TITLE : ボルネオホテル
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私たちが目覚めているときの正常な意識は、意識の特定の一タイプにすぎない。
それとはまったく異なった意識の潜在的形態が、あるかなしかの、薄いスクリーンを隔てて私たちを取り巻いているのだ。
ウィリアム・ジェームズ
プロローグ
橋の手前で車が停まった。
このあたりでは、まずめったに見かけることもない、メルセデス・リムジンの二トンを優に超える重量を受けて、古い木造の橋の基部を支えている赤土が少しばかり崩れ、パラパラと橋の下の海面に散って、水を濁らせた。
「あれかね」と、メルセデスの後部座席の窓から顔をのぞかせた初老の男は、日本語で訊《たず》ねた。
「はい、あの島です」
素速い身のこなしで、助手席から降り立ち、車の前方に回り込んだ浅黒く日焼けした若い男が、これも日本語で、そう答えた。
「車で行けないのか」
「普通の車ですと、まあ何とかなりますが、このリムジンでは橋がもつかどうか」
前方の、うっそうたる熱帯植物の林に覆われた小島と、そこに至る、手《て》摺《す》りの木材がそこここで朽ちかけているように見える橋に交互に目をやりながら、ダークスーツ姿の若い男は、申し訳なさそうに言った。
「なにせ、ずいぶん昔に架けられた橋ですし、ここ十年来、手入れというものをしておりませんので」
「じゃ、歩くか」
意外なほどあっさり言って、初老の日本人はメルセデスを降りた。ゴルフ用のストレッチの効いたズボンにポロシャツ、足元は白い柔かそうな革のローファーという、若い男のダークスーツとは対照的な軽装で、そのまま軽い足取りで橋の方に向かう。
「あ、私が先に行きます」と言って、ダークスーツの男が橋に駈《か》け寄った。
「万一のことがあるといけませんので」
「万一なんぞがあるものかね。私は泳ぎは得意なんだ。よしんば橋が腐って落ちたとしても、こんな狭い水路で溺《おぼ》れたりするものかね」
「一見したところ、穏かな水路に見えますが」と、若い日本人は慎重に橋板を踏んで先導しながら言った。
「この橋の下は、水面下数メートルのところで、潮のぶつかり合いがあるんです。水温も急に下がるし、引きも強烈だそうで、地元の人間でも、この橋の下を泳ぐのは避けているそうです」
「そうは見えんがね」
ゴルフキャップのつばを持ち上げながら、初老の男は水面を見下ろした。
「橋が架かる前、まあ、十九世紀のことだそうですが、島の向こう側が豊富な漁場だというので、この水路を泳いで渡ろうとした地元の者がいて、潮に巻かれて水死したという話が伝えられているんです。それも一人や二人ではないと。ですから、これは好ましい情報ではないのですが、現地の言葉ではこの水路をパリット・ハントゥと呼んでいたそうで」
「それは、どういう意味なんだね?」
「亡者の……あるいは、死霊の水路、といった意味になるかと思いますが」
「馬鹿馬鹿しい」と、白いローファーが泥水を踏まないように注意して足を運びながら、初老の男が言った。
「漁師が海で死ぬたびに、そこが死霊の水域と名づけられてりゃ、世界中の漁港はゾンビという以外の名前で呼ばれなくなるよ。そうじゃないか、名《な》取《とり》くん」
名取と呼ばれたダークスーツの若い男は、ほんの一瞬だけ、何か反論の言葉を口にしそうな表情を浮かべたが、すぐにそれを呑《の》み下したらしく「おっしゃるとおりです」と答えて歩を進めた。
橋の下の海水は、透明度の高いことで知られているこの南支那海に面した地域には珍しく、エメラルド色に牛乳の白さを加えたような、不透明に混濁した色合いを見せていた。水面そのものは穏かなのだが、奇妙な重量感を感じさせる海水の水路で、それは名取が口にした、深度数メートルのところでの、水温の異なった潮流がぶつかり合うことによるものかもしれなかった。
「元々はイギリス人が建てたものだそうだね」
初老の男が、橋を渡り終えたところで、そう言った。
「はい、シンガポールからやって来た、フランクリン・ケペルというイギリス人が一八七〇年代に建てたのだそうです」
「それでビクトリア調の木造建築が、突如としてボルネオ島のジャングルの外れに出現したというわけか」と、初老の男は、熱帯植物の彼方に姿を見せはじめた、黒っぽい瓦《かわら》葺《ぶ》きの屋根を見やりながら独言のように呟《つぶや》いた。「それにしても、よくまあ、あそこまでビクトリア朝様式に徹したものを、こんな場所に作れたものだな」
「正確にいいますと、コロニアル様式が多少取り入れられていますが」
名取は、ぬかるむ道に黒革の短靴を踏み込まないように苦労して歩きながら、そう答えた。
「コロニアル・ビクトリアンか。つまり取り壊される前のラッフルズと同じだな」
「しかも、こちらの方がラッフルズ・ホテルより十年以上昔に建てられています。その点だけでも商品価値があるのではと判断したのですが」
「建物がまだ使えればの話だがね」
初老の男は、その邸宅《マンシヨン》と呼ぶにふさわしい三階建ての木造建築を正面から眺めて言った。白いペンキ塗りの外壁や柱は、塗装のほぼ半分がたが剥《は》がれており、残っている箇所も長年にわたって風雨に晒《さら》され、湿気の強い空気を吸って、塗装面が膨らんだり浮いてしまっている部分が目についた。
「外見はひどいですが、内部はさほど傷んではおりません。ラッフルズのように観光客が床を踏み荒らすといったことがなかったのが幸いしたようです」
「ホテルとしての営業は、いつまでやっていたんだ?」
太い円柱にはさまれた、玄関に通じる石造りの階段に一歩足をかけたところで、何《な》故《ぜ》か歩みを止めた初老の男が、名取にそう訊《たず》ねた。
「十年前の夏までです。現在の所有者のキナバル・ホテル&リゾートが買い取ったのが一九六六年で、夏場の忙しい時期にアネックスとして使っていたのですが、十年前に本館の増築をして、こっちまで客をまわす必要がなくなったのが理由で、それ以来、放置されたままです。中をご覧になりますか」
「いや、いい」と、初老の男は答えた。
「君は何度も見ているんだろう?」
「はい、写真はお手元に届いていると思いますが」
「ああ、見たよ」
そう言って、初老の男は自分の首筋をピシャリと叩《たた》いた。名取には、蚊でも追い払ったかのように見えたが、初老の男は、自分がそういう仕草をしたことの理由を承知していた。首筋から背中にかけて走った、奇妙な寒けのようなものを、そうやって追い出そうとしたのだ。
「地下の室内プールだけでも、一見の価値はあると思いますけれど」
名取は、なんとか建物の内部を、この、自分の所属する不動産会社の創立者に見てもらおうと、言葉をつづけた。内装や調度品を見せれば、この建物が、現在の所有会社が提示した金額からは信じられない、大変な買い物であるのだと納得してもらえるだろう。相手がそういったものに対する目は充分にきく人物であると承知していた。
「いや、中はいいだろう」
そういうと、初老の男はクルリと踵《きびす》を返して、元きた橋の方へ歩きはじめた。
「それでは、ここはお買いにならないのですか」
「買うよ」
心配顔の名取に、海外不動産に投資することによって、ほんの十数年で巨万の富を築き上げた初老の男は、あっさりと答えた。
「島全体の敷地が四万坪といっていたね」
「そうです」と、胸を撫《な》でおろしながら、名取が言った。
「それじゃゴルフコースは無理だな。橋の向こう側の、つまり半島の方をもう少し買えんのかね。総合リゾートということになると、ゴルフコース無しじゃ話にならんだろう」
「州の持ちものがほとんどですが、交渉の余地はあると思います」
「やってみてくれ。それから、肝心の建物なんだがね……」
橋のたもとまで来て、初老の男は歩みを止めた。次に口にする言葉は、既に心の中で決まっていた。だが、彼の心が、そのとき、フラリと揺れた。そんな経験は生まれて初めてだった。一度決断したことを、変更するような男ではなかった。しかし、そのときばかりは、まるで自分の脳の中に、誰か他の人間の思念が流れ込んできたかのように、一瞬で気が変った。“取り壊して新しく建て直してくれ”という言葉が、コンピューターの消去キーを押したように頭から消え、まったく別な言葉が口をついて出た。
「最終的な買い手に見せる前に、可能なかぎり修復してくれ。電気も水道も通して、それに、君の言っていた室内プールにも水を張った状態で、買い手に見せたいんだ。つい前日までホテルとして営業していた、といった状態にしてから、東京から買い手を連れてくることにしよう」
「承知しました。その費用は当社の負担ということになりますでしょうか」
「馬鹿なことを言っちゃいかんよ」と、冷徹な企業家の思考力を取り戻した男は言った。
「そんなもの、現在の売り手側に負担させるのに決まっとるだろう。それが買い上げの条件だと言ってやれ。それも四週間以内に、きちんと修復しなければ、この取り引きは無しだという風にね」
そう言うと、初老の男は、何《な》故《ぜ》かふと建物の方を振り返りたい気持にとらわれたが、また先程と同じように、ピシャリと平手で首筋を叩《たた》いてその気持を追い払い、橋を渡ってリムジンの方へと向かった。背後で、建物全体が、してやったりとほくそ笑んでいるような気がしたからだった。
事実、その三階建ての古びた木造建築は、走り去っていくメルセデスのリムジンを見おろしながら、一瞬だけ建物全体を、ブワッと膨脹させた。もし誰か人間がその様子を見ていたら、それはあたかも、厚化粧の老婆が一度だけニンマリと笑ったように見てとれたかもしれなかった。
第一章
下山の途中で、モンスーンの季節が到来したことに戸《と》井《い》田《た》は気がついた。
四千メートルを超えるキナバル山の山頂付近は、日の出の前後以外は、白く湿った濃い霧に覆れているのが普通だったから、気候の変化に気づく余裕もなかったのだが、五合目あたりまで山を下って、雲の層を抜け、眼下に南支那海が見えてきたとき、その海が、つい五日前に登山にとりかかったときに目にしたものとは、全く違う表情を見せているのが判った。
海は、きらめくようなエメラルド色の光を失ない、鈍い灰色の雲を映し出して、白い三角波の泡立ちをそこここに浮かべていた。上空では、鉛の色をした重たげな雲と、強風に運ばれてピュンピュンと飛び抜けていく軽くて白い雲とが、せめぎあいを演じている。
予想以上に取材がはかどって、予定より二日も早く下山することが出来たのを、神に感謝したい気分に、戸井田はなっていた。
少くとも雨が降りはじめる前に、山を下りてこられたのだ。キナバル山の頂上近くの山小屋でモンスーンによる嵐《あらし》の襲来をうけていたら、何日間、閉じこめられることになってしまうか分かったものではない。
「まだ運はこっちに向いてくれているようだな」と、戸井田は背にしたバックパックをゆすり上げながら呟《つぶや》いた。
そもそも、今回のボルネオ取材自体が、ここのところレギュラー執筆をしていた雑誌が二冊とも休刊になって、仕事にあぶれた形となっていたフリーライター兼カメラマンの戸井田修《おさむ》にとっては、好運そのものといえた。戸井田の趣味がトレッキングであることを知っていた顔なじみの編集者が、春に創刊される海外旅行ガイド雑誌の仕事をまわしてくれたのだ。従来の旅行雑誌と一味違う線を狙《ねら》って、自然指向を前面に打ち出した編集方針ということだから、単なるリゾートガイドではなく、植物・動物の写真をふんだんに載せたキナバル山のトレッキング・ガイドを、という戸井田の提案が、すんなりと通って、グラビアを含む六ページが戸井田の担当となった。特集とまではいかなくとも、創刊号に担当ページを貰《もら》えれば、その後の仕事も保証されたということだ。取材予算が一人分しか出ないので、編集者の同行はなく、戸井田ひとりで仕事をしてこい、というのも、実はありがたかった。山登りならお手のものだから、下手に経験の無い編集者についてこられるよりは、はるかに気が楽だった。
あとは麓《ふもと》の海岸沿いにあるリゾートホテルの取材が残っているだけで、こちらの方は二日もあれば片付くことだろう。予想していたより早くモンスーンが来てしまったのは計算外だったが、リゾートホテルのプールサイドや海岸の写真は、最悪の場合は、ホテルの広報担当から既存のものを借りればなんとかなる。
余勢を駆ってサラワク州か、インドネシア領のカリマンタンまで足を延ばして、ジャングルの中の川下りの取材でもしてみようか、と考えながら、軽い足取りで戸井田は山道を下って行った。
山《やま》裾《すそ》の小さな村にたどり着いてバスを待っているときに、雨が降りはじめた。モンスーン特有の、藁《わら》葺《ぶ》き屋根などは突き通ってしまいそうな勢いの雨が、雷鳴まで伴って地面を叩《たた》いた。
キナバル山の澄んだ空気に慣れていた戸井田は、雨と共に、急に高まった湿度にうんざりした。空気そのものの密度が濃くなって、ねっとりと体にからみついてくるような気がする。これだけ雨が降っているというのに、気温の方は一向に下がる様子がなかった。十二月といっても、赤道のほぼ直下にあたるボルネオ北部では、平地の気温は三十度近くある。戸井田はバス停の向かいにある雑貨店に駈《か》け込んで雨宿りをすることにした。
そこは、香港製らしい即席ラーメンの袋や、タイ製と思われる海老《えび》センベイのようなスナック菓子、それに近所の海で獲れたらしいスズキに似た魚などを、何の統一もなく雑然と並べただけの店で、土間はカビ臭い匂《にお》いを放っていた。
店の奥の丸《まる》椅《い》子《す》に座っていたマレー系の顔立ちの痩《や》せた老婆が、戸井田の顔を見て、早口のマレー語で何か言った。戸井田は、ざっと店の中を見まわし、土間の上にある発泡スチロールの箱を指さした。箱の中には水が張られていて、戸井田には馴《な》染《じ》みのない、現地のものらしい飲物の瓶が、乱雑に突っ込んであった。
老婆は丸椅子から動こうという気配すら見せず、また早口で何か言った。仕方なく、水の中から瓶を一本取って戸井田が歩み寄ると、はじめて彼女はニタリと笑ってみせた。口の中には前歯が一本残っているだけで、それ以外には歯というものが生えていなかった。傍らの壁から、ゴム輪をいくつもつなげた紐《ひも》で吊《つ》り下げてある栓抜きを取り上げ、老婆が錆《さび》の浮いている栓を抜いた。
飲物は、薄茶色をしていて、甘ったるい匂《にお》いがした。一口、口に含んで、それが黒《くろ》蜜《みつ》を水で溶いたようなものであることに戸井田は気づいた。飲物は生ぬるく、蒸暑い店の空気の温度と、さして変らないように思えた。それでも五日間の山暮しで甘味に飢えていた戸井田は、ゴクゴクとその甘くてベタついた飲料を飲み干し、空き瓶と一リンギットの札を老婆に手渡した。
そのとき、遠くからバスのエンジン音が聞こえてきたので、戸井田は土間に置いていたバックパックを手にして、店を出ようとした。扉も何も無い、敷居のような横木が一本、土に埋め込んであるだけの出入口にさしかかったとき、戸井田の背後で凄《すさ》まじい金切り声が上がった。びっくりして振り向くと、老婆が宙を飛ぶような勢いで、店の奥から裸足《はだし》で駈《か》け出してきていた。手には、つい今しがた戸井田が渡した空き瓶が握られている。戸井田は思わず体をひねって突進してくる老婆を避けようとした。
だが、老婆は戸井田を無視して、横木のあたりにかがみ込むと、手にした空き瓶を土間に振り下ろした。
体長十五センチほどの、鮮かな緑色をした蛇が尻尾《しつぽ》を丸めるようにして、跳ねた。その蛇の頭は、大きく鰓《えら》が張り出した、石器時代の鏃《やじり》のような三角の形をしていた。老婆は、その頭部めがけて、何度も何度も瓶を振り下ろした。
戸井田がズブ濡《ぬ》れになってバスに乗り込み、車窓から雑貨屋を眺めたときにも、老婆は、まだ何ごとか叫びながら死んだ蛇を叩きつづけていた。
雨は、バスがニッパ椰《や》子《し》の立ち並んだ道路を通って、リゾートホテルの玄関に到着したときも、まだ激しく降りつづいていた。
サラワク州の原住民の住居であるロングハウスと呼ばれる高床式の建築を模したホテル本館のロビーの中は、冷房こそないものの、高い天井でゆっくりと回っている扇風機の風のおかげで、外よりも涼しかった。
濡《ぬ》れたままの髪の毛が額にへばりつくのを掻《か》き上げながら、戸井田はフロントデスクに向かった。
フロントの前には、数人の男女が立っていて、みな一様に不機嫌そうな顔をしていた。それを見て、戸井田はふと、嫌な予感がした。考えてみれば、予定より二日早く山を下りたので、今日、明日の二泊はこのホテルの予約を取っていないのだ。フロントのカウンターに両手を突いた白人の男が、お仕着せらしいアロハシャツ姿の係員と英語でやりあっていた。その会話に耳を傾けた戸井田は、どうやら自分の予感が的中したらしいことに気づいた。白人は、何《な》故《ぜ》ちゃんと予約が入っているのに、ここではなく他のホテルに泊まらねばならないのか、と抗議していたのだ。フロント係は、コンピューターの故障でオーバーブッキングとなった、既にチェックインしている客でホテルは満室状態だから、いま別な宿泊先の手配をしている、と繰り返していた。
人々の中には、一目で新婚旅行と判る日本人のカップルもいた。
どうして日本の新婚さんというのは、こうもペアルック、それも非常に幼稚な、お揃《そろ》いの服を着たがるのだろう、と戸井田は不思議に思った。戸井田自身は、三十六歳になる現在まで、結婚という行為を一度もしていないので、新婚カップルの心理というのが理解出来ないのだが、それにしても、すぐ目の前に立っている、二十代前半と思える男女二人の日本人の服装は、誰が見ても奇異なものなのではないだろうか。彼らは、同じ先細りのストーンウォッシュ・フェイドのブルージーンズをはき、同じ明るい紫色のポロシャツを着ていた。シャツの衿《えり》を立てているのもお揃いなら、胸元の、小さなワニの縫い取りまで、勿《もち》論《ろん》一緒だ。足元を固めているワークアウトシューズもリーボックと銘柄が共通しており、御丁寧なことに、その靴《くつ》紐《ひも》までが同じミッキーマウスをプリントしたものだった。唯一の相違点を見つけるとすれば、二人の持っている小さなバッグの形状で、男性の方は吊《つ》り紐で手首にひっかける形式のセカンドバッグ、女性はショルダーバッグを肩から下げていた。但し、どちらも同じLとVの字を組み合わせた商標でお馴《な》染《じ》みのブランドのものだった。
白人の男性が大きく肩をすくめて、カウンターから後退したので、戸井田は、結果は予測出来るものの一応念のため、といった気持でフロント係の方に歩み寄って行った。
「日本から来た戸井田修という者なんだが」
そう声をかけると、コンピューターのキーボードを乱暴な手つきで叩《たた》いていたフロント係が、うんざりした表情で顔を上げた。
「御宿泊の予約をいただいているんでしょうか?」
訛《なま》りの無い、きれいなブリティッシュ英語で中国系らしいフロント係の男は訊《たず》ねた。
「いや、それがちょっと予定より早く到着したもんでね」
「申し訳ありませんが、当ホテルは御予約のお客様にオーバーブッキングが出まして、他のホテルを手配している状態なんです。お部屋の手配はつきかねます」
「いや、明後日からは予約が入ってるはずなんだ。それにね……」と、戸井田は食い下がった。「僕は日本の旅行雑誌のレポーターなんだ。このホテルを取材して雑誌で紹介する仕事のために来たんでね、予約と一緒に広報の人の方にも連絡がいってると思うんだけど、ちょっと調べてもらえないかな」
「広報担当に連絡をとることは出来ます。ただ、今夜の御宿泊は、それとは関係無く、不可能です。すべての客室は埋まっています。今日はクリスマス・ホリデー・シーズンの最初の土曜日なんですよ」
「それは分かっているけど」
フロント係のキッパリした態度に、いささかたじろぎながら、それでも戸井田は活路を見出そうと言葉をつづけた。
「僕も一応、こういう仕事をしているから多少の知識はあるんだけど、ホテルの部屋というのは必らず何室かのスタンバイをとっておくものだろう」
「当ホテルは」と、フロント係が身を乗り出すようにした。「ロイヤル・スイートに至るまで、ベッドのある部屋は総《すべ》て満室となっております。あちらでお待ちのお客様がたも、御家族連れで予約をお持ちなのに、お泊めすることが出来ないんです。予約の無い方は優先順位が一番下になります」
「しかし、他のホテルといったって、コタキナバルの町は車で二時間もかかる距離だし、そこまで行く途中には何もないんじゃないのかね」
「その手配を、今やっているところです。お願いですから、お呼びするまでロビーでお待ちいただけませんか」
それだけ言うと、フロント係は再びキーボードに視線を落とした。
あきらめた戸井田は、バックパックを引きずるようにして、ロビーの外れにある竹で編んだソファへと向かった。
扇風機の真下の席を選んで腰を下ろす。眠るところなど、山小屋での生活を考えればどこでもよかった。バックパックには丸めた寝袋も縛りつけてあるのだ。ただ、無性にシャワーが浴びたかった。濡《ぬ》れた髪も洗いたい。いっそ、雨の中へ出てプールで一泳ぎしてしまおうか、と考えていると背の高い白人の娘がやって来て、向かい側のソファに沈み込み、戸井田の顔を見て、肩をすくめてみせた。
「どうやら、あなたも私と同じ運命のようね」と、彼女がアメリカ英語で言った。「私もオーバーブッキングの犠牲者よ」
「まあ、僕の場合は予約より二日早く着いちまったんだから仕方ないけどね」と戸井田が答えた。「フロント係に言わせると、優先順位最下位ってやつなんだそうだ」
「聞いてたわ。あなたのすぐ後ろにいたのよ。なかなか奮戦してたけど、状況が悪すぎたわね。旅行雑誌のレポーターだっていうのは本当なの」
「ああ、本当だ。今日の昼過ぎまでキナバル山で取材をしていた。このホテルのことを記事にするっていうのも本当なんだ。もっとも、君の言うとおりで、状況が悪すぎたから、そういう立場も役には立たなかったけどね。言うのが遅くなったけど、戸井田修という名だ。日本人だ」
「アン・ドールトン。ワシントン州立大大学院生」と、燃えるような赤毛のアメリカ娘は自己紹介した。
「シアトルにある大学だな。だいぶ前だけど、文化人類学研究所の取材に行ったことがあるよ」
「あら、私のラボはそのすぐ隣よ」
アン・ドールトンはそう言って、茶色の瞳《ひとみ》を大きく見開いた。
「心理学研究室にいるの。もっとも、最近はアジア民俗学と、かけ持ちしてるんだけど」
「それじゃ、ボルネオには研究かなにかで来たのかい?」
戸井田の質問に、彼女はうなずいてみせた。
「ボルネオは興味深い場所だわ。ある意味では、バリ島よりも面白いかもしれない。神の住む島としては、バリに負けないほどアニミズムの傾向が強いって意味だけど」
「つまりその、ここはある種の聖地みたいな場所だってことかな」と、戸井田は言葉を選びながら聞いた。
「キナバル山に登っていたと言ったわね。何も感じなかったの?」
「いや、確かに夜明けなんかは神々しい印象があったけど、僕は、というよりは、ほとんどの日本人が信仰にはうとくなってしまっている時代なんでね」
「そんなことはないわ」と、アン・ドールトンが言った。「日本人は、数十年の歴史の中で勝手にそう思い込んでいるだけよ。素質としては、つまりその、神と呼ばれるような存在と通じ合える素質って意味だけど、東アジア人の中でも、かなり優れたものを持っている民族だと思うわ。おそらく、北米のインディアンのある部族に匹敵するぐらいのね」
「そういったことを研究しているのかね?」
「そういったことに一番興味を持っているのよ」と、アン・ドールトンは答えた。「研究は別。専門は児童心理学なの。ねえ、あなたは日本人にしては、とても正確な英語を喋《しやべ》るのね」
「若い頃にアメリカをふらついていたことがあってね」
戸井田はシャツの胸ポケットからマルボロの箱を取り出しながら言った。
「一年半ほど、皿洗いや中華料理店のウェイターで食いつなぎながら旅をしてたんだ。煙草を吸ってもかまわないか」
「どうぞ。私は吸わないけれど、アメリカ人がみんな嫌煙権を主張しまくるとはかぎらないわよ」とアンが言った。
ハードパックのマルボロの箱の中から、比較的、雨に濡《ぬ》れていない一本を選び出して、戸井田はテーブルの上にあったマッチで火をつけた。
「それで、さっきのボルネオが神の住む島だって話なんだけど」
「神だけが住むとは言ってないわよ。土俗的な多神信仰の傾向の強い島だと言ったの。サラワクに行けば、まだ人間の干し首を作る技術を覚えている老人は沢山いるわ。ロングハウスの梁《はり》の上には戦いの戦果の頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》が並んでいるしね」
「それが、沢山の神様がいる証拠なのかい?」と、戸井田は少しばかり皮肉っぽい言い方をした。アメリカ人てやつは、東洋の宗教観に対してロマンチックな感想を持ちすぎるきらいがある、ということを、若い頃のアメリカ放浪時代に承知していた。
「いいえ、怖れを知っているということの証拠なのよ。死者を敬うという行為自体、何かを怖れていることの裏返しでしょう。死者の霊の中には、神に近い存在になれるものもいる。でも、それが全てとはかぎらないわ。神と正反対の立場のものになってしまう死者の数も多い。ボルネオの人はそれを知っているから、死者を敬うのよ」
「つまりそれは」と言ってから、少しの間、戸井田は言葉を探した。
「幽霊とか、そういったもののことを言っているのかな」
「呼び方は何でもいいわ。ちゃんとした分類なんか出来ていないんですからね。とにかく、死者の霊の中には、邪悪なるものの側に行ってしまうケースが沢山あるということよ。それを少しでも押し止めるのが、生きている者の務めだという考え方が、干し首を作らせる」
「非常にロマンチックな考え方だとは思うけどね」と、戸井田はアン・ドールトンとの会話を別な方向にもっていこうとして言った。「僕は自分が目にしたもの以外は信じないことにしているんだ」
「人間の目が、すべて実在するものを見ているなんて考え方のほうが、よほどロマンチックだわ」と、アンは反論した。
「ユングが言っているように、人間は自分が見たいと思ったものしか、見てはいないのよ。視覚なんて、電気信号になって脳に届いたときには、都合よく情報操作されているものなの。ある種の酸を使った心理実験で立証されているわ」
戸井田が返す言葉につまっているとき、運の良いことに、ホテルのマネージャーらしい、ダークスーツを着こんだ男が、ソファの方にやって来て二人に話しかけた。
「お話し中失礼しますが、戸井田様でいらっしゃいますね」
「そうですが」と、救われたような気持で、戸井田はその中国系の男に答えた。
「そして、そちらは、アン・ドールトン様?」
「そうです」
「本日は大変に御迷惑をおかけして申し訳なく思っております。オーバーブッキングは当方の手落ちなのですが、現実問題として部屋が満室である以上、当ホテルにお泊まりいただくわけにはいかないのです。解決策として、当ホテルのアネックスに部屋を御用意いたしましたが、そちらにお泊まりになっていただくことを御了承下さいませんでしょうか」
「その別棟《アネツクス》というのは、どこにあるんですか?」と、戸井田が訊《たず》ねた。
「ここから車で十五分ほどの距離の、島の中のホテルです。一応、ボルネオホテルという名称になっていますが、夏の間はアネックスとして使っていた建物でして、静かな、居心地の良い建物なのですが」
「ガイドブックには載っていなかったわね」とアンが言った。
「はい、非常に歴史的な建物なんですが、しばらくの間、改修工事をしておりましたので、案内書には載せておりませんでした」
「今夜、一泊だけそこに泊まるということですか?」
「明日、日曜日の午後にはチェックアウトなさるお客様がおいでですので、こちらにお移りいただけるかと思いますが」
「そういうことなら、僕はかまわないけれど」と言って、戸井田はアンの顔を見た。
「私も結構よ。歴史的な建物というのは、どういうことなのかしら」
「元々はボルネオに駐在していたイギリスの軍人の方の別荘でした。サバ州とサラワク州がマラヤ連邦に加盟したときに、一時期、州政府が買い上げ、それを当ホテルが譲渡してもらって、アネックスとして使用していたものです」
「面白そうね、きっとイギリスの貴族趣味の匂《にお》いがプンプンする建物に違いないわ」
そう言って、アンはソファから立ち上がった。
「ホテルとして機能するように手は加えてありますが、基本的には昔の邸宅《マンシヨン》の趣を出来るだけ損わないようにという方針で、調度品なども昔のままです」と、マネージャーはほっとしたような顔で言った。
「そこは、取材対象と考えていいんですかね? 僕は日本の旅行雑誌の記者なんだが」
戸井田の質問に、マネージャーは何《な》故《ぜ》か歯切れの悪い返事を返した。
「さあ、それはちょっと。広報担当の者とも相談してみませんと。それに、いつでもお泊まりいただけるという場所ではありませんので、はたして雑誌で紹介していただくのが適当かどうか」
「そうですか、ま、取材の対象になるかどうか、実際に泊まってみてから考えることにしましょう」
「それでは、外のアネックスにお泊まりいただく方々と御一緒に、バスで御案内しますので、もう少々お待ち下さい」
そう言うと、マネージャーは足早にフロントデスクの方に去って行った。
「妙な物言いをするやつだな」と、戸井田は独言のようにつぶやいた。「歴史的な建物だの、イギリス式の邸宅だのと自慢しておきながら、雑誌に載せるのはやめてくれなんて言う」
「たぶん、長いこと使ってなかったボロ家なのよ。私たちが承知しないと困るから、歴史をふり回してみせただけでしょう。でも、前世紀のイギリス植民地主義の幽霊を見にいくのも悪くないわ。シャワーがちゃんと使えさえすれば、私は文句を言わないわよ」
「そいつは同感だね」と言って、戸井田は、また胸ポケットからマルボロを抜き出し、マッチに手を伸ばしながら、フロントデスクの方を眺めた。
例のペアルックの日本人カップルが、先程のマネージャーの説明を、首を傾げながら聞いていた。
ホテルの玄関先に横付けされているマイクロバスに乗り込もうとした戸井田は、ニッパ椰《や》子《し》の庇《ひさし》から、まるで滝のように流れ落ちている雨水を見上げて、ちょっとたじろいだ。雨足はホテルに着いたときよりも更に激しくなっていて、時折、稲妻が遠くの空を青白い光で満たし、雨の一筋一筋をハッキリと形にして戸井田に見せた。
帽子を目深にかぶり直し、首筋に巻いたバンダナをシャツの衿《えり》の外側に垂らすようにしてから、バックパックのストラップを左手で握りしめると、戸井田は雨の中へと飛び出して行った。
ダッジ社製十六人乗りマイクロバスの、大きな横開き式ドアの中へ転がり込むようにして飛び乗ったときには、戸井田の体はほんの二メートル足らずの距離しか雨の中を駈《か》けていないというのに、肩からズボンの膝《ひざ》の辺りまでが、まるで逆さになってプールにでも浸ったように、グッショリと濡《ぬ》れ、シャツの袖《そで》口《ぐち》からチョロチョロと雨水が手首を伝わって流れ落ちているという有様だった。
「ナイアガラの滝の中を通ってきた気分だろ?」
オーストラリア訛《なま》りの英語で戸井田にそう話しかけたのは、ドアのすぐ向いの席に腰かけていた白人で、先刻、ホテルのカウンター係と口論まがいの交渉をしていた男だった。
「その方がマシだな。ナイアガラには行ったことがあるけれど、あそこでは観光船に乗る客にレインコートを貸してくれる」と、戸井田は英語で答えた。
「その通りよ、せめて傘でもホテル側は用意してくれるべきだわ」
男の後ろに座っている、まだ二十代に見える、金髪を肩まで垂らした白人女性が言った。フロントでは気付かなかったが、男の妻なのだろう、と戸井田は思った。彼女の隣に、息子らしい、七、八歳の体格をした男の子が窓の方を向いて座っている。その男の子が、母親の言葉を耳にして、戸井田の方に顔を向けた。母親と同じ金髪のオカッパ頭の下の目が、白人にしては吊《つ》り上がった感じで、やや内斜視気味だった。顔を振り向かせるための首の動きにも、ぎこちないものがあって、戸井田は一目で、その男の子が身体に障害を持っていることを理解した。白人の子供にしては鼻《び》梁《りよう》が低く、むしろ東洋人、それもモンゴル系の顔のように見える。ダウン氏症候群だな、と戸井田は思った。以前に、婦人雑誌の特集記事のために、東京の郊外にある、精神薄弱児のための通園施設に三週間ほど通ったことがある。そのときに、この、染色体の組み合わせの異常が原因であるとされる、突然変異性の病気のことを学び、この病いを生まれたときから抱え込んでいる子供たちや、その母親たちと会った。戸井田の出会った母親たちは、誰もが疲れた表情をしていたけれど、一様に、親のどちらの責任ともいえない偶然によって不運を背負い込んでしまった子供を、愛し、励まし、勇気を持って育てようと努力していた。いま、戸井田の目の前にいる金髪の母親の目にも、同様の光が宿っていた。
ダウン症の子供の中には、知能の発達が通常の子供たちより遅れているだけでなく、身体的にも障害があったり、虚弱であるケースが少くない。子供は、本来親が持っている様様な資質を遺伝子によって受け継ぐのだし、だからこそ親子は外見上も似た顔を持つことになる。ところが、ダウン症の場合、親と子は似ていないのだ。この病気を持った子供たちは、驚くほど共通した外見上の特徴を持っている。目が細く、やや吊《つ》り上がり気味で、鼻が低い、といった、その共通の顔立ちが、過去にこの病気を「蒙《もう》古《こ》症《しよう》」、英語で「モンゴリズム」と呼ばせていた所以《ゆえん》で、つまり西洋社会から見ると、その特徴はモンゴロイドの様相に似ているということだったのだろう。
いまでは研究者の名前をとって、ダウン氏症候群《シンドローム》、あるいはダウン症と呼ばれているこの病気は、染色体の配列の異常によって起こるとされている。親から遺伝する病気ではなく、逆にその遺伝子を担っている染色体が組み合わせの異常を起こすことによって、親が持っている形質が子に伝わらなくなってしまうのだ。確率的には、新生児の六百人に一人ほどの比率で発生するといわれている。もしかすると神様が、ほんのちょっと目を離した隙《すき》に、そういう異常が染色体に起こるのかもしれない。心室中隔欠損などの心臓の奇型を伴うケースも少くはなく、その場合、たいがい子供は短命に終わる。
だが、戸井田が見たところでは、その金髪の男の子は、そこまで重い障害を抱えてはいないようだった。髪が母親と同じ金髪、ということは、遺伝形質が多少なりとも伝わっているということになる。
男の子が目を動かして戸井田を見上げたので、彼は首を伸ばして「ハイ!」と声をかけた。胸にコアラのイラストレーションのプリントされたスウェットシャツを着た男の子は、ちょっと戸惑ったような表情を浮かべて、金髪の頭を母親の胸にこすりつける仕草をした。
戸井田が、もう一度「ハイ!」と言った。
前の席の、父親と思われるオーストラリア人の男が、背中を向けている戸井田の腰の辺りをトントンと指で叩《たた》いた。
「失礼、うちの息子は、その、つまり、あまり上手に言葉が喋《しやべ》れないんだ。悪いんだが、話しかけても返事は期待しないでくれないか」
「ベン! 何度言えばいいの、そんなことはないわ」と、金髪の母親が口をはさんだ。「ドナルドは、誰に話しかけられても、ちゃんと言われたことは判ってるし、返事だってするわ。ただうまく言葉になって出てこないだけで、心の中ではちゃんと返事をしているのよ」
「またその話か、君がそう思いたい気持は分かるけど、あまり自分の希望するイメージだけでドナルドを見るのはやめた方がいいよ、スーザン」
ベンと呼ばれた父親が、説得するような口調で言った。母親は、黙ってドナルドという名前らしい男の子を胸に抱き寄せた。
戸井田は予想外の展開にいささかたじろぎながらも、ドナルドが母親の胸に顔を押しつけたまま、自分の方に視線を送っているのに気付いて、ちょっと手を振ってみせてから、また声をかけた。
「ドナルド、それとも、ドンって呼ばれてるのかな? ドンかな?」
男の子は、首を斜めにして顔をちょっと不自然な角度で戸井田の方に突き出すと、ゆっくりと口を開いて、言った。
「オ……ン」
「そうか、やっぱりドンか。僕はオサムだ。よろしくね、ドン」
「オン!」と、ドナルドが、もう一度言った。そのとき、戸井田は不意に自分の頭の中に色彩が見えたような気がした。なにか、赤っぽい靄《もや》のような色彩の広がりが、一瞬だけだが、頭に浮かんだのだ。
戸井田がドナルドの目を見ようとしたとき、背後から片仮名そのものの発音で「エクスキューズ・ミー」という言葉が飛んできた。
振り返ると、例の日本人カップルが、マイクロバスの中に半分体を突っ込んだ格好で、戸井田を睨《にら》むようにしていたので、あわてて「どうも失礼!」と言って場所をあけ、最後尾の座席へと移動した。
バックパックを座席の上におろしたときに、誰もいないと思っていた最後尾の席に、アン・ドールトンが後頭部を窓枠に押しつけるようにして、横向きに深く沈み込んでいることに気付いた。
「ハイ、また会ったわね」と、アンが言った。
「ここは予約済みかね?」
「別に。見てごらんなさい、十六人乗りのダッジのヴァンに、乗客は全部で八人。どうやらこれが別棟《アネツク》の《ス》館《やかた》とやらに泊まる全員らしいわ。席は充分に空いてるわよ」
戸井田は、あらためて車内を見回した。
運転席のすぐ後ろに、さっきの日本人カップルが陣取っていて、そこから一列空けてベンという名のオーストラリア人の父親。その次の席がドナルドと母親のスーザンで、それ以外には、ヒンドゥー教徒らしい、ターバンを巻いて枯草色のサファリスーツを着込んだインド人が、戸井田たちの前の席に座っているだけだった。車のエンジンはかかっていたが、運転席には誰もいなかった。
「たしか、マネージャーは十五分ぐらいの距離だと言っていたな」と、戸井田は腕時計に目をやりながら呟《つぶや》いた。時計の針は、間もなく午後三時を指そうとしていた。
「あまり信用しない方がいいわよ。ボルネオタイムってやつだと思うから」
「南洋タイムって言った方がいいかもしれないぜ。ボルネオに限らず、赤道に近い国ではどこでも時間に関してはルーズだからな」
「楽観的という表現の方が私は好きね。彼らは、最高の条件が揃《そろ》ったときを想定して所要時間の読みを行うのよ。今回の場合なら、このドシャ降りの雨が間もなく上がり、道路が水浸しになってもいず、水牛が十字路の真ん中に座り込んでいることもなく、運転手が道を間違えず、おまけに、この車が平均時速百キロで走れたとして、十五分で着けるってことでしょうね」
「僕も一つ付け加えていいかな」
「どうぞ」
「マネージャーの言うところの別棟《アネツクス》というのが実在するとして、十五分で着けるってことじゃないかな」
戸井田としては冗談のつもりの言葉だったが、アンは意外なほど真剣な口調で答えた。
「別棟《アネツクス》は実在するわ。ただ、マネージャーが言っていたような、夢の館《やかた》ではないと思うけれど」
「どうしてそう思うんだい?」と、戸井田は訊《たず》ねた。
「そう思うからよ、私には判るの」
アン・ドールトンがそう答えた。戸井田がもう一度、それは何《な》故《ぜ》なんだい、と聞き返そうとしたとき、運転席のドアが開いて、ダークスーツの上に軍用らしいゴムびきのポンチョを着込んだ中国系と思われるマネージャーが乗り込んできた。
「お待たせしました、全員お揃《そろ》いのようですのでもうすぐ出発します」
そう言いながら、彼は助手席側のドアロックを内側から開いた。典型的なマレー人の顔立ちをした小柄な、老人と呼んでもよいような年配の男が、ズブ濡《ぬ》れのボーイの制服のまま、助手席に体を滑り込ませた。
「御紹介しておきます。別棟《アネツクス》で皆様のお世話を担当する、ムハマド・ハリミです。キナバル・ホテルの優秀な従業員の一人で、普段はダイニングルームをとり仕切っています」
「そうは思えないな」と、戸井田が最後尾の席で小声で言った。「どう見てもダイニングのチーフウェイターには見えないよ。明日、こっちのホテルに戻ってきたときに、あの男が洗濯場に直行して仕事にかかったとしても、僕はちっとも驚かないね」
「でも、さし当って今夜の別棟《アネツクス》のダイニングルームは、あのムハマドがとり仕切ることになりそうよ」と言って、アンが車窓越しにホテルの玄関の方を指さした。二人のベルボーイが、ビニールシートで包んだ大きな木箱を重そうにマイクロバスへと運んでくるところだった。
「やれやれ、あの中身が僕たちの今夜の夕食ってわけか。やっと山を下りたっていうのに、きれいなナプキンと温い食事にありつけるのは、まだおあずけってことらしいな」
木箱がスライド扉の内側に置かれ、ベルボーイたちが雨の中をあわてて玄関に駈《か》け戻って、濡《ぬ》れた頭から回教徒式の帽子を脱いで絞りはじめたとき、マネージャーがアクセルを踏み込んだ。十六人乗りのマイクロバスは、ワイパーを激しく動かしながら、叩《たた》きつける雨の中をゆっくりと進みはじめた。
「間もなくマルドゥ湾が見えてきます。もっとも、この雨では景色を楽しんでいただくわけにもいきませんが」
ジェームス・タンと名乗ったマネージャーがステアリングを巧みに操りながら、マイクロバスの乗客たちにそう言ったのは、キナバル・ホテルを出発して三十分以上たった頃だった。海岸沿いの道をしばらく走ってから、ランコンの村へ通じるらしいジャングルを切り開いた道路に入り、それからまた脇《わき》道《みち》へ折れて海の近くへ出たようだった。道はとっくに舗装道路ではなくなっていて、そこここにある深い水《みず》溜《たま》りを避けながら、ダッジのマイクロバスは泥水を跳ね上げて走りつづけていた。
「天気の良い日には、ちょうどこの車の真後ろの位置にキナバル山が見えます」と、ジェームス・タンは観光ガイドのような口調で言った。「御存知かと思いますが、キナバル山は標高四千百一メートルで、もちろんボルネオの最高峰です。私たちは霊山、聖なる山と呼んでいます」
「そうすると、私たちが泊まる、昔はイギリスの貴族だか何だかの別荘だった建物も、キナバル山を望むことが出来るように建てられているのかね?」
オーストラリア人の父親、ベンという名らしい男が運転席に向かってそう訊《たず》ねた。
「いや、別棟《アネツクス》からは残念ながらキナバル山は見えません。建物はマルドゥ湾の小島にあるのですが、ちょうど半島の丘が手前にあるもので、海抜の低い島からは見えないのです。その代り、海の眺めは充分にお楽しみいただけるように建てられています」
「おいおい、別棟《アネツクス》がそんな海の中の小島にあるとすると、これからまたボートにでも乗り移らなければならないんじゃないか? この嵐《あらし》の中を船に揺られるなんぞは、まっぴらだぜ。こっちは子供連れなんだ」と、ベンが少しばかり強い口調で言った。
マネージャーは、曲り角を抜けたところで突然目の前に出現した大きな水《みず》溜《たま》りを、かろうじてステアリング操作で避けてから、言葉を返した。
「その御心配はいりません。島といっても、ほんの狭い水路をはさんで半島の目と鼻の先にあるのですし、ちゃんと立派な橋がかかっています。夏の間に別棟《アネツクス》にお泊まりのお客様は、よく橋の上から釣り糸を垂れておいででした」
戸井田の隣で、相変らずシートに沈み込んだまま、表に目もやろうとせずにいるアン・ドールトンが、ちょっと肩をすくめてみせた。
「もういいかげんで“別棟《アネツクス》”っていう呼び方はやめてほしいものね。車で三十分以上かかるほど本館と離れているんだから」と、彼女は言った。
ジェームス・タンの耳にその言葉が届いたわけではないだろうが、マネージャーはまるで意識したかのように、同じ言葉を繰り返してみせた。
「別棟《アネツクス》には間もなく到着いたします。皆様方には、まずチェックインの手続きをしていただくことになります。別棟《アネツクス》のボルネオホテルは比較的家族的な雰囲気でおすごしいただける場所ですので、お客様それぞれを、いまのうちに御紹介しておいた方が良いかと思います。もし御異存がなければ、ということですが」
戸井田がアンの顔に目をやると、彼女はまた肩をすくめてみせた。
「別に異存はないよ。知り合いになるのなら早い方がいい」と、ドアの横の席からベンがオーストラリア訛《なま》りの英語で言った。
「では、ムハマドが皆様のお名前とパスポートの国名を読み上げますので、どうかお手を上げて御自分であることを確認して下さい」
マネージャーがそう言うと、マレー人の老ボーイは、あわててダッシュボードの上に乗せてあったクリップボードを手に取り、ボールペンを構えてから、たどたどしい発音でリストになっているらしい名前を読み上げていった。
「ミスター&ミセス・ベンジャミン・クーパー、オーストラリアからのお客様です」
「俺《おれ》だ」と、その大きな体つきをしたオーストラリア人が言って車内を見回した。「ベンと呼んでくれ。妻はスーザン、それからもう一人、息子のドナルド・クーパーの三人が、クーパー一家だ」
「失礼しました」とムハマドが小声で言ったのは、どうやらドナルドを一緒に紹介しなかったことへの詫《わ》びのつもりらしかった。
「ミス・アン・ドールトン、USAからおいでになりました」
「ハーイ!」と言ってアンが最後尾の背もたれの上に顔だけのぞかせ、またすぐに座席へと沈み込んだ。
「馬鹿げてるわ、こんなの。まるで小学生のサマーキャンプみたい」
「ミスター&ミセス・アキヒロ・ヒグチ。日本の方です」
ムハマドが苦労して日本名を発音しながらそうリストを読み上げると、彼のすぐ後ろの席にいた日本人カップルの男性の方が、びっくりしたように立ち上がった。どうやら、今まで車内で何が進行していたのかを、ちゃんと把握していなかったらしい。一瞬、心細そうな視線を後部の戸井田の方へと投げかけてから、それでもムハマドが手にしているクリップボードのリストに目を走らせて事情を理解したらしく、その二十代前半の紫色のポロシャツを着た男は、あわてて作り笑いを浮かべながら左手を上げた。
「あー、マイネーム・イズ・アキヒロ。マイワイフ・イズ・ユリカ。ナイス・トゥ・ミーチュウ」
それだけ言うと、彼は御丁寧なことに車内の全員に向けてVサインを掲げてみせてから座席に戻った。アン・ドールトンが戸井田の顔を見上げた。今度は戸井田が肩をすくめてみせる番だった。
「ミスター・ブラジャンダウ・シン、クアラルンプール在住の方です」
白いターバンの頭をちょっとだけ前に傾けるようにして、四十代と思えるインド人が会釈した。落ち窪《くぼ》んだ眼《がん》窩《か》の奥で光っている瞳《ひとみ》は、思慮深いというよりは、抜け目の無さを表わしているように戸井田には感じられた。
「そして日本人のミスター・オサム・トイタ」と、ムハマドが面倒な役目を終えることが出来るので、ほっとしたような声で、リストの最後の名前を読み上げた。戸井田もインド人を習って中腰で軽く車内の人々に会釈した。
「以上八名の方々で、今夜一晩をお過ごしいただくのが、あちらに見える別棟《アネツクス》、ボルネオホテルです」
ジェームス・タンの言葉に、車内の人々は一斉に正面を見やった。フロントグラスの向こうの横なぐりの雨の中に、長くつづく木造の橋と、それにつながる黒っぽい熱帯林の島、そしてその密林の中からポコンと顔を出したような形の急傾斜の屋根が見えていた。
マイクロバスは、幅三メートルほどの橋の手前で、ゆっくりとスピードを落とした。自分の席を立って、運転席のすぐ後ろまで移動していたベンジャミン・クーパーは、慎重な手つきでギアを二速に下げるマネージャーの動きを観察しながら言った。
「おいおい、橋は大丈夫なんだろうな。俺《おれ》の見たとこじゃ、だいぶ古びてるように見えるぜ。まさか、タイのクワイ河の鉄橋みたいな崩れ方なんかしないんだろうな」
「御安心下さい、このボルネオホテル全体に、三ヵ月前から全面的な補修工事を行いました。当然、橋もその対象に入っております」
そう言いながら、マネージャーは言葉とは裏腹の慎重さで、三トンの重量を持つマイクロバスの車体を橋の上へと進めた。後輪が橋を踏んだとき、半島側の陸地から橋を支える格好で斜めに突き出している太い南洋材の丸太が、明らかにきしみ、ミシリと嫌な音を立てた。しかし、吹きさらしの橋の上は陸上よりもさらに風の勢いが強く、その音は車内の十人の人間の誰の耳にも届かなかった。全長四十メートルほどの橋梁の半ばあたりまで車がさしかかったときにも、橋《はし》桁《げた》の海に近い部分が、さらに苦し気な音を発したが、今度もその音を聞いた人間はいなかった。ダッジのマイクロバスは、時速十キロほどのゆるゆるとしたスピードで、橋を渡り終えた。
「ふう、スリル満点だな」と言って、ベンが妻のスーザンの方を振り返った。「帰りもこの橋を渡ると思うと、ぞっとするぜ。明日は俺だけでも、海を泳いで戻ることにさしてもらおうかな」
父親がそう言ったとき、息子のドナルドが急に戸井田とアンの方に振り向いた。が、ドナルドの視線が自分たちに向けられているのではないことに、すぐに戸井田は気付いた。その身障児は、顔を細かく揺するようにして、戸井田の背後、リアウィンドウ越しに見える、いま渡ってきたばかりの橋を見つめていた。
マイクロバスの車体は、砂利を敷いた道を抜け、道路の両端から伸びる厚い広葉樹の葉っぱにパシンパシンと窓を打たせながら、木造三階建の建物の正面玄関に作られた、庇《ひさし》付《つ》きの車寄せの下に滑り込んで停まった。
「お待たせいたしました、ボルネオホテルにようこそ」と、ジェームス・タンが芝居がかった口調で言い、一足先に助手席を飛び下りていたムハマドが、外からスライド式の扉を開いた。最初に車を出たのは、ベン・クーパーで、大ぶりのサムソナイトのスーツケースを二つ、軽々と両手に下げて、スレート状の石を敷きつめた車寄せの床を踏んだ。
「こいつは凄《すご》いや、シンガポールのラッフルズやグッドウッド・パークなんぞよりも古めかしいぜ。ビデオを持ってきてよかった、シドニーに帰って友達に話しても、口で言うだけじゃ信じてもらえないだろうからな」
白いペンキ塗りの二本の円柱に支えられた高い庇の車寄せと、そこから五段ほどの階段を登った位置にある、玄関の厚い樫《かし》板《いた》を鉄枠で囲んだ両開きの扉を頭を巡らせて眺めながら、ベンは満足そうに、この古い邸の正面入口に立ちはだかった。
「ドア開けます、ちょっと失礼」
そう言ってベンの横をすり抜けるようにして、ムハマドは階段を登り、腰のベルトに吊《つ》った鍵《かぎ》束《たば》をガチャガチャと鳴らせて鍵を選んだ。日本人カップル、インド人のシンにつづいて車から下りようとした戸井田は、スーザンがドナルドを座席から立たせようとしているのに気付いて、扉の手前で声をかけた。
「お手伝いしましょうか?」
「いえ、大丈夫です」とスーザンは答えたが、息子を座席から床に下ろすのに、明らかに苦労していた。ドナルドは、椅《い》子《す》の背にしがみつくようにして、顔をぴったりと窓ガラスに当て、一向に自分から動こうとしていなかった。
「荷物だけでも持ちましょうか」
戸井田がもう一度声をかけると、スーザンはうなずいて、自分の座っていた席の布製の手下げバッグを顎《あご》で差し示した。戸井田につづいて扉近くまで来ていたアン・ドールトンが「ほらほら、ドン、どうしたの」と言いながらスーザンに手を貸したので、戸井田はその手下げバッグを持って扉の外に下り立った。ちょうど、ムハマドが玄関の大きな扉を開き終えたところで、かなりの広さを持つ玄関ホールと、その奥の赤い絨《じゆう》毯《たん》を敷きつめた階段、そして中空に輝く巨大なシャンデリアが目に入った。
「ヒュウ!」と口笛を吹いて、ベンが階段を上がった。「これはまた、ごたいそうなシャンデリアだな。バッキンガム宮殿からでも運んできたみたいな代物だ。重さだってかなりのもんだぜ」
「百年前に作られたものです。この屋敷を建てたケペル卿《きよう》が、アイルランドのウォーターフォード・クリスタル社に特別に注文されたと聞いています。いま作らせれば十万ドルは下らないでしょう」と、ジェームス・タンが玄関口に立って説明した。「さあ、どうぞ皆様、中へお入り下さい。玄関ホールの両側がロビーになっています。これからチェックインの為の宿泊カードをお配りしますので、どうか、それに御記入をお願いします」
戸井田が車の方を振り向くと、ちょうどアンがスーザンに手を貸して、ドナルドを車から下ろすところだった。男の子は、何が気に入らないのか、まだ、まるで幼児のようにむずかり、体を左右にくねらせていた。
「どうもありがとう、そのバッグ、中まで運んで下さると助かるのですけれど」
スーザンが息子を抱き上げようと努力しながら言ったので、戸井田はバックパックを背中に揺すり上げてから、階段に片足をかけた。そのとき、まったく突然に、戸井田の首筋から二の腕にかけて鳥肌が立った。そんな経験は生まれて初めてだった。戸井田は思わずそのままの姿勢で立ちすくんだ。なにかが――不安と恐怖をないまぜにして、それに質量を与えたような、しかし目には見えない何かが――戸井田の体をすり抜けて、建物の中から外へと通り過ぎて行ったような、そんな気がしたのだ。何も見なかったし、何も事前には五感に感じなかった。ただ、一瞬のうちに、戸井田の体の中を通り抜けながら、心臓に冷水を浴びせていったものがいたように思えた。邸の中の空気? 戸井田は頭を巡らせ、自分の周囲を見回し、邸の中と外の温度差を肌で感じとろうとした。温度差は感じられなかった。邸内の空気は、外と同様にじっとりと湿っており、蒸し暑かった。いまのは、一体何だったのだろう。そう考えたとき、今度は自分の体が汗ばみ、心臓の鼓動が異常に高まっていることに気付いた。アドレナリンが大量に分泌されて、体中の血管を駈《か》けまわっているのが自分でも判った。
「どうかしたの?」と、戸井田の耳元で声がした。アン・ドールトンが眉《まゆ》根《ね》に皺《しわ》を寄せて戸井田の顔を見つめていた。
「いや、大丈夫だ。ちょっと気分が悪くなっただけだ。車に揺られたせいかもしれない」
「それなら中で何か飲み物でも貰《もら》った方がいいわ」
そう言うと、アンは戸井田をうながすようにして玄関ホールの中へと入った。
ロビー風にしつらえてあるホールのソファに腰をおろして、戸井田は心臓の動きが正常に戻るのを待った。先程の感覚が、アンに言ったような、単なる貧血や車酔いでないことは、自分が一番よく承知していたが、だからといってそれが何であったのかは、まるで理解出来なかった。首に巻いたバンダナを外して額の汗を拭《ぬぐ》っていると、目の前に誰かが立ちはだかった。
「どうかなさいましたか」
ジェームス・タンが戸井田の顔をのぞき込むようにして言った。
「何でもない、疲れが出たのだと思うよ」と、戸井田が答えると、タンはうなずいてそれ以上は質問せず、白い紙とボールペンを差し出した。
「宿泊カードです、御記入をお願いします。ボルネオホテルにはコンピューターの端末が来ておりませんので、御面倒ですが御出発予定日の欄まで、すべて書き入れていただけますでしょうか」
「分かった」と言って戸井田がカードを受け取ると、ポンチョを脱いで、ダークスーツ姿に戻っているマネージャーは、玄関を入って左手の方の部屋を指さした。
「あちらが、ボルネオホテルのバーになっております。元々はケペル卿《きよう》の書斎だった部屋でして、書物などは昔そのままに保管してあります。本来ならばお好みの飲み物をウェルカムドリンクとしてお出しするところですが、つい今しがたムハマドが主電源のスイッチを入れたばかりでして、まだ冷蔵庫の氷が出来ていません。車で運んできたビールとオレンジジュースは冷えております。お好きな方を」
「ありがとう、後でもらいに行く」
そう答えて宿泊カードの記入にとりかかった戸井田を横目で見ながら、ジェームス・タンはクーパー夫妻のいる方へと歩き去って行った。息子のドナルドは、もう気持が落着いたらしく、母親と並んでソファに腰かけて、吹き抜けになっている玄関ホールの高い天井を物珍しそうに見まわしていた。
戸井田が傍らのコーヒーテーブルを机代りにして宿泊カードに取り組んでいると、ビール瓶を両手に捧《ささ》げ持ったアンがやって来た。どうやらさっさと、元書斎のバーで手に入れてきたものらしい。
「気分は直ったかしら? ビールでもいかが」と言って、彼女は小瓶のカールスバーグを戸井田の方に差し出した。
「ありがたい、頂《ちよう》戴《だい》するよ」と答えて、その緑色をした瓶を受け取り、戸井田は餓《かつ》えたように一気に半分まで飲んだ。喉《のど》や胃袋よりも、脳が冷い刺激を必要としているような気がしていた。ビールは充分に冷えていて、細かな泡が喉を通過していくのと共に、小気味良い苦味が口中に広がった。
「ふう!」と息をついた拍子に「ゲブッ!」とゲップが出て、戸井田はあわててアンの顔を見上げながら「失礼」と謝った。
「どういたしまして。その様子なら気分は大丈夫みたいね。ねえ、教えてくれない? さっきは一体どうしたの」
「どうって……」と、戸井田は説明の言葉を思いつかないまま、ビール瓶を見つめた。
「何て言えばいいのかな、あっという間に寒気が走ったんだ。ちょうど風邪のひきはじめのときみたいにね。もっとも、風邪のときは首筋とか腕の付け根とか、そういうところに部分的に寒気がくるだろう、さっきのは一瞬で体全体が冷えきっちまった感じだった。ちょうど……」
「ちょうど北極の海水が体の中を通り抜けていったみたいな?」と、アンが戸井田の言葉をひきついだ。
「そう、そんな感じだったな。どうして判るんだい」
「本で読んだことがあるのよ」と彼女は答えた。
「へえ、君は医学の勉強もしたのかい」
「いいえ、心理学の本で読んだことがあるの」
そう言うと、アン・ドールトンは、わざと話題を変えようとしているかのごとく、戸井田の背後の壁にかかった、大きな肖像画に目をやった。
「これがこの邸《やしき》を建てた人物かしら、ずいぶん自己顕示欲の強そうな顔をした人ね」
「自己顕示欲の無い人間は、肖像画を描かせたりはしないだろうさ」と、戸井田が言って、絵を見上げた。
肖像画に描かれているのは、イギリス人としては小柄な方ではないかと思われる、ずんぐりした印象の白髪の男だった。前世紀のイギリス海軍の第一種礼装を身に着け、腰にはサーベルを吊《つ》り、胸元に山ほどの勲章をぶら下げて、左足をやや前に出した姿勢で立っている全身像であった。
「ケペル提督、という名らしいわね。サー・フランクリン・ケペル。一体、何千人のマレー人を殺して、そのサーの称号を手に入れたのかということまでは書いてないけど」
金《きん》箔《ぱく》の色の褪《あ》せかかった額縁に貼《は》ってある、真《しん》鍮《ちゆう》プレートの文字を読み取りながら、アンがそう呟《つぶや》いた。
「それはともかく、この邸《やしき》がイギリス人貴族によって建てられたものだというマネージャーの説明は、どうやら本当だったということだな」と、戸井田は残ったビールを喉《のど》に流し込みながら言った。「何にしろ、たいした建物だよ。イギリス人というのは不思議な国民性を持っているんだな。世界中どの土地に行っても、つまり新大陸に乗り込んでもインドに進攻しても、そこの気候風土はほぼ無視して、自分の故郷の建築をその地に再現しようとする」
「どうやらアメリカ人もその伝統を受け継いだみたいね。コタキナバルの町のマクドナルドは、ペンキの色までアメリカ国内のとそっくりの造りだったわ」
「君の御先祖もイギリス人だったのかな」
戸井田が訊《たず》ねると、アンは耳を隠す程度の長さに切り揃《そろ》えられた、カールした赤毛に手を触れてみせた。
「ドールトンというのはイングランドの姓だけど、この髪の色はアイルランドの血の証明よ」
そう答えてから、アンは再び肖像画を見上げて、話題を元に戻した。
「不思議ね、この絵は」
「何が?」と戸井田も思わず肖像画の方に振り返った。
「この目よ。肖像画の目というのは、普通どの角度から見ても、観ている人の方に視線が向けられている感じがするように描くものでしょう。ところが、このケペル提督の目はそうじゃないわ。まるで、どこも見つめてはいないような印象を受けるの。こんなに自己顕示欲の強そうな人が、よくもこんな力の無い目の絵を突っ返さなかったものね」
戸井田は立ち上がって正面から肖像画を見つめた。アンの言うとおり、白く太い、意志の強そうな眉《まゆ》毛《げ》の下に描かれている、かなり窪《くぼ》んだ両眼の瞳《ひとみ》は、単なる青灰色の球にしか見えなかった。目に光というものが無いのだ。
「古くなって絵具が剥《は》げたんじゃないのかな。ハイライトを入れた白い油絵具が落ちると、こんな感じになるものだよ」
そう言うと、戸井田は背伸びして、肖像画の顔に自分の顔を近寄せた。
「ああ、やっぱりそうらしいな。ここだけ絵具の厚みが足りないようだ」
だが、見たところ肖像画の両眼の部分の絵具は、乾燥しすぎて自然に剥げ落ちたというよりは、何かの道具で、例えばパレットナイフのようなもので、強引に削り取った跡があるように思えた。
「誰が……」と、戸井田が言いかけたとき、彼の宿泊カードをテーブルから取り上げ、玄関ホールの中央に立ったジェームス・タンが、一同を見回しながら声を張った。
「お客様方、ちょっとお聞き下さい」
思い思いの位置にいた客たちが、その声に、一斉に視線をマネージャーへと向けると、彼は手にした宿泊カードをトントンと揃《そろ》えながら言葉をつづけた。
「みなさま方全員に宿泊カードを御記入いただきましたので、私はこれから本館の方に戻ります。御記入下さったデータをコンピューターにインプットする作業がございますので」
「おいおい、あんたは残って俺《おれ》たちの世話をしてくれるんじゃないのか」と、ベンジャミン・クーパーが不満そうな声を洩《も》らした。
「お世話はムハマドがいたしますので、何なりとお申しつけ下さい。なお、夕食は六時半から、このロビー右手の扉を入っていただいたダイニングルームでお取りになれます。食前のお飲み物は、書斎のバーに用意いたしますが、ムハマドは夕食の仕度にかかっておりますので、どうかセルフサービスでお願いいたします。なお、そういった御不自由をおかけしますので、今晩の御宿泊については、お食事、お飲み物はすべてホテル側のコンプリメントとさせていただきます」
「そいつは良いとしてだ」
クーパーが壁際から一歩前へ出て腕組みをした。
「あんたは、あのヴァンに乗って帰っちまう。そうすると俺たちには何のトランスポーテーションの手段も無くなるわけだよな」
「明日の正午前に、私がまたお迎えに参りますので、その件は御心配なく」
「そいつは納得がいかないな。最初からそう聞いていれば、俺は自分のレンタカーでここへ来てたんだ。トランスポーテーションが保証されていると思えばこそ、車をあっちのホテルの駐車場に残してきたんだぜ」
「そうはおっしゃいましても、本館の方も今日は御承知のような事情で、私が戻らないと他のお客様にご迷惑がかかります」
「だがね、こっちには子供が、その、つまり少し体の弱い子供がいるんだぜ。万一、病気にでもなったときのことを考えてもらわにゃならない」
戸井田が、二人の押し問答を眺めていると、右手の方から日本語で「あの……」と呼びかける声がした。ヒグチと名乗った若い日本人だった。その背中にしがみつくようにして、女の方がマネージャーとクーパーのやりとりを怖《おそろ》しそうに眺めている。
「お宅、日本人ですよね」と、紫色のポロシャツを着た青年が、おずおずと訊《たず》ねた。
「そうですけど」
「ああよかった、助かった。由利香ちゃん、やっぱり僕の言ったとおりでしょ。日本人だと思ったんだ」
「どーもー!」と、由利香と呼ばれた女性が、妙な挨《あい》拶《さつ》の言葉を口にして、ピョコンと頭を下げた。毎朝のシャンプーを欠かさないらしい、胸元までの長いストレートな髪がバサリと顔にかぶさって、彼女はそれを、シャンプーのCMに登場するタレントがよくやるように、大《おお》袈《げ》裟《さ》すぎる仕草でかき上げてみせた。
「えーと、僕、樋口昭宏といいます。こちらは妻の由利香です」
驚いたことに、樋口は名刺を渡しながら戸井田にそう言った。名刺には東京の大手デパートの名が印刷してあった。
「戸井田修です。雑誌のライターをやってます」
名刺を受け取ってしまった以上、戸井田も仕方なく、そう自己紹介をした。
「それで、お宅、英語ベラベラなんですねえ」と、樋口が不思議な納得の仕方をした。「僕、ちょっと英語の方は得意じゃなかったりするもんだからアレなんだけど、あそこでいま、何を言い合ってるんです?」
「あのマネージャーは、これから車でホテルの本館に戻るんだそうです。ベンは、あのオーストラリア人はそういう名前なんですが、車が無くなるのは困ると抗議してるわけです」
「でも、明日になったらちゃんと迎えに来てくれるんでしょ?」
樋口は、何が問題なのか判らない、といった表情をした。
「まあ、マネージャーはそう言ってますね」
「だったら問題無いじゃない、ねえ、由利香ちゃん」と、同意を求めるように妻の方に振り向きながら樋口が言うと、由利香はコクンとうなずいてから、また髪を大《おお》袈《げ》裟《さ》にかき上げた。
「国民性の違いってことですかね、オーストラリア人に限らず、西洋人は自分自身の意志で行動が出来ない状況になるのを嫌うんですよ。ここから出て行きたくなっても、車がなければ出て行けない。そのことが気にくわないんでしょう」
戸井田がそう説明すると、樋口は、まるで理解出来ないといった口調で、また「だって、明日はちゃんと迎えに来るんでしょう」と言った。戸井田は、それ以上説明するつもりにもならず、黙って首を縦に振ってみせた。
アンが、戸井田の心中を察したかのようにスッと近付いてきて口をはさんだ。
「どうやらオーストラリア側の要求は却下されたみたいね。次はインドが会議のテーブルにつくようよ」
ロビー中央では、アンの言葉どおり、ベンジャミン・クーパーが忿《ふん》懣《まん》やるかたない、といった表情ながらもジェームス・タンの前から壁際へと引き下がり、代って、ブラジャンダウ・シンがマネージャーの前へと進み出ていた。
「電話が通じないという話は聞いていなかった」と、サファリスーツ姿のインド人は言った。
「クアラルンプールに、私の居場所は常に知らせておかねばならないのです。金相場に関する情報が常に私の耳に届くようにするためです」
「しかし、今日は土曜日ですよ。取引市場は月曜の朝までは開かないし、それならばクアラルンプールからの連絡も来ないのではないかと思いますが」
ジェームス・タンがそう言うと、シンは目に露骨に軽《けい》蔑《べつ》の色を浮かべて、相手の顔を見つめた。
「クアラルンプールやボルネオは土曜日でも、ニューヨークとロンドンは、まだ金曜日なのだということが、君には判らんのかね」
結局、この押し問答も、ホテル側が条件を提示することで、なんとか結着がつくことになった。ブラジャンダウ・シンは、クアラルンプールの電話番号のメモをジェームス・タンに渡し、連絡があったら夜中だろうと何だろうと迎えの車を寄こすようにと、くどいほど念を押した。
「どうやら現状で出るだけの要求は出つくしたようね。あなたも何か注文をつけてみる?」
アンが悪戯《いたずら》っぽい表情を浮かべて、戸井田の顔を見た。
「いや、僕の要求はいたって無難なものでね。熱いシャワーと乾いたタオル、それに雨が漏らない天井の下のベッド、それだけだ」
「同感だわ、そろそろ部屋に入りたいものだわね」
アンがそう小声で呟《つぶや》くのと、ムハマドがロビー奥中央にある赤《あか》絨《じゆう》毯《たん》を敷きつめた広い階段を下りてくるのとは、ほとんど同時だった。ジェームス・タンが階段の方に体を開きながら、手を広げて言った。
「それでは、皆さまのお部屋をお知らせいたします。お部屋はすべて二階になっています。まずクーパー御一家は階段を上がって廊下を右に行った突き当たりの部屋、ドアに3と表示のあるスイートをお使い下さい。ドールトン様は、その一つ手前の4の表示の部屋。樋口御夫妻は、階段上左手の廊下の一番奥の9号になります。シン様は、同じく左手の一番階段に近い6号。そして戸井田様が、右手の階段寄りの7号です。なお、シン様の6号と戸井田様の7号には、申し訳ございませんが専用の浴室がございません。廊下左手の中ほどにある共同浴室を御利用ねがうことになります。それともう一つ、このボルネオホテルの素晴しい設備を御紹介しておきます。中央階段の裏側に回られますと、地下へ下りる階段がございますが、地下は十五メートル×六メートルの室内プールとなっております。エクササイズをなさりたい方に、是非御利用をお勧めいたします」
「なお、心臓麻《ま》痺《ひ》、溺《でき》死《し》などに関しては当方は一切責任を負いかねます、ってとこね」と、アンが肩をすくめながら言った。「あなたは水泳は得意なの?」
「一応は泳げる。水着も持ってきているしね」
戸井田が答えると、アンはまた例の悪戯《いたずら》っぽい表情になった。
「それじゃ、部屋のシャワーが物足りなかったら、プールに誘いに行くわよ。そうか、どっちにしろ、あなたの部屋には浴室が付いていないんだったわね」
「だからといって、あれだけ雨に濡《ぬ》れた後でプールに飛び込む気にもならないぜ」
「誘いに行ったときに、もし気が変っていたら御一緒しましょう」
そう言うと、彼女は階段に歩み寄って、ムハマドの手から鉄製の大きな鍵《かぎ》を受け取り、赤い絨《じゆう》毯《たん》を踏んだ。
ダッジのヴァンに乗り込み、イグニッションキーを回してから、様々な警告灯のライトが消えるのを待つほんの短い時間に、ジェームス・タンは背中をシートにもたせかけて、深い溜《ため》息《いき》をついた。
辛《つら》い一日だった。オーバーブッキングになった宿泊客を、なんとか説得して、この、普段は全く使っていない別棟《アネツクス》に泊まらせることに同意させた。もう日本の不動産会社に売却することが決定しているこの建物の、おそらく今の持ち主にとっては最後の宿泊客となるであろう八人のゲストたちを、最終的には、なだめすかして一応は部屋に引き上げさせることに成功もした。
まあ、ホテルマンとしては及第点の仕事をしたのではないだろうか。そう考えながら、ダークスーツの脇《わき》ポケットから、ケントのメンソール煙草の箱を取り出し、ボンネットのシガーライターで火をつける。客の前では、煙草を吸っている姿を見せたことは無い。一応、一仕事を終えたのだという安《あん》堵《ど》感《かん》を味わいながら、三十一歳になる中国系マレーシア人のマネージャーは、深々と細長い煙草の煙を肺に吸い込んだ。それから、カーラジオのスイッチを捻《ひね》り、アメリカン・ポップスを流している局にチューニングをセットした。
雨足は、さらに激しさを増しているようであった。フロントグラスが、筋状に流れる水で前方の橋の渡り口すら定かには見えぬほど、濡《ぬ》れそぼっている。ワイパーのスイッチを動かす。キーコ、キーコという耳障りな音と共に、ワイパーブレードがフロントグラスを拭《ふ》きはじめた。これから一時間弱のドライブ、そしてホテルに戻ってからは、助手席に置いた封筒の中の宿泊カードの記入事項を、コンピューターにインプットするという仕事が待っているのだ。
薄《はつ》荷《か》の香りのする煙草を、その仕事への勇気づけのように、もう一度深く吸い込んでから、ジェームス・タンはオートマティックのギアを、ドライブ・レンジに入れて、ゆっくりと車を発車させた。
大きな車体のダッジ・ヴァンが橋にさしかかると、強風が横殴りに吹きつけてきた。建物は、まあ大丈夫だろうが、とジェームス・タンは考えた。道路が明日の迎えのときに、ちゃんと走行に適した状態でいてくれるかどうか。客を乗せてぬかるみでスタックするのは堪《たま》らないな、と彼は思った。とりわけ、あのオーストラリア人の男性が、サービスに関するクレームをつけてきそうな気がする。そういった客を乗せてスタックでもしようものなら、本館の部屋に備えてある、サービスに対しての意見書用紙に何を書かれるか判ったものではない。
危うげに軋《きし》む橋を渡りながら、ジェームス・タンの思考は、奇妙なことに、いつの間にかボルネオホテルに残してきた八人の宿泊客の顔を思い出すことに集中していた。
あのオーストラリア人の家族は、どうも気にくわない。文句のための文句を言うタイプだ。クアラルンプールから来たというインド人もそうだ。俺《おれ》の顔を、まるで犬を見るような目付きで見た。金相場に関しての、俺の知識の欠如を、それがまるで試験の落第と及第の分かれ目であるかのように、冷酷に指摘した。日本人の新婚カップルは、馬鹿だ。日本人は、ビジネス相手としては秀でているかもしれないが、ホテルマンの目から見た客としては、単なる馬鹿ばかりだ。アメリカ人の若い女と、別な日本人の男、あの二人には注意した方がいい。あいつらは、少くとも何かを感付いている。
感付くって、何を? ジェームス・タンは、一瞬、自分が考えていることが、どういう意味を持つのか判らなくなっているのに気がついた。何に感付かれると、不都合なのだろう。後頭部が、どんよりと重い。どうして俺はそんなことを考えたのだろう。
ビュン、と風が鳴って、ヴァンの車体が大きく揺れた。その瞬間に、ステアリング操作で車の揺れに対応しながら、つい一秒前に頭に浮かんだ疑問が、ジェームス・タンの思考から消え失せた。代りに、再び無意味な警戒心が心を満たした。
あのアメリカ娘と日本人の男には気をつけねばならない。あいつらは、何かに感付いている。警戒。警戒。警戒。消去するなら、まずあの二人から。
ヴァンの車輪の荷重が橋をきしませ、材木の古びた鬆《す》を押し潰《つぶ》した。橋《はし》桁《げた》が嫌な音を立てた。橋を支えている縦の材木を横から補強する形に組み合わされていた古材が、まず数本、崩れるように折れた。それでも、橋はまだ元どおりの形を保っており、ダッジのヴァンの重さに堪えていた。だが、今度は島に近い位置の縦の桁のうちの二本が、バキッという音と共に水面近くで裂けた。亀《き》裂《れつ》は、激しく打ちつける波の勢いを借りて、徐々に大きくなっていった。
ジェームス・タンは、ゆっくりと車を進ませながら、相変らず自分のものではない思念に脳を占領されていた。特に注意しなければいけないのは、アメリカ人の娘だ。あいつは“能力”を持っている。その他にも“能力”を感じるような気がするのだが、そちらは何《な》故《ぜ》かハッキリとした形をとっていない。まだ開発されていない潜在的なものなのかもしれぬ。だから当面は、アメリカ娘に注意を向けていればよい。
バキーン! という木の裂ける大きな音がして、ジェームス・タンは我に返った。いま自分は何を考えていたのだろう。“能力”とは一体どういう意味だ。それを深く考える暇もなく、彼はバックミラーの中に恐ろしい光景を見た。
橋が凹《くぼ》みはじめていた。ヴァンの背後十メートルほどのあたりで、橋の表面が、グングンと沈み込むように凹んでいっていた。ジェームス・タンは、夢中でアクセルを踏み込んだ。ダッジのヴァンの後輪が、激しくスリップし、泥水を跳ね上げた。ジェームス・タンの額に脂汗の玉が浮かんだ。このまま、ヴァンに閉じ込められた状態で、崩れていく橋と共に濁流に呑《の》まれていく自分の姿が、一瞬頭の中に見えた。あわてるな、落着くんだ。そう自分に言いきかせながら、彼は一度アクセルから足を離した。バックミラーに目をやると、橋はさらに沈んでいっているように思えた。チェンジレバーを操作して、ギアをDレンジからセカンドの位置に入れた。そうして、今度は慎重にアクセルを踏んだ。ダッジはジワリ、と前進を再開した。ゆっくりとアクセルを踏む足に力をこめる。スピードが上がった。また、背後で木の裂ける音がした。だが、もうミラーは見ないことにした。前方だけを見つめて、出来るだけ橋に負担をかけないような、それでいて最も早く向こう岸に辿《たど》り着けるようなスピードで、車を前進させる。そのことだけに意識を集中させようとした。
汗は、いまやジェームス・タンの全身から吹き出していた。その熱が、フロントグラスの内側を曇らせ、正面に見えているはずの橋の終点をぼやけさせた。ジェームス・タンは、手を伸ばして上着の袖《そで》でフロントグラスを拭《ぬぐ》った。白く曇ったガラスの表面に、直径二十センチほどの、いびつな円が描かれ、それを通して対岸が見えた。橋の終点までは、あとほんの八メートルほどだった。その瞬間に、橋全体がヴァンを乗せたまま、グラリと左側に大きく傾《かし》いだ。もう我慢が出来なかった。ジェームス・タンは口を大きく開いて喉《のど》の奥から甲高い悲鳴を長く絞り出しながら、アクセルを床まで踏みつけていた。
ダッジのヴァンが、後ろから目に見えぬ巨大な手で突き飛ばされでもしたように、猛然とダッシュした。前輪が橋の向こうの道路を踏む感触を、ジェームス・タンは味わった。つづいて後輪も。
それと同時に、橋は怪鳥の叫びのような、断末魔の軋《きし》めきと共に、ちょうど中央の部分から真二つに折れて、何本かの材木が宙に舞った。
ジェームス・タンは車を停め、ステアリングに覆いかぶさるようにして、肩を激しく上下させていた。小刻みな震えが、膝《ひざ》のあたりから這《は》い上がってきて、やがて全身に伝わった。歯がガチガチと鳴り、ステアリングをつかんでいる指は、関節が白くなるほどの力でそのプラスチックの輪を握りしめているにもかかわらず、ブルブルと激しく揺れていた。
やがて、その震えが去った。荒い息づかいが少しばかり治まると、ジェームス・タンは自分がカーラジオをかけっぱなしだったことに気付いた。嵐《あらし》の雷のせいで時折雑音の混じるラジオからは、カーペンターズの唄《うた》う『トップ・オブ・ザ・ワールド』が流れていた。ゆっくりと手を伸ばして、そのスイッチを切った。床に赤い小さな光が見えた。目の焦点を合わせてみると、フィルター近くまで燃えたケントの吸いさしだった。ということは、島から走り出して、まだ二分かそこいらしか、たっていないのだ、とジェームス・タンは気付いた。三十分以上も、橋の上にいたような気がした。
橋? そうだ、橋はどうなったのだろう。
ケントを足で踏みにじると、ジェームス・タンは慎重にサイドブレーキを引き、ギアもPレンジに入っていることを確認したうえで、車のドアを開いた。
横殴りの雨が顔を叩《たた》いた。風は轟《ごう》々《ごう》と高い椰《や》子《し》の梢《こずえ》を鳴らし、その大きな葉を幹からもぎ取りそうな勢いで吹きつけている。辺りは、もうほとんど暗くなっていた。ジェームス・タンは、ダッシュボードの下に備え付けられている懐中電灯を手に取ると、車の外へと足を踏み出した。強風に逆らって、体を前に倒しながら二歩ほど進んだとき、背後で「バン!」と激しい音がしたので、心臓が口元まで飛び上がってきたような気がした。開きっぱなしにしていた車のドアが、風の勢いに負けて閉じた音だった。また、橋の方角を目指して歩き出した。雨と風の音に混じって、怒り狂う波の音が聞こえた。懐中電灯の光の輪の中に、橋の欄《らん》干《かん》の材木が浮かんだ。材木は、左右両側に等間隔で三本ずつ並んで立っていた。
そして、その先には、何も無かった。
ジェームス・タンは、ズブ濡《ぬ》れになりながら、茫《ぼう》然《ぜん》とその場に立ちすくんだ。
橋は岸から二メートルほどを残しただけで、完全に姿を消していた。島の方がどのような状態になっているのかは、この暗さでは、もう知りようがなかった。懐中電灯の光は、とても対岸までは届かない。ただ、牙《きば》をむく三角波の白さだけが、ぼんやりと下の水路のそこここに浮かび上がって見えるだけだった。
パキン! と、木の裂ける音がした。しかし、それは先程の、橋が崩壊していくときの、大きな音とは違っていた。音は、橋の方角からではなく、立ちつくしているジェームス・タンの頭上、ビュウビュウと吹き抜ける風のせいで、空気の密度までが均等ではなくなってしまっているような空間から聞こえてきたようであった。
一瞬、ジェームス・タンの頭の中が完全に空白になった。そしてすぐに、自分のものではない考えが、また脳の表層を駆け巡りはじめた。
どうする、ジェームス・タン? どうするんだ、キナバル・ホテル&リゾートの優秀なマネージャーさん。お前は客を島に残し、そこへ通じる唯一の道である橋を破壊してしまった。この嵐《あらし》は、まだ三日はつづくだろう。それがどういうことか判るか。あの八人の客は島にとり残された。船も出せまい。彼らが、こちら側に戻ってきたとき、お前がどういうことになるのか。あのオーストラリア人が一番に言うだろう。「このマネージャーを首にしろ」とな。インド人も日本人もアメリカ人も、それに同調する。何日も島で孤立させられた後なのだから当然のことだ。
それでは、俺《おれ》はどうすればいいんだ、とジェームス・タンは脳の深い層でボンヤリと渦を巻いている、自分自身の考えを、表層へと押し上げる努力をした。
忘れるのさ、と頭の中で答えが返ってきた。いなかったことにするのだ。あの八人の客はいなかった。どうせ、まだコンピューターには登録されていない客だ。チェックインをコンピューターにインプットしていない客は、ホテルにとっては、いない客なのさ。さあ、そのカードの入った封筒を海へ捨てろ。それで総《すべ》ては解決する。
ジェームス・タンは、そのとき初めて、自分が左手に宿泊カードの入った封筒を手にしていることに気付いた。そんなものを持って車を下りた記憶は無かった。無意識のうちにつかんできたのだろうか。
何《な》故《ぜ》、と考えることは、ジェームス・タンには出来なかった。そういう疑問は必要ではないのだ、と頭の中の別な思念が考えていたからだった。ジェームス・タンに出来る精一杯のことは、別な質問を頭の中に浮かべることであり、しかも、その質問に対する回答も、実はもう返ってきていた。ムハマドはどうする? 従業員が一人、島にいるんだぞ。
予定された答があった。あんな爺《じい》さん一人、ホテルからいなくなっても誰も気にすることはないだろう。それはお前が一番よく知っていることではないか。いてもいなくても構わないからこそ、本館からボルネオホテルの客を担当させるために連れてきたのではなかったのか?
もう、ジェームス・タンには、頭の中の自分のものではない思念に抵抗するすべがなかった。
彼は、宿泊カード入りの封筒を、無造作に海へと放り投げた。白い大型の封筒は、まるで餌《えさ》を待ち望んで水面にひしめきあっていた鮫《さめ》の群に呑《の》まれる小動物のように、あっという間に濁流の中に姿を消した。
不思議なことに、それと同時に、ジェームス・タンの頭の中から、例の思念が消えた。それどころか、彼自身の今日の午後一杯の記憶も消去していた。
自分は、こんなドシャ降りの雨の中に立って何をしているのだろう。
白く濁ったような思考力で、そう考えたジェームス・タンは、すぐ近くにホテルの送迎用のダッジ・ヴァンがあるのを見てとると、そちらに向かって歩きだした。
エンジンをかけ、サイドブレーキを外し、ギアを入れて、彼は篠《しの》突《つ》く雨と吹きすさぶ風の中を、自分の働くホテルに向けて車を走らせはじめた。
第二章
ドアを開いた途端に、湿気をともなった黴《かび》臭《くさ》い空気が鼻をついて、戸井田修は思わず顔をしかめた。
部屋は、想像していたよりは広く、日本風の呼び方をすれば、十二畳は優にあるだろう。その部屋の、ほぼ中央に、ヘッドボードを壁につける形で丈の高いシングルベッドが置かれている。
客たちがロビーにたむろしている間に、ムハマドが手早く仕度をしたのだろうか、ベッドカバーは取り払われており、薄手の毛布の胸元に当たる部分で、白いシーツが折り返してあった。そのベッドも、そして反対側の壁に押しつけてある引出し箪《たん》笥《す》や小ぶりの書きもの机、綴《つづれ》織《お》りの布を貼《は》ったアームチェアなども、家具という家具はすべて十九世紀にイギリス国内で作られたと覚しきものばかりだった。ドアの真正面の位置には、こんな熱帯の家には不釣合な、これも綴織りの分厚いカーテンが引かれていて、シーツの清潔さから判断したところでは、どうやらそれが室内の黴臭さの元凶であるように、戸井田には思えた。
バックパックをベッドの上に放り出すと、戸井田は相変らず顔をしかめたまま、部屋を横切ってカーテンに歩み寄り、引き紐《ひも》を引いて左右に大きく開いた。綴《つづれ》織《お》りのカーテンの内側に、もう一枚、これも相当に黄ばんでしまっているレース地の薄いカーテンがあって、その向こうが太い木格子にガラスを嵌《は》め込んだ窓となっていた。鉄製の掛け金を、爪《つめ》を痛めないように用心しながら外し、下側の窓を押し上げてみる。
木組みが軋《きし》めいただけで、窓枠は微動だにしなかった。今度は、窓枠の一番下に付いている鉄金具に両手の指をひっかけ、渾《こん》身《しん》の力をこめて引っぱり上げてみる。
バリッ、と何かが剥《は》がれるような音と共に窓が開いた。途端に、激しい雨と風が室内に吹き込んできて、戸井田はまた眉《まゆ》根《ね》に皺《しわ》を寄せた。嵐《あらし》は一向に治まる様子もなく、それどころか強さを増しているようであった。
「ま、それでも少しは空気を入れ替えないとな」と独言を呟《つぶや》きながら、戸井田は窓から後退して風雨を避けた。二枚のカーテンが、レースの方はパタパタと鳩《はと》の羽音のような、そして重い綴織りの方は野分けのようなブンブンという唸《うな》りの音を立てて、壁際を暴れまわった。
書きもの机の前の、ウィンザーチェアに腰を下ろし、マルボロを取り出して火をつけてから、室内を見まわして灰皿を探した。引出し箪《たん》笥《す》の上に陶器の燭台が置いてあったので、それを使うことにした。もしかすると客室内は禁煙というルールなのかもしれないな、と考えたけれど、別にそのルールに従う気も戸井田にはなかった。これだけ湿度が高ければ、まず煙草の火が何かに燃えうつることも、そうそうはあるまい、と思えた。
煙草を吸い終ると、黒光りするほど磨き込んだ、というよりは、充分に古びた床板を踏んで窓を閉めに行った。強風のために、室内の空気は入れ替っているのだろうが、じっとりと肌にからみつくような湿っぽさは、中も外も同じなのだということが判ったからだった。また力まかせに引き下げねばならないかと思ったが、閉まる方は予想に反してスムーズな動きで、胸と腕の筋肉に力をこめていた戸井田は、ストンと音を立てて閉じた窓に、拍子抜けさせられたような気になった。それと同時に、再び黴《かび》臭《くさ》い匂《にお》いが部屋に満ちはじめた。一朝一夕で染みついた匂いではないのだ、と戸井田は諦《あきら》めて靴も脱がずにベッドに身を投げ出した。
廊下を隔てて、戸井田の部屋と斜めに向かいあう位置の4号室では、アン・ドールトンが、これも窓を相手の悪戦苦闘を演じていた。風下側に窓があるレイアウトの彼女の部屋では、吹き込む風雨は少しばかりマシであったが、立て付けの悪さは戸井田の部屋と同様で、しかしこちらも閉じる段になると、あっけないほどスルリと動いてくれた。
部屋の広さは、戸井田の部屋に較《くら》べて二まわりほど大きく、セミダブル以上の幅がありそうなベッドには、ドレープの効いた薄い布をめぐらせた天《てん》蓋《がい》までが付いていた。昔は女性の住んでいた部屋だったのだろうか、置かれている家具も武骨なウィンザー風ではなく、クィーン・アン様式の優雅な曲線によって形作られたものばかりで、大型の衣《い》裳《しよう》箪《だん》笥《す》やティーテーブル、別珍張りの寝室用サイドチェアなどが壁際を飾っており、最近になって貼《は》り替えられたと思われる壁紙も、クリーム色と濃いピンク色を組み合わせた花柄のものだった。
窓との戦いを終えたアン・ドールトンは、ベッドの足元に置かれたウィンドウ・シートの上のスーツケースを開き、カーキ色の木綿のサファリ風仕立てのワンピースを取り出すと、それを衣裳箪笥のハンガーに吊《つ》るした。それから、着ていたブルージーンズとスウェットシャツをベッドの上に脱ぎ捨て、化粧バッグを手にして、下着姿で浴室へと向かった。
アン・ドールトンの部屋と壁を隔てて隣り合っている3号室では、ベンジャミン・クーパーが妻のスーザンを相手に、依然として自分たちのおかれた状況に対する不満を述べつづけていた。
とはいっても、居間と寝室が分かれた、スイート形式になっているこの3号室で、ベンが腰を下ろしているゴブラン織りのソファのある居間から、スーザンが雨に濡《ぬ》れた息子のドナルドの体を洗ってやっている、古風な脚付きの浴槽を備えた浴室までは、十メートル以上の距離があり、間には開け放たれているとはいえ二枚のドアが存在したので、スーザンの耳に届く夫の不平は、とぎれとぎれのものであった。
「こんなことは絶対に許されんのだぞ。俺《おれ》はシドニーの街をバスに詰め込まれて家畜みたいにあちこち引っ張り回されながらニタニタ笑っている日本人の団体観光客じゃないんだからな。自分の考えで行動し、自分の行きたい所に行きたい時間に移動する権利を持っている。勝手にこんなホテルに置き去りにされた状況を認めるわけにはいかないんだ」
「だけどあのマネージャーが、最初に別棟《アネツクス》に泊まってくれないかと言ったとき、イエスと答えたのは貴方《あなた》だったわ」と、スーザンが浴室のドア越しに言った。
「それに、ちょっと心配してたんだけど、ほら、このホテルは熱いお湯だってちゃんと出るし」
「湯がどうしたって?」
イライラと、絨《じゆう》毯《たん》を敷きつめた床を靴の爪《つま》先《さき》で叩《たた》きながら、ベンが聞き返した。
「お湯がちゃんと出るって言ったのよ。ドンだって、こんなに喜んでるわ。きっと雨に濡《ぬ》れて体が冷えてたのね。それに貴方、そこのベッドルームのベッドを見たでしょう? ヘッドボードに見事な彫刻と貝殻の細工で、海岸の風景が描いてあるわ。向こうのホテルに泊まっていたとしたら、こんな素敵なベッドで眠ることなんか出来なかったわ」
「ベッドの絵がどうした?」
ついに耐えきれなくなったベンは、居間から寝室を横切って浴室へと足を運びながら、大きな声を出した。
「ベッドの絵なんぞの話をしてるんじゃないんだぞ。一人の個人として当然主張出来る権利を、あのマネージャーの中国人は否定した。それが問題だと言ってるんだ」
浴室のドアから顔をのぞかせたベンに、スーザンが振り返りながら言った。
「大きな声を出さないでちょうだい。ほら、せっかく気持良さそうにしていたドンが、すっかり怯《おび》えてしまったじゃないの」
そう言うと、彼女は浴槽から抱き上げて、黒と白の市松模様を描いているタイルの床に立たせた息子の体をタオルで拭《ふ》きはじめた。
ドナルドの、少し吊《つ》り上がり気味の目には、確かに怯えたような色が浮かんでいた。だが、正確には彼の視線は父親の顔に向けられていたのではなく、それを通り越した居間の方の空間を眺めているようであった。
熱湯に近いほどの温度のシャワーを浴びながら、アン・ドールトンは、このホテルに対する思いを巡らせていた。浴室の、下側半分だけをカーテンで覆った窓の外は暗く、嵐《あらし》の中でもう日が完全に暮れたことを示していた。皮膚がチクチクするほど熱い湯が体を打ち、それがアンの脳をも刺激して、彼女が生まれつき持っている感覚をさらに鋭敏なものとしていた。
日が落ちて、やはり瘴《しよう》気《き》が強くなったわ、と彼女は考えていた。日没までは、さほどひどくはなかった。それは、橋を渡ったときから、背筋あるいは首の辺り、そして彼女の体の唯一の傷跡である、数年前にシアトル郊外の牧場で落馬して骨折した右上腕部に、奇妙な波動が伝わってきてはいたが、そういったものを寄り付かせるほど、彼女の能力は低くはなく、防《ぼう》禦《ぎよ》するためにはどうすればいいかということも心得ていた。
まず心の曇りを取る。怒りや苛立ちの気持を起こさず、物欲や性欲あるいは何かに執着するといった、いわゆる我欲を心の中から消し去る。同時に、下腹に力をこめ、“気”を体中から発散させる。自分の“プラスの気”が、このホテルを中心に島全体の空中に漂っている“マイナスの気”よりも、強力なものであることを、相手に判らせてやればよいのだ。但し、その相手というのが、一体どういった類《たぐ》いのものなのかは、まるで見当がつかなかったが。
しかし、日没後は、そうはいかなくなった。ホテル周辺のジャングルからも、海からも、そしてホテルの建物自体からも、日が落ちるのと同時に、一斉に瘴気が立ちのぼりはじめた。空気の密度すら、均一でないように感じられる。しかも、彼女にとって不思議なことに、その“マイナスの気”は、実に様々な波動を持って、下から上へと立ちのぼり、空中に満ちていくのだ。
こんな場所は初めてだわ、と、アン・ドールトンは思った。この“マイナスの気”の源は一体何なの? このパワーと、波動の一定性の無さは、ただごとじゃないわ。私一人の能力では、とても整理しきれそうにない。そう考えながら、シャワーの湯を止めたアンは、下腹に力をこめ「GET OUT!」と大声を出して、右腕の傷跡から体の中に入りこもうとしていた何かを追い払った。その部分の皮膚の表面に、ちょうど消毒用アルコール綿で拭《ふ》かれた直後のような、スッと熱が奪われるような感覚があって、その何かは彼女の体からあわてて離れ、空気中に溶け込むように消え去った。
「なんて場所なの、ここは。これじゃとても安眠出来そうにないわ」
そう呟《つぶや》きながらバスタオルを体に巻きつけると、アン・ドールトンは浴室を出た。そのままの姿でベッドに歩み寄った彼女は、スーツケースから、ビニール製の小さな袋と、化粧水を入れるのに使うようなプラスチックの瓶を取り出し、その二つの容器の中身を、寝室の床の四隅に振りまきはじめた。
部屋に備え付けてあったバスタオルと、着替えの下着を手に抱えて、戸井田修は7号室を出ると、廊下を進んだ。左手に階段を見て、そのまま赤い絨《じゆう》毯《たん》を踏んで歩く。足元の床板は妙に頼り甲《が》斐《い》の無い感触だった。おそらく、この島を一年中包んでいるのであろう高い湿気が、見た目以上に建物の木材を侵しているのだろう。
階段の先の右手が6号室で、戸井田はその部屋がインド人に割り当てられたことを思い出した。“BATHROOM”と、真《しん》鍮《ちゆう》の貼《は》り文字を白ペンキ塗りのドアの上に浮き上がらせた浴室は、その向い側にあった。ドアノブに何の表示も出ていなかったし、トイレのようなロック機能も無かったので、何の考えもなくドアを開いた戸井田は、目の前に半裸のインド人が立ちはだかっていたので、一瞬、度《ど》胆《ぎも》を抜かれた。
入浴を終えたばかりらしいブラジャンダウ・シンは、ちょうど白いターバンをかぶり直しているところだった。日本の女子高生のような三ツ編みにした長い髪を頭の上でまとめ上げ、そこにターバンをかぶせていたインド人は、怒りに満ちた目で戸井田を見つめて言った。
「YOU、GET OUT OF HERE!」
戸井田は謝罪の言葉と共に、あわててドアを閉じた。ヒンドゥー教徒にとって、ターバンの下の髪を他人に見せることは、裸体を見られる以上に恥とされている慣習は承知していたから、相手の怒りも分からないではなかった。しかし、と戸井田はタオルと下着を胸の前に抱えて廊下に立ちつくしたまま、考えた。要は、ちゃんとドアロックをしていなかったブラジャンダウ・シンが悪いのではないか。入浴中のプライバシーは、自分で守るのが当り前で、そんなことは日本人だろうがインド人だろうが同じだろう。そう考えて、妙に罪の意識を覚えてしまっている自分が馬鹿らしくなった。
廊下で待っていて一言文句を言ってやろうかとも思ったのだが、先程の様子では、シンはまだ当分浴室から出てこないのではないだろうか。仕方なく、部屋へ戻ろうと、踵《きびす》を返した戸井田は、自分の背後に黒い人影が立っているのに気付いて、思わず手にしたタオルを落としかけるほどびっくりした。薄暗い廊下の中央、戸井田からほんの数十センチしか離れていない場所に、ムハマドがいつの間にかやって来ていたのだ。どうやら、シンのことに気を取られていた戸井田は、彼の足音に気がつかなかったらしい。
小柄なマレー人は、戸井田の驚《きよう》愕《がく》の様子に反応するでもなく、低い声で言った。
「夕食の仕度が出来ております。一階のダイニングルームへどうぞ」
ピジョン・イングリッシュで戸井田にそう告げると、ムハマドは一礼して彼の脇《わき》をすり抜け、廊下の突き当たりの、日本人の新婚カップルに割り当てられた9号室の方へと歩き去った。擦り足のような、足音をまったく立てない不思議な歩き方だった。
ムハマドが9号室のドアをノックする音を背中で聞きながら、戸井田は食事前のシャワーを諦《あきら》めて、少しでもダイニングルームにふさわしい服装に着替えるために、自室へと戻った。
バックパックをかき回して、パタゴニア社製のチノパンツと、同じようなカーキ色の生地の半《はん》袖《そで》のサファリシャツをひっぱり出す。パンツは膝《ひざ》の部分がポコンと出てしまっていたし、シャツの方も折り皺《じわ》が目立ったけれど、少くとも今、身に着けているブルージーンズや雨に濡《ぬ》れたままのダンガリーシャツよりは、夕食にふさわしいように、戸井田には思えた。
着替えの最中に、廊下から他の部屋のドアをノックする音が聞こえた。どうやらムハマドは各室を回って、夕食の仕度が出来ていることを知らせているらしい。例によって足音はまるで聞こえず、ノックの音だけが戸井田の耳に届いた。この古い建物は、あまり防音性が無いのだな、と戸井田は考えていた。それからふと、自分の頭上、三階は一体どういう構造になっているのだろう、ということに思いが至った。五組、八人の客に割り当てられたのは、すべて二階にある寝室ばかりで、それでもまだ1、2号室に5号室、8号室と、四室が空室となっている。つまり、このフロアだけで九つのベッドルームがあることになるわけであり、それは如《い》何《か》にイギリスの貴族が建てた別荘とはいえ、部屋数が多すぎるような気がした。二階だけで九室もあるということは、三階は何に使っていたスペースなのだろうか。防音性が低いから、自分の頭上の部屋に客が入らなかったという事実はありがたかったけれど、ライターの職業意識で、戸井田は夕食後に三階をのぞいてみたいという気分になっていた。
そのとき、廊下から数人の足音と、何やら英語で喋《しやべ》り合う男女の声が聞こえてきたので、戸井田はクーパー家の人々がダイニングルームに向かっていることを知った。それと同時に、急に空腹感を覚え、急いでベルトをチノパンツのループに通すと、それを締めながら、部屋を出た。ドアを閉じてからポケットの中の鉄製の鍵《かぎ》を探り、錠をかけようかと考えたが、こんな状況のホテルの中では盗難もあるまいし、財布は身につけていて室内には貴重品と思えるものも残していないのだから、と、鍵を取り出すことはせずに廊下の方に振り向いた。途端に「ワオ!」と叫びながら砂色っぽいなにかが、突然、視界に飛び込んできたので、戸井田は爪《つま》先《さき》立つような形で、背中をドアにへばりつかせた。
「お化けだぞォ」と、アメリカの漫画映画に登場する幽霊のような低く震わせた声で、アン・ドールトンが言って、戸井田の目の前で両手をヒラヒラと動かした。
「悪い冗談はやめてくれよ。心臓が止まるかと思った」
「あら、あなたってそんなに怖がりだったの? 一人でキナバル山の山小屋に何日も泊まるような人だから、肝が据わってるのかと思ったけど」
カーキ色のサファリ風ワンピースの衿《えり》元《もと》を直しながらアンが少しびっくりしたように言った。
「自然が相手なら平気さ。怖いのは人間だよ。気が小さいんだ。それについさっきも……」と言って、戸井田は廊下の左右に目を走らせた。
「さっきも、何よ?」
「ムハマドはいないようだな」
「食事だって知らせに来たんだから、もう下に行ってキッチンにでも入ってるんじゃない」
「さっきも廊下でムハマドに脅かされた。足音も立てずに僕のすぐ後ろに立っていたんだ。どうもあいつは気味の悪いところがあるぜ」
「そうかしら、私にはむしろ、ムハマドの方が何か怯《おび》えてるような気がするけど」
戸井田と肩を並べて階段の方へと歩きながら、アンが言った。
「怯えてる? 何に対してだい」
「よく判らないけど、この島へ渡る橋に車がさしかかったときから、肩が硬張ってるみたいに見えたわ。ホテルの玄関のドアを開くときも、明らかにためらっていたし」
「つまり、ここのホテルを怖がっているということかい」
戸井田はアンの横顔を見ながら、そう訊《たず》ねた。白い、スラリと伸びた鼻筋が、薄暗い廊下に階段下から届いてくる光で浮き上がって見えた。けっこう美人なんだな、と戸井田は心の中で考えた。
「建物だけってことじゃなくて、島そのものをね。さっき、むこうのホテルのロビーで話してたこと覚えてる? ボルネオの住人は神やその反対の存在に敏感なのよ」
「君の言いたいのは、このホテルがお化け屋敷で、この島は元は墓場だったとか、そういう類《たぐ》いのことなのかな。あの日本人の新婚さんの女性なら、キャアキャアいって喜びそうな話だけど、僕はあまりのらないね。さっきも言ったと思うけど、自分の目で見たものしか信じないタイプなんだ」
「いいえ、本当はあなたも、もう感じ取っている筈《はず》よ。玄関を入ったときに、ちゃんと感じた。心理的にそれを否定しているだけで、生理的には反応していたもの」
「馬鹿らしい。僕は生まれてから一度も、幽霊だのお化けだのを見たことはない。存在そのものを信じてないんだから、見るわけもないんだけどね」
「見ないですめば、それにこしたことはないわ。でも、ここでもそういくかどうか。なにしろ、とてつもなく強い気の張りつめている場所だから。特に日が落ちてからは急に……」
そこまで言って、アン・ドールトンは、ふと口をつぐんだ。階段の半ばまでさしかかっていた戸井田が下を見ると、白いウェイター用のジャケットに着替えたムハマドが、落ち窪《くぼ》んだ眼《がん》窩《か》の奥から鋭い眼光をほとばしらせて、二人を見上げていた。それからゆっくりと口を開いた。
「他のお客様がお待ちです。ダイニングルームへどうぞ」
玄関ホールの右手、階段下の高さ三メートルはありそうなオーク材の扉を入ったところにあるダイニングルームは、ボルネオに別荘として建てられた建物の室内としては、重厚すぎるような印象を戸井田に抱かせた。
床から高い天井まで、壁はすべて赤っぽい板で張られていた。中国産の紫《し》檀《たん》の家具の木質に似ている、と戸井田は思ったが、もしその広い部屋の壁が全部紫檀で張られているとすれば、それにかかる費用は莫《ばく》大《だい》な金額に達する筈であった。床には、いささか毛足が擦れて短くなってはいるものの、ペルシャ産と思われる濃赤色の絨《じゆう》毯《たん》が、隅から隅まで敷きつめられており、わずかに床板が顔をのぞかせているのは、扉と反対側突き当たりの壁に造りつけられた、大理石と紫檀の組合せの、大きな暖炉の前の部分だけだった。
部屋の中央には、長さ八メートル幅二メートルはありそうな巨大なダイニングテーブルがあって、その大きな天板を支えている何本もの太いオーク材の脚に、それぞれ複雑な彫刻が施してあるのが見てとれた。天井からは、玄関ホールのものとは、また違った味わいを持つ、木製の大きなシャンデリアが吊《つ》り下げられている。壁にかかっている油絵は、どれも荒海を行く三本マストの旧式なスクーナー船を描いたものばかりで、戸井田はその絵の中の船が、おそらくケペル卿《きよう》の所有するヨットであったのだろうと想像した。
戸井田とアンの二人を除いた六人の宿泊客たちは、既に、水牛のものを使ってあるらしい赤い型押し革で貼《は》られた椅《い》子《す》に着席していたが、それでも大きなダイニングテーブルに備えられた椅子は、まだ八席も余っていた。
暖炉を背にする位置、おそらく本来は亭主の席なのであろう椅子に腰かけたベンジャミン・クーパーが、遅れてきた二人に声をかけた。
「みんなして待っていたんだぜ、遅かったじゃないか。こっちはもう背中と腹の皮がくっつきそうだ」
「お待たせしてすみません」と言いながら、戸井田はアンのために椅子を引いた。彼女が小声で礼を言いながら席に着くと、自分もその隣に腰をおろす。座ってしまってから、戸井田は自分の向い側の席に、シンがいることに初めて気付いた。インド人は、まだ怒りの冷めやらないような表情でちょっとだけ戸井田を睨《にら》んだが、すぐに視線を外した。戸井田がシンに言葉をかけようかどうしようかと迷っている間に、斜め前の席の日本人カップル、樋口昭宏と由利香が立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出して喋《しやべ》りかけてきた。
「あのー、戸井田さん、でしたよね。これお願いしちゃっていいですか」
そう言って樋口昭宏が差し出したのは、日本製の使い捨てカメラ、例のフィルムの箱にレンズが付いている代物だった。
「ここ、すっごくロマンチックだしィ、やっぱり記念に写真撮っときたいと思ったんですけどォ、他の人に頼んでも駄目みたいだからァ」と、舌を丸めるような喋り方で由利香が言って、髪をかき上げた。二人共、服装は先程のままの紫色のポロシャツ姿だった。
「他の人って、ベンにでも頼んだんですか?」と戸井田が聞くと、昭宏はチラリと、そのオーストラリア人の方に目をやってから答えた。
「うん、このカメラ見せて“ピクチャー・OK?”って何度も言ったんだけど、うなずくだけで撮ってくれないんだよねェ」
それでは意志が通じるわけがないな、と苦笑いしながら、戸井田は手を伸ばして使い捨てカメラを受け取った。
「いいですよ、僕は一応、写真撮るのも仕事のうちだけど、ギャラは請求しませんから」
昭宏と由利香が、同時に親指を突き出し、口を揃《そろ》えて「ラッキー!」と言った。クーパー家の親子が、いぶかしげな表情で日本人たちのやりとりを眺めた。シンは、むっつりと押し黙ったまま、壁の絵に視線を投げかけて、自分の周辺の出来事を無視しようとしているかに見えた。
「その席でいいんですか、背景にちょうど絵が入る位置だけど」
戸井田が、手の中の軽すぎるカメラの感触に戸惑いながら、そう訊《たず》ねると、昭宏はキョロキョロと室内を見まわした。
「あ、ちょっと待って。由利香ちゃん、どこにする? ね、どこにしようか」
席を立ってテーブルをグルリと回り込むように歩いた昭宏は、暖炉の大理石に肘《ひじ》を乗せてポーズを取った。
「ここがいいや。由利香ちゃん、ここで撮ってもらおう」
そう言って妻を手招きしている昭宏を見ながら、戸井田は心の中で“やれやれ、ここでお願いしますぐらい言えないものかね”と呟《つぶや》いていた。それでも、椅《い》子《す》から腰を上げて、使い捨てカメラに内蔵されたフラッシュが、彼らに届く距離まで移動し、Vサインを掲げている新婚カップルにレンズを向けた。固定焦点式なので距離を合わせる必要はなかった。「いきますよ」と言ってシャッターを切ると、フラッシュの白い閃《せん》光《こう》がダイニングルームの中を駆けた。
その一瞬後に、戸井田の背後から「NO!」と叫ぶ甲高い声が聞こえた。振り返って見ると、扉のところにサービスワゴンを押したムハマドが立っていた。ワゴンの把《とつ》手《て》を握った両手がワナワナと震えていた。
「写真、やめて下さい」とムハマドが鋭い語調で言った。「マネージャーの許可無しに、この建物の中で写真撮ること、やめて下さい」
「何《な》故《ぜ》なんだい?」
気軽な口調で戸井田がそう訊《たず》ねた。
「私が叱《しか》られます。勝手に写真撮ったことが判ると、私が叱られるのです」
ムハマドは、努力して冷静さを取り戻そうとしているように、戸井田には見えた。
「だから、その理由は何だと聞いているんだけどな」
戸井田の質問に、ムハマドは返答に窮しているようだった。まるで壁に質問の答が書いてでもあるかのようにダイニングルームの室内のあちこちに視線を投げかけてから、小柄なマレー人は、こう答えた。
「絵です。カメラのフラッシュは絵に良くありません。古い絵なのです。フラッシュの光で傷んでしまいます」
「そういうことなら謝る。僕が悪かった。もう二度と絵のかかっている部屋ではフラッシュはたかない」
例によって事態を把握出来ずに、ポカンと口をあけて暖炉脇《わき》に立っている昭宏に使い捨てカメラを渡すと、戸井田はテーブルへ戻った。
「御理解いただいて有難うございます」と言って、ムハマドは額の汗をユニフォームの袖《そで》で拭《ぬぐ》った。「どうぞ席にお着き下さい。お食事はスティームライス添えのビーフ・レンダンを御用意いたしました」
「何て言ったんですか?」と、着席しながら、また昭宏がテーブル越しに戸井田の方に首を伸ばした。
「絵が傷むからフラッシュ禁止だとさ」
「あ、いや、そうじゃなくて食事のこと。ビーフなんとかって言いませんでした?」
「ビーフ・レンダン。マレーシアやインドネシアの郷土料理ですよ。牛肉をいろんな香辛料で煮込んだものですけどね、結構うまいですよ」
「えー、それってェ、もしかして、すっごく辛いんじゃあないんですかァ」と、由利香が言って眉《まゆ》をしかめた。
「まあ辛い方ですね。とはいっても、東南アジアの料理としては並の辛さでしょうけど」
「あたし駄目ェ、辛いの駄目ェ、ねえ昭宏、別のもの頼んでよォ」
その由利香の声をかき消してしまうような、大きな抗議の声が、テーブルの二ヵ所から同時にあがった。
「私は牛は食べない。宗教上の理由だが、インド人が牛を食べないことぐらい、君だって知っているだろう」
そう言って立ち上がったのは、ブラジャンダウ・シンだった。暖炉を背にした席では、ベンジャミン・クーパーが、これも立ち上がりながらムハマドを睨《にら》みつけていた。
「私の息子は、まだ十歳なんだ。そんな辛い料理を食べさせるわけにはいかないぞ。第一、ホテルマンならその程度の配慮をして当り前だろう」
一斉攻撃を受けた形となったムハマドは、別に困った様子もなく、サービスワゴンの上の二つ並んだ銀色の大《おお》鍋《なべ》の片方の蓋《ふた》を取りながら答えた。
「ただ今ご説明しようとしていたところです。ビーフ・レンダンをお好みでないお客さまには、野菜のカレー風味料理が用意してあります。辛さは押さえてございます」
その一言に、シンとベンジャミン・クーパーは、毒気を抜かれた様子で、何も言わずに椅《い》子《す》に沈み込んだ。どうやら、先刻のジェームス・タンとのやりとりの腹いせを、ムハマドにぶつけて発散しようとしたのが、見事に肩すかしを喰《く》ったような形になったな、と戸井田は思った。ムハマドという男は、やはり得体の知れないところがあるようだった。
「では御注文をうかがいます。野菜のカレーをお好みの方は、シン様とクーパー様のお子様、それにヒグチ様の奥様もでございましょうか」
そう言って、ムハマドが顔を見ると、英語の判らない由利香もコクンとうなずいた。それと同時に、戸井田の隣でアンがサッと手を上げた。
「私もお願いするわ、ベジタリアンなものですから」
「承知いたしました」と言って、ムハマドがサービスワゴンを押して、テーブルをまわりはじめた。
「君がベジタリアンだとは思わなかったな」
ターメリックの香りの強いカレーを、ムハマドがアンの前の白い皿に取りわけるのを眺めながら戸井田が言った。
「厳密な意味では違うのよ。魚は食べるわ。ビーフやラムやポークなんかの肉類を摂《と》らないだけ」
「それもさっきの話と関係があるのかね? 仏教徒には見えないけど」
「一般的な意味合いの、宗教上の理由というわけじゃないの。ただ肉類を食べると、どうしても“気”に対する感性が鈍るのね。おそらく、仏教で肉食を禁じたのも、そもそもはそういった理由からだったんじゃないかと思うのよ」
「その“気”っていう言葉がさっきからしょっちゅう出てくるんだけど、日本語なのかね?」
「元々はね。もしかすると中国語から日本語になったのかもしれないわ。どちらも発音は“Ki”ですからね。でもいまでは英語としても通用するわ。“気《キ》功《ゴン》”という中国語から一般的に知られるようになったの」
スティームで蒸した米とカレーをフォークで混ぜ合わせながら、アンが言った。戸井田も、皿に盛られた赤茶色のソースの中の牛肉の塊を、上に乗った月桂樹の葉《ベイリーフ》ごとフォークで突き刺して口に運ぶ。ビーフ・レンダンの、よく煮込まれた香辛料の香りが口《こう》腔《こう》中に広がり、その後からピリッとくる辛さが舌を突いて、戸井田の額に汗を滲《にじ》ませた。厨《ちゆう》房《ぼう》がどういう熱源を用いているのかは分からなかったが、そのマレー料理は程良い温度を保っていて、缶詰ばかりの山小屋暮しの後の戸井田には、食事することの楽しさを思い出させてくれるものだった。
「そうすると、僕みたいに牛の肉をバクバク食べている人間は、“気を感じる能力が欠如してしまうということなんだろうか」
「人にもよると思うわ。あなたは、牛を殺したことがある?」
「いや、ないね」と戸井田は答えた。確かに、牛の肉はずいぶん食べているけれど、自分でその肉を供してくれる牛そのものを殺した経験は無い。
「豚はどうかしら? 羊は? 家畜だけでなくてもいいわ、鹿《しか》やムースやセイウチや鯨を殺したことは?」
「無いよ」と、仕方なく戸井田が言った。
「でも、そういったものの肉を食べたことはあるんでしょう」
「ああ、セイウチやムースは無いけれど、鹿とか鯨ならね」
「そのことを不自然だと考えたことはないの? 人間が自分の手で食べ物を手に入れていた時代には、自分が殺すことの出来ないものは食べることが出来なかったということを考えてみたことはない?」
なかったな、と戸井田は心の中で呟《つぶや》いた。そんなことは考えてみたこともなかった。流通機構の完備した日本の、それも機構の中心である東京で生まれ育って、食物というのは店で食用に切り分けられたものを買うのが当り前と、ずっと思ってきていた。
「動物はみんなそうよ。ライオンだって象は襲わない。戦って勝てるとは思わないから。ジャッカルは、普段、ライオンを食べてみようなどと考えたこともない筈《はず》よ。それは自分の能力を超えたことだと知っているからだわ。人間だけ。人間は自分が一体なぜ、どうしてその食物を口にしているかも考えずに、何でも食べることが出来る。そして、そのことが人間を自然の流れの中での異端児にしてしまった」
「お言葉だが」と、口をはさんだのは、テーブルの向い側に座っているブラジャンダウ・シンだった。「野生動物はともかくとして、家畜とかペットはどうなるのかな。クアラルンプールの私の家には犬がいるのだが、彼は自分が食べている牛肉が、どうやって手に入れられたのかを気にしているようには見えないのだがね」
「ペットは人間なのよ」と、アンが答えた。「ペットは、特に犬は、もう一万年以上も人間と共に生活をしてきた。そうしてくることを強いられた、あるいは自分で選んだと言っても正しいでしょうね。だから、もう人間の側についてしまった動物なの。でも、例えばオーストラリアのディンゴのように、一度は人間に飼われていたものの、再び野生に戻ったものは、自分の力で手に入れられる食物以外は口にしない」
「その件に関しては反論を述べさせていただきたいな」
暖炉を背にした席のベンジャミン・クーパーが、ムハマドの注いだオーストラリア産カベルネ・ソーヴィニオンの赤ワインのグラスを揺らしながら会話に参加した。
「ディンゴは、けっこう残飯あさりに人家の近くに出没するぜ。あいつらは、まったくまあ、何でも食べるね。そりゃ、砂漠にだけ住んでる連中は、砂漠ネズミやワラビーを獲って喰《く》ってるんだろうけれど、町の近くの奴《やつ》らは人間に寄りかかって生きている厄介ものに過ぎない。牧場の人間にとっては迷惑極まりない連中だよ」
「それは人間が彼らをそうさせてしまったのよ。残飯をあさりに来るのは、捨てるからだわ。それともあなたの家の近所のディンゴは家の扉を開いてガーベージ缶の蓋《ふた》をあけたりするほど器用なのかしら」
アンの言葉で、ダイニングルームの中に気まずい空気が張りつめたようだった。クーパーの妻のスーザンが、たしなめるような表情で夫の顔を眺めた。戸井田は、あわててその場の雰囲気を和らげようと、口をはさんだ。
「話を元に戻しますけど、クーパーさんは牛や羊を殺したことがあるんですか? 僕はそういった経験が無いもので」
「勿《もち》論《ろん》あるぜ」と、ベンジャミン・クーパーが胸を張った。「羊はいまでもしょっちゅう屠《ほふ》ってるよ。商売用のものは電気で殺すけど、バーベキューにするやつは、ナイフで喉《のど》を切り裂いて血を出す。あっという間さ、苦しみも何も無い。気がつく隙《ひま》もなく御昇天ってわけだ」
「そういうお仕事なのね」とアンが訊《たず》ねた。
「牧場はいくつか持ってる。いまの本職はムートンの販売と輸出が主なものだけどな。そう嫌そうな顔をするもんじゃないぜ。家畜は所《しよ》詮《せん》は家畜なんだ。いわば人間に毛や皮や肉を提供するために生まれてきたようなものさ。そのために飼われているんだからな。となると、殺さないわけにはいかないだろ、なにしろシープスキン・ジャケットや敷物にするための毛皮を、羊は自分から脱いじゃくれないからな」
「ちょっと話が筋道から外れてしまったように思うんですが」と、また戸井田が口をはさむ。
「つまり、アンが言っていたのは、自分が羊を殺せるだけの体力や精神力を持っている人にしか、本当は羊の肉を食べる資格はないといった、そんな意味だと思うんだが」
「それなら、俺《おれ》は羊も牛も食う資格があるってわけだ」
そう言って、ベンジャミン・クーパーは、ビーフ・レンダンの皿から大きな角切りの牛肉の塊をフォークで拾い上げ、口に放り込んだ。
「いまのあなたの体力なら、勿《もち》論《ろん》そうね。でもいつまでもその体力を維持することは出来ない」
「俺の親《おや》爺《じ》は七十歳で死んだんだが、その三日前まで銃を持って牧場近辺のカンガルーを射《う》ってたぜ」
「それは単なる殺《さつ》戮《りく》であって、食べ物を手に入れるための狩りとは違うわ。人間が自分の手で、あるいは爪《つめ》や牙《きば》の代用のほんの簡単な道具で、自分の食べるものを手に入れるには、肉食の場合、年齢的に限界というのは必らずあるということを言いたいのよ」
「それじゃ、年とったら牛肉もラムも食うなというわけか? ずっと野菜の煮たものや米だけを食って老後を過ごせとでも言うのかね」
ベンジャミン・クーパーが大《おお》袈《げ》裟《さ》に肩をすくめてみせた。
「アンは別にそういった考え方を強制しようとしてるんじゃないと思いますよ。それが彼女の哲学《フイロソフイー》だと言っているだけで、他人までそうしろと言ってるわけじゃない」
「そうね、私が最終的に言いたかったのは、食べる対象に対する感謝の念というのが、現代の人間には欠如しすぎている、ということだったの。とにかく、ちょっと言葉が強すぎたかもしれません、気にしないでくれると嬉《うれ》しいけど」
「俺《おれ》は別に気にしちゃいないさ。夕食のテーブルを囲んで、話が盛り上がるのは結構なことじゃないか、なあ、スーザン」
だが、話しかけられたスーザンは、ちょっと作り笑いを浮かべて「そうね」と答えただけで、息子の食事の手助けに集中しているような素振りに戻った。
「おかげで、こんな状況にもかかわらず、食事が楽しめたよ。こっちのビーフ・レンダンはまあまあだったが、野菜のカレーの方の味はどうかね?」
テーブルの上の赤ワインの瓶を自分でつかんで、大ぶりのグラスに注ぎながらベンが、アン・ドールトンに訊《たず》ねた。
「なかなかの味よ。もう終りかけだけれど、私も一口ワインをいただこうかしら」
アンが目の前のグラスに手を伸ばしたとき、またしてもいつの間にか彼女の背後に歩み寄っていたムハマドが、銀のアイスバケットに差し込まれた、淡い草色のボトルをテーブルに置いた。二階の廊下のときと同様、一体いつ彼が背後に立ったのか、アンの隣の席の戸井田には、まるで判らなかった。
「カリフォルニア・シャブリの87年でございます。冷蔵庫が作動しましたので、そろそろ飲みごろに冷えていると思いますが」
「あら、カレーにはそっちの方が合うわね。それじゃいただくわ。オサムもどう?」
「いや、僕は」と、正面のシンの表情を読みとろうと努力しながら、戸井田はかぶりを振った。「まだ結構だ。シャワーを浴びそこねちまったんでね、食事の後、地下にあるっていうプールで一泳ぎしようと思っているんだ。ホロ酔い機嫌で泳いで、溺《おぼ》れでもしたら大変だから」
そう言いながら、戸井田はもう一度さりげなくシンの顔を見た。背筋をキチンと伸ばして、野菜のカレーと米を、手づかみではなくフォークで口に運んでいるインド人の顔は相変らず無表情で、何のサインも読みとれなかった。これでは、ムハマドがいつ、どうやって自分やアンの背後に出現したかを推察するのは難しいな、と、戸井田は諦《あきら》めて皿に視線を落とした。
そのとき、何の前触れもなく突然にダイニングルームの中を白い閃《せん》光《こう》が走った。テーブルについていた全員、正確には新婚の樋口夫婦を除く全員が、思わずビクッと体を震わせたほど、それは強烈な、不意打ちの光だった。だが、閃光に続いて、まるで娼《しよう》婦《ふ》の嬌《きよう》声《せい》のような、鼻にかかった声を耳にすると、ダイニングテーブルの人々は、唖《あ》然《ぜん》とした、あるいはうんざりとした表情で、樋口夫婦の方を眺めることになった。
「あーん、今のダメェ、昭宏、いまのダメだよォ、撮るの気がつかなかったもん、カレー食べてたもん、いやだァ、そんなとこ撮っちゃあ」
使い捨てカメラを構えている昭宏の隣で、さかんに髪をかき上げながら身をくねらせる由利香を、クーパー家の人々も、シンも、そしてアンと戸井田も、あっけにとられて見つめた。食事のテーブルで、そういった声を立てるのは特殊な職業の女性に限られているということも知らない、無教養な人間なのだろうか、というのが、アンの視線にこめられた色合いだったし、ベンジャミン・クーパーなどは、明らかに娼婦そのものが自分たち親子の食事のテーブルに紛れ込んできてしまったのを咎《とが》める表情となっていた。
だが、少くとも、テーブルについている人々は直接の行動は起こさなかった。動いたのはムハマドであった。戸井田たちの背後から、疾風のような速さでテーブルを回り込んで樋口昭宏の席へと移動したムハマドは、使い捨てカメラをひったくると、ワナワナと怒りで震える手で、それを高く掲げた。もしも暖炉に火が燃えていたら、奴《やつ》は躊《ちゆう》躇《ちよ》することなく、カメラをそこへ放り込んでいただろうな、と戸井田は後になって思った。
「何するんですか?」
今度は、びっくりした昭宏が席から立ち上がった。
「返せよ、オイ、それ僕のカメラなんだからな、返せよ」
日本語でそう言いながら手を伸ばす昭宏に、ムハマドは、ともすれば奪い返されそうになるカメラを、必死で高く掲げて暖炉の方へと後退りしていった。
「どしたのォ? 何これ、どうしたのよォ」と言って、由利香も中腰になった。大声を出しながら、両手は口に当てているので、くぐもった声音が、また嬌《きよう》声《せい》のように室内に響いた。
「樋口さん、あなたが悪いですよ」と日本語で言いながら、戸井田は仕方なく立ち上がった。
「ムハマドが怒るのも無理はない。さっき言ったでしょう、古い絵画が傷むといけないから、フラッシュは使わないでくれって」
「だけど僕は、僕はね、絵の方に向けてフラッシュたいてないじゃないですか。何も、やにわにカメラかっぱらうことはないと思うな。失礼だよな、こういうのは」
「そういうことではないでしょう」
暖炉の方に向かって歩きながら戸井田は諭すような口調で言った。
「どっちに向けて撮ろうと、フラッシュは使うなと言われたんだから、使わないのが大人の約束ってものじゃないんですか」
ムハマドの横に立ち、圧倒的な身長差を利用して、ヒョイと彼の手からカメラを取り上げてから、戸井田は今度は英語で、テーブルの五人に向かって言った。
「どうも大変失礼しました。単なる言葉の問題で、彼は先程のムハマドの説明をちゃんと理解していなかったらしい。どうか許してやって下さい」
そう言ってから、ムハマドの肩をポンポンと叩《たた》いた戸井田の手が、一瞬、そこで止まって、すぐに離れた。それから日本語に戻して、樋口夫婦の二人を交互に見やりながら宣言した。
「このカメラ、明日の朝まで僕が預ります。これ以上のトラブルは、僕ももう御免だ。あなた方にも、少しは大人として行動してほしいものだ。あなた方がどれだけ軽《けい》蔑《べつ》されようと、それは僕の知ったことではないが、こちらまで巻き添えにするのは勘弁してほしい。とにかくカメラは明朝返します」
サファリシャツの胸ポケットに、その妙に軽い、緑色の紙箱にレンズとフラッシュの付いたカメラをしまい、戸井田はもう一度ムハマドの肩を叩いてから、自分の席に戻った。
「さてと、どうやらディナーは終りのようですな」と、今までのやりとりがまるで無かったような口調でベンジャミン・クーパーが言って立ち上がった。「それでは、私たちは部屋に戻らせていただくことにするかな。息子が大分疲れている様子なのでね」
スーザンも、ドンの口元をナプキンで拭《ぬぐ》ってやってから、夫の後に従ってテーブルを離れた。同時に、樋口夫婦の隣の席で、その若い日本人カップルを、まるで珍しい動物でも見るような目で眺めていたシンも、無言のまま席を立って出口のドアへと向かった。
ダイニングルームには、途方に暮れたような、あるいは自分たちのやったことの何が悪かったのか未《いま》だに理解していないような表情で立ちつくす樋口夫婦とアン、そして戸井田の四人だけが残っていた。ムハマドは、いつの間にか厨《ちゆう》房《ぼう》へと姿を消していた。
「不愉快だな」と、昭宏が言った。「なんでこんな扱いされなきゃなんないのか、判んないよ」
戸井田は、それには答えず、自分の席に戻って、アンの前のアイスバケットから白ワインの瓶を抜き出した。
「考えが変った。僕も一杯貰《もら》うことにする」
「プールはやめたの?」とアンが聞いた。
「いや、泳ぐさ。でも一杯ぐらいなら何ということもないと思う。実は結構、酒呑《の》みなんだ」
「気が合いそうね、私も飲むのは嫌いじゃないわ」
「行こう、由利香ちゃん」と言って、昭宏がテーブルの上に置いていた、ルイ・ヴィトンのクラッチバッグを手に取った。それから、戸井田の方を向いて言った。
「カメラ、明日になったら本当に返してくれるんでしょうね」
「ああ、返しますよ、持っていたって仕方ないんだから」
「ま、いいけどさ。僕はもう一台ポラロイド持ってるからね」
捨て台詞《ぜりふ》のようにそう言って、樋口夫婦もダイニングルームを去った。
「あなたの気持、分かるわ」
アンがワイングラスを、戸井田のグラスに当てて「チーン!」と音を立てた。
「あんなことで自分を責める必要はないわ。アメリカ人にだって、彼らに負けないぐらいマナーを弁《わきま》えない人達がいるもの」
「いや、別に同じ日本人だからといって、自分を恥じているわけじゃないんだよ」と、戸井田は答えた。「そんなことはどうでもいいんだ。これと同じようなことなんか、日本人の多い観光地では、いくらでも経験しているからね。それより……」
そこまで言って、戸井田はその後を続けるべきなのかどうか迷うように、グラスのシャブリを一気に呷《あお》った。
「それより、何?」
「ムハマドのことだが、君の意見の方が正しかった。さっき暖炉の前でカメラを取り上げたとき、彼の肩は明らかに震えていた。それも、怒りや興奮による震えではなく、あれはどう見ても、怯《おび》えきってのわななきだった」
部屋にあったバスタオルを肩にかけ、水着をチノパンツの下に穿《は》いて、戸井田修は自室を出て、階段を下った。一階は明りこそついているものの、人の気配はまったく無く、ただ屋外から聞こえてくる嵐《あらし》の音、雨が激しく屋根を叩《たた》いたり、強風が樹木の枝を揺さぶり葉を鳴らす音が響いてくるだけだった。腕時計を見ると、それでもまだ午後九時少し前という時刻だったが、ホテルの中は深夜のように静まりかえっている。
玄関ホールから、先程夕食を摂《と》ったダイニングルームの扉の前を抜けて、地下へ下りる階段の方へ回り込もうとしていた戸井田は、ふと背中に誰かの視線を感じたような気がして足を停めた。また、ムハマドが音もなく背後に立っているように思えたのだ。肩に、妙な硬張りがあった。息を整え、それから一気に振り返った。背後には誰もいなかった。ただ、壁のランプと、光量を絞ったシャンデリアの薄ぼんやりとした光に照らされた、ホールの空間が広がっているだけであった。
例のケペル卿《きよう》の肖像画が気にかかった戸井田は、目を凝らして、その絵の掛けてある壁の方角を眺めた。もしかして、古典的な恐怖小説や映画によくあるように、あの絵具を削り取られた肖像画の眼の部分が、生きているような光を放っているのではないかと思ったからだった。しかし、絵には何の変化も無く、夕方に見たとおりの、力の無い、どこを見ているのかよく分からないような目付のケペル卿の顔が額の中に見てとれるだけだった。
何を神経質になっているのだろう、と自分を笑いたい気分で、戸井田は再び地下へ通じる階段の方へ歩を進めた。アン・ドールトンが、夕食前に廊下で言っていたことが、心のどこかにひっかかっていて、知らぬ間に訳のわからない怯《おび》えが出てしまったのだろうかとも考えた。一泳ぎして体を動かせば、そんな気分は吹き飛んでしまうさ、と自分に言いきかせつつ、階段を下ると、廊下の正面は上半分が凝った金線模様を描き込んである厚いガラスの窓となった壁だった。その内側がプールらしかった。足元の絨《じゆう》毯《たん》が、階上よりもさらに湿気を帯びているように感じられるのは、プールに近いからなのかもしれない。
右手に、白ペンキ塗りの、これも上半分にガラスを嵌《は》め込んだドアがあった。プールの水が天井や壁の電灯の光を反射しているのだろう、ガラスの表面に微妙な揺らめきが映っていた。プールの水面に波が立っているということは、どこからか風が流れ込んでいるのだろうか、と戸井田は真《しん》鍮《ちゆう》製《せい》の、いささか緑青の浮いたドアノブに手をかけながら考えた。このプール室が、ケペル卿が別荘として建物を建てたときからあるものなのかどうかは判らないが、百年も昔に循環式の水質保全装置が存在したとは思えない。とすると、水面を揺らしているものは、空気の流れであるのかもしれない。ノブを回してドアを開く。金属の軋む音が、意外なほどの大きさで廊下に響いた。それと同時に、水の匂《にお》いがプール室の中から流れ出て戸井田の鼻をついた。
室内プール特有の、空気の粒子ひとつひとつに水滴がしがみついているような、むっとする湿気に顔をしかめながら、戸井田は白いタイル貼《ば》りのプール室の床を踏んだ。
ドアを入った右手に籐《とう》製《せい》の椅《い》子《す》をいくつか並べた休息所があって、同じく籐を編んで作られたカウンターが壁際に備えられていた。ホテルが通常の営業を行っていたときは、そこがタオルを貸し出すカウンターになっていたのだろうと想像出来た。プールそのものは、長さ十五メートル、幅が三コースとれる六メートルほどのもので、縁は白と黒の市松模様のタイルでかこまれており、内壁と水底は、一枚当たりが床のものよりやや大きめの十センチ角ほどある白タイルを貼り巡らした古典的なスタイルの室内プールだった。
戸井田は、籐椅子に脱いだシャツとチノパンツをかけ、タオルは首に巻いたままで、プールサイドに歩み寄ると、右手を水に浸して水温を計った。水は冷たく感じられた。おそらく、二十七、八度といったところだろう。室内の気温は、それよりも三度ほど高いのではないか。水底のタイルの白さを透かせながら、プールの水は青く細かな波紋を揺らせて、戸井田を誘っていた。雨に打たれ、汗に濡《ぬ》れた首筋がネバネバとうっとうしかった。首の後ろあたりに塩が浮いている気さえする。プールに飛び込み、そういった、体にまとわりついているものを、すべて流し去ってしまいたい気分だった。
タオルを取って椅子に放り投げ、プールの縁に立つ。清らかな、青い水が、戸井田に向かって、まるでライン河のローレライの美女のように、おいでおいでをしているかに思えた。タイルの床を蹴《け》って飛び込もうと脚の筋肉を撓《たわめ》らせたとき、ふと頭の中のどこかで警報が鳴った。それは、戸井田にとって、子供の頃からの馴《な》染《じ》みの警報だった。あるときは母の声で。あるときはまるで聞き覚えのない声で。いや、正確には、声というより個性あるイメージといった感じで。その橋を渡ってはいけませんよ。その崖《がけ》は途中で崩れるぞ。そんなにこの道でスピードを出していると交通の一斉取締りが待っているぞ。その犬は噛《か》むぞ。その森には近寄るんじゃない、お前の力の及ばないものが住みついてお前の来るのを待ちかまえている。
馬鹿な、と戸井田は思った。あの頭の中に響く声には、それは何度も助けられているさ。だけど今回のこれは違う。アン・ドールトンの言った戯《ざれ》言《ごと》が心理に作用して、いままでに経験した警告を無意味にフィードバックしているのにすぎないんだ。第一、このプールは深さ一メートル半ぐらいしかありはしない。自分の身長よりはるかに浅いんだ。胸元か、せいぜいいって首ぐらいまでだろう。危険などありはしないさ。そう自分に言いきかせて、タオルを投げ捨てると、戸井田修は頭からプールへと身を躍らせた。
水は心地良かった。一瞬、飛び込みの角度を間違えたせいで、鼻に水が入り、ツーンという痛みが鼻《び》腔《こう》から脳へと上がってきた。それでも、プールの底で腹を擦りそうになるほど深く潜ったまま、平泳ぎで潜水をつづける。ひんやりとした大量の水が戸井田の体を包んでいた。プールにつきものの、塩素系殺菌剤の匂《にお》いはしなかった。この島には、湧《わ》き水の井戸でもあるのだろうか、と、ふと戸井田は考えた。南の島では、ただでさえ真水は貴重である。モンスーンの季節のいまはともかく、乾期になれば飲み水にもこと欠くことがあってもおかしくはない。そういう地に、個人用の室内プールを持つということが、どれだけ贅《ぜい》沢《たく》なことであるのかを戸井田は知っていた。
ゆらゆらと揺れる水の彼方に、プールサイドの壁の白タイルが見えている。光の屈折で青く澄んだはずの水が、やや黄ばんだ色に目に映るのは、天井の照明のせいなのだろうか。潜ったまま、首を横に曲げると、左手の方の壁のタイルに150という数字が焼き込まれているのが見えた。やはり水深は一メートル半しかないのだ。十五メートルの長さを、潜水して一気に泳ぎ切った。それでもまだ水面に顔を出さず、少し空気を吐いただけで、頭から丸まるようにしてターンをする。タイルを足で蹴《け》って勢いをつけ、再び水中を、いま来た方角目がけて進む。
水温は低いが、それがかえって気持良く感じられた。汗や塩気が、透明なプールの水に溶けてしまっていくのが判る。中央のコースを真ん中あたりまで泳いだところで、さすがに息が苦しくなってきた。平泳ぎをやめ、足を水底に向けて下ろした。同時に、顔を水面から出して大きく呼吸をした。そのときであった。また、戸井田の頭の中で六年前に死んだ母の声が聞こえた。早くプールから上がりなさい、そこはあなたのいるべき場所ではないわ。明確に、まるで現実に生きている人のように、母の声がそう言うのが聞こえた。と同時に、戸井田は、自分の足が、まだ水底のタイルの感触を捉《とら》えていないことに気がついた。
水深は一メートル五十センチの筈《はず》であった。それが、直立しているというのに、身長百八十センチの戸井田の足に達していない。そんな馬鹿な、と思った。立ち泳ぎをしながら、右足を精一杯に伸ばしてみる。それでも、足の指は底に届かなかった。パニックに近いような焦りの気持が、戸井田の脳に駈《か》け上がってくる。
なんなんだ、これは。立ち泳ぎからクロールに切り替えて、とにかくプールサイドを目指そうとした。だが、その瞬間に、水を蹴《け》ろうとした戸井田の両足首を、何かが掴《つか》んだ。それは、ヌラヌラとした、体温のまるで感じられない、しかしそれでいてどうやら五本の指を持った手のようなものであるらしかった。恐しいまでの力で、その手は足首をがっしりと掴んでいた。そして、それはグイグイと、戸井田の体を水中に引きずり込もうとしていた。
一度、顔が水面下に没した。訳も判らず、戸井田は反射的に両足を擦り合わせるようにして、大きく水を蹴ると、顔を水上に出そうとした。かろうじて、顎《あご》の少し上までが水面に出て、戸井田はむせ返りながら、必死で大きく息を吸い込んだ。だが、半秒もしないうちに、足首が再びグイと大きく引っぱられて、戸井田の体は水中に沈んだ。両手で大きく水を掻《か》きながら、戸井田修は首を下に捩《ねじ》向《む》けて、自分の足を掴んでいるものの正体を見極めようとした。そして、自分が目にした水中の様子に、愕《がく》然《ぜん》とし、体中の皮膚に鳥肌が立つのを感じた。
透明であった筈《はず》の水は、まるで古い沼の底のような、おどろおどろしい濁った濃い緑色に変っていた。青みどろが何層にもわたって重なり合ったその水は、どことも知れぬ深みへとずっとつづいており、底は暗黒に包まれた世界だった。その水中に、よくは判らない何かがいた。それは、深海のような暗く重い水の底から触手のような長い手を伸ばして、戸井田の足をガッチリと捉《とら》え、自分たちの世界へと引き込もうとしていた。
足首にからみついているのは、しかし、人間の手の形を成しているものではなかった。あえて表現すれば、昆《こん》布《ぶ》の繊維を縒《よ》り合わせたようなものを外科手術の際に医師がはめる薄い合成樹脂の手袋の中に詰め込んだような、そういった五本の指を持つ物体が、足首にまとわりついていた。その周囲、水底の暗《くら》闇《やみ》の中に何十対もの目が存在して、輝きの無い濁った視線を、戸井田の顔に向けていた。
あまりのおぞましさに、戸井田は顔を左右に大きく振って、プールの壁を見ようとした。そこには、壁は無かった。ぬめり、腐り果て、澱《よど》みきった蒼《あお》黒《ぐろ》い水が、どこまでも広がっている、重苦しい水中の景色の中に、何やら得体の知れぬものが蠢《うご》めいている世界が、自分の両《りよう》脇《わき》にあった。また、足首を掴《つか》んでいるものが、指に力をこめた。戸井田の体が、その力で半回転した。必死で息を止めている口元から、小さな空気の泡がプクプクと洩《も》れる。泡を追うように顔を上に向けると、そこには水面越しに黄色っぽい光を投げかけている天井の電灯の反射があった。
少くとも上には奴《やつ》らはいないのだ、と戸井田は思った。奴ら、というのが一体何のことなのかは自分でも判らなかったが、とにかく水面に向かう上方向には、おぞましいものは見当たらないということだけは認識出来た。上だ、上に向かわねばならない。また、両方の足先を擦り合わせて、無茶苦茶に蹴《け》った。足首は依然、ヌルヌルとした感触のわりには、抗《あらが》いがたいほどの力でガッチリと掴まえられていたが、両手で水を掻《か》き、足を蹴ると、水底へと引き込む力が、少しばかり弱まったように思えた。水面までの距離は五十センチほどではなかろうか。もう一掻き。そう思ったとき、戸井田は自分のつい鼻先に、とてつもなく嫌な臭いを放つものが迫っていることに気付き、思わず視線を水面から顔の正面に移した。
目の前の水中に、亡者の顔があった。
そいつは、腐りかけた顔の皮膚からベロリと垂れ下がって水の浮力で浮いた眼球で、じっと戸井田の顔を見つめていた。鼻は、皮膚を失ってポッカリと二つの穴をのぞかせているだけであり、その下に、半分がた抜け落ちた歯並びを見せる口があった。水中で腐り果てた皮はピラピラと海藻のように顔面からめくれ上がって、戸井田が掻《か》き回す水の動きに連れて揺れていた。そういう顔が、戸井田の顔前数センチのところに迫っていた。音にならぬ叫びを上げようと開いた戸井田の口に、堪えがたいほど嫌な臭いのする水が、大量に流れ込んだ。ゲボッ、という音を立てて大きくむせ返る。それで、体中から力が抜けた。まるでそれを待っていたかのように、足首を掴《つか》んだものが、下へ引く力を強めた。戸井田の視界に映る水面が朧《おぼろ》げになった。また、ガボッと水を飲んだ。もう駄目なんだな、と戸井田は思った。水面が見る間に遠のき、体の周囲の水温がどんどん下がるのが判った。自分の体が、このプールの底には存在しない筈《はず》の、どことも知れぬ暗黒の世界へと引きずり込まれていくのだということを、戸井田修は薄らぎはじめた意識の隅の方で考えていた。
パッ、と、目の前に光の粒子が散った。
重苦しい、泥酔状態に似た意識の中で、戸井田は、それでも光の正体を見きわめようとして閉じかけていた目を開いた。緑色に濁った水のそこここに、まるでその腐った水を弾き返しているかのような、澄みきった球体が散らばっていた。また一群れ、そしてまた一群れ、雨粒ほどの球体が上から水中に降ってきていた。水面は、まだ数メートルの頭上にあったが、光り輝く球体は、明らかにその水面から、水の中へと降り注いでいた。声が聞こえた。高く、柔らかく、甘い声音に思えた。水中にいる戸井田には、何を言っているのかは聞き取れなかったが、何《な》故《ぜ》か天使が自分を呼んでいるのだと思った。
球体が戸井田の体を包み込むように、また大量に降ってきた。足首を掴《つか》んでいる力が弱まっているのに、戸井田は気付いた。水中で頭をブルン、と振る。
そのときにプールサイドの壁が見えたような気がした。正確にいえば、例の青みどろの澱《よど》んだ水にオーバーラップするように、白いタイルが目に映った。一つの空間に重なり合って存在している二つの世界、戸井田から見れば現実と非現実の二つの世界が、互いに鬩《せめ》ぎあい、拮《きつ》抗《こう》する力のバランスが一瞬一瞬に崩れては、それぞれの世界をそこに現出させようと押し合いへし合いしているような、そんな光景が戸井田の体の周辺にある水の中で展開していた。
肺が痛かった。手足の力も、いまにも萎《な》えはてようとしていた。それでも、戸井田は降ってくる光の粒にすがるような気持で、必死の思いで手で水を掻《か》き、足をがむしゃらに蹴《け》りまくった。足首を掴んでいたものが、ズルリという感触と共に離れた。途端に体に浮力が甦《よみがえ》り、グン、と上に向かって進んだ。水面が見えた。あと一メートル。あと五十センチ。そのとき、先程の、あのおぞましい亡者の顔が戸井田の顔面をこするようにして通過した。しかし、その顔は、真逆さまに、水底の方へと沈んでいっていた。もう一掻き、大きく水を叩《たた》くと、やっと顔が水面に山た。光の満ち溢《あふ》れた、空気で一杯の広い空間に顔を出すと、戸井田修は海女のような「ヒューッ!」という甲高い音を肺から絞り出し、つい二メートル足らずのところにあるプールの縁に必死で手を伸ばした。無茶苦茶なバタ足の動きのおかげで、手が冷たいプールサイドのタイルに触れた。その手を温い、そして力強い何かが握り、一気に戸井田の体を水中から引き上げた。
体が、幾度も瘧《おこり》にかかったように痙《けい》攣《れん》した。その都度、戸井田は口から水を吐き戻し、苦しげにゼエゼエと喘《あえ》いだ。仰むけになってプールサイドのタイルの上に寝ているので、目を開けると天井の明りがまぶしく、ずっと目を閉じたままで、呼吸が正常に戻るのを待った。
傍らに膝《ひざ》をついているアン・ドールトンが心配そうに声をかけた。
「本当に大丈夫なの? マウス・トゥ・マウスの人工呼吸をしてあげるわよ」
「大丈夫」と答えようとして、また胃袋から水が逆流してきた戸井田は、顔を横に向けてゲボッと、緑色に濁った水を吐いた。
「すぐ良くなる。水だってそんなに飲んじゃいない」
そう言いながら、戸井田は自分の腹が大きく上下していることに気付いた。どうやら、体の方はショック状態から立ち直りはじめているようだった。精神の方の状態は、まだとてもそうはいかない。意識は、なかば混濁したままで、一体、いま自分の横に黒っぽいハイレグのワンピース水着を着てしゃがみ込んでいるアン・ドールトンが、実際にそこにいるのかどうかも、定かには認識出来ない有様だった。
「君は、たぶん本当にそこにいるんだろうな」
「何を言ってるのよ、一体誰が溺《おぼ》れかけてるあなたを、プールから引きずり上げたと思ってるの」と、アンは、やっと安心したような口調になって言った。
「見たのか」
「何を?」
「水の中にいたものをだ。プールサイドから見て、僕はどんな風だった」
「溺れてたわ。この浅いプールでね。私がここに入ってきたときには、もう底の方に沈みかけていたの。死んじゃってるのかと思ったわよ」
「つまり、僕はただプールの底に沈んでいただけというわけか」
「普通ならそう思うところね、気をつけて意識を集中させていなければ」
「ということは、君には見えたんだな」
戸井田は肺の痛みと、こみ上げてくる胃の不快感に堪えながら、肘《ひじ》をついて上半身を起こした。
「まだ無理しない方がいいわよ」と、アンが心配そうに言って、戸井田の背中を背後から支えた。
「プールの中が見たいんだ、いまはどういう風になっているのかが知りたい」
「もう何も見えないわ、ただのプールよ」
アン・ドールトンの言葉どおり、戸井田の目に映ったのは、ただの青く澄んだ水を湛《たた》えた白いタイル張りのプールだった。水面が、ほんの少しだけ波打っていた。
「それで、君は何を見たんだ」
「形のあるものは何も。ただ、あなたの体の沈んでいるあたりの水が、妙に密度のバランスを崩しているようだった。そうね、まるで水ではなく、比重の違う様々な透明の化学薬品でも流れ込んでいるみたいな、そういう感じに上からは見えたのよ」
「それで、君は何をしてくれたんだ?」
戸井田の問いに、アンは傍らの籘《とう》椅《い》子《す》にかけてあった白いバスローブのポケットから取り出した、プラスチック製の小瓶を揺すってみせた。
「これよ、この中身をプールの上から撒《ま》いたの」
「それは何だい? まさかシャンプーとかリンスだとは言わないでくれよ」
「聖水よ」と、アン・ドールトンは、あっさりと答えた。「私はこれと清めた塩は常に持ち歩いているのよ」
「聖水って、あの、教会の水盤に入っている? 儀式のときに司祭が振りかける、あの……」
「そう、その聖水。シアトルの家の近くのカソリック教会でわけてもらうの。塩の方は日本で清めてもらうか、北米に住むインディアンから手に入れることにしているけれどね」
「そうすると、君はその聖水をプールにぶちまけたってわけか」
戸井田は驚いたような声を出した。水中での記憶が蘇《よみがえ》ってきていた。あのキラキラと輝く小さな球体は、アンが撒いた聖水の水粒だったということなのか。
「ぶちまけたというほどの量じゃなかったわ。掌にあけて、二、三度プールの上に弾き飛ばしただけよ」
「見せてくれ」と言って、戸井田はアンの手からプラスチックの透明な瓶を手に取った。その、ちょうど化粧水入れほどの瓶の中に、まだ七割がた残っているのは、見たところただの水にすぎなかった。
「こいつが僕の命を救ってくれたってことかい。しかし、何だって君はこれを持ってプールに来たんだ」
「あなたが泳ぎに行くって言っていたから、水着に着替えてから部屋をノックしたの。そうしたら、もういなかった。この建物や島そのものが、邪悪な気の充満した場所らしいっていうことは、さっき話したでしょ、そういう存在は、とりわけ湿った場所、水のあるところ、そして風の通り抜けないような場所を好んで溜《た》まるの。室内プールなんて、まさにうってつけだわ。そう思ったから、もしものことを考えて持ってきたのよ」
「しかし、僕には、つまり、よく理解出来ないんだが……」
「理解なんか出来っこないわ、スウェーデンボルイとかユングででもない俗人は、理解しようとしても、それは無理よ」
アン・ドールトンは、著名な神秘主義者と心理学者の名を例に出して説明した。
「だけどあなたは体験したわけでしょう。自分の体験を信じる方が、理解しようとするより、いまはずっと大切だと思わない? さあ話して! あなたは何を見たの」
「最初は……」と、戸井田は頭痛をこらえながら話しはじめた。「ただのプールだった。ところが飛び込んで泳いでいるうちに、何かが僕の足を掴《つか》んだ。ヌルヌルした、得体の知れない何かがだ。そいつは僕を水の中に引っぱり込もうとした。すると、水中の様子が変っていた。まるで古い沼かなにかの中みたいに、青みどろやネバネバした水藻みたいなもので一杯の、腐った水の中にいたんだ。次に、水死体みたいな奴《やつ》が現われて、僕の顔をのぞき込んだ。眼球が視神経ごと外へ垂れちまったような奴さ。あとは判らない。水の底へと、どんどん引っぱられて息が切れた。水も飲んだ。そこへ、君が聖水を撒《ま》いてくれたってわけらしいな」
「聖水はどういう風に見えたの」
アンが冷静な声で訊《たず》ねた。
「そうだな、まるで小さな水晶球みたいだった。一粒一粒がハッキリ見えたよ。そういえば、君の声も聞こえたような気がするが」
「名前を呼んだのよ、あなたの」と、アンは答えた。
「その途端に、足を掴《つか》んでいた力が抜けた。あとは無我夢中だ。覚えていない」
「ふん、そうすると少くとも聖水は連中に対して何らかの効果があったってことだわね」
プラスチック瓶を電灯にかざしながら、アンがそう言った。
「ちょっと待ってくれよ、いま話したことが全部本当にあったことなのかどうかって自信は、僕にはないんだ。もしかすると、ただ溺《おぼ》れて、つまり、急に冷たい水に入ったせいで心臓がおかしくなったか何かして、水の中で失神して、その間に見た幻覚なのかもしれない」
「それなら、自分がたったいま吐き出した水をよく見てみることね」と言って、アン・ドールトンは戸井田の体の横の白いタイルの床を指さした。そこに広がっているのは、明らかに、いま見えている透明なプールの水とは異なる、緑色に濁った腐り果てた水で、そこここに藻の切れ端のようなものまでが浮かんでいた。
「その水が一体どこから出てきたというの? あなた自身が吐き出したんでしょう。まさか夕食の後で、キッチンの流しの下の汚水を飲んだなんて言わないでしょうね」
歴然たる証拠を見せつけられて、戸井田は返す言葉が無かった。たしかに、あの水中での出来事は、実際に自分の身にふりかかったことに思えた。しかし、一体それをどのように解釈すればよいのかが、その時点では戸井田には分からなかった。
「それじゃ、あれは、あいつらは何だったんだ。どうして僕を水の中に引き込んで殺そうとしたんだ。何《な》故《ぜ》キリスト教の聖水を怖れるんだ」
「最後の質問にだけは、多少答えることが出来るわ。人間は、何千年も、もしかすると何万年もかかって、自分たちが怖れているものと付き合う方法を学んできた。学んだというのが正しいのか、編み出したというべきなのか、それとも教えられたという表現が一番あてはまっているのか、それは私にも判らないわ。でも、とにかくそういったもの、生きている人間にとっての怖れの対象となるものを、自分たちの生活に立ち入らせない、近寄らせないですむやり方を、身に付けたということね」
「まるで吸血鬼を撃退するのに、ニンニクを窓に吊《つ》るすみたいな話だな」
「そうよ、あれにだって昔は立派に意味があったわ。日本の風習でいうと、そうね、サーディンの頭やヒイラギの葉を玄関に吊るすのと同じようにね。ところが、そういったことは、この百年ほどの間に、すべて迷信なんだ、科学に反するものだという理由で、生活の中から消し去られてしまった。でも、残っているものもあるわけ。それは、あまりにも確実に効果があるから、生活から抹殺してしまうことが出来ないほどの習慣だったの。でも、そういったものも、やはり宗教的な儀式の形を借りてしか現代には生き残れなかった。聖水もそうだし、日本でも、お葬式の後は塩をまくでしょう、あの習慣も残った」
「どうして日本の清めの塩のことまで、君は知ってるんだい」と、思わず戸井田は訊《たず》ねた。
「興味があるからだって言ったでしょ。第一、清めに塩を使うのは日本人の専売特許でも何でもないのよ。中国でだってしているし、ヨーロッパでも昔からある習慣だわ。ドイツ人なんかはクシャミしただけでも自分の肩越しに塩をまくわよ」
「聖水も同じように効き目があるというわけか」
「少くとも、さっきはそうだったわね。でも、連中がどの程度まで聖水を嫌っているのかは判らないわ。ただびっくりしただけなのかもしれないし、本当に連中のエネルギーを消し去るほどの効果があったのかもしれない。それはまだ、何とも言えないわ」
「さっきから君の言っている“連中”というのは、つまり何なんだ」と、戸井田は、水中で自分の顔に糜《び》爛《らん》した皮膚をこすりつけるようにして迫ってきた顔を思い出しながら、苛《いら》立《だ》たしげに訊ねた。そうするだけで、また背筋に鳥肌が立つのを感じていた。
「だから、それは答えられない。さっきの質問の一番最初のものと同じ内容だもの。その正体を知るには、それなりの方法を用いなければならないわ」
「それなりの方法っていうのは?」
「まず、最も一般的なのは霊媒を使うことね。霊媒を使って相手に語らせる。質問を重ねて、相手の正体を探るの。でも、嘘《うそ》をつかれることだって、しょっちゅうあるから、時間をかけ、回数を重ねなければ、真実は判らない」
「もっと簡単に言ってくれ。連中は、つまり幽霊なんだろ」
戸井田が、恐怖と苛立ちの入りまじった感情で大きな声を出した。
「あなたの言う幽霊というのは、それではどういう存在? 実体があるの? それとも残留思考エネルギーのこと? 何《な》故《ぜ》その既に死んでいる人間の思いだけが地上に残っているの? そもそも、あなたの足をプールの中で引っぱったのは、何なの? どうして肉体がそこに存在していないのに、そんなことが出来るというの? さあ、答えてよ」
アンも、大声を出して立ち上がった。
「正直なところ、そいつは僕にも判らない」と言って、戸井田は、もう一度、胃袋から突き上げてきた緑色の水をタイルの床に吐いた。そうしてから、プールの水面を見る。そこに揺れているのは、清らかなブルーの水面だけだった。
「とにかく、ここを出よう。僕が溺《おぼ》れかけていたのを助けてくれたことには感謝する。それ以上のことについては、場所を改めて話すことにしよう」
そう言いながら、戸井田修は、水着一枚の姿でユラリと立ち上がった。
「だけど、これは重大な問題よ。いまは、あなたは助かったけれど、同じ様なことが他の宿泊客に起こらないとは限らない。あのマネージャーは、このプールをお楽しみ下さいと言って去って行ったんだから」
ヨロヨロとプール室の出口へと向かう戸井田の背中に、アン・ドールトンの声が飛んだ。それでも、戸井田修は、とにかくその場を逃げ出したい一心で、彼女の言葉が聞こえなかったかのように、ガラス張りのドアを開き、廊下へとよろめき出た。うんざりした表情で頭を横に振りながら、アンも自分のバスローブと、戸井田が置き忘れたままにしていったタオルや衣服を手にして、その後を追った。
階段の登り口まで辿《たど》り着いたところで、戸井田は壁に手をついて体を支えながら、アンの方に振り返った。
「大きな声を出してすまなかった。正直言って、怖かったんだ。こんな経験は生まれて初めてだし、その、霊みたいなもの、それもあんなに邪悪な印象を与えるような存在を認識したのも初めてだった。だから僕は死ぬほど怯《おび》えていた。君には、もっときちんと御礼を言わなけりゃならないってことは分かっているんだが、どうしても……」
「いいのよ、怯えて当然だわ。ああいった手合いを相手にして、慣れたから平気ってことはないの。ただ、私が心配しているのは、相手の正体を見極めないことには手が打てないし、あなたが遇《あ》ったような目に他の人が遇わないための手段を講じなけりゃならないっていうことなの」
「それは分かるけど」と、アンと肩を並べて階段を登りながら戸井田が言った。ふと、プール室に戻って電気を消し、出来ればドアに鍵《かぎ》をかけるべきではないかと思ったのだが、地階を後にした今では、とてもその為に再びあの室内プールのある部屋に戻る気は起きなかった。
「他の客をどうやって説得したらいいんだ? あのオーストラリア人やインド人に、プールの底に幽霊が住んでいるから泳がない方がいいと告げたって、笑い飛ばされるのが精々だろう」
「そうね、彼らは彼らなりに、おそらく何かは感じ始めているんだとは思うけれど、そういう言い方をすれば、ベンなんかはかえってプールに出かけるでしょうね」
「プールの栓を抜いちまうのが一番の手だって気もするけどな」
戸井田は、実際にその行為を行う為に、また水の中に潜って行く自分を想像して、首筋に鳥肌が立つのを感じながらも、そう口に出して言った。言いながら、もしアン・ドールトンがこれほど美人でなかったなら、俺《おれ》は絶対にそんなこと言い出しはしなかったろうな、とも考えていた。
「それは危険すぎるわ」とアンが応じたので、戸井田は内心ホッとした。
「さし当り、地下に行かないようにさせるのが一番ね。ムハマドに、客室を回って、そう告げるように頼みましょう」
「ムハマドが納得するかな。マネージャーの言葉に反することになるんだぜ」
「単なる勘だけど、彼はマネージャーのジェームス・タンよりも、この島や建物のことをよく知っているような気がするの。だから彼自身、怯《おび》えているんだわ。彼を探し出して、あなたの経験したことを話せば、彼なりに口実を考え出すと思うのよ、ダイニングルームの写真撮影のときみたいにね」
「それじゃ、あれはムハマドがでっち上げた口実だっていうのかい」と、戸井田はポカンとした表情で訊《たず》ねた。
「当り前よ。ルーブル美術館じゃあるまいし、こんな湿気だらけの建物の中にかけてある絵が、フラッシュの光を気にするほどの美術品であるわけがないわ」
「とすると、彼は何《な》故《ぜ》?」
「写真を撮られたくなかった。この建物の中で、とりわけ夜間に写真を撮影してほしくなかったのよ。理由は、あの日本人カップルのフィルムを現像してみなきゃ判らないわ。もしかすると現像してみたって判らないかもしれないけど」
一階に登り着き、ロビーの方向へと階段裏を回り込みながら、アンが言った。
「それより、早くムハマドを探しましょう」
「アテはあるのかね? この広い邸《やしき》の中で、彼が何《ど》処《こ》で寝てるのか」
「イギリス式のこういう邸宅では、メイドや執事の私室は、キッチンを抜けた向こうと相場が決まってるわ」
そう言って、アン・ドールトンはダイニングルームの扉を開き、中へ入って行った。戸井田も渋々と後に従った。
ダイニングルームの内側の壁を探ったアンが電灯のスイッチを入れたおかげで、開け放したままの扉の下の絨《じゆう》毯《たん》に、キッチン方向へと向かう二人の長い影が走った。その影が消えて、キッチンに通じるスウィング式のドアがバタンと閉じた音がしてから数秒後に、階段裏の、つい今しがた戸井田とアンが回り込んで通り過ぎたのとは反対側の薄暗がりから、二つの人影が滑り出して、床を踏む音を立てぬように気を配りながら、階段を地階のプール室の方へと下りはじめた。人影の片方は、やや大振りのカメラのようなものを手にしているように、もしその場に人がいたならば見てとれたであろうけれど、戸井田もアンも、その二つの影の存在にはまったく気付くすべも無かった。
キッチンは予想していたよりもはるかに広く、そして近代的な設備を備えたものであった。昔ながらの煉《れん》瓦《が》造りのオーヴンや、大仰な調理台などもそのままに残されてはいたが、電子レンジが何台も並び、巨大な冷凍冷蔵庫が壁際で深夜だというのにブンブンと唸《うな》りをあげていた。夕食のときに使われた食器類は、きれいに洗い終えて流しの横の網棚に並べられており、室内にはこうしたキッチンにありがちな、食べ物の残り香さえも漂ってはいなかった。
「どうやら、ムハマドは結構きれい好きな性格のようだな」と、磨き上げられた庖《ほう》丁《ちよう》が作業テーブルの脇《わき》に差してあるのを目にしながら戸井田が言った。
「腐臭や血の臭いは、悪霊を呼び寄せる素になりかねない」
冷たい口調でアンが応じた。
ヴァンに積み込んできた食料を貯蔵してあるらしい、GE社の巨大な冷蔵庫の向こう側に、妙に頑丈な造りのオーク材のドアが見えた。
「あそこね」と、アンが言った。
戸井田は肩を入れるようにしてアンの脇《わき》をすり抜けると、そのドアの前に立った。ノックしてみる。最初は軽く二度。返事は無い。次に、やや激しく四回ほど、そのオーク材のドアを叩《たた》く。何の返答も無かった。拳《こぶし》を固め、甲で更に激しくドアをノックする。
「ムハマド、ムハマド、そこにいるのか」
相変らず、何の応《こた》えも無かった。
「本当にここなのかな」
「待って」と言って、アンがドアの板に耳を寄せた。扉の下からは、うっすらとではあるが明りが洩《も》れてきている。
「聞こえるわ、祈っている。何を言っているのかマレー語だから判らないけれど、ムハマドはこのドアの向こう側の部屋にいるのよ」
「ちょっと代ってくれ」
戸井田はアンを扉から引きはがすようにして、その分厚いオーク材のドアに耳をつけた。確かに、マレー語で、低いくぐもった祈りのような言葉が呟《つぶや》かれているのが聞こえる。また、戸井田が激しくドアをノックした。その途端に、言葉が英語に変り、急に大きな、まるで喧《けん》嘩《か》を売っているかのような勢いのものになった。
「行け! とっとと失せろ! あんたの恨みは俺《おれ》には何の関係も無い。亡者め、これ以上俺に憑《つ》いてまとうのはやめろ。さっさとそこから去って自分の墓へ帰るんだ。この、イギリスの腐れきった亡者めが」
「ムハマド、聞こえないのか。僕だ、ホテルの客の戸井田だ。アン・ドールトンも一緒だ。どうしても話しておきたいことがあって来た。このドアを開けろ」
「そうやって人を騙《だま》すがいい。俺は知っているぞ、その手で騙された人々が、どういう風に死んだのかをな。もうお前の時代は終ったんだ。さあ去れ、去って墓石の下の自分の場所へ帰り、眠りにつけ」
戸井田は、アンの顔を見て肩をすくめた。
「どうやら彼は、このドアをノックしているのが、古いイギリスの亡者だと思っているらしい。これでは取り付く島が無さそうだな」
「怯《おび》えきってしまっているようね、現実と空想の境目も判らないほどに」と、アンが答えた。「もしかすると、彼もあなたと似たような体験を既にこのホテルでしているのかもしれないわ」
「君から話してみてくれないか。イギリスの亡者と言うんだから、おそらくムハマドは例の肖像画のケペル卿《きよう》あたりが化けて出たんだと思っているんじゃないかな。女性の声なら大丈夫かもしれない」
「やってみるわ」と言って、アンは扉の前に立つと、一度深呼吸してから、軽く二度、扉をノックした。
「ムハマド、私よ、アメリカ人のアン・ドールトンよ。夜更けにすまないのだけれど、ここを開けて話を聞いてくれない? とても大切な話なの」
またムハマドが英語で叫ぶ声が扉の向こう側から聞こえた。
「声を変えたって駄目だ、俺は騙《だま》されないと言っただろう。とっとと失せないと、こうだぞ」
それから、言葉が再び唸《うな》るようなマレー語に変ったかと思うと、扉の板に何かが当たるパラパラという音が聞こえた。音は、まるで俄《にわか》雨《あめ》の降り始めのときのように、何度か断続してつづき、そして止んだ。アンが無言のまま首を傾げて戸井田の顔を見た。戸井田も無言で扉の前の石畳の床に跪《ひざまず》くと、扉の下のほんの僅《わず》かな隙《すき》間《ま》からキッチンに入り込んできた、数粒の白い結晶のようなものに目をとめた。指の腹を押しつけて、その小さな白い粒を拾い上げる。少しの間、眺めてから、戸井田は指をペロリと舐《な》めた。
「岩塩だ」
「やっぱりね」と、アンが答えた。「イスラム教で塩を清めに使っているかどうかは知らないけれど、ムハマドも魔除けに効果があるのがどういうものなのかという知識は持っていたわけだわ。それを用意して部屋に入ったということは、彼がこの建物に関して何かを知っているという証明でもあるし」
「しかし、塩まで撒《ま》かれては、とてもこのドアを開いてはくれそうにないな。第一、さっきからのやりとりで、すっかり自分が、小羊を騙して家に入ろうとしている悪い狼《おおかみ》になったみたいな気がしてきた」
「手に小麦粉をまぶして、ドアの隙間から差し込んでみる?」
「それよりも、メモを差し込んだ方が効果的かもしれないぜ。文字を書いたり手紙をくれる幽霊ってのはいるのかね?」
「有名な心霊現象のひとつに自動書記《オートマテイツク・ライテイング》というのがあるわ。その外にも、イギリスの古い邸《やしき》には壁に幽霊が書いたという文章が残っている」
「ムハマドにそこまでの知識が無いことを願うばかりだな」
「それと、彼に文字が読めることをね」
「そいつは何とかなるだろう。来る途中のマイクロバスの中で、彼は僕たちの名前のリストを読み上げたんだ」
「そうだったわね、もうずいぶん前のことみたいに思えるもので、すっかり忘れていたわ」
そう言って、アンはキッチンの中を見まわした。筆記用具の類《たぐ》いは、しかし、どこにも見当らなかった。
「一度、部屋に引き上げてメモを書きましょう」
「その方がよさそうだ」と、戸井田も答えて踵《きびす》を返し、ダイニングルームへ通じているドアの方へと歩き出した。ボルネオホテルの全館に響きわたるほどの絶叫が聞こえたのは、そのときだった。
狂女の慟《どう》哭《こく》のような、その凄《すさ》まじい叫びは、明らかに地下室の方から聞こえていた。戸井田とアンは、ダイニングルームへ通じるスウィングドアを開いたところで、その声を耳にし、一瞬顔を見合わせてから、同時に走り出した。
二階の寝室では、ベンジャミン・クーパーが手にしていたペーパーバックのロバート・ラドラムを床に落としてソファから立ち上がった。ベッドに入って眠りにつこうとしていたドナルドが大きく目を見開き、口を裂けんばかりに開けて声にならない叫びを上げていた。ベンジャミン・クーパーの妻のスーザンは、そんな息子の様子に驚いて、子供用ベッドに並べて置いたカウチから体を起こした。
6号室では、ちょうどスーツケースを開いて中からパジャマを取り出そうとしていたブラジャンダウ・シンが、叫びと共に手にしていたその夜着を放り出し、スーツケースの隅に絹の布に包んで仕舞ってあった青銅製の奇怪な女神像を胸元にかき抱いて、ヒンドゥー語で何やら呟《つぶや》き始めた。
そして、一階キッチン奥の執事室では、ムハマドが片手に塩の入った壷《つぼ》を持ち、もう一方の手には銀色に輝く鋭利な刃渡り二十センチ程の鞘《さや》を払った直刀を握って、ドアの外の様子をうかがっていた。
誰もが、心の底のどこかで、今夜、何事かが起こるであろうということを予感していた。その予感が、当人たちはそれぞれに否定しようとしていたにもかかわらず、適中してしまったことを、今しがたの絶叫によって知った。誰の血管にも急激にアドレナリンが流れ込んでおり、このホテルの中にいる人間の心臓は、どれも普段よりも数倍の速さで動《どう》悸《き》していた。そして、何よりも、それまでは常識という名のヴェールの下に押さえつけられていた恐怖の心が、いまやそれぞれの表情にまで、あからさまに表れていた。
プール室のガラス扉を最初に開いたのは戸井田修だった。
最初に目に入ったのは、タイル張りの床に転がっているポラロイドカメラだった。プールサイドのすぐ横の位置に、その、やや大振りなフラッシュを装備したカメラは放り出されていた。それを目にして、次にプール室内の状況を把握しようとしているとき、戸井田の胸に、ドンと熱い体温を持った塊りがぶつかってきた。思わず両手でそれを受けとめる。長く黒い髪がバサリと揺れて、戸井田は自分の胸の中にある肉体が、あの日本人新婚カップルの樋口由利香のものであることを知った。由利香は、ダークグリーンと黄色のハイレグカットのワンピース水着から露出させた肌を、すべて戸井田に密着させるようにして、体を震わせながら泣き叫んだ。
「死んじゃうよー、アキヒロが死んじゃうよー、やだよこんなの、嫌だよ、助けてよー」
「どうした? 何があった」
太《ふと》腿《もも》をからめるようにしてくる由利香を、後につづいているアンを意識しつつ、ふりほどきながら戸井田修は女の肩に両手を置いて訊《たず》ねた。
「だからぁ、死んじゃうってェ、言ってるでしょォ。何とかしてよォ。やだやだやだ、やだってばァ」
行動を起こしたのは、由利香の発している無意味な日本語を理解していないアンの方だった。彼女は、プールの水面に俯《うつぶ》せになって浮いている樋口昭宏の体を見た次の瞬間に、身にまとっていたバスローブを脱ぎ捨てて、何のためらいも無く水中へと飛び込んでいた。
樋口昭宏の体は、プールのちょうど中央あたりに浮いていた。両足は水中に没していたが、手は二本とも頭の上の方に真直に伸びており、水の動きに合わせて、力なく揺らいでいた。クロールの二掻《か》きで昭宏のところまで泳ぎ着いたアンは、腕を掴《つか》んで彼の体をひっくり返そうとした。だが、水に浮いた体勢のままでは力が入らなかった。アン・ドールトンがプールの底に足をつけようとしたとき、やっと由利香の体を振りほどいた戸井田が叫んだ。
「立っちゃ駄目だ。底に足をつけるな。引っぱり込まれるぞ」
その声に、アンはあわてて体を水中に戻し、平泳ぎの体勢をとった。何かが水の底の方でゆらめいているような気がしたが、考えないことにした。昭宏の顎《あご》を右手で掴《つか》み、左手は脇《わき》の下に入れて、水面で体をひねる。今度は浮力がうまく作用して、力無く漂っている昭宏の体が反転した。そのまま、顎と脇の下に手を当てて、足のキックだけで背泳にうつる。二度目に大きく水を蹴《け》ったとき、ヌルリとした感触が踵《かかと》のあたりにあった。アンの背筋を寒気が駈《か》け抜け、水中で鳥肌の立った全身の皮膚から、細かな空気の泡が立ちのぼった。が、そのときには、もうプールサイドから両手を伸ばした戸井田が、アンの肩に触れていた。その手を、両方の脇の下に差し込み、昭宏の体を抱えたままのアンをプールサイドに引きずり上げようとする。だが、戸井田一人の力では、その作業は無理だった。
「まず君が上がれ。彼の体は僕が支えている」
そう言って、右手はアンの上腕部を掴んだまま、戸井田が左手を伸ばして昭宏の顎を押さえ、水中に沈まないように支える。プールサイドにしゃがみ込んで、まず力まかせにアンの体を引っぱり上げた。片手の空いたアンはプールサイドに手をかけて自分の体を押し上げたおかげで、今度は楽に水から出ることが出来た。
次に昭宏の体を引き上げようとしているとき、背後でドアが開いた。
「どうした? さっきの叫び声は何だ」
大声で問いかけるベンジャミン・クーパーの方を振り向きもせずに、戸井田が答える。
「手を貸してくれ、溺《おぼ》れたらしい」
ショートパンツ一枚で上半身は裸体という格好のベンは、スリッパをパタパタと鳴らして戸井田たちのところへ駈《か》け寄ると、無造作に昭宏の髪と腕に手をかけ、あっけないほどの素速さで、その体を引き上げてしまった。
「助かった、凄《すご》い力だな」
「羊一頭押さえつけて毛を刈るのに較《くら》べりゃ楽なもんだ」と、オーストラリア人の大男は答えた。
アンが昭宏の裸の胸にまず手を当て、それから耳をぴったりと付けた。
「心臓が動いてないわ、人工呼吸しなければ」
「まかせろ、軍隊で習ってる」
そう言って昭宏の体の上にまたがったベンが、まず顔を横に向けさせてから、胸を大きく何度も押しはじめた。昭宏の目は両眼とも大きく見開かれたままだったが、その瞳《ひとみ》に光は宿っていなかった。
「どうだ?」と戸井田が訊《たず》ねると、ベンは作業を続けながら、一度だけ首を横に振った。
「救急車の手配をした方がいい。心臓マッサージか電気ショックが必要だと思う。それにしても、どうしてこの男は水をほとんど吐き出さないんだ」
ベンの言葉に、戸井田はもう一度視線を落として、昭宏の口元を見た。水を吐きやすいように横向きにされたその口の周辺は、下のタイルまで含めて、ほんの小さな、コップ半分ほどの量の水《みず》溜《たま》りしか出来ていなかった。
「救急車って言ったって、ここには電話が無いんだぞ」
「とにかくムハマドに言って何とかしてみるわ、彼女の方も気になるし」
そう言って、アンは壁際の大きな籐《とう》椅《い》子《す》の中に、胎児のような姿勢で体を潜り込ませて、虚《うつ》ろな目をして何かを呟《つぶや》きつづけている由利香の方を見やった。由利香は絶え間なく全身を小刻みに震えさせながら、まるで体の外側からその震えを止めようとでもしているかのように、指の関節が真白になるほど、自分の体を抱きしめていた。
小走りに廊下へと向かったアン・ドールトンは、ドアのところで、外に立っていた大きな人影にあやうくぶつかりそうになって、体をひねってかろうじてそれをかわした。人影はブラジャンダウ・シンだった。
「ちょうどいいわ、お願い、ムハマドを呼んできて下さい。日本人が溺《おぼ》れたの。救急車を呼ばないと死んでしまうわ」
だが、シンはアンの頼みが、まるで耳に届かないかのように、その場に立ちはだかったまま、動こうとしなかった。舌打ちをしたアンが、一度シンを睨《にら》みつけてから階段の方へ駈《か》け出そうとしたとき、開け放ったドアからプール室内を眺めていたシンが、ポツリと言った。
「救急車は無駄だ。あの男はもう死んだ」
「何《な》故《ぜ》そんなことを! まだ助ける手段はあるはずだわ」
そう言い捨てて階段へと向かったアンは、角を曲がったところで、また別の人影が立ちはだかっているのを目にして足を停めた。一階へ通じる階段の半ばあたりのところに、小柄なムハマドの姿があったのだ。
「ムハマド!」と呼びかけると、彼はその瞬間に初めて眠りから覚めたかのように、ハッと目を見開いた。
「何をしていたの、さっきからずいぶん声をかけていたのに」
「失礼しました、礼拝の時間だったものですから」と、そのマレー人の回教徒は答えた。「それで、一体何があったのですか。叫び声や足音が聞こえましたが」
「プールで日本人の男性が溺《おぼ》れたの。戸井田とクーパーが手当てをしているけど、心臓が停まっているらしいわ。何とかして救急車を呼ばないと」
「あのプールで溺れたのですか?」
ムハマドは無表情なまま、そう訊《たず》ねた。
「そうよ、いえ、もしかすると心臓麻《ま》痺《ひ》とかそういったことかもしれないけれど、とにかく俯《うつぶ》せになってプールに浮いていたの。ねえ、お願いだから救急車を呼ぶ手段を考えてちょうだい」
「分かりました。とにかく一番近い人家のところまで行ってみましょう。運が良ければその家に電話があるかもしれないし、太い道を歩いていればトラックに出会えるかもしれません」
「そうして! お願い」
踵《きびす》を返して小走りに階段を登って行くムハマドの後ろ姿に、アンは祈るような気持で、そう叫んだ。
「一番近い家というのは、どのぐらいの距離にあるの?」
「歩いて二十分ほどだったと思います。橋を渡ってから二十分です」
アンはムハマドの後を追うようにして階段を登った。
「出来るだけ急いでちょうだいね、お願いだから」
彼女の言葉には答えず、ムハマドはロビーのコート掛けから自分のポンチョを取ってそれに頭を通し、同じコート掛けに吊《つ》るしてあった大型の懐中電灯を手にすると、玄関の扉を押し開けて、吹き降りの闇《やみ》の中に姿を消した。ちょうどその時、玄関ホールの大時計が鳴った。まだ午後十時だった。
アン・ドールトンがプール室に戻ると、戸井田とベンは、昭宏の体の横に跪《ひざまず》き、バスタオルを使ってマッサージを施している最中だった。傍らに、シンが何をするでもなく、ただボーッと立っている。由利香の姿は、相変らず籐《とう》椅《い》子《す》の中にあった。
「どうなの」とアンが訊《たず》ねる。戸井田はマッサージをつづけながら、静かに首を横に振った。
「出来るだけのことはやってみた。マウス・トゥ・マウスの人工呼吸も、俺《おれ》の手でやれる限りの心臓マッサージもだ。だが心臓は動き出さなかった。こうしてタオルで体をこすってるのは、もう外に出来ることが無いからだ」と、ベンが冷静な声でアンに告げた。
「いまムハマドが歩いて助けを呼びに行ったわ。一番近い家まで二十分ぐらいで着けるそうなの。そこに電話がなくても、車か、たぶん自転車やバイクはあるはずだわ。救急車が来るまで、私たちに出来ることを考えましょう」
「残念ながら、今言ったように、出来ることはすべてやったんだよ」と言って、ベンが立ち上がった。手にしていたタオルを忌ま忌ましそうに床のタイルに叩《たた》きつける。戸井田も、昭宏の体から手を離し、ゆっくりと体を起こした。
「ベンの言うとおりだ。僕たちに出来ることは全部やってみた。だけど、駄目だったんだ」
「ということは、この日本人は……」
アンが、茫《ぼう》然《ぜん》と昭宏の体を見下しながら呟《つぶや》いた。
「死んでしまうの?」
「もう死んじまってるんだよ」と、ベンが彼女の言葉を訂正した。「おそらく、あんた方がプールに駈《か》けつけたときには、もう死んじまってたんじゃないかと思う。あれだけ腹や胸を圧迫したのに、ほとんど水を吐いてないだろ。ということは、たぶん溺《でき》死《し》じゃなくて心臓麻《ま》痺《ひ》みたいなものだったんじゃないだろうか。そうででもなけりゃ、この浅いプールで死ぬわけがない」
ベンジャミン・クーパーの言葉に、アンと戸井田は思わず顔を見合わせた。
「とにかく、状況からいうと自然死とは言い切れないところがあるから、警察にも連絡しなきゃならんのだろうな。下手すると今夜は眠れないことになるかもしれないぜ」
ベンはバスタオルを取り上げて、両手をゴシゴシと拭《ふ》きながらそう言った。アン・ドールトンは、黙って白と黒のタイルの上に横たわっている昭宏の体を見つめていた。
「大丈夫かい」と、戸井田が訊《たず》ねた。
「え? ええ、大丈夫、ちょっとショックを受けたの。私、あの、私、人が死ぬのを実際に見たのは生まれて初めてだったものだから」
「あんたは見ちゃいないよ。死んだ後で見たのさ。だからそんなに心を痛めることはない。助け上げるのが遅れたとか、手当てが不充分だったってことじゃないからな。さっき言ったとおり、この男はあんた方が来る前に既に死んじまってたんだ」
「これからどうすればいいんだろう」と言ったのは戸井田だった。
「さてね、ムハマドが近所の家まで行ったと言っていたな。さし当りはその帰りを待つしかないだろう。それと、あのお嬢さんを部屋に連れて行った方がいい。パニックに陥っているみたいだからな。ここには鎮静剤の用意は無いだろうから、書斎からブランデーでも持ってきて飲ませることだな」
ベンが完全に指揮官のような口調で言った。戸井田は、このオーストラリア人が、そういったタイプの性格であることに薄々は気付いていたが、それでも相談ではなく、命令のような言い方をされたことに、いささかムッとした。しかし、当面は彼の言葉どおりにするのが一番適確なようにも思えた。
「死体はどうする? ここに寝かしておくのはまずいんじゃないだろうか」
「何《な》故《ぜ》そう思うんだね? まさか部屋に運んでベッドに入れるというわけにもいかんだろう。それとも、ここに置いておいてはいけない訳でもあるのかね。第一、警察が来たときに勝手に死体を動かしてあると、面倒なことになるかもしれんぞ」
ベンの言葉に、また戸井田とアンが顔を見合わせた。そして、アンが先程戸井田の経験した出来事を説明しようと口を開きかけたとき、ドアの方向からムハマドの声が聞こえてきた。
「警察は来ません」
由利香を除く、プール室にいる全員が、一斉にドアの方を振り返った。ムハマドはビショ濡《ぬ》れのポンチョ姿のまま、雨に打たれた髪を額にへばりつかせて、ドアの内側のところに立っていた。四人の視線を浴びながら、ムハマドは言葉をつづけた。
「救急車も来ません。誰もこの島にやって来られないのです。そして、誰もこの島から出られません。橋が落ちているのです」
第三章
「橋が落ちているって、それは一体どういうことなんだ」と大声を出したのは、ベンジャミン・クーパーだった。「何《な》故《ぜ》、どういう事情で橋が落ちてしまったというんだ」
「それは……私には分かりません。ただ、ドールトン様に言われて、近隣の家へ行こうとしてホテルの建物を出たところ、内陸部、半島の方へと通じている橋が、すっかり無くなっていることを発見したのでございます」
ムハマドは、ベンの口調の強さに怯《おび》えるように、そう答えた。
「とにかく、この島から内陸へと通じていた橋が、今は落ちてしまっているのです。ですから、救急車も警察の車も、この島へ来ることは不可能です」
「そんな馬鹿な! あのマネージャーは、つい三ヵ月前に補修工事を行ったと言っていたじゃないか」
ベンの語気の激しさに、ムハマドは小さな体をさらに縮めるようにして答えた。
「それはおそらく、この建物に関してのことだと思うのです。橋については、そういった工事が行われたかどうか、私は知らないのです」
「そんな無責任な!」
それまでずっと無言のままだったシンが、初めて大きな声を出した。
「マネージャーは何か急ぎの連絡があれば必らず知らせに来ると約束したんだぞ、その約束はどうなるんだ」
シンにそう詰め寄られると、ムハマドは、まるでこのインド人の言葉から身を守ろうとするかのように、両手を胸の前にかざした。
「ムハマドを責めても仕方ないわ」と、アンが割って入った。「とにかく、橋がどういう状態になっているのか、本当に向こう岸に渡るのが不可能なのかどうかを、私たちの目で確かめてみた方がいいんじゃないかしら」
「そうだな、まず現状を踏まえてから、どうすればいいかを話し合うことにしよう」
戸井田もアンの意見に賛成する言葉を述べた。ベンは渋々と肩をすくめ、シンは無言のまま立ちつくし、そしてムハマドは明らかにホッとした表情を見せていた。
「彼女はどうする? ここに放っておくわけにもいくまい」
由利香の方を振り返りながら、ベンが言った。
「スーザンに事情を話して、しばらく面倒を見てもらうというわけにはいかないかしら」
アンの提案に、ベンジャミン・クーパーはかぶりを振った。
「この嵐《あらし》で息子が怯《おび》えているんだ。さっきの悲鳴で、その怯えがさらに高まってしまった。私の妻はそっちの面倒を見るので精一杯なんだ」
「それじゃ仕方ないわね、いいわ、私は建物に残る。彼女を部屋に連れて行って、落着くまで一緒にいることにするわ。橋の様子はあなた方が見てきてくれればいいから」
「死体はここに置いたままでかい」と、戸井田が先刻と同じ質問をすると、ベンは不快そうに正面から彼の顔を見据えた。
「あんたは何《な》故《ぜ》そんなに死体の置き場にこだわるんだね? 日本人の宗教観なのか」
「そういうことじゃないが、死んだ場所に放り出しておくよりは、どこかに安置した方がいいとは思わないか」
「思わんね。死んじまった者は死んじまった者だ。第一、室内プールで心臓麻《ま》痺《ひ》を起こしてくたばるなんて、本人が悪いんだ。とんだ迷惑だぜ。そんなに安置したいのなら、自分一人でかついで行って、キッチンの冷蔵庫にでも仕舞ったらどうだね」
「言い争いをしている場合じゃないと思うの」と、アンが宥《なだ》めるような口調で言った。「私たちが、けして楽しい状況下にあるのではないことは知っているけど、だからこそ、今は協力して何が出来るかを見つけ出す方が大切なんじゃないのかしら」
オーストラリア人の大男は、意外なほどあっさりと、また肩をすくめた。
「いいだろう、アンの意見は正しいと思う。突っかかってすまなかったな」
そう言うと、ベンは分厚い手で戸井田の肩をポンと叩《たた》いた。
悪い奴《やつ》じゃないんだがな、と戸井田は思った。ただ、このリーダーシップを取りたがる性格が、現在、自分たちがおかれている窮地を、さらに悪化させなければよいが、と同時に心の中で願った。
「いや、こちらこそ、失礼な口のきき方をしてしまったかもしれない」
一応は、そう言って、戸井田もベンの肩を叩いた。
戸井田が部屋に戻って、荷物の中から取り出したフード付きのレインパーカーを羽織りながらロビーに下りて来ると、ベンは、どうやらムハマドから取り上げたらしいポンチョを着込み、懐中電灯を手にして、既にロビーで待っていた。
「シンはどうした」と、戸井田が訊《たず》ねると、ベンは、理解に苦しむといった表情で、首を傾けてみせた。
「奴《やつこ》さんは今回のツアーには参加しないとさ。何でも、嵐《あらし》の夜に建物の外に出るのは好まないんだそうだ。ずっとそうしていれば、この島から出られないということには考えが及ばないらしい」
「なあベン、話しておきたいことがあるんだ」
戸井田はレインパーカーのフードをかぶり、ポケットに入っていたペンシル型の懐中電灯に電池が残っていることを確かめながら言った。
「このホテルは、尋常じゃないぜ」
「そいつは、どういう意味だね。俺《おれ》たちのおかれている状況が、旅行代理店のスケジュールに照らしてみても、尋常でないってことは、俺にだって理解出来るがね」
「それ以上のことを言おうとしてるのさ。いいかい、僕はさっき、あの死んじまった日本人がプールに入る十分足らず前に、あいつと同じような体験をしているんだ」
「つまり、あんたも心臓に持病を持ってたってことか」
「茶化すのはよしてくれ。このホテルの建物、とりわけ、あの地下の室内プールには、俺たちが生きているのとは違う世界の存在がいるってことを言いたいんだ。あんたが信じようと信じまいとね」
「ホーッ、ホッホッホウ!」と、大男のオーストラリア人は言った。
「そいつは面白いな。前世紀のイギリス人貴族が建てた邸宅に、現実離れした、それでいて日本人の旅行者の命を奪うほどの力のある、何かの存在が住んでいるということかね、そうやってあんた、まさか、日本人のツーリストをここに呼び寄せようと考えてるんじゃないんだろうな」
「馬鹿なことを言うんじゃない」と、戸井田は言い返した。「僕は自分の身で体験したんだ。あのとき、アン・ドールトンが助けに来てくれなければ、あの樋口という日本人の代りに、僕の身体が俯《うつぶ》せになってプールに浮いていたことだろう」
「面白いな、非常に面白い。だが、その話の続きは、橋の様子を見に行った後で話してもらうことにしようじゃないか。何しろ、俺《おれ》は現実主義者なんだ。あんたが見たという幻想的な世界よりは、この先、俺や女房や息子が、どうやってこの島を脱出するかって現実の方に興味があるもんでね」
ベンは、そうまくし立てると、ポンチョのフードを額の前まで引き下げ、長い柄の懐中電灯を握り直した。
「それじゃ行くぜ。外は暴風雨だ。しっかり後についてこないと、面倒は見きれないからな」
「あんたも足元に気をつけることだな。泥に滑って水路に落ちても、僕が助けに飛び込むほどの勇気を持ち合わせていないってことは承知しといてくれ」と、戸井田も言い返した。
「そんなドジは踏まないさ。その代り、あんたが見たとかいう幽霊にさらわれそうになったら、すぐ大声を出して俺に知らせるんだぜ」
そう言うと、ベンジャミン・クーパーは、ロビーを突き抜けて玄関のドアを押し開き、吹きつける風雨の中に突進して行った。戸井田修も、ペンライトを握りしめて、その後に従った。
雨は、まるで銃弾が降り注ぐような勢いで、ベンのポンチョと戸井田のレインパーカーを叩《たた》いた。椰《や》子《し》の梢《こずえ》を激しくしならせる風が、一歩また一歩と泥道を踏みしめる二人の歩みを遅らせた。相変らずの湿気が、雨具の内側の肌に汗を浮かばせた。
「すげえ嵐《あらし》だ。まさかムハマドは嵐に怖《おじ》気《け》づいて遠くまで行くのが嫌になったからというんで、橋が落ちてるなんて話をデッチ上げたのじゃないだろうな」
「まさかそんなことはないだろう」と答えた次の瞬間、戸井田は「危い!」と叫んでベンの体を横へ突き飛ばした。それとほぼ同時に、たったいままで二人の体があった場所に、激しく唸《うな》りをあげて大人の身の丈ほどもある椰子の大枝が倒れ込んできた。豊かな葉の厚みで二、三度大きくバウンドした椰子の枝が、地面にへたり込んだ戸井田とベンの顔に泥水を跳ねかけた。
「どこから来たんだ? 俺には枝が飛んでくるのが見えなかったぞ」
「真正面の椰子の木からだよ。あんたのポンチョのフードは深すぎるから、死角になったんだ」
「とにかくありがとうよ。あの勢いで直撃をくらってたら、たまったもんじゃなかったろうからな」
顔の泥水を手の甲で拭《ぬぐ》いながらベンが言って立ち上がった。戸井田もズボンの膝《ひざ》についた泥をはたきながら体を起こした。さして厚くないズボンの生地が充分に水を吸ってじっとりと重く足にからみついていた。
二人はベンが手にしている大型懐中電灯の明かりを頼りに、再び風に逆らって歩きはじめた。
「もうそろそろじゃないかな」
戸井田がそう訊ねたとき、今度はベンが、何も言わずに戸井田のレインパーカーの衿《えり》首《くび》をつかんで後ろへ引いた。
戸井田の足元の土が、靴の底にヌルリとした感触を残したままで、突然に消失した。
「おっしゃるとおりだ。もうそろそろどころか、もう一歩踏み出していたら、今頃は泳いでなきゃならないところだった」
ベンの懐中電灯の光の輪が、戸井田の立っているすぐ前の辺りを照らし出した。そこには何も無かった。道路だった筈《はず》の場所が、ポッカリと長さ二メートル、幅三メートルほどに亘《わた》って崩れ落ちており、そのはるか下方に激しく流れる泥の色をした水があった。
「どうなってるんだ、これは」と、戸井田はもう充分に濡《ぬ》れている背中を冷汗が流れるのを感じながら呟《つぶや》いた。
「橋のあったところが、えぐれちまったようだな。おそらく橋《はし》桁《げた》が流れに持ってかれたときに、その周囲の土も一緒に流されちまったんだろう。土砂崩れみたいなもんだ。まだ少し崩れつづけている」
ベンの言葉どおり、激しい流れとなって水路に注ぐ雨水が、垂直に切り立った崖《がけ》のようになった陥没部の縁の土を、ひっきりなしに運び去っている。
「向こう側がどうなってるか見えるか」
戸井田が訊《たず》ねた。ベンは何とか懐中電灯の光を対岸に届かせようと、様々な角度で光を投げかけていたが、やがて諦《あきら》めて肩をすくめた。
「無理だな。この雨じゃまるで見えない。朝が来るまで、あっち岸の様子を知るのはお預けってことだ」
「それじゃ戻るか」
「それしかないな。建物の中で今後の対策を考えよう。それにしても、いくらモンスーンだからって、この雨と風の量は尋常じゃねえぜ」
そうボヤきながら、今度は追い風に突き飛ばされるようにして、ベンはホテルの方に向かった。戸井田も、念のために辺りをグルリとペンライトで照らしてみてから、その後を追おうとした。
そのとき、また、あの最初に建物の玄関をくぐろうとした時に感じたのと同じような悪寒が、戸井田の首筋から後頭部にかけてを襲った。鳥肌が立ち、雨に濡《ぬ》れてただでさえ冷えてしまっている皮膚の表面温度が、さらに数度、一気に下がったような気がした。
プールの中で嗅《か》いだのとは、また別の、潮臭いような匂《にお》いが、スッと戸井田の体を包んだ。浜辺に打ち上げられて何日か経った海藻のそれのような匂いだった。それが、重い風となって、戸井田のいる空間に、揺れ動きながら同時に存在している。
その風が、ヌルリと、頬《ほお》を撫《な》ぜたように思った。戸井田の心の中を電流が走った。
心臓を冷たい手でギュッと掴《つか》まれた気分、とでもいえばよいのだろうか。
湿気に満ちた周囲の暗《くら》闇《やみ》の中に、得体の知れないものが、数多くうごめいているように思えて、戸井田は闇雲にペンライトを振り回した。
が、光《こう》芒《ぼう》の中に映しだされるのは、降りしきる雨の穂先だけで、実体のあるものは何も見てとれはしなかった。
戸井田は、何も感ずまい、何も意識すまいと努力しながら、かろうじて前方の雨の中に小さな光の点となって見え隠れしているベンジャミン・クーパーの懐中電灯の明かりを目指して、早足で歩き始めた。
アン・ドールトンはバーを兼ねた書斎にいた。
びしょ濡《ぬ》れになった戸井田とベンが、それぞれの雨具を脱ぎ捨てるのを待ちかねたように、アンは口を開いた。
「どうだったの、橋は?」
「駄目だね」と、戸井田が答えた。「橋どころか、手前の崖《がけ》までがえぐれちまってる。対岸は全く見えない。我々は完全にこの島に閉じ込められたってことだ」
「明日の朝になれば、ジェームス・タンがやって来るだろう。そういう約束なんだからな。それから、どういう手を使って、我々をあっち側に移してくれるか、そいつはやってみての相談だ。今夜のところ確かなことは、俺《おれ》たちの誰もが、この島から出られないって事実さ」
ベンジャミン・クーパーは皮肉な口調でそう言って、濡れそぼったポンチョを絞った。
「彼女はどうした?」
「部屋に連れて行ったわ。興奮していて、寝かしつけるのにちょっとばかり苦労した。でも、いまは静かに眠ってると思うわ。ブランデーを飲んだから」
そう答えて、アンはロビーのソファに沈み込んだ。
「スーザンとも話をしたわ。ドナルドは落着いたそうよ。私が部屋に行ったときは、ベッドでぐっすりと眠っていた」
「気をつかってくれてありがとう。なにしろ、こんな大《おお》嵐《あらし》の夜だ、誰だって不安になる。まして、あの子は見て判るとおり体が弱い。神経が過敏すぎるんだ。ちょっとした物音とか気圧の変化とか、そういったことにも、激しく反応する。スーザンもそれで疲れてるんだ」
「そんなに神経質には見えなかったけどな」と戸井田がバスの中でのドナルドの様子を思い出しながら言った。「それは、確かにその、ある程度の障害を持った子だってことは分かるけど、人なつっこいところのある、良い子じゃないか」
「親にしか判らんことってのがあるもんなんだよ」と、この男にしては珍しく、しみじみとした口調で、ベンが喋《しやべ》りはじめた。「スーザンは、あの子の知能に関して、過大な期待を抱きすぎている。知能は普通の子と同じ程度あるのだが、それを表現したり、他人に伝達する能力が欠けているだけなのだと思いたがっているんだ。気持は分からなくはない。親なら、誰だって自分の子供が、他人より何かの面で劣ってるなんてことを信じたくはないものだからな。だが、一方で、人間は現実を現実として認めねば、社会の中ではうまくやっていけないというのも、また事実なんだよ。客観的に見て、ドナルドの知能は、通常の子供より、かなり低いと認めざるをえないんだ」
「しかし、それと神経質、神経過敏ということは別なんじゃないか」
戸井田が、アンの手渡してくれたブランデーのグラスを傾けながら言った。
「だから、親にしか判らんことがあるんだって言ったろう」と、ベンもブランデーの瓶に手を伸ばしながら、戸井田の顔を見て言った。「障害のある子っていうのは、自分の身を守ることに異常なほど神経を使うものなんだ。毎日ドナルドを見ていて、つくづくそう思わされる。普通の子のような、子供特有の無鉄砲さというのは、まるで持ち合わせていない。本能的に、まず逃げ場、自分を守ってくれるものを探す。あんたが、ドナルドのことを人なつっこいと感じたとすれば、おそらく彼はあんたを逃げ込むのに適した場所と感じたからなんだろう」
「ドナルドは、さし当たり安心して眠っているわ。それより、私たちがこれからどうするのが一番良いか、その方を考えることにしない?」
アンがそう提案した。
「そうだな。こんな話をするつもりはなかった。失礼したな。それで、まず現在の我々がおかれている状況の分析からはじめようか」と、ベンがグラスのブランデーを喉《のど》に叩《たた》きつけるような勢いで一気に飲み干した。
だが、二階の、廊下の突き当たりにある3号室のベッドの中で、ドナルド・クーパーは、けしてアン・ドールトンが言ったように安心して眠ってはいなかった。
ベッドに横たわり、顔を天井に向け、毛布を首のところまで引き上げて目を閉じてはいたけれど、彼はけして安心してはいなかった。この島がマイクロバスのフロントウィンドウの視界に入ったとき、島全体の上空に、そこにのしかかるように見えた黒く、その内側で数多くの禍《まが》々《まが》しいものが蠢《うごめ》いているような雲。橋を渡っている途中で見えた光景。自分がいま車で渡っている筈《はず》の橋が、実はそこに存在せず、はるか下方の濁流の中で、一人の人間が血みどろになって何かに締めつけられている姿。ドナルドは、その人間がパパやママでなければいいと、心の底から思った。そして、何《ど》処《こ》だかは判らないけれど、けして澄んでいるとはいえない、ドナルドが一番嫌いな緑色に濁った水の中で、得体の知れないものにぴったりと口に貼《は》りつかれてもがいている人間。それは身に着けている水着から考えて男性、それも自分やパパやママとは肌の色の違う男性のようだった。
そういった、この島に来てから見た様々な嫌なもの――それはいつものように、けして目で見たのではなく、直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》見えたのだ、ということがドナルドには判っていた――が、さっきから閉じた瞼《まぶた》の裏側に次々に浮かんできた。脇《わき》の下にじっとりと汗をかいていた。
突然、目の中に赤黒いものが散った。その赤黒いものは、液体で、一度飛び散ってから、今度はじわりじわりと下の方へ向かって垂れはじめた。血だ、とドナルドは思った。これも、直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》見えているんだ、と感じた。次の瞬間に、その血の向こう側にママの顔が浮かんだ。そして、それは炎に包まれたママの姿だった。燃えさかる炎に体を焼かれ、ママは虚《うつ》ろな視線を宙に投げかけていた。それが見えた。思わず、ドナルドは叫びそうになった。しかし、自分にそういうものが見えたとき大声をあげると、どれほどママがびっくりして、その後で悲しむかを知っていたから、この十歳の少年は喉《のど》元《もと》までせり上がってきた声を押し殺した。直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》見えたものは、本《ヽ》当《ヽ》とは限らない。直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》見えて本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》ならなかったことだってあったんだから、と、少年は自分に言いきかせた。
それに、本《ヽ》当《ヽ》の《ヽ》ママの寝息は、すぐ近くから聞こえていた。ママは僕の隣のベッドで、ちゃんと寝ているんだ。そう実感して、ドナルドは叫ぶことも瞼《まぶた》を開くこともなく、また眠りにつこうとする努力に戻った。
「橋は落ちていた。車などの交通機関は無い。外はごらんのとおりの嵐《あらし》。そして地下のプール室には死体が一つ転がっている。それが現状ってやつだと俺《おれ》は思うんだが、反対意見はあるかね」と、ベンが言った。
「そこまでについては無い」と、戸井田が答えた。「ただ、多少なりともプラスの面を考えてみると、まず食料と水は明日一日を持ちこたえられるだけあるってことだな。水に関しては何の心配もいらないし、さっきアンと二人でキッチンに行ってみた限りでは、ムハマドはけっこうな量の食べ物を持ち込んでいるようだ。冷蔵庫も正常に作動していた。これは良い兆しと言えるだろう」
「もうひとつハッキリしているのは」と、アンが戸井田の言葉を受けた。「明日の朝になれば、ジェームス・タンが車でやって来るってことね。彼はハッキリそう言っていたんだから。そうなれば、ホテル側としても私たちを向こう側に渡すための、何らかの手段を講じてくれると思うわ」
「心配なのは電気だな」
「というと?」
「さっき橋を見に行った帰りにチェックしたんだがね」と、戸井田が説明した。「この島に渡ってきている電線は、本来は橋《はし》桁《げた》に付属して立っている電柱を伝わっていたらしい。ところが、橋桁そのものが消えちまったおかげで、電線は非常に不安定な状態で水路の上にブラ下がっている。ペンライトの光があまり遠くまでは届かなかったので、正確には水路の上で電線がどうなっているのかを見ることは出来なかったが、嵐《あらし》がこれ以上強まれば、切れる可能性もないとはいえない」
「そうなると、一番の心配はキッチンの冷蔵庫だな」
ベンが天井のシャンデリアを見上げながら言った。
「これだけ古い建物だ、照明に関しては、俺の部屋にだってキャンドルスタンドが備えてあったし、昔の方式で何とかなる。ダイニングルームには暖炉があるから、いざとなれば煮炊きにだってそれが使える。だが、気温がこう高くて湿気がひどいとくると、食べ物のいたみは早いからな。冷蔵庫がやられちまうと、救出までどのぐらいの時間がかかるか知らんが、ちょいと厄介だぜ」
「だから、夜が明け次第に、電線の補強だけはしなけりゃならんと思うんだ」
「OK、それをトップ事項にしよう。それと、外部への連絡手段だな」
「そういうことだ」と、戸井田がうなずいた。
「さてと、現実面はそれで確認し終えたとして、あと残っているのは人間関係と、それに非現実的な問題だと思うのよ」
アン・ドールトンが掌《て》を打ち合わせながらそう言うと、ベンは露骨に顔をしかめた。
「おいおい、その非現実的な問題ってのは、まさかオサムがさっき俺《おれ》に吹き込もうとした、地下のプール室に何かが巣《す》喰《く》ってるとかいう話じゃないだろうな」
「残念ながら、当たりよ」と、アンが答えた。「でも、目下はその話は後まわしにしようと思うの。このホテルの中にいる人間は八人。それに死人が一人。大切なのは、その生きてる方の八人が、どうやって無事に対岸に渡れるかってことの方だと思う。全員が力を合わせなければ、この窮状を乗り切るのは難しいと思うのよ」
「いい意見だな。全面的に賛成だ」と、ベンが応じた。皮肉な口調ではなかった。
「最も非協力的なのは、シンね。橋の様子を見に行くのも断わった。その前には、私がムハマドに救急車を呼びにいくよう伝えてくれと言ったのも断わった。それどころか、触りもせずに、あの日本人が既に死んでいると決めつけて、助けようという意志すら見せなかった。彼が今後も同じような態度をとるとすれば、問題が生じる可能性は無いとはいえないわ。それにもう一人、日本人の女性」
「彼女の名前は由利香だ」と、戸井田がフォローした。
「明らかに、精神の状態が不安定ね。単なるパニック以上の、非常に危険な、つまり精神のバランスを自分で保てるか保てないかの、ギリギリのところにいると思うの。私の専門は心理学なんだけど、ハッキリ言って、彼女は、もう一押しすれば発狂してしまうわ」
「もう一押しとは?」と、ベンが訊《たず》ねた。彼は、またブランデーの瓶に手を伸ばし、自分のグラスに、なみなみとその強い酒を注いでいた。
「例えば嵐《あらし》。例えば誰かの一言。例えば死んだ御主人の死体が腐乱していく様子を目にすること。可能性はいくらでもあるわ」
「それを防ぐには?」
今度は戸井田が訊ねた。
「本来なら、精神安定剤の定期的な投与。でも、この状況では無理だから、誰かが話しかけて少しでも心を休めること」
「話しかけるっていっても、彼女は日本語しか判らないんだろ」
「つまり、あなたにお願いしなければならないってことなのよ。ある程度までの量のブランデーは精神安定剤の役目を果たすわ。それを持って彼女の部屋を訪ねて下さらない」
「それが我々の陥っている状況を少しでも良い方向に向かわせると、君が信じているのならね」と、戸井田は答えた。
「ええ、私はそう思う。だって、それ以外の方法は思いつかないんですもの」
「このまま、つまり彼女がブランデーの酔いで眠っている状態のままで、明日の朝まで待つってことは、いけないのかね」
ベンジャミン・クーパーがそう言ったとき、アンは眉《まゆ》をひそめ天井を指さして答えた。
「聞いてごらんなさい。彼女はもう、眠っていやしないわ」
アンの言葉どおり、二階から何か物音が聞こえてきていた。天井を見上げた戸井田は、その物音が単なる足音などではないことに気付いた。
「誰かが飛びはねてでもいるのかな。いくら古いとはいっても、これだけしっかりした建物で、ただの足音がこんなに階下に響いてくるわけがない」
「シンてことはないのか」と、ベンも天井を見ながら言った。
「彼は廊下の向こうの7号室でしょう。この書斎の上に当たる部屋は、ユリカたちのスイート仕様の9号室、それとバスルームに、空き部屋になっている8号室だけよ。8号室で暴れている者がいるとすれば、それこそ、ずいぶん乱暴な幽霊ってことになるわ」
「とにかく行ってみよう」と、戸井田が立ち上がった。
「俺も行くぜ」
ベンはブランデーの瓶に手を伸ばして、そう言った。
「私も。もしかすると、彼女に関して間違った判断を下していたのかもしれない。考えてみればミスター・ヒグチが死んだとき、ミセス・ヒグチも同じ場所にいた。しかも、今になって思い出したのだけど、彼女の水着は濡《ぬ》れていたように思うわ。つまり、死んだミスター・ヒグチが経験したのと同じようなことを、彼女も味わっていたのかもしれない」
「どういうことだね」と、ブランデーを立ったままラッパ飲みで一口、胃の腑《ふ》に流し込んだベンがアンに聞いた。
「彼女は、水の中で死ななかった。ということは生かしておこうと思ったものがいた、という意味かもしれない。つまり、彼女の肉体を必要としている何かが」
「おい、俺《おれ》は前に、『エクソシスト』とか『ヘルハウス』なんていう映画を見たことがあるが、馬鹿らしくて途中で映画館を出ちまったぜ。そういった類《たぐ》いの話はだな……」
「議論は後だ。とにかく9号室に行ってみよう。ほら、音は激しくなる一方だ。このままだと、ドンがまた怖がって眠れなくなる」
戸井田がベンの腕をつかんで、ドアの方へと歩き出した。アンも羽織っていたバスローブのポケットに手を入れて、中にある物を確認してから、二人に肩を並べた。
「先に行っててくれ、俺はちょっとスーザンとドンの様子を見て、すぐに9号室へ行く」
階段を登りきったところで、ベンジャミン・クーパーはそう言った。手には、まだブランデーの瓶を下げたままだった。
「いいわ、でも、もしかすると力仕事になるかもしれないから、出来るだけ早く来てね」
「判った」と言って、ベンは廊下を右に進み、3号室の方へと向かった。
「シンはどうしてるのかしら。こんなにドシンドシン音がしているのに、9号室と隣り合った6号室にいるはずの彼が、廊下にも出てないなんて変だと思わない?」
「どっちにしろ彼とは一度話し合わなきゃならないだろうな。由利香の件が一段落したら、6号室をノックしてみよう」
そう言いながら、戸井田は騒音の響く廊下を9号室へと進んだ。アンが戸井田の手を握った。彼女の掌が汗ばんでいるのが判った。おそらく、自分の掌も同じように汗ばんでいるのだろう、と戸井田は思った。
9号室のドアは閉じていたが、その下側から、うっすらとした光が廊下へと洩《も》れ出していた。音は、さらに激しく、無秩序な間隔で室内から聞こえていた。床に震動があった。戸井田がドアをノックした。
「由利香さん、戸井田です。どうかしたんですか」
返事は無かった。その代りに、ドッドッドッという連続した音と震動が9号室の中から廊下へと響いてきた。それはまるで、9号室そのものが笑い声を立てているような感じに戸井田の耳に届いた。もう一度、ノックする。
「由利香さん、返事が無ければ開けますよ」
戸井田がそう言った瞬間に、ピタリと音が止み震動も停まった。思わず、戸井田はアンの顔を見た。
「入りましょう」
赤毛の下の、はしばみ色の目に決意を漲《みなぎ》らせながら彼女が言った。
ドアノブに手をかける。ノブは、何の抵抗も無く右へと回った。鍵《かぎ》はかかっていなかったのだ。戸井田は、アンの肩を押してドアの横の壁に張りつくように指示してから、ゆっくりとノブを引いた。
室内は、一見したところ、別に何の変った様子もなかった。そこは、スイートルームの居間の方の部屋で、室内の装飾は赤を基調にしてあり、中近東製らしい大きなシルク織りの絨《じゆう》毯《たん》から、これも絹張りらしい、二脚のラヴチェアと一脚のアームチェアといった調度も、すべて真紅に近い色で統一してあった。
天井から下がっている、ネオ・ロココ様式のシャンデリアの明かりが三分の一に絞ってあって、そのぼんやりとした光が、赤ずくめの室内を照らし出していた。由利香の姿は、そこには無かった。
「君が彼女を連れてきたときと、何か変っているところは?」と、戸井田が訊《たず》ねた。
アンは室内を見回し、かぶりを振った。
「別に、さっきのままだと思うわ。いえ、ちょっと待って」
そういうと、彼女はドアから見て右手の方の壁に押しつけるようにして置かれている、ウォールナット製の、天板に大理石を用いた、大きな鏡つきサイドボードの方に歩み寄った。
「変ね、これは確か、さっき来たときにはドアの横に置いてあったような気がするんだけど」
「まさか。いくら何でもそれは勘違いだろう。このサイドボードは、どう見たって重さ百キロじゃきかないぜ。由利香が急に思い立って部屋の模様替えをしたとしても、彼女一人で動かすのは無理だ」
「そうね、ハッキリ覚えているわけではないし、多分、私の思い違いね」
「彼女はどこにいるんだろう」
「左手の方が寝室よ。私が部屋を出たときは、寝室のベッドの中にいたわ」
「行ってみよう」
もう一度、グルリと居間の中を見回してから、戸井田は真紅の絨《じゆう》毯《たん》を踏んで、居間と寝室を隔てるドアの方へと向かった。
そのドアにも、鍵《かぎ》はかけられていなかった。ノブを回して手前に引く。ドアは軋《きし》みの音も立てずに開いた。
寝室の中は暗かった。居間から差し込む光で、天《てん》蓋《がい》付きのベッドに横たわっている由利香の顔や体が、ぼんやりと見てとれる程度であった。彼女はベッドカバーを取り去った状態の、これも真紅の絹で作られているらしい、羽根布団の上に身を横たえ、目を閉じていた。全裸だった。
「君が、あの格好に?」
思わず目をそむけてアンの方を向きながら戸井田が訊ねた。
「まさか! 私はちゃんと彼女のスーツケースから出した白いネグリジェを着せて……」
アンがそこまで言ったとき、居間の方から「バタン!」という大きな音がした。開け放したままにしておいた筈《はず》の廊下へ通じるドアが閉ざされていた。居間のシャンデリアが、二、三度明滅した。それから、急にカッと光量を増した。
「何だ、これは」
「来るわよ、伏せて!」
アンがそう言った瞬間、居間のテーブルの上にあった丈の高いヴェネチアン・グラスの花瓶が、パーンと音を立てて弾けた。美しい曲線を組み合わせて形づくられていたその花瓶の脚部の、チューブ状のガラスが砕けて、戸井田とアンのいる位置をまるで狙《ねら》いすましたかのように、連続して飛来してきた。
「くそっ!」
そう叫んだものの、戸井田はアンと折り重なるようにして床に伏せるのが精一杯だった。
カンカンカン、と音を立てて、先端の尖《とが》ったガラスチューブが、戸井田たちの頭上を飛び、壁に当たって散った。頭を抱え込むようにして床に伏せている二人の背中や頭に、細かいガラス片が降り注いだ。戸井田は、アンの体を抱いて、横に転がった。花瓶の上部のチューリップ状に開いた薄いガラスが放物線を宙に描いて飛び、いましがたまで戸井田とアンが伏せていた場所の上空に当たる空中で、パン! と割れた。
「何なんだ、これは。まるで僕たちを狙ってきているみたいな飛び方をしている」
「狙ってきているのよ」と、アンが答えた。
真紅色の絹張りのラヴチェアが、ゆっくりと動きはじめた。最初は左右の震動。そして上下動。やがて、そのラヴチェアは、スッと空中に浮かんだ。床から十センチほどの高さに持ち上がり、そして、戸井田とアンを目がけてスルスルと宙に浮いたまま動きはじめた。ラヴチェアは、二人が身を寄せている寝室と居間を隔てる壁に近づくにつれ、加速度を増した。戸井田が、さっきとは逆、元いた方向に体を横転させる。抱きかかえられたアンの体も、それと一緒に移動した。
「アウチ!」と、アンが悲鳴をあげた。先程の、花瓶のガラスの破片が、バスローブから剥《む》き出しになったアンの臑《すね》に刺さっていた。と、思う間も無く、ラヴチェアは一度壁に激突してから方向を変え、二人のいる場所目がけて飛びはじめた。
「こんなもの!」と叫んで、戸井田が立ち上がる。そのまま、体を後ろ向きに反転させて、両手を床に突き全身の力を二脚に込めたカンガルー式のキックを、飛来してくるラヴチェアに叩《たた》き込んだ。その一撃で絹張りの椅《い》子《す》は、廊下側の壁まで吹っ飛んでドンと床に落ち、動かなくなった。
「お見事!」とアンが言った。
「足は大丈夫か」
「たいしたことない。薄いガラスだからね。でも、次はもっと破壊力のあるものが襲ってくるわよ」
臑《すね》に刺さったガラス片を手で払い落としながらアンが言った。右足から、幾筋かの血の糸が流れている。
「これは、一体どういうことなんだ」
「ポルターガイスト現象」
アンが壁にぴったり背をつけながら言った。「心霊現象の中では、最も直接的に人間に影響を与えるパターンのもの。普通は、初潮前の少女の不安定な心理が引き起こすと考えられている。だけど、いま私たちが体験しているのは、明らかにそうじゃないわね。もっと別な、霊的存在によって、それも意図的に起こされている」
「そいつは誰だ?」
「判らない。でも、私の直感から言うと、これを操っているのは、女性よ」
「由利香が?」
「もしそうだとしても、彼女は単なる媒体。パワーの源は別な存在」
ズズッ、ズズッ、という音が聞こえはじめた。居間のシャンデリアが、再び明滅をはじめ、スッと光量が落ちた。完全に消えたわけではない。ただ、シャンデリアに備えられている八個の電球それぞれの光量が、半分以下に落ちたのだ。
「電圧が……」
「下がっているわね」
「橋のところの電線に何かあったのだろうか?」
「違うと思う。心霊現象が電気器具に影響を与えるケースは少くないわ。霊的エネルギーの主体は電磁波だという学者もいる」
「それにしても、あの音は?」
何か重いものが床の上を引きずられるような、ズズッ、ズズッという音は、さらに大きくなっていた。
「寝室の中からだわ」
「居間の中を見張っててくれ。また椅《い》子《す》だのガラスだのが飛んできてはかなわない」
そういうと、戸井田は赤い絨《じゆう》毯《たん》の上をゴロゴロと転がって、開け放されたままの寝室へ通じるドアの横へと移動した。片《かた》膝《ひざ》を床についた中腰の姿勢のまま、ドアの中をのぞく。
天《てん》蓋《がい》つきの大きなベッドが、由利香の体を乗せたまま、ゆっくりとドアの方向へ床の上を滑ってきていた。由利香は相変らず目を閉じたまま横たわっていた。
だが、戸井田は、ほんの一瞬だけ、その由利香の体とダブッて別な女性の姿を目にしたように思った。それは白いレースのリボンの付いた平たい帽子をかぶり、首に幾重にもなった真珠のネックレスを巻きつけた、ドレープの効いた赤いロングドレス姿の、西洋人の中年女性だった。彼女は、由利香の体に重なるようにして、上半身をベッドの上に起こしていた。
「誰だ、お前は!」と、戸井田は叫んでいた。しかし、その声が戸井田の口から出たときには、既にその白人の中年女性の姿は、かき消えたように見えなくなっていた。
「どうしたの?」
「誰かがいた。女だ。西洋人の、帽子をかぶった女」
そう言ってから、戸井田は寝室の中で、ベッドの動きが停止していることに気付いた。
「電気が……」と、アンが天井を見上げた。
「元に戻ったわ」
そのとき、今度は廊下に通じるドアを激しくノックする音が聞こえた。
「どうした? ここを開けろ! 中で何が起こっているんだ」
「ベンだわ」とアンが言って、壁際から体を起こすと、油断なく室内に目を配りながらドアの方へと向かった。内側のノブを回すと、ドアはあっさりと開いた。
「何をしてたんだ、何《な》故《ぜ》ドアをロックした」
真赤な顔をして、ベンジャミン・クーパーが廊下に立ちはだかりながら、大声で言った。
「ロックなんかしなかったわ」
「しかし、俺《おれ》が開けようとしたが、ノブが回らなかったぞ。うわあ、こりゃどういうことだ。まるで地震でも来たみたいだな」
ひっくり返って壁際に転がっている赤いラヴチェアと、散乱するガラス片を目にしたベンが言った。
「言ってもどうせ信じてもらえないだろうが……」
戸井田が両手をパンパンとはたきながら、呟《つぶや》くように言った。
「その椅《い》子《す》は、僕たちを狙《ねら》って飛んできたんだ。ガラスの花瓶も同様さ。アンが脚に怪我をした。ムハマドに薬を貰《もら》おう」
「ちょっと待てよ、何があったかの説明が先だぜ。それに、日本人の女性はどうしてるんだ。床の上を跳ねまわってたんじゃないのか」
「彼女は寝てるわ」と、アンが答えた。「物音は彼女が立てたんじゃないらしいのよ。説明は……難しいけど」
「それでも、一応は説明してもらいたいもんだな。椅子が宙を飛んだとか、そういう訳の分からん表現ではなくてだ」
「でも、それ以外に説明のしようが無いのよ」
「俺は納得しないぜ。ただでさえ、こんな予定外のホテルに泊まらされ、車も無く、外は大《おお》嵐《あらし》で、おまけに橋が落ちて外部との連絡は取れない。そこへもってきて、地下のプール室には死体だ。その上今度は、椅子や花瓶が宙を飛んだだと? もう沢山だ。一つぐらい俺に納得のいく説明をしたらどうだ」
「ベン、あんたは怖がってるのか」
アンに手を貸して肩を支えながら、戸井田が言った。
「怖がってるって? 誰が? 俺がか」
「まるで怖がってるように聞こえるよ、いまのあんたの言い方だと」
「冗談だと言いな。それなら許してやる。だが、本気で、ベンジャミン・クーパーを臆《おく》病《びよう》者《もの》と呼んだとなると、ただじゃすまないぜ」
「やめて! ここであなた方が言い争って、一体何の解決になるというの」と、アンが叫んだ。「どうして現実的な解決方法の方に目が向かないの」
「俺が現実的な物の考え方をする人間だからだ。いいか、正直に言えよ。誰がその花瓶を壁に投げつけたり、椅子をひっくり返したりしたんだ。ここには俺たちの他に誰かいるのか」
「いるのよ」
毅《き》然《ぜん》とした声でアンが言い放った。
「さっき私が説明しようとしたとき、あなたは耳を貸そうとしなかった。その前にオサムが話しはじめたときも、そうだった。今までは無用な軋《あつ》轢《れき》を避けるために、そのことには固執しないできたけれど、もう言わせてもらう。この建物、そしてこの島全体が、呪《のろ》われた場所なのよ。私たちの生きているのとは別の世界が、ここには重なり合って存在している。そして、日本人をプールで殺したのも、オサムを溺《おぼ》れさせようとしたのも、これからユリカの体を使って何かをしようとしているのも、みんなその別な世界に住む連中の仕業なのよ」
「その連中が花瓶を放り投げ、椅子を振り回したってわけか。ずいぶんと力持ちなんだな」
「物理的な力関係は心霊の世界では無意味なもの。そういった力は、思念の強さによって発揮される度合が変わる。筋力とは関係が無いのよ」
「それじゃ、せいぜいその幽霊だか妖《よう》精《せい》だかと仲良くなって、無限の力で橋の架け直しでも頼むんだな。俺《おれ》はもう寝るぜ。今夜は、どんなことがあってもドアはノックしてくれるな。たとえ幽霊が一個連隊、骸《がい》骨《こつ》馬《うま》に乗って喇《らつ》叭《ぱ》を吹きながら登場してもだ」
そう言うと、ベンジャミン・クーパーは憤然と廊下を歩き去って行った。
「どうせ判ってくれるとは思わなかったけど」と言って、アンは肩をすくめた。
「いや、概《おおむ》ねは判ってるんじゃないだろうか。だからあんなに怒るんだ。自分が、内心で認めたくないものを認めようとしているのに気がついているから、彼は半分は自分自身に対して怒ってるんだと思うよ」
「とすると、それが裏目に出なければいいんだけど」
「裏目って?」
「妙に好奇心をそそられて、プールを調べに行くとか、そういうことよ」
「それはありえないだろう」と、戸井田は首を横に振った。「ベンは、今夜は妻と息子の側から離れないに違いないさ。君の言ったことを内心認めているとすれば、なおさらそうする筈《はず》だ」
「だといいけどね」と、アンは廊下の方を見やりながら溜《ため》息《いき》に似た声を洩《も》らした。
「おいおい、頼むよ。今夜ここに泊まっている人間の中では君が一番の頼りなんだからな。朧《おぼろ》気《げ》ながらも、僕らが相手にしようとしているのがどんな連中かという知識は持ってるし、おそらくは対処の方法も思いついてくれるんじゃないかと期待してるんだぜ」
「あんまり期待されても困るわ。私は聖職者でも本格的な霊能者でもないのよ。単なる心霊現象マニアみたいなもの。それに、ここに溢《あふ》れているマイナスの気は、私一人ではとても太刀打ち出来ないほどの強さなのよ」
「でも、さし当り何をすればよいかは考えているんだろう」と、戸井田は励ますように言った。
「そうね、まずユリカに何か着せなきゃ。それから、この部屋の中を調べて、彼女に何が起こったのかを推理してみる。どうもプールや、ここに上がってきて寝かしつけているときの様子と、さっきのポルターガイスト現象のパワーとは結びつかないような気がするのよ。もしかすると、この部屋に彼女に影響を与えた原因があるのかもしれない」
「たしかに……」と、室内を見回しながら戸井田も頷《うなず》いた。「この真赤ずくめのインテリアは、いささか極端だものな」
「呼ぶまで待っててね。とにかく服を着せるから」
そう言って、アンは寝室に入って行った。戸井田は花瓶の破片が散乱している壁際に歩み寄って、散らばっているガラス片を手に取って眺めた。どれも、もし肌に触れていれば深い傷を残すであろうほど、鋭利な割れ方をしていた。それを見て、やっとアンが脚に怪我を負っていたことを思い出した。
「アン、君の足の怪我は……」
思わず寝室のドアをくぐってそう問いかけた戸井田の目に映ったのは、部屋の中央部まで迫り出してきたままのベッドの傍らに立って、呆《ぼう》然《ぜん》と奥の壁に掛けられた絵画を見つめているアン・ドールトンの姿だった。ベッドの上では、由利香が相変らず全裸のまま、目を閉じていた。
「アン、どうしたんだ、アン」と言って、戸井田は一足飛びに彼女の脇《わき》に立つと、背中をドンと叩《たた》いた。その衝撃で、アンはハッと我に返った様子を見せた。
「私、どうしてたの」
「ボンヤリと、その絵を見つめていた。まるで催眠術にでもかかったみたいだったぜ」
「そう。やっぱり、多分これが、あのパワーの源だと思うわ」
アンの言葉に絵画に目をやった戸井田が、今度は凍り付いたようになった。そこに描かれていたのは、レースのリボンをあしらった鍔《つば》広《びろ》のストローハットをかぶり、真紅のシルクの古風なドレスの上に、ジョーゼットのドレープの効いたオーバースカートを着け、長い首に四重に真珠のネックレスを巻いた、美しい、しかし鋭い目をした中年の白人女性だった。彼女は右手を腰に当てて、ちょっとスカートを引き上げるようなポーズで、夕陽の草原を背景に立っていた。
「それが僕の見た女だ」
戸井田がそう言った瞬間に、窓の外に凄《すさ》まじい稲光と雷鳴が走った。室内の総てのものが色彩を失い、さしもの真紅で統一された部屋の中が、モノトーンの風景となってしまうほどの、強烈な閃《せん》光《こう》だった。
「由利香の体にダブるようにして、その女がいたんだ。一瞬で見えなくなったけど」
「この強烈な波動は何? どうして、たかが油絵から、こんなエネルギーが出るの」
両手を胸の前に真直ぐに伸ばし、掌を絵に向けるように突き出したアンが言った。
「彼女を連れ出さなきゃ。とてもここには置いておけない。この肖像画は、すごいマイナスの気を出している。お願い、オサム、彼女を、ユリカを抱いて部屋から出て」
「僕が?」と言って、思わず戸井田はベッドの上の由利香の体に目をやった。長い髪が枕《まくら》から広がっており、色白な水着の形の地肌と、それとは対照的に焼き込んだ手足や肩の肌が、奇妙な印象を与える。股《こ》間《かん》の翳《かげ》りが、そのコントラストにはさまれるように、浮き上がって見えた。
「早く、連れ出すのよ」
アンが右手の手首を左手で握って、前に突き出しながら、叫んだ。
「早くしないと、また始まるわ」
居間の方で、何か家具が震動するような音がした。音からすると、それはあの大理石を貼《は》った重そうなサイドボードのようであった。戸井田はベッドの下に落ちていた白いネグリジェを拾い上げ、それで由利香の体を包むようにしながら、横抱きにした。力を失った彼女の肉体はズシリと重く、そして、一時間ほど前に地下の室内プールで体を搦《から》めてきたときの肉感を思い出させた。
「行くぞ!」と、叫んで戸井田は寝室から駆け出た。それと同時に、アンはバスローブのポケットの中で、親指で蓋《ふた》を捩《ねじ》り開けておいた聖水のプラスチック瓶を、素速く取り出し、肖像画に向かって振りかけた。
が、その瞬間に、総ての窓が閉じてある筈《はず》の寝室内に、どこからともなく一陣の激しい風が吹き込み、聖水は空しく宙に散って、赤い絨《じゆう》毯《たん》を濡《ぬ》らしただけだった。
「SHIT!」
そう呟《つぶや》いて、アンも身を翻し、ベッドを飛び越えてドアをくぐり抜ける。
あの重たげな鏡付きのサイドボードが壁際で揺れていた。いまにも浮き上がりそうに、上下左右の細かな震動を繰り返しているのを横目で見ながら、アンは廊下へ通じるドアへと走った。由利香の体を支えながら、戸井田がドアを体で押さえていた。
「出るんだ、あのサイドボードにぶち当たられたら只《ただ》事《ごと》じゃすまないぞ」
まるでその言葉が聞こえたかのように、サイドボードは壁際を離れて、ドアの方に向けて床の上を滑りはじめた。徐々に加速度を増して進んで来る重いサイドボードと競走する形で、アンは廊下へと走った。
「閉めろ!」
戸井田が叫ぶのと同時に、アンは半開きになっていた扉に体をぶつけるようにして、それを閉じた。サイドボードは、不思議なことに、その横幅がドアの隙《すき》間《ま》を通り抜けられないと自分で判断したかのごとく、前進をつづけながらクルリと縦に向きを変えた。サイドボードの奥行はドアのそれよりも狭く、重量から考えて、そのままの勢いで激突してくれば、扉のオーク材が持ち堪《こた》えるのは無理だと思われた。扉が閉じる瞬間に、横向きにサイドボードが回転するのを目にしたアンは、バスローブのポケットから塩の入ったポリ袋を取り出しながら、ノブを捻《ひね》った。
「何をする!」と戸井田が叫んだ。
アンは開いたドアの内側に、床に一列の筋を作るようにして塩を撒《ま》くと、またすぐにドアを閉じた。
「押さえて!」
アンの言葉に、戸井田は由利香の体を抱いたまま、背中からドアに体当たりした。アンも渾《こん》身《しん》の力でドアを押した。衝撃が来た。だが、それは予想していたような、あの重いサイドボードが猛スピードでドアにぶち当たったものではなかった。扉は一度揺れた後、もう動こうとはしなかった。
「どうなっているんだ」
「成功したのよ。今度は塩が効いたんだわ。あのサイドボードを操っていた力が、床に撒いた塩の線で遮られたの。だから、押していた力を失ったサイドボードは、惰性だけで扉に当たった。そして今では、逆に内側から扉をブロックしてくれる役目を果たしているわ」
「これからどうすればいいんだ」
「とにかく、この9号室に結界《バリヤー》を張るわ」
「結界《バリヤー》? それであのエネルギーをここに閉じこめることが出来るのか」
「分からない、やってみなければ。それに相手の正体も定かではないから、どういう類《たぐ》いの結界《バリヤー》を張れば効果があるのかも。とにかくやってみるしかないわ」
「何が必要なんだ」
「赤い糸。お酒、それも透明な蒸《じよう》溜《りゆう》酒《しゆ》。あとは、そうね多分、若くて細い竹を四、五本と白い紙。塩と聖水は手元にあるから、それだけ手に入れてくれない」
「そいつは、一体どういう宗教のやり方なんだい」と、戸井田は呆《あき》れ顔でアンに訊《たず》ねた。
「知らないわ、いままでに本で読んだことのある、西欧や東洋の結界の張り方を適当に混ぜてみただけよ。でも、何もしないよりはマシでしょう」
「それはそうだが」
そう答えてから、戸井田は、腕が中の由利香の重みに堪えきれなくなってきていることに気付いた。
「彼女はどうする?」
「空いている部屋へ、そうね、8号室ではここに近すぎるから、あなたの隣の5号室に運びましょう。ムハマドに鍵《かぎ》をもらってきて頂《ちよう》戴《だい》」
「それまでは僕のベッドにでも寝かせておけばいいのかな」
「好きにして。とにかく、鍵とさっき言ったものを急いで手に入れて」
「分かった」と答えて、戸井田はまず由利香を自分に宛《あ》てがわれた6号室へと運び、ベッドに横たえた。腰の辺りはネグリジェで巻いてあったが、水着の跡の白い胸は剥《む》き出しだったので、出来るだけそこからは目を逸《そ》らす努力をしながら、シーツをかけた。廊下に出ると、アンは9号室のドアの前にしゃがんで、そこに塩を盛っているところだった。
階下に下りてムハマドを探す。キッチンの奥の部屋まで行こうと、ダイニングルームの扉を開いたところで、暖炉の前の床にペタリと座っているマレー人の姿を目にした。暖炉には、火が入れられていて、その炎の反射が電灯の点《つ》いていないダイニングルームの中で、ムハマドの横顔を照らしていた。
「ムハマド、そこにいたのか。頼みがあるんだ」
「二階で何がありました? あの怖しい物音は一体何だったのですか」と、先刻よりも猶《なお》一層、目が落ち窪《くぼ》んでしまったような顔で、その年老いたマレー人は訊《たず》ねた。
「説明している時間は無い。これから言うものを揃《そろ》えてくれ。書斎のバーにジンかウォッカはあるか」
「ございますが」
「それを二階へ持っていってくれ。あとは糸だ。赤い糸。このホテルの庭に竹の生えているところは?」
「キッチンのドアを出てすぐ裏が竹林です。糸は赤でなければいけないので?」
「そうだ。すぐ戻るからアンに届けておいてくれよ。それと5号室の鍵《かぎ》だ」
そう言うと、戸井田はキッチンへ入り、作業テーブルの脇《わき》に差してある何本かの庖《ほう》丁《ちよう》の中から、一番重量がありそうな、片刀《ピンタオ》と呼ばれる中華料理用の角張った刃のものを選んで手に取った。キッチンから外へと通じるドアは流し台のすぐ脇にあって、この建物には珍しいスチール製の扉となっていた。最近、白ペンキを塗り直したらしい、その扉の閂《かんぬき》錠《じよう》を開けて外へと出た。途端に、また激しい雨が顔を叩《たた》いた。ポケットからペンライトを抜き出し、周囲を照らしてみる。ムハマドの言葉どおり、ドアから二メートルも離れていないところに、深い竹林があった。竹林に入り、片刀を振るって若そうな竹の枝を何本か切ると、あわててキッチンに駆け戻った。せっかく乾きかけていた衣服が、また芯《しん》までズブ濡《ぬ》れとなってしまった。
「ムハマド、いるのか」
ダイニングルームに戻りながら、戸井田が声をかけると、ロビーからのっそりと彼が姿を現わした。
「ジンと赤い糸はどうした」
「二階にお届けしてきました。ドールトン様は、あそこで何をしておいでなのですか」
ムハマドの声は凍りつきそうに冷たく聞こえた。
「何って、つまり、ある種の宗教的な儀式をしようとしているらしいんだ。僕にも詳しいことは判らんが」
「無駄だと思います」
マレー人の老ウェイターは、彼には珍しいキッパリした口調でそう言った。
「過去にも、そういうことをやろうとした人はいました。でも総て失敗しました。封じ込めようとしても無意味なのです。私たちに出来ることは、それぞれが自分の身を護るだけ。それも今回は、うまくいくかどうか。なにしろ、既に一人、亡くなってしまっているのですから」
「それはどういう意味だ、おいムハマド、お前はこの島や屋敷について、何を知っているんだ」
戸井田の問いには答えず、ムハマドは、先程と同じような冷たい声で一言だけ言った。
「相手は手に入れた駒《こま》を使ってきます」
「何が言いたいんだ」と戸井田が叫んだとき、ムハマドはスッとダイニングルームの扉の前から姿を消した。駆け寄った戸井田が、ロビーを見回しても、ムハマドの姿はもう何《ど》処《こ》にも見えなかった。
二階に上がり9号室の前まで行くと、アンは赤い糸をドアの外側に斜めに張りめぐらせているところだった。ドアの下には二ヵ所に盛り塩がしてあり、正面に小さなグラスに入れた透明な液体が置かれていた。それがおそらくムハマドが運んで来たジンなのだろう。
「竹を持ってきた」
「ありがとう」と、アンが答えた。「そこに置いてくれる、ドアをそれで封印するから」
「白い紙は僕の荷物の中に入っているからいま持って来る。5号室の鍵《かぎ》は?」
「ムハマドが開けておくと言ったわ」
「奴《やつこ》さん、他に何か言わなかったか」
「別に。どうして」
「気になることを言ってた。結界なぞ張っても無駄だとか、過去にもそういうことをやった人間がいたとか」
「彼とは話さなければならないようね。この邸《やしき》に関する情報を得るためには、ムハマドに本音を吐いてもらう必要があるわ」
「いま僕に出来ることは?」と、戸井田が聞いた。ドアの四隅に聖水を振りかけながらアンが答えた。
「ユリカを5号室に移してくれる」
「それはいいが、彼女は、その、まだ何も着ていない状態なんだけどな」
「それがどうかしたの。彼女の心はいまはこの世界にはないわ。だから、ただの物体だと思えばいい。そう考えて運ぶのよ」
「分かった」
廊下を辿《たど》り、先に5号室のドアを開いた。鍵《かぎ》はキーホールに差し込まれたままになっていた。それから、自分の7号室に行って、ベッドの上の由利香の体を、シーツごと抱きかかえる。ぐったりとした意識の無い由利香を抱いて、戸井田は5号室へと歩いた。部屋は6号室とほぼ同じ構造で、相変わらず黴《かび》臭《くさ》い匂《にお》いがした。ベッドのカバーを取って、由利香の体を横たえる。気温は三十度近くあると思われたから、毛布はかけず、シーツでくるんだままの彼女を残して、戸井田は5号室を後にしようとした。
ドアを閉じようとしたとき、誰かが自分に声をかけたように思った。ベッドの上の由利香に目を走らせたが、彼女はじっと目を閉じたままだった。神経が過敏になっているのかな、と考えて、戸井田はドアを閉じ、廊下の突き当たり、9号室のドアのところにいるアンの方に歩いて行った。
アン・ドールトンは、戸井田が切ってきた竹の枝を、扉に粘着テープで張りつけ終えたところだった。その竹にプラスチック容器の聖水を振りかける。
「紙は?」
「こんなものでいいかな」と言って、戸井田は部屋から持ってきた白いメモ用紙をアンに渡した。アンが、その紙を細長く千切ってドアにぶっちがいに張り巡らせた赤い糸に吊《つ》るす。
「そいつはずいぶん日本的な眺めだな。日本では新しい家を建てるときに、そういった形の枠取りをするぜ」
「元は中国よ。中国では紙と、そこに書かれた文字が魔を押さえるという考えがあるの。元は道教の考えだと思うけど、でも、同じようなことは、チベットやネパールでもするわ。ボルネオの墓地も、白い紙や布で護られている」
「その紙や酒や糸が、あの絵の女を9号室の中に封じ込める力があると信じているのかね」
「希望してるのよ。でも、少くとも清めた塩がサイドボードに何らかの抑止力を与えたのだから、こういった古典的なやり方が、効果を発揮しないとは言い切れない」
「5号室はどうする? 由利香は寝かしてきたが」
「一応、扉の前とベッドの四方だけ、塩で結界を張っておきましょう。彼女の精神が一体何《ど》処《こ》にあるのかは、私たちには判らないのだから」
「それと君の足の傷の手当てだ。僕の荷物の中に救急箱があるから消毒だけでもしておいた方がいい」
「そうするわ、それから、これで一杯やりながら……」と言って、アンは扉の傍らに置いてあるビーフイーターの瓶を取り上げた。「今までに起きたことを、もう一度分析してみて、この先の対策を立てましょう。まったく、とても素面《しらふ》ではここのマイナスの気に立ち向かう勇気なんか出やしない」
3号室のベッドの上で、ベンジャミン・クーパーもアンと同じことを呟《つぶや》いていた。
「まったく何てことだ。とても素面でやってられるものか」
そう言うと、オーストラリア人の大男はブランデーをグラス半分ほどまで、ドボドボと注ぎ足した。瓶の中身は、もう残り四分の一ほどになっていた。
枕《まくら》を立てて、それに上半身を寄りかからせた姿勢で、ベンはグラスを傾けた。液体の熱い感触が喉《のど》を焼いた。それで少し心が落着いた。グラスを目の前まで持ち上げ、それ越しに隣の部屋へ通じるドアを眺める。ドアは閉ざされていて、その向うで眠りについている母と息子の寝息は、ベンの耳には届いてこなかった。
こんなに深酒をするようになったのはドナルドが生まれてからだ、と、ベンは毎日深夜になると訪れてくるおなじみの思念にふけっていた。胃が少し痛んだ。
正確にいえば、とベンは思った。ドナルドが生まれて三ヵ月後の、医師の最終的な宣告を聞いた日の夜からのことだ。残念ですが貴方の息子さんは、やはり重度の障害を持つ身体《からだ》だと認めざるを得ません。ミトメザルヲエマセン、ミトメザルヲエマセン、ミトメザルヲ……。勝手にしろ。ベンは、またブランデーをグラスに注いだ。認めざるを得ないのならさっさと認めろ。それとも、俺《おれ》にも何かを認めろというのか。ドナルドの障害が俺のせいだということでも認めろと? 医師にそう告げられたわけではなかった。ドナルドが生まれて十日目に、ミルクの飲みが悪い、もしかすると正常な育ち方をしないかもしれないと言われて、自分なりに、図書館に通って新生児の先天的異常に関する本を読みあさった。すぐに、ダウン氏症候群《シンドローム》という名に行き当たった。そして、その病名の由来は一説によると“DOWN”つまり風下という意味であるということも。アメリカのネバダ州の核実験場の風下に当たる地域で、この染色体異常による障害児の出生率が高いことから、そう呼ばれるようになったのだという説をとなえる人がいるということも。そして、ベン自身の若いときの記憶が甦《よみがえ》った。志願して入った軍隊でやらされた、オーストラリア北部の核実験場での作業。簡単な防護服と木綿のマスク、軍手といった格好で行った、あの倒壊家屋の撤去作業の結果が、自分の染色体に何らかの影響を与えて、ドナルドをああいう子供にしたのか。
認めたくはなかった。間接的な放射能被《ひ》曝《ばく》の影響は八年から十年後に白血病などの形で出るということも知った。いっそ、自分がそうなった方が良かったとも考えた。ドナルドが生まれたのは、あの作業から二十年後だった。その前に自分が白血病で死んでしまっていれば。このことはスーザンにも話していない。話しようが無いではないか。話すことは、認めることだった。医師は新生児の六百人に一人ほどが、この障害を持っている可能性があると言った。地球上に住む人間の六百人に一人ずつが核実験の後始末に参加したわけではない。
認めたくはなかった。それでも、後悔は毎夜決まって訪れてきた。昼間は考えずにすむ。ドナルドの顔を見ていても、考えないでいられた。だが、夜になって一人きりで部屋にこもると、それ以外のことを考えるのは不可能だった。だから、と、ベンは今夜も自分に言いきかせた。とても素面でやっていられる訳がないじゃないか。心の中でそう呟《つぶや》いて、ベンジャミン・クーパーは、グラスのブランデーを一気に呷《あお》った。
洗面所から持ってきたグラスにビーフイーターを注ぎながら、7号室のアームチェアに腰かけたアン・ドールトンは、ちょっと顔をしかめた。
「この建物の中は、どの部屋も黴《かび》臭《くさ》いのね」
「この湿気だからな、ま仕方ないさ」
そう答えながら、戸井田はバックパックから取り出したプラスチック製の救急箱をアンに手渡した。
「消毒液と脱脂綿、塗り薬、それにバンドエイドもまだ何枚か残ってる筈《はず》だ」
「ありがとう、もう血は止まってるから、消毒だけでいいと思うわ。あなたも一杯やらない?」
「頂くことにするよ」と言って、戸井田はバックパックの外側のフックに吊《つ》るしてあったホーロー引きのカップを差し出した。
「まず、あの9号室の寝室にかかっている絵のことなんだが」
ストレートのジンを啜《すす》りながら、戸井田がそう切り出した。
「君が由利香をあの部屋に連れて行って寝かせたときは、別に奇妙な感じは受けなかったのかい」
「何も。第一、あそこの壁にあんな絵がかかっていることさえ気が付かなかったわ。勿《もち》論《ろん》、あることはあったんでしょうけれど、何の気配も感じなかった。つまり、ただの油絵だってことね」
「それが何《な》故《ぜ》、君の言い方を借りれば、強いマイナスの気というやつを発揮しはじめたんだろう。あんな風に家具を動かしてしまうほどのパワーを」
「触発された、としか考えられないわね。ユリカがあの絵に影響を及ぼしたのよ。彼女か、彼女の心に入り込んだ何かが」
「こういうことは考えられないかな」と、また一口ジンを啜《すす》って戸井田が言った。「僕自身にはよく判らないんだが、僕の祖母なんかから子供の頃に聞いた話だと、日本では、例えば邪悪なもの、怖ろしいものを、聖人が何かの形で封じ込めてしまうんだそうだ。大きな岩だとか、神社を建てるとか、そういう方法で世に出てこないように封じ込めてしまう。その手の言い伝えのある場所は、結構日本の各地にあるらしいんだな」
「それなら、世界中にあるわよ。つまり、あなたが言いたいのは、あの絵も何かの方法でパワーを封印されていた。それを彼女が破ったということ?」
「彼女なのか、彼女の体を借りた、あのプールの中に潜む何らかの存在が、ということなんだけどね」
「だけど、彼女が何らかの物理的な影響、つまり封印の紙を破るとか、そういった意味だけど、それをした様子はなかったわね」
「となると、お手上げだな。日本の民話なんかでは、岩で封じてあったものを解き放ってしまっても、また同じところへ戻して岩を乗せれば一巻の終りっていう風になるんだが、何があの絵のパワーを解放したかが判らないんじゃ仕方ない」
「あれは、おそらくケペル卿《きよう》の夫人じゃないかと思うの。あそこの部屋自体が、以前はケペル夫人の居室だったんじゃないかしら」
「ああ、それは僕も考えていた。部屋の造りからいっても、そんな感じだしね」
「その部屋に肖像画がかかっている。それが急に強いマイナスの気を出しはじめた。そこから一足飛びに、何かの解決法が見えてきそうなんだけど、残念なことに、頭がうまく働いてくれないのよ」
「何か忘れていることがあるっていう意味かい」
「ええ、あなたはムハマドが、過去にもこの霊を封じ込めようとした人がいた、と言っていたって教えてくれたわね」
「しかし、それはうまくいかなかったとも奴《やつこ》さんは言ってたぜ」
「全部が全部、失敗に終ったとも限らないわ。現に、さし当って私の張ったいい加減な結界のおかげで……」と言って、アンは廊下の方に首を傾けて耳を澄ます仕草をしてみせた。「なんとか9号室の中にパワーを封じ込めておけているんですもの」
「このままで何とかなるのかな」
「それは判らないわ」
アン・ドールトンはグラスを手の中で神経質にクルクル回しながら、そう言った。
「悪霊的なもののパワーが一番強まるのは、普通考えられているような真夜中ではないの。夕暮れの直後と、夜明けの前が、一番危ないのよ」
戸井田は思わず左手首の時計に目をやった。シチズンの電池式デジタル防水時計は、時刻が夜中の十二時に近いことを示していた。
「夜明けは午前六時半頃だ。そういう意味では、まだ時間はあるが」
「逆に夜明け前さえ何とか持ち堪《こた》えられれば、その先は私たちに有利ということね。今日も日が落ちるまでは、気配だけで直接的な現象は何も起きなかったのだから」
「プールの方はどうなんだろう」と戸井田が疑問を口にした。「僕たちは日が暮れてからしかプール室に入らなかった。あそこにいた連中も日中は穏やかにしてるんだろうか」
「おそらくは水にさえ入らなければ、手が出せないんだと思う。それに、地下室とはいっても、天井に明り取りのガラス窓はあったしね」
「水の中でしか人間に影響を与えられない存在。そりゃ一体どういうものなんだ」
「分からない。でも、この邸《やしき》、そしてこの島では、ずいぶん沢山の人が死んでいるんだと思うの」
「何《な》故《ぜ》そんな風に思うんだい」
戸井田は、いぶかし気にアンを見つめた。
「島に渡ってきたときから、ずっと誰かが私に話しかけてきていたわ。何を言っているのかは判らないけど、次から次へとひっきりなしに」
「それが、例の9号室の絵の夫人だと思うかい」
「いいえ、あれとはまるで違う、もっと弱い気よ。思念エネルギーは、単なる残留してるものみたいな感じで、個々にはずっと弱い。ポルターガイスト現象を引き起こすようなパワーは無いわ。ただ、思念の方向性がどれも同じなの。つまりその……うまく言えないけど、共通の怨《うら》みを持っているというか、そういうマイナスの気の集合体があるのよ」
「この島と邸の歴史を調べてみることが、何かの形で、僕たちのおかれている状況を打開する糸口につながると思うかい?」
「多分、何らかの意味ではね。それと、ムハマドから過去のホテルでの出来事を聞ければ、方向性は見えると思う」
「行こう!」と言って戸井田が立ち上がった。
「行くって何処へ」
「書斎だ。ジェームス・タンがここに着いたときに言っていたろう。書斎の書物なんかはケペル卿《きよう》の別荘だったときそのままに保存してあるって。何か、島や建物の歴史を著した文献が見つかるかもしれない」
「そうね、どうして思いつかなかったのかしら」
アンも立ち上がりながらそう言った。
「但し、その前に何か服を着てくれないかな。足の傷の手当も終ったんだから、いつまでもその水着にバスローブという格好でいる必要もないと思うんだけど」
戸井田が、アンのスラリと伸びた脚から目を逸《そ》らせながら言った。
ブラジャンダウ・シンは、6号室の窓際に置かれた机の前に跪《ひざまず》き、両手と頭を絨《じゆう》毯《たん》に擦り付けるようにして、祈っていた。このホテルが徒《ただ》ならぬ場所であることは、日が暮れてからずっと直感で理解していた。だから、祈る対象はヒンドゥーの神ではなかった。毒には毒を、魔には更に強力な魔を。それがブラジャンダウ・シンの人生哲学だった。金相場を張るときも、対立する相場師の失脚を願うときも、あるいは恋愛のライバルの死を願うときも、シンは密《ひそ》かに自室に籠《こも》って、その八面の顔に十本の腕を持った暗黒の世界を支配する古代の邪宗の女神カーリの像に祈った。祈りは、おおむね聞き入れられてきたように、シンには思えていた。いま、この怖しい場所で起ころうとしている惨劇から自分の身を救えるのは、魔の世界を支配しているカーリ以外にはない、と彼は信じていた。本来は無私なる心で行われるべき祈りという行為が、我欲を目的として為されたとき、その届く先は神なる世界ではないということには思い至りもせずに、机の中央に置かれた青銅の奇怪な女神像に向かって、シンは必死の思いで祈っていた。
どうか、この死霊の巣《そう》窟《くつ》のような場所から自分を助け出して下さい。生きて世間に戻らせて下さい。他の客たちの命は、カーリ様、貴女にさし上げます。心臓を引きずり出し、その血をお飲み下さい。そして、それを代償として、どうか私の命と魂だけはお救い下さい。無事に、この島から脱出させて下さい。
突然に、カーリが自分の名を呼んだので、シンは思わず額を絨《じゆう》毯《たん》から上げ、像を見つめた。像には別に何の変化も見てとれなかった。また名を呼ぶ声が聞こえた。女性の声だった。だが、気が付くと、その声はヒンドゥー語ではなく英語で呼びかけてきていた。
ミスター・シン、この扉を開けて私を中に入れて。ミスター・シン、扉を開けて私を中に入れて。声は廊下から聞こえてきていた。ホテルの中にいる女性で英語を喋《しやべ》るのは二人だけだ、とシンは考えた。オーストラリア人の妻と、もう一人、高慢そうな顔つきが最初にバスで会ったときから気にくわなかった赤毛のアメリカ娘だ。子供のいるオーストラリア人が、夜更けに自分の部屋を訪ねるとは思えない。とすると、ドアの外に立っているのはアメリカ娘か。先刻、地下のプール室で見た水着姿の彼女の姿体が頭に浮かんだ。好色な蛇が体の中で頭をもたげ、ペロリと先の割れた赤い舌を見せた。立ち上がり、ドアへと向かった。ノブを握り、ゆっくりと回転させる。力のこもった手で、これもゆっくりとドアを開いた。
廊下に立っていた女は、シンの予想していた人物ではなかった。ホテルに泊まっている第三の女性。死んだ日本人の妻だった。彼女は黒い長い髪を胸元まで垂らした以外は、まったくの生まれたままの姿で廊下に立っていた。シンがあっけにとられて、彼女の股《こ》間《かん》の翳《かげ》りに目を据えたまま立ちつくしていると、妙に潤んだような目をした、その小柄な、しかし肉づきの良い日本娘は、また正確な英語で言った。
「私を、中に入れて」
ブルージーンズに濃紺の木綿のタンクトップを着込み、その上からダンガリーシャツを羽織って、ボタンはかけずにウェストでシャツの裾を結ぶ、という格好で身《み》繕《づくろ》いを終えたアン・ドールトンは、人の声を耳にしたような気がして、急いでドアを開け廊下に出た。
左右を見回してみたが、人の姿は無い。目を細めて右手の突き当たりにあたる9号室の方を眺めた。扉に異常は無いように見えた。正面の5号室、由利香の寝ている筈《はず》の部屋のドアもきちんと閉じられたままで、床の盛り塩も崩れてはいなかった。
そのまま廊下を横切って、7号室のドアをノックする。戸井田修は、すぐに顔を出した。
「いま何か聞こえなかった?」
「いや、僕は顔を洗ってたからな。何かって、また家具の動く音でも?」
「そうじゃなくて、人の声のようだったんだけど、外の風の音かもしれないわね」
「行こう」と言って、戸井田が歩きはじめた。
二人は無言のまま階段を下った。一階は相変らず耐え難いほどの湿気と蒸し暑さに満ちていた。戸井田はふと、先程ダイニングルームで見かけたときに、ムハマドが暖炉に火を入れていたことを思い出した。この暑さの中で暖炉を焚《た》く? それが湿気を少しでも消し去る役に立つのだろうか。玄関ホールのガラス窓を通して、また稲光がその古いビクトリア調のロビーの調度を白く塗りつぶした。
「やはり、何かがいる」
急にアンが歩みを止めてそう呟《つぶや》いた。
「誰がいるって?」
「誰か、じゃない。何か、よ。感じるの。建物の外に何かがいる。それも沢山。まるで、そうね、嵐《あらし》で荒れ狂っている海から避難してきたみたいに、大勢のマイナスの気が、この建物を取り巻いている」
「見えるのか」
「感じるだけ。映像として目に映るとしたら、それはとてつもなく強い気を持ったものか、受け手の霊能力がよほど高いかよ。あるいは、気としてではなく、空間に写真のように定着された強力な残像イメージって場合もある。だけど、いまこの建物の外側を押し包んでいるのは、そういったものじゃないみたい。もっと弱い……まるで泣いているみたいな、母親を求める子供のような。悪霊というよりは、ただの迷える霊。自分たちが死んだ後の行き場も知らないような」
「入ってこようとしているのか、建物の中へ」
「それは出来ない。入れてくれとせがんでいるようだけれど、誰かがドアを開けて迎え入れない限り、彼らは入ってくることは出来ないわ。まるで、そう、まるで私にドアを開けてくれって頼んでるみたいに思える」
「開けない方がいい。ドアの内側に塩を撒《ま》くとか、9号室みたいに結界を張るとかした方がいいんだろうか」
「そこまでの必要はないわ。ドアや窓を閉じておきさえすれば、彼らは中には入れない。そう思い込んでいるから」
「そういうのって、一体どんな風に感じるんだ」と、戸井田は書斎のドアを開けながら訊《たず》ねた。「言葉で明確に語りかけてくるのかい」
「いいえ、言葉じゃないわ」
アンは壁際を探って電気のスイッチを入れ、急に点灯した明りに目を瞬かせた。
「あ、ほら、この部屋の明りがついたから、ここに面した窓の外にいた連中は、驚いて退いてしまったわ。そういう風に感じるの。言葉も、ただ感じるだけ。直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》脳にイメージとして伝わってくる。私には所謂《いわゆる》、超能力というのは無いけれど、おそらくテレパシーの受け方と同じようなものだと思うわ」
「さっき言っていた、この館《やかた》で以前に死んだという人間が話しかけてくるやり方というのも、同じようなことなのか」
「そうね、脳に直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》、ということでは同じよ。でも、それといま外にいる連中とは、また違うみたい。気の周波が異なっているというか、とにかく違うって判るの」
「一体ここはどういう場所なんだ。建物の中も外も、霊が押しあいへしあいしてるっていうのか」
「それを知るために、こうして書斎に来たんじゃないの。さあ、本棚をあさりましょうよ」
アンはそう言って天井まで届く壁一面の本棚に並んだ背表紙の羅列に目を走らせはじめた。
戸井田は、アンの言葉が気になって、窓に背を向けるのをためらいながら、半身の姿勢で彼女とは反対の側から本棚を調べた。首筋から胃の裏側にかけて、チクチクとした痛みすら感じるほどに、体毛が総毛立っているのが自分でも判った。恐怖だけではない。畏《い》怖《ふ》の念に近いような、自分の知らなかった世界が身近に存在していることを実感させられる、不思議な感覚が心を支配していた。
戸井田の側の本棚には、革張りの大英帝国海軍史とか、前世紀までの様々な国に於《お》ける戦争の歴史に関する書籍が多かった。兵器、武器の発達史といった本も目についた。文学文芸に属するものは、チョーサーの全集とシェイクスピアの戯曲集ぐらいのものだった。少くとも、オスカー・ワイルドは一冊もなさそうだった。
三つ目の棚まで見終ったところで、戸井田は首と肩口の筋肉に痛みを覚えた。見上げては見下ろし、左から右へと移動していく行為の連続に音を上げたくなっていた。
「こっちにはどうもロクなものはなさそうだな、そっちはどうなんだい」
戸井田が声をかけると、アンはよじ登っていた梯《はし》子《ご》の中段から返事をした。
「外ればかりね。こちら側の棚はボルネオの動植物に関したものが多いわ。チャールズ・ダーウィンばかり一列って棚もあったけど。あ、ちょっと待って、これは変だわ」
アンは背を伸ばし、天井に近い最上段の棚に手をかけた。
「変だってのは、どういうこと?」
戸井田が下から梯子を支えながら聞いた。
「百科事典よ。あっちの棚にザ・タイムスの一八八九年発行の百科事典が全巻と、一九一〇年のウェブスターが揃《そろ》っていたのに、ここにもあるの。それも、聞いたこともないアメリカの出版社のよ。ちょうどペテン師がサウス・ダコタあたりの田舎町を車で回って売りつけてるみたいな代物のね」
そう言いながら、アンは分厚い本の一冊を抜き出して広げた。それから、梯子の下の戸井田の顔を見下ろして言った。
「ビンゴ!」
「そいつは何なんだ」
「カバーの内側は、外見よりもずっと古い本よ。一八五〇年代から一八八〇年代にかけての、イラストレイテッド・ロンドン・ニュースの縮刷版。それも、マレーやボルネオに関係した記事だけを収録したバージョンだわ。待って。それもその筈《はず》ね、これは一八九九年にシンガポールの出版社から発行されたものだわ。合計で三冊。残りは本物の、カスみたいな百科事典ね」
「落としてくれ」と、戸井田が言った。「下で受ける」
「行くわよ」
三冊の厚い本が順に投げ落とされた。それを次々に戸井田が両腕で受ける。アンが梯《はし》子《ご》を下りてくるまでに、戸井田はページをめくって、この邸《やしき》に関する記述を、古いイラストレイテッド・ロンドン・ニュースの記事の中から見つけていた。
「これだ。一八七二年、サー・フランクリン・ケペルがボルネオ島北端マルディ地区にビクトリア調の建築美を現出させるという、信じ難い快挙を行った……とある」
「快挙とはよく言ったものね。インドネシアの領土に、イギリス植民地主義の象徴を建てるのを快挙と呼ぶのは、十九世紀イギリスの中流《ミドル》階級《クラス》向け新聞ならではの表現だわ」
梯子を下りながら、アンが皮肉な口調で言った。戸井田は手にした分厚い銅版画入りの本のページをめくりながら、彼女を見上げた。
「ずいぶんイギリス人に対して辛《しん》辣《らつ》なんだな。前から気になってたんだけど、イギリス貴族や新聞の表現に対して厳しい態度をとるのには、特別な理由があるのかい」
「私の血の四分の三はアイルランド人なのよ。そのことは前に言ったでしょう」
床に立って、手の埃《ほこり》をパンパンとブルージーンズに打ちつけながらアンが言った。
「ドールトンというのは父の姓だけど、その父方の祖母はコーク郡出身の生《きつ》粋《すい》のアイリッシュだったし、母の結婚前の姓はオハラだったわ」
「あの、ジョン・フォードの映画に出てくる赤毛の女優と同じ名前?」
「そう、モーリン・オハラのオハラ。でも『静かなる男』とか、そういった映画での彼女に関して何か言わないでね。私はこの髪の色のおかげで子供の頃からその手の冗談は嫌というほど聞かされているのよ。さあ、本を見せて」
戸井田の手から縮刷版をひったくるようにして、アンは開いていた前後のページを素速くめくり目を走らせはじめた。
「あの、そうするとだね、もしかして『風と共に去りぬ』の、あの、オハラも……」
「そうよ、スカーレット・オハラも、勿《もち》論《ろん》アイルランド系よ。私はヴィヴィアン・リーがそう見えるとは、とても思えないけどね。ただ原作の彼女の気性だけは、アイリッシュそのものと言ってもいいでしょうね。アイルランド人は土地に、もっと正確に言うと、土そのものに敏感な民族なのよ。私がこの島に来て異常な雰囲気を感じたり、話しかけるものに応じたりするのも、そういった遺伝的な要素に負うところが大きいと思う。あ、あった、やっぱり思ったとおりだわ」
そう言って、アン・ドールトンはページを繰る手を止めた。
「やっぱりね。ケペル卿《きよう》がここに自分の別荘を造る気になったのは、この島が彼にとって大きな戦果をあげたモニュメントだったからなのよ」
アンが指差したページには、ボルネオ島北部を指す簡単な地図、銅版画のジャングルの中の木造二階建家屋を砲撃する帆船の様子、そして狭い水路とその向こう側にある砦《とりで》のような造りの建造物群が描かれていた。
「一八六六年八月九日、以前からこの海域での英国の交易及び布教への重大なる障害とされていた、イスラム教の海賊に対する決定的な行動が実行に移された」
アンは声を出して記事を読みはじめた。
「攻撃対象は、マルドゥ湾内側にその本拠を築いていた、イスラム系海賊、そのリーダーは数十人のアラブ人であり、配下の原地人は三百人と見積られていた。サー・フランクリン・ケペルに率いられたシンガポール艦隊から派遣されたイギリス海軍のフリゲート艦を主力とする戦力は、沖合いのバラムバンガン島で補給を行った後、マルドゥ湾を通過してランコンの村へと進攻した。なお、このバラムバンガン島は、東インド会社が地元サルタンから長期租借の契約において所有権を獲得している土地であり、大英帝国領土と考えてよい島である。そして、マルドゥ湾の海賊どもの存在は、この東インド会社の所有する島に対して、大いなる脅威であるというのも、また事実である」
「なるほど、つまり海賊退治というのは、東インド会社の要請で行われたということなんだろうな」と、戸井田が合の手を入れた。
「まあ、十九世紀のアジアに於《お》ける東インド会社の存在は、大英帝国株式会社といってもさしつかえないほどのものだったから。この先は省略して読んでいくわ」
そう言ってアンは縮刷版に視線を戻した。
「初日の戦いはイギリス海軍の大敗だった。海賊の本拠は、ランコンの村の手前、マルドゥ湾の奥に浮かぶ小島にあったのだけれど、湾から島へ通じている水路は水深が浅く、フリゲート艦は進入することが出来なかったのね。そこでボートに分乗した陸戦隊が夜中に島を急襲しようとしたけれど、逆に待ち伏せにあって水路上で退路を断たれ、ほぼ全滅した。怒ったケペル卿《きよう》は翌日の夜明けに満潮を利用してフリゲート艦を島の近くに寄せ、十八ポンド砲四門、九ポンド砲三門を使って徹底した艦砲射撃で海賊の居留地を攻撃させた」
「しかし、海賊っていったって、その居留地には非戦闘員もいただろうに」
「二時間にわたる砲撃で居留地はほぼ潰《かい》滅《めつ》的な打撃をこうむり、ついに海賊側の首領、えーと、名前は書いてないわね、ただディアクという部族名しか載ってない、とにかくその首領が自らカヌーで和平交渉にフリゲート艦を訪れた。ケペル卿はそのカヌーを砲撃するように命じ、砲手は正確にその命令を実行した」
「海賊側の武器というのは、どの程度のものだったんだろう」
戸井田の問いに、アンは縮刷版の銅版画を指さした。
「これね。主な武器は毒吹き矢と、パランと呼ばれる蛮刀。この記事だと、海賊の居留地にはイギリス商船から鹵《ろ》獲《かく》した六ポンド砲が何門か備えられていたとあるけど、それを使用したとは書いてないわ」
「一八六六年というと、もう南北戦争や明治維新は起こっていた時代だから、イギリス軍の銃器は金属薬《やつ》莢《きよう》を使う現代式のものだったんじゃないかな。それに大砲だろう。吹き矢じゃとても歯が立たないぜ。これは戦闘というよりは虐殺に近いんじゃないか」
「いいえ、本当の虐殺があったのは、その後よ。いい、聞いて。海賊側は生き残った人数を集めて、その夜にフリゲート艦を襲うの。それでイギリス海軍の兵士六人が殺されたと書いてある。それに対してケペル卿《きよう》はどうしたと思う?」
「また陸戦隊でもさし向けたのかね」
「違うわ。伝《でん》書《しよ》鳩《ばと》を飛ばしてバラムバンガン島に応援を求め、東インド会社所有の武装商船四隻を動員して、また徹底的な艦砲射撃をするのよ。島の地形が変り植物がすべて燃え上がるほどの凄《すさま》じさだったと書いてあるわ」
「それはまるでベトナムでのアメリカ軍のやり方だな」と戸井田が肩をすくめながら言った。
「そうやって、この島を徹底的に叩《たた》いた。僅《わず》かな海賊側の生き残りは、島の後ろ側の浅瀬からカヌーで逃がれた。砲撃の後で上陸してきた陸戦隊は、島に生存者の姿が見えないのを知ると、今度はランコンの村に襲いかかったの。そこに海賊たちが逃げ込んだという名目でね。そして、約三百人のランコンの村人のうち、マレー系のイスラム教徒を集め、皆殺しにした」
「女子供もか」
「女子供も老人もよ。生き残ったのは、まださほど人数の多くなかった中国系の村人だけ。殺された村人は、ランコンからこの島に連れてこられ、北の崖《がけ》に並ばされて、斬《き》られたり刺されたり撃たれたりして、海に落とされたんだそうよ」
「ということは、もしかすると、窓の外に来ている連中というのは、その……」
「可能性はあるわね。とにかく、三日間にわたる戦闘、記事ではとにかくそう表現しているって意味よ、その戦闘で、イギリス海軍側の死者は二十一名、海賊及びその支持者と見られるマレー人は、五百名以上が死亡。そして、この一帯は島まで含めて、海賊退治に感謝したサルタンから、東インド会社に期限無し条件無しの、無償の租借地として提供されるの」
「なるほど、そしてそこへ、数年たってからケペル卿が戻ってきて、この邸《やしき》を別荘として建てたってわけだ」
「以上がこの島に関する十九世紀半ばの記録よ」
そう言ってアンは縮刷版に、また目を落とした。
「虐殺の島、か。しかし、サー・フランクリン・ケペルという人は、どういう神経をしてたんだろうな。自分が直接手にかけたわけではないにしろ、それだけ多くの人間を死に至らしめた場所を別荘の建設地に選ぶなんて」
「彼にとっては、大英帝国のために、それだけの数の蛮族を殺したということが、かけがえの無いほど名誉なことだったんでしょうね。その手柄の記念碑が、このビクトリア調の建造物ってわけなのよ」
「それがこの島とホテルに満ちているマイナスの気の正体だってことか」
「ちょっと待って、ここにもっと核心を突いているらしいことが書いてある」
アンが縮刷版の開いたページを指差しながら、小さく唸《うな》った。戸井田もアンの背後から、その分厚い書物をのぞき込んだ。
「ほら見て、この記事によると、ここに別荘を建てることを提案したのは、ケペル卿《きよう》というよりは……」
アンがそこまで言ったとき、パタンと音を立てて縮刷版のページが閉じられた。
いつの間にか、例の音無しの歩き方でやってきたらしいムハマドが二人の背後に立っていた。戸井田は振り返ってみて、彼が手を伸ばして背後から本の表紙を閉じてしまったのだということに、やっと気付いた。
「何をするんだ、ムハマド」
戸井田が強い語調で言うと、ムハマドはそれまでの彼に似合わず、まるで戸井田に対抗するかのように正面から目を見据えて答えた。
「もう、この島の歴史を探ったり、ホテルの中をひっかき回すようなことは止めにしていただきたい」
「何を言いだすんだ、ムハマド。プールで何が起きたのか、二階の9号室がどういうことになっているのか、お前には判っているはずだろう。ホテルマンとして客の安全を守るのは、お前の義務ではないのか。その努力を怠るのなら、二度とホテルで働けないことになるぞ」
「もう遅いんですよ」と、ムハマドは人が変わったように傲《ごう》然《ぜん》と言った。「もう遅い。あの死んだ日本人が解き放ってしまった。写真のフラッシュをたいたのが、全ての始まりだった。あんなことはするべきではなかったのだ。いや、それ以前に、そもそもこのホテルを再開したこと自体が、あなた方にとっては不幸だった。十年前のことで懲りているはずだったのに」
「それはどういうことだ、ムハマド。十年前に何があったのか、教えてくれ」
「口で教えなくとも、もうすぐ体験することになる」
「ムハマド、どういうつもりでそんな口の利き方をしているんだ」
戸井田は、思わずカッとしてムハマドの腕を掴《つか》もうとした。それを横からアンが押し止めた。
「待って、これはムハマドが喋《しやべ》っているんじゃないわ」
「なんだって?」と戸井田が聞き返した。
「それじゃだれが喋っているっていうんだ」
「ムハマドは何かに憑《ひよう》依《い》されているのよ」とアンが答えた。が、彼女はムハマドの表情を見ると顔色を変えた。
「それだけじゃない。見て! 感応している。霊動現象だわ」
アンの言葉どおり、もはやムハマドの顔は彼自身のものから別なものへと変化しはじめていた。その小さな体が、立ったまま細かく震動し、その震えが次第に大きく、全身を揺るがすほどのものになっていった。すぐに、ムハマドは体を激しく痙《けい》攣《れん》させながら、床に倒れ込んだ。
「これは?」と、戸井田がアンの顔を見た。
「降霊している。ムハマドは霊媒体質だったんだわ。それで最初からあんなに怯《おび》えていたのね。自分の心と体が、他のものに占拠されてしまうことを恐れていたのよ。おそらく以前にも何度か、同じような体験をしているんだと思うわ」
首を体の中に丸め込もうとするかのような姿勢で、床の上をのたうち回るムハマドを見下ろしながら、アンがそう呟《つぶや》いた。
「だけど、どうして突然に霊が降りたりしたんだ」
戸井田が、ムハマドの様子を見守りながら、アンに尋ねた。
「それが判らない。何《な》故《ぜ》突然に降霊現象が起きたのか。いくら霊媒体質でも、普通なら霊媒の体に霊を送りこむ役目の人間がいなければ、こんなことにはならない。私にはそんな能力は無いし、あれだけ怯えていて、彼が自分で望んでそうしたとは思えないわ」
アンがそう言ったとき、ムハマドの体の震動がピタリと停止した。その様子をながめながら、アンが言葉を続けた。
「プラスの気がある。降霊現象を起こさせた強い気がどこかからくる。それが邸《やしき》の外にいた霊に影響を与えて中に呼び寄せた。まるでパーティーに招待でもするみたいに。その霊のマイナスの気と、ムハマドの怯えている脳の波動が偶然に一致したんだわ」
床の上で、ゆっくりと体を起こしたムハマドは、その場に座り込むと目をカッと見開き、それから早口で戸井田にもアンにも理解出来ない言葉を喋《しやべ》りだした。
「インドネシア語だ。マレー語に似ているけれど、微妙に違う。何を言っているのか判らないが」
戸井田の言葉を、アンは「しっ!」と唇に指を当てて制止した。
「ムハマドの顔を見ていて。どんどん表情が変化しているでしょう。尋常ではない数の霊が、次々に何かを訴えているのよ」
アンがそう言ったとき、ムハマドの喋る言葉が変化したのが、戸井田に判った。口調が明らかに、吃《きつ》音《おん》の多い、ややピッチの低いものとなった。
「中国語になったわ、それも広《カン》東《トン》、いや違う、福建語。これなら私も少しは判る。集められた? みんなが村の一ヵ所に集められたのね、裸にされ、それから、ああ、なんてことなの、首を刀で……斬られた。熱い、熱い、痛い、兄の首が落ちるのが見える、父の首が落ちるのが見える、ああ、あなたはまだ自分が死んだということを実感していないのね」
「どういうことなんだ」と、戸井田は激しい口調で尋ねた。「死んだことを実感していないというのは、どういう意味だ」
「死者の中には自分が死んだということを認識出来ないでいる者が多いのよ。そういった霊が、現世での自分のいた地域に固執したりして、せめてもの依《よ》りどころを求める。それが地縛霊と呼ばれている存在。この霊たちは、あまりにも突然にきた死のために、そして、生前に死の世界に対する正確な知識を与えられていなかったために、死ということをキチンと認識出来ていない。迎えにきたものを認めることすら出来ない、可哀《かわい》相《そう》な魂なの」
「ちょっと待ってくれよ」と、戸井田が言った。「それは変じゃないか。ケペル卿《きよう》の虐殺は、マレー系の住民に対してだけで、中国系の人たちは生き残ったはずじゃないのか」
「違う、と言っているわ。自分たちを殺したのは、ヤップンヤン、ヤップヤン、日本人だと」
「日本人がこの島で、ケペル卿と同じような虐殺をやったというのか」
戸井田がそうアンに向かって質問したとき、ムハマドの表情が、また急激に変化した。それまでの苦しみの表情が一変し、眉《まゆ》と目が吊《つ》り上がり、口が耳まで裂けたような印象を与える、憎しみと怒りに満ちたものとなった。言葉は相変らず福建語のままのように戸井田には思えたが、口調はガラリと変って激しくなっていた。立ち上がり、両手を激しく振り回しながら、彼は早口に喋《しやべ》った。その白いウェイター服の腰に巻いた帯に、パランと呼ばれる、ボルネオの原住民の使う蛮刀が差してあることに、戸井田はそのとき初めて気付いた。
「別な人格が降りたらしいわ。怒っている。日本人がいると言って怒っている。自分たちをこんな目に遭わせたのは日本人だと。首を斬《き》り、空《から》のプールに投げ込み、そこで腐らせた。やがてプールの水を抜いて火をつけた、何人も何人も、大勢が殺され焼かれた。日本人が憎い、恨む、日本人がやってきたら、とり憑《つ》いて同じような地獄の目にあわせてやる。ああ、いけないわ!」と、アンが急に大声を出した。
「どうした」
「こんな悪想念の持ち主に体を占領されていると、ムハマド自身の精神が持たない」
アンがそう言ったとき、ムハマドは突然に口を閉ざすと、ペタンとその場に座り込んだ。その座り方は、尻《しり》の下に両足を組む日本式の正座の姿勢となっていた。
「終ったのか」
戸井田の質問に、アンはただ首を横に振った。
「日本人が彼らを大量に殺した、というのはどういう意味なんだろう、一体いつの時代のことなんだ」
その戸井田の問いに答えたのは、アン・ドールトンではなく、またしてもムハマドだった。
「昭和十九年二月」と、ムハマドは冷静な口調の日本語で言った。「マラヤ、シンガポール、インドネシヤ地域の中国人華《か》僑《きよう》は、大東亜共栄圏成立を妨げる存在であり、かつゲリラ活動に参加の疑いがあるとして排除せよとの南洋庁指令部からの命を受けた。だから、この地の華僑を集めて、俺たちが斬《き》った」
「ムハマドは何を言っているの」
戸井田の肘《ひじ》をつかみながら、今度はアンが訊《たず》ねた。
「いまは日本人の霊が降りているみたいだ。軍人らしい。ここで中国系の住民を大勢殺したと言っている」と、早口に戸井田が答えた。それから、ムハマドに向かって訊ねた。
「あなたは、ここで死んだのか」
「死んだ? 俺《おれ》は死んでなぞいない。アメリカ軍の艦載機による爆撃があったから、壕《ごう》に入っているだけだ。壕の中で、ずっと待機していた。壕の中は暗い。湿っている。だが、命令があるまで、ずっと待機している。貴様は日本語を喋《しやべ》るようだが、日本人か」
「そうだ、戸井田修という日本人だ。あなたは自分が死んだということを認識していないのか」
「馬鹿な、俺は死んでなぞおらん。現にこうして貴様と喋っているではないか」
ムハマドの表情が険しくなったのを見て取ったアンが、また戸井田の肘を引いた。
「あまり話さない方がいいわ」
「彼も自分が死んだということを理解していないんだ。時間の観念も無いらしい。いまが一九四四年だと思っている」
「死を理解していない霊には時間の認識が出来ないのよ。私たちのような生きている人間が、一方通行、一過性の時間の中で暮らしているのとは、まったく別な世界にいるんだわ」
アンがそう答えたとき、ムハマドが大声で叫んだ。
「貴様らァ、何を敵性国語で喋っとるか。貴様、日本人だというのは嘘《うそ》だな。支那人のスパイか」
そう言うと、ムハマドは腰の黒い帯から、刃渡り四十センチはあるパランを抜き放った。天井のシャンデリアの光を反射して、パランの刃が鈍い輝きを見せた。
「やめろ、ムハマド。馬鹿なことをするんじゃない」と戸井田が叫んだ。
「斬《き》る!」
明《めい》瞭《りよう》な日本語で言うと、ムハマドはパランを剣道の上段の位置に構えながら、ズイ、と戸井田の方に一歩進んだ。その背後で、アンはそっと体を反転させ、バーの方に手を伸ばそうとしていた。
「動くな」と、ムハマドが言った。気圧されて半歩退きながら、戸井田が必死で声をかけた。
「勘違いするな、僕は日本人だ」
「そう言い張るなら証明してみろ」
「どうやって?」
「日本人なら教育勅語を暗誦してみせろ」
「それは、そいつは無理だ。日本人といっても僕は昭和二十八年の生まれで、教育勅語は習っていないんだ」
「昭和二十八年だと? 何を馬鹿なことを。ならば言ってみろ、昭和二十八年とは、皇紀で何年に当る?」
「皇紀? ああ、紀元は二千六百年とかいうあれか。ええと、二千六百に十何年足せばいいんだ?」
「見ろ、馬脚を表わしおって。いさぎよく死ね!」
ムハマドが大声でわめいて、パランを右肩の上に振りかぶった。戸井田は思わず右手を伸ばして、傍らの椅《い》子《す》の背をつかんだ。だが、彼がそれを振り上げる前に、ムハマドが「ギャッ!」と叫んで額に手を当てながら床に倒れ込んだ。そのすぐ脇《わき》を、ムハマドの額に激突したインク瓶がコロコロと転げた。
「誰?」
戸井田がそう言って背後の玄関ホールに通じるドアの方に振り向くのと、それ以前から隙《すき》をうかがっていたアンが、手に握っていたステンレス製のアイスバケットで倒れているムハマドの後頭部に止どめの一撃を加えるのとが同時だった。
「スーザン?」
扉の手前のライティングデスクにもたれかかるようにして立っているオーストラリア人の女性と、その息子の姿を目にして、戸井田が叫んだ。
「君がいま、そのインク瓶を投げてくれたのか」
「あなたが殺されるんじゃないかと思ったから」
ナイトガウン姿のスーザン・クーパーは、傍らに立っている息子のドナルドの肩を抱きしめながらそう答えた。
「いつからそこに?」
「主人を探しに来たんです。だいぶ酔っていたから。いつものことなんだけど。とにかく目を覚ましてみたら主人の姿が見えなかったから、ドンを連れて一階まで下りてきてみたの。そうしたら、この部屋だけ明りがついていて、あなた方とムハマドが話をしていたから」
「ムハマドに憑《ひよう》依《い》霊《れい》が下りる前ってことですか?」と、ムハマドの手から床に落ちたパランを拾い上げながらアンが訊《たず》ねた。
「それは……どういうことなのかしら」
スーザンが聞き返したので、戸井田はあわてて説明っぽく言葉をつないだ。
「つまり、あなたが見たときには、もうムハマドは僕たちに敵意を見せていたかどうかということです」
「いいえ、私たちがこの書斎をのぞいたときには、彼は力無くボソボソと喋《しやべ》っていました。それが急に口調を変えて、英語ではない言葉を喋りはじめて」
スーザンは、すまなそうにそう言った。
「ダズインポー!」
突然にスーザンの言葉を、ドナルドが大声で遮った。
「何だって?」
「ダ、ダ、ダズインポー!」
ダウン症の少年は両手をバタバタと上下に動かしながら、そう叫びつづけた。
「ベンが地下室にいるんだわ」
アンはドナルドに歩み寄って抱き締めながらそう言った。
「どういう意味だ」
「DAD IS IN POOL」と、アンがドナルドの言葉を翻訳した。
「パパはプールにいるって言ってるのよ」
「プールって、地下の? あの日本人が死んだという?」
スーザンがアンの手からドナルドを抱き戻しながら聞いた。
「そう、地下室のプール。ベンが一人であそこに行ったとしたら危険だわ。でも、どうしてドナルドは、ベンがそこにいるということが判るの」
「この子は……」と、スーザンが小さな声で言った。それから、アンと戸井田の顔を眺め、一度口ごもり、ドナルドの体を抱き直して意を決したように言葉をつづけた。「今までにも時々、直接には見えていない筈《はず》の出来事を口にすることがあったんです」
「ノー!」と、ドナルドが声を上げた。「直接に見える《アイ・シー・ダイレクトリイ》」
「そう、そうね。ママの言い方が悪かったわ。あなたには、そっちの方が直接に見えているのよね」
「どういう意味なんです」と戸井田が訊《たず》ねた。
「つまり、その、これから先に起こることとか、遠く離れた場所で起きていることとか、そういったことを、彼の言い方を借りれば“直接に”見ているらしいんです」
「予知能力《プリコグニシヨン》と遠隔知覚《クレボヤンス》」と、アンが呟《つぶや》いた。「誰かプラスの気を持った人間がいると思っていた。ドナルドだったのね。気がつかなかった私が馬鹿だったわ」
「説明してくれ」
戸井田の言葉には応《こた》えず、アンはスーザンに話しかけた。
「あなたにも何かの能力があるわね。能力は遺伝する。出方は異ることが多いけれど、母親から子供へと遺伝するケースが一般的。何か普通の人とは違う体験をしたことがあるんじゃなくて?」
「ベンは私がそれを口にすると怒るの」とスーザンは答えた。「でも、時々、誰もいないのに誰かに話しかけられている気がする。ドナルドが生まれてからは、彼が言葉を使わずに私に何かを伝えようとしているのが分かったわ。それ以外にも、警告のような言葉が突然に頭の中に浮かぶことが」
「あなただわ」とアンが言った。「あなたがムハマドに霊を降ろしたのね。勿《もち》論《ろん》、無意識のうちに憑《ひよう》坐《ざ》の役割を果したのでしょうけれど。ムハマドは霊媒体質を持ってはいたけど、過度の警戒心が、自分の体に霊の降りるのを拒否していた。そういうことは可能なのよ。護法を使う人もいるし、ムハマドのように塩や呪《じゆ》文《もん》に頼る人もいる。それが、スーザン、あなたの出現で破れて、憑坐の力に負けた彼に、この邸《やしき》に巣《す》喰《く》う悪霊が次々に降りたんだわ」
「私……私、彼にひどいことをしたの?」
スーザンは体を震わせながら訊《たず》ねた。
「いいえ、彼は私たちに貴重な情報を与えてくれたわ。いまは解放されていると思う。ずっと怯《おび》えつづけているよりは、精神的にも良かったんじゃないかしら。少なくとも情報を得られたということは、神はこっちの側にいてくれるということだから」
「さっぱり判らん」と戸井田が言った。「説明してくれと言っただろう」
「その時間は無いの。ただ、スーザンとドナルドがプラスの気を発している人間だということだけは理解して。そして、それが私たちの立場を少しでも有利にしてくれるということもね」
「何から?」
「魔、あるいはマイナスの気からよ」
「ムハマドはどうなる?」
「彼は単なる媒体。気がつけば元に戻っているでしょう。多少の頭痛は残るけれどもね。それより、ベンが心配だわ」
アンがそう言ったとき、ドナルドはパジャマの両《りよう》袖《そで》を激しく振りながら、先程と同じ言葉を叫んだ。
「ダズ・イン・ポー!」
「そうだわ、プール室」
アンがそう叫んで走りはじめた。戸井田と、ドナルドを抱きかかえたスーザンも後を追った。
「ポラロイドカメラがあるって、ベンはそう言っていたの。酔っ払って足元も定かではなかったけれど、カメラを見ると言いながら部屋を出て行ったみたいな気がする。私はうつらうつらしていたから正確に何時ごろのことか覚えていないんだけど」
「樋口のポラロイドだ」
階段を駈《か》け下りながら戸井田が言った。
「死んだ樋口はポラロイドカメラを持っていると言っていた。そういえば、プールサイドの床に転がっていたような気もする」
「ベンはそれを見たのね。きっと、ポラロイド写真に写っているものを確認しに行ったんだわ。私たちが言ったことを信じないために」
「オーム!」と、スーザンの腕の中でドナルドが大きな声を上げた。
「何ですって、ドン、もう一度言って」
「オーム! セグメンツ!」
「関節《セグメンツ》? どういう意味?」
「分からない。とにかく地下室へ」
戸井田が階段の最後の四段を飛び下りながら言った。
「何だ、この臭いは」
廊下には濃い酸の臭いがたちこめていた。床からうっすらと白い煙さえ立ち昇っている。
「ちょっと待て。プール室に何かがいる。音が聞こえる。それにこの臭いは尋常なものじゃないぞ。くそッ! 中で何が起きているんだ」
「オーム!」と、またドナルドが大声で叫んだ。
「虫《ウオーム》だって?」
スーザンが言った。
「虫がどうしたというの?」
ピチピチピチ、という、細かい節目が擦れ合うような音が、絶え間無くプール室の中から聞こえてきていた。戸井田がアンの顔を見た。どうするべきか、問いかけるような彼の視線を受けたアン・ドールトンは、無言のまま大きくうなずいた。
「スーザン、ドンを連れて上に戻れ。子供には見せたくないものが、この中にいるらしい」
「ベンは!」とスーザンが叫んだ。「ベンはそこにいるんでしょう」
「彼は僕たちで助ける。とにかく、ドナルドと一緒に上に戻ってくれ」
「お願い、スーザン、そうして」
「でも……」と言ってドナルドを抱いたままプール室のガラス扉に駈《か》け寄ろうとしたスーザンを、アンが体当りで止めた。
「これ以上、人《ひと》死《じ》にを出したくないの。ここは私たちにまかせて」
「ベンジャミン!」
アンの腕の中でスーザンがそう叫んでもがいた。次の瞬間、アンの平手打ちが彼女の顔を叩《たた》く鋭い音が廊下に響いた。
「ドンまで殺したいの? さあ、ロビーに戻るのよ」
「君が連れて行った方がいい。プール室の中は僕が見る」と戸井田が言った。「中に何がいるにしろ、ベンがそこに居るのなら助けるのは僕の役目だ。さっき橋を見に行ったとき、僕は彼に助けられたんだから」
「分かった。二人を上に連れて行ったら、すぐ戻ってくるわ」
そう言ってアンはスーザンとドナルドを抱いて階段を登りはじめた。戸井田は、一度大きく息を吸ってプール室のガラス扉に歩を進めた。肺に吸い込まれた酸性の瘴《しよう》気《き》が、なおさら息を苦しくした。ピチピチピチ、という何か固いものが擦れ合う音は、扉に近付くにつれて大きくなってきていた。チノパンツのポケットの中で、戸井田は思わずスイス・アーミーナイフを握りしめていた。
プール室の電灯は点《とも》っていた。ドアノブを握り右へ回す。カチリ、とロックの外れる音がして、真《しん》鍮《ちゆう》製のノブは抵抗も無く回転した。ドアが開いた瞬間に戸井田修が最初に目にしたのは、ベンジャミン・クーパーの顔だった。その顔は戸井田の顔前、ほんの二メートルほどのところに存在した。目を、それ以上は見開けないほどの大きさに開き、歯茎までが剥《む》き出しになるぐらいに口を開けていた。だが、ベンの体として認識出来るのは、その顔だけであった。首から下、正確には顎《あご》の数ミリ下側までを、びっしりと何か蠢《うご》めくものが覆いつくしていた。
部屋の外で耳にしたピチピチピチという音は、そのベンの体を覆った細長く、そして細かい動きをつづける無数の生き物の体がうねるのにつれて発せられていた。
床が、動いていた。白黒の大ぶりなタイルが敷きつめられている筈《はず》のプール室の床は、得体の知れぬ黒っぽい、あるいは部分的には赤黒い波状によって埋めつくされていて、その波が、ドアのところで立ちすくんだ戸井田の方向へ、床全面の動きとして、ゆっくりと迫ろうとしていた。そういう黒と赤黒色の厚い絨《じゆう》毯《たん》のプール室の中に、ベンは目を飛び出させそうな表情で立っていた。戸井田の足元に蠕《ぜん》動《どう》の先端が届こうとしていた。思わず、戸井田は靴の爪《つま》先《さき》で、蠢めくものを踏みつけた。ピチッ! と嫌な感触があった。が、それで蠕動は止まったわけではなく、体重をかけた戸井田の足の下で、前後左右に動きつづける、細い数十本の脚といくつかの節に分かれた細長い体を持つ生き物が、ピチピチと乱調子の動きをつづけていた。
ムカデだった。
ヤスデと呼んだ方が適しているのかもしれない。
体長十センチほどの平べったいその節足動物は、節ごとに体の両側に生えている沢山の足をジタバタと動かしながら、その節ごとに並ぶ一対の鉤《かぎ》状《じよう》の口に備えられた毒《どく》腺《せん》から酸味を帯びた白っぽい液を苦しまぎれに噴霧しつつ、戸井田の靴の下でもがいていた。ベンの首から下を覆っているのも、そしてプール室のタイルが見えないほどに床の上で犇《ひし》めき合っているのも、すべて同様のムカデであった。そのときになって、戸井田はやっとプールの水が抜かれていることに気付いた。ベンが、戸井田やアンの言ったことを気にして、栓を抜いたのだろうか、と考えた。
「ベン!」
戸井田の叫びに、彼の体は反応しなかった。ただ、目だけが、カッと見開かれたまま、自分の名を呼んだ主を求めるかのように、戸井田の視線を求めて動いた。
「キャメ……ラ!」
ベンの唇が動いて、そういう音声を発した。ビッシリとムカデがとりついている彼の腕が、きしみ音を立てながら上に持ち上げられ、一、二度手の先端が回転した。サンドベージュとグレイを混ぜたようなプラスチックの角ばった機械から、十数匹のムカデが床に振り落とされ、ピチピチと音を立てている仲間の背に毒のある鉤《かぎ》口《ぐち》を突き刺した。新たな抗争がそこで起こった。
あっという間に、落下してきたムカデたちは、床を埋めつくしている同類に八つ裂きにされて、単なる足の生えた節に千切られてしまった。それでも、その一対の脚を持つ節は、まだ動きを止めなかった。ポラロイドカメラがその上に落下した。
「スーザンと……」と、ベンの口が言った。もう喉《のど》元《もと》までムカデが這《は》いずりあがろうとしていた。オーストラリア人の、大きく突出した喉《のど》仏《ぼとけ》から急に血が糸のような筋となって吹き出し、宙空に弧を描いた。
「ドナルドを、頼む」
体中にびっしりと、数千匹のムカデを貼《は》りつかせた姿で、そう言った瞬間に、ベンジャミン・クーパーの、生きた肉体が喪失した。顔だけを宙に浮かせて、まず膝《ひざ》から体形を形作っていたものが崩れた。膝から腰、胸、そして肩と、ムカデを貼りつかせたままで骨格というものが支えを失なって床へと崩れ落ちていった。ムカデたちは、それまですがっていたベンの骨が床に落ちると同時に、パッと四散し、再び相《そう》剋《こく》の争い、共《とも》喰《ぐ》いが床の上で展開された。
不思議なことに、ベンの顔だけは、ほんの数十分の一秒ほど、骨の支えを無くした後も戸井田の顔の正面に浮かんでいた。物言いたげに口を歪《ゆが》め、彼は戸井田の目を見つめた。それから、ふいに髪を逆立てて、ベンジャミン・クーパーの頭が顎《あご》から床に落下した。頸《けい》骨《こつ》から離れた首の神経や筋肉組織が柔らかな音を立ててムカデたちの上に着地し、たちまち、ピチャピチャという、生肉や皮を喰《く》らう虫どもの発するおぞましい音がプール室に満ちた。
「うわあ!」と、意味をなさない声を上げて戸井田が一歩退いた。そのときには、もうズボンの内側に、数十匹のムカデが這《は》い上がろうとしていた。左臑《すね》を右足の靴で蹴《け》り、とりついているものを擦り落とす。次に右臑を左の足で蹴り、擦る。それでも、目の前でベンジャミン・クーパーの骨格に僅《わず》かにこびりついている肉片をこそぎ取る動きをしている虫たちが、同じことを自分の足に行っているのだという恐怖感には堪えることが出来なかった。
ピチピチピチ、と音を立てながら、ムカデたちはベンの顔を白骨に変えていっていた。靴底の角度を変え、ヒールの角という角を使って足下のムカデを踏み潰《つぶ》す。その都度、ブチッブチッという関節を千切り、胴体を潰す感触は靴底にあるのだけれど、プール室の床を埋めつくしたムカデは、一向に恐れる様子もなく、ザワワザワワと節を鳴らしながら戸井田のいるドアの方向に進んできていた。先程まで総毛立っていた全身の肌の感触も、もう今では何も感じ取れなくなっていた。ベンの骨も顔も、赤黒い繊毛運動の下敷きになって、もう見えない。虫たちの吐き出す酸の臭いが、戸井田の呼吸を困難にしていた。
ピン! とジャンプしたムカデの鉤《かぎ》状《じよう》の口が目の前に迫った。ポケットから刃を立てて抜き出したアーミーナイフで、ほとんど無意識のうちに、そのムカデの胴体を横へ薙《な》ぐ。プチン、という軽い音と共に、ムカデの下半身がナイフを振った方向、右へと飛び去った。が、そう思ったのは戸井田の間違いで、薙ぎ去ったのは上半身だったらしい。ガチッと、まるで確固たる意志を持っているかのように、鉤口が戸井田の右腕、手首のところを噛《か》んだ。弓状にカーヴした二つの鉤が、静脈の浮いた手首に突き刺さる。ピュッと血の玉が浮いて、それが流れはじめた。半身を切断されたまま手首に噛みついた形のムカデが、ニタリと笑ったように戸井田には思えた。鉤口の間から触手、あるいは舌のようなものを伸ばしてペロリと血を舐《な》めると、ムカデの頭は鉤口を更に深く喰い込ませた。
「下がって《ゲツトバツク》!」という声が聞こえなければ、おそらく戸井田は自分の手首を喰いはじめたムカデを呆《ぼう》然《ぜん》と眺めたまま、その場に立ちつくしていただろう。
アン・ドールトンの鋭い叫びが戸井田に思考力を取り戻させた。我に返って、戸井田はナイフを左手に持ち替え、右手首に噛みついているムカデの鉤をこそげ落とすように切り飛ばした。足元のムカデたちを踏みにじりながら、ドアの外へと後退する。
「これでもくらえ!」
そう叫ぶとアンは手にしていた茶色っぽい酒瓶の中身をプール室の床に振り撒《ま》き、同時にもう一方の手の燃えさかる薪をそこへ放り投げた。たちまち、床の上に炎が燃え広がる。ピチピチピチ、キリキリキリという、関節を擦り合わせる耳障りな音を立てながら、ムカデたちは我先にとプールの方へ後退しはじめた。
「焼き殺してやる、ウジ虫ども!」
アンはムカデの群の最後尾めがけて瓶を叩《たた》きつけた。ガラスの砕け散る音と共に、ラム酒の強いアルコールの匂《にお》いが広がり、そのアルコールを追いかけてタイル張りの床を炎が四方へと走った。
「そっちもだ!」とわめきながら、アンはジーンズの背中からもう一本、ロンリコのラムの瓶を抜き出すと、廊下の床においてあった薪の燃えさしを拾い上げ、酒瓶のコルク栓を歯で噛《か》んでポン! と音を立てて抜いた。その栓を吐き飛ばしながら、トレッキングブーツを履いた足で、ズイ、とプール室の中に踏み込む。
瀕《ひん》死《し》の状態でタイル上でのたうっていた数匹のムカデを、プチーンという音を立てて踏みにじると、炎の広がる先に回り込むように小走りに進んで、ラムを床にぶち撒けては炎を誘導した。酒瓶の中身が少くなると、それをまだムカデたちのひしめいているプールの反対側に放り投げ、アルコールが毒虫たちの背を濡《ぬ》らしたのを見てから、そこに薪の燃えさしをアンダースローで投げ込んだ。そちら側でも、ムカデたちはパニック状態に陥りはじめていた。
「ガソリンでもあれば全部焼き殺してやるのに」
そう呟《つぶや》きながら、アン・ドールトンは用心深くドアめがけて後退した。
「カメラだ。ポラロイドを拾ってくれ」
激痛の走る手首を押さえてドアに寄りかかっていた戸井田が蒼《そう》白《はく》な顔でそう言った。アンが腰をかがめてベンの手の骨格の近くに落ちているカメラに手を伸ばす。そのとき、ベンの手首の骨の下に身を隠していた、十五センチ程もある巨大なムカデが、アンの指めがけて鉤《かぎ》口《ぐち》を振り上げながら跳ねた。手元を走った黒い細長い影にアンがハッと身を引こうとした瞬間、戸井田の手からスイス・アーミーナイフが飛んだ。重いナイフの刃は、幅一センチ以上あるムカデの胴体を空中で貫き、そのままベンジャミン・クーパーの手首の、関節であった部分に突き刺さって、様々な角度のS字型に身をくねらせてもがく大きな毒虫を、そこに釘《くぎ》付《づ》けにした。
「気をつけろ、天井にもまだ少し残っているぞ」
戸井田が言う間もなく、ポトリ、と、アンの髪を狙《ねら》うかのように高い天井からムカデが落下してくる。それを身を捻《ひね》って避けながら、彼女は床の上のポラロイドカメラを廊下へと蹴《け》り出し、ドアの外へ走り出た。戸井田が扉に肩からぶつかってそれを閉じた。
アン・ドールトンは手を伸ばして床のポラロイドカメラを取り上げようとした。だが、そこで張りつめていた気力が脱けてしまったのだろう、そのままガクリと床の上に片《かた》膝《ひざ》を突いて、しばらくの間、肩で息をしていた。
やがて「ガソリンでもあれば……」と、さっきと同じ言葉を呟《つぶや》きながら、ゆっくりと立ち上がる。壁に背をもたれかからせて、手首の痛みに堪えていた戸井田も、体を起こした。
「無事かい?」
「私はね。そっちこそ手首はどうなの」
「まだ痛みだけだ。鉤の先端が肉に喰《く》い込んで残っている。そいつを抜かなきゃならない。後で腫《は》れてくるだろう」
「上に行って消毒してから切開して毒を吸い出した方がいいわ」
「あいつらはプール室から外へ出てはこないだろうか」
「このドアを通ってはね。幸いプールの湿気が出来るだけ廊下に逃げないように、密閉度の高い構造のドアになっているから。壁のガラス板も、まず大丈夫だと思うわ。ムカデが登ろうとしても滑る上に、あいつらの体重程度じゃ折り重なって登ったとしても破れるほど薄くはない」
「とすると、やつらには、やって来たところしか行き場は無いのか。ベンがプールの栓を抜いたらしいんだ。水が無かったろう」
「ええ、おそらくはその排水孔から出てきたんだと思う」
「それがどこに通じているかは判らないが、さしあたり何とかして排水孔へ追い戻して栓をしてしまうのが一番の対策だろうな」
「ムハマドに何か燃料になるものを探させるわ。それであいつらが一階に上がってこないように仕度を備えてから、追い戻しを考えましょう。それより……」と言って、アンは戸井田の顔を見た。
「書斎に行って辛《つら》い役目を果たすのは、私たち二人のうちのどっちになるのかしら」
「スーザンとドナルドは書斎にいるのか」
「そう」とアンが答えた。
「それは僕の役目だろうな、最期の姿を見たのも、家族を頼むと言われたのも、僕なんだから」
戸井田はそう言って、手首を押さえながら階段を登りはじめた。
スーザン・クーパーは、指の関節が白くなるほど力をこめて息子の肩を抱きしめ、革張りのソファに深く身を沈めた姿勢で、戸井田の言葉に耳を傾けていた。目に涙を浮かべ、体を小刻みに震わせてはいたものの、とり乱したりパニック状態に陥って大声を出したりする気配は見えなかったので、戸井田もアンも、少しばかりほっとした気分だった。
「遺体を回収するには、それなりの、というよりは充分な人手と準備が必要だと思うんです」と、自分が目にしたことを説明し終えた後で、戸井田は言った。「つまり、御主人の遺体は通常の様子とは、あまりにも異なった状態と環境のもとにあるものですから」
婉《えん》曲《きよく》な表現ではあったが、スーザンには、戸井田の言おうとしていることが、おおむね理解出来ているようだった。彼女は、自分の頬《ほお》を胸元に抱いたドナルドの頭の天辺に押しつけるようにして、小さくうなずいた。
「ベンは……」と、かすれた声でスーザンが喋《しやべ》りはじめた。「他人を責めることによって実は自分のことを責めつづけている人なんです、そういう人だったんです。あなた方にもずいぶん失礼なことを言ったようだけれど、その度に自分自身をも責めているようなところがありました。おそらく、ドナルドのことが総《すべ》て自分の責任だと思っていたからでしょう。それで、あなた方がプールで目にしたことを信じないと言った後で、また自分を責めたんじゃないかしら。その気持をはっきりさせるために、ポラロイドに何が写っているかを確認したくて地下室に一人で下りて行ったんだわ」
「もう少し早く気が付いていたら、助けられたかもしれないのに」
戸井田の手首をウォッカで消毒しながら、アン・ドールトンが言った。
「お気の毒だと思います」
「それより、当面わたしたちが何をするべきなのかを考えましょう」と、気丈な声をスーザンが出して、またドナルドを強く抱きしめた。
「ベンジャミンのためにも、わたしたちが生き残ってこの島を脱出する方法を考えるのが、いま一番大切なことだと思うの」
「そのとおりだわ」と、アンも同意した。「地下のプールには毒虫、二階の部屋には得体の知れない心霊的なパワー、そして、邸《やしき》の外にも、おそらくは過去にこの島で虐殺された人々のものと思われる霊的なエネルギーの集団がいる。それらに対抗して、とにかく夜が明けるまで持ちこたえなければならないわ」
そう言いながら、アンはバーにあった氷つかみ用のアイストングを手に取り、それをウォッカを満たしたグラスに浸けた。
「ちょっと荒っぽいけど、これで肉の中に埋まっている鉤《かぎ》を抜くわ。アーミーナイフがあればピンセットが使えたんだけど、あいにくムカデを床に縫いつけたままだから、こんな道具で我慢してね」
「ムハマドのパランで切開されるよりはマシだと思って我慢するよ」
戸井田は、ソファの上で気絶したままのマレー人の顔を見ながら、そう答えた。次の瞬間、肉の裂ける痛みが戸井田を襲った。だが、想像していたほどの激痛ではなかった。
アンは器用にムカデの鉤の曲がり具合に合わせて最小限の傷しか残らぬように引き抜いてくれているらしかった。二本の鉤を取り去り、アイストングをカチンと音を立てて灰皿の上に置いたアンは、さすがに「ふう!」と息をついて額の汗を掌《てのひら》でぬぐった。
「ありがとう、包帯を巻くぐらいは自分で出来るから、もう大丈夫だ。二階の部屋に行って救急セットを取ってくる」
そう言って立ち上がりかけた戸井田を、アンが手で制した。
「待って。これからは個別の行動はとらない方がいいと思うの。出来るだけ、全員が同じ場所に集まっていた方が安全だわ。まずムハマドを正気にさせて、台所で使っている燃料で地下のムカデ対策を講じて、それから皆で二階に行きましょう。二階には、まだ二人の人間がいることだし」
「シンと由利香の二人も、自分の部屋にこもっているよりは、ここに集まって夜明しをした方が安全だろうな。はたしてシンが素直に応じてくれるかどうかは判らないが」
「この部屋がいいのか、暖炉のあるダイニングルームの方が安全なのかという判断も下さなければ。とにかく、まずはムハマドに目を覚ましてもらうのが先決よ」
「それじゃ、ちょっと手荒いけれど」と言いながら、戸井田はバーカウンターの上の水差しを手に取ってソファに歩み寄ると、中の水を一気にムハマドの顔にぶちまけた。
激しくむせかえりながら目をキョトキョトさせてソファの上で上半身を起こしたムハマドの頬《ほお》を、戸井田は平手で軽くピタピタ叩《たた》きながら声をかけた。
「大丈夫か? 頭の中はスッキリしているかい」
「頭、痛いです」と言って、ムハマドは顔をしかめた。
「何も覚えていないのかしら」と、スーザンが不思議そうな顔をした。
「当人は何も覚えていないのが普通ね。ただ、かなりの疲労感と頭痛は残るけれど」
アンがそう答えて、ムハマドの茶色い瞳《ひとみ》をのぞき込むようにした。
「大丈夫そうだわ、立てるかしらムハマド。あなたの協力が必要なのよ」
「何があったのですか?」
ソファの肘《ひじ》掛《か》けを両手でつかんでようやく立ち上がったムハマドが訊《たず》ねた。
「君の体は霊に乗っ取られていたんだ。それも一人じゃなくて、次々に何人もにね」
戸井田の言葉に、ムハマドは、また頭を抱え込んでしまった。
「またそういうことが起きたのですか、十年前も同じだったというのに」
「その十年前の出来事というのは?」と、小柄なマレー人の上におおいかぶさるようにして聞いた戸井田を、アンが冷静な声で制した。
「待って。そういう話は後で、それも全員が揃《そろ》っているところで話してもらった方がいい。それより、地下室への対策が先だわ」
「地下室で、プールでまた何かがあったのですか」
「ベンジャミン・クーパーが死んだわ。それも普通の死に方よりも、ずっとむごい形で」
スーザンに気を遣って、アンはそれだけしかムハマドに告げなかった。
「まさかプールの水を抜いてしまったせいではないでしょうね」
「そのとおりよ、でも、どうしてそれが判るの」とアンが訊ねた。
「十年前にも同じことがあったからです。人の肉を喰《く》う毒虫が大量に地下から出てきた。それを押さえておくためには、プールに栓をして、それを水で押さえておくしかなかった。プールの水に邪悪なものが宿るのは判っていたけれど、そうするしかなかったのです。この建物に人が来なくなったら、毒虫たちも去りました。それでずっと水を抜いておけたのですが、三ヵ月前の補修工事以来、また出るようになった」
「それじゃ、あのムカデたちは人間が呼び寄せているというのか」
戸井田が眉《まゆ》根《ね》に皺《しわ》を寄せながら言った。
「私には判りません。でも、人がいなければ虫は出ない。人がこのホテルに来ると、何《ど》処《こ》からか虫が集まってくる。まるで人を食いたがってでもいるように」
「ムハマド、台所のボイラーやオーヴンは、どういう燃料を使っているの」と、アンが話を中断して聞いた。「ムカデが一階に上がってこないようにする為には、階段のところで撃退するしかないのよ」
「ボイラーは重油です」とムハマドが答えた。「オーヴンやストーヴはプロパンガスですが、給湯ボイラーは重油を使っています」
「その重油を何かの容器に入れて持ってきて。地下室への階段のところへ並べて万一に備えるのよ」
「まさか火事になるようなことはないでしょうね」
ムハマドが心配そうな顔で言った。アンは、本気なのか冗談なのか判らないような表情でウィンクしながらムハマドに告げた。
「場合によっては、この建物自体を燃やしてしまった方がいいかもしれないわよ」
「そういうことを考えた人は、前にもいました」
それだけ答えて、ムハマドはソファから身を起こし、キッチンへと歩き去った。
「前にこの建物全体を燃やしてしまおうとした人物がどうなったのかは、興味のあるところだわね」と、スーザンが言って、ドナルドの髪を撫《な》でた。戸井田は、ドナルドの内斜視気味の目を正面から見つめた。ドナルドも見つめ返した。そのとき、また戸井田の脳のどこかにポッと暖かいものが宿ったような気がして、視界には書斎の中の風景しか映っていないのだけれど、それにオーバーラップするように、赤い色の色彩が見えた。
「重油です、一ガロンあります」
金属製の四角いタンクを手に下げたムハマドが、そう言いながら戻って来た。
「いいわ、それを階段の上に置いて。いざというときには蹴《け》り倒せば油が階段に流れるように、少し距離をとってね。オサム、ライターを貸してもらえる」
スーザンの言葉に、戸井田は煙草の入っている胸ポケットから、日本製の百円ライターを取り出した。
「こんなもので役に立つのかな。重油に火をつけるのは、一苦労だと思うけれど」
「油そのものにはね。でも、流れ出して気化したら、マッチの一擦りでも爆発みたいに燃え上がるわ」
「本当に地下室を燃やすつもりなのですか」と、ムハマドが訊《たず》ねた。
「そうよ、これは戦いなの。もう私たちはオドオドと悪霊の仕業を怖れている立場を捨てる。自分たちの出来ることをやって、どういう人間を相手にしているのかを、向こう側に知らせてやるつもりよ」
「行こう」と、ムハマドの手から石油缶を取り上げながら戸井田が言った。「戦うなら先手を取った方がいい。早く行動を開始した方が、戦いでは優位に立てる」
「キッチンの熱源はプロパンガスだと言ったわね」
スーザンもドナルドを手助けして立ち上がらせながらムハマドにそう訊《たず》ねた。
「ええ、そうです」
「それじゃ一応重油を仕掛けてから、そのプロパンガスがどういう構造でレンジに接続してあるか見てみましょう。うまくすると、火炎放射器のようなものが作れるかもしれない」
「助かるわ、でもそういう仕掛けが作れるの?」
「ベンジャミンと出会う迄《まで》、私がどこで働いていたと思う? 建設現場よ。オーストラリアではそういう場所も女性の職場のひとつなの」
「行こう、まず階段、それからキッチンへ回る」と言って、石油缶を手に下げた戸井田が先頭に立って書斎を出た。ドナルドの手を引いたスーザン、及び腰のムハマド、そしてアンという順で後につづく。アンは書斎を出がけに、バーカウンターの上にあった布《ふ》巾《きん》を三枚ほど手に取り、それを細長く千切るという作業をしながら歩いた。一行の進んでいくホールに、その布を裂く「ピッピッ」という鋭い音が響いた。ホールの時計が「ボン!」と、深夜一時の鐘を打った。
戸井田は階段の上までさしかかったところで、微《かす》かではあるけれど、またあの酸の臭いを嗅《か》いだような気がした。手で背後の人々の動きを制して、首を伸ばし、階段をのぞき込んだ。動くものは何も見えなかった。階段の途中にも、下の廊下にも、少なくとも一階から見える範囲の床には何もいない。ムハマドが「これを」と言って懐中電灯を差し出したので、その光で壁から天井の隅までを詳しく調べた。やはり、ヤモリ一匹見当らなかった。
「大丈夫だ、連中はプール室からは出てこられないらしい」
そう言って石油缶を床に下し、蓋《ふた》をクルクルと回して外す。重油の強烈な匂《にお》いが辺りに広がった。
「とにかく階段の上から撒《ま》いておくことにしよう。油まみれでは虫たちも容易には上がってこられないだろうから」
「やって」とアンが言った。
戸井田は缶を低目に構えて、階段上から満遍なく幅いっぱいに重油を流しはじめた。
一ガロン全部を撒き終えたときには、最初の流れが地下に達していて、黒っぽく粘りのある液体が、ゆっくりと床に広がりはじめていた。
アンは細く裂いた布《ふ》巾《きん》の布を三本ずつ縒《よ》り合わせて灯《とう》芯《しん》のようなものを作っていた。全部で十本余りになったその灯芯に、床の油を充分に浸み込ませる。
「ちょっとテストしてみる、下がっていて」
そう一同に告げてから、灯芯の一本を指でつまみ、ライターで火をつけた。重油で濡《ぬ》れていない先端の部分が、最初はちょっと渋るような感じでくすぶったが、すぐにチロチロと青白い炎を上げて燃えはじめた。
「これなら大丈夫ね」
床の木《き》貼《ば》りの部分で、その灯芯の火を踏み消しながらアンが言った。
「缶を階段の上に置いて、その上に灯芯を並べておくわ。ライターは手《て》摺《す》りの上。いざというときに分からなくならないように、みんな、ライターの位置を確認しておいてね。あと、ムハマドはダイニングルームの暖炉の火を絶やさないように注意していて。万が一、ライターが使えなくても、さっき私がやったみたいに、暖炉の薪の燃えさしがあれば火がつけられるから」
「分かりました」と、ムハマドが小声で答えた。「でも、この油の染みを後で掃除することを考えるとゾッとします」
「でもそのときは、掃除出来る自分を神に感謝した方がいいわ」
スーザンがきっぱりした声でそう言ったので、戸井田はいささか驚いた。ベンジャミンの前での、どこかおどおどした態度はすっかり消え、彼女は、おそらくは本来そういった性格の持ち主であったのだろうが、気丈ともいえる態度を示すようになっていた。ドナルドを守らねばならないという母性が、彼女をそうさせているのだろうか、と戸井田は考えていた。
今度はアンを先頭に、そして戸井田が殿《しんがり》を務めて、ダイニングルームを通り抜け、キッチンへと移動する。ここでは、ムハマドがキビキビと動いた。
大きなガステーブルの下に潜り込み、しばらくカチャカチャと音をさせていたかと思うと、丸っこいプロパンガスのボンベを引きずり出してきた。
「本当は建物の中にボンベを置くと、消防署に怒られます。でも、雨季はとても心配で外には置けませんから」
「おかげで助かったよ、またあの雨の中でボンベを動かすよりはずっと有難い」と戸井田が言った。
「どうかしら、何とか使えるように改造出来る?」
アンの質問に、ガステーブルの下をのぞき込んでいたスーザンが、顔を上げて首を横に振った。
「このままじゃ駄目ね。ガステーブルの火力調節装置はしっかり組み込まれてて、ちょっとやそっとじゃ取り外せそうにない。かといって生ガスをホースで直接放出するのは危険すぎるし。ちょっと待って。ムハマド、そっちの壁際にあるオーヴンもプロパンガスを使うの?」
「そうですが、こちらのボンベはもう残りの圧力がかなり低くなっていますから」
「だけど、それだけ大型で旧式なオーヴンだと、電気着火式ではないわよね」
「違います、こっちの、道具を使って中に火をつけます」
そう言って、ムハマドはオーヴンの横に吊《つ》り下げてあった、小型の細長いバーナーのような器具を手に取った。バーナーの後部からは細いホースが、オーヴンの横へと伸びていた。
「それの着火は?」
「マッチです」と言って、ムハマドがガステーブルの上の大型のマッチ箱を指さした。
「それで出来たわ」
「あのバーナーは何なの?」と、アンが訊《たず》ねた。スーザンは、テキパキとオーヴンの方のガスボンベの元栓を締め、バーナーのホースへの接続部分のリングを緩めながら答えた。
「レストランなんかで使う、業務用大型ガスオーヴンの着火装置。今は電気式が多いけど、ちょっと前まではこの手のバーナーで火をつけてる店をよく見かけたわ。ノズルの開閉度で炎を大きく広くも、細く長くも調節出来る」
「ということは、つまり?」
プロパンガスのボンベを抱え上げながら戸井田が聞いた。スーザンがニコリと笑いながら言った。「これが私たちの探してた物よ。小型の火炎放射器。さあ、書斎に運ぶか、ダイニングルームの暖炉の前で作業するか決めてちょうだい。使い易いように、ちょっと改良を加える必要があるから」
「火の近くで作業するっていうのには、ちょっと抵抗を感じるわね。遠いけれど書斎でやりましょう」
「OK」と明るい声で言って、スーザンはバーナーやホース類を肩にひっかけ、オーヴンの傍らから立ち上がった。ドナルドがその隣で、開《かい》豁《かつ》な態度を見せる母親を見上げていた。
ホールも地下への階段も、そして下から様子を窺《うかが》うかぎりでは二階の方も、別に異状は無いように思えた。
「さて次は」と、書斎の大きな扉のドアノブに手をかけながら、アンが言った。「ポラロイドに写っているものを調べるのが先かしら、それとも二階のちょっと厄介な二人を説得するのが先?」
ドアを開いて書斎に入ったアンに、男の声が答えた。
「二階が先だろうな」
次の瞬間、アンの首筋に、先程ムハマドの手から戸井田が取り上げ、テーブルの上に置いていったパランの、冷たい刃が押し当てられた。
扉の内側に立っていたブラジャンダウ・シンが、刃の角度をゆっくりと肌に対して直角に変えながら言った。
「皆さん、二階に上がってもらおう。会いたがっている御方がお待ちかねなんだ」
第四章
キナバル・ホテル&リゾートのジェネラルマネージャーであるハロルド・ソーントンにとっても、その日は最悪の一日だった。
まず、朝一番に日本製のコンピューターが故障した。いや正確にいうと、前の日の夜中にホテル近くで落雷騒ぎがあって一時的な停電の状態となったのだが、そのときに、メインコンピューターの処理終了のキーを押し忘れて席を立った従業員が誰かいたせいで、データの一部が消去されてしまったのだ。
そこへもってきて、午前中にチェックアウトする予定だったブルネイの大手石油業者の一家十人が、突然に日曜の朝まで滞在を延長すると言い出し、これでデラックス・スイート二室とメイド用のシングルルーム二室が空かなくなってしまった。おかげで、その部屋を振り当てる予定だったシンガポールから来る福建系華《か》僑《きよう》の一家が、デラックスではなく、その一段下のランクのスイートルーム一室と普通のツイン二室をあてがわれることになって、かなりの嫌味をソーントンに浴びせた。ブルネイの客もシンガポールの客も、年に数回、十日以上滞在してくれる大家族の上客なので、ソーントンが直接、対応せざるを得なかった。
この二件を処理している間にも、フロントの一階上の、ビジネスセンターに隣接したソーントンの総支配人室デスクの上には、洗濯物を届けにくるトラックが、途中で脱輪して客室用のシーツから客の出した洗濯物までが泥だらけになった、とか、その夜からガーデンレストランに出演する予定になっていたフィリピン人のラテン音楽カルテットの一員がクアラルンプールの空港を出発する際に麻薬所持で捕まった、とか、西ウィングの客室の窓から室内に侵入した野生のクロテナガザルがフルーツバスケットを抱えてベッドの上から動こうとしない、とかの報告が山積みになっていた。
館内を駈《か》けずり回って、そういった出来事を次々に解決している間、チラリとフロントのレセプションデスク前に人の列が出来ているのを見かけたが、ソーントンは今日の担当マネージャーであるジェームス・タンを信頼していたし、事実、通りがかりに横目で眺めたかぎりでは、彼はうまく対処しているように見えたので、口を出さなかった。
夜になって、また一つ揉《も》め事が発生した。
例のシンガポールの華《か》僑《きよう》一族七人のうちの、八十三歳になる家長が部屋で心臓発作を起こしたのだ。ホテル内のメディカル・センターに勤めるマレー人医師の診断で緊急入院が必要ということになったので、救急車で二時間かけてサバ州の州都であるコタキナバル市内の大学病院に送り込んだ。そうすると、今度は一家全員が祖父であり父である人物の近くにいて、万一に備えたいと言い出したので、コタキナバルのハイアットホテルに移すことになった。幸い、クリスマス・シーズンに入っていたので、ビジネス客の多いハイアットの部屋は人数分確保することが出来たが、おかげで二週間の予約の入っていたスイート一室とツイン二室が宙に浮くことになってしまった。
そういった面倒事を何とか片付けて、ハロルド・ソーントンが総支配人室のデスクの引出しから、秘蔵のグレンモーレンジーの瓶を取り出したのは、午前一時を三十分ほど回った時刻だった。
「まったく、こんな目にあうんだったらニューヨークの公認会計士のままでいた方がずっとマシだった」と、このニューヨーク市立大の古い卒業生は愚痴りながら、スコッチのシングルモルトを喉《のど》に流し込んだ。それで、朝からの惨めな気分が少しばかり薄れたように思えたので、コンピューターのスイッチを入れ、椅《い》子《す》に腰を下ろして、ディスプレイをのぞき込んだ。
宿泊予約リストから、ミスター・ウォン御一家総勢七名を消去するのが、ソーントンの目的だった。本来は予約係の仕事だが、あれだけ苦労させられた以上、どうしても自分で消去キーを押したかった。一家揃《そろ》っての予約だから、七人分まとめて一括キャンセルが可能なのだけれど、わざと一人一人の名前を呼び出して、猿が蚤《のみ》を潰《つぶ》すように、いちいちキーを押してデータから消していった。
全員の名を消去し終えて、処理終了のキーを叩《たた》こうとしたとき、ディスプレイのリストに、それまで浮かんでいなかった人名がいくつか、画面の下から繰り上がって表れていることに、ソーントンは気付いた。
ミスター&ミセス・ヒグチ。これは年間一千人近くの客を送り込んでくれている日本の大手旅行会社からの予約として入っていた。チェックイン予定日時は、前日の正午となっている。
キーを叩く。
そういった名前の日本人夫妻のチェックイン記録はインプットされていなかった。次に、クーパーという姓で三人の予約が入っている。これも未チェックインだった。残る二人はシングルルームの予約客で、但し、インド人らしい、B・シンという人物はデラックス・ツインのシングルユース希望。もう一人のA・ドールトンという女性は特別な指定はなかった。
ウォン一家の七人分のデータを消去した段階で、本来ならば昨日の午後にチェックインしている筈《はず》の七人の客の名前がコンピューターに出て来て、その誰もが、このホテルに泊まっていないのだ、というデータは、ソーントンを困惑させた。またしてもトラブルなのだろうか。
もう一杯、グラスに三分目ほど、グレンモーレンジーを注ぐと、ハロルド・ソーントンはそれを一気に飲み干し、電話を取り上げて、チェックイン担当マネージャーであるジェームス・タンを呼び出すように交換手に告げた。返って来たのは「タンさんは夕方にフロントに戻って来た後、頭痛がひどいと言って宿舎に帰りました」というフロント係の言葉だった。
ソーントンが受話器に向かって大きな声を上げた。
「タンをすぐに総支配人室によこしてくれ。どうしても今夜のうちに聞いておきたいことがあるんだ」
それから、またウィスキーをグラスに注ぎ、マンハッタンの会計士事務所は、自分の復帰を認めてくれるだろうかと、真剣に考えはじめた。
「上がれ」と、ホールの階段下で、アンの首筋にパランの刃を擬したシンが言った。
「どういうつもりなんだ、自分が何をやっているのか判っているのか」
戸井田が、背後のスーザンとドナルドをかばうように手を広げながら、シンの顔を見た。「もう二人の人間が死んでいるんだぞ、馬鹿な真《ま》似《ね》をしている場合じゃない」
「二人?」ニタリと髭《ひげ》面《づら》をゆがませたシンが呟《つぶや》く。「死んだのがどうだというのだ、肉体の死なぞという形而下の出来事を怖れる必要は無い。肉体は永遠なものではないのだからな。大切なのは精神。その精神に永遠の力を与えてくれる御方に、お前たちを会わせてやろうというのだ。感謝するがいいさ」
「狂ってるわ」と、スーザンが言った。
「ノー!」と叫んだのは、ドナルドだった。「ヒーズ・オキュパイド!」
「乗り移っている? 何が彼の心を占領してるっていうんだ」
戸井田が叫んだとき、シンはグイとパランを握る手に力を込めた。刃が頸《けい》動《どう》脈《みやく》の上を覆っている皮膚を切り裂き、アンの首筋に、ツッと真紅の血が糸を引いた。
「やめろ!」
「そのガキを黙らせろ。ガキに余計な口をきくのを止めさせろと言ってるんだ」
シンがわめいて、手の中でクルリとパランの握りを一回転させ、またその刃をアンの肌にあてがった。
「静かにするのよ、ドン」と、スーザンが息子の肩を抱きながら言った。「あなたには、真実が直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》見えていることが、ママには判っている。でも、口に出さなくていいわ」
「ママにも直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》?」
ドナルドが母親の顔を見上げながら言うと、スーザンは小さく「イエス」と答えて、うなずいた。
「よし、二階に上がれ。私は最後に行く。妙な真《ま》似《ね》をしようと考えるな。上がったら左へ廊下を進むんだ」
シンの言葉に従って、戸井田を先頭に、一同は階段を登りはじめた。油断の無い目付きでそれを見守っていたシンが、ムハマドの後に従うように、アンの腰を突いた。
二階の廊下に達した戸井田は、自分たちの居室のドアが総《すべ》て開け放たれているのを目にして息を呑《の》んだ。無人の8号室と、その隣のバスルーム、そして封印をしてあった筈《はず》の9号室を除く、あらゆる部屋の扉が、廊下に向けて開いていた。
「部屋を荒らしたのか。何か探し物でもあったのかね」
戸井田の問いに、シンは手《て》摺《す》りを左手で握って廊下に歩みを進めながら、また、ニタリとした笑いで応じた。
「ああ、探し物というよりは、あるべきでない物を除去したというところかな」
「結界《バリヤー》が!」と、首筋に刃を突きつけられたままのアンが叫んだ。その言葉に、9号室のドアに目をやった戸井田は、思わず息を呑んだ。
竹と赤い糸、それに白い紙で結界を張られていた筈の9号室のドアからは、そういったものが総《すべ》て取り払われていて、ただ扉の両側の盛り塩だけが白く電灯の光を反射させていた。
「お前がやったのか、シン。何《な》故《ぜ》こんなことをした」
戸井田の叫び声に答えたのは、シンにあてがわれていた6号室の開いた扉の陰から姿を現わした樋口由利香だった。全裸のままで、そして、股《こ》間《かん》におそらくはシンのものと思える体液のぬめりを光らせながら、小さなグラスを手にして廊下に歩み出た由利香は、艶《えん》然《ぜん》と微笑《ほほえ》みながら英語で言った。
「私が命じたのよ、そのインド人に。あんな竹や糸や紙切れなぞで、私たちのパワーを封じ込められると思っていたのなら、あんた方はウジ虫以下の大馬鹿だわ。だから、彼に命じて、それらのものを取り去らせたの」
そう言うと、由利香はケタケタと笑いながら、手に持っていたグラスのジンを、喉《のど》に流し込んだ。
「あんた方に出来ることは、せいぜいがこの程度なのね。竹も紙も塩も、何の意味も無い。こんなもの、こうしてやる」
グラスを床に投げ捨てた由利香が、裸足《はだし》のままの足で、9号室のドアの両側に盛ってある塩を蹴《け》った。その瞬間、戸井田の頭の中に、真紅の火花が散った。まるで花火が爆発の後に広がっていくに従って色を変えるように、その真紅の光は、さらに鮮かな赤い炎の色へと変化していった。
由利香が蹴り散らそうとした盛り塩の山の先端で、青白い炎が弾けた。ちょうどマッチを擦るように、その炎は大きさを増し、由利香の足を焼いた。
「ギャッ!」と、由利香が叫んだ。裸足の指の先で、パチパチと炎が弾けていた。
その一瞬をのがさず、戸井田は唖《あ》然《ぜん》としてパランの握りを緩めていたシンの手首を、反転しながら手刀で打った。鈍い音と共にパランが床に落ちる。それを蹴って階段に落としたのは、アン・ドールトンだった。
「くそッ!」と叫んで、由利香が9号室のドアノブに手をかけた。同時に、シンが体勢を立て直し、左のボディブローを、戸井田の腹に叩《たた》き込んだ。
「ゲッ」と声を洩《も》らして戸井田が沈み込むのと、由利香がドアを開くのが同時だった。不思議なことに、9号室の扉が引き開けられた瞬間に、まるで風圧を受けたかのように、開け放たれていた二階の部屋のドアが、すべて同時に、バタンという音を立てて閉じた。「ブン!」という空気の動きを感じて、戸井田は廊下の壁面に体を反転させるようにしてへばり付いた。アンは階段に身を投げた。ムハマドが、スーザンとドナルドの二人を壁に押しつけた。
あの重いサイドボードが、あたかも高跳びの選手が勢いをつけるかのように、一度、9号室の室内に引き退ってから、縦位置となって、猛スピードで開いたドアを通り抜け、廊下へと滑り出した。押す者も引く者もいないのに、ちょうど雪の道を滑る橇《そり》かリュージュを全力で突き放したような勢いで、サイドボードが廊下を走った。由利香が真赤な唇を大きく開き、天井を見上げて高笑いをはじめた。9号室のドアの横に立つ彼女の体をかすめるように、サイドボードは6号室のドアの近くにいる戸井田めがけて、廊下を突き進んだ。
壁にへばりついたまま、見る間に迫ってくるサイドボードを見据えながら、戸井田は同時に左眼の隅でシンの動きを追っていた。サイドボードの出現は、シンにとっても予想外だったらしく、廊下を後退りしている。斜めに滑ってくるサイドボードから身を避けようと、戸井田は左に一歩、サイドステップを踏んだ。途端に、その重いオーク材の家具は、ほんの少しスピードを緩め、まるで熱線感知ミサイルが目標の飛行機を追尾するときのように、戸井田の移動した方向に進路を微調整した。そして、再度スピードを増した。戸井田は、サイドボードが明らかに自分を壁との間にはさんで押し潰《つぶ》そうという意志を持っているのを感じ取った。
激突の寸前、時間にすればコンマ二秒ほど直前まで引きつけて、戸井田は左へ体を反転させた。最初に、戸井田の体からギリギリ十センチも離れていない位置の壁に、サイドボードの左の角がブチ当たり、激しい音と共に壁の漆《しつ》喰《くい》の白い粉を大量に空中に散らした。次の瞬間に右の角がグルリと回転して戸井田を襲おうとしたが、それより早く、彼は頭から宙に身を投げ出していた。それでも、猛烈な勢いで壁にぶつかったオーク材のサイドボードの角が、戸井田のズボンをかすめ、チノパンツの布地を切り裂いた。
前方回転の要領で床の上で体を丸め、腹筋を使って、しゃがみこむ形で体を立て直した戸井田は、目の前にシンの長い脚があるのに気付いた。その脚が蹴《け》り上げられた。体をひねってかわそうとしたが遅かった。戸井田の右肩に、シンのブーツの爪《つま》先《さき》が当たって、激痛が走った。が、その痛みを堪《こら》えて、低い体勢のまま、蹴り足を取ってすくい上げる。シンが背中から床に倒れて、古い床材が悲鳴を上げた。
「下へ!」と戸井田が叫んだ。アンが、階段の上の位置まで退いていたスーザンとドナルドの手を取って、引き下ろした。ムハマドは階段の上から二段目ほどのところで、凍りついたようになっていた。その手には、シンが落としたパランが握られていた。
腰をしたたかに打ったらしいシンが、呻《うめ》き声を上げながら、床の上で身をよじり、壁に手を突いて立ち上がろうとした。その手を、戸井田が蹴る。悲鳴をあげて手を押さえたシンに次の攻撃を加えようとしたとき、戸井田の耳に、サイドボードが再び動き出す音が聞こえた。
床の絨《じゆう》毯《たん》を擦って、廊下の幅ほぼ一杯に横向きになったサイドボードが、ズリ、と前進した。9号室のドアの前では、まだ由利香が高笑いをつづけていた。サイドボードの引出しが、まるで戸井田を威嚇するかのように飛び出し、すぐに「バン!」と音を立てて元に戻った。そのまま、先程のような猛スピードで前進されたら、背後の廊下の、9号室とは反対側の突き当たりの部屋、クーパー親子に与えられた3号室のドアに叩《たた》きつけられる、と戸井田は判断した。逃げ場は、階段しかなかった。
シンの体を飛び越えて、戸井田は階段を目指して走った。しかし、着地する前に、シンがまた足を伸ばして、戸井田の腰を後ろから蹴《け》った。前につんのめって、危うく床に手を突き、倒れるのだけは免れる。だが、宙を飛んだおかげで着地位置は階段を越え、かえって3号室寄りとなってしまった。追いすがったシンが、戸井田を背後から羽交締めに捉《とら》えた。
サイドボードが、またしても勢いをつけるように、やや9号室の方へ後退して、それから前進を開始した。廊下の壁を擦らんばかりに、幅一杯に、最初はゆっくりと、そして段々に速度を上げて滑りはじめる。そのサイドボードに背を向ける格好で、戸井田を羽交締めにしたまま3号室の方へ前進をつづけたシンは、左手の4号室のドアの位置まで来ると、戸井田の後頭部を押さえていた両手で、相手の体を思いきり前へと突き飛ばした。戸井田は頭から3号室のドアへぶつかって行った。その隙にシンは素速く4号室のドアノブに手をかけ、部屋の中へ飛び込んでサイドテーブルの通過を避けようとした。
だが、ドアが開く前に、シンの背中に向けて、階段の方から何か光り輝くものが宙を走った。ドスッ、という、庖《ほう》丁《ちよう》で豚肉を叩くような音が廊下に響いた。
階段の一番上の段まで上がっていたムハマドが投じたパランは、シンの背中に直角に突き刺さっていた。しかし、その次の瞬間には、ムハマドの体は、階段のすぐ横まで迫っていたサイドボードが、踊り場の広さを利用して激しく一回転した動きにしたたかに肩を打たれて、階下めがけて叩き落とされていた。悲鳴を上げながら、両手を空中でバタつかせるムハマドの体が、中段にいるアンやスーザン、そしてドナルドたちの上を飛んで、一階ホールの床に肩口から激突し、動かなくなった。
サイドボードは、自分の攻撃が功を奏したことを確認するかのように、階段上の踊り場で少しの間、停止していたが、再び前進を開始した。
背中にパランを突き立たせたまま廊下に俯《うつぶ》せに倒れているシンに、戸井田が駈《か》け寄った。体を抱き上げ、何とか引き起こす。パランは、心臓の後ろ側、左の肩《けん》胛《こう》骨《こつ》の下あたりに刺さっていたが、厚みのあるシンの背中の肉のおかげで、致命傷には至っていないようだった。それでも、激痛のあまり意識を失ってグッタリしているシンの体を正面から抱いて、戸井田は後退りした。
サイドボードが、またしても徐々にスピードを上げはじめた。それを見据えながら、戸井田はシンと胸を合わせる形で、彼の体を引きずって後退りをつづけた。残されたドアは、戸井田から見て左手の5号室、そして突き当たりの3号室しかなかった。そのどちらかのドアを開いて飛び込まねば、シンもろともサイドボードに押し潰《つぶ》される。さっきと違って、廊下の幅一杯に迫ってくるサイドボードから身を守るには、それしかない、と戸井田は判断した。
右手だけでシンの体を支えようと努力する。
意識を失い、全体重を預けてもたれかかっているだけのシンを、片手で抱きとめておくのは、かなり困難な作業だった。右肩を相手の脇《わき》の下に押し入れ、押し上げるようにして、かろうじてバランスを保つ。額といわず脇の下といわず、戸井田の体に汗が吹き出した。そうしておいて、左手を伸ばし、5号室のドアノブを探る。目は、迫ってくるサイドボードから外すわけにはいかなかった。指先に、金属製のノブの感触があった。サイドボードは、スピードを増しながら眼前三メートルほどの距離に迫ってきていた。
ノブを握る。右に回す。いや、違う。右に回したのではドアは開かない。右利きだから、いつもは右手で行っている作業を左手でやっているので、勝手が違ったのだ。左へ回す。カチャリ、と音がしてドアが開いた。そのとき、戸井田の右腕が内側に捩《ね》じ上げられ、気を失っていたはずのシンが、クルリと体を入れ替えて背後へ回った。戸井田の右手の逆を取り、素速く左手を首に巻きつけたシンは、体を斜めにしながら3号室へ向けて後退した。サイドボードが二メートルまで近付いて、また一度停止した。
額から流れ落ちる汗が目に入ってしまったおかげでぼやけている戸井田の視界に、廊下の突き当たりに、全裸のまま立ちはだかっている由利香の姿が、かろうじて映った。その体の輪郭が奇妙にぼやけて、まるでクラゲかなにかのようにユラユラと白っぽく形を変化させているように見えるのが、汗のせいなのかどうか、戸井田にはよく判らなかった。
サイドボードが、「ズッ!」と音を立てて下がった。
「来る」と、戸井田は確信した。
シンが、ニタリと笑って、後ろ手で3号室のドアノブを握った。その動きが、首に巻きついているシンの左腕の筋肉にも伝わって、戸井田には、シンが自分を突き放して3号室に逃げ込もうとしていることが判った。
しかし、ドアノブは、回転しなかった。
「ヒッ!」と奇妙な声を立てたシンの焦りの一瞬を逃がさず、戸井田は右足の踵《かかと》で激しくシンの向こう臑《ずね》を蹴《け》り、一度大きく下へ沈み込んで勢いをつけてから、垂直に上へ跳んだ。
戸井田が、天井から下がっている照明器具をつかむのと、その精一杯に縮めた足の下ギリギリをサイドボードが通過して行くのが同時だった。靴の底を擦りそうなほどの近さで戸井田の下を走り抜けた重い家具は、3号室のドアに頭をつけ、両手で必死になって扉を叩《たた》いているシンの背中に激突した。
骨の砕ける嫌な音と、パランがシンの体を突き通る柔らかい音を戸井田が聞いたとき、ぶら下がっている照明器具が、彼の体重に耐えきれなくなってミシリと軋《きし》み、そして抜けた。ブラケットをつかんだまま廊下に落下した戸井田は、転がるようにして階段へと逃げた。シンの返り血を浴びたサイドボードが、それを追って後向きに滑りはじめた。が、今度は戸井田の足の方が速かった。階段に辿《たど》り着くと、手《て》摺《す》りに手をついて、戸井田は自分の体をその向こう側の空間へと放り出した。
一階の床に着地したときに、ちょっと足首をひねった。痛みが踵からズン! と脳に駈《か》け登ってきたが、足を引きずりながら階段下へと回り込む。アン、スーザン、そしてドナルドがそこにいた。
「逃げろ、来るぞ」
そう叫んで、戸井田は二階を見上げた。階上の踊り場で、サイドボードが階段の幅を計るように、ゆっくりと回転していた。横幅が階段よりも広いと判断したのだろうか、サイドボードは縦位置となって階段の一段目に進み出た。
「書斎へ!」
アンの肩を押して戸井田が言ったとき、階段の上に半分以上せり出した形となったサイドボードが、ユラリと前へ傾き、そして滑り落ちはじめた。その落下の進行方向にムハマドが倒れているのに気付いて、足をひきずりながら戸井田が走った。同時に、アンも宙を飛ぶようにムハマドに駈《か》け寄る。二人がそれぞれ片方ずつの足首をつかんで、小柄なマレー人の体を引っぱった。その直後に、つい今しがたまでムハマドが俯《うつぶ》せに倒れていた床を砕かんばかりの勢いで、加速度のついたサイドボードが凄《すさま》じい音を立てて落下してきた。板の割れる大音響と共に、邸の壁が震えた。絨《じゆう》毯《たん》からもうもうと埃《ほこり》が立ち上り、一階ホールの階段下周辺は、何も見えなくなってしまった。
「ムハマドは生きているのか」
埃を手で扇ぎながら戸井田が訊《たず》ねた。
「呼吸はしているわ。でも、おそらく肩の骨が折れている」
「書斎へ運ぼう」
そう言って戸井田がムハマドを両腕で抱き上げた。また、着地のときに痛めた右の足首に電流が走った。
「先に行ってくれ」
「いいえ、あなたが先よ。私はサイドボードの様子を見ている。二階と違って、廊下の幅の広い一階で暴れられたら、たまったものじゃないわ」とアンが答えた。
「気をつけろよ、いざとなったら二階へ逃げるんだ。いくら何でも階段を登るほどのパワーはあるまい」
戸井田が階段に背を向けないように、後退りして書斎のドアまで歩くと、中からスーザンが扉を開いた。
「無事だったのね。アンは大丈夫? この埃《ほこり》では何も見えないわ」
「彼女も無事だ」
ムハマドの体をソファに横たえながら、戸井田が答えた。
「サイドボードがまた動き出さないかどうか見張っている」
「あれは……一体どういうことなの。どうしてあんなに重そうな家具が、ひとりでに動いたりするの。それもまるで目が見えるように人間の後を追ったりして」
「誰かが、あるいは何かが操っているんだ。今夜まだ遅くない時間にも、僕たちは9号室の中であいつに襲われたんだよ。他にも、ソファや花瓶が僕たちを狙《ねら》って宙を飛んだ」
「シンも、それからあの日本人の女の人も、同じものに操られているというの」
スーザンがそう聞き糺《ただ》したとき、それに答えたのは戸井田ではなかった。
肘《ひじ》掛《か》け椅《い》子《す》にチョコンと座っていたドナルドが、大きくうなずいて、母親と戸井田の顔を交互に見上げたのだ。
この子には、何が、どこまで、直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》見えているのだろう、と考えながら、戸井田はドアへと向かった。
「シンはもう操られていない。奴《やつ》は死んだ。もっとも、家具を操るぐらいだから死体だって動かそうと思えば出来るのかもしれないが」
スーザンにそう言って、戸井田はホールへと戻った。用心のためにドアをきちんと閉めたのだが、その直前に、ドナルドが今度はかぶりを振っているのが見えたように思った。少年が何を否定しているのかは、戸井田には判らなかった。
ホールに立ち込めていた埃《ほこり》は、少しばかり収まりかけていた。白っぽく煙る階段下の空間に、床に突き刺さったような形で斜めに立っているサイドボードが見てとれた。
「動かないわ、さっきからピクリとも」
階段の横から姿を現したアンが戸井田にそう告げた。
「派手にめり込んだな。床をブチ抜いて、建物の土台までいってるかもしれない」
ゆっくりとサイドボードに歩み寄りながら、戸井田が言った。そのとき、それまでかろうじて崩れ落ちずにバランスを保っていたらしいサイドボード上部の鏡が、突如として細かくひび割れ、亀《き》裂《れつ》が入る先からバラバラとガラスが床に落下していった。チャリンチャリンと音を立てて床に細長いガラスの破片が降りそそいでは、また砕け散る。ガラスが割れる都度に、サイドボードの上側の格子が小さく震えて、それは丁度、昔観たことのある映画の、恐竜が断末魔の痙《けい》攣《れん》に震えるシーンを戸井田に思い出させた。
「斧《おの》でも探して、ブチ壊しておくかね、念のために」と戸井田がアンの方を振り返って言った。
「その必要はないでしょう。おそらく、こういった物を操る力は、二階でしか対象物に届かないのよ。それでなければ、わざわざこんなものを落とさずに、最初から一階にある家具を使って私たちを襲わせればいいんだから」
たしかにアンの言うとおりだった。ポルターガイスト現象をひき起こしている、アンの言い方を借りれば“マイナスの気”は、シンのように人間を操る場合は別として、物体を動かすのは、限られた範囲の中でしか出来ないらしい。
「シンは?」とアンが訊《たず》ねた。
「死んだ。たぶん3号室のドアに、昆虫採集の虫みたいな有様で縫い付けられている。あまり見たくないな。でも、どっちにしろ我々は、また二階に上がっていかなきゃならないんだろう?」
戸井田の質問に、アンは唇を噛《か》みながらうなずいてみせた。
「ユリカがいるんだから。彼女は明らかに何かに憑《ひよう》依《い》されているわ。あるいはそれよりもっと悪い状態かもしれない。でも、少なくとも生きているのだとしたら、放っておくわけにはいかない」
「ということは、9号室に巣くう、あの油絵の精だか何だかと対決しなきゃならないってことだな」
「そうね。それも、スーザンやドナルドを巻き添えにするわけにはいかないから、あなたと私の二人でね」
「どうやって? さっきのシンの口ぶりだと、君の部屋も荒らされてしまったようだ。塩も聖水も、始末されちまったんじゃないか」
「手持ちはこれだけ」と言って、アンがシャツの胸ポケットから、例の小さなプラスチック瓶と、塩の入ったポリ袋を出して見せた。「でも、もうこういうものに頼っている場合じゃないわね。正面からぶつかって戦うしかない」
「何を武器に?」と戸井田が聞いた。アンがキッパリと答えた。
「心よ。敵は悪しき気、あるいは想念、自分の死を認めたがらない心、もしかすると、もっと極度に忌わしい方向に発達した悪しき思念。でもつまりは、元はといえば人間の心。だから、私たち生きている人間の心でぶつかるしかない。考えてみれば、私たちは怖がりすぎていたわ。ムハマドのように、ただただ超自然的なもの、悪霊といった存在に怯《おび》えていた。あなたも私も、そして死んでいった人たちも。それが相手に、逆に力を与えた。そうに違いないわ。あいつらは、自分たちの恨みや妬《ねた》みや、その他諸々のマイナスの気によって、この地上にしがみつき留まっている。怯えとか恐怖心とかが、私たちの心に生まれると、それを自分の側のエネルギー源として取り込んで、マイナスの気をさらに強大なものとする。逆に、こちらが気持をコントロールし、平穏に保てば、あいつらには食べ物を得られないのと同じような結果となる。プラスの気をこちらが発揮すれば、それは攻撃の武器になる。いま、そのことがやっと判ったわ」
「でも、そのプラスの気を出すというのはどうすればいいんだ。日本では気功なんてのがブームだけど、僕は一度だけ気功健康法の道場に取材に行ったことがあるだけで、自分ではどうやればプラスの気が発揮出来るのかなんて知らないぜ」
「大切なのは、自分の心を磨き平穏に保つ、日本語であるじゃないの、えーと、CALMSTATE OF MIND のことを言う言葉が」
「平常心、あるいは不動心、かな」
「それよ、動じないこと、怯えないこと、そうすれば自然にプラスの気を発するように、人間は出来ているはず。あとは、出来るだけ心を明るくすること」
「つまり、その、ジョークのひとつも言いあってれば、それが武器になるってことかい」と、戸井田は驚いた顔をした。映画や小説で、悪魔祓《ばら》いや悪霊除けといったテーマのものに触れたことはあったが、冗談で悪霊を撃退するなどという方法は、聞いたこともなかった。
「それにしても、何《な》故《ぜ》、君は急にいま言ったようなことが判ったんだ。つまり、マイナスの気は人の怯《おび》えの心を食べ物にしているとか、明るくしていれば悪霊は寄りつけないとかいうことがだ。まるで、突然に悟りでも開いたみたいな口振りだぜ」
「何故かしら? 私にも判らないわ。とにかく、ふいにそう思ったのよ。そういう考え方が頭の中に浮かんだの」
アンがそう答えたとき、戸井田はふと誰かの視線を感じて、書斎の方に目を走らせた。ドアが半開きになり、顔をのぞかせているスーザンとドナルドの姿が見えた。
「大丈夫なの?」とスーザンが聞いた。
「ああ、サイドボードは、もう動かないだろう。ムハマドの様子はどうだ」
「まだ気を失ったままだけれど、やはり肩の骨が折れているようだわ。どんどん腫《は》れて、熱をもってきているの。どうしたらいいかしら」
「当面、僕たちに出来るのは冷やすことぐらいしかない。バーカウンターの内側の冷蔵庫に氷があると思うが」
「探してみるわ」と言って、スーザンが書斎の中へ引っこんだ。ドナルドは、母の後に従わずに、まだドアのところに立って、戸井田とアンを見つめていた。歩み寄ったアンが、そのドナルドを抱き上げながら、戸井田に言った。
「私たちも書斎に入りましょう」
「二階は?」と戸井田が訊《たず》ねた。
「その前にすることがあるわ。もしかすると相手の正体の一部だけでも判るかもしれない」
そう答えて、アンはドナルドを抱いたまま書斎へと入って行った。
「ただのポラかと思ったが、結構高級品だな」と、手に取ったカメラを眺めながら戸井田が言った。「撮影したらすぐに印画紙が飛び出してくるタイプじゃなくて、プロが使う、普通の35ミリカメラにポラパックを装着したものに近いぜ、これは」
「それで助かったわね。あのプール室の酸では、印画紙が外に出てたら、とっくに化学変化を起こしてしまっていたもの」
書斎の窓にかかった、ゴブラン織の分厚いカーテンを少しだけ開いて、表を眺めながらアンがうなずいた。
「外はどう、何か見える」
ムハマドの肩を、氷を入れたコーヒー漉《こ》しのネル袋で冷しながらスーザンが訊ねると、アンはかぶりを振り、カーテンを元に戻して、傍らに立っているドナルドの肩に手をおくと部屋の中央へと戻った。
「相変らず雨と風。雷は落ちていないようだけれど。それ以外には何も見えないわ。邸《やしき》の表をうろついていた、大勢の弱いマイナスの気も、いまは感じられない」
「たぶん、嵐《あらし》に閉口して自分たちのねぐらにでも戻ったんだろう。さあ、出たぞ」
戸井田の手元で、ポラロイドカメラが「ジー、カチッ!」という音を立てて、パックから印画紙を吐き出した。表側のカバーの紙を慎重に剥《は》がしてから、戸井田は印画紙の感光面を上向きにして、テーブルの上に置いた。
「何が写っているの?」
スーザンの問いに、戸井田は肩をすくめてみせた。
「そいつはまだ判らない。死んだ樋口って男が、はたしてプールに入る前にシャッターを押したのかどうか、とにかく二分ほど待ってみないことには」
戸井田が答えたとき、スーザンの手の下で、ムハマドが「うーん」と唸《うな》った。
「気がついたのかしら」
「失神していた方が当人のためなのに。ここにはモルヒネなんか無いんだから」
アンがムハマドの顔をのぞき込みながら、そう言った。しかし、ムハマドはパチリと目を見開いてしまった。
「痛むか、ムハマド」と、戸井田が訊《たず》ねると、マレー人の老ホテルマンは顔をしかめて、ほんの少しだけ首を動かした。
「動くんじゃない。肩の骨が折れているんだ。君は階段の一番上から落ちたんだ。ひどい落ち方だった。だが心配することはない。朝までがんばれば、きっと助けが来るから、それまで我慢してくれ」
「話しておくことが、ある」と、ムハマドが言った。それだけの言葉を発するために顎《あご》を動かしただけで、また強烈な痛みが走ったらしく、彼は唸り声を上げた。
「話は後で聞くから、今はじっとしていなさい」と、スーザンも言った。
「話さなければならない。燃やしても無駄です。火は、こちらに向かってくる。あいつらは火を操れるのです」
「何のこと? 何を言っているの」
アンの質問に、ムハマドはゆっくりと、大きく息を吸い、目を閉じてから答えはじめた。
「十年前のことです。やはり、この邸《やしき》を燃やしてしまおうとした人がいた。その人はキリスト教の聖職者でした。お客として、このボルネオホテルに泊まったのです。部屋は9号室でした。あの部屋は、ケペル卿《きよう》の夫人、マーガレット・ケペルの居室だったのですが、長いこと客室としては開放していなかった。それ以前に、いろいろ忌わしいことが起きたからです。でも、そのときは他に部屋の空きがなくて、神父さんなら大丈夫だろうということで、9号室をあてがったのです」
そこまで一気に話すと、ムハマドは、また顔をしかめて「水を!」と呟《つぶや》いた。
アンが持ってきたグラスの水を半分ほど飲んで、ムハマドは、再び話しはじめた。
「恐しいことが起きたのは、夜の十二時過ぎでした。9号室で、突然に怒鳴りあうような声がしたのです。他のお客や従業員が駈《か》けつけると、ドアが開いて神父が悪鬼のような表情、蒼《そう》白《はく》の顔で飛び出してきました。私も、その場にいました。彼は部屋の中に向かって大声で何か叫びながら、首から下げた十字架を突き出していました。何を言っているのか私には判らなかった。後でお客様の一人に聞いたところでは、ラテン語だったそうです。やがて、神父は廊下にいる私たちが目に入っていないかのように、突き進むと、階段を下りて行きました。そのときには、英語で“解き放ってやる”とか“悪魔には悪魔を”とか言っていました。しばらくすると、今度は地下のプール室から声が聞こえてきたので、お客様には部屋に戻って頂いて、従業員だけで見に行ったのです。神父はプールの栓を抜き、減っていく水に向かって、またラテン語で何やら呟いていました。そのとき、私は神父の顔が変わっていくのを見ました」
ムハマドの顔に苦痛の色が浮かんだ。髪の中から流れ出した脂汗が、滝のように彼の額から顔へと流れ落ちた。スーザンがタオルでその汗を拭《ぬぐ》ってやると、ムハマドは目を開けてスーザンの顔を眺め、小さくうなずいて、また言葉をつづけた。
「それは、何と言えばいいのか、まるで青虫がサナギになり、それから蛾《が》になっていくのを、あっという間に見てしまうような、そういう変化でした。とにかく、神父の顔の皮膚の下に何かが入りこんでいるように、絶え間なく顔立ちが変わるのです。彼は体中をわななかせながら、私たちを突き飛ばして、また二階へと上がって行きました」
書斎の電灯の光が、スッと光量を落としたように、戸井田には思えた。遠くで、また雷の轟《とどろ》きが聞こえた。
「そのあとは、本当に何が起こったのか私にもよく判らない。9号室で物《もの》凄《すご》い物音がしたかと思うと、窓が破れ、神父の体が屋根へと放り出されたのです。彼はそのまま屋根の上を転がって地面に落ちました。でも、すぐに立ち上がった。そうして、自分の車に歩み寄ると、トランクを開け、そこに積んであった予備のガソリンを入れたプラスチックのタンクを運び出したのです。彼が何をしようとしているのかに気付いた私たちは、止めようとしましたが、彼は悪鬼のような顔で、そして凄《すさま》じい力で振り切って、邸《やしき》の中へ入りました。私たちに出来ることは、お客さんを誘導して橋の向こうへ、ああ、その夜は今夜と違って、ちゃんと橋があったのです。橋の向こうへ逃がすことぐらいでした。最後に客室を回ってお客が残っていないことを確認するのは、一番下っ端の私の役目でした。私が邸の中に最後まで残ったのです。そして、見たのです」
「何を見たというの」と、アンが口をはさんだ。
スーザンは体を固くしながらも、ムハマドの汗を拭《ぬぐ》いつづけた。
「階段を下りて行くと、神父が地下室から上がってくるところでした。邸の中は、もう二階から下まで、ガソリンの臭いで満ちていました。そうして、神父は一階ホールの中央に立つと、マッチを擦ったのです。次の瞬間、火は階段を走って二階へ、そして地下室へと、あっという間に広がりました。私は焼け死ぬのが怖さに、大声を上げて階段から飛び下り玄関へと走りました。実際、ズボンの裾《すそ》が焦げたほど、走り抜ける火の近くを通りました。ところが、体当たりして玄関の扉を開けたとき、背後で悲鳴が、恐ろしい叫び声が上がったので、思わず振り返ったのです。私が見たのは、二階と、地下室に炎の道となって走っていったはずの火が、すべて神父に向かって逆戻りしてくる光景でした。絨《じゆう》毯《たん》を焦がしすらせずに、炎は宙を走って神父の体を竜巻のように包みました。階段の上で笑い声が聞こえたような気がして、ふと見上げると、神父の衣服が燃えて立ち上る煙の中に、女の人の姿が見えました。帽子をかぶり、赤いドレスを着た白人の女性」
「9号室の絵の女だ」
「ミセス・マーガレット・ケペル!」
戸井田とアンが同時に叫んだ。
「でも、それは一瞬だったように思います」と、ムハマドが言葉をつづけた。「神父は火だるまになり、叫びながら私の横を抜けて表へと駈《か》け出して行きました。私もすぐ後につづきました。でも、橋から戻ってきた従業員たちと一緒に、毛布やバケツの水で神父の体の火を消し終えたときには、彼の命は、もうありませんでした。というか、炭のようになって、焼かれた猿みたいに縮こまった体が、地面に転がっているだけでした」
「何ということなの」
スーザンが体を震わせながら呟《つぶや》いた。
「それで、後はどうなったの」と、アンが問い質すと、ムハマドは、また小さく首を振った。
「なにも。警察は神父が発狂して放火しようとしたと。そのときに誤ってガソリンをかぶってしまったのだと、そう判断しました。その後で、水を抜かれたプールの底から、毒虫たちが出るようになった。それで、ボルネオホテルは閉鎖されたのです」
「分かった。ムハマド、よく話してくれた。さあ、もういいから少し眠るんだ。薬は無いが、ブランデーでも少し飲めば」
戸井田の言葉に、ムハマドはかすかに唇の端を釣り上げて笑った。
「回教徒は、酒は飲みませんよ、日本人のお客様。私がフラッシュを怖れたのも、あの炎を思い出すからです。ダイニングルームの暖炉を焚《た》いたのは、あそこなら炎を閉じ込めておけるからです。私の儀式のようなものです。ですから、火には、炎には気をつけて下さい。あいつは、あいつらは、火の動きを操れるのです」
長い話を終えたムハマドの眼が、コロン、とひっくり返って白くなった。上を向いて肘《ひじ》掛《か》けに乗っていた頭が、ゆっくりと横を向いた。
「死んだの?」
アンの言葉に、ムハマドの胸に耳を当てた戸井田が答えた。
「いや、また気絶しただけだ。おそらく、気力を使い果たしてしまったんだろう。しかし、よく話してくれたな」
「これで相手の正体と手の内が、ほんの少しだけど判ったわね」と、アンも言った。
「判ったって、一体あなた方はどうするつもりなの」
スーザンが再びムハマドの肩口に氷の袋をあてがいながら、びっくりしたように訊《たず》ねた。
「戦うのよ。少なくとも、私たちが夜明けまで、あるいは救援が来るまで持ち堪《こた》えられるように、この邸《やしき》に巣喰っているものと戦う」
「でも、十字架を持った神父だって勝てなかったのよ。一体どうやって?」
そうスーザンが言ったとき、テーブルの上を指差して、ドナルドが大きな声を出した。
「イーヴル!」
ポラロイド写真に、くっきりとした映像が浮かんでいた。
「見て!」と、アン・ドールトンが叫んで写真を指差した。
「こいつは……」
戸井田が写真を手に取って絶句した。
「何なの?」
「知り合いだよ。会ったことがある奴《やつ》だ。まさか水の外に出ている姿を見ることが出来るとは思わなかったが」
ポラロイド写真の中央には、Vサインを出した水着姿の由利香の背中に覆いかぶさるようにして、戸井田がプールの水の中で目撃した、あの顔の皮膚がめくれ、骨格までが露になっている亡者の姿が写っていた。御丁寧なことに、その緑色に爛《ただ》れた皮膚をした亡者は、由利香と同じように、Vサインを骨だけになった指でカメラに示していた。
「けっこうユーモアのセンスのある奴《やつ》らしい」と、戸井田が言った。
「これが、あなたやヒグチを溺《おぼ》れさせようとした悪霊の姿なのね」
アンは写真を戸井田の手から取り上げて眺めながら溜《ため》息《いき》をついた。
「なんとまあ、哀れな姿のさ迷える魂だこと」
「そんな悠長な言い方が、よく出来るわね、私は生まれてからこんなおぞましいものを目にするのは初めてだわ」
ドナルドの肩を抱き寄せながら、スーザンが、そう低い声で言った。
「でも、これは哀れな魂が精一杯に自分の死んだときの姿をイメージとして残そうとしている結果の映像なのよ。言ってしまえば、地縛霊、つまり、自分の死んだ場所以外に行くところが無いと思い込んでいる、まるで陶器の皿に焼きつけられた肖像写真のように定着し、恨みの念だけでその場にしがみついている哀れな霊の映像化だわ。心霊写真としては、こんな見事なものは見たことがないけれど」
「そうだろうな。意図してVサインを出している幽霊の心霊写真というのは、世界でこれが初めてだろう」と、戸井田も応じた。
「でも、こいつの正体は何なの?」
スーザンの問いに、アンはドナルドの瞳《ひとみ》に、宿りはじめた安らぎの色を見つけながら、静かに答えた。
「ドンには、もうそれが判っているみたいね。たしかに、彼が写真を見て最初に言ったように、これは邪《よこしま》なる存在、マイナスの気の映像化された姿だけれど、魔とか悪そのものと呼ぶには哀れすぎるような、そういったあの世のものだわ」
「ヒーズ・サーッド!」と、ドナルドが写真を指差して、小さな声で言った。
「そう、彼は悲しいわ。ムハマドに入った霊が言っていたような、日本の兵隊に殺されてプールに投げ込まれた華《か》僑《きよう》の魂なのか、それとも、それよりずっと前に、ケペル卿《きよう》に率いられたイギリス軍の手にかかった地元民なのか、そこまでは判らない。でも、それがプールの中に、写真に写るほど強い怨《おん》念《ねん》として残っていた、そこから離れられずに、地縛霊として残留していたということは、とても悲しいことだわ、哀れなことなのよ。私たち、生きている人間は、何とかして彼を、あるいは彼らを、その哀しみや苦しみから解き放ち、自由にしてあげなければ」
「しかし、それはさっきムハマドが言っていた神父の発想と同じなんじゃないのか」と、戸井田がアンの言葉に水を差した。「神父も、解き放ってやると言っていたのだから」
「それは違うわ」と、アンが反論した。「神父が言っていた解き放つという言葉の意味するところは、おそらく地縛霊をプールから連れ出し、9号室のマーガレット・ケペルの霊にぶつけるということだった。そのために、わざわざ自分の体にプールの霊を憑《ひよう》依《い》させたのだと思うわ」
「その結果、戦いに負けて神父は死んだ、ということなの?」
スーザンの質問に、アンはかぶりを振った。
「ユリカのケースを参考にすると、それほど単純なことではなかったようね。神父は、悪魔には悪魔を、とも言っていた。つまり、彼は単純にマイナスにマイナスをぶつければ、相殺しあってプラスになると考えた。単純な二元論で、この心霊現象に立ち向かおうとしたわけ。そこに間違いがあったのよ」
「どうなったというんだ」と、戸井田が訊《たず》ねた。アン・ドールトンは、自分の考えをまとめようとするかのように、ゆっくりと書斎の中を歩き回りながら言葉をつづけた。
「ユリカのケースで考えてみましょう。私が最初に彼女をプール室から9号室に運んだときには、あの部屋の中のマイナスの気は、さして強いものとは感じられなかった。それよりもむしろ、この邸《やしき》の別な場所、それこそプールとか、あるいは玄関の外とか、まあ、自分の部屋でも多少は感じたけれど、そういったところに、別の、さして強くはないマイナスの気が沢山浮遊していた。つまり、プールの場合は地縛霊だけど、それ以外は浮遊霊に近いものだったのね。広い意味では、この島とその周辺に固執して残っているから、地縛霊といえなくもないけれど」
「その拡散していた霊が寄り集まったとでも?」
「待って。段階的に考えていくわ。ユリカには明らかに、この写真の霊が憑《ひよう》依《い》した。私たちがそのことに気付かなかったのは、おそらく彼女が霊に鈍感な体質だったからでしょう。憑依されても、しばらくは彼女自身の心の中に入り込んだ霊が彼女を操れないほどにね」
「当人が聞いたら怒るだろうな、霊がコントロールするのに苦労するほど、馬鹿な娘だったってことだろう」
「でも、いざ操りはじめたら、そのタイプの方が効果があるということは、私たちがさっき二階で目にしたとおりよ」と、アンが真剣な顔で言った。「そういう意味もあって、ヒグチではなく、ユリカの方を生かしておいて憑依することを選んだのかもしれない」
「意志の力の弱い方が操りやすいというわけ?」
「そのとおりよ、スーザン」
アンが学校の先生のような口調で答えた。
「とにかく、ユリカは憑依した霊を連れて9号室に入った。神父のケースも同じだったわね。但し、結果として起きたことは違った。神父は戦おうとして破れ、ユリカは最初から戦う意志はなかったので、体を乗っ取られたままになっている」
「誰に?」と、今度は戸井田が訊《たず》ねた。
「複合体。つまり、マーガレット・ケペルの霊は、おそらく神父をそそのかして、プールの霊を9号室に連れてこさせたんだわ。合体して、さらに強いマイナスの気となるためにね」
「そんなことが可能なのか」
「超能力の例で考えてみればいいわ。スプーン曲げを見たことがあるでしょう。自分一人でやっても曲がらなかったスプーンが、超能力者に手伝ってもらうと、手も触れていないのに曲がる。あるいは大勢で一緒にやった方が曲がることが多い。祈りだってそうね。それと同じことよ。念は、プラスでもマイナスでも、集合あるいは結合して、さらに大きな力となる」
「それを知らずに、神父はただぶつけ合わせようとして、より強力になった悪霊に敗れさったということか」
「でしょうね。人間にそれぞれ得意不得意な分野があるように、霊にもある。だって元は人間だったんですからね。おそらく、マーガレット・ケペルの霊は、憑依して人の体を操ることを、さほど得意としていないのではないかしら。だから、より大きな行動を起こすためには、別な霊を9号室まで呼び寄せる必要があった」
「シンはどうだったんだろう? あいつは何《な》故《ぜ》あんなことをしたと思う?」
戸井田がそう聞くと、アンはちょっとためらいの表情を見せてドナルドを眺めてから答えた。
「シンは、おそらくユリカに誘惑されたのね。さっきのユリカの姿を見たでしょう。性行為で空っぽになっているシンの心に、ユリカに乗り移っているものの一部が入り込んで彼を操ったのよ。キリストが、汝、姦《かん》淫《いん》するなかれと言った理由のひとつは、おそらくそういうことが起きるからじゃないかしら」
「あと二つだけ質問してもいいかな」と戸井田が言った。
「どうぞ。私に答えられるかどうか判らないけど。前にも言ったでしょう、私は霊能者でも聖職者でもない、ただの心霊マニア、オカルト現象ファンだったのよ。どうしてこんなに、この邸《やしき》での出来事が分析出来るのか、自分でも判らないんだから」
「一つめの質問は、奴《やつ》らの狙《ねら》いだ。どうしてシンは僕たちを二階へ連れて行こうとしたんだろう。最終的に、マーガレット・ケペル、あるいはそれを核として複合体となっている霊、つまりマイナスの気は、何が目当てなんだ」
「私たちの死。全員の死。それも、怯《おび》えて、恐怖に泣きわめいて、人を恨んで、この世に未練をいっぱい残して、そうして死んでいくこと」
「何のために?」
「それが奴らの食べ物だからよ。悪霊はそういった人間の心の発するマイナスの気を取り入れて存在しているのよ。ああ、何《な》故《ぜ》、私にこんなことが判るのかしら。でも、いまは判るの。すべての言葉が次から次へと頭の中に浮かんでくるのよ。そう、まだあるわ。奴らの目当ては、そうやってマイナスの気を人の心の中に発生させることと、もうひとつ、結果、恨み、あるいはこの世への執着心を残して死んだ人間を作ること。つまり、仲間を増やしていくことなの」
「私にも判ってきたわ、アンの言うとおりよ」と、スーザンも口を開いた。「悪霊の目的は、そうやって悲惨な死に方をする人間を増やし、自分たちサイドの味方に引き入れることだわ」
「自分たちサイド? つまり、奴らにも敵がいるってことだな。戦っているから仲間を増やしたいわけだろう。待ってくれ、答が近くなってきたような気がするんだ。悪霊の敵が判れば、僕たちがどうすればいいかも判るわけだ、そうだろう?」
「そうよ」と、アンが言った。
「では、その悪霊の敵とは、一体何だ?」
戸井田の質問に、書斎の中にいる人間のうちの三人が、同時に答えた。
「神よ!」と言ったのは、アンとスーザンだった。ドナルドだけが別な言葉を口にした。彼はたった一言ではあるけれど、非常にハッキリした口調でこう言った。
「LOV《愛》E!」
キナバル・ホテル&リゾートの総支配人室にジェームス・タンが姿を現わしたのは、時計の針が午前二時を二十五分も回った時刻だった。
ドアにノックの音が聞こえたとき、ハロルド・ソーントンは今夜五杯目のモルト・ウィスキーのグラスを口に運んでいたのだが、あわてて口に入っていた分を飲み下すと、まだ中味の残っているグラスと、かなり量の減った瓶をデスクに放り込んでいた。そして今、自分のデスクの前に立っている有能なはずの部下の姿を目にして、ソーントンが考えているのは、その、引出しの中のウィスキーのことだった。
それほど、ジェームス・タンの様子は異常だった。
常にキチンと整えてある黒い髪はボサボサに乱れ、目は落ち窪《くぼ》んで瞼《まぶた》の周辺がアルコール中毒者のように赤くむくみを帯びている。眼球には光が感じられず、口も半開きのままで、唇の端に乾いた涎《よだれ》がこびりついていた。おまけに、マネージャーのユニフォームであるダークスーツのままベッドに入ったらしく、服には糸《いと》屑《くず》が付着していて、上衣の裾《すそ》から白いシャツの端がはみ出していた。
「どこで見つけた」
ジェームス・タンの背後で彼の肘《ひじ》を持って体を支えているナイト・マネージャーのウィリー・スハルトに、ソーントンはそう訊《たず》ねた。
「従業員宿舎の彼の部屋です。何度電話しても出ないので、初めのうちはいないのかと思いましたが、部屋に入るのを見かけたという者がいたので、マスターキーでロックを外して入って、ベッドの上の彼を見つけたんです」
「そのときからこんな風だったのか」
「そうです。何を言っても返事をしないし、やっと喋《しやべ》ったと思えば、頭が痛いということだけで、連れて来ようとしたら少し暴れました。ベルボーイが二人、私を手伝ってくれたので、彼の醜態を見てしまっています」
「それは仕方ないだろう」
そう言って、ソーントンは椅《い》子《す》から立ち上がると、ジェームス・タンの正面に立って顔を眺めた。タンの目は、ソーントンの動きに反応しなかった。
「タンは酒は飲まなかった。そうだな?」と、ソーントンがスハルトに訊ねた。
「飲みません、私が知っている限りでは一度も」
「薬《ドラツグ》はどうなんだ、マリファナとかハシッシをやってたんじゃないのか」
「そういう男ではありません、私は彼のことをよく知っているんです」
スハルトが答えると、ソーントンは腕組みをして、またタンの顔を見つめた。
「ということになると、夜中だがドクターを呼んだ方がいいな。彼の様子はどう見ても尋常じゃない。今晩はドクターにも厄日だが、電話をして起こしてくれないか」
「判りました。タンをソファに座らせてもいいでしょうか」
「ああ、そうしてやってくれ」
ソーントンがうなずいて見せた。タンの体をソファに押しつけて座らせながら、スハルトが言った。
「実はちょっと気になることがありまして。その、タンが夕方過ぎに帰ってきたときのことなんですが、ホテルの車が玄関前に乗り捨ててあったんです。あの、大型のダッジのヴァンです。それで、デイ・シフトのベルボーイに聞いてみたところ、彼は午後にムハマド・ハリミを連れて、何人かのお客を乗せてホテルを出ているんです」
「ムハマド・ハリミ?」
「キッチン・ワーカーです。このホテルに勤めて十三年になりますが」
ソーントンの頭に、小柄な、猿のような老人の顔が浮かんだ。
「ああ、分かったよ、あのムハマドだな。それで?」
「彼の姿が見えないのです。それに、ヴァンに乗って行ったお客たちというのが、デイ・シフトの連中の話だと、どうやらソーントンさんがコンピューターで見つけた、ブッキングだけしてチェックインしていないお客のようなんです」
「何だって? どうしてそれを早く言わないんだ。ドクターと、そのデイ・シフトのフロント係、それからヴァンの出発の様子を見ているベルボーイを、すぐに叩《たた》き起こしてここへ呼べ。ぐずぐずするな、大至急だ」
ソーントンの見幕に驚いたウィリー・スハルトが、飛ぶような勢いで部屋を出て行くと、総支配人は椅《い》子《す》に沈み込み、引出しを開けて飲みさしのグラスに手を伸ばした。が、考えを変え、その一段上の小引出しを開くと、手帳を取り出して、以前に建国記念日のセレモニーで会ったことのある、コタキナバルの消防署長の電話番号を探しはじめた。
「最後の質問だ」と、戸井田修が言った。
アン・ドールトンは、相変らず書斎の中を歩き回っていた。スーザンとドナルドは、ソファに腰を下ろしている。戸井田が一《いつ》旦《たん》、言葉を切った後の静寂の中で、書斎には、ムハマドの不規則な呼吸と、表の雨の音だけが響いていた。
「どうぞ」と、アンが言った。
「行くのか?」と言って、戸井田が親指で天井を指した。ドナルドが、その動きにつられて、思わず天井を見上げた。
「行くわ」と、アンが答えた。
「どうしても行かなきゃならないの?」と、スーザンが聞いた。「朝になれば救援が来るわ。それまで待っても遅くはないんじゃない」
「でも、ユリカはまだ生きているのよ。早く助けなければ、彼女はどんどん、あちら側に入って行く。そうなれば、もう引き戻すことは出来ない。助けが来てからユリカを取り戻しても、おそらくは発狂しているでしょう」
「だけど、さし当たっては、そのユリカが敵なのよ」
「判っているわ、でもやってみる。何をどうすればいいのか分からないけれど、とにかく対決してみるわ」
「それじゃ、行こうか」
戸井田が、努めて気楽な声を出した。
「私は……」と言いかけたスーザンを、アンが手で制した。
「あなたとドナルドは、ここにいてちょうだい。ムハマドを放っておくことは出来ないし、それに、スーザンには、地下の毒虫に備えて火炎放射器を作ってもらわなければ」
そう言って、アンは床に投げ出されたままになっている、プロパンガスのボンベとバーナーを指さした。しばらく黙って息子の顔を見つめていたスーザンが、やがてうなずいた。
「分かった。私とドンはここにいるわ」
「ドアをロックして、そうね、合図を決めておきましょう。3、2、1、とノックしたら私たち。それ以外は絶対にドアを開けないように。たとえ私だと言ってもね」
「いいわ、ドナルドだって、三匹の子山《や》羊《ぎ》のお話は知っているから大丈夫よ」
そう言って、スーザンがニッコリと笑った。
「いいかな?」
バーカウンターの上にあったアイスピックを手に取って、それをベルトにはさみながら戸井田が言った。
「いいわ」とアンが答えて、ドナルドの頬《ほお》にキスしてから、ドアへと向かった。
階段の下には、例のサイドボードが床に突き刺さったまま、傾いて立っていた。その姿は、戸井田に墜落した軍用輸送機を連想させた。
「こいつは、もう動かないだろうな」
戸井田の問いに、アンは爪《つま》先《さき》で軽くサイドボードの側板を蹴《け》ってみせながら答えた。
「大丈夫、やはり敵のポルターガイスト現象を引き起こす能力は、一階までは届かないんだわ。その代り、二階に行けば、何が襲ってくるか分かったものじゃないけれど」
「僕たちは一体何を武器に悪霊に立ち向かえばいいんだろう」と、戸井田はベルトに差したアイスピックに手を触れながら言った。
「さあね」
あっさりとアンが言って肩をすくめた。
「行ってみなければ判らないわ。でも、今回は塩とか聖水とか、ましてそのアイスピックみたいな、物理的な武器で戦うことにならないのは確かね。相手はユリカの肉体ではなく、それに巣《す》喰《く》っているマーガレット・ケペルとプールの亡霊の合体したマイナスの念。つまり、手で触れることの出来ないエネルギー体。だから、こちらも精神力で対抗しなければならない」
「念じればいいというのかい、悪霊よ退散しろ、と念じることが武器になるということなのかな」
「それが出来るのは、相当に修行や経験をつんだ霊能者、聖職者でしょうね。私たちは素人なんだから素人のやり方しかないわ」
「素人のやり方っていうと?」
階段の手《て》摺《す》りに手をかけ、階上を見上げながら戸井田が訊《たず》ねた。
「例えば、生きている人間同士の戦いを考えてみるといいわ。ギャングとそれに対立するギャングが、バッタリと出くわしたとすると、どうなると思う」
「敵意のぶつかり合い。まあ、武器を持っていれば撃ち合いってとこだろうな」
「では、そのギャングと本当に無邪気な小さな子供がバッタリ街角で出くわしたら?」
「その場合は、まず何も起こらないだろう。運が良ければ子供はキャンディを貰《もら》える」
「そういうこと。邪気の無い人間には、悪霊も手を出すことは出来ない。だから私たちも、出来るだけ心の中の邪気、邪《よこしま》な考えを捨てて、単純にユリカの肉体を元に戻してもらうことだけを念じて、進んで行く。恐怖も怒りも心に抱いてはいけないわ。心に影を作るようなこと、妬《ねた》みや嫉《そね》みも駄目。そして明るいことを考える」
「ちょっと待ってくれ、恐怖や怒りを抑えることは努力すれば出来そうな気がするけど、この嵐《あらし》の中の幽霊屋敷で、明るいことしか考えるなってのは、こりゃ難しいぜ」
「それはそうだけど」と言って、アンは額に手を当てて少し考える素振りを見せた。が、すぐにパッと顔を輝かせた。
「それじゃ、歌を唄《うた》いながら行きましょう。明るい歌を大声で。そうすれば余計なことは考えなくてすむわ」
「歌だって?」と、思わず戸井田はアンの顔を見つめた。「悪霊退治に行くのに、遠足の子供みたいに唄いながら行進してくってのかい」
「そうよ、悪くないアイディアでしょ。何がいいかしら。うん、私の国には、こういうときのための歌をちゃんと映画の中に用意してくれた天才がいたわ」
「何という名の天才なんだ」
戸井田の質問に、アン・ドールトンはミュージカルのスターのように、階段下でクルリと一回転してみせてから答えた。
「ウォルト・ディズニー!」
それから、アンは「ワン、トゥー、スリー、フォー」とカウントをとって唄いはじめた。
「ズィッパディー、ドゥダー、ズィッパディー、デイ
マイ・オウ・マイ・オウ、ワンダフル・デイ
ズィッパディー、ドゥダー、ズィッパディー、デイ
ワンダフル・フィーリング、ワンダフル・デイ……
さあ、どうしたの、一緒に唄って」
「その歌、知らないんだ」と、戸井田がすまなそうに言った。「別なのにしてくれないかな」
「しょうがないわね、ディズニーの『南部の歌《ソング・オブ・ザ・サウス》』も見てないの? あの映画でこれを唄ったアンクル・リーマスはアメリカ人なら誰でも知っている有名人なのに。それじゃ『白雪姫《スノウホワイト》』は?」
「それなら子供のときに見たな」
「じゃ、そっちにしましょう」
そう言って、アンはまた人差し指を振ってカウントを取ると唄い出した。
「ハイホー、ハイホー、
悩みは忘れて
一日ずっと唄いましょう
ハイホー、ハイホー」
戸井田も、うろ覚えの歌詞でアンの後について唄った。そうやって、二人は、白雪姫の待つ森の家に帰る七人の小人よろしく、大声で『ハイホー』を腕を振って唄いながら、階段を上がって行った。
「橋がどうしたって?」
ハロルド・ソーントンは思わずジェームス・タンのダークスーツの両《りよう》衿《えり》をつかんで、ソファから立ち上がらせた。
「ソーントンさん、あまり手荒にしないで。カンフルを射《う》ったけれど、彼は精神的にかなり衰弱した状態なんですから」と、横からホテル付きのクァン医師が言った。
「橋が……落ちたんです」
弱々しい口調でジェームス・タンがそう言った。
「嵐《あらし》と、私の運転していたヴァンの重みで、橋を支えていた桁《けた》が折れたらしくて、落ちてしまった」
「何てことだ。それで、別棟《アネツクス》には、ボルネオホテルには、何名の客が島流しになっているんだ」
「客が八名、それにムハマド・ハリミの合計九名です」と、衿《えり》首《くび》をつかまれて、宙《ちゆう》吊《づ》りのような様子になったタンが答えた。
「コンピューターのブッキング人数より一人多いじゃないか」
「予約より二日早く到着した日本人が一人」
「その客は私が応待しました」と、支配人室に呼び集められていたデイ・シフトのフロント係の一人が口をはさんだ。
「トイタという日本人で、日本の旅行雑誌のレポーターだと言っていましたが」
「何ということだ。ああ、何ということを。旅行雑誌のレポーターを、あのボルネオホテルに、それも嵐の中で橋が落ちて孤立した状態で放置したというのか。どうして帰って来てすぐに報告しなかった。タン、どうしてなんだ」
ハロルド・ソーントンの怒りの形相の凄《すさま》じさに、血色を取り戻しかけていたジェームス・タンの顔が、また青くなった。
「急に頭が痛くなって。それに、何《な》故《ぜ》だか判らないのですが、橋が落ちたことや自分がお客をボルネオホテルに残してきたことを、この部屋に来るまで、まるで思い出せなかったのです」
ソーントンの頭の中を、また、引出しのウィスキー、そしてニューヨークの会計士事務所の昔の上司の顔が交互に駈《か》けめぐった。
「お前の処分は後で考える。だが、自分がうちのホテルに与えたダメージについては、ベッドの中でよく考えてみるんだな。ウィリー!」
急に名を呼ばれたナイト・マネージャーが、ハッとして背筋を伸ばした。
「救出班を組織しろ。今夜から夜明けまでの間のホテル運営に必要な最小限の人数を残して、それ以外の者を全員叩《たた》き起こして準備にかかるんだ。毛布、電灯、それに熱いコーヒーにブランデーだ。そういうものを用意しろ」
そうわめいて、ハロルド・ソーントンは電話に手を伸ばすと、傍らのメモに書かれた番号をプッシュした。
「夜分すみません、消防署長のダニエル・アボーさんのお宅ですか。署長《チーフ》? キナバル・ホテル&リゾートの支配人、ハロルド・ソーントンです。いや、夜中なのは承知の上です。緊急事態なんです。お宅のレスキュー隊の手を借りねばならんような出来事がもち上がったんです」
階段の最上段に足をかけたとき、その板が大きな音を立てて軋《きし》んだ。
思わず歌声を止めた戸井田に、アンが叱《しつ》咤《た》するような眼差しを向けた。
「駄目よ、心を乱しては。さあ、ハイホー、ハイホー」
廊下の天井の照明が、一瞬、暗く光量を落としかけたが、アンが大声で歌をつづけるのと共に、また元の明るさに戻った。
3号室のドアに、シンの体がパランで串《くし》刺《ざ》しにされたまま縫いつけられている様が、戸井田の目に映った。アンも横目で同じものを見ているようだった。二人は顔を見合わせて、前よりも大きな声を上げる努力をし、腹の底から声を絞り出して、ディズニー映画の挿入歌を唄《うた》った。
階段を上がりきって、左手の9号室を眺める。ドアは閉じられていた。由利香の姿も見えなかった。その手前の、シンが割りふられた6号室のドア横の壁に、サイドボードが激突した跡の破れ目が目立っているだけで、廊下は静まり返っていた。
いつの間にか、戸井田とアンは、手を握り合っていた。そうすることで、二人の心を一緒にして、ともすれば浮かんできそうな恐怖、あるいは自分たちを待ちうけているであろう出来事への不安感を消そうとしていたのだろう。握り合った手を、大きく振りながら、戸井田とアンは歌のリズムに合わせて歩調をとり、9号室を目指した。
そのとき、ドアが音も無く、内側からゆっくりと開いた。
9号室の室内は、白っぽい靄《もや》に包まれているように、廊下からは見えた。その濃密な水蒸気の層は、戸井田やアンが、最初にこのボルネオホテルに足を踏み入れたときからずっと不快に感じていた、建物全体を満たしている黴《かび》臭《くさ》い湿気が一室に凝縮したもののように思えた。事実、強烈な黴の臭いが、ドアが開いた瞬間から廊下へ流れ出てきていた。
それでも、アンと戸井田は、ひるむことなく、そのドアを目指して手を振り唄いつづけながら歩いた。
「ハイホー、ハイホー、
落ちこみそうなときも
これさえ唄えば大丈夫
ハイホー、ハイホー」
突然、戸井田修の目の前に、母の姿が現われた。六年前に癌《がん》を患って死んだはずの母親は、痩《や》せこけた、浴衣《ゆかた》一枚の姿で力無く廊下に立って戸井田を見つめた。
「苦しいんだよ、お腹が焼けるみたいに痛いんだよ、修、助けておくれよ、何とかしておくれよ、ずっと痛いんだよ、あれからずっと苦しいんだよ」
そう言って、母親は戸井田に向かって骨にかろうじて皮膚が張りついているような腕をさし伸べた。
戸井田は、それを無視した。ただひたすら手を振り、ディズニー映画の中の七人の小人そのものになりきったかのように、唄いながら歩きつづけ、そして母親の体の中を突き抜けて進んだ。
9号室が目の前まで迫った。そのとき、ちょうど二人は『ハイホー』の三コーラス目まで唄い終えたところだった。
「何か見た?」と、アンが訊《たず》ねた。
「六年前に死んだ母を」
「私は高校生のときに自動車事故で死んだボーイフレンド。どうやら、こちらの潜在意識を刺激するテクニックを心得てるらしいわね」
「そのぐらい手強い方が、相手にしがいがある」と、戸井田が明るい口調で言った。「歌のおかげだな。恐怖心がどっかへ行っちまった」
「それじゃ、行くわよ。歌はまだ『ハイホー』でいいかしら」
「レパートリーが少ないもんでね、他にあまり思いつかない」
「それじゃ」と言って、アンが自分の両《りよう》頬《ほお》を平手でパン、と叩《たた》いた。
「イッツ・ショー・タイム!」
部屋の中は暗く、ただ白い水蒸気だけが渦を巻くように空間を円を描いて流れていた。唄《うた》いつづける二人の、喉《のど》と鼻に、その湿気と黴《かび》の臭いが流れ込んでくる。二歩ほど踏み込んだだけで、もう互いの顔さえよく見えないほど、靄《もや》は濃かった。ただ、握り合った掌《て》の感触と耳に届く歌声だけで、アンと戸井田はお互いの存在を確認していた。
床の絨《じゆう》毯《たん》の上を、何かが滑る「シュッ」という音が聞こえた。次の瞬間に、つなぎ合っていたアンの左手と戸井田の右手に、かなりの重量のあるものが激突した。二人は思わず手を離した。戸井田の目の隅に、真紅の色が映った。どうやら、ぶつかってきたのは、以前にも二人を襲った絹《きぬ》貼《ば》りのラヴチェアらしかった。
「アン、大丈夫か?」
「ハイホー!」
白い渦の中から歌声が聞こえたので、戸井田はホッとした。だが、その心の緩みを見透かすように、今度はラヴチェアよりもずっと重く、そして堅いものが、戸井田の腹部を襲ってきた。
「グッ!」と呻《うめ》いたのは、ローズウッドのライティング・ビューローが激しく腹を打ったからだった。思わずかがみ込んだ戸井田の顔面を、まるで狙《ねら》いすましたかのように、パカッと開いたライティング・ビューローの扉が叩いた。衝撃に声も出せなくなった戸井田を、その重い書きもの机は、ジリッ、ジリッと壁際へ押し込んで行った。
靄《もや》の中で戸井田の呻き声を耳にしたアンは、別な物体の襲撃をうけていた。ガラスの砕け散る音が連続して響き、天井からシャンデリアの割れた破片が、彼女を狙って降り注いだ。かろうじてその落下物を避け、寝室と居間を隔てる壁に背中をへばりつかせたアンに、今度は、電気スタンドが襲いかかってきた。
「パン!」と音を立てて、大ぶりの電球が割れ、そのギザギザになったガラスの断面を前にして、一メートル半ほどの高さのある木製のスタンドが宙を飛んだ。もう、アン・ドールトンの口元から、歌声は洩《も》れていなかった。恐怖心だけは呼び起こすまいと必死に努力していたけれど、とても歌を口ずさむ余裕はなかった。無意識のうちに手を伸ばす。その手に、木製の何かが触れた。アンは夢中で、その小さな箱、本立てのようなチーク材の木箱を振り回した。幸運にも、それが飛来するスタンドの電球の部分をとらえて、狙《ねら》いをそらされた電気スタンドは、アンの顔からほんの十センチほど離れた壁にぶつかり、ガラスを散らしながら床へ落ちた。
「オサム!」
白い靄《もや》の中で、手さぐりしながら、アンが絶叫した。返事は無かった。
「何《ど》処《こ》にいるの」
ガラスの破片で切れた頬《ほお》から血の糸をしたたらせながら、ほとんど自制心を失いかけて、アンが叫んだ。
これではいけない、心にこんな隙《すき》間《ま》を作っては、マイナスの気に入りこまれてしまう、落着かなければ、平常心、不動心。そう自分に言いきかせようと努力するのだけれど、その思いとは裏腹に、不安が心の底から湧《わ》いてきそうになってしまった。
それを見通しているかのように、アンの目の前の白い靄の中に、由利香の姿が浮かんだ。全裸のまま、ポッカリと宙に数十センチ浮いた姿で、その髪の長い日本人の娘は、アンを見つめて、得意気な笑いを浮かべていた。
「身の程も知らずと」と、由利香が言った。それは確かに、彼女の口を通じて発せられた言葉だったが、アンの耳に届いたのは、古風な、イギリス上流階級独特の頬《ほお》の内側に発音をぶつけて響かせるような英語だった。
「私に勝てるとでも、本気で思ったのか。この、下《げ》賤《せん》なアイリッシュめが」
アンは、急に由利香の顔立ちが変化したように思った。さして高くないはずの鼻《び》梁《りよう》が細く長く伸びるのが見えた。眼《がん》窩《か》が大きく窪《くぼ》み、裸の胸元まで垂れている黒髪とは別に、枯草の色の髪が盛り上がって頭の上で巻かれる動きがあった。次の瞬間に、そこに白いリボンを巻いた帽子が出現した。いまや、彼女は裸ではなく、裸体にオーバーラップするように、真紅のドレスが見えてきていた。
「マーガレット・ケペル」と、アンが言った。「まだ、この邸《やしき》に未練があって去ることが出来ない哀れな人」
「憐《あわ》れみを受ける覚えは無い」
徐々に生前の姿、寝室の壁にかけられた油絵の中の自分の姿同様に物質化しながら、由利香の体に憑《つ》いた前世紀のイギリス婦人の霊は言った。
「お前ごときに、憐れみを受ける覚えなど」
「可哀《かわい》相《そう》な人だわ」
「黙れ!」と、ほとんど由利香の肉体を物質化して覆い尽くし終えたマーガレット・ケペルの霊が激しい声を立てた。
「黙らないわ。あなたの存在は、この世では単なるイメージ。本当はとっくの昔に死んでいるのに、自分の死を怖れるあまり、肉体を失うことを怖れるあまり、この不快な島に縛りつけられている、哀れな存在。それがあなたよ」
「私は死んでいない。私の肉体は滅びたかもしれないが、私という存在、マーガレット・ケペルは死んではいない。その証拠に、いまこうしてお前と語り合っているではないか」
「それが間違いなのよ。人は死ねば別な世界へ行く。そういう決まりなのに、魂の旅を拒否して、この世にしがみつく、固執する。そうせねば怖くてならない。生前に行ったことの審判を受けるのを恐れるが故に、この世に残ろうとあがいている哀れな魂。それが、マーガレット・ケペル、あなたの真の姿よ。それとも、もう審判を受けて、生前の思いと行いの結果、地獄に堕ち、その苦しみをまぎらわせるために、生きている人間に憑依しに、地上に迷い出てきているのかしら」
「ええい、黙れ!」
また、ガラスの割れる音がした。今度は飾り棚の扉の金線入りのガラスが砕けた様子だった。先の尖《とが》った鋭いガラス片が、アンの顔めがけて靄の中から飛来した。しかし、アン・ドールトンは、そのガラス片を、まるで紙切れか何かであるかのように、手で軽く払い落とした。
「無駄なことは止めなさい。死者が直接に生者にダメージを与えることは出来ない。こんなものは、すべてまやかし。物体を動かすことは出来ても、受ける人間の側がそれを認めなければ、怖がらなければ、効果は無い。あなた方は、人の心の怖れや悩みに付け込むことしか出来はしないんだわ。私はもう、それを知っている」
「そうかな?」と、由利香の肉体を完全に自分の過去の姿で覆い終えたマーガレット・ケペルが言った。「本当に、お前は何ものをも怖れない心、サタンの、そして、その大神であるルシフェルの意志を受け入れないような、清廉潔白な心の持ち主なのかな」
「止めなさい!」と、アンが叫んだ。「それ以上言うことは、神の名において許さないわ」
「神の名を口にするのか。自分が神と同じような汚れの無い人間だとでも言い張る気か。妬《ねた》みも嫉《そね》みも心に抱いたことがないと言うのか」
由利香の、というよりは、いまやマーガレット・ケペルの姿そのものとなった肉体が、空中をさらに十センチほど上昇した。
「お前の心の中をのぞいてやろう。口では清廉なことばかり述べているお前の心の底に、どれだけドロドロとした醜い想念が渦を巻いているのかを、私が一つひとつ口にしてやろう」
「止めなさい」と、またアンが叫んだ。だが、その声には先程までの強さと明るさが欠けていた。
「ほほう、嫉《しつ》妬《と》の感情が見える。お前はずいぶん嫉妬深い女のようだ」
「嘘《うそ》よ!」
そう叫んだものの、アンは目に見えない強い圧力を感じて、ペタリと壁際の床の上に座り込んだ。
「子供のときには、ずっと自分の姉に嫉妬していたようだな。父親を独占したかったらしい。ギルバート? ギルバートとは誰だ。父親の名か、いや違う。ボーイフレンドだな。高校時代のボーイフレンド。それも友人から奪ったのか。親友のボーイフレンドのギルバートが欲しくて、友達を裏切ってまで、その男を手に入れたのか」
「違う、それは違うわ」と涙声になってアンが言った。「私はシャーリーからギルバートを奪ったんじゃない。あれは、シャーリーの誤解だったわ」
「そのギルバートが、いまどうしているか教えてやろうか。交通事故で死んだギルバートは、地獄にいる。お前のことを恨みながら地獄の火に焼かれている」
「そんなはずはないわ」
「では、その姿を見せてやろうか」
「見せないで! お願いだから」
「いや、見せてやろう。これがギルバートのいまの姿だ」
マーガレット・ケペルの言葉と共に、白い靄《もや》がスクリーンのようにアンの目の前でスッと立上り、そこに映像が映しだされた。
金髪のティーンエイジャーと思われる男が、炎の中で悶《もだ》えていた。その男の周囲には、無数の、全裸のアン・ドールトンが、彼の体にからみつくようにして存在していた。
「これがギルバートのいまの心の投影だ。そして、それはお前の心の投影でもあるのだ」
アンが、ガクリと肩を落とした。そのアンの体にのしかかるように、マーガレット・ケペルの姿が宙を移動した。うつむいてすすり泣いているアンの額のあたりをめがけて、マーガレット・ケペルの口元から、何か半透明の、白っぽいドロドロとしたゼリーのようなものが流れ出しはじめた。まるで意志を持ったクラゲかなにかのように、ゼリー状の物質はアンの額に向かって空中をゆっくりと進んだ。
触手が伸びた。ゼリーの端の部分が何本かの細長い紐《ひも》状《じよう》の形態に分かれ、その触手でアンの額を包み込もうとするかのように、広がった。
が、あと数センチで額に触手が届く、というとき、突然にその動きが停止した。マーガレット・ケペルの顔に動揺が走った。部屋の中に、何か動いているものがあった。白い靄《もや》の彼方で何かが動く、カタカタという小さな音が聞こえていた。
ライティング・ビューローの扉で頭を打たれ半ば失神したまま壁に押しつけられていた戸井田を気付かせたのは、頭の中に広がった色彩だった。最初はポツンと赤の光の点が頭に浮かんだ。その光は見る見る大きく広がり、色彩がそれにつれて薄くなって、赤からオパールの反射のような虹色に輝く光となり、戸井田の意識を満たした。それと同時に、彼は半失神状態から覚《かく》醒《せい》した。
一階の書斎でプロパンガスのバーナーの噴射口を広げる作業に熱中していたスーザン・クーパーは、ふと、人の声を聞いたような気がして顔を上げた。彼女の目に映ったのは、目を閉じ、床の上に、跪《ひざまず》いて、祈るような姿勢をとっている息子のドナルドの姿だった。ドナルドの口から、小さな呟《つぶや》きが洩《も》れていた。彼は澱《よど》みなく、抑揚をつけた口調で「ハイホー、ハイホー」と呟いていた。
戸井田は自分の手元からカタカタという音がしていることに気付いた。無意識のうちにライティング・ビューローを動かそうとして、自分の手が扉を細かく揺すっていたのだということが、すぐに判った。頭の中では、今度は歌声が響いていた。もう戸井田には、それが階下にいるはずの、ドナルドの声だということが理解出来ていた。彼は、また直《ヽ》接《ヽ》見《ヽ》て《ヽ》いるのだ、と悟っていた。戸井田とアンの様子を直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》見《ヽ》て《ヽ》、励ましの力を、おそらく非常に強いプラスの気を送ってくれているのだ、と、戸井田にも直《ヽ》接《ヽ》に《ヽ》判った。戸井田はドナルドの歌に自分も声を合わせて唄《うた》いはじめた。
「ハイホー、ハイホー」という歌声を聞いて、アンはすすり泣きを止め、頭を上げた。すぐ目の前に、マーガレット・ケペルが立ちはだかっているのが見えたが、何《な》故《ぜ》かその姿がさっきよりも薄くなっているように思えた。赤いドレスを透かせて、由利香の裸の肉体がうっすらと見えてきていた。それと同時に、アンは自分の頭の中に、虹のような色の光が満ちていることに気が付いた。先刻まで心の中にあった悲しみと恐怖の感情が、その光に追い払われたかのように消え失せているのが判った。アンは、さらに姿が薄れ、そして空間をやや後退したようにも見えるマーガレット・ケペルに向かって、ニコリと微笑《ほほえ》んでみせると、部屋の彼方から聞こえる戸井田の声に合わせて唄いはじめた。
「ハイホー」という歌詞をかけ声代りにして、戸井田は渾《こん》身《しん》の力でライティング・ビューローを跳ねのけた。室内にたちこめていた白い靄《もや》はかなり薄らいできていた。部屋の向こう側に、アンの姿が見えた。そこから少し離れた位置に由利香が立っていることも判った。靄は、ちょうど風《ふ》呂《ろ》の栓を抜いたときの水の流れのように、その由利香の体を中心にして渦状に集まり、凝固しようとしているように思えた。
戸井田は部屋を横切り、立ち上がろうとしているアンに手を差しのべた。頭の中には、まだ虹色の光が満ちていた。そして、アンの瞳《ひとみ》を見て、彼女もドナルドから同様の光を送られたことに、戸井田は気付いた。もう、歌の力を借りて心の陰を追い払う必要は無い、と判断して、戸井田は歌を止めた。
「さあ、マーガレット・ケペルの霊よ、おとなしく自分の死を認め、ユリカの肉体を彼女自身の精神に返しなさい」
戸井田と手を握り合ったアン・ドールトンが、凛《りん》とした声でそう言った。
「もう、あなたのまやかしは通用しない。見てごらん、自分の姿を。物質化した生前のあなたの姿形は、どんどん薄れてしまっているわ。念が弱くなっている証拠よ。おとなしく諦《あきら》めて、ユリカの肉体を返し、そこに巣《す》喰《く》っている亡者の霊と共に、行くべきところに行きなさい」
「誰が!」と、悪鬼のような表情を見せて、そこだけはまだハッキリとした映像を残しているマーガレット・ケペルの顔が歯を剥《む》き出した。
「私を甘くみるのではない。それに、この邸《やしき》のこともな。この邸が怨《おん》念《ねん》で出来ていることを忘れたらしいな。私が夫に命じ、数多くの人間の命を土台にして建てた、この邸そのものの恐ろしさを、お前たちは、まだ知らないのだ」
「薄々は気付いていたわ。この島で行われた虐殺の陰の命令者があなただということはね。生前のあなたは、おそらく血に飢えた精神異常者だったに違いないわ。新聞にもあったように、この虐殺の島を別荘地に選んだのは、マーガレット・ケペル、あなただったのだから」
「ならば、この邸の怨念の凄《すさま》じさを味わってみるがよい」
顔だけの存在となって由利香の肉体に憑《ひよう》依《い》しているマーガレット・ケペルがそう言った瞬間に、靄《もや》の渦の動きが急に大きくなった。白い竜巻と化した靄は、由利香の体を包み込むと、猛然と回転しはじめた。と思う間もなく、その竜巻が部屋の中を駆けまわった。
「寝室へ」と、アンが叫んだ。「あの絵よ。あの絵に逃げ込むつもりなんだわ」
「どうすればいい?」
寝室へ通じるドアを開いて、アンと一緒に中へと走り込みながら戸井田が聞いた。
「やっと判ったの。一階のホールにあるケペル卿《きよう》の肖像画の目の意味が」
「そうか!」と叫んで、戸井田がベルトからアイスピックを抜き出した。
「あれはケペル卿の悪霊を追い払うために誰かがやったことだったんだな」
「おそらくは死んだ神父が」
「では、こうすればマーガレット・ケペルも」
そう言いながら、戸井田はアイスピックを、壁にかかったマーガレット・ケペルの肖像画の目に突き立てた。キャンバスが破れる手《て》応《ごた》えがあった。一度引き抜いて、もう一方の目にも突き刺す。古い油絵具の固まりや粉が宙に舞った。
だが、戸井田が予想していたような、亡霊が断末魔の声をあげてのたうち回る、といった現象は起きなかった。肖像画の目の部分二ヵ所にポッカリと黒い穴が開いただけで、寝室も居間も、物音ひとつせずに静まりかえっていた。
「何《ど》処《こ》へ行った?」
居間に駈《か》け戻りながら、戸井田とアンは辺りの気配をうかがったが、由利香の肉体も、白い竜巻も、それどころか靄《もや》の一筋すら、目に入らなかった。
「消えたわ」
開いたままになっているドアから、廊下の方を見ながらアンが言った。廊下にも、何の気配も残ってはおらず、ただ突き当たりの3号室のドアに縫いつけられたシンの死体が力無く手足を投げ出しているのが見えるだけだった。
「しかし、もうあの絵の中に逃げ込むことは出来ないんだろう?」
「ええ、でも彼女が最後に言ったことが気になる。確かに、この建物は怨《おん》念《ねん》の固まりで出来ているようなものだから、もしかすると絵の中というのは彼女にとっては休息場所のようなもので、建物自体に霊が同化出来るのかもしれないわ」
「しかし、そのときは由利香の肉体は邪魔になるんじゃないか」
「そうね、そうだわ。ユリカの肉体ごと逃げたということは、まだ何かする気なんだわ。いけない、スーザンたちが危ない!」
そう叫んでアンは廊下へと走り出た。戸井田もその後を追った。二人が階段に達する前に、階下からスーザンの叫び声が聞こえた。
それより少し以前、ちょうど二階でアンと戸井田が肖像画にアイスピックを突き立てたころ、書斎では、スーザンが窓の外から聞こえる物音に注意を引かれていた。
「ドナルド、ねえドン、いま外で何か声がしなかった?」
母親の問いに、ドナルドはソファの上で首を傾げてみせるだけだった。
「何か人の声みたいなものが聞こえたと思ったんだけれど」
そう言ってスーザンは、また耳を澄ました。今度は確実に、何人もの、英語で呼びかける声が聞こえてきた。
「おーい、大丈夫ですか」
「宿泊客の皆さん、御無事ですか」
雨と風の音に混じって、ハッキリと、そういった呼び声がスーザンの耳に届いた。
「救援だわ! やっとホテルの人たちが、私たちが島に取り残されていることに気付いて助けに来たんだわ」
窓に駈《か》け寄って分厚いカーテンをめくると、闇《やみ》の向こう側に懐中電灯らしい小さな明りが揺れているのが見えた。空も、ほんのりと明るさを見せているようだった。夜明けが近いのだ、とスーザンは思った。
「勝ったわ、ドン、私たちは勝ったのよ。助けが来たわ。夜ももうすぐ明ける。もう訳の分からない悪霊に脅えるのは終り。せっかく完成したけれど、このプロパンガスの火炎放射器も、どうやら出番はなかったみたいね」
スーザンはそう言って、テーブルの上のバーナーを軽く叩《たた》いた。また、窓の外から人の声が聞こえた。
「無事なんですか? 私はマネージャーのジェームス・タンです。無事だったら、どうか姿を見せて下さい」
その声と共に、今度は上空から、ヘリコプターのものらしい爆音までが聞こえてきた。
「聞こえる、ドナルド。ほら、ヘリコプターよ。そうね、橋が落ちているんですものね。ヘリででもなければ、この島から脱出するのは無理ですものね」
ドナルドがソファから立ち上がって、両手を顔の前で大きく振った。何か言おうとしているらしいのだが、焦りのせいで、うまく言葉にならない様子だった。
「判っているわよ、ドン。あなただってここから出られるのが嬉《うれ》しいのよね」
もう一度、窓際に寄ってカーテンをめくったスーザンは、厚い雲を通してではあるけれど、夜明けの光がさらに強くなって、もう島の木々の姿さえ目にすることが出来ることに気がついた。ヘリコプターの姿は、残念ながらその窓からは見えなかったが、爆音はしっかりと聞こえていた。
「さあ、玄関を開けて姿を見せてやらなければ」と言って、スーザンはドアへと向かった。ドナルドが、さらに大きく手をバタつかせて、やっと「ノー!」と一言だけ叫んだ。
しかし、スーザンはその言葉を気にとめるでもなく、扉を開いて玄関ホールへと出て行った。
階段の上で足音がするのを耳にしたスーザンは、大声で二階にいるはずのアンと戸井田に向けて叫んだ。
「救援が来たのよ、それに、もう夜明けよ。私たちは勝ったんだわ」
二階の廊下で戸井田たちが耳にしたのは、スーザンの、その喜びの叫びだった。
「夜明けだって?」
戸井田は思わず腕時計に目を走らせた。確かに、時計は午前六時二十五分を差していた。
「もうそんな時間か、まだ四時そこそこぐらいと思っていたけれど」
そう言いながら、戸井田とアンが階段上に姿を見せたとき、玄関ホールの大きな置き時計が時を告げる音が聞こえた。
「ボーン、ボーン」と鳴るその音は、しかし、四つ打ったところでピタリと止んだ。
「罠《わな》だわ!」とアンが叫んだ。
「くそッ! 俺《おれ》の時計を狂わせたな」
「スーザン、玄関を開けちゃ駄目」
だが、アンの声よりも前に、スーザンは玄関扉のノブを回していた。
外は、漆黒の闇《やみ》だった。
激しく叩《たた》きつける雨と風に混じって、それ以外の何か、おぞましい腐臭を放つ巨大な空気のうねりのようなものが、玄関を通って邸《やしき》の中へ流れ込んだ。スーザンの体が、突き飛ばされるように床に転がった。
その空気のうねり、邸の外に満ちていたこの島で過去に死んだ者たちのマイナスの気の巨大な集合体は、バチバチと空中に青白い火花を散らしながら、玄関ホールの中を駈《か》けめぐった。
「マーガレット・ケペルが狙《ねら》ったのは、これだったのね」
「外の死霊のエネルギーか」
「私たちに弱められたマイナスの気を、あれと合わさることで、もっと強くしようとしているんだわ」
アンがそう言ったとき、例の白い渦を身にまとった由利香が、地下室からの階段を登って一階に姿を現わすのが、床に倒れたままのスーザンの目に入った。
「何をしたの?」
そう言ったときには、スーザンは既に自分の質問に対する解答を見つけていた。
由利香の肉体を使って、マーガレット・ケペルはプール室のドアを開いてきたのだ。毒虫たちが一階に上がってこられるように。
「いけない!」
スーザンは立ち上がると、階段に向かって走った。進行方向に立つ由利香の体を跳ね飛ばすつもりで、突進した。が、由利香の体は、スーザンが体当たりする前に、スッと空中に浮かんだ。火花を散らして飛びまわっていたマイナスのエネルギー体が、やっと目標を発見したかのように、その由利香の体に吸い込まれていった。
一瞬、玄関ホール全体を稲妻が走ったような衝撃が襲った。
戸井田とアンは、思わず階段上の踊り場の床に伏せた。スーザンは、勢い余って地下室への階段の手《て》摺《す》りにしたたか胸をぶつけ、たたらを踏んだ。その足が、重油の缶を蹴《け》り、缶はガランガランと音を立てて転がり落ちて行った。その地下室から、酸味の強い臭いがたちこめてきていることに気付いたスーザンは、アンが置いたはずのライターを求めて、手摺りの上を探った。
ライターは、無かった。
玄関ホールの中空に、いまや二階の天井まで届きそうな巨大な姿となったマーガレット・ケペルの体が出現していた。赤いドレス、帽子のレースのリボンまでが、実存するもののように、ハッキリとアンや戸井田の目に映っていた。マイナスの気の合併が、マーガレット・ケペルの霊に再び強大な力をもたらしたのは明らかであった。
彼女は口元に毒々しい笑いを浮かべると、自分の頭の上に浮いている由利香の体を見上げた。
「この肉体は、もう私には必要無くなった。お前たちは返して欲しがっていたな。さあ、受け取るがいい」
その言葉と共に、二階の天井の高さから、由利香の体が玄関ホールの床へと落下した。床に叩《たた》きつけられた由利香の首の付け根で、骨の砕ける嫌な音がして、彼女の顔が不自然な角度に折れ、そして動かなくなった。
「殺したわね」
階段上に立ちはだかったアンが、赤い髪を逆立てんばかりにして、そう呟《つぶや》いた。
「口《く》惜《や》しいか、怒るがいい」と、そのアンの全身ほどもある巨大な顔のマーガレット・ケペルが言った。
「怒れ、怒れば怒るほど、お前たちの心の波動が地獄に近くなる。そして、私たちの仲間入りをする」
アンの肩を後ろから抱いて、戸井田が囁《ささや》いた。
「心を乱すんじゃない、それがあいつの狙《ねら》いなんだ」
アンは小さくうなずくと、呼吸を整えようと努力した。
そのとき、様子をうかがっていたスーザンが、バッとホールを駈《か》けた。マーガレット・ケペルの顔が、首から上だけグルリと回転してドアの方を向いた。
「逃がすものか」
その言葉と共に、玄関の扉の閂《かんぬき》錠が、手を触れる者もいないのに、音を立てて閉じた。同時に、ダイニングルームへ通じる扉にもボルトの下りる音が聞こえた。だが、スーザンの狙《ねら》いは玄関ではなかった。彼女は、間一髪の差で、書斎の中に飛び込み、内側にあったカウチを蹴《け》り飛ばして、扉が外から閉ざされるのを防いだ。
「さて、何をするつもりか、大体の見当はつくけれど、少し様子を見せてもらおうか」
マーガレット・ケペルは、別にあわてるでもなく、壁を震わせるような声でそう言った。
すぐに、プロパンガスのボンベをベルトで背負い、そこから伸びたホースと、接続されたバーナーを手にしたスーザンが、書斎からホールへと姿を現わした。
「ほほう、そんな物を用意していたのか」
「そうよ!」と言い放って、スーザンは空中に浮く巨大なマーガレット・ケペルの姿を怖れる様子もなく、ホールを横切って階段下へと進んだ。
「これで、あの毒虫どもを焼き殺してやる」
「さて、そううまくいくかな。お手並を拝見しようではないか」
マーガレット・ケペルが、そう言って毒々しい口紅を塗った口を開いて、声を立てずに笑った。
スーザンは、バルブをひねると、書斎から持ってきたライターで、バーナーの先端に火をつけた。
ポッ、と音がして、チョロチョロとバーナーの先でプロパンガスが燃えた。その炎を大きくしようと、ノズルの調節リングをスーザンが回したとき、二階でアンが悲鳴をあげた。
「スーザン、駄目! こいつは火を操るのよ。炎はあなたを襲ってくる」
しかし、アンの叫びは間に合わなかった。
スーザンは、手にした火炎放射器の炎を最大限にすると、もう階段の半ば近くまで這《は》い上がってきている重油まみれのムカデの群に向け、火を放った。
火は、一瞬にして地下室へ通じる階段一面を走った。バチバチと音を立てて重油が燃え上がり、ムカデの体を焦がす臭いと煙が、ホールに流れた。
だが、そこまでだった。
マーガレット・ケペルが、操り人形でも動かすような、奇妙な手振りを見せた。すると、燃えさかる炎は、一斉に宙に浮いた。
「逃げて、スーザン」とアンがわめいた。
「逃げるんだ」と、戸井田も叫んだ。
スーザンも、事態に気が付いて、階段からホールへと後退した。それを追って、炎が一直線に地下室からの階段を駈《か》け上がってきた。スーザンの顔に恐怖が走った。アンと戸井田が二階から階段を駈け下りようとしたが、階段の上に巨大な空気の壁でも出来たかのように、一歩も前へ進めなくなっていた。
炎は宙を走り、スーザンの顔の高さで、グルリと彼女を取り巻いた。火の粉が散って、スーザンの髪を焼いた。
マーガレット・ケペルが、また声の無い笑いを見せると、手を動かした。炎が急激に大きくなり、スーザンの顔を包み隠した。
次の瞬間に、玄関ホールに、絶叫が響いた。
だが、絶叫はスーザンの口から発せられたものではなく、叫んでいるのは、宙に浮いた巨大なマーガレット・ケペルだった。
スーザンの顔を焼いているはずの炎の輪が、マーガレット・ケペルのドレスの足元を襲っていた。霊体というのは、ある種、揮発性のあるものの集合体なのだろうか。エーテルの燃えるときのような青い炎が、ドレスの裾《すそ》から上へ上へと燃え上がっていった。
アンと戸井田の目に、書斎のドアの前に立つドナルドの姿が見えた。ドナルドの瞳《ひとみ》が、オパールの輝きを放っていた。その十歳の外見上は障害を持った少年は、両手を高くさし上げ、明らかに炎を操っていた。
「止めろ!」と、マーガレット・ケペルが呻《うめ》いた。「その子供のやっていることを止めさせろ」
ドナルドが、頭の上にかざした両手の掌《てのひら》を揺らし、そのマーガレット・ケペルの方向に向けて何かを包み込むような動きを見せた。炎が、さらに大きく膨れ上がり、巨大なマーガレット・ケペルの体全体を覆うと、凄《すさま》じい勢いで回転した。バチバチバチ、と激しい音を立てて、彼女の霊体が燃え上がり、ホールの床から吹き抜けの天井までの空間のそこここで、オパール色の光の小爆発が連続して発生した。
「お前は間違っている」と、両手を頭上にかざしながらドナルドが、はっきりとした口調で言った。その言葉には、ダウン氏症候群の影響による、舌のもつれはまったく感じられなかった。
「神と悪魔が、真実なる思いと邪悪なる欲望が、天国と地獄が、まるで拮抗した存在であるかのように、お前は言った。しかし、それが間違いであるということを、実はお前自身、よく知っている筈だ」
「そのガキを黙らせろ」
巻上がる炎で身を焼かれながら、マーガレット・ケペルは凄まじい形相で叫んだ。「そのガキの言葉を、これ以上つづけさせるんじゃない」
「哀れなる者よ」
ドナルドは、書斎のドアの前にすっくと立って、低い声音で、宣告する裁判官のように言った。
「生前に自分の為した行い、そしてその行いの源となった、邪悪な思い。その清算のために、地獄に堕ち、自らが殺させた人々の霊に責め苛まれている辛さから逃れようと、生きている者の邪な思いの綱をたぐって、この地上に迷い出ては憑依を繰り返す自分を、哀れだとは思わないのか。地獄が、何のためにあるのかということに、お前はまだ気付かないというのか」
「黙るんだ」と、オパール色に輝く爆発の度に身を捩りながら、マーガレット・ケペルは呻くように言った。「お前みたいなガキに何が判る」
「ならば教えよう。お前の夫であったフランクリン・ケペルは既に地獄で、生前の思いと行いの過ちに気付き、自分の名誉のために他の人々を殺したことへの心からの悔い改めを済ませた。百年間に及ぶ地獄での反省を終え、既に天国に上がっていっているのだぞ」
マーガレット・ケペルの顔が、炎に焙られた蝋人形のように、激しく歪んだ。尖った歯の並ぶ口が、耳まで裂けるかのように大きく開いた。
「嘘だ!」と、マーガット・ケペルは叫んだ。
「私が地獄にいるというのに、何故、あの男だけが天国に!」
「自らの過ちを知った者よ、その過ちを償うべき場所へと帰るがよい!」
ドナルドがそう言い放ち、両手を大きく前へと突き出した。
まるで金縛りにあったように、身動きひとつならず階段上の踊り場で、その有様を見つめていた戸井田とアンの目に、ドナルドの額と掌から、オパール色の光線が放射されるのが、一瞬だけではあったがはっきりと映った。
「ギャアアアアア」という絶叫と共に、マーガレット・ケペルの体が、目に見えぬ巨大な手で四方から引き裂かれるかのように、ちぎれた。次の瞬間、その中心部から爆発が起こった。それは、熱も爆風も伴わない、不思議な爆発だった。オパール色をした爆発の閃光の中で、玄関ホール上の空間に存在していた、霊的エネルギー体としてのマーガレット・ケペルは、一瞬にして雲散霧消したかのように、砕けて消えた。まったく別の次元に瞬時にして移動してしまったかのような、理解不能の不思議な消え方だった。
後には、煙一筋残ってはいなかった。
空白の時間が流れた。
戸井田にも、アン・ドールトンにも、その時間が一体どれほどの長さだったのか、後になって思い出そうとしても、全く判らなかった。
時の流れを、ボルネオホテルの玄関ホール、そして二階にいる者たちに取り戻させたのは、ドナルドの声だった。
少年は一言「ママ!」と叫んで、階段下の床に倒れたままのスーザン・クーパーに駈《か》け寄って行った。
炎で焼かれ、焦げて縮れてしまった髪に手で触れながら、スーザンも立ち上がった。彼女の広げた両手の中に、ドナルドは飛び込んで行った。
それからしばらくして、やっと体の自由を取り戻し、階段を下りはじめた戸井田とアンの耳に、今度は本物のレスキュー隊の、トランジスター・メガフォンで呼びかける声が聞こえた。
ヘリコプターはやって来なかった。
戸井田たちは、レスキュー隊が射ち込んだロープ付きの銛《もり》撃《う》ち銃のナイロンロープを玄関前の柱に固定し、相変らず降りしきる雨の中で、彼らがレインジャー部隊のようにロープ渡りをして島にやって来るのを眺めた。
やがて、縄《なわ》梯《ばし》子《ご》を利用した架設橋がレスキュー隊の手によって作られ、一行は、ロープにすがりながら、その危うげに揺れる橋を渡って、半島側へと足を下ろすことが出来た。
「詳しい話は、ホテルでうかがいますが、亡くなられた方がいるとか」
ポットから注いだコーヒーを戸井田に手渡しながら、ハロルド・ソーントンがそう訊《たず》ねた。
「一体、昨夜、あの邸《やしき》で何があったのですか」
「聞いてもあなたは信じないだろうし、僕だって話したくもない」
戸井田修は、そう答えて、コーヒーの紙コップをアン・ドールトンに渡した。
「私にも聞かないでね」と、アンがブラックコーヒーを啜《すす》りながら言った。「ただ一つだけ言えることは、私たち、そしてあなた方も、あの坊やに感謝しなければいけないっていうことだわ」
レスキュー隊が着せたらしい、ダブダブのレインコートを身にまとって、ダッジのヴァンに乗り込んでいくドナルドを見やりながら、アンが戸井田の同意を求めるように、肩をすぼめた。
「そうだな、彼は僕たちなんかより、ずっと神様に近い心を持った人間だった。心だけではなく、力という意味でも」
そうソーントンに言い捨てて、戸井田はアンの肩を抱くとヴァンへと向かった。
救助された四人を乗せたダッジのヴァンは、ムハマドの乗った救急車に続いて、走り出した。
「マーガレット・ケペルは、どうなったと思う?」と、シートに背中を預けながら戸井田がアンに聞いた。
「さあ、私にはとても答えられない。あのときのドナルドの、あるいはドナルドの口を借りて語った存在が言った言葉から想像すると、本来いるべき世界へ戻ったのかもしれないわね。だけど、ドナルドが発したプラスの気で、ボルネオホテルに巣《す》喰《く》っていた悪霊どもが、すべて消え失せたと考えるのは、楽観的すぎる見解のようね。そして、この地上に住む人間の様々なマイナスの思いが、彼らをまた呼び寄せるかもしれないという気もするわ」
「もうひとつ聞いてもいいかな。人は、死ぬと何《ど》処《こ》へ行くんだろう」
戸井田がポツリと発した問いに、アンは赤い髪に付いた雨のしずくを指でかき上げながら答えた。
「それが、生きているときにどういう心のあり方であったかの結果決まるということだけは、今度の体験を通じてはっきり学んだわ。霊は存在する。私たちは、それを身をもって経験させられたんだもの。ただ、マーガレット・ケペルのような悪霊が存在することも事実だけれど、それをもって霊魂のすべてと考えるのは浅はかだし、死後の人間の魂が、すべてマイナスの気の源になると考えるのも、消極的すぎる考え方ね。だから、プラスの気に満ちた霊も勿《もち》論《ろん》あり、そのプラスの要素が高まれば高まるほど、昔からの人が神と呼んだ存在に近くなれる、そういう世界に行けるのかもしれない。違うかしらね、ドナルド」
アン・ドールトンの言葉に、ドナルド・クーパーは言葉では答えなかった。ただ、その内斜視気味の目に、あのオパール色の光が、またキラリと宿った。
「どうやら、ドンはすべての答えを知っているみたいね。マーガレット・ケペルが、いま何処にいるのかということも」
アン・ドールトンは、そう言って振り返り、熱帯雨林の彼方に消え去ろうとしているホテルの建物に最後の一《いち》瞥《べつ》をくれた。
その古い木造建築の建物は、相変らず毒々しく、古くなってひび割れの入ったウェディングケーキのような姿を見せて、島の中央にそびえ立っていた。
エピローグ
パンパンパン! と、音を立てて、島の上空に白昼の花火が上がった。
まだ架けられてから数ヵ月しかたっていないコンクリート製の橋の上を、何台もの高級車がゆっくりと進み、その車の列の最後尾をメルセデスのリムジンが飾っていた。
「なんとか格好がついたじゃないか」
リムジンの後部座席で、今日は純白のサマースーツに蝶《ちよう》ネクタイという姿の、初老の日本人が言うと、助手席の名取が振り返った。
「はい、一時はキナバル・ホテル&リゾート側が売買契約を破棄したいなぞと言い出したので、ちょっと心配しましたが」
ダークスーツに白絹のネクタイを締めた名取の言葉に、初老の男は小さく笑った。
「あの総支配人のアメリカ人は、とんだ食わせものだったな。結局は、買い主の日興グループが手を回して本社側を説得したおかげで辞表を出したそうだが」
「東南アジアでそういった職に就いているアメリカ人は、腰掛け気分とでもいいますか、本国にいたくない事情の者が多いようです。所《しよ》詮《せん》はプロではないということになりますでしょうか」
「日興グループ側には、あの総支配人の言っていた戯《ざれ》言《ごと》は、まさか届いていないんだろうな」
初老の男の言葉を聞いて、今度は名取が口元を緩めた。
「届いていたら、あの買い値を出してくるとお思いですか」
「そうだな、これは考えが足りなかった。君の力量をどうのこうの言うつもりではなかったんだよ、それは分かってくれるね、名取くん」
「無論です、会長」と名取は答えた。「日興さんは、これでハワイ、バリ島、オーストラリアに続く、ハネムーナー・パックの目玉商品が出来たと大喜びしていますから」
リムジンが停まった。
白ペンキの匂《にお》いも新しいボルネオホテルの玄関前に、紅白のテープが張られている。紺色のビジネス・スーツに、ネクタイだけは式典用に銀色のものを締めた、十数名の日本人ビジネスマンたちが、そのテープの前に立っていた。彼らの多くは、慣れぬ南洋の島の暑気と湿気に、早くも額に汗を浮かべていた。
「会長、どうぞテープカットを」
リムジンから下り立った初老の男に、ビジネス・スーツの一人が、鋏《はさみ》を差し出しながら、そう言った。
「いや、それは私の任ではありません。私どもは単なる仲介の立場で、ここはやはり、日興さんの手で」
「そうは参りません、会長が御紹介下さったからこそ、こんな良い物件が入手出来たのですから。本社の方からも、くれぐれもとのファックスが入っておりますし」
「では、ここはひとつ、御一緒にということで如何《いかが》でしょうか」
初老の男は、そう言うと、ビジネス・スーツの日本人の鋏を持った手を、上から自分の手で押さえつけて、テープを切った。
拍手の中で、周囲に一礼した初老の男は、リムジンの傍らの名取のところへ歩き戻った。
「そういえば、内装の修復費の件はどうなった」
「それも総《すべ》て、キナバル・ホテル&リゾートに持たせました。例の二階のスイートルームの肖像画なども、専門家の手で修復させましたし。それにしても、飾ってある絵に穴を開けるなんて、質の悪い客がいるものです」
「おいおい、妙な道徳心を発揮しないでくれよ。そういう心配は、これからは日興さんがすればいいのであって、私たちは、ただ買って売る、そういう商売なんだからね」
「判っております。で、次の物件なんですが、タイの、例のクワイ河の鉄橋近くに、割合と面白いものが出たそうです」
「ゴルフ場は造れるのかね」と、初老の男が聞いた。
「はい、その敷地は充分に確保出来ます」
名取が胸を張って、そう答えた。
そのとき、コンクリートの橋を渡って到着した、日本資本による運営となったボルネオホテルの第一陣の客たちが、ドカドカとバスを下りはじめる物音が聞こえた。
「うわァ、超クラシックじゃん、やったね、写真撮りまくろうね」
ルイ・ヴィトンのバッグを二つ手にしたOLらしい日本人の娘が、ボルネオホテルを見てそう言った。
「サイコー! この建物ってウソみたい。それでさ、ユッコ、ゴルフ場ってセルフカートなの?」
ラルフ・ローレンのゴルフバッグをバスの荷物入れから引き出しながら、別の日本人娘が言った。
「電動カートだってさ。よーし、今夜はスイートルームでルームサービス取って、明日は二ラウンド回るぞ。それにしてもさ、結構このホテル、いい男の従業員揃えてるみたいじゃん」
エルメスのスカーフの結び目を気にしながらそう言ったOL風の日本人娘を見下ろしながら、ボルネオホテルの建物が、嬉《うれ》し気にブワッと膨脹した。
あとがき
この小説はフィクションであり、登場する如何《いか》なる人物、団体等も実在のものとは関係が無い。コタキナバル市郊外に、本書の題名と同じ名のホテルが存在するが、当然ながら、そのホテルは本書の内容とは、まったく無関係であることを申し述べておく。
ただ、本書の中に登場する心霊現象の多くは、著者自身が実際に体験したものであり、そのうちのいくつかは、この小説の執筆中に著者の身に対して起きた現象と類似しているということも、附記しておく。
一九九一年一月
景 山 民 夫
参考文献
☆「太陽の法」大川隆法著 角川文庫
☆「永遠の法」大川隆法著 角川文庫
☆「悪霊撃退法」大川隆法著 角川書店
☆「RAJAH BROOK’S BORNEO」D.J.M.TATE 編 JOHN NICHOLSON LTD.HONG KONG
☆「GREAT HAUNTINGS」PETER BROOKESMITH 編 ORBIS PUBLISHING.LONDON
☆「ダウン症の子をもって」正村公宏著 新潮社
ボルネオホテル
景《かげ》山《やま》 民《たみ》夫《お》
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平成12年10月13日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
Tamio KAGEYAMA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『ボルネオホテル』平成5年4月24日初版刊行