梶尾真治
百光年ハネムーン
目 次
美亜へ贈る真珠
もう一人のチャーリイ・ゴードン
玲子の箱宇宙
ファース・オブ・フローズン・ピクルス
夢の閃光・刹那の夏
ムーンライト・ラブコール
トラルファマドールを遠く離れて
一九六七空間
梨湖という虚像
おもいでエマノン
ヴェールマンの末裔たち
百光年ハネムーン
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美亜へ贈る真珠
『航時機』が始動してから、そう、一週間も過ぎていたでしょうか。その頃はまだ物珍らしさも手伝ってか、航時機の見学者が後を断ちませんでした。
夕暮れ、私は見まわりの足を止めました。そこにたたずんでいた、二十歳を過ぎたかどうかという女性に、ふと気になるものを感じたのです。
彼女は閉館直前で人気の絶えた航時機の前に、ぽつねんと一人立っていました。その美しい顔に、耐えがたい激情の色を浮かべて航時機を見つめていたのです。いや、航時機の中にいる彼を見つめていたのです。
彼女の視線は、『航時機計画』の説明を記したパネルに落ちましたが、すぐまた航時機の中の青年に戻りました。両方を交互に見ながら、戦慄と後悔の色を抑えようとしているようでした。
私にそういう表情を読みとれる筈はないのですけれど、一種の直感として感じとっていたのです。
やがて、彼女は唇をゆがめ、目頭を両手で押えると耐えかねたように走り去ってしまいました。
それが私と彼女の初めての出会いだったのです。
私はその時、『航時機計画』の雑務、及び航時機の管理を務めていました。
科学技術省内勤務から、『航時機館』勤務という名目の移動でやってきたので、元の同僚たちの間では島流しだという噂もたったようでしたが、自分ではそれほど気にもなりませんでした。昇給などには大して興味もありませんでしたし、かえって人間関係に気をつかわなくともすむと考えたのです。ある程度の教育を受けてはいたのですが、それを押し進める欲も持っておりません。案外、自分に向いた職場ではないかとさえ思ったほどです。
少々脱線してしまったようです。
話を戻します。
『航時機計画』、それは、一口でいえば生きたタイムカプセルでした。『航時機』に乗せた人間の潜在意識に、時代の情報を詰めこんで未来へ送るわけです。情報は活字やテープでは伝承不可能な『ニュアンス』にウエイトを置いたものです。そう、『語りべ』とでも言えば解りやすいでしょうか。いわばタイムカプセルの生きたインデックスの役割です。そのため、乗員の選択は慎重に行われたはずです。
冷凍冬眠《コールド・スリープ》による「未来輸送」は人道的な面での反対意見があり、ちょうど具体化され始めていた『時間軸圧縮理論』という、時間の流れを八万五千分の一にする理論の実践という大義名分で、『航時機』を使用することになったのです。
航時機は未来へと直進します。いや、未来へしか進めないのです。しかし機内における時間は機外の八万五千分の一の速度で経過しますし、乗員の新陳代謝も八万五千分の一というわけです。
つまり機外の一日は、航時機内では約一秒に相当するわけです。
計画のプロパーたちがよく言うように、航時機が「初期形態のタイム・マシーン」であるというのも頷けます。
部屋に入ると、右隅に居坐る航時機は、一見すると透明な雌のカブト虫です。高さ五メートルほどの機械昆虫の、眼球にあたる部分から触角を思わせる二本のアンテナが飛びだしており、短いが太めの黒ずんだ五本の足で大理石の床をふんばっているといったふうです。そして上部の後半分からは、太いのや細いのや、種々のパイプ、コードが幾百本も伸びだし、収束されて壁の中へはめこまれています。これは、裏側の管理機械の計器類へとつながっているわけです。
航時機の上半分からは透明プラスチックを隔てて、彼が見おろしているのです。未来への使者に選出された彼。歳は二十三歳ほどで、濃い眉と薄い唇、それに涼しい目もとは、とても印象的ですし、少々厚めの唇を持つ私に、コンプレックスを抱かせるには充分でした。
彼の坐っている座席《ソファー》は彼の体型に合わせて作られた特製で、視覚効果も考慮されたのでしょう。なかなか豪華な王者の椅子《エル・シド》≠ニいったものを連想させます。それが微動だにしないので全く「生きた彫像」という表現があてはまるのです。その大理石の床に写る影とあいまって、おのずと荘厳さを放ち始めるほどです。
私はその青年に対して、特別の興味を持つというほどではありませんでした。この青年が選ばれずとも、かわりに誰かが乗っていたに違いありませんから。
私にとって、彼は不特定多数応募者の一人にすぎなかったのです。
けれど、例の出来事以来、私は青年に少々の興味を抱き始めました。
――彼女にとって、この青年はいったい何だったのだろう――と。
青年が、私と同じように電子工学を学んだ二十四歳になるC大学院の研究生であったこと、それに趣味として音楽――それもクラシック――を好み、ヨハン・セヴァスチャン・バッハのフーガ、ニ短調を口ずさんでいたこと、一昨年父親が病死して以来、天涯孤独であったこと。これらはパネルの説明文からすぐわかるのですが、いかにも無味乾燥といった、身上書をもとにしたと思われるきれいごとの羅列は何の役にもたちません。
ただ、走り去る彼女の姿だけが、妙に心に焼きついて離れなかったのです。
私はとにかく目をしばたたかせました。すぐに信じることができませんでした。彼女でした。
機械が作動を開始してから五年間も過ぎていたでしょうか。彼女に再会できたのです。見まがうはずもありません。彼女は、あの苦しげな眼差しで航時機を見つめていたのです。
時が経つごとに『航時機計画』は、そのニュース・ショー的な性格を失い、年初めにマスコミから行事的番組として取りあげられる時だけ、世間の人々は、「ああ、あの計画は、まだ続いているのか」といったふうに、しばらくの間記憶の片隅から呼び起される程度のものになっていました。それも、次の毒々しいショー番組が始まる時は、きれいさっぱりと忘れさられていたに違いありません。人々にとっては、ただ「時」の経過を感じさせる過去のある時点の事件となっていたのです。
当然、科学技術省にとっても、『航時機計画』にかけられるウエイトも少なくなり、人事面における経費の節減で、私以外には現場で管理にたずさわる人間を必要としなくなっていました。
この頃は、すでに『航時機館』へ見学に来るのは、近くへ立ち寄ったアベックや親子づれが、日に一度、あるかなしかほどになっていたのです。私も、もうあまり彼女を思いだすことはありませんでした。
朝からその日は客も入らず、私は航時機の横にある小さな部屋で朝刊を読んでいました。読んでいたといっても、単に目で追っていたにすぎません。私にとっては、この空白な時間は一日でいちばん無意味ですが、好きな時間だったのです。
足音に気がついて、ふと顔をあげた時、彼女はすでに航時機の前に立っていました。
陽ざしは強すぎるほどではありませんでした。かといって弱すぎることもありませんでした。テラスの側からさしこむ陽が、忘れかけていた彼女をすっぽり包んでいたのです。彼女はブルーのドレッシイなワンピースに、底の厚い、先の丸くなった靴をはいていたと思います。
彼女の表情を見た瞬間、五年前の光景をまざまざと思い出しました。
それは動きのない『静』の表情のためだったかもしれません。整いすぎるほどの顔だちは、苦痛や悲しみのみを表現する能面のそれが現われていたのです。
細身の体からすんなりと伸びた足が、新聞の間から垣間みた私の目には、まぶしく感じられました。
私は迷いました。
――話しかけようか。『あなたは、前にも、ここへ来られましたね』と。
私は躊躇しながら時を過ごしました。
しかし、その日私はとうとう話しかけませんでした。ずいぶん長い時間、じっと立っている彼女を盗み見ながら、震える手で朝刊を読んでいたのです。
そう、私はその時、彼女に憧憬の念を抱いたのかもしれません。それをはっきりと自覚したのは、翌日、彼女が再び訪ねて来た時でした。
彼女は昨日の服装で、昨日と同じ姿勢、同じ表情で、例の場所へ立ちました。
私はもう、いても立ってもおれなくなってしまったのです。
平静さを、出来る限りの平静さを装い、彼女に何気なく近づき、何気なく話しかけたかったのです。ところが、実際には肩をいからせて、ひどくどもりながら話しかけることになってしまいました。「お、おはようございます」
それだけ言ってふうっと溜息をつきたかったのですが、それをぐっと我慢しました。
彼女は驚きながらも、何となく会釈をしたという表情でした。私は、もっと何か話さねば、と思いました。話し続けて、彼女も何かを話し始める雰囲気を作らなければ……と。
「あ、あなたには、前にもお会いしましたね。いや、覚えておられるはずがありません。当然です。『航時機計画』が始まった頃ですから。そして昨日も一日中、ここに来て、彼を……いや、航時機を見ておられたでしょう。航時機に興味がおありなのですか。いや、悪いことじゃあないです。変じゃないですよ。世の中にはいろんな人がいる。昔のベンケイとかD51が好きだという人もいれば、自動車ならフォルクスワーゲンでなけりゃとか、それを一日中見ていてもとか、い、いろんな人がいる……」
私は、文法的にも意味も支離滅裂なことを口走ったようです。しかし、彼女は微笑んでいました。それは、今まで私がしばしば受けてきた嘲笑とは全然別のものでした。
「よく、憶えていらっしゃいますのね」
彼女は、それだけの言葉を、ゆっくりとつぶやくように言いました。
どことなく、彼女の笑みの中に翳があるのを私は見逃しませんでした。私は調子に乗って彼女をお茶に誘ったのです。航時機の斜め前には私専用の中食用テーブルがあるのです。
「立ちっぱなしでは足も疲れます。お茶でもいかがでしょうか。いやインスタントコーヒーですけれども」
私が、そそくさとポットで湯を沸かしはじめ、カップを並べたてた時、彼女は歌うように一人言をいったのです。
「私、航時機なんかを観にきているんじゃありません。航時機なんか……」
顔をあげると、航時機の彼の虚ろな視線が目に入ってきました。
「あなたは彼のお友達なのでしょうか。彼には家族はないと聞いていたのですが……」
その質問は、実にいやらしいまわりくどさに満ちていたと思います。しかし彼女は吐き捨てるように、私ではなく、ほかの誰に向ってでもなく、言いました。
「私……アキに捨てられたのです」
私は露骨に興味を示さないように、かなり注意していました。
「というと、あなたは彼の、いやアキという人の」
「すみません。下卑た言い方をしてしまって。でも、ほかに言いようがありませんわ」
今度の答えは、私に向ってのものでした。私は話題を変えようかと思ったのですが、急に変えるのもしらじらしいような気がしましたし、折よくコーヒーも沸きはじめていました。
「ああ、ちょうどコーヒーが入ったようですから、どうぞ冷めないうちに……お飲みになるでしょうね」
私は『お飲みになりませんか』では断られると思ったのです。
彼女は、小さく頷くと、もう一度彼――アキ――の顔を見やると、ゆっくり椅子に腰をおろしました。
「さあ、遠慮なさらないで」
彼女は私をじっと見つめ、次の瞬間、面喰うほどの激しさで、堰を切ったように話しはじめていました。
「アキは……アキは、私のことを忘れてしまったのです。アキは私に会う時は、いつも微笑んでいました。あんな虚ろな眼差しじゃなかった。アキは航時機に……未来に憧れて、私を忘れたのです。私も、あなたのことを忘れてしまいたい……」
それは、今まで溜っていた何かを一せいに発散させたのだということが、私にもわかりました。
彼女は、わっとテーブルの上に泣き伏したのです。
彼女の差し伸ばした細い指の間から、何か白い小さく輝く玉が転げ落ちました。それは真珠でした。
私は何となく気まずい思いでコーヒーを飲みほしました。私はなす術もなく、航時機の下へ転がっていく真珠をみつめていたのです。
それまでは、計器の点検、アキの外観的体調などを観察し、あとは見学者の管理をやって過ごすのが、私の主な日課でした。
その中に、新たに彼女とのお茶の時間が組みこまれたのです。
彼女は、あれから毎日、ほとんど欠かさずに航時機館へやってくるようになりました。
彼女の名は美亜と言いました。自分を美亜と呼んでくれてかまわないと言ったのです。
彼女は、いつも朝早くからやってきて、私が起きて計器類の点検をすませた後、部屋へ入って行くと、彼女は、すでに椅子に腰かけていて航時機の彼を眺めているのでした。
それから私は朝刊を読み、見学者の来ない日なぞは、一日中ポツリポツリ世間話をしたり、たがいの身の上を話したり、まあそんなふうだったのです。
彼女は常に簡素な目だたぬ服装でした。白のブラウスや、紺のワンピースは、彼女の清潔さを物語るに充分だったと言えましょう。
私が彼女に対して質問しなくとも、彼女の方から控え目ではありましたが少しずつ話を始めていました。
彼女の話によれば、アキとは大学の仏文学の講義で知りあったのです。アキは仏文はあまり得意でなかったらしく、試験前に彼女にノートを貸してくれるよう頼みこんだことから、二人の交際は始まったのです。私が、それはあなたと知合いになる手段だったのでは、と言うと、彼女は寂しそうに笑いました。
二、三度アキと学校の外で話すうちに、すっかり二人は打ちとけあい、休日には二人で過ごすのが習慣となっていました。
彼女は私に、その頃の思い出を、こう語ってくれました。
「日曜日だけじゃなく、暇さえあれば二人は会って話をしていました。何を話すというんじゃなく、ただ何となく会って、たわいもないことを話して笑いこけて……。でも不安でした。会って一緒にいないと、何か得体のしれない物に対して不安で仕方がなかったのです。
アキが、講義の間中、廊下で私を待っていてくれたこともありました。私が教室を出ると、しょんぼり窓にもたれかかった彼が立っていたのです。アキは、その時風邪をひいていて、下宿まで送っていってわかったのですが、三十九度も熱があったのです。彼は、『暇だったから、待ってたのさ』なぞと言っていたのですけど……。
休日は、そう、アキの下宿の近くの池のまわりを散歩したり、釣をやったこともあります。彼が十日分の食費を投げうって釣ざおを買いこみ、池へ出かけて行ったのですが、一匹も釣れませんでした。雨の降る日を選んで大きなポケット付のコートを持参して、図書館へ二人の好きな作家の載った雑誌を盗みにいったりしたこともありました。
おかしかったのは、街頭で意味のないフランス語を使って大声でけんかする真似をしてみた時です。英語がどうしても途中でまじってしまうのはまあ救えるとしても、アキの故郷の方言がとびだしてしまったりするものですから、つい吹き出してしまいます。すると急に彼はオシの真似を始めるのです。手真似で話すと私はフランス語でまた問いかける。道行く人々が立ち止まると、二人で大声で、『セ・ラ・ヴィ』と叫んで逃げ出したり……。
本当におかしいとお思いでしょうね。でも、二人ともその時には口に出せなかったのです。愛してるってことを。友達であるということを、二人とも妙に強調しあって。だから、あんな馬鹿みたいな遊びをやったのに違いありません。でもアキは、私が愛していたことを知っていたに違いありません。私も彼が愛してくれていると、ちゃんと感じていたのです」
私は美亜の話に相槌を打ちました。
「それで、とうとう彼は愛していることを告げなかったのですか」
彼女は暫く押し黙りましたが、
「告白しましたわ。だから婚約したのです」
「ほう、それなのに、何故、彼は航時機へなんぞ乗ったのでしょう。彼は幸福の絶頂にいたはずじゃありませんか。いや、あなたはまさか、彼の科学への探究心の方が、あなたへの愛情よりも優先していたというのではないでしょうね。たったそれだけの偽善的な理由だけだというのではないでしょうね。違いますか。何か理由があるのでしょう。もし私が彼だったとしたら、絶対に……」
そこで私ははっと口ごもりました。美亜はその時、何も言いませんでした。美亜の潤んだ眼を見ると、それ以上話を続けられず再び沈黙が続きました。
「わからないのです。理由がわからないのです。これを見てください」
やっと口を開いた彼女が私に差し出したものは、先日目にした一粒の真珠でした。それが直径が五ミリぐらいでしょうか。珍しく透明に近い感じの、七色に光る美しい真珠でした。
「これは、先日も持っておられましたね」
「ええ。この間の真珠です。彼に貰ったのです。彼は婚約指輪の誕生石のことを私に尋ねました。生れた月の石を私にプレゼントするつもりだったのです。私は十二月生まれなのでざくろ石(ガーネット)ですが、あまり好きじゃないし欲しくもないと答えました。彼の生活は、苦しいと言えないまでも楽とは言いがたいものでしたから。すると彼は子供の頃から持っているというこの真珠をくれました。『愛しているというしるしだ。でも、この真珠には、ほら、ここに傷がある。だけど君との結婚式には、エンゲージリングにもダイヤを使わず傷のない真珠を贈ろう。リングは、そう……金のリングを使って……。真珠の意味する言葉を知ってるかい。純潔≠ウ。ちょっと趣味が悪いかなあ』と。私はうれしくて、ありがとうと答えました。ことさら真珠が好きだということもなかったのですが、そういうことから、私はずっとこの真珠を肌身離さずに持っているのです。今、いちばん好きな宝石は、と問われたら……私はためらわず、『真珠です』と答えますわ」
彼女の表情から、ちょっとの間、かげりがどこかへ消えたように見えました。私は言いました。心から、
「本当にきれいですね」
「きれいです。本当に」
彼女は真珠をそっとテーブルの上に置きました。
「アキに、この真珠が見えるでしょうか。どう思われます」
こう聞かれて、私はまた、口ごもりました。初めて、航時機の中のアキに少々嫉妬を感じたのです。
「さあね。航時機内は、こちらの二十四時間、つまり一日が一秒にしか感じられないのです。あなたがここへやってきてからの数日間も、彼にとっては数秒間の、まるで齣落しの映画みたいに写っているのではないでしょうか。だから乗務員の視力を守るために、テラスの外は常緑樹が、ほら、あんなに植えてあります」
彼女は一度、常緑樹の方を見てから、つぶやくように言いました。「とすれば、悲しいですわ。彼はスラップステックス映画の観客で、私達がそれを演じてみせている。そんなことでしょう。いやだわ。声は、どうなんでしょう。聞こえているでしょうか」
「きっとかん高い音がするのではないでしょうか。周波密度が高くなっていますからね。いや、音は全然聴くことはできませんよ。彼が外部の音を聞かないですむように、航時機の周囲で吸収してしまっているのです。でないと危険ですからね。彼にとって」
何故、危険なのかということを説明しようとしたのですが、彼女の、「そうですか」という落胆した返事に遮られると、それでもう何も言えなくなり、また、会話は中断されてしまいました。
「真珠かぁ」
私が思わず呟くと、美亜は、ふふっと悪戯っぽく笑い、テーブルの上の真珠をとりあげて見つめました。
「私も本当にアキを愛していたといえるのかしら。捨てたのは、私の方だったかもしれない……」
こう書いてくると、とても、数十年前のこととは思えません。まるで、二、三年前の出来事だったような気がするのです。あれから正確に、どのくらいの時が流れたものでしょうか。
ファイブ・オクロック・シャドウという表現があります。アキのほおにその髭が、うっすらと影を持つほどです。かなり経つのでしょう。私も耳が遠くなり、時々、自分ながらふと年齢を感じてしまいます。
美亜からは、年齢のため老けこむというより、精神的な疲労によって老けこんだという印象をうけるのです。膚はかさかさと音を出しそうなほど乾きはて、瞳だけが昔と同じに寂しそうな輝きを放っていました。
「アキは……やはり私を忘れたのではないでしょうか。頭の中は航時機の理論や、詰めこまれた情報ばかりが渦まいていて……」
私は、また始まったのかと思い、難聴をいいことに新聞を読み続けました。
「あなたは、昔、科学的探究心だけで航時機へ乗るのは偽善だとおっしゃいましたね。私もそうだと思います。アキは、本来の意味でのタイムマシンが発明される遠未来まで、この航時機に乗っているつもりでしょうか」
私は相変らず黙ったままでした。美亜は、しばらく考えこみ、
「やはりタイムマシンなぞ発明されませんわね。もし発明されるのなら、彼はそれに乗って帰ってきます。私のいる今へ……私を愛してくれていたのならの話ですけど。でも、今まで帰ってこないのは、私を愛していなかったからではないでしょうか。
もしそうなら、私は、惨めですわ。……どうしたら、アキが、私を愛してくれていたか確かめられるでしょうか」
「さあねえ」
やっと、私は返事をしたのですが複雑な気持でした。ほかに言いようもなくもう一度、「さあねえ」と繰返して考え込むふりをしました。美亜はいつものようにテーブルから頬杖をはずすと真珠をとり出しました。
「私にアキが残したのは、この真珠だけです。もう、私にとっての今の望みは、彼の本当の心を知りたいということだけですわ。私が何をやってもアキにはわからないと思うと情なくなります」
「こちら側からの連絡法がないからなあ。……思いつきに過ぎないのだけれど、それほどアキのことを思っていたのなら、航時機をもう一台作って乗ってったらどうだったのだろう」
「それは、私も昔、考えたことがあるのです。でも、何となく彼は、タイムマシンで帰って来るような気がしましたし、私がそのアイディアを思いついた時は、もう私の方が年上になっていたのです」
「それでは仕方ないねえ」
「彼が好きだったアポリネールの詩の一節を時々ふと思い出したりするのです。
『日も暮れよ鐘も鳴れ、
月日は流れ私は残る……』という……
『ミラボー橋』だったかしら」
私は美亜の話を聞くともなしに頷き、新聞を読み返しはじめました。
「彼は、もう私のことを忘れているかもしれません。肉体的時間、新陳代謝だけが遅くなって、精神的、感覚的な時間経過は外部の私達とそう変らないとしたら、もう私のことなど、忘れてしまっているのではないでしょうか」
彼女も老衰したなと感じました。なぜって、肉体的時間が遅くなっているのですから、当然、脳も肉体の一部である以上、思考時間もそれに比例するではありませんか。馬鹿げていると思いましたが、私はその考えを口にしませんでした。その時、彼女はかなり饒舌になっていたようです。
「北欧の話です。昔、氷河の間から男の子の死体が発見されたんです。身許を調べても、行方不明の子供なぞ心当りがなく、皆が調べていたのですが、一人の老人が、死体を見たとたん、わっと泣き伏しました。『兄さん。兄さん』と叫びながら……。
老人が子供の頃、その児は突然行方不明になったのです。老人の兄は氷河の割目に落込んで氷詰めになり、肉体も腐敗することなく凍結してしまい、数十年後の思わぬ再会となったのです。ちょうど私の場合もそうでしょうか」
美亜がそんな話を、自嘲的に語るものですから、私も皮肉な気分になり、口笛でサンディ・デニイの『WHO KNOWS WHERE THE TIME GOES?』なぞを吹き、アキの方を横目でちらりと見たりするわけです。アキといったら例の虚ろな眼差しで凍りついたままなのですけれど。
ですが、本心、彼を見ていて考えてしまうのです。時の流れというものはすべてを変えるものだなあと。実際、この部屋にしろ、変っていないのは彼、アキだけなのです。航時機の周囲の外壁にあたる金属の部分さえも、最初の頃の光沢が消え去っていました。ワックスを使えばある程度の光沢は戻るのでしょうが、手入れする者などいるはずがありません。今、この航時機計画を記憶している人が、果して何人いるでしょうか。
もっとも、興味本位で、ふらありとここへ訪れる人が全然いないわけではなかったのです。興味、それは美亜へのそれです。その中で、私でさえも嫌悪感を催したのは、テレビのプロデューサーでした。彼の吐き出す露骨な言い草は、とても彼女には聞かせたくありませんでした。プロデューサーはアキを見るなり、
「この表情は『八方にらみ』と言うやつだな。よく商業ポスターで使うあれだ。どこから見てもこっちを凝視《みつ》めている感じがする」
それから嘲笑うような視線をゆっくり美亜へ向けて、
「ほほお、あなたが、評判の……」
評判になっているはずは、ありませんでした。ですが、この汚ならしい大衆の道化師は、どこからか彼女のことを聞き及んだに違いないのです。それもいやらしい好奇心をむき出しにして。
「あああ、あなたが評判の、今大評判の……」
と、わざとらしく、手をひくひくと動かして、まるで感激のシーンのパロディを演じてみせるのです。それも、自分のやっていることが、ものすごく気のきいた冗談であると信じているふうなのです。
それから彼はゆっくりと腕を組み、物思いにふけるといったポーズを取り、突然ニッと笑って言いました。
「駄目だなあ、やはり駄目だ。絵にならない、視聴者は興味を持たないよ。彼女が、犬か猫だったら、『忠犬ハチ公』の現代版といったふうに、感動ドキュメンタリーを再現してやるんだがなあ。……まあ、企画には載せとくか」
彼女は黙っていました。まるで彼の言葉が全然聞こえていないという様子で……。
「彼女がもっと若けりゃ、ミュージカル仕立てのショー番組でも作るのだけどさ」
男は私にいやらしいウインクをしてみせました。それから、「まだ、にらみやがる」とか、ぶつぶつ一人言を言いながら、そそくさと出ていってしまいました。
いったい、何の用事でやって来たというのでしょう。私は異常なほど、腹を立てました。プロデューサーに対してではなく、ここまで彼女を追いやったアキに対してです。
ある日、美亜という名の老婆は、何かを予期しました。まるで恩寵をうけたかの如く、突然私に言いました。
「私が死んだら、この真珠は……あなたにまかせます。適当に処分していただいてけっこうです。もう必要なくなりそうな気がしますから」
驚いて彼女を見つめると、彼女は、真珠をそっと私に差しだしました。
「私個人名義の財産は、福祉施設にでも寄付してくださいませんか。面倒でしょうけれど、勝手なことを言ってごめんなさい」
私は頷きました。
死期を悟るというのは本当でしょうか。私には信じられないことですが、彼女はまるで、ワイルドの『幸福の王子』に仕える燕のごとくして死んでいこうとしていたのでした。
翌々日、彼女は二言、しゃべりました。
「アキは、まだ私を覚えているかしら」
私は答えませんでした。難聴であることを利用して、聞かザルを決めこんでいたのです。でないと、またいつものように、繰りごとを聞かされるに違いなかったからです。
美亜は椅子にじっと坐ったままでした。
「アキには、私がここにいたことさえわからなかったのかもしれませんわ。私の一生は、いったい何だったのでしょう。……それから、それからあなたにも、お詫びをしなければ。本当に、すみませんでした。悪かったと思います」
私はその言葉にショックを受けました。その言葉を、アキの前で言われたことに対してです。年甲斐もなく顔がほてっていくのを感じました。
もう陽斜しが西の方角へ傾いた頃でしょう。私はそっと呼んでみました。
「美亜」
彼女は眠っていました。
彼女は眠っているように見えたのです。
「美亜」
もう一度呼んでみました。
彼女の体は、ゆっくり揺れ、それから大理石の床の上へ鈍く乾いた余韻のある音を立てて倒れました。
こおおおおおん
彼女はすでに死んでいました。美亜は寄りかかれる場所を一生持たぬまま死んでいったのです。
私の耳には、美亜が倒れる時たてた乾いた音が、妙に印象深く残っていました。
真珠をどう処理すべきか、なぞということは、全然頭の中にありませんでした。
美亜に関して私の知っている限りの話を、客観的に……出来るだけ客観的に綴ってきたつもりです。それは私にとって、何とも短かすぎるような気もするし、また、述べ足りなかった所があるような気がします。逆に冗長なきらいもあるなと思えるのです。ですが、私はこの話を終えるにあたっては、どうしても、それから起った一つのエピソードを付け加えておかずにはいられないのです。
私の生活プログラムには、その後も大した変化はなく、彼女のいない生活に、さして寂しさも感じない毎日が続いていました。
それでも、時々ふと彼女に初めて会った時のことなどを思い出してしまうのです。
若かったのだなあ。そう考えると、アキの方へ自然と目が行ってしまいます。彼は彼女の一生を数時間で目の前に見たはずなのです。
美亜は気づいたでしょうか。
いいや、それはおそらく無理だろう。でも、そんなことはどうでもいいじゃないか。やっと、そう思いました。
彼女はアキの恋人だったのだぞ。
「お父さん」
耳もとで声が聞こえたのです。私は極度に反応が鈍くなっていました。
「久しぶり。お父さん」
なかなか、焦点が定まらないのです。
「あ、あ、あ」
と言いながら、私はやっと息子夫婦が遊びに来たのだということがわかりました。
「どう、元気ですか。もう、こんな仕事はやめちゃったらどうなんです、お父さん。そろそろ隠居して、ぼくらに手を焼かせてもいい頃だと思いますよ。もう、働きすぎるほど、充分働いてきたではありませんか。今日やってきたのも、ほら、テレ・メールでお知らせしたと思うんですが」
これは息子夫婦の本音に違いないのです。技師をやっている息子は、浅黒い腕に孫娘を抱いて、健康そうに笑うのです。
「美樹、おじいちゃまにお会いするのは初めてでしょう。さ。ごあいさつは」
女の子はニッコリ笑い、黙ったままで、ぴょこんと頭をさげました。
「ねえ。お父さん。私からもお願いしますわ」
よくできている。息子には過ぎた女だ……。息子の妻からは、いつも笑顔が絶えたことがないのです。
二人ともうまくいっているのだな。
「ありがとう。うれしいよ。おまえたちのその気持だけを受けさせてもらうよ」
私はもう、一生この航時機の前から離れようなぞと考えたこともありませんでした。
私は美亜と同じように、何時の間にか航時機の前で静かに死んでいきたいと思うのです。
「もう、降りるわ。苦しいんだもの」
息子の腕から飛び降りた孫娘は、大きな瞳をくるくると珍しそうに動かしました。
息子は微笑しながら、
「お母さんに似てると思いませんか。隔世遺伝ですかねえ」
私は頷きました。始終あたりを駆けまわる様子は、まるで好奇心の固まりです。一時も同じ場所へじっとしていないのです。
「美樹は、ここへくるのは初めてだったね。いろいろ珍しいものがあるだろう」
すると、息子は仕事の邪魔になるとでも気がねしたのでしょうか。
「さあ、そろそろお暇しようか。美樹。長いこといると、どうも、おいたをやらかしそうだぞ」
「まだいいじゃないか。来たばかりなのだし」
すると息子は、いやまだちょっと用があるので失礼しなければならぬと言いました。
「帰るよ。美樹」
ところが、美樹は、いっこうに帰りたがる様子も見せないのです。
「いや。ミキはもっとここにいたい。あそぶものがたくさんあるもの」
息子は仕方なさそうな表情で苦笑いをしながら私を見ました。
「ああ、かまわないよ、私は。帰りにまた寄ってくれればいいのだし」
と私が言うと、息子夫婦は、頼みますと告げて出ていきました。
私と美樹の二人っきりになると、彼女は持ち前の好奇心をフルに活動させ始めたのです。
「ねえ、おじいちゃん。これなあに」
まず、孫娘の興味の槍玉にあがったのは、何といっても航時機でした。
私が簡単に、しかもわかりやすい説明を、かなりの苦労の末にやり終えた時は、彼女の興味はすでに他のものへと移っていました。
「このきれいなものなあに。おじいちゃん。ねえったら。なあに」
美樹は何時の間にか、テーブルの上へよじ登っていました。
「なあに、これ」
それは美亜が亡くなって以来ずっと置き放しにしてあった真珠でした。
――まだこんなところに置いてあったのかあ。どうするべきかなあ。
「ああ。いいかい、これは真珠というものだよ。きれいだろう」
別に詳しい説明を付け加えませんでした。そっと孫の手のひらへ乗せてやると、よっぽど気に入ったらしい様子で、二、三度「しんじゅ、しんじゅ」と唱えてじっと見つめていました。
――美亜も浮かばれないだろうなあ。彼にせめて、美亜が一生アキを思い続けていたことを、知らせることが出来ないものだろうか。彼女は、苦しみすぎるほど苦しんでいる。それが酬いられなかったなんて、あまりに悲しすぎるなあ。
私は自分でそう確信して勝手に頷きました。
――本来、この真珠はアキの物だから、彼が航時機を出るまで保管しておくべきかもしれないなあ。だが、まてよ。ここへ真珠を置放しにしていたのだから……。ひょっとしたらアキには数秒間この真珠が見えたのじゃないだろうか。
でも、私には確信がありませんでした。内部から何らかの意志伝達方法があればいいのですけれど。
……アキは本当に美亜を愛していたのだろうか。愛していなかったのなら、いったい美亜の一生は何だったのだろう。悲しすぎる。あまりにも悲しすぎる。
そう、その時、私は真珠を美樹にやることに決心したのです。
「美樹がそんなに気に入ったのなら、その真珠はあげよう。お父さんに、リングを……金のリングをつけてもらって指輪にしてもらいなさい」
美樹の喜びようは大変なものでした。
「ありがとう。うれしいわ。ミキはずっとずうっともってるわ。だいじにするわ。ぜったいなくしたりしないわ。ほんとうよ。ゆびきりしてもいいわ」
私は目を細めました。美亜もこの処置には賛成してくれると思いましたし。
老人の回顧癖というのでしょうか。真珠が私の手から離れたとたん、今までの美亜との会話の記憶の断片が、どっと溢れはじめたのです。
「いちばん好きな宝石は、と聞かれたら……私はためらわず『真珠』と答えますわ」
「私、航時機なんかを観にきてるんじゃないんです。……航時機なんか」
「私の一生は、何だったのでしょう。……それからあなたにも、お詫びしなければ。本当に……
お詫びしなければ
お詫びしなければ
お詫びしなければ
お詫びしなければ
お詫びしなければ
お詫びしなければ
こおおおおおおおおおおん
「シンジュ。シンジュよ」
私はふっと現実にたちかえりました。そっと孫の手のひらの真珠を指さして言いました。
「これがどうしたの」
孫は、「ううん」と大きく首を振ったのです。
「ううん。ちがうの。あっちにもしんじゅがあるわ。ほんとにしんじゅよ。これとおんなじ」
美樹の指さした方角にあったのは航時機でした。
「さっき説明してあげたでしょう。あれは航時機と言ってね……」
「ううん。それはわかったの。あのなかにしんじゅがあるの。ねえ。みてよ。ねえってばあ」
私達は航時機の前へ歩みよりました。そして美樹は勝ち誇ったように言うのです。
「ねえ。これよ」
それは確かに真珠でした。陽に輝いてキラキラ光る透明な真珠。それはアキの足元から十センチほど上に、宙に浮んでいました。そしてそれは、かすかですけど確実に落下しつづけていたのです。
「ねえ、おじいちゃん、シンジュでしょう」
女の子はまだ自分の主張を続けていました。
「彼は美亜のことがわかったんだ。だから……いや最初からアキは美亜を愛し続けていたんだ」
私の胸に、何かじーんとする物がこみあげてきました。もう、私には、頷くことしか出来なかったのです。
「ねえ、シンジュでしょ。ねえったら」
私はかすれそうな声でやっと答えていました。
「ああ、真珠だよ。‘おまえのおばあちゃんのための’真珠なのだよ」
美樹が何歳になった時、彼は航時機から出てくるのでしょう。そう何十年も先のことではないはずですが……そう思いました。しかしその時まで、私は生きていることは不可能でしょう。
もう、その時は美樹たちの時代なのです。
いや、そんなことはどうでもいい。アキは、本当は美亜を愛していたのですから。
「ほんとに、きれいだわあ」
美亜の面影が、ふっと幼い孫の横顔をよぎりました。
七色に輝く真珠は殖え続けていたのです。
アキの顔はゆがみ、口は大きく開かれようとして。
最初の真珠は床の上でゆっくり王冠を形造りました。まるで本当の真珠のように……。
それは、アキがまだ持っていた、美亜のための真珠なのです。
「とってもきれい」
私も……そう思いました。
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もう一人のチャーリイ・ゴードン
新聞広告を読んで、広崎秀克は、しばらく迷った。新聞の広告といっても、本紙に掲載されるものではない。販売店で折込まれるチラシだ。建売住宅や分譲マンションやスーパーマーケットの目玉商品紹介のチラシに混って、素っ気ないレイアウトの紙きれが目についたからだ。
死んだ気になって、人生をやりなおすつもりのあなたを、求めます。我々の研究を、手伝っていただけるかた、優遇します。但し、独身の方に限ります。
委細面談にて   電話 ×××‐××××
五堂 勝
それだけ印刷されていた。イラスト一つ入っているわけではない。どのくらいの枚数が配布されているのだろうか。
秀克は、そのチラシを持ち、ゆっくりと立上った。何もない、……テレビやタンスさえもない部屋を出て、アパートの前の電話ボックスに入った。ポケットをまさぐった手を広げると十円玉が四枚あった。
受話器を握り、しばらくチラシをみつめた。しかし、まわしたダイヤルは別の番号だった。発信音が数回続いた。
「田中ですが」
女の声が突然、言った。
「ひ、秀克です。郁江さんですか」
「……」
「ごぶさたしています。佑一は元気ですか」
「……」女の声は戸惑っていた。
「かけない約束でした。連絡をしない約束でした。でも……佑一が、どうしているか知りたくて電話をしました。声だけでも聞きたいのですが」
秀克は、声を震わせていた。受話器を握りしめた手が、汗ばんでいた。
「……。約束です。もう、あなたは父親としての資格を自ずから放棄されたのではありませんか。私に、何かを頼むということも筋が違うと思います。今、私たちは人生のやりなおしを始めたところなのです。もう、干渉して欲しくないのです」
きっぱりと、女の声が言った。
「……佑一を電話に出してください」
「佑一は、元気です。あなたにも、もう会わないとはっきり自分の口で、いいます。では……。もうかけないでください。約束ですから」
秀克が、次の言葉を探しているうちに、一方的に、切れてしまっていた。
それから、秀克はダイヤルを再びまわした。先程のチラシに記された番号だった。ジィィ……。職もない。ジィィ……。部屋代も払えない。ジィィ……。家族にも見捨てられた。ジィィ……。何て気の弱い。ジィィ……。ジィィ……。
秀克は、白い部屋で待たされていた。煙草を三本吸い、あてもなく座っていた。何の装飾もない、赤い応接ソファーが置いてあるだけの素っ気ない部屋だった。
白衣の男が入ってきた。四十過ぎの黒縁の眼鏡をかけた四角い顔の目の細い男だった。
「五堂です」
男は頭を下げた。
「広崎といいます。電話では詳しく話して頂けなかったのですが」
そのとおりだった。電話口で秀克は、男に一方的に質問されたのだった。年齢、家族構成、経歴、応募理由。それから、男は住所を告げ、そこへ訪ねてくるようにと強い口調で指示したのだった。それは、ほぼ命令に近いものといえた。電話中に秀克は何度も受話器を、ほうり投げたい衝動に駆られていた。しかし、できなかった。もう、他に秀克は、すがるものを何一つ持たなかったのだ。こんな頼りない電話のコードの先の、得体の知れない声に総てを賭けるしかない自分が情けなかった。
「もう一度、うかがいますが、この募集用紙で、うたってある内容は十分、御承知ですね」
五堂という男は、そう言った。その同じ質問が電話でも発されていたのだった。
「はい」
頼りなげに秀克は、そう答えたにすぎない。
「よく理解しておいて頂かないとまずいんですね。死んだ気になって≠ニいう表現と独身者に限る≠ニいう注意事項をつけていたでしょう。つまり、こういいたいわけなのですよ、私は。この仕事に対しての生命の保証はできかねるということ。これです。こんなこと、募集用紙には書けませんからね。汲みとっておいて頂かなくては困る」
しかつめらしく五堂という男は、自分の言葉にうなずいていた。秀克も、つられてうなずくしかなかった。
「私は、いま新薬の開発をやっているのです。信じられないかもしれないが、万病に効果のある薬なのですよ。海水から抽出した奇跡の薬品です。私は仮に、この物質を大和石《ヤポニウム》と呼んでいますがね。細胞組織自体を活性化する働きを持っている……。これが、今までの動物実験のデーターなのです」
五堂の話が、単なる音声として秀克の耳に入り、そして抜けていった。秀克は全然別のことを考えていた。
五回目の転職先で何故か知らぬ間に押しつけられていた使途不明金の責任。その返済に利用した五百万円の市中高利金融。負債額は九百万円を超えたはずだ。
妻であった郁江は、秀克をとうに見放していた。秀克は、その人の良さをいつも郁江に罵られていたが、それには耐えていく自信があった。一粒種の佑一がいたからだ。
しかし、郁江が家を出る前日、五歳の佑一は父親に言ったのだった。
「もう、パパと話したらダメだって。ママが言ったよ。パパと話したらバカになっちゃうって。メチャメチャな人間になっちゃうって。だから、もう、ぼくはパパと話さないよ」
郁江は、無言で家を出た。秀克は、それを見守っていたが、何も言えなかった。どんな言葉を弄しても、妻を説得することが不可能と思えたからだ。佑一は、何度か父親の表情を寂しそうに盗み見ていた。
「もちろん、あなたに投与する薬品には不定期に偽薬《ブラシボ》を混ぜておきます。効果を客観的に測定したいですからな。……
あなた、それ何をやってるんですかね」
話を続けていた五堂が呆れ顔で、指さした。その瞬間、秀克は我にかえっていた。
秀克は、机に置かれた五堂の大和石《ヤポニウム》実験データーを無意識に手に持ち、その用紙の縁を五ミリほどの幅にちぎりはじめていたのだ。
「あ……」
それは秀克のクセなのだった。考えごとをしているときに、無意識に手が動きだして……。
「それは大事な書類なんだ」少し慌て気味にデーター類を手もとに引き寄せ、五堂は不思議そうに秀克をのぞきこんだ。
「すみません。大事な書類を」秀克はひょこと頭を下げた。三十歳過ぎの男の仕草にはとても見えなかった。
「何か、あなたは、いつもうわのそらというか、虚ろな表情をしているような気がする。まあ、いいよ。しかし……」
そう言いかけて五堂は、秀克の手もとを見た。身を縮ませて、そわついている手の中で、ちぎられたデーター用紙が縒られてコヨリになり、仔犬の姿に変っていた。
「あっ、これは」秀克は少しまごつきながら弁明していた。「いいクセというわけでは、ないのですが、……私は緊張したり、考えごとしているときに、すぐやっちゃんうんです。昔、私がいた会社でも、私、上司に叱られながら無意識に、こんなもの作ってしまったりで。仔犬とか、馬とか、……女房にも、……逃げられた女房にも、いつも言われたものなんです。あなた本当に私の話を真剣に聞いてるの……ってね。真面目に話を聞いていないように見えるんですね。このクセ。でも……本当は一生懸命に聞いているつもりなのですが」
「わかりました。いいですよ。誰にもクセはあるんですから」五堂はハァと溜息をついた。「……で、いままでの話は了解、頂けるんですね。異存はないわけですね」
「ハ、ハァ」
「一種の生体実験なのですが、御協力頂けるんですね」
「ハア」
秀克の頼りない答に、再び五堂は大きく溜息をついた。秀克の態度が、突然、豹変していた。
「異存ありませんよ。やります。やらせてください。私のような人間が、何か役に立つようなことでもあれば……。危険なんて、かまいません」
秀克は立ち上っていた。五堂の着ている白衣に掴みかからんばかりだった。秀克は、五堂にも見放されかけたと思ったにちがいなかった。「さもないと……、もう私にやれそうなことなんて……何も残っていないんです。私は、もう人間のカスにもなれないし屑でさえもなくなってしまう。お願いします。やらせてください。一筆、念書を書いたってかまいません。私が自主的にこの生体実験の被験者をかってでたということを。もしものときでも、五堂さんに迷惑がかからないように」
五堂は、秀克の気迫にたじろいでいた。
秀克を連れて研究所を案内した。広いという程では、なかった。最初に秀克が通された白い応接室の裏の部屋が、ガラス管が張りめぐらされた、空間に寸分の余裕もない実験室だった。ガラス管が幾重にもコイル状になったり、ある部分は球型であったりした。その管は幾つもの機械装置を通過し、ある物質を蒸溜しているようだった。
「ここで大和石《ヤポニウム》を精製しているのですよ」と五堂は説明した。
その部屋を抜けると独特の臭気が、秀克の鼻腔を刺激した。動物の臭いだった。
「あら、お客様ですか」
上品な細身の女性が檻の前に立っていた。
「うん。今度、大和石《ヤポニウム》の実験を手伝ってくれることになった広崎秀克さんだ。……家内の雪奈です」
五堂の妻の雪奈が深く頭を下げた。「よろしくお願いします」それから五堂に言った。「食餌の時間《フィーディング・タイム》だから。でも、アルジャーノンが、あまり食欲ないみたいよ」
雪奈は、少し表情を曇らせた。雪奈のまわりには無数の小動物が檻の中に閉じこめられていた。二十日ネズミ、モルモット、仔犬。
「あっ、アルジャーノンって二十日ネズミの名前なんです。私が昔、読んだ大好きなSFに出てくる実験用のネズミの名前。〈アルジャーノンに花束を〉って作品。それにちなんで名付けてやったの。でも、小説の中のアルジャーノンは死んじゃうんだけど、この大和石《ヤポニウム》の実験では、動物が投与されたヤポニウムによって死んじゃった例というのは、まだないんですよ。そこがSFとは違うところかしらね」
そう雪奈は、小動物たちに見とれている秀克に説明した。
「広崎さんには、大和石《ヤポニウム》の連続投与のデーター作りに協力してもらう予定でいる。どの部屋を使ってもらおうか」
「あまり、部屋数が多いわけではありませんから、満足して頂けるかどうか……」
雪奈は少し心配そうな顔になった。「ええっと、この部屋の隣だったら。三畳間で少し狭すぎるかもしれないけれど御自分のプライヴェートは守れると思います。でも……動物たちの臭いは気になりませんか」
「いえ、それはかまいません」
秀克は大きくかぶりを振ってみせた。自分が寝起きする場所なぞ、どのような場所でも構いはしないと考えた。寝転がって両手両足広げられる空間さえあれば十分だった。
申しわけなさそうに、雪奈と五堂がうなずいていた。その後、秀克は二階へ案内された。
二階は、五堂夫婦の生活用途に供されているようだった。つまり、その生活空間を紹介されたことで、秀克は研究協力者として、また五堂夫妻の家族の新たな一員として迎えられたことを実感した。
晩餐のとき、五堂が秀克に切りだした。決して豪華な食事ではなかった。焼魚と味噌汁だけの簡単なものだった。アルコールが出るわけではない。夫婦と秀克、三人だけの同じ内容の食事だった。五堂が、突然に言った。
「実は、広崎さんに協力して頂く報酬の件なのですが、……食事どきにこんな話を持ちだすのは不粋以外の何物でもないと思うんですがね」
申しわけなさそうな口調だった。雪奈が、箸を動かす手を止めた。
「まだ、詳しくお話しになっていなかったんですか。そんな大事なこと」
「ああ」
テーブルに五堂が手をついていた。
「実は、われわれとしても、精一杯、切りつめた生活をしている。他に何といって収入の道があるわけではない。まだ、具体的に決めていなかったのだが、……広崎さんの満足頂ける額からは程遠いかも知れない。とりあえず、あなたの希望される金額を、お教え頂きたいのですが。どうでしょうな」
そんな……と秀克は返答に困った。
「そんなもの、いくらだって構いはしないんです。身を寄せる場所があるだけで満足なのですから」しばらく沈黙が支配した。
それから、秀克は自分の過去について、五堂夫妻に話し始めた。己れの性格の弱さについて、あるいはどのような経過で家庭が崩壊していったかを。その原因のすべてが自分にあったことも。
食卓が何故か、重い雰囲気に支配されてしまったようだった。
「じゃあ、報酬の件は広崎さんに甘えることにするとして……。よろしくお願いします」
五堂とともに、雪奈も頭を下げていた。
「いや、そんな。頭をあげてください。それより大和石《ヤポニウム》の投与は、いつから始まるんですか」
「今夜からです。一般利用法である細胞賦活効果を狙うだけであれば、数日毎に服用するだけで良いわけです。しかし、バイオロジカル・クロックの巻き直し効果……つまり大和石《ヤポニウム》による細胞の若返りを、今、私は知りたいのです。これには大和石《ヤポニウム》の大量投与が必要と思えます。それを数時間毎に連続して行います。広崎さんには若返ってもらおうと思っている。私の発見した大和石《ヤポニウム》の力によってね」
五堂は、そう言って目を輝かせた。
「さっきのアルジャーノンという二十日ネズミは、本当はすごい年寄りネズミだったんですよ。それを大和石《ヤポニウム》を連続大量投与することによってあんなに若返ってしまったんです」
秀克は、雪奈の言葉に、そのアルジャーノンという二十日ネズミを思いだそうと試みた。たしかにあのアルジャーノンは若かった。いや、若いというより、確か体長五、六センチしかない仔ネズミでしかなかったのではないのか。それが大和石《ヤポニウム》という奇跡の物質のもたらした効果にちがいないのだ。しかし、体内の骨格も縮んでしまったというのか。細胞だけが若返ったというのであれば話がわかるのだが。秀克は、その事実を素直に受けいれることができなかった。
秀克は食後に大和石《ヤポニウム》の第一回目の大量投与をうけた。静脈注射を受けながら身体中が火照っていくのを感じていた。それから身震い。それは、大和石《ヤポニウム》の注入を受けた結果の心理的興奮の結果だったのだろう。
「次は三時間後になりますから」
そう雪奈は、秀克に告げた。
秀克は自分のために与えられた部屋へ降り、しばらく横になった。
自分の手をじっと見た。細く青白かった指に赤味がさしていた。大和石《ヤポニウム》の効果かもしれなかった。身体中が寒気に襲われた。熱があるのかもしれないと秀克は思った。
――どうせ自殺もできないほどの臆病者なんだ。これが自分に課すことのできる精一杯の審判なのかもしれないな。
そう独りごちた。これが偽薬《ブラシボ》であるはずはない。五堂は偽薬を使う可能性も仄めかせていたが、それ以前に五堂は結論に辿りつきたがっている様子ではなかったのか。現在、肉体に顕現している影響は大和石《ヤポニウム》そのもののもたらすものではないのか。
突然、息子の佑一の笑顔が脳裏に浮かんだ。何故か佑一は、秀克に話しかけようとしているのだった。
それから寒気が急速にひいていくのがわかった。ベッドから降りると、体内に力が充満しているのがわかった。肌を見ると、真白なものが一面に付着しているのだ。その白いものを指でこすると、簡単に剥げ落ちていった。秀克の古い皮膚なのだった。その下から、新たな皮膚が生まれていた。みずみずしさがあった。
部屋の隅の洗面台で顔を洗った。セッケンで何度も根気よく顔を洗い鏡を見た。
若返っていた。頬のたるみや、眼の下の小皺が、消失していたのだ。
何だか気分が昂揚しているようだった。発作的に、秀克は直立の姿勢のままから両腕を前に伸ばしてみた。膝を曲げることもなく何の抵抗もなしに両手が床についた。そのまま身体を伸ばし、十回たて続けに腕立て伏せに挑戦した。
何の呼吸の乱れも起らなかった。
肉体年齢が確実に若返っているようだった。誰かに会いたかった。会って話をしたかった。無意識に自分の部屋を開いていた。
薄暗い部屋に実験用の小動物たちがいた。その一つ一つに秀克は話しかけながら覗きこんでいた。「おい、どうしてる」「俺もヤポニウムやったんだぜ」「えらく早く休んでるんだな」歩調がスキップを踏んでいた。
動物たちのいずれもが、数匹ずつ檻の隅に寄り集って休んでいるのだった。
秀克は一つの檻の前で立ちどまっていた。その檻の中の様子だけが違っていた。
それは、雪奈が言っていた、あのアルジャーノンという二十日ネズミの檻なのだった。
五センチほどの二十日ネズミが檻の中をめまぐるしく駆け巡っているのだ。
アルジャーノンの動きは一瞬たりと休むことがない。秀克は、じっと二十日ネズミを凝視し続けた。
「俺は、お前と同じ大和石《ヤポニウム》の大量投与のモルモットなんだ。わからないだろう」
秀克は、まるで独り言をいうようにアルジャーノンに話しかけた。
「仲間なんだ。アルジャーノンもがんばれよな」
二十日ネズミは刹那、立ちどまり秀克にむかってチッと鳴いてみせた。それは、秀克に対してあたかも檄をとばしたかのように見えたのだった。思わず秀克は苦笑いしてしまった。
「どうしたんですか」
もう一方の扉が開いていた。そこに白衣をつけた雪奈が立っていた。
「いや、別に……アルジャーノンと話していたんです」
そうですか……と雪奈は言い、アルジャーノンの檻の中をペンライトで照らした。
「定期的にアルジャーノンの状態を記録しているんです。……おかしいわ。さっきと同じ。全然、食事をとっていないわ」
雪奈は首をひねっていた。
「ずっと、お二人で研究を続けているんですか」
秀克は、そう質問した。何か、話しかけねばならないと思ったのだ。
「私は、夫の研究を手伝っているだけですわ。勝が必要なデーターを作るだけ。夫一人だけの仕事量には限度がありますものね。今も、夫は他の実験をやっているんです。大和石《ヤポニウム》の新たな利用法についての」
少し寂し気に雪奈は答えた。
「もう結婚して、かなり長いんですか」
「ええ。かなりでしょう」
「子供さんは、お作りにならなかったんですか」
「いますわ。二人。でも、別に暮らしています。夫は、とにかく大和石《ヤポニウム》の研究が最優先なんです。だから二人の子供たちは私の郷里《さと》に預けています」それから、雪奈は顔を伏せた。
「会いたくありませんか」そう言って、秀克はしまったと思った。そんなところ迄、立ち入るべきではないと考えていた。
「自分の子供に会いたくない親がいると思いますか」
雪奈は毅然として、そう言いきったのだ。
「私も、そうですからね。でも会いたくても会う資格のない親だもので」
秀克の言葉に、雪奈の表情が申しわけなさそうになった。「すみません。広崎さんを傷つけるつもりはなかったんです。さっき、そんな身の上を聞いたばかりだったのに」
「いえ、構いません。もう、私はこれ以上、傷つきようがないんです」
そう言って、雪奈に小さなものを差しだした。二十日ネズミの檻の中に入っていた藁クズを縒りあわせて作った人形だった。
「これ。アルジャーノンです」
まぁ可愛いと言って雪奈は秀克からワラのネズミを受取った。秀克は無意識にこさえたのだ。
「広崎さんて器用なんですね」
秀克は頭を掻いた。
「いや、クセなんです。それより、アルジャーノンの出てくるSFってどんな話なんですか」
「う……ん。〈アルジャーノンに花束を〉っていう題でダニエル・キイスという人が書いたのだけれど、知能促進手術を受けたアルジャーノンという白いハツカネズミと知能指数の低いチャーリイ・ゴードンという男の話」
「じゃあ、この大和石《ヤポニウム》の実験では、私が、白痴のチャーリイ・ゴードンの役どころになるわけですね。で、手術を受けたチャーリイって男は、どうなるんですか」
「……手術は、いったん成功して知能機能は飛躍的に向上するんだけれど……あとのほうはどうだったのか。もうかなり昔に読んだもので、あとの方……うろ覚えなんです。ごめんなさい」
アルジャーノンがキッと再び鳴いてみせた。あい変らず、駆けまわる元気は衰えていないようだった。
五回目と六回目の投与のちょうど中間で、秀克の肉体に著しい変化が現れた。背が極端に縮んでいた。何度も、尿意や便意を催した。腕の骨格が、まるでゼラチンのように柔かく変質していた。急速に肉体年齢が逆行しようとしているのだ。
鏡で、投与が終るたびに、秀克はその変化を確認していた。もう秀克の肉体は余分な脂肪から一切解放された十代の少年だった。
「高校生くらいの肉体かな、現在。もう少しで、予定年齢に達する。あと二回の投与でいいと思う」
五堂は自信をこめて、そう言った。
「予定年齢とは何歳位の外見になるんですか。これでも十分若返ってしまったと思うのですが」
「いや」五堂は首を振った。「いまの外観年齢であれば、大和石《ヤポニウム》の投与をやめた途端に、もとの年齢まで肉体が老化してしまう。予測では最悪の場合、もとの年齢より二十歳くらい老けこんでしまう可能性もある。それでは実験は失敗ということです。できるだけ不安な可能性は排除しておかねばならない。
あと二回の投与で、外観年齢は七、八歳というところかな」
「七、八歳ですって……わ、私が」秀克の声は悲鳴に近いものだった。
「そう、そこまでいけば大丈夫。年齢の自動復元は起らない」
自信をこめて五堂は言った。秀克は半ば呆れていた。
「それで、広崎さんは新しい人生がおくれることになる。新聞広告に書いてましたでしょう。人生のやりなおし……って表現で」
秀克が戸惑っているときだった。雪奈が、部屋へ駆けこんでくると、五堂に何かを耳打ちした。
五堂の表情が驚愕のそれに変り、椅子から跳ねあがった。少し待ってくれと秀克に言い残すと、階下の研究室に駆け降りていってしまった。
十分後、五堂は雪奈を伴って、再び秀克の前にいた。
話をどう切りだしたものか二人はあきらかに迷っているのだ。
「さて。広崎さん。事態が急変している。それで、方法は二つ残っています。
いいですか。落ち着いて聞いてください」
秀克としては狐につままれた気持だった。
「いったい、どうしたんですか」
「食事は平常通りの量ですか。喉は渇きませんか」
雪奈が心配そうに言った。そういえば……秀克は思った。この数回、食事を空腹感を伴って食べたことがない。量も少しずつ減ってきているようだ。……それは大和石《ヤポニウム》を大量摂取していることで、肉体に必要な食事量が、バランスをとって減少しているにすぎないというくらいに単純に考えていた。
「食事量は減っています。喉も渇きません。しかし……」
「二十日ネズミのアルジャーノンが死にました」そう雪奈が言った。
秀克は、後頭部を棍棒で殴られたような気がした。アルジャーノンは、自分と同じ大和石《ヤポニウム》の大量投与を受けていた。同じ、若返り効果の実験動物だったはずだ。
「何故、死んだのですか」
「死因は栄養失調です。一種の拒食症になっていました」
雪奈の言葉に五堂が続けた。
「大和石《ヤポニウム》の副作用とは考えたくないが、事実です。アルジャーノンの消化器系が、急激な細胞変化によって、養分を吸収できなくなってしまった。注射による栄養補給も試みたが、やはり同じだ。私の落度だ。結論を焦りすぎたばかりに。アルジャーノンの実験後の時間経過を、もっと余裕をとるべきだった」
沈痛な口調だった。
「じゃ、私もやはり……」
声をうわずらせ、秀克は言った。
「同じ症状がおきると考えるのが、自然でしょう。だから、二つの方法というのは、一つは、即刻、大和石《ヤポニウム》の大量投与をやめるという方法。これだと、肉体年齢が復元し、もとの肉体より老化してしまうだろうが、拒食症状は免がれる。もう一つは、このまま投与を続け、運を天にまかせる。二十日ネズミに起った副作用が、人間に起るとは限らないという考え方。これは非常に都合のよい考え方と思います。そのいずれかです」
それから五堂は口を閉じた。選択を秀克に委ねたのだ。そのとき秀克は気がついた。妻の雪奈が、アルジャーノンのSFの話で、結末を濁したのは、本能的にそんな予感を抱いていたのではないか。しかし、それで二人を責める気にはなれなかった。
「広崎さんに選択を、おまかせしたいと思います。どう罵られようと構わない。すべて私の責任ですから」
しばらく様々な映像が、秀克の前を去来した。罵ることはできなかった。何度も、五堂は実験の危険性について指摘したではなかったのか。
「しばらく考えさせて頂けますか。いえ、この場でかまいません。三、四分で結論は出せると思います。よろしいですか」
五堂夫婦は、うなずいた。もっと秀克が逆上しても、何もおかしくはない状況なのだ。とり乱すほうが、自然ではないのか。
秀克の指が、すっとテーブルの上の紙ナプキンに伸びた。しかし、秀克の視線は、何か全然別のものを見ているのだ。指はすさまじい勢いでコヨリを作りはじめていた。そしてそのコヨリが馬に犬にネズミに変化して……。
秀克は考えていた。もとの広崎秀克に戻ったとして、自分には何が残されているというのだ。所詮、零だった人間ではないのか。このまま、実験を中止してもらっても、五堂夫婦にとって実験データー一つ残すことにならないのではないか。あのネズミのアルジャーノンほどの役にも立たない……。
自殺もできない人間の屑が選択することは決まってるはずだ。考えることもないはずだ。
「しかし……」
息子の佑一の顔が浮かんだ。その笑顔におおいかぶせるような、かつての妻の郁江の声。
「もう、私たちに干渉しないでください。佑一と人生をやりなおすんですから」
キリンの人形を作り終え、テーブルに置くと同時に、秀克は言った。
「決めました。大和石《ヤポニウム》の大量投与を、最初の予定どおり続けてください。お願いします」
五堂夫婦にとって、それは予想外の返事だったらしい。
五堂勝は「しかし……」と言ったまま絶句していた。
「ただ……」秀克は申しわけなさそうに五堂に言った。
「一つだけ、わがままを許してもらいたいのですが」
秀克は、歩いていた。十代の外観の秀克ではなかった。最終大量投与を経た、子供の秀克だった。その秀克が、町を歩いているのだった。頭には、野球帽。そして半ズボン。
あれから、五堂夫婦は、ためらいつつも二回の大和石《ヤポニウム》投与を実施した。秀克が提示したわがままとは、(一日だけ、外出を許してもらう)というものだった。陽が暮れるまでには、五堂の研究室へ帰ってくると、秀克は約束していた。自分がどうなっても、決して五堂さんたちに迷惑はかけません。これは、すべて自分が選択したことですから。そう秀克は二人に言った。
「こうまでして大和石《ヤポニウム》を開発していくべきなのかしら」
最後の大和石《ヤポニウム》投与のとき、雪奈は、そう言いながら涙を浮かべていた。五堂勝は黙したままだった。
「たしか、ここいらの筈なのだけれど」
秀克には、抑えきれない衝動があった。佑一に、もう一度、会っておきたいという思いだ。いや、会って話をすることまでも望まない。一目、元気な姿を確認するだけでいい。そう思っていた。そうすれば、自分に思い残すことはなにもない。
五堂雪奈の掌の中にあったアルジャーノンを連想していた。その二十日ネズミは、ミイラだった。水も食事も受けつけなくなった挙句、脱水症状をおこしてしまったのだ。それが、数時間後か、数日後かわからない秀克自身の姿だった。
しかし、今の秀克は、七、八歳の外観を持っていた。活力だけが身体の裡から、みなぎってくるようだった。
電話帳で調べた田中郁江≠フ住所の近くに、ほぼ間違いないはずだった。田中≠ヘ、かつて秀克の妻であった女の旧姓になる。
「すみません。おそれいります。お尋ねしたいのですが、ここいらに田中さんというお宅は、ございませんか」
秀克は買物カゴをかかえた初老の女に、話しかけた。女は、怪訝そうに眉をひそめ秀克を、じろじろと眺めまわした。秀克は胸が動悸を打つのを感じていた。「決して怪しいものではありません」と言いかけた言葉をぐっと飲みこんでいた。自分の服装が何か、おかしいのだろうか。五堂夫人がせっかく調達してくれた子供服なのだ。おかしいはずがない。
そうだ。七歳の子供が、そんな言葉遣いで大人に尋ねたりするものだろうか。子供は、どんな口調で喋るんだったっけ。
「ここです」
仕方なく、そう言って電話帳からメモした田中郁江の住所を示した。
「そこなら、この道をまっすぐ行って、タバコ屋を曲って二軒目の家だと思うわ。最近、引越してきた家でしょう。一人で行けるかしら。公園の前の家よ」
初老の女は、秀克に方角を指で示してみせた。だが、視線は秀克の様子をずっとうかがい続けているのだった。
「ありがとうございました」
そう言い残して、秀克は走りだした。視線が耐えられなかった。その時、一瞬の風が秀克の頭よりやや大きめの野球帽を吹きとばした。
「最近の子供って、何だか、だんだんませてきてるみたいだね」
秀克の耳に、初老の女の一人言が聞こえた。帽子の下から見えた秀克の七三のパーマの頭を評したに違いなかった。
タバコ屋の二軒隣のちっぽけな家に、表札が田中≠ニあった。郵便受に、まず田中佑一とあり、その下に郁江とあった。女世帯である不安を隠すためだったろう。ここに間違いないようだった。
前が、その町の小さな公園のようだった。その公園の縁の柵がわりの鉄パイプに座り、しばらく待った。そこで、佑一と郁江が外に出てくるのを待ち続けるつもりだった。
空を見上げると青さがあった。太陽が輝き、ほんの申しわけ程度の白い雲。何だか、自分が別世界にやってきているような錯覚さえ感じていた。事実、この何年もの間、秀克は青い空を見上げた記憶さえなかったのだ。大きく息を吸い、吐いた。吸って吐き、吸って吐き、今が生きているということなのだと実感した。
腕時計を見ると、まだ、鉄パイプの上に座りこんでから十五分くらいしか経っていなかった。
「まだ、このくらいか」
思わず、そう呟いた。そういえば……子供の頃ってやたらと時間の経過が遅かったっけ。この間まで、時の経つのがめまぐるしく速いと感じていたのに。
ひょっとして高い場所と低い場所では、時間の経過速度が異なるのではないだろうか。だから、子供の頃はゆっくりと時が流れ、大人になるに従い背が伸びて時が速く流れはじめる。そんなものかなと思っていた。
鉄パイプから跳び降りて、秀克はあたりをぶらついた。
タバコ屋の前で足を停めた。
もう何日タバコをやめているのだろう。口もとが寂しかった。だが、まさかこの恰好でタバコを吸うわけにもいかないな。そう思った。
どこかで、正午の時報が鳴った。
再び公園にもどり、あてもなく郁江と佑一の姿を待った。
ジャングル・ジムの上で、ある思いつきが浮かんでいた。秀克は早速それを行動に移すことにした。
田中の表札の下に呼びリンがあったのだ。秀克はそれを押そうと、背伸びした。やっとの思いで手が届くと、二回連続して鳴らしていた。家の中で、確かにブザーが鳴っているのを秀克は耳にした。
それから、あわてて秀克は公園の中央部のすべり台の陰まで走り、様子をうかがった。
誰も出てこなかった。
二分。三分。同じだった。留守なのかもしれなかった。
「留守じゃ、仕方ないんだ」
空腹感はなかった。もう、かなり長い時間食事をとっていないはずだったが、食欲は皆無といえた。「じゃあ、待ってるしかないんだなあ」
すべり台の上に昇り、一気に滑りおりた。滑りおりた姿勢のまま、また、しばらく空を見上げていた。
子供たちの歓声が耳に響いていた。少しの間、秀克は、すべり台でまどろんでいたのかもしれなかった。
身体を起すと、六歳くらいから十一、二歳くらいの七、八人の子供たちが、ゴムボールで、「三角野球」をやっているのだった。ベースは一塁と二塁しかなく、打者は必ずワンバウンドさせて球を打たなければならない。小人数でやれる子供たちだけで作ったルールの野球なのだ。
しばらく、その様子を秀克は眺めることにした。小学校の上級らしい少年が、そのグループのイニシャティヴをとっているようだった。チームのバランスをとるように定期的にメンバーの入替をしてやっているようだった。いわゆる、秀克の少年時代でいうガキ大将という存在らしかった。ただ、そんなイメージでとらえるには、あまりにスマートだった。その少年が眺めている秀克に気がつき、ゲームを中断させた。
「見かけない顔だけど、越してきたの」
少年は話しかけてきた。威圧するような態度は微塵も見えなかった。
「いや、ちがうけど」秀克は答えた。
「退屈そうだけど、一緒にやらないか。ルールは知ってるかな」
秀克は知ってるよと答えた。スムーズにグループに入りこんでいた。秀克は思いだしていた。要請があれば応じる。それが子供社会のルールなのだ。利害はない。
守備をやり、秀克は驚いた。子供時代のカンを、すぐに取戻したのだ。何十年間やっていなかったゲームだったのだろう。秀克は「三角野球」の名人だったのだ。
打者になった秀克は、うまく守備のいない方角へバウンドさせ、ランニング・ホームランをやってのけていた。敵方にいた、先程秀克に声をかけた少年も、嬉しそうだった。
次の守備が終り、攻撃にまわろうとしたとき、秀克は気がついた。ジャングル・ジムにもたれている少年に。
佑一だった。
先ほどの少年にタイムをかけて尋ねてみた。
「あの子は」
「ああ、あの子は、公園の前の田中さんってとこの子。何度も仲間になるように遊びに誘ったけれど、絶対に一緒に遊ぼうとしないものね。かわってるよ」
少し肩をすくめて、そう答えた。
「ぼくは、ちょっと抜けるよ。仲間にいれてくれてありがとう」秀克は言った。
少年はちょっと、がっかりした表情になった。「残念だな。せっかく、いい勝負になったのに。一方がやたら強くなってしまうんだ。前のチーム編成だと」
「ごめんよ」そう言いながら、秀克は、この少年が素晴らしい大人になるんじゃないかという気がしていた。
秀克は、まっすぐに、ジャングル・ジムにもたれている佑一のほうへ歩いた。胸が、何故か高なっているのだ。「パパと話したら、駄目だって。メチャメチャな人間になっちゃうって」そんな佑一の言葉を思いだしていた。だが、今の秀克は、パパの秀克ではなく、佑一より一つ二つ年上の子供にすぎないのだ。
「こんにちは」
秀克は、そう話しかけた。佑一は不思議そうに、秀克をみつめていた。何も答えようとしない。ただ、唇をかみしめて戸惑っていた。
「ひとりなの。ぼくと遊ばないか」
秀克が、そう言った途端、佑一は踵を返して、走りはじめた。その後を、秀克が追った。数十メートル走ると、佑一の速度が落ちた。二人で並んで走るような形になった。
「何故、逃げるんだい。ぼくがいじめると思ったのかい」
秀克は、そう問いかけた。
佑一は息をきらしながら答えた。「いいよ。ぼくにかまわないで」その眼が秀克を睨んでいた。
「めいわくなんだ」
佑一の歩調が、だんだんのろくなり、両手を地面につき、大きく息を続けていた。
秀克は、佑一の隣にならんで腰をおろした。
「どうして迷惑なんだろう。遊ぶのが嫌いなのかな」
「ひとりがいいんだ。ひとりであそぶほうがいい」佑一は断定していた。
「いつも、一人で遊んでいるのかい。寂しくないの」
「さびしくない。ひとりがいい」
佑一は、そう言いながら、半ズボンのポケットからティシュをとりだし、両手の泥を拭っていた。
かなり神経質な子に育っているのではないかというおそれを秀克は持った。
「みなと遊んだほうが面白いよ。おもしろいに決まっているさ」
「……」
幼いながらの頑固さも佑一は、しっかり備えているようだった。反応に変化がないのだ。秀克は戸惑いを感じながらも、佑一の興味を引出そうと必死だった。――もう、佑一に会えたのだから十分じゃないか。――もう一人の秀克が、心の中で、そう繰りかえしているのだった。しかし、行動は、ぜんぜん逆のことをやっている。
「ひとりで、やれる遊びなんて数がしれてるだろう。二人で遊んだら、その何倍も楽しい。三人四人で遊んだら、またその何十倍も楽しくなるんだ。だから、一人で遊んでいても、いつまでも、その楽しさがわからずじまいになっちゃうんだよ……」
秀克は、そこまで言ったとき、佑一の変化に気がついていた。佑一の眼が別人のように輝いているのだ。その視線は、魔法を眺める驚きそのもの。秀克の手もとに注がれていた。
「あぁ」佑一が喚声をあげた。
秀克は無意識のうちに仔ネズミを創造していたのだ。佑一が手を拭いたティシュ・ペーパーを手もとに引きよせ、コヨリにして仔ネズミに変化させていた。
秀克は、その反応の意外さに、言葉を失った感じだった。なんとか、佑一と意志を通じあわせようと躍起になった挙句、その言葉ではなく、無意識のクセが佑一の興味をひく結果になったのだ。
佑一の秀克をみる眼が変っていた。尊敬の色さえ加わっていた。
「ねぇ、新しい紙だったら、もっときれいに作れるかなぁ」佑一は、ティシュ・ペーパーをまた一枚とりだしていた。「いいよ」と答え、秀克は念入りに犬を作ってわたしていた。
「すごいなぁ。うまいなぁ」コヨリの犬を掌にのせ、佑一は飽きもせず眺めまわした。
「ねぇ、パ……ぼくと何かして遊ぼうか」
「うん。ぼく、ビー玉持ってる。ビー玉しようよ」
佑一は右のポケットから十個ほどのビー玉をとりだした。秀克も子供の頃、よくビー玉で遊んだ記憶があった。
「何をよくやるの」
「ぼく、ビー玉持ってるけれど、ビー玉で遊んだことないんだ。いつも眺めてるだけだ。だって持ってるだけでビー玉はきれいだもの。だから、ぼく、ビー玉の遊びかたは知らない」
秀克は思った。佑一がビー玉を持っているのは、誰かとビー玉をして遊びたいという願望を持っていたのだ。しかし、今まで、佑一にとって、その願いがかなえられることはなかったのだろう。だから、どうやってビー玉で遊ぶかということなぞ佑一は知ることもなかった。
「よし、アメリカン・パトロールをやろう」
秀克は言った。
「アメリカン・パトロール! 何、それ。どうやるの」
目を輝かせて佑一は叫んだ。その言葉は、佑一にとって魔法の呪文のように聞こえたはずだった。
「まず、地面に穴を掘る。小っちゃな穴でいい。ビー玉が三つほど入る穴をいくつも掘るんだ。さあ、手わけして掘ろうよ」
二人はいくつかの小さな穴を掘り終えていた。まず、秀克がルールを説明した。ビー玉を当てて、うまく穴に入れ、いくつかの穴を巡り終えるのだ。これには、いくつかのドメスティック・ルールがあるはずだったが、秀克が子供の頃よくやったルールを採用した。
まず、三つほどビー玉を佑一から預り、見本をしめした。当てられた玉は自分の意志をもっているかのように最初の穴に入っていった。
「あっ、入った。うまいなあ」
尊敬の気持の入りまじった声だった。佑一はあきらかに感激していた。
「さあ、今度は佑一くんの番だ」
スタートから、ビー玉を投げた。最初の玉は当らなかった。「しまった」佑一は地団駄を踏んでいた。「もう一回やっていい?」
秀克は少し困ったような顔をしてみせた。
「ほんとは駄目なんだけれど、佑一くんは初めてやるんだから、おおまけにマケて、もう一回だけだよ」
「やった」佑一はビー玉を拾って、もう一度かまえていた。今度は当ったのだが穴を通りこして三十センチほど先に停止した。
「あっ。うまい。最初にしては仲々スジがいい」秀克が言った。
エヘンと佑一は胸をはった。まんざらでもないという顔だった。
「こんどはお兄ちゃんだ」
よしと秀克は二番目の穴にむけてビー玉を弾いた。今度は少し力を加減して、かなり手前でとまるようにした。
「あっ弱かった」「お兄ちゃん、こんどはぼく」
佑一は今度は、うまく穴におさめていた。意外なことに、今回の秀克の玉も弱すぎたのだ。二番目の穴の縁で動かなくなった。
「お兄ちゃんのタマがジャマになっちゃう」
「佑一くんのタマで、ぼくのタマ弾いていいんだよ」
佑一は少し不思議そうな顔をした。「なぜ、ぼくのなまえをしってるの」
「あ」秀克はあわてた。「いや、……野球やってる‘子供たち’に聞いたの」それから再びしまったと思った。「子供たち」なんて変じゃないか。
「ふうん」
「さぁ。早く投げてごらんよ」
今度の佑一の玉は秀克の玉をうまく穴の縁から弾きとばしていた。
「やった」佑一は叫んだ。佑一の玉が穴の縁に乗ったのだ。ビー玉におけるカンの良さは秀克譲りだったのだろう。「お兄ちゃんだよ。こんどはお兄ちゃんだ」
秀克は頭をかいた。佑一は、もう気にしていなかった。佑一の優勢はあきらかだった。
最終的に、辛うじて秀克の勝利に終ったのだ。
「次は何をして遊ぼう」佑一が、秀克にせがむように言った。陽が西に傾きかけていた。
「よし、影踏みをやろう」
「カゲフミ?」
二人は、公園中を走りまわった。秀克は走りながら、こんなことは初めてのことだと考えていた。佑一たちと一緒に暮らしていたとき、このように佑一が笑顔を見せた記憶は、秀克にはなかった。それよりも、佑一と遊んだことが秀克には初めてのことだった。
秀克はふと立ち止まった。
「さぁ、ふんだよ。ぼくのカチだ」
佑一は、秀克の影の上で、小さな身体を何度となくはずませていた。
――もう、これで思い残すことはないはずだ。
「もう、ぼく帰らなくちゃいけない」
秀克は、佑一にむきなおって言った。
「アシタもあそんでくれる?」
佑一は、せがむような眼をしていた。
「いや。もう、……引越しちゃうんだ。遠いところへ」そう答えるしかなかった。
しばらく二人は押し黙っていた。そして思いきったように佑一が言った。
「お兄ちゃん……どこかで会ったような気がする」
「気のせいさ」
「……」
佑一の名を呼ぶ女の声が、遠くで聞こえた。郁江が夕食の仕度ができたことを伝えていた。あたりが夕闇に変ろうとしていた。
「お母さんが呼んでるんじゃないか」
佑一はうなずいた。
「佑一くんの、お父さんって、どんな人」
聞くべきではないと思った。言い終る寸前に、何でこんなことを口にしたのだと後悔していた。
「……とてもすてきなパパだ。強くってやさしくって。おもしろくって……。大好きな人。……でも、遠くに行ってるの。大きくなったら……会うんだ」
そういう佑一が涙を途中で浮かべていた。
「ママは会ったらいけないって。強くもないし、だらしないし、バカになっちゃう人だって。でも好きだったよ。……」唇をかみしめていた。「オオきくなったらアうんだ」
秀克は佑一を抱きしめたかった。そして大声をあげて泣きだしたかった。しかしできなかった。
「兄ちゃんは、もう行くよ。さよなら。佑一くん。……パパが遠くにいってても、がんばって」
他に言いようがなかった。佑一がうなずき、秀克に拳をさしだした。
「あげる」
中にビー玉が一個入っていた。
「ありがとう」
郁江が公園に姿を現していた。「佑一くん。御飯できてるわよ。さあ、もうお帰んなさい」
秀克が郁江におじぎをすると、郁江は会釈を秀克に返した。佑一が、郁江のもとへ駈けていった。途中で振返り、秀克に言った。
「さよなら、お兄ちゃん。とても楽しかった」
秀克は、五堂の研究室へむかって歩いた。日が暮れていた。子供が歩くには遠すぎる夜道だった。もう秀克には、何も悔いは残っていないはずだった。しかし、秀克の脳裏には、息子の佑一の様々な笑顔が浮かんでいた。
「きょうは、とっても楽しかったよ。お兄ちゃんが遊んでくれたんだ」
佑一は食卓についていた。
「よかったわね。どこのお兄ちゃんだったの。ここらの子じゃなかったみたいだけど」
郁江は、料理をならべていた。最近こんなに佑一が母親に話しかけるのは珍しいことなのだった。
「知らない。でも、とてもおもしろかった。……ぼくにも、あんなお兄ちゃんがいたらよかったのにな。すごく器用なんだ。こんなものを、目の前で作ってくれたんだ」
佑一は、あのティシュ・ペーパーで秀克がこさえた犬の人形を、食卓の上に置いた。
郁江は、その犬の人形に、何か記憶があるような気がした。以前にも、この人形を見たような……。
「そう、よかったわね。佑一くん、まだ手を洗っていなかったでしょう。洗ってくること。食事なんだから」
素直に佑一は立上った。「はいママ」
郁江は腰をおろすと犬の人形を見つめ続けた。何故か、気になるのだ。どこかで、誰かが、こんな人形を……。
しきりに郁江は、小首をかしげ続けていた。しかし、再び佑一が食卓につくまで遂に思いだせなかった。
佑一がテレビのスイッチを入れると、郁江の興味は、犬の人形から永遠に離れてしまったのだ。
「だめよ。食事のときは、テレビを見ないこと。ママとの約束だったでしょう。わかったの。佑一くん。パパがいないんだから、そのぶん、よその人より、しっかりしなくちゃ」
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玲子の箱宇宙
その包装紙には、いろんな形状の星雲がデザインされていた。きれいに包まれてリボンがかけられている。
一辺が四十センチほどの立方体。
「これ、誰からかしら」
結婚祝の品々に混って場ちがいの感じの箱がまぎれこんでいた。
「変ねえ。贈りぬしの名前も書いてないし。まちがって届いたんじゃないかしら」
着がえもしないままに、玲子は、その箱を手にとってみた。見かけと違って予想外に軽く、空箱ではないのかと疑ってみたほどだ。
「祝い品のチェックは明日やろうよ。新婚旅行ってこんなにクタクタになるものだとは知らなかった」
夫の郁太郎が、アーム・チェアでぐったりした声をあげる。
「でも……。これだけ。ちょっとあけてみたいの」
しかたがないなという表情で、夫はうなずく。玲子は夫に微笑をかえし、リボンを解きにかかる。
夫は「コートぐらい脱げよ」と言い、キッチンに消えた。
包装紙の中は白い箱だった。
デコレーション・ケーキが入っているといっても不思議ではない。表に、金箔で、こうレタリングが施されていた。
〈ユニバース・ボックス/フェッセンデン社謹製〉
「変だわ。中にも贈りぬしの名前が書いてないのよ」
夫が、玲子のまえにコーヒーを差しだした。キッチンで、湯を沸かしていたのは、このためだったのだろう。
「まあ、落着いて一服しようよ。その贈りぬし、よっぽど、そそっかしい人だったのだろうな」
そう言いながら、夫は祝電の束を手にとっていた。
玲子はコーヒーに口をつけるのももどかしく、白い箱を開いた。発砲スチロールの詰めものをとると、それは透明な立方体の箱だった。
透明な表面から中を覗きこむと、無限の漆黒が広がっていた。目をこらすと、闇の中にいくつかの光点を見ることができた。
「ねえ、見て。箱の中に宇宙があるのよ」
玲子は、夫の前に箱宇宙を置いた。
「ふうん、室内用のアクセサリイ品か。新製品なのだろうな。グラス・ファイバーやら、比重の異なるワックス泡あたりを使ったインテリア・アクセサリイがあるだろう。あんな一連の商品だろうな。でも、この2DKじゃあ、置く場所もないしなあ。もっと広いところへ移るまで、かたづけといたほうがいいんじゃないか」
あまり興味もなさそうに郁太郎は、箱宇宙から祝電の束に目をもどした。
結婚するまえは、もっと真剣な顔で私の話を聞いてくれたんじゃなかったかしら。ふと、玲子はそう思っていた。
白い箱の中には、一枚の紙きれが残っていた。
ユニバース・ボックス説明書
この箱の中には、ほんものの宇宙が入っています。お部屋のインテリアとしてお使いください。なお、このユニバース・ボックスは人知を超えた動力によって作動していますので、エネルギーの補充は不必要です。
注意:箱の表面下部についているダイヤルは動かさないでください。このダイヤルは箱内宇宙時間経過を調整するためのものです。
万一、不良品がございましたら、交換させていただきますので、御手数ではございますが、弊社技術開発部まで御返送くださいませ。
フェッセンデン社
もし不良品だったとしても送り返しようがないじゃないの。玲子は、そう独りごちた。返送すべきフェッセンデン社の住所がどこにも記載されていないのだ。
「ちょっと貸してごらんよ」
夫の郁太郎が言った。郁太郎は、箱宇宙を手にとると箱の表面に、手に持っていた白のマジックで走り書きした。
――ぼくたちの結婚の記念に
郁太郎・玲子
「これで、この箱宇宙を見ても、今日のことが思いだせる」
夫は、自分の書いた字を玲子に示して見せ、満足そうな、それでいて独りよがりの笑顔を浮かべていた。
「さあ、玲子も箱の中味を見て気がすんだろう。もう、かたづけたらどうだい。明日は、早くから、世話になった人たちのところへ挨拶まわりをやらなきゃならないんだ。そろそろやすもうよ」
玲子はまだコートを脱いでいなかった。手に持った箱宇宙を凝視《みつ》めながら、大きく一回うなずいた。
夫の郁太郎は、商事会社の営業部に勤務している。玲子が勤務していた会社に、取引のため、郁太郎は時おり顔を出していたのだ。
誘ったのは郁太郎だった。
やり手の営業マン特有の押しの強さを、彼は備えていたのだ。たくまざるユーモアで、執務中の玲子を何度か吹きださせた。
郁太郎は優しい目と褐色の肌を持っていた。学生時代にサッカーをやっていたといって厚い胸を張ってみせた。
この人は悪い人ではない……そう玲子は思った。
だから郁太郎の誘いに応じたのだ。
玲子は、それまで、他の男の誘いに応じたことはなかった。用心深いというわけではなく、男に対する選別基準が特別厳しいと思ったこともなかった。
興味のもてる男性が誘わなかっただけのことだ。
玲子は自分から誘いかけるタイプの女ではなかった。
玲子は、待つ女だったのだ。
だから、悪い人ではない郁太郎の誘いをうけたとき、玲子はそれに応じたのだ。玲子が出会った初めての『白馬に乗った王子様』だったからでもある。
初めてのデイトで、二人は映画を観た。郁太郎は、玲子の希望をいれてメロドラマにつきあった。玲子にとっても、それは退屈な映画だった。ボーイ・ミーツ・ガールで始まるタイプのもので男女は平凡で陳腐な試練を乗りこえて最後に結ばれるという筋なのだ。玲子は、何度か郁太郎の反応を盗み見た。郁太郎は居眠りもせず、かといって面白いといったようすでもなく、呆然と画面を眺めていた。
映画が終って、郁太郎はスナックへ誘った。そこで二人は噛み合わない会話を一時間続けた。最後の五分で、二人は奇跡的に共通の話題を発見していた。二人とも偶然に子供の頃ディズニーの「ダンボ」という映画を見ていたのだ。「ダンボ」の話題だけで二人は、あと一時間半話し続けた。
二人は、次のデイトの約束をして別れた。
五回目のデイトは二ヶ月後だった。郁太郎は五回目のデイトでプロポーズしたのだ。
直接的な表現だった。プロポーズの科白《せりふ》の中で一番ステロタイプなものに分類できる。
「ぼくと結婚してほしい」
そう郁太郎は言った。唐突であり朴訥だった。
玲子は郁太郎を愛しているのかどうか、自分でも確信を持っていなかった。しかし、男が、そのように自分を愛してくれているのであれば、ひょっとすれば、自分も郁太郎を愛しているのではないかとも思った。今、もし、自分が郁太郎を愛していないとしても、郁太郎にこれだけ愛されているとすれば、いずれ郁太郎を愛するようになるのではないか。そうも思ったりした。しかし、すべてが不確実だった。玲子は自分の気持自体が不安定なことに苛立たしかった。
二日後、玲子は、郁太郎がかけてきた電話で結婚を承諾したのだった。
少なくとも玲子は郁太郎に対して悪い感情は抱いていなかった。
玲子は流される女でもあった。
「僕は、営業だから、帰宅時間は不安定だ。それだけは覚悟しておいてくれ。玲子を守るためなのだから」
夫はそう言った。結婚前からそう言っていたのだ。玲子を少しでも幸福にするために、少しでも生活にゆとりを持たせるために、人一倍働かなければならない。そんな意味だった。
結婚して三ヵ月は確実な帰宅時間を夫は玲子に電話で知らせていた。
その電話も二回に一度となり、三回に一度となった。
それでも玲子は食事の仕度をして夫の帰宅を待った。
夫は、子供を欲しがっていた。
深夜、帰宅した夫は、いつもそれを玲子に尋ねた。しかし、まだその兆しは起らなかった。
「遅いときは、先に寝てていいぞ」
夫はそう言った。しかし、玲子はそんな気にはなれなかった。
帰宅を待つ間、玲子はテレビも見ることはなかった。本を読む気にもなれなかった。
ある夜、玲子はベランダへ出てみることにした。何となく、そんな気がしたのだった。
玲子たちの部屋は団地の三階にあった。ベランダから見降ろすと、バス停のある場所から玲子たちの団地へ続く道路を見わたせるのだ。
時間は午前零時を少しまわっていた。玲子は夜露のおりはじめた鉄柵に頬杖をつき、あてもなく郁太郎の帰りを待った。
「あの人、身体がばててしまわないかしら、だってこんなに毎日帰りが遅いんだから。疲れているはずよ」
眼下の人通りは少なく、時おり思いだしたように乗用車が通過していった。
一台のタクシーが玲子の棟の脇に止まった。降り立った男の影ぼうしで、それが誰か玲子にはすぐにわかった。
郁太郎は酒の臭いを漂わせていた。
「まだ、おきてたのか」
と、それだけ言って、照れ臭そうに夫はベッドにもぐりこんだ。
寝息をたて始めるのに五分とかからなかった。
玲子は、夫の精神的疲労が限界にきているのではないかと案じつつ、食卓を片づけた。
それから一週間ほど、夫の帰宅の遅い日が続いた。玲子は何も、そのことについて夫に愚痴を言おうとはしなかった。それが、かえって郁太郎のうしろめたさとなったようだった。
「今、大事な新規の取引先の資材課長とつきあってるんだ。すごく、麻雀の好きなやつでね」
出勤前に、夫はそう弁解した。
その夜も、玲子はベランダで夫の帰宅を待っていた。何故だかしらないが、その夜はむしょうに涙が溢れてきた。その涙のわけをいろいろと思いめぐらしたが、確実な理由を知るに至らなかったのだ。一つだけ間違いない理由が浮かびあがってきた。
自分は寂しいのだということを。
涙をこらえようと、玲子は空を見た。
「星がないわ」
ひさしぶりに玲子は夜空を見上げたことになる。もう、その夜空ではスモッグのために星が見えないのだ。玲子はそれを知らなかった。
玲子は星が見えないことに驚きを感じていた。
玲子は涙をふきながら部屋に入った。
箱宇宙のことを思いだしたのだ。押し入れの隅に埃をかぶって、‘それ’はまだあった。
ためらわず、箱の中から、‘それ’をとりだしていた。
初めてみたときに気がつかなかった色々なことが玲子にはわかった。立方体の透明なパネルの中に……まさしく宇宙があった。その箱の中だけは、玲子のいる部屋の明るさとは無関係に漆黒の闇が拡がっていた。
顔を近づけてみた。
四十センチほどの透明な箱だから、箱宇宙のむこうがわに部屋が見えてくるはずである。だが、そこには、やはり無限の暗黒が静寂とともにあるばかり。
「レザーホログラフィの一種かしら」
箱の中央に、ぽつんととびぬけて大きな星が、浮かんでいた。七センチほども直径があるだろうか、白色に輝いている。その星の周囲を、また十数個の星々が取り巻いていて、微々たる速度で動いているのがわかった。
「きれいだわ」
玲子は、思わず溜息をついていた。箱を眺め続けていると、なんだか心が休まってくるのだ。
その夜、玲子は夫の帰宅まで、その箱宇宙を眺めてすごした。
翌日、玲子は珍しく街にでた。普通であれば、近所のスーパーマーケットで日用品を揃えれば事たりるのだが、本屋へ行ってみようと思ったのだ。本屋は街へ出なければ、近所にはなかったためである。
品揃えが比較的豊富だといわれている中央街の本屋に足をむけた。
玲子は『あなたも知っておきたい不思議な宇宙』という本を買った。玲子が初めて宇宙に興味を持ったのだ。一番わかりやすそうで初心者向と思える本を玲子は選んだつもりだった。箱宇宙で起っていることを、もっと詳しく理解したかった。
帰宅すると、玲子は喰いいるように、本を読んだ。すると、今まで知らずにいた星々のことが、視界が開けるように興味が一層広がっていくのを感じていた。
その夜、夫の帰宅を待ちながら、玲子は箱宇宙を見て過ごした。
箱宇宙≠卓袱台《ちゃぶだい》の上に置き、玲子は飽きずに眺めていた。
「中央の大きな星、あれは太陽みたいな恒星なのね。白っぽいから白色矮星かしら。わかんないわ。少なくとも太陽より年をとった星なんだわ。そうすると周囲を回っている星は惑星というのかしら。地球みたいな」
箱の中の宇宙はほんの少しずつ変化を見せていた。米粒のような惑星群が恒星の周囲を目に見えるか見えないかという速度で移動しているのがわかるのだ。
「あの惑星には月みたいに、それぞれ衛星がついて回っているのかしら」
玲子は目をこらしてみた。そんな影が見えるようでもあり、見えないようでもあった。
「流れ星が見つからないかしら」
その時点では、まだ玲子は流れ星が地上から見える隕石の大気との摩擦燃焼であることを知らなかった。ただ、単純に、郁太郎と一緒に過ごせる時間を待ちたいと願いたかっただけのことだ。
夫が帰宅して、食事をとる間、夫が話しかけても、箱宇宙≠ノ見とれていると、つい返事を忘れてしまうほどだった。郁太郎は苦笑いをした。帰宅時間の遅い郁太郎としては、つい自責の念にかられてしまうらしいのだ。
玲子は箱宇宙の魅力にとり憑かれてしまっていた。
玲子は、ある夜、ふと思いついた。
卓袱台の上に箱宇宙を置き、頬杖をついて眺めているときだった。玲子は早速、実行にうつしてみた。
明かりを消してみたのだ。
部屋のカーテンを閉めきると、室内は箱宇宙の神秘的な光だけになった。
闇の中で、玲子は箱宇宙の前にすわった。
音はなにも響かず、恒星の光だけが静かに浮かんでいるようだった。
箱宇宙を凝視していると、玲子は自分がそのミニチュアの宇宙の一部になってしまったかのような錯覚にとらわれた。
だが、玲子は思った。これは箱宇宙というより私自身のための宇宙なんだわ。
その時だった。
白い尾を引いたガス状のものが玲子の目の前を通り過ぎていった。
「ほうき星だわ」
箱宇宙≠フ中を、ゆっくりと長く尾を引いた彗星がよぎって恒星に吸いこまれ消滅していったのだ。
初めて玲子が箱宇宙の中で目撃した劇的な光景だった。
玲子は実感としてとらえることができた。
「この宇宙、生きているんだわ」
星々を眺めながら、何故、こんなに宇宙が好きになったのだろうと玲子は考えていた。
もう彼女に寂しさはなかった。
ふと、玲子はこの星々に命名してやることを思いついていた。
一番輝いている中央部の恒星に、夫の字を一つとって、郁之助≠ニつけてやった。それから、郁之助のまわりの惑星に太郎∞二郎∞三郎=c…と順につけてやった。太郎≠セけが、惑星の中でも極端に大きく、郁之助≠フ三分の一ほどの大きさもあるのだった。総ての惑星の昼の部分は明るく輝き、夜の部分が影になっていて、そうとわかるのだった。
夫が帰宅したことに、玲子は気がつかなかった。
「おい、何をやってるんだ。あかりもつけずに」
玲子は思わず目を細めた。夫が、部屋の照明をつけたのだった。玲子は現実にひきもどされた自分を感じていた。
「またユニバース・ボックスか。いいかげんにしたらどうだ」
夫の声は怒気を含んでいるようだった。玲子はそれに、なにも答えようとはしなかった。
「腹が減ったんだ。何か食べるものはないのかい」
夫は冷蔵庫に首を突っこんでいた。その日、玲子は、晩飯を作らなかったのだ。
「ありません」
時計が午前一時をその時、打った。乾いた音が余韻としていつまでも残っていた。
「そうか。じゃあ、もう寝るから」
あきれ顔で郁太郎が言った。
「さあ、もう寝るぞ、寝るぞ。明日はまた早いから」
夫の寝息を聞きながら、それから三十分ほど玲子は箱宇宙を眺めていた。
玲子の読破した天文学の本は十冊を超していた。玲子はそれ等の本から、いろんな知識を吸収した。
宇宙の誕生。星の進化。いろんな星雲。いろんな星々。中性子星。ブラックホール。準星。客星。二重星。いままで知らなかった宇宙に関する言葉が玲子の裡に植えつけられていった。
「この箱の中でも宇宙は同じようにビッグ・バンで生まれたのかしら」
本を読みながら、玲子はそう呟いた。
電話が鳴った。
ベルは五回、六回と執拗に鳴り続けた。
玲子は、のろのろと受話器をとった。
聞きおぼえのない女の声だった。
「郁太郎さん、いる」
女は夫の名を告げた。ハスキーな声だった。玲子は夫がまだ帰宅していないことを伝えた。
「あなたが、奥さんなの。玲子さんでしょ」
見知らぬ声の女が、そう言った。したたかな口調だった。
「はい」
玲子は答えた。
「ふうん……」
突然に、荒々しく電話が切れた。
玲子は受話器を置くと、再び天文学関係の本に目を走らせはじめた。
夫は、その夜も遅く、帰宅した。
その夜、夫は闇の中で箱宇宙を眺めつづけている玲子に、なにも言わなかった。
玲子は無意識のうちに考えていた。こんなに夫の近くにいるのに、心は箱の中、無限の闇の果てより、ずっと遠いところにいるのかもしれない。
背広姿のままの夫は三本続けて煙草を吸った。何か話したかったのかもしれない。
しかし、夫は何も言わず、結局、床についた。
二人は一言も、その夜会話をかわさなかった。
玲子は怒ってはいなかった。電話の女のこともどうでもよかった。結局、自分は誰にも頼ってはいないことを確認したにすぎなかった。
玲子が夫に話しかける話題も見あたらなかったし、興味もおきなかっただけのことだ。
その夜、箱宇宙の中は静寂だけが支配していた。
日曜日の朝だった。
夫が素っ頓狂な声をあげた。
「おまえ、いつも何食ってるんだ」
夫は冷蔵庫を開けていた。
「なにも入ってないじゃないか」
そう言えば、しばらく料理をしてないわと玲子は思った。コンビニエンス・ストアから菓子パンを買ってきて、それを少しずつ食べていたのだ。
「洗濯物はこんなにたまってしまっているし、天井の隅には蜘蛛の巣が張ってるじゃないか。いったいどうしてるんだ」
玲子はなにも答えず、夫に顔をむけることもしなかった。
玲子は、ただ宇宙を眺めているだけだった。
何か、夫の声が、遠くで叫んでいる犬の吠声か何かのように虚ろに聞こえていた。
夫は、いつのまにか外出着に着換えており、玲子の後ろに立った。
「ちょっと出てくる」
そう言って夫は部屋を出ていった。
宇宙の中で、十数個の惑星が一列に並ぼうとしていた。
郁之介≠中心として右へ、太郎∞二郎∞三郎∞四郎≠ニ直列になったのだ。
「まあ、これが惑星の直列≠ヒ」
思わず玲子は溜息をもらしていた。小さな宇宙の中で、色とりどりの宝石のような惑星たちがくり広げる玲子だけのためのショーなのだ。
「不思議な光景だわ」
玲子は立上って周囲のカーテンを閉め、完全な闇を創りだした。すると、自分も、その宇宙の中で浮遊しているような感覚にとらわれた。
行儀よく整列した惑星群を凝視していると、おかしなことを考えている自分に気がついた。
「郁之介≠フまわりを回っている惑星にも、地球と同じように生物の住んでいる星があるのかしら」
素朴な疑問だった。
「あるかもしれないわね。その星にも、地球と同じように人間が住んでいるのかしら」
きっと住んでいるはずだ……玲子はそう結論づけていた。
「その人間たちの中にも、私みたいに箱宇宙を眺めている人がいるのかしら。その箱宇宙の中にも地球みたいな星があって、私みたいに箱宇宙を眺めている人がいて、その箱宇宙の中にも地球みたいな星があって、私みたいに箱宇宙を眺めている人がいて、その箱宇宙の中にも地球みたいな星があって、私みたいに箱宇宙を眺めている人がいて……」
玲子はいつまでも呟き続けた。
夫は遅く帰宅した。箱宇宙≠眺めている玲子をみて苛立ちを増したようだった。
夫は玲子の目の前に、マッチ箱を投げてよこした。それは、いかがわしいホテルのマッチだった。
「ぼくは、今までそこにいたんだ」
玲子は黙って箱宇宙を眺め続けた。
「なんともないのか。何も思わないのか」
玲子にはなんの感情も表出してこなかった。何だか、すべてが遠い世界で起っている出来事のようなのだ。
「おまえはいつもそうだ。ぼくよりも、その宇宙≠フほうが大事なんだな。なぜ、俺をせめない。俺が浮気をしてもなんともないのか。そんなもの、さっさと捨てておけばよかった」
夫は、玲子がなんの反応も示さないことで、いっそう、自尊心が踏みにじられたようだった。
「俺が話しているときは、俺の方をむけよ」
「……」
「なんだ。こんなもの」
夫は発作的に箱宇宙≠はらいとばした。箱宇宙≠ヘ卓袱台から転げ落ち、壁ぎわまでいって止まった。郁太郎が初めてみせた暴力だった。
のろのろと玲子は箱宇宙≠抱くように拾いあげたが、落ちた拍子に、箱宇宙≠フ下部についていたダイヤルが回ってしまったことには気がつかなかった。
箱宇宙≠フ中の時間経過が急速にアップされたのだ。
玲子は、まるで赤んぼうを扱うように箱宇宙を抱くと、中を覗きこんだ。
郁之介≠ェ……あの白色の恒星が輝きを止めていた。いや、恒星は視界から消えていたのだ。
「箱宇宙がこわれちゃった」
玲子はそう言った。なんの感情もこもっていない抑揚のない声だった。
――もう、なにもかも終ってしまったのね。
同時に玲子は、そう直感していた。
夫もそれ以上、なにも言葉を口にしなかった。二人むきあったまま、黙っていた。
郁太郎は何本も煙草を吸い続けた。
玲子は箱宇宙≠フ暗黒を凝視し続けていた。郁之介≠フ周囲をまわっていた惑星もいまは闇の中だった。
そのとき、変化がおこった。
あの恒星の周囲をまわっていた惑星の一つが闇の中へ吸いこまれていくような気がしたのだ。それはあの恒星が浮かんでいたあたりのようだった。
次々と周辺の星々が吸いよせられていくのが見えた。
「箱宇宙が、まだ生きているわ。郁之介≠ヘブラックホールになっちゃったのね。箱宇宙≠フ恒星がきっとシュヴァルツシルト半径にまで収縮してしまったのね」
玲子は、天文学の本で読んだ知識をそのとき思いだしていた。
箱宇宙≠フブラックホールは周辺の惑星を吸収し、その質量を増やしながら成長しているように見えた。本来の宇宙であれば、途方もない、想像を絶した時間が必要であったはずだ。しかし、時間経過の促進された箱宇宙≠フ中では、ものすごい速度でいくつもの彗星が、放浪星が、巨大な恒星までが、かつて郁之介≠ナあったブラックホールに飛びこんでいった。
卓上にあったホテルのマッチがヒュッと透明なパネルを通過して吸いこまれていった。
「なんだ。何をしたんだ」
夫が驚き、素っ頓狂な声をあげた。
夫のくわえていた煙草が、箱宇宙≠ノ吸いこまれた。
卓袱台がカタカタと音を立てて小刻みの震動を始めた。新聞紙が、茶わんが、時計が次々と箱宇宙≠ノ吸いこまれていった。
白く輝く恒星郁之介≠ェ、時間経過を促進されたがためにブラックホール化したのだった。そして、その超重力によって箱宇宙の中で星々を呑みこみながら質量を巨大化させ、それでもあきたらずに、その影響範囲を玲子たちの部屋の中にまで伸ばしたのだ。
夫は柱にしがみつき、泣き叫んでいた。郁太郎には自分にいまふりかかっているできごとを何も理解できないはずだった。テレビもステレオも冷蔵庫も、まるで魔法のカバンにでも入るように次々と箱宇宙≠ノ吸収されてしまうのだ。
玲子には恐怖感は存在しなかった。これは箱宇宙≠フ夫に対する審判なのだ。
玲子はあくまでそう思った。
夫が小さな悲鳴を残してあっけなく吸いこまれるのを見届けると、玲子は身を投げるように箱宇宙≠ノ飛びこんでいった。
箱宇宙≠ノ吸いこまれながら、玲子は、これが昔から予定されていたことだという気がしてならなかった。
太陽系。
地球がかつて存在した場所に、ちっぽけな箱が浮かんでいる。
その箱は一辺が四十センチほどの立方体で、その表面に白い文字で
――ぼくたちの結婚の記念に
郁太郎・玲子
と書かれているのを読むことができる。
その箱の中にも、もちろん宇宙が存在するのだ。
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ファース・オブ・フローズン・ピクルス
タキオン通信って知ってますか。あんな通信法が開発されていなかったら、ぼくも、こんなに思い悩むことはなかったのにと思うのです。
ぼくのいる惑星〈フローズン・ピクルス〉はヒヤデス散開星団の恒星〈サブ・ピット〉の六番目の惑星で開発途上星とでも呼べばいいのでしょう。まあ早い話が、資源には恵まれてエネルギー源だらけの星で、住んでいるのが五人っきりというところ。ぼくも含めたその五人の住人とは実はぼくの家族なのです。祖父、父、母、ぼく、それから妹。
ここは銀河文明の辺境で、太陽系から百三十七光年も離れています。
で、ここでぼくの家族が何をやっているのかというと、地球へ資源を送り続ける作業に従事しているのです。いや、資源の採掘や発送の物理的作業は産業ロボットやその他の機械群がやってくれるので、採掘状況の管理やハード・ウェアの保守といったところ。祖父は二十五年前に〈プレイ・イツ・アゲイン・サム〉の第二惑星〈ポーカーフェイス・ボギー〉から死んだ祖母、それに新婚の父と母を連れてこの〈フローズン・ピクルス〉へやってきたのです。ここでぼくは産まれました。それから妹も。だから、ぼくたち兄妹は、この星以外の世界というものを知らないわけです。
父も、祖父も、そしてぼくも、〈メジャー・ユニヴァース〉の一員なのだそうです。
〈メジャー・ユニヴァース〉というのは巨大宇宙エネルギー資本といえばいいのかな。発掘精錬《アップ・ストリーム》から運搬供給《ダウン・ストリーム》まで、宇宙各地に点在する星系文明における、あらゆる種類のエネルギー需要に応えている。そんな宇宙の社会機構が、いいことなのか悪いことなのかは、よくわからないけれど、ぼくらの家族が、〈メジャー・ユニヴァース〉のほんの顕微鏡的部分の仕事に従事しているのは間違いのないところです。で、この星で発掘されたエネルギーは地球に向けて発送されるんですが、いちばん運賃コストの安い経済速度で送りだされるから、地球で、この資源が利用されるのは二百六十年後ということです。だから、今日発送された資源が到着している頃は、ぼくはもう死んじゃってて、ぼくの玄孫《やしゃご》くらいの時代なのだろうな。
父は、毎日、その日の発送状況を地球へ報告しなければなりません。これは、祖父の前任者の頃から行われているという、まあ、一種の儀式みたいなものです。儀式という表現は語弊があるかもしれないけど、祖父の前任者という人が発送した資源の第一便は、まだ地球に着いてないんだよね。でも、地球では今後、五百年のエネルギー確保予測を常にたてておくことが必要なのだそうです。だから、父は毎日、地球へ三分間だけタキオン通信で発送実績を報告します。
ふつうの電波通信を使ったら、地球まで途方もない時間がかかっちゃうのです。「もしもし」「はいはい」っていう間に何百年もかかってしまう。だから、時間粒子を使ったタキオン通信法を使わなければ仕方がない。でも、この通信法はすごく高くつくらしいのです。だから、〈メジャー・ユニヴァース〉では三分間しか通信を認めないわけで。でも、この三分間は父にとって非常に貴重な時間らしい。地球の最新のナマのいろんな情報を吸収できるからです。
タキオン通信ってのが開発されているくらいだから、タキオン航法ってのがあると、資源の輸送もスピード・アップできるのにと思ったけれど、父に言わせるとタキオンの実用化は通信技術だけしかできていないそうです。
父が、ぼくの進路について相談したのが昨年のこと。ぼくは、子供のころから、おやじ≠ニじいちゃん≠フやってることを見て過ごしてきたから、当然この星で大きくなったら働くんだと思っていた。だから、そう答えました。
「俺ァ、この星のことしか知らんし、この星を出ていこうとも思わんよ。俺、おらんようなったら、じいちゃんとおやじの仕事を誰が引継ぐんだよ。俺ァ、フローズン・ピクルスでしか死にとうない」
ぼくの返事は、あたりまえのものだったと思うのですが、祖父、父、母、妹、皆が、ぼくの周囲で感激のあまり声をあげて泣きました。
「それじゃ、あまりに大介が可哀相だよぉ。でも、うれしいよぉ」母も大声で泣きました。
いつのまにか、家族の話題は、ぼくの嫁とりの話に移っていました。
「大介も、地球の年齢でいけば、二十三歳だ。嫁を持たせても、もう、おかしくねぇど」
「そうだよ。大介が、フローズン・ピクルスに尻を据えるっちゅうのなら、嫁っこを持たせなきゃなぁ」
妹の拓子が一人、悲観的なことを口にしたわけで……。
「私なら、絶対、こんなところ嫁にきたりせんなぁ。兄ちゃんにはコブ四人ついとるし、娯楽も、ここには何ひとつないもんなぁ。こんなところへ嫁にくるっちゅうのは、よほどの物好きで……よぉ」
拓子は母に思いっきり引っぱたかれました。
「何を、馬鹿いっとるんじゃ。大介兄ちゃんなら、嫁にきたがる女は銀河に五万とおるよ」
ぼくは、正直いってそんなことはどうでもいいのです。しかし、妹のいってることのほうが、どうも真実に近いような気はします。
「ええよ。もうすぐ、生活物資を買いだしに行く。そのとき、〈ポーカーフェイス・ボギー〉から嫁を探して連れてきてやることにする」
父はこともなげに、そう言い放ちました。まるで、お土産を買ってきてやっから……そんな口調だったのです。
〈ポーカーフェイス・ボギー〉は〈フローズン・ピクルス〉から〇・一六光年。宇宙船で約二ヶ月の距離にある〈プレイ・イツ・アゲイン・サム〉系第二惑星です。商業星で、この近くの星系では一番華やかさを有した文明星と言えるでしょう。人口も約六億人、この星で私たち家族の生活物資を調達するのです。だから、数年に一度、半年くらいの間、父は〈ポーカーフェイス・ボギー〉へ定期的にでかけることにしています。
今年の初めに、父は〈ポーカーフェイス・ボギー〉に出発しました。もう三ヶ月にもなるでしょうか。「嫁とってくるぜぇ」と宇宙船に乗る前に大声で宣言して。別に、ぼくは、そんなことはどうだっていいのです。まあ、しかし、おやじの手前、「頼むぜぇ。別嬪を」と一応叫んだのです。
祖父はもう少々ボケ≠ェ来ています。この星にきたときは、父を助手に、ほとんど二人っきりで資源開発施設を完成させたのだそうです。でも、寄る年波でしょう。少々見当はずれのことを急に話しだしたり、ぼくが言ったことを、何度も聞きかえすのです。ひどいときは晩飯を二度食ったりもします。最初の食事の記憶がないわけなのです。
「じいちゃん。第三鉱区の採掘状況を見てよ」
「ああ。父ちゃんが行ってるじゃろ」
「父ちゃんは〈ポーカーフェイス・ボギー〉だろう。ちょっとパネル見てよ」
「わかった。わかった。第一鉱区じゃな」
「第三鉱区だよ」
「そうじゃ。そうじゃ。ところで今晩の食事はなにかのう。他に楽しみがのうて」
「知らないよ」
「冷たいのう。第一鉱区は異常ないぞ」
「第三鉱区だってば。じいちゃん」
「あっ。第三鉱区じゃなかったのかい」
祖父が、そんな状態ですので、ぼくのチェック業務は、かなりのハードなものになっていたのですね。祖父が歩きまわったあとまでチェックしてまわらなくてはいけなかったのですから。
一日の仕事を済ませて、食後一服していると、通信室からブザーがなります。地球からのタキオン通信の呼出音のはずです。ぼくが子供の頃でしたら父が、〈ポーカーフェイス・ボギー〉に出かけているときは、祖父が地球への通信にでていたのですが、今の祖父の例の調子では、こころもとないわけです。それで、今回の父の不在に際しては、この地球ホットラインは、ぼくの担当にしてあるわけで……。
通信室へ入り、ドアを閉めます。部屋のあかりを点け、データ類を揃え、それから、タキオン通信装置のスイッチをONに入れればよいのです。そうすれば、いつものように、当年とって六十二歳のメジャー・ユニヴァース/ヒヤデス散開星団担当の通信士ゲンジロー・カワナベ氏の好々爺顔がスクリーン・パネルに大写しになるはず……。
憎まれ口の一つも叩こうと思ったぼくは、はっと息を呑みました。目を皿のようにしてスクリーン・パネルを凝視《みつ》めたのですよ。
「こんばんは。こちらメジャー・ユニヴァース。ゲンジロー・カワナベ氏は昨日から無期限の入院生活にはいりました。フローズン・ピクルスとの通信は、従って私の担当となります。私はユミコ・Kっていいます。よろしく。あなたは」
ぼくは暫くぽかんとしていたにちがいない。ぼくのまえのスクリーン・パネルに写っている女性が……若い女の子が、実在している人物とは、現実の女性とは、とてもとっさには信じることができなかったのです。それは、ぼくが知っているどの女性とも違っていました。(といっても、実際に見たことのある女性というのは、死んだ祖母、母とそれに妹の三人だけだったんですが)父が、生活物資を買ってくる際に持ちかえるビデオ・ホログラフィディスクで登場する女性歌手や、女優たちとはあまりにイメージとして異なっていたのです。ぼくと同い齢ぐらいの顔だちでした。でも、目もとが、すごく愛らしいのです。引きこまれてしまいそうな瞳をユミコ・Kは持っていました。
「あ」
焦りました。
「あ、あ」
喉に息がつかえているようなのです。
「あ、あ、あ」
気管あたりで、言葉が押しくらまんじゅうやっているようなのです。
「あ、あ、あ、あ」
何か言おうとするたびに眼球が剥きだしになっていこうとするのが自分でもわかりました。
「あ、あ、あ、あ、あ」
「どうしたんですか。通信開放時間はあと二分しかありません」
心配そうに、その女性は、ぼくを凝視めるのです。ぼくは、ぐっと唾を呑みこみました。それから、やや吃り気味に、
「ぼく、ぼ、ぼく大介っちゅうんです」
それだけ言い終ると、顔中に血が這いのぼってくるのがわかりました。血液が耳たぶの先っぽの毛細血管まで激流のように押しよせてくるのです。ぼくは、もうたまらず、顔を状せ、手もとにデータ群を引きよせました。
「採掘状況報告。第一鉱区十二万s。第二鉱区十五万s。第三鉱区四万s。これは、ロボットのキャタピラ破損のため。修復は完了ずみ。第四鉱区……」
声がうわずっているのがわかるのです。自分の声が、何か別の機械で変換された音声のように聞こえているのですね。でも、そのときのぼくのできる反応といえば、ひたすら、データを読み続けることぐらいのものだったのですよ。
「次に発送状況。第一鉱区より第八鉱区分、七十四万sはTU便の二〇二。第九鉱区より第十六鉱区八十一万sはTU便の二〇三にて発送終了。射出は規定速度にて実施しています。以上」
そこまでを、ひたすら、ただひたすら読みました。読みあげた後、顔をあげられないのです。
それからユミコ・Kの優しい声が耳もとで響きました。
「ありがとう。あっ、もう時間だわ。今日はここまでみたい。じゃ、大介さん。また明日もよろしくネ」
ぼくは思わず顔をあげました。すると、ぼくの視界にユミコ・Kの微笑が広がっていたのです。
それから、その映像がはじけるように消滅したのでした。タキオン通信の終了です。
しばらくの間、ぼくは、呆然とそのまま座りこんでいたのです。まず「今、ぼくが見たものは、いったい何だったのか」それから次の疑問「なぜ、ぼくはああも照れてしまったのか」という素朴な考えでした。それでも、いろいろ分析していくうちに、やっと一つの結論を導きだすことができたわけで……。
ぼくは、地球にいるヒヤデス散開星団担当の女性通信士ユミコ・Kを好きになってしまったようなのです。非常に客観的な結論だったと思えますし、まがいもない事実であると確信しました。いわゆる一目惚れ≠ニいう論理的解釈の余地のない、ほら、ほら、いわゆるアレであります。
ぼくは気をとりなおしました。今の通信記録のテープを巻き戻し、再生ボタンを押したのです。こんなことは初めてのことで。
「こんばんは。こちらメジャー・ユニヴァース……」
ユミコ・Kの笑顔が、面画いっぱい広がりました。さきほどの、形容しがたいまぶしいほどの微笑が蘇ったのです。
ぼくは反射的に目を伏せたくなるのをこらえました。これはテープ映像じゃないか。なにもはずかしがることはないんだ。それから‘うろ’のきたぼくの声が続きます。それを聞いて小首をかしげながらうなずいているユミコ・K。ぼくは溜息をつきました。一回ではありません。ぶっ壊れた往復動コンプレッサーみたいに何度も何度も溜息をついているのです。テープが終ると、また巻き戻し、何回も再生をくりかえしました。
翌日はひどいものでした。つまらないミスをくりかえすのです。作業ロボットの自動継手部のオーバーホールをやって、どこの部品やらわからないネジを三個余してしまったり、母の連絡イヤホーンに最高ボリュームで話しかけてひっぱたかれたりというドジッぷり。考えまい、思いだすまいとしても、あのスクリーン・パネルのユミコ・Kの笑顔が頭に浮かんでくるのです。そうすると溜息が凸っと出てくるのです。
「大介兄ちゃん。爺ちゃんの二の舞いじゃ。アホんなっとる」
拓子のカンするどいなぁ。妹のせりふがぼけっとしているぼくの胸をぐさりとえぐりました。そのとき、ぼくは何を考えていたかというと、ビデオ・ホログラフィディスクで観た地球の公園の中をユミコ・Kの手をとって歩いている自分の姿を夢想していたのです。
夢想……そうです。そのときぼくは、気がつきました。ユミコ・Kは地球にいるのです。地球とフローズン・ピクルスの間には百三十七光年という絶望的な距離が横たわっているのです。もし、仮にぼくが今、地球行宇宙船に飛びのったとしても、ぼくの存命中にユミコ・Kのいる地球へたどりつけるかということは、はなはだ疑問なのです。これはまさしく夢想だったのです。スクリーン・パネルのユミコ・Kの実像に握手することはおろか、相まみえることさえ不可能なのだということに気がつきました。
「なあに、大介は父ちゃんの連れてくる花嫁さんのことでも考えてるに違いないさ。楽しみで、いても立ってもおられんのじゃろう」
母も胴間声で、無神経なせりふを口にするのです。次の瞬間、ぼくは鬱状態におちこんでしまっていました。それに追いうちをかけるように「身体の丈夫な嫁さん連れて帰ってくればええのう。まぁ、父ちゃんの鑑識眼ならまちがいはねえど。なんせ、母ちゃんに一目惚れしたんやから」
それから、母はぼくの背中をどつくとグヮハハと笑ったのです。
通信時間の二時間ほど前から、ぼくはそわそわと何も手のつかない状態に陥りました。どうすれば、ユミコ・Kにぼくの想いをうまく伝えられるかということについてです。
「はーい。大介、こんばんは。こちら、メジャー・ユニヴァースのユミコ・Kです。一日のお仕事お疲れさま。そちらは調子いかがですか」
例によって、タキオン通信の時間がやってきたのです。一日のあいだ、あれほど待ち焦れていたというのに、あんなことこんなことを話してやろうと準備していたのに、通信が始まった途端、そんなぼくの算段は雲散霧消してしまい、パネル・スクリーンのユミコ・Kに圧倒されてしまったのでした。
「はっ……。調子ですか。ぼくの、今日の調子ですか。はっ。えー、そうですね、ま、まあ、そ、そうです。まあ、まあというべき状態と思います。可もなく、不可もなく、健康状態に限っていえば、自覚するような体調の変化もこれといってない様子で。もっとも診療装置に今日はかかってないから厳密にはどうとも言えないわけで、ひょっとすると血圧や脈はく数がやや……変化しているかも」
そこでユミコ・Kは言葉をはさみました。
「あら、あと一分半しかないわ。じゃ、出荷状況の報告いただけませんか」
採掘状況と発送状況を報告し終ると、もう通信時間はいっぱいだったのです。
「お疲れさま、お休みなさい大介さん」
ユミコ・Kの笑顔が画面から消え去ると、ぼくは己れのドジっぷりに腹ただしくなったほどです。肝心のことは何も話さずじまいだったんですから。
翌日の通信では、ぼくはぼくなりに趣向をこらしたつもりでした。どうせユミコ・Kの笑顔を見たらこちこちになってしまうことがわかっていたからです。
「こんばんは大介さん。ユミコ・Kです……」
ぼくは採掘状況の報告に即刻はいりました。三分間を有効に活用すべきだからです。
「採掘状況報告。第一鉱区十五万s……」
データを読みながら、ぼくは用意したパネルをカメラにかざしました。それにはこう書いておきました。
〈ユミコ・Kさん。ぼくは一昨日から見ておられるとおり、すごい口下手です。でも、一目見て以来、ぼくはずっとあなたのことばかり考えているんです。でも、ぼくがあなたを好きになっても、地球とぼくとの間に百三十七光年もの距離があるんですね。だから、映像ではない本物のあなたに会うことはできないのはわかっています。でも、これだけは伝えておきたいんです。ぼくはあなたが大好きです。あなたのことについてもっと知りたいし、もっと親しく話せるようになりたい。大介〉
「第九鉱区より第十六鉱区分は八十万s、TU二〇七便にて発送終了しました。以上です」
報告を終え、ぼくはおずおずと顔をあげました。何か不安な予感がしたのです。
ユミコ・Kはぼくの顔を黙って凝視めました。それからいつもの微笑を浮かべて言ったのです。
「ありがとう。大介さん。メッセージも読みましたわ。だったら、明日から、出荷報告をパネルに書いておいたらどうかしら。パネルメッセージならコピーもとれるし、いろんなお話のできる時間もとれるから」
そこで、その日の通信時間は終了になったのですが、それから小一時間というものぼくは夢心地だったのです。
ぼくの一日は、まるで、その三分間のために存在するようなものになってしまいました。もちろん、タキオン通信がかかってくる前に、発送状況を記したパネルを準備しておくことにして。
三分間は、あっという間に終ってしまうのですが、それはすごく楽しい時間でした。
毎日のタキオン通信でぼくはユミコ・Kのことを色々知ることができました。彼女が二十一歳で、宇宙開拓民に子供のころすごく憧れていたこと。彼女の好物がアイスクリームとチョコレートであること。タキオン通信士の一級資格を持っていること。プレヴェールの詩が好きだということ。「あたしは、あたしよ。あなたじゃないわ。笑いたいときは、あははと笑うわ……」とシャンソンで唄い語りしてくれたのには感激しました。朝食にはクレープシュゼットを自分で焼いて食べるんだそうです。彼女のこさえる料理ってどんな味なのだろう。
もちろん、ぼくのことも話してきかせました。家族のこと、ドームの外にいる小さなピクルス虫のこと、自分で改良した採掘ロボットのこと、エトセトラ、エトセトラ。
日が経つにつれて、ぼくの会話のぎこちなさもとれてしまい、ユミコ・Kにジョークの一つも言えるようになってきました。でも、通信を終ると、いつも一種の虚しさがつきまとうのでした。ユミコ・Kといくら親しく言葉をかわすことができるようになったとしても、しょせん、そこまででしかないのです。
ある日、ユミコ・Kがこんなことを言ったのです。
「もし、私があなたのそばにいたとしたら、大介はプロポーズしてたかしら」
ぼくはためらわず答えました。
「もちろんさ。今でもプロポーズくらいすぐにするよ」
ユミコ・Kはいたずらっぽく笑ったのです。それから「ありがとう」、聞こえるか聞こえないかという小さな声で呟いたのです。そのとき、一瞬ぼくは、どんなに地球が離れていようと、どんなに時間がかかろうと、ユミコのもとへ駈けつけようかと思ったほどでした。
そんな日々が続きました。ユミコ・Kをタキオン通信で知って二ヶ月目のことです。
「今日で、私がこのタキオン通信をするのは最後になります。ゲンジロー・カワナベ氏が退院しましたから。明日から、彼がフローズン・ピクルスの担当に復職します」
突然のことでした。
「そんな。せっかく親しくなれたのに」
ぼくの声は絶叫に近いものだったでしょう。通信が始まるなりユミコ・Kはそう告げたのです。それは愛するものを失いたくないという無意識の叫びでした。
「でも、初めから、私はカワナベ氏の臨時代理だったのですから。仕方ないんです」
ぼくは数秒押しだまりました。でも、でも何か話さないと通信が三分たつと切れてしまうことはわかっていました。
「わかった。わかりました。でも、ぼくは、ユミコ・K、君のこと本当に好きだった。愛してた。実はこのタキオン通信、以前は父が報告してたんだ。でも、父は今、〈ポーカーフェイス・ボギー〉に行ってる。ぼくの花嫁を探すためなんだ。もうすぐ父は花嫁を連れて〈フローズン・ピクルス〉へ帰ってくるはずだ。でも、ぼくは、父に連絡しようと思っている。花嫁を連れて帰るのはやめてもらうように。何故って、ぼくはユミコ・K、君のことを好きになったからさ。もう、ぼくは君以外の人を愛せない。だから、ぼくは一生、君のことだけを思っていることにする。ほんとうだ。君との通信はすごく楽しかった。ぼくは何故、君の近くに生まれることができなかったんだろうといつも思ってたんだ。幸福になってください、ユミコ・K。よかったら、百三十七光年の彼方に貴女を好きで好きでたまらない男が一人いるってこと時々憶いだしてほしい……」
ぼくは、そこまでは言えたのですが、あとは涙声になってうまく言葉にできなかったのです。ユミコ・Kの瞳も潤んでいることがわかりました。彼女の唇が歪みました。
「私も……愛しています」
時間が来て通信が切れ、白い画面だけが残ったのです。ぼくは、その夜、通信室で大声をあげて泣き続けました。
数日間、気力が失せたような状態が続きました。復職したゲンジロー・カワナベ氏は前任のユミコ・Kについては何も知らず、ぼくも事務的な通信を続ける日々が続きました。
採掘ロボットを操作しているときも、ふと彼女のことを思いだしているのでした。そして、百三十七光年の彼方で、今ごろユミコ・Kは何をしているのだろうと考えると、無性にせつなくなってくるのです。
父に連絡をとろうと考えました。父が花嫁を連れ帰るのを中止してもらおうと思ったのです。花嫁候補がいたにしても、こんな精神状態では、相手をとても幸福にできる自信はありません。それどころか、女性を不幸にしてしまうのが関の山でしょう。それに、ぼくは、一生、ユミコ・K一人だけを心に思って生きることを誓ったばかりだったのですから。
父の呼出しコードから応答はありませんでした。仕方なく、花嫁は連れて帰らないで欲しい旨のメッセージを〈ポーカーフェイス・ボギー〉の父の立寄りそうな場所へ打電したにとどまりました。
それから、また数ヶ月が経過したのです。ぼくは平凡な日常のルーティン・ワークを繰りかえす日々にもどりました。それでも、あのユミコ・Kのことが忘れられず、ゲンジロー・カワナベ氏とタキオン通信が終ったあと、通信室のパネル・スクリーンにユミコ・Kとの通信テープを写しだして、ぼんやりと眺めていたりしていたのです。
父からの通信が入っていました。父の宇宙船からのものでした。すでに帰途についているようでした。
〈あと七十時間で、フローズン・ピクルスに帰りつく。大介に素晴らしい花嫁を連れていくと伝えといてくれや〉
それだけの簡単なものでした。驚きました。父は、ぼくのメッセージを受けとらなかったようなのです。ぼくは焦りました。せっかく花嫁を連れてきてもらっても、その女性にとっては、不幸なことなのですから。
ぼくは父の宇宙船に、何度も花嫁を〈ポーカーフェイス・ボギー〉に帰すように打電しました。しかし、その返事はきまって〈照れるんじゃえねぇ。楽しみに待っていやがれ〉としめくくられていたのです。
父の宇宙船が帰着したとき、ぼくは部屋にこもっていました。とても出迎える気になぞならなかったのです。しかし、祖父が、「結婚式じゃ、結婚式じゃ」と叫んでぼくを部屋から力ずくで引摺りだそうとするので仕方なく立上ったのです。こうなれば、ぼくの心境を……あのユミコ・Kとのできごとを……すべて皆に話してわかってもらう以外に手は残されていないと思っていました。
宇宙船の周囲に家族のみんなが集まっていました。ヘルメットを脱いだ父を囲むように。そして、見知らぬ宇宙服を着た若い女性。
ぼくの姿を見て父は大声で叫びました。
「どうだ、おいらの見たてた、てめぇの花嫁さんは……。喜びやがれ」
ぼくは皆のもとへ駈けよりました。そしてせきを切ったように総てを喋ってしまうつもりで「ちょっと、待ってくれ、おやじ。俺は、好きな女性ができたんだ。そのわけやらいろいろ話があるんだ。実は、その女性というのはユミコ・Kといって、地球の……」
そこでぼくは、ぽかんと口をあけたのです。
「……地球の……」
見知らぬ宇宙服の女性が、ヘルメットの遮光フィルターを開きました。そこに忘れもしない、あの微笑があったのです。
「ユミコ・K……なんでここに」
狐にばかされたようでした。百三十七光年先の地球にいるはずのユミコ・Kがぼくの目の前にいたのです。
「ごめんなさい。大介さん。あれ、お父さまの計画だったのよ」
父は、そこでグワハハと笑い、こううそぶいたのです。
「どうだ。おれの目に狂いはなかろうが」
地球のタキオン通信士ゲンジロー・カワナベ氏の入院は本当だったのです。しかし、入院の間、〈メジャー・ユニヴァース〉は地球=フローズン・ピクルスの通信を〈ポーカーフェイス・ボギー〉中継に切換えたのだそうです。偶然〈メジャー・ユニヴァース〉の〈ポーカーフェイス・ボギー〉支部にいあわせた父が、これはと思ったユミコ・Kをなだめすかして、フローズン・ピクルスとの通信を担当させて見合を目論んだというのが真相でしょう。うまくユミコ・Kもぼくを気にいってくれたみたいで。とにかく彼女は、はなっから〇・一六光年先の〈ポーカーフェイス・ボギー〉にいたというわけです。「ぼくはてっきり君が地球にいるとばかり……」
「私、嘘ついてたことになるのかしら。でも、一度も、こちら地球から≠チて言ったことはありませんでしたわ。でも、これだけは本当よ。愛してるって言ったこと」
それはぼくも同じことなのです。
それからというもの、ぼくたち夫婦はこの〈フローズン・ピクルス〉で幸福な生活を続けているのですが、今では、タキオン通信の担当は通信士の資格を持つユミコなのです。ぼくが通信を担当してもかまわないのですが、彼女に言わせると、いつカワナベ氏が再入院して新しい女性の通信士になるかわかったものじゃなく、そうなると惚れっぽいぼくの浮気の虫が、また百三十七光年先に思いこがれはじめるにちがいないからだと……主張するわけで。それは、ぼくだって同じことを考えてしまいます。カワナベ氏のかわりに、どんなハンサムな通信士が現われたりしはしないかと。それだけじゃない。地球っていつも流行の発祥地なんですよね。最新デザインの宇宙服のカタログ通信販売情報をすぐに仕入れてきたりして。愛しているんだけど、こうも毎日、ねだられるとなると……。
タキオン通信って知ってますか。あんな通信法が開発されていなかったら、ぼくも、こんなに思い悩むことはなかったのにと思うのです。
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夢の閃光・刹那の夏
竜介は一息で白ワインをあおった。文字どおり、それはワインと言ってまちがいではない。……だが、合成されたワインなのだ。もう原料となるぶどうは、この地球上には存在しない。
竜介はワイン合成公社に勤務している。もう三十年もつとめあげてきただろうか。
昼間、社で研究室の若者が竜介に提案した。
「どうしても、合成ワインのまろみが足りないのはグリセリン添加の際になにか欠陥があるのではないでしょうか。香りだけはかなりいい線までもってきているのにコクの足りなさで、いかにも合成だということを自己主張しているようなものですよ。グリセリン添加物をもっと研究してみたいのですが。いまの合成ワインをもっと芳醇なものに変えてみせる自信があるのです。開発部長お願いします」
竜介は若者の提言を却下したのだった。
「今、上層部からの指令は合成ワイン保存法の開発が最優先になっている。君が一人、脱けることによって指令の遂行が大幅に遅れることになる。君たちは指示された業務を先ずこなしてほしい。君の提案はそれからだ」
「しかし、コクのないワインなんてワインじゃない。そんなワインを長期保存できるようになったところで、なんだというんです」
もう一口、竜介はワインを飲んだ。そのとおりだろう。このワインは似て非なるものだ。
(なあに、あと二年だ。あと二年間を無事に平穏に勤めあげれば、それでいい)
竜介は一人ごちた。若者の理想主義は好ましいが、それも、ほどほどという限度があるはずだ。
竜介は停年をむかえた二年後の自分をよく想像した。停年になったらルイテン892の第二惑星ベグ・ハー・パードンへ行ってみるつもりでいた。妻も子供もつれず、自分一人で超空間連絡航宙船に乗ってそこを訪れようと考えていた。
なぜ、ベグ・ハー・パードン≠ヨ行こうと考えているのか……そこまでは深く考えることはしなかった。とにかく若い頃から、それが一つの使命のような気ではいた。
合成ワインのびんを台所へ持ちこむと、白髪のまじった妻がそれを受取り、黙って微笑した。竜介も妻に微笑を返した。
いま、竜介は自分の部屋にいる。文字通り自分のユニット・ルームだ。三十年間のローンも終え、この超高層ビルの、最上階の名義を自分のものに書き換えて、まだ二ヶ月も経っていない。
子供は長男が同じビルの五階下に住んでいる。スープのさめない距離というやつだ。長男夫婦と孫が休日には訪ねてくるから、その日の時間経過は特別に速い。長女は一年前に嫁いでしまったが、そう心配はしていない。
しょっちゅう竜介の妻の美梨子と電話連絡とりあっているようすなのだ。その内容は、家族の近況であったり、夕食に予定しているおかずの味つけのこつについてであったりする。竜介は妻の長電話に苦情一つこぼすではなく合成ワインを飲んでいる。
酔いが身体中をほどよく弛緩させる。すると、竜介は昔の若い時代のことを思いだそうとしている自分に気づく。ほろ苦いものが、こみあげてくると無意識に自分に言いきかせようとするのだ。
あと二年……。あと二年たったら。
ワイン合成公社の三十五年間は平穏な時間だった。優しく思いやりのある妻と一緒に過ごしてきた日々。
食卓でここちよい酔いの名残りを反芻する竜介の前に美梨子が食事を並べはじめる。
「酔いがまわってるみたいだから、あまり食事は入らないかもしれませんわね」
黙って竜介はうなずく。この女性と三十九年前、大恋愛の末に結婚したのだ。まさに、遠い遥かな過去のこと。いまでは甘い言葉をかわすこともない。
「そろそろニュースの時間ですわ。テレビをつけましょうか」
美梨子がスイッチをひねる。
ニュース解説者が浮かびあがる。ヴァン・マーネン星系への経済援助の解説、アルファ・ケンタウリVで開催されている外宇宙博のパビリオン紹介、日本海溝のマグマ発電所事故の修復工事の近況と続いていた。世界は、いつの世にも大差がないことを伝えているといった話しかただった。
ニュース・キャスターが脇から紙片を受けとろうとしていた。竜介は倦怠のともなった酔いに身をまかせ、テーブルに頬杖をつき、たゆたっていた。
「ただいま、入りましたニュースです。
ルイテン892の太陽面膨脹警報が発令されました。ルイテン892系には、ベグ・ハー・パードン≠ィよびフローティング・アイアン≠フ人類居住惑星がありますが、今回の警報により、全居住者が惑星よりの脱出を開始しています。この警報は太陽面の磁場が局所的に増加する一般的ソラー・フレア現象と異なり、黄色矮星であるルイテン892の重力と熱の均衡がこわれ、恒星内のヘリウムが核融合反応を開始すると予測されるものです。この『ヘリウム・フラッシュ』の徴候として、ルイテン892は膨脹を続け、八百時間後には人類の居住する二惑星を呑みこんでしまうものと思われます。スペクトル変化によって予測された警報は的中率も高く、今回の惑星脱出《エクソダス》時期決定の重要な指標となりました。このプレ・ヘリウム・フラッシュの期間は短いものと予想されますが、ヘリウム・フラッシュ後の二惑星は、数十年間、居住が不可能になるものと思われます」
竜介は薄く目を開き、映像の解説者を見た。ニュース解説者は、星図表を棒で指していたが、よほど緊急だったのだろう、その星図は二次元画で描かれていた。
「わたしたちのいた惑星じゃない。たしか、ベグ・ハー・パードン≠チて言ってたでしょう」
美梨子が食器を片付けながらそう言った。
竜介はふと我にかえった。「ベグ・ハー・パードン」だって。確かにそう言ったのか。「いま、恒星の膨脹で黒焦げになると言ってたのは、ベグ・ハー・パードン≠フことなのか」
竜介は仁王立ちして、テレビを凝視した。
「いつ起るんだ」
「さあ……。八百時間以内に……そう言ってたような気がしますけど」
竜介はそのまま洗面所へ行った。冷水を出し、何度も何度も顔を洗った。
顔を洗いながら、ふと、マクベスの一節を、連想していた。「洗へど洗へど血が落ちぬ……」
「美梨子、服を出してくれ」
妻の返事も待たずに、受話器をとった。
「どこに電話してらっしゃるんですか」
信号音が数回続いた。
「ルイテン892星系へのベグ・ハー・パードン行きのチケットを一枚確保しておいてくれ。口座番号はいまから言う……」
怒鳴りつけるように一気に言うと竜介は受話器を置いた。
服を着替えると、キャビネットから、計器のついた小箱をとりだした。そして竜介は妻に向きなおった。
「三十年間、一度も言わなかったわがままを、今回だけ見逃してくれ。俺はいまから、ベグ・ハー・パードン≠ノ行く。わけは……聞かないでほしい。必ず帰ってくる」
竜介は質問の嵐になると予想していた。だが美梨子はうなずいただけだった。
少々涙ぐんではいた。だが、一言の質問も口にはしなかった。
次の瞬間、竜介は小箱を抱えて、部屋を出た。
ちょうど、その階の空中に空タクが停まっていた。竜介は飛びこみ、信用カードを小孔にさしこんで叫んだ。
「ヤマト宙港へ大至急だ」
コンパイル表示が消えると、空タクは竜介の音声で答えた。
「リピート。ヤマト宙港へ大至急直行。時速七百キロで、十五分後に到着します。料金二万五千ユニット。運行中のお客さまによる到着地点の修正では料金の減額はございません」
座席の前の確認ボタンを押すと、空タクは滑るように飛行しはじめた。
膝の上に置いた小箱を、竜介は思わず握りしめていた。この小箱の中には、彼が三十七年間を過ごしてきた賭の結果がつまっていた。今の竜介に、その賭の結論を知る資格があるかどうかはわからない……。
しかし、四十年後の再会場所であるベグ・ハー・パードン≠フUBHP(ユニバーシティオブBHP)キャンパスヘ直行する機会はもう今しか残されていない。今、行かなければ、総てを裏切る結果になってしまう。強迫観念にも似ていた。
ヤマト宙港に降り立ち、竜介は予約カウンターへ駈けよった。
「さっき、電話で予約したんだ。予約ナンバーがBHP―四三六。ルイテンのベグ・ハー・パードン行」
まだ二十歳をいくつも超えていない幼な顔の女が予約係だった。そばかすの残った顔を横に振って答えた。
「ベグ・ハー・パードン航路及びフローティング・アイアン行の航宙船航路は今夕、閉鎖されました。プレ・ヘリウム・フラッシュによるものです。現在、惑星脱出が大規模に行われているんです」
竜介は絶句した。遅かったのか。それから歯噛みした。その音がばりばりと自分の耳の中で響いていた。思わず、予約カウンターを拳で数回ゆっくりと叩いた。
「さっき、予約を受けてくれたんだ」
竜介は呻くように言った。
「臨時ニュースを聞かれなかったのですか。ルイテン892が膨脹するんです」
答える予約係の女は竜介の剣幕にあきらかにおびえていた。
「知っている。知っているから行くんだ。何か、方法はないのか」
予約係は上目使いに、もう一度首を振った。
「どこまでなら行ける。一番近い星だ」
「ちょっと……お待ちください」
狂人を見る目で予約係は端末器を操作した。
「くじら座UVの第七惑星ライジング・オニオン≠ナす」
「よし、それでいい。一枚頼む。いつ出発だ」
「二時間後です。旅券《パスポート》はお持ちですか」
竜介は持っていなかった。そんな単純なことに気がつかなかったのだ。
「いや、持っては……待ってくれ。いまはないが、緊急なんだ。職務なんだが、いつもGWA−九〇〇〇一〇一で使っている」
ワイン合成公社で近くの星へ出張する際、公社のフリーコード名を申請すれば、旅券は必要ない。ただし、竜介の社内コードも同時に申請しなければいけない。公社の出張命令番号と照合されることになるが、出張命令番号のインプットが遅れても個人の社内コードが存在すれば、一時的にパスされる。これから竜介個人の旅券を手配している時間はないからだった。
「わかりました。宙港内アナウンスでお知らせします。料金は――」
「俺の信用カードをとりあえず使う。あとで清算するからかまわない」
「はい。健康診断書はお持ちですか」
竜介は信用カード入れに、数日前に受診した人間ドックのカルテ控をはさんでいたことを思いだした。コンピューターのシリアル・プリンターから打出された独特の書体で書かれたものだった。
「これでいいだろうか」
定期診断を数日前に受けていたということの幸運を神に感謝したいような気持だった。
「けっこうです。このチケットを乗船されるときにお渡しください。すでに、搭乗はおこなっておりますから。F―八〇ゲートです」
チケットを受けとると、F―八〇ゲート行の地下電車の改札口へ、竜介は走った。
走って、走って、動悸が鳴り、息苦しさもかまわず、それでも走り続けた。出発に遅れることもないだろう。だが、それでも走らずにはいられなかった。
電車はすぐに、航宙船地下ゲートへ導いた。エスカレーターに乗りかえ、搭乗口まで昇るエレベーターへ乗りかえる。
航宙船の中は、神経の高揚を鎮静させる五音階の単調なメロディが流れていた。竜介はスチュワードの案内に従って一つの寝台に横になった。低い天井の一部がスクリーンとなり、今は失われてしまったはずの地球の自然が写しだされている。風になびく広大な草原、白い雪に覆われた連山。そして、透きとおるような青空の下の広大な海原。
これでライジング・オニオン≠ワではたどりつくことができる……。大自然の虚像を眺めながら竜介はそう考えた。しかし、果してベグ・ハー・パードン≠ワで行くことができるのだろうか。もし行けたとしても‘あいつ’に出会える確率はどのくらいあるというんだ。あと二年も約束まで間があるというのに。それにあと二年後になっていたとしてもあいつが俺に会ってくれる保証なんて何もないのだ。あれだけひどい裏切りをやっている。
スチュワードが携帯用の人体スキャナーを持って竜介の横に立った。
「最終チェックをやっておきます……。少々血圧が高いようですが。あとは異常ないようです」
「搭乗手続のところから全力疾走したから。すぐ治まると思うけれど」
スチュワードは納得したようにうなずいた。
「ちょっと待ってくれ」竜介は思いなおしたように言った。スチュワードの言葉から、竜介は妻を連想したのだ。「ちょっと、このごろ血圧が高くなってるんじゃありませんか」美梨子が人間ドックのカルテ控を見ながらそう言っていたことを思いだしていた。
「保険を、かけてもらえるかね。宙航保険だが」
「はい。希望の期間をどうぞ。それから、お客様の住所と生年月日。あ……それから保険金の受取りは法定の相続人ということになりますがよろしいですか」
「法定の相続人というと……」
「奥さまがいらっしゃれば奥さま。子供さんがいらっしゃれば……」
「わかった。わかったよ。それでいい……」
掛金は地上でのそれと違い法外なものだった。しかし、手続を終え、再び寝台に横になったとき、竜介の胸にしこりとして残っていたものが、いくぶん軽くなったようだった。だが、それで安堵感が得られたというわけでもなかった。
――美梨子。すまない。この宙航は自分が人間としてやっておかなければならない最小限の償いと思うんだ。
出発までの二時間は竜介にとって永遠の時間のように思われた。自然と手のひらが汗ばんでくるのだ。ライジング・オニオン≠ワで辿りつくのはいい。そこから、ベグ・ハー・パードン≠ワでどうやって行けばいいのだ。ライジング・オニオン≠ヘいったいどんな星だったのだろう。そこから連絡用の宇宙定期艇でも出ていればいいのだが……。
船内に「蛍の光」が流れはじめた。
「あと五分で、本船は地球を離れ、ライジング・オニオン≠ヨ向けて飛行を開始します」
宙航船は大型の輸送用機によって、大気圏外へ曳航され、亜空間航法にうつることになる。
スチュワードが再び竜介の横に立った。
「その小箱は危険ですのでお預りしましょうか」
竜介は首を横に振った。「いや、その必要はない。脇でしっかり持っておくから。……今の俺には命より大事な品なんだ」
スチュワードは肩をすくめて立去っていった。
小箱を竜介が握りしめたとき、艇内に流れていた音楽のボリュームが下がりはじめていた。寝台の照明が消えた。
背中で震動を感じたとき、竜介は自分が高所恐怖症であったことを思い出していた。
軽い圧迫感が続き、いま自分は地上を離れ上昇を続けているのだと実感していた。
壁の外には何もないのだ。
あのベグ・ハー・パードン≠離れ、地球へ美梨子を連れて帰ったときも、上昇中の宇宙船の中で何度も叫び出したい衝動に襲われたのではなかったか。もう二度と宇宙船なぞ、乗りはしないぞと考えたのではなかったか。何故、俺は再び宇宙船に乗っているのだ。
それから、竜介は何も考えないようにと思念を打ちはらった。考えれば迷いが生成される。今までの人生がその繰返しだったのだから。
ライジング・オニオン≠ワでの十五時間は他のことを考えるべきではない。達也のことだけを考えていればいい。
達也。達也だ。
竜介の身体中に再び、悪寒がまとわりつきはじめた。真綿で全身をくるまれたような息苦しいほどの悪寒だった。
竜介は思わず身を起した。
船窓からの光景は漆黒の闇だった。
「本船は地球の引力圏を脱し、独力で太陽系内の航宙を続けています。五分後に亜空間航法《ハイパードライブ》に移り、くじら座UV星系へ転出の予定です。亜空間航法時には、肉体的影響はございませんが、航法中に思考上の影響が現出することがございます。時間感覚の喪失、厭世感、脱力感、離人症傾向、分裂的感覚を伴うことなどの現象です。これは、あくまで亜空間航法時の現象の一つにすぎませんので御心配は無用です。但し、万一の場合を想定し、乗客のみなさまは亜空間航行中はベルトをお付けの上、寝台でお休み頂くよう、お願い申しあげます……」
船内のアナウンスが抑揚のない声で告げた。亜空間航法の注意事項を知らせているのだ。これらの精神衛生に関しての問題は亜空間航法をとる際には避けられない必要悪となっている。後遺症は残らないし、航行時間の圧倒的短縮をえることができるのだから、その程度の弊害は容認せざるを得ないというのが、亜空間航法のたてまえとなっている。
竜介は再び、身を横たえた。他の乗客たちはどういう反応を示すのだろうかと興味をおぼえたが、他の乗客とは完全に隔離されているから、竜介にはわかるはずはない。亜空間航法中の乗客同士のトラブルを避けるためであろう。
「亜空間航法移行三十秒前」
しばらくして、竜介の身体を小刻みの震動が襲った。船窓から虚無の色が顔を覗かせた。透明を脱色し、極限に至った色だった。
亜空間に突入したのだと竜介は思った。
小さなルーム・ランプの灯を竜介は凝視していた。ランプは竜介の視線の中で膨脹を続け、光度を増し、周囲全部を覆い終えた。
これは現実じゃない。亜空間の幻想なのだ。そう竜介は呟き続けていた。
光度は増し続け、竜介は、耐え切れず目をつぶった。しかし、光は海となって竜介の視界から離れようとしなかった。
竜介は首を振った。
すると、光の海の中で揺れ動くものが見えた。目をこらすと、人影ということがわかった。近づいてくる人影が、それは懐かしい人物であることに気づくのに時間はかからなかった。
白衣を着た男は若き日の竜介だった。三十七年前の竜介だった。竜介がもう一人の若い男と歩いていた。背の高い、肩幅の広い、胸の厚い、陽焼けした、総ての面で竜介と対象的な男だった。
達也だった。
達也はUBHPで同じゼミをとった学生だったのだ。
「いいやつだった。すごくいいやつだった」
竜介は虚像をみつめながら溜息をついた。
達也と竜介自身が目の前を通り過ぎて行った。
もう竜介の目には何も写らなかった。しかし、竜介の記憶内部で、達也に関する思いでが増殖しはじめていたのだ。
竜介が、初めて達也の恋人であった美梨子を紹介されたときのこと。達也が、はにかみながら、おずおずと美梨子の名前を呼んだ仕草。そして、UBHPの実験室で、ワインの醸造について意見を闘わせあったひととき。二人とも、ワインに人生を賭けよう……そう誓いあっていたのだ。UBHPの小さな葡萄園でとれた糖度の高いぶどうで作った白ワインを、四十年後の同じ日に同じ場所で飲もうと約束した……。
「達也とは親友だったんだ」
そう口にして、後悔が堰を切ったように竜介を襲った。
あの頃の美梨は確かに美しかった。魅力的で機知にも富んでいた。しかし、親友の恋人を奪うほどの権利を自分は持っていたのだろうか。そう竜介は思った。
美梨子は自分についてきてくれた。自分に正直に行動するにはこれしか道はない……その時点では竜介はそんなふうな考え方しかできなかったのだ。
美梨子を連れて逃げるように、ベグ・ハー・パードン≠発ったのだ。
三十八年まえのこと。
「いいやつだった」
そんなことを言う資格が自分にはないのだということを、三十八年間、思い続けてきたのだった。友情を代償にしてまで成就した愛に値打ちがあるのだろうかと。
竜介は、いつの間にか、そのようなおもいでを意識の裡から排除している自分に気づかなかった。ただ、何やらわけのわからない罪悪感だけが肥大化していくのを感じていた。それは、自分が幸福への道標《マイルストーン》へ辿りつくたびに大きく育っているのだ。
達也とは妙に気があった。竜介より総ての点で少しずつ勝っていたが、竜介は別に気にせず、また達也も、相談ごとを持ちかけていた。二人とも、おおらかで、楽天的な学生さんだったのだ。ただ、一つの違いとしては、竜介が地球生まれで、達也がベグ・ハー・パードン$カまれだったということだろう。
美梨子を達也から、恋人として紹介されて地球へ出立するまでには二ヶ月しかかからなかった。
それから、竜介は美梨子を愛し続けてきた。と、同時に後悔の日々がはじまったのだった。
竜介も、また美梨子も日常の会話の中で、達也について触れることはなかった。竜介と同様に美梨子にとっても罪の概念が大きな存在として彼女の心の中に占めていたのかもしれない。しかし、竜介はそれを確認することはやらなかった。
美梨子はわかっていたのだろう。竜介が、ベグ・ハー・パードン≠ヨ行くと言ったときの気持を。美梨子は総て理解していたに違いない。竜介が何のために行くのか美梨子は察し、一言も質問を投げかけなかったのだ。
竜介は友情を、美梨子は愛情を代償に獲得した幸福なのだ。竜介がその上で、安穏としていられるほどふてぶてしい人格を備えているとは自分では思えなかった。また、そのとおりだったのだ。
再び、達也の幻影が現われた。
達也は何も話しかけず、竜介を凝視していた。
「もう、みつめないでくれ」
数回、竜介は繰り返して言った。達也は現われた時と同じく、薄くなって消失した。
それから、竜介は眠りについた。
浅い眠りで、何度となく竜介はうなされ続けた。それは三十数年間、竜介が見続けてきた夢で、後悔の幻獣が彼を攻め続けるというお馴染みのものだった。
軽い偏頭痛を伴って、竜介は覚醒した。
小さなルーム・ランプが見え、船窓には見知らぬ宇宙の星々が浮かんでいた。
亜空間航法を終えたらしかった。
竜介には時間の経過がはっきりと掴めなかった。ただ、ライジング・オニオン≠フ到着まで、あと三時間十五分というデジタル表示で、そんなものかと思うだけだった。
しばらくは、偏頭痛のために放心状態を続けることができた。少なくとも、他のことを考えずにいられる。そう竜介は呟いた。
身体を寝台の壁にもたせかけて、頭をかかえこんでいる時だった。
「乗客の皆様にお知らせいたします」船内アナウンスだった。亜空間を通過したことの連絡だろうというくらいに竜介は考えていた。
「本船は、現在、亜空間航法を終え、くじら座UV星系にあり、ライジング・オニオン≠ワで約三時間の地点を航行中です」
そうだろう、急いでやってくれ……竜介は呟いた。やっと偏頭痛が治まりかけていたのだった。船内アナウンスが続いた。
「今、ライジング・オニオン≠謔闢りました連絡によると、ライジング・オニオン¢S宙港は、ベグ・ハー・パードン≠フ脱出船受入のため、一般及び定期航宙船の着陸が一時的に麻痺している状況です。このため、本船は現地点で停船し、着陸可能時点まで待機することになります。万が一、このままライジング・オニオン≠ノ着陸できない場合、地球へ引返すこともありえますので御了解をお願い申しあげます」
一瞬、竜介は虚をつかれたように呆然とした。
「一時間後に新しい情報をお伝えします」事務的な口調だった。アナウンスは終了し、その後、何も告げようとしなかった。
竜介はスチュワードを呼びだし、詳細を問合わせたが、返ってくるのは船内アナウンスと大差ない答ばかりだった。
それからの一時間、竜介は拳を握りしめ、祈るような気持で過ごした。ときには叫びだしたくなる衝動にかられ、歯をくいしばって永遠とも思える一時間を過ごしたのだった。
唐突に船内アナウンスが響いた。
「ライジング・オニオン≠フ全宙港は、ベグ・ハー・パードン≠謔閧フ避難船のため麻痺が続き、着陸不能です。宇宙省では、この事態について、ベグ・ハー・パードン≠謔閧フ脱出業務を緊急最優先に指定しましたので、本船はライジング・オニオン≠フ着陸が不可能となりました。つきましては、本船はただいまより地球へ引返します。大変、御迷惑ではございますが、よろしく御協力のほど御願い致します」
竜介が、その意味を悟るのに数分かかった。信じられなかった。宇宙船はライジング・オニオン≠ヨ着陸しないのだ。
「嘘だ」
竜介はそう叫んで、壁を拳で何度も殴り続けた。皮が破れ、血が壁にこびりついていた。自分がライジング・オニオン≠ゥら数時間の距離にいるのに地球へ帰らねばならないという理不尽さと、もどかしさで他にどんな行動をとっていいのかわからなかったのだ。
竜介は個室を飛び出した。スチュワードを探そうとしたのだ。だが、彼の目が、「非常脱出路」と書かれた矢印のプレートを見たとき、その行動目的を変更した。
「短距離航宙用の宇宙《スペース》ボートがあるはずだ」
宇宙船事故発生時における緊急脱出用の小型宇宙ボートを搭載しておくことが義務づけられていることを、竜介は思いだしたのだった。これは亜空間航法をとるすべての遠距離宇宙船にとっても例外ではないはずだ。
矢印を追って、竜介は船内の通路を走った。駈け昇り、駈け降り、入り組んだ矢印の指示を呪いながら走り続けた。この宇宙船の大きさはどのくらいのものだったろうという疑問が、初めて湧きはじめた。その宇宙船の外見を竜介が確認していたわけではないのだ。
年齢のせいだろうかと自分の肉体を呪った。足がもつれはじめていたのだ。吐息に甲高い笛のような音さえ混っていた。
「今、宇宙船が引返したら水の泡だ」
精神力だけが竜介を走らせていたのだ。
身体が瞬間的にバランスを喪失し、倒れこんだ。
「しまった」
老人は右手に抱えた小箱をかばうように倒れこみながら身をすくめていた。左足の激痛よりも、小箱が無事であったことに安堵しながら、立上ったのだ。
竜介はもう走れなかった。しかし、そこが終点だったのだ。矢印がそう示していた。
「誰だ。そこで、何をしている」
野太い声が聞こえた。非番の航宙士の一人らしかった。竜介は宇宙ボートへ乗組むためのピットに足をかけていたのだ。
「やめろ、自殺行為だぞ。宇宙船はいま動き出そうとしているとこなんだぞ」
竜介は航宙士の言葉を無視してコクピットに座った。
航宙士は船長に連絡しているらしかった。
「しばらく、機関始動を待ってください。狂人が一人、宇宙ボートに……」
竜介はピットの開閉部を閉じた。緊急脱出用の宇宙ボートだから、操作はいたって簡単なのだ。
離脱ボタンを押すと、ボートは弾かれたように宇宙空間へ飛びだした。
スクリーンにライジング・オニオン≠フ緑色をした大地の全貌が広がっていた。
ライジング・オニオン£陸まで、宇宙ボートで七時間かかっていた。
宇宙ボートの機能として、当面の危機的状況を回避するだけのものしか持ちあわせていない。だから、もよりの惑星に着陸するか、宇宙船からできるだけ遠ざかれるだけの燃料しかないわけだ。危機を脱したら、宇宙空間か、着陸した惑星で救援信号を送り続けること程度しかできない。
一時は「このまま、ベグ・ハー・パードン≠ワで飛んでしまおうか」と考えた竜介だったが、操作マニュアルを読みながら、一応ライジング・オニオン≠ヨ着陸するしかないと諦めたのだった。さいわい、宙港の一つに目立たないように着陸できたのだ。小型の宇宙ボートはそういうメリットがあったわけだ。しかし、いくらベグ・ハー・パードン≠ゥらの脱出船受入でハード・ワークになっているとはいえ、管制塔の目をくぐることはできないはずだから、状況を調査にすぐ人がやってくるだろう。そう考えた竜介は宇宙ボートから飛び降り、ベグ・ハー・パードン≠ゥらの避難民の雑踏の中へ駈けこんだ。これ以上、時間的余裕はないのだ。案の定、宇宙ボートの着陸した地点あたりへ、奇妙な形をした乗物が甲高い音を鳴らしながら走っていくのが見えた。
竜介はまず、宙港のインフォメーションへ行くことを考えた。ベグ・ハー・パードン≠フ状況を確認し、もし、まだプレ・ヘリウム・フラッシュが始まっていなければ、何とか、宇宙船をチャーターしようと単純に考えていた。
しかし、傭船は不可能だろうという恐れも常につきまとっていたのだ。定期宇宙船は少なくとも無理だった。インフォメーションに尋ねるまでもなく全便欠航の掲示が各所に貼りだされていたからだ。
「BHPはあとどのくらい持つのかしら」
「さあ、フレアの膨脹が活発化していると聞いたから……あと持って三日だろうな」
竜介の横でしゃがみこんだ中年の男女が途方にくれたように話していた。ベグ・ハー・パードン≠ゥらの難民らしかった。
「あと三日」とすると、命しらずの宇宙よろず《スペース・ジョブ・サービス》≠ノ頼むしかないな。そう竜介は思った。宇宙よろず≠ヘ金さえ積めば、宇宙空間におけるサービス業務はどんな危険なことでもやってくれる。そして、辺境の宇宙空港には、必ずその出先カウンターがあるはずだった。宇宙よろず≠探そう。いくらかかってもかまわない。ベグ・ハー・パードン≠ヨ輸送してもらうのだ。
宇宙よろず≠フカウンターはすぐに見つかった。筋肉を盛りあがらせ、満面を髭で装飾した精悍な男が頬杖をついて、所在なげに座っていた。
竜介は左足を引摺りながらカウンターに近寄った。カウンター迄の距離が異常に遠く感じられたのだった。
「宇宙よろず≠セね」
カウンターの男は分厚い唇を三日月のように裂いて笑ってみせた。
「へえ。さようで。宇宙内の揉めごとから、自家用宇宙艇のメンテナンス、引越しサービスまで、頼まれれば何でもやっておりやす。宇宙空間の御用でしたら何でも仰せつかりますぜ。例え、火の中、ブラック・ホールの中」
そうかと竜介は安堵した。やや饒舌気味のキャッチフレーズのようだなと竜介は思ったが、確かに宇宙よろず≠フ男の話術は頼もしさを感じさせる種類のものだった。
「ぜひ、お願いしたいことがある」
竜介の声は何故か枯れたような音質だった。
「へえ、何でも承りやすよ」
男は身を乗りだした。予想外の大男だった。
「わたしをベグ・ハー・パードン≠ワで連れて行って欲しいのだ」
男は椅子に再び腰をおろしていた。
「宇宙旅行でしたら、旅行代理店に頼みなさいよ。そりゃあ、受持ちが違う」
「それは、わかってる。しかし、ベグ・ハー・パードン″sは現在一本もでていない。だから、頼んでいる」
「しかし、……あの貼紙を御覧になったでしょう。ベグ・ハー・パードン≠ヘルイテン892のフレアをもろに受けようとしてるんですぜ。ビッグ・ヘリウム・フラッシュが今にもはじまるかも知れないんだ」
これが宇宙よろず≠フ料金交渉の際のかけひきであることを竜介は願っていた。
「今、例え火の中、ブラック・ホールの中と言ったばかりじゃないか。どんな危険作業もいとわないのではなかったのか。料金は、はずんでいいよ。プレミアムをつけてもかまわない」
髭面の大男は、両手を広げて首を振る仕草をくり返すだけだった。
「そりゃあ、ものの例えというやつですよ。幾ら金を積まれたところで無理なものは無理ですぜ。ベグ・ハー・パードン≠ヨは、航宙緊急規制法の適用で、いかなる理由があろうと近寄れないことになってる。いくらお客さんの要求であろうと、引受ければ法律破りの犯罪者になっちまうんだ。じいさん、かわいそうだが、こればかりは無理だな」
「頼む、会わなきゃならん奴がいるのだ」
大男はもう一度、大きく首を振った。
竜介の膝から、力が脱け出ていくようだった。仕方なく、カウンターに背を向けるしかなかったのだ。
「万策つきたのか」
竜介は一人ごちた。足を引摺りながら、これは刑罰なのだと思っていた。達也へ対しての仕打ちからすれば許されるはずのない拷問を今、自分は受けているのだと思っていた。
「人探しだったら、難民受付所へ尋ねてみるこった。もう、脱出してるかもしれないぜ」
大男の声が背後でした。そうだ。まだ、その可能性が残されている。
難民受付所へ至る通路に大鏡があった。竜介はその前を通る際に己れの姿に驚いていた。この数日間で、老いが激しく進行していたのだ。自分のちっぽけな姿に惨めさだけを感じていた。
「罰だ」
竜介は、難民受付所で達也の名前を告げた。ライジング・オニオン≠フ到着リストの中では見あたらず、次に端末器による照会を依頼した。他の星に脱出していれば、わかるはずだということだった。端末器は竜介に、該当名は存在しません≠ニ告げた。
竜介はその場に崩れるようにへたりこんだ。
今、すべての希望が絶たれたことを思い知ったのだ。
「竜介。竜介じゃないか」
自分のことを呼ばれているとは思えず仲々反応できなかったのだった。その声はたしかに竜介の名を呼んでいた。ゆっくり振りむいてみると、作業服に身を包んだ見知らぬ老人の姿があった。
「そうだな。やはり竜介だ」
竜介はうなずいた。
「恵三だよ。UBHPで一緒だった」
そう老人は告げた。竜介の記憶の古いファイルの中の一つの顔が眼前の老人とようやく結びついた。
「恵三……か。何年ぶりかなあ。何やってるんだ。こんなところで」
「竜介こそ……おまえ地球に帰ってたって聞いてたけれど、何故ここにいるんだ。俺は、ライジング・アイアン航宙運輸≠やってるんだが、ベグ・ハー・パードン£E出にかりだされちまってさ。まだ、残ってるやつがかなりいそうだという話でな。今からひとっ飛びしてこなくちゃならない」
竜介は跳び起きた。
「今からベグ・ハー・パードン≠ヨ行くのか」
その気迫に呑まれたように恵三という老人は「ああ」と目を白黒させながらうなずいた。
「連れていってくれ。ベグ・ハー・パードン≠ヨ。どうしても行かなければならない」
竜介は必死に頼んだ。恵三の服を掴み、すがることだけが、今の竜介にできることだった。
「達也に会いに行くんだな」
恵三が言った。竜介はうなずいた。
「達也には十年前に会ったよ。ベグ・ハー・パードン≠ナ。おまえが地球へ帰ってしばらくは噂だったからなあ」
竜介は言葉につまった。それから絞りだすように言った。
「達也に詫びる。それに達也と約束していたことを果たさなきゃならない」
暫く、沈黙が続いた。それから、恵三が思いきったように言った。
「よし、あとは何も聞かん。俺の船でよかったら乗れ。ただし、命の保証はできないぞ。俺たちも、命賭けで救助にでかけるんだからな。一時間後に出発する。ついてこいよ」
「すまん」
恵三の『ソロモン・グランディ号』の中で竜介は横になっていた。
「あいつは、まだワイン作りをやってるぜ。十年前から変ってなきゃな」
隣で、恵三が言った。
「何か、俺のことを話してたかい」
竜介は恐れながらそう言った。恵三が睨みつけるような目で「いや」と答えた。
馬鹿な質問をしたと竜介は後悔した。恵三に限らず自分は誰から軽蔑されても仕方がないのだと自答していた。
それ以上、二人の間で会話が続こうとはしなかった。達也と再会しても多分このような状態なのだろうか。そう竜介は考えた。自分が罵られるのはいい。それは覚悟している。殺されても仕方がないだろう。しかし、達也にとって竜介を罵ったところで殺したところで、忌しい過去の傷を思いだすだけではないのか。自分の罪の意識を失くすためだけに達也に会って懺悔をやるというのはエゴにすぎないのではないか。そんな混沌とした断片的な思考が竜介の頭の中で渦巻いていた。
亜空間航法を終え、ベグ・ハー・パードン≠ヘ『ソロモン・グランディ号』の眼前にあった。
ベグ・ハー・パードン≠フ人類居住地区はそう広いものではない。人口は二千万人程度のものなのだ。居住地区は、今、昼の部分にあった。
『ソロモン・グランディ号』が着陸すると、恵三老人は竜介に耐熱服をさしだした。
「五時間後には出発する。それがぎりぎりのタイムリミットだ。いつ、フレアが地表を舐めつくしても不思議じゃないんだ。今、大気温度が五十度だ。これを着ていかなければ脱水症状を起してしまう。俺たちは、逃げ遅れた人たちを拾い集めるから……。しかし、竜介が、達也に会える可能性は、浜辺で針を探すようなものなのだぞ。とにかく五時間後には帰ってきてくれ」
竜介はうなずいて耐熱服を受け取った。
「しかし、後生大事に抱えているその箱は何が入ってるんだ」
恵三は不思議そうに竜介が右腕に抱えた小箱を指して尋ねた。
「これか。これは達也との約束の品さ」
竜介はベグ・ハー・パードン≠フ大地に立った。空を見あげると、ルイテン892が炎を舌のように伸ばした姿が目に入るだろうと思ったが、とても直視する気にはなれなかった。
街並みには記憶があった。青年時代を過ごした思い出の街並みに、今、立っているのだった。ただ記憶の街並みと違うのは、現在の風景には人影が存在していなかったことだ。
竜介は無人の舗道をゆっくりと歩き続けた。高熱を伴った烈風が道路に吹きすさんでいた。
遠くで煙が上っていた。火災かもしれなかった。誰も消すものはいないだろう。いずれフレアの炎で総てが焼きつくされるのだろう。
建物の一つから人影が見えた。
若い男女が飛び出してきた。
「達也。美梨子」
一瞬、竜介はそう思った。しかし、それは錯覚だった。
「救助にこられたんですか」
逃げ遅れた男女だったのだ。竜介が『ソロモン・グランディ号』の着陸位置を知らせると、男女は礼を言い走り去っていった。
竜介は男女を見送ると、足を大学のキャンパスへ向けた。歩いて二十分ほどの距離だったろう。達也はまだワイン作りをしていたと恵三に聞いたが、その場所を竜介は知らない。自然と大学に足が向いたのだった。
キャンパスの中で、あてもなく彷徨った。そして、約束を交わしたUBHPの小さな葡萄園の棚の下に腰をおろしたのだった。
誰もいなかった。
「誰もいるはずがない。約束の日まであと二年もあるんだ。ましてや、裏切りをやるような友との約束だ。来てくれるはずもないさ。何の確約もないんだ」
ぶどうの葉は熱のため枯れ果てていた。いっそのこと、このままフレアに灼かれてしまいたいと思っていた。と、同時に、達也がうまく脱出してくれていればいいと願っていた。
「それで、罪ほろぼしになるだろうか」
竜介は大地の上に大の字になった。頭部の耐熱服を脱ぐと頬の汗が蒸発していくのがわかった。大きく一つ溜息をついた。
「結局、自分は屑だったのか」
ベグ・ハー・パードン≠ワでの距離も、竜介にとって意味のないものに変っていた。
静寂だけがあった。
突然、竜介の頭上で声がしたのだ。
「馬鹿だなあ。竜介、こんなときに来やがって」
竜介が目を開くと、そこに懐かしい顔があった。達也だった。達也の顔が笑っていた。竜介は慌てて身体をおこした。
「達也」
達也は竜介の横に腰をおろした。達也も竜介と同じように老けこみ、頭も白いもので覆われていた。しかし、憎めない童顔の笑い顔だけは少しも変っていなかった。
「恵三から連絡を受けたのさ。竜介が、ベグ・ハー・パードン≠ワで、俺に会いに来てるってな。それでおまえが立寄りそうなところと思ってやってきたのさ。何でこんな時にきたんだ。いつヘリウム・フラッシュが始まるか、わからないんだぞ。ばあか」
学生時代と少しも変らない口調だった。竜介は口籠もりながら答えた。
「あ……謝りにきたんだ。あんなふうにして、おまえの前から姿を消しただろう。それで……」
仲々うまく言葉になってでてこないのだ。
「……どんなに罵られてもかまわない。しかし、気がすまなかったんだ。あんな裏切りをやって……」
達也は途惑ったように首をひねってみせた。
「そんなことはいいさ。もう何とも思っちゃいない。そりゃあ、おまえ達がいなくなってしばらくは悩んださ。恨みもした。しかし、美梨子から、……いや奥さんから手紙を貰った。それで諦めがついた。奥さんは俺に謝罪していた。いや、そんなことはどうだっていい。それより重要なことは、美梨子は……俺よりも竜介のほうを愛してたっていうことなんだ。おまえが、無理矢理さらっていったわけじゃあるまいし。とすれば、俺が介入する余地はないはずじゃないか。美梨は俺の所有物だったわけじゃない。あいつはあいつで自由な選択のできる人格を持っているんだ。仕方がないことじゃないか」
「美梨子が手紙を……知らなかった」
竜介は初耳だった。達也は表情を変えるでもなく淡々と話していた。世俗を超越した表情だった。
「おまえが、謝る必要は何もない」
そう言って達也は笑顔をむけた。竜介はうなずき、しばらく放心したように沈黙した。それから言った。
「おまえはベグ・ハー・パードン≠脱出しないのか」
「するさ。しかし、まだ、俺はワイン造りをやっている。移住するとしても、ぶどうの栽培できる星でないとな。それに……俺も妙に予感がしていた。奇妙なことだが、もう一度おまえに会える予感がして逃げだす気になれなかったのさ。それが適中しやがった」
二人は声を合わせて笑った。
「永かったな」
竜介は声にならない呟きを漏らしていた。ベグ・ハー・パードン≠ワでの距離。それ以上の達也に再会するまでの時間的永さ。
「ほんとうに久しぶりだ。しかし、老けたな」
達也が竜介の背を叩いた。
「じつは約束も果たしておこうと思ってな」
竜介は小箱を差しだした。
「憶えているか。三十八年前の約束を……。この中に入っている。約束には二年ほど早くなってしまったけれど」
「そうか。この中か」
達也は小箱の中から瓶をとりだした。竜介と達也が二人で仕込んだ白ワインだった。薄い琥珀色の透明な液体が中で揺れていた。
「俺たちの試作、第一号だったなあ」
「ああ」
「やるか」
竜介が小箱からワイングラスをとりだした。
「小箱の中は温度を十度に保っていたから急いで飲んだほうがいい」
達也は寂し気な笑いを浮かべてみせた。
「あの時のワインか。……実はおまえが、あれからこの星にいなくなって、その後わかったことなんだが、この星の酵母には特殊な作用があるんだ。瓶中で二次発酵をおこしたあと、数十年後に第三次発酵をおこすんだ。味はよりまろやかになるが、その際、一様の幻覚作用をもたらすらしい。どんな副作用かはわからないが、データーだけでわかってることなんだ」
「…………」
「いや。飲もうよ。飲んでみようぜ。せっかく竜介が地球から連んできてくれたんだ」
達也が小気味よい破裂音を響かせてコルクを引抜いた。二人は三十八年前にもどったのだ。
グラスを持ち、ワインを注ぎあったが、言葉は交わさなかった。
「竜介、乾杯だ。……何に乾杯しよう」
達也の友情に……竜介はそう言いたかった。しかし、喉から言葉がでようとしないのだ。ここへきてよかった……。竜介はそう実感していた。
「じゃあ、とりあえず再会を祝して」
「再会を祝して……」
グラスを鳴らし、ワインを口に含んだ。竜介の舌の上で、甘酸っぱいが、こくのある、気品に溢れた味が、芳醇な香りとともに広がっていった。
忘れていた味だった。それは竜介の青春の味だった。
「うまい」
「うまいなあ、もう一杯」
無人の葡萄園に熱風が吹き、二人の頬を刺した。
遠くで声がした。
「急げ、フレアが。フレアが拡散……」
竜介は再び、ワインを口に含んだ。
「風邪を引きますわ」
肩を揺すらされて、竜介は頭をあげた。テーブルの上だった。
「ここは。家なのか……。ベグ・ハー・パードン≠カゃないのか」
「ルイテン892はヘリウム・フラッシュをおこしたそうですわ。ニュースで言ってました」
美梨子は卓上のワイングラスを片付けながら、そう竜介に告げた。
「しかし、私はベグ・ハー・パードン≠ヨ出かけたはずじゃなかったのか」
美梨子は大きく首を振っていた。
「今日はいつもよりお酒の量が多かったみたいだから……。夢を見られていたんではありませんか」
夢だったのか……竜介は信じられない思いだった。あんなに鮮烈な記憶があるのに。
竜介は左足のいたみに、その時気がついた。それから袖の部分の焦げ跡。間違いない。
自分はやはり今、ベグ・ハー・パードン≠ノいるのだ。この美梨子や、自分の部屋は幻覚にちがいない。達也が、ワインを飲む前にそう言ったではないか。
「夢を見られたのですわ」
美梨子がもう一度、そう言った。
ひょっとすれば美梨子のいうことが正しいのかもしれなかった。しかし、自分が、ベグ・ハー・パードン≠ノいるはずだという考えも否定できなかった。
「みんな幻だったのかもしれない」
そうだ、幻なのかもしれない。とすれば、幻覚から醒めるまで、美梨子との暮らしを続けていくべきだろう。竜介は、そう思った。
多分、人生など、そんなものだ。後悔の幻の中で生きてゆく……。
竜介は、一瞬、鋭く突き刺すような光を見た。
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ムーンライト・ラブコール
ヨーコ・Kは悪戯っぽい笑いを浮かべて、ちょこんと首を扉からのぞかせた。
「おばあちゃん、入っていいかしら」
おばあちゃんは、机にむかって本を読んでいるのだった。ヨーコ・Kの声を聞くと、我にかえった様子で金縁の鼻眼鏡をずりあげ、声の方へ身体をむけた。
「おや、あらたまって」
ヨーコ・Kは入口に背をもたせかけて、まだ立っていた。おばあちゃんは読みかけの「重力生理学」の本を閉じると、ヨーコ・Kに遠慮しないでと、椅子をすすめた。
「今日は、なんの御用かしら。お小遣いでも足りないのかな」
ヨーコ・Kは大きく、かぶりを振った。「まっ、私、そんなに子供じゃなくってよ。もう、二十歳過ぎてるんだから」
おばあちゃんはニコニコ笑いながら、昆布茶とチーズせんべいを用意した。
「そりゃあ、私の眼から見れば、ヨーコはいつまでたっても、子供に見えちゃうんだね」
外は、すでに夜の帳帷《とばり》が降りてしまっている。おばあちゃんの部屋は壁がすべて書棚になっていて、若い頃から自分が著した専門書や研究資料がならんでいた。
おばあちゃんは科学者なのだ。
「今日は、ちょっと話を聞きたかったの」
ヨーコ・Kは少し照れ気味に言った。
「おや、まあ。何だか、あらたまっちゃって。一人で来たの」
「んー。ケイスケと二人で。ケイスケは外にいるって」
ケイスケはヨーコ・Kの弟である。ヨーコ・Kの家族は、おばあちゃんの家からそう離れていない場所に住んでいる。
「何故、ケイスケは中に入ってこないの」
「うん。私が、おばあちゃんにプライヴェートな相談をするんだから……と言ったら気をつかっちゃって。それに今夜はもうすぐ、……でしょう」
ヨーコ・Kは、はにかみながら、そう言った。それから視線は、おばあちゃんの机の上に飾られた写真に移った。その写真には、若き日のおばあちゃんと、色の浅黒い、涼しい瞳を持った青年が写っていた。若い頃のおばあちゃんは、瞳の大きな、えくぼの可愛い魅力的な笑顔を持っていた。
「おじいちゃんとのことを聞きたかったの」
ヨーコ・Kは唐突にそうきりだしていた。
「あら、あら。何かと思ったら」
おばあちゃんは少し、おどけた口調になった。そんなおばあちゃんの様子には、若い頃からの上品さといったものが少しも損なわれていないのだ。
「パパや、ママから聞いたのよ。おばあちゃんと、亡くなったおじいちゃんは、すごい大ロマンスの挙句、結ばれたんだって。私は、おじいちゃんを知らないし、……それに色々参考にしたいんだもの」
「はぁ、ヨーコも、かなりおませさんだね」
「私、二十歳すぎよ。おばあちゃん」
ヨーコ・Kはぷっと頬を膨らませた。
「まあ、チーズせんべいでも食べなさいよ」
「ねぇ、話してくれるんでしょう」
おばあちゃんは鼻から眼鏡をはずし、窓を外の遠くをみつめていた。何かを反芻し、確認するように。それから……。
「遠い昔のことだからね」と呟いた。
窓には、クレセント・ムーンがぼんやりと浮かんでいた。
「私が、まだ大学生の頃だったわ。おじいちゃん――ケイイチさんに初めて会ったのは。もう、四十五、六年も昔のことになるのねぇ。まだ、二十一世紀に入っていなかったから、一九九七年くらいだったかしら。
ケイイチさんとは、同じ大学だったの。ヤポン総合大学。私は地球外におけるライフ・サイエンス、そしてケイイチさんは、うーん光通信の新しい応用について研究していたっけ。正確な学部は忘れてしまったようね。とにかく、おたがい教養課程でよく共通の学科を偶然に選んでしまったみたい。いつ、彼に気がついたかというと、講義中のこと。性格学の講義のときだったわ。教授がクラス中の血液型について挙手させたの。A型が四十人くらいだった。O型が二十人くらいだったかしら。B型が……手をあげたのが一人だけ。それが彼だったの。そしてAB型。そしたらAB型というのが私だけだったの。私は、講義は一等前の席で受けなければ厭な性格だったから教授の目の前の席。そしてB型のケイイチさんも私の隣だったの。クラスの中で、すごく目立ってしまってね。そしたら、教授がケイイチさんの名前を訊ねていったの。
『元来、B型はAB型をお守《も》りする立場にある。きみは、彼女をお守りしてるかね。このクラスにB型はきみ一人しかいないんだからね』って。彼はクラス中の笑い声の中で、顔を真っ赤にしてうつむいていたわ。それで、初めてケイイチさんという存在を知ったのよ。でも、それだけだったわ、そのときは。講義が終って、ケイイチさんは私に話しかけてきたの。
『いまの血液型の話。信じますか』って。
『さあ、面白いけど、あまり気にしないわ。血液で人間が分類されてしまうなら、大雑把に四タイプの人間しかいなくなってしまうし、それでは味気ないじゃないの』
そう私は答えた気がする。
他の教養課程の講義でも、よく席を隣りあわせていることに気がついたわ。それで、何となく挨拶しあうようなことになったの。
『おはようB型さん』
『ど、どうも』という感じ。よく見ると、彼は仲々、ハンサムだと気がついたわ。うーんあまり良い表現じゃないけど、やさしさと気の弱さが渾然とした感じ、もう一つ迫力に欠けるきらいはあったけれど、誠実さだけは、雰囲気でわかったわ。
『いつも、講義を最前列で受けるのね』そう言うと『最前列でないと講義に集中できないものですから』と笑って答えてくれたの。すごく、すがすがしい笑顔だったの。
……そうよ。その頃から、徐々にケイイチさんを好きになりはじめたのよ。
私のほうからは誘ったりはしなかったわ。私、自分でもプライドが高いつもりだったものだと思ってるくらい。他の女の子だったら、あっさり自分の方からデイトに誘ったりとか、あの彼は私のステディだから手を出さないでと宣言してたほどだから時代遅れの女の子だったのかもしれないわ。……私かい。もちろん魅力的だったわよ。今では、こんな皺くちゃになっているけれど、その頃はプロポーションも満更ではなかったと思っているよ。おじいちゃん……ケイイチさんも結婚してからのことだけれど、瞳がいいんだって……いつも言ってくれてたものね。他の男の子が誘ったりもしてきたのだけれど、忙しいからと言って、あまり相手にもしなかった。だって興味もない男の子と無駄な時間を費すより、本読んでいたほうが、余程、胸がときめいたものよ。
……もちろんケイイチさんは別よ。でも、決して彼は私を誘ったりはしてくれなかった。講義の前後に、おたがい軽いジョークをとばしあうのが関の山。今、考えてみると、隣の席にいる私のところへ男の子が、誘いにきて、それが次々に断わられている様子を目にしていたのだから、おじいちゃんにしては、自分が誘ってもとてもだめだと思っていたのかもしれない。
初めてのデイトのチャンスというのは、何だか凄く唐突にやってきたの。情報整理学の講義の前だったと思うけれど、一人の男の子が私たちの席にやってきた。
『ぼくたち、ダンス・パーティ主催しているんだけど、券を買ってくれない』すごくしつこくて、ね。『一緒に行く相手がいないから』って私は一所懸命に断わってたの。そしたら、その男の子は、ケイイチさんにいうの。
『おい。B型。おまえ、AB型のお守り役なのだから、こういう時はエスコートしなくちゃいけないんだぞ。このクラスの男性は、すべて彼女にデイト申し込みをやって、皆ふられちゃっている。一緒に行く相手がいないと言っとられるんだから、おまえの責任ということになる。ケイイチくんは今、二十クレジット持ってるか』
ケイイチさんが持っていると答えると、じゃあ出せというの。二十クレジット出すと、その男はダンス・パーティの券を私に渡して言ったの。『じゃあ、二人で楽しんできてください。運営者を代表して感謝します』
私、パーティ券を二枚ともケイイチさんに返そうとしたのだけれど、彼、困ったような顔したの。
『返してもらっても、ぼくには一緒に行く相手なんかいないんだから、いいよ』でも、もったいないわね。私のためにパーティ券を買わされた結果でしょう。何となく、ケイイチさんとダンス・パーティに行くはめになってしまった。ケイイチさんとなら一緒してもいい気がしたし。
それが最初のデイト。
……どうだったかって。無重力装置がダンスホールに応用されはじめて、すぐの頃でしょう。アン・グラヴィというステップが流行ってた頃ですよ。私、そんなステップ知らなかったもの。それに、ケイイチさんって、それまで全然ダンスなんて踊ったことがなかったの。二人とも、壁際で、耳をそばだて、大声で話をしてたわ。途中で出てきちゃった。それから、二人で歩きながら話をしたのだけれど、そのときのほうが楽しかった。おたがい、キャンパスでは話さなかった色んな話題がでたわ。おたがいの将来の夢や、おいたちのことなんかをね。
この日から、よくデイトするようになったの。わりと気楽な友人同士というかんじ。おたがい、あまり友だちが多い方ではないし、それに、おたがいの自由を拘束しあわないという不文律を持っていたようね。私はどちらかというと、今でもそうだけど、ときどきフッとひとりになりたいときがあるの。何故だかよくわからないけれど、デイトの途中でも、よく、何だかすべてが馬鹿馬鹿しく思えて、ひとり帰っちゃうことがあったわ。それでもケイイチさんは、絶対に怒ったりすることがなかった。『ぼくはお守り役らしいから、いいよ』っていつも言ってたわ。
そんなとき以外は、いつも私の下宿まで送りとどけてくれたもの。
友だちづきあいだったから、あまりベトベトしたものはなかったの。でも、私もだんだん、彼に好意以上のものを持ちはじめたのね。やはり、他の男性たちとは、どこかが少し違っていたものね。
私は、宇宙生理学の専門コースに、そしてケイイチさんは通信開発のほうに進んでいき、一緒に講義を受けることもなくなってしまったけれど、休日などは、一緒に過ごしたりしていたわ。『完全黒体って知っているかい。総ての光を完全に吸収してしまう。ブラックホールも一種の完全黒体と考えていいと思うのだが、超重力を伴わない完全黒体について研究している。通信方法にどう応用できるかはわからないけれど、分野としては、まだ新しいから、やりがいがあるんだなぁ』
そんなふうに自分のやっている研究について熱っぽく語ってくれたのよ。そんなときのケイイチさんの瞳の輝きは確かに違っていたわね。
でも、ケイイチさんの本心というものが、私には全然掴めずにいたわ。周囲からの私たちを見る眼というのは、恋人同士に映っていたようだったけれど、おたがいのことをどう思っているかということを確認したこともなかったし、私も口には出さなかった。
それはね。あまり使いたくない言葉だけど愛≠ニいうものの考え方ね。本当に愛している相手の負担になってはいけないという基本的な考えを持っていたの。それは精神的にも物質的にもよ。ケイイチさんに対して好意以上のものを持ってはいたけれど、それを、相手にも、自分に対してと同じく要求するという欲求自体、利己的なものにすぎないと考えていたの。だから、ケイイチさんに対しては、それ以上のことは望まなかった……と言ってしまえば嘘になるかしらね。
それに、ケイイチさんは、私のお守り役という使命をもっているのかもしれないと思ったこともあるのよ。私と交際するのは、彼のボランティア精神じゃないのかしらって、フフッ。
私も、自分の極めてみたい道を目指していたから、もしも私の前から、いつかケイイチさんがいなくなったにしても、それはそれで仕方のないことなのだと思っていたわ。
そんなふうなことよ。
あっ、お茶をもう一杯あげようかね。いいお茶をもらっているからね。エッ。いいのかい。
それからって。
もちろん結婚したから、おまえたちが、いるんじゃないの。
永い交際でね、そんな友人同士のつきあいが、大学の卒業まで続いたんだねぇ。
その頃になると、私の友人にも、少しずつ他の男性が加わりはじめてきたの。やはり、大人になると、交際範囲が広がってくるのね。でも、男性といっても、ケイイチさんほど以上に異性として意識する人はいなかったわ。
私、他の男性と歩いているときにケイイチさんに出くわしたことがあったの。彼は気がつかないふりですれちがってしまったわ。その夜、すごくケイイチさんのことが気がかりだった。それで、はじめて、自分にとってケイイチさんが大事な人だと気がついたのよ。
次のデイトでも、ケイイチさんは私に、そのことについて何も触れようとはしなかった。ただ、最近おこった身のまわりでの馬鹿話が主で、いつもどおりのデイトだった。
私……何だか、ほっとしたと同時に、やりきれない思いにかられたの。ケイイチさんにとって私はいったい何なのかしらって。私をほんとうに好きなら、他の男性と一緒にいるのをせめたりするということはないのかしら。ひょっとすると、あのとき、ほんとうにケイイチさんは私に気がつかなかったのかもしれない。……でも、そんなことは、ありえないはず。そう自問したわ。
そうしているうちに、私たちは卒業して、二人とも、別々の道に進むことになったの。同じ、宇宙開発省なのだけれど、ケイイチさんは宇宙通信技術局の勤務、そして私は、宇宙環境適応局の研究室勤務。そこで、宇宙生理学の研究をやっていたわ。宇宙線の脳神経に与える伝達速度の影響とかをね。私にとっては、やりがいのある仕事だったからねぇ。私の仕事も、ケイイチさんの仕事も、未知の分野に手をつけたようなものだったからね。それも全人類にとって、手つかずだった分野。勤務地も離れてしまったわ。それでも、手紙のやりとりは続けていたの。おたがい勤務がばらばらだし、テレ電も仲々通じなかったものね。だから、非常に大時代的ではあるけれど、手紙だけが確実に自分の意思が相手に伝わる唯一の方法だったのよ。
ケイイチさんは、毎日のできごとや、考えや、研究の進行状況を手紙に、おもしろおかしく書いてくれたわ。
完全黒体の変換が具体化したとか、昼間でも空間の一部を闇に変えることが可能だとか、夢みたいなことが書いてあった。でも、それが仕事だったのだものね。
でも、一言も私に対して、どう思っているとか、好きだとか書いてなかったわ。それでも私はケイイチさんの手紙が楽しみだった。私も返事を出したりしたのよ。もち論、一言もケイイチさんのことが好きだとか、そんなはしたないこと……はしたなくはないんだけれど……とにかくそんなことにはふれなかったわ。自分の今、興味を持ってることや、読んだ本の感想、たずさわっている仕事のことなど。そんな内容だったと思うわ。
そんな手紙が私のところからケイイチさんのところへ、ケイイチさんのところから私のところへ。いったりきたり、いったりきたり。
いつも私はケイイチさんに会いたくて会いたくてたまらなかった。その気持をなかば欺し欺し暮らしていたに違いないわ。仕事にうちこんでいるときは、刹那ケイイチさんのことを忘れることができたから、循環的に仕事に没入することにしたの。でも、仕事が終りぼんやりしているときは、ふとケイイチさんのことを考えていることに気づくのよ。
他の男性と交際してみようという心の余裕はとてもなかったわ。
あるとき、突然ケイイチさんが訪ねてきたことがあったの。前日に、テレ電が入って、会いたいと言うの。その日、私は休暇をとってケイイチさんを待ったわ。ケイイチさんは片道三時間の距離をリニア・カーでやってきた。九ヵ月ぶりの再会だった。
で、以前のデイトのときのように、二人はあきもせずにいろんなことを話したのよ。学生時代のことや、近況報告について。
半日が嘘のように、あっという間に過ぎていったわ。それからケイイチさんが、言ったのよ。私に会いにきた理由を。
勤務地が、変更になるんだ。そうケイイチさんは言ったわ。研究している完全黒体の応用段階として、当然勤務が変更になるとは覚悟していたのだけれど、こんなに早いとは思わなかった。昨日、辞令をもらったんだ。もう数日後に新しい勤務地へむかわなくてはならない。そのまえに、きみに会っておきたかったんだ。
どこなの。そう私はケイイチさんに聞いたのよ。すると、ケイイチさんは夕闇の天空にぽっかりと浮かんだ月を指したのよ。
あそこだよって。
私は、一瞬、意味がよくわからないでいたみたい。でも、それは、そのとおりの意味だったの。彼は月面基地内の総合研究室に配属が決定したのよ。地球で疑似環境のなかでの実験ではどうしても限度があったし、いずれそのような配属になることは予測されていたことらしかったわ。その異動が、エリート・コースを歩くための布石になるはずであろうことは私にも容易に予測がついたわ。でも、それが私にとってどうだというのかしら。なんだか、私、そのとき、口ではおめでとうと言いながら、すごく気落ちしていくのがわかったの。どのくらいの月面勤務になるのかしら。……そう、私はさりげなく聞いてみた。はっきり、わからない。ただ、研究の一応の目途がつかないと無理だと思う。特殊分野だから、簡単に人員の補充がきくというわけにいかないから。
目の前にケイイチさんがいるのに、彼が何だかすごく遠いところへ行ってしまったような気がしたわ。そして現実に、彼は遠い……文字通り遥かな場所へ行ってしまうことになるの。その後、彼が言ってくれる言葉を私は待っていたわ。愛してくれていることを確認する言葉を。でなくてもいい。ただ、一言、待っててくれと言ってくれるだけでよかったの。
私は黙っていたわ。
彼は大きく息を吸いこんで、なんだか口ごもっているようだった。でも、……とうとうその言葉を彼の口から聞くことはできなかった。
手紙を出すよ。……月からでも手紙は出せるんた。電送して送ることができる。きみも、局宛に送ってくれば、局のほうから手紙を月に電送してくれるはずだから。
そんなことをケイイチさんは言っただけだった。でも、口ごもったときの彼を見て、私は確実に感じることができたの。もっと、彼は何かを言いたかったに違いないの。でも、それは、私にははかりしれない理由のために告げることをためらったのだと自分に言いきかせたわ。
それから、ケイイチさんをリニア・カーの駅に送っていった。そのときは、もう、おたがい冗談を言いあってただけの別れ。
十日近くたって、宇宙開発省の封筒の手紙が届いたの。月面基地に赴任したケイイチさんの第一報。
あのときの最初の文面は今でも憶いだすことができるわ。こんなふうよ。んーと……。
――サエコさん、このあいだはどうも。こちらに着いてから、ずっと胃の調子が良すぎて困ります。消化が速く、すぐにお腹が減るのです。引力の少ないせいですか。宇宙生理学ではこういうのは正常なのでしょうか。体重は六分の一になったのですが、こういう食生活を続けていると、地球での体重になってしまいそうですね。そうなると地球へ帰ってきたときは身動きできないゴムまりみたいになっちゃうのではないでしょうか。次の食事からダイエットをはじめるつもりです。……
そんな書きだしだったと思うわ。そんな手紙の用紙に、〔宇宙開発省/電送受信専用〕と印刷されていて、右下隅に受信担当者の日付入スタンプが押されていたりして、しかつめらしさと、内容のアンバランスぶりに思わず吹きだしてしまったわ。
空を見あげたら、今夜みたいな、クレセント・ナイトだったっけ。いつまでも、月を見ていたものよ。でも、月面基地のある虹の入江≠謔閧フ雨の海≠ヘ見えるはずもなかったの。
何度かの手紙が往復したわ。
そして一年が過ぎてしまったわ。
そんな頃、私ね、上司から、ある男性を紹介したいといわれちゃったのよ。仕事一途だったでしょう。職場の人からすれば他に交際している男性もいないように見えたにちがいないの。だから上司は、まったくの善意で、私にお見合いさせようとたくらんだらしいのよ。その男性というのが上司の甥になるらしくて、職場での私のスナップ写真を見て、いたく気にいったらしいというの。一流企業の若手重役らしくて、絶対悪い話ではないとすすめるのね。私、本当に困ってしまった。
会うだけでもいいからという上司のすすめに、私は時間をもうしばらくくださいと頼んだわ。そうするしかないじゃない。
だって、上司の方からその話をうかがっている間中、ケイイチさんの顔が閃光のようにちらついていたんですもの。
私は、一つの決断を迫られていると思ったわ。だから、その夜、ケイイチさんに手紙を書いたの。
今、上司の方から、ある男性との交際をすすめられていること。それは結婚を前提としたもののようで、自分では、正直言ってどのように対処してよいかわからないでいること。このようなときには、どうすべきなのか、ケイイチさんのアドバイスをお願いしたいのですが……。
そんな内容で。
宇宙開発省へ急いでこの手紙を持ちこんだわ。ところが、地球外勤務者への手紙は検閲があるのよ。ちょうど、その手紙は引掛ってしまった。何故かというと、地球外勤務者の精神状態に多大な影響を与えると思われる内容については、これを伝達しないという大前提があって、この手紙の内容は、これに触れる恐れがあるというのよ。それで、私とケイイチさんとの間柄について宇宙開発省の役人から根掘り葉掘り聞かれたりしたのよ。でも私はケイイチさんはただの友人ということで押しとおしてしまった。
その手紙を出した日、家に帰りつくと、宇宙開発省から入替りに、月面交信の要請が入っていた。私が手紙を出したのと相前後して月面基地のコレクト・コール予約が入ったわけよ。二日後に、宇宙開発省通信技術局で月面基地員と、地球に残っているその家族とのテレ電があったのよ。そして、ケイイチさんはテレ電の相手を私に指定していたというわけ。
私は、そのタイミングの良さに驚いたわ。その頃だったら、私の電送手紙をケイイチさんが読んでいるのは確実だと思ったからよ。そして、そのテレ電が、私の人生を方向づけるにちがいないという予感みたいなものを持ったわ。何か、ケイイチさんは自分の、私に対する考えをしめしてくれるにちがいないと確信したの。
二日後、宇宙通信技術局のテレ電の受像機の前で私とケイイチさんは、むかいあっていたわ。おたがい変っていないのを確認して安心したわ。それに、私は笑顔を浮かべているくせに何故か涙がでてきてね。止まらいのよね。
私、言ったわ。手紙、読んでくれたって。ケイイチさんは、うなずいてた。真面目な顔して。私どうしたらいいか、わからない。そう言ったの。彼は困ったような顔になった。私は、しまったと思ったわ。私は、ケイイチさんを困らせるようなことをしているんじゃないのかしらって。話題を変えたの。仕事のほうはって。そしたら、彼に笑顔がもどったの。完全黒体の研究が一段落したから、もうすぐ地球へ帰ってくるって、そう言ったわ。それから、今度の満月の夜、完全黒体の原始的な実験をやるから、月を見ていてごらん。ロボット月面車を総動員する予定でいるから。それが終ったら、いよいよ月勤務はおさらばだなって。また私に会えるのが楽しみだって言ったわ。
そこまで言うとケイイチさんは私をじっと見て、口を何度も開きそうにしたわ。それから思いなおしたように、
『他の男性との交際のこと……次の満月まで考えてみることにする』と何かのついでのように言いそえて、テレ電は切れてしまったの。
私、がっかりしてしまった。彼の気持はわかったわ。たぶん、ケイイチさんも私のことを好きだということを。でも、彼の口から、はっきり言えないとすれば、それに私は応えようがないんだからね。宙ぶらりんの風船のようなもの。
きっと、このような状態が永遠に続くようなら、二人とも中途半端なままなら。
私、ふっと思ったわ。もう、そろそろ、別々の生き方でおたがい生きていってもいいのではないかしらってね。上司の方のすすめも新しい人生の節目になるのであれば、話を受けてみてもいいのではないかって。
それで、私は、それ迄の人生への訣別の日を設定することにしたの。次の満月の日に、ケイイチさんの実験を祝福してから、私は私なりの人生を歩んでいくことにしようって。
満月が近づくにつれてファクシミリで、完全黒体応用の原始的通信の解説や、ケイイチさんの経歴を読むことができた。そんな前衛的な科学に取組むケイイチさんに私は心から拍手を送ったわ。
満月の夜、私は窓辺で、ワイングラスを持って月を眺めていたの。静かな夜だった。でも、全世界が、初めてという完全黒体通信を固唾《かたず》をのんで見守っていたにちがいないのよ。きっと、その時、月面の全域で、ロボット月面車がフル稼働していたはずだわ。
時計が九時を知らせたの。約束の時間だったわ。完全黒体通信がはじまったの。総ての光を吸収してしまう完全黒体。
月面にいくつかの黒点が発生したの。それが月の表面を移動していき、晴の海≠ゥら危の海=A豊かの海≠ヨと線を描いていくのよ。そう、完全黒体の真黒の線。それが、月の輪の縁にそってハート型を描いたの。と、同時に、日本語でいくつかの文字が、浮かびあがってきた。
――サエコさん・結婚しよう・ケイイチ
そんな字が、はっきりとハート型の中に書かれているの。月面いっぱいに。
私はとびあがった。信じられなかったの。こんな壮大な、全人類を証人にしたプロポーズなんて……ねえ、唐突すぎるじゃない。あの照れ屋のじれったいほどのケイイチさんがこんなラブコールをやるなんて。でも、彼にしてみれば、これは大決断のプロポーズだったにちがいないの。涙が止まらなくなっちゃってね」
そういいながら、おばあちゃんは窓の外から、視線を部屋の中へ帰した。
「ふうーん。ロマンチストだったんだね、おじいちゃんは。それで、おばあちゃんと結婚したわけか」
感心したようにヨーコ・Kは頬杖をついておばあちゃんの話を聞いていたのだ。
「何故、急にそんな話を聞いてみようと思ったんだい」
今度は、おばあちゃんが質問する番だった。
「うん。私の彼のことよ。マサミチ・Mといって、やはり宇宙通信技術局に勤務しているの。彼ったら、すごく素敵なんだけれども、私のこと、どう思ってるかわからないのよ。まったく軟弱なんだから。好きなら、好き。一緒になりたいなら、なりたいとさっさといってくれればいいのに、ちっともわかんないの。まるで、おじいちゃんみたい」
ヨーコ・Kは頬を膨らせ、口をとがらせながらチーズせんべいに手を伸ばした。おばあちゃんは楽しそうに目を細め、「おや、おや」と呟いた。
「だから、私、問いつめたのよ。私のこと好きなら好きとちゃんと言えないのって。そしたら、今日、わかるというの。彼ったらニヤニヤしながらね、そういったわ。マサミチ・Mは、今三百三十光年元のこぐま座イルドンの近くに亜空間航法でいってるの。もち論、宇宙通信技術局の仕事でよ。亜空間投影通信の実験をやるらしいの。それが今夜の予定」
おばあちゃんはヨーコ・Kの話を聞きながら、楽しそうに笑っていた。
「やはり、血は争えないみたいだねぇ。おばあちゃんのときと、まるでそっくりだ。似たような男性を好きになるものなんだよ。みていてごらん」
おばあちゃんか、そこまで言うか言わないうちに男の子の声が響いた。
「すごいよ。お姉ちゃん、はじまったよ。亜空間投影が……」
ヨーコ・Kの弟のケイスケが外ではしゃぐ声だった。二人は外へ出た。
「まあ」
ヨーコ・Kは夜空いっぱいに広がった亜空間投影通信技術を目にしたのだった。
銀河の彼方からヨーコ・Kに送られてきたピンクとブルーのラブコール文字を。
――イカしてるぜ! ヨーコ・K
俺、大好きだよ!!
狂いハートのマサミチ・M
おばあちゃんは、うれしそうに夜空を仰いで呟いたのだ。
「科学って進歩してるんだねぇ。おじいちゃんのラブコールより、なんと、ド迫力だよ」
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トラルファマドールを遠く離れて
切越鱒次。
病院の個室にいる。六十七歳。
病院だが、ベッドに横たわっているわけではない。朝、看護婦によって食事を与えられると、テラスの椅子に座らせられる。精神の病のために、入院しているのだ。
鱒次は、外界に対して何の反応も示さない。椅子の上で両手を固く握りしめている。眼をカッと見開き、見えないはずのものを凝視している。全身を硬直させたまま。
妻も三年ほど前に亡くした。あとの家族関係は、よくわからない。息子が一人いるようなのだが、病院にも訪ねてこない。入院してから、約二年が経過するが、病状は、ほとんど変化していない。
鱒次は、自分の世界に閉じこもってしまっている。
だから、テラスの陽光の中で外を見ていても、鱒次の視野には、庭の樹々は映っていない。
見えているのは、異世界の風景だけだ。
それは、地球とは異なる別の惑星だ。鱒次の精神世界に構築された異世界。それが、トラルファマドール≠ニいう別宇宙に存在する惑星の名だということを鱒次は、知っている。
息子の本棚に残っていた文庫本に出てくる惑星の名前なのだ。その名だけが鱒次の心に刻みこまれてしまっている。
鱒次は、ぴくりとも動かない。だが、鱒次は、彼の精神世界の中では、活動している。
その世界では、彼はトラルファマドールの住人だ。そこは、地球とはまったく概念の世界のはずだ。彼は、そこでは、鱒次という名ではなく、ナヌクという名で呼ばれている。家族もある。幸福な生活が続いている。
だが、そこで、鱒次は、ちょっとした変化を体験しようとしていた。ちょっとした変化……? いや、本人にとっては、たいへんな決断かもしれないが、たかが、一人の男の想像の世界のことではないか。
ちょっとした変化としか、記しようがない。
ナヌクは、夕暮れの空を、自室の部屋から眺めていた。ほとんど一日を、ナヌクは、この部屋の椅子の上で過ごすことが多い。ナヌクは、装飾管デザイナーだ。この惑星では、やたらと管を張りめぐらす習慣がある。嬉しいことがあったとき、記念すべきできごとがおこったとき。悲しみのできごとが襲ったとき。さまざまなできごとのたびに管を飾る。
庭先。壁。屋根。道路ぞい。大きいもの。長いもの。太いもの。細いもの。その管には歴史に従ってトラルファマドール特有の紋様が刻みこまれる。だが、その紋様にも長い時代には小さなうねりに似た流行がある。ナヌクは、そのデザインを考える職を生業としている。天地呪管装飾師というのが、正式な職名である。
デザインのディスプレーを表示させたままの電机をほったらかしにして、ナヌクは、夕暮れの景色を、眺め続けていた。飽きることもなく。視界は、夕陽の下の山の斜面に、びっしりと隙間なく覆われた住宅群に注がれている。人口増のため、トラルファマドールの自然も失われてしまった。
……昔はよかった。
すべてが、残っていた。砂漠は砂漠であり、草原は草原だった。山は樹々が残っていた。小川のほとりパナポンカ草の繁った小径をそぞろ歩きしたものだった。
今はどうだ。このあたりには、ネコチンチン草の一本も見ることができない。押しあいへしあい住宅が並んでいる。その軒下から、無数の管が、突き出し、一面、針供養ではないか。……針供養……なんだ、それは。……何故、そんな言葉を連想したのだろう。まあいい。とにかく、現在のトラルファマドールは、悪い方向へ悪い方向へと進んでいるような気がする。
ナヌクが、椅子の上で一つ大きな溜息をついたとき、ノックの音がして、妻のアルクが顔を出した。小さな顔、ピンクの肌。瞳孔のない眼。だが、このトラルファマドールではかつては、美女と噂されたアルクだ。今では、かつての輝きは失われているものの、ナヌクにとってはかけがえのない妻だ。
「食事の準備ができています。食事をとるべき時間です。腹具合いは、そのようになっていますか?」
ナヌクは、なっていると答えた。アルクは、目を細め、階下に集合は終了しましたと告げ、姿を消した。
ナヌクは、ゆっくり立ち上った。そんな時間なのだ。何不自由ない生活だと言える。だが、何か……足りないものがある。そんな思いが、今日この頃つきまとって離れない。
食卓を囲んで、家族たちが座っている。長男のナスク。長男の嫁のマルヌ。長女のカルクだ。ナヌクは、テーブルの中央についた。長男のナスクは一本も毛髪のない青い頭を振り続けている。憂鬱なときの彼のクセだ。たぶん、ゴン太麺供給公司の職でストレスが溜まっているのだ。絶対材料量の不足で、増加した人口をまかなえるだけの量が生産できていないことは、ナヌクも知っている。出荷割当と突き上げの板挟みになっているのだろう。娘のカルクも、肌の色が紫に変っている。やはりストレスだ。まだ、管理教育の段階で、カルクがこれだけストレスを味わっているのであれば、有役民になれば、どれほどの苦悩を味わうことになるのだろう。
「拝頂」
「拝頂」
食事の挨拶のあと、儀式の踊りをそれぞれが舞い、静かな食事が始まった。沈んだ雰囲気の食卓だった。
娘のカルクが、突然に言った。「転送しちゃいたいの」
全員が驚いてカルクを見た。「転送して、トラルファマドールから逃げ出したい。朝も、昼も、夜も、何一ついいことがないのよ」
転送とは「転送買技」のことであるのを、ナヌクは知っていた。増加した人口を調節するために、希望者を希望する惑星に電送転移させるのだ。ただし、いったん転送すれば、トラルファマドールへ二度と帰還することはかなわない。加えて、残される財産は、すべて没収される。それほど、転送費用にコストがかかるのは、事実らしい。それでも、定期的に未知の惑星にむかって、転送されている人々が存在し、後を絶たないことも皆が知っていた。どんな惑星を望み、旅立っていくというのか。皆が、新世界の予備知識を何も持ちはしないというのに。
「軽々しく、そんなことを口にするものではありません。噂では、転送先は、大真空で、体のいい口減らしっていう話もあるじゃないですか」
妻のアルクがたしなめるように娘に言った。
「だってぇ」と不満そうな声を漏らす。
カルクを援護するように、長男のナスクが言った。
「カルクの言うとおりだ。日々の生活にうんざりしているよ。トラルファマドールは、何の希望もない窒息寸前の環境だからなあ。大真空の方が、よほど息がしやすいんじゃないかと思うよ。転送先さえ、はっきりさせればそこへ送りこんでくれる。まちがいはないっていうぜ」
ナヌクは、会話を交わす家族たちを見ながら、なんと素晴らしい家族たちなのだと思う。会話の内容はともかく、聞き流すとして、食卓の光景としては、しっかりと絆が心で結ばれた家族たちそのものだ。ナヌクは、ひとり、うなずいた、これこそが、家族だんらんのあるべき光景なのだ。
永年、天地呪管装飾師の職人として築きあげた幸福。それがこの光景なのだ。理想ではないか。だが……何かがずれている。何かが……ちがう。ちがうことだけが、わかる。
「そうだろ。父さん。うなずいてくれるだろ。わかるだろう」
息子のナスクが、ナヌクに話をふった。家族全員が、家長であるナヌクに答を期待して待っていた。……――いや、うなずいたのは、理想的、家族の光景に対してだよ――……そう言おうとした。だが、ピンクの妻、青い長男、緑の嫁、紫の娘……を見たとき自分でも予想もしなかった答を発したのだ。
「ああ……わかった。じゃあ、みんな……地球って星を知っているか……」
家族は、皆、仰天した。もちろん、知るはずもない。ナヌク自身、口にする寸前まで、そんな惑星の名も知るはずもなかった。だが、何故か、口をついて出てしまっていた。何故か、心の深いところから自分でもわからない理由で、その知識が噴き出してきている。
「ち・きゅう……ですか?」「知りません」
そんな反応だった。
「あ、ああ。地球なら、皆が喜ぶ星じゃないか……そんな気がしたのだよ。地球は光速度で八十七万年の距離になる。恒星があって、九つの惑星と一つの小惑星群がある。その系の三番目の惑星にあたるよ」
「とんな星ですか?」「何故、そんな場所を知っているのですか?」家族たちは、ナヌクに次々と質問を発する。ナヌクは右手を突き出した。六本の指の人差し指と小指を突き立ててみせた。するとすぐに座は静まった。
「いい星だよ。子供の頃、何かで知ったような気がする。樹々がある。鳥という可愛いい生きものが鳴いている。草原がある。地球の人々は、そこに家を建てて住んでいる。自分たちが食べるものを自分たちで作る。そして家の近くには、海があるんだ。池のもっともっと想像を絶した大きなものだ。そこにも、食べものになる魚が凄んでいる。四つの季節もあるんだ。夏は暑く、冬は雪という白く冷たいものが降る……。住んでいる人々は、皆、明るい……楽しい……そう聞いたよ」
家族たちの顔が輝いた。ただし……先住知性がいる惑星の場合、先住知性そっくりに変身処置されて送りこまれることになる。そこまでナヌクは付け加えた。
「いいよ。かまわないよ。俺、地球へ行きたいよ、なあ、カルク、なあ、マルヌ」
ナスクの言葉にカルクも、ナスクの若妻マルヌも同意するように食器を打ち鳴らした。まだ、地球の魅力すべてを語り終えたわけではない……ナヌクは、そう思ったのだが、家族たちには、十二分に意は伝わったらしい。妻のアルクも仕方なさそうに両肩をすくめてみせただけだった。
鱒次のナヌクは、変化を体験した。恐い。だが、抗いがたい魅力がある。地球への移住は、こうして決断されたのだ。
トラルファマドールで、家族たちとともに変態処理を受けた。地球人と同様の形態に。何故、トラルファマドールの人々が、地球人に関しての情報を有していたか、はなはだ不思議なのだが、要は、そこは鱒次の空想の世界なのである。そして、ナヌクのトラルファマドールは、地球の住宅らしく完全に改造された。
ナヌクは家族とともに、住宅もろとも、地球へ転送されたのである。
転送の衝撃は、耐えがたいものではなかった。全身に正体のわからない痛痒感が走った。
その程度の衝撃だった。
ナヌクは、初老の地球人の姿で、畳の上に引っくり返った。それを抱え起こしたのは、地球人と化した長男夫婦だった。
「ナスクか? マルヌか?」
「そうです。家長ナヌク」
ナスクが答えた。地球人化した長男夫婦の顔は、どこかで会ったような気がするのだが、確信は持てなかった。ナヌクは、着物姿でいるのに、息子夫婦のナスクもマルヌも、何故か白い服を着ている。嫁は頭にも白い帽子を付けていた。瞬間的に、病院≠ニいう単語がナヌクの脳裏を走ったが、意味をなさないままに消え去っていった。
「地球だな。地球に到着したのか?」
「そうです。家長ナヌク」
息子が微笑していた。ナヌクは、口をへの字に曲げてみせた。
「家長ナヌクはやめなさい。ここはトラルファマドールではない。すでに地球なのだ。我々は、今日から、地球の人々に同化して生活していかなくてはならない。私は……そう名前も、地球人らしい名前に変えようと思う。切越鱒次という……名前に変わろうと思うのだが」
「いい名前ですね」ナスクは、うなずいた。
「お前たちも、地球人らしい名前を付けなさい。そうだな。わしが名付けてやろうか」鱒次は、ナスクを見廻した。白い服の胸に、「永田」というプレートが見えた。嫁の胸にも「嶋本」というプレートが、確認できる。先刻と同じく単語が、連想とともに浮かんでくる。先刻と同じく意味はなさない。「担当医」「看護婦」そんな単語の連想だ。
「付けてやる。ナスク……お前はナガタという名前にしなさい。マルヌ……お前はシマモトという名前に」
鱒次は、そう口にした途端、何故か空虚を味わっていることに気が付いていた。
「アルクは……家内は? それに娘はカルクは?」
ナガタとシマモトは、押し黙った。
「どうしたんだ。教えてくれ。アルクの名は考えてある。和江というんだ。和江は、どこにいる」
やっとナガタが、重たい口を開いた。
「転送のショックで……もう会うことはかないません」
「カルクちゃんは、存在していません」
鱒次は、後頭部を叩かれたようなショックを味わった。しばらく、口も利けずにいた。
「もう亡くなって、かなり永いこと経ちますよ。転送されてしばらくは、鱒次さんは、意識を取り戻されなかったから。地球で半年くらいは、意識を失っていたんですよ」
シマモトが、鱒次を慰めるように言った。鱒次は、溜息をつきながら言った。
「そうか……転送から……瞬間的な時間しか経っていないと思ったのだが……。半年も経過していたとはなあ」
鱒次は、顔を上げた。「地球は、どうだ。気に入ったか」
窓がある。その窓を通して鱒次は外の風景を眺めようとするのだが、首を伸ばしても、地球の風景を眺めることは、できなかった。窓ガラスという窓ガラスが曇りガラスになっているため外の風景を伺い知ることは、できないのだ。
ナガタも、シマモトも、その問に素直に答えようとはしない。鱒次は、二人の態度に不安を持った。
「ここは、どこだ? 本当に我々は地球に着いたのか?」
鱒次は、立ち上った。
「まだ、意識を取り戻したばかりです。そんなに結論をあせらない方がいいんです」
ナガタが、そう言って鱒次をさとした。だが、鱒次はそれで納得できるはずもなかった。
「青い空は……。さえずる小鳥たちは……。潮騒の響きは……。どうしたんだ」
鱒次は、玄関の三和土に跳び降りた。玄関の滑り戸に手を掛けた。
「見ない方がいい」
ナガタが、大声を出した。
鱒次は、ナガタの声を振りきるように、玄関を開いた。
口を開いたままになった。あんぐりとしたまま、声も出ない。
玄関のむこうに広がる光景は、荒地だった。廃墟だった。瓦礫と廃棄された文明の遺品がうず高く重なっている。露出した泥土はあくまでも赤黒い。
人影は、おろか、草一本さえも見当らない。ひょうひょうと寒風が吹き過ぎていくだけだった。
「ここは……地球か?」
呻くように、鱒次は言った。そのまま、力が抜けたらしくしゃがみこんでしまう。シマモトが、あわてて、車椅子を持ってきて、鱒次を座らせた。
「半年前から、こうでした。でも、ここは地球にはまちがいないのです。しかし、すでに、地球の文明は存在しません。この周辺を、ずっと、探索してみました。しかし、どこまで行っても同じです。トラルファマドールの文明よりも数歩先を進んでいたに過ぎないのでしょうけれど。何故、地球がこのような状態になったのか、その原因はわかりませんが……事実はこうなのです」
「地球の人々は?」
「人影もありません。絶滅したのではないでしょうか。他の生物も見あたりません。すでに地球は死んだ……んでしょう」
「じゃあ、我々が、唯一の地球上の生命というわけなのかね」
鱒次は、力なく言った。答は返ってこなかったが、そうにちがいないのだ。
「おまえたちにも……和江にも、本当に申し訳ない決断をしたわけだな。……すまない。許してくれ。どうも取り返しのつかない決断をしてしまったようだ」
「気にしないで下さい。何も心配することはありません。自分を責めてはいけない。これは、誰が悪いのでもない」
ナガタは、感情のない声で、鱒次に告げた。何故、こんなに感情がないのだ。ナガタは、本当に自分の息子なのか……。
鱒次は、この状況について必死で考えた。これから、どうするべきなのか。和江も死んでしまって……。地球は、荒廃してしまっている。
「ナガタ。聞いてくれ。我々は、この地球の最後の生命となってしまったようだ。ここで何を我々はなすべきなのか必死で考えてみた。本来、この惑星の主人たちは地球人だ。その地球人たちは、死滅してしまった。主人のいないこの地球で我々は、どう過ごすべきなのか。地球人に変態し、地球に同化すべく転送されてきた……だから、他に道はないはずだと思う。地球人の姿形で地球の住居にいる我々は、最後の地球人らしく生活していこうと思うのだが」
ナガタは、うなずき、鱒次に近寄って肩を優しく叩いた。
「わかりました。異議はありませんよ」
それから、鱒次は、荒廃した地上の地球ふう住宅の中で生活を始めた。息子のナガタは、昼はどこかへ出て行くが、定期的に、鱒次のもとに顔を見せた。その他のときは、ナガタの妻のシマモトが、鱒次の世話をした。
自分は、滅びた地球人よりも地球人らしい暮らしをしてみせるという思いがあった。そのように生きていくことこそ、自分に与えられた使命なのだと信じて。
シマモトが、定期的に鱒次の世話をした。鱒次は、この糜れたような地上からシマモトがどのようにして食事を調達してくるのかはわからなかったが、あえて、どこから手に入れているのかというところまでは尋ねることもしなかった。
一番、大切なのは、トラルファマドール人である我々が、存在しなくなった地球人以上に地球で地球人として暮すことではないか。そう信じて。
ただ、天地呪管装飾師の頃の自分よりも、体力がめっきり落ちてきたような気がする。歩く時間も日々少くなっていき、今では、椅子の上に腰を下して、かつては緑に包まれ、笑い声が絶えたこともなかったかもしれない地上の荒れた風景を眺めながら一日を過ごすことが多くなっていった。
荒涼とした地上には、変化らしい変化を見ることもない。永い時間が、一日に存在した。何故、地球は、滅びてしまったのか。何故、このような環境だけが残ってしまったのか。そのような答のない問いかけだけが鱒次の頭の中で、どうどう巡りを続けるのだった。
単純で平凡で反復だけの日々が、いくつもいくつも続いた。鱒次は、単調な日々の中でも、地球人らしさを動かぬ身体にいつも言い聞かせ続けて。
果てしない瓦礫の世界が続いている。その荒野の中にぽつんと、新築の住宅が見える。中に入ると三人のトラルファマドール人が、地球人そっくりの姿で、地球人そっくりのくらしをしている。そんな光景なのだろうな。
鱒次は、ときどきそう思う。瞬間的なことだ。もう、本当は自分はトラルファマドール人であったことも忘れてしまいそうだ。そこでも、何か、忘れたいことや、許せないことがあったような気がするが、よくわからないと思う。ありあわせの細い管に退屈しのぎに装飾を施す……。
ある日、シマモトが、変化を知った。地上で知った、もっとも大きな変化だ。
「地球人ですよ。生きています。こっちにやってくるわ」
シマモトの興奮ぶりは、大変なものだった。彼女は、窓を開き、自分の発見した変化を鱒次に知らせようとしているのだ。
その日は、珍らしく地上に風がなかった。陽光さえあった。細工中の管を鱒次は置く。
荒地の彼方に、シマモトが言うとおり、何かが動いているのが見える。陽炎が廃墟の上に昇り、動いている小さな点がゆらゆらと見えた。
小さな黒い揺れる点は、だんだんと大きくなる。この家へ向かっていることは確実だった。点は黒いかたまりとなり、それから足が確認できた。しっかりした足どりではないが、生命に別状ある様子ではない。人間の歩き方にまちがいはない。ゆらゆら。ゆらゆら。
「この家が見えたんだ。この家を目指している」
「どうしましょう」シマモトは、鱒次の判断を仰いだ。
「たぶん、最後の地球人だ。きっと、この家を彼方から発見し、驚いたはずた。そしてその喜びは、はかりしれないものだと思えないか?
今、期待に胸を震わせて、この家にむかってくる。そんな人物をどうするべきかね? 我々は、最後の地球人らしい生活を続けている。しかし、本物の地球人ではない。そんな場所へ、地球らしさの存在を求めて本物の地球人が訪ねてくるのだ。この人物を地球人らしくもてなさなくてどうする。
ナガタはどうした。ナガタは……。皆で、もてなすのだ」
「でも……。地球人に……本物の地球人にどう接していいのかわからない」
「ナガタも呼ぶんだ!」
シマモトは、少々途惑いながら、ナガタを呼びに行った。
地球人は、近付いていた。年齢は三十歳前後の男性だった。全身にボロを纏っていた。眼は虚ろだった。鱒次には、何の希望の光も宿っていない眼をしているとしか思えなかった。永い間、さまよっていたのだろう。全身から疲労感が漂っているようだ。
向こうからは、まだ、鱒次の存在が、わからないようだ。
鱒次の脇に、ナガタとシマモトが立った。
「せいいっぱい、地球流のもてなしをしなさい。最後の地球人に感動を与えるように」
そう鱒次は、二人に言いつけた。
玄関が、ガラリと開いた。
「今日は。誰かいませんか? 誰か……生きてるんですか?」
地球人の声だ。鱒次は、顎でシマモトに指示した。シマモトとナガタが、あわてて玄関へ出た。
「どうも」とナガタが言った。「どうも」とシマモトが言った。
地球人が、感極まったような声で叫んだ。
「信じられません。まだ、地球に生存者がいたなんて」
「ま、どうぞ」とナガタが言った。「ま、どうぞ」とシマモトが言った。
地球人の顔を、鱒次は凝視した。男の顔は、どこかで見たような記憶があるのだが、どうしてもはっきりとは憶いだせない。よく見ていると男の顔は、常にもわもわと変化を続けているのだった。
「お疲れでしょう」とナガタが言った。
「はあ、まあ」と男は答えた。
玄関の畳の上にシマモトが蒲団を広げた。
「どうぞ、お休み下さいませ」そう言った。
男はやや呆れたようだった。
鱒次も、同様に呆れていた。シマモトが、自分で心配していたように、トラルファマドールの常識を地球ふうに解釈して実行すると、かなりのくいちがいが生じてしまいそうだ。
「ちがう。とりあえず、くつろいで頂くべきだ。お腹もすかせておられることだろうし」
鱒次が、そう二人に言った。ナガタとシマモトは奥に消え、すぐに黒塗りの膳をたずさえて現れた。
ぽかんとして、蒲団の上に腰を下ろしている男の前に、豪華な食事を据えた。ならんでいるのは山海の珍味だった。
「さ、さ。どうぞ召しあがれ」
ナガタは、すすめるのだが、男は途惑った様子で仲々、料理に箸をつけようとしない。シマモトは、「遠慮なさらないで。遠慮は地球の美徳でしょうが……」と言った。それでも、男は、けげんそうな表情のままで、あたりを見回していた。シマモトは、男の膳から箸をとり、料理をはさむと、男の口に押しこんだ。
「たんと、召しあがり下さいませ」
一番仰天したのは、鱒次だった。これ以上、ナガタとシマモトに接待させたのでは、とんでもないことになってしまう。
「私が、相手をする。二人は、席をはずしてもらえないか」
ナガタとシマモトが席をはずし、鱒次は、地球人の男と二人っきりになった。
男は、しばらく黙していた。それから、ゆっくりと近付き、鱒次の手をとった。
「こんなになってしまって……」と男は言った。「ぼくのせいです。本当にすみません」
鱒次は、思った。何故これほど謝る必要があるのだ。地球が荒廃したのは、自分のせいだと思っているのか。私に謝る必要はない。私は、本当の地球人ではない。謝られても困るのだ。何故、謝る。涙まで浮かべて。
「せめて、今のうちに許してもらいたかった。だから……ここまで来たんです。ぼくも、意地になっていた。だから、こんなふうにこじれてしまったんだ。
でも、もう永い時間が経ってしまった。もう、おたがい水に流すことはできないのでしょうか」
何を……何をこの男は言い出すのだ。
もやもやと動いていた男の顔が、ゆっくりと固定化していく。だが、もう少しで思いだせそうなはずなのに、心の奥で何か止め金がかかったままになっている。
「あなたが、何故、私に謝る。トラルファマドール人の私に」
男は大きく首を振った。
「あたりまえじゃないですか。ぼくの父親なんだから……」
鱒次は、男の顔を見つめた。何故か、自分の眼から涙があふれてくるのだ。その理由がわからず涙だけがあふれる。男の輪郭が、鮮明になった。
「切越さん、反応してます」と担当看護婦が医師に言う。医師は、あきらかに驚いていた。
若者が、車椅子の上の切越鱒次の手を握ったまま謝罪した。
「おやじ。勘当は承知の上だ。でも、今のうちに謝っておきたかった。……元気になってくれよ。ぼくが、面倒は見る。これからは、顔を出すよ」
「お……お……」鱒次の目から涙が、ポロポロと落ちた。
「これまで、まったく反応を示さなかったのに。血を分けた存在の力ってこれほど大きいものなのですね」
看護婦の嶋本は、感心したように大きくうなずいた。そのとき、車椅子から細長い棒状のものが落ち、床の上をころころと転がってきた。
看護婦は、その棒を拾いあげた。棒は管状になっていて不思議な模様が刻まれている。完成したものではなく、作りかけの手造りの品のようだ。
「変ね。誰が持ちこんで車椅子に置いたのかしら。切越さんは身動き一つできないはずなのに」
切越鱒次は、そのとき医師の耳にも聞こえるように、「許す」という言葉を口にした。
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一九六七空間
「いろいろ愚痴っても、なぁんにもなりゃしないんですよね」
カウンターの中から頬杖をついた梨江《りえ》が、清太郎のグラスに氷を足しながら自嘲的に言った。
スナック「るどん」の狭い店内には、梨江と客の清太郎の二人っきり。新たな客が入ってくる気配もない。外は雨。
「‘あたりめ’でも焼きましょうか」
清太郎は首を振った。
「いや、いいよ」
清太郎は、中規模の商事会社に勤務している。今日は大口の得意先の資材課長を接待した。二軒までは交際費でおとす許可を上司からとっていた。しかし、資材課長は気むずかしい男だったのだ。清太郎の案内する店の些細なことにケチをつけ、四軒もはしごをしたあげく、最後まで清太郎の社の納品姿勢にクレームをつけ、清太郎を罵り続けた。
資材課長をタクシーに乗せ、発車した車の排気ガスに何度も頭を下げながら、清太郎は妙に虚脱感に襲われている自分に気がついていた。
家へ直行して帰る気はしなかった。
妻や子供は、たぶん眠っているはずだった。清太郎が帰宅しても、起きて出迎えてくれるはずもないだろうし、悪くすれば閉めだされているはずだ。そして、翌朝は妻と妻に言いふくめられた子供が理由も訊ねずに清太郎を責めたてることは容易に想像できるのだった。
それから、清太郎はいきつけのスナック「るどん」に足をむけた。「るどん」には客は誰もいなかった。カウンターの中に梨江がぽつんと座って水割りを飲んでいた。
梨江は清太郎と同い年である。ローリング・ストーンズとコニー・フランシスの話題で、清太郎はそれを知った。鼻の高いうりざね顔で、涼しい目もとをしているので、とても三十を越えているとは思えなかった。そう化粧も施されていない。
「だいぶ飲んでらっしたみたいですね」
清太郎は唇をつきだし、顔をしかめてみせた。月に三回の頻度でここに立寄っている。
「接待さ。それより、最近なにか映画、面白いのを見ましたか」
梨江は、はっと顔を輝かせた。
「最近? このまえ清ちゃんが来た後、何を観たかしら。ブライアン・デ・パーマの『ボディ・ダブル』でしょ。清順の『カポネ大いに泣く』それから、ミロシュ・フォアマンの『アマデウス』そのくらいね。この二週間で観たのは。で、今日のお昼は二番館で『フィラデルフィア・エクスペリメント』を観たの。これもなかなかよ」
「ふうん」
「でも、結末が少し甘いの。愛はすべてを救うって感じで。変ったSFファンタジィ映画よ」
「オール・ユー・ニード・イズ・ラブだな」
ふふっといった感じの寂しい笑顔を梨江は浮かべていた。
「映画特有の幻想よ。愛ってことに関してはね……。もと映研さんとしては何か観てる」
「いや、最近はほとんど観てない」
そうだ。いちばん最近に観た映画はなんだったのだろう。二年前に子供にせがまれて連れていった「ドラえもん」が最後だったかもしれない。
「ふうん。年間、最盛期には二百本観ていたという人が」
清太郎は照れを隠すように水割りを一気に飲み干した。遠い昔のことだな。脳天気で、赤貧で、無軌道だったあの時代のこと。
清太郎は話題を変えることにした。しかし、適当な話題がなかなか思いつかない。仕事や家庭の愚痴を話すことも馬鹿げているし。
清太郎が一杯の水割りを飲み干すあいだに、南佳孝の「PEACE」と井上陽水の「からたちの花」が有線放送で流れていた。
「やっぱり、あの頃がよかったなあ。……」
思考とは無関係に、そんな言葉が清太郎の口をついて出た。
「あの頃って、いつのこと。やはり」
「あの頃さ。ぼくが脳天気な学生さんで、映画漬の日々を送ってて、明日のことなんぞ何も考えず暮らしてた」
「何年ころ」
「ううん。一九六……六、七年ころかな」
「ああ、ダスティ・スプリングフィールドの『この胸のときめきを』とか流行ってたころね」
「うん、ビートルズが円熟期を迎えててさ、モンキーズなぞもいて、和製ポップスで、グループ・サウンズが全盛でさ。あの頃。天国みたいな時代だったんだなあ、俺にとって。金はなかったけれど、いろんな可能性だけは持っていてさ」
清太郎は話しながら、その語尾が自嘲的な響きを伴っていることを自覚していた。そうなのだ。いまの自分にとって、どんな可能性の人生が残されているというのだろう。
「一九六七年かあ。その頃は私は、城西町の喫茶店に勤めていました。『ドンチュー』っていう……今はもうなくなってるけど」
梨江は一人言みたいにいった。その喫茶店の名は清太郎は憶えていた。二度ほど行ったこともあった。しかし、そこに梨江がいたことは知らなかった。
彼女は未亡人である。そのことは清太郎は彼女自身の口から、はやくに聞いていた。彼女の口から「ドンチュー」の話が出ると、次は死んだ夫の話になるのだ。それは彼女の飲酒量のバロメーターにもなる。
「あのとき、あそこに勤めていなければ、あいつと知りあわずにすんだのよね。私たちだけ残して逝っちゃって、全然責任感がないんだから。こんなに私が苦労しているのを、あの世でわかっているのかしら」
吐きすてるような口調だった。彼女の夫は、建設会社の現場にでていた。小さな傷を作り、それが因で破傷風にかかった。梨江は、医者にもっとはやくかかっていれば、と悔やむのだ。
清太郎は自分のことを思いだしていた。一九六七年と無作為に過去の一時点を口にだしてみたが、それが、自分にとって具体的に何をなしていた年なのか、はっきりと認識できていなかったのだ。あの時代のメロディーを聞くと何やら最近は得体の知れないほどの懐かしさに襲われる。モンキーズ。ビートルズ。ローリング・ストーンズ。ステッペン・ウルフ。アニマルズ。コルトレーン。モンク。タイガース。MJQ。ワイルド・ワンズ。テンプターズ。ウォーカー・ブラザーズ。フランス・ギャル。スパイダース。そうだ。そんなメロディーを聞くと一九六七年の頃の自分を瞬間的に垣間見る。それは、繁華街を一人さまよっている姿であったり、スクリーンを凝視《みつめ》ている自分だったり、トランジスタラジオを耳にあて線路を歩いていたり、アルバイトで売子に立っていたり、悪友たちと酒を飲み大声で唄っていたり、ガールフレンドの一人に頬をひっぱたかれていたりする光景だった。その一つ一つを思い出そうと努力すれば、容易にその前後の経緯を引きだすことができるのだが、メロディが変るたびにその光景は溶暗していく。
たしかに、そんなロックやジャズのメロディを耳にすると過去の一断面が視界に浮かびあがる。しかし、それの一つ一つは、まるで関連性のない清太郎自身の青春の静止画なのだった。
十九歳。
自分はこの町の私立大学に通っていた。たしか、二年生。文系の教養の時期。あまり、授業には出ていなかったような気もする。妻の代志子《よしこ》ともまだ出会っていなかったはずだ。
代志子……とはクラブの合同ハイキングで知りあったのだ。自分の現在の妻の代志子と、合ハイで知りあったときの代志子が果して同一人物なのか、時々ふっと信じられぬことがある。あの時点の代志子は、口数が少なく、決して自己を主張し続ける少女ではなかった。笑うと、えくぼができ、自分が言った冗談に心から笑いころげていた。
それまであまり映画を観た子ではなかった。清太郎が、映画が好きだから、自分も映画が好きになったのだ。そう代志子は言っていた。
昔、あなたが映画が好きだったことを思いだすと、とても映画なんて観る気がしないわ。今の代志子は、平気で清太郎にそう言ってのける。
清太郎は時々こう考えることがある。
かつて自分の愛した代志子と、現在の代志子は完全に別人ではあるまいか。自分の愛した代志子も、時間が経過するたびに肉体の新陳代謝が促進され、古い細胞から新しい細胞に入れ替っていく。そしてすっかり新しい細胞の代志子に変化しおえたとき、精神構造までも変貌をとげてしまっているのではないだろうか。だとすると、今、自分が一緒に暮らしている代志子と、自分が愛していた代志子とは完全に別人のはずである。
そんなものかもしれない。
そんなふうに自己を納得させなければ清太郎は自分で遣る瀬ないのだった。
それは自分自身にも言えるのかもしれないと感じていた。「あなたは変わったわ」と背中を突き刺すように代志子に言われるとき、自分がどのように変化したのか。その正体も見極められないことが悲しかった。自分自身も代志子に愛されていた頃の自分自身から変化しているのは、たしかなようだった。
自分は何を失くしてしまったのだろう。清太郎は、そう自問した。
コップを置く音がした。
梨江が水割りを飲み干したのだった。
「ん」
清太郎が顔をあけると梨江と視線があった。
「何か、考えごとしてらっしたみたい」
「いや、別に」
清太郎はそう言いながら自分の酔いを自覚していた。もう頃合いかもしれない。
「そろそろ帰る」
カウンターから立上りかけた清太郎に、梨江が言った。
「待ってください。もう、お客様は見えないみたいだから、お店を閉めちゃいます。そこまで、御一緒しますわ」
カウンターを急いで梨江が拭きあげると、すぐに消灯して二人は「るどん」を出た。
「きょうはね、お客さんは清太郎さんだけだったんですよ。この調子じゃお店、潰れちゃうかな」
そういいながら、梨江は、傘をさしかけた清太郎の左腕につかまった。どうりで、売上の計算も必要なかったのだろう。梨江がこの店を一人で切りまわしているのはわかっていた。しかし、この店を出店する際の資金はどこから出ているのだろう。パトロンがいるんだろうか。それとも夫の遺産だろうか。そんな下司っぽい考えを浮かべている自分に気づき、清太郎は恥じらいに耳たぶが熱くなるのを感じていた。
「どこまで送っていけばいいの」
「二丁先のビルの七愛幼児園です。娘をひきとって、それから帰りますから」
二人は腕を組んで黙って歩いた。酔っぱらいの群れと数組すれ違った。無意識のうちに清太郎は口笛を吹いていた。
「アンド・アイ・ラブ・ハー≠ナすね、ビートルズの」
「あ……。そうだったのかな」
清太郎は頭をかき、口笛を吹くのをやめた。梨江が寂しくふふっと笑った。
「清太郎さんに、その頃会ってたら人生は変ってたかしら」
清太郎は答えなかった。答えてどうなるという性質の問ではなかったからだ。
答えはしなかったが、頭の中では、梨江の質問が渦巻いていた。昔、梨江と会っていたら、清太郎は多分、梨江に対して好意以上のものを持っていたのだろう。しかし、それを考えても仕方のないことなのだ。
「何故、その頃に清太郎さんに出会わなかったのかしら」
諄《くど》いように梨江は駄目を押した。清太郎は左腕に圧迫感を感じた。梨江は左腕を握りしめていたのだ。
ビルから出てきた梨江とその娘をタクシーに乗せ、発車を見とどけると、清太郎はしばらくその場に佇んでいた。
二、三歩、身体を動かして奇妙な錯覚に陥った。七愛幼児園のビルがなければ、自分はこの光景に見憶えがあるような気がしてならなかったのだ。清太郎は、そのビルが最近できたばかりであることに確信を持っていた。
そうだ、昔は、……数年前まで、このビルはなかったはずだ。学生時代……むこうの路地にあるスナックによく通ったものだったっけ。ビルが一つ建っただけで街の風景はこんなに変ってしまうものなのだろうか。
清太郎は無意識のうちに、その路地に足を向けていた。「ヤング・ラスカル」そんな名前だった。マスターのニックネームからとった店名だったような気がする。安い店で、コンパの帰りは必ずここに流れてきていたようだ。角の水割りを百円で飲ませてくれていた。まだ、あるんだろうか。十年以上も、この路地に足を向けていないのだ。
郷愁だろうとは感じていた。しかし、自分の刻みこんだ青春の断章が路地むこうにあるとすれば……むしょうに清太郎はその「ヤング・ラスカル」の立看板が見たくなったのだ。
「ヤング・ラスカル」の看板は、変りなく、そこにあった。しかも、その看板は、まだ照明で灯されていた。霧雨に浮かんだ昔のままの……。
清太郎はためらわなかった。「ヤング・ラスカル」の扉を開いたのだった。
「らっしゃい」
髭をはやしたマスターだった。あの時代、三十代なかばくらいだったから、現在は五十をかなりまわっているはずだろう。
「清ちゃんだね。何年ぶりだい」
氷を割りながらマスターが顔をむけた。
「何年ぶりだろう。久しぶりですね。近くを通ったもので、懐かしくなって寄ってみたんですよ」
「何にする」
「あ、例の……」
「角の水割りね」
すべてが昔のままだった。カウンターの隅に置かれたメガネをかけた椰子の実製の猿、マリリン・モンローの水彩画、壁に貼られた無数の一円札。
マスターはSPのレコードをとり出し、針をのせた。曲はモンキーズの「アイム・ア・ビリーバー」だった。
マスターと清太郎は顔を見合わせ、言葉を交すことなく微笑みあった。
このマスターは底の知れない人間的な深さを持っていた。清太郎とその仲間たちが議論を白熱化させたとき、マスターは諧謔的なジョークでその場をなごませるのを得意としたものだった。かといって、茶化すというのではなく、適切な教訓をその後で簡潔に語ってくれるのだ。スナックのマスターというより、青っぽい学生時代の自分たちの兄貴分のイメージを持っていた。
「もう落ちついてるみたいだね」
マスターは薄いブラウンのサングラスのつるを押さえながら言った。
「ええ、子供が一人」
「幸福なんだね」
「ええ……ま、まあ」
「ふうん。素直な返事じゃないんだな。贅沢じゃないのかな。奥さんが浮気したとか、子供が病気してるとか、明日食べる飯に困ってるというのでなければね。幸福な結婚はあっても楽しい結婚ってのはないんだって……誰かが言ってたよ」
このマスターと話していると、まるで十数年前の学生時代に逆行してしまったような気分になってくる。……清太郎はそう思った。もう五十をはるかに越えた年齢のはずだった。だが、目の前のマスターは、昔のままのマスターなのだ。三十なかば。清太郎と同い年ほど。
「マスターはずっと『ヤング・ラスカル』をやってるんですか」
カウンターの中でマスターは肩をすくめ両手を広げてみせた。何て変な質問だったのだろう。しかし、マスターは口をUの字に曲げて笑っていたのだ。
「今は、この店、妹夫婦にまかせてるんだ。俺は、親の残してくれたアパートの家賃でぐうたらな暮らしさ。もっとも、この店も趣味半分でやってたんだけどな。で、ね。妹が今日、出産というんでヘルパーとしてきているんだ。六、七年ぶりなんだぜ。こうしてるのは」
それから角の水割りを差し出す。
「へぇ。じゃあ、今日、マスターに会えたというのは本当に偶然だったんですね」
「そういうことだね。俺もつきあおうか」
マスターはそう言うと、ウィスキーをコップに半分ほど注ぐと一息で飲み干した。
「再会の乾杯さ」
平然としているマスターに、清太郎はあわてて水割りを飲みほした。
「生きていてつまらないのか」
「……なぜですか」
「数年間も、ここに足を向けてないっていったろ。それが、思いだしたように、訪ねてきた。日常に満足してないかってことさ。昔はよかったと思いだしたんだろ。それは一種の逃避に相違ないからな。つまり現状に不満を持っていることになる。そうじゃないの、清ちゃん」
清太郎の精神内部で日常のうとましい光景が閃光した。会社に於けるルーティンワークの型にはまった日々。軌道から外れることのないマニュアルどおりの職務内容。改善点の申請もとりあげられず、リスクなしの指示だけが与えられる。何度、夢の中で殺したかわからない上司、それに得意先の資材課長の顔、顔、顔。
家庭。代志子と二人。沈黙の時間。沈黙の時間。沈黙の時間。沈黙の時間。テレビの漫才番組。沈黙の時間。沈黙の時間。沈黙の時間。家計の困窮。愚痴。愚痴。愚痴。沈黙の時間。沈黙の時間。沈黙の時間。それが深夜まで続く。
清太郎はうなずいていた。
「そうかもしれません」
マスターは皮肉っぽい笑いを浮かべていた。
「ふうん。ええと、奥さんって、清ちゃんが卒業の前にここに連れてきたコだろう」
「ええ」
「可愛いコだったじゃない。まあ、いいやな。これは真理だぜ、よく憶えておきな。男と女ってのはな、結ばれる結ばれないに関わらず、傷つけあわないってことはないんだ。いずれ、どこかの時点で傷ついちゃうのさ」
「いや、ぼくは、そんなことは言ってないんです」
皮肉っぽい笑いを続けながらマスターは、もう一杯、水割りをさしだした。
「これは、おごりだ。……つまり、清ちゃんは、‘あの頃’が懐かしくってたまんないんだ。ここで飲んで、馬鹿になって騒いでたころさ。清ちゃんが卒業して結婚もしてガムシャラに働いて、、ふっと立止まって先を見たら、先の光景が見えちゃってて、何か虚しくなってるんだろ。そうなると、誰でもそうなんだ。自分のすごした青春時代が、無性になつかしくってたまんなくなる。清ちゃんにとっては、それは一九六六…七…八年くらいなのかな」
清太郎にとってその指摘は図星だった。その年なら、すべてのやり直しがきく年代なのだった。もっと人生を冒険して生きていける可能性を持った年なのだった。
「そうかもしれないな。……もう、胸をときめかせる……っていう感情も長いこと持ったことがありませんし」
マスターはカウンターを平手で、ばしんと叩いた。それから角ビンを清太郎の前にすえ、
「よっし。ときめこうじゃない。他に客はこないし、今日はどうせ俺もアルバイトなんだ」
レコードをLPに替えた。ビートルズの「リボルバー」だった。鳴りはじめたのは「エリナー・リグビー」。
「そら、一九六七年だ」
二人は、同時にコップを乾した。それから再び、顔を見合わせ、わけもなく笑ってしまった。
「しかし、ぼくが入ってきて、よく、すぐにわかりましたね」
マスターは腕組みをして片目をつぶってみせた。
「もちろんさ。……と言いたいが種あかしがある。さっき、俺は接客用の仕事着を奥から引っぱりだしてたのさ。それがこの服」と言って胸を叩く。「数年ぶりに着てみたのさ。なんとか着れる」
「全然、そんなふうに見えないな」
「その時にね、シャツとズボンが出てきたんだ。誰のだろうと、よく考えてたら、清ちゃん、あんたのだ。それで清ちゃんを思いだしちまった」
「何故、ぼくのが」そう言ってから、清太郎はアッと言った。思いだしたのだ。
「アッ。あの裸おどりをやったとき。映研のコンパで」
そのとおりとマスターは叫び、笑い声をあげ、奥に消えた。しばらくして、彼は見おぼえのあるシャツとズボンをカウンターに置いた。それは白のコットンパンツと、ボタンダウンの青いチェックがはいったカッターシャツだった。それからベルト。青いスニーカー。綿の白い靴下。それとブリーフ。
「これが一まとめにして風呂敷に入ってた」
ごていねいに、漫画本まで一冊。COM、一九六七年四月号。ぱらぱらとめくると、ナギに剣をふるう猿田彦や恐竜に囲まれたジュン、新宿のバーにたむろするダンさんの顔が清太郎の目にはいった。それから、映画評論、六月号。小林泰彦の描いたオードリ・ヘップバーンの似顔が表紙になっている。
清太郎は歓声をあげた。
「うわぁ。なつかしいなぁ。これ、全部そのまま残ってたんですか」
「ああ。忘れものだからな。清ちゃん、そんなネクタイをとっちゃって着換えてみろよ。あの時代に戻っちゃうぜ」
「また、そんな」
「気分だけでも違うだろう。あの時代に帰った気分になれるから」
「しかし、肥っちゃってるからなあ」
清太郎は口ではそう言いながらも、着換えるために席を立上った。
奥に更衣室があった。身動きするのがやっとで、そこで清太郎は背広を脱ぎ、コッパンや、カッターシャツを身につけた。あの頃はもっと痩せてたんだな。そう一人ごちた。カッターのボタンをとめる時、懐かしい臭いのようなものが鼻をついた。コッパンのポケットに手を入れると何かが手にあたった。出してみると百円札が七枚と穴のあいた大きな五円玉、十円玉が三枚入っていたのだ。
「マスターどうなの。これが三十六歳の恰好かなあ」
清太郎はカウンターに戻って言った。照れだけは隠しようがなかったのだ。
「まだ似合うじゃない。昔どおりだ。髪型も変ってないし」
マスターはそう絶讃したのだ。
「だけど、目尻に笑い皺ができちゃってさ」
二人は声をあげて笑った。
「だけど、服をここに忘れてたのを何故気がつかなかったんだろう。どうやってアパートに帰ったんだろうな」
「たしか、ここへ来たときもしたたか酔ってたんだ。で、他の映研連中と飲んでて、ストリップをやるといいだして、カウンターの上にとびのってね。他に客がいなかったものだから、そのまま、泥酔状態でみんなタクシーに乗っていった。勘定は誰か払っていったよ」
昔はなんと無茶をやってたのだろうと清太郎は苦笑した。それから煙草を吸おうとして切らしていたことを思いだした。
「煙草ありますか」
「ハイライトか、セブンスターなら買いおきあるけれど。清ちゃんは昔と同じだろ」
「ええ。ショート・ピース」
「じゃあ、ない」
清太郎は立上った。「ちょっと買ってきますから」。曲が、「イエロー・サブマリン」に変っていた。清太郎は思った。まさに昔のままだ。まさに一九六七年だ。
清太郎は近くに、深夜まで開いている煙草屋があることを覚えていた。そこで買うつもりだ。その恰好のまま、「ヤング・ラスカル」を出た。雨はあがって月が姿を見せていた。
走ると、何か違和感が清太郎を襲った。その正体がいったい何なのか清太郎は気がつかなかった。煙草屋まで三分とかからない。
煙草屋は昔どおりの店構えだった。ポスターが張られていた。横たわったバネッサ・レッドグレーブをデビッド・ヘミングスが激写している……そんな構図。欲望≠ニあり、監督ミケランジェロ・アントニオーニとあった。前売券発売中。清太郎は気にもとめなかった。あんな映画をリバイバルしてもあたらないだろうに。
それから心は煙草のことに変った。さっきの百円札を出してみようか。びっくりするだろうな。
「ショート・ピースを二つ」そして二百円を差しだした。
「百円でいいんです」四十すぎのおばさんは驚きもせずに百円札を一枚押し返した。それから「はイ、ショート・ピース二つ。二十円のおつり」
思わず、清太郎は何か言おうとしたが、言葉にはならなかった。ショート・ピースは一ケ百円のはずだ。
「まだ何か」
不審気に煙草屋の女主人は清太郎の顔を覗きこんだ。「いえ、何でもありません」
清太郎は煙草屋を離れて気がついた。七愛幼児園のビルが消失しているのだ。先程の違和感の原因がわかったような気がした。
「ヤング・ラスカル」の扉を叩いた。「ヤング・ラスカル」は灯が消え、鍵がかけられているのだ。マスターは帰ったのだろうか。
清太郎はマスターの名を呼んだ。しかし、誰も答えはしない。店の中には背広を置いたままにしているのに。
煙草屋にとってかえした。公衆電話で、自宅の電話を呼んだ。清太郎は何か不吉な予感がしたからだ。予感はあたっていた。
――こちらは局ですが、おかけになった電話番号は現在使用されていません。もう一度ダイヤルするか……
清太郎は電話帳をくった。「ヤング・ラスカル」「ヤング・ラスカル」。
奇妙なことに気がついた。局番が二桁なのだ。三桁ではない。表紙を見た。
五十音別電話帳、昭和四十一年六月三十日現在。
清太郎は煙草屋の女主人に言った。
「最近の電話帳はないんですか」
黒白のポータブル・テレビを見ていた女主人は、面倒くさそうに答えた。
「今年はまだ、電話帳きてないから、それが一番新しいやつなの」
それから、ブラウン管に視線を返す。
「これが、一番新しいやつだって……。でも、載ってる局番は二桁ばかりじゃ……」
そこまで言って、清太郎は口をつぐんだ。女主人はニュースを見ていた。音声はよく聞きとれなかったが、画面はよく見てとれた。
写っていたのは……佐藤栄作……首相。
テレビの上にカレンダーがあった。五月、六月の日付が書いてあり、白のスーツを着た西郷輝彦が椅子に座り、笑いかけていたのだ。その日付の下の数字……一九六七。
清太郎はそれから、あてもなく街をさまよった。ベンチに置き去られた新聞で、異変が確実なものであることを認識した。
昭和四十二年五月二十日 土曜日。
「米軍、非武装地帯に進攻/ベトナム/北の砲兵部隊叩く/大規模な掃討作戦/聖域≠ツいに消滅」
「行政管理庁、積極的乗り出し/公庫、公団の整理統合/佐藤首相、松平長官らと協議」
「ウ・タント総長カイロへ飛ぶ/二十二日アラブ首脳と会談/スエズ危機以来の脅威」
無意識に足は、自分がかつて住んでいた大学近くのアパートに向いていた。歩きながら自分がこのように過去空間に辿りついてしまった理由を思いめぐらしていた。自分は今まで確実に一九八〇年代にいたのだ。そして、今は一九六七年。清太郎は歩きながら路上に駐車された車のデザインの相違に気づいていた。箱型のコロナ。ボンネットの曲線が珍しいプリンス。エイを思わせる空冷式のパブリカ。八〇年代にはもうお目にかかることのできなくなった車ばかりだった。そうだ、まだこの時の日本は前途洋々の状態で、減速経済など、思いもよらぬ時代だったのだ。この頃からマイカーの普及が急速に進行していたのではなかったろうか。
商店街にはまだアーケードがついておらず、「大巨獣ガッパ」のポスターが濡れそぼっていた。
清太郎の視野に入ってくるもののすべてが、六〇年代末の特徴を備えたものばかりなのだ。
人気のない街路に、ぽつんと灯りがついていた。灯りの前にショウ・ウィンドウがあり、清太郎はその前に立止まった。
「まさか」
清太郎は、ショウ・ウィンドウの鏡に映った自分に驚いていた。
清太郎自身、変貌していたのだ。六十五キロはあったはずの体重なのに、そこにはほっそりした五十キロそこそこの少年の姿があった。顔に手をあてると、そこにはごわごわした髭剃り跡の感触が消えていた。清太郎は二十歳を過ぎてから髭を剃りはじめたのだ。かわりにニキビの鈍い痛みが頬に広がった。自分の腕を凝視《みつめ》ると皮膚にみずみずしさが蘇っているようだった。若者特有の艶があった。
清太郎自身、一九六七年当時の……十九歳の肉体に変っているのだ。
ショウ・ウィンドウの鏡の横に立ったマネキンに気がついた。そのマネキンはミニ・スカートをはいており、個性的なショートカットの瞳の大きな人形だった。ツイッギーだ。清太郎は思った。
清太郎は再び、学生時代のアパートに足を向けて歩きはじめた。
――何故、一九六七年の世界へまぎれこんだのだろう。
正確な説明がつくはずもなかった。清太郎はいつの時点でこの時代にまぎれこんだのかも、はっきりと思いだせないのだ。多分、「ヤング・ラスカル」を出て煙草を買いに行こうとしたときだろう。あの「ヤング・ラスカル」の空間は、あの時、一九六七年そのものだったのだ。清太郎の記憶にあるあの時代そのままの店内。そして一九六七年の音楽。清太郎自身が、その時代愛用していた衣服類。人為的に作りだせる限りの「一九六七空間」が、あの時の「ヤング・ラスカル」ではなかったのか。そして何よりも重要なことは、清太郎自身が六〇年代へ逃避したいという強烈な願望を抱いていたことだ。その意志の力も加わって「ヤング・ラスカル」の周囲の空間が一九六七年に‘時滑り’を起したのかもしれなかった。
それが確実な答ではないかもしれない。しかし、現実に清太郎はそこに……一九六七年にいるのだった。
アパートへは三十分ほどで辿りついた。
階段を昇り、自分の部屋の前にとまどうことなく立った。迷うこともなく十数年前の部屋にやってきたことに清太郎は驚きを感じていた。肉体が憶えていたのかもしれないな……清太郎は思った。
扉の把手に手をかけ、表札に目をやった。そこには間違いなく清太郎自身の金釘文字で、清太郎自身の名前が書かれていたのだ。それから、急に不安に襲われた。
自分が、その時代に転移したのはいい。部屋もそのままだ。しかし……
この世界にも清太郎が存在するのではないだろうか。
しかし、その時、清太郎の疲労は極限に達していた。ためらいは瞬間的なものだった。
清太郎は扉を開いた。もう一人の自分自身との再会。同一人物の二重存在。矛盾を解決するための宇宙の消滅。そんな考えが、その刹那、清太郎の脳裡をかけめぐっていた。
杞憂にすぎなかった。鍵もかけられておらず、なつかしい青春の臭いが鼻をついた。部屋を見回すと万年床。「MAD」のアルフレッド・ニューマンが「WHAT ME WORRY?」と言っている等身大のポスターが見えた。部屋中に積まれた本の山。ページが途中で開かれたままになっているT・カポーティの「冷血」。灰皿に置かれた吸いかけのショート・ピース。――吸いかけのショート・ピース?
ショート・ピースは確かに灰皿の上で紫色の煙を漂わせていた。つい今しがたまで、そこで誰かが喫っていたかのように。
――誰が喫っていたのだろう。
そう呟いてはみたが、清太郎には直感的にわかっていた。万年床の掛蒲団の下に誰かが存在していたかのように、ポッカリ空間ができあがっていた。
――そうだ。この時代のぼく自身が、今までここで横になっていたのだ。
清太郎はカポーティの「冷血」をとりあげた。
――ぼくは、この本を買った夜に、一晩で読みあげたんだ。とするとこの時代にいたぼくは、この本を読んでいる途中で、ぼくが出現したことで、二重存在を許されず消えて≠オまったということなのだろうか。
清太郎はもう何も考えたくなかった。そのまま倒れこむように蒲団の上に横になった。この数時間の変革のショックが清太郎の精神内部をくしゃくしゃに消耗させてしまっていたのだ。
清太郎は夢を見た。夢の中で、清太郎は「ヤング・ラスカル」にいた。そこにはマスターがおり、梨江がおり、代志子がいた。皆が黙ってカウンターにうつぶせていた。スコット・ウォーカーの「孤独の太陽」が響いていた。いつまでも、いつまでもカウンターにうつぶせて、顔をあげようとしなかった。
宿酔いだった。音が続いていた。
重い頭をあげて、清太郎は目を開けた。そこは昔、自分が住んでいたアパートなのだった。
音は誰かが扉をノックしているのだ。清太郎はノックの音で目を醒ましたのだった。
「おい。清ちゃん、起きてるのかい」
若い男性の声だった。
「ああ、起きてます」
頭を抱えながら清太郎は言った。
「じゃあ入るぞ」
鍵なぞかかっていないことを先刻承知の声だった。
「わっ、臭えなぁ。酒飲んだのか」
清太郎は、部屋に入ってきた青年の顔を凝視《みつめ》ていた。すぐに思いだした。同じアパートに住んでいた本郷だった。本郷は清太郎と同じく大学の映画研究会に入っていた。北九州市が実家で、大学四年のときに彼は年上の女と同棲するようになって映研から遠去かっていく。その頃から清太郎は本郷とは疎遠になったから、社会に出てからの彼の消息はよく知らなかった。
「本郷くん……か。何だい」
「清ちゃんこそ何だい。狐につままれたみたいにして。宿酔いなんだろう」
清太郎はうなずいた。
「合ハイに遅れるぜ。行くっていったろう」
「何の合ハイだ」
「西女短大の広告研究会との合同ハイキングさ。清ちゃん、昨日は行くって言ってたぜ。何をぼっとしてるんだい。あちらさんとは人数合わせやってるんだから」
「ぼく、頭が痛いんだ。辞退するよ」
清太郎は言った。それは本音だった。
「わっ。知らないぞ。誰か代わりを探さなきゃ。映研のやつといえば、行きそうな奴は滓しか残っとらんもんな。ほら、前の部屋の松本ぐらいしかさぁ」
本郷が一気にまくしたてていると、開きっぱなしの扉のむこうから、もう一つの顔がのぞいた。顎の長い受け口の顔だ。清太郎はもとの世界のテレビにアントニオ猪木の顔が出るたびに誰かに似ているというもどかしい思いにとらわれていた。その疑問が今、氷解していた。その誰かとは、この松本だったのだ。
「何か俺の噂、してたぁ」
慌てて本郷は愛想笑いを浮かべていた。
「やぁ、やぁ、松本くん。ちょうど良かった。西女短大の合ハイに行かない。メンバーが一人足りないの」
「女の子、好き。行く。行っちゃう。ちょっと待ってよ。整髪してくっから」
松本は口笛を吹きながら、自分の部屋へ帰っていった。
清太郎の部屋に残った本郷が、顔をしかめた。後悔しているのだった。
「あー。しまった。言わなきゃよかった。最悪のケースだな。公害を連れていくようなもんだな。西女短大の父兄の方に申しわけないなぁ」
松本に関する思い出は、清太郎はあまり持っていなかった。人づてに聞いた話では、いい印象は受けなかったし、深い交際をすることもなかったからだ。彼は淫乱という噂だった。性器が最高学府に通っているという話だった。彼の部屋にはヌード雑誌と整髪剤と櫛と鏡しかないということだった。女といえば美醜を問わず尻を追いかけまわす。強引で図々しく、目的を達するまで押しまくるそうだった。女と接しない日が一週間続くと、鼻血をたれ流し、猛り狂って友人たちにあたり散らし、時として男友だちであろうが襲いかかる気配を見せたという。肥後守で自分の性器にパチンコ玉を埋めこもうとして血みどろになっている姿を見たものもいるという。視床下部に血腫があるのではないかという説もあった。淫乱なのは、その血腫のためだというのだ。ただ、その相手が常に変っていなければならないというのが松本の信念であることを清太郎は、松本自身の口から一度聞いたことがある。プレイボーイ気取りだったのだろう。清太郎自身も数回、松本が異なる女の子と歩いているのを目撃したことがある。
何故、彼が映研に入っているのか不思議でたまらず質問した。伴淳の「二等兵物語」しか映画は見たことがないと松本は公言していたからだ。
「だって、かっこよさそうだったじゃない。女の子もたくさんいるんじゃないかと思ってたしぃ」
それだけの理由で彼は映研に入っていたのだった。数年後に彼は性病にかかるはずだった。最高に性質の悪い種類のものであり、脳をやられて廃人と化すことになっている。それを数年後に再会するやはり映研の南里に聞かされるのだ。
「お待たせ。女、女のトコ。女、女のトコはやく行こう」
松本が髪を淫蕩な感じで撫でつけて荒い鼻息で入ってきた。清太郎は思った。ほんとうに松本は卑猥な顔をしている。
本郷は仕方ないなという感じで肩をすくめてみせた。
「じゃ、清ちゃん、行ってくる。夕方の映研ミーティングには出るんだろう」
「どこであるんだい」
「五時半から『ヤング・ラスカル』さ。必ず集合って……四年の野口さんが言ってた。それまでには、ぼくも行けるはずさ」
本郷と松本は慌ただしく部屋を出ていった。清太郎が枕もとのトランジスタラジオをひねるとママス&パパスの「マンディ・マンディ」が流れはじめた。しばらく、音楽に耳を傾けた。次の曲、その次の曲。
――エル・オー・ディ・ラブオンデリバリィ・エル・オー・ディ……
――マイ・ベイビィ・ダズ・ザ・ハンキィ・パンキィ……
清太郎は横になり、そんなポップソングを口ずさんだ。
現在が、一九六七年であることを、清太郎はもう疑いもしなかった。
――ひょっとして、ぼくは、自分の未来の夢を見たのかもしれない。就職して、結婚して、子供が生まれ、平凡な希望のない日々……そんな夢をみたのかもしれない。
そうも清太郎は思ったりした。
窓の外は、遠くまで突き抜けるような空の青さがあった。五月晴れなのだ。音楽を聞きながら、その空の青さを見ていると、理由のない涙がでてくるのだった。
しかし、あれは夢ではなかった。それが清太郎にはちゃんとわかっているのだ。そのとき、ふと気がついたことがあった。ひょっとして、前の世界の妻の代志子と知りあったのは今日の合同ハイキングだったのではないか。西女短大の広告研究会といっていたから、ほぼ間違いないはずだった。
――そういえば、あの朝も本郷が誘いに来て一緒に行ったんだっけな。
とすれば、これで、この世界で自分と代志子が出会う可能性は、ほぼ零に等しくなったわけか。彼女も、もっと自分より素晴らしい男性と知りあえばいい。そのほうがいい。
「そのほうがいいんだ」
清太郎は、そう口に出して言ってみた。すると肩の荷がおりたような気がした。
――すべてが始まる前の世界なのだから。
清太郎は決意していた。何故、このような過去世界に転移したかをいろいろと思いめぐらしてみても仕方のないことなのだ。奇跡かもしれないし、自然現象かもしれない。しかし、一番重要なことは、自分に再スタートの機会が与えられたということだった。もう同じ過《あやま》ちを繰り返しはしない。今度こそ後悔しない人生を送るんだ。
清太郎は起きあがって、英和辞典の最終ページを開いた。学生時代は、そこに金をはさんでいたのだ。それを憶えていた。
二千円残っていた。あと一週間、それで暮らさなければならない。仕送りの金とアルバイトの金はほとんど同時に月末に入ってくるからだ。まあ、どうにかなるさと考えた。映画を観るために三、四日断食したおもいでも持っていたくらいだから。
清太郎はポケットに、その二千円を捻じこむと部屋を出た。
近くに行きつけだった学生向の食堂がある。そこで朝食と昼食を兼ねた食事をとろうと思ったのだ。飯の盛りが良いことでは定評があった。「ばかもり食堂」という名前だった。
階段で清太郎は呼びとめられた。
「清ちゃん。どこいくの」
振りむくと加塩が立っていた。彼もこのアパートの住人の一人だった。清太郎は、この男は、えらく調子のいい奴という印象を持っていた。いつもニヤニヤ笑いを浮かべている。だから、反面、何を考えているかわからないのだ。とにかく好奇心の権化のような男で何にでも首を突っこみたがる。SFと映画とお祭りが大好きな奴で、この前まで演劇部にいたかと思うと、漫研を結成したり、SFミステリィ研究会を作ったり、アニメ上映会をやったり、三百六十五日お祭りをやっているような男だった。女の子が好きで、そのわりに常にふられている。失恋して深刻そうかというと、そうではなく軽薄そうにヘラヘラ笑いしているのだ。映研には入ってないが、ミーティングには時々、清太郎にくっついて顔を出していた。「ゴダールなんて芋です。リチャード・レスターはすごい」と騒ぎ、ただ酒を飲んで引上げるのを常としていた。「フェリーニは……」とか、「岡本喜八は……」とか、話題を支離滅裂に飛躍させていたが、別に邪気はないのかもしれなかった。映画好き同士ということで加塩は清太郎に好意を持っていたのだろう。この男は卒業後、実家の熊本に帰り家業を継ぐことになる。同名で下手なSFを書く作家がいるが、まさかこの加塩が文章を書くような奴には見えないから多分別人だろうと清太郎は思っていた。
「ちょっと食事に行こうと思って」
「じゃ、ぼくも行く」
加塩も、尻のポケットに本を押しこみながら階段をかけおりてきた。
「食事はまだだったの」と清太郎。
「うん。本、読んでたのさ。面白いヨ」
加塩が見せた表紙にはR・A・ハインライン/矢野徹訳「宇宙の戦士」とあった。
「この作家のは、未来史シリーズがいいんだけど、タイムトラベルものも独特でさ。時間旅行の逆説的思考法はすごいよ。『輪廻の蛇』とか『時の門』とかね。気が狂いそうなほど複雑な構成だからなぁ」
清太郎と加塩は「ばかもり食堂」へむかった。
しかし、「焼魚定食、トンカツ定食、日替り定食/各一二〇円」と書かれた入口のガラスの上に「定休日」の札が下がっていたのだ。
加塩がため息をついて「どうする」と言った。それから、一つ提案があるという調子で「ねぇ、ねぇ。隣町だけどね。城西町まで足を伸ばしてみない。『ドンチュー』って喫茶店があるんだ。そこのウェイトレスで一人可愛いこがいるの。見に行ってみない」
清太郎は梨江の寂し気な笑顔を連想していた。そして梨江の吐いた言葉。
「清太郎さんに、その頃会ってたら人生は変ってたかしら」
加塩が、もう一度言った。
「ねぇ。ちょっと行ってみようよ」
清太郎は抗う理由もなく、加塩に同意した。また、若き日の梨江を見てみたいという好奇心も手伝っていたのは事実だった。
喫茶「ドンチュー」に入ると、梨江は、すぐにわかった。まさに少女という感じで椅子の一つに座っていた。日曜の午前中ということで他に客はいない。梨江は映画雑誌を読んでいた。ボーイッシュな髪型をしていた。
顔をあげて「いらっしゃいませ」と言って梨江が立上った。表情に明るさがあった。当然、清太郎のことを梨江は何も知るはずがない。それが、かえって清太郎を緊張させた。
加塩がブック・スタンドから「少年マガジン」を持ってきて言った。
「‘ちばてつや’って面白いんだよな」
「あしたのジョー≠セろう」
清太郎が相槌をうつと、加塩が妙な顔をした。
「何だ、それ。ハリスの旋風≠フこといってるんだ。そのあしたの……≠ニいうの何に載ってるんだ」
清太郎はしまったと思った。無意識にあしたのジョー≠ニ言ってから気がついた。その漫画はあと半年以上待たなければ連載が始まらないのだ。汗だくで清太郎は弁解した。
「いや、もうしばらくして、連載をはじめるらしい。ボクシングまんがでさ。かなりすごそうよ。新聞で見たのかな」
ふうんと不思議そうに清太郎を見ながら、加塩は言った。
「清ちゃん。わりと情報通ね」
水とメニューを持ってミニ・スカートのワンピースをはいた梨江が横に立った。
「何にいたしましょう」
コーヒーとミックスサンドを注文したのだ。
「あの子ですよ。可愛いいでしょうがね」
加塩が笑みくずれて言った。
「そうだなあ」と清太郎は相槌をうつしかない。
しばらくして、梨江がコーヒーとミックスサンドを持ってきた。
「ねぇ、ねぇ。ねぇ」
加塩が梨江に声をかけた。
「ねぇ、非番の日はいつなの」
「はぁ」と梨江は不思議そうな顔をした。
「ねぇ、ぼくと映画を観に行かない。ぼく、都合をきみにあわせるから。ネェ。一緒に映画に行こう」清太郎は驚いた。加塩は梨江を誘おうとしているのだ。
「…………」梨江はあきらかに呆れていた。
「ねぇ。お願いだから。ねぇ。映画一緒に行こう。ネッネッ。お願い」
加塩は両手を合わせていた。顔はニヤニヤ笑っている。清太郎は、あっこれじゃだめだと頬杖をついた。
「ネッ。ネッ。お願い」
梨江は途惑ったような笑顔を浮かべていた。それからきっぱりと言いきった。この頃から梨江は、ある種の迫力を備えていたのだった。
「ありがとうございます。残念ですけれど、他の方をお誘いになってください。私には、彼がいるんです」
それは加塩を傷つける口調ではなかった。ていねいだが、自分の意思を明確に表示していたのだ。
梨江がコーヒーとレシートを置いて立ち去ると加塩は泣きだしそうになっていた。
「またふられた」
加塩は手をぶるぶる震わせ、砂糖をテーブルにまき散らしながら五杯入れた。
「ぼくはよくふられる。今月六人目だ」
しばらく黙って清太郎と加塩はサンドイッチを頬張った。
少年マガジンの表紙で石田国松がサッカー・ボールを蹴っているポーズが描かれていた。――もうすぐ、あしたのジョー≠ェはじまる。
清太郎は、学生時代の終わりまで、ジョーを愛読していた。ボクシングに青春を賭け、完全燃焼させる生きざまを三十を過ぎてからも時々読み返し、自分の生きざまと照らしあわせて罪の意識にも似た恥かしさを感じ、そのたび、ジョーのせっぱつまった生きかた(ウェイ・オブ・ライフ)に感動をおぼえた。
清太郎は加塩を見ながら思った。何て自分たちの青春時代とは、せせこましく、矮小なものだったのだろうか。
「でようか」
加塩が言った。二人は席を立ち、カウンター・レジで割勘で払った。
「あっ、忘れものだ」
加塩を外に待たせ、清太郎は「ドンチュー」の店内に引返した。梨江は清太郎たちがいたテーブルを片づけようとしていた。清太郎はせきこむように梨江に言った。
「話があります」
「お連れさんのことですか」
「いえ。あなた自身のことです。梨江さん」
梨江はあきらかに自分の名前を呼ばれたことに驚いていた。表情から笑いが消えていた。
「いま交際している彼と結婚されるかどうかしりませんが、結婚されたら、御主人が建設現場で小さな怪我をなさっても、必要以上に注意して、医者の治療を受けてください。あなたの御主人になるかたの生命にかかわることですから。約束できますか。梨江さん」
梨江にとって、それが唐突な申し出であることは清太郎にはわかっていた。念を押すようにもう一度言った。
「あなたが結婚して・御主人が勤め先の・現場で・怪我をしたら・どんな小さな怪我でも・医者に見せること・わかりましたか」
梨江がこくんとうなずいた。
「わかりました。でも、あなたは誰ですか」
「ぼくは……ぼくは予言者です」
「信じられないわ。でも何のために」
清太郎は返事に窮し、それから、やっと言った。
「何のためでもいい。梨江さん自身のためです。もう一つ、予言をしておきます。さ来年アポロが月に着陸し、人類が月に立ちます。もし、この予言が当ったら、ぼくの言ったことを信じて約束を実行してください。いいですね」
それだけ言って、清太郎は「ドンチュー」を飛びだした。加塩がニヤニヤ笑いを浮かべて、舗道のガード・レールの上に座って待っていた。
「いよっ、色男。首尾はどうだったの。隅に置けないね、清ちゃんも」
仕方なく清太郎も首をかしげてみせた。
「残念。ぼくもふられちまった」
清太郎と加塩は声をあげて笑った。
これでいい……清太郎は思った。これで梨江に対しても責任を果たしたと考えていた。
得体の知れない寂しさを少し感じてはいたが、よりすがすがしさがあった。これで自分は完全に一に戻った人生を送ることができるのだと思っていた。ふっきれた……それが本音だった。
「だけど、清ちゃんがあの子に何か言ったとき、すごく彼女は驚いていたじゃない」
加塩はいじましく店内を覗きこんでいたのだ。清太郎は途惑い、仕方なく話題を変えた。
「ちょっとドジなこと言っちゃったのさ。それより、さっきSFで時間旅行の話をしてたろう」
話題がSFのことに移ったため、加塩の表情が急に輝きはじめたようだった。さっき、梨江にふられたことが嘘のようだった。
「あ、ハインラインの話ね」
「べつに誰でもいいんだ。たとえばさ、現在の空間に、江戸時代の調度品やら、そのほか江戸時代に使用した生活品をそっくり揃えて江戸時代そのままの室内に飾って、江戸時代の服装でそこに入れば、その空間が江戸時代に引きよせられる……そんな時間旅行の方法があるかな」
加塩は清太郎にニヤニヤ笑いで答えた。
「あは、SFでも書いてみるつもりなの。でも、そのアイデアはもうあるよ。ジャック・フィニィって、あちらの作家の短編に同じ発想でいくつかあるんだ」
「で、加塩くんはどう思うんだ。実現性のある空想と思うかい」
「まさか。非現実的。お話の中だけだよ」
「そうかぁ」それが常識的な考え方というものだろう。そう清太郎は思った。
「ぼくはSFサークルの例会があるから、ここで」
「じゃあ」
清太郎と加塩は「ドンチュー」の前で別れた。清太郎は映研のミーティング迄、映画を観てすごした。昔、見逃していた「電撃フリント/アタック作戦」をやっていたのだ。こんな形で映画を観るのは何年ぶりだろうと考えた。学生時代に持っていた自分の気まぐれぶりが蘇ったことに感激さえ抱いたほどだ。映画は他愛のないパロディアクション映画だったが、清太郎は充分に満足していた。
五時少し過ぎに清太郎は「ヤング・ラスカル」に着いた。
扉をあけると髭のマスターがいた。昨日と同じ室内装飾。カウンターの隅の椰子の実製眼鏡猿。水彩絵の具で書かれたマリリン・モンローの似顔絵。壁に貼られた無数の一円札。
「らっしゃい」
洗い熊のように人なつこい笑顔をマスターは浮かべて、おつまみの材料を楊子で揃えていた。
「清ちゃん、えらく早いんだね。一番のりじゃない」
「ええ……昨日はどうも」
そう言ってから、清太郎はしまったと思った。この時代の自分は前日はアパートにいて「ヤング・ラスカル」へは来ていないはずなのだ。
「えっ昨日……夜なの」
案の定、マスターは不思議そうな顔で仕事の手を止めた。
「いえ……このあいだ……はどうも」
学生時代はしょっ中ここに顔を出していたはずだ。そう思ってそんなふうに口を濁したのだ。それでマスターには通じたらしかった。
「ああ、このあいだね。すごく盛会だったね。でも、清ちゃん珍しいね。義理堅いとこ、あるんだな。このあいだ……どうもだなんて」
別にマスターは皮肉で言ってるのではないようだった。マスターはそれから丼鉢を清太郎に出した。
「これ菱の実をゆでたやつ。食べろよ。ちょっと見にはコウモリの頭みたいだろ。酒のつまみにはもってこいさ」
「じゃあ水割りください」
マスターが角の水割りを出したとき、客が入ってきた。
「おっ、もう来てるのか。熱心だな。ボックスに移っとこうか。ぼちぼち、皆やってくるはずだ」
ひょろりと痩せたその男を清太郎は忘れるはずもなかった。映研の部長の野口だった。本を二冊抱えていた。N・メイラーの「ぼく自身のための広告」(下)とル・クレジオの「調書」だった。野口は四年だが、三年留年しているから映研の‘ぬし’のようなものだ。肩まで髪を伸ばし、白のカッターの袖をまくっている。野口は「虚構の高次元の構築」とか、「実存的視点から」とか、「蓋然的な」とか「形而上的汎凡俗性」とかいった修飾語を駆使するため、著しく他の映研部員に意思が伝わらないのだった。ほとんどの語彙が野口自身の創造であるため、話し言葉としては意味不明なのだ。清太郎にとって学生時代、そのような言霊《ことだま》に近い神聖言語を喋りまくる野口は神に近い存在に思えたものだった。清太郎は野口と会話をかわすときさえ緊張感を自覚していた。
しかし、清太郎はそんな野口に再会して驚いていた。何ら、この野口に対して緊張感や遜恭が伴わないのだ。今の清太郎の目に、野口は二十代前半のふう変りな男としか映らないのだだった。それは清太郎の精神年齢が三十歳を過ぎた由かもしれなかった。清太郎の肉体が十九歳であるにしても。
野口は、清太郎たち映研部員に、映画の送り手側にまわると宣言していた。現在の映画≠ヘ堕落の極みであり、それを再建させるには送り手側にまわるしかないからというのが主旨であった。その主旨を奇怪言葉を操って一時間もかけて話すのだった。卒業後、野口は映画作家を志し、上京した。五年ほど、消息が絶え、ある年の正月、突然、年賀状を送ってくる。それには故郷で不動産鑑定士の資格をとった野口が、妻子四人で「まあなんとか、やっている」と記しているにすぎない。
しかし、今の野口はプライドの権化だった。自分より映画に精通している人間はこの世に存在しないという態度だった。
清太郎はボックスに移り、野口に質問した。
「今日はなんのミーティングですか」
野口は唇を歪めて笑い「もうすぐ、みな集まるから」と、それだけ言って「調書」を読みはじめた。
入口のほうで話し声がした。あらたに部員がやってきたようだった。
「えっ、見てないノ。残念だったナ」
「だって昨日、その時間は『逃亡者』見てたからなぁ」
「あれ、そろそろマンネリだろ。それより、絶対おもしろいよ『タイムトンネル』。製作がアーウィン・アレンでネ。過去、未来を移動できる装置が故障しちゃって過去世界を放浪することになるのヨ。昨日から始まったノ。『ナバロンの要塞』に出てたJ・ダーレンが主演してる。昨日が遭難前のタイタニック号にタイムトラベルする話でサ……」
南里と白木だった。「タイムトンネル」は昨日からこの世界で始まったテレビ番組なのだった。彼等は自宅通学者なのだ。南里は地方銀行の電算処理室の勤務になる。白木はこの後、学生運動に熱中し、映研をやめ退学する。十七年後の世界ではファースト・フードのフランチャイズ・チェーンと契約して鶏肉を油揚げした食品を小売している。
時間軸を転移した清太郎にとって白木と南里の話す時間旅行のテレビ番組の内容がなんとも自分のことを言われているようで、不思議な気がしたのだ。
続いて、三年の加藤と松島がやってきた。加藤は損害保険の代理店をやることになる。松島は口下手な男で外見ももっさりしている。この年の夏、思いたって退学し、アートシアターで自主製作する一千万円映画のボランティア・スタッフとして参加することになり、某映画監督の居候をきめこむ。数年間、赤貧の生活を続けるが、シナリオライターとして一人立ちする。志の高い映研連中のうち、初志を貫いたのは、何と彼だけなのだ。
女性部員の安永桜等子と菅浩子の顔も見えた。安永は歯に衣を着せない発言で男性部員の恐怖の的であったが、四人の子供をもうけると平凡な主婦にならざるをえなかったようだ。清太郎は、その話を誰にきかされたのかどうしても思い出せなかった。菅浩子はまだ独身のはずである。
「明日、学生集会やるみたいよ。午後一時から二号館の前で。学食の利用制限に関しての……。出るの?」
「うーん。わかんない。独語と重なっているんだもん」
そうだ、この集会をきっかけに清太郎の大学の学生運動は過激化しはじめることになる。それが七〇年安保まで持続するはずだ。清太郎はそう思った。
三年の徳田と二年の北野美子が一緒に入ってきた。二人は同棲中のはずだった。北野美子は、あと半年すれば徳田に捨てられる。それから退学し、数ヶ月後に他の男と婚約し、嫁ぐ。徳田はそれから後悔の日々を送り、ダスティン・ホフマンになれなかったと酒を飲むたびに喚き、結局三流商事会社に就職する。数ヶ月で、その会社を辞め、その後の消息はわからない。
最後に本郷が駈けこんできて清太郎の隣に座り、野口に言った。
「すみません。合ハイで遅れました。もうすぐ松本もくるはずです」
それから清太郎に耳うちした。
「松本がさぁ。また女の子にしつこいんだよなぁ」辟易した顔だった。
野口が書物を置いて皆を見まわした。
「じゃ、はじめよう」
他の部員は一言も発さない。野口は効果をはかるようにコホンと咳ばらいをして髪をかきあげた。安永桜等子と菅浩子が尊敬の眼差しを野口に向けた。彼女たちにとって野口はカリスマなのだ。
「今日、集合してもらったのは他でもない。日常的倦怠の休日の夕刻、諸君は多分、未知の提言に概念的ではあるにしろ不安定な期待感を抱いてきたのだろう。現時点の無思想、無節操、無甲斐性な帝国主義的塵芥的大量生産商業映画の氾濫により、高次元の虚構的夢幻世界を体験するという基本的原点を喪失し、明晰な表現で自己を矮小化させる作業にのみ埋没し、……より方晶系化した表現で……唯一の表現下で物質の諧和に到達し………………………………………………………………よって本質的な部分で、螺旋的視界により、絶望的受難を伴おうと、現時点映画を憎悪し、我々自身の映画上映会を成功させたい」
そこまで、野口が一息に喋りおえると、くるりと周囲を見まわした。他の映研連中はきょとんとした顔ながら、うなずいていた。
清太郎は既視感《デジャービュ》に似た感覚にとらわれた。この現場に、過去の自分も居あわせていたのだ。野口は「自主映画上映会をやりましょうよ」と提案しているのだ。しかし、その時点では野口の言っていることの半分も理解できなかったような記憶がある。清太郎はこの上映会のとき、最後まで積極的には参加できなかった。野口の言う上映会の主旨が、はっきりと理解できなかったことも一つの理由だったろう。
「結局、上映会をやろうっていうんでしょう」
自然、清太郎の口から、そんな言葉がついて出た。「別に、そんな難解な表現でなく、具体的でわかりやすい言葉で上映主旨を説明していただいたほうがいいと思います。上映会の準備活動における意欲の問題にもかかわってくるような気がするんですが」
別に皮肉や厭味を言っているつもりは、清太郎には毛頭なかった。本郷が清太郎の横腹をこづいていた。気がつくと、皆の視線が清太郎に集中していた。なにか化物でも見る目付なのだ。野口の煙草を持つ指が、ぶるぶる震えはじめていた。
野口に対して、真っ向から意見を吐いた部員はまだいなかったはずだ。現実に、この上映会は充分なPR活動も徹底しないまま、大幅な赤字で終っていた。もう、同じ誤ちを繰りかえし、消極的な青春を送るのはごめんだと清太郎は無意識のうちに決意していたのだ。
上映会を成功させるためには言うべきことは言っとく必要がある。清太郎はそう思っただけだった。
皆が野口のリアクションを固唾をのんでみつめていた。
「そうか。俺の表現は、話し言葉でもすぐに難解になるきらいがあるようだな。三文映画批評の読みすぎかもしれない。ありがとう。自分ではなかなかわからないもんだ。指摘されないと、すぐに言葉を飾りたがる」
カウンターからマスターが声をかけた。
「いやいや、野口くんの表現は仲々立派なものだけどさ。文章で読む表現なんだ。意思を伝達するにはちょっと不利かもしれない。でも、なかなかだよ」
野口が頭を掻くと、映研の輪の緊張が解けた。話題が、時期の選定、フィルムの選択に移ると活発に意見が百出した。清太郎は驚いていた。このように皆がリラックスしてアイディアを出しあった映研ミーティングの記憶がなかったからだ。清太郎の発言が引き金になったのはたしかだろう。清太郎はうれしかった。部長である野口にしろ、同じ思いのようだった。所詮、映画好きの仲間であることに違いはないのだ。
上映作品は、まだこの地方では上映されていない「シベールの日曜日」と「勝手にしやがれ」に決定した。清太郎の記憶にある自主上映会の番組とは完全に異なっていた。
それから、ミーティングは終了し、コンパの場に早変りした。角の水割りで乾杯し、自主上映会の成功を誓いあった。
清太郎は自分自身の内部で何かが変化を遂げたことを確信した。この上映会企画も各人が動機づけに成功したようだった。とすれば、上映会の成否の可能性も異なってくる……そう清太郎は考えた。
「おまえが、あんなこと言うから驚いたよ。一時はどうなるかと思った」
本郷が目尻を下げ、小声で清太郎に言った。
「しかし、結果的にはよかったな。なんだか映研全体の雰囲気が変ったものな。何せ、四年生は野口さんだけだし、言いにくいんだよな。しかし、いつから清ちゃんは、あんなにはっきり言うようになったの」
「今朝から」そう清太郎は言った。
南里と加藤が大声で「スーパージェッター」と「冒険ガボテン島」の卑猥な替歌を唄い終ったときだった。
「やあ、みなさん、やっとられますか」
顔を出したのは、松本だった。
「ちょっと遅れまして。あ、今日、知りあった彼女も連れてきてるんでぇ、エ、よろしいですかァ。すぐひきあげるつもりですがァ」
部長の野口が、かまわん連れてこい、と叫び、松島と白木が拍手した。
「あいつ、すごくしつこく誘ったんだぜ」
本郷が清太郎に言った。
「まったく、あいつ淫乱なんだ」
清太郎は相槌を打ち、入口を見た。松本が、小柄な女性をエスコートして中へ入ってくるのが見えた。松本は淫蕩な表情を凍りつかせたままだった。
「エー。御紹介します。今日知りあいました小生の彼女です」
清太郎は叫びだしそうになった。
妻の代志子だったのだ。
清太郎の酔いは瞬間的に醒めていた。胸の中で早鐘が鳴りはじめていた。
――まさか、代志子がここにやってくるなんて……
清太郎は信じられなかった。無意識に代志子から視線をそらしていた。
代志子が清太郎に目をやったときも、特別の反応を見せはしなかった。そのはずだと清太郎は思った。まだ、清太郎の存在を知らない時点の代志子なのだから。
「スザンヌ・プレシェットふう美女だな」と野口は評した。
ブルーのワンピースを着た代志子は、そう評されてもおかしくないほど清純で美しかった。彼女は一礼すると、椅子の一つに腰をおろした。その行為の一つ一つが控え目で好ましかった。少女だった。
――この代志子に惚れたんだ。
そう清太郎は思った。
ここで、言葉をかわさなければ代志子とは別の人生を歩むことになる。しかし、別の人生を歩むことを決断した自分にとって、これは通過しなければならない試練なのだ。そう思った。
代志子との気まずい生活を思いだしていた。沈黙・沈黙・沈黙・沈黙・沈黙・愚痴・愚痴・愚痴・愚痴・愚痴。
今度の人生では同じ過ちをおかさない。もっと大きな目標を持って、たとえ途中で挫折しようと悔いのない人生を送る。そう、何回も清太郎は呟いた。
――代志子も幸福になってほしい。
そう心に願っていた。
松本が、本郷と清太郎の間に割って入った。
「清ちゃんのピンチヒッターになってよかったナァ」
松本は唾液を落さんばかりの顔だった。
「あんな美人と知りあっちゃった」
清太郎は「おめでとう」とだけ言った。
松本が唇を歪めて言った。
「今夜、やるんだ」
清太郎は耳を疑った。しかし松本は眼球を濁らせ、色魔の表情で続けた。
「力ずくでも、今夜、彼女とやるんだ。まだ名前も教えてくれないけれど。送ってく途中で、どこかに連れ込む」
狂気じみていた。松本の表情はすでにヴァージン・ウルフだった。牛のように長い涎をたらした。それから松本は笑い顔になり、代志子の側にもどっていった。
「あいつ、本当にやるぜ。昼から、ああ言ってる」
本郷が心配そうに言った。
――知ったことではない。代志子が拒もうと思えば拒めるはずだ。代志子自身が選択する問題なのだから。
清太郎は自分に言い聞かせた。唇を思わず噛んでいた。それでいい。それでいいんだ。
「じゃ、このへんで、ぼくァ失礼しまァす。彼女を送っていきますんでェ」
松本が立上り、軽薄な口調で言った。代志子も席を立ち、一同に一礼した。
「じゃあ、バイバイ」
松本は本郷と清太郎にウインクし、代志子の肩に腕をまわした。清太郎の頭の中で何かがパチンとはじけた。
「待てっ」
発作的に清太郎は叫び立上った。本郷が驚いて席を五十センチも飛上った。
「代志子。行くな!!」
松本と代志子が振返った。「おまえ、あの女性を知ってるのか」「清ちゃんどうしたんだ」いろんな言葉が清太郎のまわりで湧きあがったが、すぐに静かになった。誰も口をきかなかった。清太郎自身何を言いだしているのかわからなかった。ただ叫びださずにはいられなかったのだ。
「代志子。松本から離れろ」
清太郎と代志子の目があった。そのまま数秒、時が流れた。清太郎は自分で自分の行動が理解できなかった。何と馬鹿なことを。代志子は何もわかるはずがない。何を自分は言ってしまったんだ。
代志子の唇がやっと動き、それから言った。
「ぱぱ……」
それは、家庭で代志子が清太郎を呼ぶときの……。まさか、そんなことが。
清太郎は虚を突かれた思いだった。代志子が清太郎に駈け寄った。代志子が清太郎の手をとったとき総て万象の動きが停止した。清太郎は呆然と立ちつくした。それから周囲の物質が溶暗《フェイドアウト》していくのがわかった。
突然に、まわりに風景が蘇った。夜だった。
清太郎の前に、ブルーのワンピースを着た代志子がいた。だが、三十を過ぎた成熟した女の顔の代志子だった。
「なんだ、その恰好は」
呆れたように、清太郎はおどけて言った。
「パパこそ何よ」
代志子の指は清太郎の腹をさしていた。
「いつから、あそこにいたんだ」
「昨日の夜、気がついたらいたの」
そう代志子は答えた。それ以上清太郎は質問しようとも思わなかった。
「もう少し、楽しい人生を送ろうと思ったのに、パパがあそこで呼んだからよ。知らないふりでとおそうと思ったのに負けちゃった」
時間軸が与えてくれた機会を二人ともふいにしてしまったのだ。あれ以上自分たちが一九六七年空間に存在すれば因果律の矛盾が増大するため、時≠ヘ自分たちをもとの世界に跳ね返したのだろう……そう清太郎は思った。
二人は「ヤング・ラスカル」の前に立っていた。遠くに七愛幼児園のあるビルが見えた。
一九八五年の現代なのだった。
清太郎は代志子に対して、先程の行為が妙に照れくさかった。駄目を押すように代志子が言った。
「あんなにパパが私を愛してたなんて思いもよらなかったわ」
清太郎は顔が赤面するのを押さえられなかった。清太郎は「ヤング・ラスカル」の扉を指した。
「久しぶりに、二人で飲もうか」
代志子がうなずいた。それから、そのとき清太郎が思っていた科白を代志子のほうから口にしたのだった。
「もう、ふりかえらないわ」
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梨湖という虚像
私は、他人の人生をコマ落としの映画のように眺める生活に馴れきってしまったような気がします。無理もありません。亜光速で星々を飛びまわり、数年ごとという間隔で旧友や知己に会いまみえるのですから。
ウラシマ効果というのでしょうか、外見上の私は殆んど変化しないのですが、知人たちは再会するたびごとに、その間の出来事を彼等の頭髪の色の変化や瞳の周囲の小皺といった、一つの印として刻みこんでいるのです。そして、その一人一人が昔日の思い出や、愚痴、異常な体験、喜びを交えて自分の人生の足跡を語ってくれます。
そういう時、ふと私は彼等と同じ時間のレールを走ることのできない自分自身に、疎外感を感じてしまうことがあるのです。これは、私自身が選んだ、航宙士という生業《なりわい》にふさわしい宿命なのかもしれません。
ただ、これだけは確実に言えると思います。人とは違う時間線を生きる私にとって、他人の人生の傍観者ではあっても、そこへ介入する資格はないということです。
これから語ろうとする梨湖《りこ》という女性についてのエピソードも、その他人の人生の一つの在り方にすぎないと言いきってしまえば簡単なのでしょう。ですが、私と梨湖、それにもう一人、これから語るうえで欠かせない人物|奈瀬《なせ》進は宙専大学に在籍していた頃からの友人同士だったのです。酒があれば集まり、なければないで借り住まいの私の部屋で将来の夢を時の経つのも忘れて披露しあったものでした。私と奈瀬は現体制を無責任に批判し、宇宙の彼方の楽園の帝王となった自分を得意気に語りました。それを梨湖は涼し気な微笑を浮べて黙って聞いていたのです。
梨湖と奈瀬進、それに私は同期生でした。しかし、梨湖はまさしく少女そのものだったのです。窓際に腰を下ろし、小首をまげて私たちの話を聞いている仕草。そう、その頃の彼女はまだ世の中の見てはいけない部分、成人になればいやでも正視しなければならない汚れたもの……にまだ触れたことのない幼な児のような瞳を持っていました。
この人は天使だ……私の直観的なイメージでした。
梨湖を最初に私にひきあわせたのも奈瀬でした。宙専大学に入学して、一週間も経ったころでしたでしょうか、無重力生物学の講義で知りあった奈瀬の下宿を訪問した時、突然彼女を紹介されたのです。奈瀬と一時間も彼の部屋で馬鹿話を続けていた時、偶然にも梨湖が遊びにやってきたわけです。突然の異性の訪問に奈瀬はあたふたと慌てまくり、柄にもなく「粗茶でも……」と部屋中をあっという間に片付け終え、お湯を沸かし始めました。もちろん、奈瀬が湯飲みなぞ気のきいたものを持っているはずがなく、梨湖に差出されたお茶はカップ・ヌードルの容器に注がれたものだったのですが。
奈瀬は耳もとまで紅潮させながら梨湖を紹介しました。ただのガール・フレンドなのだと、必要以上に伏線を張る奈瀬が滑稽に見えたほどです。
「彼女を子供の頃から知ってるんだ。梨湖も今年から我々の同期生というわけで……」
「いつも進さんに幼稚園に連れていってもらってたんです。ガキ大将にいじめられようとするとすぐ進さんが駈けつけて助けてくれました」
奈瀬の頬の紅潮は仲々ひこうとしませんでした。
その時の、梨湖の奈瀬に向けた視線の熱さは、鈍感な私にも十分すぎるほどわかりました。梨湖と奈瀬はお互いに好意以上のものを持っていたのです。
梨湖という名の少女は私の目から見ても、容姿だけではなくすがすがしさと素直さを兼ね備えた(奈瀬にはもったいないほどの)いい娘だと思います。
それから、私たち三人の交際が始まったわけです。夏は海水浴、試験前になれば、三人で雑魚寝同様の一夜漬の猛勉強。秋はレンタ・カーでのドライブ。三人揃ってのアルバイト、そしてスキー。楽しい日々が続きました。しかし、私は無意識のうちに奈瀬をライバル視している自分自身に気がついていました。梨湖に対しての自分を必要以上に意識していたのです。当然、そのような考え方が行動となって表面に出ないよう極力注意をしていたわけですが。
奈瀬という男も、実に気のおけないさっぱりとした性格の好漢で、客観的に考えても彼と梨湖はなかなかのカップルだと思えたわけです。しかし、エゴからくる矛盾でしょうか。激しい嫉妬にいたたまれなくなってしまう自分をふと感じてしまい、我ながら嫌悪感に襲われてしまうのでした。
奈瀬は、そんな私の気持に気がつかないままでした。或る日、彼は遂に私に相談という形で梨湖のことを告白したのです。
宙専大学から宇宙省へ就職し、地球を離れた場所で任務につく……私もそうであったのですが、それが学友たちの九割以上が希望していた平均的なコースでした。奈瀬も宇宙省への就職を望んでいました。しかし、進路の選択について迷いを持っていたのです。地上勤務を希望するべきか否か……。自分は梨湖を愛している。梨湖も同じだ。一緒に暮らしていくうえで彼女にとって地球外の勤務はまずいのではないだろうか。異世界での出産、子供の教育、社会性の喪失、そんな問題も考えていたようです。
奈瀬と梨湖は愛しあっている。
予感はありました。不安と一抹の焦燥の伴った予感が。しかし、かくも面と向かって奈瀬の口から告白されると、その瞬間は確かに動悸が速くはなったものの、冷静でありたいということを自覚しつづける冷静な自分を観察するという、奇妙な自分に気がつきました。つまり、奈瀬の話を十分理解し、助言しようとする余裕はとてもなく、「アア」とか「ウウ」とか口をはさむほどの反応しかできなかったわけです。
私は空返事の合間に奈瀬の口からはっきりと、梨湖が結婚に同意したということを聞きとりました。
適切な助言ができるはずもありませんでした。卒業を間近に控え、奈瀬としても焦りもあったのでしょう。私は、二人の力になるということだけを約束し、ぎこちない祝福の言葉を奈瀬に贈りました。
三人で次に会った時、奈瀬は私に、地上勤務の通信士としての進路を決意したことを告げました。梨湖は、今まで同様の態度で、私にも接してくれました。予想していた梨湖の奈瀬に対しての恋人同士のベトベトしたところが微塵もなく、その点で私は妙に安堵したのです。
悲劇が起ったのは、最終進路選択の直前のことでした。
奈瀬が事故死したという、信じられないでき事でした。
環境訓練中、生体維持装置の内部火災で窒息死したのです。真空の超高温の人工環境で、ポット・タイプの装置に入って作業訓練を行っていた時、装置が急に停止し、訓練室から運び出した時、既に死亡していたのです。私はその授業は受けなかったのですが、ちょうど、悪いことに梨湖はその事故の現場にいあわせました。
回路の短絡と制御装置の故障という二重のトラブルに見舞われたためです。梨湖は半狂乱になって遺体にとりすがったということでした。無理もありません。
梨湖と数日、学内で出会うことはありませんでした。あの事故は、失意というには余りに深い精神の傷痕を彼女に残していったのです。彼女の生きる希望と目的の両方を瞬間的に剥ぎとっていってしまったのですから。
私にとっても奈瀬の死は、胸に風穴をあけられたような思いでした。信じられず、今にでも「おい、一杯つきあえ」と部屋に押しかけに来てくれるような気がしたものです。彼がよく歌ったハンク・ウィリアムスのカントリー・ナンバーも耳もとで響いているような感覚にとらわれました。と、同時に梨湖が奈瀬だけのものにならなかったという現実を思い起して安堵している自分に気付き、嫌悪感を催してしまうのでした。
ある日、思いきって梨湖のアパートを訪ねてみました。彼女の進路もまだ決定されていなかったこともありますが、数日姿を見せないので病気でもしているのではと心配したのです。
梨湖は自分の部屋に鍵もかけずカーテンを引いたまま、隅のほうにうずくまっていました。
私は梨湖の名前を呼びました。
「進さんなの?」
薄暗がりからの彼女の声は鬼気迫るものがありました。
「…………」
真実を梨湖に正視させ、現実を乗り越えるだけの強さを取戻させる以外に彼女が復帰できる道はないと咄嗟に考えました。逆療法をとったのです。
「奈瀬進は訓練中に死んだじゃないか。きみの眼で確認したはずだ。いつまでふさぎこんでいたところで進が帰ってくることはないよ」
できるだけ素っ気ない調子で私は言いました。胃の腑をちぎられるような思いでした。やさしい慰めの言葉の一つもかけたかったのです。
「わかっています……」
私は追い打ちをかけるように厳しい言葉を投げつけました。
「進路最終選択が迫っているんだ。どうする。このまま廃人になったらさぞや進も悲しむよ。男だったら、外人部隊にでも入隊するってところかな」
「…………」
私はそれだけ言うと彼女の部屋を飛びだしました。
まさかと思いました。彼女が元気を出してくれれば憎まれてもいい……そんな気持で吐いた科白でした。ところが、最終進路を見て驚いたのです。梨湖は地上勤務の希望を撤回し、アルデバラン星系7γ‐V有人観測星勤務の希望を再提出していたのです。二十歳そこそこの娘が……。有人観測星と言っても定員は一名。人類の文明も届かぬ場所なのです。しかも、その星の観測員は数十年空席となっているのでした。
当然、あっさりとその希望は受理されました。同時に私も辺境地区星域巡回宙航任務の辞令を受けとったのですが、その時のショックは例えようがありません。彼女のその決意というものが、はかりきれなかったからです。
しかし、一応、定期的に彼女と顔を合わせることができるという点ではかすかな喜びさえ感じました。私の担当辺境地区にアルデバラン星系が含まれていたからです。梨湖と顔を合わせるごとにでも力づけていってやろう。地球での平凡な生活を再び望むようになったらできる限りの協力をしよう。それが、進と梨湖に対する義務だと思いました。梨湖が明るい笑い声さえとりもどしてくれれば……。
実際、勤務についてみると、予想以上に私の仕事は苛酷なものでした。担当地区に必要な資材を供給してまわるのです。私と梨湖が定期的に顔を合わせるといっても、三十数ヵ所の観測星を受持っているのです。亜光速で星々を飛びまわるにしろ、数年ごとの間隔は必要でしょう。
梨湖の勤務が決まったアルデバラン星系7γ‐V観測星の環境も、酷いところでした。太古は、地表の総てが海に覆われていたらしいのですが、現在はその面影はなく、生命のかけらも存在しません。
岩塩に覆われた地表の塩砂漠。熱風と、ブリザードを思わせる厳寒の塩嵐《ソルトストーム》の、数時間ごとの繰り返し。
死と狂気の星としか形容できません。前任者が精神障害をおこして退職したという事実を、7γ‐Vのガイドから読んだだけで納得できてしまったのです。
もう梨湖を引きとめることは、私にはできなかったでしょう。彼女自身の決意には、もう他人の介入する余地はなかったのです。
彼女の職務は7γ‐V有人観測星における宇宙空間の、水素電波、星間物質、重力場の観測でした。前任者がいなくなってからというもの、数十年無人化していたこの星です。梨湖が着任した時点では観測所は荒廃の極みであったに違いありません。
最初のプレアデス星団の受持ち星域を消化し、梨湖のいる7γ‐Vへ初めての定期訪問した時の感慨は、格別のものでした。宇宙艇を降り立った時の熱風のイメージは、まさに予想通りのものだったのです。生体維持装置の中からでも、岩塩のぎらぎら照り返す光景は身体を汗ばませるに十分すぎる効果を持っていました。要塞を思わせるドームが眼の前に広がっていました。塩分によって長期の間に侵食されたのでしょう。幾重にも鈍い色調の錆が浮出しているのです。この中に梨湖が一人、あたかも隠遁者の生活を営んでいるに違いありません。
前任者が記したものでしょうか。入口に刻まれた「この門をくぐる者は総ての望みを捨てよ」という稚拙な文字が目に入りました。
一抹の不安を抱いていた私の予想を裏切り、梨湖は私を熱狂して迎えてくれたのです。生体維持装置を脱ぐ時間も待てないほど、彼女は気密室の入口ではしゃいでいました。
彼女の予想外の明るさに私は戸惑いさえ感じてしまったほどです。早速、私は梨湖の食卓に招待され、シャンペン攻めにあうことになってしまいました。
梨湖は職場を、自分の置かれた環境を、観測所の機能を司る巨大コンピューターフェッセンデン≠熱っぽい口調で語ってくれました。塩嵐のものすごさ、星間物質の屋外分析器の状況、フェッセンデン≠フ機能の汎用性エトセトラ・エトセトラ。
梨湖は今の職務に満足し、完全に没頭しているように感じました。
「7γ‐Vは星自身が一つのバッテリーのようなエネルギー源になっているの。ここの岩塩の成分は、硫酸塩か過酸化鉛が殆んどで、帯電と放電を繰り返しているわけ。塩嵐《ソルトストーム》がある種の充電作用をもたらしているのかもしれないわ。だから、ここのメガロ・コンピューターフェッセンデン≠フエネルギー源をこの星と接続すれば、永久機械として使えるんじゃないかと思うの。フェッセンデン≠ヘ自己修復機能も持っているし。そうだわ、これから少し時間的余裕ができたら、それ実行してみようかしら」
梨湖の話の、落雷を伴う塩嵐《ソルトストーム》は想像以上に凄まじいもののようです。
「とてもきれいなのよ。あの凶暴な音さえ、伴わなければの話だけれど。落雷が、まるで蜘蛛の糸の網のように天空を一杯に覆うの。天然の芸術ね。見事という他はないわね」
奈瀬進についての、思い出話のでてくる隙はありませんでした。梨湖さえ、その話題について触れなければ、私はもう口に出す気はありません。
食後のコーヒーを啜りながら、彼女に提案しました。これは事務上の確認というものです。
「何か、必要な物資はないのかな。在庫資材はチェックしたんだが……。今の梨湖に必要なものは、例えば、娯楽用のゲームとか、家庭用品とか……。男は誰でもそうだけれど、宇宙飛行士となると、それに輪をかけて不粋な奴揃いだ。我々が気がつかないで欠けているといった物資があったら、遠慮なしに言ってくれよ」
「そうね……」
梨湖はあの小首をかしげ、はにかむような表情で考えていました。
「ゲームの相手は、今のところフェッセンデン≠ェやってくれるし。……そうね、地球に関するデーターの詳しい本があったら、今度持ってきてくれないかしら。地球の気候、生活、教育、料理、政治、習慣、なんでも詳しく載っている本がいいわ。地球を遠く離れて、初めて地球について腰を据えて知る時間を持てたような気がするの」
私は梨湖に微笑みながら頷きました。その程度の要望なら、お安い御用なのです。
ゆっくりと室内を見まわしました。それ迄、梨湖と再会できた興奮と会話の連続で、まだ観察する余裕が持てなかったのです。
私たちがいるのは、入口の気密室のすぐ次の居間なのでした。居間といっても、奥にあるコンピューター室と、扉なしに続いているのです。部屋の隅に、小さいながらも機能的な厨房兼食料供給装置が備えられており、他に目立つのは、ドームの二階展望室へ昇る、室内中央の螺旋階段だけです。室内装飾の類いは、梨湖が地球から持ってきた、ドライフラワーが本棚に吊してあるだけで、あとは殺風景としかいいようがありません。
「どうです。この観測所の御感想は」
梨湖にそう言われて、私は思わず口籠りました。「味気ないところだな」というわけにもいかないでしょう。
「住めば都……という感じじゃないのかな」
あたり障りのない答でしょう。梨湖はくすっと笑って、正面のコンピューター室に行きました。
「映画でも見ません。前任者が置いていったコレクションがあるの。このスクリーンに写せるから。えーと。『マルタの鷹』『カサブランカ』『黄金』『恐怖の報酬』『キイラーゴ』私もほとんど見てないの。それとも音楽でも聞く?」
私は頷きました。
室内にハンク・ウィリアムスの声が響き渡りました。しかし、曲はカントリー・ナンバーではなく、ビートルズ・ナンバーP.S.I LOVE YOU≠セったのです。
「これは……」
私は意外さに響きました。ハンク・ウィリアムスがビートルズの曲を……。
梨湖は、驚く私を、悪戯っぽく観察していたのです。
「音質合成なの。私が持ってきたテープはハンク・ウィリアムスの曲が一つだけ。だからフェッセンデン≠ノ学習させて、今ではクラシックから演歌まで、男性の歌は総てハンク・ウィリアムスの声で歌うわけなの。そろそろ、聞きあきた気もするけれど」
私は発作的な思いつきを実行に移してしまいました。確かに思い返せば、軽薄な行動だったと思います。
「こんなのも退屈しのぎになるんじゃないか。時々、思い出した時に、宇宙艇の中で聞いたりしてたのだけれど」
私はケースから一つのカセット・テープを取り出しました。それは、大学時代、奈瀬の下宿で面白半分に録音した私と奈瀬、それに梨湖の喉自慢のテープでした。三人の軽口と笑い声が冒頭にあり、それから私がフォーク・ソング、奈瀬がブルー・グラスの弾き語り、そして梨湖がプレヴェールの詞のシャンソンを歌ったものでした。一人が歌い終るごとに、笑い声と残りの二人の厳しい批評(もちろんジョークだらけの)が入るわけです。
「まあ。なつかしい。借りておいていいのかしら」
梨湖は憶えていたのです。そのテープを凝視《みつ》めていました。
「暑い日だったわね。皆でウィスキーをしこたま飲んで酔っぱらって、二、三日は気分がすぐれなかったのよ。でも、いい思い出だわ」
それから数時間後、私は旅立ちました。梨湖は別れを告げる時、言いました。
「次の定期訪問を楽しみにしているわ」
第二回目の訪問までに、7γ‐Vは地球時間で、五年の歳月が流れていました。私は数カ月の飛行と任務を遂行したのにすぎないのです。しかし、その数カ月の間、梨湖に心の裡をいかにして告白しようということだけを考えていました。第一回目の訪問の時は、梨湖の自暴自棄になった姿だけを想像し、如何に慰め、力づけてやろうかということだけで、頭が一杯の状態でした。しかし、快活な梨湖を見て、もう、その必要はないと感じたのです。そして、別れの時に梨湖が口にした再会の約束が、耳もとにずっと残っていました。もう、奈瀬に気兼ねなく、正々堂々と梨湖に私の胸の内を告げても許せるのではないかと思ったわけです。
もし、梨湖が私を受け入れてくれるとしたら、二人で今の任務を辞めよう。そして地上勤務に就くんだ……そんなところ迄、空想の翼を広げていたのです。
胸をときめかせ、私は7γ‐Vに降り立ちました。
五年の時の流れは、梨湖にとっては、そう永いものではなかったようです。少くとも外見上は、そう変ってはいませんでした。
私は梨湖と約束していた地球カタログを渡し、とりあえず資材の補給とチェックを済ませました。
「CRTスクリーンを三つほど置いていって頂けないかしら。フェッセンデン≠ノ使いたいの」
梨湖の要望で、コンピューターフェッセンデン¥ヰウ部品であるスクリーンを、新たに補給しながら、私は梨湖に何と言って話を切りだすべきか、その最良の方法を検討していたのです。
「何か、今日までのあいだに変ったことがあったかい」
私は、一応、事務上の手続きだけは済ませておこうと思い、念の為、梨湖に確認をとりました。
「いえ、別に。毎日、塩嵐と熱風の連続なだけ。ん……と、二度ほど第三地点からの観測データーが途絶えたことがあるわ。どちらも、短時間、五分ほどだったかしら。つい最近のことよ。まだ故障が続くようだったらなんだけれど、今のところ正常に作動しているようだし、気にする必要はないかもしれない」
「重力波観測器の一つだね」
そう言いながら重力波観測器のデーター受信記憶装置のスイッチを入れてみますと、確かに半年前と、二カ月前の個所に一度ずつデーターの線が切れた部分が写し出されました。
第三地点は、インフォメーション・パネルから見るとドームから北西に二キロほど離れた地点のようでした。
梨湖が、突然、フェッセンデン≠ノ向って叫びました。
「あの、第三地点は前から調子が悪かったのかしら。つまり、私の前任者のころからという意味だけれど」
私は一瞬きょとんとしてしまいました。
「いや、以前はそんなことはなかったようだよ」
返ってきた声は若い男性の声でした。その声には私も聞き覚えがあったのです。
――奈瀬進
「あの声はまさか」
私が思わず声を発すると、梨湖はさりげなく言いました。
「そう。進さんの声です。私も強いふりをしても、やはり女ね。完全に忘れさることはできなかったの」
彼女は、私が残していったテープから、進の声を分析、合成し、フェッセンデン≠フ声として使っていたのです。その、会話合成技術《スピーチ・シンセサイザー》は、鼻音や摩擦音を伴った音質だけではなく、イントネーションやアクセントまで奈瀬と寸分違わぬ、高度なものだったのですから。
「やはり、最近、観測機械に変調が起ったのかもしれないわ」
梨湖の話にも、私はしばらく反応できないでいました。
「あら、ごめんなさい。前もって話していなかったから驚いたのね。この前の訪問の時、お借りしたテープをフェッセンデン≠ノ学習させたの。音質から口ぐせまで、そっくりそのまま。……この星で一人暮らしの話相手としてフェッセンデン≠ノスピーチ・シンセサイザー装置を付けるというアイデアなら、誰にでも思いつくことじゃなかったかと思うの。ただ、私の場合、どんなにふっ切ろうとしても、結局、進さんのことを忘れることができなかった。それで、もう開き直ったわけ。フフフ……。でも、話相手として、単純に進さんの声音を真似するだけのコンピューターなんて、艶消しでしょう。悪趣味かもしれないけれど、私はこのフェッセンデン≠ノ進さんを……私の心の中にいた進さんに関する総てをコピーさせたの。その時、私はフェッセンデン≠ノ言ってやったの。あなたは今日から進さんなのよッて。そして必要な情報は総てインプットしてやったわ。私が知っている限りの進さんの生い立ち、進さんの趣味、思い出話を語るためのいろんな昔のでき事を……。だから、今じゃ、フェッセンデン≠ヘ進さんのパーソナリティを備えた……というよりも進さんそのものなの」
それから梨湖は自嘲的に呟くように付加えました。
「数種類の観測データーを地球に送るだけの業務に対して、こんな巨大コンピューターを備えるのがもったいないのよね。容量の十パーセントも使いこなしていなかったんだから」
それから梨湖は私に顔を向けました。
「ねぇ。何か進さんに話かけてみて」
私は戸惑ってしまいました。それから、やや照れながら、名前を呼びました。
「おい、奈瀬。聞こえるか」
フェッセンデン≠ェ奈瀬進の声音で答えました。
「なんだ、おまえか。久しぶりだナァ」
私は、それから次の質問をフェッセンデン≠ノ投げかけたのです。
「こちらこそ久しぶりだ。おまえが俺に初めて、梨湖さんを紹介したときのこと、覚えてるか」
二秒程の間がありました。
「ン……と。だいぶ前だな。俺も照れ屋でね。ガール・フレンドを友人に紹介するんで、だいぶ上っていたよ。入学式から四日目だったっけな」
まさしく進でした。しかし、梨湖がプログラミングした進ですから、梨湖の記憶内での話題しか持たないのです。
「そうだ。無重力生理学の講義の後、おまえの下宿へ遊びに行って紹介されたんだからな」
「そうだったっけ。それは忘れていた。プログラムしておこう」
奈瀬の声がそう答えたので、梨湖は声を押殺して笑いました。
「当然、進さんが知っているはずの質問を受けた時は、知らなかったと言わせずに、忘れていた、と答えるようプログラムしてあるわ」
私の心の中で、梨湖に対して使用する筈だった様々な愛の言葉が、切れぎれの断片となって遙か彼方へ飛去っていくのがわかりました。梨湖が奈瀬のことを忘れさったに違いないと考えたのは、私の一人合点に過ぎなかったのです。私は、そのことを悟った瞬間、身の置きどころのない恥ずかしさに襲われました。自分の愚かな思いあがり……。
梨湖は、一時は奈瀬のことを忘れようと努力もし、ためにこのさいはての地にもやってきたのでしょう。しかし、この孤独の星で職務の合間に何をするのでもなく、死んだ恋人のことを想い出したとしても、決して不自然ではないのです。
「ねぇ。よかったら進さん……じゃないフェッセンデン≠ノ進さんの思い出なんかを話して聞かせていただけないかしら。私の知らない進さんの癖とか。男同士の話とか……。だって今の段階でのフェッセンデン≠フ進さんは、私の思い出の中に極めて主観的な個性しか備えていないと思うんです。あなたが、フェッセンデン≠ノもっといろんな思い出や、進さんの性格を教えていただいたら、フェッセンデン≠フ進さんも今まで以上に、人間的な$[みがでてくるんじゃないかと思って。どうかしら。もちろん、完全な進さん‘そのもの’にはなれないと思うけれど」
私にはわかりました。梨湖が私を歓迎するのは、進に関する思い出を私が共有しているという事実に対してなのでしょう。
それでいいじゃないか。奈瀬の親友として、私は残された梨湖の力になってやるということで……。
その夜の食事で、私は珍しく限度を考えない強引な飲みっぷりを示し、梨湖とフェッセンデン≠フ進とともに夜遅くまで馬鹿っ話を続けました。
その会話を、私は十分に楽しんでいたか否かという点になりますと、何とも複雑な気持なのです。
「そうだわ、まだ言ってなかったけれど、この観測所のエネルギー源を取替えたのよ。この星から直接エネルギーがとれるの。だから、充電装置だけで永久にこの観測所は生き続けるわよ。素晴らしいでしょう。
進さんの歌は、いつもカントリー・ナンバーばかりだったでしょう。スタンダード・ナンバーも歌ってくれるのよ。End of the World≠ニか。すごくうまいの」
梨湖もほどよく酔いが回り、饒舌になっていたようです。書棚から一冊のアルバムをとり出して、私に観せてくれました。そのアルバムの殆んどの頁に貼られた写真には、梨湖と進、それに私が、一緒に写っていたのです。
「この時は、皆でドライブしたのよね。で、ドライブ・インを出てからすぐパンクしちゃったでしょう」
梨湖は中の一枚の写真を指しました。そういうこともあったのです。
「ねぇ、進さん、覚えてる?」
フェッセンデン≠ヘ、そのデーターをまだ梨湖から受けていなかったのでしょう。黙したままでした。私はちょっと気を良くして梨湖とフェッセンデン≠ノ口をはさみました。
「あのパンクの時はひどかった。スペアタイヤが入ってなかったんだから。二キロは少なくとも三人で押しているよ」
私と梨湖は、その時本当に心の底から笑いました。
私が初めて見せて貰ったのが、梨湖と進の幼稚園時代の写真でした。私のよく知っている二人が縮小相似形で並んでいたのです。園児服を身につけた二人は、何が楽しいのかわかりませんがこちらを指さして口を大きくあけながら、笑っているのでした。
初めてフェッセンデン≠ェこのアルバムに関して話題を持ちだしました。
「その写真で、ぼくと梨湖が笑ってるのは、何故だと思う」
非人間的なテレビカメラが頭上から、このアルバムを覗きこんでいたのです。
「いいや、知らない」
私は正直に答えました。
「確か、カメラマンが近所の写真屋のおじいさんで、ぼく達の機嫌を損わないようにと、いろんな物真似をやってくれたうえで写したやつなんだ。その時はオランウータンの真似をやりながらじゃなかったかな」
「その通りよ。進さん」
梨湖が満足そうに言いました。
窓外を覆う夜の闇の中を一瞬、光が走りました。
「ほら、夜の塩嵐《ソルトストーム》よ。もう、お疲れでしょう。部屋でお休みになったら、私も自室で休みますから」
あてがわれた部屋から、夜の光景を眺めることができました。防音効果のため、音こそありませんが、その気候の激しさは闇の中を光条が走るたびに静止画としてとらえることができたのです。
私は独りごちました。
「奈瀬は、梨湖のこんな状態を満足しているんだろうか」
「何とも言えないな」
答えたのはフェッセンデン≠ナした。もちろん、進の声でです。フェッセンデン≠ヘこの観測所の総ての場所に存在し、そして、この観測所そのものなのかもしれません。
進の声をした機械が言いました。
「私の使命は、この観測所の主人に満足を与えることだ。現在の主人は、私が進であることに満足しているようだ。私がもっと進という男性のパーソナリティを備えれば、より、主人は満足してくれるはずだ。あなたは、さきほど、主人から進に関する思い出や性格を私に教えるよう依頼された。私にそれを教えて欲しい。あなたの眼からみて進とはどんな人だったのですか」
機械的な思考の論理でフェッセンデン≠ヘ私に頼みました。
「そうだなあ」
私はベッドの上にひっくり返って、ひとりごとのように呟きました。
「いいやつだったなあ」
「‘いいやつ’?」
私はお構いなしに続けました。
「ああ、何よりもまず、奈瀬は梨湖を真剣に愛していた」
「‘愛していた’?」
「そうだ」
「……具体的なデータが欲しい。事例から共通する概念を紡いでいく。まず、‘いいやつ’であった例から話してくれないか」
私は大声で笑い出してしまいました。やはり機械なんだなあと思いながら。
「そうせかさないでくれ。夜はまだ長いようだから、ぼちぼち話していくことにするよ」
第三回目の訪問はそれから二年後という短い間隔でした。他の星系の観測員異動が偶然に重なったこともありました。といっても梨湖の外見上の地球年齢は三十歳代に入ってしまったはずです。私の方はというと、外見上の地球年齢は二十四歳そこそこといったところでしょうか。
しかし、今回の着陸はひどいものでした。塩嵐《ソルトストーム》の真只中に飛びこむことになってしまったのです。今までの訪問が恵まれすぎていたのかもしれません。
梨湖が、生体維持装置に入って戸外で私を誘導してくれなかったら、ひょっとして吹き飛ばされていたでしょう。彼女が入っていた生体維持装置も、生命綱でドームと繋がれていたほどですから。
観測所内に入ると、今までの嵐が別世界のことのように感じられました。梨湖と二年ぶりの再会を祝しあい、すすめられるままに、居間の椅子に腰をおろしたのです。
その時、壁面に大きなパネルスクリーンが、新しく掛けられているのに気がつきました。
「その後どうだ。身体もかわりないか。異星での健康は、重力と密接な関係があって、十年めくらいが、いちばん不調が発現しやすい時期らしいんだけれど」
私の質問に微笑んだ彼女は、もう完全に年齢相応の落着きを持った一人の女性に変っていました。
「御心配ありがとう。異状なしのいたって健康というところよ」
私も微笑み返しました。そしてカメラに向って「進も、その後、調子はどうだい」
すると、フェッセンデン≠フ前に置かれていた、巨大なCRTスクリーンが閃いたのです。あれも、前回の訪問の時、私が置いていったCRT装置だったはずです。
「おかげさんで、私も変わらない」
進の声でした。声だけではありません。CRTに進が、彼の顔が大写しになっていたのです。
「疲れたろう。ゆっくりしていけよ。私は飲めないから梨湖が相手してくれる」
静止画像ではありません。進がCRTの中から私に話していたのです。それは、まるでテレビ電話で相手と話しているような錯覚さえおこさせました。
「これは……」
私は、進が死んだことを思い出し、死者との通信装置を完成したのではないかとまで疑ったほどです。驚愕の一語でした。
ただ、テレビ電話と違うのは、奈瀬進は全体像として巨大スクリーンに写っていたのです。
「虚像よ」
梨湖が自嘲的に言いました。と同時に、居間に新しくかけられたらしいパネルスクリーンが閃きました。そのスクリーンも大きなもので、幅が三メートル、高さが二メートルはあるでしょうか。
映像は一つの部屋を写していました。まるでこの居間に続いて、もう一つ部屋があるといったふうに見えるのですが、違うのは、その部屋は地球の一戸建の家屋に見られる典型的なデザインの室内装飾が施されていたのです。この居間の白いトーンと調和するような、地中海によくあるタイプの家と思えました。その映像の部屋の窓からは、庭続きの田園風景、それに遠景として海岸線まで望めるのでした。
私にはわかりました。これは私が持参した、地球カタログからコピーされた映像なのです。見たおぼえのある景色だと思ったはずです。
「そっちの部屋へ行くよ」
進の映像が言いました。映像の彼は、今、書斎に立っていたのです。彼の姿がコンピューター室のスクリーンから出ていきました。それからパネルスクリーンを注意していると、映像の部屋の扉があき、進が中に入ってくる場面が写りました。彼はゆっくり部屋の中央まで歩いてきて、安楽椅子を私たちの方にむけ、ゆっくりと腰をおろしたのです。
スクリーンの位置が壁の最下部から取りつけられているため、彼はまさに私たちと相対して応対しているという印象を受けます。
「久しぶりだったな。相変らずだね」
進が落着いた口調で言いました。
「ああ」
私は生返事して、そっと梨湖の反応を盗み見ました。しかし、彼女は、先刻から私の驚きぶりは承知のうえで、それを楽しんでいたのです。
「進さんの写真からなの。ディスプレイ装置に表現できるように、何枚もの写真を記憶させたの。だけど静止画像だけじゃつまらないから、表情をつなぎあわせてアニメートさせたわけ。写真にない部分は、フェッセンデン≠ノ類推《アナログ》させて私が修正を加えて……。
進さん。横を向いてくれない」
進がゆっくりと横を向きました。その表情のある瞬間に、スナップで見憶えのある彼の表情が再現されていました。
これは進じゃあない。これは誰だかわからないけど、‘進のような男性’なのです。しかし、梨湖にとって、これは彼女の思い出の中に存在する進そのものの具象かもしれません。
「進さん。悪いけれど、まだ仕事の打合わせが残っているんです。席をはずしてもらえません」
梨湖の言葉にスクリーンの彼は微笑して、部屋から出ていきました。厭な顔をするわけでもなく。
彼女は私に振り返って尋ねました。
「いかが……」
私は無言のままでした。悪趣味だというのが本音なのですが、それを口にすれば、彼女を傷つけてしまうような気がしたのです。明らかに彼女はこの労作の正当な評価を受けたがっていました。私が、進の映像と会えたことを喜んでいると考えたのかもしれません。下手にけなして、私がこの映像の進に嫉妬していると彼女が感じる……ことはないにしてもどの道、この場合、黙ったままが一番いいような雰囲気でした。
「どう思いました」
仕方なく、私は本音を吐きました。ただし、その映像のそれに関してではなく……
「よほど、奈瀬進を愛していたんだなあ」
梨湖はゆっくり頷きました。
「業みたいなものね。忘れようとしても忘れられない。忘れられないのなら、いっそのことと思ってフェッセンデン≠使ったのだけれど……。完全なものをと思って進さんに似た存在に近づけていけばいくほど、虚しくなってしまうんです。このあいだの、あなたの訪問でフェッセンデン≠ヘ、より進さんに近い個性を備えたのは事実よ。私にとってはほぼ完全な進さんなのだけれど、所詮、現実の世界にいる私と、映像の中の進さんとは次元が違うのね。口答えするわけではなく、うまく言えないけど、何かが違うの。スクリーンの壁でいつも隔てられていて……焦立ちさえ感じることがあるんです」
それが限界なのです。いくら完全なものに近づいたところで。
「でも、方法がないわけじゃないわ」
彼女は思いつめたように言いました。
さりげなく話題を変えようと努めました。あまりにやりきれないではありませんか。
「他に、何か変ったことはなかったのかい」
私の気持を察したのでしょうか。梨湖は慌てて作り笑顔を浮かべたのです。
「ええ……。そう言えば第三地点の観測機械の変調がひどいみたい。このあいだなんか二十時間もデーター送信が停止したの。まだ、暫くこの状態が続くようだったら、部品ユニットを交換しようかと思ってるの」
第三地点の変調は前回の訪問の時からなのです。
「交換作業をやっていこうか」
女性には困難すぎる作業なのではと私は気づかったのでした。
「いいわ。どうしても調子が悪いとき自分でなおすから。ありがとう」
7γ‐Vからの通信が途絶えたとの連絡を受けたのはプレセペ星系を宙航中のことでした。7γ‐Vへの臨時巡航を指示されるより速く、居ても立ってもおられず、既に航路を梨湖の星へと向けていました。最高速度でもプレセペからは一年半もかかるのです。前の訪問から五年も経っていたでしょうか。彼女も、今は中年過ぎの年齢のはずです。
一体、何が7γ‐Vに起ったのでしょうか。
塩嵐。落雷。あの狂ったような星の光景が脳裏に浮かびました。
まさか病気になったのでは……宇宙病、それとも怪我。悪い想像ばかりが膨らんでいくのです。
ひょっとして何事もなく、慌て顔の私をいつものように笑ってむかえてくれるのではないでしょうか。ただの通信機器の故障よと、ちょっと照れながら。
そんなふうであってくれればいいのですが。
7γ‐Vの地表に降り立った時、そのあまりの静寂に意表を突かれた思いでした。乾燥した粉状の塩が、岩塩の上に複雑な風紋を描いていました。それが微風に吹かれて徐々に形を変えていくのです。そんな光景が視界の果まで、ずっと続いているのでした。
その中に、ぽつんとアンバランスな存在の観測所であるドームが立っているだけなのです。
私は風紋に足跡をつけ、星の美観を損ねることなど、一切お構いなしで、ドームまで走りに走りました。
室内に入ると、生体維持装置を脱ぎ捨てるのももどかしく、梨湖の名前を叫んだのです。
答はありません。
居間から、書斎、寝室と、総ての部屋を走り回りました。しかし、どこにも梨湖の姿は存在しなかったのです。――消失?
気がついて、私は気密室の入口へ戻りました。なかったのです……梨湖が使用していた生体維持装置が。
外部に梨湖の足跡らしきものを見ることはできませんでした。私がつけてきたらしい足跡が一種類だけ。梨湖がこの観測所を出てから、どのくらい、時が経ったのでしょうか。一年、……一年半。椅子の上の埃ではかれる時の経過はその位のものでしょうか。
居間の椅子に腰かけ、私は、なすすべもなくため息をつきました。第三地点からのデーターは正常に送られてきていました。きっと、梨湖は、部品交換にでかけた時、あの狂気のような塩嵐に遭遇したに違いありません。
梨湖のあまりに虚しい一生を思い起すと、ため息ばかり続いてでてくるのです。
私に、もう少し勇気があったなら、梨湖に愛を告白し、ひっぱたいてでも、地球へ連れ返ることができたはずです。しかし、今更、そう思っても仕方ないことでしょう。どう、できるわけでもありません。
生体維持装置に身を包んだ梨湖が、塩嵐の雷鳴の中を、吹き飛ばされそうになりながら、観測所への道を探そうとしている……そんな光景が眼に浮かびました。
哀れすぎる。
愛する人を事故で失い、その悲しみに耐えるため、辺境の地に仕事を求め、それでも過去の恋人を忘れることができない。なす術もなく時を過ごした挙句、彼女はある日突然、不慮の死を迎えてしまう。
あまりにやるせないではありませんか。観測員の死として受けとめるには彼女は、私の心の支えとして、あまりに大きな存在でした。
こういう時、誰でもいい。話相手が欲しくなるものです。私はコンピューターフェッセンデン≠フ存在を思い出しました。確か、梨湖はフェッセンデン≠フエネルギーを、この7γ‐Vから直接、永久的に採っているはずです。フェッセンデン≠ノ聞けば何かわかるかもしれません。
「進! フェッセンデン! 聞こえるか」
フェッセンデン≠ヘ何も答えませんでした。もう一度、私は叫びました。
「進、聞こえたら返事してくれ」
何度、呼びかけても同じことなのです。
私はフェッセンデン≠フ出力部の装置が切れていることに気がつきました。キィを押してやると、CRTスクリーンに文字が浮かんできたのです。
――このプログラムは、観測員がフェッセンデン≠ニ四十八時間以上、対話を持たなかった場合に自動的に開放され、他のプログラムは自動的に閉鎖される。このプログラムは開放されてから九千七百十二時間、経過しており、現在も継続中である。
そんな意味の文字が流れていきました。
スクリーンに進が映りました。「進!」私は思わず叫びましたが、この前、フェッセンデン≠ノ映った彼と違い、私の存在に全然気がつかないふうなのです。
彼はパイプをくゆらせながら、白い部屋の中で、誰かに微笑みかけているのでした。
その微笑が誰にむけられたものか、すぐに知ることができました。
画面の隅からでてきた女性は、梨湖だったのです。彼女は、進の横の揺り椅子に腰をおろし、やりかけだったらしい編み物をはじめました。
進と梨湖は何か、言葉を交わしながら時々笑い合っているようですが、音声が入ってないため会話の内容までは知ることができません。
私は、気がつきました。梨湖の腹部の膨らみにです。彼女はマタニティ・ドレスを身につけ、幸福そうな表情を浮かべていました。
私は何度か、画面の二人に話しかけたのですが、何の反応もありません。
彼女はコンピューターのあの画像の中へ転移したのでしょうか。そんな錯覚さえ抱いてしまいました。
私は悟りました。これは梨湖が自分の生涯でかなえられなかった夢を託した虚像なのです。コンピューターフェッセンデン≠フ内宇宙に構築された梨湖の理想世界そのものといえるでしょう
たしかに梨湖と進は、今、フェッセンデン≠フ中で一つの生活を持っていたのです。これは、虚像の進を作り上げながらも、完全な進に近づければ近づけるほど異和感を持ち続けた梨湖の一つの解決法だったのでしょう。そして、もしも、自分の身に何かがあった場合、自動的にプログラムが発現するようにしておいたのです
彼女の死が契機となり、彼女の理想世界がスタートする。そのことよりも、これほどの進への想いに対して、こういう形で彼女なりの愛≠完成させた彼女の行動に、私は感動さえ感じていました。彼女は虚像の中で、あと数ヵ月後に出産するのでしょう。そして、その子たちは無限エネルギーのフェッセンデン≠フ内宇宙で成長し、社会に出て、新しい伴侶と結ばれ……そこまでプログラムされているものでしょうか。
フェッセンデン≠ヘ、もう梨湖と進そのものなのです。第三者の介入することのできない……。この観測所をこのままの形で保存するために、ドームが塩嵐で崩壊したと虚偽の報告を地球に提出しようと思います。たいして、重要な星ではないはずです。すぐに7γ‐Vは忘れ去られることでしょう。
この星を発つ前に……私はあることを思いつきました。
梨湖と進に話しかけることはできなくても、手紙を送ることはできるのではないでしょうか。
私は長い長い手紙をしたためフェッセンデン≠ノインプットしたのです。但し、私がこの7γ‐Vを発ってから十時間後に彼等の許に手紙が届くように。学生時代の思い出、二人への祝福、これからの生活のこと、私の仕事の近況などです。
彼等は手紙を受取った時、どう反応するようプログラムされているのでしょうか。
再び、私はこの星を数年後に訪れてみるつもりです。虚像の梨湖と進が7γ‐Vの塩嵐の中で、平穏で幸福な生活を続けているのであれば、私にとって、ここは永遠のオアシスに違いありません。
他人の人生に介入できない我々にも、その程度の喜びは許されていいのではないでしょうか。さようなら梨湖。さようならフェッセンデン=B
私は虚像であろうとなかろうと、梨湖の子孫たちまで見届けてやるつもりでいるのですから。
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おもいでエマノン
一九六七年といえばジェミニ計画が一段落した翌年で、まだアポロも月に着陸していなかった。万国博のことがぼつぼつ話題にのぼりはじめ、新聞ではベトナム戦争の拡大が騒がれていた。巷《ちまた》には「帰ってきたヨッパライ」が繰り返し流れ、七〇年安保を控えて学生たちはにわかに騒然となり始めていた頃だ。
ぼくはというと相変らずの日和見《ひよりみ》で、SFびたりの日々を送っていたような気がする。
SFだけかというと、そうではなく、学生という、時間だけはたっぷり持て余した身分だったために、いろんな女性に惚れていた。この「惚れていた」ということと、「もてた」ということは全然違うことで、ハインラインあたりだったら、「ハーポ・マルクスとグルーチョ・マルクスくらい違う」というところだろうけど、ぼくなら「ハーポ・マルクスとカール・マルクス」くらいの違いということになる。その殆んどが、岡惚れ、あるいは一方通行で、ぼくの自尊心は一ダース以上も踏みにじられたものだった。それでも青春期という、例の思考形態も行動形態も青っぽくて甘ちゃんな時期でもあったわけで、直情径行気味のぼくは飽きもせず失恋を繰りかえしていた。
その時点でも、ぼくは手ひどい心の傷を受けていた。指折り数えて(足の指まで動員してだが)ン回目の失恋ということになる。身体中の羽根を抜きとられた鶏みたいに惨めで矢も盾もたまらず旅に出たのだった。
その回もワン・パターンの失恋で二日も悶々《もんもん》とすれば、正常な精神状態に復帰できるはずだったが、ちょうどバイトの金が入った直後でもあり、感傷旅行とやらもオツではないかと軽率にきめこんだ挙句のことといえる。
見知らぬ土地をめったやたらに歩きまわりそろそろ財布が心細くなり始めた頃、帰りの船に乗った。案の定、その頃は心の痛みなぞあっけらかんと忘れていたはずだ。
九州の北部へむかうフェリーは、かなり大型のもので、一万トン以上はあるだろう。
しかし、二月は比較的、乗客数の少ない時期なのかもしれない。二等船室は寝泊りするにもガランとして寂しいほどだった。船室といっても大広間が揺れているようなもので、乗客たちは部屋の隅から毛布と枕《まくら》を持ちよって、てんでばらばらに休みをとっている。こういう時、人間の習性とは不思議なもので、四隅から順々にテリトリィを築いていくものらしい。ぼくも甲板の見える窓の下に場所をとり、ブリキを打ち抜いたような灰皿を手許に引き寄せて煙草をくゆらせながら、ハヤカワSFシリーズのカート・シオドマク『ハウザーの記憶』に目を走らせはじめた。
甲板の見えるはずの窓をふと見上げると、真白く曇っているけれど、外は余程冷たいのだろう。乗船した時、粉雪が舞っていたのを思いだし、かじかんだ手の感触が蘇《よみがえ》った。
今から十七時間の船旅か。あと何分で出航だろう。その時間がこれからのぼくの人生にとって永いものか、短いものかの戸惑いを一瞬感じたとき、ナップ・ザックが無造作に眼の前に投げだされた。
「ここ、あいてるかしら」
十六歳から二十五歳まで、その間のどんな数字を言われても不思議はないといった感じの少女が立っていた。何だかすごくノッポに見えたのだぼくが毛布の中からイモ虫みたいに見上げていたせいかもしれない。周囲を見まわせば、わかるだろう……と返事も最小限に「ああ」とすませたのだ。
少女はぎゅうぎゅう詰めのナップ・ザックを抱えこむようにペタリと胡座《あぐら》をかいた。ジーンズに粗編みのセーターで、髪は胸まである。少し、そばかすが残っているけれど、瞳《ひとみ》の大きな彫りの深い異国的な顔立ちで、予想外に美人と思ってしまった。
美少女だ。うれしくなってしまったのだ。
彼女はナップ・ザックからシガー・ケースをとり出すと、名前のわからない両切りの煙草をふかし始めた。
ブリキの灰皿を差出しながら、思わず口にしてしまった。
「女性が煙草を吸うのはよくないな」
我ながらお節介だなと反省してしまったのだ。
美少女はぼくの顔を見て、ちょっと驚いたような表情に変ったが、しばらくしらんふりで煙を出し続け、思いなおしたように、偏見だわという視線でぼくを刺した。
「どうしてなの……」
「どうしてって……。何故って……記憶力が減退するというし……第一、あまり見た眼がよくないよ」
多分、ぼくの言葉に説得力もないだろうし、その時のできることと言ったら、己れの早っとちりぶりに舌打ちしながら、話題を打切るために彼女から視線をそらすことぐらいだった。
ところが美少女は追いうちをかけてきた。
「あら、それは男の人にも言えることよ」
彼女は珍奇な獣を見る目で、ぼくを見すえていた。ぼくは視線を漂わせ、遣《や》る瀬なく美少女のナップ・ザックに縫われたE・Nというイニシャルを何度も見つめていたのだ。悦子、栄子、絵美、江奈、他にどんな名前があるのだろう。
そろそろE・Nのイニシャルが網膜に焼きつきはじめていた。
「ここあいてるかい」
バッグを人間|天秤《てんびん》のように抱えた、小肥りの中年女が出現してくれたおかげで、その時の気まずさから逃げだせる機会を持てたのだ。
「ええ。ええ」
生返事で、これはよいタイミングだとばかり、美少女に背を向けたぼくは、SFを読む気力も失せて、睡魔の領域へ駈《か》けこもうと試みた。
だが、肥った中年女は、聖母のような慈悲に満ちた声音で「リンゴ食べんかい」とぼくに勧めたのだった。
ははぁ、これが例の、船旅≠ニいう閉鎖社会における『ゆきずり共同体』の開幕なのかなと訝《いぶか》しんだにもかかわらず、それを断固として拒否するだけの主体性も勇気も持たないぼくとしては「はあ」と義理で差し出された一切れを口にすると「ありがとうございました」で再び横になった。さもないと、この手管で中年女は、ぼくの年齢、身分、性別、学生であればどこの大学か、家族構成、知能指数、父の年間所得、思想傾向、性格、血液型、趣味、電気製品の購入状況、賞罰、等について調査し終えたあと、人生相談までやりだしかねないタイプに見えたからだ。
毛布を頭から被ってしまうと、ぼくは再び全くの孤独の世界へ戻ってしまい、誰もこの神聖地帯を侵せないはずだと確信してしまった。と、同時に楽天的な性格のためか、ぼくは次の揺さぶりがかけられるまで痺《しび》れたように寝入ってしまっていたのだ。
「あなた。あなた」
快い震動の中で、そんな耳馴《みみな》れない声にぼくは揺られていた。
「あなた。起きてください」
すでに出航したのだろう。船室全体が小刻みのピッチングに揺れていたが気にするほどではない。眼を開くと、さっきの髪の長い美少女がぼくを覗き込むようにしてゆすっていたのだ。
「あ……」
咄嗟《とっさ》に何と言っていいやらわからず、朦朧《もうろう》としたままのぼくは、ぽかんと美少女に見とれていただけだった。
夢ではなかった。少女は再びぼくに言った。
「あなた。私、船酔いしたようなんです。ちょっと風にあたりたいから、一緒にきてくれません」
ぼくは首を二回うんうんと振って、それはいけないと言いながら立上ると、驚いてしまった。美少女が、ぼくの左腕を両手でしっかり握りしめたからだ。振り払うのも、もったいないし野暮ったいし、かといって何故美少女がそんな態度をとるのかも理解できないままで、二人で二等船室を出た。
「ごめんなさい。びっくりしたでしょ」
船室を出た途端、彼女はぼくの腕を離し、悪戯《いたずら》っぽく笑ってそう言ったのだ。
「うん」としか答えようがない。
「だって、あなたが眠ったあと、私の隣に来た人、すごく厭《いや》な奴だったんですもの。臭い息しててね。それで私に無理に酒を飲めって勧めてきたから、私も、私の夫も酒なんて大嫌いだって言ってやったの」
「へえ、君はそんなに若いのに御主人がいるのか」
ぼくの言い方がよっぽど間が抜けていたとみえて美少女は腹を抱えて笑い始めた。
「あなたって正直な人ね」
「いや別に」
それからも、しばらく美少女はくすくすと笑い続けていた。
「夫って、あなたのことを言ったのよ」
あ、そうかと思うと自分の勘の鈍さに呆《あき》れてしまった。
「だって、ああでも言わなければ、あの厭な中年労働者ふうアル中男は離れてくれそうになかったんだもの」
そう言って彼女はまつげの長い瞳を細めてみせた。
ぼくたちはそのまま黙って歩きながら、甲板へ出る通路を移動した。その間、自意識の強いぼくは、何か気の利いた科白《せりふ》の一つも思い浮かべようと必死だったのだ。だから、二人して大鏡の前を通り過ぎようとしたぼくの顔は、可哀相なほど貧相で神妙に見えたものだ。やっとの思いで、ぼくは言った。
「名前、何ていうの」
「……名前なんて記号よ」
「でも、呼びにくいし。……さっきのナップ・ザックにE・Nってあったけどイニシャルなんだろう」
「なんでもいいわ。イー・エヌだったら、エマノンでいいじゃない。うん、それでいいわ」
「エマノン?」
「ノー・ネームの逆さ綴《つづ》りよ」
「…………」
再び、ぼくは言葉につまってしまった。馬鹿にされてるんじゃないだろうか。
甲板へ出る扉は上半分のガラス部分が、湯気で真白くなっており、外の景色を見ることなんか、とてもできない。まして、夕刻の闇が、すでにやってきているのだ。試しにちょっと扉を押した。波を蹴立てる音と突拍子もない風の唸《うな》りがぼくたちを襲った。流れ込んだ冷気が頬をチクチクと刺した。
「やはり、甲板で風にあたりたいの?」
「いいえぇ」
そう言って、美少女はしばらく不思議そうな顔でぼくを見つめ続けた。
「どこへ行くんだろうと思ってたら、本当に甲板へ出るつもりだったの。凍え死んじゃうわ」
ああ、何てぼくはこうもドジで間抜けときているんだろう。
ぼくの口を突いて出る言葉はなく、彼女の美しさを再確認するのが関の山という思考状態でいたわけだ。スタンダールの恋愛論に出てくるところの結晶作用≠ェぼくの中で美少女に対して一方的に始まりかけていたのだろう。
だけど、このままではぎこちない。早く何かを喋らなければという脅迫観念がぼくの尻を焦がし続ける。
救いの手は、その時意外な方向から差し伸べられた。
船内放送がアナウンスされたのだ。
「乗客の皆様へお知らせ申しあげます。船内食堂では夕食の準備ができております。おはやめの御越しを御願いいたします。尚、営業は九時までとなっております」
腕時計を見ればすでに六時をまわっている。
「じゃ、……若夫婦揃っての晩餐《ばんさん》でもいかがだろう」
それが、その時思い浮かんだ最高に気障《きざ》っぽくて気の利いたふうな科白だと思ったわけだ。美少女には断わる理由は何もないみたいで、ええ、いいわと明るく答えてくれ、落ちこみ気味の気分をやっとのことで、やや昂揚《こうよう》させることに成功した。
金持専用《リッチ・オンリー》≠ニでも札が出ていそうな特等船客のラウンジの横が思ったよりも狭い船内食堂で、早くも数組の客が食事をとっていた。弁当とお茶も船室で食べられるように販売されており、そちらの売行がいいようだ。
ぼくたちは窓側の席に就いた。
難民の一人にでもなったみたいな、不健康な雰囲気の二等船室で弁当をつつくなんて、どうしてもそんな気にはなれなかったのだ。
メニューを見ると四行ならんでいた。
カレー・ライス/二五〇円
和定食/六〇〇円
エビフライ定食/六〇〇円
ステーキ定食/一二〇〇円
「何にしよう」懐具合で、素早く試算して最後の行だけは彼女が注文しないでくれることを祈った。
「ここは私におごらせて貰《もら》える。エビフライ定食でいいかしら。それからビールでも飲みましょうか」
美少女はさりげなく言った。
「でも、さっきは酒を勧められるのが厭で、船室を逃げ出したんだろう」
「あ、日本酒は駄目だけれどビールならいいのよ」
テーブルの横にウェイトレスが立った。荒々しく水を置くと、ぼくの太股《ふともも》ほどある腕をまっすぐ入口のほうへ突き伸ばして言った。
「食事代は前払いです。カウンターで食券を購入してください」
両足を開いて床に踏んばったウェイトレス嬢は体躯《たいく》も低重心にできているようだ。いつ、ピッチング、ローリングが来たところでびくともしないような職場環境への適応ぶり。どんな時化《しけ》のときにも、このウェイトレスだけは、テーブルにしがみついて真っ青で今にも吐きそうな食事客を前にして足を踏んばり「食券はあっち」とやっているのだろうか。
結局、仕方なくぼくは立上ってカウンターで食券を求めたから、彼女のおごりというわけにはならなかったのだ。
ウェイトレスがビールを置いた。ぼくは、馴れない手つきで美少女のコップをビールで満たした。注いであげるという申し入れは彼女からはなく、自分でコップの半分ほども満たし、泡だらけのまま一息にぐいと飲んだ。
「エマノン……でいいのかな」
ぼくの確認の問いに彼女はうなずいた。
「どこへ行く予定なの」
その質問に美少女はにっこり笑っただけで何も答えてはくれなかった。
「学生さん?」
今度も同様だった。少女は、窓の曇りを手で円くワイプすると遠くを見る視線になった。
ウェイトレスがエビフライ定食を置いた。
「あのお。エビフライがきたよ」
少女は顔を横に向け遠方を見つめたままだった。そして、急に口を開いた。
「今、どこらあたりなのかしら」
「さあ」
何だか、完全に振り回されている感じなのだ。会話が全然噛み合わない。
少女の置かれたいろんな可能性を瞬間的に思いめぐらせた。「家出」「失恋旅行」「自殺行」「放浪癖」どれに該当するかはわからない。総てに合致するような気もするし、そのいずれでもないような。
「紀伊半島の沖かなあ、今。ほら台風がよく通過する……」
「ああ……、ジェーン台風のときも、こちらを抜けてったのかしら」
「ジェーン台風だって。いつのこと」
「昭和二十五年頃。その頃、関西のほうにいたの。ひどかったわよ」
ぼくが三歳の頃のことだ。とても、少女はそんな年齢とは見えない。
「よく憶えてるんだね。そんな小さな頃のことを……。よっぽど鮮烈な印象だったんだな。台風はやはり恐いわけなのかい」
美少女のコップにビールを注ぎ足した。
「別に怖くはなかったわ。あれが、一番ひどい野分というわけじゃないわ。最高は長崎にいた頃出合った台風ね。あの時は人死にが一万人以上も出たから」
「へェ、長崎にもいたの。いつのこと」
「シーボルトがいた時だから、文政……」
そう言って少女は、ぼくの反応を計測するように目を細めて笑ったのだ。まさか……。百年以上昔のことを。
明らかにぼくは驚愕《きょうがく》の表情をしていたらしい。
「どう。SFファンとしては、こんな話は嫌いじゃないでしょ」
あっ。やはり冗談だったのかと、ほっとした。だけど、さっきの少女の笑顔は凄《すご》みがあったな。魔女的な美しさだったのだ。
「どうしてぼくSFファンだってわかったの」
「簡単だわ。さっきもSFのペーパーバックを読んでたし、あなたが眠ってた時拝見させて貰ったけれど、他の数冊の本も全部SFだったでしょ」
「君もSFファンなの」
「そんなわけじゃないけれど……。さっき読んでた本はどんな話なの。『……の記憶』とかいう題名だったでしょう」
ぼくは熱狂的なSFファンであると自認してはいたが、その頃SFという分野は一般の人にはあまり馴染みがなかったのは事実だろうし、かといって、ぼくはその解説をやるほど啓蒙《けいもう》精神に満ちていたわけではない。たまに知人にSFについての話をすると、話を終えた時に感じる軽蔑の視線から一時も早く逃げだしたくなるのだった。夢物語、荒唐無稽。……彼等のいうことは申しあわせたようだった。
しかし、今は海の上。時間だけはたっぷりと持て余すほどに残されている。決定的なことには、非現実的なほど美しい少女がSFについて興味を抱いているのだ。SFについて話そうじゃないか。少女が退屈で死ぬというのなら道化師にでもなってやろうじゃないか。
「さっきの本は『ハウザーの記憶』というんだ。記憶を他人に移しかえる話なんだ。たとえば、ぼくの記憶を身体から抽出して、きみの脳にコピーさせる。そんなアイデアで、それにナチスが絡んでくる。まだ、読みかけなんだけれど」
そう言って彼女の眼を見た。
「面白そうだわ」
彼女は興味を持ったようだった。少なくとも儀礼的な反応ではない。いい気になったぼくは、今までに感動した傑作SFやSFのテーマ別発想についての解説を開始した。タイムトラベル・テーマに彼女は深い興味を示したようだったがそれは長くは続かなかった。
突然、美少女はぼくの話を遮ったのだ。
「じゃあ、あなたは、どんな突飛な話を聞かされても、それを受け止めるだけの思考の柔軟性は持っているわけね」
「他の人よりはね。分析までできるかどうかはわからないけれど、突飛な話を受入れる素地はあるつもりだ」
少女の問いかけに、やや挑戦的なものを感じて、たじろいだ返事になってしまった。
「だけど、エマノン。何で急に」
すなおにぼくの口から、彼女の名前がでたのだ。美少女は自分の長い髪を一回、大きく振り払った。
「私の話を聞いてみない。信じるか、信じないかは、別として……」
そこで美少女は一つ、大きく息を吸いこんだ。そして、ぼくの答も待たず話し始めたのだ。
「私が生まれたのは、昭和二十五年。だから、今十七歳。だけど、これは私の肉体的年齢にすぎないの。私の精神年齢は……たぶん三十億歳くらいになるらしいの」
「…………」
「見た眼には十七歳なんだけれどね」
エマノンは独りごとのように、もう一度|呟《つぶや》いた。
「だと、すると、君はギルガメシュ伝説のように、何度も若返って不死を保ってきたというのかい」
ギルガメシュというのは古代バビロニアの叙事詩に登場する英雄だ。彼はウタナビシュティムから不死の秘法を授けられたのだ。
「そんなんじゃないの。不死という表現は誤解を招くわ」
首を振ってエマノンは否定した。
「だとすると、長寿ということかな。メトセラの話は知ってるかい。創世記に出てくるメトセラは九百六十九歳まで生きたそうだし、あっ、そうだ。日本でも、そんな伝説があるんだ。若狭に伝わる話で、不思議な異人にもらった人魚の肉を食べた少女が、少しも歳《とし》をとらず八百歳まで生きたそうだ。千歳まで生きられるはずだったらしいけど、あと二百年の寿命をその国の領主に譲ったんだって。八百歳まで少女の姿でいられたというので、その後、八百姫《やおひめ》明神とか白比丘尼《しらびくに》、八百比丘尼と祭られたそうだ。そんな伝説が参考になる気がするけれど」
自分でその話をしながら、何だかエマノンが白比丘尼であるように気がしはじめていたのだ。白比丘尼の伝説では「著聞集《ちょもんじゅう》」にしろ「若狭国志」「和漢三才図会」「播磨鏡《はりまかがみ》」でも十五歳から十八歳の年齢にしか見えないと描写されているからだ。
美少女は困ったように眉を寄せた。
「早っとちりしないで。それは事実、白比丘尼だったこともあるけれど、人魚の肉を食べたこともなかったし、歳をとらないってことはなかったわ。よく聞いて。
‘私は地球に生命が発生してから現在までのことを総て記憶しているのよ’」
ぼくは、即座にエマノンのいうことが理解できずにぽかんとしていた。
「脳がおかしい……というのか気が変なのかも知れないと自分で疑ったことがあったわ。でも、過去の文献を調べてみると自分の記憶の細部が間違いないことを確信したの。私みたいな人間が何故、この世に存在するのか、自分で考えると恐くなってくるの。
ねぇ。地球に生命が発生してから今まで、何年くらい経ったと思う」
「さあ。何十億年かな」
「そう、三十億年くらいかしら。私、図書館で調べたんだけれど、最初の生命形態である単細胞生物が、蛋白質《たんぱくしつ》やアミノ酸のような状態から派生してから。私の一番古い記憶というのが、原生動物として、……それとも細菌の一種だったのかしら。とにかく海の中をたゆたっていた感覚なの。それから、個体発生を繰り返すんだけれど、そんな私の遠い遠い祖先から、私の直系の一匹……あるいは一人だけが、その先代までが体験した記憶をそのまま受け継いで生まれてきてたらしいの」
「君のお父さんや、お母さんもそうなのか」
「母は子供の頃、死んじゃったわ。父はどこかへ飛びだしちゃった。私が生まれてからすぐのこと。あまり責任感とか家庭とかに縁のなかった人だったから……。父がどんな人間だったかはよく知ってるの。私を産み落すまでの母の記憶は、そっくり持っているんだから」
何だか、ぼくはぞっとしてしまった。だとすれば、エマノンは実の父とセックスした体験さえ、母の記憶の中から引きだし、自分の体験として憶えているかもしれないのだ。
残ってたビールを一息に飲み干した。
「魚だった時代、一緒に生を受けた連中は、次々に他の生物に命を奪われていったの。でも私の祖先だけはいつも奇跡的に生存競争に生きのびたわ。両棲類《りょうせいるい》の時代も、ハ虫類の時代もそうだったわ。つまり、私の祖先は常に系統発生の最先端にいたっていうことになるのね。霊長類に進化してから、後足で立上り、道具を持ち始めてから現在までってのは本当にあっという間のことよ。進化が、まるで雪崩《なだれ》を起したみたいに、人間の社会組織化に連れて文明の爆発的発展が始まったの。でも、人間の行動形態というのは、人間への進化以前と本質的にはほとんど変化はしてないみたい。言葉を持ったために、闘争本能への理由づけはたくみになったという差くらいのものね」
何か、これは夢の中の話が進行しているのではないか。そんな考えが頭に纏《まと》わりつき始めていた。ぼくとエマノンはおたがいビールを飲みすぎたんじゃないだろうか。
「多分、これは一種の遺伝病じゃないかと思うのよ」
美少女は自嘲的だった。
「そんなことはないさ。本当だとすれば、病気どころか凄い超能力じゃないのかな」
「超能力……。そんなものじゃないわ。病人というのは、自分の罹《かか》っている病気について必要以上に詳しくなるものよ。DNAの構成要素配列の変化異常と一口で言ってしまえば簡単かもしれないけれど、人間は一定以上の記憶を持つ必要はないはずなの。だって、記憶しておきたいこと以上に、忘れ去ってしまいたい厭な穢《けが》らわしい体験が山ほどあるに違いないんだから。その忘れ去ってしまいたい出来事を、何億年も忘れることもできずにいるというのは一体どんな気持だと思うの。これでもやはり超能力なの」
「だからと言って一概に病気というのは……」
「脳の働きというのは、誰にも断定的にその構造と関連づけて説明できないと思うの。ちょうどポリフィア遺伝子によって或る種の精神異常が遺伝されていくみたいに、個体の体験した記憶が、どんどんDNAに刷りこまれ子孫にコピーされていくというのは、多分、優性の異常遺伝子のためとしか考えられないわ」
「じゃ、そんな能力を持っているのは君の他にも何人もいるの」
「いいえ、家系を見ても、この病気は一代に一人しか産まれないの。だから、私以外にこんな能力を持った人は知らないわ」
「誰か他の人はエマノンの能力について知ってるのかい」
「知らないはずよ。私が八百比丘尼の噂をたてられたのも、過去のできごとについて、どの世代にも同じ話を同じ内容ですることができたからよ。昔の平均寿命は極端に短かったから、長老ならともかく、私のような小娘が四百年も五百年も昔のことを微に入り細にわたって話し始めたら、そう思われても仕方ないかもしれないわね」
「ふうん。それで不思議に思われて人魚の肉を食べたとか陰口をたたかれたのか」
「その事件で懲りちゃったわ。それ以来、誰にも話してないの。話したら化物扱いされるのがオチなんですもの」
「でも、ぼくには簡単に話してしまった」
そうぼくが言うと、エマノンはぼくを怒ったような顔で睨《にら》みつけた。何だか気まずくなって、ぼくは「ビールをもう一本買ってこよう」と立上った。
席に戻ると、エマノンは頬杖をついて窓の外を眺めていた。
「あなたに話したのはね、何故かっていうと夫に似ていたの。江戸時代の頃の夫なんだけれど。年の頃も、顔つきも、雰囲気もそっくりだったわ。内気な人で……でもとても優しかったのよ。だから船室であなたのことを夫って言っちゃったの」
「へェ……。そんなに似てた」
「ええ、そっくり。でも……」申し訳なさそうにエマノンは付け加えた。「コロリにかかって死んじゃったの。あなたを見て思い出しちゃった」
ぼくはうんざりしてしまった。
「輪廻転生っていうでしょう。もし、あなたが生まれかわりだったら……とも思ったの。それともう一つ。あなたが、SFファンということがわかったから……あなたの考えを聞いてみようと思ったの。そのいずれの条件が欠けても、あなたに話さなかったと思うわ」
うん、ぼく達は慥《たし》かにビールを飲み過ぎてしまっているのだ。アルコール分がぼく達を饒舌にさせてしまっているに違いない。
「ぼくの考えって……」
「何故、私みたいな人間が存在しているのかってことよ。正直な話、もう記憶の重荷にうんざりしているの。三十億年という思い出は人間には荷が重すぎる時間と思わない」
「…………」
「疲れちゃってるわけ」
エマノンは投げやりな感じで、そう言った。疲れちゃったわけ、もう死んじゃおうかしら。そう続けたところで彼女は、そんな科白がサマになりそうなのだ。
「じゃ、ぼくの考えを言うよ」次の言葉をぼくは一所懸命に模索した。
「ぼくは総ての生命には必ずその存在価値があると思う。その中で特殊な能力を備えたきみの存在は他の人類以上の使命を持っているはずだ」
「…………」エマノンは救いを求めるような瞳でぼくを凝視《みつ》めていた。
「きみは地球上生物の進化の生証人なんだ。そういう可能性について考えてみたことはあるかい」
「ないわ。でも、誰に証言するの」
「それは知らない。だけど、きみの意識は、この世に生命が誕生したと同時に目醒めたんだ。そして君の染色体中のDNAの中に世代ごとの個人記憶が貯えられ、受継がれてゆき、未来|永劫《えいごう》その記憶を伝えなければいけない使命を持っている」
「……何のために」
「それは……はっきりしたことは誰にも言えないだろうな。使命といっても、何に対する使命かと言われればこれもわからない。それから、もう一つの可能性。君の存在が、一つの時限装置という考え方もできると思うんだ。生物が地球上で進化を続け、極限レベルにまで生物が進化をとげた時点で、君のDNA内の不活性遺伝子が発現して何らかの反応を起すんじゃないかな」
「どんな反応を……」
「想像なのだけれど、進化の極限レベルだったら肉体の解脱《げだつ》につながるんじゃないかと思うよ。とすると、霊的存在に人類が進化するための触媒みたいな存在なのかもしれない」
「よく意味がわからないわ」
「つまり、人類が最終的な進化段階に到達した時、エマノンの意識が、その進化状況を判断し、全人類の潜在的遺伝子を活性化させる引金となるべき役割を持っているんじゃないかな」
「…………」
「そして霊的な存在に進化する」
「何故《なぜ》、霊的存在でなくてはいけないの」
「いや、想像だよ。ただ、進化の極限で不活性遺伝子が活性化するのであれば、それ以降は肉体は不必要さ。何せ、進化の極限≠ナ、それ以上進化のしようがないわけだから、霊的になるか退化するか、そのいずれかだ」
かなり酔っ払って、そんなことを支離滅裂に喋り続けたのだ。
「じゃあ、霊的存在とは、人類が死んじゃうってこと」
「いや、人類の意識の集合が神≠ノ近い存在になっちゃうってことさ」
「いつのことかしら」
「さあ……それはわからない。でも、君もさっき自分で言ってたじゃないか。人間の行動形態というのはほとんど進化してないって。とすると、生命の監視者《ウォッチャー》としての君の出番はまだまだだということだな」
美少女は再び黙りこくった。だけど沈黙を続けたまま、ビールをぼくのコップに注いでくれたのだ。ぼくの話をエマノンが気に入ってくれたかどうか……それはわからない。
「あなたの空想はなかなか奇抜だったわ」
エマノンはがらりと快活な口調に変ったのだった。
「私の話も面白かったでしょう。かなり独創的なアイデアだったと思わない。SFでこんな話はあったかしら」
ぼくは、あっけにとられてしまった。
「いや、そんな話、読んだことがない。……とすると今の話は全部フィクションなのかい」
エマノンはケラケラ笑い続けた。
「あったりまえよ。だから、最初に信じるか信じないかは別にして……って断ったじゃないの」
あ。ぼくは結局、このフーテン娘の暇つぶしの相手をさせられていたと知ったのだ。しかし、嘘っぱちとはいえ、ぼくはその時完全にこの美少女にまいってしまっていて、そんなジョークも仲々気の利いたものに思えてしまったのだ。
エキセントリックな美少女はそれから、にわかに多弁になり、いろんな話をしてくれたのだ。ポップミュージックからモダンジャズ。映画論から文学論。無銭旅行のやり方からプロ野球の話まで話題は飛躍に飛躍を重ねた。その話題の一つ一つに対してエマノンは驚くほど詳しく、ぼくを飽きさせることがなかったのだ。その時間はあまりにも楽しく、世の中の動きが停止しているように感じたものだった。
ぼくらのテーブルの上にビールの空ビンが林立し、少女マンガの話題が佳境に入った時、ぼくらの横にあの低重心のウェイトレスが立った。
「もう九時です。食堂は閉店なのです」
憎々しく、そう言って出口を指した。
ぼくとエマノンは立ちあがった。
ふらつく足で、お互い手を握りあって二等船室へ帰ったのだった。船室での中年女やアル中男の視線は全然気にならず、ぼくとエマノンは横になった。
一つの毛布を二人でかぶると、酔いが一度に出てしまい、みるみる意識が失せていくのが自分でわかったのだ。
目が醒めると、横には誰もいなかった。エマノンの姿を見つけるために、周囲を見まわすと、中年女やアル中男の姿だけで、美少女はどこにもいなかったのだ。トイレにでも行ったのだろうか。しかし、ナップ・ザックも見当らなかった。あのE・Nのイニシャルの入ったナップ・ザック。
中年女やアル中男に尋ねるのもいやだし、……そう思いながら時計を見た。あと一時間弱で港につく。
ぼくはエマノンを探そうと立上った。すると、『ハウザーの記憶』に一枚の紙きれが、はさまれているのに気がついた。
それにはこう書かれていた。
Good morning!
Good-Bye!
EMANON
ぼくは甲板へ通じる廊下を走り、甲板に人影のないことを見届け、船内食堂へ向った。そこにも美少女の姿を見つけることができなかった。特等船室を覗きこみ、追い出されても船室を歩きまわった。
ふと、エマノンが車で乗込んだのではないかという可能性に思いつき、車両が繋留《けいりゅう》されている船倉を走りまわったが、徒労に終ってしまったのだ。
港へ入る迄《まで》のそれからの時間は短かった。それでもぼくは諦《あきら》めず、小雪の中で埠頭《ふとう》に佇《たたず》み乗客が全員下船するのを確認しても、いつまでも、いつまでも待ち続けたのだった。
結局、エマノンの姿を見つけることはできなかった。
彼女はぼくの前に突然姿を現わし、あのメモを残して次の瞬間には消え去ってしまったのだった。
十三年間という月日は人間の性格も容易に変化させてしまうのだろうか。その美少女との不思議なゆきずりのできごとの後、それだけの歳月が流れてしまったのだ。
ぼく自身は何も変ってはいないと思うのだ。
しかし、その十三年間に、人類は月に立ち、石油パニックを起し、アメリカの大統領を失脚させ、試験管ベビーを誕生させた。
ぼくを取巻く環境はというと、あれから、大学を卒業し、中規模の商事会社に入社した。失恋を二回経験し、見合をしてあっけなく結婚生活に入ってしまった。SFを絶対に読まない女房との間に男の子を二人もうけた。父を亡くし、係長に昇進した。
それが十三年間の明細というわけだ。
多分、それでも、ぼくは本質的には変っていないはずなのだ。
世俗的な苦労に追い立てられつつも相変らずSFは読み続けているし、直情径行的おっちょこちょいは少しも治っていない。
それでいいんじゃないか……とぼくは思う。
これからも、ぼくはぼく自身であり続け、平凡ながらも他の人々と大差ない人生を送っていくのだろう。それでいいじゃないか。
それでもふと、日常の連続の中でエマノンのことを思い出してしまうことがある。あの掴《つか》みどころのない魅力を持った少女のことを。
船中で、あれからエマノンを探しだしていたら、今のぼくの人生は変ったものになっていただろうか。
そんな時、ぼくは感傷的な気分に陥り、定期入れに隠したメモを眺めるのだ。
――グッド・モーニング グッドバイ
エマノン
美少女に再会できるなぞ、百万に一つの偶然だと思っていた。しかし、信じられないことが起ったのだった。
十三年後の今日、エマノンに会ったのだ。
出張先で仕事を終え、駅のプラットホームに立っていた時、彼女の姿を見かけたのだ。もう夕刻で、宵闇に包まれ始め、ぼくはコートのポケットに手を突っ込んで、所在なく小雪の降るのをみつめていた。
ふと横を向くと、彼女がいた。見紛うはずはなかった。十三年の歳月が流れ、成熟した身体つきにはなっていたが、確かにエマノンだった。
ぼくは何かの間違いではないかと何度も女の顔を盗み見た。三十前後だろうか髪を短く切り、生活にやつれた感じが漂っていたが、やはり、あの美少女だったのだ。
話しかけようか。まさか……憶えているはずがない。十三年前たった数時間、話をしただけなのに。
彼女は、ぼくの存在など気にも止めていない様子なのだ。
思い切って、ぼくは話しかけた。手には、あの時の彼女のメモを入れた定期入れを握りしめて……。
「あのお、すみません。昔、お会いしましたでしょう」
女は眼を見開いてぼくを正視した。ぼくは女の顔を正面に見て、あの時の少女であることを再確認した。ただ、あの時より精気に欠ける印象はあったが、それは十三年の時の流れのためだろうか。
「あなたは、確かエマノン……って名乗られましたね。ほら、船の中で」
しかし、女からは落胆する答しか返ってこなかったのだ。
「申し訳ございませんが、あなた様は誰か人違いなさっているんではございませんか」
丁寧な口調だった。しらばっくれている様子でもなかった。とまどったように微笑しながら女は答えたのだ。そうだ、それが当然の答だったのだ。
「失礼しました。人違いだったようです」
ぼくは一礼した。
「ママ、お待たせ」
その時、彼女の子供らしい八歳くらいの少女が駆け寄ってきた。右手にはチョコレートを握っている。売店にでも行っていたのだろうか。
「あら、ママの知合いの人なの」
少女は、ぼくの顔を見てペコリと頭を下げた。
「いいえ、人違いだったらしいわ」
女が言った。ぼくは少女に笑いかけると、もう一度、失礼しましたと言い、ベンチに腰を下すために女から離れた。
四、五歩足を進めた時、少女に呼び止められた。
「おじさん」
振り向くと、ぼくの定期入れを差し出してさっきの幼い少女が立っていた。さっき話しかける時、すっかり上がってしまって落してしまったのだろう。
「ありがとう」と言って受取ると少女が言った。「さっきママを誰と間違えたの」
「おじさんが昔、会ったことのある人だよ」
ぼくは苦笑いしながら少女に言った。
「何年ほど前のこと」
「十……三年かな」
「船の中でなの」
「ママに今聞いたのかい」
「いいえ。だって……‘あなたも’面影が残ってたもの。もしかしたらと思って。私がエマノンなのよ」
「…………」
あまりの意外さに絶句してしまった。ぼくの記憶にあったのは十七歳のエマノンなのだ。まさか、この八歳の少女が……。
「まだ、覚えててくれたのね。ありがとう。あなたが船の中で会ったのはママよ。でも、あれからママは結婚したの。それで、私を産んだら、それまでの記憶は全部失くしちゃったの。そのかわり、私が種の記憶≠ヘ全部引継いじゃった。あの時の、あなたの話、とても参考になったわ」
間違いない。この少女こそエマノンなのだ。
「……あれから、ぼくは君を探してまわったんだ。船の中はくまなく探したつもりだ。だから、今でも、君のメモは、ほらこの定期入れに記念に持っている。でも、あの時ぼくに話したのは全部本当のことだったんだね」
エマノンは幼い顔で笑った。その瞳の輝きは、まさしくあの船中の美少女のそれだったのだ。
「私、あなたのこと好きよ。多分、永遠に忘れないわ」
「じゃ、何故、姿を消したんだ」
「数時間一緒にいても、数十年間一緒にいても、好きだったというおもいでは私にとっては同じことなんだもの」
「そんな。ぼくにはわからない」
「わからなくてもいいの。……それからあの時の議論、自分なりに結論をだしたわ。だから深刻にならないことにしたの。きっと、私が生命発生から総てを記憶しているというのはおもいで≠フためなのよ。誰にとってもおもいで≠チて必要なものでしょう。人類全体にとっても……。私という存在は歴史そのものの具象化した存在だと思うの。‘歴史って、人類や生命全体のおもいで≠ノ違いないのよ’」
サヨナラ、と八歳児のエマノンは走り去りながらぼくに手を振った。母親がぼくに御辞儀をした。ぼくも母親に御辞儀を返した。
「もうすぐパパの電車が着くわよ」
母親がエマノンに言う声が聞こえた。
ぼくはその電車に乗るのだ。
あの母親は、ぼくとエマノンが何を話していたか、きっと想像もつかないのだろう。
余程の偶然がない限り、ぼくは二度とエマノンに会うことはないだろう。
でもいいんだ。
――決して忘れないわ。
人類が、生命が存在し続ける限り、エマノンのおもいでの中にぼくが生き続ける。
平凡なぼくが、人類の、地球生命の歴史の一つのエピソードとして記憶されるなんて……思うと、晴れがましい気持で胸が満たされてしまったのだ。
小雪が降り続いていた。
「十三年間か」
そう呟いたとき、エマノンの言ったことの意味を悟ったのだ。「数時間一緒にいても、数十年間一緒にいても同じことなのよ」
それはどちらも刹那《せつな》だったのだ。
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ヴェールマンの末裔たち
「何故、俺はここへ来ちまったんだろう」
エレベーターを降り、フロアに立った飛田栄輔は、そう呟いた。
(ほんとうは、こんなところへ顔を出している余裕なぞ、ないはずなんだ)心の中で、そう続けていた。
腕時計は午後九時を少しまわっていた。栄輔は今まで金策に走りまわっていたのだ。
飛田栄輔は従業員六名の小さな町工場を経営している。受註の急速な減少傾向が、徐々に資金繰りに影響を与えはじめていた。給料の遅配が、すでに数ヵ月続いている。頼める仕入先には、支払いを延ばしてもらっていた。しかも、三ヵ月前に発行した手形の支払いが五日後に迫っているというのに金策の目途がたたずにいる。電車の停留所の薄明りの下でポケットをまさぐったときにでてきた紙片。
それがクラス会の案内状だった。
それまで目を通す余裕もなかったのだが、偶然にも、会場は、その電停から一分もかからないビルだった。「今日だ」時間こそ、六時開始と記されていたが、まだ宴は続いているはずだった。小学六年生のクラス会。もう二十六年も昔のことになる。
自然と足が向いてしまった。考えることに疲れてしまっていたのかもしれない。
会場は、ボーイたちが雑談をかわしながら食器をテーブルから片付けはじめていた。
クラス会はお開きになっていたのだ。
「八時四十分頃、万歳で解散されました。二次会をやろうと話しておられましたが……。さぁ。会場をどこに移されたかは、聞いておりません」
ボーイの一人が飛田に、そう答えた。縁がなかったのか。そう思って踵を返したとき、背中に声がかかった。
「栄ちゃん。栄ちゃんだろう」
飛田は振りかえり、金縁のメガネをとりだし鼻にかけた。奥の隅の椅子から、大男が立ちあがり飛田に手を振った。
「あっ、しっちゃん。しっちゃんか」
飛田は、そう叫び返したが、姓が思いだせなかった。天然パーマのインディアンを連想させる風貌の大男は、確かに飛田の小学時代の同級生なのだ。図工が得意で、マンガを皆に書いてくれる人気者だった。しかし、無口な性格だったはずだ。大股で大男は歩み寄った。
「ぼくも、今きたばかりでさ。もう終ってるんだよ。がっかりして、むこうで座ってたの」
「久しぶりだな。いま、しっちゃんどうしてるの」
しっちゃんという大男は、名刺をさしだした。〈乾志津雄/POP・PRO〉
大きな手の中の薄汚れた小さな名刺がアンバランスだった。
「POP・PROって何だい」
「特殊撮影のプロダクションさ。でも、二ヵ月前にそこ辞めちゃって、今、ぶらぶらしてるの。今日も、ここへ来るまで、すごく迷ったんだぜ。だけど二十数年ぶりだからなぁ」
そのとき、再びエレベーターが開き、痩せた黒縁眼鏡の男が駆けだしてきた。飛田と乾に気がつき、「あ!」と言った。
「クラス会、もう始まりましたか。十分ほど、遅刻したみたいだ」
飛田と乾は声をあわせて言った。
「ガリビー。クラス委員長のガリビー」
「栄ちゃんとしっちゃん。なつかしいなぁ。まだ、これだけしか集まってないのか」
「いや、もう終ったらしいんだ」
飛田がそう言うと、ガリビーは呆れたような顔になった。
「そんなばかなことが。まだ、九時十分まわったばかりだ。九時開始だろう、確か、うん、ぼくの記憶ちがいがなければ。案内状を見ればわかる。少し待ってよ。あっ、しまった。六時開始になってる。まちがってたんだ」
素頓狂な声だった。風体からして、ガリビーはアンバランスなのだ。長髪の端正な顔だが、よれよれのネクタイと段違いにはめたボタンに多分気がついていないワイシャツ、ジーパンに足袋をはいて下駄。飛田も乾も忘れるはずがなかった。学年で一番の成績だった。
楓原敏吾といったはずだ。
誰が言いだすでなく、三人はエレベーター近くの椅子に腰をおろした。
「三名だけでも、何とかクラス会の恰好はついたよな」
大男のしっちゃんが苦笑いしながらそういった。「それに、クラス委員長まで揃ったんだから。ねぇ、ガリビー」
ガリビーは頭をかいた。
「ガリビーは、今、何をしてるのさ」
「大学の研究室にいる。まだ独身だ。時間軸圧縮理論の具体的応用展開についてやってるんだ……」
「ふうん。ガリビーは昔から頭よかったからなぁ」
栄ちゃんは感心しながら鼻眼鏡をずりあげていた。
「で、栄ちゃんは? 額がだいぶ広くなってるじゃないか。白いものもかなり増えたみたいだし」
「あ。あ……。俺は飛田鉄工所って……町工場をやってるの。景気よくなくてね」
「でも結婚してるんでしょ。子供は何人?」
ガリビーが俗っぽく質問した。
「子供は二人。でも二ヵ月まえから、家内、実家に帰ったんだ。仕入先から、支払いをうるさく言ってくるんでノイローゼおこしちゃって」
「ふうん。栄ちゃんも金に困ってるのか。ぼくもさ……」
溜息でもつきたそうに、大男のしっちゃんも肩を落した。
「さっき、POP・PROに勤めてたって言ったろう。あそこは特撮映画の特殊効果部門を受けもつところなんだ。ぼくは、そこのモデル・アニメをやってたんだ」
「モデル・アニメ!?」
「そう。怪獣をぬいぐるみでやらずに、齣撮りで人形を撮影していって画面を実写と最終的に合成する。ぬいぐるみでは、どうしても動きが人間のそれの枠を超えることができないんだ。ところがモデル・アニメではアニメーターの思いどおりに静物を動かす。生命を吹きこむことができる。そこにぼくは惚れこんで、仕事をやってきた。……でも、最近は、われわれ職人は不必要になってきたんだ。低予算で短期の製作日数であれば、怪物はぬいぐるみ。大作であれば電子制御のロボットで怪物を操作しちまうんだからな。つまり、モデル・アニメなんて手間のかかる原始的技術を必要としなくなった……というわけさ。オブライエンが撮った『キングコング』みたいな名作は、もう望むべくもないんだろうな」
「ふうん」
狐につままれた表情で、栄ちゃんは眼鏡をずりあげた。多分、あまりしっちゃんの話が理解できなかったのかもしれない。
「自分で、金さえあれば……モデル・アニメの怪獣映画をとるんだ。ぼくだけの……手作りの怪獣映画を……。オブライエンを超える。特撮映画史に残るような作品を」
しっちゃんの手は、ぶるぶると震えていた。「金さえ、都合できれば……」落涙した。
「POP・PROの、ぼくを馬鹿にした連中を見返してやる……」
それまで、口を閉じていたガリビーが、おずおずと顔をあげた。
「金って、本当に必要なところへは集まってこないものなんだな。ぼくだって同じさ」
栄ちゃんとしっちゃんは意外そうな顔をガリビーにむけた。
「だって、ガリビーは独身だし、研究所にいるんだろ。何も不自由なことはないはずだろう」
ガリビーはせつなそうに眉をひそめ、首をふった。
「研究室に……いたんだ。正確にいうと。より正確を期すと、いま、独身になっちまった。ぼく、婿養子に行ったんだ。舅……つまり家内の父がやはり学者で、ぼくたちの生活費まで見てくれてたんだ。ところが、ぼくの研究が気にいらなかったらしい。それまでの学問体系を完全に無視したからかもしれない。結果的に親父の理論にそむくような展開になりはじめた。こんなことまで言われたんだ。『おまえはマッド・サイエンティストだ。異端としかいいようがない』学問をとるか生活をとるか選択を迫られ、ぼくは研究をとった。結果的に、研究室を放りだされ、籍を抜かれてしまった。いま、無一文さ。しかし、ほぼ、研究は完成した。実験装置まではちゃんと作りあげたからね。しかし、生活するには金が必要だ。どうやってこれから食べていけばいいのか。世間知らずのぼくには見当もつかずにいる」
三人とも同時に溜息をつき、頭を抱えた。周囲の空気が、ねっとりと重くのしかかってくるようだった。「金かぁ」と一人が呟き、「あー」と二人が溜息で答えた。
しばらく三人は沈黙を続けた。それから栄ちゃん≠ニいう中年の小男が立ちあがり、無意識に背中を伸ばしながら言った。
「さっ。帰ろう。帰ろう。こんなところで、こんなことしてる暇はもうないんだ。子供の頃の夢は、これでおしまい。現実に戻って、金の都合をつけに走りまわることにするよ」
しっちゃん≠ニガリビー≠ニ呼ばれた中年男も「そうだな」とか「よっこらしょ」とか漏らしながら、しぶしぶ立上った。
「でもね」ガリビー≠フ楓原敏吾が頭を掻きながら、申しわけなさそうに言った。
「今日は、どんな連中が集まったんだろう。盛会だったのかなぁ」
「知らない」
「知らない」
「ヤッちん来たかなぁ。あいつと、いつもけんかしてたけれど。サチコとかね。しっちゃんは、いつも意地悪されてたろう」
しっちゃんが、うーんと呻くと、再び腰をおろした。
「サチコねぇ。どんな子だったかなぁ。ぼく、あの子は覚えてる。ほら、目のくりっとした可愛い子がいたろう。ちょっとそばかすのあるさ」
「美紀ちゃん。うん、佐山……美紀っていったっけ。そうだろ」
「よく覚えてるな。栄ちゃん」
栄ちゃんもいつのまにか腰をおろし、ガリビーを見上げると、心なしか、頬がピンク色に染まっていた。
「あっ。ガリビー。何を顔、赤くしてるんだ。おまえ、美紀ちゃん好きだったのだな」
しっちゃんが、はやしたてるとガリビーも負けずに逆襲した。
「何言ってる。学校からディズニーのピーターパン♀マに行ったとき、ウェンディが美紀ちゃんに似てると大騒ぎしたのはしっちゃんだったじゃないか。覚えてるぞ。ちゃんと覚えてる」
栄ちゃんは二人のやりとりがおかしくてたまらない様子でいるらしい。
「ふふ……結局、二人とも美紀ちゃんにあこがれていたわけね」
「何言ってるんだ。栄ちゃんこそ、佐山美紀って名前をスラリと言えるっての、おかしいんだぞ」
ガリビーがぎょろりと厚いレンズの奥で威圧して見せた。
「でも、やっぱり可愛かったものね」
栄ちゃんがぽろり落した言葉に三人の緊張が解けたようだった。
「ぼくね」しっちゃんが腕組みし、宙空を睨みながら言った。「モデル・アニメに興味を持ったのはね。ピーターパンのウェンディが好きになってね。アニメの本を探して読んでたの。そしたら、アニメのつくりかたって本にね、モデル・アニメについて紹介してあったの。それで、キングコングがモデル・アニメだってこと知ったんだ。ウェンディ観てなかったら、モデル・アニメーターになってなかったかもしれない。はずみなんだよね。世の中は、すべて……。でも可愛かったね。美紀ちゃんいま頃、誰かの人妻なんだろうなあ」
それで、しっちゃんが一人納得して、二回ほど、うなずいたときだった。三人の前のエレベーターが音もなく開いた。
エレベーター側を見ていたしっちゃんが、まず「あっ」と言ったまま絶句し、栄ちゃんとガリビーも思わず腰を浮かせた。
「美紀ちゃん」
明るいパープルのシックなワンピースを着た女が、そこに立っていた。肌には少女期ほどのみずみずしさは残されていなかったが、三人の脳裏ではオカッパ頭の瞳の大きな美少女≠ェオーバー・ラップされていた。
「みなさんは……」と女は言い、それから口に手をあてたまま絶句し、「きゃあ……。おじさんになっちゃって」笑いこけてしまった。
「変ってない」と女を凝視したまま、しっちゃんが呟き、栄ちゃんとガリビーが顔を見合わせ、頷きあった。
「ごめんなさい。久しぶりでした。えーと……」
名前を憶いだせないでいるのだ。すかさず、ガリビーが立ちあがった。
「ぼく、楓原敏吾です。ガリ勉の敏吾でガリビーと呼ばれてた。それから栄ちゃんとしっちゃん。佐山美紀さんでしょう。憶えてますよ。すごくおとなしい人だったものね。美紀ちゃんは」
「ごめんなさい。名前がでてこなかったの。顔は、すぐ憶いだせたんだけど。……まだ、中でやってるんでしょう」
三人が同時に首を振った。「もう散会したようなんですよ。ぼくたちは、三人とも遅刻組なんです」栄ちゃんが、申しわけなさそうに付け加えた。
「まっ。キーコに遅れても必ず出席しますからと電話でいっておいたのに。何度も念を押したんですよ」佐山美紀は寂しそうに眉をひそめた。「病院に寄ってから必ず顔をだすって言ったのに……」涙を浮かべていた。
中年男たちは、あわてふためき佐山美紀の背後に椅子を運び「どうぞ」「どうぞ」「どうぞ」と勧めあった。
「御主人が病気なんですか」奇しくも、その言葉は三人から同時に発されていた。
女≠ノ成熟した美紀ちゃん≠ヘ観念したように腰をおろし、「子供が……」と言った。すると濁みた中年男の声で「子供さんが……」と三つエコーした。うち一つの声は、ほぼ悲鳴に近いカン高いものだった。一人はずるりと椅子からずり落ちそうになった。もう一人は、「そ、そうだ。この年齢であれば子供が一人いても、けっして不自然でないのだ」と必死に自分に言いきかせていた。
佐山美紀は、ほとんど化粧を施していない顔をしていた。それが三人にかえって好ましく映っていた。昔どおりのそばかす。
「子供が入院しているもので……」
佐山美紀は、夫と別れた……というのだった。それから、小さなブティックを一人で切り回し、一人娘を育てている。夫は他に女を作ったらしく、失踪したまま消息が途絶えている……。自分は晩婚だったし……自立して生計をたてていたから、娘と二人っきりの暮らしは、そう苦にはならなかった。そう美紀は淡々と語った。今度は、さすがにこたえちゃった。そう愚痴った。一人娘が病気しちゃったんだもの。
誰がいいだすでもなく、四人は外に出た。再び、重苦しい雰囲気がのしかかりはじめたからだった。誰も、「二次会をやろう」と言いだすには不謹慎すぎるような気配を感じていた。
「私、また病院に寄って帰ります。すぐ、そこなんです」
一丁も離れていない建物の光が、美紀が指した病院だった。そこに美紀の娘が、病に伏せっているはずなのだ。本来であれば、それで解散してしかるべきなのだ。
ところが、しっちゃんは放心したように、言ったのだ。
「ぼく、美紀ちゃんの娘さんを見てみたいなあ。美紀ちゃんの娘さんを見舞いにいってはいけないかなぁ」
栄ちゃんとガリビーは必死でしっちゃんの服の袖を引っぱった。
「オイ。そりゃあ、非常識だぞ。今、何時だと思ってるんだ」
「かまいませんわ」
美紀の声が確かにそう響いた。信じられぬ様子で、栄ちゃんは美紀を凝視した。凝視しつつ様々な状況が意識の中で閃光していた。家で待ち伏せているかもしれない債権者たち。実家へ帰った妻へ何度も連絡をとる電話ボックス。絶対に受話器をとろうとしない妻。誰もいない部屋の中で煩悶している自分の姿。
「じゃ……」栄ちゃんも、しっちゃんと同じ瞳に変っていた。「ぼくもついていくことにする。いいだろう」美紀が微笑を浮かべてうなずいていた。「しっちゃんと見舞いに行くよ。ガリビーはどうするの」
「じゃあ……ぼくも。残っても仕方ないもの」
ガリビーは照れ笑いを浮かべ、髪をはらってみせた。寂しがりやの瞳なのだった。
通用門を抜けて、エレベーターで二階へ上った。三人は美紀の後を、息をひそめて歩いた。無意識に三人は顔を見合わせて苦笑いをかえしあった。
病院の廊下を歩きながら、美紀がぽつり呟いた。
「お金が欲しいわ……」
他のどんな女性がいっても、いやらしさがまといついたかもしれない。しかし、美紀の言葉には物欲とは縁のない、生きるための切実さが伴っていた。
「この病院も、今月いっぱいで出なくてはいけないの。入院費も数ヵ月溜っているし、治療法もこれといった決め手がないみたいだし」
「何の病気なの」そうガリビーが質問した。
「ううん。ナボコフ症候群といって心因性みたいなの。衰弱だけが徐々に進行していく病気。本人に全快しようという意欲が全然ないものだから……。やはり家庭環境に原因があるのかしら。私ひとりで育てたというのが」
それは愚痴のようなものだった。
「着いたわ」
美紀が先に病室に入り、三人は廊下で待機した。「どうぞ。恵《めぐ》も、まだ起きてるみたい」
少女がベッドに横たわっていた。瞳の大きな少女だった。七歳くらいだろうか、寂しそうな笑顔を浮かべていた。
「ウェンディだ。この子、ウェンディにそっくりだと思わないか」
しっちゃんが栄ちゃんとガリビーに耳うちした。耳うちの声にしては興奮しきっていた。
「めぐ。ごめんなさい。さびしかったでしょう」
美紀がすまなそうに言うと、少女が大きくかぶりを振った。
「外の灯りを見てたの。灯りが退屈したら、ゲズラとゴゾンガとドンドロガンを見てたの。ゲズラたちに退屈したら眠るつもり」
「そう」と美紀は微笑した。栄ちゃんとガリビーは意味が不明でいる。棚に、三体の怪獣のぬいぐるみが並んでいた。
「あのことだ」しっちゃんが、棚をあごでしゃくってみせた。「怪獣の名前だよ。POP・PROでしばらく作っていた〈スーパー・パープル〉に登場する怪獣の名だ。デザインはぼくがやったからな」
蛙と龍のアイのこみたいなもの、蚓に手足をつけたようなもの、手足が異様に大きいテディ・ベアみたいなもの。「全部、ぬいぐるみで、人間が中に入る、そして演技する。人間の動きの枠を超えることができない」しっちゃんの目が座っていた。「一齣ずつ、ストップモーションで撮影しなければ、滑らかな自然な動きにならないんだ。ゲズラなんてデザインは、すごく愛着があったのに、滅茶苦茶な造型にしやがって。人間を中に入れる為、足を極端に長く変えやがってな」
そう吐き捨てるように言った。美紀が驚いたように「ゲズラを御存知なんですか。そちらのほうの仕事を……なすってるの」
「いや……〈スーパー・パープル〉には少し関係してたものだから。POP・PROにいたもんで」
美紀はしっちゃんの言を最後まで待たずに恵のほうに振返った。
「このおじさんたちね、〈スーパー・パープル〉を作ってたんだって」
恵の瞳に光輝が走ったように見えた。
「ほんとなの。ゲズラやゴゾンガを撮影してたの」
栄ちゃんは戸惑いつつ、うつむいてしまい、しっちゃんだけが、頭を掻きながら「まあね」と答えたにすぎなかった。
恵は、にわかに多弁になったようだった。
「ねぇ、ゲズラの好物って何なの。何を食べるの。歩くときはやはりすごい音をたてるの」
しっちゃんは「あ……」と絶句した。制作側はもちろんのこと、当然、視聴者側も〈スーパー・パープル〉などという特撮ヒーロー映画は虚構の産物であることを承知していると考えていたのだから。
恵という少女は、ゲズラという怪物が実在し、息をして、食事をとるものだと信じているようなのだ。
「ええっと……どうだったっけ」
しっちゃんは、助け舟を求めるように、美紀に視線を投げかけた。
「ごめんなさい。恵はゲズラが実在すると思ってるの」
「ママ。ゲズラはいるわよ。絶対に」
恵が、口を尖らせて美紀に反駁した。
「ごめんなさい。恵。ゲズラは元気よ、きっと。……でも」美紀は三人に振返った。「こんなに恵が感情を表に出したことは最近なかったわ」
美紀はしっちゃんにウインクしてみせた。すると、調子に乗ったしっちゃんが、恵に言ったのだ。
「うん。最近、ゲズラは元気ないみたいだよ。恵ちゃんが病気したことを知ってるんじゃないかなぁ」
恵は大きく、かぶりを振った。
「そうじゃないわ。ゲズラと私は、みなが知らないところで心がつながっているの。だから、わかるのよ。ゲズラは最近テレビに出ないでしょう。きっとゲズラは病気なのよ。それで私も病気になったの」
――そんな馬鹿な。藪蛇だ。
しっちゃんは思わず、そう叫びそうになった。
「私にはわかるの。まちがいないわ」
廊下で、三人は美紀に別れを告げた。
「衰弱だけが進行してるの。医療で治しようがないんです。心因性だから……。もっと良い病院に入れてやりたい。でも……」
栄ちゃんもしっちゃんもガリビーも、思っていた。もし、経済的余裕がありさえすれば。
三人で廊下をとぼとぼと歩いた。
「ぼくも、もう少しせっぱつまれば銀行強盗でも働いてしまうかもしれない」
栄ちゃんが、せつなそうに言った。
「金がすべてだものね」
しっちゃんが溜息をついた。
「やりますか。銀行強盗を」
ガリビーが無感動にそう思った。二人がえっと驚きの声で答えた。
「冗談だろう」
「本気ですよ」
「すぐ捕まっちまう」
「絶対捕まらない方法があるんだ。今の病室で思いついたのよ。だったら、やりますか」
「やる」「やる。金に復讐する」
「じゃ、やりましょう。それには準備がいる。栄ちゃんが、鉄工所で、しっちゃんがモデル・アニメーターでないと絶対できない計画なのです。栄ちゃんのところで打合わせしたいんだけれど」
ガリビーの提案した計画は、まさに奇想天外なものだった。怪獣「ゲズラ」が銀行を襲撃するというのだ。何日も掃除されていない飛田鉄工所の事務所で、淡々とガリビーは計画について語りはじめた。
「ぼくの研究が、時間軸圧縮理論の応用展開についてのものだというのは話したっけ。うん、わかりやすく言うと特定の空間、あるいは事物の時間流を加速、停止させる技術ということになる。これが試作機」
ガリビーはポケットから大きめの懐中電灯といったものをとりだしてみせた。
「このボタンを押すと……」
「カシャッ」と音がした。次の瞬間、ガリビーの姿が消失した。驚いたしっちゃんと栄ちゃんの背中で再びガリビーの声が聞こえる。
「ほら、ぼくはここにいる。つまり、今、時間流の動きを止めて、ぼくは栄ちゃんとしっちゃんの後ろにまわったのさ。だから、ぼくはしっちゃんたちの眼からみると、瞬間的に空間転移したように見えるはずだ」
そのとおりだった。それは魔法としか形容しようのない現象だった。
「しっちゃんのゲズラの話で思いついたんだけど、しっちゃんのストップモーション・アニメというのは、確か齣撮りで人形を少しずつ動かしていくんだろう。それで、そのフィルムを映写すれば、その人形は生命を吹きこまれたみたいに動きまわって見えるんだな」
狐につままれた表情のまま、しっちゃんは首を振り続けた。
「栄ちゃんとこの鉄工所で材料を揃えて、等身大のゲズラを作ろうと思う。で、アニメーターのしっちゃんが、ゲズラを動かすんだ。時間軸圧縮理論を応用して……。人間の視覚残像を利用するとすれば、フィルムの場合、一秒間に何コマ必要なの」
「三十五m/m だったら、一秒間二十四コマだ」
「うん、この試作機をそうセットする。そして、等身大のゲズラを銀行内に仕掛け、皆が恐慌を起すようにしっちゃんがゲズラを一秒間に二十四回アニメートするんだ。皆が騒いでいる間に、現金をかっぱらう……という計画だ」
「他の人間の眼には銀行に出現した暴れ狂う怪獣しか見えない……というわけだな」
栄ちゃんもやっと納得できたというふうだった。そうなのだ。ガリビーの計画というのはスクリーン上ではなく、現実の世界で人形アニメを実現しようというのだ。実物大の怪獣人形をこさえ、時間軸圧縮理論による試作機を使用して……。
栄ちゃんは、債権者たちに札束を叩きつける自分の姿を想像していた。しっちゃんは、壮大なテーマのストップモーションによる撮影映画を製作している姿を……。
「人形をこさえなくてはならない。しっちゃんが、栄ちゃんにデザインを書いて渡してくれないか。ぼくも人形づくりを手作うから」
早速、ゲズラ≠フ製作が開始されることになった。ガリビーの提案に従い、しっちゃんがデザインを書いた。あの恵の病室にあったのと同一の蛙と龍のキメラのような怪獣だった。それから、その絵の上に、もう一枚をあて、輪郭をトレスした後に、怪獣の骨格を書き終えた。
「まず、骨格を作ることが必要だ。アニメートして自然な動きを再現するために、身体中の関節《ジョイント》が変幻自在に動かせることが最低条件だ。身長はどのくらいにしようか」
「テレビ映画のときの設定はどのくらいの大きさだったの」と栄ちゃん。
「三十メートル。……でも、その大きさでは、銀行内には入らないし、運搬も困難になる。五メートルくらいだったらどうだろう」
そんな結論になった。
「で、骨格の上に特殊合成樹脂を貼りつけて彩色するつもりでいるのだけれど。技術的に栄ちゃん。ここの鉄工所で出来るかな」
栄ちゃんはまかせてくれと胸をはった。
「まる一日あればできるさ。合成樹脂はあまりないけど、断熱材をまきつけてパテやラテックスで修整していけばいいさ」
そのかわり突貫作業になるけれど。しかもですよ、債権者たちの目を盗んでやらなくてはならない……。そこで、初めて栄ちゃんは、心配そうに表情を曇らせた。
栄ちゃんとガリビーが目を醒ましたとき、しっちゃんはゲズラ≠ノプラモデル用の彩色スプレーを吹きつけていた。
「あっ、もう起きてやってたのか。もう眼玉も入ってる。どうしたの。この眼は」
ねぼけ眼をこすりながら、ガリビーが言った。
「ああ、更衣室に従業員のキャッチボールの道具が揃ってたの。野球のボールに黒眼を入れただけ」
‘きゃたつ’の上で、しっちゃんが得意そうに答えた。あれから、徹夜で三人は怪獣ゲズラを作り続けたのだった。細い鉄材を溶接し、腕、足の関節の部分に、栄ちゃんの工場にある自在継手を仕掛け、そのうえから繊維状の断熱材を幾重にも巻きつけた。それにラテックスを塗りつけて、まがりなりに完成した。
「もう、あれから、まる一日過ぎちゃったんだ。このゲズラが完成してから、ぶっ倒れるように三人とも寝ちゃったからな。ぼくは夕方、一度、目を醒まして、食糧と彩色用の道具を買いにいってたんだ」
しっちゃんの言うとおり、彩色をほどこされた怪獣ゲズラは、立派な一匹の生きものに変っていた。ただ、身動き一つしないだけだ。「カシャッ」とそのとき音がした。その怪獣の野球ボールからなる眼玉が、突然ぎょろりと、しっちゃんを睨みつけた。
「うわっ」
動転したしっちゃんはきゃたつの上から飛び降りた。「生きてる!!!」
ガリビーが大きな声で笑った。
「ちょっと実験したんだ。ぼくが、時間流を止めてゲズラの眼玉を動かしたんだ」
なあんだ、そうかとしっちゃんも頭をかいた。これなら大丈夫。まるで本物だ。
二人の笑い声で栄ちゃんも起きだしていた。欠伸をして眼鏡をかけると、彩色されたゲズラがある。大きく伸びをしたときだった。ゲズラが栄ちゃんの真似をして、両腕をふりあげ、大きく伸びをしてみせたのだ。それから、首をつきだし、目を細めた。怪獣が笑った。
「ぎゃっ」
栄ちゃんは、仰天し一メートルも飛び上ったのだ。ガリビーとしっちゃんが腹を抱えて笑いながら出現した。
「どうだった。本物みたいに見えたかい」
「わりと簡単にアニメートできたみたいだ」
二人で栄ちゃんをびっくりさせようと試作機でゲズラを動かしたのだ。状況を理解した栄ちゃんは冷汗をぬぐいつつ、心臓発作を起さなかったのがせめてもの幸いだったと述懐した。まったく本物そっくりだ。
「飛田さん。飛田さん。開けなさいよ。いるのはわかってんだ。灯りが見えてるだろ。開けてくれなければ扉をぶち破るから」
胴間声が突然、通用門のほうから響いた。冷汗を拭っていた栄ちゃんの額から、再び汗が噴きだしはじめたのだ。
「なんだか、変な人たちだぜ。まともなお客さんじゃないみたいだ。‘やくざ’みたいな風体をしている」
通用門近くの覗き窓から見下して、ガリビーが、そう言った。
「そ、そ、その……整理屋たちだよ。何故だか、あいつ等、うちが、つまり飛田営工所が発行した手形を持ってるんだ。つまり、債権者だ。数日後に手形の引落し日がきてるんで、確認にきてる……というと聞こえはいいけど、脅しにきてる。とにかく奴等、やることが滅茶苦茶だもんで……。ぼくに土地の権利書と実印を渡せというんだ」
栄ちゃんは完全にびびってしまっている。
しっちゃんが、叫んだ。「とにかくゲズラを隠そう。ビニール・シートか何かないのか」
門が激しく乱打されはじめた。
「丸坊主とか、頬に傷がある奴とか、こんなに暗いのにサングラスかけた奴までいるぜ」
ガリビーが泣き声に近い悲鳴をあげた。
「逃げるんだ」
栄ちゃんが叫んだ。
「逃げ道はないよ。それにゲズラが見つかってしまう」しっちゃんはおろおろ声だ。
ガリビーが覗き窓から飛び降り、二人のところへ駈け寄ってきた。
「もう他に方法はない。あいつ達、扉をぶち壊して入ってくる」
扉に体当りの音が、鈍く数回続いていた。ガリビーが、時間軸圧縮理論の試作機のスイッチを入れた。
体当りの音が止った。
「ああ、やっとあきらめて帰ったのか」
栄ちゃんは、ほっと胸を撫でおろした。
「ちがう。ちがう。時間が停止しただけだ。時間の流れがもどったら状況はなんら変らない」ガリビーは首を振った。「いまから、ゲズラを通用門のところへ移動させる」
しっちゃんと栄ちゃんは、うんと頷き、ゲズラを押しはじめた。身長は五メートルだが、軽い材質のものばかり使ってあるし、骨材の鉄鋼も細いので大の男三人の力で、簡単に移動できるのだ。
「どうせ見つかるのなら、効果的に奴等を追いはらう」
門の入口に怪獣ゲズラを据え、ガリビーは試作機のスイッチをオフにした。再び、野太い、栄ちゃんを罵る声が辺りに満ちた。それから、扉が遂に破壊されて……。
「いまだ」
ガリビーが、再び試作機のスイッチを入れた。時間停止。
整理屋の一人が壊れた扉から転がりこみ、ゲズラの足許で宙に浮いたまま静止していた。後方の数人のやくざ風は、ゲズラに気がついたらしく、信じられない物がいるという視線を漂わせていた。一人なぞ、笑い顔を浮かべていた。
「一秒に二十四回の動きだ。しっちゃん。こいつらを驚かすような動きを演出してくれ」
「ああ。もちろんだ」
しっちゃんは両腕を少しずつ折り曲げていった。動作が終了すると、三人は物陰に隠れ、試作機で二十四分の一秒だけ時間を先送りした、それから時間を再停止させ、ゲズラの腕を折り曲げる。
「ラジカセはないかなぁ」としっちゃん。
「あるけど。工員の私物だ」
「貸してくれ。ゲズラの鳴き声をスタジオからダビングしてきたテープがある」
しっちゃんはラジカセを受取ると、テープを仕掛け、ゲズラの口に押しこんだ。
ゲズラに胸を叩く動作を二、三度繰り返させるのに長い時間がかかった。それも、やくざたちにとっては、数秒だったはずだ。それから足許にいるやくざにゲズラの口を向け、餌をついばむように近づけた。そのやくざの口は恐怖に大きく開かれていた。胴巻きをゲズラにくわえさせ、三人でやくざの身体をよいしょと持ちあげた。
ガリビーはふと、凍りついた他のやくざたちの顔をうかがった。皆の眼玉が剥きだされていた。
「うわっきたない」
足を持ちあげたしっちゃんが言った。
「こいつ、おしっこ漏らしてんの。よほど恐いんだぜ」
床から四十センチほど、くわえあげてから、外へ放りだすようにアニメートした。
「はあ疲れちゃった。少し、停止を解いて物蔭で様子を見よう」
ガリビーの提案で、三人は工具台の隅で、時間軸を正常に戻してみた。
あっけないものだった。整理屋たちは恐怖のため、悲鳴をあげながら逃げだしていった。ゲズラの口にくわえさせた一人が、腰が抜けた様子で這いずっていたが、テープの吠え声で、ぎゃおと叫んで立ちあがり、一目散に走っていった。
栄ちゃんが、大喜びだった。
「は、いい気味だ。いつも、ぼくの胸倉を掴んで脅すくせに、あのあわてようったら。傑作。傑作。だよね」
ガリビーが少し表情をくもらせていた。
「もう……銀行ギャングごっこはできないよ」
「なぜだい」
「彼等がゲズラを見てしまったからさ。あいつ等は、ゲズラの銀行強盗のことを知ったら、ぼくたちに関係あるにちがいないと警察に知らせるはずだ」
三人とも、そこで押し黙ってしまった。それは確実だろう。警察に知らせなくても、彼等は飛田鉄工所と犯罪の関連性を感じて何かの手を、あらためてとってくると思われた。
「まずいな。でも、あのときは、ああするしかなかった」
再び沈黙が続いた。
しっちゃんが突然言った。
「ぼくたち、この怪獣ゲズラを作ってるとき、‘はな’から銀行強盗やろうなぞ思っていなかったのとちがうだろうか」
栄ちゃんが驚いたようにしっちゃんを見た。
「だって、その時間軸圧縮理論の応用試作機さえあれば、こんなまどろっこしい怪獣なぞ作らなくても、時間を止めて銀行から金を盗ってくればすむことじゃなかったんだろうか。それだったら三人も必要ない。ガリビー一人だって、できたことなんだ」
ガリビーは、同意するように首を振った。
「ぼくも、犯罪は嫌いだ」
「じつは……」しっちゃんが言った。「さっき一人目を醒ましてたとき、食糧と彩色道具を買うため外出して……ついでに佐山美紀さんの娘の病院に行ってきたんだ」
「ゲズラに会いたいっていったんだろう。あの……ウェンディみたいな娘」
栄ちゃんがにやりと笑って言った。すべてお目透しなのだという口調で。
「そのとおり……。でも、よくわかったな」
栄ちゃんは自信たっぷりだった。
「みな、照れてたんだよ。本当は、これをやりたかったはずなんだ。照れくさくて言いだしようがなかったんじゃないか。この馬鹿げた怪獣を汗みどろになって作ったのは、恵ちゃんを元気づけるためじゃなかったのか」
ガリビーも、しっちゃんも眉を寄せてはいたが笑っていた。三人とも照れ屋の悪がしこぶりの恥かしがりやなのだ。
「七歳の少女のためにさ。大の男が三人で……ぼくも大好きだよ。こんな馬鹿げた話がさ」
三人は笑いながら、おたがいをこづきあっていた。ほっとしたといった表情なのだ。
「最後の一葉℃O人組だな。O・ヘンリイの。知ってるか?」
ガリビーが言った。栄ちゃんは知らないと答えた。
「病室から見えるツタの葉が、すべて風で落ちた時が、自分の死ぬときだと信じている少女がいたんだ。いつも、友人である画家の老人にそう話していた。葉が一枚一枚と散っていき、最後の一枚になってしまう。あの一枚が散ったとき自分は死ぬんだと少女は信じて疑わない。風の強い夜が明け、少女はカーテンを開く。ところが、最後の一枚はちゃんと落ちずについていた。少女は生きる希望をとりもどすが、実は、それは画家である老人の最後に絵筆で残した傑作だったというわけだ。その老人の名前は確か、ヴェールマン老人といったっけなあ」
ガリビーが昔読んだ話なのだった。その話に登場するヴェールマン老人に自分たちの意図していることが、そっくりというのだった。
「所詮、ぼくたちに犯罪はむいていないのだろうな」ガリビーは少し自嘲的だった。
しっちゃんが、台の上に腰をおろした。
「美紀さんとも、また話をしたんだ。医師の分析によるとウェンディ……恵ちゃんは父性をゲズラに求めているかもしれないんだってさ。美紀さん一人の手で育てられて、心の隅に何か満たされないものを感じ続けてきたのかもしれない。それが身体的失調としてナボコフ症候群なる衰弱みたいに顕在化してきた可能性があるというんだ。ぼくたちを恵ちゃんの病室へ連れていってくれたのも、恵ちゃんが潜在的に求めている父性を我々に見つけてくれるのではないかと願ったからなんだって。少しでも病状が快方へむかえばと思ったのだろう」
「だけど、無駄だった」
ガリビーがそう言うと、しっちゃんが腕組みしたまま頷いた。
「さあ、準備しよう。ぼくたちのやるべき行動目標が絞られたのだから。夜が明ける前にゲズラを恵ちゃんのいる病院前に運んでおこう」
栄ちゃんが、興奮のためか身体をやや震わせながら叫んだ。トラックを持ってきた。青色の2t車だった。脇に「飛田鉄工所」と白く書かれていた。三人でゲズラをパレットの上に乗せ、フォークリフトで荷台にかつぎ上げたのだ。青いビニール・シートでゲズラを覆うと外観は、異様さは否めないが「まさか怪獣が中にいるとはわからない」程度までは変えることが出来た。
闇の彼方が白みかけていた。
「今のうちに運ぶんだ」
そろそろと栄ちゃんがトラックを動かし始めると、すぐに難問が発生した。電線がゲズラに引掛かるのだ。栄ちゃんが、物干し竿の先にY字型のプラスチック棒をとりつけ、しっちゃんとガリビーが進路にある電線を持ちあげながら微速ではあるが、移動するという姑息な方法で、解決された。
病院前に到着したのが二十分後、まだ、夜は明けていない。とりあえず数軒先のビル建築予定地の工事現場の塀の後ろに、ほうほうの体でゲズラを着地させた。荷台を砂山の頂上につけ、ゲズラをその上に乗せ、砂山から少しずつずり降していくというピラミッド建築そこのけの手法をとったのだ。
栄ちゃんが、工場にトラックを返しに行き、それから、三人はまんじりともせず、怪獣ゲズラのビニール・シートの前にしゃがみこんで夜明けを待った。三人の視線が病院を見た。
病院の二階に恵がいるはずだった。しっちゃんが、朝の七時ちょうどに、美紀に連絡をとった。
「今朝、どうしても恵ちゃんに見せたいものがあるんだ。朝八時カッキリに恵ちゃんに窓の外を見せてもらえないか」
「どうしたの。こんなに朝早く」
「とにかく騙されたと思って」
美紀が何かを言いかけていたが、しっちゃんは受話器を置いた。七時半には美紀は病院へ到着してくれるはずだった。それから、恵を窓際に導いて……。
二階の窓際は、地上から四、五メートルの高さのようだった。
徐々に道路の交通量が増加しつつあった。通りを歩く通勤サラリーマンやOL、学生たちの姿も目立ちはじめていた。
「美紀さんに電話かけてきた。八時に決行だぞ。その前に腹ごしらえだ。いいかい」
しっちゃんは座りこんでいる栄ちゃんとガリビーに牛乳パックと菓子パンを配った。しかし、疲労のためか、栄ちゃんの眼はげっそり落ちこんでいるのだ。
「今、ガリビーと話していたのだけれど、これは大変な重労働ですよ」
牛乳をストローで吸いながらそう言った。
「何分くらい動かせばいいのかな」
「十分間動かすとして、一秒二十四回だろう。千四百四十回が一分に必要なら、その十倍だ。一万四千四百回だ。一つの動きに一分費すにしても、一万四千四百分人形を動かすために動きまわらなくてはならない計算になる。二百四十時間。つまり十日間に相当する。これは大変なことだぞ」
そうガリビーが眼鏡のツルを押えて言う。
「飲まず食わず不眠不休でやって、それだけかかる計算だ」
栄ちゃんは、その話を聞いて、そんなにげっそりした表情になっていたに違いなかった。だが、牛乳とパンを頬ばったしっちゃんは断固として怪獣ゲズラを指さした。
「そんなこと、計画した時点でハナからわかってたことじゃないか。ぼくはやるよ。思いっきり、アニメートする気でいる。観客は……恵ちゃんと美紀さんは、もう病院の窓から何がおこるかと固唾を飲んで見守っているにちがいないのだ」
そのとおりだった。
そのとき、美紀は病室に駈けこんでいたのだ。恵は、まだ眠っていた。ゲズラの人形を抱いて……。
「恵、まだ眠ってるの。急いで眼を醒まして」
恵は、まだぼんやりとした表情で目をこすりこすり身を起した。
「ママ……。こんなに早く。いったいどうしたの」
「窓の外を見てちょうだいって。連絡もらったの。先日、恵ちゃんを見舞ってくれた乾さんたちから」
「何があるの?」
「わからない。とにかく窓の外を見てるようにって。八時ちょうどに何かがあるらしいから……」
「何なの。いったい……」
恵の肩に美紀はカーディガンをかけた。恵は見降していた。窓の外を。
外はいつもの朝と同じ喧噪だけが広がっていた。果しなく続く自動車の列。通りを足早に通り去る人々の群れ。
「何がおこるというの」
「あと五分よ。八時まで」
美紀が腕時計を見た。
工事現場にトラックが入ってきた。怪獣ゲズラのビニール・シートの前でトラックが止まり、初老の男が驚いたように飛びだしてきた。
「何だい、ここに何を持ってきやがったんだ」
三人は咄嗟にビニール・シートの影に身をひそめていた。
「あと三分だよ。見つかってしまうぞ」
栄ちゃんが、二人の顔を見まわした。実際に時間は残されていない。今、ここで見つかったら、怪獣ゲズラが人形であることが発覚してしまう。
「そこに、誰かいるのんかぁ」トラックの運転手が叫んだ。「現場の人間かぁ。出てこんつもりなら、こっちから行くぞ」
よし行こう! とガリビーが声をかけた。試作機をONにすると、周囲の騒音が消え、沈黙の世界に化した。
トラックの運転手は、半ば口を開き、へっぴり腰でビニール・シートに手をかけようとしていた。三人は、運転手の両手、両足をぐるぐる巻きにし、ガムテープで目と口をふさぎ、トラックの運転席に押しこんだ。
「なんだか、死人をかついだような気がするよ」
しっちゃんが、そう呟いたが、トラックの運転手にとっては、いったい自分の身に何が起ったのか理解できないはずだった。何やら正体不明のビニール・シートの中身を暴こうとした次の瞬間には縛りあげられトラックの中に転がされているわけなのだから。
時間を正常に戻すと八時一分前だった。
ガリビーが秒読みを開始した。
「六・五・四・三・二・一……」
八時の市役所の時報サイレンが市内に響いていた。
「何もないみたい」
恵が、そう言った。「何があるのかしら」美紀が溜息をついた。乾さん、私たちに、いったい何を言いたかったのかしら。あんなに声を弾ませていたから、きっと何かがあるはずだわ。それから、もう一度、腕時計を見た。八時きっかり。そのときだった。
「あっ、ママ!! 夢みたい。ほんと。ほんとよ」
恵が叫び声をあげた。ベッドから跳びおき、窓際から身をのりだしていた。
外から悲鳴が聞こえ、クラクションが鳴り響いた。
隣のビルの工事現場の前に、身の丈五メートルほどもある怪獣が立っているのだ。蛙のような形状を持つ頭を持った茶褐色の怪物は小首をかしげ、恵と美紀のいる病室をみつめていた。それから、手を振って笑いかけてみせた。
二人に恐怖感はなかった。その怪獣は人なつこさをもっていたのだから。
「ゲズラよ。ゲズラが来てくれたんだわ。ねえ、ママ。そうでしょ。私に会いに来てくれたのね。ゲズラは元気だったのよ」
はしゃいでいる恵とは、うらはらに、どうしても美紀はこの現実を信じることができずにいた。ぬいぐるみであるはずがない。あんなに大きいものが。ロボットじゃあないわ。あの怪獣は生きているもの。これは、ほんとのことかしら。夢の中のできごとじゃあないのかしら。
「ね。ママ、ゲズラってほんとにいると恵、いつも言ってたでしょ。ねっ。ね」
こんなに、はしゃいでいる恵を最近見たことがなかった……。そう美紀は思っていた。頬を紅潮させ、息をはずませ手を振る恵を……。
「栄ちゃん、右足を一センチ持ちあげる。そっちを持ってくれ」
しっちゃんが、汗をふきながらゲズラの足にしがみついていた。
「ゲズラを歩かせて病室の前まで連れていく。ほら恵ちゃんと美紀さんが病室の窓のところで笑ってる。手をふってるんだ」
彫像のような親子が、三人とゲズラを見守っているのだ。
「病院の前まで運ぶとすれば、何歩で動かすんだよ。十五メートルは、ゆうにあるんだそ」
栄ちゃんが泣きそうな声をだした。
「一歩が一メートル弱だから、十七歩くらいかなあ。もっと……ククッ。力を入れて持ってくれ。オーライ。そのくらいでいいよ。ガリビー。時間を進めてくれ」
しっちゃんにうなずいて見せ、ガリビーは二人のいる場所へ近づき、時間軸圧縮理論試作機を押した。カシャッ。一瞬だけ世の中が動いた。ウォーンという谺のような周囲の騒音が、三人の耳に残っているような気がしたが、多分錯覚だろう。空気の震動も静止しているはずなのだから。
一瞬の動きの中で、近くにいた若い女のバッグが宙に舞っていた。車を運転する男が目を剥いていた。踵をかえそうとして身体のバランスを崩している男。駈けだして宙に浮かんだ男。しっちゃんが叫ぶ。
「もう少し身体の重心を前に倒す。歩行状態を表現するんだから。栄ちゃん、右足をもう一センチあげよう。ガリビーは後ろから押してくれ。そうだ、その調子」
カシャッ。
台形の梯子を、栄ちゃんが工事現場からかついできた。怪獣ゲズラに立てかける。
「眼玉を動かしてくれ、瞼を少し閉じ気味にして。口も、少し開けておいたほうがいい。咆えるためのラジカセも口の中に仕掛けてあるんだから」しっちゃんが叫ぶ。
カシャッ。
怪獣ゲズラが歩道をゆったりと一歩踏みだしていた。人混みが、大きな輪をつくり、悲鳴が一層高まっていった。地響きは聞こえなかった。恐る恐るの一歩。
「ママ、ゲズラが歩きだしたわ。恵のところへやってくるのよ」
手を振り続けながら、恵は美紀に言った。
そうだ。これなんだわ。乾さんが八時に窓の外を見ていて欲しいと頼んだのは。非現実的だけど、信じられないけれど、あの怪獣ゲズラは、あの三人が仕組んだことに違いないんだわ。どうやって動かしているのかしら。あの三人の姿は、どこにも見えないのに。
病室のインター・ホーンが鳴った。
「付近に猛獣が現われています。危険ですから窓際から離れておいてください。くりかえします付近に猛獣が現われています――もうすぐ警察が到着するはずです」
インター・ホーンの声は、うろたえていた。こういった伝達の例がないために、しどろもどろの表現になっていた。
「警察……。ゲズラを捕まえるつもりかしら」
恵が手を振るのをまめ、心配そうに母親に尋ねた。
そのとおりだった。人が走り去っていく逆方向から、二十歳をすぎてそういくつも経っていないような警官が自転車で駈けてくるのが見えた。目標方向はあきらかに、怪獣ゲズラなのだ。全速力だった。
そのとき、怪獣ゲズラは立ち止まり、大きく一声吠えていた。
警察官は自転車に急ブレーキをかけた。本能的恐怖のためだろう。しかし、その反動で彼は歩道に自転車から投げだされてしまったのだ。
「警官だよ。警官」
梯子の上から栄ちゃんが叫んだ。栄ちゃんの指のむこうに自転車から投げだされた若い警官が宙に浮かんでいた。
「何をしに来たんだろう。まさか、我々を逮捕しにきたんじゃないだろうな」
ガリビーが「逮捕」という単語を口にしたため、しっちゃんは少し眉をひそめていた。
「ぼくたちが、何をやったというんだ。犯罪に匹敵する行動をとったとでもいうのか」
「前、映画を観たんだ。怪獣映画をさ。いつも怪獣は攻撃されるんだぞ。自衛隊が出動してきてね。戦車やら、ジェット機やら続々とやってくる。その前哨戦として警官がやってきたのではないんだろうか」
栄ちゃんは、そう自分の解釈を述べた。
「トラックの運転手を縛りあげて監禁したのは、あれは確かに犯罪だと思う。もし、この怪獣ゲズラが我々の仕業とわかったら、必ず責任を問われることになるかもしれない。ぼくたちは恵ちゃんを喜ばせるためにこの計画を実行しているけれど、この付近にいるのは恵ちゃんや美紀さんたちだけではないんだ。一般人に対しては、予測できたはずなんだけれど、それ以上に大きな反応が起きているようだ。騒乱罪とか、それに類した罪状があたるかもしれないな」
ガリビーがそう言った。
「でも、あの警官どうする。あのままほっておいたら、歩道に頭から、ぶつかってしまうよ」梯子の上の栄ちゃんだった。
「仕方ないな。病院からちょっと借りてくるよ」
ガリビーは恵のいる病院に走っていった。
自転車から放りだされた警官は、「わっ、しまった」と思っていた。それから、正体不明の怪物の前で自転車に転げて気絶してしまうかもしれない自分を悲惨だと考えていた。柔道の受け身の姿勢をとろうと、一瞬もがいたが顔面にすでに歩道があった。「こりゃあ、だめだ」と考え、それから、気絶した自分が怪獣に踏み潰されペチャンコになっているという光景が脳裏に去来していった。「情けない」
次の瞬間、眼前にベッドが出現したのだ。何故だかわからなかったが、唐突に警官が激突するはずの歩道にベッドが現われた。一度、ベッドにバウンドすると警官は歩道に尻餅をついた。奇跡としか思えなかった。
ベッドがあった場所に再び目をやった。しかし、そこには何も存在しないのだ。何度、目をこすってみても、ベッドに代るべき存在も確認できない。車輪が空まわりしている横転した自転車だけ。信じられない思いだった。
背中で怪獣の咆哮が轟いた。警官は我にかえっていた。そ、そうだ、自分は怪物出現の通報を聞いて駈けつけたのだ。
振り返ると眼前に巨大で異形の怪獣がいた。
「うわぁ、うわわ。うわわ」
あわてつつ、腰から拳銃を抜き、安全装置をはずした。こういう際の対処は、警察学校では教えてくれなかったのだから。
「止まれ。止まらんと撃つぞ」天にむけて一発威嚇射撃した。しかし、怪獣は前進をやめようとしない。「くるな。よ、よるな」
警官は、銃口を怪獣にむけ、二発連続して引金を引いた。
ガリビーは、静止した弾丸を二発とも方向を変えた。弾丸は天にむかってまっすぐ上昇するはずだった。
「もう疲れたよ。しばらく休もう」
栄ちゃんが弱音を吐くのも、もっともだった。三人とも、頬が黒くなっていた。そんなに髭が伸びる期間、突貫でゲズラを操作しているのだ。服はというと三人揃ってよれよれになっている。まるで浮浪者トリオだった。
「あの警官は、せっかく助けてやったというのに、こんどはピストルを撃つんだからなあ」
ガリビーは呆れて肩をすくめた。警官の実直な勤務ぶりに、ほとほと感心したという様子だった。
「これと、全く同じシーンを見たような気がする。……あれは……」ゲズラの前に拳銃をかまえたまま仁王立ちしている警官を眺めながら、しっちゃんが言った。「ブラッドベリの霧笛≠映画化した『大怪獣出現』だ。あの映画でも恐龍にピストルで立ちむかう警官が登場したっけ。あの警官は恐龍に食われちまったんだっけな」
「だけど、この警官も、ほっとくと、いつまでもつきまとうのじゃないかなあ」
ガリビーが眉をひそめてそう言った。周囲を見回すといつのまに集まったのやら、遠巻きに、野次馬が息を殺してゲズラと警官を見守っていた。ある顔は恐る恐る、ある顔は、笑みを満面にたたえていた。
「ゲズラに警官を食わせてしまおう」
しっちゃんだった。
「恵ちゃんに、そんな残酷なとこ見せるのか。ぼくは反対だ」と栄ちゃん。
「その瞬間は見せなければいい。カーテンを閉めるんだ。恵ちゃんの病室の。……何、本当に食っちまうわけじゃない」
カシャッ。
急に、恵と美紀の前にカーテンがあった。
「どうしたのかしら。風かしら」
外で、叫び声が響いた。「怪物が警官を喰っちまった」「逃げろ! こっちへやってくるぞ」
慌ててカーテンを開くとクモの子を散らすように野次馬が逃げていくのが見えた。
「ゲズラは、おまわりさんを食べちゃったの?」
「さあ、わかんないわ」
「嘘にきまってるわ」
ゲズラの姿は、恵と美紀のいる窓から数メートルの場所にあった。恵と視線が合い、ゲズラは恵にウインクした。
「うわあ。やはり、ゲズラは私に会いにここまで来てくれたんだわ」
警官はゲズラの口の中にくわえこんだ段階で、ぐるぐる縛りあげ、工事現場のトラックの運転席に押しこんだのだ。それから三人は停止した時間の中で仮眠をとり、缶詰の食事をとった。
「さて、恵ちゃんの前にたどりついたんだが、どうやることにしよう」
ガリビーの議案に、栄ちゃんが答えた。
「はげますんだよ。それが目的なんだから」
しっちゃんは黙ってスケッチブックに何かを書きこんでいた。ゲズラの笑い顔、ひょうきんな動作。栄ちゃんが不思議そうに覗きこんだ。
「何、書いてるの」
「うん。本来ならもっとはやく、やっておくべきだったけれど……アニメートするための全体のコンテをやっとかないと、統一した動きにならないような気がするし。泥縄だけど仕方ないんだ」
皆の反応をたしかめて、しっちゃんが言った。
「こんどは、こういう連続動作にしたいのだけれど。つまり、栄ちゃんは、顔部分をこのように動かす。ガリビーは両手。ぼくは足と尻尾。息があわないとだめだぜ」
三人の視線が合った。栄ちゃんは心細さを、ガリビーは疲労を、それぞれの思いを目に宿していた。三人の視線は怪獣ゲズラに向き、誰ともなく溜息をもらしていた。それから病室に目をやり……。恵の手を振る笑顔がそこにあった。
「やろうぜ」
誰からともなく立上り……。カシャッ。
怪獣ゲズラは、恵と美紀のいる病室の外に立ち、小首をかしげて二人を眺め、目を細めてみせた。それから両手をあわせて、悪戯っぽくこすりあわせる。
「ママ、ゲズラは何やってるのかしら」
「さあ、わかんないわ」
ゲズラの腕の動きが突然に止まり、左の掌から、水仙の花束をとりだし、恥かしそうに恵にさしだした。
「まあ、私にプレゼントなんですって」
恵は喚声をあげた。
恵にプレゼントの花束を渡し、ゲズラにスキップを踏ませるという悲愴な作業が残っていた。片足立ちさせたゲズラをジャッキ・アップするのだ。三人とも、朦朧とはしていたが、不思議に後悔感はなかった。
ジャッキを動かしながら、しっちゃんが言った。「しんどいけどさ。ぼくが今まで作ったうちで最高に満足いったモデル・アニメだよ。二齣撮りも、三齣撮りもやらなかったし、文字通りフルアニメなんだからなあ。ぼく、あのクラス会に行って本当に感謝しているよ」自分もそうだと栄ちゃんも思っていた。手形の期日は何日だったのだろう。あれは、何か別の世界のできごとではなかったのだろうか。借金に追われ、家族に見離された惨めな自分を、何か遠い昔のことのように考えていた。今なんだ。今こそ、自分は生きているんだ。恵ちゃんの笑い顔だ。これこそ、自分の仕事だったのだ。
ガリビーも満足していた。学界で異端視され、認められなくてもかまわないさ。自分が必死で学究に励んできた結果が、こんなふうな形で役に立つなんて予想外じゃないか。痛快じゃないか。他に何も要りはしない。あのウェンディのような娘の笑い顔が自分たちへの報酬だ。無事に「最後の一葉」がやれそうじゃないか。
「さあ、もう少しジャッキ・アップして。じゃ、二十四分の一秒進めるから」
カシャッ。
ゲズラは、スキップをやめ、大きく口を開くと、何やら白い万国旗のようなものを口から垂らしはじめていた。その旗の一枚、一枚に文字が書かれていた。
「恵ちゃん、読めるかしら。えーと、……メ…グ…ミ…チ…ャ…ン…ハ…ヤ…ク…ゲ…ン…キ…ニ…ナ…ッ…テ…ネ…ですって。…ヤ…ク…ソ…ク…ダ……ゲ…ズ…ラ…ヨ…リ」
美紀が文字を声を出して読むと恵は何度もうなずいていた。
「大丈夫よ。ゲズラ! 私は、もう元気だから」
その時、数台のパトカーが、ゲズラの背後に到着し、遠巻きに警官たちが取り囲んでいた。
「よし、すべて終了。ゲズラをかたづけよう」
ガリビーが言い、三人が怪獣を押し始めたとき、破局は突然に訪れた。ガリビーがジャッキにつまずき、横転したのだ。時間軸圧縮理論の試作機がOFFに、はずみで切換っていた。予想外のできごとだった。
カシャッ。
驚いたのは警官たちだった。取り囲んだ怪獣が、突然、動かなくなったのと同時に、三人の浮浪者が忽然と出現したのだから。揃って髭もじゃの薄汚れた怪しからん風体なのだ。中の一人が、地面に落ちた懐中電灯のようなものを、あわてて拾いあげ悲鳴に近い声を発した。「だめだ。こわれちまった」
残りの二人も情けない声をあげ、懐中電灯に近よって騒ぎはじめていた。怪獣はバランスを崩し、クニャクニャと倒れこんでしまう始末だ。
取囲んだ警官たちは、ことの成行きが、全然理解できずに呆然と立ち尽すだけだった。
「乾さんたちだわ」
窓際で美紀は、そう呟いた。「やはり、そうだったんだ。恵のために……」
髭もじゃの一人が叫んでいた。「なおった」
その一声で我にかえった警官たちは、いっせいに三人に飛びかかっていった。しかし、一瞬はやく……カシャッ。
恵は婚約者と歩いていた。昼下り。
「誰だい、会わせたい人って」
不思議そうに男は、恵に尋ねた。
「私のお父さんたちよ……。んー。お父さんより大事な人たち。そこよ。その病院の前」
恵は、まだ少女のあどけなさを残した笑顔を浮かべていた。だがすでに立派な女なのだ。
「だって、ここは歩道だぜ。……それとも、この三人の乞食像がそうなのか」
恵はうなずいた。
「私が子供の頃、心因性の病気にかかってたの。なおしてくれたのが、この人たち。まだ、この人たち生きてるのよ。他の時間軸を旅してるだけ」
そこに栄ちゃん、しっちゃん、ガリビーの化石が立ち尽していた。三人は試作機を操作して、あれから未来への逃亡をはかったのだ。時間軸の異なる警官隊が、いかに三人を逮捕しようとしても、一歩も動かすことのできない状態に化してしまっているのだ。三人とも、自分たちがしでかした犯罪が時効になるまで逃げまわるつもりの気弱な三人組なのだ。
「私、何か、うれしいことがあると、いつもここに報告にくることにしてるの」
恵の言葉に、婚約者は少し戸惑ったような表情を浮かべていた。
恵は、水仙の花束を三人の足もとへ飾った。花束には、「ヴェールマンさんたちへ」と書かれたカードが添えられていた。
「いつ、三人はこの時間軸へ帰ってくるのだろう。三人は永遠にこのまま……ひょっとして」
「わからないわ。でも……いつかは必ず」
カシャッとその時、音がした。それから、突然、それまで立ち尽す彫像だった三人の男が、わらわらと動きだしたのだ。
中の一人が、驚いたようにあっけにとられた恵の顔を凝視め、そして言った。
「あっ、美紀さん。もう、警官隊、行っちゃったんですか。ところで、恵さんの容態、いかがなんでしょう。ゲズラの効果はありましたか?」
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百光年ハネムーン
結婚一周年/紙婚式
結婚二周年/藁婚式
結婚三周年/菓婚式
結婚五周年/木婚式
結婚七周年/花婚式
結婚十周年/錫婚式
結婚十五周年/銅婚式
結婚二十周年/陶器婚式
結婚二十五周年/銀婚式
結婚三十周年/真珠婚式
結婚三十五周年/珊瑚婚式
結婚四十周年/青玉婚式
結婚四十五周年/紅玉婚式
結婚五十周年/金婚式
結婚七十五周年/金剛石婚式
結婚百周年/大和石式
ヤポニウム・コンツェルン・ビルの百四十六階は、会長、五堂勝《ごどうすぐる》翁のために、ワン・フロアぶっ通しのオフィスとなっている。それでも一代にして財を成した勝翁の活動空間としては、狭すぎるかもしれない。この下の百四十五階は、老人の個人の用途に使用されるコンピューターが詰まっており、オフィスでは、その端末機だけが用途に供されている。その下の階は、警備ロボットの詰所となっており、老人に面会するためには、この詰所で一時検問を受けねばならない。不審な人間は、ここで総てシャット・アウトされる。記録によると、最低九十二名の人間が、警備ロボットに殺害された計算になる。
この上の階、百四十七階は五堂老人の生活ルームになっている。つまり、老人はこのビルから外部へは殆ど出たことがない。総ての用件が、この室内から指令を発信するだけでこと足りるからだ。
老人が口を開く時以外のこの部屋の音といえば、虫の羽音を思わせるエアー・コンデイションの送風と、ビルの受ける風圧から規則的に揺れ動くビル自身のきしみ音だけだ。それはまるで舟を漕ぐ櫓を連想してしまう。
オフィスの奥のまた奥。絨毯の彼方にポツンとマホガニー製のデスクがあり、そこに五堂老人は座っている。デスクの横には巨大な端末ディスプレイ装置。
眼だけがぎょろぎょろと、絶えず四方をみつめ続けている。両手の指を組み、眉をひそめ端末機のスクリーンに罵声を浴びせる。
「もういい。わかった。次は精錬状況だ。大和石《ヤポニウム》の粗鋼はどの程度だ。昨年対比と製造計画予定と需要偏差値で出してくれ」
スクリーンの左端に四色の光点が浮かび軌跡を残しながらジグザグ模様を描き右端へと消えていく。
「赤が昨年度対比伸率、青が製造計画達成率、黄が需要偏差充足率、白が製造実数で表わされます」
コンピューターの無機質を思わせる中性的な声が響く。
「カリフォルニア地区」
「ヤマト地区」
「上海地区」
「タンザニア地区」
待て≠ニいう声が室内に広がった。
「今のはどこだ」
「タンザニア地区です。再レビューします」
コンピューターが再びタンザニア地区の精錬状態を今度はドット・マップでディスプレイする。
「わかった。タンザニア地区長は更迭。ストック員を派遣しろ」
「旧地区長の処遇はどうしますか」
「いつもの処置だ」五堂老人は鼻の穴をほじりながら言う。
「豚の餌にでもなりやがれ≠ナすか」
あくまでの感情のない声でコンピューターが確認を求めた。
「ふん」五堂老人は鼻屎を弾いた。
「タンザニア地区、新地区長はストック員YBV‐三〇五七九九。旧地区長TZX‐三二二三〇四は解雇。処置終了」
老人は満足げに端末機にむかって、ゆっくり二度頷いた。
「他に何か変ったことはないかね」
「はい。世論が大和石《ヤポニウム》の独占に対して、異常なほどの不満を持ち始めています」
コンピューターに老人はビーと舌を出し、鼻を鳴らしてみせた。
「ふん、驚くにあたらん。毎度のことじゃないか。貧乏人にヤポニウムを使える権利なんかあるものか。身のほどしらずの輩どもめ」
「しかし、今回は異常です。ヤポニウム・コンツェルンへの排斥運動が大きく組織され一つの社会現象とさえなり始めています。今までの世論における声なき声の不満とは全く異質のものです。現に今日も……。このビルの下でデモが行われているという情報が入っています」
五堂老人は椅子の右肘の部分のボタンを操作した。椅子はマホガニーの机から離れ、絨毯の上の空間を滑って窓際へと移動した。
窓の外を見下すと、そこには雲海が広がっているばかり。ビルのきしみ音が規則的に聞きとれるだけだ。
「雲で下界の様子はわからんな」
「端末機のスクリーンに、下の様子の受像させましょうか」
老人は拒否するように右手をあげた。
「いや、その必要はない。それから、運動の核になっている連中をリストアップしてくれないか」
「はい、承知しました」
次々に、スクリーンに顔写真が現われ、略歴が読みあげられる。
「以上、五名です」
老人は机にもどり、暫く頬杖をついた。
「よし、指示する。まず最初の男」
最初の男が映る。二十代だろう。
「こいつは事故死だ」
二番目の男が映る。初老。
「この男は、運動で私腹をこやしていたという事実が発覚することになる」
三番目は女。三十二、三歳。未婚。
「ふん、ブスめ。男をあてがえ」
四番目の男。四十前後。
「こいつは病死だ。麻薬中毒であった事実があとになってわかる」
五番目は女。大学生。美人である。
「ふしだらな私生活を暴露してやれ」
コンピューターは処置を復唱した。
「今の指示によって運動はどのくらい解体できるか」
「四〇%です。核は一時的に破壊できますが根源的な不満を消滅させたことにはなりません」
仕方ないなといったように老人は首を振り、指示を実行させるように、もう一度繰り返した。
暫く、室内に静寂が続いていた。
端末機が突然明滅した。
「百四十四階の警備室に、闖入者です」
「中継してくれ」
老人はいささかも慌てていなかった。警護を受けもつロボット達の働きは完璧なのだ。
スクリーンに写しだされたのは、取抑えられた少年の姿だった。ロボットに両腕を握られ足を、ばたつかせながら、五堂勝老人への面会を頼んでいた。その声は叫びに近かった。
「会わせてください。そう、時間がないんだ。ママを助けるには大和石《ヤポニウム》溶液しかないんだ。話せば必ずわかってくれる筈なんだ。会わせてください。もうママは衰弱しきっている。一刻も早くヤポニウムを射たないとまにあわない。金は必ずあとで働いて返します。今の流通制度じゃ、ぼくらには絶対ヤポニウムを手に入れることはできないんだ。五堂会長にお願いするんです。特別措置を講じることを。会っていただけたら、総てお話しします。頼みます。手を離してください」
映像が消えた。五堂老人が中継を止めさせたのだ。
「闖入者は退去させました」
コンピューターの報告に、老人は眉一つ動かすでなく頷いた。
「よくあることだ」
そうだ、よくあることなのだと老人は思っていた。しかし、そこまで情をかけるほどの事件ではないと考えていた。
誰がヤポニウムを発見したと思っているんだ。儂が発見しなければ、ヤポニウムは誰もその効用を受けられないはずだったのだぞ。
五堂老人は、大和石《ヤポニウム》を発見した頃のことを思いだしていた。大和石は、発見したのではない。抽出したのだ。発見と言えば身近にあったものを偶然に見つけだしたような印象を与える。しかし、自分で、その存在を信じ、理論上の存在から現実に手にとることのできる存在へ転換させたことの意義とは、雲泥の差があるのだ。
人類の寿命の延長化は、大和石の溶液によって奇跡的な効果をあげた。細胞組織自体が溶液によって活性化するのだ。異常細胞は駆逐され、機能疾患は正常に復し、極端な例においては、まるでトカゲの尻尾が生えてくるように、単純な機能の器官は再生さえした。
それだけではない。エネルギー源としての大和石は、その効率面で革命的な長所を明かにした。他にも、大和石を利用した文明の奇跡の進歩は数えきれない程の例を見ることができる。
そうだ、今の文明は自分なしでは存在しなかったのだ。海水から抽出する奇跡の鉱物、大和石《ヤポニウム》は五堂老人の血と汗なのだ。だから、無知でわがままで、身の程知らずの一般民衆たちが、その真の価値、大和石《ヤポニウム》の尊さもわからずに、念仏のようにヤポニウムを欲しがるのをみると無性に腹が立ってくる。高貴な大和石を使用できるものを、儂の基準で設定しておいて何が悪いんだ。五堂老人はそう考えていた。
「そろそろ、クリニック・マシンにかかる時間です。三十分後に来客のアポイントメントがありますので、早目にかかっておいて頂いたほうがよろしいでしょう」
「来客……があるのか。久しぶりだな。誰が儂に会いにくるというんだ」
老人はコンピューターに尋ねるでもなく呟いた。そのまま、椅子は階上へ浮かび上がっていく。
生活ルームの一角にクリニック・マシンが鎮座している。老人は小柄な肉体を機械の上に横たえる。
老人が大和石《ヤポニウム》溶液を、生物学的時計《バイオロジカル・クロック》の巻きなおしに応用することを発見したのは、人体バイオニック部品を臓器のいくつかに使用した後のことだ。百二十八歳の五堂勝老人の体内には人工心臓、人工肺、人工肝臓が作動し続けていた。
人工臓器のチェックを受けるたびに、老人はいつも不公平さを感じてしまう。大和石《ヤポニウム》溶液の医療応用で、人類はそれを購入できる経済的資力さえ有していれば、不老長寿の効力を享受できるのだから。人工臓器を今の時代に使う人間なんていやしない。それなのに……だ。大和石《ヤポニウム》の医療応用を発見した自分自身は、こうして毎日クリニック・マシンの管理《メンテナンス》を受けなければならないときている。
そりゃあ、五堂老人が人工臓器の装着を受けた時点でも、一般人が気楽に部品を手に入れるといったわけにはいかなかったのだ。平凡な市民が一生費して稼いだ一財産分が、精密で小さく老人の体内で作動している人工臓器の一個分にも満たない。しかし、大和石《ヤポニウム》の量産化がある程度の規模に達しており、新エネルギー源として需要のみが極度に膨れあがりヤポニウム・コンツェルンの基礎を築きあげていた五堂老人だったからこそできた業なのだ。今、もし、ヤポニウム溶液を使用せず、人工臓器で延命をはかるとしても、コスト及び手術後のメンテナンスのわずらわしさは、多分想像を絶したものであるはずだ。だから、もう人工臓器など、すたれてしまっており、死語と化そうとしている。
クリニック・マシンは最終的な仕上げに大和石溶液を注射した。このおかげで、これ以上の身体の老化を防いでいるし、これ以上に身体を人工部品と交換せずに済む因になっているのだから。
クリニック・マシンから老人は起きあがった。昔は機械だけでなく、看護婦も使ったことがあった。だが、無意味さに気づき、すぐにお払い箱にしたのだ。いかに有能そうに見えても人間というのはミスを犯すからだ。それに、少し甘やかすと必要以上に喋り始める。それがうっとうしい。
オフィスに降りるとコンピューターが待ちかねたように老人に告げた。
「来客です。予約時間、丁度に見えています」
「そうか。誰だ」
「五堂勝介氏です。会長の玄孫《やしゃご》にあたられます。ヤポニウム航宙企画(株)勤務。二十四歳。二〇八九年五堂勝吾、弓子の間に生まる。性格指向POQ検査七〇九及び五二七の併合型。会長への印象傾向はK型。略歴は……」
「もういい。もういい。何しにきたというんだ」
「用件はインプットされておりませんが血縁回路が優先して予約《アポイント》をとられております。お会いになりますか」
「こっちは、話すことは何もないし、会ったところで時間を潰すことになるだけじゃないのか……。……いや待て。会う。通せ」
五堂勝介という名前から、どんな男だったか老人はどうしても連想できずにいた。ただ自分に対しての印象傾向がK型という単純な理由だけで、その男に会ってみようと思っていたのだ。K型というのは、少くとも五堂老人に対して固まったイメージができあがっていないが悪意や敵意を持っていないことを示している。性格指向七〇九/五二七では温和で落ちついているが、仲々押しの強さは兼ね備えているということになる。
しかし、いくら血縁といっても即座にその名前を思いだすのは困難なことなのだ。なにせ、ざっと数えただけでも自分の子孫たちは百人を軽く超しているのだから。
彼方にある外来客用の扉があいた。
紺の背広に、明るい青一色のネクタイを締めた背の高い青年がそこに立っていた。老人に一礼すると青年は言った。
「初めまして。五堂勝介です」
老人は頷き、手招きした。
青年はきびきびした動作で老人の机にむかって歩を進めた。近づくにつれて、老人は青年がなかなか好感の持てる面構えをしていると思いはじめていた。
青年は老人に対峙した。
「会長には、誕生の時に祝福を頂きました」
老人は、子孫が誕生するたびに祝福を与えるよう、コンピューターに指示していた。祝福≠ニは祝い金を指していた。その額は養育費としてはあまりにも少く、だが世間一般の交誼の額よりはやや多いというほどのものだった。
老人は言った。
「儂は子孫が生まれるたびごとに祝いをしている。用件を予約の段階であかしていないが、儂に会わなければならない用とは何だね。君のプライヴェートな駈けこみ訴えかね。それともヤポニウム・コンツェルンの繁栄に関することかね。聞けば、君はヤポニウム航宙企画にいるそうだが」
余分な世間話を一切排するように、切りだしたのだ。
青年の瞳は涼しそうに笑っていた。
「そのいずれにもあてはまります。私も単刀直入に話すつもりでいるのです。会長へ面会を申込む時に用件を大項目だけで知らせては予約許可が頂けないと考えました。だから、その点だけで血縁回路を利用させていただいたのは謝ります。しかし、直接、会長がこうやって私の話を聞いてくださるのですからどれほど謝っても構わないと考えていたのです」
淀みなく青年は喋り始めた。その次の瞬間思わぬ言葉を青年の口から聞いたのだ。
「会長に宇宙旅行をしていただこうと思います」
「何だって」
老人は思わず叫び声をあげていた。
「地球から百光年の距離にペガサス座αのマルカブという恒星があります。(偽の鞍)という意味を持つ星で、太陽の八十五倍の明度を持つ赤色巨星です。このマルカブの周囲を二十一の惑星が周っています。会長に、この七番目の惑星トリスタンへ行っていただきたいと思います」
「…………」
口をはさもうにも老人は言葉が思いあたらなかった。何も言葉が出てこないのだ。眼をかっと見開き、口を閉じることも忘れ、ただただ呆れ、驚愕していた。
百光年も先の宇宙へ? この多忙な儂に、百数十年の旅をしろというのか。いくら長寿命化しているといっても体力の限界がある。
「数年前、会長は航宙事業の拡大をコンツェルンの今後戦略における重点施策として発表なさいました。そして、我々航宙事業グループはその事業推進に励んできたのです。御存知のように大和石機関による航宙法によって太陽系内の航宙網は完備したと言えるでしょう。しかし、この間まで、この航宙事業は微成長をしていたにすぎません。数年もかけて他天体を旅行するほど人類は一部を除いて物好きではないからです。資源開発にしろ、ヤポニウムの価値を下落させる要素を持った種類の開発は行われておりませんので、事実上航宙事業は壁に突きあたっていたといえるわけです。しかし、奇跡とも言える事実が一年ほど前に発見されました」
青年は自分の言葉の効果をはかるように、一度大きく息を吸いこみ、一枚の紙をとりだした。
「この紙の中央が我々がいる太陽系の宇宙です。何光年も離れた星々が、この紙の裏にあったとします。そこへ行くためには、一旦、紙の端まで行き裏側の端から目的の星までまた飛行しなければなりません。一番手っとりばやい方法はこうです」青年はそう言って紙の中央部に穴をあけた。
「この穴を通れば、紙の端まで行く必要がありません。じつは……この紙にあけられた穴にあたる超空間が、一年前、ほんの偶然から発見されたのです。それは地球や月からそう離れていない地点なのです。そして、その超空間で繋ながれた最短距離の宇宙というのが、今、お話しした百光年先の天体、マルカブの惑星トリスタンというわけなのです。今の技術力で、トリスタンまで往復すればどの位の時間が必要だと思われますか。信じられないかもしれませんが、わずか三十時間で超空間を抜けて、その惑星に到達することが可能です」
ようやく老人はそこで気をとりなおし、やっとの思いで言った。
「それで……どういうつもりで、その惑星トリ……に行かせようと思うんだ。この儂をだ」
「惑星トリスタンです。半径六千五百キロメートル。大気組成は窒素六十八%酸素二十八%重力〇・八G。そう地球の環境と大差はありません。ここには、地球が失った大地の自然が残されているのです。この星の六分の一を観光開発しました。もち論、極秘裡のうちにです。残りの地域には一切手をつけずにいるつもりです。惑星の環境破壊をやるのがわれわれの目的ではありませんし、その程度の規模の開発を一応の基準にして歯止めにしておきたいのです。
で、この観光開発した地域を、いまから市場にPRする段階にきているわけです。第一段階として惑星トリスタンの存在、及び超空間の発見をまず発表します。遠距離の天体にこんなに手近に行くことができるという驚きと、地球の古来の懐しい自然を持つ、惑星トリスタンのイメージ定着を同時に狙うわけです。第二段階として、ヤポニウム航宙企画がこのトリスタンへの夢の旅行を取扱うことを宣伝します。トリスタンという異星は太陽系の他のどの星ともイメージを異にするのです。太陽系内の惑星の荒涼とした死の星とは違うのです。地球が失った、ふるさとのような星なのです。そんな、夢の星への旅行をヤポニウム航宙企画がお世話している……。それで、大衆はトリスタン旅行を望むでしょうか。まだ欠けるところがあるのです。第三段階で、その部分を補いたいと思います。大衆が決心つきかねるとすれば、それはトリスタン旅行の安全性なのです。事故もなく、あたかも自分の足で隣町へ歩いて遊びにいき帰ってくる。そんな確実さをもっていながら冒険心をもくすぐる旅行。大衆は矛盾した欲求を持ち続けているといえます。第三段階での安全性のPRの方法をいろいろ考えました。そして、これ以上のものはなかったのです。いま、世界で最高のネーム・バリューを持つ人物。そして、世界で最高の重責を持つ人物。その人が、笑顔でトリスタンへ出掛け、満足顔で帰ってくること。そんな素晴らしいPR効果があるでしょうか。超人的な訓練をつんだ肉体の持主がトリスタン旅行をしてPRしてもなんの効果も持ちえません。会長。私は、これをお願いに参ったのです。副次的なメリットは無数にあるのです。会長への一般大衆の親近感。会長の勇気もたたえることでしょう。コンツェルン全体のイメージ向上にもつながります。航宙事業の現在の壁も簡単に打破できるのです。
どうしても、会長自身に惑星トリスタンへ行って頂きたいのです」
青年は、そこで少し声を落した。
「実は私も、もう何度もトリスタンへ出掛けているのです。開発もほぼ終了しています。今、お話ししたトリスタン・プラン≠煢長が旅行を引受けて頂ければ、即座に実行に移す段階にまでこぎつけているのです。会長は今、大衆にとって、雲の上の存在≠ネのです。会長はこのビルを絶対に離れない。そんなことは世界中の誰もが、三歳の子供でさえ承知している事実なのです。ひょっとして、五堂会長というのは実在している人物ではないんじゃないか。会長というのはコンピューターじゃないか。そんなことまで囁かれているんですよ。御存知ですか。……失礼しました」
しまったと言うように青年は口ごもった。老人は黙っていた。だが、眉をひそめ、考えて言葉を選ぶように言った。
「たしかに、儂はもう、何年もこのビルを出たことはなかったようだ。というのは、一つはこの肉体のせいもある。君も知っているかもしれないが、儂の肉体は人工臓器だ。一日に一度は必ずクリニック・マシンの診療を受けねばならない。それに、ヤポニウム・コンツェルン全体を、ここで常に管理しておかねばならないという大役がある。
君の気持はわかった。面白い話だったということで記憶しておこう。引取りたまえ」
青年はぬけぬけとした顔で言った。
「トリスタンへ行っていただけますか。クリニック・マシンも用意しているのですが」
老人は今度は思いあまって立ち上った。
「貴様も諄《くど》い男だな。儂はトリスタンなぞという星へは行かんぞ。コンピューターが何といおうと儂はそんなところへ行かんといったらいかんのだ」
老人は顔中、充血させて怒鳴っていた。
地球全体を宇宙船から見ることができた。老人が見る初めての景観だった。老人は何の感激も表に出さず眉をひそめ、再びファクシミリの吐き出すデーターに目を移した。
特別船室のソファに腰をかけた老人の横に一人の青年が立った。
「ご気分はいかがでしょう。出発してみると旅もなかなかよろしいものではありませんか」
青年は老人の玄孫、五堂勝介だった。青年は老人をトリスタン行へ連れだすことに成功したのだ。
老人は憎々しげに鼻を鳴らしてみせた。
青年は独り言を吐くように言葉を続けた。
「会長のコンピューターが客観的な状況判断をしてくれたのは助かりました。まったく、あの時の模擬データーのとおりなのです。会長の数日間の御旅行がコンツェルンに無数のメリットをもたらすのは事実なのですから。会長、すみません。ロボットが船内スナップを撮影に参りました。カメラの方を向いていただけますか。パブリシティに使用しますので」
仏頂面の老人はカメラに顔を向けると目を細め歯ぐきを剥き出し、口もとをUの字に歪めて見せる。カシャリと音がすると老人は瞬間的に元の仏頂面に復元させた。
「あのコンピューターはすでに償却期間を終えている。今度帰ったらオーバー・ホールするか、ブラック・ホールにぶち込むかいずれかの方法をとらにゃあならん」
そう厭味の一言も吐きだすとデーター・テープに目を落した。それは会長室のコンピューターから送られてくる業績報告なのだった。
「実は……この船室へやってきたのは、そろそろ超空間へ突入するからです。窓外の光景を御覧になっていてください。面白い体験をなさいますから」
そう青年に薦められて、老人はやっと顔をあげた。その時、船内の青ランプの明滅が始まった。数十秒で超空間へ突入することを示しているのだ。
その瞬間は船窓の光景が、別の光景にすり替えられただけだった。震動も赤方偏移も起きず、スクリーンの映像が切り換えられただけのようなあっけなさだった。
「超空間を抜けました。マルカブ系宇宙です」
青年はあっさりとそう言った。
それは事実だった。ファクシミリから吐きだされるテープが、ピタリと止まったのだった。
そのあっけなさに老人は少なからず、驚き、そして超空間≠ニいう偶然の発見はあったものの、その根底にある航法が大和石《ヤポニウム》を基盤としたものであったことを思いだし、満更でもない気分になったのだ。
「たいしたものだ。もう地球から百光年というわけか。……ところで、この宇宙船は何人乗りかね」
「はい、すぐ、商業ベースに乗れるよう、千二百名定員で設計されています。興味をお持ちでしたら船内を御案内してもよろしゅうございます」
「いや、その必要はない。そうか、千二百名の定員か。……そうか」
そうか……と老人は何度も感概深げに頷いていた。
「トリスタンでは、まだ会長も御覧になったことのない大和石《ヤポニウム》応用の通信技術実験を見学していただくことになっています。これは、まだ説明を控えさせていただきますが、画期的なものであることはお約束できますよ」
青年の言葉に、自然に笑顔が浮んでくるのを老人は感じていた。
「それから、もう一つお許しを願っておきたいことがあります。これは、事後承諾という形になってしまったのですが」
ちょっと青年は老人から顔をそむけたようだった。罪の意識が思わずそのような動作をとらせたかのようだった。だが、昂揚した気分の老人にはそんな青年の仕草の機微に気づくはずがなかった。
「なんだ。構わんから言ってみろ」
「このトリスタン行に招待した方がもう一名ございます」
「誰だ」
「これは叔父の一人から聞いたのです。今年は会長が御結婚なさってから、丁度百年目にあたるそうですね」
「そうかもしれん。しかし、もう何十年も雪奈とは会っとらん。顔も忘れてしまったような気がする」
「何故、一緒にお暮らしにならないんですか」
「何故、一緒に暮らさにゃならんのじゃ。儂は雪奈には充分すぎるほどの生活費を与えて生活させているんだ。おまえたちの関知するところではない筈だぞ。ヤポニウム・コンツェルンを発展維持させるために儂がどれだけ血の滲み出るような苦渋を味わったか知っている筈がない。……おまえ、まさか」
「この宇宙船の名前をまだ申しあげておりませんでした。雪奈号≠ニいうのです。奥様の名前をとらせていただきました」
「何故だ」
特別船室の扉が開いた。そこに五堂老人は一人の初老の婦人を見た。優しさと上品さを湛えた彼女は老人に深々と礼をした。
「ごぶさた致しております」
五堂老人は思わずソファから立ち上った。
「おまえ、雪奈」
「はい。大和石《ヤポニウム》溶液のおかげで外観年齢だけはそう老けこんでおりませんが」
「何故、この船に」
「はい、勝介さんが、コンツェルンの発展のために、是非トリスタンへ行って欲しいと頼みに見えまして。でもこの船に会長がお乗りになっているというのは今、聞かされたばかりでした。会長のお仕事の邪魔になるというのでしたら、私、お断りするはずでしたのに」
初老の婦人は静かにそう言った。青年は慌てたように眼を伏せていた。そして思い切ったように顔をあげた。暫く、誰も口を開かず停止したままのファクシミリの音だけが室内に響いていた。
やっと青年は口を開いた。
「他意はありません。ただ、PRの効果の一つとして焦点のアクセントにしたかったのです。結婚一周年から始まって結婚五十周年の金婚式、結婚七十五周年のダイヤ婚式までが今までの、最高年齢の祝婚儀式ということができるでしょう。しかし、現在の如き大和石《ヤポニウム》文明が発展し始めて定着してくるとなると、今後は会長夫妻のように結婚百周年を迎えるカップルが次々と誕生する筈なのです。我々は仮にそのような百周年の長寿を保ったカップルの祝婚儀式を大和石婚式《ヤポニウム・ウエディング》と名付けました。百光年果てのトリスタンへ旅立つ結婚百周年を迎えるカップル。こんなロマンチックなイメージがあるでしょうか。そして、その輝かしい祝婚を迎えるのは大和石《ヤポニウム》の存在を発見された五堂会長御自身なのです」
老人は頭を抱えこんだ。
「そうか。わかった。で、あとどれ程で、トリスタンへ到着するんだ」
「あと、六時間ほどですが」
「じゃ、人払いをしたい。雪奈を連れていってくれ。人前でクリニック・マシンにかかりたくないからな。それに一寸、考えごともしたいし」
青年は雪奈を連れて部屋を出た。何か自分の恥部を、青年によって暴きたてられたような気がしていたのだ。雪奈が自分の弱点であることは百も承知していた。コンツェルンを完璧で絶対の組織に育てあげるために、家庭を雪奈に委せ……というより投げ捨ててでも大和石《ヤポニウム》事業にどっぷり浸りきってきたのだ。若き日に何かその決心に到らせるような転回点ともいえる事件があったような気もする。人間的快楽を締めだし、禁欲的生活と功利的思考法は一にコンツェルンの発展だけに向けられていたのだから。しかし、その転回点となった事件なぞ、今となっては思い出せもしない。人間らしい生活、思考法はコンツェルンの発展に何一つ役に立たない。コンツェルンが拡大できるか否か。それだけが、五堂老人の思考法の大前提であり、決定の総てに優先していたのだから。だが、五堂老人は心の隅に、そのような決意が、妻、雪奈の存在でゆるぎだすに違いないことを知っていた。だからこそ雪奈の存在を心から排斥していたのだ。
そして、今、完璧な管理体制にあると信じていたコンツェルンの内部から、老人は百光年も離れた宇宙へ引張りだされている。しかも旅立ちの寸前まで、この計画について会長自身ほとんど全貌を知らされていなかったのだ。そして、今、この計画のもう一つの企画面を知らされた。
所詮、個人の管理範囲には限界があるというのは感じていた。しかし、今回は自分に対してまるで罠にかけるようなできごとの連続ではなかったろうか。ひょっとして、もうコンツェルン自身が老人の手から離れて独り歩きを始めているのではないだろうか。それが今回のできごとに象徴されているような気がする。不安が生まれていた。そんな思いに身体中を寂しいほどの寒気が襲っていた。
「寒いな」
五堂老人はクリニック・マシンの上に横たわってそう呟いた。
眠気がゆったりとした速度で老人を取囲んだ。
トリスタンへの着陸もあっけないものだった。宇宙船雪奈号≠ゥら、開発基地へ降下するエレベーターの透明な壁面から見まわした印象は、老人にとって、古い時代に見た密林のそれだった。夕暮れの中に緑の樹海が遥か遠くまで広がっていた。老人が生まれて初めて踏みしめる筈の異星の大地だった。
エレベーターから足を踏みだすと、数十人のコンツェルン駐在員たちが整列し、手を振り歓迎の声をあげた。爆竹が打ち鳴らされ、紙吹雪が飛んだ。奇妙な枝ぶりを見せた大樹には、くす玉が吊られ、威勢よくはじけた。
会長として、五堂老人は雪奈の腕をとり、駐在員たちに会釈をしながら、玄孫のあとを一歩一歩たしかめるように歩いていった。
「ようこそトリスタンへ」
「おめでとうございます。大和石婚式《ヤポニウム・ウエディング》」
「いかがです。百光年ハネムーン」
老人は手をあげ、ゆっくりと駐在員たちに振ってみせた。自分の足どりの余りの軽やかさに、トリスタンの〇・八Gという重力をあらためて思い出していた。会長の妻は、自分のほうからは決して口を開こうとはせず、老人に対して気をつかっていることが、痛いほど見てとれた。
歓迎の波を抜けて基地へ入ると、玄孫が、一つの部屋に案内した。
「この基本の外装をもっとロマンチックで歴史を感じさせるようなものにしたいと思うんです。ここをそのまま、観光拠点のリゾートハウスとして利用する予定でいますから。……それで、部屋は特別来賓用のスイート・ルームになっています。奥様と御一緒にゆっくりお過ごしください」
雪奈と一緒の部屋なのか……と喉まで出かかったがやめてしまった。もう、この青年に抵抗を試みても総て無駄なことのようにも思えてきたからだった。
雪奈と二人取残された老人は、始め何と言えばいいのか戸惑っていた。雪奈婦人は椅子に腰をおろし、うつむいて沈黙を続けていた。
老人はあらためて雪奈を見た。彼女も、もう百二十歳を越えているはずだった。だが外観は五十歳代の初めにしか見えはしない。だが彼女は小さかった。小さな肩を縮ませて椅子に座っていたのだ。そんな彼女と一緒にいることが、老人にとって無意識のうちに息の詰まるような思いに追いこまれていた。
「宇宙船の中では……」雪奈が呟くように言った。「突然現われて驚かれたでしょうね。私は迷ったんです。でも、やはりここへは来るべきではなかったのかもしれません」
老人は答えなかった。答えようがなかった。雪奈はたしかに最後に会った時より老けこんではいた。しかし、雪奈らしさ、雪奈のおもかげといったものは恐ろしい程、変っていなかったのだ。
「何年ぶりかな」
老人は思いきって口を開いた。
「九十……四年ぶりです」
婦人はやっと顔をあげた。老人はその眼を見ることができず、視線をそらしていた。
ぎこちなさだけが部屋中を支配していた。
室内電話が鳴った。電話のリモート・ボタンを押すと、青年の声が室内に響いた。
「失礼いたします。スイート・ルームの居心地はいかがでしょうか。(まあまあだ)何か不足の品がございましたら申しつけてください。(わかった)今後の予定を申しあげておきたいと思います。明朝は基地周辺の観光コースを巡回して頂く予定になっております。(ふん)本日の夕食は午後十四時にカフェテリアに準備いたしております。現在が十一時半ですから、それまでゆっくりおくつろぎください。(ちょっと待ってくれ)はい、何でしょうか。(宇宙船の中で、おまえは儂の見たことのない大和石《ヤポニウム》応用の通信技術実験を見せてくれると言ってたな)はい。(その見学はいつになる)いつでも結構でございますが。ただ、夜間のほうがいいと思えます。今なら実験室に御案内してもよろしいのですが、お疲れではございませんか」
老人は確かに疲労を感じていたが、この部屋における息苦しさから、少しでも早く逃がれることができればと念じていた。
「いや、疲れてはいない。今からでも構わんぞ。大和石《ヤポニウム》応用の通信技術実験とやらへ案内してくれ」
「でも」
「今すぐだ。儂は見たいと思いたったら我慢できない性質でな」
青年は、それ以上逆らわず、すぐに部屋へ迎えにくる旨を伝えて電話を切った。
青年は数分後に部屋に現われた。
「では会長。御案内いたします」
老人は頷き青年に続いて部屋を出ようとして立止った。
「雪奈」
老人は振返り老婦人に声をかけた。雪奈は顔を伏せ、まだ椅子に腰をおろしたままだった。
「おまえも来なさい。儂の大和石《ヤポニウム》から、こんなこともできるようになったという見本を見せてくれるらしい。話の種にはなると思うぞ」
老人の言葉に従うように、雪奈は頷き椅子から立上った。
老夫婦は、基地の中央部へ案内され、そこからエレベーターに乗り頂上へと昇っていった。
「私は、先にこの実験について、仮に通信技術に関するものだと申しあげていましたが、厳密に解釈すれば、少し違っているかもしれません。ただ、今迄の天体観測の概念を、完全に変えてしまったということは言えると思いますよ」
青年は五堂老人に、そう説明した。
エレベーターが静止した。
そこはドームの内部を思わせる半球型の部屋だった。壁は透明な物質で作られ、惑星の夜景が一望に眺められる。天井には無数の細い大和石《ヤポニウム》グラスが縒合せられ、それがドームの外の巨大な抛物線型の網状の金属につながっていた。室内の大和石《ヤポニウム》グラスは裸のまま、部屋の隅の一つの機械の中に消え、その機械はまた別の機械にコードで連らなっている。幾つもの機械に狭まれた形で一メートル四方くらいのスクリーンが設けられていた。
青年が、指を鳴らすとその機械群の調整にあたっていたらしい三人の駐在員たちが、こちらを振向き、畏って立上った。
「この実験にあたっている連中です」
皆、予想外に若い男たちだった。二十代の半ばだろうか。一人が声を震わせて言った。
「五堂会長にお会いできて光栄です。コンツェルンでこのような毎日充実した職務に就けることを感謝しています」
それが本音であるのは間違いなかった。老人は頷いた。
「君たちのやっている大和石《ヤポニウム》応用観測実験を会長にお見せしようと思う。解説を頼みたいが」
勝介に促されて先程の駐在員の若者が、それではと五堂老人たちをスクリーンの前の椅子へと案内した。
「下手な解説より、現実に観ていただくのが一番手っとりばやいと思いますので、照明を消しますが、よろしいですか」
室内が暗くなると、スクリーンに何の変哲もない星が写しだされた。
「この星は、何かおわかりですか。そうです。我々の故郷である地球の、太陽です」
それはスクリーン上では、一つの単なる光点にしか見えはしなかった。
「さて、映像を近付けてみます。これは、超空間を通してではなく、百光年先の太陽系としての映像ですので誤解されないようにお願いします」
映像はその光点の周辺部分にむかって接近を開始した。太陽はその巨大さを増し、ゆっくりと画面の中から消え去っていった。かわりに幾つかの星々を認めることができるようになるが、その星々の周辺が滲んだように見える。
「精度を微調整します。……これは金星です」
くっきりと映った星は金星の特徴を備えている。
「まだ近づきます」
金星のガス雲がはっきりと見てとれた。
「このドーム上にある網《ネット》≠ナ太陽系からの光情報を受け止めヤポニウム光ファイバーによって拡大しているのです。これは、この星の非常に面白い現象との輻湊利用ともいえるわけですが、太陽系から、マルカブ周辺まで一つの異常空間が存在していると想像されます。太陽系からマルカブ方向への光は散逸しないらしいのです。マルカブ方向へ入射した光線は異常空間の周囲《クラッド》で全反射を繰り返し、減衰することなく、ほぼ完全な情報量を維持したままトリスタンへ伝えられてくるらしいのです。巨大な天然の光通信空間が存在していると言えばわかりやすいかも知れません。ただトリスタンから肉眼で見ても太陽も一つの光点にしかすぎませんが、これを拡大する技術さえ確立すれば、かなりの精度で太陽系を観察することができるのです。そして、今、会長に御覧いただいているこれが、その技術の曲がりなりにも結論といえるでしょう。どんな利用法があるかということ迄はまだ頭を巡らせておりません」
普段の五堂老人であれば「そんな研究がコンツェルンの繁栄にどう役に立つというのだね。役にも立たん実験なら豚にでも喰わせちまえ」とでも言うところだったろう。だが、この辺境の星で、懸命に一途に実験に励んでいる駐在員たちを眼のあたりにして、そのような言葉はどうしても出てこなかったのだ。
「さて、映像を移動させます。次は地球です」
そこには、あの母なる地球が青く浮かんでいた。
「今からが観物なんです。雲に覆われてなければいいんだが。接近させます」
スクリーンの地球は次第に巨大化を続けていった。雲星は比較的多かった。しかし、その隙間に自国の姿をはっきりと見てとることができた。その接近速度に老人の眼は映像に釘付けになっていた。
「会長がお生まれになった土地はどちらでしょう」
老人が地名を言うと、映像は急降下を開始した。こんな光景は夢の中で見た記憶がある。そう感じていた。
映像の降下が停止した。スクリーンの中に一つの社会、生命の群れが存在していた。
「まだ、ヤポニウムが存在しない地球です」
そう声がした。
「百年前の地球を今、会長は御覧になっているのです。百年の時をかけて、やっとトリスタンへ辿りついた光たちの見せてくれるショーと言えるでしょう」
それは五堂老人が生まれ育った町だった。大都会ではなかった。周辺を緑で囲まれ、数万人の人口を持つちっぽけな町だった。ここで大学を卒業したのだ。赤貧の中でバイトをしながら、学生生活を送り、好きな応用化学とバスケットにあけくれた、あのキャンパスが見えた。公園。市の中央部にある大楠で有名な公園。大学と公園を結ぶ線が見える。あの道をいつも歩いていた。古本屋が何軒もあったのだ。大学の帰りにいつも覗いていた。学生街。商店街。百年前。
もうあの町のあの光景は、今は存在しない。
「なつかしいわ」
雪奈が、思わず声をあげていた。感情を表に出さない彼女の意外な反応だった。
そうだ、雪奈もこの町で生まれ育ってきたのだった。
「今はもう、この光景は見ることができないんですね」
百年の間に、都市化は進んで、今は超高層ビルの林立する百万人都市と化しているのだ。
「これは鳥の視点で町を見ている状態です。方向性を変えてみます。もっと接近させて見ましょう。これでは、車両の通行ばかりで、人影もわかりません」
動いているのは車だった。人影が見えてきた。
「正確には何年くらいの地球を見ていることになるんだ」
老人が言った。それは、自分が何歳の頃の地球を眺めているのかを知りたいという単純な理由であった。
「すぐわかります」
画像は超スピードで景色を移動させた。停止したのは駅頭だった。立止った一人の男に画像が接近した。男の広げている新聞にむかって画像は広がっているのだった。
その新聞の上部に映像は接近を続け、活字が大写しになった。
「一九九×年一月十五日です」
老人はあっけにとられてしまった。まさに百年前じゃないか。
「午前十時四十五分ですね」
立止っている男の腕時計が大写しになっていた。
「あのう。構いませんでしょうか」
雪奈が老人に恐る恐る言った。これは画期的なことだった。彼女が自分から、何かを提案するということはありえなかったのだ。
「なんだ」
老人が驚いて答えた。
「あの日なんです。……私が映像の場所を指定して構いませんでしょうか」
老人は雪奈の言う意味が掴めずに、「ああ」と生返事を返したのだった。
「すみませんが、市の中央の公園の西に映像を移動させてもらえませんか」
「ええ構いませんよ」
市の中央の大楠の公園が写しだされ、それがゆっくり左に移動する。
「この建物の庭で止めてください。映像を近づけてもらえますか」
一人の女が映っていた。
「私です。百年前の……」呟くように雪奈が言った。
「方向性を変えてみよう。視差光集束だ。地上五十メートルから三十度俯角で同映像を捕えます」
顔が映った。若き日の雪奈だった。白っぽいワンピースを着て手に薄布のようなものを持っている。彼女は何かを待っているように見えた。何を待っているのか、それは老人にはわかっていた。それを瞬間的に理解したのだ。十時四十五分……少なくとも十分まえには到着していたはずだ。式は十一時から始まるのだから。
雪奈の顔が輝く。映像が後ろに引かれると背景の建物の鋭角の屋根に十字架が見える。
男が走ってくる。男は雪奈の前で止まり腕を広げ何かを早口で喋っている。
音声を伴わないために他の者には何を話しているのかは解らないはずだ。だが本人は思いだしている。研究室の悪友たちに捕まって冷やかされて離してくれなかったんだ。あいつ等もおっつけ祝福にくると言ってる。
若き日の五堂勝の胸に雪奈がすがりつく。
老人はパノラマをみるように総てを思いだしていた。自分は雪奈を幸福にするとこの時誓ったのだ。
そして今も自分は雪奈を愛していると再確認していた。そうだ、あれからの赤貧の日々。何一つ愚痴を言わない雪奈に自分はひけめさえ感じていたのではなかったか。大和石を発見した時、一番喜んでくれたのは雪奈だったではないか。だが、自分は、雪奈を幸福にしているとは信じることができなかった。雪奈を不自由なく暮らさせることが、雪奈を幸福にすることだと思い始めていたのがあの頃だ。大和石で財をなすことが、雪奈を幸福にすることだという信念を識閾下に押しこめてコンツェルンの運営に励みはじめたのかもしれない。人工臓器に替え、クリニック・マシンの虜囚になったことも、コンツェルンの職務への正当性を高める心理機構に走らせたのかもしれない。
少女の雪奈が手に持っていた薄手の布は、彼女が自分でこさえたウェディングベールなのだ。五堂勝と雪奈は今から二人きり、ふだん着のまま、この教会で結婚式をあげるのだ。
手をつないだ二人は教会の門の中へ入っていく。
「信じていただけないかもしれませんが……」
老人の横の席で、雪奈が言った。
「あの時から、ずっと……今も私はあなたを愛しているんです」
いつか老人は雪奈の手を握っていた。そうだ、本当は自分も雪奈を愛し続けていたのだ。それを自分は、自分で騙し続けていた。
「お疲れでした。このような実験です。実用化の面での課題もありますが、また、会長の御意見をうけたまわりたいと思います」
照明が再び点され駐在員たちは会長へ挨拶した。会長が怒ってはいないかと気にしているふうだった。
「気にいったよ。仲々面白い。これからも頑張ってくれ」
老人は駐在員たちにねぎらいの言葉をかけた。老人の中で何かが変質を始めていた。
「私、四年ほど前に、あの教会を訪れようとしたんです」
エレベーターの中で雪奈が言った。
「で、変っていなかったか」
雪奈は首を振って老人に答えた。
「もうありません。あの隣の公園と教会の土地には、『ヤポニウム・コンツェルン五堂勝生誕地記念館』が建っていましたわ」寂しそうに笑った。「貧乏なんてちっとも私、苦労じゃなかったんです。私は、あなたの優しさが好きだったのですから」
その言葉で老人の心の中にあったものは完全に氷解していた。
もう確かに、コンツェルンは独り歩きを始めてるのかも知れない。心の隅で、地球のコンツェルンの事業のことが、まだ引掛っていた。自分がコンツェルンに干渉できる時間は残り少ないのだろう。その時間のうちにやっておかなくてはならないことだ。経済的困窮状態にあった過去の自分の影を大衆にあてはめていたことにその時気づいたのだ。大和石はそもそも利権の絡むべきものではない。貧しかった自分と、雪奈の愛の具象化したものとして発見されたといっても言いすぎではないのだ。
そう、まだ、自分がコンツェルンに介入できるうちに、大和石の流通制度を変更しよう。全人類がヤポニウムの繁栄を享受できるような制度を自分の手で残しておこう。老人はそう決心していた。
「雪奈。儂は忘れていた心を取り戻したよ。地球へ帰ったら、……儂は人工臓器だから、そう出歩きはできない。でも地球へ帰ったら儂のビルで一緒に暮らしてくれないか」
老人の言葉に雪奈は眼を潤ませ微笑を浮かべて何度もうなずき返した。
「そろそろ十四時ですから夕食にカフェテリアへ直行します。ここでもう一つ内緒にしていたことをお詫びしなければならないことがあるんです」
玄孫の勝介が済まなそうな口調で言った。
「カフェテリアへ入ればおわかりになると思います」
もう何が起っても驚くことはないと老人は考えていた。自分は変ったのだ。コンツェルン・ビルへ帰ったら、まず警備ロボットを廃止しよう。少年の訴えも、直接、話を聞いてあげよう。気楽に皆があのビルへ訪ねてこれるような場所にして……自分と雪奈で応対をするのだ。奉仕事業団を雪奈にやらせるのもいいかもしれんぞ。
エレベーターが停止した。青年が案内した。
「こちらがカフェテリアです」
カフェテリアは暗かった。
「準備中じゃないのか」
雪奈の手をとり、老人がカフェテリアに一歩踏みこんだ時だった。照明が老人たちに向けられた。
「おめでとう大和石婚式《ヤポニウム・ウエディング》」
「お爺さんお婆さんおめでとう」
「ひいお爺さん万歳!」
眼がなれてきて、初めて老夫婦は見た。
自分たちの百人を越す子孫たちが勢揃いしていたのだ。クラッカーがあちこちではじけとんでいた。ギターが弾かれていた。
「今日が、結婚百周年なんですよ」
老人の子供、孫、曾孫、そのまた子供たちは、カフェテリアの闇の中で五堂夫妻を息をひそめて待っていたのだった。
「これが、本当の最大の旅行の目的だったのですよ」青年が照れながら言った。
そして子孫たちは一斉に声を揃えた。
「結婚百周年、おめでとうございます」
老人は圧倒されながらようやく言った。
「だけど、皆どうやって集まったんだ」
青年がそれは何でもないという顔で、それに答えた。
「雪奈号≠ヘ千二百名乗りなんですよ。皆、雪奈号≠フ腹の中にいたんです。たった百名くらい。まだまだ乗れるんです。ところで……先程からの皆の話で懸案になっているんですが……結婚二百周年はどこでの開催を御希望ですか」
カフェテリア中が一斉に湧いた。
[#改ページ]
あとがき
あまり、あとがき≠ネるものに、興味を示さない人間です。いったん作品を発表すれば、その評価はすべて読者にゆだねるべきで、著者は一切、何の言い訳けもすべきではないと考えているのです。だから、あとがき≠ヘ書くべきじゃないなどと思っておりました。それにあとがき≠書こうとすると、生活の臭いまで出てしまうことになるのではないかという、おびえがあります。しかも、書きあげた直後のあとがき≠ノは、或る種の高揚感が伴ってしまい、冷静さを失ってしまった記述になるのではないかという恐れを抱いてしまいます。
さて、今回の作品集に、私にとっては、大変珍しいあとがき≠するのは、この「百光年ハネムーン」におさめられている作品群の多くが、かなり初期のものであるということにあります。かなり時間の経過がありますので、校正の際、まるで他人の作品に触れるように客観的に読めるのではないかという思いがあったということです。
こんなリリカルな作品を書いたのかと、耳まで恥ずかしさに真っ赤になってしまいました。これが再会の第一印象。
ということで、久々に読みかえしてみると、作品を書いた時期の、自分の精神状態まで、同時に思いだしてしまい、なかなか校正が進まなかったというところもあります。ちょうど、大掃除のときに棚の整理をしていて、思い出の品を探しだし、当時を思い出して作業が中断してしまう状況に似ています。
また、もう一つ実感したことがあります。
私は、自分自身の内面を描く私小説系の話が大嫌いです。あんな話は、小説でわざわざ読まなくても、身のまわりで聞いている話を、少し掘り下げて分析すればたどりつく内容じゃないか…などと思います。ところがSFだと、完全に想像力だけで構築された論理娯楽だと信じ、それを誇りにしていました。またこれら初期作品群を書いていたときも、そう信じ、自分の空想をどうやって楽しんでもらえる形にするかといじっていたつもりでした。
ところが、今回読み返してみて、「いかに読者を楽しませるか」だけに考えを専念させて書いたつもりの作品が、自分自身の内面を知らず知らずにさらけ出して書いていたのだと気付く部分が各所にあり、仰天してしまいました。ある先人が、「小説を書く奴は、多かれ少かれ露出症の傾向がある」と言っていたことを思い出しました。自分に限ってSFを書く際には、そんなことは絶対にありえないと信じていただけに、これはショックでした。それが、どの部分かということは、とても恥ずかしくて言えませんので、どうか勝手に想像してください。
また、この時期の話づくりの方法も鮮やかに思い出しました。
ほとんどの作品の発想のスタートは、映像として思いついていたんだなということです。まず、作品のもとになるSF的な映像が浮かび、そのシーンを起点にしてプロットを拡大させていったような気がします。
たとえば「美亜へ贈る真珠」では、航時機の中で、男が座っている映像が、まず浮かんでいます。「ムーンライト・ラブコール」では月のウサギの代わりに浮かんでいるラブ・メッセージ。「おもいでエマノン」では、船の甲板に立っている髪の長い美少女。そんな映像から、これらの物語がスタートしてしまいました。
それから、大好きな古典的作品へのオマージュという思いで書かれたものもいくつかあります。「ヴェールマンの末裔たち」はO・ヘンリーのもちろん「最後の一葉」だし、「もう一人のチャーリィ・ゴードン」は、「アルジャーノンに花束を」D・キイス、太宰の「走れメロス」が、「夢の閃光、刹那の夏」、実篤の「友情」が変態をくり返し「梨湖という虚像」にたどりつくことになってしまいました。表題作である「百光年ハネムーン」は、ディケンズの「クリスマス・キャロル」で、主人公の五堂勝は、(自分を神と思っている勝爺……つまりスクルージの役のつもり)ということで、本来は書くべきだった大和石《ヤポニウム》フラクタルによる五堂勝の未来予測という部分(これが、未来の幽霊≠ノするつもりだったのです)が枚数の都合で削除せざるを得なかったことなどを思い出してしまいました。
あと、「一九六七空間」は、その時期の行きつけの喫茶店で、有線放送で流れていたオフコースの「ぼくらの時代」を聞いた瞬間にできあがってしまった話です。
こう書き綴っていて、ふと、C・ボモントの奇術師が、引退の際、自分の芸のタネ明かしをして失望を買ってしまう。そんな短篇のことを思いだしてしまいました。
ただ、この短篇集は、一つの傾向にまとめられていますが、私自身は、このタイプの話を書く時期は、これから躁状態に入るかなという頃に多いように思います。
ま、このくらいにしておきます。このように私の若き日の恥知らず時代の作品群ですが、楽しんで頂ければ、作者として、これ以上の喜こびはありません。やや支離滅裂なあとがきですが、頬の赤みが鎮まらないまま、筆を置くことにします。
梶尾 真治
初出一覧
美亜へ贈る真珠/「SFマガジン」71年3月
もう一人のチャーリイ・ゴードン/「SFマガジン」83年9月
玲子の箱宇宙/「SFマガジン」81年2月
ファース・オブ・フローズン・ピクルス/「SFアドベンチャー」81年4月
夢の閃光・刹那の夏(ビッグ・ドリウム・フラッシュ改題)/「SFマガジン」81年5月
ムーンライト・ラブコール/「SFアドベンチャー」83年6月
トラルファマドールを遠く離れて/「SFマガジン」94年2月
一九六七空間/「SFアドベンチャー」81年8月
梨湖という虚像/「SFマガジン」79年6月
おもいでエマノン/「SFアドベンチャー」79年12月
ヴェールマンの末裔たち/「SFマガジン」83年6月
百光年ハネムーン/「SFマガジン」80年2月
梶尾真治著書リスト
凡例 書名・収録作品(長編のタイトルは省略)・発行年月日(西暦)・出版社(叢書名)・判型・外装
1 地球はプレイン・ヨーグルト
[フランケンシュタインの方程式/美亜へ贈る真珠/清太郎出初式/時空連続下半身/詩帆が去る夏/さびしい奇術師/地球はプレイン・ヨーグルト]
79年5月31日 早川書房(ハヤカワ文庫JA114)A6判 カバー
2 時空祝祭日
[ローラ・スコイネルの怪物――B級怪物映画ファンたちへ/ふうてん効果(たぶん)最後の応用例/静止人口六億人/プロキオン第五惑星・蜃気楼/エミトンへ魚釣り/インフェルノンのつくりかた/カクテルパーティ効果/三つの願い/御町内の皆様!/梨湖という虚像/おもいでエマノン/百光年ハネムーン]
81年3月15日 早川書房 B6判 カバー 帯
83年7月31日 早川書房(ハヤカワ文庫JA174)
A6判 カバー 帯
※ハヤカワ文庫版は、おもいでエマノンを割愛
3 おもいでエマノン
[おもいでエマノン/さかしまエングラム/ゆきずりアムネジア/とまどいマクトゥーヴ/うらぎりガリオン/たそがれコンタクト/しおかぜエヴォリューション]
83年 5月31日 徳間書店 B6判 カバー 帯
87年12月15日 徳間書店(徳間文庫)A6判 カバー 帯
4 綺型虚空館→宇宙船〈仰天〉号の冒険
[もう一人のチャーリイ・ゴードン/チーズ・オムレット虜囚/ムーンライト・ラブコール/愛の鼓動/ランシブル・ホールの伝説/サンタクロース症候群/ちゃんこ寿司の恐慌/宇宙船〈仰天〉号の冒険/奔馬性熱暴走/金木犀の午後/ヴェールマンの末裔たち]
84年7月31日 早川書房 B6判 カバー 帯
86年8月15日 早川書房(ハヤカワ文庫JA226)
A6判 カバー 帯
5 躁宇宙・箱宇宙
[玲子の箱宇宙/即席ゴルフ上達法・ハードウェア編/夢の閃光・刹那の夏/鏡の国の胎児/一九六七空間/ファース・オブ・フローズン・ピクルス/多重人格創世記/包茎牧場の決闘]
85年4月15日 徳間書店(徳間文庫)A6判 カバー 帯
6 占星王をぶっとばせ!
85年6月14日 みき書房 B6判 カバー 帯
87年4月25日 新潮社(新潮文庫)A6判 カバー 帯
※ヌークリアス・ファミリイシリーズ1
7 未踏惑星キー・ラーゴ
86年10月25日 新潮社(新潮文庫)A6判 カバー 帯
92年1月31日 早川書房(ハヤカワ文庫JA367)
A6判 カバー 帯
8 ゑゐり庵綺譚
[クローン爆弾隊/仇討ち! ゑゐり庵/グルメが宇宙からやってきた/ゲルンチョア王再生/スピノザXの奇跡/アンクル&コングのインクレイジブル・ギャラクシィ・サーカス/チョット眼貴石の報酬/電気パルス聖餐/ニグラグ地獄/憎悪銃/ゴーディアス流転/異空の三本〆/バツラハム水/出前大戦]
86年11月30日 徳間書店 B6判 カバー 帯
92年 2月15日 徳間書店(徳間文庫)A6判 カバー 帯
※徳間文庫版は、トラメス不倫、ヘレヌス流化石道を追加
9 占星王はくじけない!
87年12月20日 新潮社(新潮文庫)A6判 カバー 帯
※ヌークリアス・ファミリイシリーズ2
10 チョコレート・パフェ浄土
[希望基地≠ノて――/煉獄夜想曲/挑戦! 究極企業体/クワバラ商事の陰謀/チョコレート・パフェ浄土/夢の神々結社/吉田屋前のバス停にて/ホクロ/魔窟萬寿荘/ヒト≠ヘかつて尼那を……]
88年12月15日 早川書房(ハヤカワ文庫JA282)
A6判 カバー 帯
11 ギャル・ファイターの冒険
89年6月10日 小峰書店 B6判 カバー
12 有機戦士バイオム
[役立ち日記/ある私立探偵の日常/放蕩志願/医乱お世話や!/わが家のSDI/鈴木博士のケース/ライター/悪魔の嗅覚/昼休みの因果律/歴史がビリヤード/伝説/自動調理システム/情報絶対臨界量/精霊機械/ホビイダム・ロマンス/ドゥーピンピック2004/有機戦士バイオム/……のようなもの/すぷらった・ばぁばあ/新登場! クローン製造機/いまはの際の……/ぱんつ=^準備万端……/プライベートタイム・アイズ/新幹線の対決/彼女の家族/もっとも……/あなたが正しい!/あいつは変わってたなあ……/ハンスの選択/死霊のちりなべ/健忘症は忘れない!/真説・大魔神/愛のフェロモン/クリスマスプレゼント/ニューイヤーストーリー]
89年10月15日 早川書房(ハヤカワ文庫JA305)
A6判 カバー 帯
13 ヤミナベ・ポリスのミイラ男
[ヤミナベ・ポリスのミイラ男/マイ・フェア・マミー/恐怖! 戦慄!!I・Gマン/ミイラ男の花嫁の息子の逆襲/ミイラ男がミイラ取り!/ミイラ男、最大の危機]
90年2月28日 早川書房 B6判 カバー 帯
14 サラマンダー殲滅
90年10月30日 朝日ソノラマ B6判 カバー 帯
92年 2月25日 朝日ソノラマ(ソノラマノベルス)
新書判 カバー 帯
94年 7月30日 朝日ソノラマ(ソノラマ文庫)A6判 カバー 帯
※ソノラマノベルス版以降は、二分冊(上・下)
15 恐竜ラウレンティスの幻視
[地球屋十七代目天翔けノア/恐竜ラウレンティスの幻視/発電の日/あぶきっちん/無実の報酬/紙風船/芦屋家の崩壊/時尼に関する覚え書]
91年8月31日 早川書房(ハヤカワ文庫JA358)
A6判 カバー 帯
16 さすらいエマノン
[さすらいビヒモス/まじろぎクリィチャー/あやかしホルネリア/まほろばジュルパリ/いくたびザナハラード]
92年1月31日 徳間書店 B6判 カバー 帯
17 泣き婆伝説
[干し若/アニヴァーサリィ/神はいかに、人を愛したか/メモリアル・スター/セチ≠ノ向かない職業/闘う! 阿部家/リモコン・ウォーズ/泣き婆伝説]
93年1月31日 早川書房(ハヤカワ文庫JA386)
A6判 カバー 帯
18 ドグマ・マ=グロ
93年3月1日 朝日ソノラマ(ソノラマノベルス)新書判 カバー 帯
19 笑うバルセロナ
93年9月25日 文藝春秋(文春文庫)A6判 カバー 帯
※ヤング・インディ・ジョーンズシリーズ12
20 ジェノサイダー
94年5月31日 朝日ソノラマ(ソノラマ文庫)A6判 カバー 帯
21 スカーレット・スターの耀奈
[スカーレット・スターの耀奈/ドリーム・スターの亜眠/ホーンテッド・スターの玲乃/キュービック・スターの麻綾]
94年11月4日 アスペクト B6判 カバー 帯
22 クロノス・ジョウンターの伝説
[吹原和彦の軌跡/布川輝良の軌跡]
94年12月24日 朝日ソノラマ 新書判 カバー 帯
23 百光年ハネムーン
[美亜へ贈る真珠/もう一人のチャーリイ・ゴードン/玲子の箱宇宙/ファース・オブ・フローズン・ピクルス/夢の閃光・刹那の夏/ムーンライト・ラブコール/トラルファマドールを遠く離れて/一九六七空間/梨湖という虚像/おもいでエマノン/ヴェールマンの末裔たち/百光年ハネムーン]
95年4月15日 出版芸術社(ふしぎ文学館)B6判 カバー 帯
※本書
書名:百光年ハネムーン
著者名:梶尾真治
初版発行:1995年4月15日
発行所:株式会社出版芸術社
住所:東京都文京区音羽1-10-4 池田ビル
電話:(03)3944-6250
制作日:1997年4月4日
制作所:株式会社パピレス
住所:東京都豊島区東池袋3-11-9 ヨシフジビル6F
電話:(03)3590-9460
※本書の無断複写・複製・転載を禁じます。