
と訊く。
「そうだな……今日は新宿の方に、して貰おうか」
と大川も答える。
新宿の方とは、四谷三丁目に住んでいる丹羽|章子《あきこ》のアパート、という意味だった。大川は七人の女性に、毎月お手当を出しているのだが、それらの女性は、港区だの渋谷区だのの区名によって識別された。
つまり都内の目ぼしい各区に、それぞれ一人ずつ、愛人を住まわせているのだ。その方が、各区の地価の値上りや、いろんなニュースが自然と耳に入って来て便利だというのが、大川の考え方であった。
金を出す以上は、徹底的に利用するのが、彼の生活哲学なのである。
七人の愛人たちは、いつ大川が訪れてくるかも判らないので、滅多に午後はアパートをあけられなかった。また夜だって、そうである。
大川は予告もなしに、不意にやってくる。客に誘われて、店が閉《は》ねてから寿司屋へ行くにしても、自分のアパートに電話して、大川が来ていないことを慥《たし》かめた上で、それに応じねばならないのであった。むろん、大川が来ていたら、客の誘いを断って、一目散に自分のアパートに帰らねばならなかった。
午後三時から、自分の愛人のアパートを訪ねて、夕食を摂る。八時ごろ、そのアパートを出ると、別の愛人宅に訪れて、鍵《かぎ》をあけて中に入り、彼女が帰るまで仮眠をとる。
そうして再び、その愛人と性戯を楽しんで、午前二時ごろ帰宅する……というのが、彼の日課なのだ。
つまり朝、昼、晩と三回も、若い女性の溌剌《はつらつ》とした体液を啜り、毎日のように性行為をもっているわけである。
丹羽章子は、銀座の高級サロン〈コスモス〉に勤めていた。
背は百六十八センチもあって、乳房は理想的に隆起し、整った顔立ちをしている。
ある弱電メーカーの経理部長に案内されて〈コスモス〉へ行き、そのとき席についたのが彼女であった。
美人であり、彼の好みのグラマーである。しかも眉は濃い。大川作之助は、その太い眉から、章子の毛深さを連想し、一眼で惚《ほ》れ込んだ。
翌晩、大川は章子を指名してコスモスに姿を現わし、
「きみのアパート代を、儂に支払わせないかね?」
と口説いた。
銀座で働く夜の蝶たちは、随分と高い給料は貰ってはいるが、その大部分は、衣裳《いしよう》代と家賃とに費されている。高級なバーで働く人間ほど、世間体もあるから、鉄筋のアパートに住む傾向がつよく、この方の家賃は、衣裳と違って毎月のことだから、切実な出費なのであった。
大川作之助は、そうした夜の蝶たちの生活の裏面にも通じており、それでアパート代を支払わせろという、口説き文句を使ったのである。章子は、それに応じた。
彼女は、彼が予想していたように毛深く、しかも餅肌の女性であった。その上、彼を驚喜させたのは、丹羽章子が何万人に一人といわれる、俗称ミミズ千匹≠ニいう名器の持ち主で、その上、とめどもなく体液を流す女性であったことである。
ミミズ千匹とは、小さいミミズを千匹集めた容器に、男性を挿入《そうにゆう》させた形を想像していただくより説明の方法もないが、とにかく逸品中の逸品なのである。
だが大川が満足したのは、彼女の毛深さであった。彼は密《ひそ》かに、アリューシャン列島と名づけたが、それは陰毛が臍《へそ》の下あたりまで、細長く密生しているからに他ならなかった。
大川の足は、自然と四谷三丁目に向いた。はじめ章子は、彼の風変りな趣味を嫌がった。それは平常な神経の持ち主なら、当然のことであろう。
大川は章子を、気永に口説き、三カ月後には、彼の趣味に反応する女性に仕立て上げていた。ちょうど半年ばかり前のことになる。
彼の表現を借りたら、そのとき始めて彼女は、大川の愛人となったわけだった。
四谷三丁目の消防署の前で、大川は自家用車を降り、
「八時に迎えに来てくれ」
と運転手に言った。
「畏まりました」
運転手も毎度のことだから、すぐ車を走らせて消えてゆく。大川は、ゆったりと歩んで、間もなく鉄筋四階建のアパートの前に近づいた。南側はベランダになっていて、洗濯好きの章子は、いつも華やかな下着を風にはためかせている。
彼は、そんな風に乾されている下着類の華やかな色彩を、見挙げるのが好きだった。
〈おや、どうしたのだ?〉
大川作之助は、三階のベランダを眺め、かすかに首を傾《かし》げた。
晴れ上ってよい天気なのに、章子の部屋のベランダには、一枚の干し物もない。いつもなら肉色のストッキングだの、ブルーのスリップだのが、欲情をそそるかのように、なまめかしく陽射しを浴びている筈だった。
大川は階段を、急ぎ足で昇って行った。
三階の一番奥が、章子の部屋である。
彼はキイを入れた小型ケースをとりだし、鉄のドアの鍵穴に、その一つを挿《さ》し込んだ。ガチッと音がした。把手《ノブ》を廻し、手前に引く。
大川はその一瞬、異変を感じ取った。
部屋の中は、シイーンとしている。
上り框《がまち》の右手にある、造り付けの靴箱も、空っぽであった。
彼は慌てて、目の前に垂れ下っている、遮蔽《しやへい》用のカーテンを引いた。そうして大川作之助は、低く「あッ!」と叫んだ。
部屋の中が、シイーンとしているのも道理で、彼が買い与えた家財道具の一切が、本人もろとも姿を消していたのであった。
……三日前に訪れたときには、たしかに丹羽章子は、その部屋で暮していた。
台所で彼のためにビーフ・ステーキを焼き、ビールで乾杯《かんぱい》したあと、章子は六畳の和室で裸のまま彼と絡み合ったのだった――。
そのあと大川は、章子に三十万円を手渡している。郷里の父親が病気で、胃癌《いがん》の手術を受けるための治療費を、彼が出してやったのである。
むろん月賦で彼に返済する、という約束ではあったが……。
珍しく大川は、その夜章子に店を休ませ、午後十一時ごろまで仮眠をとり、そのあと、もう一度たっぷりと章子の躰を賞味してから、田園調布の自宅に戻っている。
三十万円を貸して貰ったお礼の意味か、いつになく章子は積極的で、彼の愛撫《あいぶ》にとめどもなく、呻《うめ》き声を上げつづけた。
大川は土足のまま、部屋に駈け上った。
入ったところが食堂を兼ねた六畳のキッチンで、その奥が八畳の洋間、南側が和室の六畳である。
キッチンにあった電気冷蔵庫も、電気|釜《がま》や食卓も、居間のソファーやテレビ、洋服ダンスなども、凡《すべ》て彼が買い与えた品物であったが、影も形もない。
流し台に、飲み残しの牛乳瓶が一本と、折れた箸《はし》と、使い古したタワシがあった。
和室の押入をあけてみる。
伝線病にかかったストッキングの束と、新聞紙にくるんだ包みが目に入った。包みをあけてみると、血のこびりついた古い型の生理帯である。大川は腹立しそうに、それを床に叩きつけた。
洋間の隅に、洋服箱が転がっている。蓋をとると、カビの生えたハイヒールだの、毛の切れた靴ブラシだの、罅《ひび》の入った灰皿などのがらくたが詰まっている。
「畜生……」
大川作之助は唸《うな》り声で呟《つぶや》いた。
女に逃げられたことが、はっきり分ったからだった。
先ず大川には、三十万円の貸し金のことが頭に浮かんだ。
〈章子のやつ……行きがけの駄賃のつもりで、儂を欺して、三十万円を騙《かた》り取りやがったんだな!〉
彼は、歯軋《はぎし》りした。
ついで彼の買い与えた家具のことが、頭の片隅を横切った。
惚れた弱味で、二十万円もするカラーテレビや、クーラーも買ってやった大川である。宝石だって、オパール、真珠、トルコ石、アメジスト、珊瑚《さんご》と五種類も買っていた。
あれやこれやで大川は、章子のために、毎月五万円の手当の外、百六、七十万円を投じている計算になる。
……彼が、そんな投資を惜しまなかったのも、逸品の所有者であり、毛深い理想の女である章子を、他人に手放したくなかったからに他ならなかった。
彼の傍《そば》に引きつけておくために、大川は章子に金を使ったのである。
だが――その彼の愛玩《あいがん》品は、三日前の一夜を境として、彼の目の前から姿を消してしまったのであった。彼のそうした奉仕を、嘲嗤《あざわら》うかのように……。
「ひどい、女だ……」
大川作之助は、口に出して言った。
「後足で、砂をかけやがった。許せんぞ、あの女は!」
彼は、呻くように呟く。
手際のよい引っ越しぶりから想像すると、章子には恋人でもいたのかも知れない、と彼は考えた。パトロンがいながら、陰で恋人とよろしくやっている女。とんでもない女ではないか。
人を莫迦《ばか》にするにも程がある、と彼は思った。すると三日前の一夜の、いつにない章子の甘え方が、そらぞらしい芝居であり、彼を安堵《あんど》させるための手段であったように考えられて来て、また大川は腹を立てた。
「畜生……きっと探し出してやる!」
大川は、靴尖《くつさき》で洋服箱を蹴《け》りつけた。青いカビを生やした黒のハイヒールが、まるで生きているように飛び上って洋間の床に転げ落ちた。
「見ていろよ、章子! きっと探し出して、なにもかも取り上げてやるからな!」
彼は、腕を組んだままの姿勢で、そのカビの生えた婦人靴を睨《にら》みつけた。その靴の穿《は》き主は、どこかで間抜けな高利貸しを、恋人と笑い合ってるに違いない。
大川は、また歯軋りをすると、そのハイヒールを蹴り飛ばした。
アパートの管理人の話によると、引越す話は一カ月も前から、家主の方に申し入れてあり、昨日の午前中に、運送店のトラックがやって来て、どこともなく荷物を運び去ったのだということだった。
「一カ月も前から?」
大川作之助は唖然《あぜん》となった。
敵は一カ月以前から、彼から脱出することを考えていたというのだ。あきらかに計画的な逃避行である。
「誰か、男が訪ねて来ていませんでしたか?」
大川は、舌打ちしながら訊いた。
女に逃げられた阿呆面《あほうづら》を、他人に曝《さら》すことは、たしかに気恥しかったが、照れては居られなかった。
丹羽章子の躰には、まだ未練があるのである。
「そうですなあ……」
彼がパトロンだったことを承知している管理人は、言い辛そうに、二カ月ほど前から、午前中に三十七、八位の男性が、章子の部屋を訪ねて来ていた事実を告げた。
「どんな男です?」
「黒メガネをかけているので、よく人相は判りませんが、どことなく颯爽《さつそう》とした紳士でしたが……」
「名前などは、判らないでしょうな」
「ええ、存じません」
「すると、その男が、引越しの手伝いを?」
「いや、見掛けませんでした。引越しは全部、運送屋が――」
「どこの運送屋です?」
「さあ、名前も見ませんでした。ちょうど家主さんが来られ、敷金の償却費のことで、ごたごたしてましたのでね……」
大川は目を剥《む》いた。四谷三丁目のアパートの敷金は、彼が大部分を出してやっていたのである。つまり丹羽章子は、その敷金までちゃっかり攫《さら》って行ったわけだ……。
「許せん!」
大川は歯噛《はが》みした。
「どうも私共では、個人的なことには、立入られませんので……」
管理人は、自分が叱られているように、おどおどしながら言った。
「とにかく、どこへ行ったのかを知りたいんだ。郵便物の転居先なんか、聞いてませんか?」
「いいえ、格別なにも……」
大川は管理人に、家主の住所と電話を聞き、仏頂面で愛人のいなくなった四谷のアパートを出た。
こんな事件にぶつかる位なら、自家用車を帰すのではなかった……と悔まれたが、運送屋の名前が判らないのでは、探し出す手懸りもない。
四谷三丁目の駅に向かって歩きながら、大川はなぜ丹羽章子が、とつぜん姿を昏《くら》ましたのだろうか、と訝《いぶか》った。彼を、別に嫌っている様子でもなかったのである。
「そうか。判って来たぞ……」
彼は独り言のように、歩きながら呟く。章子が、父親の手術代だと言って、彼に出させた三十万円は、実は新しい引越し先の権利金や敷金に化けていたのだ、ということに気づいたのである。
書置きもなく、全く不意の失踪《しつそう》だった。理由も判らないし、さりとて原因としては、彼の風変りな性戯ぐらいしか思い当らない。
「午前中に、男を引き入れていたのか、畜生め……」
彼が、そんな独り言をいったので、通りがかりの中学生が、きょとんとした顔つきで立ち停った。大川は苦笑いした。
腕時計をみると午後四時十分である。
池尻に住む家主を探《たず》ねて行くのも、なんとなく億劫《おつくう》な時間だった。
大川は珍しく一軒の喫茶店を見つけて入り、ホット・ミルクを注文した。
なぜ丹羽章子が彼から逃げたのか、探し出すにはどんな方法があるかを、冷静になって考えてみる積りであった。
大川が、舗道を通る出勤前の夜の蝶たちの姿に気づき、章子の勤め先である高級サロン〈コスモス〉に、心当りを当ってみる方法に気づいたのは、午後五時近くになった頃である。
〈しまった……。こんな時のために、加藤に興信所をやらせているんじゃないか!〉
名案に思いつくと同時に、大川は、たかが女一人に逃げられた位で、周章|狼狽《ろうばい》している自分が、歯痒《はがゆ》くてならなかった。
興信所に電話したが、所長の加藤は不在だった。彼は電話帳を繰って、コスモスに電話を入れた。
「丹羽章子さんのことで、ちょっとお伺いしたいんだが」
大川が切り口上で用件を伝えると、先方もそれに負けぬ位の口調で、
「それでしたら、事務所の方へお願いします。暁興業と電話帳を引けば、出ていますから……」
と言うなり受話器を切るのであった。
大川は、また電話帳をくり、暁興業のダイヤルを廻した。
同じ用件を繰り返すと、
「篝部長……」
と誰かを呼ぶ声がして、受話器を他人に手渡す風情である。
「電話を代りました。篝と申します」
大川は、うんざりしながら、章子のことについて聞きたい、と言った。
「丹羽章子ですね?」
相手は、なにやら帳簿めいたものを点検しているらしく、頁をしきりに繰る音が受話器の底を擽《くすぐ》っている。
「丹羽さんは、月曜から休んでますな。丹羽が、どうかしましたので?」
篝という人物は、大川にそんな風に逆に質問して来るのである。大川は低く叩きつけるように言った。
「アパートを訪ねたら、居らんのだ。人に無断で、引越しとる!」
「え、彼女が居ない?」
なぜだか、先方の人物も、大いに狼狽している様子である。相手は慌てて叫んだ。
「あのう、お話を伺います。いま、どちらにいらっしゃいますので?」
と……。
[#改ページ]
逃げだした理由
……相手が電話を切ったというのに、篝正秋はまだ、受話器を握りしめたままの姿勢であった。そのとき、彼の頭の片隅には、〈コスモス〉の数多いホステスの中でも、擢《ぬき》んでてグラマーである丹羽章子の顔が、くっきりと浮かび上っていたのであった。
丹羽章子は、彼にとっては、忘れられない一種の因縁がある女である。
鹿児島で、彼女をスカウトした……という一事だけでも、彼と章子とのただならぬ因縁ぶりが偲《しの》ばれるが、篝正秋は、この丹羽章子ほど磨けば光る≠ニいう文句が、ぴったりする女を他に知らない。
たしか一昨年の秋のことである。
暁興業のチェーン店の一軒で働くホステスが、二度目の自殺未遂を図った。
千世《ちせ》という源氏名の、小柄だが、ふるいつきたいような美人で、和服のよく似合う女性だった。
ある紹介者があって、篝が直接に会い、採用したのだが、どういうものか、美人の癖にどことなく翳《かげ》のある表情が、彼には気にかかっていた。
笑っても、なぜか心の底から笑いきれないような、そんな寂しい笑顔なのである。
自分の経歴は決して語りたがらない。しかし、言語動作のはしばしには、育ちの良さめいたものが滲《にじ》み出ており、それが中年の紳士客たちに評判がよい原因でもあった。
年は二十四、五であろうか。
勤めぶりは申し分なく、また店の客とも浮いた噂《うわさ》を聞かぬ。
だから篝は、その千世というホステスには、決まった愛人がいるのだと考えていた。
銀座で働く夜の蝶には、二種類のタイプがあって、結婚を目的とする者と、マダムを目標にする者とに分かれる。
しかし目的はいずこにあれ、一流のバーで働く人間は、絶えず衣裳代に追われているから、特定の愛人や旦那があっても、金銭のためには適当に目を瞑《つむ》って、浮気をするものなのであった。
だが千世は、そんな浮いた噂もない。
これは篝の体験的な推察によれば、よほど惚れ抜いて、夢中になっている同棲《どうせい》者が存在することを意味する。
それはそれでよいのだが、千世を指名して通っていた、ある土建会社の社長が、倒産したために、彼女には六十万円を越える負債が残ったのだ……。
篝が計算してみると、彼女の未収の売掛け金は、かるく百五十万円にも及んでいる。それで彼は、千世を事務所に呼んで、その事実を指摘し、
「一体どうする積りだい……」
と訊《き》いた。
「済みません。なんとかします……」
千世は、うなだれて答えた。
「なんとかすると言っても、具体的な方法があるの?」
篝は言った。
歩合制で働くホステスは、客の指名だけが頼みの綱だった。
客が、千世を指名して店を訪れ、かりに二万円を散財して帰って行く。
その場合、彼女の収入は、売上げの四割――八千円がその収入となる。
要領のよいホステスになると、客の性格や懐ろ工合によって、正規の二万円の勘定に、さらに一万円ぐらいを上乗せして、一万八千円の収入をあげたりもする……。
だが、これは指名客が、きちんと月末に支払ってくれた場合の計算であって、もし支払って貰えなかったら、客の借金はそのまま、ホステスの借金となり、彼女が店の方に支払わなければならなくなるのだった。
客の性格をよく見抜き、社用族ならその会社の景気の工合も考えに入れ、ホステスは客あしらいをしなければならないのだが、その千世の場合には、育ちがよい所為《せい》か、逆に客に欺《だま》される恰好だった。
ホステスを引っかける連中の手口は決まっていて、はじめ一、二回は派手に遊び、ぱッぱッと現金で払う。
いいお客だと思い、ホステスが自分の指名客にすると、毎晩のようにやって来て散財をし、月末近くになると、それっきり姿を見せなくなる。
催促すると、その都度、千円とか二千円ぐらいを支払い、けろりとしているのだから、全く泣きたくなる気持だった。
むろん、毎月二十日に勘定は締めて、翌月の五日までに店に入金しなければならない義務がある。二百万、三百万といった貯金のあるホステスならともかく、千世のようなタイプの女性には、そんな貯えもないのだ。
従って、土建会社の社長のように、会社が潰《つぶ》れたとなると、その借金は、そのまま彼女の負債となり、千世が店に支払わなければならなくなるのであった……。
店への借金が嵩《かさ》んだ場合、ホステスが考えるのは、三つか四つの方法である。
一つは、金のある男をパトロンにして、借金を立て替えて貰う方法。次は、毎晩のように男と浮気して、小口の金を多くから掻《か》き集める方法である。
ついで、その借金を肩替りしてくれる、新しい店を探すことだ。つまり、借金を含めた支度金を出してくれる、新しい店へ移るという方法である。
最後は、もっとも篝正秋が憎んでいる方法であるが、借金をそのままにドロンをする……ということだった。借金を踏み倒して、逃げるのである。
千世は、最後の手段である逃亡を、きっと考えていたに違いない。なんとかします、とは言ったものの、彼女には男を騙《だま》して金を捲《ま》き上げるといった、心臓の強い才覚はなかったのだから……。
気の弱いホステスである千世が、択《えら》んだのはガス自殺であった。
幸い発見が早く、生命に別条はなかったが、警察からの報告で、麻布霞町《あざぶかすみちよう》のアパートに駈けつけた篝は、彼女の意外な生活の一面を覗《のぞ》きみた。
六畳と四畳半の、二間つづきのアパートであったが、机の上の遺書には、店への借金に苦しむ上、愛人からも逃げられたので、命を断つことが記されてあったのだ。
遺書の宛名は、ご両親様≠ニなっていたが、部屋のどこを探しても、両親の氏名や住所の手がかりとなるものはなかった。
千世は意識が恢復《かいふく》すると、病院からすぐ逃げ帰って来た。そうして、アパートの部屋にいた篝と対面したのだった。
「バカな真似をするんだね」
と篝が言うと、千世は彼の胸に抱きついて、オイオイと号泣した。
警官にも帰って貰い、二人っきりになると千世は、泣きじゃくりながら、
「私だって、男に躰《からだ》を売って、金をつくること位は知ってます。でも部長さん……こんな躰で、私を買ってくれる人がおりますか!」
と言い言い、着ている物を脱いで、その小柄な躰を、彼の目の前に曝《さら》したことである。
……篝正秋は、正直に言って、その時は目を疑った。いや、愕然《がくぜん》となったと表現した方が正しい。
千世の白い背中には、一面に刺青《いれずみ》が彫られていたのだ。
図柄はよく判らないが、武者絵|凧《だこ》によく見かけるような、そんな派手な図柄だったと思う。とにかく篝は、はッと息を嚥《の》んだまま、しばらくは言葉も出なかったことである。
千世は、自分の肉体の秘密を、彼にぶちまけると、ぽつり、ぽつりとその生い立ちを物語った。
熊本の素封家の次女として生れ、大阪の帝塚山《てづかやま》にある女子大に通った。
ある夏、六甲山で遊んだとき、四人連れの男に誘われてドライブした。その男たちは、紳士を装ったヤクザ達であった。
千世は、一軒家に閉じ込められて、手荒い輪姦を受け、麻薬を注射された。そうして、目が覚めると、背中一杯に、刺青を施されていたのだという。
ヒモの男は、千世を京都のナイトクラブに働きに出した。彼女も、背中に刺青を彫られた上、ヤクザに輪姦されたことで、自暴自棄となっていたのだった。
ところが一年ほど働くうちに、愛し合う男性ができた。その人物は、彼女にヤクザのヒモがおり、また背中には脱ぐことの出来ない極彩色の絵柄があることを承知の上で、彼女を愛してくれたのだという。
京都でも老舗である呉服店の一人息子が、その千世の愛人だった。
二人は、京都にいては危険だというので、手に手をとって上京。はじめは旅館を泊り歩き、金がなくなったので、千世が渋谷のバーに働きに出た。
ついで、ある人の口利きで、銀座へ勤めるようになる。風呂のついたアパートへ住むためには、安い給料では駄目だからである。彼女は、過去の忌わしい記憶をもつ刺青を、決して他人には見せたくなかったのだった。
「ですけど、あの人は一人息子なもので、とうとう両親に説得されて、京都へ帰ったまま、戻って来ませんでした。一生、この辛い、悲しい彫物を背負って、みじめな想いをして生きて行く位なら、死んだ方がましだと思ったんです。お店には、申し訳ありませんけれど……」
そう言って嗚咽《おえつ》する千世に、篝はいたく同情した。
彼は神崎専務に相談し、彼女の借金は、暁興業の損失金として計上することを認めさせた。そうして、千世を説得して、郷里の熊本市にまで、彼は送り届けたのである。
……その後、彼女がどう過しているかは、消息もないので判らないが、この事件を解消したあと、篝はなんという気はなしに、鹿児島へと足を向けた。
鹿児島から宮崎へ抜けて、会社から貰った三日間の休暇を、独り旅で愉しもうというだけの気持である。
鹿児島では、島津侯の別邸だったという、由緒《ゆいしよ》ある一軒の旅館に泊った。彼にあてがわれたのは、別棟になる洋間の部屋である。
夕方まで時間があるので、城山に行ったり、桜島を見物して旅館に帰ると、和服を着た背の高い女中が彼を出迎えて、浴衣を着せてくれた。
眉が濃く、目鼻立ちの整った美人であった。
〈ほほう……〉
と彼は思い、チップを弾んで、晩酌のあいだに、「東京で働かないか」と口説いてみた。
それが丹羽章子だったのである。
章子は、はじめのうち、
「東京は、恐ろしい所だそうだから」
とか、
「私みたいな田舎者が……」
などと言っていた。
章子は、鹿児島県の串木野《くしきの》の産で、この町で生れた女性の多くは、旅館その他に、行儀見習いのために奉公に出る。
そうして、お盆の日に里帰りをするのだが、その時、外へ働きに出ている女性たちは、町の人々の前で、自分の握ったオムスビを板の上に転がし、貞操の証しとするのだそうであった。
つまり、握り飯が転がる途中で、二つに割れたりすると、その女性は、貞操を失ったものとして、町の若い衆の、結婚の対象から外されるわけである。
篝は、そんな話を章子から教えられたのだったが、
「しかし、本当は処女なのに、運わるく握り飯が割れることだってあるだろう」
と彼が言うと、彼女は笑い、
「大丈夫です。糯米《もちごめ》を混ぜて、御飯を炊くんです。これを固く握ったら、滅多なことでは割れません……」
と答えた。
篝が、どうあっても、丹羽章子を東京に連れて行こうと考えたのは、そんなことを言って、悪戯《いたずら》っぽく笑った章子の表情に、天性のコケットリーというか、娼婦めいた匂いを嗅《か》いだからに他ならない。
〈あの女が、どうやら逃げたらしい!〉
篝正秋は、眉根を寄せながら、用もない受話器を、掌のなかで軽く握り直す。彼が宮崎から別府に廻るスケジュールを変更して、三日間かかって口説いた女性だったのだ。
三日目の夜、篝は彼女を外に誘い出し、天文館通りのバーやキャバレーを見学させて、
「君なら、銀座でも一流のホステスになれる。もし、やる気があるのなら、支度金として三十万円出すが、どうだね……」
と、熱心にかき口説いた。
そうして暗い公園のベンチで、彼女の唇を奪った。色仕掛けででも、連れて行きたい心境だったのだ……。
女は、皓《しろ》い歯をガチガチ鳴らしたが、彼の巧みなフレンチ・キッスに、すぐ上気して息を弾ませ、ぐったりと倒れ込んで来た。
だが篝は、それ以上に、戦さの駒は進めなかった。商売物に手をつけない、というのが彼の哲学だったからである。
もしその時、丹羽章子がそれでも東京行きを拒んだら、彼は章子の躰をきっと自由にしていたに違いない。だが彼女は、篝の粘っこい接吻と抱擁の嵐に身を揉《も》みしだかれると、あたかも熱病に罹《かか》った人間が、譫言《うわごと》を口走るが如くに、
「行きます……行くわ……連れてって下さい……」
と口走ったのだった。
彼が帰京したあと、二回ばかり手紙のやりとりがあり、二十日後には丹羽章子は、もう東京の土を踏んでいた。
篝は、彼女のために、適当なアパートを借りてやり、グラマーだから洋服を着たことがないという彼女を連れて、一日デパートを歩いてやった。
三十万円の支度金のうちから、洋服やアクセサリーを買い、家具などを買い揃《そろ》えてやったのである。こんなサービスは、篝正秋には始めての経験である。
丹羽章子は、彼が一眼で見抜いた通り、数カ月で銀座のホステスらしくなった。
客との会話の択び方、酔って酒癖のわるい客のあしらい方、吝《けち》な客の財布の紐《ひも》のゆるめさせ方など、いつしかベテランのホステスたちに教えられ、化粧の方法なども垢抜《あかぬ》けて来たのだ。
指名客も、月を逐《お》うて増え、勤めて半年後には日給制でなく、歩合制のホステスに、自から志願した位の出世ぶりだった。
篝は、ちょっとした自己満足を味わった。客とも、ちょいちょい浮気をするらしく、それは新しい洋服や、高価なハンドバッグを持っていることでも察しられる。
〈あれでいいんだ。彼女も、人並みのホステスになった……〉
篝は、彼女から、自分の関心を取り除いた。彼としては、鹿児島の旅館の女中だった丹羽章子を、スカウトして育て、暁興業の収入にプラスさせたことだけで、十二分の成果を上げたことになるのである。
その丹羽章子が、アパートを転居したと、事務所に届けて来たのは、いつ頃だったろうか。その時、彼女の指には、五、六十万円はするだろうと思われる、屑《くず》ダイヤをちりばめた、肉の厚いメキシコ・オパールの指輪が、燦然《さんぜん》と輝いていた……。
〈ふむ。旦那が出来たな!〉
篝はその時も、そう思って、心中でニヤリとしただけである。
だが、今しがた、その丹羽章子の旦那と覚しき人物から、かかって来た電話によると、彼女は不意に姿を消したらしいのだ。
「厄介なことに、なりそうだぞ」
なぜか篝正秋は、そんなことを直感した。そうして、この彼の直感は、まさしく適中していたのである。
受話器をおいたあと、篝正秋は経理部へ行き、
「コスモスの丹羽章子を見せてくれ」
と声をかけた。
経理部の女事務員は、無表情に一冊の帳簿を手にとり、頁を繰って彼に手渡す。
それはホステスを個人別にわけ、売上げ、回収率、出勤率など、あらゆる項目にわたって作成している帳簿だった。
この帳簿をみると、そのホステスが、店にどれだけ貢献しているかが、一眼でわかる仕組みである。ホステス達は、蔭《かげ》でこっそりと、この帳簿のことを、エンマ帳と呼んでいるらしかった。
篝正秋は、丹羽章子のエンマ帳を覗いた。
そうして首を傾《かし》げた。
別に、異常めいたものが、見受けられなかったからだ。
売上げは、少しずつだが上昇線を辿《たど》っているし、店の売掛け金も、ここ三カ月ばかり、百パーセントに近い成績で納金している。また債務は、ゼロであった。
〈変だな……こんな立派な状態で、なぜ逃げる必要があったのだろう?〉
篝正秋は、女事務員にエンマ帳を戻すと、
「ちょっと四谷まで行ってくる」
と言い残して、事務所を出た。
四谷三丁目の地下鉄駅の改札口で、大川と名乗る丹羽章子のパトロンらしき人物が、二十分後に彼を待っている筈なのである。
篝正秋は、数寄屋橋方向に歩きだしながら、ふッと昨夜紹介された、〈日本春秋〉の田村編集長のことを思いだしていた。
[#改ページ]
シゴキごっこ
……昨夜、篝は〈三星物産〉に勤めている藤代六郎を、〈コンテッサ・クラブ〉に案内した。藤代係長は会員ではないから、篝はクラブのお客――つまりビジターとして招待したのである。
隅の席に案内してから、篝は藤代の連れである〈日本春秋〉の、田村錬次と名刺を交換した。
田村はジャーナリストらしからぬ風貌《ふうぼう》の持ち主だった。髪の毛は短く刈り上げている。濃い髭《ひげ》は、咽喉《のど》の下や揉み上げのあたりに、ところどころ剃《そ》り残しがある。
カーキ色のワイシャツは、別誂《べつあつら》えの品物らしいが、ネクタイは締めず、折り畳んで胸ポケットに納《しま》い込まれてあった。背広は英国製の良い布地で仕立ててあるのに、ズボンの膝《ひざ》は飛び出し、靴は買ってから一度も磨いたことがないのではないか、というような汚れ方である。
いわゆるヌーボー型の人物で、一体なにを考えているのか、見当もつかないようなタイプだった。篝は田村を一眼見たとき、なぜか〈大器晩成〉という熟語を連想したことである。
眉が濃く、鼻筋も通っていて、なかなかの好男子である。こういう人物は、酒場の玄人女にもてる……と篝は思った。
ただ時々、会話の途中で、瞑想《めいそう》するかの如く、癖のように眼を閉じるのだけは気になったが、声音は男性的で、まことに歯切れがよい。
篝は、日本春秋の編集長が、なぜ商事会社の人間と銀座を飲み歩いているのだろうか、と先ずそのことが気になった。
組合せが奇妙だからである。
ひとしきり雑談のあと、篝正秋は藤代に、不躾《ぶしつ》けな質問を放ってみた。
「ねえ、藤代さん。田村編集長と貴方とは、どういう関係なんですか」
と――。
藤代は〈弱ったな〉という顔をして、
「そのう……昨日の午後、電話で話し合うて、今日の夕方、初めて対面したような訳やねん……」と答えた。
「では、取材された訳ですな」
篝は、田村錬次を見た。
「取材といえば、取材かなあ。ねえ、田村はん……」
藤代係長は、戸惑ったように田村の救いを求める。だが田村は、瞑想にふけるように眼を閉じ、
「まあ、そんなところです」
としか応じなかった。
その時、彼に電話連絡があり、篝は中座した。電話は社長の小平からで、オットセイの睾丸《こうがん》の買物に類した追加注文だった。
なんでもスポンジ製の張形に、電池が装填《そうてん》されており、スイッチを入れると熱を帯びて来て、尖端《せんたん》が震動するという器具を、手に入れて欲しいというのである。
小平賢治は好奇心が強い上に、性具の収集癖があった。
六甲山にある小平の別荘には、〈珍満堂〉という扁額《へんがく》を掲げた、博物館まがいの一棟の建物があって、それこそ珍しい道具が満ち溢《あふ》れていた。
篝も、神崎正之輔の案内で、一度だけ拝観(?)したことがある。
浮世絵だの、人形だの、張形などは判るが、自転車の形をした女性用の自慰器具まで飾ってあるのには呆《あき》れた。しかもドイツ製である。それに跨《またが》って、ペダルを踏むと、その速度によって器具が前後に動く……といった精巧な器械なのである。
むろん南極観測隊が持参したという、プラスチック製の人体も飾ってあった。
……そんな小平のことだから、どこかで電動式張形の存在を耳にして、彼に購入を依頼して来たのであろう。
篝は、田村たちの席に戻ると、やにわに、
「田村さん。玖島太郎をご存じでしょう?」
と自分の方から話しかけた。
彼は何気なく、共通の話題を探すつもりで口にしたのであるが、彼が玖島の名前を言った瞬間、田村ばかりか、藤代六郎までが、ぎくりと顔の筋肉を硬《こわ》ばらせたのだ……。
この反応ぶりには、彼の方がびっくりしていた。
「どうか、したんですか?」
篝正秋は、二人の表情を、交互に見やった。
ややあって藤代六郎が、少し道化た調子で、
「びっくりしたなア、もう!」
と言った。それはテレビの喜劇役者が、流行《はや》らせた言葉であった。
「本当に、駭《おどろ》きましたね」
田村錬次は、篝に強い視線を当て、それから不審そうに、
「玖島君を知ってるんですか」と訊《き》いた。
「ええ、大学で一緒でした」
篝は応じた。田村の顔に、〈ほほう!〉という感情が動いた。彼が、玖島太郎の学んだ、有名な国立大学の卒業生だと思ったに違いなかった。それを訂正しようという暇も作らせずに、田村錬次は話しかけて来る。
「実は今日、その玖島のことで、藤代さんに私的にお目にかかったんです。だから貴方の口から、玖島太郎の名前が出たので、二人とも駭いたわけですよ……」
〈なるほど、そうだったのか〉と、篝は思った。しかし、玖島千代子から奇妙なことを言われ、その後ばったり紹介された〈日本春秋〉の編集長が、やはり玖島太郎のことで藤代に会っていた……となると、なんだか玖島との因縁が続いている感じである。
篝は大きく膝を乗り出した。
「たしか私的にお会いになったと、仰有《おつしや》いましたが、玖島のことで何か――」
田村は、また瞑想スタイルとなり、
「貴方は玖島君とは親しかったですか」
と逆に質問して来た。
「親しい方だったと思いますよ。よく一緒に飲み歩いた仲ですから」
彼がそう答えると、田村は急に目を輝かせて、「ああ!」と頷《うなず》いた。
「貴方でしたか、玖島の悪友というのは!」
この率直な言い方には、篝も面喰ったが、しかし悪い感じはしなかった。
「悪友とは、ひどいな」
篝は苦笑した。藤代六郎は喜んで、
「そらア悪友に間違いないわ。この人に泣かされたバーのマダムだけでも、バレーの試合が出来《でけ》るちゅうんやから……」
と言った。
田村錬次は、そんな冗談に耳を藉《か》さず、
「玖島君のこと、知ってますね?」
と畳みかけて来た。
「ええ、事故死でしょう。旅行していたので、葬式には行けませんでした。鎌倉の瑞泉寺でやった、納骨式には伺いましたが」
「ほう、納骨式に……」
「いい奴だったんですが、人の運命なんて、判らないもんですねえ」
「本当です。しかし、未亡人が変なこと、言ってませんでしたか?」
田村編集長は、彼の瞳《ひとみ》の奥を、覗き込むようにした。彼は緊張した。
「夫は、殺されたんです」と叫んで、彼の胸に倒れ込んで来た玖島千代子の言葉は、未《いま》だに彼の鼓膜の底で息づいていたからだった。
「言ってました」篝は正直に答えた。
「彼が……殺された、と言うんでしょう?」
「なるほど、貴方にもやはり……」
田村は、また眼を閉じた。
「なんでも、編集長の貴方が、そんな疑問の言葉を、通夜の席で――」
彼がそう言いかけると、田村はきっぱりした口調で、
「それは違いますよ。通夜の晩に、私が奥さんを別室に呼んで、二人っきりで訊いたんだ……。通夜の席ではない」
と言った。
田村錬次は、そうした些細《ささい》な誤りでも、きちんと訂正する性格らしかった。
「その時のことを、少し話して下さい」
篝はそう言いかけて、藤代係長の存在に気づいた。田村は手をふり、
「ここでは、ちょっと……」
と躊躇《ためら》いの色を示す。
篝は初対面の時、神経質そうな人物だな、と考えた自分の直感が、やはり適中していたのだと悟った。彼は手を上げて、バニィガールを呼び、特別室に移る旨を告げた。
特別室のドアを閉め、酒の瓶《びん》とグラスを間にして、三人はテーブルを囲み合った。そうして、田村の話を聞いたのだが、田村編集長は例の日本春秋社にかかって来た〈怪電話〉のことを述べ、事故死と聞いたので、すぐ反射的に〈謀殺ではないか〉と思ったのだと語った。
「……だから通夜に行ったとき、奥さんに別室に来て頂いて、自宅の方に変な電話はなかったか、と聞いたんですよ」
田村錬次は説明した。
彼がそう聞くと、玖島未亡人はしばらく考えていてから、
「別にありませんけれど、昨夜……ちょうど玖島が事故を起して、病院に担ぎ込まれた頃に、男の声で、〈玖島さんはお帰りですか?〉という電話がかかって来ました。〈いいえ。どなた様でしょうか〉と言いますと、〈いや、帰らなきゃアそれでいいんだよ〉と言って、ぷっつり電話が切れましたの……」
と答えたそうである。
……この話は、篝に興味を湧《わ》かせるのに充分であった。
玖島が帰ったか、と質問して、帰らないのならそれでよい、と電話を切った男。
その電話の主は、あたかも玖島太郎が、事故を起して、帰れなくなることを、予期していたような口吻《こうふん》ではないか。
いや、事故を起すと確信はしているが、心配になったので、問合わせて来たような応答ぶりではないか……。
むろん、自分の名前も名乗らない。しかも事故を起して、病院へ担ぎ込まれる時刻の怪電話なのだ。
玖島未亡人は、その電話については、はじめ深く気に留めなかった。ただ夫の友人と違い、乱暴な言葉使いだな……と位にしか考えなかった。
間もなく病院から、事故で夫が運ばれて来たという連絡があり、動顛《どうてん》してしまった彼女は、そんな変な電話のことは、すっかり忘れてしまっている。通夜の日、夫の上司である田村錬次から、怪電話の質問を受けるまでは、彼女は思い出さないでいた……。
「変な話ですね」
篝は言った。
「まるで玖島が死ぬのを、期待しているような感じじゃないですか」
「いや、それは判らない。考えようによっては、そうもとれますがね」
田村錬次はそう反駁《はんばく》してから、
「ただ私も、信頼していた部下のことですしね、もしや? と思って、いろいろ調べてみました。しかし、あれは事故死であって、謀殺だとは考えられませんな」
と断定するような言い方をした。
篝は、〈おや?〉と思った。
「たしか、藤代さんとは、玖島のことで、お会いになったと……」
彼は、急いで言った。田村は微笑して肯《うなず》き、
「そうです。死んだ玖島太郎が、取材していたある事を、藤代さんに聞くために会ったんですよ。編集部に残されていた玖島君の、スケジュール表に、藤代さんの名前が出ておりましたのでね……」
と答えた。
「その、結果は?」
篝正秋は、喰い入るように、二人の顔を見詰めた。だが彼の期待は空しかった。
「玖島さんとは、鉄鋼業界の内情について、語り合っただけやねん。ただ、それだけのこっちゃで……」
そう答えたのは、藤代六郎であった……。
西銀座駅から、篝は地下鉄に乗った。
彼は割合に、地下鉄を利用する方である。しかし、ラッシュ・アワーの時刻は、滅多に乗らない。
生憎《あいにく》と、ラッシュの始まる時刻だった。
篝は、四谷三丁目の駅なら、後方の車輛《しやりよう》に乗った方が便利だと考え、プラットホームを歩いて行った。
四、五人のBGたちの集団の後ろを、通り抜けようとした時、
「ねえ、あの子どう?」
「うん、いかすじゃない」
「あれにしようか?」
という会話が耳に入った。
〈おや、なんの話だろう〉
と、彼は立ち停り、その会話の主たちを見た。BGというよりは、デパートの売り子といったタイプの、二十三、四歳ぐらいの五人連れである。
いま流行の、膝上十センチの短いスカートを穿《は》き、柄物のストッキングをつけている。
化粧ぶりは、どことなく浅薄な感じであった。
五人の女性たちの視線は、階段の近くで、なにか単語帳めいたものを読み耽《ふけ》っている、一人の高校生の姿に、集中していた。
「あの子なら、大丈夫よ」
「ふふ……、可愛い顔してるじゃない」
「どこまで帰るのかしら?」
「とにかく、あれに決めようよ」
「誰が最初にしごく?」
「そりゃア哲ちゃんよ」
「まあ、ひどい。お呼びじゃないわ」
「とか何とか言って……」
「シゴキの哲子のくせに、ね?」
「あ、電車くるわよ」
……篝が聞き耳を立てているとも知らずに、五人の女性たちは勝手なことを話し合い、駅のアナウンスが始まると、一斉に移動しはじめるのだった。
〈掏摸《すり》かな?〉
篝正秋は、はじめそう思った。
しかし掏摸にしては、あまりにも大胆な会話の交わし方である。篝は不図気になって、彼女たちに従って自分も移動した。
なにかを狙われているのは、高校生の制服をつけた十六、七歳の男の子である。背は高いが、腺病質《せんびようしつ》な感じだった。顔に二つばかり、吹出物がある。
電車が入ると、五人の女性たちは、その高校生を取り囲むようにして、どやどやと乗り込んだ。
西銀座では、まだ余裕があったが、次の霞ヶ関駅で、車内はスシ詰めの状態となる。
見ていると、五人の女性たちは、例の高校生をぐるりと囲み、それぞれ知らぬ同志のような顔をして、乗客に押されているのだった。
〈なんだか、様子が変だな……〉
篝は思った。
円陣の中にいる高校生が、急に怯《おび》えたような顔つきになり、その表情がやがて、次第に紅潮して来て、泣きだしそうな表情にと変化しはじめたからだ。
〈どうしたんだろう?〉
篝は眼を凝らした。
高校生の顔は、猩紅熱《しようこうねつ》にでもかかったように真ッ赤となり、咽喉仏が上下し、ときどき目を閉じたり、天井を仰いだりしはじめる。
目のやり場に困るというより、なにか予期せざる事件が起きて、混乱と困惑の極にあるという感じであった。
高校生は遂に目を閉じ、唇をわななかせ、なにかを神に念ずるような姿勢で、首筋まで紅潮させている。
その時に至って、五人の女性たちは、素早い目配せを交わし合い、クスリと会心の笑みを洩らし合った。
〈おや?〉
篝正秋は、シゴキの哲子とか、なんとか言われた小柄な女性を観察した。
彼女は、高校生に背中を向ける形で、車内の動揺に身を任せている。だが五人の女の中では、彼女の表情だけが、至極真剣そのものなのだ。いわば掏摸が、相手の懐ろを狙う一瞬のような、張りつめた顔色なのであった――。
篝は、その集団に近づこうと、身を動かしかけて、その時はじめて、哲子と呼ぶ女性の右腕が、車の動揺とは無関係に、あるリズム感をもって動いているのを知った。
〈なんということだ!〉
篝は愕然《がくぜん》となる。
愕然となると同時に、彼女たちに包囲された純情そうな高校生が、顔を赭《あか》らめ、眼を閉じて、人知れず喘《あえ》いでいる意味を悟ったのである。
後で篝は、店で働くホステス達から、それが通勤するBGたちの間で流行している、〈シゴキごっこ〉という遊びだと教わったが、男女同権も遂にここまで来たか……という感じだった。
秀才面をした高校生の男の子を囲み、ラッシュを利用して、肉体の一部に刺戟《しげき》を与える。狙われた男の子は、逃げ出すことも出来ず、顔を赤くするばかり……。それを見て、溜飲《りゆういん》を下げるというのが、このゲームの趣向らしかった。
件《くだん》の高校生は、赤坂見附で脱兎《だつと》のごとく降りて行ったが、篝は五人の女たちが、一斉に吹き出し笑いをする光景を目にすると、俄《にわ》かに腹が立って来た。
彼は、乗客をかきわけて、五人の女たちの傍《かたわら》に行った。四谷三丁目で、大川作之助が待っていることも、その時は忘れた。
[#改ページ]
哀願する男
男女同権という言葉がある。戦後、デモクラシーとやらいう怪物が、日本に輸入されて来て、それで流行した言葉であった。
しかし篝正秋は、日本に果して男女同権が根を下ろし、しっかりと成長するか否かを、疑問に思っている一人である。
長い間の封建制度の生活を、いくら戦争に負けたからとはいえ、たった二十年間やそこいらで、変えられることが出来るものか、どうか――。
その点、篝は、大いに疑問を抱いている。ある意味で彼は、女性|蔑視《べつし》論者だったのかも知れない。
早い話が、女性は知能の点で、或いは技術の点で、男性に劣っている。
たとえば大学や高校などで、英語のテストがある。一位の成績を占めるのは、大体において女性である。
それは何故《なぜ》か。
それは篝に言わせたら、女性の知能が劣っているからだった。なるほどトップの成績を取ることはできる。しかし、これは女性が記憶力≠ノすぐれているというだけのことであって、知能≠ェ勝っている訳ではないのである。
日本の教育は、記憶中心主義――いや、記憶偏向的であった。だから、憶《おぼ》えるという限りにおいては、女性は強い。
しかし、知能というのは、知識を詰め込むということではなく、それを実際に応用≠キる力なのだ。
記憶だけなら、機械にだって出来る。だがその知識を応用して、なにかを新しくクリエート(創造)することは、機械には出来ぬ。
女性の知能が劣っていると、篝が考えるのは、その点なのである。要は、社会に出てからの、知識の応用力の問題で、知識を吐き出すことではないのである。
また女性の勤めとされておる料理にしても、服飾にしても、一流とされているのは、すべて男性なのだった。女性はいつの時代でも、一流にはなれなかったのである。
……そのことが歴然としておるのに、デモクラシーは男女同権を叫び、男と女の権利はつねに平等であるとした。
だが政治意識のうすい女性たちに、参政権を与えたことは、かえってマイナスだったのではないだろうか、と篝は考えている。
数十年コツコツとサラリーマンで叩き上げて来た男の一票と、ビートルズに熱を上げている小便臭いBGの一票とが、同じ価値をもつということは、篝には納得できないのだ。
現在の日本をみると、男女同権とは言いながら、女性はつねに男性に凭《もた》れかかって生活している。
たとえば夫婦生活がそうであった。
夫に不満を抱きながらも、離婚したら食えなくなるというので、夫の横暴な仕打ちを我慢して、生きている妻たちが、世の中にウヨウヨ存在しているではないか。
男女同権ならば、夫を追い出したり、別れて堂々と暮せばよいのに、彼女たちには、それだけの生活能力がない。男と別れたら、子供も養えないし、また自分も食うに困るのである。
だから日本の男女同権は、篝に言わせたら飾りだけの文句にすぎない、ということになる。決して、男とは対等ではないのである。
……しかし、篝は、ラッシュ・アワーの地下鉄の車内で、ひそかに見聞した集団BGの、〈シゴキごっこ〉の姿には男女同権≠感じた。これは、昔の日本では、考えられない光景だった。
ときどき新聞に、国電内で痴漢が逮捕された、という記事が掲載される。その場合の痴漢は、つねに男である。
しかし篝正秋が目撃した〈シゴキごっこ〉の場合は、痴漢は五人のBGたちであり、被害者は十六、七の男の高校生だった……。
そのことが、篝を嚇怒《かくど》させたのか、どうかはともかくとして、篝正秋は、その不埒《ふらち》な痴漢たちに近づいて行った。
「おい、きみたち」
篝は、わざと大声で言った。
五人のBGたちは、知らぬ顔をしている。
篝は、たしかシゴキの哲子と渾名《あだな》された、小柄な女の肩を敲《たた》く。
「おい、きみ……」
彼は言った。
「なによ!」
女の顔が、憤然と彼を見る。眉の薄い、唇の厚い女だった。年の頃は、せいぜい二十二位であろう。
「あまり男をバカにしたような、悪戯《いたずら》は止めたまえ」
篝は、女を睨《にら》んだ。
「あら、なんのことよ?」
「とぼけるな。いま、君たちが、高校生の男の子にしていた悪戯だ……」
「悪戯?」
五人の女性は、一瞬、顔色を硬《こわ》ばらせたが図々しく、空惚《そらとぼ》ける態度をとった。
「変な、言いがかりを、つけないでよ」
哲子と呼ばれた女は、髪の毛を大きく揺さぶり、がらりと口調を変える。
〈ほほう。BGじゃなく、ズベ公たちだったのか!〉
篝はそう思ったが、後へは退《ひ》けない気持であった。車中の乗客の視線が、彼に集中していたからでもある。
「言いがかりとはなんだ。きみたちが、赤坂見附で降りた高校生に、どんな悪戯をしていたか、ここで大声で、私がみんなに喋《しやべ》ってもいいのか?」
「結構よ。一体、この人は何を見たってんだろウ……」
哲子は、開き直る形であった。
「では、言ってやる」
篝は、周囲の乗客を見廻した。
人々の好奇心の強い視線が、ぐっと彼に集まってくる。
「この女性たちは、西銀座駅から乗って来たんです。そうして乗る前に、プラットホームで、一人の高校生の品定めをしていました。あの子、どう? いかすじゃない? といったような会話なんです……」
篝は一語一語、ゆっくり発音して行った。彼女たちが、恥をかかない中に、謝らせようと考えたからであった。
しかし、彼の期待は裏切られた。哲子という女が、それこそ、べらんめい口調で、やにわにタンカを切りだしたからである。
「うるせえな、この野郎! あたし達はね、トルコ風呂へ勤めてんだよウ。知ってるかい、私たちの店にゃね、お前みたいな、ど助平サラリーマンが、毎晩毎晩やって来るんだよウ。金をもってさ。スペシャルしてくれ、スペシャルしてくれってね。ふん! 金をとらずに、可愛子ちゃんをサービスしてやったって、それがどうしたってんだい。一文だって貰った訳じゃねえよ、ふん! 夜になりゃア、スペシャルしてくれ、ダブ・スペしてくれって頭を下げて来やがる癖に、なにを聖人面してやがんだい、この野郎!」
――篝正秋は、この歯切れのよい哲子のタンカには、唖然《あぜん》となった。ポカンと口をあけて、しばらくは気抜けしたように、言葉も出なかった。
彼女たちは、四谷駅でどやどやと降りて行った。ちょうど哲子が、威勢よいタンカを切り終った時に、電車がプラットホームに滑り込んだからでもある。
篝を注視していた乗客たちは、失笑するか、擽《くすぐ》ったそうな顔つきになって、彼がどう出るかを眺めつづける感じである。
篝は、居た堪《たま》らなくなって、彼女たちを追うように電車から降りた。
哲子たちは、肩で風を切って、駅の出札口に向かっている。
篝は勢い、五人のあとを追いかける恰好となった。五人は彼の姿に気づき、不敵な微笑を湛《たた》えながら立ち停る。
「まだ何か、因縁つける気かい?」
篝はニヤニヤ微笑《わら》った。
こんな連中の扱いには、職業柄、ひどく馴れているのである。
「トルコ嬢とは知らなかったんだ。勘弁してくれよ……」
彼は言った。すると哲子は、
「ふふ……」
と笑い、
「お兄さんも、目が早いんだね」
と応じる。
「慈善事業のつもりだったんだね。僕は、BGたちの悪戯にしては、ちょっと度がきつすぎると思ったんだ……」
「もう、言わないでよ……。恥しいもん」
「冗談じゃない。あの凄《すご》いタンカを聞かされた時にゃア、こっちの方が恥しかった」
篝正秋は、あくまでも下手に出て、新宿二丁目のトルコ風呂に勤めているという五人を、タクシーで送ってやることにした。
銀座のホステスとは異なり、こういったトルコ嬢あたりは、教養のない女性が殆んどだから、仲好くなれば、すぐ打ち解けてくる。
篝の気持としては、悪戯を注意して、逆にやりこめられたという屈辱感よりも、こんな機会に彼女たちと知合っておけば、なにか掘出し物にぶつかるかも知れない、という打算の方が大きく働いていたのだった。
五人は、トルコ風呂の経営者の持家に下宿しており、今日は銀座に映画を見に出かけたのだということだった。
「地下鉄にはね、上品な連中が乗ってんでしょ? 今日の高校生みたいにさア。こんなお坊ちゃんが、何不自由なく大学へ行って、いいところの娘さんか何かを貰ってさア、代議士か、社長になるんだと思うと、腹が立ってね……」
哲子は、そんな風に語ったが、篝は、なるほどと思って耳を傾けた。
エリートに対する憎しみ。上流階級に対する劣等感。……そんなものが、彼女たちを〈シゴキごっこ〉という悪戯に、駆り立てるのかも知れなかった。
五人が勤めているのは、旧赤線地区にある〈煩悩〉という、かなり大きな店である。
客室は三十もあり、トルコ嬢も五十人を越えているという。
客は三十代から五十代の妻帯者が多く、いずれもスペシャル以上を求める客だということだった。
「酔っぱらって長いお客もいるけれど、大体が平均一分間だよね。千円も二千円も出してさア、男って馬鹿みたい……」
哲子は、含み笑って打明けてくれた。
篝正秋は、女性に不自由しないので、トルコ風呂へ行ったことはないが、男性の平均の時間が、たったの一分間だということは愕《おどろ》きの材料であった。
〈煩悩〉へ五人を送り、篝は苦笑しながら四谷三丁目に引き返した。
口論したり、連中を送って寄り道したりで、あまり心中は穏やかではなかったが、しかし反面、心の片隅には、ある爽かなものが漂っている。
〈なぜだろう?〉
篝は、地下鉄の駅へ降りて行きながら、ちょっと首を傾げた。
だが篝正秋自身も、つい先刻、口論したのが因縁で、仲好しになったトルコ嬢の哲子が、友人の玖島太郎の死因をとく、重大なカギを握っている人物であろうとは、夢にも考えてもみなかったのだった。
大川作之助は直ぐに判った。駅の改札口で両腕を組み、時計と睨めっこしている人物は、彼ぐらいしか見当らなかったからである。
「お電話をいただいた者ですが」
篝は近づいて声をかけた。
「おう、あんたが〈コスモス〉さんか」
大川は、苛立《いらだ》った声音である。
「はい。暁興業の保安部におります篝と申しますが」
彼が名刺を出すと、大川は碌《ろく》に見もしないで背広の胸ポケットに納い、
「とにかく、章子が逃げよったんだ」
と、まるで女が逃げたのは、彼の責任であるかのような口を利くのであった。
「私共も、それを知って驚いております」
篝が答えるのを待たず、もはや大川は地下鉄の階段を昇り切って、せかせかと歩き出していた。
〈どこへ行くのだろう?〉
と考えていると、大川は喫茶店を探す様子もなく、やみくもに前進してゆく。案内されたのは、一軒のマンション風の鉄筋ビルの前であった。
「章子は、三日前には、この儂《わし》が借りてやった三階の部屋におった」
「ははあ……」
「しかし、今日やって来てみると、藻抜《もぬ》けの殻だ。いったい、どうしてくれるんだね、きみ!」
篝は、正直に言って呆《あき》れた。
女が逃げたからと言って、いちいち店の方に文句を言われたら、躰は幾つあっても足りないのである。
「大川さんと仰有いましたね」
篝は、鉄筋のビルを見上げた。なるほど、三階の一番端の部屋だけが、電灯を消して静まり返っている。
「大川作之助だ……」
金融業者は俄かに肩を怒らせて、名刺入れから大きな一枚を引き抜いた。しかし、暗くなっているため、名刺の文字は読めない。
「とにかく、どこかで御事情を伺いましょうか。実は私共としても、丹羽章子には、大金を投じておることでございますし……」
篝は言った。
大金を投じておる、と言ったのは、よく逃げた女のパトロンから、借り倒された金を弁償しろなどと、変な言いがかりをつけられるからだった。
損をしたのは、パトロンの旦那ばかりではない、ということを、前もって断っておく。これが、この種のいざこざに、暁興業を有利に導く手口でもあったのだ……。
「ふむ。では、どこかへ行こう」
大川は、重々しく言った。
しかし、自分の方から、どこかへ案内しようとする素振りはない。
篝はちょっと思案してから、四谷荒木町にある〈若松〉という待合に、大川を案内することにした。喫茶店などでは、容易に話し合えない事柄だし、座敷の方が、なにかと便利だからでもある。
幸い〈若松〉は空いていた。
篝は小部屋を注文し、ビールを頼んだ。
大川の名刺を改めて見ると、〈大川商事〉〈大川不動産〉という会社名が並び、社長ではなく〈社主〉という肩書がついている。
〈ほう。変った肩書だな?〉
そう篝は思ったものの、口には出さず、
「では、お話を承りましょうか」
と畏《かしこ》まる。
さすがに、大川は最初のうちは照れた。
しかし、丹羽章子から、父親の手術費にと三十万円を騙し取られたあたりになると、俄かに興奮して来て、
「章子は、儂に隠れて、男をつくりよったんじゃ。その男の入れ知恵で、儂から金を騙し取り、アパートの敷金まで、ちょろまかしよった……」
と、喚きはじめた。
大川の推理だと、男の入れ知恵と協力なしには、こんな鮮やかな引っ越しはできない、という。
だが、篝に言わせたら、ちょっと頭の冴《さ》えた女性だったら、三、四人の旦那を手玉にとったり、不意に引っ越しして、行方をくらます位の芸当は、朝メシ前なのであった。
いつだったか、アパートの管理人と共謀して、同じアパートで暮していた二人のホステスが、実に頭のよい方法で、お互いの旦那と別れたケースがあった。
これは舞台は、五反田のビルだった。
その二人のホステスは、三階と六階で暮していたわけだが、ある日、管理人には、
「旦那が訪ねて来たら、どこかへ不意に引っ越したと言って頂戴」
と言い、三階に住んでいたホステスは六階へ、六階のホステスは三階へと、荷物を入れ替えてしまったのである。
三階のホステスの旦那が、のこのこ訪れてみると、自分の女は居らず、違う女性が入っている。
びっくりして訊くと、「女は引っ越した」という管理人の返答。興信所で調べて貰っても、すでに店は移っているし、運送店からの手がかりもない。
結局、二人のパトロンは泣き寝入りとなったが、まさか二人の男性たちも、同じビルの中で引っ越しが行われていた……とは気づかなかったのであろう。
これなど、まだ序の口のケースで、悪女になると、さまざまな手口で、男性を誑《たぶら》かすのであった。だから、その意味では、男性は善良でお人好しな動物だと、篝は考えている位なのである。
篝は、興奮する大川をなだめなだめ、大川作之助と丹羽章子との関係を、比較的にくわしく聞き出すことに成功した。そうして大川が、章子のすばらしい肉体に、未練心をたっぷり抱いており、そのために躍起になっているのだということも知った。
「……なあ、篝さん。丹羽章子は、儂のすべてを満足させてくれた女じゃ。金は幾らかかっても構わん。なんとか、探し出して貰いたいんだ。これ、この通りじゃ……」
大川作之助は、〈若松〉の小座敷で、畳に額をすりつけたものである……。
[#改ページ]
蒼褪《あおざ》めた顔
大川作之助と別れた足で、篝正秋は銀座の〈コスモス〉を覗いた。彼は支配人の檜垣《ひがき》をつかまえ、
「丹羽章子と、仲の好かった女を知らないかね?」
と早速訊く。
「丹羽章子……。彼女、どうかしたんですか?」
檜垣は、さっと顔色を緊張させる。
「うん、ちょっとね……」
篝は、先刻の大川の、深刻な口調を思いだしながら、ついつい苦笑していた。
「そういえば、ここんとこ休んでますな」
「連絡はあったのかい?」
「なんでも、親父さんが急病で、手術するため見舞いに帰るとか、言ってましたが」
「なるほどね」
クロークの傍《そば》で立ち話していると、見憶えのある顔が、客を送って出て来た。彼が鎌倉でキャッチした赤松辰子である。
辰子は顎《あご》のあたりだけで微笑《わら》うような表情をつくり、
「お早ようございます」
と言った。
〈この牝狐《めぎつね》め!〉
篝は心の中でそう思ったが、客を送って出て来ている手前、叱りつける訳にもゆかない。
「元気で、結構だね」
彼はそう挨拶を返して、檜垣に、
「じゃあ、親しそうだった連中を、足留めしといてくれよ。六本木でも、ご馳走するからね」
と命令して、事務所へ戻った。
……一人のホステスが、突然に姿を昏ませる。これは別に珍しいことではない。
しかし、それは大抵の場合、理由があった。
男が出来たとか、借金が嵩《かさ》んだとか、必ず理由があり、原因がある。
でも丹羽章子の場合は、パトロンである大川作之助を嫌っていたかと言うと、そうでもないような気がする。また売掛け金の点で、店に迷惑をかけているかと言うと、決してそうではない。
なんだか篝自身にも、気紛れとしか考えられないような、失踪《しつそう》ぶりなのである。
彼のその予想は適中していて、六本木のレストランに集めた、丹羽章子と親しかったホステス三人の意見も、それを裏書きしてくれたのである。
ホステスたちの私生活だが、大きくわけると開放型と閉鎖型の二つがあった。
開放型は、文字通り開けっぴろげで、旦那の来ない時には、仲間のホステスを自分のアパートに連れ込み、徹夜で麻雀《マージヤン》をしたり、パーティーをやったりする。
どういうものか、このタイプは、折角いいパトロンがついても、長続きしない。
「うちの禿《はげ》はさア、自分の家では横のものを縦にもしない癖に、うちに来ると、あたいのパンティー洗いたがるんだよ。エッチな禿だろウ?」
などと、閨房《けいぼう》の秘事まで、あけすけに他人に喋ってしまうために、パトロンから嫌われるのであろうか。
閉鎖型は、絶対に自分のアパートの城には、仲間を寄せつけないタイプ。他人のことにも干渉しないが、決して自分の過去や、現在の男関係を口にしない。極端なのになると、自分の実家を現住所として店には届けておき、自分は都心のアパートで名の売れた芸能人あたりと、愛の巣を構えていたりする……。
厄介なのは、この二つの中間型で、他人のアパートには遊びに行くが、自分のところには口実を設けて寄せつけないホステスであった。この中間タイプが、とかく中傷や妬《ねた》みの原因を撒《ま》き散らして、平和な店の中に、対立する空気をつくったり、喧嘩《けんか》のタネをつくるのだった。
その三つの型からいえば、丹羽章子は閉鎖型の方で、めったに仲間をアパートに入れなかった。
一昨年の秋、篝からスカウトされて、鹿児島から来たことは、〈コスモス〉で働く誰もが知っていた。
「章ちゃんから、四谷三丁目に引越すから、手伝ってくれない? と言われて行ったのは、いつだったかしら?」
ホステスの一人がそう言うと、
「去年の秋よ。たしか十月だったわ」
と、他の一人が答える。
「その時だけね、章ちゃんのアパートへ行ったのは……」
別の一人も応じた。
親しかったという三人のホステスでも、そんな程度の交際なのだった。
聞いてみると、店の帰りに、支那そばを一緒に食べに行ったり、待ち合わせてショッピングに出掛けたりすることは、週に何度かあった。
でも、そんなとき、丹羽章子は新聞や週刊誌に出ている事件だの、流行語だのを話題とするだけで、別にパトロンについて語る様子もなかった。
「彼女の旦那……誰だか知ってる?」
と篝が訊いても、三人のホステスは同時に首をふっただけであった。
それはおそらく大川作之助が、コスモスへ訪れた二晩目に口説き、それっきり店には姿を見せないため、詮索《せんさく》好きな彼女たちにも、パトロンの見当がつかなかったからだと考えられる。
足繁く通いつめ、やっと口説き落されたというケースなら、周囲で働いている人達にも、それと気づく筈なのだった。
「でも、よくわからないけど、章ちゃんの旦那って、かなり有名な人なんじゃないかしら?」
そう発言したのは、店では茂子と呼ばれている、洋裁学校へ通うためアルバイトをしているうち、いつのまにか本職となったホステスである。
篝は、その発言を面白いと思い、
「なぜだね?」
と訊いてみた。
「だって、名前も職業も教えないの。つまらない人よ、でも悪い人じゃないわ……としか言わないんだもの」
「なるほどね。それで有名人と思ったわけかい?」
「違うかしら?」
茂子は、長い髪の毛を軽くゆすって、ペロリと舌を出して道化てみせる。茂子は、剽軽《ひようきん》さで売っている娘だった。
「二カ月位前から、三十七、八の紳士と、彼女は交際合《つきあ》っていたらしいんだが、心当りはないかい?」
篝は、ミドリ、衿子《えりこ》という他の二人に質問した。
「さあ、誰かしら?」
三人は首を傾げる。
〈はて、そんな人、いたかしら?〉
と言うような、三人の顔つきだった。
「三十七、八といいましたわね」
ミドリという娘が問い返した。
篝は頷く。
「よく判らないが、午前中よく、彼女のアパートに遊びに来ていた男らしい。黒メガネをかけてね」
「へーえ。章ちゃん、恋人が出来たのかしら?」
衿子は、茂子と顔を合わせて、驚いたような顔になる。
〈コスモス〉は銀座でも一流の高級サロンだった。従って、客筋も限られていて、たいていは一流会社の部長クラス、重役たちといった社用族である。
だから年配も、自ずと、四、五十代となる。もし、大川作之助のいう章子の〈恋人〉が、それだとしたら、コスモスの客層としては若い方に入るわけだから、自然、目立つ筈なのであった。
「ねえ、オーさんじゃない?」
ミドリが思いついたように言った。
「オーさん?」
篝は問い返す。
「部長さんは知らないかしら……。よく一人でやって来て、朱実《あけみ》ちゃんあたりと、派手なダンスの踊り方をする人よ……」
篝は、幾つもある店の客の、名前や顔をいちいち覚えてはいない。古い馴染《なじ》みとか、常連ならば別であるが。
ミドリの話によると、オーさんというのは本名を尾形といって、なんでも不動産会社の重役なのだそうであった。金使いは荒い方で、また女性にかけても達者な方だという。
「ふーん。尾形か……」
彼は、手帳をとりだして、メモをとった。尾形が重役をしている会社の所番地は、朱実というホステスに聞けば判るだろうと考え、篝は「他に心当りは?」ときく。
「黒メガネで思いだしたんだけど、ほら、フーさんと時々くる人で……」
茂子が顔を輝かせながらそう言った。
「フーさんって、三星物産の?」
篝は何気なく訊き返した。茂子は、大きく顎を引いて、
「そうです。藤代さんが連れてくる人で、暗い店の中でも黒メガネをかけてるお客がいるんです……」
「ふーむ?」
彼は腕を組んだ。
篝正秋の頭の片隅には、事故死した玖島太郎が、死の数日前に、三星物産の藤代係長に会いに行っていた事実が、くっきり泛《うか》び上っている。
〈変だぞ……〉
彼は表情を引き緊めた。
死んだ玖島が、なにを調べていたのかは、〈日本春秋〉の田村編集長しか知らない。
また金融業者の大川作之助の女である丹羽章子の失踪と、玖島の死とは、全くのところ関連性はない。
にも拘《かかわ》らず、玖島の死因を調査するために、田村錬次は三星物産の藤代六郎に会った。
そうして、いままた丹羽章子の失踪で、三星物産の係長の名前が、登場している。
〈これは偶然なのか?〉
篝正秋は、宙をにらみ据えた。
「ねえ、なんて言ってたかしら? フーさん、あの黒メガネを……」
「憶えてないわ。二回しか、会ってないもの……」
「カクさんとか、コクさんとか、呼んでたみたいよ……」
彼が黙り込んだので、三人はそれぞれに勝手なことを喋りはじめる。
篝は不意に口を開いた。
「その黒メガネが、最初に来たのは?」
三人は顔を見合わせ、頼りない返事になった。三カ月ぐらい前に、藤代係長と、つづけざまに来た様子で、このことは、藤代六郎を担当している小金井|蓉子《ようこ》にでも訊くより仕方があるまい、とのことである。
「それで、黒メガネと章ちゃんとは、どうなんだい?」
篝は、興味深く訊く。
「さあ、判らないわ。でも章ちゃんは、身持の堅い方だったし……帰る時に、誘われたことはないんじゃないかしら?」
茂子が考え考え言った。
するとミドリが、くすくす笑いだして、
「だって彼女の旦那……うるさかったんじゃない? いつかも寿司を喰べようといったとき、アパートに電話して、〈来てるから帰るわ……〉と一人で帰って行ったじゃない。ねえ、衿子……」
「そうね。そんなこと、あったわね」
珍しく和服姿の衿子は、胸にかけたナプキンの形を、気にしながら答えた。
篝正秋は、なぜ丹羽章子がとつぜん姿を消したのかを、ぜひ知りたいと思った。
彼女が別段、暁興業に迷惑をかけているわけではない。
しかし篝にとって丹羽章子は、自分が南の国の鹿児島市で、掘り出した女性であった。それに、あの横柄な大川作之助が、しまいには、
「あの章子なしには、儂は生きていけん。他の女じゃ駄目なんだ。どうか、篝さん。金はいくらでも出すから、章子を探し出してくれんかい……」
と泣くように言って、懇願したことも、篝には忘れ難いのである。
〈なぜ、大川から逃げたのだろう。果して恋人が出来たからなのか?〉
篝は、事情が許す限り、丹羽章子の行方を洗ってみようと思い、その〈恋人〉かも知れぬ〈黒メガネの男〉を、ぜひ突きとめてみたいと考えた。
翌日――彼は先ず、出勤して来た朱実というホステスから、尾形という不動産会社の重役の正体について聞いた。
朱実は、背が低く小柄だが、店では一番のダンス上手である。また新しい流行の踊りなどを、いち早く店に輸入するのも彼女であった。
「尾形さんは、青山でビルを経営してる人。お父さまが、あの辺一帯の大地主ですって。だからビルを建てたんじゃないかしら?」
朱実は正直に答えてくれた。
本名は尾形俊二。青山通りに面して、二軒のビルを所有する〈尾形不動産〉の、専務取締役だという。
「遊び人だけれど、章ちゃんとは、どうかしら? あの人、自分がスマートでしょう。だから朱実みたいな、トランジスターが好きなんですって……」
朱実は最後の言葉を、そんな風に茶化して行ってしまった。
篝は苦笑した。
世の中は、よくしたもので、肥った男は痩《や》せた女性が好きであり、痩せた男性はその逆のタイプを好むことが多い。また大男は小柄な女性を、小男はグラマーを、しばしば好むようであった。
小金井蓉子は、彼に呼ばれると、眉をひそめながら、
「部長……あの子には呆れたわ」
と訴えはじめるのだった。あの子とは、彼女が引き取った赤松辰子のことである。
「ほう、どうしたい?」
篝は太い眉を動かした。
「まるでお嬢さまの居候よ。炊事、洗濯から全部あたしなの」
「ふーん。分担を決めて、やらせたらよいじゃないか……」
彼がそう言うと、蓉子は口惜《くや》しそうに、
「だって、なにか作って、と頼むと必ずインスタント・ラーメンなの。それも、冷蔵庫にハムや野菜ぐらいあるのに、一切れも使わないの……」
「ふーん。変ってるんだね」
「仕方がないから、洗濯を頼んだら、手が荒れる性質《たち》だから、絞って乾《ほ》すのだけは勘弁してくれでしょ……」
「すると奴《やつこ》さんは、汚れ物を洗濯機に入れるだけかい?」
「そうなのよ……。頭に来ちゃうわ」
小金井蓉子は、一カ月だけ面倒みるが、あとは御免だと言った。
恐喝罪で、十六の頃からネリカンに厄介になるような不良少女だから、蓉子のようなベテランにも手に負えない所があるのでもあろうか。
「ま、悪いけど、しばらく面倒みて、借金を支払えるように考えてくれよ……」
篝は、蓉子の肩を敲き、
「実は、藤代さんが連れて来たお客のことで、聞きたいんだがね」
と、表情を柔らげながら言った。
「ええ、いいわ」
小金井蓉子は、ドレスの胸の間から、膏《あぶら》とりの紙をとって、鼻の頭をおさえる。
「ほら、黒メガネの……カクさんとか、コクさんという人……」
彼がそう言うと、蓉子は「ああ」と頷いて、ためらいがちに、
「でも何故、覚《かく》さんのことを?」
と問い返した。
〈おや?〉
と篝は思い、さりげなく、
「コンテッサ・クラブに入りたいと言われたんだがね……専務夫人が、素姓の知れない人は困るというもんでね……」
と言ってみた。
すると小金井蓉子も小首を傾げ、当惑したような笑顔になった。
「私も、よく知らないんですよ、部長さん。藤代さんが三度ばかり連れてらしたかしら……。本名も知らないんです。ただ覚さんというのは、親がつけてくれた名前で、渾名になったといってましたけれど……」
「勤め先は?」
「名刺を下さらないので、判りません。でも藤代さんとの話しぶりでは、どうも鉄道関係のような感じなんですけれど」
「鉄道関係ね……」
「それも私の勘だけで、よく判りません」
「他に、なにかヒントはないかね?」
篝正秋は言った。
「黒メガネかけてるのは、ひどい藪睨《やぶにら》みだからで、色盲ではないんだそうです」
「ふーん。ときに、変なことを訊くけれど、その覚さんと、章ちゃんと、なにかあったのかい?」
「まあ……部長さん」
小金井蓉子は、びっくりした表情になり、付け睫毛《まつげ》を二度三度、パチパチ合わせてから呻《うめ》くように呟《つぶや》いた――。
「よく、ご存じですのね。どうして、ご存じなんです?」
篝は、〈やっぱり!〉と思い、心持ち顔色を蒼《あお》ざめさせた。
[#改ページ]
謎《なぞ》の人物
小金井蓉子の話だと、三星物産の藤代六郎が、黒メガネの覚さんを連れて〈コスモス〉に現われたのは、たしか一月の末ごろであった。
なんでも、三人ばかり連れがいて、藤代は店の中央の、六人掛けのボックスに納まり、二人の連れについては、きちんと会社名を言って蓉子に紹介したが、黒メガネの人物だけは、
「これ、覚さんや。わいの親友やよってに、よろしゅう頼みまんで」
と言ったのだそうである。
黒メガネの男は、
「なかなか美人がいますなあ」
と蓉子にお世辞を言い、そのときボックスに近づいて来た丹羽章子に見惚《みと》れて、
「きみ! あの娘の名前は?」
と彼女に小声で訊《き》いた。
蓉子は、名前を教えてやった。
すると黒メガネの人物は、
「章子ちゃん。ここへお出《い》で!」
と、もはや蓉子なんか、そっち退《の》けの態度を示したんだそうだ……。
「ははあ、この人は、章ちゃんみたいなグラマーが好きなんだな……と私は思ったんです。それで章ちゃんの他に、雪絵ちゃんもヘルプに呼んだんですよ……」
小金井蓉子はそう説明した。
「それで、彼女と覚さんとは?」
篝正秋は訊いた。
「覚さんは、藤代さんと一緒に、三晩ばかり続けざまに来たかしら? それから暫《しばら》く来なかったんです。ところが三月の……そうです、三日です、私の家の近くのお家で、子供たちに菱餅《ひしもち》や白酒を振舞っていましたから、三月三日の夜ですわ。ひょっこり、覚さんが一人で姿をみせて、隅のボックスで粘っていました……」
「ふーん?」
「あの夜は珍しく混んだり、外人のお客さんが来たりして忙しかったんですけれど、章ちゃんたら、覚さんのテーブルから動かないんですよ?」
「ほほう……なるほどね」
「それで私……これは何かあるなって睨んだんです。そうしたら案の定、その夜おそく六本木の寿司屋へ行ったら、覚さんと彼女と雪絵ちゃんが来てました」
「ふーむ。雪絵の方は、カモフラージュ用のあて馬か……」
篝は低い声で呟いた。
雪絵というのは、今年十九歳になる、なかなか肉感的な、ボリュームある体格の子であった。本人は肥り過ぎだと言っているが、胸の膨らみや、臀部《でんぶ》のはち切れそうな感触は、男心をそそるに充分である。
「あたち、まだ子供なんざんすよ。小父ちゃまから、口説かれても、どうしたらよいのか、判らんざんす」
などという、幼児語に類した言葉を使い、酔っぱらってくると、即興のジプシー踊りを演じてみせたりする陽気な娘だった。
彼女が使う、その奇妙な言葉は、NHKの〈ひょっこりひょうたん島〉というカラー人形劇の中で、なんでも女王様の人形が、そんな言い廻しをするのだそうである。そうしてそのセリフは、幼稚園の児童あたりの中で、大流行しているのだそうだ。
篝正秋は、ブラジャーをつけないという雪絵の、悩ましい胸の隆起を思い泛《うか》べつつ、目の前のホステスを眺めやる。小金井蓉子は、なぜか思い出し笑いをしていた。
「どうしたんだい?」
彼は言った。
すると蓉子は、面白そうに、
「でも部長さん……雪絵ちゃんの方が、覚さんとは余程、親しいみたいでしたわ」
と言いだすのだった。
「えッ、なんだって?」
篝は駭《おどろ》いた顔になる。
蓉子の観察した限りでは、黒メガネの覚さんは、丹羽章子に惚《ほ》れてはいるが、なかなか手が出せずにおり、雪絵の方はすでに陥落して、何度か性交渉があるような感じだったそうだ。
篝は首を傾《かし》げた。
ホステスを口説く男の心理として、一度でも寝たことのある女を同伴して、新しく口説こうとするホステスを食事に誘うなんてことは、ちょっと考えられない。いささか非常識だからである。
もっとも高級な戦術としては、古くから関係のある女性を、新しい女性に紹介して、喧嘩《けんか》別れの形で古い女と手を切る……ということはあった。しかし、それは別れるための戦術なのであって、女性を口説くためには不向きなのだった。
「変な話だなあ。本命は、章子の方だったんだろう?」
篝は言った。
「だと思います。でも、覚さんは、雪絵ちゃんとも、あると思いますわ……」
小金井蓉子は、さも確信あり気に、きっぱりと答えるのである。
篝正秋は、夜の世界で働いているホステスたちの、勘の鋭さに驚かされることが、しばしばあった。
当人たちは、ごく自然に振舞っていても、そのホステスと客とが肉体関係をもったという事実を、彼女たちは鋭い鼻で嗅《か》ぎわけるのである。
表面は華やかで美しいようにみえても、楽屋裏から眺めてみると、指名客の奪い合い、嫉妬《しつと》と羨望《せんぼう》の陰口など、それはそれは醜い世界なのであった。
――丹羽章子の消息は、依然として知れなかった。
篝正秋は、小平社長から命じられた、外人客を相手としたビジネス・クラブの経営が、可能か否かを調べる仕事に追われて、しばらくは失踪《しつそう》したホステスの行方を、探り出すことを断念していた。
でも、三日ばかりで、その仕事は片附き、彼の市場調査の結論では、当初の六カ月は赤字だが、クラブの一隅に、天麩羅《てんぷら》、スキ焼のスタンドを設け、またマッサージ室などをつくることによって、赤字はカバーできるようであった。つまり、採算はとれると彼は踏んだのである。
ところで、その日、〈平和経済興信所〉の加藤という所長が、〈ミューズ〉の宝部三吉の金策事情について、調査報告書を持参して来たことを、書いておかねばならない。
加藤は、彼とは同じ年齢で、しかも同県人だった。県人会名簿で、彼は加藤の存在を知り、電話で調べ物を頼んだのが、親しくなるきっかけだった。
昔は文学青年で、その文才を利用して、兜町《かぶとちよう》で予想屋をやったり、業界紙の記者をしたこともあるらしい。大学を中退したという環境も、篝とよく似ていた。
「この間の……出来たよ」
加藤|汀三《ていぞう》は、〈暁興業〉の本社へやってくるなり、茶色の細長い封筒を示し、
「ちょっと、内密に話がある」
と言った。
それで篝は、加藤を、小さな応接室へと案内して行った。応接室と呼ぶには、気恥しいようなガランとした小部屋だが、これは無駄な施設は一切つくらない神崎正之輔の、経営方針から来ている。
二人は、その寒々とした小部屋の、粗末なソファーに並んで坐った。
「なぜ〈ミューズ〉の宝部は、金策に走り廻っているんだね?」
単刀直入に篝は訊く。
加藤汀三は、蒼白い額に垂れ下がった長髪を、左の細長い指先で掻《か》き上げながら、
「土地の買い占めだよ……」
と、つまらなそうに答えた。
「土地の買い占め?」
篝は、意外な気がした。
宝部三吉のことだから、きっと有望な事業でも発見したか、或いはその会社を買い取るために、狂奔しているのではなかろうか、とぐらいに彼は考えていたのだった。
また、こうも考えたりした。
それは、山ッ気の多い宝部が、詐欺師に騙《だま》されて二億円の手形をパクられ、その手形を落すために奔走しているのではないか……という空想だった。
融通のため振出した手形を、パクリ屋にしてやられ、泣く泣く買い戻すという事件は、決して少くないのだった。たとえ騙し取られた手形であっても、善意の第三者にその手形が渡ってしまった時には、振出人はそれを期限までに落す義務があるのである。
だが――篝正秋の予想は、二つながら狂っていた。〈ミューズ〉の宝部社長は、関西地方のある土地を、買占めようとしているというのだ。
「その、ある土地とは? どこなのか、判らないのかね?」
篝は、加藤所長に質問した。
加藤汀三は苦笑し、
「残念ながら、まだ判らない。なんでも神戸の近くらしい」
と答えた。
「ふーん。その土地を買うためには、〈ミューズ〉を手放してもよいと口走るということは、裏になにかあるんだろうね?」
考え考え、篝は言った。
すると加藤汀三は、骨ばった両手の指を組合わせて、
「内密な話と言ったのは、そのことなんだよ……」
と低い声で応じる。
篝は、膝《ひざ》を乗り出した。興信所長は、一瞬、きッと瞳《ひとみ》を光らせる。
「なんでも、その土地には、利権が絡んでいるらしいんだ……」
「だろうな。しかし、第二国際空港の用地は千葉県方面だし、万国博の敷地は大阪府じゃないのかね……」
彼は、またしても首をひねる。
「だからさ……なにか理由があるらしいんだよ。宝部三吉は、このところ、しばしば赤坂で〈憲民党〉の工藤と会っている」
「ふーん?」
篝は、太い眉を動かした。〈憲民党〉の工藤幹事長は、保守党の中でも随一の権力家であり、今までも時々、疑獄事件の渦中の人物となった男である。
「工藤陸郎と、宝部三吉とが、なぜ結びついたのかは判らない。しかし、宝部ほどの人物が、二億円の金策に、博多の蒋宗元や、お宅の小平賢治社長あたりの所に、頭を下げて頼みにゆくこともあるまいと、考えるんだがねえ」
……それは、加藤の言う通りだった。
調査報告書によると、宝部三吉が名古屋の土地家屋を抵当に入れて、銀行から四億円の融資を受けたのは、つい二週間前のことであった。
そうして、その融資を受けた翌日あたりに西下して、大阪の小平賢治に会い、金策を依頼したものらしい。
〈ふーむ。すでに四億円を借り、さらに二億円か……〉
篝正秋には、宝部三吉がなんのために、そんな巨額の金を必要としているのか、よくわからなかった。また東京赤坂にある〈ミューズ〉を、抵当にすれば、銀行から融資を受けられる筈なのに、それをしないでいる宝部の気持も、よく判らなかった……。
加藤汀三が帰ったあと、篝は思いついて、三星物産に電話を入れた。
「鉄鋼部厚板課――」
彼は交換手に告げる。藤代六郎は、厚板課の係長のポストにいたのであった。
藤代は折よく在席しており、とつぜん彼からの電話に、ためらった様子だった。それはそうだろう、暁興業の保安部長の篝と名乗っても、相手にはピンと来ない。
「コスモスの篝ですよ」
彼は、笑いながら教えた。
「ああ、なんや。君か!」
藤代六郎は、たちまちぞんざいな口調になって、彼の質問に、てきぱき答えてくれた。
だが、あとで勘ぐって考えてみると、藤代六郎はこの種の質問を、あらかじめ予期していたかのような風情であった。つまり、質問に対する回答を、ちゃーんと前もって考えてあったような、応じ方だったのである。
彼と藤代との一問一答を、録音テープ式に記述すると、大体つぎのような文章になるであろう。
――実は、店の女の子が、とつぜん姿を昏《くら》ましましてねえ。
――ほう、誰だい?
――丹羽章子です。コスモスの。
――ああ、鹿児島から、あんたが掘出してきたちゅうグラマーやな。
――ええ。そのことで、ちょっと、藤代さんにお聞きしたいんですが。
――ほう。このわいに? なんのことやろ……。
――彼女が失踪する前に、藤代さんのお友達だという〈覚さん〉と、六本木の寿司屋にいたことまでは、分っているんですが。
――覚さん? (しばらく間)ああ、佐本覚のことかいな。
――佐本覚さんと仰有《おつしや》るんですか?
――ああ、業界ゴロなんや。
――すると鉄鋼関係の……。
――うん。ときどき新聞の、広告取りに来よる。それで知ったるだけのこっちゃ。
――その佐本さんの、ご住所は?
――さあ、相模原《さがみはら》の方の公団やと言うとったが、あとは知らんでエ。そのう……なにかい? 佐本覚が、章子を誘拐《ゆうかい》したとでもいうんかい……。
――いいえ、違います。ただ心当りを探しておりますもんで……。
――よっしゃ。佐本に会ったら、聞いといたるわ。忙しいよってに、そのうち又。店へ近いうち覗《のぞ》くわな……。
会話の内容は、ざッと以上の通りだが、この会話で、篝正秋が得た収穫と言えば、黒メガネの覚さんが、〈佐本覚〉という名前の、業界紙記者を職業とする男だということだけである。年齢も、勤め先も、彼は藤代六郎から教えて貰えなかったのであった。
しかし、漠然とだが、一つの手懸りは出来たわけで、小金井蓉子が言うように、もし佐本覚が丹羽章子の躰《からだ》に野心があったのなら、彼女の失踪には、一役買っている筈である。
また大川作之助が激怒したように、佐本覚が章子のアパートに午前中訪れてくる恋人だったならば、引越しの芝居の脚本を書いた者は、佐本覚だということになるのだった……。
いずれにしろ篝正秋は、佐本覚という人物の勤務先をつきとめて、会ってみる必要があると思った。
彼は部下の一人を呼び、鉄鋼業界にくわしい人間を探すように命じ、ついで佐本覚の勤め先を洗うようにと言いつけた。
〈おや……待てよ?〉
篝正秋は、とつぜん首を左右に倒した。これは、なにかを考えようとする時の彼の癖である。頸骨《けいこつ》が、ポキ、ポキと乾いた音を立てた。
〈そうだ……。玖島も、たしか鉄鋼業界のことを聞きに、藤代係長のところに赴いたんだった……。こいつは、変な話じゃないか……〉
篝はそう考えたが、これは単なる偶然なのだとしか思えない。玖島の事故死と、丹羽章子の失踪とは、時間の隔たりもあるし、関連性があるとは想像もできなかった……。
夕方、事務所にいるとき、ちょっとした事件が起きた。
佐本覚と交渉があるという雪絵が、保安部長の彼を訪ねて来て、いつになくしおらしく、
「部長さん。お金を貸して頂きたいんですけれど」
と切り出したのであった。
「ほう。どの位だね?」
篝は、〈そうだ。この娘に、佐本覚のことを聞いてやれ〉と心の中で考えながら、微笑を浮かべる。
「三十万円なんですけれど」
「ほう、三十万円ねえ」
篝は、経理の女の子から、エンマ帳を受け取り、〈長谷川雪絵〉の頁を繰った。
勤務成績は、まあ良の方だが、売上げ成績は悪かった。しかも、入店の時の立替金四十万円が、そっくり焦付いている。
彼は顔をしかめた。
「あのう……駄目でしょうか」
雪絵は、おずおずと訊く。
「いったい、何に要るんだね? 三十万円といったら、大金ですよ」
篝は、エンマ帳を閉じると、立ち上って優しく言った。
「夕食……まだなんだろう? ご馳走してあげるから、ついておいで」
素直に雪絵はついてくる。
朝鮮料理が食べたいと彼女が言うので、あまりニンニクを効かさない、新しくビルの地階に出来た店に、彼は雪絵を連れて行った。
カルビとロースの焼肉とビールを頼み、雪絵は朝鮮雑煮を、彼はコムタンと言う雑炊《ぞうすい》を注文した。
「さあ、なぜ金が要るのか、話してごらん」
彼は煙草を咥《くわ》える。
「話したら、貸してくれるざんすか?」
雪絵は、道化て言った。
「話によっては、僕の貯金を用立てないでもないよ。ただし条件があるがね……」
篝は、ゆっくりライターを鳴らして、朱い焔《ほのお》を煙草に近づけた。
[#改ページ]
謎の日程表
テーブルの上の瓦斯《ガス》コンロから、濛々《もうもう》と白い煙が立ち昇りはじめる。誰が考案したのかは知らないが、瓦斯の焔は、いったん下方にある水面に向かって放射され、その余熱でもって、肉が焙《あぶ》られる仕掛けになっている。この方式だと、従来の直接式のものより、煙の量も少いが、それは滲《にじ》み出た脂が、水面にぼたぼたと垂れるからなのだそうだ。
……とはいうものの、店全体のテーブルから立ち昇る煙の量は、大変なものであった。
ビールを飲みながら、篝正秋は、長谷川雪絵に注意をした。
「この朝鮮焼肉というのはだね……生焼けのところを喰べるのがうまいんだ。だから、そんなに次から次にと、肉を載せない方がいいね。食べる量だけを載せて、熱いうちに食う。これが秘訣《ひけつ》なんだ……」
雪絵は、悪戯《いたずら》っぽく、ちらッと赤い舌の先を白い歯の間に覗かせ、
「申し訳ないざんす」と言った。
借金の申込みに来ておりながら、全く屈託のない雪絵の態度である。篝正秋は、近頃の女の子の、ドライさ加減に食傷している方だが、雪絵のような陽気な態度は、じめじめした年増女よりはやはり気持はよかった。
「ところで、きみの欲しい三十万円だが……なぜ必要なんだね?」彼は訊いた。
「手頃なマンションがあるんです」
雪絵は答える。
「マンション? 買うのかい?」
「まさか! いくらなんでも、三十万円ではマンションは買えません」
「じゃア借りるんだね?」
「はい」
「いま住んでいる所が、嫌になったという訳だね?」
「違います」
「え、なんと言った?」
篝は雪絵をみた。
「違うざんす……」
「じゃあ、なにか他の理由かい? たとえば都合のわるい人が、引越して来たとか――」
「違うざんす。アパートはそのままで、マンションを借りるざんす」
「ふーん。なんのために?」
「アルバイトざんす」
「アルバイト? マンションを、また貸しでもしようというのかい?」
「部長さん……」
長谷川雪絵は、急に改まった口調になり、
「部長さんは、乱交パーティーって、ご存じありません?」と言った。
「なんだって? 乱交パーティー?」
篝は目をまるくした。
乱交パーティーというのは、アメリカあたりから流行《はや》って来た秘密ゲームで、数組の夫婦が自分の夫や妻以外の異性と、性交渉をもつパーティーのことである。
だが、雪絵のいう乱交パーティーとは、夫婦ではなく、単なる男女の、入り乱れて交わるセックス・パーティーのことらしかった。
「あたいの友達にね、その乱交パーティーを主催して、金を儲《もう》けている人がいるの」
「ふーん、物好きだなあ」
「有閑マダム達から、一人二万円とって、大学生の男の子をあてがうわけ」
「ほう、女上位か」
「その逆だってあるわよ。五十以上の紳士に、高校生の女の子……」
「なるほどね」
「はじめのうちは、ホテルを借りてやっていたんだけど、なんだか嗅《か》ぎつかれちゃって、断られたらしいのよ」
「当り前だ……。ホテルは格式や体裁を重んじる所だからね」
「それで、乱交パーティーの会場が欲しいんだって」
「ふーん。それで君が、マンションを借りてやって、提供するわけかい?」
「ううん、違うざんす。貸して、室料をとるざんす……」
雪絵は、また赤い舌の先を見せた。
「儲かるのかい?」篝は訊いた。
「だって、一日一万円くれるってんだもん。月に十回使えば、十万円でしょ」
「マンションの室代《へやだい》は?」
「月に六万円」
「なあんだ、たった四万円じゃないか」
篝は笑った。
「あら、だって、アパート代が浮くわ」
口惜しそうに、雪絵は言った。
「ふむ、そうか」
興味をもった篝は、その乱交パーティーなるものについて、いろいろと聞いてみたが、彼の駭《おどろ》くようなことばかりだった。
パーティーは必ず男女同数で行われるが、自分の相手を選ぶには、幾つかの方法があった。
男女が別室にわかれて、室においてあるパジャマの片方を着る。つまり、パジャマの上衣を女性が、ズボンを男性が穿《は》くのであった。
そうして一室に集まると、パジャマの上下の模様が一致するカップルができる。
有閑マダムの間では、素敵な男性をめぐって、しばしばオークションが行われるという。つまり、金で奴隷市のように、せり落すわけだった。
また老紳士たちには、女子高校生の躰に紐《ひも》をつけて、クジを引くように紐の端をそれぞれに持ち、相手を決めることが流行しているそうであった……。
話を聞いているうちに、篝は次第に面白くなって来て、金儲けは二の次としても、自分がその乱交パーティーの会員になれるのなら、マンションの敷金を出してもよい……という気持になって来た。
そこで篝はちょっと考えてから、長谷川雪絵にこう言った。
「よろしい。三十万円は、私個人が出してあげるよ。ただし、条件がある」
雪絵の顔は、途端にぱッと輝き、
「まア、嬉しい!」と大きな声をあげる。
「その条件とはだね……覚さんのことだ」
彼は、ずばりと切りつけた。
「覚さん……」
雪絵は、唖然《あぜん》となって絶句する。
「どうしたんだね?」
篝正秋は微笑した。
だが、雪絵の表情は、硬《こわ》ばったままである。硬ばったというよりは、なにか狼狽《ろうばい》と驚愕《きようがく》とに、虐《さいな》まれているような感じだった。
「覚さんと言って悪ければ、佐本覚氏のことだよ……」
ややあって雪絵は、
「部長さん……もう、いいです」
と、頓珍漢《とんちんかん》な答え方をした。
「いいって、どういうことだい?」
彼は言った。
「お金のことです」
「だから、金は出そうと言ってる」
「でも、いいんです」
「なぜだね?」
「…………」
「佐本覚のことを聞きたいと言ったら、なぜ急に金が不必要になったんだね?」
「だって……」
「だって、なんだい?」
「お金が欲しいのは……」
「うん……」
「佐本さんなんです」
「ええッ?」
彼は、ポカンと口をあけた。思いがけない返辞だからであった。
「するときみ……」
篝は、混乱した頭を整理しようと、軽く首を振った。首をふりながら、心の中で、〈これは、これは!〉と呟いていた。本当に、思いがけなかったのである。
「……そのう、つまりだね……そのパーティー屋のお友達とは、覚さんだったのかい?」
こっくりと雪絵は首を上下に動かす。
「雪絵ちゃんは、彼のために、マンションを借りてやろうとした……」
「ええ」
「ふーん。では、やっぱり君と覚さんとは、親密だったんだね?」
「……ええ」
雪絵は、その時だけ、不敵な面魂となった。あきらかに、男に惚《ほ》れている証拠である。
「そうだったのか……。そうと判れば、話は早い。覚さんに、会わせてくれないかなあ」
篝は、打ちとけた調子で、冗談めかして言ってみた。
「なぜですか?」
……疑うように、長谷川雪絵は、彼を凝視してくる。
「実は、覚さんに、ちょっと訊きたいことが出来たんだ……」
「どんなこと?」
雪絵の言葉が、短くなった。
「きみも知ってるだろう、章ちゃんのこと……」
雪絵は、眼を伏せる。
〈ははあ、なにかあるな?〉
篝は直感した。小金井蓉子の口吻《くちぶり》だと、佐本覚は雪絵よりも、丹羽章子に惚れていた様子である。
佐本と関係のある雪絵が、そのことに気づかぬ筈はなかった。気づいていればこそ、彼の質問に、素直に応じられなかったのではないだろうか。その点、大柄だとはいっても、彼女はまだ十九歳、子供であった――。
目を伏せたまま、答えないので、篝はビールを自分でグラスに注ぎ、しばらくは無言でカルビを口に運んだ。カルビというのは、牛の肋骨《ろつこつ》に附着した肉のことである。
「あのう……章ちゃんのことって、なんなんですか?」
雪絵は、しょげ切った声音である。
「ほら、休んでんだろ?」
篝は、さり気なく言った。
「ええ、知ってます」
「なぜ休んでるのか、連絡がないんで調べたら、急に引越していて、四谷にいないんだ……」
「本当ですか?」雪絵の瞳《ひとみ》には、信じられない言葉を耳にしたような色が動く。
「嘘は言わない。お店から彼女に、かなり前払いした金もあるしね……それで、行方が知りたいんだ……」
「でも、佐本さんが何故……」
雪絵は不思議そうに言った。
「だって……だって彼と彼女とが、六本木の寿司屋あたりに居たって、誰かが話していたからさ……」
なあーんだ、というような顔つきになって雪絵は応じた。
「あら、その晩だったら、私もいたわ」
「三月三日の夜だぜ?」
「ええ。あの晩は、佐本さんと私、ずーっと一緒でした」
「ホテルまで?」
「私のアパートよ……」
そう答えてから雪絵は、〈しまった!〉というように首を竦《すく》め、それから照れたように舌を出した。
「なあんだ、そうだったのかい?」
彼は失望したように言ってみせる。
「たしか、佐本さんの車で、章子ちゃんとこまで送ったわ。でも、ただそれだけよ」
「ふーん……」
「それに章子ちゃんが、居なくなったというのは最近のことでしょ?」
「そうなんだ……」
篝は、丹羽章子の部屋を、午前中訪ねていた黒メガネの男のことを、ちらッと思い浮かべたが、そのことを雪絵に話すのは残酷な気がして、思いとどまった。
「とにかく、金は出すよ。僕も、乱交パーティーの会員になりたいから、佐本さんに、そう言ってくれないかな……」
「わかりました」
「金は出すからね。早急に、佐本さんに会ってみたいね」
篝正秋は、三星物産の藤代係長が、佐本覚が業界紙記者だと言っていたことと照らし合わせ、その人物なら乱交パーティーの主催者に相応《ふさわ》しい……とも思った。
しかし、パーティーの方はともかく、佐本覚なる人物への好奇心は、いちだんと強まったのである。
〈日本春秋社〉は、神田|駿河《するが》台のビルの四、五、六階を占領していた。その界隈《かいわい》は、大学と病院とに取り囲まれて、閑静なオフィス地域でもある。
篝正秋は、エレベーターで四階へ行き、日本春秋社の受付に名刺を出して、
「田村さんにお目にかかりたいのですが」と丁寧に言った。
受付の女性は、小柄だが清楚《せいそ》で感じのよい女性であった。篝は商売柄すぐ、
〈こんな女性が、働いてくれたら……〉
などと考えたりしたが、環境というものは恐ろしいもので、その受付の女性だって、水商売に入って三カ月もすれば、化粧法もかわり、咥《くわ》え煙草で麻雀《マージヤン》をしたりするようになるのだった。環境が人間をつくる、というのはその意味で本当だった。
田村錬次は、例の膝《ひざ》が抜けたズボンと汚れた靴を穿《は》いて、むっつりした調子で現われ、
「下へ行きましょう」
と、いきなり言った。ビルの一階が、レストランになっていたのである。
レストランに入ると、田村は気がついたように、抱えていた上衣の袖に腕を通し、ポケットをまさぐって、ホープを取り出した。
「なににしますか? コーヒーより、冷たいビールなんかどうです。いや、その方がいいでしょうな……」
田村は彼がなにも言わないのに、一人でそんな言葉をぼそ、ぼそと呟いて、ウエートレスに手をあげるのだった。
〈変った人だな……〉
篝正秋は、改めてそう思った。
「ところで、ご用件は?」
田村錬次は、マッチを探しながら訊くのである。
「電話で言いましたように、玖島のことなんですが」
彼は、田村編集長を凝視する。
「ああ、そうでしたな。玖島が死ぬ直前、なにを調べていたか、ということでしたなあ」
「その通りです」
「実は、私もそれを知りたいと思ってる」
田村錬次は、瞑想《めいそう》するように、目をかるく閉じた。
「玖島太郎が、私に言ったことは、〈疑獄に発展しそうな事件がある〉ということだけでしたね」
「疑獄事件に?」
「そうです。私は玖島の編集者としての能力、勘の良さを信用していたので、〈では調べて|モノ《ヽヽ》になりそうだったら、編集会議に出してくれ〉と言った……」
「ははあ」
「それと私がしたことは、予備取材費として三万円の出金伝票に、サインしたこと位のものですな……」
「その後、玖島からの報告は?」
「ない。私は玖島太郎の顔色を読むだけで、奴《やつこ》さんの取材が難航していることを知っとったし……」
「ははあ……」
「また玖島の性格からも、中途半端な形では、私に報告しないであろうことは判っていたし……」
「ははあ、なるほど」
「この前も、お話したように、玖島に怪電話がかかって来たことがありました」
「ええ……」
「私は、その電話のことを玖島に伝え、〈どうなんだ?〉と聞いたことが一度ある」
「そのとき、玖島君は?」
「ニヤッとして、〈あと少しで目鼻がつきますから……〉と言うた――」
「あと少しで、目鼻がつくと――」
「そうなんです。玖島が死んだのは、それから六日後だった」
篝は沈黙した。
田村錬次は、運ばれて来た生ビールをぐいと飲み、唇の端についた白い泡《あわ》を手の甲で拭った。それから、上衣の内ポケットから、黒革の手帳をとりだした。
「これが、玖島の残してあったスケジュール表ですよ……」
見ると、そのスケジュール表は、一枚に一カ月の予定が書き込まれる形式のもので、田村の手帳の頁の間に、丁寧に挿《はさ》んであった。篝はそれを知って、ちょっと目頭が熱くなった。田村が、死んだ部下のことを、大切に思っていることを知ったからである。
それに玖島の残したスケジュール表は、八つ折にされて、折り目の部分が、すり切れかかっていた。それは多分、何度も何度も開いたり、折ったりしたからだと思われる。つまり、それだけ田村錬次は、玖島がなにを調べているかを知るために、スケジュール表と睨《にら》めっこしたということなのだろうか。
「そのスケジュール表を、一日だけ、貸して頂けませんか……」
篝正秋はそう言った。
田村錬次は、静かに頷《うなず》いた。
「玖島が、自分の仕事以外で、会ったと思われる人物は、私が全部チェックしましたよ。ですから、無駄だとは思いますが、どうぞ――」
[#改ページ]
喪《うしな》った自制心
三十万円の出資を約束したにも拘《かかわ》らず、長谷川雪絵は、一向に佐本覚なる自分の恋人を、篝に紹介してくれる気配はなかった。篝正秋は、あれから四日も経っているのに、誠意を示さない雪絵が、大いに不満であった。
それはちょうど朝から降り続いた雨が、午後になって晴れた金曜日の夕刻のことである。
とつぜん大川作之助が、彼の面会人として姿を現わしたのである。
作之助は、狭くて雑然とした暁興業の事務所のなかを、あきれたように見つめていたが、彼の顔を探しあてると、無言で一枚のハガキをさしだしたものだ。
「なんです?」
篝は、それを受け取って、裏を返した。
「章子からだ……今朝、わしの会社の方に、届いていた」
「ほほう……」
読むと文面は簡単なもので、好きな人が出来たから、もう自分のことを忘れて、探そうとしないで下さい。いま大阪で暮してます、というような趣旨だった。
消印は二日前で、大阪駅前というスタンプ印が読めた。
〈ふーん? 大阪へ逃げたのか〉
篝は、宛名を読み、たしかに丹羽章子のペン字の癖だと思った。大阪で、水商売関係に勤めているのなら、探し出すルートはなくもない。
〈だが、待てよ? 大阪で暮している筈の彼女が、なぜ、大川が自分を探していることを、知ったのだろう?〉
そう考えると、そのハガキの文面は、そのままストレートには、信じられないような気がしてきた。
大阪までは新幹線で三時間十分、日帰りで出かけて投函《とうかん》してくることも、不可能ではないのである。
「それで大川さん、どのような手を打たれたのですか?」
彼は、事務所を出て、近くの喫茶店に大川を連れて入った。
「どうしたら、いいのか、儂《わし》にも分らん。大阪は広いでなあ……」
「そうです。バーや、クラブに勤めていてくれれば、探す方法もあるんですが」
「章子は、大阪に知り合いは?」
「多分、ないでしょう。鹿児島と、東京しか知りません。親戚《しんせき》も、九州一円だという話でしたが……」
「とにかく、儂は章子に会いたいんだ……。あの章子のためなら、一千万円出したっていい。それほど、大切な女なんじゃ、篝さん……」
大川作之助は、すっかり憔悴《しようすい》している様子であった。彼には、一人の女が、かくも分別ある男性を狂わせるという、事実の重味の方に興味がある。
「このハガキを、お預りしておいて、よろしいですか?」
篝は言った。念のため、丹羽章子のペン書の履歴書と、比較してみようと思ったのだ。
大川は肯《うなず》き、
「本当に、大阪にいるのかなあ」
と、侘《わび》しい声音を出すのであった。
大川は彼と別れ際に、ふッと思いだしたように、
「加藤ときみは、友達だそうだな」
と言った。
「加藤……というと?」
「加藤汀三だ。わしが興信所をやらせておる……」
ポカンと篝は口をあけた。
世の中は、狭いと思った。同県人だということで、交際をはじめた加藤である。その加藤の出資者が、ホステスに逃げられて動顛《どうてん》している、この大川作之助であろうとは!
「加藤には、今夜にでも、大阪へ発《た》って貰うつもりだが……なにか捜査のヒントになるようなことでも思いだしたら、加藤に電話してやって下さらんか……」
大川は、そう挨拶を残して、あたふたと喫茶店を出てゆくのであった。
事務所へ帰り、加藤の興信所に、電話を入れる。
「大阪へ、大川社長の女を探しに、行くんだって?」
篝は苦笑しながら訊く。
「いやア、そいつの方は、こっちも頭から期待はしていないんだ……」
「ええ? しかし大川社長は……」
彼が反問しかけると、加藤汀三は、
「ばかだなあ……」と笑い、
「本当の仕事は、別口だよ……」
と言う。
「別口とは?」
「ほら、〈ミューズ〉さ」
「ああ!」
篝正秋は、大きな声をだした。
ミューズの宝部三吉が、神戸の近くで、土地を買占めていることは、すでに社長の小平には報告してあった。
彼は、それっきり忘れてしまっていたのである。
「君には悪かったけれど、大川社長にも、そのことは話したんだ……。そうしたら、ぜひ真相をつきとめて来い。たしかに、利権の匂いがすると言うんだよ……」
「ふーむ。なるほどねえ!」
篝は、こん畜生め、と思った。
彼の目の前では、女、女、女と半狂乱めいたポーズをとりながら、一方では利権の匂いを嗅ぎつけ、ちゃっかりと抜け目なく手を打っている大川作之助という人物の、怪物ぶりが腹立しかったのだ。
しかし考えてみれば、そのような多面体をもった人物だからこそ、一代で財を築き上げ得たのかも知れなかった……。
夜十時すぎに、散歩から帰った篝は、机の上の章子のハガキに目をとめると、思いついて長谷川雪絵を事務所に呼んだ。
彼は頭ごなしに、
「金は、用意してあるよ。いつ、佐本君に会わせてくれるね?」
と訊いた。
すると雪絵は、もじもじして、
「そのう……お金は、要らなくなったんです」
と言うのである。
「ほう、要らなくなった?」
「ええ……」
雪絵の表情には、なにかを隠しているような陰翳《いんえい》が感じられる。
「だって、僕を〈乱交パーティー〉のメンバーに、加えてくれる約束だろ? だったら、そのためにも佐本君に、会わなくちゃあ……」
彼は、相手の機嫌をとりながら、怪しまれないように、上手に言った。
雪絵は、朱い爪先をちょっと歯で噛《か》み、怨めしそうに上眼遣いに彼を見た。
「どうなんだい? 君も知ってるように、僕は独身でね……雪絵ちゃんみたいな美人に、乱交パーティーでめぐり会いたいんだよ……」
「そのう……あの人は、いま、居ないんです……」
「え、居ない?」
――とつぜん篝は、顔を輝かせた。
〈もしや?〉と思ったことが、あったからである。彼は、とつぜん胸に浮かんだ、その計画を、彼女に言おうか、どうしようかとためらった。
結局、その誘惑の方が、彼を打ち負かした。
「変なことをきくようだけれど、佐本君は、三日前ぐらいに、大阪へ出張したんじゃないかい……」
「いえ、神戸です……」
雪絵は釣り込まれたように答え、それから顔色を変えて彼を注視した。
「部長さん……なぜ、そんなことを?」
「知っているのか、と言うのかい?」
「……ええ」
「話してあげたいが、君にショックを与えると困るなあ……」
篝は勿体《もつたい》ぶって、頭を小指で掻《か》く。
「あたいに、ショック?」
「……うん。話しにくいことだが、佐本君は一人で出張したんじゃないらしいよ?」
「部長さん。それ、どういうことですか?」
単純な娘だけに、今にも喰いつきそうな表情になっている。
「委《くわ》しく、聞きたいかい?」
「どうせ、作り事です!」
「と、思うかい? ここにハガキがある。読んでみたまえ」
篝としては、佐本覚が旅行中を幸い、雪絵を罠《わな》にかけて、彼女の持っている材料を、洗いざらい聞き出してしまおうという肚《はら》であったのだ……。
卑怯《ひきよう》なようだが、佐本覚が彼を避けている以上、致し方なかった。彼を避けているということは、やはり丹羽章子の失踪《しつそう》に、佐本が無関係でないという証拠なのである。
……ハガキの差出人が、丹羽章子だと悟った長谷川雪絵は、しばらく放心したような姿勢であった。
「わかるね、そのハガキの主は?」
「……ええ。章子さんね」
「その通り。消印をみたまえ。ちょうど二日前だ……」
「…………」
「誰かさんと、手に手をとり合って、新幹線で大阪へゆき、一緒にベッドに入って翌朝、そのハガキを書いたんだとは、考えられないかね?」
「…………」
「手紙には、好きな人ができた、大阪で暮すから探さないでくれとも書いてある」
「…………」
「章子の好きな人って、誰だろうね? 浮いた噂《うわさ》のなかった彼女が、六本木の寿司屋にまでのこのこと……」
「止《や》めて頂戴!」
長谷川雪絵は、ヒステリックに叫び、急に両掌に顔を埋めた。
〈薬が効きすぎたかな?〉
彼は、ピースを咥えながら、沈黙のポーズに入った。しばらくは泣かせて、疑心暗鬼に虐《さいな》まれさせた方が、効果があると考えたからである。
五分ばかり、雪絵はそうしていただろうか。ややあって顔をあげると、
「あの人……自分でも、浮気者だって言ってました……」
と嗚咽《おえつ》しながら、呟くように訴えはじめたのだった。
「そんなこと、最初から分らなかったのかい?」
「だって、雪絵……好きになっちゃったんだもん」
「どう? 心当りある?」
「わかりません。部長さんの言うこと、まだ信じられないけれど?」
「そうかねえ。私のところに来た興信所の報告では、丹羽章子のアパートに、午前十時ごろ、毎日のように黒メガネの男の客が来ていたそうなんだが――」
「午前十時ごろ?」
「その通り。その男は、丹羽章子をそそのかし、パトロンからたんまり金を取った上、アパートの敷金まで失敬して逃げた……」
「まあ、そんな――」
「嘘じゃアない。だから探してるんだ、彼女の行方を――」
「…………」
「それに章ちゃんのパトロンは、詐欺ならびに誘拐《ゆうかい》罪で、佐本君を訴えるかも知れないんだぜ……」
「大袈裟《おおげさ》な……」
「いや、大川作之助は血も涙もない男だ。とことんまでやる、恐ろしい人間だよ。もし君が、佐本君を愛しているのなら、今夜、店がはねたあと、僕とつきあってくれないかね? ええ?」
〈やっと、追い詰めた〉と篝は、心の中で微笑した。雪絵がはっきり、承諾の意思表示したからだった。
……食事に誘うつもりだったが、雪絵はなにも欲しくないと言った。
十九歳の雪絵にとって、佐本覚は何人目の男性かは、推測でき得べくもないが、しかし彼が投じた小石によって、彼女の胸の中は穏やかでないことだけはたしかだった。
「どうしよう?」
タクシーの中で、彼は訊いた。
「僕のアパートにでも来るかね?」
そう言うと彼女は、自分の方から、運転手に、
「中野へやって下さい」
と告げた。たしか中野新橋の近くに、住んでいる筈であった。
雪絵のアパートは、地下鉄の駅から、歩いて五分もかからぬ位置にあった。
いつもの彼女なら、この時間には、酔って陽気に騒いでいる筈だ。しかし今夜は、沈み切って、酔いも醒《さ》めてしまった感じである。それが、なんとなく可哀想でもあった。
玄関を入ると、台所をかねた食堂兼居間、それに八畳の和室があって、そこにはダブルベッドがおかれてある。
男物のパジャマが、その脇の壁に吊《つる》されてあった。多分、佐本の使っているパジャマであろう。
しかし、その他に、あまり男性の匂いのする品物はない。ということは、同棲《どうせい》ではなくて、ときどき佐本が通って来ては、泊ってゆくという二人の関係を示している。
〈ふむ!〉
篝は、食堂の椅子に坐り、ウイスキー・コークを注文した。
雪絵は、電気冷蔵庫のドアをあけて、氷をとりだしはじめる。
水商売に入って、まだ浅いだけあって、室内の調度品は、どことなく、ちぐはぐであった。
三面鏡とベッドは豪華だが、洋服ダンスは一見してベニヤだと判るような安物だった。
皮製の高価なストールが一個あるのに、食堂の椅子は鉄のパイプにビニールを貼《は》ったものである。
ステレオは立派だが、上においてある眼覚時計は、五、六百円の安物であった。
一事が万事、バランスがとれてないのである。
コークと、ウイスキーと、氷塊とを、お盆に入れて運んで来た彼女は、
「自分でつくって飲んで下さい」
と言い、薄暗い寝室で、洋服を脱ぎはじめる。
その悩ましいポーズは、篝の脇にある三面鏡に、まる写しなのであった。彼は、乾き切った情欲の草原に、火を投じられたような気がした。
ネグリジェに着替えた雪絵は、三面鏡の前に皮のストールを据え、化粧をおとしはじめた。
「きみが、佐本君とこうなったのは、いつだい?」
彼は冗談めかして訊く。
「はじめて、店に来た日……」
「ふーん、早いんだね」
篝は呆《あき》れて言った。
「あら、早いって、なにがざんす?」
「いや、はじめて来た客と、すぐそんな仲になることがさ……」
「そうかしら?」
「早いよ。早すぎる」
「だって、人より早く良い仲になっておいた方が、他のホステスに取られないじゃない?」
「体をはった積りなのかい?」
「ううん、そんなんじゃないざんす。セックスは、スポーツざんす」
「えッ、スポーツ?」
「そうざんす。私たちは、みんなそう言ってるざんすよ?」
クレンジングでアイ・シャドウを落しながら、平然と長谷川雪絵は言って退《の》けるのであった。
三十代と十代との間には、かなりの断層があることは感じていたが、篝にも、そんな深い断層があるのだとは、ついぞ考えたこともない……。
彼が渋い顔をして、コーク・ハイを咽喉《のど》に流し込んでいると、雪絵は不意に、
「部長さんも、スポーツはお上手そうね」
と、鏡の中から笑いかけてきた。なにか挑むような笑い方だった。
「僕は、下手さ……夜のスポーツはね。そんなことより、六本木の寿司屋で、佐本君と章ちゃんが、どんな話をしていたのか、教えてくれないかい?」
「……他愛のない、世間話よ」
「ただ、それだけかい?」
「だと、思ったわ……」
「それから、佐本君が章ちゃんを車で送り、君とここへ帰って来たんだね?」
「ええ、そう……」
「お店で、そのあと、章ちゃんと佐本君のことで、語りあうようなことは?」
「ないわよ。あの人だって、彼が私の恋人だって知ってたと思うの……」
「ところで、佐本君の勤め先は、日本橋江戸橋だったね?」
「ええ、たしか〈スチール通信社〉と言ったわよ?」
雪絵は化粧を落し、自分もグラスをもって来て、
「一杯つくって頂戴……」
と言った。
そして何気なく、足許《あしもと》のゴミを拾ったのだが、ブラジャー不要のむっちりした巨大な乳房が、ネグリジェの胸許から|ぷりん《ヽヽヽ》と覗き、思わず篝は自制心を喪っていた……。
[#改ページ]
閃《ひら》めいた名前
篝の手は、まるで獲物にとびかかる猟犬のように素早く、雪絵の発達した乳房に伸びていた。いや、伸びたというより、手で噛みついたような感じである。
前跼《まえかが》みの姿勢で、不意に素肌の膨らみを篝から襲われた雪絵は、小さく「キャッ!」と叫び、つづいて擽《くすぐ》ったそうに笑いだした。
「びっくりするじゃない!」
雪絵は顔を挙げた。
篝は、無言で掌《て》の位置を移動させ、乳房を下側からゆっくり撫《な》で上げて行く。雪絵の笑顔が硬ばった。
なにか、不思議そうな、瞳の色になっているのだった。
「感じるかい?」
篝は微笑した。
「うん、とっても――」
まるで自分の躰《からだ》の、意外な感覚に、感心しているような雪絵の顔である。篝の推測では、セックスはスポーツだと断言した長谷川雪絵は、まだセックスの快楽の蘊奥《うんおう》を、きわめていない様子だった。
店の商売物――ホステスには手をつけないと誓った篝正秋だったが、自制心はすでに喪われたも同然の状態にある。
〈世の中には、例外もあるさ……〉
彼は心にそう呟き、いま雪絵を抱くのは、丹羽章子の行方を知りたいがためで、これも会社の仕事なのだと自己弁護していた。
「雪絵ちゃん……」
彼は乾いた声で呼びかけ、女の躰をぐいと抱いた。
篝は、すぐには女の肌に唇をあてず、耳の後ろに、熱い吐息を吐きかけた。雪絵は、擽ったそうに、躰を捩《よじ》るようにする。
それを確認してから、篝はそっと唇を首筋に触れる。唇という刷毛《はけ》で、すーっと首筋を刷《は》いているような、上手な接吻であった。
「ああ!」
篝は、立ち上った。
「ベッドへ行こう……」
彼は囁《ささや》いて、上衣をとる。雪絵は無言で、ベッドに腰をおろす。
なにも言わないが、雪絵のその態度には、未知な欣《よろこ》びを教えて貰った嬉しさと、つづいて起るなにものかへの期待とが漲《みなぎ》っている。
彼は改めて雪絵の躰を抱き、唇を吸った。はじめは柔らかく、上唇と下唇とで噛むように吸った。
朱い蛇は、雪絵のそれに絡みつき、不意に動きを止め、また絡みつき、口腔《こうこう》の上部を匐《は》い廻り、実に奔放な動きをみせる。それは彼が、外国船員相手の横浜の娼婦から教わった、フランス風のテクニックだった。たいていの女性が、篝に接吻されると、抵抗を止めるのは、そのテクニックの巧みさの所為《せい》でもあろうか。
長谷川雪絵は、彼から耳朶《みみたぶ》に接吻されたとき、またもや堪えられないといった風情で、「ああ、ママ!」と低く叫んだものである。
篝正秋は、セックスがスポーツではなく、偉大な快楽であることを、この十九歳のホステスに教えてやる積りだった。
だから彼は、早急に最後のものを求めず、全裸で横たわった彼女に、施術するようなゆっくりしたテンポで、先《ま》ず唇を使って攻め立てたのであった。
……ひところ篝は、同性愛に興味をもち、ゲイバーや、レスビアン・バーに通ったことがある。
そうして彼が体得したことは、男と女は、結局のところ平行線であり、同性愛とは文明の象徴で、今後ますます流行するようになるだろう、ということだった。
男が男を、女が女を愛するということは、ある意味で異常には違いない。
しかし、セックスの面に限って言えば、男性は自分が男であるが故に、相手の男性のもっとも感じる部分、喜ばれる急所を知っているのである。
これは女同士の場合も、同じことが言えた。
だが男女の場合は、どうか――。
結婚生活を何十年と送っても、女のエクスタシーを知らない人妻がいることが証明している如く、男は女の、女は男の喜びを知らない。
それは皮膚感覚ではなく、むしろ言語を通じて、お互いに伝達されるだけなのだ……。
文明は法律をつくり、一夫一婦という制度をつくった。日本も敗戦後は、離婚がアメリカと同様にうるさくなって来ている。女の権力が、拡大されはじめたのである。
そこで離婚したくない男性たちが、浮気の対象として、同性を選ぶことになった。セックスを快楽として処理するだけならば、妊娠という煩わしさのない、しかも男のすべてを知り尽している同性≠フ方が、むしろ適任なのである。
それに男女の仲と違って、男同士が夜おそくまで遊んでいても、世間は決して批難しないのだ……。
ところで篝は、女性の同性愛ぶりを、五万円を投じて、直接に見せて貰ったことがある。
ある人妻と、女子大生のカップルだった。女子大生が金に困って、レスビアン・バーの主人に、いい知恵はないかと、泣きついたのだった。
「赤裸々の姿を見せてくれるのなら」
という条件で、篝は五万円を支払ったのだが、その夜ほど興奮したことはない。
長谷川雪絵は、レスビアンの愛撫《あいぶ》ぶりを見学して、すっかり女性の性感帯の攻め方をマスターした、篝正秋の手腕によって、生れてはじめて恍惚《こうこつ》となった。性の享楽ということを、教わったわけである。
……快楽の怒濤《どとう》が過ぎ去ったあと、失神したように目を閉じていた彼女は、ややあって正直な感想を洩らした。
「お店で、お姐《ねえ》さん達が話している、二度も三度もって言うのは、このことだったのね……。雪絵、はじめて知ったわ」
と――。
篝は苦笑した。
「それにしても、凄《すご》い声を出すもんだね……隣り近所の迷惑だぜ?」
彼がそう言うと、
「あら、本当?」
と信じられないような顔をする。そのあどけない表情が、ひどく可愛らしかった。篝は額に接吻してやった。汗をかいた額は、塩っ気がある。
「セックスは愉しむものだよ……スポーツなんかじゃない」
「そうかしら?」
「汗をかき、疲労するという点では、スポーツと共通しているがね。しかし、スポーツには、こんな痺《しび》れるような快感はない。そうだろう?」
「それは本当だわ。でも、部長さんと、他の男とは違うみたい」
「当り前だ。僕の指先には、眼がついているからね……」
そんな冗談を言って、ベッドから降りた篝は、勝手に浴室のドアをあけて、汗を流そうとした。
だが浴室の中は、ストッキングの林であった。おそらく長いこと溜《た》めてあった、汚れたストッキングを一気に洗い、乾《ほ》したものであろう。しかし、これではシャワーは浴びられない。
篝はバスタオルをとり、汗を拭いながらベッドに戻った。雪絵は、まだ先刻の姿勢であった。
「ところで雪絵――」
彼は親しく呼びかける。
「佐本君のことだが、例のスチール通信社とかには、真面目に勤めていた様子かい?」
篝は並んで横たわり、タオルを二人の腹にかけた。
「わからないざんす」
「なぜ? 昼間、会社に電話したことは、なかったのかい?」
「二度したけど、いつも外出中だったのよ。だから面倒臭いから……」
「もう電話をかける気がしなかった、というわけか」
「そういうこと。でも部長さん……佐本は本当に章子さんと……」
雪絵は、起き上って、ベッドの上に正座する。愛撫のあとの、快い疲労度を示すように、大きな乳房はピンクに染まっていた。
「僕は、そう思うね。佐本君は、君のアパートを朝、何時頃出たかい?」
「大体、九時半ごろ――」
「中野新橋から、地下鉄だね?」
「ええ、そう」
「だったら、四谷三丁目で降りて、歩いてゆけば、丹羽章子のアパートに午前十時ごろ着く」
雪絵は、目を光らせ、急に思いついたように言った。
「あの人……そう言えば、こんな話をしてくれたことがあるわ。あるヤキモチ焼の旦那がいて、男を引き入れてないかと、昼すぎに来てみたり、夕方ひょっこり来たりするんだって……。でも、そのお妾《めかけ》さんの方が利口で、旦那が会社に出勤する頃、彼氏を引き入れて遊んでるって……」
「ふーん? そのヤキモチ焼の旦那とは、大川作之助のことだろう、きっと――」
「あの人……私のところを出て、章子さんの所に寄っていたのかしら?」
「……そう考えられないかね?」
長谷川雪絵は、ネグリジェをまとい、冷蔵庫からサイダーをとりだして、瓶《びん》に口をあてがい、ラッパ飲みをしはじめる。その突飛な行動が、十九歳の女性の、心の混乱をよく表現しているようであった。彼も、バスタオルを腰にまとい、食堂のパイプ椅子に坐った。テーブルの上のコーク・ハイは、すっかり生暖かくなっている。
「僕にも、サイダーをくれ」
篝はそう言って、ピースに火を点ける。二時間前の男女は、いまは別人のように打ち解けている。単なる皮膚と皮膚の接触行為でしかないのに、これは不思議な感情の変化であった。
「ここで一つの仮説を立てよう。佐本君は、他人の持ち物である丹羽章子に横恋慕した。そうして、大阪で暮そうと持ちかけた……」
「ええ……」
「そのためには、先立つものは金だ。それでパトロンの大川に、手術代と言って三十万円出させ、こっそりアパートの敷金を手に入れると、荷物を運びだした……」
「部長さんは、そう仰有《おつしや》るけれど、あの人が章子さんの愛人だという証拠はあって?」
口惜《くや》しそうに、雪絵は言うのだった。
「確実な証拠はない。黒メガネの愛人風の青年紳士が、午前中に彼女のアパートを訪れている事実。引っ越しが、実に手際よく鮮やかに行われたことから、誰か協力者がいるだろうという推理。それに二日前の大阪の消印で丹羽章子からのハガキが投函されているが、三日前に佐本君が神戸に出張しているという事実……。この三つを結びつけてみると、丹羽章子の愛人は、佐本覚であり、どうも佐本君が蔭《かげ》で糸を引いているとしか、考えられないじゃアないかね……」
篝は、思いがけず熱っぽい口調になっていたが、さりとてその推理に、自信があるというほどのものでもなかった。
その夜の収穫は、雪絵の躰を知ったことと、丹羽章子が四谷のアパートを引き払ったと覚しき前後に、佐本が雪絵のアパートに近寄らなかった……という事実だけである。
篝正秋は、雪絵の隣りで泥のように眠り、午後一時に目を覚ますと、すぐに外出の支度をはじめた。
〈暁興業〉の本社をいったん覗《のぞ》き、職業別の電話帳を繰って、スチール通信社の番号を調べた。謎《なぞ》の人物、佐本覚が勤めている業界新聞であった。
電話を入れ、佐本の所在を聞くと、女事務員の声で、
「社長は四日前から、出張中でございます」という返事が来た。
〈社長?〉
篝正秋は愕《おどろ》いて、聞き返した。
「あのう、佐本覚さんの方ですよ?」
「はい。社長のほかに、佐本と申す者はおりません」
彼は、いつ帰京するかを訊いた。
「旅行は、一週間の予定でございますので、来週の火曜か、水曜には……」
女事務員はそう言い、
「失礼ですが、どちらさまですか?」
と問い返して来た。
「いや、またお電話します」
篝は慌てて電話を切った。
〈三星物産〉の藤代係長は、たしか業界ゴロだ……というような表現をとった。
しかし、いま電話してみると、佐本覚はスチール通信社の社長なのである。
年齢は、四十前後らしい。
雪絵の話によると、佐本が黒メガネをかけているのは、強度の斜視のためで、性行為の時だけ、それを取るのだそうだ。
体格も、立派な方らしい。管理人の目に、颯爽《さつそう》とした紳士として写ったからには、百七十センチ以下ではあるまいと考えられる。
だが人相とか、癖とかになると、長くつきあった雪絵ですら、特長を覚えてない様子なのである。ということは、佐本覚という人物が、平々凡々であるということなのだろうか。
〈いや、そうではあるまい。詐欺師に、平凡な顔立ちが多いように、自分を殺す習性が身についているんではないだろうか?〉
彼はそう思った。
それにしても、篝正秋は、佐本が帰京するまでに、その前歴や、いまの事業の内容などを、調べておく必要があると考えた。
スチール通信社という名称から推して、鉄鋼関係の仕事だとは考えられるものの、一体どんなものを発行しているのか、あらかじめ知っておく必要がある。
彼は、しばらく考えて、勝鬨《かちどき》橋の近くにある法務局へ行った。
〈スチール通信社〉が、もし法人会社であるならば、登記してあると睨《にら》んだからであった。
閲覧申請の用紙に、必要な事項を記入し、しばらく待っていると、係員が大きな登記簿を抱えて戻って来た。
スチール通信社は、案外なことに、株式会社であった。
設立されたのは、昭和三十四年の秋で、資本金は三百万円となっている。
代表取締役と他の役員の異動もなかった。
代表取締役の佐本覚は、大正十五年生れで、相模原市上鶴間に住んでいる。
篝は、役員たちの氏名を書き連ねた。その六人の氏名のなかに、詫摩《たくま》周六という名前があった。
〈おや?〉
篝は、その名前に、ちょっと首を傾《かし》げたが、別に有名な人物でもない。しかし、ちょっと気にかかる名前のような気がした。
会社の設立目的は、「業界紙及び年鑑の発行、及びそれに付帯する一切の事業」となっている。
そのあと篝は、タクシーで昭和通りにある〈スチール通信社〉を下見に出かけた。
ある土建会社が建設した、八階建のビルの三階に、その通信社はあった。エレベーター脇の掲示板でみると、三階には六つもの会社の名札が並んでいる。
〈ははん、さぞかし、小さな事務所だろうな?〉
そう思いながら、三階に昇ってみると、思いがけなくスチール通信社は、フロアの三分の一を占領していた。目分量だが、六十坪ぐらいはあるであろう。
篝正秋は、奇異な感じに打たれた。堂々たる事務所なのである。
これだけの事務所を構え、業界紙や年鑑を発行しているのだったら、年間の利益だって、かなりの額にのぼる筈であった。なにも、こそこそと〈コスモス〉のホステスを、夜逃げ同然に引っ越しさせる必要はない――と思われた。
〈どうも、わからん!〉
篝は、首を傾げながら、銀座の事務所に戻って来た。
彼が今まで聞いた情報では、佐本覚は女蕩《おんなたら》しで、会社ゴロで、乱交パーティーなどを主催したりする破廉恥漢であった。
しかし実際には、立派な事務所をもち、人間を使っている、レッキとした会社の社長なのである。
〈わからないな……〉
篝正秋は、独りごとのように呟《つぶや》いた。
間もなく、ホステス志願の女性が来たりして、面接の仕事に忙殺されてしまい、篝はそのまま考えごとに耽《ふけ》る余裕を失ってしまうのだが、午後八時ごろになって、やっと夕食を摂《と》りに外へ出る時間ができた。
彼は、おでん定食が安くて有名な、とある小料理屋に入り、ビールを注文したあと、何気なく内ポケットを探り、いつもと違う肌触りに、「あッ!」と低く叫んだ。
そこには、日本春秋の田村編集長から借りた、玖島太郎のスケジュール表があり、その中に〈詫摩氏・午後二時〉という文字があったことを、霹靂《へきれき》のように頭の中に閃《ひら》めかせたのだ――。
[#改ページ]
据え膳
――詫摩周六。
めったにない姓名だから、玖島太郎のスケジュール表に書かれた人物と、おそらく同一人物ではないにしても、親戚《しんせき》筋か、なにかであろうと篝は考えた。
念のため、事務所へ戻って、電話帳を繰ってみると、電話を持った詫摩姓の人間は都内に四人しかいない。
彼は、あまり期待せずに、紳士録の頁を繰ってみた。すると詫摩周六という人名が、記載されてあるではないか。――
『詫摩周六 明33年2月8日生。兵庫県出身。京大法科卒。運輸省港湾局長をへて、現在鉄鋼統制会専務理事ほか役職六。三男一女。趣味、釣、ゴルフ。現住所、世田谷区上馬一九一九』
篝正秋は、その記録を読み返し、どうやら玖島が会ったのは、この詫摩周六らしいと直感した。なぜなら玖島は、三星物産の藤代係長に、鉄鋼業界のことを聞いている。
詫摩周六という人物も、また〈鉄鋼統制会〉という団体の、専務理事をしていた。従って、玖島太郎の取材に、全く無縁ではなかったと考えられるのである。
篝は、詫摩周六の住所と電話をメモしてから、暁興業のチェーン店を散歩に出た。
〈コスモス〉を振り出しに、〈チェス〉、〈エール〉と歩いて、最後に〈コンテッサ〉を覗いた彼は、その最後のキイ・クラブで、珍しい人物の顔をみつけた。
〈ミューズ〉の宝部三吉である。
彼は近づいて、挨拶した。
金策に奔走しているという噂《うわさ》だったが、別にへこたれている様子はない。短く刈り上げた髪、ふっくらした頬の肉や耳朶《みみたぶ》……どれを見ても健康そのものの宝部である。
「やあ、お邪魔してるよ」
宝部は童顔を綻《ほころ》ばせて、唐獅子《からじし》のような金歯をみせた。
「面白い商売をはじめたと、小平君から聞いたもんだからね……。すぐ見学に来ようと思ったが、貧乏ヒマなしで……」
「ご冗談――」
篝は、連れの客に挨拶する。
宝部は、二人を指さして、
「どうせ儂《わし》はここは使えないから、このお二人に会員になって頂いたよ。それで、いいんだろう?」
と言う。
「ありがとう存じます」
篝は頭を下げた。いい加減のところで、篝は席を立って、その新入会員の職業を調べてみた。しかし、住所氏名がペンで記入されているだけで、職業欄はわざとか、どうかは知らないが空欄のまんまだった。
篝は、二人の客を観察して、わずかに首をひねった。長いこと客商売して来ているから、客の服装、言葉づかい、雰囲気《ふんいき》などから、大体の職業の見当がつく。
二人の客は、サラリーマンであることは慥《たし》かだが、会社員ではなさそうだった。
〈団体の役員というところかな?〉
彼は、そんな風に推測した。
暁興業の小平社長に、二億円の融資を持ち込んだ〈ミューズ〉の宝部が、連れて来た客なればこそ関心があるのだった。
〈加藤は、宝部が憲民党の工藤幹事長と、よく赤坂で会っていると話してた……〉
〈名古屋の土地家屋で四億円……。さらにミューズを担保に、二億円の金策……〉
〈そうして情報では、関西方面の土地の買占め資金だという……〉
網の目のタイツをつけたバニィガールが、行き交うクラブの隅で、壁を背中に静かに佇《たたず》みながら、篝はそんな物想いに耽る。
はたして二億円の金策には、成功したのであろうか。いや、成功したからこそ、こうして敵の新形式の店を、偵察に来たのではないのか……。
篝正秋の視線は、どうしても宝部の連れの紳士に、ちらッ、ちらッと走りがちである。
彼は十分ばかり、〈コンテッサ〉に滞在して、未練を残しながらそのクラブを出た。
暁興業の保安部長としての、彼の一日の勤めはそれで終った。
客の入りは七分どころだが、不景気のこの頃では致し方あるまい。問題は、それよりも博多の蒋宗元が、二日前から東京へ来ているというニュースの方だった。
九州のキャバレー王と言われた蒋は、かねてから東京進出を計画しているという噂の人物である。
キャバレー三軒、劇場四軒のほか、北九州一円にチェーン組織のパチンコ屋を経営している蒋は、二人の妾に銀座で小さな店をやらせていた。
篝の睨んだところでは、この二軒のバーこそは、東京進出の際の拠点であり、参謀本部なのだった。
つまり蒋社長が、銀座に店を構える肚《はら》ならば、この二軒の出店が、ホステスを引抜く作戦本部になるであろう、ということだ……。
〈そうだ。動いているか、どうかを見て来ようかな?〉
篝正秋は、小雨のぱらつきはじめた銀座を、大股《おおまた》に歩いて、先ず〈ウィンク〉という店を覗いた。
ここはボックス四卓ぐらいの、かなり小さな酒場であるが、いつも九州からの客で賑《にぎ》わっている。
彼がカウンターに坐ると、顔見知りのバーテンが、困ったような表情をして、
「スカウトは御免ですよ、篝さん」
と言った。
「冗談じゃない。スカウトされるのを、心配してるのは、こっちの方だ……」
篝は低い声で含み笑った。
ブランデーを一杯飲んで、現金で勘定を支払うと外に出た。
篝は、いつも現金で飲み代を支払う。性分もあるだろうが、ツケで飲むということが厭《いや》なのだった。
客の中には、納得ずくで飲み食いしておきながら、支払う時になると、まるで金を貸すように、支払い惜しみする人があった。二カ月や三カ月の遅延ぐらいは当り前で、社用族あたりでも、きちんと月末に支払ってくれる会社は少い。
そんな集金に、手古摺《てこず》らされる有様を、この目で見聞きしていると、篝には、ツケで飲むことが罪悪であるような、そんな気がしてくるのである。
蒋宗元のもう一軒の妾のバーは、名前を〈ピカデリー〉と言って、東銀座にあった。
この店は、男色家が集まることで、有名であった。ロンドンの繁華街の名称と、男色家とがどんな関連があるのかは知らない。
ただビルの地下にあるその店は、ニューヨークで言えばグリニッチ・ビレッジあたりにある酒場のスタイルで、銀座の高級店が、大理石の壁や水晶のシャンデリアで、デラックスに飾り立てているのに対抗してか、やたらと汚ならしかった。
天井などは、映画の大きなポスターを、ごたごたと貼《は》ってあるし、壁には汚ない板切れが打ちつけてあり、ところどころ白の漆喰いがはみ出している。
一隅にカウンターはあるが、客の大半は、拾い集めて来たような粗末な木椅子に腰をおろし、蝋燭《ろうそく》の光りの中で、語り合っていた。
ギターや、アコーデオンや、ボンゴなどの楽器が、壁にかけられていて、誰でも自由に弾き、打ち鳴らせる仕組みである。
ホステスは、わずか三人だった。
あとは、完全に女装したゲイボーイ達が、客にサービスするだけである。
人件費が高いので、ゲイボーイを使っていると、マダムの穂積圭子《ほづみけいこ》は彼に打ち明けてくれたが、この試みは成功したようであった。
〈ピカデリー〉に彼が入ってゆくと、目敏《めざと》くマダムの圭子が見つけて、すぐにテーブルに寄って来た。
「やあ、本物の女性のサービスとは、嬉しいですね」
篝は、そんな冗談を言った。
「なんになさる?」
「そうだなあ、ブランデーを……」
彼は、肴《さかな》にセロリを注文した。
ハイヒールの覚束ない足取りで、一人のゲイが彼の傍《そば》に来て坐った。
「あたし、ヒロ子……よろしく」
彼は、ヒロ子を眺めやり、〈新顔だな〉と思った。
「ヒロ子は、どこでとれたんだい?」
彼は訊《き》いた。
「東北の江戸ッ子なのよ、あたし……」
ヒロ子は、|しな《ヽヽ》をつくる。
髪はカツラらしいが、化粧の方は、なかなか上手である。篝は、乳房をポンとついて、
「アンパン入りだな」
と笑った。
マダムの圭子が、自分で飲み物を運んで来て、篝と向かいあって坐ると、
「この子ったら、変っているのよ」
と話しだした。
「ほう。ここの子で、変ってない人がいるのかね?」
「私は変ってないわよ?」
圭子は、彼を撲《う》つ仕種《しぐさ》をして、
「ヒロ子はね……私が上野で拾って来たの。家出娘なのよ……」
と言った。
「へえ、大きな家出娘だね」
「それもさア……御徒町《おかちまち》のアメ横で、外国製の口紅を万引きしようとしたんだわ……」
「ふーん、変ってるなあ」
「捕って、警察へ突き出されそうなのを、私が金を払ってやって助けたの」
「なるほどね……」
不意にヒロ子が、マダムの口を封《ふさ》いで、
「それ以上、言っちゃア嫌ン!」
と叫んだ。
「ばかねえ、どうってことないじゃないの……」
圭子は笑っている。
「嫌よ。だって、こちら……私の好みのタイプなんだもの。筋肉質でさ……」
「おい、止《よ》せよ。僕には、オカマ趣味はないぞ……」
篝は、ヒロ子の腿《もも》を抓《つね》った。「痛いッ!」と大仰に身を捩《よじ》ったヒロ子は、スカートの裾をめくり、ストッキングの脚を見せて、
「あーら、玉の肌にこんな痣《あざ》がついちゃったわ。身体髪膚、これを父母に受く、敢えて使用せざるは、不孝のはじめなりよ……」
と黄色い声を出した。
篝は苦笑した。
ゲイバーで遊んで面白いのは、こうした会話にユーモアが効いたところにある。そしてこれは、女性のホステスの出せない会話の妙味だった。
それに彼らは、自分を女性だと思いこんでいて、ことさら女性らしさを強調しようとする。すると、そこに妖《あや》し気な魅力というか、独特の雰囲気が醸《かも》し出されてくるのであった……。
ブランデー一杯で、帰ろうと考えていると、マダムの圭子が、
「今夜、おひま?」
と囁《ささや》くように訊いた。
「ええ。なぜ?」
彼は圭子を見詰める。
「一緒に、お食事しません?」
彼女は言って、軽い媚《こ》びを含んだ流し目を送ってくる。
〈おや?〉
篝は、ピーンと来た。そうして反射的に、
「いいですね。じゃア、カンバンまで粘らせて頂きますかな?」
と答えていた……。
銀座の酒場は、午後十一時半で閉める規則である。遅い時間に、偵察がてら飲みに出た篝が、カンバンまで待つには、僅かな時間しか必要でなかった。
圭子と連れ立って、ピカデリーを出た彼は、ためらわずに呼び止めたタクシーに、六本木と行先を告げた。
東京の深夜族が、盛んに徘徊《はいかい》するのは、やはり六本木を中心に、原宿、赤坂あたりであろうか。
圭子は肉が食べたいというので、篝は〈モンシェル〉というステーキ屋へ誘った。
厚焼きのステーキを、ニンニクをたっぷり使って焼いてくれるように言い、二人はブランデーを頼んだ。
「ママと食事するなんて、始めてだな」
彼は言った。
「そうですわね」
圭子も神妙に答える。
「九州の、誰かさんに、叱られない?」
冗談めかして、彼は探りを入れた。
「大丈夫よ……」
「本当ですか?」
「あら、どうして?」
「だって、いま東京なんでしょう」
穂積圭子はちょっと首を竦《すく》め、
「さすがは篝部長ね。よくご存じだわ」
と言う。
「蛇の道はヘビですよ」
「でも、大丈夫なのよ、今夜は……」
「と言うと?」
「九州の人の命令なの……」
「ええ?」
篝は、わざと駭《おどろ》いたような声を出したが、別に駭いたわけではなかった。むしろ、期待していたことだったのである。
「篝さんに、内密に、お会いしたいんですって……」
「蒋社長がですか?」
「ええ、その通りよ」
「ふーん、怖いなあ」
篝は笑った。しかし、心の中では、これで蒋宗元の銀座進出は、確定的になった……と思った。
警戒しなければならぬ相手だった。
そうして蒋宗元の用件とは、大体の見当がついている。
ホステスではなく、暁興業の保安部長である彼自身を、引き抜きたいという肚なのであろう。
ホステスを苦労して引き抜くより、彼のようなベテランを引抜いて、その仕事を一任した方が早いからであった。
「そりゃア、お会いするのは結構ですがね……一体なんの用なんでしょうね」
彼は空惚《そらとぼ》けてきく。
圭子は、首をふった。
「知らないわ……」
「嘘でしょう、ママ? 顔に、ちゃーんと書いてありますよ?」
彼は笑った。
すると圭子は、小さな声で、
「知ってるけど、ここでは教えて上げられないことなの……」
と意味あり気に言う。
「じゃア、どこで教えてくれます?」
彼は揶揄《からか》うように言ってみる。
圭子はとつぜん、顔を彼の方に据え、穴があくほど凝視して来た。
〈おや、おや……変な雲行きだぞ?〉
そう思いながらも、篝は微笑を絶やさなかった。
「今夜……いいでしょう?」
圭子は、低く囁いてきた。彼は肯《うなず》いた。
〈多分、蒋社長に、これから会わせる積りなんだろう……〉
彼は、そんな風に解釈した。
がしかし、その彼の読み方は、少しばかり浅かったようである。
食事のあと、タクシーを拾った穂積圭子は、運転手に大胆に、
「千駄ヶ谷の、静かなホテルにやって頂戴。高いお店でも構わないわよ」
と命令したのであった。
〈どういう気だ?〉
篝は、当惑した。
穂積圭子が蒋社長の女であることは、周知の事実であり、別れたという話も、まだ耳にしていない。
にも拘《かかわ》らず彼女は、自分の方から、連れ込みホテルへ彼を誘ったのである。
〈なんだか、面白くなって来た!〉
篝は腕を組み、千駄ヶ谷に車が着くまで、目を閉じて沈黙を守った。
いくら情事を持つことは承知していても、やはり女性と一夜の宿の玄関に入ることは、てれくさいものである。
まして、情事が目的か、否かも判らない女性と、ホテルへ行くのは、心のどこかに抵抗があった。
女中に案内されて、部屋に通る。
お絞りに、お茶と最中が運ばれて来て、宿帳にサインを求められる。そうして料金を支払うと、女中は二度と姿を現わさなくなる。
あとは男女の、自由な行為が残っているだけであった。
「あたし……お風呂に入らせて頂くわ」
女中が去ると、圭子は自分から、着物をぬぎはじめた。
ということは、彼と情事をもつことを、彼女の方から要求している、ということでもあった。普通だったら、男が求め、女が与え応じる行為なのだ。しかし今夜は、それが逆になっている。
〈ふーん? 火中の栗を拾わせる気らしい……〉
篝正秋は、女の形のよい臀部《でんぶ》の膨らみを眺めやり、ついで昨夜の長谷川雪絵との情交を思い浮かべた。雪絵と違って小柄な体格ではあるが、骨盤の発達した女性らしかった。
〈据え膳というより、押しかけ膳だぞっ、これは!〉
篝は自分も立ち上って、ズボンを勢いよく脱ぎはじめた。
[#改ページ]
秘密カルテル
足の爪先あたりにまで、快い疲労感が滲《にじ》み出ていた。篝は目を閉じたまま、女が身始末をする衣《きぬ》ずれの音を聞いている。
「帰るのかい?」
篝は言った。
「まさか……」
女は含み微笑《わら》い、
「宿の浴衣が、嫌いなのよ。糊《のり》が利いていて、変な匂いがするでしょ」
と答えた。
穂積圭子は、いったいどんな積りで、篝と情事を持つ気になったのであろうか。
篝正秋には、どうにも理解できなかった。
女は、長襦袢《ながじゆばん》姿で、そっと篝の隣りに滑り込んで来た。
プーンと香水の匂いがする。汗ばんだ体臭を、少しでも相手に気づかせまいとする。そんな女の心遣いが、なんとなく嬉しかった。
近頃の若い女には、こんな淑《しとや》かさがない。
やはり圭子あたりの年齢にならないと、こうした心遣いも出来ないのであろうか。
「なにを考えてらっしゃるの?」
圭子は含み笑いしながら、彼の顔を覗き込むようにした。
「そりゃあ君のことさ……」
篝は答える。
「私のことって?」
「なぜ、こんなことを?」
篝は起き上って、煙草を探した。
「ピースでしょ。持って来たわ」
圭子は自分で火を点《つ》けて、彼の唇に咥《くわ》えさせた。
馴れた仕種である。
篝は彼女がそうやって、蒋宗元にサービスしているシーンを空想し、なんとなく嫉妬《しつと》心を掻《か》き立てられた。
「なぜ、こんなことを?」
彼は同じ文句を繰り返した。圭子は、ウフンと鼻だけで笑い、
「篝さんに、私を賭《か》けてみたのよ」
と言った。
「僕に、賭ける?」
「ええ。近く、新しいお店が出来るわ」
「らしいですね」
「私……その店をやってみたいのよ」
篝は、わずかに鼻白んだ。
彼女の言う〈賭け〉とは、おそらく蒋宗元の口説きに、篝が屈伏することを前提にして、その場合の篝に賭けた……という意味らしかった。
つまり穂積圭子は、彼を支配人に、そうして自分がマダムに納まることを、夢見ているに違いない。
〈なるほど。女の計算か?〉
篝は、圭子の顔を眺めながら、盛んに目瞬《まばた》きをしていた。
しばらくは、返す言葉も思い当らなかったのだ……。
「ねえ、篝さん。蒋社長に会って下さるわね?」
圭子は、思い詰めたような声をだす。
「そりゃア、会いますよ。しかし、貴女《あなた》の考えていることに、私が協力するか、否かは別問題でしょう……」
篝は、不味《まず》そうにピースをふかしはじめる。
水商売の世界で働く女性たちの中には、計算ずくめで行動する人間が尠《すくな》くない。
穂積圭子も、そんな女性の一人なのであろう。
それはそれでよいが、自分が女に利用されかかっているとなると、やはり用心したくもなるのであった。
それだけ女の浅知恵が、莫迦《ばか》らしくも思えてくる。
「篝さんに、是非とも協力して頂きたいの。条件は、満足ゆくように考えますから……」
「ありがとう。しかし、蒋さんの考え方もあるでしょう?」
「ええ、あの人は、〈ウィンク〉か、私か、どちらかに、店を任せると言ってます」
「ほう。そう言えば、先刻《さつき》のぞいた時、ウィンクのママは居なかったようだなあ……」
「そりゃアそうでしょう。今夜は、社長からホテルへ呼び出されてますもの」
「ふーん、なるほど」
「悪いけれど、私はウィンクに負けたくないのよ。どうせ生れて来て、こんな商売に入った以上、大きな店を任されて、一生懸命にやってみたいわ……」
「すると歩合制で、マダムをやりたいと仰有《おつしや》るわけですな」
「……そういうことね」
「分りました。私の方も、考えておきましょう……」
篝正秋は、照れ臭そうに微笑った。
「それから……言わずもがなのことでしょうけれど、今夜のことは、誰にも内緒にしておいて……」
「むろんですよ」
篝は、そう答えたあと、自分の野心のために、パトロンを裏切って、平然としている穂積圭子の、胸の膨らみに触れた。
「あら、あら……」
女は、一オクターブ高い声音で、そう言った。
「そんなことしたら、感じちゃうわ」
「もう一度、お願いしたいね」
「あら、あら、いいの?」
「うんと苛《いじ》めてやる」
「まあ、どうしよう。私……その気があるのよ……」
「苛められたいの?」
どうやら圭子は、マゾの傾向があるらしかった。
女は、もう燃えていた……。
数日たってから、日曜日の午前中に、篝は早起きして、世田谷区上馬へ赴いた。
詫摩周六に会うためである。
鉄鋼統制会という団体が、どんな役割を果している団体かは知らぬが、詫摩周六の家は、それこそ屋敷と呼ぶに相応しい構えであった。
手土産に渋谷で買い求めたメロン二個入りの函《はこ》を、小脇にかかえて通用門を潜《くぐ》ると、放し飼いにしてあったグレートデンが二匹、目敏《めざと》く侵入者の影をみて、飛んで来た。
しかし、別に吠えたり、攻撃したりはしない。
そのように訓練されているのであろう。
玄関に立って、来意を告げると、突然の来訪にも拘らず、詫摩周六は快く引見してくれた。
「実は、私の友人である玖島太郎と申す者が、詫摩さんをお訪ねした直後に、事故死したのでございますが、ご存じでございましょうか……」
篝は名刺を出しながら、率直に言った。
詫摩は、半白の短い髪の毛を、癖のように撫《な》で上げて、
「貴方と玖島君との関係は?」
と訊いて来た。
「大学で同期でございます」
「ほう、そうですか……」
詫摩周六は、再び彼の名刺に目を通し、テーブルの上にあった鉛筆をとって、その名刺の裏に、なにやらメモをしはじめる。
多分、彼の来意と、会った日時とを、メモしているのであろう。
官庁出身者に、よく見られる習慣で、これは詫摩周六が官僚であったことを物語っている。
一つには、名刺を整理するためでもあろうが、もう一つ、汚職などに関連したとき、はっきりと証言できるための用心からであった……。
「私は、玖島君とは、四年前に知り合ったんだよ……」
詫摩周六は、ポツンと呟《つぶや》いた。
「えッ、それでは……」
篝は、愕《おどろ》いたように言った。
「鉄鋼業界の、カルテル問題について、原稿を依頼されたのが、たしか一番最初でねえ」
「ははあ……」
「それ以来、半年に一遍ぐらい、なにか面白い話題はないかと、私のところに聞きに来てくれた……」
「なるほど、そうでしたか」
「死ぬ四、五日前だったか、私に会いたい、と言って来て、私も時間をとってあったんだが……」
「それで、会ったんでしょうか?」
「いや、急に玖島君の方の都合がわるくなったらしく、一週間ほど先に延ばしてくれ、と言って来た……」
「では、会わずじまいで?」
「ああ、次に私が会った時は、彼は死んでいたよ。酔っぱらい運転だったそうだが、惜しい人物だった……」
篝は気落ちしたが、さらに気を取り直して喰い下がる。
「あのう……玖島は、どんな用件で、詫摩さんにお会いしたかったのでしょうか。なにか聞き及びじゃございませんでしたか?」
「いや、ただ会いたいということだったね。そう、そう。なにかの問題で、私のコメントが欲しいとか……」
「ははあ、そうですか……」
「そのう、玖島君が一体どうかしたのかね? なにか、あったのかい?」
「はい。実は玖島太郎が、殺されたのだという噂がありまして……」
「なに、殺された?」
不意に、詫摩周六は大声で笑いだした。
痩《や》せた躰《からだ》にしては、大きすぎる位の、甲高《かんだか》い笑い声であった。
「冗談を言っちゃいかんよ、きみ! どこの世界に、一人で車を運転していて、殺される人間があるかね? いくら夜だって、人通りはある。それとも、玖島君の死体から、拳銃の弾《たま》でも、発見されたのかい?」
また、ひとしきり詫摩周六は笑い、
「あれは、事故死だよ。単なる酔っぱらい運転だ……」
と、あたまから極《き》めつけるように言った。
篝は、そのとき、相手の眼が、蛇の鱗《うろこ》のように、不気味に光ったのを見た。
〈おや?〉
彼は首を傾《かし》げる。
なぜか彼の心に、妙にひっかかってくるような、眼の光り工合であったからであった。
篝は、話題を変えた。
「ときに詫摩さんは、佐本さんという方をご存じでしょうか?」
「佐本? どこの人だ?」
「上鶴間に住んでいる方ですが」
「さあ、心当りはないね」
「そうですか? 詫摩さんは、たしか佐本さんの〈スチール通信社〉の、重役だったと思いますが?」
……彼がそう言ったとき、また詫摩周六の眼が、不気味に光った。
「きみは何故、そんなことを、根掘り葉掘り調べているんだね?」
「…………」
「佐本覚なら、私の大学の後輩だ。それで頼まれて、重役に私の名前を貸しただけで、一銭だって月給を貰っている訳じゃあない」
「ああ、そうでしたか」
「むろん、一文も出資しとらんがね。しかし、どうして、そんなことを知っている?」
篝は腋窩《えきか》に、冷たい汗を流しながら、慌てて抗弁していた。
「実はそのう……佐本さんは、私共の店のお得意さまでして」
「君の店? きみ、この暁興業というのは、なんだね? なにをしている会社だ?」
「サービス業でございます。大阪に三軒、東京に四軒、店を出しております」
「ふーん?」
そのとき、詫摩周六の表情には、官僚特有の、上から下を見下すような、傲慢《ごうまん》な色が満ち満ちていた。
篝は、いつものことながら、反撥を覚えた。
〈そうだよ、そうだよ? 俺は汚いキャバレー屋だよ!〉
彼は、そんな自嘲《じちよう》めいたセリフを、心の中で呟きながら立ち上っていた。
佐本覚――大正十五年生れ、京大卒。スチール通信社社長。従業員十一名。週刊の業界紙〈スチール週報〉および旬刊紙〈相場と取引〉および〈スチール年鑑〉の発行。
……佐本覚について、篝の得た予備知識は、大体そんなものであったが、はじめ考えていた人間像とは、大いに喰い違ったものになったことが、やはり不服だった。
しかし考えてみると、これはどうやら、最初に佐本について教えてくれた、〈三星物産〉の藤代六郎の罪のようだった。
たしか藤代係長は、〈業界ゴロで、新聞の広告をとりに来よる男〉という風に、教えてくれたのである。
ところで篝正秋は、鉄鋼業界の内情にくわしいと紹介された、日刊紙の経済部記者に会いに行って、その団井という記者から、実に意外なことを教えられた。
団井は、玖島や篝の学んだ大学の先輩でもあり、その心易さも手伝ってか、篝の招待した小料理屋の座敷で、ビールを飲みながら、こんなことを言いだしたのである。
「実は、玖島君に、疑獄くさい事件があると話したのは、この僕なんだ……。僕の方は、あまり業界の内部に、入り込みすぎているために、下手に動けない」
――篝は、緊張した。
「それで、玖島君に教えたんだ。〈日本春秋〉は硬派だし、発行部数もあるしね。事件のポイントは二つある。一つは、山陽新幹線の問題だ……」
「山陽新幹線?」
「そうだ。君は、東海道新幹線のとき、Nという男が、新横浜駅と新大阪駅の用地を、ごっそり買占めて、国鉄に高く売りつけた事件を知らないかい?」
「ええ、ぼんやり聞いてます」
「この事件は、検察庁あたりに圧力がかかって、時効ということで有耶無耶《うやむや》になってしまったんだが……」
「ははあ……」
「ところが、この山陽新幹線をめぐって、早くもそうした動きがあるんだよ……。つまり用地の買占めさ」
篝正秋は、〈あッ〉と低く叫んだ。
〈ミューズ〉の宝部三吉が、関西あたりの土地買収に、狂奔しているというニュースを、思いだしたからである。
〈そうか。そうだったのか!〉
篝は低く合点をしながら、団井記者の話に耳を傾けた。
「ところで、もう一つのポイントとはだね……日本橋にある会社がある。ここは表面は通信社を装っておるが、いや、ちゃーんと定期刊行物は出してはいるんだが、本当は、鉄鋼・セメント・建設・電機の大手業者でつくった秘密のカルテルなんだ……」
「えッ、カルテル?」
仏文科中退の篝だって、カルテルぐらいは知っていた。
これは同一、または類似の事業を営む企業の大多数もしくは全体が、競争をさけ、市場を統制し、価格を維持するために結成するもので、わが国では、特別の場合をのぞき、独占禁止法により、禁じられた企業連合行為である。
「ダム工事のために、つくられた秘密カルテルなんだが、一通りダム工事が終ったとなると、あとは鉄道建設、道路建設ぐらいしか、大きな工事は残ってない」
「なるほど……」
「なにかないかと、キョロキョロしたら、国鉄が山陽新幹線の計画を持っていることが判った……」
「すると、秘密カルテルが、それを?」
「その通り。大手メーカーの集まりだけに、情報も早いし、政界、官庁にも顔が利いている」
「ふーむ……」
「用地の買収……工事の請負から用材の納入まで、一手にやろうという肚らしいんだね。こいつは確実に儲《もう》かるよ……」
「そうですね。すると玖島は、その疑獄事件を追っていたんですか?」
「だろうね。どこらあたりまで、調べたのかは知らないが」
団井は、剛毛の生えた手で、唇のビールの泡を拭い、
「疑獄事件はともかくとして、そうした秘密のカルテルがあることだけでも、暴露したら面白いよ。もっとも、君の商売には、関係ないようだがね」
と言って苦笑した。
篝は鉾先《ほこさき》をかわすように、
「ところで団井さん。佐本覚という人をご存知ありませんか?」
と訊いた。
すると団井は、ゲエッ、というような奇声を、咽喉《のど》の奥で発して、目を白黒させた。
ビールを、つまらせたらしい。
「ど、どうして、それを? き、きみも、人が悪いなあ……」
団井は、ややあって、手の甲で目尻の涙を拭いながら言った。
「えッ、なんのことです?」
篝は、怪訝《けげん》そうに問い返す。
「それだよ、それ! 佐本覚が、それなんだよ……」
「どうも、よく判りませんが?」
「そら、秘密カルテルがある、と言ったろう? 佐本のやってる〈スチール通信社〉が、そのカルテルの本拠なんだよ……」
[#改ページ]
毛馬内《けまない》弁護士
……篝正秋は、はッと息を嚥《の》んだ。
いままで、バラバラに存在していた分子が、団井一幸のその一言によって、たちまち結晶体をつくり、一個の物体となったような感じであった。いや、縺《もつ》れ合い、絡み合っていた複雑な糸が、その一言で忽《たちま》ちほぐれ、一本の黒い糸として眼に映じはじめた……と言った方が、より正確であろうか。
篝は、震える手で、団井にビールを注いだ。そうして、低い声で繰り返すように訊いていた。
「スチール通信社が、秘密カルテルの本拠なんですね?」
団井一幸は、大きく頷《うなず》いた。
「その通りだよ……」
「すると、山陽新幹線の疑獄事件を、調べてゆくと、当然スチール通信社にぶつかることになりますね?」
「さあ、それはどうかな?」
団井は、また手の甲で、唇の端についたビールの泡《あわ》を拭いながら、
「玖島君は、秘密カルテルの方に興味を持っていたようだよ……。だから彼は、スチール通信社を中心に、鉄鋼・セメント・建設関係あたりを、洗っていたんじゃないだろうか」
と言った。
「なるほど……」
篝正秋は、心の中で〈わかって来たぞ〉と呟いた。
玖島太郎が、三星物産の藤代係長に会い、詫摩周六に会見を申し込んだのは、そうした秘密カルテルの存在を、はっきり裏付けるためであったに違いない。
「……玖島君は最初のうち、誰に訊いても、そんな秘密カルテルの存在を、頭から否定されるので、僕が出鱈目《でたらめ》を言ったと考えてたらしいよ」
団井一幸はそう言って微笑《わら》い、
「なにしろ、腹を立てているような口調で、〈団井さん、この間の話は本当なんですか〉と、電話をかけて来よってねえ。そうだ、そうだ……それで僕が、スチール通信社のことを教えてやったんだった……」
「ははあ……」
「それっきり電話がかからないので、出鱈目ではないことが、やっと判ったらしい……と思っていたら、事故死の通知さ……」
「彼の葬式には?」
「行けなかったが、同業の誼《よしみ》で、香奠《こうでん》だけは送っておいたよ。しかし、人間の命だなんて、明日も判らないもんだねえ……」
「本当ですね」
そう相槌《あいづち》を打ってから、篝はちょっと考え込み、
「そのう……玖島太郎の死は、実は狙われたのだ……という説があるんですが」
と言ってみた。
「ほう?」
団井は、眼をきらッと光らせたが、すぐに首を傾げて、
「まさか、ね」
と応じた。
「しかし団井さんの話ですと、玖島は秘密カルテルの存在をあばき、さらに山陽新幹線の疑獄事件に取り組んでいた訳でしょう?」
「うん、そうらしいんだが、彼がどこまで調べ上げていたかが問題だなあ……」
「それはそうですが……もし相当深い点まで洗い上げていたとなると、玖島を消そうとする動きだって、考えられる訳ですね?」
「ふーむ……」
団井一幸は太い腕を組み、貧乏ゆすりをはじめた。なにかを考え込んでいるらしく、視線は宙の一点に貼《は》りついている。
「……そんなこと、考えられませんか?」
返事を催促するように、彼は言う。篝自身でも、十中八九までは事故死だ……という解釈は下してある。しかし、残りの一か二の、〈もしかしたら?〉という部分が、なんとなく気懸りなのであった。
つまり、百パーセントの事故死ではなく、〈もしや?〉という部分が残っていることが、彼としては嫌なのである。
大学を中退し、水商売と呼ばれ蔑《さげす》まれる世界に、足を踏み入れた篝にとって、昔ながらの友人と呼べる男は、同人雑誌の仲間であった玖島太郎ぐらいのものだった。
玖島だけが、気取らずに電話をかけて来て、
「おい、どうだ、今夜?」
とか、
「ゲルピンだから、今夜、頼むぞ?」
と言って来た。
篝はだから、玖島にだけは、障壁をとり払い、裸の男と男でつきあって来たつもりである。……そんな友人の突然の死だけに、彼の心の隅のどこかには、あきらめ切れぬものがあったのであろうか。
団井一幸は、コップをとって、一気に呑み乾《ほ》してから、
「玖島君が、どこまで掘り下げていたか、が問題だなあ……」
と低い声で言った。それから不図、気を変えたように、
「しかし玖島君は、一人で、酒を飲んで運転中に、死んだんだろう?」
と言う。
「そうですよ……」
篝は頷き、
「でも、こんなことは考えられませんか? たとえば、何者かに脅迫されて、気が転倒していたために、運転を誤まるとか……」
と真剣な顔になる。
すると団井一幸は強く首を傾げ、
「脅迫ぐらいは、あったでしょうな。しかし殺し屋を雇うような、野蛮なことはしないでしょう。むしろ、広告主という絶対的な圧力で、上から記事差し止め……という温和な手段でくるような連中ですよ。なにしろ知恵の発達した連中なんだから……」
と答えたのだった。
篝は、なるほどと思った。言われてみれば、秘密カルテルの存在も、山陽新幹線の疑獄事件も、〈日本春秋〉の頁を飾らない限り、世に公表されることはないのだった。
そうして、スポンサーという圧力で、その記事の掲載を、事前に中止させることも出来るのである……。
〈どうも、変な按配《あんばい》になって来やがったぞ……〉
篝正秋は、地下鉄に揺られながら、心の中で呟いた。
佐本覚という人物は、はじめ失踪《しつそう》した丹羽章子の、影の愛人として、篝の前に登場していた。
ところが、佐本を追っているうちに、それは何時《いつ》の間にか、親友の玖島の事件と、一緒くたになってしまっている。
篝は、つくづくと、
〈世の中は狭い!〉
と思うのだった。同郷の友人である加藤汀三が高利貸しの大川作之助に出資して貰って仕事をしていることを知った時も駭いたが、しかし今度のような強い駭きではなかった。
〈とにかく、章子の行方を知るためにも、佐本に会わねばならぬ〉
彼は、そう考える。
しかし、相手が旅行中では、どうにも仕方がなかった。
西銀座駅で降りた篝は、先刻、団井一幸と飲んだビールの、軽い酔いを快く覚えながら、昼下がりの電通通りを歩きだした。
交通信号は、赤になっていた。
篝は何気なく、角の洋服店のショーウィンドーに目をやったが、その英国製らしい洋服地の模様を見た瞬間、なぜだか河合という客のことを連想した。
河合という客は、まだ四十代だが、大変なお洒落《しやれ》好きであり、いつも非の打ち所のない服装をしていた。
〈そうだ……河合さんは、京大の出身だったな……。佐本覚のことを、知らないだろうか?〉
信号は、青に変ったが、篝は急に思いついたそのことで、彼の方の気も変っていた。彼は電話ボックスに歩いて、たしか東銀座で弁護士事務所を構えている河合に、電話をかけはじめる。
幸い河合弁護士はいた。
「もしもし、暁興業の篝ですが……」
篝は、いつものように、会社名を名乗った。むろん相手には、その第一声では通じないのであるが。
「暁興業?」
案の定、河合弁護士は問い返す。
「コスモスの篝でございます」
彼がそう告げると、「ああ、なんだ……」という声がして、
「珍しい人から、電話を頂いたね」
と相手は笑った。
「実は、河合さんは、たしか京大出身とお伺いしておりましたので、それでお電話をさし上げたのですが……」
「うん、京大だが、それがどうかしたのかい?」
「失礼ですが、お手許《てもと》に、同窓会名簿がございましょうか?」
「ああ、名簿ならあるよ」
「さようでございますか。実は、ちょっと拝見させて頂きたいのですが」
「いいとも。事務所の方へ来なさい。今すぐ来るかね?」
「さっそく、お伺い致します」
電話を切ったあと、電話帳でもう一度、住所をたしかめてから、篝はタクシーを拾った。
河合法律事務所は、東銀座一丁目にあった。なかなかモダンなビルの二階である。
ドアを押すと、事務所の中では、数人の男女がタイプを打ったり、罫紙《けいし》に鉄筆を走らせたりして、忙しく働いていた。
河合弁護士は、奥の部屋から出て来て、
「やあ、来たね……」
と微笑し、女の子に、
「紅茶二つと、京都大学の同窓会名簿」
と言いつけ、彼を招き入れた。
紫檀《したん》らしい立派な本棚に、むずかしそうな法律の書物が、ぎっしり詰まっている。その書棚を前に、大きな事務机がおいてあって、そこが河合弁護士の城であるらしかった。
壁には、梅原竜三郎と安井曽太郎の油絵がかかっている。小品だが、いずれも数百万円はする美術品であった。
「まあ、坐り給え……」
河合は、ピチッと線の通ったズボンの脚を、ゆったりと組み、来客用のソファーに腰を下ろす。
「御無沙汰しております……」
篝は畏《かしこ》まって坐った。
「今日は気分が良いんだ……。八年越し、ゴタゴタした事件が、やっと片附いてねえ」
弁護士は、シガレット・ケースを音をさせながらあけ、「一本どう?」と言った。
ダンディなこの弁護士は、ゲルベゾルテしか吸わない。この河合のために、〈コスモス〉では何時も、その独逸《ドイツ》製の煙草を買っておいてある。
「頂きます……」
篝は、ライターの焔《ほのお》を相手に近づけながら、一本抜きとった。
「なんのために、必要なんだい? 案内状でも、出すのかい?」
紫色の烟《けむり》を、すーっと吐き出して、河合は言った。
「いや、案内状ではないのですが」
「ふーん。すると、なんだい?」
「ちょっと、ある人のことを調べる必要がございまして」
「なるほど。信用かい? 結婚かい?」
弁護士は、そんな言い方をした。信用調査なのか、結婚のための身許調査か、という意味であろう。
「あのう……河合さんは、佐本覚という方をご存じでしょうか? 大正十五年生れですから、河合さんより、少し後輩の方だと存じますが……」
「佐本覚……佐本覚……。どこかで、聞いたような名前だなあ……」
弁護士は首をひねっていたが、立ち上って境のドアをあけ、事務所の人間に、
「おい。佐本覚って、たしか聞いたことがあるなあ……」
と大声で言っていた。
「え、佐本? 先生……そりゃア花村博士のところにいた人間ですよ」
……そんな返事が、すぐ返って来ていた。篝は、〈ふーむ!〉と感心した。そして、またしても、世の中の狭さを痛感した。
「ああ、そうだったか……。なんでも、あまり芳《かんば》しくない後輩だったような気がするがなあ……」
河合弁護士は、同窓会名簿を彼に手渡しながら、まだ首をひねっている。
篝は、佐本覚が、昭和二十五年の卒業生であることを、その目でたしかめた。専攻は法律であるらしい。
佐本覚の同期で、東京に勤めている人物の住所氏名、勤務先の電話をメモしている時、河合弁護士がとつぜん、膝《ひざ》を叩くようにして叫んだ。
「きみ……その男のことだったら、丸の内の花村法律事務所に、毛馬内という若手がいるから、そいつに聞いた方がいい」
と――。
「毛馬内さんですか?」
「そうだ。東大を出て、たしか一緒の年に、花村先生のところに入った筈だ……」
「ははあ。紹介状を、書いて頂けましょうか?」
「ああ、いいとも……」
運ばれて来た紅茶を飲みつつ、弁護士は達筆の紹介状をしたためてくれた。
十分後、篝は東銀座の河合法律事務所を出て、タクシーで丸の内方面へと向かっていた。毛馬内弁護士が、
「いま直ぐでしたら、体があいてます」
と言ってくれたからだった。
丸ビルの六階へ昇り、きょろきょろしながら廊下を行くと、四部屋ばかりぶち抜いた大きな花村法律事務所が見つかった。
毛馬内弁護士は、法廷にふさわしい、色白な好男子であった。
「下で話しましょう……」
毛馬内は、自分から先に立って、一階の喫茶室へ案内してくれた。
向かいあって坐ると、毛馬内は両手の指の関節を鳴らし、
「佐本のことを、聞きたいそうですね」
と言った。
「はい。ちょっと事情がありまして」
篝は神妙に応じる。
「なぜ、聞きたいんです? 彼のことだから、また女の子でも欺《だま》したんでしょう?」
毛馬内は、いまにも舌打ちせんばかりの口調である。
〈おや?〉篝は目を光らせた。
毛馬内はピースを咥《くわ》え、ゆっくりマッチを擦るのだった。
「あの男はね……大変な男ですよ……」
「と、言いますと?」
「花村先生のお嬢さんに手を出して、いったん結婚したんですがね……」
「ははあ……」
「その結婚だって、お嬢さんが妊娠したから、仕方なくくれてやったようなもので……」
「ははあ」
「ところが七年前に、二人の子供もある奥さんを協議離婚して、ほかの女と一緒になってしまった……」
「よくあるケースですな」
篝が、そんな相槌を打つと、毛馬内弁護士は大きくかぶりをふって、「とんでもない!」と、強い口調で言った。
「はあ?」
「いや、佐本に限って、よくあるケースじゃない、ということです」
「すると、なにか……」
「彼の場合はね、すべて結婚は、出世とか、金儲けにつながるんですよ」
「ええ? よく意味が判りませんが」
「つまり花村純子を手ごめにして、妊娠させたのは、花村法律事務所の後釜《あとがま》に坐るための手段なんです……」
「へえ、そんな人ですか?」
「純子さんには、婚約者がいた。それを知っていて、佐本は操を奪い、それを口実に脅迫しては、体の関係をつづけさせていたと言うんだ……」
「なるほど……」
「離婚してから、純子さんから、直接に聞いたんだから間違いない」
「すると、弁護士をやられていたんですね?」
「そうです。今だって、資格はある筈ですよ……」
「なぜ、離婚になったんです?」
「あとで判ったんだが、ご存じのように、花村事務所は、一流の大企業ばかりの顧問弁護士をしています」
「ははあ、なるほど……」
「佐本は、博士の女婿《じよせい》である立場を利用して、この大企業に自分の顔を売り込んでいたわけですよ……」
「頭のいい人らしいですな」
篝は、珈琲《コーヒー》を音を立てて啜《すす》った。
「ところが、ある時、ある人物と知り合って、ある事業の計画を打ち明けられた。すると、佐本の奴、その詫摩の末娘に、強引に言い寄って同棲《どうせい》しやがったんですよ……」
篝は、珈琲茶碗を手にしたまま、唖然《あぜん》となって叫んだ。
「いま、なんと仰有《おつしや》ったんです?」
[#改ページ]
奥道後にて
毛馬内弁護士は、愕然《がくぜん》とした表情になった篝正秋を、びっくりしたように打ち眺め、
「なんです? なにか御不審でも?」
と言った。
「ええ、ちょっと」
篝は、珈琲茶碗を急いで置き、
「いま、たしか、詫摩の末娘とか、仰有ったようですが?」
「ええ、言いました」
「その……詫摩さんとは、どんな方でしょうか。もしかしたら、官僚だった……」
「おや、よくご存じですね。運輸官僚だった男です。佐本とは同じ京大の法科ですよ。いまの〈憲民党〉の、工藤幹事長とは、たしか三高、京大と一緒の筈ですよ……」
「ほう、工藤幹事長と?」
篝は、〈ミューズ〉の宝部が、工藤陸郎とよく赤坂で会合している、という噂を思いだして眼を光らせた。
だが次の一瞬、彼の頭に閃《ひら》めいたのは、彼を引見してくれた詫摩周六が、
――佐本覚は、私の大学の後輩で、頼まれて重役に私の名前を貸しただけだ。一銭の月給も貰ってないし、また一文の出資もしていない。
と語った時のことだった。
〈あのとき詫摩は、佐本を知らないような素振りをとった。上鶴間に住んでいる人だ……と言っても、心当りはないと空惚《そらとぼ》けた。一体、なぜなのだろうか?〉
〈娘婿の名前や、住所を知らない筈はない。なぜ空惚ける必要があったのだろう。大学の後輩と言わず、なぜ娘婿だ……と正直に言わなかったのか?〉
篝は、そんな疑惑を抱くと共に、詫摩周六という人物に強い関心を持たずには居れなかった。
しかし毛馬内弁護士の方は、彼のそうした心の波紋には気づかず、水を得た魚のような口調で、佐本覚の卑劣な再婚ぶりを、喋言《しやべ》りはじめるのであった。
「佐本という男は、目的のためには手段を撰《えら》ばない。徹底した利己主義者です。だいたい詫摩周六の末娘を誘惑したのだって、花村先生が胃癌《いがん》で助からない、ということがハッキリした直後のことなんですね」
「ははあ……」
篝は仕方なく、受けに廻る。
「その詫摩の末娘っていう女は、俗に言う出戻り娘でしてね。子供こそないが、佐本より一つ年上なんです」
「なるほど」
「佐本は洋裁店に入り浸《びた》って、とうとう関係をつけてしまった……」
「洋裁店とは?」
「出戻り娘が、六本木の近くで、洋裁店を経営していたんですよ。服飾デザイナーだったんです」
「ああ、それで――」
「女は一度、躰《からだ》の関係ができると弱い。佐本はそれを良いことに、純子さんには離婚しようと言い、デザイナーと同棲してしまった。詫摩氏だって、妻を離婚してまで、出戻りの厄介娘と一緒になりたい、という男には弱いですよ……」
「たしかに、その通りですね」
「佐本覚は、この詫摩氏のアイデアで、新しい事業をはじめたんですが、聞いてみると、つまらない業界紙らしいですな。パイプ通信とか、スチール通信とか言う……」
篝は低く頷いた。
「弁護士時代の佐本さんは、どんな風でしたか?」
そう質問してみると、毛馬内は、ちょっと口惜《くや》しそうな顔をして、
「まあ、仕事の面では、優秀な方だったでしょうね」
と答えた。
「それ以外では?」
「私が腹を立てているのは、奴さんの女関係ですよ。玄人だけならともかく、素人にも見境なく手を出すんですから……」
「ほう、素人にも?」
「それも人妻専門なんです。人妻だと、浮気の相手を、いちいち告訴しませんし、第二に金がかからない。それに妊娠したって、責任はないでしょう?」
「うまく考えましたね」
「佐本というのは、そんな男ですよ。法律には強いし、弁護士だから雄弁家で、黒を白に言いくるめるなんて、朝メシ前です……いや、これは言い過ぎましたかな……」
毛馬内弁護士は苦笑し、それから不図気づいたように、
「ときに、何故《なぜ》、佐本のことを?」
と訊《き》いた。
「いやあ、大した用事じゃないんです。実は私共の店のホステスが、黙って失踪《しつそう》してしまいましてね」
「ほう。それが佐本と何か?」
「ええ、どうも調べたところでは、佐本さんが手引きして、どこかに隠匿《かくま》ったらしいんですよ……」
「ふむ、彼奴《あいつ》のやりそうなことだ……」
毛馬内は、軽く舌打ちして、
「なんという女性です?」
と、弁護士が事件を依頼者から、聞くときのような事務的な口調になった。
篝正秋は苦笑しながら、
「いや、それは私共で探しますですから……。それよりも一度、佐本さんに引き合わせて頂けないものでしょうか……」
と頭を下げた。
毛馬内は、いつでも喜んで紹介するが、花村事務所の人間は煙たがるだろうから、誰か適当な人物を探してみよう、と親切に言ってくれた。
ところで、その夜十時すぎのことである。京都のあるナイトクラブの支配人から、彼のところに電話がかかって来た。
「一人、逃げてん。行先は東京や……」
東京へ遊びに来ると、彼と飲み明かすそのクラブの支配人は、のっけからそんな口を利いた。それでお互いに通じ合うのである。
「なんという娘だい? 躰の特長は?」
篝は、くわしく聞いてメモし、
「銀座へ来たようだったら、大丈夫つかまえるよ」
と笑って言った。
「忙しい? そう、そう。つい最近な……奥道後へ行ったんや。そしたら、なんちゅうたかいな……たしかお宅の店にいた娘が、遊びに来てたぜ……」
支配人は、そんなことを言って、電話を切ろうとした。
篝の頭の片隅に、一瞬ピンと来るものがあった。
「あッ、ちょっと待って下さい。その、奥道後で見かけたという女の子は……」
篝は慌てて言った。
相手はこともなげに、彼の質問に応じる。
「そら、あんたが鹿児島から、拾って来たオナゴやがな。グラマーの……なんちゅうたかいな、名前は……」
篝は〈やっぱり!〉と思った。
「丹羽章子……丹羽章子や!」
彼は相手の口調に釣られ、大阪弁で叫んでいた。
「そのオナゴ……店からトンズラした娘やねん!」
「えッ、ほんまかいな? へーえ、判らんもんやな。休暇かいな、言うて聞いたら、明後日まで滞在します、言うとったけど?」
「ふーん。それは、何時《いつ》のことですか」
「何時も|こそ《ヽヽ》もあらへん。昨日のことやがな……」
「えッ、すると?」
篝は指を折って勘定すると、
「どうも有難う……」
と言って電話を切った。
〈昨日の明後日と言うと、明日まで奥道後に居るわけだ……。よし、俺が行こう!〉
篝は経理の女の子に、五万円の出張費を請求した。
翌日、午前七時五十分の飛行機で、彼は羽田を発った。
四国の高松に行ったことはあるが、道後温泉のある松山市へ行くのは、これがはじめてである。
眠りの浅い疲れを、彼は機中でうとうとと微睡《まどろ》みながら、わずかに癒《い》やしているうちに飛行機は松山空港に着いた。
篝はタクシーに乗り込むと、
「奥道後へやってくれ」
とだけ言った。
車が松山市内を抜け、谷間の舗装道路を走りだしたのは、いつごろだったろうか。
篝は次第に、窓の外の景色に、眼を奪われはじめた。この地方の風習なのか、きちんと手入れの行き届いた庭をもった家が多く、樹木の緑も本土と違って柔らかい感じである。
右手に朱《あか》い屋根の、巨《おお》きな建物が見えて来て、それに眼を凝らした途端、
「はい、ここです」
と運転手に言われた。
見ると白堊《はくあ》のビルが左手にあり、ボーイが出迎えている。
そこが奥道後のホテル本館なのであった。
篝正秋はホテルに入って行き、フロントできいた。
「ここに泊っているお客で、丹羽章子という女性はいませんか?」
フロントの男は、宿泊名簿を調べてくれ、ゆっくり首をふった。
「お一人でしょうか?」
「だと思いましたが……では、佐本覚という名前で泊っている、アベックのお客はありませんか?」
「やはり、ございません」
「では三、四日前から、もう一度、調べて頂けません?」
篝は、軽い失望を覚えながら、ロビーに坐ってピースをふかした。
煙草までが、なんとなく苦いような味がする。
〈ここに泊ったのではないとすると、ほかのホテルだな?〉
彼はそう思った。
フロントの男が近づいて来て、
「一週間ほど溯《さかのぼ》って調べましたが、佐本さま、丹羽さまはお泊りになっておりませんが」
と済まなさそうに言った。
「そうですか。この奥道後には、宿屋はいくつあります?」
「ここ一軒だけでございます」
びっくりして聞いてみると、松山市内に温泉を供給する目的で、ある会社が開発したもので、この地域一帯が個人の所有地だと言うことだった。
観光業に身を投じている人間として、やはり篝も興味をそそられなくはない。
彼は案内図を貰って、先ずロープウェイに乗ってみた。
篝が感心したのは、大渓谷を中心に、たくみに配置されたジャングル風呂とか、演芸場やボーリング場である。
あとで聞くと、映画館が四、五軒あり、全館共通の入場切符を安く売っているのだそうであった。これが評判になって、温泉に入りがてら、松山市周辺の人々が、映画見物にやってくるのだという。
篝はそのあと湧《わき》ヶ淵《ふち》への、朱塗りの欄干のついた遊歩道を辿《たど》った。
樹木の緑の間を縫う朱塗りの欄干は、目がさめるほど美しい。
また渓谷の岩を噛《か》む変化ある水の流れは、しばし篝の足を釘《くぎ》づけにして止《や》まなかった。
大自然がつくり上げた渓谷の美しさ。それは不図、丹羽章子を追って、奥道後へ来た使命を忘れさせる。
対岸に、建築中の建物は、京都の金閣寺と寸分違わぬ設計でつくられ、奥道後金閣寺と呼ばれるのだそうであった。
〈ふむ。客寄せには、まだまだアイデアはあるもんだな……〉
篝はそんなことを考えながら、ホテルで呼んで貰ったタクシーの人となった。
奥道後と異なり、道後温泉で宿泊客をつきとめるのは、至難のわざである。旅館の数があるからだった。
しかし篝は、こうした仕事には、馴れっこになっている。温泉地のように、一箇処に集まったところは、まだ調べ易かった。
いつか会社の金を持ち逃げして、店のホステスと高飛びしたアベックを探し出すために、神戸市内のホテル、旅館を、シラミ潰《つぶ》しに歩いたことがある。
この時は男が自首して出て、他愛なく片附いたが、真夏のことだったので、聊《いささ》かヘバッた記憶がある。
篝は一軒ずつ、丹羽章子の写真をみせて、訊いて廻った。
しかし、その結果は、意外にもシロだった。
夕方になって、篝はまだ宿をとっていなかったことに気づいた。
〈そうだ。どうせ泊るなら、もう一度、奥道後に引き返そう……〉
彼はそう考えて、タクシーに乗った。
タクシーのラジオは、ちょうど六時のニュースを報じている。
「……市長の昼食会に出席した工藤幹事長は、四国と本土とを結ぶ連絡橋は、明石―淡路島―鳴門ラインのほかに、今治《いまばり》―大島―伯方《はかた》島―生口《いくち》島―因島《いんのしま》―向島―尾道という新しいラインを検討したい、と語りました。なお工藤幹事長の一行は、今日の午後の飛行機で、広島に向かい、九州地方を遊説に廻る予定です……」
アナウンサーの、そんなニュースに耳を傾けているうちに、篝正秋の頭の片隅には、ぽっかりと詫摩周六のことが浮かび上って来ていた。
〈あの男が、佐本覚の岳父だとは、知らなかった……。死んだ玖島は、詫摩周六にインタビューを求めておきながら、なぜか一方的にインタビューを延期している……。なぜなのだろう?〉
〈時間の都合が悪かったのか? それにしても、一週間先に延ばすとは……ひどく呑気《のんき》じゃないか? いくら月刊雑誌だって、呑気すぎる……〉
篝は、いつしか腕を組んで、考え込んでいた。
ホテルのフロントで、宿泊カードに記入しながら、不図気づいて、彼は内ポケットから丹羽章子の顔写真をとりだした。
「僕が捜していたのは、この女性なんですがね……見憶《みおぼ》えありませんか?」
なにげなく彼は写真を示した。
すると意外にも、相手の表情に、微妙な変化があらわれた。
「この……方ですか?」
「そうです」
「この方でしたら、たしかに、お泊りになっておられました」
「えッ、なんだって?」
篝は歯噛みしながら叫んだ。
「あのう……背の高い方でございましょう?」
「ええ、グラマーです」
「ちょっとお待ち下さい」
フロントの男は、宿泊名簿をとりだし、
「大川……秋子さんですね」
と言った。
「畜生、変名を使ってたのか!」
彼は舌打ちした。
だが変名を使うにしても、パトロンの大川の姓を借用しているのだから、図々しいと言わねばならない。
秋子の方は、章子の発音から思いついたのであろう。
〈やっぱり、本当だったんだ……〉
篝正秋は、せき込んで訊いた。
「そ、それで彼女は、いつ発《た》ちました?」
「しばらくお待ち下さい」
フロント主任は、彼の言動から、なにか事情があったと知ったらしく、親切に客室係に電話したりして、調べてくれた。
「わかりました。今日の午前中の飛行機を予約されて、朝十時ごろ、ここをお発ちになっております」
「行先は……東京ですか?」
「しばらくお待ち下さい」
フロント主任は、十分ばかり姿を消していたが、ニコニコして戻って来て、
「広島だそうです」
と教えた。
「え、広島?」
「はい。東亜航空でございます」
「そのう……今から便がありますか?」
篝は、飛びつくように訊いていた。
「さあ……問合わせてみましょう」
主任は、どこかへ電話を入れていたが、残念そうに首をふった。
「ありません」
「そうですか……。では明朝の広島行を一枚、至急とっておいて頂けませんか」
――十分後、篝は疲れ切った躰を、ベッドの上に投げだしていた。
ノックの音がして、ボーイが浴衣を片手にベッドの用意に入って来た。
「やあ、済まないね……」
彼はチップをやり、ぼんやりボーイの手際よい仕事ぶりに見惚《みと》れていたが、丹羽章子の顔写真をとりだした。
「ねえ、きみ……この女性が泊っていたろう?」
ボーイは写真を覗き込み、
「あのう……落ちていましたか?」
と、奇妙なことを言った。
「え、落ちてた? なにがだい?」
「その写真です」
「違うよ。これは僕のだよ……」
篝正秋は苦笑しながら、そう答えると、ボーイは安堵《あんど》したように、
「今朝まで、その方が、ここにお泊りだったんで、びっくりしました。御兄妹か、なにかですか?」
と言った……。
[#改ページ]
吃《ども》りの苦悶《くもん》
かつて文学青年だった篝正秋は、そのボーイの台辞《せりふ》を耳にした時、死んだ織田作之助という作家の小説のなかに、
――偶然は続きだしたら、際限《きり》がない。
といった文句があったことを、思い泛《うか》べていた。
〈本当に、偶然は――〉
篝はボーイの肩に手をかけた。
「なあ、きみ……。この部屋に、彼女が泊っていたんだね?」
面皰面《にきびづら》のボーイは、俄《にわ》かに彼から躰を触れられたので、戸惑いながら頷いている。
「三日間、ずーっとかい?」
「はい、そうです」
「彼女……一日中、なにをしていた?」
「さあ……市内見物の観光バスに乗られたり、演芸場へ行かれたり、そんなことをしておられたのではないでしょうか」
「ふむ。ずーっと一人かい?」
「はい。そのようでした」
「誰か、お客は来なかったかね?」
「さあ、気づきませんでした」
「……ありがとう。他になにか気づいたことがあったら、知らせに来てくれたまえ」
篝はボーイにそう言って、着換えをはじめた。さっぱりした浴衣を着て、べッドの上にまた仰向《あおむ》けに寝転がると、彼はまたもや、〈偶然は続きだしたら……〉という文句を、心の中で呟きだす。
〈畜生、一足違いだったなあ。最初から、顔写真を見せれば、良かったものを!〉
そんな愚痴めいた感情が、つぎから次にと彼を虐《さいな》みはじめる。
〈しかし、広島に、なんの用事で行ったのだろう、丹羽章子は!〉
篝には、いくら考えても、分らなかった。広島と丹羽章子とを結びつける要素は、なにひとつ見出せられないのである。
〈失踪して一人旅……。探さないでくれ、という大阪からのハガキ。なんだか、どう考えても精神分裂症じみた行為じゃないか!〉
篝はそのうち、いま自分が寝転がっているベッドに、昨夜まで丹羽章子が寝ていたのだ……ということに気づいた。
〈そうだ。先刻ボーイは、写真が落ちていたのか、と言ったぞ? すると、まだ他にも、なにかが……〉
彼は飛び起きて、受話器を握った。
まもなく彼が探しているボーイが、面皰を気にしながらやって来た。
「ねえ、君。昨夜まで泊っていた女の子のことだがね……なにか、忘れ物はなかったかい?」
するとボーイはニヤリとして、
「ありました。みんな保管してありますが、それがなにか?」
と言うではないか。
「えッ、本当かね? それは、なんだい? 品物の種類は――」
「それがちょっと……」
ボーイは困ったような顔をして、ちょっと頭を掻《か》いた。
「実は、あの女を追いかけているんだよ、僕は……。会社の金を、持ち逃げしやがったんだよ、きみ――」
篝は五百円札を、素早く四つに折り畳んで、ボーイに握らせた。ボーイは頭を掻いてチップを受取り、
「じゃあ、ちょっと待っていて下さい」
と言って、姿を消した。
五分あまりで、ボーイは紙の函《はこ》を両手に捧げてやって来た。
「これなんですけれど、洋服ダンスの中に、置き忘れてあったんです」
「ふーん?」
それは婦人服でも入っていたらしい、平べったいボール紙の函だった。蓋をあける。篝正秋は、その中に入っている、雑然とした品物の数に目を瞠《みは》った。ボーイが当惑したように、頭を掻いた意味がよくわかる。
みんな使い残しの品らしいが、そうかと言って、捨てるほど傷んではいない品物が多い。
外国製らしいピンクのブラジャーと、揃《そろ》いのガードル。使いかけの外国製の口紅。ヘアネット。紺《こん》色のスラックス。これはファスナーが故障していた。三本ほど使い残りの入ったタンパックスの箱。サイズはレギュラーである。白木綿のソックス。ナイロン・ストッキング片方。これは伝線していた。ヘアピンが四本。一円のアルミ貨六枚に五円の穴あきニッケル一枚。チューインガム、キャラメル(いずれも喰べ残し)類が若干。栄養剤(錠剤)が半分入った小瓶。男物のハンケチ一枚。これには口紅が附着していた。週刊誌が七冊。いずれも最近号である。ガスライターのボンベ一本。一回使用しただけのもの。ビニール風呂敷二枚。――以上である。
ボーイを去らせた後、篝正秋はピースを咥えて、腕組みをしながら、その遺留品とも、廃棄物とも見られる、雑然たる品物に見入った。
彼が気になったのは、やはり口紅のついた男物のハンケチである。この品物だけが、唯一の男性の匂いのする品だった。
篝は丹羽章子の、店の中での動向を、ぼんやり思い泛べる。汗を拭ったり、粗相して客のズボンを拭ったりするとき、どんなハンケチを使っていたかを、思い出そうとしたのである。
〈いや、彼女は何時《いつ》も、女物のハンケチを使っていた。こんな本麻の、白い、大きなハンケチなど持っていたことはない!〉
篝は、咥え煙草のまま、狭い寝室の中を歩き廻った……。
篝は、丹羽章子が洋服ダンスの中に、残して行った品物から、いろんな推理を行い、その幾つかの糸を、一本に纏《まと》めようとした。
たとえば一回しか使っていない、ガスライターのボンベがある。国産ではなく、外国製のライター用である。
これと、口紅のついた男物の白麻のハンケチとを結びつけると、誰か章子の部屋に男が訪れた……と考えられなくもない。
接吻したあと、(或いは情交のあとかも知れない)男は背広の胸ポケットに入っていた麻のハンケチで、ついた口紅を拭う。ついでライターの瓦斯《ガス》が切れているのを知って、章子に買いにやらせる。そうして、男はボンベをそのままに立ち去ってゆく。
……こう推理すると、丹羽章子が、その二つの品物を残して行った理由が、漠然とだが掴《つか》めるような気がするのだ。
男が残したハンケチは、なるほど女には不要である。丹羽章子は煙草を殆んど吸わないから、ライターのガスボンベも不要ということになるのだ……。
篝は、女の残した品物を、使える物と不要なものに区別してみた。傷ついたものは、不要な方に、また使い残しの生理綿なども、不要な方に廻した。
その結果、彼女が使える物でありながら、残して行ったのは、ブラジャー、ガードル、口紅、白木綿ソックス、栄養剤、ビニール風呂敷、それに小銭《こぜに》である。
篝は口紅の蓋をとって、白麻のハンケチにこすりつけてみた。案の定同じ色、同じ性質のピンクローズの外国製口紅であった。
〈ふーむ!〉
彼の頭の中には、唇を拭いながら、
「おい、こんなに俺の唇に付くような、安っぽい口紅は使うなよ……」
などと説教している、男の姿がぼんやりと映し出されている。これは、よくある風景であった。
……男に叱られた女は、その使っていた口紅を捨てて処分する。惜しいけれど、仕方がないのである。
篝は、こんな情景を空想し、ついでピンクのブラジャーやガードルも、男が、
「派手だし、水商売女みたいで、みっともない……」
と叱ったのではなかろうか、と考えてみた。
そうすると、残して行った理由が分る。残した品物の中で、口紅とファンデイションを除いては、あまり高価な、女の好みで撰ぶような品物は他にないのだった。ソックスにしたって、栄養剤にしたって……。
〈ふーむ。すると、誰か男性が、この部屋を訪れていたことになる。少くとも、その大前提なしに、この品物が廃棄されたとは、考えられない!〉
篝正秋は、畜生め、と口に出して呟いた。〈コスモス〉を勝手に休み、パトロンの大川をやきもきさせながら、一体、丹羽章子はどういう積りで、奥道後あたりに、三日間も潜伏していたのだろうか。なにか目的が、あったのだろうか。
夕食を摂《と》ったあと、ジャングル風呂で汗を流して、篝は丹羽章子が残して行った、七冊の週刊誌を読みだした。
午後九時ごろ、彼はウイスキーと氷とグラスを、部屋に運んで貰った。
ボーイは無表情に、「お休みなさいませ」を言って出て行ったが、それを見送って飲み物を取りに立った篝は、それが置かれた隅の机に、抽出《ひきだ》しがついているのに気づいた。何気なく左側をあけると、黒表紙のバイブル、食堂などの案内、クリーニング伝票などが入っている。右側の方には、便箋《びんせん》と封筒が入っていた。
便箋をとり、表紙をめくると、備付けのボールペンで、手紙を書いたような痕跡《こんせき》が、歴然と便箋の表面に残っているではないか――。
〈彼女だ! 彼女が、どこかに手紙を出したに、違いない!〉
電灯の光りに、いろいろと透したり翳《かざ》したりして見ると、〈母上さま〉という文字と、〈章子より〉という文字とだけは、はっきり読みとれる。
篝は胸を躍らせた。
なにか、ないかと、彼は周囲を見廻し、考え込んだ。筆圧によって凹《へこ》んだ部分の文字を、解読するのは、鉛筆の芯《しん》を粉末にして、指先につけ、そっと紙の表面を、撫《な》でるのが一番よい。
しかし、鉛筆はなかった。
彼は、便箋を電灯に透し、筆圧が加えられたと覚しき点や線を、ボールペンでなぞって行った。
当然、文字があるべきだと思われる位置に、文字がないこともあったが、苦心|惨憺《さんたん》して判読し得た丹羽章子の、母親に宛てた手紙の最後の部分は、大体つぎのようなものになった。
『って、その方の名は言えませんが、安心していて下さい。大丈夫な方ですから。二年後には、きっと大きな(二字不明)を出してお母ちゃんを喜ばせることができると思います。お金、三万円入れときます。
躰に気をつけて下さい。
母上さま
章子より』
篝は繰返し、繰返し手紙を読んだ。
彼は失望していた。
丹羽章子はどこへ隠れているのか、或いはなんの目的で失踪し、旅に出たのかが、わかると期待していたからである。
文面によれば、百六十八センチのグラマーである丹羽章子も、単なる親想いの、孝行娘にすぎない。そのことは、旅先から三万円、親に送金していることからでも窺《うかが》える。
篝は、このあと、ウイスキーをガブ飲みして、アルコールの助けを借りて眠った。
松山市から、船と汽車を使って、広島市へ赴こうとしたら、おそらく、可成りの時間を必要とするに違いない。松山港から呉港を結ぶ直航の船便でも、三時間ちかくを要するのだ。
ところが、有難いもので、飛行機だと松山―広島間は、たった二十五分であった。嘘みたいな距離の短縮である。
広島空港に降りたったものの、さて、これといって、篝には行く宛先もない。
ファスナーの故障さえ修理すれば、まだ使えるスラックスを、ホテルに置いてゆく位だから、丹羽章子は荷物を軽くしているに違いなかった。
しかし、広島から、どこへ行ったのかは、見当もつかぬ。
彼は航空会社のカウンターで、昨日の午前十時すぎの乗客名簿を見たいのだが、と申し入れて柔らかく拒絶された。
「では、大川秋子という女性が、乗っていたか、どうかだけでも判りませんか」
そう重ねて頼むと、直ぐ調べて教えてくれた。篝は言った。
「その便に乗っていた、スチュワーデスの方に会わせて頂けませんでしょうか」
「ああ、良いですよ。金城久美子です。貴方が今、乗って来られた便に、乗務していた娘です……」
係員はスチュワーデスを呼んでくれ、彼の用向きを伝えた。
「どんな方ですか?」
金城久美子は言った。
「グラマーです。身長百六十八センチ……」
「ああ! 十センチのハイヒールを履いてらした方ですね。たしかに、いらっしゃいましたわ……」
篝は、女性というものは、面白い所を観察しているものだと思った。おそらく丹羽章子が、グラマーの上に、踵《かかと》の高い靴を履いていたので、それで観察したに違いない。
「そのう……この女性でしょうね?」
彼は、昨日に懲りて、顔写真をすぐ示している。スチュワーデスは大きく頷いて、
「ええ、この方です」
と答えた。
「連れの男がいたでしょう……」
そう篝正秋が言うと、彼女はしばらく考えていて、静かに髪を揺すった。
「お一人でした」
「それは、たしかでしょうね」
「ええ、間違いありません」
……結局、篝正秋は、空港では手がかりが掴めぬまま、立ち去るよりなかった。収穫ゼロなのである。
丹羽章子が、なんのために、松山から広島へ飛んだか、その理由の一端でも判っていれば、まだ探しようもある。しかし、それが皆目、五里霧中なのだから、どうにもならない。
篝は、あきらめて、東京に帰ることにした。帰りには、大阪か京都で一泊し、明後日の新幹線を利用してもよい。
広島駅前の郵便局から、東京の〈暁興業〉に電話を入れ、ついで大阪本社にも電話をした。
そのあと、急行列車の時刻を調べると、真夜中に急行のダイヤグラムは集中して、都合のよい列車は見当らない。
篝は考え込んだ。
こんなことなら、四国に残って、郷里でも訪ねた方が良かったかな、と彼は軽く舌打ちした。いったん勘当された篝ではあるが、最近はときどき、東京の珍しい品物などを送ってやるので、母親から帰って来い、という手紙を貰っていたのである。
効率のわるい列車に乗るより、早い特急の方がよい。彼は、ダイヤを調べ、昼ごろの急行に乗ることにした。
広島も、各地の流行を真似てか、民衆駅となり、二階から上に名店街ができ、さらにその上はホテルになっている様子である。
篝は、荷物(といっても鞄《かばん》一つだが)を一時預り所に預け、ステーション・ビルを一巡した。そのあと、駅前をぶらぶら歩いていると、橋を渡って賑《にぎ》やかな通りに出た。いつのまにか、八丁堀の繁華街まで歩いていたわけである。
古本屋に入ったり、喫茶店で珈琲を飲んだりして、やっと時間を潰《つぶ》し、彼は電車通りに出てタクシーを拾った。
「広島駅……」
彼の声は、自然と無愛想になる。
それに負けず、無愛想にタクシーは走りだした。
彼が車を駐めた位置は、駅とは反対の方角だったらしく、車はいきなり右折し、しばらく走ったところで、また右折する。
篝は何気なく、左手の景色を眺めていた。一軒の旅館風の家があり、変った書体の電気看板が出ている。その家の前から、一台のハイヤーが急にUターンして発車した。運転手は急ブレーキをかけ、
「おどれ! どこを見とるんなら!」
と、窓の外に首をつきだした。
反射的に、篝もハイヤーの走り去る方角を見送ったが、不意にドキンとなった。
タクシーは猛スピードで、スタートしている。篝は、口を開けようとした。が、何故《なぜ》か声にならない。
篝は、たしかに、見たのだった。
外車は、左ハンドルである。その右側の助手席に、丹羽章子が坐っていたのを、彼はたしかに見たのだ。それは、ほんの一瞬のことだったが、鹿児島くんだりから、自分でスカウトして来た女の横顔を、見誤まるわけがなかった。
「あ、あ、あ……」
篝は無意味に、口をパクパクさせた。すぐ言葉にならないのが、我ながら、もどかしかった。
「あの、運転手さん……」
「なんです?」
タクシーは橋を渡りかけていた。
「先刻《さつき》の車だ……」
「ええ?」
「きみが、いま、怒鳴った……ハイヤー、追ってくれ……」
「なんです? ハイヤーを跡《つ》けるんかいの?」
「そ、そ、そうだ。早く。早く、頼む」
篝正秋は、吃《ども》りのように、喘《あえ》ぎながら声をふりしぼった。
[#改ページ]
仁王立ち
タクシーは橋の中途からバックして、Uターンを試みた。しかし商店街なので、道の幅は狭かった。三度ばかりバックさせたり、前進させたりした後、やっとタクシーは方向を変えて、黒塗りベンツのハイヤーを追跡する姿勢になったが、時すでに遅かったと言わねばなるまい。
運転手はすれ違う同業者の運転手を呼びとめて、
「おーい、黒のベンツに会わなんだかい?」
とか、
「ベンツのハイヤーを持っとる会社は、どことどこなら?」
などと聞いてくれた。
しかし、黒塗りのベンツに擦れ違ったタクシーも見当らず、ベンツをハイヤーに使っている交通会社は、数社もあって、すぐに取調べることもできない。
「旦那……駅に行きますかい?」
運転手は言った。
篝正秋は、しばらく考えて、
「いや、先刻《さつき》ハイヤーが走りだした辺りに戻ってくれ……」
と命じた。
たしか旅館風の家だったから、もしかしたら丹羽章子が、そこに泊っているかも知れない、と考えたのである。
タクシーを降りて料金を支払い、篝はためらわずに、その〈あさぎり〉と看板の出た割烹《かつぽう》旅館の玄関へ入って行った。
「ごめん下さい」
と声をかける。
広島市内でも一流の旅館らしく、玄関も広く、式台も立派である。
右手から女中が姿を現わして、静かに膝《ひざ》をついた。篝は用件を言った。
「若い御婦人のお泊り客でございますか? さあ、ただ今、私共には御婦人のお客さまは、いらっしゃいませんが」
と女中は首を傾《かし》げながら答えた。
その言葉には、嘘や偽りは含まれていないようである。篝は不審そうに、
「しかし、つい十分ほど前に、お宅の前からハイヤーに乗って行くのを、この眼で見かけたんですがね」
と言っていた。
すると女中は軽く肯《うなず》いて、
「ああ、それでしたら、隣りの割烹の方の、お客さまじゃございませんかしら。天麩羅《てんぷら》を食べに来られた、お客さまですわ……」
と確信あり気に答えるのだった。
玄関を出てみると、なるほどすぐ左手に、〈天麩羅・あさぎり〉という看板が掲げられてあり、洒落《しやれ》た入口もある。
篝は店の中に入って行った。
ちょうど空腹を覚えはじめた頃だったから、彼はカウンターに坐り、天麩羅定食を頼んで、ビールを貰った。
コックは、いかにもこの道で、二十年も叩き上げて来たという感じの、それでいて人懐こい職人肌の人物である。
ビールを半分ぐらい平げたところで、篝はやんわりと探りを入れた。
「いましがた、女連れの客が来ていたね? あの人たち、常連かい?」
コックは、スチール製の大きな揚げ箸《はし》を持ったまま、考え込んでいたが、
「御婦人のお客は、今日はまだ、お見えじゃございませんが」
と言った。
「変だな……」
篝は曖昧《あいまい》に返事をして、
「だって、先刻……ここから出て、ハイヤーで帰って行った筈だぜ?」
と追及した。
コックは手際よく、揚げた海老《えび》を彼の前に並べながら、
「先刻というと、三人連れのお客さまですね……たしか、ハイヤーの迎えが来てましたよ、そう言えば……」
と答えた。
篝は、〈あッ、そうか!〉と心で叫んでいた。人間には、奇妙な錯覚めいた心理がある。
たとえば先刻のハイヤーの乗客が、そのいい例であった。
丹羽章子は助手席に乗っていた。後部の座席の方は、気づかなかったが、コックの言葉が正しければ、三人の男が坐っていたのであろう。
篝は、その走りだしに黒塗りのベンツの、助手席にいる彼女を目撃したのだ。だから彼は丹羽章子も、その男たちと一緒に天麩羅を喰べ、一緒にベンツに乗り込んだ……と錯覚していたのである。
しかし、その推理は誤っていた。
彼女は迎えのハイヤーに乗っていただけなのだ。むろん、天麩羅も食べてはいない。
〈すると彼女は、誰かの命令で、三人の男を迎えに来たことになる……〉
篝は、海老に食塩をふりかけながら、考え込んでいた。
――丹羽章子は、広島にいた。
――それも単なる遊びでなく、なにか仕事をしているらしい!
篝正秋は、なぜかそんなことを、直感的に大脳の襞《ひだ》に閃《ひら》めかせたのである。
〈しかし、どうやって丹羽章子の居場所を、突きとめたらよいだろうか?〉
……ビールが途端に不味《まず》くなっていた。広島には、多少の土地鑑はあったが、一人で行動するということは、やはり心細いものである。
篝は不図、いま大阪に滞在している筈の、加藤汀三のことを思い泛《うか》べた。
加藤は大阪へ発つ日、
「もしか急用が起きたら……」
と言って、彼に大阪の定宿の電話番号を、教えて行った。それは暁興業の事務所の、彼の机の上のメモ帳に記入してある。
彼はビールを咽喉《のど》に流し込むと、東京に電話するために立ち上っていた。
加藤汀三とやっと連絡がとれたのは、約一時間後であった。
その間、篝は天麩羅定食を喰べ、女中に宿泊のことを依頼し、加藤を迎える準備万端を整えながら、電話を待っていたのだった。
加藤汀三は、電話に出るなり、
「おい、女が広島で見つかったてえのは、本当かい!」
と食いつきそうな口調だった。
「ああ、本当だよ。しかし、どうして探してよいか判らない」
「よし、応援に行く。こっちの方にも、面白いネタがあるんだ……」
加藤は飛行機で、広島に駈けつけると言い、遽《あわただ》しく電話を切る。
そのあと、篝は広島駅へ行って、荷物をとり、〈あさぎり〉へと引き返した。
一見《いちげん》のお客はとらない格式のある旅館に、篝が泊れたというのも、天麩羅定食を食べた余禄《よろく》であろうか。
二階の部屋に通されたが、なかなか立派な普請である。その木口を吟味しながら、茶をすすり、篝正秋は、さて、どうしたものか、と思った。
丹羽章子を追う手懸りは、目下のところ、彼女を乗せていた黒塗りのベンツしかない。
それは、幾つかあるハイヤー会社に電話して、今日の昼ごろ、丹羽章子を助手席に乗せて、〈あさぎり〉の天麩羅コーナーの三人連れを迎えに行った運転手がいないかを、たしかめるより他に手立てはなかった。
彼は電話帳を借りて、つぎつぎにハイヤー会社に問合わせはじめる。
「失礼ですが、お宅では黒塗りのベンツを、営業用に使ってますか」
というのが第一問である。
使っている、という返事だと、
「では今日の昼ごろ……」
という第二問をぶっつける。
しかし、篝が待ち望んでいる回答を、与えてくれた相手は一社もなく、
「さあ、運転手に聞いてみないと、どうにも分りまへん喃《のう》」
とか、
「今日はハイヤーの注文はないけエ、うちじゃありまへなあや……」
といった広島弁の回答ばかりである。
篝は失望した。
だが、まだ脈は残っている。
彼は、ハッキリ「うちではない」と否定したハイヤー会社を除き、「わからない」と答えた三つの会社名と、住所をメモに写し取り、外出の支度をした。
最初に訪れたのは、〈カープ交通〉という会社である。
これは横川と呼ばれる駅前に、本社があった。
二台のベンツがあって、一台は出ていたが、片一方の運転手の話だと、二台とも朝六時からゴルフ客を西条町まで運び、そのまま待機して、先刻お客を乗せて、また広島へ戻って来たところだという。注文したのは、ある広告代理店であった。
次に訪れたのは、十日市というところに本社がある〈芸備ハイヤー〉という会社である。
この会社には、六台のベンツがあるが、その日は、一台残らず出払っていた。
「おや、ご存じなかったんですか? 憲民党広島支部からの予約で、みんな今日は朝から丸抱えですわい。工藤幹事長が来られておるもんですけん……」
配車部長という肩書をもつ老人は、いささか誇らし気に、そんな説明をした。
最後は、皆実《みなみ》町にある〈ピカドン交通〉という、人を喰ったような名前のタクシー会社であった。
ベンツは一台きりしかなくて、その日の予約をみると、午前八時―十一時(久本家結婚式)、午前十二時―午後三時(打越家葬儀)、午後五時―七時(黒川家結婚式)という、スケジュールになっている。
これでは丹羽章子などの、入り込む余地はないが、二つのめでたい婚礼の間に、葬儀が挟《はさ》まれているのを、篝は皮肉な気持で眺めたことである。
だが、三つのハイヤー会社を廻ってみて、篝正秋は自分の勘が大きく狂いはじめたような気がしはじめていた。
たしかに丹羽章子が、ハイヤーに乗っていたのを見かけた。これは自信がある。
にも拘《かかわ》らず、彼女がハイヤーに乗っていたという形跡は、見つからないのであった。
〈広島以外の、ハイヤーだろうか?〉
篝は、そうも思ってみた。
しかし、あの黒塗りのベンツから想像すると、広島市以外の自動車会社だとは考えられない。
篝は、広島市の周辺の大きな都会を、いろいろと考えてみた。呉、尾道、三原……と考えてみたが、あまり大きな都会はないようだった。
〈あさぎり〉に帰ると、日が暮れていた。
そうして、加藤汀三がすでに宿で彼の帰りを待っていたところであった。
「ちょうど三時の東亜航空に、空席があってね。それで四時半には、こっちに着いたんだよ……」
加藤は、そんな風に言って笑った。
宿の湯槽《ゆぶね》は、檜《ひのき》づくりで、まだ木の香がプンプン匂っている。篝正秋は、湯に体を沈めたまま、安全|剃刀《かみそり》を使った。
これは学生時代からの彼の癖で、よく下宿の小母さんに、湯の中に髭《ひげ》が浮いていると、文句を言われたものである。
でも篝は、湯に入って暖まりながら、髭を剃《そ》る方が合理的だと思っている。第一、時間の無駄がないのである。
彼が指先で、髭の有無をたしかめつつ、剃刀を使っていると、躰《からだ》を石鹸《せつけん》の泡《あわ》だらけにして洗っていた加藤が、
「きみと風呂に入るのは、今日がはじめてだなあ」
と感心したように言った。
「そうだね」
篝は簡単に応じる。そのあと彼は、
「ところで、女の方はどうしよう?」
と言っていた。
「ハイヤーに乗っていたのを、たしかに見かけたんやな?」
「その通りだよ……」
篝は、もう一度くわしく説明して、市内のハイヤー会社を廻ったことも、附け加えて話して聞かせた。
「カープ、芸備、ピカドンと廻った訳やな?」
「うん、そうだ……」
「そのうち、カープとピカドンは、全く脈がないなあ」
加藤は額にかかった長髪を掻《か》き上げて、勢いよく桶《おけ》の湯をかぶっている。
「しかし、芸備ハイヤーの方は、憲民党の買い切りだぜ?」
篝は言った。加藤汀三はたじろがずに、
「だから、怪しいのは、それやねん」
と、大阪弁になった。
「なんだって?」
篝は、危うく剃刀で、頬の肉を切るところであった。それほど駭《おどろ》いたのであろうか。
「憲民党が六台のベンツを、チャーターした……」
「うん、その通り……」
「そのうちの一台に、丹羽章子が乗っていたって、決して変じゃあない」
「どうしてだい? 憲民党と丹羽章子との間には、なんの脈絡もないんだぜ?」
「……そう思うのが、素人の証拠やな」
加藤汀三は、また髪の毛をうるさそうに掻き上げて、湯槽に身を沈めてくる。湯がザーッという音を立ててこぼれた。
「素人の証拠?」
篝は、剃刀を使う手を止めている。
「そうだよ。彼女が、憲民党の誰かの、囲い者になっているということも、考えられるじゃないか?」
その加藤汀三の言葉を耳にしたとき、正直に言って篝正秋は、ただ口をパクパクさせただけだった。
彼の心の中には、さまざまなことが、虹《にじ》のように一瞬にして立ち昇って行った。
昨日の夕方、松山市から奥道後に向かうタクシーの中で、何気なく聞いたニュース。
憲民党の工藤幹事長と、ミューズの宝部三吉が、赤坂でよく会っているという情報。
詫摩周六が、三高、京大と工藤幹事長と一緒だったという、毛馬内弁護士の証言。
スチール通信社が、秘密カルテルの本拠だという団井記者の報告。
そのスチール通信社の社長である佐本覚が、詫摩の娘婿であり、丹羽章子の失踪《しつそう》にも、一役買っているらしいという事実……。
……そんなものが、火花のように、彼の心の中に飛び散り、一瞬にして七色の虹のような懸け橋を、心の中につくり上げたのである。
〈そ、そうだ……〉
篝正秋は、首を強く揺すった。
〈工藤幹事長は、松山―広島というコースで、遊説して歩いている……〉
〈丹羽章子も、松山―広島というコースで、旅をしている〉
〈……もしかしたら、彼女は、工藤幹事長の愛人になったのでは、ないだろうか?〉
篝は、剃刀を持ったまま、宙の一点を凝視した。それに気づいて、加藤汀三が、
「なにか気に障ることでも、言ったのかい?」
と訊《き》いて来た。
彼は苦笑した。
「いや、そうじゃあない……」
篝正秋は、加藤に向かい、
「実は、大変なことに気づいたんだ」
と言った。
「大変なことって、なんだい?」
「いま憲民党と言われて、思いだしたんだけれど、いま工藤幹事長が遊説に歩いている」
「知ってるよ。俺が大阪へ着いたころ、工藤も大阪へ来ていた」
「そのあと工藤幹事長は、四国の松山に飛び、ついで昨日の午後、広島へやって来た――」
「おい。それは彼女のコースと、同じじゃあないか!」
「そうだろう? ちょっと、変だと思わないかね?」
「ふーむ。そうすると丹羽章子は、工藤幹事長か、それに随行している誰かの、彼女になったと考えてよい訳だなあ……」
加藤は湯で顔をザブリと洗って、思いがけない新発見をしたような大声をだした。
「それに、きみにはまだ話してないが、彼女を引き抜いた張本人と思われる、佐本覚という男なんだがね……」
「ふむ、ふむ」
「この男が、実はとんでもないタマだったんだ」
「と、言うと」
「表向きはスチール通信社という、業界紙の経営者なんだが、実はある秘密カルテルの中心人物らしい」
「なんだい、そりゃあ?」
「あとで委《くわ》しく話すが、この佐本は、詫摩周六という運輸官僚の娘婿で、また詫摩は工藤幹事長と、三高、京大を通じてクラス・メートらしいんだ……」
「ふーん。すると、その佐本という男が、丹羽章子をそそのかして、工藤の女にしたとも考えられるわけか?」
「じゃあないのかな。ただし、これは僕の思いつきで、当っているか、どうかは分らないが」
「よし。ともかく、敵を当ってみようじゃないか。工藤といえば、こっちの仕事にも、関係がないわけじゃない……」
加藤汀三は、すっくと湯槽の中に、仁王立ちになっていた。
[#改ページ]
熱っぽい息
「おい、おい……」
篝正秋は、ちょっと駭いたような声で言った。
「工藤幹事長は、そっちの方の調査でも、顔を出すのか?」
「ああ、出すんだなあ、これが!」
加藤は、船を形どった厚い檜の浴槽の縁に、その肉のうすい尻を載せて、股座《またぐら》をタオルで隠している。
「それは、本当かい?」
彼は湯槽から出て、躰の部分に冷たい水をかけはじめる。篝の健康法の一つであった。
「ああ、本当だ。まあ、食事のとき、ゆっくり話すよ」
加藤汀三はそう言ったあと、
「しかし、女って奴は、判らないもんだなあ。高利貸しの大川作之助よりも、政治家の方がよいとみえる……」
と感心したように呟《つぶや》いた。
「大川旦那は、毎月どれぐらいのお手当を、彼女にやっていたんだい?」
篝も苦笑しながら訊く。
「決まった額は五万円だが、親父の口吻《くちぶり》だと、惚《ほ》れた弱味もあって、宝石だの、カラーテレビだのと、よく買い与えていたらしいぜ」
「ふーん、そうか。しかし、丹羽章子の、いったい何処《どこ》に惚れたんだろう……」
篝がそう言って首を傾げてみせると、加藤はニヤリとして、
「おい。君には、まだ話してなかったが、彼女の物は、ひどく優秀なんだそうだぜ。親父の話だと、ミミズ千匹だってさ……」
「ミミズ千匹? ふーん。そいつは初耳だなあ」
篝は意外な顔つきになった。
鹿児島の暗い公園のベンチで、彼が接吻したとき、歯をガチガチ言わせた丹羽章子のことが、不意に記憶の中で甦《よみが》えって来た。
〈あのとき、俺が更に一歩、攻勢に出ていたら、彼女は多分、俺の女になっていただろう……。そんな女と判っておれば、俺だって手を出したものを!〉
……いまさら後悔しても、どうにもならなかったが、しかし加藤の打明け話で、なぜ丹羽章子が佐本覚によって失踪させられたかが、ぼんやりながら呑み込めるような気がした。
〈そうだったのか。そんなにすぐれた名器の持ち主だったのか〉
篝正秋は、ちょっぴり惜しいような気持になった。
でも、その反面、佐本覚がなぜ丹羽章子の名器≠ノ気づいたのかが、疑問として心に残る。
少くとも、長谷川雪絵から耳にした限りでは、佐本と章子とは肉体関係はなかったという。
しかし、アパートの管理人の話だと、佐本はパトロン不在の午前中に、彼女の部屋を訪れていたらしい。
だから篝は、佐本と章子とが、当然のこととして、関係を持っていたと推理している。
だが、ここで不思議なのは、それだけの名器≠ナある女性を、なぜ佐本が一人旅させているか、ということだった。
加藤汀三の言うように、誰かに献上≠ウれたとしたら、その目的はなんなのであろうか?
名器を手放してまで、達成しようとする目的は――。
ここまで考えてくると、篝正秋としては、やはり丹羽章子がなにかに利用されているのだと、断定せざるを得ない。
〈そうだ……。これはどうしても、佐本に会って質問する必要がある!〉
篝正秋はそう心に決めたのであった。
湯から上ると、料理が待っていた。
女中の酌で、加藤は日本酒を飲み、篝はビールを飲んだ。
「そうだ、先刻《さつき》の話の続きだが、大川の親父には、奇妙なベッド・マナーがあるらしい」
加藤は笑いながら言った。
「ほう、どんな癖だね?」
「とにかく、女を興奮させては、飲むらしいんだね」
「ほほう……」
「だから若い、グラマーを好く」
「らしいね」
「しかし女の方にしてみたら、やはり屈辱感ものらしい」
「そうだろうか。自分が犬になるんじゃないから、かえって優越感を味わわせられるんじゃないかね?」
「そりゃあ違うと思うな」
「なぜだい?」
「つまり正常ではない、ということさ」
「しかし、お互いに接吻し合うのは、ノーマルな行為だぜ?」
「ところが大川旦那の場合は、一方通行なんだね。あれが回春剤だと信じ込んで飲んでいる」
「ふーん、回春剤ねえ」
「だから女の方は、まるで自分が栽培された朝鮮|人蔘《にんじん》のような、蚊《か》に血を吸われるために飼われている実験用の人間のような、そんな屈辱感を覚えるらしいぜ……」
「なるほど?」
「丹羽章子は、大川のそんな変態じみた養生法が、嫌になったんだろう」
「それで、工藤幹事長の女になった……というのか?」
「うん。少くとも、一つの条件にはなっているだろうよ……」
「しかし俺は、佐本がなにかに利用するために、自分が寝取っていた女を、工藤に献上したんだと思うぜ……」
「かも知れない。佐本という男は知らないが、工藤が山陽新幹線に、裏で一役買っていることだけは、たしかだからなあ」
「なに、山陽新幹線だと?」
――篝は、グラスを音を立てさせて、テーブルに置いた。
「なんだ、知ってたのか?」
加藤汀三は駭いたように、額にかかった長髪をかき上げる。
「それなんだよ、それ!」
篝は大きな声を出した。
「なんのことだい?」
「おれの、事故死した友人が、しらべていた事件というのは、それなんだよ……」
「山陽……新幹線かい?」
「うん。玖島太郎という男なんだが、秘密カルテルの組織を調べているうちに、その事件にぶっつかった……」
「ほう。俺の方は、ミューズの宝部三吉が、どのあたりの土地を買占めているのか、調べているうちに、そのことを知ったんだがね」
「少し委しく話してくれよ」
篝正秋は坐り直した。
「ああ、いいだろう」
加藤は立ち上って、背広の上衣から、手帳をとりだして来た。
「俺が、大川作之助の命令で、関西へ来た目的は知っているね?」
「ああ、知ってるとも」
「俺は先《ま》ず、不動産屋から当って行ったんだ……」
「正攻法というわけか」
「すると宝部三吉が使った不動産屋が、二軒ほど浮んで来た」
「うむ……」
「その二軒に当ってみると、宝部なんていう人物は知らないという」
「変だな。隠してるのかな?」
「じゃあないんだ。探ってみると、宝部三吉は猪口貞也《いのぐちさだや》という、自分の義弟の名前を使っていたんだ……」
「なるほどね」
「ところで、猪口名義で買い入れた土地を調べると、これが高尾山の麓《ふもと》にある鈴蘭台駅の一帯なんだなあ」
「ほう。それで?」
「温泉でも出たのかと、調べてみたが、一向にその気配はない」
「じゃあ、そこを山陽新幹線が走るわけだな?」
「うん、未決定だが、そのあたりに新神戸駅と操車場がくるらしい」
「なるほどねえ……」
「地元の人に聞いてみると、宝部が買い占めたあと、工藤幹事長と連れ立って、土地を検分に来たそうだよ」
「なるほど!」
「その買占めた土地は、ざッと四万坪」
「値段は?」
「なんでも坪五千円ぐらいらしい」
「すると二億円か……」
「うん。そういうことになる」
「可怪《おか》しいなあ。奴さんは、名古屋の土地家屋を担保に、銀行から四億円を借りたんだろう?」
「うん……」
「四億借りたあとで、また二億円を借りるべく走り廻っていた……」
「そういう訳だ……」
「すると奴さんは、六億円で、たった二億円の買い物しかしてない。金は、あり余っていた計算になるじゃないか」
篝は〈変だな〉と思った。
「宝部のことだ……神戸ばかりでなく、岡山や広島あたりにも、土地を買っておいたんじゃないかな?」
「あッ、そうか。そういうことは、充分考えられるね」
「それで俺も、広島を調べてみようと思って、こっちへやって来たわけさ」
「なあんだ、俺の仕事のために、来てくれたんじゃないのか?」
「当り前だよ。俺だって、そんな閑人《ひまじん》じゃない……」
加藤汀三は低い声で含み笑い、
「おそらく宝部は、赤坂の料亭あたりで、その情報を貰ったんだろうな」
と附け加えた。
「うん、だろうな。しかし……」
篝正秋は、考え込んだ。
「どうしたんだい?」
相手は気づいて聞いて来る。
「いや、俺の握っている情報だと、ある秘密カルテルが遠大な計画の許に、山陽新幹線の仕事を独占しようと、用地買収をはじめた……というんだがね」
加藤は頷《うなず》いて、
「宝部三吉を、その手先に使った……とは考えられないか?」
と言った。
「手先に使うんだったら、名義だけを借りたらいい。なにも本人に、資金繰りの苦労までさせるこたあないだろう」
「ふむ。それもそうだなあ」
「とにかく、ミューズの宝部が、一丁|噛《か》んでいるというところに、なにかがあるみたいだなあ」
「宝部は利用されているのかも知れないね。ゴタゴタが起きた時を予想して、その用心のために……」
「うん、官僚出身の工藤のことだ。用心のためを考えたのかも知れん」
二人はしばらく沈黙していたが、どちらからともなく顔を見合って、苦笑いの表情になった。
加藤がその時、なにを考えていたのかは知らない。
ただ篝の方は、死んだ玖島太郎のことを考えていた。逃げたホステスを追っているうちに、いつのまにか友人が取り組んでいた事件と、合致してしまった世の中の皮肉さに、彼は苦笑いしたのであった。
ところで丹羽章子の方だが、調べてみると前夜は、グランド・ホテルに投宿していたことが判った。
加藤汀三が、憲民党の工藤幹事長の一行が、どこに泊っていたかを調べ、そのホテルに篝が訪ねて行って、係員に質問した結果、判明したのである。
そうして彼女は夕方四時ごろ、ホテルを引き払って出て行っていた。
工藤幹事長の一行が、翌日、博多へ行くスケジュールであるところを見ると、それに合わせて彼女も、九州に向かったものと思われる。
〈ふむ。これで丹羽章子と工藤との関係さえ分れば、いつでも彼女を捕えることができる!〉
篝はそう思って安堵《あんど》した。
奥道後のホテルの便箋《びんせん》に、『その方の名は言えませんが、安心していて下さい。大丈夫な方ですから』と、丹羽章子は鹿児島の母親に宛てた手紙文を残している。
名前は言えないが、大丈夫な人だとなると、どうも篝には工藤しか思い当らないのであった。
念のため、工藤について、東京からやって来た一行の名前を調べてみると、秘書官が二人に、政務次官をやったことのある代議士が一人という、珍しく小人数の顔触れであった。
丹羽章子は広島でも、〈大川秋子〉という偽名を使っている。
住所は、東京都千代田区|麹町《こうじまち》となっているが、これは工藤の女になったのならば、当然考えられることだった。
麹町は、高級住宅地であるが、なによりも、国会議事堂に近いという利点がある。
ちょっと抜け出して、車を走らせても四、五分の距離なのであった。
「おい、どうする?」
加藤汀三は彼に訊いた。
「博多へ今から飛んで、明日、工藤幹事長の宿になるところへ行けば、きっと彼女は滞在しているぜ?」
篝は少し考えてから、
「いや、止《よ》そう……」
と答えた。
「なぜだい? 女を捕えに来たんじゃないのかい?」
揶揄《やゆ》するように、加藤は笑った。
「それはその通りなんだが……工藤は明後日の十時の日航機で、東京へ帰ってくることになっている」
「うん、そうらしいね」
「だから彼女も、その前後の飛行機で、東京へ戻ってくるだろう。まさか汽車便は利用すまい」
「多分、な」
「だから、羽田に張り込ませて、尾行させることにするよ……」
「なぜ弱気になった? 相手が、憲民党の大物だからか?」
加藤はまた笑った。
「いや、少し泳がせておいてみたいんだよ」
「彼女を?」
「うむ。その間に、東京へ戻って、俺なりに調べてみたいことがある」
「例の秘密カルテルか?」
「ああ、そうだ。死んだ友人は、疑獄に発展しそうな事件だと、編集長に報告しているんだ……」
「なるほどね」
「それと……佐本覚という男……」
「うん」
「どうも気に喰わん」
「女蕩《おんなたら》しだからか?」
「それもある」
「他にはなんだ?」
「どうも、匂うんだ……」
「ほほう」
「なぜだか知らんが、奴さんのことを調べているうちに、玖島太郎を事故死に逐《お》い込んだのは、彼奴《あいつ》じゃないかというような気がして来た……」
加藤汀三は一瞬、きらッと眼を光らせたが、彼の肩を敲《たた》いて、
「とにかく、女を探し出す|めど《ヽヽ》はついた。飲みに行こう」
と優しく言った。
[#改ページ]
追い詰めた獲物
翌日の午後、篝正秋は羽田空港にいた。
サングラスをかけ、彼は待合室で、福岡からの飛行便の到着を待った。工藤幹事長の一行は、午後二時ごろ、羽田に着く予定である。
篝は、かつてある財界人から、耳にしたことを思いだした。
というのは、海外旅行が流行している今日、財界人の多くは、二号の女性をハワイあたりに呼び寄せておいて、情事をたのしむ作戦をとる。
自分の旅行スケジュールに合わせて、悪事を働くまではよいのだが、問題はそのあとであった。
つい、二号なる女性と、一緒の飛行機に乗ってしまうのである。
羽田には、家族や社員たちが出迎えていることを、忘れているのであった。
……だからと言って、二号を先に一便早く日本へ帰してもいけない。手違いで、早く出迎えが来たりするからである。
そこで、その財界人が言うのには、外国で浮気をするのなら、女と一緒に帰ったり、一便先に帰してはならぬ。必ず、女は自分のあとから、帰国させるべきである……というのだった。
頭のいい工藤幹事長なら、そして丹羽章子が彼の新しい女なら、彼より遅く帰らせるに違いない……と、篝は思ったのであった。
午後二時十分ごろ、幹事長の一行は、出迎え人をぞろぞろと従えて、姿を現わし、大型車に乗って、いずこともなく消えて行った。やはり、丹羽章子の姿はない。
〈やっぱり、な……〉
篝は、次の福岡―東京便を待った。
到着のアナウンスがあり、緊張して待機していると、降りて来た一人、二人、足早やに待合室を抜けて行った。
彼はガラス窓越しに、通路をにらむ。
女の乗客は少いので、見落す筈はなかったが、しかし、その次の便には、丹羽章子の姿は見当らない。
〈ふむ、すると次か!〉
篝は辛抱強く、週刊誌を読み耽《ふけ》って、時間を潰《つぶ》した。
二便ほど遅れた飛行機で、やっと丹羽章子は姿をみせた。
鶯《うぐいす》色のツーピースに、濃い緑のハイヒール。手には同系色のハンドバッグだけである。
丹羽章子は他の乗客と並んで、ぐるぐる回転する手荷物用の台の前に佇《たたず》んでいた。
〈ふむ!〉
篝正秋は、週刊誌を読むふりをしながら、女の後姿を見詰めている。
丹羽章子が、不意に後ろを振り向いて、なぜか彼に微笑《わら》いかけた。
篝は、ぎくッとなる。
しかし、その笑顔は、黒メガネで変装した彼に、投げかけられたものではなく、別の人間に送られたもののようであった。
彼の前を、背の高い紳士が、ゆっくり通り過ぎてゆき、人を出迎えるポーズをとっている。
やがて丹羽章子が、赤と黒の格子縞のトランクを提げて、颯爽《さつそう》とこっちにやって来た。
「やあ……」
背の高い紳士が、章子に言った。
「ただいま……」
章子は挨拶を返す。
紳士は彼女の手から、トランクを受け取り、
「車を持って来たよ……」
と言いながら、先に立って歩いてゆくのであった。
〈あッ、佐本だ!〉
篝は直感的にそう思った。
彼女を親しそうに出迎える男。それは佐本覚しか、ないではないか。
彼は立ち上り、ゆっくり二人を追う。
佐本らしい男は、ハイヤーを待たせてあるらしく、しきりに大型車の群に手をふっている。
篝は用心深く二人の背後を通り、タクシーの行列に並んだ。
しかし悪いことに、先方の車が来ない先に、彼の順番がやって来た。彼は、忘れ物をしたような顔をして、いったん待合室へ引き返し、捨てた週刊誌を拾って、また行列に加わった。
こんどは、彼の方が遅れた。
〈車体は黒のクライスラー。番号を、暗記しておこう……〉
篝正秋は、二人を乗せて走り出す大型車をじっと睨《にら》みつけた。
彼の乗る番が来た。
「運転手さん。先刻《さつき》、二人の客を乗せて、スタートした大型車があったね」
運転手はうなずいた。
「あいつを、追ってくれ……」
「へえ、畏《かしこ》まりました」
タクシーは走り出した。
高速道路に入るが、まだ黒のクライスラーは、視界に入って来ない。
「少し飛ばしてくれ。チップは弾むから頼むよ……」
「わかってます」
タクシーは、次から次にと、車を追い越しはじめる。
芝浦を過ぎるころ、やっとハイヤーの見憶《みおぼ》えのある姿が、篝の眼に飛び込んで来た。
「あれだ! うまく尾行してくれよ」
篝正秋はピースをとり出して咥《くわ》え、いまこそ獲物を追い詰めた感じで、ゆっくりとライターを鳴らした……。
[#改ページ]
蜜《みつ》の肌
黒塗りのクライスラーは、尾行者に気づかぬ風情で、高速道路を霞《かすみ》ヶ関《せき》に出て右折している。篝は、〈ははあ……〉と思った。大川秋子こと、丹羽章子は、ホテルの宿帳に、千代田区麹町と住所を書いていたが、それはどうやら嘘ではなかったらしいのである。
車は国会議事堂の脇を抜けて、麹町中学校の前を通って、麹町三丁目を右折する。都電通りに出ると、すぐまた左折して、車はスピードをゆるめた。
「おい、止めるんだ……」
篝は慌てて、タクシーの運転手に声をかけた。こうした人通りの少い、住宅地に入ると、タクシーの尾行は目立つのである。
タクシーを降り、前方のクライスラーを見戍《みまも》っていると、また右折している。篝は、急いで駈け出した。
電柱の蔭《かげ》に隠れて、眺めていると、六階建のマンションと覚しきビルの前で、丹羽章子たちは車を降り、その中へと姿を消して行った。
篝は、ゆっくり歩きだした。
ビルの入口には、〈佐本マンション〉という金文字が、タイル貼《ば》りの壁に浮き上っていた。
〈佐本マンション? すると、このビルの持ち主は、佐本覚なのか!〉
篝は愕然《がくぜん》となった。
正体不明の人物とは知っていたが、いまこの六階建のビルを見挙げると、いかにもその感銘は深い。
麹町といえば、都心でも一等地であり、坪あたり七、八十万円はすると言われている。佐本マンションは、敷地だけで百二十坪ぐらいもあるから、土地だけでざッと一億円である。
地下はガレージになっている様子だから、全体としては七階建で、かりに百坪の床面積としても延べ建坪は七百坪、坪あたり二十万円の建築費としたら、一億四千万円の金がかかっていると考えねばならない。
〈ふーむ!〉
篝は、四十歳そこそこの若さで、数億円の土地とビルを所有している佐本覚という人物に、尋常ならぬ匂いを嗅《か》いだのであった。
エレベーターの針は、六階で止っている。それで丹羽章子の部屋が、六階にあることは分った。見ていると、エレベーターの針が、六階から一階に向かって、移動しはじめている。
篝は急いで、階段を昇り、踊り場から様子を窺《うかが》った。おどろいたことに、降下したエレベーターから姿を現わしたのは、佐本覚だと彼が睨んでいる人物である。
その人物は、すたすたとビルの外へ出て行き、戻ってくる気配もない。
〈変だな……。佐本は、章子の情夫じゃなかったのか〉
篝は、ちょっと首を傾げた。
しかし、佐本らしい人物が、すぐさま姿を消したことが、篝に予想してない行動をとらせたのだった。
はじめ彼は、丹羽章子の住居をつきとめたら、しばらく放置して、相手の様子をみるつもりでいた。
ところが、急に気が変ったのだ。
篝は、ゆっくり階段を昇ってゆき、六階へ辿《たど》りついた。中央に廊下があり、左右に四つのドアがあった。
丹羽章子の部屋は、南側の奥で、入口に〈丹羽〉とだけ書いた標札が出ている。
彼は、力強いノックを送った。
「はあーい……」
という応答があり、ドアの横についた小型マイクから、「どなた?」と懐しい彼女の声音が流れ出て来た。
篝は咄嗟《とつさ》に、
「瓦斯《ガス》の検針に伺いました……」
と嘘をついた。
「あら、そう。いま、シャワーを浴びてるとこなの。悪いけど一番あとに来てくれない?」
丹羽章子は言った。
「では、十五分位して、また伺います」
篝は苦笑しながら、時間潰しのために、屋上にあがった。
なまめかしい洗濯物が、屋上には干されてあった。洗濯物をよけて、手摺《てす》りに近づく。英国大使館の旗が飜《ひるが》っているのが、すぐ傍《そば》に見えた。遠く皇居のお濠《ほり》の、青い土堤の緑も目にしみる。
篝は、煙草をふかしながら、腕時計を何度も見やった。
ちょうど十五分経ち、彼が歩き出そうとしたとき、誰かが勢いよく屋上に駈け上って来た。振り返ると、先方も「あッ」と低く叫んで、棒立ちになっている。
……丹羽章子だった。
手に、洗ったばかりらしい、濡れた衣類を持っている。
「しばらくだね」
篝は、微笑してみせた。
「逃げおおせる積りだったのかい?」
彼が近づいてゆくと、一瞬、丹羽章子は大きな躰を硬《こわ》ばらせて、逃げ出そうというような気配をみせた。
しかし、すぐ肩の力を落したのは、部屋へ逃げ帰っても、無駄だということを、悟ったからなのであろう。
「あのう……逃げただなんて」
彼女は顔を赭《あか》くして、モジモジしながら呟《つぶや》いている。
「とにかく洗濯物を干したまえ。話は、それから聞くことにしよう……」
篝は彼女のそばを擦り抜けると、やけに落着いた足取りで、階段を降りて行った。
なかなか立派な部屋だった。
第一、玄関がひろい。
篝は、中へ入ると、素早くドアをつぎつぎに開けて、他人がいないか、否かをたしかめていた。
いつだったか、逃げたホステス一人だと思って、アパートで押し問答していると、浴室から出て来た屈強な情夫に、後ろから首を絞められたことがあるからである。
十畳ぐらいの寝室に、十五畳ぐらいの居間兼食堂、それにあとは浴室と台所という間取りであった。
これ位の広さのマンションでは、さほど豪華だとは言えまいが、篝の目を奪ったのは、室内に敷きつめたペルシァ絨毯《じゆうたん》の厚味である。
また家具の立派さであった。
たとえば、洋酒が並んだファニチュアにしても、デパートで買い求めれば二十万円はする代物《しろもの》である。そうして硝子《ガラス》戸の奥に並んでいる酒瓶《さけびん》は、いずれも高価なラベルのものばかりであった。
感心して見惚《みと》れているところに、拗《す》ねたような顔つきの丹羽章子が戻って来た。
「まあ、坐らせて貰うよ……」
篝は、革張りのソファーに、腰をおろし、静かに脚を組んだ。
章子は、台所に姿を消し、しばらくすると昆布茶《こぶちや》を淹《い》れて運んで来た。
「ほう、珍しいね。誰の好みだい?」
一口|啜《すす》って、彼は聞いた。
丹羽章子はその質問には答えず、
「あたし……部長さんには、迷惑はかけていない積りですけれど」
と言った。
「そうかね?」
篝は低く反問する。
「と思いますわ。お金のことだって……」
「ちょっと待ち給え。金のことで、店には迷惑かけてない……と言いたいんだろうが、それはたしかにその通りだ。しかし、店では迷惑を蒙《こうむ》っている面もあるんだぜ!」
「お客さんのことですか?」
「いや、きみが失踪して間もなく、一人の男が店に呶鳴《どな》り込んで来た。大川作之助というきみのパトロンが、ね……」
「…………」
「大川氏は、きみを詐欺で訴えると言っている。どうするね?」
「あたしが……詐欺?」
「うん。きみは、四谷のアパートを出るとき、大川氏から手術代といって三十万円だましとり、ついでアパートの敷金も失敬して行ったそうだね」
「…………」
「大川氏は、宝石やカラーテレビも、詐欺されたも同然だと憤慨している。〈コスモス〉の方で、責任をとれと言って来ている」
「それ……本当ですか」
「伊達《だて》や酔狂に、きみの行方を、高い料金を支払って、捜査させたとでも思っているのかい?」
「……済みません」
章子は頭を下げた。
「なぜ、急に逃げだしたんだね?」
「…………」
「辞めるんなら辞めるで、一声店の方に電話を入れたって、よいじゃあないか」
「済みません……」
「私は大川氏に、責任持って解決する……と約束した。どうするね?」
「ええッ?」
「いま直ぐ、大川さんに、此処《ここ》に来て頂こうかな?」
「あのう、それは……」
「こういう話は、早い方がいい。大川さんだって、大喜びで素っ飛んでやって来られるだろう……」
「あのう……困ります」
「電話をお借りしますよ……」
彼がソファーから起《た》ち上ろうとすると、章子はバネ仕掛けの人形のように飛び上り、慌てて彼の行手を立ち塞《ふさ》いだ。
「あのう、止めて下さい!」
「なぜだね?」
「困るんです!」
「僕の方だって、大川氏に毎日文句を言われて、困っているんだぜ?」
「本当に、困るんです!」
「それはきみの身勝手というもんだよ。大川氏は告訴すると騒いどる……」
「部長さん!」
丹羽章子は、彼の躰にひしと抱きついて来た。びっくりするような、強い力であった。篝は狼狽《ろうばい》した。
「部長さん。お願い!」
「…………」
「大川にだけは、ここを教えないで!」
「なぜだい? きみの大事な、パトロンじゃないのかい?」
「あの人……嫌いなんです!」
「嫌いだったら、金を踏み倒して、逃げてもいいのかね?」
「金は……返します!」
「松山から、お母さんに三万円送金する君のことだから、さぞかし金の余裕はあるんだろうがね」
「まあ!」
丹羽章子の顔が、蒼白《そうはく》になった。いや、顔の筋肉が痙《ひ》き吊《つ》っていた。
「おや、どうしたんだい?」
篝は、彼の躰から、電気ショックを受けたかのごとく、飛び退《さが》って、呆然と彼を凝視している彼女を冷やかに見詰め返しながら、ゆっくりピースを口に咥える。
〈この女は、ミミズ千匹という名器だそうだが、本当なのだろうか?〉
ひそかに勝利感に酔いはじめた篝の頭の片隅には、そんな淫《みだ》らな言葉が甦《よみがえ》って来ていた。彼は、グラマーな丹羽章子の躰を、好色そうな視線で舐《な》め廻しはじめた、自分に気づいていなかった。
「なんでも、知ってるのね、部長さん」
ややあって、丹羽章子は、姿勢を建て直すように呟いた。
「そりゃあ、そうさ。だから高い料金を支払って調べた、と言っている」
「…………」
「きみが松山、広島、博多と旅行して、誰と一緒だったかと言うことも、報告書には記されてあるよ……」
「えッ、本当――」
丹羽章子は、信じられないような顔つきになった。
「大川さんが、その事実を知ったら、きみよりも、相手の男を告訴するだろうね。それを週刊誌あたりが、嗅ぎつけたら……」
「止めて!」
ふたたび篝は、彼女の体当りを受けた。彼女は顔を彼の胸に押しつけ、低い声で泣きじゃくりはじめた。
「部長さん……私の倖《しあわ》せを、取らないで! お願い……私、やっと……」
「やっと、何だね?」
「自分のお店が、持てるんです!」
「ほう?」
篝は、奥道後の便箋《びんせん》の文字を思いだし、あてずっぽうに、
「しかし、店が持てるのは、二年後のことだろ?」
と言ってみた。
「まあ、どうして、そんなことを……」
篝は含み笑った。
「だから、なんでも知っていると、先刻《さつき》言ったじゃないかね?」
「だって、そのことは私と……」
丹羽章子は口ごもった。
「私と誰かさんしか、知らない秘密だと言うんだろう」
「……ええ」
「まあ、いい。ところで、大川氏の方だが、どうするかい?」
「…………」
「知らせないで欲しい、というのなら、僕の方にも条件があるよ」
「えッ、じゃあ、部長さん……」
丹羽章子は顔を挙げた。
「なんですの、条件は……。言って下さい!」
篝正秋は、自分が悪魔に化身しつつあることを認めながら、
「その条件は、きみと僕とが、他人でなくなってから、言うよ……」
と囁《ささや》くと、ゆっくり顔を相手の唇に近づけて行った。
丹羽章子は観念したように、目を閉じて彼を受け容《い》れたが、しばらくすると軽く喘《あえ》ぎはじめ、自分から唇を離すと、
「戸締り……して来ます」
と、うわずった声で言った。
……寝室の方も、居間に劣らず、豪華なものであった。
ダブル・ベッドの枕許《まくらもと》には、いろんなスイッチが並んでいて、このスイッチの操作で、冷暖房から電燈の点滅など、すべてリモコン式に処理できるらしかった。
また一部に書棚がつくられてあって、そこには猥本《わいほん》が十数冊と、エロ写真を貼りつけたアルバムが三冊入っている。篝は苦笑した。
〈ふむ。彼女の新しい旦那は、これでどうやら、工藤幹事長に決まったわい〉
彼はそう思った。
五十過ぎの年配の男ならでは、そうした眼からくる刺戟《しげき》剤は必要ではないからである。ただ愉快だったのは、ベッドの両脇に、三面鏡がおかれてあったことだった。
それに不審だったのは、壁に布製の靴入れが吊り下げられてあって、そこに新品の、色とりどりの踵《かかと》の高い婦人靴が、入れられてあったことだ。
「寝室に、靴箱かい?」
と、彼が訊くと、丹羽章子は怒ったような顔をして、その靴入れを取り除《はず》した。
そのことで彼は、ははあ……と思ったのであるが、どうやら、工藤幹事長は、外国の娼婦のように、ベッドで、彼女に靴を穿《は》かせて、行為をもつ様子であった。
白人の娼婦は、ブラジャーにガードルだけで、ストッキングにハイヒール姿で、男と交渉をもつらしい。
行為のあと、スカートに上衣を着れば、すぐにでも客引きに立てるからだろうか。
章子は、ピンクのネグリジェを着て、ベッドにすべり込んで来た。
二人は、唇を合わせた。
「鹿児島で、きみを一目見たときから、きみのことは好きだったよ……」
彼は耳朶《みみたぶ》に、舌先で触れた。
電流に触れたように、章子は躰をふるわせ、
「うそ、うそ……」
と言った。
「本当だよ……好きだけれど、お店のホステスには手を出さないって、心に誓ってたから……口説かなかったんだ……」
「…………」
「わかるかい、僕の苦しい心のうちが?」
「…………」
「好きだよ、章子……」
乳房は、女体の発火点であった。
相手の躰を燃え立たせながら、しかし篝は次第に、自分の嘘に酔って行った。本当に昔から、丹羽章子に惚《ほ》れていたような、そんな錯覚に捉《とら》われはじめて行った。
「ああ……駄目よ……」
女は喘ぎながら、篝の愛撫《あいぶ》を待ち兼ねているかのように、その蜜をもった花の、厚い肉の花弁を、自分から開花させてくるのであった。
――十分後。
篝は、身も魂も蕩《とろ》けんばかりの、生れて始めての恍惚《こうこつ》感に、背筋を硬ばらせていた。
快感は、脳天から爪先までを打ちのめし、篝に随喜の泪《なみだ》すらほとばしらせたのである。
あの表現は、言い得て妙であると、篝は失神に似た陶酔のなかで、そう思った……。
[#改ページ]
最初の対決
人間は、とつぜん結婚したいなどと、考えだす動物らしいが、篝正秋がはじめて、丹羽章子の躰を経験した直後が、やはりそんな状態であった。
篝は、恍惚感の去りやらぬ、汗ばんだ肌と肌を合わせたまま、
「章子……結婚してくれ」
と口走っていた。
「僕は独身だ……きみが二年後に、店を出すときには、きっと僕が役立つ……」
「な、結婚しよう……結婚してくれ」
篝は口走りつづけた。
だが、その時の彼の心理を解剖してみれば、大川作之助が未練を断ち切れないように、彼もまた丹羽章子の躰に、魅入られてしまっていたのであった。
だが、彼のそんな口説きに対して、彼女の方は冷淡に、
「もう、他人じゃなくなったんでしょ? 条件を伺うわ……」
と物憂そうな口調で、応じただけである。
篝は鼻白んだ。
「条件か……」
「ええ。約束でしょ?」
「うむ。大川作之助には、きみのことは一切しゃべらない」
「ええ……」
「ただし、金の件は処理して欲しい。僕に渡して貰えば、僕から大川氏に渡そう。どうだね?」
「お願いします……」
「それと、こちらの条件というのは、週に一回、僕と会って欲しいということだ……」
「え、なぜですの?」
「君が……好きなんだ」
篝は狂ったように接吻した。
少しは本音でもあったが、佐本覚のことを知るためには、麹町の佐本マンション六階にある彼女の巣に訪れて、いろいろと情報をとる必要があったのである。
「部長さん……」
丹羽章子は低い声で呼びかけて来た。
「ああ……なんだね?」
彼は、汗ばんだ肌を、掌《て》で拭いながら起き上がる。
「あたし……お店、やれるかしら?」
章子は、なんとなく倦怠《けだる》そうに呟くのであった。
〈おや?〉
と篝は思った。
「お店をやる気で、大川氏から逃げだしたんじゃあなかったのかい?」
「うふん……」
彼女は含み笑いを一つして、
「それはその積りだったわ」
と答えた。
ベッドの上で、着ているネグリジェの皺《しわ》を気にしている章子の顔は、運動のあとの快い疲労感に支配されている。うすいナイロンの布地が、胸の膨らみに貼《は》りついていた。
それを見ると、篝はつよい情欲にそそられて、また章子の肩を抱いた。
「大丈夫だよ、章子……」
彼は言った。
「きみが店をやるときは、僕が暁興業を辞めるときだよ……」
章子は黒眼がちの瞳《ひとみ》を、キラリと光らせると、
「それ……本気ですの?」
と喘ぐような声で言った。
「むろん、本気だよ。ただし、僕と結婚するという条件で、ね」
「……結婚?」
「ああ。考えといて、くれるかい?」
「……部長さん」
「なんだい。急に怖い顔をして……」
「あたしが今、どんな女なのか、ご存じなんでしょうね?」
丹羽章子は思いつめたような口吻《くちぶり》で、しかし真剣に彼を見詰める。
「知っている。きみを九州から連れて来たのは、この私だよ……」
「本当に、ご存じ?」
篝正秋は、このあたりで、危うく、
〈お前は憲民党の、工藤幹事長の女だろう……〉
と言いだしかけるところであった。
それを思い留まらせたのは、彼の用心深い性質の所為《せい》だった。
永年、客商売をやっていると、他人の秘密は知っていても、つい知らないふりをしたり、滅多に口に出さないようになるのである。
「でも、それとこれとは、関係のないことだろう。僕は、平気だ……」
「男の人って、そんなものなんですか」
「ああ、僕はね。きみの過去と、結婚するわけじゃあない」
篝は女の唇を吸った。
章子は自分から腕を、彼の肩に廻して来て、その接吻に応える。
「考えといてくれ……」
「……ええ」
「週に一度……僕と会ってくれ……」
「……ええ」
「愛しているよ、章子……」
「こんな……女でも?」
「ああ。いけないかね?」
「……嬉しいわ。でも……」
「でも、なんだい?」
「変な気持よ……」
「…………」
「喜んでいいのか、悲しまなければいけないのか……」
「心配することはない。きみは目的のために、現在の道を撰《えら》んだんだろう?」
「ええ、その通りよ?」
「だったら、二年間……辛抱するさ」
「……そうね。そうだわ」
「僕は待っている。きみの廻りにいて、章子を見戍りながら待っている……」
章子は、激しく彼に抱きついて来て、篝の手を自分の最も燃えている部分にと、誘導して行った。
銀座の〈暁興業〉の事務所へ出ると、神崎専務がまだ執務中であった。
「どうしたね? ひどく疲れたような顔をしているが」
専務は彼を見るなりそう言って、
「大阪の親父から、電話があったよ」
とメモの紙片をさしだした。
「ほう、社長から?」
「ああ。きみの出した企画書ね……」
「日本橋のですか?」
「うん。外人専用という看板を、大きく表に押し出して、日本の方もお這入《はい》りになれます、と宣伝しろと言ってたね」
「天麩羅《てんぷら》とスキ焼のコーナーは?」
「OKだってさ。ビルを三階ぐらい借りて、サウナバス、レストラン、クラブという三本立てでやれという命令だ……」
「明日からまた、忙しくなりますな」
「雉子《きじ》も啼《な》かずば撃たれまいに……。ハッハッハ。言い出した君が悪いんだ」
「それで開店は?」
「四カ月後を目標にしろ、ということだった。すぐ予算を組んでみてくれ」
「わかりました。しかし、資金の方の、見通しは?」
「それは、僕と社長の仕事だよ」
「ホステス集めが大変ですね、今度は」
「だろうね。まあ、頼む」
篝は自分の机に戻って、メモ用紙をみた。メモには、
〈電話を乞う。穂積〉
と走り書きしてあった。神崎専務の筆蹟《ひつせき》である。
東銀座の〈ピカデリー〉……例の蒋宗元の情婦の姓であった。
自分が新しい店のマダムになりたいばっかりに、彼に躰を投げかけて来た女性である。
彼女が、彼の電話を求めているとしたら、九州から蒋宗元が上京して来て、篝に会いたがっている……という用件以外に、考えられなかった。
篝はしばらく考えて、帰り支度をしている専務を呼びとめ、
「実は専務……」
と、蒋宗元の計画と、自分に誘いがかかっていることを、正直に打ち明けた。
神崎はニヤリと笑い、
「うまい線を狙って来よったなあ」
と大きく頷いた。
「それで、きみはどうするんだね?」
「まだ決めていません。会う気も、ないんですが……」
「そらあ惜しい。会うだけでも、会ってみたら良いじゃあないかね?」
「どうしてです?」
「蒋が、どの程度に、自分を評価していてくれているかが判るじゃないか」
「ははあ……」
浮かぬ顔で、彼がそう答えると、
「人間、ときどき自分の値打ちを、第三者に教えて貰うのも、勉強になるもんだ。だから蒋宗元が、きみを引抜くのに、どんな条件を出したか、あとで僕に言ってくれ」
と神崎正之輔は言うのだった。
「わかりました」
「きみが動く気になれば、それはそれで仕方ないが、もし行く気がないと言ってくれるんだったら、社長に話して、きみの待遇を考えさせて貰うよ……」
「ありがとう存じます」
「そうか。やっぱり、ピカデリー女史だったのか、あの電話……」
神崎は、コンテッサ・クラブに寄ってから帰ると言って、彼の肩を敲《たた》くのだった。
まるで馬主が、愛馬の肩を敲いて励ますような、そんな仕種《しぐさ》であった……。
机の前に坐ると、どッと疲労が彼を襲って来た。
宵のうちの、丹羽章子との秘密の情事が、三十二歳の篝を疲労させていたのであった。
しかも短時間のうちに、二度も行為を持ったのである。
疲れる道理であった。
でも、収穫はあった。
その第一は、大川作之助に知らせないことを条件として、週に一度、彼女のアパートに訪ねる権利を持ったことだった。
第二は、彼女の現在のパトロンが、憲民党の工藤幹事長だということを、寝室に飾ってあった顔写真によって、再確認できたことである。その写真は、なぜか三面鏡の上で、背中を向けてあったのだ……。
しかし、そのために、顔写真は鏡に写っていて、彼に貴重な手がかりを与えたことになる。
けれども、まだ判らない点は、一杯あるようだった。
たとえば、佐本覚と彼女の関係だが、これはまだ判然としていない。
一番知りたいのは、そのことだったのだが。
〈まあ、いいさ。今日のところは、これだけで満足するとしよう……〉
篝正秋は、そう反省して、今後の方法について考えることにした。
丹羽章子は発見できた。
だが、このことは、大川作之助や加藤汀三には知らせられない。
問題は、佐本覚だった。
この男は、玖島太郎にも、丹羽章子にも、なんらかの形で繋《つなが》りがある。その意味で、丹羽章子と交渉をもったことは、佐本覚という人間を知る意味で、大きなプラスとなる筈だった。
いや、もしかしたら、玖島の死因をつかむ、重要なポイントとなる男かも知れないのである。
篝正秋は、思案しながら、ときどき首を強く揺さぶった。
頭の中が混乱していて、雑然と人間や事件が絡みあっているのに、すっきりした筋が見つからないような感じだったからである。
……篝正秋が、佐本覚に面会を求めてみよう、と不意に決心したのは、新しい店舗を出すために、日本橋のビルを見て歩いている時であった。
ビル・ブームで都心には高層建築が、雨後の筍《たけのこ》さながらに増えたが、あまり建ちすぎて近頃では、貸室と窓ガラスに貼り紙をしたビルも多い。
篝は、不動産屋を連れて、条件を聞きながら、ビルの環境、交通の便などを中心に、幾つかの物件を見て歩いていたのだった。
たまたま昭和通りに出て、車を走らせているとき、〈スチール通信社〉のある八階建のビルが、右手に見えたのである。
篝は、不動産屋に、
「ちょっと用事を思い出したから、あとは明日見よう。車を停めてくれないか」
と言って、ひとり車を降りたのだった。なぜだか知らぬが、そのとき突然に、彼は佐本に会おう、と考えたのである。
エレベーターで三階へ行き、通信社のドアを引くと、高校を卒業したばかりの年齢の、小柄で愛くるしい女性が、受付に坐って女性週刊誌を読んでいた。
彼の姿を見ると、慌てて週刊誌をかくし、ちょっと赤い顔になりながら、
「いらっしゃいませ」
と挨拶して来た。
「今日は。社長さん、いらっしゃいますか」
馴れ馴れしく、彼はきいた。
「はい。居りますが、どちら様で?」
「暁興業の篝と申します」
彼は名刺をとりだした。
受付の女の子は、それを持って、すぐ左手の、デコラの壁で間仕切りした小部屋へ入って行ったが、すぐ戻って来て、
「あのう、どんなご用件でしょうか」
と質問した。
「三星物産の藤代係長のご紹介だ、と仰有《おつしや》って頂けばお判りだと思いますが」
女の子は、小部屋との間をまた往復して、今度は、
「どうぞ……」
と頭を下げた。
篝はちょっぴり緊張しながら、社長室へと足を運んだ。
スチールの大きな事務机があり、そこにこの間、羽田空港で見た男と同一人物が、にこやかに坐っていた。
「……佐本です」
黒メガネをかけているので、相手の視線はわからないが、相手が微笑していることだけは間違いなかった。
「とつぜん伺いまして。お忘れでしょうか?」
篝も微笑してみせた。
「失礼ですが、お会いしたことが過去にありましたか」
佐本は、考えこむ表情になる。
「藤代さんと、私共の店に三度ばかり、お越し頂いたと記憶しておりますが」
「お店に?……ああ、すると……」
「コスモスの篝でございます」
「なあんだ……」
佐本覚は苦笑しながら、また大袈裟《おおげさ》に首を傾《かし》げてみせた。
「溜《たま》った勘定でも、あったかい?」
「いいえ」
「すると、どんな用事で……」
「お判りではございませんか?」
篝は、
〈この野郎!〉
と心で思った。
「わからないね」
「そうですか。実は、女の子のことでございます」
「女の子?」
「はい。私共のホステスが、突然、店から消えましたので」
「ふーん?」
「私共では、大いに迷惑しております」
「それと私と、なんの関係があるんだね、きみ!」
佐本は開き直るように叫んだ。
「まだ佐本さんが、失踪事件と関係があったとは、私は申して居りませんのですが。ははあ、するとやっぱり……」
篝は、糞《くそ》落着きに落着いて、弁護士あがりの佐本と対峙《たいじ》していた。
法律に明るい相手だけに、迂闊《うかつ》なことは口に出せない、と自重している。下手をすると、脅迫罪などで、逆に訴えられる懼《おそ》れもあるからであった。
「やっぱり、なんだというんだね?」
佐本覚は、やや荒い言葉遣いになっている。腹を立てた証拠であった。
「いいえ、独りごとです。ただ、佐本さん……貴方は丹羽章子をご存じですね?」
「ああ、知っている」
「彼女が失踪したんでございます」
「そんなことは、私と関係はない」
「おや、さようでございますか?」
篝は、相手がシラを切り通す肚《はら》だとみて、それならば今日は一つ、欺《だま》された顔をして帰るのも面白いじゃないか、と思った。
「なんでも、佐本さんと親しい様子だったと、店のホステスは申しておるのですが」
「そりゃあ店に行けば、お互いに口を利くさ。それがどうだと言うんだい」
「夜、寿司屋あたりにも、ご同伴でお出かけだったとか」
「ああ、なんだ。そんなことか」
「ご記憶はございますね?」
「行ったかも知れんね。しかし酔っぱらっているので、よく憶えてはいない」
「すると……丹羽章子の失踪については、全然お心当りはないと……」
「ああ、ないね」
「なにか彼女は、店を辞めたいというようなことを、洩らしておりましたでしょうか。たとえば、大阪方面の店に移るとか……」
「さあ、聞かなかったね。……済まないが、もう帰ってくれませんか。こうみえても、私は忙しい躰なんだから……」
佐本は、怒ったように言った。篝はニヤリとして立ち上った。
[#改ページ]
乱交パーティー
〈スチール通信社〉を出ながら、篝正秋は、なぜ佐本覚がそれを隠そうとしたのかを、いろいろと考えていた。
佐本は丸の内の花村法律事務所に、七年あまり勤めた経験をもつ人物である。当然、法律には委《くわ》しい。
だから佐本は、丹羽章子の失踪《しつそう》に、自身で一役買って出ていたとしても、それが法律にはなんら抵触しないことを、百も承知の筈なのだ。これが幼児の場合だったら、誘拐《ゆうかい》罪を構成するであろうが……。
にも拘《かかわ》らず佐本は、
「丹羽章子という女は知っているが、失踪については知らない」
という態度をとった。
羽田空港に、彼女を出迎えたりしておきながら、完全に空惚《そらとぼ》けてみせたのである。つまり嘘を吐《つ》いたのだった。
〈ということは、佐本がなんらかの点で、後めたさと言うか、なにか犯罪に近いものに彼女を利用した……と言えるのではないだろうか?〉
篝はそう思った。そう考えないと、どうも辻褄《つじつま》が合わないような気もした。
いずれにしろ、佐本はまだ、篝が玖島太郎の死因を疑い、調査していることを知らない。
しかし彼の方では、佐本が運輸官僚の詫摩周六の娘婿であり、佐本の経営するスチール通信社が、実は仮面をかぶった秘密カルテルであることを、すでにキャッチしている。
玖島太郎は、果して、その秘密カルテルの存在をあばこうとしていたのだったか。あるいは、山陽新幹線をめぐる汚職事件に、メスを入れようとしていたのか。……それは篝には判らない。いや、玖島の事故死が、この二つの事実と、関連性があるのか否かも、現在の段階では、明らかでないのである。
でも、玖島の死の寸前に、自宅にかかって来た怪電話と言い、編集部にかけられた不気味な電話と言い、なんとなく仕組まれた℃膜フ死という匂いが強いのだった。
〈佐本が、玖島の死因と結びつくとは思わないが、とにかく時間をかけて、洗うだけ洗ってみよう。俺の気が済むまで……〉
篝正秋は、いま対決して来た佐本覚という人物の、どことなく気品のある顔立ちを思い泛《うか》べながら、軽い闘志を漲《みなぎ》らせはじめていた。
……その夜、篝が店を一廻りして、〈コンテッサ・クラブ〉を覗《のぞ》くと、専務夫人から、
「お客さんが、お待ちかねよ」
と言われた。
「ほう。どなたです?」
彼は、白い牡丹《ぼたん》の花のような、美しい神崎道子の顔を眩《まぶ》しそうに眺める。
「三星物産の方……」
「ほう。藤代さんですか?」
篝正秋は、奇妙な感情に襲われながらも、藤代六郎が待っているというゲーム室へ行った。
藤代は、連れらしい相手と、碁を打っているところだった。藤代が、白を握っているところをみると、相手よりは強いらしい。
「お珍しいですね」
彼が声をかけると、藤代は機嫌よく、
「やあ、元気かいな?」
と挨拶を返し、
「どや? 今夜?」
と簡単に言って退《の》けた。今夜は躰《からだ》があいてるかい、というほどの意味であろう。
篝は微笑した。
「どこか、新しいアナ場でも、見つかりましたか?」
そう訊《き》いてみると、藤代六郎はわが意を得たりとばかりに、
「それやがな。日頃お世話になるさかい、ちいーとばかり、けったいな店が出来たよって、案内しよう思うてなあ」
とニヤニヤするのであった。
「それは、それは!」
篝も軽く受けて、
「ではお供させて頂きます」
と笑った。
「待っててや。この白の大石が、生きるか死ぬかの瀬戸際なんや。三十分ほどで、片附くよってな……」
篝は一|揖《ゆう》して、ゲーム室を出た。
どこへ案内する気か知らないが、新機軸の店なら一見しておく価値がある。
顔見知りの客に挨拶して廻ったり、神崎道子と日本橋のビルのことで、立ち話しているうちに、予定より早く碁が終ったらしく、
「ああ、しんどい勝負やった……」
と言いながら、藤代たちがゲーム室から出て来た。篝は、専務夫人に耳打ちして、三人でエレベーターに乗った。
「どこなんです?」そう訊くと、
「どこでも、ええやないかい!」
と藤代は答える。その言葉の調子では、銀座でないことだけは、慥《たし》かであった。
案の定、藤代はビルを出ると、すぐにタクシーを拾い、
「麻布霞町《あざぶかすみちよう》方面へやってくれ」
と命じて、助手席へ乗り込んだ。
タクシーが走りだしてから、彼は不図思いついて、
「今日、佐本さんに会って来ました」
と背後から、藤代に声をかけた。
「そうやてなあ」
相手は何気なく答えて、
「女の子……まだ見つからんのかい?」
と反問してくる。
「はい。皆目わからないんです」
「ふーん。それやったら、諦《あきら》めたらよろし。探す費用を、新しい女の子のスカウト料に廻すこっちゃ」
「冗談じゃありませんよ。店への借金も、まだ残ってますし、それにパトロンの方が、私共を訴えるとカンカンなんですから――」
「ふーん。そうだったのか」
藤代六郎は、その時だけ標準語を使い、むっつりと後は黙りこくった。しかし、藤代の会話から、篝が帰ったあと、佐本から藤代六郎に連絡があったことだけは、確実になった。
三星物産の係長が、篝を案内してくれたのは、霞町の電停から少し入ったところにある四階建の小さなビルで、階段を昇って行かねばならないような建物だった。
四階の階段を昇りつめたところに、退屈そうな顔つきをした老婆が、ポツネンと木椅子に腰をおろしていた。
藤代はポケットから、カード状の印刷したものをとりだし、老婆に示している。老婆はうなずいて、ドアの鍵《かぎ》をとりだして、重々しい鉄の扉をギイーッとあけてくれた。
中へ入ると、蛍光灯《けいこうとう》のついた玄関があり、靴箱があって、踵《かかと》の高い婦人靴や、上等な男物の靴が並んでいる。
藤代は、その履物を勘定していたが、
「女八人に男五人……これに我々三人が加わって、ピタリになった訳や」
と、なにかを教えるように言った。
玄関を上ると、左右に部屋がある。
「男は、左側やったな……」
そう独りごとを言って、藤代は左手のドアをあけた。
うす暗い六畳の和室があって、壁に向かってスチール製の細長いロッカーが、ずらりと並んでいる。畳の中央には、真新しい男物のパジャマが積んであった。
「さあ、洋服ぬいで、パジャマを着るんや」
藤代が命令する。
「洋服を……脱ぐんですか?」
「当り前や。それがこの店の、規則だんがな……」
「洋服だけですか?」
「阿呆。どこの世界に、下着つけて、パジャマ着る奴があるかい?」
「すると裸の上に……」
「ああ。パンツも脱がな、あかん。これがパジャマ・ゲームの鉄則やがな」
仕方がないので、言われるまま、下着をとって、新品のパジャマの上下を身につける。
「洋服その他は、そのロッカーへ入れなはれ。鍵は、上衣のポケットやでエ」
ロッカーの扉を閉めると、藤代は篝と、同僚だという男をせき立てて、廊下を通って奥の店にと導いた。
いや、それは店というよりは、畳の上にジュウタンを敷いた部屋――サロンといった方が良かった。
サロンは十五畳ぐらいの広さで、コーナーに和風スタンドのバーがある。
円形の机が、六つばかりあって、顔も名前も知らぬ男女が、同じように新品のパジャマを着て、擽《くすぐ》ったそうな顔で、思い思いの酒を飲んでいた。
なるほど、先客は女性が八人に男性が五人であった。三人ほど、女性が固まってテーブルについている。
「篝君。きみは、あの三人の真ん中の女性のパートナーやで」
藤代が、一人の女性を指さして言った。
「決まってるんですか?」
彼は質問した。
「パジャマの柄が、きみと同じ柄やないかい!」
「ははあ……」
「なんのために、同じ柄のパジャマを二着ずつ買い揃《そろ》えたあると思うとんねん。きみがその柄を撰《えら》んだとき、今夜の相手は決まりよったんや……」
篝は、〈なるほど〉と思った。
つまり二着のパジャマを、男女が別々の部屋で、別れて着る。そうして、この大広間へ集合すれば、同じ柄のパジャマを撰んだ同士が、カップルを組める寸法であった。カウンターの中にいた若いバーテン風の男が、酒の注文を聞きに来て、
「では、人数も揃いましたので、乾杯のあと、さっそくパーティーに移りたいと存じます」と、事務的に言った。篝と組むことになった女性は、三十七、八ぐらいの、人妻めいた感じである。顔は俗に言う狐面で、眼のあたりに少し険があった。しかし、不美人では決してない。
「はじめてですか?」
相手は、篝に話しかけて来た。
「はい。はじめてです」
「あら、そう。私って運がいいのか、悪いのか、いつも最初の方にぶつかりますのよ?」
女は言った。その口吻《くちぶり》では、何度か、ここを訪れている様子であった。
乾杯が終ると、電気の照明度が、急に引き下げられ、うす暗くなった。バーテンがまた中央に進み出て、
「恒例により、女性の方も男性も、パジャマのズボンの方は脱いで頂きます」
と言った。篝の相手は、ためらうことなく、横坐りの姿勢で、ズボンを巧みに脱ぎ捨てている。
さすがに彼はためらった。
しかし、その羞恥心《しゆうちしん》を救ってくれたものは、うす暗い部屋の照明だった。と――どこからか、一筋の明るい光線が、白い壁をめがけて走り、突き刺った。
眼を凝らすと、それは八ミリのカラー映画で、〈春の夜の夢〉というタイトルが、くっきり写し出されているのだった。
「もっと、お寄りになって……」
彼の相手は、映画が上映されだすと、そう囁《ささや》いて自分の方から、太腿《ふともも》を寄せつけて来ていた。
――二時間後、三人はまた銀座に舞い戻っていた。
たいていのことには駭《おどろ》かない篝も、その夜の奇々怪々なパーティーには、あいた口が塞《ふさが》らなかったのである。
篝は、お礼の意味で、藤代たちを自分の知っている店に招待していたが、あの狂宴のあとでは刺戟《しげき》のないこと夥《おびただ》しい。
「大変なパーティーですな」
彼がそう、お世辞でもなく言うと、藤代六郎はこともなげに、
「今日は人妻ばかりやよって、大して面白味がなかったわな」と言うのだった。
「へえ……今夜ので、面白くないと言いますと?」
篝は唖然《あぜん》となった。
「米人の奥さんばかり集めたことがあるんや。この時は、凄《すご》かったでえ。それから、女子高校生のときも、面白かったわなあ」
「へへえ……そいつは聞いただけで、凄そうですね」
「ストリッパーやら、ファッション・モデルを駆り集めたこともあるわ。ストリッパーの方は、乳房の大きい、ボリュームのある娘ばっかりやろ。ところがモデルと来たら、洗濯板みたいな胸して、針金みたいな女ばかりやった。この二つは、対照的で、なんやこう粘っこく記憶に残ったァある」
「ははあ、なるほど」
「しかし篝やん……」
「はい。なんです?」
「絶対、あそこの場所だけは、口外したらあかんぞ」
「分ってます」
「乱交パーティーの、神聖な道場やからなあ」
藤代六郎はそんな表現をとって、愉快そうに肩を揺すったが、その〈乱交パーティー〉という文句を耳にしたとき、不意に彼はギクリとなった。
〈そうだ……。長谷川雪絵が、そのパーティーのことを話してた! そうして、そのパーティーの主催者が、佐本覚だとも……〉
篝正秋は目を光らせた。
彼は、宙を睨《にら》み据えて考える。
〈今日……俺は佐本覚に会った。紹介者の名前に、藤代係長を利用した……〉
〈ところが、その直後に、佐本は藤代係長に、俺が訪ねて来たことを報告している……〉
〈そして今夜、藤代は珍しく、コンテッサ・クラブに姿をみせた……〉
〈さらに俺を、乱交パーティーに誘った……。これは単なる偶然だろうか?〉
〈佐本が、藤代に依頼して、俺を今夜のパーティーに、連れ出させたのではないだろうか?〉
〈もし、そうだとしたら、佐本覚の目的はなんだろう? 丹羽章子の行方を追うことを、断念しろというのか?〉
〈それとも、乱交パーティーの仲間に引きずり込んだことで、俺に貸しをつくり、口を封じようとしたのだろうか?〉
篝が俄《にわ》かに、口を噤《つぐ》んで考えごとをはじめたのに気づいて、藤代六郎が、
「おい。どないしたんや?」
と声をかけて来た。彼は慌てて、
「いや。なんですよ……白人の女が十人も集まって、一糸まとわず、ジュウタンの上に寝転がっている姿を想像してたんですわ」
と嘘をついて、その場をとり繕《つくろ》った。
「なるほどなあ。しかし、壮観やったで。よっしゃ。こんど白馬会があるときには、きみを招待したるわな……」
「白馬会?」
「そうや。白い馬に乗るさかい、白馬会ちゅう名前にしてん」
「ははあ、風流ですな。しかし、今夜のパーティーは、どうやって採算とってんですか?」
「わからんね」
「え、わからない?」
「ある男が、やってんねん。抜け目のない男やさかい、ソロバンの合わんことは、ようせんやろうが……そう言えば、わいは一文も金払ったことないなあ」
「藤代さん……」
篝は声をひそめて、その名を呼んだ。
「なんやねん」
「その抜け目のない男……という人の、名前あててみましょうか?」
「ええ? 知ってんのかいな?」
藤代は、頓狂な声をだした。しかし、それは彼が知っている筈がない、という自信に満ちた声音のようである。
篝は、相手の高をくくったような顔つきを見ると、ついつい言わずもがなのことを、口をすべらせてしまっていた。そのために篝正秋は、藤代六郎と佐本覚という、二人の敵をつくることになるのであるが、それは後の祭りであった……。
「むろん、藤代六郎……」
「なんだと?」
「ではない。違いますか?」
「当り前じゃないか。これでも藤代六郎は、三星物産のホープさんだぜ。なんで、そんなくだらない、危ない橋を渡るかい!」
「ですから、藤代さんじゃあないと、申し上げました」
「すると、誰だね?」
「佐本さんですよ」
彼は、すらりと言った。
「誰だって? おい。いま何と言った」
「佐本さん。覚さんですよ」
……今度は明らかに、藤代六郎の顔に、大きな狼狽《ろうばい》の色が浮き上っている。
よほど衝撃だったのだろうか。藤代は、急に口が利けなくなった腹話術師のように、両唇を戦《わなな》かせ、彼を凝視しつづけている。
「違ったですか?」
篝は、〈どうだ!〉と極《き》めつけるように、追い討ちをかけている。
「なぜ、知っている?」
やっと、藤代六郎の口から洩れたのは、乱交パーティーの主催者が、佐本であることを裏書するのも同然な、そんな言葉であった。
篝はニヤリとして答えた。
「ジャの道はヘビ……と言いますからね」
[#改ページ]
百万の味方
……あとになって考えてみると、篝正秋はその時、聊《いささ》か勇み足の罪を犯していたのであった。つい調子に乗って、自分の推理が正しいか否かを、たしかめてみる気になったのである。
だが――それは今後の、彼の調査を不利にする、悲しい結果しか、もたらさなかったのだった。
なぜなら、その極秘の乱交パーティーの主催者が、佐本覚であることを、篝が知っていたのでは、逆に遊ばせてやった相手――篝正秋に佐本の秘密を握られたも同然の結果となるからだった。
つまり佐本にとっては、丹羽章子の件と言い、乱交パーティーの件と言い、二重、三重に篝を危険視せざるを得ない。これは当然の帰結であった。
――その夜、藤代六郎と篝とは、気不味《きまず》い思いをして右と左とに別れたが、はっきり藤代が彼を警戒しはじめたことが判り、彼としても自分の勇み足ぶりは、大いに反省するところであった。しかし、いまさら弁解しても追い付かない。
〈仕方がない。こうなったら、正攻法をとるだけだ……〉
そう考えて、あきらめてみたものの、佐本や藤代からの聞き込みの線が、断たれたことは、やはり辛い。だが、玖島太郎の死因を追求しようという執念の火は、さらに強く燃え上って行ったのである。
数日間は忙しかった。
篝は、日本橋|界隈《かいわい》のビルを見て歩き、なかなか適当なのが見当らず、結局、京橋一丁目か、八重洲《やえす》口にあるビルの二つに候補をしぼり、大阪の小平賢治に報告した。
ビルの三階のフロアーを借り切るとなると、商売が商売だけに、ビジネス・ビルの持ち主は良い顔をしないのである。
漠然とした年間の収支計算を、あれこれとソロバンを弾きはじめた土曜日の午後、
「玖島ですが」
という男の声の電話があった。
彼は受話器を手にしていて、心臓が凍りつかんばかりの駭きを味わった。言葉は丁寧だが、死んだ玖島太郎にそっくりの声音だったからである。
彼が立ち竦《すく》んでいると、
「もしもし、篝さんかの? 儂《わし》じゃ。太郎の父親ですわい……」
という声が、受話器から響いて来た。
「やあ……玖島君のお父さんですか。彼に、あまり声が似ていたもんで……」
彼は、ほッとしていた。父子だと、声まで似るものなのであろうか。
「ちょっと篝さんにな、相談に乗って貰いたいと思うて、いま、銀座に出て来とるんじゃが……」
玖島五郎作は、丁寧に言った。
「ああ、そうですか。いま、何処《どこ》ですか? 私が伺いましょう……」
「ああ、来て下さるかの? それじゃあ大助かりじゃ」
玖島太郎の父は、自分の居場所を告げた。西銀座六丁目にあるレストランからの電話であった。
さっそく出掛けてゆくと、玖島五郎作は、線路工夫から叩き上げた頑丈《がんじよう》な躰を、上等な英国製の背広で包み、手に太いスネークウッドのステッキを持ち、ステッキに両手を重ねて、その上に頤《あご》を載せて瞑想《めいそう》していた。
「しばらくでした……」
挨拶をすませると、玖島の父親は、いきなり切り出して来た。
「篝さん。わしは、タクシー会社を売りましたわい。それで、あんたの力を借りて、キャバレーでも経営してみたいんじゃが……」
篝は出しぬけの話なので、毒ッ気を抜かれた感じで、目瞬《まばた》きばかりしている。
「全部で三億円あまりあるが、まあ、これを三分して、一億で一軒つくってみたらどうかと考えとるんですわい。あとは現金と株に、一億ずつ振り向けます……」
「お父さん……」
彼は、迷惑そうな表情で、しかし忠告する態度になった。
「悪いことは言いません。キャバレーにしろ、クラブにしろ、女の子で苦労するだけですよ……。お止めになった方が、賢明です。とにかく、碌《ろく》なことはありません……」
「そうかのう。しかし現に、銀座にゃア、デラックスな大きな店が、どんどん誕生しちょる。あれは全部、赤字ですかいの?」
「いや、そうだとは限りませんが、車と違って、最近のホステスは……」
「しかし、キャバレーに労働組合はありますまいが? まあ、車も女も、乗り物みたいなもんじゃが、タクシー会社には労働組合がつきものじゃけん……」
いろいろと忠告はしてみたが、玖島の父親は、思い込んだら命がけというタイプの人間で、どうしてもやってみるという。
「一億円がスッテンテンになってしもうても、わしの最後の道楽じゃと思えばええわい。太郎の嫁と、孫には、株券をやったけん、食うには困らんじゃろ……」
どうも話の内容では、労働攻勢に悩まされて、タクシー会社を投げだしたらしく、老後の愉しみに、自分の好きな酒と若い女とが結びついた商売を、やってみたいという肚《はら》らしかった。
篝正秋は、「プランを練ってみます」ということで、一先ず玖島の父の嘆願を抑《おさ》えておいて、しばらく雑談した。
当然、雑談の内容は、死んだ玖島のことから、雪夫という遺児のことに及んだが、ふッと思いだしたように、玖島の父親は、
「あんたア、詫摩ちゅう人を、知っとりんさるかいの」
と話しかけて来た。
「詫摩……というと、詫摩周六ですか?」
彼は訊いた。
「うん、そうじゃ。なんでも、偉い人らしいが、この間、通りがかりじゃと言うて、仏壇に線香を上げて、わざわざ拝んで帰って下さってのう……」
「えッ。詫摩周六が玖島君の仏壇に?」
「ああ。そのとき、太郎の友人という男が、あれは事故死じゃなくて、他殺じゃと言うて取材に来たとか、言うとりんさった……。千代子はまだ、太郎が殺されたと思い込んどるようじゃが……ありゃアやはり、詫摩さんの仰有《おつしや》る方が正しかろう喃《のう》……」
「すると、お父さんも事故死だと?」
「うん。酒を飲んどったし、結局はアルコールが太郎を殺した犯人なんでしょうて……」
玖島の父が訪ねて来てくれたことは、篝正秋に微妙な確信を与えることになった。
その確信とは、あの詫摩周六が、通りがかりと称して、玖島の両親に会い、
〈他殺だなどと、遺族がくだらない妄想《もうそう》をするのは、かえって玖島太郎の霊を迷わせ、成仏できなくさせる。息子さんの友人たちに、くだらないお節介は止めるようにと、忠告した方がよい〉
という意味の、説教をして立ち去った……という事実だった。
詫摩周六の言葉を借りると、玖島と詫摩とは四年前に、取材を通じて知り合った仲であり、その後は半年に一遍ぐらいの割合で、会っていたらしい。
しかし詫摩は、玖島の死を知っても、葬式にも参列していないし、香奠《こうでん》や花輪を贈ることもしていない。つまり葬式の段階では、詫摩周六は玖島の死を無視している。
だが、彼が直接に訪問して、
「玖島が殺されたという噂《うわさ》がある」
と披露した直後に、詫摩周六は、わざわざ玖島の家を訪れているのだ。
そうして、彼に説教したのと同じ論法で、
「一人で車を運転していて、殺される人間はいないし、もし他殺なら目撃者がある筈だ……」
と、玖島の両親に説諭を加えているのである。これは常識的に考えて、ちょっと御念が入りすぎている。
玖島五郎作は、詫摩を訪ねた友人≠ニいうのが、篝本人だとは気づいていない様子であるが、詫摩周六の口吻《くちぶり》は、あきらかに篝本人を指さしていた。
〈あの忙しい人物が、なぜ、仏壇の位牌《いはい》に化けた玖島太郎の霊を弔い、焼香したり、高価な果物カゴを贈ったりしたのだろうか?〉
〈また、なぜ玖島の事故死を裏付けるような話ばかりして、引き揚げて行ったのだろう?〉
篝としては、逆に、そんな相手の行動を、疑惑の眼をもって、眺めざるを得なくなったのである……。
詫摩周六は、あきらかに何らかの目的をもって、玖島家を訪れたものらしかった。その目的は、なんであるか。
〈わかっている、あいつの狙いは!〉
彼は腕を組む。
腕を組みながら、詫摩周六ともあろう才人にしては、ちょっと不手際すぎたようだと考えている。
なぜなら、玖島太郎がハッキリ事故死だったのなら、なにも遺族を訪問して、それを力説する必要もないのである。
タクシー会社を経営している玖島の父が、一人息子の死因に疑いを抱いたことがあったとすれば、そこは本職のことだから、いくらでも調べることが出来た筈だった。しかし玖島五郎作は、息子の死因に、さほど拘泥《こうでい》した様子もない。
……この辺に篝は、詫摩の誤算≠ェあったような気がした。
玖島太郎の死因は、目下のところ警察の調査でも、酩酊《めいてい》運転による追突が原因で、直接には頸《けい》動脈切断が死因だと言われている。
彼はまだ、その警察の調書を、自分の眼でたしかめた訳ではないが、第三者的にみて、その報告には誤りがないと思われる。
にも拘らず、詫摩は、彼の動き≠キャッチすると、遺族にバカなことは考えるな、事故死以外にあり得ない、とわざわざ念を押しに出かけている。
……ということは、裏返せば、玖島太郎の死は事故死ではない、という証明ではないのだろうか。
いや、事故を装った謀殺≠セった、と考えてよいのではないか。
また詫摩が、それほど関心を寄せるということは、彼自身が玖島の死に、なんらかの形でタッチしていたということでもある。
〈そうだ……。玖島は、詫摩に面会を求めていた。しかし詫摩は、先方の一方的な理由で、面会日の延期が申し入れられたと証言している。このあたりに、死因を解くなにかが、潜んでいそうだぞ?〉
篝正秋はそう思うと、矢も楯《たて》もたまらず、駿河台にある〈日本春秋社〉に電話を入れていた。玖島の上司であった田村編集長に会い、知恵を借りたかったのである。
あいにく田村は、座談会の司会に出ていて、それっきり会社には戻らない、ということだった。土曜日であれば、それも当然であろう。
だが念のため、座談会の会場をきいてみると、東銀座にある日本料亭がその場所に使われている。
すぐ電話をかけた。
田村錬次は、電話口に出て、彼の用件を聞くと、例のむっつりした口調で、
「午後八時には、躰があきます。この近くで場所を指定して下さい」
と言った。
田村編集長が、彼の指定した小料理屋の二階に姿を現わしたのは、八時十分過ぎである。
田村は、いつか見た黒革の手帳をとりだして、見憶《みおぼ》えのある玖島のスケジュール表を、篝の前においた。
「これが必要なんですか?」
田村は言った。
「そうなんです」
篝は、それを受け取って、懐しそうな視線をあてた。
彼は、〈秘密カルテル〉や〈山陽新幹線〉のことは伏せて、いままで自分が知り得た奇怪な部分≠セけを、かいつまんで田村に語って聞かせた。
田村はビールを飲みながら、黙って聞いていたが、結論を下すように、
「つまり貴方は、その詫摩という人物が、玖島の事故死に関係がありそうだ……というわけですな」
と言った。いかにも田村らしい、突飛な言い方だが、彼の心の底を鋭く衝いている言葉でもあった。
「そうです……。玖島は、そのネタを、大学の先輩の団井という経済記者から、教えられたらしいんです。たしか去年の暮ごろのことです……」
「そういえば、私が玖島君から、疑獄に発展しそうな事件があると耳打ちされたのは、今年のはじめ……たしか新年宴会の帰りだったな」
田村は言った。
「奴《やつこ》さんが死んだのは、二月十二日です。土曜日の夜ですわ」
「うん。すると……」
田村錬次は、折り目のすり切れかかったスケジュール表を覗《のぞ》き込み、
「二月八日……詫摩氏、午後二時か!」
と呟《つぶや》いた。
田村は、煙草を咥《くわ》えたが、火をつけるでもなく、物想いに沈んでいる。
「どうか、したんですか?」
彼は訊いた。
「いや、貴方はどうして、この〈詫摩氏〉を捜し出せたのか、と思ったんだ」
「電話帳からですよ」
「ほほう。私も変った姓だから、電話帳を引いて、残らず電話してみた……」
「では、詫摩周六にも?」
「むろんだ……」
「なんという返事でした?」
「日本春秋の玖島記者なんて知らない、という返事だったと思うよ。むろん、本人ではなく、家族を通じての返事だったが」
「なるほどなあ……。私には、四年前からの知り合いだと言いました」
「ふむ。その点も可怪《おか》しいな。故意に、なにかを隠している」
「私は二月八日に、もしかしたら詫摩と玖島とが、会っているかも知れないと考えたりしてるんです」
「というと?」
「実際には会ったが、私には嘘をついているわけです。一週間ほど、先に延期してくれといったそうですが、これも怪しいもんでしょう?」
「なるほどね。すると、二月八日午後一時から五時ごろまでに焦点をしぼって、詫摩周六のアリバイを調べたらいいわけだ……」
「と、言うことになりますね」
「玖島が二月八日に、どういう行動をとったかも、調べてみましょう……」
「お願いします」
篝は敬虔《けいけん》な気持で、頭を下げた。
何気なくスケジュール表を裏返してみると、それは一月分のスケジュール表になっている。この前、手にした時には、気づかなかったことだが、一月二十四日の月曜日の項に、〈三星物産厚板課・藤代氏〉と記入されてあった。
だから藤代六郎には、その日にインタビューしたのであろう。
〈たしか藤代は、鉄鋼界のことを玖島と語り合っただけだ、と言っていた。しかし、この調子では、本当はもっと深いところを抉《えぐ》られて、藤代は辟易《へきえき》していたのではなかったのか?〉
〈玖島の事件と言い、丹羽章子の失踪と言い、藤代は必ず登場してくる。これは決して偶然ではない!〉
……篝は、乱交パーティーの夜の、藤代係長の猜疑心《さいぎしん》と、怯《おび》えに満ちた瞳《ひとみ》の色を思いだして、かるく背筋を硬《こわ》ばらせていた。
彼は、藤代六郎もまた、玖島のことに関しては、なにかを隠している、と思った。それは確信に近い、彼の直感だった。
〈そうだ……。詫摩周六と藤代を中心に、少し探ってみよう……〉
篝はそう思った。
そのとき、田村錬次が不意に躰を硬ばらせながら、
「しかし篝さん。あんたも忙しい躰だろうに、死んだ玖島のために、いろいろやって下さったんですなあ」
と、ぎこちなくテーブルに両手をついた。そうして深々と、お辞儀をするのだった。篝は、照れた。
「止めて下さい、田村さん……」
彼は手をふった。
「別に友情でも、なんでもありません。ただ好きだから、やっているんです」
「でも……先輩である私には、そこまで踏み込めなかった。数人の人に会い、あとは電話で片附けて、それで事足れりと自己満足していた……」
「田村さん。もう、止めましょう」
「いや、私は恥しい。とにかく明後日でも、編集部の人間を、一人やりましょう、篝さんのところに……」
「なぜですか?」
「はじめから、もう一度、調べ直すためですよ。せめて詫摩周六のアリバイだけでも、私の手で調べさせて下さい……」
今度は、篝がお礼を言う番であった。篝正秋は、百万の味方を得たような気持がしていた――。
[#改ページ]
睡眠薬遊び
……翌日は、日曜日だった。
日曜日は、篝にとって、唯一の安息日である。夜遅い商売なので、どうしても一週間の疲労が、澱《おり》のように溜《たま》る。
ホステス達は、昼すぎまで眠り、疲れを取るらしいが、篝の場合は、そうもいかなかった。結構、昼間の仕事があるからである。
ふだんの篝なら、土曜日の夜にたっぷりウイスキーでも飲み、アルコールの勢いを借りて、朝寝するところである。
そうして午後二時ごろ、新聞を片手に、下駄ばきで自由ヶ丘駅あたりに出る。朝食兼用の昼食を摂《と》るためであった。
朝刊を読みながら、食事を済ませ、駅前の書店に入って目についた新刊書を買う。
こんどは、その単行本を片手に〈モンブラン〉という喫茶店に入る。その店には、中学時代の友人が勤めていて、彼に向きそうなケーキを用意してくれているからである。
読書に倦《う》むと、ぶらッと店を出て、ショッピング街を散歩したり、映画館に入る。
夕方になると、ガード脇の〈金田〉という酒場へ行く。ここで焼鳥や、季節の肴《さかな》を食べ、ビールのあと日本酒を飲む。
徳利を五、六本倒したところで、アパートに帰り、風呂に入って、ベッドで本を読みながら眠りにつく……というのが、いつしか篝正秋の日曜日のスケジュールになってしまっていた。
ところが、その日は、朝十時ごろ、珍しい電話があった。掛けて来たのは、興信所長の加藤汀三である。
「いま、親父に呼びつけられてね。その帰りなんだが、あんたが自由ヶ丘にいることを思いだして、途中下車したんだが」
と、加藤は、どうやら駅前から、電話をかけている様子だった。
睡くはあったが、篝としても、広島や九州の結果を聞きたくて、アパートへの道順を教え、大急ぎで部屋の掃除にとりかかったのである。
掃除といっても、ベッドにカバーをかけ、居間のテーブルを拭いたり、灰皿を洗ったりする位のことだが、それでも可成りの時間を食った。
顔を洗い、湯を沸かしているとき、ドアのノックがした。あけると加藤汀三が、食パンと果物の包みを持って、笑いかけてくる姿が目の前にあった。
「やあ、どうぞ――」
招じ入れると、加藤は疲れたような表情で、ジュウタンの床の上に、すぐ胡坐《あぐら》をかいた。
「大川作之助という男は、全く精力絶倫な人物だね。あきれたよ……」
加藤は、坐るなりそう言った。
話を聞いてみると、今しがた帰京したことを電話で報告したところ、
「すぐ来い」
と命令されたという。
「仕方なく、その足で奴さんの家に行くと、驚いたことに、寝室へ通しやがった。大川は三人の女を相手にしていたぜ……」
「それが、例の朝食代りの女秘書かい?」
「そうなんだ。俺は慌てて、廊下に飛び出したんだが、しばらくして奴さんは悠々と座敷から出て来た」
「ふーん?」
「あとで、そっと覗いてみると、女は三人ともぐったりなって、阿呆みたいに眠ってやがるんだ……」
「なるほど。一打ち三匹、か」
「三人を満足させたあと、風呂に入り、俺の報告を聞いたんだが、それも芝生の手入れをしながらなんだなあ……」
篝正秋は苦笑した。
痩《や》せぎすで、顔の蒼白《あおじろ》い加藤汀三が、獣《けだもの》じみた大川作之助の朝餉《あさげ》に、圧倒された気持はよく判るのである。
篝はコーヒーを淹《い》れ、冷蔵庫からバターを取り出した。
「それで……どうだった?」
彼は訊いた。
「ミューズの方かい?」
加藤は、煙草の火を点《つ》けながら、ニヤリと顔を歪《ゆが》める。以心伝心、といった感じだった。
「うん。土地の方さ」
「それが……大変なんだ……」
興信所長は、癖のように、内ポケットから手帳をとりだす。そうして忙しそうに、頁を繰りだすのである。
「大変……というと?」
「ミューズの宝部三吉なんて、問題じゃないんだなあ、これが!」
「問題じゃない?」
「うん。北九州市、広島、岡山……軒並みに土地が買われている」
「ほほう……。何者だね」
「大阪に本社を持つ柴金《しばがね》商事という、資本金一千万円の不動産会社だ……」
「柴金商事……ふーん?」
「こいつの調査が手間どった訳だが……社長は柴崎金之助という六十四歳の男だ」
「ふーん、なるほど」
「会社の設立は去年の夏で、会社の重役にはだ……驚いたことに、詫摩ヤスと、佐本|百合子《ゆりこ》という二人の女性が、名前を並べていた……」
〈詫摩に、佐本だと!〉
篝は、ぽかんと口をあけた。
「どうだ。駭《おどろ》いたろう?」
加藤汀三は、満足そうに笑った。
「すると、その二人は……」
「その通り。詫摩周六の女房と末娘だよ」
「ふーん。読めて来たぞ!」
「しかし、駭くのは、まだ早い」
「まだ、何かあるのかい」
「大有り名古屋の、こんこんちきさ。柴崎社長は、工藤幹事長とは義兄弟の間柄になる。つまり、工藤の姉を娶《めと》っているんだ……」
篝正秋の頭の中では、なにか正体のわからない渦が、盛んにぐるぐると廻りはじめだしていた。〈わかって来たぞ〉と、彼は心の中で呟いた。呟きながら、どういう訳か、居ても立っても居られないような、奇妙な心境であった。
篝正秋の資料と、加藤汀三の調査とを、つきあわせてみると、山陽新幹線をめぐる〈青図面〉は、ほぼ次のような経過を辿《たど》ったものと、推定できる。
@運輸官僚出身であり、鉄鋼統制会の専務理事でもある詫摩周六は、かねがね大企業の秘密カルテルをつくろう、という野心を抱いていた。
Aたまたま花村法律事務所に勤めている佐本覚に、この構想を打ち明けたところ、佐本はさっそく詫摩の出戻り娘である百合子に接近し、妻を離別して百合子と再婚した。
〈註《ちゆう》〉おそらく頭の切れる佐本弁護士は、詫摩の政・官界における顔と、花村事務所の顧客である一流企業と結びつけて、これはモノになる! と考えたに違いない。しかし、仕事の性格が性格だけに、詫摩周六も滅多なことでは他人を信用すまい。そのためにも、佐本覚は詫摩周六と、舅《しゆうと》と婿の関係になる必要があったのではないだろうか。
B娘婿となり、自分を裏切る懼《おそ》れのない佐本に対して、詫摩は、秘密カルテルをつくり、その運営を命じた。
〈註〉この偽装のために誕生したのが、スチール通信社であり、その規模に較べて、広い応接室や予備室があるのは、カルテルの密談もしくは会合のために必要だからであろう。
C鉄鋼、セメント、建設、電機などの大手業者は、喜んで参加したが、一通りダム工事が終ると、次の餌《えさ》として、山陽新幹線に目をつけた。
D運輸官僚だった詫摩周六は、この山陽新幹線の計画を聞きだし、用地買収のための柴金商事を設立させる。
E狙ったのは、新幹線の主要駅となる周辺の山林、農地である。
〈註〉加藤汀三の調査によれば、その買収した用地は、ざっと五百万坪にも及んでおり、買収費は坪千円としても五十億円である。しかしその金が、どこから出たかは判らない。
F買収にあたったのは、柴金商事であるが、その登記名義は、昔の所有者の名義のままに放置してあるのが多く、柴金商事は地主たちに、工場建設のさい一括登記すると称して、白紙委任状をとりあげている。
〈註〉柴金商事の名義で登記すると、後日、国鉄に売り渡す際、その買占め事実が表面化する恐れがある。それを避けたのであろう。
Gすでに用地買収は完了したとみられ、あとは国鉄当局の測量待ちである――以上。
……だいたい、こんなような形で、秘密カルテルがつくられ、山陽新幹線を次の餌として狙うようなことに、なったのではないだろうか?
篝正秋は、そう思っている。
問題は、憲民党の工藤幹事長との関係、ついでミューズの宝部が、どこから情報を仕入れたか、ということだった。
しかし、柴崎金之助が工藤幹事長の義兄であり、また詫摩周六は工藤の親友であるところから推して、この山陽新幹線の独占買収には、なんらかの気脈を通じているものと考えてよかろう。
「するとミューズの宝部は、政治献金を行って親しくなった工藤幹事長あたりから、情報を貰ったんだろうな……」
加藤汀三は、食パンにバターを薄くつけながら、反芻《はんすう》するように話しかけてくる。篝もその推理には、異論はなかった。
「多分、そんなことだろう。ただ、四億円を金策したあと、また二億の金が必要だったのは何故《なぜ》だろう。これが判らないね」
彼は、考え考え言った。
「俺は、四億円の方は、宝部が工藤から頼まれて、工面してやった政治資金だと、にらんでいる。この考えは、可怪《おか》しいかい?」
「ふむ。政治資金か?」
「奴さんが、名古屋の土地家屋を担保に、地元の銀行から融資を受けたのは、ちょうど憲民党が総裁公選でゴタゴタしていた最中らしいんだ……」
「ほほう……」
「うちの親父……つまり大川作之助の情報によれば、このとき工藤幹事長は、はじめ二十億あつめ、それでも足りなくて、あと十億円をあつめたのだそうだ……」
「ふーん。辻褄《つじつま》が合ってくるな」
「工藤のことだから、政治資金を出してくれれば、これこれの確実な、金儲《かねもう》けの方法を教えてやろう……なんて切り出したんじゃないかなあ」
「なるほど。それで宝部三吉は話に乗った……」
「四億円は、総裁公選の資金に……」
「あとの二億円のめどがつかないため、奴さんは走り廻る……」
「それを、お宅の小平旦那が、不思議に思って調査を命じた」
「また、その調査の上前を、大川作之助がピン刎《は》ねしたという訳だな?」
――二人は顔を見合わせて、低い声で笑いあったが、しばらくして、どちらからともなく黙り込んだ。
そのとき篝正秋は、やはり玖島太郎のことを、思い出したのだった。
玖島太郎が秘密カルテルの存在を暴《あば》こうとしていたのか、新幹線汚職の方にウエイトを置いて調査していたのかは知らない。
しかし、いずれにしろ、玖島記者の口は封じられたのである。その死因は、警察でも〈事故死〉と断定している。
だが、玖島未亡人の鋭い直感の方が、いまや篝には信じられるような気持だった。
〈玖島は殺されたんだ……。だが、どんな方法で、事故を起させたのだろう? 車に、細工でもしたのだろうか?〉
篝正秋は、いつしか食パンの一片を、掌《てのひら》の中に握りしめて、考え込んでいた。
「ところで、女の居所は、判ったかい?」
加藤汀三が不意に訊いた。
「う……いや……」
「どっちなんだ?」
「いや、失敗したよ」
篝正秋は、慌てて言った。
やはり、動揺していた。不意討ちだったからである。嘘を吐《つ》くことは、心苦しくはあったが、麹町の佐本マンションにいる彼女のことは、大川作之助には教えられないのだ。いや、知られたら困るのである。
〈そうだ……加藤君が帰ったら、章子に電話してみよう……〉
篝は、ふッとそう思いついた。
丹羽章子に、もう少し密着する必要があった。彼女が、工藤幹事長の囲われ者だということは、よく判っている。二年後に、独立して店を出して貰えることも、知っている。
しかし、丹羽章子の心を捉《とら》えなければ、なぜ佐本覚が、彼女を〈コスモス〉から辞めさせたか、ということは話して貰えないのである。
また、これが本当は知りたい点なのだが、玖島太郎と佐本覚とが、事故以前にどんな交渉をもったかも、彼女の援助なしには探れないのである。
「尾行に、失敗しよったわけだね」
「うん、迎えの車がいたんだ……」
「なるほど。まあ、いいだろう」
「と言うと?」
「工藤幹事長の、車の運転手あたりを買収すれば、新しい女の家ぐらい、すぐに教えて貰えるさ」
「それはそうだね」
「親父……あんなに女を囲っておきながら、まだ丹羽章子にだけは、未練たっぷりらしいぜ」
「ほう。そうかい?」
「今朝も、芝生を刈りながら、草の根わけても探し出せって言いやがった」
「ふーん……」
篝は、心もち顔を赤らめた。
「しかし、丹羽章子を探し出したら、親父には悪いが、ちょっと失敬してみたいね。よほどの名器らしい」
加藤汀三は、そんな露骨な表現をとったあと、午後から、子供を映画に連れて行く約束なんだと、思いだしたように立ち上った。篝も強いて引き留めなかった。
客が帰ったあと、篝は、佐本マンションに電話を入れた。
丹羽章子は部屋にいたが、彼が、
「いまから訪ねるよ」
と言うと、
「番号が違ってます」
と言い返して来た。
〈ははあ……旦那が来てやがる!〉
篝は、すぐにピンと来たので、
「では、なん時ごろが都合がいいの?」
と声を潜めた。
「さあ。よく判りませんけど、いつもでしたら、六時ごろには帰られるようですよ」
丹羽章子は、声を取り繕《つくろ》っている。
「じゃあ七時に、近くから電話して訪ねるからね」
「ええ、済みませんが、私どもにも判りかねますので」
電話は、それで切れた。
篝正秋は時計を眺め、ベッドの上に寝転がって、先週から読み残している雑誌の小説に、目を通しはじめた。
しかし、なんだか苛々《いらいら》して、活字がよく目に入って来ない。なぜか、胸の底が、疼《うず》いているのであった。
〈嫉妬《しつと》しているのか?〉
篝は、雑誌を抛《ほう》りだし、外出の支度をはじめた。
ズボンを穿《は》き、洋服ダンスの鏡に向かって、ネクタイを締めているとき、アパートの管理人が、電話だと告げて来た。
〈変だな……〉
彼は、首を傾げながら、廊下へ降りて行った。受話器をとると、暁興業の宿直の爺さんからだった。
「あのう……お店の女の子が、睡眠薬遊びで、上野署に捕っているらしいですが」
「なに、睡眠薬遊び」
篝は舌打ちした。
「名前は?」
「長谷川……長谷川雪絵です」
「仕方のない奴だな!」
篝は、電話帳をくって、警察署の電話を探しダイヤルを廻すと、自分の職業と氏名を告げ、用件を言った。
すぐに係官が出て、
「困りますなあ……」
と先ず苦情を言った。
その説明によると、長谷川雪絵は、上野の盛り場を、睡眠薬をポリポリ噛《か》みながら、ふわり、ふわりとした足取りで歩き廻り、玩具《おもちや》屋のショーウィンドーを叩き壊したのだと言うことだった。
「済みません……すぐに参ります」
篝は、舌打ちしながら、雪絵のボリュームのある体格を思い浮かべ、反射的に、章子の躰の味とを比較していた。
〈仕方のない女だ。全く!〉
そう呟きながらも、こんな苛々した気持のときには、女の子の貰い下げで、警察へ出頭するのも悪くない、と考えていた。
〈なぜ、そんな莫迦《ばか》な真似を、したんだろうか?〉
部屋に帰って、上衣に腕を通しはじめたとき、ふッと彼の心に、そんな疑問が横切った。彼は、その疑問に自分で答えながら、靴を穿きだした。
「もしかしたら、佐本に捨てられたのかも知れない、な……」
[#改ページ]
火の接吻
病院に連れて行かれ、胃を洗滌《せんじよう》させられたという長谷川雪絵は、それこそ象牙《ぞうげ》のような蒼《あお》い顔をして、しょんぼり上野署の少年係の部屋で坐っていた。
彼を見ると、さすがに眼を輝かせたが、別に口を利いてくる風でもなかった。
「ショーウィンドーには、保険がかかってなかったのでしょうか」
篝は、刑事に訊いた。
「かけてなかったんだ」
刑事は無表情に言い、
「きみと、あの娘との関係は?」
と質問してくる。
篝は、自分が暁興業の保安部長であることを述べ、刑事の訊問《じんもん》に応じた。
少年係には、秋田から家出して来たという兄弟や、雪絵とおなじく睡眠薬遊びで補導された十七歳ぐらいの、小柄な洋裁学校の生徒がいた。
その女生徒は、年齢を二十歳だと偽り、住所氏名も嘘を言っているらしく、係である婦人警官から、
「ハンドバッグの中味を見せて頂戴」
と、叱責《しつせき》されている。
「なぜ、ハンドバッグの中味を、見せる必要があるのよ」
「あなたが、出鱈目《でたらめ》を教えるからでしょ」
「出鱈目じゃないわ」
「だったら所轄の交番で、該当者があると返事してくる筈でしょ。ハンドバッグを見せなさい」
「いや!」
「じゃあ正直に言いなさい」
「だから、言ったじゃない!」
「あまり警察を莫迦にしないでね、貴女《あなた》。貴女みたいな、不良のために、国民は税金を使われたくはないのよ? さ、良い子だから、そのハンドバッグを貸しなさい」
婦人警官は、いかにも扱い馴れているといった感じで、そのバッグを取り、留め金をはずすと机の上に、中味をぶちまけた。
ちょうど篝の横のテーブルだから、中味はよく見えたのであるが、睡眠薬が二|瓶《びん》と、プラスチックの函《はこ》に入ったコンドームが出て来たから、篝も駭いた。
「まあ、凄いもの持っているのね」
婦人警官は、じろりと女の子を睨《にら》む。
さすがに彼女もためらい、慌ててそれを取ろうとしたが、一瞬はやく相手の掌《て》に、素早くそれは納まっていた。
「なにに使うもの?」
警官は厳しい口調になる。
「なにに使うものかしら。お友達から預ったんだから、あたし知らないわ。お姉さん、教えて下さる?」
女の子は、へらず口を利いている。
「さあ、何に使うんでしょうね」
婦人警官は、定期入れから、本名と年齢を探りだし、身分証明書を一|瞥《べつ》するなり、本人の通っている洋裁学校へ電話を入れはじめた。
こうなると、女の子も慌てだして、
「学校へ電話して、どうするのよ!」
と叫んだ。
「だって、本人が本当のことを言わなければ、仕様がないでしょ」
「言うわよ!」
「じゃあ、言いなさい」
婦人警官は、電話をかけるのを中止して、本人のいう住所を聴き取り、ただちに所轄の交番に、問い合わせの電話を入れる。
長いあいだ、手古摺《てこず》らせていたが、今度はどうやら真実の自供だったらしく、たちまち本人の家と連絡がとれ、兄なる人物が、身柄を引き取りにくることで話がついた。
すると、先刻までの権幕はどこへやら、
「ねえ、お姉さん。お願いだから、兄さんにコンドームのことだけは黙っておいて」
と哀願しはじめる。それは全く掌《てのひら》を返したようで、見ていて面白かった。
「あら、コンドームって、なあに?」
婦人警官も、なかなか人が悪い。
「お姉さんが、いま持っているものよ」
「おや、友達から預って、何に使うか知らないんじゃなかったの?」
「意地悪……」
「人様からの預り品なら、お兄さまに見せたって、一つも恥しくない筈でしょ?」
「困るのよ……」
「どうして?」
「あたしの物なのよ……」
「それならそうと、どうして始めからそう言わないのよ」
「だって、恥しいじゃない!」
「あなたの品なのね、これ?」
「うん……」
「使っているの?」
「うん。だって、薬飲んで、あれしたら、最高に良い気持なんだもん」
「病気や妊娠を防止しているのは、お利口さんだと賞めて上げたいけれど、あなた、まだ十六歳と八カ月なのよ」
「知ってるわよ、そんなこと。でも、してはいけないって、日本の憲法に書いてあって?」
「おや、おや。貴女は憲法をじっくり読んでから、不純異性交遊に入ったというの?」
……二人の会話のやりとりは、全く面白かったが、そのうち長谷川雪絵の調書の方が片附いて、篝は彼女を連れ、上野署を出た。
「ひどく蒼い顔をしている」
篝は言った。
「中野のアパートまで、送って行こう」
「……済みません」
ひどく雪絵は素直に、呼び停めたタクシーに、自分から乗り込むのであった。
雪絵のアパートの室内は、乱れに乱れていた。
なにか半狂乱になって、自分で手当り次第に、室内を引っ掻《か》き廻したような形跡があった。
「いったい、どうしたんだね?」
篝は、床に散乱した下着だの、ハイヒールを拾って片附けながら、雪絵に聞いた。
「あの人と、喧嘩《けんか》したの」
雪絵は言った。
「なにが、原因だい?」
「それが……部長さんのことなの」
「ぼくのこと?」
篝正秋は緊張した。
丹羽章子の行方を知りたい……という口実で、篝はつい最近、佐本覚に会ったばかりである。
彼は、佐本の油断ならぬ瞳の輝きを、思い出しながら、
「いったい、どんなことがあったんだね?」
と優しく言った。
「少し寝《やす》ませて……」
雪絵は、疲れた声を出した。
「そうだね。少し眠ろうか」
篝は、雪絵をネグリジェに着替えさせて、先に休ませてから、家の中を片附けにかかった。
散らかしてあるとは言っても、そこは女で、なに一つ壊したり、引き裂いたりしたものはなく、整理ダンスや靴箱の中味を、床の上にぶち撒《ま》けただけのことらしかった。
そのあと篝は、ガス風呂に水を張って、入浴の準備をした。湯殿の中には、相変らずストッキングの林があったが、隅のバケツに血の滲《にじ》んだパンティが漬けてある。
〈ふむ。生理日だったのか!〉
篝は、女性が生理日のさなか、よく異常犯罪を仕出かすことを思いだし、女性の躰《からだ》の微妙さに感じ入った。
彼がベッドに潜り込むと、雪絵は奔放に抱きついて来て、
「部長さん、今日は泊って!」
と言う。
「なんだ、起きてたのか」
篝は苦笑しながら、接吻に応じた。気のせいか、雪絵の唇からは、血潮の匂いがするようであった。
「いったい、彼と、どんな話をしたんだい?」
彼は女の頸《くび》に手を廻す。
「久し振りにやって来たから、章子のところに入り浸りなんでしょ、と皮肉を言ってやったの……」
「ふーん。すると?」
「顔色を変えたわ」
「なにか、言わなかったかい?」
「言ったわよ。お前までが疑うのか、って……」
「ほほう」
「だから、私ばかりでなく、部長さんも疑ってるわ、と言ったの」
「ふむ、なるほど?」
「そしたら、部長って篝とか言う男か、と訊くから、そうだと言ったの」
「ただそれだけのことで、喧嘩になったのかい?」
「うーん……あたし、部長さんのことを、委《くわ》しく話しただけだわ」
「どんなことを?」
「どんなことって……部長さんが、あたしに話した、いろんなことなんか……」
「ふむ。そいつは不味《まず》かったね」
「いけなかった?」
「いや、まア仕方がないだろう……」
篝は優しく、女を抱き寄せた。
「でも、なぜ喧嘩になったんだね?」
「それは私が、章子ちゃんと佐本とが、大分前から関係があって、彼女をかくまったのは彼だ……と言ったからだわ」
「覚さん……怒ったかい?」
「うん。急に私を殴ったの」
「ほほう……」
「俺がすることに、変な詮索《せんさく》はするな、口出しするなって言うの……」
「なるほど、ね」
「丹羽章子のことだって、本人の希望で、あることをしてやったんだから、とやかく言うことはないそうよ……」
「本人の希望でねえ……」
篝は、にやりとした。
人間、問うに落ちずして、語るに落ちるとは、このことである。佐本覚は、怒りのあまり、自分が丹羽章子をそそのかしたことを、つい自分で暴露してしまっているではないか……。
「あたし、殴られたから、殴り返したの。そうしたら、髪の毛を持って、引きずり廻されて、乱暴されたわ」
「それ……いつのことだい?」
「昨夜、お店から帰ってからよ」
「ふーん」
「さんざん人を毒づいて、帰って行ってから、あたし、口惜しくって、だんだん腹が立って来て……」
「わかるね、その気持……」
「あんまり、くさくさするから、薬を飲んじゃったのよ」
「なぜ、上野へ出たの?」
「むかし、上野でぐれてたから、昔の仲間に会いたいと思って……」
「ふーん……じゃあ佐本とは、絶交かい?」
「会いたくないわ、あんな奴……」
「この間は、夢中だったじゃないか」
「だって、あんな暴力をふるう男だとは、知らなかったもの。佐本は、新宿には、俺の命令一つで、人殺しぐらい平気でする連中が、うようよいるんだぞ、なんて威張っていたわ……」
「なに、新宿に?」
篝は、顔色を変えた。
「あら、部長さん……どうしたの?」
女は躰をすり寄せてくる。
「いや、なんでもない……」
そう答えたものの、篝は、その佐本覚の言葉に、拘泥せざるを得ない。なぜなら、玖島太郎が事故死を遂げたのは、新宿だったからである。
「部長さん……あたし、アレの最中なんだけれど、部長さんさえ良かったら、あたし……オーケイよ?」
女は、彼の心の屈折を知らぬ気に、足を割り込ませて来ていた……。
長谷川雪絵を、指先だけで恍惚《こうこつ》とさせてやってから、篝正秋は湯に入り、それから帰り支度をした。
「あら、泊ってくれないんざんすか?」
雪絵は不服そうだった。
「ショーウィンドーの弁償の話が残っているんでね」
彼は巧みに弁解しながら、彼女の家を出て、タクシーを拾った。
行先は、言わずと知れた麹町の、佐本マンションである。
エレベーターで昇り、部屋のブザーを押すと、しばらくして丹羽章子の顔がのぞき、当惑したような口調で、
「もう、二度と訪ねないで下さい」
と言うのだった。
「なにを言うんだ、章子……」
彼は靴先を、ドアの隙間にこじ入れ、強引にドアを閉めさせなかった。
「話があるんだ……」
「あのう……困るんです」
「わかっている。佐本が来たんだろう?」
章子は、一瞬、はッとした顔になり、ドアから手を離す。
篝は、ドアをあけて、躰をこじ入れると、
「どうだ。佐本から何か言われたんだろうが?」
と、極めつけるように言っていた。
章子は、それに答えず、
「お上りになったら?」
と、すぐ背中を向けた。
篝は、靴を脱ぐなり、章子を背中から抱きしめる。
「会いたかったよ、章子……」
章子は、躰を硬くしたまま、
「お話があるの、私も」
と、ポツンと呟いた。
彼は手を離した。
なんとなく、気不味いものが、二人の間に流れる。
篝はソファーに坐り、ピースを口に咥えた。
自然、貧乏ゆるぎが出てくる。
「話とは、なんだい?」
「篝さん……」
「うむ」
「あなたは、私を幸福にしてやる、と仰有《おつしや》ったわね?」
「ああ、言った」
「もし、本気だったら、あと二年間、私の前には現われないで」
「なぜだね?」
「私の計画が、駄目になりますから」
「ほほう」
「あたし……佐本さんから、貴方のことを執拗《しつよう》に聞かれました」
「やっぱり、来たんだね」
「はい……」
「それで、僕たちのこと、喋言《しやべ》ったのかい?」
「いいえ。でも、羽田から尾行されて、このマンションに居ることは、嗅《か》ぎつけられたと教えました」
「えッ、喋言ったのかい?」
「いけなかったかしら?」
「うーむ……」
篝は腕を組んだ。
「羽田から跡《つ》けられた……と、そう言ったんだね?」
「ええ、そうよ」
「そいつは、失敗したなあ」
篝正秋は、こうなった以上、佐本覚という男の正体を章子に教えて、協力を求めるよりないと思いはじめた。
利口者の佐本のことだから、彼が章子の居所をつきとめながら、素知らぬ顔して自分に会いに来たことに、別の意味を感じとっているに違いない。
また舅である詫摩周六の口から、彼が玖島の死因に疑問を抱いて、ごそごそ動き廻っていることを、耳にしているに違いない。
〈章子に、喋言っても、果して大丈夫だろうか?〉
篝は、そんなためらいを覚えはしたが、しかし章子に協力を求めるとしたら、そうする以外に方法はないようだった。
「ねえ、章子……」
篝は低く訴えるように言った。
「僕は、あることを、調べているんだ……」
彼は煙草を揉《も》み消した。
「知ってます……」
丹羽章子の口から洩れたのは、驚いたことに、そんな文句であった。
「知っている?」
「……ええ」
「本当かい、それは?」
「ええ。佐本さんの、お仕事のことでしょ?」
「ふーん? 当っている」
彼は感心したように言った。
「佐本さん……貴方に、忠告したいと言ってました」
「ほう、忠告を、ね」
「ミサイルを持った人間に、火縄銃を向けても、無駄なんですって」
「ほほう、なかなか意味深長だなあ」
「前にも、そんな無茶をした男が、あったそうよ……」
篝は、〈玖島のことだな!〉と、すぐ敏感に悟った。
「でも章子……僕は知りたいんだ……。その無茶をした僕の親友が、なぜ事故死したのかを、知りたいんだ……」
彼は立ち上ると、ゆっくり歩いて、丹羽章子の隣りに坐り、いきなり女の唇を吸いつけていた……。
[#改ページ]
それを知った女
丹羽章子は、接吻を受けながら、躰を微《かす》かにくねらせた。唇の感覚が、女の躰の窓口になっている感じだった。
「章子……」
篝は囁《ささや》く。
「佐本覚というのは、利口で、そして悪知恵の廻る男なんだ……」
「ええ、知ってる」
「僕の親友は、彼のことを調べていて、とつぜん事故死した……」
「事故死って?」
「車を運転していて、死んだんだよ……」
「あら、自分で?」
「そうさ……」
篝は、章子の腰に手を廻した。スカートを通して、女の筋肉に反応があった。
「いや……感じるわ」
章子は言った。
「ねえ、きみ……」
「ええ……」
「佐本とは、まだ続いているのかい?」
彼は、強く唇を吸いつける。
章子は、駭《おどろ》いたように、唇を離した。
「いやな人……」
「なんだい?」
「彼とは、なんともないわ」
「ええ? 本当かい?」
「本当よ……」
「だって、四谷の方には、毎朝……佐本が来てたそうじゃないか?」
「うん……来たわ」
「それで……なんともなかったのかい?」
「ええ、そうよ……」
「変だなあ。健康な男女が、二人っきりでいて、なんともないだなんて……」
彼がそう言うと、章子は低く微笑《わら》い、
「本当に、なんともなかったの。だって、佐本さんは、雪絵ちゃんのところから、やって来るんですもの……」
と答えた。
「そうらしいね……」
篝は、つい今しがた、彼の指先だけの愛撫《あいぶ》で、躰をのけぞらせた長谷川雪絵のことを想い出し、自分の方が佐本より悪《わる》≠轤オいと、ちらッと考えたりした。
「あの人はね……」
「うん……」
「ベッドの方に、行かない?」
不意に、章子は言った。
「ああ、そうしよう……」
篝にも、異存はなかった。はじめから、その積りで、雪絵の躰を抱かずに、章子のマンションに来ていたのだ……。
寝室に入ると、章子はベッドの両脇にある三面鏡を、無表情に閉じようとした。
「いいじゃないか……」
篝は言った。
「いいって?」
「なんのために、鏡があるのか位は、僕だって知っている」
章子は、しばらく彼を睨《にら》むように凝視していたが、
「男の人って、みんなエッチなのね」
と、蔑《さげす》むような言い方をした。
「ほう。と言うことは、大川作之助も、工藤幹事長も、みんな変態だということかね?」
篝は、上衣を脱ぎながら、皮肉を言い返す。言い終ったあとで、しまった……と思ったが、それは後の祭りだった。
「部長さん……やっぱり、知ってらしたのね?」
章子は、低い声で呟《つぶや》いた。
「知ってるよ、すべて、君のことは! しかし、知っていても、君が好きなんだから、それで良いじゃあないか……」
「でも男の人って、過去のことに、拘泥《こだ》わるんじゃないかしら?」
「ある人は、ね……」
「いやじゃない?」
「少しは、ね。いや、はっきり言ったら、きみに此処《ここ》を出て、工藤と別れてくれ……と言いたい位だよ……」
「……そう。やっぱり」
「しかし、君には目的がある。二年経つと、自由になれるんだろ?」
「ええ……そんな契約なの」
「店を出す金は?」
「毎月……積立ててるの」
「いくらだい?」
「五十万円……」
「ほう。年に六百万……二年で千二百万円か! 憲民党の幹事長ともなれば、豪気なもんだなあ」
彼がそう言うと、章子は低く、「あら!」と微笑って、
「違うわよ……」
と否定した。
「違うって?」
「ええ。お金を出して下さるのは、佐本さんなのよ……」
「なんだって? 佐本が、きみに五十万円ずつ支払っているのかい?」
「……ええ。だって、それが始めからの、約束ですもの……」
「ふーん……」
篝は、ベッドの端に、腰を下ろした。
「すると……きみを工藤に世話して、金を支払ったのは、佐本覚の方なんだね?」
「ええ、そうよ。彼……毎朝のようにやって来て、ある人の二号になれって、私を口説いたの」
「ふーん……そうだったのか」
「部長さんも、ご存じでしょうけれど、私……大川が好きになれなかったの」
「だって、吝嗇《りんしよく》で知られた、あの高利貸しめが、きみには十二分に尽したらしいじゃないか……」
「そりゃあ、物はあれこれ買ってくれたわ。でも、厭《いや》なのよ……」
「エッチだから?」
篝は、女を抱き寄せた。
篝の唇は、女の頸《くび》を静かに匐《は》い廻る。熱く吐く息にも、優しい唇の接触にも、章子の躰は敏感に反応した。
「……工藤は、どんなことを、君に要求するんだね?」
「いやン……聞かないで!」
「大体の見当は、ついてる……」
「ほんと?」
「ああ……靴が小道具だろ?」
「…………」
「西洋の娼婦のようなスタイルにさせて、それから章子を抱くんだろ?」
「もう、言わないで……」
「いや、言うとも。さあ、章子……」
「ええ。なあに?」
「工藤にするのと、おなじ恰好をとってくれよ……」
「いやよ、あんなの……」
「だって、工藤には、してみせるんだろうが!」
「命令だもの……仕方ないわ」
「じゃあ、僕だって、命令する」
「……止めて……」
「二度とは言わない……やってくれるね?」
「本気なの、部長さん?」
「ああ、頼むよ……」
「……変な人」
「男は、みんなエッチさ……」
「じゃあ、するわ。でも、一度だけよ?」
「ああ、いいとも……」
篝は、唇を強く吸った。
「……笑わない?」
「むろんだとも!」
「では、あっちへ行ってて!」
「いや。ここで見たい」
「恥しいわ、あたし……」
「なに言ってる。もっと恥しいことを、してるじゃないか……」
章子は、スカートを脱ぎながら、
「じゃあ、工藤みたいに、手伝ってよ」
と言った。
章子は、寝台の下から竹籠をとりだし、風呂敷の蔽《おお》いを取った。
中には、色彩の華やかな下着だの、ブラジャーだのが入っている。
「好きなのを、撰《えら》んで」
怒ったように、章子は言った。
「いろいろ集めたもんだねえ……」
篝は、その豊富な種類に、感心した。
「工藤が、外国旅行のとき、集めて来たんですって」
「ふーん……」
「ところが、サイズが大きいでしょ?」
「なるほど。それで、グラマーの君に、白羽の矢が立ったわけか」
「それに、あの人は軽いインポなの」
「ふーん……」
「私に、変なこと、させるわ……」
「と言うと?」
「あそこに、ハッカ入りの特殊な乳液の瓶《びん》があるわ」
「乳液? おい……まさか!」
篝は目をまるくした。
篝は、勃起《ぼつき》不全の中老の男が、なんとか行為を持とうと、努力している光景を空想し、苦笑を禁じ得なかった。
「きみも、大変だね……」
彼が微笑すると、丹羽章子は拗《す》ねたように、
「お金のためよ」
と答えた。
篝は、ピンクのブラジャーと、コルセットを撰び出した。
「靴下は?」
「できるだけ、セクシイのを願いたいね」
「じゃあ、編みのタイツを穿《は》くわね」
「ああ、いいだろう……」
――数分後、丹羽章子は、まるで踊り子のような姿に化身して、グラマーな肢体をベッドの傍《そば》に佇《たたず》ませていた。
ブラジャーに合わせて、ピンクのハイヒールを履いた章子は、くるッと一回転してみせて、
「どう。満足した?」
と言った。
「まだ、これからさ。乳液の、ご厄介には、ならないで済むがね」
篝は、乱暴に女の躰を、ベッドの上に押し倒した。
「ゆっくり、ね?」
女は、かすれ声で言った。
「も、ち、ろ、ん……」
篝は、ブラジャーの上から、女の胸に手をやった。
「男と女って、変なものね……つい、この間までは他人だったのに……昨夜、部長さんとの夢を見たわ……だって、章子を、まともな女に扱って下さるの……貴方がはじめてなんだもの……」
と、囈言《うわごと》ともつかず、口走りはじめた。
一日に二度も湯に入るのは、珍しい体験だった。
しかし汗みどろの二時間を過してみると、湯に入りたくて仕方がなかったのである。
ただ湯槽《ゆぶね》に、躰を沈めているだけで、疲労感がうすらいで行くような気持になる。
〈そうか……。彼女に、金を出しているのは、工藤ではなく、佐本覚だったわけか!〉
目を瞑《つむ》ったまま、篝は心の中で呟く。
丹羽章子は、完全に佐本に、利用されていることが、それでハッキリしたのであった。
つまり、彼女は、賄賂《わいろ》として、工藤幹事長にプレゼントされた、生ける人形なのである。
では、一体なんのために、生きた人形の献上≠ェ行われたのだろうか?
――答えは、簡単である。
なんらかの利権≠フために、彼女は工藤にプレゼントされたものに違いない。その利権とは、やはり〈山陽新幹線〉にからむものだと、考えてよいのではないだろうか。
篝は、顔を拭った。
「お背中……流しましょうか」
章子が、タオルで前を隠しながら、そっと浴室に滑り込んで来た。
「なあ……章子……」
「ええ。お上りになる?」
「うん……」
彼は、章子に背中を向けて、タイルの床に胡坐《あぐら》をかきながら、
「工藤は、週に何回くるんだ?」
と訊《き》いた。
「原則として、週に二回」
「それより、多いときもあるのか」
「ええ、あるわ。でも、そんな時は、他の用事がある時なの……」
「他の用事?」
章子は、彼の背中を洗いながら、
「ええ……佐本さんと、ね」
と言った。
「なんだって? 佐本と工藤が、ここで顔を合わすのか?」
「ええ、そうよ。なにか、いろいろと連絡があるらしいのね」
「ふーん……」
「いつだったか工藤が、密談するのに、一番安全なのは、二号さんの家だよ、と言ったことがあるわ……」
「なるほど、ね」
「あとは、走る車の中ですって」
「待合やホテルは、人目があると言うことかな?」
「そうらしいの。佐本さんの他に、彼のお父さんも来て、工藤と話したことがあるわ」
「彼のお父さん? じゃあ、詫摩周六だろう……」
「ええ。工藤と同じで、横柄な男よ」
「なにを話してた?」
「なにか、鉄道の工事らしいわ」
「ふむ。狙い通りだな」
篝正秋は、ニヤリとなった。
やはり、山陽新幹線の用地買上げ、建設工事をめぐって、秘密カルテルの一味が、暗躍しているらしいのだ。
「工藤は、今年中には発表になるだろう、と言ってたけれど、なんのことかしら?」
「その他には?」
「さあ、忘れたわ。なにか、手形みたいなものを、手渡していたようだったけれど」
「手形か――」
「さあ、洗ったわ。早く暖まって、私と交替して頂戴……」
「うん……」
生返事して、篝は湯を浴びた。
丹羽章子の部屋が、密談に使われているとなると、彼女を完全に、自分の味方にしておく必要がある。
つまり、彼女を通じて、佐本たちの動きを、探り出すわけだった。
「なあ、章子……」
湯槽の中から、彼は声をかける。
十数分前、彼の胸の下で、のたうち廻っていた白い躰は、いま彼の目の前で、白い石鹸《せつけん》の泡《あわ》に包まれていた。
「あとで、委《くわ》しく話すけれど……僕の力になってくれないか」
「なんのこと?」
「僕の友人みたいに、殺されたくないんだよ……」
「殺されるって、貴方が?」
「うん。ミサイルを持った人間に、ね」
「そんな危険なこと、止めたら良いじゃない?」
「止める積りだったよ……」
「え?」
「だが、深入りしすぎた」
「一体、なんのことよ?」
「いいか、章子……。佐本覚は、きみを工藤幹事長にプレゼントしたんだ……」
「知ってるわ。しかし、金をくれるわ」
「なぜ、そんなことをしたと思う?」
「佐本さんが?」
「うむ……」
「それは工藤が、躰の大きい、若い女が好きだからだわ……」
「ただ、それだけじゃあないよ。佐本たちは、工藤と結託して、ある疑獄事件を引き起している」
「あたしたちには、関係ないでしょ?」
「いや、きみに関係がないとは言えない。なぜなら、きみの部屋で、連中は会合し、用談しているじゃないか……」
「まあ。それ、本当?」
「十中八九まで、間違いないだろうね」
「いやだわ、あたし……」
丹羽章子は、ようやく自分が置かれている境遇の、微妙さに気づきはじめたようであった。
表情に、かすかな恐怖が、泛《うか》んでいる。
「私の友人は、それを暴露しようとして、殺されたんだ……」
「…………」
「事故死ということになっているが、なにかカラクリがある。明日にでも、淀橋《よどばし》署へ行って、もう一度、事故が起きた時の様子を、よく調べて見るつもりだがね……」
篝は、湯槽から腕をのばして、丹羽章子の首を抱き寄せていた――。
[#改ページ]
重大なヒント
これだけ凄《すさ》まじい交通地獄の、東京で暮しながら迂闊《うかつ》だが、篝正秋は、かりに交通事故が起きた場合、どのような処置がとられるのか、さっぱり判っていなかった。
いや、篝ばかりでなく、一千万の都民の大部分が、そうした知識には疎いものと考えられる。
新宿駅の近くにある淀橋署の交通課におもむいて、玖島太郎の事故死の有様を、再現して貰おうと考えた篝は、事故死というものでも、その形によって、またさまざまな法律的な問題が発生してくることを知ったのだ。
たとえば、刑法上の問題であるならば、刑法第二百十一条の業務上過失致死が適用されたり、また道路交通取締法にひっかかったりする。さらに人を轢《ひ》き殺したとなると、免許証の取り消しといった行政法上の処分だとか、民事訴訟法では遺族から損害補償請求が出されたりする。
大体、事故発生から処理までを、具体的に示してみると、次のようになる。
大きな交通事故が発生すると、通行人などから、一一〇番に急報される。これを受けた警視庁では、事故現場近くのパトロール・カーに指令して、現場に急行させる。
一方、附近の巡査派出所と、該当本署の交通係に連絡し、同じく現場に赴かせる。
怪我人や死人のある場合には、同時に一一九番にスイッチを入れ、警察と救急車がただちに活動を開始するようになっている。
現場に着いた警官は、負傷者または死亡者の確保、被疑者の確保、それに目撃者の確保に、先ず全力をあげなければならない。
ここで面白いのは、死人の扱い方である。現場に到着した警察官が、負傷者の脈搏《みやくはく》をしらべてみて、死んでいると判断した場合――これを〈確定的死者〉と呼ぶが、この場合には救急車には乗せられないことになっているのである。
確定的死者に与えられるのは、近所の人から貰って来る白布一枚であり、それは死者の顔の上にかけられるのだ。
この処置のあと、確定的死者は、警察署から派遣される特別製の小型自動車に乗せられ、署の霊安室に運ばれて安置される。ここで死亡者の身許《みもと》割りを行って、死亡者の家族に連絡がとられる。
では、確定的死者でないもの――つまり、まだ脈搏のある者は、どうなるか。
むろん、この場合は救急車に乗せ、重傷ならば近くの病院か、あるいは救急指定病院へ運搬される。
この救急車の中で息を引き取ったり、病院へ着いて間もなく死んだりする場合がある。これが二十四時間以内に起きれば、調書には〈死亡〉と記入される。逆に二十四時間以上、息があったら、〈重傷〉という扱いを受けるわけである。
一方、現場では、チョークを使って車の位置、散乱した遺留品、血痕《けつこん》などに、印がつけられ、急ブレーキを踏んだ位置と現場との距離、スリップの工合などが、てきぱきと検証され、現場見取図がつくられてゆく。
また目撃者を探し出して、現場で事情聴取が行われるが、この時、目撃者の住所、氏名、年齢などをメモしておく。あとで事件が複雑になって、裁判などが難航したりするケースが多いので、証人として確保しておくためである。
被疑者――いわゆる人を怪我させた本人は、本署へ連行されて、事情を聴取し、供述調書をとられる。
この時、供述の矛盾点があれば、被疑者は大いに追及される。
「どの位の速度で走っていました?」
「三十キロだったと思います」
「ほほう。スリップの痕《あと》が、二十三メートルもあるんだよ」
「そ、そんな……」
「大体、五十キロのスピードで走っていてだね、危ないと思って急ブレーキをかけ、スリップして止まるまでに、約二十四メートルだよ? ええ?」
「済みません、五十キロでした……」
――というような調子で、とっちめられるわけであろうか。
ところが、玖島太郎のケースは、被疑者即確定死亡者という、あまりないケースであった。つまり、一人で運転していた本人が、即死しているのだ。
淀橋署の係官は親切に、事故が起きた場合の、警察がとる処置について、簡単に説明してくれたあと、正式書類をとりだして、篝に見せてくれた。
正式書類というのは、刑訴法第百九十七条によるもので、六カ月以上の重傷および死亡の場合に、作成されるのだそうだ。
この書類の中で、一番重要なのは、実況見分調書と、監察医務員の作った死体検案書、それに目撃者などの参考人供述調書の三つだった。
実況見分調書には、添付された管内地図に現場の印がつけられ、それとは別に事故現場の、実に詳細な見取図がつくられてある。
彼が、その調書の〈実況見分のてん末〉という項目に、目を通しはじめていると、係員は苦笑しながら、
「死亡事故が起きると、その一件の処理だけに、一週間かかりっきりですよ。われわれ交通課の担当官が、こんな厖大《ぼうだい》な書類作成に追われているとは、都民のみなさんはご存じないでしょうなあ」
と、言葉を添えた。
「本当ですね。ご苦労さまです」
篝も、書類の厚さや、種類の多さに感心していたから、率直に相槌《あいづち》を打った――。
事故発生の現場は、青梅《おうめ》街道のT医科大学附属病院の近くである。
玖島太郎の運転する自家用車は、道路の右側に停車していた巨大なコンクリート・ミキサーに衝突していた。
左側を走らなければならない筈の車が、右側に停っているミキサーカーにぶつかるようでは、酔っぱらい運転だと言われても仕方があるまい。
時刻、推定午後十一時二十分で、車は通っているが、人通りの絶えてしまう時刻でもあった。
運転していた玖島は、衝突の際、ハンドルと座席に胸部を挟《はさ》まれ、ついでフロント・グラスに頭を突込んで、頸《けい》動脈を切断したものらしい。
「大体において、運転者はハンドルで肋骨《ろつこつ》をやられ、助手席の人間が、フロント・グラスで頭や頸をやられることが、多いんですがね……。この人は、胸と頭を同時にやられている。自分で運転していながらね……」
係官は、呆《あき》れ顔で説明する。
「つまり、即死ですね?」
「ああ、そういうことです」
「事故を発見して、最初に駈けつけて来たのは、誰ですか?」
「ミキサーカーの運転手ですよ」
「乗っていたんですか」
「いや、車を駐めた前の店で、鍋焼《なべやき》ウドンを食べていたらしいです」
「ははあ」
「ここに、参考人供述書がありますね。一、私は本月十二日午後十一時二十分ごろ、勤務先所有の事業用特殊|車輛《しやりよう》(ミキサーカー)を運転し、空腹のため新宿区|成子《なるこ》坂下の道路上に駐車し、のんき食堂にて食事中、玖島太郎という人の運転する普通乗用車に衝突され……」
係官は、事務的な口調で、供述調書の〈事実関係〉の項目を読みはじめる。
自動車が衝突する音に、慌てて、のんき食堂から飛び出してみると、道路上にガラスの破片が散乱しており、ぐしゃぐしゃに潰《つぶ》れたボンネットが先ず目に入った。
怪我人を助け出そうとしたが、ドアがあかないので、どうにもならない。
ミキサー運転手の餅原《もちはら》次郎(二五)は、のんき食堂に飛び込み、
「おい、一一九番だ。救急車を呼んでくれ、大至急!」
と叫び、ついで食堂の店員に、
「手を貸してくれ」
と言った。
その頃になると、凄《すご》い物音に駭《おどろ》いた、附近の商店の人々が出て来て、やっと怪我人を車の外へ連れ出したが、頸から血が、ザアザアと噴き出しており、もう手の施しようがなかった。
むろん、出来るだけの手当はしたが、パトカーが到着した時には、体温はあるが心臓の鼓動音はなく、確定死亡者のような状態であったという。
ミキサーカーの被害は、七万円ぐらいで済んだが、車をぶっつけた玖島の方は、乗用車一台を目茶苦茶にした上、一命をとり落したのだから、事故は恐ろしい。
「ただ、この現場見取図のスリップ痕をみるとですな……死んだ玖島さんは、酔っぱらってハンドルを右に大きく切りすぎて、道路いっぱいにUターンしたような恰好で、車をミキサーカーに突込んでいるんです。なにか急用を思いだして、新宿の方に戻ろうとしたんでしょうな……」
係官は、弧を描いたようなスリップ痕を、指で示しながら、そんな風に説明した。
「しかし玖島君は、運転歴七年、その間に一度も事故を起していないんでしょう?」
篝は、首を傾《かし》げた。
「らしいですな。だが、事故の当日、本人はかなりのアルコールを摂《と》っています」
「解剖したんですか?」
「ええ、心臓圧迫が直接の死因だろうという監察医の意見と、頸動脈切断による失血死という私共の意見とが、対立したもんですからね」
「ははあ……」
「そんな場合は、署の霊安室から、大塚へ運んで行政解剖するんです」
「結果は?」
「心臓圧迫でした。肋骨が折れて、肺臓に何本も突き刺っていましてね」
「そうでしたか……」
「そのとき、胃袋および血液中から、アルコール検出が認められたんです」
「実は、私もときどき一緒に飲んで、玖島君の車で自由ヶ丘まで送って貰いましたが、彼……なかなか慎重なハンドル捌《さば》きでしたがねえ」
篝は、玖島を弁護するように言った。
「そうですか? しかし、この事故の場合、かなりスピードを出しており、Uターンするにも、こんな大きな弧を描いている。道路の幅一杯のUターンですよ……」
「では、たまたま、停車中のミキサーカーがなかったら、玖島は一命をとりとめていた……ということになりますか?」
係官は肯いた。
「もしかしたら、助かっていたでしょうね。まア運が悪かった。それにしても、あれだけ前のエンジン部を押し潰すということは、時速百キロ近いスピードを出していた……ということでしょう」
「このスリップ痕をみますと、一度ハンドルを切って、もう一度、急ハンドルを切ったような形になってますね」
「ええ。多分……ハンドルを切った途端に、前方からの直進車でもあって、それで急ハンドルを切ったんじゃないですかな……」
「その前方からの直進車は?」
「ええ?」
「そんな推定を下される根拠となった直進車の方の、証言はどうなっているんです?」
「ああ、そのことですか。そいつは、あくまでも我々の推測でしてね。現実に、そんな直進車があったか、否かは誰にも分らないんです……」
「知っているのは、死んだ玖島だけ……というわけですか」
「でしょうね。我々も随分と、現場を歩いて目撃者を探したんですが、何分、夜おそい時刻でしてね……」
「ははあ……」
「それに日本人は、どういうものか、かかわりあいになりたくない気持が強いんでしょうか、なかなか証言を買って出てくる人が少いんですよ……」
係官は苦笑しながら、顎《あご》の下あたりを、指先でポリポリと掻《か》きつづけていた。
淀橋署を出た篝は、なんとなく自信を喪失していた。あの調書に見る限りでは、飲酒運転、スピード違反の二つの罪を玖島は犯しており、Uターンの仕損いで死亡したことになる。
〈だが、疑問は残っている。玖島夫人が聞いた怪電話がある。詫摩周六が悔みに立ち寄った事実がある……〉
〈編集部にかかった怪電話だって、変だと言えば変だ……〉
篝正秋は、新宿駅の建物の中に入り、意味もなくエレベーターに乗った。
喫茶店にでも行って、しばらく時間を過したい心境だったのである。彼は、空いているような一軒の店を撰《えら》んで入り、ブルーマウンテンの濃い方を注文して、ぐったり椅子に背中を凭《もた》しかけた。
〈前方の直進車か……直進車……〉
彼は、先刻の現場見取図を頭に思い描く。そのスリップ痕によると、単なるUターンではなく、二段構えのぎこちないUターンぶりであった。
いくら酔っていたのかも知れないが、玖島にしては不手際な、ターンの仕方である。篝は何度か同乗しているだけに、その不手際ぶりがよく判るのだ。
濃いコーヒーを啜《すす》りながら、ぼんやり店内を見廻しているとき、片手で銀盆をささげ持った女店員が、通路でトイレに立った客とぶつかり、それを避けようとしている光景が何気なく目に入った。
通路は、人間一人しか通れぬ狭さである。こういう場合、客の方があいたボックスの方に、身をかわしてやるものであった。女店員もそう思ったらしく、立ち停っている。
だが、客は彼女の方に歩いて来ている。
生憎《あいにく》と、彼女の立ち停った左右のボックスには、両側とも客が入っていた。
仕方なく彼女は、客に狭い通路をあけるために後退し、左のボックスに身を入れようとした。ところが客の方も、そこで擦れ違う計算だったらしく、彼女と同じ方角に足を運んだ。
「済みません……」女店員は慌てて、右のボックスに躱《かわ》しかけた。だが皮肉なことに、客の方も、また彼女と同じ側のボックスへ身を寄せたのだった。
相手が左へ行けば左へ、右に行けば右へ……。悪意ではなく、そんなめぐり合せになることが、世の中にはよくあるものである。
篝は、微笑しながら、女店員の当惑ぶりを見戍《みまも》った。
「や、失礼」
こんどは、客の方が言った。すると一瞬、女店員は銀盆を守るように、くるりと躰を半回転させながら、巧みに反対側のボックスに身を入れて、客と擦れ違って見せたものである。
――その一瞬だった。
篝は、〈あッ!〉と低く叫んだ。
〈直進車だ!〉
彼は、珈琲《コーヒー》のカップをおいた。
そして、水の入ったグラスに指先を浸し、テーブルの上に図を描きはじめた。
〈玖島の車の前方に、一台の車が走っていた……〉
〈その一台が、仮に急停車したとする〉
〈ブレーキを踏んでも、追突を免がれないとしたら、玖島のことだから、ハンドルを右に切って、避けようとするだろう……〉
〈ところが、その方角に、直進車がいた。いや……彼の車をめがけて、突進して来たとしよう……〉
〈人間の心理として、このとき、左にハンドルは切れるだろうか。左には、急停車した車がいる……〉
〈右ハンドルを切って、左にすぐ切っても追突……しかし、そのままでは、反対側の直進車と、正面衝突……〉
〈となると、腕に自信のあるドライバーなら、更に右に急ハンドルを切り、Uターンして直進車を避けようとするのではないか……〉
〈そこに、たまたまミキサーカーがいた……。いや、待てよ?〉
篝正秋は、テーブルの上の、濡れた線を強く凝視した。
〈たまたま、ミキサーカーは、そこにいたのだろうか?〉
〈右に、右にと急ハンドルを切らせ、衝突させるがために、そこに置いてあったのではないだろうか?〉
〈いや、急停車した車も右前方から来た直進車も……玖島を殺すために、雇われていたのではないだろうか〉
篝正秋は、拳《こぶし》を握り緊めていた。
玖島が帰る家の方角は、相手に判っている。また玖島の車も、相手は知っている。
……となると、深夜の青梅街道で、挟み撃ち作戦に出ることも、決して不可能ではないのであった。
〈そうだ。あのミキサーカーの運転手……餅原次郎に会ってみよう。そうしたら、このカラクリは解けるかも知れない……〉
篝正秋は、勢いよく立ち上った。
彼は、そんなヒントを与えてくれた店員を呼び、五百円札を渡すと、
「お釣りは君にあげるよ……」
と、微笑しながら言っていた。
[#改ページ]
腹の底から
篝正秋は、もう一度、淀橋警察署へと引き返した。
ミキサー運転手の餅原次郎の住所や、勤め先を知るためである。係官は、彼の顔をみると、不審そうな顔をしたが、来意を知ると、参考人供述調書をひらいて、
「餅原次郎……本籍・鳥取県……現住所は、新宿区|愛住《あいずみ》町××番地、愛情アパート二六号室……勤務先は、帝国コンクリート株式会社……」
と読み上げて、メモさせてくれた。
礼を言って外に出た篝は、近くの交叉《こうさ》点まで歩き、煙草屋の店先で、赤電話に備え付けの電話帳を繰った。
先ず帝国コンクリートに、本人が勤務しているか、否かを知るためである。
番号を調べ、電話してみると、運転手の所在は工場の方に問合わせて欲しいという返事だった。その工場は、松戸市、川口市、府中市、川崎市の四カ所にあって、各工場の配車課が知っているだろうとのことである。
篝は当惑した。
一先ず、銀座の事務所へ帰ろうと思い、タクシーを拾ったが、ふと思いついて、運転手に、
「新宿区の愛住町ってのは、どの辺だね?」
と聞いてみた。すると運転手は、
「四谷三丁目を左に入ったあたりじゃないんですか」
と言う。
篝はなぜか、胸騒ぎを覚えた。
四谷三丁目といえば、むかし丹羽章子が住んでいたことがある。
「じゃあ、四谷三丁目で停めてくれないか」
篝は運転手にそう言った。
タクシーを捨て、附近で聞いてみると、運転手の言っていたように、四谷三丁目のすぐ近くであった。
番地を頼りに訪ねてゆくと、愛情アパートは、坂のような傾斜地に建てられた、いかにも陽当りの悪そうな木造の二階建のアパートである。建ってから、十年ちかく経過していると思われた。
玄関を入ると、左手に靴箱があり、右手に管理人室がある。篝は、管理人室のドアを敲《たた》いた。
「ハアーイ……」
威勢のよい女の声がして、五十がらみの、珍しく束髪に結った、肥った女性が顔を覗《のぞ》かせる。
「あのう……ちょっと、お訊《たず》ねしますが」
彼は丁寧に言った。
「なにか、御用?」
「はい、こちらに、ご厄介になっている、餅原次郎さんですね……」
彼がそう切り出すと、相手は首をふり、
「ああ、餅原さん? あの人なら、大分前に引越しましたよ?」
と言った。
「はあ、そうですか……」
篝は残念そうな顔をした。
「あんた……興信所かい?」
相手は訊いてくる。篝は苦笑しながら、
「まア、そんなようなもので……」
と曖昧《あいまい》に逃げた。
「ほう、やっぱりね。じゃア判った。餅さんの縁談だろ?」
相手は、彼を興信所員に決めてかかり、自分の方から、こちらが訊きもしないのに、ぺらぺらとやりはじめた。
「縁談の相手は、どんな娘さんか知らないけれど、あんなルーズな男ってないよ、あんた……。うちのアパート代だって、三月分ぐらい溜《た》めるのは、平気だしさ。独り者だから、仕方がないとは思うけれど、ちょっと酷《ひど》いよね。角の食堂にだって、一万円ちかく溜めていたし、月賦屋だって、酷いもんさ……」
「ははあ、そんなにルーズな人ですか」
もっともらしく、彼は相槌を打つ。
「本人は悪気はないんだろうけど、バクチと聞けば目がないんだからね。麻雀《マージヤン》、パチンコ、競輪……」
「なるほど、なるほど」
「たまには儲《もう》かる時もあったらしいけれど、気が良いもんだから、すぐ人に気前よく酒を奢《おご》ったりしてさ……」
「それでは、溜る一方ですね、借金が」
「そうなんだよ……。ところが、珍しいこともあるもんじゃないか……今年のはじめ頃、バタバタと溜った借金を支払ってさ、もうバクチは止めるんだと言って、引越して行ったんだよ……」
「ほほう!」
「よほどバクチで大当りをしたんだろうねえ。かれこれ十万円近く、借金があったのにさ。あたしも、男ってものは偉いと感心したけれどもさあ、そのとき、ふッと、ハハア、餅さんもそろそろ、身を固める気になったのかな……って思ったんだよ……」
「なるほど?」
「ところが、この間……新宿二丁目を通っていたらさ……真ッ昼間っから餅さんが、酔っぱらって歩いてるのを見たんだよ」
「ほう、昼間から?」
「そうなのさ。あたしが、餅さん、勤めは? って声をかけたら、躰をわるくして、いま休んでるって言うんでしょう……」
「躰を壊してですか……」
「病気の男が、昼間っから酒をくらって、盛り場をうろついてるんだからねえ。あたしゃア、やっぱりこの男は、駄目な男と思ったよ、ええ……。どこへ行くの、って訊いたら、トルコ風呂へ行って、溜ったものを出してくるとか言ってたけれど、近頃の若い男って、どういう気なんだろうねえ……」
篝は、はてしなく続きそうな管理人の饒舌《じようぜつ》をさえぎって、
「いま、餅原さんは、どこへ住んでるんですか?」
と訊いた。
「さあ、ね。郵便物はここへ廻送してくれ、と言われた住所はあるけれどね」
「それ、見せて頂けますか」
篝は頭を下げた。管理人は引っ込んで、一枚の紙片を持って来たが、それには金釘《かなくぎ》の折れ曲ったような筆蹟《ひつせき》で、
『新宿区番衆町××番地』
と書かれてあった。
それをメモしながら篝は、何気なく、
「ところで、餅原さんがここに引越したのは、いつごろなんですか?」
と訊いていた。
「そうだね……たしか半月分の家賃に負けたと思ったから、二月の十五日頃じゃアないかね……」
「えッ、二月の十五日頃?」
篝は愕然《がくぜん》となった。
玖島太郎が事故死したのは、二月十二日の深夜である。その夜、餅原次郎は働いていたのだから、十三日の夜明けまでは、バクチを打つ機会はない。
もし、バクチで儲けたとすれば、十三日か十四日の夜ということになる。
「小母さん……」
篝は、高鳴る胸を鎮めながら、低く声を押し殺して呼びかけていた。
「正確に……教えて頂けませんか?」
「なにをだね?」
「餅原さんが、いつ借金を支払いに廻り、いつ引越したかをです……」
「それが、縁談となにか、ひっかかりがあるのかい?」
「ええ、ちょっとばかり……。誠に済みませんが」
管理人は、帳簿をもって来て、頁を繰っていたが、
「ああ、あった。十四日に入金になっているよ。そうだ、そうだ。引越しは、その翌日の十五日だよ……」
「十四日に入金、十五日に引越しですね?」
「ええ、間違いないよ……」
「ありがとう存じました」
篝は、追われる人間のように、アパートの玄関を飛び出していた。
彼の勘は、当ったのだ……。
そこに停車していたミキサーカーは、なにか意味があるのではないか、と思っていたのだが、やっぱりだったのである。
その証拠に、事故が起きた二日後に、餅原次郎は十万円近い借金を支払って、別の家に引越している。
十二日から十三日にかけて、餅原次郎がバクチを打ってないことは慥《たし》かである。なぜなら、事故のあと、被害者として供述書を署員にとられているからである。
となると、十三日の夜だけしか、バクチであぶく銭を握るチャンスはない。
篝は電車通りに出て、はッとなって立ち停った。
〈そうだ。十三日のアリバイだ!〉
彼は、廻れ右をした。
管理人の小母さんに、十三日の餅原次郎の行動を、思いだして貰うためだった。
「済みません、小母さん……」
篝は頭を下げ、十三日の記憶を甦《よみがえ》らせて貰おうと必死になった。
「待って下さいよ……たしか十三日は……十四日には会社を休んだんだから……そうだ、そうだ……餅さんは一日、部屋で寝ていましたよ……」
「十三日は明け方……帰って来たんでしたね?」
「おや、よく知ってなさるね。あの人は、給料がいいからって、よく夜勤専門に働いていたからねえ……」
「すると十三日の朝、帰って来てからは、部屋でずーっと?」
「だったと思うけど……」
「それで十四日は、勤めを休んだわけでしょう?」
「そうですよ……。あッ、そうだ……十三日の夜はね、電話が外からかかって来て……」
「外出しましたか?」
「ええ、たしか……」
「で、その夜は?」
「ぐでんぐでんに酔って帰って来て、あたしが叱ると、明日の朝、借金を払ってやるぞ、ウイ……なんて、大変なご機嫌なんですよ……」
「ははあ……」
篝は、大きく頷《うなず》いた。
〈これで、はっきりしたぞ! 事故のあった翌日、餅原は誰かに、十万円以上の金を貰っている!〉
管理人は不審そうに、
「ねえ、あんた。一体、なにがあったのさ。餅さんが、十三日に、なにかしたのかい? あんた、興信所なんだろ? 刑事さんじゃないよね?」
と嶮《けわ》しい口調になる。
「いや、どうも失礼しました。いずれ、お礼に伺います……」
今度こそ篝は、犯行現場を見つかったコソ泥のように、大慌てに慌てて、そこから飛び出していた。
〈そうだ……餅原次郎を洗ってゆけば、事件当夜のことがわかる……〉
〈たしかに、何かが、わかる……〉
篝正秋は、顔を輝かせていた。
一人の男が死んだ。
その車をぶつけられたミキサーカーの運転手が、その翌日、金持になった。
この二つの事実を、結びつけて考えるのは、性急すぎるだろうか。その男の死と、金とが表裏一体であるとは、考えられないだろうか。
篝正秋は、タクシーを拾った。
「どちらへ?」
運転手はきいた。
「銀座……銀座だ……」
彼は、囈言《うわごと》を口走る人間のように、前方を空疎な瞳《ひとみ》で眺めながら呟いた。
新しく採用するホステスを面接し、無断欠勤のホステスの調査を命じたりしたあと、篝は、帝国コンクリート株式会社に電話をかけた。
「ちょっとお訊ねしますが……」
彼は、鄭重《ていちよう》に、
「つかぬことを御伺いしますが、今年の二月十二日の夜ですね、お宅のミキサーカーの事故がありましたですね。その事故のことで、調べたいのですが……」
と言った。
交換手は、事故を担当している係員に、電話を繋《つな》いでくれた。相手は、
「二月十二日の事故ですか?」
と怪訝《けげん》そうである。
「はい。たしか乗用車が、お宅のミキサーカーにぶつかり、損傷を負わせた筈だと思いますが」
相手はしばらく沈黙していたが、とつぜん記憶が甦ったらしく、
「ああ、青梅街道の事故ですね?」
と言った。
「そうです。夜十一時二十分ごろです」
「ちょっと待って下さいよ……一体、どんな点を、お知りになりたいのです?」
係員は、事務的にきいてくる。
「運転者ですが……」
「うちの運転手のことですか?」
「は、はい」
受話器の底で、なにか書類の頁をめくるような音が、擽《くすぐ》ったく響いてくる。
「あ、ありました……」
「わかりますか?」
「餅原次郎という者が、運転していますが、それがなにか?」
「ええ、実は……」
と、彼が言いかけたとき、係員は素《す》ッ頓狂《とんきよう》な声をだして、
「あッ、こいつは持出し運転だ!」
と叫んだ。
「えッ、なんですって?」
「いや……持出し運転……つまりですね、会社の許可なしに無断で運転していた車なんです……」
「ええ? 本当ですか?」
篝は低く息を嚥《の》んだ。
「もうちょっと、委《くわ》しく教えて下さい」
彼が縋《すが》りつくように言うと、係員は、しばらく書類に目を通している気配であったが、
「ええとですね……この日、餅原は欠勤なんですよ……ところが、勤務先の府中コンクリート工場に無断で、光村昇平という者と一緒に、会社のミキサーカー二台を持ち出して……」
「待って下さい。光村昇平ですね?」
「そうです……その光村と車二台を持ち出して、青梅街道で夜食を摂っているとき、衝突事故を起したわけです……」
「ははあ、なるほど」
「光村の方は、事故を起さなかったので、|けん《ヽヽ》責処分をとりましたが……」
「というと?」
「会社の規則でしてね……無断持出し運転は、|けん《ヽヽ》責処分……それに事故を起したときは、解職なんです……」
「解職というと、クビですか」
「そうです。クビですね。もっとも、ミキサーカーの損傷は、死亡者の家族から、若干、支払って貰っています」
「するとですね、あのミキサーカーは、餅原次郎が独りで、無断で運転し、駐車させていたことになりますね?」
「そういうことです」
「どうも、有難う存じました」
篝は、電話を切ると、額に滲《にじ》み出た汗を拭った。
〈やったぞ!〉
彼は、心の中で叫んだ。
やはり、あのミキサーカーは、彼が推理したごとく、その位置に、玖島太郎に事故を起させるべく、置かれてあったのだ……。
優美な乗用車と、堅牢《けんろう》なミキサーカー。
この二台が衝突すれば、どうなるか、結果は、自《おのず》からわかっている。
〈だが、待てよ? その夜、ミキサーカーは、二台、持出し運転されている!〉
〈二台……。一台は、衝突用に配置するとして、もう一台は……〉
彼は、ピースをゆっくり咥《くわ》えた。
なにか、もやもやしたものが、大脳の襞《ひだ》に詰まっている感じだった。しかし、そのもやもやは、なんとなく霽《は》れかかっている。
〈あとの一台は……〉
篝は、ぎくん! と背筋をそらせた。
〈そうだ! 直進車だ!〉
彼は、思わず椅子から、立ち上っていた。
〈そうだ! きっと、そうだ!〉
篝は、拳をかため、ぐーんとふり廻して叫んだ。
「わかったぞ!」
その声に、一斉に事務所の人間が、彼の方を注視している。
「わかったぞ! 光村の車は、玖島にぶつかって来たんだ」
彼は呶鳴《どな》った。
事務所の連中は、ポカンと口をあけて、彼を眺めている。しかし篝は、それに気づかず、独りごとをつづけた。
「光村も共謀《ぐる》なんだ!」
部下の一人が、立ち上って近づいて来た。そして声をかけた。
「部長。なにが、どうしたというんですか?」
篝は、その部下に抱きついた。
「わかったんだよ、謎《なぞ》が!」
「えッ、謎?」
「そうさ。謎が、とけたんだ!」
篝は、自分でも判らない喜びに包まれて、腹の底から笑い声を上げはじめた――。
[#改ページ]
洗いざらい
「なるほど。そんな隠れた事実が、発見されたのですか」
田村錬次は、癖のように、薄く眼を閉じて篝の言葉を聞いていたが、拳を握り緊めたり開いたりして、宙の一点を睨んで考えごとをはじめた。なにか胸の中に、憤りが充満していて、それがやりきれない……といった風情である。
「それで……餅原次郎と光村昇平の二人を、とっちめたいんですがね」
篝は言った。
彼は一晩考えあぐねた末、〈日本春秋〉の編集長であり、死んだ玖島太郎の上司でもある田村に、相談してみようと思い立ったのである。
それというのは、餅原や光村に会うのは簡単だが、彼ひとりでは、かりに二人の証言を得ることが出来たとしても、後で、
「そんなことを言った覚えはない」
と、シラを切られたら、それまでであった。
録音テープを使うことも考えたが、それでは相手に警戒心を強めさせることになるだろう。一番つらいのは、篝自身に、警官のような権限のないことである。
玖島太郎の友人だと言えば、むろん相手は口を噤《つぐ》むだろうし、かと言って、相手に怪しまれずに接近する方法もない。しかし、〈日本春秋〉の編集部の人間ならば、なにか旨い口実がありそうであった。
「むろん、とっちめなければならん。それだけ傍証が固めてあれば、警察だったら別件逮捕で、ちょっと来い……ですよ」
田村錬次は言った。
「しかし、こちらは刑事ではありませんしね……なにか良い方法は、ないもんでしょうか?」
篝は、ピースを吸いつけた。
「私もいま、それを考えていたところですがね」
田村は、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「餅原の住所はここ……光村の勤め先はここです……」
彼はメモ用紙を示す。
田村錬次は、それを一|瞥《べつ》して、
「問題は……その二人の運転手に、泥を吐かせることですな」
と、むっつりと言った。
「そうなんです……」
「ひとつ……罠《わな》を仕掛けますか」
「えッ、罠を?」
「どう考えたって、尋常に泥を吐く相手じゃない……」
「それはそうですな」
「ただ、その罠ですがね……」
田村編集長は、また眉間にタテ皺を寄せると、
「玖島君が、日本春秋の編集者だと、二人に知られていた場合には、私などの名刺を持っては近づけない……」
と、考え考え言った。
「なるほど。しかし、それしか方法は、ないのじゃないでしょうか」
篝正秋は、反撥するように呟く。
「だから、です。そこで、罠が必要なんですよ……」
「その罠とは?」
「つまり……私の友人の編集者の名刺を借りてですね……そいつは〈ウイークリイ・東京〉という週刊誌の編集次長で、横山吉郎という男なんだが……その横山の名刺で、〈女性ドライバーに忠告する〉といったような、架空の企画をネタに二人に接近するんですよ……」
田村錬次は、低い声でしゃべった。
「なるほど。週刊誌ですか」
「談話料を五千円もはずめば、先方はすぐ乗り気になるでしょうな」
「ははあ……」
篝正秋は、田村のジャーナリストらしい知恵の働きに、感心していた。これは、なかなか普通の人間では考えつかない。
「二人一緒に会うと、やはり不味《まず》いでしょうな。同時に、別々に会うことにしましょう」
田村は、そんな風に言った。
「同時に、別々と言いますと?」
篝は首を傾げた。
「人間は、変な心理を持っていましてね。一対一で話すと、自分の秘密でも、他人のことのように、しゃべれるわけです」
「ははあ、そんなもんですか」
「ところが、二対一で会うと、二人がお互いに牽制《けんせい》しあって、本当のことをしゃべらない。つまり、本音を吐かないんですね」
「なるほど?」
「だから、餅原次郎は篝さんが、光村昇平には私が会うわけです。二人の間に、連絡がとれないように、ある日とつぜんに、なるべく同じ時刻に……」
「わかりました。で、一体どんなことを、質問すればよいのですか?」
「ミキサーカーのような、特殊な大型車を運転していて、最近ふえつつある女性のオーナー・ドライバーの運転ぶりを、どう思うか……といったようなことから、発展させればよいんではないですか?」
「いえ、私の言っているのは、そのことではなくて、玖島の件なんです。どんな質問をすれば、相手が、こちらの意図を疑わずに、話に乗ってくるでしょうか?」
「そいつは、むずかしいですな。でも……たとえば、推理小説の話をして、車を使った殺人はないか……てなことを言えば、他人《ひと》ごとのように話してくれるんじゃないでしょうかね?」
「餅原は、しゃべると思います?」
「判りません、そいつは……。でも、酒が入れば、もしかすると、ペラペラ喋言《しやべ》り出すかも知れませんねえ」
田村錬次は、貧乏ゆすりを続けながら、他人事のように呟くのであった――。
新宿区番衆町は、新宿二丁目から殆んど真北に突き進んだところにある。
篝正秋は、メモを片手に、餅原次郎に会いに出かけた。午前中の時間を撰んだのは、田村錬次の入れ知恵だった。午後になると、餅原が外出するかも知れないからである。
探しあてた家は、モルタル塗りの、粗末な二階家であった。
しかし篝は、その家の標札をみて、ドキリとしないわけにはゆかなかった。なぜなら、その標札には、
――光村昇平。
と書かれてあったからである。
〈しまった! 光村の家に、餅原は引越していたのか!〉
彼は、わずかに躊躇《ため》らい、ベニヤのドアを開けるのに戸惑った。しかし、先日来から、胸の底にくすぶり続けている、怒りめいたものが、彼の戸惑いを嫌った。
「ごめん下さい……」
篝は、ドアをあけながら、その狭い玄関に乱雑に脱ぎ捨てられた、夥《おびただ》しい女性の靴の数に目を瞠《みは》った。
「ごめんなさい」
彼は大きな声を出す。
家の中のどこかで、話し声めいたものがしているのに、誰ひとり玄関に出てくる者もいない。
「どなたか、いませんか!」
篝正秋は、呶鳴るように叫んだ。
すると、奥の部屋の方で、
「おーい……」
というような、男の声の反応があって、しばらくすると、揉《も》み上げを自棄《やけ》に長くした、若い男が姿をみせた。
「なんだね?」
男は、まだ寝ていたらしく、よれよれの浴衣姿で、目をこすっている。こすりながら男は、二階への階段を見挙げて、
「オーイ。静かにせいや……」
と、ドラ声を張り上げていた。
「ちょっと、お訊ねしますが……」
篝は、用意した〈ウイークリイ・東京編集部次長・横山吉郎〉という名刺をとりだしながら、ちょっと一息入れて言葉をつづける。
「光村昇平さんは、いらっしゃいませんでしょうか?」
男は首筋をポリポリと掻き、
「光村? 光村なら、出て行ったぜ」
と、無愛想に言った。
「え、ご不在ですか……」
「あんたは、誰だね?」
男は訊いた。
篝は、名刺を手渡し、
「失礼ですが、貴方《あなた》は?」
と言った。大体の見当で、その男が餅原だとは判っていたが、念を入れたのである。男は、横柄に答えた。
「俺は、光村の舎弟分だよ……」
「ははあ、そうですか。それは好都合でした。実は、私共の編集部で、〈女性ドライバーに警告する〉という、連載の企画がありましてですね……」
篝は、一気にしゃべった。
男は、頷《うなず》きもせずに、耳を傾けていたが、彼が来意を伝え終ると、
「それで、光村の兄貴に、なんの用事なんだ?」
と聞いて来た。
「今回は、ミキサーカーを運転している人に、話を伺うことになりましてですね……帝国コンクリートに電話しましたら、光村さんをご紹介下さったんですが」
「ほう。会社がね」
「はい。しかし、光村さんが不在なら、どうしようもないなあ。談話料は五千円なんですが……」
篝は、相手に気をもたせるように言った。五千円という金額をきくと、果然、相手は目を輝かせて来て、
「ミキサーカーなら、俺だって運転の経験はあるぜ……」
と言った。
「えッ、本当ですか!」
篝正秋は、さも地獄で仏に会ったような顔をして、
「あなたでも結構です。なにか、喋言って頂けますか!」
と頭を下げてみせた。
すると餅原次郎は、満更でもないような顔つきになって、もう一度、名刺を一瞥し、
「五千円……くれるんだね?」
と言った。
「もちろんです。先払いで、差し上げることになっています」
篝は、メモ・ノートの間から、〈談話料〉と書いた封筒をとりだし、
「あなた……本当に、ミキサーカーの運転経験はあるんでしょうね」
と、疑うように言ってみた。
「あるよ。光村の兄貴に、きいてみるがいいさ」
相手は怒ったように反駁《はんばく》してくる。こうなれば、もうしめたものであった。
「では、話して下さい。お願いします」
篝は再び頭を下げ、
「でも、ここでは何ですな。よろしかったら、外へ出ませんか」
と餅原を誘った。
「そうだね。じゃあ、用意してくらあ」
餅原次郎は、出て来た部屋に戻るべく、のっそりと浴衣の背中を向けたが、それを密《ひそ》かに睨み据えて、
〈いまにみてろ……〉
と彼は心で思った。
折り返しのない茶色のズボンに、青いシャツを着て、黒のジャンパーを羽織った餅原次郎は、素足で女物の草履を突かけると、
「さあ、出かけよう」
と自分から口を切った。
「この家には、凄《すご》く大勢の女性が、住んでいるんですね」
篝は肩を並べながら、いかにもジャーナリストらしさを装った質問を放つ。
「ああ、いま十七人いるよ。みんなトルコ風呂で働いている連中なんだ……」
餅原は、なんでもないことのように、そう返事した。
「ほう、トルコ風呂ですか?」
「うん。田舎から家出して来た娘ッ子をよ……ひっかけて、トルコ風呂へ斡旋《あつせん》してるんだな。案外、いい金になるって噂《うわさ》だ!」
「ほほう、面白いな……」
面白いな、と答えながら、篝正秋は、自分の商売も似たようなもんだな、と思った。
餅原次郎の口吻《くちぶり》では、彼等は、そのトルコ嬢の斡旋の仕事には、関係していないらしい。だが、餅原の服装、そして口調には、ヤクザな生活の匂いが、ぷんぷんと立ち昇っていた。
篝は、四谷三光町の交叉点にある、ビルの地下の喫茶店へと、餅原を案内して行く。その喫茶店が、朝八時から開店していることを、知っていたからだった。
コーヒーとトーストを注文してから、篝正秋はもっともらしく、シャープペンシルとメモ帳を構え、
「お名前は?」
と訊いた。
「餅原次郎。餅は、正月の餅。次は、お次の次郎」
餅原は応じた。
「ミキサーカーの運転経験は?」
「ええと……今年の二月までやってたから、二年七カ月かな……」
「ミキサーカーというのは、運転しにくいもんですか?」
「空車の時は楽だけどよウ……コンクリートの詰まってる時は、重いし、よ……それにコンクリート打ちの時間に、間に合わせなきゃなんねえだろう?」
「なるほど……」
「近頃は、一時間あれば行ける時でもよ……混雑しちゃって、二時間オーバーすることだってあんもんな……」
――田村錬次の言う〈罠〉は、こんな調子で押し進められた。
篝は途中で、女給仕に、ビールを注文した。餅原がバクチと酒に目がないことは、先刻調査ずみであったからである。
「悪いな……朝から……」
餅原次郎は、口ではそう言いながら、彼からビールの酌を受け、次第に雄弁になって行った。
篝は意識して、話題をバクチの話の方に、誘導して行った。
二本目のビールが空になる頃から、餅原は競輪で大穴を狙い、見事にあてた話だの、カケ麻雀で十万円すった話だのを、得意そうに語りだしていた。
客商売を長年つづけて来た篝には、こんな手合をおだて上げるのは、朝飯前の仕事である。
餅原は、空ッ腹で朝酒を飲んでいる弊害にも気づかず、
「五千円貰った上に、ビールまで飲んじゃ悪いな……」
と言いながら、彼のおだてに乗って、バクチの話に余念がない。
「いや、ミキサーカーの話はそれ迄にして、本格的にバクチの話を聞かせて下さいよ。麻雀にそんなインチキがあるとは、知らなかった……」
篝正秋は腕時計をみた。
十二|社《そう》あたりの待合なら、なんとか潜り込める時刻である。幸い十二社なら、篝の顔の利く店があった。
「さあ、河岸を変えましょう」
篝は、餅原次郎を外に連れ出した。
朝酒を飲み、正午近い太陽の光を浴びたら、誰だって酔いが廻ってくる。
「週刊誌って、お金持なんだな。こんな話で、そんなに金使って、いいのかい?」
さすがに餅原は、心配そうな顔になった。篝は笑いとばし、
「餅さん。どうせ社用でさあ」
と、言ってみた。
「ふん、社用か。だったら、いいけど」
餅原次郎は、タクシーを呼びとめる篝を眺めて、ちょっと怪訝《けげん》そうな顔になる。
「おい。十二社へやってくれ。甲州街道を、ガス・タンクの所から右に折れて、池のある傍だ……」
篝は、陽気に叫んだ。叫びながら、心の中では、〈勝負は、十二社でだ……〉と思った。
ここの池の畔に、三業地が誕生したのは、戦前のことであるが、温泉が湧《わ》き出たのは戦後のことである。都内には珍しく、三十九度の熱湯が、湧出《ゆうしゆつ》しているのだそうである。
「次長さん……いいのかね?」
餅原次郎は、少し赧《あか》い顔をしていた。酔いが廻って来たらしい。
「大丈夫だよ、餅さん……」
篝は、殊更親しそうに呼びかけて、
「十二社へ着いたら、風呂へ入って、久しぶりにゆっくりやりましょう……」
と言った。
「朝酒、朝風呂かね?」
餅原次郎も、浮かれた口調になる。
篝正秋は、〈今に見ていろよ!〉と、低く心で呟いた。
〈今に見てろよ、餅原! 貴様が、玖島を殺した手口を、洗いざらい吐かせてやるからな……〉
篝は、ゆっくりピースを咥える。タクシーは甲州街道を走りつづけていた。
[#改ページ]
顫《ふる》える唇
篝正秋が行きつけの待合は、ちょうど池に面した、十二社のほぼ中央あたりにあった。この界隈《かいわい》では、由緒のある古い店である。
一度、火事で焼けたのだが、また再築されて、むかし通り繁昌している店であった。それに内湯もある。
玄関に立って、彼が部屋を貸して貰いたい……と言うと、仲居は、
「まあ、珍しい方が!」
と叫んだ。
篝はひところ、月に三度は十二社に通っていた。仲居はその頃からの顔|馴染《なじ》みで、お絹さんという名前だった。
「さあ、餅さん。上ろうや」
篝は言った。
「本当に、いいのかい?」
餅原次郎は、戸惑っている。
「大丈夫だよ。昼間から、芸者あげて騒ぐのも、たまにはいいじゃあないか」
「済まないな。俺、これからウイークリイ・東京だけは、必ず買って読むからね」
篝は、座敷に通ると、
「おい。風呂へ入ろうや」
と、酔っているように、乱暴に言った。餅原は、
「うん、そうだな」
と言い、黒のジャンパーを脱ぎはじめる。
「そうだ。女を注文しとこう」
篝はそう言って、廊下に出ると、仲居のお絹を呼んだ。そして玄関の方へ連れて行くと、低い声で、
「今日は、ちょっと都合があって、〈ウイークリイ・東京〉の横山という名前を使っているんだ。篝さんなんて、呼んでくれたら困るぜ。ヨーさんだからな。芸者たちにも、よく言っておいてくれ」
と言い含めた。
お絹は心得顔で、
「あいよ。ヨーさん」
と答えた。
篝は座敷に戻り、手を敲《たた》いてお絹を呼んだ。
「おい、浴衣がないぞ」
「はい、ただ今。ヨーさんって、相変らずせっかちだねえ。お風呂の中へ、酒持って行きましょうか……」
お絹はニヤニヤして、そんな冗談を言い、彼の上衣を持つと、
「質草に預っときますよ」
と直ぐ消えて行った。篝は感心した。背広の上衣には、ネームの刺繍《ししゆう》がある。お絹はそれを気づいて、上衣を預ったのであろう。
〈ふむ。待合の仲居というものには、なかなか心利きたる奴がいるわい!〉
篝は、下着を脱ぎながら、これで横山吉郎になれた、と思った。
十二社の湯は、普通の温泉と違って、黒い色をしている。餅原次郎は、はじめ気味悪がったが、入ってみると肌触りがよいので、タオルを使いながら、鼻唄を歌いはじめる始末である。
「なあ、餅さん……」
篝は声をかけた。
「なんだね、旦那……」
餅原は、首筋を洗いながら、彼を見た。篝はタオルで顔を拭って、
「あんたは、事故はないのかい?」
と、さり気なく訊《き》いた。
「事故?」
「ああ、車で人を刎《は》ねたとか……」
「憚《はばか》りながら、俺の免許証は、無傷だよウ。冗談じゃねえや!」
餅原は答える。
「ほう。だって先刻《さつき》、事件があって、会社を辞めたって言ったじゃないか」
「なんだ……。あのことか……」
餅原次郎は不愉快そうに呟《つぶや》いて、
「大した事件じゃない。会社の車を、無断で運転したからって、辞表を書け……と嚇《おどか》しやがるのよ……」
「ほう。たった、それだけのことで?」
「ああ。それだけさ」
餅原は、しばらく自分の指を凝視《みつ》めていたが、繰り返すように、
「ただ、それだけのこったい」
と呟いた。
篝は、その餅原の表情を窺《うかが》いながら、
〈これで完璧《かんぺき》だ……〉
と思った。
しかし、ここで深追いすると、怪しまれる。彼は、相手を酔わさねば、と思った。アルコールは人間をいろんな形に変化させる。
ある者は陽気になり、ある者は泣く。ある者は乱暴を働き、ある者は痴漢となる。そしてある者は饒舌《じようぜつ》になり、ある者は昏倒《こんとう》する。
それは凡《すべ》て、酒のなせる業《わざ》なのである。酒が人間を狂わせるのだ……。
多分、餅原次郎もその例外ではないだろう。
篝は心|密《ひそ》かに、もし餅原が彼の企みを気付いたら、きっと首を絞めるに違いない、と思った。
「なあ、餅さんよ……」
彼は、心の怯《おび》えをとり繕《つくろ》うように、親しさを装いながら呼びかける。
「なんだね?」
餅原は湯から上って、沸し湯を躰《からだ》に浴びはじめた。
「今日、ここで遊んだってことは、内緒だぜ、誰にも……」
「わかっているよ」
相手はニヤリとして、
「編集長に見せてやりてえな。横山さんと俺とが、よウ……こうして昼間から、十二社で湯に浸っているところをよ……」
と、嬉しそうな口吻《くちぶり》を示した。篝は、北叟笑《ほくそえ》んだ。
芸者を呼んで、ひとしきり騒いだあと、餅原が可成り酩酊《めいてい》したのを見越して、篝正秋は麻雀をやろうと提案した。
「この餅さんはね、インチキ麻雀の名人なんだそうだよ。だから、どんなインチキがあるのか、教えて貰うんだ……」
と彼が言うと、芸者たちも、
「あら、教えて欲しいわア」
とか、
「見せて欲しいわア」
と言って賑《にぎ》やかに口を揃《そろ》える。
餅原も、
「俺がやるわけじゃないんだが……」
と、満更でもないような顔つきで、
「じゃア一丁、実演やっか!」
と言いだした。
篝としては、思う壺である。
勝負ごとに神経を集中している時、人間はつい口にしてはならぬ秘密を、人から問われると口をすべらせてしまう。
篝は、店に来る通産省の役人から、こんなことを聞いたことがある。
その役人は、輸入品目とその日時の決定を、一手に握っていたわけだが、なぜか、ある商社にだけは、その情報を事前にキャッチされるので、上司から彼が情報を流しているのではないかと……疑われた。
しかし、いくら考えても、そのような事実はない。いろいろ推理しているうちに、隣りの課の友人と、よく麻雀を打っているとき、
「おい。今度のバナナ、いつだ」
「海苔《のり》は幾らに決まったい?」
などと不意に質問され、
「うん、来月三日だよ」
とか、
「追加は五千万枚だ……」
などと、何気なく答えていたことに、思いあたった。
そこで「はッ」となった彼は、隣りの課の麻雀仲間を問い詰めたところ、某商社から依頼されて、麻雀に夢中になっていたのを幸い、彼から情報を引き出していた……ということを白状したのだという。
同じ役人仲間という安心感も、手伝っていたのだろうが、某商社の情報を盗む手口は、なかなか高級な心理作戦ではある。
……篝正秋は、その心理作戦を、応用しようと思ったのであった。
麻雀台が運ばれ、芸者二人を混えて、さっそくゲームがはじめられた。
篝は、ゲームに参加してない芸者に命じて、餅原に酒を奨《すす》めるように言い含め、自分はアイスウオーターばかりを飲んだ。
一荘戦《イーチヤン》が終り、篝の一人浮きとなった。商売柄、篝はよく麻雀をやりつけているから、餅原ぐらいの腕前では及びもつかない。
果して餅原は、かッか、として来て、今度は賭《か》け金を倍にしようと言いだした。
篝は、その挑戦に応じながら、
「実は餅さん……ある推理作家から、自動車を使った殺人のトリックがないか……なんて言われてるんですがね」
と話しかける。
「車を使った殺人? あ、ポンだ……」
「オイル・ブレーキの管を傷つけるとか、タイヤのネジをゆるめるなんて、陳腐なのは困るんですよ……」
「なるほどね。あ、しまった……捨てなきゃ面子《メンツ》になってたものを」
「しかもですね……相手が死んでも、殺されたとは判らないような方法はないか……と、そんな贅沢《ぜいたく》なことを言っているんですよ……」
「なるほど……殺されたと……ええ、リーチ? 本当かい? 畜生め……殺されたと判らない方法ねえ……」
「そんな方法……考えられますか?」
「ないこともないが……ちょっと待って下さいよ……どうするかな? 喰うか、見逃すか……ええい、喰え、喰え。どうせ風露《フーロー》してんだから……」
「山道を走っていて、谷底へ転落する……なんてストーリイがよくありますがね」
「ああ、映画やなんかでね……」
「東京のど真ん中で、殺したいんだそうですよ……」
「ふーん。そいつは、道を歩いているのかい?」
「いいえ……車を運転しているんですよ。だから、むずかしい……」
「え、車を運転?」
そのとき餅原次郎は、不意に顔を挙げて、篝を見た。篝は素知らぬふりをして、
「近頃の推理作家は、トリックを編集部に考えさせるんで、嫌になりますよ……」
と呟くように言ってみせた。
「いいトリックだったら、三万円ぐらいの金になるんですがね……」
「えッ、三万円?」
「ひまがあったら、車を運転している人物が、あの世に行くトリックでも考えて下さいよ……私は運転しないんで、よくわからないんだ……ここらで、リーチと行こうかな?」
篝は百点棒を抛《ほう》り出して、牌《パイ》を伏せる。
「三万円か……」
「なにか、ありますか?」
「ないこともないよ……」
「ほう……どんな?」
「車は走ってんだろ……あ、ポン。ポンだよ……」
「ほう、凄《すご》いな……混一色《ホンイーソ》らしい」
「三台……車を使うんだよ……」
「へえ、三台ね。ややこしいな」
「来ねえなあ……誰か、がめくってやがんだな……前の車がよ……急停車したら……オイ。大丈夫かい? 下手はリーチだぜ?」
「前の車が急停車したら?」
「誰だってブレーキを踏むか……右へすり抜けようとすらあな……危ないなあ……でも、こいつを放らなくちゃあ、聴牌《テンパイ》にならねえしなあ……えい、振ってやれ!」
「ロン! いいところから出た」
篝は自分の牌をさらした。
「ついてねえよ、全く。ひでえもんだ!」
餅原次郎は、三千六百点を支払いながら、不図、真顔になって、
「横山さんよ……三万円というのは、確かだろうね?」
と言った。
「ああ、たしかですよ。先刻だって、談話料は支払ったでしょう?」
篝は、牌をかき廻した。
餅原は、ウイスキーの水割りを、がぶりと飲み、
「よし。じゃあ、こんなのはどうだ」
と、四枚の牌を配置した。
篝は胸を躍らせた。それは彼が、新宿の喫茶店で思いついたことと、寸分違わぬ牌の配置だった。
「いいかい……これは道路の幅だ……」
「ははあ、なるほど?」
篝は、あまり関心がないような顔をつくって、ピースを咥《くわ》えた。
「いいかい。この道幅が問題なんだ。ときに……外車みたいな頑丈な車なのかい、そいつは?」
「いや、国産の乗用車でしょう。多分、そうでしたよ……」
「それなら好都合だ。ボディが|やわ《ヽヽ》だからな……。この道は、この車がいつも朝晩、通っている道だ……」
「ははあ。なるほど」
「問題の車が、この道を走ってくる。それをみて、この車は……なるべく頑丈な外車がいいな……幅が広いから……」
「幅が広い外車ね……」
「こいつが追い抜いて、先に立つ」
餅原次郎は伏せた牌を、車に見立てて、ゆっくり動かした。
「いいかい。ここに大きな岩がある」
「東京のど真ん中に?」
「あ、そうか。じゃあ、ダンプカーでもいいや。ここへ駐めておく」
「なるほど」
「この外車には、強烈な投光機が積んである」
「投光機?」
篝は目を光らせた。
「よくあるだろう? 携帯用の、大きな懐中電燈がさ……」
「……ええ、それで?」
思わず篝の声がかすれた。
「こっちのダンプは、エンジンかけて待機している」
「……ええ……」
「この外車は、このダンプを行き過ぎた直後に急停車する」
「うん……それで?」
篝は、握り緊めた拳《こぶし》の中で、じっとり汗が浮いてくるのを知った。
「前の車が急停車したんで、こいつはブレーキを踏みながら、右から追い抜こうとするわな……」
「だろうね……」
「こっちのダンプは、急停車を合図に、フル・スピードでやってくる」
「うん……」
篝は、玖島太郎が外車を追い抜こうとする姿を想像し、拳を顫わせた。
「その時だ……こっちの外車から、投光機で運転者の目を照らす」
「……目を?」
「そうだ。暗闇から、パッと強い光を浴びせるんだ。たいていの奴なら、ビックリしてしまう」
「うん、……それで?」
「慌ててハンドルを切ろうとすると、今度は真ッ正面から、この待機していたダンプが、ヘッド・ライトを皎々《こうこう》と照らして突進してくる……」
「ははあ……」
「避けるには、右へハンドルを切るよりないだろう?」
「うん……」
「そしたら、この岩に……じゃない、待っていたダンプに、ドシンさ」
「なるほどね」
「どうだい、このトリックは?」
餅原次郎は、得意そうに、芸者たちを見廻している。
篝は、〈とうとう泥を吐きやがった!〉と思いながら、しかし念を押す意味で、
「面白いけど、しかし、現実性に乏しいようだなあ」
と言ってみた。
俄然《がぜん》、反応があった。
「現実性に乏しいだと? 冗談じゃねえや。本当にあったんだぜ、こいつは!」
餅原は、またウイスキーの水割りを呷《あお》っている。
「本当にあった? 嘘でしょう?」
「嘘じゃない」
「証拠がありますか?」
「そう言われると困るけんど、本当にあったんだよ……」
「どこで?」
「東京さ……しかも、この近くでな」
「この近く? どこです?」
「そらあ言えねえよ。そいつは、ある人から三十万円貰って、やったと言ってらあ」
篝は、不意に呶鳴りつけた。
「やったのは、貴様と光村だ!」
餅原次郎の顔が、とつぜん、蒼白《そうはく》になった。呆然と目を瞠《みは》り、口は死にかかった金魚のように、意味もなくパクパクと動いている。
「貴様たちが、共謀して、玖島太郎を殺したんだ! おい。この三人の芸者が、証人だぞッ!」
餅原は、腰を浮かしかけたが、酔いのせいか、思うようにならない。
「お前たち、たしかに今のこいつの言葉をきいたろうな!」
篝正秋は芸者たちにそう言い、
「おい、餅原、誰に頼まれたのか、言え。そうしたら、黙っておいてやる」
と、強く睨《にら》みつける。餅原次郎は、蒼《あお》くなって唇を顫わせつづけていた。
[#改ページ]
饒舌《じようぜつ》になった女
〈俺は勝った!〉
と篝正秋は心の中で叫んだ。目の前にいる餅原次郎の顔は、蒼白から次第に、赧《あか》い色に変色しつつあった。これは驚駭《きようがい》から醒《さ》めつつある証拠である。
「やい、餅原!」
勝ち誇って、篝は言った。
「な、な、なんだよウ……」
餅原次郎は不意に酔いが廻ったような声音で、虚勢をはりながら彼を睨む。
「一緒に、警察へ行くか!」
「じょ、じょ、冗談じゃねえや!」
「しかし貴様は、自分の口で、ある人から三十万円貰って、この十二社の近くで、ミキサーカー二台と、外車を使って殺人をやったと、白状したんだぜ、おい?」
「そんなこと、言った覚えはねえよ」
「ほう、そうかな? 事件のあったのは、二月十二日だ……青梅街道のT医大附属病院の近く……時刻は午後十一時二十分ごろ……」
餅原次郎は、またしても、はッと息を嚥《の》んで彼を見る。
「被害者は玖島太郎……日本春秋編集部に勤めている男だ……貴様と光村は、会社のミキサーカーを無断で運転して、この玖島太郎を事故死させたんだ……」
篝正秋は、固めた拳で強くテーブルを叩いた。麻雀の牌《パイ》が、生き物のように一斉に飛び上り、幾枚かはテーブルの下にこぼれ落ちた。
「な、なに言ってるんだ……」
吃《ども》りながら、餅原は口を利いた。
「違うのか?」
篝は、はッたと睨み据える。
「ち、ち、違う!」
「どこが?」
「み、みんな、出鱈目《でたらめ》だい」
「ほう。出鱈目だったら、なぜ顔色を変えるんだ。お前が顔色を変えたのを、俺も、芸者衆も、みんな見たんだぜ!」
「た、た、ただ、吃驚《びつくり》しただけだい!」
「なぜ吃驚するんだ?」
「そ、そりゃア、あんたが急に、大きな声を出すからよ……」
「ふん。巧く逃げたな。しかし、俺の眼はフシ穴じゃないぞ」
「な、なにがよ……」
「貴様が二月十二日に、淀橋署で調書をとられていることも、二月十三日の夜に誰かから大金を貰って、借金の始末をしたことも、みんなもうネタは上ってるんだ……」
「それが、どうしたってんだい!」
「……変じゃアねえか。ええ? だったら、あの金は一体どこから手に入れたんだい?」
「バクチさ。それに決まってるじゃない!」
「ほう、バクチね。いつ、打った?」
「いつだって、お前さんの知ったことかよ。なんだって、そんなくだらんことを、詮索《せんさく》しやがるんだ」
「くだらんこと?」
「ああ!」
「立派な編集者を、殺しておいて、それがくだらんことだと?」
篝正秋は、ぱッと立ち上った。許せない、と思った。玖島太郎を事故死させた、この餅原の面を、力の続く限り、打ち据えてやろうと思った。
彼が立ち上ったので、反射的に相手も、立ち上ろうと腰を浮かしかけ、その途端に大きくよろめいた。
「この野郎……」
餅原次郎は、麻雀の卓を、狂ったように引っくり返した。
「や、やる気か、貴様!」
篝は素早く餅原の背後に廻ると、柔道の羽交い絞めの要領で、腕を相手の頸《くび》に喰い込ませていた。
「おい餅原……」
彼は、大きく荒い息遣いで叫んだ。
「貴様が殺した玖島太郎は、俺のたった一人の親友だった! そいつを、貴様たちは、殺したんだ……」
「な、なにも俺も、光村の兄貴も……」
「直接に、手を下したんじゃない、と言いたいんだな?」
「そ、そうよ……」
「しかし、現実に玖島を死なせているじゃアないか!」
「死んだんだ……殺したんじゃない!」
「ふーん、そうか」
篝正秋は腕に力をこめた。
「く、く、くるしい……」
餅原は、咽喉《のど》をゼイゼイと鳴らして、足をばたばたさせる。
「俺は貴様を死なせてやる。しかし、殺したんじゃないぞ……。どうだ!」
「た、たすけてくれ」
「うるさい。誰から頼まれたか、正直に言えばよし。さもないと……」
「く、く、くる……くるしいッ!」
「誰から頼まれた?」
「た、たすけて……」
「誰から頼まれた?」
「お、おれは、知らん!」
「知っているのは、光村か!」
「そ、そうだ……」
「幾らで請負った?」
「だ、だから、三十万で……」
「誰が考えた? あの殺し方を!」
「し、しらん!」
「光村か?」
「ち、ちがう!」
「隠す気だな? よーし。それなら、今から淀橋署へ連行するぞ?」
「み、光村の兄貴だよ!」
「その光村は、どこで、殺しを請負って来たんだ? ええ、おい!」
「ト、トルコ風呂……」
「トルコ風呂だと?」
「ああ……トルコ風呂の経営者から……頼まれたと……言ってた」
「どこのトルコだ?」
篝正秋は腕の力をゆるめる。
「ぼ、煩悩だよ……」
「なに、煩悩?」
篝正秋は、思わずはッとなって、腕をふりほどいた。どこかで聞いたことがある名前だった。が、その瞬間、餅原次郎は体を反らすようにして、自分の後頭部を使って、篝の額に思い切り強烈な頭突きをくらわせる。
「あ痛ッ!」
篝がひるんだ一瞬、餅原は黒のジャンパーを横づかみにすると、酔っていた人間とは思えぬ敏捷《びんしよう》さで、座敷を飛び出して行っていた――。
冷たいお絞りで、額に出来たタン瘤《こぶ》を冷やしながら、篝正秋は〈煩悩、煩悩、煩悩……〉と呟きつづけていた。
どこかで聞き及びのある店の名前なのである。しかし、咄嗟《とつさ》には思い出せない。
二度目にお絞りを取り替えて貰った時、篝正秋は、〈ああ!〉と叫んで膝《ひざ》を叩いた。
「そうだ! 新宿二丁目の……シゴキの哲子の店だ!」
彼は、そう口に出して言っていた。
芸者たちが笑いだした。
「シゴキの哲子って、それなあに?」
年嵩《としかさ》の方が、笑いながら訊く。篝は、それには答えず、
「おい。きみ達は、いまの餅原というヤクザ者の言ったことを聞いたね? なにかの時には、証人台に立ってくれるね?」
と三人を見廻す。
「いいわよ……」
若い二人が頷《うなず》いた。
「頼むぜ、本当に……」
篝は立ち上って、「おい、車だ。タクシーでいい」と言った。
「あら、もうお帰りになるの?」
芸者たちは駭《おどろ》いたように叫んだ。
「ああ、帰る。彼奴《きやつ》にドロを吐かせたら、もう用事はないんだ……」
仲居が拾ったタクシーで、彼は新宿二丁目のトルコ〈煩悩〉へと飛ばした。
入口の受付で、
「哲子さんを――」
と指名すると、
「お客がまだ一人待ってますが」
と言われた。
篝はしばらく考えて、
「いいです。待ちます」
と答えた。
哲子とは、地下鉄の車内で、口論した仲ではあるし、名前も憶《おぼ》えている。多分、彼女の方も記憶してくれているに違いなかった。
彼は二階のロビーで、古い週刊誌を読みながら、時を過した。客室が三十もあるというトルコ〈煩悩〉は、さすがに昼間だというのに客が多い。みんな二十代の青年ばかりであった。
篝はその客が、多分、大学生なのだろう……と思ったりした。勤め人なら、午後三時ごろ、こんなトルコ風呂へ来られる訳がない。
なかなか有名人の客もあるらしく、ロビーには野球選手や、芸能人の色紙が、いろいろと飾ってあった。
その中に、篝が愛読している某作家の、
『――乳恋いの
雁《かり》も来るかよ
湯がけぶる』
という達筆な色紙も混っていた。
備え付けの古い週刊誌を、すべて読み尽すころ、やっと彼の順番が廻って来た。
ビキニの水着の上に、厚いタオル地の半コートを羽織った哲子は、彼をみると薄い眉をきゅッと寄せ、厚い唇の肉を動かせて、
「あら……」
と言った。
「しばらくだね」
篝はニヤニヤした。
哲子は、すぐには思い出せなかったらしく、また眉根を寄せ、
「どこだったかしら?」
と考え込む表情になる。
「四谷見附だよ……」
篝は答えた。
「あら、あたし四谷なんかで、働いたことないんだけど……」
「トルコじゃないよ。きみが高校生を、地下鉄の中でシゴいてさ……」
「ああ! あの時!」
哲子は大きく頷いて、「そう、そう!」と笑いながら首をふった。
「思い出したわ……」
「思い出してくれたかね?」
篝はニヤリとすると、
「ちょっと通りがかりだったんで、懐しくなって寄ってみたんだよ」
と言った。
「ありがと。でも、入るの?」
「入るとは?」
「お風呂に、よ」
「失礼な言い方だね、きみ……トルコ風呂へ来て、入らない客なんて、いるかい?」
哲子はクスリと笑い、
「近頃は、蒸し風呂には入らないで、スペシャル・オンリーという、せっかちなお客が多いの」
と、彼に目配せして、先に立って歩きはじめる。哲子の部屋は、三階のエレベーターの隣りにあった。
ドアを押すと、右手に鏡台とベッドのあるコーナーがあり、左手に蒸し風呂と浴槽《よくそう》とがある。トルコ風呂なんて、どこも似たり寄ったりの設計らしかった。
トルコ風呂が今日の隆盛をきわめたのは、偏《ひとえ》に赤線禁止の所為《せい》であった。赤線がなくなったがために、それに代るものとして、トルコ風呂が登場したのだと言ってよい。
客は先ず蒸し風呂に入り、蒸気で、あるいは熱気で躰《からだ》の汗を思い切り流す。
このあと、躰を石鹸《せつけん》でよく洗って貰い、浴槽につかる。そのあと躰を拭くと、ベッドの上でパウダー・マッサージを受けるのだった。
これが本来の、トルコ風呂の姿である。
しかし、トルコ風呂が繁昌しているのは、その本来の機能のためではない。マッサージのあと施される、トルコ嬢の特別サービスのためであった。
篝正秋は裸になると、蒸し風呂の中に入って、首だけを出し、
「ビールを飲ませてくれよ……」
と言っていた。
哲子は、ビールの栓を抜き、グラスに注いで、彼の口に運んだ。
「どうだい、景気は――」
彼は目を細めながら、儀礼的に聞いてみる。同じような水商売だけに、なんとなく景気、不景気は気がかりなのだった。
「悪くないわね……」
哲子は、タオルで彼の額に噴き出た汗を拭ってくれた。
「じゃあ社長は、儲《もう》かってるね……」
「そりゃアそうよ……」
「俺もひとつ、トルコ風呂でも、やってみるかな?」
「おやんなさいよ……」
哲子は煙草の火を点《つ》けて、彼に吸わせ、つづいてビールを奨める。
「ここの社長……幾つ位の人だね?」
彼は、やんわり聞いた。
「さあ……四十二、三じゃないかしら」
「ほほう、若いんだね」
「とても美《い》い男よ?」
「ふーん。なんという人だね」
「さあ……なんて言ったかしら。忘れちゃったけど」
「おい……待てよ? 四十二、三で、美い男と言ったね?」
「ええ……」
「もしやその男……いや、社長さんは、佐本さんと言わないかい?」
「さあ……どうだったかな? そんな風な名前かも知れないわ。あたし、一度しか会ったことないのよ」
「おい。熱い。もう出る」
篝は蒸し風呂を出て、躰を洗って貰った。洗って貰いながら、
〈もし、このトルコ煩悩の経営者が、佐本覚だったら――〉
と彼は空想した。
餅原次郎は、たしか光村昇平が、トルコ煩悩の経営者から、その殺人の仕事を貰った……と口走ったのだ。
それが本当だとすると、トルコ煩悩の経営者と、佐本覚か、詫摩周六とは、知人の間柄でなければならない。
四十二、三で美男子だという哲子の言い草は、なんとなく佐本覚が、このトルコ風呂の経営者であるような感じを起させるのであった。
湯に入って、さっぱりしたところで、彼はベッドの上に俯伏《うつぶ》せになる。
哲子はパウダーを背中にふりかけ、
「スペシャル……なさるんでしょ?」
と、念を押すように言った。
「出来ることなら、本番で願いたいね」
彼は言った。哲子は笑い、
「ア、ン、ネ」
と一語ずつ、区切りながら言った。
「俺は平気だよ」
「厭《いや》な人……。いい年をして!」
「これでも、独身だからね」
「あら、ほんと。ほんとなの?」
「ああ、正真正銘の独身さ。哲ちゃんに、プロポーズするかな?」
篝は冗談めかして言いながら、手をのばして哲子のヒップに触れた。哲子は、また笑い声をあげながら、
「あんたとなら、結婚していいわよ」
と答えてくる。
「話は別だがね……」
「うん……」
「哲ちゃんは、光村という男を知らないかい?」
「光村? さあ……どんな人?」
「光村昇平って、ミキサーカーの運転をやっている男なんだけれど」
「ああ! 昇ちゃんなら知ってるわ!」
「ええ? 知ってる?」
「うん。マア坊の友達……」
「マア坊って?」
「新宿のヤアさまなの」
「ふーん、ヤクザかい……」
「いつかマア坊が、面白いこと話してたのよ。その時の相手が、昇ちゃんだったわ」
哲子は背中を押しながら、思いだしたように饒舌《じようぜつ》になった。
[#改ページ]
疑獄の女
「マア坊ったらね、大学を中退したインテリなのよ……」
哲子は、彼の左腕を揉《も》みながら、なにかを思い出したらしく、ニコニコ顔で言うのであった。
「ほう。インテリやくざかい?」
篝も、適当に辻褄《つじつま》を合わせる。
「そうなの。頭がいいわよ。それにスケコマシの名人だし……」
「ふーん……」
「田舎から家出して来た女たちを、刑事だと言って旅館に連れ込んで、三日間ぐらい、仲間で廻すのよ」
「仲間で廻す?」
「ええ。大抵の女なら、それでダメになっちゃう……」
「ふーん。残酷なことをするもんだな」
「逃げようにも、持ち物は一切、パンティまで取り上げられてるから、どうにもならないでしょ」
「ほう。考えたね」
「相手が観念したところで、トルコ風呂へ売り渡すの。だからマア坊のヒモのついた女が、新宿にはうようよ居るわよ。あたいは、ヒモなしだけどさあ」
「なるほど。そういえば光村の家の二階にゃア、トルコ嬢がうようよ住んでいたっけ」
篝は、低い声で微笑《わら》った。
「昇ちゃんは女たちを預っているんだけど、結構、愉しいらしいわよ。一体、なんの話をしてたんだっけ……」
不図、哲子は素ッ頓狂な声を上げた。
「マア坊がいつか、面白い話をしてた……というんじゃなかったっけ」
篝正秋は言った。
「そう、そう。ある男にね、悪戯《いたずら》したんだってさ」
「悪戯? どんな悪戯だい?」
「その人はね……車の運転ができる人なの」
「ふーん?」
篝は眉根を寄せた。
「その人に悪戯したわけよ……」
「車に、かい?」
「ううん、その人に。ちょっと遊びに来いと言って、部屋へ入るところを、目つぶしを喰《くら》わせたんだって」
「へーえ。それが悪戯かい?」
「違うの。悪戯はそれからなのよ……。済みません、済みませんと謝ってさ……」
「ほほう……」
「近くの眼科の医者のところへ、連れて行ったんだってさ」
「ふーん?」
「その眼医者とマア坊は友達でね」
「それで?」
「目を洗ってやると言って、実は……なんと言ったかなあ……名前は忘れちゃったけれど、ほら、目の検査に使う……瞳《ひとみ》が大きくなる薬……」
「瞳孔《どうこう》拡散の薬かい?」
「うん、そう、そう。それで目を洗ってやったんだって」
「へえ、悪い奴だなあ」
「マア坊、笑ってたわ。その男、眼医者を出て、車を運転して帰る途中、青梅街道で……」
「な、なんだと!」
篝は跳ね起きて、哲子の手首を握った。哲子は吃驚《びつくり》したように、ポカンと口をあけて彼を見戍《みまも》る。
「おい。その男は――」
彼は大きく喘《あえ》いで言った。
「もしや、その男は青梅街道で……」
「そうよ。ミキサーカーに正面衝突して、あの世に行ったの……。それが、どうかしたの?」
「……玖島だ!」
「えッ? なにか言った?」
「玖島だよ……死んだ男の名だ……」
「まあ……」
「そ、その、マア坊というヤクザ者は、どこにいる?」
「痛いわ……」
「どこにいるんだ?」
「手を放してよ! なんだい、急に喰いつきそうな顔してさ!」
篝は照れながら、握っていた手首を離し、
「おい。一万円やる……」
と言っていた。
「一万円? なんのこと?」
「マア坊の居所を教えてくれ……」
「それは、判らないわ。マア坊の彼女が、やっている白バーなら判るけど」
「白バー?」
「保健所に届けず、マンションの中でやっているバーよ。厚生年金会館の近くなの」
「それだけでも判れば有難い」
篝は、くわしく地図を聞いて、ベッドから降りようとした。
「あら、しないの?」
哲子は不審そうに叫んだ。
「なにが?」
「スペシャルよ。あんたなら、三千円で特別なことしてあげる。哲子のは、五千円が通り相場なんだよ?」
篝正秋は、しばらく考えて、
「いや、止《よ》そう」
と言った。
「どうして?」
哲子は不服そうである。
「急用を思い出したんだ……」
篝は、一万円札を取り出して、哲子に手渡しながら、サルマタを穿《は》いた。哲子は、鋭く一声、
「いや!」
と言った。
「なんだい?」
「穿いちゃア嫌! アンネと言ったのは、嘘なのよ。あたしを抱いて行って頂戴!」
哲子はやにわに、ビキニの水着を脱ぎ、下に穿いている可愛らしいパンティをとると、自分からベッドの上に横たわった。
女性の躰には、それぞれ個人差があることは、よく知られているが、篝も哲子のように体液の少い女性には、ついぞめぐり会ったことはない。乾いているのである。
篝は、当惑した。
すると哲子は、
「その三面鏡の抽出《ひきだ》しに、浣腸薬《かんちようやく》が入れてあるわ」
と、こともなげに言った。
篝正秋は、シゴキの哲子が、自分の躰の欠陥を補うために、そうした性生活の知恵を働かせていることに感心した。
行為は、あっけなく終了した。
篝は、哲子に躰を洗って貰い、ビールを追加して一服した。
湯上りに、急いで洋服を着ると、汗をかいて逆に風邪を引く。それを用心したのである。
〈浣腸薬も、いろんな効用があるもんだなあ……〉
篝は、しばらくは快い疲労感に浸っていたが、不図、顔の表情を引き締めた。
先刻、哲子が言っていた、瞳孔拡散薬のことを思いだしたからである。
彼にも一度、経験があった。
それは瞳孔の奥を覗《のぞ》くために、つくり出された検査用の薬品だった。
これを眼球に点滴すると、瞳孔が大きく拡がるのだった。検査は簡単かつ短時間に済むが、そのあと、しばらく目の感覚がおかしくなる。
瞳孔は、光線の加減によって、自動的に収縮したり、拡大されたりする。
その自律作用が、薬品のために阻害されているのだから、おかしくなる道理である。
〈そうだ……判ったぞ!〉
篝は、膝を打った。
玖島太郎は、目つぶしを喰わされたあと、治療と称して連れて行かれた眼科医から、瞳孔拡散薬で目を洗われたのだ。
本人は、ただの目薬だと思って、車のハンドルを握る。
しかし、薬が効いて来て、遠近感があやふやになる。
多分、玖島太郎は、それは目つぶしの所為《せい》だぐらいに考えていたのではないだろうか。
車の運転には、自信がある。酒も入っているから、大胆である。
……追い越して行った外車が、T医大附属病院のあたりで、急停車する。
ハッ、とブレーキを踏みかけた一瞬、外車からパッとサーチライトのような光線が顔にあたる。瞳孔が拡散しているだけに、この光線の効果は激しい。
あッとなりながら、右ハンドルを切る。前方に皎々たるヘッド・ライトを照らしたミキサーカーが突進してくる。目が見えない、目が見えない……。
篝は腕を組んだ。
おそらく玖島は、不意に強い光線を投げかけられて、眼が見えない状況にあったのではあるまいか。
だから、駐車中の餅原のミキサーカーに、衝突してしまったのではないだろうか――。
敵は、知能犯であった。
瞳孔を拡散した状態では、正常な運転はできない。
暗い夜道を走っているのだから、その場合は普通でも瞳孔は大きく拡がっている。カメラの絞りと同じ原理である。
暗闇で、パッとヘッド・ライトを浴びた時、目がしばらく霞《かす》むのは、不意のことで瞳孔の収縮が伴わないからである。
逆に、明るい所から、暗い所へ入った場合、しばらく目が見えなくなるのは、瞳孔の拡大が追いつかないからであった。その証拠に、しばらくすると、暗闇に目が馴れて来てぼんやり見えだすようになる。
夜道を走っている場合には、瞳孔が拡大していても、さほど本人は苦にならない。
しかし、この状態で、強い光線をあてられたら、一体どうなるか。
当然、瞳孔は収縮しようとする。
だが玖島の瞳孔は、薬品のために、拡大されっぱなしの状況にあるのだから、光線を常人の数倍もの強さで感じとり、一瞬、盲目に近い状況におかれたわけだ。
右ハンドルを切る。
そこに再びヘッド・ライト。
……可哀想に玖島太郎は、ミキサーカーが駐車しているのに気づかず、動顛《どうてん》しながら再び急ハンドルを切った。そうして、確実な、死因をつくったのである。
ビールと突出しをお盆に載せて、部屋に戻って来た哲子は、駭いたように、
「あら、怖い顔をして、どったのさあ」
と言った――。
その夜、篝正秋は、〈日本春秋〉の田村編集長と落ち合って、食事をした。二人の目的は、むろんお互いの調査の情報交換である。
田村錬次は、その日、光村昇平の勤め先まで訪ねて行き、ウイークリイ・東京の記者に化けて、あれこれ質問したのだそうである。
餅原と違って、光村はなかなか冷静で、知恵の働く男らしく、田村の誘導|訊問《じんもん》にはひっかからず、ただ、
「車で殺人の完全犯罪が出来るか?」
という質問に対しては、
「そりゃア出来るだろうね。ただ、頭を働かさなきゃ駄目だね」
とだけ答えたそうである。
「頭を働かせ……といった光村の台辞《せりふ》は、重要なポイントですよ。違いますか?」
篝は催促するように言った。
「その通りだね。餅原の自供、そしてトルコ嬢の証言……みんな、その完全犯罪を裏付けている」
「瞳孔拡散か……」
篝が、深い溜《た》め息を吐くと、田村錬次も同じように溜め息を一つして、
「とんでもない奴等だ……」
と言った。
「で、これから、どうします? 十二社の芸者という証人もいますし、警察へ届けますか」
篝は、ビールを苦そうに飲んだ。
「私も、それを考えていたところです」
「と言うと?」
「警察へ届ける。たしかに証人はいるし、事件も存在している」
「ええ。それで?」
「でも考えてみると、餅原次郎の証言だけでしょう?」
「なるほど……」
「もっと物的証拠がないと、警察で挙げてもですね、裁判では引っくり返されると思うんですわ」
「ははあ。状況証拠だけでは、無理でしょうか」
「と、思いますよ?」
「だったら、どうしたら良いでしょう」
「私は、かりに玖島君殺害の犯人として、餅原や光村や、なんて言いましたか……マア坊ですか……そんな連中を逮捕しても、意味がないと思うんです」
「意味がない?」
「ええ……。それだけでは、玖島太郎は浮かばれない」
「なぜです。彼を殺した犯人なのに?」
「篝さん。私が言いたいのは、その先のことなんです」
「――先と言うと?」
「わかりませんか。山陽新幹線の疑獄事件ですよ……」
篝は、低く息を嚥《の》んだ。
彼は、この疑獄事件のことで、深く田村錬次に語った記憶はない。しかし、相手は平然とそのことを、口に出したのである。
「田村さん……」
彼は、呻《うめ》くように言った。
「なんですか?」
「ご存じだったんですね、それを?」
「私だって、椅子を暖めるために、毎日、出版社へ出かけている訳じゃあない」
「なるほど……」
「玖島が殺されるというか、消される原因はたしかにあった」
「ええ、その通りです」
「俺は、それを調べた。なるほど、口を封じたくなるような、ことばかりあった……」
「ははあ……」
「だが、それを確実に証拠づける手だてはない。餅原次郎や、芸者の証言では、駄目なんだ……」
「そうすると?」
「疑獄の証拠をにぎる人物が、必ず存在する筈です」
田村錬次は、また瞑目《めいもく》するような表情になって、そっと貧乏ゆすりをした。
篝正秋は、田村編集長の言っている言葉の意味が、よくわからない。なにを言っているのか、と彼は思った。疑獄の証拠をにぎっている人間と言えば、佐本覚、それに詫摩周六の二人ではないのか?
怪訝《けげん》そうに篝が顔を挙げると、田村はニヤッとして、
「犯罪の蔭に女あり……」
と、謎《なぞ》めいたことを言った。
「女あり……ですか?」
「そうです。違いますか?」
「それ……一体どんな意味です?」
「篝さん……とぼけるのは止めて下さい」
田村錬次は割合に厳しい声で、彼を咎《とが》めるように言った。
「とぼけるですって?」
「そうです……」
「なんの話です……私には、どうもよく判りませんが」
「そうですかね」
「ええ。犯罪の蔭に女あり……というのは、一体、私とどういう関係があるんです?」
「ほほう。知らないと言われる?」
「……ええ」
「じゃあ、言いましょう。丹羽……章子ですよ」
「えッ、章子?」
「そう。彼女は、あなたの店に勤めていた。そうして今は、工藤幹事長の女だ……」
篝正秋は、それこそ大きな棍棒《こんぼう》で、頭を殴りつけられたかと思った。ショックであった。
「丹羽章子は、麹町の佐本マンションに住んでいる」
「…………」
「あなたは、週に一、二度、彼女と会っていますね?」
篝正秋は、低く唸《うな》った。意外だったのである。
日本春秋の編集部が、そこまで調査が行き届いていようとは、信じられなかったのであった。
〈犯罪の蔭に女あり、か!〉
篝は心の中で呟きながら、畏敬《いけい》の眼をもって田村錬次をみた――。
[#改ページ]
殺人の青い芽
……佐本覚が、山陽新幹線の工事計画を耳にしたのは、舅《しゆうと》の詫摩周六からだった。
運輸官僚だけに、舅は耳が早く、
「おい、次は山陽線だぞ……」
と、東海道新幹線が試走しない前から、彼に予言していた。
国鉄が、新大阪駅から岡山までの、第一期工事の測量をはじめたころ、佐本の手許《てもと》にはぞくぞくと、極秘情報がもたらされた。
彼等がもっとも欲しかったのは、ルートと設置駅の決定である。
新神戸、西|明石《あかし》、姫路、相生《あいおい》、岡山という五つの駅の設置が、四十一年春に発表されたが、姫路と岡山の二駅にこそ手を出さなかったけれど、新神戸、西明石、相生の三駅の周辺は、予定通り買占めてある。
延長距離は約一六〇キロで、東海道新幹線の五一五・四キロにくらべると三分の一以下の距離で短い。
しかし総工費は一、七〇〇億円を見込まれていた。三、八〇〇億円かかった東海道新幹線の二分の一近い工事費なのだ……。
それは何故かというと、全線の約三四パーセントがトンネル工事を必要とするからであった。それに時速二五〇キロというスピード・アップを考えて、建設される所為《せい》もある。
佐本覚は、舅の命令でつくった〈秘密カルテル〉のメンバーを招集して、この山陽新幹線の独占計画を発表した。
鉄道工事には、むろん鉄鋼、セメントなどの夥《おびただ》しい資材が必要とされる。
その工事を請負うのは建設会社であり、電気機関車をつくるのは重電機メーカーだった。
鉄鋼、セメント、建設、電機の四業種・大手業者からなるカルテルの会員たちは、佐本の示した計画に、挙《こぞ》って賛成を唱えた。
国鉄が相手だから、代金のとりっぱぐれはない。工期も昭和四十七年三月までと、めずらしく長い。その一、七〇〇億円の工事を、独占できるのなら、誰にも文句があろう筈がない。
佐本はさらに、用地買収による利ザヤ稼《かせ》ぎを提案し、この買収資金の提出を求めた。
ところが、みすみす莫大な利益があがることが、判っているにもかかわらず、なぜか秘密カルテルの会員たちは、
「用地を事前に買収しておいたことが、新聞社あたりに知られると、五月蠅《うるさ》いから――」
とか、
「買い入れた土地に、新しい駅が設置されるという保証はない。羽島駅や、国際空港の例もあることだし……」
と尻込みして、この買収資金の供給については、一様にそっぽを向いたのである。
佐本は、舅に相談した。
詫摩周六は、
「そりゃアみんな、金儲《かねもう》けはしたいが、怪我はしたくないからなあ」
と笑い、
「こういった資金は、政治家を動かすのが一番いい」
と答えた。そうして、憲民党の工藤幹事長を紹介してくれたのである。
保守党の台所を、ひとりで切り廻しているだけに、工藤陸郎は頭の回転も早く、また利潤ということについても敏感だった。
三回目の柳橋での会合で、工藤幹事長は言った。
「金は三十億まで出そう。それで、どれぐらいの利益があがるかね?」
と――。
佐本は、手付金を打った柴金商事の領収書をとりだして、工藤に示した。
「これらの農地や山林は、いま一反いくら、一町歩いくらという値段ですが、山陽新幹線の計画発表と同時に、坪いくら……という土地に化けます。私は坪三千円のものなら、発表と同時に六千円と倍になり、国鉄の買収価格は更にその倍の、一万二千円になると考えておりますが……」
「すると三十億円が、百二十億円になる……というのだな?」
「はい。買収した土地は、右から左に担保として、銀行へ預けましょう。それなら銀行も安心でしょうから……」
「うむ。よほどこの情報には、自信があるとみえる。たのもしいぞ」
工藤は、彼の肩を敲《たた》いた。
こうして政治的な折衝によって、工藤の裏書による三星銀行の融資が、前後四回にわたって行われた。
工藤は、憲民党の中でも、利け者の政治家として定評がある。
佐本覚は、この工藤幹事長を、自家|薬籠《やくろう》中の物とするために、女を献上することとした。
幸い麹町に、佐本の建てたマンションがある。佐本は、酒の席で工藤が、
「わしはグラマーが好きでなあ。それに外国で遊んだ所為か、むこうの淫売婦のスタイルで来られると興奮するんだ……」
と、口をすべらせたのを忘れなかった。〈コスモス〉に勤める丹羽章子と、長谷川雪絵の二人に、目をつけたのは、その所為である。
あるとき、佐本は二人が並んだ写真をとり、工藤に見せた。工藤は直ちに、丹羽章子の方が好みだ、と答えた。
佐本は、丹羽章子のアパートへ、毎朝押しかけていっては、
「生活費のほかに五十万円出すから、ある人の妾《めかけ》になって欲しい……」
と言い、とうとう口説き落した。
そして、自分のマンションに引越させ、工藤に献上したのである。
佐本覚は毎朝十時に、昭和通りにある〈スチール通信社〉に顔を出す。
通信社としての業務一切は、ある業界紙から引き抜いた佐々木という五十男が、采配《さいはい》をふるっていた。
佐本の仕事は、別にあるわけで、現在は国鉄の用地買収交渉に、柴金商事を通じてあたらせている段階であった。
――その日、佐本覚は平常通り、大阪の柴崎金之助に電話を入れ、西明石駅一帯の買収価格を、もう少し頑張って吊《つ》り上げろと指令したあと、女給仕に珈琲《コーヒー》を淹《い》れさせて、朝刊に目を通しだした。
五つの朝刊を読み終える頃、電話があった。
「俣野《またの》さんからです」
女事務員が言った。
「俣野? ああ、こっちに廻してくれ」
佐本は何気なく言った。
俣野は、ひょんなことから知り合った新宿のヤクザで、なんでも私大の拳闘部員のころ、渋谷で酔って喧嘩《けんか》して相手を不具者にし、ために除籍された……という経歴の持ち主である。大学を辞めて、ブラブラしているうちに親許から送金が途絶え、ヤクザ仲間に入ってしまったのだそうだ。
「はい、佐本だ……。なにか用かね、マア坊……」
彼は陽気に言った。
「佐本さん、大変だ!」
俣野は叫んだ。
「大変? どうしたんだ?」
佐本は受話器を持ち変える。
「一大事だよ……」
「だから、なにが一大事なんだ?」
「次郎のバカが、|げろ《ヽヽ》しちゃったんだ」
「ええ? なんのことだ?」
「ほら、例の……佐本さんから、消さなくてもいいから、痛めつけてくれって頼まれたやつよ……」
「ああ、あのことか!」
佐本は黒メガネを取った。
「一体、どうして、そんなことになったんだ? 言ってみろ」
「そのう……次郎の奴のところに、ウイークリイ・東京の横山という次長がやって来たんだとよウ」
「ふーん?」
「その男は、おなじころ、光村のところへも来てるんだ。だから、どちらかがニセ者なんだがね……」
「なに、ニセ記者だったのか?」
「うん、そうらしい。五千円の談話料に釣られて、次郎の奴、十二社まで連れて行かれたまでは良《よ》いんだが……」
「なんだって? 十二社?」
「そうなんだよ。週刊誌の記者が、昼間っぱらから、待合で取材するなんて、どう考えたって変でしょうが?」
「ああ、変だな……」
「餅原次郎は酒とバクチにゃ目がない。それを知ってて、誘いだしやがったらしい」
「ふむ。それで?」
「酒のんで、芸者あげて騒いで、それから麻雀をしたらしいが……その麻雀の最中に、相手が変なことを言いだしやがった……」
「なんだって……」
「車を使って、うまく判らないように、運転している本人を、殺せないものかってさあ……」
佐本覚は額に汗が噴き出てくるのが、自分でもよくわかった。ちくしょう、と彼は心の中で叫んだ。
「酔ってたし、トリックを教えてくれたら、金をやるって言ったてえんで、次郎のやつ、俺が考えた例のあのことを、ペラペラ得意になって、しゃべりまくったらしいのよ……」
「ば、ばかなッ!」
佐本は、呶鳴《どな》りつけた。
「そしたらよウ、相手が急に、死んだ男は俺の親友で、殺したのは貴様と光村だッ! と、首をしめて来たんだそうだ……」
「ああ、全く!」
彼は舌打ちした。舌打ちしながら、
〈あの男だ!〉
と思った。
警察の取調べでも、わからなかった〈完全犯罪〉のトリックを、執念ぶかく探りあてるような人間は、この日本には一人しかいない。それは、丹羽章子につきまとっている、あいつだ……。
佐本覚は、歯がみした。ちくしょうめ、ちくしょうめ、と心に叫んだ。
「次郎は、とにかく手をふり切って、逃げ出して来たんだが……どうしよう? 二人っきりならともかく、芸者にも聞かれているというんだ……」
「ふーむ……」
佐本は拳《こぶし》を握りしめた。
「光村の方は、知らねえ、知らねえで逃げたらしいが、こっちの横山の方は、どうも本物のジャーナリストみたいな顔つきだったそうだぜ……」
「うーん……」
「佐本さん、どうしよう? 次郎を大阪へやりてえんだが、金はないしよウ……」
「うーん……」
「警察に届けられて、次郎がパクられでもしたら、こりゃアことだぜ? あいつは前科《まえ》はねえし、刑事《でか》部屋で嚇《おど》かされたら、一発で白状《げろ》しちゃうような男だ……」
「うーん……」
「次郎の口から、光村と俺の名が出る。俺の名が出りゃア、当然、佐本さんの名前も出るわけで……一体、どうしよう?」
「うーん……」
「佐本さん。うーんじゃ判らねえよ。どうするんだよ、一体……」
佐本覚は、手の甲で額の冷たい汗を拭った。汗は、ねっとりと粘っこかった。
――一時間後、佐本覚は四谷のある旅館の一室で、苛々《いらいら》しながら俣野というヤクザ者が現われるのを待っていた。
丹羽章子を通じて、あの篝とかいう暁興業の保安部長に、警告を発しておいたのに、一向に効果はなかったらしい。
あの玖島太郎とか言う記者も、おなじだった。
俣野に命じて、取材を中止させようとしたのだが、電話の脅迫ぐらいではこたえないらしく、堂々と彼に面会を申し込んで来た。
「材料は全部|揃《そろ》っています。あとは、あんたのコメントが必要なだけです」
と、玖島太郎は佐本に言った。
佐本は、会う必要はない、と言った。
すると相手は、
「工藤幹事長の裏書で、四回にわたって三十億円を三星銀行から引き出している。その金は、大阪へ送って現金に変えられ、柴金商事に運び込まれている。柴金は不動産業者で……」
と、立て板に水を流すごとく、山陽新幹線の用地をめぐる黒い噂《うわさ》≠ノついて、ペラペラとまくし立てたのであった。
そうして、
「佐本さん。貴方がこの用地買収の黒幕≠ナあることは判っています。私は編集長に、すべてを報告します。多分……この記事は無署名で、山陽新幹線をめぐる黒い噂というようなタイトルで、特集の一つに扱われるでしょう。ですから貴方の、コメントが欲しいんですよ……」
と粘ったのだった。
佐本は一日考えさせてくれ、と言い、その夜、俣野を四谷の旅館に呼んで、玖島太郎を痛める¢樺kをしたのだった。
俣野は、玖島が自家用車を運転していることを知ると、
「そいつはシメコの兎《うさぎ》や! 一度、使ってみたい計画があるんですわ」
と言った。
自動車を使った事故。
佐本覚は、俣野のアイデアを聞いて、最悪の場合――つまり急停車した大型車をすり抜けた玖島の車が、直進してくるミキサーカーをも巧みに躱《かわ》す……という場合を考えた。
それで一晩、寝ずに考えて、玖島の目を可怪《おか》しくさせるアイデア――つまり瞳孔《どうこう》拡散薬を使用することを、思いついたのである。
佐本は、翌日、日本春秋編集部に電話を入れた。忘れもしない二月十二日の午前十一時ごろである。
「すべて真相をぶちまけます。変なところですが、午後九時に新宿二丁目のトルコ〈煩悩〉へお越し下さい」
と彼は言った。
「わかりました。行きましょう」
玖島太郎は答えた。
「ところで玖島さん……私が凡《すべ》てを打ち明けるまでは、編集長にはお話しにならないでしょうね?」
佐本は念を押した。
「もちろんです。それは約束しましょう」
玖島は男らしく明快な返事をする。佐本はにんまりした。
約束の時間に、玖島太郎はトルコ風呂の前に車を乗りつけた。
「少し遅れるそうですから、風呂にでも入ってお待ち頂きたいとのことです」
俣野は、玖島に入浴をすすめる。
玖島は、それを断り、でてきたビールを飲みながら、待つことにした。しかし、さらに一時間ぐらい遅れる旨の連絡が、佐本からあったというので、
「では、頂きましょう」
と言って、トルコ風呂の個室へ入った。
狙いは玖島を入浴させ、その隙に、取材ノートを盗むことにあった。俣野は、トルコ嬢に車の鍵《かぎ》まで盗ませて、玖島が調査したらしい不動産関係の書類から、内ポケットの取材メモ帳などをすっかり抜き取ったのである。
なにも知らぬ玖島は、髭《ひげ》まで剃《そ》って、さっぱりした顔つきで浴室を出てくる。
トルコ嬢のひとりが、それを狙って、ぱッと目つぶしの細かい砂を投げつけた。
玖島太郎は、
「なにをするんだ!」
といって、棒立ちになる。
トルコ嬢の方は、
「お客さんが先に出てくるとは、知らなかったもんですから。済みません、済みません……」
と、下手な芝居をして詫《わ》びる。
俣野が駈けつけて、
「バカ! 気をつけんか! 佐本さんの大切なお客さまだぞ!」
と呶鳴り、用意した眼科医のところに、むりやり連れ込んでしまう。
洋服の砂を払い、瞳孔拡散の試薬で、玖島の目を洗い終ったところで、
「済みませんが、佐本は車が拾えなくて、荻窪《おぎくぼ》に立ち往生しております。もし、よろしければ、荻窪の〈谷間〉という料亭に、お越し頂きたいそうですが――」
とやる。
むろん、車を持っている玖島太郎には、異存はなかった。
かくて玖島太郎は出発。
青梅街道の寿司屋に待機している餅原次郎、光村昇平の二人に、俣野は電話を入れる。
これで準備は完了であった。
〈……実に、なにもかも巧く行っていたのになあ……。畜生め!〉
佐本覚は唇を噛《か》んだ。
根が弁護士だけに、殺人示唆および依頼の罪が、いかなる影響をもたらすかが、よくわかっているのであった。
〈あの男も……やるか?〉
〈たかが、キャバレーの勤め人だ……。死んだって、泣く奴もいまい〉
佐本覚は、おそろしい顔つきで、腕を組み、貧乏ゆすりをした。
〈莫迦《ばか》な奴だ。雉子《きじ》も啼《な》かずば撃たれまいに!〉
どうやら佐本の頭の中には、第二の完全犯罪の計画が、青い芽を擡《もた》げはじめたようであった。
[#改ページ]
血の気を喪《うしな》う
……篝正秋が、玖島太郎がどうして殺されたか、という方法について語り終ると、丹羽章子はしばらく信じられないもののように、ピンクパールにマニキュアした自分の長い爪先に見入った。
「どうだい? 佐本覚という男の正体が、やっとこれで判ったろう?」
篝は低い声で言った。
章子は嗄《しやが》れたような声音で、
「あの人が、人殺しだなんて……」
と呟《つぶや》く。
「彼は直接、自分の手で人は殺していない。利口な男だからね」
「でも、佐本が殺させたんでしょ?」
「そうだ。だから狡《ずる》い、と言ってるんだよ。それだから、君の力を借りたいと言っているんだ……」
篝正秋は、女の手を取った。
「あたしに、何をしろって言うの?」
「いいかい、章子……。きみは一軒のクラブのマダムになりたいと思っている」
「ええ、そうよ……」
「だったら、その望みを叶《かな》えてあげようじゃないか」
「ええ? 篝さんが?」
「うん。死んだ玖島の親父さんが、予算一億円でクラブをやりたい、と言ってるんだ。もし僕が、その仕事を引き受けたら、当然きみがマダムになる……」
「まあ、一億円も……」
「凄《すご》いだろう? それに、九州の蒋宗元だって、僕を引き抜きに来ている……」
丹羽章子は、ぱッと目を輝かして、彼に寄り添って来た。ベッドが軽く軋《きし》んだ。
「じゃあ私……お金を貯めなくても、大丈夫なのね?」
「ああ、大丈夫だ。僕が保証する」
篝は、横坐りの姿勢のまま、章子を抱いてベッドに倒れ込んだ。
「どう? 協力してくれる?」
彼はゆっくり唇を吸った。
章子は息を弾ませて、彼の髪の毛の中に、ゆっくり爪を立てる。
「……するわ」
「やって、くれるかい?」
「ええ。具体的に、どんなことをしたらいいの、部長さん……」
「そうだな……先ず、連中が章子のマンションで、しゃべっていたことを、憶《おも》い出して貰いたいんだ……」
章子は唇を吸われたまま、目を閉じていたが、かすかに首をふった。
「よく、覚えてないわ……残念だけど」
「だってこの間、三人が鉄道の話やら、手形のやり取りをしていたと、話してたじゃあないか」
「ええ……それ位のことだったら、憶えてるんだけれど」
「それでいいんだよ。今までに、佐本や詫摩周六は、何回ここで工藤に会っているね?」
「そうね……六回ぐらいかしら……」
「日時は、わからないかね?」
「わかるわ……」
弾んだ声で、丹羽章子は答える。
篝はびっくりしたように、
「なぜ?」
と訊いた。
「なぜって……退屈でしょ? だから、日記をつけるようにしたのよ」
「そうか。そいつは有難い! 日記を見せてくれよ……」
彼は乱暴に唇を吸った。章子は喘《あえ》いで、
「だめよ……」
と躰《からだ》を震わせた。なにか自分で自分を、抑制できぬなにものかが、脳天から爪先へ走り抜けた感じだった。
何万人に一人という名器の持ち主だけあって、彼女は欲情の火に油を注がれると、狂わんばかりになる。
章子の告白によると、それは篝に対したときだけ感じる、特別の恍惚《こうこつ》境のようだった。それは多分、金銭ずくではなく、一個の男と女として抱擁し合うからだろうと思われる。
それとも篝が、大川作之助や、工藤陸郎のように、異常でなく、正常で、かつ若いからだろうか。
「日記だよ、日記……」
「あとで、いいじゃないの……」
章子は自分から、そっとスカートのジッパーをはずす。
「日記が先だよ、章子……」
「あら……自分だって興奮しているくせに! お願い……」
「仕方のない奴だな……」
篝は腕時計をみた。午後十時を廻ったところだった。こんな時間に、工藤はやって来ないだろう。
〈朝までに、たっぷり時間はある〉
篝正秋は立ち上って、ズボンを取った。
章子は、いそいそとネグリジェに着換えている。寝室の中には、ようやく甘美な雰囲気《ふんいき》が漂いはじめた。
と――その時である。
思いがけず、玄関のチャイムが鳴った。
丹羽章子は愕然《がくぜん》としたように、彼を見詰め、当惑の色をつよく顔に滲《にじ》ませる。
「誰か、お客さんらしいな……」
パンツ一枚になっていた篝は、心持ち顔を痙《ひ》き吊《つ》らせた。
「いや、いや、いや……」
丹羽章子は狂ったように、彼に抱きついて、「工藤かしら?」と言った。
またチャイムが鳴った。
「出るのなら、早く応答した方がいい。とぼけるんなら沈黙戦術だ……」
彼は囁《ささや》いた。章子はピクンと躰を震わせ、
「工藤なら、鍵がある筈だわ……」
と言う。
「えッ? すると、佐本か?」
「きっと、そうだわ……」
「じゃあ、こんどチャイムが鳴ったら、できるだけ睡そうな声で、返事するんだな。用事があると言ったら、明日にしてくれと言うんだ……。いいね?」
「わかったわ」
「あッ! それから靴だ……靴をこっちに持って来ておいてくれ……」
丹羽章子は不満そうな顔で、寝室のドアをしめると、玄関の方へ行った。間もなく、応答するマイクの音が、ドアの外で聞えた。
篝は手早く、衣類をまとった。
間もなくドアがあいて、蒼白《そうはく》な表情となった彼女が、彼の靴をぶら下げて戻って来た。
「どうした?」
彼は聞いた。
「大変よ……佐本なの」
「やっぱり、か」
「明日にしてくれって言ったんだけど、密談があるから、一時間ばかり、部屋を使わせろって……」
「ふーん?」
「着換えるから待って、と言っといたけれど……どうする?」
「仕方がないな。裏口はないし……逃げだせないなあ」
篝は章子の肩を小突いて、早く着換えるように言った。
彼は唇を噛みしめながら、寝室の中を見廻す。ベッドの下には隠れられないし、左右にある三面鏡の下にも潜り込めない。誰かが寝室の中に入って来たら、もうお終いであった。
「佐本は、寝室には入って来ないわ」
ブラジャーをつけながら、章子は言った。
こんな時、度胸のあるのは、女の方である。
「仕様がないな。ばれたら、ばれた時のことだ……。佐本だって、大川からきみを引き離したんだから……」
「びくびく、しないで大丈夫よ」
「そうはいってもね……」
彼が苦笑すると、
「電気を消して、真ッ暗にしておくわ。それに居間からは、見えないわよ」
と章子は、硬い微笑を泛《うか》べる。
「なるべく隅に立っていよう……」
彼は靴を拾って、居間からは、見えない位置に行こうとした。すると章子は、
「莫迦《ばか》ね。ここが一番安全じゃないの」
と、ドアの蔭を指さした。
なるほど、その隅なら、ドアをあけたとき、蔭になって隠れてしまう。篝は、章子の知恵に感心した。
「じゃあ、行ってくるわね」
丹羽章子は寝室の壁のスイッチを押し、真ッ暗にすると、大胆にも寝室のドアをあけ放して出てゆく。
篝は閉めようとして、そのままにした。
これだと居間に入って来た佐本にも、まさか寝室に男が隠れているとは思えまい。
「やあ、寝ていたところを、済まないねえ……」
聞き覚えのある佐本の声がしている。
密談というところをみると、佐本のほかに客があるらしい。
跫音《あしおと》から推すと、客は一人らしかった。
「ああ、丹羽ちゃん。なにも要らないよ。氷とグラスさえあれば、こっちでやるから……。本当に、いいんだ……」
佐本は言っている。
「いいんですの。本当に?」
と章子の声。
「ああ、密談だからね。いつものように、呼ぶまでベッドで寝転がっていてくれよ」
「じゃあ、そうするわ……」
やがて、冷蔵庫の氷を取り出す音が聞え、ボソボソと話す二人の男の声音が、彼の耳を擽《くすぐ》りはじめる。
〈一体、なんの話なんだろう?〉
篝は、耳を澄ました。
二人の話し声は低くて、あまりよく聞きとれなかった。
「……自由ヶ丘から……だからやっぱり……じゃないですか?……」
「うん、そうだな……とは、違うからな……大丈夫か?」
「まあ、任して……ドアのあけ方ぐらい、簡単……こりゃあ、専門家しか……方法ですがね……」
「ほう。そんなことが……ふーん、知らなかったなあ……へーえ……」
「盗んだやつで……手袋……指紋も……あとはフル・スピードで……」
といった、途切れ途切れの会話が、篝の耳には飛び込んで来た。
佐本の相手が、誰だか判らないので、会話の内容がよく呑み込めない。
だが篝正秋も、その佐本の相手が、玖島を殺すプランを考えだした、インテリやくざの俣野だとは知らなかったのである。
その日の昼すぎ、四谷で俣野に会った佐本は、篝正秋の日常の行動を調べさせ、そして彼を消す′v画を、俣野に命じて考えさせたのだった。
まさか佐本も、その大切な密談の隣室に、これから殺そうとする当の相手が、かくれていようとは夢にも考えていなかったのに違いない。
また篝自身も、洩れ聞いているその会話が、自分を殺そうとするためのものだとは、露知らずにいたのだった。
その意味で、人生とは皮肉である。
氷を出し、グラスや酒瓶《さけびん》を並べる音がすると、さすがに二人の男の会話は中断した。
「案外はやく、用談は済みそうですよ」
佐本ではない男の声がしている。
「そうですか? では、ごゆっくり……お帰りの時は、玄関のチャイムを鳴らして下さいな……」
章子はそう言って、携帯用のテレビを持つと、ゆっくり寝室へ忍び込んで来た。そして後手でドアを閉め、内鍵をおろす。
スイッチを入れると、章子は肩で大きく息を吐いた。額に汗が滲《にじ》み出ていた。
章子は、大胆であった。
テレビの声を大きくして、寝室の入口近くにおくと、篝に抱きついて唇を吸うのである。
「おい……大丈夫か?」
彼は気が気でない。
「……平気よ。ね、ほれ、こんなに……」
女とは不思議な反応を示す生物である。つまり彼女は、篝を自分の寝室に隠し、堂々と佐本たちに応対したというスリルで、興奮してしまっているのである。
そうとしか、考えられない。
「ね、大丈夫よ……」
彼女は下着だけ剥《は》ぎ取って、先刻、彼が隠れようとした隅の位置に坐って、彼を手招きするのである。
篝は、女性の快楽に対する、異常な執拗《しつよう》さに目を瞠《みは》ると共に、なぜか不意につよい情欲を覚えた。
それは、どうしてだろうか。
ドア一枚を隔てた外では、二人の男が密談している。いかにテレビの音が、男女の営みの音を消してくれるだろうとはいえ、かかる場合に果して行為が持たれて、よいものであろうか?
篝は、慎重にズボンのベルトをはずし、静かに脚を抜きとった。
遽《あわただ》しい営みではあったが、快感は背筋を走り抜け、呻《うめ》き声が、二人の口を衝いて洩れた。
慌てて、篝は口を蔽《おお》ったが、その獣のような呻き声は、二人同時であったがため、隣室にも聞えたらしい。
ズボンを穿《は》いていると、ドアのノックがして、
「どうか、したの?」
という佐本の声がした。
章子は弾む息を整えながら、しかし大声で、
「テレビです……」
と叫んでいた。
佐本は、それで納得したように、ドアの前から離れたらしい。
章子はニッコリ微笑《わら》い、三面鏡で髪の崩れを直しながら、彼にウインクを投げて来た。
「さ……ちょっと偵察してくるわ」
彼女はスカートを穿き、彼をまたドアの蔭に入れると、ゆっくりドアをひらき、立ったまま、
「氷、ありまして?」
ときいた。
「いや、もう終るところだよ……」
「なにか、肴《さかな》つくりましょうか」
「いいよ、丹羽ちゃん。なにも心……」
思いなしか、佐本の言葉が硬《こわ》ばり、なぜか中断される。
その一瞬、章子はドアを後手で閉め、居間へ出て行く。
「心配しなくたって、いいんだよ。内輪同志なんだから……」
大きな佐本の声が、ドア越しに聞えた。
篝正秋は、胸をなでおろした。
彼は、寝室の中が明るいだけに、ひやひやしていたのであった。
五分ばかりで、客は帰って行った。
章子は玄関の内鍵をおろし、
「もう、大丈夫よ」
と言った。
「いや、危ない。しばらく用心していよう」
彼は、寝室のベッドに横坐りして、当分のあいだ動かなかった。
「大丈夫だってば、部長さん……」
彼女は、彼を軽蔑《けいべつ》するような、微笑い方をする。
「いや、そうじゃあない」
篝正秋は言った。
「先刻……佐本は、〈いいよ、丹羽ちゃん……〉と言いかけて、途中で言うのを止めたね?」
「ええ、そうよ……」
「そのことが気にかかってるんだ……」
「あら、どうして?」
丹羽章子は無邪気なものである。
「なぜ、途中で止め、また〈心配しなくてもいい〉と、言いついだんだろう?」
「あら、そんなこと?」
「ああ……」
「そりゃあ彼が、私の方を見たからでしょ。あの後だし、あたし、赧《あか》い顔でもしていたんじゃないかしら」
「そうだろうかな?」
「そうよ。だって、貴方はドアの蔭にいるんだし、彼からは見えっこ、ないじゃあないの……」
「しかし……」
篝正秋は、首をひねりながら、居間へと出て、
「佐本は、どこへ坐ってた?」
ときいた。
「そこよ……。それがどうかしたの?」
章子は一つの革ソファーを指さす。
それは一番端にあって、右斜めに寝室のドアを見るような位置にあった。
「佐本が坐っていたのは、ここか……」
彼は、そのまだ男の温《ぬく》もりが、残っていそうな革ソファーに腰をおろす。
そこからは、ベッドの端と、ベッドの右手にある三面鏡の一部とが、見えるだけであった。テレビは、ドアの右手にかくれているので見えない。だが篝正秋は、あることに気づいて、血の気を喪いながら立ち上った。
[#改ページ]
霧は深かった
篝正秋の眼が、そのとき捉《とら》えたものは、なんであったか。
それは、ベッドの右手にある三面鏡であった。その三面鏡に、テレビと彼の靴とが、写っているのである。
しかもテレビは、章子が音だけを立てる目的でおいたので、肝腎《かんじん》な画像の方は、壁を向いており、三面鏡にはテレビの後部の方が写っていた。そして彼の靴は、そのテレビの横にある。
篝正秋は、よろよろと立ち上った。
「おい……大変だ……」
彼は呻くように言った。
「大変って?」
丹羽章子は問い返した。
「ここに、坐って、みろ……」
彼は喘ぎながら言った。
「どうか、したの?」
章子は、無邪気に彼の方へ寄って来た。
「坐って、ここから見てみろよ……」
篝正秋は多分、そのとき、自分は怖い顔をしているに違いない、と思った。
佐本覚は頭のいい男だった。
だから、章子の躰《からだ》の脇から、三面鏡に写っている篝の男物の短靴と、背中を向けた携帯用のテレビとを見て、誰か男がいる、と思ったに相違ない。
しかし利口な佐本は、それを言わず、とぼけたままに、章子の部屋を辞して行ったのではないだろうか。
章子は彼の横に来て坐り、
「あら、寝室がよく見えるわね」
と呟《つぶや》いた。
「よく見える処じゃない。丸見えだ」
篝正秋は怒ったように言った。
「丸見えって……あたし、ドアのところに立っていたのよ?」
章子は不審そうである。
「じゃあ、見ていろ」
彼は立ち上って、章子に椅子を譲り、先刻《さつき》の彼女のようにドアのところに佇《たたず》んだ。
「よくみろ。三面鏡に、なにが写っているね?」
「みんな写ってるわ。しかし、ドアの蔭にいた貴方は、写ってない筈よ!」
「俺が言っているのは、そのことじゃない。三面鏡に写っているものさ」
「ベッドと、テレビと……あら! 靴だわ。部長さんの靴が、写ってる!」
丹羽章子は叫んだ。
「よく見ろ。もっと、なにかがあるだろう?」
「なにかしら?」
「テレビだよ、テレビ……」
「ええ?……あら、ほんと。テレビ、裏になってたわね」
「そうだ。きみは音だけ必要だったから、壁の方にテレビを向けて置いたんだ。それが三面鏡に写っている……」
「でも……まさか!」
章子は蒼褪《あおざ》めながら言った。
「いや、わからないぞ」
篝正秋は冷たく言った。
「あら、どうして?」
丹羽章子は、怖い顔をしていた。
「佐本は、頭の働く男だぜ? ただ、三面鏡みていたのじゃないと思うがね」
彼は考え、考え言った。その声音は、呟くように聞えた。
「だって、人間が、一瞬間にみたことが、そんなに、パッと判るものかしら?」
丹羽章子は、疑うように言う。
「その通りだね。でも、人間の眼というものは、わりかし確かなものらしいよ……」
「でも、本当に見えたかしら?」
章子の方は、なんとなく疑わしそうな口吻《こうふん》であった。篝正秋はかすかに苛立って、
「莫迦を言うな」
と言った。
「あいつは見ている。見たからこそ、途中で言い澱《よど》んだり、そそくさと帰って行ったんじゃないか……」
「そうかしらね?」
「当り前だ……。きみは、佐本という男の恐ろしさを、まだ知らないんだ……」
篝正秋は気持を鎮めながら言った。
「そんなに怒らないでよ……」
章子は、どッと彼に身を投げかけて、
「もう忘れて!」
と言うのだった。
「忘れろって、なにを?」
篝正秋には、戸惑いがあるだけである。
「先刻は、遽《あわただ》しかったでしょ?」
「えッ、なんだって?」
「あんなんじゃなくって、さ……」
丹羽章子は顔をちょっと赧くしながら、彼の胸に、ぐいぐいと顔を押しつけた。
「もっと……なのよ……」
「え? え?」
篝は、女という動物が、よく理解できないと思った。
彼の方は、これだけ怯《おび》えているのに、女は平然としている。
佐本覚に、彼が寝室にいることを知られたことを、重大なことに考えているのに、女の方はその重大≠ウに気づかない。
こんなことがあって、よいものだろうか、と彼は思った。
が、しかし、あの寝室の中でのさっきの新鮮な刺戟《しげき》は、まだ彼の躰のどこかで、かすかに燻《くすぶ》っている。青白い煙をあげて、燻っている。
〈よし、忘れよう!〉
彼は思った。
人間は、すべてを覚えられるものではない。
忘れるということも、人生なのだ。篝正秋はそう考えて、丹羽章子の躰をつよく抱きしめた。でも考えてみると、彼は忘却≠ニいう逃避の道を撰《えら》んで、安易な心の拠《よ》り場を得ようとしていたのかも知れない。
……夜は明けかかっていた。
「章子……帰るよ」
篝正秋は、女の唇を吸いつけた。
「いやん……まだ、帰らないで!」
丹羽章子は言った。
二人とも、全裸であった。
お互いの胸や、腋《わき》の下には、愛咬《あいこう》の痕《あと》がつよく印されてある。
それは二人の、愛のしるしだった。
大川作之助と言い、工藤陸郎と言い、いままで章子の対象となった男性のすべては、どちらかと言うと、変態≠ニ呼ばれるような人々であった。
丹羽章子は、篝の手によって、女性本来の快感を得たと言っている。それはたしかに、その通りだろうと思われた。
篝正秋は、その道にかけては、テクニシャンの方であったのだ。
「もう夜明けだよ……」
彼は腕時計をみた。
午前五時であった。
窓の外は、まだ明るいと言うほどではないが、しらじらと明けかかっている。
霧が濃い朝であった。
「では、帰る」
篝は、生真面目な顔をして、また女の唇を吸いつけた。丹羽章子はまたしても、躰の芯《しん》に疼《うず》くような焔《ほのお》を燃焼させはじめたとみえて、熱っぽい太腿《ふともも》を絡ませて来た。
「いやん! 帰さない!」
「莫迦だなあ。君には今日から、重大な仕事が残っているんだぜ?」
彼は、彼女の日記帳のことを思い泛《うか》べて、優しく声をかける。
「そうじゃあないの……」
女は言った。
「なんだか、変な気がするのよ……」
「変な気とは?」
彼は上半身を起した。
「なぜだか、このまま、部長さんと別れるような気がするの……」
丹羽章子は言った。
「なに言ってる!」
篝正秋は苦笑しながら、女というものは、男を引き留めるためには、いろんなことを言うものだと思った。
「俺と、新しい店をやる約束じゃあなかったかね?」
「それはそうだけど……でも、まだ帰らないで!」
「なぜ、今朝に限って、そんなことを言うんだい?」
篝正秋は、やはり彼女も、昨夜の事件にこだわっているのだ、と思った。でなかったら、何時《いつ》も通りに素直に帰す筈である。
「折角だけど、今朝は早いんだ」
篝は厳しい顔つきで言っていた。
「だったら、お願い……」
丹羽章子は上気した顔を押しつけ、
「ね、もう一度……」
と囁《ささや》く。
篝正秋は体の位置を大きく変えた。
……行為の終ったあと、丹羽章子はごく自然に彼から離れて起き上り、
「なんだか、帰したくないみたい」
と言った。
「おい、止《よ》せよ。まだ責める気かい?」
篝は笑い、今度こそ起き上って、帰る準備をはじめた。
マンションの部屋を出るとき、丹羽章子は彼を抱擁して、
「躰に気をつけて、ね」
と言った。
珍しい挨拶である。篝は、ちょっぴりだが、むッとなって、
「おい、少し変だぞ」
と言った。
しかし後で考えてみると、丹羽章子は動物的な本能で、自分の新しい愛人の、生命の危険を感じとっていたのかも知れない。
篝正秋はレインコートの襟《えり》を立てて、佐本マンションを出た。麹町四丁目の電車の停留所附近へ行けば、車は拾えると思った。
彼は、せかせかした足取りで、都電通りに向かっていた。
篝の躰は、倦怠《けだ》るい疲労感に包まれ、眼は前方しか見ていなかった。だから彼は、自分の背後から、ゆっくりスタートをして、次第にスピードをあげはじめている一台の大型乗用車があることに、気づいていなかった。
彼が、探し求めていたのは、タクシーであって、自家用車でなかったことも、たしかであるが。
篝正秋は、都電通りに、まさに出ようとした。が、その時、フル・スピードを出した大型車が接近していた。
「あ、あッ!」
篝正秋は振り返り、車のハンドルを握っている男の顔をみた。佐本覚だった。ただ、それだけが彼の脳裏に貼《は》りつき、すべてが終った。
ゴツン、と鋭い音がして、篝の躰は宙に舞い、フライパンのホットケーキを引っくり返すような恰好で、地面に落ちた。
車は、いずこともなく走り去ったが、そのあとには、すでに物体と名を変えた、生暖かい血だらけの骸《なきがら》が横たわっていた……。
読経の声が、陰気に本堂に流れている。
そこに集まったのは、事故死した篝正秋を葬うために、集まって来た人々たちであった。
玖島太郎の父親の顔も、玖島千代子の顔もあった。
日本春秋の田村錬次の顔もある。
むろん暁興業の神崎専務や、その妻である神崎道子の顔もあった。
サロン〈コスモス〉や、〈コンテッサ・クラブ〉で働いているホステス達――たとえば、彼から捉えられた赤松辰子や、彼が信頼していた小金井蓉子や、長谷川雪絵の顔も混っていた。
同郷の友人である加藤汀三や、彼を引き抜こうとしていた穂積圭子も神妙な顔で坐っている。
それに愕《おどろ》いたことに、佐本覚と藤代六郎の顔もあった。
肝腎《かんじん》の丹羽章子の姿だけがない。
読経のあと、通夜の酒盛りとなった。
神崎正之輔が、故人を葬うために、身銭を切って接待しているのであった。
「いい男でしたがな」
玖島太郎の父親である玖島五郎作が、息子の未亡人を顧みながら言った。
神崎は一礼して、
「本当に、いい奴でした。とても仕事熱心でしてね」
と妻の道子をみる。
「本当にそうでしたわ。ただ最近は、なにか調べものに取り憑《つ》かれていたようでしたけれど」
神崎道子は篝の遺影をふり仰いだ。
「そう、そう。篝さんは、うちの息子の死因に疑いを持たれていたようですわい」
玖島五郎作は言った。
「それは慥《たし》かですよ」
茶碗酒をぐいぐいと呷《あお》るように飲んでいた田村錬次が、本堂の隅から大きな声で言った。
みんなが、田村編集長の方を見戍《みまも》る。
「あなたの息子さんの死因は、たしかにおかしい」
田村は酔っているのか、蒼白《そうはく》な顔をしていた。
「あれは、偽装に近い事故死≠ナすよ。篝君は、それをつきとめていた」
彼が、喚くようにそういうと、一人だけ顔色を変えた人物があった。佐本覚である。
「篝君は、親友のために、それを追求した。そして消されたんだ……」
田村錬次は大声で言った。
「えッ、消された?」
神崎専務が駭《おどろ》いたように叫んだ。
「そうです。消されたんです!」
「そ、その証拠は?」
神崎正之輔が問い返した。
「証拠は、ありません。強いて言えば、彼を刎《は》ねた車が、まだみつからないことぐらいでしょう」
田村は一座を睨《ね》め廻し、
「しかし、その真相は、いつか明らかにする時がくる」
と言葉をついだ。
「もう、そんな話は止めましょう」
三星物産の藤代係長が、間に割って入るような形で、茶碗を持ったまま、一座の中へ入り込んで坐った。
「今夜はただ、篝さんを偲《しの》んで、陽気に飲んで騒ごうじゃないですか」
藤代がそういうと、玖島五郎作が、大きく頷《うなず》いて、
「そうだ、そうだ。誰が篝さんを刎ねたか知らんが、今夜は仏さまのために集まったんやから、みんなで愉快にやりましょうや!」
と、おどけた調子で叫んだ。
間もなく一座は陽気になり、長谷川雪絵の得意な〈ラ・メール〉の唄が披露されるに及んで、通夜とは思えぬようなバカ騒ぎとなった。
そんな頃、トイレにでも立つような表情で、すーッと通夜の席を抜け出た二人の男があった。
佐本覚と、藤代六郎とである。
「やはり、来て良かったな」
と、低く佐本覚は呟いた。
「あんたの勘は、大したもんだ……」
靴の紐《ひも》を結びながら、藤代係長は皮肉まじりに言った。
「勘だって?」
「そうさ……。玖島の一件を、まだ篝以外に知っていそうだ、と言ってたのは君じゃあないか。だから今夜、来たんだろう?」
「その通りだが、そいつが、日本春秋だとは知らなかったよ……」
佐本覚は低い声でそう言い、
「悪い敵だぜ……」
と藤代と肩を並べる。
「玖島記者も篝正秋も、交通事故死……。なんだか、奇妙な暗合だなあ」
藤代六郎は、疑わしそうな口吻でそう呟いてから、
「日本春秋の方は、広告代理店から圧力をかければOKだろう」
と、他人事のように言った。
「うん。頼む……。十中八九まで、うまく行っているこの仕事を、総合雑誌あたりに、火をつけられては、かなわんからなあ」
佐本覚は煙草を咥《くわ》えて、
「しかし、莫迦な男だよ。女の尻だけ追い廻していれば、よいものを……」
と冷たく言葉を吐き出した。
「本当だ。女の警察が、男の警察になったんじゃあ、本道をはずれている」
二人の男は、どちらからともなく、顔を見合わせて微笑しあい、霧の忍び寄っている寺の境内を、ゆっくり抜けて行った。
寺の本堂からは、長谷川雪絵のシャンソンが、まだ聞えていた――。
昭和五十六年十一月新潮文庫版が刊行された。