雪の破魔弓 銀の共鳴5
岡野 麻里安
目 次
序 章
第一章 |呪《のろ》い歌
第二章 |地《じ》|獄《ごく》|姫《ひめ》
第三章 再会
第四章 氷の|十字架《じゅうじか》
第五章 神々の庭
第六章 グロリア
『銀の共鳴』における用語の説明
あとがき
登場人物紹介
●|鷹塔智《たかとうさとる》
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十七歳の|超《ちょう》一流|陰陽師《おんみょうじ》。|JOA《財団法人日本神族学協会》を脱会後、魔の|盟《めい》|主《しゅ》・|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》じられて|昏《こん》|倒《とう》。|京介《きょうすけ》に助けられ、共同生活をしながら、フリーで|退《たい》|魔《ま》・|浄霊《じょうれい》を行う。|京都《きょうと》・|魔《ま》|天《てん》|楼《ろう》における緋奈子、|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》との戦いで、すべての記憶を取り戻し、陰陽師としての使命を再認識。全国各地の地霊気を浄化するため、京介とともに、放浪の旅をはじめる。
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●|鳴海京介《なるみきょうすけ》
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十七歳の高校生。智と出会い、行動をともにするうちに、深い信頼と愛情で結ばれるようになる。一見、明るく気のいい普通の男の子だが、じつは|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の神霊の|化《け》|身《しん》。天之尾羽張の使用が、身の破滅=|妖獣《ようじゅう》への変身につながると知りつつも、智を守るために幾度となく|顕《けん》|現《げん》させる。現在は、妖獣と化しても、人間としての理性を保っていられるが……。
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●|狼《ロウ》
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JOAが|派《は》|遣《けん》した、智のボディガード。術者としての実力も折り紙つき。
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●|三《み》|神《かみ》|冷《れい》|児《じ》
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|希《け》|有《う》の才能を持つ|言《こと》|霊《だま》|使《つか》い。目的の|逐《すい》|行《こう》に|邪《じゃ》|魔《ま》な智の|命《いのち》を、|虎《こ》|視《し》|眈《たん》|々《たん》と|狙《ねら》う。
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●|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》
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冷児によって|呪《じゅ》|縛《ばく》された北海道の|女《め》|神《がみ》。冷児から智の|呪《じゅ》|殺《さつ》を依頼されるが……。
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●|柴《しば》|田《た》|靖《やす》|夫《お》
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|鎌《かま》|倉《くら》の暴力団・|黒《くろ》|部《べ》|組《ぐみ》の元・|三《さん》|下《した》。アイドル系の愛らしい顔を持つ美少年。
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●|睡《すい》|蓮《れん》
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智と|瓜《うり》|二《ふた》つの|容《よう》|姿《し》を持つ情報収集専門の|式《しき》|神《がみ》。少女の姿をとることもある。
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●|左《さ》|門《もん》|道《みち》|明《あき》
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黒部組に所属していた|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》。|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》の|舞《まい》|殿《どの》で死んだとされていたが……。
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●|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》
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魔の盟主。智を愛しつつもその命を狙うが、死の寸前に改心、智を救う。
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●|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》
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邪神・火之迦具土の人間界での仮の姿。緋奈子とともに魔界へ|墜《お》ちたが……。
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序 章
北海道|札《さっ》|幌《ぽろ》|市《し》――。
白いビルの一室で、静かな声がした。
「お願いがあります、|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》」
若い男の声だ。
スポットライトをあてたように、デスクの周囲だけが、まばゆく輝いている。
それ以外の場所は、真の|闇《やみ》だ。
声は、闇のなかから聞こえてくる。
「そこにいらっしゃることは、わかっています、果羅姫」
「その名で、私を呼ぶでない……」
やはり闇のなかから答えたのは、|透《す》きとおった女の声である。
|傲《ごう》|慢《まん》な響きがある。
これが、果羅姫だろう。
「果羅姫、あなたに|呪《じゅ》|殺《さつ》をしていただきたいのです」
「その名で、私を呼ぶでない……!」
女は、|苛《いら》|立《だ》ったように答える。
カツン……。
|靴《くつ》|音《おと》がした。
デスクの周囲の光のなかに、一人の美しい青年が、歩みでてきた。
女と|見《み》|紛《まが》う|繊《せん》|細《さい》な|美《び》|貌《ぼう》、細身で優美な体つき。
やわらかな|髪《かみ》を、肩のあたりまで伸ばしている。
身につけているのは、高価そうな|薄紫《うすむらさき》のスーツ。
一見、育ちのいい好青年といった|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だ。
ただし、左手に、明らかに人間のものとわかる|髑《どく》|髏《ろ》を持っていなければ、だが。
優しげな外見と、その髑髏の取り合わせは、なんとも異様なものを感じさせた。
「果羅姫、|陰陽師《おんみょうじ》の|鷹塔智《たかとうさとる》を殺してください」
「その名で、私を呼ぶなと申しておる……|三《み》|神《かみ》|冷《れい》|児《じ》」
三神冷児と呼ばれた青年は、|妖《よう》|艶《えん》な微笑を浮かべた。
左手に髑髏を|抱《かか》えたままだ。
「光のなかへ、出ていらっしゃい、果羅姫。あなたは、ぼくに|逆《さか》らえない。そうでしょう?」
短い沈黙があった。
かすかな|衣《きぬ》ずれの音がする。
光のあたる場所へ、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な美女が姿を現した。
|能装束《のうしょうぞく》である。
|肌《はだ》が|透《す》きとおるように白い。
|魂《たましい》が吸いこまれてしまいそうな夜色の|瞳《ひとみ》、|薄紅《うすくれない》の|唇《くちびる》。
|艶《つや》のある|漆《しっ》|黒《こく》の|髪《かみ》は、|床《ゆか》まで届いている。
外見は、二十二、三歳に見える。
だが、この美女には、どこか人間ではないと思わせるような|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が|漂《ただよ》っていた。
美女は、冷ややかに三神冷児を|見《み》|据《す》えた。
「出てきた。……ほかに何が望みだ、三神冷児よ」
青年は、会心の|笑《え》みをもらした。
「そう。それでいいんです。|罪《つみ》深い者が、死後に|赴《おもむ》くという|果《か》|羅《ら》|国《こく》。その果羅国の姫……果羅姫と、ぼくが名づけたあなたは、その名前に|縛《しば》られているかぎり、自由にはなれませんよ。あなたは、ぼくが、果羅姫と呼ぶかぎり、ぼくの命令を聞かなければならない」
「果羅姫……|地《じ》|獄《ごく》|姫《ひめ》とはよくも名づけた、三神冷児よ。だが、永遠にその名で私を縛っておけるとは思わぬことだ」
美女は、|哀《あわ》れむような色を浮かべた。
三神冷児は、ただ、|微《ほほ》|笑《え》んでいた。
この美青年、三神冷児は、|希《け》|有《う》の才能を持つ|言《こと》|霊《だま》|使《つか》いだ。
今年、二十五歳になる。
中学卒業の時点でアメリカに渡り、あちらの医大で学位を取った。
アメリカの研究所に残ることを|勧《すす》められたが、三年前に帰国。
以来、国内で、研究に打ちこんでいる。
父は、|津《つ》|雲《くも》財団――全国的に環境保護活動や、|福《ふく》|祉《し》活動を行っている団体――の代表者である。
この白い建物も、津雲財団所有のビルだ。
ビルは、|札《さっ》|幌《ぽろ》の北海道|神《じん》|宮《ぐう》の裏手の森のなかにある。
周囲は、高いコンクリート|塀《べい》で囲まれていた。
コンクリート塀の上には、|尖《とが》った|鉄条網《てつじょうもう》が|忍《しの》び|返《がえ》しのように植えこまれている。
塀の内側に入るには、|守《しゅ》|衛《えい》のいる鉄の門のところで、身分証明書を提示しなくてはならない。
たかが一財団所有のビルにしては、|警《けい》|戒《かい》が|厳重《げんじゅう》すぎた。
というのは、津雲財団の活動のうちで、環境保護活動や、福祉活動というのは、|表向《おもてむ》きの|善良《ぜんりょう》な顔にすぎなかったからである。
裏にまわれば、|非《ひ》|合《ごう》|法《ほう》の|遺《い》|伝《でん》|子《し》組み替え実験や、軍事目的のサイキックパワーの開発など、|怪《あや》しげな研究を行っている。
津雲財団は、|暗《あん》|黒《こく》|街《がい》では、いくつもの暴力団を|傘《さん》|下《か》に|抱《かか》えこむ、|質《たち》の悪い団体として知られていた。
そして――。
三神冷児の「研究」も、つまるところ、|闇《やみ》の世界でしか|歓《かん》|迎《げい》されない|類《たぐい》のものであった。
「|陰陽師《おんみょうじ》の鷹塔智を、|呪《じゅ》|殺《さつ》していただけますね」
三神冷児は、優しく|微《ほほ》|笑《え》んだ。
耳に|心地《こ こ ち》よいテノールの声である。
左手には、|髑《どく》|髏《ろ》を持ったままだ。
「|嫌《いや》とは言わせぬつもりなのだろう、三神冷児」
果羅姫は、|苦《にが》|々《にが》しく|呟《つぶや》いた。
「ええ、もちろん」
三神冷児は、果羅姫に背をむけ、左手の髑髏をそっと|撫《な》でた。
|愛《あい》|撫《ぶ》するような手つきだった。
「祖父から〈|汚《けが》れ|人《びと》〉を|継承《けいしょう》し、大地の|地《ち》|霊《れい》|気《き》を|浄化《じょうか》して歩く鷹塔智だけが、ぼくの計画の|唯《ゆい》|一《いつ》の障害です。ぼくの津雲微生物研究所に、日本じゅうの〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉……|邪《じゃ》|悪《あく》な地霊気のラインを集めるという計画の……ね」
三神冷児は、うっとりとした|口調《くちょう》で|呟《つぶや》く。
「ぼくは、今度こそ、人類を死滅させる|細《さい》|菌《きん》を作りますよ」
「人類を死滅させる……?」
「そう。一人残らずね」
美青年は、遠くを見るような目をした。
「ぼくは、十年も同じ夢を見てきました。人間を、一人残らず殺す細菌の夢です。自然にも、人間以外の生物にも、なんの影響もおよぼさず、人間だけを確実に地上から消し去る……そういう細菌があったら、素晴らしいと思いませんか。人間さえいなくなれば、もうどこにも悲しみも、迷いも、苦痛もなくなります。もちろん、戦争も、自然破壊もね。……|情《なさ》けない話ですが、そんな世界を想像する時だけ、ぼくは心の底から安らげるんですよ」
三神冷児は、果羅姫を振り返って、|無《む》|垢《く》な子供のように|微《ほほ》|笑《え》んだ。
そのあいだにも、冷児の|繊《せん》|細《さい》な右手は、左手のなかの髑髏を、|愛《いと》しげに撫でさすっている。
「それと、おまえの言う〈黒い竜脈〉、どういう関係があるのだ?」
果羅姫は、無表情に尋ねる。
「人間の考えは、私にはよくわからぬ……」
冷児は、ニッコリ笑った。
「簡単なことですよ。|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》山頂に造った、ぼくの津雲微生物研究所に、〈黒い竜脈〉を集めます。そして、その邪悪な地霊気と、開発中の微生物を|融《ゆう》|合《ごう》させ、|新《あら》たな細菌を作りだすのです。毒性が強くて、人間だけが発病し、しかも|繁殖力《はんしょくりょく》の強い細菌です。できるならば、ノミやネズミなどの|媒《ばい》|介《かい》を使わず、直接、人間から人間へ空気|感《かん》|染《せん》するというのが、望ましいですね。ぼくは、その細菌をグロリア……つまり『栄光の|賛《さん》|歌《か》』と名づけるつもりです。グロリアが完成した時、地球の人類は|壮《そう》|麗《れい》なる|最《さい》|期《ご》の日を迎えるでしょう」
冷児は、優しい口調で言った。
「残り数か月以内に、融合に必要なだけの〈黒い竜脈〉が手に入るはずです。今、この瞬間にも、津雲財団の七つのビルが、日本全国の〈黒い竜脈〉を吸いあげて、電波に変換していますからね。その電波は、各ビルの|屋上《おくじょう》の電波塔から、大雪山の津雲微生物研究所にむけて、転送されています。グロリアの誕生は、もう時間の問題ですよ」
果羅姫は、しばらく無言で、三神冷児を|眺《なが》めていた。
「ぼくは、開発した細菌を、〈神々の庭〉|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》山頂から、世界じゅうにまき散らします。細菌は、|薔薇《ば ら》|色《いろ》の光を放って、オーロラのように世界の空を|覆《おお》うでしょう。美しい光景ですよ……。人類の|最《さい》|期《ご》を飾る、|華《か》|麗《れい》なショウです。空に、|夕《ゆう》|陽《ひ》より|鮮《あざ》やかな薔薇色の|帯《おび》が、どこまでもつづいていくのです。その帯は、昼もうっすらと|薄紅《うすくれない》に光り、夜は夜で、|深《しん》|紅《く》に輝きます。世界じゅうの人々が、美しい空の下で、静かに死んでいくでしょう」
冷児は、ほうっ……と、満足げなため息をもらした。
「ぼくは、それを見ながら、バーボンで乾杯するつもりです。お酒は、あんまり飲めないんですけれどね……たまには、いいでしょう」
冷児の|瞳《ひとみ》は、異様な喜びに輝いている。
「それで、おまえは、ワクチンを片手に、|自《みずか》ら選別したエリートたちの上に|君《くん》|臨《りん》するつもりか。どのみち、細菌に対して抵抗力をもたせるワクチンの開発も、同時に進めているのだろう」
果羅姫は、|揶《や》|揄《ゆ》するような|口調《くちょう》で尋ねる。
「とんでもない」
三神冷児は、苦笑した。
「ぼくは、そんな|面《めん》|倒《どう》なことは、お断りですよ。細菌は、ぼく自身も含めて、すべての人類を滅ぼすでしょう。まき散らしてから、遅くとも、七日以内に」
「人類皆殺しか……」
果羅姫は、|侮《ぶ》|蔑《べつ》の笑いをもらした。
「おまえは、|同《どう》|胞《ほう》を裏切っても、平気なのか」
「平気ですよ。人間なんか、みんな死んでしまえばいい」
三神冷児は、そっと笑った。
「人類は、生まれてこなかったほうがよかったのです。ぼくは、よく考えるんですよ。……どうして、神々は、人類の祖先が最初に森から外に出た時、天から|雷《いかずち》を走らせて、焼き殺してくれなかったんだろうと」
三神冷児は、|恨《うら》めしげな目で、果羅姫を見た。
「人類は、幸せを求めて、文明を発展させてきました。その動機は、間違っていなかったと思います。でも……幸せになろうとするあまり、結果として他人を傷つけ、人間以外の生き物を踏みにじり、母なる地球を|汚《お》|染《せん》してきたんです。……ぼくは、それが許せません。ぼくは、もう人類は滅びるべきだと思います。もう|潮《しお》|時《どき》ですよ。そう思いませんか、果羅姫……いいえ、偉大なるカムイ、北海道の大地の|女《め》|神《がみ》よ?」
果羅姫は、無言のままだった。
「鷹塔智を殺してください。あなたは、それだけやってくださればいい。……あとは、ぼくがすべてを進めます。〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉を集め、グロリアを生みだし、世界じゅうの空にばらまいておみせしましょう。ぼくたち人類が、地上に誕生する以前の、静かな地球をお返ししましょう。……お|嫌《いや》ですか、果羅姫?」
三神冷児は、|髑《どく》|髏《ろ》を目の高さに持ちあげ、そっと尋ねる。
それから冷児は、口のなかで、かすかに|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》えたようだった。
髑髏の|眼《がん》|窩《か》が、|淡《あわ》い青に輝きはじめた。
果羅姫は、|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》そうに、髑髏の光から顔をそむけた。
髑髏の両目のあたりが、しだいに輝きを増す。
「断る。私には、鷹塔智を殺しても、なんの得もない」
言いながら、果羅姫は、|両袖《りょうそで》をあげて、|眩《まぶ》しげに顔を|覆《おお》った。
「本当に? もう一度、考えなおしていただけませんか」
冷児は、|慇《いん》|懃《ぎん》な|口調《くちょう》で尋ねる。
「この光を浴びて、よくお考えになってください、果羅姫。鷹塔智を|呪《じゅ》|殺《さつ》するのは、嫌ですか?」
「その光を消さぬか、三神冷児」
果羅姫は、顔を覆ったまま、|苛《いら》|立《だ》ったような|声《こわ》|音《ね》で命じる。
だが、光を浴びると苦しいのか、声に力がなかった。
冷児は、それを見てとって、|蛇《へび》のような目をした。
「消しません。|快《こころよ》いお返事がいただけるまではね……果羅姫」
「人間|風《ふ》|情《ぜい》が……」
冷児は、果羅姫に一歩近よった。
「お|怒《いか》りになっても、|無《む》|駄《だ》ですよ。この〈クラークの髑髏〉があるかぎり、あなたはぼくに勝てない。ご覧なさい。この〈クラークの髑髏〉には、果羅姫の名前が、鉄のナイフで刻みこんである。これが、|呪《じゅ》|縛《ばく》の|証《あかし》です。この髑髏があるかぎり、あなたはぼくに従わなければならない。ぼくがいいと言うまで、あなたは|地《じ》|獄《ごく》の姫として、血塗られた暗い道を歩むのです。……無駄な抵抗はおよしなさい」
果羅姫が、|能装束《のうしょうぞく》の袖から顔をあげて、|哀《あわ》れむような目で冷児を見た。
「人類が滅亡した後、おまえの|魂《こん》|魄《ぱく》が、誰にも救われぬまま、永遠に地上をさまよう姿が見えるようだ」
冷児は、天使のような顔で、優しく|微《ほほ》|笑《え》む。
「どのみち、救われようなんてムシのいいことは思っていませんよ。人類皆殺しの大罪を|犯《おか》すのですからね。そう……でも、それはまだ先の話だ。あなたには、今ここで、ぼくの|言《こと》|霊《だま》を破る力はないでしょう。おとなしく、ぼくの言うことをお聞きなさい」
その言葉を聞くと、ふいに果羅姫――カムイは、笑いだした。
ゾッとするような笑い声だった。
果羅姫は、笑いだした時と同じように、ピタリと笑いをやめて、冷児を|見《み》|据《す》えた。
「よかろう。その|心意気《こころいき》に|免《めん》じて、おまえの望みどおり、鷹塔智の|呪《じゅ》|殺《さつ》を引き受けよう」
「お言葉は、たしかに|承《うけたまわ》りましたよ、果羅姫」
冷児は、無表情に、右手で|髑《どく》|髏《ろ》の頭を軽く|撫《な》でた。
すると、髑髏の光が消えた。
室内は、デスクの周囲だけが、スポットライトをあてたように、白く浮きあがっている。
光のあたっていない場所は、真の|闇《やみ》だ。
白い光のなかで、|女《め》|神《がみ》は|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めて、|能装束《のうしょうぞく》の|袖《そで》を一振りした。
その動きで、室内に、冷たい風が巻きおこった。
風が吹きぬけるのと同時に、果羅姫は姿を消した。
三神冷児の肩まである|髪《かみ》が、ふわりと宙に舞う。
「支配はできるが、よくわからない女だな……」
冷児は、ため息をついて、髑髏に目を落とした。
満足げな笑いが、美しい唇に浮かぶ。
カツン……。
冷児は、|踵《きびす》をかえして、光のなかから出ていった。
第一章 |呪《のろ》い歌
少年の手が、静かに|扇《おうぎ》を閉じた。
扇は、〈闇扇〉と呼ばれる|呪《じゅ》|具《ぐ》である。
黒地に、金色の|日《にち》|輪《りん》が描かれていた。
〈闇扇〉が閉じられるのを待っていたように、|納沙布《のさっぷ》|岬《みさき》に、粉雪まじりの風が吹きつけてきた。
少年が、術を使うために張っていた|結《けっ》|界《かい》が、消滅したためだ。
少年の白い|狩《かり》|衣《ぎぬ》と、|白袴《しろばかま》が、強い風にはためいている。
目の前はすぐ、国境の海である。
海のむこうに、うっすらと青く、|歯舞《はぼまい》諸島の一つ、|水晶島《すいしょうとう》や、|国後《くなしり》|島《とう》が見えていた。
十二月の北海道。
夏には開いている岬の|土産《み や げ》|物《もの》|店《てん》も、今は閉じている。
観光客の姿もなかった。
|岬《みさき》の左手の雪野原のなかに、四島返還を願う巨大なモニュメントがあり、その上で、消えることのない「祈りの灯」が静かに燃えていた。
「|闇《やみ》の|浄化《じょうか》、すんだかぁー、|智《さとる》?」
少年の|狩《かり》|衣《ぎぬ》の背中にむかって、明るい声が叫んだ。
「すんだ。でも、変なんだ、|京介《きょうすけ》……!」
少年――|鷹《たか》|塔《とう》智は、振り返って、百メートルほど離れて立つ|相《あい》|棒《ぼう》を見つめた。
「変だって、何がだぁー?」
相棒・|鳴《なる》|海《み》京介は、ムートンのハーフコートにくるまって、寒そうに足踏みしている。
ムートンのハーフコートの下は、モスグリーンの厚手のセーターだ。
色黒でお|人《ひと》|好《よ》しな顔と、両耳が、粉雪まじりの寒風にさらされて、真っ赤になっていた。
前夜の宿である、|釧路《く し ろ》のホテルを|発《た》つ直前に、京介が、ひそかにハーフコートのポケットに、使い捨てカイロを|忍《しの》ばせていたのを、智は知っている。
あれだけ着こんで、防寒に努めても、まだ寒いらしい。
(|意《い》|地《じ》をはらないで、車のなかで待ってればいいのに)
智は、クス……と、笑いをもらした。
その肩や頭に、粉雪が降りかかる。
智自身は、|霊力《れいりょく》が充実しているため、この|酷《こっ》|寒《かん》のなかで、|絹《きぬ》の狩衣だけでも、ほとんど寒さを感じない。
もっとも、気をぬけば、普通の人と同じように、寒さに震えることになるのだが。
「智、終わったんなら、戻ってこいよぉーっ! 早く、あったかいところに行こうぜ!」
京介が、雪のなかで、また叫ぶ。
智の周囲には、術が終わるまで、霊的な|結《けっ》|界《かい》が張ってあったため、京介はまだ近づいてこようとはしない。
京介は、|陰陽師《おんみょうじ》である智の仕事の|邪《じゃ》|魔《ま》をしないように、気をつかっているのだ。
智と京介が、|新宿区《しんじゅくく》内のマンションで、同居しはじめてから、もう半年くらいになる。
京介も、智の仕事のやり方は、心得たものだ。
「早くしろよ、智! 寒いぞぉーっ!」
京介は、足踏みしながら、白い息を吐いている。
「智ーっ!」
「今、行くってば!」
智は、チラリと北国の海に目をやった。
粉雪の舞う海は、くすんだ色をしている。
(何か……誰かが、オレの術を邪魔したような気がしたんだけど……)
智は、無意識に、肩に積もった雪を払い落とした。
(気のせいだったのかな……)
だが、誰かが|邪《じゃ》|魔《ま》してきたにせよ、|納沙布《のさっぷ》|岬《みさき》の大地の|闇《やみ》――|汚《けが》れの|浄化《じょうか》は、成功した。
さっきまで、大地を|脅《おびや》かしていた闇は、形を変えて、智のなかに眠っている。
智が、〈|闇扇《やみおうぎ》〉で闇を体内に招きよせて、|呑《の》みこんでしまったのだ。
これが、この世で智の果たすべき役割だった。
大地の闇を、自分自身の体内に招きよせ、その土地を浄化して歩く――。
智のなかで|濃縮《のうしゅく》された闇は、やがて、智の死の|間《ま》|際《ぎわ》に浄化され、白い光となって、天に|還《かえ》るだろう。
だが、それまでは、闇を|抱《いだ》いて、智は、日本全国を|放《ほう》|浪《ろう》しなければならない。
一か所に長くとどまると、智の体内の闇が、その土地を|汚《お》|染《せん》してしまうからである。
そして、この北海道への旅は、鷹塔智の放浪の始まりだった。
闇を浄化する〈|汚《けが》れ|人《びと》〉としての――四か月ほど前の|鎌《かま》|倉《くら》での戦いを別とすれば――第一歩が、これだった。
「智さま、いかがなさいましたか?」
音楽的な低い声が、尋ねた。
「|狼《ロウ》……」
智は、声の|主《ぬし》を見あげた。
|灰《はい》|色《いろ》のコートを着た、長身の男が、隣に立っている。
コートの下は、|地《じ》|味《み》な|濃《のう》|紺《こん》のスーツである。
今までどこにいたのか、智のそばに移動してくるまで、|気《け》|配《はい》もしなかった。
男は、今年、二十八歳になるという。
身長は、一九〇センチ。
京介より、わずかに高い。
どこか、ドイツの軍人を思わせる、禁欲的な|眼《まな》|差《ざ》しと、|無《む》|駄《だ》のない引き締まった肉体が、印象的だ。
名前は、狼。
だが、その狼というのが、本名なのか通称なのか、智は知らない。
狼の|国《こく》|籍《せき》が日本なのかどうかさえ、わからない。
狼は、JOA(財団法人|日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》)が|派《は》|遣《けん》してきた、〈汚れ人〉鷹塔智のボディガードだった。
専門は、|古《こ》|武《ぶ》|道《どう》だ。
それ以外にも、東洋医学や|陰陽道《おんみょうどう》を|修《おさ》めている。
どの分野でも、実力は折り紙つきだという。
JOAが、智にボディガードを送ってきたのには、理由がある。
JOAは事実上の支配者だった|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》を、一か月半ほど前に、秋の|京都《きょうと》で失っている。
その結果、現在のJOAは弱体化し、いつなんどき、ほかの組織につぶされてもおかしくないという状態になってしまったのだ。
JOAそのものの内部抗争も、激しくなってきている。
そこで、JOAを|牛耳《ぎゅうじ》っている|幹《かん》|部《ぶ》の一派が、|退《たい》|魔《ま》業界の第一人者である鷹塔智を、味方につけようとした。
智にボディガードを提供して恩を売り、いざという時には、なんらかの協力を得ようという腹である。
もちろん、智の側にも、ボディガードを受け入れたのには、理由があった。
〈|汚《けが》れ|人《びと》〉となった智の体内の|闇《やみ》を、悪用しようとする者たちが、|跡《あと》を|絶《た》たないのだ。
この闇が悪用されると、その影響は、日本じゅうに|波及《はきゅう》しかねない。
JOAと智の利害が一致したわけである。
そのため、狼は、一か月くらい前から、無期限で智のボディガードを|務《つと》めることとなったのだ。
「変だ、とおっしゃいましたか、智さま?」
狼は、智を京介のそばへ連れていきながら、低く尋ねる。
その|拍子《ひょうし》に、ほのかな|柑《かん》|橘《きつ》|系《けい》の香りが、智の鼻をくすぐった。
|傍《かたわ》らを歩く狼の、整髪料の|匂《にお》いだ。
「ああ……気のせいだと思うんだが、狼は、何か感じなかったか? オレが〈|闇扇《やみおうぎ》〉使って、〈|闇《やみ》|舞《まい》〉を舞ってる時」
京介に対する時と、狼に対する時とでは、智の|口調《くちょう》がまったく違う。
京介の前では、|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》だった頃と変わらない態度で、行動し、話している。
だが、狼の前では、鷹塔智は、天才|陰陽師《おんみょうじ》であり、〈汚れ人〉だ。
京介相手の時よりは、表情も口調も、ずっと|大人《お と な》びている。
京介が、待ちきれないように、智にむかって駆けてくる。
京介の足もとから、白い粉雪が舞いあがるのが見えた。
「いいえ、私は、何も感じませんでしたが」
狼は、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに智を見つめた。
「何かがいたということでしょうか? |霊《れい》|体《たい》のようなものが?」
「霊体かどうか、オレにもはっきりわからなかった。ただ、一瞬、術を|邪《じゃ》|魔《ま》されたような気がしたんだ」
狼は、|怪《あや》しい者がいないかというように、|岬《みさき》をぐるりと見まわした。
きびきびした動作だった。
白く雪の積もった岬に、三人以外の人影はなかった。
「それらしい|霊《れい》|気《き》は感じませんが、いちおう調べてみましょうか?」
「そうだな……頼む」
智は、言いかけて、言葉を切った。
京介が、走りよってきて、勢いよく智の右肩をつかんだからだ。
「お疲れ、智!」
「京介……」
京介は、寒さに真っ赤になった顔で、うれしそうに笑っている。
「やっと終わったな。さあ、車に戻ろーぜ」
京介のお|陽《ひ》さまみたいな|笑《え》|顔《がお》を見ると、智もつられて|微《ほほ》|笑《え》んでしまう。
(変わらないね……京介)
出会った時と、ちっとも変わらない明るい笑顔。
京介は、笑顔一つだけで、智をこんなにも幸せにしてくれる。
「行こう、京介」
智は、京介と並んで、岬の駐車場のほうへ歩きだした。
駐車場には、三人の乗ってきたレンタカーが、ポツンと|停《と》まっている。
ダークブルーのカローラだ。
雪は、しだいに強くなってきた。
狼が、三歩ほど遅れて、智に従う。
「おまえ、その格好、似合うけど、寒そうだぞ」
京介は、少し心配そうに、智の|狩衣姿《かりぎぬすがた》を|眺《なが》めた。
「ほら、肩にこんなに雪、積もっちまって」
京介は、智の肩の雪を払い落とした。
「いくら仕事だからって、真冬の北海道でまで、こんな格好しなくてもいいんじゃないのか。服で|闇《やみ》の|浄化《じょうか》するわけじゃないだろ。あったかいセーター着て、〈|闇《やみ》|舞《まい》〉しちゃダメなのか?」
智は、少し笑った。
「こういう格好するのが、きまりだからね。それに、オレはそんなに寒くないから」
「こんなに雪降ってるのにかよ?」
京介は、なんとなく、割り切れないような顔をしている。
狼は、無言のまま、二人の後から歩いてくる。
もともと、控えめで、無口な男だ。
必要のない時には、智と京介の会話に割って入ってこようとはしない。
「オレ、京介と違って、そんなに寒がりじゃないんだ」
智は、|素《す》|手《で》で雪をつかみ、丸めて雪玉にする。
|悪戯心《いたずらごころ》をおこして、雪玉を、京介の|頬《ほお》に押しつけてやった。
「やったな、おい……!」
京介が、肩に手を伸ばしてきたので、智は、スルリと身をかわした。
「おい……智!」
京介は、ムキになったように追いかけてきた。
智は、笑いながら、走りだした。
「智!」
京介も、全速力で追いかけてくる。
粉雪のなか、二人は、子犬のようにじゃれあった。
深く吸いこんだ冷たい空気が、肺を|刺《さ》す。
だが、その冷たさも、走りまわっているうちに、やがて、感じなくなった。
|火《ほ》|照《て》った頬に、雪が降りかかり、すぐに|溶《と》けていく。
二人は、どちらからともなく、足を止めた。
京介は、|両膝《りょうひざ》に手をあて、ハアハアあえいでいた。
狼は、だいぶ後ろから、ゆっくり歩いてくる。
「体、あったかくなったでしょ、京介」
智も、呼吸を整えながら、クスクス笑った。
「こいつ……!」
京介は、|殴《なぐ》るふりをして右手をあげ、智が首をすくめると、微笑して、智の|髪《かみ》の雪を払い落としはじめる。
智は、髪に触れる京介の指に、目を細めた。
(気持ちいいな……)
最近は、二人のあいだで、こんな接触も|稀《まれ》になっている。
狼が、二十四時間、智の声の届くところにいるせいだ。
智と京介は、狼の存在をはばかって、互いによそよそしい距離を保とうとしていた。
だが、時には、今日のように、京介のほうから智に触れてくることもある。
「顔、|濡《ぬ》れてるぞ。雪のせいだな」
京介の指先が、智の頬をかすめる。
「ん……平気だよ」
京介は、指先で、そっと智の頬の|水《すい》|滴《てき》を|拭《ぬぐ》ってくれる。
|温《あたた》かな指だった。
京介の|肌《はだ》を意識して、智の|鼓《こ》|動《どう》が、速くなる。
ふいに、京介の指が、智の|顎《あご》のあたりで止まった。
「智……」
京介は、たまらなさそうな目で、智を見つめてくる。
「京介……」
(ダメだ……狼におかしいと思われるよ……)
京介は、キュッと|唇《くちびる》を結んだ。
今にも、智を抱きすくめてしまいたそうに、肩のあたりが緊張している。
その時、狼が、智の隣で足を止めた。
「どうかなさいました、智さま?」
あくまで冷静で、事務的な問いかけ。
智は、ドキッとした。
京介が、勢いよく智から手を離し、数秒間、|凍《こお》りついたようだった。
狼は、智の右隣に立ち、静かな目で、智と京介を見おろしてくる。
少年二人の心の奥底まで、|見《み》|透《す》かすような|瞳《ひとみ》だ。
隠しているのに、智の京介への|想《おも》いまでも、狼には、とっくに知られているような気がした。
智の頭が、カッと熱くなる。
「なんでもない、狼」
智は、狼の視線から|逃《のが》れようと、目を伏せた。とっさに|下手《へ た》な|嘘《うそ》をつく。
「たいしたことじゃないんだ。目にゴミが入ったから……京介に見てもらっていた」
「それはいけませんね」
狼は、思いがけず、ふっと笑った。
優しい|笑《え》|顔《がお》になる。
京介が、早足で駐車場のほうに歩きだす。
「京介……」
「先に車んとこ行ってる」
智の呼びかけに、京介は、怒ったような|口調《くちょう》で答えた。
ムートンのハーフコートの背中が、どんどん速度をあげて遠ざかる。
一刻も早く、智と狼から離れたいというように。
京介は、走りだした。
(どうしたんだろう……京介)
智は、首を|傾《かし》げた。
京介が怒っているのは、狼がわざと智と京介の|邪《じゃ》|魔《ま》をした、と思っているせいなのだが、智にはわからない。
「それで、ゴミはとれましたか?」
からかうような狼の問い。
「ああ。|大丈夫《だいじょうぶ》だ」
智は、|大人《お と な》びた|陰陽師《おんみょうじ》の顔で、答える。
「そうですか」
狼は、|真《ま》|面《じ》|目《め》な|口調《くちょう》で言い、小さくうなずく。
だが、歩きだした男の|片《かた》|頬《ほお》に、かすかな|笑《え》みが|漂《ただよ》っていたようだった。
狼の|灰《はい》|色《いろ》のコートの|裾《すそ》が、雪まじりの風に|翻《ひるがえ》る。
風のなかに、かすかに狼の整髪料の|匂《にお》いがした。
「参りましょう、智さま。今夜は、|札《さっ》|幌《ぽろ》に泊まる予定になっています。|釧路《く し ろ》空港発の最終便に|間《ま》に|合《あ》うように、急がなければ」
二、三歩前に出た狼が、振り返って、|促《うなが》すように智を見る。
「ああ……そうだな」
智は、最後にもう一度、海のむこうに浮かぶ|国後《くなしり》|島《とう》や|歯《はぼ》|舞《まい》諸島をチラリと見た。
国境の海。
互いに見えるほど近くにありながら、自由に行き来できない、北の島々。
(次に〈|闇《やみ》|舞《まい》〉に来る時には、国境がなくなっていますように……)
智は、狼と並んで、歩きだした。
京介が、駐車場のカローラの横に立って、こちらのほうを|眺《なが》めている。
智と狼を見る京介の表情は、どこか|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうだった。
*    *
智と京介と狼の三人が、|札《さっ》|幌《ぽろ》についたのは、夜八時くらいだった。
|白夜《びゃくや》のように、空がうっすらと明るい。
だが、|街《まち》にはイルミネーションが|煌《きら》めいていた。
ピリッと|肌《はだ》を|刺《さ》す、冬の夜気。
どこからか、クリスマスソングが聞こえてくる。
「すっげぇなあ! 見ろよ、智、あのでっかい広告!」
京介が、六階建てのビルの壁面を、丸ごと使った電光|掲《けい》|示《じ》|板《ばん》に、|歓《かん》|声《せい》をあげた。
地元の清酒のCMが流されている。
よく見れば、同じようにビルの壁を全面、広告塔に使ったような、巨大な電光掲示板が、そこここにある。
「歩道も広いね。銀座みたいだ」
智も、初めて見る札幌の|街《まち》を、物珍しく|眺《なが》めている。
「オレ、札幌って、|街《まち》の外がすぐ|原《げん》|野《や》で、|熊《くま》とかキタキツネが歩いてるんだと思ってた。で、大通り公園に|羊《ひつじ》がいて、クラークさんの銅像が建ってるの」
智は、地元民が聞いたら、|呆《あき》れそうなことを言っている。
「あのなぁ……智、羊がいるのは、大通り公園じゃなく、羊が丘だろ。クラーク像があるのも、羊が丘」
さすがに、京介が、|訂《てい》|正《せい》を入れる。
三人は、駅の近くのホテルにチェックインした後、遅めの夕食をとりに出たところだった。
智は、白いアンゴラのセーターと、ホワイトジーンズに着替えている。
セーターの上には、白いコートを|羽《は》|織《お》っていた。
白ずくめの格好に、人目を引く|凜《りん》とした|綺《き》|麗《れい》な顔だち。
智の姿は、くすんだ服装が多い冬の街で、そこだけパッと光が|射《さ》したように、浮きあがって見える。
道行く人々が、皆、智に注目していく。
「モデル……? すごく綺麗……」
「芸能人かも」
低いささやきが、聞こえてくる。
観光客なのか、智のそばで立ち止まって、こっそりカメラをむける|強《ごう》の|者《もの》もいる。
いちいち、フラッシュが光るので、|隠《かく》し|撮《ど》りにならないのだが。
「勝手に撮るなよ。信じらんねー」
京介が、ブツブツ|文《もん》|句《く》を言っている。
「いっそ、モデル代もらっちまえ、智」
「困りましたね。こんなに人目を引くとは」
狼も、苦笑していた。
だが、京介も狼も、この騒ぎの責任の|一《いっ》|端《たん》が自分たちにあるとは気づいていない。
智は、身長は一七六センチあるが、どちらかといえば、|華《きゃ》|奢《しゃ》なほうだ。
その両側に、体格のいい一八七センチの京介と、同じく|肩《かた》|幅《はば》の広い一九〇センチの狼が立っている。
しかも、長身の二人のうち、片や色黒のさわやかな少年、片や男性的な美青年だ。
この三人が一緒にいると、いやでも目立つ。
「しょうがないですね。ここから|薄野《すすきの》まで、地下鉄に乗ろうと思ったのですが、タクシーにしましょう」
狼が、ため息をついて、智の顔を見る。
「かまいませんね、智さま?」
智は、無言でうなずく。
その時、前方から、一人の大男が、こちらに走ってくるのが見えた。
背が高く、がっしりした体格だ。
もつれた汚い|髪《かみ》を、背中のあたりまで伸ばしている。
黒っぽい服装である。
|垢《あか》|染《じ》みた黒いコート、|膝《ひざ》のぬけかけたモンペのようなズボン。
足には、ペンキの汚れのある黒い|長《なが》|靴《ぐつ》。
左腕に、|煮《に》|染《し》めたような色の|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みを|抱《かか》えていた。
風呂敷包みは、|端《はし》から端まで、一メートル以上ある。
長さはあるが、|幅《はば》はそうないので、全体に細長い形だ。
(ホームレスかな……)
智は、首を|傾《かし》げた。
(どうしたんだろう……?)
男は、誰かに追われているようだった。
何度も、後ろを振り返っている。
男が十メートルくらいそばに来ると、ツンと鼻をつく|異臭《いしゅう》がした。
通りすぎるサラリーマンたちが、男の発する|臭《にお》いに、|露《ろ》|骨《こつ》に|嫌《いや》な顔をしている。
「くせーなあ……」
京介も、顔をしかめた。
「何日、風呂に入ってねーんだ、あの|野《や》|郎《ろう》」
男は、どんどんこちらに近づいてくる。
狼は、智に視線を移した。
「では、参りましょう、智さま」
「ん……すまないな」
狼が、智の先に立って、歩道の|際《きわ》のほうに歩きだす。
その瞬間だった。
ドン!
走ってきたその男が、正面から智にぶつかった。
「わ……!」
智は、後ろによろめいた。
勢いで、男の手から、風呂敷包みが落ちた。
男は、立ち止まって、反射的に、垢染みたコートの肩のあたりをさすった。
ぶつかって、痛かったらしい。
そばに来ると、頭がクラクラするような臭気だ。
狼が、智の両肩を押さえ、抱きとめた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか」
「ああ、大丈夫だ」
京介が、ムッとしたように、智にぶつかった男を見た。
「危ねえなあ。気ぃつけろよ」
だが、男は、京介の言葉にはとりあわず、チラと後ろを振り返った。
追っ手を気にしているようだ。
|不精髭《ぶしょうひげ》の|生《は》えた顔は、|野《の》|武《ぶ》|士《し》のような|風《ふう》|貌《ぼう》だ。
|額《ひたい》に、|三《み》|日《か》|月《づき》|形《がた》の|傷《きず》|痕《あと》があった。
ふいに男は、智たちには何も言わず、走って逃げだした。
「なんだよ……変な|奴《やつ》」
京介が、顔をしかめた。
「いいじゃない、京介。あの人だって、きっとわざとじゃないよ」
智は、狼から離れ、京介に|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
京介の表情が、智の微笑を見て、ふっとやわらぐ。
「そうだな……」
狼が、|不《ふ》|審《しん》そうな表情で、男の後ろ姿を見送っていた。
だが、智も京介も、狼のそんな様子には気づかなかった。
智は、足もとに、汚い|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みがあるのに気づいた。
長さは、一メートル以上ある。
「なんだろう……?」
拾いあげてみると、予想したより軽かった。
京介が、|眉《まゆ》|根《ね》をよせた。
「あいつの落とし物だな」
「じゃあ、後で交番に届けてあげなきゃね」
智は、ためらいもなく、風呂敷包みを|抱《かか》えこんだ。
べつに汚いとも、|臭《くさ》いとも思わないようだった。
だが、京介は、顔をしかめた。
「そんなきたねーもん、|触《さわ》るなよ。どうせ、たいしたもんじゃねーんだろ。いいから捨ててけ」
「でも……きっと、あの人にとっては、大事なものだと思うし、オレは持ってても、|邪《じゃ》|魔《ま》にならないから」
「きたねーから、よせよ。そんなもん、早く捨てろ。ばっちいぞ」
京介は、一歩も|譲《ゆず》ろうとしない。
智は、困って、狼の顔を見た。
狼は、ふっと笑ったようだった。
「私がお持ちいたします。それなら、よろしいでしょう」
京介は、不満そうな顔をした。
だが、智が、狼に|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みを手渡すのを、止めようとはしなかった。
*    *
あたりに|漂《ただよ》っていた男の|臭気《しゅうき》は、ようやく消えた。
広い車道を、ひっきりなしに車が通りすぎる。
ふいに、ピリリと冷たい風にまじって、智のうなじのあたりを異様な|気《け》|配《はい》が突きぬけた。
「え……?」
智は、首の後ろを押さえ、周囲を見まわした。
夜の|札《さっ》|幌《ぽろ》の|街《まち》を|彩《いろど》るネオン。
白い息を吐きながら、智に気づいて、思わず立ち止まる中年のサラリーマン。
|露《ろ》|骨《こつ》に智を振り返って、キャアキャア騒ぎながら去っていく女子高校生たち。
狼は、すでに歩道の|際《きわ》に行って、タクシーをつかまえようとしている。
京介が、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに智を見た。
「どうした、智?」
「変な気配がしたんだ……」
智は、もう一度、周囲に視線を走らせた。
三人をチラチラ見て通りすぎる、女子高校生二人組――これは、違う。
|街《がい》|路《ろ》|樹《じゅ》の|脇《わき》にずっと立ち止まって、智から目が離せなくなってしまったらしい中年のサラリーマン――これも違う。
勤め帰りらしいサラリーマンの一団――違う。
(おかしいな……わりと近くにいるような気がしたんだけど……)
智は、ぐるりと体をまわして、真後ろを見た。
雪の積もった広い歩道の真ん中に――。
白いフェイクファーのコートを着た、|髪《かみ》の長い美女がいた。
コートの前は、この寒空に開けっぱなしだ。
|衿《えり》ぐりの大きい、青のボディコンシャスなドレスを着ている。
細い腰には、|派《は》|手《で》な金のチェーンベルトが揺れていた。
二十二、三歳だろうか。
ゆっくりした足どりで、こちらに歩いてくる。
(あれだ……!)
異様な|気《け》|配《はい》は、その美女のほうから|漂《ただよ》ってくる。
智は、無意識に息を吸いこんだ。
(あの女、敵なのか……? 攻撃してくるのか……?)
「どうした、智……おい? 変な気配って、|怨霊《おんりょう》かなんかか?」
京介が、心配そうに尋ねてくる。
「智さま、どうなさいました?」
狼が、智のただならぬ様子に気づいたようだ。
きびきびした動作で、智のそばに戻ってくる。
「智さま?」
何があったのかと尋ねるような、狼の声。
だが、智の全意識は、こちらにむかって歩いてくる美女にだけ、集中している。
(敵だとしたら、|狙《ねら》いはなんだ……? どうして、あの女の|霊《れい》|気《き》が読めないんだ……?)
智は、極度の集中状態で、口をきくどころではなかった。
美女は、夜そのもののような|黒《くろ》|髪《かみ》を揺らして、智に近づいてくる。
|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なことに、あれだけの|美《び》|貌《ぼう》なのに、女に注目する人間はいない。
通りすぎる人々は、智たち三人にしか、目をむけない。
あと五メートルほどの距離に来た時、美女の|瞳《ひとみ》が、智を|捉《とら》えたようだった。
その瞬間、すさまじい恐怖と、|圧《あっ》|迫《ぱく》|感《かん》が、智を襲った。
一瞬、現代的な|装《よそお》いの美女の姿に、同じ顔で、|能装束《のうしょうぞく》を着た美女の姿が、|幻《まぼろし》のように重なって|視《み》えた。
能装束を着た美女は、|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》だった。
それを視てとるあいだにも、智の精神への攻撃はつづいている。
理由のわからない激しい恐怖が、智の胸のなかで、荒れ狂っていた。
「智、どうした? |大丈夫《だいじょうぶ》か?」
京介が、前にまわりこみ、智の視界に入ってくる。
周囲の人間たちが、智たち三人から離れて歩きはじめる。
わけはわからないなりに、無意識の部分で、異変に気づいたのだ。
通行人たちは、自分ではそうとは自覚せずに、智たちと果羅姫の戦いに、巻きこまれるのを避けているようだ。
皆、智たちを見て見ぬふりをしている。
いや――離れて歩く人々のなかで、一人だけ、こちらに近づいてくる男がいる。
さっきの、髪の長いホームレスふうの男だ。
男は、立ち止まっては、チラチラと智たちのほうをうかがっている。
狼が、|気《け》|配《はい》に気づいたのか、男を振り返ったようだった。
だが、狼は、何も言わない。
「エンルムカク・オマンカムイ・エペムタウイ」
|謎《なぞ》めいた言葉と同時に、果羅姫が、白い手をあげて、京介を指差す。
すると――。
京介が、いきなり、歩道にうずくまったように、智の目には|視《み》えた。
「京介……?」
うずくまった京介は、苦しげにうめいた。
見る見るうちに、京介の体が変化していく。
|額《ひたい》が|狭《せま》くなり、耳が伸びはじめ、|顎《あご》の形が変わる。
それと一緒に、背中が|弓《ゆみ》なりになり、腰がグググッとあがり、手足の骨格が変わった。
全身から、ザワザワと白い毛が|生《は》えてくる。
「京介……!」
次の瞬間、歩道の上には、一頭の白い|虎《とら》がいた。
|爛《らん》|々《らん》と光る金色の目が、智を|睨《にら》みつけている。
ガーッ!
|白虎《びゃっこ》は、真っ白な|牙《きば》をむいて|吠《ほ》え、智にむかって飛びかかってきた。
果羅姫が、智と白虎を|眺《なが》めながら、|妖《あや》しく笑ったようだった。
「京介! |嘘《うそ》だ……! 京介、京介ーっ!」
智は、反撃することもできず、悲鳴のような声をあげた。
白虎の牙が、|喉《のど》に食いこむのを感じた。
体が、白虎の重みで、冷たい歩道に倒れていく。
(京介に……殺されるのか……)
喉を破る|鋭《するど》い牙の感触。
吹きだす|鮮《せん》|血《けつ》の赤と、白虎の金色の|瞳《ひとみ》が、智の視界をいっぱいに埋めつくした。
*    *
「智さま!」
ふいに、狼の声が聞こえて、智は、誰かの胸に抱きとめられていた。
「|幻《げん》|覚《かく》です。|惑《まど》わされないでください」
|穏《おだ》やかな狼の声。
智は、自分が歩道に倒れもせず、立ったまま、狼に背中を|抱《かか》えられているのに気づいた。
狼の|灰《はい》|色《いろ》のコートに|染《し》みついた、ごくかすかな整髪料の|匂《にお》い。
おそらく、幻覚に|捉《とら》われて暴れた智を、狼が全身で押さえこんでくれたのだろう。
「狼……」
「正気に戻られましたか?」
狼は、ホッとしたように、智の顔を見おろした。
気がつくと、白虎の姿は消えている。
京介は、人間の姿で智の右手に立っていた。
「京介……|大丈夫《だいじょうぶ》だった……?」
「大丈夫も何も、おまえこそ大丈夫か? いきなり暴れて、叫びだして……」
京介は、心配そうな目で、智を見つめている。
京介が|妖獣《ようじゅう》になったと|視《み》えたのは、|幻《まぼろし》だったようだ。
「私たちがわかりますね、智さま?」
「ああ……もう大丈夫だ」
その言葉に、狼はうなずいて、そっと智の背中から手を離した。
|札《さっ》|幌《ぽろ》|駅《えき》に向かう人々は、見て見ぬふりをしながら、足早に三人の横を通りすぎる。
あからさまに、こちらに目を向けているのは、ただ一人。
|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みを落とした、さっきの男である。
男は、気が気ではないように見えた。
あるいは、狼が預かった|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みを気にしているのかもしれない。
だが、智は、先ほどと同じように、男の接近には気づかなかった。
|幻《げん》|覚《かく》の術を破られた果羅姫は、智を|眺《なが》め、薄笑いを浮かべている。
智は、狼から離れ、果羅姫に視線をむけた。
(あの女、人間じゃない……!)
果羅姫が、もう一度手をあげ、今度は狼を指差そうとする。
(あいにく、もうその手には乗らない……)
智は、素早く胸の前で|印《いん》を結んだ。
「オン・バザラギニ・ハラチハタヤ・ソワカ!」
|被《ひ》|甲《こう》|護《ご》|身《しん》のダラニ(|呪《じゅ》|文《もん》)である。
美女の次なる心理攻撃は、|空《から》|振《ぶ》りに終わったようだ。
果羅姫は、|妖《あや》しく|微《ほほ》|笑《え》んで、智にむかって、歩みよってくる。
さっきの幻覚は、美女の攻撃のほんの小手調べにすぎないようだ。
(|隙《すき》を見せたら、|殺《や》られる……!)
ゾッとするような思いで、智は全身を緊張させ、美女が近づいてくるのを待ちうけていた。
美女の青いハイヒールの足もとから、粉雪が舞いたった。
「智さま……私には、戦っていらっしゃる相手が|視《み》えませんが」
狼が、静かな声で言う。
(あの女が、視えてないのか……?)
智は、チラと狼を見た。
「狼、人間じゃない女が、そこにいる。白いコートを着た女だ」
「白いコートの女……?」
狼は、|怪《け》|訝《げん》そうに、あたりに視線を泳がせた。
だが、美女の姿に気づいた様子はない。
狼は、天才|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智のボディガードに選ばれたほどの男だ。
術者としての技量は、トップクラスである。
狼ほどの男に視えないのだとしたら、白いコートの女は、おそらく、智以外の人間には視えないのに違いない。
その証拠に、通りすぎる人々は、美女の姿にまったく気づいていない。
いや、一人だけ、智以外に美女が視えている者がいた。
ホームレスふうの男である。
男は、油断なく美女に目を|据《す》えたまま、じりじりと智たちに近よってくる。
「智、どうしたんだ……?」
京介が、智の右肩をつかむ。
次の瞬間、京介の手が、智の肩の上で緊張するのがわかった。
「え……なんだ、あの女……!?」
「京介には|視《み》えるの?」
智は、美女に視線をむけたまま、尋ねた。
「ああ、今、視えた。智の肩、|触《さわ》ったとたん……いきなりそこに出てきやがった」
京介が、智の肩から手を離す。
「こうすると、視えないな。……なんなんだ、智、あれは?」
再び、智の肩をつかみながら、京介が低く言う。
「わからない。人間じゃないのは確かだけど」
|気《け》|配《はい》で、京介が、チラと狼を見るのがわかった。
「あんたも智に触ってみたらどうだ、狼? 視えるようになるかもしれないぜ」
京介は、|揶《や》|揄《ゆ》するような|口調《くちょう》で言う。
狼は、数秒のあいだ、京介の顔を見つめた。
その|穏《おだ》やかな顔の下で、何を思ったのか――。
「では、失礼して」
狼の|霊《れい》|気《き》が、ふわり……と智を包む。
大きな手が、智の左の肩に置かれた。
狼は、智の背後に立って、左手で智の肩をつかんでいる。
コンマ数秒遅れて、狼が小さく息を吸いこむ音が、智の耳に届いた。
「視えました。なるほど、あれが白いコートの女ですか」
狼の低い声は、冷静だ。
「霊気の|波長《はちょう》が、人間とはぜんぜん違いますね。|擬《ぎ》|態《たい》のように、大地の霊気に|溶《と》けこんでいる。……気づかなかったわけです」
美女は、どんどん近づいてきた。
もう、智たちとは、二メートルくらいしか離れていない。
ハイヒールが、智の前で止まった。
京介が、智をかばうように身構える。
狼も、わずかに緊張したようだった。
「あなた、誰です? オレになんの用なんですか?」
智は、美女をじっと見つめた。
フェイクファーの白いコートは、近くでよく見ると、雪だった。
それも、降り積もったばかりのふわふわした新雪だ。
美女は、新雪のコートを着ているのだ。
ある種の激しい|畏《おそ》れが、智を|捉《とら》えた。
(人じゃない……|化《ば》け|物《もの》でもない……これは……神だ。
北海道の大地の|女《め》|神《がみ》……カムイか!?)
|魂《たましい》を吸いこまれそうな黒い|瞳《ひとみ》が、智を見つめる。
「タン・オッカイポ・エン・トラ・ララク・カンポ・ラールイパ……」
ふいに、音楽的な|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な発音の言葉が、美女の|唇《くちびる》から流れだした。
その言葉を聞いたとたん、智の全身から力がぬけた。
周囲のビルや、雪の積もった歩道や、ネオンの輝きが、ゆらゆらと揺れ、現実味を失っていく。
「な……に……?」
智は、強く頭を振った。
頭がぼやけて、思考がはっきりしない。
まるで、眠りに落ちかけている時のようだ。
「いかん……|呪《のろ》い歌だ」
狼が、低く|呟《つぶや》いた。
「智、どうした!?」
京介が、ゆさゆさと智の肩を揺さぶる。
「ダメだ、京介……オレ……」
「目をちゃんと開けろ! 俺の声を聞け! 智!」
智は、京介のムートンのハーフコートの腕をつかんだ。
何かにつかまっていないと、倒れてしまいそうだった。
狼が、智をかばうように、前に出てきた。
「京介さん、智さまを連れて、この場を離れなさい。行き先はどこでもいい。後で私のほうで、智さまの|霊《れい》|気《き》を|追《つい》|跡《せき》して、合流します」
狼は、前を|見《み》|据《す》えたまま、低い声で命じる。
「|嫌《いや》だ」
京介は、|悔《くや》しそうに唇を|噛《か》みしめた。
「あんたを置いていったら、後で智に怒られる」
狼は、意外そうな目をした。
「京介さん……」
「それに、あんたは、智から離れれば、あの女が|視《み》えないんだろ。そんなんで、どう戦う気だ? なぶり殺しにされるのがオチだぜ」
狼は、ため息のような声で答える。
「一度|視《み》えてしまえば、あとは|霊《れい》|気《き》をトレースできますよ。プロフェッショナルというのは、そういうものです」
狼の声が、厳しくなった。
「わかったら、先にお行きなさい、京介さん」
狼は、京介を対等に相手にはしていない。
まるで、聞きわけのない「子供」に話すような態度だ。
京介は、ムッとしたように、狼の|灰《はい》|色《いろ》のコートの背を|睨《にら》みつけた。
「俺は、あんたを置いて逃げるなんて|真《ま》|似《ね》、できねーよ」
|意《い》|地《じ》になったようなセリフ。
狼の答えはない。
京介は、ハーフコートのポケットから、十五センチほどの金属片を取りだした。
「俺だって、何もできないわけじゃない。これから、あの女を|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》で、ぶった|斬《ぎ》ってやる……!」
「いけません。早く、言うとおりになさい」
狼は、|苛《いら》|立《だ》ったように、早口に言う。
果羅姫は、智にむかって、|呪《のろ》い歌を|唱《とな》えつづけている。
「オイカル・サル・テケチンパ・コッネイコッネイ・エ・ロシキ」
智は、|半《なか》ば|朦《もう》|朧《ろう》として、京介と狼のやりとりを聞いていた。
意識が、薄れていく。
その時、少し離れた場所で、ホームレスふうの男が、ボソリと何かを|呟《つぶや》いた。
狼が手に持った|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みが、緑色に発光しはじめた。
「え……!?」
京介が、|度《ど》|胆《ぎも》をぬかれたような顔をする。
緑の光は、智のまわり半径一メートルほどを、強く照らしだした。
「あ……」
緑の光が|射《さ》してきたとたん、智は正気に戻った。
視界がはっきりする。
(どうしたんだろう……オレ……)
「私の|邪《じゃ》|魔《ま》をするのは、何者だ!?」
|呪《じゅ》|縛《ばく》を破られて、果羅姫が、|怒《いか》りの声をあげた。
だが、強烈な緑の光に目が|眩《くら》んだのか、両腕をあげて、顔を|覆《おお》っている。
「見ろ、智!」
京介の声に、智は狼の手のなかの風呂敷包みを見る。
包みは、|半《なか》ば開き、なかに入っていたものが、|露《あらわ》になっていた。
黒い|弓《ゆみ》|矢《や》だ。
「弓矢……?」
智は、首を|傾《かし》げた。
「それは……カリンパク!」
果羅姫は、弓矢の発する光に押し戻されるようにして、後ずさりしはじめた。
狼が、緑に輝く弓矢を頭上に|掲《かか》げる。
果羅姫は、ガクッと|膝《ひざ》をついた。
白い新雪のコートから、パッと|雪煙《ゆきけむり》が立った。
同時に、一陣の風が舞いあがり、果羅姫の姿は消えた。
「あ……あれ!」
京介が、智の後ろを指差した。
五メートルほど離れたところに、黒っぽい人影が、のっそりと立っている。
|髪《かみ》の長い、ホームレスふうの男だ。
男は、智と京介に発見されたと気づくや、背をむけて、走りだした。
ほどなく、人込みにまぎれて、見えなくなった。
第二章 |地《じ》|獄《ごく》|姫《ひめ》
「今日は、危ないところだったな」
|京介《きょうすけ》が、ため息まじりに|呟《つぶや》いた。
午前二時。
ホテルのツインルームには、|智《さとる》と京介しかいなかった。
クリーム色の壁に、ベッドサイドのライトが|淡《あわ》い光を投げかけている。
|狼《ロウ》は、この部屋のむかいの部屋で、|待《たい》|機《き》しているはずだった。
時おり、ホテルの下の道路を走る車の音が、かすかに聞こえた。
あの|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》の|襲撃《しゅうげき》の後――。
残されたのは、黒い弓と黒羽の矢が一本。
あの|謎《なぞ》の男が何者なのか、美女がカリンパクと呼んだこの弓矢が、いったいなんなのか、美女が智を|狙《ねら》った理由と、その正体がなんであるか――。
考えてみても、わずかな手がかりからは、答えは出そうになかった。
智たちは、やむなく|札《さっ》|幌《ぽろ》|駅《えき》前のホテルに戻ってきた。
それから、各自、途中で買ったサンドイッチで夕食をとったり、入浴をしてから、明日に備えて眠りについた。
いや、そのはずだった。
しかし智は、窓ぎわの|肘《ひじ》|掛《か》け|椅《い》|子《す》に身を沈め、目の前のガラスの|円《まる》テーブルを、じっと見つめていた。
頭上のライトが、テーブルの表面と、そこに置いた黒い|弓《ゆみ》|矢《や》を冷たく照らしだしている。
「眠れないのか、智?」
京介が、ベッドに起きあがって、智を見つめる。
京介は、ホテルの備えつけの|浴衣姿《ゆかたすがた》だ。
|額《ひたい》にかかる|前《まえ》|髪《がみ》が、まだ少し|濡《ぬ》れていた。
智は、京介に視線をむけて、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「起きたの、京介?」
「ああ……とろとろと眠ったんだけどな」
京介は、少し眠そうな目で、智を見つめた。
「おまえ、一時くらいに寝たと思ってたのに……どうしたんだ?」
「少し……考え事をしていたんだ」
「あの女のことか?」
京介が、ため息まじりに尋ねる。
智は、小さくうなずいた。
智は、大きめの白いコットンシャツを、パジャマ代わりに着ている。
コットンシャツの下は、|素《す》|足《あし》だ。
窓の外は、雪がちらついていた。
だが、ホテルのなかは、空調が|効《き》いているので、この格好でも寒くはない。
「どうして……オレが|狙《ねら》われたんだろう……。また襲ってくるんだろうか……」
京介は、微笑した。
「あんまり考えこむなよ、智。あれっきり、敵はもう来ないって可能性もあるわけだし」
智は、京介の言葉には答えず、ポツリと|呟《つぶや》いた。
「北海道に来てから、ずっと見られてるような気がしてたんだ。……あの女だったのかもしれないよ。|納沙布《のさっぷ》|岬《みさき》で、オレの術を|邪《じゃ》|魔《ま》したのも」
智は、ベッドに座ったままの京介に近づき、その横に立った。
京介の色黒の顔を見おろす。
「京介……オレ、変なんだ。北海道に来てから、ずっと|怖《こわ》いんだ。どうしてだろう……」
智の|脳《のう》|裏《り》に、昼間見た納沙布岬の|荒涼《こうりょう》とした光景と、寒々とした海の色が浮かびあがった。
国境に|臨《のぞ》む、さいはての|岬《みさき》。
東京では、決して見ることのできない、荒々しい自然。
北海道は、本州とは、吹く風の音さえ違う。
智の目に|映《うつ》る木々も、|街《まち》の様子も、足の裏から伝わってくる大地の|霊《れい》|気《き》も、何もかもが異質だった。
「オレ……北海道が、こんなに本州と違うなんて思わなかった」
違うから、不安なのだ。
「違いすぎて、なんだか|怖《こわ》いよ……。オレの知ってる|退《たい》|魔《ま》の常識が、ここじゃ通用しないような気がする」
「何言ってんだよ……バカだな、智」
京介は、智の不安を笑い飛ばす。
「さっきから、なんて目してんだ。おまえ、疲れてんじゃねーのか。もう考えるのはやめろよ。明日、|函《はこ》|館《だて》で〈|闇《やみ》|舞《まい》〉したら、東京に帰れるんだぞ」
「うん……」
智は、ため息をついた。
|我《われ》ながら、ナーバスになっている、と思った。
(寝なきゃ……)
智は、京介に背をむけた。
隣の自分のベッドに戻ろうとする。
その時、京介の|温《あたた》かな指が、智の|右《みぎ》|肘《ひじ》をつかんだ。
京介の指が、智の二の腕を静かに|撫《な》であげ、撫でおろす。
「智……」
振り返ると、京介は、激情に耐えるような目をしていた。
今にも、智を抱きしめてしまいそうな表情だ。
「京介……?」
息づまるような数秒がある。
京介は、|唇《くちびる》をギュッと結んで、智を見つめつづけている。
|浴衣《ゆ か た》の肩のあたりが、緊張していた。
「いいか……智?」
突然、智の右肘をつかむ京介の指に、力がこもった。
京介の|瞳《ひとみ》に、激しい|渇《かつ》|望《ぼう》の色がある。
「どう……したの、京介。そんな怖い顔して……」
ふいに智は、京介の霊気が、大きく波だつのを|視《み》た。
(|嘘《うそ》……!)
智の|鼓《こ》|動《どう》が、速くなる。
京介の|霊《れい》|気《き》が、人間のものから、|妖獣《ようじゅう》の妖気に変わろうとしている。
京介の右手の甲が、ボコボコと|泡《あわ》だちはじめる。
ミシミシと|不《ぶ》|気《き》|味《み》に|軋《きし》む音がする。
京介の右手の骨格が、変化しかけているのだ。
「京介……! その手!」
京介は、ハッとしたように、智から手を離した。
智に背をむけて、右手を|浴衣《ゆ か た》の胸に|抱《かか》えこむ。
必死に、自力で妖獣への変身を|抑《おさ》えようとしている。
「京介!」
「見るな……智!」
京介は、|鋭《するど》い声で叫ぶ。
智は、|慌《あわ》てて、京介の隣に座りこんだ。
「京介……手を……」
智は、|嫌《いや》がって逃げようとする京介の右手をつかんだ。
妖獣に変身しかけた京介の手の甲に、両手を押しあてる。
智は、ゆっくりと京介のなかに、自分の霊気を送りこんだ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だから……京介。大丈夫」
見る見るうちに、ボコボコいっていた手の甲が、普通の人間の|肌《はだ》に戻る。
京介は、どこか苦しげな|眼《まな》|差《ざ》しで、智を見あげた。
たった数十秒のことだったのに、京介は高熱で寝こんだ後のように、|憔悴《しょうすい》しきっている。
「もう終わったよ、京介。大丈夫」
「見るなって言ったのに……」
京介は、怒ったように、智から手を離し、顔をそむけた。
京介が、妖獣に変身しかけるのも、このところ、三日に一度の割合になっている。
そのたびに、智が気がつけば、霊気を送りこんでやっていた。
だが、智の見ていないところでは、もっと|頻《ひん》|繁《ぱん》に変身が起きているのかもしれない。
「見られたくねーんだよ、あんなみっともねーの……おまえには」
京介は、ギリッと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
京介の横顔を見ていると、智はどうしようもなく|切《せつ》なくなる。
(どうして……そんなふうに怒ってるのさ、京介?
本当は、|怖《こわ》いくせに。
その気持ち、ぜんぶ一人で抱えこまないで、オレにも分けてくれればいいのに……)
「京介……」
京介を|慰《なぐさ》めたくて、そっと左手を伸ばして、京介の|頬《ほお》に触れてみる。
|温《あたた》かな|肌《はだ》を、指先でなぞる。
(京介、怒るかな……|触《さわ》るなって言うかな……)
智は、少し不安になって、京介を見つめた。
「京介……」
京介が、わずかに首を傾けて、智の左の手のひらに、|唇《くちびる》を触れた。
|謝《しゃ》|罪《ざい》のような|仕《し》|草《ぐさ》。
智は、ホッとした。
京介の唇が、智の手のひらに、|隅《すみ》から隅まで触れていく。
智は、黙って、京介のしたいようにさせていた。
こんなふうに、智に触れている時の京介の表情が、好きだった。
京介は、|切《せつ》ないような、苦しいような目をしている。
「智……」
ふいに、京介は、大型の|獣《けもの》のように、ベッドに両手をついたまま、智の指に歯をたてた。
智は、|眉《まゆ》|根《ね》をよせた。
「痛いよ、京介」
京介は、くわえていた智の指を放した。
次の瞬間、|狂暴《きょうぼう》な|衝動《しょうどう》に突きあげられたように、京介は智の左肩に顔をよせた。
ズキッ……!
|鋭《するど》い痛みが、智の肩に走る。
京介が、思いっきり|噛《か》みついたのだ。
(京介……!)
智は、唇を強く結んで、思わずもれそうになる声を押し殺した。
ギリギリと肉に食いこんでくる歯の痛み。
(噛みちぎられるかもしれない……)
京介は、まるで|容《よう》|赦《しゃ》しようとしない。
十秒、二十秒……。
二人は、|化《か》|石《せき》になったように、ベッドの上で動かなかった。
やがて、京介の歯が、ゆっくりと智の肩から離れる。
同時に、熱いものが、智の肩にじわじわと広がっていく。
たぶん、血だ。
京介は、智の肩に顔を|埋《うず》めたまま、何も言わない。
「京介……」
智は、痛みに震える左の手をあげ、京介の頭に触れた。
左肩には、|絶《た》え|間《ま》なく|激《げき》|痛《つう》が走る。
だが、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》と、そのことで京介を|責《せ》める気にはならなかった。
智は、傷ついていない右腕で、京介の頭を|抱《かか》えこむ。
強く強く、抱きしめた。
ポタッ……!
ふいに、智の胸のあたりに、|雫《しずく》のようなものがたれてきた。
(え……?)
見ると、京介が泣いていた。
息を殺して、すすり泣きの声をもらさぬようにしながら。
智の肩に食いこんだ歯と、激痛は、そのまま、京介の声にならない悲鳴だった。
(京介……)
智は、何も言わず、京介の頭を抱いていた。
暗い窓の外には、しんしんと雪が降っている。
駅のオレンジ色の明かりが、雪のなかで光っていた。
|亡《ぼう》|霊《れい》のように、青白い光の点がつづいているのは、たぶん国道。
青白い光は、|街《がい》|灯《とう》だ。
生き物が、すべて死に絶えてしまったような北の|街《まち》。
(見ていてあげるよ……京介。
京介が、どんなふうになっても――目はそらさないよ。
最後まで、見届けてあげる。
どんなことがあっても、逃げないから……)
智は、わけのわからない|悲《ひ》|哀《あい》に満たされて、雪の降る街を見つめつづけた。
*    *
天才|陰陽師《おんみょうじ》・|鷹《たか》|塔《とう》智と出会うまでは、|鳴《なる》|海《み》京介は、ごく普通の高校生だった。
今年の六月のことだ。
鷹塔智は、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》によって、|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》|印《いん》された。
記憶が失われる寸前、鷹塔智は、早朝の|新宿区高田馬場《しんじゅくくたかだのばば》で、鳴海京介と出会った。
運命のように。
その直後、智は|昏《こん》|倒《とう》した。
京介のアパートで|目《め》|覚《ざ》めた時、すでに、智の記憶はなかった。
お|人《ひと》|好《よ》しで、|面《めん》|倒《どう》|見《み》のいい京介は、智を|放《ほう》っておけなかった。
京介は、智と、智の元同僚である|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》い・|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》とともに、魔の盟主・緋奈子に立ちむかった。
その苦しい戦いのなかで、智と京介の心は、深く結びついた。
強い|絆《きずな》が、生まれたのだ。
|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》との戦いのなかで、京介は、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を手に入れた。
普段は、なんの|変《へん》|哲《てつ》もない、十五センチほどの金属片である。
|剣《つるぎ》の本体は、|砕《くだ》け散ったため、剣の力の|源《みなもと》である|神《しん》|霊《れい》も消滅し、普通の術者には、天之尾羽張を|顕《けん》|現《げん》させることはできない。
しかし、この金属の破片が、どういうわけか、鳴海京介の意思と|霊《れい》|気《き》に|感《かん》|応《のう》するのだ。
鳴海京介が命じると、金属片は、一メートルほどの、純白の光の剣となって顕現するのである。
この光の剣が、|曲《くせ》|者《もの》だった。
神や魔を|斬《き》る剣。
ほぼ無敵の降魔の利剣。
その正体は、イザナギが、|我《わ》が子・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》を斬り殺した|十《と》|握《つか》の剣だ。
天之尾羽張が、|退《たい》|魔《ま》とは無関係だった、|一《いっ》|介《かい》の高校生・鳴海京介に与えたのは、絶大な力だった。
超一流の|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智のパートナーが|務《つと》まるほどの――神の力。
なぜ、京介に天之尾羽張が使えるのか、それはわからなかった。
しかし、何もわからぬまま、京介は、智と一緒に戦う道を選んだ。
降魔の利剣を使って、智を守りつづけると|誓《ちか》った。
そして、二人は、一緒に暮らしはじめたのだ。
だが、力を手に入れることには、大きな|代償《だいしょう》がともなう。
|素人《しろうと》の京介が、神霊のない天之尾羽張を使いこなせるのは、彼自身が、天之尾羽張の神霊の|化《け》|身《しん》だからなのだと――。
知った時には、遅かった。
十五センチほどの天之尾羽張の破片は、失った神霊を取り戻そうとして、京介の|魂《たましい》をしゃぶりはじめていた。
京介の魂は、少しずつ、天之尾羽張の破片に吸いこまれ、同化しはじめるという。
神霊を取り戻した天之尾羽張は、やがて、金属の剣として実体化する。
一方、魂をなくした京介の肉体は、|妖獣《ようじゅう》に変わってしまうのだ。
変身は、少しずつ起こるだろう……と言われていた。
最初は、京介は、一時的に妖獣――金目で純白の毛の|虎《とら》に変身する。
そのあいだ、京介には人間としての|記《き》|憶《おく》も、意識も残っている。
また、|妖獣《ようじゅう》から人間に戻るのに、そう時間はかからない。
が、しだいに、京介の記憶が欠落しはじめる。
妖獣でいたあいだのことを、思い出せなくなる。
やがて、人間性を失って、妖獣でいる時間のほうが、どんどん長くなっていく。
最後に、妖獣への変身が固定する。
人間に戻らなくなる。
そして、すべては終わるのだ。
鳴海京介は、この世のどこにもいなくなる。
金属の|剣《つるぎ》・|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を残して。
しかし、京介は、智がどんな言葉で説得しても、天之尾羽張を使うのをやめようとはしなかった。
智を守ると|誓《ちか》った言葉を、誠実に守りつづけた。
京介は、もう|覚《かく》|悟《ご》を決めていたのだ。
このまま天之尾羽張を使いつづけて、妖獣になってしまうのだとしても――。
智のそばを離れないと。
けれども、どんなに固く決意していても、心は揺れるものだ。
妖獣への変身が、予想していた以上に早く、|頻《ひん》|繁《ぱん》になってきたことで、京介は、|動《どう》|揺《よう》していた。
それでも、京介は朝になれば、いつもと同じように平気な顔で、智のそばにいるだろう。
不安に襲われるたびに、それを乗り越えて、そのたびに強くなって。
智には、それが充分すぎるほどわかっていた。
*    *
翌朝六時。
智は、狼に|包《ほう》|帯《たい》を巻いてもらいながら、顔をしかめた。
上半身は、何も着ていない。
ホワイトジーンズだけ身につけて、|素《す》|足《あし》でベッドに座っている。
「痛いですか、智さま?」
「いや……」
「痛かったら、おっしゃってください」
狼は、智の前に立って、傷ついた左肩に包帯を巻きつけている。
器用な手つきだ。
狼は、すでに|濃《のう》|紺《こん》のスーツを着て、身づくろいをすませていた。
かすかに、整髪料のいい|匂《にお》いがする。
「終わりました」
ややあって、狼は、救急キットの白い|蓋《ふた》をパタンと閉めた。
「ああ……ありがとう」
智は、|包《ほう》|帯《たい》ごしに左肩をそっと|撫《な》でた。
(ずいぶん、|派《は》|手《で》に巻いてくれたな……)
半分くらいは、わざとかもしれない。
この|怪《け》|我《が》を忘れないようにという、智への|戒《いまし》めかもしれなかった。
狼の|物《もの》|腰《ごし》は|穏《おだ》やかだったが、あまり|機《き》|嫌《げん》はよくないように見えた。
無理もない。
ボディガードの立場として、智をベストの状態で守りたいと思っているのに、智に怪我をさせてしまった。
それも、智は、戦っていて傷ついた、というわけではないのだ
(ごめん……狼)
智は、そろそろと、狼が出しておいてくれた着替えに手を伸ばした。
「一人で着れるのか、智?」
京介が、おずおずと尋ねてきた。
さっきから、隣のベッドで、手当てを見守っていたのだ。
京介は、モスグリーンの厚手のセーターに、ジーンズという格好だ。
足には、ウールのソックスをはいている。
ソックスは、赤地に緑と黒のアーガイルチェックである。
「着替え、手伝おうか?」
が、狼が|機《き》|先《せん》を制して、智の手から着替えをさらっていった。
「狼……」
狼は、無言で、智に下着代わりのTシャツを着せつけはじめる。
|無《む》|駄《だ》のない動作だ。
「いい……自分でできる」
智は、|慌《あわ》てて、狼の手を押しやった。
狼は、|我《われ》に返ったようだった。
わびるような目の色になって、智を見つめてくる。
「肩が痛くて、ご自分で着替えられるのはつらいのではないか、と思ったものですから」
「|大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「そうですか。……出すぎたことをいたしました」
狼は、かすかに|微《ほほ》|笑《え》んで、智に着替えを手渡した。
そのまま、救急キットを持って、自分の部屋へ戻ろうとする。
「手伝うよ……智」
京介が、ベッドから|滑《すべ》りおりて、智の前に来た。
「あ……でも……」
狼の手助けを断って、京介に着せてもらうのも、なんとなく|角《かど》が立ちそうな気がした。
迷っていると、京介が、さっさと着替えを手伝いはじめた。
狼は、ドアのところでチラと智たちを見、無表情に出ていった。
(怒ったかな……)
智は、少し心配になった。
「ほら、手、伸ばせよ。|袖《そで》通して……」
京介が、智の腕をつかんで、Tシャツの袖を通させようとする。
「いいよ、京介……」
「グズグズすんな。おまえの着替えに|手《て》|間《ま》がかかると、そのぶん、北海道で遊ぶ時間が減る」
京介は、|無《む》|茶《ちゃ》|苦《く》|茶《ちゃ》な|理《り》|屈《くつ》を言う。
それも、京介に|気《き》|兼《が》ねする智を、リラックスさせようとしてのことらしい。
「|昨日《き の う》は、あの騒ぎで、結局|薄野《すすきの》行けなかったし、今日は昼の飛行機で|函《はこ》|館《だて》に移動だろ。初めて来た|札《さっ》|幌《ぽろ》の思い出が、札幌駅と、広告の電光|掲《けい》|示《じ》|板《ばん》だけってのは、あんまりじゃないかぁ? 俺、まだウニ|丼《どん》食ってないし、時計台の前で写真も|撮《と》ってねーよ。誰がなんと言っても、今日こそは、観光すっからな。昼までに、ジンギスカン食って、札幌ビール園行って、ラーメン横丁|全《ぜん》|制《せい》|覇《は》だ」
「京介、|目《め》|茶《ちゃ》|苦《く》|茶《ちゃ》だよ、その計画……」
智は、クスッと笑いをもらした。
京介は京介なりに、|冗談《じょうだん》を言ったりして、|一生懸命《いっしょうけんめい》、智の心を|和《なご》ませようとしている。
その|不《ぶ》|器《き》|用《よう》な優しさが、心に|沁《し》みた。
京介も智の顔を見、|温《あたた》かな|笑《え》みを浮かべる。
京介に手伝ってもらって、三分ほどで、|支《し》|度《たく》ができた。
智は、白いTシャツを着た上に、白いアンゴラのセーターを着ている。
足にはホワイトジーンズと、白いソックス。
「顔、洗ってこい。これ、フェイスタオル。こっちが、洗顔フォーム。歯ブラシは、洗面所のなかな」
京介が、手ぎわよく、必要なものを手渡してくれる。
「ん……サンキュー」
智は、洗面所に入り、ドアを閉めた。
今ごろ、|頬《ほお》が赤くなってくる。
|他人《ひ と》に着替えさせてもらったのは、幼稚園の時以来である。
(やだな……子供みたいだ……)
|鏡《かがみ》に|映《うつ》る自分の顔が、|薔薇《ば ら》|色《いろ》に|染《そ》まっている。
「智さま、忘れるところでした。入浴は、傷がふさがるまでの二、三日、ご|遠《えん》|慮《りょ》ください」
思い出したように、狼がドアのむこうから言う声が聞こえた。
さっき出ていったのだが、また戻ってきたらしい。
「シャワーもダメなのか?」
智は、|努《つと》めて平静な声を出した。
「今日のところは、ダメです」
狼は、事務的な声で答える。
「気持ちが悪いようでしたら、体を|拭《ふ》いて、|我《が》|慢《まん》なさってください。もし手伝いが必要でしたら、お申しつけください」
(狼……)
智は、鏡を見つめながら、真っ赤になった。
(着替えだけでも恥ずかしいのに、体を拭いてもらうなんて……!)
考えただけで、|羞恥《しゅうち》に全身が熱くなる。
狼なら、|冗談《じょうだん》ぬきで、本当に手伝いかねない。
*    *
洗面所から出ると、京介と狼が、むきあっていた。
京介は、狼を前にして、どことなく落ち着かなげである。
「京介さん、智さまの傷は、そう深くありません。|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
狼は、優しい|口調《くちょう》で、京介に言う。
「狼……怒ってねーのか? 智に|怪《け》|我《が》させちまって……」
京介は、不安げに尋ねた。
狼は、独特の|穏《おだ》やかな微笑を浮かべて、京介を見つめた。
「私には、智さまのプライバシーに立ち入るつもりはありませんし、どういうわけで、あの傷がついたのか、|詮《せん》|索《さく》はしませんよ。……もちろん、智さまが、プライベートな時間に、何をされようと怒る権利もありません」
「狼……」
京介は、ホッとしたようだった。
だが、狼の次の言葉を聞いたとたん、京介は、わずかに表情を|強《こわ》ばらせた。
「ただ、京介さんには、智さまが、|常《つね》に〈|汚《けが》れ|人《びと》〉として、ベストの状態でいられるように、協力していただけたらと思います。今さら言うまでもありませんが、智さまはプロフェッショナルです。体調を|維《い》|持《じ》し、常に最良の結果を出さねばならない。ずっと、智さまのおそばにいたのですから、京介さんにも、そのくらいのことは、わかっていらっしゃると思いますが」
京介は、|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
狼の言葉は、ものやわらかではあったが、まぎれもなく|叱《しっ》|責《せき》だった。
短い沈黙がある。
「悪かったよ」
京介は、|潔《いさぎよ》く狼に頭をさげた。
狼は、京介の言葉に、ニコッと笑った。
「ものわかりのいい子供は、好きですよ」
狼は、わざと、「子供」という言葉を使ったようだった。
|言《げん》|外《がい》に京介に、智の「おまけ」である立場を思い知れ、と言っているのかもしれない。
狼は、それきり、京介には目もくれず、部屋を出ていった。
向かいにある、自分の部屋に戻ったのだろう。
京介は、|拳《こぶし》を握りしめて、その場に立ちつくしていた。
狼がさっさと姿を消したせいで、|怒《いか》りのやり場がなくなってしまったような格好だ。
だが、智には、京介がなぜ|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になったのか、よくわからない。
「京介……?」
智は、京介に近より、色黒の顔を見あげた。
右手を伸ばして、京介のモスグリーンのセーターの|袖《そで》をつかむ。
「京介……」
「あの|野《や》|郎《ろう》……」
京介は、低く|呟《つぶや》いた。
傷ついたような目で、空中を|睨《にら》みつけている。
「|他人《ひ と》を子供あつかいしやがって……」
|悔《くや》しそうな呟き。
「そんなに、てめーは|大人《お と な》か……!」
「どうしたの、京介?」
京介は、智から顔をそむけた。
「……いいんだ。なんでもない」
「京介……?」
智は、どうしていいのかわからず、京介の顔を見あげていた。
その時だった。
「|上主《じょうしゅ》、ただ今、戻りました」
|慇《いん》|懃《ぎん》な声とともに、部屋の中央に、|髪《かみ》の長い美少女が出現した。
黒のアンゴラのワンピースを着ている。
ワンピースの|丈《たけ》は、|膝《ひざ》|上《うえ》十センチ。
すんなりと伸びた足は、外人のようにまっすぐだ。
胸もとに、|派《は》|手《で》な金のネックレスが光っていた。
美少女の顔だちは、智とよく似ている。
「ああ、おかえり、|睡《すい》|蓮《れん》」
智は、京介のセーターの|袖《そで》をつかんだまま、微笑した。
京介が、驚いたように、睡蓮を見た。
「智、|式《しき》|神《がみ》、使ってたのか?」
睡蓮は、|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智の四体の式神のうちの一体である。
睡蓮の専門は、情報収集だ。
智が式神|召喚《しょうかん》の|咒《じゅ》を|唱《とな》えることで、呼びだすことができる。
智が|記《き》|憶《おく》を失っていたあいだは、|召喚《しょうかん》の|咒《じゅ》を思い出せなかったので、式神を呼びだすには、召喚の咒を録音した、四枚のCDディスクだけが頼りだった。
もちろん、今では記憶が戻ったので、智自身が咒を|唱《とな》えるだけですむ。
式神は、睡蓮のほかに、あと三体。
それぞれ、名前を、|桜良《さ く ら》・|紅葉《も み じ》・|吹雪《ふ ぶ き》という。
どの式神も、男性の姿と女性の姿を持っていて、どちらにも変化できる。
今日の睡蓮は、女性形だ。
「いつの|間《ま》に?」
京介は、室内を見まわす。
「京介が起きる、ちょっと前にね……」
智は、京介の顔を見あげて、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「そうか……」
智は、京介の|袖《そで》から手を離し、そっと傷ついた左肩を指先で|撫《な》でた。
セーターごしに、|包《ほう》|帯《たい》の固い感触。
京介が、その下に触れたのだ。
ありったけの|悔《くや》しさと、不安と、恐怖をぶつけてきた――信頼の証拠が、そこに残っている。
「痛いのか、智?」
京介が、少し不安そうな顔をして、智を見おろしてくる。
「ううん……そうじゃないよ」
智は、京介を見つめながら、もう一度、微笑んだ。
「この傷が、ずっと消えないままだったらいいなと思って……」
「俺の歯形くっつけて、一生暮らす気か?」
京介は、ようやく顔をほころばせた。
|瞳《ひとみ》が、優しくなる。
「二度と水泳行けねーぞ。|銭《せん》|湯《とう》にも入れねーし、暑くても、肩出した服、着れねーぞ」
「いいよ、それでも」
智は、ぷうっと|頬《ほお》を|膨《ふく》らませる。
「京介の歯形くっつけて、一生暮らすんだから」
「バカだな……おまえ」
京介は、そっと智の肩を抱きしめた。
コホン……と、睡蓮が、|咳《せき》|払《ばら》いしたようだった。
智は、ハッとして、京介から離れた。
「ごめん、睡蓮。報告を聞こう」
睡蓮は、無表情に智を見つめかえした。
「よろしいですか?」
「ああ……待たせて、すまなかった」
智は、睡蓮に、窓ぎわの|肘《ひじ》|掛《か》け|椅《い》|子《す》を示す。
「あっちで聞こう」
「はい」
睡蓮は、|綺《き》|麗《れい》な声で答える。
窓のむこうには、雪の|毛《もう》|布《ふ》に|覆《おお》われた|札《さっ》|幌《ぽろ》の|街《まち》がある。
まだ、半分眠りのなかにある街。
北国の空は、快晴だった。
京介も、壁ぎわの自分のベッドに座り、睡蓮を|眺《なが》めていた。
音もなく、狼がドアを開けて、入ってきた。
「智さま……朝食用の氷と、カフェ・オ・レです」
両手で、銀色のワゴンを押している。
ワゴンの上には、氷を入れたガラスのボウルと|湯《ゆ》|気《げ》のたつマグカップ。
「ああ、すまないな、狼」
智は、横に止まったワゴンの上のボウルから、四角い氷をつまみ、口に|放《ほう》りこんだ。
智は、朝食には、氷を食べるのが習慣だ。
その後には、必ず熱いカフェ・オ・レ。
京介が、それを見て、少し|切《せつ》なそうな顔をする。
もともと、智のために、食事を用意してやるのは、京介の役目だった。
だが、狼が来てから、京介は、その役目を奪われてしまったようなかたちになった。
というのも、狼のほうが、京介より早起きだからである。
京介が、どんなにがんばっても、狼より早く起きられたためしがない。
もっとも、智は、そんな水面下での|確《かく》|執《しつ》など、知るよしもないのだが。
「|上主《じょうしゅ》を攻撃してきた女の正体が、判明いたしました」
睡蓮が、智に近づいてきた。
綺麗な長い|髪《かみ》が、腰のあたりで揺れる。
「そうか。わかったのか」
智は、窓ぎわの肘掛け椅子に座り、|式《しき》|神《がみ》を見つめた。
「はい」
睡蓮も、智の向かいに座り、静かに口を開いた。
狼は、智の前のガラスの|円《まる》テーブルに、ボウルとマグカップを置く。
カタン……。
かすかな食器の音。
朝の|陽《ひ》の光が、|円《まる》テーブルを|透《す》かして、|灰青色《かいせいしょく》の|床《ゆか》を照らしだす。
そのまま、狼は、智の|邪《じゃ》|魔《ま》にならないように、|肘《ひじ》|掛《か》け|椅《い》|子《す》の後ろに控えている。
「あの女の正体は、北海道の大地の|女《め》|神《がみ》……カムイです。一部では、|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》と呼ばれているとか」
睡蓮が、報告を始めた。
「果羅姫……?」
智は、その名前を口のなかで、何度か|呟《つぶや》いてみた。
ほのかに、|柑《かん》|橘《きつ》|系《けい》の香りがする。
後ろに立つ狼のものだろう。
「|果《か》|羅《ら》|国《こく》というのがあります。伝説にいう、|罪《つみ》深い者が死後に行くという国です。つまり、果羅国の姫……|地《じ》|獄《ごく》|姫《ひめ》ということでしょう」
狼が、智の背後で、|穏《おだ》やかに言った。
「地獄姫か……」
智は、その名前の響きに、ゾッとした。
果羅姫の名前に隠された地獄。
誰がつけたのか、すさまじい|怨《おん》|念《ねん》を感じる。
「|不《ぶ》|気《き》|味《み》な名前だな……」
京介が、ポツリと呟く。
「おそらく、果羅姫というのは、カムイ自身が名乗った名ではありますまい」
睡蓮は、まっすぐ背を伸ばして座ったまま、|淡《たん》|々《たん》と言う。
「『カラ』の|音《おん》は、『|枯《か》らす』にも『|空《から》』にも通じます。この音には、|呪《のろ》いの|言《こと》|霊《だま》がこもっております」
「呪いの言霊?」
智は、睡蓮をじっと見つめた。
|式《しき》|神《がみ》の長い|髪《かみ》に、冬の陽が照りつけている。
白い横顔は、智自身とよく似ていたが、どこか|退《たい》|廃《はい》|的《てき》な|陰《かげ》りを|帯《お》びていた。
「言霊使いがからんでいるのか?」
「はい」
睡蓮は、言葉をつづける。
「|津《つ》|雲《くも》財団……ご存じでしょうか?」
「ああ……」
智は、うなずいた。
「津雲財団の代表者は、|三神重造《みかみじゅうぞう》。その三男が、三神|冷《れい》|児《じ》といって、言霊使いです」
「三神冷児か……」
智は、|眉《まゆ》をひそめた。
ガラスの|円《まる》テーブルの上の氷に、チラと目をやる。
氷は、少し|溶《と》けはじめていた。
「カムイを果羅姫と名づけたのも、三神冷児か?」
「はい。そのようです」
智は、ため息をついた。
(今度は、|言《こと》|霊《だま》|使《つか》いが相手か……)
「なあ、その|津《つ》|雲《くも》財団って、なんだよ?」
京介が、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうな声を出した。
「津雲財団は、JOAと対立している組織です」
狼が、智の後ろから、京介に説明している。
「|表向《おもてむ》きは、全国的に環境保護活動や、|福《ふく》|祉《し》活動を行っている団体です。しかし、裏にまわれば、|非《ひ》|合《ごう》|法《ほう》の|遺《い》|伝《でん》|子《し》組み替え実験場や、軍事目的のサイキックパワー研究所を経営していて、だいぶあくどいこともやっているようです」
「環境保護団体が、そんなことやっていいのか?」
京介は、|呆《あき》れたような|口調《くちょう》で言う。
「それじゃ、まるっきり、悪の組織じゃないか」
「まあ、似たようなものですよ。環境保護団体というのは、津雲財団の場合、単なる|隠《かく》れ|蓑《みの》にしかすぎませんので。宣伝がうまいせいか、世間的には、社会のために尽くす、立派な団体ということになっておりますが」
狼は、|皮《ひ》|肉《にく》めいた口調で言った。
「目に|視《み》えない、科学的に証明できない分野では、この手の団体は、珍しくありません。視えない、証明できないものに金を出させようというのですからね。|詐《さ》|欺《ぎ》まがいのことも、平気でまかりとおっています。……環境保護に世間の関心が集まってきている|昨《さっ》|今《こん》、自然保護団体を|偽《ぎ》|装《そう》するというのは、そう悪い手じゃありませんね」
その言葉に、智は、狼を|派《は》|遣《けん》してきたJOAのことを思った。
JOAも、津雲財団と同じ穴の|貉《むじな》のようなものだ。
JOAは、国内の|霊能力者《れいのうりょくしゃ》たちに対して、|呪《じゅ》|咀《そ》や|呪《じゅ》|殺《さつ》を堅く禁じている。
だが、そのJOA自身が、裏にまわると、|心《しん》|霊《れい》|犯《はん》|罪《ざい》の|被《ひ》|告《こく》の|処《しょ》|罰《ばつ》や、JOAの活動資金|稼《かせ》ぎのために、呪殺を|請《う》け|負《お》っているという。
(狼……きっと、JOAのことが頭にあるんだな……)
「目に視えない、証明できないものに、金を出させる」という言葉は、|暗《あん》にJOAが政財界から、多額の資金援助を得ていることを言っているのだろう。
「やり口がきたねーなあ……」
京介は、ベッドに座ったまま、顔をしかめた。
「で、その|津《つ》|雲《くも》財団が、智を|狙《ねら》ってきたってわけか」
「そのとおりです」
睡蓮は、京介をチラと振り返った。
愛らしい|唇《くちびる》で、かすかに|微《ほほ》|笑《え》む。
「おい……マジかよ」
京介は、睡蓮と智を交互に見た。
狼は、智の後ろで、無言のままだ。
智は、睡蓮を|凝視《ぎょうし》した。
「オレを狙う三神冷児の目的はわかるか、睡蓮?」
睡蓮は、そっと首を横に振った。
その動きで、睡蓮の長い|髪《かみ》が、ふわふわとしたワンピースの肩から|滑《すべ》り落ちた。
|陽《ひ》を浴びた黒い髪は、光線の加減で、|虹《にじ》|色《いろ》に光って見えた。
「はっきりとは、わかりません」
|式《しき》|神《がみ》は、静かに|呟《つぶや》いた。
「しかし、私の推測するところでは、三神冷児が、|上主《じょうしゅ》の北海道入りに危機感を|抱《いだ》いたためではないかと」
「危機感……?」
「はい。明確な証拠はありませんが、三神冷児が、一昨年から今年初めにかけて、カムイの手で、五件の|呪《じゅ》|殺《さつ》事件を起こさせたという疑いがあります。五件とも、発生したのは、すべて北海道内です。事件発生後、すぐにJOAが、調査に乗りだしましたが、調査は|難《なん》|航《こう》。今年の夏になって、正式に、この五件は呪殺事件ではないという報告がなされました。人間の手による呪殺とするには、あまりにも不自然な死に方だったためです」
「なんだって……!?」
智は、睡蓮の言葉に|衝撃《しょうげき》を受けた。
(カムイに呪殺を……!?)
そんなことは、常識から考えたら、ありえない。
人の力で、神を|操《あやつ》ることなど、不可能なはずだ。
「ナンセンスだ……そんなのは」
「JOAの報告によれば、人間の手による呪殺には見えないとしても、自然死にも事故死にも見えなかったそうですよ。……つまり、神の|祟《たた》りを受けたような状態だったと」
睡蓮は、智の驚いた顔を見、うなずく。
保護者然とした笑みが、式神の唇に浮かんだ。
「三神冷児が、|上主《じょうしゅ》に敵対する理由は、表面上ありません。それが、上主を攻撃してくるというのは、もしかすると、問題の五件の|呪《じゅ》|殺《さつ》事件を、上主に調査されるのを恐れてのことかもしれません」
「オレに調査されるのを恐れて……?」
智は、無意識に右手の人差し指に、歯をたてた。
「狼、本当にカムイに呪殺をさせていると思うか……?」
智は振り返って、狼と目を|見《み》|交《か》わした。
狼は、悲しげな目をしていた。
「|言《こと》|霊《だま》で、カムイを|操《あやつ》ることはできないはずです。しかし、もし、それが可能ならば、三神冷児という男、恐るべき|霊能力者《れいのうりょくしゃ》でしょう」
「恐るべき霊能力者……」
「千年に一人の天才と言われたあなた、鷹塔智さまにとっても、三神冷児は、かつてないほどの強敵となるかもしれません」
その声は、|神《しん》|託《たく》のように、ホテルの一室に響き渡った。
それきり、誰も口を開かなかった。
水を打ったような沈黙。
智も、京介も、息をつめ、狼の|端《たん》|正《せい》な顔を|凝視《ぎょうし》していた。
睡蓮も、何も言わない。
(恐るべき霊能力者……。
かつてないほどの強敵……)
智は、氷の入ったボウルに目を落とした。
室内は、エアコンディショナーで、常に二十二度に保たれている。
ホテルの窓も、寒気を|遮《しゃ》|断《だん》する二重窓だ。
だが、どうしようもない寒さが、智の体を襲った。
(カムイさえ支配する相手と……戦うのか)
「しかし、三神冷児の行動が、智さまの調査を恐れてのことであれば、智さまが北海道を出てしまえば、カムイの攻撃はなくなるはずです。北海道にいるのも、|函《はこ》|館《だて》の〈|闇《やみ》|舞《まい》〉が終わるまでですから、長くてあと十時間でしょう。そのあいださえやりすごせば、問題はありません。お帰りの飛行機は、函館発の最終便を用意してあります」
狼は、冷静な|口調《くちょう》で言う。
「残り十時間、極力、霊的なガードを固めましょう」
智は、振り返って、狼の顔を見つめつづけた。
今度の|衝撃《しょうげき》は、心臓に氷を押しこまれたようだった。
(狼……これを、見すごせと言うのか。
カムイを、|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》として使うという|冒《ぼう》|涜《とく》行為を……)
「ご不満でしょうが、私の仕事は、智さまの安全をお守りすることだけです。|本《ほん》|音《ね》を言えば、これ以上、よけいな事件に首を突っこんでいただきたくはないのです。あなたには、〈|汚《けが》れ|人《びと》〉としての大事なお役目があるはずです。|後《こう》|継《けい》|者《しゃ》となるお子さまも、まだいらっしゃらないわけですし、軽々しく危険に飛びこんでいかれては困ります」
狼は、一瞬、きつい目をした。
普段の優しそうな様子からは、想像もできない、「|大人《お と な》」の顔だった。
「狼……」
智は、|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
裏切られたような気がしていた。
「オレにこれを見すごして、東京に帰れと言うのか、狼」
「できれば、そうしていただきたい、と思います。……三神冷児を相手に戦われるのでしたら、私は、あなたの安全を百パーセントは保障いたしかねます」
狼は、あくまでも、ものやわらかな|口調《くちょう》で言う。
「百パーセント守ってもらえなくてもいい。……オレは、これを|放《ほう》っては帰れない」
智は、無理を承知で言った。
カムイが呪殺に利用されていると、知ってしまった以上、逃げることはできなかった。
京介が、はらはらしながら、会話の成り行きを見守っている。
狼は、しばらく智の顔をじっと見つめ、やがて、かすかに笑った。
「お命の保障は、できませんよ」
(そうだとしても、オレは行くしかないんだ……)
智は、目を伏せた。
長い沈黙があった。
その時、カチ……と小さな音がして、部屋の|鍵《かぎ》が外から開けられた。
第三章 再会
「失礼いたします。当ホテルの者でございます。お客さま、緊急の用件でお話が……」
開きかけたドアの|隙《すき》|間《ま》から、|温《おん》|厚《こう》そうな男の声が、聞こえてきた。
「|狼《ロウ》……?」
|智《さとる》が、|不《ふ》|審《しん》そうな目で、狼を見た。
(なんだ……?)
|京介《きょうすけ》も、ギクッとした。
フロントから電話で連絡もせず、いきなり客の部屋に来て、ノックもせず、マスターキーでドアを開けるという行為。
それは、教育されたホテルマンなら、絶対にやってはならないことなのだが、突然のことで、京介はそこまで気づかない。
京介は、|弾《はじ》かれたように立ちあがり、ドアのほうに走っていった。
「今、行きます」
狼が、サッと顔色を変えた。
ボディガードは、素早く、京介の背中にむかって叫ぶ。
「京介さん! いけません! |殺《さっ》|気《き》があります!」
「え……?」
京介がハッとした時には、すでにドアのむこうの人影に、左腕をつかまれていた。
同時に、強い力で引きよせられ、|顎《あご》の下に|堅《かた》いものが押しつけられる。
|拳銃《けんじゅう》の|銃口《じゅうこう》だ。
「動くな」
ドスの|利《き》いた声が、ささやく。
強いタバコの|臭《にお》いがした。
「そうだ。そのまま、ゆっくり部屋に入れ」
京介は、見知らぬ男に肩をつかまれ、顎の下に拳銃を突きつけられたまま、室内に押し戻された。
(|嘘《うそ》だろ……)
京介に拳銃を向けているのは、黒いコートを着た、|大《おお》|柄《がら》な中年の男だった。
|俳《はい》|優《ゆう》のように、|彫《ほ》りの深い顔をしている。
薄茶のサングラスの下に、|凄《すご》みのある目が光っていた。
ホテルの従業員をかたったのは、この男だろう。
|口調《くちょう》は違うが、声が同じだ。
コートの下には、黒いスーツを着ている。
手首には、|派《は》|手《で》な外国製の時計があった。
一目で、|堅《かた》|気《ぎ》の者ではないと知れた。
「動くと、このガキの|顎《あご》をぶちぬく」
男の持った|拳銃《けんじゅう》が、ゴリゴリと京介の顎の下に押しつけられた。
(なんで……どうして……いきなり、こんなものが……?)
男のタバコの|臭《にお》いに包まれて、京介は、まだ混乱している。
「京介!」
智が、悲鳴のような声をあげ、立ちあがった。
|睡《すい》|蓮《れん》が、智を守るように、瞬間的に智の正面に移動してくる。
狼も、智の斜め前に出て、中年の男を油断なく|見《み》|据《す》えた。
室内の空気が、サッと|凍《こお》りついた。
中年の男の後ろから、五、六人のヤクザふうの男たちが、室内に走りこんできた。
いっせいに、拳銃を智たちにむける。
皆、黒いコートを着込んでいた。
「動くな!」
組員の一人が、ビンと腹に響くような声で、|怒《ど》|鳴《な》る。
「何者です、あなたがたは?」
狼が、|穏《おだ》やかな声で尋ねる。
拳銃をむけられても、まるで動じていない。
「見れば、ヤクザのようですが、私たちになんの用です?」
「|鬼《おに》|若《わか》|組《ぐみ》の者だ。|陰陽師《おんみょうじ》の|鷹《たか》|塔《とう》智に用がある」
京介に拳銃を突きつけた男が、静かに狼の問いに答える。
「鬼若組……|津《つ》|雲《くも》財団の|用《よう》|心《じん》|棒《ぼう》を|務《つと》める暴力団ですね」
睡蓮が、低く|呟《つぶや》いた。
(なんだって……?)
京介は、拳銃を突きつけられたまま、口のなかで|唸《うな》った。
(じゃあ、こいつら、|三《み》|神《かみ》|冷《れい》|児《じ》の手先か……!)
「三神冷児に命じられて、智さまを連れにきたのですか?」
狼は、智をかばうように、じりじりと前に出る。
リーダー格の男は、その問いには、答えようとはしなかった。
「グズグズするな。早く鷹塔智を連れてこい」
中年の男は、言いながら、組員たちにむかって、|顎《あご》をしゃくった。
「へい、|桐生《きりゅう》さん!」
桐生の命令が耳に入るか入らないかのうちに、二人の組員が、智にむかって飛びだした。
残り四人の組員たちは、油断なく、智と狼にむけて|拳銃《けんじゅう》を構えている。
(智……!)
「抵抗するなよ。武器を捨てて、そこに立っている|式《しき》|神《がみ》も消せ。妙な動きをすると、このガキをぶち殺す。わかったな」
桐生は、拳銃の|銃口《じゅうこう》を、京介のこめかみに移動させてくる。
ひんやりした金属の感触。
桐生に|染《し》みついたタバコの|臭《にお》いと一緒に、鉄と|硝煙《しょうえん》の臭いがする。
暴力の臭いだ。
桐生は、いざとなったら、本当に京介を殺すだろう。
「京介……!」
智が、気も狂わんばかりの|瞳《ひとみ》で、京介を見つめている。
狼が、ため息をついたように見えた。
「|人《ひと》|質《じち》をとられては、仕方がないですね。|降《こう》|参《さん》です」
「バカ! 俺にかまうな! 智を連れて逃げろ!」
京介は、狼にむかって|怒《ど》|鳴《な》った。
肩をつかんでいる桐生と、拳銃のことは、なるべく意識しないようにする。
「京介! ダメだ! おとなしくしてて!」
智が、必死の|形相《ぎょうそう》で叫ぶ。
「お願いだから、京介!」
「智、逃げろ! 俺なんかにかまうな! いいか! 早く!」
「黙ってろ」
桐生が、拳銃をグッと強く、京介のこめかみに押しつけてきた。
「死にたいのか」
|冷《れい》|酷《こく》な声が、京介の耳もとでささやく。
何人も人を殺してきて、命を奪うことに慣れた声だった。
京介の|背《せ》|筋《すじ》を、冷たいものが駆けおりる。
桐生の言葉は、|脅《おど》しではない。
さすがに、京介も、黙りこんだ。
智が、京介を見つめたまま、そっと|咒《じゅ》を|唱《とな》える。
睡蓮の姿が、瞬時に消えた。
組員たちのあいだに、小さなどよめきが走った。
|式《しき》|神《がみ》だといわれても、人間そっくりの姿が、いきなり目の前から消えるのを見ると、びっくりするものだ。
智を見る組員たちの目に、|畏《い》|怖《ふ》の色がある。
「式神は消しました。武器は持っていませんよ」
狼が、|穏《おだ》やかに言う。
「調べろ」
|桐生《きりゅう》が|顎《あご》をしゃくると、別の二人の組員がバラバラと狼に走りよった。
狼を壁ぎわに立たせ、ボディチェックをしていく。
「確かに、武器らしいものは、所持していません」
「もっとよく調べろ。ボディガードが、武器を持たんはずがない」
桐生の視線が、智に移る。
「このガキの命が|惜《お》しければ、妙な術は使うなよ」
智は、小さくうなずいた。
二人の組員が、恐る恐る、智に手を伸ばしていく。
「こっちへ来い」
「|綺《き》|麗《れい》な顔しやがって」
一人が、智の右腕をひねりあげる。
智は、抵抗しなかった。
それで、組員たちは、安心したらしかった。
「おら、歩けよ」
もう一人が、後ろから智の左肩と|髪《かみ》をつかんで、乱暴に引ったててくる。
左肩の傷が痛むのか、智は、つらそうな顔をしていた。
(智……!)
京介は、ギリギリと歯を食いしばった。
(なんで、こんな時には|妖獣《ようじゅう》になれねーんだよ!
いつも、|都《つ》|合《ごう》の悪い時ばっかり、妖獣になりかけるくせに……)
だが、妖獣への変身は、京介の思いどおりにはいかない。
(妖獣になれれば、あんなヤクザども、皆殺しにできるのに……!)
「|悔《くや》しいか、|坊《ぼう》|主《ず》」
桐生が、京介のこめかみに|拳銃《けんじゅう》を押しつけながら、ふふ……と笑う。
「銃をむけられて、震えもしないガキは初めてだ」
低い声と、しつこいタバコの|臭《にお》いが、京介に、よけい桐生を意識させる。
京介は、何も答えなかった。
|桐生《きりゅう》も、答えは期待していないようだった。
組員たちは、智を|小《こ》|突《づ》きまわすようにして、前に進ませる。
「乱暴な|真《ま》|似《ね》はやめなさい。智さまは、抵抗はしませんから」
狼が、見かねたのか、智を|苛《さいな》む組員たちを止めに入った。
組員たちは、狼を見、|醜《みにく》く顔を|歪《ゆが》めた。
「黙ってろ!」
狼のそばにいた組員の一人が、思いっきり狼の|頬《ほお》を|殴《なぐ》りつけた。
バシッ……!
|鋭《するど》い音がする。
狼は、顔をそむけた。
|唇《くちびる》が切れたのか、口もとに血が|滲《にじ》んでいた。
ほかの組員も、何も言わず、狼の反対側の頬を殴る。
バシッ……!
「狼……!」
智が、振り返って、鋭い声で叫ぶ。
「狼に手を出すな! |狙《ねら》いがオレなら、オレを殴ればいい!」
「そんなこと言っていいのかぁ、|坊《ぼう》や」
クククククッと、組員たちのあいだに、|残虐《ざんぎゃく》な笑いが|湧《わ》きおこる。
「手加減なしで殴るぜ」
「|綺《き》|麗《れい》な顔が、ボコボコになるべさ」
桐生のそばにいた組員の一人が、ニヤリと笑った。
智に近づいて、勢いよく腕を振りあげる。
|坊主頭《ぼうずあたま》の若い男だった。
左手の手首に、|蠍《さそり》の|刺《いれ》|青《ずみ》がある。
智は、|凜《りん》とした|瞳《ひとみ》で、坊主頭の組員を|睨《にら》みかえす。
|美《び》|貌《ぼう》の|陰陽師《おんみょうじ》は、目の前で、ヤクザが腕を振りあげても、|毅《き》|然《ぜん》としている。
「なんだぁ!? その目はぁ!?」
智が、急な動きにびくつくかと期待した男は、その期待がはずれて、腹をたてたらしい。
「このガキがぁ!」
バシッ!
平手打ちの音が、響き渡る。
京介は、ブルッと身震いした。
こんなに腹がたったのは、生まれて初めてだ。
(てめーら、俺が今度、|妖獣《ようじゅう》になったら、全員ぶち殺す!)
「おい、おまえら、そのへんにしておけ。勝手に傷つけるなよ。鷹塔智は、無傷で連れてこいとの|仰《おお》せだ」
|桐生《きりゅう》が、|苦《にが》|笑《わら》いを浮かべて言う。
「はい、桐生さん」
「おっしゃるとおりに」
組員たちは、素直に智から手を離した。
さっきよりは、|丁重《ていちょう》に、智を桐生のそばまで連れてくる。
だが、狼を|殴《なぐ》っていた連中は、手を止めない。
腹や背中を|殴《おう》|打《だ》する|鈍《にぶ》い音が、聞こえてくる。
京介は、狼から目をそむけた。
無抵抗で殴られている狼を、見るに|忍《しの》びなかった。
(狼……)
桐生の横には、一番若い組員が一人残って、|拳銃《けんじゅう》を構えていた。
京介の動きに気づいたのか、こちらを見た。
|潤《うる》んだような大きな|瞳《ひとみ》が、印象的だった。
(え……?)
よく見ると、|華《きゃ》|奢《しゃ》な美少年である。
ジャニーズ系アイドルとしてデビューしたら、さぞかし人気が出るだろう。
サラサラの|栗《くり》|色《いろ》の|髪《かみ》、小麦色に焼けた|肌《はだ》。
|睫《まつげ》も長く、クルッと自然にカールしている。
黒いコートの下には、|派《は》|手《で》な|縦《たて》|縞《じま》のスーツと、|鮮《あざ》やかな青のネクタイ。
|靴《くつ》は白のエナメルだし、左手の小指には、ごつい金の指輪が光っていた。
服装は、いかにも|極《ごく》|道《どう》|者《もの》という感じである。
しかし、これが、まるで似合わない。
女顔で、華奢な体つきのためだ。
(こんな|奴《やつ》が、極道かよ……)
京介は、意外な思いで、美少年を|眺《なが》めていた。
美少年は、つらそうな目をしていた。
(ん……? なんだ……こいつ?)
美少年は、ふいと京介から視線をそらした。
拳銃を構えたまま、|切《せつ》なげに、智たちの様子を見つめつづける。
その姿は、|雲《くも》|助《すけ》にさらわれてきた|姫《ひめ》|君《ぎみ》が、|掠奪《りゃくだつ》の現場を見せられているようだ。
(変な奴……)
京介は、内心、首を|傾《かし》げていた。
「急げ。三神の若がお待ちだ」
|桐生《きりゅう》が、低い声で言う。
組員たちが、智を桐生の前に連れてきた。
狼を|殴《なぐ》っていた連中も、ようやく手を止めたようだった。
狼は、ぐったりと、|床《ゆか》に倒れている。
「え……|嘘《うそ》……」
引ったてられてきた智が、何げなく京介と桐生の隣にいる美少年を見て、息を|呑《の》んだようだった。
「|靖《やす》|夫《お》君……|柴《しば》|田《た》靖夫君ですね!?」
智は、一瞬、自分がどこにいるのかも忘れたらしい。
勢いよく前に出ようとするのを、組員たちが、乱暴に止める。
「動くんじゃねえ!」
ガクンと後ろに引っぱられて、智は、|仰《あお》|向《む》けにのけぞった。
(智……!)
狼は、後ろで、組員たちに引きずり起こされていた。
|濃《のう》|紺《こん》のスーツがグシャグシャになり、ネクタイも曲がっている。
|唇《くちびる》に血が|滲《にじ》んでいた。
|額《ひたい》に落ちてきた|前《まえ》|髪《がみ》が、狼をいつもより三歳ほど若く見せていた。
「靖夫君……|柴《しば》|田《た》靖夫君、そうでしょう!?」
智は、必死に呼びかける。
(誰だ……靖夫って……?)
京介は、智を見つめた。
美少年も、智を見、かすかに唇を震わせている。
「智さん……」
靖夫が手に持った|拳銃《けんじゅう》の|銃口《じゅうこう》が、|床《ゆか》をむく。
靖夫は、飼い主にぶたれた犬のような目をして、智を|凝視《ぎょうし》していた。
「すみません、智さん……!」
「ヤス……知り合いか?」
|桐生《きりゅう》が、美少年をチラリと見た。
靖夫は、泣きだしそうな顔で、小さくうなずいた。
「はい、桐生さん。はい……」
*    *
後に、京介が、柴田靖夫本人から聞いたところによると、この美少年――柴田靖夫は、智と一緒に戦ったこともある、仲間だったという。
ちょうど、その時期、京介は智と離れていた。
京介は、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》に|捕《と》らえられて、|洗《せん》|脳《のう》されていたのだ。
京介が、柴田靖夫に覚えがないのは、そのためである。
今から四か月ほど前――八月のことだった。
柴田靖夫は、|鎌《かま》|倉《くら》の暴力団・|黒《くろ》|部《べ》|組《ぐみ》にいた。
この|華《きゃ》|奢《しゃ》な美少年は、男らしさに|憧《あこが》れ、|任侠《にんきょう》の世界に入ってきたのだ。
まだ正式な組員にもしてもらえず、使い走りの身分だったという。
その頃――。
黒部組には、一人の|極《ごく》|道《どう》専門の|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》がいた。
|左《さ》|門《もん》|道《みち》|明《あき》。
|男気《おとこぎ》があって、腕もたち、黒部組組長の信頼も|篤《あつ》い術者だった。
柴田靖夫は、この左門道明の男らしさに、憧れていた。
アニキと呼んで、|慕《した》っていた。
当時の靖夫の|口《くち》|癖《ぐせ》は、「アニキみたいな男になりたいなあH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]」である。
智と|柴《しば》|田《た》靖夫の出会いは、|鎌《かま》|倉《くら》|円《えん》|覚《かく》|寺《じ》だった。
最初、左門道明と、柴田靖夫は、|陰陽師《おんみょうじ》・鷹塔智を|誘《ゆう》|拐《かい》しようとしていた。
暴力団・|黒《くろ》|部《べ》|組《ぐみ》の組長・黒部|銀《ぎん》|次《じ》が、智をさらってくるよう、左門に命じたからである。
八月の鎌倉は、百二十年ぶりの|奇《き》|祭《さい》〈|闇《やみ》|送《おく》り〉を、まぢかに控えていた。
〈闇送り〉というのは、|年《とし》|老《お》いた〈|汚《けが》れ|人《びと》〉が、最後の力で体内の闇を|浄化《じょうか》し、|後《こう》|継《けい》|者《しゃ》に〈|闇扇《やみおうぎ》〉を手渡して、息|絶《た》えるという、一連の儀式である。
さて、その〈闇送り〉と、黒部組組長による、鷹塔智の誘拐計画には、あるつながりがあった。
黒部組組長の|狙《ねら》いは、当時〈汚れ人〉だった、智の祖父・鷹塔|虎《こ》|次《じ》|郎《ろう》の心臓だった。
いや、正確には、その心臓のなかに|凝縮《ぎょうしゅく》された、濃い大地の闇であった。
だが、それを手に入れるには、〈汚れ人〉の次期|継承者《けいしょうしゃ》である智を|始《し》|末《まつ》しなければならない。
智が、〈汚れ人〉を受け継いでしまったら、鷹塔虎次郎の心臓は、価値がなくなるためである。
黒部組組長は、継承者である智を誘拐することで、〈汚れ人〉の心臓を確実に手に入れようとしたのだった。
だが、智は、鎌倉円覚寺で、左門と靖夫が|妖《よう》|怪《かい》に襲われかかったところを救った。
そのため、状況は、黒部組組長の思わぬ方向に動きはじめた。
智に命を助けてもらったことで、義理を感じた左門は、靖夫とともに、智の側に寝返ったのだ。
そして、〈闇送り〉の祭りの当日。
鎌倉|鶴岡八幡宮《つるがおかはちまんぐう》で、虎次郎の最後の〈|闇《やみ》|舞《まい》〉が行われた。
その祭りの最中、鷹塔虎次郎の体内の闇をめぐって、|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》と、黒部組組長と、鷹塔智は、|三《み》つ|巴《どもえ》の戦いをくりひろげることとなった。
左門は、黒部組組長を、|阻《そ》|止《し》しようとした。
黒部組組長を道連れに、〈汚れ人〉の作った鶴岡八幡宮の|舞《まい》|殿《どの》の|霊《れい》|的《てき》|結《けっ》|界《かい》のなかに飛びこんだ。
左門は、|黒《くろ》|部《べ》|組《ぐみ》組長と|刺《さ》し違えるつもりだったのだ。
飛びこんだ|舞《まい》|殿《どの》のなかには、|凝縮《ぎょうしゅく》された大地の|闇《やみ》があった。
左門と組長という異質な|霊《れい》|気《き》が、濃い闇と混じりあった結果――。
舞殿は、爆発|炎上《えんじょう》した。
左門道明は、この時、黒部組組長とともに、舞殿で、死んだとされた。
靖夫は、一部始終を見届けた。
だが、舞殿の焼け|跡《あと》から、左門の死体は見つからなかった。
死体がない以上、死んだとは断定できない。
黒部組の上部にある|山《やま》|田《だ》|組《ぐみ》は、左門の生死を確認するため、全国に回状をまわした。
親同然の組長を殺した組員。
それは、|極《ごく》|道《どう》の世界では、厳しい|制《せい》|裁《さい》の対象となる。
その制裁は、生き残った柴田靖夫にも、降りかかってきた。
靖夫が、左門の一の子分のような立場だったからである。
そのため、靖夫は、関東を離れた。
ほとぼりを冷ますため、北海道に流れてきた。
そこで、正業につこうとした。
だが、高校を中退して、家出し、|任侠《にんきょう》の世界に足を踏み入れた靖夫である。
家出して以来、親兄弟とも連絡を|絶《た》っている。
北海道には、友人知人はいない。
正業につこうにも、保証人のなり手はなかった。
十八歳の少年は、見知らぬ土地で、|途《と》|方《ほう》に暮れていた。
そんな靖夫に声をかけてきたのが、地元の暴力団・|鬼《おに》|若《わか》|組《ぐみ》の|幹《かん》|部《ぶ》だった。
その幹部――|桐生《きりゅう》|健《けん》|二《じ》は、靖夫を組事務所に連れていき、そこに泊めてくれた。
結局のところ、靖夫は、極道の世界で生きる以外に、生活する|術《すべ》を知らなかった。
鬼若組には、|一宿一飯《いっしゅくいっぱん》の恩義もあった。
靖夫は、鬼若組の使い走りの一人となって、活動を始めた。
そうして、四か月後。
智と靖夫は、冬の|札《さっ》|幌《ぽろ》で再会したのである。
*    *
「俺、連れにいく相手が、智さんだなんて、ここに来るまで知らなかったんです」
靖夫は、苦しげな|瞳《ひとみ》で、智を|凝視《ぎょうし》した。
長い|睫《まつげ》が、|小《こ》|刻《きざ》みに震えている。
「すいません……智さん……」
智は、|微《ほほ》|笑《え》んで、首を横に振った。
「靖夫君には、靖夫君の事情があると思うから……いいんだ」
「ヤス、どういう知り合いだ?」
|桐生《きりゅう》が、京介の後ろから、静かに尋ねる。
京介の|顎《あご》の下にまわされた桐生の腕から、強いタバコの|臭《にお》いがしていた。
京介のこめかみには、冷たい|拳銃《けんじゅう》が突きつけられている。
拳銃は、桐生の手に握られていた。
室内には、桐生を含め、組員が七人。
それに、智と京介と狼がいる。
ホテルのツインルームにしては広い部屋だが、さすがにこの人数が入ると|狭《せま》く感じられた。
京介は、桐生に|人《ひと》|質《じち》にとられたまま、部屋の入り口のあたりに立っていた。
智は、京介と桐生から、一メートルと離れていない位置に立っている。
狼は、奥の壁ぎわに立たされ、拳銃をむけられていた。
「どういうって……友達です、桐生さん。俺、|鎌《かま》|倉《くら》で|妖《よう》|怪《かい》に襲われた時、智さんに命を助けてもらったんです。恩義があるんです……」
「恩義か……」
桐生は、|栗《くり》|色《いろ》の|髪《かみ》の美少年の言葉に、ふふ……と笑ったようだった。
だが、それ以上、何も言わない。
靖夫は、救いを求めるように、ほかの組員たちを、|眺《なが》めわたした。
|屈強《くっきょう》な組員たちが、靖夫の様子に、冷笑を浮かべた。
「だったら、どうだっていうんだ、ヤス。友達だから、連れていくのはやめましょうってのか?」
「甘ったれてんじゃねえよ!」
「したから、おめーは、女みてーだって言われんだよ! さっさと|極《ごく》|道《どう》やめて、|薄野《すすきの》に立ってみろぉ! 客がつくべさ!」
ドッと|嘲《あざけ》るような笑い声が、|湧《わ》きあがる。
「すいません……」
靖夫は、しゅんとなって、うつむいた。
なかの一人が、優しげな|口調《くちょう》で言った。
「ヤスよ、おめえだって、この道に入ったからには、上の命令が絶対だってのは、わかってんだろ。おめえは、桐生さんに|盾《たて》つける立場かぁ? ああん? どうなんだ?」
靖夫は、涙をためた|瞳《ひとみ》で、|床《ゆか》を見つめていた。
「すいません……」
「そのへんにしておいてやれ。ヤスにもわかっているはずだ」
|桐生《きりゅう》が、助け船を出す。
「桐生さんは、ヤスに甘すぎますよ」
「甘い、甘い」
組員たちは、ため息をついて、靖夫から目をそらした。
「|贔《ひい》|屓《き》だよなあ……」
うらやましそうな|呟《つぶや》きが、組員たちのなかから、かすかに聞こえた。
「さて、行くか。……鷹塔智、|霊能力《れいのうりょく》で妙な|真《ま》|似《ね》はするなよ。ちょっとでも、おかしな|気《け》|配《はい》を感じたら、このガキをぶち殺す。いいな」
桐生は、京介を後ろむきに立たせ、背後から黒いコートごしに|拳銃《けんじゅう》を突きつけた。
組員たちが、智の両側と後ろを固める。
「桐生さん、この男はどうしましょう」
組員の一人が、狼の後頭部に|銃口《じゅうこう》をむけたまま、尋ねる。
桐生は、チラと狼の背中を見た。
「生かしておいても無意味だ。……殺せ」
|冷《れい》|酷《こく》な命令。
「はっ」
カチ……。
|凍《こお》りつくような空気のなか、拳銃の安全装置をはずす音がした。
(ヤバイ……)
京介は、ゴクリと|唾《つば》を|呑《の》みこんだ。
「|慌《あわ》てるな。|我《われ》|々《われ》がホテルを出るまで待て。あと五分……十分だ」
桐生が、静かに言った。
発射音で、警察に通報されるのを|警《けい》|戒《かい》したのだろう。
「十分、|寿命《じゅみょう》が延びたな」
組員の一人が、クスクス笑いながら言う。
「狼!」
智が、悲鳴のような声をあげた。
「ダメだ! 狼を殺すな!」
「てめえら……人間じゃねえ」
京介も、|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
だが、それに対して返ってきたのは、|嘲《あざけ》るような笑いだけだった。
「|堪《かん》|忍《にん》してください……智さん、京介さん」
靖夫が、沈んだ声で言った。
「|堪《こら》えてください……頼みます」
(|冗談《じょうだん》じゃねーよ)
京介は、大きく息を吐いた。
だが、腹がたてばたつほど、頭は|冴《さ》えていく。
|妖獣《ようじゅう》になることができない。
|桐生《きりゅう》が、京介の背中を|拳銃《けんじゅう》でグイグイ押す。
「歩け」
京介と智は、部屋の外に連れだされた。
周囲を、黒いコートの一群が取り囲んでいる。
異様な光景だった。
しかし、早朝のことで、ホテルの|廊《ろう》|下《か》には、まだ誰もいなかった。
|牡《ぼ》|丹《たん》|色《いろ》の|絨毯《じゅうたん》を敷いた廊下を通り、エレベーターホールまで連れていかれる。
エレベーター正面のガラス窓から、|朝《あさ》|陽《ひ》が|射《さ》しこんでいた。
京介が首をねじって見ると、智の白いアンゴラのセーターが、黒いコートの真ん中にあった。
智は、真っ青な顔をしている。
|陰陽師《おんみょうじ》としての|霊力《れいりょく》を使えば、周囲の男たちを、瞬時に殺すことができるのに――。
智は、それをしようとしないのだ。
殺さないまでも、傷つけて、戦意を|喪《そう》|失《しつ》させることすらしない。
(智……)
京介は、|相《あい》|棒《ぼう》の|幻《まぼろし》のように|綺《き》|麗《れい》な顔を、じっと見つめつづけた。
智は、自分が殺されても、|他人《ひ と》を傷つけようとはしない。
(抵抗しろよ……智。狼もおまえも、殺されるかもしれないんだぞ。今、力を使わないで、いつ使うんだよ)
エレベーターが、到着した。
智と京介は、背中を拳銃でグイグイ押されて、なかに乗りこんだ。
六人もの男たちと、少年二人が乗ると、エレベーターは|鮨《すし》づめになる。
混雑のなかで、智の右肩が、京介の胸に触れている。
エレベーターで、降下しながら、京介は、ひどく、|理《り》|不《ふ》|尽《じん》な気がしていた。
(ものには、限度ってもんがあるだろ……智。
他人を傷つけたくないからって、それで、自分や仲間が死んじまったら意味ないだろ。
しかも、相手は、こんな最低のヤクザどもなんだぜ。
そこまでして、守ってやる価値があるのかよ……!)
――価値はあるよ、京介。
ふいに、智の心が、京介に触れてきた。
――どんな命にも、平等に価値はある。だから、オレは、誰も傷つけたくないんだ。
|温《あたた》かで、心安らぐ智の|霊《れい》|気《き》。
智が目をあげて、京介を見つめてくる。
静かな|眼《まな》|差《ざ》しだった。
京介は、ため息をついた。
(人間ってのは、そういうもんじゃないだろ。
そんなに、清らかに生きられるもんじゃねーよ。
愛情とか、|憎《にく》しみとか、ほかの要素がからんできたら、|綺《き》|麗《れい》なままじゃいられねえ。
俺だって、今、|妖獣《ようじゅう》になれるんなら、狼やおまえを守るために、こいつら皆殺しにできる)
――ダメだよ、京介。そんなこと……。
智は、|眉《まゆ》|根《ね》をよせて、京介の胸に、肩を強く押しつけてきた。
伝わってくる智の心が、悲しんでいる。
――京介、お願いだから、そんな悲しいことは考えないで……。
京介は、もう一度、ため息をついた。
智は、京介と同じ年齢のくせに、|思春期《ししゅんき》特有のがむしゃらなエネルギーも、ぎらついた欲望も感じさせない。
それどころか、智は、人間として生きていくために必要な最低限の本能さえ、どこかに置き忘れてきたように見える時があった。
智は、植物のように静かで、|瞳《ひとみ》が澄みきっている。
(おまえ……綺麗すぎるよ……智……)
京介は、|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
智に|想《おも》いが流れこまないように、心を固く閉ざす。
(そんなんじゃ、生きてけねーよ。俺……間違ってるか……)
――鷹塔智は、ゆうてみれば、|天《てん》|人《にん》なんや。
――あんたは、天人に恋しよった、アホな|漁師《りょうし》や。
――鷹塔センセの|羽衣《はごろも》はぎとって、無理やり地上に引きずり降ろしたん。
――天人は、空に|還《かえ》れへん。
京介は、友人の|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》に言われた言葉を、ふと思い出した。
それは、二か月半ほど前、|京都《きょうと》でのことだったが。
(そうか……天人か……)
京介の鼻の奥がチクチクして、|喉《のど》のあたりが熱くなってくる。
ようやく、今ごろ、勝利の言った言葉の意味が、少しだけわかってきたような気がした。
この世の|汚《お》|穢《わい》には、決して触れない美しい|陰陽師《おんみょうじ》。
智の両手は、永遠に白く、清いままだ。
神がこの地上につかわした、特別な存在。
(でも……)
京介は、冷たいエレベーターの壁に、セーターの肩を押しつけた。
周囲のヤクザどもを見まいと、目を閉じる。
(こんなところまできちまった俺の気持ちは……どうしたらいいんだよ……智)
ひどく|切《せつ》なかった。
*    *
ホテルの外は、快晴だった。
だが、気温は、氷点下。
冷えきった大気が、Tシャツとセーターだけの京介の体に、針のように突き|刺《さ》さってきた。
智も、両腕を組員たちにつかまれながら、寒そうに歩いている。
智は、京介に心の接触を|断《た》たれて、どこか|寂《さび》しそうだった。
組員たちの吐く息が、白い。
靖夫が、一番後ろから、小走りについてくる。
やわらかな|栗《くり》|色《いろ》の|髪《かみ》に、冬の|陽《ひ》が|射《さ》していた。
時おり、光線の加減で、靖夫の髪は金色に光って見えた。
京介たちが、ホテルの駐車場についた時。
ズキューン!
青空に、|拳銃《けんじゅう》の発射音が響き渡った。
真正面のホテルの七階の窓が割れ、そこから、黒っぽい人影が落ちてきた。
(狼……!)
京介は、思わず、息を止めた。
人影は、地面に|叩《たた》きつけられて、動かなくなった。
靖夫が、京介の後ろで、体を|強《こわ》ばらせる。
智が、小さく叫んで、顔を|覆《おお》った。
「ひどい……!」
「狼……|嘘《うそ》だ……!」
京介は、地面に倒れた人影に向かって、走りだそうとした。
だが、|桐生《きりゅう》が京介の首に腕を巻きつけて押さえこんだため、動けない。
智の肩や腕を組員たちが、乱暴につかんで、駐車場のダークグリーンのベンツのほうに連れていく。
ベンツの横には、二台の国産車が|停《と》まっていた。
三台とも、組員たちの車のようだった。
「急げ! 五分以内に警察が来るぞ! グズグズするな!」
桐生が、|苛《いら》|立《だ》ったように、組員たちを|叱《しっ》|咤《た》した。
その言葉が、終わるか終わらないかのうちに、どこからか、|鈴《すず》の|音《ね》が|湧《わ》きあがった。
シャンシャンシャン……!
シャンシャンシャン……!
晴れていた空が、急に|陰《かげ》った。
ひらひらと、無数の|雪《せっ》|片《ぺん》が、地上に舞い下りてくる。
「なんだ……この音は!?」
組員たちが、うろたえて、周囲を見まわした。
桐生も、チラと空を見あげた。
その黒いコートの肩を、純白の雪片がかすめて落ちた。
雪片は、智の白いアンゴラのセーターの肩にも、ふわりととまる。
シャンシャンシャン……。
シャンシャンシャン……。
「タン・オッカイポ・エン・トラ・ララク・カンポ・ラールイパ……」
|呪《のろ》い歌が、聞こえてくる。
ヒュウウウウー!
いきなり、冷たい風が吹いてきた。
地面に積もった白い雪が、舞いあがり、|雪煙《ゆきけむり》となって近づいてきた。
雪煙は、ヴェールのように、ふわっと智を包みこむ。
――京介……。
智の|霊《れい》|気《き》が、京介の心をかすめた。
不安で、|怯《おび》えて、すがりついてくるような智の|想《おも》いが伝わってくる。
――放さないで……京介……。オレをつかまえていて……。
次の瞬間には、智の心が真っ白になるのがわかった。
(|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》……まさか……!?)
京介は、身の危険も忘れて、思わず桐生の腕を振りほどき、前に飛びだしそうになった。
「智! 智ーっ!」
が、京介の背中に桐生の|拳銃《けんじゅう》が、ゴリゴリ押しつけられる。
「動くな!」
「でも、智が! 果羅姫に連れていかれる!」
「果羅姫? ああ……三神の若のところの|化《ば》け|物《もの》か」
|桐生《きりゅう》は、低い声で|呟《つぶや》く。
だが、|拳銃《けんじゅう》は京介の背中に押しつけられたままだ。
京介は、|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
(智……!)
冷たい風が吹きすぎた後、智の姿はなかった。
智をベンツに押しこもうとしていた組員の一人も、姿が見えない。
(やられた……!)
京介は、息を|呑《の》んだ。
|衝撃《しょうげき》のあまり、目の前が一瞬、暗くなる。
不安で、心臓が|破《は》|裂《れつ》しそうになった。
(智が、さらわれた……!)
智の|霊《れい》|気《き》は、まだこの世のどこかに存在するのを感じさせるが、心は|視《み》えない。
「何ぃ……!?」
「消えたぞ! |山《やま》|田《だ》も一緒だ!」
組員たちが、騒ぎはじめる。
ふいに、靖夫が、一声叫んで、雪空の一か所を指し示した。
「あそこに!」
京介が見ると、地上十メートルくらいの高さに、白っぽいものが浮いていた。
智だ。
胸のあたりを、白い雲か、|霧《きり》の固まりのようなものが取り巻いている。
智は、|仰《あお》|向《む》けに横になって、ぐったりしていた。
意識を失っているのだ。
空からは、無数の|雪《せっ》|片《ぺん》が舞い下りてくる。
降る雪のなかに浮かぶ、智の白い姿は、|幻《まぼろし》のように美しかった。
そして、智のホワイトジーンズの足首には、一人の男がぶらさがっている。
「山田!」
誰かが、叫んだ。
ぶらさがっているのは、智と一緒に姿を消した組員である。
おそらく、智がさらわれる瞬間に、勇気をふるって、智の足に飛びついたのだろう。
組員は、足をバタバタさせて、なんとか智もろとも地面に降りようとしている。
だが、智の体は、宙に浮いたまま、びくともしない。
「山田ーっ! 落ちるなよー!」
地上から、組員の一人が叫んだ。
智の白いセーターと、ホワイトジーンズの周囲で、粉雪が|乱《らん》|舞《ぶ》する。
白い|霧《きり》のようなものは、|愛《いと》しげに智のそばによりそっている。
「智! 智ーっ!」
京介の叫びにも、智は反応しない。
血迷った組員の一人が、空にむけて|拳銃《けんじゅう》を構えた。
ズキューン!
|威《い》|嚇《かく》|射《しゃ》|撃《げき》だ。
それに刺激されたのか、靖夫と|桐生《きりゅう》以外の組員が、全員、|発《はっ》|砲《ぽう》しはじめた。
今度は、空ではなく、白い霧のようなものを|狙《ねら》って|撃《う》つ。
ズキューン!
ズキューン!
「やめろ! 鷹塔智と山田にあたる!」
桐生が、|一《いっ》|喝《かつ》する。
と、一陣の雪まじりの風が、空から地上に吹きつけてきた。
ヒュウウウウー!
|並《なみ》の冷たさではない。
冷たいのを通りこして、痛い。
「う……!」
京介は、とっさに両腕で顔を|覆《おお》った。
むきだしの耳が、ジンと痛くなった。
呼吸するたびに、胸がカッと焼けつくように痛む。
組員たちが、顔を覆い、口々に|罵《ののし》りの声をあげている。
桐生も、一瞬、京介のことを忘れたようだった。
ふいに、異様な風はやんだ。
空中で、智の足にしがみついていた組員が、ポロッと離れた。
どういうわけか、その組員は、全身、|霜《しも》がおりたように、真っ白だった。
「うわ……!」
「落ちる……!」
地上で見ていた組員たちが、顔をそむけた。
|哀《あわ》れな男は、まっすぐ、コンクリートに|叩《たた》きつけられる。
ガッシャーン!
予想もしなかった、|陶《とう》|器《き》が割れるような|鋭《するど》い音が、駐車場いっぱいに響き渡った。
組員は、かち割りのようになって、|砕《くだ》け散った。
白い破片が、コンクリートの上に散乱する。
落ちた時には、全身、カチカチに|凍《こお》りついていたのだろう。
頭も体も、原形をとどめていない。
「山田……!」
誰かが、うめくような声で|呟《つぶや》いた。
(死んだ……)
京介は、ゾッとした。
思わず空を見あげると、智の体は、さっきと同じ位置に浮いていた。
だが、その足首にしがみついていた組員の姿は、もうどこにもなかった。
(きっと、あの風で|凍《こお》りついて、落ちて……)
京介は、その先を想像するのをやめた。
シャンシャンシャン……。
シャンシャンシャン……。
|嘲《あざけ》るような|鈴《すず》の|音《ね》。
智の体の近くにある白いものが、ぼんやりと人間のような形をとる。
果羅姫だ。
雪は、ますます激しくなる。
「智ーっ! 目を|覚《さ》ませ! 智ーっ!」
京介は、空にむかって叫んだ。
だが、智は、何も答えない。
激しい|雪嵐《ゆきあらし》が、京介のモスグリーンのセーターに吹きつける。
京介は、目を細め、空を|睨《にら》みあげた。
突然、意識のない智の体が、空気に|溶《と》けるようにして、消え失せた。
果羅姫の姿も、もうどこにもない。
「智……!」
智が消えるのと同時に、|吹雪《ふ ぶ き》がピタリとやんだ。
空は青く晴れわたり、|陽《ひ》の光が|射《さ》してくる。
「智! 智ーっ!」
京介は、|半狂乱《はんきょうらん》になって叫んだ。
(こんなところで、智を失うわけには……!)
「|化《ば》け|物《もの》! 化け物っ!」
京介の前にいた組員の一人が、果羅姫のいたあたりに|拳銃《けんじゅう》の|狙《ねら》いを定めた。
恐怖のあまり、神経がどうにかなってしまったらしい。
だが、発射音はしない。
冷気で、|弾《たま》が|凍《こお》りついてしまったようだ。
「うわああああーっ!」
その隣の組員は、走りだそうとして、前のめりになった。
|靴《くつ》が、地面に|凍《こお》りついている。
靴だけではない。|拳銃《けんじゅう》も|霜《しも》で白くなって、手にへばりついたままだ。
「俺の手がぁ……! 足が動かない!」
「うろたえるな! まず落ち着け!」
|桐生《きりゅう》が、凍りついた組員を|怒《ど》|鳴《な》りつけた。
暴れていた組員たちが、ビクッと肩を震わせた。
風が吹きすぎていく。
京介と、桐生以外の四人の組員たちは、|茫《ぼう》|然《ぜん》と立っていた。
ある者は、拳銃が手に凍りついており、またある者は、カマイタチに切られたように、皮膚が|裂《さ》けて、血まみれになっている。
桐生も、少し力を入れて、自分の靴底を地面から引きはがした。
京介の背中にあてた拳銃が、離れた。
ホッとする|間《ま》もなく、京介は、右腕をつかまれ、背中にねじあげられていた。
「いてっ……!」
|関《かん》|節《せつ》|技《わざ》を決められて、痛くて動けない。
桐生は、使いものにならなくなった拳銃を、スーツの|懐《ふところ》にしまいこんだようだった。
京介の耳もとに、桐生の低い声がした。
「運がよかったな、|坊《ぼう》|主《ず》。|拳銃《チ ヤ カ》をこめかみにあてたままだったら、顔に凍りついていたところだぞ」
靖夫が、隣に来て、心配そうに京介を見つめてくる。
「京介さんは、平気だったんですか?」
靖夫は、どういうわけか、ほとんどダメージがないようだった。
京介も、異様に体が冷えきっていたが、凍りついたところはないようだった。
同じように、あの風を受けたのだが、人によって、ダメージの度合いが違っていた。
「ああ……おかげさまで」
京介は、やっとのことで言った。
それより、ねじあげられた腕の痛みを、なんとかしてほしかった。
「こんな話、聞いてねーよ。|化《ば》け|物《もの》と戦うなんてよぉ……」
組員たちの誰かが、低く|呟《つぶや》いた。
頭上には、|嘘《うそ》のように晴れた青空が、広がっている。
*    *
その時、突然、京介たちのまわりに、|陽《かげ》|炎《ろう》のようなものが揺らめきはじめた。
「|桐生《きりゅう》さん! まわりが変です!」
組員の誰かが、上ずった声で叫んだ。
「うろたえるな!」
桐生は、ドスの|利《き》いた声で|怒《ど》|鳴《な》る。
京介の腕をねじあげる力が|緩《ゆる》み、|顎《あご》にもう一方の腕がグッと押しつけられた。
陽炎もどきは、桐生のベンツと、ほかの二台の国産車のまわりを取り巻く、半径十メートルくらいの輪を作っている。
(なんだ……?)
京介の|背《せ》|筋《すじ》を、寒いものが走った。
異様な|気《け》|配《はい》を感じる。
見る見るうちに、陽炎もどきは|凝《こ》り固まって、五匹の巨大な|熊《くま》に変わった。
毛の色は、ほとんど黒に近い、濃い茶色である。
体の大きさは、熊というより、|象《ぞう》だった。
熊たちは、|後《あと》|脚《あし》で立ちあがり、前脚をあげて、|万《ばん》|歳《ざい》のような格好をした。
前脚の先端の|鋭《するど》い|爪《つめ》が、ギラリと光った。
京介たちを|威《い》|嚇《かく》しているのだ。
地面から、あげた前脚の先までの高さは、およそ二メートル半。
「熊……!?」
「|冗談《じょうだん》だろ! 冬眠してるはずじゃ……!」
「|化《ば》け|物《もの》!」
組員たちは、五匹の熊を見て、|恐慌《きょうこう》をきたしたようだった。
「キムン・カムイ……果羅姫の|使《つか》い|魔《ま》だ。あの女、あくまで、|我《われ》|々《われ》を皆殺しにする気だな」
桐生が、京介の後ろで低く|呟《つぶや》いた。
「キムン・カムイ……」
京介は、ブルッと身震いした。
(こんなところで、死んでたまるか)
素早く、ベンツの運転席に座った組員が、窓を開けた。
さっき、智を平手打ちした、|坊主頭《ぼうずあたま》の|奴《やつ》だ。
顔から血を流しているが、ダメージは軽いようだった。
|坊主頭《ぼうずあたま》は、窓から顔を出し、|焦《あせ》った声で|桐生《きりゅう》を呼ぶ。
「桐生さん! 早く! 早く、乗ってください! 逃げましょう!」
靖夫が、|慌《あわ》ててベンツに駆けよった。
震えながら、ドアを開けて、桐生を待っている。
「どうぞ、桐生さん!」
京介と桐生は、ベンツまで、三メートルほどの位置にいる。
残る二人の組員たちも、それぞれ、二台の国産車に乗りこんだ。
桐生は、荒っぽく京介を右にむかせた。
(え……?)
「鷹塔智がいなければ、おまえにもう用はない」
|冷《れい》|酷《こく》な声。
次の瞬間、桐生は、思いっきり京介の背中を突き飛ばしてきた。
「うわ……!」
勢いあまって、京介は、つんのめり、コンクリートに|膝《ひざ》をついた。
駐車場には、二センチほど雪が積もっている。
ブルルルルル……!
エンジン音がして、二台の国産車が走りだした。
徐々にスピードをあげていく。
|熊《くま》たちのあいだを|突《とっ》|破《ぱ》しようというのだ。
ベンツのドアが、バタンと閉まった。
「行け」
桐生の低い声がした。
京介は、顔をあげた。
走りだすベンツの助手席の窓から、靖夫が必死の|瞳《ひとみ》で、こちらを見ている。
「京介さん……逃げてください!」
ベンツは、熊と熊のあいだの空間にむかって、|疾《しっ》|走《そう》する。
三匹の熊たちが、先行した二台の国産車に襲いかかるのが見えた。
バリバリバリ……!
|強靱《きょうじん》な|爪《つめ》で、国産車のボディがひっかかれる音がした。
「来るなぁーっ!」
「うわああああーっ!」
三匹の熊は、国産車のなかから、暴れる組員を引きずりだしている。
残り二匹の熊が、すさまじい速さで、ベンツに走りよっていった。
一度、|拳銃《けんじゅう》の発射音がした。
いや、発射音のように聞こえたのは、ベンツのタイヤがパンクした音だった。
|熊《くま》の|爪《つめ》があたったのだ。
ベンツは、スピンしながら、熊に襲われている国産車のほうに突っこんでいく。
キキキキキキキキーッ!
タイヤが、|甲《かん》|高《だか》い悲鳴をあげる。
「うわあああーっ! アニキぃーっ!」
靖夫の恐怖の声が聞こえた。
京介は、ギリッと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
危険にさらされているのが、ヤクザだけなら、見殺しにしてしまってもかまわない。
だが、靖夫は、智の友達だ。
(死なせるわけには、いかないじゃないか……)
京介は、ジーンズのポケットに手を|忍《しの》びこませた。
そこに、氷のように冷たい金属片がある。
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の破片だ。
京介は、少しためらってから金属片を引きぬき、頭上に|掲《かか》げた。
「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・天之尾羽張!」
カッ……!
白い光が|炸《さく》|裂《れつ》した。
十五センチほどの金属片は、京介の手のなかで、純白の光の|剣《つるぎ》に変わった。
|刃《は》|渡《わた》り一メートルほど。
|両刃《りょうば》の剣である。|柄《つか》の先端は、|鷹《たか》の頭に|象《かたど》られている。
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が|顕《けん》|現《げん》したとたん、冷えきっていた京介の体が、|嘘《うそ》のように熱くなった。
体が、勝手に動きはじめる。
「うわあああああーっ!」
京介は、|鋭《するど》い声をあげ、熊に襲われているベンツに突進していった。
第四章 氷の|十字架《じゅうじか》
青空の下で、天之尾羽張が宙を切る。
襲いかかってきた|熊《くま》は、|京介《きょうすけ》の|渾《こん》|身《しん》の一撃で、見事に真っ二つになる。
ギャアアアアーッ!
むっと|異臭《いしゅう》のする熊の血が、|噴《ふん》|水《すい》のように、空に|噴《ふ》きあがった。
「次!」
京介は、油断なく周囲を見まわした。
グルルルル……。
まだ、二匹の熊たちが京介を遠まきにして、襲いかかる|隙《すき》を|狙《ねら》っている。
右手に、二台の国産車とぶつかって、大破したベンツがあった。
国産車に乗っていた二人のヤクザは、熊に引きずり降ろされ、とっくに|無《む》|惨《ざん》な死体となっていた。
ベンツを運転していた|坊主頭《ぼうずあたま》も、雪の上に倒れて、死んでいた。
ベンツの向こう側では、|桐生《きりゅう》と、|靖《やす》|夫《お》が、必死に一匹の熊と戦っている。
桐生と靖夫は、血まみれの日本刀を振りまわしていた。
ベンツのトランクから出したらしい。
京介は、三匹目の熊を|斬《き》り捨てた。
残る熊は、桐生と靖夫を襲っている一匹と、京介の前にいる一匹だけである。
(楽勝!)
京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を構えたまま、余裕をもって熊の次の動きを待っていた。
じり……と、熊が前に出る。
|獣《けもの》の目は、|憎《ぞう》|悪《お》と|怒《いか》りに燃えていた。
右手のほうでは、桐生が熊に|喉《のど》を食い破られて、倒れた。
「桐生さん!」
靖夫が叫ぶ。
|閃《ひらめ》く|白《はく》|刃《じん》。
桐生の最後の一撃で、熊の右耳が飛んだ。
靖夫は、真っ青な顔で、日本刀をつかんで、構えている。
危なっかしい手つきだ。
「靖夫君! これを|始《し》|末《まつ》したら行くぞ! がんばれよ!」
京介は、チラと靖夫を見て、叫んだ。
「がんばります!」
靖夫が、必死の声で叫びかえしてくる。
と、その|刹《せつ》|那《な》。
グルルルルル……!
京介のそばで、低い|唸《うな》り声がして、冷たい風に|殺《さっ》|気《き》が走った。
(来る……!)
思った時には、もう熊の前脚が、京介の顔面に落ちかかってきていた。
今までの三匹にくらべて、この熊の動きは、とてつもなく速い。
ガツン!
京介の|額《ひたい》のあたりに、強い|衝撃《しょうげき》が走った。
「うわ……!」
京介は、よろめき、薄く雪の積もったコンクリートに、|膝《ひざ》をついた。
かろうじて、熊の前脚の直撃は避けた。
だが、|鋭《するど》い|爪《つめ》が、額をかすめたようだった。
衝撃で、頭がガンガンする。
|額《ひたい》に、焼けつくような痛みを感じた。
「う……っ!」
気持ちの悪い汗が、吹きだしてきた。
ポタ……ポタ……。
京介の足もとの雪の上に、赤い点が増えていく。
汗と思ったのは、血だった。
熊の攻撃で、額をやられて、出血している。
|気《け》|配《はい》に顔をあげると、熊がこちらにむかって突進してくるのが見えた。
次の瞬間には、肩に|衝撃《しょうげき》が走った。
ガッ!
京介は、熊の|爪《つめ》にひっかけられて、コンクリートに|転《ころ》がった。
京介の全身に、|鋭《するど》い痛みが走る。
「京介さーん!」
靖夫が、戦いながら、悲鳴のような声をあげるのが聞こえた。
熊が、起きあがろうとする京介の胸を、グッと押さえつけた。
ハッハッと|生《なま》|臭《ぐさ》い熊の息が、顔にかかってくる。
(こんなところで、|殺《や》られてたまるかよ……)
京介は、右手に握ったままの|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》をチラと見た。
この位置から、熊を|斬《き》りつけてみても、|致命傷《ちめいしょう》はあたえられそうにない。
だが――。
(やってやる……!)
一か|八《ばち》かの大勝負だ。
気持ちの悪い血が、京介の|頬《ほお》から|顎《あご》へと、たらたら流れてくる。
熊が、真っ赤な口を開けた。
京介の|喉《のど》を|噛《か》み破ろうというのだ。
鋭い白い|牙《きば》は、近くで見ると、すさまじい|迫力《はくりょく》だ。
(今だ……!)
京介は、天之尾羽張に命じた。
「消えろ、天之尾羽張!」
命令したとたん、純白の光が消えた。
天之尾羽張は、ただの十五センチくらいの金属片に戻る。
京介は、手首をひねって、金属片を熊の顎の下に突き入れた。
「|顕《けん》|現《げん》せよ、|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》・天之尾羽張!」
ザシュッ!
純白の光が、|熊《くま》の|顎《あご》から耳の後ろに突きぬけた。
熊は、京介から飛び離れて、狂ったように暴れだした。
顎の下から|脳《のう》|天《てん》まで、天之尾羽張の純白の光に|串《くし》|刺《ざ》しにされたままだ。
「やった!」
京介は、起きあがり、そろそろと熊に近よった。
危険な熊の|前《まえ》|脚《あし》を避け、天之尾羽張に飛びつく。
|渾《こん》|身《しん》の力で、天之尾羽張の|柄《つか》をつかんで、横に引いた。
ゴロン……。
熊の首は、|生《なま》|臭《ぐさ》い血をまき散らしながら、雪の上に|転《ころ》がった。
首を失った熊の胴体は、タタタッと三メートルほど走ってから、コロリと横倒しになった。
(倒した……!)
京介は、ハアハアとあえぎながら、周囲を見まわした。
(靖夫君は……?)
靖夫の姿を目で探す。
靖夫は、熊に追いつめられて、大破した国産車の前で戦っていた。
「靖夫君! 今、行くぞ!」
京介は、荒い息を吐きながら、天之尾羽張を握って、走りだした。
と、京介の後ろで、異様な|気《け》|配《はい》がした。
(なんだ……?)
ハッとして振り返ると、首なしの熊が、こちらにむかって突進してくるのが見えた。
|熟《う》れたように真っ赤な、首の|斬《き》り口。
だらだらと血をたらしながら、首なしの胴体が走ってくる。
頭がないくせに、生きているのだ。
(|嘘《うそ》だろ……? あれで死なないのか……?)
京介は、ゾッと|背《せ》|筋《すじ》に寒いものを感じた。
首を落としても死なない|化《ば》け|物《もの》相手に、どうやって戦えばいいのだろう。
京介は、|慌《あわ》てて、天之尾羽張を構えた。
しかし、熊の動きのほうが速い。
「く……うっ……!」
パッと、白い|雪煙《ゆきけむり》をあげて、首なし熊が飛びかかってきた。
ガツンと、京介の左半身に強い|衝撃《しょうげき》が走った。
その勢いで、必死に握りしめていた天之尾羽張が、空中に|弾《はじ》き飛ばされた。
シャリーン!
金属片が、離れたところに落ちる音がした。
天之尾羽張は、京介の手から離れた瞬間に、光の|剣《つるぎ》から十五センチほどの金属片に戻ったらしい。
「うわ……っ!」
京介は、腹を下にして、地面に|叩《たた》きつけられた。
|熊《くま》は、京介の横を走りすぎ、方向を転換して、またこちらに走ってくる。
京介に、体当たりしようというのだ。
見る見るうちに、目の前に接近してくる首なし熊。
(ダメだ……|殺《や》られる……!)
その時、誰かが、京介と熊のあいだに割りこんできた。
「危ない!」
ハッとして見あげた京介の目に、|濃《のう》|紺《こん》のスーツが|映《うつ》った。
*    *
ドビュッ!
熊の体は、爆発を起こしたように、四方に飛び散った。
濃紺のスーツの背中が、京介の目の前に立っていた。
熊の体に、|正《せい》|拳《けん》を突きこんだままの姿で。
目の前の男は、たったの一撃で、首なし熊を内側から|破《は》|裂《れつ》させてしまった。
すさまじい|技《わざ》の|冴《さ》え。
京介は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として、その場に座りこんでいた。
(まさか……)
冷たい風が、京介の血に|濡《ぬ》れた|頬《ほお》を|撫《な》でていく。
ポタリ、ポタリと、止まりきらない血が、京介のジーンズの|膝《ひざ》にしたたっていた。
だが、京介は、それさえ意識していなかった。
(まさか……!)
京介は、|惚《ほう》けたように、目の前の男を|凝視《ぎょうし》しつづけた。
|雪煙《ゆきけむり》が舞いあがる。
濃紺のスーツが、ゆっくりとこちらを振り返る。
|陽《ひ》の光を背にして、|端《たん》|正《せい》な顔が、京介を見おろした。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
濃紺のスーツが、京介の目の前に|屈《かが》みこんだ。
低い、音楽的な声。
「|狼《ロウ》……」
京介は、かすかな声で|呟《つぶや》いた。
狼は、京介を見つめて、そっと|微《ほほ》|笑《え》んだようだった。
「|怪《け》|我《が》をしていますね、|額《ひたい》に。ひどい血だ」
京介は、のろのろと男のスーツに指を伸ばした。
|袖《そで》のあたりに触れてみると、しっかりしたウールの感触があった。
「生きてたのか……狼?」
「ええ」
「よかった……!」
京介は、思わず狼の両肩をギュッと抱きしめた。
(よかったなあ……!)
狼の整髪料の香りが、京介を包みこむ。
「ご心配をおかけしました」
低い|穏《おだ》やかな声。
「ヤクザに、|撃《う》たれたんじゃなかったのか?」
京介は、|銃声《じゅうせい》とともに、七階の窓から落ちてきた人影のことを思った。
あの高さから落ちたとしたら、誰も助かるまい。
狼は、左手で京介の背中を抱きながら、微笑したようだった。
「|弾《たま》は、はずれました。窓から落ちたのは、ヤクザです」
京介の心を読んだような答え。
「そうか……」
呟いたとたん、京介の|頬《ほお》が、熱くなった。
今ごろ、自分が狼に抱きついているのに気がついたのだ。
(うわ……俺、夢中で、なんてことを……)
「生きてたんなら、今まで……何してたんだ、狼!? |智《さとる》が、|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》にさらわれたんだぞ!」
京介は、狼からパッと離れた。
「それでも、ボディガードか……!」
京介は、照れ隠しに、心にもないことを言う。
狼は、怒るでもなく、じっと京介を見返した。
京介が悪意で言っているのでないことは、充分にわかっているようだ。
数秒の沈黙がある。
やがて、狼が、かすかなため息をついた。
「智さまの部屋に、黒い|弓《ゆみ》|矢《や》がありましたね。カリンパク……といいましたか」
「ああ……それがどうしたんだよ」
京介は、ゆっくりと立ちあがった。
少しクラクラするが、立っていられないほどではない。
京介の|頬《ほお》は、まだ少し赤い。
狼は、静かな目で、京介を見つめた。
「果羅姫が、あの|弓《ゆみ》|矢《や》を|狙《ねら》って、あなたがたがいなくなってからすぐに、ホテルの部屋に|使《つか》い|魔《ま》を送ってきたんですよ」
「使い魔……?」
「ええ。二匹の|熊《くま》をね」
「二匹の熊……」
「ええ。やはり、先ほどの熊と同じように、通常の手段で殺しても、死なない|類《たぐい》のものでした」
京介は、さっきの熊の|並《なみ》はずれた強さを思い出して、ブルッと身震いした。
狼は、ふいと京介から目をそらす。
「かわいそうに、私を|射《しゃ》|殺《さつ》しようとしたヤクザは、熊に張り飛ばされて、窓から落ちてしまいましたよ」
狼の視線は、ホテルの七階の、ガラスの割れた窓に|注《そそ》がれている。
その窓の下に、だいぶ前に|墜《つい》|落《らく》した組員が、冷たくなっているのに違いない。
「そうか……」
京介は、目を伏せた。
「それで、|手《て》|間《ま》|取《ど》って、遅くなったんだな……」
狼は、何も答えない。
(さっきは、言いすぎて……悪かったな、狼)
ただ、それを面とむかって言うのは、|照《て》れ|臭《くさ》い。
それで、京介は、別のことを口にする。
「じゃあ、弓矢のほうは……? 持っていかれたのか?」
「いいえ。そこにあります」
狼は、駐車場の一角を指差した。
京介のいる位置から、その場所までは、ざっと十メートル。
コンクリートの上には、薄く雪が積もっていた。
その積もった雪の上に、細長い|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みが置いてあるのが見えた。
黒い弓矢の包みである。
狼が、智たちの泊まった部屋から持ってきたらしい。
狼は、風呂敷包みに近づいていって、静かに拾いあげた。
包みを|抱《かか》えて、京介のそばに戻ってくる。
その時、靖夫が勢いよく京介に駆けよってきて、京介の腕をつかんだ。
「京介さん! 顔、血まみれですよう! |大丈夫《だいじょうぶ》ですか!?」
心配そうな声だ。
靖夫は、どこにも|怪《け》|我《が》はないようである。
京介は、少しホッとした。
これで、もし靖夫が大怪我をしたり、万が一のことでもあったりすれば、智に|申《もう》し|訳《わけ》がたたない。
靖夫は、黒いコートを着て、大きな目で京介を見あげている。
コートの下は、|派《は》|手《で》な|縦《たて》|縞《じま》のスーツだ。
左手に、血まみれの日本刀を持っている。
「靖夫君……一人で|熊《くま》、倒したのか? すごいじゃないか」
京介は、靖夫の顔をまじまじと見た。
「あ……これ、違うんです。俺が戦ってたら、横から出てきて、助けてくれた人がいたんです」
靖夫は、ポッと|頬《ほお》を赤らめた。
「助けてくれた人って……狼か?」
京介は、反射的に狼の顔を見た。
狼は、|微《ほほ》|笑《え》んで、首を横に振る。
「私ではありませんよ。その男は、まだそのあたりにいると思いますが……」
「そのあたりにって……?」
京介は、周囲を見まわした。
駐車場は、ところどころ、|鮮《せん》|血《けつ》が雪を|染《そ》めていた。
そこここに散らばっている、ピンクの肉片。
半径五メートルくらいの|範《はん》|囲《い》に、三匹の熊の死体が点在している。
京介が、倒したぶんだ。
狼が倒した熊は、内側から|破《は》|裂《れつ》して、原形をとどめていない。
右手を見れば、大破したベンツと、二台の国産車がある。
そのそばには、ヤクザたちの死体と、一匹の熊の死体。
が、ほかに、狼の言った人間らしい人影はない。
(いないじゃねーか……)
「京介さん、こんなに血が……! 早く、手当てしなきゃ!」
靖夫が、日本刀を地面に置き、|慌《あわ》てて、ポケットからハンカチを取りだした。
京介は、|小《こ》|柄《がら》な靖夫を見おろした。
靖夫の|栗《くり》|色《いろ》の頭は、京介の肩くらいまでしか届かない。
「いや、平気だ。こんなのは、ナメとけば治る」
「ダメですよう! 血が出てるんですから!」
ジャニーズ系美少年は、|爪《つま》|先《さき》で伸びあがって、京介の顔を|拭《ふ》こうとする。
京介は、大騒ぎされて、わずらわしくなって、靖夫の手を押しのけた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「でも、京介さん、すごい血ですよぉ……!」
「頭の傷ってのは、小さな傷でも出血が多いんだ。あんたもヤクザなら、|喧《けん》|嘩《か》して、|額《ひたい》切ったことくらいあるだろ。心配ねーよ」
「でも……」
「ああ、平気だよ。たいしたことねーから、いいんだ」
京介は、手を振って、靖夫の申し出を断る。
靖夫は、京介にそこまで言われて、仕方なく引き下がった。
だが、心配と不満の入り交じったような表情をしている。
京介は、それには取りあわず、駐車場を見わたした。
冷たい風が、京介に吹きつけてくる。
風は、|否《いや》|応《おう》なく、果羅姫にさらわれた智のことを京介に思い出させる。
京介は、白い息を吐きながら、ブルッと震えた。
(智……大丈夫だろうか……)
ふと、京介は、黒っぽい人影が、ベンツの向こう側から、立ちあがるのに気づいた。
人影は、こちらにむかって、ゆっくりと歩いてくる。
(え……?)
京介は、人影を|凝視《ぎょうし》した。
見覚えがあった。
靖夫も、京介の視線に気づいて、ベンツのほうを見る。
人影は、体格のいい大男だった。
もつれて、汚らしい長髪。
身につけているのは、|垢《あか》|染《じ》みた黒いコートと、モンペのようなズボンだ。
|不精髭《ぶしょうひげ》を|生《は》やした、|野《の》|武《ぶ》|士《し》のような顔。
男の額には、|三《み》|日《か》|月《づき》|形《がた》の|傷《きず》|痕《あと》があった。
|昨夜《ゆ う べ》、智にぶつかって、黒い|弓《ゆみ》|矢《や》の入った|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みを落としていった、ホームレスふうの男だった。
「あ……の|野《や》|郎《ろう》!」
京介は、ハッとした。
(俺たちの後をつけてきたのか……!? なんてしつこい|奴《やつ》だ……!)
狼は、大男を見たが、何も言わない。
靖夫が、ふいに、顔を泣き笑いのようにクシャクシャにして、両手を振りはじめた。
そして、ホームレスふうの大男にむかって叫ぶ。
「アニキ! みっちゃんのアニキぃー!」
薄汚い大男は、この美少年の叫びに、ドスの|利《き》いた声で|怒《ど》|鳴《な》りかえしてきた。
「|殴《なぐ》るぞ、ヤス!『みっちゃんのアニキ』はよせっ!」
靖夫は、ますます顔を|歪《ゆが》め、半べそをかきながら、両手をぶんぶん振る。
「当たった! やっぱり、アニキだったんだぁ! さっき、|熊《くま》から助けてくれたの、アニキだったんだあっ!」
靖夫は、手を振るのをやめ、勢いよく走りだした。
ホームレスふうの大男にむかって駆けより、|逞《たくま》しい胸に飛びこんでいく。
「アニキぃーっ!」
「ヤス! この|野《や》|郎《ろう》!」
大男は、靖夫を抱きあげたまま、子供のようにぐるぐる振りまわす。
靖夫は、笑いながら、男の首にしがみついていた。
(みっちゃんのアニキ……何者?)
京介は、|茫《ぼう》|然《ぜん》としている。
「わかりませんか。あの男は、|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》だった、靖夫さんの兄貴分・|左《さ》|門《もん》|道《みち》|明《あき》ですよ。以前に、回状で見ました」
狼が、京介の心を読んだように、低い声で言った。
*    *
同じ頃、|札《さっ》|幌《ぽろ》の一角では――。
|三《み》|神《かみ》|冷《れい》|児《じ》が、部下の一人から報告を受けていた。
|津《つ》|雲《くも》財団の所有する、高級マンションの一室だ。
|焦《こ》げ|茶《ちゃ》|色《いろ》のフローリングの|床《ゆか》に、毛足の長いムートンの敷物が敷かれていた。
ムートンの色は、白。実用のためというよりは、|装飾品《そうしょくひん》だろう。
|床《ゆか》|暖《だん》|房《ぼう》が完備しているため、外が|零《れい》|下《か》十度でも、フローリングの床は、春の|日《ひ》|溜《だ》まりのように暖かい。
英国製のレースのカーテンのかかった二重窓。
窓のむこうは、快晴だった。
その窓を背にして、|黒《くろ》|革《かわ》のソファーに美しい青年が座っていた。
|艶《つや》やかな|髪《かみ》は、肩のあたりまである。
三神冷児だ。
朝七時半くらいのことで、三神冷児は、さっき起きたばかりのようだった。
まだスーツには着替えず、白いシルクのガウンを着ている。
ガウンの下は、|素《す》|肌《はだ》だ。
「|鷹《たか》|塔《とう》智が、果羅姫に|拉《ら》|致《ち》されました」
三神冷児の前には、黒い|楕《だ》|円《えん》|形《けい》の応接テーブルがあった。
テーブルの上には、TV電話がのっている。
JOAで、今年に入ってから、試験的に外部に販売しているものだ。
右横の|挿入口《そうにゅうぐち》に、|霊《れい》|気《き》|登《とう》|録《ろく》した|磁《じ》|気《き》カードを入れるだけで、|霊能力者《れいのうりょくしゃ》同士の映像をともなった通話が可能という|代《しろ》|物《もの》である。
会議用に開発されている普通のTV電話とは違って、映像がクリアーで、タイムラグがないというのが売りだ。
また、電波ではなく、|霊《れい》|波《は》を送受信するため、|盗聴《とうちょう》の恐れもない。
だが、このTV電話の売れ行きは、JOAの当初の予想を|遥《はる》かに下まわっているという|噂《うわさ》だ。
値段の割には、使い勝手が悪いせいらしい。
しかし、三神冷児は、このTV電話を好んで使っていた。
使い勝手よりも、TV電話本体のシャープなデザインが、冷児の美意識をくすぐったからである。
|縦《たて》十五センチ、横二十センチくらいの画面には、|陽《ひ》|焼《や》けした中年の男が|映《うつ》っていた。
|歳《とし》の頃は、三十八、九。
|灰《はい》|色《いろ》のスーツを着ている。
三神冷児の直属の部下の一人だった。
「鷹塔智が、果羅姫に拉致された……? 連れていかれたのか? いつだ?」
冷児は、|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めて、尋ねかえした。
「はい。つい十五分ほど前です」
冷児は、一瞬、目の前に映っている男を|睨《にら》みつけた。
美しい顔に、|怒《いか》りの色が走る。
「果羅姫、裏切ったか。つまらぬ|真《ま》|似《ね》を……」
部下は、|怯《おび》えたような目をした。
「|申《もう》し|訳《わけ》ございません」
「|鬼《おに》|若《わか》|組《ぐみ》の|桐生《きりゅう》たちは、どうした?」
「|壊《かい》|滅《めつ》状態です。……鬼若組の|三《さん》|下《した》で、柴田靖夫という者が生き残っておりますが、鷹塔智サイドに寝返った模様です。また、全国に回状がまわっていた、|極《ごく》|道《どう》専門の|呪《じゅ》|禁《ごん》|師《じ》・左門道明が|札《さっ》|幌《ぽろ》に現れ、柴田靖夫らと合流しました」
部下は、早口に報告する。
「柴田靖夫と左門道明は、以前にも、|鎌《かま》|倉《くら》で鷹塔智と行動をともにしたことがあります」
「つまり、最初から仲間だったというわけか。……|鬼《おに》|若《わか》|組《ぐみ》の人選ミスだな」
三神冷児は、冷ややかに笑った。
「柴田靖夫と左門道明のデータは、昼までにお送りいたします」
「報告、ご苦労。引きつづき、監視をつづけてくれ」
三神冷児は、ソファーの背に深くもたれかかり、そっと言った。
「は……」
部下は、TV電話のむこうで、|恭《うやうや》しく頭を下げた。
画像が乱れ、男の姿が消えた。|灰《はい》|色《いろ》の画面に、ノイズが走っている。
通話は、それで終わった。
冷児は、灰色の画面に美しい指先を伸ばし、軽く触れた。
ピッ……。
小さな音がして、画面が切り替わる。
別の男の顔が、現れた。
色白で、知的な表情の若い男だ。
ぶ厚い|眼鏡《め が ね》をかけて、白衣を着ている。
見るからに、研究者という感じである。
「はい、こちら|津《つ》|雲《くも》微生物研究所……あ、冷児さまですか」
男は、|明《めい》|敏《びん》そうな|瞳《ひとみ》で、冷児を見つめた。
「ご連絡しようと思っていたところです。〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉と、|細《さい》|菌《きん》の第一溶液の|融《ゆう》|合《ごう》ができず、どうしても分離してしまうと、先日ご報告したと思いますが……」
「ああ……で、どうなった?」
「融合を|妨《さまた》げているのが、ある|因《いん》|子《し》の不足によるものと判明いたしました」
冷児は、無言で、その先を|促《うなが》す。
研究者は、数学の難題を解決した学生のように、|意《い》|気《き》|揚《よう》|々《よう》と報告する。
「|新《あら》たな細菌……グロリアの開発に欠けていたのは、人間一人ぶんの、血と心臓のエキスです」
「血と、心臓のエキス……?」
「はい。その血と心臓は、強い|霊力《れいりょく》を持つ者のものでなければなりません」
「強い霊力を持つ者か……」
冷児は、三秒ほど黙りこんで、研究者の顔を|眺《なが》めていた。
研究者は、|居《い》|心《ごこ》|地《ち》|悪《わる》そうな目をする。
やがて、|邪《じゃ》|悪《あく》な笑いが、冷児の美しい顔をかすめた。
「その血と心臓、鷹塔智のものでは、不足か?」
研究者は、パッと顔を輝かせた。
「それでしたら、百パーセントの成功をお約束できます! 願ってもない素材です!」
「わかった」
冷児は、クス……と笑った。
「鷹塔智のことは、心配するな。すでに、果羅姫が|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》上空の城に連れ帰っている」
「リクンカンドに……ですか?」
「そう。|津《つ》|雲《くも》微生物研究所の真上に浮かぶ、カムイの城だ。……どうせ、グロリアの|散《さん》|布《ぷ》は、リクンカンドの|氷雪《ひょうせつ》の塔からやろうと思っていたところだ。果羅姫が、鷹塔智を連れていってくれて、かえって|手《て》|間《ま》がはぶけた。ぼくが〈クラークの|髑《どく》|髏《ろ》〉を持って、果羅姫に話をしにいくまでに、必要な器材を、研究所からリクンカンドに移しておけ」
冷児は、冷ややかな声で言った。
「しかし……冷児さまが、髑髏で果羅姫を|抑《おさ》えてくださる前に、|我《われ》|々《われ》が果羅姫に攻撃されたら……」
「安心しろ。あの女は、人間じゃない。人間のような考えでは、動かない。果羅姫にとっては、|細《さい》|菌《きん》も、研究所の器材も、とるに|足《た》りないゴミみたいなものだ。鷹塔智にさえ手を出さなければ、おまえたちが攻撃されることはないさ。ヘリでもなんでも使って、一気に必要なものを運びこんでしまえ」
「かしこまりました」
研究者は、冷児の説明に納得したのか、|恭《うやうや》しく答えた。
三神冷児は、満足げに微笑した。
「それで、〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉の電波塔のほうは、どうなった?」
「〈黒い竜脈〉の電波塔の出力は、全国七か所の平均が、現在九十七。大雪山の〈黒い竜脈〉の濃度は、三十七パーセントとなっております」
〈黒い竜脈〉というのは、いわゆる|不浄《ふじょう》な大地の|霊《れい》|気《き》――つまり、邪悪で人間に悪影響をおよぼす|地《ち》|霊《れい》|気《き》のことである。
「三日前の計測値では、出力八十二に対して、濃度三十八パーセントでした。JOA発行の地霊気白書では、大雪山の〈黒い竜脈〉の通常の濃度は、二十一パーセントから三十パーセントのあいだです。この勢いで、〈黒い竜脈〉の濃度が増えていけば、四か月以内に、予定の数値に到達すると思われます」
「話が違う。四か月も待てんな。それに、今の時点で、出力九十七で、濃度六十七パーセントとは、低すぎる」
冷児は、不満げに|呟《つぶや》いた。
「最低、濃度が九十五パーセントないと、|細《さい》|菌《きん》は〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉との|融《ゆう》|合《ごう》の段階で死んでしまう」
「|面《めん》|目《ぼく》ございません。……しかし、電波の出力は、これ以上はあげられませんし、国内の〈黒い竜脈〉そのものの絶対量も、不足しております。一気に濃度を増やすよりは、時間をかけて|備《び》|蓄《ちく》されたほうが|賢《けん》|明《めい》かと存じますが……」
研究者は、少し困ったように言った。
冷児は、薄笑いを浮かべた。
「〈黒い竜脈〉が|足《た》りないならば、北海道内の東経百四十度五十分の地点を|叩《たた》かせろ。この百四十度五十分の線上には、〈|白い竜脈《ホワイト・レイ》〉……つまり、白い|地《ち》|霊《れい》|気《き》の断層がある。白い地霊気の断層の上には、北海道の聖域が集中している。地霊気を|歪《ゆが》ませ、〈黒い竜脈〉を生みだすには、この聖域を一つ二つ破壊すればいい。そうすれば、北海道だけではなく、日本全体の地霊気のバランスも|崩《くず》れるだろう。……まあ、それで、東京に眠る|平将門《たいらのまさかど》の|怨霊《おんりょう》や、|京都《きょうと》の|北《きた》|野《の》|天《てん》|満《まん》|宮《ぐう》に|封《ふう》じこめられた|菅原道真《すがわらのみちざね》の怨霊が|目《め》|覚《ざ》めるだろうが、ぼくには関係のないことだ」
冷児は、そんな恐ろしいことを、平気な顔で言ってのける。
研究者は、首を|傾《かし》げた。
「百四十度五十分線上の聖域といいますと……?」
「近いところでは、|洞《とう》|爺《や》|湖《こ》、|有《う》|珠《す》|山《ざん》、|函《はこ》|館《だて》の北の|横《よこ》|津《つ》|岳《だけ》……。|余《よ》|市《いち》のストーンサークルも百四十度五十分線から、そう離れていない」
「は……」
「洞爺湖畔の|浮《ふ》|見《けん》|堂《どう》には、聖域守護の|観《かん》|音《のん》|菩《ぼ》|薩《さつ》|像《ぞう》が、|秘《ひ》|仏《ぶつ》として安置されているはずだ。浮見堂を破壊すれば、洞爺湖の霊気は乱れる」
冷児は、冷ややかに言った。
「場所は知っているな?」
研究者は、TV電話のむこうで、静かに答えた。
「はい。さっそく、手配いたします」
「成果を期待する。ほかの者たちにも、そう伝えておけ」
「かしこまりました、冷児さま」
研究者は、深々と頭を下げた。
通話は、それで終わった。
冷児は、ノイズの走る|灰《はい》|色《いろ》の画面に、指先で触れた。
ノイズが、音もなく消えた。画面は、沈黙する。
「鷹塔智が、どうしたって、三神冷児?」
ふいに、冷児の背後から、クスクス笑う男の声が、聞こえてきた。
冷児は、ゆっくりと顔をあげ、|眉《まゆ》|根《ね》をよせた。
「聞いていたのか? 立ち聞きとは、あんまりいい|趣《しゅ》|味《み》じゃないな」
「たまたま聞こえたのでね」
白衣の美青年が、隣室との|境《さかい》のドアによりかかって、微笑している。
薄茶の長い|髪《かみ》、銀ぶち|眼鏡《め が ね》のむこうの、ハシバミ色の|瞳《ひとみ》。
アーサー・セオドア・レイヴン。
JOA所属の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》で、日米のハーフだ。
日本名は、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》という。
だが、その正体は、|魔《ま》|王《おう》にして、|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》。
二か月ほど前に、|京都《きょうと》で、鷹塔智と戦い、敗北して、|魔《ま》|界《かい》に押し戻された。
だが、どうやら、地上に舞い戻ってきたようだ。
もちろん、三神冷児は、時田忠弘の正体も含めて、その一部始終を知っている。
|津《つ》|雲《くも》財団の情報網のおかげだ。
魔界から戻ってきた時田忠弘は、何を思ったのか――。
数週間前に、冷児の前にふらりと現れ、そのまま冷児のマンションに勝手に住みついてしまったのである。
この男――魔王が、人間のふりをしていた頃は、アメリカ帰りのゲイだという|噂《うわさ》があったため、当初、冷児は|警《けい》|戒《かい》した。
だが、今のところ、時田忠弘は、三神冷児など眼中にはないようだった。
三神冷児は、ホッとするやら、なんとなく|侮辱《ぶじょく》されたような気がするやらしている。
「質問に答えてくれないかね、三神冷児」
時田忠弘は、音もなく、冷児に|歩《あゆ》みよってくる。
火之迦具土の、冷児を見る瞳には、|謎《なぞ》めいた笑いが|漂《ただよ》っていた。
「鷹塔智は、果羅姫に|拉《ら》|致《ち》された。今ごろは、|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》上空に浮かぶ、果羅姫の城・リクンカンドだ。でも、大雪山には、果羅姫の|結《けっ》|界《かい》があるから、通常の手段じゃ近づけないと思うけれど。|唯《ゆい》|一《いつ》の交通手段は、|我《わ》が津雲財団|札《さっ》|幌《ぽろ》ビルの地下からのシャトルだ」
冷児は、あっさりと言った。
「地下からのシャトル……?」
「そう。札幌から、大雪山の真下まで、誰も知らない地下水脈があって、我が津雲財団のシャトルが行き来しているんだ。シャトルから降りると、そこは、津雲微生物研究所の最下層だ。あとは、最上層まで上って、外に出れば、リクンカンドの真下になる。その先は、ヘリを使うか、果羅姫の|機《き》|嫌《げん》がよければ、あの女に運んでもらうことになるな」
冷児は、ソファーに座ったまま、肩をすくめた。
「ずいぶん、簡単に吐いたものだな。……私が、智を助けにいったらどうしよう、とは思わないのか?」
時田忠弘は、冷児の前で足を止めた。
興味深そうに、ガウン一枚の美青年を見おろしている。
「思わないな。理由は、二つあるよ。まず、鷹塔智の|行方《ゆ く え》だとか、リクンカンドの城のことは、|秘《ひ》|密《みつ》でもなんでもないってことが一つ。第二に、ぼくは|言《こと》|霊《だま》|使《つか》いだから、あなたを支配できるってこと。だから、あなたが、鷹塔智を助けにいくことなんかできっこない」
「私を支配できる……? ほう……たいそう大きく出たものだな」
時田忠弘は、|面《おも》|白《しろ》そうにクスクス笑った。
「言ってみろ、三神冷児。どうやって、この私を支配するつもりだ?」
三神冷児は、目の前の|美《び》|貌《ぼう》の|魔《ま》|王《おう》を、静かに見あげた。
冷児の表情には、恐怖の色も、|畏《おそ》れの色もない。
「もちろん、言霊でね。……あなたは、ありとあらゆる国と場所で、悪の|化《け》|身《しん》だといわれているけれど、ぼくは、あなたのこの土地での名前を知っているよ。名前を知っているということは、言霊を支配できるということだ。違うかな……?」
ふいに、冷児の|華《きゃ》|奢《しゃ》な体を包む|霊《れい》|気《き》が、|薄紫《うすむらさき》に輝きながら、ゆらゆらと立ち上りはじめた。
「それならば、私の名前を言ってみろ」
|魔《ま》|王《おう》は、楽しげな|口調《くちょう》で、|言《こと》|霊《だま》|使《つか》いを|促《うなが》す。
冷児は、口もとに|妖《よう》|艶《えん》な|笑《え》みを浮かべた。
「|魔《ま》|神《じん》ニチネカムイ」
次の瞬間。
豪華なマンションの一室に、数条の|紫色《むらさきいろ》の光線が走りぬけた。
言霊使いの力が、魔王を|呪《じゅ》|縛《ばく》した――。
*    *
京介は、夢を見ていた。
白い雪のなかだった。
一面、白一色に埋めつくされた平原。
真正面に、巨大な|氷山《ひょうざん》のような、雪と氷の城が見えた。
城は、大半が雪と氷で造られていたが、ところどころ、人工的な半透明の青いドームや、銀色の金属の塔が突きだしていた。
そびえたつ氷雪の城は、|陽《ひ》の光を浴びて、プリズムのように七色の光を|煌《きら》めかせていた。
その巨大な城は、圧倒的な存在感を感じさせた。
そして――城の前に、たった一つ、巨大な氷の|十字架《じゅうじか》が立っていた。
|墓標《ぼひょう》のように。
平原の上の空は、青かった。
平原の果てには、ミニチュアのような白い塔と|城壁《じょうへき》があり、その外はすぐ空につながっている。
空に浮かぶ城・リクンカンド。
この奇妙な城は、周囲に城壁と塔を配置し、中央に広い雪と氷の空間を持っている。
いわば、城壁が|皿《さら》の|縁《ふち》で、平原の部分が皿の底だ。
これが、冷児に呪縛された|女《め》|神《がみ》・果羅姫の|居城《きょじょう》であった。
京介は、氷の十字架に白い人影がかけられているのに気づいた。
人影は――智だった。
苦しげに、うつむいた美しい顔。
血の|気《け》を失って、青ざめていても智の|肌《はだ》はどす黒くはなっていなかった。
智の肌は、|透《す》きとおって、どこか|雪花石膏《アラバスター》を思わせた。
白いアンゴラのセーターと、ホワイトジーンズを着た体。
やわらかな|髪《かみ》を、|凍《い》てついた風が、なぶっていく。
(智……!)
京介の心の声に気づいたように――。
|霜《しも》で白くなった|睫《まつげ》が、ゆっくりと上下する。
智の|瞳《ひとみ》が、まっすぐ京介を見た。
「京介……」
智の|眼《まな》|差《ざ》しのなかには、かぎりない苦痛と、|哀《あい》|願《がん》の色があった。
「来ないで……助けに来ないで……。京介までつかまってしまうから……! お願い、逃げて……!」
(智……何言ってんだよ!? わけわかんねーこと言うな!)
京介は、|苛《いら》|立《だ》ち、智のそばへもっと近づこうとした。
と、ふいに、京介は|白虎《びゃっこ》になって、|雪《せつ》|原《げん》を走っていた。
雪を|蹴《け》たてて、|疾《しっ》|走《そう》する。
速い、速い。
あっという|間《ま》に、智のかけられた|十字架《じゅうじか》の真下に来た。
「ダメだ! 京介! |妖獣《ようじゅう》になっては!」
智が、氷の十字架に|縛《いまし》められたまま、必死に身をよじる。
痛々しい姿だ。
「京介! 来ないで!」
白虎になった京介は、氷の十字架の下で背中を丸め、思いっきり|跳躍《ちょうやく》した。
白虎は、十字架の横木の部分に降りたった。
そろそろと、頭を伸ばして、智の顔をのぞきこむ。
(智……)
「ダメだって言ったのに……京介……」
智は、言いながら、今にも泣きだしそうな目をする。
「オレなんかのために……|無《む》|茶《ちゃ》をして……」
|雪花石膏《アラバスター》のような|頬《ほお》に、清らかな涙が|一《ひと》|筋《すじ》、伝った。
白虎は、智を|慰《なぐさ》めたかったが、どうしていいのかわからなかった。
智に触れたくても、|獣《けもの》になった|前《まえ》|脚《あし》で触れれば、智を傷つけてしまうかもしれない。
智は、白虎になった京介を見ながら、静かに泣いている。
長いこと、智と白虎は、そのままの位置で見つめあっていた。
やがて――。
雪原の|彼方《か な た》で、|轟《とどろ》くような|鈍《にぶ》い音がした。
雪原の一方の|端《はし》から、もう一方の端まで、|雪煙《ゆきけむり》があがった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴー!
白い|雪煙《ゆきけむり》は、津波のように、氷の|十字架《じゅうじか》にむかって押しよせてくる。
いつの|間《ま》にか、智と|白虎《びゃっこ》のすぐ目の前に、一人の|幼《おさな》い少女が浮いていた。
|乳白色《にゅうはくしょく》のなめらかな|肌《はだ》、風になびく|黒《くろ》|絹《ぎぬ》のような|髪《かみ》。
|透《す》きとおった|綺《き》|麗《れい》な|瞳《ひとみ》。
外見は、七、八歳だろう。
|天《てん》|女《にょ》のような|裳《も》をまとい、ほっそりした腕や首に、綺麗な金の|飾《かざ》り|輪《わ》をつけていた。
京介が、|札《さっ》|幌《ぽろ》駅前やホテルの駐車場で見たものと姿は違うが、これも果羅姫だ。
「見慣れぬ白虎が、私の城に迷いこんだ。夢のなかで、|漂《ただよ》ってきたのだね」
果羅姫は、愛らしい幼女の顔で、あどけなく|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「おまえの白虎か、鷹塔智?」
智は、苦しげな瞳を、果羅姫にむけた。
「違います」
白虎は、|喉《のど》の奥で|唸《うな》った。
なんとなく不満だった。
「京介は、関係ないんです。自由にしてやってください……お願いします……カムイよ」
「そうはいかぬ。珍しい|獣《けもの》だから、気に入った」
果羅姫は、智に近づき、その瞳をじっと|凝視《ぎょうし》した。
「泣いているのか、鷹塔智? なぜだ……?」
「京介だけは、助けてください……お願いします……」
「おまえは、この白虎のために泣いているのか? なぜ?」
智は、|哀《あい》|願《がん》するように、果羅姫を見つめた。
「友達だからです」
「友達……それだけか」
「はい……」
果羅姫は、|謎《なぞ》めいた表情で、智を見つめかえし、小さく首を振った。
「いいや、違うな。鷹塔智、おまえのなかにある感情は、人間が愛と呼ぶ、あのわけのわからないものだ。おまえは、この白虎を愛しているのだろう?」
智は、無言で、ただ涙を流している。
果羅姫は、幼女の愛らしい手を伸ばして、智の涙に触れた。
涙は、果羅姫の手が触れると、丸い氷のかけらに変わった。
「愛しているのだね。……おまえの心が、この涙に刻まれている」
果羅姫は、笑って、氷のかけらを口のなかに|放《ほう》りこんだ。
「愛か……。そんなものに、どんな価値があるのかわからぬが、人間は、そのために死んだり、|他人《ひ と》を殺したりするのだと聞く。それは|真《まこと》か、鷹塔智?」
「時には……そういう者もいます、カムイよ」
智は、低い声で|呟《つぶや》いた。
「そうして、人間は、愛は|至上《しじょう》のものだなどといって、|生涯《しょうがい》かけて追い求めたり、それが苦しくてならぬとなると、忘れてしまいたがるとも聞くが」
「時には、そうかもしれません」
智は、目を伏せた。
津波のような|雪煙《ゆきけむり》は、さっきより近づいてきた。
果羅姫の視線が、|白虎《びゃっこ》を|見《み》|据《す》えた。
|女《め》|神《がみ》の|瞳《ひとみ》のなかに、京介には理解できない感情が、動いたようだった。
「ああ……ただの白虎ではないと思ったら、おまえは、|剣《つるぎ》の|神《しん》|霊《れい》の|化《け》|身《しん》なのだね。遠い昔、人間に|憧《あこが》れて、人間になろうとした|愚《おろ》かな神霊……|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》。人の世は住みよいか? 人間にもなりきれず、剣と白虎に|魂《たましい》を引き|裂《さ》かれて……。それが、おまえの望んだものだったのか?」
(わけわかんねーこと言いやがって……!)
白虎は、一か|八《ばち》か、果羅姫に飛びかかろうかと思案した。
だが、智から離れたらどうなるか不安で、それもできなかった。
「天之尾羽張よ、人とは、そのように素晴らしいものか? 神の力を捨ててまで、なりたいと願うようなものなのか?」
果羅姫は、まっすぐ白虎を見ながら、|詰《きつ》|問《もん》してくる。
「私には、人間がわからぬ。三神冷児の望みは、人類の滅亡だ。それなのに、鷹塔智の望みは、人類の存続と、苦痛と悲しみの消滅だという。私には、わからぬ。なぜ、人は、こうもバラバラで、そのくせ、底に流れるものは同じなのだろう」
(底に流れるものが同じ……?)
白虎は、耳をピクッと動かした。
(どういうことだ……?)
その白虎の心を読んだように、果羅姫が言う。
「鷹塔智が、人類を守ろうとするのが、愛のせいならば、三神冷児が、人類を滅ぼそうとするのも、また愛のせいだ」
(愛のせい……? なんだ、そりゃ……?)
白虎は、|苛《いら》|々《いら》と白い|尻尾《し っ ぽ》を振った。
「人類への深く激しすぎる愛と期待が、三神冷児を追いつめている。あの若者は、人類を愛しすぎて、|報《むく》われず、絶望したため、人類とともに死のうとしているのだ。……だが、私には、その心が理解できない。愛とは、そこまで、おまえたちを動かすものなのか?」
果羅姫は、白虎と智を交互に見た。
「この|白虎《びゃっこ》のなかにさえ、愛がある。……おまえたちの愛とは、いったいなんなのだ?」
黙りこんでいた智が、口を開いた。
「人にとって、愛情というものがなんなのか……オレは、深く考えたことはありません。ただ、時には……どんな激しい恋も、大切な相手への情熱も、|遺《い》|伝《でん》|子《し》を残すために、生まれる|遥《はる》か前にDNAにプログラミングされた情報を、ただなぞっているだけにすぎないのかもしれないと……思うこともあります」
(智……そんなことを考えていたのか……)
白虎は、内心、|愕《がく》|然《ぜん》として、智の顔を|凝視《ぎょうし》した。
智は、|十字架《じゅうじか》の上で、静かに語りつづける。
「オレは、欲望を持って、誰かを愛したことはないし、これからも、そんなふうに誰かを愛することはないでしょう。だから、オレのような人間は、さっきの考え方からすれば、正しい種族保存の|道《みち》|筋《すじ》からは、はずれてしまった存在なのかもしれません。でも、こんなオレでさえ、誰かを……|愛《いと》しいと思うことだけはできます。その|想《おも》いのために、命を|懸《か》けることも……たぶん、できると思います」
果羅姫は、無言のままだった。
智は、目の前に浮かぶ、あどけない幼女をじっと見つめた。
「あなたの問いに対して、人間として、オレに答えられることは、一つだけです」
|美《び》|貌《ぼう》の|陰陽師《おんみょうじ》は、氷の十字架にかけられたまま、静かに言った。
「人は、人であるかぎり、決して一人では生きられません。誰かを、何かを愛さずには、生きつづけられないのです。たぶん、それが人の背負った|業《ごう》であり、同時に大いなる救済なのだと思います」
「わからない」
果羅姫は、ため息のような声で|呟《つぶや》いた。
|漆《しっ》|黒《こく》の長い|髪《かみ》が、|凍《こご》えそうな風に|翻《ひるがえ》った。
「鷹塔智、おまえの言葉は、私には理解できぬ」
あどけない幼女は、小さな手をそっとあげた。
それが合図のように、津波のような|雪煙《ゆきけむり》が、智の十字架に襲いかかってきた。
(智! 危ない!)
ゴゴゴゴゴゴゴー!
智の姿が、雪煙のなかに吸いこまれるようにして、消えた。
(智! どうした!? 智ーっ!)
白虎は、|半狂乱《はんきょうらん》になって、氷の十字架の横木の上を、行ったり来たりする。
雪煙は、智のすぐそばにいた白虎には、かすりもしなかった。
まるで、智だけを選んだように、雪煙は、白虎の手前で二つに分かれて、それていくのだ。
(智ーっ!)
思いあまった|白虎《びゃっこ》は、白い|闇《やみ》のような|雪煙《ゆきけむり》のなかに飛びこもうとした。
が、果羅姫が、白虎を制した。
「いけない。おまえは、入ってはならぬ」
と、見る|間《ま》に、雪煙が晴れて、|十字架《じゅうじか》の|遥《はる》か下に、氷の|棺《ひつぎ》が出現していた。
氷の棺のなかには――。
智がいた。
美しい姿のまま、棺のなかに|凍《こお》りついている。
少し驚いたような|瞳《ひとみ》が、透明な氷のなかから、永遠に空を見あげていた。
(智……!)
「鷹塔智は、私のもとで永遠に眠るのだ。わけのわからぬ愛や、人間の心など、忘れてしまえばいい。この私が、大地の夢を見せてあげよう」
|幼《おさな》い姿の|女《め》|神《がみ》は、優しく|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「私のもとにいれば、鷹塔智は|年《とし》|老《お》いることも、苦しむこともない。|魂《たましい》がここにとどまるかぎり、|輪廻転生《りんねてんしょう》の苦難を味わうこともない。幸福な夢のなかで、永遠に眠らせてあげよう。死以上の静けさと、平安を約束しよう」
(智を返せ!)
白虎は、果羅姫を|睨《にら》みつけた。
けれども、果羅姫は、もう白虎に興味を失ってしまったのか、一秒ごとに薄れて消えていく。
氷の棺も、ゆっくりと雪のなかに沈んでいこうとする。
(智……!)
白虎は、ひらりと空中に身を|躍《おど》らせて、遥か下の氷の棺に飛び移ろうとした。
だが、落下の途中で、体が変化しはじめた。
骨格が変わり、全身の白い毛が消え、|顎《あご》や耳の位置が移動していく。
(マズい……人間に戻る……!)
京介の耳もとで、風が|唸《うな》る。すさまじい落下の速度。
見る見るうちに、地上が近づいてくる。
京介は、悲鳴をあげた。
第五章 神々の庭
「うわあああああーっ!」
|京介《きょうすけ》は、|布《ふ》|団《とん》から|跳《は》ね起きた。
突然、目を|覚《さ》ましたので、まだ心臓がドキドキしている。
明け方だった。
水色のカーテンの|隙《すき》|間《ま》が、ほんのりと明るくなっていた。
|札《さっ》|幌《ぽろ》に来てから、三度目の夜明けだった。
京介たちは、|左《さ》|門《もん》の|隠《かく》れ|家《が》である、札幌市郊外の一軒家に泊まりこんでいた。
普通のホテルでは、|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》や|鬼《おに》|若《わか》|組《ぐみ》の|襲撃《しゅうげき》があった時、戦いにくいうえに、一般人を巻きこんでしまうと、左門が主張したためだ。
もちろん、京介たちも、ここへ移動してくることに、異存はなかった。
今、京介のいるこの部屋は、二階にある二部屋のうちの一方だ。
外は、また雪が降ったらしい。
室内は、シンと静まりかえって、冷えきっていた。
京介の|絶叫《ぜっきょう》に、むかいの部屋で、左門たちが目を覚ます|気《け》|配《はい》があった。
(起こしちまったかな……)
さすがに気が|咎《とが》めて、|狼《ロウ》がいるはずの隣の布団を見ると、そこには誰もいなかった。
だが、そのことについて、深く考える心の余裕はなかった。
京介は、布団の上に座りこんだまま、薄明るい|天井《てんじょう》を見つめた。
|動《どう》|悸《き》は、まだ速く、体がガクガク震えていた。
京介の|額《ひたい》に、ズキン……と|鈍《にぶ》い痛みが走った。
震える手をあげて、額にあてると、|包《ほう》|帯《たい》に触れた。
|熊《くま》に引き|裂《さ》かれた傷だ。
さほど深い|怪《け》|我《が》ではない。
京介は、自分の左腕に、ギュッと指を食いこませた。
(震えるな……落ち着け……落ち着くんだ……)
緑のパジャマ一枚の体は、もう冷えかけている。
カチャ……。
ドアのノブがまわり、|濃《のう》|紺《こん》のスーツの男がそっと入ってきた。
狼だ。
明け方だというのに、スーツをビシッと着て、|髪《かみ》|一《ひと》|筋《すじ》の乱れもない。
狼は、心配そうに、京介に近づいてくる。
「すごい声が聞こえましたよ、京介さん。……どうしました?」
冷えきった室内に、ほのかな|柑《かん》|橘《きつ》|系《けい》の|匂《にお》いが|漂《ただよ》った。
狼の整髪料だろう。
狼の顔を見たとたん、京介の全身の震えが止まった。
「|智《さとる》が危ないんだ。早く助けにいかなきゃ……!」
京介は、勢いよく|毛《もう》|布《ふ》を|撥《は》ねのけ、冷たい|畳《たたみ》の上に立った。
|裸足《は だ し》の足裏が、|跳《と》びあがりたくなるほどヒヤッとする。
「智さまが……?」
狼は、ハッとしたようだった。
京介は、手早く|靴《くつ》|下《した》をはき、着替えを始めた。
パジャマを|脱《ぬ》ぎ、ジーンズとTシャツとモスグリーンのセーターを着こむ。
「智、果羅姫につかまって、氷の|棺《ひつぎ》に閉じこめられていた……。果羅姫は、智を永遠に|封《ふう》|印《いん》しておくつもりだって言ってた。|輪廻転生《りんねてんしょう》もできないようにして、幸福な夢を見させたまま、永遠に眠らせるって……」
京介は、早口にまくしたてる。
あの夢が、ただの夢でないのは、わかっていた。
「急いで助けにいかねーと、智が死んじまう!」
「わかりました」
狼は、くどくどと尋ねたり、京介の言葉を疑ったりしようとはしなかった。
「すぐに、|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》に出発しましょう」
果羅姫の城が大雪山上空にあるというのは、京介たちも二日前、|靖《やす》|夫《お》の口から知らされていた。
靖夫は、以前に、|桐生《きりゅう》からその|噂《うわさ》を聞いていたのだ。
「狼……」
京介は、ホッとした。
「俺の言葉を信じてくれるんだな……」
狼は、京介の言葉に|穏《おだ》やかに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「信じますよ」
「狼……」
狼の信頼が、うれしかった。
「智さんが危ないんですか?」
ふいに、靖夫の声が、|廊《ろう》|下《か》のほうから聞こえてきた。
京介が見ると、靖夫が、心配そうな目で立っている。
「靖夫君……」
|小《こ》|柄《がら》な美少年は、青い|縞《しま》のパジャマの上に、黒いコートをガウン代わりに|羽《は》|織《お》っていた。
靖夫の|栗《くり》|色《いろ》の|髪《かみ》は、寝乱れてクシャクシャだ。
靖夫の後ろには、靖夫と同じ|柄《がら》のパジャマを着た大男がいた。
|陽《ひ》に焼けた|額《ひたい》に、|三《み》|日《か》|月《づき》傷がある。
左門だ。
|風《ふ》|呂《ろ》に入って、|不精髭《ぶしょうひげ》を|剃《そ》り、髪を切ったため、ずいぶん|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が変わった。
ホームレスふうの男の|面《おも》|影《かげ》はない。
もともと、ホームレスふうの姿は、ほかの組の追っ手を|逃《のが》れるための変装だったという。
こうして見ると、|精《せい》|悍《かん》な顔だちである。
長かった髪は、|顎《あご》のラインにそろえて切ってある。
前髪はあげて、ほかの部分の髪と一緒に、後ろで一つに結んでいた。
「智さんに、何かあったんですか、京介さん?」
「ああ……夢を見たんだ。智が、果羅姫につかまって、氷の|十字架《じゅうじか》にかけられてた。その後、果羅姫が、智を氷の|棺《ひつぎ》に|封《ふう》じこめて、俺にむかって、智は永遠にこのままにしておくって……たぶん、|正《まさ》|夢《ゆめ》だと思う」
靖夫と左門は、素早く目を|見《み》|交《か》わした。
「アニキぃ……」
「いよいよ出発だな。おう、ヤス、部屋に戻って着替えるぞ! 急げ!」
左門は、ニヤリと笑って、靖夫の薄い肩をどやしつけた。
並んで立つと、靖夫の頭は、左門の胸のあたりまでしか届いていない。
「はいっ! アニキ!」
靖夫は、|慌《あわ》てて、部屋を飛びだしていった。
左門も、靖夫の後を追った。
「遅いなあ……狼の|奴《やつ》。何してんだよ……ったくぅ」
十分後。
京介は、パジェロの後部座席に乗りこみ、|苛《いら》|々《いら》と足を踏み鳴らしていた。
パジェロは、モルタル|塗《ぬ》りの白い一軒家の前に|停《と》まっていた。
白い一軒家は、左門の|隠《かく》れ|家《が》である。
パジェロの運転席には、左門が座っていた。
左門は黒のタートルネックのセーターに、黒のパンツという格好だ。
助手席には、小柄な靖夫が座っていた。
靖夫は、似合わない|縞《しま》のスーツを着て、黒いコートを|膝《ひざ》にのせている。
足もとには、黒い|弓《ゆみ》|矢《や》・カリンパクの包みがあった。
この黒い弓矢は、持ち主の左門にも、使い道ははっきりとはわからないという。
だが、正しい使い方さえわかれば、強力な|呪《じゅ》|具《ぐ》となるらしい。
靖夫は、左門のそばにいられて、幸せそうだった。
(あ……)
京介は、身を乗りだして、早朝の窓の外を|眺《なが》めた。
一軒家のドアが開いた。
家の前の雪道を、|灰《はい》|色《いろ》のコートを|翻《ひるがえ》して、狼がこちらに歩いてくる。
左手に、黒い小型のキャリーバッグを持っていた。
「遅くなりまして」
「なんだよ……それは、狼?」
狼は、後部座席に乗りこみながら、チラと京介の顔を見た。
「JOA開発のノートパソコンです。現地につくまでに、調べたいことがありますので」
「出る|間《ま》|際《ぎわ》になって、そんなもん持ってこなくてもいいだろ」
狼は、かすかに笑った。
だが、京介に対して、特に弁解はしない。
狼は、膝にのせたキャリーバッグから、さっそくノートパソコンを取りだす。
何やら、|操《そう》|作《さ》しはじめた。
運転席で、左門がキーをまわした。
「行くぞ」
ゆっくりと、パジェロが走りだした。
ピーッ!
パジェロのなかに、何度目かの電子音が響き渡った。
「何やってんだよ、狼」
京介は、横目で狼と、その膝の上のノートパソコンを眺めた。
|隠《かく》れ|家《が》を出てから、二十分ほどたっている。
パジェロは、雪の積もった国道を走っていた。
道の両側には、除雪車のかきあげた雪が、二メートルも積みあがり、壁のようになっている。
朝の弱々しい光が、北国のまっすぐな道を照らしだしていた。
時間が早いこともあって、パジェロの前後を走る車の姿はない。
狼は、肩をすくめて、キーボードに指を走らせる。
「東京のJOAにアクセスして、カリンパクの|弓《ゆみ》|矢《や》や|三《み》|神《かみ》|冷《れい》|児《じ》のデータを|検《けん》|索《さく》しているのですが、敵の|妨《ぼう》|害《がい》が激しいもので」
「妨害?」
「|津《つ》|雲《くも》財団の|仕《し》|業《わざ》です。JOAへのアクセスコードを入れると、自動的にエラーにされてしまうのです。今は、公式のコードはあきらめて、裏のアクセスコードを|試《ため》しているのですが……二十五個あるなかで、二十一個は無効とわかりました。残り四個のうちで、アクセスできなければ、お手あげです」
狼は、静かな声で言った。
「なにしろ、北海道内は、津雲財団が|掌握《しょうあく》していますからね。道内八か所のJOA北海道支部は、二日前から、まったく連絡がつきませんし」
「マジ……?」
京介は、ドキッとした。
(そんな強敵なのか……津雲財団ってのは……)
「なんとか、アクセスできないんですか、狼?」
左門は、ステアリングを握りながら、チラとバックミラーのなかの狼を見た。
狼は、微笑したようだった。
「できるかぎりのことは、やってみましょう。いくら力のある|呪《じゅ》|具《ぐ》でも、使い道がわからないのではね……」
「適当に|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》えると、まぐれで、たまに緑に光ることもあるんだが」
左門が、|呟《つぶや》いた。
「前にききめのあった真言で、また光るとはかぎらないからな……」
「それはそれとして、その弓矢は、どこから手に入れたんです、左門さん?」
狼は、キーボードから顔をあげて、さりげなく尋ねる。
左門は、ニヤリと笑ったようだった。
「|企業秘密《きぎょうひみつ》ということで」
「アニキ、もしかして、|盗《ぬす》んだんですかぁ?」
靖夫が、|遠《えん》|慮《りょ》のないことを尋ねる。
「それで、追われていたわけか?」
京介は、ボソリと尋ねた。
左門は、ため息をついた。
「人聞きの悪いことを言うな、ヤス。|函《はこ》|館《だて》|山《やま》の|結《けっ》|界《かい》のなかに落ちていたから、黙って拾ってきたまでだ」
「アニキ……それって、ただの|泥《どろ》|棒《ぼう》ですよう」
狼が、ふいにキーボードを|叩《たた》く手を止めた。
まじまじとディスプレイを|凝視《ぎょうし》している。
「どうした、狼……?」
狼の様子に気づいた京介は、横からディスプレイをのぞきこんだ。
「何かわかったのか?」
「ええ。……三神冷児、どうやら、マッド・サイエンティストのようですね。〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉と、智さまの血と心臓のエキスを利用して、新種の|細《さい》|菌《きん》の開発をもくろんでいます」
「智の血と心臓のエキス……?」
京介は、狼の|端《たん》|正《せい》な顔を凝視した。
狼は、いつになく厳しい顔をしていた。
「三神冷児が、果羅姫に|鷹《たか》|塔《とう》先生を|拉《ら》|致《ち》させたのは、そのためですか、狼?」
左門が、ステアリングを握りながら、尋ねてくる。
「さあ……果羅姫と、三神冷児は、かならずしも一枚岩ではないようですが」
狼は、ディスプレイを見ながら、静かに答えた。
京介は、|我《われ》|知《し》らず、ジーンズの|膝《ひざ》の上で、両手を固く握りしめていた。
(智……無事でいてくれよ……)
京介は、一刻も早く、|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》に着きたかった。
どす黒い不安が、京介の胸のなかで荒れ狂っている。
「急がなければ……智さまが、危険です」
狼が、ポツリと|呟《つぶや》いた。
*    *
北海道の屋根、大雪山――。
大雪山というのは、|富《ふ》|士《じ》|山《さん》のような一つの山の名前ではない。
北海道の|最《さい》|高《こう》|峰《ほう》、標高二二九〇メートルの|旭岳《あさひだけ》を中心に、|北《ほく》|鎮《ちん》|岳《だけ》、|白《はく》|雲《うん》|岳《だけ》、|黒《くろ》|岳《だけ》など、十余の山をひっくるめて、大雪山と呼ぶのだという。
そして、この大雪山の一角に、|津《つ》|雲《くも》微生物研究所があった。
研究所の真上の空には、|女《め》|神《がみ》の巨大な城・リクンカンドが|浮《ふ》|遊《ゆう》している。
「もうじき、リクンカンドです、冷児さま」
ヘリの運転席のほうから、部下が言った。
三神冷児は、ヘリの窓から、外を見た。
|壮《そう》|麗《れい》な山の|峰《みね》が、いくつも|連《つら》なっている。
白く雪を|戴《いただ》いた山々。
北海道の屋根・|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》である。
そこここから、白い|噴《ふん》|煙《えん》があがっていた。
噴煙のあがっているあたりには、赤茶けた火山の|岩《いわ》|肌《はだ》が|露出《ろしゅつ》していた。
とある山頂の|窪《くぼ》んだ一角に、白い四階建ての建物が見える。
新種の|細《さい》|菌《きん》の研究が行われている、|津《つ》|雲《くも》微生物研究所だ。
山々の上には、晴れた青空が見える。
青空のさらに上には、もう一つの銀世界――雪に|覆《おお》われて|浮《ふ》|遊《ゆう》するカムイの城・リクンカンドが見えた
リクンカンドの|城壁《じょうへき》の内側は、なだらかに上下する白い平原だ。
その様子は、まるで、平らに雪を盛った|皿《さら》のようにも見える。
平原の中央に、|氷山《ひょうざん》のように巨大な|氷雪《ひょうせつ》の城があった。
城は、光の加減で、透明な宝石のように、|虹《にじ》|色《いろ》に輝いて見えた。
城の一番高い塔の上は、半透明の青いドームになっている。
ドームの内側には、津雲微生物研究所から運ばれた、新細菌の|培《ばい》|養《よう》|液《えき》が運びこまれているはずだった。
ヘリは、氷雪の城めざして、飛んでいた。
「〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉の濃度は、どうなっている?」
冷児は、低く尋ねた。
「は……現在、九十八パーセントです」
部下が、事務的な|口調《くちょう》で報告する。
「リクンカンド……天上の神々の国という意味だな。別名をカンドリリコタン。空の上の村という」
|皮《ひ》|肉《にく》めいた声が、三神冷児の隣のシートから聞こえた。
薄茶の|髪《かみ》と、銀ぶち|眼鏡《め が ね》の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が、三神冷児を横目で|眺《なが》めている。
相変わらず、白衣姿だ。
「プラトンの『天空の書』では、ラピュタリチスと呼ばれているな。あのなかに、智がいるのか」
「ご|執心《しゅうしん》だね、|魔《ま》|神《じん》ニチネカムイ」
冷児が、クスクス笑いながら、ニチネカムイ――|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》を見た。
冷児の|膝《ひざ》の上には、赤い|絹《けん》|布《ぷ》で包んだ|髑《どく》|髏《ろ》がのっている。
「そんなに、鷹塔智が好きなの?」
時田忠弘は、肩をすくめた。
「人間の好きだの嫌いだのという感情は、よくわからんね」
「でも、手には入れたい……そうだろう? 人間じゃないくせに、所有欲だけはあるんだから、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》だね」
冷児は、|面《おも》|白《しろ》い生き物を|眺《なが》めるように、時田忠弘を見、窓の外に視線を移した。
冷児は、|薄紫《うすむらさき》のスーツを着ていた。
「ぼくには、命を|懸《か》けてまで、守りたい人も、手に入れたい人もいないよ。誰も愛してない。……ぼくが本気になれるのは、この地球だけだ」
「それは、|嘘《うそ》だな」
時田忠弘は、優しい声で言った。
「君は、人類に|意《い》|趣《しゅ》|返《がえ》しをしてやりたくてたまらないだけだ。人類皆殺しなんていうのは、単なる子供じみた|復讐《ふくしゅう》でしかない。そうだろう、三神冷児? 自然環境保護……? |汚《けが》れた人類を滅ぼして、地球を|浄化《じょうか》するため? ふざけちゃいけないな、マッド・サイエンティスト君。人類を滅ぼす理由なんか、なんでもよかったくせに」
冷児は、驚いたような目で、時田忠弘を|凝視《ぎょうし》した。
「なんだって……?」
「教えてあげよう、三神冷児。君は、人類を皆殺しにしたいくらい、愛しているのだよ。そして、子供が、自分だけに注目してもらえないと、すねてしまうように、人類に対して、一方通行の|理《り》|不《ふ》|尽《じん》な|怒《いか》りを燃やしている」
冷児は、ギリッと|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
|繊《せん》|細《さい》な|美《び》|貌《ぼう》の青年は、一瞬、|夜《や》|叉《しゃ》のような目をした。
「ぼくの理想を、夢を、そんな言葉で|貶《おとし》めるのは、許さない!」
冷児の言葉に、時田忠弘は、ただ薄笑いを浮かべただけだった。
冷児の表情が、ふいに|凍《こお》りつく。
「|魔《ま》|神《じん》ニチネカムイ! まさか……|言《こと》|霊《だま》の|呪《じゅ》|縛《ばく》が、|効《き》いていないのか……!?」
「さて、どうかな」
時田忠弘は、|意《い》|地《じ》|悪《わる》く笑った。
「君は、言霊使いとして超一流のはずだが。自分を信じられないのかね、三神冷児」
「黙れ!」
冷児は、赤い|絹《けん》|布《ぷ》を|撥《は》ねのけ、〈クラークの|髑《どく》|髏《ろ》〉を取りだした。
素早く、髑髏の両眼を、時田忠弘にむける。
「ぼくに従え! ニチネカムイ!」
「やめておきたまえ、三神冷児。こんな〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉のなかで、|下手《へ た》に|霊力《れいりょく》を使うと、どんなことがおきても知らないぞ。|志《こころざし》なかばで、ヘリごと|墜《つい》|落《らく》|死《し》したくはないだろう」
クスクス笑う魔神の言葉が終わらないうちに、ヘリは、激しく揺れはじめた。
数十秒で、ヘリは乱気流からぬけた。
安定した飛行で、ゆっくりと、リクンカンドの平原部に降下していく。
三神冷児は、すさまじい目で、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》を|睨《にら》みつけていた。
ヘリの運転席のほうで、|甲《かん》|高《だか》い電子音がした。
部下が、何やらスイッチを|操《そう》|作《さ》しながら、報告する。
「冷児さま、|札《さっ》|幌《ぽろ》から連絡です。先ほど、|鳴《なる》|海《み》京介、狼、左門|道《みち》|明《あき》、柴田靖夫の四名が、地下水脈のシャトルを|奪《だっ》|取《しゅ》し、|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》にむかっているそうです。札幌では、奪われたシャトルを|追《つい》|跡《せき》し、地下水脈のなかで攻撃をしかけましたが、失敗。鳴海京介らは、あと三十分以内に、こちらに到着するはずです」
「わかった。下の|津《つ》|雲《くも》微生物研究所に連絡しろ。シャトル発着場のゲートロック解除とな」
冷児は、冷ややかな声で命じた。
「解除……? 連中を研究所に入れてしまって、よろしいのですか?」
部下は、冷児の命令に|戸《と》|惑《まど》ったようだった。
「かまわないさ。地下水脈のなかでは、こちらも攻撃しにくい。研究所に入れてから、外に引きずりだして、広い場所で|始《し》|末《まつ》してやる」
「は……」
部下は、|恭《うやうや》しく答え、研究所への回線を開いたようだった。
冷児の命令を伝えている声が、聞こえてくる。
「ところで、連中をどう始末する気だ、三神冷児? さしつかえなければ、教えてくれないかね」
時田忠弘が、ぬけぬけと尋ねる。
冷児は、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な目つきで、隣に座った男を睨みつけた。
「ぼくの支配下にあるのなら、それらしく、おとなしくしていろ」
時田忠弘は、クス……と笑った。
冷児の反応を、|面《おも》|白《しろ》がっているようだった。
「で、どうする気なのかな?」
冷児は、ため息をついた。
「|魔《ま》の|眷《けん》|属《ぞく》を呼びだすのさ。……パウチ・カムイ(|淫《いん》|乱《らん》の神)、バコロ・カムイ(|疱《ほう》|瘡《そう》の神)、イワエンドナイ(|深《しん》|山《ざん》の|怪鳥《かいちょう》)、ケナシ・ウナルベ(森の|妖《よう》|婆《ば》)、ホウケウ・カムイ(|狼神《おおかみしん》)、マタカリプ(宿なし|熊《ぐま》)、チチケウネ(毛なし熊)。この魔たちに襲わせて、四人とも、|噴《ふん》|煙《えん》の立ち上る|地《じ》|獄《ごく》|谷《だに》の底に|叩《たた》きこんでやる」
冷児は、言葉を切って、ニヤリと笑った。
「ほう……ご当地の魔物が大集合だな」
「感心している場合じゃない。あなたも行くんだ」
冷児は、時田忠弘の白衣の胸に、右手の人差し指を突きつけた。
「私に、そんなつまらない仕事をやらせようというのかね、三神冷児」
「そのとおりだよ。……せいぜい、|忠誠《ちゅうせい》の心を見せてほしいものだな」
三神冷児は、|膝《ひざ》に置いた〈クラークの|髑《どく》|髏《ろ》〉に、そっと左手の指を|滑《すべ》らせた。
時田忠弘の|瞳《ひとみ》が、一瞬、銀ぶち|眼鏡《め が ね》の下で、ハシバミ色から、エメラルドグリーンに変わった。
|妖《あや》しい|邪《じゃ》|眼《がん》。
だが、三神冷児は、髑髏に視線を落としていたため、|魔《ま》|神《じん》の変化に気づかなかった。
*    *
智は、目を開いた。
一瞬、自分がどこにいるのか、わからなかった。
青みを|帯《お》びた光が、降りそそいでいる。
「目が|覚《さ》めたかい、鷹塔智」
まぢかに、知らない青年の顔がある。
女と|見《み》|紛《まが》うほどの|繊《せん》|細《さい》な|美《び》|貌《ぼう》、細身で優美な体つき。
やわらかな|髪《かみ》を、肩のあたりまで伸ばしている。
青年が、身につけているのは、高価そうな|薄紫《うすむらさき》のスーツだ。
(誰だ……? それに……この光は……?)
智の頭上には、半透明の青いドームがあった。
青みを帯びた光は、ドームごしに|射《さ》してくる|陽《ひ》の光らしい。
「ここは……?」
言いかけて、智はハッとした。
(あ……!)
智は、一糸まとわぬ姿で、氷の|十字架《じゅうじか》にかけられていた。
下半身は、腰のあたりまで、白い氷に閉じこめられて、動けない。
氷の十字架は、ドームの中央に作られた丸いプールのような場所に、立っている。
プールのなかには、|淡《あわ》いピンクの溶液が満たされていた。
「いい格好だね、鷹塔智」
青年――三神冷児は、美しい顔で、クスクス笑った。
冷児の薄紫のスーツの体は、支えるものもなしに、溶液の上に浮いている。
何かの術を使っているらしい。
智は、|羞恥《しゅうち》にカッと|頬《ほお》が赤らむのを感じた。
「あなた、誰です? なんで……オレをこんな……」
「ぼくは、三神冷児」
三神冷児は、智の言葉をさえぎった。
「ここは、リクンカンドの塔の上だ。君の足もとのピンクの液体は、人類を滅ぼす新種の|細《さい》|菌《きん》・グロリアの|培《ばい》|養《よう》|液《えき》。君には、グロリアの誕生のために、血と心臓のエキスを提供してもらうよ」
「人類を滅ぼす新種の細菌……!?」
三神冷児は、|邪《じゃ》|悪《あく》な|笑《え》みを浮かべて、うなずいた。
智の|背《せ》|筋《すじ》が、ゾッと冷たくなった。
(これが|言《こと》|霊《だま》|使《つか》いの三神冷児か……。
カムイを果羅姫……|地《じ》|獄《ごく》|姫《ひめ》と名づけ、|呪《じゅ》|殺《さつ》をさせていた男……)
異様な|霊《れい》|気《き》が、三神冷児の体のまわりに|漂《ただよ》っている。
ふと気づくと、塔の白い壁ぎわに、静かに果羅姫が立っていた。
|能装束《のうしょうぞく》の美女の姿だ。
果羅姫は、無表情に、智と冷児を見つめていた。
「人類を滅ぼすって、どういうことです?」
智は、三神冷児を|凝視《ぎょうし》した。
三神冷児は、うれしそうに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「人類さえいなくなれば、この地上は|綺《き》|麗《れい》になるからね。ぼくは、地球上の動物たちや植物たちに、人間のいない静かな世界を返してやるんだ」
「え……?」
智は、三神冷児の迷いのない|瞳《ひとみ》に、ギクリとした。
「どうして、そんなことを……?」
三神冷児は、智の顔を見、冷ややかに言った。
「ああ……そうか。おまえは、この世から、すべての悲しみと苦痛をなくせると信じている|愚《おろ》か者だったな。この機会に聞かせてもらおうか。その確信の|根《こん》|拠《きょ》は、いったいなんだ?」
「根拠なんかありません。オレは、知っているんです」
智は、揺るぎない瞳で、冷児を見つめかえした。
「いつになるかはわからない。オレの今の人生だけでは、|叶《かな》わないかもしれない。でも、いつか、すべての悲しみと苦痛は消え、人は皆、幸福になれる日がきます」
「夢物語だな」
冷児は、鼻で笑った。
「思ったより、おまえは子供だったらしいな。そんな|綺《き》|麗《れい》|事《ごと》を信じているのか?」
智は、氷の|十字架《じゅうじか》にかけられたまま、微笑んだ。
「ええ。|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なことですが、綺麗事や、理想論だと言われていることが、最後には一番強いんですよ。人の心は、あなたがなんと言おうと、光にむかって飛ぶものです。オレは、その人の心を信じたい」
「甘いな」
冷児は、|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めた。
智を見つめる瞳が、|憎《ぞう》|悪《お》に燃えている。
「人の善意と、美しい理想か? 非現実的なんだよ! 善意なんか、つづかないんだ! 自然を破壊するにも金がいるし、自然を守るには、もっと金がいるんだよ! そして、たくさんの金をもうけるには、結局、自然を破壊しなきゃ、どうにもならないんだ! 人類は、どこまでいっても、地球を|汚《お》|染《せん》する|怪《かい》|物《ぶつ》にしかなれないんだ! ……もう、終わりにしたほうがいい。誰かが、人類の息の根を止めてやるべきだ」
冷児は、感情が激してきたのか、宙に目を|据《す》えて、早口にしゃべりはじめた。
「ぼくは、ずっと考えてきた。この世には、どうして、こんなに苦痛や悲しみがあるのか。そして、人々は、それを知りながら、どうして|見《み》|逃《のが》しているのか。どうして、神々は、こんな人間たちを|罰《ばつ》しないのだろうか。ぼくは、ずっと考えていた。この世を|浄化《じょうか》するには、いったいどうしたらいいのかと。……そして、気づいたのだよ。人間がいるかぎり、悲しみも、苦痛もなくならない。戦争の|悲《ひ》|惨《さん》さも、環境破壊も、|飢《き》|餓《が》も|貧《ひん》|困《こん》も何もかも。だから、ぼくは人類をこの世から|抹《まっ》|殺《さつ》しようと決めた。自然にも、人間以外の生き物にも、まったく影響をおよぼさず、人間だけを選んで、確実に殺す|細《さい》|菌《きん》の開発を進めてきた。これで、ぼくは、|地《じ》|獄《ごく》に落ちてもいい。この|細《さい》|菌《きん》で、地球と、人間以外のすべての命が救われるなら、ぼくは、どうなってもかまわない」
冷児は、しゃべりながら、子供のように|無《む》|垢《く》な目をした。
(ああ……この人は……)
冷児の言葉を聞くうちに、智の胸のなかに、|哀《あわ》れみが広がっていく。
(純粋で……純粋すぎて、|我《われ》と|我《わ》が身を傷つけずにはいられないんだ……。
なんて激しくて……かわいそうな人なんだろう)
たぶん、冷児は、普通の人間より、|他人《ひ と》の不幸に感じやすかっただけなのだろう。
世界を取り巻く、あらゆる苦痛と、|無《む》|惨《ざん》さに対して、ついに|不感症《ふかんしょう》にはなれなかった、哀れな|魂《たましい》。
自分以外の生き物たちの苦痛を無視して、そんな自分を甘やかし、正当化して、エゴイズムに走ってしまえれば、冷児は、どんなにか|楽《らく》だったろうに。
(かわいそうに……あなたは、それができなかったんだね……)
|視《み》えてしまう苦痛を、無視しきることができるほど、|冷《れい》|血《けつ》|漢《かん》にもなれず、他人の痛みを受け入れ、ともに苦しみつづけることができるほど、強くもなれず、ついには、その苦痛の|源《みなもと》をこの世から消してしまいたいと願った、三神冷児。
その冷児の心の痛みが、智にはわかる。
智自身、生き物の苦痛をダイレクトに受信する、|感応能力《かんのうのうりょく》の持ち主だからだ。
(つらかったんだ……冷児さんは。
つらかったけれど、戦ってきたんだ……二十五年間、ずっと……。
すごい精神力だ……よく、ここまで……)
普通ならば、冷児のような状態に置かれれば、人間はもっと早くに|発狂《はっきょう》してしまう。
智は、ため息をついた。
(でも……どんなにがんばってきたとしても……人類皆殺しなんて、間違ってるよ。
それしか、もう、あなたには救いはないのかもしれないけれど、それでも、あなたの考えは、間違っているんだ……)
「冷児さん……人類は、あなただけの所有物じゃありません。こんなところで、すべての人の未来を|断《た》ち切る権利なんか、あなたにはないはずでしょう」
たぶん、言っても|無《む》|駄《だ》かもしれないと知りつつ、智は言った。
冷児の|瞳《ひとみ》のなかに、|怒《いか》りの色が|閃《ひらめ》いた。
美青年は、冷ややかな微笑を浮かべた。
冷児は、右手で智の|顎《あご》をつかんだまま、そっと言う。
「権利なんか関係ないね。もう、|新《あら》たな|細《さい》|菌《きん》、グロリアは、|誕生《たんじょう》を待つばかりだ。ぼくは、|醜《みにく》い人間たちが嫌いなんだよ。……みんな滅びてしまえばいい。終わってしまえばいいんだ。……ぼくの開発したグロリアは、人類が生みだしたもののなかで、一番美しい生き物になるだろう。この塔のドームを開いて、グロリアを外にまき散らせば、空は一面、|薔薇《ば ら》|色《いろ》に輝くはずだ。どこまでも、オーロラのような輝きが空を|覆《おお》っていく。さぞや|華《か》|麗《れい》な光景だろうな。グロリアをまいてから、人類が滅亡するまで……そう、七日とかからないだろうね。そして、ぼくは、ようやく安らげるんだ」
(やっぱり説得も無理か……)
智には、冷児の|陶《とう》|然《ぜん》とした表情が、ヤケになって、笑っているようにしか見えなかった。
(この人は、このまま滅びの階段を下りていくのか……。
人類を道連れにしたまま……)
冷児は、ゆっくりと左手で、智の|裸《はだか》の胸に触れた。
「ここに、大地の|闇《やみ》があるんだね。|納沙布《のさっぷ》|岬《みさき》では、ご苦労だったね。おかげで、グロリア誕生のXデーが遅れるところだった」
|温《あたた》かな手のひらで|撫《な》でまわされる感触に、智は顔をしかめた。
体に|触《さわ》られるのは、あまり好きではない。
「触られるのは、嫌いなのかな? ぼくは、嫌いじゃない。|人《ひと》|肌《はだ》は好きだよ。触れていると、自分が人間じゃなくて、ただの動物になったような気分にさせてくれる。……動物には、|罪《つみ》がないからね。ホッとするよ」
智は、何も答えなかった。
|猫《ねこ》が、つかまえた|鼠《ねずみ》をいたぶるように、なぶられているのだと、わかっていた。
ここで、冷児に殺されるのは、|怖《こわ》くなかったが、グロリアの誕生だけは、なんとしてでも、|阻《そ》|止《し》したかった。
冷児は、智の顎をつかんだまま、クスッと笑った。
「欲望なんかありませんという顔だな。こういう清純そうな顔を見ると、ぼくは、取りかえしのつかないところまで、汚してやりたくなってね……」
智は、顔をそむけようとした。
だが、男の指の力のほうが強くて、身動きできない。
冷児が、ゆっくりと、智に顔をよせてきた。
(な……に……?)
智は、まぢかに|迫《せま》った|邪《じゃ》|悪《あく》な|美《び》|貌《ぼう》を|凝視《ぎょうし》した。
男の|唇《くちびる》が、かすかに動く。
「いいことを考えた。血と心臓のエキスを|搾《しぼ》りだす前に、ぼくの目の前で、おまえをぼくの支配下の|魔《ま》|神《じん》に|犯《おか》させてやる。|嫌《いや》だと叫んで、悲鳴をあげても、やめさせてやらない。何度も何度も……その心が壊れるまで、|屈辱《くつじょく》と快楽をあたえてやる。どこまでおまえを汚せば、人類に対して絶望するのかな。そんなことをされても、まだ人類に希望を持つのかな。……どうせ、おまえは、ぼくを|憎《にく》いなんて思わないんだろう。その甘ちゃんぶりには、吐き気がするよ」
智は、|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
冷児は、本気で、言ったことを実行するつもりだろう。
「オレは……そんなことには|屈《くっ》しない」
冷児の美しい顔に、冷ややかな笑いが浮かんでいた。
「そうかな? 助けが来るのを期待しているんなら、|無《む》|駄《だ》だと思うぞ。見ろ、この|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》に来ているおまえの仲間が、一人一人、死んでいく姿を」
三神冷児が、右手を一振りすると、半透明のドームに、映画のような映像が|映《うつ》った。
「あ……!」
智は、息を|呑《の》んだ。
雪の少ない岩場で、狼たちが、戦っていた。
敵は、大雪山の|魔《ま》|物《もの》たちだ。
|熊《くま》の|化《ば》け|物《もの》、木の|杖《つえ》を持った|醜《みにく》い|妖《よう》|婆《ば》、巨大な|怪鳥《かいちょう》、ボロ布をまとった|獣人《じゅうじん》たち。
|閃《ひらめ》く|呪《じゅ》|符《ふ》の光。
狼の|正《せい》|拳《けん》が、妖婆を一瞬のうちに|破《は》|裂《れつ》させた。
狼は、|灰《はい》|色《いろ》のコートを着ている。
靖夫が、怪鳥に|撥《は》ね飛ばされ、|崖《がけ》から落ちそうになる。
と、|髪《かみ》を後ろで結んだ|逞《たくま》しい男が、靖夫の腕をつかみ、胸に抱きこんだ。
その|精《せい》|悍《かん》な顔。
男は、背中に、黒い|弓《ゆみ》|矢《や》――カリンパクを背負っている。
(え……? まさか……左門さん!?)
智は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として、左門の姿を|凝視《ぎょうし》した。
(|鎌《かま》|倉《くら》で死んだはずじゃ……)
映像のなかで、|雪煙《ゆきけむり》が舞いあがった。
外は、風が強いらしい。
雪煙が薄れてくると、そのなかから、京介が姿を現した。
輝く|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を、右手にさげている。
(京介……!)
智は、ドキッとした。
二日ぶりに見る京介の姿は、千年も会わなかったように|懐《なつ》かしく、|慕《した》わしかった。
京介は、ジーンズに、厚手のモスグリーンのセーターという格好だ。
ムートンのハーフコートを|脱《ぬ》ぎ捨て、|楽《らく》な格好で戦っている。
京介の|額《ひたい》には、智の知らないあいだに、|包《ほう》|帯《たい》が巻かれていた。
(|怪《け》|我《が》を……京介……?)
京介が、何かに気づいたのか、素早く身を沈めた。
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が、宙を|斬《き》る。
|化《ば》け|物《もの》|熊《ぐま》が、真っ二つになって、どうと地面に倒れこんだ。
京介の色黒の顔に、一瞬、会心の|笑《え》みが浮かんだ。
智の大好きな笑顔。
こんな時だというのに、智の胸が熱くなった。
(京介……)
「ふん……なかなか、やるじゃないか」
冷児が、映像を|眺《なが》めながら、苦笑した。
「少し、甘く見すぎたな。……果羅姫」
冷児の声に、果羅姫が前に出てきた。
|女《め》|神《がみ》は、どこか疲れているように見えた。
「リクンカンドに侵入しようとしているあの連中に、|使《つか》い|魔《ま》を送っていただきたい」
「承知した」
女神は、かすかに笑った。
「何を……京介たちに何をする気です!?」
智は、氷の|十字架《じゅうじか》に|縛《いまし》められたまま、冷児を|睨《にら》みつけた。
冷児は、黙って、ドームの|天井《てんじょう》に|映《うつ》る映像を指差した。
京介たちの前に、|新《あら》|手《て》の敵が、出現したようだった。
敵の|鉤《かぎ》|爪《づめ》が、左門の|逞《たくま》しい肩をかすった。
パッと|鮮《せん》|血《けつ》が飛び散る。
(左門さん……!)
映像が、変わった。
京介が、背後から現れた|怪鳥《かいちょう》につかみかかられて、岩場を|転《ころ》がり落ちていく。
岩場の|端《はし》には、|断《だん》|崖《がい》があり、そこからは白い|噴《ふん》|煙《えん》が立ち上っている。
京介の体は、噴煙のほうにどんどん近づいていった。
「京介! 京介ーっ!」
智は、映像を見ながら、悲鳴をあげた。
|危《あや》ういところで、京介の手が、岩の|突《とっ》|起《き》をつかむ。
ホッとしたとたん、智の心臓がドキドキしはじめた。
(京介……)
智は、戦う京介たちを見ていられなくなって、目をそむけた。
*    *
一時間後。
京介たちは、|津《つ》|雲《くも》微生物研究所のヘリを奪い、ようやくリクンカンドに入った。
雪の平原を走りぬけ、平原の中央にある巨大な|氷雪《ひょうせつ》の城に到達する。
京介と、左門と靖夫は、|魔《ま》|物《もの》たちと戦って、傷だらけだ。
だが、狼は、一番たくさんの魔物を倒したくせに、ほとんど無傷。
ほかの三人とは、格段の実力の差だった。
一歩、雪と氷の城に入ると、京介たちの周囲に、白い犬の形をした魔物たちが、出現した。
|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》の|魔《ま》|犬《けん》レタル・セタだ。
レタル・セタは、|凍《とう》|気《き》を吐き、人間を|凍《こお》らせようとする。
|邪《じゃ》|悪《あく》な冬の|精《せい》|霊《れい》だ。
靖夫は、城のなかに入ったとたん、よろめき、氷の壁に倒れかかった。
「う……!」
「どうした、ヤス!?」
左門が、油断なく、レタル・セタたちを見たまま、手だけ動かして、靖夫の肩をつかむ。
左門は、背中に、黒い|弓《ゆみ》|矢《や》をしょったままだ。
「アニキ、変です……この城……頭が痛くなる……」
靖夫は、つらそうに、肩で息をしていた。
「体の力がぬけて……」
「この氷雪の城の〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉の濃度は、九十パーセントを|超《こ》えています。普通人である靖夫さんが耐えられないのは、当然です」
狼が、低く言った。
狼は、襲いかかってきた一匹のレタル・セタの頭部に、|正《せい》|拳《けん》を打ちこんだ。
爆発を起こしたように、一瞬で消え去る白い魔犬の体。
だが、レタル・セタの数は、あまりにも多い。
「京介さん! 危ない!」
京介は、狼に突き飛ばされた。
京介の目の|隅《すみ》で、狼の|灰《はい》|色《いろ》のコートが|翻《ひるがえ》る。
たった今まで、京介のいた位置に、魔犬の|凍《とう》|気《き》が襲いかかった。
「うわ……!」
体を立てなおす|暇《ひま》もなく、別のレタル・セタが、飛びかかってくる。
「智さまは、この城の一番上にいます! おそらく、果羅姫と三神冷児もそこでしょう!」
狼の叫び声が聞こえた。
「早く、上へ!」
「レタル・セタどもめ……!」
左門が、靖夫を背中につかまらせ、|仁《に》|王《おう》|立《だ》ちになった。
左門は、京介を振り向きざま、自分の背から取った黒い|弓《ゆみ》|矢《や》を|放《ほう》ってくる。
「京介さん、預けた!」
京介は、空中で、黒い弓矢を受けとった。
左門は、もうレタル・セタのほうをむいている。
「|火《か》|炎《えん》|呪《じゅ》!」
左門は、胸の前で両手をあわせ、|印《いん》を結んだ。
ゴーゴーと音をたてて、左門の両方の手のひらから、|深《しん》|紅《く》の|炎《ほのお》が吹きだす。
レタル・セタたちが、ジュージューと音をたてて、蒸発していく。
「左門さん……すげぇ……」
京介は、瞬間、|茫《ぼう》|然《ぜん》として、白い|魔《ま》|犬《けん》たちを|溶《と》かす火炎を見つめていた。
「まだだぁっ!」
左門が、叫ぶ。
京介は、左門の指差すほうを見た。
京介の心臓が、大きく|跳《は》ねあがった。
(|新《あら》|手《て》だ……!)
火炎の届かない氷の柱の|陰《かげ》から陰へ、数十匹のレタル・セタが、目にもとまらぬ速さで移動してくる。
「何をしている! 行けーっ!」
左門が、再び印を結びながら、|絶叫《ぜっきょう》する。
その言葉が、自分たちにむけられたのだと、気がつくやいなや、京介は走りだした。
京介は、城の|狭《せま》い|螺《ら》|旋《せん》階段を、一気に駆け上った。
黒い弓矢は、|邪《じゃ》|魔《ま》にならないように、走りながら、背中にしょった。
(智……助けにいくぞ……!)
後ろから、狼が走ってくる|気《け》|配《はい》がした。
螺旋階段は、途中でとぎれ、雪と氷の部屋が、京介の目の前に現れた。
京介は、ためらわず、その部屋に飛びこんだ。
「京介さん!」
狼の|警《けい》|告《こく》の叫びがした。
狼の声が、終わるか終わらないかのうちに、京介の左肩すれすれに、巨大な|戦《せん》|斧《ふ》が落ちてきた。
|刃《は》の部分だけでも、新聞紙を広げたほどもある。
戦斧が氷の|床《ゆか》にあたると、すさまじい地響きがした。
キラキラ光る氷のかけらが、パッと飛び散る。
「げ……」
京介は、戦斧の持ち主を見あげて、一瞬、たじろいだ。
(でかい……!)
身の|丈《たけ》、三メートルはある白い巨人だ。
白い|髪《かみ》を長く伸ばし、やはり白い|顎《あご》|髭《ひげ》を|生《は》やしている。
巨人は、全身が|霜《しも》に|覆《おお》われていた。
白く見えるのは、そのせいだった。
「霜の巨人!」
狼が、低く叫ぶ声が聞こえた。
ぶんと戦斧が、狼にむかって、打ち下ろされる。
狼は、軽々と戦斧をよけた。
狼の、前を開けて着た|灰《はい》|色《いろ》のコートが|翻《ひるがえ》る。
霜の巨人は、戦斧を持ちあげ、再び狼に襲いかかっていく。
ふいに、狼の足が、氷の床の上で|滑《すべ》った。
「うわ……!」
狼は、一瞬、よろめいた。霜の巨人は、その|隙《すき》を|見《み》|逃《のが》さなかった。
風をきる音がして、巨大な戦斧が、狼の頭上に振り下ろされていく。
今度は、狼も霜の巨人の攻撃をよけきれない。
「狼!」
京介は、とっさに|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を握りしめ、霜の巨人に|斬《き》りかかった。
「死ぬなーっ! 狼!」
ザシュッ!
霜の巨人の右腕が、胴体からちぎれて、|天井《てんじょう》まで飛びあがる。
青い、冷たい血が吹きあがった。床に落ちた巨人の腕は、まだ戦斧を握っている。
霜の巨人は、青い血の流れだす右肩を押さえ、がっくりと|膝《ひざ》をついた。
「助かりました、京介さん」
狼が、素早く体勢をたてなおして、|穏《おだ》やかに言う。
「借りは返したぜ、狼」
京介は、狼をチラと見、油断なく|霜《しも》の巨人に視線を向けた。
その時、|床《ゆか》に落ちた巨人の右腕が、|戦《せん》|斧《ふ》を握ったまま、宙に浮きあがった。
腕は、ブーメランのようにクルクルまわりながら、京介と狼に襲いかかってくる。
「行きなさい、京介さん! 早く!」
狼は、巨人の腕の一撃をかわしながら、ドンと京介の肩にぶつかった。
その勢いで、京介の体がタタッと前に出た。
「狼……!」
京介が顔をあげて見ると、上のほうへつづく|螺《ら》|旋《せん》階段の真正面に来ていた。
「智さまのところへ、早く!」
狼が、|鋭《するど》い声で叫ぶ。
狼は、霜の巨人の右腕と激しく戦っていた。
二度、行けと言われる必要はなかった。
京介は、身を|翻《ひるがえ》して、走りだした。
智のいる城の一番上めざして、螺旋階段を駆けあがる。
第六章 グロリア
|京介《きょうすけ》は、息を|呑《の》んで、足を止めた。
塔の一番上にたどりついた時、目に飛びこんできた光景は、ピンクの溶液のプールと、その中央に立つ氷の|十字架《じゅうじか》。
十字架に|全《ぜん》|裸《ら》でかけられている、美少年の姿。
美少年は、しなやかな腰のあたりまで、水溶液から盛りあがった白い氷に閉じこめられていた。
苦しげに、のけぞった少年の顔は――。
「|智《さとる》……!」
京介の|唇《くちびる》から、|安《あん》|堵《ど》のため息がもれた。
(無事だったのか……!)
「智、今、助けてやるからな!」
京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を握ったまま、智にむかって走った。
「京介! ダメ……!」
智の制止の声がしたが、京介は走りつづけた。
ドクン……!
京介の全身の|霊《れい》|気《き》が、大きく揺らめいた。
|妖獣《ようじゅう》への変身の|兆《きざ》しだ。
だが、京介は、そんなものに|頓着《とんちゃく》しなかった。
「智ーっ!」
ピンクのプールまで、あと一歩というところまで近づいた時だった。
バチバチバチバチッ!
京介の全身に、電流で打たれたような|衝撃《しょうげき》が走った。
京介は、大きく後ろに|弾《はじ》かれた。
五メートルほど飛んで、氷の|床《ゆか》に|叩《たた》きつけられる。
京介の全身に、|激《げき》|痛《つう》が走った。
「く……っ……!」
「京介!」
智が、悲鳴のような声をあげた。
叩きつけられた勢いで、天之尾羽張が、京介の手から離れて、壁ぎわまで飛んでいった。
シャリーン!
|鋭《するど》い音がして、天之尾羽張は、氷の壁にぶつかり、壁の下に落ちた。
|剣《つるぎ》の純白の光が、明滅して消え、天之尾羽張は、ただの金属片に戻った。
「|無《む》|駄《だ》だよ。溶液のまわりには、|結《けっ》|界《かい》が張ってあるからね」
|嘲《あざけ》るような男の声がした。
京介が、ハッとして上半身を起こした。
見ると、|薄紫《うすむらさき》のスーツを着た美青年が、壁ぎわに立っている。
|髪《かみ》が、肩まであった。
|繊《せん》|細《さい》な左手に、異様な|髑《どく》|髏《ろ》を|抱《かか》えている。
青年の隣には、|能装束《のうしょうぞく》を着た美女――|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》の姿があった。
青年――|三《み》|神《かみ》|冷《れい》|児《じ》のそばに、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》の姿はない。
|魔《ま》|王《おう》は、冷児のちょうど真正面、氷の壁を|隔《へだ》てた、もう一つの部屋にいた。
隣室からは、氷を|透《す》かして、こちらの部屋が見えた。
しかし、こちら側からは、隣室は見えず、魔王の|妖《よう》|気《き》も感じられなかった。
智と京介は、時田忠弘が、隣室にいることは知らなかった。
京介は、ゆっくりと起きあがり、壁ぎわの三神冷児を|睨《にら》みつけた。
「てめーは、誰だ」
「三神冷児」
「そうか……てめーが!」
三神冷児は、興味深そうに、京介の目を見かえした。
「君が、|鳴《なる》|海《み》京介だな。ようこそ、ぼくの最終実験場へ」
三神冷児は、|妖《よう》|艶《えん》に|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》まで来るほどの行動力には、敬意を表するよ。ご|褒《ほう》|美《び》に、人類滅亡の歴史的瞬間に立ちあわせてあげよう。これは、大いなる|栄《えい》|誉《よ》だ。まもなく、人類を皆殺しにする新種の|細《さい》|菌《きん》・グロリアが誕生する。君は、グロリアが世界の空に広がっていく光景を見る、最初の人間になるんだ」
(え……なんだ、こいつ……?)
京介は、ギクリとした。
「人類皆殺し……?」
「そう。長年|温《あたた》めつづけてきた、ぼくの夢だ。……ごらん」
冷児は、|優《ゆう》|雅《が》に右手をあげ、すぐ横の白い氷の壁を示した。
壁には、ガラスのケースで|覆《おお》われた、赤いボタンが埋めこまれている。
「このボタンを押せば、そのピンクの溶液のなかに、〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉が流れこむ。〈黒い竜脈〉と、溶液のなかの細菌と、|鷹《たか》|塔《とう》智の血と心臓のエキスが一つになった時、グロリアが誕生するんだ。素晴らしいだろう」
冷児は、うっとりと微笑み、瞬間的に、智の|十字架《じゅうじか》の真横に移動した。
どんな術を使ったものか、冷児は、まるで地面に立つように、ピンクの溶液の上に立っている。
「ご覧、鳴海京介」
冷児は、スーツのポケットから、|武《ぶ》|骨《こつ》なアーミーナイフを取りだした。
ナイフの|刃《は》が、智の|左頬《ひだりほお》に押しつけられる。
「やめろ、三神冷児! 智を傷つけるな!!」
冷児は、京介の制止を無視し、ナイフをスッと引いた。
|鮮《あざ》やかな血が、智の頬から流れだした。
京介は、燃えるような目で、冷児を|睨《にら》みつけた。
今まで、こんなに怒ったことはないというくらい、激怒していた。
「てめえ……!」
「|綺《き》|麗《れい》だろう、鷹塔智の血は。|皮《ひ》|肉《にく》だね。こんな綺麗な血が、人類を皆殺しにする細菌を生みだすんだね」
冷児は、智の血に|濡《ぬ》れたナイフを、口もとに持っていく。
|淫《みだ》らに|蠢《うごめ》く|舌《した》が、ナイフについた智の血をなめとる。
|隠《いん》|微《び》な光景だった。
「さて、今度は、心臓のエキスをいただこうか」
「心臓のエキスだと……!? ふざけんなっ! 使わせねえっ!」
京介は、三神冷児にむかって突進した。
バチバチバチバチッ!
再び、|結《けっ》|界《かい》が、京介を|弾《はじ》き飛ばした。
「うわあああああーっ!」
京介は、氷の|床《ゆか》に背中から|叩《たた》きつけられた。
「ぐ……ぅっ……!」
京介の顔の横に、黒い|弓《ゆみ》|矢《や》が落ちていた。
叩きつけられた|衝撃《しょうげき》で、背中からはずれたのだろう。
「学習能力のない男だな。溶液のまわりには、結界があると教えてやったろう」
三神冷児は、薄笑いを浮かべて、京介を|眺《なが》めていた。
やがて、冷児が手をあげて合図すると、ガラスケースが、音もなく両側に開いて、壁のなかに沈んだ。
冷児は、壁ぎわに移動して、ゆっくりと赤いボタンに、|繊《せん》|細《さい》な指をかけた。
「京介! ボタン、押させないで! 止めて!」
智が、|鋭《するど》い声で叫ぶ。
そのとたん、京介の顔の横で、黒い弓矢が、緑色に光りはじめた。
(何ぃ……?)
京介は、考えるより先に身を起こし、緑に輝く弓矢に飛びついた。
指が弓矢に触れたとたん、京介の体が、勝手に動きはじめた。
両腕が、自然に矢をつがえ、|狙《ねら》いを定める。
ヒュン……!
緑に輝く矢が、三神冷児にむかって放たれた。
同時に、ピンクの溶液のプールが、異様に|泡《あわ》だちはじめた。
冷児が、ボタンを押したせいだ。
溶液の色は、見る見るうちに、濃いピンクに変わっていく。
氷の|十字架《じゅうじか》に|縛《いまし》められている智が、苦しげに身をよじった。
カツン!
溶液の泡だつ音に混じって、鋭い音が響き渡った。
京介が見ると、黒羽の矢が|髑《どく》|髏《ろ》の|額《ひたい》に突きたっていた。
「うわああああああーっ!」
すさまじい男の悲鳴があがった。
三神冷児が、狂ったようになって、黒羽の|矢《や》が|刺《さ》さった|髑《どく》|髏《ろ》を|掲《かか》げていた。
矢の緑の光は、消えている。
「〈クラークの髑髏〉が……!」
冷児の手のなかで、髑髏が、|粉《こな》|々《ごな》に|砕《くだ》け散った。
|傍《かたわ》らにいた果羅姫の|能装束《のうしょうぞく》の|袖《そで》が、ふわりと風をはらんだ。
カムイの全身に、青い|雷《いかずち》のようなものが走る。
人ならぬ美女は、白い顔で|妖《あや》しく笑った。
「自由になった……!」
青い雷は、まっすぐ伸びて、智を|縛《いまし》めていた氷の|十字架《じゅうじか》を、打ち砕いた。
キラキラ輝きながら、無数の氷のかけらが飛び散った。
そして、智は――。
|一《いっ》|糸《し》まとわぬ姿で、魚のように|跳《は》ねあがり――。
濃いピンクの溶液のなかに、落ちていった。
|水《みず》|飛沫《し ぶ き》が高くあがった。
「智! 智ーっ!」
京介の目は、濃いピンクの溶液のプールにだけ|注《そそ》がれていた。
智の姿は、|泡《あわ》だつ毒々しい溶液の下に消えた。
そのまま、浮きあがってこない。
(|嘘《うそ》だろ……智……!?)
ドクン……!
京介の全身の|霊《れい》|気《き》が、大きく波打った。
京介は、よろめき、|膝《ひざ》をついた。
「うわあああああーっ! 智ーっ!」
ふいに、京介の体が、すさまじい勢いで、変化しはじめた。
上体を起こしていられなくなり、両手をつくと、見る見るうちに、手の甲が|白虎《びゃっこ》の|前《まえ》|脚《あし》になる。
あっという|間《ま》に、頭の位置が低くなり、視野が変わった。
ザワザワ……。
全身に、白い毛が|生《は》えてきた。
(智! 智ーっ!)
京介――白虎は、変化しながらも、泡だつ濃いピンクの溶液を|凝視《ぎょうし》していた。
人でなくなった身には、目の前の溶液のなかに|繁殖《はんしょく》する、|邪《じゃ》|悪《あく》な|細《さい》|菌《きん》の力が、はっきりとわかった。
こんななかに落ちたら、誰も助からないに違いない。
|白虎《びゃっこ》の全身に、激しい震えが走った。
頭のなかが、真っ白になり、何も考えられなくなる。
こんな時、人間なら、涙を流すこともできるのに――。
白虎の身では、泣くことさえできない。
(智……智! 智ーっ!)
ガアアアアアアーッ!
白虎は、金色の目で天を|仰《あお》ぎ、声のかぎりに|咆《ほう》|哮《こう》した。
グオオオオオオ――ッ!
その|吠《ほ》え声は、悲しく、恐ろしく、城の氷の壁のあいだに響き渡った。
氷の壁のむこうでは――。
|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》が、|謎《なぞ》めいた|瞳《ひとみ》で、隣室の光景を|眺《なが》めていた。
白虎が、|泡《あわ》だつ溶液のプールの前で、狂ったように咆哮している。
一方、カムイは、三神冷児に攻撃をしかけていた。
|女《め》|神《がみ》が、|能装束《のうしょうぞく》の|袖《そで》を|翻《ひるがえ》すと、風が巻きおこり、冷児の体が宙に飛ぶ。
「うわああああああーっ!」
冷児は、背中から、氷の|床《ゆか》に|叩《たた》きつけられた。
ダメージがひどくて、しばらく、起きあがれないでいる。
時田忠弘は、かすかに笑って、氷の壁のむこうの冷児を見つめた。
「〈クラークの|髑《どく》|髏《ろ》〉が|砕《くだ》けた時、おまえのつきも落ちた。……しょせん、そこまでの男だったというわけだ」
だが、その|魔《ま》|王《おう》の|冷《れい》|酷《こく》な|呟《つぶや》きは、冷児の耳には届かない。
カムイは、冷児を充分痛めつけると、気がすんだのか、袖を翻し、その風に乗って、姿を消した。
一方、白虎は――。
気が狂ったようになって、溶液のプールに突進した。
|無《む》|駄《だ》だと知りつつ、智を助けるために溶液のなかに飛びこもうというのだろう。
と、その時だった。
ゴボゴボと溶液のプールの真ん中が、盛りあがってきた。
(え……?)
白虎は、ドキッとして、盛りあがった溶液を|凝視《ぎょうし》した。
濃いピンクの溶液のなかから、|漆《しっ》|黒《こく》の頭が現れる。
頭は、美しい女の顔につづいていた。
(果羅姫……! いつの|間《ま》に……!?)
溶液のなかにいたのに、|女《め》|神《がみ》の|能装束《のうしょうぞく》は、|濡《ぬ》れていない。
カムイは、両腕に何かを抱いて、ゆっくりと浮きあがってきた。
両腕のあいだに、人間の頭が見えた。
その|髪《かみ》も、カムイの衣装と同じように、濡れていない。
(あ……!)
|白虎《びゃっこ》は、勢いよく起きあがった。
人間は――智だった。
カムイに背後から抱きかかえられたまま、ぐったりとして、目を閉じている。
(智……智ーっ!)
ガウーッ!
白虎が|吠《ほ》えると、智が、弱々しく頭を動かした。
白虎の心臓に、痛いほどの喜びが走った。
(まさか……!)
智の|瞳《ひとみ》が、薄く開いて、白虎を見る。
「京介……」
かすかな声が、呼びかけてくる。
(智……生きていたのか……!)
白虎は、目の前の溶液の危険も忘れて、智に飛びつこうとした。
だが、カムイは、|宝物《たからもの》のように智を抱きしめたまま、どんどん上に昇っていこうとする。
「これは、私の戦利品だ。おまえには渡さぬ」
|嘲《あざけ》るようなカムイの目が、白虎を|射《い》た。
(智は、渡さない!)
グルルルルルルッ!
白虎は、後先も考えず、溶液の上に浮かぶカムイに飛びかかった。
(智を返せ!)
「ダメ……京介! 危ない!」
智が、カムイの腕のなかで、|怯《おび》えたように、大きく目を見開く。
カムイは、左腕で智を抱きしめたまま、|右《みぎ》|袖《そで》をふわりと動かした。
圧倒的な|霊《れい》|気《き》が、白虎を襲った。
ガアウウウウーッ!
白虎は、カムイの霊気に|弾《はじ》かれて、十メートルも離れた|床《ゆか》に|叩《たた》きつけられた。
白虎の体を中心として、半径五メートルほどの氷の床が、|陥《かん》|没《ぼつ》する。
「京介ーっ!」
智が、カムイの腕を|逃《のが》れようと、暴れている。
だが、カムイの腕は、智が暴れたくらいでは、揺るぎもしない。
白虎は、痛みよりも、カムイの霊気の強さで、ダメージを受けた。
|衝撃《しょうげき》のためか、白虎の全身が、ガクガク震えはじめる。
(体が……!)
ふいに、白虎は、人間の体に戻った。
|尋常《じんじょう》ではない、カムイの霊気に触れたせいだろう。
京介は、ふらつきながら、立ちあがった。
急激な変化の連続で、頭がグラグラしている。
ホッとする|間《ま》もなく、京介の周囲に、カムイの|使《つか》い|魔《ま》たちが現れた。
牛くらいもある、巨大な|灰《はい》|色《いろ》の|梟《ふくろう》たちだ。
京介は、迷わず、氷の壁の下に落ちている|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の金属片に呼びかけた。
「来い、天之尾羽張!」
金属片は、京介の呼びかけに|応《こた》えて、手のなかに飛んでくる。
京介は、天之尾羽張を|顕《けん》|現《げん》させて、戦いはじめた。
と、京介の左手のほうを、誰かが走りぬけた。
「果羅姫! 鷹塔智を返せ!」
三神冷児だった。
冷児は、狂ったようになって、カムイの近くに走りよっていった。
冷児は、|素《す》|手《で》で、なんの武器も|呪《じゅ》|具《ぐ》も持っていない。
カムイに対抗できる|唯《ゆい》|一《いつ》の手段だった〈クラークの|髑《どく》|髏《ろ》〉が|砕《くだ》けてしまった以上、三神冷児は無力だった。
そして、|惨《みじ》めなことに、冷児自身、それを充分すぎるほど知っていた。
「返せーっ! ぼくのグロリア|誕生《たんじょう》の|邪《じゃ》|魔《ま》をするなーっ!」
冷児は、ヤケになったように、ただ叫びながら、走っていた。
カムイの|衣《ころも》の|袖《そで》が、ふわりと動く。
「うわあああああーっ!」
冷児も、京介と同じように、|撥《は》ね飛ばされた。
|鈍《にぶ》い音がする。
冷児は、反対側の壁に|叩《たた》きつけられ、ずるずると|床《ゆか》にくずおれた。
白い|額《ひたい》から、血が流れだしていた。
「やめてください……! なんてことを……!」
智が、カムイの腕のなかで、身をひねって、美しい女の顔を|凝視《ぎょうし》する。
「お願いですから、カムイ……!」
カムイは、薄笑いを浮かべて、智を見かえした。
「なぜ、かばう? 三神冷児は、おまえを殺そうとした人間ではないか?」
「あんなひどいことをしなくても……!」
「わからぬ……。なぜ、おまえは、そのようなことを言う? 私には……理解できぬ!」
カムイの声とともに、冷児の全身から、|鮮《せん》|血《けつ》がほとばしった。
カムイの|霊《れい》|気《き》が、カマイタチのように、瞬間的に冷児を切り|裂《さ》いたのだ。
「よいざまだ、三神冷児」
カムイは、冷ややかな声で言った。
智は、つらそうな目で、三神冷児を凝視していた。
「冷児さん……」
カムイに|嘲《あざけ》られ、傷つけられた冷児は、よろめきながら、なおも立ち上がろうとする。
冷児の血まみれの顔が、一瞬、カムイを見た。
泣き笑いのような顔だった。
「鷹塔智を奪ったくらいで、勝ったと思うなよ、果羅姫! ぼくの理想は……夢は、こんなことで打ち砕かれたりしない!」
冷児の|瞳《ひとみ》のなかには、まぎれもない|憎《ぞう》|悪《お》の色がある。
三神冷児は、ふらつく足どりで、溶液のプールに近づいていった。
|薄紫《うすむらさき》のスーツもズタズタで、全身、血みどろになっている。
|額《ひたい》からも血を流したままだ。
プールの|縁《ふち》に立った冷児の目は、異様にギラギラと輝いていた。
(なんだ……?)
|使《つか》い|魔《ま》の|梟《ふくろう》と戦いながら、何げなく振り返った京介は、冷児の顔つきにゾッとした。
すでに、正気の人間の顔ではなかった。
|妄執《もうしゅう》の|化《け》|身《しん》のような姿。
それは、人間の顔というよりは、|鬼《おに》の顔に近い。
冷児は、宙を|見《み》|据《す》え、ニタリと笑った。
「勘違いするなよ、果羅姫。鷹塔智の血と心臓でなくてもいいんだ。強い|霊能力《れいのうりょく》のある人間の血と心臓なら……このぼくの血と心臓でもな! 今さら、命なんか|惜《お》しくない! ぼくは、何があっても、グロリアを|誕生《たんじょう》させてみせる! 見ていろ!」
「あ……! いけない! 冷児さんを止めて!」
智が、悲鳴のような声で叫んだ。
薄紫のスーツが、ふわりと宙に舞った。
数秒遅れて、ドボンという大きな水音がした。
濃いピンクの|水《みず》|飛沫《し ぶ き》が、高くあがる。
「うわ……!」
京介は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として、溶液のプールを見つめていた。
三神冷児は、濃いピンクの溶液のなかに、ブクブクと沈んでいく。
見る見るうちに、|仰《あお》|向《む》いた冷児の顔に、毒々しい溶液が|覆《おお》いかぶさっていった。
智が、首をひねって、|真《しん》|摯《し》な瞳でカムイを見あげた。
「お願いです、どうか冷児さんを助けてあげてください! 今なら、まだ助かるかもしれない! それに、新しい|細《さい》|菌《きん》が生まれないように……!」
カムイは、冷ややかに笑った。
「あの男は、私を|呪《じゅ》|縛《ばく》していたから好かぬ。どんな細菌が生まれようと、私には関係ないことだ。人間は、人間同士、殺しあって死ねばよかろう」
三神冷児の体は、もうどこにも見えない。
ただ濃いピンクの溶液だけが、ボコボコ|泡《あわ》だっている。
「カムイよ! お願いです!」
「断る」
カムイは、すげなく答えた。
智の表情が、わずかに硬くなった。
「わかりました。もう頼みません。……オレがやります」
智は、カムイの腕のなかで、|印《いん》を結び、意識を集中しはじめた。
一方、氷の壁を|隔《へだ》てた隣室では、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》が薄笑いを浮かべていた。
ハシバミ色の|瞳《ひとみ》に映るのは、ピンクの溶液の底に、もう沈んでしまった三神冷児の死体だ。
|魔《ま》|王《おう》には、人間に|視《み》える以上のものが、視えている。
三神冷児の死体は、溶液のなかで、|凍《こお》りついたようになっていた。
つまり、三神冷児の血と心臓は、溶液にも、〈|黒い竜脈《ブラック・レイ》〉にも反応していないのだ。
「|愚《おろ》かな男だ。グロリアを|誕生《たんじょう》させるには、〈黒い竜脈〉と、|細《さい》|菌《きん》の水溶液と、清い|霊力《れいりょく》のある人間の血と心臓のエキスが必要なのだ。強い霊力ではなく……な。自分の血と心臓など、ものの役にもたたぬと、知らぬまま死んだか……」
魔王は、|冷《れい》|酷《こく》な|口調《くちょう》で一人、|呟《つぶや》いた。
溶液のそばでは、智とカムイが、|押《お》し|問《もん》|答《どう》している。
少し離れた場所では、京介が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を振りまわし、使い魔の|梟《ふくろう》たちと戦っていた。
光の|剣《つるぎ》が梟に|斬《き》りつけるたびに、パッと|灰《はい》|色《いろ》の|羽《う》|毛《もう》が飛び散る。
智も京介も、相変わらず、魔王の存在には気づいていない。
魔王は、しばらく、|女《め》|神《がみ》の腕のなかの、智の|裸《ら》|体《たい》を|眺《なが》めていた。
やがて、魔王の|唇《くちびる》に|皮《ひ》|肉《にく》めいた笑いが浮かんだ。
「まあ、よい。愚かなりに、三神冷児には楽しませてもらった。後は、私が引き受けよう」
魔王は、白い手をあげて、ゆっくりと銀ぶち|眼鏡《め が ね》をはずした。
ハシバミ色の瞳が、エメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》に変わる。
一瞬、溶液の底に沈んだ、三神冷児の死体が、赤く光った。
「これで、グロリアは誕生した」
魔王の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ボコボコ|泡《あわ》だっていた水溶液が、|薔薇《ば ら》|色《いろ》に輝きはじめた。
「そんな……!」
智が、信じられないといった声で、低く呟いている。
「グロリアが誕生した……?」
京介も、ゾッとしたような顔で、美しく輝く溶液に目をやった。
「なんで……こんなに|綺《き》|麗《れい》なんだよ! 人類皆殺しにする細菌なんだろ!?」
京介は、襲いかかってきた巨大な梟の胴を、素早く横に斬り|裂《さ》いた。
|灰《はい》|色《いろ》の羽が、舞いあがる。
「人類が滅びるのか」
カムイは、無表情に|呟《つぶや》いた。
「それも悪くはない」
ゴゴゴゴゴゴゴ……。
ドームの|天井《てんじょう》が、真ん中から二つに割れて、開いていく。
「|魔《ま》|神《じん》……ニチネカムイ……ぼくの夢は……」
死んだと思われていた冷児が、溶液の底でかすかに口を動かした。
ボコボコと、冷児の口から白い|泡《あわ》が立ち上る。
魔王は、|哀《あわ》れむような目で、冷児を|視《み》た。
冷児は、プールの底に、|仰《あお》|向《む》けになって沈んでいる。
「ぼくの|憧《あこが》れ……夢は……?」
白い泡は、|遥《はる》か上の水面にむかって、ゆっくりと上っていく。
冷児は、|切《せつ》なげな表情で、泡の|行方《ゆ く え》を見守っていた。
どんな気まぐれを起こしたものか、魔王の|瞳《ひとみ》が、優しくなった。
「|成就《じょうじゅ》した。安らかに眠るがいい」
冷児は、子供のように、|無《む》|垢《く》な表情で|微《ほほ》|笑《え》んだ。
このうえもなく、幸せそうな笑顔だった。
「見せてください……|薔薇《ば ら》|色《いろ》のオーロラ……」
魔王は、静かに右手をあげて、天を指した。
その動きにつれて、隣室の薔薇色の溶液は、|霧《きり》のようになり、ゆるやかに空に舞いあがっていく。
「見えるか」
魔王の問いに、冷児は、かすかな満足のため息をついたようだった。
ボコボコと、小さな白い泡が立ち上る。
「はい……」
薔薇色の霧の|帯《おび》が、とぎれることなく、空に立ち上っていく。
その下で、|希《き》|代《たい》の|言《こと》|霊《だま》|使《つか》いの瞳が、ゆっくりと閉じられる。
一呼吸の|間《ま》があった。
三神冷児の体は、薔薇色の溶液のなかで、|砕《くだ》けて散った。
命を|懸《か》けて、|邪《じゃ》|悪《あく》な|細《さい》|菌《きん》を作る夢を実現させた美青年は、骨も残さず、|自《みずか》ら開発した細菌の溶液に|溶《と》けこんだ。
「さて……結果は、どちらに|転《ころ》ぶものやら」
魔王は、|妖《あや》しく微笑み、氷の|床《ゆか》に沈みこんでいった。
ほどなく、|魔《ま》|王《おう》の|妖《よう》|気《き》はリクンカンドの城から、完全に消えた。
どこか、別の土地で、別の|邪《じゃ》|悪《あく》な楽しみを探すつもりなのだろう。
数秒後、空に浮かぶ、カムイの城・リクンカンドは、ゆるやかに降下しはじめた。
|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》の山頂にむかって。
空の城は、あまりにも濃くなった|地《ち》|霊《れい》|気《き》の|闇《やみ》に、耐えかねたのだ。
*    *
大雪山上空には、花のような|薔薇《ば ら》|色《いろ》の雲が浮いていた。
薔薇色に見えるのは、すべて死の|細《さい》|菌《きん》だ。
グロリアは、広がりかけては|萎《しぼ》み、萎んではまた広がる。
|妖《あや》しい薔薇色の空の下――。
カムイの城・リクンカンドは、音もなく、大雪山の山頂に着地した。
|氷雪《ひょうせつ》の城の一番上では、 智がカムイに背中から抱きかかえられ、空中に浮いていた。
智の全身から、ゆらゆらと青い光が立ち上っている。
智が空に作った|結《けっ》|界《かい》にむけて、放射している霊気の光だ。
城の上空には、お|碗《わん》を伏せたような形の、巨大な白い結界ができている。
薔薇色の雲は、その結界のなかで、広がりかけては、智に|抑《おさ》えつけられて萎むのをくりかえしている。
溶液のプールからは、とぎれることなく、薔薇色の細菌が、天にむかって吹きあがっていく。
「なぜ、そこまでする、鷹塔智?」
カムイは、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに、腕のなかの智を見おろした。
「そのまま霊気を|消耗《しょうもう》しつくせば、おまえは死ぬぞ」
「死んでもかまいません。オレはどうなっても、あの細菌さえ|浄化《じょうか》できるなら……」
智は、全身の霊気を放出しながら、静かに答えた。
「おまえの力では、結界を|維《い》|持《じ》するのが精いっぱいだ。|奇《き》|跡《せき》でも起こらぬかぎり、細菌の浄化まではできぬぞ」
「それなら、奇跡を起こしてみせます」
智は、なおも、空の薔薇色の雲にむけて、霊気を放出しつづける。
智の全身の、青い霊気が、しだいに|透《す》きとおって、銀色に輝きはじめる。
カリスマに満ちた、天才|陰陽師《おんみょうじ》の顔。
智の|透《す》きとおった、清い|瞳《ひとみ》は、空の|薔薇《ば ら》|色《いろ》の雲にむけられている。
祈るように。
そのそばでは、京介が、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を振りまわして、|梟《ふくろう》の形の|使《つか》い|魔《ま》たちと戦っていた。
京介は、極限まで疲労しきっている。
一度、|白虎《びゃっこ》に変身して、人間の姿に戻ったためだ。
体に、だいぶ|負《ふ》|担《たん》がかかっていた。
だが、京介は、一瞬たりとも、動きを止めない。
血まみれの体を駆りたて、|跳躍《ちょうやく》し、走り、敵を|斬《き》り|裂《さ》く。
カムイは、智を|抱《かか》えて空中に浮いたまま、|謎《なぞ》めいた|瞳《ひとみ》で、京介の戦いぶりを|眺《なが》めていた。
「人間とは……わからぬ。なぜ、あのようにしてまで戦うのか……」
カムイの美しい|唇《くちびる》から、低い|呟《つぶや》きがもれた。
カムイの瞳が、静かに、腕のなかの智にむけられる。
智の全身の|霊《れい》|気《き》は、今や強烈な銀の霊光に変わっている。
「それだけ霊気を放出すれば、本当に死んでしまうぞ、鷹塔智。|結《けっ》|界《かい》を|維《い》|持《じ》するのは、無理だ。あきらめるがいい」
「オレは……いつか、この力を人類のために使って、死ぬために……生まれてきたんです。それが、オレの役割なんです」
「|愚《おろ》かなことを……。おまえを滅ぼそうとしたのも、同じ人類ではないか。なぜ、そんなもののために、命を投げだそうとする? 私には、理解できぬ……」
智は、カムイには答えなかった。
答えるだけの余裕が、もうないようだった。
空の薔薇色の雲は、ほんのわずかながら、さっきより|萎《しぼ》みはじめていた。
ふいに、智の銀色の霊光が、暗くなった。
そのとたん、智の作っていた結界も弱まった。
薔薇色の雲が勢いを得て、広がりはじめる。
銀色の霊光は、どんどん薄れて、消えていこうとしている。
智の上体が、カムイの腕のなかで、|精《せい》|根《こん》つきたように、グラリと前に揺れた。
智の瞳が閉じられる。
「ギリギリ限界まで、命を燃やしつくしたか……」
カムイが、痛ましそうに呟いた。
カムイは、智を抱いたまま、|床《ゆか》に下りてきた。
「智ーっ!」
京介が、戦いながら、智を振り返って、|絶叫《ぜっきょう》する。
「しっかりしろ! 結界が消えるぞ! 智ーっ!」
本当は、「もうよせ」と、「やめてしまえ」と言いたかった。
目の前で、智が体力と|霊力《れいりょく》の限界を|超《こ》えて、戦っている。
休ませてやりたかった。
だが、京介には、智の願いが痛いほどわかっていた。
人類を守りたいという願いが――。
だから、心を|鬼《おに》にして叫んだのだ。
「智! まだ倒れるには早すぎるぞ!」
智は、弱々しく目を開いた。
だが、もう京介の声に|応《こた》える力もないらしい。
カムイが両手を放すと、智は、がっくりと|床《ゆか》に|膝《ひざ》をついてしまう。
「智ーっ! しっかりしろぉーっ!」
京介は、智に駆けより、冷えきった体を抱きしめた。
「霊気が|足《た》りないか? なら、俺の霊気を使え、智!」
「ありがとう……京介」
智の冷たい|唇《くちびる》が、京介の|喉《のど》に、そっと触れた。
次の瞬間、すさまじい|激《げき》|痛《つう》が、京介の全身を襲った。
京介の霊気が、|情《なさ》け|容《よう》|赦《しゃ》もない勢いで、肉体から|搾《しぼ》りとられていく。
「く……ぅ……っ……!」
京介は、唇を|噛《か》みしめ、智の頭を胸に|抱《かか》えこんだ。
|薔薇《ば ら》|色《いろ》の雲は、智の張った|結《けっ》|界《かい》が弱まったため、|拡《かく》|散《さん》しはじめていた。
オーロラのように|翻《ひるがえ》る、薔薇色の雲。
「かまわねえ……もっと取れ、智……|遠《えん》|慮《りょ》すんなよ……」
「ごめん……」
智の両手の指が、強く京介の背中に食いこむ。
京介は、かすむ目で、空を振り|仰《あお》いだ。
薔薇色の雲は、ほんの少しだけ、小さくなったように見えた。
だが、それが、智と京介の霊気の限界だった。
カムイは、しばらく、死にかけたような智と京介を|眺《なが》めていた。
|女《め》|神《がみ》の美しい顔の上で、人間には理解できない感情が動いた。
「世話の焼けることだ……」
女神は、白い右手を空にむけた。
|嵐《あらし》のような霊気が、室内を吹きぬけた。
見る|間《ま》に、薔薇色の雲の拡散が、止まった。
智の結界を、カムイが引き継いだのだ。
*    *
|京介《きょうすけ》は、カムイがゆっくりと、氷の|床《ゆか》を歩いてくるのを見た。
人間とは異質な輝きを宿す、神の|瞳《ひとみ》が、京介を見つめた。
(カムイ……)
京介は、カムイの視線を受けとめ、よろめきながら立ちあがった。
手のなかには、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》がある。
京介は、必要ならば、天之尾羽張の力に|訴《うった》えてでも、智をカムイから守るつもりだった。
|使《つか》い|魔《ま》の|梟《ふくろう》たちは、京介を攻撃するのをやめていた。
「害意はない」
カムイが、静かに言う。
(どういうつもりだ……カムイ?)
京介は、油断なく、カムイを|睨《にら》みつけていた。
カムイは、|消耗《しょうもう》しきった智に近づき、その|額《ひたい》に、白い指先をそっと触れた。
智の瞳が、開いた。
|瀕《ひん》|死《し》だった智の|霊《れい》|気《き》が、ぐんぐん回復しはじめる。
カムイが、智のなかに霊気を送りこんでいるのだ。
(智……!)
京介は、ホッとした。
カムイは、智の霊気が|常態《じょうたい》に戻ると、静かに智を立ちあがらせた。
「もう|大丈夫《だいじょうぶ》だろう」
智は、驚いたようにカムイを見つめた。
「カムイ……|結《けっ》|界《かい》を張ってくださったのですか。それに、オレに霊気まで……」
「おまえたちのやり方は、|無《む》|謀《ぼう》で見ておれぬ」
カムイは、かすかに笑ったようだった。
「あの|細《さい》|菌《きん》を|浄化《じょうか》したいか、鷹塔智?」
「はい」
「ならば、これをお取り」
智の目の前に、カムイが、黒い|弓《ゆみ》|矢《や》を差しだす。
カリンパクの弓矢だ。
「大地の|闇《やみ》を浄化するのに、〈|闇扇《やみおうぎ》〉がいるように、空の闇を浄化するにも、空のための|呪《じゅ》|具《ぐ》がいる。これを使うがよい」
智は、驚いたように、カムイを|凝視《ぎょうし》した。
「空のための|呪《じゅ》|具《ぐ》……?」
「そう。使いようによっては、|暗《あん》|黒《こく》の武器ともなるが、おまえは清い|霊《れい》|気《き》の持ち主。|邪《じゃ》|悪《あく》な目的には使うまい」
カムイは、智を見つめ、|謎《なぞ》めいた|瞳《ひとみ》で笑った。
「ありがとうございます……!」
智は、深く感動したように、カムイに頭をさげた。
|恭《うやうや》しく、黒い|弓《ゆみ》|矢《や》に手を伸ばす。
「あ……!」
京介は、思わず息を|呑《の》んだ。
智が触れたとたん、黒い弓矢が白く変わった。
智も、白い弓矢を持ったまま、少しびっくりしたような顔をしている。
「使い方は、弓矢が|自《みずか》ら教えてくれよう」
カムイが、静かに言う。
「はい……」
智は、感謝するように|微《ほほ》|笑《え》んで、頭上の空を見あげた。
|薔薇《ば ら》|色《いろ》の雲は、カムイの|結《けっ》|界《かい》に押されて、花の|莟《つぼみ》のように小さく|縮《ちぢ》んでいる。
雲は、智がやった時より、ずっと強く|抑《おさ》えこまれていた。
(すげえ……)
京介は、カムイの絶大な力に、あらためて|驚嘆《きょうたん》していた。
智は、しなやかな|裸《はだか》の背を京介たちにむけ、歩きだした。
智は、京介たちから二メートルほど離れた場所で、白い弓に|白《しら》|羽《は》の矢をつがえた。
ゆっくりと腕をあげ、薔薇色の雲に|狙《ねら》いを定める。
雪と氷の城のなか、白い弓矢を構えた智の姿は、人ではない|幻《げん》|想《そう》世界の生き物のようにも見えた。
(|綺《き》|麗《れい》だ……智……)
京介は、智の|幻《まぼろし》のような姿から、目が離せなかった。
白い矢の先端が、ぼうっと白く輝きはじめた。
白い輝きは、智の顔を、裸の胸を、まばゆく照らしだす。
「カリンパクの弓矢よ! 空の|闇《やみ》を清めたまえ!」
|凜《りん》とした声が、一声|唱《とな》える。
その声には、大地も、空も従っただろう。
力に満ちた、美しい声。
ヒュン!
|弓《ゆ》|弦《づる》が鳴った。
次の瞬間、|白《しら》|羽《は》の|矢《や》は、白い光を|彗《すい》|星《せい》の尾のように引いて、天高く飛んだ。
「よく|射《い》た。願いは|叶《かな》おう」
カムイが、そっと|呟《つぶや》いた。
白い矢は、ぐんぐん勢いをあげて、|薔薇《ば ら》|色《いろ》の雲のなかに飛びこんでいった。
*    *
白い矢が、空に飛んだのと同じ時刻。
|道《どう》|東《とう》、|霧《きり》の|摩周湖《ましゅうこ》では――。
智の清い|霊《れい》|気《き》が、|凍《こお》らぬ湖面を打った。
湖にたちこめる霧が、一瞬、銀色に光った。
湖のなかから、無数の白い光の鳥が飛びたった。
白い|翼《つばさ》の先から、銀の|雫《しずく》を降らせながら、光の鳥たちは、一路、西をめざした。
|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》山頂の、カムイの城にむかって。
*    *
|道《どう》|央《おう》、|富《ふ》|良《ら》|野《の》では――。
智の霊気が、雪の|毛《もう》|布《ふ》をかぶった広い畑を打った。
見る見るうちに、畑の雪は|溶《と》け、一面にラベンダーの花が咲きだした。
風に揺れる、|紫色《むらさきいろ》の|可《か》|憐《れん》な花。
その花の|絨毯《じゅうたん》のなかから、白い光の鳥が、次々とぬけだした。
大きな翼をうち振って、ラベンダーの花の上を、|旋《せん》|回《かい》する。
やがて、花の香りをまとった白い鳥の群れは、大雪山にむけて飛びたった。
*    *
智が矢を射てから、数秒のあいだ、変化はなかった。
薔薇色の雲が、花の|莟《つぼみ》のように浮いている。
花の莟の下からは、細長い薔薇色の光の|筋《すじ》が、まっすぐリクンカンドの|氷雪《ひょうせつ》の塔につながっていた。
智と京介は、互いに二メートルほど離れて、同じように空を見あげていた。
カムイは、そのあいだも、|細《さい》|菌《きん》の周囲の|結《けっ》|界《かい》を、|維《い》|持《じ》しつづけている。
「あ……!」
智が、低く声をあげた。
|一《いち》|羽《わ》の大きな白い光の鳥が、東のほうから飛んできて、智の頭上を通りすぎた。
つづいて、西のほうからも、同じような白い鳥が飛んできた。
あっという|間《ま》に、無数の白い光の鳥が、空を埋めつくした。
光の鳥たちは、智の放った|矢《や》に呼ばれ、北海道全域から、|細《さい》|菌《きん》を|浄化《じょうか》するために、集まってきたのだ。
空が、羽ばたきの音でいっぱいになった。
白い光の鳥たちは、|薔薇《ば ら》|色《いろ》の雲を押しつつむようにして、|旋《せん》|回《かい》しはじめた。
「|綺《き》|麗《れい》だね……京介……」
智が、白い|弓《ゆみ》を持ったまま、そっと|呟《つぶや》く。
「すごく綺麗だ……」
「ああ……」
京介も、|茫《ぼう》|然《ぜん》として|眺《なが》めていた。
カムイが、満足げにうなずいた。
薔薇色の雲は、白い光の鳥たちに完全に囲まれた。
次の瞬間、|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》の上の空が、|端《はし》から端まで、白く輝いた。
白い光のなかから、白いものが、大雪山一帯に舞い散りはじめた。
鳥の|羽《う》|毛《もう》のような、|雪《せっ》|片《ぺん》だ。
「この雪は、浄化された細菌だ」
カムイが、静かに言った。
「もう、危険はない」
智が、ほうっと大きな息を吐いた。
智のしなやかな背中から、緊張が消えた。
「やった……!」
「ああ……よくやったぞ、智!」
京介は、智に駆けよった。
ふと、気づいて、智の左肩を見ると、二日前、京介のつけた傷はどこにもなかった。
冷児につけられた、|左頬《ひだりほお》の傷もない。
カムイが、ホテルの駐車場で智を|捕《と》らえた時に、|癒《いや》したのかもしれない。
京介は、急いで、モスグリーンのセーターを|脱《ぬ》いで、|裸《はだか》の智に着せかけた。
「寒いだろ、いくらなんでも」
「ん……|霊《れい》|気《き》が充実してるから、平気だけど。でも、ありがとう、京介」
智は、肩ごしに、京介を振り返って、微笑した。
|綺《き》|麗《れい》すぎる|笑《え》|顔《がお》。
京介は、目のやり場に困ってしまった。
智のやわらかな|髪《かみ》に、肩に、|羽《う》|毛《もう》のような雪が降りつもる。
京介は、Tシャツ一枚の格好になって、少し身震いした。
その時。
智と京介は、カムイが近づいてくる|気《け》|配《はい》に、ハッとした。
*    *
「鷹塔智、私は、人類が滅びてもかまわないと思っていた」
カムイは、舞い散る雪のなかで、足を止め、静かに智を見つめた。
智と京介は、並んで、カムイの前に立っていた。
美しい女の姿だった|女《め》|神《がみ》は、|刻《こく》|一《いっ》|刻《こく》と|齢《とし》を重ね、|老《お》いていくように見えた。
みずみずしかった|肌《はだ》が|萎《しな》び、髪に白いものがまじり、腰が曲がる。
カムイは、|結《けっ》|界《かい》を作って、|細《さい》|菌《きん》を|抑《おさ》えたことで、ひどく|消耗《しょうもう》したようだった。
「人間は|愚《おろ》かで、私には理解できぬことばかり望む。途中からは、|言《こと》|霊《だま》に|縛《しば》られてのこととはいえ、最初に三神冷児の声に耳を傾け、力を貸したのは、私も人間に絶望していたからだ。私の川の流れは変えられ、山は|崩《くず》され、|綺《き》|麗《れい》な|獣《けもの》たちが|無《む》|惨《ざん》に傷つけられていく……」
智は、つらそうな顔になって、無言でカムイの言葉を聞いていた。
そのセーターの肩にも、髪にも、羽毛のような雪が、降りかかる。
「あと二十年とたたぬうちに、大地は木々を育てることもできなくなろう。その前に、いっそと思ったが……」
カムイは、|穏《おだ》やかな|老《ろう》|婆《ば》の姿で、智と京介を見つめつづけた。
その|瞳《ひとみ》のなかに、人間なら、希望と呼ぶだろう感情が、たゆたって消えた。
「もう少し、待ってみようと思う」
短い沈黙がある。
智が、|真《しん》|摯《し》な瞳で、カムイを見つめた。
「約束します。オレは、オレの力のおよぶかぎり、この国の生きとし生けるものを守りつづけると。人であろうと、動物であろうと、木々であろうと……オレの心に届く悲しい声がなくなるまで」
「おまえは、どんなことでも、最初から、やっても|無《む》|駄《だ》だとは思わぬのだな。この地上から悲しみと苦痛の消える日を夢見て、それが実現すると本気で信じている……」
カムイは、かすかに|微《ほほ》|笑《え》んだようだった。
「おまえを見ていると、この私ですら、その|無《む》|謀《ぼう》な夢が|叶《かな》いそうな気がしてくる」
「はい……」
智は、|穏《おだ》やかにうなずいた。
「信じているかぎり、夢はいつか|叶《かな》います。百年後か、千年後かはわかりませんが……いつか、人類は、苦痛と悲しみから解放され、天の高みに|至《いた》るでしょう」
「そうか……」
カムイは、じっと智を見、やがて、京介に視線を移した。
「おまえが命を|懸《か》けて、鷹塔智を守ろうとした姿は、立派であった。人間のなかにも、こういう者がまだいるのだと……覚えておこう」
京介は、|誉《ほ》められて、少し|頬《ほお》を赤くした。
何を言っていいのか、わからない。
「俺が智を守るのは……」
言いかけて、京介は、急に混乱した。
(俺が、智を守るのは……なんでだろう? 智に約束したからか?
そばにいてやるって、|誓《ちか》ったせいか?
……そうじゃない)
うまく、言葉が出てこない。
カムイは、京介の言いかけて、口ごもった言葉の続きを、静かに待っている。
京介は、カムイから目をそらして、助けを求めるように、智を見た。
智が、京介を見あげ、小さくうなずく。
その動作で、京介は、ようやく言いたかった言葉を、思いついた。
「俺が智を守るのは……智が、自分の命をもかえりみずに、他人を守ろうとしているからです。人間たちは、智に守ってもらっているのに、智に何も返してやっていません。だから……せめて、俺だけは、智に何かしてやりたいんです。そういう人間が、一人くらいいても、いいと思います」
カムイは、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうな目をした。
「それで、おまえは幸せなのか、鳴海京介?」
今度は、京介は、口ごもらなかった。
「はい。幸福です。……とても」
きっぱりと、カムイにむかって答える。
「そうか」
カムイは、|老《ろう》|婆《ば》の姿で、優しく微笑した。
「不思議なものだな……人間というのは」
「はい……」
京介は、智と顔を見あわせ、微笑した。
カムイは、どこか満足げな表情で、そんな二人を|眺《なが》めていた。
「この塔は、もうじき|崩《くず》れる。早々に立ち去るがよい」
やがて、カムイは、静かにそう言うと、智と京介に背をむけ、ゆっくりと歩きだした。
白い氷の壁のなかに、腰の曲がった老婆の姿が、消えていく。
――|息《そく》|災《さい》でな、人の子たちよ。
最後に、カムイの風のような|霊《れい》|気《き》が、智と京介に触れた。
智と京介は、|螺《ら》|旋《せん》階段を駆け下り、|氷雪《ひょうせつ》の城を出た。
それを待っていたかのように、|氷山《ひょうざん》のような雪と氷の城は、上のほうから、ゆっくりと崩れはじめた。
青いドームが|陥《かん》|没《ぼつ》し、雪と氷のなかに、消えていく。
城の氷の|外《がい》|壁《へき》がはがれ、キラキラと|水晶《すいしょう》のように輝きながら、雨のように地上に降りそそぐ。
*    *
智と京介は、|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》の頂上で、|崩《くず》れゆく|氷雪《ひょうせつ》の城を見つめていた。
|羽《う》|毛《もう》のような雪が、ちらちらと舞い落ちてくる。
白い光の鳥たちは、智と京介の周囲にうずくまって、じっと動かない。
無害になった|薔薇《ば ら》|色《いろ》の雲の一部は、まだ空に残っていた。
雲は、|拡《かく》|散《さん》しかける星雲のように、ところどころ、薄いオレンジや白に光っている。
|透《す》きとおるような冬空の青に、薔薇色の雲の取り合わせは、心が|痺《しび》れるほど美しかった。
「|綺《き》|麗《れい》だね……」
智が、かすかな声で|呟《つぶや》いた。
「|極楽浄土《ごくらくじょうど》って、あんな感じかな……」
「やめろよ、智」
京介は、そっと智の|唇《くちびる》を唇でふさいだ。
「|不《ふ》|吉《きつ》なこと言うなよ。せっかく、生きのびたんだからさ」
「ごめん……京介」
智は、わびるように、京介を見あげた。
智の綺麗な|瞳《ひとみ》に、京介自身の姿が、|映《うつ》っている。
羽毛のような雪が、智のモスグリーンのセーターの肩に舞い下りた。
「みんな……どうなったんだろう」
智が、ポツリと呟いた。
「途中で見てきたけど、塔のなかには、誰もいなかったよな」
智も京介も、氷雪の塔のなかは探したのだが、|左《さ》|門《もん》たちや|狼《ロウ》の|安《あん》|否《ぴ》は、確認できなかった。
「|使《つか》い|魔《ま》は、カムイがいなくなったから消えただろ。生きてれば、脱出してくるはずだ」
京介も不安を押し殺すように、呟いた。
少年二人は、不安に背中を押されるように、崩れゆく城にむかって、走りだした。
だが、十メートルも行かないうちに、智の背中にむかって、低い声が呼びかけた。
「ご無事でしたか、智さま」
聞き慣れた声だった。
二人がハッとして、同時に振り返ると、降る雪のなかに、狼がいた。
|灰《はい》|色《いろ》のコートを着て、|穏《おだ》やかに|微《ほほ》|笑《え》んでいる。
「狼……」
智が、ホッとしたように、狼に駆けよった。
「無事だったのか?」
「はい」
狼は、ニッコリ笑った。
「|怪《け》|我《が》はねーのか?」
京介も、ゆっくりと狼に近づいた。
「はい。なんとか」
狼は、静かに|灰《はい》|色《いろ》のコートを|脱《ぬ》いで、セーター一枚の智の肩に着せかけた。
近づいていく京介の鼻を、ほのかな|柑《かん》|橘《きつ》|系《けい》の香りがくすぐった。
コートに|染《し》みついた、狼の整髪料の|匂《にお》いだろう。
「左門さんと|靖《やす》|夫《お》君は?」
智が、コートの|衿《えり》をかきあわせながら、|崩《くず》れゆく雪と氷の城を見つめた。
狼が|微《ほほ》|笑《え》んで、一番最初に崩れた城の一角を指差した。
城のその部分は、完全に|崩《ほう》|壊《かい》していた。
キラキラ輝く、白っぽい氷の破片が、大きな山になっている。
大量の|水晶《すいしょう》や、ムーンストーンや、ダイヤモンドをかきあつめて、雪の上に積みあげたような光景だ。
塔の|残《ざん》|骸《がい》の上に、無数の純白の|雪《せっ》|片《ぺん》が舞い下りてくる。
その氷の破片の山のてっぺんが、揺れていた。
いきなり、人の頭が突きだす。
|栗《くり》|色《いろ》の|髪《かみ》、大きな|潤《うる》んだ|瞳《ひとみ》。
靖夫だ。
「あ……!」
「靖夫君……!」
智と京介は、|茫《ぼう》|然《ぜん》として、靖夫の姿を|凝視《ぎょうし》していた。
靖夫は、|惚《ほう》けたような顔で、智たちを見、周囲を見まわしていた。
何が起こったのか、わからないような様子だ。
ふいに、靖夫は、顔をクシャクシャに|歪《ゆが》めた。
低い|呟《つぶや》きが、風にのって、智たちの耳に届いた。
「アニキぃ……! アニキがいない……!」
靖夫の|頬《ほお》を、ポロポロと|大《おお》|粒《つぶ》の涙が、|転《ころ》がり落ちはじめた。
「|嫌《いや》だぁ……アニキぃーっ! 俺、二度もこんなの……嫌だぁーっ! 俺を置いて死ぬなんて……っ!」
その栗色の頭の上に、|羽《う》|毛《もう》のような雪が、静かに舞い落ちてくる。
「みっちゃんのアニキ……一人で死ぬなんて、あんまりだ……! 俺も一緒に死にたかった……! うわああああああーっ!」
靖夫は、足もとの氷の破片を|拳《こぶし》で|殴《なぐ》りつける。
|鋭《するど》い破片で、手が傷ついても、やめようとはしない。
智も、痛ましげな目になって靖夫を見つめている。
「靖夫君……」
と、いきなり、靖夫の体が、前に倒れた。
「うわっ!」
「誰がみっちゃんのアニキだ!」
靖夫の体の下から、|逞《たくま》しい腕が突きだす。
(あ……!)
京介は、息を|呑《の》んだ。
靖夫も驚いたように振り返って、逞しい腕を|凝視《ぎょうし》している。
靖夫は、|慌《あわ》てて、氷の破片の上に起きあがった。
突きだした筋肉質の腕を両手でつかみ、ぶんぶん上下に振る。
「みっちゃんのアニキ……! 生きてたんですかぁ!?」
「おまえが、俺の上にのってるんだ! 重いぞ、ヤス! 早くどかんか!」
左門は、|凄《すご》みをきかせた声で、|怒《ど》|鳴《な》る。
だが、靖夫は|怯《おび》えるどころか、キャッキャと喜んで、飛びあがった。
「やっぱり、アニキだぁ! アニキぃ、死ぬわけなんかないですよねっ! 俺、一瞬、マジで驚いちゃいましたよう! ホントに……心配かけて……っ!」
靖夫が、飛びあがるたびに、その下の左門がつぶされそうになっている。
「いて……ヤス! 痛いぞ! 早く下りろ!」
左門が、靖夫の下でクッションになったまま、わめきちらす。
「いい加減にしろ! こら、ヤス!」
智と京介は、顔を見あわせた。
智は、|鳩《はと》が|豆《まめ》|鉄《でっ》|砲《ぽう》を食らったような顔をしている。
「左門さん……生きてたんだ……」
その顔がおかしくて、先に、京介が笑いだした。
「おまえ……なんて顔してんだよ、智!」
「何、笑ってるのさ、京介……」
「だって、おまえの顔、おかしくて……」
京介は、笑って笑って、笑い|転《ころ》げた。
緊張の糸が切れてしまったのか、おかしくてたまらない。
それにつられるようにして、智も吹きだした。
「やだなあ……京介、変だよ……そんなに笑って!」
「だって、笑いが止まんねーんだよ……!」
左門は、ようやく氷の破片の下から出てきて、ヤスの頭をポカリと|殴《なぐ》っている。
だが、靖夫は、殴られても、うれしそうに左門にしがみついていた。
「アニキぃ! アニキの|匂《にお》いだぁ! 生きてるんですねっ!」
「やめんか、ヤス! |気色悪《きしょくわる》い!」
左門は、照れたように、首まで真っ赤になっている。
やがて、左門と靖夫が、|崩《くず》れやすい氷の破片を注意深くよけながら、こちらに移動してくるのが見えた。
狼は、|携《けい》|帯《たい》電話を取りだし、智たちに背をむけて、JOAに連絡をとっている。
ぼんやり、それを|眺《なが》めている京介の肩に、智が触れた。
「京介……」
「ん……なんだよ?」
「よかったね。みんな無事で」
智は、うれしそうに|微《ほほ》|笑《え》んでいた。
智の笑顔を見ていると、京介は、なんだか|切《せつ》ないような、胸が痛いような気分になった。
(智……)
そっと右手をあげて、智の|頬《ほお》に触れてみる。
智は、|想《おも》いをこめた|瞳《ひとみ》で、京介の指に|唇《くちびる》をよせた。
(智……)
その時、空いっぱいに、鳥の羽ばたきが|湧《わ》きおこった。
智たちの周囲から、白い光の鳥たちが、いっせいに飛びたった。
光の鳥たちは、それぞれが生まれた北海道各地へ、戻っていくのだ。
「すげぇ……」
京介は、智から手を離し、鳥たちを見あげた。
白い光があまりにも|眩《まぶ》しくて、目を細める。
「ね、京介、こんなの、一生に一度、見られるかどうかわかんないよね」
智が、感動したように京介に寄りそってくる。
「ああ……」
左門たちも、驚いたように、空を見て、優しく笑いあっていた。
狼も、電話をしながら、空を振り|仰《あお》いだ。
|乱《らん》|舞《ぶ》する、|幾《いく》|千《せん》もの純白の光の|翼《つばさ》。
京介と智は、そのままずっと、白い光の鳥の飛ぶ|幻《げん》|想《そう》|的《てき》な空を見つめていた。
「このまま、山、下りたくねえなあ……」
京介は、ポツリと|呟《つぶや》いた。
(智と二人きりで……このままずっといられたら……)
その|想《おも》いを読みとったのか、智の指が、そっと京介の手を探りあてた。
指をからめるようにして握る。
「どこにいても……オレは、京介のものだから」
智が、かすかな声で|呟《つぶや》いた。
「智……」
京介が驚いて見ると、智は、信頼しきった|瞳《ひとみ》で、京介を見あげていた。
言葉以上に、|雄《ゆう》|弁《べん》な瞳。
京介は、チラと狼たちのほうを見た。
こちらを見ている目がないのを確認してから、智に顔をよせた。
互いの|唇《くちびる》が、一瞬、触れて、離れる。
|羽《う》|毛《もう》のような雪が、二人の|髪《かみ》に、ひらひらと舞い下りた。
[#地から2字上げ]『銀の共鳴6』に続く
『銀の共鳴』における用語の説明
[#ここから1字下げ]
これらの用語は、『銀の共鳴』という作品世界のなかでのみ、通用するものです。
表現の都合上、本来の意味とは違った解釈をしていることを、ここでお断りしておきます。
|陰陽師《おんみょうじ》や|式《しき》|神《がみ》などについて、|詳《くわ》しくお知りになりたい方は、巻末に参考図書の一覧がありますので、そちらをご覧になってください。
[#ここで字下げ終わり]
|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》……|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》とも呼ばれる。普段は十五センチほどの金属片だが、|鳴海京介《なるみきょうすけ》の|霊《れい》|気《き》と意思に|感《かん》|応《のう》して、一メートルほどの純白の光の|刃《やいば》となって|顕《けん》|現《げん》する。
エンルムカク・オマンカムイ・エペムタウイ……|十《と》|勝《かち》地方に伝わる|毒神の歌《スルクカムイウボボ》。もともとは、トリカブトのカムイに捧げる感謝の歌。ここでは、|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》が|鷹塔智《たかとうさとる》に|幻《まぼろし》を見せる時の|呪《じゅ》|文《もん》として使った。
|陰陽師《おんみょうじ》……式神を|操《あやつ》り、|退《たい》|魔《ま》や|呪《じゅ》|咀《そ》、|除災招福《じょさいしょうふく》などを行う術者。
カムイ……アイヌ世界では、この世に存在するものは、自然の生き物でも、人工の道具でも、すべて「|魂《たましい》」を持っているとされる。カムイとは本来、この「魂」のこと。ただし、本作品のなかでは、カムイ=北海道の大地の|女《め》|神《がみ》とした。カムイとしての果羅姫は、完全な創作である。
|果《か》|羅《ら》|国《こく》……|罪《つみ》深い者が死後に行くという、伝説の国。|地《じ》|獄《ごく》。
キムン・カムイ……本来は、「山の神」の意。ヒグマのこと。ここでは、|熊《くま》の形をした、果羅姫の|使《つか》い|魔《ま》の名前としている。
JOA……ジャパン・オカルティック・アソシエーション。財団法人日本神族学協会の略。日本国内|唯《ゆい》|一《いつ》の|霊能力者《れいのうりょくしゃ》の管理・教育機関で、超法規的組織である。かつては強大な権力を有し、政財界と密接なつながりを持っていたが、現在は、支配者であった|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》が死亡したため、弱体化している。
|式《しき》|神《がみ》……|陰陽師《おんみょうじ》が|呪術《じゅじゅつ》を行う際に|操《そう》|作《さ》する|神《しん》|霊《れい》。紙の|呪《じゅ》|符《ふ》から作ったり、神や|鬼《おに》をとらえて|使《し》|役《えき》したりするなど、製造方法は多種多様。
|呪《じゅ》|殺《さつ》……霊能力で人を|呪《のろ》い|殺《ころ》す行為。JOAでは、これを堅く禁じている。だが、呪殺を禁じるJOA自身が、一方では、|心《しん》|霊《れい》|犯《はん》|罪《ざい》の|被《ひ》|告《こく》の|処《しょ》|罰《ばつ》と、活動資金調達のため、呪殺を|請《う》け|負《お》っているという|噂《うわさ》がある。
|津《つ》|雲《くも》財団……環境保護活動や、|福《ふく》|祉《し》活動を隠れ|蓑《みの》にして、|非《ひ》|合《ごう》|法《ほう》の|遺《い》|伝《でん》|子《し》組み替え実験や、軍事目的のサイキックパワー研究などを行っている団体。JOAとは対立している。
|呪《のろ》い歌……「タン・オッカイポ・エン・トラ……」以下の言葉は、もともとアイヌ世界の|淫《いん》|魔《ま》が|美《び》|貌《ぼう》の若者を|誘《ゆう》|惑《わく》しようとする時に使った言葉。「呪い歌」という言葉は創作。ここでは、果羅姫が鷹塔智を|呪《じゅ》|縛《ばく》する時の歌として使っている。
|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》……イザナギとイザナミのあいだに生まれた火の神。実の母を焼き殺して生まれ、実の父によって|斬《き》り殺された。日本最強の|邪《じゃ》|神《しん》である。
あとがき
はじめまして。
一巻から、順番に読んでくださってる皆さまには、こんにちは。
お待たせしました。
『銀の共鳴』第五巻『雪の|破《は》|魔《ま》|弓《ゆみ》』をお届けします。
最初にこのサブタイトルを、友人たちに見せたら、なんの迷いもなく「破魔弓」を「はまきゅう」と読まれてしまいました。
ひどい|奴《やつ》になると「モロキューの|親《しん》|戚《せき》?」なんて言うんですぅ。違うってば。
正しくは「はまゆみ」。お正月なんかに、神社で売っている|破《は》|魔《ま》|矢《や》ってのがありますよね。あれの弓バージョンです。|岡《おか》|野《の》の造語じゃなくって、ちゃんと国語辞典にも|載《の》ってます。
ええと、この作品で五巻目ですが、この『銀の共鳴』シリーズは、すべて一話完結形式です。
五巻目は五巻目だけで、独立して読めるように書いてあります。
前の巻の内容も、キャラクター同士の関係も、きちんと説明してあるので、巻を飛ばして読んでも|大丈夫《だいじょうぶ》です。
今回、冬の北海道が舞台です。
相変わらず和風サイキック・ファンタジーなんですが、今までとは少しばかり物語の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が違っています。
舞台になる場所が、|街《まち》のなかより、大自然のなかのほうが多いし。
わりと、スケールの大きな話になったんじゃないかなあ……と思ってます。
思いっきり、「北海道らしさ」を出したかったので、思いつくかぎりの北海道らしい要素をぶちこんだつもりです。
だから、「少年よ大志を|抱《いだ》け」のクラーク博士も、|外《げ》|法《ほう》|首《くび》(|邪《じゃ》|悪《あく》な|呪術《じゅじゅつ》に使用される、特殊な形の|髑《どく》|髏《ろ》)になって出てくるし、ヒグマも、カムイも、|富《ふ》|良《ら》|野《の》のラベンダー畑も、|霧《きり》の|摩周湖《ましゅうこ》も、「返せ、北方領土!」の|納沙布《のさっぷ》|岬《みさき》も、ぜんぶ出てきます。
あとは、キタキツネとマリモと毛ガニを使えば|完《かん》|璧《ぺき》だったんだけれど……どれも、|妖《よう》|怪《かい》になると、シリアスなシーンで笑いをとってしまうので、よしました。
クライマックスは、雪の|大《たい》|雪《せつ》|山《ざん》上空での戦いです。
このシーンは、いちおう、大雪山の地図を見て書いたんだけど。さすがに真冬の大雪山登山なんてできないし。大雪山を|取《しゅ》|材《ざい》できなかったのは、けっこう|悔《くや》しい。
いつかチャンスを見つけて、登ってやろうかと思ってます。
納沙布岬と、|札《さっ》|幌《ぽろ》と、摩周湖は取材したけれど。
真冬の北海道が舞台だ……と、友人に話したら、例によって、笑える反応が返ってきました。
「|智《さとる》が大雪山で|遭《そう》|難《なん》して、|白虎《びゃっこ》になった|京介《きょうすけ》が、首にワインの|樽《たる》をくっつけて、救助に行くんじゃないの?」だって。
そういう話だったら、よかったのにね。
今回の舞台は、ペーパーで予告したので、それを読んだ読者さんからは、「北海道では、雪の降りしきるなかで、智と京介がテネシーワルツを踊って、それで智が、京介に『もう、ほかの誰かじゃやだよっ』って言う」という予想がきて、大ウケしました。
というわけで、今回は、こういう話です。
天才|陰陽師《おんみょうじ》兼〈|汚《けが》れ|人《びと》〉として、北海道の大地の|闇《やみ》を|浄化《じょうか》しにきた、主人公・|鷹《たか》|塔《とう》智。
そして、智と行動をともにする、|相《あい》|棒《ぼう》・|鳴《なる》|海《み》京介。
で、新登場の智のボディガード・|狼《ロウ》。
智たち三人の前に、|美《び》|貌《ぼう》の|言《こと》|霊《だま》|使《つか》い・|三《み》|神《かみ》|冷《れい》|児《じ》が立ちはだかる!
三神冷児の目的は、大地の|闇《やみ》を集め、それによって人類を死滅させる新種の|細《さい》|菌《きん》・グロリアを作りだすことなのだ!
大地の闇を|浄化《じょうか》する智を、|呪《じゅ》|殺《さつ》しようとする三神冷児。
だが、三神冷児の放った呪殺者・|果《か》|羅《ら》|姫《ひめ》――冷児の言霊に|呪《じゅ》|縛《ばく》された北海道の大地の|女《め》|神《がみ》(カムイ)は、なぜか、智を|殺《ころ》さず、|拉《ら》|致《ち》しようとする!
智たちは、新種の細菌・グロリアの|誕生《たんじょう》を|阻《そ》|止《し》することができるのか!?
そして、智をめぐる、京介と狼の|葛《かっ》|藤《とう》は……!?
……という感じです。
三神冷児について。
最初、三神冷児のキャラクターは、アレイスター・クローリーと、ヒトラーを|足《た》して、二で割ったような感じにしようと思いました。
天才|肌《はだ》で、|狂信者《きょうしんしゃ》で、|傲《ごう》|慢《まん》で、ナルシストで……ね。
でも、書いているうちに、どうも、|妖《あや》しいマッド・サイエンティスト路線になってしまって。
ただの悪人は書きたくないので、それなりに、悪に走ってしまった者の|苦《く》|悩《のう》とか、悲しみとかを表現したくて、|一生懸命《いっしょうけんめい》、感情移入しようとしたのですが……。
三神冷児に感情移入するのは、けっこう|難《むずか》しかった。
一瞬、同化に成功して、|薔薇《ば ら》|色《いろ》の夕焼けを見ながら、「ふふふ……人類皆殺し」と思っていた日もあったのですが、やはり、長続きはしませんでした。
まあ、長続きしてたら、友達いなくなっちゃったろうけど(笑)。
前回の「あとがき」で、よそのおうちのお|彼《ひ》|岸《がん》の様子がわからない……と書いたら、「お彼岸じゃないけれど、|我《わ》が|家《や》のお盆はこんな感じ」っていう、図入りのお手紙くださったかたがいて、なんだかうれしかったです。
自作の『銀の共鳴』のイメージ曲や、イメージソングを送ってくださった方も何人かいらして、ちょっと驚きました。まさか、感想のお手紙ではなく、感想の曲がくるとは……。時々、|聴《き》かせていただいてます。
四巻からひき続き、「はじめまして」のお手紙、いっぱいいただいてます。
ちょっと、ペーパーの発送が遅くなっていますが、必ずお送りしますので、気長にお待ちくださいね。
そうそう、|霊能力《れいのうりょく》関係で、ご相談のお手紙なんかもいただくのですが、|岡《おか》|野《の》は霊能力のない人間なので、お役にはたてないと思います。ごめんなさい。
それから、「作家志望です」という、お手紙をくださった皆さま、がんばってください。信じていれば、きっと夢は|叶《かな》うから。
今年、受験生の皆さまも、がんばってくださいね。このシリーズが、少しでも気分転換に役だてば、うれしいのだけれど。
人気投票のこと。
だいぶ前になりますが、お手紙くださった方へのお返事ペーパーで、『銀の共鳴』の人気投票ということをやりました。
一位が、他を大きく引き離して、鳴海京介。二位が、鷹塔智。三位が、智と京介。四位が、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》。五位が、|式《しき》|神《がみ》の|紅葉《も み じ》でした。
この人気投票は、京介ファンと、時田忠弘ファンの戦いのような様相を呈していたので、そのぶん、|宮《みや》|沢《ざわ》|勝《かつ》|利《とし》あたりが|割《わり》を食ったかな……という感じです。
ちなみに、勝利は、十位。三巻四巻で、人気急上昇の|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》は、六位でした。
四巻の「あとがき」で、主要登場人物のデータを|載《の》せて、どうして式神のデータがないのだ! という、お手紙をいただきました。べつに、式神のデータがないわけじゃなかったんだけど……ごめん。
◇|桜良《さ く ら》……外見年齢二十四歳。身長一八六センチ。体重は式神だから、あってないようなもの。
◇|睡《すい》|蓮《れん》……外見年齢十六歳。身長一七六センチ。
◇|紅葉《も み じ》……外見年齢二十二歳。身長一八〇センチ。
◇|吹雪《ふ ぶ き》……外見年齢二十八歳。身長二一四センチ。
さて、次回の予告です。
次回、最終巻の舞台は、|出雲《い ず も》とか、|佐《さ》|渡《どが》|島《しま》とか、|日《にっ》|光《こう》とか、東京に戻って|道《どう》|玄《げん》|坂《ざか》とか、いろいろ考えたんですが、結局、ここになりました。
|富《ふ》|士《じ》の|樹《じゅ》|海《かい》!
なんだか、シリーズのコンセプトが「|関《かん》|東《とう》|甲《こう》|信《しん》|越《えつ》小さな旅」だったはずなのに、いつのまにか「日本の|秘境《ひきょう》を訪ねて」になってしまったような気が……。
それはともかくとして。
ラストは、京介が|活《かつ》|躍《やく》するお話にしてみようかな、などと思ってます。
最終巻では、今まで|退《たい》|魔《ま》業界では、アウトサイダーのような立場だった京介が、智と一緒に、プロの霊能力者として生きていく決意を固めます。
京介は、富士の樹海のなかにある、JOAの研修センターに入所し、恐るべき|陰《いん》|謀《ぼう》に巻きこまれ、そして――。
完全に|妖獣化《ようじゅうか》しはじめる京介。
智と京介は、最後の|残《ざん》|酷《こく》な|選《せん》|択《たく》を|迫《せま》られる!
「今度、妖獣になったら、俺を|殺《ころ》せ、智」
……こういう話になる予定です。
では、最後になりましたが、|担《たん》|当《とう》の小林さま、いつもお世話になっています。残り一巻、よろしくおつきあいください。
イラストを|描《か》いてくださっている|碧《あお》|也《また》ぴんくさま、四巻の表紙、とっても|綺《き》|麗《れい》でした。今回も楽しみにしています。
|校《こう》|閲《えつ》|部《ぶ》のご担当者さま……本当にお世話になっています。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
そして、スペシャルサンクスは、北海道を舞台にするため、候補地の一つだった|函《はこ》|館《だて》の|取《しゅ》|材《ざい》に協力してくださった、A・YさんとA・Kさんのお二方。結局、函館は、五巻の舞台には使いませんでしたけれど、楽しかったです。
それから、|樹《じゅ》|海《かい》の取材につきあってくれた、Y・Iさん。どうもありがとうっ。
樹海の遊歩道を歩きながら、百物語をしてくれた恩は、一生忘れないわ。
さて、ラスト。
この本をお手にとってくださった読者の皆さま。
発売日の頃は、夏の盛りですが、真冬の北海道へ、ようこそ。
智や京介と一緒に、|波瀾万丈《はらんばんじょう》の|冒《ぼう》|険《けん》をお楽しみください。
では、次回、最終巻『風の|魔《ま》|界《かい》|樹《じゅ》』で、またお会いしましょう。
[#地から2字上げ]|岡《おか》|野《の》|麻《ま》|里《り》|安《あ》
〈参考図書〉
『アイヌ語は生きている』(ポン・フチ/新泉社)
『アイヌ神謡集』(知里幸惠編訳/岩波文庫)
『アイヌの民俗/上・下』(更科源蔵/みやま書房)
『アイヌの民譚集』(知里真志保編訳/岩波文庫)
『陰陽道の本』(学習研究社)
『街道をゆく15・北海道の諸道』(司馬遼太郎/朝日新聞社)
『環境保護運動はどこが間違っているのか?』(槌田敦/JICC出版局)
『現代の魔術師――クローリー伝』(コリン・ウィルソン/河出書房新社)
『自然保護年鑑2』(自然保護年鑑刊行会/日正社)
『新北海道物語 失楽のカムイ』(平野禎邦/大月書店)
『地球環境・読本』(JICC出版局)
『にっぽん怪奇地帯を行く』(佐藤有文/KKベストセラーズ)
『日本陰陽道史話』(村山修一/大阪書籍)
『日本の秘地・魔界と聖域』(小松和彦/荒俣宏ほか・KKベストセラーズ)
『ヒトラーの世界』(赤間剛/三一新書)
『武器と防具 日本編』(戸田藤成/新紀元社)
『北海道再発見』(小寺平吉/學藝書林)
『北海道 自然と人』(八木健三+辻井達一編集著/築地書館)
『北海道の山』(山と渓谷社)
『民俗探訪事典』(大島暁雄・佐藤良博ほか編/山川出版社)
『LAPUTA』(市川義一/光琳社出版)
『歴史散歩事典』(井上光貞監修/山川出版社)
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九四年八月刊)を底本といたしました。
|雪《ゆき》の|破《は》|魔《ま》|弓《ゆみ》 |銀《ぎん》の|共鳴《きょうめい》
講談社電子文庫版PC
|岡《おか》|野《の》 |麻《ま》|里《り》|安《あ》 著
(C) Okano Maria 1994
二〇〇三年二月四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001